月の魔天楼 銀の共鳴4
岡野 麻里安
目 次
序 章
第一章 |魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》
第二章 |天《てん》|人《にん》の|羽衣《はごろも》
第三章 |記《き》|憶《おく》の風
第四章 |火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》
第五章 願はくば花のもとにて
『銀の共鳴』における用語の説明
あとがき
登場人物紹介
●|鷹塔智《たかとうさとる》
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十七歳の|超《ちょう》一流|陰陽師《おんみょうじ》。JOA(財団法人日本神族学協会)を脱会し、フリーで|退《たい》|魔《ま》・|浄霊《じょうれい》を|請《う》け|負《お》っていたが、魔の|盟《めい》|主《しゅ》・|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》じられ|昏《こん》|倒《とう》。|京介《きょうすけ》に助けられて共同生活をはじめる。周囲の|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》をそそる美少年だが、記憶の底に眠る“力”を発揮すると、|傲《ごう》|慢《まん》で|怜《れい》|悧《り》な|美《び》|貌《ぼう》に変貌。霊力を|消耗《しょうもう》しすぎると幼児化し、無防備になって、京介に|甘《あま》えてしまう。
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●|鳴海京介《なるみきょうすけ》
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十七歳の高校生。智と出会い、行動を共にするうちに、友情以上の強い|絆《きずな》で結ばれるようになる。プライベートでは、家事能力ゼロの智に代わり、|炊《すい》|事《じ》・|洗《せん》|濯《たく》・|掃《そう》|除《じ》をこなす家政夫兼同居人だが、じつは、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の|化《け》|身《しん》。天之尾羽張の使用が、身の破滅であることを知りつつも、智を守るために、幾度となく|顕《けん》|現《げん》させ、ついに|妖獣《ようじゅう》となってしまうが……。
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●|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》
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魔の盟主。十数年前に|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に|憑依《ひょうい》され、強大な力を身につける。
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●|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》
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緋奈子の|従兄《い と こ》にあたる|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。時折、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》を|覗《のぞ》かせる。
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●|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》
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大阪弁の不良少年で、元・|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》。|江《え》ノ|島《しま》で智や京介と出会い、友情を結ぶ。
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●|赤《あか》|川《がわ》|久《く》|美《み》|子《こ》
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緋奈子|率《ひき》いる火炎の真理教の元・信者。ショートボブの健康的な美少女。
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●|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》
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|凄《すご》|腕《うで》の美人|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》い。火炎の真理教の動向を探るため、捜査中だったが……。
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●|女将《お か み》
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|邪《じゃ》|悪《あく》なものに対する霊的ガード力に|優《すぐ》れた、京都内の旅館「|昭陽館《しょうようかん》」の主人。
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●|犬《いぬ》|神《がみ》
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麗子の片腕的存在である小さな霊獣。麗子に命令されて、久美子を守る。
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●|赤《あか》|川《がわ》|由《ゆ》|貴《き》|子《こ》
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久美子の十歳上の姉。火炎の真理教幹部として重要なデータを発見するが……。
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序 章
黒い|天井《てんじょう》の|隅《すみ》に、監視カメラがあった。
近代的なビルのエレベーターホールである。
|叩《たた》きつけるようなハイヒールの音。
黒い|廊《ろう》|下《か》を走って、二人の女が姿を現した。
一人は、健康的な美少女だ。
|紺《こん》のセーラー服を着ている。
もう一人は、長い髪の美女。
アニマルプリントのスーツ姿だ。
「ダメだわ……もう逃げられない!」
セーラー服の美少女が、|脇《わき》|腹《ばら》を押さえて、うずくまる。
苦しそうに息をしていた。
「生きてお|家《うち》に帰りたいでしょ、|久《く》|美《み》|子《こ》さん? だったら、がんばって」
「ごめん……お|腹《なか》が痛くて……」
「そう……」
スーツの美女が、追っ手を気にしながら、チラと後ろを振り返る。
|歳《とし》の頃は、|二十歳《は た ち》前後。
気の強そうな感じだ。
サラサラのストレートヘアは、背中くらいまである。
手首には、金のバングル。
左手にだけ、|黒《くろ》|革《かわ》の|手袋《てぶくろ》をしていた。
空調の|効《き》いたこの超高層ビルのなかで、片手だけの手袋はひどく不自然に見えた。
「追いついてきたわね、敵さん」
美女――|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》は、不敵な表情で|呟《つぶや》いた。
「あと十秒以内で追いつかれるわよ。早く立って、あたしの後ろに下がりなさい」
「はいっ……!」
久美子と呼ばれた美少女は、|一生懸命《いっしょうけんめい》、麗子の言うとおりにしようとする。
こちらは、高校生くらいだ。
健康そうな|肌《はだ》、クリクリした黒い|瞳《ひとみ》。
ショートボブの髪。
セーラー服の胸に、銀のペンダントが光っていた。
ヘッドの部分は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な石だった。
|水晶《すいしょう》のように透明で、内部に、|緋《ひ》|色《いろ》の|炎《ほのお》が燃えているように見える。
|新興宗教《しんこうしゅうきょう》・火炎の真理教の信者の|印《しるし》で、〈たるたま〉という。
いわば、キリスト教のクルスや、仏教の|数《じゅ》|珠《ず》にあたる、|祈《いの》りのための用具だ。
麗子が、左手の黒い|革手袋《かわてぶくろ》をはずした。
「あ……!」
久美子が、息を|呑《の》む。
手袋の下の|素《す》|肌《はだ》は、手首から|爪《つめ》の先まで、緋色に|染《そ》まっている。
|痣《あざ》や内出血の色ではない。
そこだけ着色したような、|鮮《あざ》やかな赤だ。
「ナウマク・サマンダ・ボダナンキリカ・ソワカ!」
麗子は、左手を水平に持ちあげ、早口に|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》える。
緋色の|皮《ひ》|膚《ふ》が、ぺろりとめくれあがったように見えた。
めくれあがった皮膚は、縮みあがり、まるまった。
ピンポン玉のような形になる。
緋色の皮膚がめくれた下には、もう一枚、ごく薄い皮膚がある。
あまりに薄いので、筋肉組織と血管が|透《す》けて見えた。
「|犬神招来《いぬがみしょうらい》!」
麗子の左手の上で、緋色のピンポン玉が、ザワッと震えた。
ポンポンポンッ!
いきなり、|狐《きつね》のような頭と、ふさふさした|尻尾《し っ ぽ》、四本の脚が突きだす。
小さな緋色の|獣《けもの》――犬神が、そこにいた。
「お行き!」
麗子が命令すると、犬神はチィチィ鳴きながら、宙に舞いあがった。
緋色の犬神は、矢のように飛んでいく。
その目指す先には、|廊《ろう》|下《か》を曲がってきた|鬼《おに》の群れがいる。
「犬神に足止めさせておいて、|呪《じゅ》|符《ふ》で攻撃するわ。……その|隙《すき》に、あなたはあそこの部屋に入って。あたしが、部屋を中心に|結《けっ》|界《かい》を作るから」
「麗子さんって……ただの信者じゃなかったんだ……」
「そう。元JOA所属の犬神使いでね。今は、火炎の真理教に潜入|捜査中《そうさちゅう》ってわけ。でも、その話は後。ほら、早く! 走って!」
麗子の声に、|弾《はじ》かれたように、久美子が走りだす。
|脇《わき》|腹《ばら》を押さえて、苦しそうだ。
黒い|廊《ろう》|下《か》の突きあたりに、第六研修室と書かれた部屋があった。
久美子が、ドアを開け、室内に|滑《すべ》りこんでいく。
それを確かめて、麗子は、数枚の|呪《じゅ》|符《ふ》を取り出した。
犬神が、スーツの肩に舞い降りてくる。
真っ黒なビーズ玉のような目が、くるくるまわる。
チィチィ……。
物言いたげな鳴き声。
「……うん、わかってるわ。この|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》のなかじゃ、勝ち目はないわよね。でも、あたし一人で、逃げるわけにはいかないじゃない。久美子さんだけじゃなく、彼女のお姉さんだって、助けなきゃならないし」
流星のように光を放って飛ぶ呪符。
押しよせる|鬼《おに》たちの勢いが、一瞬だけ止まる。
「行くわよ、犬神!」
麗子は、スーツの胸もとから、ペンダントを取り出した。
ヘッドは、|紅水晶《ローズクオーツ》の|勾《まが》|玉《たま》だ。
頭上に|掲《かか》げる。
「|召邪封印退魔法《しょうじゃふういんたいまほう》!」
黒い廊下に、ショッキングピンクの|閃《せん》|光《こう》が走った。
数秒後。
鬼たちが、勾玉に吸いこまれて消滅した。
麗子の体が、ゆらり……と揺れる。
「きっついわ……このビル、|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》、ハンパじゃない……」
犬神が、麗子の頭上を飛びながら、不安げにチィチィ鳴く。
第六研修室のドアが、そっと開いた。
久美子が、麗子に走りよってくる。
「麗子さん……麗子さん! |大丈夫《だいじょうぶ》?」
「久美子……さん」
麗子は、少女にささえられて、少し|情《なさ》けなさそうな顔をする。
「悪いわね。一つ……頼んでいいかな……?」
「はい?」
「これを……」
弱々しく差しだした手には、シャネルのルージュが握られている。
「|鷹塔智《たかとうさとる》に……渡してくれる?」
「え……たかとうさとる……?」
久美子は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに|呟《つぶや》いた。
「うん……彼は、もうすぐ京都に来る。このルージュを……渡して。案内に犬神をつけてあげるから……大丈夫。心配しないで。きっと会えるわ」
「…………」
「男の子だけど、|綺《き》|麗《れい》な子よ。智に会えば、絶対にわかる。……ね、お願い……。|由《ゆ》|貴《き》|子《こ》さん……あなたのお姉さんは……あたしが、責任もって助けだすから……」
麗子は、苦しげに顔を|歪《ゆが》めた。
指のあいだから、|滑《すべ》り落ちそうになるルージュを、久美子がそっと取る。
「わかった。責任もって渡すわ」
「ありがと……」
麗子は、久美子から離れ、黒い|床《ゆか》に座りこんだ。
くるくる飛びまわる犬神に、目をやった。
「犬神……久美子さんを、安全な場所まで連れていってあげてね」
犬神は、抗議するようにチィチィ鳴いた。
「ダメよ、あたしは行けない。まだ、やり残したことがあるの……」
麗子の差し伸べた右手の甲に、|緋《ひ》|色《いろ》の|獣《けもの》はゆっくりと舞い降りてきた。
|濡《ぬ》れた鼻づらを、|主《あるじ》の手にこすりつける。
チィチィ……。
「智に……よろしく伝えてね。智と|京介《きょうすけ》君を、守ってあげてね……」
麗子は、犬神の小さな頭に、そっと|唇《くちびる》をよせる。
一瞬、時が止まったようだった。
ふわり……と、風のような|霊《れい》|気《き》が、黒い|廊《ろう》|下《か》を吹きぬけた。
犬神は、背中をねじるようにして、空中に飛びあがった。
「すごい……!」
久美子が、驚いて見守るなか、犬神は、どんどん|膨《ふく》らみはじめた。
|鼠《ねずみ》くらいだったのが、|猫《ねこ》くらいになり、やがて、セントバーナードくらいになる。
巨大化した犬神は、|軽《かろ》やかに久美子の前に着地した。
真っ黒な|瞳《ひとみ》で、セーラー服の少女を見あげる。
「乗って、久美子さん」
「え……これに?」
「つぶれやしないわ。早く……」
久美子は、恐る恐る犬神の背にまたがった。
その時、廊下のむこうから、|新《あら》|手《て》の|鬼《おに》たちが現れた。
麗子の表情が、|厳《きび》しくなる。
「さ、しっかりつかまるのよ。後のことは、心配しないで」
「はいっ!」
久美子は、少しためらってから、犬神の首に腕を巻きつけた。
麗子は、微笑した。
「うん、それでいいわ」
犬神使いは、ふらつきながら、背をまっすぐ伸ばして立った。
胸の前で|印《いん》を結ぶ。
同時に、少女を乗せた犬神は、軽々と飛びあがった。
そのまま、大気に溶けるようにして、消え失せた。
|鬼《おに》たちが、|憤《ふん》|怒《ど》の声をあげる。
麗子は、薄笑いを浮かべ、鬼たちを|眺《なが》めわたした。
「残念でした。おまえたちの探してるマイクロフィルムは、もうここにはないわ」
麗子は、ゆっくりと黒い壁に背を押しあてた。
|悪《あく》|夢《む》のなかの光景のように、鬼たちが次々に襲いかかってくる。
コツン……。
長いことたって、麗子の手から、|紅水晶《ローズクオーツ》の|勾《まが》|玉《たま》が落ちた。
スーツの胸から、血が流れだしていた。
視線が、反対側の壁のほうに|滑《すべ》っていく。
いつの|間《ま》にか、壁に大きな穴が|空《あ》いていた。
冷たい風が、吹きこんでくる。
ビルの外は、雨。
|碁《ご》|盤《ばん》の目のような京都の|街《まち》と、|洛《らく》|北《ほく》の山並み。
|曇《くも》った|鉛色《なまりいろ》の空。
この空の|遥《はる》か|彼方《か な た》に、東京がある。
|懐《なつ》かしい街が。
だが、そこは、今の麗子にとっては、二度と戻れないかもしれない遠い街だった。
第一章 |魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》
「何があっても、マイクロフィルムを取り返してらっしゃい。どんな手段を使ってもいいわ。ただし、急いで!」
|透《す》きとおった少女の声。
京都駅前にある、地上百階建ての火炎の真理教の関西支部ビル――通称・魔天楼。
その最上階にある、豪華な一室だった。
広さにして、三十|畳《じょう》はあるだろうか。
二階層ぶん吹きぬけだ。|天井《てんじょう》が高い。
壁も|床《ゆか》も天井も、黒一色に塗りつぶされており、間接照明の光量も落としてある。
四方の壁の上半分が、巨大なスクリーンになっていた。
スクリーンに流れているのは、プロモーションビデオだろうか。
十八歳くらいの少女が、アップになった。
純和風の顔だちだ。
長い|漆《しっ》|黒《こく》の髪、異様に輝く|瞳《ひとみ》。
薄い|唇《くちびる》が、|三《み》|日《か》|月《づき》形の|笑《え》みをつくる。
少女の名前は、|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》。
火炎の真理教の教祖である。
また、日本における|霊《れい》能力者の管理・教育機関である、JOA(財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)の創立者の直系の|孫《まご》にあたる。
いわば、この業界のサラブレッドだ。
そして、信者たちには知られていないことだが――。
JOAを|陰《かげ》で支配する、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》でもあった。
スクリーンの映像は、刻々と変化していく。
壇上で講演をする教祖・緋奈子。
手をあわせる無数の信者たちの姿。
日本全国に建った、火炎の真理教の支部ビル。
燃える|炎《ほのお》。
|緋《ひ》|色《いろ》の|袈《け》|裟《さ》を着た|僧《そう》たちの姿。
青空を背景に、|翻《ひるがえ》る|教団旗《きょうだんき》。
浮かびあがる『|祈《き》|願《がん》|火之迦具土大神《ほのかぐつちのおおかみ》』の文字。
「そうよ……あの文書が、外部に流れるとまずいわ。……急いでちょうだい。まだ、そう遠くへは行っていないはずだわ」
|透《す》きとおった声は、部屋の奥、大理石の机の前から聞こえてくる。
レザーの|椅《い》|子《す》の背もたれに隠れ、声の|主《ぬし》の姿は見えない。
カツン……。
ヒールが鳴った。
「お呼びでございましょうか」
現れたのは、フェミニンなスーツ姿の美女だ。
|歳《とし》の頃は、二十七、八。
|炎《ほのお》のような赤毛を、シニヨンで後ろにまとめている。
「ええ、呼んだわよ、|北《ほく》|斗《と》」
受話器を置く音。
椅子が、クルッとまわった。
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・緋奈子が、そこに座っていた。
その名のとおり、|鮮《あざ》やかな|緋《ひ》|色《いろ》の着物姿だ。
「|火之迦具土大神《ほのかぐつちのおおかみ》に関する、|極《ごく》|秘《ひ》文書があったのを知っているわね」
緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》な|口調《くちょう》で尋ねる。
極秘文書――通称・レッドファイル。
|邪《じゃ》|神《しん》・火之迦具土を|封《ふう》|印《いん》した|社《やしろ》を守護してきた、|時《とき》|田《た》|一《いち》|門《もん》の千数百年ぶんの記録である。
そこには、火之迦具土に関する全データが、|記《しる》されている。
そして、レッドファイルの最終章には――。
緋奈子のブレインの一人が、火之迦具土のデータを|解《かい》|析《せき》して、予測した、ある可能性が述べられていた。
そのブレインの名前は、|赤《あか》|川《がわ》|由《ゆ》|貴《き》|子《こ》という。
先ほど、|犬《いぬ》|神《がみ》に乗って逃亡した美少女――|久《く》|美《み》|子《こ》の十歳年上の姉だ。
「はい……」
「その文書のマイクロフィルムが、どうやら外部に流出したようだわ。緋奈子が、最終章を読む前にね。たぶん、赤川は、最終章を書きあげた段階で、その内容に|怯《おび》えたのよ。そして、誰か緋奈子の側近にそそのかされて、緋奈子を裏切った。まあ……赤川がマイクロフィルムを誰に渡したかは、だいたい見当がつくけれど」
「では、さっそく、マイクロフィルムと、裏切り者の側近を捜させますわ、緋奈子さま」
北斗と呼ばれた異国の美女は、|流暢《りゅうちょう》な日本語を|操《あやつ》りながら、|微《ほほ》|笑《え》む。
「一時間いただけますか。そのあいだに……」
「裏切り者を捜す必要はないわよ、北斗」
緋奈子の声が、冷たくなる。
「だって、あなたが裏切り者ですもの」
まっすぐ指差された北斗の表情が、|強《こわ》ばった。
「何をおっしゃいます、緋奈子さま。あたくしは、緋奈子さまの|式《しき》|神《がみ》ですのよ。|主《あるじ》を裏切るような|真《ま》|似《ね》など……!」
式神というのは、|陰陽道《おんみょうどう》で|使《し》|役《えき》する|鬼《き》|神《しん》である。通常、紙の|呪《じゅ》|符《ふ》から作られることが多い。
また、数は少ないが、動物|霊《れい》を従わせて使ったり、下級の神を使役するケースもある。
だが、緋奈子の場合、すさまじい|妖力《ようりょく》で、人間を式神に変えるのだ。
北斗も、もとは、人間の術者だった。
それが、緋奈子に戦いを|挑《いど》んで負け、式神にされたのである。
「北斗は、緋奈子を|恨《うら》んでいるのでしょう? 人間に戻りたいのでしょう? わかっているわ。……だから、たっちゃんと|結《けっ》|託《たく》して、緋奈子を裏切ったのよ。違うかしら?」
「そのようなことは、決して……緋奈子さま!」
たっちゃんというのは、緋奈子の|従兄《い と こ》・時田|忠《ただ》|弘《ひろ》のことだ。
JOA所属の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》で、日米のハーフ。
またの名をアーサー・セオドア・レイヴンという。
時田忠弘は、二か月前、|鎌《かま》|倉《くら》での戦いで、緋奈子が|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹塔智《たかとうさとる》を殺そうとするのを|邪《じゃ》|魔《ま》したばかりか、智と一緒に|炎《ほのお》のなかで死のうとした緋奈子を、|強《ごう》|引《いん》に助けだした過去がある。
以来、緋奈子と時田忠弘は対立しているのだ。
「緋奈子の支配下にあって、これだけのことができたのは、|誉《ほ》めてあげる。まさか、ここまでやれるとは思っていなかったわ。でも、もう|年《ねん》|貢《ぐ》の|納《おさ》め|時《どき》よ」
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、薄く笑った。
「緋奈子を滅ぼそうとしてくれたお礼は、ちゃんとしてあげる。赤川由貴子も、もう|捕《と》らえたわ。ゆっくり時間をかけて、教えてあげる。緋奈子に|逆《さか》らったら、どんなことになるか」
「緋奈子さま……! お許しを!」
後ずさる式神。
緋奈子の手が、|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》|印《いん》を結んだ。
北斗の体が、奇妙にねじれあがった。
スーツを着た体が平面的になる。|四《よ》|隅《すみ》のほうから、ボッ……と、黒い炎が燃えだした。
ひらり……と舞い落ちた時には、もう北斗の体は、黒い呪符に変わっていた。
「裏切り者は、許さないわ」
緋奈子は、|椅《い》|子《す》から立っていき、呪符のそばに|屈《かが》みこんだ。
両手の指にはさんだ呪符を、ゆっくりと二つにちぎる。
どこか遠くで、苦しげな悲鳴が聞こえた。
呪符の破れ目から、無数の血の|粒《つぶ》が、にじみだしてくる。
四方のスクリーンには、|炎《ほのお》を背にして|妖《あや》しく|微《ほほ》|笑《え》む緋奈子の顔が、|大《おお》|映《うつ》しになっていた。
*    *
三日後、東京都|新宿区《しんじゅくく》。
秋晴れの日曜日だった。
国立病院医療センターの|屋上《おくじょう》で、二人の少年がむきあっていた。
「|麗《れい》|子《こ》さんが、京都で姿を消したよ、|京介《きょうすけ》」
|鷹塔智《たかとうさとる》が、低く|呟《つぶや》いた。
白いアンゴラのセーターにホワイトジーンズ。
スニーカーも|靴《くつ》|下《した》も白……と、白ずくめの美少年だ。
|諏訪東《すわひがし》高校二年生。
千年に一人といわれる天才|陰陽師《おんみょうじ》である。
もっとも、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》|印《いん》されているため、陰陽師としては、本来の半分ほどの力しか出せないのだが。
「麗子さんが……?」
問い返したのは、|鳴《なる》|海《み》京介。
鷹塔智の|相《あい》|棒《ぼう》で、同じ|諏訪東《すわひがし》高校二年生である。
この病院から、地下鉄の駅一つ離れた新宿区|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》のマンションで、智と二人暮らししている。
身につけているのは、濃い緑のパジャマに、黒い|革《かわ》のジャケット。
足もとは、|熊《くま》のイラストつきのスリッパだ。
現在、この国立病院医療センターに、夏から二か月も入院中の身である。
京介は、夏の|鎌《かま》|倉《くら》での緋奈子との戦いで、|妖獣《ようじゅう》に変身した。
その急激な変身が、京介の体に極度の|負《ふ》|担《たん》をかけたのだ。
だが、明日の月曜日には、退院が決まっている。
智は、明日退院する京介の荷造りを手伝いに、早起きしてやってきたのだった。
それが、来るなり、京介を|屋上《おくじょう》に引っぱってきて、言ったのが先のセリフだ。
京介は、あっけにとられて|訊《き》きかえす。
「麗子さんが姿を消したって……どういうことだ、智? 京都に行ってるっていうのも、|初《はつ》|耳《みみ》だぜ。|退《たい》|魔《ま》かなんかの用か?」
|百《もも》|瀬《せ》麗子は、智のJOA時代の同僚だった女性だ。
現在は、フリーで退魔を|請《う》け|負《お》う、|凄《すご》|腕《うで》の|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いである。
魔を|封《ふう》|印《いん》する能力は、国内でも|十《じっ》|指《し》に入るという。
|表《おもて》の顔は、|西《にし》|早《わ》|稲《せ》|田《だ》にある|戸《と》|山《やま》外語大学の二年生。
|記《き》|憶《おく》のない智と病気の京介を心配して、|後《こう》|見《けん》|人《にん》のような立場になっている。
「京介、麗子さんは、火炎の真理教に潜入|捜《そう》|査《さ》してたんだ」
智は、じれったげに言う。
「火炎の真理教……? あの、緋奈子が教祖になってるやつか」
「そう」
火炎の真理教は、今年に入ってから、急激に信者数を伸ばしてきた新興宗教である。
マスコミでも、毎日のように取りあげられていた。
資金が豊富なものとみえ、この|不況下《ふきょうか》で、国内の八十数か所に支部ビルを建てて、話題になった。
信者の三分の一が、中学生から高校生の少年少女たちである。
このへんが、非常にマスコミ受けするらしい。
情報雑誌などでも、よく特集が組まれていた。
その背景には、火炎の真理教の|巧妙《こうみょう》な信者|獲《かく》|得《とく》戦略があるといわれている。
入信したアイドル歌手や、有名タレントたちと、直接会って話ができる〈|茶《さ》|話《わ》|会《かい》〉の存在である。
また、教団|主《しゅ》|催《さい》のディスコパーティーや、乗馬ツアー。
超高級ホテルのスイートルームを借りきって行われる、能力開発セミナーなど、『遊び感覚』を前面に打ちだした企画が成功したのだともいう。
信者の数は、およそ二百万人。
まだまだ増えるものと予測されていた。
二百万人の信者たちを支配する教祖の名前は――|時《とき》|田《た》緋奈子。
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》である。
鷹塔智の|幼《おさな》なじみだが、現在は、敵にまわって、智の命を|狙《ねら》っている。
この夏も、智のもとに、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》を送ってきたりした。
それが失敗すると、今度は、|鎌《かま》|倉《くら》で行われる〈|闇《やみ》|送《おく》り〉の祭りに|乗《じょう》じて、鎌倉もろとも智を滅ぼそうとした。
そもそも、智の|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》じたのも、緋奈子の|仕《し》|業《わざ》だ。
しかし、そんなことをしておきながら、緋奈子は、二歳年下の智を愛しているという。
|前《ぜん》|世《せ》では、智の母だったとも主張している。
だが、その愛は、すでに|妄執《もうしゅう》といっていい。
――緋奈子は、智ちゃんを壊して、ズタズタに引き|裂《さ》いてしまわなきゃいけない。そうしなければ、緋奈子は、もうどこへも行けないのよ。終わりにしたいの。苦しいのよ。
京介は、この緋奈子の言葉を、二か月前、鎌倉のホテルで聞いた。
智と和解してくれと、|土《ど》|下《げ》|座《ざ》までして頼んだのだが、緋奈子の気持ちは、変わらなかった。
それどころか、京介自身が、緋奈子の|恨《うら》みをかうことになってしまった。
|藪《やぶ》|蛇《へび》だったかもしれない。
「また、緋奈子がからんできてんのかよ……」
京介は、ため息をついた。
「ホント、|胡《う》|散《さん》くせえ新興宗教だよな。入信して、深みにはまっちまって、家出する子とか、多いんだろ」
「家出くらいなら、まだ|可《か》|愛《わい》いけれどね、京介。JOAの調べでは、死んだ子もかなりいるって話だよ。火炎の真理教の信者の|印《しるし》の〈たるたま〉って石のせいでね。〈たるたま〉を持って念じると、疲れてても、疲れを感じないし、眠くても、気分がスッキリするんだって」
「|麻《ま》|薬《やく》みたいだな」
京介は、|眉《まゆ》をよせた。
「まさか、習慣性もあるとか……?」
「その、まさかなんだ」
智は、ゆっくりと、こちらを振り返る。
悲しげな|瞳《ひとみ》だ。
「〈たるたま〉は、疲れないんじゃないんだ。疲れていても、眠くても、それを感じないだけなんだ。しかも、習慣性が強くて、一度使ったらやめられなくなる。疲労は、どんどん|蓄《ちく》|積《せき》していく。そして、ある日、いきなり倒れて……|過《か》|労《ろう》|死《し》する」
「げ……それって……」
想像すると、|背《せ》|筋《すじ》が寒くなってくる。
「緋奈子は、〈たるたま〉を通じて、信者たちに一種の|幻《げん》|覚《かく》をあたえている。自分には無限の力があって、いつも楽しくて、元気だ……っていう幻覚をね。そして、幻覚をあたえてやる代わりに、少しずつ、信者たちの|霊《れい》|気《き》を|削《けず》りとって、|蓄《たくわ》えてるんだ」
|眩《まぶ》しいほどの|陽《ひ》|射《ざ》しが、急に|翳《かげ》ったようだった。
京介は、ブルッと身震いした。
「だから、麗子さんは、京都に火炎の真理教を調べにいったんだ。あっちに、緋奈子は|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》っていう黒い超高層ビルを建てた。それが……霊的にかなりマズい影響を日本じゅうにあたえてるんで、なんとかしなきゃいけないってことで。オレも、すぐに行きたかったけど、|細《こま》|々《ごま》した|退《たい》|魔《ま》の|依《い》|頼《らい》を片づけなくちゃいけなくて……遅くなった」
智は、ため息をついた。
「遅すぎたかもしれない。オレがぐずぐずしてるあいだに、麗子さんは、京都の魔天楼に潜入したまま、|行《ゆく》|方《え》不明になってしまった」
「行方不明……まさか死……?」
「いや、死んではいないよ。弱いけれど、麗子さんの霊気は感じるから。でも、ほうっておけば、危ないかもしれない」
智は、言葉を切って、黙りこんだ。
何かを決意したような瞳。
「智……」
「オレは、京都へ行くよ、京介」
それは、もう決めたことなんだ……というふうに、京介の耳には響いた。
(俺たちの仲で、|水《みず》|臭《くさ》いじゃないかよ……智)
何もかも、一人で|抱《かか》えこむような目をして。
「相談にきたんじゃねーんだな……もう決めちまったんだな……智」
「ごめんね、京介。退院早々、オレは、いなくなっちゃうけど……」
「学校は……どうするんだよ、智。何日間の予定なんだ?」
「さあ……何日になるかな。行ってみないと、わからないよ」
智は、わびるように|微《ほほ》|笑《え》んでみせた。
「けど、おまえ、俺もそうだけど、ずいぶん学校休んでるじゃねーか。出席日数とか、どうすんだよ」
「もう学校どころじゃないよ、京介。そんな|悠長《ゆうちょう》なこと言ってられる段階は、過ぎてしまったんだ」
智の|瞳《ひとみ》は、少し悲しげだ。
京介は、胸をつかれて黙りこんだ。
(智……そんなに状況は、悪いのか……?)
