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調子のいい女
宇佐美 游
[#改ページ]
[#5字下げ]一
ボストンは犬の糞だらけの町だ。
ニューヨークから一時間、ローガン国際空港からタクシーで大学に着いた加納美和子は、特大のスーツケースをひきずりながら石畳の町を歩いた。
チャールズ川にほど近い郊外の道は、靴底の模様つき、タイヤの溝跡つきと、十歩進むたびに黄土色をした、粘土状のモノが置かれている。しかし、どの角を折れても、石が敷かれた道と煉瓦の建物が続く風景は、アメリカというよりイギリスの情緒があった。
四月だというのに、風は東京よりうんと冷たい。冬のコートを着て早足で歩いているが体は温まらず、頬にあたる空気がぴりぴりと皮膚をひき締めた。そのかわり空は青い。今はまだ枯れ木のままの街路樹が、しみるような青の中に痩《や》せた枝を伸ばしている。向こうに見えるのは教会の塔だ。三角|錐《すい》の先っぽが、天に向かってツンととんがり、自分が異国の地に立っていることを、否が応にも実感させてくれる。
異国の実感は匂いからも立ちのぼってきた。近くのデリカテッセンから漏れ出すのか道端の屋台から漂うのか、肉と野菜を油で炒《いた》めて酢のきいたドレッシングに漬け込んだような匂いは、日本では嗅《か》いだことのないものだが、決して不快なものではない。
この町が、新しい私の原点になるんだ。
美和子は大学の周辺をはずんで歩いた。そこのELC(English language center/大学に併設の英語教室)に、この新学期から入る予定である。パックツアーではない初めての海外だった。ツアーだって、グアムとハワイしか行ったことがない。
だけど、私はこうやって来た。旅行じゃなくてここに住むんだぞ、私は。
美和子はぐいと顎《あご》を上げた。
フェンスの向こうからブラスバンドの楽器の音が聞こえた。音合わせの前の、トランペットやクラリネットやアコーディオンが、好き勝手に吹き鳴らす音。美和子はフェンスに顔をくっつけた。
私はここの生協で新しいノートや教材を買って、図書館で勉強して学食でご飯を食べる。
甘い幸福感がおし寄せ、同時に腹の底からやる気が湧いてきた。
いくつになってもこれまで何をしていた人間でも、簡単に学生に戻ることを許してくれるアメリカとは、なんと懐の深い国だろうか。
留学雑誌によると、アメリカの大学には、いったん社会に出て中年になってから、知識教養の必要を感じて入学する人などざらにいるという。さらに英会話のカセットテープで知ったのだが、ブロードウェイでは、中高年のダンサー達が本気で主役を目指してミュージカル・オーディションに集まるというし、ロサンジェルスの美容学校には、白髪頭の老人が資格を取るために学んでいるらしい。言い訳する必要もなければ、後ろ指さされることもない。誰が何を志すことも自由な国なのだ。
たとえ過去に何があろうとも、だ。
美和子は奥歯を噛《か》み締めて、教会の尖塔《せんとう》を仰いだ。何でも自分でできる本当の大人になろうと、日本を発つ前に決意した。自立という言葉にひどく憧《あこが》れた。精神的にも経済的にも、それを果たすためにボストンに来たのだ。
今、自分は真っさらな画用紙だと美和子は思った。二十六歳にして真っさらになれるとは、アメリカという国はやはりありがたい。これからデッサンをして、何の色を塗ることもできる。どんな線をひくか、どの色を使うか、すべて自分が選ぶのだ。
「I can choose」
声に出して言ってみる。すると何の脈絡もなく、一人の女の顔がフェンスのはるか向こうに浮かんで消えた。化粧の濃い、金ラメの霧に包まれたような女だった。
美和子はぶるんと頭を振る。
「ノーノー、アイキャンチューズ、アイキャンフォゲット」
英語を上達させるコツは、独り言でも頭の中で考えることでも、なるべく英語を使うことだというのを本で読み、日本を発つ前から実行していた。フンと鼻から息を吐き時計を見ると、十一時を回っていた。
そろそろ寮に行ってみよう。
力士がするように両手で頬を二、三回叩き、「ウェル」と呟いた。
タクシーを降りた後、まっすぐ寮に行っても良かったのだが、町並みがあまりに珍しくて、気の向くままに歩いていたのである。
注意深く番地を確かめながら角を曲がる。
長い長い、一町続くほど長い赤土色の三階建てが次の角までつながっていた。それが西学生寮だった。建物は長いが、玄関はアパートのように頻繁にあり、その一つ一つに違う番地がついている。
ここだわ。
美和子は足を止めた。重いスーツケースを抱えて石段を五つ上り、呼び鈴を押す。ブー、と素っ気ない音が中に響いているのが聞こえる。しかし誰も出て来ない。三回押したが、やはり応答はない。細長い木枠の窓は、全部ブラインドが下りていた。
「May I help you, ma'am ?」
背後から声がして、振り返ると金髪の青年が立っていた。
「イエス、プリーズ」
再び重い荷物を持って石段を降り、美和子はゆっくりと説明する。自分はここの大学のELCに入学する新入生であること。大学からもらった通知には、今日から寮が開くと書かれてあったこと。しかしこうして来ても、誰もいる気配がないこと。
金髪の彼は、美和子の話をひとつずつ相槌《あいづち》を打って聞き、答えた。
僕もここの学生だけれど、寮は三日後まで開かないよ。でもとりあえずその前に、新入生は大学の本部に登録する必要があるはずなんだ。ここをまっすぐ行って、左に折れて、つきあたりの大きな建物がそれ。寮のこともそこで聞いてみるといい。
そう言っているようだ。ゆっくりとしゃべってくれるおかげで、彼の英語はとても聞き取りやすかった。
「Good luck and enjoy your college life(楽しい学生生活をね)」
にっこりと笑った青年は、なかなかハンサム君だった。
こっちの人は日本人よりもよほど親切だわ。
ニューヨークで飛行機を乗り換える時も、空港の警備員が近寄って来て、行き先を尋ねてくれた。「ボストン行きなら17番ゲートだよ。あっちあっち」と笑って逆方向を指差された。日本ならば、見て見ぬふりをされて当たり前。外国人に自分から近寄っていって、わざわざ教える人間などまずいない。
うん、この国はなかなかいい。さすがアメリカだ。
美和子は意気揚揚と通りを渡った。
同じ頃、大学周辺を、特大のスーツケースをひきずって歩くもう一人の女がいた。痩せて力のない体は、ともすれば引っ張って行かなければならない荷物に引っ張られて傾《かし》いだ。
全くこっちの奴のやることはワケわかんないよ。
坂ノ上波江は一人、口の中で文句を転がした。
早朝ニューヨークに着き、すぐにシャトル便に乗った波江は、朝八時にはボストンに着いていた。通知されていた東学生寮の前でタクシーを降りたが、体育館のような建物の入り口は、固く閉ざされていた。守衛らしきおっさんに聞いたが、「学生寮は三日後まで開かない」をオウム返しに繰り返すだけ。そんなはずはない、今日から開くはずだと大学から送られた書類を見せたら、肩をすくめて「アイドンノー」とやられた。
「このトンチキ親爺」波江は日本語で毒づいた。おっさんが知らないだけで、あとで寮は開くのではないのだろうか。そう期待しつつ、他の学生、できれば日本人の学生がやって来るのを寮の前で見張ってみた。しかし誰も来ない。ひょっとしたら店のある通りの方が人がいるだろうかと、広い通りまで出て来たのである。
何か飲もう。疲れた。
大学の正門前にアーノルド・パーマーの商標みたいなパラソルを掲げた屋台があった。
「ミルク」
屋台の兄ちゃんは突っ立っている波江を上から下までずいと眺め、言った。
「Passport」
何だかわからぬままパスポートを見せる。すると金色の毛が密生した腕が差し出したのは、泡の立つビールではないか。
驚きながら、自分の発音が悪いのねと大人しく受け取る。「ミルク」さえ通じなかった惨めさと、黄色人種が珍しいのか、道行く白人にじろじろ見られる恥ずかしさで、紙コップのビールを一気にあおった。はっとして瞼《まぶた》に手をやる。それから鼻を押さえた。
この三ヶ月間、決して口にしなかったアルコールだった。瞼は少し火照っていたが、痛みはない。鼻も変わりないようだ。そっと周りを窺《うかが》い、さっきからこちらを見ている白人の男に背を向けて、トレーナーの下に手を忍ばせた。こわごわ触れるとそこも変わりなく、心臓が確実な鼓動を伝えていた。
ああ良かった。あれほど注意してたのに、すっかり忘れてビールをあおるなんて。やっぱり私は今、普通じゃないんだ。
波江にとって初めての海外であった。東京のはずれに一人で住み、安月給で食べていくのが精一杯。とてもじゃないが海外旅行にまで手が回らなかった。
だけど今、こうして異国の地に立っている。私はここでステップアップする。英語を使えるようになって、必ず前よりもいい会社に入ってやるんだ。
アメリカに英語留学すると言ったらせせら笑った男や女の顔を、一人ずつ赤いバッテンで消してゆく。前の彼氏・譲《じよう》。会社の先輩・節子さん。幼馴染みのかなえ。
感慨にふけっていると声がした。
「アーユー、ジャパニーズ?」
美しい女が立っていた。肌は白く唇は赤く、アーモンド型の目の中は白いところがなくて全部真っ黒に見える。わずかに切れ上がった目尻のあたりにじゅん、と女っぽい翳《かげ》りが滲《にじ》み、全身から何やらコクのある雰囲気が漂っていた。
「イエスイエス」
謎めいた女は白い歯をこぼれさせて笑った。特大のスーツケースをひき連れているところを見ると、自分と同じ留学生であろう。身なりの良さと服のセンスからして日本人に見えるけれど、そうじゃないのだろうか。女は英語で話し続けた。
私はそこの大学のELCに新学期から入る予定です。
女の英語はけっこう滑らかだが、イントネーションはどう聞いても日本人のそれだ。いくつものハテナを感じながら、耳を凝らすと女は学生寮のことをしゃべっていた。
今日から学生寮が開くと通知をもらっていたのだが、あなたはどう聞いていたか。私が入る予定の寮は閉まっていた。一人の男子学生が通りかかって、寮は三日後まで開かないと私に告げたのだけれど。
だいたいそういうことを言っているようだった。波江はつっかかりながら、英語で答えた。
私もELCの新入生である。寮は今日から開くと聞いていた。だからここにいる。けれど守衛……(守衛というのは英語で何というのだろう。わからないからガードマンだ)ガードマンは三日後まで寮は開かないと言った。私も困って……困っている、というのは英語で何というのだろうか。波江は口ごもった。
「ソー、ノーグー」
ノーグー、ともう一度繰り返すと、美しい女はくすりと笑った。顔が、ぽっと熱くなった。
