炎の魔法陣 銀の共鳴3
岡野 麻里安
目 次
序 章
第一章 無限と永遠
第二章 |剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》
第三章 |星《ほし》|月《づく》|夜《よ》の|街《まち》で
第四章 |闇《やみ》|舞《まい》
第五章 |鎌倉炎上《かまくらえんじょう》
第六章 金目の|妖獣《ようじゅう》
第七章 夢の|奥《おく》|津《つ》|城《き》
『銀の共鳴』における用語の説明
あとがき
登場人物紹介
●|鷹塔智《たかとうさとる》
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十六歳の|超《ちょう》一流|陰陽師《おんみょうじ》。元JOA(財団法人日本神族学協会)職員だが、|呪《じゅ》|殺《さつ》を|請《う》け|負《お》うJOAの姿勢に失望し、脱会。|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》じられ|昏《こん》|倒《とう》したところを、|京介《きょうすけ》に救われる。普段は周囲の|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》をそそる美少年だが、記憶の底に眠る陰陽師としての力を発揮すると、|怜《れい》|悧《り》な|美《び》|形《けい》に|変《へん》|貌《ぼう》。|汚《けが》れ|人《びと》である祖父・|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》の最後の儀式に参加するため、|鎌《かま》|倉《くら》を訪れる。
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●|鳴海京介《なるみきょうすけ》
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十七歳の高校生。ひょんなことから智と出会い、行動を共にすることに。超常現象は死ぬほど嫌いだが、智を守るために命を投げだしかねない一面もあるため、智から信頼を寄せられる。|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を扱い、智を守ることのできる存在であるが、剣を使いすぎると|寿命《じゅみょう》が短くなることを知って苦悩。智に強く言われ、天之尾羽張の使用をやめようとするが……。
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●鷹塔|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》
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智の祖父。大地の汚れを|浄化《じょうか》しながら全国を巡る汚れ人。死期が近づいている。
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●|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》
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JOAを|陰《かげ》で|操《あやつ》る魔の盟主。カリスマ性のある|冷《れい》|酷《こく》な少女で、智の幼なじみ。
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●|左《さ》|門《もん》|道《みち》|明《あき》
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鎌倉東部の暴力団|黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》の組員。組関係の退魔・呪殺を行う|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》でもある。
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●時田|忠《ただ》|弘《ひろ》
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緋奈子の|従兄《い と こ》にあたる|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。時折、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》を|覗《のぞ》かせる。
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●鷹塔|夏《なつ》|子《こ》
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智の祖母。全国を巡る虎次郎に付き従って生きてきた|優《やさ》しく|穏《おだ》やかな老女。
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●|紅葉《も み じ》
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智の|式《しき》|神《がみ》の一体で、戦闘専門。一見|軽《けい》|薄《はく》だが、腕は確か。必殺技は「|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》」。
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●|黒《くろ》|部《べ》|銀《ぎん》|次《じ》
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暴力団黒部組の組長。汚れ人の心臓を|狙《ねら》い、虎次郎の元に左門を|派《は》|遣《けん》する。
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●|柴《しば》|田《た》|靖《やす》|夫《お》
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男らしさに|憧《あこが》れて|極《ごく》|道《どう》の世界に入ってきた少年。左門をアニキと呼んで|慕《した》う。
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序 章
真夏の太陽が照りつけていた。
古い神社の|境《けい》|内《だい》。
|社《やしろ》の周囲には、伸びるにまかせた雑草が|生《お》い茂り、|参《さん》|道《どう》の|石畳《いしだたみ》の|隙《すき》|間《ま》からもタンポポが|生《は》えている。
緑の水をたたえた小さな池が、社の横にあった。
池には、|睡《すい》|蓮《れん》が咲いていた。
ひらり……と白いものが、|智《さとる》の頭上をかすめて飛んでいく。
|紋白蝶《もんしろちょう》だ。
「あ、ちょうちょ」
小さな智は、|捕虫網《ほちゅうあみ》を振りまわし、走っていく。
白い|靴《くつ》、|紺《こん》|色《いろ》の半ズボン、白いTシャツ。
まだ、四つくらいの頃だ。
澄んだ目に、太陽の光をいっぱい|映《うつ》して、緑のなかを駆ける。
紋白蝶は、アザミの花にとまって、羽を閉じた。
|蜜《みつ》を吸いはじめる。
「えーいっ!」
体の二倍はある捕虫網をぶんと動かす。
パサッ……。
|狙《ねら》いがはずれて、蝶は飛びたった。
「あらあら、智ちゃん。蝶をいじめちゃダメよ」
優しい声が、呼びかける。
振り返ると、六つくらいの少女が立っていた。
祭りの|浴衣姿《ゆかたすがた》だ。
|漆《しっ》|黒《こく》の髪を背中にたらしている。
少女の名前は、|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》。
智の|幼《おさな》なじみで、この町のはずれの古い屋敷に住んでいる。
親同士が知り合いだった関係で、二人は、いつの頃からか、友達になった。
「ピヨちゃん」
智は、ニッコリ笑った。
「違うもん。ボク、ちょうちょ、いじめてないもん。つかまえたら、また放してやるもん。そうするとね、ちょうちょが、ありがとうって言うんだよ」
「でもね、智ちゃん、|蝶《ちょう》は死人の|魂《たましい》なのよ。つかまえて、|怖《こわ》い思いさせちゃダメなの。安らかに天国へ|還《かえ》してあげないとね」
「そうなの……?」
智は、不安げな目をした。
「ボク、怖い思いさせた?」
|綺《き》|麗《れい》な|瞳《ひとみ》が、もう涙で|潤《うる》みはじめる。
サヤサヤと風が吹き、智の髪をかき乱す。
絹糸のような髪に|陽《ひ》が照りつけ、|丈《たけ》|高《たか》い草がザワザワと騒ぐ。
ふいに――。
十数匹の|紋白蝶《もんしろちょう》が現れ、智の周囲で舞いはじめた。
「ピヨちゃん……! ちょうちょ! 怒ってるの!? ねえ!」
涙をこらえ、ぐっと|唇《くちびる》を結んだ智。
その鼻のてっぺんに、一匹の蝶が舞いおりた。
ゆっくりと羽を上下させ、智に何か語りかけているようだ。
次々に、ほかの蝶たちも智の肩や頭に舞いおりてくる。
|慰《なぐさ》めるような|気《け》|配《はい》。
「怒ってないみたい、智ちゃん。|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
緋奈子が、そっとささやく。
智は、ようやくホッとした。
瞳が明るくなる。
それを見てとったのか、紋白蝶がいっせいに飛びたった。
青空にむかって、高く高く舞いあがる。
「わあ……!」
智は、頭を思いっきりのけぞらせ、蝶の|行《ゆく》|方《え》を目で追いかけた。
満面の|笑《え》|顔《がお》。
紋白蝶の群れは、どこまでも高く舞いあがっていく。
やがて、一群れの白は、真夏の青空に溶けて見分けがつかなくなった。
*    *
秋の夜。
どこかで、|鈴《すず》|虫《むし》が鳴いていた。
古い屋敷の|日《に》|本《ほん》|間《ま》である。
部屋の中央に、|障子《しょうじ》が四枚、四角く立てかけてある。
智は、障子の作る|結《けっ》|界《かい》の中央にいた。
六歳か、そのくらいの頃だ。
白い着物を着て、|裸足《は だ し》で座っている。
|怯《おび》えた|瞳《ひとみ》だ。
智の両肩を、八歳くらいの少女がしっかり|抱《かか》えていた。
やはり白い着物に|素《す》|足《あし》。
長い|漆《しっ》|黒《こく》の髪。
緋奈子である。
白い障子に、無数の|鬼《おに》、|怨霊《おんりょう》、|魑魅魍魎《ちみもうりょう》の影が|映《うつ》る。
多くの|妖《よう》|怪《かい》・|異形《いぎょう》のものが列をなして|徘《はい》|徊《かい》する――|百鬼夜行《ひゃっきやこう》の夜だった。
智の|類稀《たぐいまれ》な|霊力《れいりょく》に|惹《ひ》きつけられて、百鬼夜行の|魔《ま》|物《もの》が|集《つど》っているのだ。
「ピヨちゃん……|怖《こわ》い……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。このなかには、あいつら、絶対に入ってこられないわ」
緋奈子は、智の両肩を抱く手に力をこめる。
〈|式《しき》|固《がた》め〉という一種の|呪《じゅ》|法《ほう》である。
霊力のある人間が、自分の身を|防《ぼう》|御《ぎょ》|壁《へき》代わりにして、魔のターゲットとなった者を守るのだ。
夜が明けるまで、抱きしめて守り続けることができれば、魔物は退散する。
だが、夜明け前に〈式固め〉が破れれば、術者は死ぬ。
スウーッ……と、真っ赤な火の玉が、日本間に飛びこんできた。
――うぬう……|隙《すき》がないわ……。
――結界を破れ。
|恨《うら》めしげな声。
火の玉が、障子の四方をぐるぐると飛びまわる。
ふいに、どこかで神経質な笑い声が爆発する。
智の全身が、ビクッと震える。
「怖い……! 苦しいよ……ピヨちゃん……胸が痛い……!」
地上をさまよう怨霊の苦痛が、智の胸にズキリと響く。
夜明けには、まだだいぶ時間がある。
「痛い……苦しいよう……お母さん、どこ……」
「大丈夫よ、智ちゃん。お母さんは、安全なところにいるわ。お母さんが戻ってくるまで、緋奈子が智ちゃんを守ってあげる。怖くないわ。大丈夫よ」
優しい声。
「祈ってあげて、智ちゃん。|怨霊《おんりょう》が解放されて、楽になるように」
智は、素直に目を閉じた。
胸に直接伝わってくる怨霊の苦痛。
|百鬼夜行《ひゃっきやこう》への恐怖。
(祈るなんて……できない)
「大丈夫、|怖《こわ》くないわ、智ちゃん」
口に出さなかった|想《おも》いを読みとったような緋奈子の声に|励《はげ》まされて、心を澄ます。
――痛い、痛い、痛い。
――苦しい、苦しい、苦しい……。
――誰か光を……。
|切《せつ》ないまでの訴え。
怨霊どもの|頬《ほお》に、血の色の涙が|視《み》える。
|障子《しょうじ》のむこうの苦しげな息づかい。
智の意識が、ふっと透明になった。
(ああ、かわいそうに……)
思った瞬間、智の全身から青い光が輝きだした。
――あああああーっ!
四枚の障子から、青い光がほとばしった。
智の放つ光が、障子を突きぬけたのだ。
|日《に》|本《ほん》|間《ま》が一瞬、真昼のように明るくなる。
「智ちゃん……すごい……」
驚いたような緋奈子の顔。
智は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「もう……痛くないよ……」
青い|浄化《じょうか》の輝きは、しだいに強まる。
百鬼夜行の|気《け》|配《はい》が、遠くなった。
光のなかへ、すべてが溶けていく――。
*    *
光が降りそそいでいた。
どこかで、あぶら|蝉《ぜみ》が鳴いている。
|鷹《たか》|塔《とう》智は、|布《ふ》|団《とん》のなかで目を覚ました。
「ん……」
寝返りをうつと、古びた日本間が、目に飛びこんできた。
黒ずんだ木の|天井《てんじょう》、|漆《しっ》|喰《くい》塗りの白壁。
年代ものの|桐《きり》のタンスが、壁のほうにあった。
(ここは……?)
|襖《ふすま》が、軽い音をたてて開いた。
聞き慣れた足音。
「起きたか、智」
色黒で人のよさそうな少年が、木の|盆《ぼん》を持って入ってきた。
身長は、一八七センチ前後。
ミントグリーンのポロシャツに、ベージュの短パン姿。
|鳴海京介《なるみきょうすけ》。
鷹塔智の|相《あい》|棒《ぼう》で、高校の同級生だ。
|新宿区《しんじゅくく》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》にある智のマンションの同居人でもある。
盆の上には、氷を盛った皿がある。
「京介……」
「氷持ってきてやったぞ。おまえ、朝イチは氷しか食えないだろ。その後は、熱いカフェ・オ・レ用意してやんねーと|機《き》|嫌《げん》わりいし。それにしても……信じらんねー。ここんち、冷蔵庫もねーんだぜ。俺、生まれて初めて、|氷《ひ》|室《むろ》なんてもん見ちまった」
「ひむろ……?」
「地下掘って、貯蔵室みたいなの作ってあんの。すっげえよなあ。夏なのに、超涼しいんでやんの」
京介は、どっかと智の|枕《まくら》もとに座りこむ。
見ているだけで、こちらが幸せになりそうな|笑《え》|顔《がお》。
(ああ、そうか……)
低血圧の智の意識が、ようやくはっきりしてくる。
智と京介は、昨日から、智の祖父母の家に来ていた。
|鎌倉由比ヶ浜《かまくらゆいがはま》の近くである。
「智……どうした」
京介が、ふいに心配そうな顔になって尋ねる。
「どうって……?」
「おまえ、泣いてるじゃないか。なんだよ、自分でわかんねーの?」
言われて初めて、智は、自分の|頬《ほお》が|濡《ぬ》れているのに気がついた。
ひどく悲しい夢をみていたような気がする。
開け放した窓から、夏の風が吹きこんでくる。
時間が早いせいか、風は涼しい。
智は、|浴衣《ゆ か た》のまま起きあがって、手の甲で涙を|拭《ぬぐ》う。
わけもなく、悲しい気持ちになった。
「京介……オレ……」
ぽろぽろと涙がこぼれはじめる。
思わぬことに、智はうろたえてしまった。
(え……? え……?)
「智、|大丈夫《だいじょうぶ》か」
「どうしよう……どうしよう……オレ、変だ。涙が止まらない……」
「なんだ。何があったんだ、智」
京介が、|盆《ぼん》を置いて、智の肩に手をのばす。
「京介……」
智は、口を押さえた。
|目《め》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》な気持ちだ。
どうしていいのかわからない。
心のなかで、|嵐《あらし》が吹き荒れている。
「夢をみたんだ……」
ようやく、思い出した。
子供のように泣きじゃくりながら、京介に訴える。
「それで悲しくなって……」
「夢? なんだよ、それは」
「わからない……わからないんだ、京介……。でも、子供の頃の夢だった……」
「子供の頃の夢……?」
「うん……」
たまらなくなった智は、京介の胸に顔を押しあてる。
「泣くなよ……バカ。たかが夢くらいで」
京介の声が笑いを含む。
「バカとはなんだよ、バカとは……! オレは本当に悲しくて泣いてるのに……!」
智は、|拳《こぶし》を固めて京介の胸をポカポカ|殴《なぐ》りつけた。
抗議のつもりなので、さほど力は入れていない。
京介は、思わず微笑した。
(こいつ……|可《か》|愛《わい》い……)
この同じ智が、日本でも|希《け》|有《う》の|霊力《れいりょく》を持っている術者などとは、信じられない。
鷹塔智は、千年に一人、現れるか現れないかの天才|陰陽師《おんみょうじ》なのだ。
選ばれし者。この国の光と救いを|象徴《しょうちょう》する少年。
白い救世主。
だが、今の智は、陰陽師としての|記《き》|憶《おく》の大半を失っている。
そのため、本来の能力の三分の一も出せないのだ。
力がなくなっている智は、異様に|可《か》|憐《れん》で、無性に周囲の|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》をかきたてる。
一種の自己防衛機能が、働いているらしい。
動物の子供が、目が大きくて、愛らしいのと同じ状態だ。
智の行動を|可《か》|愛《わい》いと思ってしまう鳴海京介は、異常なわけではない。
(か、可愛すぎる……)
智の体を抱きしめ、髪に顔を|埋《うず》める。
|日《ひ》|向《なた》の|匂《にお》いがした。
智の肩が、まだ|小《こ》|刻《きざ》みに震えている。
「どんな夢だったんだ、智」
そっと尋ねた。
智が、京介の腕のなかで身じろぎする。
「オレ、四つくらいで……古い|社《やしろ》で|蝶《ちょう》を追いかけてて……それから、場面が変わって、家のなかで|障子《しょうじ》を四枚立てて、|結《けっ》|界《かい》を作ってて……」
「蝶に障子かぁ……わけわかんねー」
京介は、くすんと笑いをもらす。
「それで泣くのか、おまえ。妙な|奴《やつ》だな」
「でも……」
智が、低い声で|呟《つぶや》く。
京介の言葉は耳に入っていないようだ。
「いつも緋奈子がオレのそばにいた……」
京介の肩が、緊張する。
「緋奈子が……?」
時田緋奈子。
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》だ。
この国の|霊《れい》能力者を管理・教育する団体JOA(財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)の|陰《かげ》の支配者でもある。
智の|幼《おさな》なじみなのだが、現在は、敵にまわって、智の命を|狙《ねら》っている。
つい先日の|江《え》|ノ《の》|島《しま》での|退《たい》|魔《ま》の時も、智に|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》を送ってきたばかりだ。
そもそも、智の記憶を|封《ふう》じたのも、緋奈子の|仕《し》|業《わざ》だ。
しかし、そんなことをしておきながら、緋奈子は、二歳年下の智を愛しているのだ。
|前《ぜん》|世《せ》で智の母だったとも主張している。
そして、智も――。
|記《き》|憶《おく》を失うまでは、緋奈子のことを|想《おも》っていたという。
(まさか……智)
京介は、黒ずんだ|天井《てんじょう》を見あげた。
ジィジィジィ……と、|蝉《せみ》の声が|湧《わ》きあがる。
台所のほうから、|炊《た》きたてのご飯の|匂《にお》いが流れてきた。
何事もなければ、平和な朝のはずだった。
京介は、無意識のうちに、智を抱きしめる手に力をこめた。
「おまえ、まさか……智……」
智は、|濡《ぬ》れた|頬《ほお》を京介の腕に押しつける。
「京介……ごめん……オレ、変だ……」
京介は、心を落ち着けようと、智の髪に指を|滑《すべ》らす。
だが、疑いが胸に湧きおこってきて、止まらない。
智の涙に、どうしようもないほど心が騒ぐ。
(違うよな……そんなはず、ないよな……)
「あのさ、智、おまえ……まさか、そんなことねえと思うけどさ……」
「なぁに……京介?」
「まだ緋奈子のこと、好きか……?」
「まさか……いきなり何言うのさ、京介」
智は、顔をあげ、濡れた|瞳《ひとみ》のまま京介を見つめた。
|困《こん》|惑《わく》の表情だ。
「緋奈子は、オレを殺そうとしてるのに」
「じゃあ、なんで緋奈子の夢で泣くんだよ」
「そんなこと、オレに|訊《き》かれたってわかるわけ、ない……」
智は、|苛《いら》|立《だ》ったように、手の甲で涙を|拭《ぬぐ》った。
と、|廊《ろう》|下《か》を歩く重い足音がした。
智の祖父・鷹塔|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》に違いない。
ちょっと説明の行き違いがあって、京介は虎次郎の|心証《しんしょう》を悪くしている。
こんなところを見られたら、|面《めん》|倒《どう》なことになる。
二人は、|慌《あわ》てて離れた。
智は、ゆるんだ浴衣の|襟《えり》もとを、急いでかきあわせる。
|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》。|襖《ふすま》がガラリ……と開いた。
ぬっと顔を出したのを見ると、金茶色の髪の青年だ。
|紺《こん》と|紅《くれない》の|紅葉《も み じ》がらの|浴衣《ゆ か た》を、|粋《いき》に着こなしている。
茶色の|瞳《ひとみ》が、いたずらっぽくキラキラ輝いていた。
片手に、黒いダブルデッキのCDラジカセがある。
「マスターのお|祖父《じ い》ちゃんかと思った? はっずれー。ご飯だから、おいでって」
「|紅葉《も み じ》……まぎらわしい|真《ま》|似《ね》して」
智が、ノリの軽い|式《しき》|神《がみ》を|睨《にら》みつけた。
「怒らないでよう、マスター。愛してるよう」
紅葉は、うれしげに、智にまとわりつく。
|傍《はた》から見れば、高校生の美少年にちょっかいを出す|軟《なん》|派《ぱ》な大学生……といった感じだ。
智は、あきらめたような顔で、紅葉をじゃれさせていた。
紅葉は、智の四体の式神のうちの一体である。
戦闘用の式神だ。
おちゃらけているが、攻撃力は高い。
やる時はやる。
ほかの式神たちの名前は、それぞれ、|桜良《さ く ら》、|睡《すい》|蓮《れん》、|吹雪《ふ ぶ き》……という。
四体とも、|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》を録音した四枚のCDで呼びだすことができる。
今のところ、CDラジカセにセットされているのは、紅葉のディスクだ。
早朝のことなので、音はボリュームを絞って、小さくしてあるのだが。
紅葉は、|憮《ぶ》|然《ぜん》としている京介に、明るくVサインなどしてみせる。
「ねえねえ、京介の|旦《だん》|那《な》、この浴衣、似合う? マスターのお|祖母《ば あ》ちゃんが、おいらにって作ってくれたんだよ」
京介も、|昨夜《ゆ う べ》は、智の祖母が用意してくれた浴衣をパジャマ代わりにして眠った。
智の祖母・|夏《なつ》|子《こ》は、和裁が得意だという。
「紅葉だから紅葉がらかよ。……ちょっと安直すぎねーか」
京介は、|眉《まゆ》をよせた。
「ひょっとして、桜良は|桜《さくら》のがらで、睡蓮は|蓮《はす》のがらで、吹雪は雪の|結晶《けっしょう》のがら……とかゆーんじゃねえだろうな」
「よくわかったねえ、旦那。あったまいーい!」
「紅葉、おまえ、もしかして、俺のことコケにしてねーか?」
「やだよう、旦那っ。マスターの大事な旦那を、コケになんかするわけないじゃーん。ほらっ、おいらなんか、馬に|蹴《け》られて死んじゃうってば」
「いいかげんにしろよ、紅葉……! おまえって|奴《やつ》はぁ……昨日といい今日といい!」
熱くなった京介にむかって、紅葉は、ニヤリと笑いかけ、出ていこうとする。
ふと、|式《しき》|神《がみ》は足を止めた。
肩ごしに振り返って、智を見る。
紅葉は、別人のように優しい目をしていた。
「マスター、どうしたのさ。昨日の夜までは、あんなに幸せだったのに。夢みたくらいで、そんなに悲しくなるの? おかしいよ。京介の|旦《だん》|那《な》を好きだって気持ちは、一晩じゃ変わらないはずだよ。そんなに泣いちゃダメじゃない。式神には、マスターの気持ち、ダイレクトに伝わるんだからね。おいらまで|切《せつ》なくなっちゃうよ。元気だしなよ、ね」
「紅葉……」
智の|頬《ほお》が、カッと赤くなる。
「好きだなんて……そんなこと……」
「じゃあね、マスター。おいら、先に行ってるよ。なるべく早めにおいでよね。でないと、お|祖父《じ い》ちゃんの血圧あがるからねっ」
言いたいことを言った紅葉は、|踊《おど》るような足どりで立ち去っていった。
「智……」
京介は、そっと呼びかけた。
智の両肩に、手をのばした。|浴衣《ゆ か た》ごしに、肩の丸みをつかむ。
智は、ためらいがちに京介と視線をあわせた。
目が真っ赤だ。|頬《ほお》も赤い。
「目が|兎《うさぎ》になってる……智兎だ」
智は、|拗《す》ねたように|呟《つぶや》く。
「京介が悪いんだ」
「なんでだよ。俺は何もしてねーよ」
「京介の顔見たら、悲しくなった。だから、京介のせいだよ」
(|嘘《うそ》だろ……それは)
京介は、切なくなる。
(まだ、おまえ、緋奈子が好きなくせに……)
思った自分の思考に、また自己|嫌《けん》|悪《お》を感じる。
智が、目をゴシゴシこすって、小さく笑う。
|綺《き》|麗《れい》な|笑《え》|顔《がお》。
「京介……一緒だよ、ずっと」
甘い言葉。
京介の胸に身をよせ、少し上向いた。
無防備な|仕《し》|草《ぐさ》。
京介は、なんとなくドキリ……として、目をそむけた。
心臓の|鼓《こ》|動《どう》が速くなる。
それを|悟《さと》られまいと、乱暴に智を押しのけた。
「ほら、早くメシ食いにいけよ。おまえのお|祖母《ば あ》さんに言っといたからさ。氷とカフェ・オ・レ、用意してあるはずだ。俺は、そのへんのコンビニですますから」
「京介……?」
傷ついたような、小さな声。
京介は、サイフを握って|廊《ろう》|下《か》に出た。
数秒の沈黙があって、智がダダダダダッと横を走りぬけていった。
廊下の古い|床《ゆか》|板《いた》が、ギシギシ悲鳴をあげる。
泣いているような|浴衣《ゆ か た》の後ろ姿。
京介は、どうしていいのかわからずに、その場に立ち止まってしまった。
(だって……おまえ、まだ緋奈子のこと好きなんだろ……?)
京介は、ひんやりした木の壁に肩をもたせかけた。
そのまま、ズルズルと床に座りこみ、|膝《ひざ》を|抱《かか》えた。
「智……」
屋敷の裏手で、|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が|湧《わ》きあがる。
胸が痛くなるほど|切《せつ》なかった。
第一章 無限と永遠
|鎌《かま》|倉《くら》は、百二十年ぶりの|奇《き》|祭《さい》〈|闇《やみ》|送《おく》り〉を目前に控えていた。
|街《まち》のあちこちで、|神楽《か ぐ ら》や|太《たい》|鼓《こ》の音がする。
この街で〈闇送り〉が行われるのは、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が、鎌倉を|終焉《しゅうえん》の地に選んだためだ。
〈汚れ人〉というのは、大地の汚れ――闇を|我《わ》が身に引き受け、|浄化《じょうか》して歩く術者の呼び名である。
大地の闇を|呑《の》みこんだ術者は、一つの土地に長く滞在することができない。
長く滞在すれば、その土地を闇で|汚《お》|染《せん》してしまうことになる。
だから、〈汚れ人〉は、日本全国を放浪して歩く。
闇を体内に招く|呪《じゅ》|具《ぐ》〈|闇扇《やみおうぎ》〉を、|唯《ゆい》|一《いつ》の持ち物として。
長い年月をかけて、すべての土地をめぐり歩く。
そして、〈汚れ人〉が|老《お》いさらばえて、歩く力を失った時、後継者に〈闇扇〉を手渡すのだ。
|生涯《しょうがい》かけて体内にためこんだ|闇《やみ》を、最後の力で|浄化《じょうか》し、息をひきとる。
それが、〈闇送り〉の祭りである。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の|鷹《たか》|塔《とう》|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔|智《さとる》の父方の祖父だった。
〈闇送り〉の祭りが行われるあいだ、|鎌《かま》|倉《くら》は、日本じゅうでもっとも闇の濃い土地になる。
|魔《ま》が|集《つど》う三日間。
魔だけではない。
|怨霊《おんりょう》、|死霊《しりょう》どもが、日本全国から、この鎌倉に続々と集結していた。
〈汚れ人〉の闇の浄化に便乗して、自分も浄化されようとしているのだ。
さらに、海外からも――。
この珍しい|霊《れい》|的《てき》現象を見物しようと、|超心理学《ちょうしんりがく》の研究家や、霊能力者らがつめかけていた。
この三日間、鎌倉は、世界有数の|怪《かい》|奇《き》スポットと化す。
JOAは、この祭りに協賛し、霊的な警備を一手に引き受けていた。
鷹塔智は、肉親として、虎次郎に最後の別れをするため、鎌倉入りすることになった。
智の双子の姉・|冴《さ》|月《つき》は、|勘《かん》|当《どう》同然の状態で家を出て結婚しているため、〈闇送り〉にも姿を見せない。
実質的に、智がただ一人の|孫《まご》ということになる。
ところが、一つ問題があった。
|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の智は、祖父母の顔も覚えていない。
両親は、すでに|亡《な》くなっていた。
智にとっては、見知らぬ他人の家に行くような気分だった。
冷静な顔をしてみせても、内心、心細かったらしい。
言葉ではなく、思いっきり|寂《さび》しそうな背中で、|相《あい》|棒《ぼう》・|鳴海京介《なるみきょうすけ》の同行を求めた。
京介は、例によって、「オカルトは嫌い」と、ぶつぶつ言ったが、最後には折れた。
〈闇送り〉の準備で、家のなかはてんやわんやの大騒ぎだろう。
智は、気をきかせて、|式《しき》|神《がみ》の|紅葉《も み じ》を先行させ、伝言を送った。
――お|祖父《じ い》さま、お|祖母《ば あ》さま、友達の鳴海京介も、一緒に連れていきます。頼りになる|奴《やつ》だし、料理|洗《せん》|濯《たく》ができるので、|邪《じゃ》|魔《ま》にはならないと思います。
智の伝言は、そんな感じだった。
ところが、|冗談《じょうだん》の好きな紅葉は、伝言を途中で|改《かい》|竄《ざん》した。
――お祖父さま、お祖母さま、恋人の鳴海京介も一緒に行きます。オレたち、|同《どう》|棲《せい》しています。せめて、一度だけでも会って、二人の仲を許してください。
改竄どころか、|完《かん》|璧《ぺき》な創作だった。
あきらかに、人選ミス。
紅葉は、四体の|式《しき》|神《がみ》のうちで、いちばん性格が軽くて、ノリがいい。
こうなることは、予想しておくべきだった。
智も、祖父との対面を前にして、かなり動転していたらしい。
|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》駅で電車を降りて、緑に囲まれた屋敷の門をくぐったとたん――。
「かああああぁーっ!」
大声とともに、京介は、|竹刀《し な い》でぶん|殴《なぐ》られた。
バシィッ!
バシバシバシッ!
「いてぇっ! 何すんだっ、この|野《や》|郎《ろう》っ!」
京介は、とっさに、腕をあげて頭をかばう。
「京介っ!」
「帰れ、帰れぇっ! 貴様のような男に、|我《わ》が|家《や》の|敷《しき》|居《い》は、一歩たりともまたがせんっ!」
竹刀を握って、|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになったのを見れば、|小《こ》|柄《がら》な老人だ。
|墨《すみ》|色《いろ》の|作《さ》|務《む》|衣《え》、|素《す》|足《あし》に|下《げ》|駄《た》|履《ば》き。
左目に黒い|眼《がん》|帯《たい》をしている。
右の肩に、カラスがのっていた。
老人が竹刀を振っても、羽でバランスをとって、うまくつかまっている。
(な……なんだ……この|怪《あや》しいじーさんは……)
京介は、思わず腰が引けてしまう。
老人は、肩を|怒《いか》らせて、京介を|睨《にら》みつけている。
「鳴海京介といったな。貴様、大事な|孫《まご》をたぶらかすとは、許さんっ! この|汚《けが》らわしい|男色家《だんしょくか》めが! 智は、鷹塔の家を継ぐ大事な体じゃっ! さあさあさあ! とっとと出ていけっ! まだ|殴《なぐ》られたらんのかあっ!?」
これが――京介と、智の祖父・鷹塔虎次郎との出会いだった。
智は、京介の隣で|茫《ぼう》|然《ぜん》としている。
「…………」
|老《お》いさらばえて、歩けないはずの老人が、ピンピンしているのにも驚いたが、いきなりのこの応対にも|度《ど》|胆《ぎも》をぬかれたようだ。
「なんで……どうして……京介がこんな目に……?」
その|謎《なぞ》が|解《と》けるには、紅葉の自白を待たなければならなかったのだが。
夕方。
京介は、不幸な気分を|噛《か》みしめていた。
智の祖母・|夏《なつ》|子《こ》が出てきて、虎次郎にとりなしてくれたため、家には入れた。
だが、一人で、屋敷の離れの汚い|六畳間《ろくじょうま》に案内されたきりだ。
お茶の一杯も出てくるわけではない。
部屋の|隅《すみ》には、|畳《たた》んだ|布《ふ》|団《とん》と|浴衣《ゆ か た》がポツンと置いてある。
|網《あみ》|戸《ど》も壊れていて、|蚊《か》が入りこんでくる。
裸電球を|眺《なが》めていると、無性に|情《なさ》けない気分になった。
(何やってんだ……俺……)
智は、|茶《ちゃ》の|間《ま》に連れていかれて、|豪《ごう》|華《か》な夕食をご|馳《ち》|走《そう》になっていた。
京介は、招かれていない。
智は、京介と一緒に食べる……と主張したのだが、通らなかったのだ。
「なにぃっ!? あの男にメシだとぉ? あんな男に食わせるメシはないっ! ナツ、ほうっておけ! さあ、智、腹いっぱい食え! 男は、|丈夫《じょうぶ》でなければならん。早く気立てのいい嫁をもらって、子供をボロボロ作って、わしを安心させてくれ!」
楽しそうな虎次郎の笑い声が、開いた窓から聞こえてくる。
(あんの……クソ|爺《じじ》ぃ……)
|空《す》きっ|腹《ぱら》を|抱《かか》えて、|畳《たたみ》に|転《ころ》がっている。
虎次郎が監視しているのか、智は一度も顔を見せなかった。
深夜――。
悲しい気分の京介が、布団を敷いて、うとうとしていると、戸を|叩《たた》く音がした。
「誰だよ……」
京介は、|浴衣《ゆ か た》姿で、上半身を起こして尋ねる。
寝入りばなを起こされたので、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になっている。
「京介、オレだよ。やっとぬけてきたんだ」
智だった。
室内に|滑《すべ》りこんできたのを見ると、魚の|模《も》|様《よう》の浴衣姿だ。
すまなさそうな顔をしている。
智は、竹皮の包みと、コンビニの袋を差しだす。
竹皮には、しっとりした|海苔《の り》のおにぎりが、六つ包まれていた。
「はい、京介、おにぎり。お|祖母《ば あ》さまが作ってくれたんだ」
コンビニの袋のなかには、よく冷えたウーロン茶の|缶《かん》が二つ。
京介のために、わざわざ外出して、買ってきたものらしい。
「サンキュー」
しばらくは、会話もそっちのけで、おにぎりと格闘する。
空腹に、塩味のおにぎりは、死ぬほどうまかった。
智は、京介の食事風景を、幸せそうに|眺《なが》めている。
「おいしい、京介?」
「ん……最高!」
「よかった……」
|微《ほほ》|笑《え》む智は、ほんのりと|石《せっ》|鹸《けん》の|匂《にお》いをさせている。
「おい……おまえ、一人で|風《ふ》|呂《ろ》入ってきたの?」
京介は、ご飯のついた指をなめなめ、横目で智を|睨《にら》む。
「うん。|檜《ひのき》のお風呂だったよ」
「ずっりぃーっ! 俺が、こんなところで|蚊《か》に食われてんのに! おまえは、いい気分で風呂あがりかよぉ!」
智は、目を伏せた。
|申《もう》し|訳《わけ》なさそうな表情。
いきなり、智は正座した。京介の前に両手をつく。
「ごめん……今日はホントに。オレ、こんなつもりじゃなかったから」
「あ……」
正面きって謝られると思わなかった京介は、少し困ってしまう。
「やめろよ……な。やめろってば。手をあげてくれよ、智。頼む。あ……ははは、ははは。今の|冗談《じょうだん》。冗談だからな。気にすんなよ」
智は、不安げな|瞳《ひとみ》を京介にむけた。
「怒ってない……?」
「んー……ぜんぜんっ!」
「ホントに?」
「あーあ、ホントだとも」
京介は、智の手をあげさせる。
「いちいち謝るんじゃねーよ。おまえのせいじゃないんだから」
「ごめん。オレ、いつも京介に|迷《めい》|惑《わく》かけてる……」
京介は、思わず微笑した。
この同じ智が、意地を張って、周囲の手を|拒《きょ》|絶《ぜつ》し続けていたのだ。
わずか二か月前のことだ。
智は、変わった。
感情表現が|下手《へ た》なのは相変わらずだ。
だが、京介に対しては、信頼しきったように心を預けてくる。
「何……笑ってるのさ……京介」
智が、|拗《す》ねたような目で|睨《にら》む。
「いいじゃないか。もっと迷惑かけろよ。俺は、智に迷惑かけてほしいんだよ。友達だろ」
「……お|人《ひと》|好《よ》し」
「智だからさ、いいよ」
「ホントに、京介?」
「ああ……」
智は、京介の背後にまわった。|畳《たたみ》に足を投げ出して座る。
京介の背中に、背中をもたせかける。
「京介」
コツン……と頭をぶつけてきた。
甘えるような|仕《し》|草《ぐさ》。
ほのかな|石《せっ》|鹸《けん》の|匂《にお》い。
触れあった背中が、なんだか気持ちいい。
安心する。
二人は、しばらく黙りこんでいた。
「なあ……智のじーさん、本当に死んじまうのか」
「うん……そう言ってた」
「あんなに元気で、|可《か》|愛《わい》げねーのになあ」
京介は、ため息をついた。
「信じられねーよな」
「元気そうに見えるだけだって、お|祖母《ば あ》さまが教えてくれた。もう血まで|闇《やみ》を吸って黒いんだ……。どんな医者にも、お|祖父《じ い》さまを助けること、できないんだって……」
「そうか……。ところで、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の後継者選び、すんでるのか」
(|孫《まご》の智が選ばれるってことは……まさか、ないよな……?)
