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世界史の誕生
モンゴルの発展と伝統
岡田英弘
目 次
まえがき
第1章 一二〇六年の天命――世界史ここに始まる
第2章 対決の歴史――地中海文明の歴史文化
第3章 皇帝の歴史――中国文明の歴史文化
第4章 世界史を創る草原の民
第5章 遊牧帝国の成長――トルコからキタイまで
第6章 モンゴル帝国は世界を創る
第7章 東洋史・西洋史から世界史へ
参考文献の解説
あとがき
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まえがき
十九年前、私は「世界史は成立するか」という一文を書いたことがある(『歴史と地理』二一一、一九七三年四月)。「世界史という言葉が我々の心に呼び起こす映像には、ほぼ二つの相矛盾《あいむじゆん》する観念が重ね焼きになって、全体の輪郭がぼやけて何となくつかみにくい感じがする」と書き出して、その二つの観念の第一が、明治以来の「万国史《ばんこくし》」の観念であること、第二が中国の伝統的な「正史《せいし》」の観念であることを指摘した。「万国史」のほうは、明治の初め、一度にどっと押し寄せた西洋諸国の人々と交渉を持たなければならなかった日本人が、取り急ぎ相手のバックグラウンドを知る必要があって出来たもので、ギリシア、ローマから始まって、明治維新前後に日本で角逐《かくちく》したフランス、イギリスに至るまで、一国一国その興亡盛衰のあとが叙述される。「万国史」はヨーロッパ人の書いた「原書」の焼き直しだが、焼き直すのが日本人なので、叙述の事項の選択は、日本人がそれまでに持っていた伝統的な歴史観に基づくことになる。それが漢籍《かんせき》から学んだ中国の「正史」の歴史観である。
千年以上もの間、中国文化に養われて成長してきた日本人にとって、歴史とは、どの政権が「天命《てんめい》」を受け、「正統《せいとう》」であるかを問題にするものだった。そのため「万国史」の対象は、実質的にはギリシア、マケドニア帝国、ローマ帝国、ゲルマンから分かれたイギリス、フランス、ドイツに限られている。これは「天命」が伝わった順序を示し、明治時代の三大列強を「正統」と認める構造になっている。この中国型の「万国史」が「西洋史」になり、本来の中国史に由来する「東洋史」と並立《へいりつ》しているのが、日本の歴史学の現状である。
これら「東洋史」と「西洋史」は、いずれも中国型の「天命」史観、「正統」史観の論理に基づいて、しかもそれぞれ独立に出来上がっている歴史であるので、なみたいていのことでは一緒にはならない。そのため、「東洋史」に手を加えて何とか「西洋史」に近づけようと、いろいろな方法が試みられた。それが時代区分であり、東西交渉史であり、塞外史《さいがいし》であり、社会経済史であった。しかしいずれも、我々日本人の歴史観の根底が中国型の歴史にあることを自覚しないまま、「西洋史」の用語だけを表面的に「東洋史」に適用しようとして失敗に終わり、歴史学の統一などは思いも寄らないままであった。そこへ第二次世界大戦後の学制改革で、東洋史と西洋史は合体して「世界史」という科目になることになった。
ところが、これはどだい無理な注文であった。それぞれ独自の「正統」思想で出来上がっている、中国型の体系同士なのだから、混ぜ合わせようにも、二つの「天命」が対立することになって、どうにも水と油の観を免れない。世界史Bの高校用教科書は、その無理がありありとうかがわれるものばかりである。本来、東西それぞれ縦の脈絡がついていたものを輪切りにして、一つおきに積み重ねたのでは、教える方も学ぶ方も、まるきり話の筋が通らない。聞くところによると、高校の先生方には、西洋史なら西洋史の部分を拾って教え、あとで東洋史の部分を拾ってつなぎ合わせて教えている人も多いという。これでは全く「世界史」以前と変わりがない。
それに不都合なことに、東洋史と西洋史が合体した「世界史」には、「国史」に由来する日本史が含まれないのである。その結果は、日本抜きの世界を日本の学校で日本人が学習する、ということになってしまう。まるで日本は世界の一部ではないかのごとくであり、日本の歴史は世界史に何の関係もなく、何の影響も与えないものであるかのごとくではないか。これでは、「世界史」で扱うべき事項の選択に、我々日本人との関連の観点が入ってこず、事項を増やせば増やすほど筋道の混乱がひどくなり、やたらと雑駁《ざつぱく》になるばかりなのは当然である。
この「世界史は成立するか」の一文の結びは、「少なくとも現在の日本では、本当の意味の世界史は成立しない。それでも世界史を教えなければならない。この矛盾を解く道はただ一つ、大学入試の科目から世界史を廃止することである」となっていた。しかし私は、この悲観的な結論に満足したわけではない。「万国史」が明治の日本人に必要だったのと同じ理由で、大学入試をはなれても、現在の日本人に世界史が必要なことには変わりがない。必要なのは、筋道の通った世界史を新たに創り出すことである。
そのためにはまず、歴史が最初から普遍的な性質のものではなく、東洋史を産み出した中国世界と、西洋史を産み出した地中海世界において、それぞれの地域に特有な文化であることを、はっきり認識しなければならない。この認識さえ受け入れれば、中央ユーラシアの草原から東と西へ押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出し、変形した結果、現在の世界が我々の見るような形を取るに至ったのであると考えて、この考えの筋道に沿って、単一の世界史を記述することも可能になる。
私のこの考えは、すでに『漢民族と中国社会』(山川出版社、一九八三年)、『中央ユーラシアの世界』(山川出版社、一九九〇年)、『歴史のある文明 歴史のない文明』(筑摩書房、一九九二年)において部分的に表明しておいたが、この考えを実行に移して、世界史の統一的な記述を試みたのが本書『世界史の誕生』である。この大胆な試みに協力を賜った筑摩書房の湯原法史氏に、篤くお礼申し上げるものである。
一九九二年二月
[#地付き]岡田英弘
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第1章[#「第1章」はゴシック体] 一二〇六年の天命
――世界史ここに始まる
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チンギス・ハーン[#「チンギス・ハーン」はゴシック体]
一二〇六年の春、モンゴル高原の北部、ケンテイ山脈のなかの、オノン河の源に近い草原に、多数の遊牧民の部族の代表者たちが集まって大会議を開き、モンゴル部族のテムジンという首領を、自分たちの共通の最高指導者に選挙した。このときテムジンの義兄弟のココチュという名のシャマン(巫《みこ》)がいて、遊牧民たちの信仰を集めていた。ココチュは、馬にまたがって天に昇る神通力があるという評判で、モンゴル語で「テブ・テンゲリ」、すなわち「非常に神のごとき人」という意味の呼び名で通っていた。
それまでの遊牧民の最高指導者の称号は「ハーン」といい、それにいろいろな誉《ほ》め言葉をつけて尊称にするのが習慣であったが、ココチュはテムジンに「チンギス・ハーン」という尊称を授けた。「チンギス」は古いトルコ語の「チンギズ」をモンゴル語風に発音したもので、「烈《はげ》しい、厳《きび》しい」という意味である。こうしてテムジンは、オノン河の源の地に、「トゥク」と呼ばれる自分の軍旗(竿《さお》のさきの金輪から長い白い吹き流しが九本|垂《た》れ下がった、火消しのまといのようなもの)を建てて、その下で即位式を挙げて「チンギス・ハーン」と名乗った。これがモンゴル帝国の建国であり、また、世界史の誕生の瞬間でもあった。
この偉大な瞬間に、モンゴル高原の外の世界では、どんなことが起こっていたのだろうか。
モンゴルの外の世界[#「モンゴルの外の世界」はゴシック体]
このとき、日本では、軍人が国の実権を握った時代で、鎌倉幕府の第三代|征夷大将軍源《せいいたいしようぐんみなもとの》実朝《さねとも》が、自分で中国に渡ろうとして、大きな船を由比《ゆい》が浜で建造させていた。造船は失敗し、実朝はそれから十三年後、鎌倉の鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》で、甥の公暁《くぎよう》に暗殺される。
韓国では、高麗《こうらい》王国が半島を統一していたが、やはり軍人が実権を握った時代で、将軍|崔忠献《さいちゆうけん》が、崔氏四代の武臣政権(幕府に当たる)の基礎を固めたところであった。
高麗の西隣りでは、ジュシェン(女直、女真)人の金帝国が、満洲、内モンゴル、淮河《わいが》に至る華北一帯を支配していた。
[#挿絵(img/fig1.jpg、横×縦)]
金帝国の南では、中国人の南宋帝国が華中、華南に広がり、その首都の杭州《こうしゆう》は百万人の市民が住む、当時の世界で最大の都市であった。この国では、六年前、朱熹《しゆき》(新儒教の朱子学の教祖)が、不遇のうちに死んでいた。
金帝国の西では、タングト(党項)人の西夏王国が、内モンゴルの西部から寧夏《ねいか》、甘粛《かんしゆく》にかけての都市と遊牧民を支配していた。
チベット高原では、多数の地方豪族が並び立って、それぞれ仏教の高僧や教団を保護して、地元の振興を図っていた。そのなかでも西チベットの豪族コン氏の菩提寺《ぼだいじ》サキャ寺(シガツェに近い)では、二十五歳の青年僧クンガギェンツェンが、聡明の誉れ高く、インドから亡命して来た学者について仏教の奥義《おうぎ》を学んでおり、やがて自らも大学者となってサキャ・パンディタ(サキャの碩学)と呼ばれるようになる。その甥がパクパである。
ヒマラヤ山脈の南の北インドの平原では、それまで仏教が優勢であったが、この二十年ほど前から、グール家のムハンマドという、イスラム教徒のアフガン人の首領が、騎兵隊を率いてアフガニスタンから北インドに侵入して来て、インド人の王たちを征服し、広大な領土を獲得していた。これを境にして、インドでは仏教よりも、イスラム教のほうが優勢になり始めていた。一二〇六年、ムハンマドはグールで暗殺され、アフガニスタンのグール家領は、北方のホラズム帝国に併合される。しかしムハンマドが北インドに残した王国は、彼の奴隷であったトルコ人の将軍クトゥブ・ウッディーン・アイバクが引き継いで、デリーの都に奴隷王朝を建てた。このデリー・スルターン国は、一二九〇年まで繁栄するのである。
アフガニスタンの北方では、チュー河(現在のキルギズ共和国とカザフ共和国の境)のほとりの草原に、東方から移住して来た仏教徒のキタイ(契丹)人がカラ・キタイ(西遼)帝国を建てていた。その最後のグル・ハーン(皇帝)チルク(直魯古、天禧《てんき》帝)が、このとき在位しており、中央アジア全体に強大な勢力を振るっていた。カラ・キタイというのは、トルコ語で「黒い契丹《きつたん》人」の意味である。今のロシア語で中国を「キタイ」、中国人を「キタイツィ」と呼ぶのは、契丹が語源である。
カラ・キタイ帝国の西隣りでは、アラル海の南のホラズム地方(今のウズベク共和国の西部)で、トルコ人イスラム教徒のホラズム・シャー朝が盛んになりつつあった。この王家の祖先もトルコ人奴隷の出身で、代々カラ・キタイのグル・ハーンたちの臣下となっていたが、それでもホラズムは、西トルキスタンからイラン高原までを支配して、イスラム世界の東半分を占める大帝国である。この当時のホラズム王アラー・ウッディーン・ムハンマドは、ひそかにカラ・キタイからの独立戦争を計画中であった。数年後、ムハンマドはカラ・キタイ軍を破って独立を達成することになる。
ホラズムの北方、カザフスタンの草原から西へ、北コーカサス、ウクライナを経てドナウ河に至るまでの広大な草原地帯には、トルコ語を話す遊牧民のキプチャク人が広がっていた。ロシア人は、キプチャク人のことを「ポロヴツィ」と呼んだが、これは「薄黄色い人々」という意味である。このキプチャク人たちは、奴隷として大量に売られて、黒海の北岸のジェノヴァ人の港町から地中海沿岸に輸出され、そのうちに本来の住地では絶滅してしまうが、エジプトに輸出された奴隷たちは軍人となって、やがてマムルーク朝を建てることになる。
ルーシの公たち[#「ルーシの公たち」はゴシック体]
キプチャク人の遊牧するウクライナ草原の北の端には、ルーシ人の町のキエフがあった。ルーシ人は、もともと九世紀にスカンディナヴィアからバルト海を渡って来て、東スラヴ人とフィン人の土地に国を建てた人々であった。ルーシ人は、イリメニ湖の北岸にノヴゴロドという町を建てたが、彼らの初代の指導者は、リューリクという名の人であったと伝えられる。ルーシ人は、ほかにも町をいくつも建てて、それぞれの町をリューリクの子孫が治めたが、こうした諸侯は「クニャージ」と呼ばれた。「クニャージ」を日本語では普通「公」と訳すが、これは英語の「キング」(王)やドイツ語の「ケーニヒ」(王)と同じ言葉で、ゲルマン語の「族長」のことである。
ルーシの名前は「ロシア」の語源である。今でこそ「ロシア人」というのは、東スラヴ語を話す人々のことになってしまったが、本来はそうではなかった。ルーシ人はスカンディナヴィアから移住した、いわゆるノルマン人のことであった。今でもフィンランド語では、スウェーデンのことを「ルオツィ」という。
北方のノヴゴロドから、ドニェプル河を南に下って来て、森林地帯を抜けて草原に出たところがキエフの町である。ルーシ人たちはキエフを根城にして、バルト海と黒海を結ぶ水路を押さえて、東ローマ帝国のギリシア人たちと貿易を営んでいた。主として東ローマ帝国とのそうした貿易と外交の必要から、九八八年、ルーシのキエフ大公ウラディーミルは、クリミア半島の先のギリシア人の町ケルソネーソス(今のセヴァストポリの近く)で、キリスト教の洗礼を受けた。
このキリスト教は、ビザンティウムに大本山のある東方教会だったから、ルーシ人が受け入れたキリスト教も、聖書から礼拝の用語まで、みんなギリシア語になるはずだった。ところが、ちょうどそのころ、ブルガリアでキリル文字が出来て、これでスラヴ語が書けるようになったので、ルーシ人もスラヴ語を使ってキリスト教を信仰するようになった。およそ文字のある言語と文字のない言語との競争では、文字のある言語の方が圧倒的に有利である。そのためルーシ人たちも、もともと自分たちが話していた言葉の代わりに、自分たちが征服したスラヴ人の言葉を話すようになっていった。
一二〇六年の当時、ルーシ人の政治の中心は、ウラディーミリ(モスクワの東方)の町にあり、リューリクの子孫のフセヴォロド大公がここを治めていた。フセヴォロドの兄のアンドレイ大公が、キエフからこの町に移ったのである。この当時、モスクワはただの小さな砦で、まだ町と呼べるような立派なものではなかった。
リトアニア人[#「リトアニア人」はゴシック体]
ルーシ人の国の西方では、今のラトヴィア、リトアニアから、ポーランドの北部にかけて、バルト人たちが住んでいた。バルト人は、スラヴ語ともゲルマン語とも違う、独特の言葉を話す人々で、その言葉には、インド・ヨーロッパ語族の言葉の中では、もっとも古風な特徴があるといわれている。今のラトヴィア語とリトアニア語は、バルト系の言葉である。
ちょうどこのころから、バルト人の土地にはドイツ人が入り込んで開拓を始めていた。今のポーランドの北部にはドイツ騎士団が進出して、土着のバルト系のプロシア人は、やがて絶滅することになる。リヴォニア(今のラトヴィアとエストニア)にもキリスト教徒のドイツ人が入植して、一二〇一年にはリガの町を建設し、リガの司教座《しきようざ》聖堂を護るために刀剣《とうけん》騎士団が創立された。
東のリヴォニアと西のプロシアにはさまれた、今のリトアニアのバルト人は、ヨーロッパでは一番あとまでキリスト教を受け入れず、このころもなお先祖以来の神々の信仰を守っていた。ずっとあとになって、ミンダウガスという王が現れてリトアニアのバルト人を統一し、一二五一年、キリスト教の洗礼を受けた。ミンダウガス王が死ぬとともに彼の王国も解体し、リトアニア人はキリスト教を捨てて先祖以来の信仰にもどった。それからさらに時代の下った十四世紀になって、リトアニア人は再び統一して大公国となり、あらためてキリスト教に改宗することになる。リトアニア大公国は、南隣りのポーランド王国と合体して、中部ヨーロッパで最大の強国になる運命にあった。
そのポーランドは西スラヴ語を話す人々の国で、九世紀にキリスト教を受け入れ、十一世紀には王国となり、一二〇六年当時には、クラクフ(ワルシャワの南方、チェコスロヴァキアとの国境に近い町)にピアスト家の国王が居た。しかし国内は、多数の公たちの領地に分裂していて、国王の実力は弱いものであった。
ポーランド王国の南隣りは、ハンガリー王国で、アジアのフィン・ウゴル系の言葉を話すマジャル人の国である。マジャル人は九世紀に、ウラル山脈の中から出て来て、ヴォルガ河を下って北コーカサス、ウクライナの草原に入り、さらにドナウ河の中流域に達して、スラヴ人の住地のまっただ中に割り込んだ。十世紀にはキリスト教を受け入れ、さらに王国となっていた。
一二〇六年当時のハンガリー王国の都はエステルゴム(ブダペストの西北)の町で、国王はアールパード家のアンドラーシュ二世だったが、この王は権力を乱用したうえ派手好きで、この十年ほどあとには自分で十字軍を起こしてパレスティナに遠征しようと計画したりしている。とうとう一二二二年には、この王は、貴族たち(九世紀の移住当時のマジャル人征服者の子孫である自由民)に迫られて、彼らの伝統的な特権を公認する「黄金憲章《おうごんけんしよう》」に署名させられることになる。
ハンガリー王国の東南には、第二次ブルガリア帝国があった。ブルガリアは、やはりアジアから来たブルガル人の国である。この国の公用語はトルコ語であった。今のヴォルガ河の名前は、昔ここにブルガル人の国があったことから出ている。ブルガル人の一団は、キプチャク人といっしょになって、七世紀に、アスパルフという名前のハーンに率いられてバルカン半島に入って、そこの南スラヴ語を話す住民を征服した。九世紀にはボリス・ハーンが出て第一次ブルガリア帝国を建設し、キリスト教を受け入れた。
第一次ブルガリア帝国が採用したキリスト教は、東方教会のキリスト教だったが、教会の公用語には、ギリシア語ではなく、スラヴ語を使うことにした。もちろん、東ローマ帝国から干渉されるのを防ぐためである。
これより先、九世紀の初めに、現在のチェコに、モラヴィアという、スラヴ人が建てた国としては最初の国が出来た。このモラヴィア国に、メトディオスとコンスタンティノスという、スラヴ語のうまいギリシア人の兄弟が行って、スラヴ人にスラヴ語でキリスト教の布教を始め、スラヴ文字(グラゴル文字)を作って福音書などをスラヴ語に翻訳した。スラヴ語は、ここで初めて文字に書ける言語になったのである。メトディオスが死んだ後、彼の弟子たちはモラヴィアから追放されたが、ブルガリアに亡命した弟子たちは、あらためてキリル文字を作って、スラヴ語で布教を続けた。これが東方教会のスラヴ語の由来で、十世紀の末にルーシ人が受け入れたキリスト教も、このスラヴ語の東方教会で、これがのちにロシア正教になるのである。
第一次ブルガリア帝国は、十一世紀の初めに東ローマに滅ぼされたが、十二世紀の末になって、ブルガル人のペタルとアセンの兄弟が東ローマから独立を宣言し、トゥルノヴォ(ソフィアの東方)の町を都として、第二次ブルガリア帝国を建てた。一二〇六年当時のブルガリア皇帝は、第三代のカロヤンであった。
東ローマ帝国[#「東ローマ帝国」はゴシック体]
ブルガリア帝国の南隣りには、ビザンティウム(コンスタンティノポリス、イスタンブル)に少し前まで東ローマ帝国があったが、第四回十字軍が一二〇四年、ヴェネツィアの策謀に乗ってビザンティウムを攻め落とし、ここにラテン帝国を建てていた。初代のラテン皇帝になったのは、フランドル伯のボードワンだったが、ボードワンは一二〇五年、ブルガリア皇帝カロヤンと戦って敗れ、捕虜となってトゥルノヴォに連れ去られて殺された。ボードワンの後を継いだ一二〇六年当時の皇帝は、弟のアンリである。
ビザンティウムを追い出されたとはいっても、東ローマ帝国は亡びたわけではなかった。海峡を渡って東、アナトリア側の対岸に近いニカイア(現在のトルコ共和国のイズニク)の町には、ビザンティウムの貴族のテオドロス・ラスカリスが居て、帝国の再興を図っており、ちょうど一二〇六年に皇帝の位についている。彼の帝国を、ニカイア帝国という。ニカイア帝国はその後、一二六一年になって、ラテン帝国を滅ぼして、ビザンティウムを奪回することになる。
ニカイア帝国の東方には、アナトリア中央部の高原に、トルコ語を話すイスラム教徒の遊牧民であるセルジュク人の国があって、首都はコニヤの町であった。一二〇六年当時のセルジュクのスルターン(王)はカイ・フスラウといった。その後、一二一一年になって、カイ・フスラウは、テオドロス・ラスカリスに敗れて戦死した。カイ・フスラウの息子のカイ・カーウースが後を継いでスルターンとなり、一二一四年には北方の黒海の港町シノペ(今のシノプ)を占領した。この戦いで、彼はトラペズースの皇帝アレクシオス・コムネノスを捕虜にした。アレクシオスは、カイ・カーウースに服従し、臣下となることを誓った。
トラペズースというのは、シノペよりも東の、アルメニアとの境に近い、やはり黒海の港町である。今はトルコ語でトラブゾン(英語ではトレビゾンド)という。第四回十字軍がビザンティウムを占領して東ローマ帝国を滅ぼした時、やはりビザンティウムの貴族だったアレクシオス・コムネノスはトラペズースの町に逃れて、ここで皇帝の位についていたのである。このトラペズース帝国は、小さいながら、それから二世紀半もの間よく持ちこたえて、一四六一年になってオスマン帝国のスルターン・メフメト二世に滅ぼされることになる。
アイユーブ家[#「アイユーブ家」はゴシック体]
セルジュク人の国の南隣りには、アイユーブ家の領土が、今のイラク、シリア、パレスティナからエジプトまで広がっていた。この王家はイスラム教徒のクルド人で、その開祖は、サラディン(サラーフ・ウッディーン)であり、一一八七年、十字軍を破ってイェルサレムを取り返したことで有名である。第一回十字軍がイェルサレムを占領してから、八十八年が経っていた。サラディンはその後、イングランド王リチャード(獅子心《しししん》王)と戦って講和し、一一九三年、シリアのダマスクスで死んだ。十字軍の王国には、パレスティナの海岸線しか残らなかった。そういうわけで、一二〇六年の当時、イスラム世界の西半分でもっとも強大な勢力は、アイユーブ家のスルターン(王)であった。
イラクのバグダードの町には、アッバース家のハリーファ(カリフ、イスラムの教皇)がほそぼそと生き残っていた。かつて西アジアから北アフリカ全域をおおう大アラブ帝国を支配した、昔の偉大なハリーファたちの面影はもはやなく、当時のハリーファ・ナーシルは、東のホラズム帝国と西のアイユーブ家にはさまれて、ほとんどバグダードの市内にしか、実力は及ばなかった。
ざっとこんなところが、一二〇六年のチンギス・ハーンの即位式の当時の、ユーラシア大陸の情勢だが、ついでに、そのころはまだ世界の片田舎だった、西ヨーロッパの様子も見ておこう。
西ヨーロッパ[#「西ヨーロッパ」はゴシック体]
十三世紀の初めの西ヨーロッパの情勢をひと口で説明すると、イタリアという国もなく、ドイツという国もなく、フランスという国もなく、英国という国もなく、スペインという国もなかった、ということになる。こういう、今日の我々になじみの国々は、みんなもっと後になって出来たものである。
シチリア島からイタリア半島の南部にかけては、ノルマン人のシチリア王国があった。その北のイタリア中部・北部(ヴェネツィアを除く)から、今のスイス、オーストリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス東部にかけての広大な地域には、ドイツ人のホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝が君臨していた。当時のローマ教皇インノケンティウス三世は、ホーエンシュタウフェン家に対抗して、ドイツ人のヴェルフェン家と手を結び、皇帝フィリップ・フォン・シュワーベンの帝位をなかなか承認しようとしなかった。ここから皇帝党(ギベリン党)と教皇党(グェルフ党)の対立が起こり、長い間ドイツ人とイタリア人の政治に影響するようになる。
神聖ローマ帝国の西隣りはフランク人の王国だが、領土は小さくて、今のフランスの東半分の、それも南はロワール河までしか及んでいなかった。今のフランスの西半分、北はノルマンディから、南はピレネー山脈と地中海に至るまでの広大な国土は、プランタジネット家のイングランド王の領地であった。当時のフランク王だったカペー家のフィリップ二世は、一二〇二年、当時のイングランド王ジョン(リチャード獅子心王の弟)から大陸側の領地を没収すると宣言し、戦争が続いていた。結局この後、フィリップ二世が戦争に勝って、ガスコーニュ以外の、大陸にあるイングランド王の領地をことごとく獲得し、ここで初めて、ほぼ今のフランスに相当する国土が統一されることになる。この国土を指すフランス(ラテン語の「フランキア」で、フランク人の国という意味)という国名も、このころから使われるようになる。
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一方、イングランド王ジョンのほうは、教皇インノケンティウス三世に破門されたりして弱りきって、とうとう一二一五年には貴族たちに強制されて「マグナ・カルタ」(大憲章)を承認し、その翌年に死ぬことになる。
このころのブリテン島では、少し前にイングランド王ヘンリー二世(リチャード王とジョン王の父)が、征服戦争を始めていたが、イングランドとスコットランドはまだ別々の王国であったし、ウェールズはまだイングランドに併合されていなかった。アイルランドでは、アイルランド人の抵抗が強くて、やっと海岸にイングランド人の足がかりが出来た程度であった。つまり、今の我々が考えるような英国(大ブリテン・北アイルランド連合王国)という国は、まだ存在していなかった。
最後に、イベリア半島には、北部にカスティリャ、アラゴン、ナヴァラ、ポルトガルの四つのキリスト教国があった。南部はイスラム教徒のベルベル人のムワッヒド家の領地で、この王家の都は、アフリカ側のモロッコのマラケシュにあった。
世界支配の天命[#「世界支配の天命」はゴシック体]
一二〇六年の春、モンゴル高原の片隅に遊牧民が集まって、チンギス・ハーンを自分たちの最高指導者に選挙したという事件は、こうした、東は太平洋から西は大西洋に及ぶ、ユーラシア大陸の国々には、ほとんど知られず、知ってもたいして関心を呼ぶようなことではなかった。しかし彼らこそ知らなかったが、この事件は、世界史のなかで最大の事件であった。つまりこの事件が、世界史の始まりだったのである。
実は、チンギス・ハーンの即位式に際して、彼の義兄弟の大シャマン、ココチュ・テブ・テンゲリの口を通して、次のような天の神の託宣《たくせん》が下っていた。
[#ここから1字下げ]
「永遠なる天の命令であるぞ。天上には、唯一の永遠なる天の神があり、地上には、唯一の君主なるチンギス・ハーンがある。これは汝《なんじ》らに伝える言葉である。我が命令を、地上のあらゆる地方のあらゆる人々に、馬の足が至り、舟が至り、使者が至り、手紙が至る限り、聞き知らせよ。我が命令を聞き知りながら従おうとしない者は、眼があっても見えなくなり、手があっても持てなくなり、足があっても歩けなくなるであろう。これは永遠なる天の命令である。」
[#ここで字下げ終わり]
この神託《しんたく》は、チンギス・ハーンを地上の全人類の唯一の君主として指名し、チンギス・ハーンの臣下とならない者は誰でも、天の命令に服従しない者として、破滅をもって罰するという趣旨である。この天命を受けて、チンギス・ハーンとその子孫に率いられたモンゴル人たちは、神聖なる使命を果たすべく、世界征服の戦争にこれから乗り出して行くことになる。それが、世界史の発端になったのであるが、どうしてそうなったかを語る前に、そもそも歴史とはどういうものかという、根本の問題について、少し話をしなくてはならない。
歴史は文化である[#「歴史は文化である」はゴシック体]
歴史とは何か。
普通、「歴史」と言うと、過去に起こった事柄の記録だと思いがちである。しかし、これは間違いで、歴史は単なる過去の記録ではない。
歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度《しやくど》で、把握《はあく》し、解釈し、理解し、説明し、叙述《じよじゆつ》する営《いとな》みのことである。
ここでは先ず、歴史は人間の住む世界にかかわるものだ、ということが大事である。人間のいないところには、歴史はありえない。「人類の発生以前の地球の歴史」とか、「銀河系が出来るまでの宇宙の歴史」とかいうのは、地球や宇宙を一人の人間になぞらえて、人間ならば歴史に当たるだろうというものを、比喩として「歴史」と呼んでいるだけで、こういうものは歴史ではない。
歴史が、時間と空間の両方にかかわるものだ、ということは、広い世界のあちらで、またこちらで、あるいは先に、あるいは後に、いろいろな出来事が起こっている、そうした出来事をまとめて、何かの順番をつけて語るのが歴史であるということであって、これには誰も異論はあるまい。
ただ、歴史が対象とする時間と空間が、どちらも一個人が直接体験できる範囲を超えた大きさのものであることは、きわめて大事なことである。全く一個人の体験の範囲内にとどまる叙述は、せいぜいが日記か体験談であって、とうてい歴史とは呼べない。自叙伝は一種の歴史と見なしてもいいが、それは自叙伝を書く当人が住んでいる、より大きな世界の歴史の一部分を切り取って来たものだからである。
歴史の対象になる世界は、一個人が到達出来る範囲をはるかに超えた大きなものである。その中のあちらこちらで同時に起こっている出来事を、一人が自分で経験することは不可能だし、自分が生まれる前に起こったことを経験するのは、なおさら不可能である。そういう出来事を知るためには、どうしても自分以外の他人の経験に頼らなければならないわけで、他人の話を聞いたり、他人の書いたものを読んだりすることが、世界を把握し、解釈し、理解する営みの第一歩になるのである。
ところで、時間と空間では、空間のほうがはるかに扱いやすい。自分の両手のとどく範囲を超える空間は、歩いて測ることが出来るし、遠い所でも何日かかければ、行って帰って来ることも出来る。つまり空間は自分の体で測れる。
ところが時間のほうは、そうはいかない。時間は、行って帰って来られるようなものではない。その上、時間は、感覚で直接とらえられるものではない。何か運動している物体を見て、その運動した距離に換算して、初めて「時間の長さ」を感じることが出来る。言い換えれば、我々人間には、時間を空間化して、空間の長さに置き換えるしか、時間を測る方法はない。
それではどうすれば時間の長さを測れるかというと、それには規則正しい周期運動をしている物体を見つけて、その周期を単位にして、時間を同じ「長さ」に区切るのである。夜が明けて日が昇って、昼になって、日が傾いて夕方になって、日が沈んでまた夜になるという、地球が自分の軸の周りを回る自転の周期が「一日」、闇夜に新月が出て、満ちはじめて半月になって、満月になって、また欠けはじめて半月になって、再び見えなくなるという、月が地球の周りを回る公転の周期が「一月」、冬が春になり、春が夏になり、夏が秋になり、秋がまた冬になるという、地球が太陽の周りを回る公転の周期が「一年」というように、自然が規則正しくもとの状態にもどる周期を使えば、その長さを単位にして時間を区切る、つまり測ることが出来る。
ところがこの年・月・日という時間の単位を使う上に、二つの大きな問題がある。一つは、「一日」という単位は分かりやすくて使いよいとしても、それが一月の中での、どの一日か、「一月」という単位にしても、一年の中での、どの一月か、という問題である。出来事の起こったのが後か先かを決める必要があれば、それぞれの月や日に名前をつけるか、または番号を振って、区別しなければならない。「寒かった月」とか「暑かった月」とか、「雨の降った日」とか「風の吹いた日」とか名前をつけるのは有効かも知れないが、それではすぐに同じ名前の月日が重なって、どの月の「雨の降った日」か、どの年の「寒かった月」か区別がつかなくなる。
もう一つの大きな問題は、人間の一生が、一年よりははるかに長いことである。これは困ったことで、一個人は、一生の間に、多数の年を経験することになるが、そうした年の一つ一つをどうやって区別するか。一年より長い周期で区切って、何年かをまとめるのも一案だが、一年を超える長さの規則正しい周期は、なかなか簡単には見つからない。約十二年で太陽の周《まわ》りを回る木星の公転《こうてん》の周期など、長い周期はあることはある。しかし「一日」、「一月」、「一年」は、地球の上の環境のはっきりとした変化の周期であって、誰にでも直接感じ取れるのに対して、木星の公転の周期には、そんな環境の変化が伴っていない。そういうわけで、黄道《こうどう》十二宮の星座の知識をもった占星術《せんせいじゆつ》者ならともかく、一般人にとっては、そんな十二年の周期は、簡単に認識できるような、便利なしろものではなく、実用には向いていない。それに十二年でも、個人の一生の長さに比べては短すぎる。これでも一生の間に同じ周期が何度も繰り返されて、区別がつきにくい難点は残ることになる。
そこで最終的な解決策は、年・月・日で区切った時間の一切れ一切れに番号を振って、数字によって過去の時間を保存し、未来の時間を管理することになる。これが暦《こよみ》の起源である。
ところで暦を作る上で、大きな問題は、どの年を第一年として年を数え始めるか、つまり紀元の問題である。スティーヴン・ホーキングという物理学者によると、時間というものは、空間といっしょに、約二百億年前に突然現れたもので、我々の宇宙はそれ以来どんどん膨張《ぼうちよう》を続けているが、やがて宇宙の膨張は止まり、収縮《しゆうしゆく》に転ずる。そしていつか、宇宙の収縮が極限に達した時、時間は、空間とともに、再び突然消滅する。
時間はそうした有限のもので、初めと終わりがあるのだけれども、宇宙の始まりから時間を数え始めるのは、数が大きくなり過ぎるから、あまり実用的ではない。もっとも、宇宙の始まりがごく最近のことだとすれば、話は別である。ユダヤ教やキリスト教では、『旧約聖書《きゆうやくせいしよ》』をもとにして天地創造《てんちそうぞう》の年代を計算した紀元《きげん》が何通りもあった。その一つは、前五五〇九年にヤハヴェ(エホバ)の神が天地を創造したとするもので、ロシアではツァーリ・ピョートル一世の時代の一七〇〇年一月一日まで使われた。
それはともかくとして、普通のやり方は、どれか一つの年を紀元|元年《がんねん》と決めておいて、そこからずっと通して数えるのである。ナザレのイエスの誕生の年を元年とするキリスト教紀元は、その一つである。要するに、紀元元年はどの年でもいいのである。とにかく、どこかから数え始めさえすればいい。あとはそこから順に番号を振って、年を区別し、月を区別し、日を区別するのである。
そういうわけで、自分の体さえ使えば測れる空間とは違って、時間を空間化し、眼で見えるようにして測るのには、かなり高度の技術が要る。だから、技術の発達の度合によって、時間の感じ方には大きな差が出て来る。去年のことでも、三年前のことでも、十年前のことでも、百年前のことでも、ただ「昔」と言うだけで区別しない人たちもあれば、今日の午前に起こった事件と、そのすぐ後の午後に起こった事件の時間の差を問題にして、はっきり区別する人たちもある。こうした時間の「細かさ」と「奥行き」の感覚は、人間の集団ごとに、文化ごとに、非常に違う。時間そのものは物理的なものであるが、時間に対する人間の態度は文化なのである。そして、時間と空間の両方を対象にする歴史も、自然界に初めから存在するものではなくて、やはり文化の領分に属するものである。歴史は文化であり、人間の集団によって文化は違うから、集団ごとに、それぞれ「これが歴史だ」というものがあって、ほかの集団が「これが歴史だ」と主張するものとはずいぶん違う。そう簡単に、世界の人類に共通な歴史、つまり世界史が可能になるはずはない。
時間の感覚と同じように、やはり歴史と密接な関係がある文化要素は、記録である。自分の眼に世界がどう見えたかを書き留めておいて、その状態が消え失せる未来の時間において、記憶を呼び起こす手がかりにしようという精神は、これも高度に文化的であって、自然に育って、自然に同化して暮らしている人間が、ちょっとやそっとで記録を残そうなどと考えつくはずはない。また記録を残すのには、時間を測《はか》るのに負けず劣らずの高度な技術が要る。文字を創り出し、習い覚え、使いこなすのはもちろん文化だが、文字がないところでも、木に刻《きざ》み目をいれたり、縄《なわ》に結び目をつけたりして、数の心覚えにするのは、やはり記録の文化である。西アフリカのブルキナファソのモシ族には文字がないが、王家の由来を語り伝えることを代々|世襲《せしゆう》の職業とする人々がいて、宮廷の儀式の場で、歴代の王の事蹟を一言一句変えることなく朗誦《ろうしよう》する。これも記録を残そうという意志の表れであり、やはり一つの文化である。ただし口頭伝承だけでは歴史は成立しない。暦と文字の両方があって、初めて歴史という文化が可能になる。
歴史のない文明――インド文明[#「歴史のない文明――インド文明」はゴシック体]
歴史は文化である。そしてこの歴史という文化は、世界中のどの文明にもあるものではない。世界の多くの文明の中には、歴史という文化要素を持った文明と、持たない文明がある。実を言うと、歴史のある文明よりも、歴史のない文明の方が、はるかに数が多い。
世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の二つだけである。
もともと歴史というもののない文明の代表は、インド文明である。インド亜大陸には、非常に古い時代から都市文明が栄え、立派な暦があり、文字があった。それにもかかわらず、長い長い間、インド文明には歴史という文化がなかった。
北インドの平原には、前三千年紀から前二千年紀にかけて、すでにモヘーンジョ・ダロやハラッパーなどの都市を作ったインダス文明があり、まだ解読はされていないが文字もあって、印章《いんしよう》に刻まれていた。この文明を創った人たちが誰だったのか、後世には何も伝わらなかったので、インダス文明の時代は、歴史以前の時代であるとしか言えない。
前二千年紀になって、アーリヤ人たちが北方から侵入して来て、北インドの平原のあちらこちらに新しい都市を建てた。そうした都市にはラージャ(族長、「王」と訳される)が居て戦士たちを従え、商人が商売をし、文字があって「ヴェーダ」などの宗教文献が残っているが、それでもそうした北インドの都市国家では、歴史らしい歴史が書かれることはなかった。前六世紀になって、マガダ国のビンビサーラ王がガンジス河の中流域に覇権《はけん》を打ち立てて、この王国は前四世紀まで強力だったが、その王たちの事蹟《じせき》は、ちょうどその時代に興《おこ》ったインドの二大宗教、仏教とジャイナ教の経典《きようてん》に散見するだけで、この王国のまとまった歴史は書かれなかった。
マガダ王国と同時代に、西北インドのパンジャーブ地方は、アカイメネース朝ペルシア帝国の属州(サトラペイア)になっていた。そこへ前三二七年、マケドニア王アレクサンドロスが軍を率いて侵入した。アレクサンドロスの軍は間もなく立ち去ったが、この侵入で、北インドの平原と地中海を直接つなぐ交通路が開けたことに刺激を受けたらしく、その直後に、北インド全体を統合する大帝国、マウリヤ帝国が出現している。この時をもって、初めてインドと呼べる国家が出現し、インド文明が始まったと考えてよい。
マウリヤ帝国の初代のチャンドラグプタ王と二代目のビンドゥサーラ王は、同時代のギリシア人の記録に名前が残っているので、このころの人たちだとわかる。三代目のアショーカ王は、帝国の各地に石柱を立てて銘文を刻み、その地方に関係のある自分の事蹟を記録している。これは記録には違いないが、年代記ではなく、まして歴史ではない。この帝国の政治と経済を論じた『アルタシャーストラ』(実利論)という書物が残っており、チャンドラグプタ王の最高|顧問《こもん》カウティリヤの著作と伝えられるが、これも歴史を扱った書物ではない。
前二世紀にマウリヤ帝国が解体したあと、北インドには多数の小さな王国が分立して、なおさら歴史を書くような環境ではなかった。この状態は、おおざっぱに言って、それから約千年後、九九七年からアフガニスタンのイスラム教徒の北インド侵入が始まり、一二〇六年のチンギス・ハーンの即位と同時に、イスラム教徒のトルコ人がデリーに奴隷王朝を建てるまで続いた。この王朝の時代から、インド亜大陸で初めて年代記が書かれるようになった。言い換えれば、歴史のあるイスラム文明が、インドに歴史を持ち込んだのであって、インド文明そのものは、ついに歴史を持たなかったわけである。
インド文明には都市があり、王権があり、文字があったのだから、歴史も成立してよさそうなものである。それなのに、歴史という文化がインドについに生まれなかったのはなぜか。この謎を解く鍵は、インド人の宗教にある。
イスラム教が入って来る前からのインドの宗教では、仏教でも、ジャイナ教でも、ヒンドゥ教でも、輪廻《りんね》(サンサーラ)の思想が特徴である。六道《りくどう》の衆生《しゆじよう》(天、人、阿修羅《あしゆら》、畜生《ちくしよう》、餓鬼《がき》、地獄の六種類の生物)は、それぞれの寿命が終わると、生前に積んだ業《ごう》(カルマ)の力によって、あるいは上等、あるいは下等の生物の形を取って生まれ変わり、一生を再び最初から最後まで経験する。この過程は、繰り返し繰り返し、永遠に続くのである。この考え方で行くと、本来ならば歴史の対象になる人間界の出来事は、人間界の中だけで原因と結果が完結するのではなくて、神や、鬼や、幽霊や、ほかの動物や、死者たちの、人間には知り得ない世界での出来事と関連して起こることになる。これでは歴史のまとまりようがない。その上、この考え方では、時間の一貫した流れの全体は問題にならなくて、そのどの部分もそれぞれ独立の、ばらばらの小さなサイクルになってしまう。つまり、初めも終わりも、前も後もないことになって、ますます歴史など、成立するはずがない。
もう一つ、インド文明に歴史がない原因として考えられるのは、カースト制度の存在である。カースト制度の社会の生活の実感では、自分と違うカーストに属する人間は、同じ人類ではなく、異種類の生物である。しかもそのカーストは際限なく細分化して、ほとんど無数にあるものなので、カーストの壁を越えた人間の大きな集団を扱うのが性質の歴史は、こういう社会ではまとまるはずがない。カーストを認めないイスラム教が入って来て、初めてインドで歴史が可能になったのは、その証拠である。
歴史のない文明――マヤ文明[#「歴史のない文明――マヤ文明」はゴシック体]
さて、歴史のない文明は、インド文明だけではない。アメリカ大陸の二つの大文明、メソアメリカのマヤ文明と、南アメリカのアンデス文明は、どちらも歴史のない文明である。
インカ帝国を産み出したアンデス文明には、偉大な都市も、強大な王権もあったが、文字もなく、暦もなかった。もちろん歴史もなかった。これに反して、マヤ文明の都市には、三世紀から、約八百字ほどから成る、よく発達した文字の体系があった。マヤ文明には、また、精密な暦があって、前三一一四年八月十一日を時間の起点として、そこから十四万四千日(三百九十四年余り)を一つの周期として、数千年の長い期間にわたる日付を正確に表すことが出来た。これとは別に、十三日の周期と二十日の周期を組み合わせた、二百六十日の暦と、二十日の周期が十八個に、余分の五日を付けた三百六十五日の暦があって、この二つを組み合わせた一万八千九百八十日(五十二年足らず)が、もう一つの周期であった。この中のどの周期も、月の公転の周期(一月)とも、地球の公転の周期(一年)とも関係がないのが面白い。
この精密な暦によった日付は、二九二年の碑文から、九〇九年の碑文まで残っていて、こういう碑文には、マヤの王たちの治世の出来事を刻んである。だから当時のマヤ人たちに、出来事の記録を残そうという意志があったことは疑いない。碑文が刻まれなくなったあと、十三世紀からは、いちじくの木から作った紙に書いたマヤの絵文書が残っている。しかし、こうした絵文書の内容は、宗教の儀式に関することで、記録でも歴史でもない。マヤ人たち自身には、記録をまとめて歴史を創り出そうという文化はなかった。
そのうちにスペイン人が大西洋の彼方から渡って来て、一五〇二年にマヤ人たちに初めて出会う。その後になって、マヤ人たちがアルファベットを使って綴った年代記が多く現れるが、そうしたものの記述には、現実の事件と、予言が入り混じって、見分けがつかない。グアテマラで書かれた『ポポル・ヴフ』も、人間の世界が始まる前の神々の物語である。こうしたものが出来たのは、スペイン人の歴史のある文明に触れて、もともと歴史のない文明を持っていたマヤ人の中に「歴史への意志」が目覚めたからであろう。
対抗文明の歴史文化[#「対抗文明の歴史文化」はゴシック体]
歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。
たとえば日本文明には、六六八年(天智天皇即位)の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである(二五三頁参照)。
またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソンツェンガンポの治世の六三五年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀《へんねんき》』が残っており、立派に歴史がある。これはチベットが、唐《とう》帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のある中国文明だったからである。
イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかしい。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知れない意志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬《ふけい》の企《くわだ》てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。