智は、|切《せつ》なげに目を伏せた。長い|睫《まつ》|毛《げ》が、なめらかな|肌《はだ》に濃い影を落とす。
(だから、おまえは、ほっとけねーんだよ……)
京介は、ため息をついた。
智の|両肘《りょうひじ》をつかみ、引きよせる。
「京介……」
驚いたような智の瞳に、安心しろというように、笑いかけてやる。
「俺も一緒に行ってやるからな、智」
「ダメだよ……京介。オレは京介を|妖獣《ようじゅう》にしたくない……から」
智は、何度も目を|瞬《しばたた》いた。
|唇《くちびる》をきゅっと結び、京介を|睨《にら》みあげる。
無理が見え見えの表情だ。
それが、京介には|愛《いと》しく感じられる。
「京介は、来なくていい。オレ一人で行ってくるから」
「|冗談《じょうだん》言ってんじゃねーよ。俺も行く。今さら、何言ってんだよ。バカだな、智」
京介は、|深《しん》|刻《こく》な空気をはねのけようと、ことさらに元気な声を出す。
「来なくていい。……足手まといだ」
智は、うつむいて、ボソリと|呟《つぶや》く。
「バーカ。そっちこそ、|記《き》|憶《おく》も戻ってねーくせに! 半人前が、|粋《いき》がってんじゃねーよ!」
わざと|挑発的《ちょうはつてき》なセリフを|吐《は》いてやる。
(怒られるほうが、泣かれるよりマシだ……)
「来なくていい!」
半人前と言われて、智は、京介の計算どおり、ムッとしたようだ。
意地になって、言いつのる。
「京都は、オレ一人で充分だ! いつ妖獣になるかわかんない京介の助けなんか、いらない!」
智は顔をあげて、もう一度、京介を|睨《にら》みつけた。
シベリアンハスキーみたいに|怖《こわ》い目だ。
京介のことを心配するあまり、本気で怒っている。
「どうして、そんな、わかんないこと言うのさ、京介! オレ、京介にはこれ以上、|迷《めい》|惑《わく》かけたくない!」
智は、なおもつっぱろうとする。
だが、京介がこれで引き下がらないことなど、お互い承知のうえだ。
わかっていても、とりあえずゴネてみせている。
智の全身から、甘えが|滲《にじ》んでいる。
(しょーがねえなあ……)
京介は、周囲を見まわした。
|屋上《おくじょう》には、二人のほかに人影はない。
京介は、智に顔をよせた。まぢかでささやく。
「もう何も言うな、智」
「でも、京介」
まだ何か言いたそうな|唇《くちびる》を、そっとふさぐ。
智は、驚いたように京介を見つめた。唇を重ねたまま。
智の手があがり、京介のジャケットの|袖《そで》をギュッとつかむ。
「たまには俺の言うこときけよ」
「ん……」
やがて、智の|瞳《ひとみ》が閉じ、やわらかな唇がわずかに動いた。
京介の口づけに、反応している。
優しい接触。
長いあいだ、二人はそのままの姿勢で、動かなかった。
「京介……」
智が、体をずらして、京介の胸に頭をもたせかけてくる。
もう、智も京介と二人で行くことに、反対しようとはしない。
京介は、智の髪を静かに|撫《な》でた。
*    *
|智《さとる》と出会うまでは、|京介《きょうすけ》は、ごく普通の高校生だった。
今年の六月のことだ。
天才|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹《たか》|塔《とう》智は、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》によって、|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》|印《いん》された。
早朝の|新宿区高田馬場《しんじゅくくたかだのばば》で――。
記憶を失う寸前、智は、京介と出会った。
運命のように。
その直後、智は|昏《こん》|倒《とう》した。
京介のアパートで|目《め》|覚《ざ》めた時、すでに、智の記憶はなかった。
お|人《ひと》|好《よ》しで、|面《めん》|倒《どう》|見《み》のいい京介は、智をほうっておけなかった。
だが、次から次へと事件は起こった。
智を|狙《ねら》った|呪《じゅ》|火《か》で、京介のアパートが焼け、事故によって、封印されていた|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》が解放され、智や京介と同じ|諏訪東《すわひがし》高校に通う少女・|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》が、|行《ゆく》|方《え》不明になった。
その裏には、いつも魔の盟主・緋奈子がいた。
智と京介、それに|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いの|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》は、協力して緋奈子に立ちむかった。
緋奈子との戦いは、智と京介の心を深く結びつけた。
強い|絆《きずな》が、生まれたのだ。
苦しい戦いのなかで、京介は、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を手に入れた。
十五センチほどの金属片である。
普段は、なんの|変《へん》|哲《てつ》もない棒のようなものだ。
しかし、|鳴《なる》|海《み》京介の意思と|霊《れい》|気《き》に反応して、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって、|顕《けん》|現《げん》する。
この光の刃が、|曲《くせ》|者《もの》だった。
神や魔を|斬《き》る光の|剣《つるぎ》。
ほぼ無敵の降魔の利剣。
天之尾羽張が、退魔とは|無《む》|縁《えん》だった|一《いっ》|介《かい》の高校生・鳴海京介にあたえたのは――。
絶大な力だった。
超一流の陰陽師・鷹塔智のパートナーが|務《つと》まるほどの――神の力。
なぜ、京介に天之尾羽張が使えるのか、それはわからなかった。
だが、何もわからないまま、京介は、智と一緒に戦う道を選んだ。
降魔の利剣を使って、智を守りつづけると|誓《ちか》った。
そして、二人は、一緒に暮らしはじめたのだ。
だが、力を手に入れることには、つねに|代償《だいしょう》がともなう。
|素人《しろうと》の京介が、天之尾羽張を使いこなせるのは、彼自身が、失われた天之尾羽張の剣の神霊だからなのだと――。
知った時には、遅かった。
天之尾羽張の破片は、失った|神《しん》|霊《れい》を取り戻そうと、京介の|魂《たましい》をしゃぶりはじめていた。
京介の魂は、少しずつ、天之尾羽張の破片に吸いこまれ、同化しはじめるだろう。
魂が、完全に天之尾羽張と同化してしまった時。
鳴海京介は、この世からいなくなる。
魂は、金属の|剣《つるぎ》、実体化した天之尾羽張に変わり、魂を失った肉体は、|妖獣《ようじゅう》に変わってしまうのだ。
変化は、少しずつ起こるだろう……と言われていた。
最初は、短時間の妖獣への変身。
そのあいだ、京介は、人間としての意識を保っていられる。
だが、しだいに妖獣でいるあいだの|記《き》|憶《おく》が欠落しはじめる。
記憶の欠落する時間は、やがて、増えていく。
最後に、妖獣への変化が、固定する。
人間の姿に、戻らなくなる。
そして、すべては終わるのだ。
|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智にしか使えない金属の剣・天之尾羽張を残して。
智は、それを知って以来、つとめて京介を戦いの場から引き離そうとしていた。
京介を失いたくないから……と。
その気持ちがわかるだけに、京介は|切《せつ》なかった。
妖獣にはなりたくない。
だが、智のそばからも離れたくない。
|矛盾《むじゅん》した気持ちは、どちらも真実だ。
病室の|天井《てんじょう》を見あげて暮らした二か月間、京介は考えつづけた。
これからどうするべきか。何を選ぶべきか。
そして出た答えは――。
智のそばを離れない、ということだった。
たとえ妖獣になったとしても。
*    *
「出発は、明日の夜だから」
「わかった」
「|慌《あわ》ただしくて、ごめん」
と言いながら、|智《さとる》は、帰ろうとする。
「もう帰るのか、智?」
「ごめん。明日の準備しておかなくちゃ……」
「そっか」
|京介《きょうすけ》は、そっと智に手をのばして、肩を抱きよせた。
「元気だせよ。まだ、悪いことなんか、起きてないんだからな」
「オレたちのあいだにはね……」
智は、遠くを見るような目をする。
「俺たちのあいだには、って……?」
一瞬、京介には、智の言葉の意味がわからなかった。
悲しげな|陰陽師《おんみょうじ》の|瞳《ひとみ》の先には、何があるのだろう。
(智は、今、何を見ているんだろう)
「京都に|亀《き》|裂《れつ》ができている……。|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》が、魔界への門を開く。時間がない」
|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の陰陽師は、静かに|呟《つぶや》いた。
「やがて、日本じゅうに悲しみが広がる。オレは、それを止めにいかなきゃならない」
「智……何を言ってるんだよ……」
(遠くへ行くなよ……)
京介は、|悔《くや》しくて、|切《せつ》なくて、どうしていいのかわからない。
「智……」
ふいに、智は、京介の顔を見あげ、微笑した。
光に溶けていきそうな白い姿。
「ありがとう、京介」
なんに対しての感謝の言葉だったのか。
智は、京介の手を持ちあげ、そっと|頬《ほお》に押しあてた。
「智……」
「オレは、京介に会えてよかったよ」
それだけ言うと、智は京介に背をむけて、歩き去った。
一度も、振り返らなかった。
*    *
夕方、|京介《きょうすけ》は、病室の窓から、外を|眺《なが》めていた。
血のように真っ赤な光球が、西の空に沈みかけている。
「|明後日《あさって》は、京都か……」
|鮮《あざ》やかな夕焼けが、白いビルを照らしだしている。
|街《まち》のあちこちに、明かりがともりはじめた。
見慣れてしまった夕暮れの|景《け》|色《しき》。
二か月間、毎日見て、もううんざりしたはずの風景なのに。
|名《な》|残《ごり》|惜《お》しいのは、なぜだろう。
(東京の夜景見るのも、今日と明日で最後かな……)
|智《さとる》には、楽観的なことを言ったくせに、内心、京介はひどく不安だった。
(智……)
こんな時こそ、智がそばにいてほしかった。
智を励ますためなら、どんなふうにでも、強くなれるはずなのに。
智のためになら。
「は……」
京介は、小さく笑った。
|自嘲《じちょう》ぎみの笑い。
(智がいなきゃ困るのは……俺のほうじゃないか……)
*    *
二日後の早朝。
|智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、京都駅前にいた。
快晴だった。
平日なのに、シャッターの下りた駅前に、人影はなかった。
駅の改築工事とかで、キオスクや『みどりの窓口』も、駅の外の仮の場所で営業している。
駅前には、大きな立て|看《かん》|板《ばん》があった。
『京都の景観を破壊する火炎の真理教関西支部ビルの建設に反対する!』と、赤い字で書いてある。
真夜中に、|新宿《しんじゅく》新南口発の夜行バスに乗って、一晩走りつづけて京都に来た。
二人は、たった今、バスから降りたばかりだ。
「寒いなあ、こっち」
京介は、二人ぶんのボストンバッグを持ちあげて、ぼやいた。
夜行バスのなかは、暖房が|効《き》きすぎていた。
汗ばむくらいだったのだが、京都に降りたったとたん、東京より寒いのに気づいた。
一晩、不自然な姿勢で寝たため、|睡《すい》|眠《みん》不足ぎみだ。
|新《しん》|幹《かん》|線《せん》にすればよかったかもしれない。
智が夜行バスのチケットを手渡してくれた時から、|嫌《いや》な予感がしていたのだ。
(こいつに、足の手配、まかせるんじゃなかった……)
京介は、内心、|後《こう》|悔《かい》していた。
「もう着いたの……京介?」
智は、京介の背中に頭をもたせかけ、半分目を閉じている。
相変わらずの白ずくめだ。
白いアンゴラのセーターに、ホワイトジーンズ。
一方、京介は、黒の学ラン姿。
修学旅行の気分を味わいたくて、わざわざ着てきたのだ。
本当の修学旅行のほうは、入院していたため、不参加だった。
京介は、楽しみにしていただけに、ずいぶんがっかりしたものだ。
足もとは、白と緑のバッシュだ。
「ああ、京都駅前だぞ。どっかで、休んでくか、智? ホテルのチェックイン、午後からだろ」
「ん……」
智は、|生《なま》|返《へん》|事《じ》をする。
「こぉら、起きろよ、智。一晩や二晩、徹夜したくらいで、だらしねーぞ」
「なんか、京都の|霊《れい》|気《き》が|妙《みょう》で……気持ち悪い。眠い……」
智は、ボソボソと|呟《つぶや》く。
「どうしたんだよ。|大丈夫《だいじょうぶ》か、おい……智」
「ううん。でも、平気」
「あーあ、わかった、わかったよ。どっかのファーストフードに入って、ひと休みしよう。な、それまで目ぇ|覚《さ》ましてろよ」
京介は、|呆《あき》れて、智の腕をつかむ。
ボストンバッグ二つを左手に持ち、右手で智を引きずって、歩きだした。
「京介……オレ、氷食いたい……」
ひどくだるそうに、智が呟く。
「わかった、わかった。俺がアイスコーヒーかなんか頼んで、なかに入ってる氷やるからな」
「ん……」
智は、ひどい|偏食《へんしょく》だ。
朝は、氷しか食べない。氷を食べた後は、すぐに熱いカフェ・オ・レを飲む。
朝以外の時は、胃が、ファーストフードか、ウニやアワビなど、超高級な|寿《す》|司《し》ネタしか受けつけないようになっている。
魚や肉類は、口に入れても、すぐもどしてしまう。
というのは、智が、|魔《ま》|物《もの》や|怨霊《おんりょう》の苦痛をダイレクトに受信する|特《とく》|殊《しゅ》能力――|感《かん》|応《のう》能力の|持《も》ち|主《ぬし》だからである。
その能力の|範《はん》|囲《い》は、人間や動物、魚にまでおよぶ。
ただし、ウニやアワビの|怨《おん》|念《ねん》は感じないので、京介には、『ただのわがままな|偏食野郎《へんしょくやろう》』呼ばわりされているのだが。
その時。
ふいに智が、目を開いて、京介の背後を指差した。
「京介、あれ……」
「なんだよ」
振り返ると、駅の|八条口《はちじょうぐち》方面に、真っ黒な超高層ビルがそびえたっていた。
地上百階は、あるだろうか。
京都の空を|蹂躙《じゅうりん》する、異様な黒い建築物。
|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が東京都庁に似ていた。
「すげ……なんだよ、あれ」
京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》と超高層ビルを見あげていた。
あまりにも高いので、ずっと見ていると首が痛くなってくる。
「火炎の真理教関西支部ビルだよ。通称は|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》……」
智が、はっきりした声で言う。
ようやく、調子が戻ってきたようだ。
「|気色悪《きしょくわる》いビルだな。俺、なんか……見てると、遠近感が狂うぜ」
「そうだね……」
智と京介は、しばらく魔天楼を|凝視《ぎょうし》したまま、動かなかった。
「京介、寒くない?」
やがて、智が尋ねた。
「ああ。このへん、|盆《ぼん》|地《ち》だからな」
京介は、ブルッと身震いした。
それにしても、やけに冷える。
気のせいか、魔天楼の上の空が、|妙《みょう》に暗かった。
「え……!」
目を|凝《こ》らして十秒ほどすると――。
|顕微鏡《けんびきょう》のピントがあったように、いきなり空が拡大されて|視《み》えた。
無数の魔物が、魔天楼の上を飛びまわっている。
異様にぬめぬめした|光《こう》|沢《たく》のある黒い|翼《つばさ》、|蛇《へび》のような|尻尾《し っ ぽ》。
「うひょお……オカルト……」
京介は、後ずさった。
目が|汚《けが》れたような気がして、思わずゴシゴシこする。
|超常現象《ちょうじょうげんしょう》は、かなり|苦《にが》|手《て》だ。
智と出会ってから、出くわすことが多いので、|否《いや》でも慣れてしまったのだが。
たぶん、一生好きにはなれないだろう。
「京介にも|視《み》える?」
智が、同情するように、京介の腕をつかんだ。
京介が、超常現象を苦手なのは知っている。
京介は、小さくうなずいた。
「ビルの上を飛んでるやつ、アップで視える……」
こんなことは口にするのも|嫌《いや》だ。
「元気だしてね、京介」
「うん……」
「本当は、ビルの上だけじゃないんだから」
「え……?」
「ビル全体に、人の顔みたいなのが浮いてるし、|死霊《しりょう》の群れもいるし、窓から手がいっぱい|生《は》えて、空中をかきむしってるし。あれ、きっと、みんな、〈たるたま〉で|霊《れい》|気《き》を奪われて死んだ信者の霊だね」
「やめようよ、智……そういう話」
「うん。これ以上は、話さない。本当は、もっとすごいんだけど」
「だから、やめろってば、智」
京介は、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》をチラッと見て、すぐに目をそらした。
見つめつづけていると、意識をもっていかれそうな気がする。
(ああ、もう嫌……)
智は、|魅《み》|入《い》られたように、魔天楼を見つめている。
「|大丈夫《だいじょうぶ》か、智。おい……智?」
「あのなかに、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》がいる……」
「え……?」
「霊気でわかる。たぶん、|麗《れい》|子《こ》さんも、あのなかだ」
「そうか……」
京介は、無意識のうちに、智の肩をつかんでいた。
(遠くへ行くなよ、智……)
その|想《おも》いが伝わったのか、智は、そっと京介の腕のなかに入ってきた。
背中を、京介の胸にもたせかけた。
なぜだか、京介は、急に|切《せつ》なくなった。
「智……」
京介は、朝日に|透《す》きとおるような京都の|街《まち》を、ずっと見つめていた。
|凍《こご》えそうな風が、アスファルトの上を吹き過ぎていく。
「京都の|裏《うら》|鬼《き》|門《もん》なのにね……あの位置」
やがて、智が、かすかな声で言う。
「え……裏鬼門?」
「南西の方角のことだよ。北東は、鬼門っていって、昔から|鬼《おに》の侵入する方角として、恐れられてきたんだ。裏鬼門は、その反対側。やっぱり、|不《ふ》|吉《きつ》な方角だ。本当は、鬼門や裏鬼門には、お寺や神社をおいて、鬼の侵入を防がなきゃいけないんだけど……」
寒いのは、本当は、京都の地形のせいだけではないのだと、智は言う。
京都の南西――裏鬼門にあたる位置に、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》が建ったせいなのだという。
この|邪《じゃ》|悪《あく》な建築物が、京都の|霊《れい》|的《てき》|結《けっ》|界《かい》を、|崩《くず》してしまったのだ。
「京都の鬼門には、|比叡山延暦寺《ひえいざんえんりゃくじ》が|王城鎮護《おうじょうちんご》の寺として建てられてる。その手前に、|上御霊《かみごりょう》神社。|内裏《だ い り》の西北側には、|大将軍八《だいしょうぐんはち》神社、|北《きた》|野《の》|天《てん》|満《まん》|宮《ぐう》。南は、|羅城門《らじょうもん》の東と西に、|東《とう》|寺《じ》と今はもうない|西《さい》|寺《じ》。もちろん、これだけじゃないけれど……。これらの寺社が、京都を守る霊的結界を作りだしていた」
「よくわかんねえ……。けど、霊的結界ってやつがあったんだろ。それを、あの魔天楼一つで、ぶっ壊せるのか?」
「京都では、昔から、東寺の塔より高い建物は、建てちゃいけなかった。霊的結界を壊すから……って言われていた。その後、東寺より高い百三十一メートルの京都タワーができて、ずいぶん問題になったんだけど。でも、設計段階で、タワーの形と色に手を加えることで、霊的結界は|維《い》|持《じ》された。だけど、今度の魔天楼は、最初から霊的結界崩しが目的だから」
「霊的結界崩し……?」
「そう。あの黒い色もね……霊的結界崩しの|呪《じゅ》|咀《そ》の一部だ」
「呪咀……」
京介は、チラと魔天楼を見た。
|不《ぶ》|気《き》|味《み》だとは思ったが、そこまでひどい目的で建てられたとは、思わなかった。
(緋奈子の|奴《やつ》……どこまで最低なんだ……)
「あれが建って、霊的結界が消えたら……京都、どうなるんだ、智?」
「魔界への門が開くよ」
智は、静かに言った。
「このままだと、日本は|鬼《おに》の|棲《す》む国になる」
「鬼の……棲む国?」
「そう。裏鬼門に|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》が建ったってことは、鬼の世界へ通じる門が……魔界への通路ができたってことだ。……門は、まだちゃんと開いてはいない。でも、あの魔天楼に、信者たちの|怨《おん》|念《ねん》をもっと集めて、今よりもっと|地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》を濃くしたら、たぶん、門は開くよ。そしたら、鬼がやってくる。京都が、魔界になる。やがて、鬼の群れは日本全土に広がって、そこを支配するだろう」
京介は、|背《せ》|筋《すじ》がゾッと寒くなるのを感じた。
「でも……緋奈子、どうしたんだろうな。ヤケになってるみたいだ」
智が、ポツリと|呟《つぶや》いた。
「そうなのか……? そんなことがわかるのか、おまえ?」
「うん。でも……おかしいね。|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に|憑依《ひょうい》されてるんなら、〈たるたま〉なんかで、みみっちく信者の霊気、集めなくてもいいはずなのに。なんで、火之迦具土の力、使わないんだろう」
「火之迦具土と、|喧《けん》|嘩《か》したんじゃねーの」
京介は、ふと思いついたことを言ってみる。
智が、苦笑した。
「京介、小学生じゃないんだからさ」
「じゃあ、緋奈子の|奴《やつ》、今までけっこう、悪いこと|企《たく》らんじゃ、失敗してるから、火之迦具土に見限られたとか。『おまえのような無能な部下はいらん!』って言われたとかさ」
「京介、|特《とく》|撮《さつ》|物《もの》とか好きでしょ?」
智が、|呆《あき》れたように言う。
「緋奈子が、火之迦具土の部下ねえ……ちょっと違うと思うけどなあ」
「どうせ、俺は一般ピープルだよ。|退《たい》|魔《ま》なんか、よくわかんねーんだよ」
「……だと思うよ」
智は、一人でうなずいている。
京介は、ちょっとムッとした。
その時。
小さな|靴《くつ》|音《おと》がした。
「|鷹《たか》|塔《とう》智君と、|鳴《なる》|海《み》京介君ね」
二人の後ろから、|綺《き》|麗《れい》なソプラノの声がした。
振り返ると、セーラー服の少女が立っていた。
ショートボブの黒髪。
目がクリクリした美少女だ。
肩に|緋《ひ》|色《いろ》の犬神をのせている。
「ずいぶん|捜《さが》したわ」
「あんた……誰?」
京介は、目をパチクリした。
第二章 |天《てん》|人《にん》の|羽衣《はごろも》
美少女は、|赤《あか》|川《がわ》|久《く》|美《み》|子《こ》と名乗った。
「会えてよかった。あのね、|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》さんから、預かったものがあるの。|鷹塔智《たかとうさとる》君にこれを……」
久美子は、セーラー服のポケットを|探《さぐ》った。
一本のルージュを差し出す。
|蓋《ふた》にシャネルのマークがついていた。
「なんです、これ……?」
智は、|怪《け》|訝《げん》そうな顔で、ルージュを受け取った。
開けてみる。
中は、新品だった。
|鮮《あざ》やかな|緋《ひ》|色《いろ》。
麗子が、普段使っている色ではない。
「なんかの|暗《あん》|号《ごう》かもな。|緋《ひ》|色《いろ》で、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》を表すとかさ……」
|京介《きょうすけ》も、智の手のなかのルージュをのぞきこんだ。
「何か、聞いてないですか、麗子さんから。この意味とか……暗号なら、暗号で。ええと……赤川さん?」
「できれば、久美子って呼んでほしいんだけど」
「じゃあ、久美子さん」
久美子は、すまなそうに微笑した。
「ごめんね。実は、聞いてないんだ。麗子さんにも、『教えると、かえって危ない』って言われたし」
「危ない?」
京介は、ルージュに目をやった。
「なんか|封《ふう》じこめてあるのかな、|妖《よう》|怪《かい》とか|鬼《おに》とか……」
「いや、そういう|霊《れい》|気《き》はないよ」
智が、答える。
「じゃあ、なんだろうなあ……」
「ここに来るまでにも、鬼に追いかけられたり、殺されかけたりして、いろいろ妨害されたから、たぶんそれ、重要なものだとは思うんだけどね」
久美子は、そんな大変なことを、さらりと言う。
京介は、思わず、久美子をまじまじと見つめてしまった。
「あの……ひょっとして、久美子さんって、JOA関係者とか? なんか、やけに落ち着いてるじゃん」
久美子の肩にのっている|犬《いぬ》|神《がみ》のことも、気になる。
(犬神使いなのか……この子も?)
久美子は、クリクリした目で、京介を見つめ返し、ニッコリ笑った。
「ううん、ただの高校生。東京の|城北《じょうほく》高校の二年生なんだ。つい最近まで、火炎の真理教に入ってたけど、なんかね、やばそうなんでやめたところ。〈たるたま〉も、気持ち悪いんで、途中で捨てちゃった」
「そっか……」
いまいち、京介は釈然としない。
「でも……どうしてかな。あたし、あんまり|怖《こわ》くないんだ」
久美子は、首をかしげた。
「|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》よね」
智が微笑した。
「久美子さんは犬神に|憑依《ひょうい》されているんです。犬神の力で守られてるから、怖くないんですよ。犬神は、麗子さんとつながってるから、麗子さんの情報も、ある程度入ってくるし。オレたちのことも、会ったとたん、わかったでしょ?」
久美子は、小さくうなずく。
「そうなの。ああ、この人たちだなって……」
「え……じゃ、久美子さんって、|退《たい》|魔《ま》もできるとか……?」
京介は、久美子と肩にのった犬神を見比べた。
犬神は、チチチ……と、バカにしたように鳴いた。
「まさか」
智も、苦笑する。
「久美子さんは、修業した体じゃないからね。退魔したりしたら、体|壊《こわ》して寝こんじゃうよ。慣れないことは、するもんじゃない。……京介だって、いっぺん、|鎌《かま》|倉《くら》で|妖獣《ようじゅう》になっちゃった後、二か月も入院したでしょ」
たとえが悪い……と、京介は思ったが、言わないでおいた。
言えば、お互い、つらい思いをする。
「あの……もし、お願いできるなら、頼みがあるんだけど……」
久美子が、ためらいがちに言いだす。
「オレたちにできることでしたら。……ね、京介?」
「うん」
久美子は、チラと|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》を見あげた。
「うちの姉がね……赤川|由《ゆ》|貴《き》|子《こ》っていうんだけど、今、|行《ゆく》|方《え》不明なのよ。たぶん、魔天楼にいるとは思うんだけど……」
「火炎の真理教関係で、ですか?」
「うん……。っていうか、火炎の真理教の信者っていうより、スタッフだったのね。なんか知らないけど研究職についてて、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に関する|文《ぶん》|献《けん》、調べてたんだけど……。五日前に、あたしが会いにいったら、『命が危ない』とか言ってて、あたしにも、『すぐ逃げろ』って……百瀬麗子さんを紹介してくれたのね、『この人と一緒に行きなさい』って」
「命が危ない……?」
京介は、|眉《まゆ》|根《ね》をよせた。
|穏《おだ》やかではない話だ。
「それで、あたしは、麗子さんと一緒に外に出ようとしたんだけど、|鬼《おに》が追いかけてきて、つかまりそうになって……」
「それで、麗子さんは、犬神にあなたを|託《たく》して、逃がした……」
智が、ゆっくりと言う。
「そうですね、久美子さん」
久美子は、コクンとうなずいた。
「それで、わかりました。このルージュのなかにあるのは、たぶん、麗子さんが火炎の真理教に潜入して手に入れた情報です。あなたのお姉さんが、その情報を提供してくれたんですね……」
智は、魔天楼をじっと見た。
「お姉さんの|霊《れい》|気《き》までは……読めませんね。|怨霊《おんりょう》の|気《け》|配《はい》のほうがひどくて……」
久美子が、不安そうな目をする。
「生きて……いるよね?」
「ええ、もちろん。麗子さんが、ついてますから」
智は、安心させるように微笑してみせた。
それが、気休めでしかないのは、京介にもわかった。
あの魔天楼のなかに、緋奈子がいるのだとしたら――。
情報を流した赤川由貴子は、今頃、どんな|責《せ》め|苦《く》にあっていることか。
「久美子さん、とにかく、ここを離れましょう。ここは、いくらなんでも、魔天楼に近すぎる。お姉さんは、オレが責任もって助けだしますから」
智が、優しく少女を|促《うなが》す。
「どこへ行くの……?」
智と京介は、目を|見《み》|交《か》わした。
「そうだよ、智。どこへ行くんだ? ホテルは、チェックインの時間まで、入れねーし……」
智は、一瞬、考えたようだった。
「そうだね……ホテルは、危険だ。緋奈子が京都にいるなら、オレが予約したホテルも、もう知っていると考えたほうがいい」
と、その時、風に|妖《よう》|気《き》が混じった。
「智……」
犬神が、久美子の肩から、飛びたった。
チィチィ……!
|警《けい》|戒《かい》するような鳴き声。
久美子が、周囲を見まわした。
「|鬼《おに》が来る……!」
久美子には、犬神の|視《み》ているものが、ダイレクトに伝わるらしい。
京介は、智と背中をあわせるようにして、身構える。
「もう来たのか……早いな、敵の連中」
「いや、遅すぎるくらいだ。京介、ボストンバッグ貸して」
智は、京介が持っているボストンバッグに手をのばす。
中から、電子手帳のようなものを取り出した。
超小型のコンピューター〈|呪《じゅ》|符《ふ》DR〉である。
JOAの開発した製品で、呪符カードを差しこんで使う。
智は、京介に〈呪符DR〉と、呪符カードをほうった。
「ないよりマシでしょ」
「サンキュー、智」
犬神は、高く舞いあがっていく。
「あ……鬼が、|四《よん》|匹《ひき》来るわ。そこの角を曲がってくる」
久美子が、早口に言う。
京介は、呪符カードを、|挿入口《そうにゅうぐち》に入れた。
〈呪符DR〉は、呪符が出るまで、一・五秒かかる。
京介は、ジリジリしながら、待った。
智は、すでに、両手に呪符を持っていた。胸の前で、交差させて構えている。
京介と違って、自力で呪符が使えるのだ。
|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》。
「あの鬼たちの|狙《ねら》いは、たぶん、そのルージュよ」
「なら、敵さん、全力でかかってくるな。……京介、油断しないで」
「わかってる」
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は、学ランのポケットに入っている。
できれば、使わずにすませたかった。
智は、自分一人で、京介と久美子を守るつもりのようだった。
だが、京介のプライドを|慮《おもんぱか》って、〈呪符DR〉を貸してくれた。
それが、京介には、少し|切《せつ》ない。
「来たわ!」
四匹の鬼が、ゆらゆらと体を揺らしながら、近づいてきた。
|牙《きば》の|生《は》えた口から、|涎《よだれ》をたらしている。
「|悪《あく》|魔《ま》|降《ごう》|伏《ぶく》、|怨《おん》|敵《てき》|退《たい》|散《さん》、|七《しち》|難《なん》|速《そく》|滅《めつ》、|七復速生秘《しちふくそくしょうひ》!」
智の声が、響きわたる。
智の手もとと、京介の呪符DRから、呪符が飛んだ。
|紫《むらさき》の光を流星のように引いて、鬼にむかっていく。
だが、鬼たちに、呪符の攻撃は|効《き》かなかった。
鬼たちが、どんどん近づいてくる。
チィチィ……!
犬神が、|鋭《するど》い声で鳴く。
「あの鬼たち、緋奈子の|霊《れい》|気《き》を注入されてるって。だから、呪符くらいじゃダメなのよ」
久美子が、犬神の言葉を解説する。
「マズいぜ、智。どうするんだよ」
京介は、|焦《あせ》りはじめた。
鬼は、長い|爪《つめ》の生えた指を、振りかざしている。
あれで引き|裂《さ》かれたら、ひとたまりもないだろう。
智は、胸の前で|印《いん》を結んだ。
「ノウマク・サマンダ・バサラダン・センダマカラシャダ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン!」
流れるような|真《しん》|言《ごん》。
犬神が、鬼たちを|威《い》|嚇《かく》するように、白い|牙《きば》をむきだした。
だが、鬼の動きは、止まらない。
久美子が、後ずさった。
「逃げたほうが……よくない?」
「京介、久美子さんを連れて逃げて。ここは、オレが食い止める」
智が、冷静な声で言った。
だが、|呪《じゅ》|符《ふ》も、|真《しん》|言《ごん》もダメならば、ほかにどんなことができるだろう。
智の|記《き》|憶《おく》が、今すぐ戻らないかぎり。
「京介、これを……」
智が、素早く、京介にルージュを渡してよこす。
「麗子さんが、|命懸《いのちが》けで調べてくれた情報だから……守って、京介」
「わかった。後を……頼むぞ、智」
京介は、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
「行こう、久美子さん」
「でも……智君は? |大丈夫《だいじょうぶ》じゃないでしょ? |式《しき》|神《がみ》、|召喚《しょうかん》できなくなって……」
「ここにいたら、三人ともやられちまう」
京介は、久美子の腕をつかんで、走りだした。
一度、振り返る。
智は、|鬼《おに》たちにとり囲まれて、苦戦していた。
無意味に輝いては、消える呪符。
智の苦しげな顔。
「行かなくていいの、京介君?」
智が、背後から鬼の一撃を受けた。
ゆっくりと、地面に倒れこむ白い姿。
「智……!」
|二《に》|匹《ひき》の鬼が、智の腕をつかみ、両側から体を引き起こす。
智は、意識がないようだった。
(智が……危ないっ!)
思った瞬間、京介のなかで、何かが|弾《はじ》けた。
京介は、勢いよく学ランのポケットに手を突っこんだ。
冷たい金属片を握り、引きだす。
頭上に|掲《かか》げた。
「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》!」
久美子の顔色が、一瞬のうちに、白くなる。
「ダメ……!」
「京介、いけない……っ!」
遠く、智のかすかな声が聞こえたような気がした。
京介の全身が、異様に熱くなった。
弾ける純白の光。
金属片は、一メートルほどもある純白の光の|剣《つるぎ》に変わった。
ぴたりと吸いつくような感触。
京介は、両手のなかのものを見おろした。
「天之尾羽張……頼むぞ」
(|妖獣《ようじゅう》に……なるかもしれない……!)
だが、それ以上、考える|間《ま》もなく、体が勝手に動きはじめた。
智を囲む|鬼《おに》にむかって、走る。
次々に、鬼を|斬《き》って捨てる。
軽々と移動する京介の体。
智が、苦しげに顔を|歪《ゆが》め、地面に|膝《ひざ》をついている。
鬼に攻撃されて、どこか痛めたらしい。
「ダメだ……京介! やめて! 天之尾羽張はダメだ……!」
智の悲痛な声。
ふいに、京介の目の前に、久美子が飛びこんできた。
「京介君! やめて!」
「危ない……!」
天之尾羽張は、京介の手のなかで、ブルッと震えたようだった。
勝手に、久美子にむかって、振り下ろされていく光の|剣《つるぎ》。
(ダメだ! やめろ、天之尾羽張!)
京介は、思わず目を閉じた。
|刹《せつ》|那《な》。
「|禁《きん》!」
誰かが、低い声で|唱《とな》えた。
京介の腕が、ピクリとも動かなくなる。
「あ……ぶね……」
薄く目を開けて、|硬直《こうちょく》した手の先を見る。
あとわずかで、久美子を斬るところだった。
近づきすぎた天之尾羽張が、久美子の髪の先端をチリチリ|焦《こ》がしている。
「京介君……」
大きく見開かれた久美子の|瞳《ひとみ》。
よほど|怖《こわ》かったのだろう。
そのまま、口もきけないでいる。
「ナルミちゃん」
京介の視界に、一人の不良少年が入ってきた。
茶色の髪を、肩までのばしている。
|額《ひたい》には、黄色いバンダナをしていた。
身長は、一七八センチ。
少したれた目、|軟《なん》|派《ぱ》な顔つき。
魅力的なファニーフェイスだ。
中古のジーンズに、オレンジと赤のチェックのネルシャツ。
|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に、ジージャンを|羽《は》|織《お》っている。
|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》。
十八歳だ。|湘南《しょうなん》・|鵠《くげ》|沼《ぬま》高校の三年生。
元JOA所属の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》で、智と京介の共通の友人である。
今は、呪殺はやめて、フリーで|退《たい》|魔《ま》を|請《う》け|負《お》っているという。
「|怪《け》|我《が》せんかったか、お嬢ちゃん? ナルミちゃん、あんたも、もぉ|大丈夫《だいじょうぶ》やさかい」
なだめるような、テノールの声。
京介の動きを止めてくれたのは、勝利らしい。
「勝利君……」
京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として|呟《つぶや》いた。
智が、起きあがってきて、京介の腕をそっと押さえた。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を、指からもぎとってくれる。
「もぉ少し、安全な場所、行こ。な……」
勝利が、なだめるように久美子の肩を|抱《かか》えて、さっさと歩きだす。
*    *
「そろそろ落ち着いたか、|久《く》|美《み》|子《こ》ちゃん?」
|勝《かつ》|利《とし》が、近くで買ってきた|缶《かん》コーヒーを、久美子に手渡す。
勝利も、京都の|地《ち》|霊《れい》|気《き》の|歪《ゆが》みを感じて、調査にやってきたのだという。
「ありがとう」
久美子は、素直に缶コーヒーを受け取った。
ホッとしたように、|頬《ほお》に押しあてている。
「あったかい……」
しばらく放心状態だったのだが、|瞳《ひとみ》に光が戻っている。
その肩に、|緋《ひ》|色《いろ》の犬神がとまっていた。
指定席のような顔をしている。
「わいのおごりや。五本でも、十本でも、好きなだけ飲んでぇな」
勝利は、調子がいい。
|京介《きょうすけ》は、勝利を横目で|睨《にら》んだ。
「俺たちには?」
「ああ……これが、|鷹《たか》|塔《とう》センセのぶんな。朝やから、冷たいもんのほうがええんやろ。ホンマやったら、氷のほぉがよかったんやろけどな」
勝利は、|智《さとる》に、冷えたキリンポストウォーターの|缶《かん》をほうった。
智の好みを、きちんと|把《は》|握《あく》している。
マメな男だ。
勝利の車で、京都駅前から離れた四人である。
|哲《てつ》|学《がく》の|道《みち》にほど近い、|浄光寺《じょうこうじ》。
観光客にはあまり知られていないが、|縁《えん》|切《き》りの寺として、ガイドブックの|片《かた》|隅《すみ》にひっそりと|載《の》っている。
午前八時の|境内《けいだい》である。
時間が早いのと、場所がマイナーなのとで、観光客は、まだ一人もいない。
四人は、|鐘楼《しょうろう》の横に、しゃがみこんでいた。
「どうもありがとう、勝利君」
智が、缶を受け取って、かすかに微笑した。
勝利は、それきり、|明後日《あさって》の方角を見ながら、自分のコーラを飲んでいる。
「なあ、勝利君……」
「なんや、ナルミちゃん?」
「俺のぶんは?」
勝利は、鼻で笑った。
「自分で買いにいったらどうや、ナルミちゃん。|自《じ》|販《はん》|機《き》、すぐそこやで」
挑戦的な|口調《くちょう》。
なぜ、|喧《けん》|嘩《か》を売られるのか、京介にはわからない。
だが、京介は、売られた喧嘩は、とりあえず買わずにはいられない|質《たち》だ。
「このドケチ|野《や》|郎《ろう》」
ボソッと|呟《つぶや》く。
「やかましいわい。サル顔野郎」
「誰がサル顔野郎だよ。この|成《なり》|金《きん》の大阪野郎! 頭に|布《ふ》|巾《きん》巻いてんじゃねーよ!」
「布巾やて? バンダナも知らへんのか。このサール!」
「にゃにおう!」
京介と勝利は、立ちあがって、睨みあった。
智が、はらはらしながら、見守っている。
京介は、緊張して、相手の|隙《すき》をうかがう。
五秒……十秒……。
だが、勝利が、先にプッと吹きだした。
「元気になってきたやん、ナルミちゃん」
ポンと京介の肩を|叩《たた》く。
「さっきまで、死にそぉな顔、しとったで」
「勝利君……」
京介は、ハッとした。
(今の、もしかして、俺を元気づけるために……?)