打ち消そうとしても消えない不安が、京介のなかにある。
智が、〈汚れ人〉の後継者とやらになれば、虎次郎のたどった運命は、やがては智のものとなる。
闇を体内に|抱《かか》えこんで、|老《お》いさらばえるまで、国じゅうを果てしなく放浪して。
エゴだとわかってはいても、京介は、願わずにはいられない。
(智が選ばれませんように……)
誰かが、闇を|浄化《じょうか》しなければならないのだとしても。
みなの幸せのために、誰かが、やらなければならない仕事だとしても。
智以外の誰かが、その|重《おも》|荷《に》をしょえばいい。
(智は……もう充分、重い荷物をしょってるんです……神様。
どうか、智にだけは、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を握らせないで。
こんなのは俺のエゴだけれど……認めてほしい。
神様……お願いです……)
智は、京介の願いには、気づかないようだ。
気づけば、この|凜《りん》とした少年は、京介を|軽《けい》|蔑《べつ》するだろうか。
この世から、すべての悲しみと、痛みを消し去りたいと願っている、清い|霊《れい》|気《き》をまとう、この天才|陰陽師《おんみょうじ》は。
「わからない。お祖父さまも、お祖母さまも、大事な話は避けてるみたいで……元気で楽しそうなだけ……つらいよ」
智は、ため息のような声で|呟《つぶや》く。
京介は、なんとなく|粛然《しゅくぜん》としてしまう。
「人の生死だけは、どうにもならねーもんな。いくら陰陽師でも」
「もう……やめよう、その話。オレ、|嫌《いや》だよ」
智の声が、|切《せつ》なげに震える。
「嫌だ……京介」
「ごめん……悪かった、智」
京介は、思いっきり後悔した。
(やば……)
死だとか、|寿命《じゅみょう》だとかいう話は、二人のあいだでは禁句だった。
京介自身が、このままでは、あと数か月の命、と宣告されているからだ。
京介が、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使ったせいである。
天之尾羽張は、イザナギの|剣《つるぎ》。
つまり、神の剣だった。
人間が使いこなせる剣ではない。
無理に使い続ければ、一日で|他人《ひ と》の一年が過ぎていくようになる。
急激な老化と、|衰弱《すいじゃく》。
そして、死。
京介は、智を守るために、すでに限度を|超《こ》えて四回、天之尾羽張を使っていた。
まだ、今のところ、目に見える変化は現れていない。
だが、智は|怯《おび》え続けていた。
京介を失う予感に。
京介は、まだ半分くらい|嘘《うそ》のような気がしている。
(どこも痛くねーし、一日で一年たった気もしねーしさ……)
「ごめん。ごめんな、智」
「……もう、いい」
智は、|拗《す》ねた目つきで京介を|睨《にら》む。
シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目だ。
だが、京介はぜんぜん怖くない。
(智……|可《か》|愛《わい》い)
智は、ゴソゴソと動いて、京介の腕のなかに陣取った。
京介の胸に背中をもたせかける。
お気に入りの位置だ。
「暑くない、智?」
「うるさい」
「せっかく|風《ふ》|呂《ろ》入ったのに、また汗かくぜ。……おまえ、そんなに俺が好き?」
「バカ。何言ってんのさ。大っ嫌いだよ……京介なんか」
智が、うっとうしそうに|呟《つぶや》く。
そんなひどい言葉を聞いても、京介の心は揺れたりしない。
智の「嫌い」は、「好き」だから。
(もっと言って、智……もっと、たくさん)
「どのくらい嫌い? 言ってみて、智。俺のどこが、どのくらい」
ギュッと智の体に両腕をまわした。
智の声が聞きたかった。
「京介なんか大っ嫌いだ! 嫌いだって言ってるでしょ!」
智は、顔をそむける。
薄く|陽《ひ》に焼けた首筋。
|完《かん》|璧《ぺき》な|顎《あご》の線。
京介は、思わず|見《み》|惚《ほ》れてしまう。
「京介なんか……嫌いだ」
「うん。それはもう聞いた。……でも、どこが嫌い?」
グッと全身で押す。
智は、|畳《たたみ》にひっくりかえった。
「わ……っ!」
|凜《りん》とした美少年も、こうなっては形なしだ。
智が起きあがろうとするところを、胸に京介が|膝《ひざ》をのせて押さえつける。
「重い!」
「どこが嫌い? 言ってみて」
「ぜんぶ」
智は、ピンクの|舌《した》を出してみせる。
京介の反応を無視して、また顔をそむけた。
(智、|可《か》|愛《わい》い……)
「しつこいよ。放して、京介……暑苦しい」
意地っ張りな言葉。
それでも、智は、ためらいがちに顔をあげた。
京介を見つめる。
言葉よりよほど|雄《ゆう》|弁《べん》な|瞳《ひとみ》。
「大嫌いだ……京介なんか……嫌いだ」
「俺も……智、大嫌い……の反対の反対の反対」
智は、一瞬、照れたように目を伏せる。
京介は、微笑した。
「放してなんかやらない」
体をずらして、胸と胸をあわせる。
智の心臓の|鼓《こ》|動《どう》が伝わってきた。
「京介……」
どこか不安げな智の瞳。
「おまえを離さない」
京介は、|一《いち》|途《ず》に宣言する。
|畳《たたみ》に押さえつけられたまま、智の指が、京介の指を握りしめた。
そっと。
|万《ばん》|感《かん》の|想《おも》いを伝えるように。
(智……おまえ……)
「離さないで……ずっと」
智が、ささやく。
思わぬことにゆるんだ京介の手の下から、智の腕がぬけだす。
片手で、京介の頭を抱きよせる。
「京介……」
「|誓《ちか》うよ……智」
どちらからともなく、目を閉じた。
|唇《くちびる》が重なった。
触れあっていると、時間が止まる。
無限と永遠を手に入れたような|錯《さっ》|覚《かく》を起こす。
海のほうで、花火の音。
|闇《やみ》のなかで草を揺らす風。
ずいぶん遠くまで来た。
遠くまで来てしまった。
こうなるために、十七年間生きてきたような気がする。
そして、智は、京介の隣で眠りについた。
京介は、明け方近くまで、智の寝顔を見つめていた。
満ちたりた寝顔。
京介は、自分もたぶん、智と同じような表情をしているのだと思った。
すべての夢を手に入れたような――。
(忘れない……智……)
少しずつ東の空が、青みがかっていく。
そうして、それが、二人の一つの頂点だったのだ。
*    *
「七月二十三日、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》に|落《らく》|雷《らい》。死者四名。二十六日未明、|鎌《かま》|倉《くら》|宮《ぐう》の|伽《が》|藍《らん》|崩《ほう》|壊《かい》。二十七日、|極《ごく》|楽《らく》|寺《じ》|山《さん》|門《もん》が落雷で|炎上《えんじょう》。二十七日、鎌倉|霊《れい》|園《えん》の地盤|陥《かん》|没《ぼつ》。二十九日、|逗《ず》|子《し》方面への|材《ざい》|木《もく》|座《ざ》トンネル崩壊……」
よく響く男の声が、被害状況を読みあげていく。
|鎌《かま》|倉《くら》市内のホテルのスイートルーム。
夏の真昼だった。
|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が、聞こえた。
「祭りは、今夜から始まる前夜祭を含めて三日三晩続く。そのあいだ、鎌倉の|地《ち》|霊《れい》|気《き》がこの|闇《やみ》に耐えられると思うか、ピヨ子」
|美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、コピーの|束《たば》をテーブルに放り出した。
薄茶の長い髪、銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》のむこうの|謎《なぞ》めいた|瞳《ひとみ》。
相変わらず、白衣を着ている。
アーサー・セオドア・レイヴン。
日本名、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》。
日米のハーフで、JOA所属の霊能力者の一人だ。
窓の外を|眺《なが》めていた少女が、|従兄《い と こ》の声に振り返った。
時田|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》。
能面のような顔、情念のこもった|漆《しっ》|黒《こく》の髪。
口もとに|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の笑いを|貼《は》りつかせている。
白い綿のブラウスと、タータンチェックのフレアースカート姿だ。
この国の|霊《れい》能力者たちを管理・教育するJOA(財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)の|陰《かげ》の支配者。
そして、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》である。
「鷹塔虎次郎が……祭りの主役の〈|汚《けが》れ|人《びと》〉がいるかぎり、|闇《やみ》の暴走はありえないわ。最後の瞬間まで、虎次郎は、この|鎌《かま》|倉《くら》に集まった闇を|制《せい》|御《ぎょ》し、|浄化《じょうか》し続けるはず」
「虎次郎が闇を制御しているにしては、お|粗《そ》|末《まつ》じゃないかね、ピヨ子。この|惨《さん》|憺《たん》たる状況は」
|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、コピーの|束《たば》を指先でトントンと|叩《たた》いてみせた。
「まるで、誰かが、わざと鎌倉の大地に眠る霊を、叩き起こそうとしているみたいだな。なにしろ、鎌倉一帯は古戦場だからな。叩けば、いくらでも霊が出てくる。聞いたぞ。|昨夜《ゆ う べ》、|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》|沖《おき》に、|平《へい》|家《け》の船団が現れたそうじゃないか。|二《に》|階《かい》|堂《どう》のほうでは、|新《にっ》|田《た》軍の|骸《がい》|骨《こつ》|武《む》|者《しゃ》が、|血刀《ちがたな》を振りまわしていたとか。いくら虎次郎でも、これだけの|怨霊《おんりょう》を相手にするのは、|厳《きび》しいところだ」
緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》に微笑してみせた。
「あら、たっちゃん、イベントは大きなほうが|面《おも》|白《しろ》いものよ」
「おまえが、この機会に各国の霊能力者を集めて、鎌倉サミットなどと言い出すから、JOAの関係者はここ一か月、徹夜続きだ。これ以上、仕事を増やすなよ」
「みんな、〈闇送り〉見物に、日本に来てるんでしょ。だったら、ちょうどいいじゃない。同じ日程でサミット開いても、来てくれるわよ」
「そういうことをやって喜ぶ、ミーハーなタイプではないと思ったがな」
心霊治療師は、すうっと目を細めた。
|端《たん》|正《せい》な顔が、|真《ま》|面《じ》|目《め》になる。
「……緋奈子、おまえ、いったい何を|企《たく》らんでる?」
「祭りの|犠牲《いけにえ》は、多いほうがいいと思ったのよ。母なる大地を、異国人の血で汚すの」
緋奈子は、クスクス笑う。|邪《じゃ》|悪《あく》な|笑《え》|顔《がお》。
「まさか……緋奈子」
時田忠弘の表情が、わずかに変わった。
「おまえか……平家の船団も新田軍の|亡《ぼう》|霊《れい》も?」
「そう。緋奈子よ」
魔の盟主は、まっすぐ、時田のハシバミ色の|瞳《ひとみ》を見つめかえす。
「鎌倉は、魔の|都《みやこ》となるの」
「ほう……東京は、あきらめたのか」
「あきらめてないわ。この国で、一度でも都になった土地は、互いに|共振《きょうしん》しているの。鎌倉を支配すれば、東京が落ちるのは時間の問題よ。今日の夕方までには、鎌倉周辺の鉄道と道路は、すべて|封《ふう》|鎖《さ》される。|霊《れい》|的《てき》|結《けっ》|界《かい》も完成するわ。人間も霊も、|鎌《かま》|倉《くら》に入ることはできても、出ることはできなくなる。知ってた、たっちゃん? 死にかけた〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が|闇《やみ》を|浄化《じょうか》する前に、心臓をくりぬけば、高濃度の大地の闇が手に入るのよ。すごい力だわ。……首都圏をまるごと|魔《ま》|界《かい》にできるくらいのね」
緋奈子は、うっとりと|呟《つぶや》く。
「虎次郎お|爺《じい》ちゃんの心臓、|綺《き》|麗《れい》でしょうね。真っ暗な闇がつまってるわ。黒い宝石みたいよ、きっと。緋奈子、お金も宝石もいらないから、〈汚れ人〉の心臓が欲しいわ」
「待て、緋奈子。海外の関係者を敵にまわす気か?」
招待客のなかには、時田忠弘の母方の――レイヴン家の霊能力者もいる。
「緋奈子は、あんな連中、ぜんぜん|怖《こわ》くないのよ。しょせん、ケチな魔術師だの、オカルトおたくじゃない。まさか、たっちゃん、アメリカの|親《しん》|戚《せき》に未練があるわけじゃないでしょ」
魔の|盟《めい》|主《しゅ》は、優しいとさえいえる表情で、年上の|従兄《い と こ》を見つめた。
「さあ、もうすぐ祭りが始まるわ。たっちゃんも、最後に鎌倉の|街《まち》を見物してらっしゃい。〈闇送り〉が終わる頃、この街は、もうなくなっているから」
時田は、身震いした。
緋奈子は、どんどん狂っていく。
どこで、心の歯車が壊れたのだろう。
中学一年の時、緋奈子は、違う世界に踏みこんでしまったのだ。
九州の、時田一門が管理する|社《やしろ》で、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に|憑依《ひょうい》された時から――。
|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、緋奈子に背をむけた。
「わたしはこの国が嫌いだ。滅びればいいと思っているよ……鎌倉も東京も」
(智以外は、みな……)
――〈|倭《やまと》は 国のまほろば たたなずく |青《あお》|垣《がき》 |山《やま》|隠《ごも》れる 倭し|美《うるわ》し〉……こんな気持ちは、あなたにはわからないだろうね、セオドア。この国を守りたいという|想《おも》いは。
遠い日の、智の言葉を思い出す。まだ、|記《き》|憶《おく》を失っていなかった頃の智だ。
(わたしには、わからない……智。誰もかも、どうしてこの国にこだわるのだろう……)
二つの祖国を持つ時田忠弘には、理解できなかった。
二つの国のどちらにも、真に属することのできない心霊治療師には。
*    *
鎌倉|二《に》|階《かい》|堂《どう》。
その一角の屋敷だった。
「|左《さ》|門《もん》、先ほど、中東のブローカーから連絡があった」
低い、押し殺した声。
「〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓に、六千億の値をつけてきよった」
声の|主《ぬし》は、|痩《や》せた老人だ。
|炯《けい》|々《けい》たる目の光、|革《かわ》のような|肌《はだ》、少し曲がったような|唇《くちびる》。
ただ座っているだけなのに、異様な存在感があった。
老人の前には、三メートルほど離れて、若い男が正座している。
左門と呼ばれたのは、この男である。
|精《せい》|悍《かん》な|風《ふう》|貌《ぼう》だ。
どこか、|強烈《きょうれつ》に|牡《おす》を意識させる。
人生の|裏《うら》|街《かい》|道《どう》を歩く者特有の、危険な|臭《にお》いをさせていた。
肩幅が広く、胸が厚い。
|派《は》|手《で》な|縞《しま》がらのスーツ、レイバンのサングラス、腕にチラリと見えるローレックスの腕時計。
一見して、|堅《かた》|気《ぎ》の者ではないと知れる。
左門|道《みち》|明《あき》。
組関係の|退《たい》|魔《ま》・|呪《じゅ》|殺《さつ》を専門とする|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》だ。
切ったはったの|極道稼業《ごくどうかぎょう》である。人に|恨《うら》まれることも多い。
超常現象など、|日常茶飯事《にちじょうさはんじ》である。
気のきいた組なら、JOA所属の|霊《れい》|的《てき》ボディガードを|雇《やと》っているご時世だ。
左門のように、呪殺もこなす極道専門の術者は、|重宝《ちょうほう》がられていた。
老人は、|黒《くろ》|部《べ》|銀《ぎん》|次《じ》。
|鎌《かま》|倉《くら》東部一帯をシマとする、|山《やま》|田《だ》組系暴力団黒部組の組長である。
「六千億……ですか」
「悪い話ではなかろう」
組長は、左門の表情の変化を楽しむように|呟《つぶや》く。
「そういうわけでな、その仕事、引き受けた」
「しかし、オヤジ……!〈汚れ人〉には、JOAの特殊|警《けい》|護《ご》部隊がついています。|孫《まご》の天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智も屋敷に入ったはず……」
左門は、老人の|無《む》|茶《ちゃ》な行動に、やんわりと異を|唱《とな》える。
「おそらく、鷹塔智が〈汚れ人〉の後継者になるはずです。今回の〈|闇《やみ》|送《おく》り〉は、JOAの|威《い》|信《しん》をかけた一大イベントです。このまま、大地の闇が|浄化《じょうか》される夜を、静かに楽しまれたほうが、平和でよろしいかと存じますが」
「男・黒部、|一《いっ》|世《せ》|一《いち》|代《だい》の大仕事なのだ、左門。おまえの力が、ぜひとも必要だ」
「しかし……オヤジ……」
「おまえの有能さは、高く評価しているぞ。うまくやりとげてくれるな」
「お言葉はうれしいのですが……しかし……」
ゆらり……と老人が立ちあがる。
微妙に空気が動いた。
「わしの決定が不服か、左門」
絶対的な声。
左門は、反射的に|青畳《あおだたみ》に両手をついた。
|恭《うやうや》しく答える。
「そのようなことは決して……」
「ない、な」
「は……」
この世界では、白いものも組長が黒と言ったら、それは黒なのだ。
反抗することなど許されない。
「む……ならば、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の|孫《まご》……鷹塔智を連れてこい」
黒部は、満足げに命令する。
「鷹塔智を……? いかがなさいます?」
左門は、少し顔をあげて尋ねる。
老人の楽しげな様子に、|一《いち》|抹《まつ》の不安を感じた。
「時間|稼《かせ》ぎだ。ぐずぐずしているあいだに、虎次郎が|闇《やみ》を|浄化《じょうか》し、孫が〈汚れ人〉を|継承《けいしょう》してしまったら、虎次郎の心臓は価値がなくなる。だから、後継者候補はつかまえて、どこぞに閉じこめておけ」
「相手は、超一流の|陰陽師《おんみょうじ》です。|誘《ゆう》|拐《かい》するのは難しいと思いますが」
「わしがやれと言っているのだ」
「…………」
「急げ、左門。鷹塔智の情報は、JOAから入手してある」
「は……かしこまりました」
左門は、観念した。
(仕方ねえな……これも、オヤジの意思だ)
それでも、退出する前に、ひとこと言わずにはいられなかった。
「オヤジ、昔は、どんな暴君でも、自分の領地に入った〈汚れ人〉は、大事にしたものですよ。足もとの大地を浄化して、闇を運び去ってくれる貴重な術者ですからね。金のためになら、〈汚れ人〉の心臓も売る……。|嫌《いや》な時代ですね……」
黒部は、左門の言葉を|一笑《いっしょう》にふした。
「大地を浄化する術者は、〈汚れ人〉だけとは限るまい。いくらでも、代用品はある。心配するな」
左門は、無言で頭を下げた。
(オヤジは……変わってしまった)
数か月前まで、黒部は、もっと人間味のある老人だった。
|横着《おうちゃく》で、|狡《ずる》くて、敵には|容《よう》|赦《しゃ》なくて。
そのくせ、道に捨てられた子犬や|子《こ》|猫《ねこ》は、必ず拾ってきてしまうのだ。
左門は、そういう老人のしたたかさと、優しさが好きだった。
組長が組長なら、組員も組員だった。
組長の拾ってきた犬猫のもらい手を、熱心に探したりする。
「本当にオヤジはしょーがねえよな」などと、ぼやきながらも。
|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な|和《なご》やかさのある場所だった。
もともと、左門は流れ者だ。
二十一歳の時だった。
四国のほうで、問題を起こして追われ、関東に逃げてきた。
行くあてなどなかった。
それが、|怪《け》|我《が》をして、動けなくなったところを、黒部に拾われた。
冬の|鎌《かま》|倉《くら》の海で。
――いい目をしているな。おまえは、強くなる。……わしと一緒に来るか?
あれから、ずるずると八年も、黒部組に居着いてしまった。
今では、客分ながら、黒部のよき相談役となっている。
黒部銀次という男に、それだけの魅力があったからだ。
数か月前までは。
(どうしたんだ……オヤジ)
変わってしまった黒部が、不安だった。
金の|亡《もう》|者《じゃ》のようになってしまった黒部は、見るに忍びなかった。
それでも、見捨てることなどできなかった。
左門は、黒部銀次を|敬《けい》|愛《あい》していた。とうに失った父の代わりのように。
左門は、深いため息をついた。
(〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れる……か)
|面《めん》|倒《どう》な仕事だ、と思った。
はっきりいって、気がすすまない。
「あ、アニキだぁ! アニキー!」
|廊《ろう》|下《か》を曲がったとたん――。
|能《のう》|天《てん》|気《き》な声が聞こえてきた。
左門は、一瞬、軽い|目《め》|眩《まい》を覚えた。
(こいつ……まだいたのか)
「アニキぃ、オヤジとの話、終わりましたかぁ?」
|華《きゃ》|奢《しゃ》な美少年が、子犬のように駆けよってくる。
手に、何かを持って、ぶんぶん振りまわしている。
そばに来たところを見ると、身長は、左門の胸くらいまでしかない。
「俺、ずっと待ってたんですよう、アニキぃ」
「ヤス……」
左門は、視線があうように、心もち腰を|屈《かが》めながら、どうしようかと思う。
目の前の少年は、|派《は》|手《で》なアロハシャツと、白い|麻《あさ》のパンツ姿。
細い首には、ぶっとい金のネックレスが揺れている。
左手の小指には、ごつい金の指輪。
服装は、いかにも|極《ごく》|道《どう》|者《もの》という感じだ。
しかし、身長が低いうえに、顔が女顔なので、まるで似合わない。
|栗《くり》|色《いろ》の髪はサラサラで、大きな|瞳《ひとみ》は、いつも|潤《うる》んでいるように見える。
|睫《まつ》|毛《げ》も長くて、くるっと自然にカールしている。
名を|柴《しば》|田《た》|靖《やす》|夫《お》という。
ジャニーズ系アイドルとしてデビューしたら、さぞかし人気が出るだろう。
この美少年が、男らしさに|憧《あこが》れて、極道の世界に入ってきて一年数か月。
まだ、正式な組員にもなっていない。
どういうわけか、左門を気に入って、子犬のようにつきまとっている。
|口《くち》|癖《ぐせ》は、「アニキみたいな男になりたいなあH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]」である。
やたらアニキ呼ばわりされて、左門も困っているのだが。
「アニキの好きな『コアラのマーチ』、買っときました。はいっ」
靖夫は、ニコニコ笑いながら、お|菓《か》|子《し》の箱を頭の上に差しあげる。
そうしないと、長身の左門には届かないと思っているようだ。
左門の|困《こん》|惑《わく》に気づいた様子はない。
「アニキ、ヤクザのくせに、『コアラのマーチ』好きなんですよねー。|可《か》|愛《わい》いなあ」
うれしそうに、じゃれついてくる。
悪気がないだけに、よけい困ってしまう。
「やめろ、ヤス。いちいち『コアラのマーチ』と|連《れん》|呼《こ》するんじゃねえ! みっともねえだろうが!」
左門は、思わず声を荒らげる。
困った|挙《あ》げ|句《く》の行動なので、本気で怒っているわけではない。
だが、靖夫はシュンとなって、長い|睫《まつ》|毛《げ》を伏せてしまった。
「ごめんなさい、みっちゃんのアニキぃ」
「みっちゃんだとぉ!?」
左門のこめかみが、ピクッとなった。
(よ、よくもその呼び名を……)
左門の名前は、|道《みち》|明《あき》という。
子供の頃は、よく「みっちゃん、みちみちウ×コたれて……」とはやしたてられたものだ。
だが、この業界に入ってから、面とむかってこう呼ばれたことはない。
さすがに、ムッときた。
「ナメとんのか、こらぁ、ヤス!」
腰をのばして|怒《ど》|鳴《な》ると、声は、|小《こ》|柄《がら》な靖夫の頭上を通りぬけてしまう。
仕方なく、左門はまた|前《まえ》|屈《かが》みになった。|我《われ》ながら|情《なさ》けない姿だ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、みっちゃんのアニキ!」
靖夫は、自分で言ってから、「あ、まずい」と、口を押さえた。
「この|野《や》|郎《ろう》、いい|根性《こんじょう》だな。こっち来い」
左門は、|逞《たくま》しい腕を靖夫にのばした。
片手で握りつぶせそうな首根っこをつかまえて、ズルズル引きよせる。
一発、頭を|殴《なぐ》りつけた。
ゴツン……と|鈍《にぶ》い音がした。
靖夫の|瞳《ひとみ》が、うるうると|潤《うる》みはじめる。
「アニキぃ……アニキは、俺が嫌いなの? 俺が、いつまでもガキみたいだから?」
「なっ……何を言い出すんだ、おまえは!」
近くのダークスーツの若い連中が、わくわくと耳をそばだてている。
|好《こう》|奇《き》|心《しん》|旺《おう》|盛《せい》な|奴《やつ》らだ。
左門は、少し|焦《あせ》った。
(これは……やばい)
組に身をよせてから、八年。
行きずりの女との|情事《じょうじ》はあっても、特定の愛人はいない。
女に|拘《こう》|束《そく》されるのが|嫌《いや》だというのが、理由なのだが。
あらぬ|噂《うわさ》を流されるのも|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》だ。
左門は、心を|鬼《おに》にして、左手で靖夫を張り飛ばした。
バシッ……!
(す、すまん……ヤス……)
「いいかげんにしろ! つまんねえこと言ってねえで、|仕事《シ ノ ギ》だ、仕事ぃ!」
「や……っ……アニキ……痛い……!」
靖夫は、思わず片手で|頬《ほお》を押さえる。
|切《せつ》なげな目で左門を見あげた。
もっとも、本人には、どんな目つきかなんてわからないのだろう。
左門は、|可《か》|憐《れん》な美少年をいたぶっているような気分になる。
(なんで……こんな|奴《やつ》が|極《ごく》|道《どう》なんかめざすんだ……)
世の中の|不条理《ふじょうり》を|噛《か》みしめる。
「もう言わねーな、ヤス」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……俺、バカだから……!」
靖夫は、長い|睫《まつ》|毛《げ》を震わせる。
異様に可憐な姿。
「…………」
左門は、とても困ってしまった。
ここで泣かれでもしたら、それこそ|醜聞《しゅうぶん》だ。
若い連中が、口を押さえて笑いを殺している。
「車を出せ、ヤス。……そんな顔してねーで、早くしろぉ!」
どうしようもないので、もう一発|殴《なぐ》りつけ、足早に|玄《げん》|関《かん》にむかう。
後ろから、やっぱり子犬のように靖夫がついてきた。
(あーあ……)
左門道明、二十九歳は、思わず心のなかで|嘆《たん》|息《そく》してしまった。
玄関から出ると、快晴の空が広がっている。
夏の一日が、また始まろうとしていた。
第二章 |剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》
|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》。
|鎌《かま》|倉《くら》五山の第二位で、|夏《なつ》|目《め》|漱《そう》|石《せき》の『門』にも登場する|古《こ》|刹《さつ》である。
|JR《ジェイアール》北鎌倉駅を降りるとすぐ、|杉《すぎ》|木《こ》|立《だち》に囲まれた総門がある。
降るような|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》。
ムッとするような青草の|匂《にお》い。
近代的な|街《まち》|並《な》みのなかにある鎌倉駅と違って、ここは、いかにも古都の|風《ふ》|情《ぜい》を|漂《ただよ》わせている。
「さて」
若い女のハスキーヴォイス。
円覚寺の|方丈《ほうじょう》の裏庭である。
|智《さとる》は、髪の長い美女と|対《たい》|峙《じ》していた。
|派《は》|手《で》なアニマルプリントのスーツと、八センチはあるピンヒール。
細い手首に、重たげな金のバングル。
左手にだけ、黒い|革《かわ》の手袋をしているのが、妙に人目を|惹《ひ》いた。
|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》。
今年|二十歳《は た ち》になる|凄《すご》|腕《うで》の|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いである。
元JOA所属で、智の同僚だった女性だ。
智がJOAを脱会するのと一緒に、麗子もJOAを離れ、フリーとなった。
今では、智と|京介《きょうすけ》の|後《こう》|見《けん》|人《にん》を自称している。
「ここに呼び出したわけはわかってる、智? 京介君のことで、大事な話があるのよ」
麗子は、腕を組んで、じっと智を見つめた。
智は、白いコットンシャツと、ホワイトジーンズ。
京介の名前に、微妙に|瞳《ひとみ》の色が変わる。
「京介……?」
それでも、智の声は落ち着いていた。
「|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》のことですか?」
「察しがいいわね。助かるわ。|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》……天之尾羽張を京介君に持たせておくと危険だって……知ってた?」
「ええ。|寿命《じゅみょう》が縮むそうですね。イザナギの|剣《つるぎ》、神の剣である天之尾羽張を人間が使うのは、そもそも無理。|過《か》|負《ふ》|荷《か》がかかって、一日に、普通の人間の一年分の生命力を|消耗《しょうもう》するとか。このままでは、京介は急激に老化し、|衰弱《すいじゃく》して、最後は死ぬでしょう。京介の|寿命《じゅみょう》は、おそらく、もってあと数か月です」
(智……)
麗子は、少し驚いて、目の前の少年を見つめた。
落ち着きすぎている。
(動揺してない……どうして……?)
智は、静かな|瞳《ひとみ》で、ゆったりと裏庭を見渡した。
|方丈《ほうじょう》の四方は、高い|石《いし》|塀《べい》で囲まれていた。
塀にそって、百体の小さな石仏が並んでいた。すべて|菩《ぼ》|薩《さつ》|像《ぞう》である。
先人の祈りのこもった場所。
救済への激しい|希求《ききゅう》が、百体の菩薩像に|凝縮《ぎょうしゅく》されている。
方丈の裏庭の一部は、石庭になっている。
石庭を囲むようにして、|楓《かえで》や|松《まつ》が植えられていた。
庭の一角に、小さな池がある。
池には、色とりどりの|鯉《こい》が泳いでいた。
木々の緑を|映《うつ》す|水《みな》|面《も》。
|密《ひそ》やかな場所だった。
こんなことを話すために来るのではなく、もっと幸せな気分の時に訪れたい場所だ。
たとえば、京介と二人きりで。
「でも、どうやら、オレの知らないことがまだあるようですね、麗子さん?」
智は、ほのかに微笑を浮かべて、|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いを見つめかえした。
実際の年齢より大人びた表情。
京介といる時には、絶対に見せない、|陰陽師《おんみょうじ》としての顔だ。
|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が、途切れることなく続いている。
麗子は、|気《け》|圧《お》されて目を伏せた。
「京介君に関しては、いい知らせと、悪い知らせと、二つあるのよ。たぶん、いいほうから聞きたいでしょ」
「お願いします」
「京介君の|寿命《じゅみょう》は、縮まないわ。老化も起こらない。これが、いいほうの知らせよ」
麗子の言葉に、智は|鷹《おう》|揚《よう》にうなずいてみせる。
智がもっと驚くと思っていた麗子は、あてがはずれた。
(どうしたの……智?)
「でも、それは、京介君が、普通の人間じゃないからなの」
智は、無言だった。
身振りで、その先を|促《うなが》す。
|冷《れい》|徹《てつ》な|眼《まな》|差《ざ》し。
まるで、何もかも知りつくし、|覚《かく》|悟《ご》を決めたような|瞳《ひとみ》だ。
(智……本当にいいの……?)