「オーケー」
一緒にそのガードマンのところに行って、もう一度聞いてみましょう、と女は英語で言った。ゴロゴロと音をたてる二つの特大スーツケースとともに、二人は東学生寮の方に歩いて行った。ところが、さっきいた守衛はどこに行ったか不在。寮の入り口は押してもたたいてもビクともしない頑丈な鍵がかけられ、すべての窓も閉じられて、人の気配はまったくなかった。
「ジーザス、ハウキャヌイドゥ」
女は手のひらを上に向けて広げた。
「アイ、アイアイ、ゴーマイシスターズハウス」
波江は言った。シスターは、本当は勤めていた会社の社長・羽田さんのシスターで、単語を知っていれば親戚の家とか、知り合いの家と言うのだが、全部まとめ、はしょってそう言ったのである。自分よりはるかに巧い英語をしゃべる東洋系の女から、早く逃れたかった。
「ザルビファイン、スィユーアゲーン」
黒|薔薇《ばら》の笑みを浮かべて女は手を振り、こちらに背を向けた。
タイ人か香港人だったんだろうか。波江は首を傾げながら手帳を取り出し、羽田さんの妹の電話番号をそらで覚えた。数字の暗記は昔から得意だ。そして公衆電話を探しに、美貌《びぼう》の女と逆の方向へ再び大荷物をひきずって歩き出した。
あの女、整形してるわね。
整形顔をたくさん見ている美和子には一発だった。目頭の部分の、二重の幅がちょっと広過ぎたし、鼻は穴から先端までの距離が不自然に遠かった。派手な造作を望んだのだろうが、全体に生々しい顔立ちになってしまっている。あまり上手な整形ではない。
ま、関係ないけどね。
留学中、絶対に関わらないと決めていた日本人に、つい声をかけてしまった。気がつくと話しかけてしまっていたのだ。もしかしたら自分は不安なのだろうか。
違う! ちょうど目につくところにいたから、ついでに訊《き》いておこうと思っただけよ。
美和子はキッと眉をつり上げる。そして心の中で唱える。
私は大人になりたい。大人は、一人で何でもできなきゃいけない。私はもう、誰からも支配されたり、使われたりしたくないんだ。
こぶしを握り締め、口をきつく結んで歩いた。
電話ボックスに入り、『地球の歩き方』を取り出す。中級〜エコノミーホテルのページを見て順番に電話をしたが、どこも満室だった。自分と同じような留学生が、たくさん泊まっているのだろうか。仕方なくYWCAに電話を入れると、空き室があった。今いる場所から電車ですぐだと言われたが、重い荷物をひいて歩くのに疲れて、タクシーを捕まえる。古い建造物が並ぶ町並みの中でもひときわ古いのが、それであった。フロントの中にいる中年の女は口に障害があるらしく、さっきの電話が異様に聞き取りづらかったわけを、美和子は理解した。
ガタゴトと音をたてて揺れる、いつ止まっても不思議でないエレベーターで四階に上がり、部屋の鍵を開ける。そこに広がった光景に、美和子は立ち尽くした。
まるで独房だった。畳三畳もない空間に、診察台のごときベッド。小さな窓にはめられた鉄格子。
こんなところに……。
三時間もいたら、頭がおかしくなりそうな、孤独な空間だった。
何とか逃げられないだろうかと頭を働かしたが、どうしようもない。本に載っていたホテルにはすべて電話したのだ。いっそ、高級ホテルに移ろうかとも思うが、一泊三百ドル以上もするホテルに二泊もするのはためらわれた。さっきここの宿泊料七十六ドルも全部払ってしまったし。六百ドル払うことより、七十六ドルを捨てることが惜しいと感じる変なガメツサが、美和子にはあった。
寮が開くまで、たった二泊じゃないか。
美和子は軽く頷《うなず》き、フロントで渡されたバスタオルを手にして、シャワー室へ向かった。
左手にシャワーが二十ほど並び、右手にトイレが十ほど並んでいる。先に用を足そうとタオルを持ったまま右に進むと、中年の白人女とすれ違った。個室に足を踏み入れると、むっとする臭いが鼻をついた。チーズの臭いだった。
さっきの白人だろうか。それとも別の女の?
眉をひそめて別の個室に入り直す。しかしそこにもチーズの臭い。
体臭なのか病気なのかわからないが、とにかく薄気味悪い。何度も個室を替えて、臭いのない(もしくは鼻が感じなくなった)個室で、腰を浮かして用を足した。
夕刻、食事をしに地下のキャフェテリアに下りるが、まったく食欲がない。ローストビーフらしい牛肉のスライスに甘ったるい茶色のソースがかけられ、つけあわせに、茹《ゆ》で過ぎて何だかわからなくなったどす黒いほうれん草が添えられている。騒々しくしゃべり、笑いあう白人や黒人に混じって、美和子はうつろだった。
夜、独房のような部屋にもどる。フロント前のロビーにテレビがあったが、そこまで行く気力もない。
身を横たえると、両脇に五センチしか残らないベッドに横になり、美和子は涙を流した。
廊下を行き交う人の足音もなくなり、時計を見ると午前一時。
アメリカに来るっていうのは、こういうことだったのね。私はこの先やっていけるんだろうか。
そう思った時、乾いた銃声が聞こえた。近い。
小田島さん。助けて。
美和子はきつく目を閉じた。すると二ヶ月前までの、身をからめとられるような心配事が体の中に甦《よみがえ》った。
「そんな……だって私はただのヘルプで、時給五千円で雇われてるだけじゃないですか」
書類が散乱し、ごついバインダーがいくつも並ぶ staffs only の舞台裏。銀座『雛乃《ひなの》』に入店する時に一度入ったきりの事務室だった。予定よりずっと早くお金が貯まり、これでホステスを辞められる、とせいせいして社長に申し出た。
「辞めたいんです。私はもう、水商売からきっぱり上がります」
クラブの社長・宮園はゆっくりと顔を上げ、美和子を見た。
「辞めるってことは、全部清算するってことだよ。大丈夫かい」
狐につままれたような顔で突っ立っている美和子に、宮園は顎《あご》をしゃくって壁のグラフを指した。
真佐奈、ミエ、静香、ルミ、冴子……「売上げ」ホステスの名前が並び、売上げ高が青線、売掛け金が赤の棒で記されている。美和子は目を疑った。グラフの右端に、自分の源氏名「美輪」が記されているではないか。
「嘘《う》っそ」
青線もトップだが赤棒もトップ。
「どうして……なんで私の名前が売上げのグラフに……私はヘルプなのにいつの間に」
ホステスに、「売上げ」と、「ヘルプ」の二種類があることは知っていた。
「ヘルプ」は基本的に時給で働くだけだが、「売上げ」ホステスは、自分の客を持ち、その飲食代金の何割かを収入にする歩合給である。『雛乃』の場合、「売上げ」ホステスの取り分は飲食代の四十パーセント。客への請求額には指名料も含まれているが、これは丸々「売上げ」の取り分となる。
歩合制なのだから売れば売るほど儲《もう》かるはずだが、どうしてなかなか、そう簡単にはいかない。一回十万、二十万という金額を、ツケで飲む客が少なくないからだ。「売上げ」は、自分の客のツケにも責任を負う。ツケ、すなわち売掛け金の回収には支払い期限があり、店によって多少違うが、だいたい二ヶ月ぐらい。その間に客が店に来て払うか、店の銀行口座に振り込むかしてくれなければ、「売上げ」の収入から、未払い分が差し引かれる。高い代金を差し引かれては大変と「売上げ」自ら、昼間、客の勤め先に集金に行ったりもする。しかしもし、売掛け金が回収できなくても、店側は関知しない。ツケがいくらに膨らもうとも、客がどんな事情で支払いを拒もうとも、顧客の未払い分は「売上げ」が全額店に支払わなければならない。「売上げ」ホステスは個人事業主。儲かる儲からぬも腕次第なら、大きなリスクも背負って商売するのである。
美和子を夜の世界に連れて行ったのは真佐奈という女だ。三十五歳のベテランホステスで、「売上げ」であった。真佐奈は、最初にこう言ったのである。
「何にも知らなくても、ヘルプならできるわ。大丈夫よ、うちの社長は回収のためにあんたを差し出したりしない人だから」
客にツケを払わせるために、交換条件として、ヘルプをホテルに向かわせるクラブ経営者がけっこういる。そんなことを知ったのはずっと後のことだ。だからその時は、真佐奈が何を言っているのかわからなかった。けれど、とにかく自分はヘルプで入店したはずなのである。
「だって給与明細見てんだろ」
毎月二十日、茶封筒に入った振り込み明細には、時給と労働時間が記され、それに指名料が加算されている。そして何日誰それ指名と書かれた紙が同封されていた。
「指名料が加算されてたってことは、これからその人達はあんたの客になりますよってことだよ。それがうちのシステム。真佐奈は教えてくれなかったのかい」
宮園の薄い唇が、てらてらと光っていた。
いつからか指名料がついていたのはちょっと不思議に思った。指名料というのは本来係りのホステスがもらう金である。顧客の伝票にホステスが好きな金額を書き入れ、入金があった月に受け取ることができる。自分には顧客などいないのにと首を傾げたが、「社長はそうやって、頑張って働くコにご褒美をくれて、うまく人を使うのよ」と、他のヘルプから聞いた記憶がある。一件につき千円だったし、そんなものかと深く考えなかった。もらう金に関してあまり詮索《せんさく》しない方が得なものだし。
「だって私は時給でもらってたのに」
「時給から売上げ採算に切り替えるなら、ちゃんと交渉しないと。そうでしょう?」
有無を言わせぬ強い口調に、美和子は思わず頷《うなず》いた。が、どう考えてもおかしな話だ。銀座のナイトクラブの指名ホステスは、ひとつ店の中では動かないはずだ。店からは何のお達しもなく、勝手に顧客にさせられて売掛け金を背負わされるなんて、そんなシステム、銀座中で聞いたことがない。怪しげな店ならいざ知らず、銀座の一流クラブだ。しかし銀座中、というには、八ヶ月はあまりに短いキャリアである。ひょっとしたら、そういうやり方もあるのかしらという迷いがあって、冗談じゃないわと啖呵《たんか》を切れない。
「真佐奈さんに、確認させてください」
「うちとしてもそう願いたいところだがね、知ってのとおり、真佐奈は二週間無断欠勤の行方不明だ」
薄い唇の片端がめくれ上がり、牙のような犬歯がのぞいた。
ハメられた。真佐奈に。そして店に。
真佐奈はこの控え室で言ったのだろうか。
――あたしの売掛け、今後は美輪が持つから――
あるいはそれは、暗黙の了解というやつかもしれない。自分がいなくなれば、残った売掛けは美和子の肩にかかるだろうと読んで黙って姿をくらます。そして宮園が無言のメッセージに従った、という。
いずれにしてもハメられたことは確かなようだ。見直せば、壁のグラフは長いこと貼っていたものにしては妙に新しい。
やはりこれは不正だ。それだけが美和子にわかることだった。