それにもかかわらず、イスラム文明には、六世紀にムハンマド(マホメット)がメッカで天啓を受けて教えを説き始めた直後から、立派に歴史がある。この理由の一つは、信者の生活上の必要である。『コーラン』は、ムハンマドが受けた啓示を、アッラーの言葉通りに記録した書物ではあるが、信者が求める指針がすべて『コーラン』の中に記されているわけではない。『コーラン』に書いてない事柄について、ムハンマドの在世中に、信者のだれかれが、いろいろな事情で、ムハンマドの判断を求め、それぞれにムハンマドがこう答えた、ああ答えたという伝承が口頭で多量に伝わっており、それを後に集成した「ハディース」という一群の文献があるが、一つ一つの伝承は、これはかくかくしかじかの信仰の篤《あつ》い品行の正しい信者がムハンマドから聞いたもので、それをかくかくしかじかの立派な信者に伝え、その信者はまた何何という立派な信者に伝え、というふうに、伝わった経路と伝えた人々の名前を明記して、だから信用の出来る伝承であると保証している。そしてこうした「ハディース」の伝承に名前が出て来る人々についても、彼らの伝記を集めた書物も出来た。これがイスラム文明に早くから歴史があった理由の一つである。
しかし、もっと大きな理由は、イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。地中海文明の宗教の一つであるユダヤ教は、ムハンマドの生まれた六世紀の時代のアラビア半島にも広がっていた。ムハンマド自身もその影響を受けて、最初はユダヤ教の聖地であるイェルサレムの神殿址に向かって毎日の礼拝を行っていた。
もともとユダヤ教徒の経典である『旧約聖書』には、年代記の性質を持った部分が多く、ヤハヴェの神とイスラエル人との間の契約関係によってイスラエル人の運命を説明する、特異な歴史観が表現されている。こうした歴史文化が成立したのは、前七世紀の末の、イェルサレムのユダ王国でのことであったらしい。この時代は、アッシリア帝国の末期で、ユダ王国は間もなく新興の新バビロニア帝国に滅ぼされてしまう。これからイスラエル人の「バビロニア捕囚《ほしゆう》」の苦難が始まるのである。
しかしイスラム教の歴史文化の源泉は、もっと直接には、ローマ帝国である。ローマ帝国の地中海文明には、二つの歴史文化が存在していた。一つは前五世紀のヘーロドトスに始まるギリシア系の歴史文化で、もう一つはキリスト教を通してローマ帝国に入った、ユダヤ系の歴史文化である。キリスト教は、もともとユダヤ教の一派だったので、ユダヤ教の歴史観はキリスト教にもそのまま入っている。そしてそのキリスト教は、四世紀にローマ帝国の国教になっていた。ムハンマドの生まれるより一世紀半も前のことであった。
歴史のある文明と、歴史のない文明が対立するとき、常に歴史のある文明の方が有利である。一つの理由は、紛争が起これば、歴史のある文明は、「この問題には、これこれしかじかの由来があるので、その経緯から言えば、自分の方が正当である」と主張できる。歴史のない文明には、そうした主張に反論する有効な方法がない。
もう一つの理由は、歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きているので、常に物事の筋道というものを考える。物事に筋道があるとすれば、過去を自分のものにすることによって、現在がよりよくわかり、さらに未来の予測も可能になるはずである。実際には間違ったシナリオを立てているかも知れないが、それでも未来に対して、何とか備えることは出来るのである。
ところが、歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。過去と現在、現在と未来の関連があいまいなので、予測の立てようがない。脈絡なく起こる次々の出来事に対して、出たとこ勝負の対応しか出来ない。方針を前もって決められず、常に後手後手に回る結果になる。
軍事力がよほど強大で、どんな場合でも相手を圧倒出来るのでない限り、歴史のない文明は、常に不利である。そうしたわけで、本来は歴史がなくてもいいはずのイスラム文明も、地中海世界でローマ帝国と対抗する必要上、歴史という文化要素を採用したのである。
歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する歴史のない文明は、なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようとするのである。そういう理由で、歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと「伝染」していったのである。
それでも、もともと歴史のなかった文明は、歴史文化を採用しても、その歴史は力の弱いものになる。第一次世界大戦後の二十世紀の世界の情勢は、帝国主義と民族主義の対立、資本主義と社会主義の対立、民主主義と全体主義の対立が絡みあっていたと、よく言われる。しかしこのうちのどれ一つ、本質的な対立ではない。現代の世界での本当の対立は、歴史のある文明と、歴史のない文明の対立である。
日本と西ヨーロッパは、歴史のある文明である。これに対して、アメリカ合衆国は、十八世紀の当初から、歴史を切り捨てて、民主主義のイデオロギーに基づいて建国した国家である。現在は解体したソ連が、マルクス主義のイデオロギーに基づいて建国した国家であったことは言うまでもない。ソ連の前身のロシア帝国は、本来モンゴル文明の一部でありながら、その歴史を否認して、地中海文明の歴史を借りて来て接ぎ木しようとして、結局うまく行かなかった国家であった。それをロシア革命で歴史を切り捨てて、イデオロギーに置き換えた国家がソ連であったのである。
現代の世界の対立の構図は、歴史で武装した日本と西ヨーロッパに対して、歴史のないアメリカ合衆国が、強大な軍事力で対抗しているというのが、本当のところである。
そういうわけだから、歴史のある文明に属する我々が、現在の世界を把握し、未来の世界を予測するためには、歴史という文化の本質をしっかり理解しておく必要がある。
ところが、ここで大きな問題は、地中海文明の歴史文化と、中国文明の歴史文化とが、全く性質が違って、混ぜても混ざらない、水と油のようなものであることである。そのために、地中海型の歴史(西洋史)と、中国型の歴史(東洋史)とを取り合わせて見ても、単一の世界史を作ることは不可能になる。どうしてそんなことになるのか、これから説明しよう。
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第2章[#「第2章」はゴシック体] 対決の歴史
――地中海文明の歴史文化
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歴史の父ヘーロドトス[#「歴史の父ヘーロドトス」はゴシック体]
地中海文明の「歴史の父」は、前五世紀のギリシア人、ヘーロドトスである。ヘーロドトスは、アナトリアのエーゲ海岸の町ハリカルナッソス(現在のトルコ共和国のボドルム)の出身で、その著書『ヒストリアイ』は、ペルシア戦争の物語である。
「ヒストリア」(単数形、「ヒストリアイ」は複数形)というギリシア語は、英語の「ヒストリー」、フランス語の「イストワール」の語源だが、もともとは「歴史」という意味ではない。ギリシア語の「ヒストール」は「知っている」という意味の形容詞、「ヒストレイン」は、「調べて知る」という意味の動詞である。それから出来た名詞が「ヒストリア」で、本当は「研究」という意味である。ヘーロドトスは、自分が調べて知ったことについて語る、という意味で、著書に『研究』という題をつけたのだったが、これが地中海世界で最初の歴史の書物だったために、「ヒストリア」という言葉に「歴史」という意味が付いてしまったのである。このことは、ヘーロドトス以前には、歴史の観念が、まだ存在しなかったことを示している。
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ヘーロドトスは、ペルシア戦争の物語を、次のように、古い古い大昔から書き始めている。
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「ペルシア側の学者の説では、争いの因《もと》を成したのはフェニキア人であったという。それによれば、フェニキア人はいわゆる「紅海」(ペルシア湾)からこちらの海(地中海)に移ってきて、現在も彼らの住んでいる場所に定住するや、たちまち遠洋航海に乗り出し、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回ったが、アルゴスへも来たという。当時このアルゴスは、今日ヘラス(ギリシア)と呼ばれている地域にある国々の中では、あらゆる点で最も強大な国であった。さてフェニキア人はそのアルゴスへ着くと、積荷を売りさばいたが、到着後五、六日目、商品も大方売り尽くした頃、女たちが大勢海岸へやってきて、その中には王の娘も混じっていた。王女の名は、ギリシアの所伝《しよでん》と同じく、イナコスの娘イオであったという。女たちは船尾のあたりに立って、それぞれ一番欲しいと思う品を買っていたが、このときフェニキア人は互いにしめし合わすと女たちに襲いかかった。たいていの者は逃れたが、イオは他の幾人かの女たちとともに捕らえられた。フェニキア人は女たちを船に乗せるとエジプト指して出帆《しゆつぱん》していった、という。」
「これが最初のきっかけとなって、数々の暴挙《ぼうきよ》が行われることになったのであるという。つまり、このことがあって後、名前は伝わらないが、なにがしかのギリシア人が、フェニキアのテュロス(レバノン海岸のスール)へ侵入し、王のむすめエウロペを掠め去ったというのである。このギリシア人というのは、クレタ人であったかと思われるが、それはともかく、これでお互いさまということであったのに、その後こんどはギリシア人が第二の悪事を犯すことになったという。」
「すなわち彼らは軍船に乗ってコルキス地方(コーカサス)のアイアに至り、パシス河(グルジアのリオニ河)に達して、目指す目的を果たした後、王女メデイアをその地から奪い去った。コルキスの王はギリシアへ使者を遣わして王女|掠奪《りやくだつ》の補償《ほしよう》を求めるとともに、娘の返還を要求した。ところがギリシア側では、先方もアルゴスの王女イオ掠奪の補償を当方にしなかったのであるから、当方でも補償はしない、と返答したという。」
「その後、次の世代に入ってから、プリアモスの子アレクサンドロス(パリス)が、右の話を聞き知って、ギリシア人が補償しなかったのだから、自分もせずに済むだろうと考えたからに相違ないが、ギリシアから自分の妻たるべき女を掠奪して来ようと思いたったのだと、ペルシア人は伝えている。こうしてアレクサンドロスがヘレネを奪い去った後、ギリシア側は先ず使者を送り、ヘレネの返還を求め、掠奪に対する賠償《ばいしよう》を請求することにした。しかしギリシア側の申し出に対して、アレクサンドロス側ではメデイア掠奪の先例を盾にして、ギリシア側が自分では補償も払わず、返還要求にも応じないでいながら、他からは補償を得ようとしている、となじったという。ここまでは、お互いに掠奪をしたというに過ぎなかったのだが、これ以後はギリシア人の側に大いに罪があることとなったのだという。というのは自分ら(アジア人)がヨーロッパへ進攻するに先立って、ギリシア人がアジアへ軍を進めたからである。」
「ペルシア人の言い分では、アジア側は掠奪された女のことなどは問題にもしなかったのに、ギリシア人の方はスパルタ女の為に大軍を集め、アジアに進攻してプリアモスの国(トロイア)を滅ぼしてしまった。それ以来ギリシアを自分らの敵であると考えているのだ、と。それというのも、ペルシア人はアジアとアジアに住む非ギリシア諸民族を自分に所属するものと見なしており、ヨーロッパとギリシアとは、それとは別個のものと考えているからである。」
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ここでヘーロドトスの語るペルシア戦争の由来は、「ペルシア側の学者の説」ということにしてあるが、これはもちろんヘーロドトス自身の考え出したこと、すなわち「研究」なのである。ただし自分の説だと言ったのでは、読者が信用しないと思って、これは「ペルシア側の学者の説」だと、わざわざ断わったのである。
それはともかく、ヘーロドトスは、自分の知っている世界を、アジアとヨーロッパの二つに分ける。そうしてギリシア神話から、アジアとヨーロッパの間に起こったこととされている話を四つ集めて、そうした事件が引き起こした怨恨《えんこん》がアジアとヨーロッパの間に積もり積もって、とうとうペルシア戦争の原因になったと説いているのである。
歪曲《わいきよく》された神話[#「歪曲《わいきよく》された神話」はゴシック体]
ところでヘーロドトスは、ギリシア神話をずいぶん強引に歪曲して引用している。
最初のイオーの誘拐の話は、普通の神話ではこうなっている。ここで王になっているイーナコスは、本当はギリシアのアルゴス地方の河の神で、その娘のイオーは、女神ヘーラーの巫女《みこ》であった。ヘーラーの夫である天空の神ゼウスが、美しいイオーを愛して、彼女を牝牛に変えた。嫉妬深いヘーラーは、百眼の怪人アルゴスをしてイオーを監視させた。ゼウスはヘルメース神に命じてアルゴスを殺させた。怒ったヘーラーは、虻《あぶ》を送ってイオーを苦しめた。虻に追い立てられて、イオーは地上をあまねくさすらい歩いた後、エジプトに至り、そこで人間の姿にもどって、エパポスという息子を産んだ。イオーはエジプトの女神イーシスとなり、エパポスは牡牛の神アーピスとなった。エパポスはヘーラーにさらわれてビュブロス(レバノン海岸のジュベイル)に行き、イオーはこれを追って行って同地で再会し、フェニキアの女神アスタルテーとなった。
この神話は、ギリシアのアルゴスと、エジプトと、フェニキアの三つの地方に関係していて、古い時代の地中海貿易を反映していることは確かであるが、登場人物はすべて神々である。これを人間界の話にして、フェニキア人のしわざに変えてしまったのは、神話を史実に置き換えたがる、ヘーロドトスのさかしらに相違ない。
二つ目の話も、もともとは全くの神話である。フェニキアのテュロスの王女エウローペーを誘拐《ゆうかい》したという、クレータ島のギリシア人は、前の神話と同じく、これも実はゼウス神である。普通の神話では、エウローペーはポイニークス(「フェニキア人」という意味の名前)の娘(後の伝承では、フェニキア王アゲーノールの娘)だった。ゼウスが美しいエウローペーを愛して、白い牡牛《おうし》に姿を変えて近づき、エウローペーを自分の背に乗せて、海を渡ってクレータ島に連れて行った。エウローペーはクレータ島で、クレータの王ミーノースらを産んだ。ミーノースは死後、死者の国の王となった、ということになっている。
ゼウスは、ギリシア人がギリシアに入って来る前から持っていた天空の神だが、クレータ島のゼウスはこれとは違い、ギリシア人が来る前から信仰されていた、エーゲ文明の神である。「エウローペー」というのも、人間の名前ではない。これはギリシア語で「幅広い眼をした女神」を意味し、ヘーラーを呼ぶ「ボオーピス」(「牛の眼をした女神」)と同じ意味である。エウローペーは、クレータ島で信仰された女神であった。フェニキア人がクレータ島と海上貿易を営んでいたことは確かだが、ヘーロドトスは、この話でも、神のしわざを強引に人間界の出来事に変えてしまい、フェニキア人とクレータ島のギリシア人の間に起こった事件としているのである。
三つ目の話の王女メーデイアーは、エウリーピデースの悲劇の女主人公として有名だが、もともとはギリシアのテッサリア地方で信仰された、魔法を司《つかさど》る女神であった。それが、黄金の羊の毛皮を求める「アルゴナウタイ」(アルゴー号の乗組員たち)の冒険の伝説に取り込まれたのである。
テッサリアのイオールコスの王子イアーソーンは、父の王位を叔父に奪われて、叔父の命令で、黒海の彼方のコルキス(コーカサス)のアイアにある、黄金の羊の毛皮を取りに行くことになった。この毛皮には空を飛ぶ魔法の力があり、アイアの軍神アレースの聖なる森に懸《か》けてあって、昼も夜も竜に守られていた。この冒険のために、ギリシアの最初の軍船アルゴー号が建造され、五十人の勇士が乗り組んだ。多くの国々での冒険の後、船はコルキスに着いた。コルキス王は、黄金の羊の毛皮を引き渡す条件として、火の息を噴《ふ》き青銅の蹄《ひづめ》をした牡牛をくびきにつけて畑を耕し、竜の爪を播《ま》くという危険な仕事をイアーソーンに課した。イアーソーンは、彼に恋した王女メーデイアーの助けで、これをやり遂げ、竜の爪から生まれた戦士たちを同士討ちさせて、無事に済んだ。メーデイアーが魔法で竜を眠らせた間に、イアーソーンは毛皮を手に入れ、メーデイアーとともにアルゴー号で逃げだした。コルキス王の追手も、メーデイアーが自分の幼い弟を切り刻んで海上に撒《ま》いたおかげで、振り切ることが出来た。イオールコスに帰った後、イアーソーンはメーデイアーの愛を裏切って、新しい妻をめとったので、怒ったメーデイアーは、自分の産んだ子どもたちと新妻とを殺し、コルキスに帰った。
この伝説には、ギリシア人の黒海貿易の反映はあるが、フェニキア人は出てこない。
ヘーロドトスが引用する四番目の話は、言うまでもなく、ホメーロスの叙事詩『イーリアス』で有名な、トロイア戦争の伝説である。
テッサリア王ペーレウスと海の女神テティスの結婚式に神々が招かれた時、不和の女神エリスだけは招かれなかった。エリスはこれを恨《うら》んで、黄金の林檎《りんご》に「最も美しいものに」と書きつけて、婚礼の席上に投げ込んだ。ヘーラーとアテーナーとアプロディーテーの三女神が、それぞれ、自分が黄金の林檎を得るのにもっともふさわしいと言って争った。神々の王ゼウスは困って、判定をパリス・アレクサンドロスに委《ゆだ》ねた。パリスは、ダーダネルズ海峡のアナトリア側のトロイアの町(一名イーリオス)の王子で、この時、イーダ山で羊の番をしていた。最も美しい女神という判定の報酬《ほうしゆう》として、ヘーラーは王権を、アテーナーは武勇をパリスに授《さず》けると約束したが、パリスはいずれをも選ばず、世界で最も美しい女の愛を授けると約束したアプロディーテーに、黄金の林檎を与えた。これでパリスは、ヘーラーとアテーナーの怒りを買った。パリスは、アプロディーテーの助けで、アカイア(ギリシア)のスパルタの美しい王妃ヘレネーと道ならぬ恋に落ちて、二人でトロイアに逃げた。トロイア人たちがヘレネーの送還を拒んだので、ヘレネーの夫のスパルタ王メネラーオスは、全アカイアの町々に援軍の派遣を呼びかけて、トロイア討伐の大艦隊を組織した。アカイア軍は、メネラーオスの兄のミュケーナイ王アガメムノーンの指揮のもとにトロイアを攻めた。神々がそれぞれ両軍に加勢して、包囲は十年続いたが、トロイアは落城しなかった。アカイア軍は包囲を解《と》いて引き揚げる振りをして、巨大な木馬を後に残した。トロイア人が城門を壊《こわ》して木馬を城内に引き入れた夜、木馬の内に隠れていたアカイア人たちが躍り出て攻めかかり、トロイア城は落ちて、トロイア人は皆殺しになった。
このトロイア戦争の伝説は、前十三世紀から前十二世紀にかけて、アカイア人と呼ばれた海の民が東地中海で活躍した時代の情勢を反映しているので、その核になる事実があったのかも知れない。しかしヘーロドトスがその前に並べた三つの話は、このトロイア戦争の話とは性質が違って、最初の二つは純然たる神話であり、三つ目は魔法が主題のおとぎ話である。
それに話の舞台になる場所も、それぞれ違う。一つ目ではアルゴスとフェニキアであり、二つ目ではクレータ島とフェニキアであり、三つ目ではイオールコスとコルキスであり、四つ目ではスパルタとトロイアである。フェニキア人がアルゴスの王女を奪い去ったから、イオールコス人がコルキスの王女を返さないというのは、つじつまが合わない。
ギリシア側を一まとめにするのはまだいいとしても、相手側のフェニキア(レバノン)とコルキス(コーカサス)とトロイア(アナトリア)が一つにまとまったのは、前六世紀にアカイメネース朝ペルシア帝国がこれらの地方を支配するようになってからであり、それよりもはるか前に、こうした神話や伝説は出来ている。
ヘーロドトスも、この説明の無理は自覚している。「アジアとアジアに住む非ギリシア諸民族」を一まとめにして、「ヨーロッパとギリシアとは、それとは別個のものと考えている」のは、「ペルシア人の言い分」だと言うが、これは、実は自分の「言い分」であることを隠すためである。
対決の歴史観[#「対決の歴史観」はゴシック体]
この『ヒストリアイ』の書き出しでヘーロドトスが、ペルシア人の学者の説にかこつけて打ち出している見方は、世界はヨーロッパとアジアの二つにはっきり分かれ、ヨーロッパはアジアと、大昔から対立、抗争して来たものだ、という主張である。この見方が地中海世界の最初の歴史書の基調であったために、ヨーロッパとアジアの敵対関係が歴史だ、という歴史観が、地中海文明の歴史文化そのものになってしまった。
この敵対の歴史観は、西ヨーロッパの古代、中世、近代を貫いて、現在の国際関係の基調であり続けているが、あまりにそれが普及し過ぎたために、かえって西ヨーロッパ人も、我々日本人も、その他の国民も、そういう歴史観が地球上をおおっている事実にさえ気が付かずに暮らしている。しかしこのヘーロドトスの歴史観と、それが創り出した地中海文明の歴史文化は、これまでに世界中で多くの不幸な事件を引き起こして来たし、これからも多くの悲劇の原因になり続けるだろう。
ところでヘーロドトスの『ヒストリアイ』(研究)は、ギリシア人がギリシア語で書いた最初の歴史なのに、ギリシア人の歴史など、どこにも書いてない。書いてあるのは、ペルシア帝国の歴史だけである。先ず最初にリューディア王国(アナトリア、前七世紀〜前五四六年)の物語があり、次にメーディア王国(イラン北部、前八世紀〜前五五〇年)の物語がある。この二つの王国は、次に現れたペルシアの初代のキューロス王に統合されるので、この部分はペルシア帝国の興隆《こうりゆう》(前五五〇年)の前置きである。
それからはキューロス王の征服戦争の物語で、アナトリアの海岸のギリシア人の町々の征服、バビュローンの征服の後、マッサゲタイ人(中央アジアの遊牧民)への遠征でキューロス王が戦死する(前五二九年)。第二代のカンビューセース王はエジプトを征服する(前五二五年)。ここでエジプトの歴史が叙述される。カンビューセース王が死んで、第三代のダーレイオス王が即位し、国内の政治を整えた後、スキュティア(北コーカサス、ウクライナ)に遠征する。ここでヘーロドトスは、この地方の事情を詳しく説いている。次にペルシア軍のリビュア(アフリカ)遠征に関連して、この地方の事情を語った後、ヘーロドトスはいよいよ『ヒストリアイ』の本題に入る。
すなわち、ペルシア軍がギリシアの北隣りのトラーキアとマケドニアの両地方を攻略《こうりやく》し、いよいよギリシア本土に危険が迫ったので、ギリシア人の町々は連合してペルシアにそむく。そこでペルシアの第四代のクセルクセース王は、帝国の全土の全民族から召集《しようしゆう》した百七十万の大軍を自ら率いて、前四八〇年、ギリシア遠征に出発した。ヘッレースポントス(ダーダネルズ)海峡には、三百六十隻の船と、三百十四隻の船をそれぞれ連ねた二つの船橋をかけ、ペルシアの大軍はそれを渡ってヨーロッパに入ることになった。
ヘーロドトスは語る。
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「軍勢がアビュドス(アナトリア側)に着くと、クセルクセスは全軍の閲兵《えつぺい》をしようという気を起こした。小高い丘の上に、かねて王の命をうけていたアビュドス人の手によって白大理石の展望台がわざわざ王のためにしつらえてあったので、王がここに坐って海浜を見下ろすと、陸上部隊と艦隊を一望におさめることができた。この光景を眺めている内に、王は突然、船の漕《こ》ぎ競《くら》べをさせてみたくなった。漕ぎ競べが行われて、フェニキアのシドン人の船が優勝したが、王はこの競技と全軍の威容《いよう》を眺めて満悦であった。」
「クセルクセスは、ヘレスポントスの海面が艦船によって蔽《おお》い尽くされ、海岸という海岸、アビュドスの平地のことごとくが軍兵に充ち満ちている様を眺め、わが身の仕合わせを自ら祝福したのであったが、やがて落涙《らくるい》した。」
傍らの者に落涙の理由を問われて、王は言った。
「これだけの数の人間がおるのに、誰一人として百歳の齢《よわい》まで生き永らえることができぬと思うと、おしなべて人の命はなんとはかないものかと、わしはつくづくと哀れを催してきたのじゃ。」
「クセルクセスはヨーロッパに渡ると、軍勢が鞭《むち》打たれながら海を渡る有様を眺めていた。遠征軍は寸時も休まず七日七晩にわたって海を越えた。クセルクセスがヘレスポントスを渡り終えた時、ヘレスポントスに住む住民の一人がこう言ったという。『ゼウスよ、ギリシアを滅ぼすのがお望みならば、何故《なにゆえ》にペルシア人の姿をとり、名もゼウスに替えてクセルクセスと名乗り、しかも世界中の人間を随《したが》えてまでそれをなされますのか。あなたならばそのような手間をおとりにならずとも、お望みどおりになされますものを。』」
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ペルシア軍はギリシア本土に侵入し、テルモピュライの戦いで、スパルタ王レオーニダースの指揮するギリシア人の同盟軍を破って、アテーナイの町を占領した。ギリシア人の運命も窮《きわ》まったかと見えた時、サラーミスの海戦でペルシア艦隊は敗れて、クセルクセース王は大急ぎでアジアに引き揚げる。このペルシア帝国に対するギリシア人の勝利をもって、ヘーロドトスの『ヒストリアイ』(研究)の叙述は終わる。
この筋書きだけからでも分かる通り、ヘーロドトスの『研究』の対象はギリシア人の世界ではなくて、もっぱらアジアとアフリカをおおうペルシア帝国である。彼が叙述したかったのは、ほとんど全世界を支配する強大なペルシアに対して、統一国家ですらない弱小のギリシア人たちが、絶望かと見えた最後の瞬間に、いかにして奇跡の勝利を収めたか、ということだったのである。
ヘーロドトスの著書が、地中海文明が産み出した最初の歴史であったために、アジアとヨーロッパの対立こそが歴史の主題であり、アジアに対するヨーロッパの勝利が歴史の宿命である、という歴史観が、不幸なことに確立してしまった。この見方が、現在に至るまで、ずっとアジアに対する地中海世界、西ヨーロッパの人々の態度を規定して来ているのである。
『旧約聖書』の歴史観[#「『旧約聖書』の歴史観」はゴシック体]
ヘーロドトスとは別に、もう一つ、地中海世界の人々の歴史観に深刻な影響を残したものに、『旧約聖書』がある。『旧約聖書』は、言うまでもなく、ユダヤ教の文献であるが、たまたま一世紀に、ユダヤ教からキリスト教が分離して、しかもそのキリスト教が三九一年に、ローマ帝国の法律によって国教と定められたために、『旧約聖書』は地中海文明では、極めて重要なテキストになってしまった。
ユダヤ教の『旧約聖書』の内容は、「律法」(トーラー)の書と、「預言者」(ネビイーム)の書の、二つの部分に分かれている。律法の書とは、「モーセの五書」とも呼ばれる「創世記」、「出《しゆつ》エジプト記」、「レビ記」、「民数《みんすう》記」、「申命《しんめい》記」の五篇のことである。預言者の書とは、その後に続く「ヨシュア記」以下の諸篇のことである。律法の書も、預言者の書も、古い時代のことを順番に書いてあるから、歴史のようにも読めるが、実はどちらも、ヘーロドトスの『ヒストリアイ』のような性質の歴史ではない。このことは『旧約聖書』の成立の事情のせいである。
『旧約聖書』の主要な部分が成立したのは、時代は前七世紀の末、場所はパレスティナのユダ王国であった。これより先、前十三世紀の初めごろ、ヘブル人という遊牧民の集団が、北アラビアの砂漠から出て来て、東方から次第にパレスティナの農耕地帯に入り込んだ。この時代、パレスティナの海岸地帯は、海上から入り込んだペリシテ人(パレスティナという地方名の語源)が占拠しており、ヘブル人たちも最初はその支配下にあった。前十一世紀の末になって、パレスティナ南部のベニヤミン部族からサウルという指導者が出て、ヘブル人の十二部族を統一して最初の王となり、イスラエル王国を作った。その時、十二部族の同盟の契約を監視する神として選ばれたのが、ヤハヴェ(エホバ)という神である。しかしこの段階では、ヤハヴェはまだイスラエル人の唯一の神ではなく、イスラエル人は一神教徒ではなかった。彼らが信仰していたのは、パレスティナの先住民族の神々である、バアル神や、アシラ女神や、アシタロテ(アスタルテー)女神であった。
サウル王はペリシテ人に敗れて戦死し、やはり南部のユダ部族の出身のダビデが代わってイスラエル王となり、ペリシテ人を撃破して、南部の二部族と北部の十部族の中間のイェルサレムに都を定めた。ダビデ王の息子のソロモン王は、統一の保証として、イェルサレムにヤハヴェの大神殿を建設した。
ダビデ王とソロモン王の二代の間は、南部と北部の統一は保たれたが、前九二八年にソロモン王が死ぬと同時に、王国は南部と北部の二つに分裂した。南部のユダ王国はダビデ家に忠実で、ソロモン王の息子のレハベアムを王位につけたが、北部のイスラエル王国には別の王家が興った。二つの王国の並立《へいりつ》は二百年続き、前七二〇年になって、イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされた。北部の十部族の人々は、帝国の各地に移住させられ、やがて同化して消滅した。こうしてパレスティナには、イェルサレムのユダ王国だけが残った。
前六二七年、アッシリア王アッシュルバニパルが死ぬと、アッシリア帝国はたちまち滅亡した。このすきに、ユダのヨシヤ王は、百年間アッシリア領であった北部を奪い返した。この勝利は、統一の神であるヤハヴェの勝利でもあった。
ヨシヤ王は、前六二一年、イェルサレムのヤハヴェ神殿の修復を行った。この修復で、神殿から「申命記」の写本が発見された。その内容によると、イスラエルの民は、ヤハヴェ神と契約を結び、ヤハヴェ以外の神々を信仰しないと誓ったのに、契約に背《そむ》いたので、ヤハヴェはイスラエルに対して怒っており、罰としてイスラエルを滅ぼそうとしている、ということであった。これは、本来は部族同盟の契約であったものを、唯一神の信仰の契約にすり替えた新解釈で、ヤハヴェが滅ぼすというのも、すでに百年前に亡びた北部の王国のことであったが、イスラエル王国の故地を回復したばかりのヨシヤ王は、「申命記」の主張をまじめに受け取った。全国で神々の祭壇や神像が破壊され、祭司たちは追放された。一神教王国の誕生である。
「申命記」だけでなく、『旧約聖書』の中の他の律法の書も、これをきっかけとして、だんだんに編纂《へんさん》された。「創世記」の、イスラエル人の始祖アブラハムがヤハヴェ神と出会う物語、「出エジプト記」の、モーセがヤハヴェ神から契約の石の板を授かる物語、「レビ記」「民数記」の、ヤハヴェ神がモーセに律法を与える物語は、すべてこの一神教改革に続く時期に作られた。これらの文献は、古い多神教の時代からの伝承の物語を材料に使って、それらをすべて、ヤハヴェ神とイスラエル人との間の契約の由来を語るものに、作り替えたものである。
『旧約聖書』の中の預言者の書でも、このことは同じである。「ヨシュア記」は、ヤハヴェ神がパレスティナの地を、契約に従って、イスラエルの十二部族に与えた次第を語る。実際には、十二部族の同盟は、前に説明した通り、サウル王の統一とともに成立したものであり、ヤハヴェはそのイスラエル同盟の神であった。最初からまとまった十二の部族が、パレスティナに入ってきたわけではない。これも伝承の作り替えである。
「士師《しし》記」は、契約に背いて先住民の神々に従ったイスラエル人たちが、ヤハヴェ神の怒りに触れて悲運に陥り、その後でヤハヴェ神に忠実な指導者が現れてイスラエル人たちを救う、というサイクルの繰り返しとして、前十二世紀中頃から前十一世紀末までのパレスティナの状況を描いている。面白いことに、ここには、十二部族の同盟は、まだ現れていない。
「サムエル記」は、サウル王とダビデ王の時代を、ヤハヴェ神の祭司サムエルの預言者としての活動を通して描く。「列王《れつおう》紀」は、ソロモン王が、イェルサレムにヤハヴェの大神殿を建設した次第と、ソロモン王の子孫のユダ王たちのヤハヴェ神との関係を語る。
『旧約聖書』のこうした律法の書と預言者の書は、古い時代について語っているので、一見、歴史のように見える。しかし、本当の主題は終始一貫、ヤハヴェ神とイスラエルの民との間の契約関係だけである。ヤハヴェ神と契約した者だけがイスラエル人だ、ということなのだから、イスラエル人という国民は、ヤハヴェ神が創り出したことにはなるが、彼らの共通の体験(政治)が彼らをイスラエル人にしたわけではないことになる。これは神学ではあるが、歴史ではない。百歩を譲って、これも一種の歴史だということにしても、ヤハヴェはイスラエル人だけの神であり、『旧約聖書』はヤハヴェ神とイスラエル人だけについての書物なのだから、せいぜい国史、それもひどく偏《かたよ》った、空想的な国史としか呼べない。
成立の時代こそ、『旧約聖書』はヘーロドトスの『ヒストリアイ』よりも百四十年ほど早い。しかし、アジアとアフリカをおおうペルシア帝国と、ヨーロッパを代表するギリシア人の対立を扱ったヘーロドトスの物語が、本当の意味での世界史であるのに比べて、イスラエル人だけについての『旧約聖書』は、あまりにも視界が狭すぎる。そんな『旧約聖書』が、ヘーロドトスに始まる地中海文明の歴史文化に影響を及ぼすようになるのは、言うまでもなく、キリスト教を通してである。
「ヨハネの黙示録《もくしろく》」の歴史観[#「「ヨハネの黙示録《もくしろく》」の歴史観」はゴシック体]
ヨシヤ王の一神教改革の後、わずか三十五年でユダ王国は滅亡する。前五八六年、新バビロニアのネブカドネザル王がイェルサレムを攻め落とし、ヤハヴェの神殿を破壊し、ユダ王国の民をバビロニアに連れ去った。これより百三十六年前にアッシリアに連れ去られたイスラエル王国の民は、それまでにすっかり現地に同化して、種族としては消滅していたのに、バビロニアに移されたユダ王国の民は、それから半世紀の間、捕囚の生活の中で種族の独自性を持ちこたえた。
四十八年を経た前五三八年、新バビロニア帝国を倒したペルシアのキューロス王が、ユダ王国の遺民を解放して、パレスティナに帰ることを許した。彼らはイェルサレムにヤハヴェの神殿を再建した。彼らが独立を失って異郷の地に移されながら、種族の独自性を保つことが出来たのは、ヨシヤ王の一神教改革のおかげで、ヤハヴェを信仰する者がユダ王国の民(ユダヤ人)であるという、はっきりとしたアイデンティティ、それも政治とは関係のない、純粋に宗教的なアイデンティティを持っていたからである。ユダヤ人のアイデンティティは、このバビロニア捕囚の時代に始まったものである。
パレスティナのユダヤ人は、ペルシア帝国の支配下に暮らしていたが、マケドニアのアレクサンドロス大王がペルシア帝国を倒した後、マケドニア人たちに支配される。前一六七年に至って、ユダヤ人は反乱を起こし、前一四〇年、ハスモン家のユダヤ王国が独立を達成した。ユダ王国の滅亡から四百四十六年が経っていた。このユダヤ王国は前六三年になって、ローマの勢力下に入って属国となった。
紀元四四年、アグリッパ王の死とともに、ユダヤ王国は最終的に廃止され、ユダヤはローマの属州になった。しかしローマ帝国の国教である皇帝崇拝と、ユダヤ人の過激な一神教の信仰とは両立しなかった。ユダヤ人が何度も反乱を起こした後、紀元七〇年、ローマ軍はイェルサレムを占領して、ヤハヴェの神殿を破壊した。
前五八六年のユダ王国の滅亡と、それとともに始まったバビロニア捕囚の時代から数えて六百年の長い間の不運の連続のために、ローマ時代のパレスティナのユダヤ人は、欲求不満が昂《こう》じて、ヤハヴェ神の命《めい》を受けた民族解放の王者(メシヤ、キリスト)の出現を熱望するようになっていた。そこに、ユダヤ人イエスが現れて、彼を取り巻く小さな教団が生まれ、イエスが待望のメシヤであると見なされた。イエス自身は紀元三〇年頃、ローマ人によって処刑されたが、イエスの弟子のユダヤ人ペトロス(ペテロ)が、律法を完全には守らず、従って厳密な意味ではユダヤ人と認められなかった人々に対しても、イエスがメシヤであったという宣伝を開始し、これがキリスト教の起源になった。この段階では、キリスト教は、ユダヤ教の一派、それも異端の一派だったのである。
当時のローマ帝国で、最も広い範囲に通用した言語は、ギリシア語であった。一方『旧約聖書』は、すでに前三世紀の初めに、エジプトのアレクサンドリアでギリシア語に翻訳されて、ヘブル語が読めないユダヤ人の間に普及していた。だから、後にキリスト教が、もともとユダヤ人でない人々にも広まると、『旧約聖書』の内容も、地中海世界のギリシア語を話す人々に、広く知られるようになるのである。
しかし何と言っても、ユダヤ人だけの神ヤハヴェの聖典である『旧約聖書』は、内容の幅が狭すぎて、どうこじつけて解釈して見ても、地中海世界をおおうローマ帝国の多種多様な人々の政治的な経験を、うまく説明するには役に立たなかった。イエスの伝記と弟子たちの手紙を集めたキリスト教の『新約聖書』は、その内容のほとんどが、イエスこそがユダヤ人の待望したメシヤであったという主張に集中していて、現実の歴史には関係がなく、この点では『旧約聖書』にも及ばない。ただ一つの例外として、地中海世界の歴史観に影響を与えたキリスト教文献は、『新約聖書』の中の「ヨハネの黙示録」である。
「ヨハネの黙示録」は、紀元一世紀の末、ローマ皇帝ドミティアヌスの治世に書かれた預言の文献である。ドミティアヌスの父ウェスパシアヌスは、ユダヤ人の反乱を討伐し、七〇年にイェルサレムを攻略してヤハヴェ神殿を破壊した皇帝であった。つまり「ヨハネの黙示録」は、ローマに対するユダヤ人の憎悪が最高潮に達した時期に書かれた文献である。その内容は、『旧約聖書』とは非常に異なって、唯一神ヤハヴェの代わりに、善の原理である「主なる神」と、悪の原理である「サタン」という、二柱《ふたはしら》の偉大な神々が現れており、世界はこの二神の戦場である。この二元論は、ペルシアのザラトゥシュトラ(ゾロアスター)教の思想そのままであって、ユダヤ人がペルシア文明から受けた影響の深さがうかがえる。
その二元論よりも、さらに地中海世界の歴史観に影響を与えたものは、「ヨハネの黙示録」の終末論と「千年王国」思想である。「ヨハネの黙示録」は、一度死んだメシヤであるイエスが、まもなく本来の王者の姿をとって再来して、千年間地上を支配し、その後で世界の終末が到来する、と預言する。
この世の終わりの神の怒りの日に、主なる神の御使《みつかい》が、イスラエルの十二部族からおのおの一万二千人、すべて十四万四千人の「神の僕《しもべ》ら」の額《ひたい》に、「生ける神の印」をおす。七つのわざわいが次々と起こって世界を滅ぼす。主なる神の御使たちとサタンの使たちが戦って、サタンが敗れる。イエス・メシヤが白い馬に乗り、天の軍勢を率いて出現する。ひとりの御使が天から降りてきて、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、かの年を経た蛇を捕らえて千年の間つなぎおき、そして底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終わるまで、諸国民を惑《まど》わすことがないようにしてお」き、また「イエスのあかしをし、神の言を伝えたために首を切られた人々」や、「獣(ローマ皇帝)をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々」が生きかえって(第一の復活)、キリスト(メシヤ)とともに千年の間、支配する。千年の期間が終わると、悪魔はしばらくの間だけ解放されるが、そこで打倒されて火と硫黄《いおう》との池に投げ込まれる。第二の復活があって、あらゆる死人は神の御座《みくら》の前にさばかれ、いのちの書に名が記されていない者(イエスをメシヤと認めないユダヤ人)はみな、死と黄泉《よみ》とともに火の池に投げ込まれて第二の死を受ける。古い天地は消え去り、新しい天地の中に、聖なる都、新しいイェルサレムが天から下り、日や月の代わりに神の栄光に照らされて、神の僕たちが世々限りなく支配する。
要するに「ヨハネの黙示録」の言いたいところは、この世は善神と悪神の対立抗争の場であり、最終的には善神が勝って、それとともに時間は停止してこの世界は消滅するが、その前にこの世界に出現するメシヤの王権のもと、信徒たち(ユダヤ人キリスト教徒)が苦難の報償を享受する至福の期間がある、ということである。ここで「千年王国」と「新しいイェルサレム」という、二つの理想の世界が重複《ちようふく》しているように見えるが、これは、時間が停止してしまえば、忠実な信徒が報いられて楽しむことも、不信者が罰せられて苦しむこともなくなるので、その矛盾を解消するために、世界の終末の直前に千年の期間を特別に設けたわけであろう。
この「ヨハネの黙示録」が書かれた紀元一世紀末の時代には、キリスト教はまだユダヤ教の一派だったのだから、この文献に、イェルサレムのヤハヴェ神殿を破壊したローマを呪い、ローマに屈服したユダヤ人仲間を断罪する語調が激しいのは当然である。そういうわけだから、「ヨハネの黙示録」は、ユダヤ人の運命についてだけの預言であって、人類一般は関心の対象外であった。
一三二年にも、またもやユダヤ人の反乱が起こった。ローマは、三年かかってこの反乱を鎮圧した後、ユダヤ人のイェルサレム立ち入りを禁止した。ユダヤ人の大多数はパレスティナを離れ、帝国の各地に移住した。これとともに、ユダヤ人の宗教であったキリスト教が、ユダヤ人以外のローマ帝国の人々にも広まり、国家によるキリスト教徒の迫害も始まった。殉教《じゆんきよう》者の事蹟のうち、伝説ではなくて事実であることが確かなものは、みな二世紀の後半から後である。
ついでに言うと、俗説では、六四年のローマ市の大火の後、皇帝ネロが、キリスト教徒の放火であるとして、最初の迫害を行ったことになっているが、これは嘘で、ネロのキリスト教徒迫害という事実はなかった。当時のローマ市内には、まだキリスト教徒はほとんど居なかったのである。
いずれにせよ、キリスト教がローマ帝国の一般人の宗教になって、ついに三九一年、皇帝テオドシウスは法律をもってキリスト教を国教とし、他の宗教を禁止する。そうなると、もともとはユダヤ人の読者だけのために書かれた「ヨハネの黙示録」も、全人類の運命の預言として読まれるようになる。そうした事情で、キリスト教化した地中海世界では、歴史はヤハヴェ神とイスラエル人(ユダヤ人)の間の契約とともに始まったが、今やメシヤの出現で契約は完了し、まもなくメシヤの再来とともに時間は停止して、歴史は終わるのだ、という歴史観が主流になってしまう。
しかしこのキリスト教の歴史観は、もともとユダヤ人だけの、視界の狭い歴史観だったから、それまで地中海世界の主流だったヘーロドトスの、歴史はヨーロッパとアジアの対決だという、ローマ帝国の現実によりよく合った、規模の大きい歴史観と、完全に矛盾する。このために、キリスト教化したローマ帝国の精神的な後裔《こうえい》である、後世の西ヨーロッパ人は、二つの矛盾した歴史観の間を、いつまでも右往左往しなければならなくなるのである。
東西の対決[#「東西の対決」はゴシック体]
ところで、不幸なことに、ヘーロドトスの対決の歴史観と、キリスト教の歴史観とは、きわめて重要な点で一致していた。それは、「ヨハネの黙示録」の、世界は善の原理と悪の原理の戦場である、という二元論である。これとヘーロドトスの、ヨーロッパとアジアの対決の図式が重なり合うと、すなわち、ヨーロッパは善であり「主なる神」の陣営に属する。これに対して、アジアは悪であり「サタン」の陣営に属する。世界はヨーロッパの善の原理と、アジアの悪の原理の戦場である。ヨーロッパの神聖な天命は、神を助けて、悪魔の僕であるアジアと戦い、アジアを打倒し、征服することである。ヨーロッパがアジアに対して最後の勝利を収めた時、対立は解消して、歴史は完結する、という思想になってしまう。この思想は、十一世紀にヨーロッパで高まって、イスラムに対する十字軍という形をとったが、それで終わりではない。十五世紀に始まる大航海時代に、アジア、アフリカ、アメリカに進出したヨーロッパ人の世界観も、全くこのキリスト教の歴史観そのままであった。現代においても、対決こそが歴史である、という地中海型の世界観は、絶えざる対立と、摩擦《まさつ》と、衝突の最大の原因であり続けている。第二次世界大戦の後は、「主なる神」の側に立つアメリカ・西ヨーロッパ陣営と、アジアの「サタン」の側に立つソ連・中華人民共和国・北朝鮮・北ヴェトナム陣営の対立は、半世紀にわたって歴史そのものであった。一九九〇年を境にして、対立がアメリカ・西ヨーロッパ側の一方的な勝利に終わったことが明白になると、アメリカ・西ヨーロッパには、別のアジアの悪魔の僕が必要になった。そこに起こったのが、同年のイラクのクウェイト侵略である。アメリカ・西ヨーロッパが珍しく一致協力して湾岸戦争を戦ったのは、この戦争が「主なる神の御使たちとサタンの使たちの戦い」だったからである。
湾岸戦争がヨーロッパ(アメリカ・西ヨーロッパ)の勝利に終わって、アジア(イラク)が打倒された後、あれほど戦争の遂行に協力した日本が、アメリカ・西ヨーロッパから露骨に警戒されるのは、日本がアジアの国である、という単純な理由からである。アジアの国であるからには、表面はともあれ、潜在的にはアメリカ・西ヨーロッパの敵であるはずだ、というのが、地中海世界のキリスト教歴史観の論理の明快な結論である。いかに日本が国際社会で誠実に努力しても、日本がアジアの国であることをやめるか、またはキリスト教歴史観よりもはるかに強力な歴史観を創り出さない限り、アメリカ・西ヨーロッパから敵視される運命を逃れることなど出来るはずがない。
それでは、地中海文明のキリスト教歴史観よりも説得力のある、新しい歴史観を創り出すことは可能なのであろうか。この問いに答える前に、もう一つの歴史のある文明である中国文明の歴史文化を、まず吟味《ぎんみ》してみることにしよう。
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第3章[#「第3章」はゴシック体] 皇帝の歴史
――中国文明の歴史文化
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司馬遷《しばせん》の『史記』[#「司馬遷《しばせん》の『史記』」はゴシック体]