麗子は、智の様子を気づかいながら、言葉を探した。
京介は、もともと|退《たい》|魔《ま》の専門家ではない。
智や麗子と出会うまでは、普通の高校生だった。
あれは、今年の六月だった。
|梅雨《つ ゆ》入り前の頃。
智は、|新宿区《しんじゅくく》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》の路上で、京介と出会った。
その直後、智は、極度の|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》から、|記《き》|憶《おく》を失ってしまった。
|面《めん》|倒《どう》|見《み》のよい京介は、意識を失い、倒れた智を助け、自分のアパートに連れて帰った。
だが、次から次へと事件が起こる。
智を|狙《ねら》った|呪《じゅ》|火《か》で、京介のアパートが焼け――。
ある事故によって、|封《ふう》|印《いん》されていたはずの|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》が解放された。
智は、苦労して|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》を|浄化《じょうか》し、天に|還《かえ》した。
だが、数日とたたぬうちに、新たな事件が起こった。
智と京介の通う|諏訪東《すわひがし》高校の同級生・|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》が、|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》となった。
牧村冴子は、|誘《ゆう》|拐《かい》されたのだ。
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に。
京介は、|記《き》|憶《おく》を失った智をほうっておけなかった。
智と|麗《れい》|子《こ》と彼の三人で、緋奈子に立ちむかった。
その戦いの極限状態のなかで、京介と智は、互いに深く結びついた。
強い信頼関係が生まれたのだ。
だが、結局、緋奈子はまんまと逃げおおせた。
牧村冴子を|無《む》|惨《ざん》に殺して――。
そして、京介の手のなかには、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が残された。
魔を|斬《き》る|剣《つるぎ》が。
普段は、十五センチほどの金属片である。
特になんの|変《へん》|哲《てつ》もない棒のようなものだ。
しかし、京介が手にして念じると、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》するのだ。
なぜ、京介に天之尾羽張が使えるのか、それはわからなかった。
だが、京介は、何もわからないまま、それでも智と一緒に戦う道を選んだ。
|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》で、智を守り続けると|誓《ちか》った。
京介は、焼けたアパートを引き払って、智のマンションに移り住んだ。
そして、二人は、一緒に暮らしはじめたのだ。
出会いから、一か月後。
夏休みに入った智と京介は、|湘南《しょうなん》|江《え》ノ|島《しま》にやってきた。
|退《たい》|魔《ま》の依頼を受けたためである。
江ノ島の|洞《どう》|窟《くつ》で、観光客や|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》が影を斬られる事件が相次いだ。
影を斬られた人間は、数日で死んでしまう。
また、江ノ島近海には、ヨットやクルーザーを沈める|妖《よう》|怪《かい》が出現していた。
智と京介は、この二つの事件の解決を依頼されたのである。
依頼主は、地元代議士・|愛《あい》|川《かわ》|美《み》|佐《さ》|子《こ》。
直接、智たちに連絡をとってきたのは、秘書の|宮沢遼司《みやざわりょうじ》という男だった。
智と京介は、江ノ島に近い宮沢邸に宿を定めた。
二人はその時、宮沢秘書の息子・|勝《かつ》|利《とし》と出会った。
宮沢勝利は、JOA所属の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》だった。
智と京介は、最初は、勝利に反発した。
だが、共通の敵との戦いを通して、勝利のまっすぐな性格を知り、認識を改めていった。
勝利は、頼りになる少年だった。
いろいろなことを知っていた。
勝利は、京介が|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使うのを見て、忠告した。
これ以上、天之尾羽張を使い続けるな。
|寿命《じゅみょう》が縮むのだと。
京介が、安全に天之尾羽張を使えるのは、あと二回。
それを|超《こ》えれば、京介の体に影響が出はじめる。
急激な老化が始まる。
|衝撃《しょうげき》を受ける智と京介。
だが、敵は|容《よう》|赦《しゃ》なく襲ってくる。
|江《え》ノ|島《しま》の影|斬《き》り事件と、|妖《よう》|怪《かい》の出没の裏には、一人の呪殺者がいた。
|赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》。
四年ほど前まで、JOA|霊力《れいりょく》開発研修センターで、智と一緒に研修を受けていた少年。
智のかつての友人であった。
赤沼は、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・緋奈子に|命《めい》じられて、智を殺しにやってきたのだ。
台風の夕方。
赤沼が、妖怪〈いくぢ〉とともに、攻撃をしかけてきた。
京介は、天之尾羽張を赤沼にむけた。
智を守るために。
が、赤沼は、やすやすと智をさらい、江ノ島に連れていった。
江ノ島は、橋が分断され、孤立していた。
|嵐《あらし》のなかを、江ノ島へクルーザーを飛ばす京介と勝利。
そして――。
江ノ島での戦い。
京介は、最後のチャンスに|懸《か》けて、天之尾羽張を|顕《けん》|現《げん》させた。
智のためなら死ねる、と。
智もまた、京介の最大の危機に、能力を全開する。
呪殺者・赤沼英司は、智たちの必死の攻撃の前に、敗れ去った。
あれから――。
智も京介も、天之尾羽張の話題は避けている。
互いが、互いを気づかって、|努《つと》めて明るく振るまっていた。
「悪いほうの知らせは、京介|君《くん》が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の|剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》の|化《け》|身《しん》だってことなの」
「天之尾羽張の剣の神霊の化身……」
「そう。京介君の外見も|霊《れい》|気《き》も、普通の人間のものと区別がつかないわ。つまり、剣の神霊が、なんらかの手段で人間の肉体を持ってから、数代以上は、|転《てん》|生《せい》をくりかえしているということになる」
「それで、|麗《れい》|子《こ》さん。京介が、天之尾羽張の神霊の化身だとしたら、何がどう危険なんです? |寿命《じゅみょう》が縮まないのだとしたら」
智は、|素《そ》っ|気《け》なく尋ねる。
「このまま、天之尾羽張を使い続ければ、京介君は|妖獣《ようじゅう》になるわ」
「京介が妖獣に……?」
「京介君の|魂《たましい》は、天之尾羽張の剣の神霊そのもの。ところが、|砕《くだ》けた天之尾羽張の|刀《とう》|身《しん》は、剣の神霊を取り戻して、もとの姿に戻りたがっているのよ。京介君の魂と肉体は、徐々に引き|裂《さ》かれはじめる。魂を天之尾羽張に奪われる時間が長くなる。そして、京介君の肉体が変化しはじめる。魂を失った者は、人間じゃいられなくなるから。……妖獣への変化は、ゆっくりと始まるはずよ。最初は、|記《き》|憶《おく》が欠落する。記憶のないあいだ、京介君は妖獣として|街《まち》をさまよい、人を殺して歩くのよ。理性も何もかもなくして」
「それで、天之尾羽張の刀身は? 京介の魂を吸いこんで、どうなるんです」
あくまで、冷静な智の声。
麗子は、目を伏せた。
(どうして……そんなに落ち着いていられるの? 京介君は、あなたの大事な人じゃないの? 智……?)
「天之尾羽張は、金属の剣として実体化するはずだわ。史上最強の|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》として。もちろん、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を|斬《き》り殺すことさえできる。……あなたが、そこまで計算して、京介君を仲間に引きこんだとは思わないけれど……。とにかく、今の段階で、京介君が天之尾羽張を絶対に|触《さわ》らなければ、妖獣への変化は起こらないわ。ただし、あと一度でも触ったら終わり。京介君を人間の姿にとどめておく方法は、今のところ不明だから。なにしろ、JOA図書館の|文《ぶん》|献《けん》をあたったんだけど、こういう例ってなくてね」
「なるほど」
智は、聞こえるか聞こえないかの声で、|呟《つぶや》いた。
微妙な感情が、美しい|瞳《ひとみ》のなかに|閃《ひらめ》く。
「ありがとう、麗子さん。忙しい時に時間をとらせてしまって、悪かったですね。……祖父の|警《けい》|護《ご》に戻っていただけますか」
麗子は、JOAから依頼されて、智の祖父・|鷹《たか》|塔《とう》|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》の警護にあたっている。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を|狙《ねら》ってくる術者を|警《けい》|戒《かい》しての|措《そ》|置《ち》だ。
「そう……じゃ、先に帰らせてもらうわ。……でも、智、約束して。絶対に|無《む》|茶《ちゃ》はしないこと。京介君がこういう状態なんだから、|自重《じちょう》してちょうだい。あたしも、京介君を救う方法は、引き続き探してみるわ」
|麗《れい》|子《こ》は、少しためらってから、つけ加えた。
「京介君と会ってからの智、いい顔になったわ。よく笑うようになったし、|雰《ふん》|囲《い》|気《き》やわらかくなった。だから、なんとかしてあげたいのよね。このまま、終わらせたくないな……。できるかぎりの協力をするわ。だから、|独《ひと》りぼっちだなんて思わないでね」
|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の|陰陽師《おんみょうじ》は、すでに、麗子に背をむけている。
すべてを|拒《きょ》|絶《ぜつ》するような空気。
白いコットンシャツの背に、|陽《ひ》が|眩《まぶ》しく|射《さ》していた。
「智……」
麗子は、一歩前に出た。
その|刹《せつ》|那《な》、麗子の視界が変わった。
「え……?」
一面の赤。
異様な|鎌《かま》|倉《くら》の|街《まち》が、|視《み》えた。
|廃《はい》|墟《きょ》と化した|市《し》|街《がい》|地《ち》。
薄明るい空に、|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》が吹きあがっている。
|雷《らい》|鳴《めい》と|火柱《ひばしら》。
無数の|怨霊《おんりょう》が宙を飛びまわり、倒れて死んでいる人々が視える。
恐怖と絶望。
|地《じ》|獄《ごく》|絵《え》のような光景だった。
足もとの地面が、|粉《こな》|々《ごな》になって|砕《くだ》けていくような感覚。
「|嫌《いや》あああああああーっ!」
麗子は、思わず悲鳴をあげた。
そして、鎌倉の街に、押しよせてくる|大《おお》|津《つ》|波《なみ》。
|死霊《しりょう》たちが、赤い|平《へい》|家《け》の旗を立て、海上から、鎌倉の|崩《ほう》|壊《かい》を|眺《なが》めている。
一瞬の|幻《げん》|覚《かく》は、消えた。
麗子のなかに、すさまじいパニック状態を残して。
麗子は、激しく脈打つ胸を、ぐっと押さえた。
本当に、胸が痛い。
(智の心……智の心だわ……これ……)
麗子は、両腕で自分の体を抱きしめた。
全身に|脂汗《あぶらあせ》をかいて、ガクガクと震えているのに、ようやく気づく。
麗子は、無意識のうちに、智の心をのぞき見たのだ。
京介の危険を知らされ、激しく動揺している智の心を。
(なんて……|霊《れい》|気《き》……)
胸が苦しいのも、視界が変わったのも、智の霊気の影響だ。
智は、周囲のあらゆるものに影響をおよぼす。
地霊気が、乱れはじめる。
ピ……シッ……!
|嫌《いや》な音がして、智の足もとの地面に、細く浅い|亀《き》|裂《れつ》が走った。
ピシピシピシッ……!
|蜘《く》|蛛《も》の|巣《す》状の亀裂が、広がっていく。
智は、その中心に立ちつくしていた。
麗子は、智に背をむけ、よろめく足で歩きだした。
|慰《なぐさ》めなければと思いながら、こんな智のそばにい続けることに耐えられなかった。
ガクガクする足で、|北《きた》|鎌《かま》|倉《くら》駅の駐車場へむかう。
見あげた空は、真夏の青。
(どうしよう……|大丈夫《だいじょうぶ》かしら……智)
麗子は、愛車のドアに手をかけたまま、|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》の空を振り返った。
智の霊気を閉めだせない。
そのまま、麗子は、ズルズルとうずくまってしまった。
麗子が去った後。
智は、池の|畔《ほとり》に歩みよった。
(どうして……こんなことに……京介……)
智の肩が、ビクンと震える。
張りつめた全身の力が、ぬける。
智は、ガクン……とその場に|膝《ひざ》をついた。
「|妖獣《ようじゅう》……」
智の|脳《のう》|裏《り》に、京介の|笑《え》|顔《がお》が浮かんだ。
心に焼きついた顔だ。
色黒で、|瞳《ひとみ》が光の加減で、|綺《き》|麗《れい》な|褐色《かっしょく》に|透《す》けて見える――。
見る者が幸せになるような微笑。
(失いたくない――!)
ゆっくりと|唇《くちびる》を手で押さえた。
こみあげてくる熱いものを、必死に|呑《の》みくだす。
「京介……なんで……!」
初めて、かすかなすすり泣きが、|陰陽師《おんみょうじ》の|唇《くちびる》からもれた。
*    *
|方丈《ほうじょう》の|石《いし》|塀《べい》の外側では――。
|栗《くり》|色《いろ》の髪の美少年が、不安そうな顔で、|精《せい》|悍《かん》な男を見あげていた。
「アニキぃ、|大丈夫《だいじょうぶ》ですかぁ? 車|酔《よ》いですかぁ?」
「…………」
|左《さ》|門《もん》は、無言で首を横に振った。
サングラスに隠れて、|瞳《ひとみ》の表情はわからない。
だが、|頬《ほお》の色が真っ青だ。
鷹塔智の|行《ゆく》|方《え》を追って、|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》までやってきた。
あわよくば、人目のないところで気絶させ、|黒《くろ》|部《べ》組の事務所に運びこもうと思っていた。
だが、塀のこちら側で立ち聞きするうちに、智の|霊《れい》|気《き》の|余《よ》|波《は》を受けた。
心臓は破裂しそうだし、視界は半分くらいふさがっている。
(こんな……地霊気んなかで……なんて霊力出しやがるんだ……!)
思わず毒づいた時、左門の背後で、|邪《じゃ》|悪《あく》な|気《け》|配《はい》が動いた。
目に|視《み》えない地霊気の|闇《やみ》が、ぐぐっと濃くなった。
智の霊気に|触発《しょくはつ》されたらしい。
「なにぃ……!?」
(このうえ|怨霊《おんりょう》か……!?)
反射的に、左門は、|縞《しま》がらのスーツの|懐《ふところ》から|呪《じゅ》|符《ふ》を取り出した。
だが、頭がグラグラして、戦いに集中できない。
ゴゴゴゴゴゴゴゴーッ!
|轟《ごう》|音《おん》とともに、大地が激しく揺れた。
「地震……!? やだっ! アニキ、俺、地震嫌いっ!」
|靖《やす》|夫《お》が、頭を|抱《かか》えて地面にしゃがみこむ。
「ちぃ……! ヤス、地震くらいでビビってんじゃねえ!」
|叱《しっ》|咤《た》しながら、周囲を見まわす。
(あ……え? これは……)
左門の心臓が、ドクンと|跳《は》ねた。
「|黄泉津比良坂《よもつひらざか》……!? |冥《めい》|府《ふ》の門が開いた……!」
|参《さん》|道《どう》に、幅二メートルほどの|亀《き》|裂《れつ》ができていた。
その亀裂のなかから、ぞろぞろと|化《ば》け|物《もの》どもが、|這《は》い出してくる。
|牛《ご》|頭《ず》|鬼《き》、|馬《め》|頭《ず》|鬼《き》、|人《じん》|面《めん》|馬《ば》、|鬼《おに》|火《び》、|九尾《きゅうび》の|狐《きつね》……。
土くれを|掻《か》き分けて、さらに出てくる。
|蛇《じゃ》|神《しん》、|土《つち》|蜘《ぐ》|蛛《も》、巨大な|髑《どく》|髏《ろ》、血まみれの|鎧武者《よろいむしゃ》、三つ目の|猫《ねこ》……。
あっという|間《ま》に、参道は、化け物どもでいっぱいになった。
靖夫が、異様な|気《け》|配《はい》に気づいて、顔をあげた。
「…………!」
声にならない悲鳴。
「ヤス、俺の後ろに隠れろ!」
左門は、|舎《しゃ》|弟《てい》を背中でかばって、身構えた。
大きく息を吸いこんだ。
|逞《たくま》しい胸が、呼吸につれて、上下する。
「|東方千陀羅道《とうほうせんだらどう》 南方千陀羅道 西方千陀羅道 北方千陀羅道 中央千陀羅道!」
化け物どもにむかって、|呪《じゅ》|符《ふ》を投げた。
呪符は、|赤紫《あかむらさき》の光を放って、流星のように宙を流れる。
――くっくっくっくっくっ。
笑い声がしたかと思うと、呪符は、すべて|弾《はじ》き飛ばされた。
バチバチバチバチッ!
空中で、青い火花が散る。
左門の投げた呪符は、|黒《こく》|煙《えん》をあげて、焼け|崩《くず》れた。
――|生《なま》|意《い》|気《き》だよ、人間のくせに。
――血祭りにあげちゃえ。
|陰《いん》|惨《さん》な笑い声が、|湧《わ》きあがる。
巨大な髑髏が、|不《ぶ》|気《き》|味《み》に白い歯をカタカタいわせた。
左門は、大きな両手で|印《いん》を結んだ。
「オン・カカカ・ビサンマェイ・ソワカ!」
――|無《む》|駄《だ》、無駄、無駄ぁ!
|嘲笑《ちょうしょう》と一緒に、ボッ……と左門たちの足もとから、火が燃えあがった。
「うわああああーっ!」
「アニキぃーっ!」
たちまち、|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》は、左門と靖夫を包みこむ。
|刹《せつ》|那《な》。
「|鎮《しず》まりたまえ、|諸《もろ》|々《もろ》の荒ぶる|御《おん》|神《かみ》、大地の|御《み》|子《こ》、死せる|同胞《はらから》よ」
静かな声が、その場の狂乱を吹き払った。
|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》が、一瞬のうちに消滅する。
本物の火ではなく、|幻《まぼろし》だったようだ。
声の|主《ぬし》は、|石《いし》|塀《べい》の上に立っている。
白いコットンシャツとホワイトジーンズ。
智だ。
|化《ば》け|物《もの》どもを見おろす|瞳《ひとみ》には、|哀《あわ》れみとも|嘆《なげ》きともつかない光がある。
ひどく大人びた高貴な表情。
智は、両手で|印《いん》を結んだ。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ……!」
流れるような|光明真言《こうみょうしんごん》。
|浄化《じょうか》の青い光が、|陰陽師《おんみょうじ》の全身から輝きだす。
その光を浴びたとたん、化け物どもの様子が、変わった。
とろんとした目で、うずくまり、動かなくなる。
|陶《とう》|然《ぜん》とした姿。さっきまでの|邪《じゃ》|悪《あく》な様子は、もうない。
――あったかいね。
――いい心持ちだね。人間の……|風《ふ》|呂《ろ》っていうの……あれに似てるね。
うれしげなささやきが風に溶け、化け物どもは姿を消した。
「アニキ……天使ですよ……あれ」
靖夫が、|茫《ぼう》|然《ぜん》としたまま、石塀の上の智を見つめて、|呟《つぶや》く。
「バカ。天使なわきゃねーだろ」
「だってだって……羽が見えますぅ」
左門は、靖夫の指差すあたりに、目を|凝《こ》らした。何も見えない。
「|錯《さっ》|覚《かく》だろうが。|極《ごく》|道《どう》がメルヘンすんな」
「だって、すごく|綺《き》|麗《れい》ですよぉ」
「バカ……何言ってんだ、ヤス。……おまえだって綺麗だ」
言ってしまってから、左門は思わず、サングラスの下で|頬《ほお》を赤らめる。
(お、俺は、何を口走ってるんだ……!)
幸い、よそに気をとられていた靖夫の耳には、今のセリフは入らなかったようだ。
「あ……あぶないっ! 落ちるっ!」
靖夫が、叫ぶ。
石塀の上で、智がよろめいた。浄化の光が消えていく。
「どうした……!?」
左門は、とっさに|石《いし》|塀《べい》の下に走りよった。
|逞《たくま》しい両手を広げて、智の体を抱きとめる。
「|大丈夫《だいじょうぶ》か、鷹塔!?」
「う……」
かすかなうめき声。
|参《さん》|道《どう》の地割れは、|跡《あと》|形《かた》もない。
「なんだったんですかぁ、アニキぃ、今の……?」
「|黄泉津比良坂《よもつひらざか》が……|冥《めい》|府《ふ》の門が開いたんだ。|鎌《かま》|倉《くら》の|地《ち》|霊《れい》|気《き》が、|闇《やみ》の重みに耐えられなくなったんだろう」
左門は、手早く智を|介《かい》|抱《ほう》しながら、靖夫に答えた。
「ん……う……っ……」
智が、目を開いた。
|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに、左門の|精《せい》|悍《かん》な顔を見あげる。
「大丈夫か、鷹塔。……おかげで俺とヤスは助かった。礼を言わせてもらう」
左門は、|丁《てい》|寧《ねい》に智を地面に降ろして、軽く頭を下げる。
が、智の反応がない。
「……鷹塔?」
「京介ぇ……京介がいないよう……」
妙に子供っぽい|口調《くちょう》で、智が|呟《つぶや》く。
極端な|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》で、一時的に幼児のようになっている。
|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》|印《いん》されて、力の効率が悪くなっているせいだ。
だが、それを知る者は、京介と|麗《れい》|子《こ》だけ。
事情のわからない左門は、不安になってしまった。
(打ちどころでも悪かったのか……?)
「アニキ……どうしましょぉ?」
「|手《て》|間《ま》がはぶけたじゃねえか。このまま、オヤジのところへ連れていく」
靖夫は、また泣きだしそうな目で左門を|睨《にら》んだ。
「アニキ……俺、やですよぉ。だいいち、オヤジのやってることは正しーんですかぁ? 智さんのお|祖父《じ い》さんの心臓を、金のために売り飛ばそうっていうんですよ。恥ずかしいと思わないんですか? 智さんは、俺とアニキを助けてくれたんですよぉ」
「む……」
ズバリと言われて、左門は返答に|窮《きゅう》した。
組長のためとはいえ、よくないことをしている、という自覚はある。
「助けてもらって、|恩《おん》を|仇《あだ》で返すのって……俺、頭わりいからよくわかんないけど……|任侠《にんきょう》の道と違うんじゃないかなぁって、思うんですけどー」
「ヤス……おまえ……」
(バカだ、バカだと思ってたが……意外とまっとうなこと言うじゃねえか)
左門は、急に自分が恥ずかしくなった。
靖夫の純真な|瞳《ひとみ》に、|己《おのれ》の生きざまを問いつめられているような気がする。
(ヤス……おまえみてえな心の|綺《き》|麗《れい》な|奴《やつ》が、なんで|極《ごく》|道《どう》なんかめざすんだよ……。神様に|叱《しか》られちまわ……)
左門は、手の甲でくいと鼻の頭をこする。
「|任侠《にんきょう》の道かよ……」
「アニキは怒るかもしんないんだけど……俺、今のオヤジって、映画だったら、|健《けん》さまに退治されちゃう悪役みたいで、かっこ悪いと思うんだ。どうせなら、健さまの味方して戦うほうが男らしいし、任侠の美学があると思うんだなあ」
靖夫は、星が十個くらいつまっていそうなキラキラの目で、主張する。
なんとなく風向きが違ってきた。
(おいおいおい……ヤス?)
左門は、悪い予感を感じた。
恐る恐る尋ねてみる。
「……ヤス、おまえ、その健さまってのは……ひょっとして」
「え? そりゃ、もちろん|高《たか》|倉《くら》健さまのことです。決まってるじゃないですかぁー」
キャハッと、靖夫は照れ笑いする。
「…………」
左門の肩がガックリとおちた。
(バカだ、バカだと思ってたが、やっぱりバカだぜ……ヤスよぉ)
つい、うかうかと感動させられてしまったぶんだけ、自分が|情《なさ》けなくなる。
「だから、俺たちも、智さん助けてあげましょーよぉ、アニキぃ」
「……勝手にしろ」
左門は、プイと靖夫に背をむけた。
先に立って、ずんずん歩きだした。
|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な|縞《しま》がらスーツの背中。
「アニキぃーっ! 待ってくださいよぉー! どうしたんですかー?」
後ろから、|能《のう》|天《てん》|気《き》な靖夫の声があがった。
幼児状態の智の手を引いて、追いかけてくる。
レイバンのサングラスをかけたヤクザと、ジャニーズ系アイドルふうの|三《さん》|下《した》、それに、白ずくめの美少年……という取り合わせは、異様に目立った。
だが、|境《けい》|内《だい》の|参詣客《さんけいきゃく》たちは、見て見ぬふりをしていた。
平凡な生活を守ろうとする|庶《しょ》|民《みん》の知恵だった。
十分後。
駅前の駐車場から、一台の車が走りだした。
ミッドナイトブルーのベンツだ。
運転しているのは、左門。
助手席に靖夫、後部座席に智が座っている。
三人は、|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》の智の祖父の家をめざしていた。
「みっちゃんのアニキって、こわもてだけど、本当はいい人なんですよねー」
靖夫は、明るい声でケタケタ笑う。
「ヤス、次の信号で止まったら覚えてろ」
「でも、俺、そういうアニキって好きだなあ」
靖夫は、ニコッと微笑した。
左門は、急に黙りこんでしまった。
後部座席では、智が、無心に『コアラのマーチ』を口に運んでいる。
第三章 |星《ほし》|月《づく》|夜《よ》の|街《まち》で
〈|闇《やみ》|送《おく》り〉本祭を明日に控えた、午後二時。
|京介《きょうすけ》は、|鎌《かま》|倉《くら》市内のホテルのロビーにいた。
海をイメージしたフロアーは、青い照明に照らしだされている。
「珍しいところで会うものだな、|鳴《なる》|海《み》京介」
|皮《ひ》|肉《にく》めいた声が、階段の上から降ってくる。
振り返ると、銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》の美青年が立っていた。
長い薄茶の髪と、ハシバミ色の|瞳《ひとみ》。
ホテルのロビーなので、さすがに白衣は|脱《ぬ》いでいる。
|藤《ふじ》|色《いろ》のスーツをきざに着こなしていた。
「|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》……!」
「覚えていてくれたか。光栄だな」
時田は、クスクス笑いながら、京介に近よってきた。
「今日は、|智《さとる》はいないようだね。そろそろ、ふられたか」
「あんたには関係ねーよ」
「大いに関係あるね。なにしろ、智はわたしのものなんだから。君も、いいかげん、智の周りでキャンキャン|吠《ほ》えるのは、よしたほうがいい。……|妖獣《ようじゅう》にはなりたくないだろう?」
「妖獣……なんだよ、それは」
京介は、|眉《まゆ》をよせる。
時田を|睨《にら》みつけた。
言うことが、いちいち気に食わない。
「おや……まだ知らないのか。それは失敬」
時田は、|優《ゆう》|美《び》に肩をすくめてみせる。
「君は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の|剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》の|化《け》|身《しん》だ。人間じゃない。つまるところ、智のそばにはいられんよ」
|鼠《ねずみ》をいたぶる|猫《ねこ》のような|瞳《ひとみ》。
「え……俺が天之尾羽張の剣の……化身? |冗談《じょうだん》言ってんじゃねーよ、時田忠弘」
「信じる信じないは、君の自由だ、もちろん。ただ、親切心から忠告してあげようと思ったわけだ」
「忠告だとぉ……!?」
(ただの|嫌《いや》がらせじゃねーか……!)
京介は、心のなかで毒づく。
「君の天之尾羽張は、もう使わないことだな。そのまま使い続ければ、君の|魂《たましい》と肉体は引き|裂《さ》かれる。魂は、天之尾羽張の剣本体に吸いこまれ、肉体は、妖獣に変化していく。君は、妖獣になったほうが美しいかもしれないがね」
「……|嘘《うそ》だろ、おい」
「嘘なものか。君は、もう智のそばにはいられない。私にとっては幸いなことに、智は、武器とは相性が悪いのでね。智は、無意識のうちに、|刀《かたな》の化身である君を|拒《きょ》|絶《ぜつ》するだろう。……覚えがないかね」
京介は、思わずたじろいだ。
|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》の夢をみて泣いた智。
京介に対して、どこかぎこちなかった智。
あれは、|今朝《け さ》のことだけれど――。
「冗談じゃねーよ! 智が俺を拒絶するわきゃねーよ! いいかげんなこと言うんじゃねえ!」
「大声を出さないでもらえるかね、鳴海京介」
時田忠弘は、わざとらしく、両手を胸のあたりまであげてみせる。
日米ハーフのせいか、オーバーな動作も、そんなに変ではない。
「うるせえんだよっ! てめー、|殴《なぐ》るぞ、しまいにゃ!」
周囲の客が、チラチラとこの二人の様子をうかがっている。
支配人らしい中年の男が、飛んできた。
「お客さま、ほかのお客さまにご|迷《めい》|惑《わく》になりますので……」
|慇《いん》|懃《ぎん》に外へ出るようにと伝える。
京介は、支配人をねめつけた。
今は、目の前にいる人間は、手当たり次第、殴ってやりたい気分だった。
「俺は、人を待ってるんだよ、ここで」
「ほう……君がホテルで待ちあわせとはな。相手は、女か? そんな|粋狂《すいきょう》な女がいるとは思えないがね」
時田は、ククク……と含み笑いをもらす。
(どこまで|嫌《いや》|味《み》なんだよ、てめーは!?)
京介は、|拳《こぶし》を固めた。
時田は、まだ笑っている。
(殴る!)
思わず、京介が決心した時だった。
「|粋狂《すいきょう》で悪かったわねえ、たっちゃん」
まったく|疵《きず》のない、|透《す》きとおった少女の声。
時田が、ギクリ……としたように笑いをやめた。
「ピヨ子……おまえ」
視線が、緋奈子と京介のあいだを、二、三度、行ったり来たりする。
緋奈子は、片手を振って、支配人を下がらせた。
いつの|間《ま》に着替えたものか、着物姿だ。
その名のとおりの、|鮮《あざ》やかな|緋《ひ》|色《いろ》。
「待たせたわね、鳴海京介」
「いや……」
京介は、緋奈子の目を真正面から受けとめた。
|威《い》|嚇《かく》するように、|瞳《ひとみ》に全身の力をこめる。
「なあに、いきなり|殴《なぐ》りこみ? 言っておくけれど、緋奈子は、〈|闇《やみ》|送《おく》り〉のあいだは、けっこう忙しいのよ。|伯《お》|父《じ》の……JOA理事長の代理で来てるの」
緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「智ちゃんがいないのが残念ね。まあ、いいわ。……上へいらっしゃい。緋奈子の部屋で話しましょう」
「そうだな」
京介は、ゆっくりとうなずいた。
心は、決まっていた。
「わたしもついていっていいかな、ピヨ子」
少し|慌《あわ》てたように、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、緋奈子に|伺《うかが》いをたてた。
「あら、たっちゃんはお呼びじゃないわよ」
「思春期の男女を、二人っきりで、ホテルのスイートに置いとくわけにはいかんだろ」
「何考えてんだよ、てめーは」
京介は、ちょっと|呆《あき》れた。
(|気色《きしょく》悪いことを考えやがって……)
「たっちゃん、どうしたの? そんなに緋奈子のことが心配?」
緋奈子は、意地悪くささやく。
「いや……。わたしとしては、おまえたち二人につるんでほしくないだけだ」
「つるむ気なんかないわよ」
「俺だってねーよ」
京介と緋奈子は、同時に言う。
「やれやれ……その調子で、|角《つの》|突《つ》きあっていてもらいたいものだ。智を真ん中にして、講和条約でも結ばれたら、目もあてられんからな」
時田は、ぬけぬけと言ってみせる。
その|危《き》|惧《ぐ》は、半永久的に現実にはなりそうになかったが。
*    *
海に面したスイートルーム。
眼下に、|湘南《しょうなん》の海が広がっている。
緋奈子は、一人掛けの|椅《い》|子《す》にもたれて、じっと京介を見つめた。
京介は、ラブチェアーに座り、目を伏せていた。
「智を……なんとかしてやってくれ」
「…………」
「智、|今朝《け さ》も、あんたの夢みて泣いてたんだ。あいつは……まだ心の奥で、あんたのことが好きなんだ。もう……やめてくれ。頼むから、二人で争うのはやめてくれ。智がかわいそうだ」
時田は、バルコニーに追いだされていた。
ガラスごしに、二人の会話を聞き取ろうとしている。
だが、レースのカーテンも閉まっていて、なかの様子はよく見えない。
それでも、京介と緋奈子にしてみれば、かなりの|譲歩《じょうほ》だった。
|廊《ろう》|下《か》に締めだしてもよかったのだ。
だが、やはり、密室に二人きりという状況は、京介も緋奈子も、お互い|嫌《いや》だった。
なんとなく、暗黙の|了解《りょうかい》で、時田をバルコニーに置いた。
「もういいじゃないか。もう充分だよ……。もう、あいつを苦しめないでくれ。頼む……」
緋奈子は、両手で、椅子の|肘《ひじ》|掛《か》けをギュッとつかんだ。
能面のような顔は、無表情だ。
だが、全身を緊張させて、必死に殺気を殺している。
緋奈子は、京介に|嫉《しっ》|妬《と》していた。
一人の女として。
京介には、なぜか、それがわかった。
「あいつ……ですって。ずいぶん親しげね。まるで……智ちゃんが、あなたのもののような言い草じゃない、鳴海京介」
「……あいつは、俺のものじゃない。誰のものでもない。智は、智なんだ」
「じゃあ、あなたがこんなこと言いだす権利はないわ。お|節《せっ》|介《かい》だって……自分で思わない? ねえ、バカなことしてると思わない? 恥ずかしくない? |恋敵《こいがたき》の前で、そんなふうに|懇《こん》|願《がん》しても平気なの……? それは、智ちゃんを手に入れたという自信からなの? 自信があるの……そんなに?」
「自信なんかねえよ。それに……どうして、恥ずかしいんだよ」
京介は、緋奈子の問いに目をあげた。
恐れげもなく、まっすぐ|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》を見つめる。
緋奈子は、|憎《ぞう》|悪《お》と|羨《せん》|望《ぼう》を|悟《さと》られまいとするように、顔をそむける。
「恥ずかしいわよ……恥ずかしいに決まってるじゃない。普通なら……!」
「智の幸せを願うのが、どうして恥ずかしいんだ。智の|笑《え》|顔《がお》は|綺《き》|麗《れい》じゃないか。誰だって、あの顔を見たいと思うだろ。あいつは、幸せにならなければいけないんだ。いつも笑ってなけりゃ……。俺だって、この手で、智を幸せにしてやりたい。永遠に幸せなままにしておきたい。俺のそばで幸福にしたい。そんなの、決まってるじゃないか。でも……智が、あんたを好きだっていうんなら……しょうがないじゃないか。俺は、智とあんたとで、幸せになるように願うしかないんだ……」
京介は、なかば自分に言い聞かせながら|呟《つぶや》いた。
「智が好きだ。生まれて初めて、本気になった相手だ。智以上に大事な人間なんて、この世にいない。泣かせたくないんだ。あいつを、幸せにしてやりたい。俺は、どうなってもいいんだ。あいつさえ……笑っていてくれるなら」
京介は、ラブチェアーから|床《ゆか》に|滑《すべ》りおりる。
その場で、|膝《ひざ》を折る。
両手をついた。
|土《ど》|下《げ》|座《ざ》して、緋奈子に頭を下げる。
「お願いだから、智と和解してほしい」
「和解……ですって?」
緋奈子は、|冗談《じょうだん》ではない、という目をする。
「ふざけないでちょうだい! あなた、誰にむかって言っていると思ってるの!?」
「俺は、時田緋奈子、あんたにむかって言ってるんだ。魔の盟主にじゃない。人間対人間として、頼んでるんだ」
京介は、|迷《まよ》いのない|瞳《ひとみ》を緋奈子にむけた。
心底から、智の幸福だけを願って、見つめる。
「頼む……仲なおりしてくれ」
その瞳は、光に|透《す》けて綺麗な|褐色《かっしょく》になる。
まっすぐで、どこまでもお|人《ひと》|好《よ》しで、素直な|眼《まな》|差《ざ》し。
もしかすると、魔の盟主である緋奈子をさえ、信じかねない瞳。
緋奈子は、わずかに|怯《ひる》んだようだった。
「この|瞳《ひとみ》で……智ちゃんを愛したのね」
京介は、ピクリと肩を震わせた。
「|冗談《じょうだん》じゃ……ないわよ」
「緋奈子……さん、こんなかたちで傷つけあって……二人とも不幸じゃないか。智も、あんたも。俺は、もう何も望まない。だから、どうか、智を……楽にしてやってくれ。幸せにしてやってほしい。頼む……お願いします」
カタン……。
小さな音がした。
緋奈子が、立ちあがる。
今にも火を吹きそうな目で、京介を見おろした。
「智ちゃんを手に入れておいて、よくもぬけぬけと……! ほかの誰が言っても許したけれど、あなたにだけは、そんなこと言われたくない! あなたの願いだけは聞いてあげない! 緋奈子は、あなたを許さない! その口、ズタズタにしてしまいたい……!」
「お願いします……お願いだから、智を……!」
「緋奈子を|愚《ぐ》|弄《ろう》しにきたの? 智ちゃんが好きになった人だから、自分は殺されないとでも思ったの? どうして、なんの権利があって、そこまで|傲《ごう》|慢《まん》になれるの? 教えてちょうだい。どうして、平気で緋奈子の前に現れられるの? 命が|惜《お》しくないの? 緋奈子には、わからないわ!」
「智を幸せにしたいんだ! お願いだから、考えなおしてくれ! 頼むから!」
「やめてちょうだい! 傲慢にもほどがある!」
「智と和解すると約束してくれるまで、動かない。絶対、動かない! お願いします、お願いします、お願いします!」
京介は、ムキになっていた。
プライドも、何もかも捨てて、|土《ど》|下《げ》|座《ざ》しているのだ。
智のために。
ここで後へ|退《ひ》くつもりはなかった。
「お願いします、お願いします!」
「あなたの願いだけは、かなえてあげない。どんなに頼んでも|無《む》|駄《だ》よ。絶対に許さない。聞いてあげない。もう、やめてちょうだい……! 時間の無駄だわ!」
「お願いします!」
「やめなさい! 鳴海京介!!」
悲鳴のような|絶叫《ぜっきょう》。
同時に、緋奈子の全身が緋色に輝きはじめた。
すさまじい|霊《れい》|気《き》だ。
ザザザザザッ!
ザザザザザザッ……!
四方から、風のような音が|湧《わ》きあがる。
「いかん! 緋奈子っ!」
時田が、ガラスをぶち破って、室内に飛びこんでくる。
|鋭《するど》い音。
キラキラ輝きながら、飛び散るガラスの破片。
|弾《はず》みで、銀ブチ|眼鏡《め が ね》が|床《ゆか》に落ちた。
長い髪を結ぶ|紐《ひも》が切れる。
ばさ……。
肩から胸にかけて|雪崩《な だ れ》落ちる薄茶の髪。
時田は、瞬間、うつむいた。
|彫像《ちょうぞう》のような美しい顔に、血の筋が流れだす。
「どけっ! 鳴海京介っ!」
時田は、緋奈子にむかって、|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》|印《いん》を結んだ。
カッ……と、視界が白熱した。
ふいに、京介の周囲の床が|粉《こな》|々《ごな》に|砕《くだ》けた。
砕けた床材は、|天井《てんじょう》にむかって、|嵐《あらし》のように吹きあがる。
時田の制止の力と、緋奈子の暴走する力が、京介の頭上で激突したのだ。
「うわあああーっ!」
京介は、両手で顔をかばった。
全身に激痛が走る。床材の破片が、ヤスリとなって、|肌《はだ》をえぐる。
「ああああああーっ!」
体がガク……と|傾《かし》ぐ。
足もとの床が|陥《かん》|没《ぼつ》した。落下の感覚。
「うわ……っ! ああああああーっ!」
*    *
同じ頃、ベンツのなかでは――。
智が、顔をあげた。
「京介……!?」
|突《とつ》|如《じょ》として、|額《ひたい》のあたりを突きぬけた|嫌《いや》な|気《け》|配《はい》。
ドロドロした不安が湧きあがった。
(京介に何か……?)
