[#表紙(表紙.jpg)]
宇江佐真理
髪結い伊三次捕物余話 さんだらぼっち
目 次
鬼の通る道
爪  紅
さんだらぼっち
ほがらほがらと照る陽射し
時 雨 て よ
文庫のためのあとがき
[#改ページ]
鬼の通る道
北町奉行所で定廻《じようまわ》り同心を務める不破友之進《ふわとものしん》には十二歳になる息子がいる。名を龍之介《りゆうのすけ》という。
不破の父親である不破|角太夫《かくだゆう》が三日三晩考えた末に命名したものである。よい名であると不破は今でも思っている。しかし、孫に命名した角太夫はそれから間もなく病《やまい》でこの世を去った。
赤子の龍之介を毎朝、盥《たらい》で湯あみさせ、かいがいしく世話を焼いてくれた母親も角太夫の後を追うように半年後には亡くなってしまった。両親を立て続けに失った不破の落胆はたとえようもなかったが、十年も過ぎると角太夫の死に方というものに不破は、ある意味で羨望の気持ちを抱くようにもなった。角太夫は長く町方役人として務め、長男の不破が妻を娶《めと》ると跡を継がせて隠居した。ほどなく孫の龍之介が生まれ、その顔を見届けると安心したようにあの世へ旅立ったのだ。連れ合いよりひと足先に……。
このひと足先が不破には肝腎であった。自分も妻の|いなみ《ヽヽヽ》より、わずかでも先になりたい。後に残されるのは嫌《い》やだった。いなみに看病されて、さほど苦しまずに逝《ゆ》きたいと思う。龍之介が一人前になるには少なくてもあと十年は掛かる。元服の十五歳では心許ない。同心としての心構え、探索のあれこれ、手下の使い方、下手人を白状させる手管《てくだ》、それ等《ら》を覚えさせるための時間を十年と踏んだのだ。
実際には、十年では足りない。十五年、いや、二十年かも知れない。だが、不破は息子と自分のこれからを、取りあえず、そのように展望していた。
龍之介は最近、近所の手習いの師匠の所から小泉|翠湖《すいこ》という儒者が開いている私塾に移った。それは妻のいなみの意向によるものである。いなみは、いずれ湯島にある昌平坂学問所で行われている素読吟味《そどくぎんみ》を受けさせたいと考えていた。素読吟味は論語の素読の試験である。武家の少年達はこぞって受験する。
素読吟味を通れば、一応、少年としてふさわしい学問を積んだ者として評価されるからだ。いなみは龍之介の教育に熱心であった。
龍之介の剣術の腕はいなみの血筋を引いたのか、他の少年達より抜きん出ている。いなみの父親は剣術の道場を開いていた男だった。いなみも女子ながら剣術の腕がある。いなみは龍之介が幼い頃から手を取って剣術を教えて来た。それが功を奏しているようだ。
しかし、学問になるとそうはゆかない。龍之介は「子《し》、曰《のたまわ》く」を聞くと頭が痛くなる質《たち》である。これは父親の不破に似たのかも知れない。いなみは手習いの師匠と相談して、年が明けると小泉翠湖の所に通わせて素読吟味に向けた勉強をさせることにしたのである。
龍之介は最初、ひどく嫌やがっていた。やれ、本日は腹が痛いだの、気分がすぐれぬなどと理屈を捏《こ》ねて塾へ行くことを渋った。いなみはそれを宥《なだ》めたり叱ったりしながら追い立てる。
不破はいなみが龍之介を叱る声に苛々《いらいら》する。
いなみのその時の声は|きんきん《ヽヽヽヽ》と甲高く、二日酔いの朝などには一番聞きたくない類《たぐい》のものだ。
「いい加減にせぬか」
不破は見兼ねて口を挟む。するといなみは不破に軽蔑したような眼を向け「あなたが甘やかすので龍之介も怠ける気持ちが起きるのです。年少の内に学ぼうという心構えをつけておかなければ、大人になった時に腑抜《ふぬ》けとなります」と言った。さすがに、あなたのように、とは言い添えなかったが。
黙り込んだ不破に龍之介は諦めたようにため息をつき、肩を落とした恰好で家を出るのだった。
幸い、翠湖の所に通い出してひと月も過ぎると、龍之介はさほど嫌やがらずに塾に行くようになった。
うらうらと温かい陽射《ひざ》しが八丁堀の組屋敷に降り注いでいた。不破家の庭に植わっている梅も堅い蕾をほころばせ、もうすぐ愛らしい花を咲かせることだろう。
不破は出仕《しゆつし》前に、いつものように伊三次に髪を結わせていた。
「どうでェ、文吉《ぶんきち》は。長屋のおかみさんに慣れて来た様子かい」
不破はそんなことを伊三次に訊《き》いた。深川芸者をしていたお文《ぶん》と一緒に暮すようになって、そろそろひと月になる。龍之介の塾通いと、ほぼ並ぶ形で時間が経過していた。
「へい。ですが、このままでいいんでござんしょうかねえ……」
伊三次は髷《まげ》を形造りながら応える。
「何んだ」
振り返りそうになった不破の頭を伊三次は|くいっ《ヽヽヽ》と手で押さえた。
「あいつは女中に身の周りの世話をさせていた女でしたから、家の中のことをするのは、からっきし駄目な口なんですよ。まあ、それはわたしも最初《はな》っからわかっていたことなんで期待もしてなかったんですがね」
「それで?」
不破は伊三次に話の続きを急《せ》かした。
「ところが、飯の仕度をする段になると、隣り近所の女房達がおせっかいを焼いて、米は研《と》いでくれるわ、汁は拵《こしら》えてくれるわ、魚屋から買った魚を焼いてくれるわで、あいつが手を出す隙《すき》もねェんですよ」
伊三次がそう言うと、不破は低い声で笑った。
「結構じゃねェか。辰巳芸者が小|汚《ぎた》ねェ長屋の女房になったんで近所は珍しくて仕方がねェんだろう」
「さいです。お文は蛤《はまぐり》町にいた時と同じように時刻になりゃ、湯屋へ行き、後は三味線を弾《ひ》いたり、貸本を読んだりしているだけなんです」
伊三次はさほど困った様子でもなく言った。のろけていると不破は内心で思った。
「ところで、お前《め》ェはまだ家移《やうつ》りする気はねェのかい」
伊三次がお文のために、今住んでいる裏店《うらだな》を出て一軒家を見つけるようなことを言っていたので、不破は気になっていた。
「そのつもりだったんですよ。ところがお文の奴、どうせその内、床屋を構えるつもりなら、その時に移った方が手間も銭も掛からねェと言いましてね……」
「そいじゃ、当分、今のままか」
「へい……」
伊三次は気後れしたような声で応えた。
「まあ、文吉がそれでいいなら、おれも余計なことは言わねェが、大丈夫か、お前ェ。文吉に伊勢忠《いせちゆう》のような男がまた現れて、横恋慕《よこれんぼ》して来たらどうするよ。長屋暮しは少しの間ならいいだろうが、ずっと続くとなるとなあ」
果たしてお文に我慢ができるのかどうかを不破は心配している。お文の家に付《つ》け火をしたのは材木仲買商伊勢屋忠兵衛の元奉公人であった。その奉公人には死罪の沙汰が下りた。付け火は忠兵衛の指図ではなかった。しかし、忠兵衛も身上《しんしよう》半減の沙汰を受け、深川の冬木町にあった店を畳んだ。今は向島の方で暮しているという。結果的には忠兵衛の商売も、これで終わりを告げたことになる。伊三次は不破の話に返事をせず、頭を仕上げると「へい、お待ちどお様でございます。本日はいかがでござんしょう」と手鏡を差し出した。お文の話はそれで仕舞いになったようだ。
二人の耳に、いなみが龍之介を起こす声が聞こえた。寝坊助《ねぼすけ》の不破をようやく起こしたと思ったら、今度は龍之介を起こさなければならない。いなみも精が切れることだろうと伊三次は思っている。
「坊ちゃんはお疲れでござんしょうねえ」
伊三次は龍之介を気遣って言う。手習いの稽古所から翠湖の塾に移ったことは知っていた。
「なあに。新しい塾には慣れた様子だ。陽気がよくなったんで、春眠《しゆんみん》、暁《あかつき》を覚えず、の方だろう」
「小泉先生は奥様を病で亡くしてから、|やもめ《ヽヽヽ》を通していなさるそうですね。お年は四十の半ばぐらいで、娘さんが一人おられます」
「ほう」
翠湖が独り者であるのは不破も知っていたが、娘がいるとは知らなかった。翠湖の家は不破の組屋敷からほど近い、北島町にあった。八丁堀は与力・同心が多く住んでいることで有名だったが、この界隈は医者と儒者の数もまた多い。それは三十俵|二人《ににん》扶持《ぶち》の同心が家計の不足を補うために敷地や建物の一部を他人に貸す例が多いのだが、貸す相手は誰でもよいという訳にはゆかず、医者や儒者などの確かな人間が選ばれたからだ。
「娘さんは今年十六の娘盛りでして、これが旦那、近頃じゃ珍しいくらいの美人なんですよ。八丁堀小町と評判にもなっておりやす。ありゃあ、いずれ大名屋敷にでも奉公に上がるんでござんしょうかねえ」
伊三次は商売道具を片付けながら言った。
「お前ェはその娘を実際に見たのか」
不破は手鏡で頭の様子を確かめながら訊く。
鏡に映った伊三次が「へい」と肯《うなず》いた。
「娘さんは、|あぐり《ヽヽヽ》さんとおっしゃいますが、お琴のお稽古に行くところを見掛けました。坊ちゃんがちょうど塾の帰りで、お仲間とあぐりさんの後を歩いておりまして、わたしが声を掛けると少々、|ばつ《ヽヽ》の悪いお顔をなさいやしたが、その時、小泉先生の娘さんを教えて下さいやした」
「………」
「あ、これは余計なことを。別に坊ちゃんはあぐりさんの後をつけていた訳じゃござんせんよ」
伊三次は慌てて龍之介を庇《かば》った。不破が苦笑して鼻を鳴らした。龍之介が塾通いを嫌やがらなくなったのは、その娘のせいだろう。不破は身体のどこかをくすぐられたような気分になり、短い吐息をついて空を仰いだ。晴れた空には真綿のような雲が浮かんでいる。ようやく起き上がった龍之介が呑気な欠伸《あくび》を洩らす声が聞こえた。
八丁堀で盲人が殺されているのが見つかったのは二月の晦日《みそか》であった。与力・同心の居住する八丁堀で、しかも真っ昼間、人が殺されたということは南北両奉行所の役人達を震撼させた。この月は南町の月番であった。
殺されたのは葛野勾当《くずのこうとう》という官位の高い盲人である。死体は竹島町の通りにある妙珠稲荷《みようじゆいなり》の狭い境内の中で発見された。稲荷は石垣で囲まれ、しかも笹藪が生い繁っている所なので人目につき難いせいもあったが、殺されてから何んと丸一日もそのままになっていたという。その間、何人もの人々が知らずに前を通り過ぎていたのだ。たまたま、妙珠稲荷の裏手にある北島町の小間物屋の女房が通り掛かり、思いついてお参りしようとして死体を発見したのである。女房は北町奉行所の臨時廻りの同心に知り合いがいたので、当初は、その同心に事件のことが報告された。
臨時廻り同心、春日市左衛門《かすがいちざえもん》が検屍したところによれば、殺された時刻は前日の昼、刃物を使っての滅多《めつた》刺しであった。手口から物奪《ものと》りよりも怨恨の線が考えられた。死体の恰好と傍《そば》に落ちていた五尺一寸の玉杖から盲人と判断され、近くに住む藤田|検校《けんぎよう》に話を聞いた様子である。が、藤田検校も弟子も盲人であるため、死体の心当たりがなかなかつかなかった。春日は火急に処理しなければならない御用を他に抱えていたので、この事件を不破に任せた。
不破は本所一ツ目にある関東総検校のいる総録屋敷《そうろくやしき》を訪れ、前日から行方の知れない盲人の心当たりを訊ねた。関東総検校は関八州の盲人を支配し、官位の取得も代行する権威のある検校である。すぐに江戸の町に住んでいる盲人達に触《ふ》れが出され、日本橋の瀬戸物町に住む葛野勾当とわかったのは、さらに二日後のことだった。
「しかし、下手人らしい奴を誰も見掛けていねェというのが解《げ》せねェ。事件が起きたのは真っ昼間というじゃねェか」
京橋の自身番で岡っ引きの留蔵《とめぞう》は、いかにも腑に落ちない顔で口を開いた。自身番には留蔵と子分の弥八《やはち》、近所の大家の儀《ぎ》右衛門《えもん》、伊三次が顔を揃えていた。伊三次は不破の頭を拵えるとそのまま京橋の自身番で待つように指示されていた。不破は奉行所で申し送りを済ませてから、こちらに来るという。
「死んだ者を悪く言いたくないですけどね、勾当は金貸しで相当に人の恨みを買っていたと思いますよ。まあ、今度のことでも、自分の代わりに勾当を殺してくれた、やれ、ありがたいと内心で思っている人は多いでしょうよ。だから、下手人らしい者を見たとしても、わざと口を噤《つぐ》んでいることも考えられます」
儀右衛門は訳知り顔で言う。弥八が苦笑した。
「まさか、大家さん。そんなことがあるもんか」
「わたしはねえ、冗談を言っているんじゃないんだよ、若親分」
儀右衛門は京橋の蝋燭《ろうそく》問屋の隠居であるが、隠居してから友人が所有する源兵衛店《げんべえだな》の大家を任され、住人達の世話を小まめに焼いていた。京橋の自身番にもこの頃は、ちょくちょく顔を出していることが多い。
「そいじゃ大家さん、おれ達は下手人を挙げねェ方が人様のためだとおっしゃるんですかい?」
弥八は皮肉な口を儀右衛門に返した。
「そうは言いませんよ。事件は事件。人殺しをした者は、ちゃんとお裁きを受けなければなりません」
儀右衛門は取り繕うように言った。儀右衛門も伊三次の贔屓《ひいき》の客の一人である。以前は店の方に出向いていたが、最近は自身番や向かいの木戸番の座敷で頭をやることが多い。
「按摩《あんま》は大抵、金貸しをしておりやすね。そんなに実入《みい》りのいい商売をしているとは思えねェのに金貸しをする小金は持っているんですね」
盲人の世界に疎《うと》い伊三次は儀右衛門にさり気なく言った。
「そうそう、確かに。按摩賃は上下《かみしも》揉んでも四十八文。時間を掛けて丁寧にやったところで百文程度でしょう。ところがあの人達も、出世するためには金が要《い》るんですよ。だからお上は金貸しをすることを許したんです。最初の資金は本所にある総録屋敷から借ります。あの人達は学問所の名目金を融通すると言って、もったいをつけて貸すんです。催促する時の|ひ《ヽ》つっこさたるや、あるもんじゃありません」
儀右衛門は江戸っ子の癖で|し《ヽ》と|ひ《ヽ》の区別があまりできない。胡麻塩になった頭を振りながら不愉快そうに吐き捨てた。
「学問所というと湯島のことですかい」
伊三次は怪訝な顔になって訊いた。
「違いますよ。あの人達の学問所は古くは平家琵琶《へいけびわ》、時代が下がって箏曲《そうきよく》、三絃《さんげん》、他に針灸《しんきゆう》を教える所のことですよ。ところが湯島のことだと早とちりする人が多くて、またそれをわざわざ言わないのが、あの人達の狡《ずる》いところです」
「金貸しで儲けた金で位《くらい》を買うんですかい」
金貸しの仕組みが朧気《おぼろげ》ながら見えて来た伊三次はもう少し突っ込んで儀右衛門に訊いた。
「そうですよ。あの人達の世界ほど金が物を言うのも珍しい。一番最初の半打掛《はんうちかけ》になるのですら四両も掛かるんです」
座頭《ざとう》が四階十八刻み、その上の勾当が八階三十五刻み、さらにその上の別当《べつとう》が三階十刻み、最高の検校でも一階十刻み。計十六階七十三刻みの官位の区別があった。その一々《いちいち》に金が掛かる。平《ひら》の座頭から総検校になるには、ざっと見積もっても千両からの金が要るという。弥八が大袈裟な声を上げた。
「そいじゃ、おのずと催促も厳しいという理屈になりまさァ」
「しかし、目が見えねェということでお上から庇って貰えるし、運上金(雑税)も要らねェ。それどころか近所で祝儀不祝儀がありゃ、奴等に金を恵んでやる仕来たりもある。おれ達のように、かつかつの商売をしている者は、ちょいと羨《うらや》ましいというものだ。そいで今度の事件だ。気を入れて下手人を捜す気にもなれねェ」
留蔵はひょいと本音を洩らした。
「留さん、らしくもねェことを言う。そういう了簡《りようけん》でいると不破の旦那にどやされやすぜ」
伊三次は苦笑混じりに留蔵をいなした。留蔵は|ひょうきん《ヽヽヽヽヽ》な顔を拵え「それもそうだ」と無邪気に笑った。
「下手人を見掛けた者が一人もいねェのが困ったものだ。こいつは厄介な事件になりそうだ」
弥八が独り言のように呟いた。
ほどなく自身番に現れた不破は妙に苛々していた。江戸で一番治安が守られているはずの地域で事件が起きたのである。同心達の取り締まりの甘さを衝《つ》かれても文句は言えない。お奉行より、きついお叱りを受けた様子であった。
伊三次達は現場周辺の聞き込みを続けて、下手人の目星をつけることを言い渡された。
夕方になって伊三次が不破の屋敷に向かう時、不破の家から医者の松浦桂庵《まつうらけいあん》が出て来るのに気づいた。
「先生、旦那の家で病人が出たんでござんすかい」
伊三次は心配になって桂庵に訊ねた。桂庵は二、三度、眼をしばたたくと「龍之介君が熱を出しまして」と応えた。
「そいで、具合はどうなんですか」
塾通いで、いよいよ無理が祟《たた》ったかと伊三次は思った。
「うむ。ただの風邪でもなさそうで、わしも心配なのだ。後でもう一度様子を見に来ようと思っている」
「くれぐれもよろしくお願い致しやす。先生、坊ちゃんは難しい学問の塾に通い出したんで、そのせいではねェんでしょうか」
「ん?」
桂庵はそう言った伊三次の顔をまじまじと見つめ「難しい学問など、あの子供には無理というものだ。当分、無理をさせてはいけないと奥方に申して来たが……そうか、塾通いということがあったのか」と、合点のいった顔をした。桂庵は赤ん坊の頃からのかかりつけの医者なので、龍之介の気性はよく知っている。
「坊ちゃんは剣術《やつとう》の稽古をしているのが一番いいんですよ。奥様が厳しい方だから、学問もしなけりゃならねェ。坊ちゃんが気の毒でなりやせんでした。熱を出すほど嫌やなことは、させちゃいけやせんよね」
伊三次は龍之介の肩を持つ言い方をした。
「龍之介君の熱が本当に塾通いが原因だとしたら、わしも黙っている訳にはゆかぬ。しかし、まだ熱があって話を聞くこともままならぬでな、取りあえず、落ち着いてから……」
桂庵はそう言うと、次の患者でも待っているのか、そそくさと家に戻って行った。
不破は着替えを済ませ、書物部屋で文机《ふづくえ》に頬杖を突いていた。伊三次が縁側から声を掛けると、我に返ったような顔で伊三次を見た。
「坊ちゃん、熱があるそうで……」
「うむ」
「今、表で桂庵先生にお会いしやした」
「熱を出して寝込むなど、麻疹《はしか》以来のことだ。これはあれかのう、やはり勉強のし過ぎではなかろうか」
不破は父親の顔で龍之介の熱が出た原因をあれこれと詮索する。
「わたしも、きっと塾通いが原因だろうと思っておりやした」
「何も無理をして素読吟味なんぞを受けなくてもよいだろうに……」
「さいです」
不破と伊三次はそんな時、妙に気が合う。
奥の部屋から、いなみが龍之介を宥《なだ》める声が聞こえた。龍之介の応える声は二人の耳に届かなかった。
「どうでェ、按摩の手掛かりは出て来た様子か」
不破は低い声で囁くように伊三次に訊いた。
「申し訳ありやせん。近所の聞き込みをするといっても、周りは奉行所の旦那方ばかりで、町家の者は竹島町と裏の北島町に住んでいる二十人ばかりしかおりやせん。しかし、その連中も事件のあった時刻は昼飯を喰っていたんで、外には出ていねェんですよ。下手人の姿を見掛けるどころじゃありやせん」
「そうか……留蔵の話だと昼前にあの按摩は提灯掛《ちようちんが》け横丁の蕎麦屋で蕎麦を喰っていたということだった」
「藪源《やぶげん》ですかい」
伊三次は憶えている蕎麦屋の名を口にした。
不破はすぐに肯いた。
「ちょいと腹ごしらえをするつもりだったんだろう。昼になるには半刻《はんとき》(一時間)ほど早い時刻だったらしい」
「そいじゃ、仏さんは蕎麦を喰ってから誰かに会いに行き、話がこじれて殺された……そういうことになりやすね」
「うむ」
「とすると、下手人はやはり仏さんから金を借りている者という理屈になりやせんか」
「そういうことになるかの」
「瀬戸物町の仏さんの家から証文を見せて貰えば下手人の目星はつくんじゃござんせんか?」
「留蔵が按摩の弟子から見せて貰ったが、八丁堀だけでも百人近くいた」
「………」
「しかも、その中には奉行所の役人、医者、儒者と、錚々《そうそう》たる名前が並んでいたとよ。留蔵は畏《おそ》れ入って、とてもじゃねェが調べはできねェと、おれに頭を下げて謝った」
「旦那、もしも下手人が奉行所のお役人だとしたら、わたしもこの山《ヽ》は遠慮させていただきやす」
伊三次も堅い表情でそう言った。
「お前ェまで、つれねェことを言うのかい」
不破は心細い顔で訊く。
「下手人が役人かも知れないということはおれ達も考えた。そちらの方は緑川に任せている。後はやはりお前ェ達に動いて貰わねばならぬ」
不破はそう続けて懐から書き付けを取り出し、伊三次の前に拡げて見せた。葛野勾当から金を借りている連中の名が記されていた。
不破の言う緑川とは隠密廻りの同心である。
葛野勾当から金を借りている役人達はその緑川が密かに調べを進めるらしい。伊三次が探るのは役人以外で金を借りている者である。
金額の高い者が多い。五両から最高は百八十両まであった。伊三次はため息をついた。これからその連中に会い、仔細を訊ねることが、いかにも厄介に思えた。
しかし、葛野勾当を殺した下手人の目星は、おいそれとはつかなかった。月の半ばを過ぎると不破の顔にも焦《あせ》りの色が感じられた。
伊三次は珍しく昼前で髪結いの仕事が片付き、茅場町の塒《ねぐら》に一旦、戻った。
お文は腹|這《ば》いになって冊子を読んでいた。
伊三次の顔を見ると途端に慌てて「|まま《ヽヽ》を喰いに来たのかえ? 茶漬けでいいかえ」と訊いた。
「なあに。仕度が面倒だろ? どうでェ、蕎麦でも喰いに行かねェか」
そう言うとお文は安心したように笑った。
「どこの蕎麦屋へ行くのだえ」
「提灯掛け横丁の藪源だ」
「………」
お文は不服そうな顔をした。
「何んでェ、藪源じゃ気に入らねェのか」
「そうは言わないけどさ、藪源に行くのはお上の御用とも関わりがあるんだろ?」
「お前ェ、どうしてそれを……」
伊三次は訝《いぶか》しい顔になった。盲人が殺されたことはお文に話したが、仏が蕎麦屋に寄った話まではしていなかった。
「ふん、今まで|おみつ《ヽヽヽ》がここにいたのさ。おみつから色々と聞いたよ。弥八はお前さんより女房に親身に話をしてくれる男だ」
お文は皮肉な口調で言った。おみつは弥八の女房でお文の家の女中を長いことしていた女だった。お文が火事で家を焼かれ、伊三次の塒に身を寄せると、京橋からいそいそと通って来るようになったのだ。
「だけどよう、今度の山は袋小路に入り込んだようなもので、にっちもさっちも行かねェのよ。だいたい、下手人を見た者が一人もいねェんだぜ。こんなことってあるかよ。仏は殺される前に藪源で蕎麦を喰っている。わかっているのはそれだけよ」
「それで蕎麦屋に出向いて手掛かりを探ろうという寸法か」
「まあな」
「いいよ。わっちは蕎麦を奢《おご》って貰えりゃ構わない。後はお前さんがそれとなく蕎麦屋の亭主に話を聞くことだ」
お文は物分かりよく言って腰を上げた。
提灯掛け横丁は、町方役人が居住する武張《ぶば》った雰囲気の八丁堀の中で、そこだけ賑やかな風情のある通りである。蕎麦屋、一膳めし屋、居酒屋などが軒を連ねていた。
藪源は通りの真ん中辺りに暖簾を出している。提灯掛け横丁には蕎麦屋が二軒あって藪源の方は色の黒い蕎麦で、もう一軒の「更級《さらしな》」は色の白い蕎麦だった。どちらにも贔屓の客がついていて繁昌していた。
藪源の暖簾をくぐると、店は昼飯を摂《と》る客で結構、混雑していた。伊三次とお文は板場に近い飯台の前に並んで腰を掛けた。|せいろ《ヽヽヽ》を二枚注文すると、板場から藪源の亭主が顔を出し、伊三次に|にッ《ヽヽ》と笑った。五十そこそこの背の低い男である。だが体格はがっしりしていた。横にいるお文をちらりと見た。
「この頃はちょくちょく顔を見せるね。そっちは、おかみさんかい」
「ああ……」
伊三次が亭主に応えると、お文はこくりと頭を下げた。
「|きれえ《ヽヽヽ》だね、伊三さんにはもったいねェ」
亭主は軽口を叩いた。大釜の蓋を開け、亭主は手際よく蕎麦を放り込む。蓋をして伊三次の方を向くと「まだ手掛かりは掴めねェのかい」と訊いた。
「そういうことだ。親父、何んか思い出したことはねェかい」
「ないね」
亭主はあっさりと応える。
「仏さんがどこへ行ったのか、見当もつかねェかい」
「全然」
「仏さんはこの店に初めて来たと言ってたな。それまで一度も来たことはねェのかい?」
「ないね。あの時はたまたま店の前を通り掛かり、蕎麦の匂いに誘われて入って来たんだろうよ」
亭主の横で女房が仏頂面で洗い物をしている。店は蕎麦を運ぶ小女を一人、雇っていた。
蕎麦が茹で上がると亭主は笊《ざる》に上げ、水に晒《さら》した。それから手早くせいろにのせて「うい」と言ったのか「ほい」と言ったのか、聞き取れない声を出して小女に顎をしゃくった。十五、六の雀斑《そばかす》の目立つ小女は|つゆ《ヽヽ》の入った蕎麦|猪口《ちよく》と、さらし葱《ねぎ》、陳皮《ちんぴ》を細かく刻んだ薬味の小皿とともに、せいろを二人の前に置いた。小女も亭主や女房と同じで、さっぱり愛想なしだ。お文は黙って箸を取る。
お文は蕎麦屋の亭主の機嫌を取りながら話を聞き出そうとする伊三次が少し気の毒という表情をしていた。
「ただね、蕎麦喰いながら独り言をぶつぶつ洩らしていたよ」
しばらくすると、亭主は大釜に水を張りながらようやく気がついたように言った。
「どんな?」
伊三次は首を伸ばして亭主に畳み掛ける。
「よく憶えていねェが、払う物を払ってからにしろってんだ、なんてね」
「そいつはあれかい? 貸した金の催促みてェな感じだったかい」
「そんな感じだな。借金が嵩《かさ》んでいるところに、新たにまた申し込んだ奴がいたんだろうな」
亭主は客の注文がなくなると、ひと息つくように煙管《きせる》を取り出して話を続けた。
「借金を返せる見込みもねェのに、また借りるというのは、どういう了簡《りようけん》なんだろうな。おれは気が知れねェよ。手前ェの首を締めることになるのによ」
「切羽詰まった事情があったんだろう。どうしても金が要り用だったんだな」
伊三次は低い声で応える。亭主の物言いに気圧《けお》されていた。周りの客の眼も気になる。
「誰でも金は要るさ。おれだって晦日《みそか》になりゃ、粉屋に払う物、醤油屋、乾物屋に払う物で四苦八苦しているんだ。払い終えると、ほっとすらァな」
亭主は煙管から白い煙を吐き出してため息混じりに呟いた。葛野勾当が独り言を洩らしたことと下手人が繋がるのかは、はっきりしないが、金が絡《から》んでいることだけは間違いないだろう。切羽詰まった下手人の事情、それを探るのが肝腎だと伊三次は思った。
「ご馳走様……」
お文が低い声で言った。
「おかみさん、蕎麦湯はどうでェ」
亭主は如才なくお文に訊く。お文はにっこり笑い「せっかくですが、わっちは蕎麦湯が嫌いで……お茶で結構ですから」と応えた。
伊三次の問い掛けに愛想もなく応えた亭主への小さな意趣返しだった。
藪源を出ると伊三次の足は自然に竹島町の通りに向かった。事件のあった妙珠稲荷は竹島町にあった。竹島町の町家は僅かで、高い塀で囲まれた同心の組屋敷がずっと続いている。妙珠稲荷は通りの端にあった。薄汚れた赤い幟《のぼり》は目立つが、ほとんどが笹藪で覆われて稲荷のお堂もろくに見えない。
「あそこだね、殺しがあったのは」
お文はそちらに視線を向けながら言った。
通り過ぎる人が何人かいて、皆、妙珠稲荷に気味悪そうな眼を向けている。
「殺しがあった時刻は今ぐらいなんだろう?」
お文は思案している様子の伊三次に訊く。
伊三次は黙って肯いた。
「結構、人通りがあるじゃないか。誰も下手人を見かけていないというのが、わっちにも腑に落ちない。お前さん、何か|からくり《ヽヽヽヽ》があるんじゃないのかえ」
「からくり?」
立ち止まって伊三次はお文の顔を見た。お文が何か喋ろうとした時、二人の前方から、かまびすしい声が聞こえた。四、五人の少年達がその通りに入って来たのだ。前髪の少年達は皆、細かい縞の袴《はかま》をつけている。恐らく、町方役人の息子達だろう。龍之介と同じような年頃に見えた。少年達は何か叫びながら稲荷の中に入って行く。
殺しのあった現場に興味を示しているのだろうか。あまり騒ぎ立てるようなら叱ってやるかと伊三次は身構えた。足早に稲荷に近づいたが、どういう訳か、少年達の姿はなくなっていた。
「あれっ? あいつ等《ら》、どこに行っちまったんだ」
伊三次は周りをきょろきょろと見回した。
お文はくすっと笑った。
「子供達は横の小道から中に入って行ったよ」
「小道?」
竹島町の町家の塀と、稲荷の石垣の間に、なるほど人がようやく通れるだけの小道がついていた。少年達はそこに入って行ったようだ。伊三次も身体を斜めにしながら続いた。
「大丈夫かえ」
お文が心配そうな顔で訊く。
「お前ェはそこで待っていな」
伊三次はお文にそう言って前に進んだ。三|間《けん》ほど進むと塀に突き当たり、そこを直角に曲がると、屋敷の壁と塀に挟まれた小道がまた、ずっと続く。陽《ひ》の目もろくに射さない地面は湿っていた。少年達は途中の塀の節穴から中を覗いていた。
「坊ちゃん達、何をなさっているんです?」
伊三次はさり気なく声を掛けた。ぱっとこちらを振り向いた少年達は驚いたように向こう側へ走った。どうやらその小道は通りに抜けられるようだ。
伊三次は少年達が覗いていた塀の節穴に眼を当てた。中は庭になっていて、縁側のある座敷で花を生けている娘の姿が見えた。小泉翠湖の娘のあぐりだった。
伊三次は塀沿いを辿って通りに出た。果たして、小泉翠湖の屋敷の玄関がすぐ横にあった。小道は北島町の通りに繋がっていた。少年達だけが知っている秘密の抜け道なのだろう。少年達は抜け道の途中で、そっと塀の節穴から、あぐりの様子を眺めていたのだ。伊三次は苦笑したが、すぐに|つん《ヽヽ》と胸が堅くなった。
もしも葛野勾当を殺した下手人がその小道を通って逃げたとしたら、人目にはつかない。
下手人を見た者が誰もいなかったことにも合点がいくというものだ。伊三次はまた、狭い小道に戻り、翠湖の屋敷の塀を丹念に触りながら逆の道を辿った。その塀は何年も手入れをされた様子もなく、所々、腐れも目立つ。
板の一枚に釘の甘いものがあって、手で押すと呆気なく地面に着いている板が撥《は》ね上がった。痩せた男なら、そこから中へ入れる。
下草の生い繁った塀の傍は、しっとりと湿っていて、踏み締められたような跡もついている。その下草に絡《から》まって、折り畳んだ懐紙《かいし》が捨てられていた。手を伸ばして懐紙を拾い上げた伊三次は低く唸った。
伊三次はお文を先に茅場町へ帰し、それから北島町の商家を廻り、聞き込みをした後で不破の屋敷へ向かった。
不破はまだ奉行所から戻っていなかった。
出直すかと思ったが下男の作蔵に茶を勧められ、台所で作蔵の話につき合いながら、不破を待つことにした。
いなみは来客中であるという。
「坊ちゃんの具合はどうでェ」
伊三次は気になっている龍之介のことを作蔵に訊ねた。
「熱は引いたんだが、困ったことに塾には行きたくないと駄々を捏《こ》ね始めてね、奥様が頭に血を昇らせていなさるんだよ」
「そうですかい……」
「あんまり休むものだから、塾の先生も心配して見えているんだよ」
「え?」
来客は小泉翠湖なのだろう。
「作蔵さん、あんた、塾の先生と会ったのかい」
「ああ、わしが奥様に取り次いだから」
「どんな様子だった」
「どんな様子って、そりゃあ、坊ちゃんを心配していなさったよ」
作蔵は呑み込めない顔で応える。
「穏やかな物言いをする人だよ。学問を無理強いするようにも見えない。わしは坊ちゃんが塾へ行きたくないという気持ちが、つくづくわからねェ」
作蔵はため息をついて、そう続けた。
「坊ちゃんもその先生と会っていなさるのかい」
「いいや。坊ちゃんは自分の部屋にいて狸寝入りしているよ」
「ちょいと……」
伊三次は作蔵に目配せしてから龍之介の部屋にそっと向かった。作蔵はまだ理解できないような顔をしていたが、仔細のありそうな伊三次にそれ以上、何も言わなかった。
「坊ちゃん」
伊三次は龍之介の部屋の前に来ると、閉じた障子の中へ声を掛けた。返答はなかった。
「伊三次でございやす。ちょいとお邪魔致しやす」
そっと障子を開けると龍之介は頭から蒲団を被り、作蔵が言っていた通り、眠った振りをしている様子だった。部屋に入ってすぐ正面の長押《なげし》に「三省《さんせい》」と太く書かれた横額が目についた。
どういう意味かわからなかったが字面《じづら》が妙に心に滲《し》みた。
龍之介の部屋は押し入れのついた六畳間で、窓の傍に小机が置かれ、学問の書物が並べられている。部屋の隅には将棋盤と、竹刀《しない》が三本ほど立て掛けられていた。他には目につく物もないが清潔な感じのする部屋であった。
「さあさあ、どう致しやした。起きて下さいやし」
伊三次は枕許に座って、もう一度声を掛けた。
「放っといて下さい」
龍之介は蒲団の中からうるさそうに叫んだ。
「わたしは坊ちゃんに折り入って話があるんですよ」
伊三次はそう言って無理やり蒲団を引き剥《は》がした。
「お願いです。後にして下さい」
龍之介は伊三次の顔を見ると哀れな声で言った。熱は引いたというのに、その顔は青ざめている。伊三次と視線が合うと、すぐに逸《そ》らした。熱のせいで痩せたようにも感じられた。
「どうして小泉先生がお見舞いにいらしたのに会おうとなさらねェんで?」
「まだ具合が悪いからです」
「先生とお会いするのが怖いんですかい」
そう訊くと龍之介は唇を噛み締めて伊三次を睨んだ。
「坊ちゃんは、いずれお父上の跡を継いでお役人になりなさるお人です。どなたがいらっしゃっても怖《お》じ気《け》をふるってはいけやせん」
「放っといて下さいと申しているではありませんか」
龍之介は癇《かん》を立てた。
「そのぐらい大きな声が出せるのなら、もう大丈夫です。ささ、先生にご挨拶を」
「嫌やだ」
「なぜです」
「なぜでも……伊三次さんに関わりないでしょう」
伊三次は思わせぶりなため息をついて龍之介を眺めた。龍之介は、その年頃にまま見られる反抗的な眼になっている。伊三次はふっと笑った。
「わたしは坊ちゃんが心の隅に隠していることを知っているんですよ。そいつは今のところ、わたししか気づいていない。わたしもどうしたらよいものかと悩んでおりやす」
「何も隠してなんかいません」
「そうでしょうか。本当はお父上に打ち明けねばならない重大なことを坊ちゃんは知っていなさるんじゃねェですかい」
「………」
「髪結いの伊三次を甘く見て貰っては困りやす。おれァ、それほど間抜けじゃありやせんよ。坊ちゃんは手前ェの恥を世間に晒すのが嫌やなんでござんしょう」
伊三次はそう言って座り直した。
「妙珠稲荷で人殺しがあった日、坊ちゃんは塾の勉強を終えて一人で小泉先生のお屋敷を出ると妙珠稲荷から通じている抜け道を入った。あそこは小泉先生のお屋敷の裏に続いておりやす。坊ちゃんは塀の節穴からあぐりお嬢さんの様子をそっと覗いたんです。きれえなお嬢さんですからねえ、無理もありやせん」
「だ、黙れ!」
「別にそれだけだったら、わたしも何も言いやせん。だが、その時、誰かが妙珠稲荷の方から抜け道を入って来るのに気づいた。坊ちゃんは慌てて通りに出たんです。でも、誰がやって来たのか気になって様子を窺うと、先生が塀の板をくぐってお庭に入られるところだった、そうじゃありやせんか?」
龍之介は返事をしなかったが、俯《うつむ》いて洟《はな》を啜り出した。
「坊ちゃん、覗き見したぐらい何んですか。わたしだって坊ちゃんぐらいの頃は女湯を覗いておりやした。そんなことは恥でも何んでもありやせん。問題は先生のことです。なぜ庇《かば》うんです」
伊三次は翠湖の庭から拾い上げた懐紙に刃物の血を拭ったような痕を認めた。勾当を刺した刀を懐紙で始末したのだろう。
「たとえ塾の先生でも、事件に関わっていると気づいたら、お父上にお話しするべきでしたよ。一人でくよくよ悩んで具合まで悪くなってしまったじゃありやせんか。さあ、話して下さい」
伊三次は龍之介の顔を深々と覗き込んで訊いた。
「あぐりさんが、可哀想で……」
龍之介は俯いたまま、ぽつりと呟いた。
ああ、と伊三次は思った。小泉翠湖が葛野勾当殺しの下手人とわかれば、あぐりが辛い思いをする。龍之介はあぐりに悲しい思いをさせたくなくて口を閉ざしていたのだ。そのことに気づくと伊三次は思わず龍之介を抱き寄せた。