「歴史」という言葉は、漢字で書いてはあるが、中国語起源のものではない。現代中国語で「歴史」(リーシー)というのは、日本語からの借用である。日本語の「歴史」は、英語の「ヒストリー」の訳語として明治時代に新たに作られた言葉で、それを一八九四〜九五年の日清《につしん》戦争の後、日本で勉強した清国《しんこく》留学生たちが、中国に持ち帰ったのである。
漢字の「史」は、「中」の下に「又」を書いた合成字である。「中」は、蓋《ふた》と柄《え》のついた容器を表す象形《しようけい》字で、この容器には字を書くための木簡《もつかん》(細長い木の板)を入れる。「又」は、右手を表す象形字で、「又」に「口」をつければ「右」の字になる。発音も「又」と「右」とは同じである。つまり「史」の意味は、右手に文書入れを捧《ささ》げ持つ人であり、記録係の役人であり、事務官である。「史」、「事」、「使」は、すべて同じ意味、同じ発音である。だから「史」の本来の意味は、役人のつける帳簿であって、我々が今言うような意味での歴史ではない。帳簿に日々の出来事を書き込む役人が「史官」であり、史官の記録がもとになって、中国文明の歴史文化が発生したのである。
中国文明の「歴史の父」は、地中海世界のヘーロドトスより三世紀半ほど後の、前一〇〇年前後に『史記』を著《あらわ》した司馬遷である。今では歴史書の代表として、単に『史記』と呼ばれているが、もともとの表題は『太史公書《たいしこうじよ》』といい、百三十篇から成っている。その記述は、最初の「天子」とされる黄帝《こうてい》に始まって、著者自身の仕えた漢の武帝の治世《ちせい》にまで及んでいる。
司馬遷が『史記』の最終篇「太史公自序」で自ら言うところによると、司馬氏はもと周国の史官の家柄《いえがら》であった。司馬遷の父の司馬|談《だん》は、漢の太史令《たいしれい》(史官長)となって「天官」(占星術)を掌《つかさど》った。前一一〇年、武帝が山東《さんとう》の泰《たい》山に登って天地を祭る「封禅《ほうぜん》」の盛儀を執《と》り行った時、司馬談は参加を許されず、これを憤《いきどお》って死んだ。司馬遷は二年後に二十八歳で太史令となった。
さらに四年後の前一〇四年、武帝は太初《たいしよ》という年号を建てた。これは、この年の陰暦《いんれき》十一月(子《ね》の月)の朔《ついたち》が六十|干支《かんし》の最初の甲子《きのえね》の日であり、しかもこの日の夜明けの時刻が冬至《とうじ》であるという、中国の暦学でいう、宇宙の原初の時間と同じ状態(甲子朔旦冬至《かつしさくたんとうじ》)が到来したからである。この時、司馬遷らの提議によって、暦法を改正することになり、「太初暦」が作られて、それまで年頭であった十月(亥の月)に代わって、正月(寅の月)が年頭となった。「太初」というのは、天地創造というのに同じく、宇宙の一サイクルが終わって新しいサイクルが始まったことを示す年号である。
司馬遷は、この記念すべき前一〇四年に『史記』の著作を開始したのであるが、前九九年に至り、匈奴《きようど》(中央ユーラシア草原の遊牧帝国)に敗れて降《くだ》った将軍|李陵《りりよう》を弁護して、武帝の怒りに触れ、去勢《きよせい》されて宦官《かんがん》となった。『史記』が完成したのはその後であり、内容の年代の下限は前九七年に及んでいる。
いずれにせよ、司馬遷が『史記』の著作に着手した契機が、前一〇四年に宇宙が原初の状態にもどり、歴史が完成に達したという認識であったことは間違いない。この認識は、単に暦学の理論だけに由来するものではなかった。むしろ皇帝制度が発展の極限に達したという、当時の現実を反映したものであった。暦学の知識は、そうした現実に、時間の区切りをつけるために利用されたのである。
『史記』の構成[#「『史記』の構成」はゴシック体]
それでは『史記』の物語を、最初から順に見て行くことにしよう。
『史記』の構成は、「本紀《ほんぎ》」、「表」、「書」、「世家《せいか》」、「列伝《れつでん》」の五つの部分に分かれている。「本紀」は、帝王の在位中の政治的事件を記述する。「表」は、政治勢力の興亡・交替の時間的な関係を示す。「書」は、制度・学術・経済など、文明のいろいろな面を概説する。「世家」は、中国世界が秦《しん》の始皇帝《しこうてい》によって統一される以前の地方王家と、統一以後に地方に国を建てた諸侯の歴代の事蹟を記述する。そして「列伝」は、著名人の事蹟を伝える。そのうち「本紀」と「列伝」が最も基本的な部分を成すので、後世の中国人の歴史学では、『史記』の体裁を「紀伝体《きでんたい》」と呼ぶ。
五帝の神々[#「五帝の神々」はゴシック体]
『史記』の冒頭に置かれるのは、「五帝本紀」篇である。ここで扱うのは、黄帝《こうてい》・|※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]《せんぎよく》・|帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]《ていこく》・帝堯《ていぎよう》・帝舜《ていしゆん》という、五人の「帝」の治世である。
「五帝本紀」が最初に叙述する黄帝の事蹟は、著者の司馬遷自身が仕えた漢の武帝そっくりである。黄帝について先ず強調されるのは、戦争に巧みで「天下」(中国世界)を平定したこと、次いで天下の東西南北の辺地を巡行したことであり、東方では泰山に登ったこと、北方では葷粥《くんいく》(匈奴)を駆逐《くちく》したことに特に言及している。これらはすべて武帝の事蹟そのままであるが、中でも「土徳《どとく》の瑞《ずい》があり、故に黄帝と号した」と言っているのは、黄帝が武帝の投影である何よりの証拠である。
そもそも前一〇四年に武帝が暦法を改めた時、それまで年頭が十月であったのを正月に変えたのには、「水徳」から「土徳」に切り替えるという意味があった。
前三世紀前半に活躍した哲学者の鄒衍《すうえん》が唱えた宇宙論によると、木・金・火・水・土の五つの「徳」(エネルギー)によって時代が区分され、この五つの時代が次々と交替する、ということになっている。秦の始皇帝が前二二一年に天下を統一した時、この理論を採用し、黄帝をはじめとする五帝は「土徳」、五帝の次の夏《か》王朝は「木徳」、次の殷《いん》王朝は「金徳」、次の周王朝は「火徳」であったから、周に交替した秦の時代は「水徳」であると考えた。四季の中では、「水徳」に配当されるのは冬だから、その最初の月である陰暦十月を年頭としたのである。これは、始皇帝による天下の統一とともに、宇宙のサイクルは最終の時代に入った、という考え方に基づくものであった。
秦の始皇帝は、それまで使われていた「王」という称号の代わりに、「皇帝」(光り輝く天の神)という称号を採用した。これが皇帝制度の始まりである。始皇帝は、黄帝の「土徳」から始まって「五徳」が一巡した「水徳」の時代が宇宙のサイクルの最終の時代であるから、秦の政権は永久に続くと考えていたようである。その証拠に、自分の死後の称号(諡《し》)をあらかじめ始皇帝と定め、「後世は数をもって計り、二世、三世より万世に至り、これを無窮《むきゆう》に伝えよ」という勅令を下している。実際には二世皇帝とともに秦は滅亡したが。
漢の高祖|劉邦《りゆうほう》は、秦を倒して皇帝となったが、別に時代が変わったとも考えなかったようで、すべての制度を秦代のままに引き継いだ。前一〇四年の改暦に至るまで、十月が年頭であったのは、そうした事情による。
漢代に入って高祖の治世を過ぎると、「水徳」の時代が宇宙のサイクルの終わりではなく、今は初めにもどって「土徳」の時代だという意見が出始めた。前一六五年には、高祖の息子の文帝が、「土徳」説を公式に採用しようとして果たさなかったことがあった。それが二代あとの武帝に至って、いよいよ前一〇四年に実現したわけである。実際、黄帝という神話上の天子が、にわかに持ち上げられ始めるのは武帝の時である。その武帝に仕えた司馬遷の『史記』の「五帝本紀」が、黄帝の事蹟に武帝の事蹟を投影して、土徳の時代を理想化しているのは当然である。
さて「五帝本紀」では、五帝の二番目の|※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]《せんぎよく》は黄帝の孫、三番目の|帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]《ていこく》は黄帝の曾孫、四番目の帝堯《ていぎよう》は帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]の息子とされている。
帝堯は太陽のごとく光り輝く人で、日の出入を正して一年を三百六十六日と定めた。その治世に大洪水が起こって、山も丘も水没し、天に届こうとする勢いで、地上の人民は絶滅の危機にあった。帝堯は、鯀《こん》(「卵」という意味)に命じて治水《ちすい》に当たらせたが、九年かかっても成功しなかった。そこで帝堯は責任を取って退位を決意し、舜《しゆん》を摂政に任命した。舜は※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]の六代後の子孫である。舜は日・月と五つの惑星の運行をととのえ、あらゆる神々を祭り、刑法を定めて天下の秩序を確立した。
帝堯の死後、舜は帝堯の息子に遠慮して辞退したが、諸侯の支持が集まったので、「天なり」と言って天子の位についた。これが五帝の五番目の帝舜である。
ところで、「帝」とは、いったい何であろうか。
「帝」という字に「口」を加えれば、「敵」、「嫡」、「適」の旁(つくり)になる。「帝」の発音も、もともとはこれらの字と同じであった。このことから判るように、「帝」の本来の意味は「配偶者」である。前二二一年の始皇帝による天下(中国世界)の統一の前に存在した多くの都市国家には、それぞれ守護神である大地母神があった。大地母神は天の神の妻となって、都市国家の王家の始祖を産むのである。この大地母神の「配偶者」の天の神が、すなわち「帝」なのである。
先に紹介した「五帝本紀」の物語を見てもわかるように、五帝は本来、神々であって、その治世は現実の人間界ではなく、神話の世界に属する。五帝はそうした架空の存在ではあるが、問題は司馬遷が、どんなつもりで、『史記』の人間界の歴史の冒頭に五帝の物語を置いたのか、ということである。
「五帝本紀」の叙述の特徴は、「天下」(中国世界)が、人類(中国人)の歴史の始まりから、まとまった政治の単位として成立していたように扱っていることである。ところが『史記』で「五帝本紀」に続く「夏本紀」「殷本紀」「周本紀」に叙述される時代は、いわゆる「三代」の王朝であるが、この時代の物語には、五帝の時代のような中国世界の統一は見られない。
東夷《とうい》の夏《か》[#「東夷《とうい》の夏《か》」はゴシック体]
「夏本紀」の物語は、次のようになっている。
|※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]《せんぎよく》の息子が鯀《こん》(「卵」)、鯀の息子が禹《う》(「蛇」という意味)で、禹は夏の初代の天子となった。
これより先、帝堯の時、鯀は、人間界を没する大洪水の治水に失敗して、処刑された。摂政の舜は、鯀の代わりに禹を登用して、治水に当たらせた。禹は十三年の間、休まず治水に努力し、高山・大川を定め、九州(黄河デルタの平原)を開き、九道(交通路)を通じ、九沢(湖沼)に堤防を築き、九山(山脈)の位置を決めた。
帝舜は、禹を自分の後継者に指名した。帝舜の死後、禹は帝舜の息子に遠慮して辞退したが、天下の諸侯の要請で天子の位につき、国号を夏后(「后」は「侯」と同音で、都市国家の君主)とした。禹は東方に巡幸して、会稽《かいけい》(浙江省紹興市)で死んだ。禹の死後は、子孫が王位を世襲して、第十七代の桀《けつ》に至って、殷《いん》の湯《とう》王に滅ぼされた。
この「夏本紀」の大洪水の物語は、その語り口から見て、明らかに建国神話であり、禹も人間の王ではなく、人間の住む世界を創った神である。その名前が「蛇」を意味するのも偶然ではない。夏の王たちについては、竜にまつわる伝説が多く語られているが、竜は東南アジアの人々の信仰する水神であり、「竜」の字の発音は、古くは「江」と同じで、「水路」を意味する。長江《ちようこう》(揚子江)より南の河川はすべて「江」と呼ばれるが、これはタイ語である。
さらに、古い記録に夏人の町であるといわれている都市は、ことごとく北緯三十五度線に沿って並んでいるが、これらは黄河《こうが》流域と淮河《わいが》・長江流域の分水嶺をなす秦嶺《しんれい》山脈の南麓に位置し、それぞれ舟で流れを南に下れば、淮河か漢江《かんこう》経由で長江に出て、浙江《せつこう》の海岸に達することが出来る。
『史記』の「越《えつ》王|句践《こうせん》世家」篇によると、越の王家の祖先は禹から出て、第六代の夏后|少康《しようこう》の庶子が会稽に建国したのが、越王国の起源である、という。会稽は、禹が死んだ所で、その墓もある。司馬遷と同時代の越人は、浙江・福建《ふつけん》・広東《こうしゆう》の海岸に住んで、体に竜の入墨をし、舟を操るのに巧みな、漁撈《ぎよろう》と水稲の栽培を生業とする民族であった。今日でさえ、この地帯の中国人の話している言葉には、タイ語の痕跡が顕著に認められる。
今のところ、夏国の遺跡や遺物と確認されるものは見つかっていないが、東南アジア系の文化を北方に持ち込んで、後世の中国文明のもっとも古い基層を作ったのは夏人で、南方から水路を舟で上って来て、舟の着いた河南の各所に都市を建てたのだろう。大洪水の伝説も、「卵」から生まれた「蛇」の国造りの物語も、最初の都市国家が、水と竜に関係の深い、東南アジア系の人々(東夷)の建設したものであったことを示している。
北狄《ほくてき》の殷《いん》[#「北狄《ほくてき》の殷《いん》」はゴシック体]
さて、『史記』の「夏本紀」の次は「殷本紀」である。殷の始祖の母は簡狄《かんてき》(「狄」は北方の狩猟民)といい、有戎《ゆうじゆう》(「戎」は西方の遊牧民)の娘であった。簡狄は|帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]《ていこく》の妃となった。ある時、もう二人の娘と野外で水浴をしていて、燕《つばめ》が卵を落としたのを見て、簡狄はその卵を取って呑み、妊娠して契《せつ》という男の子を産んだ。契は商《しよう》の地に国を建てた。これが殷の始祖である。
契の十三代の子孫が湯である。夏王|桀《けつ》が暴虐であったので、湯は諸侯を率いてこれを攻め、有戎の丘で夏軍を破った。こうして湯は諸侯の服従を受けて、夏に代わって天子となり、殷王朝を建てた。また、夏の暦では春の最初の月(寅の月)が正月であったのを改めて、冬の最後の月(丑の月)を正月とした。服装の色は、白(金徳の色)とした。
湯王の子孫が王位を世襲したが、第三十代の紂《ちゆう》王が暴虐であったので、周《しゆう》の武王《ぶおう》が諸侯を率いてこれを攻め、牧野《ぼくや》の戦いで殷軍を破った。紂王は自殺し、武王が殷に代わって天子となった。
以上の「殷本紀」の物語から見ると、殷人が北方の狩猟民(北狄)の出身であることは疑いない。女神が野外の水浴の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んで妊娠し、男の子を産むというのは、北アジアの狩猟民や遊牧民に共通な始祖伝説の型である。女神の名前も狩猟民を意味する簡狄である。殷が実在した都市国家であったことは確かであるが、恐らくモンゴル高原から山西《さんせい》高原を通って南下して、河南《かなん》の夏国を征服したのであろう。
西戎《せいじゆう》の周《しゆう》[#「西戎《せいじゆう》の周《しゆう》」はゴシック体]
「殷本紀」の次は「周本紀」である。周の始祖の母は姜原《きようげん》(「姜」は「羌」と同じで、西方の遊牧民)といい、有台《ゆうたい》(陝西省武功県、西安市の西)の娘であった。姜原は帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]の妃となったが、ある時、野外に出て、巨人の足跡を見、喜んでその足跡を踏んだところ、体が動いて妊娠し、月満ちて男の子を産んだ。これは不祥の子だと思って、この子を狭い通り道に捨てたところ、通り過ぎる馬や牛は、避けて踏もうとしなかった。山の林の中に捨てようとすると、どういうわけか林の中に人が多かった。持ち帰って溝の氷の上に捨てたところ、鳥が飛んで来て、翼でこの子をおおって暖めた。姜原は、これは不思議な子だと思って、拾い上げて育てることにした。初め捨子にするつもりだったので、棄《き》と名づけた。棄が周の始祖である。
棄の息子は戎《じゆう》・狄《てき》の間に住んだ。その子孫の代々には、皇僕《こうぼく》(「僕」は車の御者)・高圉《こうぎよ》・亜圉《あぎよ》(「圉」は「御」と同じで、やはり御者)などという名前が見える。亜圉の孫の古公亶父《ここうたんぽ》は、戎・狄に攻められて岐《き》山(陝西省西部)の下に移り、ここで初めて戎・狄風の生活形態(遊牧)を改めて、都市を建設した。古公亶父の孫が西伯昌《せいはくしよう》(周の文王)である。
西伯昌は、陝西《せんせい》で大きな勢力となり、河南との境にまで進出して、天命を受けたと自称した。受命の第七年、西伯昌は死に、息子の発《はつ》が継いだ。発は、すなわち周の武王である。
受命の第十一年、武王は大軍を率いて河南に侵入し、洛陽《らくよう》市の北の孟津《もうしん》の渡し場で黄河を北に渡って、殷の王都の商(河南省安陽市の殷墟)の郊外の牧野で戦って、殷軍を敗走させ、紂王は自殺した。武王は、殷に代わって周が天命を受けたことを宣言した。武王を周の初代として、子孫が王位を継承する。
周の第五代の穆王《ぼくおう》は、犬戎《けんじゆう》(西方の遊牧民)に遠征した。第十代の|※[#「がんだれに萬」、unicode53B2]王《れいおう》が暴虐であったので、周の国人(首都の市民)が反乱を起こし、王は出奔した。王の不在中、周公《しゆうこう》と召公《しようこう》の二人の輔佐役が代わりに政治を行い、「共和」と号した(共和政の出典)。『史記』の「十二諸侯年表」は、この事件を前八四一年のこととし、この年から初めて絶対年代を記している。
※[#「がんだれに萬」、unicode53B2]王の死後、その息子の宣王《せんおう》が即位した。宣王は、姜氏の戎(西方の遊牧民「羌」)と戦って大敗した。宣王の息子の幽王《ゆうおう》は、後継者争いの内紛が原因で、犬戎の侵入を受けて殺された。幽王の息子の平王《へいおう》は、陝西のこれまでの本拠地から東方に移動して、洛邑《らくゆう》(河南省洛陽市)に首都を置いた。前七七〇年のことで、これから後が春秋時代になる。周の王室は衰微して、諸侯の強いものが弱いものを併合するようになる。やがて戦国時代に入って、周は東西に分裂し、前二五六年には西周が、前二四九年には東周が秦に滅ぼされた。以上が『史記』の「周本紀」の物語である。
この物語を通して見ると、北方の狩猟民出身の殷を倒して取って代わった周が、西方の遊牧民の出身であったことは明白である。そればかりではない。その周を滅ぼした秦も、『史記』の「秦本紀」で見ると、やはり西方の遊牧民である。
西戎の秦[#「西戎の秦」はゴシック体]
「秦本紀《しんほんぎ》」によると、五帝の第二の|※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]《せんぎよく》の子孫に女脩《じよしゆう》という娘があったが、機《はた》を織っているところに燕が飛んで来て卵を落とした。女脩はその卵を呑んで妊娠し、大業《たいぎよう》を生んだ。大業の子孫は西戎に居り、周の第八代の孝王《こうおう》の馬飼いとなり、初めて秦(甘粛省清水県)に住んだ。それからの歴代は、みな西戎と戦った。周の平王が陝西を放棄して河南に移った後、秦は岐山以西の陝西・甘粛《かんしゆく》の地を領有するようになり、初めて諸侯の仲間入りをした。春秋時代の秦の繆公《ぼくこう》(前六五九〜六二一年在位)は、東方では黄河の湾曲部まで進出し、西方では戎王を撃破して十二の都市と千里の土地を手にいれ、西戎の覇《は》(「伯」と同じで、年長者、筆頭の意味)となった。戦国時代に入っては、秦の恵文王《けいぶんおう》は前三二五年、初めて王と称した。恵文王の四代後の子孫が始皇帝で、前二二一年、他の都市国家をことごとく征服して「天下」(中国世界)を初めて統一し、最初の皇帝となったのである。
『史記』で「秦本紀」の次に来る「秦始皇本紀《しんしこうほんぎ》」から、司馬遷が仕えた主人の漢の武帝の治世を描いた「今上《きんじよう》本紀」までは、前二二一年に初めて成立した中国世界の歴史であって、ここからが本当の意味での中国史になる。言い換えれば、『史記』の冒頭の五篇、「五帝本紀」から「秦本紀」までは、中国以前の歴史である。ここに語られる物語を通して見ると、最初の君主とされる黄帝から始めて、夏の初代の禹も、殷の初代の湯も、「天子」となったとわざわざ記されている。「天子」は「皇帝」と同義語である。全「天下」を統治する皇帝という地位は、実際には秦の始皇帝から始まったのであるが、司馬遷がここで主張したかったことは、皇帝は歴史の最初から、別の名前ではあるが存在していたのであり、従って皇帝を中心とする「天下」(中国世界)も、歴史の最初から存在していたのである、ということなのである。
[#挿絵(img/fig4.jpg、横×縦)]
しかし司馬遷の主張とは裏腹に、『史記』自体の叙述を素直に読めば、五帝は神々としか思えないし、最古の王朝になっている夏は、東南アジア系の文化を持った「東夷」であり、その夏を征服した殷は東北アジア系の狩猟民「北狄」であり、殷を征服した周は北アジア系の遊牧民「西戎」であり、その周を征服した秦も同じく西戎である。つまり前二二一年の秦の始皇帝による「天下」の統一以前には、中国と呼べるような世界がまだなかったばかりか、中国人と呼べるような民族も、まだなかったことになる。
夏も、殷も、周も、その実態は王朝の名に値するようなものではなかった。多数の都市国家の中で、軍事力がやや大きかったものに過ぎない。
中でも周は、多くの諸侯を「封建」したとされ、一見、天下を統一した上で、天子の資格において国土を分与したかのような印象を受ける。しかし「封建」の本来の意味は、母都市から武装移民が出て行って、離れた土地に新しく娘都市を建設することである。「封建」した娘都市は、母都市から独立した政治生活を営み、母都市の支配を受けない。その証拠に、周から分かれて山東に「封建」した魯《ろ》国の記録である『春秋』は、前七七二年から前四八一年までの紀年を、隠公《いんこう》から哀公《あいこう》に至る歴代の魯侯のそれぞれの在位年数によって表示していて、決して周王の在位を基準としていない。これを見ても、中国世界(天下)がまだ成立しておらず、統一などなかったことが判る。
正統の理論[#「正統の理論」はゴシック体]
そうした実情にも拘《かかわ》らず、『史記』が夏《か》・殷《いん》・周《しゆう》を、実際に中国を統治した秦の始皇帝や漢の皇帝たちと並べて、「本紀」に列しているのは、「正統」という理論に基づくものである。いかなる政治勢力でも、実力だけでは支配は不可能であり、被支配者の同意を得るための何らかの法的根拠が必要である。中国世界では、そうした根拠が「正統」という観念である。唯一の「正統」(中国世界の統治権)が天下のどこかに常に存在し、それが五帝から夏に、夏から殷に、殷から周に、周から秦に、秦から漢に伝わった、というのである。この「正統」を伝えることが「伝統」である。
「伝統」の手続きとしては、世襲《せしゆう》が原則である。五帝は黄帝とその子孫であり、帝|堯《ぎよう》は帝|舜《しゆん》に、帝舜は禹《う》に「禅譲《ぜんじよう》」したのだから問題はない。問題は武力で夏を倒した殷の湯王《とうおう》と、殷を倒した周の武王が、どうして「正統」を承《う》けたと認められるかである。これには、王朝の「徳」(エネルギー)が衰えると、「天」がその「命」を革《あらた》める(取り去る、「革命」)。そして新たな王朝が「天命」を受け(「受命」)、それに「正統」が遷《うつ》る、という説明がつく。
しかも系譜の上では、三代の王朝はいずれも黄帝の子孫であるということになっている。夏后禹は|※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]《せんぎよく》の孫であり、※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]は黄帝の孫である。殷の始祖の契《せつ》の母は、|帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]《ていこく》の妃であり、帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]は黄帝の曾孫である。周の始祖の棄の母も、帝※[#「學の子を除いたもの/牛/口」、unicode56B3]の妃である。夏・殷・周の三代だけではない。秦の王家も、※[#「端のつくり+頁」、unicode9853]※[#「王+頁」、unicode980A]の子孫であるとされるので、始皇帝も、やはり黄帝にさかのぼる「正統」を保有する、「天命」を受けた天子、ということになる。
こうした古い都市国家の王族は問題が少ないが、高祖|劉邦《りゆうほう》のような全くの庶民が建てた漢ともなると、正統の根拠としては専ら、天命を受ける「受命」、天命が革まる「革命」の理論に頼らざるを得ない。しかも天命は抽象的なものだから、天命を裏づける証拠として、自然の怪異現象(「符瑞《ふずい》」)が極めて重要になってくる。そうした理由から、武帝の時代には祭祀《さいし》や占卜《せんぼく》や予言が異常に盛んになった。後世の歴代の王朝も、漢に負けず劣らず、前代の王朝から「正統」を引き継いだことにして天命の保有を立証する必要に迫られて、「禅譲」の形式を装ったり、前代の帝権を象徴する遺品を誇示したり、「革命」、「受命」の正当化に苦労したのであった。
秦の始皇帝が作った玉璽《ぎよくじ》には「受命于天《じゆめいうてん》、既寿永昌《きじゆえいしよう》」の八字が刻んであったといわれ、漢の高祖の手に入って代々の皇帝に使用され、「漢伝国璽《かんでんこくじ》」と号して、漢以後に及んでも、「正統」を主張する君主の争奪の対象となったが、この事情は現代でも全く変わっていない。辛亥《しんがい》革命で清の宣統《せんとう》帝から禅譲を受けた中華民国は、大陸を失って台湾に移ってからも、北京の故宮にあった宋・元・明・清の皇帝の秘宝を手放さず、自分が歴代の「正統」を受けた唯一の中国政府である証拠としている。また台湾問題で、大陸の中華人民共和国が一国一政府の原則を絶対に譲らず、中華民国の国号と国旗の廃止を要求し続けているのも、「正統」は常に一つしかないので、他に対等の中国人の国家が存在することを認めれば、中華人民共和国自体が「正統」の政権でなくなり、従って存立の基盤を失うことになるからである。こうした、どの政権がどの政権を継承したかという「正統」の観念は、中国人の歴史観の中心を成す特異な観念であるが、これは中国世界の最初の歴史である『史記』に、既に完成した形で表れている。
この「正統」の観念のもう一つの表れは、時間の数え方である。君主の在位年数を基準にして年を名付ける紀年法では、即位の年(即位称元)、もしくはその翌年(踰年称元《ゆねんしようげん》)を元年とするが、これは君主が時間の支配者であることを示す。初めは一代に元年は一つであったが、漢の文帝《ぶんてい》の時、前一六四年に太陽が子午線《しごせん》を一日に二度通過する(日再中)という現象があったといって、翌年をもって第二の元年(改元)とした。次の景帝《けいてい》も二回改元をしているが、さらに次の武帝《ぶてい》は六年ごとに改元を繰り返したあげく、前一一〇年の封禅《ほうぜん》を機会に新しい元年を元封元年《げんぽうがんねん》とした。これが元号の始まりである。これ以後、皇帝の元号を使わない者は、皇帝が時間を支配する権利を認めない者であるから、皇帝に敵対する反逆者ということになる。後世、日本の遣唐使《けんとうし》が決して国書を持って行かなかったのは、国書には日付が要る。日付を唐の年号で記載すれば、日本の天皇が唐の皇帝の臣下であると自ら認めることになり、日本の年号を使用すれば、唐の皇帝への敵対行為になるからであった。
元号と同じく、時間に対する皇帝の支配を示すものは、暦《こよみ》を作って頒布する権利であった。どの月が正月であり、どの日が朔《ついたち》であるかを決定するのは皇帝の特権である。皇帝の暦を受け入れることを「正朔《せいさく》を奉ずる」といい、皇帝の臣下であることを表明する行為であった。司馬遷らが前一〇四年に暦法を改めて太初暦《たいしよれき》を作ったことは、武帝が宇宙の中心であることを再確認するものであった。
司馬遷の『史記』は、そうした「正統」の観念の上で、神話の黄帝の「天下」と現実の武帝の支配する中国世界とを連結するリンクとして、実際には中国世界を統一していなかった夏・殷・周を「本紀」に列したのである。
「本紀」と並んで『史記』を構成している「列伝」も、個人の私的な生涯を叙述するものではなく、我々が考えるような伝記ではない。当人の生年はおろか、没年すら記載されないことが多い。「列伝」の主題は、当人がどの皇帝とどんな関わり合いを持ったかであって、皇帝制度の枠内での公人としての生涯を叙述するものである。だから「列伝」さえ、皇帝の歴史の一部なのである。この性格は、『史記』以後のいわゆる「正史」ではますます強くなって、「列伝」は官僚の履歴書と皇帝への上奏文《じようそうぶん》を綴り合わせただけのものになってしまう。
『史記』には、中国人の伝記ではなくて、「匈奴《きようど》列伝」、「南越《なんえつ》列伝」、「東越《とうえつ》列伝」、「朝鮮列伝」、「西南夷《せいなんい》列伝」、「大宛《だいえん》列伝」という、われわれには外国の歴史を記述するように見える一群の「列伝」がある。しかし中国世界は国家ではなくて一つの世界だから、国境という観念はなく、従って外国という観念もない。ただ皇帝が直轄《ちよつかつ》の都市を持つ地域と、持たない地域があるだけである。こうした皇帝の直轄地以外の地域の住民が、皇帝とどんな関わり合いを持ったかを記述するのが、こうした特殊な「列伝」の趣旨であって、これらもやはり皇帝の歴史の一つの表現である。
『三国志』の「魏書《ぎしよ》」の「東夷《とうい》列伝」の「倭人《わじん》」の条、いわゆる「魏志倭人伝《ぎしわじんでん》」もこの性格は同じで、あくまでも『三国志』の著者|陳寿《ちんじゆ》の仕える晋《しん》の皇帝の先祖と倭人が持った関係を、晋朝に有利な形で語るためのものであり、後世のために倭人の客観的な歴史を記録するなどという、殊勝な目的があったわけではない。
とにかく、こうした『史記』によって、中国文明における歴史の性格は決定した。皇帝が統治する範囲が「天下」すなわち世界であり、「天下」だけが歴史の対象である。言い換えれば、中国文明の歴史は、皇帝の歴史であり、永久に変わることのない「正統」の歴史である。あとはその時代その時代の公認の「正史」が、『史記』の形式を少しも変えずに踏襲して、皇帝を中心とする世界(中国)の叙述を続けていくだけである。
班固《はんこ》の『漢書《かんじよ》』――儒教《じゆきよう》[#「班固《はんこ》の『漢書《かんじよ》』――儒教《じゆきよう》」はゴシック体]
それでも一つだけ変わったことがある。『史記』が取り扱った時代の範囲は、五帝から始まって夏・殷・周・秦の諸王朝を経て、著者の同時代、漢の武帝の治世の半ばまでであった。こういういくつもの王朝にまたがる体裁の歴史書を、後世の中国人の歴史学では「通史」と呼ぶ。それに対して、一つの王朝だけを扱う歴史書を「断代史《だんだいし》」と呼ぶ。
司馬遷《しばせん》から約百八十年の後に班固(三二〜九二年)が『漢書』百篇を書いた。この歴史書は『史記』と違って、「断代史」の体裁をとり、前二〇六年の漢の高祖の即位から、漢の簒奪《さんだつ》者|王莽《おうもう》が紀元二三年に滅亡するまでを記述する。つまり実質的に、漢朝一代だけの歴史である。『漢書』から後の「正史」は、すべて「断代史」となる。しかし『漢書』の中で、高祖から武帝までの部分は、基本的に『史記』をそのまま写しただけのもので、なぜ班固が『史記』の続編の「通史」ではなく、新たに漢代だけの「断代史」の体裁をとったかが問題である。その答えは、班固が儒家《じゆか》であり、儒教が王莽によって中国の政治の指導原理となる経緯を記述するのが『漢書』の著作の目的だったからである。
儒家は山東《さんとう》の曲阜《きよくふ》に本部を置く教団で、中間管理職の養成を主な機能としたが、秦の始皇帝の時代はもちろん、漢代に入っても、儒教が実際の政治に影響を及ぼしたことはなかった。『漢書』の「武帝紀」の前一三六年の条に「五経《ごきよう》博士を置く」という記事があり、普通にはこれは、儒教が中国の国教になったことを意味するとされている。しかしこれは、全くいいかげんな説である。「五経」というのは、『詩経《しきよう》』、『書経《しよきよう》』、『礼記《らいき》』、『易経《えききよう》』、『春秋《しゆんじゆう》』のことで、儒教の経典である。「博士」は、テキストの読み方を教授する官職であった。儒教の経典に限らず、主な学派のテキストには、それぞれ読み方を教授する博士の官職が設置されていたので、「五経博士を置く」という記事の意味は、それまで公認を受けていなかった儒教が、前一三六年になって初めて、他の学派と並んで、存在を公認されたということでしかあり得ない。国教というからには、ローマのテオドシウス皇帝が三九一年にしたように、国教以外の宗教を法律をもって禁止しなければならないが、漢の武帝が儒教を中国の唯一の宗教とする法令を発布したなどとは、武帝に仕えた司馬遷の『史記』にさえ、どこにも書いてない。そればかりか、当の『漢書』には、儒教の政治的な地位が低くて、とても国教などと呼べるようなものでなかったことを証明する、次のような話が載っている。
漢の元帝《げんてい》(前四九〜三三年在位)は、八歳で皇太子となったが、大人になっても気が弱くて儒を好んだ。父の宣帝《せんてい》(前七四〜四九年在位)が法律家を重用して厳罰主義をもって統治の方針としているのを見て、ある日、元帝は内輪の席上で、宣帝に「陛下の刑罰は厳格過ぎます。儒生《じゆせい》を用いるべきでございます」と申し上げた。宣帝は色をなしてこれを叱責して「漢家には固有の制度がある。根本は覇王《はおう》の道で、これを応用するのだ。徳だの教えだのといってばかりの周の政治など、役に立つものか。それに俗儒は現実の事情を理解せず、勝手に昔はよかった、今は悪いと言って、人を幻惑し、判断を誤らせる。あいつらに政治を任せられるものか」と言い、「わが家を乱す者は太子である」と嘆息した。
これは『漢書』の「元帝紀」に出ている話だが、宣帝は武帝の曾孫である。これによって、五経博士の設置から百年経った後でさえ、儒教の評価がいかに低かったかがわかる。
宣帝の悪い予感が当たって、儒教好きの元帝の死後わずか四十年で、漢の帝位は、元帝の皇后の甥の王莽《おうもう》に乗っ取られることになるのである。
およそ学問というものは、未来の予知を窮極の目的とするが、前一世紀の時期の儒教も、当時のあらゆる科学を綜合した、未来予知の一大体系に成長していた。王莽は熱心な儒教の信者で、儒教の予言に従って漢を乗っ取り、儒教の理論を守って政治を行った結果、中国世界は全面的に崩壊し、王莽も滅亡したのである。王莽は滅亡したが、代わって漢を再建した劉秀《りゆうしゆう》(後漢の光武帝)もやはり儒教徒で、儒教は後漢の政治の指導原理の地位を保った。つまり儒教の隆盛は王莽のお蔭であった。
『漢書』の末尾に「叙伝《じよでん》」という一篇があって、著者の班固が自分の出身と、著作の意図を述べているが、その中には、班固が王莽に寄せる好意が歴然と表れている。
「叙伝」によると、班固の家の始祖は山西の北部、モンゴル高原に接する国境地帯で、馬・牛・羊数千頭を所有する、地方の有力者であった。班固の曾祖父の班況《はんきよう》には三人の息子があった。その末子が班穉《はんち》で、すなわち班固の祖父である。
漢の元帝の皇后(元后)は王氏の出で、成帝《せいてい》を産んだ。前三三年、元帝が死んで、二十歳の成帝が皇帝となると、成帝の母である元后の兄の王鳳《おうほう》が後見役の大将軍となって、政治の全権を握った。王氏が勢力を得たのは、これからのことである。王鳳の弟の王曼《おうまん》の息子が、王莽である。
班穉の長兄の班伯《はんぱく》は、若くして『詩経』を学び、大将軍王鳳の推薦で、成帝の御学友となった。これは姉が、成帝の妾だったからである。
王莽は、班穉兄弟と同年輩で仲がよく、班穉の次兄を実の兄のように尊敬し、班穉を実の弟のようにかわいがった。班穉の次兄が死んだ時、王莽は特に喪に服し、多額の香典を贈った。班穉の息子の班彪《はんぴよう》が、『漢書』の著者の班固の父である。
成帝には後継ぎの息子がなく、前七年に死んだ後、甥の哀帝《あいてい》が皇帝となったが、これもわずか六年で死に、やはり後継ぎがなかった。この危機に、祖母の元后は自ら乗り出して、王莽に政治の全権を委任し、王莽と協議して、哀帝の従弟の、わずか九歳の平帝《へいてい》を皇帝の玉座に据えた。これは紀元前一年のことで、その五年後には、王莽は漢の帝位を乗っ取ってしまうことになる。
そういうわけで、『漢書』の著者の班固の家柄は、漢の帝室の外戚で、王莽の王氏と肩を並べる貴族であり、班固自身の祖父も、王莽の親友であった。しかもこの事実を、班固は『漢書』の著作の由来と関連して、「叙伝」に誇らしげに記しているのである。
さらに王莽の出自について、『漢書』の「元后伝《げんこうでん》」には、次のように、その高貴な家柄を伝えている。王莽は黄帝の後裔《こうえい》である。黄帝の八代の子孫が帝|舜《しゆん》であった。帝舜の子孫は、周の武王の時になって陳《ちん》国の君主となった。十三代の子孫が斉《せい》国に亡命して、大臣となり、田《でん》という姓を名乗った。それから十一代で、田和《でんか》が斉国を乗っ取り、二代後には王と称した。最後の斉王建《せいおうけん》は秦に滅ぼされたが、秦の始皇帝の死後、項羽《こうう》が建の孫の安《あん》を済北王《さいほくおう》とした。漢の高祖が興るに至って、安は王位を失ったが、斉の人々は彼の一族を「王家」と呼んだ。これが王氏の由来である。
この堂々たる名家ぶりに比べて、『漢書』が冒頭の「高帝紀《こうていき》」に記す漢の帝室の出自は、全くの庶民で、祖先も分からない。これは司馬遷の『史記』の「高祖本紀《こうそほんぎ》」そのままで、まことに愛想がない。漢の帝室に対する班固のこの冷淡ぶりは、王莽の輝かしい系譜や、王莽にかわいがられた班固の祖父の名誉の特筆と、顕著な対照になっている。
班固は、王莽が大好きであった。儒教が、班固の生きた後漢の初めの時代の中国の政治の指導原理となったのは、王莽の功績であった。儒教徒の班固は、実は王莽の功績を讃《たた》えるために『漢書』を書いたのであった。しかし王莽の事蹟だけを綴ったのでは、歴史にならない。王莽は漢の外戚として権力を握ったのだから、その事情の説明のためには、どうしても漢の皇帝の歴史を語らなければならない。すでに司馬遷の『史記』があって、歴史は紀伝体で書くものに決まっている。『史記』の続編でもいいのだが、それでは武帝の治世の中途からの歴史になって、不体裁である。区切りのいいのは、漢の初代の高祖劉邦から叙述を始めることである。こうした理由で、『漢書』が「断代史」の体裁を採ることになったのであって、王莽の功績を記述する都合上からであり、最初から「断代史」を意図したわけではなかった。
固定した正史の枠組み[#「固定した正史の枠組み」はゴシック体]
『史記』と『漢書』によって、中国型の歴史文化は完成した。その後、一七三五年の『明史《みんし》』に至るまで、全く同じ形式の紀伝体、同じ皇帝中心の歴史観の「正史」が、二千年間の歴代の王朝によって書き継がれ、「二十四史《にじゆうしし》」と総称されることになるのである。
しかし、体裁と歴史観こそ固定してしまったが、中国文明の運命は、その後も流動、変転を繰り返して止まなかった。
先ず、儒教主義の後漢《ごかん》の天下は、二百年も続かなかった。一八四年は、六十干支の最初の甲子《きのえね》の年だったが、この年、秘密結社の反乱(黄巾の乱)が中国世界の全土にわたって一斉に爆発して、人口は、五千万人台から、一気に四百万人台に激減し、華北の平原地帯では住民がほとんど絶滅した。
この中国文明の崩壊を引き起こした黄巾《こうきん》の乱は、「蒼天《そうてん》はすでに死せり、黄天《おうてん》まさに立つべし、歳は甲子《かつし》に在り、天下大吉ならん」の予言をスローガンとした、世界の終わりを信ずる典型的な千年王国運動であった。これは終末論が中国世界に現れた初めである。この乱に参加した秘密結社の信仰が道教である。この乱とともに、儒教は権威も信仰内容も失って、実体のある宗教ではなくなり、それに代わって道教が、中国思想の主流となった。
道教の一派の五斗米道《ごとべいどう》(正一教《せいいちきよう》、天師道《てんしどう》)に、『正一天師告趙昇口訣《せいいちてんしこくちようしようくけつ》』という経典があり、その中には、教祖|張陵《ちようりよう》の予言を次のように記している。天は人類の罪悪を怒って、世界を滅ぼすことを決定した。一四四年には大洪水があって、穢《けが》れを洗い流すだろう。二十四万人の「種民《しゆみん》」だけが生き残るが、その名簿は一五三年をもって締め切られる。一八四年には大戦争、大疫病、猛獣毒蛇の三災が降って世界を掃除し、ようやく一九〇年の末に至って「太平《たいへい》」(窮極の平和)が到来するが、その時、死者の魂はもとの肉体に帰り、白骨は再起し、血気はまた流通すること、夜眠って朝覚めるがごとくであろう。しかし「種民」の証明の「九光符《きゆうこうふ》」を持たない者は、再び死して魂は三官(天官、地官、水官)の神々に引き渡され、つぶさに苦痛をなめなければならない。「太平」の世には太上老君《たいじようろうくん》(メシヤ)が出現して君臨し、その治下で人はもはや死することもなく、寿命は一万八千歳に達するであろう。
この終末論のヴィジョンは「ヨハネの黙示録」そのままで、ペルシアのザラトゥシュトラ教からの影響が窺《うかが》われる。同様の千年王国運動は、中国世界ではその後も何度も繰り返された。中でも、十四世紀に紅巾《こうきん》の乱を起こして、モンゴル人の元帝国を転覆《てんぷく》した白蓮教《びやくれんきよう》は、明らかにザラトゥシュトラ教系である。紅巾から出て皇帝となった朱元璋《しゆげんしよう》(明の太祖|洪武帝《こうぶてい》)は、「大明《だいみん》」を国号としたが、この国号は、白蓮教で世界の終わりに出現することになっているメシヤの称号「小明王《しようめいおう》」と、対になるものであった。
ただし秘密結社の千年王国思想は、中国文明における歴史観に影響を残していない。これは歴史の枠組みが、黄巾の乱よりずっと前の『史記』と『漢書』において完成していたからである。そのため「歴史の終わり」という観念は、「正史」の歴史観には表れていない。時間にも歴史にも終わりがないのだから、時代によらず時間の価値には変わりはなく、いつの時代でも一年は一年で、全く等価値である。言い換えれば、歴史には、時代から時代への発展などというものはなく、従って発展段階もない。黄帝から孔子《こうし》に至る「聖人」(未来予知能力者)がすでに文明を創造しているので、文明の基準(道徳)さえ皇帝が守れば、いかなる時代にも理想の世界が実現するというのが、中国文明の変わらない歴史観であった。
中国文明における歴史が、「正統」の皇帝中心の不変の世界の叙述であることは、それからも長く変わらなかった。しかし中国世界の現実のほうは、「正史」が表現する中国人の歴史観とは関係なく、どんどん変化が進行した。そのため「正史」の枠組みは、時代が進むにつれて現実に合わなくなっていったが、一度『史記』、『漢書』によって確定したものに代わる枠組みが見つからないために、後世の中国の歴史家は、漢代に中国であった範囲内でしか、歴史が記述できない宿命にあった。
正史の枠組みの破綻[#「正史の枠組みの破綻」はゴシック体]
中国の変化の第一波は、さっき言った、一八四年の黄巾の乱に伴う、中国の人口の激減である。この中国文明の事実上の滅亡を経験した後漢の大学者|鄭玄《じようげん》は、天道《てんどう》(宇宙のサイクル)は千三百二十年で循環するという歴史理論を編み出し、殷に代わって天命を受けた周の文王の甲子の年(前一一三七年)から千三百二十年後の一八四年に、一つのサイクルが終わったと解釈した。もって当時の中国人が、事態をいかに深刻に受け止めたかがうかがわれる。
この中国世界の全面的な崩壊とともに、後漢の政権も事実上消滅し、絶え間のない内戦が続いたあと、二二〇年には魏の曹丕《そうひ》(文帝)が、二二一年には蜀《しよく》の劉備《りゆうび》が、二二九年には呉《ご》の孫権《そんけん》が、相次いで皇帝と自称した。その結果、かつて中国であった世界には、三人の皇帝が並立して、一つしかなかったはずの「正統」が三つに分裂するという、異常な事態が出現したのである。
この事態は、二八〇年に晋の武帝(司馬炎)が三国の統一を完成するとともに収拾された。その後で陳寿《ちんじゆ》(二三三〜二九七年)が書いた『三国志』六十五巻は、分裂時代の中国世界の「正史」である。叙述の対象が三つの帝国だから、その中身も「魏書」、「蜀書」、「呉書」の三部に分かれているのは当然だが、皇帝の「本紀」を立ててあるのは「魏書」だけであって、「蜀書」の劉備も、「呉書」の孫権も、事蹟は「列伝」として記述されている。この不公平な取扱いの差は、「正統」が後漢から魏に、魏から現王朝の晋に伝わった、という政治的な主張の表現である。
唯一の「正統」の皇帝を中心とする中国世界、という歴史観は、ここですでに破綻したが、次の中国の変化の第二波で、さらに大きく破綻することになる。
二世紀の末に中国人がほとんど死に絶えたので、魏の文帝は、河南と山東の一部を囲い込む境界線を引いて石の標識を立て、この地域を「中都の地」と名付け、僅かに生き残った領内の人口をかき集めて、その内に移住させた。その総数は、せいぜい二百五十万人程度とみられる。
無人地帯となった華北の空白を埋めるために、文帝の父の曹操《そうそう》は、内モンゴル西部に遊牧していた匈奴《きようど》人たちを山西高原に移して定住させていた。その後、せっかく晋によって二八〇年に回復した中国の統一が、わずか二十年しか続かず、三〇〇年に八王の乱が起こって、中国は再び内戦の巷《ちまた》となった。この混乱に乗じて、匈奴の王族の劉淵《りゆうえん》が、三〇四年、山西で反乱の旗を揚げて漢王と自称した。匈奴軍は三一一年には晋の首都の洛陽を占領して、晋の懐帝《かいてい》を捕らえた。二年後に懐帝が殺されると、晋の愍帝《びんてい》が長安(西安)で即位したが、三一六年には長安も匈奴軍に攻略されて、愍帝も捕らえられた。その翌年、三一七年の一年間は、中国世界には「正統」にも何にも、皇帝というものがなかった。これは中国史上、空前絶後の大事件であった。