智は、|怨霊《おんりょう》や|妖《よう》|怪《かい》の苦痛をダイレクトに感じる力を持っている。
|感《かん》|応《のう》能力、という。
その力が、わけもなく智の胸を騒がせている。
(なんだ……どうしたんだろう……)
智の意識が、ゆっくりと正常に戻りはじめる。
「どうした、|鷹《たか》|塔《とう》? 今、何か言ったか?」
|左《さ》|門《もん》が、ステアリングを握りながら、尋ねる。
「降ろして……! 降ろしてください! 京介があぶない!」
智は、すでにドアのロックをはずしかけている。
「何をしている!? やめろ!」
|鎌《かま》|倉《くら》の|街《まち》のなかだ。
前後左右に、ほかの車が走っている。
ここで、智が飛びだしたら、|大《おお》|怪《け》|我《が》をする。
左門は、|舌《した》|打《う》ちした。
「ヤス! 運転代われ! ちょっとだけだ!」
「はいっ、アニキ!」
左門の横から、|靖《やす》|夫《お》がステアリングを握る。
左門は、素早く、|懐《ふところ》から|呪《じゅ》|符《ふ》を取りだした。
窓から投げる。
「|禁《きん》!」
呪符がピカ……ッ! と|赤紫《あかむらさき》に光った。
周囲の車が、|凍《こお》りついたように動かなくなる。
呪符の効果がおよんだのは、十メートル四方ほど。
呪符で動きを|封《ふう》じられた車の最後尾で、|轟《ごう》|音《おん》があがった。
悲鳴と|怒《ど》|号《ごう》。
次々に玉突き|衝突《しょうとつ》が始まる。
左門は、片手で、後ろの車線をちょっと|拝《おが》んだ。
「すまん」
次の瞬間、靖夫からステアリングをひったくる。
わずかな|隙《すき》|間《ま》を縫って、ベンツを歩道に押しこんだ。
塗装がはげるのも、傷がつくのもおかまいなしだ。
幸い、歩道の通行人は逃げていて無事だ。
靖夫が、悲鳴をあげている。
「アニキーっ! 毎日、俺が洗車してるんですよぉーっ! もっと大事にしてください!」
「うるせえ! ベンツごときにガタガタ言うなっ!」
二人の|喧《けん》|嘩《か》を|尻《しり》|目《め》に、智は、歩道に飛びだそうとする。
その時、ガクン……と車体が揺れた。
|鈍《にぶ》い音がした。
誰かが、外からベンツを|蹴《け》りつけたようだ。
「何様や、あんたら。ええかげんにせえ!」
どすのきいた大阪弁。
まだ少年の声だ。
「おう、|因《いん》|縁《ねん》つける気か!? このガキがぁ!」
左門が、負けずに|怒《ど》|鳴《な》りかえす。
智が、車外の声に顔をあげた。
不安に|曇《くも》った|瞳《ひとみ》が、わずかに明るくなった。
「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》……!」
*    *
「ぐ……っ! う……!」
京介は、低くうめいた。
指が、かろうじて|陥《かん》|没《ぼつ》した|床《ゆか》の|縁《ふち》に残っていた。
右手だけで、全身の体重をささえている。
頭上では、緋奈子の|霊《れい》|気《き》が荒れ狂っていた。
(あ……ぶねえ……)
足のほうを見れば、三メートルも下に、階下のフロアーが見える。
落ちたら、確実に死んでいたところだ。
その時、京介の頭上に、人影が落ちた。
「……てめえ……」
「どうして……生きているの、鳴海京介。あのまま落ちて死んでくれれば、緋奈子は、あなたを殺さずにすんだのに」
優しい声で、緋奈子はささやく。
そのまま、ゆっくりと|膝《ひざ》をついた。
穴の縁にむかって、白い手をのばす。
緋奈子の目的は、全身の体重をささえる京介の指。
「どこまでも、運のいい男ね……」
「緋奈子、やめろ」
|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、|鋭《するど》い声で制止する。
「止める気、たっちゃん? ……裏切るの?」
緋奈子は、素早く振り返った。
|揶《や》|揄《ゆ》するような|眼《まな》|差《ざ》し。
「たっちゃん。どうしたいの? 緋奈子を止めて、鳴海京介の肩を持つの? そこまでして、智ちゃんに|媚《こび》を売りたいの?」
「緋奈子、少し頭を冷やせ」
時田は、肩をすくめた。
「いかにおまえがJOAの次期|宗《そう》|主《しゅ》だろうと、この場で鳴海京介を殺せば、事件をもみ消すことはできないぞ。今、|鎌《かま》|倉《くら》には、JOA所属の|霊《れい》能力者たちの八割が、集結している。必ずしも、おまえの配下にある者ばかりではない。ここで、反乱でも起きれば、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れるどころではなくなるぞ。それでもいいのか」
京介は、時田の言葉にギクリとした。
(〈汚れ人〉の心臓を手に入れる……?〈汚れ人〉っていやぁ、智のじーさんじゃねーか……)
緋奈子は、夢から覚めたように、スイートルームを見まわした。
|床《ゆか》|材《ざい》ははがれ、壁はあちこち|崩《くず》れ、窓ガラスも|砕《くだ》け散っている。
|豪《ごう》|華《か》な内装は、|目《め》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》だ。
部屋の中央には大穴があき、京介がぶらさがっている。
「そうね……少しやりすぎたようだわ」
「必要ならば、鳴海京介は|洗《せん》|脳《のう》処理してもいい。少なくとも、わたしの|心霊治療《しんれいちりょう》センターのスタッフは、信頼できる」
「洗脳……?」
緋奈子は、その考えを一分ほど検討したようだった。
「悪くないわ。|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》に仕立てて、智ちゃんに送りかえしてあげてもいいかもしれない。智ちゃんは、きっと泣くわね。絶対に泣くわ。|綺《き》|麗《れい》でしょうね……智ちゃんの泣き顔は。きっと、ゾクゾクするわ。緋奈子に|跪《ひざまず》いて、|哀《あい》|願《がん》するかしら。鳴海京介を助けてくれたら、なんでもします……って」
緋奈子の表情が、|邪《じゃ》|悪《あく》な喜びに|歪《ゆが》む。
(この女……狂ってる……普通じゃねえ)
京介は、背筋が寒くなるのを感じた。
(話してわかる相手じゃなかったんだ……こいつら……)
「智ちゃんは、どうやったら壊れるかしら。最愛の人が、目の前で、何十人も何百人も人を殺したらどうかしら。|鎌《かま》|倉《くら》に|集《つど》ったすべての|怨霊《おんりょう》の苦痛を受け入れたら、やっぱり発狂するかしらね。智ちゃんには、永遠に緋奈子のこと、忘れてほしくないわ。未来|永《えい》|劫《ごう》、何千回|転《てん》|生《せい》しても、|魂《たましい》に|刻《きざ》んでおいてほしいのよ。智ちゃんを滅ぼすのは、緋奈子だけの特権なんだから」
|恍《こう》|惚《こつ》とした|呟《つぶや》き。
「やめろ……! 聞きたくねーよっ! やめろっ!」
京介は、ぶらさがった姿勢で、精いっぱい、声を振りしぼる。
「智をそんなふうに言うな!!」
「緋奈子の権利よ。あの子は、緋奈子がお|腹《なか》を痛めた子じゃないけど、|前《ぜん》|世《せ》では緋奈子の子供だったのよ。覚えておきなさい、鳴海京介。この世で、母親だけが、自分の子供を食い殺す権利があるの。緋奈子は、智ちゃんを愛してるわ。でも、愛だけじゃ、たりないの。愛だけじゃ、どうしても不足なの。緋奈子は、智ちゃんを壊して、ズタズタに引き|裂《さ》いてしまわなきゃいけない。そうしなければ、緋奈子は、もうどこへも行けないのよ。終わりにしたいの。苦しいのよ」
「智は、あんたの|玩具《おもちゃ》じゃねえよ!」
「|還《かえ》れるものなら……緋奈子だって、還りたかったわ。生まれる前の時間へ……! でも、還ることなんかできないじゃないの。緋奈子は、ここで、この時代に生きていかなきゃいけない。そして、緋奈子と智ちゃんは共存できないのよ。玩具だなんて思ってやしないわ。玩具だったら、緋奈子は、こんなに苦しんだりしなかった。壊したいのよ。……和解しろと言ったわね、鳴海京介。あなたに、時間を戻せる? TVゲームじゃないのよ。リセットボタンなんかないの。あなたに……つい昨日今日、智ちゃんと知り合ったばかりのあなたに……今さら、和解しろなんて言ってほしくない! 何も知らないくせに!」
「緋奈子」
|激《げっ》|昂《こう》した少女にむかって、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が低く呼びかけた。
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、ハッとしたように、口を閉ざした。
|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な視線を|従兄《い と こ》にむける。
時田は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた表情で一礼する。
「わたしは、何も見てないし、聞いてないよ、ピヨ子。興味のない話は、聞こえないようになってるんだ。心配するな」
「そう。便利な耳だこと」
緋奈子は、冷ややかに言い捨てる。
京介相手に感情を|露《あらわ》にしてしまったことを、恥じているようだ。
「まあ……いいわ。その子を引きあげてちょうだい、たっちゃん。さっそく|洗《せん》|脳《のう》してあげて」
「|了解《りょうかい》、ピヨ子」
時田は、|床《ゆか》に落ちた銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》を拾いあげた。
傷がついていないのを確かめ、ゆっくりと、かけなおす。
緋奈子は、両腕を組み、微笑した。
すでに、動揺から立ち直っているようだ。
満足げな|気《け》|配《はい》。
京介は、その一瞬の緋奈子たちの油断を、|見《み》|逃《のが》さなかった。
(今だ……!)
もう片方の手も穴の|縁《ふち》にかけ、反動をつけた。
思いきり振りあげた片足を、床にのせる。
|背《せ》|骨《ぼね》のあたりで、グキッと|嫌《いや》な音がする。
そのまま、全力で、必死に|這《は》いあがった。
「う……ぐっ……!」
腕は|痺《しび》れているし、無理をしてねじったのか、腰と背中が痛い。
うめき声で、緋奈子がこちらを見た。
「あ……!」
驚きに見開かれる少女の|瞳《ひとみ》。
京介は、片手で|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片を引きだした。
|怒《いか》り|心《しん》|頭《とう》に発していた。
「もう|勘《かん》|弁《べん》なんねえ!」
手のひらに、ぴたりと吸いつくような感触。
「天之尾羽張……! やる気!? |妖獣《ようじゅう》になるわよ!」
「かまうもんか! |洗《せん》|脳《のう》されるよかマシだっ! 智をこの手で殺すくらいなら、|潔《いさぎよ》く妖獣になってやるっ! |覚《かく》|悟《ご》しろっ!」
ほとんど、|自棄《や け》だった。
考えるより先に、体が動く。
「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・天之尾羽張!」
金属片に意識を集中する。
ズキーン!
百万本もの焼けた針でつらぬかれたような激痛。
同時に、純白の光の|刃《やいば》が出現した。
刃渡りは、一メートルほど。
|両刃《りょうば》の|剣《つるぎ》である。
京介は、素早く、緋奈子に|斬《き》りかかった。
「はぁああああーっ!」
緋奈子は、京介の一撃をやすやすとかわした。
「|羅刹衆《らせつしゅう》!」
一声呼ばわる。
緋奈子の足もとの影が、もぞ……と動いた。
影のなかから、二本の|角《つの》がぬっと突きだした。
角は、その下の牛の頭と、人間の体に続いている。
|獣面人身《じゅうめんじんしん》の化け物――羅刹衆だ。
「殺さずに|捕《と》らえなさい。でも、傷はつけてもいいわ」
緋奈子は、|冷《れい》|酷《こく》に|命《めい》じた。
その隣では、時田が腕を組んで、成り行きを見守っていた。
銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》のむこうの|瞳《ひとみ》は、少し悲しげだ。
どこか、京介を|哀《あわ》れんでいるようにも見える。
(何を期待してきたのだね、鳴海京介。智を中心として……わたしたちは、誰一人として手を取り合うことはできないのだぞ。平和的な解決など、ありはしない)
声にならない声が、京介の耳に届く。
京介はギクリとして、時田忠弘を|凝視《ぎょうし》した。
(な……に……? 今、なんて……?)
羅刹衆は、影のなかから、続々と|湧《わ》いてくる。
手に手に、|大《おお》|鎌《がま》や|槍《やり》を持っている。
あっという|間《ま》に、京介は、羅刹衆に囲まれた。
「うわああああああーっ!」
(智……ごめん……!)
京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を頭上に|掲《かか》げた。
|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》にむかって、祈る。
(頼む……力をくれ)
京介の全身が、熱くなった。
熱は、両腕を伝って天之尾羽張に吸いこまれていく。
だが、天之尾羽張が、カッと|閃《せん》|光《こう》を放つ前に、緋奈子の手が奇妙な|印《いん》を結んだ。
京介の全身から力がぬけた。そのまま、ずるずると倒れ伏してしまう。
*    *
「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》……」
智は、もう一度、|呟《つぶや》いた。
ベンツを|蹴《け》りつけた不良少年は、|宮《みや》|沢《ざわ》勝利。
JOA所属の元|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》で、智と京介の共通の友人である。
肩すれすれの長髪、|額《ひたい》に巻いた黄色いバンダナ。
|膝《ひざ》までのパンツに、白と黄色のヨットパーカをはおっていた。
ヨットパーカの下は、|素《す》|肌《はだ》だ。
首には、|革《かわ》|紐《ひも》でつるした銀のペンダントが見える。
身長は、一七八センチくらい。
少したれた目に|愛敬《あいきょう》がある。魅力的なファニーフェイスだ。
「なんや、鷹塔センセやないか」
勝利は、驚いたように、しげしげと智を見つめた。
勝利の後ろには、|華《はな》やかな美女が、二人いる。
年齢は、|二十歳《は た ち》前後だろうか。
片方がショートカットで、片方がソバージュヘア。
ショートカットのほうは、オレンジ色のタンクトップに、白のパンツ。
ソバージュヘアのほうは、|派《は》|手《で》な花がらのワンピースだ。
「やーだぁ、勝利ぃ、この人たち、ヤクザじゃなーい?」
「|怖《こわ》いわぁ」
美女二人は、キャッキャと騒ぎながら、勝利の両腕にしがみつく。
「おまえら、暑苦しいわ。ちょっと離れてんか」
勝利は、少しばかり|冷《れい》|淡《たん》に、美女二人を追いはらう。
靖夫が、|唖《あ》|然《ぜん》としたように、それを|眺《なが》めていた。
高校生くらいの勝利が、|極上《ごくじょう》の美女にもてまくっている。
同じ年頃の靖夫としては、ショックを受けたらしい。
「鷹塔センセ、んなとこで何してるん? 今度は、|極《ごく》|道《どう》の|退《たい》|魔《ま》でも引き受けたんか?」
左門が、無言でベンツを降りた。
|大《おお》|股《また》で、勝利に歩みよっていく。
「アニキ!」
靖夫が、|慌《あわ》てて追いかける。
左門が、勝利に何かすると思ったらしい。
「まずいですよう。智さんの知り合いらしいじゃないですかぁ、アニキぃ!」
智も、歩道に飛びだした。
「やめてください!」
智は、恐れげもなく、勝利の前に立った左門の腕をつかんだ。
|極《ごく》|道《どう》の|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》は、サングラスごしにちらと智を見おろした。
|唇《くちびる》の|端《はし》に|笑《え》みを浮かべる。
「あなたが心配することはありませんよ」
そのまま、視線を勝利に戻した。
勝利は、左門を|睨《にら》みつけた。
「なんや、おっさん」
高まる緊張。
美女二人は、要領よく、勝利の背後に隠れる。
通行人が、遠巻きにこの六人を見物していた。
いきなり、左門が勝利に一礼した。
(え……?)
智は、驚いて、左門の腕から手を離す。
「|宮《みや》|沢《ざわ》の坊ちゃん、失礼しました。坊ちゃんとは気づきませんで」
「な……なんや……坊ちゃんは|気色《きしょく》悪いわ。やめてんか」
美女二人が、「坊ちゃん」という単語に、|嬌声《きょうせい》をあげる。
「やっだぁー! 坊ちゃんー? 坊ちゃんだってぇー!?」
「勝利ぃ、すっごいじゃーん! ヤーさんに坊ちゃん呼ばわりされてるぅ! イカスぅ!」
「マミ、|友《ゆ》|里《り》、おまえら、うるさいわ」
勝利は、顔をしかめた。
「ホンマにもう……。いくらなんでも、このおっさんに失礼やろが」
おっさん呼ばわりされた左門|道《みち》|明《あき》、二十九歳は、ピク……と|眉《まゆ》を動かす。
だが、反論している場合ではない、と思ったようだ。
「|不肖《ふしょう》、左門道明、宮沢|遼司《りょうじ》先生には、お世話になったことがございます。あ、私、申し遅れましたが、|黒《くろ》|部《べ》組に|厄《やっ》|介《かい》になって、呪禁師をやっている者で。坊ちゃん……勝利さんのご高名は、かねがね……」
勝利の父の遼司は、地元代議士の秘書だ。
もとはJOA所属の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》だが、現在は、能力を|封《ふう》|印《いん》して普通人として暮らしている。
勝利は、|面《めん》|倒《どう》|臭《くさ》そうに、バンダナの位置をなおした。
「|親《おや》|父《じ》は親父や。親父が何しようが、わいには関係あらへん。それより……あんたら、なんでぇ、こないな乱暴な|真《ま》|似《ね》しよったん?」
智と左門は、どちらからともなく顔を見あわせた。
「ええと……鷹塔……先生?」
左門は、智をどう呼んでいいのかわからないようだ。
呼び捨てにしたいところらしいが、勝利が「鷹塔センセ」と呼んでいる手前、それはできない。
困ったような顔をしている。
「勝利|君《くん》、京介が……あぶないんです」
智は、左門の無言の問いを無視した。
自分の呼び方など、どうでもいい。
京介が危機におちいっているのだ。
勝利にすがりつかんばかりにして、訴える。
「オレ、助けにいかなきゃ」
「なんやて……ホンマかいな、鷹塔センセ。ナルミちゃんに、なんかあったんか」
「気のせいかもしれない……。でも、ものすごく胸騒ぎがして……京介がオレを呼んでるんです。助けを求めてるんだ。オレ、助けにいかなきゃ」
「ナルミちゃん、今、どこにいるんや?」
勝利は、|眉《まゆ》をよせた。
智の言葉を笑い飛ばしたりしない。
不良だが、気のいいところがあった。
同じ能力者として、智の|勘《かん》に対して、|全《ぜん》|幅《ぷく》の信頼をよせてもいた。
「たぶん、オレの祖父の家に」
「鷹塔センセの? ああ、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の……」
勝利は、言いかけて、周囲の見物人や美女二人の視線に気づいたようだ。
〈|闇《やみ》|送《おく》り〉の祭りの本当の意味は、一般の市民や観光客には、知らされていない。
もちろん、〈汚れ人〉の存在も、JOA関係者しか知らない。
よけいな騒ぎを避けるためだ。
勝利は、|如《じょ》|才《さい》なく微笑した。
「ほな、移動しながら話そぉか。左門道明……ってゆーたか、あんた。ちょうどええから、運転してや」
智をベンツに押し戻しながら、ベンツの持ち主の左門に言う。
美女二人にむかっては、「そういうわけや」と、片目を|瞑《つぶ》ってみせる。
「|堪《かん》|忍《にん》してや。な、今度、埋めあわせするよって」
「えーっ、マジぃ?」
「ペナルティーよ、勝利ぃ。今度、|南《なん》|洋《よう》|真《しん》|珠《じゅ》買ってよね」
美女二人は、思いのほか、あっさりと去っていった。
勝利は、少し残念そうな顔をする。
「久しぶりのデートやったんやで」
|恨《うら》めしそうな目で智を軽く|睨《にら》み、ペロッと|舌《した》を出した。
「ま、ええわ。みっちゃん、車出してや」
「みっちゃん……!?」
左門の|眉《まゆ》が、またピクッとあがる。
「勝利さん、みっちゃんは|勘《かん》|弁《べん》してくださいよ」
「道明やから、みっちゃんやろ」
勝利は、|屈《くっ》|託《たく》のない|笑《え》|顔《がお》で言い放つ。
左門が|嫌《いや》がっているのは、承知のうえだ。
「みっちゃん、急いでや。鷹塔センセの|相《あい》|棒《ぼう》が危険なんや。頼むわ、みっちゃん」
靖夫が、左門に背をむけて、失笑を必死にこらえる。
「かわいそうな、みっちゃんのアニキ……」
幸い、その声は左門には聞こえなかったようだ。
左門は、|憮《ぶ》|然《ぜん》としたまま、小さく勝利にうなずいた。
智は、後部座席から左門を見つめた。
「お願いします、左門さん」
「|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》のお宅までお送りすればよろしいんですね」
左門は、|片《かた》|頬《ほお》で微笑してみせた。
だが、内心、まずいことになった……と思っているのはあきらかだ。
「それにしても、なんで、鷹塔センセとみっちゃんが一緒なんや?」
勝利が尋ねる。
「オレも、じつは|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に思ってたんですけど……。気がついたら、この車に乗ってたし……。説明してもらえますか、左門さん」
智は、左門をちょっと|睨《にら》む。
「最初は、あなたを|誘《ゆう》|拐《かい》するつもりでした。|申《もう》し|訳《わけ》ありません、鷹塔先生」
左門は、観念したように、智に頭を下げた。
「しかし、先ほど|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》で、鷹塔先生には、|妖《よう》|怪《かい》どもから救っていただきました。命の|恩《おん》|人《じん》です。|極《ごく》|道《どう》の|端《はし》くれとして、先生には大きな借りができてしまいました。……組長からの追っ手が来るようでしたら、私が|阻《そ》|止《し》いたします」
左門は、少し寂しげに言った。
智を誘拐しろというのが、組長の命令ならば、それに|逆《さか》らえば、左門の身は危険にさらされることになる。
|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》を差しむけてくるかもしれない。
「アニキ……俺がついてますからね」
助手席に座った靖夫が、勇気づけるように、小声でささやく。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。俺がいますから」
「バカ|野《や》|郎《ろう》……おまえがいたからって、どうなんだ」
左門は、勢いよくキーをまわす。
靖夫がシュンとして、うつむいてしまう。
智が見ていると、左門は、あくびを|噛《か》み殺すふりをして、そっと微笑していた。
左門と靖夫のあいだに、形にならない|温《あたた》かなものが通いあっている。
智は、なんとなくホッとした。
第四章 |闇《やみ》|舞《まい》
|京介《きょうすけ》の|行方《ゆ く え》は、|杳《よう》として知れなかった。
|智《さとる》たちの|懸《けん》|命《めい》の|捜《そう》|索《さく》も|無《む》|駄《だ》だった。
|鎌《かま》|倉《くら》の|地《ち》|霊《れい》|気《き》は、正常時の百倍近い闇の重量に|軋《きし》み、悲鳴をあげていた。
この混乱のなかでは、たった一人の人間の霊気を|探《さぐ》りあてることなどできない。
前夜祭の夜が過ぎ、本祭の朝が明けた。
「お|祖父《じ い》さん、|昨夜《ゆ う べ》は、|若《わか》|宮《みや》|大《おお》|路《じ》で|百鬼夜行《ひゃっきやこう》が発生したらしいですよ」
「それは、けしからんな。……ナツ、ご飯をもう一杯じゃ」
この祭りの主役――|鷹《たか》|塔《とう》|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》の前に座っていた。
相変わらず|墨《すみ》|色《いろ》の|作《さ》|務《む》|衣《え》だ。
外の騒ぎをよそに、鷹塔家の|居《い》|間《ま》は、のどかだった。
虎次郎のカラスが、|畳《たたみ》の上を|跳《は》ねて移動していく。
虎次郎の差し出した|茶《ちゃ》|碗《わん》に、|夏《なつ》|子《こ》がかいがいしくご飯をよそう。
ホカホカの|湯《ゆ》|気《げ》と|味《み》|噌《そ》|汁《しる》の|匂《にお》い。
夏子は、涼しげな|灰青色《かいせいしょく》の着物に、白の|割《かっ》|烹《ぽう》|着《ぎ》姿だ。
「これ、智、どうした。ちゃんとメシを食わんと、大きくなれんぞ。だいたい、なんじゃ。いくら夏で暑いといっても、朝っぱらから氷なんぞ食いたがりおって。ほれ、魚も食え」
虎次郎が、|眉《まゆ》をよせて、自分の皿を、智の前に置いてやる。
智は、目の前に置かれた皿を見つめたまま、|硬直《こうちょく》している。
皿にのっているのは、カツオの|刺《さし》|身《み》。
智の|感《かん》|応《のう》能力は、人間や|魔《ま》|物《もの》だけではなく、魚や動物の|怨《おん》|念《ねん》もダイレクトに受信する。
「苦しい……苦しい……」と、声にならない悲鳴をあげつづけるカツオの刺身。
智にとっては、これは|拷《ごう》|問《もん》に等しい。
(京介がいれば……食べてくれるのに……)
「|大丈夫《だいじょうぶ》、智さん?」
心配そうに、ジャニーズ系美少年が、智の顔をのぞきこむ。
卓袱台の上には、智のための氷や、カフェ・オ・レのマグカップもあるのだが、智の目には入っちゃいない。
|靖《やす》|夫《お》は、智の不自然な様子を誤解したらしい。
「やっぱり、お祖父さんとの別れが悲しいんでしょ?」
「ヤス、よけいなことを言うな」
|左《さ》|門《もん》が、|慌《あわ》てて靖夫をたしなめた。
左門と靖夫は、智を送り届けた昨日の午後から、鷹塔|家《け》に泊まりこんでいる。
組長を裏切ったため、もう戻る場所がなくなったせいだ。
|鎌《かま》|倉《くら》は、すでに|霊《れい》|的《てき》|結《けっ》|界《かい》で孤立している。
鎌倉の外に逃げることはできない。
智に|恩《おん》|義《ぎ》を感じている左門たちは、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の|警《けい》|護《ご》を買ってでた。
この屋敷の周囲にも、JOAから|派《は》|遣《けん》された特殊警護部隊三十名がいる。
|昨夜《ゆ う べ》も徹夜で|警《けい》|戒《かい》にあたっていた。
また、|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》も、早朝からこの屋敷に入っている。
今は、別室で|犬《いぬ》|神《がみ》を飛ばして、情報収集にあたっているようだ。
|蟻《あり》の|這《は》いでる|隙《すき》もない厳重な警戒だ。
そのまっただなかで、虎次郎は、|悠《ゆう》|々《ゆう》と三杯目のご飯をたいらげていた。
あっという|間《ま》に|茶《ちゃ》|碗《わん》が|空《から》になる。
「ナツ、お代わりじゃ」
「お|祖父《じ い》さん、ほどほどになさったら」
夏子が、|呆《あき》れたように虎次郎を|睨《にら》む。
「腹も身のうちという言葉がありますよ」
「そうじゃのぉ」
虎次郎は、カラカラと笑う。
|上機嫌《じょうきげん》だ。
左門と靖夫は、そっと目を見かわした。
この老人が、今夜には死んでしまうのだ。
明日の朝、虎次郎はもういない。
みんな、知っていて、口には出さなかった。
「ご機嫌がよろしいこと」
夏子が、少し|寂《さび》しげに微笑する。
老女の横顔は、その一瞬、智によく似ていた。
|綺《き》|麗《れい》で、|透《す》きとおるような表情。
「おう、機嫌はいいぞ。あの|男色家《だんしょくか》がいなくなったからなっ」
「京介さん、どうなさったんでしょうねえ。ねえ、智、心配だわ」
夏子は、いたわるような|瞳《ひとみ》を|孫《まご》にむける。
「あらあら……|食《しょく》が進まないじゃないの。どうしたの、智」
「ナツ、あんな男の心配なぞするなっ」
虎次郎が、ズズッと|味《み》|噌《そ》|汁《しる》をすすりながら、|怒《ど》|鳴《な》る。
「わしは、絶対に智との仲を認めたりせんぞっ! |汚《けが》らわしい|男色家《だんしょくか》めが!」
うつむいていた智が、顔をあげた。
身につけたコットンシャツより白い顔。
「お|祖父《じ い》さま、京介のこと、そんな言い方しないでください。オレの大事な友達なんです」
「智……」
虎次郎は、驚いたように目を見開く。
|眼《がん》|帯《たい》をしていないほうの右目が、|憤《ふん》|怒《ぬ》の光を宿した。
|片《かた》|膝《ひざ》を立て、はっしと智を|睨《にら》みつける。
今にも、|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》をひっくりかえしそうな姿。
「おまえは、あんな男をかばう気か、智!? 許さんぞっ!」
だが、智は、虎次郎の言葉を待たずに立ちあがった。
もちろん、カツオの|刺《さし》|身《み》には、目もくれない。
「ごちそうさまでした。オレ、食欲なくて……すみません」
言い捨てて、素早く|居《い》|間《ま》から走り出た。
「待てい、智! 待たんかっ!」
「智!」
智は、後ろも見ずに、自室に駆けこんでいった。
虎次郎の|怒《ど》|鳴《な》り声も、夏子の驚きの声も無視する。
朝の食卓に、|白《しら》|々《じら》とした空気が|漂《ただよ》う。
虎次郎は、|苦《にが》|虫《むし》を|噛《か》みつぶしたような顔になった。
左門と靖夫は顔を見あわせ、早々に自室に引き取った。
「お祖父さんがいけないんですのよ」
卓袱台の上を片づけながら、夏子が|呟《つぶや》く。
「智が、京介さんを好きなのは、見ていればわかるじゃありませんか。大好きな人のことをあんなふうに言われたら、智でなくたって怒りますよ」
「…………」
虎次郎は、そっぽをむいている。
肩にカラスがとまって、カアと鳴く。
「いい子ですよ、京介さんは。元気がよくて、ちょっと乱暴だけれど……根は優しい子ですよ。昨日も、智のために、説明しにきたんですの」
夏子は、思い出して少し微笑した。
「智は、朝は氷しか食べないんだ……って。あたしが驚いたら、『でも、胃が冷えないように、すぐ熱いカフェ・オ・レを飲ませてやってください。俺、毎朝、そうしてやってますから』って言って。照れたみたいに笑ってねえ。いい|笑《え》|顔《がお》でしたよ。血のつながったあたしたちより、智のこと、よくわかっているんですね」
虎次郎は、無言だった。
「あのね、お|祖父《じ い》さん、あたし、京介さんの笑顔を見ていると、思い出すんですよ」
カラスが、虎次郎の耳を軽くつついて、遊んでくれとねだる。
虎次郎は、うんざりしたように、夏子を見た。
「何を思い出すんじゃ」
「昔の虎次郎さん……」
夏子は、|懐《なつ》かしげな|瞳《ひとみ》を宙にむけた。
「あなたが|二十歳《は た ち》で、あたしが十七歳で。終戦の翌年でしたねえ。出会った頃の虎次郎さんも、あんなふうに色黒で、暴れん坊で……|怖《こわ》い目をしてましたねえ。でも、あたしはぜんぜん怖くなかった。だって、めったになかったけど、あなたの笑顔は、そりゃあ優しかったもの。京介さんを見てると、あの頃の虎次郎さん、思い出すんですよ」
「わしをあんな|若《わか》|造《ぞう》と一緒にするな、ナツ」
「だから、智は京介さんに預けておいても|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
夏子は、虎次郎の反論など意に介さない。
きっぱりと言って、ニコッと笑う。
虎次郎は、言葉を失って、口のなかで|唸《うな》る。
(わしらの|孫《まご》が|男色家《だんしょくか》になってもいいのか……ナツ……?)