「坊ちゃんは何んていい子なんだ……」
伊三次は抱き締めた腕を揺すった。龍之介は照れて「やめて下さい」と悲鳴のような声を上げた。
「伊三次さん、でもわたしはこの先、どうしたらいいのかわかりません。どうしたらいいのでしょう」
龍之介は伊三次の身体を両腕で押すと、切羽詰まった顔で訊いた。
「坊ちゃんはすぐに妙珠稲荷の|おろく《ヽヽヽ》に気づいたんですかい」
伊三次は確認するように訊ねると、龍之介はこくりと肯いた。
「北島町の小間物屋のお内儀さんよりも先に?」
「はい……」
「誰にも言うつもりはなかったんですね」
「はい。言えば先生が下手人だということが、わかってしまいます」
「坊ちゃんは、そのことを一生胸に秘めて明かさない覚悟でおられるんですかい」
「………」
龍之介は大粒の涙をこぼして応えない。伊三次は自分のつけた目星に間違いがないことを悟ると、幼い胸を痛めていた龍之介が途端に哀れになった。すると、事件のことなど、どうでもいいような気が、ふっとした。
「殺されたのは悪どい金貸しをして皆んなを困らせていた奴です。そんな奴が殺されたところで自業自得というものです。坊ちゃんが覚悟をきめていなさるんなら、わたしも誰にも喋りやせん。この山はお宮入りになるでしょう」
「だって、そういう訳には……」
龍之介は心細いような顔で伊三次を見た。まさか伊三次がそんなふうに出るとは思ってもいなかったようだ。
「覚悟を決めたのなら何事もない顔で先生にご挨拶し、これまで通り、塾にも行って下さい。坊ちゃんは鬼になるのです」
「鬼に?」
「さようです。鬼は情けも容赦もねェ。手前ェの気持ちを顔に出してもいけやせん。これからの坊ちゃんは鬼です。わたしは喜んで鬼の片棒を担《かつ》ぎやす」
「金棒《かなぼう》じゃなくて?」
こんな時に冗談を言う龍之介がわからない。
伊三次は気の抜けた苦笑を洩らした。
不破が帰宅した様子である。
「さあ、坊ちゃん。お父上もお戻りになった。立派にご挨拶をしていらっしゃいやし」
伊三次はさっと笑みを消して龍之介に言った。
「もしも、先生が捕まったら、あぐりさんはどうなると思いますか」
「そりゃあ、辛い思いをなさいやす。でも亡くなった奥様のご親戚もいらっしゃいます。何よりあんなにおきれいな方だ。そいつを武器に幾らでも強く生きていけますよ」
伊三次はお世辞でもなく言った。花を生けていたあぐりの凜《りん》とした表情には芯の強さが感じられたからだ。龍之介はすっと立ち上がった。
「伊三次さんはわたしの味方ですか」
障子を開けて龍之介は振り返った。
「もちろんですよう、坊ちゃんのためなら何んだって致します」
「父上に叱られることになります。どうぞ庇って下さい」
「へい!」
伊三次は張り切った声で応えた。龍之介が出て行くと、台所に戻り、寛いでいた中間《ちゆうげん》の松助に耳打ちした。松助がぎょっとした顔になった。
「父っつぁん、悪いが、これから京橋に行って、留蔵親分と弥八を呼んで来てくれ」
松助は作蔵に小声で囁いた。作蔵が出て行くと、伊三次と松助は客間に近づいて、襖《ふすま》の傍に控えた。松助は腰の取り縄に手をやり、伊三次はゆっくりと自分の頭から髷棒《まげぼう》を引き抜いた。
小泉翠湖を捕らえ、茅場町の大番屋にようやく連行したのは、深夜に近かった。翠湖はお縄になる時に暴れたので大層往生した。不破の家の襖が四枚、駄目になった。
温厚な翠湖が逆上した姿は、下手人の扱いに慣れているはずの伊三次でさえも恐ろしいものがあった。翠湖の中の、もう一人の狂暴な人間が現れたような気がした。龍之介に向かっての悪口三昧《あつこうざんまい》、貴様のような能なしは学問をする資格がないとさえ吐き捨てた。
それから翠湖は腰の刀を抜き、滅多やたらに振り回して抵抗した。剣術の腕は龍之介にさえも及ばなかったが、盲人相手では充分通用したのだろう。
翠湖はあぐりを、さる大名屋敷に行儀見習いを兼ねて奉公に出す考えでいた。奉公する時の仕度は親の掛かりである。翠湖は弟子がいるとは言え、その束脩《そくしゆう》(謝礼)だけでは家計を賄《まかな》えず、葛野勾当に借金をしていたのである。葛野勾当はあぐりの琴の師匠であった。
不破が按摩、按摩と言うものだから、てっきり伊三次は針灸を生業《なりわい》にする盲人だと思っていたが、勾当は箏曲の師匠として江戸で知られた人物であった。
あぐりは瀬戸物町の勾当の家に通って稽古をつけて貰っていたのだ。翠湖はあぐりの教育に金を惜しまなかった。茶の湯、生け花、舞踊と、琴の他にもあぐりは習い事を多くしていた。
年に何度か開かれる琴や舞踊のおさらい会に翠湖は着物や帯を新調してあぐりに与えた。
大名屋敷へ女中奉公に上がるあぐりのために翠湖が勾当に借金を申し込んだのは容易に察しがつく。どうも翠湖という人間は借金に対して感覚が麻痺しているようなところがあったようだ。勾当にすげなく断られると逆恨みした節も感じられる。勾当にすれば、以前の借金も返せないのに、また新たに纏まった物を融通することは承服できない。二人の間に貸す、貸さないの言い争いが何度かあったようだ。
事件のあった日、勾当は晦日であったので、翠湖の家へ借金の取り立てに訪れた。
以前から翠湖は、訪問する時は裏口を使うよう勾当に指示していた。弟子達の前で借金の催促をされるのは敵《かな》わない。それは勾当も心得ていたので、その日も裏口から訪《おとな》いを入れた。
翠湖は弟子の講義が済むまで勾当を待たせ、弟子が帰ると勾当に会い、取りあえず、借金の内、利子だけは払ったようだ。翠湖はその時、勾当にまた借金の話をした。これが最後である、奉公を終えてあぐりを片付ければ、親の務めは終わると泣きついた。しかし、勾当の返事はつれないものだった。貧乏儒者の娘が大名屋敷に奉公に上がるなど笑止千万、分をわきまえられよと口汚く罵《ののし》ったそうだ。
それが翠湖の怒りに火をつけた。
勾当は翠湖の家に通じる抜け道を知っていた。それは翠湖が教えていたことである。話を済ませた勾当は玉杖を突きながら帰って行った。翠湖はそっと後をつけた。竹島町の通りに出た時、翠湖は勾当の襟首を掴んで妙珠稲荷に引っ張り込み、殺したのである。
翠湖は誰にも見られていないと思っていたようだが、龍之介に偶然、目撃されたのだ。
龍之介は一人で思い悩み、挙句に熱を出すまでになってしまった。もしや、自分が目撃したことを翠湖が気づいているのではないかという不安にも脅えていた。
事件の詳しい調べはこれから進められることになる。下手人を挙げてほっとしたのもつかの間、今まで口を噤《つぐ》んでいた龍之介に不破の怒りが爆発した。
龍之介が口を噤んでいたために徒《いたずら》に刻《とき》を喰い、役人達を混乱させる結果になったからだ。不破の小者達はそのまま家に戻らず、不破の家までついて行った。不破が龍之介にどんな仕打ちをするか心配だったせいもある。
不破の家に戻ると、普段ならとっくに寝ている時刻なのに龍之介は殊勝に父親を待って、玄関で出迎えた。傍にいなみがつき添っていた。いなみから、よくお詫びをするようにと諭されていた様子でもあった。
しかし、不破はいきなり龍之介を殴りつけた。龍之介の身体は玄関の式台に呆気なく引っ繰り返った。いなみが悲鳴を上げて「やめて下さい、お願いですからやめて下さい」と叫んだ。松助と弥八が不破の身体を押さえたが六尺近い大男の不破が暴れると手がつけられない。作蔵も出て来て龍之介を庇う。それが気に入らぬと不破は作蔵に蹴りを入れる。
恐ろしさに座敷に逃げようとする龍之介の襟首を掴み、不破は容赦なく鉄拳を振るった。
龍之介は鼻血を出し、泣きながら「お許し下さい」と何度も謝るのだが、不破はやめなかった。伊三次は不破の足を取り、倒れた不破の身体の上に馬乗りになって不破をようやく押さえつけた。
「旦那、もうそれぐらいでいいじゃござんせんか。坊ちゃんはようくわかっておりやすから」
「うるせッ、どけ、伊三次。こいつはもうおれの息子でも何んでもねェ。お奉行に申し訳が立たぬ」
お役目に対する不破の覚悟はわからぬでもなかったが、龍之介はまだ頑是《がんぜ》ない子供である。直接、悪事を働いた訳ではない。そこまで責任を感じることはないと伊三次は思った。
「放せ、伊三次」
不破はわめいた。馬乗りになった伊三次の身体を撥ね飛ばそうとするが、不破の足を弥八と松助が押さえているので身動きができない。留蔵は恐ろしそうに玄関の三和土《たたき》に突っ立ってなりゆきを見ているだけである。
「坊ちゃんは下手人の前でおめず臆せず喋ったじゃねェですか。むしろ褒《ほ》めてやっておくんなせェ。熱を出すほど悩んでいなさったんだ。これ以上、責めては可哀想です」
伊三次は不破を押さえつけながら穏やかな声で言った。
「手前ェの父親がどんな商売《しようべ》ェをしているのかもわからぬ愚か者だ。こんな者がおれの跡を継いで役人になれると思うのか」
いなみに鼻を押さえられながら龍之介はしゃくり上げている。
「坊ちゃんが口を噤んでいたのは、あぐりお嬢さんが悲しむと思ったからですよ」
「知るかッ!」
「下手人をお縄にすれば、旦那はそれでいいんですかい」
伊三次は試すように不破に訊く。
「何?」
「あの下手人には娘がいた。その娘がその先、どうなるのかまで坊ちゃんは考えていたんですよ。こいつは旦那より坊ちゃんの方がよほど人間のできがいい。下手人の家族を世間様から守ってやるのも町方役人の務めじゃねェんですか、違いますかい」
そう言うと、不破の力が止まった。伊三次は不破が落ち着いたと知ると、ようやく不破の身体から離れた。不破は起き上がり、着物の前を捌《さば》いて胡座《あぐら》をかいた。
「おう、龍之介。手前ェはどういう了簡でいるんだ」
不破は荒い息をしていなみの傍にいる龍之介に訊いた。
「わたしは愚か者でございます。父上の顔に泥を塗ってしまいました。お詫びのしようがございません。父上のお許しがいただけないのなら……わたしは切腹致します」
龍之介はそう言って、また咽《むせ》んだ。
「あっちゃあ……」
弥八が大袈裟な声を洩らした。不破はそんな弥八をぎらりと睨むと龍之介に向き直り、「やって貰おうじゃねェか。いかにも手前ェはおれの顔に泥を塗った。その落とし前はつけて貰うぜ」と、ふてぶてしく言った。
「本気でおっしゃっているのですか」
それまで黙っていたいなみが口を開いた。
心なしか声が震えている。
「ああ、おれは本気だぜ」
「皆様がいらっしゃるからと言って、そこまでおっしゃらなくとも……」
「何んだと!」
「ご自分の体面を考えられるのは、あの下手人と変わりません。ご自分の息子を何んだと考えられますか。お奉行様への面目の方が先でございますか」
「お前も翠湖の塾に通わせて素読吟味だの、へったくれだのと騒いでおったくせに、何をほざくか」
「わたくし、借金をしてまでそうしたいとは思っておりません。わたくしのできる範囲でやっておるのです。小泉先生は娘可愛さのあまりに加減というものをお忘れになったのです。奥様が生きておられたら、こんなことにはならなかったと思います。それが残念でなりません。また勾当も勾当です。ご自分が開くおさらい会の掛かりには快く借金に応じていながら、関わりのないお屋敷奉公の仕度となると首を横に振る。全く、どちらもどちらでございます。このような不愉快な事件の責めを負って龍之介が命を差し出さなければならないのですか、あなた……」
母親の息子を守る必死の言葉には、所詮、不破も無力であった。
「ふん、これで小泉の塾には行かなくてもよい理屈になったな。龍之介、手前ェ、これからどうするよ」
不破はまだ腹の虫が治まらない表情で訊いた。
「わたしは笠戸《かさど》先生の所へ戻ります」
龍之介は蚊の鳴くような声で応えた。笠戸|松之丞《まつのじよう》はそれまで通っていた手習いの師匠のことだった。
「それがよろしいですよ、坊ちゃん」
作蔵は不破に蹴られて腰を打ったようだ。腰をさすりながら笑顔で言った。
「わたしは笠戸先生の所で一所懸命に励み、いずれ素読吟味を受けます。この度のことは反省致します。笠戸先生がいつもおっしゃる三省の言葉を肝に銘じます」
そう言った龍之介に伊三次はふと気づいた。
「坊ちゃん、三省というのはお部屋の額にあった言葉ですかい」
「そうです。あの額は笠戸先生がわたしのために揮毫《きごう》して下さったのです」
「反省するという意味だったんですかい」
「そうです。繰り返し何度も反省をすることです」
「いい言葉でござんすねえ。わたしもそれを座右の銘に致します」
伊三次は畏《かしこ》まって言った。不破がふんと鼻を鳴らした。
「髪結い風情に座右の銘もあるもんじゃねェ」
「父上、それは人を馬鹿にした言い方です。伊三次さんに謝って下さい。伊三次さんはわたしに、小泉先生のことを打ち明ける勇気を与えてくれたのですよ」
龍之介は拳で涙を拭うと気丈に不破に言った。
「ほう、勇気だと? 伊三、手前ェは龍之介に何んと言った」
「いや、それは……」
伊三次は口ごもる。
「鬼になるつもりなら死ぬまで口を噤んでいろとおっしゃいました」
龍之介の言葉に伊三次は顔をしかめ、不破の傍からそろそろと離れる。不破は伊三次の胸倉を掴んで「手前ェまで龍之介の片棒を担いでいたのか」と怒鳴った。弥八と松助が慌てて不破を止めた。
「わたしは鬼にはなれなかった。でも、小泉先生のことに気づいた時は、少しだけ鬼になっていたかも知れません……」
龍之介は慌ててそう言うと、また俯いた。いなみがそっと龍之介の肩に手を置いた。
「当たり前の人間なら鬼にはなれません。伊三次さんは、それがわかっていたからこそ、ご自分がお父上へ告げる前にあなたの口から言わせようとしたのです。なぜかわかるでしょう? あなたも、いずれお父上の跡を継いで役人になる立場の人間だからです」
いなみは噛んで含めるように龍之介に言った。龍之介は殊勝に肯いた。
そんな大層らしい理屈はなかったと伊三次は内心で思う。龍之介があぐりのために、どうでも翠湖のことを内緒にしたいのなら、自分も口を噤んでいようと覚悟しただけである。
たとい、そのために龍之介が一生、悔いる結果になったとしても。あの時、自分の気持ちも少しだけ鬼になったと伊三次は思う。
しかし、龍之介はそれほど馬鹿ではなかった。ついに勇気をふるって翠湖の前で「先生は葛野勾当を殺した下手人です」と、きっぱり言ったのだ。その時の龍之介の顔を伊三次は一生忘れないだろう。
「ささ、皆様、ご苦労様でございます。何もございませんが、御酒《ごしゆ》など召し上がって事件が解決した打ち上げと致しましょうか」
いなみは晴れ晴れした顔でそう言った。
襖の破れた客間で不破と小者達は、それから明け方まで酒を酌み交わすこととなった。
伊三次は無理やり不破に酒を飲ませられた。不破はそうするしか溜飲を下げる方法がなかったようだ。
詫びる気持ちがあるのなら、この盃を受けろとばかり。眼を瞑《つぶ》って伊三次は盃の中身を喉に流し入れた。一杯目で顔が赤くなり、三杯目で全身に酔いが回った。胸の動悸は高くなり、頭ががんがんした。五杯目の後は記憶がなくなっている。伊三次はそのまま客間に酔い潰れ、翌朝、不破の頭を結うことは、とうとうできなかったのである。
伊三次は昼過ぎまで不破の家で眠っていた。
目覚めると昨夜一緒にいた連中の姿はとっくに消えていた。伊三次は広い八畳間の座敷に一人で寝かされていたのだ。額に濡れた手拭いが置かれている。伊三次は手拭いを掴んで起き上がった。屋敷内はしんとしている。
台所の方から女中の|おたつ《ヽヽヽ》が葱でも刻んでいるのか包丁の音が微かに聞こえるだけである。
伊三次は深い吐息をついた。頭はまだ重い。これが二日酔いというものなのだろう。
皆んなはどうしたのだろうと、心細い気持ちにもなる。取りあえず、蒲団を畳んで、いなみに世話を掛けた礼をしなければならないと思った。伊三次は着物を直すと蒲団を畳み始めた。
「伊三さん、起きたかい」
襖の外で作蔵の声がした。
「ああ」
作蔵は盆を持って中に入って来た。慌てて「蒲団なんざ、いいよ。そのままにしておきな」と言った。
「いや、一応、畳むぐらい……すっかり世話になっちまって、申し訳ねェ」
伊三次は心底、済まなさそうに作蔵に言い、部屋の隅に蒲団を片付けた。
「ささ、酔い覚ましだ」
作蔵は伊三次の前に湯呑を置く。ほうじ茶の中に梅干しの入ったものである。
「本当に下戸《げこ》なんだなあ。一番最初に引っ繰り返ってよう」
作蔵は口をすぼめて茶を飲む伊三次に笑いながら言った。
「皆んなはどうした」
「弥八と親分は朝になってから帰ったよ。旦那様と松っつぁんは奉行所にいつも通り出かけて、まだ戻っていなさらねェ。恐らく、下手人のお調べをしていらっしゃるんだろう。奥様も坊ちゃんにつき添って一緒に昼から出かけやしたよ」
翠湖の取り調べで、龍之介は事件当日の仔細を改めて訊ねられるのだろう。
「何んだ、おれだけがおいてけぼりけェ」
「伊三さんは仕方がねェよ。引っ繰り返ったまんまだから」
「旦那はおれのこと、怒っていなかったかい」
髪を結うこともできなかったのが、いかにも悔やまれた。
「なあに。飲ませたのは旦那だ。気にすることはねェ」
「どれ、京橋に行って、留さんに顔を出して来るか」
伊三次は湯呑の中身を飲み干すと腰を上げた。
「腹は空いていねェのかい? おたつさんに言って何か喰わして貰ったらいい」
腹は空いていたが食べる気になれない。伊三次は作蔵に断って不破の家を出た。
京橋の自身番に顔を出した伊三次は留蔵から不破の言付けを聞いた。翌朝、いつもの時刻に髪をやること、たったそれだけだった。
翠湖の家は大騒ぎとなっているようだ。あぐりがこの先、どうなるのかと考えたら、伊三次の胸もちくりと痛んだ。龍之介の手前、大丈夫だと言ったものの、人殺しを親に持った娘の行く末は順風満帆とはゆかないだろう。
早く立ち直り、自分の道を進んで行ってほしいと願うばかりである。
茅場町の塒の門口《かどぐち》をくぐった時、三味線の音色が聞こえた。隣りのお春の家の舅《しゆうと》が外の床几《しようぎ》に腰掛けて眼を瞑《つぶ》って聞き惚れている。
「父っつぁん、飯は喰ったのかい」
伊三次は舅の安吉に声を掛けた。安吉はしッと唇に人差し指を当てて伊三次を制した。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、unicode303d]縁でこそあれ末かけて 約束かため身をかため 世帯かためて落ち着いて アアうれしやと 思うたは ほんに一日あらばこそ そりゃたれゆえじゃ こなさんゆえ……
[#ここで字下げ終わり]
お文のしっとりした声が裏店の隅々にまで滲《し》み通るようだ。中にいる住人達もじっと耳をそばだてている様子である。
小汚いばかりだと思っていた塒がお文の三味線と、その喉のお蔭で滅法、風情が感じられるから不思議である。お文が住人達に歓迎されているのだと伊三次は思う。
だが伊三次は、ひと節《ふし》終わると「おおい、今、帰《け》ェったよ」と無粋な声で油障子を開けていた。安吉は短く舌打ちをして家の中に入った。お春の元気のよい声や、子供達の喋る声が始まり、塒の周辺にいつもの喧噪が戻る。
「いってェ、今までどこをほっつき歩いていたのだえ」
お文は三味線を脇に置くと、伊三次に悪態をついた。
伊三次は|にッ《ヽヽ》と笑い「二日酔いで往生していたわな」と応えた。
「いい加減なことをお言いでないよ。下戸に二日酔いなんざあるものか」
「本当だって、本当」
伊三次は真顔で弁解する。一日顔を見なかったお文が、やけに美人に見えた。胸倉を掴んで揺するお文の身体を伊三次はくいっと抱き締め「悋気《りんき》は似合わねェぜ」と宥めた。
お文の目許が弛《ゆる》んだ。
「明日は薬師堂の縁日にでも行くか」
伊三次はお文の顔を深々と覗き込んで言う。植木の好きなお文に桜草の鉢植えの一つも買ってやろうと思う。
「本当かい、お前さん……」
お文は無邪気に笑った。江戸の春の黄昏は、ぼんやりと頼りないような感じで忍び寄る。今、こうして目の前にお文がいることも何か信じられない気持ちがした。本当にお文は自分の女房になったのだろうかと。
それを口にすれば、お文に笑われそうだった。伊三次はお文の口を吸いにいく。
「好《す》かねェ男だ。ほんに酒臭い」
お文はそう言って大袈裟に顔をしかめた。
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爪《つま》  紅《べに》
ざんざかざんざん──
まるでそう聞こえるかのような激しい雨の日だった。大川端《おおかわばた》に女の土左衛門《どざえもん》が浮いていたとの知らせを、伊三次は京橋の自身番で聞いた。伊三次は北町奉行所、定廻《じようまわ》り同心の不破友之進《ふわとものしん》を待っていたが、時分になっても現れないのは雨のせいかとも思っていた。不破は中間《ちゆうげん》の松助とともに、ひと足早く、そちらに向かったらしい。知らせて来たのは近所の大家の儀《ぎ》右衛門《えもん》だった。自身番に来る途中で不破と出くわし、言付《ことづ》けを頼まれたという。
大川端は縄張り違いなので、岡っ引きの留蔵は足を運ぶ様子を見せない。子分の弥八はそんな留蔵に構わず、蓑《みの》と笠をつけて伊三次の後から続いた。伊三次には縄張りもへったくれもあるものではない。不破が動いたと知ったら、ただちに駆けつける。それが十手を持たない小者《こもの》としての役目でもある。
江戸は梅雨の最中であった。
伊三次は単衣《ひとえ》の裾を尻端折《しりつぱしよ》りして、番傘一本でしのつく雨の中を大川端へ走った。
現場に到着した時、|おろく《ヽヽヽ》はまだ川の中だった。舟宿が軒を連ねる界隈からそう遠くもない。おろくは塵芥が浮かぶ川にゆらゆら浮かんでいた。土地の若い者が引き上げようとして川岸から手を伸ばすも、川の水に浸かったおろくは、まるで意地悪でもするように、するりとその手から離れる。着物の裾をやはり尻端折りした不破友之進が苛立《いらだ》つように「早くしろ」と声を荒らげていた。中間の松助は不破に番傘を差し掛けているが、この雨では何んの足しにもならず、不破の紋付羽織は、ぐっしょりと濡れそぼっていた。
弥八はおろくに往生する若い者達を見ると短い舌打ちをして「何やってんだ、あいつ等《ら》」と、吐き捨てた。とっくに岸に上げられていたものと伊三次も思っていた。
弥八は蓑と笠を外し、着物も脱ぎ捨てると若い者の前に行き、臆するところもなく、|ざんぶ《ヽヽヽ》と川の中に入った。
水面に首だけ出した弥八は器用に左手で水を掻きながら右手でおろくを岸に寄せた。若い者はようやく三人掛かりでそれを引き上げた。
伊三次は弥八に手を貸した。岸に上がった拍子に弥八の身体から川の水が大量に滴《したた》った。
「風邪引くなよ」
伊三次は弥八の労をねぎらう代わりにそんな言葉を掛けた。
「なあに……」
弥八は得意気に応えて、引き上げたおろくの傍《そば》に進んだ。
「女の土左衛門だから、お土左《どざ》だな」
弥八は伊三次をちらりと見て言う。伊三次は低く「馬鹿野郎」と応えた。
不破は引き上げられたおろくを少しの間、見下ろしていたが、やがて短い吐息を洩らすと、傍にしゃがんだ。不破の表情は苦い薬でも含んでいるかのようだ。時々、うなじに雨粒が掛かって痒《かゆ》みを覚えるのか、人差し指でぽりぽりと掻く。
松助が脇に退《の》いたので、不破の身体に容赦《ようしや》なく雨が当たった。伊三次はそっと不破の上に番傘を差し掛けた。傘はぷつぷつと豆粒が弾けるような音を盛んに立てた。
不破の前のおろくは「お土左」と無粋な名で呼ぶには気の毒なほど若い娘だった。しかし、木綿縞の単衣も、元は何色なのかわからない白っぽい帯も、娘の貧しい暮しを窺《うかが》わせるようにくすみ、しおたれている。
不破は十手の先で娘の着物の裾を捌《さば》いた。
黒ずんだ膝頭と青白い腿《もも》の上に思わぬほど濃い剛毛がこんもりと見えた。
不破は低く唸ると片膝を地面に突き、それから下水の落とし物を捜すような仕種で娘の股間に手を差し入れた。
引き抜いた手を傍の水溜まりですばやく濯《すす》いだ。伊三次は懐の手拭いを不破の前に差し出した。不破はそれをいらぬ、と眼で応えた。
娘は首を絞められた後に大川に捨てられたようだ。首筋にそんな痕が見える。
伊三次は下働きか子守ではないかと、娘の素性を考えていた。土地の岡っ引きが不破の耳許に何事かを囁《ささや》いた。不破はしかめ面のまま首を振る。岡っ引きの顔に瞬間、好色そうな色が走った。岡っ引きは不破に生娘であったのかどうかを訊ねたらしい。
「いいっすかい?」
戸板が運ばれて来ると、その岡っ引きは不破に念を押した。四十絡みの岡っ引きは「|こんにゃく《ヽヽヽヽヽ》の政《まさ》」と呼ばれている男である。のらりくらりと下手人を白状させるという噂である。政吉《まさきち》というのか政五郎《まさごろう》というのか、伊三次は、はっきりと憶えていない。仲間内では「こんにゃく」で通っていたからだ。もっとも伊三次にしても、他の縄張りの御用聞きからは「あの髪結い」で済まされている。
娘のおろくは戸板にのせられると、上に筵《むしろ》が被《かぶ》せられた。その筵の端から左腕がだらりと垂れ下がり、少し膨れているような指が地面の土を緩やかに引っ掻いた。伊三次は娘の指先に、ほんのりと紅の色を見た。
娘は爪紅《つまべに》を差していた。差してから時間がかなり経《た》っているらしく、爪が伸びるに従い紅の色も三日月のように細くなっていたが、それでも色は微かに保たれていた。
その娘の唯一の彩りが爪紅というのが伊三次には哀れに思えた。娘をのせた戸板はこんにゃくの詰めている自身番に運ばれる。これから娘の身許を捜すことになるのだ。
不破は立ち上がると「行くぜ」と、伊三次達を促した。伊三次は不破に傘を差し掛けながら肩を並べて歩いた。大男の不破とそうして歩くと、伊三次は幾分、背伸びをするような感じだった。
「爪紅の道具は小間物屋で売っているのかい」
女の化粧に疎《うと》い不破は歩きながら伊三次に訊《き》く。爪紅には、とっくに気づいていた。
検屍には細かいところまで神経を遣《つか》うのが定廻り同心としての心構えであった。おろくが若い娘ならば隠しどころにも手をやって男の存在がないかどうかを確かめる。町方役人が旗本から不浄役人と貶《おとしめ》られる訳は、そういう捜査の仕方にもあったのだろう。
「へい、売っておりやす。去年は娘達の間で爪紅が大いに流行《はや》りましたから」
「流行ったのか……」
それなら、年頃のあの娘が興味を惹《ひ》かれるのも無理はないという顔である。浅草の水茶屋の茶酌女《ちやくみおんな》が爪紅を差して見世に出たことが評判になり、流行に目ざとい江戸の娘達に浸透して行ったのだ。しかし、爪紅の流行は昨年の夏から秋頃までが頂点で、近頃はあまり眼にしなくなっていた。死んだ娘は、この頃になってようやくあこがれの爪紅をする機会に恵まれたということなのだろうか。
「ですが、旦那、小間物屋で売られている爪紅は、そう安くはないんですぜ。あの娘が買うにはちょいと値の張る代物《しろもの》にも思いやす。爪紅に銭を出すぐらいなら、|へちま《ヽヽヽ》水か口紅を買った方がいいような気もしやす。まあ、若い娘はつまらねェことに銭を遣いたがるもんだと言われたらそれまでですが」
そう言った伊三次に不破はふん、と笑った。
「さほどいい目も見ねェで、あたら若けェ娘が遊ばれて殺されちまうのか……世の中にゃ、運のねェ奴というのは確かにいるらしい」
不破は皮肉な調子で言った。
雨脚は先刻よりさらに強くなった。
「よく降るぜ。こうっと五日も続いていらァ」
不破は呆れたように暗い空を見上げた。
「梅雨ですから」
伊三次はそう応えたが、間抜けな返答をしたような気がして首を竦《すく》めた。しかし、不破はさして拘《こだわ》っている様子もなく、道端にできた水溜まりを注意深く避けて歩いていた。
雨の雫《しずく》がぽたりぽたり、通り過ぎる町家の軒先から落ちている。雫は先刻より、落ちる間隔が間遠《まどお》になっているようにも感じる。
ようやく薄陽《うすび》が射して、軒先から落ちる雨粒を白く光らせ、伊三次の眼を喜ばせる。
伊三次は深川の丁場《ちようば》(得意先)を廻ると、茅場町に戻るために永代橋に向かっていた。
丁場の帰り、蛤《はまぐり》町のお文《ぶん》の家の前を通った。
家のあった所はすっかり更地《さらち》になって、焼け焦げた材木の破片が所々に残っているものの、陽の目を浴びて勢いよく伸びた雑草が、早晩、それ等を覆い尽くすことだろうと思った。誰のものなのか、壊れた大八車が置き去りにされていた。
家のなくなった跡というのは妙なものだった。建物があった頃より狭く感じられてならない。五年も六年も通い、時には寝泊まりした家である。お文の家はどこもかしこも知り尽くしていたはずなのに、そうして更地になったのを見れば、どこに何があったのかも定かに思い出せなかった。蛤町の一帯は春先に火事を出しておおかたが焼けてしまった。新しく普請《ふしん》をする家もあったが、焼け出された人々は大半が他の町に移って行ってしまったという。
お文はもう深川には戻る様子がないように見えた。深川の料理茶屋「宝来屋《ほうらいや》」のお内儀《かみ》が火事見舞いに茅場町を訪れて、自分が面倒を見るからお座敷に出ろと勧めたようだが、お文は断った。せっかく女房と呼ばれる立場になれたんだ、それを、すぐさま芸者稼業に戻ったんじゃ、うちの人に悪い。お内儀さん、わっちはこの暮しが気に入っているんですよ、と。
お文の気持ちが伊三次には心底嬉しいと思う。しかし、廻り髪結いの他に裏の仕事も引き受けている伊三次は、お文とゆっくり過ごす時間は少なかった。お文は面と向かって文句を言わないが、どことなく寂しそうなのは感じている。張り込みで二、三日家を空ける時など、お文が待っているかと思えば気が気ではない。女房を持つということは、これでなかなか難儀なことだと、この頃伊三次は思うようになった。もちろん、お文と暮すのが鬱陶《うつとう》しいという訳ではないのだが。
もの思いに耽《ふけ》りながら永代橋を渡っていると、伊三次はすれ違った若い娘から突然、声を掛けられた。体格のよい大柄な娘だった。
「お人違いでしたらごめんなさい。髪結いさんは、もしかして伊三次さんじゃございませんか」
娘は幾分、気後れした顔で訊いた。手に提げた台箱から髪結いと見当をつけるのはたやすいが、その娘は自分の名前まで知っていた。しかし、伊三次には見覚えのない顔だった。
「へい、さようですが、おたく様は?」
伊三次は娘に怪訝《けげん》な眼を向けた。紺麻の単衣に鹿子《かのこ》の夏帯を締め、友禅《ゆうぜん》の少し派手な前垂れをしている町家の娘だった。大柄なので大人びて見えるが、恰好から十七、八の年頃に思える。
「あたし、播磨屋《はりまや》の娘なんですけれど……」
「あ……」と短い声を上げたきり、伊三次は言葉に窮した。播磨屋は江戸橋近くにあった廻船問屋の名である。上方に出店《でだな》があり、手広く商売をしていたが、数年前に江戸橋の店は商売をやめていた。その理由は主《あるじ》が上方に女を作って江戸の店をないがしろにしたせいだとも、お内儀の遊びが派手で、借金が嵩《かさ》んだせいだとも言われている。
お内儀のお喜和《きわ》は伊三次の贔屓《ひいき》の客であった。江戸橋の店がなくなってから伊三次はお喜和の姿を見ていない。言われてみれば、娘は、どことなくお喜和に似ているような気がした。確かお佐和《さわ》と呼ばれていた娘である。伊三次の知っているお佐和は十二歳ほどの痩せた少女で、目の前の娘とは別人のように思われた。しかし、話をしている内に記憶の薄紙が徐々に剥《は》がれてゆき、引っ込み思案の少女と、成長したお佐和が、ようやく繋《つな》がった。
「お内儀さんはお変わりござんせんか?」
伊三次は俯《うつむ》きがちになってお佐和に訊いた。
「お蔭様で……すっかり年を取っちまいましたけど」
お喜和は勘定すれば、とうに五十を越えているはずだった。
「今はどちらにお住まいで?」
「深川の入船町におります。小さな小間物屋をしているんですよ」
「え? そいじゃ、深川にいらしたんですか」
伊三次は驚いた声を上げた。入船町を通ることもあったが、そこに二人が暮していたとは知らなかった。
「一度、おっ母《か》さんと一緒に深川のお不動さんへ行った時、途中で伊三次さんとすれ違ったことがあるんですよ。でも、伊三次さんは芸者さんと一緒だったから、遠慮してお声は掛けなかったんです」
お佐和は含み笑いを堪《こら》えるような顔で応えた。丸い眼が驚くほど大きい。口も少し大きめだが、鼻筋は通っている。伊三次がお文と一緒に歩いているところを二人は見たのだろう。その時、お喜和がどう思ったかを考えると、伊三次の胸に|つん《ヽヽ》と痛みが走ったような心地がした。
「よかったら入船町の方に顔を見せて下さいな。おっ母さん、きっと喜ぶ」
「あ、へい……」
「入船町の表通りにありますから、すぐにわかると思いますよ」
「………」
困惑した伊三次に構わず、お佐和は言葉を続けた。
「昔のことはいいじゃありませんか。あの頃のおっ母さんは、お父っつぁんのことで自棄《やけ》になっていて普通じゃなかったし、それに伊三次さんも……」
お佐和はそこまで言って言葉を呑み込んだ。
伊三次さんも忍《しの》び髪結いをして訳ありだったんですもの、お佐和はそう言いたかったのだろう。黙っている伊三次に「遠慮なんていらないわ。昔のように、お内儀さん、髪ィ、やらしておくんなさい、と甘えたらいいんですよ」と、お佐和はわざと明るい声で言った。
「へい……」
「落ちぶれたおっ母さんの顔なんて見たくもないと言われたら仕方がないけど……」
「そんな、お佐和ちゃん」
伊三次は慌ててかぶりを振った。
「あたしの名前、憶えていてくれたのね。嬉しい。ねえ、きっと来てね?」
お佐和は伊三次に念を押し、先を急いでいる様子で、頭を下げると、そそくさと踵《きびす》を返した。伊三次はお佐和の後ろ姿をしばらくの間、見つめていた。
姉の連れ合いである十兵衛《じゆうべえ》の徒弟となり、髪結いの修業を積んでいた伊三次は、ある日、十兵衛と喧嘩して「梅床《うめどこ》」を飛び出した。梅床は京橋の炭町にある髪結床だった。それから伊三次は御法度《ごはつと》の忍び髪結いをしていたのだ。忍び髪結いは言わば|もぐり《ヽヽヽ》の髪結いである。相場の手間賃よりもかなり安くやるので、人は忍びとわかっていても、こっそりと使ってくれた。
お喜和とは、その頃に知り合っている。お喜和は取り巻きを何人も引き連れて派手に遊んでいた。東両国の芝居小屋で下っ端の役者の頭をやっていた時、楽屋へやって来たお喜和が伊三次に眼を留めたのだ。
伊三次の何がお喜和の気を惹いたのかわからない。お喜和は少し酔っていたが、江戸橋の店の方に来るようにと言ってくれた。
それから何度も江戸橋の店の母屋で伊三次はお喜和の頭を結った。
あの頃のお喜和は|きれえ《ヽヽヽ》だったと伊三次は思い出す。少し太り|じし《ヽヽ》で、眉の剃り痕が青々として、茄子《なす》色の歯が艶っぽかった。たっぷりとした髪は光の加減で緑色がかって見えるほど黒かった。身仕舞いのよい女で、どれほど酔っていても髪の毛が乱れたところは見たことがない。小屋掛けの芝居楽屋にいた時も合わせ鏡を使い、髷棒《まげぼう》を器用に操って髱《たぼ》を撫でつけていた。小まめに手直しすることで髪型が保たれていたのだ。
お喜和の髪は伊三次が結ってから五日経っても形が壊れず、むしろ結い立てより形がよかった。伊三次はお喜和のために髪結い職人が使う専門の髷棒を進呈したことがある。お喜和の喜びようたるやあるものではなかった。髷棒の代金よりも高い祝儀をつけてくれたほどである。
お喜和にはお佐和の上に、お美和《みわ》という娘がいた。このお美和が流行り病で死んでから亭主との間がしっくり行かなくなり、亭主は江戸から離れ、お喜和も遊び歩くようになったのだ。お喜和は酔うとお美和のことを口にしてよく泣いた。娘を死なせたのは自分のせいだと責めていた。
そのくせ、下戸《げこ》の伊三次をからかい、盃に一つ呑んだら一分をくれると言ったこともある。四つで一両だ。喉から手の出るほど金のほしかった伊三次は眼を瞑《つぶ》って酒を呑んだ。