そう思う一方で未だ半信半疑であった。本当に、こんなスゴイことが自分の身に起こっているのだろうか。
水商売を一から教えてくれた真佐奈に、お返しのつもりで、彼女の客とせっせとデートをし、同伴出勤していた自分。店についている客でも、自分を気に入った風ならこまめに電話を入れて、食事に出かけては(バッグだネックレスだと買ってもらいながら)店に呼んでいた自分。真佐奈や店にいい顔したくてやっていたことすべてが、自分の首を絞める結果につながっていたとは。
ひらりと渡された一枚の紙。個人名と売掛け金残高がびっしりと記され、一番下を見て美和子は目をむいた。
「は、八百万! とても払えない」
「払えないじゃ済まないよな、美輪。売掛けってのは、店に対する借金だ。売掛けしょったらきれいに返すのが、この世界の常識だろ」
宮園の目がギラリと光った。毎夕アタッシェケースを持って店にやって来るその姿は、以前勤めていた商社の男と大差ないと感じていたが、水商売の男はやはり違う。鋭くえぐるような視線は、まごうかたなき夜の世界を生きぬく男。店で何度か見たことのあるヤクザ者のそれであった。
「沙羅、知ってんだろ」
それは美和子が『雛乃』に入って間もなくいなくなったホステスである。南国系の黒々とした目元が美しい、大柄な女だった。
「あれは吉原行ったよ。やっぱり売掛けで首が回らなくなってさ。それから楓も知ってるよな」
美和子より年下の二十四歳なのに、すでにベテランのホステスであった。いつもシャネルで身を固め、「あたしはサラリーマンは嫌い。身なりも金の使い方もセコくって、やってられないわ」が口癖。何度か楓の席にヘルプでついたことがあったが、なるほど楓の客は、ブランデーが好きな楓のためにほとんどヘネシーかレミ、もしくはそれ級の酒をキープしていた。
「楓は今、歌舞伎町のヘルスだ」
金遣いの派手な自営業の客が多かったことが、楓の命取りになったのであろう。「サラリーマンは大金持ちはいないけど、飲み屋のツケぐらいで勤めを棒に振ることはない。最悪、会社に言うわよって脅せば払ってくれるから手堅いの。ただし一流会社ね」――真佐奈がそう言っていたのを覚えている。
「あと美輪が知ってる女っていったら、可南子だな」
宮園は口をつぐんだ。
可南子は二ヶ月ほど前、首を吊った。原因は男とも金とも言われたが、おそらくその両方だったろう。幸い一命はとり止めたが、可南子の首にはどす黒い紐《ひも》の跡が残った。その後、どういう手段で売掛け金を払っているのかについて、宮園は明かそうとしなかった。
しかし皆、お気の毒ではあるが、それぞれに売上げで食べていた女達だ。ツケが溜まったらどういうことになるか、先刻承知していたはずである。それにひきかえ自分は、何というペテンに遭ってしまったのだろう。歩合で働いていたなら収入はもっと多かったはずだし、誰彼かまわず店に呼んでツケを膨らますような、無謀な真似はしなかった。
――逃げてしまえ――
そんな囁《ささや》きがどこからか聞こえてきた瞬間だった。
「もしも、だよ。美輪。美輪が姿をくらましたりした場合。そういう時は田舎の実家に肩代わりしてもらうことになる。うちとしてはそれしかないからね。新潟だったよね」
「そ、それは、困ります」
美和子は泣き声で訴えた。東京という、匿名社会だからこそ飛び込めた世界だ。入店する際、実家の住所と電話番号を正直に書いたことを心から後悔した。
「実家では私が水商売やってること、知らないんです。お願いです。それだけはやめて下さい」
公務員の、旧弊な家庭であった。地元進学を望まれたがおしきって東京の短大に進み、そのまま都内の商社に就職した。十歳近く年上の兄が結婚し実家に戻っていたからこそ、聞いてもらえた我儘《わがまま》だった。まだ学生だった頃、母が癌で逝き、就職して四年後、すでに定年退職していた父親が脳溢血《のういつけつ》で亡くなった。会社を辞める一年前のことだ。
「もう何があってもあまり助けてやれないから、お前はお前でしっかりやってくれ」
父の通夜の晩、実の兄から釘を刺された。それは地に足の着かない心許なさを呼び起こしたが、同時に身軽さをももたらしたのだった。
上司のお供で行った接待の席で、真佐奈はそっと囁いた。
――やってみない。あんたはきっと稼げるわ。誰も助けてくれないかわりに、自分で思うように動けるのよ。自分の夢は自分で叶《かな》えるの。東京ってそういう町よ――
美和子は営業職でもないのによく接待の席に駆り出され、店のママから「きれいなお嬢さん、うちでバイトしない」と誘われた。しかし本気で聞いたことはない。どうして真佐奈の時に限って、心が動かされたのか。母が死に、父が死んだ。つきあっていた金持ちの息子と別れたばかりだった。同じ課に可愛い新人が入ってきて、チヤホヤされるのが面白くなかったせいもある。そろそろ消えないと、本格的にお局《つぼね》扱いされる日も遠くないと思った。
それに、本音を言うと、美和子は夜の世界の雰囲気が案外好きだった。美貌《びぼう》だけでもてはやされるし、ちょっと好意があるように振る舞うと大の男がメタメタになる。その場で受けるジョークを飛ばすのも、昔から得意だった。けれど、そんなことが堂々とできたのは、就職するまでだ。チームプレーである職場で、目立つ振る舞いは嫌われ、出る杭は同性達の手で容赦なく打たれた。くわえて美和子はあまり、事務員として優秀ではなかった。仕事はできず、華やかな顔立ちで受け答えだけが妙に巧いミズっぽいOLだった。そしてそういう自分が、会社の中で何となく浮いているのを知っていた。
――大丈夫。この店じゃないわ。あたし、もうすぐ店を移るのよ。あんたの会社の人は来ないわ。いいえ、来られないわ。それぐらい高級な、一流の店よ――
囁く口調に、本気が滲《にじ》んでいた。
――よく考えて、決めたら電話ちょうだい――
渡された名刺には、手書きのケイタイ番号が添えられていた。
ボストンの夜が白く明けてゆく。薄いカーテンを開けると、鉄格子の向こうにカラスが飛んで行くのが見えた。美和子は朝まで一睡もできなかった。食欲は全くない。フレンチトーストだけを何とか口に入れ、昼は食べなかった。そして夕食。またも砂糖を溶かして煮詰めたようなソースをかけた鶏肉を前に、美和子はそれを口に運ぶことができない。
「どうしたのよ、食欲がないのね。あなた昨日も全然食べてなかったじゃない」
声のする方を見ると茶色い目、茶色い髪の白人が英語で話しかけていた。年は三十過ぎぐらいだろうか。ショートヘアをスプレーで逆立てたヘアスタイルは、日本ならばまともな女はしないものだが、彼女はどこか温かいものを発していた。目と髪が濃い茶色のせいか、日本人に近いものを感じさせる。
「昨日、ボストンに着いたの。ここの部屋がプリズン(監獄)みたいなのと、深夜に聞こえた銃声のせいで全然食欲がないの」
やっとのことで笑顔をつくった。
「ホームシックね。あなたは日本人でしょう。私、ルイジアナで学生だったとき、ルームメイトが日本人だったのよ。日本の京都から来た女性で、とてもきれいなコだったわ。名前はミスズ。ほら写真もあるよ」
女はいそいそと財布を取り出し、古ぼけた写真を見せてくれた。おすましして写っているミスズは色が白く、たしかに上品な顔立ちをしていた。
「私の名前はジャニス。仕事はウエイトレス。夕食が終わったら、私の部屋にいらっしゃい。2××号室よ。あなたは今、重いホームシックにかかってる。フレンドが必要よ。ミスズのことを話してあげる。ミスズが送ってくれた日本の写真もたくさんあるし」
「ありがとう、ジャニス」
美和子は涙ぐんだ。
「あなたの部屋に行くわ。この夕食は食べられそうにないけれどね」
するとジャニスの目が光った。
「食べないの? どうしても? もし食べないなら私にちょうだい。あなたが食べるなら要らないけどね」
私は無理だわ食べられない、と皿を渡すと、ジャニスはためらわずそれを受け取り、顔を皿に突っ込むようにして食べ始めた。激しい犬食いであった。
「ジャニス、あなたはルイジアナでウエイトレスをしているの?」
「ううん、ここでよ」
「どうしてYWCAにいるの」
「住んでいるのよ。ここにいる女達、ほとんどはそうよ。月極めだとアパートメントを借りるより安いし、光熱費も只《ただ》。借りない手はないわ」
美和子がそこで目にした女達に、そう若い女はいなかった。彼女達はおそらく学生でなく、働いている。仕事を終えて帰ってくる部屋があの独房のような場所だとしたら、毎日どんな気持ちで生きているのだろう。トイレにこもったチーズの臭いが、何となく理解できる気がした。
片隅で歓声があがった。黒人女のグループであった。
「ここに住んでるのは、クレイジーな女ばっかりよ」
ジャニスはウィンクして見せた。手入れの悪い乾いた肌に、傷のような皺《しわ》が寄った。
その頃、坂ノ上波江も又、ちりめん皺の寄った同性の肌を呆然《ぼうぜん》と眺めていた。
「あらあら、デイヴ、残しちゃだめじゃないの!」
麗香・ハドナルは、ボストンに来る前、波江が勤めていた会社の社長の妹だ。日本を発つ前、社長に「連絡しておくから、何かあったら頼りにしなさい」と言われ、それを信じて高級住宅街の一軒家を訪ねてきたのだが、波江は今、後悔している。麗香は自分を、ちっとも歓迎してはいない。関心は一回り年下の白人夫にしかなく、日本語を話す夫がよその女にちょっかいを出すのではないかと、気が気じゃないのだ。
「ソレジャ、ナミーサン、ナンネンカンハタラキマシタカ」
「三年です」
「じゃあ、三年働いて、退職金で留学しにいらしたわけえ? 兄貴の会社って、そんなに退職金いいわけ」
お見通しよ、と言わんばかりの口調だった。波江は麗香の、おたまじゃくしみたいに描かれた小さな目から視線をそらした。その邪推は正しいからだ。波江は勤めていた会社の社長・羽田と不倫関係にあった。そして彼のおかげで、波江はボストンに来られたのである。アメリカへ留学したいと伝えた時のことは、よく憶えている。「結婚できないのなら」留学したいと告げたのだ。
「結婚か、留学か、というのならば、今の君には留学を薦めざるを得ない。僕は今しばらく離婚できそうにないから。息子はまだ中学生だし、妻が承知しない。すまない」
羽田は涙ぐんで頭を下げた。
「波江の留学にはできる限りの援助をする。中途採用の三年勤続だけど、うまく操作して退職金はできるだけ出すよ」
やった、と心の中で叫びながら、
「そんなことが、できるの」
心細げに首を傾げる。
「大丈夫。要は親会社にバレなきゃいい話だ。曲がりなりにも僕は社長なんだから、なんとでもなるよ」
羽田は胸をたたいた。
「留学先はボストンがいいな。妹が住んでいる。何かあったら頼りにしなさい。連絡しておくから」