だが、勝利は、もう京介のことなど忘れたように、久美子のほうをむいている。
「元気だしてや、久美子ちゃん。こん寺はな、|悪《あく》|縁《えん》を切る寺や。|邪《じゃ》|悪《あく》なもんに対する|結《けっ》|界《かい》が張ってあるよって、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》の手のもんは入ってこられへんわ」
「うん……わかるわ」
久美子は、勝利にむかって微笑する。
「ありがとう、勝利君。優しいんだ」
「そぉや。わいは、美人には優しい男なんや」
勝利は、ぬけぬけと言ってみせる。
「美人かなあ、あたし」
「ホンマ、べっぴんやでぇ。それに、久美子ちゃんは、ええ女や。わいは、こぉ見えても、女見る目はあるんやで。……さっき、久美子ちゃんが、ナルミちゃんの|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》ん前に飛びだした時、わいは見てて、胸がキュンとなってもうたわ。強ぉて、かっこよぉて、えらいええ女やぁ思うた。これ、ホンマ」
「やだぁ……」
久美子は、うっすらと|頬《ほお》を|染《そ》める。
そばで見ていて、なんとなく、京介は|面《おも》|白《しろ》くない。
(なんで……この|野《や》|郎《ろう》にばっかり、女がよってくるんだよ……)
べつに、京介は、久美子のことが好きなわけではないのだが。
男としてのプライドの問題だ。
「京介、オレのやつ、一緒に飲もう」
智が、|缶《かん》のプルトップを引きあげながら、|慰《なぐさ》めるように言う。
京介は、もう一度、智の隣にしゃがみこんだ。
無言で、智の手から、キリンポストウォーターを受け取る。
ひんやりと冷たい缶。
初めて、|喉《のど》がカラカラになっているのに気がついた。
*    *
朝の古都は、そろそろ出勤時間を迎えたようだ。
|白《しら》|川《かわ》|通《どお》りを|行《ゆ》き|交《か》う車が、増えてきた。
「で……これが、問題のルージュなんか」
|勝《かつ》|利《とし》が、|京介《きょうすけ》から、シャネルのルージュを受け取った。
ひとしきり、それぞれの情報を交換しあった後である。
「重さが変や……」
手に取ったとたん、勝利は言った。
「え……そうなんですか?」
「すっげぇ……さすが、スケこまし」
|化粧品《けしょうひん》に|縁《えん》のない二人は、なかば|呆《あき》れ、なかば感心して、勝利を見つめた。
よくも、持っただけで、ルージュの重さの違いがわかるものだ。
「貸して、勝利君」
|久《く》|美《み》|子《こ》が、ルージュに手をのばす。
犬神が、久美子の肩から、地面に飛び降りた。
「あたし、どうすればいいのか、わかるような気がする」
犬神は、首をかしげて、久美子の手もとを|眺《なが》めている。
手助けしようか、どうしようか……という顔つきだ。
久美子は、ルージュの底のあたりに|爪《つめ》をたてた。
カツ……!
軽い音がした。
何か小さな|粒《つぶ》のようなものが、地面に落ちて、|転《ころ》がった。
|鉛色《なまりいろ》をしている。
「あ……!」
「セーフ……!」
|智《さとる》が、植えこみに転がりこむ寸前、その粒を押さえた。
チィチィチィチィ……!
犬神が、激しく騒ぎだした。
智の右手に、飛びかかってきて、じゃれつく。
どうやら、鉛色の粒に反応しているらしい。
智は、粒を手のひらの上で、転がしてみる。
「久美子さん、これ、なんです……?」
「マイクロフィルム。……レッドファイルの最終章が入ってる」
打てば響くように、久美子が答えた。
「レッドファイルって?」
「|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に関する|極《ごく》|秘《ひ》文書よ。|時《とき》|田《た》|一《いち》|門《もん》に伝わる古文書を解読したもので、そこから|導《みちび》きだされた、一つの可能性が書いてあるわ……」
久美子は、ふいに、口をつぐんだ。
「変ね。さっきまで、知らなかったのに」
その|瞳《ひとみ》が、犬神を見た。
犬神は、地面にうずくまっていた。
マイクロフィルムが、智の手に渡ったので、安心したようだ。
久美子の|眼《まな》|差《ざ》しが、優しくなる。
久美子は、指先で、犬神の|緋《ひ》|色《いろ》の背中にそっと触れた。
「教えてくれたんだ……。ありがとう、犬神」
チィチィ……。
犬神は、頭をあげ、|自《じ》|慢《まん》げに鳴く。
「|百《もも》|瀬《せ》のあねさんが、ルージュに|細《さい》|工《く》したんやな……」
勝利が、ルージュの底の部分を示した。
さっき見た時は、底に|円《まる》い金色のレーベルが|貼《は》ってあった。
小さな文字で、フランス語が印刷されていた。
だが、今、そのレーベルは破れている。
破れた下に、小さな|空《くう》|洞《どう》があった。
「このなかに、隠してたんだね……。|麗《れい》|子《こ》さん、|一生懸命《いっしょうけんめい》がんばったんだ」
智が、手のひらにのせたマイクロフィルムを、じっと見おろした。
「麗子さんの|想《おも》いが……こもってるね。それから、久美子さんのお姉さんの想いも。二人とも、必死にリレーして、オレに渡してくれた」
智は、静かにマイクロフィルムを握る。
「|無《む》|駄《だ》にはしない。……絶対に」
久美子が、|潤《うる》んだ|瞳《ひとみ》で、それを見つめている。
京介は、勝利に視線をむけた。
「見つかったのはいいとして、これは、どうやって読むもんなんだ、勝利君?」
「情報を読むには、マイクロフィルムリーダーゆうんが必要なんや」
勝利は、コーラの|缶《かん》に手をのばした。
半分くらいあったのを、一気に飲み干した。
「わいの|親《おや》|父《じ》の知り合いが、京都の|洛《らく》|南《なん》大学で、教授やっとる。|大《おお》|原《はら》|昌《まさ》|雄《お》ゆうんやけどな。洛南大学やったら、マイクロフィルムリーダーあるはずや」
「その大原教授に、連絡とれますか」
智が、静かに尋ねた。
「一刻も早く、これを解読しなきゃいけない。できれば、今日の午前中に」
「わいのアドレス帳に、自宅の電話番号、|載《の》ってたはずや」
勝利は、|空《あ》き|缶《かん》を置いて、立ちあがった。
「じゃあ、すみませんけど、そのへんの公衆電話で……」
「いや。どこに|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》の目ぇあるかわからん。わいの車んなかに、|携《けい》|帯《たい》電話あるわ。ちょっと待っててぇな」
勝利は、|大《おお》|股《また》で歩きだそうとした。
|慌《あわ》てたように、智も立ちあがった。
勝利の前にまわりこむ。
「オレも行きます。みんなも、単独行動は避けたほうがいい。危険ですから。緋奈子は、今、全力で、このマイクロフィルムを探しているはず……」
「|鷹《たか》|塔《とう》センセ」
勝利は、いたわるような目で、智を見た。
「あんたが心配せなあかんのは、いつ、どうやって、なくした|記《き》|憶《おく》、取り戻すか……やないんか。はよぉ、天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智に戻って、わいらに|楽《らく》させてんか。百瀬のあねさんかて、そぉ思うてるんちゃう? マイクロフィルムの情報にしても、あんたの|記《き》|憶《おく》が戻ったほぉが、有効に利用できるはずやで」
「…………」
智は、痛いところを|衝《つ》かれたようだった。
目を伏せて、|呟《つぶや》く。
「努力はしますよ……」
「ま、マイクロフィルムリーダーの調達は、まかしときぃ」
勝利は、チラと京介と久美子を見た。
「聞いてのとおり、単独行動は、あかんそうや。……ナルミちゃん、携帯取ってくるあいだ、鷹塔センセ、借りるで。あんたらは、この寺から出るんやないで」
そのまま、智の肩に手をまわして、歩きだした。
見送っている京介は、なんとなく|面《おも》|白《しろ》くない。
*    *
「……あ、十一時頃やったら、|空《あ》きますか? よろしゅうお願いします。……ホンマ、助かりますわ……あ、もちろん|大丈夫《だいじょうぶ》です……ほな、また……」
|勝《かつ》|利《とし》は、|携《けい》|帯《たい》電話を切って、前を|見《み》|据《す》えた。
シグナルが、青に変わる。
ランドクルーザーは、勢いよく飛びだした。
勝利が、運転している。
勝利は、左手で助手席の|久《く》|美《み》|子《こ》に携帯電話をほうってやる。
後部座席には、|京介《きょうすけ》と|智《さとる》がいる。
「十一時から、マイクロフィルムリーダー使わしてくれるそぉや。こっから、|洛《らく》|南《なん》|大《だい》まで直行すれば、九時少し前には着けるで。そやけど、洛南大は|地《ち》|霊《れい》|気《き》が悪いよって、あそこで待つんは感心せんわ。それまで、地霊気のええところに移動して、待ったほぉがお|利《り》|口《こう》や」
「そうですか……」
智がホッとしたような声をだす。
「じゃあ、午前中にこれを解読できますね」
「ああ……そぉやな」
携帯電話を取ってくる……と言って寺を出た勝利は、空を見るなり、|境内《けいだい》に戻ってきた。
|有《う》|無《む》を言わさず、京介と久美子を引っぱりだし、ランドクルーザーに押しこんだ。
久美子を助手席に、京介を後部座席に座らせる。
迷わず、久美子を助手席に座らせるあたり、いかにも勝利らしい。
智は、先に後部座席に座っていた。
「しばらく、追いかけっこや」
勝利が、不敵な|口調《くちょう》で言う。
「荒っぽいドライブになるかもしれんで」
「どういうことだよ……勝利君?」
「|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》の追っ手や」
勝利が、|緊《きん》|迫《ぱく》した口調で言う。
「追っ手?」
京介は、内心、ドキドキしながら、尋ねかえす。
神経が|昂《たか》ぶって、アドレナリンが大量に放出されていた。
(こんなふうに、|面《おも》|白《しろ》いかも……なんて思っちゃいけねーのに……)
ルージュから出てきたマイクロフィルム。
黒い悪の超高層ビル。
そのうえ、カーチェイス。
(悪い……智。俺、いっぺん、こういうの、やってみたかったんだ……)
|怯《おび》えてもいいはずなのに、血が騒いで、わくわくしてしまう。
京介は、窓の外を|眺《なが》めた。
流れ去る古都の|街《まち》|並《な》み。
|怪《あや》しい車も、人も見えない。
「追っ手って、どこだよ?」
「空を見て、京介」
智が、早口に言う。
京介は、言われたとおり、空を見あげた。
夕暮れでもないのに、数十羽の|烏《からす》の群れが、飛びまわっていた。
あれだけの数がいると、なんだか|不《ぶ》|気《き》|味《み》だ。
「烏がいるだけだぜ。……追っ手は、どこにいるんだよ?」
「そやから、その烏や」
京介は、|拍子抜《ひょうしぬ》けしてしまった。
「追っ手っていうから、ヘリかなんかかと思ったぜ。ただの烏じゃねーか」
「アホ、烏かて、目はあるで。見たもんを、緋奈子に中継することもできる。あれが、そんまま緋奈子の目や思うてみぃ」
「緋奈子の目……あれ、ぜんぶ?」
(ちょっと|嫌《いや》かも……)
京介は、|烏《からす》から見えないように、少しシートの奥につめる。
「|怖《こわ》いじゃねーかよ」
「当たり前や。怖いんや。怖い状況なんやで。何ボーッとしとるん? ……あ、やばいわ」
勝利は、急ブレーキを踏む。
ランドクルーザーが、大きく揺れた。
久美子は、必死に手近なものに、しがみついていた。
ひどく体調が悪そうだ。
|浄光寺《じょうこうじ》にいた時は、そうでもなかったのだが、急に顔色が悪くなってきた。
もっとも、こんな運転では、誰だってそうなるかもしれない。
「|下手《へ た》くそ! どこ見て運転してるんだよ!」
京介は、前の座席に鼻をぶつけそうになって、|怒《ど》|鳴《な》った。
「悪かったな。緋奈子の|呪《じゅ》|陣《じん》があったんや」
「呪陣?」
「危ないとこやった。あれに|触《さわ》るだけで、車ごと大爆発や」
「ちょっと、そんなに危ないのか、今の状況って」
「楽しいやろ、ナルミちゃん?」
勝利は、楽しげに乱暴な運転をつづける。
「どこが楽しいんだよ!」
「危険になればなるほど、わいは、生きとるなぁーゆう実感あるんや」
|酔《よ》っぱらったように、ふらふら左右に揺れる車体。
「まっすぐ走れねーのか。酔ったらどうするんだよ」
京介は、ガードレールすれすれに曲がるカーブに、首をすくめる。
「無理な注文やな」
周囲の車から、クラクションが鳴らされる。
それでも、なんとか事故を起こさずにいるのは、勝利のドライビングテクニックが優秀だからだろう。
「運転しとるあいだは、ナルミちゃんの命は、わいの手んなかや」
ククク……と笑う声。
「ちょっと、勝利君!」
「わいはなあ……ステアリング握ると、ミハエル・シューマッハの|生《い》き|霊《りょう》が降りてくるんや。もぉ走りとぉーて、走りとぉーて、気ぃ狂いそぉになるんや」
勝利は、|F《エフ》|1《ワン》レーサーの名前を口にだす。
「わいの前を走るもんは、誰一人として許さへんでぇ」
「やめろよ、勝利君」
「あ……!」
智の小さな声。
バン……ッ!
いきなり、フロントガラスに、黒いものが|叩《たた》きつけられた。
|烏《からす》だ。
そのまま、羽を広げて、へばりついている。
「うわ……!」
キキキキキキキーッ!
タイヤが、悲鳴をあげる。
|蛇《だ》|行《こう》するランドクルーザー。
久美子が、不安げに勝利を見た。
智が、京介の腕にしがみついてきた。
「京介……!」
「|大丈夫《だいじょうぶ》か、智」
智は、遊園地のジェットコースターの|類《たぐい》が|苦《にが》|手《て》だ。
京介が、一度だけ|後《こう》|楽《らく》|園《えん》遊園地で、|強《ごう》|引《いん》にジェットコースターに乗せた時など、その後、半日、口をきいてくれなかったものだ。
どうやら、人工的なスピードには|免《めん》|疫《えき》がないらしい。
「平気。ごめんね……」
智は、京介から手を放した。|気丈《きじょう》に、まっすぐ座りなおす。
|一生懸命《いっしょうけんめい》、がまんしている。
いじらしい横顔だ。
「勝利君、烏、とれねーのか?」
烏が、頭を動かした。
|闇《やみ》|色《いろ》の目玉で、ギロリと車内をのぞきこんだ。
京介と目があった。
「ちょっと、こっち見るなよ……おい!」
気持ちの悪い目だ。
烏は、フロントガラスに張りついたまま、|嘴《くちばし》を開けていた。
真っ赤な|舌《した》が見えた。
(笑ってる……?)
京介の|背《せ》|筋《すじ》が、ゾッと寒くなった。
「どこがただの烏や、ナルミちゃん? え? これのどこが、ただの烏に見えるん?」
勝利が、|意《い》|地《じ》|悪《わる》い|口調《くちょう》で尋ねる。
「うるせー! なんとかしろよ、勝利君!」
「なんとかしてください、やろ、ナルミちゃん」
「なんだとぉ!」
京介は、この|野《や》|郎《ろう》……と思いながら、叫びかえす。
「なんとかできるのか、てめー!? よーし、お願いしたら、なんとかしてくれるんだな!?」
「聞こえへんなあ」
勝利は、笑いながら、ワイパーを動かした。
この程度のことで騒いだり、悲鳴をあげるタイプではない。
その余裕が、頼もしいやら、腹だたしいやらで、京介は、勝利の背中をどついてやりたくなった。
「こないなもん、ワイパーで振り落としたるわ……おやぁ……?」
だが、|烏《からす》はニカワでつけたように、ガラスに張りついたまま、離れない。
「とれないぞ……おい」
「しつっこい烏や……! わいの|綺《き》|麗《れい》なランドクルーザーに、こないな汚いもん、つけておきとぉないんやけどなあ……」
「勝利君の車には、お似合いの|装飾《そうしょく》だと思う」
「やかましいわ」
バン……ッ!
また、別の烏がフロントガラスにぶつかって、張りついた。
左右の窓の横にも、烏が飛んでいる。
なかの様子をうかがっているのだ。
「前が見えへん……!」
勝利のうめくような声。
「|鷹《たか》|塔《とう》センセ、なんとかしてんか。わいは、運転で手いっぱいや」
「やってみます」
智が、真剣な声で答える。
胸の前で|印《いん》を結んだ。
「オン・シュチリ・キャラハ・ウン・ケン・ソワカ!」
|真《しん》|言《ごん》が響きわたる。
パチッ……!
白い火花が|弾《はじ》けた。
周囲の烏が、すべて黒い|呪《じゅ》|符《ふ》に変わった。
呪符は、あっという|間《ま》に燃えあがり、ガラスからはがれて、飛ばされていく。
「すげぇ……! やったじゃん、智!」
京介は、ホッとした。
智は、シートに身を沈めた。
「智、えらいぞ。よくやったな」
「うん。でも、攻撃するのって、オレ、本当は好きじゃない……」
智は、そっと目を閉じる。
「オレの|霊力《れいりょく》も、誰かを守ったり、救ったりするだけならいいのにね……」
|綺《き》|麗《れい》な顔は、どこか悲しげだ。
「オレは……誰も傷つけたくないよ。たとえ、オレに攻撃してくる相手でもね……」
「必要に|迫《せま》られとるんや。戦わな、負けるだけや。まず、敵を倒さんと、守ることかてできへんわ」
勝利が、ポツリと言う。
「|妙《みょう》な|仏心《ほとけごころ》ださんでや、鷹塔センセ」
「わかってます」
智は、目を開いた。
決意を秘めた|眼《まな》|差《ざ》し。
「戦うしかないから、オレは、京都に来た。……忘れてませんよ」
ランドクルーザーは、|洛《らく》|北《ほく》の山並みを真正面に見て、走っている。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》は、背後にある。
車は、どうも北のほうにむかっているようだ。
洛南大学……というからには、南にあるはずなのだが、そうすると逆方向だ。
「勝利君、洛南大学、行くんじゃなかったのか?」
「あっちは、今は近づけんわ。|地《ち》|霊《れい》|気《き》が悪すぎる。追っ手の数もハンパやないで」
「どんどん、反対側へ行ってるみたいだけど……いいのか?」
「もぉ、京都んなか、安全な場所はほとんどあらへん。あんたらのこと考えたら、|昭陽館《しょうようかん》に行くんが、いちばんや。洛北の……|鞍《くら》|馬《ま》のほぉにある旅館やけどな。元JOA関係者が経営しとる宿や。霊的ガード、|完《かん》|璧《ぺき》やさかい、そこに逃げこむんや」
「昭陽館……?」
「オレ、聞いたことがある。そこなら、たぶん、|大丈夫《だいじょうぶ》だと思うよ、京介」
智が、落ち着いた声で言う。
「大丈夫なのか……」
「うん。昭陽というのは、|癸《き》……つまり、|水《みず》の|弟《と》の|異名《いみょう》なんだ。|壬《じん》、|水《みず》の|兄《え》が、|剛強《ごうきょう》・|動《どう》の水を意味するのに対して、水の弟は、|柔和《にゅうわ》・|静《せい》の水を意味する。昭陽館、すなわち静の水の|館《やかた》って意味だ」
「は……?」
「|鞍《くら》|馬《ま》は、京都の北。北は|五行《ごぎょう》によれば、|水《すい》|気《き》にあたる。また、鞍馬には鞍馬川が流れており、これも水性。緋奈子と、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を|主《しゅ》|神《しん》とする火炎の真理教は、言うまでもなく、火性。そして、五行|相《そう》|剋《こく》によれば、|水《すい》|剋《こく》|火《か》。火性を破るものは、水性というわけ。ね、|昭陽館《しょうようかん》は、|陰陽道《おんみょうどう》の|呪《じゅ》|法《ほう》で守られてるから、安全なんだよ」
「……智、た、頼むから、日本語で話してくれよ」
京介は、頭を|抱《かか》えた。
意味不明の言葉が、次から次へと出てくる。
(何言ってるんだか、わかんねー)
「わからないかな、京介」
智は、困ったような顔をして、京介を見る。
「陰陽五行思想で、そういうのがあってね。昭陽館って旅館は、緋奈子の力が弱まる方角にあるんだ。緋奈子は、火の性質で、その旅館は水の性質。水は、火より強いから……」
「そういうもんか?」
「うん。もっとくわしく言うとね、宇宙の|万《ばん》|物《ぶつ》は、すべて|陰《いん》と|陽《よう》の二つの気と、水・金・火・木・土の五行の働きに支配されてて……」
「わかった。とにかく、その旅館は安全なんだな」
京介は、理解しようとする努力を捨てた。
学校の教室で聞いても覚えられそうもないのに、こんなバタバタした状況では、それこそ何がなんだかわからなくなる。
「安全ならいいんだ」
その時、久美子が、小さくうめいた。
「う……」
「おい……|大丈夫《だいじょうぶ》か、久美子さん。|酔《よ》った?」
「ううん……酔ったんじゃないの。平気……心配しないで……」
久美子は、振り返って、微笑しようとした。
だが、その顔色が、ひどく悪い。
どうも、ただの車酔いではないようだ。
「勝利君、ちょっと車、止めてあげてよ。久美子さんの様子が変だぜ」
後ろから、勝利の肩をつかんで、小さく揺さぶる。
「すっげぇ気分悪そうだ。一瞬でいい。止めてくれ!」
「今は、止まれへんのや。悪いな……久美子ちゃん、もぉ少し、がんばってや」
勝利は、きっぱり言う。
「でも、勝利君……」
「今、止まるわけにはいかんのや。外、見てみぃ、ナルミちゃん。このへんの道歩いとる人間は、ほとんど緋奈子の手先や」
「緋奈子の手先?」
「そぉや」
京介は、言われたほうを見る。
修学旅行らしい一団が、歩道にならんでいた。
全員、学ランを着ている。
ちょうど車は、有名な寺院のわきを走っていた。
学生たちは、どうやら、ここに入ろうとしているらしい。
カメラを片手に、ふざけあったり、笑いあったりしている。
「ただの修学旅行じゃねーの?」
「それが、|素人《しろうと》の浅ましさや。このへん歩いとる黒い服のもんは、みんな緋奈子の手先やねん」
言われてみれば、黒い服の人間が多い。
しかし、京介には、勝利の言う『手先』は、ただの観光客にしか見えない。
(本当に敵なのか? 考えすぎじゃねぇのか。俺だって、学ラン、黒だぞ……)
京介は、自分の格好を見おろして、ひそかに思う。
「アホ。わいらが持っとるんは、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の|極《ごく》|秘《ひ》文書やで。緋奈子は、このマイクロフィルム取り返すために、全戦力投入してきてるはずや。|序《じょ》|盤《ばん》|戦《せん》やないんやで。わいら、敵に追いつめられとるんや! 空も地上も、敵でいっぱいや!」
「京介、久美子さんは、犬神に|憑依《ひょうい》されてるから、その疲れが出たんだと思う」
智が、困ったように言う。
「犬神に憑依された疲れ……?」
「久美子さんは、|霊《れい》能力者じゃないからね。長時間、犬神の異質な霊気にさらされて、体に無理がきてるんだ」
「それ、なんとかできねーのか?」
「無理だよ、今は」
智も、つらそうに|呟《つぶや》く。
「……久美子さん、安全な場所に着くまで、がんばってください。オレも、サポートしますから」
久美子は、助手席で小さくうなずく。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ……」
「でも、|脂汗《あぶらあせ》流して、苦しそうだ! なんとかしてくれよ、智!」
京介は、久美子を気づかいながら、ほとんど|怒《ど》|鳴《な》っていた。
「おまえ、|霊力《れいりょく》あるんだろ! なあ……」
「京介、落ち着いて。久美子さん、苦しいけれど、死ぬようなことはないから」
智が、京介の腕をつかむ。
「でも、こんなに苦しんでるんだぞ。車止めたら、緋奈子につかまるかもしんねーけど、その前に、|心《しん》|臓《ぞう》|発《ほっ》|作《さ》とか起こしたら、どうすんだよ! こんなに苦しそうなのに……!」
久美子は、シートにうずくまって、目を閉じている。
息が荒い。
京介は、見ていられなくて、顔をそむけた。
ふいに、その右の肩が、少し重くなった。
「|鳴《なる》|海《み》京介よぉ、がたがた騒ぐんじゃねーよ。俺さまが、久美子を|楽《らく》にするやり方、教えてやらぁ」
|一《いっ》|拍《ぱく》遅れて、|小《こ》|生《なま》|意《い》|気《き》な少年のような声が、京介の右の耳もとでした。
ボーイソプラノだ。
「え……?」
見ると、右肩に犬神がいた。
|緋《ひ》|色《いろ》の|尻尾《し っ ぽ》をパタパタ振っている。
「鷹塔智、鳴海京介の手を握れ。それで、鳴海京介は、久美子の肩かどっかに|触《さわ》れ。いいか、早くしろよ。楽にしてやりてーんだろ」
|霊獣《れいじゅう》の口が動くたび、ボーイソプラノの声が聞こえてくる。
京介は、十秒ほど、パニック状態になる。
(|嘘《うそ》だろ……!?)
「しゃべれるのか、てめー! だったら、もっと早くしゃべれよ!」
|正気《しょうき》に戻ったとたん、むらむらと|怒《いか》りが|湧《わ》いてきた。
「てめー、わざと黙ってやがったな!」
「どうして、今までしゃべらなかったの、犬神?」
智が、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに、犬神を見つめる。
「|麗《れい》|子《こ》が人前では黙ってろと言うから、黙っててやったんだ。でも、おまえらが困ってるみたいだしよぉ。しょーがねえなあ。ケッ」
「そう……」
智の視線が、京介の顔に移動する。
智は、京介を見つめる。
何か決心したようだ。
「京介、手を貸して……」
「え……なんだよ」
智の指が、するりと京介の手のなかに入ってくる。
|温《あたた》かな指。
指をからめるようにして、握る。
「反対の手で、久美子さんの背中に|触《さわ》って」
京介は|斜《なな》め前に手をのばして、言われたとおりにする。
「なんなんだよ……これは」
「オレが、京介の体を通して、久美子さんに少し|霊《れい》|気《き》を送ってみる。これで、|楽《らく》になるといいんだけど」
そういうことか……と、京介は少しがっかりする。
「それでいいんだよ。ケッ。さっさとやれよ」
犬神が、|威《い》|張《ば》ったような目つきで、京介と智を|眺《なが》めている。
「霊気を送るって、そんなことできるのか……?」
「誰でも持ってる力なんだ。……って、これ、実は、本の受け売りだけどね。痛いところを手で押さえてると、痛くなくなったりすることってない? ああいう力がみんなにあるなら、オレにも|治《なお》せるかと思って」
「俺の体を通すのは、何か意味あるのか? ……この格好、ちょっとつらいんだけど……」
京介は、少し前のめりになって、斜めに手をのばしている。
犬神がバカにしたように、小さく笑った。
「久美子は霊力レベルが落ちてるんだ。直接、鷹塔智の強い霊気浴びたら、かえって疲れちまう。鳴海京介の体を通したくらいで、ちょうどいいんだ。なんで、そんなこともわかんねーんだか」
犬神は、智の左肩に移動する。
そこで丸くなった。
「いくよ、京介。目、閉じて。霊気が、久美子さんに流れるように、念じて」
智が、優しい声でささやく。
「うん……」
京介は、緊張した。
(痛かったらどうしよう……)
すぐに、智の霊気が、京介の体のなかに流れこんできた。
ピリピリするものが、腕を伝って、久美子の背中に流れこんでいく。
だが、痛いほどではない。
そのうち、体がほかほかと温かくなってきた。
こっそり薄目を開けて|盗《ぬす》み見ると、智は、目を閉じていた。
少し、うつむいて、キュッと結んだ|唇《くちびる》。
|切《せつ》なげによせた|眉《まゆ》。
こんな時だというのに、京介の胸の|鼓《こ》|動《どう》が速くなる。
(|綺《き》|麗《れい》だ……)
その心の声が聞こえたように、智が目を開いた。
「ダメだよ、京介、雑念入れちゃ」
「え……わかるんだ?」
京介は、思わぬことに、うろたえた。
「ごめん……」
「ちゃんと念じて」
「うん……」
しばらくやっていると、久美子の呼吸は、だいぶ|楽《らく》になったようだった。
京介は、ホッとした。
(よかった……)
苦しんでいる人を見ているだけで、自分もつらくなる。
智は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なくらい安らかな顔をしていた。
いるべき場所に帰ってきたような表情だ。
「少し眠るといいと思いますよ。疲れてるし、|霊《れい》|気《き》が落ち着くまで、時間がかかるし」
「本当にありがとう……」
久美子が、クリクリした|瞳《ひとみ》で、智と京介を見つめ、頭を下げた。
「|治《なお》してくれようとする二人の心、感じたわ。……うれしかった」
京介は、切ないような気分になった。
「俺は、ほとんど何もやってねーよ。久美子さんを治したのは、智の力だ……」
「そぉやないで、ナルミちゃん」
勝利がそっと言う。
「苦しんどるんを、ほっとけへん気持ちが、大事なんや。久美子ちゃんを楽にしてやりたい、なんとかしてやりたい思ぉたやろ。……そぉゆう気持ちが、人の霊力なんや。霊力ゆうんは、ほとんど人の|想《おも》いの力なんや。ナルミちゃんは、ちゃんと、そぉゆう力を使っとったで」
「人の想いの力……?」
「そぉや。苦しむ人間を、楽にしてやりたいゆう想いが強い人間ほど、霊力が強ぉなる。心ん底からの悪人には、強い霊力は持てへんのや。本来は、な」
「そういうもんか……」
京介には、説明されてもよくわからなかった。
ただ、自分にも、何かができたらしいと、おぼろげに感じていた。
(そう悪い気分じゃねーな……)
*    *
「なんだよぉ、このまずいメシはぁ。ペペペッ! 食えねーよ、こんなもんは」
犬神は、|缶《かん》づめのキャットフードを|吐《は》きだした。
「汚ねーなあ。吐くなら、外で吐けよ……」
|京介《きょうすけ》は、シートの上で、体をずらす。
キャットフードのかけらが、学ランの|膝《ひざ》に落ちた。
缶づめを持っていた|智《さとる》は、困ったように、犬神を見た。
「そんなにおいしくない?」
|久《く》|美《み》|子《こ》は、助手席で|熟睡《じゅくすい》している。
名前を呼んでも、揺すぶっても起きないような深い眠りだ。
ランドクルーザーは、山道を登っていた。
道の両側には、山菜ソバの店だの、『フィルムあります』という|看《かん》|板《ばん》のかかった|土産《み や げ》|物《もの》|店《てん》だのが、ポツリポツリとあるだけだ。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》も、もう見えない。
走りはじめて、二時間ほどたったろうか。
四十分ほど前、|道《みち》|端《ばた》のコンビニで止まって、急いで食料を仕入れた。
ついでに、犬神のために、キャットフードを買って、あたえてみたのだが――。
犬神の反応からすると、どうやら、お気に召さなかったようだ。
「俺さまは、|松阪牛《まつざかぎゅう》のステーキが食いたいぞっ! 宿に着いたら、すぐ用意しろよ!」
犬神は、小さな体で、|威《い》|張《ば》り散らす。
「てめー、犬神のくせに、松阪牛だとぉ?」
京介は、犬神の|尻尾《し っ ぽ》をつかんで、|逆《さか》さまにぶらさげる。
「てめーのせいで、久美子さんが苦しんだんだぞ。ちったぁ反省しろ」
「俺さまがいなかったら、久美子は、死んでたぞ。俺さまは、えらい! 俺さまは、すごい!」
犬神は、ジタバタ暴れ、京介の指に|噛《か》みついた。
「いてっ!」
「俺さまは、毎日、|麗《れい》|子《こ》に松阪牛のステーキ、食わしてもらってたんだぞ! 当然の権利だぞ!」
「なんだとぉ? |生《なま》|意《い》|気《き》な犬神だな……」
京介の手から|逃《のが》れた犬神は、智のホワイトジーンズの|膝《ひざ》に降りる。
犬神の、真っ黒なビーズ玉のような|瞳《ひとみ》が、京介を見あげた。
「俺さまは、久美子を守ってやってるんだ。その代わりに、|霊《れい》|気《き》をもらう。麗子がいいって言うまで、守るぞ」
「このままだったら、久美子さんが、|衰弱《すいじゃく》しちまうだろーが。てめー、ちゃんと考えて、|憑《つ》いてんだろーな?」
「考えて憑く犬神が、どっこの世界にいるんだよぉ。ケッ」
犬神は、後ろ脚で耳の後ろをかいている。
「なんだとぉ、てめー!」
京介は、思わず熱くなる。
「ナルミちゃん、犬神と対等に|喧《けん》|嘩《か》せんといてや……ホンマにもう……」
|勝《かつ》|利《とし》が、|呆《あき》れたように|呟《つぶや》く。
「わいは、|情《なさ》けないで」
「犬神」
智が、|缶《かん》づめを足もとに置き、犬神を手のひらにのせた。
「一瞬だけでも、久美子さんから離れてくれないかな? それで、ずいぶん|楽《らく》になるはずなんだけど……」
「ダメだ。俺さまは、久美子にとり憑いてるんだからな。麗子が命令するまで、離れないぞ」
犬神は、|威《い》|嚇《かく》するように、|尻尾《し っ ぽ》をピンと持ちあげた。
「絶対に離れないぞ」
智は、ため息をついた。
「どうしてもダメなの、犬神?」
「ダメだ」
「そう……」
智と京介は、顔を見あわせた。
「わがままな犬神だぜ」
「憑きものなんて、こんなもんだよ、京介」
「しょーがねえな。麗子さんを早く助けねーと……」
ランドクルーザーが、ガクンと揺れる。
京介は、何げなく、窓の外を見た。
(え……?)