あの時の酒の味を伊三次は今でも思い出す。喉を過ぎれば|かっ《ヽヽ》と身体を熱くするくせに気持ちはひえびえと沈むあの味を。
忍び髪結いは一年も続かなかった。髪結い組合がお上に訴えたことから伊三次は不破に捕まる羽目となったからだ。
その内に播磨屋も店を畳み、お喜和の様子がわからない間に時間が経ってしまっていた。
お喜和に会えば伊三次の中に苦いものがこみ上げる。一度だけ、伊三次はお喜和と抜き差しならぬ関わりを持っている。その当時、お喜和は取り巻きの連中の何人かと、そんなことになっていたようだ。だから気にしなくてもいいと、伊三次は割り切って考えることができない。いつまでも頭のどこかに、そのことがこびりついていた。取り巻きはお喜和がいなくなると「あの色気婆ァ」と悪態をついた。だが、お喜和が泣くのは、伊三次の前だけだった。あの時の伊三次に、お喜和を受け留める器量があったとは思えないが、お喜和の胸の内は察することができた。亭主が自分を振り向いてくれない寂しさ、娘を死なせた負い目、それ等をつかの間、忘れたくて羽目を外していたのに、誰もわかっていなかったのだ。他の連中はとっくにお喜和のことなど忘れているだろう。伊三次だけがしょうことなく憶え続けていたのかも知れない。
茅場町の裏店に戻ると、女房達が井戸端に集まって夕餉《ゆうげ》の仕度をしながらお喋りに余念がなかった。ようやく雨が上がったので、女房達も外に出る気になったらしい。
溝板《どぶいた》の下の汚水が雨のせいで溢れ、甘だるい腐臭を漂わせている。隣りの大工の鉄蔵《てつぞう》が水はけをよくしようと盛んに|どろ《ヽヽ》を掬《すく》っていた。伊三次を見ると|にッ《ヽヽ》と笑った。
「雨で仕事は仕舞いかい」
伊三次は鉄蔵に気軽な言葉を掛けた。
「そういうこと。昼寝して呑気にするつもりが、嬶《かか》ァに溝が溢れているから何んとかしろと言われてよ。仕方なくやっているところだ」
「済まねェな」
伊三次は鉄蔵の労をねぎらう。鉄蔵は「なあに」と、意に介するふうもない。裏店に不都合が起きれば、進んで働いてくれる男である。鉄蔵はふと思い出したように「そう言や、さっき松の湯の若いのが伊三さんを捜しに来ていたぜ」と、つかの間、笑顔を引っ込め、真顔で言った。弥八が来ていたらしい。
「そうですかい……」
伊三次はしゃがんでいるお文の背中に視線を投げて応えた。鉄蔵の女房のお春に肘《ひじ》を突かれ、お文は伊三次を振り向いた。
お文は小走りに近づいて来て「弥八が捜していたよ。すぐに京橋へ行った方がいい」と、すばやく言った。
「他には何か言っていたか」
そう訊くと、お文は鉄蔵をちらりと見てから、ひそめた声で「娘の首縊《くびくく》りがあったそうだ」と言った。伊三次は黙って肯《うなず》くと手にしていた台箱と傘をお文に渡した。
「傘は持っていた方がいいよ。また降りそうだから」
お文は慌てて言い添える。
「面倒だ。降った時は降った時のことよ」
伊三次はそう言うと、もう裏店の門口《かどぐち》を飛び出していた。
京橋の自身番には留蔵も弥八もいなかった。
書役《しよやく》が二人は常盤《ときわ》町の質屋に行ったと伊三次に伝えた。常盤町は目と鼻の先である。伊三次も後を追い掛けた。
質屋「筒井《つつい》」の前には人だかりがしていた。
「ちょいと中に入れてくんねェ」
伊三次は人を掻き分けるように前へ進んだ。
弥八が店|暖簾《のれん》の前で見張りをしていた。
「おう、どういう按配よ」
伊三次は弥八の耳許で囁くように訊いた。
「首縊りでさァ。ここの女中が店蔵の中で事を起こしたんで。店の親父が腰を抜かしたような恰好で知らせて来たんですよ」
「そいじゃ殺しじゃねェんだな」
「まあ、そうっすけどね……」
弥八は歯切れの悪い言い方で応える。
「何んかあるのか」
伊三次は弥八の疎《まば》らに髭の生えた口許を見つめて訊く。
「ここの女中も、大川端に上がったおろくのように爪紅を差しているんでさァ」
「………」
「店の親父に爪紅を差していることを叱られて死にたくなったらしいんですよ。親父はこんなことになるんなら叱るんじゃなかったと、おいおい泣いていましたよ」
「そうか……」
伊三次は弥八の肩を一つ、ぽんと叩いて暖簾を掻き分けた。仄暗《ほのぐら》い店内に入ると、少し広い土間に筵が敷かれ、自害した女中が仰向けに寝かされていた。上に被せられていた筵は検屍のために膝のところからめくられている。入って行った伊三次を留蔵はちらりと見て顎をしゃくった。松助も同様な仕種をした。
不破は娘の身体に屈み込むようにしゃがんでいて、こちらを振り向かなかった。
伊三次は娘の手に自然に眼がいった。弥八が言っていたように爪紅が差されている。大川端のおろくと違って、こちらの娘の爪紅は今さっき差したばかりのように色鮮やかだった。こんな赤い爪をしていたら、筒井の主《あるじ》でなくとも小言を言いたくなるだろう。主は女中の亡骸《なきがら》から少し離れた場所で女房と二人で様子を見ていた。時々、二人は手拭いを口に押し当てて洟《はな》を啜る。主は六十絡みの小さな老人で、女房はさらに小さい女だった。
「親許には知らせたのかい」
不破は立ち上がると筒井の主に訊いた。自害ならば、さほど細かい検屍は要らない。
女中の首は奇妙に斜めに傾《かし》いでいた。発見された時はすでに硬直が始まっていたのだろう。留蔵は不破が立ち上がると女中の身体に折り返していた筵を元に戻した。
「うちの番頭を知らせにやりました。小梅村の出なんでございますよ。うちに来てまだ一年にもならないのに……」
主はそう言って、また喉を詰まらせた。
「仏さんの年は? ずい分若けェようだが」
不破は気の毒そうな表情で、こんもりと人の形に盛り上がった筵に眼をやった。
「まだ、十五だったんでございますよ。こっちに来てから何も彼《か》もが珍しい様子ではしゃいでおりました。やれ、芝居役者の誰それが通りを歩いていただの、近所の呉服屋のお嬢さんの衣裳がどうのと……あたしも、うちの人も口うるさく小言を言ったばかりに……」
女房が涙声で主の代わりに応えた。
「仏さんはいつも爪紅をしていたのかい」
不破が畳み掛けると、女房は「いいえ」と首を振った。
「昨夜、お玉は晩飯の後片付けを済ませますと、松の湯へ出かけましたんです。戻りがずい分遅かったんで、うちの人は寝ておりましたが、あたしは心配で起きて待ってました。ようやく戻って来た時、お玉は指に繃帯《ほうたい》を巻いていたんですよ。怪我でもしたのかと訊ねますと、何んでもありませんと言って、自分の部屋にそそくさと入ってしまったんです。朝になると、旦那、これが質屋の女中らしくもない、真っ赤な爪をしておりましてね、あたしはこっぴどく叱ったんでございますよ。爪紅は一度差してしまったら、洗ったって落ちるもんじゃございませんからね。あたしは肝が焼けて仕方がありませんでしたよ。うちの人もお玉の爪に気がつきますと、雷を落としたんです。二人に叱られて、お玉も嫌気が差して死にたくなったんですよう……あたし達のせいです。本当にお玉の親御さんに何んとお詫びしたらいいか……」
女房はそう言って袖で涙を拭った。お玉というのが自害した女中の名前だった。
お玉は松の湯の帰りに爪紅を差したらしい。しかし、その時分は小間物屋はとうに店を閉めている。お玉は誰かの所で爪紅を差したということになる。
「お玉に爪紅を差してやった者の心当たりはあるのかい」
不破は朱房の十手を帯の後ろに挟みながら主と女房の顔を交互に見ながら訊いた。二人は同様に小首を傾げたが、「さあ、それは一向に。でも、ここら辺には粋筋《いきすじ》の方も多くいらっしゃいますので、そのどなたかにでも勧められたんでしょうか」と、女房は言った。
「店に来る客とお玉が口を利くこともあるのかい」
「それはございません。わたしか番頭、まれにうちの奴が客の相手をするぐらいで」
主はようやく息を調《ととの》えて応えた。
「そいじゃ、買物に出た先で、そんな知り合いができたということか……」
不破は煤《すす》けた天井を仰いで独り言のように呟く。
「旦那、お玉はうちの湯に来ても客とは結構、気軽に話をしていましたよ。言葉掛けのいい娘で、年寄りには可愛がられておりやした」
留蔵は訳知り顔で口を挟んだ。留蔵は松の湯という湯屋を商っていた。
「ふん。そいじゃ、お玉と親しく口を利いていた連中からでも、爪紅の出所《でどこ》を訊いてくんな」
そう言った不破に留蔵は「旦那は爪紅に何か引っ掛かるんですかい」と畳み掛けた。
「ちょいとな」
不破はあっさりと応えて、くるりと踵《きびす》を返し、まだ雨の匂いのする表に足を踏み出した。
「爪紅を差したぐらいで目くじら立てる筒井も筒井だが、そんなことで死にたくなるあの娘っこもどうかしているぜ。近頃の若い娘は何を考えているものやら……」
京橋の自身番に戻って来てから不破は吐息混じりに言った。
大川端のおろくの方は近くの旅籠《はたご》の女中で、|おふで《ヽヽヽ》という十六の娘だった。近頃、買物に出ても寄り道をして来て刻《とき》を喰うことが多かったという。死体で発見される二日前から行方知れずになっていて、届けが出されていたのだ。おふでの素性はすぐにわかったが、下手人の目星はついていなかった。旅籠のお内儀は筒井の主のように、おふでが爪紅を差しても、さほど文句は言わなかったようだ。客がおふでの爪紅を喜んでいるふうもあったからだ。だが、おふでも自分で爪紅を差した様子はなく、どこかでこっそりとやって貰っていたらしい。旅籠のお内儀は、その心当たりが全くないという。そろそろ爪紅の色も消える頃になって、おふではまた爪紅を差して貰いに行き、事件に巻き込まれたということも考えられる。不破はその爪紅が下手人と繋がる手掛かりだと考えているようだ。
留蔵と弥八は松の湯の客からお玉の情報を探るよう不破に命じられた。伊三次は小間物屋を廻って、爪紅を買った客を捜すように言われた。
自身番の外がまた暗みを増し、囁くような雨の音が聞こえて来た。
「鬱陶しいなあ。胸ん中に黴《かび》が生えそうだぜ。留、一杯飲みに行くか」
不破は気分を換えるように言った。留蔵は|にッ《ヽヽ》と笑って肯いた。
「お前ェはどうでェ」
不破は伊三次にも訊く。
「いえ、わたしは……」
下戸の伊三次は首を振った。
「つき合いの悪りィ男だぜ、全く」
不破は憎まれ口を叩いた。務め向きの話はそれで仕舞いになったようだ。伊三次は不破と留蔵に頭を下げて自身番を出た。
二、三、近所の小間物屋を廻ってから伊三次は茅場町に戻った。小間物屋ではお玉が爪紅を買ったという様子は見えなかった。
それは大川端で見つかった娘も同様だった。死んだ二人の娘は、いったいどこで爪紅を差したというのだろうか。
差し向かいで伊三次とお文は晩飯を食べた。
お文は存外に早く戻って来た伊三次に嬉しそうだったが、濡れた着物に困ったような顔もした。天気がよくないので洗濯物が乾かないのだ。
「だから傘を持って行けと言ったんだ。それなのにお前さんは言うことを聞かないもんだから濡れる羽目になっちまった」
お文はぶつぶつと愚痴をこぼす。晩飯のおかずは目刺しに青菜のお浸し、冷や奴、浅蜊の汁がついていた。冷や奴には鰹節を掻いたのがのせてあった。
「お前ェ、爪紅を差したことはあるかい」
伊三次はお文の愚痴を遮《さえぎ》るようにお代わりの飯茶碗を差し出しながら訊いた。お文はそれを受け取り、お櫃《ひつ》から飯をよそいながら、「わっちは三味線の稽古をしていたから、そんなものをしていたら気が散るとお師匠さんに言われていたんで、やったことはないよ」と、応えた。
「そうかい……」
「爪紅がどうかしたのかえ」
お文は伊三次の顔を覗き込むように訊く。
心底、惚れているよ、と言っているような表情だ。伊三次は胸をくすぐられるような気持ちになったが、「首縊りした筒井の女中も、この間、大川端で上がったおろくも爪紅を差していたのよ」と、素っ気ない声で言った。
「爪紅をする娘は珍しくないじゃないか。うちの|おこな《ヽヽヽ》もやっていたよ」
おこなはお文の家の女中をしていた女である。今は親戚の家に身を寄せて、近くの水茶屋の手伝いをしていた。
「それは去年の夏あたりに流行ったからだろう? 今年になって爪紅を差している娘はあんまり見掛けなくなっているんじゃねェのかい」
「そう言われりゃ、そうだねえ」
お文もようやく怪訝な顔になったが、「だけど大川端の娘はともかく、筒井の娘は自害なんだろ? 爪紅だけで二人の娘と下手人を結びつけるのは無理があるんじゃないのかえ」と言った。
黙っている伊三次にお文は続けた。
「それとも二人の娘に爪紅を差したのが同じ奴だとお前さんは思っているのかえ」
「え?」
お文の言葉に伊三次ははっとする思いがした。そこまではっきりと考えてはいなかった。もしも、筒井の女中が爪紅の消えた頃に、また差して貰いに出かけたとしたら、どうなったのだろうと考えてみた。消えかけた爪紅と差したばかりの鮮やかな爪紅。伊三次の脳裏に爪紅の赤い色がちらちらと消えては現れた。
「もう少し小間物屋を当たってみるか……」
伊三次は独り言のように呟いた。すると、深川の入船町にいるというお喜和のことが不意に思い出された。お喜和も小間物屋をしているとお佐和が言っていたからだ。伊三次は残りの飯を茶漬けにして慌てて掻き込んだ。
「明日もまた雨かねえ」
お文は屋根を叩く雨の音にそんなことを言った。
「梅雨が明ければくそ暑い夏が来らァ。どっちにせよ嫌やな季節だな」
「わっちは平気だよ。お前さんとこうして一緒にいられるんなら」
お文は平気で言う。伊三次はさざ波のように込み上げて来る笑いを堪《こら》え、少し不機嫌な顔で「手前ェも|やき《ヽヽ》が回ったな。いけしゃあしゃあとのろけていやがる。人様の前でやるんじゃねェよ。辰巳芸者の名折れというものだ」と、応えた。
「おあいにく。わっちは、辰巳芸者は返上さ。今はしがない廻り髪結いの女房だよ」
「しがねェは余計だ」
「そいじゃ豪気な廻りの髪結い……」
「………」
眉間に皺を寄せた伊三次にお文は甲高い声で笑った。
梅雨の晴れ間の陽射しは容赦なく伊三次の月代《さかやき》を焦がした。一町も歩かない内に汗がこめかみから伝う。こんな暑さになるのなら、いっそ雨の方がまだましというものだった。
顔をしかめて振り仰いだ空に灼熱の火の玉がぎらぎらと笑っている。日陰を選んで歩き、伊三次は深川の入船町界隈に足を踏み入れた。
大八車を引く人足の男達の姿が目につく。
木場が近いせいで材木に関係した仕事をしている者が多い。先刻、伊三次の横を通り過ぎた人足は、褌《ふんどし》一つで角材を積んだ大八を重そうに引いていた。入船町の通りはそんな人足の客を当て込んで、安く酒を飲ませる店や一膳めし屋、蕎麦屋が多い。
お喜和の商っている小間物屋は居酒屋と一膳めし屋に挟まれるようにあった。暖簾も出していなかったが、開け放した油障子の中に櫛だの桜紙だのへちま水、化粧|刷毛《ばけ》などの細々した品物が眼についた。
「ごめんなすって」
伊三次が声を掛けると、店番をしていたお佐和が大きな眼を見開いて、「あら」と、驚いたような声を上げた。
「本当にいらしてくれたんですね」
伊三次に声は掛けたが、お佐和はさほど期待していなかったようだ。伊三次は少し気が抜けた。しかし、お佐和はすぐに紺の暖簾で仕切られた茶の間へ「おっ母さん、おっ母さん」と、早口で呼び掛けた。
返事がないのでお佐和は茶の間に入り「おっ母さんってば、伊三次さんがいらしたんですよ」と、苛々《いらいら》した口ぶりで言った。
お喜和は居眠りでもしていたようだ。ようやく顔を見せたお喜和は、伊三次の顔をまじまじと見つめ、しばらくものを言わなかった。
「ご無沙汰致しておりやした」
伊三次は笑顔でそう言うとぺこりと頭を下げた。お喜和も笑顔になったが、何んだか無理をしているような感じだった。
「元気でやっていたのかえ」
お喜和は一つ吐息をつくと口を開いた。
「へい」
細かい縞の単衣は衣紋《えもん》を抜き加減に着付け、白っぽい夏帯のお喜和は、伊三次が知っていたお喜和とは別人のように面変わりしていた。
すっかり白くなった髪のせいと、少し肉が落ちたせいかも知れない。道ですれ違っても声を掛けられなければ気づくかどうか。しかし、お喜和は廻船問屋のお内儀そのままの、やや驕慢《きようまん》とも聞こえる口ぶりで続けた。
「ささ、そんな所で立ち話も何んだ。むさ苦しいけれど中に上がっておくれな」
そう言われて、伊三次は内心でほっとした。卑屈に頭を下げられたら、どうしてよいかわからない。
狭い茶の間は女世帯らしく、すっきりと片付いていた。神棚の前に長火鉢が置いてあった。壁際に置いた根来《ねごろ》塗りの箪笥《たんす》の上に千代紙を貼った小物入れと招き猫が飾られている。
茶の間のさらに奥は台所になっているらしい。お喜和は部屋の隅に積み重ねていた座蒲団を一枚取ると、猫板の傍にそれを敷いて「お座りよ。今日は暑いね? ここまで来るのが骨だったろう」と労《ねぎら》いの言葉を掛けた。
「今日はまた、格別に暑い日でござんすね。しかし、ここはしのぎ易い気が致しやす」
「何がしのぎ易いものか。暑くてたまらないよ。冷たい麦湯はどうだえ」
「へい、そいじゃ頂戴致しやす」
「お佐和、伊三さんに麦湯をお出ししておくれ。それと、何か甘いもんがあったかえ。伊三さんは甘いもんが好物なんだよ」
「はいはい」
お佐和は幼い子供に応えるような返事をして台所の傍にある裏口から外に出て行った。ほどなく竹筒を抱えて戻って来ると、湯呑を出して竹筒の中身を注ぎ、伊三次の前に差し出した。竹筒の中には麦湯が入っていた。井戸で冷やしていたのだろう。
「おっ母さん、何んにもしないのよ。播磨屋のお内儀さんのまんまなの」
お佐和は苦笑混じりに伊三次に言った。
「年寄りを扱《こ》き使うつもりかえ」
お喜和はすぐに応酬する。
「ええ、ええ。そのお蔭であたしは家の中のことは何んでもできるようになりましたよ。おっ母さんのお仕込みがよろしいせいで」
口調は皮肉だが、お佐和はさほど苦にしている様子もなかった。
「あたし、松屋さんに行ってお菓子を買って来ますから」
お佐和は腰を上げてそう続けた。
「そんなお佐和ちゃん。おれのためならいいですから」
伊三次は慌ててお佐和を制した。
「ううん。あたしも食べたくなったから」
お佐和は無邪気に笑って表に出て行った。
「お佐和ちゃんは大きくなりやしたね。永代橋で会った時はどこの娘さんなのかわかりやせんでした」
伊三次は冷えた麦湯を啜るとそう言った。
「いい娘になっただろ? 体格もいいしさ」
お喜和は得意気に眼を細めた。
「へい」
「祝言が決まっていたんだよ。だけど、店があんなことになったもんだから、先様から断られちまったのさ。ついていない娘さ」
伊三次は何んと応えてよいかわからなかった。自然に俯きがちになった。
「あの頃は楽しかったねえ。毎日がお祭り騒ぎで……思う存分遊んだから、あたしには思い残すこともないけれど、お佐和のことはねえ……」
お喜和は手持ち無沙汰に炉扇《ろせん》で火鉢の灰をならしながら独り言のように呟いた。その時だけ母親の顔になったと伊三次は思う。
「あんた、所帯は持ったのかえ」
お喜和は思いついたように訊いた。白い喉は皺が目立つ。昔は艶々した肌が輝くようだった。伊三次の眼を深々と覗き込んだお喜和の眼も思い出される。
「へい、何んとか」
「何んとかって話があるものか。相手はあの芸者かえ」
「へい……」
「確か文吉という権兵衛名《ごんべえな》だったねえ。張りがあっていい妓《こ》だったよ」
「ご存じでしたか」
「ああ、知っていたよ。深川じゃ、ちょいと知れた顔だったじゃないか」
「畏《おそ》れ入りやす」
「残念だねえ。あんたが、まだ独りだったら、うちのお佐和を嫁に貰ってほしかったからさ」
「そんな、お内儀さん。そいつはねェでしょう。悪い冗談だ」
伊三次は驚いてお喜和の顔を見た。真顔になった伊三次に、お喜和は弾けるような笑い声を立てた。
「お佐和と一緒にさせたんじゃ世間様の笑い者だねえ。あそこの家は母親の間夫《まぶ》を娘の亭主にあてがったってさ」
「……お内儀さん、冗談はいい加減にして下せェ。おれはそんな話をしに来た訳じゃねェんで」
伊三次は怒気を孕《はら》ませた声でお喜和を制した。
「真面目は相変わらずだ。悪かったよ。何ね、あたしもあんたのことは気にしていたのさ。お佐和があんたに会ったと聞かされた時は、年甲斐もなく胸がどきどきしてね。あの頃、あたしの気持ちがわかっていたのは、あんただけさ」
お喜和は取り繕うように言った。
「おれもずっとお内儀さんのことは気に掛けておりやした」
「ありがとうよ。だが、これも自業自得というものだ。罰が当たったのさ」
「………」
「あんたがお上《かみ》に捕まったことは太鼓(幇間《ほうかん》)の豊太郎《とよたろう》から聞いていたよ。こっちにもお上の手が及ぶのじゃなかろうかと知らぬ顔の半兵衛をきめ込んじまった。勘弁しておくれな」
お喜和は殊勝に頭を下げた。豊太郎は当時、お喜和の取り巻きの一人であった。
「お内儀さん、済んだことです。忘れておくんなさい」
伊三次は顔を上げてきっぱりと言った。
「でも今は廻りの髪結いをしているんだろ? 信濃屋の旦那から聞いたよ」
「へい。信濃屋さんには贔屓にしていただいておりやす」
信濃屋は伊三次の客で、材木問屋の主だった。
「忍びの足を洗うことができてよかったよう。あのまま行ったら、先はどうなるか知れたもんじゃなかったし……あの頃の連中は大抵、道を踏み外しちまって。酒屋の徳次《とくじ》は店を潰して首を縊ったし、豊太郎も吉原の女郎を足抜けしようとして見つかり、足腰立たない身体になっちまった。あたしはあたしで店を潰して亭主から離縁されちまうし……」
「播磨屋さんはお佐和ちゃんを引き取らなかったんでございやすか」
「上方の女に男の子が生まれたのさ。それにお佐和も上方に行くのは嫌やだと言ったものだから。手切れ金代わりにこの店をくれたんだよ。芝居見物と茶屋遊びをしなけりゃ、親子二人、食べるにゃ事欠かないよ」
お喜和の言い方はさほど無理をしているようには聞こえなかった。伊三次はお喜和の気を引き立たせようと、「お内儀さん、久しぶりに髪ィ、やらしておくんなさい」と笑顔で言った。その拍子にお喜和の眼が輝いた。
「やってくれるのかえ。そりゃ嬉しいねえ。あんたの後にずい分、他の髪結いにやって貰ったけれど、あんたほどの腕がある髪結いに出会ったことはないよ。あれからさらに腕を上げただろうねえ」
「さあ、そいつはどうでしょう」
伊三次はお喜和の背中に回り、台箱を開いた。お喜和の肩に花色手拭いを掛ける時、肩の衣裳《いしよう》黒子《ぼくろ》が眼についた。伊三次はそれをある懐かしさで眺めた。お喜和から離れた年月が胸苦しいような気持ちを伊三次にもたらした。
髪の量は少なくなっていたが、お喜和の髪はその年齢にしては腰があり、しっかりとしている。ゆっくりと髪を梳《す》くとお喜和は気持ちよさそうな吐息を洩らした。
「どうしてかねえ、頭を触《さわ》られると滅法気持ちがいい。伊三さんが触っているかと思や、なおさらだよ」
「そうですかい……」
「昔のあんたは剃刀《かみそり》みたいな眼をしていた。今は落ち着いて大人になったもんだ」
「畏れ入りやす」
不意に昔のお喜和の笑った顔が伊三次の脳裏に蘇った。いかにも大店のお内儀という貫禄と、年増女ならではの色気もあった。伊三次がお喜和と深間《ふかま》になったのは、もちろん、金も絡んでいたけれど、若い伊三次はそんなお喜和に確かに魅かれていたのだと思う。
お喜和の頭は鬢付《びんつ》け油を使わない水髪《みずがみ》に拵《こしら》えた。少し引っ詰めの丸髷である。
「へい、いかがでござんしょう」
伊三次は手鏡を差し出しながら訊いた。お喜和は頭を左右に傾げて髪のできを確かめると、「ありがとうよ。幾らだえ」と言った。
「いえ、お代は結構でござんす。昔はお内儀さんからたくさん祝儀をいただきやした。今日はその、ほんの恩返しですよ」
伊三次は手鏡の中のお喜和にそう言った。
お喜和の眼に膨れ上がるように涙が湧き「髪結いに情けを掛けられるようじゃ、あたしもいよいよ落ちぶれたもんだねえ」と、くぐもった声で応えた。
伊三次は背中からお喜和の肩を抱いた。そうせずにはいられなかった。
「堪忍しておくんなさい。今のおれにゃ、お内儀さんにこれ以上のことはできやせん」
「馬鹿だねえ。幾ら落ちぶれても、あんたに何んとかしてくれとまでは思っちゃいないよ。あんたにはあんたの暮しというものがある。女房とは仲良くやっておいでかえ」
「へい……」
「昔の女に会って髪を結ったなんて言ったら悋気《りんき》を起こすんじゃないのかねえ」
「辰巳上がりでござんすから、そんな心配はご無用ですよ」
お喜和は肯くと、伊三次の手の甲を柔かく叩いた。お佐和が戻って来た様子に、二人は慌てて離れた。伊三次はお佐和に悟られないように、そっと洟を啜った。
「遅かったじゃないか」
お喜和は詰《なじ》る口調でお佐和に言った。
「ごめんなさい。お店の前でお客さんにドウサはないかと訊ねられたものだから……あら、おっ母さん。髪をやってもらったの?」
お佐和は結い上げたお喜和の頭を見て嬉しそうな声になった。
「手間賃を取ってくれないんだよう」
お喜和は拗《す》ねたような口ぶりで言った。
「駄目よ、伊三次さん。それは駄目」
お佐和は帯の紙入れに手をやった。
「いえ、ちょいと纏《まと》めただけでござんすから、お代はいただけやせん。本当に結構ですから」
伊三次は手拭いを畳みながら言った。お佐和は「そうお? いいの?」と念を押すと、菓子の包みを解いた。夏向けの寒天を使った菓子が入っていた。お佐和は涼しげなそれを菓子皿にのせ、麦湯も注いで伊三次に差し出した。伊三次はぺこりと頭を下げ、添えられていた黒文字《くろもじ》を使って口に入れた。
「ドウサなんて小間物屋で売っている所があるのかしら。あれは薬屋よね?」
お佐和は腑に落ちない顔でお喜和に言った。客に訊ねられたことを気にしているようだ。
「爪紅にでも使うつもりだったのかねえ」
お喜和は自分も手許に菓子の皿を引き寄せて応えた。爪紅と聞いて、伊三次の手が止まった。
「お内儀さん、爪紅にはドウサがいるんですかい」
伊三次はお喜和に怪訝な眼を向けて訊く。
「そうだよ」
お喜和はあっさりと応えた。
「ドウサというのは絵や字の滲《にじ》みを防ぐために紙に塗るもんじゃござんせんか」
伊三次は解せない気持ちで続けた。爪紅にドウサが使われるというのは知らなかった。
「ああ、それもあったねえ。だけど紙屋のは膠《にかわ》を混ぜるんだよ。爪紅には膠の入らない白い粉だけを使うのさ」
「あのお客さん、爪紅を差すような酔狂な遊び人にも見えなかった……もっとも、懐手をしていたから爪には気づかなかったけど」
お佐和は納得できないような顔で小首を傾げた。
「お佐和ちゃん、その客はどんな奴でした? この辺りにいる奴ですかい」
伊三次は早口で訊いた。
「この辺りでは見掛けない人だったわね。素肌に半纏を羽織っていただけだから、物売りの人か荷物を運ぶ人なのかしら」
「そいつはどっちに行きやした」
「八幡様の方へ歩いて行きましたけれど……」
お佐和は客のことをしつこく訊ねる伊三次に解せない表情になった。
伊三次は台箱を片付けると、そそくさと帰り仕度を始めた。
「ねえ、伊三次さん。どうしてあのお客さんのことをそんなに気にするの」
お佐和は伊三次を引き留めるように訊いた。
「へい。江戸で爪紅を差した娘が二人も死んでいるんですよ。一人は自害なんですが……おれは八丁堀の旦那の髪もやらして貰っているんで、事件があればそれとなく聞き込みをして手助けをしているんですよ」
「じゃあ、あのお客さんが下手人ということ?」
お佐和は恐ろしそうにお喜和に身体をすり寄せた。
「それはまだわかりやせん。そいつが爪紅へ使うためにドウサを買ったとしたら、放ってはおけやせん」
「伊三さん」
お喜和が少し厳しい顔で言った。
「下手人の素性に心当たりはついたのかえ」
「いえ、それはまだ……」
「爪紅を餌《えさ》にして娘にとんでもないことをする男は、どうせろくな者じゃない。岡場所の妓《おんな》も買えないようなしみったれさ。伊三さん、下手人は懐が寂しい助平野郎だよ」
お喜和は決めつけるように言う。
伊三次は湯呑の中身をひと息で飲み干すと腰を上げた。
「下手人を挙げたら、また寄せて貰いやす。お邪魔致しやした」
「気をつけるんだよ」
お喜和は厳しい顔のまま言った。
「へい」
履物を突っ掛けて表に出ると、強い陽の光が伊三次の眼を射た。お佐和は表まで伊三次を見送ってくれた。
「お佐和ちゃん、お内儀さんを大事にしてやって下せェ」
「ええ、ありがとうございます」
「そいじゃ……」
伊三次は深川八幡へ向けて足早に歩みを進めた。お佐和が伊三次の後ろ姿を長いこと見つめていたような気がした。
ドウサのことを訊ねた男は物売りか人足のようだとお佐和は言っていた。そういう男と爪紅がどうも噛み合わない感じもしたが、伊三次は途中、ドウサを買いに来た男がいなかったかどうかを小間物屋に訊ねて回った。
しかし、途中にあった小間物屋に男が訪れた様子はなかった。深川八幡前の大通りを過ぎ、黒江町まで来た時、薬種屋の「高麗屋《こうらいや》」という軒看板が眼についた。伊三次は薬種屋ならばドウサを置いているだろうと、紺の日除け幕で覆われている高麗屋に足を向けた。
細い路地の前を横切った時、伊三次は突然、腕を掴まれ、そのまま狭い路地に引っ張り込まれた。
深川の岡っ引き、増蔵が子分の正吉《しようきち》を伴って小路の陰に身をひそめて張り込みをしていたのだ。
「脅かさねェで下さいよ」
伊三次は増蔵にむっとした顔で言った。
「お前ェも高麗屋に用事があるのか」
増蔵は意に介するふうもなく、いつもの人を怪しむような目付きで訊いた。
「へい、さっき入船町の小間物屋にドウサを買いに来た男がいたんで、そいつの足取りを探っておりやした。高麗屋ならドウサを置いているんじゃねェかと思ったんですよ」
伊三次がそう言うと、増蔵は|きゅっ《ヽヽヽ》と眉を上げ、「爪紅にはドウサが要るからな」と、応えた。
「そいじゃ、増さんも爪紅を差してやった野郎を探っているんですかい」
「ああ。この頃、深川にやって来て、爪紅を差してやろうかと若い娘に声を掛けている奴がいるんだ。年頃の娘を持つ親が気味悪がって、おれの所に相談に来たのよ。そいつが大川端の殺しと関わりがあるかどうかは、まだわからねェ。深川じゃ、その手の事件は起きちゃいねェからな」
「どんな野郎なんです?」
「兄さん、棒手振《ぼてふ》りの花屋です」
正吉が横から口を挟んだ。この頃の正吉はようやく増蔵の足を引っ張らずに御用をこなすようになった。
「花屋……」
そう聞かされて伊三次は合点のいった顔になった。お佐和の言ったように物売りであった。暑い町中を歩くには素肌に半纏だけの恰好にもなろうというものだ。
「商売柄、花には詳しい野郎だ。爪紅を餌にして悪さを企んでいるような気がしてならねェ」
増蔵は岡っ引きの勘を働かせて言う。
「爪紅はどんな花から拵えるんです? やはり、|つまぐれ《ヽヽヽヽ》の花からですかい」
そう訊くと増蔵は肯いた。
「つまぐれは|つまくれない《ヽヽヽヽヽヽ》から来ているんだろう。その通り、爪紅の材料だ。そいつにドウサを混ぜて爪にのせ、繃帯を巻いて寝たら、翌朝はきれいな紅の色に染まっていらァな」
増蔵は女房に小間物屋をやらせている男なので、少しは女の化粧のことを知っている。
先に増蔵に話を聞いておくべきだったと伊三次は後悔していた。
「そいで、その花屋の足取りは掴んでいるんですかい」
伊三次が続けると、増蔵は高麗屋の方を顎でしゃくった。
「今さっき、店に入って行った。出て来たらしょっ引《ぴ》く。もしも、ドウサを買っていたらの話だが……」
ドウサは買っているはずだと思った。棒手振りの花屋は、花を買いに来た娘に爪紅を差してやると誘いの声を掛けていたのだ。
しっかりした娘なら、そんな誘いは一蹴するだろうが、中には馬鹿な娘もいるのだ。大川端近くの旅籠の女中と筒井の女中は男の誘いにまんまと乗せられた口なのだろう。
「親分、出て来ましたぜ」
正吉は増蔵の耳許に囁いた。増蔵はくすぐったそうに首を縮めたが、すぐに伊三次に目配せした。伊三次は肯いて、その場に台箱を下ろした。
「おう、ちょいと聞きてェことがあるんだが」
増蔵は高麗屋から出て来た男の前にすばやく進むと、腰から十手を取り出して慇懃《いんぎん》な口調で言った。正吉と伊三次は男の左右に立って逃げ場を塞《ふさ》いだ。きょとんとして間抜けな面をした三十|絡《がら》みの男である。増蔵の言葉に、男は笑ったような表情になったが、身体はぶるぶると震えていた。
手に持っていた紙包みが男の手から滑り、地面に落ちた。その拍子に白い煙のようなものが舞い上がった。
「ドウサを買ったんだな」
増蔵は優しい声音で訊く。
「爪紅に使うんだろ」
増蔵が続けて訊くと男は逃げ出す気配を見せた。伊三次は男の腕を掴み、背中に回した。
正吉は、すぐさま捕り縄を男に掛けた。通りを行き過ぎる人々は突然のことに驚いた顔でこちらを見ている。
縛られた男の指先には鮮やかな爪紅が差されていた。伊三次の背中に寒いものが一瞬、通り過ぎた。
「大川端の旅籠の女中を殺《や》ったのはお前ェだな」
伊三次は縛った男を立ち上がらせると半纏の襟を掴んで訊いた。男は震えているばかりで一向に応えようとしなかった。
「常盤町の質屋の女中にも爪紅を差してやったんだろう?」
「殺っちゃいねェ!」
その時だけ男は悲痛な声で叫んだ。お玉は殺してはいない。男はそう言いたかったのだろう。
「ああ、そいつはわかっているぜ。お前ェが殺ったのはおふでだけだ。そうだな?」
伊三次は手を放し、頭の髷棒を引き抜くと、男の緩んだ元結《もつとい》の辺りを手早く撫でつけた。
「爪を|きれえ《ヽヽヽ》にするより、手前ェは頭に気を遣った方がいいぜ」
伊三次はそう言ってから男の頬を一つ張った。男は|うッ《ヽヽ》と呻いて伊三次に反抗的な眼を向けた。正吉は捕り縄の先を|きゅっ《ヽヽヽ》と引き上げ、「さっさと歩きな」と男を急《せ》かした。
茅場町の大番屋の牢に花屋|寅五郎《とらごろう》を収監すると、不破友之進は、すぐさま入牢《じゆろう》証文を請求するために呉服橋御門内の北町奉行所に戻った。下手人をしょっ引いた小者達の用はそれで仕舞いである。伊三次は深川へ戻る増蔵と正吉を永代橋の橋際まで送るつもりで一緒に歩いていた。
「今日のお前ェはやけに|きりり《ヽヽヽ》と締まって見えたぜ」
増蔵は伊三次が寅五郎の口をあっさり割らせたことを褒《ほ》めていた。伊三次はふっと笑った。
「ドウサと聞いてピンと来たのも勘がよかった」
増蔵は上機嫌で続ける。
「偶然ですよ。たまたま、あの下手人が小間物屋の娘にドウサがあるかと訊いたんです。娘の母親が爪紅にはドウサが要ると教えてくれたんでさァ」
そう応えた伊三次に、増蔵は二、三度眼をしばたたき「入船町の小間物屋というのは、元は江戸橋の播磨屋のお内儀のやっている店か?」と、訊いた。増蔵は深川のことなら何んでも知っている男であった。
「へい」と応えた声音が自然に低くなる。
「お蔭で下手人をとっ捕まえることができてよかったよ。ぐずぐずしていたら、また娘の死人《しびと》が出るところだった」
増蔵は伊三次の表情には気づく様子もなく、心底、ほっとしたように言った。
「さいですね」
伊三次はおざなりに相槌《あいづち》を打った。寅五郎は爪紅を差して花を売り歩いていた。仏壇に供える花を買いに来る者は必ず寅五郎の爪紅のことを口にした。洒落たことをするじゃないか、花屋のくせに酔狂だよ、などと。爪紅は寅五郎の母親から教えられたものらしい。子供の頃、寅五郎は男のくせに爪紅を差されることを喜んだ。
母親が死んだ後、寅五郎は、母親を思い出すように時々、自分で爪紅を差した。最初から下心があった訳ではなかったのだ。
だが、その内、自分にもやってくれろという者が現れるようになった。最初は亭主を亡くしたばかりの居酒屋に勤めていた女だった。女の家に行って爪紅を差してやり、ひと晩経ってから爪が染まっているかどうかを確かめに行った。女は紅い爪にはしゃいでいた。その時、なりゆきで寅五郎は女を抱く果報に恵まれた。
なに、その女にとっては、ほんのでき心である。以後、その女は顔を合わせても寅五郎に口を利くこともなかった。寅五郎は女に未練があったが、すげない態度で追い払われるので諦めるしかなかった。それから寅五郎は若い娘に的を合わせるようになった。居酒屋の女のように薹《とう》が立った大年増ではなく、|うぶ《ヽヽ》な娘達だ。