この人ってホント、使える男よねえ。波江は羽田のチョボ毛の生えた胸に顔をうずめた。その小さな頭を羽田の大きな手が押さえつけ、じょじょに下に持ってゆく。羽田がそれを要求したのは、初めてのことである。波江は力に従う。ここが勝負どころ、と心得ながら、演出として、ためらったり小さく逆らったりしてみせる。恋人の譲には毎度してやっていて、抜き≠フテクニックは実はちょっとしたものだ。羽田にあれを施したら、本当にものの五秒で果ててしまうかもしれない。それでなくてもこの人は早いのに。楽に飲み込める丸い先端を唇で撫《な》でながら、波江は笑いをこらえた。
羽田との関係は、実は社内セクハラに端を発していた。羽田は、大手家電メーカーの子会社の、部品製造工場の社長である。社員三十人の小さな会社のことで、彼は経理部長を兼任している。波江はそこに経理見習いとして中途入社した。当時、羽田は四十五歳。製造ラインの女子社員はヤンキー上がりの姉ちゃんばかりで、上昇志向の強い波江はたちまち羽田のお気に入りとなった。波江としても、直属の上司で、しかも社長である男に好かれるというのは願ってもないことだ。
「坂ノ上、昼の弁当買って来い。屋上で一緒に食おう。さっきの件はそこで打ち合わせだ」
さっきの件なんてものは存在しない。もちろん波江はそれを追及するほどウブな女ではない。
社長ったら、いい空気の下であたしと一緒にランチしたいのね。
「わかりました、すぐに」と、努めて事務的に答えて、近所の弁当屋で唐揚げ弁当を二つ買い、屋上に向かった。
給湯タンクに寄りかかって、羽田はいた。手をポケットに突っ込んで立つ上司は、妙に男っぽく見えた。
「社長、お弁当買ってきましたよ」
明るく声をかけると、振り向いた羽田に上腕を強くつかまれた。
ヤバイ。
羽田は獲物を射るオスの目をしていた。
ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイ。
手にぶら下がって音をたてる弁当の袋。腕をつかんだまま前から迫ってくる羽田。押されるままに後退していき、いつの間にか背中にボイラーの風が吹きつけていた。
羽田の手が制服の胸をまさぐる。いつも譲が小さくてつまらないと馬鹿にする胸だ。身をよじりその手をはらいのけると、羽田はこちらの両肩をつかみ、口をとんがらせて寄せてきた。顔を懸命に左右に振ってそれをよける。嫌悪感とあいまって、吸いつこうと口をタコみたいに尖《とが》らせる中年男は滑稽であった。
激しく拒否された羽田はキスを諦め、ふたたび波江の小さな胸に興味をもどした。紺色の制服の上から丸く円を描いてふくらみを揉《も》む。そしてもう片方の手を波江のお尻に伸ばし、これも丸く撫でた。肉の薄い、しかし垂れた尻であった。「お前のケツって、長いんだな」と譲に冷たく分析された尻だ。好きでもない男に胸や尻を撫でまわされるのは、もちろん不快以外の何物でもないが、「やめてください」の一言が波江は言えない。仕事を失うのが怖い。辞めさせられないまでも、社長のお気に入り≠ニいうポストを失うのが怖かった。
羽田は扁平《へんぺい》な波江の体を撫で回しながら、煙草臭い息を頬に吹きつけた。どうやら今日は、それ以上やる気はないようだ。黙って耐えていると、羽田の息遣いが荒くなり、波江の恥骨に自分のモノを強く押しつけた。横に腰を振って何度か動かした直後、「うっ」とうめいて脱力した。
終わった。
安堵《あんど》しながら、ずいぶん早いなと冷静に考えていた。譲なら、服の上から胸と尻を触ったぐらいで射精するなど、考えられないことである。遅漏の譲が射精するには長い時間と強い刺激が必要で、つながったまま最後までいこうとすると、波江は乾きと痛みを覚え、しばしば膀胱《ぼうこう》炎を患った。「譲ってなかなか出ないよね」と不平を誉め言葉にすりかえて伝えると、譲は言ったものだ。
「お前だからだろ」
高校を卒業して間もなく、処女と童貞で結ばれ、馬鹿にされ冷たくされながら尽くし続けている最愛の男であった。とはいえ一人しか男を知らぬわけではない。寄ってくる男がいれば、適当に寝ていた。それは譲に没頭し、まとわりついてはうるさがられる惨めな自分を救うのに、多少役立った。
あたしってマゾなんだよね。
バツの悪くなった羽田が無言でその場を去った後、波江は一人、ホカ弁を広げて食べた。
冷たくされるほど、燃えてしまう。譲が、顔はいいけど性格的に歪《ゆが》んでいて、口が悪くて人づきあいが下手で、本当は可哀想な人間であればあるほど、こんなあの人につきあえるのはあたししかいないって思ってしまう。
ホカ弁のカラを輪ゴムでまとめ、羽田が食べなかったもう一つの弁当は夕食にしようと決める。スカートのポケットからマイルドセブンを取り出し、青空の下で食後の一服。視界に野菜畑が広がっていた。
しかし、羽田のセクハラは当然一度では済まなかった。時々、屋上に呼び出されては、胸と尻を触られることを繰り返した。そしてある日、羽田は言った。
「坂ノ上、本社へ一緒に行くぞ」
東京都のど真ん中にある本社ビルは、波江の憧《あこが》れだった。自分達の働いている会社は製造工場で、つまりブルーカラー集団だが、親会社はホワイトカラーの集まりだ。二つ返事で同行した。
磨かれた長い廊下を、羽田と二人歩いた。コツコツとパンプスの音が響いて心地いい。いつも工場で履いている便所草履とはえらい違いだ。
私はきっと、こういう会社で毎日この音を聞くようになってみせる。
波江は心に誓った。そしてその帰り、ラブ・ホテルに連れて行かれた。シャツを脱いだ羽田の体は、若い譲とあまりにも違っていた。譲だけじゃない。自分が知っているどの男の体とも違う。デブではないが年なりに出た腹、たるんで艶《つや》のない皮膚。男の胸も垂れるものであることを、波江は初めて知った。
「イヤ」
ここまで来ても波江は「やめて」とは言えなかった。拒絶とも、媚態《びたい》ともとれる曖昧《あいまい》な表現しか口にできない。ここで羽田を失うのは先々、自分にとって損なことがわかるからだ。
波江を脱がせ、次に進もうとする羽田を「お願いです。コワイことをしないでください」とクサイ演技をしてとどまらせた。
無論、そんな猿芝居がいつまでも続くわけがない。けれど、何度か屋上でセクハラされ、何度か本社の帰りにホテルに連れて行かれるうちに、波江は奇妙な慣れを感じるようになった。体を触られるのもそれほどイヤじゃなくなってきたし、羽田の衰えた体も見慣れて平気になった。そうして段々さからわなくなり、最初のセクハラから半年目ぐらいに、合体した。
羽田と寝ながら、譲とも寝ていた。譲との交わりは奉仕する喜び。支配者の体に触れることを許され、彼を喜ばせる権利を与えられる、侍女の愉悦である。これに対し、羽田との情事は女王になる快感があった。日頃、敬語で接する相手が密室では自分にひざまずく。彼が誰からも認められ尊敬されている人間であることが、いっそう喜びを深くさせたことは言うまでもない。
結ばれた後、羽田はよく涙をこぼした。これほど人を好きになったことがない、これほど好きな波江と夜を過ごせないと嘆いて。もともと涙もろい波江は、羽田がすすり泣くともらい泣きをした。情けなく丸まった中年男の背中にしがみついて、一緒に涙を流しながら、波江の中のもう一人の波江が言った。
酔ってるなあ、あたしも羽田さんも。
正式に退社届を出し、最後の振り込み明細を見た。
三百万! 何かの間違いじゃないかとゼロを数え直したが間違いない。三年勤続の退職金が本当はいくらだか、波江は知らない。しかし、あんな小さな会社で、最上級に良くて二十万、いや十二万だってラッキーかもしれない。さらに数日後、もう百万が波江の口座に振り込まれた。記帳してみると、振り込み人はハタセンジロウ。
羽田さん。
波江は通帳を抱きしめ涙にむせんだ。
翌日、波江は新橋にある美容整形外科を訪れた。羽田のおかげで手に入った四百万。ボストンに住むのは四ヶ月強。学費も合わせてせいぜい二百万もあれば足りる勘定だ。ならばと波江は考えた。前からやりたかった美容整形をやってやろう。
奥二重に先の丸いダンゴ鼻で、おとなしくしていれば誰も目をくれない、花のない自分の顔。美人の姉と妹に挟まれて幼い頃から強いコンプレックスを持っていた。顔を変えることは、譲への復讐《ふくしゆう》でもあった。退職金でアメリカ留学すると告げた時の譲の顔。淋しさなど微塵《みじん》もなく、その顔は口惜しそうに歪んでいた。波江が、譲のやっていないことに挑戦するなど、あってはならぬことなのである。
「ま、エイズに気をつけるんだね」皮肉っぽく口を曲げ、何の脈絡もなく彼はこう続けた。
「お前って、セックスはしてもいいけど、キスはしたくない女だよな」
それは、絶対に下にいるはずの人間が起こした謀反への、いやがらせであったろう。譲の性格はもとより承知だ。しかし、これまでのようにそれを許したくない自分がいた。
「そっか、今まで無理にキスしてくれてたんだ」
それだけ言って静かにドアを閉め、アパートの外階段を下りた。顔を合わせながらセックスしないで帰るのは、結ばれて以来初めてだった。
――あたしは変わるんだ――
自分の中に大きな勢いが生まれ、流れ出しているのを自覚した。星を見上げて波江は思った。
きれいになりたい。
美容外科で、目に十五万、鼻に二十五万、そして胸に六十万かかると言われた。胸は、傷跡が見えないように乳輪の周囲を切開し、生理食塩水を入れたナイロンバッグを入れる、と医師は説明した。
「その方法だと、少し乳首が小さくなるんですよね」
波江が合いの手を入れると医師は「その通り」と深く頷《うなず》き、「顎《あご》はどうします?」と訊《き》いた。
「顎?」
「そう。美人の迫力を出すには案外、顎が重要なの。日本人は顎の小さい人が多いでしょ。これをちょっと前に出してあげるとぐっと垢抜《あかぬ》けるんだよね。これは四十万かかるんだけど、他もいろいろやるから、三十五万にしてあげるよ」
もう料金見積もりの顎の欄に、数字を書き入れようとしている医師を前に、波江はしばし考えた。目、鼻、胸でしめて百万。留学に二百万かかるとして百万浮く勘定だ。しかし、手術後に傷が落ちつくまでは収入もなくなるわけだし、少しは余裕を持っておきたい。
「いえ先生、顎は他をやって、それでもやりたかったらやります」
きっぱりと言った。
「そお? ま、たいていの人はやりたくなると思うけどね、でも、あなたの顔だ。好きにするがいいさ」
急に投げやりな口調になった医師に、ちょっと不安を覚えたが、手術の日取りを決めた。
全身が心臓になったかと思うほど動悸《どうき》を覚えて乗った手術台。局所麻酔をしているのに、乳輪にメスを入れて棒のようなものを差し込まれ、皮と組織を引き剥《は》がす動作をされた時に感じたやけどのような痛み。サングラスにマスクをして、タクシーでアパートに帰ったこと。その夜、痛みで眠れなかったこと。目も鼻もものすごい腫《は》れで、どうなることかと案じたこと。