三一八年になって、晋の皇族の司馬睿《しばえい》(東晋の元帝)が長江の南の建康《けんこう》(南京)で即位して、ここで初めて皇帝の称号が復活することになる。このころの江南の地は、まだ全然中国化していなくて、中国人の大きな集落は、南京《ナンキン》と武漢《ぶかん》にしかなかった。東晋《とうしん》は宋《そう》に、宋は南斉《なんせい》に、南斉は梁《りよう》に、梁は陳《ちん》に取って代わられるが、こうした南朝の歴代は、非中国人地帯に国を建てた亡命政権に過ぎない。ところが「正統」の歴史観から言うと、東晋の建国者は「正統」の晋の皇族であるから、東晋の皇帝も「正統」の皇帝でなければならない。東晋が「正統」なら、その継承国家の宋も、南斉も、梁も、陳も「正統」だということになる。
このこと自体、すでに滑稽であるが、弱体な南朝が江南で細々と続いていた間、華北の情勢はすっかり変わってしまっていた。三〇四年の劉淵の反乱で始まった五胡《ごこ》十六国の乱は、匈奴と同様に華北に移住させられていた遊牧民の多くの種族が参加して、百三十五年も続いた。やっと四三九年に至って、鮮卑《せんぴ》という遊牧民が建てた北魏《ほくぎ》が華北をことごとく統一して、ここに南北朝時代が始まった。約百年後、北魏は東西に分裂し、東魏《とうぎ》は北斉《ほくせい》に、西魏《せいぎ》は北周《ほくしゆう》に取って代わられる。やがて北周は北斉を滅ぼすが、その北周は隋《ずい》に取って代わられる。これらは皆、鮮卑系の王朝である。そして隋の文帝は五八九年、南朝の陳を併合して、中国世界はまた統一された。もともと非中国人だった鮮卑が、中国を再建したことになる。
隋は中国統一から三十年ももたずに、第二代の煬帝《ようだい》が六一八年に殺されて滅亡した。やはり鮮卑系の唐の太宗が、十年後に統一を回復する。唐の朝廷は、南北朝時代の「正史」として、『南史』と『北史』(ともに六五九年に完成)を編纂し、宋・南斉・梁・陳を『南史』で、北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋を『北史』で、それぞれ「本紀」を立てて扱った。これは二つの系列の皇帝を認めたことで、「天命」にも二つ、「正統」にも二つがあることになる。
自分が鮮卑系である唐の政治的な立場では、北朝も「正統」であると主張するほかに道はなかったのである。面白いことに、『北史』の冒頭には、北魏の帝室の出自を述べて、「祖先は黄帝であり、黄帝の息子の昌意《しようい》の末子が北方に国を建て、そこに大鮮卑山があったので、鮮卑と号するようになった」と言っている。これは司馬遷の『史記』をまねて、鮮卑系の北朝にも、歴史の始まりにさかのぼる、中国人の南朝と対等の「正統」の資格がある、と主張しているのである。これはずいぶん無理な話だったが、唐とそれ以後の時代になると、「正史」の枠組みで歴史を十分に叙述することは、さらに無理になって行く。
中央ユーラシアの草原では、五五二年、トルコ(突厥《とつけつ》)というアルタイ山脈の遊牧民の部族が国家を作り、たちまちかつての匈奴をしのぐ大遊牧帝国に成長した。これが第一次トルコ帝国である。当時の華北では、鮮卑が東魏と西魏、北斉と北周に分裂して抗争しており、各陣営は先を争ってトルコ帝国との同盟を求めた。その後、五八三年になって、トルコ帝国は東西に分裂し、モンゴル高原の東トルコ帝国は、隋と同盟する。隋の煬帝の末年、中国が内戦状態に陥ると、山西《さんせい》の太原《たいげん》の司令官|李淵《りえん》(唐の高祖)も兵を挙げたが、その際、李淵は東トルコ帝国のカガン(君主)に使者を送って、臣従の誓いを立てた。李淵の息子の唐の太宗(李世民《りせいみん》)が、中国統一の二年後、六三〇年に至って、東トルコ帝国を滅ぼすのである。
この時、草原の遊牧部族の首領たちは、太宗を自分たちの共通の君主に選挙して、「天可汗《てんかがん》」(テングリ・カガン)の称号を贈った。これから太宗は、西北地方に送る手紙には、「天可汗」と署名することにした。これは中国の「皇帝」と中央ユーラシアの遊牧帝国の「カガン」を一身に兼ねる君主が始めて出現したという、画期的な事件で、言い換えれば、歴史の舞台がこれまで中国だけであったのが、ここで初めて中央ユーラシアをも含むようになったのである。しかしこの重大な変化を「正史」の枠組みで取り扱うことは、中国の史官の手に余ることであった。
正史の欠陥[#「正史の欠陥」はゴシック体]
ところで唐の時代には、歴史の材料になる記録の編纂の手続きが完備した。一人の皇帝が死ぬごとに、その治世の出来事を年月日順に記した「実録」が編纂されるようになった。「実録」の材料は、皇帝が日々決裁した公文書で、最高級の官庁が皇帝に提出したものである。この「実録」は、王朝が倒れた後で、次の王朝が編纂する「正史」の根本資料になる。後世になると、王朝が健在なうちに、「実録」を基礎にして「国史本紀」を作り、さらにそれに対応して「国史列伝」を編纂するようになる。こうした手続きは、いかにも信頼すべきもののように見えて、実は重大な落し穴がいくつもある。第一に、およそ国家の最高方針に関する重要な決定は、下級官庁から上級官庁へという経路をたどって、文書の決裁という形式でなされることは少ない。むしろ皇帝の側近のごく小さなグループの内部で決定されるのが普通で、そうした決定はその性質上、文書になって残らないものであり、従って「実録」にも、「国史」にも、「正史」にも記録されるはずがない。
第二の落し穴は、「正史」の編纂を実際に担当する史官の性格である。隋の時代に科挙《かきよ》の試験が始まって、作詩・作文の能力を基準にして官僚を採用するようになった。唐の時代になると、科挙の及第者(「進士《しんし》」)の中でも特に優秀な者を翰林院《かんりんいん》という人材プールに入れて、皇帝の発布する公文書の代筆をさせるようになって、その仲間から歴史書の編纂官も出ることになった。ところで科挙の試験の出題範囲は、儒教の経典であった「五経」だったので、儒教は宗教としては道教と仏教に圧倒されて消滅していたけれども、また現実の政治には何の影響力もなかったけれども、儒教の政治学の用語や観念だけは生き残って、科挙出身の文人官僚が歴史をまとめる際の価値判断に影響を与えることになった。その結果、唐以後の「正史」には非現実的な面が多く表れて来る。その一例は、「正史」が歴史の軍事面を軽視することである。
中国のどんな王朝でも、政権の本当の基盤は軍隊であり、本当の最高権力は、常に皇帝を取り巻く軍人たちが握っていた。中華人民共和国で、真の最高権力機関が中央軍事委員会であって、中国共産党中央委員会ではないのを見ても分かる通りである。しかし軍人は文字の知識がなく、記録には縁がない。だから軍人の言い分は「正史」には表れない。これに反して科挙出身の文人官僚は皇帝の使用人に過ぎないのに、彼らの書く「正史」は、科挙官僚こそが皇帝の権力を支える基盤であり、中国の政治は科挙官僚の文人政治であったかのような、間違った印象を与えるように出来上がっている。これは儒教の理想論を反映しているだけのことだが、この事情が、これまで中国文明の歴史文化の真相の理解をどれほどさまたげてきたか、はかり知れないものがある。
鮮卑系の唐は八八〇年、黄巣《こうそう》の反乱軍に首都の長安(西安)を攻め落とされて弱体になり、間もなく九〇七年には黄巣の一味の朱全忠《しゆぜんちゆう》(後梁の太祖)に乗っ取られて滅亡した。華北を支配した後梁《こうりよう》は、わずか十四年でトルコ系の後唐《こうとう》に滅ぼされる。その後唐は、またわずか十三年後の九三六年には、キタイ(契丹)帝国の介入で滅亡し、同じくトルコ系の後晋《こうしん》が華北を支配する。また十一年後には、再びキタイが介入して、後晋は滅亡し、トルコ系の後漢《こうかん》がこれに代わったが、わずか四年しか続かなかった。後漢の後は、中国人の後周《こうしゆう》が十年間、華北を支配する。この混乱の半世紀が、五代と呼ばれる時代であり、そのうち三つの王朝がトルコ系であった。
鮮卑系の唐の「正史」を編纂したのは、トルコ系の後晋であって、九四五年に『旧唐書《くとうじよ》』二百巻を完成している。しかしその出来栄えはあまり誉めたものではなくて、唐の文人官僚が編纂しておいた記録をそのまま綴《と》じ合わせただけのものである。だからその枠組みも『史記』のままで、トルコ帝国に関する記述も、『史記』の「匈奴列伝」にならって、「突厥《とつけつ》列伝」に押し込めてしまい、六三〇年に唐の太宗が遊牧民の「天可汗」に選挙されたという画期的な大事件の意味も、全く理解していない。相変わらず、中国だけが歴史の舞台であり、歴史は中国の歴史である、という態度である。
唐の「正史」には、『旧唐書』のほかに、これを作りなおした『新唐書《しんとうじよ》』二百二十五巻があり、五代の後で中国を統一した宋朝(九六〇〜一一二六年)のもとで、一〇六〇年に完成している。宋は中国人の王朝だから、『新唐書』の歴史観も『旧唐書』と同様に中国中心で、トルコ帝国の扱いも冷淡なものである。
しかし現実の歴史の舞台は、とめどなく拡張を続ける。六三〇年に唐の太宗が中央ユーラシアの遊牧民の「天可汗」に選挙されてから半世紀の後、モンゴル高原では第二次トルコ帝国(六八二〜七四五年)が復興した。第二次トルコ帝国は、ウイグル帝国(七四四〜八四〇年)に取って代わられる。ウイグル帝国は、シベリアから侵入したキルギズ人に倒される。ウイグル帝国のあとには、東方から大興安嶺《だいこうあんれい》山脈を越えてキタイ(契丹)人のキタイ(遼)帝国(九一六〜一一二五年)が進出し、満洲からモンゴル高原を横断して中央アジアにまで及ぶ大帝国に成長した。キタイ帝国の支配範囲は、南方の中国方面では、長城沿いの北京と大同《だいどう》一帯だけだったが、やがて十二世紀に遼《りよう》に取って代わったジュシェン(女直、女真)人の金帝国(一一一五〜一二三四年)は、宋から淮河《わいが》以北の華北の地を奪う。そしてその金帝国の同盟部族であったモンゴルのチンギス・ハーンがモンゴル帝国を建設し、息子のオゴデイ・ハーンは金帝国を滅ぼす。孫のフビライ・ハーン(元の世祖)は、華中・華南に残った南宋朝(一一二七〜一二七六年)を滅ぼす。こういうぐあいに、中央ユーラシア草原では、六世紀以来、一連の遊牧帝国の系列が成長を続けて来て、とうとう十三世紀に至って、隋・唐の系列の中国のなごりを、完全に呑み込んでしまったのである。
フビライ・ハーンが建てた元朝のハーンたちは、当然のことながら、自分たちがこうした中央ユーラシア草原の帝国の系列に属することをはっきり自覚していた。彼らは歴史書の編纂に熱心で、一三四五年には『遼史』、『金史』、『宋史』という、三種の漢文の「正史」が完成している。この三つの歴史書には、それぞれに「本紀」が立ててある。宋は中国の王朝だが、遼と金とは中央ユーラシアの帝国である。これらすべてに「本紀」を立てたことは、隋・唐以来の中国の「正統」を承けた宋とは別に、中央ユーラシアには独自の「正統」があり、それがキタイから金を経てモンゴルに伝わったのだという、モンゴル人の認識を示している。歴史の舞台を中国の外まで広げて、中央ユーラシアを「正史」の対象に含めたのは、モンゴル人でなければ出来ないことであった。
ところが、そのあとがいけない。一三六八年にフビライ家の元朝が中国から撤退してモンゴル高原に引き揚げた後、中国には中国人の明朝(一三六八〜一六四四年)が成立した。モンゴル人の元帝国がアジアの東半分を支配したのに比べて、中国人の明朝の支配が及んだ範囲はせまく、ほとんど中国の内部だけに限られていた。モンゴル人の歴史を叙述する『元史』という漢文の「正史」を編纂したのはその明朝で、建国の翌々年の一三七〇年には早くも完成している。
『元史』が扱う時代は、一二〇六年のチンギス・ハーンの即位から始まって、一三七〇年にトゴン・テムル・ハーン(元の順帝)が避難先の内モンゴルで死ぬところで終わる。だから本来ならば、東は日本海・黄海・東シナ海から、西は黒海・地中海まで広がったモンゴル帝国の十三〜十四世紀の歴史をすべて対象とするべきところである。しかし実際には、『元史』はフビライ家の元朝の宮廷の記録に基づいて編纂されたものなので、一二六〇年にフビライ・ハーンが即位する前の時代の記述はあまり詳しくない。結局『元史』は、その名の通り、モンゴル帝国の中でも元朝の部分だけの「正史」である。
元朝は、東アジアの多くの地域を統合した大帝国だったが、一番重要な地域はもちろんモンゴル高原で、中国は元朝の植民地の一つに過ぎなかった。その中国を統治するための行政センターが大都《だいと》(北京)であり、元朝の中国統治に関する公文書はここに置いてあった。一方、中国以外の地域の統治に関する公文書は、内モンゴルの上都《じようと》の町にあったが、一三五八年、紅巾の反乱軍が上都を攻め落とした際に焼失した。『元史』の原資料は、明朝が一三六八年、大都を占領して手にいれた中国関係の公文書だったのである。そのため、『元史』の内容は、中国で起こった事件ばかりに偏っていて、かんじんのモンゴル高原や、満洲や、チベットや、中央アジアでの出来事にはほとんど全く言及がなく、空白のままになっている。結果として、『元史』は、『史記』、『漢書』以来の、中国だけを対象とする、古い「正史」の枠組みを出ることが出来ないままに終わっている。元朝が、モンゴル人が中国に入って建てた王朝(いわゆる「征服王朝」)であったかのように、よく誤解されるのは、こうした『元史』の性格に原因がある。
元朝は、一三六八年に中国を失った時に滅亡したわけではない。モンゴル人たちは、決して明朝を「正統」の皇帝と認めなかった。チンギス・ハーンの子孫の王家は、中央ユーラシアの到るところに生き残っていたが、モンゴル高原でも、元朝(北元)を名乗る王家が十七世紀まで存続し、最後のハーンの遺児は満洲人の君主に降伏して、モンゴル帝国の統治権を清朝(一六三六〜一九一二年)に引き継いだ。清朝は、かつての元朝を上回る広大な地域を統一して、ユーラシア大陸の東半分を支配する大帝国となったが、その清朝が編纂したのが、最後の「正史」となった『明史』である。
清朝が中国を征服したのが一六四四年で、『明史』はその九十一年後の一七三五年に完成している。『明史』の主な材料は、明朝の科挙出身の文人官僚が書いた「実録」であって、『明史』の編纂の実務に当たったのも、やはり科挙出身者の一派であった。そのため『明史』の内容は、明朝の実権を握っていた軍人や宦官たちの果たした役割を軽視し、文人官僚の功績を実際以上に高く評価する傾向が強い。
それでも、さすがに元朝の「正統」を承けた清朝の編纂だけあって、明朝とモンゴルとの関係の取り扱いは、『明史』では筋が通っている。すなわち『明史』は、モンゴルを外国として取り扱い、モンゴル関係の叙述を「外国列伝」に入れて、「韃靼《だつたん》」と標題を付けている。そしてその書き出しには、「韃靼(タタル)はすなわち蒙古《もうこ》(モンゴル)で、もとの元の後裔である」と断わっている。モンゴルが元朝の後裔であると明言するのは、中国人の歴史学では、モンゴルに「正統」があることを認めることにほかならない。明朝は中国だけの国家だったから、『明史』も中国だけを扱う「正史」にならざるを得なかったのである。
『史記』から『明史』までの二十四の「正史」は、最初から最後まで、中国世界の「正統」の歴史であった。歴史の舞台が中国の範囲を超えた時代には、枠組みが多少広がったことはあったが、全体としてはほとんど変わっていない。そのため、中国の歴史は停滞の歴史で、秦の始皇帝が「天下」を統一してから清の宣統帝《せんとうてい》が退位するまで、中国世界の性格にも、中国人という民族の実体にも、変化らしい変化はなかった、というような誤解が広まっている。しかし本当は、不変だったのは「正史」の枠組みと表現法であって、中国の実体の方は時代から時代へと変化し続けて来たのである。
中国史を世界史に組み込んで、まともな世界史を創り出すためには、いいかげんに「正史」の見かけにだまされることをやめて、「正史」の枠組みに収まりきれなかった現実を取り上げなければならない。それには、中国世界に強い影響を常に与え続けた中央ユーラシア世界の歴史を見直し、その角度から見て、筋の通った中国史を組み立てる必要がある。
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第4章[#「第4章」はゴシック体] 世界史を創る草原の民
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草原の遊牧民[#「草原の遊牧民」はゴシック体]
地中海文明の「歴史の父」ヘーロドトスの『ヒストリアイ』の第一巻には、ペルシアの初代の王キューロスのマッサゲタイ遠征の物語が載っている。これが、一番古い時代の、中央ユーラシア草原の遊牧民についての記録である。
それによると、キューロス王は新バビロニア帝国を征服(前五三九年)してしまうと、今度はマッサゲタイ人をも配下に収めたくなった。このマッサゲタイ人という種族の住地は、カスピ海の東、アラクセス河(ヴォルガ河)のかなたの大平原(現在のカザフ共和国)の少なからぬ部分を占めていて、人口も多く、勇猛な種族であり、黒海の北のスキュタイ人と同族であるともいわれた。
ヘーロドトスは、マッサゲタイ人の風俗を、次のように紹介している。
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「マッサゲタイ人の服装は、スキュタイ人の用いるものによく似ており、その生活様式も同様である。戦いの際には、馬を用いるものも、用いないものもある――彼らには騎兵も歩兵もあるのである。また弓兵、槍兵もあり、戦闘用の両刃《りようば》の斧《おの》を携えるのがこの国の慣習になっている。彼らは万事に金と青銅を用いる。槍の穂先、鏃《やじり》、戦斧《せんぷ》には専ら青銅を用い、頭飾り、帯、コルセットなどの装飾には金を使う。馬についても同様に、馬の胸にめぐらす胸当ては青銅製のものを用いるが、轡《くつわ》、馬銜《はみ》、額《ひたい》飾りなどは金製である。鉄と銀は全く用いない。この国では金と青銅とはともに無尽蔵であるが、鉄と銀の産出は全くないのである。
この国の風習は次のようである。男は一人ずつ妻を娶《めと》るが、男たちは妻を共同に使用する。マッサゲタイの男がある女に欲望を抱くと、その女の住む馬車の前に自分の箙《えびら》を懸け、なに憚《はばか》ることなくその女と交わるのである。
マッサゲタイの国では、年齢の制限というものが格別あるわけではないが、非常な高齢に達すると、縁者が皆集まってきてその男を殺し、それと一緒に家畜も屠《ほふ》って、肉を煮て一同で食べてしまう。こうなるのがこの国では最も幸せなこととされており、病死したものは食わずに地中に埋め、殺されるまで生きのびられなかったのは、不幸であったと気の毒がるのである。
農耕は全くせず、家畜と魚を食料として生活している。魚はアラクセス河からいくらでも獲《と》れるのである。また、飲料にはもっぱら乳を用いる。
神として崇敬《すうけい》するのは太陽だけで、馬を犠牲《ぎせい》に供《そな》える。馬を供える心は、神々の中で最も足の早い神には、生きとし生けるものの中で最も足の早いものを供えるというのである。」
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キューロス王は、この勇猛なマッサゲタイ人の国に攻め込んだが、女王トミュリスの軍勢に敗れて戦死した。前五二九年のことであった。
ヘーロドトスの記述から見れば、マッサゲタイ人がカザフスタン草原の遊牧民であることは明らかである。固定式の家屋に住まず、馬車に住んで移動するし、農耕は全くせず、牧畜で生活している。夫が自分の妻を独占できないというのは、女の自主性が強くて、好む男を勝手に選べることを意味する。これは遊牧民の社会の特徴である。その他、馬を大切にし、騎馬が得意なこと、黄金と青銅製の武器、装身具、馬具を使用することなどは、ことごとく古い時代の遊牧民の文化であって、こういう文化は、これから言うように、東はモンゴル高原から、西は黒海の北に至る広大な中央ユーラシア草原の、隅から隅まで普及していた。
[#挿絵(img/fig5.jpg、横×縦)]
前五一三年になると、第三代のペルシア王ダーレイオスが、軍を率いてボスポロス海峡とイストロス河(ドナウ河)を渡り、黒海の北のスキュタイ人の国に攻め込んだが、スキュタイ人のゲリラ戦に悩まされて征服に失敗した。この遠征に関連して、ヘーロドトスは『ヒストリアイ』の第四巻で、スキュタイ人の風俗について詳細な記録を残している。
それによると、この時代のスキュタイ人の住地は、西はイストロス河(ドナウ河)から東はタナイス河(ドン河)まで、つまり現在のルーマニアから、モルドヴァ、ウクライナ、北コーカサスまで広がっていた。スキュタイ人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河(ヴォルガ河)を渡り、黒海の北岸に移った。この地方の先住民族であったキンメリア人は、大挙して押し寄せたスキュタイ人から逃れて南下してアジア(現在のトルコ共和国のアナトリア半島)に入り、黒海の南岸のシノペ半島に住みついた。スキュタイ人はこれを追って、コーカサスを通って南下し、メーディア(イラン高原)に侵入して、二十八年間この地方を支配した後、黒海の北に引き揚げた。これは前八世紀の末のことであった。
スキュタイ人の伝承によると、昔、三人の兄弟があったが、その時代に天から黄金製の器物――鋤《すき》に軛《くびき》、それに戦斧《せんぷ》と盃《さかずき》――が地に落ちてきて、長兄が一番にこれを見つけ、それを取ろうとして近づいたところ、その黄金が燃え出した。長兄が離れた後、次兄が近づくと、黄金はまたしても同じことを繰り返した。こうして黄金の器物は燃えて二人の兄を近づけなかったのであるが、三番目に末弟が側へゆくと火は消え、末弟はそれをわが家へ持って帰った。そこで二人の兄も、末弟に王権をことごとく譲ることに同意した、というのである。
三人の兄弟は、それぞれ氏族の祖となり、末弟の子孫は、スキュタイの王族となった。かの黄金製の器物は、歴代の王が何にもまして大切に保管し、年ごとに盛大ないけにえを捧げて神のごとく敬《うやま》い祭っている。祭礼の際、野外でこの黄金の聖器を奉持している者が眠った場合には、この者が一年以内に死ぬという言い伝えがある。そのために、この役の者には、彼が騎馬で一日間に乗り回すことのできるだけの土地が与えられるという。
スキュタイ人の王が死ぬと、遺骸《いがい》には全身に蝋《ろう》を塗り、腹を裂《さ》いて臓腑《ぞうふ》を出した後、香草を詰めて再び縫い合わせる。遺骸は、支配下の種族の国々を一巡《いちじゆん》した後、ボリュステネス河(ドニェプル河)の中流沿いの王陵の地に運ばれる。そこでは四角形の大きい穴の中の、畳の床に遺骸を安置し、両側に槍を突き立てて、上に木をわたし、さらにむしろをかぶせる。墓の中の空間には、死んだ王の側妾《そばめ》の一人を絞殺《こうさつ》して葬《ほうむ》り、さらに酌《しやく》小姓、料理番、馬丁、侍従、取次役などの侍臣、馬、それに万般の品々から選び出した物と、黄金の盃も一緒に埋める。盃は銀製のものも青銅製のものも一切用いない。これがすんでから、墓穴の上に巨大な塚を盛り上げる。
埋葬から一年が経つと、死んだ王の侍臣《じしん》の生き残りのうち、王に最も親しく仕えた者五十人と、最も優良な馬五十頭を絞殺し、臓腑を抜いて掃除したのち、もみがらを詰めて縫い合わせる。馬の胴体には太い棒を通し、その両端を、それぞれ車輪を半分に切って作った支えにかけて立てる。馬の四肢は宙にぶらさがる。これに馬具をつけ、手綱は前方に引っ張って小さな杭《くい》に縛《しば》りつける。こうした五十頭の馬に、五十人の侍臣の死骸をそれぞれ乗せ、背骨に沿って棒を頸《くび》まで通し、その下の端を馬に通した棒の穴にはめこむ。このような死んだ騎士たちを、王の墓のまわりに立てるのである。
以上の記述で明らかなように、スキュタイ人はマッサゲタイ人と同じく、黄金を好み青銅器を使用する、騎馬の遊牧民であった。ヘーロドトスはスキュタイ人についてこう言っている。
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「彼らを攻撃する者は一人として逃れ帰ることはできず、また彼らが敵に発見されまいとすれば、誰も彼らを捕捉《ほそく》することはできない。それも当然で、町も城塞も築いておらず、その一人残らずが家を運んでは移動してゆく騎馬の弓使いで、生活は農耕によらず家畜に頼り、住む家は獣に曵《ひ》かせる車である。そのような種族にどうして、戦って勝つことはもとより、接触だにすることができよう。」
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中央ユーラシアの草原の道[#「中央ユーラシアの草原の道」はゴシック体]
さて、ヘーロドトスによると、スキュタイ人の国の東の境であるタナイス河(ドン河)のさらに東方には、スキュタイ王に属しない、別種のスキュタイ人が住んでいる。ここまでの地域は、いずれも土壌の深い、平坦な土地であるのに対し、ここから先は小石や岩だらけの荒れ地がつづく。この荒れ地を過ぎると、高い山脈(ウラル山脈)の麓《ふもと》に、アルギッパイオイ人という、男も女も生まれながらの禿頭《はげあたま》であるという種族が住んでいる。獅子鼻で顎《あご》が張り、服装はスキュタイ風だが、独自の言語を話し、木の実を常食としている。彼らの住処《すみか》は夏は樹蔭で、冬には樹に白いフェルトの覆いをかける。
このアルギッパイオイ人の国までは、スキュタイ人もギリシア人も訪れることがある。これから先については、さらに東方にイッセドネス人が住んでいることだけが確実である、とヘーロドトスは言っている。
先に紹介した通り、スキュタイ人が黒海の北に移住したのは、マッサゲタイ人の攻撃を避けるためであったが、ヘーロドトスによると、スキュタイ人の移住は、マッサゲタイ人でなく、イッセドネス人の攻撃の結果であったという説もあったのである。
それによると、アリステアスという不思議なギリシア人がいて、その作詩した叙事詩(『アリマスペイア』)の中で、自分がアポッローン神によって神懸《かみが》かりとなり、イッセドネス人の国に行ったことを述べ、イッセドネス人の向こうには一つ眼のアリマスポイ人が住み、その向こうには黄金を守る怪鳥グリュプスの群、さらにその向こうにはヒュペルボレオイ人(「北風のかなたの人々」の意味)が住んで海に至っている、と語っている。ヒュペルボレオイ人を除いては、アリマスポイ人をはじめとして、これらすべての種族は、絶えず近隣の種族を攻撃していた。イッセドネス人はアリマスポイ人によって国を逐《お》われ、スキュタイ人はイッセドネス人に逐われ、さらに南方の海(黒海)近くに住んでいたキンメリア人は、スキュタイ人の圧迫をうけてその地を離れたと、アリステアスは言う。
スキュタイ人が伝えるところによると、イッセドネス人の風習は次のようなものであるという。ある家の父親が死亡すると、親戚縁者がことごとく家畜を携えて集まり、これを屠《ほふ》って肉を刻み、さらにその家の主人の死亡した父親の肉も刻んで混ぜ合わせ、これを料理して宴会を催すのである。死者の頭は、毛髪その他を取り除き、きれいに掃除した後、金をかぶせ、これを礼拝物のごとく扱い、毎年盛大にいけにえを捧げて祭る。この国では、女子も男子と同等の権利を持っている。
イッセドネス人の国のさらに向こうの、一つ眼のアリマスポイ人と、黄金を守る怪鳥グリュプスの話は、スキュタイ人がイッセドネス人から聞いて、ギリシア人に伝えたものである。スキュタイ語で「アリマ」は「一」、「スプウ」は「眼」を意味すると、ヘーロドトスは言っている。
このヘーロドトスの記述で見ると、イッセドネス人はマッサゲタイ人によく似ている。住地は、一方がウラル山脈の東方、他方がヴォルガ河の東方で、ともにカザフスタン草原である。死者の肉を家畜の肉と混ぜて食うことは同じであるし、女の権利が強いことも同じである。これは同じ種族についての情報が、別々の経路でギリシア人に伝わったのであって、「イッセドネス」はスキュタイ語での呼び名、「マッサゲタイ」はペルシア語での呼び名なのである。
そのイッセドネス人を攻撃して国から逐い出して、カザフスタン草原に移住させた――とアリステアスが言う――一つ眼のアリマスポイ人は、カザフスタンのさらに東方のジュンガル盆地(新疆ウイグル自治区の北半分)の遊牧民に違いない。ここからさらに東にアルタイ山脈を越えればモンゴル高原である。
このアルタイ山脈が、黄金を守る怪鳥グリュプスの群の居るところである。黄金をトルコ語では「アルトゥン」、モンゴル語では「アルタン」というが、中国の歴史書『後漢書』にも、紀元九一年の戦争の記述の中で、アルタイ山脈を「金微山《きんびさん》」と呼んでいて、この山脈の名前は黄金に縁がある。
そうなると、グリュプスのさらに向こうに住むというヒュペルボレオイ人は、当然、モンゴル高原の遊牧民でなければならない。そしてヒュペルボレオイ人の住地が広がって海に至っているという、その北方の「海」は、ブリヤート共和国のバイカル湖である。バイカル湖は、やはり中国の司馬遷の『史記』に「北海」として出てくる。
アリステアスの叙事詩『アリマスペイア』の原文は今は伝わっていないが、ヘーロドトスが引用しておいてくれたおかげで、バイカル湖畔から西へ、モンゴル高原、ジュンガル盆地、カザフスタン草原、北コーカサスを通って、ウクライナに達する中央ユーラシア草原の道が、前八世紀にすでに開けており、この草原の道を通って遊牧民の西方移動が起こったことがわかる。こうした遊牧民の西方移動は、これ以後のどの時代にも繰り返されたものである。
インド・ヨーロッパ人[#「インド・ヨーロッパ人」はゴシック体]
ところで実を言うと、草原の道を通った遊牧民の移動は、前八世紀に初めて起こったわけではなかった。現在、ヨーロッパ大陸の全域、西南アジアのイラン高原、南アジアのインド亜大陸の大部分を占めている人々は、インド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々だが、この人々は、もともと中央ユーラシアの内部のどこかに住んでいたのである。その最初の住地から、彼らが西方および南方に向かって移動を開始したのは、前三千年紀のことであった。そして前二千年紀の初めには、ヒッタイト人が西アジアのアナトリアに入って来て古王国を建設したが、このヒッタイト人が文字に残した言語が、最古のインド・ヨーロッパ語の記録と認められている。
ヒッタイト人と同時に、ヨーロッパでは、ギリシア人がバルカン半島を南下して来て、現在のギリシアの地に定住した。ギリシア語は、もちろんインド・ヨーロッパ語である。ギリシアの北方では、ドナウ河から西へ、アルプス山脈の北からピレネー山脈の北にかけて、インド・ヨーロッパ語を話すケルト人が広がった。ただし現在のヨーロッパでは、最も西の端だけにケルト語(アイルランドのゲール語、ブリテン島のウェールズ語、ブルターニュ半島のブルトン語)が残って、中央ヨーロッパ、西ヨーロッパのかつてのケルト語地帯は、あとから来たゲルマン語(ドイツ語、英語)やロマンス語(フランス語)などに占領されてしまっている。そしてケルト人がインド・ヨーロッパ人の最先頭に立って入って来る前にも、ヨーロッパには人が住んでいたので、その人々の言語は、ピレネー山脈の中のバスク語となって残っている。
西の方でヨーロッパに入るのとほぼ同時に、南の方でも、インド・ヨーロッパ語を話すアーリア人が、イラン高原から南下して、インド亜大陸の北部に入り、ドラヴィダ語を話していたインダス文明のハラッパーやモヘーンジョ・ダロなどの都市を滅亡させた。このアーリア人の言語が、のちのヴェーダ語やサンスクリット語など、インド系の言語の祖先になった。
こうした大移動の前の、インド・ヨーロッパ人の原住地がどこであったかは、まだわかっていない。しかしヒッタイト語に最も近い特徴を持つトカラ語という言語があって、中国の南北朝・隋・唐と同時の六〜八世紀の頃に、タリム盆地(新疆《しんきよう》ウイグル自治区の南半分)のオアシス都市で話されていた。このトカラ語は、その後消滅して、トルコ語に取って代わられたが、トカラ語で書いた文書がオアシス都市の遺跡から発掘されている。トカラ語が書き留められた時代は新しいが、こうした古風なインド・ヨーロッパ語が後世まで残っていたところから見ると、最初にインド・ヨーロッパ語を話した人々は、このあたりの原住民だったらしい。おそらく、タリム盆地から北に天山《てんざん》山脈を越えた、ジュンガル盆地の草原の遊牧民だったのであろう。前に言ったように、ジュンガル盆地は、前八世紀に一つ眼のアリマスポイ人が東方から侵入して、先住民のイッセドネス人を西方のカザフスタン草原に逐い出したところである。
話をもとにもどすと、スキュタイ人の王国は、ドン河からドナウ河まで広がる草原を支配して、一千年近く繁栄を続けた後、紀元三世紀の半ばになって、西北方から侵入したゲルマン系のゴート人に滅ぼされた。そのゴート人は、ドニェストル河を境にして東西の二つの王国に分かれ、東ゴート王国はドニェストル河からドン河まで、西ゴート王国はドニェストル河からドナウ河までを支配した。
その後、三七〇年代になると、東方から中央ユーラシアの草原の道を通ってフン人という新たな遊牧民がやって来て、先ず北コーカサスのアラン人(現在の北オセト共和国のオセト人)を征服し、続いてドン河を渡って東ゴート人を征服して、黒海の北の草原を制圧した。西ゴート人は三七五年、ドナウ河を渡って、ローマ帝国領に避難した。こうしてゲルマン人の大移動が始まった。この大移動を引き起こしてヨーロッパの運命を変えたフン人は、はるか東方のモンゴル高原から移動して来たのである。ここで話は、しばらく地中海世界の歴史を離れて、中国世界の歴史に移る。
匈奴《きようど》帝国の出現[#「匈奴《きようど》帝国の出現」はゴシック体]
この前の第三章で、司馬遷の『史記』の「本紀」の構成に関連して説明したように、夏《か》人は、東南アジア系の文化を持った種族(東夷)で、内陸の水路を遡《さかのぼ》って来て、河南《かなん》の黄河《こうが》中流域に、東アジア最古の都市国家を建てたのである。前二千年紀の前半のことで、彼らの文化が、後世の中国文明の基層になった。
その夏人の都市を征服したのが、前二千年紀の半ばに北方から侵入した狩猟民(北狄)の殷《いん》人である。黄河中流の北岸に接する山西《さんせい》高原から、その北の内モンゴル東部にかけては、古くはカエデ、シナノキ、カバ、チョウセンマツ、カシ、クルミ、ニレなどの茂る森林地帯で、この森林は東北に延びて、満洲《まんしゆう》・シベリアの森林につながっていた。殷人は、この森林の住民だったのであろう。
さらにその殷人の都市を征服したのは、前二千年紀の末に西方の草原から侵入した遊牧民(西戎)の周《しゆう》人であった。周人とその同盟種族は、華北の黄河流域の平原の諸都市を支配し、その城壁の中では東夷《とうい》系・北狄《ほくてき》系・西戎《せいじゆう》系の人々が混じり合った。これに対して、華中の湖北には、山地の焼畑農耕民(南蛮)出身の楚《そ》人が王国を建て、長江《ちようこう》・淮河《わいが》流域を支配して、華北の諸国と競争した。最後に、前三世紀になって、西北方の西戎出身の秦《しん》王国が、華北・華中の都市国家を次々に征服し、前二二一年に統一を完成して、秦王|政《せい》(秦の始皇帝)が皇帝の称号を初めて採用した。これが中国という世界と、その中心を成す皇帝という制度の始まりであった。
こうした前二千年紀に始まる、中国以前の都市国家の時代を動かした人々は、中央ユーラシアから繰り返し侵入して都市を支配した狩猟民・遊牧民であった。彼らが持ち込んだ中央ユーラシアの文化が、基層の東南アジア系の文化の上に重なって、前二二一年の秦の始皇帝の統一とともに、中国文明という形を取ったのである。中央ユーラシアからの刺激なしでは、黄河の流域に都市国家が成長し、中国文明が成立することもなかったであろう。
中央ユーラシアからの力の働きで、中国に最初の統一帝国が出現するのとほとんど同時に、中央ユーラシア自体にも、最初の草原の遊牧帝国が出現した。それが匈奴《きようど》である。
中国世界の「歴史の父」司馬遷が『史記』の「匈奴列伝」篇に記すところによると、匈奴はモンゴル高原の遊牧民であった。
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「その家畜のうちで多いものは馬、牛、羊で、珍しいものとしては駱駝《らくだ》、驢馬《ろば》、騾馬《らば》などがある。水と草を求めて移動して暮し、都市や固定家屋や耕作地はないが、それでもそれぞれ割当ての土地はある。文字はなく、口頭で命令を伝える。子どもは上手に羊に乗り、弓を引いて鳥や鼠《ねずみ》を射る。少し成長すれば、狐《きつね》や兎《うさぎ》を射て、食用に当てる。大人の男で弓を引き絞《しぼ》るほどの力のある者は、みな騎兵となる。その習慣として、平和時には家畜の世話をするかたわら、鳥や獣を射て取って生活を立てる。緊急時には一人一人が戦士になって戦争に出かける。これが彼らの生まれつきである。遠距離戦用の武器には弓と矢、近距離戦用の武器には刀と槍がある。戦況が有利ならば前進し、不利ならば後退して、遁走《とんそう》することを恥じない。君主をはじめとして、みな家畜の肉を食い、その皮を着、フェルトや毛皮を被《かぶ》る。壮年の者は脂《あぶら》ののったうまいところを食い、老人はその余りを食う。壮年で力強い者を尊敬し、老いて弱い者を軽蔑する。父が死ねば、息子は継母《ままはは》と結婚する。兄弟が死ねば、みなその寡婦《かふ》と結婚する。その習慣として、名前を呼び捨てにして平気で、姓も字《あざな》もない。」
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匈奴の君主の称号を「単于《ぜんう》」といい、冒頓《ぼくとん》単于が現れて最初にモンゴル高原を統一したのは、秦の始皇帝が前二一〇年に死んだあと、項羽《こうう》と劉邦《りゆうほう》(漢の高祖)が中国の天下を二分して争っていた時期のことであった。冒頓単于の勢力は強大となり、戦士三十余万人を率いるようになった。
冒頓単于の作り上げた匈奴帝国は、多くの遊牧民の部族の連合体であった。司馬遷の伝えるところによると、単于の下には左賢王《さけんおう》、右賢王《うけんおう》以下、二十四人の部族長があって、それぞれ多い者で一万人、少ない者で数千人の騎兵を率い、「万騎《ばんき》」(万人隊長)と呼ばれた。こうした大臣たちの地位はみな世襲で、その中で最も格が高いのは呼衍《こえん》氏族、蘭《らん》氏族であり、これらに次ぐのは須卜《しゆぼく》氏族であった。これらの部族長は左方と右方に分かれており、左方の部族長たちはモンゴル高原の東部に居て、北京以東、満洲・韓《かん》半島方面の前線を担当した。右方の部族長たちはモンゴル高原の西部に居て、陝西《せんせい》以西、中央アジア方面の前線を担当した。単于自身の宮廷は中央にあって、山西の前線に向かい合っていた。単于以下、それぞれ割当ての土地があって、その範囲内で水と草を求めて移動するのであった。二十四人の部族長は、それぞれ自分の下に千長(千人隊長)、百長(百人隊長)、什《じゆう》長(十人隊長)などの官を置いた。
陰暦の正月には、単于の宮廷で小規模の祝祭があった。夏の半ばの陰暦五月には、竜城《りゆうじよう》というところで大集会があり、祖先と天地と神々を祭った。秋になって馬が肥えると、帯林《たいりん》というところで大集会があり、そこで人口と家畜の頭数を集計した。戦争では、身分のある敵を斬った者には、戦利品をそのまま与え、捕虜はその者の奴隷にした。そのため戦争には、それぞれ自分の利益のために進んで出かけ、おとり作戦で敵中に突入するのも平気である。敵を見れば、利を求めて集まることは、鳥の集まるようであり、形勢が不利になれば、瓦が砕け雲が散るように散ってしまう。戦場で戦死者を収容した者は、その戦死者の財産をすべて自分のものにできた。
司馬遷が描写する匈奴の風俗は、千数百年後のモンゴル人そのままである。風俗だけでなく、東方を担当する左翼、西方を担当する右翼、万人隊長以下、十人隊長に至る十進法の身分の格付けという匈奴帝国の制度は、これからあとの代々の遊牧帝国に引き継がれて伝統となる。チンギス・ハーンのモンゴル帝国でも、東方の部族は左翼の万人隊長、西方の部族は右翼の万人隊長の指揮下にあって、部族長たちは千人隊長と呼ばれ、それぞれその下には百人隊長、十人隊長があった。
匈奴帝国は、中国の漢帝国に対して、軍事力で常に優位に立った。前二〇〇年、最初の衝突が起こり、漢の高祖は大同《だいどう》の東方の白登《はくとう》というところで冒頓単于の大軍に包囲され、単于の皇后に手厚い贈物をして、やっと脱出を許された。これを機として匈奴と漢の間に和親が成立して、長城以北の遊牧民はすべて単于に属し、以南の定住民はすべて皇帝に属することを取り決め、漢の皇族の娘を単于に嫁入らせ、漢は毎年匈奴に絹織物・酒・米・食物を贈り、単于と皇帝は兄弟となることになった。こうした中国の皇女の嫁入りと、中国からの毎年の贈物と、君主どうしの兄弟格の交際は、これから十三世紀に至るまで、遊牧帝国と中国の和親関係の定例になる。
前一七六年、冒頓単于は漢の文帝に手紙を送って、匈奴が西方の月氏《げつし》という種族を撃破して、天山山脈の北のジュンガル盆地の遊牧民と、南のタリム盆地のオアシス都市を制圧したことを通告した。ヘーロドトスが伝えたような、モンゴル高原から草原の道を西へ西へと向かう大移動が、再び始まったのである。
遊牧帝国の論理[#「遊牧帝国の論理」はゴシック体]
モンゴル高原の遊牧民が統合されると、すぐに征服戦争を始めるのには理由がある。もともと遊牧という生活形態では、平時には団結の必要はあまりない。年間の降雨量が少なくて、草の生えかたがまばらなので、一箇所に定住すると、家畜がすぐ草を食いつくしてしまって、生活が成り立たない。そのため春、若草のころから移動を始め、家畜に草を食わせながら、夏から秋へと草原をゆっくり移動して、冬になると南向きの谷に入って冷たい北風を避ける。この移動しながらの牧畜が遊牧である。移動といっても、むやみやたらに動き回るのではなくて、越冬のための冬営地と、避暑のための夏営地とがきまっていて、その間を往復するのが普通である。
遊牧生活はこうした性質のものなので、一箇所に人口が集中すると、草の量が足りなくなって、生活を支えるのに十分な数の家畜が飼えない。そのため一緒に遊牧するのは、せいぜい数家族どまりである。言い換えれば、遊牧民が暮らしていくためには、大きな組織や社会の統合は必要がない。家畜だけあればいいのである。だから独立経営の遊牧民は自由で気位が高く、農耕民が共同作業の植え付けや灌漑《かんがい》や取入れのために、組織への屈従に甘んじなければならないのとは、大違いである。
そうした遊牧民が団結する契機は、農耕民との交易であった。人間の栄養には、肉や乳製品ばかりでなく、カロリー源の糖質も必要だが、乾燥したモンゴル高原は農耕に適せず、穀物は手に入らない。また養蚕《ようさん》ができないので、衣類を作るのに必要な絹織物も手に入らない。そこで遊牧地帯と農耕地帯の境界で交易が行われるのだが、その場合、交易市場に遊牧民が持って来る商品は、先ず馬である。
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馬は、戦車を牽《ひ》くためや騎兵の乗用のために、軍隊には欠かせないが、華北の平原では育たず、繁殖《はんしよく》しない。そのため中国以前の都市国家でも、統一以後の中国でも、馬は毎年、モンゴル高原から輸入しなければならなかった。また食塩も、人間の生存に欠かせないが、華北の平原では手に入らず、一方、モンゴル高原には塩湖が多くて、良質の食塩が豊富に採れる。そのほか、毛皮や、羊毛や、皮革製品などもモンゴル高原の特産で、遊牧民はこうした物を農耕地帯に輸出して、必要な穀物や絹織物などと交易する。
こうした交易が平和に順調に行われているかぎり、遊牧民はおのおの家族単位で独立して自由な暮らしを楽しめるが、いったん中国に強力な統一帝国が出現してしまうと、もうそうはいかない。国境貿易は中国皇帝の直轄《ちよつかつ》となり、商品の価格はどこの市場でも同じで、しかも遊牧地帯の産物は安く、農耕地帯の産物は高く統制されて、遊牧民にとっては決定的に不利になる。もし遊牧民が、不当な買い叩きに抵抗すれば、生活必需品の供給を差し止められる。追いつめられて暴力を振るっても、中国の軍事力には、遊牧民はそのままでは勝つ見込みはない。
こうした状況になると、遊牧民としても団結して、中国に対する交渉にも戦争にも備える必要が生じる。前二二一年の秦の始皇帝の中国統一の直後に、モンゴル高原に匈奴《きようど》の最初の遊牧帝国が出現したのは、まったく中国に対抗する必要から、冒頓単于《ぼくとんぜんう》を中心として遊牧民が団結した結果であった。ただし、遊牧帝国の本質は部族連合である。その連合の中核となるのは、単于の軍旗のもとに馳《は》せ参じた人々が構成する親衛《しんえい》軍で、これがそのまま単于の宮廷でもあり、遊牧帝国の中央政府に当たるものでもある。そういうわけで、単于の身辺には常におびただしい数の人々が集まり、その人々の生活を支えるために必要な、さらに大きな数の家畜が集まる。これだけ多くの人口と家畜が一箇所に密集すると、当然、家畜に食べさせる草は足りなくなる。その不足を補うためには、どうしても多量の穀物を農耕地帯から獲得しなければならない。
さらに人々は、君主が自分たちの生活を楽にし、豊かにしてくれることを期待して、君主を支持したのだから、君主たる者は、自分に付き従う遊牧民から財物を徴収《ちようしゆう》するなど問題外で、むしろ自分の才覚でよそから調達した財物を、気前よく民に分け与えなければならない。それができなければ、遊牧民の君主としては失格である。このことは匈奴の単于から、モンゴルのハーンに至るまで変わっていない。民に賜与《しよ》すべき財物を手っとり早く獲得するには、中国を軍事力で脅迫して経済援助を提供させるか、それでも足りなければ中国の辺境に侵入して掠奪《りやくだつ》を行うのである。漢との和親関係が成立しているにもかかわらず、匈奴の軍が前一六六年から何度も漢に大規模な侵入を繰り返したのは、こうした事情からであった。
匈奴の侵入に対して、漢はなすすべもなかった。前一四一年になって漢の武帝が即位すると、しばしば大軍をモンゴル高原に送って匈奴を征伐《せいばつ》したが、漢の側が莫大《ばくだい》な数の死傷者を出しただけであまり効果はなく、匈奴の単于を漢の皇帝に臣従させることはできなかった。これは、遊牧民の軍隊は全員が騎兵なので速やかに移動ができるのに対して、農耕民出身の軍隊は大多数が歩兵で進軍がおそく、なかなか敵を捕捉《ほそく》できない。その上、農耕民出身の軍隊の主食は穀物で、草原地帯では手に入らないので、主力部隊の進軍路の要所要所に、あらかじめ牛車隊が食糧を大量に運んで集積しておかなければならない。この無防備の輸送部隊は、敵の恰好《かつこう》の襲撃目標になる。そういうわけで、モンゴル高原での戦争では、頭数の少ない遊牧民側が、農耕民出身の大軍に対して常に有利な立場にあったのである。