花代を一文ばかりおまけしてやれば大喜びする無邪気な若い女中などを。
旅籠の女中のおふでは、ちょいと性悪だった。爪紅を差してやった時、寅五郎はおふでを押し倒して首尾を遂げたが、回が重なると銭を要求するようになったのだ。断ると、爪紅で女を誘うことを世間に拡めてやると、おふでは寅五郎を脅した。なにさ、只同然の爪紅で。いけ図々しいにも、ほどがある。おふでの言葉に、かっとなった寅五郎は、その首を絞めて殺し、大川に捨てたのである。
それにしては筒井のお玉は可哀想なものだった。寅五郎の手に掛かる前に自害して果てたのだから。寅五郎を捕まえても伊三次ばかりでなく、不破も増蔵も留蔵もお玉の自害がどうしても納得できなかった。まあ、寅五郎の手に掛かるよりましと考えるしかなかったが。
「播磨屋のお内儀は前から知った顔だったのかい」
増蔵はさり気なく伊三次に訊いた。
「へい……」
「播磨屋と言えば大店だったがなあ。あの店が潰れるなんざ、誰も思やしなかった。まあ、大店の倅《せがれ》が遊びで身を持ち崩し、最後は羅宇《らう》屋になるという仕方噺《しかたばなし》を聞いたことがあるから、播磨屋のお内儀が小間物屋になっているのも不思議はねェか。世の中だな」
羅宇屋は煙管《きせる》の雁首《がんくび》と吸い口の間の竹の管《くだ》をすげ替える商売である。橋の上でぼんやり客待ちしている羅宇屋を伊三次も見掛けることがある。羅宇屋の人相がどことなく鷹揚に見えるので、そんな仕方噺も生まれたのだろう。増蔵は何か悪意があって言ったのではなかったと思う。ほんの世間話をしただけだ。
しかし、伊三次の頭に血が昇った。お喜和を庇《かば》いたい気持ちがそうさせたのだ。
「小間物屋だからどうだと言うんでェ!」
伊三次はいきなり増蔵の胸倉を掴んで揺すった。驚いた増蔵は反射的に伊三次の顎に拳骨をくれた。
「手前ェ、なに、|かっか《ヽヽヽ》してるんでェ。落ち着け!」
「うるせェ」
殴られてなおさら胸に火が点《つ》く。傍で正吉がどうしたらよいかわからず、おろおろしていた。遮二無二《しやにむに》むしゃぶりつく伊三次を増蔵は二度三度と殴った。
「いい加減にしろ!」
増蔵は苛々して地面に倒れた伊三次に吐き捨てた。最後の一発は力が強かったせいで伊三次の口の端が切れた。
「どうかしているぜ」
増蔵はため息をついて伊三次の手を取り、立ち上がらせた。伊三次は俯いて荒い息をしたままだった。
「正吉、お前ェは先に帰れ。おれはこの唐変木《とうへんぼく》と少し話がある」
増蔵は正吉を振り返ってそう言った。
「兄さん、しっかりして下せェ。兄さんまでおかしくなったら、この世の中、まともな奴はいなくなります」
正吉は説教めかして伊三次に言った。増蔵は鼻を鳴らして「違えねェ」と、苦笑した。
その蕎麦屋の二階から大川が見えた。
行き交う小舟の舳先《へさき》に吊した提灯の灯りが滲んだような光を放っている。大川は藍玉を溶かしたような闇が静かに拡がっていた。
伊三次の蕎麦はとうに伸び切っていた。それにも構わず、伊三次は出窓に肘を突いて大川に眼をやったままだ。増蔵は手酌でゆっくり銚子の酒を飲んでいた。増蔵は正吉を帰してから大川端にある蕎麦屋に伊三次を促し、二階の座敷を頼んだ。増蔵は周りに人がいない方がいいだろうと気を遣ったのだ。
「文吉とはうまくいっているんだろうな」
増蔵は伊三次の横顔に訊いた。
「へい……」
「播磨屋のお内儀はお前ェの客だったんだな? 落ちぶれたお内儀を見るのが、お前ェにはたまらなかったんだろう……いや悪かった」
増蔵は素直に謝った。
「いえ」
「客になっていたのは、あれか? お前ェが忍びで不破の旦那に捕まる前のことか?」
「………」
「そうか、忍びの頃か……」
増蔵は勝手に納得して言う。
「あの人を見ていると切ねェんですよ。確かにあの人は遊びで出歩いていましたよ。だけど、そいつは、上の娘さんを死なせてしまったことを忘れたかったからですよ。おれはお内儀さんの気持ちがわかっておりやした」
伊三次は大川に眼を向けたまま言った。
「銭があっても不倖せな奴はいるもんだよな」
増蔵は独り言のように呟く。
「さいです。おれはあの人を見て、銭がなんぼのものかと思ったものです。上の娘さんが恙《つつが》なく育っていたら、人に後ろ指を差されるほど遊びはしなかったはずでさァ。あの頃のおれはそんなお内儀さんの気持ちを承知で、たかっていたんでさァ。他の取り巻き連中と一緒に」
伊三次は自嘲的に言った。
「忍びをしていたんだから仕方もあるめェ」
増蔵は庇う。いいや、と伊三次は首を振った。
「それだけじゃねェ。おれはあの人と……」
「やめろ、伊三次!」
増蔵は真顔で伊三次を制した。
「子供を亡くした母親はこの江戸にゃ、ごまんといらァな。そのいちいちが忘れるために遊んでいるか? 大抵は悲しい気持ちを隠して気丈に振る舞っているじゃねェか。そんなことは人に喋ったところでわかる訳がねェんだ。結局、あのお内儀は弱ェ女だったのよ。伊三次、手前ェを責めるのはよせ」
「………」
「誰でもよ、人に知られたくねェ昔話の一つや二つはあるもんだ。おれだってお絹のことがあっただろうが」
お絹は増蔵の先妻だった。人の物に手をつける癖があり、増蔵は一旦はそのお絹から逃げた。しかし、お絹は増蔵を捜しに江戸へ出て来て、隠密廻り同心の緑川平八郎に捕まった。
増蔵はお絹と一緒に出奔しようとして伊三次に止められた経緯《いきさつ》があった。お絹は剃刀で自害して果てた。伊三次はその時のことを思い出した。
「あの時、お前ェはおれを責めなかった。お絹はいい女だったと持ち上げてくれた。伊三次、心底、嬉しかったぜ。だから、おれもお前ェを責めねェ」
「増さん……」
喉に|しこり《ヽヽヽ》ができたように苦しかった。無理に唾を飲み下すと、涙が湧いた。伊三次は増蔵に悟られないように、そっと涙を拭った。
さらさらと雨が降る。あと幾日降り続いたら梅雨は明けるのだろうか。
増蔵と別れて茅場町に戻る伊三次の肩を、雨がまた濡らした。しかし、伊三次はいつまでもその雨に打たれていたいような気持ちだった。
お喜和と会わなければよかったとは思わない。お喜和から受け取ったものは銭であれ、気持ちであれ、確かに伊三次を潤したのだから。
裏店の門口の前まで来ると蛇の目傘が見えた。向かいの蝋燭屋の軒行灯《のきあんどん》に照らされて、傘に当たった雨はつつっと流れて地面に落ちるのがわかる。つつっと流れては落ち、流れては落ち、絶え間なく繰り返される。傘の柄を握った女は身じろぎもしなかった。
「お文……」
伊三次の声に蛇の目傘が傾げられ、お文の白い顔が覗いた。
「あんまり遅いものだから出てみたんだよ。雨も降って来たし……」
お文は安心したように笑顔で言った。
「悪かったな。増さんと、ちょいと話し込んでいたもんだから」
「話ならうちに来てしたらよかったのに。増蔵さんは元気にしていたかえ」
「ああ」
「あれ、口の端が切れているよ。喧嘩でもしたのかえ」
お文は伊三次の口の傷に目ざとく気づいた。
「なに、例の爪紅の下手人を挙げる時にやられたのよ」
「弱い下っ引きだねえ」
お文は眉根を寄せて苦笑した。
「大きなお世話だ」
「素麺《そうめん》を茹でたよ」
「ありがてェ、腹ぺこだ」
伊三次はお文の肩を抱いて裏店の門口の中に入った。
雨はその夜も降り続いた。しかし、屋根を優しく叩く雨の音は伊三次の気持ちを癒した。傍にお文が寄り添っているせいだろう。これが一人だったら心底、たまらない。
一日仕事して、お文と差し向かいで飯を喰い、湯屋に行き、お文を抱いて眠りに就く。
何んということもない毎日である。おおかたの江戸の人々の暮しでもある。これがつまりは倖せなのだ。
このささやかな倖せを阻《はば》むものがあるとすれば、よりうまい物を喰いたい、いい着物を着たい、辛い仕事をせずに楽をして暮したいという人間の欲のせいに思えてならない。
「世の中は銭じゃねェよな?」
伊三次は煤けた天井を見つめて、ぽつりと言った。
「始まったよ、お得意が」
とろりと眠気が差した様子のお文が、つまらなそうに応えた。
「そうだろうが」
伊三次はお文の肩を揺すった。
「はいはい、お前さんの言う通り……」
お文はそう言って色気のない欠伸《あくび》を洩らした。雨はまだ止《や》まない。
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さんだらぼっち
廻り髪結いの女房になったお文《ぶん》の夏の楽しみは裏店《うらだな》の指物師《さしものし》が丹精している朝顔を眺めることと、井戸の水を盥《たらい》に入れ、浴衣や下着をざぶざぶと洗うことだった。
朝顔は蔓《つる》を伸ばす様《さま》がおもしろい。夏も盛りになれば、その内に小さな蕾をつけ、やがて濃紫《こむらさき》や白の可憐な花を咲かせる。まだ、早咲きの一つ二つをお文は見ただけだが、秋口にかけて、そりゃあ見事に咲くと隣家のお春は言っていた。お文はそれを大層楽しみにしている。指物師の徳兵衛《とくべえ》は住人達の褒《ほ》め言葉が嬉しくて、花時が終わると種を採り、翌年まで自作の長火鉢の引き出しに大事にしまっておくという。お蔭で住人達は毎年、徳兵衛の朝顔を眺める果報に恵まれるのだ。
江戸では最近、朝顔の変化花《へんげばな》が話題を呼んでいる。本所の回向院《えこういん》前の露店や近くの薬師堂の植木市でも見掛けることが多い。つかの間、眼を奪われるけれど毎日見たいとは思わない。
やはり朝顔は子供の頃から馴染んだ色と形のものが、お文には好ましかった。
洗濯は夏場の恰好の暑さしのぎになる。こんなに気持ちのいいものだったとは茅場町に来るまでお文は知らなかった。深川芸者だったお文は、家の中のことをすべて女中任せにしていたからだ。どうりで女中のおみつは夏の時期の洗濯を苦にしたふうがなかった。お文が起き出して寝間着のままでいると引っ剥《ぱ》がして洗いたがったほどである。
浴衣は洗い上げると絞って糊《のり》をつける。茅場町の木戸番の店で売っている糊が滅法具合がよく、近所の女房達は小鍋を持って買いに行く。お文もお春に教えられて糊を買うようになった。
木戸番は町木戸の開け閉《た》てや夜廻りの御用の他に日常使用する細々した雑貨、駄菓子を売っている所が多い。季節によっては焼き芋や西瓜の切り売りもしている。茅場町の木戸番は、すばらしく大きな焼き芋が評判を呼んでいたけれど、焼き芋に用事のないお文は、もっぱら糊ばかりを買っていた。糊を鍋に入れて貰うついでに、そこの女房と埒《らち》もない世間話を交わすのも楽しみになった。
木戸番の亭主と女房はそろそろ還暦を迎えるような年に思えるが、なかなか二人とも元気がよい。子供達は独立して、それぞれに所帯を構えているという。もう年だから、仕事を仕舞いにして一緒に暮してはどうかと再三勧められているが、どっちかが欠けたらね、などとお茶を濁しているそうだ。
二人とも大層な子供好きで、ことに女房の|おつる《ヽヽヽ》は駄菓子やおもちゃを買いに来る子供達を、まるで親戚の子のように扱う。子供達もそうされることがまんざらでもないらしく、親から小遣いをせびっては、その木戸番の店に行く。だから、日中、その店に行くと、子供の姿がことのほか、目につく。買物を済ませると子供達はおつるに「あばよ」と言う代わりに「|さんだらぼっち《ヽヽヽヽヽヽヽ》」と声を掛ける。おつるも笑いながら「あいよ、さんだらぼっち」と応える。その掛け合いがおもしろくて、お文はいつも微笑《ほほえ》まずにはいられなかった。
さんだらぼっちは米俵の両端に当てる藁《わら》の蓋《ふた》のことである。桟俵法師《さんだわらぼうし》が訛《なま》ったものだ。
数年前に江戸で疱瘡《ほうそう》が流行《はや》った時、店に来る子供達も、それを患い、何人かが命を落としたという。おつるも亭主の民蔵《たみぞう》も大いに愁《うれ》い、疱瘡|除《よ》けの札を貰って来て患う子供の家に届けたり、疱瘡地蔵に願掛けにも行った。それでも足りずに自分達の茶の間に棚を拵《こしら》えて桟俵法師をのせ、その上に御幣《ごへい》を立てて疱瘡治癒のまじないをしていた。疱瘡の流行がようやく終息しても、二人はしばらくの間、桟俵法師へ水と御仏供《おぶく》を上げて拝んでいた。
狭い木戸番小屋は店から茶の間が丸見えである。番太《ばんた》の店は、さんだらぼっちを拝んでやがら。子供達はそれが自分達のためだと知らずに囃《はや》し立てた。たちまち茅場町界隈に疱瘡よりも早く拡がり、子供達は口々に喋るようになった。さんだらぼっちという語感のおもしろさが子供達を捉《とら》えたのかも知れない。
今ではさんだらぼっちと言うと、その木戸番の店を指すまでになっている。
女房も亭主も店の前を通る子供達に必ず声を掛ける。「お早う、これから手習いかえ? しっかり覚えておいでよ」とか、「雨が降って来たよ、風邪を引かないようにおしよ」とか、「ほらほら日が暮れて来たよ。ぐずぐずしていると人さらいがやって来るよ」などと、さり気なく注意も促す。
あの人達のお蔭で道を踏み外さなかった餓鬼どもが何ほどいたことか、と伊三次も言っていた。おつるは小遣いのない子供にこっそり駄菓子を与えるのも珍しくない。だから、その木戸番の店は繁昌している割に実入《みい》りがそれほどでもないらしい。
しかし、よくしたもので成長した子供達は恩を忘れず、時々、手土産を持って顔を見せに来るという。
「ねえ、お文さん、子供は可愛がってやれば皆、いい子になりますよ」
おつるは笑いながらそう言う。世の中には奇特な人もいるものだと、お文は木戸番の夫婦を見てつくづく思う。
「さんだらぼっち、さんだらぼっち」
お文は呟きながら糊を掛けた浴衣を物干し竿に拡げた。陽射《ひざ》しは相変わらず強かった。
夜中に焦《じ》れたような子供の泣き声が聞こえた。料理茶屋に勤めるお須賀《すが》の家のお千代だった。三歳のお千代は癇《かん》の強い子供で、この頃は夜泣きが多かった。何がそんなに怖いのか悲しいのか、深更になると決まってお千代は泣き騒いだ。お須賀が腹を立ててお千代をぶつものだから、お千代の泣き声はさらに激しくなる。泣き声は毎晩、小半刻《こはんとき》も続いた。
仕事で疲れている上、夜中に子供に泣かれるのは辛いことに違いないが、邪険にするお須賀に、お文は時々、薄い憎しみを感じた。抱き寄せて優しく宥《なだ》めてやることはできないものかと思う。伊三次にそれを言うと「放っておけ」としか言わない。お文はお千代が泣き止むまで、いつも眠られなかった。
その夜、お千代の泣き声はいつになく激しかった。パシッ、パシッと、ぶつ音もする。
挙句《あげく》に戸口が開いて、お千代は外に出されたようだ。お文は蒲団から起き上がり耳を澄ました。
「何んだ?」
闇の中で伊三次の不審そうな声が聞こえた。
「お千代ちゃんが泣いて、表に出されたらしいよ」
「放っておけ」
伊三次はいつものように応えて、くるりとお文に背を向けた。すぐに軽い寝息が聞こえてきた。お千代はまだ泣いている。戸口を拳で自棄《やけ》のように叩いても、お須賀は一向に中に入れる様子がなかった。
お文はそっと土間口に下りて、しんばり棒を外し、外を覗いた。案の定、寝間着姿のお千代が戸口の前で泣いているのが目に入った。
月の光がお千代の哀れな姿を照らしていた。
「お千代ちゃん……」
お文はひそめた声でお千代に呼び掛けた。
お千代は驚いた顔でお文を見た。お文は下駄を突っ掛けてお千代の傍《そば》に行った。
「夜中に泣いてちゃいけないよ。ささ、おばさんに訳を話してごらん」
お文はお千代を抱え上げ、自分の袖でお千代の涙を拭った。頭のてっぺんを中剃りにしたおかっぱ頭のお千代は|じじっ毛《ヽヽヽヽ》と|おやっこ《ヽヽヽヽ》さんをつけている。じじっ毛は首の後ろの盆《ぼん》の窪《くぼ》に剃り残している愛嬌毛で、同様におやっこさんも耳の上の毛を剃り残しているものである。
その髪型はお千代の可愛らしさを引き立てていた。
「怖い夢を見たのかえ」
そう訊《き》いてもお千代は黙ったまま泣いている。しかし、お文に抱かれているのは悪い心地でもないらしく、泣き声は次第に小さくなった。
「お月さま幾つ、十三ななつ……」
お文はお千代をあやして低く童唄《わらべうた》をうたい始めた。
「まだ年ゃ若けェな、あの子をうんで……ささ、お千代ちゃんもおうたいな。この子をうんで」
「お万に抱《だ》かちょ(しょ)」
お千代がようやく口を開いた。
「そうそう、上手。お万はどけェ行った」
「油買いに茶ァ買いに」
「油屋の前で氷ですべって油一升こぼした、それから? それから何んて言うの?」
お文はさり気なく次を促す。
「その油、どちた(どうした)」
「太郎どんの犬と、次郎どんの犬と、みんな舐《な》めて……」
「ちいまった(しまった)」
お千代は小粒の歯を見せて得意そうにうたった。
「お文さん、ごめんなさい」
戸口が開いてお須賀がようやく顔を見せた。
「もう大丈夫ですよ。お千代ちゃんの機嫌が直りましたよ。お千代ちゃん、いい子でねんねしましょうね?」
お文はそう言ってお千代の身体をお須賀に預けた。
「毎晩、毎晩、泣かれるとあたしも嫌気《いやけ》が差して来ましてねえ、いっそ絞め殺したいと思う時がありますよ」
お須賀の言葉にお文はぎょっとなった。
「馬鹿なことは言わないで下っし。子供は犬猫じゃござんせんよ。うるさいからと言って捨てる訳には行かないんですよ」
ぴしりと言ったお文にお須賀は黙った。そのままこくりと頭を下げて戸口の中に引っ込んだ。お文は煤《すす》けた油障子を少しの間見つめていたが、やがて自分の家に踵《きびす》を返した。
狭い裏店から鼾《いびき》と、かりかり歯ぎしりの音が聞こえる。お文は夜空を仰いだ。深川で見た夜空と同じものであるはずなのに、どこかが違って感じられる。
心許《こころもと》ない気持ちは、どういう訳なのだろうかとお文は思う。望んで願った暮しである。
伊三次の身の周りの世話をして一緒にいることに不満はないけれど、時々、心の中を風が吹き抜けて行くような空しさに襲われる。
お座敷に向かう時の|ぴん《ヽヽ》と張り詰めた気持ちは久しく忘れていた。芸者稼業が骨身に滲《し》みついて、自分は並の女房にはなれない女なのだろうかとお文は思う。いやいや。お文はすぐにその思いを振り払った。それは我儘、勝手というものだ。わっちは廻り髪結いを生業《なりわい》にする男の、|れき《ヽヽ》とした女房である。決してお妾《めか》ではないのだと。お文は戸口に入る前に背筋を伸ばした。
寝ていると思った伊三次が「お千代ちゃんは収まったのかい」と訊いた。
「ええ、ようやく」
「あい、ご苦労さん」
呑気な声で労をねぎらう。お文は救われたような気持ちになった。伊三次の横にすばやく滑り込んで足を絡《から》ませた。ざらりとした毛臑《けずね》の感触も、すっかり馴染んだものになった。
「よしやがれ、明日、明日」
伊三次は邪険に言ったが、絡めた足はしばらくそのままになっていた。
「それはねえ、早く子供を拵えることですよ」
おつるは訳知り顔でお文に言う。
糊を買いに木戸番の店に行くと、おつるは店前に置いた床几《しようぎ》にお文を促し、茶を振る舞ってくれた。世間話の合間にお文は、この頃、身体に力が入らなくて、と何気なくおつるにこぼした。深川で芸者をしていたことは、知っている様子である。裏店の女房達にでも吹き込まれたのだろう。おつるは今まで面と向かって、そのことに触れたことはなかった。
「そんな……」
おつるに言われてお文の顔は自然にほてった。
「伊三さんは心根の優しい人だから、きっと子供ができたら可愛がってくれますよ」
おつるの言葉にお文は合点のいくような気持ちであった。
二、三日前、京橋の湯屋「松の湯」に嫁いだ|おみつ《ヽヽヽ》が茅場町を訪れ、子供ができたと嬉しそうにお文に告げたのだ。
「そう、よかったこと」
お文はおみつの妊娠を喜んだが、おみつが帰ると何やら複雑な気持ちになった。
それはおみつに対する悋気《りんき》であったのかも知れない。しかし、その時のお文は自分の気持ちを計りかねていた。おつるにずばりと言われて謎が解けたと思った。自分も伊三次の子がほしいのだと。
「そうですね、子供でもできたら身体に力が入らないなんて呑気なことも言っていられないでしょうし……」
「そうそう。子供を産んで育てるのは大変だけど、いいお楽しみ、いい苦しみさ」
「いい苦しみ?」
「ああそうともさ」
おつるは皺深い顔に満面の笑みを湛《たた》えた。
笑顔千両。子供達はその笑顔に癒《いや》されているのだとお文は思う。小さな女だが、遠くからでも笑顔のおつるは、すぐにわかる。
「父《とと》、こっち、こっち」
開け放した町木戸の向こうから五歳ほどの娘が父親らしい男の袖を引いて、盛んにこちらへ促す声が聞こえた。
「おお、おお、わかったよ。そんなに急がなくても番太の店は逃げて行かないよ」
三十五、六の男は武家ふうだったが、お務めが非番の日でもあったのか、単衣《ひとえ》を着流しにしただけの普段着の恰好だった。八丁堀の役人とも見えなかったので、どこか別のお役目の武士らしい。
「小母《おば》さん、さんだらぼっち」
娘はおつるに声を張り上げた。
「おや、お嬢ちゃんは前に来ていただいたことがありましたね。あい、さんだらぼっち」
おつるは笑顔で応えた。娘は流水の模様の友禅《ゆうぜん》を着ていた。袂《たもと》を長くして、山吹と緋鹿子《ひがのこ》が半々になった絞りの三尺帯を結んでいる。ほつれ毛一本もなく撫でつけられた髪は、前髪を紅絹《もみ》の端切《はぎ》れで結び、てっぺんで髷《まげ》にした中にも紅の|てがら《ヽヽヽ》が覗いている。
男とよく似た丸い顔だが、娘の表情は利《き》かん気である。お千代より一つ二つ年が上に見える。この年頃の子供は一つ二つでも驚くほど成長の違いがある。その娘には、お千代よりはるかに分別のあることが感じられた。
「こんなに可愛いお嬢さんで、お父様も楽しみでござんすねえ」
お文はさり気なく言葉を掛けた。男は「いやいや、我儘で困ります」と、照れているのかそんなことを言う。
「好きなのを選びなさい」
男は娘に鷹揚《おうよう》に言った。娘はすでに並べられた駄菓子やおもちゃに眼を奪われ、ろくに返事もしない。お文は床几から腰をずらし、男が座れる空きを作った。おつるは如才なく男にも茶を淹《い》れて勧める。
「かたじけない」
男は律儀に礼を言った。浅黒い顔はお世辞にも美男とは言い難いが、優しそうな眼をしていた。お務めにも真面目に励んでいる様子がその表情からも察せられる。
「お武家様はご近所にお住まいですか」
お文は娘の様子を眺めながら言葉を続けた。
「いや、拙者は浅草の方に住まっております。妹が奉行所の役人に嫁いでおりますので、時々、こちらへも顔を出します。妹は娘がいないので、うちの早苗《さなえ》を可愛がりましてね、少し間を置くと下男を寄こして遊びに来いと催促する始末でござる」
早苗というのが、その娘の名前らしい。
「どなたにも可愛がられてお倖せなお嬢さんですこと」
「母親よりも拙者の方になついております」
男は親馬鹿を発揮して得意そうに言った。
「娘は妹の子供達とこの店に来て、すっかり気に入った様子で、本日も八丁堀に到着するなり連れて行けとねだられました」
「買い喰いさせては奥様に叱られませんか」
お文は余計なことを心配する。武家の娘は町家の娘と違って躾《しつけ》に厳しいのだと聞いていたからだ。
「家内には内緒だと娘に釘を刺しました」
男は悪戯《いたずら》っぽい表情でお文に笑った。
娘は紙袋にいっぱいの菓子と小さなおもちゃを買って貰い、大層機嫌がよかった。
帰る時も、娘はおつるに「さんだらぼっち」と声を掛けた。まるで、そのひと言が言いたくて来たようなところもあった。男はお文に会釈して娘と一緒に戻って行った。二人の後ろ姿は倖せそうだった。
「優しくていいお父っつぁんですよ。あんな父親に育てられたら、あの子もきっといい娘さんになるでしょうよ」
おつるはしみじみした口調で言う。
「おつるさんは子供を見る目が確かだから、それは間違いないでしょうよ」
「おやおや、大層に持ち上げられちまって、何か出さなきゃなりませんね」
おつるは照れて、はぐらかすように言った。
「そんなこと……わっちは正直に言っているつもりですよ。他人様の子供をわけへだてなく可愛がるのは、なかなかできることじゃありませんよ。おつるさんと民蔵さんだからできることですよ」
「お文さんだって、できたお人と思っておりますよ」
おつるは武士の湯呑を片付けながら少し真顔で言った。
「あら、わっちのどこができたと言うんですか? わっちは長いこと芸者稼業をして来た女で、家の中のこともろくにできないんですよ。だから、うちの人に迷惑の掛けっ放しで」
お文は吐息混じりに応えた。
「家のことはその内に慣れますよ。あたしはねえ、お文さん、その芸者だったあんたが堅気《かたぎ》のおかみさんになったことに感心してるんですよ」
「………」
「お春さんもそう言ってましたよ。その器量じゃ面倒を見たいという客も多かったでしょうに……」
お文はおつるの言葉に胸をくすぐられるような気がした。照れを隠すように、
「うちの人と一緒になったのは成り行きですよ。ほら、この春に深川が火事になりましたでしょう? わっちの家も丸焼けになったんですよ。それで、当分の間、うちの人の塒《ねぐら》に身を寄せることにしたんです。わっちには親兄弟がいないものですから。その時、ついでだから一緒になっちまおうと……だからまだ祝言も挙げちゃいないんです。わっち等《ら》はいい加減だから」
と、行き当たりばったりでそうなったように伊三次との事情を話した。
おつるがふわりと笑った。もうその年になれば美人だの、そうでないなど、女としての評価は要らないが、若い頃のおつるは結構、|きれえ《ヽヽヽ》だったのではないかとお文は思っている。
「火事はお気の毒だったけど、伊三さんと一緒になれたんだから、よかったじゃないですか。あたしは不幸に見舞われて、どんどん落ち込む人よりも、それならそれで仕方がないと、さっさと別の道を歩いて行く人の方が好きですよ。お文さんと伊三さんはそういう人達だ。いいねえ、見ていて胸がすっとするよ」
おつるは晴れ晴れとした表情で言う。お文はくすりと笑った。おつると話をしている内に胸の中の鬱陶《うつとう》しいものが消えて行くような気がした。何気ない他人の褒め言葉が嬉しい。自分に好意を持ってくれている人であればなおさら。
「あのお嬢ちゃん、また来るといいのに。可愛かったねえ」
おつるは武家の娘と父親が去った方向に眼を向けながら独り言のように言った。
「子供はいいものですねえ」
お文も相槌《あいづち》を打つように言う。
「だからさ、お文さんも早く拵えて、うちの店に連れて来て下さいな」
おつるは張り切って続けた。
「あらあら、とんだやぶへびだ」
お文は大袈裟に顔をしかめて見せた。おつるの眼が優しく細められた。
大川の川開きの日に、お文は西両国広小路の|おこな《ヽヽヽ》の見世《みせ》に出かけた。おこなはおみつの後にお文の家の女中をしていた女である。
火事に遭ってから、おこなは親戚の家に身を寄せていたが、喰い扶持《ぶち》を稼ぐため水茶屋の茶酌女《ちやくみおんな》に出たのだ。おこなは回向院前にあった「姫だるま」という水茶屋とも飲み屋ともつかない見世の後妻だった。
当初は寄せ場送りになっていた亭主が戻るまでお文の女中を勤めるつもりが、亭主が死んだために、その後もお文の家に留《とど》まっていた。もしも火事に遭わなければ、今もおこなと一緒の暮しが続いていたはずである。
それを思うと、お文はおこなが不憫《ふびん》で仕方がなかった。
両国橋は花火見物の客で隙間もない。橋の下には屋根舟や物売り舟で、これまた川面も見えない。鍵屋、玉屋の自慢の打ち上げ花火が夜空に炸裂し、その度に群衆からどよめきが起きた。
「姉さん、どうぞ」
水茶屋の見世の外に緋毛氈《ひもうせん》を敷いた床几が出されていた。そこに座って花火を眺めていたお文に、おこなが湯呑を差し出した。
「わっちはもう、|おぶう《ヽヽヽ》は結構だよ」
冷えた麦湯を二杯も飲んだので、お文はおこなにそう言った。
「これはお酒」
おこなは他の茶酌女を気にしながら悪戯っぽい表情で応えた。見世の中は花火よりも茶酌女がお目当ての客で大層な入りだった。
かきいれ時だね、と言うと、水茶屋じゃ実入りも知れたものだと、おこなは皮肉で返した。酒はおこなが気を利かせたのだろう。
「酔っぱらったら茅場町に帰れないよ」
お文はそう言いながら湯呑を口にする。しばらく酒を口にしていなかった。伊三次は下戸なので晩酌をする習慣もない。久しぶりに飲んだ酒はお文の胃の腑を|かッ《ヽヽ》と熱くした。
「兄さん、今夜も御用なの?」
おこなは少し気の毒そうな顔で訊いた。
「人込みのある場所じゃ迷子が出るし、喧嘩も起きるから、下っ引きの出番も多いのさ」
「一人で花火見物なんてつまらないね」
「でもさ、御用が済んだら、ここに来ることになっているんだよ」
おこなの見世に顔を出すと言うと、伊三次は帰りに寄るから、そこで待っていな、と言ってくれたのだ。
「あら、ごちそう様」
おこなは|ぷん《ヽヽ》と頬を膨らました。
「ほら、おこな、揚がったよ。流星玉簾《りゆうせいたますだれ》だ。豪勢なものじゃないか」
お文はおこなに構わずはしゃいだ声を立てた。おこなも仕方なく「玉屋ァ!」と、自棄《やけ》のように声を張り上げた。
おこなは客に呼ばれると見世の中に入るが、すぐにお文の傍に戻って来る。お文の前を見物客が頻繁に往来し、低く揚がる花火はほとんど見えない。それでも夜空に高く揚がったものはかなりの迫力でお文の眼を射た。
「時々、正吉《しようきち》さんが来てくれるの」
おこなはお盆を抱えた恰好でお文に言った。
見世の中の喧噪と前を行く人々の下駄の音で少し声を張り上げなければ言葉がよく聞こえなかった。おこなはお文の耳許に口を近づけて喋る。床見世《とこみせ》の者は声を張り上げて客を呼び込む。香ばしい飴、香ばしい飴と、だみ声は飴の川口屋の出店《でだな》からだろう。醤油だしの匂い、西瓜の甘い匂い、花屋から流れる百合の芳香、それにお文の持っている湯呑から漂う酒の香り。それ等がごった混ぜになってお文の鼻腔を刺激する。繁華街に共通する匂いでもある。
「あの子はお前にぞっこんだからね」
お文はふわりと回った酔いに、いい心地になって応えた。
「ところがさ、あすこの家の番頭さんがあたいの所にやって来て、後生だから正吉をからかわないでくれって……」
「………」
「あたい、別に正吉さんをからかっている訳じゃないのに」
「そうだねえ」
お文は複雑な気持ちで相槌を打った。正吉の家は深川の佐賀町で少し大きな搗《つ》き米《ごめ》屋をしている。そこの一人息子である正吉は、世間知らずというより、ちょいと頭の捻子《ねじ》が弛《ゆる》んでいるようなところがある。正吉の両親は深川の岡っ引きをしている増蔵に正吉を預けて修業させる気になったのだ。正吉は増蔵の子分をしながら、色々と世の中のことや礼儀を仕込まれている最中である。
以前から正吉はおこなに対して気のある様子を見せていた。正吉の両親はおこなに懸想《けそう》する正吉を心配して、そんな余計な差し出口を番頭に言わせたのだろう。正吉をだまして何とかしようという魂胆は、おこなにはない。せいぜいが勤めている水茶屋で茶代を遣《つか》わせる程度である。それでも正吉の両親は気が気ではないらしい。
「お前、番頭にはっきり言ってやったのかえ」
お文は少し腹が立って訊いた。
「言ったよ。正吉さんは見世の客でそれ以上のことはありませんってね」
「それで? それで番頭はおとなしく引っ込んだのかえ」
「ううん」
おこなは力なく首を振った。
「あんたがどんな女なのか、とっくに調べはついている、若旦那から銭を引っ張ろうとしたら奉行所に訴えると言われちまった」
「何を馬鹿なことを言っているんだろうね。安心おし、わっちが増蔵さんにそれとなく言っておくから」
お文は顎《あご》をきゅっと引いておこなに言った。
「いいの……どうせ正吉さんの家の人は誰もわかっちゃくれない。あたいがうちの人の後妻になって、それから遠州《えんしゆう》屋とごたごたがあって、おまけにうちの人は死んじまった。今は水茶屋の茶酌女をしている。どう言い繕っても向こうは、あたいを|あばずれ《ヽヽヽヽ》と思うだけさ。やっぱり堅い所の奉公をしていなきゃ、人は信用しないものだね、姉さん」
そう言ったおこなは寂しそうだった。
「堪忍しておくれな。今のわっちにはお前の面倒を見られる甲斐性はないんだよ」
「もう、お座敷には出ない?」
おこなは上目遣いでお文に訊く。
「ああ」
「そうだよね、ようやく兄さんと一緒になれたんだもの……姉さん、あたいのことは気にしないで」
おこなはわざと元気のいい声で言った。相変わらず派手な着物を着て、化粧も濃い。
しかし、少し痩せたようにも感じられるのは、水茶屋奉公がそれほど楽ではないからだろう。
親戚の者もあまり長くいると、いい顔はしない。何んとかしてやりたいとは思うが、その時のお文には何んとも手立てがなかった。
「嫌や、もっと見る。まだ帰らない!」
意気消沈したお文の耳に甲高い子供の声が聞こえて来た。父親に手を引かれた娘が駄々をこねている光景が道行く人の隙間から見えた。軒行灯《のきあんどん》に照らされて往来は昼間のような明るさである。
「遅くなっては混雑でろくに歩けなくなる。いい子だから了簡《りようけん》しなさい」
「嫌や!」
何気なくその親子を見て、お文は先日、おつるの所で見た武士と娘だと気がついた。
娘は金魚の柄の浴衣を着ていたが、父親に抗《あらが》ったために前がすっかりはだけていた。
お文は立ち上がって往来へ進み「もし、もし、お武家様」と、声を掛けた。最初は誰かわからないような顔をしていた男が、ようやく「ああ、あの時の……」と合点のいった声を出した。男は羽織こそなかったが、単衣に袴をつけた外出の恰好であった。浅黒い顔に汗をびっしり浮かべている。
お文は早苗と呼ばれていた娘の前にしゃがんで「お嬢さん、どうなさったんですか」と訊いた。
「もっと花火を見る……」
娘は俯《うつむ》いて低く応えた。駄々をこねていたのをお文に見られたことで、幾分、恥ずかしそうな顔になっている。男は手拭いで額の汗を拭った。娘にすっかり往生している様子だった。
「もう少し見せて差し上げたらどうです? ほら、そこの水茶屋に、わっちの知り合いがいるんですよ。あそこからでも花火は見えますから」
お文は娘に助け船を出すつもりで男に言った。
「そうですな。すっかり足がくたびれていたところです。それじゃ……」
男は素直に応え、お文に促されて床几に座った。
「ありがと、姉さん。お客さんを連れて来てくれて」
おこなはすばやくお文の耳に囁いた。
「ほら、お嬢さん、見えるでしょう? 少し見たら、いい子で帰りましょうね?」
お文は娘の隣りに座って、あやすように言い、着付けを直してやった。
「拙者、もうすぐ上司の伴《とも》をして地方に参ります。しばらく江戸を留守に致しますので娘の機嫌を取るために花火見物に連れ出しましたが、あまり遅くなっては帰る客で道が混雑致します。それでひと足早くと思ったのですが、娘が承知しませんで……」
男は運ばれて来た麦湯をひと口啜ると言い訳するように言った。
「まだ、ほんの始まったばかりですもの、今からお戻りではお嬢さんでなくても承知しませんよ。ねえ、お嬢さん?」
お文は娘に愛想するように言った。娘はふっと白い歯を見せて笑った。
「お父様がお留守では、さぞかしお寂しいでしょうね。ほら、茅場町の番太の店の小母さんが、また来るといいのにと言っておりましたよ。お嬢さん、お父様がお戻りになったら、また茅場町においでなさいましな」
「はい、きっとまた参ります。のう、早苗」
男は娘が応える代わりに言った。
「さんだらぼっち」
娘は無邪気に呟いた。
「そうそう、さんだらぼっちのお店ですよ」
お文が応えると、娘は父親を見て「行く、また行く」と、力んだ声を上げた。
「だから早苗はいい子でお留守番するのだよ」
男は噛んで含めるように娘に言い聞かせた。
「父《とと》、早く帰って来てね?」
「ああ、お務めが済んだら、なるべく早く帰るよ」
「父、きっとだよ」
娘はその時だけ思い詰めた顔になった。父親が大きく肯《うなず》いた時、打ち上げ花火が夜空に弾けた。