三ヶ月前のそれらの記憶が、走馬灯のように波江の脳裏を駆け巡った。
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「マイネームイズユカ、フロムジャパン」
十週間分の授業料を払い込み、学生課で登録を済ませると、その日のうちにオリエンテーションが開かれた。四月からのクラスに参加する新入生全員が集まっている。百人ほどだろうか、ざっと見渡したところうち七割は日本人だ。不況のせいで留学熱は下がったと聞いていたが、とんでもない。四月という時期もあってか、就職しそびれた学生達が卒業と同時に大量にやって来ているようであった。
「マイネームイズナミエ」
あの時の整形女だ。
美和子は後ろを振り返った。この間もそうだったが、彼女はひどく顔色が悪い。しかし声は大きく、にこにことして具合が悪そうではない。上智大学《ソフイア》を卒業後、オフィスレディだったと自己紹介して教員に聞き返された。それを言うならワーキングガールだよと腹の中で呟《つぶや》くが、関わりたくないので我慢して黙っている。そのかわり、自分の番が来た時に「私はワーキングガールだった」と言ってやった。翻訳家を目指して英語を勉強しに来たと述べたら、何の翻訳かと教員に聞かれた。
「Literature(文芸)」
周囲からホーと低い声が上がった。声の主達は日本人ではないようだった。
能力判定テストを受け、文法、読解、作文、聞き取りと、それぞれの能力別クラスに振り分けられる。三流短大とはいえ英文科を出、アメリカに行くと決めた時から、仕事の合間に『NHK英会話』のテープを擦《す》り切れるほど聞いてきた。英語力はかなり高く、いい具合にあまり日本人のいないクラスに入ることができた。さらにラッキーなことに、指定された西学生寮は、本学のアメリカ人学生達が住む寮だった。ELCに来た学生達は皆、固めて東寮にぶち込まれている。
神様は今、私に笑みを向けて下さっている。美和子はガッツポーズを決めたい気分であった。
ルームメイトは、碧《あお》い目に金髪のメリー・ジョーという新入生だった。透けるような肌にむっちりと肉のついた、絵に描いたようなWASP(White Anglo-Saxon Protestant/アングロサクソン系で、かつ新教徒の白人。アメリカ社会の主流をなす典型とされた)だ。実家もボストンだと言う。どうして家から通わないのか聞いたところ「家は遠いし、それにほら、イロイロあるでしょ。うちのママは厳しいから」とウィンクした。
血統は良くても、やることはちゃんとやっているのだ。どこか冷たく見えないこともないが、清潔好きな礼儀正しい娘のようだし、彼女が喫わない煙草を部屋で喫っても何も言わない。どうせすぐにいなくなるルームメイトだし、と思っているのだろうが、それはお互い様だ。十週間のプログラムを終えたら、美和子はロサンジェルスにトランスファーするつもりだ。情など通わなくても、短い期間うまくやるには最適のルームメイトだと頷いた。
授業が始まって一週間後、前日まで毛糸のカーディガンをはおっていたのに、急に東京の梅雨どきのような蒸し暑さになった。埃《ほこり》っぽいリノリウム張りの教室で、美和子はさっきから口をへの字に曲げてシャープペンシルを浪人回ししている。長い睫毛《まつげ》が頬に影をつくっていた。
学生に戻った嬉しさはつかの間、一限九十分のクラスを日に三つこなすのは、予想よりはるかにシンドイことであった。ペーパーテストは好成績でも、聞き取りの弱い美和子は教師が何を言っているのか、よくわからない。だからついていくのに必死である。他国の生徒達、とくに紅毛|碧眼《へきがん》の人間というのは、母国語でもないくせに、どういうわけか英語を聞き取る力に優れている。
聞き取りのテストは四十五点というひどい点数だった美和子は、リスニング・クラスだけ、他の科目に較べて極端に低いクラスに入れられた。アンラッキーなことに、そこは日本人であふれていた。日本人と接しない、日本語をしゃべらないと決めてきたけれど、周りから聞こえてくるぶんにはどうしようもない。無邪気な若者達は教師の質問にたどたどしい英語で答えながら、途中で「あー、えっと何だっけ」などと、へらへら笑っている。そのクラスには例の整形女、波江もいた。
「彼らは学生、私達は働いていた。シリアスさが全然違うよね」
波江はそう言って近づいてきた。下手くそだが、一応英語だった。美和子が日本語を使いたがっていないことを、出会いの時の一件で察したようだった。
案外、いい奴じゃん。最初はそう思った。
「ジュディ、チョークがスカートに付いてるわ」
その日のクラスが始まってすぐに、波江は大声を上げた。そして前に進み出て、四十代の女性教師の緑色のスカートを手ではらってやった。
「ねえ、ジュディ」
授業が進む中で、波江はしばしば手を挙げ、しどろもどろの英語で教師に話しかける。
「ジュディは何座なのですか」
聞き取りをやったテープの内容が、十二星座の特徴だったことに連ねての質問である。
「ふたご座よ」
「オーマイガー、私と同じ。テープにもあったけれど、ふたご座は二つのキャラクターを持っているんですよね」
注意深く波江の英語を聞き取った教師は微笑を浮かべ、しかし質問には答えなかった。
「私の友人は皆言う。波江はふたつのサイドを持ってるねって。センシティブ(繊細)とダル(鈍感)と。ジュディもそう?」
「さあ、どうかしら」
女性教師は肩をすくめた。波江は決して出来のいい生徒ではないが、一生懸命、彼女になつこうとしていることは伝わっているようだ。子犬のように寄って来る波江を憎からず感じている様子が、美和子には小面《こづら》憎い。
あの女はいつもそうだ。
英作文のクラスも、美和子は波江と一緒だった。これは日本人の少ない「やや上級」のクラスである。最初、波江はもっと下のクラスにいたのが、あまりにもレベルが低いと教師に交渉して上がってきたと言う。誰も訊《き》いてないのに大声でそう説明していた。
「おお、ジョン。残念ながら私は先週ここにいませんでした。先週のホームワークは持っていないのです」
波江は、宿題を回収する若い男の教師に、大袈裟《おおげさ》な身振りで伝えた。何とか気に入られ、えこ贔屓《ひいき》されたがっているのがミエミエであった。
ああした態度は、他国から来た学生達にはどう見えるのであろうか。美和子は波江のパフォーマンスを見るたびに、ひどく苦々しく思う。なぜならば、そういうことをやるのはいつも、自分の役目だったからである。銀座でホステスをしていた時もそうだった。
金持ちご一行様が水割りを傾ける。
「竹下さんとこはうらやましい、浮気は奥さん公認だ」
「あら、公認じゃなくて黙認、じゃないんですの」
美和子のツッコミにどっと笑いが起こり、座がなごむ。ハシゴして来て、すっかり酔いがまわり疲れた顔をしていた竹下の目が光るのを、美和子は見逃さない。会話の中にもう二、三発、気の利いたジョークを折り込めばほぼでき上がり。一行と共にエレベーターに乗ってお見送りの際「See you again, I'm gonna miss you」と英語でご挨拶すれば、さらにぐっとハートをつかむことができる。
美和子は水商売に入る前、会社でもそんなことをやっていたので、変な好かれ方と嫌われ方をした。夜の世界がしっくりきたのは、そうした機転が正当に評価される業界だからである。そしてその得意技を、留学先ではやめようとしているわけでは、ない。いつも波江が一歩先んじてやってしまうのだ。一瞬の遅れは、語学留学生の年長組、とくに日本人の中で最年長というお姉さん意識からきているのかもしれない。波江の正確な年は知らないが、自分より年下なことは何となくわかる。
波江のスタンドプレーを目にするたびに美和子は目が吊り上がった。
その椅子はいつも、私が座っていた椅子よ。
しかし次の瞬間こう思い直すのである。
ま、関係ないわ。私は英語を勉強しに来たんだもの。死ぬような思いをして、やっとのことでアメリカに来たのに、あんなコに振りまわされてはたまらない。私の目標はもっと遠く、もっと大きい。たった十週のコースだ。あと九週間、波江のスタンドプレーに目をつぶることなど何でもないじゃないか。
せめてもの腹いせに、美和子は波江を積極的に避けた。あと九週間、見て見ぬふりをすればいい。それで済むはずであった。
学食で夕食を済ませ、メリー・ジョーと、隣の一人部屋のスーと一緒にビデオを観ていたら玄関のブザーが鳴った。誰か来たようだ。美和子が出る。
「Who is it ?(誰)」
「ハーイ、ディスイズナミエ」
インタフォンごしの声は、クラスの時と同じく、わざとらしくはしゃいでいた。
「ミワコズフレンド」
何がミワコズフレンドだと思ったが、咄嗟《とつさ》に門前払いする理由も思いつかない。とりあえず玄関を開錠した。
「アイ、アイハードフロムマユ、ユーアーヒア」
マユというのは、文法のクラスで一緒の若い日本人だ。そう言えば少し前に、クラスが終わってから寮のことをちょっと話した気がする。美和子が日本人を避け、日本語を使わないことはすでに日本人学生の間で公認されているので、マユとの会話も英語であった。ネイティブばかりの寮に暮らしていることを、マユは羨《うらや》ましがっていた。
「ユアドームイズオールネイティブ、オー、グー」
要するに波江は、ネイティブばかりのところに遊びに来たのだ。波江の寮は各国からの留学生が多い東寮だ。マユに余計なことを話したものだと美和子は舌打ちした。
「ハイ」
メリー・ジョーとスーがビデオを止めて、波江を見る。初対面の挨拶を交わすのを、美和子は故意に黙って見ていた。波江の貧しい英語のせいですぐに会話が止まり、妙な沈黙が流れた。仕方なく美和子は二人のアメリカ人をもう少し詳しく紹介する。メリー・ジョーはボストニアンだが、看護師をしている厳しい母親を逃れボーイフレンドと自由にエンジョイしたいから寮に入ったこと、将来は保育士になりたいこと。スーはニューヨークから来たユダヤ系アメリカ人で、コミュニケーションを勉強し、テレビ関係の仕事を志望していること。二人とも十八歳の一年生であること。
「オーTV、グー」
語彙《ごい》が少ないので「グー」しか言えないようだ。二人のアメリカ女はそれがおかしいらしく、スーは波江が何か言うと「グー」と合いの手を入れてげらげら笑った。このユダヤ人は、部屋はゴミ壺のように汚く不潔で、声がでかい。いつも人に食べ物か煙草をせびってうるさがられていたが、人がよくて、本当は寂しがりやだ。
「スー、ニューヨーク、ビッグシティ、グー」
「オーイエー」