前一世紀の半ばになって匈奴の中で単于の位をめぐって内乱があり、一方の呼韓邪《こかんや》単于は漢と同盟して、前五一年、自ら長安《ちようあん》(西安)を訪れて皇帝と会見し、下にも置かぬ丁重な待遇を受けた。遊牧帝国の君主が自ら中国皇帝を訪問したのは、先にも後にも例を見ないが、これは匈奴の分裂という内部事情のためである。
呼韓邪単于は前三三年にも長安を訪問したが、このとき漢の元帝は、王昭君《おうしようくん》という貴族の娘を単于に嫁入らせた。王昭君は、元帝の皇后王氏の一族で、すなわちこれから二十五年後に漢の帝位を乗っ取る王莽《おうもう》の一族ということになる。王昭君は呼韓邪単于と結婚して男の子を一人産み、呼韓邪単于の死後は、次の単于と再婚して女の子を二人産んでいる。
これまで匈奴の単于は漢の皇帝と対等の関係にあったが、王莽が漢を乗っ取って皇帝となると、乱暴にも、単于を中国の地方行政官の扱いに一方的に改めた。儒教の教義からすると、単于は皇帝の臣下であるべきだというのが、王莽の立場である。当然ながら和親は破れて、匈奴軍は連年、中国に侵入し、北辺は荒廃した。王莽は匈奴討伐のために大軍を召集したが、かえって全国の反乱を引き起こして、紀元二三年、王莽は滅亡した。この内乱で中国は大打撃を受けた。紀元二年の統計では、中国の人口は五九、五九四、九七八人、約六千万人であったが、王莽時代の内乱で人口は半減し、王莽の滅亡後も続いた内乱でさらに半減して、後漢《ごかん》の光武帝《こうぶてい》が紀元三七年に中国の統一を回復した時には、約一千五百万人しか生き残っていなかった。光武帝が紀元五七年に死んだ時の人口はやや回復しているが、それでも半世紀前の三分の一の、たった二一、〇〇一、八二〇人である。
ちょうどこのころ、匈奴でまた内紛があり、ゴビ砂漠を境にして、外モンゴルの北匈奴と内モンゴルの南匈奴に分裂した。南匈奴は後漢の中国と同盟して、長城沿いに遊牧し、その単于は黄河の湾曲部の南側に居て、後漢の駐屯部隊の護衛を受けた。
一世紀の末になると、鮮卑《せんぴ》という別の遊牧民が東方から外モンゴルに侵入して来て、紀元八七年、北匈奴の単于を殺した。この機に乗じて、後漢と南匈奴の連合軍は紀元八九〜九一年、外モンゴルに進軍してこれを制圧し、西方に逃げた北匈奴の単于を「金微山《きんびさん》」(アルタイ山脈)で撃破した。北単于は逃亡して行方知れずになった。ジュンガル盆地からカザフスタン草原の方面に移動したのであろう。外モンゴルは、移住して来た鮮卑に占拠され、そこに残っていた北匈奴の十余万家族は、みな鮮卑と自称するようになった。
一方、後漢の中国は繁栄して、一五六年の統計では人口が五千万人を超えたが、都市に集中した下層階級に宗教秘密結社の革命思想が流行して、とうとう一八四年、「黄巾《こうきん》の乱」という大反乱が全国にわたって爆発した。反乱は間もなく鎮圧されたが、今度は政府軍の将軍たちが政権を奪い合う内戦となり、後漢の政府は事実上消滅した。さらに内戦がそれから半世紀も続いた結果、中国の人口は五千万人台から一挙にわずか四百万人台に激減し、華北の平原では住民はほとんど絶滅した。生き残りの中国人のうち、二百数十万人は魏王|曹操《そうそう》によって河南に集められた。百数十万人は呉の孫権《そんけん》の配下に、湖北《こほく》の武漢《ぶかん》と江蘇《こうそ》の南京を中心として集まり、百万人足らずは蜀の劉備《りゆうび》の配下に、四川《しせん》の成都《せいと》盆地に集まった。これが三国時代の中国の実情である。
人口の激減で、魏王曹操は人手不足を補うために、烏桓《うかん》(烏丸《うがん》)・鮮卑・南匈奴などの遊牧民を、無人となった中国の内地に積極的に移住させた。南匈奴は内モンゴルから山西高原に移住させられた。やがて魏・呉・蜀の三国は、二八〇年に晋《しん》によって統一され、百年ぶりに中国の統一が回復したが、わずか二十年で皇族の将軍たちの内戦「八王の乱」が起こって、中国は再び大混乱に陥《おちい》った。
この混乱に乗じて、三〇四年、山西の南匈奴が独立を宣言し、これに続いてほかの遊牧民たちも華北の各地でそれぞれ反乱の旗を揚げた。これが百三十五年続く「五胡《ごこ》十六国の乱」の始まりであった。南匈奴軍は三一一年、洛陽《らくよう》を占領して晋の皇帝を捕らえ、続いて三一六年には長安を占領して次の皇帝を捕らえた。翌三一七年の一年間、中国には皇帝というものがなかった。前二二一年に秦の始皇帝が初めて皇帝となってから、一九一二年に清の宣統帝《せんとうてい》が退位するまでの二千百三十二年間で、中国に皇帝がなかった年は、後にも先にもこの三一七年だけである。
フン人の出現[#「フン人の出現」はゴシック体]
フン人が西方のカザフスタン草原から姿を現して、ヴォルガ河とドン河を渡り、黒海の北の草原に侵入して東ゴート王国を征服したのは、ちょうど東方で南匈奴が引き起こした「五胡十六国の乱」の最中の三七〇年代のことであった。フンはすなわち匈奴であり、アルタイ山脈で敗れた北匈奴の単于が姿を消してから、フン人が北コーカサスに姿を現すまで、二百八十年が経っていた。南匈奴が後漢と同盟してから、晋を滅ぼすまでも、二百六十六年で、ほぼ同じ長さの時間である。
四三四年、フン人の王ルガが死んで、その甥のブレダ、アッティラ兄弟が後を継いだ。東ローマ皇帝テオドシウスは兄弟に年額七百ポンドの黄金を支払って、しばし辺境の平和を買い取った。フン人の活動の方向は西方に転じ、四三六年、ライン河畔のヴォルムスのゲルマン人のブルグンド王国を攻め滅ぼした。この戦いはゲルマン人の間に語り伝えられ、中世高地ドイツ語の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主題となったので有名である。
四四四年頃、ブレダは殺されて、アッティラが全フン人の王となった。アッティラは西ローマ帝国領のガリアに一度、イタリアに二度侵入したが、大した成功を収めず、四五三年に急死した。アッティラの死後まもない四五五年、ゲルマンのゲピダエ人の王アルダリクが、フン人を破って三万人を殺した。アッティラの長子エルラクも戦死した。これとともにドナウ河方面のフン人の勢力は消滅したが、黒海の北にはフン人が、アッティラの末子イルニフに率いられて残った。これから二世紀経った六八〇年、イルニフの子孫のアスパルフが、ブルガル人を率いてバルカン半島に入り、ブルガリアを建国することになる。
そういうわけで、フン人が東方から侵入した結果、ヨーロッパではゲルマン人の大移動が起こった。西ローマ帝国はゲルマン人の諸部族に踏みにじられ、アッティラに仕えたゲルマン人の重臣エデコの息子の傭兵《ようへい》隊長オドアケルは、四七六年、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した。これがいわゆる西ローマ帝国の滅亡で、ここにヨーロッパの古代が終わって、中世が始まるとされる事件である。
ローマ「帝国」の虚構[#「ローマ「帝国」の虚構」はゴシック体]
さて、ここで一つ断わっておくことがある。いま、「ローマ皇帝」とか「ローマ帝国」とか言ったが、実はローマには皇帝がいたことはなく、従ってローマが帝国であったことは一度もなかったのである。
いわゆる「ローマ帝国」の正式な名称は、ラテン語では「レース・プーブリカ」であって、「元老院《げんろういん》と民衆の共有財産」を意味する。「レース・プーブリカ」は英語の「リパブリック」、フランス語の「レピュブリーク」の語源だが、この言葉が「王国」に対していわゆる「共和国」の意味になるのは、十八世紀末のフランス革命からあとのことである。
またこの「レース・プーブリカ」に実力で君臨した「アウグストゥス」たちの資格は、正式には「元老院の筆頭議員」でしかない。元老院は中国にはなかったから、「アウグストゥス」を中国式に「皇帝」(光り輝く天の神)と訳すのは、完全な誤訳である。ローマの「プロウィンキア」(「属州」)には、元老院に属するものと、アウグストゥスに属するものとの二種類があった。この両方をひっくるめたものが「レース・プーブリカ」、いわゆるローマ「帝国」であった。
日本語の「帝国」は、英語の「エンパイア」、フランス語の「アンピール」の訳語である。どちらもラテン語の「インペリウム」のなまりだが、「インペリウム」はラテン語では「命令権」の意味である。ローマ人の官吏は、その地位によってそれぞれ命令の及ぶ範囲がきまっており、これが「インペリウム」であった。つまりローマ「帝国」の中には、官職の数だけの「インペリウム」が存在した。この言葉が実際に「帝国」の意味に使われるようになったのは、十四世紀の初めのことで、しかも当時のドイツの神聖ローマ帝国を指した。
また英語の「エンペラー」、フランス語の「アンプルール」は、日本語では「皇帝」と訳されるが、いずれもラテン語の「インペラートル」のなまりで、「命令する者」の意味である。しかしこの「インペラートル」は、ローマ時代にはアウグストゥスの称号ではなく、外敵に対して勝利を収めた将軍が部下から受ける非公式の称号で、将軍が「インペラートル」の称号を帯びるのは、ローマに帰って凱旋式《がいせんしき》を挙げるまでの間だけであった。
そういうわけで、ローマ「帝国」とローマ「皇帝」はどちらも誤訳で、明治時代の日本人が、中国史の知識をあてはめて西洋史を理解しようとした苦心の産物ではあるが、こうした誤訳は、現在に至るまで、日本人の世界史の理解を誤るという、悪い影響を残している。
話をもとにもどすと、四七六年以後、ローマにはアウグストゥスはいなくなり、西ヨーロッパではローマ人の時代が終わって、ゲルマン人の時代が始まった。これは歴史の主役の交代であると同時に、地中海世界から西ヨーロッパ世界へという、歴史の舞台の拡大でもあった。そういう意味で、地中海世界の古代と西ヨーロッパ世界の中世の間には、一つながりの自律的な発展はなく、はっきりした断絶があり、その断絶は中央ユーラシア草原から侵入したフン人の活動が引き起こしたものであった。言い換えれば、西ヨーロッパ世界を創ったのは、草原の遊牧民だったのである。
同じことは、東方の中国世界についても言える。匈奴の活動で、中国の皇帝の「正統」は三一六年、一旦断絶した。皇帝あっての中国であるから、秦の始皇帝以来の第一期の中国は、五百余年で消滅したのである。
第二期の中国――鮮卑《せんぴ》[#「第二期の中国――鮮卑《せんぴ》」はゴシック体]
ところでその、中国皇帝の「正統」を断絶させた匈奴は、ゲルマン人の大移動を引き起こして、地中海世界の古代の終焉《しゆうえん》の原因を作ったフンと同一の種族である。そしてローマ人に代わって、西ヨーロッパ世界の主役になったゲルマン人に相当するものは、中国世界では鮮卑であり、鮮卑は最初に五胡十六国の乱を平定して華北を統一し、最後に南北朝を統一して、まったく新しい第二期の中国を創り出した。
王沈《おうちん》(〜二六六)という中国人が三世紀の半ばに書いた『魏書《ぎしよ》』という歴史書は、今は伝わっていないが、烏丸《うがん》(烏桓)・鮮卑という種族について述べた部分は、陳寿《ちんじゆ》の『三国志』の註に引用されて残っている。それによると、烏丸も鮮卑も、ともにモンゴル高原の東端の大興安嶺《だいこうあんれい》山脈の方面の遊牧民であった。最初に中国人に知られたのは南寄りの烏丸で、前一世紀の前半のことであり、北寄りの鮮卑はこれより遅れて、紀元一世紀の半ばに中国人に知られた。烏丸と鮮卑は、言語も習俗も同じであると王沈は言う。
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「その風俗は騎馬と弓射が得意で、水と草を求めて遊牧し、住所は一定せず、丸屋根の小屋(穹廬《きゆうろ》、モンゴルの「ゲル」)を住宅とし、かならず入口を東に向ける。日常、鳥や獣を狩猟し、肉を食い乳酸飲料を飲み、毛皮を着物とする。若者を尊敬し老人を軽蔑する。性質は乱暴で、怒れば父や兄を殺すが、母は決して害さない。これは母には里方があって、復讐されるおそれがあるが、父や兄のために復讐の義務を負う者は自分以外にないからである。普通は、勇気があって強くて、もめごとの仲裁のできる者を選挙して大人《たいじん》(指導者)とする。部落ごとに小さな長がいるが、世襲ではない。数百・数千の部落が一つの部族となる。大人が召集令を出すときには、木に刻み目をつけて証拠として、部落から部落へと受け渡して行くので、文書はないが、部族の衆人には命令に背こうとする者はない。姓氏は一定していなくて、大人の傑出《けつしゆつ》した者の名前を姓にする。大人以下、おのおの自分の家畜を飼って生計を立てるので、互いに労働力を徴発することはない。」
「結婚は、先ず恋仲になって、男は女をさらって連れ去り、半年か百日経ってから、仲人を立てて馬・牛・羊を贈って結納《ゆいのう》の品とする。婿《むこ》は妻について里方に入居し、妻の家の者に会うと、目上に対しても目下に対しても、自分から立ち上がって拝礼をするが、自分の父母に対しては拝礼をしない。妻の家のために下男奉公をして二年経つと、妻の家のほうでは手厚く嫁入り支度をととのえて、娘を送り出す。住む家も財産もすべて妻の家から出るのである。そのため彼らの習慣では、何事も婦人の意見に従うので、ただ戦争の時だけは、男が自分で決められる。父と息子、男と女でも、面と向かって立て膝をして坐る。みな頭を剃《そ》っていて、これが楽だという。婦人は嫁入りの時になると、髪を伸ばして分けてまげを結い、帽子をかぶり、それに黄金や碧玉《へきぎよく》の飾りをつける。父や兄が死ぬと、継母《ままはは》や兄嫁と結婚する。もし兄嫁と結婚しようという者がなければ、自分の息子を兄嫁の養子にし、兄嫁を自分の妻の姉妹の格で待遇する。しかし女は死ねば、最初の夫にもどるのである。」
「病気になれば、もぐさで灸《きゆう》を据《す》えることを知っている。あるいは焼石で体を熱したり、地面を焼いてその上に臥《ふ》したりする。あるいは患部を刀で切開して血を出したり、天・地・山・川の神々に呼びかけたりする。針や薬はない。戦死者を尊敬する。遺骸《いがい》は棺に納める。死んですぐには泣くが、葬式では歌ったり踊ったりして送り出す。犬を肥らせて、色とりどりの縄をつけて引き、そのほかに死者の生前の乗馬・衣服・身につけていた飾り物を取って、いっしょに焼いて送る。なかでも犬には、死者の魂が赤山《せきざん》に帰るのを護《まも》るように頼む。赤山は遼東《りようとう》(遼寧の遼陽)の西北数千里にあり、中国人の死者の魂が泰《たい》山(山東の山)に帰るようなものである。葬式の日には、夜、親戚・友人が集まって車座になり、犬と馬を引いて一人一人の席をめぐる。歌ったり泣いたりしている人々は、これに肉を投げ与える。二人の人が祝詞《しゆくじ》を唱えて、死者の魂がまっすぐに行きますように、難所を通っても、よその亡霊に邪魔されないように護って、赤山にたどり着きますように、という。その後で犬と馬を殺し、衣類とともに焼く。神々を信仰し、天・地・日・月・星・山・川を祭る。また昔の大人の強力で有名な者も、同じように牛・羊を捧げて祭り、祭が終わればこれを焼く。飲み食いの前にはかならず初穂《はつほ》をあげる。」
「その掟では、大人の命令に背けば死罪にする。盗みを繰り返せば死罪にする。殺人事件では、部落をして好きなように復讐をさせる。復讐が復讐を生んで止め度がなくなれば、大人のもとに行って仲裁してもらい、罪があるときまった側は、自分の牛や羊をさし出して死罪をつぐない、復讐は止む。自分の父や兄を殺しても無罪である。逃亡して大人から逮捕命令の出た者は、どの部落も受け入れようとはせず、みな雍狂《ようきよう》という地に追放する。その地は山がなく、砂漠と流れる水と草木があり、蛇が多い。丁令《ていれい》の西南、烏孫《うそん》の東北にある(ハンガイ山脈とアルタイ山脈の間の盆地)。こうして追放者を苦しめるのである。」
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王沈が描写した烏丸と鮮卑は、同じ種族の遊牧民である。烏丸と鮮卑の区別は、住地が中国に近くて先に後漢と同盟したものが烏丸と呼ばれ、中国に遠くて同盟が遅れたものが鮮卑と呼ばれただけのことである。烏丸には種族としての統一はないまま、内モンゴル東部に広がり、中国の北辺に入居して後漢の傭兵となっていた。二〇七年、曹操は烏丸を征服して、全員を中国内地に移住させ、自分の直属とした。それ以後、烏丸騎兵は中国で最強の精鋭部隊として有名になった。
鮮卑にも種族としての統一はなかったが、一世紀の末に北匈奴が西方に逃走して、外モンゴルが空虚になったあとに移住して占拠してから勢力が盛んになり、二世紀の半ばに檀石槐《だんせきかい》(一三七〜一八一)という英雄が現れた。
投鹿侯《とうろくこう》という鮮卑人が匈奴との戦争に三年従軍して、家に帰ってみると、妻に男の子が生まれていた。怪しんでこれを殺そうとすると、妻が言うには「いつか昼間、外で雷鳴を聞いたので、天を仰いだら雹《ひよう》が口に入りました。これを呑みこんだら妊娠して、十月経って生まれたのです。この子はきっと不思議な子です。育てたらいかがですか」。投鹿侯はもちろん信ぜず、その子を捨てた。妻はこっそり里方に頼んで拾って育てさせた。これが檀石槐で、成人すると勇敢で強力、智略は人にすぐれた。十四、五歳の時、別の部族の大人《たいじん》が襲って来て、里方の牛や羊を奪い去った。檀石槐はたった一騎でこれを追って敵をことごとく撃ち破り、奪われた家畜を取り返した。これから部族の人々に心服され、その掟にも裁きにも従わない者はなかった。大人に選挙された檀石槐は、鮮卑の他の部族の大人たちにも支持されて、その支配圏は東は満洲から西はアルタイ山脈に及び、これを東部・中部・西部の三部に分けて、それぞれに総督の大人を置いた。檀石槐は一八一年、四十五歳で死んだが、彼の時代から後、鮮卑の大人たちの地位は世襲制となり、それまで流動的だった鮮卑の部族は、永続的な形を取るようになった。一方、烏丸は、鮮卑に吸収されて同化してしまい、三〇四年に始まる五胡十六国の乱では、鮮卑しか現れない。
五胡十六国の乱では、匈奴をはじめとする遊牧民の五つの種族が華北で活躍したが、その一つが鮮卑であった。鮮卑が建てた国の中でもっとも有力だったのは、慕容《ぼよう》部族の燕《えん》国で、遼寧《りようねい》・北京・河北《かほく》を支配したが、三九五年、同じ鮮卑の北魏《ほくぎ》に大敗して衰えた。北魏は鮮卑の拓跋《たくばつ》部族が山西高原の北部の大同盆地に建てた国で、その王の拓跋珪《たくばつけい》は三九八年、皇帝の称号を採用し、その孫が四三九年までに他の遊牧民の諸国をことごとく統一した。
四九四年、北魏の孝文帝《こうぶんてい》は、都を大同から河南の洛陽に移し、新しい都では種族別の居住区を廃止して、種族にかかわらない官位別の居住区を設定し、さらに朝廷では遊牧民の言語を話すことを禁止して、漢語だけを共通の公用語とした。これは、それぞれ別の言語を話す遊牧民の諸種族を完全に統合するのが目的であった。共通語として漢語を選んだのは、漢語はどの種族の母語でもないから、不公平がないことと、当時の東アジアでは文字は漢字だけで、漢字を使うしかないが、それには、字音から借用した語彙《ごい》の豊富な漢語を話すのが便利だったからである。
しかしこの政策は、内モンゴルに残留する遊牧民たちの強い不満を引き起こし、ついに五二三年、内モンゴルの六鎮《りくちん》と呼ばれる軍事基地で大反乱が起こり、五年後、六鎮派は洛陽派を黄河に投げ込んで皆殺しにした。さらに六年後、北魏は東西に分裂した。六鎮の出身で西魏《せいぎ》の実力者となった宇文泰《うぶんたい》は、部下の遊牧民と漢人を統合して部族組織に編成し、全員に鮮卑の姓を与えて、三十六部族と九十九氏族を再建した。
宇文泰が死ぬと、その息子の宇文覚《うぶんかく》は、西魏の皇帝を廃位して自ら皇帝となり、北周《ほくしゆう》を建てた。一方、東魏《とうぎ》はやはり実力者に乗っ取られて北斉《ほくせい》となったが、五七七年、北斉は北周に併合され、北周が華北を統一した。その四年後、北周は楊堅《ようけん》(隋の文帝)に乗っ取られた。五八九年、隋《ずい》の文帝は、江南の陳《ちん》を併合した。ここに南北朝の対立は終わり、中国は統一された。新しい中国の出現である。
隋の文帝の楊《よう》という姓は、漢人風であるが、楊氏の初代は、鮮卑の慕容部族の燕国に仕えて北京の軍司令官(北平太守)になったというから、本当は鮮卑らしい。その子孫は代々、内モンゴルの北魏の六鎮の一つの武川鎮《ぶせんちん》に住み、文帝の父の楊忠《ようちゆう》は、西魏の宇文泰から普六茹《ふりくじよ》という鮮卑の姓を貰っている。
中国語の変質[#「中国語の変質」はゴシック体]
後漢の滅亡から隋の中国再統一までの四百年の間に、中国で話される言葉の性質はすっかり変わってしまった。中国には表音文字がない。漢字は表意文字なので、口頭でどんな言葉を話していても、それとは関係なく使える。そのため、いつの時代にも全国の共通語と呼べるものはなく、中国語という観念は二十世紀まで成り立たなかった。しかしそれぞれの漢字には、いくつ意味があっても関係なく、一音節の名前が一つだけついている。いわゆる字音《じおん》である。この字音は、中国以前の都市国家の時代には学派ごとに読み方の流儀が違ったが、秦の始皇帝が初めて字音の読み方を統一し、一字一音と定めた。これが漢代に受け継がれた。儒教が国教となった後漢時代の二世紀には、洛陽の太学《たいがく》は二百四十棟、千八百五十室、学生三万人の盛況を呈したが、そこでは古典の講読には秦の始皇帝の定めた字音が使われた。
ところが一八四年の黄巾の乱で後漢朝が倒れ、儒教が権威を失い、学者が四散すると、これまで師から弟子へと口頭で伝承された字音の保存も危うくなってくる。そこで字音の似た漢字をまとめて分類した「韻書《いんしよ》」という発音辞典の試みがあちこちでなされるようになった。隋の文帝の中国統一の直後の六〇一年、陸法言《りくほうげん》という鮮卑人が、種々の「韻書」を集大成して『切韻《せついん》』五巻を著した。この書物で見ると、後漢時代の字音にはあった語頭のRがなくなって、Lに変わっている。これは、中央ユーラシアの人々の話すアルタイ系の言語(トルコ語、モンゴル語、満洲=トゥングース語)では、語頭のRが発音できないからである。また後漢時代にはあったKR、PRなどの二重子音が『切韻』ではなくなっているが、これもアルタイ系の言語には語頭の二重子音がないからである。つまり字音だけ見ても、隋の時代の新しい中国人は、秦・漢時代の中国人の子孫ではなく、北方から侵入して定住した人々の子孫であることがわかるのである。
こうして、中央ユーラシア草原から侵入した遊牧民の活動によって、新しい中国世界と、新しい西ヨーロッパ世界が誕生した。どちらも以前の世界から引き継いだ、独自の歴史の伝統を持つ文明である。この二つの世界が合流して、単一の世界史が可能になるまでには、もう一段階が必要であった。
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第5章[#「第5章」はゴシック体] 遊牧帝国の成長
――トルコからキタイまで
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アヴァル人の出現[#「アヴァル人の出現」はゴシック体]
鮮卑《せんぴ》の北魏《ほくぎ》朝が華北を支配していた五世紀の半ば過ぎ、アッティラが死んでフン人の勢力が衰えたばかりの黒海の北の草原に、またもや東方から遊牧民の大移動が波及して来た。ギリシア人プリスコスが四六三年ごろのこととして伝えるところによると、「怪鳥グリュプスの群に追われて逃走する」アヴァル人という種族が、サビル人をその住地から追い出し、サビル人は逃走して、オグル人・オノグル人・サラグル人を彼らの住地から追い出し、これらの種族は北コーカサス・黒海北岸に移動した、という。
アヴァルは烏丸《うがん》であり、サビルは鮮卑である。烏丸と鮮卑は、すでに三世紀にはモンゴル高原の西の端まで広がっていた。彼らをモンゴル高原から追い出して、西方のジュンガル盆地へ、カザフスタン草原へと移動させた「怪鳥グリュプス」とは、実は柔然《じゆうぜん》(蠕蠕《ぜんぜん》)という遊牧民の種族であった。
柔然は最初、鮮卑の一部族であったが、四世紀の末に社崙《しやろん》という指導者が出て、外モンゴルで独立し、千人を一軍、百人を一|幢《どう》(軍旗)として、それぞれ指揮官を任命した。先陣する者には捕虜と戦利品を与え、尻込みする者は石で頭を打って殺したり、その場で鞭打ったりした。文字はなく、指揮官が兵士の数を計算するのには、羊の糞を使った。後では木に刻み目をつけて記録することを覚えた。その支配圏は、東は大興安嶺《だいこうあんれい》のかなたの満洲、西はアルタイ山脈を越えてジュンガル盆地に及んだ。
社崙は「カガン」(可汗)という新しい王号を採用したが、この王号はこれ以後、中央ユーラシアの遊牧民に広く使用されるようになる。モンゴルの「ハーン」は、この「カガン」から来た言葉である。
柔然は六世紀の半ばになって、新興のトルコ(突厥《とつけつ》)に滅ぼされ、モンゴル高原には五五二年、トルコ人の遊牧帝国が成立した。これはちょうど、華北が鮮卑の東魏と西魏に分裂していた時期のことで、これからほぼ八十年間、トルコ帝国は、中国の東魏・西魏の対立、北斉・北周の対立、隋《ずい》末・唐初の内乱の時期を通じて、常に中国に対して優位に立つ強国になるのである。
ところで隋は、中国統一の後、三十年経たない六一八年に滅亡し、山西《さんせい》の太原《たいげん》の軍司令官であった李淵《りえん》(唐の高祖)が唐朝を建て、李淵の息子の李世民《りせいみん》(唐の太宗)が中国の再統一を達成する。
唐の帝室の始祖は李初古抜《りしよこばつ》といい、河南《かなん》の西部の北魏軍の司令官(弘農太守《こうのうたいしゆ》)で、四五〇年の戦争で宋軍に一時捕らえられたことがある。李初古抜の息子の李買得《りばいとく》は、北魏の皇族永昌王の副官(長史)で、鮮卑随一の勇士であったが、この戦いで戦死した。李初古抜も李買得も、姓は中国人風だが、名は鮮卑語だから鮮卑であろう。李氏は河北《かほく》の南部の隆堯県《りゆうぎようけん》に定住したらしく、李買得とその息子の墓はここにあった。李買得の孫の李虎《りこ》は、西魏の宇文泰《うぶんたい》から大野《たいや》という鮮卑の姓を貰《もら》っている。李虎の息子の李丙《りへい》の妻は、鮮卑人の独孤《どつこ》氏で、高祖李淵の母である。高祖自身の皇后も、鮮卑人の竇《とう》氏で、太宗李世民の母である。そして太宗の皇后も鮮卑人の長孫《ちようそん》氏で、高宗の母となった。
これでわかるように、唐の帝室は中国人ではなく、まったく鮮卑で、宇文泰が西魏で再建した遊牧民の部族組織の一部であった。この組織は、西魏・北周・隋を通じて政権の中核となり、唐帝国を支配した貴族階級も、この組織の出身であった。
トルコ人の出現[#「トルコ人の出現」はゴシック体]
一方、匈奴以来のこれまでの遊牧帝国が、みな東方に興って西方に向かって発展したのとは違って、五五二年にモンゴル高原に建国したトルコ(突厥)人は、西方からモンゴル高原に入って来た遊牧民である。中国の歴史書(六三六年の『周書』『隋書』)が伝えるトルコの祖先伝説には何通りもの異説があるが、その一つは次のような話になっている。
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「トルコ人の先祖は、西方の海のほとりに住んでいたが、隣国に滅ぼされて、男も女も老弱を問わずみな殺しにされた。男の子が一人残ったが、敵兵はこの子を殺すに忍びず、両手と両足を切り落として、草原の中に捨てた。一匹の牝の狼がいつも肉をくわえてやって来たので、この子はそれを食って生き延びた。その後、その子は狼と交わって、狼は妊娠した。かの隣国は、再び人を遣わしてこの子を殺させた。狼が側《かたわら》に居たので、使者は狼をも殺そうとした。その狼は神がかりがしたようになって、たちまちにして海の東に至り、山の上に止まった。その山は高昌《こうしよう》国(トゥルファン)の西北にある(天山山脈)。その下に洞穴があったので、狼がその中に入ると、思いがけなく平原があって草が茂っており、広さは二百余里四方もあった。その後、狼は十人の男の子を産んだ。その一人が阿史那《あしな》という姓で、もっとも賢かったので、君主となった。トルコ人が陣営の門に狼の頭のついた軍旗を建てるのは、先祖を記念するためである。その後、阿賢《あけん》シャドという者があって、部族を率いて洞穴から出て、それから代々柔然の臣下になった。」
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この伝説で、始祖が狼から生まれたというのは、トルコ人の固有の伝承であるが、敵に滅ぼされて一人だけ生き残ったとか、山の洞穴の中からこの世に出てきたとかいうのは、トルコ人に限らず、北アジアに広く分布する説話の型である。また狼が十人の男の子を産んだというのは、建国当初のトルコ人が、十の遊牧部族の連合体であったことを示している。
柔然に臣属していた時代のトルコ人は、金山(アルタイ山脈)に住み、鉄|鍛冶《かじ》を業としていた。中国の歴史書の伝えるところでは、金山は形が兜《かぶと》に似ていて、彼らの言葉で兜を「突厥《とつけつ》」と呼ぶので、それが名前になったという。しかし漢語の「突厥」、日本語の「トルコ」のトルコ語での原形は「テュルク」であって、兜をトルコ語でいう「トルガ」、モンゴル語でいう「ドゥールガ」とは形が違う。この語源解釈は、中国人の語呂合わせに過ぎないが、それでもこれによって、トルコ人の故郷がアルタイ山脈と天山山脈にはさまれた、ジュンガル盆地であったことがわかる。
トルコの阿史那氏族長ブミンは、五五一年、宇文泰と同盟して、西魏の皇女と結婚し、翌年、柔然を破ってそのカガンを自殺させた。ここにおいてブミンは自らカガンの称号を採用し、第一次トルコ帝国を建国した。トルコの第三代のムカン・カガンは五五五年、柔然を滅ぼし、本拠をモンゴル高原に移した。ブミン・カガンの弟シルジブロス(またディザブロスともいう)は、中央ユーラシア草原の道を西方に向かい、中央アジアを制圧して、ヴォルガ河にまで及んだ。このトルコ人の西方移動によってカザフスタン草原を離れて、地中海世界に入って来たのが、先に四六三年ごろ、柔然によってモンゴル高原を追い出されていたアヴァル(烏丸)人である。
アヴァル人がついに地中海世界に姿を現したのは、華北で宇文覚《うぶんかく》が西魏の皇帝を廃位して、自ら皇帝となり、北周朝を建てたのと同じ五五七年の冬のことであった。この時、アヴァル人は、東方のカザフスタン草原からヴォルガ河を渡って、北コーカサスのアラン人の地に入り、東ローマ皇帝ユスティニアヌスに使者を遣わしたのである。皇帝はアヴァル人と同盟して、年々の定額の支払いと引き換えに、帝国の辺境を脅かす遊牧民を討伐させた。五六二年になると、アヴァルのバヤン・カガンがドナウ河の下流に姿を現し、この地方のスラヴ人を従え、ドナウ河中流のゲピダエ人を破り、ドナウ河上流のランゴバルド人がイタリアに移動したあとを併合して、その領域は、東はドン河から、西はエルベ河とアドリア海に及んだ。
六二六年、バヤンの息子のカガンは、アヴァル人、スラヴ人、ゲピダエ人、ブルガル人から成る大軍を動員し、ササン朝ペルシア帝国と連合して、東ローマの首都ビザンティウムを攻めた。しかしこの作戦は失敗して、アヴァル人の勢力は衰え始め、最後は七九六年に、フランクのカール大帝の命を受けたピピンがアヴァル人を粉砕した。しかしアヴァル人はドナウ河中流の東の草原に生き残り、九世紀の末にハンガリー人が移動して来た時にも、まだこの地方に住んでいた。
スラヴ人の出現[#「スラヴ人の出現」はゴシック体]
アヴァル人のあとについて広がったのが、スラヴ人という種族である。スラヴ人はもともと、ウクライナのドニェストル河の上流域に住んでいた種族だった。フン人が五世紀の半ばに消滅したあと、スラヴ人は四方に広がり始め、一部は南下してドナウ河下流域に住み着いた。そこへアヴァル人が移動して来て、スラヴ人を征服したのである。スラヴ人は、アヴァル人のビザンティウム攻撃作戦に従って、ドナウ河を渡ってバルカン半島を南下し、一部は丸木舟に乗ってエーゲ海を渡り、クレータ島にまで侵入した。その猛烈な勢いのために、七世紀の半ばまでには、ギリシア本土はほとんどすべてスラヴ人の住地になり、ギリシア語が話されるのはビザンティウムの周辺だけになってしまった。
またスラヴ人は、東北では、バルト人(ラトヴィア人とリトアニア人の祖先)の住地を奪い、六世紀にはヴォルガ河の上流のフィン人の住地にまで侵入した。これが東スラヴ人で、後のロシア人の先祖になる。西方では、スラヴ人は、やはりアヴァル人の征服のあとについて、ゲルマン人が移動して居なくなったあとの中部ヨーロッパに進出して、エルベ河に達し、一部はさらにエルベ河を渡って、ライプツィヒというスラヴ語の地名を残している。
アヴァル人、スラヴ人とともにビザンティウムを攻めたブルガル人は、北コーカサスの草原の遊牧民である。その一派は六七九年、アスパルフ・カガンに率いられて、アヴァル人が衰えたあとのドナウ河下流域を占領し、先住民のスラヴ人を征服した。これがブルガリアの建国である。現在のブルガリア語はスラヴ語だが、これはブルガル人が先住民の言葉を話すようになったからである。ブルガル人の別の一派は、北コーカサスからヴォルガ河を遡って行って、その中流域に国を建てた。このブルガル人はトルコ語を使っていた。ヴォルガ河は、もともとトルコ語でエティル河といった。今のヴォルガという名前はロシア語で、ここにブルガル人の国があったことからついたものである。
そういうわけで、トルコ帝国の発展は、西方ではアヴァル人の移動を引き起こして、地中海世界と西ヨーロッパ世界に大きな影響を残したが、東方でも中国世界との関係で、やはり大きな影響を与えている。
[#挿絵(img/fig7.jpg、横×縦)]
トルコ帝国の建国は、その時期がちょうど、華北で東西二つの鮮卑《せんぴ》政権が対立、抗争していた最中だった。ムカン・カガンは最初、西魏と同盟し、宇文覚《うぶんかく》が西魏を乗っ取って北周朝を建ててからも、北周と同盟を続け、北周の第三代の武帝はムカン・カガンの娘を皇后に迎えている。北周と北斉の戦争では、トルコ軍は常に北周と協同作戦を行った。トルコに対して弱い立場の北周としては、同盟関係を維持するために、年々十万段の絹・錦をトルコに贈って歓心を買うしかしかたがなかった。北斉もまた対抗上、トルコを買収するために全力を挙げた。トルコの第四代のタスパル・カガンは、「私の南方に居る二人の息子さえ親孝行ならば、物資が無くなる心配があろうか」と言って自慢したという。「二人の息子」とは、北周と北斉の皇帝のことである。
トルコのイシュバラ・カガンは、北周の皇女|千金公主《せんきんこうしゆ》と結婚した。そのあとで北周は楊堅《ようけん》に乗っ取られ、楊堅は隋朝を建てた。千金公主はこれを恨んで、イシュバラ・カガンに勧めて隋と開戦させた。ところがこの時、トルコ帝国の東西分裂が起こった。
トルコ人は、東は満洲の遼河《りようが》から、西はヴォルガ河に至る広大な領域を支配した。これほど大きな遊牧帝国は、それまでに例がなかった。ただし領域があまりに広大だったことと、発展があまりに短期間に起こったために、統一の力が弱く、アルタイ山脈を境にして、モンゴル高原の東トルコと、ジュンガル盆地・カザフスタン草原の西トルコとに分かれる傾向があった。そこへカガンの位の継承争いが起こり、五八三年、西トルコのタルドゥ・カガンは東トルコのイシュバラ・カガンと開戦した。窮地に立ったイシュバラ・カガンは隋と和解して内モンゴルに本拠を移し、東トルコは隋の同盟国となった。五八九年に隋が陳を併合して中国を統一すると、力関係はいよいよ逆転して、東トルコは隋の保護を受ける立場となった。
六一七年、中国は全面内乱状態となり、群雄が各地で蜂起した。その翌年、隋の煬帝《ようだい》は側近に殺された。中国の群雄はそれぞれ東トルコの始畢《しひつ》カガンに忠誠を誓い、カガンから称号を受けた。山西の太原で挙兵した唐の高祖もその一人で、始畢カガンに使いを遣わして臣と称し、東トルコから援兵を受けている。
高祖の後を継いだ唐の太宗は、六二八年に中国の統一を回復すると、東トルコに対する臣属関係を破棄し、六三〇年、東トルコを滅ぼして最後のカガンを捕らえた。これが第一次トルコ帝国の滅亡である。続いて唐の高宗の軍は、六五七年、カザフスタンのチュー河のほとりで西トルコのカガンを撃破し、逃走したカガンは翌年、タシュケント人によって唐に引き渡された。こうして遊牧帝国のカガンと鮮卑の中国皇帝との間の綱引きは、鮮卑の勝利に終わった。
東トルコを滅ぼした後、唐の高宗は、遊牧民の君主たちによって彼らの「テングリ・カガン」(天可汗)に選挙された。それ以後、高宗が中央ユーラシアの君主たちに手紙を送るときには、テングリ・カガンの称号を用いることになった。このことは、唐の天子が、中国世界に対しては中国皇帝、中央ユーラシア世界に対しては遊牧帝国のカガンという、二つの地位を一身に兼ねることになったことを意味する。こうして二つの世界は、共通の最高君主を持つことになった。これは画期的な事態であったが、この状態は半世紀しか続かなかった。
トルコ文字[#「トルコ文字」はゴシック体]
六八二年、内モンゴルのトルコ人のクトルグが、唐から独立して、エルテリシュ・カガンと自称し、モンゴル高原に第二次トルコ帝国を建てた。この遊牧帝国はこれから六十三年間存続する。この帝国では、中央ユーラシアの歴史にとって、大きな意義を持つ事件が起こった。それは遊牧民が、初めて自分たちの言葉を書き表す文字を持ったことである。
これより先、第一次トルコ帝国では、共通語としてソグド語が使われていたらしく、ソグド文字で綴《つづ》った碑文が残っている。ソグドというのは、現在のウズベク共和国のサマルカンドを中心とする地方のことで、この地方の昔の住民はイラン語を話していた。ソグド人は古くからモンゴル高原や中国に商売に来ており、彼らが使った文字がソグド文字である。この文字はアルファベットの一種で、もともとはアカイメネース朝ペルシア帝国で普及していたアラム文字から来ている。
ところが第二次トルコ帝国が残した碑文には、ソグド文字に改良を加えたアルファベットを使って、初めてトルコ語の文章が綴られている。ここに至って、中央ユーラシアの遊牧民は、初めて自分たちの話し言葉を文字に書き留められるようになり、トルコ語が帝国の公用語になったのである。
ただしこの第二次トルコ帝国のトルコ語は、純粋のトルコ語ではなかった。「馬」は、トルコ語のどの方言でも「アト」であるが、第二次帝国時代の碑文では「ユント」である。これがシベリアのフィン・ウゴル系のサモイェド語であることから考えて、トルコ人のもともとの故郷はジュンガル盆地ではなく、もっと北のシベリアの森林地帯から出て来たのであろう。それはともかく、文字が使えるようになってから、トルコ語の使用は中央ユーラシア全体に広がり、いろいろな種族がトルコ語を採用するようになった。
チベット文字[#「チベット文字」はゴシック体]
中国世界と遊牧帝国の関係が緊密になりつつあった七世紀の初めに、チベットにも帝国が成立した。華北《かほく》が五胡十六国の乱の最中だった四世紀の末頃、チベット高原の西部に初代の王が出現した。約百五十年を経て、ソンツェンガンポ王が出て、唐が東トルコを滅ぼした六三〇年頃までにチベット高原を統一し、六四〇年には自分の息子の嫁に唐の皇女|文成公主《ぶんせいこうしゆ》を迎えて、唐と肩を並べる帝国となった。
後世のチベットの伝説によると、ソンツェンガンポ王は、トンミ・サンボータという人をインドに派遣して文字を学ばせ、サンボータがインド文字を改良してチベット文字を創ったことになっている。実際、六三五年から後、毎年の記録が残っており、この王の治世からチベット語がチベット文字で書かれるようになったことは確かである。
チベット帝国は、唐帝国、第二次トルコ帝国と三つ巴《どもえ》となって中央アジアの争奪戦を繰り返したが、七四四年、モンゴル高原でウイグル人のクトルグ・ボイラが独立してカガンとなり、翌年トルコの最後のカガンを殺した。ウイグル帝国の建国である。
このころすでに中央アジアには、七一〇年代からイスラム教徒のアラブ人が進出して来ていた。七五一年、現在のキルギズ共和国のタラス河のほとりで、アッバース朝アラブ帝国の将軍アブー・ムスリムの軍が、高句麗《こうくり》人の将軍|高仙芝《こうせんし》の率いる唐軍を破った。続いて七五五年、中国で安史《あんし》の乱が起こったので、唐は中央アジアをめぐる国際競争から脱落しなければならなかった。
ウイグル人の祖先[#「ウイグル人の祖先」はゴシック体]
ウイグル帝国を建てたウイグル人は、公用語としてはトルコ語を採用した。しかしウイグル人は、西方のジュンガル盆地から入って来たトルコ人と違って、最初からモンゴル高原に居た遊牧民であり、トルコ語とは別に、自分たちの話す言葉があったらしい。
このウイグル人の祖先伝説は、十三〜十四世紀の中国とペルシアの書物に伝えられているが、それによると、外モンゴルのトーラ河とセレンゲ河の間に二本の樹があって、それを天の光が照らすと、一本の樹の根もとが妊婦の腹のようにふくらんで、やがて十月目にふくらみが裂け、中から五人の男の子が生まれた。その五兄弟の末子がボグ・カガンで、ウイグル王家の始祖となった、という。
この伝説には、トルコ人のような、祖先が狼であるという要素がなく、妊娠した樹から祖先が生まれたことになっている。これはこの伝説が、森林地帯に起源があることを思わせる。現代のシベリアのブリヤート・モンゴル人のシャマン(巫《みこ》)の家は、真ん中に「母の樹」が生えており、天井の煙出しの穴を通って立っている。近くには「父の樹」があって、それから引いた綱が「母の樹」に結んである。天の神の霊は、樹を伝わって降りて来て、シャマンに乗り移るのである。「巫」はトルコ語で「ボグ」、モンゴル語で「ボー」というが、これはウイグル王家の始祖の名前である。この伝説から考えて、ウイグル人はもともとシベリアの森林の住民で、南下してモンゴル高原の草原に出て来たものであろう。こうした、森林の狩猟民が、草原に出て来て遊牧民になるという過程は、中央ユーラシアでは何度も繰り返されたもので、モンゴル人もそうして遊牧民になった人々であった。
七四四年に建国したウイグル帝国は、中国の安史の乱に介入して、皇帝を支持して唐に恩を売り、強い立場を獲得した。
この安史の乱を起こした安禄山《あんろくざん》は、父はソグド人、母はトルコ人の混血で、唐の玄宗《げんそう》に信任されて、遼寧《りようねい》・河北・山西の軍司令官を兼ね、ついに唐から独立して、北京によって大燕《だいえん》皇帝と自称したのである。安禄山の死後、その息子を殺して取って代わった史思明《ししめい》も、父はトルコ人、母はソグド人の混血であった。またこの二人の部下の将兵も、大部分が非中国人であった。七六三年に史思明の息子の史朝義《しちようぎ》が殺されて安史の乱が終わった後も、こうした非中国人の軍人たちは、地方軍閥となって華北に居すわり続け、唐の皇帝の支配権を無視したので、唐帝国の統一は名目だけのものとなり、その国際的な立場は弱いままであった。そういうわけで、安史の乱から約百五十年、十世紀の初めに至るまで、中国の政治を動かしたのは、中央ユーラシア出身の人々だったのである。
さて、モンゴル高原のウイグル帝国は、百年近く繁栄した後、八四〇年、西北から侵入して来たキルギズ人に倒され、ウイグル人は四散した。ある者は内モンゴルに、ある者は甘粛《かんしゆく》に、ある者は天山《てんざん》山脈に逃げ込んだ。天山山脈に避難したウイグル人は、その北麓の、現在のウルムチの東方のベシュバリクの地に新しい国を建てて、タリム盆地のオアシス都市を支配した。そのため、これらのオアシス都市では、それまで話されていたトカラ語に代わって、ウイグル人の持ち込んだトルコ語が話されるようになった。タリム盆地が、一名を東トルキスタン(トルコ人の国)と呼ばれるようになるのは、このためである。
キルギズ人は、トルコ語を話す種族で、もともとシベリアのイェニセイ河とオビ河の間に住んでいた。現在ではカザフ共和国の南、天山山脈の西部にキルギズ共和国があるが、キルギズ人がシベリアから天山に移住したのは、モンゴル帝国時代の十六世紀のことで、モンゴル系のカザフ人に率いられて南下したものであるらしい。
九世紀にウイグル帝国を倒したキルギズ・カガンの本拠は、サヤン山脈の南のイェニセイ河の上流、現在のトゥヴァ共和国の地にあった。しかし、キルギズ人のモンゴル高原支配は長くは続かず、間もなくタタル人という、モンゴル高原東北部の遊牧民がキルギズ人を逐《お》い出して、高原の主人となった。このタタル人の中から、後のモンゴル人が出て来るのである。
ウイグル帝国の滅亡の二年後、八四二年にチベットのダルマ・ウィドゥムテン王がわずか十歳で宰相の一党に殺され、王位の継承をめぐってチベット帝国は分裂した。もはや中央政府は存在せず、チベットはこれから約百五十年間、記録のない暗黒時代に入る。
中国のトルコ人[#「中国のトルコ人」はゴシック体]
ウイグル帝国とチベット帝国の滅亡から間もなく、八七五年には中国で黄巣《こうそう》の乱が起こった。黄巣は河南の中国人で、反乱軍を率いて華北から華中に転戦し、また華北にもどって、八八〇年、洛陽《らくよう》、続いて長安《ちようあん》(西安)を攻め落として唐に大打撃を与え、自ら大斉《だいせい》皇帝の位についた。しかし、黄巣側から唐に寝返った中国人の将軍|朱全忠《しゆぜんちゆう》と、トルコ人の将軍|李克用《りこくよう》の反撃を受けて、黄巣は八八四年に敗死した。
李克用は、内モンゴルに遊牧していたトルコ系の沙陀《さだ》部族の人である。李克用の父は、唐から大同《だいどう》の軍司令官の地位を認められていた。李克用自身は、黄巣に占領された長安を八八三年に奪回して唐に恩を売り、太原《たいげん》の領有を認められた。これから華北では、山西高原に占拠する沙陀トルコ軍閥と、河南平原を本拠とする朱全忠軍閥との間の対立、抗争が続いた。ついに九〇七年、朱全忠は唐の最後の皇帝を廃位して、自ら皇帝となり、河南の開封《かいほう》に都を置いた。これが後梁《こうりよう》朝の建国である。
これが五代と呼ばれる時代の始まりだったが、鮮卑の唐朝が亡びて、六百年ぶりに中国人の王朝が華北に成立したとはいっても、中国世界の主導権が中国人の手にもどったわけではなかった。わずか十六年後の九二三年、李克用の息子の李存勗《りそんきよく》は、開封を攻め落として後梁を滅ぼし、皇帝となって、洛陽に後唐《こうとう》朝を建てた。これで華北全体は、トルコ人の手に落ちた。
キタイ帝国[#「キタイ帝国」はゴシック体]