小半刻、花火見物をした親子は仲よく手を繋いで家に戻って行った。
男は存外に太っ腹で、その時のお文の茶代を払い、別におこなに祝儀も弾んでくれた。おこなは、お文が相変わらず上客ばかりを知っていると調子のいいことを言っていた。
娘は別れ際に「また、さんだらぼっちでね」とお文に言った。
お文もおつるの口調を真似て「あい、さんだらぼっち」と応えていた。
それぎり、お文はその親子を茅場町で見掛けることはなかった。男は上司の伴で地方に行くということだったから、娘も茅場町に来る機会がなかったのだろう。
徳兵衛の朝顔が裏店の賑わいとなった頃、お文は北町奉行所の不破友之進《ふわとものしん》の組屋敷に向かっていた。
不破の妻のいなみに頼まれた物を届けるためだった。伊三次は毎朝、不破の髪を結うので、その時にいなみが、お文の手が空いているなら息子の龍之介の小さくなった着物をほどいて、洗い張りして貰えないかと言って来たのだ。着物のほどきはともかく、洗い張りには自信がなかった。隣家のお春に手伝って貰い、ようやく二枚分の着物を仕上げた。
お文が伊三次の女房となって初めてした、よそ様の仕事である。緊張したけれど快い達成感があった。
裏口から訪《おとな》いを入れると、女中の|おたつ《ヽヽヽ》が、すぐに奥へ取り次いでくれた。
「お文さん、お世話になりました」
いなみは丁寧に礼を述べた。お文は恐縮して「いいえ、初めてのことなので気に入っていただけるか心配なんでございますが」と低い声で言った。
いなみは弔《とむら》いに行く恰好で、お文の差し出した風呂敷包みを開けた。
「まあ、こんなにきれいに仕上げていただいて」と、感歎の声を上げた。お文は茅場町に来てから初めていなみに会った。伊三次から話を聞いていたので、それとなく人となりは心得ていたつもりだったが、実際に見たいなみはお文が想像していた以上の女性であった。
凜《りん》とした風情、それでいて不破の配下の者に対する気遣いもある。いなみ贔屓《びいき》の伊三次にお文は悋気を覚えたこともあった。しかし、お文はいなみと言葉を交わすようになって深く得心がいったものだ。いなみは武家の女性の長所をすべて兼ね備えていたからだ。
下卑《げび》た仕種や表情は決して見せない。昨日会っても、今日会っても、いなみは同じ笑顔をお文に見せる。所詮、自分といなみは品が違うのだと考えてしまう。不破がいなみにぞっこんとなったのも無理はない。
いなみは吉原の小見世にいたこともあるという。不破がそれを請《う》け出したそうだ。その時の二人のことを考えると、お文は胸が締めつけられるような気持ちになる。不破の決心、いなみの心情、他人には窺い知れないものがあったはずだ。しかし、昨年、いなみは父親の敵討ちをするべく事を起こした。伊三次達に止められて、すんでのことに大事には至らなかったが、お文はそれが今でも解せない。
いなみは不破の妻でいることより、父親の敵討ちをすることを重く考えたのだ。今、目の前で艶然と微笑んでいるいなみからは微塵も想像できないことだった。このいなみでさえ、時には胸の火を熱くたぎらせる瞬間があるのだ。まことに人は、いや女は不思議な生き物だと、お文はつくづく思う。
「またお願いしてよろしいかしら。わたくし、この頃、あまり身体の調子がよくありませんの。ほどき物で長いこと俯いていますと、目まいに襲われることがありまして……」
「ええ、どうぞご遠慮なく。わっちは家にいるばかりで退屈しておりますから」
「ありがとう、お文さん」
いなみはそう言って紙に包んだものをお文に差し出した。手間賃だと感じると、お文は咄嗟《とつさ》にかぶりを振った。
「うちの人は旦那にお世話になっております。奥様、そんなお気遣いはなさらないで下っし」
「いいえ。人にものを頼むのに只という訳には参りません。次のことが頼めなくなります。どうぞ、お収めになって」
いなみは紙包みをお文の膝の前に置くと、さっさと風呂敷包みを片付けに奥の間に入ってしまった。
女中のおたつが茶を運んで来たので、そのままにして置くこともできず、お文は帯の間に収めた。
戻って来たいなみは、お文の前に座り、口を開いた。
「いかがですか、茅場町の暮しは」
「あい、何んとかやっております」
「ご安心なすったでしょうね。伊三次さんとあなたは、おつき合いが長いそうですから」
「………」
お文は何んと応えていいかわからなかった。面と向かうと何やら居心地の悪さも感じる。
「お弔いでございますか」
お文はいなみの恰好から間《ま》を取り繕うように訊いた。
「ええ、そうなのです。お役所に務めている方のご兄弟に不幸がございましてね、これからお香典を届けに行こうと思っておりました」
「お忙しいところお邪魔して申し訳ござんせん」
「いえ、それがちっとも忙しくないんですのよ。野辺送りは深川の浄心寺《じようしんじ》で行われますが、わたくしは長道中が無理なので、こちらのお宅に伺って、お香典を届けていただくことにしましたの」
顔色は少し悪いようだったが、いなみの口調は存外にしっかりしている。帯の下から出ている|はしょり《ヽヽヽヽ》に少し皺が寄っているのに目敏《めざと》くお文は気づいた。いつものいなみらしくない。襟元も少し崩れている。
「あのう……」
「はい?」
いなみはお文と話をすることが楽しくて仕方がないという顔をしていた。茅場町に来て間もなく、不破はこっそりお文に囁いたものだ。いなみにはあまり友達がいないので、時々、話し相手になってくれないかと。旦那、いつもと様子が違うじゃござんせんか。それほど奥様がご心配ですかと、お文は笑い飛ばしてやったが。
「奥様、差し出たことですが、ちょいと着付けを直させていただけませんか」
そう言うと、いなみは「あらっ」という顔になった。
「お歩きになっている途中で着崩れてしまうかも知れませんので……」
むっとするかと思ったが、いなみは拳を口に当てて|ぷっ《ヽヽ》と噴いた。
「さきほど、おたつにも言われたばかりですの。奥様、それじゃ、ぐずぐずだと……それではせっかくですからお願いしようかしら。辰巳芸者さんのお着付けじゃ、さぞかし粋になりましょうね」
「奥様、ご冗談を」
お文は笑いながら応えた。いなみは立ち上がると帯締めを外し、するすると帯を解いた。
隅切《すみき》り角《かく》に横一《よこいち》の不破家の紋が入った夏の喪服である。長襦袢だけになったいなみの下腹が僅かに膨れていると思った。
「奥様、もしかしておめでたでございますか」
そう訊くと「わかります?」と、いなみは幾分、顔を赤くした。
「おめでとう存じます」
「龍之介を産んでから、しばらく経ちますのでいまさら恥ずかしいのですが……」
「そんなことはありませんよ。奥様はまだまだお若い。旦那もさぞお喜びでしょうね?」
「ええ、ええ。まるで天地が引っ繰り返ったような騒ぎですよ」
不破がお文に話し相手を頼んだのは妊娠で気鬱になるいなみを心配してのことだったのだろう。それならそうと最初から言ってくれたら「あい」と、素直に応えたものを。
口下手な不破だが、いなみに対する優しさは感じることができた。
「となると、松の湯のおみつの所と同い年のお子さんになるのですね」
お文は腰紐を弛めに締めてやりながら訊く。
「そうなんですよ。来年はあっちでも、こっちでも赤ん坊の泣き声がして賑やかになることでしょうね」
「わっちも楽しみにしておりますよ」
「でも……お弔いに行くのに、あまりはしゃいでもいられませんのよ。これから伺うお宅では嫂《あによめ》に当たる方と、姪御《めいご》さんが亡くなったのですから」
いなみは途端に笑顔を消して言った。
「いっぺんにお二人もですか」
「ええ。お屋敷が押し込みに襲われたそうなのです。それで……」
「お気の毒に」
「子供のお弔いが一番嫌や」
いなみは深いため息をついてそう言った。
お文はいなみの着付けができ上がると茅場町に帰った。いなみは大層、喜んでいた。しかし、いなみの言ったように本当に押し込み事件が起きて二人も死人《しびと》が出たのなら、江戸で騒ぎになるはずなのにと、不審な気持ちがした。伊三次は事件が持ち上がると張り込みで家を空けることが多い。
その時、お文に心配を掛けまいと、これこれこういう事件で出かけると、支障のない程度にお文に話してくれる。八丁堀の役人の親戚の家に押し込みがあったなど、これっぽっちも言ってはいなかった。お文は、いなみの話していた事件のことが妙に気になっていた。
晩飯の時に、ためしに事件のことを訊ねると「知らねェ」と伊三次は応えた。
「知らねェということがあるものか。不破の奥様は確かに押し込みがあって女房と娘が死んだと言っていたよ」
お文は不服そうに口を返した。
「あのな」
伊三次は浅蜊の剥《む》き身《み》が入った|おから《ヽヽヽ》を摘んでいた手を止め、お文の顔を見た。
「奉行所は町人が悪さをするのを取り締まる所だ。お武家の家のことは縄張違げェよ。おれ達が知らねェこともあらァな」
「押し込みを働いた盗賊を奉行所が黙って見ているのか? たとえ相手がお武家の家でもさ」
お文の言葉にそれもそうだと思ったのか伊三次は小首を傾《かし》げた。
「不破の旦那は何もおっしゃっていなかったぜ。奥様はちょいと聞き違げェなさったんじゃねェのか?」
「………」
「それとも、これから旦那に御用を頼まれるのかな」
「奥様はおめでたで、はしゃいでいたから、お前さんの言うように聞き違いなさったのかも知れないよ。それに旦那も舞い上がっているようだからお務めに身が入っていないのさ」
お文は皮肉な口調で言った。伊三次は不破から、いなみのことを打ち明けられたという。
「でもよう、龍之介坊ちゃんに兄弟ができるんでよかったよう。何しろ、一人っ子じゃ寂しいからな」
伊三次は自分のことのようにいなみの妊娠を喜んでいる。他人のことより手前ェはどうなのだ、そう言いたい言葉をお文は呑み込んだ。子のできる兆《きざ》しのないお文は心の中に空《から》っ風が吹いているような気持ちだった。
七月は抹香臭い月である。十二日頃から草市が立ち、灯籠《とうろう》、提灯《ちようちん》、素麺《そうめん》、茄子《なす》、瓜《うり》、蓮《はす》の葉《は》など、盂蘭盆会《うらぼんえ》に使う品々が並ぶ。それを買い求める客の賑わいは大晦日の年の市にも匹敵するものである。
十三日には家の前に精霊棚《しようりようだな》を設《しつら》え、人々は供え物をして祀《まつ》り、迎え火を焚《た》いて先祖の霊を迎える。十五日から十六日には送り火である。
火を扱うので茅場町の木戸番の民蔵は火の用心と声を高くして家々を触れ廻っていた。
先祖の眠る墓も草花や風景を描いた美麗な盆提灯が飾られる。
お文はおこなを誘って、久しぶりに深川に向かった。おこなの両親の墓にも行こうと気を遣ったところ、前日に正吉と一緒にお参りを済ませたと応えた。全く、正吉の両親にわざと誤解されるようなことをする女だと、お文は呆れて言葉もなかった。
浄心寺には育ててくれた養母と、世話になった伊勢屋|伝兵衛《でんべえ》の墓がある。お文は毎年、この二人の墓参りは欠かさない。
深川は風もなく、じっとりとした暑さがお文の胸のあわいに汗を滴らせた。
浄心寺の境内は蝉しぐれがかまびすしかった。くすんだ墓石には供える花が何よりの彩《いろど》りである。養母の墓は知り合いがお参りした様子もあったが、伝兵衛の方にはまだ誰も訪れていなかった。
息子の忠兵衛《ちゆうべえ》は深川の冬木町で材木の仲買をしていた男だが、この春にお上から身上《しんしよう》半減の沙汰を受けたために店を畳み、今は向島に暮しているという。噂を恐れて深川に近づかないつもりなのだろうか。父親はともかく、女房を亡くして初めてのお盆なのに、とお文は詮のないことを考えながら伝兵衛の墓参りを済ませた。
「墓参りをすると、何んとなく胸がすっとするよね?」
水桶を返しに納所《なつしよ》に向かいながら、おこなはお文にそう言った。
「気のせいさ。お前ェ、後生の悪いことばかりしているから、なおさらそう思うんだろう」
「ひどい」
おこなは大袈裟な声を上げた。
「だいたい、墓参りに行くのに、その派手な恰好は何んだえ? うちのおっ母さんが墓の下で、さぞかし目を丸くしたことだろうよ」
実際、おこなは濃い桃色の地の着物に山吹の色も派手派手しい帯を結んでいた。ちらりと着物の裾から見えた緋色の蹴出《けだ》しも暑苦しい。
「町家のおかみさんになった途端に口うるさくなったもんだ。姉さんこそ、年の割に地味造りだよ。その透綾《すきや》の着物は上品だけど、五十の大年増だって着ているよ」
「余計なお世話だ」
「それならあたいも余計なお世話。おあいこだね?」
おこなは鼻の頭に皺《しわ》を拵えて|にッ《ヽヽ》と笑った。
納所から裏口へ出る道を進んでいた時、一つの墓の前にしゃがみ、激しく咽《むせ》んでいる男の背中が眼に入った。墓の横に真新しい卒塔婆《そとうば》が立ててある。墓には菓子が山と積まれ、彩りのきれいな紙風船や風車も供えられていた。
「子供の墓参りに来たようだね」
おこなはお文に囁くように言った。こくりと肯いたお文だったが、瞬間、戦慄が走った。
視界をかすめた男の横顔に見覚えがあると思った。それを確認するのが怖かった。五、六歩進んでから、お文はやはり振り返った。
お文の様子に勘のよいおこなは「姉さん、あのお侍、花火の時にうちの見世に来た人じゃない?」と、すばやく言った。
その通り、男は早苗の父親だった。悲しみ方が尋常ではない。仏はまさか早苗ではあるまいか。
まさか、まさかという気持ちでお文は男の傍にそっと近づいていた。
「お武家様……」
お文の声に男は振り向いた。驚きで大きく眼を見開いている。
男は乱れた気持ちを落ち着かせるように咳払いをしてから低い声を洩らした。
「こんな所でお会いするとは思ってもおりませんでした。その節は娘が大層お世話になりました。お礼申し上げます」
男はお文に丁寧に頭を下げた。
「とんでもない。わっちは何もお世話などしておりませんよ」
「おかみさんとは何かとご縁があったようです。どうぞ早苗の供養のためにお参りをしてやって下さい」
「では、仏様は……」
「はい、娘の早苗です」
男はそう言って持っていた手拭いを口許に押し当て、また咽び泣いた。お文は墓の前に出ると膝を突いて線香に火を点け、掌を合わせた。閉じた眼の裏に早苗の笑う顔が甦《よみがえ》る。
おこなもお文の横で一緒になって掌を合わせた。
「どうしてこんなことに……」
お文は眼を赤くしている男に低い声で訊いた。訊きながらお文も喉に塊《かたまり》ができたように苦しくなった。無理に唾を呑み下すと涙が湧いた。
「もうもう、拙者は自分の呑気さに心底、腹が立って仕方がありませぬ。いっそ、早苗の後を追ってあの世に行きたい気持ちでござる」
「馬鹿なことはおっしゃらないで下っし。お武家様はお嬢さんの分までしっかり生きていなければ……」
「はい、はい。ありがたいお言葉、拙者、肝に銘じまする」
男は子供のように大きく首を振りながら応えた。
「お嬢さんは悪い病《やまい》にでも?」
恐る恐る訊ねるお文に、男はそれを待っていたとばかり「身内の恥を晒《さら》すのは、まことに男として面目が立ちませぬが、誰かに話さねば拙者の胸は、はちきれんばかりでござる」と、憤《いきどお》る声で言った。
「わっちでよければ仔細を話して下っし。いいえ、是非にも話していただかなければ、わっちは夜もろくに眠られませんよ」
「拙者はおかみさんにお話しした通り、花火の日から間もなく地方に参りました。拙者は……申し遅れましたが幕府の作事奉行、高津《たかつ》重衛門《じゆうえもん》様の配下で篠原栄之進《しのはらえいのしん》と申します」
「わっちはお文でござんす。こちらはおこなでござんす」
おこなはお文に言われてぺこりと頭を下げた。重苦しい男の様子に、おこなはいつもの冗談口も叩かない。じっと男の言うことに耳を傾けていた。
「地方での滞在はひと月ほどになりました。ようやくお役目を果たし、江戸に戻りますと、早苗は待ちかねたとばかり、拙者の胸に飛び込んで参りました」
男は遠くを見るような眼で語り始めた。もはや昼に掛かった浄心寺は墓の前から立ち昇る線香の煙で咽るほど息苦しい。炎天の陽射《ひざ》しが容赦なく三人の上に降り注ぐ。墓の前に供えた風車は時折、頼りなげにくるくると回った。
篠原栄之進が任務を終えて江戸に戻って来た時、暑さと旅の疲れのために、ものを言う気力もなかった。栄之進は自分の屋敷に着くなり、すぐに横になった。そんな栄之進に早苗はまつわりついて離れなかった。久しぶりに会う父親に構って貰いたいのはわかるが、何しろ身体が言うことを利かない。帰った早々、叱りつけて泣かせる羽目にもなった。
栄之進は昼過ぎから夜まで泥のように眠りこけた。
ようやく起きて遅い晩飯を摂《と》っていた時、早苗が寝床から抜け出して傍にやって来た。
栄之進は早苗を叱ったことに後ろめたさを感じて、明日は茅場町の番太の店に連れて行くから、今夜はおとなしく寝るようにと娘を諭した。
ところが再び床に入った栄之進の許に早苗がやって来て、今夜はどうでも一緒にいると言って譲らなかった。いつもは次の間で母親と一緒に眠る早苗である。どうしてそのように駄々をこねるのかと訊くと、「母《かか》が父《とと》を殺しに来る」と、驚くようなことを喋った。
拵え話にしては穏やかではない。栄之進は早苗を押し入れの中で寝かせ、自分は刀を手許に置いた。
果たして夜中、誰かが寝所に入って来て、屏風の陰に身体を潜めた気配がした。夏のことで襖《ふすま》は開け放し、蚊帳《かや》を吊っていた。屏風はその蚊帳の外に掛け回していたのだ。
栄之進はそっと刀の鞘《さや》を払って身構えた。寝込みを襲うとすれば、蚊帳の吊手《つりて》を切り、身動きができない状態にして斬りつけて来るだろうと思った。案の定、屏風の陰に潜んでいた者は吊手の一つを刀で払った。栄之進はそれより先に蚊帳から出ると、すばやく賊の背中に一刀を浴びせた。獣じみた声が屋敷内にこだました。
家中の者が騒ぎに気づいて駆けつけて来たのは、それから間もなくである。
灯りを点けて賊の顔を見れば、栄之進の家に奉公している若党の一人であった。若党は押し込みのように見せ掛けて栄之進を襲ったのだ。疲れている栄之進の隙を狙ったと思われる。
どうして若党が自分を襲ったのか、栄之進は理由がわからなかった。しかし、長く家に奉公している下男が「奥様とこいつは通じていたんでごぜェます」と、叫んだ。
栄之進の妻は廊下の隅で様子を窺っていたが、下男の言葉に血の気を失い、ぶるぶると震え出した。
「奥様が旦那様の留守に奉公人とただならぬことになっていたのですね」
お文の声にやり切れないものが混じる。
「お侍さん、気がつかなかったの?」
おこなが呆れたように訊いた。栄之進は力なく肯いた。
「妻はもはや言い訳無用と観念したようでした。しかし、押し入れから娘を出しますと、妻は娘に向き直り、お前が喋ったのだろうと怒りをぶつけ、いきなり持っていた懐剣で娘の胸を……」
「え?」
訊き返すお文に栄之進はぐっと詰まって押し黙った。
「まさか実の母親が娘を突き通したとおっしゃるんじゃござんせんよね……旦那!」
お文は激しい衝撃で身体を震わせながら栄之進の言葉を急《せ》かした。おこなが悲鳴を上げた。
「妻がそのように出るとは思ってもおりませんでした。咄嗟に妻を斬り捨てました。屋敷は今も血の匂いが消えませぬ……」
話し終えた栄之進は首を落として俯いた。
それから三人の間に長い沈黙が続いた。お文はもう一度墓に掌を合わせた。
「お嬢さんはお父様を庇《かば》うために命を張ったんでございますよ。さすが、お武家のお嬢さんだ。見上げたものだ。お嬢さん、お偉かったですねえ……」
そう言ったお文の声がくぐもった。
「実の母親なのに……男ができりゃ、子供なんてどうでもいいという理屈なのかい? ふざけんじゃないよ!」
おこなは、いない相手に対して怒りを露《あらわ》にした。
「昨日、茅場町の番太の店に行って参りました。あそこのおかみさんにも事情を話しましたところ、これこのように抱え切れない菓子とおもちゃを下さいました」
栄之進は涙を浮かべた顔に無理に笑顔を拵えて言った。
「おつるさんも、さぞ辛かったでしょうよ」
お文は独り言のように言う。
「しかし、お文さんとおこなさんにお会いしまして、よい供養ができました。本当にありがとう存じまする」
栄之進は立ち上がり、また深々と頭を下げた。
「大丈夫ですか」
お文の言葉に栄之進は静かに肯いた。
浅黒い顔はひと回り小さくなったようだ。
無精髭も目立つ。
「早く次の奥様を迎え、新しいお子様を」
「はい……しかし、早苗のことは一生忘れられないと思いまする」
「………」
「拙者は親でありますれば……」
栄之進の言葉がお文の胸に、いつまでも残っていた。
お文は早苗のことを伊三次には話さなかった。話す気にもなれなかったというのが正直な気持ちであったろう。
いなみが弔いの香典を届けた家は、恐らく栄之進の妹の家であったのだろう。妊娠中のいなみは深川の浄心寺まで出かけられないと言っていたし、嫂と姪に当たる者が死んだとも言っていたからだ。栄之進は押し込み事件が起きて妻と娘が殺されたことにして公儀に届けたようだ。とても事実通りに告げられるものではない。あるいは公儀の方針でそういうことになったのかも知れない。いずれにしても後のことは公儀の采配に任せられる。町方役人の出る幕がなかったのも道理である。
早苗は前世でどんな悪業を働いたというのか。お文は実の母親の手に掛かって命を落とす羽目になった幼い少女の宿命がどうしても納得できなかった。
伊三次はまだ帰って来ない。裏の仕事で忙しいのか、それとも不破に引っ張られて居酒屋にでもいるのだろうか。伊三次は酒が飲めないくせに、酔っぱらいの相手は苦にならない男である。酒の肴《さかな》を摘みながら、ほうじ茶なんぞを口にして一緒に|おだ《ヽヽ》を上げるのだ。
お文は行灯《あんどん》を引き寄せ、いなみに頼まれたほどき物をしていた。龍之介の幼い頃の浴衣である。そろそろ、いなみは襁褓《むつき》の用意もしなければならない。ほどき物はそのためでもあった。
縫い目の間に握り鋏《ばさみ》で切れ目を入れ、つっと糸を引く。着物の身ごろから離れた糸はおもしろいほど簡単に抜ける。抜いた糸は丸めて毬《まり》の形にする。ちょっとした縫い物をするために古い糸さえ無駄にはしない。裏店に暮す女房達の知恵である。糸の毬は黒、白、紺の段だら模様で半寸ほどの大きさになっていた。これが女の子の着物となれば、糸の毬は紅の色も加わるはずである。そう思うと、お文の脳裏にまたしても早苗の顔が浮かぶ。
「さんだらぼっち」と応えた声も憶えている。
あれから、お文はおつるの所に足を向けていなかった。おつるに会えば、自然に早苗の話になる。それが辛いと思った。
さんだらぼっちも、お文には聞きたくない言葉になった。考えて見たら、ただの藁の蓋に過ぎないのだが、なまじ命を繋ぐ大事な米の俵にのせられていたため、人は粗略に扱うことができないのだ。神饌《しんせん》の台盤として疱瘡除けに使ったり、流し雛《びな》をのせて川に流したりする。また胞衣《えな》をのせて土の中に埋めるなどもする。
けれどお文は、さんだらぼっちと誰かが言う度、未来永劫に早苗を思い浮かべることだろうと思った。出会わなければよかった、早苗にも栄之進にも。
四つ(午後十時頃)過ぎても伊三次は戻らなかった。お文はほどき物を仕舞いにすると、覆いを被《かぶ》せた箱膳を台所に持って行き、蒲団を敷き、蚊帳を吊った。
蚊帳──栄之進の妻と通じていた若党は蚊帳の吊手を切って襲おうとしたのだ。お文は部屋の隅に掛けた吊手をじっと見た。
茅場町の塒《ねぐら》の蚊帳は伊三次がお文のために新調したものだった。それを考えるより、栄之進の家で起きた修羅場の小道具となった蚊帳の方に頭がいく。それだけ栄之進の家の事件はお文にとっても衝撃となっていたのだ。
帰って来ない伊三次が気掛かりだったことと、早苗のことでお文はやはりその夜も眠られなかった。
残暑は厳しい。蚊帳がわざと風の通りを妨《さまた》げているような気もした。お文は何度も寝返りを打った。
ぎゃっと激しい悲鳴が聞こえたと思った途端、お千代の泣き声が始まった。お千代が泣き出すと、いつもお文の胸の動悸は高くなった。いい加減、慣れていいはずなのに、相変わらずお文は平静ではいられなかった。
「お黙り! お黙りと言っているのがわからないのかえ」
お須賀の甲走った声が覆《おお》い被《かぶ》さる。
「毎晩、毎晩、お前はどういうつもりだ。この母が憎くてわざと仇《あだ》をするのかえ? ええ、腹の立つ。そんなに泣きたければ外で存分に泣いたらいい。ひと晩中、泣いていろ。いや、一生泣き続けるがいいさ。それとも夜泣き封じの灸をすえてやろうか。いい考えだ。大きな|もぐさ《ヽヽヽ》でたっぷり灸をすえてやるさ。もっとお泣き、それそれ、もっと」
お千代の泣き声がさらに大きく聞こえたのは、お須賀がお千代を外に連れ出したからだ。
嫌やだ、嫌やだ、とお千代は激しく抵抗する。
「さあ、柱に縛りつけてやった。お前は身動き一つできゃしない。存分に灸をすえてやるから覚悟しな」
お須賀の声はぞっとするほど恐ろしい。その声が早苗の母親と重なった気がした。お文は床の上に起き上がった。髪の毛が逆立つような怒りを覚えていた。
お文は下駄を突っ掛けて外に出た。裏店の路地は井戸の辺りから少し広くなっている。
厠《かわや》やごみ溜《た》めも傍にあり、澱《よど》んだ腐臭が漂っている。裏店の生活の匂いには慣れたけれど、お千代の泣き声には慣れなかった。お須賀がお千代を叱り、脅す声にも。
お千代は物干し台の柱に縛りつけられて狂ったように泣き叫んでいた。お須賀の家の戸口が開けっ放しになっていたのは、お須賀がお千代を縛ってから灸をすえるために戻ったからだろう。
「お千代ちゃん、いい子だから泣いちゃいけないよ。おばさんがおっ母さんを取りなして上げるからね。あんたが泣くとおばさんまで悲しくなるんだよ。ね?」
お文はしゃがんでお千代の涙を拭くと、縄をほどこうとした。
「お文さん、構わないで下さいな」
お文の背中で息を荒くしたお須賀の声が聞こえた。
「お須賀さん、後生だ。お千代ちゃんが可哀想だから、もう堪忍してやって」
お文は哀願するような声で言った。
「お文さんが幾ら優しくしても、この子の夜泣きは治らないんですよ。いいから、家の中に戻って下さいな」
お須賀の手には火の点いた線香ともぐさらしいものが握られている。線香は一本どころか一束だ。闇の中で火の点いた線香が赤く光っている。
「お須賀さん、それじゃお千代ちゃんが火傷《やけど》しちまう」
「いいんですよ。火傷しようがどうなろうが、あんたの知ったことじゃありませんよ。うるさいねえ、いちいち……」
お須賀は舌打ちして吐き捨てる。その言葉で、お文の胸の中で何かが弾《はじ》けた。
「お千代ちゃんの泣き声より、お前ェの怒鳴り声がやかましいんだよ」
お文は低くしゃがれた声でお須賀に凄《すご》んだ。
「何んだと?」
睨むお須賀の眼は座っていた。ふわりと酒臭かったので、お須賀は少し酔っていたのかも知れない。
「近所迷惑だ。いい加減におし」
お文は怯《ひる》まず続けた。
「何様のつもりだ、他人の子供にお節介を焼いて。|それしゃ《ヽヽヽヽ》(玄人)上がりが善人ぶるんじゃないよ」
「お須賀さん、わっちに喧嘩を売る気かえ」
「売ったらどうした」
「わっちは喧嘩となったら死んでも負けたくない口だ。それでもいいのかえ」
「ふん、ご大層な。手前ェに何ができる。辰巳の枕芸者が髪結いを亭主に掴んで殊勝に女房面していると思ったが、とんだ所で正体を晒《さら》したもんだ。手前ェの一言一句、余さず触れ廻ってやるわ」
「その悪態口じゃ、さぞかし前の亭主も恐れをなして逃げ出したくなっただろうよ」
頭に血の昇ったお文は自分が何を言っているのか定かにわからなくなっていた。
「お文さん、やめて」
騒ぎを聞きつけて出て来たお春がお文の寝間着の袖を引いた。
「放っといて下っし」
お文は邪険にお春の手を払った。
「お須賀さんの旦那さんは病で亡くなったんだよ」
お春はお文の言い過ぎをさり気なく窘《たしな》めた。
悪いことを言ってしまったと思ったが後の祭りである。引っ込みはつかない。
「ものの言い様を知らぬ女だ。こちとら、女手一つで子を育てているというのに、横から要らぬ差し出口ばかりをする。ちょいとお面がいいからって、のぼせるんじゃないよ!」
お須賀はそう言ってお文の頬をぴしりと張った。
「お須賀さん、あんたも何んてことするんだ」
お春は驚いた顔でお須賀に叫んだ。
お須賀はお春とお文を無視するかのように鼻先でふんと笑い、当て付けのようにお千代の腕を取り、袖をたくし上げた。二の腕にお千代の拳ほどのもぐさをのせて、お須賀は線香の火を近づけた。お千代は泣き過ぎて声も掠《かす》れていた。
「お須賀さん、それじゃあんまりだ」
お春もさすがにお千代が気の毒になってお須賀の手を止めた。お須賀は、どんとお春に体当たりを喰らわせた。お春は地面にばったりと転び、ぶつけた膝の痛みに呻いた。
「やめろと言っているのが聞こえないのかえ」
お文はお須賀の傍にゆっくりと近づきながら言う。お須賀の顔が、まるでお文には夜叉《やしや》のように感じられた。もぐさに線香の火が点けられる刹那、お文はお須賀の手からそれを奪い取った。
「何しやがる」
「お千代ちゃんがどんなに熱いか、お前ェにも知って貰おうじゃないか。お節介と言われたからには、とことんお節介を焼きたくなったのさ」
「どうする気だ?」
「こうするのよ」
お文はいきなりお須賀の頬に線香の束をぐいっと押しつけた。獣じみた悲鳴が上がり、お須賀は覚つかない足取りでよろよろと後ずさりした。お文はお須賀の頬に線香の束を押しつける力を弛《ゆる》めなかった。徳兵衛の家の戸口までお須賀は追い詰められ、助けを求める手が朝顔の蔓を掴んだ。明朝も咲くはずの花が無残にお須賀の周りに散りこぼれた。
「ああ、朝顔が……」
油障子を開けた徳兵衛が悲鳴に似た声を洩らした。
荒々しくお文の手から線香がもぎ取られ、お須賀にぶたれた反対側の頬が鳴った。伊三次だった。
「お騒がせして申し訳ありやせん。うちの奴がご迷惑をお掛け致しやした」
いつの間にかお文を取り囲んでいた裏店の住人達に伊三次は平身低頭して謝る。その光景をお文は呆然と眺めていた。住人達の視線は、誰もがお文を咎《とが》めているように感じられる。
「火傷だ、お須賀さんに馬の油を」
「いや、その前に水で冷やすんだ」
女房達が口々に叫んでいた。お千代は泣き止まない。お須賀は「畜生、畜生」と泣きながら吠えていた。
(女房達にあやされて、お須賀は、それでもいい気分だろう、わっちが悪者になってやったのだから)
お文は突っ立ったまま胸の中で呟いていた。
お須賀の頬の手当やら、朝顔の始末やら、お千代の泣き声やら、それを宥める声やら、茅場町の裏店は夜中にも拘《かかわ》らず賑やかであった。その喧噪の中でお文だけが、ただ独りでいた。お文に声を掛ける者は誰もいない。伊三次はお須賀の手当に掛かり切りで、お文のことは眼中になかった。ここは自分の居場所でなかったと、お文は改めて気づいたのだった。
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ほがらほがらと照る陽射し
日中は汗ばむことも多いが、朝夕はずい分、しのぎ易くなったと伊三次は思う。澄み切った空に赤とんぼが飛んでいる。
江戸はようやく秋の季節を迎えようとしていた。
廻《まわ》り髪結いの伊三次の一日は、八丁堀の組屋敷を訪れ、北町奉行所|定廻《じようまわ》り同心を務める不破友之進《ふわとものしん》の髭《ひげ》を当たり、頭を結うことから始まる。同心の「八丁堀|銀杏《いちよう》」と呼ばれる髪型は髷《まげ》の刷毛先《はけさき》をちょいと拡《ひろ》げ、反《そ》らしたところに特徴がある。
不破は伊三次に髪を結わせながら、それとなく、お務め向きの話をする。奉行所は北と南がひと月置きの交替で江戸市中の事件に当たっていた。しかし、非番の月といえども役人達の仕事が休みになる訳ではなく、単に新しい訴状を奉行所が受け付けないというだけの話で、月番の内に受け付けた事件は引き続き捜査しなければならない。早い話、町方《まちかた》役人の仕事は年中無休であった。
奉行所に訴えられる事件は実に様々で、本来は南北両奉行所の役人だけで捌《さば》き切れるものではない。特に歳末などは訴状が山となし、町奉行はいちいち目を通すこともできず、お白洲で訴え人の話を聞きながら訴状を読み、不審な点を問い質《ただ》して判決を下すということもあった。誤審を避けるために月番と非番の制度を取り入れたのが今日の奉行所のありようだった。
伊三次は不破の小者《こもの》(手先)を引き受けている。市中を歩く傍《かたわ》ら、不審な人物、あるいは不審な商売をしていると思われる店が噂に上ると、近所から聞き込みをして、その情報を不破に流すのである。
庭を見渡せる縁側で伊三次はいつものように不破の髪を梳櫛《すきぐし》で丁寧に梳いていた。
その日、伊三次は深川の増蔵に不破からの言付《ことづ》けを伝えに行くことになった。深川の佐賀町にある呉服屋の手代が掛け取りで集めた金を持ったまま行方知れずになっていた。不破は、その後の手代の足取りを増蔵に探らせていた。さっぱり連絡がないので不破は苛々《いらいら》していた。
「ところで、文吉《ぶんきち》は今、どこに身を寄せているのよ」
不破は務め向きの話を終えた後、伊三次に訊《き》いた。
「へい、日本橋の芸妓《げいこ》屋の方で世話になっておりやす」
伊三次は低い声で応えた。伊三次の女房のお文は裏店《うらだな》の住人と問題を起こし、家を飛び出していた。素直に謝ることのできないお文はそうするしかなかった。
お文は料理茶屋に勤めるお須賀という女に火傷《やけど》を負わせてしまったのだ。お須賀の頬には銅銭の形をした痕《あと》が今も残っている。
「だからな、おれァ、言ったはずだぜ。文吉に長屋住まいは無理なんじゃねェかと」
不破はそら見たことかと言わんばかりに続ける。傍《そば》で不破の着る物の用意をしていた|いなみ《ヽヽヽ》が、ちらりと不破を見た。
「お前《め》ェは貧乏慣れしているから、小汚《こぎた》ねェ長屋だろうが馬小屋だろうが頓着《とんちやく》しねェが、文吉は芸者を張っていた女だ。ちょいと無理をさせちまったような気がするぜ」
「あなた、およしなさいましな。伊三次さんが可哀想ですよ」
いなみは見兼ねて口を挟《はさ》んだ。
「いえ、奥様。旦那のおっしゃる通りでござんす。わたしが不甲斐《ふがい》ねェばかりに、こんな様《ざま》になっちまったんですよ」
伊三次は髷を形造り、元結《もつとい》の端を口にくわえながら応える。
「そうではありませんよ」
いなみは手にしていた不破の羽織を傍に置くと、|つっ《ヽヽ》と膝を進めた。
「先日、佐久間様の奥様にお会いしました時、奥様はお文さんのことをおっしゃっておりました」
「佐久間って、義理の兄貴の家に弔《とむら》いのあった、あの佐久間か?」
不破はいなみに振り向きそうになって訊いた。伊三次はその頭を|くっ《ヽヽ》と前に戻す。
「ええ。浅草のお屋敷で奥様のお兄様のお連れ合いと、お嬢様が亡くなったのですよ」
「その佐久間と文吉に何んの関係があると言うのよ」
「お兄様がお嬢様を連れて八丁堀にいらした時、お文さんと顔見知りになったそうなのです」
不破は、ほうという表情になった。伊三次もその話は初耳だった。
お文はそれから川開きの花火大会にも偶然、その親子と会い、ずい分娘の面倒を見てやったという。しかし、間もなく娘は死に、深川の浄心寺《じようしんじ》に墓参りに行った時、父親の口から、そのことを知らされたらしい。お文は娘の死がかなりこたえた様子だった。
「ですから、裏店の小さい娘さんがお母さんに叱られると、黙っていられず、自然に庇《かば》いたくなったのでしょう。きっと、その娘さんと亡くなったお嬢様がお文さんの中で重なっていたのだと思いますよ」
いなみはお文の胸中を察しているように語った。
死んだ娘のことがお文の中で深い傷になっていたとは、伊三次は気づかなかった。お文は詳しい事情を何一つ話さなかったからだ。「お須賀さんに謝れ」と言っても、お文は頑《かたく》なに首を振った。
(そいじゃ、ここにはいられねェぜ)
(わっちは出て行く)
(どこへ?)