スーは得意になってニューヨークがいかに都会かをまくしたてた。ものすごい早口で、ELCに入ったばかりの、しかも中の下ぐらいのリスニング・クラスにいる日本人二人には、ほとんど内容は聞き取れなかった。スーの話題は早送りのテープのように次々と移り変わり、美和子が聞き取れたのは、スーが十二歳の時に両親が離婚したこと、スーは小学校の教師をしている母親のもとで育ち、父は再婚したが母は独身のままで、スーを含めて四人の子供達を育てているということだけだった。
「だから私は仕送りが少なくて、いつもミワコに煙草をもらうのよ。ミワコ大好き。二十六の年寄りだけど」
スーはそう言って美和子に抱きつき、キスする真似をした。真っ黒いカーリーヘアは、煙草と汗の匂いがした。部屋のドアが開いていると、いつも煙草やお菓子や消しゴムを黙って持っていってしまい、腹の立つこともしばしばだったが、美和子はスーを憎めなかった。よしよしとスーの頭を撫《な》でるのを、メリー・ジョーが横目にじっと見ていた。美和子はそんなメリー・ジョーに目を合わせ、ウィンクする。「しょうがないよね、このコは」という合図だ。
「オー、ミワコ、トェンティシックス? アイ、アイアムトェンティフォー」
二つ下か。二十四にしては頼りない感じだが、まあ年なりだ。
ひとしきり貧しい英語で話をすると、波江は腰を上げた。
「ミワコ、アイエンビーユー(羨ましいわ)。キャナイビジット、アゲン(又来ていい)?」
腹の底でいやだと言いながら「シュア(もちろん)」と返事する。言ったところでそう頻繁には来ないだろうと思った。京都のぶぶ漬けである。ところが波江は夕食が終わると、毎晩、美和子の寮にやって来た。
「ハイ、メリー・ジョー、ハイ、スー」
気がつくと、美和子とメリー・ジョーの部屋にはいつもスーと波江がいた。波江はいつも教室で教師達にするように、彼女達にも取り入りたいようであったが、いかんせん英語がついていかない。波江が去った後、スーが「アイ、アイゴーバック、バック」と波江の口真似をすると、美和子は加虐的な喜びを覚えた。
「ねえ、ミワコ。ナミエの顔は何だか不自然に見えない?」
ベッドに入り電気を消してから、メリー・ジョーは言った。
「プラスティック・サージュリー(美容整形)」
「え? 本当?」
碧い目が、好奇心と悪意をたたえて輝いた。
「彼女は言わないけど、たぶんね。でも、他の人には秘密にしてね。とくにスーには絶対に」
カーテン越しの明かりで、メリー・ジョーの顔は青白く見える。彫りの深い白人の顔は、意地悪そうに笑うと本当に迫力がある。ホラーだ。美和子は身震いして寝返りをうった。
半袖の日が続いたかと思ったら、四月が終わろうとしているのに冬の寒気が戻ってきた。
「ボストンの気候はクレイジーね」
波江が言う。美和子の部屋に毎日来ているうちに、波江の英語は少しスムーズになったようである。
「ニューヨークはもっとすごいヨ」
スーが声を張り上げた。今日はメリー・ジョーが恋人とデートにでかけて、いない。礼儀正しく几帳面なルームメイトがいないと、美和子は正直、ほっとするものがあった。スーは黙って波江のヴァージニア・スリム・ライトを抜き取る。こんなとき美和子なら「あなた、もらっていいかって聞いた?」とたしなめるのだが、波江は抗議しない。気をつかっているつもりか、いつも手のついた煙草の他にもう一箱、さらのものをGジャンのポケットに入れて持っていた。
「ところでさあ、私、生理がないの」
テレビを見ながら、波江はそんなことを言った。
「How long ?(どれぐらい)」
床に落ちたポップコーンを拾って食べながら、面倒臭そうにスーが聞く。床はいつも靴で歩くところで、その靴は犬の糞を踏んでいるものだ。美和子はげんなりして顔をそむける。
「モアザントゥーマンス」
「ええ!?」
美和子とスーは驚いて波江を見る。
「でも私、いつもコンスタントじゃないから」
「二、三ヶ月前、ボーイフレンドはいた?」
「うんいた。今も日本にいるよ」
「You have to be careful(注意なさい)」
スーはいやに真剣な顔をした。ひょっとしたら過去に覚えがあるのかもしれない、と美和子は思う。
「テスターを買って来な。今すぐに。あなたがいつも煙草を買う角のファーマシーで売ってるから。まだ開いてるよ、商品名はね、ええと」
くわえ煙草で紙に書いてくれる。さあさあ、とたきつけられて日本人二人は腰を上げた。きっとスーの母親はこういう人なんだろうと、美和子は微笑んだ。
寒い夜だった。スーの書いてくれた紙を見せ、妊娠判定薬を買い求める。美和子はついでに、クッキーと煙草を一カートン買って部屋に戻った。
「今日は使えないよ、今日じゃない」
スーは右手人差し指で波江を差し、大きな地声でゆっくりと説明した。水色の箱を開け、細長い検査棒のパッケージを取り出す。タンポンぐらいの大きさだ。
「明日の朝起きてすぐ、トイレに行って、あなたのアンダーにこれを近づける。ユーリンをかけて五分待つの。わかったね。色が白いままなら大丈夫、ブルーに変わったら妊娠よ」
妊娠チェッカーは日本でも流通していて、テレビCMでもやっているから知っていることであったが、二人は神妙にスーを仰いだ。せっかくの世話焼きを、ありがたがらないとワルイ気がしたのである。
「もし、ブルーに変わったら、私に言うのよ。大学の中に病院があるから。そこでは検査しかできないけど、中絶専門の医院を紹介してくれる。いいわね、必ず私に報告するのよ」
スーは胸を張った。頼り甲斐《がい》のあるネイティブを演じる快感が、顔と体からみなぎっていた。
翌朝、美和子は一限のリスニング・クラスで波江と顔を合わせた。波江が涙ぐんで抱きついてきた。
「色が、色がついたの。青く」
波江は日本語で訴えた。美和子の前で日本語を使ったのは、これが初めてである。腕の中で、波江の骨ばった体が震えていた。熱があるのか波江の体は熱く、抱きつかれている胸が汗ばんでくるようであった。
「どうしよう、どうしよう美和子。怖いよ」
痩せた背中に美和子はしっかりと腕をまわした。
「大丈夫よ波江。きっと間違いよ。心配しなくていいから。あたしがついてるから」
波江が顔を上げた。異国に来て四週間、美和子は初めて日本語を発した。
「美和子ありがとう。日本語で励まされると、やっぱり利くよ」
波江は洟《はな》をすすった。
寮で、妊娠チェッカーの陽性反応が出たことを、美和子はスーに言わなかった。
「白よ、真っ白。まったく波江は人騒がせなんだから」
こんな大事な問題は|ビッグマウス《おしやべり》のスーには聞かせられない。波江が妊娠チェッカーを買いに行ったことは、すでに西寮の皆が知っていた。だからわざと他の人間がいる前で「白よ」とスーに告げたのである。肩すかしをくったスーは「あ、そ」とろくに返事もせずそっぽを向いたが、ふと思い返したように「煙草を一箱ちょうだいって波江に言っといて」とつけ加えて自室へ戻っていった。
しっかりとドアを閉め、美和子はメリー・ジョーに向き直った。
「メリー・ジョー、大学構内にある病院の場所を教えて」
白人女の顔が内側から輝いた。
「どうしたのよ」
「メリー・ジョー、あなたを信じるわ。波江が妊娠しているかもしれないの。チェッカーの色は、本当はブルーなの」
「Oh my god ! 本当なの? それは大変だわ」
胸の前で十字を切ってから、メリー・ジョーは構内の地図を書いてくれた。底意地の悪いところはありそうだが、やるべきことはきちんとやってくれる女である。ありったけの感謝の言葉を並べ、美和子は地図を手に、足を向けたことのない東寮に走った。
さらに翌日、一限の英作文のクラスが終わっても、美和子はしばらく教室に残っていた。二限は文法のクラスで別の棟に移動しなければならないのだが、波江が来るのを待っていたのである。
次のクラスに出席する生徒達が教室に増え始め、そろそろここを出なくてはと腰を上げると、波江がふらりと入って来た。いつもよりいっそう顔色が悪い。泣いたのか、整形顔がむくんでいた。こちらを見ると、波江は静かに首を横に振った。
「どうだった」
おそるおそる聞く。会話は日本語である。
「ユーアー|プラス(陽性)、って言われた」
うつむいた波江の目から、大きな涙粒が落ちた。
「波江……二限、さぼろう。ちょっと贅沢《ぜいたく》しようよ。どうせ朝食べてないんでしょ、ハーバードにいいお寿司屋さんがあるってメリー・ジョーから聞いたんだ。行こうよ」
「寿司!」
波江は頭を上げ、洟水まみれの顔をほころばせた。
一ヶ月ぶりに口にする日本食は、心から美味しかった。味噌汁の、かつおの香りを嗅《か》いだ時、美和子は気が遠くなる思いがした。
「うち、漁師の家なの。母は小さな民宿やってる」
トロの手巻きを頬張りながら、波江は言った。たしか皆の前では「実家はホテルを経営している」と言っていたはずだ。
「日本に帰ったら、是非遊びに来て」
「そうさせてもらうわ。私が日本に帰るのは、もうちょっと先のことになると思うけど」
「私も、もう少し先だけどね」
美和子はぎょっとして、ガリをつかんだ手を止める。妊娠に気づいた波江は帰国するものと思い込んでいた。
「波江、その、赤ちゃんのパパとはもう別れたの?」
帰国するんじゃないの? と尋ねるかわりに外堀から攻めて行く。周りが白人ばかりなので、気兼ねなく妊娠の話ができた。
「シン君? ううん。手紙は来てるよ。まだ妊娠のことは話してないけど」
整形の包帯がとれた直後にナンパされた男だった。
「いくつの人」
「あたしと同い年。バイク乗ってるちょっとカッコイイ奴。日本で二、三ヶ月つきあってた」
波江は首に下げた銀のロケットを開けて見せてくれた。別にカッコイイ奴には見えなかった。
「彼は子供ができたって知ったら、結婚するって言わないかしら」
厄介払い、という言葉が美和子の胸を通り過ぎる。
「わからない。でも……私は外資系企業に転職するって目標を持ってここに来たから……」
「だけど、好きな人の子供でしょう」
「ねえ、美和子。美和子なら、どうする?」
美和子は言葉に詰まった。
もし自分が今。小田島の子供を妊娠していると。この場で知ったら。
翻訳の仕事に就きたいという志を立てて、この国に来た。金の用意、英語の勉強、と手間暇かけて準備してやっと来たのだ。不慮の妊娠を知ったからといって、そう簡単に帰る気にはなれないだろう。欲しくもなかった子供など、むしろ邪魔に感じると思う。しかしそんな逡巡《しゆんじゆん》はオクビにも出さずに、さらりと言う。
「私なら、産んじゃうかもね」
正直、波江にはここで帰って欲しい。昨夜から美和子は上の空で過ごしていたし、中絶手術をするとなったら、また自分が面倒をみなければならないことは目に見えている。ここで手を離すことは人道上、できそうにない。
「そっか。美和子なら産むんだ」