「あなたも、お父さまの反対を押し切って、あたしと一緒になってくれましたもの。〈|闇扇《やみおうぎ》〉は|継承《けいしょう》しない。鷹塔の名を捨ててもいい。普通の人間の生き方をするんだ……って宣言なさって。でも、やっぱり時期がきたら、あなたも、お父さまの|最《さい》|期《ご》の呼び声に引き寄せられて、|吹雪《ふ ぶ き》のなかにさまよい出ていって……帰ってきた時には、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉になってらした。……いいえ、それを責めてはいませんのよ。思いのままに生きるあなたが、好きでしたもの。そんなあなただから、ついてきましたのよ。何十年も、日本国じゅう、一緒に歩きましたねえ。楽しかった……。感謝していますわ、こんな素晴らしい人生をくださって」
「やめんか、ナツ」
困ったように、虎次郎が言う。
「おまえの人生は、まだ続くんじゃぞ」
夏子は、ただ|微《ほほ》|笑《え》むだけだった。
静かな笑顔。
虎次郎の|怒《いか》りも|苛《いら》|立《だ》ちも、すべて受けとめるような優しい瞳。
長い年月、夏子は、こうやって、いつも虎次郎のそばにいたのだ。
虎次郎一人のための|菩《ぼ》|薩《さつ》となって、|傍《かたわ》らを歩き続けた。
虎次郎は、目を伏せた。
「智が気立てのいい娘と結婚して、|孫《まご》をボロボロ作ってくれんと……おまえは、|独《ひと》りぼっちになってしまうわい」
夏子は、静かに虎次郎のそばによった。
|皺《しわ》のよった手で、やはり皺だらけの虎次郎の手をとる。
そっと、|温《あたた》かな|頬《ほお》に押しあてた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、お|祖父《じ い》さん。あなたと一緒にめぐり歩いたこの国が、残りますもの。無事に、|闇《やみ》が|浄化《じょうか》されて残りますもの……」
「ナツ……」
「この国のどんな場所にも、虎次郎さんの|足《あし》|跡《あと》が残ってるんですよ。あなたの愛した土地も、泊まった宿も、好きでよく召しあがった食べ物も……きっと残りますよ。|寂《さび》しくなったら、あたしは、今度は一人で旅して歩きますの」
夏子の頬に、一筋、涙が伝った。
「だから、どうか、智と|喧《けん》|嘩《か》したまま|逝《い》かないでくださいね」
「む……」
虎次郎は、不満げに|唸《うな》った。
だが、|嫌《いや》だとは言わなかった。
*    *
|鎌《かま》|倉《くら》|二《に》|階《かい》|堂《どう》の|黒《くろ》|部《べ》組長邸。
「〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、十時に家を出る。本祭の|山車《だ し》は、十一時に|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》を出発し、三時間かけて鎌倉市内を練り歩く。〈汚れ人〉は、そのあいだ、鶴岡八幡宮の|本《ほん》|宮《ぐう》で|精進潔斎《しょうじんけっさい》し、〈闇送りの儀〉に備える」
|紋《もん》|付《つ》き|袴《はかま》姿の老人――黒部|銀《ぎん》|次《じ》は、目の前の男をちらと見た。
|熊《くま》のような男だ。
小太りの体、毛深い|肌《はだ》、|二《ふた》|重《え》|目《ま》|蓋《ぶた》。
年齢は、四十五、六歳というところか。
夏のさなかだというのに、茶色い|革《かわ》のベストを着ていた。
|熊《くま》|飼《がい》|建《けん》|造《ぞう》。
流れ者の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》集団〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|頭《かしら》である。
熊飼のもとで、手足のように動く呪殺者たちは、十数名。
金さえ出せば、実の親でも呪殺するような連中ばかりだ。
黒部は、|昨夜《ゆ う べ》、〈|揚《あげ》|羽《は》〉を丸ごと|雇《やと》った。
黒部は、左門を信用していなかったのだ。
相手は、天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智である。
左門の腕では、仕損じるかもしれない。あるいは、情にほだされて裏切るかもしれないと思っていた。
「|精進潔斎《しょうじんけっさい》のあいだは、JOAの|警《けい》|戒《かい》が厳重だ。また、鷹塔虎次郎の|霊力《れいりょく》も温存されている。油断はできん。強行突破するのは難しかろう。午後二時半、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》中央の|舞《まい》|殿《どの》に姿を現す。舞殿には能舞台がある。〈汚れ人〉は、この舞殿の四方に|結《けっ》|界《かい》を張り、最後に|闇《やみ》を体内に招きよせ、|浄化《じょうか》するための〈闇舞〉を舞う。この間、二時間。〈汚れ人〉は、まったく無防備となる。|熊《くま》|飼《がい》、この〈闇舞〉の時間を|狙《ねら》え」
「は……」
熊飼は、|恭《うやうや》しく頭を下げた。
「〈汚れ人〉の心臓、必ず手に入れてお目にかけましょう」
「頼んだぞ、熊飼」
黒部は、ニヤリと笑った。
失敗する気はしなかった。
*    *
同じ頃、|鎌《かま》|倉《くら》市内のホテルでは――。
大破したのとは別のフロアーにあるスイートルームだ。
|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が、二つの姿の前に立っていた。
一人は、|美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。
|藤《ふじ》|色《いろ》のスーツ姿だ。片手に、白衣を持っている。
もう一人は、色黒の少年――京介だ。
だが、|瞳《ひとみ》が|虚《うつ》ろで、一目で普通の状態でないと知れる。
誰が着せたものか、黒いタキシード姿。
「これを……」
緋奈子は、金銀二つの鈴を二人に差し出した。
金色のほうを|時《とき》|田《た》に、銀色のほうを京介に手渡す。
「金色の鈴は〈|召魔《しょうま》の鈴〉、銀色の鈴は〈|召魂《しょうこん》の鈴〉。持っていらっしゃい」
心霊治療師は、興味深そうに金色の鈴を振ってみた。
音はしない。
「鳴らないよ、ピヨ子」
「たっちゃんの〈|召魔《しょうま》の鈴〉は、|妖《よう》|怪《かい》と|鬼《おに》を呼びよせる鈴よ。本気で鬼や妖怪を呼ぼうと思って振らなければ、音はしない。|鳴《なる》|海《み》京介の鈴は〈|召魂《しょうこん》の鈴〉。|怨霊《おんりょう》を招きよせるわ。二人とも、今日の午後二時三十分、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の|舞《まい》|殿《どの》にあがったら、鈴を振りなさい」
「はい……緋奈子さま……」
のろのろと京介が答える。
|緩《かん》|慢《まん》な動きで、鈴をポケットに|滑《すべ》りこませた。
「怨霊と魔を鶴岡八幡宮に呼びよせて、どうするつもりだ、ピヨ子?」
時田は、目の前で、もう一度金の鈴を振ってみせた。
やはり、音はしない。
|皮《ひ》|肉《にく》めいた笑いが、|端《たん》|正《せい》な顔に浮かんでいる。
「智ちゃんの動きを|封《ふう》じるわ。|鎌《かま》|倉《くら》に集まった数千数万の怨霊の苦痛を、すべて智ちゃんのなかに流しこむ。発狂するでしょうね……たぶん。智ちゃんさえいなくなれば、〈汚れ人〉の心臓を奪うのは|造《ぞう》|作《さ》もないことよ。あとは、妖怪と鬼で会場を混乱させ、その|隙《すき》に緋奈子がかたをつける。……簡単なことでしょ、たっちゃん。協力してくれるわね」
「協力するにやぶさかでないがね」
時田は、肩をすくめた。
「どうして、わたしが〈召魔の鈴〉なんだね、ピヨ子。わたしが、この国のグチョグチョした妖怪や鬼が嫌いだってことは、知っているだろう? わたしは、洋物の魔が好きなんだよ。悪魔や|吸血鬼《きゅうけつき》なら、いくら来てもかまわんが、和製の魔物はごめんだ」
この|美《び》|貌《ぼう》の青年は、アメリカに帰れば、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》としてだけではなく、超一流の黒魔術師としても知られていた。
悪魔や吸血鬼なら、いくら来ても……という言葉に|偽《いつわ》りはない。
だが、緋奈子は、|従兄《い と こ》の訴えを右から左に聞き流した。
「〈召魂の鈴〉は、鳴海京介が振るから意味があるのよ。……この子に、智ちゃんを壊す手伝いをさせたいの。|正気《しょうき》に戻ったら、どんな顔するかしらね。その顔を見てから、ゆっくり殺してあげるわ」
「ピヨ子、ずるいぞ。自分だけ楽しそうだ」
「たっちゃんは、妖怪や鬼なんか、|怖《こわ》くないでしょ。魔術なんか使わなくても、指一本で、風船みたいに|破《は》|裂《れつ》させられるじゃない。ご自慢の|黄《おう》|金《ごん》の指でしょ。ゴールドフィンガー時田って呼んであげるわね」
緋奈子は、意地悪く笑う。
「誰がゴールドフィンガー時田だ。……わたしは、とにかくこの国のものは、智と|寿《す》|司《し》以外は好きじゃないんだ。|妖《よう》|怪《かい》も|鬼《おに》もまっぴらだね。〈|召魔《しょうま》の鈴〉を振りたければ、おまえが自分で振るんだな」
|美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、|従妹《い と こ》を|睨《にら》みつけた。
かなり|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になっている。
緋奈子は、少し首を|傾《かし》げた。
「ま……たっちゃんてば、わがままよ。どうしたの?」
「あっちの鈴でなければ、協力はお断りだ」
時田は、京介のほうを指差す。
〈|召魂《しょうこん》の鈴〉を手に入れるまで、がんとして動かない構えだ。
緋奈子は、いぶかしげな顔になった。
(どういうこと……? どうして〈召魂の鈴〉にこだわるの?)
緋奈子自身は、JOA代表として〈|闇《やみ》|送《おく》り〉に参列するため、あまり|表《おもて》だった動きはできない。
鈴を振るところを目撃されたら、立場上、まずいことになるだろう。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れてからならともかく、その前に公然と魔の|盟《めい》|主《しゅ》の名乗りをあげるのは、危険だ。
「わかったわ……」
緋奈子は、|緋《ひ》|色《いろ》の着物の|膝《ひざ》のあたりをパンと払った。
腕を組んで、|従兄《い と こ》を睨み|据《す》える。
「今度だけよ。〈召魂の鈴〉と取り替えなさい。でも、タイミングははずさないでちょうだいね」
「ありがとう、緋奈子。うれしいよ」
|謎《なぞ》めいた|笑《え》みが、心霊治療師の|頬《ほお》をかすめる。
|嘲《あざけ》るような|眼《まな》|差《ざ》しを、魔の盟主にむける。
その一瞬、銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》のむこうの|瞳《ひとみ》が、色を変える。
|鮮《あざ》やかなエメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》。
が、ちょうど京介のほうを見ていた緋奈子は、それに気づかなかった。
*    *
旧式の時計が、十時半を打った。
三十分ほど前、虎次郎はこの屋敷を永遠に去った。
すでに、JOAの車が、虎次郎を|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》へ運んでいるだろう。
「黒部組の組長が、|昨夜《ゆ う べ》、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》集団〈|揚《あげ》|羽《は》〉を|雇《やと》ったそうよ。何がなんでも、〈汚れ人〉の心臓を|狙《ねら》う気らしいわ」
|麗《れい》|子《こ》が、|居《い》|間《ま》に入ってきた。
スーツの肩に、|緋《ひ》|色《いろ》の|犬《いぬ》|神《がみ》をのせている。
十センチほどの、|狐《きつね》に似た|霊獣《れいじゅう》である。
犬神は、ビーズ玉のような真っ黒の目をしきりに動かしている。
時おり、不安げにチィチィ鳴いてみせる。
|鎌《かま》|倉《くら》の濃い|闇《やみ》に、落ち着かなくなっているらしい。
居間には、智、左門、靖夫、それに、さっき車で駆けつけた|勝《かつ》|利《とし》の四人がいた。
「オヤジが……俺以外にも|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》を……」
左門は、|逞《たくま》しい肩をおとした。
レイバンのサングラスが、|寂《さび》しそうだった。
「そうですか」
「アニキ……」
靖夫が、|慰《なぐさ》めるように左門の腕に手を置く。
長い|睫《まつ》|毛《げ》をあげて、|潤《うる》んだような|瞳《ひとみ》を年上の男にむける。
場違いなほど|可《か》|憐《れん》な姿。
「俺がいますよぉ。俺がついてますからね」
「バカ|野《や》|郎《ろう》……」
左門は、力なく|呟《つぶや》く。
「そういう問題じゃねーよ……」
勝利は、この|極《ごく》|道《どう》とジャニーズ系美少年の組み合わせに、少し|鳥《とり》|肌《はだ》をたてている。
(こいつら……かなり変や……)
智が、ゆっくりと麗子を振り返る。
|凜《りん》とした瞳には、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な落ち着きがある。
四十分ほど前、虎次郎に呼ばれて、「おまえに〈|闇扇《やみおうぎ》〉を託す」と言われたためだ。
「ヤクザごときに、お|祖父《じ い》さまは殺させませんよ」
「緋奈子も動きだしたと言ったら?」
麗子は、|探《さぐ》るような瞳で智を見つめた。
「彼女の狙いも〈汚れ人〉の心臓よ。ヤクザに、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》に、呪殺者集団〈|揚《あげ》|羽《は》〉……これだけそろったら、いくらあなたでもつらいでしょ、智」
「麗子さん」
智は、|謎《なぞ》めいた微笑を浮かべた。
「オレは、緋奈子と決着をつけますよ。オレが終わりにします。何もかも」
「智……無理はしないでね」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
智は、すべてを断ち切るように、身を|翻《ひるがえ》した。
|潔《いさぎよ》い姿は、まったく不安を感じさせない。
「行きます」
麗子たちは、智に続いて屋敷を出た。
*    *
「鷹塔センセ、|式《しき》|神《がみ》はどうするん?」
|勝《かつ》|利《とし》が、ベンツの後部座席で、尋ねる。
運転しているのは、左門だ。
助手席に靖夫、後部座席に智、勝利、麗子が乗っている。
前後に、JOAの|警《けい》|護《ご》の車が、目立たないように走っていた。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の後継者の智をガードしている。
五人は、|鎌《かま》|倉《くら》市内を|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》へむかっていた。
|若《わか》|宮《みや》|大《おお》|路《じ》を走っている。
前方に、鶴岡八幡宮の赤い|鳥《とり》|居《い》が見えた。
沿道には、真っ白な|紙《かみ》|吹雪《ふ ぶ き》が散っていた。
〈汚れ人〉の鶴岡八幡宮到着にあわせて、ヘリで空から|撒《ま》いたらしい。
|神楽《か ぐ ら》と|太《たい》|鼓《こ》の音が、聞こえてくる。
鶴岡八幡宮の周囲には、|人《ひと》|垣《がき》ができていた。
「式神?」
智が、|訊《き》きかえした。
「鷹塔センセ、まだ四体を同時には使えないやん。今回、敵は本気や。全力出さんと勝てへんで」
智は、|記《き》|憶《おく》と一緒に、必要な|咒《じゅ》を忘れてしまっている。
式神を|召喚《しょうかん》するには、CDに録音した咒を再生する必要がある。
それも、ディスク一枚につき、一体の式神だ。
四体全部を、同時に召喚することはできない。
勝利は、智の記憶|喪《そう》|失《しつ》の理由について、くわしいことは知らない。
だが、薄々は|勘《かん》づいているようだった。
ベンツは、JOA職員の|誘《ゆう》|導《どう》に従って、所定の駐車場に入る。
周囲には、高級車ばかりが並んでいた。
「そこにぬかりはないわ」
ベンツを降りた麗子が、自信満々で口をはさむ。
|犬《いぬ》|神《がみ》が、スーツの肩にのっていた。
麗子の言葉にあわせて、チィチィと|威《い》|張《ば》ったように鳴く。
「あたしに、|秘《ひ》|策《さく》があるのよ」
「秘策……?」
智と|勝《かつ》|利《とし》も外に出た。
顔を見あわせる。
周囲の|杉《すぎ》|木《こ》|立《だち》から、|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が降ってくる。
「|伊達《だ て》に、智の|後《こう》|見《けん》|人《にん》はやってないわよ。あたしは、智の戦闘パターンを分析して、ありとあらゆるデータを集めたわ。そして、智の能力を最高レベルまで引き出す戦闘法を編みだしたのよ」
最後にベンツから降りた左門の広い背中が、緊張する。
靖夫も、肩ごしに麗子を振り返った。
勝利が、ゴクリ……と|唾《つば》を|呑《の》みこむ。
「|百《もも》|瀬《せ》のあねさん、その秘策ゆうのは?」
麗子は、気をもたせるように、一呼吸、沈黙した。
「知りたい?」
「なんや、あねさん?」
|勝《かつ》|利《とし》が、興味深げに尋ねる。
麗子は、ベンツに歩みより、トランクに手をかけた。
四人は、自然に麗子の周りに集まってきた。
麗子は、うっすらと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「|覚《かく》|悟《ご》はいいわね、みんな」
「あ……ああ、ええで」
勝利がうなずく。
「中身、何かな、アニキ」
「シッ……静かにしろ、ヤス」
息づまるような数呼吸。
|緋《ひ》|色《いろ》の|犬《いぬ》|神《がみ》が、麗子の手もとに舞いおりた。
麗子がゆっくりと、トランクを開く。
「ああっ……!」
「え……|嘘《うそ》やろ……」
「なんだ、これは!?」
三者三様の声があがる。
智は、無言だった。
「…………」
ただ、わずかに目をあげて、麗子を見た。
トランクのなかには、黒いCDラジカセが四台。
|式《しき》|神《がみ》一体につき、一台のCDラジカセを使え、ということらしい。
「ほら、これがあれば、式神、四体とも使えるわよ」
麗子は、満足げに言う。
「あれだけ気ぃもたせた|秘《ひ》|策《さく》が、これかいな」
勝利が、脱力したような声で|呟《つぶや》く。
「単純な物量作戦ですね」
智が、ぼそりと呟く。
「さすが、智さんの|後《こう》|見《けん》|人《にん》ですねっ」
靖夫が、キラキラ輝く|瞳《ひとみ》で言う。
「それ、どういう意味です、靖夫君?」
智の声が、一オクターブ低くなる。
|凜《りん》とした瞳が、きつくなった。
シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目つき。
ジャニーズ系美少年の靖夫とは、迫力が違う。
靖夫は、あわあわと|慌《あわ》てふためいて、左門の広い背中に隠れた。
「アニキぃ、智さんが怒ったぁ!」
「バカ|野《や》|郎《ろう》! おまえがいらんこと言うからだ!」
左門は、靖夫の細い首根っこをつかまえて、ポカポカ|殴《なぐ》る。
「い……痛い……っ! アニキぃ……!」
かすれた声で、靖夫が|哀《あい》|願《がん》する。
悩ましい|仕《し》|草《ぐさ》で、左門の腕に抵抗している。
「やめて……お願い……っ!」
左門は、|火傷《や け ど》したように靖夫から手を離した。
|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の|頬《ほお》が赤らんでいる。
それは強い夏の|陽《ひ》|射《ざ》しのせいだけでは、たぶん、ない。
「ヤス! こらぁ! |気色《きしょく》悪い声出すんじゃねえよ!」
|虚《きょ》|勢《せい》を張って大声を出す。
靖夫は、ビクッとして、身を縮めた。
薄い肩が、|小《こ》|刻《きざ》みに震える。
「ごめんなさいっ……アニキ……俺、バカだから……」
うるうるの|瞳《ひとみ》が、左門を見あげた。
長い|睫《まつ》|毛《げ》に、もう、|真《しん》|珠《じゅ》のような涙の|粒《つぶ》が光っていた。
|麗《れい》|子《こ》が、左門と靖夫に、くるっと背をむけた。
いきなり、化粧直しを始めた。
どこから取りだしたのか、コンパクトとルージュを持っている。
「何やってるん、あねさん?」
「あれが終わったら、教えてちょうだい」
麗子は、|勝《かつ》|利《とし》にむかって、左門と靖夫を目で示す。
「さっきは、あねさんが、|率《そっ》|先《せん》して|派《は》|手《で》なボケかましよったくせに、|他人《ひ と》のボケには冷たいんとちゃう?」
「誰がボケかましたって?」
麗子は、腕を組んで、勝利をねめつけた。
「あたしは、智のために、最善の方法を考えてあげたの」
「さいでっか」
「そうよ」
「ほなら、そういうことにしておきまひょ。|綺《き》|麗《れい》なねーちゃんに優しいのが、わいの|身上《しんじょう》や」
「わかればいいのよ、わかれば」
麗子は、ふふんと鼻で笑う。
左門と靖夫も、ようやく落ち着いたようだ。
「終わったみたいやで、あねさん」
「そう」
麗子は、パチンと音をたてて、コンパクトを閉じた。
ルージュと一緒に、スーツのポケットに落としこむ。
「さて、靖夫君、こっちにいらっしゃい」
「俺……ですかぁ?」
靖夫は、恐る恐る、麗子に近よる。
麗子の満足げな|笑《え》|顔《がお》が、なんだか|怖《こわ》いようだ。
「ほらほらっ! もたもたしない! キビキビ動く!」
「はっ、はいっ!」
条件反射で駆けよった靖夫に、麗子は、黒いCDラジカセをポンと手渡す。
「持ってて」
「え……?」
「どうせ、あなた、術は使えないんでしょ。CDラジカセ守って、智の|援《えん》|護《ご》しなさい。若いんだから、体力だけはあるでしょ」
「はあ……」
靖夫は、ダブルデッキのCDラジカセを左手に持ち、目をパチクリさせる。
状況が、まだよくわかっていないらしい。
「ふーん……右手が|空《あ》いてるわねえ、靖夫君」
麗子は、ニヤリとする。
「もう一つ持てるわよねえ。男の子だもの」
「え……?」
|茫《ぼう》|然《ぜん》としている|間《ま》に、靖夫のCDラジカセが、もう一つ増える。
「さあ、どんどん演奏始めちゃって」
麗子は、手をのばして、両方の演奏ボタンを押す。
ふいに、セクシーな男性ヴォーカルと、演歌が流れだす。
音楽に重なって、|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》が聞こえる。
すさまじい不協和音だ。
智が、顔をしかめた。
「チャオー! 呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! |紅葉《も み じ》ちゃん、|参上《さんじょう》っ!」
「人生、山あり谷あり。|上主《じょうしゅ》とともに|苦《く》|節《せつ》八年。今、|大《たい》|輪《りん》の花を咲かせます。花も|嵐《あらし》も踏みこえて……|吹雪《ふ ぶ き》、|参上《さんじょう》っ!」
いきなり、二体の|式《しき》|神《がみ》が出現した。
金茶の髪、明るい茶色の|瞳《ひとみ》は、言わずと知れた紅葉。
さすがに、紅葉がらの|浴衣《ゆ か た》は|脱《ぬ》いでいる。
原色系のシャツと短パン姿だ。
「よっ、こんち、これまた、みなさん、おそろいでっ! おいらのことは、紅葉のもっクンて呼んでねー」
紅葉は、陽気に騒ぎながら、靖夫と左門にVサインしてみせる。
靖夫と左門は、顔を見あわせた。
「明るい式神だな」
「そ、そうですね、アニキ……」
二人の視線が、紅葉の隣の吹雪に移る。
靖夫が、|喉《のど》の奥で「グヒ」というような音をたてた。
ど演歌をバックにしょって立っているのは――。
身長二メートルを軽く|超《こ》える筋肉男だ。
こちらは、浴衣姿。
夏子が作ったものだろうか。雪の|結晶《けっしょう》のがらだ。
はだけた胸もとには、|瘤《こぶ》のような筋肉が盛りあがっていた。
短く刈りあげた真っ黒な髪、太い首、ぎょろりとした目。
ごつくて大きな足には、|下《げ》|駄《た》を|履《は》いている。
吹雪という|耽《たん》|美《び》な名前が、これほど似合わない存在もないだろう。
「おう、おぬしら、新顔だな」
吹雪は、ニヤリとした。
外見どおり、ドスのきいた重低音の声だ。
「こ……こんなのと一緒に戦うんですかぁ、アニキぃ……俺、やですよぉ」
「バカ|野《や》|郎《ろう》! 式神なんてのはなあ、強ければいいんだ、強ければ。外見じゃねーんだよ」
左門が、自分に言い聞かせるように言う。
|勝《かつ》|利《とし》が、腹を|抱《かか》えてゲラゲラ笑っている。
その肩に、|麗《れい》|子《こ》の手がかかった。
「笑ってる場合じゃないわよ、勝利君」
「な、なんや、|百《もも》|瀬《せ》のあねさん」
「CDラジカセは、あと二台あるのよ。ほら、早く持ってね」
麗子は、ニッコリ笑って、勝利の手にCDラジカセを押しつける。
|有《う》|無《む》を言わさず、演奏ボタンを押した。
アップテンポの曲と、クラシックが、不協和音に重なる。
すさまじい騒音。
数秒遅れて、さらに二体の式神が現れた。
「|上主《じょうしゅ》、|四《し》|識《しき》|神《じん》第一の将・|睡《すい》|蓮《れん》、お呼びにより、|参上《さんじょう》つかまつりました」
睡蓮は、背中まである長髪の美少年だ。
背格好や顔だちは、智と|瓜《うり》|二《ふた》つ。
だが、|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が違う。
どこか|妖《よう》|艶《えん》で、|退《たい》|廃《はい》|的《てき》な|翳《かげ》りを帯びている。
黒いノースリーブのシャツと、ブラックジーンズを身につけていた。
「天が呼ぶ、地が呼ぶ、|悪《あく》を倒せと人が呼ぶ……天下一美青年・|桜良《さ く ら》様、|参上《さんじょう》!」
「ど……どないな基準で式神作ったんや……鷹塔センセ」
|勝《かつ》|利《とし》が、息も絶え絶えに|呟《つぶや》く。
桜良は、|優《ゆう》|雅《が》に肩をすくめてみせる。
アーリア系を思わせる冷たい|美《び》|貌《ぼう》だ。
四体の式神のなかで、いちばん顔がいい。
高い|鼻梁《びりょう》と、澄んだ水色の|瞳《ひとみ》、薄い|唇《くちびる》、|豪《ごう》|華《か》な|黄《おう》|金《ごん》の髪。
一流モデルも|嫉《しっ》|妬《と》のあまり発狂しかねない、|完《かん》|璧《ぺき》な|肢《し》|体《たい》だ。
|青藍色《せいらんしょく》のタキシードと、クリーム色のタイ。
夏のさなかに、それでも汗ひとつかかないのは、式神だから当たり前か。
「当然、顔だ。美しい式神だけが生き残れるのだ。もっとも、俺以外の式神は失敗作だがな」
桜良は、腰がぬけそうな流し目を勝利にむける。
「俺に|惚《ほ》れるなよ……にいさん。頼むぜ」
勝利は、頭を|抱《かか》えた。
「わいは……|嫌《いや》や。こないな式神と一緒に戦うんは……嫌やぁ」
靖夫も、|潤《うる》んだ瞳で、うんうんとうなずいてみせる。
「靖夫君、勝利君」
|麗《れい》|子《こ》が、|哀《あわ》れむような瞳で言う。
「これも運命よ。|潔《いさぎよ》く、智の踏み台になってちょうだい。あなたたちにお願いしておくわ。万が一、死ぬことがあっても、CDラジカセだけは守ってね。あなたたちの|浄霊《じょうれい》は、智が有料で引き受けるから、安心して、心おきなく死んでちょうだい」
「麗子さん、ちょっとそれは、言いすぎじゃないですか」
智が苦笑する。
「オレ、友達の浄霊くらい、無料で引き受けますよ」
「やめてんか、鷹塔センセ。シャレにもならんわ」
「やめてください、智さん。俺、アニキみたいな男になるまでは、死んでも死にきれないですぅ」
じたばたする靖夫。
左門が、|慈《いつく》しむような|瞳《ひとみ》で、それを見守っている。
智は、靖夫と|勝《かつ》|利《とし》を見、くすんと笑った。
|綺《き》|麗《れい》な|笑《え》|顔《がお》。
「|嘘《うそ》ですよ。……死なないでくださいね、絶対に」
「お、おう! まかせてや、鷹塔センセ!」
「俺もがんばりますっ!」
智は、そっとうなずく。
「信じていますから……勝利君、靖夫君」
靖夫が、えへら……と笑う。
「智さんみたいな美人に言われたら、がんばるしかないっすよ」
「ヤス、あぶないで、そのセリフ」
勝利が、ぼそりと|呟《つぶや》いた。
*    *
青空に、真夏の太陽が輝いていた。
午後二時半を少しまわったところだ。
|社《やしろ》の|杜《もり》の緑から、|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が降ってくる。
だが、|舞《まい》|殿《どの》の周囲につめかけた数百の人々のあいだからは、|咳《しわぶき》ひとつ聞こえない。
張りつめた空気のなか。
〈|闇《やみ》|舞《まい》〉が始まった。
百五十メートル続く|参《さん》|道《どう》正面の、|朱《しゅ》|塗《ぬ》り|極《ごく》|彩《さい》|色《しき》の建物――舞殿である。
|天井《てんじょう》が、|四《よ》|隅《すみ》の柱でささえられたきりで、壁のない吹きさらしの能舞台だ。
文治二年(一一八六年)四月八日。
この日、|源義経《みなもとのよしつね》の|愛妾《あいしょう》・|静御前《しずかごぜん》が、|頼《より》|朝《とも》の|命《めい》に従って、|神《しん》|前《ぜん》で舞ったという。
当時、すでに義経は、兄頼朝に|都《みやこ》を追われていた。
頼朝は、義経の|行《ゆく》|方《え》を問いただすため、静を|捕《と》らえた。
が、静は何も答えない。
頼朝は、|業《ごう》を煮やして、「|白拍子《しらびょうし》なら、|我《わ》が前で舞え」と命じた。
|静《しずか》は、|屈辱《くつじょく》に耐え、|頼《より》|朝《とも》の前で舞った。
舞いながら「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな」と、|義《よし》|経《つね》を|慕《した》う歌を歌った。
居並ぶ者たちは、静の勇気と|哀《あい》|切《せつ》に深く感動した。
ところが、一人、頼朝だけは、|激《げき》|怒《ど》した。静の無礼を許そうとしなかった。
この時、頼朝の妻・|政《まさ》|子《こ》が、静をかばった。
あなたが逆境にいた頃の私は、今の静と同じでした。夫を|恋《こ》い|慕《した》わない女がありましょうか……と。
そのため、静は、逆に|褒《ほう》|美《び》を|賜《たまわ》り、死をまぬかれた。
その故事をしのんで、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》では、毎年、四月の第二日曜日に、静の舞が|奉《ほう》|納《のう》される。
ここ|舞《まい》|殿《どの》は、その奉納舞の行われる場所だ。
虎次郎は、|白装束《しろしょうぞく》に身をかため、|畳《たた》んだ〈|闇扇《やみおうぎ》〉を持っていた。
通常の能とは違って、|直《ひた》|面《めん》である。
白い|狩《かり》|衣《ぎぬ》と|白袴《しろばかま》。
狩衣には、やはり白で、無数の|蝶《ちょう》が|刺繍《ししゅう》されている。
何もかもが白いなか、左目の|眼《がん》|帯《たい》だけが、闇を|凝縮《ぎょうしゅく》させたように黒い。
舞殿の正面には、|来《らい》|賓《ひん》|席《せき》がある。
といっても、折り畳み式の|椅《い》|子《す》を並べて、周囲を紅白の綱で囲っただけだ。
来賓席の最前列には、緋奈子がいた。
緋色の着物姿だ。
|漆《しっ》|黒《こく》の髪に|縁《ふち》どられた冷ややかな顔。
口もとに、|三《み》|日《か》|月《づき》のような薄笑いを浮かべていた。
緋奈子から四列ほど後ろに、|紋《もん》|付《つ》き袴の老人が座っている。
黒部組組長、黒部銀次だ。
黒部の周囲には、ダークスーツの男たちが、数名、控えていた。
〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちも、すでに、見物人のなかに|紛《まぎ》れこんでいるだろう。
智は、舞殿の近くの|若《わか》|宮《みや》で、待機している。
祖母・夏子も一緒だ。
靖夫、左門、|勝《かつ》|利《とし》、|麗《れい》|子《こ》は、すでに、舞殿の周囲に移動していた。
|式《しき》|神《がみ》たちも一緒だ。
|鮮《あざ》やかな夏の光のなか、ふいに、虎次郎が顔をあげた。
同時に、|鼓《つづみ》の音が|湧《わ》きあがった。
規則的な響きが、|蒼穹《そうきゅう》に吸いこまれていく。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、流れるような動作で、身を起こす。
ざわ……と見物客がざわめいた。
|白装束《しろしょうぞく》の老人は、ゆっくりと舞いはじめた。
高まる緊張。
|地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》が、ずんと濃くなった。
バタバタバタッ……!
バサバサバサッ……!
闇の|気《け》|配《はい》に|怯《おび》えたのか、数十羽の|鳩《はと》が、いっせいに飛びたった。
|舞《まい》|殿《どの》全体が、薄く発光しはじめた。
舞殿を包む|結《けっ》|界《かい》が完成する。
そして、それが、合図になった。
第五章 |鎌倉炎上《かまくらえんじょう》
ゴゴゴゴゴーッ……!
突然、鎌倉全体が、激しく揺れた。
震度六の|烈《れっ》|震《しん》。
|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の屋根|瓦《がわら》が、バラバラと|滑《すべ》り落ちてくる。
立っていられず、うずくまる人々。
|怒《ど》|号《ごう》と悲鳴があがった。
*    *
|相模《さ が み》|湾《わん》|沖《おき》に、無数の木の船が現れた。
現代の船ではない。
船上に、|鎧兜《よろいかぶと》の|武《む》|者《しゃ》たちの姿がある。
|鎧兜《よろいかぶと》のあちこちに、折れた矢が突き立っている。
それぞれ、ぼろぼろになった赤い旗を立てていた。
|平《へい》|家《け》の|死霊《しりょう》たちの船団だ。
|源《げん》|氏《じ》の本拠地、|鎌《かま》|倉《くら》の|闇《やみ》に|惹《ひ》かれて、|遥《はる》か|壇《だん》ノ|浦《うら》から旅してきたのだ。
|武《む》|者《しゃ》たちの船団の中央に、|緋袴《ひばかま》の|女房《にょうぼう》たちの船があった。
幼い|安《あん》|徳《とく》|天《てん》|皇《のう》の|怨霊《おんりょう》も、そのなかにまじっているのだろうか。
――おお……源氏の|都《みやこ》が揺れておる。
――滅べ……滅んでしまえ……。
|高《たか》|潮《しお》とともに、死霊の船団は、|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》にむかって進んでいく。
鎌倉に、上陸しようというのだ。
*    *
|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の真北にあたる|建長寺《けんちょうじ》では――。
|轟《ごう》|音《おん》をあげて、|伽《が》|藍《らん》が、地の底に|崩《くず》れ落ちていった。
地震でできた|亀《き》|裂《れつ》が、鎌倉五山第一位の寺を|呑《の》みこんでいく。
その昔、この周辺は、|地《じ》|獄《ごく》|谷《だに》と呼ばれた。
罪人の|処刑場《しょけいじょう》があったためだ。
そのため、建長寺の|本《ほん》|尊《ぞん》は、地獄に落ちた|衆生《しゅじょう》を救う|地《じ》|蔵《ぞう》|菩《ぼ》|薩《さつ》なのである。
地獄谷に眠る無数の怨霊の|鎮《ちん》|魂《こん》と、|封《ふう》じこめの寺。
だが、今、その建長寺は完全に消滅した。
鎮魂と封じこめが、|解《と》けた。
亀裂のなかから、怨霊どもが、|蛆《うじ》のように|這《は》い出てきた。
鎌倉の異様な闇の力によって、実体化する。
怨霊どもは、|我《われ》がちに逃げまどう|僧《そう》|侶《りょ》たちに襲いかかり、|無《む》|惨《ざん》に引き|裂《さ》く。
飛び散る|血《ち》|飛沫《し ぶ き》。
骨を|噛《か》み|砕《くだ》くバリバリという音。
たちまち、地獄谷は、真の地獄と化した。
やがて、血みどろの怨霊の群れは、|嵐《あらし》のように移動しはじめた。
南の――鶴岡八幡宮へむかって。
*    *
「お|祖父《じ い》さまっ!」
|智《さとる》が、|若《わか》|宮《みや》を飛びだした。
|恐慌《きょうこう》状態の人込みを、必死にかきわけ、|舞《まい》|殿《どの》に近づこうとする。
「お祖父さまぁーっ!!」
|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、〈|闇扇《やみおうぎ》〉をかざしたまま、ちらりと|孫《まご》を見たようだった。
だが、何事もなかったように、舞を続ける。
|白装束《しろしょうぞく》が、夏の|陽《ひ》|射《ざ》しのなか、ゆっくりと動く。
舞殿の|結《けっ》|界《かい》を一度張ってしまったら、闇を招きよせるまで、解除はできない。
途中でやめれば、本当に闇が暴走しはじめる。
そうなったら、もう誰にも止められない。
虎次郎は、舞殿を離れられないのだ。
無防備の〈|汚《けが》れ|人《びと》〉。
「今だ。やれ」
|黒《くろ》|部《べ》が、〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|頭《かしら》・|熊《くま》|飼《がい》に命じる。
すでに、黒部は、混乱の|渦《うず》から離れていた。
「さ、オヤジ、こちらへ」
「安全な場所へ」
老人の周囲を、組員たちが取り巻いて、全身でガードしながら、奥の|本《ほん》|宮《ぐう》へ|誘《ゆう》|導《どう》していく。
熊飼の命令を受けて、十数人の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちが、いっせいに|呪《じゅ》|符《ふ》を投げた。
呪符は、|禍《まが》|々《まが》しい赤い光を放って、舞殿にむかって飛ぶ。
乱れ飛ぶ赤い流星。
ぺたりと舞殿の|結《けっ》|界《かい》に|貼《は》りついた。
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソハタヤ……!」
「オン・シュチリ・キャラハ・ウンケン・ソワカ!」
十数の声が、|真《しん》|言《ごん》を|詠唱《えいしょう》しはじめる。
バチバチバチバチッ!
結界の周囲に、|雷《いかずち》のような白い光が走りぬける。
「く……っ……!」
虎次郎は、よろめき、きっと頭をもたげた。
〈闇扇〉を強く握りなおし、再び舞を続ける。
「お祖父さまっ!」
智が、しゃにむに舞殿に駆けよろうとした時。
チリン……!
どこかで、鈴が鳴った。
この混乱のなかで、聞こえるはずのない小さな音。
ぶわっ……と、異様な|気《け》|配《はい》が|膨《ふく》れあがる。
「…………!」
智は、反射的に背後を振り返った。
|喚《わめ》きたて、|我《われ》がちに逃げまどう人々の頭上に――。
|時《とき》|田《た》がいた。
白衣の|裾《すそ》を|翻《ひるがえ》して、宙に浮いている。
息を|呑《の》むほどの冷たい|美《び》|貌《ぼう》。
エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、確かに智を|捉《とら》えた。
すっ……と、時田の腕があがった。
その白い手に、鈴はない。
|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》の指が指し示すのは――。
反対側を見た智の心臓が、ドクンと鳴った。
「|京介《きょうすけ》……!」
いつの|間《ま》に現れたのか、|舞《まい》|殿《どの》の屋根の上に、京介が立っていた。
黒いタキシード姿。
別人のように|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》だ。
手に、金色の鈴を持っている。
〈|召魔《しょうま》の鈴〉だ。
「京介ーっ!」
智の叫びに、京介は、わずかに顔を下にむけた。
だが、智を見つけても、人形のような表情に変化はない。
(京介……? オレがわからない……?)