(憚《はばか》りながらわっちは芸者だ、身を寄せる所にゃ事欠かない)
(勝手にしやがれ)
(ああ、そうするとも)
売り言葉に買い言葉の口喧嘩の果てにお文は出て行った。隣家のお春が追い掛けて、ずい分、引き留めてくれたが、お文は泣きながら行ってしまった。お春は、お文さんだけが悪いんじゃないよ、あたしができなかったことをお文さんがしただけだ、とため息混じりに言っていた。
お文は日本橋の「前田」という芸妓屋に身を寄せ、借り着の衣裳でお座敷に出ていると、下っ引きの弥八《やはち》が伊三次に知らせて来た。目と鼻の先の日本橋にいることが伊三次にとって僅かな救いであった。
「伊三次さん、まさか、これっきり、ということはないでしょうね」
いなみは心配顔で訊く。
「大丈夫ですよ、奥様。こんなことは前にもよくあったことですから、気にしねェでおくんなさい。もう少ししたら迎えに行きやす」
「必ずですよ、約束して下さいね」
いなみは念を押した。
「その前に、もっとましな家を捜すのが先だ」
不破はそれが肝腎とばかりに言った。伊三次は返事の代わりに元結の余分を握り鋏《ばさみ》で切り落とした。
「返事がねェぞ」
「へい、おっしゃる通りに致しやす」
「よし、それでこそ男だ。おれもよさそうな所がねェか心掛けておくぜ」
不破は手渡された鏡を眺めながら伊三次に笑った。
「ありがとうございやす……」
頭を下げた伊三次に「何んだ、何んだ、その不景気な面《つら》は」と、いつもの大声で不破は怒鳴った。
不破の組屋敷を出てから伊三次は永代橋を渡り深川に向かった。門前仲町の自身番に顔を出し、土地の岡っ引きの増蔵に不破の言付けを伝えた後、ふと思いついて入船町のお喜和《きわ》の所へ顔を出す気になった。
お喜和は伊三次の古くからの贔屓《ひいき》の客であった。元は江戸橋の廻船問屋のお内儀《かみ》だったが、亭主と離縁してからは娘と一緒に深川の入船町で小間物屋をやりながら、ひっそりと暮していた。滅多に外に出かけることもないので、伊三次が顔を見せると喜ぶ。その日の伊三次は無性にお喜和の顔が見たかった。
入船町のお喜和の店の前まで来た時、ひと足先に店に入って行った男がいた。その後ろ姿に見覚えがあると思った。
浅草界隈を根城にしている掏摸《すり》の直次郎である。伊三次は直次郎から時々、気になる情報を仕入れることもあった。蛇《じや》の道はへび。
直次郎は悪事を働く連中がたむろしている居所をそっと伊三次に教えてくれる。しかし、どうして直次郎が深川にいるのか、最初はそっちの方に疑問が湧いた。
もしや、女二人で商いをしているところに目をつけ、よからぬ事を企んでいるのではないかとも考えた。伊三次は直次郎の後から、そっと店の様子を窺《うかが》った。
直次郎はお喜和の娘のお佐和《さわ》に、しなだれ掛かるように話し掛けていた。もともと男のくせに女言葉を遣《つか》い、芝居の女形か蔭間《かげま》のような感じの男だった。恰好だけは商家の若旦那ふうをきどっている。
「ごめんよ」
伊三次が仏頂面《ぶつちようづら》で店に入って行くと、振り向いた直次郎は驚いて口許の笑みを消した。
「あら、兄さん」
「あら、兄さんじゃねェわ。手前ェ、ここで何してる」
「何してるって、ご挨拶ね。|あちし《ヽヽヽ》はこの店で時々、買物しているのよ」
「小間物屋なら浅草に山ほどあるだろうが。わざわざ深川まで来るたァ、解《げ》せねェ話だ。手前ェ、何考えてる。言え!」
今にも掴み掛かりそうな伊三次に恐れをなして、直次郎はそろそろと後退《あとずさ》りした。
「お内儀さん、ちょいと助けてよ。|かみいい《ヽヽヽヽ》の兄さんがおかんむりなのよう」
直次郎は甘えたような声で茶の間に呼び掛けた。どうやら、直次郎はお喜和も手なずけた様子である。伊三次はなおさら頭に血が昇った。
「何んだねえ、騒々しい。他のお客様の迷惑になるじゃないか」
お喜和は茶の間と店を仕切る紺の暖簾《のれん》をひょいと引き上げて顔を見せた。直次郎がくすりと笑った。
「またお内儀さん、大束《おおたば》なことを言っちゃって。迷惑を被《こうむ》るお客さんなんてどこにいるのよ」
「商いをしている者は、たとい、店にお客様がいらっしゃらなくても常にお客様の目を意識するものだ。直さん、そういう了簡《りようけん》じゃ、とても小間物屋の亭主はつとまらないよ」
お喜和は直次郎を諭すように言った。その物言いには、廻船問屋のお内儀をしていた片鱗が感じられる。
「小間物屋? 直次郎、手前ェ、いつ小間物屋になった」
話を聞いて、さらに伊三次は驚いた。
「違うのよ、兄さん。あちしがその内、小間物屋でもやろうかなと思っているだけの話よ」
直次郎は慌てて訂正する。
「お内儀さん、こいつに小間物屋なんざ、できる訳がござんせん。まともに話を聞くことはありやせんよ」
伊三次は真顔でお喜和に言った。あら、ひどい、直次郎はぷんと膨《ふく》れて見せた。
「伊三次さんもいらっしゃったことだし、一緒にお茶でも飲みましょうよ」
お佐和がその場を取りなすように言った。
「嬉しい。お佐和ちゃん、松屋にお菓子を買いに行こ? あちしが奢《おご》るわよ。兄さん、下戸《げこ》だからお菓子が好物なのよ」
直次郎は伊三次に愛想をするように言って、お佐和の手を取った。「お佐和ちゃんに馴れ馴れしく触るな」と、伊三次は直次郎の手を邪険に払った。痛《いた》ッ、痛《い》ッたァ! 直次郎は大袈裟な悲鳴を上げた。
「ささ、直次郎さん、行きましょう。今日の伊三次さんは妙におっかないわね」
お佐和もそんなことを言って直次郎と一緒に通りに出て行った。
「お入りよ」
お喜和は如才なく伊三次を茶の間に促した。
「お内儀さん、あいつはいつからこちらへ来ているんです?」
火鉢の傍に腰を下ろすと、伊三次はお喜和に訊いた。
「あの子と知り合いらしいね」
お喜和は茶道具を引き寄せながら言った。
「知り合いというほど深いつき合いはしておりやせんが……」
「それにしては親しい口を利《き》いていたじゃないか。それにあの子はあんたに一目《いちもく》置いているふうもある」
「………」
「だが、あんたの様子じゃ、あまり褒《ほ》められた商売はしていないようだね」
伊三次はお喜和の観察眼に畏《おそ》れ入る気持ちで首を竦《すく》めた。
「あの子はお佐和に惚れているのさ」
お喜和はあっさりと言った。伊三次は「え?」と声を上げた。
「ひと月ばかり前、少し激しい雨が降った夜だった。あの子は店の軒下で雨宿りしていたんだよ。店は閉めていたけれど、お佐和が店の前に人が立っていると言うものだから気になって見に行ったのさ。そしたら、あの子がずぶ濡れになって震えていたんだよ。可哀想だから中に入れてやった。最初は遠慮していたけれど、お佐和が着替えを貸してやったりして世話を焼いたものだから、すっかりなついてしまってねえ……」
お喜和は含み笑いをしながら直次郎との経緯《いきさつ》を語った。
「それから、ちょいちょい顔を見せに来るという訳ですかい」
伊三次は呆れたように訊いた。
「ちょいちょいどころか、日に一度は顔を出すよ。親に構って貰えなかった子かねえ、やけにあたしにも甘えるし……伊三さん、あの子はいったい何をしている子なんだい」
お喜和の問い掛けに伊三次はぐっと詰まった。まともに掏摸だなどと言ったら驚きのあまりお喜和の心《しん》ノ臓《ぞう》がどうにかなりそうな気もした。
「口にするのが憚《はばか》られるようなことをしているのかえ」
「………」
「そうなのかえ」
「へい……」
伊三次は自然に俯《うつむ》きがちになった。
「どうするつもりなのか、ちょいと聞いておくれでないか」
「どうするつもりとは?」
伊三次は怪訝《けげん》な眼をお喜和に向けた。
「決まっているじゃないか。お佐和とどうにかなりたいのなら、訳ありの仕事から足を洗えるのかどうかってことさ」
「そいじゃ、お内儀さんはお佐和ちゃんとあいつを一緒にさせてもいいように考えていらっしゃるんですかい」
「まあね」
「駄目です、あいつだけは駄目です。お内儀さん、おれに任しておくんなさい。きっちりお佐和ちゃんから手を引かせますから」
気色《けしき》ばんだ伊三次を見て、お喜和は吐息をついた。
「あたしも気に入っているんだけどねえ」
「何言ってるんですか。あいつはお佐和ちゃんの亭主になれるような男じゃありやせんよ」
伊三次は甲走《かんばし》った声でお喜和を制した。
「まあ、あんたが反対するなら、あたしも無理は言わないけれど……」
「そうしておくんなさい」
「残念だねえ、年頃もちょうどいいと思ったのにさ」
お喜和はまだ、未練たっぷりな様子である。
「だけど、あんたとあの子はどうして顔見知りなのだえ」
お喜和は納得できない表情で伊三次に訊いた。季節がよくなったのでお喜和の顔色は幾分よく見える。
「お上の御用で張り込みをする時、あいつから下手人の素性を聞くこともありやしたもんで……」
「それじゃ、まんざらあんたの役に立たない男でもないじゃないか。その割には邪険な素振りをする」
「当たり前です。話を仕入れる時は飯を喰わせたり、駄賃を渡したりして機嫌を取っているんですよ。こちとらの足許を見て、まあ小狡《こずる》い奴です」
さらに話を続けようとした時に「ただ今ァ」と、自分の家に帰ったように呑気な声を出して直次郎が戻って来た。
「兄さん、豆大福があったわよ。松屋のはね、黒豆の量が多いの」
恩着せがましく菓子の包みを伊三次の前に置いて直次郎は言った。お喜和の取り繕った様子に、直次郎は心配そうな顔になり、「お内儀さん、兄さん、あちしのことで何んか言った?」と訊いた。
「いいや、何も。あんた、伊三さんに何か弱みでも握られているのかえ」
お喜和は涼しい顔ではぐらかす。
「あちしのことは、兄さんなら褌《ふんどし》の中身までお見通しなのよ」
お佐和がぷっと噴いて「嫌やだ」と笑った。
「お前ェと湯屋に一緒に行ったことはねェよ」
伊三次も皮肉な調子で吐き捨てた。
「もののたとえじゃないの。相変わらず真面目ね。そんなことだから姉さんに逃げられるのよ」
「お前ェ、どうしてそれを」
伊三次は解せない顔で直次郎に訊く。
「あちしは地獄耳よ。姉さん、桃太郎《ももたろう》って名でお座敷に出ているという話よ。深川の文吉も日本橋じゃ桃太郎、何んだか間が抜けている名前だわね。でも、三味《しやみ》と喉がいいので、そろそろ贔屓がついているって噂よ」
桃太郎……伊三次は胸の中でその名を呟いた。直次郎の言うように確かに間が抜けて響く。
「本当なのかえ」
お喜和は驚いた顔で伊三次に訊く。伊三次は俯き、仕方なく低い声で「へい」と肯《うなず》いた。
できればお文のことは、お喜和の耳に入れたくなかった。
「そりゃまた、どうして。せっかく伊三さんとあの妓《こ》は一緒になれたというのに」
お喜和は吐息を一つついて茶筒の茶の葉を急須に入れた。
「結局、辰巳芸者と廻りのかみいいじゃ、うまい取り合わせとは言えなかったってことじゃないの」
直次郎は小意地悪く言う。お佐和が直次郎の肘《ひじ》をそっと突いた。
「何よ、お佐和ちゃん。あちしは本当のことを言っているだけよ。そうなんでしょう、兄さん」
「知らねェわ」
伊三次はそっぽを向いた。
「話してごらんよ。あたしも気になって仕方がないよ」
お喜和は伊三次の前に湯呑を差し出しながら言った。昔は人を見る眼に凄みのあったお喜和も、年とともにその眼に柔和な光を湛《たた》えるようになった。多分、伊三次がお喜和に会いたくなったのは、自分の愚痴を聞いて貰いたかったからだろう。しかし、直次郎が傍にいては、そんな気持ちにはなれない。
黙ったままの伊三次に、お喜和はきゅっと直次郎を睨んだ。まるでお前のせいで伊三次が口を噤《つぐ》んでいるのだというように。
直次郎は一口|齧《かじ》った豆大福を手にしたまま、「あちし、兄さんのこと、からかってなんかいないわよ」と、言い訳するように言った。
「からかっているだろうが!」
伊三次は声を荒らげた。
「人の不幸がそんなに嬉しいのか?」
「人の不幸って、兄さん、そんな大袈裟な」
直次郎は呆気に取られて伊三次を見た。
いつも黒の無紋の着物を着流しにしている男だった。上物の献上博多の帯は幾つ人の懐を狙った末に手に入れたものであろうか。その直次郎が人並に恋をしている。伊三次の身に降り掛かっていることが不幸なら、さしずめ直次郎は幸福の絶頂だろう。
「伊三次さん、直次郎さんの口の悪さは今に始まったことじゃないでしょう? そんなにむきになることはないと思うわ」
お佐和は恐る恐る口を挟んだ。直次郎はお佐和が味方してくれたので「そうよ、そうよ」と調子に乗った。
「ささ、せっかくの直さんの差し入れだ。まずは伊三さん、お上がりよ」
お喜和もさり気なく伊三次をいなした。伊三次は肯くと赤ん坊の拳のような豆大福を手に取った。黒豆のこりこりした感触が伊三次の舌を喜ばせた。なるほど松屋の豆大福は他の店とひと味違う。
「この半年、おれとお文はうまくいっていたんですよ。お文は長屋のおかみさん達とも仲よくして貰って、本人も結構、女房稼業が楽しい様子で暮しておりやした……」
伊三次は二つ目の豆大福を手に取ってから、ぽつぽつ仔細を語り始めた。直次郎が殊勝らしい顔つきになったせいもある。
お文は裏店で夜泣きのやまない娘のことを大層気にしていた。母親が癇癪《かんしやく》を起こして娘を外に出すと、お文はいつも宥《なだ》めに行っていた。しかし、ある夜、母親が娘に灸をすえようとしたことから口論になり、お文は母親が持っていた火の点《つ》いた線香を奪い取り、その母親の頬に押し当ててしまったのだ。
「また、姉さんも思い切ったことをしたものね」
直次郎は心底驚いた顔で言った。
「伊三次さんのおかみさん、頭に血が昇って思わずしたことなのよ。だけど、後で大変なことをしてしまったと後悔したと思うわ。それで居づらくなってしまったんだわ。裏店じゃ、嫌やでも近所の人と毎日顔を突き合わせなきゃならないし……」
お佐和は低い声でそう言った。そうだねえ、とお喜和も相槌《あいづち》を打った。
「謝ったって済むことじゃないと、あの妓は思ったんだよ。伊三さんにも迷惑を掛けちまったことだしね」
「八丁堀の旦那から早く別の家を捜して、うちの奴を迎えに行けと言われておりやす。おれもそうしようと考えているところです」
あまり気は進まないが、お文のためには、それしかないと伊三次は思っている。本当は親戚のような茅場町の裏店の住人達と別れるのが辛かった。
「早くそうしておやり」
お喜和も勧めた。
「でも、夜泣きの子供を庇うために、あの姉さんが喧嘩したなんて何んだか信じられない」
直次郎は腑に落ちない顔で言った。
「おれも何んでお文があんなことをしたのか、最初はわからなかった。不破の旦那の奥様がおっしゃったことによると、夏の盛りに町方役人の親戚の娘が死んでいるんですよ。お文はその死んだ娘と、どうやら顔見知りだったらしい。ずい分可愛がっていたようなふしもあったから、がっくり気落ちしたんだな。それでまあ、夜泣きの娘が母親に叱られた時に、死んだ娘と重なった気がして思わずやっちまったんだろう。いずれにしても、そん時のお文の気持ちは普通じゃなかったと思うが……」
伊三次はお文のことをそんなふうに言った。
「死んだ娘って八丁堀にいたの?」
直次郎は伊三次の顔を覗き込むような感じで訊いた。
「いいや、浅草の方に住んでいたということだ。娘の父親の妹が奉行所の役人へ嫁に来ているのよ。それで娘は父親と一緒に時々、八丁堀に遊びに来ることもあったらしい。お文はその時に顔見知りになったんだろう」
「浅草でね、お盆の前に武家のご新造と娘が死んだと聞いたことがあるわよ、あちし」
直次郎は訳知り顔で言った。
「きっとそれだろう」
伊三次はさして興味もない顔で応えた。
「押し込みに襲われたということだけれどね、本当は違うの」
直次郎は喰い掛けの豆大福を経木《きようぎ》の上に置くと、ひと膝進めた。
「亭主の留守にね、ご新造が屋敷の若い者と間男《まおとこ》したのよ。それでご新造は亭主が邪魔になり、若い者をそそのかして亭主を殺そうとしたのよ。娘はね、母親の企みを聞いて、戻って来た父親にそっと知らせたのよ。父親は若い者が襲って来た時、用心していたから殺されずに済んだけれど、企みがばれると、そのご新造は娘に八つ当たりしてさ、その娘を亭主の目の前で殺しちまったそうよ」
むごい話を直次郎は相変わらず、あっさりと語る。だからなおさら事件の悲惨さが伊三次の胸にこたえた。それを聞いたお文がどんな気持ちになったか、今だから理解できることだった。しかし、お文はそのことを何も語らなかった。夏のある日、晩飯を喰いながら押し込みがあったのかと伊三次に訊いただけである。後で押し込みではなく、娘の本当の死因を父親から知らされたのかも知れない。それから間もなく、裏店で騒ぎを起こしたとすれば何んとなく合点のいくことだった。
「しかし、お前ェ、ずい分、詳しく知っているな。そこまでは不破の旦那もご存じじゃねェだろう」
伊三次は半ば感心して直次郎を見た。直次郎はふふと笑い、「あちしは地獄耳と言ったでしょう? それでなくても浅草はあちしの縄張よ。幾らお屋敷が内緒にしても、凄い事件だから、すぐに隣り近所は感づいたのよ」と応えた。
「ああ、やり切れないねえ。あたしが伊三さんのおかみさんの立場だったら、同じことをしたかも知れないよ」
お喜和は深い吐息をついて応えた。お佐和も「無理もないわねえ」と言った。
「姉さん、ああ見えて結構情にもろいから」
直次郎もようやくお文に同情する口ぶりになっていた。なに、お佐和の意見に合わせただけなのだろうが。
「早く迎えに行っておやり」
お喜和は眉根を寄せて再び伊三次に言った。
半刻《はんとき》(一時間)後、伊三次は直次郎と一緒にお喜和の店を出た。
浅草に戻るという直次郎に伊三次は両国橋までつき合うことにした。
「ねえ、兄さん。あちし、足を洗おうかな」
直次郎は歩きながら独り言のように言った。
「ふん、お前ェの親方が許すものか」
「そうでもないわよ。親方はこの商売も先が見えているから、適当なところで鞍替《くらが》えするのも悪くないって言っているわよ」
「………」
「問題は当人に、本当に足を洗う気持ちがあるかってことよ」
「お前ェの仲間で足を洗って別の商売をしている者がいるのか」
「いない……」
「ほら見ろ」
「でも、その内に腕が鈍って岡っ引きにしょっ引《ぴ》かれ、所払いを喰らうか、悪くすればこれよ」
直次郎は手刀で自分の首を叩いた。
「あちし、そんな様《ざま》になりたくないのよ。今が潮時なのよ」
「お佐和ちゃんに惚れちまって、小間物屋の入り婿《むこ》を企んでいるという寸法か」
そう言うと直次郎はぎょっとした顔になった。
「いい子よ、お佐和ちゃん。あんな子は初めてよ。それにお内儀さんもあちしのことを可愛がってくれるし……」
直次郎は、すぐに取り繕うように言う。
「おれはてっきり、お前ェは女より男の方がいいんだと思っていたぜ」
「あらひどい。これでも当たり前の男ですよ。男の汚い|けつ《ヽヽ》なんてご免だわよ」
「本当に足を洗えるのか」
「駄目?」
「駄目かどうかはお前ェの親方の言うように当人次第だ。足を洗ってどこかの小間物屋の手代に使って貰い、商売のやり方を教わって|いっぱし《ヽヽヽヽ》の商売人になった時は、おれがお内儀さんに口を利いてもいいぜ」
「本当? 本当、兄さん」
直次郎は無邪気に訊く。その顔はいつもの酷薄な表情ではなく、恋する若い男のそれだった。
「まあ、頑張りな」
両国橋の前で伊三次は直次郎の肩を一つ、ぽんと叩いた。
「祝言《しゆうげん》の時は仲人になってよ。姉さんと二人で」
「おきゃがれ。気が早ェのにもほどがある」
伊三次は眼を剥《む》いて吐き捨てた。直次郎は首を竦めて薄く笑った。
深川の増蔵は呉服屋の手代の失踪に往生していた。手掛かりがないのは、その手代がもう深川にいないせいかも知れない。いない者を躍起になって捜しても埒《らち》は明かない。
伊三次は京橋の湯屋「松の湯」に行って弥八の女房の|おみつ《ヽヽヽ》に話を訊くつもりだった。
おみつの実家は深川の佐賀町にあり、その呉服屋「田島」のすぐ近所だった。手代の人となりを訊けば、その後の行動に予測がつこうというものである。手代の民助は普段は真面目な男だが、何しろ、おとなし過ぎて、目立つこともなく、田島の客でも憶えている者は少なかった。おみつが何か手掛かりになりそうなことを話してくれそうな気もしていた。
いつもは番台に座っているおみつも、夕方になったので母屋の裏手にある自分の家に戻ったらしい。番台では主《あるじ》の留蔵《とめぞう》がぼんやりと座っていた。
「留さん、孫のできる気分はどうでェ?」
伊三次は留蔵をからかうようにそう言った。
おみつは来年、子供が生まれることになっている。
「うるせェや」
留蔵は照れを隠すように荒い言葉を吐いた。
「おみつはもう若夫婦の塒《ねぐら》に引き上げたのかい」
「いいや、今時分はうちの奴と晩飯の仕度をしているぜ」
「嫁の味付けは口に合うかい」
「何んだ、お前ェ。やけに今日は小意地の悪いもの言いをするな」
留蔵は不機嫌そうに伊三次を睨んだ。
「勘弁してくんな。さっきまで浅草の巾着切りと一緒にいたもんで、口癖が移っちまったようだ」
「直次郎か……」
留蔵はそう言って宙を見つめた。早く、野郎をしょっ引きな、と留蔵は言った。伊三次は留蔵の言葉をかわすように「ちょいと母屋に邪魔するぜ」と言った。
「何か事件か」
留蔵は伊三次の背に覆い被《かぶ》せた。
「深川の呉服屋の手代のことで、おみつにちょいと聞きてェことがあってな」
「おみつはもう深川の人間じゃねェ。下らねェことで悩ませちゃ承知しねェぞ」
「あい」
伊三次は素直に肯いて湯屋を出ると、横の小路を入り母屋に向かった。
台所からは魚でも煮付けているのか醤油の香ばしい匂いが漂っていた。松の湯は奉公人もいるので食事の仕度も結構大変であった。
「御飯、炊けたかえ」
留蔵の女房の|おやす《ヽヽヽ》の声が聞こえた。
「ええ、とっくに。もうお櫃《ひつ》に移してありますよ」
おみつが応えていた。
「ごめんよ」
伊三次は台所から遠慮がちに声を掛けた。
「あら兄さん、どうしました? うちの人なら見世の方におりますけど……」
丸髷がようやく板について来たおみつは、伊三次に気づくとそう言った。
伊三次はおみつの下腹の辺りに自然に眼がいった。前垂れのせいで、まだそれとわかるほど腹は膨れて見えなかった。
「いいや、今日はお前ェにちょいと話をするつもりで来たんだ」
「姉さんのこと?」
おみつはちらりと後ろを振り返って訊いた。
竈《かまど》の前で汁の味見をしているおやすの後ろ姿があった。
「おっ義母《か》さん、茅場町の兄さんがいらっしゃったので、ちょっといいですか」
おみつはおやすに伺いを立てる。ああ、いいよ、おやすは振り返ってにこりと伊三次に笑った。
「お忙しいところ申し訳ありやせん。すぐに済みやすので……」
伊三次は如才なくおやすに言葉を掛けた。
台所の通用口から通りの方に戻ると湯屋の裏口になる。井戸があり、その傍にさほど大きくない松の樹《き》があった。おみつは井戸の縁《ふち》に左手を置いて「姉さん、出て行ったんでしょう?」と詰《なじ》るように口を開いた。
「もう知られちまったのか……」
伊三次は苦笑して小鬢《こびん》を掻いた。
「当たり前よ、うちの人も心配しているもの。どうなるのかって」
「済まねェな。だが、その内迎えに行くつもりだからあまり心配しなくていいぜ」
「もう、呑気なんだから」
おみつは安心したように笑った。
「ところで、話というのはお文のことじゃねェんだ。深川のお前ェの家の近くに田島って呉服屋があったろう?」
「ええ……」
「そこに使われている民助って手代、お前ェ、知っているか」
「ええ。民助さんは小僧から奉公して、まだ十七、八だけどお店のことは何んでも知っていて、しっかりした人よ」
「うん。だから店の旦那も信用していた様子だった」
「民助さんがどうかしたの」
おみつは顔の汗を前垂れでつるりと拭くと伊三次に訊いた。
「お盆の辺りから行方知れずになっている」
「まあ……」
「掛け取りに出たまんま、お店《たな》に戻らねェそうだ」
「それはあれ? お金を持ってどこかへ行ったという意味?」
「まあ、簡単に言えばそういうことなんだろうな」
「あの民助さんに限って、そんなことは絶対にないと思うわ」
おみつはそう言って前垂れの端をぎゅっと掴んだ。
「でもよ、魔が差しちまうとか……」
「あの人は真面目が着物着て歩いているような人だった。何より田島に勤めていることをありがたいと思っていたのよ。そのお蔭でおっ母《か》さんと小さな弟さんの暮しの面倒が見られるんですもの。お金を盗んで田島の奉公を棒に振るようなことはしないと思うわ」
「そうか……」
伊三次は足許の小石をつっ突いて吐息を洩らした。民助は店の金に手をつけるような男ではなさそうだ。としたら、民助は何か事件に巻き込まれた可能性の方が強い。集金した金を持っていたので悪い奴|等《ら》に襲われたのかも知れない。民助がそのために命を落としてしまったことも考えられる。身許の知れない|おろく《ヽヽヽ》が出ていないかどうか、市中の自身番に当たらなければならないと伊三次は思った。
「わかった。手間ァ、取らせたな。そいじゃ」
踵《きびす》を返した伊三次に「兄さん、しっかりしてね」と、おみつは威勢のいい声で言った。
「大丈夫だって」
伊三次はおみつを安心させるように笑って応えた。
増蔵の話とおみつから聞いた民助の人となりを不破に知らせるために、伊三次は松の湯を出ると八丁堀へ足を向けた。
だが、ふと思い直し、その前に西河岸にある「前田」に行こうと考えた。
前田は日本橋川の西、呉服橋近くの稲荷新道《いなりしんみち》にある。日本橋を控え、商家が軒《のき》を連ねる町の傍なので、界隈は賑やかな場所である。奉行所の役人なども、その界隈にある料理茶屋を利用する者が多い。江戸の芸者は吉原を筆頭に、柳橋、深川、ついで日本橋が有名であった。お文は芸者稼業を再開するに当たり、馴染みのある深川でも柳橋でもなく、日本橋から芸者に出た。それはお文なりの考えがあってのことなのだろうと伊三次は思っている。
前田の近くになると、早くも出《で》の衣裳に調《ととの》えた芸者衆が客の待つ料理茶屋に出かけるのを何人も見かけた。前田は芸妓屋だが、客の接待ができる座敷もある見世だった。
ぼんやりと見世の佇《たたず》まいを眺めていたら、格子戸がからりと開いて、風呂敷包みを抱えたお文が朋輩《ほうばい》芸者と一緒に出て来た。お文は裾模様の黒紋付の褄《つま》を取っていた。
「おう」
伊三次は気軽に声を掛けた。驚いたお文は傍にいた若い芸者に「悪いが、先に行っておくれでないか。なに、すぐに後を追い掛けるよ」と、すばやく言った。
若い丸顔の芸者は少し怪訝な眼をしたが伊三次に小さく頭を下げてその場を離れた。
「もう、仕事は終わったのかえ」
稲荷新道を呉服橋の方へ歩きながらお文は訊いた。その辺りは去年火事に見舞われている。しかし、商家の主達は、すぐに普請をして元の活気を取り戻していた。いざという時のために店の一軒分ほどの材木を確保しておくのが商家の心得でもある。何しろ江戸は火事が多い所である。家並《やなみ》が新しいので伊三次は別の町に入り込んだような心地がした。
「商売はとっくに仕舞いだ。今、ちょいとおみつの所に寄って来たところだ。これから不破の旦那の所へ行く」
「そうかい。おみつは元気だったかえ」
「ああ。ずい分、お前ェのことを心配していたよ」
「………」
二人は通りにある稲荷を祀《まつ》った境内に入った。お堂には「正一位稲荷大明神」と書かれた赤い幟《のぼり》が夕暮の風に揺れていた。
「お須賀さん、どう?」
お文は上目遣いで伊三次に訊く。
「おれには何んにも喋らねェ。それよりお千代ちゃんが、お前ェがいねェかどうか家の中を覗きに来るぜ」
「夜泣きは、少しは収まったのかえ」
「相変わらずだが、大きくなりゃ、その内に治るさ」
「そうかい……」
お文は低い声で言うと境内に植わっている笹の葉を一つ毟《むし》り取った。
「お前ェ、浅草に住んでいたお武家の娘のことを大層気に病《や》んでいたらしいな」
伊三次がそう言うと、お文は振り向いて眉を持ち上げた。
「母親に殺されちまったそうじゃねェか」
伊三次は低い声で続けた。
「誰に訊いた?」
「直次郎よ」
「ああ、あの巾着切りか……早耳だの」
「むごい話だ。それを知ってお前ェがどんな気持ちになったのか、今ならわかってやれるんだが……気がつかねェで勘弁してくんな」
伊三次は足許に視線を向けて言った。
「そんな、お前さんが謝ることはないよ。わっちがあのお嬢さんのことで思い詰めていたからといって、お須賀さんには関係のない話なんだし……火傷をさせちまったのは、わっちが悪い」
お文は慌てて言う。
「それでもよ、おれァ、一応亭主だから」
伊三次は弥八の真似をして人差し指で鼻の下を擦《こす》った。お文は小さく笑った。
「別にあそこの暮しに不満があった訳じゃないよ。お春さんにもよくして貰ったし、結構楽しかった」
「おれがどっか別の家を見つけたら、戻って来てくれるかい」
伊三次は心細いような顔で訊いた。
「本当?」
「ああ」
「そいじゃ、その時まで、せいぜい稼いでおくよ。まあ、内職だと思って大目に見ておくれでないか」
「芸者が内職か……日本橋じゃ稼ぎ難《にく》いんじゃねェのか? どうせなら深川か柳橋の方が知った顔があっていいのに」
そう言うとお文はううんと首を振った。
「深川の皆んなには、お前さんの女房になるから、もうお座敷には出ないと啖呵《たんか》を切って来たんだ。わっちにも見栄《みえ》があるよ。もう、深川には戻らない……」
お文は低い声で応えたが、覚悟のほどが窺われる。辰巳芸者の張りはまだ失われていないと伊三次は思った。
「そうか……」
「ちゃんと、|まま《ヽヽ》は喰っているかえ」
お文は伊三次の暮しを心配する。
「お前ェと一緒になる前は何年も独り暮しをしていたんだ。心配するねェ」
「ありがと、お前さん。晦日《みそか》は休みが取れそうなんだけど……」
「そいじゃ、おれも仕事を早仕舞いにして、久しぶりに寄席でも行って、帰りに鰻《うなぎ》でも喰うか?」
「嬉しい、楽しみにしているよ。迎えに来ておくれね」
「ああ」
お文はつかの間、伊三次の胸に身体を預けると、「それじゃ……」と名残り惜しそうに境内を出て行った。暮れなずんだ空が白っぽく見えた。巣に帰る烏《からす》の鳴き声も耳につく。
取りあえず、と伊三次は思う。自分とお文の仲はまだ繋がっている。そのことが伊三次にとって何よりも安心することであった。
久しぶりに出《で》の衣裳を纏《まと》ったお文は、|きれえ《ヽヽヽ》だった。
行方知れずになっていた呉服屋の手代、民助が見つかったのは八月の半ば過ぎのことだった。しかし、民助は柳原の土手で首を縊《くく》って果てていた。
昔からその場所は首縊りが多い所だった。
死神が棲《す》むとも噂されている。そこを通り掛かった民助が前途を悲観して思い切ったことをしたのも死神に魅入られたせいだ、とは口さがない野次馬達の弁である。民助は失踪した当時の恰好のままだった。お仕着《しき》せの木綿|単衣《ひとえ》は垢と泥にまみれ、月代《さかやき》の毛は伸び、真っ黒な顔をしていたので、最初に発見した者は物貰いか何かだと思ったという。
民助は懐に遺書を残していた。くしゃくしゃの紙に蚯蚓《みみず》の這《は》ったような字で田島の主に詫びを入れ、残された母親と弟をよろしく頼むとあった。民助は掛け取りで客を訪れた帰り、懐の金を掏《す》られてしまったのだ。
途方に暮れ、お店に戻ることもできず、あてどなく江戸の町をさまよっていたようだ。
金は二両と二分。真面目な民助は主に事情を話して許して貰うことより、自分でそれを何んとかしなければという思いに囚われてしまったのだ。人足のようなこともしたらしいが、おいそれとその金額にすることはできなかった。絶望した民助はとうとう事を起こしてしまった。
田島の主は民助の亡骸《なきがら》に大粒の涙をこぼし、「馬鹿な、馬鹿な」と嘆いて後《あと》の言葉もなかった。
深川の岡っ引き増蔵は、民助の持っていた金を掏ったのは直次郎ではなかろうかと伊三次に囁いた。
田島に民助の亡骸《なきがら》を運んだ後のことである。
伊三次は門前仲町の自身番で詳しい話を聞くことにした。
自身番は深川八幡の傍にあった。今年は祭礼のない年なので、深川も静かな秋を迎えていた。
「直次郎の縄張は浅草じゃねェですか。深川で仕事はしねェでしょう」
伊三次は何んとなく直次郎を庇う口調になった。お佐和のことが脳裏を掠《かす》めたせいかも知れない。
「浅草でちょいと仕事をし過ぎたんだろうな。参詣の客も用心するようになったのよ。当然、実入《みい》りは少なくなった。それで縄張破りを承知で深川にやって来たんだろう。こっちに縄張のある巾着切りが直次郎が仕事をしているのを見つけ、追い掛けて痛い目に遭《あ》わせてやろうとしたんだが、奴は逃げ足が早いんで見失ったそうだ」
増蔵は正吉に淹《い》れさせた茶を伊三次に勧めながら言った。夕方に近い時刻だったので、いつも詰めている大家の次郎兵衛と書役《しよやく》の男は晩飯を食べに行っているのか姿が見えなかった。
「その時に直次郎が田島の手代の懐を狙ったということですかい?」
「その時かどうかはわからねェが、まあ、その前後だろう。奴はそれからもちょくちょく深川にやって来ているらしい」
「待って下せェ。直次郎が深川に来るのは仕事じゃねェですよ。入船町の小間物屋に顔を出すだけですよ」
「播磨屋《はりまや》のお内儀がやっているあの店か?」
「へい」
「だが、他にも掏られたという者がいて、黒い着物を着た若い男にやられたと言っているんだぜ。伊三、巾着切りの言うことをまともに取ることはねェ。奴等は人の懐を狙うしか能がねェんだ。物見遊山で他の土地にゃやって来ねェ。こいつは身に染《し》みついたもんで、どうにもならねェのよ」
増蔵の先妻も人の懐を狙うくせのある女だった。その増蔵が言うことには説得力がある。
伊三次は力なく肯き、「そうですね、奴に訊いてみますよ」と言った。
「まともに泥は吐かねェだろうが、もしも、そんなこともあったと奴が匂わせでもすれば、民助の潔白が証明されるというものだ。民助がお店の金を持ち逃げして、遣い果たしたと考えている者もいるからよ」
「さいですね」
伊三次が肯いて「そいじゃ」と腰を上げると、下っ引きの正吉は「兄さん、|おこな《ヽヽヽ》ちゃんはどこに行ったか知りやせんか」と訊いた。
「おこな? 西両国にいるんじゃねェのかい」
おこなは元、お文の家の女中をしていた女である。今は西両国広小路の水茶屋で茶酌女《ちやくみおんな》をしているはずだった。
「見世《みせ》にゃ姿が見えねェんですよ」
正吉は心細い表情で言う。
「お前ェのお父っつぁんとおっ母《か》さんが心配して、お前ェの前をちょろちょろするなと釘を刺したから、おこなは雲隠れしちまったんだろう」
増蔵は正吉をからかうように言った。正吉の両親はおこなに岡惚れしている息子を心配していた。悪い女に引っ掛かって正吉が金を毟《むし》り取られるとでも思っているのだ。
「兄さん、どうしたらいいんでしょう」
「知らねェよ。悪いことは言わねェから、おこなのことは諦めな。そいで、お父っつぁんとおっ母さんの勧める娘と所帯を持つんだ」
伊三次は子供をあやすように正吉に言った。
「嫌やだ、おいら、おこなちゃんじゃなきゃ嫌やだ!」
正吉は悲鳴のような声を上げた。
「増さん、何んとかしてくれ」
伊三次は助けを求めた。そう言われても……増蔵はぶつぶつ呟く。正吉の両親を説得してまで一緒にさせようと思えるほどの二人ではないと増蔵は考えているようだ。もっともな話である。一方は一人前の男としての才覚がないし、もう一方は尻軽女で、とてもまともな女房がつとまりそうもなかった。
「とにかく、おこなちゃんのことはいいから、手前ェは手前ェの仕事をきっちりやるんだ。わかったな? 正吉」
伊三次は少し苛々してそう言うと自身番を出た。伊三次の背中に正吉の泣き声が貼りついた。やり切れなさに伊三次は長い吐息を洩らした。
「見ねェ、あれだぜ」