全身が、|総《そう》|毛《け》|立《だ》つ。
|何《なん》|匹《びき》もの黒い|獣《けもの》が、ランドクルーザーを追って、走ってくる。
犬に似ている。
ただし、目が真っ赤に燃えていて、|尻尾《し っ ぽ》が三本ある犬だ。
こちらは、山道で、時速八十キロは出している。
それなのに、黒い|獣《けもの》は、まったく遅れをみせない。
「勝利君……後ろ……!」
「ああ、知っとるわ」
勝利は、低く|呟《つぶや》く。
「三十分前から、近づいてきよった」
「そんな前から……?」
京介は、思わず身震いした。
気のせいか、どんどん、あたりが暗くなってきたようだ。
|曇《くも》ってきたわけではない。地上に届く太陽光線そのものが減ってきているのだ。
|黄昏《たそがれ》の色が、しだいに濃くなってくる。
ランドクルーザーは、ヘッドライトを|点《つ》けた。
(おかしい……まだ、午前中のはずだぞ……)
京介は、腕時計の針が動いているのを、確かめる。
午前十時三十三分。
|昨日《き の う》、一一七番に電話して、秒単位まで時刻をあわせたばかりだ。
そんなに、狂っているわけがない。
「|昭陽館《しょうようかん》まで、あとどのくらいあるんだ?」
「もぉ少しや」
「もう少し、もう少しって、もう二時間だぜ」
「同じところを、グルグルまわらされとるよぉなんや。そやけど、|突《とっ》|破《ぱ》|口《こう》はあるはずや。安心してや」
勝利は、落ち着いた声で言う。
京介の心臓が、|凍《こお》りそうになる。
「マジかよ……」
ステアリングを握る勝利の背が、急に緊張したようだった。
「あ……!」
低い声。
狭い道の真正面に、黒い|紐《ひも》が一本張ってあった。
周囲が暗いのに、そこだけ、ヘッドライトがあたって、くっきりと浮きだして見える。
紐には、|緋《ひ》|色《いろ》の|短《たん》|冊《ざく》が一枚結んであった。
風もないのに、短冊はヒラヒラ揺れている。
ランドクルーザーは、急ブレーキをかけて、止まる。
「なんだ……あれ!?」
「|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》の|式《しき》だぞ、|鳴《なる》|海《み》京介」
犬神が、京介の問いに答える。
すでに、智の手から移動して、久美子の肩に座っている。
「しき……って、なんだ、それは!?」
「|呪《じゅ》|咀《そ》のことだ。ケッ、そんなことも知らないのか」
「緋奈子の呪咀……だとぉ?」
「グルグルまわらされてるのは、あれのせいだぞ。人間は、不便だな。ようやく見えたのか」
犬神は、バカにしたように、チィチィ鳴いた。
だが、そう言われた人間たちは、もうそれどころではなかった。
「|強行突破《きょうこうとっぱ》や。それしかあらへん。まわり道する時間なんかないで」
「呪咀は、オレが打ち|砕《くだ》きます。勝利君は、運転、お願いします」
「わかった。頼むで、|鷹《たか》|塔《とう》センセ!」
|緊《きん》|迫《ぱく》した会話が、|交《か》わされる。
(|大丈夫《だいじょうぶ》なのか……?)
京介は内心、気が気ではない。
智が、白いセーターの胸の前で、|印《いん》を結ぶ。
ふわ……と、|霊《れい》|気《き》が風のように広がった。
「|高《たか》|天《まの》|原《はら》に|神《かむ》|留《づま》り|坐《ま》す |神漏岐神漏美之命以《かむろぎかむろみのみことも》ちて |皇御祖神伊邪那岐命《すめみおやかむいざなぎのみこと》 |筑《つく》|紫《し》|日《ひ》|向《むか》の|橘《たちばな》の|小戸之阿波岐原《おどのあわぎはら》に|身《み》|滌《そぎ》|祓《はら》ひ|給《たま》う|時《とき》に|生《あれ》|坐《ませ》る |祓戸之大神等《はらえどのおおかみたち》……」
|凜《りん》とした声が、|祭《さい》|文《もん》を|唱《とな》えはじめた。
(智……!)
「京介、|怯《おび》えないで。|大丈夫《だいじょうぶ》だから」
|陰陽師《おんみょうじ》の強い霊気が、京介を包みこんだ。
京介の不安も、恐怖も、瞬時に消えた。
「オレがそばにいる」
清らかな純白の霊光が、車内いっぱいに広がった。
その光は、|闇《やみ》を圧して、強く輝きわたる。
ス……と、智の霊体が、肉体を抜けだしたのが見えた。
「智……!」
光り輝く白い陰陽師は、金色の|錫杖《しゃくじょう》を|掲《かか》げた。
|不空羂索観音《ふくうけんじゃくかんのん》の錫杖だ。
智の霊体が先に立って、緋奈子の|呪《じゅ》|咀《そ》にむかっていく。
|菩《ぼ》|薩《さつ》の|慈《じ》|悲《ひ》の心に守られて。
(智……)
智の霊体が、肩ごしに振り返って、微笑したようだった。
一緒に来い……というように、うなずいた。
「行くで、みんな! |覚《かく》|悟《ご》はええな!」
京介は、|衝撃《しょうげき》に備えて、身を硬くした。
そのまま、四人を乗せた車は、緋奈子の|式《しき》に突っこんでいく。
京介の目の前が、真っ白になった。意識が、一瞬、とぎれる。
ガクン……と、ランドクルーザーが揺れた。
京介は、目を見開き、何が起こったのか、周囲を見まわす。
「あ……」
明るかった。
午前の陽光が、あたりの木々を照らしだしている。
さっきまでの暗闇が、|嘘《うそ》のようだ。
ランドクルーザーのずっと後ろに、黒い|獣《けもの》たちが見えた。
どんどん、互いの距離が開いていく。
「あ……どうなったんだ……?」
「|突《とっ》|破《ぱ》したぞ」
犬神が、教えてくれた。
「そうか……!」
京介は、ホッと息をついた。
「やったか……!」
「京介ぇ……」
左横で、智の声がした。
ハッとして見ると、子供のように無防備な|瞳《ひとみ》が、京介を見つめかえす。
(|霊《れい》|体《たい》、戻ってきたのか……)
「眠いよう……京介ぇ……」
智は、甘えるように、京介の肩に頭をもたせかけてきた。
霊力を|消耗《しょうもう》しすぎたらしい。
一時的に、幼児のような状態になっている。
「ん……京介ぇ」
(やばい……)
「寝るな、智! おい、まだ安全になってねーぞ! 智!」
「そばにいてね」
智は、|微《ほほ》|笑《え》んで、シートに沈みこんだ。
寝息が聞こえてくる。
「おい、智! ちょっと!」
「かまへん。寝かしときぃ」
勝利が、ぶっきらぼうに言う。
「今の鷹塔智には、これが霊力の限界や。|式《しき》|神《がみ》なしで|戦《たたこ》ぉて、疲れとるんや。休ませといてやりぃ」
勝利は、数秒間黙りこみ、そっとつけくわえた。
「……そぉでなくても、鷹塔センセ、最近、あんまり寝とらんのや。戻らへん|記《き》|憶《おく》、必死に呼び戻そうとしよって、専門書、読みあさって……大変だったんや」
「なんで、そんなこと知ってるんだよ」
(俺が知らないのに……)
京介は、かすかな|嫉《しっ》|妬《と》を感じる。
「ナルミちゃんが入院しとるあいだ、わいが、毎週JOA図書館、一緒に行って、勉強につきおーてやったんや」
「え……マジ?」
ますます、|面《おも》|白《しろ》くない。
(こいつ、俺の見舞いには、あんまり来なかったくせに、智とは毎週会ってたのか……)
「ええか、ナルミちゃん、さっき鷹塔センセが話しとった|五行相剋《ごぎょうそうこく》やとか、|昭陽《しょうよう》の意味やとか、あれは|記《き》|憶《おく》が戻ったんやないで。あれは、今の鷹塔センセが、勉強したんや。ゼロから始めて、きっちり頭に|叩《たた》きこんだんや」
「え……? そうなのか……」
「そぉや。もともと知っとったことやさかい、理解は早いし、覚えるのも早いんやけどな」
「どうして、智、俺にその話、してくれなかったんだろ……」
京介は、少しムッとしている。
「ナルミちゃんを、心配させとぉなかったんちゃう?」
「いっぺんだって、そんな話、しなかったぞ」
勝利は、ため息をついたようだった。
「たぶん、一人で考えとったんや……鷹塔センセはな」
「一人で……?」
「そぉや。今年の夏は、|鎌《かま》|倉《くら》が|壊《かい》|滅《めつ》して、ぎょうさん人が死んだわ。鳴海京介も、|妖獣《ようじゅう》になってしもぉた。……そやから、鷹塔センセなりに、考えたと思うんや」
勝利は、少し黙りこんだ。
「鳴海京介が入院して、そばにおらん二か月のあいだ、ずっと考えとったんちゃうやろか……。自分が、どないしたら、強ぉなれるか。どないしたら、|他人《ひ と》の幸福を守れるか……」
短い沈黙があった。
不良少年は、ジージャンのポケットから、マルボロを取り出す。
慣れた手つきで火をつけ、大きく煙を吸いこんだ。
|気《け》|怠《だる》げに立ち上る|紫《し》|煙《えん》。
窓の外を流れ去る青空。
やがて、勝利は、|煙草《た ば こ》を|灰《はい》|皿《ざら》に押しつけた。窓を全開して、こもった空気を追いはらう。
吹きこんでくる冷たい風。
(気持ちいいな……)
京介は、少し目を細めた。
こんな|切《せっ》|羽《ぱ》つまった状況下でも、そう思ってしまう自分が、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だった。
隣で眠る智は、目を|覚《さ》まさない。
肩まである勝利の長髪が、京介の目の前で揺れた。
勝利が、窓を閉めた。
ふう……とため息をつく。
バックミラーごしに、|真《しん》|摯《し》な勝利の|瞳《ひとみ》が、京介を見た。
「一つだけ言わしてや、ナルミちゃん。鷹塔センセは、普通の人間やないで。わかっとるな?」
「わかってる……と思う」
「鷹塔センセは、恋愛やとか、そぉゆう対象やないんや、本来はな……」
「ああ……」
「こん|綺《き》|麗《れい》な|陰陽師《おんみょうじ》はな、|他人《ひ と》の苦痛やわらげるんで、精いっぱいのはずや。個人であって、個人やないんや。一個人として、他人に恋する自由なんちゅうのはな、全然あらへんのや。本来は……やで。そこんとこ、わかっててもらわなあかんわ」
勝利は、|哀《あわ》れむような目で京介を見る。
「なんでぇ……鷹塔センセやったんや? 男や、ゆうのは、とりあえず置いといてな。相手は、千年に一人の天才陰陽師やで。|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》、倒さなあかんっちゅう使命もあるわ。普通の女、恋人にするんとは違うやろ。一緒に映画|観《み》て、食事して、ホテル行って、そのうち親に紹介してぇ……みたいなつきあい、できへんのやで。そこんとこ、ホンマにわかっとるん?」
「そういう智だからだよ……」
京介は、まっすぐ勝利の目を見返して、言う。
「こいつは、何もかも自分一人で|抱《かか》えこんで、一人で遠いところに走っていこうとしてる……。それもこれも、自分の楽しみとか夢のためじゃなくて、他人を守るためにだぜ。ぜんぶ、他人のためだよ。こいつの幸せとか未来とか夢は、どこにあるんだよ……。こいつは、何もかも捨てて、この国を守ろうとしてるけど、じゃあ、誰がこいつに|報《むく》いてやれるんだ。誰がこいつを守って、寒くないように暖めてやるんだ。……かわいそうじゃないか。智が、あまりにもかわいそうだよ!」
「ナルミちゃん、あんた、|勘《かん》|違《ちが》いしとるわ。鷹塔センセにとっては、何もかも捨てて、走ってくんが楽しいんやわ。それが生きがいなんや。この国を守るゆうのが、鷹塔センセの夢なんや。この男は、そう生まれついたんや」
「そんなの|嘘《うそ》だ! 誰だって、一人で遠くに走っていきたいもんか!」
「声が大きいで。……世の中の誰もかれもが、あんたみたいに弱虫やと思わんことや、鳴海京介」
「俺は弱虫じゃない。……智は、陰陽師である前に、人間だろ。人間なら、誰だって一人じゃ生きられない」
「ナルミちゃん……」
「俺が、智を幸せにしてみせる。一人の人間として」
京介は、勝利の視線をはねつけるように、瞳に力をこめる。
「智を守るって、約束したんだ」
「|自《うぬ》|惚《ぼ》れたら、あかんよ、ナルミちゃん」
勝利は、バックミラーごしに、じっと京介を見つめた。
どこか、悲しげな|瞳《ひとみ》だ。
「鷹塔センセは、ゆうてみれば、|天《てん》|人《にん》なんや。|羽衣《はごろも》持った天人や」
「天人……?」
「そぉや、天人や。あんたは、天人に恋しよったアホな|漁師《りょうし》や。鷹塔センセの羽衣はぎとって、無理やり地上に引きずり降ろしたんや。……天人は、空に|還《かえ》れへん」
京介の|頬《ほお》が、カッと熱くなった。
(なんだとぉ……?)
|我《われ》|知《し》らず、|拳《こぶし》を握りしめていた。
全身を|強《こわ》ばらせて、勝利の瞳を|睨《にら》みつける。
「そんなのは、ただの言いがかりだろ。天人だのなんだのって、わかんねーよ。まわりくどい言い方しやがって……!」
それに|覆《おお》いかぶせるようにして、勝利が言う。
「鷹塔センセは、千年に一人の天才|陰陽師《おんみょうじ》や。こん国の光の|象徴《しょうちょう》や。わいらの先頭に立って、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》と戦わなあかん立場や。……あんたは、その千年に一人の天才を、ただの『女』に|貶《おとし》めよってん」
「黙れよ!」
京介の声が高くなった。
久美子が、わずかに顔をあげて、京介を見た。
そのまま、また眠りに落ちていく。
「今の発言は、俺はともかく、智に失礼だ! 謝れ!」
「……悪かったわ、ナルミちゃん」
「…………」
「|失《しつ》|言《げん》や……」
京介は、無言で勝利をねめつけている。
車内に短い沈黙があった。
勝利がボソリと|呟《つぶや》く。
「そやけどな、あんた……鷹塔センセをどないする気や」
「智をどうって……?」
「ええか。あんたら二人の関係と、鷹塔センセの陰陽師としての戦いは、両立せぇへん。このまま戦い続けよったら……鷹塔センセは死ぬでぇ」
「死ぬ……智が? やめろよ! |縁《えん》|起《ぎ》でもないこと言うな!」
「そやけど、ホンマのことや。鳴海京介に気ぃ取られとる鷹塔センセは、半人前以下や。集中力がめたくそ欠けとるわ。わいかて、今の鷹塔センセやったら、簡単に|呪《じゅ》|殺《さつ》できるわ。もぉ|火《か》|事《じ》|場《ば》の|馬鹿力《ばかぢから》は通用せぇへん、ゆうとるんや。な、そやろ。|記《き》|憶《おく》はあらへん、集中力はあらへん、危険になりよって初めて|霊力《れいりょく》爆発させよる……そないにハンパな力で、あの|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を倒せるんか? 敵は史上最強の|邪《じゃ》|神《しん》やで。|命懸《いのちが》けでやらな、勝てへん相手や。何が、『京介を傷つける力なんかいらない』だぁ? アホちゃうか。しまいにゃ、見捨てるでぇ」
「……別れろって言ってるのか、それ」
「アホ。もっと前向きに対処しろ、ゆうとるんや。いつまでもグチャグチャ、イチャイチャしてるんやないわ。男やったらな、|羽衣叩《はごろもたた》き返して、一から勝負せぇや。鷹塔センセを甘やかすだけやったら、あのホモ|野《や》|郎《ろう》……|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》にもできるで」
「大きなお世話だ」
|間《かん》|髪《はつ》を入れず、京介は答える。
智にちょっかいをかける時田忠弘の名前を出されて、熱くなった。
「智は死なせない。俺が守ってみせる」
京介の答えを聞いて、勝利の|瞳《ひとみ》が|厳《きび》しくなった。
「それで……鷹塔センセを守って、あんたは|妖獣《ようじゅう》になるんか?」
ささやくような声。
「それで幸せか? あんたの望みは、ホンマにそれやったんか? 妖獣になって、鷹塔センセを泣かすようなことになってもええんか?」
「……智さえ生きていてくれれば、俺はかまわない。妖獣になっても……いいんだ。智さえ助かるんなら」
「ナルミちゃん……」
「俺はどうなったっていいんだ。妖獣になってもいい。智さえ生きててくれれば。これは、俺なりに考えて出した結論だ。俺が決めたことなんだ」
京介は、心配そうに見つめる勝利の瞳を、強く|睨《にら》みかえした。
「誰にも止めさせない」
勝利は、深いため息をついた。
京介を見る瞳が、暗くなる。
「鷹塔センセが、泣くで……」
京介は、ランドクルーザーの窓の外に視線をむけた。
|薄《すすき》の穂が、風を受けて銀色に光っている。
だが、木々はまだ|紅《こう》|葉《よう》していない。
冬の予感は、|遥《はる》か先にあった。
「それでもいい……智が泣いて、それでも、いつか幸せになってくれるんなら……」
勝利は、しばらく、黙ってステアリングを握っていた。
「そぉゆう気持ちは、わいには、わからへん」
車内に沈黙がおりた。
やがて――。
「|昭陽館《しょうようかん》や」
勝利が、|呟《つぶや》く。
狭い道の突きあたりに、目的地が姿を現す。
屋根のついた|透《すき》|塀《べい》がつづき、門が開いている。
門の前には、着物を着た中年の女が立っていた。
わずかに見える|瓦《かわら》屋根と、白い|漆《しっ》|喰《くい》|壁《かべ》。
塀の内側には、|魔《ま》を|祓《はら》うという|桃《もも》の木が植えられていた。
ガアガアガア……!
ガアガアガア……!
|烏《からす》の群れが、急降下してきて、ランドクルーザーの前をふさぐ。
カチカチと、|嘴《くちばし》がボディに突きあたる音。
「勝利君!」
「かまへん。|蹴《け》|散《ち》らすで!」
勝利は、薄く笑った。
「しっかりつかまっとれや、ナルミちゃん!」
ランドクルーザーは、速度をあげた。
烏の群れは、|執《しつ》|拗《よう》に追ってきた。
「振り切れるか……」
京介が、息をつめた時。
ランドクルーザーは、|危《あや》うく門にぶつかりそうになりながら、内側に|滑《すべ》りこんだ。
門のところにいた中年の女が、こちらを振り返って、|微《ほほ》|笑《え》んだようだった。
ランドクルーザーは、桃の木の下で、急停止する。
中年の女は、門をくぐろうとする烏の群れに、むきなおる。
大きく、宙に|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》|印《いん》を切った。
カッ……と、白い光が|炸《さく》|裂《れつ》する。
ギャアアア!
ギャアアア!
|烏《からす》たちは、いっせいに逃げだした。
「閉門!」
女が命じると、門は自然に閉じた。
烏は、一羽も入ってこられなかった。
「すっげぇ……」
京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として|呟《つぶや》いた。
「さあ、もう|大丈夫《だいじょうぶ》でございますよ」
女は、|艶《あで》やかに微笑した。
着物姿が|粋《いき》だ。
四十歳を少し過ぎたというところか。
普通の主婦のものでは決してない、京介にさえわかる、強い|霊《れい》|気《き》を持っていた。
勝利が、ランドクルーザーから飛び降りた。
横にまわって、久美子に手を貸す。
京介は、まだ眠っている智を揺り起こした。
「起きろ、智」
「ん……京介ぇ……」
智は、目をこすりながら、京介を見あげた。
子供のような|瞳《ひとみ》が、パッと明るくなる。
「着いたの?」
「ああ、無事に着けた」
「やったね……京介ぇ」
智は、微笑した。
「ホンマに助かりました」
勝利が、女にむかって、|丁《てい》|寧《ねい》にお礼を言う。
「ありがとうございました」
京介も、ペコリと頭を下げた。
よくわからないなりに、智も一緒に頭を下げている。
「ようこそ、鷹塔智さま、|宮《みや》|沢《ざわ》勝利さま、鳴海京介さま、赤川久美子さま。当|昭陽館《しょうようかん》では、|今朝《け さ》から、皆さまのおいでをお待ちしておりました」
女は、昭陽館の|女将《お か み》だと名乗った。
第三章 |記《き》|憶《おく》の風
|智《さとる》の|霊《れい》|気《き》は、|昭陽館《しょうようかん》に入ったとたん、回復した。
意識が、はっきりする。
今、四人がいるのは、|二《ふた》|間《ま》続きの広い|座《ざ》|敷《しき》だ。
|天井《てんじょう》が高い。
窓からは、見事な日本庭園が一望できる。
色とりどりの|錦鯉《にしきごい》の泳ぐ池と、立派な|石《いし》|灯《どう》|籠《ろう》。
池のむこう側にも座敷があった。
智は、壁にもたれて立っていた。
隣には、|京介《きょうすけ》が座っている。
京介は、何かを|抱《かか》えこむように、|両膝《りょうひざ》を抱いて、うずくまっていた。
|久《く》|美《み》|子《こ》は、|座《ざ》|卓《たく》に顔を伏せて、ぐったりしている。
|勝《かつ》|利《とし》がその隣で、心配そうに背中をさすってやっていた。
|嵐《あらし》のような逃避行の後だけに、何もかもが、静かすぎた。
智以外の三人は、脱力したようになっている。
(あ……)
智は、京介の手の甲が、時々、|軋《きし》むような音をたてるのに気がついた。
目を|凝《こ》らすと、|妖《よう》|気《き》が|視《み》えた。
京介の骨格が|妖獣《ようじゅう》に変化しかけて、またおさまる。
京介は、必死に、意思の力で変化を|抑《おさ》えつけている。
京介の霊気が、静まっては、また|妖《あや》しく波だつのが視える。
このままほうっておけば、いつ妖獣になるかもしれない。
(オレが、ずっとそばにいて、見てなきゃ……危険だ)
|切《せつ》なかった。
京介の隣に座りこみ、そっと腕に手を置いてやる。
「智……?」
京介は、ハッとして、智の手を振りはらおうとする。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だから、京介」
智は、京介の腕を、しっかり押さえてやる。
霊気を送りこむ。
不安げに見つめてくる|瞳《ひとみ》にむかって、微笑した。
智が直接触れていれば、少しは変化を|抑《おさ》えられるだろう。
「どうしたん、|鷹《たか》|塔《とう》センセ?」
勝利が尋ねる。
「ううん。なんでもない……」
智は、ゆっくりと立ちあがった。
仲間たちを見まわす。
「オレ、京介と少し歩いてきますから……」
目で、一緒に行こう……と、京介に合図する。
京介も、|妖獣《ようじゅう》になりかけた姿を、ほかの者には見せたくないだろう。
誰もいないところで、もっとちゃんと|霊《れい》|気《き》を送りこんでやろう……と思った。
「外に行くんか? 危険やで」
勝利が、|眉《まゆ》をひそめた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》です。外には出ませんから。建物のなか歩きながら、考えたいんです……心の整理がしたいから……。三十分で戻ります」
勝利は、智の|想《おも》いを読みとったようだった。
勝利も、霊能力者の|端《はし》くれだ。
京介の霊気の変化に、気づいていないはずはない。
勝利は、同情するような|笑《え》みを浮かべた。
「三十分でええんか」
「はい」
「そぉか……」
勝利は、|仰《あお》|向《む》けに|畳《たたみ》に引っくりかえった。
「三十分たったら……起こしてや」
目を閉じた。
智と京介は、部屋の外に出た。
*    *
|京介《きょうすけ》と一緒に、無言で|廊《ろう》|下《か》を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「|鷹《たか》|塔《とう》さま、|鳴《なる》|海《み》さま……」
|女将《お か み》だった。
「お時間がありましたら、少し……よろしいですか」
「はい……」
|智《さとる》と京介は、顔を見あわせた。
京介の|霊《れい》|気《き》は、今は、静まったようだった。
「では、こちらへ……」
女将は、先に立って、歩きだす。
着物姿の身のこなしが、流れるように|優《ゆう》|雅《が》だ。
連れてこられた場所は、別の客室だった。
十二|畳《じょう》ほどの広さで、|座《ざ》|卓《たく》もなく、がらんとしている。
窓からは、|錦鯉《にしきごい》の泳ぐ池が見えた。
「あの……鷹塔さまに、これをお渡ししようと」
女将は、正座したまま、スッと、正方形の白い和紙の包みを差し出した。
新書を三冊重ねたくらいの厚さだ。
「なんですか、これは……?」
智は、それを受け取った。そんなに重くない。
智と京介は、|紫色《むらさきいろ》の|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》に座っている。
「開けてみろよ、智」
智は、首をかしげて、和紙の包みを開いた。
中に入っていたのは、四枚のCD。
「え……?」
智の手が、震えた。
ディスクのレーベルは、それぞれ、|桜良《さ く ら》・|睡《すい》|蓮《れん》・|紅葉《も み じ》・|吹雪《ふ ぶ き》。
見慣れた智自身の文字だ。
|式神召喚用《しきがみしょうかんよう》のCD。
「オレのだ……」
(|鎌《かま》|倉《くら》で壊れたはずなのに……どうして……?)
吹雪のCDは、敵に破壊された。残り三枚のCDは、式神に攻撃された京介を救うために、智自身が、破壊したのだった。
女将は、静かに|微《ほほ》|笑《え》んでいる。
「お役にたてば、よろしいのですけれど」
「どうして、これが、こんなところに……?」
智は、女将をまじまじと見つめた。
信じられなかった。
「誰が、こんなものを……?」
「鷹塔さまご本人から、一年ほど前に、お預かりいたしました。『次にオレが来た時、返してください』とのことでした」
「オレが……そんなことを?」
「ええ。こちらが、お手元にあった四枚のCDの|原《げん》|盤《ばん》です」
「あっちが、ダビング盤だったってことですか?」
「はい。ただし、性能は変わりませんけれど」
女将の全身からは、|温《あたた》かな|霊《れい》|気《き》が放射されている。
|慈《じ》|母《ぼ》のような|眼《まな》|差《ざ》し。
智は、手のなかのCDを見おろした。
まだ、夢のようだ。
(信じられない……)
この四枚のディスクがなくて、どんなに、不安な思いをしていたことか。
「よかったな……智。本当によかったなあ」
京介が、智の両肩を|叩《たた》いて、笑う。
「ラッキーじゃん。おまえ、やっぱり、ついてるよ」
「CDプレイヤーがいるね……」
智は、まだ|茫《ぼう》|然《ぜん》としながら、|呟《つぶや》いた。
ゆっくりと|笑《え》みが、|唇《くちびる》に浮かんでくるのがわかる。
(よかった……本当に)
「のちほど、用意させましょう」
女将が、答える。
「マイクロフィルムリーダーは、当旅館の地下にございます。いつでも、お使いになれるよう、フロントの者に指示しておきましょう」
「ありがとうございます」
智は、深く頭を下げた。
この女性を、|拝《おが》みたいような気分だった。
「本当にありがとうございます」
女将は、優しい目で智を見つめつづける。
「|記《き》|憶《おく》をなくされたと、うかがっておりましたけれど、以前より、よくお笑いになるようになられましたのね。|霊《れい》|気《き》も優しくなられて」
「そうなんですか……?」
(オレって、そんなに|怖《こわ》い|奴《やつ》だったのかな……)
智は、複雑な気分だった。
「記憶|喪《そう》|失《しつ》前のオレを……ご存じなんですか?」
「ええ、よく存じあげておりますよ」
女将は、智から京介に視線を移した。
しばらく、|穏《おだ》やかに京介を見つめていた。
「なんでしょう……あのぉ……?」
京介が、|怪《け》|訝《げん》そうな顔をする。
「鳴海京介さま、鷹塔さまを、これからも、どうぞ大事になさってあげてくださいまし」
京介は、智の肩を抱いて、ニッコリ笑った。
「|大丈夫《だいじょうぶ》。智のことは、俺が幸せにします」
「京介……」
(そんなこと、人前で……)
智は、肩にかかった京介の手をはずす。
京介は、また肩に手をのせてくる。
「ちょっと……京介」
「大丈夫だよ。この人なら、俺たちのこと、変な目で見たりしねーよ」
京介は、ニコニコ笑っている。
女将は、優しい表情でうなずいた。
智に目をむける。
「鷹塔さまの記憶に関しましては、後でお話ししたいことがございます。でも、その前に、お二人には、ゆっくりお休みいただかなくては」
女将は、スッと身を起こして、智と京介の前に手をかざした。
強い|霊《れい》|気《き》が、ふわっ……と、二人の顔にかかった。
「あ……」
「お眠りください。今は、何もかも忘れて」
京介の体が、前にのめる。
すでに、目を閉じている。
「う……ん……」
「京介……」
智は、眠りに引きこまれそうになりながら、必死に目を見開いた。
「眠るわけには……いかない……」
(マイクロフィルム……解読しなきゃ……)
京介も、|畳《たたみ》にうつぶせになったまま、|呟《つぶや》く。
「智……」
女将が、両手を|叩《たた》いた。
|襖《ふすま》が、カラリと開いた。
|布《ふ》|団《とん》を持った女たちが、入ってきた。
智と京介の横に、さっさと布団を敷きはじめる。
(眠るわけには……)
智は、京介の上に重なるように倒れこんだ。
京介が、不満げに|唸《うな》る。
だが、もう眠りかけている。
「ご安心ください。|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》さまと、|赤《あか》|川《がわ》|久《く》|美《み》|子《こ》さまにも、お休みいただいております。……|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、今しばらくは、動かないでしょう」
女将が、優しい声でささやく。
「では、ごゆっくり」
智は、夢うつつのなかで、布団に寝かされるのを感じていた。
(気持ちいい……)
ひんやりした布団の感触が、|心《ここ》|地《ち》よかった。
智は、京介と並んで、眠りに落ちた。
*    *
「そう。|鷹《たか》|塔《とう》さまと、|鳴《なる》|海《み》さまにも、眠っていただきましたからね。おまえは、|邪《じゃ》|魔《ま》をしないようにね、|犬《いぬ》|神《がみ》」
|女将《お か み》が、押し入れから、|羽《は》|根《ね》|布《ぶ》|団《とん》を持ってきた。
|久《く》|美《み》|子《こ》の上に、|手《て》|際《ぎわ》よくかけてやる。
久美子は、座布団をならべた上で、|熟睡《じゅくすい》している。
窓ぎわでは、|勝《かつ》|利《とし》が、|仰《あお》|向《む》けになって、やはり眠っていた。
「よぉ、女将、俺さまに、|松阪牛《まつざかぎゅう》のステーキを持ってこい」
犬神が、久美子の|枕《まくら》もとで、|威《い》|張《ば》る。
「俺さまは、眠くないからな」
女将は、白い手をのばして、犬神の首の後ろをつまみあげた。
「おいっ! 何をするぅ! |無《ぶ》|礼《れい》|者《もの》ぉ!」
犬神は、小さな四本の脚をばたつかせて、暴れる。
だが、女将は、ニッコリ笑って、犬神を目の高さまで持ちあげた。
「久美子さまが、あんなに苦しい思いをなさった|元凶《げんきょう》が、そんなことを言っていいと思うの、犬神?」
「放せぇ! 放せぇ!」
「おとなしくおし。……さもないと、おまえをステーキにして食べてしまいますよ」
女将の|霊《れい》|気《き》が、ゆらり……と動いた。
犬神は、ビクッとして、耳を寝かせた。
チィチィ……。
|哀《あわ》れっぽい鳴き声。
チィチィチィ……。
「少しは、|加《か》|減《げん》しなさい。お嬢さんに|負《ふ》|担《たん》をかけないように。……おまえは|利《り》|口《こう》な犬神なんだから、そのくらいはできるでしょう」
犬神は、真っ黒な目をくるくるまわす。
「俺さまはえらい! 俺さまはすごい!」
「そうそう。えらくて、すごい犬神だから、できないわけないでしょう」
「当然だぞ! この俺さまを、誰だと思ってるんだ!」
犬神は、怒ったようにチィチィ鳴く。
「その言葉、忘れるんじゃありませんよ」
「うるせえぞ! 人間!」
女将は、|艶《あで》やかに微笑した。
そっと、犬神を|畳《たたみ》に置いてやる。
犬神は、タタタッと走って、部屋の|隅《すみ》に行った。
女将の手の届かない場所まで行って、ぶつくさ言う。
「ケッ。やな女だぜ」
女将は、久美子の顔をのぞきこむ。
「|消耗《しょうもう》した|霊《れい》|気《き》は、明日には回復するはず。それでも、久美子さまには、当分、ここにいていただいたほうがいいわね。……鷹塔さまのご|負《ふ》|担《たん》を、少しでも減らさないと」
女将は、眠る久美子の手を両手でつかみ、意識を集中した。
久美子の顔色が、目に見えてよくなっていく。
女将は、そっと久美子の腕を|羽《は》|根《ね》|布《ぶ》|団《とん》の下に戻す。
「マイクロフィルム、ほっといていいのか、女将?」
犬神が、尋ねる。
「大事な情報ってやつが、入ってるんだぞ」
「だとしても、今知ったところで、何もできませんよ。|慌《あわ》てて外に飛びだして、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|捕《つか》まるのがオチです」
女将は、スッと立ちあがり、押し入れに近づく。
|黙《もく》|々《もく》と、二人ぶんの布団を敷きはじめる。
「名乗らなくていいのか、女将?」
犬神が、女の肩に飛んでくる。
「おまえが、|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》の母親だって……」
女将は、手を止めた。
着物の背中が、緊張したようだった。
「言ってどうなります。|息《むす》|子《こ》は……緋奈子の|命《めい》を受けて、鷹塔さまのお命を|狙《ねら》った|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》ですよ」
「鷹塔|智《さとる》なら、おまえの息子とは和解したぞ。心配いらないんだぞ」
「でも、息子が、鷹塔さまを|恨《うら》んだ時間のぶんだけ、私は、鷹塔さまには借りがあります」
「借り……?」
「そう考えるのは、おかしいのかもしれないけれど、それで、私の気がすむのですから……いいんですよ、犬神」
女将は、勝利を布団に移動させながら、|穏《おだ》やかに微笑した。
「ケッ。人間ってのは、いろいろ|面《めん》|倒《どう》なもんだぜ」
犬神は、バカにしたように、チィチィ鳴いた。
*    *
その日の真夜中。
|智《さとる》は、ふいに目を|覚《さ》ました。
月光が|射《さ》しこんで、あたりは薄明るかった。
白い|布《ふ》|団《とん》の隣に、|京介《きょうすけ》が寝息をたてている。
もう一つ布団はあるのだが、智の布団にもぐりこんで、熟睡している。
見慣れない部屋だ。
(ここは……?)
無意識に、京介の肩のあたりにすりより、|温《あたた》かい体に|頬《ほお》を押しあてる。
気持ちがいい。
まだ、頭がはっきりしなかった。
寝起きは、いいほうではない。
このまま、ずっとこうしていたい……と思った。
「|鷹《たか》|塔《とう》さま……」
低い声が、呼びかけた。
|女将《お か み》の|霊《れい》|気《き》が、足もとのほうで動いた。
智は、ビクッとした。
(あ……さっき、女将に眠らされて……)
ガバと起きあがると、女将がこちらを見ていた。
きちんと着物を着て、正座している。
「お|目《め》|覚《ざ》めになりましたか、鷹塔さま?」
女将は、静かに尋ねる。
「あ……はい……」
周囲の暗さが気になって、腕時計を見た。
午前二時。
一瞬、ものすごく時間を|無《む》|駄《だ》にしたような気がした。
(マズい……!)