波江はGジャンの袖をいじりまわした。そんな内気な仕草を見ていると、サディスティックな気持ちが芽生えてくる。
「ね、どうして、こういう結果になってしまったのかな」
ともすれば責めている感じが滲《にじ》み出そうになるので、努めて素朴な疑問を装う。
「私、普段から生理不順で、危ない時に中出ししてこれまで全然平気だったから、大丈夫だと思って、それで。しばらく別れるからって盛り上がって」
妊娠してはならない身で、どうしてそんな無防備なことが出来るのか。美和子には考えられないことであった。美和子は普段から、あまりセックスに執着のない方である。あってもなくても、ナマでもつけてもどっちでも構わない。イヤな相手でなく、妊娠しなければそれでいい。いささか冷感症の気さえある。
「よく考えて決めるのね。大事なことだから」
美和子はアガリをぐいとあおった。
「私、実はもう決めてるんだ。これ、大学の病院でくれた。中絶は専門のクリニックでやってくれるって」
差し出された紙を見ると、三つのクリニックの案内が印字されていた。簡単な地図と費用も書かれてある。中絶は「オペレーション」でなくアボーション「サービス」であった。
「美和子お願い。本当に申し訳ないけれど、一緒に行ってくれない? これが終わったらもう絶対に、いっさい迷惑かけないから」
波江は顔の前で手を合わせた。美和子は表情を失い、目の前のショーケースを眺める。層の筋目がしっかり入ったマグロと鮭と鯛が一サクずつ並んでいた。
「ここ、私が払うから。当たり前だけど、私が持つから、ね、美和子」
「ウニトロ、プリーズ」
美和子はむっつりと中国人の板前に告げた。
クリニックは丘の上にあった。美和子が電話を入れ、「サービス」の予約をした。その日の朝早く、授業を休んで二人はタクシーでそこに向かった。さすがの波江も口数少ない。地図の紙を見て「ふん」と鼻から息を吐いた毛むくじゃらの運ちゃんは何も言わず、しかし料金を払い車を下りようとすると「ここは何をするところだ」と繰り返し美和子に聞いた。「一緒に来ればわかるわよ」美和子は言い捨て、青い顔をしている波江をかばうようにしてクリニックの玄関をくぐった。
待合室は教室二つ分はゆうにあり、木のベンチが十五ばかり並んでいた。その隙間に、セントポーリアのプランターが並べられ、病院というより、絵葉書で見たヨーロッパの田舎町の駅のたたずまいであった。
すぐ目の前のベンチに、小錦のように太ったレゲエ頭の黒人女が座っていた。赤、緑、黄色の横縞の短い靴下に、便所草履をひっかけている。日本と違って婦人科の病気でそこに座っていることはあり得ない。中絶専門のクリニックなのだ。ということは小錦も妊娠しているということだ。いったい、誰がどんな風にこの女を抱いたのだろう。感慨深いものがあった。見てはいけないと思うと、ますます凝視してしまうのは美和子の悪いクセだ。小錦がこちらを見て、やっと視線を逸らした。待合室の一番奥のベンチに、東洋人の男女が固く手を握り合って座っていた。二人とも眼鏡をかけ、ひどく痩《や》せて粗末な身なりをしている。中国人だろうか。ベトナム人だろうか。物慣れない、周囲からひっそりと身を潜めるように座っているさまは、間違いなく留学生だ。それもボストンに来て間もない。可哀想にと一瞬思ったが、その前にいい思いしたんでしょ、と美和子は同情を揉《も》み消した。
名前を呼ばれて診察室に入る。大学の病院から持たされた検査結果を見せると、細かい英文字がいっぱい書かれた書類にサインを求められた。同意書のようなものだろう。波江もそうだろうが、美和子も緊張し、そんな細かいアルファベットなど追う気になれない。
「ところで通訳は?」
金縁の眼鏡をかけた白人女はメグ・ライアンによく似ていた。医師ではなく、看護師でもない。さっき待合室にいた時、医師らしき男と看護師らしき女が通ったが、白衣の形が違った。受付事務みたいなものだろう。
「私が」
白衣を着たメグ・ライアンは、コ馬鹿にしたように顎《あご》をしゃくった。
「あなたはネイティブ? 違うでしょう。私達は外国人にアボーション・サービスを行う際、ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーの通訳がいないと行いません。何が起こるかわかりませんからね」
そんな、と思ったが、抗議するだけの英語力も話術もない。向こうの言い分ももっともな気がした。
「わかりました。通訳を連れてもう一度来ますから、再予約を」
メグは勝ち誇ったように予約表をぱらぱらとめくり、「この日はいっぱいだわ、あーらこの日も」と楽しそうに呟《つぶや》く。美和子は自分が手術を受けるわけでもないのに、なぜだかメグが波江より自分に敵意を持っているような気がして、むかっ腹が立った。そしてその怒りは波江に向いた。あんたが無防備なセックスするから悪いのよ。なんで妊娠なんかするのよ。留学するなら中出しするな。
心の中でさんざん毒づいた美和子は、帰りのタクシーでもそっぽを向いていた。
いったい私は何のために、このコにつきあっているのだろう。ここで「あんた一人で好きにしな」と突き放すことができたら、どんなにいいだろう。揺れる車中で美和子は不機嫌に腕組みをした。するとあるシーンが、テレビの再現フィルムのように脳裡《のうり》に映し出された。
「何だって? 売掛け八百万? 馬っ鹿だねえ」
売掛け金をふっかけたまま真佐奈が姿を消し、途方に暮れる美和子が頼ったのは、同じ店に働く明美だった。年は真佐奈より少し若いだろうか、これも売上げで商売するベテランであった。博打《ばくち》が大好きだという明美はしかし、裏表のないさっぱりした性格である。ホステス業に慣れない美和子にマギーやリズの洋服をくれ、席につく時の立ち居振る舞いから、体を触られたら急所を握り返すことまで教えてくれた。
「本当は私の借金じゃないんです。真佐奈さんの分と店の客の。いつの間にか私の客にされてて、払わなきゃ田舎に払わせるって社長が言うもんだから」
はーん、と話を聞いた明美は言い切った。
「美輪、それ払いな。これで水商売上がる気なら、石にかじりついてもきちっと清算しな。それで真佐奈とも手が切れるから」
「あの、じゃあお客さんに店辞めるからって説明して、払ってもらえばいいんですね」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
美和子は頭をはたかれた。
「ホステス辞めるって女に、誰が鷹揚《おうよう》に金払うかね。払って欲しいならやろうぜ、になるに決まってんでしょ。やらなきゃバックレて終わりだよ。月給取りはどんくらいいるの、どれ」
明美は売掛け金のリストを美和子の手から取り上げた。真っ赤なマニキュアをした指に、合計十二の指輪が光っていた。
「やっぱりデカイ売掛けは自営業のおやじだねえ。うーん」
明美はリストに、赤と青のペンでしるしをつけた。
「青のやつには店辞めるって正直に言いな。赤のやつは言っちゃだめ。ひどいお客がいて、売掛けで首回んなくなったからって、今後は現金かカードで払ってもらいな。可愛く頼むんだよ。それで売掛け全部落ちるまで、店続けな」
「ずっと落ちなかったら、どうしよう」
「そんなときはあたしに任せなさーい。ヤクザもん回して、絶対に払わしてやるから。そのかわり、半額はヤクザの手に落ちるからね、あとの半分は自分の給料から月賦で払う。これしかない」
きっぱりと言われ、美和子は明美に従う気になった。心配で心配で、ピアノに併せて歌う声が出なくなったこともあった。ことあるごとに明美に相談し、その後五ヶ月近く働いて、なんとかやっと全部返しおおせたのである。
あんたは運がいいよ、悪運強いよ。
明美はそう言って美和子を店から送り出してくれた。しかし、その後にこうつけ加えた。
でもね、あんたはきっと夜の世界に戻って来ると思うわ。この商売の水に染まった女が、真っ白に戻れるもんかね。
歯ぐきを見せた笑みは、それまでとうって変わった敵意を含んでいた。けれど、その意味を深く考えることはよした。彼女にたいへんな世話になったことは事実だからだ。美和子は何も言わず、ただ頭を下げた。深夜の街に細かい雪が舞っていた。
銀座の街並みを最後に、再現フィルムが終わった。美和子は隣の青い顔を見た。
面倒かけたら面倒かけられるってことなんだろうか。明美さんから受けた恩を、このコに返せっていう巡り合わせなのかもしれない。しょうがない。毒を食らわば皿までだ。
美和子は腹をくくった。
波江に通訳のアテがあるはずはなかった。プロの通訳を頼めばいいことだが、それを見つけるには時間がかかるし、また人に事情を話さなくてはならない。だいいち、高い。幸いなことに、中絶費用はわずか三百ドルと安かったが、波江とて手術代と同じぐらいする通訳を頼みたくはない。六月からはハーバードの夏季講習に出るつもりだから、手持ちの金は、中絶費を払えばほとんどぎりぎりだという。当然の流れとして美和子はメリー・ジョーに声をかけた。メリー・ジョーは日本語はまったくできないが、彼女と自分と、二人いれば何とかなるだろうと思った。
「uh……」
話をきいたメリー・ジョーはしばらく無言であった。エスティー・ローダーの皺《しわ》のばしクリームを目の周りに毎晩塗っているのを見ていたが、なるほどその目の周りには十八歳とは思えぬ皺が刻まれていた。きめの細かいミルク色の肌は、透き通るようであったけれど。
「well, let me see」
信頼おけるルームメイトはゆっくりと話し出した。
「私はクリスチャンなの。だから妊娠中絶にどうしても賛成できない。あなたや波江のことは好きで役に立ちたいと思うのだけれど、私の中に|コンフリクト(葛藤)があるわ。妊娠したくないのならば、きちんと避妊すべきなんじゃないかしら」
そんなことは美和子も知ってる。ついでに、メリー・ジョーが毎日経口避妊薬のピルを服用していることも知っている。ただ、まさかの妊娠が起こってしまった今、避妊がどうこう言っても、どうしようもないじゃないか。
まあ仕方ない。その気がないものを説得しようという試みは、たいてい無駄に終わる。ましてメリー・ジョーの言う「宗教上の葛藤」というのは、嘘ではないだろうが、どうしても助けたい相手ではないから関わるのは避けようという逃げが仄《ほの》見える。スーに頼めば胸をたたいてOKするだろうが、スーにばれることは寮中の百人にばれるのと同じことだ。
美和子はため息をついて東寮に向かった。蒸し暑さがぶり返し、夜の町に霧がかかっていた。
「ええ! 本当?! 美和子、どうしよう。どうしよう手術できない」
メリー・ジョーの返事を聞いた波江は、早くも涙声になった。そしてその直後、下腹部をおさえてうずくまった。
「痛い。お腹が痛い」