深川の仙台堀に架かる海辺橋《うみべばし》のたもとから葬列が見えた時、伊三次は直次郎にそう言った。
棺桶《かんおけ》の前で位牌《いはい》を持っているのは民助の母親で、その後ろにいる子供は幼い弟であろうか。親戚の者が棺桶の後ろに続く。皆、三角頭巾を頭にのせた白装束の恰好である。
葬列が歩みを進める度に鉦《かね》の音が聞こえた。
民助は寺町にある心行寺《しんぎようじ》に葬られるのだ。
直次郎はふて腐れたような表情をしていたが、伊三次の言葉にふっと顔を上げ、葬列を見た。民助の弔いが行われる日、伊三次は直次郎を無理やり深川に連れて来た。無念の死を遂げた民助に少しでも詫びて貰いたかったからだ。しかし、直次郎は悪びれた表情すら見せない。その日の深川は厚い雲が空を覆い、今にも泣き出しそうな空模様だった。葬列の人々も白装束の裾を寒そうに風に翻《ひるがえ》していた。
「お前ェは二つ、間違いを犯した」
伊三次は葬列に眼を向けたまま静かな声で言った。
「一つは縄張の外でやっちまったことだ」
「兄さん、証拠がある?」
直次郎は|きめ《ヽヽ》の台詞を吐いた。掏摸は現行犯でなければ捕まえることはできないと高を括《くく》っている。
「証拠はねェよ。だが、民助が掛け取りで集めた金を巾着切りにやられたのは確かなことだ」
「あちしじゃないわよ」
直次郎はしゃらりと言って退《の》ける。伊三次は構わず言葉を続けた。
「もう一つの間違いは懐に余裕のある奴からではなく、お店のご用をしている真面目な奉公人を狙ったことだ。手前ェの金なら肝は焼けるが仕方がねェと諦めもつく。だが、あの手代が持っていたのは店の金だった。店の旦那はあの手代を信用して集金を任せたんだ。金を掏られたからといって、すごすごお店には戻られなかったのよ。切羽詰まった手代は手前ェの命に替えて落とし前をつけたんだ。てェした男だった」
「………」
「たった二両と二分だ。だが、あの手代は一分でも弁償できなかっただろうよ。手代の給金がどれほどのものか、お前ェは知らねェらしいから言うんだが」
「今更どうしろと言うのよ、兄さん。しょっ引くの? だったらやりなよ」
直次郎は自棄《やけ》のように言った。
「しょっ引いて仕置きを掛けるか……いい考えだ。不破の旦那じゃ手ぬるいから、ここは緑川の旦那に頼むのも一興だぜ。おれも覚えがあるぜ。緑川の旦那の容赦《ようしや》のしねェことといったらあるもんじゃねェ。おれはもうちょっとで商売道具のこの指、使い物にならなくなるところだった。どうせお前ェは足を洗うつもりなら、ひと思いにそうして貰うか、ん?」
「あちしを脅しているつもり? 生憎《あいにく》だが、兄さんに易々と捕まるほど、あちしは|やわ《ヽヽ》じゃないわよ。試してみる?」
直次郎はぴょんと後ろに飛び退いて皮肉な笑みを浮かべた。
「そうだな、おれの腕じゃ、お前ェをしょっ引くのは骨だ。だが、おれはもうお前ェの面を見たくもねェ。悪いがこれで縁を切らして貰うぜ。今後、道で会っても声なんざ掛けねェでくれ。お前ェのような男から今までネタを仕入れていたかと思うと、つくづく情けなくて穴があったら入りてェ気分だ」
「ふん、何よ、偉そうに」
「お佐和ちゃんに本当のことを話すからな」
「………」
「お前ェの甘い夢もこれで一巻の終わりよ。お内儀さんもお前ェのことは気に入っていたのによ。そのお前ェが巾着切りだなんて……二人が豆鉄砲喰らった鳩みてェに驚く顔が今から見えらァ」
伊三次がそう言うと直次郎は悔しそうに唇を噛んだ。
「兄さん、あちし、本当に足を洗うから、それだけは堪忍して」
直次郎は途端に殊勝な言葉を洩らした。
「うるせェ!」
伊三次はぎらりと直次郎を睨んで吐き捨てた。
「深川から消えな。二度とお佐和ちゃんの前に現れるな。そうしたら黙っててやるぜ。足なんざ洗えるものか、馬鹿も休み休み言え。手前ェは老いぼれになるまで巾着切りだ、骨の髄《ずい》まで巾着切りよ。それを思い知れ!」
伊三次はひと息にそう言うと直次郎に背を向けた。直次郎は青ざめた顔で、それ以上ひと言も口を返さなかった。
直次郎はそれから、入船町には本当に姿を見せなくなった。お喜和とお佐和は、どうしたのだろうと、しきりに伊三次に訊いてくる。
伊三次はその度に言い訳に苦労した。
しかし、これ以上、直次郎がお佐和の傍を離れなければ、お佐和自身も直次郎に情が移り、どうにもならないことになりそうな気がする。これでよかったのだと、伊三次は内心で独りごちていた。
お文のいなくなった茅場町の塒《ねぐら》は以前にも増して侘《わび》しい。しかし、仕事帰りに前田に寄り、お文の顔を見ることはできた。前田のお内儀は伊三次が亭主だと知ると、胡散《うさん》臭い顔もしなくなり、お座敷に出る前なら部屋に上がって茶の一杯も飲んで来るようになった。
おこなが西両国広小路の水茶屋を辞めたのは、親戚の小母さんが病に倒れ、その看病をしているからだとお文は伊三次に教えてくれた。お文は時々、おこなと連絡を取り合っている様子だった。考えてみると、お文には親身に話を聞いてくれる親戚も友人もいない。
芸者同士では、互いに三味線や踊りを競う相手にはなっても心を開いて話し合うことはできないらしいのだ。お文が気を許せる人間は伊三次の他におこなだけだったのかも知れない。
暦は長月《ながつき》に入った。伊三次は相変わらず廻り髪結いと裏の仕事に明け暮れる生活を送っていた。不破の妻のいなみと、おみつの腹は、もうそれとわかるほど大きくなった。そのせいでもないだろうが、道を歩いていると、やけに腹の大きな女に眼がいく。いつか、お文も腹を膨らませて肩で息をする日が訪れるのだろうかと、伊三次はぼんやり考えることもあった。しかし、出の衣裳を纏《まと》って艶然と笑うお文には、どうにも似合わないことに思えて仕方がなかった。まあ、世の中には子供のいない夫婦というのもいるので、それならそれで留蔵のように養子を迎える手もある。何より、この世にまだいない者に対しての思いは、若い伊三次には希薄であった。
京橋の自身番に詰めている大家の儀《ぎ》右衛門《えもん》は家捜しをしている伊三次に佐内町《さないちよう》にある仕舞屋《しもたや》を紹介してくれた。買い取ってもいいし、それが無理なら毎月、家賃を払うことにしてもよいということだった。家賃は茅場町の二倍になるが、お文も芸者を続けるつもりなら払えない額ではなかった。伊三次はお文を誘って、その家を見に行く心積もりをしていた。
翌日の商売に備え、道具の手入れや元結、鬢付油《びんつけあぶら》の補充をして伊三次は床に就《つ》いた。
秋の夜長、遠くで夜廻りの拍子木の音に混じり、犬の遠吠えが低く聞こえた。裏店の住人達も蒲団に入ったようで、話し声もしない。
明日の朝は不破の組屋敷から京橋の自身番で儀右衛門の頭をやり、それから深川に行って信濃屋、干鰯《ほしか》問屋の主。途中、時間が空いたらお喜和の所へ顔を見せ、門前仲町の自身番で増蔵と会い、帰りは通油町の金物屋の隠居、大伝馬町の呉服屋の番頭と、贔屓の客の顔を伊三次は頭に浮かべていた。
土間口の戸がコトリと音を立てた。箱枕から頭を上げて伊三次は耳を澄ました。荒い息遣いが聞こえたが、最初は野良犬でも迷い込んで来たのかと思った。しかし、湿った咳《せき》払いがして「兄さん」と、低い声が伊三次を呼んだ。直次郎の声に聞こえた。
伊三次は土間口に下りて、しんばり棒を外した。戸を開けると、はたして直次郎が身体をふらつかせて立っていた。
「どうした?」
伊三次は煩わしい気持ちを押し殺して訊いた。
「入ってもいい? ちょっと話があるのよ」
「酔っているのか」
「少しだけよ。でも飲まなきゃやり切れなかったのよ」
なぜか直次郎は右手を左手でぎゅっと掴んだ恰好をしている。その手に視線を向けて伊三次はぎょっとなった。右手には手拭いが被せられていたが、その手拭いが夜目にも血に染まっているのがわかった。
「怪我をしたのか? ささ、入れ」
伊三次は慌てて直次郎を中に促すと、敷いていた蒲団を手早く畳み、行灯《あんどん》に火を点けた。
「いいぞ、上がれ」
そう言うと、直次郎は履物を脱いだが、上がり框《かまち》に躓《つまず》いてよろめき、畳に倒れた。
「危ねェ、しっかりしろ」
伊三次は直次郎の腕を支えた。
「兄さん、あちし、足を洗ったわよ」
仰向けになった直次郎は挑戦的な眼で伊三次に言った。夏でもないのに直次郎の額には汗がびっしり浮かんでいた。
「どういうことだ?」
伊三次は立ったまま直次郎を見下ろして訊いた。
「親方に足を洗いたいと言ったのよ。そしたらさ、商売道具を置いて行くのなら許すと言ったのよ」
「商売道具?」
伊三次は解せない気持ちで直次郎の細面を見つめた。
「そう、商売道具。あちし等の商売道具って言ったら一つしかないじゃない」
「………」
「ほら兄さん、見て。商売道具、置いて来たじゃないの」
いきなり直次郎は手拭いの下の右手を伊三次の前に拡げて見せた。伊三次が眼を剥いたのは直次郎の手が血糊で濡れていたせいではなかった。そこには人差し指の先がなかった。伊三次は咄嗟《とつさ》のことに言葉を失い、呆然と直次郎を見つめていた。
人差し指は確かに掏摸の商売道具である。
その指の鍛練を積んで直次郎は一人前の掏摸になったのだ。
「ねえ、兄さん、これでいいんでしょう? これであちし、本当に足を洗えたんでしょう?」
伊三次は裂いた手拭いを持って来ると黙って直次郎の手に巻きつけた。まだ出血があるので、そのままにしておくことはできなかった。直次郎の親方は引き留めるつもりでそう言ったのだろう。まさか直次郎が本気で指を落とすとは考えていなかったのだろう。だが、直次郎は言われた通りにやって見せた。それがお佐和のためだと思えば伊三次の胸は締めつけられるように苦しくなった。
「親方は……これで納得したのか」
手拭いを少しきつく巻き、端も裂いて外れないように結びながら伊三次は訊いた。
「納得するもしないも、もうあちしは仕事ができないのよ。諦めるしかないじゃない。手切れ金までいただいちゃったわよ」
「いい親方だな……」
そう言うと直次郎は起き上がり、伊三次の顔に自分の顔をくっつけそうなほど近づけて「ばあか」と言った。言われた伊三次は俯いて低く笑った。笑うしかなかった。
「見直した?」
直次郎は得意そうに訊く。
「ああ。だが、何んだか切ねェ……」
「お佐和ちゃんにあちしのこと言った?」
直次郎は早口で訊ねた。それが一番、訊ねたかったとばかり。伊三次は言葉に窮して奥歯をきつく噛み締めた。
「よう、本当のことを言ったのかと訊いているのよ」
直次郎は伊三次の寝間着の袖を引いて揺すった。伊三次はひと息ついてから「言った」と応えた。直次郎の口許から低い笑い声が洩れた。笑い声は途中から大きくなった。
「あちし、一世一代の賭けをしたのよ。この賭けに勝ったら、あちしの運もまんざら捨てたものじゃないと思ってさ。でも……あちしに運はなかったってことよね? 実の親に捨てられて巾着切りの親方に拾われて、そいで巾着切りよ。誰に文句をつけたらいいのよ。あちしが悪い? 本当にあちしだけが悪かったの? 教えてよ、兄さん!」
「直次郎……」
伊三次の声がくぐもった。嘘だ、お佐和ちゃんには本当のことを言っちゃいねェ、何度、喉許《のどもと》まで出てきたか知れない。だが伊三次は言えなかった。お佐和とお喜和に迷惑が及ぶような男を勧める訳にはいかないと心底思っていたからだ。
「ついてない……」
直次郎はそう呟いた後に咽《むせ》び泣いた。鬢のほつれが目立つ。明日の朝は直次郎の頭をきれいに結ってやろうと思った。
「これからどうする」
伊三次は丸めた蒲団を敷き直し、そこに直次郎を横にすると静かな声で訊いた。
「わからない」
「お前ェはまだ若い。その気になりゃ、幾らでもやり直しが利くぜ」
「でも、そのやり直しは、お佐和ちゃんと一緒にはできないんでしょう?」
「諦めてくれ」
そう言うと直次郎は肯いて眼を閉じた。嗚咽《おえつ》が再び伊三次の耳に聞こえた。
伊三次は翌朝、直次郎の髭を当たり、頭を拵《こしら》えてやった。初めて兄さんに頭をやって貰ったと、直次郎は喜んだ。手間賃を払おうとする直次郎に伊三次は「いらねェよ。ちょいと|はなむけ《ヽヽヽヽ》のつもりだ」と言った。そして、銭は大事にしろよ、とも言い添えた。
「道で会っても兄さんに声を掛けちゃ駄目?」
心細い顔で直次郎は訊く。
「そんなことはねェよ。また会ったら一緒に飯でも喰おう」
「飯だけ?」
「一杯やろうと言いてェところだが、生憎、こっちは下戸なもんで」
「うわばみの女房と下戸の亭主か……何んだかおかしい」
直次郎は思い出したようにくすりと笑った。
伊三次は直次郎の後頭部を柔かく張った。
「やめてよ、せっかくの頭が壊れるじゃないの」
真顔で詰《なじ》る。不破の組屋敷に出かける時刻が迫っていた。
「じゃあ」と気軽に別れの言葉を口にした直次郎を伊三次は裏店の門口《かどぐち》まで送った。
「頑張れよ」
伊三次は直次郎の背中に声を掛けた。振り向いた直次郎は「足、洗ったんだからね」と、駄目押しのように言った。
「わかった」
そのまま直次郎は小走りに海賊橋の方向に去って行った。秋の陽射しは光の加減で直次郎の黒い着物を緑色がかって見せる。今日も一日、よい天気だろう。足を洗った直次郎の背中を明るい秋の陽射しが照らす。
ほがらほがらと照る陽射しが眩しくて、伊三次は思わず瞳を閉じた。再び眼を開けた時、視界の中に直次郎の姿はなかった。
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時 雨 て よ
時雨てよ 足元が歪むほどに
[#地付き]海童
佐内町《さないちよう》への引っ越しは存外に手間どり、落ち着いて寝泊まりできるようになったのは、早や神無月《かんなづき》の末になろうとする頃だった。
京橋の自身番に詰めている大家の儀《ぎ》右衛門《えもん》が伊三次夫婦に世話してくれた仕舞屋《しもたや》は、間口二間《まぐちにけん》、少し広い土間があり、土間は座敷を囲むように|く《ヽ》の字曲がりで台所に続いていた。
井戸も中に設《しつら》えてあり、これなら水汲みの手間がいらないとお文《ぶん》は大層喜んだ。
二階に六畳間、階下も茶の間に奥の間、三畳の小部屋があった。奥の間の障子を開ければ縁側になり、猫の額のようではあるが庭までついている。縁側の端は厠《かわや》になっていた。
いずれ伊三次が床《とこ》を構えても不足のない家であった。しかし、前の住人が老齢を理由に今戸《いまど》に引っ越してから何年も空き家になっていたらしく、家は古《ふる》びと腐れが目立った。
伊三次は、なに、畳を新調すれば大丈夫だろうと考えていたらしいが、それは大きな間違いだった。
井戸は井戸替えしなければならず、庭の塀《へい》は手を触れたらばらばらになりそうなほど弱っている。無人の家の庭は野良猫の巣となっていた。儀右衛門に文句を言ったが、それだからこそ格安の家賃なのだと切り返された。塀を直し、ついでに庭を調《ととの》え、伊三次の幼なじみの畳職の男に畳を入れ替えさせ、出入り口の戸を手直ししたら結構な物入りだった。後で儀右衛門は、さすがに気の毒に思ったのか、家主と交渉して、二箇月分の家賃を只にしてくれた。
お文はその他に、引っ越しの挨拶回りに持参する手拭いを百本ばかり注文したので、それも大層な額になった。手拭いは白地に「かみゆい伊三次」と藍《あい》の崩《くず》し字が入ったものだ。他に余計な飾りもなく、あっさりとした出来で、お文は満足していた。
手拭いなんざ百本もいらねェと、伊三次はお文に文句を言った。仮に余っても正月の年玉物に使えることが頭になかったらしい。その上、やって来た職人にお文が祝儀を出すのも気に入らなかった。祝儀は貰うばかりで、それを出す側に回るなど、伊三次は露ほども考えたことはなかったのだ。決まりの手間賃は払っているから、他は余計だと突《つ》っ張《ぱ》る。
「お前さん、そういう了簡《りようけん》じゃ床屋の親方は張れやしないよ。職人は少ない祝儀でも貰うと貰わないじゃ、仕事の|でき《ヽヽ》が格段に違うのさ。見ててごらんな、追加の手間賃を取られるより、よほど安く上がるというものだ」
お文はやんわりと伊三次を制した。そういうものかと伊三次は渋々|肯《うなず》いたが、内心ではお文が帯に手をやる度にひやひやしていた。祝儀を入れた|ぽち《ヽヽ》袋をお文は帯の間に挟《はさ》んでいて、職人や人足が来る度に出した。
「姐《ねえ》さん、こいつはどうも」
彼|等《ら》は満面の笑みになる。その後の仕事の張り切りぶりは言わずもがなであった。
茅場町の裏店《うらだな》から荷物を運ぶ時は、ちょうどお文に昼のお座敷が掛かったので手伝いには行けなかった。
荷物は大八車《だいはちぐるま》一つで間に合うことだし、隣家の女房のお春も手伝ってくれるという。住人の一人一人に挨拶をしなければならなかったが、それは伊三次に任せることにした。特に、向かいのお須賀には、くれぐれもよろしく言っておくれとお文は念を押した。お須賀に火傷《やけど》をさせてしまった負い目が、まだお文を捉《とら》えて離さなかった。
ようやく家財道具を収《おさ》めるべき所に収め、掃除をしてひと息つくと、お文は隣り近所に引っ越し蕎麦を振る舞い、手拭いを差し出した。近所は「ご丁寧に。こちらこそよろしく」と恐縮していた。
引っ越し貧乏とはよく言ったものである。
そのためにお文は手持ちの金をあらかた遣《つか》い果たし、伊三次も懐から巾着を取り出して、残った小銭をみみっちく数える始末であった。
「また稼げばいいのさ。稼ぐに追いつく貧乏なし、というだろ?」
お文は引っ越し祝いに不破友之進《ふわとものしん》から届けられた薦樽《こもだる》から柄杓《ひしやく》で酒を掬《すく》うと、喉に流し入れた。
「灘《なだ》の酒だね、いい味だよ」
お文がそう言うと伊三次は苦笑して鼻を鳴らした。
「全く、芸者の金の遣い方を、今度という今度ほど思い知ったことはなかったぜ」
伊三次は呆れたような、感心したような顔で言う。お文は新しい畳の感触を確かめるように掌《て》で撫でながら「お前さん、いい家だねえ。ようやく裏店から一軒家に昇格だ。ささ、これからは張り切ってお稼ぎよ。この次は床を構える株の算段だよ」と豪気に言い放った。
伊三次は大袈裟なため息をついて見せた。
佐内町は新場《しんば》という魚河岸の裏手にある町なので朝夕は特に活気がある。楓川《かえでがわ》に伝馬船が何艘も留まり、新場の男達が忙しく荷を運ぶ。ぼやぼやしていたら突き飛ばされそうな勢いである。新鮮な魚が手に入りやすい所なので料理茶屋も多い。また、江戸橋の近くには活鯛屋敷があり、そこは幕府の魚台所となっていて、中に大きな生簀《いけす》が設《しつら》えてあった。
日本橋の芸者になったお文にとっても佐内町は便利のよい場所だった。
お文は早く|おこな《ヽヽヽ》を呼びよせて身の周りの世話をさせるつもりでいたが、おこなは親戚の小母さんが病《やまい》に倒れているので、その看病にもう少し掛かるという。しばらくの間は不自由を我慢しなければならなかった。
引っ越しして間もなく、お文は音羽町の料理茶屋「島村」のお座敷に呼ばれた。
島村は深川の平清《ひらせい》や山谷の八百善《やおぜん》から比べたら、格は一段下がるというものの、五歩に一楼、十歩に一閣と言われるほど増えた料理茶屋の中で立派に大関を張る見世《みせ》だった。鯛料理が客の評判を呼んでいる。
島村の客は佐内町の箸屋《はしや》「翁屋《おきなや》」の一族であった。
何んでも隠居している大旦那の米寿《べいじゆ》の祝いということである。達者な家族で、大旦那は八十八、その妻は八十一。息子は五十七、連れ合いは四十九。さらに孫は二十六、連れ合い十八と、今まで誰欠けることなく無事に三代の夫婦が一つ屋根の下でなかよく暮して来たのである。まことに倖せな家族である。
お文は二十畳の大広間に親戚縁者を呼び寄せた中、八十八の大旦那が口を|むぐむぐ《ヽヽヽヽ》させながら、これも老いた妻の助けを借りて升掻《ますかき》を切る様子を微笑みながら眺めた。
升掻は米寿を迎えた老人が升に盛った穀物を竹の棒でならす行事である。老人の長命にあやかりたいと、生まれた子供の名づけ親を頼まれることも多い。
升掻が済むと、呼ばれた芸者衆は賑やかに三味線や太鼓を鳴らして、おめでたい唄や踊りを披露した。お文も深川仕込みの男踊りをひと節《ふし》舞った後に、大旦那の息子である翁屋|八兵衛《はちべえ》から銚子の酒を振る舞われた。
八兵衛は先刻から訝《いぶか》しい視線をお文に送っていた。
「つかぬことを伺いますが、以前にどこかでお会いしたことがありましたでしょうか。いや、姐さんの顔にどうも見覚えがあるような気がしたものですから」
八兵衛は小太り短躯《たんく》の男であるが、商売人らしい柔和な微笑を絶やさない。八兵衛の連れ合いが横でくすりと笑った。連れ合いは、少し白髪の混じっている丸髷《まるまげ》をきれいに結い、紋付羽織を上品に着こなしている。笑顔に愛嬌があった。
「吉五郎さんの後に引っ越していらした髪結いさんのご新造《しん》さんですよ。先日、ご挨拶にお見えになったじゃありませんか」
連れ合いの|おつな《ヽヽヽ》は夫に教えた。
「おや、そうでしたか。お美しく着飾っておいでなので気がつきませんでした。芸者さんがご近所の方になるとは嬉しい限りですなあ。元はどちらにいらっしゃいましたか」
八兵衛はお文の飲みっぷりに惚れ惚れした表情で訊《き》く。
「深川におりました」
「辰巳の芸者さんですか。どうりで気《き》っ風《ぷう》がいいと思いましたよ」
「畏《おそ》れ入ります」
お文は盃を盃洗《はいせん》で濯《すす》ぐと、八兵衛に酌《しやく》をした。
「本日は本当におめでとう存じます。わっちも大旦那の長生きにあやかりたいものですよ」
「皆さん、そうおっしゃいます。家族が無事に暮せるのは何よりの倖せでございます。親父は、昔は大層苦労しましたが、隠居してからこの方《かた》、うまい物を食べ、芝居見物や茶会に出かけて楽しんでおりました。長生きはそのせいもありましょう」
「安気《あんき》に暮せるのは旦那や若旦那がお店を守《も》り立てているからですよ」
お文はお世辞でもなく言った。
「そう言っていただけますか。いや嬉しいなあ。これ、おつな、わたしは桃太郎姐さんに褒《ほ》められましたよ」
八兵衛はおつなに得意そうに言った。
「ようございましたねえ、お前様」
おつなは満面の笑みで相槌《あいづち》を打った。亭主が何か言ったら、それに素直に応えることも夫婦円満のコツらしい。お文はおつなの鷹揚《おうよう》な仕種を真似したいものだとつくづく思った。
ふと、おつなの傍《かたわ》らを見れば、若夫婦が顔をすり寄せて仲睦まじい。十八の嫁は亭主の口に「|あーん《ヽヽヽ》して」などと、料理を運んでいるのだ。まるで絵に描いたような家族であった。
「姐さん、せっかくですから親父の所にも行って、お愛想の一つもして下さいな。親父はあれで若い女が好きでして」
八兵衛はそんなことを言った。
「旦那、わっちはもう若くはござんせんよ。今日呼ばれた芸者衆の中では一番|年増《としま》なんですよ」
「親父から見たら姐さんは紛《まぎ》れもなく若い女ですって」
八兵衛は褒めているのか、けなしているのか訳のわからないことを言ってお文を促した。腰を上げたお文に、おつなは若い嫁に声を掛けた。
「これ、お里《さと》。芸者さんがお爺さんにお酌に行って下さるそうだ。あんたはお爺さんの喋ることを教えてやっておくれ」
「あい」
お里は可愛い声で返事をした。大旦那の世話をまめに見ているからこそ、話す言葉も理解できるのだろう。お文はふっと笑った。
「本日は米寿をお迎えになり、まことにおめでとう存じます。桃太郎でござんす。よろしくお願い致します」
お文は翁屋|九兵衛《くへえ》の前で丁寧に三つ指を突いて頭を下げた。大旦那が九兵衛、息子が八兵衛、その息子が七兵衛と名前の数が一つずつ少なくなっている。さしずめ七兵衛に息子が生まれたら六兵衛になるのだろうとお文は当たりをつけていた。むぐむぐの九兵衛が何やら呟《つぶや》いた。お里がくすりと笑った。お文は九兵衛の言ったことが理解できない。
「ご新造さん、大旦那は何んとおっしゃったのですか」
お文は怪訝《けげん》な顔でお里に訊く。
「お姐さんが桃太郎なら猿《さる》や雉《きじ》はどこにいる、とおっしゃいました」
「あら……」
呆気《あつけ》に取られたような顔のお文に九兵衛は震える手で盃を差し出した。お文はそれに銚子の酒を注いだ。九兵衛がまた、何やら呟く。
お文はお里の口許を見た。
「お年はお幾つですかって」
「まあ、大旦那、野暮でござんすねえ。芸者に年なんざ訊いてはいけませんよ」
お文は悪戯《いたずら》っぽい顔で窘《たしな》めた。
「オソレイリヤノキシモジン」
「畏《おそ》れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしもじん》だそうです」
お里が続けた。
「ええ、わかりましたよ」
最初は面喰らったが注意深く耳を傾けていれば九兵衛の言葉がわかるような気がした。
話の合間に九兵衛の連れ合いが鯛のお造りのひと切れを口許に運んでやっている。連れ合いには表情が乏《とぼ》しく、ただ機械的に九兵衛の世話を焼いているような感じである。
「大奥様もお見受けしたところ、お達者でようございますね」
お文は愛想を言った。
「|わたい《ヽヽヽ》はこの人の世話で毎日忙しくて忙しくて……もう、我儘《わがまま》な人なんですよ」
連れ合いのお染《そめ》は存外にはきはきした声で応えた。
「|オソソ《ヽヽヽ》、グチハヤメ」
「お婆様、愚痴はおやめなさいだそうですよ」
お里が口を挟んだ。
「嫌やですよ、お爺さん。|おそそ《ヽヽヽ》だなんて。わたいはお染《そめ》」
「オソメモオソソモ、|ト《ヽ》ナジコト」
九兵衛の言葉にお文は思わず|ぷッ《ヽヽ》と噴《ふ》いた。
お染もおそそも同じことだというのが、ふるっている。
「お姐さんはお爺様の言葉がわかるようですね。あたしはうちの人の所へ戻っていいでしょうか」
お里は上目遣いでお文に訊いた。
「あい、お世話様でござんす。若旦那が退屈そうにしておりますからね」
お文はそう言ってお里を席に戻した。ほどなく、猫がじゃれ合うように二人は料理を摘み、酒を酌み交わす。お里はその若さの割に結構いける口らしい。
「大旦那、長生きのコツをわっちにも教えて下さいまし」
お文はひと膝《ひざ》進めて九兵衛に訊いた。お文が九兵衛の相手をしている間に、お染は慌てて自分の膳の料理を口に運んだ。
「|シジュウ《ヽヽヽヽ》スギタラ、|オイレ《ヽヽヽ》スル。ソイカラ、イイ|キモン《ヽヽヽ》キテ、ウマイモンクッテ|アスブ《ヽヽヽ》」
四十歳を過ぎたら衣服を調えて、うまい料理を食べる楽しみを持つことだと九兵衛は言ったが、「おいれ」という言葉がわからなかった。お里を早く戻し過ぎたかとお文は少し後悔していた。
おいれが「老入れ(老いの入前《いりまえ》)」のことだとわかったのはお座敷がお開きになり、芸妓屋の「前田」に戻ってお内儀《かみ》から花代を受け取る時になってからだった。
お内儀の|おこう《ヽヽヽ》は若い芸者に花代を渡す時、「ぱっぱ、ぱっぱと遣うんじゃないよ。若い内は始末(節約)して老入れの金を貯めておかなきゃ、年取ってから寂しい思いをするんだからね」と言ったのだ。
老入れは老後を暮す金のこと、または老後そのものを指すこともある。
合点のいったお文は「翁屋の大旦那も老入れが大切だとおっしゃっておりましたよ」と、おこうにとも、傍《そば》の若い梅奴《うめやつこ》にともなく言った。
「そうだよ、翁屋のご隠居がいいたとえだ。末はあんなふうに暮したいものさ」とおこうは羨ましそうに応えた。おこうの年は四十半ばだと聞いていた。体格のよい女で性格もおおらかである。お文はおこうの人柄に魅かれて前田の世話になることを決めたのだ。
「そうは言っても、あたしら芸者は着物もいるし、帯もいる。姉さんもいつまでも借り着はしていられないから、そろそろ着物を新調しようかと考えているんでしょう? 引っ越ししたばかりだし、何んにつけても銭は掛かり、老入れどころか晦日《みそか》まで暮せるかどうかも心許ないというものですよね」
十八の梅奴はお文の懐具合を察してでもいるようにずけずけ言う。借り着で肩身の狭い思いをしていたお文の胸には梅奴の言葉がこたえた。おこうは「梅奴!」と声を荒らげた。
「桃太郎は好きで借り着をしている訳じゃない。深川の火事で家が丸焼けになり、いい着物も帯もなくしてしまったんだ。余計なことをお言いでないよ」
おこうはお文を庇《かば》ってくれた。おこうの気持ちが心底ありがたかった。
「いえ、おかあさん、梅奴の言うことも当たっておりますよ。わっちもいつまでも借り着じゃ済まされない。そんなことは芸者の名折れだ。早くお金を貯めて自前の衣裳にするつもりでござんすよ。それまで、もちっと待って下さいましな」
お文は殊勝に言った。
「無理をすることはないよ。ぼちぼちおやり」
おこうはお文に笑った。梅奴は首を竦《すく》めて二階の自分の部屋に引き上げた。
お文が普段着に着替え、長襦袢や腰紐を風呂敷に包んでいると、おこうが「お茶を淹《い》れるから飲んでおゆき」と声を掛けた。
内所で一緒に茶を飲みながら、おこうは翁屋九兵衛の話をぽつりぽつりと語り始めた。九兵衛は日本橋界隈では有名な人物であった。
九兵衛は、もとは貧しい家の生まれで兄弟も多く、口減らしのために八歳の時から炭屋へ奉公に出されたという。毎日小さい身体で炭を積んだ大八車を引いて得意先に品物を届ける仕事をしていた。その姿があまりに哀れに見えたのか、坂道の下に立ち、車の後押しをして駄賃を稼ぐ「立ちんぼう」からも同情され、只で後押しをされたこともあった。
同じ店の年上の小僧から立ちんぼうに情けを掛けられた奴、と揶揄《やゆ》されたことが九兵衛の心をいたく傷つけたようだ。自分は絶対に分限者《ぶげんしや》(財産家)になってやると堅く心に誓ったという。
しかし、生き馬の目を抜く江戸の町には、炭屋の小僧が分限者になる術《すべ》は、おいそれと見つからなかった。それでも九兵衛は元手なしに大金を得る方法を考え続けた。
ある日、いつものように得意先に品物を届けた九兵衛が大八を引きながら店に戻ろうとした時、大工の集団に出くわした。おおかた大名屋敷の普請の帰りででもあったのだろう。
後ろからついて行く大工見習いは鉋屑《かんなくず》や木屑の荷を担《かつ》いでいた。見習いの担いだ荷から上等の檜《ひのき》の木屑が道にこぼれ落ちた。
九兵衛がそれを拾い集めると、帰るまでに一荷《いつか》ほどにもなった。ちょうど棒手振《ぼてふ》りが両方の天秤棒《てんびんぼう》に担ぐぐらいの量である。九兵衛はその木屑を売って二百五十文の利を得た。
九兵衛が文字通り只で金を得た最初である。
翌日から九兵衛は、仕事の帰りには努めて大工の集まりそうな所を訪れ、木屑を拾い集めた。
さらに九兵衛は集めた木屑から箸を造ることを思いつき、それを小売りの店に卸《おろ》して今日の翁屋の基礎を築いたのである。
七十になる頃には佐内町、両国橋近くの米沢町の店の他に向島の別邸、佐内町の町内にも裏店を持ち、店蔵に十万両の金がある分限者となったのである。
九兵衛はその頃から店を息子に預け、自分は芝居見物や音曲の稽古、茶会などに足繁く通うようになる。うまい料理に舌鼓を打ち、毎晩一合の酒を欠かさず飲む。老後に楽しみを持ったことが九兵衛の長生きに大いに貢献したようだ。
お文は改めて翁屋九兵衛の見事な生き方に感心していた。とは言え、九兵衛の真似はお文や伊三次にできるものではない。九兵衛の若かった頃は世の中もそれなりに呑気で、一荷の木屑も目くじらは立てられなかったようだ。
今は一荷の木屑さえ人は、只ではくれない。
結局、人の考えつかないことを先に実行する人間が勝ちかとお文は思った。
佐内町の家はお文がお座敷に出ると、伊三次が仕事から戻る夕方過ぎまで留守にすることが多い。その時は雨戸を閉《た》て、隣りの小間物屋の年寄り夫婦に声を掛けてお文は出かける。廻り髪結いの他に同心の小者《こもの》を務めている伊三次は夜も家を空けることが少なくなかった。
お文は四つ(午後十時頃)には家に帰る。
伊三次が戻っていなければ冷や飯で茶漬けを掻き込み、先に寝てしまう。じっと待っていたところで帰るものか、帰らないものか埒《らち》が明かなかったからだ。
お文は亭主持ちなので前田のお内儀は、毎晩はお座敷を頼まない。せいぜいが二日に一度、三日に一度という割合である。お座敷のない時、お文も人並の女房に戻って家の中のことをこなした。茅場町の裏店で半年ほど暮し、家の中のことは何んとかできるようにもなっていた。本当はおこなに早く来て貰い、自分は毎日でもお座敷に出たいのが正直な気持ちであった。
その日もお座敷が掛からなかったので、お文は夕方に近所へ買物に出かけ、晩飯の用意を始めていた。
珍しく伊三次が早く戻って来たので「もう、仕事は仕舞いかえ」と訊くと、廻りの仕事は終わったが、暮六つ(午後六時頃)に京橋の自身番で不破友之進と待ち合わせをしているという。どうやら他の小者達もそこに集まるようだ。
「厄介な事件が持ちあがったのかえ」
お文は心配そうに言うと、まあな、と伊三次はあっさり応えた。時間が空いたので湯屋に行き、晩飯を済ませてから出かけるという。
伊三次が台所の棚から湯桶を取り上げた時、土間口から子供の声で「|おい《ヽヽ》ちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。
お文が出て行くと、湯屋に行って髪を洗った様子の七、八歳ほどの利《き》かん気《き》な顔の少年が立っていた。
「何かご用かえ」
お文は笑顔で訊いた。
「ここは髪結いのうちだろ? 髪結ってくれ」
ぶっきらぼうに応える。お文は後ろを振り返って「お前さん……」と呼んだ。
湯桶を抱えた伊三次が「お前ェ、どこの餓鬼だ」と訊いた。
「九兵衛|店《だな》の岩次《いわじ》の息子」
翁屋九兵衛が家主となる近所の裏店だった。
岩次は新場の魚屋「魚佐《うおさ》」に奉公している男だが、弥八と似たような年頃に思っていたので、目の前の少年の父親と聞かされて心底二人は驚いた。しかし、言われて見ると岩次と少年の顔は恐ろしくよく似ていた。
「おれは確かに髪結いだが、家で商売をしねェことになっているのよ。悪いが他を当たってくれ。親父の馴染みの床《とこ》があるだろ? そこへ行きな」
伊三次はあっさり断った。少年の顔が悔しそうに歪んだ。洗った髪はひとまとめにして白い|きれ《ヽヽ》で括《くく》られていた。
「おいら、鷺床《さぎどこ》は嫌《き》れェだ。あすこの親父が気に喰わねェ。べちゃべちゃ下らねェことを言いやがる」
鷺床は町内にある床屋だった。
「そいつはお前ェが可愛いから言うんだ。大目に見てやんな」
「やだね。鷺床に行くくらいなら、このままでいるわ」
「おう、それもいい。なに餓鬼のことだ。頭なんざ結わなくても遊ぶのに困ることもねェ」
「お前さん……」
お文が見兼ねて口を挟んだ。湯屋で頭を洗い、髪床で髪を結って来いと親に言われたからには、何か特別なことがあるのだと思った。
案の定、少年は「もう、|あす《ヽヽ》ばれねェ。おいら、明日から|ちゃん《ヽヽヽ》と一緒に魚佐で働くんだ」と応えた。
「何んだ、奉公に上がるってか? そいじゃ、そのままにもしておかれねェな」
伊三次は少し弱った顔で小鬢《こびん》を掻いた。床屋の株がない廻り髪結いは自宅で商売ができない決まりになっている。もしもそれを破れば髪結い組合から訴えられて商売ができなくなる恐れがあった。
「お前さん、やっておやりよ。坊のはなむけじゃないか」
お文は、そう言わずにはいられなかった。
「お前ェ、名前ェは?」
「九兵衛《くへえ》」
「あん?」
伊三次は呆気に取られた。それはお文も同じだった。九兵衛は二人の反応を予想していたかのように不機嫌な顔になった。
「翁屋のご隠居と同じ名前だね?」
お文は確かめるように九兵衛に訊く。九兵衛はこくりと肯いた。
「きっとお前ェの親父は翁屋の隠居にあやかりてェと同じ名前をつけたんだな」