「マイクロフィルムは……?」
|焦《あせ》って、ホワイトジーンズのポケットを|探《さぐ》る。
「え……?」
それらしいものは、入っていない。
「マイクロフィルムでしたら、先ほど、|宮《みや》|沢《ざわ》さまにお渡しいたしました。宮沢さまは、今、地下のOAルームで、マイクロフィルムリーダーを使っておいでです。……じきに、お戻りになるでしょう」
「|勝《かつ》|利《とし》君に……?」
智は、まだボーッとする頭を振った。
「あの……勝利君、怒ってませんでしたか? オレたちが寝過ごしちゃったことで……」
「ご心配なく。宮沢さまも、一時間ほど前に、お目覚めになったばかりです」
「あ……そうですか」
智は、ひとまず|安《あん》|堵《ど》した。
だが、女将の様子が、落ち着かなげだ。
「どうしたんです……?」
「朝まで、お待ちするつもりでした。ですが……事態が、思ったより|切《せっ》|迫《ぱく》しております」
智は、ハッとした。
「|麗《れい》|子《こ》さんの身に何か……?」
「いいえ。ただ、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の周囲の|地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》が、濃くなってまいりました。いよいよ、明日じゅうには、魔界への門が開きます」
「わかりました。オレ、すぐ行きます」
智は、そっと|布《ふ》|団《とん》から抜けだした。
少し冷える。
|枕《まくら》もとに用意されていた、黒いCDラジカセを持って、立ちあがる。
CDラジカセは、ダブルデッキだった。
すでに、CDがセットされていた。
これだけで、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に勝てるとは思っていなかった。
(でも……ないよりはマシだ……)
智は、不安を振りはらうように、歩きだそうとした。
「お待ちください、鷹塔さま」
女将が、低い声で制止する。
「その前に、鷹塔さまの|記《き》|憶《おく》の件について……お聞きくださいまし」
女将は、自分の前の|畳《たたみ》に座るよう、智に言った。
(何を話す気なんだ……?)
智は、眠る京介の顔をチラと見、冷たい畳に腰を落とした。
女将は、優しい目をしている。
「〈|魂《たま》|返《がえ》しの|鏡《かがみ》〉という|呪《じゅ》|具《ぐ》のことを、ご存じでしょうか、鷹塔さま」
「〈魂返しの鏡〉……?」
「記憶は、|魂《たましい》の一部。鷹塔さまの記憶が|封《ふう》じられたのは、魂の一部が封じられているのと、同じことです。〈魂返しの鏡〉は、魂を取り返す呪具。それをお使いになれば、鷹塔さまの記憶は、戻ります」
「記憶が……戻る……?」
「はい」
女将は、両方の手のひらを上にして、智に示した。
手のひらが、ぼうっと|虹《にじ》|色《いろ》に光りはじめた。
やがて、女将の両手の上に、|円《まる》い金属の|鏡《かがみ》が実体化する。
鏡の直径は、三十センチほど。
全体が、|夜光虫《やこうちゅう》のように、光っている。
「そして、これが〈|魂《たま》|返《がえ》しの鏡〉です」
智は、|妖《あや》しく光る鏡をじっと見つめた。
(これを使えば……|記《き》|憶《おく》が戻るのか……)
女将は、鏡を、そっと智の前に置いた。
鏡自身の輝きが反射して、|天井《てんじょう》にちらちらと白い光が揺れる。
「使い方は、簡単です。お姿を|映《うつ》して、記憶が戻るよう念じつつ、|虚《こ》|空《くう》|蔵《ぞう》|菩《ぼ》|薩《さつ》の|真《しん》|言《ごん》、『オン・バザラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ』をお|唱《とな》えください」
「それだけで……」
「はい。|難《むずか》しいことは、何もありません」
「どうして、オレに、これを……?」
女将は、|真《しん》|摯《し》な|瞳《ひとみ》で智を見た。
「正直申しあげて、今の鷹塔さまの|霊力《れいりょく》では、緋奈子と戦うことは……おそらく無理。記憶が戻って、初めて勝負は|五《ご》|分《ぶ》|五《ご》|分《ぶ》かと」
「緋奈子の霊力が、増大しているということですか?」
「そのとおりでございます。緋奈子は、〈たるたま〉を使って、日本全国から大ぜいの人間の霊気を|搾《しぼ》りとり、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》に|注《そそ》ぎこんでおります。もし、これに、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の霊力がくわわったら……」
智は、小さく身震いした。
(勝てないかもしれない……)
女将は、智の心を読みとったように、小さくうなずく。
「魔界への門が開けば、緋奈子の霊力の前に、|昭陽館《しょうようかん》など、ひとたまりもございません。昭陽館どころか、京都が一瞬で消滅するかもしれません。もちろん、日本のどこにいても、安全な場所などなくなるでしょう。かろうじて、|阻《そ》|止《し》できる霊力をお持ちなのは……鷹塔智さま、あなたさまだけでございます」
「京都が消滅……」
「ただし……」
女将が、そっとつけくわえた。
「記憶が戻れば、|鳴《なる》|海《み》京介さまとは、今のままではいられません」
智は、強い電流に打たれたような気がした。
「京介と……?」
「おわかりでしょう。記憶を取り戻されたら、今までとは、お立場が違ってきます」
「立場が……違う……」
智は、|抑《よく》|揚《よう》のない声で、その言葉をくりかえした。
悪い夢のなかにいるようだ。
(京介……)
静かに眠る京介を、振り返る。
「それをお使いになるかどうかは、鷹塔さまのご自由です」
女将は、それだけ言うと、黙りこんだ。
智は、大きく息を|吐《は》いた。
迷う時間さえ、もうなかった。
どうすればいいのか、理性ではわかっている。
〈|魂《たま》|返《がえ》しの|鏡《かがみ》〉を引きよせて、短い|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》えれば――。
たったそれだけのことで、戦いはずっと|楽《らく》になるだろう。
理性では、わかっていた。
使うと……ひとこと言えば、すべてが解決する。
たぶん、解決するだろう。
|霊力《れいりょく》の不足にも、知識の不足にも、苦しむことなく、緋奈子との戦いに|赴《おもむ》ける。
(何を迷うんだ……)
智は、|膝《ひざ》の上でグッと両手を握りしめた。
だが、京介に視線が|釘《くぎ》づけになったまま、口もきけない。
安らかに眠る京介。
閉じた|目《ま》|蓋《ぶた》、何度も智に触れてきた|唇《くちびる》。
以前より|削《そ》げて、少年くささが抜けてきた|頬《ほお》。
どんな夢を見ているのだろう。
眠る京介の唇が、ほのかな|笑《え》みを形づくる。
幾度も、まぢかで見つめてきた、この寝顔に――。
もう、手が届かない。
(京介……)
胸の奥底から、|嵐《あらし》が、吹きあげてきそうになる。
(ダメだ……オレは、こんなところで乱れるわけには、いかない……)
女将が、同情するような|瞳《ひとみ》で、見つめているのを感じる。
だが、その姿は、一メートルと離れていないのに、|遥《はる》か|彼方《か な た》にいるようだ。
(京介……)
何もかもが、遠かった。
|視《み》えるのは、どこまでも、京介がそばにいない未来。
こんなのは|嘘《うそ》で、|錯《さっ》|覚《かく》なのだとわかっていたけれど。
どうして、ほかのものが|視《み》えないのだろう。
(京介……京介……)
眠る京介の顔を、見おろす。
(失いたくない……!)
ポタ……。
智の|瞳《ひとみ》から、涙が落ちた。
涙は、京介の|頬《ほお》を伝い、|枕《まくら》に吸いこまれていく。
「オレは……絶望なんかしない。まだしない……」
未来を信じているはずなのに、その未来が視えない。
食いしばった|唇《くちびる》から、低い、|啜《すす》り泣きのような声がもれた。
智は、無理やり、京介から目をそらした。
背をむけて、座る。
全身が、小刻みに震えていた。
震えを|鎮《しず》めようと、自分で自分の体を抱きしめた。
(ダメだ……こんなんじゃ、もう一歩も前に進めない……)
智は、頭をあげた。
チラチラと光の反射する|天井《てんじょう》を、|睨《にら》みつける。
「オレは、前に進まなきゃ……」
「ご決断を」
女将が、そっとささやく。
智は、ゆっくりと女将に目をやった。
(あ……)
女将の周囲が、ぼうっと|淡《あわ》いピンク色に光っていた。
|慈《じ》|母《ぼ》のような|霊《れい》|気《き》が、薄明かりのなかに、やわらかな光を投げかけている。
|後《ご》|光《こう》のようだ……と思った。
母のことは覚えていないけれど、痛いような|懐《なつ》かしさを感じる。
(ずっとずっと昔、オレは、こんな霊気を持った腕に抱かれていた……)
頭にも心にも、母の|記《き》|憶《おく》はないのに、体が覚えていた。
その腕の|温《ぬく》もりまでも。
(母さん……)
ふいに、|切《せつ》なくなった。
(記憶がなくなったために、オレは、どれほどの大切なことを忘れてしまったんだろう)
女将は、微笑した。
何もかも投げ捨てて、すがりつきたいような、優しい|眼《まな》|差《ざ》し。
智の胸が、波立つ。
(泣く……わけにはいかない……)
それでも、一度揺れてしまった心は、なかなか静まらない。
「教えてください……」
胸の奥から、言葉を|絞《しぼ》りだす。
「オレは……正しいんでしょうか。こんな気持ちで、|記《き》|憶《おく》を取り戻しても……本当にいいんでしょうか?」
「それで、鷹塔さまのお心が軽くなるのでしたら……ええ、あなたさまは、正しいのですよ」
「本当ですか……本当に?」
「ええ、本当です」
「オレは、間違ってない……?」
「間違っていません」
「本当ですね……? 本当にオレは……こうしてもいいんですね……?」
(本当は……記憶なんかいらない……)
智は、深く息を吸いこみ、|吐《は》きだす。
それで、少しでも|楽《らく》になるというわけではないのだけれど。
(京介さえいてくれれば……世界が滅んでも……誰が苦しんでも……。
力なんかいらない……。
できるものなら、京介と二人きり、どこか遠い島の楽園で永遠に――。
京介だけ見つめて、京介だけ愛して……)
智は、〈|魂《たま》|返《がえ》しの|鏡《かがみ》〉を|睨《にら》みつけた。
睨んで|砕《くだ》け散るものなら、砕け散れ、鏡)
だが、鏡は智の|想《おも》いを知っているのかいないのか、|妖《あや》しくおぼろに光るだけだった。
「京介……」
(願はくば花のもとにて、春死なん……。
一緒にね、京介……)
でも、そんな言葉は、絶対に口にできない。
思うことさえ、許されない。
智は、ゆっくりと、手を〈魂返しの鏡〉に伸ばした。
ひどく冷たい感触。
引きよせ、|抱《かか》えあげ、のぞきこむ。
思いつめたような目の少年が、そこに|映《うつ》った。
その時。
|襖《ふすま》が、カラリと開いた。
「鷹塔センセ、起きてや……! 大変なんや!」
勝利が駆けこんできた。
*    *
|智《さとる》の背後で、|京介《きょうすけ》が|目《め》|覚《ざ》めたようだった。
「ん……」
身じろぎの|気《け》|配《はい》。
飛びこんできた|勝《かつ》|利《とし》は、めずらしく青い顔をしていた。
勝利の後ろに、|久《く》|美《み》|子《こ》と、犬神もいる。
「ナルミちゃんにも、起きてもろてや、|鷹《たか》|塔《とう》センセ。大変なんや」
智は、〈|魂《たま》|返《がえ》しの|鏡《かがみ》〉を、ゆっくりと|畳《たたみ》に置いた。
今すぐ使わずにすんだことに、内心、ホッとしていた。
|女将《お か み》が、そっと立ちあがって、勝利に場所を|譲《ゆず》る。
「マイクロフィルムの解読ができたのですね、|宮《みや》|沢《ざわ》さま」
「なんだ……智……」
声に振り返ると、京介が、身を起こして、こちらを|凝視《ぎょうし》していた。
不安げな目をしている。
智は、京介にむかって、優しく|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「起きたの、京介?」
「ああ……」
京介の様子が、どこかおかしかった。
(……これは、バレたかな)
智は、目を伏せた。
今、バレなくても、いずれは、話さずにはいられないだろう。
京介に隠しごとは、できない。
「何があった、智……?」
かすかに、京介の|唇《くちびる》が動く。
それには答えず、智は、勝利に視線をむけた。
「勝利君、データのほう、どうでした?」
「あ……なんや、お取り込み中だったんか……?」
勝利は、女将と智を見くらべ、少し困ったような顔をする。
「いいえ、もう終わりました。……後は、鷹塔さまのご判断に、おまかせいたします」
女将は、智に軽く頭を下げた。
(オレの判断……)
智は、目を伏せた。
もう心は、決まっていた。
|否《いや》でも、やるしかない。
深刻な空気に、京介が|眉《まゆ》|根《ね》をよせ、智の顔を|凝視《ぎょうし》している。
「レッドファイルの最終章、どのようなことが書いてございました、宮沢さま?」
女将が、さりげなく、話題をそらした。
「あ……ああ、そぉや」
勝利は、智に|断《ことわ》るのももどかしげに、部屋の電気を|点《つ》けた。
急に、白い光が、室内の|隅《すみ》|々《ずみ》までを照らしだす。
勝利は、手に持ったマイクロフィルムを、智にむかって差し出した。
「鷹塔センセ、これ……返すわ」
智は、手を伸ばして、マイクロフィルムを受けとった。
勝利が、ずっと握りしめていたのか、湿っていて、|温《あたた》かかった。
「鷹塔センセ、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、最初、あんたに|憑依《ひょうい》するはずやったんや」
勝利は、智の前に座りこむなり、言った。
「……どういうことです?」
「何から話そぉか……」
勝利は、智と京介に視線をむける。
ジーンズの後ろのポケットから、|縦《たて》に丸めたコピー紙の|束《たば》を引き抜く。
|畳《たたみ》に、|丁《てい》|寧《ねい》に広げた。
枚数にして、二十枚前後だ。
「それが、データかよ……?」
京介が、眉根をよせた。
「やけに少ないんじゃねーの」
「データの一部や。残りは、わいの頭んなかに入っとる」
勝利は、無意識に、|額《ひたい》の黄色いバンダナの位置をなおした。
陽気なファニーフェイスが、今は真剣だ。
「|時《とき》|田《た》|一《いち》|門《もん》は、千数百年にわたって、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の|封《ふう》|印《いん》を守ってきたんや」
勝利が、ゆっくりと話しはじめた。
邪神・火之迦具土は、イザナギとイザナミのあいだに生まれた、最後の子である。
火之迦具土は、母・イザナミを焼き殺して生まれた。
そのため、妻の死を悲しんだ父・イザナギによって、|惨《ざん》|殺《さつ》された。
その時、イザナギが使った|剣《つるぎ》が、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》であったという。
死せる火之迦具土の|怨《おん》|念《ねん》は、天之尾羽張を|封《ふう》|印《いん》の|要《かなめ》として、九州のとある|社《やしろ》に、封じられた。
その社を守ってきたのが、時田一門なのだ。
「それで、現在の時田一門の|宗《そう》|主《しゅ》は、時田|弓《ゆみ》|彦《ひこ》とゆうんや」
「時田弓彦……」
智は、首をかしげた。
どこかで聞いたような名前だ。
「|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》と時田|忠《ただ》|弘《ひろ》の、|伯《お》|父《じ》にあたる男や。時田家の長男で、次男の娘が緋奈子、三男の|息《むす》|子《こ》が忠弘。JOAの理事長やけど、何年か前、緋奈子に|逆《さか》らって、体ごと|呪《じゅ》|具《ぐ》のなかに封印されたゆう話や。そやから、今、時田一門を|牛耳《ぎゅうじ》っているのは、緋奈子なんや」
「そうなんですか……」
勝利は、チラッとコピーの|束《たば》を見た。
「まあ、それはええわ。十三、四年前に話を戻すで。……そん頃、時田弓彦は、一門の宗主として、絶大な権力を持っとったん。ところが、この男が、根っからの悪人やったんや。弓彦は、火之迦具土を、ただ封じこめておくだけやったら、もったいないと思うた」
「もったいない……?」
「|腐《くさ》っても、|堕《お》ちても、神は神や。|霊力《れいりょく》のケタが違うんや」
勝利は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた|笑《え》みを浮かべた。
「そやけど、弓彦はアホや。たかが一霊能力者の力で、史上最強の邪神を支配しようとしたかて、うまくいくわけあらへん」
本当に、弓彦の計画がうまくいっていれば、今、魔の|盟《めい》|主《しゅ》として|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》にいるのは、緋奈子ではなく弓彦だったはずだ……と、勝利は言う。
「弓彦は、火之迦具土を、人間の|依《より》|童《わら》に|憑依《ひょうい》させ、霊力の強い、弓彦の息のかかった|巫女《み こ》に、それを|操《あやつ》らせる計画をたてたん。計画の名前は、〈プロメテウス・プラン〉」
「〈プロメテウス・プラン〉……?」
「そぉや。神の火を|盗《ぬす》む……ゆうつもりらしいで。そぉして、依童と巫女の候補として、見つけたんが、|姪《めい》の緋奈子と、鷹塔智やった」
勝利は、静かに話しつづける。
「弓彦は、緋奈子を巫女に、鷹塔智を依童にしよぉと決めたん。……緋奈子のほぉは、問題あらへんかった。弓彦は、一門の宗主やったからな。宗主の意思は絶対や。弓彦は、誰にも|邪《じゃ》|魔《ま》されず、緋奈子に、|巫女《み こ》として必要な教育をほどこしたん。そやけど、鷹塔センセのご両親は、|息《むす》|子《こ》を弓彦に渡そぉとはせぇへんかった。どないな|甘《かん》|言《げん》にも、|脅迫《きょうはく》にも屈したりせぇへんかった。ガンとして、息子をJOAと|時《とき》|田《た》|一《いち》|門《もん》に渡すのを、拒否しつづけたん。立派なご両親やったんやな……。ホンマ、|勇《ゆう》|敢《かん》やった」
勝利は、悲しげな表情で、智を見た。
「そやから、弓彦は、考えたんやな。|邪《じゃ》|魔《ま》な鷹塔智の両親さえいなくなれば……と。今から、ちょうど十年前のことや」
智が、ブルッと肩を震わせる。
「まさか……オレの両親、弓彦に……?」
勝利は、うつむいたまま、うなずく。
智は、顔をそむけた。
「そうですか……」
「そぉして、鷹塔智は、JOAに入れられたん。そのままやったら、たぶん、鷹塔センセは、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の|依《より》|童《わら》にされて、弓彦の思うままに|操《あやつ》られとったやろぉ」
だが、弓彦の計画は、|頓《とん》|挫《ざ》したのだと、勝利は話をつづけた。
十二歳の緋奈子が、父・時田|純矢《じゅんや》とともに、九州の火之迦具土の|社《やしろ》を訪れた時――。
運命の歯車は、大きく狂ったのだ。
純矢は、妻を|亡《な》くしてから、精神に失調をきたしていた。社にこもる火之迦具土の|霊《れい》|気《き》が、純矢に、緋奈子を亡き妻と思いこませた。
実の父に|強《ごう》|姦《かん》されかけ、悲鳴をあげた緋奈子。
――|嫌《いや》ぁああああああーっ! 殺される!
その十二歳の少女の恐怖と絶望は、一瞬のうちに、時を|超《こ》えた。
遠い時の|彼方《か な た》の、同じ心に、ピタリと重なったのだ。
実の父・イザナギに殺される|間《ま》|際《ぎわ》、悲鳴をあげた、火之迦具土の恐怖と、絶望に。
そして、火之迦具土は、緋奈子の前に現れた。
|砕《くだ》け散る|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の|刀《とう》|身《しん》。
純矢は、何が起こったのかわからないうちに、死んでいた。
|永《なが》の年月、火之迦具土の|怨《おん》|念《ねん》を|封《ふう》じていた社は、|炎上《えんじょう》した。
緋奈子は、魔の|盟《めい》|主《しゅ》となった。
本来、智が引き受けるはずだった、|邪《じゃ》|神《しん》の|想《おも》いを背負って。
「そん後は、鷹塔センセも知ってるとおりや」
勝利は、言葉を切った。
「そうだったんですか……」
「そんな……ことって……」
京介が、混乱したように頭を|抱《かか》えた。
「火之迦具土ってのは、悪の|権《ごん》|化《げ》じゃなかったのかよ……。それに、緋奈子も……」
「まあ、|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》やったってことやな」
勝利は、肩をすくめた。
「悪いのは、イザナギと、時田弓彦なのか……?」
京介が、うめくように|呟《つぶや》く。
「なら、火之迦具土と緋奈子は、被害者だから、何やってもいいっていうのか……!」
智は、ため息をついた。
緋奈子が、火之迦具土に|憑依《ひょうい》されるまでの事情については、先に、|鎌《かま》|倉《くら》で知らされていた。
だが、あらためて聞いても、|哀《あわ》れだと感じずにはいられない。
(かわいそうな火之迦具土……かわいそうな緋奈子……)
だが、今の火之迦具土も、緋奈子も、智の同情など受けつけまい。
火之迦具土と緋奈子の|憎《ぞう》|悪《お》と絶望は、今、真っ黒な超高層ビルとなって、京都の|裏《うら》|鬼《き》|門《もん》の空に|屹《きつ》|立《りつ》している。
「それで、勝利君、最終章の内容は? まさか、この程度の情報のために、緋奈子があそこまで必死になるはずないわよね」
久美子が、静かに尋ねる。
その肩に、犬神がのって、真剣な|面《おも》|持《も》ちで勝利を見つめていた。
たぶん、|麗《れい》|子《こ》もこの会話を聞いているのだろう。
犬神の心によりそって。
「ああ……」
勝利は、小さくうなずいた。
「死んだ火之迦具土な、もう|冥《めい》|府《ふ》から|甦《よみがえ》ってるん。実体化してるんや」
「なんだとぉ!?」
「本当ですか、勝利君?」
「|嘘《うそ》……!?」
その場の、全員の視線が、勝利に集中した。
「火之迦具土は、わいらの知っとる人間の形、とってるんや……」
「知ってる人間……?」
勝利は、気をもたせるように、一瞬、沈黙した。
そして、爆弾のような言葉を投げこんだ。
「時田忠弘なんや……」
第四章 |火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》
同じ頃、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》では――。
黒い室内には、空調の音しか聞こえてこない。
四方の壁のスクリーンは、今は、沈黙していた。
「そう……たっちゃんの|正体《しょうたい》は、火之迦具土だったわけ」
やがて、かすかな声で、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が|呟《つぶや》く。
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、大理石の机のむこうに座っている。
その目の前には、白衣を着た美青年が立っていた。
長くのばした薄茶の髪と、銀ぶち|眼《め》|鏡《がね》の奥の、ハシバミ色の|瞳《ひとみ》。
アーサー・セオドア・レイヴン。
日米のハーフで、日本名を|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》。
JOA所属の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》、そして、緋奈子の|従兄《い と こ》。
だが、それらの名前や肩書きは、今は、なんの意味も持たない。
「そうなの……火之迦具土だったわけ」
緋奈子は、目の前の美青年を見つめ、ため息をついた。
「時田忠弘という男は、存在しなかったわけね……」
「さて、どうだろうね、ピヨ子」
火之迦具土は、|妖《よう》|艶《えん》な微笑を浮かべた。
「この国になんか興味ない、なんて言ったくせに……! いちばん、この国に|恨《うら》みがあるのは、あなたじゃないの」
「興味がないのは、本当だよ。私は、|智《さとる》しか欲しくないんだ」
「あなたは、智ちゃんには、渡さないわよ、火之迦具土」
緋奈子は、薄く笑う。
「あなたは、緋奈子のものだから」
男は、苦笑したようだった。
「おやおや……ピヨ子が、そんなことを言うとは思わなかったよ。ひょっとして、少しは好いていてくれたわけかな?」
「|自《うぬ》|惚《ぼ》れないで」
緋奈子は、ピシャリと言う。
「これはこれは……|怖《こわ》いね」
男は、クスクス笑いだした。
「あなたは緋奈子の犬よ……なんて言うんじゃないだろうね、ピヨ子」
「犬のほうが、よほど|可《か》|愛《わい》げがあるわ」
緋奈子は、緋色の着物の|裾《すそ》をさばいて、立ちあがった。
ゆっくりと、時田忠弘だった男に、近づいていく。
男の白い手が、銀ぶち|眼《め》|鏡《がね》をそっとはずした。
形のいい|顎《あご》のあたりに、|笑《え》みが|漂《ただよ》った。
「私には、たくさんの名前があるのだよ。国によって、違っている。でも、この国での私の名前は、あまり好きではないのでね。……そう、名前も、役割もね」
「あらゆる国と場所で、悪の|化《け》|身《しん》というわけね。西洋ならルシファー、アフリマン……それとも、サタンかしら」
緋奈子の両手が、そっと男にむかって伸びていく。
薄茶の髪をつかんだ。
少し力を入れて、引きよせる。
見あげる|瞳《ひとみ》と、見おろす瞳。
片方は、|漆《しっ》|黒《こく》、もう片方は、エメラルドグリーン。
「時田忠弘、この国は、|言《こと》|霊《だま》の国。あなたは、時田忠弘と名乗ったことで、この国に|縛《しば》られてしまったのよ。人間の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》としてね」
「私の|霊力《れいりょく》を|縛《しば》るつもりかね。……|面《おも》|白《しろ》い」
「ほかの国で、なんと呼ばれていようと、緋奈子には関係ないことよ。あなたは、緋奈子の手のなかにいる。逃がしはしないわよ、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》。そして、時田忠弘」
「熱烈な求婚だな」
男は、右手をあげて、緋奈子の|顎《あご》を|捕《と》らえた。
「|触《さわ》らないで! |汚《けが》らわしい!」
バチッ……!
|緋《ひ》|色《いろ》の|霊《れい》|光《こう》が、男の手を|弾《はじ》き飛ばす。
火之迦具土は、|呆《あっ》|気《け》にとられたように緋奈子を見、やがて|意《い》|地《じ》|悪《わる》く笑った。
「男嫌いの|潔癖性《けっぺきしょう》、まだなおってないようだな、ピヨ子……いや、緋奈子」
「あなたこそ、智ちゃんにしか、興味ないくせに……!」
緋奈子は、|雌《めす》|虎《とら》のように、いきりたっている。
|瞳《ひとみ》が、緋色に燃える。
「緋奈子に今度触ったら、一生許さない」
「智になら、触ってもいいのかな」
緋奈子は、男に背をむけた。
「どうして、そこで智ちゃんの名前が出てくるのよ?」
「好きなんだろう?」
「小学生みたいな物言いしないで」
男は、ため息をついたようだった。
「私は、ここに、|漫《まん》|才《ざい》をしにきたわけじゃないんだよ、緋奈子」
「漫才みたいだって、自覚はあるわけね」
「……何か怒ってるのか、緋奈子?」
男は、心底|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに|呟《つぶや》く。
緋奈子が、勢いよく振り返った。
|振《ふ》り|袖《そで》の|袂《たもと》が揺れる。
「怒ってるかですって? 七年近くも、緋奈子をだましてきて、|従兄《い と こ》だなんて|嘘《うそ》ついて、そばにいて、そのうえ、智ちゃんにのりかえようとしてるくせに……! 怒ってるかですって? ええ、怒ってるわよ! ふざけないでちょうだい!」
男は、わざとらしく、両手で耳をふさいでみせる。
「……夫の|浮《うわ》|気《き》を知った妻みたいな反応だな、ピヨ子」
「お黙り!」
バチバチバチバチ……ッ!