この頃、すでにモンゴル高原にはキタイ帝国、東方からキタイ(契丹《きつたん》)人が進出を始めていた。キタイ人は、大興安嶺山脈の東斜面の遊牧民族で、その名は四世紀の五胡《ごこ》十六国の時代から記録に現れる。十世紀にキタイ人が語り伝えたところでは、昔、白馬に乗った男子がローハ・ムレン河(遼河の上流)を下って来て、灰色の牛に引かせた小さな車に乗ってシラ・ムレン河を下って来た婦人と、合流点の木葉《もくよう》山というところで出会い、夫婦になった。これがキタイ人の始祖で、八人の息子が生まれ、それぞれが部族の祖となった。これがキタイ人の八部族の起源である、という。
この木葉山は、現在の遼寧省と吉林《きつりん》省の境である。このあたりは、隋の煬帝・唐の太宗の時代に、高句麗王国を攻撃する皇帝軍の進軍路となったところである。皇帝軍の基地は現在の北京に置かれ、そこからキタイ人の住地を通って遼河のかなたの高句麗国境に向かった。モンゴル・満洲・華北の接点に位置する北京が、戦略上重要な都市に成長しはじめるのは、この高句麗戦争から後のことである。唐代には、北京は帝国の東北辺境防衛の中心となり、安禄山はここを根拠として安史の乱を起こしたほどである。そのため、この方面の唐軍には、安禄山・史思明のようなソグド人・トルコ人に混じって、キタイ人も軍人として多く加わっていた。
キタイ人の部族連合の政治組織では、王は三年一期の選挙制で、八部族の長が輪番で王に任じていたが、最後に耶律阿保機《やりつあほうき》(太祖)が、自分の保護下に集まった中国人移民の経済力を利用して軍事力を蓄え、全種族を統合して終身の王となり、九一六年、皇帝を自称した。キタイ帝国の建国である。この帝国は、「キタイ」のほかに、また「遼《りよう》」という国号を使用したが、これは種族の故郷の地を流れる遼河《りようが》の名前から来ている。キタイ人は自分たちの言葉を書き表すために、二通りの文字を持っており、漢字に手を加えた「大字《だいじ》」が表意文字、独特の「小字《しようじ》」が表音文字であったが、いずれもまだ解読されていない。
[#挿絵(img/fig8.jpg、横×縦)]
キタイ人の遼の建国の当時、その西隣の内モンゴルと南隣の華北は、沙陀《さだ》トルコ人の手中にあった。そのため阿保機は、この方面を避けて西北方の外モンゴルのタタル人の住地に進出をはかり、九二四年には自ら軍を率いて、オルホン河畔のかつてのウイグル人の都市オルドゥバリクの廃墟にまで進軍し、そこからゴビ砂漠を南に横断して、甘州《かんしゆう》(甘粛省張掖県)にあったウイグル人の国を攻撃した。その翌々年、阿保機は、満洲東部の渤海《ぼつかい》王国に遠征してこれを滅ぼし、その帰途に死んだ。阿保機の後を継いで皇帝となったのは、その次男の徳光《とつこう》(太宗)である。太宗は、父の政策を継いで、外モンゴルに進出を続け、九二八年にはケンテイ山脈以東のタタル人を征服し、ここにキタイ人の軍団を駐屯させた。この地方のタタル人を、キタイ人は「烏古《うこ》」と呼んだ。
この間、後唐《こうとう》の内部では、太原の沙陀トルコ人の本拠地と洛陽の朝廷との間に対立が起こり、九三六年、太原のトルコ人|石敬※[#「王+唐」、unicode746D]《せきけいとう》は独立してキタイと同盟した。太宗は自らキタイ軍を率いて石敬※[#「王+唐」、unicode746D]の救援におもむいた。その後援のおかげで、石敬※[#「王+唐」、unicode746D]は洛陽を陥《おとしい》れて後唐朝を滅ぼし、自ら皇帝となって後晋《こうしん》朝を建てた。太宗は後援の代償として、後晋から山西の北部から河北の北部にかけての地帯(燕雲十六州)の割譲《かつじよう》と、年額三十万匹の絹の支払いの約束を取り付けた。
この九三六年の燕雲《えんうん》十六州の割譲によって、キタイ人は中国への入口である北京と、内モンゴルの全部を手に入れた。この事件はまた、トルコ帝国・ウイグル帝国以来続いて来た、北アジアの帝国と中国との競争が、ついに北の帝国の優勢、中国の劣勢という段階に達したことを明らかに示したものであった。これ以後、北の帝国の優勢は時とともに大きくなり、最後にモンゴル帝国が中国全体を呑みこんでしまうことになるのである。
後晋の皇帝となった石敬※[#「王+唐」、unicode746D]は、洛陽から開封に朝廷を移した。その結果、またもや開封《かいほう》の朝廷と太原《たいげん》の沙陀トルコ人との間に対立が起こり、それにつけこんだ太宗は、九四六年、自らキタイ軍を率いて遠征して開封を陥れ、後晋を滅ぼした。そのあとには、太原のトルコ人|劉知遠《りゆうちえん》が皇帝となり、開封に後漢《こうかん》朝を建てた。しかし後漢朝はわずか四年で、劉知遠の側近の中国人|郭威《かくい》に乗っ取られて亡びた。郭威は開封に後周《こうしゆう》朝を建て、これとともに華北の平原地帯の沙陀トルコ人の勢力は消滅した。太原には沙陀トルコ人の北漢《ほつかん》朝が残ったが、これはキタイ帝国の保護国に過ぎなかった。こうして、トルコ人が中国で主導権を握った時代は、二十八年間で終わった。
開封の中国人の後周朝と、それをやはり中国人の趙匡胤《ちようきよういん》(宋の太祖)が九六〇年に乗っ取って建てた宋《そう》朝は、まず南方の中国人の諸国を次々に併合して行った。太祖の後を継いで宋の皇帝となった弟の太宗は、南方の統一がほぼ終わると、九七九年、太原を陥れて北漢を滅ぼした。太宗は勢いに乗って北京を攻めたが、南郊の高梁《こうりよう》河でキタイ軍に大敗し、皇帝は身一つで命からがら脱出するという有様で、燕雲十六州の奪回は成らなかった。
九八二年、キタイの聖宗《せいそう》が十二歳で即位した。摂政《せつしよう》となった母の承天《しようてん》皇太后は、外モンゴルに遠征軍を派遣して、ケンテイ山脈以西のタタル人を攻撃し、一〇〇〇年までにこの地方の征服を完了した。この地方のタタル人を、キタイ人は「阻卜《そぼく》」と呼んだ。キタイ帝国は、外モンゴル統治の中心として、一〇〇四年、オルホン河畔のウイグル人の都市カトゥンバリクの廃墟に鎮州建安軍《ちんしゆうけんあんぐん》という軍事基地を設置した。
同じ一〇〇四年、承天皇太后と聖宗は、自らキタイ軍を率いて華北に侵入して、宋の首都開封に迫った。キタイ軍が黄河の北岸の|※[#「さんずい+亶」、unicode6FB6]州《せんしゆう》(河南省|濮陽《ぼくよう》県の西)に達したとき、その勢いに恐怖した宋の皇帝|真宗《しんそう》は和議を申し入れ、真宗と聖宗が兄弟となること、真宗は承天皇太后を叔母とすること、宋はキタイに年額、絹二十万匹、銀十万両を支払うことを条件とする盟約を結んだ。両国の関係はこれによって安定し、これから約百二十年間、キタイ帝国の滅亡まで平和が続くことになる。
キタイ帝国の制度は、それまでの遊牧帝国とは違って、遊牧型の政治組織と中国型の都市文明を結合したものであった。これはキタイ人の故郷が大興安嶺山脈の東斜面にあって、雨量が多く、遊牧だけでなく農耕も可能で、都市を建設しやすかったからである。この遊牧と都市の二本建てというキタイ帝国の制度は、のちのモンゴル帝国に引き継がれて、その制度の原型となったのである。
キタイ帝国では、「五京《ごけい》」と呼ばれる五つの都市を、五つの主要な民族の中心地にそれぞれ置いた。キタイ人の中心地には|上京臨※[#「さんずい+黄」、unicode6F62]府《じようけいりんこうふ》(内モンゴル自治区ジョーウダ盟のバーリン左旗)、キタイ人と同族の遊牧民である奚《けい》人の中心地には中京大定府《ちゆうけいたいていふ》(同じくジョーウダ盟の寧城県)、渤海人の中心地には東京遼陽府《とうけいりようようふ》(遼寧省の遼陽)、中国人の中心地には南京析津府《なんけいせきしんふ》(北京)、沙陀トルコ人の中心地には西京大同府《せいけいだいどうふ》(山西省の大同)が置かれた。帝国の遊牧民は部族に、定住民は州・県に編成された。官僚組織には北面官《ほくめんかん》と南面官《なんめんかん》があり、北面官は遊牧民を、南面官は定住民を管轄した。キタイ皇帝以下の皇族・貴族たちは、それぞれ私領を持ち、私領は遊牧民と定住民の両方から成っていた。キタイ皇帝の私領を「オルド」といい、財団のような組織で、皇帝の死後もそれぞれのオルドは存続した。オルドはまた、皇帝の住む大|天幕《てんまく》と、それに従う廷臣たちの住む天幕群をも指す。皇帝は遊牧民らしく、どの都市にも住まず、自分の宮廷を引き連れて、春・夏・秋・冬それぞれ決まったキャンプ地を移動しつつ暮らした。
キリスト教のモンゴル高原への伝播[#「キリスト教のモンゴル高原への伝播」はゴシック体]
キタイと宋が和約を結んだ三年後、キリスト教が西方からモンゴル高原に初めて伝わった。キタイが鎮州建安軍を建設した外モンゴルのオルホン河畔の地は、タタルのケレイト部族の牧地であった。ケレイト王がある日、雪深い山中に狩りに出て道に迷った。王が助かる望みを失ったとき、一人の聖者が姿を現して、「もしお前が、イエス・キリストを信ずることを願うならば、私はお前をこの危難から救い出し、お前に道を示してやろう」と言った。王がキリストに帰依することを誓うと、聖者は道案内をつとめ、王を正しい道に連れて行ってくれた。こうして自分の幕営《ばくえい》に帰り着いた王は、その地に滞在していたキリスト教徒の商人に、教義について問い、キリスト教徒になるには洗礼を受けなければならないことを知って、とにかく一冊の福音書を貰い受け、毎日それを礼拝した。そして王は、メルヴ(トルクメン共和国のマルィ)のネストリウス派キリスト教の首都大主教に手紙を送り、司祭を派遣して自分に洗礼を授けてくれるよう依頼し、なお二十万人が自分に従って洗礼を受ける用意があると言った。メルヴの首都大主教はバグダードの総大主教にこれを報告し、総大主教の指示に従って、二人の司祭と助祭をケレイト王のもとに派遣して、ケレイト人たちに洗礼を授けさせた。これは一〇〇七年のことであった。この話は、シリア文の教会史に出ている。
こうして、キタイ人が外モンゴルに都市を建設して、外モンゴルから中国に通ずる交通路が開けたのに伴って、西方からもキリスト教徒の商人が、草原の道を通って外モンゴルにやってくるようになったのである。商人たちが持ち込んだキリスト教の信仰は、外モンゴルのケレイト部族だけでなく、内モンゴルのオングト部族にも広がり、この二つの遊牧部族は、それから二百年以上も、モンゴル高原でもっとも有力なキリスト教王国として繁栄した。十三世紀のモンゴル時代になっても、チンギス・ハーンは最初、ケレイト王オン・ハーンに仕えたし、元の世祖フビライ・ハーンの母ソルカクタニ・ベギもオン・ハーンの姪で、キリスト教徒であり、ソルカクタニ・ベギの位牌は、元朝の時代には甘州《かんしゆう》(甘粛省|張掖《ちようえき》県)のキリスト教会に安置されていた。モンゴル人は、天がチンギス・ハーンに世界征服の神聖な使命を授けたと信じたが、そのモンゴル人の天の観念に、キリスト教の影響があったかどうかは、大いに興味ある問題である。
持ち込まれたのは信仰だけではない。文字がある。キリスト教に限らず、経典を持つ組織宗教が広まると、かならずそれに伴って文字の使用も広まるものである。ネストリウス派キリスト教会の公用語はアラム語で、経典はアラム文字のアルファベットを用いて書かれた。キリスト教が中央ユーラシア草原の遊牧民の間に広まるにつれて、アラム文字も広まり、遊牧民はそれを利用して、自分たちの言葉を書き表すことができるようになった。こうしてアラム文字がトルコ語に応用されてウイグル文字になり、ウイグル文字が一二〇四年になって、チンギス・ハーンによってモンゴル語に応用されてモンゴル文字になり、モンゴル文字が一五九九年になって、清の太祖ヌルハチによってマンジュ(満洲)語に応用されてマンジュ文字になるのである。そういうわけで、一〇〇七年のケレイト王のキリスト教改宗は、アルファベットの普及という点で、中央ユーラシアの文明に大きな影響を残したのである。
タングト人[#「タングト人」はゴシック体]
もう一つの遊牧キリスト教王国のオングト部族は、沙陀トルコ人の後裔で、内モンゴル西部の陰山《いんざん》山脈に遊牧し、キタイ帝国の西南国境の最前線の防衛を担当していた。その南隣の黄河の上流沿いの、現在の寧夏回《ねいかかい》族自治区の地は、すなわちタングト(党項《とうこう》)人の西夏王国であった。
タングト人は、四川の西北部、チベット国境の山地から出てきた遊牧民の種族であった。その王家の姓がもと拓跋《たくばつ》といって、鮮卑の北魏の帝室と同じだったところから見て、元来は鮮卑系であったらしい。八世紀の安史の乱のあと、唐は国境防衛の都合上、タングト人を寧夏の地に移した。八八三年、タングト人の拓跋思恭《たくばつしきよう》は、黄巣の反乱軍から長安を奪回する作戦に参加して功績を立て、唐の帝室の姓である李氏を名のる特権と、夏国公《かこくこう》の爵位を許されて、独立の軍閥となった。高梁河《こうりようが》の戦いでキタイが宋を破ると、夏国公|李継遷《りけいせん》は独立してキタイと同盟し、九九〇年、キタイの聖宗から夏国王の称号を与えられた。これが西夏王国の建国である。李継遷の孫の李元昊《りげんこう》は、一〇三八年、大夏皇帝の称号を採用して、銀川《ぎんせん》に都を定めた。この西夏王国は、タングト語を書き表すための独特の西夏文字を持っていたが、まだ十分には解読されていない。タングト人は仏教徒であった。
ハザル帝国[#「ハザル帝国」はゴシック体]
さて、東方で遊牧帝国と中国の対立が、次第に遊牧帝国の優位に傾きつつあった七〜十一世紀のころ、西方では黒海の北に、強大なハザル帝国が存在していた。
ハザルというのは、単一の種族ではなくて、西トルコ人の支配の下で統合された、多くの遊牧部族の連合体の名前であったらしい。彼らの共通語はトルコ語であった。西トルコの支配がゆるみ始めた六三〇年頃、つまり東方で第一次トルコ帝国が唐に滅ぼされるのと同時に、ハザル人が北コーカサスに姿を現して、ブルガル人と抗争を始めた。間もなく、西トルキスタンを征服したアラブ人が北コーカサスにも侵入して、ハザルの都市バランジャルを襲い、これから約百年もアラブ・ハザル戦争が続いた。七三七年には、アラブ軍がヴォルガ河下流のハザルの本拠地にまで攻め込んで、ハザル・カガンにイスラム改宗を誓わせたが、それも一時のことで、結局は、現在のダゲスタン共和国のデルベント峠で、アラブの北方進出は食い止められた。
ハザル帝国の支配圏は、ヴォルガ河下流と北コーカサスを中心として、東方ではウラル河、西方ではドニェプル河まで広がり、東ローマ帝国とクリミアの領有をめぐって争った。それでも東ローマは、アラブ帝国に対する防衛と、北方国境の安全の確保のために、ハザルと同盟する道を選んだ。七三二年、ハザル・カガンの娘チチェク姫は、東ローマ皇帝レオン三世の息子コンスタンティノス(後に皇帝コンスタンティノス五世)と結婚して、一子レオンを産んだが、このレオンも後に皇帝(レオン四世)となっている。東ローマ皇帝が「バルバロイ」の女を皇后にするのは、きわめて異例のことで、もって当時ハザルとの同盟が、東ローマにとっていかに大切であったかがわかる。
八世紀の末か九世紀の初めに、ハザルのブラン・カガンはユダヤ教に改宗した。ハザル帝国の支配階級もこれにならい、一般人にも改宗した者が多かった。シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建立され、ユダヤ人の著名な学者が招聘《しようへい》された。カガンの位を継ぐ者は、ユダヤ教徒に限ることとなった。それでもハザル人は、ユダヤ教の伝統に従って他の宗教に寛容であった。ハザル帝国の七人の裁判官のうち、二人は「トーラー」(モーセの五書)の律法に従ってハザル人の事件を裁き、二人はイスラム教徒の事件を裁き、二人はキリスト教徒の事件を裁き、一人は異教徒の事件を裁いた。国政の実務を担当したのは、ホラズム出身のイラン人イスラム教徒から成るカガンの親衛隊であった。ハザル帝国は、中央ユーラシアの東西を結ぶ草原の道と、南北を結ぶヴォルガ河・カスピ海の水の道の交差点を占めていたので、地中海世界・イスラム世界との貿易によって大いに繁栄した。
現在、ロシアとウクライナには、非常に多数のユダヤ人が住んでいて、南ドイツ語の方言(イディッシュ語)を話し、ヘブル語で「アシュケナジム」(スキュタイ人)と呼ばれている。この人々は、昔のハザル人ユダヤ教徒とは関係がない。アシュケナジムは、もとポーランドに住んでいたのが、十八世紀にポーランドがロシア帝国に併合されてから、ロシアやウクライナに移住して来たのである。一九四八年にパレスティナにイスラエルを建国したユダヤ人の主流は、このアシュケナジムの移民であった。
ルーシの出現[#「ルーシの出現」はゴシック体]
九世紀になると、北方にルーシという種族が現れて、ハザル帝国と東ローマ帝国を脅かし始めた。十二世紀の初めに書かれたロシア語の『原初年代記《げんしよねんだいき》』には、八六二年のこととして、次のような話が書いてある。
人々の間には正義がなく、氏族は氏族に向かって立ち、彼らの間に内紛が起こって、互いに戦いを始めた。彼らは互いに「私たちを統治し、法によって裁くような公(クニャージ、族長)を、自分たちのために探し求めよう」と言い合った。彼らは海の向こうのルーシのもとに行った。チュディ(フィン人)、スロヴェネ(東スラヴ人)たちがルーシに「私たちの国の全体は大きく豊かですが、その中には秩序がありません。公となって私たちを統治するために来て下さい」と言った。そこで三人の兄弟が自分たちの氏族とともに選び出され、ルーシのすべてをつれて到着した。長兄リューリクはノヴゴロドに座した。次弟シネウスと末弟トルヴォルは間もなく死んだので、リューリクが権力を取り、自分の家臣に町々を分け与えた。
リューリクの二人の家臣、アスコルドとディルは、自分の一族を伴ってビザンティウムへ行く許しを得た。彼らはドニェプル河を下り、キエフの町にとどまって、ポリャネ(平原の東スラヴ人)を統治した。それまでキエフはハザルに貢税《こうぜい》を支払っていたのである。二人は八六六年、東ローマ帝国に兵を進め、二百隻の船を連ねてビザンティウムを包囲したが、嵐のために失敗した。リューリク公が死んで、一族のオレーグが公位を継いだ。八八一年、オレーグ公は多くの軍勢を引き連れてキエフに到着し、アスコルドとディルを殺してキエフの公となった。
以上の『原初年代記』の話は、年代の点で不正確である。ルーシがビザンティウムを攻撃したのは八六〇年のことで、リューリク兄弟が東スラヴの地に渡って来たという八六二年よりも前になる。それはそれとして、東スラヴ人の上に初めて王権を打ち立てたのが、東スラヴ人自身ではなく、海の彼方のスカンディナヴィアから渡って来たゲルマン系のノルマン人であったことは、明らかに語られている。こうした外来のノルマン人征服者がルーシ(ロシアの語源)と呼ばれ、ルーシが征服した国土がロシア、ルーシに征服された人々がロシア人になったのである。この事実は、いわゆるロシア民族のアイデンティティが、その形成の当初から、よそからの借り物であったことを示している。
ルーシはヴォルガ河を下って、ハザル帝国に対する攻撃を繰り返し、ついに九六五年、ルーシのキエフ公スヴャトスラフは、ハザルの中心都市サルケルを攻略した。ハザル帝国はこの打撃によって崩壊したが、ハザル人はすぐには消滅せず、十一世紀の末まで北コーカサスに生き残っていた。
ハザル帝国が倒れたあと、スヴャトスラフの息子のウラディーミル公(一世)は東ローマと手を結び、九八八年、皇帝バシレイオス二世の妹アンナと結婚して洗礼を受け、キリスト教に改宗した。『原初年代記』の物語によると、ウラディーミル公のもとにイスラム教徒のブルガル人が来て、イスラムを信仰するよう勧めたが、公は、イスラム教徒は割礼を受け、豚肉を食べず、酒を飲んではならないというのが気に入らず、改宗を拒んだ。ドイツ人が来て、ローマ教皇に帰依して精進するよう勧めたが、公はこれをも拒んだ。ハザルからユダヤ人が来て、ユダヤ教に改宗するよう勧めたが、公は、ユダヤ人の国が神の怒りによって亡び、ユダヤ人が四散したと聞いて、やはり改宗を拒んだ。最後に東ローマから学者が来て、洗礼によって復活が保証されると説いたので、公は洗礼を受ける決心をし、ルーシの神々の像を破壊した、という。もちろんこれはキリスト教の坊さんが作った有《あ》り難《がた》話で、史実ではないが、このウラディーミル公の改宗が、のちのロシア正教会の起源になるのである。
ルーシが受け入れたキリスト教は、東ローマのギリシア正教であったが、教会の公用語はギリシア語でなく、スラヴ語を採用した。そのため、ロシア正教の修道院でスラヴ語に翻訳されたギリシア語の文献は、まったくキリスト教神学の著作だけで、ギリシア哲学・文学・科学の古典はいっさい翻訳されなかった。そういう事情があったため、ルーシが東ローマからキリスト教を受け入れたとはいっても、西ヨーロッパでは文明の基礎となった古典ギリシア・ローマの精神の影響は、ルーシにも東スラヴにもほとんどなかった。このことは、のちのロシア文明の運命に、大いに関係してくることになる。
ハザル帝国が倒れたからといって、黒海の北の草原がルーシのものになったわけではなかった。ハザルのあとにはペチェネグ人という、やはりトルコ語を話す遊牧民の種族が東方から入って来て猛威を振るい、ハザルを倒した当のスヴャトスラフ公は、九七二年、ペチェネグ人に敗れて殺された。ペチェネグ人は公の頭蓋骨に金を張り、杯を作ってそれで酒を飲んだ。ウラディーミル公の時代にも、ペチェネグ人の攻勢は激しく、ルーシは城砦《じようさい》を築いて防戦につとめた。しかし一〇三六年にキエフを攻めて敗れたあと、ペチェネグ人は西方へ通り過ぎて、ドナウ河の東ローマ国境に向かった。ペチェネグ人のさらにあとに東方から入って来たのが、キプチャク人である。
キプチャク人[#「キプチャク人」はゴシック体]
キプチャク人は一名をクマン人ともいい、ロシア語ではポロヴツィと呼ぶ。シベリアのオビ河の上流のアルタイ山地から出て来た、トルコ語を話す遊牧民で、十一世紀の初めにカザフスタン草原を通って西方へ大移動を開始し、同じ世紀の末にはドナウ河に達した。キプチャク人が占拠した、カザフスタン・北コーカサス・ウクライナにまたがるこの広大な草原地帯は、ペルシア語で「ダシュティ・キプチャク」すなわちキプチャク草原として知られるようになった。
キプチャク人の間には政治的統一はあまりなく、多くのカガンたちがそれぞれ自分の部族を率いて活躍した。十一世紀の末から、キプチャク人は東ローマ、ハンガリー、ルーシに攻撃を繰り返し、ことにルーシとの戦争は激しかった。一一八五年にルーシのノヴゴロド公イーゴリ二世がキプチャク人に敗れて捕虜になった戦いの物語は、古いロシア語の英雄詩『イーゴリ遠征譚《えんせいたん》』に歌われて有名になった。この物語をもとにして、十九世紀のロシアの音楽家ボロディンが歌劇『イーゴリ公』を作ったのであるが、この歌劇の中で最も有名な曲が「ポロヴツィ人の踊り」である。この曲の題名は、よく間違って「ダッタン人の踊り」と訳されるが、正しくは「キプチャク人の踊り」としなければならない。「ダッタン」は漢字では「韃靼」と書き、「タタル」の音訳である。モンゴル人はもとタタルの中から出て来た種族なので、ロシア人はモンゴル人のことを「タタル」と呼んだのだが、ポロヴツィはキプチャクであってモンゴルではなく、モンゴル人は十二世紀には、まだキプチャク草原には来ていなかった。
ルーシも、キプチャクも、どちらも内部に統一がなく、協力して敵に当たることができなかったので、戦争はいつまでも決着がつかなかった。そのうちに十三世紀になって、東方からモンゴル人がやって来て、ルーシもキプチャクも、モンゴル帝国に呑みこまれてしまうことになるのである。
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第6章[#「第6章」はゴシック体] モンゴル帝国は世界を創る
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『資治通鑑《しじつがん》』の中華思想[#「『資治通鑑《しじつがん》』の中華思想」はゴシック体]
モンゴル高原の遊牧帝国は、トルコ帝国からウイグル帝国へと、常に隋・唐時代の中国にとって脅威の源であり続けた。ことにキタイ(契丹)帝国は、九三六年の燕雲《えんうん》十六州の割譲《かつじよう》以来、五代・宋の中国に対して優位に立っており、一〇〇四年の|※[#「さんずい+亶」、unicode6FB6]州《せんしゆう》の和約によって、キタイの宋に対する優位は確定した。
この形勢は、中国人のアイデンティティに、決定的な変化を引き起こした。もともと中国というものは、皇帝を中心とする世界のことであり、皇帝の治める都市に住んで、皇帝が制定した漢字を使う人が中国人であり、出身の種族には関係がなかった。さらに「中国人」という用語すらなく、秦《しん》代には「秦人」であり、漢代には「漢人」であり、三国時代には「魏《ぎ》人」、「呉《ご》人」、「蜀《しよく》人」であり、晋《しん》代には「晋人」であった。これらはすべて、皇帝に属する人という意味で、種族の観念を含まなかった。
そこへ五胡《ごこ》十六国の乱が起こって、三一六年に晋朝がいったん滅亡し、皇帝制度が消滅した。この時から中国では、遊牧民出身の王朝の支配が切れ目なく続いたために、中国人といえば被支配階級を意味することになってしまった。隋《ずい》も唐も鮮卑《せんぴ》の王朝であり、五代に入っても後唐《こうとう》・後晋《こうしん》・後漢《こうかん》とトルコ人の王朝が続いた。やっと宋になって、中国人の王朝が六百年ぶりに中国を統一したやさきに、宋代の中国人は、高梁河《こうりようが》の敗戦と※[#「さんずい+亶」、unicode6FB6]州の和約の屈辱によって、遊牧帝国の系列に属するキタイの優位を承認しなければならなかったのである。
この情勢が、すでに六百年の非中国人王朝の支配下で傷ついていた中国人の自尊心に、さらなる打撃を加えた。「中国人」はここに及んで種族の観念になり、われわれ中国人は武力では「夷狄《いてき》」に劣るが、文化では「夷狄」に勝《まさ》るのだと主張したがるようになった。この主張がいわゆる「中華思想」であるが、この主張は事実に反する。どんな社会でも、支配階級のほうが被支配階級よりも高い生活水準を享受《きようじゆ》し、従って文化の程度も高いことは当たり前である。どの時代の中国においても、支配階級の「夷狄」のほうが、被支配階級の中国人よりも文化において優《まさ》っていたのである。中華思想は、中国人の病的な劣等意識の産物であるが、この中華思想を歴史によって正当化し、中国人の優越性を証明しようとしたものが、宋の政治家|司馬光《しばこう》(一〇一九〜八六)の著書『資治通鑑』である。
『資治通鑑』は、前四〇三年(戦国時代の初め)から九五九年(宋の太祖の即位の前年)までの千三百六十二年間を扱う編年体の歴史書である。司馬光の時代には、一つの「天下」(世界)にキタイの皇帝と宋の皇帝という、二人の皇帝が並立していた。これは司馬遷の『史記』の枠組みで言えば、あり得ないことであり、「正統」の観念に反することであった。『資治通鑑』の構造は、この現実の情勢を乗り越えて、歴史を理想化し、中国の名誉を回復しようという、宋人の意志を反映している。
司馬光の時代と同じように、二人の皇帝が並立した南北朝時代については、唐の史官たちは南朝をも北朝をも公平に扱って、いずれをも正統の皇帝と認めて記述していたが、司馬光の『資治通鑑』では一貫して、中国の中心部に国を建てた北朝の年号ではなく、江南の辺境の亡命政権である南朝の年号を使って、年代を表示している。年号は、時間に対する皇帝の支配権を表現するものだから、『資治通鑑』の書き方は、鮮卑の北朝をキタイになぞらえて、その皇帝を偽物《にせもの》の皇帝として、正統と認めることを拒否する。そして南朝は弱体であっても、宋と同じように中国人の王朝であるので、その皇帝だけを真正の皇帝として、正統と認めることを意味する。『資治通鑑』はこうした書き方によって、周代以来の正統が、秦・漢以後の歴代の王朝を通じて、宋に直接つながっていること、中国人王朝の宋の皇帝だけが、中国を支配する正当な権利があることを主張したのである。キタイ帝国に対する司馬光の対抗意識と、傷ついた中国人の自尊心を回復しようとする努力が、ここに表れている。
司馬遷の『史記』が中国という世界を定義したのに対して、司馬光の『資治通鑑』は中国人の種族観念を規定してしまった。こうして正統の観念と中華思想が結び付いた結果、これ以後の中国人は、ますます中国の現実が見えなくなってゆくのである。
金帝国[#「金帝国」はゴシック体]
さて、キタイ帝国は、一一二五年に滅亡した。キタイを滅ぼしたのは、ジュシェン(女直《じよちよく》、女真《じよしん》)という種族である。ジュシェン人は、トゥングース系の言語を話す狩猟民で、遼河《りようが》(遼寧省)と嫩江《のんこう》(黒竜江省)を結ぶ東経一二四度線の東側の森林地帯に住み、久しくキタイ帝国に服属して、貢物《みつぎもの》を納めていた。その完顔《かんがん》部族長の阿骨打《アグダ》(金の太祖)が、一一一五年に独立して大金《だいきん》皇帝の位に即いた。これが金帝国の建国である。金という国号は、完顔部族の本拠がハルビン市の東南のアンチュフ(按出虎)河のほとりであり、「アンチュン」がジュシェン語で黄金を意味するからである。ジュシェン語は、のちのマンジュ(満洲)語の祖語である。ジュシェン人も、キタイ人と同じように、漢字に手を加えて自分たちの言語を書き表す文字を作った。
金軍はキタイ軍に連戦連勝して、最後のキタイ皇帝を一一二五年、内モンゴルで捕らえ、引き続き宋に侵入して、翌年、開封《かいほう》を占領して、宋の徽宗《きそう》・欽宗《きんそう》皇帝父子を捕らえた。華北の地は、淮河《わいが》に至るまで、金の領土となった。欽宗の弟の高宗が南に逃れて、一一二七年、皇帝となり、杭州《こうしゆう》に臨時首都を置いた。これからあとの宋朝を南宋《なんそう》という。
金帝国はキタイの領土をほぼそっくり受け継いだ上に、新たに華北を領土に加えたが、北方では内モンゴルだけで、外モンゴルには支配が及ばなかった。その外モンゴルでは、キタイの皇族の耶律大石《やりつたいせき》が一一二四年、鎮州建安軍のカトゥンバリクに、七州のキタイ人と遊牧民の十八部族を集め、皇帝に選挙された。
耶律大石は、間もなく全軍を挙げて西方に移動し、カザフスタン東部のバルハシ湖の南のチュー河のほとりの都市バラーサーグーンを占領して、この地に本拠を置き、ここから中央アジアの広大な範囲を支配した。この大石の帝国を、カラ・キタイ(黒い契丹)または西遼《せいりよう》と呼ぶ。カラ・キタイの皇帝は、トルコ語ではグル・ハーンと称した。その屯営はクズ・オルドと呼ばれ、馬に乗ってひと回りするのに、夜明けから真昼までかかるほど規模が大きかったという。
このバラーサーグーンには、カラ・キタイが来る前、十世紀以来、カラハーン朝というトルコ人の王家があり、イスラム教徒の王朝で、中央アジアに大きな勢力を振るっていた。この王朝では、初めてアラビア文字を使ってトルコ語が書かれるようになり、一〇六九〜七〇年にはユースフ・ハス・ハージブの『クタドグ・ビリク』(幸福の智慧《ちえ》)という、君主の心得を説く、トルコ語で書かれたものとしては最初の文学作品が誕生していた。仏教徒のカラ・キタイは、このカラハーン朝の勢力を引き継いで、中央アジアのイスラム教徒を支配したのである。
キタイ人は、遊牧型の政治組織と中国型の都市文明の結合に、初めて成功した人々であった。そのキタイ人が中央アジアのイスラム地帯にカラ・キタイ帝国を建てて、自分たちが東アジアで創り出した新しい経営形態をこの地域に持ち込んで、やがて来るべきチンギス・ハーンのモンゴル帝国に道を開き、その先駆者となったのであった。
資本主義の萌芽[#「資本主義の萌芽」はゴシック体]
ジュシェン人は森林地帯の狩猟民で、固定家屋に住み、狩猟や採集のかたわら農耕も行っていたので、草原の遊牧民のキタイ人にくらべて、さらに中国型の都市文明になじみやすかった。そのジュシェン人の建てた金帝国の制度は、キタイ帝国の制度をほぼそのまま引き継いだものであった。ただし帝国の南部は、宋から奪い取った華北の中国人地帯で、この地域では商業が高度に発達していて、通貨の需要が大きかったので、新たな問題が起こった。それまでの通貨は銅貨であったが、金領に入った華北には銅の鉱山がなかったので、銅貨の鋳造ができず、流通の絶対量が常に不足した。そのため金帝国は、通貨供給の補助手段として、約束手形を大量に発行した。これが信用取引の慣行を促進する結果となり、信用を基盤とする資本主義経済の萌芽を生み出した。このことも、来るべきモンゴル帝国での商業の繁栄の原因となり、ひいては世界の経済の変化を決定することになるのである。
外モンゴルに直接手の届かなかった金帝国は、この地域の遊牧民による侵入と掠奪《りやくだつ》に悩まされた。その対策として、金帝国は、遠方の遊牧部族と同盟して、国境に近い遊牧民を挟《はさ》み撃《う》ちする戦略を採《と》った。そして金帝国が選んだ同盟相手の一人が、ケレイト王トグリル・オン・ハーンであり、その部下にいたのがモンゴル部族のテムジン、のちのチンギス・ハーンであった。
モンゴル人の出現[#「モンゴル人の出現」はゴシック体]
モンゴルという部族は、もともと現在のシベリアと内モンゴル東部の境を流れるアルグン河のほとりの遊牧民で、その名前は七世紀に初めて記録に現れる。モンゴルが再び現れるのは一〇八四年のことで、この年に「遠方のモンゴル国」の使者がキタイ皇帝の宮廷を訪問している。後世のチンギス・ハーン家の伝承によると、チンギス・ハーンの六代前の祖先はハイドゥといった。隣りのジャライル部族に襲われて馬群を奪われ、一族が皆殺しになった時、幼いハイドゥは一人だけ薪《まき》を積んだ中に隠れて助かった。バルグの民の家に入り婿に行っていた叔父のナチンが帰って来て、ハイドゥを連れてバルグの地に移った。ハイドゥがやや成人すると、ナチンはバルグジン渓谷の民を率いて、ハイドゥを君主に選挙した。ハイドゥは、兵を率いてジャライル部族を攻めてこれを臣下とした。勢力はだんだん大きくなって、バルグジン河のほとりに幕営《ばくえい》を張り、河に橋を架けて往来に便利にした。これから、四方の部族から集まって来る者がだんだん多くなった。ハイドゥの曾孫がハブル・ハーンで、モンゴル部族の最初のハーン(カガン)となった。ハブル・ハーンの孫がイェスゲイで、イェスゲイの息子がテムジン・チンギス・ハーンである。
この話のバルグジンは、バイカル湖に東側から流れ込む河の名前で、その渓谷は大きな平原になっている。バルグはこの地方に住む遊牧民のことで、現在のブリヤート・モンゴル人の祖先である。ジャライルという部族は、その南のオノン河の渓谷に遊牧していた。これで見ると、モンゴル人は、十一世紀の頃にはバイカル湖の東に遊牧していて、そこから南下を始め、ケンテイ山脈の東のオノン河とケルレン河の方面に広がったのである。
チンギス・ハーンの出たキヤン氏族は、モンゴル部族のなかでも最も西寄りのケンテイ山中に牧地を持ち、すぐ西隣はケレイト部族であった。ケレイト王トグリル・ハーンが内紛で王位を失い、百余騎とともにチンギス・ハーンの父イェスゲイのもとに亡命して来た時、イェスゲイは兵を率いて王位を取り返してやったことがあった。トグリル・ハーンはこの恩に感じて、イェスゲイとアンダ(盟友)の誓いを立てた。
イェスゲイが死んだ時、息子のテムジンはまだ幼かった。この頃のモンゴル部族には、まだ文字の知識がなく、従って記録もなかったので、テムジンが生まれた年も確実には判らない。テムジンの事蹟が確かに判り始めるのは、一一九五年からである。
[#挿絵(img/fig9.jpg、横×縦)]
この年、金帝国は、辺境をさわがす遊牧民に対して、大軍を送って大規模な討伐作戦を実行し、同時に同盟部族に命じて背後から敵を攻撃させた。この命令に応じた一人がモンゴル部族のテムジンで、仇敵のタタル(烏古《うこ》)部族を攻めてその部族長を殺し、金軍の総司令官から百人隊長の位階を与えられた。これからテムジンは、金帝国の協力者として、勢力を築き始める。この事件が記録に残ったのは、この年から、テムジンと、文字のあるケレイト王国との間に関係ができたからである。
この年、ケレイト王国では、またも内紛が起こっていた。西隣のアルタイ山脈方面のナイマン部族の王がこれに介入し、トグリル・ハーンの弟のジャア・ガンボは逐《お》い出されて、東隣のケンテイ山脈のテムジンのもとに亡命して来た。トグリル・ハーン自身は、西夏《せいか》王国、天山《てんざん》山脈のウイグル王国を経て、カラ・キタイ帝国に亡命して助けを求めた。しかし助けは得られず、翌一一九六年、やはりテムジンを頼って来た。テムジンは、父イェスゲイがトグリル・ハーンのアンダであった縁で、トグリル・ハーンを父と見なしてその部下となり、それから二人は協力して、金帝国に敵対する他の遊牧部族の討伐に乗り出した。金帝国はトグリル・ハーンに「王」の称号を授けたので、トグリル・ハーンは「オン・ハーン」として知られるようになった。
ケレイトのオン・ハーンとモンゴルのテムジンの協力は一二〇二年まで続き、それまでに外モンゴルの諸部族はほとんどが二人の支配下に入った。ところが成功とともに利害の対立が生じ、ついに一二〇三年の春、オン・ハーンの軍は不意にテムジンを襲った。テムジンは北方に走って、オノン河の北のバルジュナ湖畔に拠り、その秋、オン・ハーンの本営を奇襲《きしゆう》してこれを破った。オン・ハーンは逃走して、ナイマン王国に入ろうとしたが、国境守備隊に殺された。こうして二百年の伝統を持つキリスト教徒のケレイト王国は亡び、モンゴル部族のテムジンが外モンゴルの支配者となった。
翌一二〇四年、ナイマンのタイブガ・タヤン・ハーンの大軍が西方から外モンゴルに侵入して来た。「タヤン」とは、金帝国から与えられた称号「大王」のなまりである。しかしモンゴル軍とのオルホン河畔の決戦で、ナイマン軍は大敗し、タヤン・ハーンは戦死した。テムジンは東方に転じてタタル部族を撃破し、徹底的な大虐殺を行って、この部族を完全に滅ぼしてしまった。
これでモンゴル高原では、金帝国の境外の遊牧民はことごとくテムジンの軍旗のもとに従い、その号令に従うことになった。そこで一二〇六年の春、ケンテイ山脈のなかの、オノン河の源に近い草原に、多数の遊牧部族・氏族の代表者が集まって大会議を開き、テムジンを自分たちの共通の最高指導者に選挙し、「チンギス・ハーン」の称号を奉《たてまつ》ったのである。これがモンゴル帝国の建国であり、また、世界史の誕生の瞬間でもあった。
モンゴルの発展[#「モンゴルの発展」はゴシック体]
これからのモンゴル帝国の発展は、いくつかの段階に分かれる。
第一の段階は、西夏王国の征服である。チンギス・ハーンの即位前の一二〇五年から、すでにモンゴル軍は西夏に侵入を開始し、一二二七年、西夏を滅ぼした。
第二の段階は、天山のウイグル王国の投降である。ウイグル王国はカラ・キタイの保護国であったが、一二〇九年、カラ・キタイに背《そむ》いてチンギス・ハーンに忠誠を誓った。
第三の段階は、金帝国の征服である。チンギス・ハーンは一二一〇年、金と断交して、翌年から金領の内モンゴル・華北に侵入を開始し、チンギス・ハーンの跡継ぎのオゴデイ・ハーンは、一二三四年に至って完全に金帝国を滅ぼした。
第四の段階は、カラ・キタイ帝国の征服である。戦死したナイマン王タヤン・ハーンの息子クチュルクは、カラ・キタイに亡命して、最後のカラ・キタイ皇帝の保護を受けていたが、一二一一年、反乱を起こして皇帝を廃位し、自ら皇帝となった。こうしてカラ・キタイ帝国は、耶律大石が建国してから八十七年で滅亡した。チンギス・ハーンは、一二一八年、モンゴル軍を送ってクチュルクを滅ぼした。こうしてモンゴル帝国の最前線は、西方ではカザフスタン東部まで進出した。次の段階は、カラ・キタイ領の西に接する、イスラム世界の征服である。
イスラム世界のトルコ人[#「イスラム世界のトルコ人」はゴシック体]
西アジアのイスラム世界は、七世紀のアラブ帝国の大征服が創《つく》り出したものである。この帝国は八〜九世紀、バグダードのアッバース朝のハリーファ(カリフ)のもとで最も繁栄したが、この時代から、中央アジアのトルコ人が奴隷として、大量にイスラム世界に輸入され始めた。トルコ人奴隷は勇敢で忠実なので、軍人として重宝され、中には君主に仕えて軍司令官や地方長官の地位に登った者もあった。
十一世紀になると、カザフスタン草原から、トルコ語を話すトルクメン人のセルジュク家が現れて、イスラム教に改宗し、西トルキスタンとイラン高原を征服した。一〇五五年、その王トグリル・ベグはバグダードに入城し、アッバース朝のハリーファから「スルターン」(権力者)という称号を授けられた。セルジュク帝国は一時、西アジア全体をおおったが、次第に小さな地方王家に枝分かれして、勢いが衰え、セルジュク朝の本家は一一五七年に断絶した。チンギス・ハーンが生まれた頃のことである。
セルジュク朝は、イスラム世界では最初のトルコ人の帝国だったが、その領土の東半分を引き継いだのは、やはりトルコ人イスラム教徒のホラズム・シャー朝であった。ホラズムというのは、現在のウズベク共和国の西部の、アラル海にアム河が南側から注ぐ地方のことである。この王家の祖先も、セルジュク朝のスルターンのトルコ人奴隷であったのが、ホラズムの軍司令官に任命されて、勢力を築いたのである。
このホラズム帝国に対する作戦が、モンゴルの世界征服の第五の段階である。チンギス・ハーンは一二一九年、全軍を指揮してシル河を渡り、七年間の遠征によって完全にホラズム帝国を滅ぼし、北インドの平原にまで達した。この遠征に従軍したモンゴル人たちの多くは、西トルキスタンの征服地に駐屯《ちゆうとん》し、さらに征服の事業に従事した。
ヨーロッパ征服[#「ヨーロッパ征服」はゴシック体]
第六の段階は、キプチャク草原の征服である。チンギス・ハーンの長男のジョチは、父からカザフスタンを牧地として与えられていた。オゴデイ・ハーンは一二三四年、ジョチの次男のバトゥを総司令官とし、各皇族家から選《よ》りすぐった部隊で編成した大軍を率いて、ウラル河以西の諸国の征服に向かわせた。バトゥのモンゴル軍は、一二三六年にヴォルガ河中流のブルガル人の国を征服してから、次々とキプチャク人の諸部族、ルーシの諸都市、北コーカサスの諸種族を征服し、ポーランド王国に入って、一二四一年、レグニツァでポーランド軍とドイツ騎士団の連合軍を粉砕した。続いてハンガリー王国を踏みにじって、オーストリアのウィーナー・ノイシュタットまで達した。もっと南では、クロアティアのアドリア海岸にまで進出した。
モンゴル軍の作戦の目的は、西ヨーロッパをことごとく征服して、大西洋岸に達し、この地方をモンゴルの牧地とすることであったと思われる。その証拠に、モンゴル軍の先鋒隊には、あるイギリス貴族が従軍していた。このイギリス人は、一二一五年、イングランド王ジョンに迫って「マグナ・カルタ」(大憲章)に署名させた貴族仲間の一人であったらしい。ジョン王の死後、反対派の貴族たちは、フランスの王子を迎えてイングランドの王位につけようとして失敗し、その一党はローマ教皇インノケンティウス三世によって破門の宣告を受けた。問題のイギリス貴族は、罪の償《つぐな》いとして第四回十字軍に加わってパレスティナに渡ったが、そこでも仲間から脱落してバグダードに移った。ここで、彼の教養が高く、多くの国の言葉を流暢《りゆうちよう》に話すことが評判になり、オゴデイ・ハーンに召し出されて地位を与えられ、モンゴルの遠征軍に従軍し、キリスト教徒との交渉を担当することになったのである。
ところがたまたま、一二四一年十二月、オゴデイ・ハーンが死去し、モンゴルの遠征軍は東経十六度線で突然、進軍を中止して引き揚げた。このときウィーナー・ノイシュタットでは、追撃したオーストリア軍は八人のモンゴル将校を捕虜にしたが、そのなかの一人が問題のイギリス貴族であった。彼の名前は伝わっていないが、もしモンゴル軍が大西洋に達していれば、彼はモンゴルの西ヨーロッパ総督に任命されていたであろう。
これをもってモンゴルのヨーロッパ作戦は終わり、二度と繰り返されることはなかった。遠征軍の総司令官のバトゥはヴォルガ河畔に遊牧して、北コーカサス、ウクライナ、ルーシを支配し、その宮廷は「黄金のオルド」と呼ばれた。ヴォルガ河以東の草原には、バトゥの長兄オルダと弟たちが遊牧した。これらジョチの子孫の領地を、俗に「キプチャク・ハーン国」と呼ぶのは不正確である。正しくは「キプチャク草原のハーンたち」と呼ぶべきである。現在のタタル共和国のタタル人、カザフ共和国のカザフ人、ウズベク共和国のウズベク人は、すべてこのジョチ家のハーンたちとともに移住したモンゴル人たちの後裔《こうえい》である。
西アジアの征服[#「西アジアの征服」はゴシック体]
第七の段階は、西アジアの征服である。チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは、一二五三年、弟のフレグを西アジア遠征に派遣した。フレグは一二五八年、バグダードを攻略して最後のハリーファを処刑し、アッバース朝を滅ぼした。モンゴル軍は引き続き、エジプトの征服をめざしてシリアに侵入した。当時、シリアを支配していたのは、エジプトのアイユーブ家の政権を乗っ取ったトルコ人軍人奴隷の王朝、マムルーク朝であった。モンゴル軍は一二六〇年、パレスティナのアイン・ジャールート(イスラエル共和国のティベリアスの近く)で、スルターン・クトゥーズのマムルーク軍の伏兵《ふくへい》に遭《あ》って大敗した。これ以後も、モンゴル人は何度もシリアとエジプトを征服しようと試みたが、ついに成功しなかった。フレグはイル・ハーンと自称し、タブリーズを中心とする南アゼルバイジャンに本拠を置いて、東は西トルキスタンのアム河から、西はユーフラテス河とアナトリア高原、北はコーカサス山脈に至る広大な地域を支配した。これがいわゆる「イル・ハーン国」である。
「黄金のオルド」のハーンの位をバトゥから継いだのは、その弟のベルケであったが、ベルケとフレグはコーカサスの領有をめぐって衝突した。この情勢のもとに、エジプトのマムルーク朝はベルケと手を結んだ。もともとマムルーク朝を建てたトルコ人軍人奴隷たちはキプチャク人で、アイユーブ家の最後のスルターン・サーリフが大量に買い入れてエジプトに連れて来た人々だったから、故郷のキプチャク草原を支配する「黄金のオルド」には親しみやすかったのである。そのためマムルーク朝は、モンゴル文化に強く影響され、チンギス・ハーンの定めた「ヤサ」と呼ばれる法典を採用した。マムルーク朝は一五一七年までエジプトとシリアを支配して、オスマン帝国に滅ぼされることになる。
中国の征服[#「中国の征服」はゴシック体]
第八の段階は、華中・華南の征服である。南宋に対する作戦は、オゴデイ・ハーン以来、何度も試みられたが、最後に一二七六年、フビライ・ハーンの派遣したモンゴル軍が杭州《こうしゆう》を占領し、南宋は滅亡した。これをもって、中国人の皇帝の「正統」は再び断絶し、中国は遊牧民の帝国の一部となった。トルコ・ウイグル・キタイ・金と成長して来た別の「正統」が勝って、中国を呑みこんでしまったのである。