京介が、ゆっくりと金色の鈴を持ちあげた。
目の高さに|掲《かか》げて、振る。
リーン……リーン……!
リーン……!
澄んだ鈴音が、悲鳴や|怒《ど》|号《ごう》をかき消すように響きわたった時。
ド……ッ!
ドッ……ドッ……ドッ!
|鈍《にぶ》い音と一緒に、|市《し》|街《がい》|地《ち》のそこここから、太い|火柱《ひばしら》が立った。
|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》と、大量の煙が、巨大な|竜《りゅう》のように空に上っていく。
真夏の|陽《ひ》|射《ざ》しが、急に|翳《かげ》った。
「え……?」
智が振り|仰《あお》ぐと、西の空が、下のほうから薄暗くなってくるのが見えた。
暗雲のような|魑魅魍魎《ちみもうりょう》が、ここ|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》めざして飛んでくる。
リーン……リーン……!
魔を呼ぶ鈴の|音《ね》。
「京介、やめろ! ダメだーっ!」
智は、顔を仰向け、|絶叫《ぜっきょう》した。
*    *
|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、わずかに|眉《まゆ》をひそめた。
(おかしい……)
京介が〈召魔の鈴〉を振ったのは、わかった。
鈴の音に呼ばれて、|妖《よう》|怪《かい》、|鬼《おに》、魑魅魍魎が、鶴岡八幡宮に押しよせてくる。
だが、時田|忠《ただ》|弘《ひろ》に渡した〈|召魂《しょうこん》の鈴〉が鳴らない。
鈴を振る時間は、充分あったはずだ。
(たっちゃん……まさか……!?)
緋奈子は、軽く片手を振った。
ブシュッ!
緋奈子に近づきすぎた|鬼《おに》が、内側から|破《は》|裂《れつ》する。
飛び散る|鮮《せん》|血《けつ》と内臓。
むっとするような|腐臭《ふしゅう》。
緋奈子の|唇《くちびる》に、冷ややかな|笑《え》みが浮かびあがった。
「そう……裏切ったわね、時田忠弘」
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》の全身が、緋色に輝きはじめる。
すさまじい|霊《れい》|気《き》だ。
グジュッ……!
ビシャッ!
緋奈子の霊気に触れた者は、鬼も人間も、平等に|溶《と》け|崩《くず》れた。
無差別な|怒《いか》りの霊気。
(計画が狂ったわ……)
緋奈子は、素早く|頭《こうべ》をめぐらし、|舞《まい》|殿《どの》の〈|汚《けが》れ|人《びと》〉を見た。
|厳《きび》しい決意の色が、能面のような顔に表れた。
(もう……誰も頼りにならないわ。緋奈子一人でやるしかない……)
*    *
バチバチバチバチッ!
赤い光の|蛇《へび》が、舞殿を中心にのたうっていた。
虎次郎は、そのなかで、まだ〈|闇《やみ》|舞《まい》〉を続けている。
決死の姿だ。
薄暗くなってきた空。
〈|揚《あげ》|羽《は》〉の術者たちが、舞殿の|結《けっ》|界《かい》を崩そうとしている。
「|四《し》|識《しき》|神《じん》!」
智が、|鋭《するど》く呼ばわる。
その声に|応《こた》えて、四体の|式《しき》|神《がみ》たちが、智の横に瞬間移動してくる。
「|紅葉《も み じ》、|吹雪《ふ ぶ き》、お|祖父《じ い》さまを守れ!」
「|御《ぎょ》|意《い》!」
吹雪がドスのきいた声で|怒《ど》|鳴《な》る。
|丸《まる》|太《た》のような両腕を、パコーン! と筋肉質の体に|叩《たた》きつけ、気合いを入れた。
「先に行くぞ、|秋《あき》|葉《ば》!」
紅葉の通称を叫んで、|吹雪《ふ ぶ き》は、宙に飛びあがった。
|浴衣《ゆ か た》がひらひらと風に舞い、見たくもない|太《ふと》|股《もも》がむきだしになる。
「がってん承知の助よ!」
紅葉も、ニヤリとする。
「一番、紅葉、|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》、いきまーすっ!」
ジャッと音をたてて、紅葉の両手の|爪《つめ》が、一メートルも飛びだす。
|半《はん》|月《げつ》|刀《とう》のようにそりかえった爪は、|鈍《にぶ》い銀色に輝いている。
「おらおらおらぁ! どかないとぶった|斬《ぎ》るよーん!」
紅葉は、軽々と人々の頭上を飛びこえ、|舞《まい》|殿《どの》に降り立つ。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、|式《しき》|神《がみ》をちらと見、微笑したようだった。
〈|闇扇《やみおうぎ》〉が、開いた。
|漆《しっ》|黒《こく》の地に、金の|日《にち》|輪《りん》が|描《えが》かれている。
色違いの日の丸のような感じだ。
さす手、かざす手。
虎次郎の舞が、速くなる。
あくまで、〈闇舞〉を続けようというのだ。
〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちが、|邪《じゃ》|魔《ま》な式神に攻撃をしはじめた。
「ちぃ! 式神|風《ふ》|情《ぜい》がぁ!」
「やっちまえ!」
乱れ飛ぶ|呪《じゅ》|符《ふ》。
流星のように、赤い光が、舞殿の周囲で|交《こう》|錯《さく》する。
リーン……リーン……!
リーン……!
京介の手のなかで、〈|召魔《しょうま》の鈴〉は、|妖《よう》|怪《かい》と|鬼《おに》を呼び続ける。
「やめろーっ! 京介ぇーっ!」
智は、|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
(どうして……誰が京介をこんなふうに……!?)
|悔《くや》しくて、|切《せつ》なかった。
京介に、声が届かない。
「|無《む》|駄《だ》よ、智ちゃん」
ふいに、緋奈子の声が、聞こえた。
|嘲《あざけ》るような声。
智のすぐ後ろだ。
「緋奈子!?」
ギクリとして振り返った智の目の前に、緋奈子はいた。
|緋《ひ》|色《いろ》の着物を着て、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んでいる。
「|鳴《なる》|海《み》京介には、あなたの声なんか聞こえない。あなたのことなんか、わからない。ほら、あの鈴が、|鎌《かま》|倉《くら》じゅうの|魔《ま》を呼びよせるわ。……もう終わりにしましょう、智ちゃん」
「京介に……何をした!? 緋奈子!」
「|洗《せん》|脳《のう》したのよ。緋奈子に絶対服従するように」
緋奈子は、ひどく楽しそうな表情でささやく。
「なんなら命令してみせましょうか、智ちゃん。鳴海京介に、あの|舞《まい》|殿《どの》から飛び降りるように。うまくいけば、首の骨を折って即死するわねえ。それとも、あなたと戦わせてみる? |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使って、あなたを殺せと言ってみる? 智ちゃんは、鳴海京介には抵抗できないわね。絶対に、鳴海京介は殺せないわよね」
|陶《とう》|然《ぜん》とした|魔性《ましょう》の微笑。
「ああ……|百鬼夜行《ひゃっきやこう》のような光景ね。すごい数の|鬼《おに》と|妖《よう》|怪《かい》だわ。|綺《き》|麗《れい》……」
緋奈子は、うっとりと|呟《つぶや》く。
鎌倉の空は、夕暮れのように薄暗くなっていた。
|市《し》|街《がい》|地《ち》から立ち上る|真《しん》|紅《く》の|火柱《ひばしら》。
深い|陰《かげ》のなか、|幾《いく》|千《せん》もの鬼が|蠢《うごめ》き、|哀《あわ》れな|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》の血をすすっている。
まるで、|墨《すみ》と|朱《しゅ》で|描《えが》かれた|地《じ》|獄《ごく》|絵《え》だ。
「智ちゃん、覚えているかしら。昔、これと同じように魔の|集《つど》う夜があって、緋奈子はあなたを守って一晩ずっと起きていたの」
「…………」
「たった十年くらい前のことなのにね……こんなに遠くなってしまったのね。智ちゃんが、ずっとずっと子供のままならよかった。小さくて、緋奈子に頼って、いつも緋奈子の後を追いかけてきて……。永遠に、あのままならよかったわね」
|境《けい》|内《だい》の人間の数は、だいぶ減ってきた。
人間の数より、鬼や妖怪の数のほうが多いのだ。
いつしか、空中から、時田の姿が消えている。
|勝《かつ》|利《とし》と|靖《やす》|夫《お》が、CDラジカセを|抱《かか》えて立ち、その二人を、|麗《れい》|子《こ》と|左《さ》|門《もん》が守っている。
緋色の|犬《いぬ》|神《がみ》が、素早く、麗子に襲いかかる鬼を|噛《か》み|裂《さ》いた。
〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちは、|式《しき》|神《がみ》たちに倒されて、全滅した。
|死《し》|屍《し》|累《るい》|々《るい》。
すさまじい光景だった。
「あなたは……普通じゃない。どこかおかしいよ」
智は、緋奈子の横顔を見つめて、|呟《つぶや》いた。
「あなたが、この|街《まち》をこんなふうにしたんだ……」
「そうかもしれないわ」
「オレには……あなたを好きだった|記《き》|憶《おく》なんかない。でも、あなたを嫌う理由はたくさんある……」
「そう……じゃ、もっと嫌いになってごらんなさいよ」
緋奈子は、智のきつい|瞳《ひとみ》を真正面から受けとめた。
「驚いた、智ちゃん? 緋奈子は、智ちゃんに嫌いって言われても、平気なのよ。……だって、智ちゃんの嫌いは、好きと同じだもの。智ちゃんは、本当に嫌いな人は無視するのよ。……知らなかった?」
「オレは……本当に、あなたが嫌いなんだ」
「だとしたら、光栄だわ。|鷹《たか》|塔《とう》智が本気で|憎《にく》む人間なんて、この世で緋奈子一人だけだもの。世界じゅうで、緋奈子だけ。それって、特別ってことじゃない」
緋奈子は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に安らかな表情で、|闇《やみ》と|炎《ほのお》に包まれた街を見つめた。
どこから、そんな自信が|湧《わ》いてくるのか――。
「嫌いは、好きより強いのよ、智ちゃん。千年、誰かを愛することなんかできない。でも、千年、誰かを憎み続けることはできるのよ」
緋奈子の瞳は、異様に澄みきっている。
|迷《まよ》いのない|狂信者《きょうしんしゃ》の|眼《まな》|差《ざ》し。
智は、思わず|戦《せん》|慄《りつ》した。
「あなたは……誰なんだ。いったい何者なんだ」
「|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》よ」
緋奈子は、優しい声でささやく。
「智ちゃんの敵よ。そして、智ちゃんを愛してるわ、永遠に」
「|嘘《うそ》だ……!」
「嘘じゃないわ。緋奈子は嘘が嫌いだもの。本当のことしか言わないわ」
二人は、互いの瞳を見つめあった。
|舞《まい》|殿《どの》では、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が、ただ一人、|超然《ちょうぜん》と舞を続けていた。
いつの|間《ま》にか、|夏《なつ》|子《こ》が、舞殿の真下で、虎次郎を見あげている。
黒の|留《とめ》|袖《そで》姿だ。
そこだけ、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の周囲とは、まったく異なった空間があった。
*    *
智と緋奈子が|対《たい》|峙《じ》しているのを、時田は無言で|眺《なが》めていた。
|舞《まい》|殿《どの》に近い、社務所の一階だ。
手のなかには、銀色の鈴――〈|召魂《しょうこん》の鈴〉がある。
これを振れば、|鎌《かま》|倉《くら》じゅうの|怨霊《おんりょう》が集まってくる。
緋奈子が、|魔《ま》の力で怨霊どもを|苛《さいな》めば、その苦痛は、そのまま智のなかに流れこむ。
智は、動けなくなるだろう。
おそらく、数千、数万の怨霊の苦痛を受け入れれば、発狂する。
最悪の場合、激痛のあまり、心臓が止まるかもしれない。
|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、薄く笑った。
「〈召魂の鈴〉か……」
ゆっくりと|銀《ぎん》|鈴《れい》を、目の高さまで持ちあげる。
銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》は、していない。
エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、智の背にむけられる。
智は、京介を|洗《せん》|脳《のう》され、緋奈子の前で身動きがとれず、苦しそうだ。
「さて、どうしたものか……。鎌倉じゅうの怨霊、緋奈子に流しこんでやろうか」
|呟《つぶや》く時田の背後で、異質な|気《け》|配《はい》が動いた。
「|虚《きょ》|言《げん》の|君《きみ》、どうなさいます」
|優《ゆう》|雅《が》な女の声が、やわらかく尋ねる。
|宝塚《たからづか》のおねえさまふうの美女だ。
長身で、スレンダーな体。
身のこなしに|華《はな》がある。
肩まであるふわふわの髪は、|炎《ほのお》のような見事な赤毛だ。
自分の髪の色を誇るように、体を包む|甲冑《かっちゅう》の色は、|深《しん》|紅《く》と金。
手には、実用一点張りの白い|革《かわ》|鞭《むち》を持っていた。
名を|北《ほく》|斗《と》といい、緋奈子の|式《しき》|神《がみ》――|羅《ら》|刹《せつ》|四《し》|天《てん》|王《のう》の一人だ。
彼女は、もとは人間の術者だった。
緋奈子に戦いを|挑《いど》んで負け、その|妖力《ようりょく》によって、式神に変えられたのだ。
「鷹塔智を選ばれるか、|我《わ》が当面の|主《あるじ》……時田緋奈子を選ばれるか……ご決断の時ですわね」
「両方なんとかしたいものだが」
「いつまでも、続きませんわよ。おボケな心霊治療師の仮面をかぶり続けるのは、もうそろそろ限界では?」
「|手《て》|厳《きび》しいな、北斗は」
時田は、苦笑した。
銀鈴を持つ手を下げ、鈴本体を手のひらに握りこむ。
「人間だった時から、そうなのかね」
北斗は、煙るような|紫《むらさき》の|瞳《ひとみ》で|微《ほほ》|笑《え》む。
「いずれは、おわかりでしてよ、|虚《きょ》|言《げん》の|君《きみ》。あたくしを、時田緋奈子から自由の身に……人間に戻してくだされば」
「約束は、忘れていないよ。安心するがいい」
「信頼しておりますわ」
北斗は、|媚《こ》びるような|眼《まな》|差《ざ》しを、|美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》にむける。
「|魔《ま》|王《おう》……アフリマン」
「虚言の王を信じるのか、北斗」
「時には、真実を語られることもございましょう」
「そう……時にはな」
時田は、もう一度、|舞《まい》|殿《どの》の近くの智に視線をむけた。
「あれを、この国の外に連れていきたいものだ……。智には、こんな国はふさわしくない。わけのわからぬ|妖《よう》|怪《かい》、|鬼《おに》……人の|怨《おん》|念《ねん》が底無し沼のように|渦《うず》|巻《ま》いている。何もかもが無茶苦茶で、法則というものがない。わたしは、この国が嫌いだ。わたしの支配を|拒《きょ》|絶《ぜつ》する国……魔王の力さえねじ曲げる国……この国の|地《ち》|霊《れい》|気《き》は狂っている。こんな国が、地上にあっていいはずがない」
「時田一門の血さえ、あなたさまを、この国に結びつけることはできませんでしたわね。それでこそ、|唯《ゆい》|一《いつ》絶対の魔王。|秋《あき》|津《つ》|島《しま》以外の、すべての国を支配するおかた」
「|嫌《いや》|味《み》かね、北斗。その秋津島以外というのは」
「あら、とんでもない。あたくしは、真実を申し上げただけでございますわぁ」
北斗は、くすくすと笑う。
「さあ、時田忠弘さま、ご決断を」
「時々、この世の中の女は、みんな殺してやりたくなるよ」
時田は、ため息まじりに|呟《つぶや》いた。
手のひらを開き、指先で〈|召魂《しょうこん》の鈴〉を持ちあげた。
エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、|妖《あや》しく光った。
次の瞬間、鈴は|粉《こな》|々《ごな》になって消滅した。
「では、北斗。|我《われ》|々《われ》は、高みの見物とシャレこもうではないか」
*    *
智は、顔をあげた。
|本《ほん》|宮《ぐう》のほうから、一人の老人が走りだしてくる。
黒の|紋《もん》|付《つ》き|袴《はかま》姿だ。
|革《かわ》のような|肌《はだ》、落ち|窪《くぼ》んだ目、少し曲がったような|唇《くちびる》。
老人は、|魑魅魍魎《ちみもうりょう》の|跋《ばっ》|扈《こ》する階段を駆けおり、|舞《まい》|殿《どの》にむかっていく。
|黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》組長、黒部|銀《ぎん》|次《じ》だ。
黒部銀次の後ろには、数名のダークスーツの男たちが従う。
手に手に、|日《に》|本《ほん》|刀《とう》や|拳銃《けんじゅう》を持っていた。
「続けー! 続けぇーっ!〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れた者には、わしの|跡《あと》|目《め》を継がせるぞ! 急げ!」
〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちが失敗したので、|自《みずか》ら出てきたらしい。
そして、黒部たちを|阻《そ》|止《し》しようとする左門の姿。
舞殿では、虎次郎が、静かな動きで舞っていた。
薄暗い|社《やしろ》の緑を背景に、|鮮《あざ》やかな|白装束《しろしょうぞく》。
ゆるやかに|扇《おうぎ》をかざす。
〈|闇扇《やみおうぎ》〉の中央の、|黄《おう》|金《ごん》の|日《にち》|輪《りん》。
人が|汚《けが》した大地を、たった一人で|浄化《じょうか》していく放浪の術者。
〈汚れ人〉の名は、一つには、大地の闇……汚れをその身に|担《にな》うことからつけられた。
だが、もう一つは――。
大地を|汚《お》|染《せん》する、すべての人間に成り代わり、神々の前に立つ……という意味をこめてつけられた。
汚れた人間の代表だから、〈汚れ人〉なのだ。
すべての人間の代理として――。
神々に|謝《しゃ》|罪《ざい》するために。
(〈闇舞〉を中断させてなるか……!)
智は、|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
(なんとしても、お|祖父《じ い》さまを守らなきゃ……)
だが、目の前に緋奈子がいて、身動きがとれない。
左門が、|呪《じゅ》|符《ふ》を構えるのが見えた。
「|禁《きん》!」
|赤紫《あかむらさき》の光を放って、呪符は、ヤクザどもに飛ぶ。
階段の途中で、小さな|閃《せん》|光《こう》が|弾《はじ》ける。
ヤクザどもの動きが、止まった。
呪符に|呪《じゅ》|縛《ばく》され、石になったように動けずにいる。
だが、先頭にいた黒部は、呪符の有効範囲から|逃《のが》れた。
まっすぐ、舞殿にむかって走り続ける。
|紋《もん》|付《つ》き|袴《はかま》の|懐《ふところ》から、|白《しら》|木《き》の|鞘《さや》のドスをぬきだした。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の周囲を守る|式《しき》|神《がみ》たちも、|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》の相手で手いっぱいだ。
夏子が、黒部の姿に気づいて、ハッとしたようだ。
黒部は、|悪《あっ》|鬼《き》の|形相《ぎょうそう》で笑った。
「どけぇっ! |婆《ばば》ぁ!」
「あぶないっ!」
左門が、素早く|印《いん》を結んだ。
「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウンパッタ!」
左門の大きな両手が、緑に光りはじめる。
ビュウ!
緑の光が、指先から、一メートル半ほど伸びた。
両手の光が、一瞬のうちに一本によりあわさる。
次の瞬間、緑の光は、|長《なが》|柄《え》の|斧《おの》に変わった。
左門は、斧を握って、走りだした。
「やめてください! オヤジーっ! こんなのは違う! 俺の知ってるオヤジは、こんなことしねえはずだ! 目を覚ましてください、オヤジーッ!」
左門が、|絶叫《ぜっきょう》した。
|精《せい》|悍《かん》な顔が、苦痛に|歪《ゆが》んでいる。
黒部は、夏子に|斬《き》りつける。
「お|祖母《ば あ》さまーっ!!」
智は、思わず声をあげた。
夏子は、細い腕をあげて、顔をかばった。
斬り|裂《さ》かれる着物の|袖《そで》。
黒部は、むんずと夏子の肩をつかみ、突き飛ばした。
本気で老婆を殺すつもりはなかったようだ。
「|邪《じゃ》|魔《ま》するんじゃねえ、婆ぁ」
夏子は、よろよろと地面に倒れこんだ。
「あ……!」
そのまま、黒部は、|舞《まい》|殿《どの》に駆けあがろうとする。
黒部の|萎《しな》びた手のなかで、ドスが|鈍《にぶ》く光った。
舞殿では、虎次郎が、黒部をはったと|睨《にら》み|据《す》えている。
だが、〈|闇《やみ》|舞《まい》〉はやめない。
「オヤジーっ! ダメだぁーっ!」
「アニキ……!?」
少し離れたところで、靖夫が、素早く、左門を振り返った。
|舞《まい》|殿《どの》の階段に足をかけた黒部。
|斧《おの》を振りかざして追いかける左門。必死の|形相《ぎょうそう》だ。
靖夫が、走りだした。
だが、CDラジカセを二つ持っているため、動きが遅くなる。
ドン!
靖夫は、|鬼《おに》に突き飛ばされた。
「きゃあっ!」
一匹の牛鬼が、靖夫の手からCDラジカセを奪いとって、踏み壊した。
バリバリバリバリッ!
「ああっ! アニキぃ! CDラジカセがぁーっ!」
靖夫が悲鳴をあげる。
智は、それを見ていることしかできなかった。
音楽がやむと、コンマ数秒遅れて、|吹雪《ふ ぶ き》が消えた。
|式《しき》|神《がみ》が一体欠けると、ずいぶん戦力に響いた。
「吹雪が消えた!」
少し離れた場所から、|勝《かつ》|利《とし》と|麗《れい》|子《こ》が、ギクリとしたようにこちらを見た。
牛鬼は、紅葉のCDラジカセにも、足をのせようとしている。
「うわあああーっ! ダメだぁーっ!」
靖夫が再び悲鳴をあげる。
「やめろぉーっ!」
「ヤス!」
左門が、階段の途中で、振り返った。
|逞《たくま》しい腕で斧を持ちなおし、ぶんと牛鬼に投げつけた。
広い背中が、しなやかにしなる。
ドシュッ!
斧が、牛鬼の右腕を|斬《き》り落とす。
見事な一撃だった。
「|大丈夫《だいじょうぶ》か、ヤスーっ!?」
靖夫に|怪《け》|我《が》はないようだった。紅葉のCDも無事だ。
*    *
「|北《ほく》|斗《と》、すまんが、旅行代理店に行ってくれるかね。チケットの予約を忘れた」
のんびりと、社務所に陣取って、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が言う。
|革《かわ》のソファーに座っていた。
少し離れたところでは、智と緋奈子が|対《たい》|峙《じ》している。
「|鎌《かま》|倉《くら》の|街《まち》の機能は、停止していましてよ。〈|闇《やみ》|送《おく》り〉が終わるまで、街の外には出られませんし」
|式《しき》|神《がみ》は、ふわふわの赤毛を指先ですきながら、答える。
二人の前には、大理石のテーブルがある。
|北《ほく》|斗《と》が、近くの家具店から勝手に持ってきたものだ。
|文《もん》|句《く》をつけるはずの店主も、今は、|怨霊《おんりょう》に追われて逃げまどっているだろう。
テーブルの上には、二人分のティーセット。
どこから調達してきたのか、ウエッジウッドのティーカップだ。
|可《か》|愛《わい》いピーターラビットがプリントされている。
「……で、なんのチケットですの? 予約はできませんけれど、いちおう、お|訊《き》きしてさしあげますわ」
「モナコに行こうかと思ってね。……この戦いが片づいたら、智と一緒に」
時田忠弘は、紅茶の|湯《ゆ》|気《げ》を吸いこみながら、クスクス笑う。
北斗は、|優《ゆう》|雅《が》に肩をすくめた。
「無理じゃありませんこと? 智さまの|了解《りょうかい》は、とってらっしゃらないのでしょう? ふられるのがオチですわよ」
「そこまではっきり言わなくても……北斗」
心霊治療師は、|恨《うら》めしそうな目つきで、式神を|睨《にら》んだ。
「わたしと智は、ただならぬ仲なんだから」
「|片《かた》|想《おも》い……って、はっきりおっしゃったほうが、正直ですわよ」
「死ぬほど口が悪いのは、主人の緋奈子のせいかね。それとも、本来の性格がそうなのかね、北斗?」
「|嫌《いや》ですわ、忠弘さま。そんなにお|誉《ほ》めにならないで」
「誉めたつもりはないんだがね」
にこやかに談笑中の心霊治療師と式神の目の前では、血みどろの|惨《さん》|劇《げき》がくりひろげられていた。
「モナコより、コートダジュールのほうがいいかな。いや、それより、ケアンズのわたしの別荘に連れていくか……」
心霊治療師は、夢みるような|瞳《ひとみ》で|呟《つぶや》く。
「二人っきりで、世界一周の船旅というのもいいかもしれない。智の寝室は、毎夜、百万本の|薔《ば》|薇《ら》の花で|埋《う》めよう。夜空を見ながら、|極上《ごくじょう》のシャンパンで|乾《かん》|杯《ぱい》して、波の音をBGMに甘やかな愛をかわしあうんだ」
「発想が俗物ですわね」
「智は、わたしを愛してたんだよ。本当だ」
「でも、今は鳴海京介が好きですわよね」
|北《ほく》|斗《と》は、意地悪くささやき、ピーターラビットのティーカップを|掲《かか》げた。
「時田忠弘さまの|片《かた》|想《おも》いに|乾《かん》|杯《ぱい》」
「北斗ー……それはないだろ」
無数の|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》たちも、この社務所だけは、避けて通っていた。
「あそこ、楽しそう……」
戦いながら、紅葉が|呟《つぶや》く。
|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》で、社務所を指差す。
|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、ソファーに座って、北斗とお茶している。
「バカなことをおっしゃい。敵ですよ」
ピシャリと、|睡《すい》|蓮《れん》が言った。
智に|瓜《うり》|二《ふた》つのこの|式《しき》|神《がみ》は、ほかの三体の式神たちのお目付け役を自任しているところがある。
「堅いこと言わないでさあ、|蓮《はす》|川《かわ》の睡蓮ちゃん」
「だいたい、あなたは、いつも緊張感がたりませんよ」
「いーじゃん、いーじゃん! おいらはね、明るいのが|取《と》り|柄《え》なんだよぉ」
「あなたみたいに|軽《けい》|薄《はく》な式神が同僚だなんて……わたしは悲しい」
睡蓮は、深いため息をついた。
*    *
京介が、|舞《まい》|殿《どの》の屋根から降りてきた。
まだ、緋奈子に|洗《せん》|脳《のう》されたままだ。
|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》が、智を見る。
(京介……!)
智は、ただつらかった。
できるものなら、駆けよって、抱きしめたい。
胸ぐらをつかまえて、問いつめたい。
何があったのか。
「京介……」
「智ちゃん、もう終わりにしましょう」
緋奈子が、智の前で両手を広げた。
京介とのあいだに立ちはだかる。
「どいて……ください」
智は、一歩前に出た。
「どかないわ」
「じゃあ、あなたを殺す」
「智ちゃん……そんなに、この子が好き? 緋奈子よりも?」
緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「かわいそうに、よりにもよって、こんな|化《ば》け|物《もの》を好きになるなんて。相手が人間でさえないなんて、異常だと思わない? 自分で、自分が恥ずかしくない? もう彼は、あなたを抱いてくれた? 優しくしてくれた? そんなに、気持ちよかった?」
「あなたには、関係ない」
「そう?」
「あなたと話すのは、時間の|無《む》|駄《だ》だね。……イライラする」
「そんなに戦いたい、智ちゃん? ずいぶん攻撃的ね。あなたの役目は、殺すことじゃなくて、|浄化《じょうか》することじゃなかったかしら? そんなに、鳴海京介が気になる? わかったわ」
緋奈子は、肩ごしに京介を振り返った。
「鳴海京介、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は持ってるわね。智ちゃんと戦ってあげて。天之尾羽張は、使い方によっては、相手の|魂《たましい》を永遠の|地《じ》|獄《ごく》に|叩《たた》きこむこともできるわ。|輪廻転生《りんねてんしょう》もできない無限地獄よ。……さぞかし、苦しい場所でしょうね」
微笑む|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の|唇《くちびる》は、|鮮《せん》|血《けつ》の色をしている。
智は、ブルッと身震いした。
「京介に……天之尾羽張は使わせない!」
「|斬《き》りなさい、鳴海京介!」
智と緋奈子の声が、|交《こう》|錯《さく》する。
京介は、|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》のまま、天之尾羽張の金属片を取りだした。
「ご命令のままに……緋奈子さま」
|弾《はじ》ける純白の光。
天之尾羽張が、|顕《けん》|現《げん》した。
一メートルほどの光の|剣《つるぎ》。
|柄《つか》の先端が、|猛《たけ》|々《だけ》しい|鷹《たか》の頭を|象《かたど》っている。
周囲の|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》たちが、天之尾羽張の光に|怯《おび》えたように、後ずさる。
京介は、智に斬りかかった。
|情《なさ》け|容《よう》|赦《しゃ》なく宙をきる、純白の光の|刃《やいば》。
「京介ーっ!」
智は、悲鳴をあげた。
京介を前にして、戦うことも、逃げることもできない。
全身が|硬直《こうちょく》して、動けなかった。
(|嫌《いや》だ……京介……!)
智は、目を閉じた。
ズシュッ!
|鮮《せん》|血《けつ》が、吹きあがった。
第六章 金目の|妖獣《ようじゅう》
ポタポタポタッ……!
鮮血が、したたった。
「|京介《きょうすけ》……!」
「く……っ……!」
京介は、よろめき、苦しげにうめいた。
鮮血が、京介の胸から流れだしている。
黒いタキシードの胸に、十文字の深い傷。
両手で京介に|斬《き》りつけたのは、|紅葉《も み じ》だ。
紅葉の手の先には、|半《はん》|月《げつ》|刀《とう》のような十本の|爪《つめ》――|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》が、|鈍《にぶ》く光っていた。
魔斬爪の先端は、すべて京介の血に|濡《ぬ》れている。
「悪いけど、京介の|旦《だん》|那《な》。マスターを殺そうとするなら、おいらたちは、黙っちゃいないよ」
京介を見つめる紅葉の茶色の|瞳《ひとみ》は、別人のように|酷《こく》|薄《はく》だ。
|対《たい》|峙《じ》する三体の|式《しき》|神《がみ》と、傷ついた京介。
式神たちは、|智《さとる》の危機に、とっさに反応したのだ。
一瞬のうちに、智の前に移動してきた。
「|上主《じょうしゅ》・智に|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》をむけて、生きて帰れると思うな、|鳴《なる》|海《み》京介」
紅葉の右横から、|桜良《さ く ら》が冷たく笑う。
金髪、水色の瞳の式神だ。|青藍色《せいらんしょく》のタキシード姿。
桜良は、二メートルほどの金属の|杖《つえ》――|雷鳴杖《らいめいじょう》を構えている。
杖の両端には、半球形の|水晶《すいしょう》が埋めこまれていた。
|雷《かみなり》を呼ぶ|降《ごう》|魔《ま》の杖。
そして、智と|瓜《うり》|二《ふた》つの式神、|睡《すい》|蓮《れん》。
ただ、違うのは、|漆《しっ》|黒《こく》の髪が背中まであることか。
「上主、お|怪《け》|我《が》は?」
睡蓮は、智の肩をつかんだ。
情報収集を|司《つかさど》る式神の、知的で冷静な|眼《まな》|差《ざ》し。
保護者然とした|笑《え》みが、睡蓮の|頬《ほお》に浮かんでいる。
「桜良、紅葉、ダメだ……! 京介を傷つけるな!」
智は、式神たちの背中にむかって叫んだ。
だが、|主《あるじ》の命令を、紅葉と桜良は見事に無視した。
「マスターがなんか言ってるよ、桜良」
「聞こえないなあ。気のせいじゃないか」
互いに顔を見あわせ、ニヤリとする二体の式神。
智は、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
(こんなはず……ない!)
式神は、主に絶対服従するはずではなかったのか。
「どうして……!?」
「|我《われ》ら|四《し》|識《しき》|神《じん》の使命は、上主をお守りすること。上主の安全が、最優先にございます。お命を|脅《おびや》かすようなご命令には、従えません」
睡蓮が、|哀《あわ》れむような瞳で智を見た。
「こんなこともお忘れですか、上主」
睡蓮の指に力がこもる。
すさまじい腕力だ。
「どうか、この場を動かれませぬよう。すぐにすみます」
「京介を……どうするつもりだ」
「おわかりになりませんか、上主」
|酷《こく》|薄《はく》な睡蓮の|瞳《ひとみ》。
「上主を傷つける者は、殺します。たとえ、それが上主の大切なかたであったとしても」
智は、思わず息を|呑《の》んだ。
「京介を殺す……!? ダメだ! 許さない!」
睡蓮は、無言で首を横に振る。
智の命令には従えない、というふうに。
(京介……!)
|桜良《さ く ら》と紅葉が、ふわりと宙に舞いあがる。
京介の血の|臭《にお》いを|嗅《か》ぎつけたのか、|鬼《おに》の群れがよってきた。
京介は、ふらつく体で、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を頭上に|掲《かか》げた。
「天之尾羽張、力を……!」
純白の光が、強く輝きだす。
ポタリ……ポタリ……。
あとからあとから、あふれ出る|鮮《せん》|血《けつ》。
すでに、京介の足もとには、真っ赤な血だまりができている。
だが、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に支配された京介は、|怪《け》|我《が》などまったく気にもとめていない。
「ダメだ……京介! もうそれ以上、動かないで!」
(死んでしまう……!)
智は、必死に走りだそうとした。
だが、睡蓮が押さえつけているので、動けない。
「京介ぇーっ!」
|境《けい》|内《だい》の|隅《すみ》のほうで戦っていた|麗《れい》|子《こ》と|勝《かつ》|利《とし》が、驚いたようにこちらを見た。
「京介君!?」
「ナルミちゃん! |鷹《たか》|塔《とう》センセ!」
天之尾羽張の光は、しだいに強くなっていく。
緋奈子が、安全な場所からそれを|眺《なが》めている。
満足げな表情だ。
「|雷鳴杖《らいめいじょう》!」
桜良が、頭上に|杖《つえ》を持ちあげた。
真っ白な|稲《いな》|妻《ずま》が、暗い空を|引《ひ》き|裂《さ》く。
ほぼ同時に、|雷《かみなり》が|響《ひび》きわたった。
天之尾羽張の光と、|雷《らい》|光《こう》が|交《こう》|錯《さく》する。
雷は、桜良の杖に落ちた。
すさまじい|轟《ごう》|音《おん》。
ドドドドドドドッ!
桜良は、帯電して、青白くスパークする|雷鳴杖《らいめいじょう》を、京介にむける。
「死ね」
智は、|執《しつ》|拗《よう》にからみつく|睡《すい》|蓮《れん》の腕に、歯をたてた。
ギリギリと食いちぎろうとする。
だが、|式《しき》|神《がみ》は、なおもがっしりと智を|抱《かか》えこんで、放さない。
この力の強さは、やはり人間ではない。
(京介が死んでしまう……!)
ふいに、智の胸のなかで、何かが決壊した。
(|嫌《いや》だ……!)
暗い水のように、突きあげてくる激情。
京介ガ、イナインナラ、イキテテモ、ショウガナイ!