広い室内を|縦横《じゅうおう》に、|緋《ひ》|色《いろ》のプラズマが走った。
大理石の机の|端《はし》が|砕《くだ》けて、飛び散る。
「おお、|怖《こわ》い」
言葉ではそう言いながら、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、平然とした顔で立っている。
長い薄茶の髪が、プラズマの起こした風に|煽《あお》られ、大きく|翻《ひるがえ》る。
「元気な|霊《れい》|気《き》だな、ピヨ子。だが、いつまでも、このパワーがつづくと思うなよ。……おまえの霊力は、今が絶頂期だ。あとは、落ちるだけだぞ」
「さあ、それはどうかしら」
プラズマは、|跡《あと》|形《かた》もなく消滅した。
緋奈子は、腕を組んで、男を|見《み》|据《す》える。
自信に満ちた|眼《まな》|差《ざ》し。
「緋奈子は、何も怖くないわよ。生きることも、死ぬことも、絶望することも。だから、まだ緋奈子には、あなたに命令する権利があるわ、火之迦具土。あなたは、|怯《おび》えた心や、弱い心にしかつけこめない。緋奈子の心が弱まらないかぎり、あなたは緋奈子に|逆《さか》らうことはできないのよ」
「人間のパワーは怖いね……」
男の|瞳《ひとみ》が、優しくなる。
「自分を信じる心が、ありえない|奇《き》|跡《せき》を起こす。見事なものだな。たしかに、今のおまえの霊力なら、私を支配できるよ。……今のおまえは、神さえも支配する絶対者というわけだ。うれしいかね、緋奈子」
緋奈子は、鼻で笑った。
「心にもないこと言わないで。そうやって|媚《こ》びてみせて、緋奈子の油断を|誘《さそ》う気でしょう。おあいにくさまだわ」
「媚びてやれば、喜ぶかと思ったんだがね」
男は、|優《ゆう》|雅《が》に机をまわって、黒いレザーの|椅《い》|子《す》に座る。
「さて、どうしてほしいのかな、ピヨ子。おねだりを聞いてあげよう」
「そういう言葉は、智ちゃんにでも言うのね」
「本当に言ったら、怒るくせに」
男は、クスクス笑う。
「しばらく、力を貸さなかったのは、悪かったよ、ピヨ子。謝ってるんだから、言ってみろ。……どうしたいんだ?」
緋奈子は、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》を見つめた。
「智ちゃんを殺したいわ」
「よかろう。ほかには?」
「力を貸してちょうだい。緋奈子は、|魔《ま》|界《かい》への門を開くわ。|鬼《おに》を呼びこむの。この国を永遠の|地《じ》|獄《ごく》に変えたいのよ」
「いいだろう。……それだけか?」
「幸福になりたい……」
「……うん」
「そう言ったら、幸せにしてくれるの、たっちゃん?」
「幸福の定義によるね」
「あなたに、この世から消えてほしいと言ったら、消えてくれる?」
男は、苦笑した。
「私はランプの精じゃないんだぞ、ピヨ子」
「智ちゃんがそう望んだら? それなら、消えてくれるの?」
「しつこいな。……どうした、ピヨ子?」
緋奈子は、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》から目をそむけた。
右手で、左の肩を押さえるようにして、ずっと上のほうを見つめる。
そこには、何も|映《うつ》っていない灰色のスクリーンがある。
「時田忠弘として、緋奈子のそばにいなさい。緋奈子から逃げることは、許さないわ」
「承知した」
男は、そっと銀ぶち|眼《め》|鏡《がね》をかけた。
エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、ハシバミ色の|瞳《ひとみ》に戻る。
「それで、これからどうする気だね、ピヨ子?」
口を開いた時、すでに|気《け》|配《はい》は、ぼーっとした|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》のものだった。
緋奈子は、四方のスクリーンをゆっくりと見まわした。
どこにも手も触れないのに、スクリーンに映像が映る。
すべて、智の顔だ。
|幼《おさな》い頃の智。光のなかで、緋奈子を見つめて|微《ほほ》|笑《え》んでいる智。
両親を殺されて、放心したような顔をしている七歳の智。
その|頬《ほお》に伝う|一《ひと》|筋《すじ》の涙。
|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》じられる寸前、緋奈子を見つめる十六歳の智。
悲しみとも、|哀《あわ》れみともつかぬ瞳。
傷ついた|鳴海京介《なるみきょうすけ》を抱きしめ、緋奈子を|睨《にら》みつける智。
笑う智、怒る智、|陰陽師《おんみょうじ》として戦う智。
緋奈子の記憶のなかにある、幾千もの智の姿が、スクリーンの上を通りすぎていく。
緋奈子は、スクリーンを見つめつづけた。
「|赤《あか》|川《がわ》|由《ゆ》|貴《き》|子《こ》の死体を使うわ……」
低い|呟《つぶや》き。
「赤川由貴子の死体?」
「そう。死体に、智ちゃんへの伝言を運ばせる。|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》を返してほしければ、明日の午前二時に、マイクロフィルムを持って、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の最上階へ来るように……ってね。まあ、智ちゃんは、来ないわけにはいかないでしょうね」
「そこで智を殺す?」
「そうよ。よくわかってるじゃない、時田忠弘」
緋奈子は、右手の指先を、肩から腕に|這《は》わせ、うっとりと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「緋奈子は、もう迷わないわ。今度こそ、本当に智ちゃんの息の根を止める。ずっとずっと、こうしたかったわ」
男は、何も言わなかった。
「智ちゃんを殺すわ……。ようやく、緋奈子のものにできる。永遠に緋奈子のものよ。智ちゃんの未来も過去も、緋奈子だけのもの。誰にも渡さないわ……。この手で殺すわ」
|官《かん》|能《のう》|的《てき》とさえいえるささやき。
「緋奈子は、ようやく安らげるのよ。智ちゃんの血は、どんな色かしら……。どんなふうにうめいて、緋奈子を見るかしら。きっと|綺《き》|麗《れい》ね……。智ちゃんから、あらゆる表情を引きだしてあげたいわ。苦しむ顔も、怒る顔も、絶望する顔も……。今まで味わったことのない苦痛をあたえてあげたい。死んでいく智ちゃんを、ずっとずっと見ていたいわ。永遠の苦痛をあたえてあげたい。清らかなあの顔を|歪《ゆが》めて……きっと、あの目で緋奈子を|睨《にら》みつけるんだわ……どんなに綺麗かしら……」
緋奈子は、ふいに、息を止めて、スクリーンを睨み|据《す》えた。
「な……!」
四方にアップで|映《うつ》る智の顔が、黒く|膨《ふく》れあがり、ドロドロと|溶《と》け|崩《くず》れていく。
ポカリと|空《あ》いた|眼《がん》|窩《か》から、眼球がツゥーッと神経の糸を引いて、流れだした。
「智は、こういうふうに|醜《みにく》く死ぬかもしれない」
|冷《れい》|酷《こく》な男の声。
「やめなさい、時田忠弘」
緋奈子は、悲鳴のような声をあげた。
四方のスクリーンが、|砕《くだ》け散る。
間接照明の光度が、ぐぐっと|絞《しぼ》られた。
「お気に召さなかったかね」
|意《い》|地《じ》の悪い忍び笑い。
「夢を壊してしまって、悪かったな」
緋奈子は、息を荒らげて、男を睨み据えた。
「|小癪《こしゃく》な|真《ま》|似《ね》をしてくれるわね、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》。……次にまたやったら、いくらあなたでも、許さないわよ」
男は、|椅《い》|子《す》に座ったまま、腕を組んで、緋奈子を|眺《なが》めた。
銀ぶち|眼《め》|鏡《がね》のむこうの、|驕慢《きょうまん》な|瞳《ひとみ》。
「さて、緋奈子、時間もないことだ。|魔《ま》|界《かい》への門を開く気なら、そろそろ動いたほうがいいと思うぞ」
「言われなくても、わかっているわ」
緋奈子は、壁ぎわにより、冷たい壁に背をもたせかけた。
|振《ふ》り|袖《そで》を着た全身から、|緋《ひ》|色《いろ》の|霊《れい》|光《こう》がゆらゆらと立ち上る。
「明日午前二時、日本全国の火炎の真理教の信者を、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》に召集する。来られない者も、〈たるたま〉を通じて、祈るように命じるわ」
「京都に集めて、皆殺しかね。信者の総数は、今のところ、どのくらいだ」
「|公称《こうしょう》六百万人。ただし、実数はその三分の一くらいね」
「二百万人の霊気か。……おまえにしては、よく集めたな」
火之迦具土の瞳が、氷のように冷たくなる。
「今の緋奈子は、強いわよ、火之迦具土」
緋奈子は、男の瞳を見つめ、|妖《よう》|艶《えん》に笑った。
魔の霊気をまとう少女は、一瞬、目の前の神より美しく見えた。
「お手並み拝見といこう……」
低い|呟《つぶや》きが、|闇《やみ》に溶けた。
*    *
数分後。
|昭陽館《しょうようかん》の前に、異様な人影が現れた。
首が、ありえない角度で背中のほうにのけぞって、ブラブラしている。
左手が、半分なくなっていた。
ズル……ズル……と、足を引きずって、歩いていた。
顔は、二十七、八歳の女だ。
|苦《く》|悶《もん》の|形相《ぎょうそう》を浮かべて、白目をむいている。
すでに、|息《いき》|絶《た》えているのは、あきらかだ。
指先や、目の|縁《ふち》が、すでに|腐《くさ》りはじめている。
生前の名前は、|赤《あか》|川《がわ》|由《ゆ》|貴《き》|子《こ》。
昭陽館にいる|久《く》|美《み》|子《こ》の姉。
そして、マイクロフィルムを|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》に渡した、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》のブレインであった。
ガタン……。
物音に、|智《さとる》は顔をあげた。
音は、|廊《ろう》|下《か》のほうで聞こえた。
異様な|霊《れい》|気《き》が、近づいてくる。
|死霊《しりょう》のものとも、|魔《ま》のものともつかない。
「なんだろう……?」
智は、静かに立ちあがった。
|勝《かつ》|利《とし》が、どこから取り出したのか、|呪《じゅ》|符《ふ》を構えた。
いつでも動けるように、|片《かた》|膝《ひざ》をたてている。
|女将《お か み》は、|端《たん》|然《ぜん》と座ったままだった。
ふいに、壁が|崩《くず》れ、若い女の死体が倒れこんできた。
もうもうと|埃《ほこり》が舞いあがった。
ムッとするような|臭気《しゅうき》が、鼻をつく。
|死臭《ししゅう》だ。
「あ……!」
「なんだ……!?」
|京介《きょうすけ》は、とっさに、智をかばうように、その前に立つ。
智は、じっと死体に目を|凝《こ》らした。
異様な霊気は、死体から|漂《ただよ》ってくる。
「あ……!」
久美子が、ふらふらと立ちあがった。
「久美子ちゃん、危ないで! 動くんやない!」
勝利が、|慌《あわ》てて止めようとした。
だが、久美子は、まっすぐ死体に駆けよった。そばに|跪《ひざまず》く。
「|嫌《いや》ぁ……姉さん……!?」
顔をのぞきこみ、悲鳴のような声をあげた。
「|嘘《うそ》よ……姉さん! 嫌ぁーっ!」
その時、死体が頭をあげた。
久美子が悲鳴をこらえるように、全身を固くする。
死体は、乱暴に久美子を押しのけ、上半身を起こす。
白目をむいた顔を、のろのろと智にむける。
「|鷹《たか》|塔《とう》……智……よく……聞けぇ……」
声は、どこから|絞《しぼ》りだしているのか、|抑《よく》|揚《よう》がなく、聞き取りにくかった。
「緋奈子……さまからの……伝言だ……明日の午前二時……|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》に来い……最上階だぁ……かならず来ぉい……」
智は、死体をじっと見つめた。
(緋奈子に|操《あやつ》られてるのか……)
死んだ後までも、こんなことをさせられている由貴子が、|哀《あわ》れだった。
「百瀬麗子の命と……マイクロフィルム……交換だ……来ないと……百瀬麗子を殺すぅ……」
「姉さん! |嫌《いや》ぁーっ! 姉さんじゃない!」
久美子が、顔を|覆《おお》って、|畳《たたみ》に座りこんでいる。
「こんなの姉さんじゃない……っ!」
智は、前に進み出た。
止めようとする京介の腕を優しく振りほどき、死体のそばにしゃがみこむ。
「赤川由貴子さん……ですね」
死体は、智の顔を見て、うなずく。
|弾《はず》みで、ゴキリ……と音がして、首がありえない方向に曲がった。
死体は、両手で、首の位置をなおして、意味不明の|唸《うな》り声をあげる。
「うう……ぐ……あ……」
「由貴子さん、もう休んでもいいですよ。つらかったでしょう。もう終わったんですよ……もういいんです。どうか、|楽《らく》になってください」
智は、死体の|額《ひたい》にそっと手を触れて、|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》える。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマジンバラ・ハラバリタヤ・ウン……」
すべての|罪障《ざいしょう》を除き、|極楽浄土《ごくらくじょうど》へ|導《みちび》くという|光明《こうみょう》真言である。
真言とともに、死体が白い光に包まれた。
光が消えると、赤川由貴子の死体は、|仰《あお》|向《む》けにひっくりかえり、動かなくなった。
|苦《く》|悶《もん》の表情が、安らぎの表情に変わっている。
(かわいそうに……)
智の胸の奥に、たぎるような|怒《いか》りが|湧《わ》いた。
(緋奈子……わざとこんな|真《ま》|似《ね》を……)
「ね……えさん……! 姉さぁーんっ!」
久美子が、姉の|無《む》|惨《ざん》な姿にとりすがって、わっとばかりに泣き伏した。
「嫌よ……! 死んだなんて|嘘《うそ》! 嫌ぁーっ!」
女将が、そっと久美子の肩を抱く。
京介が、つらそうに顔をそむけた。
「緋奈子の|奴《やつ》……なんてひでー|真《ま》|似《ね》しやがるんだ……」
「わざとや」
勝利が、低く|呟《つぶや》く。
「あの女、わざとこんなやり方で、用件を伝えたんや」
「わざとだとぉ……? なんのためにだ……!?」
京介が、歯を食いしばった。
両手が、|怒《いか》りにブルブル震えている。
「ただの悪意やろ……」
勝利が、薄く笑った。
「あの女は、ホンマもんの|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》や。もぉ人間あつかいする必要あらへんわ。ぶっ殺したれ」
「これは、最後通告ってことだ……」
智は、勝利を、久美子を、女将を見、最後に京介を見た。
ひどく悲しかった。
(やっぱり……こうなるのか、オレたちは……緋奈子)
できるならば、救ってやりたかった。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に|憑依《ひょうい》されて、魔の盟主になったと知った時から、なんとかしてやりたいと、ずっと思ってきた。
その絶望と|怨《おん》|念《ねん》を、|浄化《じょうか》できるものなら――。
だが、緋奈子は、赤川由貴子の死体を送りつけることで、きっぱりと智に意思を伝えたのだ。
望むのは、互いの命を|懸《か》けた対決だけだ……と。
――救いなんかいらないのよ、智ちゃん。緋奈子がほしいのは、智ちゃんの命だけなの。それ以外のものなんか、もういらない……。
どこからともなく、緋奈子の狂気を秘めた優しい声が聞こえてくるようだった。
智は、大きく息を吸いこんで、|障子《しょうじ》を開け、|廊《ろう》|下《か》に出た。
(決断するしかない……)
窓の外に、夜の庭が見える。月は隠れていて、星明かりしかない。
京介が、障子を後ろ手に閉めて、智を追ってきた。
「どうする気だ、智」
「もう、緋奈子と平和的に和解する可能性は、ゼロだ……。オレは、緋奈子を|誅伐《ちゅうばつ》しにいかなきゃならない」
「俺は、ついていくぞ、智」
打てば響くように、京介が言った。
「京介……」
京介は、決然と智に歩みよってくる。
|厳《きび》しい|眼《まな》|差《ざ》し。
「一緒に行く」
京介は、短く言った。
今までも、ずっとそうしてきたように、揺るぎない|瞳《ひとみ》で、智だけを見つめる。
もう、京介の心も決まっているのだ。
|障子《しょうじ》のむこうから、久美子の泣き声がもれてくる。
「死んでもいい。俺は、命なんかいらない。|妖獣《ようじゅう》になってもいい。……最後まで、おまえのそばにいる」
「京介……」
「俺は、おまえの|剣《つるぎ》だから、おまえを守る。もう決めたんだ」
京介は、智の肩に両手をのばす。
真正面から、智の顔をのぞきこんだ。
「智……」
光に|透《す》けて、|綺《き》|麗《れい》な|褐色《かっしょく》の瞳。
大きな口もとに、静かな|笑《え》みが|漂《ただよ》っていた。
まぢかにある|逞《たくま》しい肩。
「俺の命……やるよ、智」
受け取れ……というように、京介は、うなずいてみせる。
「オレに……くれるの? みんな……?」
智は、信じられない気持ちで、京介を見つめた。
月が雲から顔を出した。
青白い光が、|廊《ろう》|下《か》に立つ二人の姿を照らしだす。
「本当に……いいの?」
(こんなことって……)
智は、まだ信じられなかった。
「京介……もらっていいの?」
ずっとずっと、欲しかった。
京介の過去も、未来も、|独《どく》|占《せん》したかった。
その眼差しが触れるものすべて、一人|占《じ》めにしたかった。
何もかも、自分にだけ|縛《しば》りつけて。
(でも……そんなの許されないよね……いけないことだよね……)
智は、両手をグッと握りしめた。
「おまえのために、俺はここにいるんだ。何も迷わなくていい」
京介は、優しい|瞳《ひとみ》で微笑した。
智は、ゆっくりとうなずいた。
京介がそう言ってくれて、うれしかった。
熱いものが、こみあげてきた。
「京介……」
京介は、命をくれると言ったのだ。
智のために。
すべてをくれると。
京介の生きてきた十七年間の時間、家族や友達との|絆《きずな》、好きだったことや、やりたかったこと、これから生きるはずの人生――何もかも、智のために捨ててくれると、京介は、そう言ったのだ。
命も、可能性も、体ごと、ぜんぶ智にくれると。
「京介……ありがとう」
智は、京介をじっと見つめた。
見つめつづけると、京介の姿が涙で|曇《くも》りはじめる。
(オレは、そのひとことが、欲しかったんだ……)
どんな|誓《ちか》いの言葉よりも、未来の約束よりも。
(このひとことを、ずっと待ってた……)
京介は、智の言葉を待つように、じっと動かない。
「一緒に行こう、京介」
智は、京介に手を差し出した。
その手を、京介が強く握った。
コホン……と|障子《しょうじ》の向こうから、勝利が|咳《せき》ばらいするのが聞こえた。
「お取りこみ中、すんまへんけどな……わいも行くで」
勝利も障子を開けて、|廊《ろう》|下《か》に出てきて言った。
その後ろに、姉の死体にとりすがる久美子と、|慰《なぐさ》める女将の姿が見えた。
勝利は、智に向かって、静かに手を差し出す。
「鷹塔センセ、連れていってや。わいも、緋奈子を許せへん」
「勝利君……」
智は、勝利の顔を見た。
「これは、オレと緋奈子の対決だ。勝利君まで、巻きこむわけにはいかない」
「あれを見て、わいに、黙って家で寝てろゆうんか、鷹塔センセ?」
勝利は、姉の死体にとりすがる久美子を、目で指す。
「わいを|軟弱《なんじゃく》もんにしたいんか?」
勝利は、ふん……と笑う。
「あんたら二人だけ行かせたら、男が|廃《すた》るわ」
「でも……危険ですよ」
「今さら、何をゆうとるん。わいは、ついてゆくで。あんたら二人だけで行かせてぇ、|心中《しんじゅう》でもされよったら、|後《あと》|味《あじ》悪いわ。わいがお目付け役で行ってぇ、危なくなりよったら、首根っこつかんで、こっちの世界に連れ戻したるわ」
勝利は、|挑《いど》むように智を見つめる。
てこでも動かない構えだ。
「連れてってやれよ、智」
「……でも」
「わざわざ、こんな危険なことにつきあってくれるって言うんだぜ」
京介は、一呼吸の|間《ま》をおく。
視線を勝利にむけた。
「いいから、来いよ。俺が許すぞ、勝利」
京介が、初めて、勝利の名前を呼び捨てにする。
勝利は、一瞬、驚いたような目をした。
そして、うれしそうな|微《ほほ》|笑《え》みが、元|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の|唇《くちびる》にゆっくりと浮かんだ。
「おおきに……京介」
「俺たちは、運命共同体だ」
「おお、そのとぉりや」
少年二人は、智を前にして、がしっと両手を握りあう。
「オレの立場がないんだけど……」
智は、顔を伏せた。
笑って言おうとした言葉なのに、なぜだか涙がこぼれそうになる。
「ずるいよ……二人とも。オレを無視して、勝手に協定結んで……」
京介が、目を細めて笑っている。
智の大好きな|満《まん》|面《めん》の笑み。
「先につるんだほうが勝ちだぜ、なあ、勝利」
「そぉや、京介」
勝利もニヤニヤ笑っている。
「俺たちは、智と一緒に行く。いいな。もう決めたぞ」
京介が、智の右手をつかみ、勝利と|握《あく》|手《しゅ》した手の上に置いた。
「決めたからな。約束の|印《しるし》だぞ」
「京介……勝利君……」
確かな|温《ぬく》もりが、指先から伝わってくる。
いや、伝わってくるのは、温もり以上のものだ。
智の胸が熱くなる。
「ありがとう……二人とも」
「仲間やからな。ほっとくわけにもいかんやろ」
勝利は、ふふんと鼻で笑う。
智は、顔をあげ、勝利を見つめた。
つっぱった態度とは裏腹に、不良少年は、|人《ひと》|懐《なつ》っこい目をしている。
「ありがとう、勝利君」
勝利は、照れたように口を曲げた。
「やめてんか。くすぐったいわ」
普段、|斜《しゃ》に構えてはいても、勝利の根は照れやらしい。
智は、微笑した。
その時だった。
「あたしも行く」
いつの|間《ま》に来たのか、久美子が|廊《ろう》|下《か》に出てきて、智の横に立っていた。
泣き|腫《は》らした真っ赤な目をしている。
「久美子さん……」
「行かせてちょうだい。緋奈子は、姉の敵なんだから。あたしは緋奈子を殺してやりたい……!」
少女は、|唇《くちびる》を震わせる。
「|無《む》|茶《ちゃ》でもなんでもいい。あたしが|敵《かたき》を|討《う》ちにいかなきゃ……姉が救われない……!」
思いつめた|瞳《ひとみ》に、|憎《ぞう》|悪《お》の念が燃えている。
(あ……いけないな……)
智は、久美子の背後に、暗い|想《おも》いが広がっていくのを感じた。
こんなに|地《ち》|霊《れい》|気《き》の乱れた京都で、こんな心を|抱《かか》えていたら、すぐに|邪《じゃ》|悪《あく》なものを呼びよせてしまう。
「あの女だけは、絶対、許せない。あたしも行くわ。殺してやる……!」
「ダメですよ、久美子さん。そんな|怨《おん》|念《ねん》を心に育てたら、あなたが不幸になるばかりです。緋奈子を|憎《にく》んだり、|恨《うら》んだりしちゃいけない。……もう、お姉さんは、天に|還《かえ》って、救われたんですから……」
「あたしが|敵《かたき》をとらなきゃ、誰がとるの!?」
「いけません。敵|討《う》ちなんて、バカなことは考えないで、今は自分の身を|大《たい》|切《せつ》にしてください。そのほうが、きっとお姉さんも喜びますから」
「でも……でも……っ!」
久美子の|瞳《ひとみ》に、みるみる涙がたまってくる。
「姉さんがかわいそう……! あまりにもかわいそう……! 許せない……どうしても、許せない……!」
「久美子さん……」
「緋奈子を殺して……お願い……!」
久美子は、泣きながら智を|睨《にら》みつける。
「敵をとって……お願い……! 緋奈子を殺して……!」
「久美子さま、もういいでしょう」
女将が、優しく久美子の腕をとり、別室に連れていこうとする。
「あちらで、もう少しお休みになってくださいまし。あったかいミルクと、お|布《ふ》|団《とん》を用意させますからね」
女将は、智たちに、軽く頭を下げた。
「久美子さまのことは、ご心配なく。私どもが、責任をもってお預かりいたします。……鷹塔さまは、明日の戦いのことだけ、お考えくださいまし。必要なものがございましたら、なんなりとお申しつけください」
「すみません。……どうか、久美子さんをよろしくお願いします」
女将は、うなずき、久美子を連れていった。
しばらくして、女将は一人で戻ってきて、智たちも別の部屋に移るよう|勧《すす》めた。
部屋は、壁が|崩《くず》れ、|死臭《ししゅう》がしていた。
*    *
そして、翌日の午前二時。
|智《さとる》は、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》と|対《たい》|峙《じ》していた。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の最上階。
四十|畳《じょう》ほどある、大ホールである。
壁も|床《ゆか》も|天井《てんじょう》も、黒一色で統一されている。
大きな窓からは、京都の|街《まち》|並《な》みが見えた。
暗く|闇《やみ》に沈んだ|碁《ご》|盤《ばん》の目のような街。
車のヘッドライトが川となって流れ、そこだけが、|眩《まぶ》しく輝いている。
それはすべて、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》へ集結してくる信者たちの車だ。
人々は、緋奈子に|操《あやつ》られ、魔天楼に|霊《れい》|気《き》を|注《そそ》ぎこんで死ぬために、やってくるのだ。
|墨《すみ》|色《いろ》の空には、血のような色の満月がかかっていた。
シンと静まりかえった大ホールに、人影が五つ。
一人は、緋奈子。
緋色の着物姿だ。
一人は、智。
白いアンゴラのセーターと、ホワイトジーンズ。
二人は、十メートルほど離れている。
智の両側を守るように、|京介《きょうすけ》と|勝《かつ》|利《とし》。
京介は、学ランだ。ポケットには、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片が入っている。
勝利は、ジーンズに、オレンジ色のTシャツとジージャン。
緋奈子の背後に、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》。
|邪《じゃ》|神《しん》は、|床《ゆか》まである|漆《しっ》|黒《こく》のマントに身を包んでいた。
長いこと、誰も口をきかなかった。
「マイクロフィルムは、持ってきた、智ちゃん?」
やがて、緋奈子が、歌うような声で尋ねる。
「ここにある」
智は、一歩、前に出た。
手のなかのマイクロフィルムを、目の高さに|掲《かか》げてみせる。
「|麗《れい》|子《こ》さんは、どうした、緋奈子?」
緋奈子は、白い手をそっとあげた。
時田忠弘――|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》が、薄笑いを浮かべて、それを|眺《なが》めている。
ふいに、智と緋奈子のほぼ中間の位置に、緋色の光の輪が出現した。
光の輪のなかから、麗子が浮かびあがってきた。
アニマルプリントのスーツ姿だ。
光の輪が、消える。
麗子は、よろめき、がっくりとその場に|膝《ひざ》をついた。
「麗子さん……!」
京介が呼びかけると、麗子は、弱々しく顔をあげた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ……」
どこからともなく、|犬《いぬ》|神《がみ》が姿を見せ、まっしぐらに麗子にむかって飛んでいく。
チィチィチィ……!
甘えるような、心配するような声。
「マイクロフィルムが先よ」
緋奈子の声と同時に、麗子の周囲で風が鳴った。
犬神が、カマイタチに切り|裂《さ》かれた。
ポタ……。
小さな音がして、犬神は黒い|床《ゆか》に|仰《あお》|向《む》けに落ちる。そのまま、動かない。
「犬神……!」
智の横で、京介が小さく叫んだ。
「大丈夫や、京介。犬神は、あれくらいのことでは死なへん」
緋奈子が、うなずいた。
「さあ、智ちゃん、マイクロフィルムと一緒に、いらっしゃい、こちらへ。……|百《もも》|瀬《せ》麗子、立ちあがって、前にお進み。おまえに、もう用はないわ」
|嘲《あざ》|笑《わら》うような緋奈子の声。
麗子は、ゆっくりと顔をあげ、乱れたストレートの長い髪を指先でかきあげた。
「いつか、あんたは|報《むく》いを受けるわ」
麗子は、|綺《き》|麗《れい》にルージュを塗った|唇《くちびる》で吐き捨て、よろめく足で歩きだす。
八センチのハイヒールが、不規則な音をたてる。
「幸せになんかなれるもんですか」
その声は、静まりかえったなかで、かなり大きく聞こえた。
だが、緋奈子は、無表情のままだ。
智は、右手にマイクロフィルムを持って、左手で、ジーンズのポケットを|探《さぐ》った。
そこには、小さな|円鏡《まるかがみ》が入っている。
〈|魂《たま》|返《がえ》しの鏡〉だ。
|女将《お か み》の|霊力《れいりょく》で、直径五センチくらいに縮小してある。
(いざとなったら……これを使おう)
できるなら、使いたくなかった。
|記《き》|憶《おく》が戻ると、数日は、霊力が安定しない可能性がある……と、勝利が忠告してくれたからだ。
女将は、|大丈夫《だいじょうぶ》だと言ってくれたが、智には、危険な|賭《かけ》をする勇気はなかった。
(万が一にも、今より霊力が乱れたら……)
ありえないことではないだけに、智は、最後の最後まで迷っていた。
「何をやってるの、智ちゃん。早くなさい」
緋奈子の声が、|鋭《するど》くなる。
「変なことを|企《たく》らんだら、全員、生きては戻れないと思いなさい。さあ、早くいらっしゃい、智ちゃん」
智は、緋奈子にむかって、ゆっくりと歩きだした。
大ホールの真ん中で、智と麗子はすれ違った。
「気をつけて、智。|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、あなたの体を|狙《ねら》ってる。緋奈子から、あなたにのりかえる気よ」
麗子が、前をむいたまま、早口にささやく。
だいぶ、緋奈子に痛めつけられたのだろう。
髪は乱れ、|鎖《さ》|骨《こつ》のあたりに、|殴《なぐ》られたような|痣《あざ》ができている。
アニマルプリントのスーツにも、あちこち、血の|痕《あと》が黒くついていた。
「緋奈子の霊力は、今が絶頂。今さえ乗り切れば、あとは落ちる一方だわ。なんとか、ここを逃げだして、時間をかせぐのも手よ」
「麗子さん、遅くなってすみませんでした。……つらかったでしょう」
「いいのよ。きっと来てくれるって、信じてたから」
二人は、ゆっくりとすれ違い、離れていく。
智は、緋奈子を見つめた。
(どちらが先に攻撃するか……)
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、腕を組んで、智をじっと見つめている。
「会いたかったわ、智ちゃん」
緋奈子の|瞳《ひとみ》が、少し優しくなったようだった。
(もしかして……)
智は、ふと思った。
緋奈子は、智に会うためだけに、あのマイクロフィルムを流したのかもしれない。
わざと、裏切りそうな側近を選んで、ガードを甘くして。
(ありえない……あるわけないよな……)
智は、そんな考えを、打ち消そうとした。
だが、打ち消そうとすればするほど、その考えは確信に近くなっていく。
マイクロフィルムには、さほど重要な情報は入っていなかった。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の|正体《しょうたい》がわかったところで、今さら、智と緋奈子を取り巻く戦いの状況は変わらない。
何ひとつ変わらない。
もっと早い時期ならば、緋奈子とJOAのあいだを|裂《さ》くこともできたかもしれない。
だが、今となっては、こんな情報があっても、緋奈子の圧倒的優位は、揺るがない。
(|罠《わな》……だったのかもしれない。オレを|誘《おび》きだすための……)
智は、緋奈子を見つめかえした。
そこまでして、智に呼びかけてくる緋奈子が、|哀《あわ》れだった。
|他人《ひ と》を傷つけずには、何も言えなくなってしまった緋奈子が、痛ましかった。
(オレが救ってあげられれば、よかったんだけど……)
だが、もう、緋奈子は、救いの道を|自《みずか》ら閉ざしてしまっていた。
たぶん、自分の現状に絶望して、ヤケになって。
もう、智の手は届かない。
緋奈子が、切り捨てるようにして、振りはらってしまったのだ。
「どうして……そこまで、自分を追いつめるんだ、緋奈子……」
思わず口をついて出た言葉。
緋奈子の瞳が、|怒《いか》りに燃えた。
「わかったような口をきかないで。さあ、マイクロフィルムを渡して」
背後で、京介が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片を握りしめている。
勝利も、|懐《ふところ》の|呪《じゅ》|符《ふ》に指をかけ、息を殺しているだろう。
緋奈子の後ろでは、火之迦具土が、薄笑いを浮かべていた。
智と緋奈子のあいだの距離は、およそ三メートル。
緊張が高まっていく。
智は、まっすぐ緋奈子に歩みより、その白い手にマイクロフィルムを落としこんだ。
「確かに、渡したよ、緋奈子」
「ありがとう、智ちゃん」
緋奈子は、マイクロフィルムを握りしめた。
悲しげに、少しうつむいた顔。
「緋奈子……」
緋奈子は、戦う意思がないように見えた。
(どうした……?)
智は、攻撃を一瞬ためらった。
「智! 気をつけろ!」
京介が、叫ぶ。
緋奈子が、うつむいたまま、ニタリと笑ったようだった。
「どこまでも甘いわね、智ちゃん」
それが、戦いの始まりの合図だった。
緋奈子の姿が、スッと消えた。
(消えた……!)
緋奈子の後ろにいた|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた笑いを浮かべ、その場にじっと立っている。
エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、智を|見《み》|据《す》えた。
「智……」
|愛《いと》しげに、美しい|唇《くちびる》が動いた。
「まだ、|記《き》|憶《おく》は戻らないのだな。……それほど、|鳴《なる》|海《み》京介に|未《み》|練《れん》があるのか」
男の全身から、|闇《やみ》|色《いろ》の|妖《よう》|気《き》がゆらゆらと立ち上る。
|地《ち》|霊《れい》|気《き》の闇が、ずんと濃くなった。
男の|瞳《ひとみ》が、ゆっくりと大きくなっていく。
智を包みこむように。
「あ……!」
「私のものになれ、智。おまえが望めば、空の星々もとってきてやろう。もう、苦しい思いをして戦う必要もない。くだらぬ地上のしがらみも、鳴海京介も、何もかも捨てて、私の腕のなかに来るがいい。永遠の幸福をおまえにやろう」
「や……め……!」
智は、両腕で顔を|覆《おお》った。
だが、邪眼に|呪《じゅ》|縛《ばく》され、身動きができない。
気がつくと、すぐ目の前に、美しい|魔《ま》|物《もの》が立っていた。
冷たい両手で、智の両腕をつかみ、引きよせる。
「おいで、智……」
「あ……」
この|瞳《ひとみ》に見つめられると、思考能力がなくなる。
指のあいだから砂がこぼれるように、時間の感覚も消えた。
(何も……考えられない……)
「私のものになるね」
まぢかで、形のいい|唇《くちびる》がささやく。
(いけない……)
心ではそう思うのに、体の力が抜けていく。
「智……」
ゆっくりと、唇が近づいてくる。
智は、力の入らない腕で|抗《あらが》った。
(京介……!)
すっと、うなじに冷たい指が入る。智は、ゾクッとして、身をすくめた。
首筋から背中へ、甘い|痺《しび》れが駆けおりた。
「ほら、気持ちがいいだろう」
「は……なせ……」
智は、|霊《れい》|気《き》を集中しようとした。
バチ……ッ!
小さな火花が、男の顔のあたりで|弾《はじ》けた。
男は、|瞬《まばた》きさえもしない。
「|可《か》|愛《わい》いな……。抵抗は、もう終わりかね」
(ダメだ……もう……)
その時だった。
「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》!」
京介の声が、響きわたった。
|邪《じゃ》|眼《がん》の支配力が、一瞬ゆるみ、智は、軽い|目《め》|眩《まい》を感じた。
「智! |呪《じゅ》|縛《ばく》されるな!」
再び、京介の声が呼びかけてくる。
智の意識が、ふいに正常に戻った。
(あ……!)
まぢかにいると思った|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、さっきと変わらぬ位置にいた。
京介に呪縛を破られ、|憤《ふん》|怒《ど》の|形相《ぎょうそう》だ。
京介が、智の前に割りこんできて、男に白い光の|剣《つるぎ》をむけた。
「智、ここは俺にまかせろ」
京介の|瞳《ひとみ》が、|怒《いか》りに燃えている。
「京介……」
「|邪《じゃ》|魔《ま》する気かね、鳴海京介。……いい|度胸《どきょう》だ」
|黒《こく》|衣《い》の|魔《ま》|王《おう》が、動きだした。
|床《ゆか》まである黒いマントが、かすかに波打つ。
「智、おまえは下がれ! こいつは、俺が倒す!」
京介の全身から、|妖獣《ようじゅう》の妖気と人間の|霊《れい》|気《き》が交互に吹きだしはじめる。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が、激しく|明《めい》|滅《めつ》した。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の妖気に|呼《こ》|応《おう》するように、高まる京介の霊気。
「京介!」
「下がれ、智!」
京介が、|厳《きび》しい声で命じる。
「おまえは、緋奈子を倒せ! いいな!」
智は、一瞬、京介の後ろ姿を見つめた。
信じていいのだ……と思った。
今の京介なら、きっと|大丈夫《だいじょうぶ》だ。
「わかった、京介」
智は、走りだした。
大ホールの中央に駆け戻る。
「|鷹《たか》|塔《とう》センセ!」
勝利が、呼びかけてくる。
「どうしたの、勝利君?」
「見てのとおりや」
麗子が、勝利に肩をささえられて立っていた。
顔色が悪い。
麗子の顔のあたりには、犬神が心配そうに浮いていた。
「麗子さん、大丈夫ですか」
麗子は、弱々しい声をだす。
「ごめん……ごめんね……智……」
「百瀬のあねさん、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の妖気にあてられてるんや。緋奈子に|捕《つか》まって、霊力|消耗《しょうもう》したぶん、きっついでぇ」
勝利が、低く|呟《つぶや》く。
「この妖気やったら、魔界への門……もぉすぐ開くで。そないなったら、やばいかもしれんわ。|霊力《れいりょく》弱い人間が、こんなかにおったら、一発でお|陀《だ》|仏《ぶつ》や」
「そのとおりよ、|宮《みや》|沢《ざわ》勝利」
勝ち|誇《ほこ》ったような緋奈子の声が、どこからともなく聞こえた。
ふいに、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の外の夜景が、|闇《やみ》に塗りつぶされはじめた。
第五章 願はくば花のもとにて
「|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》……どこだ!?」
「ここよ、|智《さとる》ちゃん……」
笑っているような声とともに、智の目の前が真っ暗になった。
(目が……見えない……!?)
一瞬、体が頼りなく浮いたような気がした。
智は、規則的に深呼吸する。
パニックを起こさないように。
(|怖《こわ》くない……怖いはずなんかない……)
五秒ほどで、視力が戻ってきた。
「あ……!」
|錯《さっ》|覚《かく》ではない。本当に、体が宙に浮いていた。
周囲の光景も一変していた。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》が、|遥《はる》か下に見える。
|遮《さえぎ》るものとてない頭上には、|煌《こう》|々《こう》と輝く月。
眼下には、|玩具《おもちゃ》のような京都の|街《まち》|並《な》みが広がっていた。
空中にいるが、踏みしめれば、足もとには地面のような感触がある。
(|幻《げん》|覚《かく》……?)
「幻覚じゃないわよ。ここは空中。落ちたら、グッシャリつぶれて死ぬわよ、智ちゃん」
緋奈子が、目の前に上ってくる。
上空の風に|翻《ひるがえ》る長い黒髪。
智を浮かせているのは、緋奈子の|霊力《れいりょく》だ。
「ごらんなさい、智ちゃん」
緋奈子の示すほうを見ると、魔天楼を中心に、放射状に|闇《やみ》が広がっていくところだった。
車のヘッドライトが川のようにつづいていたあたりも、今は沈黙している。
(霊気が……ない!?)
智は、ゾッとした。
普段、何げなく感じている街の|気《け》|配《はい》が、消え失せていた。
生きている人間の霊気が、感じられない。
街は、死んでいた。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》が、すべての命を吸いとってしまったのだ。
|荒涼《こうりょう》とした風が、吹き過ぎていく。
感じるのは、ただ、自分の心臓の|鼓《こ》|動《どう》と、|京介《きょうすけ》たちの|気《け》|配《はい》だけ。
(ひどいことを……)
智は、魔天楼を見おろした。
|妖《よう》|気《き》と|闇《やみ》の中心。
(あそこに、無数の人の命が……吸いこまれたのか……)
やがて、魔天楼の|屋上《おくじょう》に、一点だけ白い光がポツンと現れた。
闇のなかに浮かびあがる、かすかな|光明《こうみょう》。
「あれは……」
「|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の光」
尋ねたつもりはなかったが、緋奈子が|呟《つぶや》く。
ふいに、屋上の光景が拡大されて目に飛びこんできた。
闇に溶けこむような|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の姿。
その前で、天之尾羽張を構え、|間《ま》|合《あ》いをうかがう京介。
京介の十数メートル後ろで、|麗《れい》|子《こ》の肩をささえる|勝《かつ》|利《とし》。
京介たちも、緋奈子の|霊力《れいりょく》で、屋上に移動させられてきたらしい。
「智ちゃん、魔界への門が開くわ」
緋奈子が、優しい声でささやいた。
智と緋奈子の十メートルほど下に、緋色に燃える|裂《さ》け|目《め》が出現した。
裂け目から、熱い妖気が吹きだしてきた。
「う……!」
智は、とっさに霊気の壁を作った。
「|金《こん》|剛《ごう》|壁《へき》!」
体の周囲が、青白い光に包まれる。
熱い妖気は、魔天楼と、京都の|街《まち》に吹きつけた。
闇に閉ざされた京都の街が、|崩《くず》れはじめる。
あちこちで、ビルの角がボロボロと崩れ、闇に溶けていく。
「|綺《き》|麗《れい》でしょう、智ちゃん」
緋奈子が、そっとささやいた。
「今まで、生きている人間が、誰も見たことのない光景よ。|悪《あく》|夢《む》のなかでしか」
魔の|盟《めい》|主《しゅ》は、妖気の|嵐《あらし》のなかに浮かび、しだいに霊力を強めていくようだった。
「魔界の門は、あと十分で完全に開くわ。そうしたら、もう二度と閉ざすことはできない。……よくご覧なさい。ここから、人類の新しい歴史が始まるのよ。天敵のいなかった人間の前に、人間を食らう|鬼《おに》が現れるわ」
「かわいそうな……緋奈子」
智の胸に、|哀《あわ》れみが広がっていく。
望んだわけでもないのに、魔の盟主になって。
「あなたの本当の望みは……なんだったんだ、緋奈子。こんなことを望んでいたわけじゃないだろう」
「緋奈子の望みは、智ちゃんの命だけよ」
「|鎌《かま》|倉《くら》で……泣いていたね、緋奈子。オレは……あなたを救えないのかな」
緋奈子は、薄く笑った。
「救うですって……? 救う! は……おかしいわね。緋奈子は、今、こんなに幸せなのよ。最大の|霊力《れいりょく》を手に入れて、不可能なことなんか、もうこの世にはないのよ。緋奈子は、勝ったのよ。どうして、救ってもらう必要があるの、智ちゃん。教えてよ」
緋奈子が、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》む。
だが、智には、その言葉が、泣いているように聞こえた。
(緋奈子……)
わけのわからない|苛《いら》|立《だ》ちと、|焦《あせ》りが、緋奈子のほうから伝わってくる。
その時、緋奈子の心臓めがけて、白い光が、矢のように飛んできた。
「あ……!」
緋奈子は、|印《いん》を結んだ。|極《ごく》|彩《さい》|色《しき》の光が、緋奈子の胸の前で壁を作る。
白い光は、極彩色の壁を突きぬけた。
まっすぐ緋奈子の胸に吸いこまれていく。
「ぐ……っ!」
緋奈子が、胸を押さえて、|前《まえ》|屈《かが》みになる。
信じられないといった表情だ。
その胸もとには、純白の光の|剣《つるぎ》が、深々と刺さっていた。
|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》。
「|鳴《なる》|海《み》京介……よくも……!」
緋奈子は、空中でふらつき、もんどりうって、落ちていった。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の|屋上《おくじょう》にむかって。
「緋奈子!」
智の体も、降下しはじめる。だが、その勢いは|緩《ゆる》い。
落ちていく緋奈子が、|渾《こん》|身《しん》の力で霊力を集中し、智を空中にささえつづけているのだ。
自分を浮かせる霊気さえ、智に|注《そそ》ぎこんで。
「京介!」
智は、魔天楼の|屋上《おくじょう》を見おろした。
京介が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を投げつけた姿勢のまま、こちらを見あげている。
そのまま、ずっと動かない。
(京介……?)