伊三次の言葉に「違《ちが》わい、ご隠居がおいらに手前ェの名前ェをつけたんだ」と、むきになって応えた。
「あのお人らしい。坊、いい名前をつけておもらいだね。きっと大きくなったら翁屋のような大店の主人におなりだろうよ」
お文は九兵衛を持ち上げるように言った。
「おう、九兵衛よ。おれの所でやって貰ったと人に喋らねェか」
伊三次は湯桶を傍らに置くと、もう商売道具の入った台箱《だいばこ》に手を伸ばしていた。
「喋らない」
九兵衛はきっぱりと応え唇を噛み締めた。
翌日にお文は九兵衛の母親から礼を言われた。手間賃を取らなかったので申し訳ないと、わざわざ持って来たのだ。お文はそれをやんわりと制して「うちの人は家で商売をしないんですよ。廻りの髪結いなんです。坊ちゃんが初めて奉公に出ると聞いたものですから、ほんの気持ちでやったんですよ。どうぞ、気にしないで下さいましな」と言った。
九兵衛の母親のお梶《かじ》は目も鼻もちんまりとして小さい顔の女だった。身なりにさほど構わず所帯やつれも感じられるが、年はお文より若いのだろうと当たりをつけていた。
この度、魚佐では奉公している者の息子で適当なのが何人か集められたらしい。九兵衛もその中の一人であった。早くから仕事を覚えさせることが新場の将来に繋がると魚佐の主は考えたようだ。
「面倒を起こさなきゃいいんですけど……」
お梶は九兵衛のこれからのことを大層心配する。
「大丈夫ですよ。坊ちゃんはしっかりしたお子さんですから。それにお父っつぁんとそっくりで……」
「そうなんですよ。|おみきどっくり《ヽヽヽヽヽヽヽ》と言われております。うちの人は他人様にそう言われる度に、|でれっ《ヽヽヽ》と締まりのない顔になるんですよ」
「さぞ嬉しいのでしょうね」
「ええ、何しろようやくできた子供ですので」
「………」
「あの子の前にあたし、二人も子を流しているんですよ。九兵衛が赤ん坊の頃だって、いつ死んでもおかしくないような病になりましてねえ、少しぐらい親の言うことを聞かなくても丈夫が一番と育てたものですから、すっかり我儘な子供になってしまいました。ねえ、ろくに知らない家に行って髪を結ってくれだなんて……さぞかし驚かれましたでしょう?」
「いいえ、たまたまうちの人が早めに戻っていたものですから、お役に立ってよかったですよ」
「九兵衛、とても喜んでおりましたよ。極上上吉《ごくじようじようきち》の髪結いだって……」
「あら……」
「本当ですよ。あたしもそう思いました。とても似合う」
お梶はしみじみした口調で言った。お文も自分が褒められたように嬉しくなった。
「お梶さん、うちの人は廻りの髪結いなので家では商売ができませんが、そちらのお家の方に呼んでいただけるなら、喜んでこれからもやらせていただきますよ」
「そんな、あんな狭苦しい所で……」
「ご遠慮なく。わっちもついこの間まで茅場町の長屋にいたんですよ」
「滅多にお願いすることはないと思いますけど、その時はお声を掛けますのでよろしくお願い致します」
お文は頭を下げたお梶に慌てて引っ越しの時の手拭いを渡した。お梶は嬉しそうに帰って行った。
土間口に鰺《あじ》の十匹も入った桶が置かれていたのはその日の夕方のことであった。岩次が髪結いの礼に持って来たのだ。
伊三次が剃刀《かみそり》を砥石で研《と》ぎながら「なあ」とお文を振り返った。お文は翌日の朝飯の米を研いで釜に蓋をすると、「|よッ《ヽヽ》」と掛け声を入れて竈《かまど》の上にのせた。晩飯は鰺を焼いたが、二人暮しでは多過ぎて隣家の年寄り夫婦にお裾分けした。
「粟餅《あわもち》があるよ。前田のお内儀さんに貰ったんだ」
甘い物の催促かとお文は先回りして応える。
「そうじゃねェ」
「いらないのかえ」
「いらねェこともねェが……」
「何んだねえ、はっきりおしよ」
お文は前垂れで手を拭きながら座敷に上がり、茶道具を引き寄せた。
「弥八の様子がおかしいんだ」
伊三次は研いだ剃刀の刃を行灯《あんどん》にかざして研ぎ具合を確かめてから言った。
「どうおかしいのさ」
|おみつ《ヽヽヽ》と所帯を持ち、子供も生まれるというのに女でもできたのだろうか。お文は最初、そちらの方を心配した。
「昨夜《ゆんべ》も来ていなかったし、留さんに訊いても、はっきりしたことは言わねェんだ。湯屋の仕事はしているみてェだが……」
伊三次は腑《ふ》に落ちない様子で言う。
「そいじゃ、湯屋が忙しいから裏の仕事の方は留蔵さんに任せているんだろう」
お文は神棚の粟餅の皿を取り上げると、茶の入った湯呑と一緒に火鉢の猫板に置いた。伊三次は粟餅に手を伸ばし、口に放り入れた。
「番台にゃ、この頃は留さんか、おかみさんが座っていて、おみつの姿も見えねェのよ」
伊三次は粟餅を咀嚼《そしやく》しながら、もごもごと続けた。
「おみつ、佐賀町に戻ったんだろうか」
お文は思案顔で自分も湯呑の茶を啜った。
「佐賀町で子を産むと言っていたのか?」
「いいや、はっきりとは聞いていないよ。留蔵さんのおかみさんが大層張り切っていたから、わっちはてっきり、京橋で産むものだと思っていたのさ」
「最初の子は実の母親の傍にいた方が安心するんじゃねェのかい」
「それもそうだね。だけど、生まれるのは来年になってからだよ。戻るにしても早過ぎるんじゃないかえ」
「夫婦喧嘩して帰っちまうとかよ」
「まさか……」
そう言いながら、お文は何やら胸騒ぎがしていた。
「お前さん、ちょいと弥八に訊いて来ておくれな」
「これからか?」
「まだ松の湯はやっているだろ? 裏からでも行ってさ」
「………」
伊三次は面倒に思ったのか返事をしなかった。黙って砥石の方を向いて研ぎの続きを始めた。
「お前さんが嫌やなら、わっちが様子を見てくる」
腰を浮かしたお文に伊三次は短い舌打ちをして「行ってきてやらァ」と渋々言った。
伊三次が研ぎの後片付けをして出て行ったのは五つ(午後八時頃)を過ぎた辺りだった。
何事もなければ佐内町から京橋まで、さほど時間は掛からないはずである。しかし、伊三次はそれからしばらく戻って来なかった。
手持ち無沙汰にお文は長襦袢に半襟を掛けたり、湯屋で使う糠袋《ぬかぶくろ》を拵えて時間を潰した。
ようやく伊三次が戻って来たのは町木戸が閉じられる頃だった。伊三次は雨戸につけてある引き戸をくぐり、土間口に入ると、すぐには座敷に上がらず、台所に回って水瓶《みずがめ》の蓋を取り、水を飲んでいる様子だった。
「お前さん、どうだった?」
お文は間仕切りの暖簾《のれん》を引き上げ、伊三次の背中に恐る恐る声を掛けた。
深いため息が答えだったのだろうか。振り向いた伊三次の喉仏が大きく上下した。
「おみつ、子が流れたそうだ」
伊三次はわざと素っ気ない口調で言った。
「そんな……」
お文はそう言ったきり、後の言葉が続かなかった。伊三次は立ったままのお文の横を擦り抜け、茶の間に入ると火鉢の傍に|どん《ヽヽ》と腰を下ろした。
「何してる、こっちへ来な」
伊三次は呆然としているお文に言った。
「うん……」
「何が原因か見当もつかねェが、少し前からおみつの様子がおかしかったらしい。医者に安静にしろと言われていたんで、おみつはおとなしく寝ていたそうだが、昨日の昼から、とんでもなく苦しみ出して、医者と産婆が駆けつけて介抱したが、とうとう今朝方、腹の子はいけなくなっちまったということだ」
「そう……おみつ、可哀想に」
お文は気の抜けた声で言った。おみつに子が生まれたら、抱かせて貰うのを大層楽しみにしていたのだ。
「おみつは泣いて泣いて、慰める弥八も一緒に泣いて、見ていられなかったぜ」
伊三次はやり切れない顔で言った。
「最初の子だからねえ、無理もないよ」
「こんなことになるたァ、夢にも思わねェよ。全く世の中は何が起きるか知れたもんじゃねェな」
「………」
「弥八が自棄《やけ》にならなきゃいいけどよ」
伊三次は若い弥八のことを心配する。子供は生まれても、五歳頃になるまで安心はできない。幼い内に亡くなる子供の数は江戸でも驚くほど多い。流産も珍しいことではなかった。しかし、身体だけは丈夫なおみつに、こんなことが起きるとは思いも寄らない。
「不破の奥様は大丈夫だろうね」
お文は不安な気持ちで訊いた。不破の妻の|いなみ《ヽヽヽ》も妊娠中であった。
「留さんは、旦那が気にするから、おみつのことは、しばらく内緒にすると言っていたぜ」
「そうだねえ、奥様がそれを聞いて胸にぐっとこたえてもよくないし……」
「全く何んて日だ。起きているとろくなことが起こらねェ。さっさと寝ちまうに限る」
伊三次はそう言って、そそくさと奥の間に引き上げた。
茶の間に残されたお文は、しばらくじっと座っていた。でき上がった紅絹《もみ》の糠袋《ぬかぶくろ》を手に取って、しみじみ眺める。何事もなければ、おみつに少し持って行ってやろうと考えていたのだ。
おみつの泣き顔は滅多に見たことがなかった。気の強い娘でもあった。それが身も世もなく泣いたのは、よほど流れた子供のことが悲しかったのだろう。
どんな言葉も、今のおみつには慰めにならないだろう。お文はしばらくそっとしておこうと思った。
伊三次の寝息がもう聞こえていた。深まる秋はお文に気鬱《きうつ》をもたらす。なまじ夜が長いから余計なことを考えるのかも知れない。ひどく疲れも覚えた。お文はのろのろと帯を解き、着物を脱いだ。行灯を消す刹那、糠袋の紅絹の色がやけに鮮やかに見えた。
魚佐の半纏《はんてん》を着た九兵衛は父親と一緒にお文の家の前を通って行く。お文は二人の姿を毎朝見掛けるようになった。岩次は照れたような誇らしいような顔でお文に挨拶し、九兵衛も「|おはよ《ヽヽヽ》」と、ぶっきらぼうに言う。
「しっかりお稼ぎよ」
お文は張り切った声を上げた。振り返った九兵衛は白目を剥《む》いておどけた顔を拵《こしら》える。
岩次が何してるという感じで九兵衛の頭を柔かく張った。生意気で可愛い。男の子もいいものだとお文は思う。
その九兵衛が魚佐に通い出して半月も経《た》った頃だろうか、真っ昼間に血相を変えてお文の家に飛び込んで来た。
お文は晩飯の用意を調えてから湯屋に行き、戻ったばかりだった。お座敷のある時は晩飯の用意も早くから始める。出がけにばたばたしたくないためである。
「どうしたんだえ」
お文の問い掛けに答える余裕もなく、九兵衛は「小母《おば》さん、匿《かくま》ってくれ」と早口で言うと勝手に座敷に上がり、奥の間の襖《ふすま》の陰に身を隠した。
ほどなく岩次の怒号が外から聞こえた。九兵衛は何かしでかしたようだ。それが父親の怒りを買っていた。
岩次の声が聞こえなくなると、お文は襖の所へ様子を見に行った。九兵衛は膝を抱えて泣いていた。
「お父っつぁん、相当に頭に血を昇らせていたよ。坊はよほどのことをしたらしいね」
九兵衛の泣き声は高くなる。
「小母さんが一緒に行ってやるから、お父っつぁんに謝ることだ」
九兵衛は泣きながら、いやいやと、かぶりを振った。
「だけど、いつまでもここにはいられないんだよ。小母さんは仕事で出かけなければならないし……」
「留守番する……」
「明日も明後日《あさつて》も留守番するのかえ」
「………」
「おっ母さんが心配するよ」
「今帰るのは嫌やだ」
九兵衛はその時だけきっぱりと言った。
「そいじゃ、しばらくここにいていいことにするから、その代わり、訳を話しておくれでないか。場合によっちゃ、この小母さんがひと肌脱ごうというものだ」
九兵衛はすぐには口を開かなかったが、伊三次のために買って置いた菓子を出し、それを食べ終えた辺りから落ち着いてきた。
九兵衛がぽつりぽつりと話したことは、途中、辻褄が合わないところも多かったが、何んとか事情はわかった。魚佐で働いている男達が魚を入れた木樽を船から店に運び込む時、木樽から何匹か魚がこぼれる。男達はこぼれた魚の三匹や四匹など頓着しない。九兵衛を含めた五人の小僧は、こぼれた魚を拾って傍にあった魚桶に入れる。後でまとめて店に持って行くのだ。
持って行くと、大抵は番頭が、おっ母《か》ァに土産にしろと鷹揚に言った。
何しろ腕白《わんぱく》盛りの子供達である。誰が言い出したことやら、その余った魚を小売りの店に持って行こうという話が纏《まと》まった。相場よりぐんと安くすれば小さな魚屋は喜んで引き取るだろうと考えたのだ。果たして、その目論見《もくろみ》は当たり、子供達は番太《ばんた》の店で豪勢に買い喰いできるほどの駄賃をせしめた。
しかし、回が重なり、子供達の様子を見た近所の人からの知らせで仕業が呆気なくばれてしまったのだ。
魚佐の主は子供達を集め、誰が親玉かと厳しく訊いた。子供達がつるんでやったからには、それを焚《た》きつけた者がいると考えたらしい。子供達にすれば誰が親玉もあるものではない。やるか、よし、やるべえ、で始められたことだった。
お前か、お前か、主はひとりひとりの顔を見つめて訊いた。誰もおいらだとは応えなかった。業を煮やした主は、それなら子供達のすべてに辞めて貰うと結論を下した。
一人が親玉だと名乗り出れば、その子供を処分して今回のことに|けり《ヽヽ》をつけようとしていたらしい。九兵衛はどうせこのまま店を辞めさせられるなら、自分が名乗り出てもいいような気がして「おいらです」と白状した。そうしたら少なくとも他の四人の首は繋《つな》がる。
子供にしては見上げた義侠心だった。しかし、他の子供達は図に乗り、自分は嫌やだったのに九兵衛が無理やり誘っただの、おいらは何度もやめようと諭したけれど九兵衛は聞いてくれなかっただのと勝手を言い始めた。仕舞いには子供の話を真《ま》に受けた父親が岩次に喰って掛かり、喧嘩になったという。
お文は話を聞き終えると九兵衛の顔をしみじみ眺めた。ふっと笑みがこぼれた。
「魚を|ほまち《ヽヽヽ》したのは悪いことだが、その後の坊は……男らしかったよ」
小言が出るかと身構えていたのに思わぬ褒め言葉が出たことで九兵衛は驚いたような顔をした。
「ささ、わっちはこれから出かけなければならない。坊はそれじゃ、留守番をしておくれ。これからどうしたらいいのか、その間にとっくり考えることだ。もしも、わっちのいない間に小父さんが帰ってきたら一緒に晩飯を食べて、坊が小母さんに話してくれた通りのことを話すんだ。きっと小父さんも小母さんと同じことを言うと思うよ。小父さんがあんたのお父っつぁんの所に一緒に行ってくれると言ったらそうしてお貰い。男同士の方がいっそ話がまとまりやすい。いいね」
お文が念を押すと、九兵衛はこくりと肯いた。
お文が前田から家に戻った時、九兵衛の姿はなく、伊三次が茶の間で所在なげに腕枕をして寝そべっていた。
「おや、坊はようやく引き上げたようだね」
お文はほっとして伊三次の横に腰を下ろした。
「お前さん、坊と一緒に家の方に行ってやったのかえ」
「ああ」
伊三次は気のない返事をした。
「やっぱり魚佐は首になっちまうのかえ。坊が一人だけ責めを負うなんざ、間尺に合わないような気もするけどね」
お文は煙草盆を引き寄せ、煙管《きせる》に刻みを詰めて一服|点《つ》けた。伊三次がゆっくりと起き上がった。
「あの餓鬼の親父はやたら若く見えるが、あれでも三十一なんだと……」
「へえ、わっちは弥八と同じぐらいかと思っていたよ」
お文は九兵衛と瓜二つの岩次の顔を思い浮かべ、感心した声になった。
「形《なり》も若けェが頭ん中も若けェよ」
伊三次が皮肉な口調で言った。
「あの親父は手前ェの餓鬼を、運が悪かった、ついてねェと盛んにほざいていた」
「そんな、運がいいも悪いもあるものじゃないよ」
「うん。だからな、おれァ、言ってやった。他の餓鬼を庇《かば》って一人だけ名乗り出たのは見上げたもんだ、おれは九兵衛を男だと思いやすぜ、ってね」
「お前さんの言う通りだよ」
お文は大きく相槌を打った。
「ところが、男だろうが何んだろうが魚佐を辞めさせられることにゃ変わりがねェ、これからどうするんだと九兵衛を問い詰めてよ、また泣かして……」
「詫びを入れても駄目なのかえ。魚佐の親方もちょいと考えたら察しがつこうというものなのに」
「他の餓鬼どもがすっかり口裏合わせちまって、九兵衛一人が悪者よ。こいつは詫びを入れて済むことでもねェらしい」
「そうかい……可哀想に」
「話はまだ終わりじゃねェ。あの餓鬼はその内に突飛《とつぴ》なことを言い出してよ……」
「何んだえ」
「おれの弟子になりてェんだと」
「………」
お文は不意を衝《つ》かれて、ぐっと喉が詰まった。だが、すぐに笑いが込み上げた。いかにもあの九兵衛らしい。
「とんでもねェことを言う餓鬼だ。おれはまだ弟子なんざ取る器量はねェと、さんざ言ったが、今度はお袋が頭下げて、九兵衛がそう言うのだから、どうかそうしておくれと頼む始末よ。仕舞いにゃ、親父までそうしてくれろと一緒に頭下げてよう」
「引き受けたのかえ」
「嫌やになっちまうぜ。なに、給金なんざ、一人前になるまでいらねェ、飯も近所なんで、手前ェの所で喰わせるから心配するなと、こうよ」
お文は吐息をつき、天井の隅を眺めて思案顔した。
「お前さんが梅床に修業に出たのは幾つだっけ?」
「十二よ」
「でも、その前にお父っつぁんと一緒に大工の見習いをしていたんだろ? そっちは幾つから?」
「十《とお》だな」
「坊は年が明ければ九つ。さほど早過ぎるということもないだろう」
「………」
「自信がないのかえ」
お文は灰落としに雁首《がんくび》を打ちつけると伊三次の顔を覗き込んだ。
「姉ちゃんに皮肉を言われるよ。下の子供をおれに預けたいと前々から言っていたんだ。おれは邪魔臭くて何んの彼《か》んのと理屈をつけて断っていたのよ。姉ちゃんはきっと、手前ェの甥っ子より他人様の子を親身に面倒見るのかって言うに決まっている。ああ、やだやだ」
「じゃあ、ついでにそっちも引き受けたらいいんだ。掃除して洗濯して、留守番してくれるのなら、わっちとしても好都合だ。弟子なんざ最初の内は小間使いがおおかただ。そんなに難しく考えることはないよ」
「そいでお前ェは安心してお座敷づとめか? いい気なもんだ」
伊三次は皮肉に吐き捨てた。
「仕方がないじゃないか。世の中はこっちの勝手で動きはしないのさ。喰い扶持《ぶち》も掛からない弟子なんざ、お前さんに誂《あつら》えたようなものだ。これをいい機会だと思って了簡《りようけん》しな」
「全く、あの餓鬼が余計な男気《おとこぎ》を出すもんだから、とんでもねェことになったよ」
伊三次はくさくさした表情で言う。
「もしもお前さんが坊の立場だったら、口が裂けても自分がやったとは言わないだろうね」
お文は試しに訊いた。
「ああ。おれだったら言わねェ。だが、誰かが白状した暁にゃ、黙っちゃいられねェな。人に罪を被《かぶ》せて平気な子供がいるのはご時世か?」
伊三次は上目遣いでお文に言った。
「そうかも知れないよ」
九兵衛が伊三次の弟子になりたいと言い出したのは、情なしの友達に愛想が尽きたせいもあろう。それよりも髪結いの仕事を覚えて、自分は自分の道を行くと考えたのかも知れない。お文は九兵衛の中に、ある可能性を感じていた。伊達《だて》に分限者翁屋九兵衛と同じ名前を授けられてはいないと思った。
機会があったら、大旦那にその話をしてやろうと密《ひそ》かに考えていた。
小僧には小僧の恰好がある。お文は商家の小僧が縞のお仕着《しき》せの上に納戸色の油掛《あぶらが》け(胸まで覆う前掛け)をしているのを好ましく思っていたので、九兵衛にもそのような恰好をさせたいと思った。お梶に言うと、反物を買ってくれるのなら自分が仕立てると張り切った声を上げた。余計な掛かりが出たことより、仕立て代が浮いたと考えるのが、お文のご苦労なしなところである。
九兵衛は明六つの鐘が鳴ると、そそくさと朝飯を済ませてやって来る。伊三次は最近、不破の頭をやるより九兵衛の頭をやる方が先になった。床屋の小僧がそそけた頭をしていては話にならない。お蔭で九兵衛は毎日、きれいな頭をしているので、魚佐の子供達よりはるかに見栄《みば》えがするというものだった。
お梶が縫ったお仕着せと油掛けをつけさせると、さらに九兵衛の風采《ふうさい》は上がった。竹箒で家の前をせっせと掃除する九兵衛に近所の大人達は眼を細めた。
伊三次は足手纏《あしでまと》いになるので廻りの仕事に出る時は九兵衛を連れて行かないが、そのまま裏の仕事になる時は、どこそこに台箱を預けるので取りに行くようにと命じた。
九兵衛は腰も軽く出かけて行く。お文がしていた買物もすべて九兵衛がするようになった。お座敷で留守にする時は暮六つになると九兵衛は雨戸を閉めて自分の家に帰る。九兵衛は晩飯を済ませると寝てしまうようだが、お梶は自分が寝る前にそっと家を抜け出し、お文の家の様子を見に来てくれる。用心は以前と比べると格段によくなった。
雨降って地が固まるとは、このことだとお文は内心で独りごちた。
そのまま万事うまく行くものだとお文は呑気に構えていたが──。
二、三日前からお文は妙な心持ちがしていた。何か忘れものをしたように落ち着かない。
先月からこの方、毎月|巡《めぐ》って来るものの手当をしていないと思った。まさかまさかという気がした。お文は今まで子を孕《はら》んだことはなかった。自分は子のできない質《たち》ではないかと思っていたほどである。伊三次とつき合いが長いといっても、毎晩一緒にいた訳ではないし、伊三次が手に怪我を負い、しばらく深川の家で暮した時も、そんな兆《きざ》しは訪れて来なかった。
本当に一緒になったのは今年に入ってからだ。それにしたところで伊三次と閨《ねや》を共にするのは他の夫婦から見たら少ない方だろう。
引っ越しの忙しさで少し身体の調子が崩れているのだろうぐらいにお文は考えていた。
しかし、ある夜、呼ばれたお座敷で客に酒を注《つ》がれた時、全く喉を通らないことに気づいた。これはいよいよ、いよいよかとお文は思った。だが、そう思ったお文の気持ちは嬉しいというものではなかった。むしろ、難儀なことが持ち上がったというふうにしか考えられなかった。
正直、今は子供を育てるより新しい衣裳や帯を手に入れるために必死で稼がなければならなかったし、佐内町の暮しは、伊三次の稼ぎだけでは心許なかった。
それに、なぜ今なのだろうと思う。おみつが子を流して悲しい思いをしているというのに、それどころではない自分の方に子ができる。そんな皮肉が許されていいのだろうか。
お文は伊三次に告げることを躊躇していた。
何んだかまた、余計な荷物を伊三次に背負わせるような気がしてならなかった。
子ができていようがいまいが、時はお構いなしに過ぎる。お文は時の流れをこの時ほど不思議に思ったことはない。
昨日の自分と今日の自分は他人の目からはさほど変わりなく見える。けれど、腹の中に生きている子は確実に一日分の成長をするのだ。夜の間に音もなく降り積もった雪が、朝になって周りの景色を変え、人々を驚かすように、時も人の上に何かを積もらせる。
冬も近い江戸は時折、少し強い風が吹き、足許の落ち葉を舞い上げた。お文は落ち葉の色につかの間、眼を奪われた。銀杏《いちよう》の黄色が、もみじの赤が眼に滲《し》みる。かと思えば、楓川の水面が夕陽を浴びて、鏡の破片のように輝く様をぼんやり眺めることもある。そもそも、お文が、周りの景色に思いを馳せるというのが尋常ではなかった。
お文は前田から料理茶屋へ向かいながら、西の空に出た一番星がやけに鮮やかに見えた時、はっきりと自分の懐妊を意識した。誰に言われなくてもそれがわかった。獣《けもの》の雌もきっと周りの景色が普段と違って見えることで孕んだことを察するのかも知れない。そうお文は思う。
お文が八丁堀の産婆《さんば》の所へ出かけたのは、それから間もなくのことであった。佐内町にも産婆はいたが、何んとなく近所は恥ずかしい気がして、わざわざ八丁堀まで行ったのだ。
産婆のお浜《はま》は、お文が茅場町にいた頃、道で会えば挨拶をする顔見知りでもあった。
お浜は六十を過ぎた年寄りだが、まだまだ腕は衰えていない。今まで三百人もの赤ん坊を取り上げたと自慢していた。
お文のことは乳首の色を確かめ、腹を摩《さす》っただけで「はい、おめでとうさん。養生して元気なお子を産みなさいよ」とすぐに言った。
ぼんやりしていたことに、はっきりと結論が出た。
しかし、お浜の家を出ると途端に心細い気持ちになった。おみつの顔がやたら脳裏に浮かんだ。おみつにあんなことでもなかったら、お文は真っ先に伝えただろうと思う。きっとおみつは喜んでくれたはずだ。
佐内町の家に戻ると、拵えた紅絹の糠袋を五個ほど取り上げ、お文はやはり、おみつの所へ行くことにした。子ができたことを告げるつもりはなかったが、おみつの顔を見たら少し落ち着きそうな気がしたのだ。
九兵衛に、「ちょいと京橋の松の湯まで出かけてくるよ。おとなしく留守番しておくれね」と言った。
「おかみさん、ちゃんが夕方に魚を届けるから魚は買うなと言っていたよ」
九兵衛は慌てて言った。お文が喜ぶのを期待する顔だった。
「それはおかたじけだねえ。そいじゃ、晩飯は魚にしようか。うちの人も喜ぶだろうよ。何しろ、うちの人は魚喰いだからね」
「親方は魚の喰い方がうめェですよ。|きれえ《ヽヽヽ》に骨しか残さねェ。そいつはうちのちゃんと同じだ」
「あのね、九兵衛。お前ェは奉公人なんだから、ちゃんはおかしいよ。|てて親《ヽヽヽ》とお言い」
「はい」
「|はい《ヽヽ》よりも、|へい《ヽヽ》の方がすっきりして聞こえるよ」
「へい」
「ああ、いい返事だ。お前ェはいい子だよう」
お文は九兵衛に笑って外に出た。
お文は歩く道々、これからのことを思案した。腹が目立ってくれば当然、お座敷は休まなければならない。しかし、今すぐに前田のお内儀に打ち明けるつもりもなかった。稼げる内は稼ぐ。そしていよいよとなった時は覚悟を決めるのだ。酒が飲めないのは難儀だが、胃を壊して医者から酒を止められているとか何んとか理屈をつけよう。踊りや三味線は、これまで通り続けても大事はないだろう。太鼓を打つ時は腹の子が驚くかも知れないが。
お文はこれからのことに頭を巡らし、それなりの段取りをつけていた。
空はどんよりと厚い雲に覆われていた。もうすぐ冬が来て、師走になり、正月になり、初午、雛の節句、梅、桜……桜が散って梅雨が明けた頃にお文の腕は赤子を抱えるのだ。本当にそれが現実になるのだろうか。厄介に思っていた気持ちも嘘のようにどこかへ消えていた。お文は、少し昂《たかぶ》っていたのかも知れない。
松の湯の番台には留蔵の女房の|おやす《ヽヽヽ》が座っていた。
「まあ、お文さん……」
おやすはお文の顔を見て何やら居心地の悪そうな顔をしたが、それでもこくりと頭を下げた。
「おかみさん、おみつは落ち着きましたでしょうか」
お文も気後れを覚えておずおずと言った。
「お蔭様でと言いたいところですが、おみつはすっかり元気をなくしてしまいましてねえ、毎日|塞《ふさ》いでいるんですよ」
おやすは怒ったような表情で、やって来た客の湯銭を邪険に受け取った。夕方近い松の湯は女湯の方が混んでいた。お文は邪魔をしては悪いと思ったので「ちょいとおみつの顔を見てきますよ」と断りを入れた。
「お文さん、つかぬことを伺いますけれど……」
おやすは周りの客を気にしながら幾分声をひそめ、お文を引き留めた。お文は、こめかみに頭痛膏を貼ったおやすの顔を訝しそうに見た。
「何んでしょうか」
「おみつ、深川にいた時、男遊びをしていたなんてことはなかったでしょうね」
「………」
「いえね、男遊びの激しかった娘は子ができなかったり、できても流れ易いと聞いたものですから」
怒りがつき上がる。叫び出したいのをお文はようやく堪《こら》えた。
「そんなことは決してありませんよ」
お文の声が僅かに尖《とが》った。
「でも、ほら、弥八と一緒になる前におみつは|かどわかし《ヽヽヽヽヽ》に遭《あ》ってますでしょう? その時、何かあったんじゃないかとうちの人も言ってるんですけどねえ……」
言い難いことをずけずけ言うおやすの気が知れない。おみつもこんな姑では苦労すると思った。
「おかみさんは、おみつがお気に召さないようですね」
やんわりと皮肉を込めた。
「そんなことはありませんよ。弥八が気に入っている嫁をあたしらが四の五の言う筋合いもないし」
「でしたら余計な勘繰《かんぐ》りはなさらない方がお互いのためですよ。優しくしてやって下さいまし。わっちからもお願い致します」
お文は深々と頭を下げたが、思わず悔し涙が湧いた。それをおやすに見られたくないために、そそくさと表に出た。
松の湯の脇の小路をお文は入った。お文はしゅんと洟《はな》を啜り、襦袢の袖口で涙を拭った。
松の湯の裏手は釜場と母屋、それに奉公している二人の三助の塒《ねぐら》があった。母屋の隣りに新しい建物があり、そこが弥八とおみつの寝泊まりする所であった。
お文が足を止めたのは弥八の後ろ姿が目についたからだ。
弥八は身体を幾分|屈《かが》め、両膝を掴んだ恰好で床几《しようぎ》に座っているおみつに盛んに話し掛けていた。お文は隣りの家の壁にそって身を寄せた。声を掛けるのが憚《はばか》られるような気持ちがした。
「なあ、笑ってくれよ、おみつ。お前ェが塞いでいちゃ、こっちまで気がくさくさしてくらァ。大丈夫だって、おれはこんなことでお前ェを嫌れェになったりしねェからよう」
「………」
「起きてしまったことは仕方がねェじゃねェか」
「でも、おっ義母《か》さんは、とてもがっかりしているから、こっちも気が滅入るのよ」
「あの人はすぐに顔に出るからな。気にするなって」
「子供を産んだことがないから、あたしの気持ちなんてわからないのよ」
おみつは悔しまぎれに意地の悪い言い方をしていた。
「そんなことはねェよ。お前ェのことはずい分心配していたじゃねェか。また頑張って子供を拵えますって言えば、安心すらァ」
弥八は優しくおみつを宥《なだ》める。弥八はいい亭主だと心底、お文は思った。
「あたし、何んだか怖い。また駄目になりそうで……」
「大丈夫だって」
弥八の手がおみつの肩に置かれた。
「姉さん、何んにも言ってこない……あたしのこと心配していないのかしら」
姉さんが自分のことだとわかるまで、お文は少し時間が掛かった。張り切って「おみつ」と声を出すつもりが、おみつの次の言葉に肝《きも》が冷えた。
「いい気味だと思っているかも知れないわ。姉さん、子供ができないので苛々していたみたいだから」
「おみつ、いい加減にしねェか。いつものお前ェらしくもねェ」
さすがに弥八は呆れた顔になった。
「本当よ。あたしが子ができたと打ち明けた時の姉さんの顔、とっても悔しそうだった。あたし、わかるの」
聞いてはいられなかった。お文は慌てて踵《きびす》を返そうとして、持っていた糠袋を取り落とした。おみつと弥八が振り向いた。お文は何も言えなかった。そのまま小走りに通りに出た。
「姉さん……」
弥八の声が背中で聞こえたけれど、お文はもう、振り向きもしなかった。
弥八は追い掛けては来なかった。お文は胸の動悸を静めるため、京橋の中央辺りまで来て欄干《らんかん》から水の流れをじっと見つめた。
おみつを妹のように思っていた。それなのに、あの物言いは何んだろう。子が駄目になったことを、お文がいい気味だなどと思う訳がない。おみつに子ができたと聞かされた時は羨ましかったが、それは悔しいという気持ちからは、ほど遠いものだった。そんな了簡の狭い女だと思われていたことの方がむしろ悔しい。
おみつの言葉が思わぬほどお文を苛立たせていた。通り過ぎる人から「姐さん、どうかしたかね」と声を掛けられるまで、お文はそこに、つくねんと立ったままだった。
「早くお帰り。旦那さんが心配するよ」
人の顔が朧《おぼろ》に見えるたそがれ刻《どき》、声を掛けたのは翁屋八兵衛だった。お文はそれに気づくと慌てて頭を下げた。八兵衛の後ろには若い手代が控えていた。得意先にでも廻った帰りらしい。
「旦那……」
そう言ったきり、お文は思わず咽《むせ》んだ。
「送ってやろう。いつまでもこんな所にいてはいけないよ」
「ええ、わかっております。でも旦那、わっちは今日、とても悲しいことがあって、それで……」
お文はほろほろと泣いた。
「生きていると悲しいことは山ほどあるさ。ささ、帰ろ」
八兵衛はお文の肩に遠慮がちに腕を回して帰り道を促した。
空が暗みを増し、ぱらぱらと雨粒も落ちてきた。
「やあ、降ってきたぞ。急がないと濡れて風邪を引いちまう」
八兵衛は横のお文にとも、後ろの手代にともつかずに言う。
風混じりの雨が頬に痛い。斜めに降りしきる雨は地面を激しく叩いた。身体を前屈みにして先を進みながら、なぜかお文は、いつまでもその雨に打たれていたいと思った。
お文は、わざと顔を上げて降りしきる雨を受けた。
だが、八兵衛は「時雨だから、すぐに止むよ」と、お文を安心させるように温顔をほころばせた。
[#改ページ]
文庫のためのあとがき
[#地付き]宇江佐真理
まずタイトルありき。私の小説の書き方はタイトルが決まらなければ始められない。
適当なものが浮かばずタイトルを後回しにすると、焦点がぼやけてしまうことが多い。
これぞと思うタイトルが浮かぶと手帳に書きつけておく。最近は気に入ったタイトルを使いたいがために小説を書くようなところがなきにしもあらず。
実は、私はタイトルをつけるのが苦手なのだ。すばらしいタイトルを目にすると、羨望のため息をついている。
「誰《た》がために鐘は鳴る」と聞いただけで人道主義的な小説の世界がイメージされるだろう。
これを何とかパクって「誰がために八幡鐘《はちまんがね》は鳴る」とか、「寛永寺《かんえいじ》の鐘は鳴るなり」などと考えたこともあるが、どうも収《おさ》まりが悪い。やはり「誰がために鐘は鳴る」は「誰がために鐘は鳴る」でしかなく、そのまま借用する勇気は、幾ら私があつかましい女でも気が引ける。
さて、本書「さんだらぼっち」はタイトルに苦慮することの多い私にしては、あっさりと決まったものである。単行本にまとめる時、表題をそれにしたのにも迷いはなかった。担当の編集者も最初はとまどいを見せたが、時間が経《た》つ内にこれでよかったと思うようになったらしい。
しかし、どこからその言葉が出てきたのか、今では見当もつかない。ある日、ぽっと頭に浮かび、勝手にリフレインしていた。
毎度毎度「さんだらぼっち」と幻聴が起きれば、いやでも書かない訳にはいかない。
書き終えたら幻聴は止まったので、これはこの世のものではない何かが私に書かせたのかも知れない。物語の中で起きた童女の事件は実際に江戸時代に起きたものをヒントにしている。まあ、時にはこんなこともあるのだ。
作品の最後は「時雨てよ」。タイトルの後に「時雨てよ 足元が歪むほどに」という俳句を紹介している。海童《かいどう》という作者の句である。
海童は故夏目雅子さんの俳号である。
夏目さんは女優として有名であるが、実は俳句を詠《よ》む人だった。俳句は夫君の伊集院静氏のお導きだとしても、そこから作品の世界を拡げるのは、あくまでも本人である。
破調の句がお得意だったようだ。私はこれまでも幾つか彼女の句をタイトルに引用させていただいた。「余寒の雪」(文春文庫)もそうだ。
「富士の山 余寒の雪の 目にしみて」
なぜ彼女の句に魅《ひ》かれるのだろうか。手垢にまみれていない言葉、無邪気でありながら気品を感じさせる世界。夏目さんそのままの姿が俳句にも活写されているからだろう。
早世されたことが今更ながら惜しまれる。
「さんだらぼっち」の文庫化に当たり、梓澤要《あずさわかなめ》さんに解説をお願いした。私は初対面から梓澤さんの気さくなお人柄にすっかり魅かれてしまった。いつもお着物をお召しになり、愛猫と一緒に江戸の、いや東京の下町にお住まいだとか。女性らしい筆遣いで歴史小説を中心に時代小説をものされている。
ご無理をお願いして申し訳ないが、この借りは、いつかどこかで返すつもりだ。宇江佐は義理と人情で生きている女である。約束は守ります。
今シリーズは悲しい話が多くなってしまった。ハッピーエンドを身上にしている私としては読者にあいすまぬという気持ちでもいる。
この次は──(どうかな)。
平成十六年、十月。会津取材の前に。
単行本 二〇〇二年一月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十七年二月十日刊