最初に浮かんできたのが、そんな明確な言葉だったのか、智にはもう思い出せない。
荒れ狂う感情が、理性を吹き飛ばした。
(京介……! 京介!)
ドッ……!
智の全身から、青い|霊《れい》|光《こう》が爆発した。
青い輝きは、|境《けい》|内《だい》を|隅《すみ》|々《ずみ》まで照らしだし、空を|鬼《おに》|火《び》のような色に変える。
緋奈子が、ギクリとしたように、智を見た。
「なんて力……!」
緋奈子は、とっさに胸の前で|印《いん》を結んだ。
「|金《こん》|剛《ごう》|壁《へき》!」
智の霊気に対して|結《けっ》|界《かい》を作る。
ボウッ……と緋色の霊光が、緋奈子を包んだ。
境内の一方では――。
|麗《れい》|子《こ》が、智の霊気に悲鳴をあげ、その場にへたりこんだ。
「い……やぁっ!」
両腕で自分の体を|抱《かか》えこみ、震えだす。
少し遅れて、|勝《かつ》|利《とし》が、CDラジカセを持ったままよろめき、|片《かた》|膝《ひざ》をついた。
「鷹塔センセ……あかん……!」
智の霊気を浴びたすべてのものが、影響を受けている。
|鬼《おに》も|妖《よう》|怪《かい》も|怨霊《おんりょう》も、混乱して、狂ったように空を飛びまわっていた。
|舞《まい》|殿《どの》では、|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》が、一瞬、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を持つ手を止めた。
痛々しげな|眼《まな》|差《ざ》しを、|孫《まご》にむける。
「智……!」
智は、|睡《すい》|蓮《れん》の腕に|逆《さか》らい、京介にむかって手を差しのべた。
「京介を傷つける力なんか……いらないっ!!」
ドンッ!
|靖《やす》|夫《お》の足もとの、紅葉のCDラジカセが爆発した。
コンマ数秒遅れて、紅葉が消滅する。
ドンッ!
ドンッ!
さらに、勝利が持った桜良と睡蓮のCDラジカセが、爆発した。
桜良と睡蓮が、消える。
「京介……!」
智は、のろのろと歩きだした。
青い|霊《れい》|光《こう》が薄れていく。
智には、京介しか見えなかった。
「京介……」
血まみれで、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を頭上に|掲《かか》げたままの京介は、じっと智を見つめていた。
|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》の奥に、かすかに感情が揺れる。
「京介……オレだよ……京介……!」
(思い出して……)
たった八メートルくらいの距離なのに、京介は、ひどく遠かった。
よろめきながら、智は歩き続けた。
|地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》も、世界も、緋奈子も、どうでもよかった。
(ほかのものは……何もいらない……)
舞殿の階段の上では、|左《さ》|門《もん》と|黒《くろ》|部《べ》が、音もなくもみあっていた。
|閃《ひらめ》く短刀。
靖夫が、悲鳴をあげていた。
「アニキーっ!」
遠い遠い、別の次元で起こっているような悲劇。
智は、まっすぐ京介だけを見つめた。
ようやく、手の届く位置まで来て、手を差しのべる。
「京介……思い出して……オレだよ」
京介の|瞳《ひとみ》が、苦しげに宙をさまよう。
いくつもの感情が、瞳のなかで揺らめいた。
物言いたげに、|唇《くちびる》が動いた。
「あ……」
大事なことを忘れたような、もどかしげな表情。
智は、うなずいてみせる。
「オレだよ……京介。もう|大丈夫《だいじょうぶ》だよ。京介……」
京介の手から、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が落ちた。
ザクッ……!
地面に突き刺さる|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》。
次の瞬間、純白の光は消えた。
天之尾羽張は、もとの十五センチほどの金属片に戻る。
京介は、眠りから覚めたように、智を見た。
「智……」
「京介……」
智は、全身で京介にすがりついた。
「京介……!」
涙が、あふれそうになる。
(思い出してくれた……)
京介の手が、震えながら、智の頭を|抱《かか》えこむ。
|頬《ほお》に頬を押しあてた。
「智……」
「|洗《せん》|脳《のう》、|解《と》けたんだね……京介」
「智……もう……二度と会えないと思った……!」
「京介、オレも……」
「ごめん……天之尾羽張……約束破って……」
京介の体が、ゆらりと|傾《かし》いだ。
ポタポタポタッ……!
傷口からの出血が激しくなる。
「京介っ!」
智は、両腕で京介を抱きしめた。
倒れないように、全身で京介の体重をささえる。
白いコットンシャツが、京介の血で|深《しん》|紅《く》に|染《そ》まっていく。
急速に、京介の|霊《れい》|気《き》が弱まっていくのがわかる。
「京介ーっ!」
「|愁嘆場《しゅうたんば》ね、智ちゃん」
ふいに、優しい声が、聞こえた。
智は顔をあげ、京介の肩ごしに緋奈子を見た。
「緋奈子……」
「二人並べて殺してあげる」
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「かけまくも|畏《かしこ》き|火之迦具土大神《ほのかぐつちのおおかみ》、|豊《とよ》|秋《あき》|津《つ》|根《ね》の|大《おお》|八《や》|嶋《しま》に|生《あれ》|坐《ませ》る……」
|疵《きず》のない|綺《き》|麗《れい》な声が、|祭《さい》|文《もん》を|唱《とな》えはじめる。
智は、京介の背中を抱きしめ、じっと緋奈子を見つめた。
|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》と、戦い続ける気持ちにはなれなかった。
(もう……いいかもしれない……。
京介と一緒に眠れるなら……)
「ダメだ……智……死ぬな……」
智の口には出さなかった|想《おも》いを読んだように、京介が|呟《つぶや》く。
苦しげな息をしながら。
「智……こんな終わり方……幸せじゃねえだろ……本当に幸せなわけじゃ……ねえよ……」
「京介……」
「俺は……|嫌《いや》だ……こんな終わり方は……許さねえ。二人で……もっと幸せになるんだよ……」
京介は少し上半身を起こし、智と視線をあわせた。
誰よりもひたむきで、|想《おも》いをこめた|瞳《ひとみ》。
決して絶望しない目だ。
「京介……」
智の|頬《ほお》に、涙が伝った。
「泣くな……バカ」
笑いを含んだかすかな声。
「京介……世界なんか……いらない……一緒に終わってしまおう……」
「ダメだ、智……俺たち、一緒に死ぬために出会ったわけじゃないだろ」
智は、京介の背中をギュッと抱きしめた。
全身で触れあうことで、想いが少しでも伝わるように。
命を分かちあうように。
「京介……京介……」
その時――|舞《まい》|殿《どの》が、爆発|炎上《えんじょう》した。
ドドドドドーン!
*    *
吹きあがる火炎。
飛び散る建材の破片。
バチバチ……!
バチバチ……!
連日の夏の|陽《ひ》|射《ざ》しに照らされて、|乾《かわ》ききっていた舞殿は、ひとたまりもなかった。
|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》が、真っ赤な|舌《した》となって天を|焦《こ》がす。
炎のなかから、真っ黒な|揚《あ》げ|羽蝶《はちょう》が、無数に飛びだした。
|地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》が、変じたものだ。
黒い揚げ羽蝶は、後から後から舞いあがっていく。
オオーン……オオーン……オオーン……。
オオーン……。
地の底から|湧《わ》きあがるような、|不《ぶ》|気《き》|味《み》な声。
|妖《よう》|怪《かい》や|鬼《おに》どもさえ、|怯《おび》えたように動きを止めた。
|闇《やみ》は、黒い|揚《あ》げ|羽蝶《はちょう》の形で流れだし、|鎌《かま》|倉《くら》じゅうに広がっていく。
めらめらと燃え盛る|舞《まい》|殿《どの》。
|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉も、どうなったのかわからない。
*    *
智と京介は、目と目を見かわした。
「お|祖父《じ い》さまが……!」
「じーさん……!」
同時に、緋奈子の姿がフッと消えた。
たった今、ここにいたことが|嘘《うそ》のようだ。
「え……?」
「消えやがった……!?」
次の瞬間、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、舞殿の炎の前に出現した。
「〈汚れ人〉の心臓、燃やしてしまうわけにはいかない……!」
遠く離れて、聞こえるはずのない声が、智と京介の耳に届いた。
魔の盟主の|漆《しっ》|黒《こく》の髪が、おりからの風に|翻《ひるがえ》った。
|禍《まが》|々《まが》しい姿。
「緋奈子……!」
「瞬間移動しやがった……! 化け物……!」
「京介、お祖父さまはまだ生きてる。オレ……どうしたら……」
智の心は、傷ついた京介と、炎のなかの虎次郎とのあいだで揺れている。
(どっちを選んだらいい……?)
京介は、ゆっくりと智から離れた。
「先に行け。緋奈子が、じーさんを……どうにかしねえうちに……。俺も……後から追いかけるから……」
「京介……」
「行け、智。|孫《まご》のおまえが行かねーで……誰がじーさんを助けにいくんだよ……!」
京介は、優しい目をしていた。
「京介……オレ……」
「いいから、早くしろ……」
智は、小さくうなずき、京介に背をむけた。
|拳《こぶし》をギュッと握りしめる。
「待ってるから、京介。死んだりしたら許さないから」
(京介……死なないで)
智は、静かに目をあげた。
|舞《まい》|殿《どの》から吹きだす|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》と、その上空を飛びまわる|魑魅魍魎《ちみもうりょう》ども。
炎の前には、|妄執《もうしゅう》の|化《け》|身《しん》のような緋奈子が立っている。
(オレの体が二つあればよかったのに……)
だが、もう|迷《まよ》っている時間はなかった。
智は、思いきって走りだした。
舞殿のそばに駆けつけた時。
智は、一人の少年がペタンと地面に座りこんでいるのを見つけた。
靖夫だ。
泣きながら、手に、血まみれの布を握っている。
布は、左門の着ていた|縞《しま》がらのスーツの一部だ。
さっきまでこの場にいたはずの緋奈子の姿は、見えなかった。
舞殿の反対側へ行ったのかもしれない。
「アニキが……アニキがあっ……!」
「どうしたんです、靖夫君?」
「アニキが……死んじゃった……!」
「左門さんが……?」
靖夫は、火の粉が降りかかるのも気にせず、その場を動こうとしない。
「オヤジが〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を刺そうとしたんで、みっちゃんのアニキが、止めたんだ。それでもみあいになって、アニキ、オヤジをつかまえたまま、一緒に舞殿の|闇《やみ》に飛びこんじゃった。そうしたら、闇がいきなり爆発して……」
「|凝縮《ぎょうしゅく》された闇に、左門さんたちの|霊《れい》|気《き》が混じったから、霊的な|均《きん》|衡《こう》が破れたんですね……。だから、あんなふうに舞殿が爆発したんですよ……」
智は、痛ましげな|瞳《ひとみ》で|呟《つぶや》く。
舞殿から、天にむかって吹きあがる紅蓮の炎。
この炎のなかでは、もう誰も生きていないに違いない。
「アニキ、最後の瞬間に俺を見て、少し笑って『|堅《かた》|気《ぎ》になれよ、ヤス』って……! それから、オヤジに『ご一緒します』って言って……」
靖夫は、震える声で言う。
「たぶん、アニキ、親同然の組長を裏切っちゃったから……死んで筋を通すつもりだったと思う……。でも……こんなのって……あんまりだ……アニキぃ!」
「靖夫君……」
智は、どう|慰《なぐさ》めていいのかわからない。
その背後から、誰かがゆっくりと手をのばした。
智を押しのけ、靖夫の肩をつかむ。
「わいにまかしてんか、鷹塔センセ」
「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》……」
勝利は、智にむかって同情するように|微《ほほ》|笑《え》んでみせた。
肩まである茶色の髪も、Tシャツも、|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》どもの返り血に|染《そ》まっている。
「鷹塔センセは、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉とナルミちゃんのことで、手ぇいっぱいやろ。ええんや。こっちは、わいが引き受けたる」
「勝利君……」
勝利は、「行け」というふうに、智に手を振ってみせる。
「ごめん、勝利君。靖夫君を頼む……!」
「まかしときぃ!」
その時――。
ふいに、燃え盛る|舞《まい》|殿《どの》の|炎《ほのお》のなかから、|緋《ひ》|色《いろ》の光球が飛びだした。
光球のなかには、|白装束《しろしょうぞく》の老人がいる。
〈汚れ人〉だ。
意識を失っているように見える。
「あ……!」
「お|祖父《じ い》さまが……!」
虎次郎を閉じこめた光球は、緋色の流星のように飛んでいく。
|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の奥、|本《ほん》|宮《ぐう》のほうへ。
「〈汚れ人〉の心臓、いただいたわ!」
勝ち誇った緋奈子の叫び。
智は、素早く声のする方角を見た。
|参《さん》|道《どう》を走っていく緋奈子。
そして、その手前で思いつめたように緋奈子を見つめる、京介の姿――。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片が、京介の手のなかでチカリと光った。
「京介っ! ダメだっ!」
(|妖獣《ようじゅう》になる……!)
智の|頬《ほお》から、血の気が引いた。
(京介……!)
智は、身を|翻《ひるがえ》して、京介に駆けよった。
考えるより先に、体が動いていた。
「ダメだ、京介!」
「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》!」
京介の決死の叫びと同時に、純白の光の|刃《やいば》が出現した。
京介は、わびるように智を見、緋奈子に視線をうつした。
「悪いな、智。俺、あの女と決着つけなきゃ」
血まみれの体をまっすぐ起こし、きっぱりと言う。
説得はきかないと、色黒の顔に書いてある。
少年の、というより、それはすでに、一人前の男の顔だ。
やらねばならないことだから、やるしかないのだ……と語る、決然とした|瞳《ひとみ》。
(京介……)
京介は、天之尾羽張を、祈るように目の前に|掲《かか》げた。
「天之尾羽張、力を貸してくれ……!」
ぶわっ……と、純白の光が|膨《ふく》れあがる。
京介は、光のなかで智を見つめ、微笑したようだった。
|眩《まぶ》しげに少し細めた目。
どこか|切《せつ》なげな口もと。
どんなに――この表情を愛したろう。
「死ぬなよ、智」
二度と忘れられないような優しい声。
「京介……」
京介は、許しを|乞《こ》うようにもう一度、|微《ほほ》|笑《え》み、緋奈子にむかって走りだした。
天之尾羽張の力を借りて、緋奈子と決着をつけるために。
「うわああああああーっ!」
「京介ーっ!」
(|嫌《いや》だ……こんな別れ方……!)
一緒に死ぬなら、まだ許せる。
それはそれで、幸福な終わりかとも思う。
だが、離れ離れの場所で、別々に死ぬのは、絶対に嫌だ。
(京介……死ぬなら一緒だ!)
智は、必死に|相《あい》|棒《ぼう》を追いかけた。
少し前を走る|懐《なつ》かしい姿。
純白の光の|剣《つるぎ》を|掲《かか》げて、|闇《やみ》を切りひらいていく。
「オカルトは嫌い」と、泣き言を言っていたのが、|嘘《うそ》のような姿だ。
(京介……)
悲しいくせに、ひどく誇らしくて――。
相反する気持ちに、心が|引《ひ》き|裂《さ》かれそうだ。
(一緒に行きたい……京介、どこまでも一緒に……)
が、二十メートル走ったか走らないうちに、いきなり、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の光が消えた。
京介が、よろめいて、しゃがみこんだ。
「ぐ……うっ……!」
苦しげなうめき声。
その姿勢のまま、前のめりに倒れこんだ。
うつぶせになった京介は、そのまま動かない。
緋奈子は、|嘲《あざけ》るような|瞳《ひとみ》で京介を振り返った。
「もう終わり? かわいそうに」
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、何もせず、そのまま走り去った。
智の心臓が、爆発しそうになる。
「|嫌《いや》だ……京介……!」
京介が、両手の|爪《つめ》で|石畳《いしだたみ》をかきむしりはじめた。
その動きが、しだいに激しくなる。
「う……はっ……あああああああーっ!」
今にも死んでしまいそうな|苦《く》|悶《もん》の声。
智は、暴れる京介の肩に手をのばした。
(京介……京介!
あんまりだ……これからって時に……!)
「京介ーっ!」
「あああああああーっ!」
血まみれの背中が、大きくしなった。
ふいに――。
智は、目を疑った。
京介の体が変化していく。
|額《ひたい》が狭くなり、耳が伸びはじめ、|顎《あご》の形が変わる。
それと一緒に、背中が弓なりになり、腰があがり、手足の骨格が変わった。
あっという|間《ま》に、全身に白い毛が|生《は》えてきた。
体も、ひとまわり大きくなったようだ。
変化に要した時間は、わずか五秒ほど。
「きょう……すけ……?」
智は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として|呟《つぶや》いた。
そこにいるのは、金色の目、純白の毛の|虎《とら》だ。
ガーッ!
一声|吠《ほ》えると、|妖獣《ようじゅう》は、純白の|尻尾《し っ ぽ》をうち振って、駆けだした。
|本《ほん》|宮《ぐう》へ。
速い速い。
あっという|間《ま》に、|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》を|蹴《け》|飛《と》ばして、|拝《はい》|殿《でん》に飛びこんでいく。
「京介……!」
智は、数秒ためらって、妖獣の後を追いかけた。
*    *
|闇《やみ》の|気《け》|配《はい》が、どんどん濃くなる。
だが、|社《しゃ》|殿《でん》内には、|鬼《おに》も|妖《よう》|怪《かい》も入ってこられないようだった。
緋奈子は、薄暗い|廊《ろう》|下《か》を走り、内陣に入った。
|畳敷《たたみじ》きの部屋である。
正面に、ご|神《しん》|体《たい》を祭る|神《かみ》|座《ざ》がある。
神座の前には、|御鏡《みかがみ》があり、その前には、|神酒《み き》や|高《たか》|坏《つき》、|金《きん》|幣《ぺい》などが配置されていた。
畳の上に、虎次郎が倒れている。
まだ、手にしっかりと〈|闇扇《やみおうぎ》〉を握っていた。
くす……と、緋奈子は笑う。
「手に入れた……」
どこからか、短刀を取り出した。
|鞘《さや》を払い、|刀《とう》|身《しん》をむきだしにする。
ギラリ……と光る|刃《やいば》。
緋奈子は、ゆっくりと、虎次郎の上に|屈《かが》みこんだ。
その|刹《せつ》|那《な》。
ガーッ!
|咆《ほう》|哮《こう》とともに、純白の虎が現れた。
金色の目が、緋奈子を認める。
「来たわね、鳴海京介」
緋奈子は、顔をあげ、素早く|印《いん》を結んだ。
だが、それより早く。
ガーッ!
|妖獣《ようじゅう》は、たっ……と|畳《たたみ》を|蹴《け》って、緋奈子に|躍《おど》りかかった。
「甘いわ!」
緋奈子の手もとから、ルビーレッドの|炎《ほのお》の|鞭《むち》が現れた。
炎は、妖獣の全身にからみつく。
バチバチバチバチッ!
火花が飛んだ。
妖獣は、苦しげに頭をあげ、|吠《ほ》え|哮《たけ》る。
ゴロゴロ……と畳を|転《ころ》がる。
|高《たか》|坏《つき》や|御鏡《みかがみ》が倒れ、飛び散った。
だが、炎の鞭は、妖獣にからみついたまま、消えない。
妖獣の毛を真っ黒に|焦《こ》がし、肉を焼く。
ガーッ!
妖獣は、苦痛を無視することに決めたのか、体を低くして身構えた。
何度も緋奈子に飛びかかる。
が、そのたびに、攻撃はかわされた。
十分も死闘をくりひろげたろうか。
妖獣の動きが、目に見えて遅くなる。
ガーッ!
|悔《くや》しげな声をあげて、妖獣は、うずくまった。
「その炎は、触れたものの|霊力《れいりょく》を吸いとって、燃えているの。熱いでしょ。苦しいでしょ。かわいそうにね。でも、死ななきゃ消えないのよ」
緋奈子は、静かな声でささやく。
「もっとも、死んだとしても、緋奈子が|怨霊《おんりょう》にしてあげるから、苦しいのは消えないけれど。その苦痛は、きっと智ちゃんに伝わるわ。無限に|感《かん》|応《のう》し続ける苦痛よ。智ちゃんには、絶対にあなたを|浄化《じょうか》させてあげない。夜も昼も、夏も冬も、生きているかぎり、ずっとずっと智ちゃんは、あなたの苦痛に|悶《もだ》え続けるの」
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、|陰《いん》|惨《さん》な|地《じ》|獄《ごく》|絵《え》を思い|描《えが》くように、目を閉じた。
「そんなふうになっても……人間同士の信頼とか愛情って、続くものかしらねえ。智ちゃんみたいな子でも、十年二十年のうちには一度くらい、ふっと、こんな苦痛を味わわせる鳴海京介を、うとましいと思うことがあるかもしれない。会わなければよかったと……思うかもしれない。その時、智ちゃんはどんな顔をするかしら。きっと泣くわね……何度も泣くわね。思い出しては泣くのよ……。そして、そのうちに、智ちゃんは、自分にそんな思いをさせる鳴海京介が、|重《おも》|荷《に》になるのよ。鳴海京介の|記《き》|憶《おく》が、|刺《とげ》みたいに智ちゃんを苦しめて、思い出すのさえ、つらくなる。そうして、智ちゃんは、今の|綺《き》|麗《れい》な|霊《れい》|気《き》を失うんだわ。無意識の部分で鳴海京介を|憎《ぞう》|悪《お》し、|呪《のろ》うことで」
|妖獣《ようじゅう》は、緋奈子の言葉がわかったかのように、かすかな|唸《うな》り|声《ごえ》をあげる。
ガルルルルー……。
だが、ルビーレッドの|炎《ほのお》の|鞭《むち》が、|霊力《れいりょく》を吸いとっていく。
グルルルル……。
|威《い》|嚇《かく》するような唸り声が、どんどん小さくなっていく。
一度、妖獣は起きあがった。
憎悪に燃える金色の目で、緋奈子を|睨《にら》み|据《す》える。
長い沈黙があった。
がくん……と、妖獣の|脚《あし》が|砕《くだ》けた。
激しく|痙《けい》|攣《れん》する体。
金色の目が、緋奈子を睨みあげたまま、|虚《うつ》ろになる。
|静寂《せいじゃく》がおちる。
緋奈子は、そっと妖獣の焼け|焦《こ》げた体に指を|滑《すべ》らせる。
「さあ、鳴海京介。|怨霊《おんりょう》になりましょう」
「そうはさせんよ」
カタン……。
緋奈子の背後で、人の|霊《れい》|気《き》が動いた。
同時に、|黄《こ》|金《がね》|色《いろ》の光が爆発した。
「な……!」
緋奈子が振り返ると、光の中央に〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が立っていた。
黄金に輝く〈|闇扇《やみおうぎ》〉を|掲《かか》げている。
最後の力を振りしぼって、闇を|浄化《じょうか》しようというのだ。
「くっ……!」
|鎌《かま》|倉《くら》のすべての闇が|渦《うず》|巻《ま》いて、内陣に流れこんできた。
*    *
|本《ほん》|宮《ぐう》の外では、|麗《れい》|子《こ》が顔をあげた。
|呪《じゅ》|符《ふ》で作った|結《けっ》|界《かい》のなかだ。
|勝《かつ》|利《とし》も、|結《けっ》|界《かい》の|維《い》|持《じ》に|霊力《れいりょく》を貸している。
靖夫が、ふいに指差す。
「見て……!」
本宮の上の空が、真っ黒に変わりはじめた。
「闇の浄化が始まったわ……|嘘《うそ》みたい……」
麗子が、ブルッと身震いした。
「〈汚れ人〉、まだ生きてるんや……」
勝利も、信じられないといった|口調《くちょう》で|呟《つぶや》く。
鎌倉の|街《まち》は、死んだように静まりかえっていた。
無数の|火柱《ひばしら》が天を|焦《こ》がし、街は|廃《はい》|墟《きょ》と化している。
闇と|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》。
人々の悲鳴さえ、聞こえない。
ドドドドドドドドドーッ!
どこか遠くから、|轟《とどろ》くような音が近づいてくる。
ふいに、麗子の足もとから、緋色の|犬《いぬ》|神《がみ》が飛びあがった。
結界を突き破って空に舞いあがる。
「どうしたの……!?」
麗子の視界が、変わった。
|幻《まぼろし》が|視《み》えた。
麗子は、空から鎌倉の街を見おろしている。
|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》に包まれた|街《まち》の南で――。
海が、|膨《ふく》れあがっていた。
十メートルもの暗い水の壁が、ゴーゴーと|唸《うな》りをあげて、近づいてくる。
そして、波の先端に浮かんで運ばれてくるのは――。
|死霊《しりょう》を乗せた木の船団だ。
|平《へい》|家《け》の赤い旗が、|嵐《あらし》のような風に|翻《ひるがえ》っている。
いちばん前の船の中央に、|緋袴《ひばかま》の|女房《にょうぼう》が立っていた。
女房の胸には、七、八歳の子供が抱かれている。
|禁《きん》|色《じき》の|衣装《いしょう》を身につけ、|数《じゅ》|珠《ず》を持った姿。
|壇《だん》ノ|浦《うら》に沈んだ|幼《よう》|帝《てい》。
|安《あん》|徳《とく》|天《てん》|皇《のう》。
八百年の時を|超《こ》えて、平家の死霊たちは、|源《げん》|氏《じ》の|都《みやこ》に入ろうとしていた。
|麗《れい》|子《こ》の視界が、正常に戻る。
チィチィ……と、|犬《いぬ》|神《がみ》が鳴きながら、舞いおりてくる。
「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》、平家の死霊が……」
「ああ……わいにも|視《み》えた」
麗子と勝利は、顔を見あわせた。
だが、二人とも、|結《けっ》|界《かい》を|維《い》|持《じ》するのに精いっぱいだった。
ゴゴゴゴゴゴゴーッ!
|鎌《かま》|倉《くら》が、|闇《やみ》の重みに揺れはじめる。
激しい地震。
|社《やしろ》の|杜《もり》が、闇に|侵《おか》され、みるみるうちに|枯《か》れていく。
暗い空に、ぼんやりと赤い太陽が出た。
東の空から、|鈍《にぶ》い黄色の月が、すさまじい速さで昇ってくる。
太陽と月が、重なる。
ドッ……ドッ……ドッ……!
鎌倉の山間部から、新たな|火柱《ひばしら》が吹きあがった。
この世の終わりを思わせる光景だった。
*    *
智は、闇のなかを走っていた。
京介の|霊《れい》|気《き》が、さっきから感じられない。
(京介……まさか……!?)
気も狂いそうな、|焦燥《しょうそう》と不安。
「京介ーっ!」
柱にぶつかりかけて、両手を前に出す。
あちこちに打ち身を作りながら、必死に走る。
「京介ーっ! お|祖父《じ い》さまーっ!」
不安で、息が止まりそうだった。
*    *
ゴトン……!
|鈍《にぶ》い音をたてて、虎次郎の右腕が、|畳《たたみ》に落ちた。
〈|闇扇《やみおうぎ》〉をしっかり握ったままだ。
|鮮《せん》|血《けつ》が|天井《てんじょう》まで吹きあがる。
「くぅ……っ!」
青白い|蛍《ほたる》が、室内を飛びまわっている。
冷たい光が、すべてを|斑《まだら》に|染《そ》めあげた。
老人は、片手で、落ちた右腕から〈闇扇〉をもぎとろうとする。
|白装束《しろしょうぞく》の右半身が、真っ赤になっていた。
その左の手首を、女の足がギュッと踏みつける。
虎次郎は、顔をあげた。
緋奈子が、|妖《よう》|艶《えん》に笑っている。
|凄《せい》|絶《ぜつ》な微笑。
その一瞬、緋奈子は、どんな女よりも美しく見えた。
全身から輝きでる|魔《ま》の|霊《れい》|気《き》で。
「|無《む》|駄《だ》よ、お|爺《じい》ちゃん。〈|闇《やみ》|舞《まい》〉はおしまい。闇の|浄化《じょうか》なんかさせない」
「緋奈子……」
「さようなら、虎次郎お爺ちゃん。長いこと、ご苦労さま。緋奈子のために、闇を集めてくれて」
再び、カマイタチが起こった。
ゴトッ……!
虎次郎の左腕が、落ちる。
|噴《ふん》|水《すい》のように吹きあがる鮮血。
「う……ぐう……っ……!」
虎次郎は、前のめりに倒れこみ、必死に顔をあげようとした。
「観念なさい」
緋奈子が、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を部屋の|隅《すみ》のほうへ|蹴《け》り飛ばす。
その時だった。
|廊《ろう》|下《か》に、美しい影が立った。
第七章 夢の|奥《おく》|津《つ》|城《き》
|蛍《ほたる》の青白い光が、内陣を照らしだす。
|黒《くろ》|焦《こ》げになって倒れている|妖獣《ようじゅう》。
そのそばに、両手を|斬《き》り落とされた|白装束《しろしょうぞく》の老人。
勝ち誇って立つ|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》。
|障子《しょうじ》に、美しい影が|映《うつ》っている。
胸の前で交差した両手に、数枚の|呪《じゅ》|符《ふ》を持っていた。
「|京介《きょうすけ》の|霊《れい》|気《き》がもう感じられない。……オレは|間《ま》に|合《あ》わなかった」
血も|凍《こお》るような冷たい声。
|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、|愛《いと》しげに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「ようやく来たのね、|智《さとる》ちゃん」
「何かほかに言うことは?」
「緋奈子は、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れるわ。|邪《じゃ》|魔《ま》はさせない」
「この|鎌《かま》|倉《くら》を、あなたの|墓《はか》|場《ば》にしよう。|自《みずか》ら|汚《けが》し、痛めつけた地で眠るがいい」
|障子《しょうじ》のむこうで、|呪《じゅ》|符《ふ》が光った。
ピ……シッ……!
次の瞬間、緋奈子の全身が|呪《じゅ》|縛《ばく》された。
気がつくと、周囲の空間は、すでに、呪符によって閉ざされている。
「天と地と、見えるもの、見えざるものすべてになり代わり、あなたを|誅伐《ちゅうばつ》する」
誰一人|逆《さか》らうことを許さない宣告。
緋奈子は、必死に呪縛に|抗《あらが》った。
「く……っ! こんな……呪符……くらい……!」
「|無《む》|駄《だ》だ」
障子の|陰《かげ》から、白い|陰陽師《おんみょうじ》が、ゆっくりと歩みだしてくる。
ひどく大人びた高貴な|眼《まな》|差《ざ》し。
銀色の|霊《れい》|気《き》を、|翼《つばさ》のようにまとっている。
智は、部屋の奥で|優《ゆう》|雅《が》に|屈《かが》みこみ、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を拾いあげた。
|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、両腕を|斬《き》り落とされた老人の上におちる。
「お|祖父《じ い》さま」
|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、弱々しく頭をあげた。
「さ……とる……か……|凜《り》|凜《り》しいのう……」
|蒼《そう》|白《はく》な|頬《ほお》に、|笑《え》みのようなものがかすめた。
「ナツに……見せ……たいの……」
虎次郎の|白装束《しろしょうぞく》は、真っ赤に|染《そ》まっていた。
たとえ今から|止《し》|血《けつ》したとしても、出血多量で、もう助からないだろう。
天才陰陽師は、一瞬のうちに、それだけのことを見てとった。
美しい顔に、悲しみの色が浮かぶ。
「お祖父さま……」
「闇の……|浄化《じょうか》……頼む……」
「はい」
智は、流れるような動作で立ちあがった。
どうやって、浄化していいのか、正式な|継承《けいしょう》ではないので、わからない。
「心を……ゆだねよ……智……」
虎次郎が、|呟《つぶや》く。
「〈闇扇〉に……|訊《き》け……」
智は、小さくうなずいた。
〈闇扇〉に心をゆだねる。
同時に、知識が、智のなかに流れこんできた。
(ああ……そうか)
智の体が、勝手に動きはじめる。
まるで、〈闇扇〉を持った手から先が、別の生き物になったようだ。
さす手、かざす手。
銀の|霊《れい》|光《こう》をたなびかせ、ゆるやかに舞う。
流れるような動作。
やがて、〈闇扇〉が|黄《こ》|金《がね》|色《いろ》に輝きだす。
その輝きに呼ばれるように、無数の黒い|揚《あ》げ|羽蝶《はちょう》が、内陣に飛びこんできた。
オオーン……オオーン……。
オオーン……。
地の底から|湧《わ》きあがるような|不《ぶ》|気《き》|味《み》な声。
それが――黄金色の輝きが強まるにつれて、かすかになっていく。
ふいに、黒い揚げ羽蝶が、白く変わった。
白い揚げ羽蝶は、旋風のように舞い、キラリ……と光って、空気に溶ける。
蝶が消えるたびに、|芳《かぐわ》しい風が、智を包んだ。
すべてが|浄化《じょうか》されていく――。
「おう……美しいのう……」
かすかな虎次郎のささやき。
「これで……わしも、安心して……|逝《い》ける」
智は、緋奈子が、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたまま、じっとこちらを|凝視《ぎょうし》しているのを感じた。
伝わってくる緋奈子の|憎《ぞう》|悪《お》。
「そんなに、オレが|憎《にく》いのか、緋奈子」
智は、〈闇扇〉をかざしながら、そっと尋ねた。
闇を浄化するはずのこの|舞《まい》が、どうして緋奈子の心を浄化しないのか、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だった。
人の心の闇は、人の|技《わざ》によっては消せないものか。
(あなたの闇は、そんなに深いのか……緋奈子? だとしたら、なぜ?)