京介の|霊《れい》|気《き》が、|妖《あや》しく波打つのが|視《み》えた。
京介の意思の力では、もう|抑《おさ》えられないようだ。
霊気が、|妖《よう》|気《き》に変わっていった。
(|妖獣《ようじゅう》になる……!)
「う……!」
京介は、弱々しく頭を|抱《かか》え、コンクリートに|膝《ひざ》をついた。
体が、変化しはじめた。
肩の骨がググググ……と盛りあがり、全身の|肌《はだ》がボコボコ|泡《あわ》だちはじめた。
泡が|弾《はじ》けると、そこからぞわぞわと白い毛が|生《は》えてくる。
背中が弓なりになり、腰があがり、手足の骨格が変わった。
その間、およそ五秒。
|金《きん》|目《め》で純白の妖獣が、そこにいた。
「京介……!」
妖獣は、|尻尾《し っ ぽ》を打ち振り、身を|翻《ひるがえ》して、走りだした。
目指すは、|黒《こく》|衣《い》をまとった美しい魔王。
「来るか、鳴海京介」
男は、優しく笑った。
ガーッ!
妖獣は、ひとっ飛びで、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に|躍《おど》りかかった。
「身のほど知らずが」
白い手が、|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》|印《いん》を結ぶ。
妖獣の体が、勢いよく|弾《はじ》き飛ばされた。
そのまま、二十メートルほどふっ飛んで、コンクリートの表面をえぐりながら止まる。
グルルルル……。
妖獣は、苦しげに|唸《うな》った。
ダメージが大きくて、立ちあがれないでいる。
男が、ゆっくりと、妖獣に歩みよっていく。
「もう終わりかね、鳴海京介。それなら、今度は私からいこうか」
増大していく、火之迦具土の妖気。
妖獣の|脇《わき》|腹《ばら》が、異様に|膨《ふく》らんだ。
|邪《じゃ》|神《しん》の|妖《よう》|気《き》に|呼《こ》|応《おう》するように、|妖獣《ようじゅう》の妖気も激しくなる。
ガーッ!
白い|肋《ろっ》|骨《こつ》が毛皮を破って、|槍《やり》のように突きだした。
勝利と麗子が、京介を助けようと走りだした。
「京介君っ!」
「京介ーっ!」
だが、|魔《ま》|王《おう》の妖気が、勝利と麗子を切り|裂《さ》いた。
飛び散る鮮血。
勝利のバンダナが、真っぷたつになって、コンクリートに落ちた。
|額《ひたい》から、左目にかけて、|鉤《かぎ》|裂《ざ》きのような傷ができている。
「う……!」
勝利は、血のあふれだす左目を押さえ、必死に魔王を|睨《にら》みつけた。
だが、もう動けない。
ポタリ……ポタリ……。
麗子の指先からも、血がしたたっていた。
アニマルプリントのスーツが、巨大な|爪《つめ》でひっかいたように、引き裂かれている。
胸や腰の裂け目から、黒い下着が見えた。
しかし、今は、そんなことに|頓着《とんちゃく》してはいられないようだ。
麗子が、血まみれの指で|印《いん》を結んだ。
魔王が、薄く笑ったようだった。
黒いマントを揺らすと、|屋上《おくじょう》に金色の|獅《し》|子《し》が現れた。魔王の使い魔だ。
獅子は、麗子と勝利に襲いかかる。
「そなたらには、使い魔で充分だ」
麗子が、金色の獅子に右肩を|噛《か》み裂かれ、悲鳴をあげて倒れた。
サラサラの長い髪が、|血《ち》|潮《しお》に|染《そ》まった。
(麗子さん……!)
グルルルル……!
妖獣は、震える脚で起きあがり、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に近よっていく。
男の妖気が、|鞭《むち》のようにのびた。
逃げようとする妖獣の首に巻きついて、屋上に|叩《たた》きつける。
妖獣のまわりの半径十メートルくらいのコンクリートが、|陥《かん》|没《ぼつ》した。
「京介ーっ!」
智は、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の屋上に降り立つのももどかしく、〈|魂《たま》|返《がえ》しの|鏡《かがみ》〉を取り出し、のぞきこんだ。
もう、迷わない。
「オン・バザラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ!」
|真《しん》|言《ごん》に、すべての|祈《いの》りをこめる。
(オレは……守りたい。
この世のすべてのもの……光と|温《ぬく》もりと優しさにつながるもの、すべて……。
そして、何より、オレにすべてをくれた、あの人を。
守りたい……!)
鏡が、智の手のなかで、|粉《こな》|々《ごな》に|砕《くだ》け散った。
「智ちゃん……!」
緋奈子の小さな叫びが、聞こえたような気がした。
そして、智は、すべてを思い出した。
*    *
|魔《ま》|界《かい》への門が、全開した。
ゴウゴウと音をたてて、風が、門にむかって吸いこまれていく。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》が、うめいていた。
オオーン……オオーン……オオーン……。
黒い超高層ビルが、うめくたびに、無数の人の|魂《たましい》が、魔界へ|呑《の》みこまれていく。
あたりには、人々の|呪《じゅ》|咀《そ》と|怨《おん》|念《ねん》が満ちていた。
――つらい……つらい……。
――なぜ……こんな目に……。
以前の|智《さとる》ならば、これだけの呪咀と怨念には、耐えられなかったろう。
ダイレクトに伝わってくる死者たちの苦痛に、発狂していたかもしれなかった。
だが、今の智は、|感《かん》|応《のう》能力を|制《せい》|御《ぎょ》できる。
智は、黒い|屋上《おくじょう》に立ち、金色の|錫杖《しゃくじょう》を構えていた。
|不空羂索観音《ふくうけんじゃくかんのん》の錫杖だ。
白い|妖獣《ようじゅう》が、智の足もとに、うずくまっている。
血まみれで、荒い息をしていた。
智の前には、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》がいる。
|麗《れい》|子《こ》と|勝《かつ》|利《とし》は、智の背後で、金色の|獅《し》|子《し》と|対《たい》|峙《じ》していた。
そして、屋上の|端《はし》、智から見て左前方に、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》がいた。
胸に|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が刺さったままだ。
どこか満足げな|瞳《ひとみ》は、|魔《ま》|界《かい》への門を見あげている。
火之迦具土が、ゆっくりと智に歩みよってくる。
|翻《ひるがえ》る黒いマント。
「火之迦具土……」
智は、|錫杖《しゃくじょう》を握りなおす。
「それ以上、オレに近づくな」
「私が|怖《こわ》いかね、智」
魔王は、足を止めた。
美しい顔が、じっと智を見つめている。
夜のなかで、|妖《あや》しく光る瞳は、エメラルドグリーン。
「おまえは、私のものだ」
|誘《さそ》いこむような、優しい声。
緋奈子が、ハッとしたように、智と魔王のほうを見た。
|妖獣《ようじゅう》が、よろよろと身を起こして、男に飛びかかった。
空中で、|鞭《むち》のような妖気に|捕《と》らえられた。
そのまま、コンクリートに|叩《たた》きつけられ、押さえつけられる。
「|京介《きょうすけ》!」
駆けよろうとした智の前に、黒いマントが立ちふさがる。
瞬間的に移動してきたのだ。
時間も、空間も、たぶん、この美しい魔物にとっては、|玩具《おもちゃ》のようなものかもしれない。
「ようやく、私にふさわしい者になったな……智」
男は、智を見おろしながら、|愛《いと》しげな声でささやく。
「今のおまえは、人間でありながら、人間よりも|遥《はる》かに神に近い。おまえのその|記《き》|憶《おく》が戻るのを待っていた。……ウジ虫のなかに生まれた美しい|鷹《たか》。私の|陰陽師《おんみょうじ》……来るがいい」
エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、深々と智の瞳をのぞきこむ。
その宝石のような瞳の奥に、|深《しん》|淵《えん》が|視《み》えた。
|空《くう》|漠《ばく》とした、暗い、果てのない空間が、男の目のなかにあった。
(|綺《き》|麗《れい》だ……)
|魅《み》|入《い》られてはいけないと思いながらも、智はそう思わずにはいられなかった。
人の行きつけぬ|荒涼《こうりょう》とした寒い地に、この魔物は|棲《す》んでいる。
寒さを寒さとも感じず、生まれ落ちてから、一度も泣いたこともない美しい魔王。
(こんなものが……存在するのか……)
「私の手をとるがいい、智。私とおまえは、同類だ」
甘い|誘《ゆう》|惑《わく》の声。
「オレは、魔王じゃない……」
智は、そっと首を横に振った。
「同じだ。私とおまえは」
「違う……」
男は、笑ったようだった。
「わかっているはずだ。力そのものには善も悪もない。魔王も、神も、同じレベルの存在なのだよ。ちっぽけな人間の価値観に|縛《しば》られることはない。……おまえなら、望めば、私と同じ力が手に入る。神にも魔王にもなれる力だ。その|混《こん》|迷《めい》の世界から抜け出ておいで」
「神にも魔王にも……?」
智は、小さく身震いした。
男の言葉に、|嘘《うそ》はない。
智の|霊《れい》|気《き》は、あまりにも強く、|清浄《せいじょう》すぎた。
雑念や|邪《じゃ》|念《ねん》のない、|透《す》きとおった霊気。
それは、通常、人間の持ちうるものではない。
神の領域だ。
「一緒においで、智」
この世のものならぬ|愛《あい》|撫《ぶ》の指が、智の肩から腕に|滑《すべ》りおりる。
「あ……」
智は、|蝶《ちょう》のように身を震わせた。
男の指が、優しく智の手から|錫杖《しゃくじょう》をもぎ離す。
錫杖が、遠くにほうりだされる|気《け》|配《はい》がした。
「やめなさい! 智ちゃんに手を出すのは許さないわよ、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》!」
緋奈子が、|怒《いか》り狂って叫ぶ声が聞こえた。
男が、チラと緋奈子を見た。
「誰の|味《み》|方《かた》だね、ピヨ子。……今までさんざん、智を攻撃してきたくせに」
|嘲《あざけ》るような声と同時に、緋奈子の前に、エメラルドグリーンの|大《だい》|蛇《じゃ》が現れた。
魔王の使い魔だ。
大蛇は、|毒《どく》の|牙《きば》をむきだして、緋奈子に襲いかかる。
その右手のほうでは、勝利が、麗子をかばって、金色の|獅《し》|子《し》と戦っていた。
傷ついた左目が見えないまま、|果《か》|敢《かん》に攻撃をしかけていく。
ざんばらの髪が鮮血に染まり、ジージャンも引き|裂《さ》かれて、ボロボロだ。
|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》のような姿だった。
「私のものだ……智」
男の|唇《くちびる》が、そっと智の唇に重なりかける。
智は、目を閉じた。
京介と出会う前、この男を愛していた。
あれも、魔王の力に|幻《げん》|惑《わく》されていただけかもしれないけれど。
(セオドア……)
婚礼の夜の|処《しょ》|女《じょ》のように、従順に魔王の口づけを待ちうける。
その一瞬。
|閃《せん》|光《こう》のように、この六月からの出来事が、智の|脳《のう》|裏《り》を走った。
|新宿区高田馬場《しんじゅくくたかだのばば》の路上での、京介との出会い。
夏の|江《え》ノ|島《しま》で出会った、勝利。
智の命を|狙《ねら》ってきた|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》・|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》。
やはり、同じ夏。
|鎌《かま》|倉《くら》を|焼《や》け|焦《こ》がした|炎《ほのお》と、|闇《やみ》と、祖父・|鷹《たか》|塔《とう》|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》の死。
(ああ……そうだった……)
智は、目を開いた。
今しも口づけようとした魔王が、動きを止めた。
智の心の変化に気づいたようだ。
「なぜ、私を|拒《こば》む、智」
優しい声で、尋ねる。
だが、まぢかでのぞきこむ男の|瞳《ひとみ》には、暗い炎が燃えている。
智は、静かに男を見つめた。
「オレは、もう、あなたの知っている鷹塔智じゃない。セオドア……京介は、オレに命をくれると言った。何もかもぜんぶ、オレにくれると。勝利君は、オレたちは運命共同体だと言った。麗子さんは、オレが助けにくるのを信じて、待っていてくれた。だから、オレは、あなたとは行けない」
男は、無言だった。
「短い期間でも、オレは|記《き》|憶《おく》をなくして、普通の人間として生きた。普通の人間の悲しみも、喜びも、この体で感じた。たぶん、記憶を失わずに、ずっと強いままだったら、オレは何も知らないままだったかもしれない。力をあわせて戦うってことも、仲間に守られて戦うってことも……。オレは、記憶のないあいだ、幸福だった。あなたは信じないかもしれないけれど……オレは、とても幸福だったよ」
「智……」
「その思い出があればこそ、オレは、今、ここであなたを拒める」
智は、瞬間的に、男から離れた場所に移動した。
五メートルほど離れて、真正面から、男の|瞳《ひとみ》を見返す。
(たしかに、オレの力は、|魔《ま》|王《おう》と同じだ……)
望めば、魔王と等しい力を持てる。
だが、それは、智自身は望まない力だった。
智は、微笑した。
(これでいいんだ……)
その瞬間、智の神にも等しい力が、完全に消滅した。
人間の強く清い|霊《れい》|気《き》だけが、そこにある。
人以外の力は、智が願っただけで、消え去ったのだ。
男は、|嘲《あざけ》るような目をした。
「私を|拒《こば》み、そこまで人間であることに|固《こ》|執《しつ》するのか、智」
「オレは、人間として戦いたい」
「それほどの力を、なぜ捨てる」
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、薄く笑った。
「|愚《おろ》かだな。おまえは、私におよばなくなってしまった。それほど、その人間の肉体が大事か。百年もたてば、|塵《ちり》に変わるものを」
「魔王の力なんか……いらない」
|邪《じゃ》|神《しん》は、黒いマントを大きく|翻《ひるがえ》した。
「よかろう。おまえがそのつもりならば、その肉体を滅ぼして、|魂《たましい》だけ手に入れよう」
黒いマントから、|雷《いかずち》が智にむかって走った。
智は、十数メートル|跳《は》ね飛ばされて、コンクリートに|叩《たた》きつけられた。
倒れたところへ、金色の|獅《し》|子《し》が飛びかかってくる。
獅子は、|鋭《するど》い|牙《きば》で、智の|喉《のど》を|噛《か》み切ろうとする。
「智!」
麗子が、悲鳴のような声をあげた。
だが、麗子自身も、右肩を深く噛み|裂《さ》かれていて、もう立ちあがれない。
勝利が、よろめきながら智に駆けよってきた。
「鷹塔センセ! 死ぬなぁーっ!」
勝利の|額《ひたい》から左目にかけて、出血がつづいている。
全身、傷だらけで、意識があるのが奇跡のような状態だ。
勝利は、獅子の首にむしゃぶりついた。
けれど、獅子に振りまわされて、頭からコンクリートに落ちる。
智は、その|隙《すき》に獅子から離れた。
「勝利君っ!」
勝利は、また立ちあがって、獅子にむかっていく。
「わいが、ここは引き受けた! 鷹塔センセは、こないな|雑《ざ》|魚《こ》、かまうことあらへん!」
行け……と、勝利の血まみれの背中が言っている。
「敵は、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》や! はよぉ!」
「ありがとう、勝利君……」
邪神のマントが翻るたび、智にむかって、雷が走る。
智は、素早く、二十メートルほど後ろに飛びのいた。
手をあげて、|錫杖《しゃくじょう》を呼ぶ。
金色の錫杖は、空中を飛んできて、智の手のなかにおさまった。
智は、錫杖を|掲《かか》げた。
思いきり、コンクリートに突きたてた。
シャラーン……シャラーン……シャラーン……!
|菩《ぼ》|薩《さつ》の錫杖は、清い音で鳴りはじめた。
智と錫杖の周囲に、光が|集《つど》いはじめる。
その光を浴びると、獅子と|大《だい》|蛇《じゃ》が溶けるように消滅した。
「天と地と、見えるもの、見えざるもの、すべてになり代わり、邪神・火之迦具土……あなたを|誅伐《ちゅうばつ》する」
智は、火之迦具土を見つめたまま、静かに宣告した。
智の全身の|霊《れい》|気《き》が、銀色に変わる。
男は、ふいに声をあげて笑いだした。
「この私を|誅伐《ちゅうばつ》する気か、智。……できるものか」
時田忠弘であった男の、薄茶の髪が、|闇《やみ》の色に変わっていく。
闇のなかで、なおいっそう|鮮《あざ》やかに燃える、エメラルドグリーンの|瞳《ひとみ》。
ド……ッ! ド……ッ! ド……ッ!
ふいに、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》のまわりで、巨大な|火柱《ひばしら》があがった。
天を|焦《こ》がす|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》。
智の顔にも、倒れた|妖獣《ようじゅう》の上にも、|火《ひ》の|粉《こ》が降りかかってくる。
妖獣の白い毛が、炎の照りかえしを受けて、真っ赤に|染《そ》まっていた。
勝利と麗子が、|固《かた》|唾《ず》を|呑《の》んで、成り行きを見守っている。
智は、|祭《さい》|文《もん》を|唱《とな》えはじめた。
「|高《たか》|天《まの》|原《はら》に|神《かむ》|留《づま》り|坐《ま》す |神漏岐神漏美之命以《かむろぎかむろみのみことも》ちて |皇御祖神伊邪那岐命《すめみおやかむいざなぎのみこと》 |筑《つく》|紫《し》|日《ひ》|向《むか》の|橘《たちばな》の|小戸之阿波岐原《おどのあわぎはら》に|身《み》|滌《そぎ》|祓《はら》ひ|給《たま》う|時《とき》に|生《あれ》|坐《ませ》る……」
|恨《うら》みも、|憎《にく》しみも、智のなかにはない。
(あなたを救いたい……。
|楽《らく》になってほしい)
それしか思わなかった。
|浄化《じょうか》の霊気が、火之迦具土の足もとから、|湧《わ》きあがる。
|邪《じゃ》|神《しん》の周囲の大気が、ダイヤモンドダストのようにキラキラ光る。
だが、清い霊気のむこうで、邪神は、|歪《ゆが》んだ|笑《え》みを浮かべている。
「まだわからないのかね、智。人間ふぜいの力では、私を倒すことはできないのだ」
火之迦具土の姿が、消えた。
「は……!」
(接近戦にもちこまれる……!)
智は、とっさに霊気の壁を作った。
「|金《こん》|剛《ごう》|壁《へき》!」
次の瞬間、男は智の背後に立っていた。
熱い妖気が、霊気の壁を|貫《つらぬ》いて、智の全身を|呪《じゅ》|縛《ばく》した。
「金剛壁くらいで、私を防げると思っていたのかね、智……」
背後から、肩に邪神の腕がまわった。
|肌《はだ》に直接、妖気が流れこんでくる。
男は、智の瞳をのぞきこんだ。
「あ……」
|錫杖《しゃくじょう》が、指のあいだから、|滑《すべ》り落ちた。
カラーン……!
「神の力を手放したおまえは、私の敵ではない」
智は、必死に目を閉じようとした。
(|邪《じゃ》|眼《がん》から|逃《のが》れなきゃ……)
だが、どうしても、目を閉じることができない。
「そう。それでいい……」
男が、|屈《かが》みこんで、智の|首《くび》|筋《すじ》に顔をよせてくる。
「この場で|昇天《しょうてん》させてやろう」
智は、ビクッと体を震わせた。
「京介……」
(オレに力を……)
その時だった。
ガルルルルルル……!
|怒《いか》りの|唸《うな》りとともに、|妖獣《ようじゅう》が、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の背中に飛びかかってきた。
「な……! まだ動けるのか……!」
振り返った男の|瞳《ひとみ》が、氷のように冷えた。
「緋奈子……! 裏切る気か……」
邪神の怒りの声。
|妖獣《ようじゅう》の真後ろには、緋奈子がいた。
妖獣にむけて、両腕を突きだしている。
その手のひらから、|霊《れい》|気《き》がまっすぐ、妖獣に流れこんでいる。
「智ちゃんは、渡さないわ、火之迦具土! 智ちゃんは、緋奈子のものよ。誰にも渡さない! あなたに智ちゃんを渡すくらいなら、|鳴《なる》|海《み》京介にだって力を貸すわ! あなたも鳴海京介も、お互いに殺しあって、二人とも死ねばいいのよ!」
その|隙《すき》に、智は錫杖をつかんだ。
男の手を振りほどき、コンクリートを強く|蹴《け》って、高く空に舞いあがる。
足もとのほうでは、妖獣、火之迦具土、緋奈子が|対《たい》|峙《じ》している。
少し離れたところでは、勝利が麗子をかばうように前に立ち、|印《いん》を結んで|結《けっ》|界《かい》を作っている。
「智ちゃんをあなたに奪われるくらいなら、この場で殺すわ! 緋奈子の力は今が絶頂。今だったら、あなたを殺せるわよ、火之迦具土!」
「やってみるがいい、緋奈子」
男は、妖獣の激しい攻撃をかわしながら、薄く笑った。
「智も、私も、両方、手に入れたいのか。本当に欲張りな女だな」
「あなたなんかに、わからない」
緋奈子は、胸に突き刺さった|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を、両手で、勢いよく引きぬいた。
鮮血が吹きだした。
「緋奈子の気持ちなんか、誰にもわからない!」
緋奈子は、宙に舞いあがった。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、わずかに顔をあげた。
だが、妖獣が、その体に飛びかかり、全身で押さえつけた。
緋奈子は、それを見てとり、安心したように智にむかっていく。
緋奈子の手のなかで輝く、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》。
ずいぶん無理して|顕《けん》|現《げん》させているのだろう。
天之尾羽張の光は、血のように赤く燃えている。
「死んでもらうわよ、智ちゃん」
智は、ただ緋奈子を見つめつづけた。
(|哀《あわ》れな女……)
智は、|錫杖《しゃくじょう》を構えなおした。
「緋奈子、今度こそ、あなたを倒す」
緋奈子は一瞬、|修《しゅ》|羅《ら》のような目をした。
だが、次の瞬間、|漆《しっ》|黒《こく》の髪が、顔にかかり、緋奈子の表情は見えなくなった。
「いい|覚《かく》|悟《ご》ね、智ちゃん」
緋奈子が、動いた。
天之尾羽張が、|眩《まばゆ》く輝きながら、智にむかって落ちてくる。
智は、錫杖をあげ、天之尾羽張を受けとめようとする。
だが、赤い|刃《やいば》が、錫杖に触れる寸前。
天之尾羽張の光が|失《う》せた。
降魔の利剣は、ただの金属片に戻る。
「あ……!」
智と緋奈子は、まぢかで見つめあった。
――そうじゃないだろう、緋奈子。
優しい京介の声が、風のようにそっとささやく。
語りかけているのは、京介自身でもある、天之尾羽張だ。
――おまえ、智を守りたかったんだろう……? 智に|憑依《ひょうい》させたくなくて、火之迦具土を自分のなかに呼びよせた。な、そうだよな……緋奈子。おまえが、本当はずっとずっと、智を守ってきたんだよな……。
「そんなわけないじゃない」
緋奈子は、無表情に言う。
「|他人《ひ と》のために、そこまでできるわけないじゃない……。ぜんぶ、自分のためよ。火之迦具土を手に入れたのも、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》になったのも」
――がんばったよな、緋奈子。ほかの誰が認めてくれなくても、俺が認めてやるぞ。……おまえ、すごくがんばったよな。途中で、魔の盟主になっちまったけど、でも、なんとか智を守ろうとしたんだよな……。
「あなたになんか……わからない」
緋奈子は、ポツリと|呟《つぶや》いた。
「鳴海京介になんか、絶対にわからないわ……!」
ふいに、緋奈子の全身から、緋色の|炎《ほのお》が吹きだした。
「わかるもんですか……!」
緋奈子は、|憎《にく》しみに|歪《ゆが》んだ|笑《え》みを浮かべた。
「よくも……わかったような口がきけるものね、鳴海京介! 緋奈子がこの七年間、どんな気持ちで生きてきたか、知らないくせに! |昨日《き の う》今日、智ちゃんと知りあったばかりのあなたに、何がわかるっていうの!?」
ドドドドド……ッ!
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》のすべての窓が、内側から爆発した。
|砕《くだ》け散り、雨のように地面に落ちていく、|幾《いく》|千《せん》|億《おく》のガラスの破片。
燃える|火柱《ひばしら》が、その破片を血の色に|染《そ》めた。
緋奈子は、ゆっくりと|屋上《おくじょう》に降り立った。
|振《ふ》り|袖《そで》は燃えあがり、美しい青い炎を|彗《すい》|星《せい》の尾のように引いている。
長い髪と|肌《はだ》は、緋色の炎に包まれていた。
カラン……。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片が、コンクリートの上に|滑《すべ》り落ちた。
智も、緋奈子を追って、屋上に降りた。
「緋奈子……」
緋奈子は、胸の前で静かに手をあわせる。
その|透《す》きとおった|眼《まな》|差《ざ》しに、迷いはない。
|狂信者《きょうしんしゃ》の|瞳《ひとみ》だ。
緋色に輝く魔界の門が、こちらに近づいてきた。
緋奈子の|祈《いの》りに引きよせられている。
門の内部には、|灼熱《しゃくねつ》したマグマのようなものが、|煮《に》えたぎっていた。
不定形の|魔《ま》|物《もの》が、マグマ状のもののなかで、|深《しん》|紅《く》の|泡《あわ》を|吐《は》きだしている。
|妖《よう》|気《き》が、耐えられないほど強まった。
|緋《ひ》|色《いろ》に燃える丸い穴は、近くにきてみると、直径十メートルはある。
|鮮《あざ》やかな赤い光が、|屋上《おくじょう》を照らしだした。
智たちの足もとに、|不《ぶ》|気《き》|味《み》な赤黒い影がおちる。
「あ……!」
智は、息を|呑《の》んだ。
緋色の穴のむこうに、魔界が|視《み》えた。
マグマ状のものが煮えたぎる海。
無数の|鬼《おに》どもが、赤い海を渡ってこちらに近づいてくる。
真っ黒な影が、霧のように|漂《ただよ》ってくるようにも見える。
鬼どもは、人間界へ侵入しようというのだ。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》と|妖獣《ようじゅう》も、戦いをやめて、緋色の門を見あげていた。
緋奈子は、ゆっくりと智にむきなおった。
青と緋の|炎《ほのお》に包まれたまま、歩きだす。
「さようなら、智ちゃん」
智に手を差し出す。
別れの|握《あく》|手《しゅ》を求めようというのか。
気を呑まれて、思わず差し出した智の手首を、緋奈子が、がしっとつかんだ。
「…………!」
「一緒に死のう」
ものすごい力で、智は引きずられた。
魔界の門の妖気で、|霊力《れいりょく》を集中できない。
左手の|錫杖《しゃくじょう》が、揺らぎ、消滅した。
麗子と勝利は、すさまじい妖気にあてられて、うずくまったまま震えている。
「緋奈子! 智を連れていく気か!?」
魔王が、|憤《いきどお》りの叫びをあげる。
「そうよ。あなたにとられるくらいなら、智ちゃんの|魂《たましい》ごと消滅させてあげるわ。無に|還《かえ》るのよ……あたしと智ちゃん、二人で……」
「やめろ……緋奈子! オレには、まだやらなければならないことが……!」
智は、血のような光の中で、緋奈子の手に|逆《さか》らった。
だが、どんなに必死に抵抗しても、緋奈子の力は揺るぎもしない。
狂気を秘めた|綺《き》|麗《れい》な|瞳《ひとみ》が、智を見つめた。
緋奈子の|頬《ほお》は、|炎《ほのお》を|映《うつ》したように、真っ赤に|染《そ》まっている。
「二人で消えてしまおう、智ちゃん。一緒に|闇《やみ》に|還《かえ》ろう……何もなかったことにして、終わってしまおうよ……」
「まだ死ねない……!」
「もういいのよ、智ちゃん。戦うことも、苦しむこともないの……|永《えい》|劫《ごう》の無に還ろう」
智は、引きずられたまま、緋色に燃える門の前に、連れていかれた。
ガルルルル……。
|妖獣《ようじゅう》が、毛を|逆《さか》|立《だ》てて、|唸《うな》っている。
だが、もう、この妖気のなかでは、動くことさえままならない。
「緋奈子……放せ……!」
「一緒にいらっしゃい。もういいの……戦わなくていいのよ……智ちゃん」
緋奈子は、智の両肩に腕をまわし、強く強く抱きしめた。
|懐《なつ》かしい手の感触。
(いつか……どこかで……同じことがあった……!)
智は、ハッとした。
あれは――十年以上昔のことだ。
智の四方に、四枚の|障子《しょうじ》の|幻《げん》|影《えい》が現れる。
障子のむこうに、真っ赤な火の玉が飛ぶ。
――お母さんが戻ってくるまで、緋奈子が智ちゃんを守ってあげる。|怖《こわ》くないわ。|大丈夫《だいじょうぶ》よ。
一瞬、智の視界に、八歳くらいの少女が、六歳くらいの少年の肩を抱きしめている姿が、|幻《まぼろし》のように浮かんだ。
二人とも、|裸足《は だ し》で、白い着物を着ている。
(あれは……オレだ……。
緋奈子とオレが……|百鬼夜行《ひゃっきやこう》の夜に……)
何も知らなかった遠い秋の日。
|幼《おさな》い緋奈子が、やはり幼い智を、全身で守ってくれた。
京都からそう遠くない場所にある、|滋《し》|賀《が》|県《けん》の静かな町で――。
(あんな日もあったんだな……。
遠くまで来てしまった。
オレたち二人とも、もう還れないほど遠いところまで……)
次の瞬間、障子は無数の|紋白蝶《もんしろちょう》に変わって、天に舞いあがっていく。
六歳の智は、思いっきり、頭をのけぞらせて、蝶の|行《ゆく》|方《え》を目で追いかける。
――わあ……。
|幼《おさな》い智の満面の|笑《え》みにつられるようにして、幼い緋奈子が微笑する。
もう戻ることのない優しい日々。
痛いくらい、緋奈子の指が、智の肩に食いこんでくる。
その痛みで、|幻《まぼろし》は消えた。
〈|式《しき》|固《がた》め〉。
|霊力《れいりょく》のある人間が、自分の身を|防《ぼう》|御《ぎょ》|壁《へき》がわりにして、|魔《ま》のターゲットとなった者を守る|呪《じゅ》|法《ほう》だ。
緋奈子は、すべての霊力を|懸《か》けて、魔王の攻撃から智を守ろうとしている。
(緋奈子……なぜ……)
|炎《ほのお》と|妖《よう》|気《き》が、智を包む。炎は熱くはなかったが、息ができない。
霊気が急速に失われていくのがわかった。
(もう……ダメかもしれない……)
「う……」
智は、首をまわして、|妖獣《ようじゅう》に視線をむけた。
妖獣の純白の毛は、炎の照りかえしを受けて、真っ赤に|染《そ》まっていた。
鮮血を浴びたようにも見える。
動けない妖獣の金色の目だけが、|鮮《あざ》やかに燃えていた。
智は、意識のあるかぎり、見つめつづける。
「京介……」
声に出さず、|唇《くちびる》だけ動かして、呼びかける。
緋奈子の|頬《ほお》が、ピクリ……と動いたようだった。
智は、勢いよく突き飛ばされた。
(え……!)
急に、息ができるようになった。
異様に赤いコンクリートに|膝《ひざ》をついて、見あげると――。
緋奈子が、緋色に輝く魔界の門のギリギリ手前まで|退《しりぞ》いていた。
力の限界まできて、智を手放したのだろうか。
燃えるような目で、智だけを|見《み》|据《す》えている。
魔王が、満足げな笑みを浮かべて、こちらに近づいてくる。
「力の限界か、緋奈子……早かったな」
緋色の光のなかで、影のように黒いマントが|翻《ひるがえ》った。
「来るがいい、智」
男は、智の前に|屈《かが》みこみ、ゆっくりと手をのばしてきた。
その時だった。
|魔《ま》|界《かい》の門が、なおいっそう赤く燃えあがった。
太陽のプロミネンスのように、|緋《ひ》|色《いろ》の|炎《ほのお》がうねり、ちぎれて飛んでいく。
その赤い門のなかから、巨大な黒い手が出てきた。
黒い手は、人間の体より大きかった。
ゆるゆると動く手は、音も|気《け》|配《はい》もなく、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》の背後に忍びよった。
やにわに、|邪《じゃ》|神《しん》の腰をわしづかみにする。
「な……にぃ……!?」
振り返った火之迦具土が、初めて恐怖の色を浮かべた。
巨大な黒い手は、火之迦具土をズルズルと魔界に引きずりこもうとする。
「イザナミが……お母さんが魔界で呼んでいるわよ、火之迦具土」
緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》に笑っている。
その首に、火之迦具土の手もとから、妖気の|鞭《むち》が飛んだ。巻きついて、|絞《し》めあげる。
「う……!」
緋奈子は、両手で妖気の鞭をつかんだ。
「おまえも道連れだ、緋奈子!」
火之迦具土は、妖気の鞭を強く引いた。
よろめき、たたらを踏む緋奈子。緋色の|振《ふ》り|袖《そで》が、大きく|翻《ひるがえ》った。
「くぅ……っ!」
緋奈子は、前にのめった。
同時に、黒い手が、グググググッと魔界の門に沈んだ。
プロミネンスのような緋色の炎が、火之迦具土の体にからみつく。
血のような赤い光が、邪神の体を照らしだした。
(あ……!)