そのほか、東アジアでは、フビライ・ハーンは一二五三年には雲南のタイ人の大理《だいり》王国を征服し、一二五九年には韓半島の高麗《こうらい》王国の降伏を受けた。チベットにはその頃、統一の中心がなかったが、フビライ・ハーンは一二六〇年、自分に仕える仏教サキャパ派教団の教主パクパをチベット統治の代理人に任命し、パクパの一族のコン氏に統治の実務を担当させた。
こうして、東は日本海・東シナ海から、西は黒海・ユーフラテス河・ペルシア湾に至る、東アジア・北アジア・中央アジア・西アジア・東ヨーロッパの大陸部のほとんど全域は、モンゴル帝国におおわれることになった。これは人類始まって以来の最大の帝国である。
モンゴル帝国の構造[#「モンゴル帝国の構造」はゴシック体]
モンゴル帝国が一直線に、膨張に次ぐ膨張を続けた理由は、匈奴《きようど》帝国以来の遊牧王権の性格にあった。一度成立した王権を維持するためには、君主は部下の遊牧民の戦士たちに絶えず掠奪の機会を与えるか、財物を下賜《かし》し続けて、その支持を確保しなければならない。そうでなければ、独立性の強い部下たちは、たちまち他の君主に乗り換えてしまうので、君主としては不断の征服戦争が、部下を満足させるのに一番手っとり早い方法であった。
モンゴル帝国の内部には、多数の遊牧君主の所領が並び立っていて、これを「ウルス」といった。一つのウルスは、専属の遊牧民の集団とその家畜と、やはり専属の定住民から財物や労働力を徴発する特権とから成っていた。最大のウルスは四つあった。東アジアにはフビライ家の「大元」、すなわち元朝があった。中央アジアにはチャガタイ家の「チャガタイ・ハーン国」があった。西アジアにはフレグ家の「イル・ハーン国」があった。そして東ヨーロッパにはジョチ家の「キプチャク・ハーン国」があった。これらは最大のウルスではあったが、ウルスはこのほかにもたくさんあった。俗に「モンゴル帝国は四大ハーン国に分裂した」などというが、これは不正確な言い方である。モンゴル帝国には、創立者チンギス・ハーンの時代から、すでに多くのウルスが存在して、大ハーンといえども、支配権が直接及ぶのは自分の直轄のウルスだけで、それ以外のウルスの内政に介入する権利はなかった。
こうした雑多なモンゴル人のウルスから成るモンゴル帝国を統合していたのは、偉大なるチンギス・ハーンの人格に対する尊敬と、チンギス・ハーンが天から受けた世界征服の神聖な使命に対する信仰であった。チンギス・ハーンがすなわちモンゴル帝国であり、モンゴル帝国がすなわちチンギス・ハーンだったのである。モンゴル帝国の全土を通じて、「チンギス統原理《とうげんり》」と呼ばれるものが固く信奉され、チンギス・ハーンの血を父方から承けた男子だけが、ハーンの称号を名乗る資格があるとされた。それに伴って、モンゴル以前からの遊牧民の部族名・氏族名はすべて消滅し、モンゴルの氏族名がこれらに代わった。つまり中央ユーラシアの遊牧民は、ほとんどすべてがモンゴル人の社会組織に組み込まれ、モンゴル人になったのである。例外はキルギズ人とトルクメン人だけであった。もっともアルタイ山脈以西のモンゴル人は、十四世紀に入ってイスラムに改宗し、トルコ語を話すようになったが、それでも意識はあくまでもモンゴル人で、トルコ人になったわけではなかった。
モンゴル帝国が創った諸国民[#「モンゴル帝国が創った諸国民」はゴシック体]
モンゴル帝国が十三世紀から後の世界に残した遺産は、中央ユーラシアの遊牧民だけではない。ユーラシア大陸の定住民も、多くはモンゴル帝国の影響を受けて、現在見られるような国民の姿を取るようになった。その顕著な例は、インド人であり、イラン人であり、中国人であり、ロシア人であり、トルコ共和国のトルコ人である。
チンギス・ハーンの次男チャガタイの子孫の領地は、アルタイ山脈からアム河に及んだが、その西部は一三六〇年代にバルラス氏族のモンゴル人テムル(ティームール)に乗っ取られた。テムルはサマルカンドに本拠を置いて、四方に征服戦争を行い、一代のうちに中央アジアの大帝国を作り上げたが、チンギス・ハーンの子孫ではなかったので、ハーンの称号は名のらなかった。テムルの死後、その帝国は、北方のジョチ家のウズベク人の南下によって一五〇七年に滅ぼされた。テムルの子孫のバーブルは北インドに逃げ込み、デリーに本拠を置いてムガル朝を建てた。これがインドのムガル帝国の起源である。
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「ムガル」は「モンゴル」のなまりで、ムガル帝国はすなわちモンゴル帝国である。ムガル帝国はインドの大部分を統合したが、一八五八年、最後のムガル皇帝は英国によって廃位され、ヴィクトリア女王がインド皇帝となった。英国の統治下にインド半島全体は、単一の総督府のもとに初めて統合されて、それが一九四七年に独立したインド連邦とパキスタンに引き継がれたのである。そういうわけで、現在の南アジアの二つの国家は、いずれもモンゴル帝国の継承国家なのである。なお、パキスタンの国語の一つのウルドゥ語は、ムガル帝国の公用語であったもので、「ウルドゥ」は遊牧君主の宮廷を意味する「オルド」のなまりであり、すなわち「宮廷語」である。
イラン高原では、一三三五年、フレグ家のイル・ハーン朝の血統が絶えて、混乱が続いた。十四〜十五世紀にはテムル帝国の支配を受けたが、一五〇一年、南アゼルバイジャンのシーア派イスラム神秘主義教団の教主イスマーイール一世が、トルクメン人遊牧民の九部族の支持を受けて、イル・ハーンの宮廷の本拠地であった南アゼルバイジャンのタブリーズで即位し、サファヴィー朝を建てた。それまでイラン人の住地は、イラン高原から中央アジアのシル河まで広がっていたが、トルコ語を話すウズベク人の南下によって、中央アジアのイラン人は消滅してしまい、中央アジアでイラン語を話すのはタジク人だけになった。こうしてイラン高原だけがサファヴィー朝の領土になり、これで現在のイランの範囲が決まった。そういうわけで、イランという国家も、モンゴル帝国によって形作られた、継承国家の一つなのである。
モンゴルの継承国家――中国[#「モンゴルの継承国家――中国」はゴシック体]
フビライ家の元朝は、モンゴル高原、満洲、韓半島、中国、雲南、チベットを支配したが、一三五一年、華中で中国人の秘密結社「紅巾《こうきん》」の反乱が起こった。紅巾は、ザラトゥシュトラ教の千年王国思想の影響を受けた、白蓮教徒《びやくれんきようと》の革命組織である。一三六八年に至って、紅巾出身の中国人|朱元璋《しゆげんしよう》(明の太祖)が南京で即位して皇帝となり、明朝を建てた。同年、元朝の皇帝トゴン・テムル・ハーンは中国を放棄してモンゴル高原に撤退《てつたい》した。しかし元朝は亡びたわけではなかった。モンゴル高原のモンゴル人は、依然としてチンギス家のハーンたちを戴《いただ》いて「大元《だいげん》」の国号を使用し、明朝を皇帝と認めず、明朝の中国を「イルゲン・ウルス」(領民のウルス)と呼んで、対立を続けた。
明朝は、元朝の正統の継承者を自任したが、その支配の及んだ範囲は中国と雲南だけで、事実上、中国人だけの王国であり、元朝のような帝国にはなれなかった。韓半島は独立して朝鮮王国となった。南満洲の遼河《りようが》デルタの高麗《こうらい》人地帯には、明朝の軍事基地が置かれたが、これはモンゴル高原と韓半島との連絡を遮断《しやだん》するための措置で、満洲が中国の一部になったわけではなかった。その証拠に、明朝が建設した万里の長城は、山海関《さんかいかん》で終わっており、遼河デルタはその外に置かれている。
明朝は確かに中国人の中国を復興したが、その中国は昔の宋代の中国ではなく、モンゴル化した中国であった。明朝の制度は、すべてがモンゴル式であった。全国の人口は「軍戸《ぐんこ》」と「民戸《みんこ》」に分類され、軍戸は世襲の職業軍人を出す家族、民戸は一般人の家族であった。これはキタイ帝国以来の、遊牧民と定住民の二重組織そのままである。軍戸の都市は「衛《えい》」(軍団)、民戸の都市は「県《けん》」と呼ばれ、衛の下には五個の「千戸所」(千人隊)、千戸所の下には十個の「百戸所」(百人隊)が置かれた。これは匈奴以来の遊牧民の十進法の組織である。民戸のほうも十進法で編成され、百戸所に当たるものを「里《り》」と呼び、その下に十個の「甲《こう》」を置いた。明朝の皇族は、軍隊を率いて中国各地の王となったが、これもモンゴル式のウルスである。こうした明朝の制度は、中国に前例のないものであり、モンゴル帝国の遺産であった。
モンゴルと儒教《じゆきよう》[#「モンゴルと儒教《じゆきよう》」はゴシック体]
さらに、明朝が教義を公認した朱子学《しゆしがく》の儒教でさえ、モンゴル帝国の遺産であった。儒教は、黄巾《こうきん》の乱で後漢《ごかん》朝が倒れるとともに権威を失って、宗教としては亡びたが、その経典は生き残って、隋《ずい》の時代に始まった科挙《かきよ》の試験の出題範囲として使われた。そもそも漢字には品詞も、性も数も格も、時称もなく、漢字で綴《つづ》った漢文には文法もない。漢文の意味を解読する手がかりは、古典での熟字の用例しかない。そのため漢字の使用法に精通《せいつう》するには、厖大《ぼうだい》な量の古典のテキストを丸暗記しなければならない。中国には話し言葉の共通語というものがなく、漢文が唯一のコミュニケーションの手段だったので、中国を統一した隋朝としては、漢字の使用の技術に熟練した管理職が大量に必要であった。科挙は、そうした管理職候補者を採用するためのもので、作詩・作文の能力の試験であった。作詩は、押韻《おういん》と平仄《ひようそく》を見て、漢字の読音を正しく知っているかどうかを試すものであり、作文は、十分な量の古典を暗記しているかどうかを試すものであった。唐朝は、科挙の受験者用に、儒教の経典の公認の解釈を編纂《へんさん》し、これらは「正義《せいぎ》」と呼ばれた。
ところで、中国で儒教に代わって盛んになった宗教は、秘密結社の神々を崇拝する道教と、外国人居留民の仏教であった。道教と仏教は、南北朝時代から唐代にかけて激しく競争したが、最後に道教が勝って、仏教は八四五年の大迫害(会昌《かいしよう》の法難)以後、二度と中国の宗教の主流にはならなかった。道教は、仏教と儒教の教義を総合して、大きな体系を作り上げたが、それをそっくり借りて、術語だけを儒教の経典の熟字で置き換えたものが、宋代に興った新儒学、いわゆる宋学《そうがく》である。宋学を大成したのが、南宋時代に生きた朱熹《しゆき》(一一三〇〜一二〇〇)であった。しかし朱熹の完成した朱子学は、科挙用の経典の公認の解釈をくつがえすものであったから、異端として迫害され、南宋時代にはついに公認されなかった。
その朱子学を保護したのが、あらゆる宗教に寛容なモンゴル人である。元朝が一三一五年に科挙を再開したとき、朱熹の著作の経典の解釈が、初めて試験の出題範囲となった。明朝が朱子学を公認して、科挙に関する限り、国定の解釈の地位を与えたのは、ただ元朝にならっただけのことで、中国文化の伝統を復興したわけではなかった。
清朝はモンゴル帝国を復興する[#「清朝はモンゴル帝国を復興する」はゴシック体]
明朝は一六四四年、内乱によって自ら亡び、代わって満洲からマンジュ(満洲)人の清朝が北京に入って中国を支配した。マンジュ人は、昔のジュシェン人である。彼らの金帝国がモンゴル人に滅ぼされたあとも、ジュシェン人は満洲の森林地帯に住んで、モンゴル帝国の支配を受けていた。元朝がモンゴル高原に後退したあと、明朝は南満洲の遼河デルタに軍事基地を置き、ジュシェン人の首領たちに将校の職を授けて丸めこんだ。建州衛都指揮使《けんしゆうえいとしきし》の職を受けたヌルハチ(清の太祖)はその一人で、明軍の司令官の庇護《ひご》のもとにジュシェン人の統一を進めて、一六一六年に独立して後金国ハーンと称し、ついで明朝と開戦して、遼河デルタを占領した。ヌルハチの息子のホンタイジ(清の太宗)が後を継ぎ、一六三五年、軍を送って内モンゴルを征服した。元朝の最後の正統のハーン・リンダンはすでに病死しており、その皇后と皇子は、昔の元朝の皇帝の玉璽《ぎよくじ》を捧げて、ホンタイジのもとに投降して来た。これをもってチンギス・ハーン以来のモンゴル帝国の世界支配の天命を引き継いだと解釈したホンタイジは、翌年、瀋陽《しんよう》において大清《だいしん》皇帝の位についた。これが清朝の建国であった。その八年後に明朝が亡びて、清朝が中国を征服したのである。
マンジュ人の清朝は、十八世紀には満洲、中国、モンゴル高原、ジュンガル盆地、タリム盆地、チベットを支配した。清朝は、よく誤解されるような、中国の王朝ではない。中国は、清帝国の植民地の一つに過ぎなかった。清帝国では、種族ごとに適用される法典が違っていた。マンジュ人には『八旗則例《はつきそくれい》』、モンゴル人には『蒙古《もうこ》例』、チベット人には『西蔵《せいぞう》事例』、タリム盆地のトルコ語を話すイスラム教徒には『回疆《かいきよう》則例』という、別々の法典があり、『大清律例《だいしんりつれい》』が適用されるのは中国人の事件だけであった。帝国の第一公用語はマンジュ語で、皇帝と各種族との間の通信には、原則としてマンジュ語が使用され、漢文は中国の統治にのみ使用された。
清朝の皇帝は、中国人に対しては皇帝であったが、そのほかの種族に対しては、モンゴル帝国以来のハーンとしてふるまった。北京はモンゴル高原と華北の平原の接点にあって、皇帝の冬のキャンプ地である。夏になると、皇帝は内モンゴルの承徳《しようとく》に避暑し、そこでは移動式のオルドに住んで、巻狩りをしたり、遊牧民の首領たちを引見したりして過ごした。
一九一一年に中国で辛亥《しんがい》革命が起こって、翌年、最後の清朝皇帝|宣統《せんとう》帝が退位し、清帝国は崩壊した。中国人の中華民国は、清朝の帝国統治権を引き継いだ正統の政権であると主張したが、モンゴル人もチベット人も、それまで一度も中国人に支配されたことはなく、中華民国の支配権を認めるはずがなかった。外モンゴルのモンゴル人は、ウルガ(現在のウラーンバートル)の高僧ジェブツンダンパ八世をハーンに選挙して独立を宣言した。チベットでもダライ・ラマ十三世が独立を宣言し、モンゴルとの間に承認を交換した。独立できなかったのは、ロシアと日本の勢力下にあった満洲と、中国人の入植が進んでいた内モンゴルだけで、新疆《しんきよう》(ジュンガル盆地とタリム盆地)もあまりに遠すぎて中華民国の手が届かず、中華民国は事実上、中国だけの共和国であった。
これとは対照的に、一九四九年に成立した中華人民共和国は、清帝国の旧領土のすべてを支配している。例外は独立を保った外モンゴル(モンゴル国)だけである。なかでも、一九五〇年に住民の意思を無視して、軍事力を使用して併合したチベットについては、中華人民共和国は、チベットは古来、中国の領土であったとして、領有権の合法性を主張している。その論拠は、元朝と清朝の時代に中国の一部であったからというのであるが、これは事実ではなく、論理としても成り立たない。元朝も清朝も、中国を支配した王朝ではあるが、中国の王朝ではない。その上、両王朝とも、チベットを直接統治したことは一度もなく、まして中国人にチベットを統治させたこともなかった。モンゴルのハーンも清朝の皇帝も、チベット仏教の保護者の立場を守り、チベットの内政に介入せず、チベット人の自治に委《まか》せていたのである。もし元朝時代の関係を引合いに出すならば、現在のモンゴル国こそ、中華人民共和国に対して、中国を領有する権利を主張できる立場にあることになる。いずれにせよ、中華人民共和国がこうした論理を持ち出すこと自体が、この国がモンゴル帝国の、そして清帝国の継承国家であり、その正統性がチンギス・ハーンの天命に遡《さかのぼ》る証拠である。そうでなければ、現在の領土の支配権の説明がつかない。
そういうわけで中国も、モンゴル帝国が形作った国家であり、その継承国家なのである。
モンゴルの継承国家――ロシア[#「モンゴルの継承国家――ロシア」はゴシック体]
ロシアも、モンゴル帝国の継承国家である。これは、東スラヴ人とフィン人を、スカンディナヴィアから来たルーシが支配して作った国である。しかしルーシには統一がなく、リューリク家の公たちがばらばらに、それぞれの都市を支配していて、一二三七年のモンゴル軍の侵入を迎えた。これ以後、ルーシは黄金のオルドのハーンたちに臣従して、いわゆる「タタルの軛《くびき》」の時代が五百年間も続くことになった。「タタル」とはロシア語で、トルコ語を話すイスラム教徒のモンゴル人を指した言葉である。
モンゴルの支配下に、ルーシの文化は飛躍的に成長した。モンゴル人が人頭税《じんとうぜい》の徴収のために戸籍を作り、徴税《ちようぜい》官と駐屯《ちゆうとん》部隊を置いてから、ルーシの町々は初めて徴税制度と戸籍制度を知り、自分たちの行政機関を持つようになった。ルーシの貴族たちは、黄金のオルドへの参勤交代《さんきんこうたい》の機会に、ハーンの宮廷の高度な生活を味わい、モンゴル文化にあこがれるようになった。彼らは他のルーシとの競争に勝つために、モンゴル人と婚姻関係を結んで親戚となるのに熱心であった。またモンゴル人のほうでも、仲間との競争に敗れたモンゴル貴族には、ルーシの町に避難して、客分《きやくぶん》となって滞在する者もあった。政治だけでなく、軍事の面でも、ルーシの騎兵の編制も装備も戦術も、まったくモンゴル式になった。ただ一つ、宗教の面では、ルーシはモンゴル人のイスラム教は取り入れず、ロシア正教を守ったが、そのロシア正教でさえ、あらゆる宗教に寛容なモンゴル人が、教会や修道院を免税にして保護したおかげで、それまでになく普及したのである。そういうわけで、五百年のモンゴルの支配下で、ルーシはほとんど完全にモンゴル化し、これがロシア文明の基礎になったのである。
モスクワの町は、一二三七年のモンゴル軍の侵入の時にはまだ小さな砦《とりで》だったらしく、名前すら出てこない。大きくなるのは十三世紀末で、十四世紀初めのモスクワ公イヴァン一世が、黄金のオルドのオズベグ・ハーンの庇護を受けて、一三二八年、大公《たいこう》の位を授けられ、ルーシの公たちの筆頭となり、貢税《こうぜい》の徴収を一手に任された。その後、黄金のオルドに内紛が起こった機会に、モスクワ大公ドミトリー(ドンスコイ)は一三八〇年、ハーン位をうかがうクリミアのモンゴル貴族ママイと、ドン河上流のクリコヴォで戦って大勝利を収めたと、ロシア教会の年代記は伝えている。「タタルの軛」に対するロシアの最初の勝利だという、この有名なクリコヴォの戦いなるものは、同時代の各国の間に取り交わされた外交文書にはまったく言及がないので、実際にあったかどうか疑わしく、あったとしても、よほどの小さな戦闘だったのであろう。
この当時、モスクワとルーシの覇権《はけん》をめぐって争った大国は、リトアニアであった。リトアニアのヤガイラ(ヤギェウォ)大公は一三八六年、ポーランド女王と結婚してキリスト教徒になり、ポーランド王を兼ねた。十五世紀に入って、ヤガイラの従弟のヴィタウタス大公は、リトアニアの領土を東と南に大拡張して、バルト海から黒海に及ぶ広大な地域を支配した。この時代、リトアニアの支配下にあったルーシが現在のベラルーシ人、ポーランドの支配下にあったルーシが現在のウクライナ人になったのである。
ヴィタウタス大公の保護下にあったジョチ家の皇子ハーッジー・ギライは、一四四九年、リトアニア=ポーランドの後援のもとに、クリミアのハーンとなった。その四年後、オスマン帝国がビザンティウムを攻略し、東ローマ帝国を滅ぼした。ハーッジー・ギライ・ハーンの息子のメングリ・ギライ・ハーンは、一五〇二年、黄金のオルドのハーン位を奪い、黄金のオルドはヴォルガ河から西方に移動して、クリミアと合体した。ロシアの歴史家は、この一五〇二年の事件を「黄金のオルドの滅亡」と呼ぶが、事実はこれに反して、これによって黄金のオルドは、かつてないほど強大になったのである。
この当時のモスクワ大公はイヴァン三世で、しきりと他のルーシの諸公の所領を併合して統一を進めていた。その孫のイヴァン四世は、一五五二年、ヴォルガ河中流域のカザン(現在のタタル共和国の首都)のハーン家に内紛が起こり、その一派から援兵を求められたのにつけこんで、まんまとカザンに入城して居座ってしまった。これをロシアの歴史家は「イヴァン雷帝がタタルの軛《くびき》からロシアを解放した」と言うが、事実は、正々堂々の戦争によって勝利を収めたのではなく、詐術《さじゆつ》を用いてカザンを取ったのであった。イヴァン四世は続いて一五五六年、ヴォルガ河下流域の「アストラハン・ハーン国」を滅ぼしたことになっている。しかし事実は、アストラハンのハーン家がブハラ(ウズベク共和国の都市)に移動しただけのことであった。
ともかく、イヴァン四世は、「全ルーシの大公」の称号に加えて、「カザンおよびアストラハンのツァーリ」と称することになった。ロシア語の「ツァーリ」は、ラテン語の「カエサル」が語源であるが、意味はローマ帝国の「皇帝」ではなく、モンゴル語の「ハーン」である。ところが強大なクリミアの黄金のオルドは、一五七一年、モスクワを攻略して貢税《こうぜい》を課した。これ以後モスクワは、十七世紀の末まで、クリミアに貢税を納め続けなければならなかった。
そこでイヴァン四世は、一五七五年、ジョチ家の皇子シメオン・ベクブラトヴィチ(モンゴル名はサイン・ブラト)を迎えてクレムリンの玉座につけ、全ルーシのツァーリ(ハーン)に推戴《すいたい》しておいてから、翌年、譲位を受けて、あらためて自分がツァーリとなった。イヴァン四世がわざわざ、こんな面倒な手続きを踏んだのは、「チンギス統原理」に従えば、チンギス・ハーンの血統の男子でなければハーン(ツァーリ)にはなれないので、モンゴルの皇子から禅譲《ぜんじよう》を受けるという形式をとって、モスクワのツァーリの位に正統性を付与したのであった。こうしてモスクワ大公は、初めて全ルーシのハーンとなり、モンゴル帝国のほかのハーンたちと肩を並べる資格ができた。これがロシア帝国の起源である。
イヴァン四世の死後、間もなくリューリク家の血統は断絶して、モンゴル人の貴族ボリス・ゴドゥノフがツァーリとなった。ツァーリ・ボリス・ゴドゥノフが一六〇五年に死んだ後、一六一三年になって初めてミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれ、ロマノフ朝を建てた。これで初めて、リューリク家のルーシでも、ジョチ家のモンゴル人でもないツァーリが誕生したわけである。これから後を、ロシアの時代と呼んでもよかろう。しかしロマノフ朝ロシアの宮廷には、依然としてモンゴル系の貴族が多かった。ミハイル・ロマノフの孫のピョートル一世が、クリミアの黄金のオルドから独立した最初のツァーリで、一七二一年、インペラートル(皇帝)の称号を採用している。
黄金のオルドが滅亡したのは、一七八三年、イェカテリナ二世がクリミアを併合した時のことであった。バトゥの率いるモンゴル軍が一二三七年、ルーシに侵入してから、黄金のオルドの滅亡まで、五百四十六年が経っていた。一九四五年、スターリンはクリム・タタル自治共和国を取りつぶして、その住民のタタル人を追放したが、彼らは黄金のオルドのモンゴル人の後裔である。
ツァーリ・イヴァン四世以来、ロシア(ルーシ)は東方に向かってシベリアに進出を始めた。その口火を切ったのは、一五八一年、ドン・カザク(コサック)人のイェルマクが、シベリアのクチュム・ハーンの町イスケルを占領した事件である。これから七十年も経たない一六四九年には、早くもオホーツク海とベーリング海に到達しているが、これは森林地帯を水路によって進んだのである。このロシアの東方進出の実行に当たったカザク(コサック)人は、スラヴ人ではない。カザクはドン河下流域の草原の遊牧民で、ロシア正教に改宗したタタル人、つまりモンゴル人であった。だからロシア帝国の東方進出は、実はモンゴル人の後裔が、かつてのモンゴル帝国の領土を回復しようとする運動であると見ることもできる。シベリアの森林地帯の征服が容易だったのに比べて、西トルキスタンのジョチ家の系統の諸国の征服には時間がかかり、やっと一八六〇〜七〇年代に完了している。ともかくこれをもって、十三〜十四世紀のモンゴル帝国の西半分はロシア帝国に、東半分は清帝国になったのである。そういうわけで、ロシアはモンゴル帝国の継承国家でしかなく、十八世紀のピョートル一世の時代までモンゴル文明の一環であり、地中海世界とも、西ヨーロッパ世界とも、ほぼ完全に隔絶していたのである。
オスマン帝国――民族主義[#「オスマン帝国――民族主義」はゴシック体]
現在のトルコ共和国と、西アジア・北アフリカのアラブ諸国は、いずれも第一次世界大戦の後で、英国とフランスが、オスマン帝国を切り刻《きざ》んで作った国である。そのオスマン帝国を建てたオスマン家は、十三世紀にアナトリアに入って駐屯したモンゴル軍の出身であった。オスマン家は代々東ローマ帝国と戦い、一三六五年にはボスポロス海峡を渡って、ヨーロッパ側のエディルネを都とし、一四五三年にはビザンティウム(イスタンブル)を攻略し、東ローマ帝国を滅ぼしてここに都を移し、一五一七年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを併合し、その支配権はバルカン半島、東地中海、西アジア、北アフリカをおおった。ことにバルカンでは、スルターン・スレイマン一世が一五二六年、モハーチの戦いでハンガリーを支配下に収め、ついで一五二九年には自らウィーンを包囲攻撃して、全ヨーロッパに衝撃を与えた。こうしてオスマン帝国は、モンゴルのイル・ハーンたちが目指した事業を、ことごとく成し遂げたのである。
オスマン帝国の最盛期は約百五十年続いた後、一六八三年の第二次ウィーン包囲に失敗してハンガリーを失ったのを境にして、十八世紀には西ヨーロッパのほうが優勢になり始め、最後に第一次世界大戦に敗れて解体してしまった。残ったのはアナトリアだけになったが、ケマル・アタテュルクはアンカラで反乱を起こして、一九二三年、トルコ共和国を建て、その大統領となった。それまでのオスマン帝国では、共通語こそトルコ語であったが、オスマン人はいろいろの種族の混合で、自分たちがトルコ人だなどと思ってはいなかった。むしろ「トルコ人」という言葉は「田舎者」の意味で、蔑称《べつしよう》として使われていた。ところがケマルは国家の独立を維持するため、トルコ民族主義をスローガンとして、急激な非オスマン化改革を推し進め、トルコ共和国民は純粋なトルコ民族であると主張した。これは全く、それまでの現実に反する宣伝である。
民族という観念は、十九世紀に発生した、ごく新しいものである。現在の世界で通用している国家の観念自体も新しいもので、古くは国家に当たるものは、君主の財産の観念であった。フランス革命で初めて、領地・領民から君主を抜きにした「国家」の観念がはっきりした形を取り、その核心であった君主の代わりとして、「市民」(シトワイヤン)が国家の主権者であるという思想が誕生した。目に見えた人格を持つ個人である君主と違って、この市民というものはつかまえどころがなく、誰が市民で誰が市民でないかもはっきりしない。それで「市民」に代わって、一つの国土・一つの国語を共有する「国民」(ネーション)が構成する「国民国家」(ネーション・ステート)だけが本物の国家であるという思想(国民主義、ナショナリズム)が出て来て、フランス革命以前の君主の領地・領民も、実はすでに国民国家であったかのごとく解釈されるようになった。
そうなると、必然的に、国民国家を作りたいけれどもまだ作れないという人々の集団が現れる。それを日本語で「民族」というが、この言葉は二十世紀の初めの日露戦争のあとで生まれた日本人の造語で、ヨーロッパ語にはそれに相当する言葉がない。現代中国語の「民族」(ミンズー)は、日本語からの借用語である。この「民族」は、日本国民はすべて血統を同じくする「大和民族」であるという、長い間孤立を保ってきた日本でだけ通用する特殊な観念から生まれた言葉である。そのため、国土を獲得し国民と認められて国家を作ろうという「国民主義」の主張は、日本では「民族主義」と訳されることになる。
民族という観念は、そもそも実体のないフィクションに過ぎないが、民族主義のイデオロギーが普及するとたちまち、同じ言語を話す「民族」は、同じ先祖の血統に属する「同胞《どうほう》」であるという、過去の事実を無視した感情が支配的になる。現実には、言語は遺伝するものではなく、人間でさえあれば、どんな言語でも話すことができる。例えば、アイルランド人は昔はケルト系に属するゲール語を話していたが、現在ではゲルマン系に属する英語を話している。これをもって、ケルト系の民族であったアイルランド人がゲルマン系の民族に変わったとは、普通言わない。何々系というのは、言語の系統のことであって、それを話す人間の血統には関係がない。しかし言語の系統は、よく血統と混同される。
ケマル・アタテュルクが鼓吹《こすい》したトルコ民族主義のおかげで、アナトリアのトルコ共和国民はすべて純粋のトルコ民族であるから、団結して国家の統一を守るべきであるという主張と、広大な中央ユーラシアの各地方で現在トルコ語を話している人々も皆、単一のトルコ民族であるという思想が生まれた。このトルコ民族単一思想は、まったく事実に反している。トルコ語は、確かに七世紀のモンゴル高原の第二次トルコ帝国の公用語になって以来、千年以上もの間、非常に多くの種族が公用語として採用してきたが、それらの種族の起源は雑多で、系譜の上ですべて同じ血を引いていたわけではない。だから民族の観念が発生する前の時代に「トルコ人」といえば、トルコ語を話す人というだけのことで、ことに十三世紀のモンゴル帝国から後の時代のイスラム世界では、「トルコ人」と「モンゴル人」は同義語であった。それが区別されるようになるのは、十九世紀の西ヨーロッパで発達した比較言語学で、インド・ヨーロッパ語族に属する言語と区別して、ある言語をトルコ系、ある言語をモンゴル系と分類してからのことである。そういうわけで、トルコ共和国民のトルコ人というアイデンティティは、まったくオスマン帝国のヨーロッパ化の産物なのである。
現代の世界のインド人、イラン人、中国人、ロシア人、トルコ人という国民は、いずれもモンゴル帝国の産物であり、その遺産なのである。そればかりではない。現代の世界の指導的経済原理である資本主義も、モンゴル帝国の遺産である。
モンゴルと資本主義経済[#「モンゴルと資本主義経済」はゴシック体]
モンゴル帝国は多くのウルスから成っていたが、チンギス・ハーンの受けた天命を信じ、チンギス・ハーンの「ヤサ」法典を守り、チンギス・ハーンの男系子孫をハーンに戴《いただ》いている点では共通であった。そしてモンゴル帝国の文明は、キタイ帝国以来の遊牧型の政治と定住型の経済の結合システムであったが、モンゴルの大征服の結果として、ユーラシア大陸の隅々まで治安と交通の便がよくなり、同じ文明のシステムが広く普及して、遠近の諸地域を結ぶ経済活動がこれまでになく活溌《かつぱつ》になった。金領の華北ですでに成立していた信用取引の原理と資本主義経済の萌芽《ほうが》も、この情勢に乗ってモンゴル世界全体に広がり、その外側に接する西ヨーロッパにも強い影響を与えることになった。地中海世界では、モンゴル帝国の出現と同時の十三世紀に、黒海と東地中海の貿易権を握っていたヴェネツィアに、ヨーロッパで最初の銀行が成立している。このヴェネツィアからアルプスを越えて、資本主義的な経営形態が西ヨーロッパに広まったのである。これはモンゴル帝国の成立によって、はじめて可能になったものであった。
特記すべきことに、世界最初の紙幣を発行して成功したのもモンゴル人であった。元朝のフビライ・ハーンは、盛んになった遠距離貿易の決済の便宜《べんぎ》のために、一二七五年、世界最初の不換紙幣《ふかんしへい》を発行した。これが元朝の唯一の法定通貨で、紙幣のほかには金貨も銀貨も銅貨もなかった。このモンゴル紙幣の信用は高く、流通は順調、価値は安定して、インフレーションの程度も大したことはなかった。もっとも一三五一年の紅巾の乱が起こってからは、爆発的な悪性インフレーションとなり、紙幣の信用は失墜《しつつい》した。元朝から中国を奪った明朝は、元朝に倣《なら》って不換紙幣を発行したが、中国人の明朝の信用はモンゴル人の元朝に遠く及ばず、その紙幣はまったく流通せず、中国の経済は沈滞した。明朝の中国の経済が好況を呈するのは、十六世紀の半ばにスペイン人が太平洋航路でフィリピンに到着して、メキシコ産の銀が大量に中国に流れ込み、銀|地金《じがね》が決済に使われるようになってからのことである。この通貨制度で見ても、現代の世界がいかに多くをモンゴル帝国に負うているかがわかる。
大陸帝国と海洋帝国[#「大陸帝国と海洋帝国」はゴシック体]
しかしモンゴル帝国の弱点は、それが大陸帝国であることにあった。陸上輸送のコストは、水上輸送に比べてはるかに大きく、その差は遠距離になればなるほど大きくなる。その点、海洋帝国は、港を要所要所に確保するだけで、陸軍に比べて小さな海軍力で航路の制海権を維持し、大量の物資を低いコストで短時間に輸送して、貿易を営んで大きな利益を上げることが出来る。これがモンゴル帝国の外側に残った諸国によって、いわゆる大航海時代が始まる原因であった。
西ヨーロッパ側では、大航海時代は普通、一四一五年にポルトガル人が、ジブラルタルの対岸のセウタを攻略して、アフリカ大陸の西海岸の航路を確保した時に始まったということになっている。一四九七年にはアフリカ大陸の南端を回ってインド洋に入り、翌年、インドに達し、一五一一年にはマレー半島のマラッカ王国を滅ぼしてここを拠点とし、南シナ海に入って一五一七年には中国に達した。スペイン人は少し遅れて、大西洋から南アメリカ大陸の南端を回って、一五二一年、フィリピンに達し、一五七一年にはマニラ市を建設した。しかしモンゴル帝国の東側に接する日本は、ポルトガル人のセウタ攻略より半世紀以上も早く、大航海時代に入っている。東シナ海の貿易は、十三世紀のモンゴル帝国の出現まで、中国の商船が独占していた。それが一三五〇年、倭寇《わこう》と呼ばれる日本人の海賊が韓《かん》半島の沿岸を荒らし始め、中国大陸の沿岸に移って東シナ海を次第に南下し、華南の海岸に多い中国人の海賊と合流して、十六世紀のポルトガル人・スペイン人の中国到着と時を同じくして、倭寇は最盛期に達した。これらはすべて、大陸帝国の時代が過ぎ去り、海洋帝国の時代が到来しつつあったことを物語るものであった。
二十世紀末の現在では、世界の三大勢力はアメリカ合衆国であり、日本であり、ドイツを筆頭とするEUである。これらはすべて、本質的には海洋国家である。アメリカ合衆国は大陸国家のように見えるが、実はその文明は大西洋岸と太平洋岸に集中していて、中間は空白である。その世界制覇の力の根源は、圧倒的に強大な海軍力にある。日本が海洋国家であることはいうまでもなく、第二次世界大戦の後の日本の経済的成功は、資源の輸入と製品の輸出に、海運を有効に利用したことに原因があった。西ヨーロッパでも、大西洋への出口が広い順に、まず英国、次にフランス、次にドイツという順番で工業化に成功していて、この三国がEUの中核を成している。
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注目すべきことは、アメリカ合衆国も、日本も、EUも、かつてのモンゴル帝国の支配圏の外側で成長してきた勢力であり、一様に資本主義経済で成功している事実である。これに反して、以前ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に属していたロシア連邦などの諸国と、中華人民共和国は、いずれもモンゴル帝国の継承国家であり、モンゴル帝国の支配圏の西半分と東半分をそれぞれ占めているが、これらはみな長年の社会主義国で、その経済は一様に失敗である。モンゴル帝国とその継承国家の社会主義との間には、何か因果関係があるのだろうか。
ソ連の原型となったロシア帝国も、中華人民共和国の原型となった清帝国も、土着民の国民国家ではなく、土着民から遊離した政権であった。そこでは、帝国を構成する雑多な種族の代表が、それぞれ皇帝個人に臣従の誓いを立てることによって、帝国の統合が保たれた。ロシア帝国の場合にはそれに加えて、いかなる種族の出身でも、ロシア正教に改宗すればロシア人であり、皇帝に忠誠を誓ったことになった。
そういう性質のロシアと中国で、二十世紀になって革命が起こって、皇帝制度が消滅すると、それまで皇帝の人格を中核として維持されていた帝国の領土・領民の統合を、新しい共和国が引き継いで維持しようとすれば、流行の民族主義を抑え込んで分裂を防ぐための、何か別の原理が必要になる。それに便利だったのが、マルクスが主張した階級闘争の理論である。民族の差異よりも階級の対立のほうが優先し、同じ階級の利害は民族を超えて一致するというマルクス主義の建て前に基づいて、一九二二年十二月にレーニンが定めた連邦制度では、各民族がそれぞれ共和国、自治共和国、自治州、民族区を構成して、それをそれぞれの労働者・農民階級を代表する共産党が連帯して独裁統治する構造になっていた。ただし面白いことに、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(現在のロシア連邦)にだけは、自前の共産党がなくて、全連邦共産党がロシア共産党の役割を兼ねていた。これはマルクス主義の無神論を国教として、ロシア正教を否定した結果、ロシア民族のアイデンティティの根拠が失われたためである。
かつての清帝国の支配圏を、日本の敗戦に乗じて軍事力で統合した中華人民共和国でも、ソ連の連邦方式に見|倣《なら》って、非中国人地帯の統治のためには、省なみの大自治区を設置して、現地人を名目上の主席とする中国共産党自治区委員会がそれを統治するという形式を採用した。ソ連にしても、中華人民共和国にしても、皇帝抜きで帝国の統合を維持し正当化するためには、民族を超えた労働者・農民階級の連帯というフィクションが必要だったのである。しかし社会主義は、すでに政治制度としても経済制度としても破産し、ソ連共産党とソヴィエト社会主義共和国連邦は一九九一年に消滅した。これは社会主義自体に原因があるというよりは、経済成長競争において大陸国家が、より効率のよい海洋国家に負けたということである。社会主義は、民族主義を抑え込んで、旧ロシア帝国の統合を維持するために導入された原理だから、それを放棄して、代わるべき新しい原理が見つからない限り、連邦が解体して民族共和国がそれぞれ独立してしまうのは当然である。同様にして、やはり大陸国家の中華人民共和国も、一九八九年の天安門事件以来、経済成長が停止して、政治の面でも末期症状を呈している。
社会主義が過ぎ去った後のロシアと中国では、資本主義はまず成功しないであろうし、経済成長で先進国に追い付くこともまず期待できない。ロシア人と中国人は、いずれも中央ユーラシアの草原の道の両端に接続する地域に住んでいる。そのため両国民とも、国民形成以前から繰り返し繰り返し、草原の遊牧民の侵入と支配を受けて、その深刻な影響の結果、現在の姿を取った。長い長い間、ロシアでも中国でも、支配階級は外来者であり、ロシア人とか中国人とかいうのは、被支配階級の総称に過ぎなかった。そのためロシア人にも中国人にも、無責任・無秩序を好むアナーキックな性格が濃厚であり、強権をもって抑圧されなければ秩序を守ろうとはしない。こうした性格は、個人の自発性と責任観念を前提とする資本主義には向いていない。これもモンゴル帝国の支配の後遺症である。
一二〇六年のチンギス・ハーンの即位に始まったモンゴル帝国は、現代の世界にさまざまの大きな遺産を残している。実にモンゴル帝国は、世界を創ったのである。
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第7章[#「第7章」はゴシック体] 東洋史・西洋史から世界史へ
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日本史・東洋史・西洋史の三区分[#「日本史・東洋史・西洋史の三区分」はゴシック体]
現代の日本の歴史学には、日本史、東洋史、西洋史という三つの分野があって、それらの間にはかっきりとした区別がある。これはヨーロッパの歴史学にはない現象であるが、この区別の起こりは、直接には日本の大学制度にある。
現在の東京大学の前身の「帝国大学」は、一八八六年(明治十九年)に創立された。翌年、ユダヤ系ドイツ人のルートヴィヒ・リースが招聘《しようへい》されて、文科大学(文学部の前身)に「史学科」を開設した。リースは、ドイツの偉大な歴史学者レオポルト・フォン・ランケの弟子で、自分が新しく東京に開設した史学科で、実証を重んずるランケ学派の歴史学研究法を、初めて日本に移植したのである。
翌々一八八九年、史学科と並んで、文科大学に「国史科」が設置された。これで判るとおり、日本の大学制度では、西ヨーロッパ流の「史学」は、日本史を対象とする「国史学」とは最初から別物であった。その後、国史科、史学科と並んで、中国史を対象とする「漢史科」というものも設置されたらしい。一九〇四年(明治三十七年)になって、国史・史学・漢史の三科は新しい「史学科」に統合され、その中に「支那史学」と「西洋史」という分野が公認された。その後、一九一〇年(明治四十三年)、「支那史学」は「東洋史学」と改称された。これで国史・東洋史・西洋史という三つの分野が出そろったわけである。文科大学が文学部と変わり、単一の史学科が三つに分かれて、国史学科・東洋史学科・西洋史学科というそれぞれ独立の学科になるのは、一九一九年(大正八年)からである。
ところで問題は、こうした制度上の三区分が、日本でなぜ必要であったか、ということである。その理由は、日本の歴史学が研究対象としなければならなかった三つの文明、日本文明・中国文明・地中海=西ヨーロッパ文明が、それぞれまったく異なった歴史文化を持っていたことである。その根本的な差異に引きずられて、本来ならば一元的な世界観に立つべき歴史学が、分野ごとの違った形を取るようになってしまったのである。
歴史は文化である。地中海文明が産み出した歴史も、中国文明が産み出した歴史も、それぞれの地域に特有の文化という性格を帯びていて、自分の地域だけを世界と見なすものであった。しかもそれぞれの歴史を創り出した最初の歴史家が生きた時代と、初めて歴史を書くことを思い立った動機が、歴史の枠組みを決定してしまっていた。
歴史はもともとこのような性格のものである。歴史が初めて成立した当初、当地でこそ、それは世界史と呼ばれるにふさわしいものだったが、地球全体が一つの世界となった現代では、こうした既成の地中海型、中国型の歴史の枠組みに頼って世界史を書くこと、世界史を語ることは、もはや無意味である。それにも拘《かかわ》らず、世界史の新しい有効な枠組みはいまだに開発されていない。こんな状態では、世界史は成り立たない。現に成り立っていない。
前五世紀にヘーロドトスが創り出した地中海型の歴史観によっても、前二世紀末に司馬遷《しばせん》が創り出した中国型の歴史観によっても、現実の世界史が割り切れないことは、冷静に考えれば当り前のことであるのに、それを何とか割り切ろうと、大多数の日本の歴史学者は空しい努力を繰り返して、いつも不満足な結果に終わっている。
日本史の性格[#「日本史の性格」はゴシック体]
まず日本史ではどうかというと、国史学科が研究の対象とした日本史には、八世紀の『日本書紀《にほんしよき》』から始まって、十七世紀から二十世紀の初めまで編纂が続いた水戸藩の『大日本史《だいにほんし》』に至るまで、「正史」の伝統的な枠組みが確固として存在して、それから抜け出すことは非常に困難、ほとんど不可能である。古文書の研究などは、正史の補助という性格のもので、正史の枠組みから完全に独立した研究分野ではない。
その日本の正史の枠組みを決定したのは、日本で最初に書かれた歴史である『日本書紀』であった。六六八年の建国の当初から、日本文明に『日本書紀』に代表される立派な歴史があるのは、日本文明が、歴史のある中国文明から分かれて独立した対抗文明だからである。
日本列島の倭人《わじん》たちは、前一〇八年に漢の武帝が大同江《だいどうこう》畔の朝鮮王国を滅ぼして、韓半島に真番《しんばん》郡・楽浪《らくろう》郡などの四郡を置いた時から、皇帝を頂点とする中国文明圏に組み込まれた。しかし四世紀の五胡《ごこ》十六国の乱で、中国に皇帝がなくなって、東北アジアの諸王国が中国から独立するようになると、日本列島でも難波《なにわ》に河内《かわち》王朝(仁徳〜清寧天皇)の倭王が出現し、それが断絶して播磨《はりま》王朝(顕宗〜武烈天皇)が、さらにそれが断絶して越前《えちぜん》王朝(継体天皇〜)が倭王位を継承した。この時代の倭王の直接支配圏は畿内の中心部に限られ、列島の全体には及んでいなかった。倭王の同盟国であった百済《くだら》王国が、六六〇年に唐と新羅《しらぎ》の連合軍に滅ぼされると、倭人は百済の救援に乗り出した。しかし救援の試みは失敗に終わり、六六三年の白村江《はくそんこう》の敗戦で、倭人は韓半島から逐《お》い出され、当時の世界の孤児となった。この危機に、日本列島の倭人と華僑《かきよう》は、自衛のため、倭王家を中心に団結して統一王国を作ることになり、六六八年、天智《てんち》天皇が大津の京に即位して、最初の成文法典『近江令《おうみりよう》』を制定した。この法典の規定では、倭王は外国に対しては「明神御宇日本天皇《めいしんぎようにつぽんてんのう》」と自称することになっていた。ここに初めて「日本」という国号と「天皇」という王号が誕生したのである。
日本の建国は、倭人と華僑が唐帝国に対抗し、皇帝の支配から自身を護《まも》るための措置であった。ここに始まった日本文明は、対抗文明の宿命として、それを構成する文化要素は、すべて中国文明のものにそっくりであり、歴史の枠組みもその一つである。日本最初の正史『日本書紀』は、天智天皇の弟の天武《てんむ》天皇が六八一年に編纂《へんさん》に着手し、天武天皇の嫡《ちやく》曾孫の聖武《しようむ》天皇の即位直前の七二〇年に完成した。その内容は、まったく司馬遷《しばせん》の『史記』の中国型の枠組みに従っていながら、日本文明は最初から中国とはまったく無関係に、自律的に発展してきたと主張するものである。『日本書紀』では日本の建国は六六八年ではなく、前六六〇年に神武《じんむ》天皇が即位して初代の日本天皇となったとしている。この日付は、実際の日本建国の機縁となった六六〇年の百済の滅亡から、後漢の鄭玄《じようげん》の理論(第三章参照)に従って、文明の一サイクル千三百二十年を遡《さかのぼ》って、そこに日本の建国を置いたものである。さらに天の神の子孫の神武天皇から応神《おうじん》天皇に至る十五代の架空の天皇、いわゆる「大和朝廷」を作り出して、実在した河内王朝の初代の仁徳《にんとく》天皇の前に置き、この大和朝廷と河内王朝、播磨王朝、越前王朝が、一連の血統に属するとした。これは『史記』が表現する、黄帝から漢の武帝につながる皇帝の「正統」の理論に倣《なら》ったもので、天から降った神々が日本列島に独自の正統をもたらし、それが万世一系の歴代天皇によって継承されて、『日本書紀』の編纂当時の天皇たちに伝わったと主張するものである。このような叙述はまったくの創作であって、事実の根拠はない。しかしおよそ国史というものは、いずれの国でも大同小異で、自国だけが世界であり、この小世界は周囲の世界とは無関係に自律的に発展してきたというイデオロギーを宣伝することが目的で書かれるものである。