「大地の闇が……消える……」
緋奈子が、かすれた声で|呟《つぶや》いた。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、不完全なやり方ながら、|孫《まご》の智に|継承《けいしょう》された。
もう、虎次郎の心臓に価値はない。
「何もかも……終わってしまったわね……」
|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》らしからぬ弱々しい呟き。
智は、驚きのあまり、一瞬、舞を止めた。
「緋奈子……?」
ポタリ……ポタリ……!
|大《おお》|粒《つぶ》の涙が、|畳《たたみ》に落ちる。
緋奈子が、泣いていた。
「涙なんか……何年も流してなかったのに……|悔《くや》しい……許さないわ、智ちゃん」
「どうして泣くんだ、緋奈子? どうして? ……オレにはわからない」
「わかるもんですか……! 智ちゃんには、一生わからない!」
緋奈子は、ギリリと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
|鮮《せん》|血《けつ》の|粒《つぶ》が、口の|端《はし》に盛りあがる。
狂女のような|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の|笑《え》みが、真っ赤な唇に浮かんだ。
緋奈子の|霊《れい》|気《き》が、変わる。
火炎の形のすさまじい霊光。
虎次郎が、緋奈子の霊気の変化にギクリとしたようだった。
「智……気を……つけるのじゃ……! この霊気は……覚えがある。そうじゃ……|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……!」
「火之迦具土……!?」
智の全身に、おののきが走る。
イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神・火之迦具土は、日本最強の|邪《じゃ》|神《しん》である。
この神は、母神イザナミを焼き殺して生まれ、生誕直後に、実の父であるイザナギによって|惨《ざん》|殺《さつ》された。
そして、イザナギが火之迦具土を|斬《き》り殺す時、使った|剣《つるぎ》が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》。
日本史上最古の子殺しの剣だ。
一度惨殺された火之迦具土は、|甦《よみがえ》らぬよう|封《ふう》|印《いん》された。
天之尾羽張を封印の|要《かなめ》として、九州のとある|社《やしろ》に。
「あ……」
邪神の|霊《れい》|気《き》に、智の全身の震えが止まらない。
「智ちゃん、霊気が弱まってきたわね。……もうすぐ、緋奈子はこの|呪《じゅ》|縛《ばく》から自由になるわよ。そうしたら、今度こそ遠慮なしに殺してあげるわ」
緋奈子は、今までとうって変わって、自信に満ちた|妖《よう》|艶《えん》な|口調《くちょう》でささやく。
同時に、智の体がふらついた。
「う……!」
「正式に〈|闇扇《やみおうぎ》〉を|継承《けいしょう》しなかったからよ。いくら智ちゃんが天才|陰陽師《おんみょうじ》でも、こんなやり方じゃ、体に|負《ふ》|担《たん》がかかって当然だわ。……ほら、立っていられなくなる。このままだと死んでしまうわ」
「緋奈子、火之迦具土に|憑依《ひょうい》されているのか。いつから……?」
智は、今にも倒れそうな体を起こし、緋奈子を見つめた。
邪神の霊気が|視《み》えたことで、いくつもの|謎《なぞ》が氷解していく。
(ああ……そうだったんだ……)
「|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》になったのは……火之迦具土のせいだったのか……?」
「智ちゃん……」
緋奈子は、大きく目を見開いた。
狂女のようだった表情が、微妙に変化する。
まるで、肩の荷がおりて、ホッとしたように見える。
「そうよ。六年前、九州の社で、緋奈子は火之迦具土を解放したの。事故だったのよ。……緋奈子は、父に……|犯《おか》されそうになった。だから、殺してやったのよ。火之迦具土の力で。それからだわ。火之迦具土の|怨《おん》|念《ねん》が、緋奈子を動かすの。苦しいのよ……この国を破壊しつくさないかぎり、緋奈子は決して楽にはなれない……。緋奈子の闇は、消えないの」
「緋奈子……」
「智ちゃん……。どうして、あたしたちは、こんな場所に来てしまったんだろう。遠いところまで来てしまったわね……。きっと、二人とも望まなかった場所なのに……」
長く、重い沈黙が続く。
智は、ゆっくりと〈|闇扇《やみおうぎ》〉を閉じた。
(緋奈子……だから、泣いたんだ……)
だが、智には、もう緋奈子に|憑依《ひょうい》した火之迦具土を|祓《はら》う|霊《れい》|気《き》は、残っていなかった。
全身が氷のように冷え、感覚がなくなっている。
智は、ふらつき、|膝《ひざ》をついた。
もう立っていられない。
最後の力を振りしぼって、|妖獣《ようじゅう》の|傍《かたわ》らに|這《は》いよった。
智の視界が、クラリと回転した。
気がつくと、|黒《くろ》|焦《こ》げになった妖獣の上に折り重なって、倒れている。
一瞬、気を失ったらしい。
「京介……」
智は、|肘《ひじ》をついて少し身を起こし、妖獣の顔を見おろした。
|無《む》|惨《ざん》に焼け焦げた毛の感触に、胸が痛む。
(痛かった……京介? 苦しかった……?)
|懐《なつ》かしい京介の霊気は、もうどこにも感じられない。
「京介だけは……助けたかったのに……」
ひどく|切《せつ》ない。
「ごめん……京介……ごめん……」
(オレも……すぐ|逝《い》くから……)
智は、妖獣の顔にグッと顔をすりつけた。
黒焦げになった妖獣の口に、そっと|唇《くちびる》を押しあてる。
「京介……」
思いがけず、涙がこぼれた。
意識が遠くなり、周囲の音が消える。
智は、感覚のない腕を妖獣の首にまわし、目を閉じた。
銀色の霊気が、消滅した。
*    *
「智……!」
虎次郎が、|鋭《するど》い声をあげた。
「い……や……!」
緋奈子が、ささやく。
ふいに、緋奈子の|呪《じゅ》|縛《ばく》が、|解《と》けた。
|呪《じゅ》|符《ふ》が、紙きれになってひらひらと舞い落ちてくる。
術者である智の|霊《れい》|気《き》が、消えたためだ。
「|嫌《いや》あああああああーっ!」
緋奈子が、悲鳴をあげた。
ドッ……ドッ……ドッ……!
|本《ほん》|宮《ぐう》のあちこちから、|火柱《ひばしら》があがった。
火の手は、みるみるうちに、内陣に|迫《せま》ってくる。
緋奈子は、その場に座りこんだまま、動かなかった。
|自棄《や け》になって、もうどうにでもなれというような姿。
室内には、熱気と煙がたちこめている。
パチパチと音をたてて、燃える建物。
どこかで、|床《ゆか》|板《いた》が|崩《くず》れたようだ。
ゴッ……ゴゴゴゴゴーッ!
やがて、火のついた|梁《はり》が落ちてくる。
ドドッ……!
舞いあがる赤と金の火の粉。
「逃げんのか……?」
苦しげな声で、虎次郎が尋ねる。
両腕を|斬《き》り落とされた老人は、動くに動けない。
あとは、死を待つばかりだ。
「もう……いいの。緋奈子は、この先へは行かない。智ちゃんと一緒に終わるの」
「死ぬ気か……?」
「どうせ、逃げられないわ」
緋奈子は、|他人《ひ と》|事《ごと》のように言い捨てた。
「緋奈子の霊気も限界よ。ここで、みっともなくあがくよりは、|潔《いさぎよ》く死んだほうがいいわ」
「生きられる可能性を捨てて犬死にするのは、みっともなくないのかね」
煙を吸いこんで、虎次郎は、しばらくゲボゲボと|咳《せき》こんだ。
「苦しい? 緋奈子が、ひと思いに殺してあげましょうか」
「いらんお世話じゃ……」
言いかけた虎次郎は、耳をそばだてた。
「どうやら……おまえさんがこの場で死ぬのは、無理のようじゃの……」
「なんですって……?」
真っ赤な|炎《ほのお》が|映《うつ》る|障子《しょうじ》。
そのむこうから、長身の人影が近づいてくる。
白衣が、|翻《ひるがえ》った。
*    *
銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》の美青年が、緋奈子の前に立った。
くすくす笑いながら、手を差し出す。
「迎えにきてやった、緋奈子。さあ、おとなしく帰ろう」
「|時《とき》|田《た》忠弘……!」
緋奈子は、すさまじい|瞳《ひとみ》で|従兄《い と こ》を|睨《にら》みつけた。
「この……裏切り者!〈|召魂《しょうこん》の鈴〉はどうしたの!? あなたが鈴を振らなかったから、何もかも失敗したわ! それなのに、緋奈子を迎えにくるなんて……!」
時田忠弘は、しばらくニヤニヤしながら、緋奈子が彼を|糾弾《きゅうだん》するのを聞いていた。
「|卑怯《ひきょう》な裏切り者! よくも、平然と緋奈子の前に顔を出せたものね……!」
「悪かったな、ピヨ子。ちょっとタイミングが悪くてね」
|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、ぬけぬけと言う。
「わたしとしては、連れて帰るのは、智のほうがよかったんだが……どうやら、ピヨ子のほうが、まだ|活《い》きがよさそうだ。この際、|贅《ぜい》|沢《たく》もいっていられないからなあ。いい子だから、一緒においで」
「|嫌《いや》よ。緋奈子は、ここで死ぬの」
「死ぬだって……? またまた、|縁《えん》|起《ぎ》でもない|冗談《じょうだん》を言うものじゃないよ、ピヨ子。|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》が自殺なんかしたら、|世《せ》|間《けん》の物笑いの|種《たね》になるじゃないか。恥ずかしいから、わたしと一緒に帰ろう。ほら、手を出して」
「やめて! 緋奈子は、帰らない! ここで、智ちゃんと一緒に死ぬの! ほうっておいて! 助けてほしくなんかないわ!」
「|自棄《や け》になるな、ピヨ子」
時田は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた笑いを浮かべた。
「わたしは、おまえを死なせるつもりはないよ。今のところはね……」
緋奈子は、わずかに目を細めた。
時田の|気《け》|配《はい》が、微妙に違う。
(え……?)
「時田忠弘……あなた!?」
「お休み、緋奈子」
時田は、片手で銀ブチ眼鏡をはずした。
|瞳《ひとみ》の色が変わる。
ハシバミ色から、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》に。
「あ……!」
とっさに目を伏せようとした緋奈子だったが、邪眼の支配力のほうが強かった。
頼りなく、|崩《くず》れ落ちる少女の体。
時田は、軽々と緋奈子を|抱《かか》えあげた。
「では、先代〈|汚《けが》れ|人《びと》〉殿……」
|慇《いん》|懃《ぎん》に虎次郎に頭を下げると、|魔《ま》|王《おう》は、|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》のなかへ歩きだした。
*    *
|本《ほん》|宮《ぐう》が、崩れはじめた。
|闇《やみ》の去った|鎌《かま》|倉《くら》は、青空が戻っていた。
だが、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の上空は、|黒《こく》|煙《えん》に|覆《おお》われている。
火勢は、激しくなるばかりだ。
紅蓮の炎が、建物全体から吹きだす。
突然、本宮が爆発した。
耳のつぶれそうな|轟《ごう》|音《おん》。
炎と煙のなかから、白っぽいものが飛びだした。
時田忠弘だった。
両腕に、意識のない緋奈子を抱えている。
白衣の|裾《すそ》を|翻《ひるがえ》して、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、空の|彼方《か な た》に飛び去った。
本宮は、もう原形をたもっていない。
巨大なキャンプファイアーのように、メラメラと|深《しん》|紅《く》の炎をあげ続ける。
「智ーっ! 京介君ーっ!」
|麗《れい》|子《こ》が、顔色を変えて、炎のなかに駆けこもうとした。
一瞬早く、|勝《かつ》|利《とし》が、その両肩を抱きとめた。
「あかん! 死ぬで!」
「でも、智と京介君が、まだあのなかに!!」
「もうあかん! あの爆発んなかや、もう助からん」
「そんな……!」
麗子は、その場に座りこみ、顔を覆った。
スーツの肩が、|小《こ》|刻《きざ》みに震えはじめる。
|犬《いぬ》|神《がみ》が、|慰《なぐさ》めるように、麗子の肩にとまった。
|前《まえ》|脚《あし》を麗子の|顎《あご》にかけ、小さな|舌《した》で|頬《ほお》をなめる。
気がつくと、麗子と|勝《かつ》|利《とし》の隣に、|夏《なつ》|子《こ》が立っていた。
老女は、|穏《おだ》やかな顔でしゃがみこみ、麗子の肩を抱きしめる。
|犬《いぬ》|神《がみ》が、抗議するようにチィチィ鳴いた。
「残された者が、泣いてはいけませんよ。あの人たちが、安心して|逝《い》けなくなってしまいますもの。泣かないで……ね」
「でも……お|婆《ばあ》さま……! あんまりです……! まだ、智も京介君も若いのに……!」
勝利は、腕組みして、じっと火炎を見つめていた。
沈痛な|眼《まな》|差《ざ》しだ。
|靖《やす》|夫《お》も、両手で口を押さえている。
「こんなことって……!」
真っ赤に泣きはらした目に、また涙が浮かんでくる。
「こんなことまで……しなきゃなんなかったんですか!? 教えてください! アニキが死んで、智さんが死んで、京介さんが死んで……! こんな|犠《ぎ》|牲《せい》払ってまで、守んなきゃならないものがあるんですか!?」
「そうですよ」
夏子が、そっと|呟《つぶや》く。
最愛の夫と|孫《まご》を|一《いっ》|時《とき》に失った老女は、悲しげな|瞳《ひとみ》で、靖夫に|微《ほほ》|笑《え》む。
「|左《さ》|門《もん》さんも、命に代えてもあなたを守りたかったでしょうし、虎次郎も、智もそうですよ、きっと。何より大事なものを守るために、命を投げだしたんです」
「お婆さん……!」
「あの人たちが、命がけで守ろうとしたものを……大事にしなければいけませんよ。だから、後を追おうなんて、考えちゃいけないの。わかるわね……靖夫さん。わたしたちにできることは、そんなことくらいなんですよ。ねえ……」
靖夫は、しゃくりあげながら、何度もうなずく。
「はい……はい……」
「いい子ね。左門さんが、あなたを|可《か》|愛《わい》がったのがわかるわ」
夏子は、右手で靖夫を招く。
左手で麗子を抱きしめたまま、右手で靖夫の手を握りしめた。
|励《はげ》ますように。
靖夫が、声を放って泣きだした。
「アニキぃ……!」
勝利も、|拳《こぶし》を握りしめ、グイと目をこすった。
犬神が、麗子の肩にとまったまま、不安げな鳴き声をたてる。
|麗《れい》|子《こ》は、震える指先で|犬《いぬ》|神《がみ》を|撫《な》で、|微《ほほ》|笑《え》もうとした。
「|大丈夫《だいじょうぶ》……ごめんね……ごめん……」
その時――。
|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》のなかで、黒っぽいものが動いた。
「あ……!」
夏子が、息を|呑《の》んだ。
そのただならぬ様子に、麗子が、涙に|濡《ぬ》れた顔をあげる。
「え……?」
「なんや……?」
勝利も、いぶかしげに、数歩、前に出た。
その表情が、ふいに引き締まった。
「この|霊《れい》|気《き》……!?」
靖夫が、涙に|曇《くも》る目を、大きく見開いた。
「まさか……?」
四人は、ある期待をもって、炎のなかに目を|凝《こ》らした。
|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の|境《けい》|内《だい》は、シン……と静まりかえった。
息づまるような沈黙。
炎のなかから、人影が、ゆっくりと歩きだしてきた。
夏子が、|茫《ぼう》|然《ぜん》としたまま、立ちあがった。
麗子も、身を起こす。
勝利は、ゴクリ……と|唾《つば》を呑みこんだ。
「ホンマか……」
炎の熱気のなかに、二つの体が、|陽炎《かげろう》のように揺らめいた。
|深《しん》|紅《く》の炎を背にして――。
京介が立っていた。
焼け|焦《こ》げた服で、|素《す》|足《あし》だ。
人間の姿に戻っている。
だが、その目は、何かに|憑《と》りつかれたようだ。
仲間たちの姿を見ても、それと気づいた様子はない。
そして、京介の両腕のなかに抱きかかえられて――。
智が、いた。
ぐったりと目を閉じて、意識不明のまま。
全身の重みを、京介に預けている。
血まみれのコットンシャツ。
力なくたれた細い腕。
だが、その手のなかに、〈|闇扇《やみおうぎ》〉がしっかりと握られていた。
「智……〈闇扇〉を|継承《けいしょう》したのね……」
|麗《れい》|子《こ》が、誰にともなく|呟《つぶや》く。
夏子は、着物の|裾《すそ》をさばき、よろめくような足どりで、二、三歩、歩きだした。
|石畳《いしだたみ》の上に、夏子の濃い影が落ちた。
「あ……」
老女の|瞳《ひとみ》にしか|映《うつ》らない光景がある。
智と京介の背後に、|幻《まぼろし》のように、青白く浮かびあがっている|霊《れい》|体《たい》。
|翼《つばさ》のように両手を広げ、|微《ほほ》|笑《え》む|懐《なつ》かしい姿。
|小《こ》|柄《がら》な老人――|鷹《たか》|塔《とう》虎次郎。
|透《す》きとおる霊気が、智と京介を|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》から守っている。
とっくに死んでいたはずの京介に霊気を|注《そそ》ぎこみ、ここまで歩いてこさせたのも、虎次郎の力だ。
「あなた……」
夏子のかすかな呼びかけに、虎次郎は、視線をこちらにむけたようだった。
――おまえのところに帰ろうと思ったのだが、無理だったよ。
虎次郎の声は、夏子の耳にだけ聞こえてくる。
――わしの体は、もう燃えつきた。だが、|嘆《なげ》くな、ナツ。わしは、お役目を果たして、天に|還《かえ》るのじゃ……。おう……生まれてから、今この時ほど、こんなにすがすがしい気分になったことはないぞ。
虎次郎は、残されたすべての|霊《れい》|気《き》を、智と京介を救うために使いきったのだ。
――さらばじゃ。後を、頼む……ナツ。
「はい、あなた……」
夏子の答えに、老人は、安心したように、一つうなずいた。
|想《おも》いをこめた|微《ほほ》|笑《え》みが、虎次郎の|唇《くちびる》に浮かぶ。
そして、それきり、虎次郎の|霊《れい》|体《たい》は|視《み》えなくなった。
*    *
「俺、あの火んなかで、智のじーさんの声、聞いたよ……」
京介が、ポツリと|呟《つぶや》いた。
「お|祖父《じ い》さまの……?」
「ああ……。智を頼むってさ」
京介は、ベッドに上半身を起こしたまま、病室の窓の外に目をやった。
〈|闇《やみ》|送《おく》り〉の本祭の日と同じ、ぬけるような青空だった。
だが、あれからわずかのあいだに、夏は過ぎ去り、|街《まち》には秋風が立ちはじめていた。
京介は、あの事件の後、JOAの用意したヘリコプターで東京に運ばれ、入院した。
|妖獣《ようじゅう》への急激な変化が、予想以上に、京介の体に|負《ふ》|担《たん》をかけたらしい。
「今でも、時々、夢にみるよ……|鎌《かま》|倉《くら》のこと」
「京介……」
「でも、|怖《こわ》くて目が覚めるたび、じーさんの声が聞こえるような気がする」
京介は、静かな表情で、智を見つめた。
「『大地はおまえの味方だ。おまえが人だろうが、妖獣だろうが、|剣《つるぎ》の|化《け》|身《しん》だろうが、おまえの踏みしめる大地は、変わらない』って……」
「オレも変わらないよ……京介」
智は、京介の腕に、そっと手を置いた。
「京介が何になっても、オレは京介のそばにいるから」
「うん……」
京介は、智の手に、自分の手を重ねる。
優しい微笑が、京介の|唇《くちびる》に浮かんだ。
光に|透《す》けて、|綺《き》|麗《れい》な|褐色《かっしょく》に見える|瞳《ひとみ》。
「また、一緒に歩いていけるよな……智」
「|大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
智は、確信をもって、はっきりと答える。
不安で、大事な人を傷つけたり、遠ざけるのではなく――。
|重《おも》|荷《に》をわけあって、二人、歩いていける。
少なくとも、まだ今は。
京介と一緒に、空の深い青を|眺《なが》めていると、どんなことでもできそうな予感がする。
「世界じゅうで、俺たち二人だけならいいな……」
「何が、京介?」
「この空、見てるの」
「そうだね……」
まるで空気のような会話をかわしながら、同じものを見つめる。
(ずいぶん遠くまで来た……)
京介の指が、智の指に|滑《すべ》りこみ、しっかりと握りしめる。
智は、ベッドの|端《はし》に腰かけ、京介の胸に背をもたせかけた。
そのまま、二人は|彫像《ちょうぞう》のように、ずっと動かなかった。
[#地から2字上げ]『銀の共鳴4』に続く
『銀の共鳴』における用語の説明
[#ここから1字下げ]
これらの用語は、『銀の共鳴』という作品世界のなかでのみ、通用するものです。
表現の都合上、本来の意味とは違った解釈をしていることを、ここでお断りしておきます。
|陰陽師《おんみょうじ》や|式《しき》|神《がみ》について、|詳《くわ》しくお知りになりたいかたは、巻末に参考文献の一覧がありますので、そちらをご覧になってください。
[#ここで字下げ終わり]
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》……|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》とも呼ばれる。普段は十五センチほどの金属片だが、|鳴海京介《なるみきょうすけ》の|霊《れい》|波《は》と意思に|感《かん》|応《のう》して、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》する。
陰陽師……式神を|操《あやつ》り、|退《たい》|魔《ま》や|呪《じゅ》|咀《そ》、|除災招福《じょさいしょうふく》などを行う術者。
|汚《けが》れ|人《びと》……大地の汚れ(|闇《やみ》)を我が身に引き受け、浄化しながら放浪して歩く術者の呼び名。
〈汚れ人〉は、|世襲制《せしゅうせい》のため、一時代に一人しかいない。現在は、|鷹《たか》|塔《とう》|家《け》当主がその任にあたっている。
|祭《さい》|文《もん》……|祝詞《の り と》のこと。同じものでも、神官が|唱《とな》える時は「祝詞」、陰陽師が唱えると「祭文」になる。
JOA……ジャパン・オカルティック・アソシエーション。財団法人日本神族学協会の略。日本国内|唯《ゆい》|一《いつ》の霊能力者の管理・教育機関で、超法規的組織である。多くの霊能力者を抱え、退魔|報酬《ほうしゅう》による|莫《ばく》|大《だい》な資金を|擁《よう》し、政財界やマスコミ、司法当局に大きな影響力を持っている。
|式《しき》|固《がた》め……霊力のある人間が、自分の身を|防《ぼう》|御《ぎょ》|壁《へき》代わりにして、魔のターゲットとなった者を守る呪法。途中で式固めを破られれば、その術者は死ぬ。
式神……陰陽師が呪術を行う際に|操《そう》|作《さ》する神霊。紙の呪符から作ったり、神や|鬼《おに》をとらえて|使《し》|役《えき》したりするなど、製造方法は多種多様。
|四《し》|識《しき》|神《じん》……鷹塔智の四体の式神、|桜良《さ く ら》、|睡《すい》|蓮《れん》、|紅葉《も み じ》、|吹雪《ふ ぶ き》の総称。式神は、識神とも表記する。
|咒《じゅ》……ここでは|真《しん》|言《ごん》の別称として使っている。
|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》……JOA内部における|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の正式名称。
呪殺……霊能力で人を|呪《のろ》い殺す行為。JOAでは、これを堅く禁じている。だが、呪殺を禁じるJOA自身が、一方では、心霊犯罪の|被《ひ》|告《こく》の|処《しょ》|罰《ばつ》と、活動資金調達のため、呪殺を|請《う》け|負《お》っているという|噂《うわさ》がある。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神。実の母を焼き殺して誕生し、その直後に実の父に|斬《き》り殺された。日本最強の|邪《じゃ》|神《しん》である。その|怨《おん》|念《ねん》は、今も|浄化《じょうか》されていない。
|闇扇《やみおうぎ》……〈汚れ人〉が、体内に闇を招きよせる呪具。〈汚れ人〉の|象徴《しょうちょう》でもある。
闇送り……〈汚れ人〉が、|生涯《しょうがい》かけて体内にためこんだ闇を浄化し、後継者を選んで死ぬ儀式のこと。この時、〈汚れ人〉が|終焉《しゅうえん》の地に選んだ場所で、前後三日間の祭りが行われる。主祭の最後に〈汚れ人〉の象徴である〈闇扇〉が、後継者に手渡される。
あとがき
どうも、こんにちは。
この本からお手にとってくださった読者様には、はじめまして。
『銀の共鳴3』『|炎《ほのお》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》』をお届けします。
ちなみに、3とついてますが、このシリーズは一話完結形式で、どの巻から読んでもOKです。
前の巻の内容も、読んでなくてもわかるように書いてます。読んだけど、忘れちゃった……ってかたにも親切です(笑)。
今回、書きたかったのは、「|炎上《えんじょう》する|鎌《かま》|倉《くら》」です。
中世の|怨霊《おんりょう》や|鬼《おに》がうろつきまわり、|妖《よう》|怪《かい》とJOAが|跋《ばっ》|扈《こ》する東国の古都。
|相模《さ が み》|湾《わん》沖には、|平《へい》|家《け》の|死霊《しりょう》の船団が現れ、|源《げん》|氏《じ》の|都《みやこ》の|崩《ほう》|壊《かい》を見つめる。
爆発炎上する鎌倉の|街《まち》。
|闇《やみ》と炎と血に|彩《いろど》られた一大スペクタクル・ロマン。
史上最大のイベント・〈闇送り〉の祭りの三日間。
鎌倉は、魔の都になる。
そのなかを駆けぬける純白の|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹塔智《たかとうさとる》。
そして、|妖獣化《ようじゅうか》した|鳴海京介《なるみきょうすけ》。
京介の|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は、誰に向けられるのか!?
こういう話です。
ところで、今さら言うのもなんですけれど。
このシリーズは、現代の日本が舞台ですが、文中で登場する土地や事物は、かならずしも「現実」のものとは一致していません。
「現実」の場所やものは、あくまでモデルにしか使っておりませんので、混同なさらないようにご注意ください。
なるべく、「現実」の場所やものを調べて、書けるかぎりは、そのとおりに書いていますけれどね。
今回も、鎌倉関係の資料を集めて、舞台になった鎌倉のそれぞれの場所にも、十回くらい行って、自分の足で歩いてみました。|岡《おか》|野《の》が実際に歩いてない場所は、書いていません。
でも、そこまで調べても、やっぱり、アレンジして書きたい部分もあるわけですから。
「現実」とのささやかな食い違いは、笑って|見《み》|逃《のが》してやってくださいね。
アレンジの最たるものは、主人公・鷹塔智の職業。
実は、厳密にいうと、|陰陽師《おんみょうじ》っていうのは、|退《たい》|魔《ま》できるほど強い力はありません。
|安《あ》|倍《べの》|晴《せい》|明《めい》のように強い力を持つケースは、例外中の例外なんですよ。
安倍晴明の場合は、母親が|狐《きつね》だったため、半分しか人間じゃなかったという特殊な事情があります(まあ、安倍晴明に関しても、いろいろな説がありますけど、|岡《おか》|野《の》は、晴明様の母親は狐だった……という説をとってます)。
陰陽師というのは、もともと、奈良・平安時代に陰陽の|寮《つかさ》に属して、陰陽五行説に基づいて、日の|吉凶《きっきょう》などを|占《うらな》った専門家のことをいいます。
いわば、|律令《りつりょう》時代の宮廷天文学者です。
退魔の専門家というよりは、お役人さまだったんですよ。
中世、近世になって、民間で|加《か》|持《じ》|祈《き》|祷《とう》する者も、出るには出ましたが。
本格的に退魔をやっていたのは、|坊《ぼう》|主《ず》たちのほうです。
そんなわけで、設定の最初の段階で、智を坊主にすべきか、ずいぶん迷ったんですよね。
これだけ|派《は》|手《で》に退魔やってるんだから、陰陽師程度の力じゃ無理。
でもね、岡野は、智が美少年の天才坊主になるのは、どうしても|嫌《いや》だったんです。
だから、陰陽師にしました。これ、岡野の美意識です。
そういうわけで、『銀の共鳴』の世界では、陰陽師が坊主たちより大きな顔をして、退魔して歩いてます。ご了承ください。
キャラクターの名前について。
実は、岡野は、一巻からずっと、友人に原稿を下読みしてもらってるんですけど、三巻の序章まで読んだ時点で、彼女の言ったことは……「この『とも』って誰? 新キャラクター?」。
はあ……すいませんね。それは「さとる」(主人公の名前)って読むんです。
この超アバウトな友人は、実在する(泣)。
今回から、諸般の事情で、京介が智を「さとる」じゃなくて、「智」と呼ぶようになったもので、よけい「とも」って読む人が増えそう……。
もっとも、作者自身、以前、ペーパーで、何げなく「|桜《さくら》は|智《さとる》の花」と書いて、よく見たら、「桜は|智《とも》の花」と読めて、|悶《もん》|絶《ぜつ》した経験がありますが。
今後、登場人物の名前は、読み方が一つしかないようなのにしよう……と固く誓いましたね、私は。
ところで、今回、智の|相《あい》|棒《ぼう》・鳴海京介が|妖獣《ようじゅう》になります。
さて、どういう妖獣かといいますと……だ。
陰陽五行思想のほうで、|青竜《せいりょう》、|朱《す》|雀《ざく》、|白虎《びゃっこ》、|玄《げん》|武《ぶ》……というのがありますが、青い竜は妖獣って感じじゃないし、朱雀もなんだし、黒いカメと|蛇《へび》の合体したの(玄武)も|嫌《いや》だし、というわけで、京介は白い|虎《とら》になりました。
で、そういう話を友人たちにしたら、各人各様の反応があって|面《おも》|白《しろ》かったので、ご紹介します。
◇友人Aの場合……「京介が妖獣っていうと、|触手《しょくしゅ》がにょろにょろ出てきて、『シャゲェーッ!』とか叫んで、智にあんなことも、こんなこともするのかと思った」
そ……そこまでは、作者も考えなかったわ。
◇友人Bの場合……「智が、妖獣になった京介にキスして、それで、京介が人間に戻るんでしょ(笑)」
『美女と野獣』を|観《み》ましたね(笑)。あ、ちょっと違うか。でも、いいかもしんない。
◇友人Cの場合……「京介が、|恐竜《きょうりゅう》みたいな妖獣になって襲ってくるのかと思った。で、京介が近づいてくると、コップのなかの水が揺れるの」
京介はティラノ君ですかい。
◇友人Dの場合……「京介が白い|象《ぞう》になって、『パオーン!』とかいって、トストス走っていっちゃう」
白虎ってありがちなので、ほかに白い動物いないかなーとご相談した時の発言。
これ、大爆笑でした。思わず、|虎《とら》の取材に行ったはずの京都動物園で、象の写真をいっぱい|撮《と》ってきちゃいました。一瞬、マジで白い象にしようかと思ってしまった。だって、象になった京介の「パオーン!」が目に浮かんじゃうんだもん。ああ……見送って|茫《ぼう》|然《ぜん》とする智の姿も目に浮かぶわ。
ええと、|岡《おか》|野《の》の誕生日にプレゼントくださったみなさま、ありがとうございました。
「もう誕生日で喜ぶ|歳《とし》じゃない」なんて言ってたんですけど、やっぱり、こういうのってうれしいものですね。
本当にありがとうっH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] どれも大切にしますねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
いただいたテディベアのぬいぐるみは、仕事中、岡野の|膝《ひざ》にのってます。かわいいので、|溺《でき》|愛《あい》してるのだ。
あと、アーサー・セオドア・レイヴン氏のファンのみなさまから、セオドアの愛称テディにちなんで、テディベアの|一《いち》|輪《りん》ざしをいただきました。なんだか、今年は|熊《くま》づくし(笑)。
でも、本当にあまりお気になさらずに。感想のお手紙いただければ、それで充分です。
感想のお手紙といえば。
「覚えてらっしゃらないでしょうが、私、××県の〇〇です」って、二回目以降のお手紙の冒頭に書いてくださるかたも多いんですが、|岡《おか》|野《の》は、お手紙くださるかた全員のお名前と、それが何回目のお手紙かも、だいたい覚えてます。
だから、安心していいです。どんなお手紙も、ちゃんと読んでますから。
お手紙くださったかたには、ペーパーをお送りしてます。
気力と体力が充実している時には、全員に岡野の選んだ|紅《こう》|茶《ちゃ》を|強《ごう》|引《いん》にプレゼントするという、|迷《めい》|惑《わく》な|突《とっ》|発《ぱつ》|企《き》|画《かく》もやってます。初回は、フォションのサクラティーでした。
「桜アンパン味」などと、ロマンのかけらもない発言(笑)をしてくださったかたもいたそうですが、おおむね好評のようです。
昨年の秋に、京都へ行ってきました。
四巻は、京都のお話です。
サブタイトルは『月の|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》』。
|退《たい》|魔《ま》|物《もの》を書くなら、一度はやってみたかった修学旅行編です。
といっても、京介はかわいそうに、入院中だったため、修学旅行に行きそこなってしまうのです。で、智が「じゃあ、京介が元気になったら、オレと二人で修学旅行に行こう」というわけ。
そして、京都駅前に立った二人の目の前には、|妖《あや》しい超高層ビルが……。
日本全土を|席《せっ》|巻《けん》する新興宗教・〈火炎の真理教〉。
その教祖となった|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が、智に最後の戦いを|挑《いど》む!
実体化する|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》。
完全に|妖獣《ようじゅう》となってしまった鳴海京介の心は、|何処《い ず こ》に!?
|乞《こ》う御期待!
……という感じです。
もっとも、二巻で「祖父母によって明かされる智の過去とは!?」なんて予告しといて、智の過去、ぜんぜん書いてない|奴《やつ》なので、四巻の予告にも、あまり信頼はおけない(笑)。
それにしても、たまたま立ち寄った|清《きよ》|水《みず》|寺《でら》の隣の|地《じ》|主《しゅ》|神《じん》|社《じゃ》は、すさまじいところでした。
何がすごいといって、京都最古の|縁《えん》|結《むす》びの神様だけあって、縁結びグッズが充実してるんですよね。
社務所で売ってた、オープンハートのなかに鈴が入った金銀ペアの恋のお守りには、くらくらきてしまいました。最近の神社って、さばけてるというかなんというか。神社のお守りには、お守りらしくあってほしいと思う私って、保守的な女なんでしょーか。
でも、|召魂《しょうこん》の鈴と|召魔《しょうま》の鈴がこんなんだったら……すっげぇ|嫌《いや》かも。京介と|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》氏が、オープンハートのペアの鈴を振る姿って……想像したくないわ。
最後になりましたが、担当の小林様、いつもお世話になっております。今年もよろしくお願いいたします。
そして、|麗《うるわ》しいイラストを描いてくださいました|碧《あお》|也《また》ぴんく様。いろいろな意味で、勇気をありがとうございます。『|八《はっ》|犬《けん》|伝《でん》』がんばってくださいね。私も、私の場所で全力をつくします。
|校《こう》|閲《えつ》|部《ぶ》のご担当者様、あいかわらずお手数をかけております。今後ともよろしくお願いいたします。
それから、思いがけなくも、この三巻に貴重なアドバイスをくださいました、|久《く》|美《み》|沙《さ》|織《おり》先生、|波《は》|多《た》|野《の》|鷹《よう》先生、本当にありがとうございました。「和風サイキック・ホモ・アクション」というかっこいい(笑)形容をしてくださった波多野先生には、感謝の言葉もありません。
そして、この本をお手にとってくださった読者様。
|魔《ま》の|集《つど》う|街《まち》・|鎌《かま》|倉《くら》へ、ようこそ。
〈|闇《やみ》|送《おく》り〉の特等席を用意して、お待ちしております。
智や京介と一緒に、|波瀾万丈《はらんばんじょう》の冒険をお楽しみください。
では、次回、『月の|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》』で、またお会いしましょう。
[#地から2字上げ]|岡《おか》|野《の》|麻《ま》|里《り》|安《あ》
〈参考図書〉
『悪魔の事典』(フレッド・ゲティングス・青土社)
『天翔る白鳥ヤマトタケル』(小椋一葉・河出書房新社)
『延喜式祝詞教本』(御巫清勇・神社新報社)
『陰陽道の本』(学習研究社)
『神奈川県の歴史散歩』(下)(山川出版社)
『神奈川の伝説』(永井路子/荻坂昇/森比左志・角川書店)
『鎌倉』(昭文社)
『鎌倉謎とき散歩』古寺伝説編[#「古寺伝説編」に傍点](湯本和夫・廣済堂文庫)
『鎌倉の寺』(永井路子・保育社)
『鎌倉文学散歩』(安宅夏夫・保育社)
『鎌倉・歴史の散歩道』(安西篤子監修・講談社)
『現代こよみ読み解き事典』(岡田芳朗/阿久根末忠編著・柏書房)
『詳説佛像の持ちものと装飾』(秋山正美・松栄館)
『湘南 最後の夢の土地』(北山耕平/長野真編・冬樹社)
『神道の世界』(真弓常忠・朱鷺書房)
『神道の本』(学習研究社)
『図説鎌倉歴史散歩』(佐藤和彦/錦昭江編・河出書房新社)
『図説日本の妖怪』(近藤雅樹編・河出書房新社)
『世界宗教事典』(村上重良・講談社)
『日本の呪い』(小松和彦・光文社)
『日本の秘地・魔界と聖域』(小松和彦/荒俣宏ほか・KKベストセラーズ)
『能のデザイン』(増田正造・平凡社カラー新書)
『能をたのしむ』(増田正造/戸井田道三・平凡社カラー新書)
『仏教語ものしり事典』(斎藤昭俊・新人物往来社)
『梵字必携』(児玉義隆・朱鷺書房)
『密教の本』(学習研究社)
『図説・民俗探訪事典』(大島暁雄/佐藤良博ほか編・山川出版社)
『図説・歴史散歩事典』(井上光貞監修・山川出版社)
|炎《ほのお》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》 |銀《ぎん》の|共鳴《きょうめい》3
講談社電子文庫版PC
|岡《おか》|野《の》 |麻《ま》|里《り》|安《あ》 著
(C) Maria Okano 1996
二〇〇一年七月十二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001