次の瞬間、緋奈子と火之迦具土は、もんどりうって、赤い魔界の門に吸いこまれていった。
緋奈子は、最後の瞬間に、チラと智を振り返ったようだった。
――よかった……智ちゃんが無事で……。
別人のように優しい|瞳《ひとみ》。
緋奈子は、このうえもなく幸せそうに笑っていた。
――あたしの智ちゃん……。
そして、それきり、邪神と、魔の|盟《めい》|主《しゅ》の姿は、見えなくなった。
「緋奈子……!」
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》が、大きく揺れた。
ズズズズズ……!
地鳴りのような音がして、超高層ビルは、激しく上下しはじめた。
「緋奈子ぉーっ!」
智は、緋色に輝く|魔《ま》|界《かい》の門に駆けよろうとした。
その腰に、|妖獣《ようじゅう》の|尻尾《し っ ぽ》がシュルンと巻きつく。
ガルルルル……!
|警《けい》|告《こく》するような|唸《うな》り|声《ごえ》。
智は、妖獣のそばまで引き戻された。
「京介……緋奈子が……!」
妖獣は、グイと頭を振って、智に魔界の門を示す。
智は、息を|呑《の》んだ。
緋色に燃える魔界の門の|端《はし》に、人間の三倍もある白い手がかかった。
骨のように白い|額《ひたい》と、大きすぎるエメラルドグリーンの目が、こちらをのぞく。
その目のなかには、人間ならあるべき|瞳《どう》|孔《こう》がなかった。
巨大化した魔王が、少しずつ、こちらに戻ってこようとする。
「あ……!」
智は、その場に|膝《ひざ》をついたまま、魔界の門を|凝視《ぎょうし》していた。
(|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……どうして……!)
魔王は、両手に力をこめたようだった。
グググググ……ッと、黒衣の肩が抜けだす。つづいて胸が、そして、腰が現れた。
狂ったような男の笑い声が、響きわたる。
「しょせんは、女の|浅《あさ》|知《ぢ》|恵《え》だな。魔王たるこの私を魔界に|堕《お》とせるものか……」
塩のような色の手が、智にむかって伸びてきた。
「さあ……来るがいい、智……」
妖獣が、全身の毛を|逆《さか》|立《だ》てて、身構える。
血のような色の光のなかで。
智は、|傲《ごう》|慢《まん》な魔王の|瞳《ひとみ》を見あげた。
「オレは、あなたとは行かない。そう言ったはずだ」
「ならば、この場でおまえを殺して、|魂《たましい》を手に入れるまでだ」
「殺される気はない。……すみやかに魔界に|還《かえ》れ、火之迦具土!」
智は、静かに|印《いん》を結んだ。
「|高《たか》|天《まの》|原《はら》に|神《かむ》|留《づま》り|坐《ま》す |神漏岐神漏美之命以《かむろぎかむろみのみことも》ちて |皇御祖神伊邪那岐命《すめみおやかむいざなぎのみこと》 |筑《つく》|紫《し》|日《ひ》|向《むか》の|橘《たちばな》の|小戸之阿波岐原《おどのあわぎはら》に|身《み》|滌《そぎ》|祓《はら》ひ|給《たま》う|時《とき》に|生《あれ》|坐《ませ》る……」
静かな|祭《さい》|文《もん》と同時に、智の全身が、淡い金色に輝きだす。
肩が、指先が、金の光に包まれる。
その光に押されるようにして、少しずつ|緋《ひ》|色《いろ》の輝きが、智の周囲から|退《しりぞ》いていく。
|魔《ま》|王《おう》が、何かをいぶかしむように、動きを止めた。
智は、赤々と燃える魔界の門をひたと|見《み》|据《す》えた。
(もしもこの世に神がおられるなら――この|祈《いの》りを聞き届けたまえ……。
|秋《あき》|津《つ》|島《しま》の父なるイザナギ、母なるイザナミよ。
|八百万《やおよろず》の神々よ。
オレの愛した人々、これから出会う人々、そして、一生出会うことのない、すべての人々の上に、どうか幸福と平安を……。
ささやかな人の|営《いとな》みが、魔界の|鬼《おに》に|蹂躙《じゅうりん》されることのないよう――。
オレの命と引き替えに、どうか……守りたまえ……)
小さな金色の光の|粒《つぶ》が、智の全身から、ふわふわと天に立ち上っていく。
舞いあがり、舞い落ちる金色の光の|粒子《りゅうし》。
光の粒が触れると、駅前のビルが、街路樹が、アスファルトが、ぼうっと白く発光しはじめた。
智の立つ|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》を中心として、放射状に白い光は広がっていく。
無数の寺社の屋根が白く輝き、|洛《らく》|北《ほく》の山が光に|呑《の》みこまれる。
智の全身の金色の光は、しだいに強まり、やがて、目も開けていられないほどの純白の|光《こう》|芒《ぼう》に変わった。
京都市街が、白い光に溶けた。
いや、京都市街だけではない。
日本全土の空が、真昼のように青くなった。
金色の光の粒子は、|成《せい》|層《そう》|圏《けん》まで舞いあがり、異国の大地を照らしだした。
その一瞬、地球は、純白の光に包まれた。
世界じゅうで、寺院や教会の|鐘《かね》が、自然に鳴りはじめた。
(どうか……すべての命に安らぎを……)
智の祈りは、あらゆる国の、あらゆる土地に降りそそいだ。
暖かな雨のように。
春の|陽《ひ》|射《ざ》しのように。
(神よ、オレの命であがなえるものならば……この地上に平安を……)
神であることを捨て、人間として生きる道を選んだ天才|陰陽師《おんみょうじ》の|想《おも》いは、天に届いた。
智の白いアンゴラのセーターから、|芳《かぐわ》しい風が吹きだした。
風は、地上をあまねく吹きぬけた。
|邪《じゃ》|神《しん》は、不快そうに手をあげて、顔を|覆《おお》っている。
「なんでや……鷹塔センセ、そないな無理してぇ……死ぬで……!」
勝利が、あえぐような声で|呟《つぶや》く。
「|大丈夫《だいじょうぶ》。きっと、緋奈子が力を貸してくれているのよ」
麗子の声が、そっと|応《こた》える。
智が、両手を天に差しあげる。
純白に輝く|霊《れい》|気《き》が、|桜《さくら》の花びらに変わった。
|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》の周囲に、時ならぬ桜|吹雪《ふ ぶ き》が乱舞した。
花びらは、智の髪に、長い|睫《まつげ》の先に、白いセーターの肩に、優しく降りつもる。
|妖獣《ようじゅう》の背中が、|淡紅色《たんこうしょく》の花で埋めつくされた。
妖獣は、桜の香りをかぐように、鼻をフンフン動かしている。
緋色に燃える魔界の門は、今や白い光のなかの、たった一つの赤い点にすぎない。
桜の花びらが近づくと、緋色の|炎《ほのお》は、ためらうように少し|退《しりぞ》く。
そのたびに、門が|狭《せば》まる。
無数の花びらは、魔王の体にも張りついた。
魔王を、そっと魔界の門のなかへ押し戻していく。
「智……! 私を|拒《こば》むのか……智!」
|異形《いぎょう》のものは、両手で桜吹雪をはねのけながら、苦しげな表情をしていた。
その|唇《くちびる》に、ひとひらの花びらが、ふわ……と、|愛《いと》しげに触れた。
口づけのように。
「智……おまえ……」
智を見るエメラルドグリーンの|瞳《ひとみ》のなかに、|憧《あこが》れに似た光がきらめく。
「昔、あなたを愛していた。その思い出があればこそ、|還《かえ》ってほしい……セオドア。あなたの本来いるべき世界へ」
智は、真正面から、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》を見つめた。
|薄紅《うすくれない》の花が、邪神の姿を|覆《おお》い|隠《かく》していく。
「なぜだ……智……智……!」
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、|抗《あらが》いながらも、少しずつ魔界に沈んでいった。
最後まで、門の|縁《ふち》にかかっていた手も、やがては力つきてはずれた。
魔王の姿が、完全に消滅する。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
智の足もとが、|嵐《あらし》の海のように大きく揺れだした。
超高層ビルが、地面に沈みはじめた。
智は、精根つきて、|片《かた》|膝《ひざ》をついた。
もう立っていられない。
体が、大きく傾く。
「あ……」
|妖獣《ようじゅう》が、智に飛びついてきた。
その動きで、つもった|桜《さくら》の花びらが、ふわりと舞いあがる。
ガルルルル……!
妖獣は、|強《ごう》|引《いん》に智をくわえて、背中に放り投げ、走りだす。
智は、目を閉じた。
白い|獣《けもの》の毛に顔を|埋《うず》めて、その|温《ぬく》もりにすべてを預ける。
「勝利君! |犬《いぬ》|神《がみ》に乗って、早く!」
「おお!」
どこか遠くで、叫び|交《か》わす声が聞こえた。
それも、今の智にとっては、遠い夢のなかの出来事のようだった。
沈みゆく|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》から、|二《に》|匹《ひき》の獣が夜空に飛びたった。
*    *
|智《さとる》と|京介《きょうすけ》は、肩をよせあって、魔天楼の|崩《ほう》|壊《かい》を見つめていた。
あの黒い超高層ビルが|崩《くず》れるのと一緒に、|街《まち》に明かりが戻りはじめた。
もうすぐ、何事もなかったかのように朝がくる。
|麗《れい》|子《こ》は、駅のシャッターにもたれて座り、目を閉じている。
肩からの出血で、|瀕《ひん》|死《し》の重傷だ。
アニマルプリントのスーツも、ボロ布のように引き|裂《さ》かれている。
長い髪や腕に、まだ桜の花びらが張りついていた。
麗子の前に、巨大化した犬神がうずくまり、|喉《のど》の奥で|不《ぶ》|気《き》|味《み》に|唸《うな》っている。
ほかの人間たちを|威《い》|嚇《かく》しているのだ。
「麗子に近づくな……!」
|勝《かつ》|利《とし》も、傷だらけの体で、アスファルトの上に座りこんでいた。
ジーンズのポケットから取りだした新しいバンダナで、|額《ひたい》から左目にかけての傷を押さえている。
「あの黒い手、なんだったんだよ」
京介が、ためらいがちに、口を開いた。
妖獣の姿から、さっきもとに戻ったばかりだ。
妖獣になっていたあいだの|記《き》|憶《おく》も、ちゃんとあるらしい。
「たぶん、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が|召喚《しょうかん》したんや。最後の力でな……」
勝利が、そっと答える。
「|鷹《たか》|塔《とう》センセを守るためにな」
長い沈黙がつづく。
「これで……終わったのかな……」
京介が、小さく|呟《つぶや》いた。
「終わるなんてことは、あらへんのや……」
勝利が、答える。
「人がこの世におるかぎり、|怨《おん》|念《ねん》も|憎《にく》しみも消えへん」
「でも、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》は、|魔《ま》|界《かい》に消えたんだろ?」
「今んとこはな」
「また……戻ってくるのか?」
「ああ……いつか、戻ってくるやろな。それが、一年後か、十年後か、それとも百年、二百年後か、誰にもわからへん」
勝利は、|皮《ひ》|肉《にく》っぽく笑って、ゆらり……と立ち上がった。
ポタ……ポタ……。
止まりきらない血が、アスファルトを赤黒く|染《そ》める。
「どこへ行くの、勝利君……?」
智は、そっと尋ねた。
「女んとこや。わいには、|街《まち》ごとに女がおるんや」
勝利は、バンダナをポケットにつっこみ、ニヤリと笑う。
ジージャンの肩から、|桜《さくら》の花びらがハラハラと落ちた。
「手当てしてもらうんやったら、|極上《ごくじょう》の美女がええわ……」
勝利は、またな……というように、手を振ってみせる。
そのまま、不良少年は、倒れこむようにランドクルーザーに乗りこみ、走り去った。
「じゃあ、俺さまも行くぞ」
犬神が、麗子をくわえて、背中に乗せた。
薄明るくなってきた空に舞いあがる。
「あ……犬神……ちょっと!」
京介が、|慌《あわ》てて呼びかける。
「俺たちを置いていく気か?」
「ケッ。おめーらの仕事は、もう終わったんだよ。事後処理は、JOAがやるから、安心しな」
その声が聞こえた時には、もう犬神と犬神使いの姿はなかった。
東の空が、|白《しら》みはじめた。
あちこちから、鳥の声が聞こえてくる。
智は、|凍《こご》えた手を握りしめ、いつまでもその場を動かなかった。
(緋奈子……)
最後まで、わかりあえなかった。
許しあうことも、手をとりあうことも、何ひとつできなかった。
「オレは……緋奈子を救えなかった……」
|目《ま》|蓋《ぶた》の裏に、今も、あの最後の緋奈子の|眼《まな》|差《ざ》しが焼きついている。
|前《ぜん》|世《せ》では智の母だったと言っていた、あれは本当だったのかもしれない。
|慈《いつく》しむような、無限の優しさに満ちた|瞳《ひとみ》。
「オレは……あの人を救ってやれなかった。……|悔《くや》しいよ……京介……」
智の|睫《まつげ》に、|桜《さくら》の花びらが一枚残っている。
|美《び》|貌《ぼう》の|陰陽師《おんみょうじ》は、それにも気づかず、|呟《つぶや》きつづける。
「悔しいよ……」
京介は、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》のあったあたりを、じっと見つめた。
「緋奈子は、満足して死んだんだ。おまえが、|悔《く》やむ必要はないよ」
「満足して……?」
「ああ……」
京介は、|眩《まぶ》しげな|瞳《ひとみ》で、チラッと智を見た。すぐ、目をそらす。
少し様子が変だ。
「俺が緋奈子の立場でも、たぶんそうだったろう。……おまえを守りたくて、がんばって、守れたんだから……それでいいんだよ」
「オレを守りたくて……?」
「緋奈子、けっこうマジで、おまえのこと好きだったんだな……」
京介は、しんみりした|口調《くちょう》で|呟《つぶや》く。
たぶん、京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が緋奈子を|貫《つらぬ》いた瞬間、彼女の|想《おも》いを、理解したのだ。
心の深い深い部分で。
「京介……」
智は、京介にむかって、小さくうなずいてみせた。
「オレたちも、帰ろう、東京へ」
「いいのか……?」
京介は、困ったように智を見た。
「まだ……俺が必要なのか? おまえ、|記《き》|憶《おく》が戻って、変わっちまったんだろ。なんか、|神《こう》|々《ごう》しくてさ……|綺《き》|麗《れい》すぎて、人間じゃねーみてーだよ。俺……そばに寄れねーよ」
智は、微笑した。
「オレは人間だよ」
「ああ、そうだな……人間なんだよな」
言いながら、京介は、不安げな目をしている。
智は、しばらく京介を見つめていた。
(オレは、そんなに変わってしまったんだろうか……)
でも――。
智は、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》のあったあたりに、もう一度目をやった。
(あの時は、こうするしかなかったんだよ……京介)
智は、京介の手に、そっと手を|滑《すべ》りこませた。
「智……」
驚いたように、見つめ返してくる京介の|瞳《ひとみ》。
のびあがって、|唇《くちびる》をあわせる。
その動きで、|桜《さくら》の花びらが、|睫《まつげ》から、ひらり……と落ちた。
花びらは、京介の胸をかすめて、風に吹きさらわれていく。
「まだ必要だから、京介……」
それ以上、言葉はいらなかった。
京介の両手が、智の頭を|抱《かか》えこんだ。
今度は、二人とも、長いこと動かなかった。
天から、無数の|桜《さくら》の花が、くるくるまわりながら落ちてくる。
智と京介のまわりに、つもりはじめる。
やがて、朝の最初の光が、ビルの|隙《すき》|間《ま》から京都駅前に|射《さ》しこんできた。
桜は朝日にあたると、雪のように|解《と》けて、消えた。
[#地から2字上げ]『銀の共鳴5』に続く
『銀の共鳴』における用語の説明
[#ここから1字下げ]
これらの用語は、『銀の共鳴』という作品世界のなかでのみ、通用するものです。
表現の都合上、本来の意味とは違った解釈をしていることを、ここでお|断《ことわ》りしておきます。
|陰陽師《おんみょうじ》や|式《しき》|神《がみ》などについて、|詳《くわ》しくお知りになりたいかたは、巻末に参考文献の一覧がありますので、そちらをご覧になってください。
[#ここで字下げ終わり]
アフリマン……日本以外のすべての国と土地を支配する|闇《やみ》の存在。|魔《ま》|王《おう》、|虚《きょ》|言《げん》の王などとも呼ばれる。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》……|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》とも呼ばれる。普段は十五センチほどの金属片だが、|鳴海京介《なるみきょうすけ》の|霊《れい》|波《は》と意思に|感《かん》|応《のう》して、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》する。
陰陽師……式神を|操《あやつ》り、|退《たい》|魔《ま》や|呪《じゅ》|咀《そ》、|除災招福《じょさいしょうふく》などを行う術者。
|祭《さい》|文《もん》……|祝詞《の り と》のこと。同じものでも、神官が|唱《とな》える時は「祝詞」、陰陽師が唱えると「祭文」になる。ここで使っている祭文は「|天《あま》|津《つ》|祝詞《の り と》」。
JOA……ジャパン・オカルティック・アソシエーション。財団法人日本神族学協会の略。日本国内|唯《ゆい》|一《いつ》の霊能力者の管理・教育機関で、超法規的組織である。多くの霊能力者を|抱《かか》え、退魔|報酬《ほうしゅう》による|莫《ばく》|大《だい》な資金を|擁《よう》し、政財界やマスコミ、司法当局に大きな影響力を持っている。
|式《しき》|固《がた》め……霊力のある人間が、自分の身を|防《ぼう》|御《ぎょ》|壁《へき》代わりにして、魔のターゲットとなった者を守る|呪《じゅ》|法《ほう》。
|式《しき》|神《がみ》……|陰陽師《おんみょうじ》が|呪術《じゅじゅつ》を行う際に|操《そう》|作《さ》する|神《しん》|霊《れい》。紙の|呪《じゅ》|符《ふ》から作ったり、神や|鬼《おに》をとらえて|使《し》|役《えき》したりするなど、製造方法は多種多様。
|四《し》|識《しき》|神《じん》……|鷹塔智《たかとうさとる》の四体の式神、|桜良《さ く ら》・|睡《すい》|蓮《れん》・|紅葉《も み じ》・|吹雪《ふ ぶ き》の総称。式神は、識神とも表記する。
|呪《じゅ》|殺《さつ》……霊能力で人を|呪《のろ》い殺す行為。JOAでは、これを堅く禁じている。だが、呪殺を禁じるJOA自身が、一方では、心霊犯罪の|被《ひ》|告《こく》の|処《しょ》|罰《ばつ》と、活動資金調達のため、呪殺を|請《う》け|負《お》っているという|噂《うわさ》がある。
|錫杖《しゃくじょう》……ここでは、|羂索《けんじゃく》と並んで、|不空羂索観音《ふくうけんじゃくかんのん》の力の|象徴《しょうちょう》としている。陰陽師・鷹塔智は、|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》えて、一度、霊力を不空羂索観音に預け、代わりに|菩《ぼ》|薩《さつ》の力(慈悲)の象徴である錫杖を借り受ける。智の|破邪誅伐《はじゃちゅうばつ》は、「滅ぼすこと」ではなく、「救うこと」を目的としているからである。
不空羂索観音……七観音の一体。正式には、不空羂索|観《かん》|世《ぜ》|音《おん》菩薩という。もともと、羂は|網《あみ》、索は|綱《つな》を意味する。羂索は、網と綱で鳥や魚を|捕《と》らえるように、俗人を一人残らず救いあげる、という、|仏《ほとけ》の広大無辺の慈悲の心を象徴している。不空羂索の名には、羂索の意味を〈|空《むな》〉しくしない、という意味がある。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神。実の母を焼き殺して誕生し、後に実の父に|斬《き》り殺された。日本最強の|邪《じゃ》|神《しん》である。その|怨《おん》|念《ねん》は、今も|浄化《じょうか》されていない。
あとがき
書きたかったのは、世界の破滅を救うために、自分の命を投げだそうとする少年の姿なのです。
その|悲《ひ》|壮《そう》|感《かん》が、けっこう好き。
鼻持ちならないとか、|胡《う》|散《さん》くさいとか、自分でも思うのだけれど。
でも、想像しはじめると、ついうっとりしてしまうんですよね、これが。
そして、たった一人で、世界と引き換えの死にむかって|疾《しっ》|走《そう》する少年Aを、痛々しいと思ってしまう少年Bがいて。
「危ないから、ついてこないで」と言う少年Aにむかって、「誰もおまえを守ってやらないんなら、せめて俺がおまえを守ってやる」と宣言する少年B。
世界を救う使命を帯びた「救世主」にだって、誰かに甘えたり、抱きしめてもらう権利はあっていいよなあ。
ずっと追いかけつづけてきたテーマというか、作者の主張は、このへんにあるのかもしれません。
言わずもがなですが、少年Aに、主人公・天才|陰陽師《おんみょうじ》の|鷹塔智《たかとうさとる》。
少年Bに、|相《あい》|棒《ぼう》・|鳴海京介《なるみきょうすけ》が入ります。
|我《わ》が|家《や》は、両親ともカトリックなので、|岡《おか》|野《の》は、幼稚園の頃から『聖書』を読まされて育ちました。
|退《たい》|魔《ま》|物《もの》なのに、つい|漂《ただよ》ってしまうキリスト教の|香《かお》り(笑)を|指《し》|摘《てき》されたこともあるんですが、バックボーンがそうなので|堪《かん》|忍《にん》してください。
お|彼《ひ》|岸《がん》なんか、我が家は関係なかったから、外国の行事みたいで、よそのお|家《うち》でどんなことやってるのかよくわからない。
もっとも、うちの母は、|十字架《じゅうじか》と一緒に|位《い》|牌《はい》を飾って、毎日、お水とご飯をお|供《そな》えしてるような人だけど。お彼岸には、十字架の前にオハギをお供えしてるし、新年には、|鏡餅《かがみもち》が飾ってあった。ねえ、本当にこれでいいの? 不安だなあ……。
ええと、『銀の共鳴』第四巻『月の|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》』をお届けします。
四巻目ですが、このシリーズは、すべて一話完結形式です。
この巻はこの巻だけで、独立して読めるように書いてあります。
前の巻の内容も、キャラクター同士の関係も、きちんと説明してるので、巻を飛ばして読んでも|大丈夫《だいじょうぶ》です。だから、買ってねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] よろしくっ。
このシリーズのサブタイトルは、『|桜《さくら》の|降《ごう》|魔《ま》|陣《じん》』『水の|伏《ふく》|魔《ま》|殿《でん》』『|炎《ほのお》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》』……と、ぜんぶ『〇の×××』で、「魔」の入る三文字熟語を使ってます。
でも、さすがに四つ目になると、思いつかなくて、だいぶ苦労しました。
「魔」が入る三文字熟語って、|広《こう》|辞《じ》|苑《えん》なんかでも、あんまり|載《の》ってないんだもん。
あっても、「魔法|瓶《びん》」だとか「断末魔」だとか……(泣)。
「大魔王」ってのもあるけど、なんだか|情《なさ》けない。
『月の魔天楼』は、なんとか、当て字で乗り切ったぞ……と。
「桜」に「水」に「炎」に「月」で、ならべると|綺《き》|麗《れい》だと思うんだけど。
でも、友人にこの巻のサブタイトルを教えたら、「学生服美少年戦士が、月に代わってお仕置きよH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]」と、ポーズをつけられてしまいました。
「都会に|巣《す》|食《く》う|怨《おん》|念《ねん》に|挑《いど》む、学生服美少年戦士のサイキック・ファンタジー」……やだな、これ。
ちなみに、次回、五巻目のサブタイトルは『雪の|破《は》|魔《ま》|弓《ゆみ》』。
最初の予定では、五巻完結だったので、次回が最終巻のはずでした。
ところが、のびました。一巻増えて、六巻完結になりました。
ありがとうっ。みなさまの熱烈な応援のおかげです。
|岡《おか》|野《の》、ますます気合いを入れて、いいもの書きますので、六巻目までよろしくおつきあいくださいね。
そういうわけで、『雪の|破《は》|魔《ま》|弓《ゆみ》』は、冬の物語です。
舞台は、クリスマスの|北《ほっ》|海《かい》|道《どう》になるか、|大《おお》|晦日《み そ か》のカウントダウンの|横《よこ》|浜《はま》になるか……まだ決めてません。
でも、常にラストは、ハッピーエンド。
読者さまの期待は、裏切りません。
お楽しみにH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
この巻を書いている最中に届いたもののなかで、一番インパクトがあったのは、|勝《かつ》|利《とし》のイメージが|大《おお》|槻《つき》ケンヂ……ってお手紙。そ、そんなすごいものを想像なさってるんですか!? いや、あのメイクがなければ、|端《たん》|正《せい》な顔だと思いますけど……。
ちなみに、このかたのキャスティングは、京介が|別《べつ》|所《しょ》|哲《てつ》|也《や》。|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》が、若い頃の|草《くさ》|刈《かり》|正《まさ》|雄《お》。|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が|田《た》|中《なか》|裕《ゆう》|子《こ》。実写だと|怖《こわ》いですね、なんだか。
京介が、|織《お》|田《だ》|裕《ゆう》|二《じ》に似てるってお手紙もちらほら。「耳」と「サル顔」が似てるそうです。うぷぷ。作者のコメントは|避《さ》けます。
このお話を書くために、京都に取材に行きました。
京都|怨霊《おんりょう》紀行+修学旅行のメッカを歩く(笑)というコンセプトで。
取材したのは、|晴《せい》|明《めい》|神《じん》|社《じゃ》を|筆《ひっ》|頭《とう》に、|一条戻橋《いちじょうもどりばし》(小さいんで、びっくりした)、|養《よう》|源《げん》|院《いん》の|血天井《ちてんじょう》、|東《とう》|寺《じ》、|三十三間堂《さんじゅうさんげんどう》、|清《きよ》|水《みず》|寺《でら》、|太《うず》|秦《まさ》映画村、|二条城《にじょうじょう》、|祇《ぎ》|園《おん》、|新京極《しんきょうごく》……などなど。
智の|錫杖《しゃくじょう》が、|不空羂索観音《ふくうけんじゃくかんのん》の錫杖をお借りしている……という設定なので、|広隆寺《こうりゅうじ》の不空羂索観音像にもご|挨《あい》|拶《さつ》に行きました。
「うちの智をこれからもお守りください」なんて言って。
ちなみに、作中の|浄光寺《じょうこうじ》は実在しません。モデルのお寺もありません。|鎌《かま》|倉《くら》を壊滅させたので、ちょっと|懲《こ》りました。
今回、智と京介が、|新宿《しんじゅく》新南口発の夜行バスで早朝の京都について、ぐったりしているところまでは、岡野の実体験です。体力のないかたに、夜行バスはお|薦《すす》めしない。
でも、私は、智と京介には、すべての始まった新宿から京都に旅立たせたかったので。
根性で、夜行バスに乗りましたね。
|一《いっ》|睡《すい》もできなかったのには参りましたが、徹夜明けの異様に|冴《さ》えた頭で、早朝の京都駅前に降りた時は、なんだかすごくいい気分でした。
京都で、|偶《ぐう》|然《ぜん》、小さな神社のお祭りに出くわしました。
で、たまたまお会いしたそこの|宮《ぐう》|司《じ》さんが、なんと白いコットンシャツに、白いズボン。|靴《くつ》も白かったんですよ。
うわー。智と同じだぁ。
神職のかたって、ひょっとして、本当にいつも白ずくめなんですか?
……などと、質問しようと思ったけど、|養《よう》|源《げん》|院《いん》の|血天井《ちてんじょう》を見に行くところで、時間がなかったのでやめました。ちょっと心残り。
あ、ちなみに、智の服がいつも白いわけは、ペーパーの3号に|載《の》ってます。知りたい人は、お手紙を書こう(あこぎだな、|岡《おか》|野《の》)。折り返し、ペーパーをお送りします。
ええと、今回、|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》という超高層ビルを使いました。
地上百階。
これは、ランドマークタワーの七十階を|超《こ》えて、日本一の高さです。火炎の真理教って、本当にお金持ちですね。
魔天楼にホテルが入ってて、ショッピングモールがあったら、笑えるかもしれない。
あと、火炎の真理教の機関誌が「Hinako」ってやつで、ケン・ドーンの表紙で、おしゃれな|退《たい》|魔《ま》スポットだとか、グルメのお店を特集してたら、イカス(笑)などと、つまんないこと考えてました。
これ、大学の|後《こう》|輩《はい》に話したら「緋奈子のファンになっちゃうから、それだけはやめて」って泣かれました。だから、本文には書かなかった。……ちょっとだけ本気で書きたかったのに。
登場人物のプロフィールについて。
今さらですが、リクエストがあったので、簡単にご紹介します。
◇鷹塔智……八月十五日生まれ。身長一七六センチ、体重五六キロ。
どうも、書いてると、作者の感覚として、智の身長は一六五センチくらいじゃないかって気がしますが……。やっぱり、一七〇センチ以上ないと、広い場所で退魔した時、はえませんからね。
◇鳴海京介……五月五日生まれ。身長一八七センチ、体重七五キロ。
◇|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》……十一月二五日生まれ。身長一六六センチ、体重はナイショ。
◇|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》……十月十四日生まれ。身長一七八センチ、体重六二キロ。
◇|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》……九月九日生まれ。身長一九〇センチ、体重七七キロ。
◇時田緋奈子……十月三〇日生まれ。身長一六〇センチ、体重四七キロ。
シリーズの最初の頃、ひそかにゲームセンターの|相性占《あいしょううらな》いで、智と京介の相性を占ったら、最悪でした。かわいそうに(笑)。
その後、誕生日の設定を変えようと思いつつ、初期設定のままで、今日まできてしまいました。これで定着しちゃうのね。かわいそうに(爆笑)。
緋奈子のイメージ曲は、『|二人静《ふたりしずか》』。
四巻を書きながら、エンドレスで聞いてました。
緋奈子を通して、女の|業《ごう》というか、悲しさを表現できれば……と思っています。
三巻で、ドッと緋奈子への同情票が増えました。
たぶん、この人、「美人じゃない」ってのがネックで、今まであんまり人気がなかったような気がします。でも、緋奈子が美人だったら、智に対してあんなふうな|屈《くっ》|折《せつ》のしかたは絶対にしなかったと思うので。
自分より|綺《き》|麗《れい》な男を好きになってしまって、内心、智に対して引け目感じて、素直に好きとは言えなくて。でも、それでも好きで、どうしようもなくて。
心のなかで、絶対に智は自分のものにならないって確信してるから、「恋人」以外の立場を必死で選ぼうとするんですよね。
そのギリギリの気持ちが、「|前《ぜん》|世《せ》での母」って表現になる。
母として、智を守る……ってことでしか、智のそばに行けないんですよ、緋奈子は。
そういうふうに、|不《ぶ》|器《き》|用《よう》で、激しい緋奈子が好きです。
三巻から、急に「初めて書きます」っていうお手紙が、たくさんくるようになりました。
勇気をだしてくださって、本当にありがとう。
みなさまの|励《はげ》ましのお言葉にささえられて、四巻目まで、がんばってこれました。
どの巻も、その時点での私のベストの力を出してきたつもりです。
全力でぶつかっていくと、少しずつ、お手紙の反応が変わってきて、|面《おも》|白《しろ》いですね。
最初は、|当《あ》たり|障《さわ》りのない感想が多かったんですけれど、最近は、かなりつっこんだ意見とか、「これは違うぞ」みたいなご|指《し》|摘《てき》が増えてきました。
『銀の共鳴』の物語を、通りすぎるのではなく、立ち止まって、じっくり読んでくださってるんだな……と思うと、うれしいです。本当にありがとう。
いただいたお手紙に、直接お返事を書く余裕がないのですが、ペーパーで、ほとんど全員のお手紙をご紹介して、|岡《おか》|野《の》のコメントをつけています。これがお返事代わりということになります。
ペーパーは、不定期発行。お送りする|封《ふう》|筒《とう》の|宛《あて》|名《な》は、読者さまのお名前を覚えるために、最初だけはなるべく|岡《おか》|野《の》が手書きで書くようにしてます。根性ないと、ワープロ使っちゃいますけどね。
では、最後になりましたが、|担《たん》|当《とう》の小林様、いつもありがとうございます。今回、おいしいシーンがイラスト指定されるように、枚数を計算して書いていたのですが、途中であきらめました。今後とも、よろしくお願いいたします。
|碧《あお》|也《また》ぴんく様、毎回、とても|綺《き》|麗《れい》なイラストをありがとうございます。三巻のタキシード京介には、笑いました。今回は、京介、学ランで|地《じ》|味《み》ですが……きっと、かっこよく描いてくださることでしょう(イラストはまだ見てないの)。
この本をお手にとってくださった読者様。
|邪《じゃ》|悪《あく》な|気《け》|配《はい》の満ち満ちる秋の京都へ、ようこそ。
智や京介と一緒に、|波瀾万丈《はらんばんじょう》の冒険をお楽しみください。
では、次回、『雪の|破《は》|魔《ま》|弓《ゆみ》』で、またお会いしましょう。
[#地から2字上げ]|岡《おか》|野《の》|麻《ま》|里《り》|安《あ》
〈参考図書〉
『悪魔の事典』(フレッド・ゲティングズ・青土社)
『延喜式祝詞教本』(御巫清勇・神社新報社)
『鬼がつくった国・日本』(小松和彦/内藤正敏・光文社)
『陰陽道の本』(学習研究社)
『京都再発見』(KKベストセラーズ)
『現代こよみ読み解き事典』(岡田芳朗/阿久根末忠編著・柏書房)
『古事記』(倉野憲司校注・岩波書店)
『古事記(上)全訳注』(次田真幸・講談社)
『詳説佛像の持ちものと装飾』(秋山正美・松栄館)
『神道の世界』(真弓常忠・朱鷺書房)
『神道の本』(学習研究社)
『図説日本の妖怪』(近藤雅樹編・河出書房新社)
『世界宗教事典』(村上重良・講談社)
『道教の本』(学習研究社)
『にっぽん怪奇地帯を行く』(佐藤有文・KKベストセラーズ)
『日本伝説集』(武田静澄・社会思想社)
『日本の呪い』(小松和彦・光文社)
『日本の秘地・魔界と聖域』(小松和彦/荒俣宏ほか・KKベストセラーズ)
『仏教語ものしり事典』(斎藤昭俊・新人物往来社)
『仏像に想う』(下)(梅原猛+岡部伊都子・講談社)
『梵字必携』(児玉義隆・朱鷺書房)
『密教の本』(学習研究社)
『図説民俗探訪事典』(大島暁雄/佐藤良博ほか編・山川出版社)
『図説歴史散歩事典』(井上光貞監修・山川出版社)
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九四年四月刊)を底本といたしました。
|月《つき》の|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》 |銀《ぎん》の|共鳴《きょうめい》4
講談社電子文庫版PC
|岡《おか》|野《の》 |麻《ま》|里《り》|安《あ》 著
(C) Okano Maria 1994
二〇〇二年一一月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001