現代日本の日本史学は、もちろん多少の補正は試みてはいるが、大体においてこの『日本書紀』が創作した、日本史の独自性、自律性という枠組みを、いまだに脱しきれていないようである。そのため中国が日本史に及ぼした影響については、一八七一年の「日清修好条規《につしんしゆうこうじようき》」以後は別として、それ以前の時代では本質的でない要素として、比較的軽く扱う。しかしこの態度は論理的でない。ほんの一例を挙げれば、征夷大将軍《せいいたいしようぐん》は辺境駐屯軍の司令官であり、たかだか武家の棟梁《とうりよう》に過ぎなかった。それが日本国内での正統政権の地位を獲得したのには、外国による国際的承認が必要であったはずである。明の永楽《えいらく》帝が一四〇八年、将軍|足利義持《あしかがよしもち》を日本国の元首と認定して「日本国王」に封じたことを無視しては、一八六八年の明治維新までの日本の武家政治は説明がつかないだろう。
そういうわけで、本来ならばいつの時代についても密接に関連して来なければならないはずの日本史の分野と東洋史の分野の間には、現実には対話らしい対話はほとんどないのが実情である。
それでは、「国史科」から出た日本史と違って、どちらもリースの「史学科」から分かれ出た東洋史と西洋史ではどうかというと、いずれもランケ流の実証研究法の応用にあたって、実際には中国の正史の伝統的な枠組みに強く影響されている。
中国型の西洋史[#「中国型の西洋史」はゴシック体]
普通の西洋史の概説では、ヨーロッパ文明の歴史はメソポタミアに始まり、ギリシア、ローマ帝国を経て、フランク王国、それからフランス、ドイツ、英国へと続くという筋書きになっている。しかし実際には、地中海文明の源流は、「歴史の父」ヘーロドトス自身が明言している通り、エジプトにあった。これはギリシア人にとってだけでなく、ユダヤ人にとってもそうであった。『旧約聖書』の「出《しゆつ》エジプト記」に、ユダヤ教の教祖モーセがナイル河でファラオの王女に拾われた話、モーセが同族を率いてエジプトを脱出した話があって、ユダヤ人の文化のエジプト起源を示している。これとは別に、『旧約聖書』にはユダヤ人が「バビロニア捕囚《ほしゆう》」当時に取り入れたメソポタミア起源の一群の話があって、「創世記《そうせいき》」のエデンの園や、ノアの洪水や、バベルの塔や、始祖アブラハムが「カルデヤのウル」の出身であるという話などがそれである。この印象が強いために、後世のキリスト教徒は、文明の発祥地をメソポタミアに求めたがるのである。
それはそれとして、日本の西洋史概説が、ギリシアから始まって、フランス、ドイツ、英国という、明治維新当時の世界の三大強国に終わる歴史の流れを主軸にして叙述するのは、『史記』以来の中国史の「正統」の観念を当てはめて、ヨーロッパ史を理解しやすくしようとしたものである。その証拠に、五世紀の西ローマ帝国の滅亡までを「古代」、それから十五世紀の東ローマ帝国の滅亡までを「中世」、それから後を「近代」とする時代区分法が、ほとんど疑問を挟まずに受け入れられている。この区分は、どう見てもローマ「皇帝」を基準にした時代区分であり、中国史の歴代王朝を基準とした「断代史《だんだいし》」の枠組みに従ったものである。しかしローマの「アウグストゥス」は皇帝ではない。その本質は「元老院《げんろういん》の筆頭議員」であるから、まず元老院があって、そこではじめて「アウグストゥス」が存在できるという性格のものである。これに反して、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》に始まる中国の皇帝は、世界の中心であり、皇帝があってはじめて中国が中国になり得るという性質のものであり、「アウグストゥス」とは異質のものである。「アウグストゥス」を「皇帝」と誤訳したこと自体が、慣れないヨーロッパ史を、なじみ深い中国史に引き付けて理解しようとする、日本人の努力の表れである。
古代の「皇帝」に似た誤訳には、中世の「封建《ほうけん》」がある。中国史の「封建」は、武装移民が新しい土地を占領して都市を建設することを意味する。それに対してヨーロッパ史の「フューダリズム」は、騎士が、一人または複数の君主と契約を結び、所領(フュード)の一部を手数料(フィー)として献上して、その見返りに保護を受けることを意味する。その内容には、中国史の「封建」と共通な点はほとんどない。それにもかかわらず、日本の西洋史で「フューダリズム」を「封建制」とする誤訳が通用しているのは、西洋史学者に中国史の知識がない上に、東洋史学者にもヨーロッパ史の知識がなくて、誤訳を正す能力がないからである。
マルクス主義の時代区分では、「古代奴隷制、中世封建制、近代資本制」と、それぞれの時代には特有の生産様式が存在することになっている。言うまでもなく、これはとんでもないナンセンスである。時代の三区分はあくまで政治を基準にした区分であり、それが経済構造に対応すべき必然的な理由は何もない。それに、古代は地中海世界の現象、中世は大陸部の西ヨーロッパ世界の現象で、舞台が違う。さらに「フューダリズム」が実際に行われたのは、東はエルベ河から西はロワール河に至る地域だけであり、全ヨーロッパ的な現象ではなく、まして全地球的な現象でもない。その行われた地域がフランク王国の中心部に当たるところから見て、「フューダリズム」は、ローマ型の都市文明の地帯にゲルマン人の部族社会が入植した結果、発生した特殊現象であろう。
東洋史の失敗[#「東洋史の失敗」はゴシック体]
いずれにせよ、日本の西洋史で「フューダリズム」を「封建制」と誤訳した結果、その誤訳が今度は日本の東洋史にはねかえって、中国では前二二一年の秦の始皇帝による統一まで「フューダリズム」が行われていたかのような印象が生まれた。始皇帝以前を「中世」とすると、中国では前三世紀の末に、早くも「近代」が始まったことになりそうである。ところが実際に中国に出現したのは皇帝制度である。一方、ローマの「アウグストゥス」を「皇帝」とする誤訳からすると、中国では「中世」の後に「古代」が来たことになる。しかもその「古代」がいつ終わったのかが問題で、悪くすると一九一二年の清の宣統《せんとう》帝の退位で、やっと「古代」が終わったことになりそうである。
そこで宋の皇帝独裁政治の出現を目安として、十世紀から後を「近世」とする内藤|湖南《こなん》(京都帝国大学史学科の東洋史第一講座の初代教授)の説が出たが、今度はこの中国史の「近世」が、ヨーロッパ史では十五世紀に始まることになっている「近代」とどう対応するのか、東洋史学者が頭を悩ますことになった。中国の皇帝独裁をヨーロッパの「絶対主義」に対応するものと考えるのも一案だが、困ったことに絶対主義は、実際はフランスだけの現象で、近代の全ヨーロッパに普遍《ふへん》的な現象ではなく、近代の特徴とするわけにはいかないのである。
ヨーロッパ式の時代区分が中国では成立しないということは、日本のマルクス主義の歴史学者にとって何とも都合の悪いことであった。歴史が時代ごとの段階を踏んで一定の方向に「発展」するのでなければ、最終段階の共産主義社会に到達する見通しは立たないわけである。歴史は善悪二つの勢力の闘争であり、それには一定の「発展」の方向があり、最終段階で善の勢力が勝利して世界が静止し、歴史が終わる、という思想は、ペルシアのザラトゥシュトラ教で最初に現れたもので、マルクス主義の空想もその系列に属する。この思想では、社会の発展段階に基づく時代区分は、ほとんど歴史学の窮極《きゆうきよく》の目的で、それさえできれば共産主義社会がいつ到来するかも予言できることになっていた。そのため中国史で発展段階による時代区分ができないという実情に絶望したマルクス主義の歴史学者は、中国の社会には発展がない、停滞が際限なく続いていると言い出す始末であった。
こうした混乱はすべて、地中海型の歴史観を普遍的な歴史観と思いこんで、それによって中国型の歴史を割り切ろうという、気の毒な日本の東洋史学者たちの空しい努力が産んだものであった。彼らが中国史を地中海型化する目的で適用を試みた手法には、時代区分論のほかに、東西交渉史がある。
東西交渉史は、いわゆる「シルク・ロード」や「南海貿易」など、ヨーロッパと中国の記録に出て来る断片的な事象を拾い集めて、なんとか中国史をヨーロッパ史に対応させようという試みである。確かに、二世紀のアレクサンドリアのギリシア人学者プトレマイオス・クラウディオスの地理書に記載のある、ローマ領のアンティオキアから後漢《ごかん》の長安《ちようあん》に至る中央アジアの交通路の話も、一六六年にその使者と称する者が後漢に至った大秦王安敦《だいしんおうあんとん》がローマ「皇帝」マルクス・アウレリウス・アントニヌスであるという話も面白いが、あまりに小さな事柄ばかりで、しょせん面白い挿話《そうわ》であるに過ぎない。
十三世紀のモンゴル帝国の出現以前には、中国とヨーロッパの間の人の往来も、貿易の額もたかが知れていて、どちらの政治をも決定するほどのものではなかった。東西交渉を通じて中国史とヨーロッパ史が連動していたなどとは、とても考えられるようなものではない。このような小手先の手法では、中国史をヨーロッパ型の歴史に組み直すことなど、まったく不可能である。
世界史を可能にしたモンゴル帝国[#「世界史を可能にしたモンゴル帝国」はゴシック体]
歴史は文化であり、それを産み出した文明がおおう地域によって、通用範囲が決まるものである。歴史を持つ二大文明である地中海=西ヨーロッパ文明と中国文明は、それぞれ前五世紀と前二世紀末に固有の歴史を産み出してから、十二世紀に至るまで、それぞれの地域でそれぞれの枠組みを持った歴史を書き続けていた。それが十三世紀のモンゴル帝国の出現によって、中国文明はモンゴル文明に呑み込まれてしまい、そのモンゴル文明は西に広がって、地中海=西ヨーロッパ文明と直結することになった。これによって、二つの歴史文化は初めて接触し、全ユーラシア大陸をおおう世界史が初めて可能になったのである。
こうした状況を反映して、十四世紀のモンゴル帝国の最盛期には、人類最初の本当の世界史を書く歴史家たちが現れた。
ラシード・ウッディーンの『集史』[#「ラシード・ウッディーンの『集史』」はゴシック体]
一三〇三年、イラン高原のイル・ハーン・ガザンは、ユダヤ人の宰相《さいしよう》ラシード・ウッディーンに命じて、宮廷所蔵のモンゴル語の由緒《ゆいしよ》正しい古文書に基づいて、モンゴル帝国の歴史をペルシア語で編纂《へんさん》させた。この歴史には『ジャーミア・ウッタワーリーフ』という題がついている。これは「歴史の集成」という意味なので、普通は『集史』と訳される。
『集史』の構成は三巻から成る。第一巻は一三〇四年のガザン・ハーンの死までのモンゴル人の歴史である。これはモンゴル人およびそれ以外の遊牧民の諸部族の歴史から始まる。次はチンギス・ハーンの祖先たちの物語で、アラン・グワが天の光に感じてボドンチャルを産んでから、チンギス・ハーンの父イェスゲイに至るまでを語る。次は歴代の大ハーンたちの歴史で、チンギス・ハーンから始まって、『集史』編纂当時の元朝の皇帝テムル・ハーン(成宗)に至るまで、ハーンたちそれぞれの系図と、后妃《こうひ》の表と、一代記を載せる。それぞれの一代記の中では、毎年の箇条の下に、世界の他の地方で何が起こっていたかを記す。続いてイラン高原のイル・ハーンたちの歴史があり、初代のフレグ・ハーンからガザン・ハーンに至る。
第二巻は、ガザン・ハーンの後を継いだ弟のオルジェイトゥ・ハーンの一代記と、モンゴル人以外の諸国民の歴史である。諸国民の歴史の部分は、『旧約聖書』のアダム以来、預言者《よげんしや》たちに至る物語、ムハンマド(マホメット)とその後継者のハリーファ(カリフ)たちのアラブ帝国、ペルシア、セルジュク帝国、ホラズム帝国、中国、フランク(ローマ皇帝とローマ教皇)、インドなどの諸国民の歴史を語っている。第三巻は地理誌だったはずだが、今は残っていない。
この構成で判るように、『集史』は、チンギス家を中心にした世界史である。その世界史の中に、中国と西ヨーロッパという、固有の歴史を持つ二つの文明が含めてあるのは、それまでに書かれた歴史に前例のないことである。これは、モンゴル帝国の出現とともに、単一の世界史が初めて可能になったことを明らかに示すものである。なおこの種の本格的な著作は、それまでのイスラム世界では、凝《こ》った文体のアラビア語で書くのが常識であったのに、『集史』はペルシア語の簡潔な散文で書いてある。『コーラン』の言葉であるアラビア語ではなく、世俗的な言葉であるペルシア語を選んだのは、これがイスラム世界の歴史ではなく、モンゴル帝国を主流とする世界史だからである。
クンガドルジェの『フラーン・デブテル』[#「クンガドルジェの『フラーン・デブテル』」はゴシック体]
イル・ハーンの宰相が書いた『集史』よりは遅れて、同じ十四世紀に、今度は元朝の支配圏のチベットで、やはり世界史が書かれた。その題は『フラーン・デブテル』といい、「紅《あか》い冊子《さつし》」の意味である。著者はツェルパ・クンガドルジェという仏教の僧侶で、一三四六年にチベット語で書いている。その構成は、前半分が王たちの歴史で、インドの王統《おうとう》、中国の王統、西夏の王統、モンゴルの王統を叙述する。王統とはいっても政治史ではなく、帝王と仏教との関わりに叙述の重点がある。後半分はチベット仏教の歴史で、フビライ・ハーン(世祖)の信任を受けてチベットを統治したパクパのサキャパ派をはじめとする、それぞれの宗派について、師から弟子への教義の伝授の次第を叙述する。これは仏教の立場から見た世界史である。
チベットでは、七世紀の建国当時から文字の記録があったが、九世紀の半ばに帝国が分裂して中央政府が消滅してから、記録のない暗黒時代に入り、それが約百五十年も続いた。十一世紀に入って、チベットの各地の土着の豪族たちは、競って高僧を招いて寺院を建立《こんりゆう》し、それを運営して富を集め始めた。こうして政治的統一はないまま、チベット人は仏教信仰をアイデンティティとする国民になった。
最初は西夏《せいか》王国がチベット仏教の最大の施主であったが、十三世紀になってモンゴル人が西夏を滅ぼすと、モンゴルのハーンたちがチベット仏教を保護するようになった。なかでもフビライ・ハーンとその侍僧《じそう》パクパとの関係は、以後のチベットの国際的な地位を決定したもので、仏教教団の教主がチベット国民を代表して、外国の帝王の帰依《きえ》を受け、その保護下にチベットを統治するという方式がここに始まった。
チベット文明はもともと、歴史という文化のないインド文明を継承したものであったが、一方においては中国文明の対抗文明でもあったから、その建国の当初から、中国に対抗して記録を持っていた。しかしその記録はせいぜいチベット王の年代記で、世界を定義するような、本格的な歴史は書かれなかった。それが十四世紀になって、インド、中国、モンゴルを含めた仏教的な世界史を産み出したのは、やはりモンゴル帝国の出現によって、チベット人が広い世界に触れ、歴史は世界史だという意識に目覚めたからである。
空想的な『元朝秘史《げんちようひし》』[#「空想的な『元朝秘史《げんちようひし》』」はゴシック体]
ではモンゴル人自身は世界史をどう見ていたかというと、十三〜十四世紀にはモンゴル語で書かれたハーンたちの宮廷の公式記録は大量にあったに違いない。しかし残念ながら、そうした記録の現物は残っていない。ただし例外は、本物の歴史ではないが、『元朝秘史』(モンゴルの秘史)というモンゴル語で書かれた物語がある。
チンギス・ハーンが生前に生活していたオルド(移動式の宮廷)は、その死後も外モンゴルのケルレン河のほとりに残って、従者たちが在りし日に変わらずハーンの霊《れい》に奉仕を続けた。このオルドの財産を、フビライ・ハーンは一二九二年、自分の孫のカマラに相続させ、カマラはチンギス・ハーン廟《びよう》の大|祭司《さいし》となった。このケルレン河畔のカマラの宮廷で、チンギス・ハーンの祖先から一二〇六年の即位までの物語をまとめたのが『元朝秘史』である。これはチンギス・ハーン廟の祭神《さいじん》の縁起《えんぎ》であって、モンゴル帝国の公式記録ではないので、その内容には、事実に基づかない話が多い。ことにモンゴル部族に文字の記録がなかった時代のチンギス・ハーンの事蹟についての『元朝秘史』の物語は、ほとんどが奔放《ほんぽう》な空想を馳《は》せた創作で信用ができず、歴史の資料にはならない。しかしその文章は、草原の遊牧生活の実感を伝えていて、文学的な香気が高い。なおカマラの息子のイェスン・テムルは、一三二三年、元朝から迎えられて大ハーンの位についた。その翌年、ケルレン河畔に残ったチンギス・ハーン廟で、チンギス・ハーンの征服戦争とその死、オゴデイ・ハーンの即位までを語る『元朝秘史続集』が書かれている。
『蒙古源流《もうこげんりゆう》』[#「『蒙古源流《もうこげんりゆう》』」はゴシック体]
チンギス・ハーンのオルドは、その後、その名をオルドスというモンゴルの部族となり、外モンゴルのケルレン河畔から内モンゴルの黄河《こうが》のほとりに移った。この部族が奉仕していたチンギス・ハーン廟は、現在も内モンゴル自治区のエジェン・ホローの地にある。このオルドス部族の貴族で、チンギス・ハーンの子孫の一人であるサガンという人が、一六六二年にモンゴル語で世界史を書いている。その題は『エルデニイン・トブチ』といい、「宝石の綱要《こうよう》」という意味である。この書物は清朝の宮廷でマンジュ(満洲)語に訳され、それから漢文に重訳されて『蒙古源流』という題がついたので、この題のほうでよく知られている。
このモンゴル語の世界史は、実に壮大な構成になっている。最初にあるのは宇宙の起源で、虚空《こくう》の中で風がぶつかり合って風輪《ふうりん》が生じ、その熱で生じた雲から雨が降り続いて水輪《すいりん》になり、その水面に浮いた微粒子《びりゆうし》がくっつき合って次第に成長して地輪《ちりん》になる。地輪の上には須弥山《しゆみせん》とそれをとり巻く七重の鉄囲山《てつちせん》、七重の無熱池《むねつち》、四つの大陸、八つの小大陸が生成する。次は人類の発生で、天人が地上の食物をむさぼって堕落し、男女の性別が分かれ、田を作って稲を植えて米を食い、田を作る土地を奪い合って争うようになる。そこに現れて公平な裁きで争いを鎮めた人が、人類最初の王者に選挙される。この王の子孫がインドの王統である。この王統に釈迦牟尼《しやかむに》が生まれて仏教を説く。その末裔《まつえい》のある王に、鳥のような奇異な相貌《そうぼう》の男の子が生まれ、箱に入れてガンジス河に捨てられる。これを農夫の翁《おきな》が拾って育てる。後にその子は事情を知って、山を越えてチベットに入り、チベット人の初代の王となる。これがチベットの王統の起源である。その後裔のあるチベット王が、大臣に殺されて位を奪われる。三人の王子はそれぞれ各地に避難する。末の王子ボルテ・チノ(黒白まだらの狼)は妻のホワ・マラル(黄毛の牝鹿)とともに東方に向かい、バイカル湖のほとりのブルハン・ハルドゥナ山に至って、その地方の住民によって殿様に選挙された。これがモンゴルの王統の起源である。ボルテ・チノの子孫のドブ・メルゲンが死んだ後で、寡婦《かふ》のアルン・グワは、夢で一人の美少年と交わって、三人の男の子を産む。末子のボダンチャルは、すなわちチンギス・ハーンの祖先である。そういうことで、チンギス・ハーンの家系は、チベットの王家とインドの王家を通じて、人類最初の王者まで遡る、地上でもっとも高貴な血統であるということになる。
これが『蒙古源流』の世界史の大きな枠組みで、この枠組みの中でインド史とチベット史を叙述した後、チンギス・ハーンの誕生とともに、いよいよ本格的なモンゴル史に入る。この部分は、チンギス・ハーン廟に伝わった多くの古い文献を利用して、チンギス・ハーンの世界征服の次第を語る。その中の金帝国を滅ぼすくだりには、漢の高祖から金までの中国史の叙述がある。チンギス・ハーン以後の時代では、物語はフビライ・ハーン(世祖)に始まる元朝の歴代のハーンたちの治世に移り、トゴン・テムル・ハーン(順帝)が中国を失ってモンゴル高原に帰るくだりが詳しく叙述される。
モンゴル高原に帰ってからの元朝の物語は、フビライ家の後裔のモンゴル・ハーンたちと、反フビライ家の部族連合であるオイラトの抗争の物語である。モンゴルのハーンの位は、十五世紀になってオイラトのエセン・ハーンに一度乗っ取られるが、同じ世紀の末に、チンギス・ハーンの後裔の中でただ一人生き残ったダヤン・ハーンが現れて、チンギス家を再興し、その十一人の息子たちはそれぞれ部族の領主となって繁栄する。ダヤン・ハーンの息子たちの子孫の系譜と事蹟の記述があり、なかでも著者サガン自身のオルドス部族が詳しい。
元朝の最後の正統のハーン・リンダンが死んだ後、その遺児が、昔チンギス・ハーンに滅ぼされた金帝国の末裔である、マンジュ(満洲)人に降ってモンゴルの政権を引き渡し、ここから清朝の歴史が始まる。明朝が亡びて、清朝の順治《じゆんち》帝が中国の政権を奪うくだりで、明朝の歴史が語られる。そこで面白いのは、明の永楽《えいらく》帝の出身についての物語である。トゴン・テムル・ハーンの中国脱出の時に、そのモンゴル人の皇后が取り残されたが、すでに妊娠していた。明の洪武《こうぶ》帝がこれを娶《めと》って、生まれたのが永楽帝であった。洪武帝の別の中国人の皇后から生まれたのが建文《けんぶん》帝であった。永楽帝は父に疎《うと》んじられて、北方辺境の北京に追いやられたが、洪武帝の死後、モンゴル人たちの後援で挙兵して南京の建文帝を滅ぼし、皇帝となって北京に都を定めた。これは、明朝の歴代の皇帝も、チンギス・ハーンの血を引いているという趣旨《しゆし》の物語である。永楽帝がトゴン・テムル・ハーンの遺児だというのは、もちろん事実ではないが、この物語は、明朝の中国がモンゴル帝国の継承国家であることを表現したものである。
清朝の順治帝は、南方の中国人、西方のチベット人・オイラト人、東方の朝鮮人、中央のマンジュ人・モンゴル人を統合し、正統の政権を再び確立した。こうして『蒙古源流』の叙述する世界史は、順治帝の息子の康煕《こうき》帝の即位をもって終わる。
この『蒙古源流』は、チンギス家の高貴な血統を中心の軸とする世界史であって、チンギス・ハーンの受けた世界統一の天命が、著者の時代に至って再び実現するまでの経緯を描写するものである。
単一の世界史の可能性[#「単一の世界史の可能性」はゴシック体]
十四〜十七世紀のモンゴル帝国で世界史を書いた歴史家たちの出身地は、イラン高原も、チベットも、モンゴル高原も、それまで歴史の著作の伝統のなかった地方であり、ペルシア語も、チベット語も、モンゴル語も、それまで歴史の言語ではなく、地中海型や中国型などの、既成の歴史の枠組みに束縛《そくばく》されることがなかった。そうしたモンゴル帝国の産み出した世界史が、いずれもチンギス家の系譜を中心として世界を叙述しているのは、当然とはいえ、当時の世界の実情を反映しているものである。
ここに、地中海型の歴史と中国型の歴史、東洋史と西洋史の矛盾を解決し、単一の世界史に到達する道のヒントがある。それは、中央ユーラシアの草原の道である。中央ユーラシア草原の遊牧民たちは、定住地帯への侵入を繰り返すことによって、歴史のある二つの文明、地中海文明と中国文明をまず創り出した。ヨーロッパのインド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々は、もともと中央ユーラシア草原から入って来て定住したものであった。中国以前の時代の東アジアの都市国家を支配した遊牧民・狩猟民も、やはり中央ユーラシア草原から入って来て、都市の住民となり、中国を創ったものであった。こうして地中海文明と中国文明が成立してしまったあとは、またもや中央ユーラシア草原からの遊牧民の侵入が、そのたびにそれぞれの文明の運命を変えた。地中海世界の古代が終わり、西ヨーロッパ世界の中世が始まったのは、文明の内部に原因のある自律的な発展によるのではなく、モンゴル高原から移動して来たフン人の活動が、ゲルマン人をローマ領内に追いこんだ結果である。また中世が終わって近代が始まったのも、モンゴル帝国の活動を引き継いだオスマン帝国の侵攻の結果であった。さらに西ヨーロッパ人の勢力を全地球上に拡大した大航海時代は、それまで知られていた世界の利権を、大陸帝国であるモンゴル帝国とその継承国家が独占してしまったのに対抗して、西ヨーロッパ人が海洋帝国に活路を求める運動であった。
中国でも、秦《しん》・漢《かん》時代の第一の中国の滅亡のあと、隋《ずい》・唐《とう》時代の第二の中国を形成したのは、中央ユーラシア草原から移動して来た鮮卑《せんぴ》などの遊牧民であった。この鮮卑系の第二の中国と競争して、次第に中国を圧倒し、最後に中国を呑みこんでしまったのは、中央ユーラシア草原の一連の帝国、トルコ・ウイグル・キタイ・金・モンゴルである。モンゴル帝国の支配下に中国は徹底的にモンゴル化して、元朝・明朝・清朝の時代の第三の中国が形成された。このモンゴル化した中国の文化が、普通にいう中国の伝統文化である。この第三の中国は、もはや皇帝を中心として回転する独自の世界ではない。中国の皇帝と見えるものは、実はチンギス・ハーンを原型とする中央ユーラシア型の遊牧君主の中国版であり、中国は中央ユーラシア世界の一部になってしまっている。この第三の中国の性格は、現在の中華人民共和国にはっきり表れている。
ヘーロドトスと『旧約聖書』、「ヨハネの黙示録《もくしろく》」に由来する地中海=西ヨーロッパ型の歴史の枠組みと、『史記』と『資治通鑑《しじつがん》』に由来する中国型の歴史の枠組みをともに乗り越えて、単なる東洋史と西洋史のごちゃ混ぜでない、首尾一貫した世界史を叙述しようとするならば、とるべき道は一つしかない。文明の内的な、自律的な発展などという幻想を捨てて、歴史のある文明を創り出し変形してきた、中央ユーラシア草原からの外的な力に注目し、それを軸として歴史を叙述することである。この枠組みでは、十三世紀のモンゴル帝国の成立までの時代は、世界史以前の時代として、各文明をそれぞれ独立に扱い、モンゴル帝国以後だけを世界史の時代として、単一の世界を扱うことになる。
これを実行するためには、二つの歴史のある文明が、これまでに自己の解釈、正当化のために産み出してきて、歴史家が自明のものとして受け入れてきた概念や術語を一度捨てて、どちらの文明に適用しても論理の矛盾を来さない、筋道の通った解釈を見つけだすことが必要である。こうした単一の世界史の叙述は決して不可能ではない。この『世界史の誕生』は、そうした叙述の最初の試みである。
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参考文献の解説[#「参考文献の解説」はゴシック体]
†第1章[#「†第1章」はゴシック体] 一二〇六年の天命――世界史ここに始まる
ルーシとキリスト教の東方教会については、次を見よ。
[#1字下げ]森安達也編『スラヴ民族と東欧ロシア』(民族の世界史一〇、山川出版社、一九八六年)
チンギス・ハーンが受けた天命については、次を見よ。
[#1字下げ]海老沢哲雄「モンゴル帝国対外文書管見」(『東方学』七四、一九八七年七月)
歴史が普遍でなく、特定の文明を構成する文化要素であり、その文明の地域に限られることについては、次を見よ。
[#1字下げ]岡田英弘・樺山紘一・川田順造・山内昌之編『歴史のある文明 歴史のない文明』(筑摩書房、一九九二年)
時間と空間の起源についてのスティーヴン・ホーキングの考えは、次の二つを見よ。
[#1字下げ]林一訳『ホーキング、宇宙を語る』(早川書房、一九八九年)
[#1字下げ]佐藤勝彦監訳『ホーキングの最新宇宙論』(日本放送出版協会、一九九〇年)
アフリカの無文字社会の歴史文化については、次を見よ。
[#1字下げ]川田順造『無文字社会の歴史』(岩波書店、一九七六年。同時代ライブラリー一六、一九九〇年)
また前出の『歴史のある文明 歴史のない文明』の中の基調報告、
[#1字下げ]川田順造「歴史への意志≠めぐって―アフリカの無文字社会が提起するもの―」
をも見よ。
マヤ文明の文字と暦については、次を見よ。
[#1字下げ]八杉佳穂『マヤ文字を解く』(中公新書六四四、中央公論社、一九八二年)
グアテマラの『ポポル・ヴフ』には、次の日本語訳がある。
[#1字下げ]林屋永吉訳、A・レシーノス原訳『ポポル・ヴフ』(中公文庫D一九、中央公論社、一九七七年)
イスラム文明の時間の観念については、次のものがわかりやすい。
[#1字下げ]片倉もとこ『イスラームの日常世界』(岩波新書一五四、岩波書店、一九九一年)
†第2章[#「†第2章」はゴシック体] 対決の歴史――地中海文明の歴史文化
ヘーロドトスの『ヒストリアイ』の日本語訳は、次のものが、意訳に過ぎて厳密を缺くという批評はあるが、それだけに読みやすい。ただしギリシア語の固有名詞の長母音を、ことごとく短縮して表記している。
[#1字下げ]ヘロドトス、松平千秋訳『歴史 上・中・下』(岩波文庫三三―四〇五、岩波書店、一九七一〜一九七二年)
『旧約聖書』とユダヤ教については、次の二つを見よ。
[#1字下げ]石田友雄『ユダヤ教史』(世界宗教史叢書四、山川出版社、一九八〇年)
[#1字下げ]シーセル・ロス著、長谷川真・安積鋭二訳『ユダヤ人の歴史』(みすず書房、一九六六年)
「ヨハネの黙示録」の千年王国思想を産み出したペルシアのザラトゥシュトラ教の終末論については、次を見よ。
[#1字下げ]鈴木中正編『千年王国的民衆運動の研究』(東京大学出版会、一九八二年)
†第3章[#「†第3章」はゴシック体] 皇帝の歴史――中国文明の歴史文化
この章は、前出の『歴史のある文明 歴史のない文明』の中の基調報告、
[#1字下げ]岡田英弘「中国文明における歴史」
に基づいて詳説したものである。
中国以前の都市国家の時代、第一期の中国の成立、黄巾の乱の後の人口の激減、第二期・第三期の中国については、
[#1字下げ]橋本萬太郎編『漢民族と中国社会』(民族の世界史五、山川出版社、一九八三年)
の中の第一章、
[#1字下げ]岡田英弘「東アジア大陸における民族」
に述べておいた。また
[#1字下げ]岡田英弘『倭国』(中公新書四八二、中央公論社、一九七七年)
にも詳しい。
黄巾の乱の終末論については、
[#1字下げ]岡田英弘編『アジアと日本人』(講座・比較文化第二巻、研究社、一九七七年)
の中の第十章、
[#1字下げ]岡田英弘「秘密結社」
に詳しい。
†第4章[#「†第4章」はゴシック体] 世界史を創る草原の民
「中央ユーラシア」の観念については、
[#1字下げ]護雅夫・岡田英弘編『中央ユーラシアの世界』(民族の世界史四、山川出版社、一九九〇年)
の序章、
[#1字下げ]岡田英弘「中央ユーラシアの歴史世界」
を見よ。「中央ユーラシア」という用語は、デニス・サイナーが一九六三年に初めて使ったものである。これとほぼ同義の「内陸アジア」の、モンゴル帝国以前の時代については、次を見よ。
[#1字下げ]Denis Sinor ed., The Cambridge History of Early Inner Asia. Cambridge University Press, Cambridge, 1990.
『史記』の「匈奴列伝」に始まる、中国の正史の遊牧民の列伝の日本語訳には、次のものがあるが、すべての列伝を収録しているわけではなく、また分担者による出来不出来の差が大きいので注意を要する。
[#1字下げ]内田吟風他訳注『騎馬民族史 1・2・3』(東洋文庫一九七・二二三・二二八、平凡社、一九七一〜一九七三年)
†第5章[#「†第5章」はゴシック体] 遊牧帝国の成長――トルコからキタイまで
隋・唐が鮮卑の王朝であることについては、次の中国人の研究を見よ。
[#1字下げ]陳寅恪『唐代政治史述論稿』(生活・読書・新知三聯書店、北京、一九五六年)
チベット帝国については、次の三つを見よ。
[#1字下げ]山口瑞鳳『吐蕃王国成立史研究』(岩波書店、一九八三年)
[#1字下げ]山口瑞鳳『チベット 上・下』(東洋叢書三・四、東京大学出版会、一九八七〜一九八八年)
および、
[#1字下げ]江上波夫編『中央アジア史』(世界各国史一六、山川出版社、一九八六年)
の中の第四章、
[#1字下げ]山口瑞鳳「チベット」
ルーシの『原初年代記』については、次を見よ。
[#1字下げ]國本哲男・山口巖・中条直樹訳『ロシア原初年代記』(名古屋大学出版会、一九八七年)
†第6章 [#「†第6章 」はゴシック体]モンゴル帝国は世界を創る
モンゴル人の歴史については、次の四つがもっともよい。
[#1字下げ]ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史 1〜6』(東洋文庫一一〇・一二八・一八九・二三五・二九八・三六五、平凡社、一九六八〜一九七九年)
[#1字下げ]岡田英弘『チンギス・ハーン』(中国の英傑九、集英社、一九八六年。朝日文庫、朝日新聞社、一九九四年)
および、
[#1字下げ]護雅夫・神田信夫編『北アジア史(新版)』(世界各国史一二、山川出版社、一九八一年)
の中の第四・五章、
[#1字下げ]岡田英弘「モンゴルの統一」・「モンゴルの分裂」
および、前出の『中央ユーラシアの世界』の中の第三部、
[#1字下げ]宮脇淳子「モンゴル系民族」
漢字の特異な性格と、漢文が中国語ではないことについては、前出の『アジアと日本人』の第五章、
[#1字下げ]岡田英弘「真実と言葉」
および、やはり前出の『漢民族と中国社会』の中の「東アジア大陸における民族」を見よ。
清帝国の種族別の法典については、次を見よ。
[#1字下げ]島田正郎『清朝蒙古例の研究』(東洋法史論集第五、創文社、一九八二年)
モンゴル帝国とルーシの関係については、次を見よ。
[#1字下げ]Charles J. Halperin, Russia and the Golden Horde. Indiana University Press, Bloomington, 1985.
ジョチ家の黄金のオルドと、タタル人、ウズベク人、カザフ人については、次の三つを見よ。
[#1字下げ]John Andrew Boyle tr., The Successors of Genghis Khan. Columbia University Press, New York, 1971.
[#1字下げ]Henry H. Howorth, History of the Mongols from the 9th to the 19th Century, Part II, Divisions 1 & 2. Longmans, Green, and Co., London, 1880.
[#1字下げ]Boris Ischboldin, Essays on Tatar History. New Book Society of India, New Delhi, 1973.
元朝の発行した不換紙幣については、次を見よ。
[#1字下げ]岩村忍『モンゴル社会経済史の研究』(京都大学人文科学研究所、一九六八年)
†第7章 [#「†第7章 」はゴシック体]東洋史・西洋史から世界史へ
この章の主題は、「まえがき」に要約した次の文章を基調としている。
[#1字下げ]岡田英弘「世界史は成立するか」(『歴史と地理』二一一、一九七三年四月)
日本の建国と『日本書紀』の編纂については、前出の『倭国』(中公新書)のほかに、次のものがある。
[#1字下げ]岡田英弘『倭国の時代』(文藝春秋、一九七六年。朝日文庫、朝日新聞社、一九九四年)
ヨーロッパのフューダリズムについては、次を見よ。
[#1字下げ]大谷瑞郎『歴史の論理 「封建」から近代へ』(刀水書房、一九八六年)
『集史』には、まだ全訳がない。次は、原本の第一巻だけのロシア語訳である。
[#1字下げ]L. A. Khetagurov, O. I. Smirnova tr., Rashid-ad-din Sbornik Letopisei, Tom I, Kniga pervaya & Kniga vtoraya. Izdatel’stvo Akademii Nauk SSSR, Moskva & Leningrad, 1952.
なお、前出の The Successors of Genghis Khan は、同じく『集史』の第一巻の、チンギス・ハーンの息子たちからテムル・オルジェイト・ハーン(元朝の成宗皇帝)までの部分だけの英訳である。
『フラーン・デブテル』には、次の日本語訳がある。
[#1字下げ]稲葉正就・佐藤長訳『フゥラン・テプテル―チベット年代記―』(法蔵館、一九六四年)
『元朝秘史』は、十四世紀に、モンゴル語原文を漢字で音訳して漢訳を附した本が、明朝の太祖洪武帝の命によって編纂刊行された。この本の音訳漢字をローマ字化したのが、次のものである。
[#1字下げ]白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫、一九四二年)
『元朝秘史』のモンゴル語原文からの全訳としては、原本が含む漢訳を除けば、次の一九〇六年に完成した日本語訳が世界でもっとも古い。文体は擬古文である。
[#1字下げ]那珂通世訳注『成吉思汗実録』(大日本図書、一九〇七年。筑摩書房、一九四三年)
『元朝秘史』の口語体の日本語訳には、次のものがある。ただし正字体の漢字、歴史的仮名遣いを用いる。
[#1字下げ]小林高四郎訳注『蒙古の秘史』(生活社、一九四〇年)
もっとも手に入りやすい『元朝秘史』の日本語訳は、次のものである。擬古文と口語文の折衷の文体を用いる。
[#1字下げ]村上正二訳注『モンゴル秘史 1・2・3』(東洋文庫一六三・二〇九・二九四、平凡社、一九七〇〜一九七六年)
『元朝秘史』の著作の事情と年代については、次を見よ。
[#1字下げ]岡田英弘「元朝秘史の成立」(『東洋学報』六六―一〜四、一九八五年三月)
『蒙古源流』には、まだ日本語訳がない。モンゴル語原本の最良のものは次の「ウルガ本」である。
[#1字下げ]Erich Haenisch, Eine Urga-Handschrift des mongolischen Geschichtswerks von Secen Sagang (alias Sanang Secen). Akademie-Verlag, Berlin, 1955.
この「ウルガ本」に脱落している部分は、次の校訂本に収録されている。
[#1字下げ]C. Nasunbaljur, Sagang secen Erdeni-yin Tobci. Monumenta Historica, Tomus I. Ulanbator, 1958.
「ウルガ本」の本文をローマ字化して一語索引を附したものが次のものである。ただし全文の英訳と注解を含むはずの第三巻は、まだ刊行されていない。
[#1字下げ]Igor de Rachewiltz, John R. Krueger, Erdeni-yin Tobci (ヤPrecious Summaryユ) Sagang Secen, I & II. Faculty of Asian Studies, The Australian National University, Canberra, 1990-1991.
『蒙古源流』のモンゴル語原文からの全訳には、今のところ次のドイツ語訳しかない。ただしこの訳本のよった原本は、「ウルガ本」より劣る。
[#1字下げ]Isaac Jakob Schmidt, Geschichte der Ost-Mongolen und ihres F殲stenhauses. St. Petersburg, 1829.
次の日本語訳は、『蒙古源流』のマンジュ(満洲)語訳本 (Enetkek Tubet Monggo Han sai Da Sekiyen) からの重訳である。
[#1字下げ]江實訳註『蒙古源流』(弘文堂書房、一九四〇年)
漢訳本『蒙古源流』も、このマンジュ語訳本からの重訳だが、モンゴル語からマンジュ語に訳するときの誤訳があり、さらにマンジュ語から漢訳するときの誤訳が加わっているので、漢訳本の利用には注意を要する。
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あとがき
歴史は文化である。歴史は単なる過去の記録ではない。
歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を越えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。人間の営みさえあれば、それがそのまま歴史になる、といったようなものではない。
地球上に生まれたどの文明のなかにも、歴史という文化があったわけではなかった。歴史は、地中海文明では紀元前五世紀に、中国文明では紀元前一○○年頃に、それぞれ独立に誕生した。それ以外の文明には、歴史という文化がもともとないか、あってもこの二つの文明の歴史文化から派生した借り物の歴史である。
歴史という文化を創り出したのは、二人の天才である。地中海世界では、ギリシア語で『ヒストリアイ』を書いたヘーロドトスであり、中国文明では、漢文で『史記』を書いた司馬遷である。この二人が最初の歴史を書くまでは、ギリシア語の「ヒストリア」(英語のヒストリーの語源)にも、漢字の「史」にも、いまのわれわれが考える「歴史」という意味はなかった。「歴史」という観念そのものがなかったのだから当然だ。
しかし、同じ歴史とはいっても、ヘーロドトスが創り出した地中海型の歴史では、大きな国が弱小になり、小さな国が強大になる、定めなき運命の変転を記述するのが歴史だということになっている。世界で最初の歴史が、ペルシアというアジアの大国に、統一国家ですらない弱小のギリシア人が勝利する物語であったために、アジアに対するヨーロッパの勝利が歴史の宿命である、という歴史観が確立してしまった。これに、キリスト教の「ヨハネの黙示録」の善悪対決の世界観が重なって、アジアを悪玉、ヨーロッパを善玉とする対決の歴史観が、現代の西ヨーロッパ文明にまで影響を及ぼしている。
これに対して、司馬遷の『史記』は、皇帝という制度の歴史であって、皇帝の権力の起源と、その権力が現在の皇帝に受け継がれた由来を語るものである。皇帝が「天下」(世界)を統治する権限は、「天命」(最高神の命令)によって与えられたものだ、ということになっていて、この天命が伝わる順序が「正統」と呼ばれる。天命の正統に変化があっては、皇帝の権力は維持できないから、中国型の歴史では、現実の世界にどんな大きな変化があっても、なるべく無視して記述しないことになる。
このように、同じ歴史とはいっても、地中海文明では変化を主題とする対決の歴史観が、中国文明では変化を認めない正統の歴史観が、それぞれ独自に書きつがれてきて、今日のわれわれの歴史観、ひいては世界観にまで大きな影響を与えている。
本書で書きたかった主題の半分は、以上のことである。
あとの半分は、単なる西洋史と東洋史の合体ではない、本当の意味での世界史の可能性をさぐるため、中央ユーラシア世界を中心とした世界史を叙述することであった。
中央ユーラシア草原の道は、すでにヘーロドトスの時代に遊牧民の移動路として知られていたし、『史記』の中にも、モンゴル高原最初の遊牧帝国「匈奴」の存在が記される。この中央ユーラシア世界の草原の民の活動が、東は中国世界、西は地中海世界そしてヨーロッパ世界の歴史を動かす力となった。そして、十三世紀に、モンゴル帝国が草原の道に秩序をうち立てて、ユーラシア大陸の東西の交流を活溌にしたので、ここに一つの世界史が始まったのである。
十三世紀のモンゴル帝国の建国が、世界史の始まりだというのには、四つの意味がある。
第一に、モンゴル帝国は、東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸に住むすべての人々を一つに結びつけ、世界史の舞台を準備したことである。
第二に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の大部分を統一したことによって、それまでに存在したあらゆる政権が一度ご破算になり、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が分かれた。それがもとになって、中国やロシアをはじめ、現代のアジアと東ヨーロッパの諸国が生まれてきたことである。
第三に、北シナで誕生していた資本主義経済が、草原の道を通って地中海世界へ伝わり、さらに西ヨーロッパ世界へと広がって、現代の幕を開けたことである。
第四に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまった。このため、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が、活路を求めて海上貿易に進出し、歴史の主役がそれまでの大陸帝国から、海洋帝国へと変わっていったことである。
十三世紀からあとの歴史は、それまでのように、地中海・西ヨーロッパ世界の歴史と、中国世界の歴史とを、それぞれ別々に叙述することは、もうできない。モンゴル帝国が、一方で起こった事件が、ただちに他方に影響を及ぼすような世界を創り出したのだから、どうしても一本の世界史として書かなければならない。つまり、世界史は、モンゴル帝国から始まったのである。
一九九二年に、ちくまライブラリーの一書として本書が世に出てから、私のこのような論拠は各方面に影響を与え、とくに文筆を専門とする同業者からの支持を受けたのは、たいへん嬉しいことであった。幸い、ちくまライブラリーとしても版を重ねたが、今回、文庫化にあたっては、さらに多くの読者に恵まれると思い、見慣れない漢字にルビを多くふることを心がけた。
一九九九年七月
[#地付き]岡田英弘
岡田英弘(おかだ・ひでひろ)
一九三一年、東京に生まれる。専攻は中国史、満州史、モンゴル史、日本古代史。一九五三年、東京大学文学部東洋史学科を卒業。アメリカ、西ドイツに留学。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究教授を経て、東京外国語大学名誉教授。主な著書に『倭国』、『倭国の時代』、『チンギス・ハーン』、『日本史の誕生』、『台湾の運命』、『妻も敵なり』、『中国意外史』、『現代中国と日本』、『皇帝たちの中国』『歴史とはなにか』など。
本作品は一九九二年五月、筑摩書房より刊行され、一九九九年八月、加筆訂正の上、ちくま文庫に収録された。