慌てて波江をベッドに寝かせる。波江のルームメイトはスペイン人だが、毎晩どこかのパーティーに顔を出しているとかで、今日も不在である。
「波江、どうしたらいい? 救急車呼ぶ?」
テレビならばここで簡単に流産するところだが、実際はそうはいかない。波江は青い顔をしていたが、意識はしっかりしていた。
「大丈夫。生理痛ぐらいの痛さ。きっと動揺したから、お腹の子もびっくりしたんだと思う」
お腹の子、という言葉を聞いて、波江がその腹に命を宿していることに、美和子はあらためて感心する。いっそこのまま腹の中で育てて、ハーバードの講習を受けた後、大きな腹で帰国して産んではどうなのかと考える。
「ううん。私は日本に帰ったら、ちゃんと就職したいんだもん。それにね、シン君に電話して妊娠のこと伝えたら『ああ、そ』しか言わなかった。お金のことも何にも。あの人、私と結婚する気、ないんだよ」
美和子は波江が強烈に可哀想になる。何とかしなくては、何とかこのコを救わなくてはと頭を巡らした。
「そうだ。波江、ボストンに着いた初日、シスターの家に行くって私と別れたじゃない。シスターに頼めばいいじゃない」
どうしてそんなシンプルなことを思いつかなかったのだろうかと、美和子は声をはずませた。ところが波江は浮かない顔をした。
「ああ、麗香さんね。本当はシスターじゃなくて、私が不倫していた上司のシスターなの。私、松久電器で働いてたのね」
波江は日本で最大手の家電メーカーの名前を口にした。
「麗香さんは、白人と結婚してこっちに住んでいるの。でも無理だわ。すんごい利己主義の人。私、二泊お世話になった時も、来なきゃよかった、早くここを出たいと願ってたもん」
麗香に中絶の通訳を頼みたくない理由のひとつに、羽田にこの不始末を知られたくないという都合もあるのだが、この際それは言わないでおく。
「あ」
美和子が叫んだ。
「ジャニスよ、ジャニスがいた。私、あの日波江と別れた後、バークレーのYWCAに泊まったんだ。すんごいトコだったけど、そこで親切な姉御と知り合ったのよ。そうよ、ジャニスがいたわよ。どうして今まで忘れてたんだろう」
美和子はもどかしげに手帳を広げ、YWCAの電話番号を探す。たしか、書きとってきたはずだ。YWCAを出る時、ジャニスに日本製の生理用ナプキンと、もち米を揚げたカキピーをあげて喜ばれた。
なんだかうまくいきそうな予感がする。いや、いってもらわなくては困る。
寮の廊下に出て、銀色に光る公衆電話の前に立つ。美和子が受話器を握り、波江は手にいっぱいの十セント硬貨を持っている。ほんの少し口に障害のある、懐かしいフロントが電話に出る。2××号のジャニスをお願いしますと告げる。館内放送で呼び出す音声が聞こえ、何度目かの十セントを追加した時、ジャニスが出た。
「ジャニス? ジャニス、ディスイズミワコ。ジャニス、ヘルプミー!」
いつの間にか美和子は叫び、泣いていた。
「美和子、泣かないで、美和子」
隣に立っている波江も泣き出した。波江の涙の粒は美和子のよりもうんと大きかった。
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[#5字下げ]三
手術はおそろしく寒い日だった。五月初旬と言えば東京はもう半袖の季節だろうに、美和子は冬のコートを羽織って寮を出た。大学正門前でタクシーを拾うまで、白い息を吐いて手を温める。今日が無事に済みさえすれば、肩の荷が下りる。どうか、何事もなく終わってくれますように。美和子はルームメイトのメリー・ジョーを真似て、胸の前で十字を切った。
まず向かった先はYWCAである。
朝八時の手術時間にあわせて六時起きし、七時にジャニスを迎えに行った。何か番狂わせが起きるような気がしていたら、案の定ジャニスは不在だった。
「どこに、どこに行ったのです」
美和子は泣き声でフロントの女に訴えるが、彼女がジャニスの行き先を知るわけはない。三十分間、胃に穴があく思いでジャニスを待った。きっと来る、ジャニスは七時半にはきっと戻って来る。こんなこともあろうかと、ジャニスには「手術は七時半からだ」と伝えてあるのだ。美和子は貧乏揺すりして時計を見つめた。
思ったとおり、七時半きっかり、YWCAの玄関にジャニスは現れた。
「うっかり忘れるところだったのよ」
昨夜、化粧を落とさずに寝たのだろう。あちこち剥《は》げたファンデーションに、口紅が口裂け女状に広がっていた。
「昨夜はフレンドのとこにいたんだ。ううん、ステディじゃない。私はここ何年かステディはいないから。昨日、バーで意気投合した男よ。朝目を覚まして、今日は何日だって聞いたら五日だって言うじゃない。そりゃ大変だってんで飛び起きて来たのよ。日本から来た友達が|アボーション(中絶)するから付き添うのって。君はクレイジーだって止められたわ。他人のことじゃないかって。人が人に良くするのは当たり前のことだわ。聖書にはそう書いてある。だけどね、ここボストンでは、ううんアメリカでは、それはちっとも当たり前じゃないのよ」
聞き取りは苦手なはずなのに、ジャニスの言うことは鮮明に耳に入って来た。
「ジャニス、お腹空いてない」
美和子は途中でタクシーを止め、デリで七面鳥のサンドウィッチとコーヒーを買って、ジャニスに差し出した。
東寮の前で車を待たせ、波江を拾って三人で丘の上のクリニックに向かう。八時まであと十五分。なんとか時間に間に合いそうであった。
「あなたがミワコの親友ね。私はジャニス、ミワコがYWCAで泣きべそかいてたときからの友達よ。以前、日本人のルームメイトを持っていたから、日本語もちょっとイケルの。だから今日のイベントは心配しなくていいよ。ダイジョブ、シンパイノー」
来たばかりの異国で、産婦人科の世話になる波江に同情しているのか、ジャニスはいたく優しかった。知り合った順番と今日の立場にしたがって、こちらには内の顔、波江には外の顔を見せているのだろうと美和子は思った。
丘の上に着く。通訳のジャニス一人が手術室に入ることを許可され、美和子は木のベンチでおとなしく手術が終わるのを待った。
待合室には五十歳前後に見える白人が一人。間違ってできた子を処理しに来たのだろうか。金縁の眼鏡を光らせ、いかにもコうるさい教育ママに見えたが、こういう女にも間違いはあるらしい。妊娠しないだろうと侮った結果であろうか。あるいは波江のように「盛り上がって」の顛末《てんまつ》だろうか。いずれにしてもそこは、女のもうひとつの顔を、否が応にも浮かび上がらせる場所であった。
「あなた、ちょっと来て」
先日、通訳がいないと手術はしないと門前払いをくらわせたメグ・ライアンであった。
時計を見ると、波江とジャニスが白いドアの向こうに消えてからまだ十分と経っていない。美和子は動悸《どうき》をおぼえた。
「What happened ?」
見ると水色の手術着をまとった波江と、いつのまにか化粧を直したジャニス。二人の前に金髪のオバハンが座っていた。
「美和子、何言ってるんだかわかんないよ」
波江が心細げに顔を上げる。
オバハンは美和子を見ると頷《うなず》き、ゆっくりと話し出した。
「麻酔を使用しますが、アボーションの最中もうっすらと意識はあります。あとでほんの少し、少しだけ、お腹が痛むことがありますけれど心配要りません。生理痛程度です。それから、あなたは決して悪いことをするわけではありませんから、罪悪感を持つ必要はないんですよ。これは今のあなたには必要なことなんです。終わったら忘れる権利が、あなたにはあります」
宗教を持つお国柄か、アメリカでは手術前からメンタル・ケアを施すのだ。罪悪感云々は、波江には説明の必要はなさそうだったが、一応、オバハンの言うことをすべて日本語にして伝えた。
「あなたも一緒にいた方が良さそうね。おたくの通訳さんは日本語がそれほど得意じゃないようだから」
メグ・ライアンは皮肉っぽく言う。それは「どうせ、タダの友達連れて来たんでしょ」と美和子の耳にサウンドした。
だだっ広い手術室に、開脚用の手術台が一台。男の医師の頭よりも高い位置にある大きな窓からさんさんと太陽が降り注ぎ、波江の大事なところは晴れがましい光にさらされているようである。
波江の枕元にジャニスが座り、美和子は部屋の隅っこに立って一団を見守っている。
腕から麻酔薬が入れられ、間もなく医師は人差し指を立てて言った。
「オンリー・ワン」
一本だけ指を入れるよ、という意味らしい。何だかおかしくて、美和子は下を向いて笑ってしまったが、笑顔が出たのはそこまでだった。遠くに小さく見えるだけだが、波江の体内にさまざまな銀色の器具が差し込まれ、途中から液体を吸い込む掃除機の音が聞こえた。
「中絶手術のこと、『お掃除』って言うんだよ」と、銀座の客の若い医師が言っていたのを美和子は思い出した。
離れた場所から聞いても、その音はどうも気持ち良い音ではない。まるで自分の腹から粘膜が剥がされ、吸い込まれていくような錯覚を覚え、美和子は無意識に下腹部を押さえた。手術台の頭のところに腰掛けているジャニスは、気丈に波江の頭を撫《な》で続けている。医療器具が触れ合う音に混じって、「イイコ、イイコ、ダイジョブダイジョブ」と囁《ささや》く声が聞こえた。
医師、看護師、ジャニスに囲まれ、明るい陽光の下で脚を広げる波江。やっていることは堕胎なのに、それはまるでキリスト生誕の宗教画のように映り、美和子は強烈な羨望《せんぼう》をおぼえた。
波江にとって代わりたい。我ながら馬鹿げた思いであった。けれども、打ち消すことのできない、正直な感情だった。
手術が終わり、ストレッチャーで別室に移された波江はまだ朦朧《もうろう》としていたが、意識はあった。
「ジャニフ、ハンキュー」
波江はジャニスに抱きしめられる。
「美和子、わらひはらいにょうむよ。お腹も別にいらぐないひ」
腕に点滴を受けながら、そう言って笑顔を向けた波江を見たら、ほっとして涙が出た。
感慨に浸りたいところだが、ジャニスが後ろで「ジーザス、もう時間だ。仕事行かなくちゃ」と叫んだ。
「ジャニス、今日は本当にありがとう。もし時間があったら、波江のお見舞いに来てちょうだい。東寮3114号」
「わかってるわよ。それよりミワコ、術後は安静が大切よ。さっきもらった処方|箋《せん》をドラッグ・ストアで見せて薬を買うこと。そして毎食後必ず飲ませるのよ。わかってるわね、あなたがしっかりしないと」
ジャニスの物言いはほんの少し厳し過ぎて、美和子は一瞬唇を噛《か》んだ。
「わかってるよ、ジャニス。今日はこれで帰って」
財布から十ドル取り出して渡す。
「あら、サンクス」
美和子の手からひったくるように札を受け取り、ジャニスはくるりと背中を向けた。そして部屋を出て行く時もう一度言った。
「薬をちゃんと飲ませるのよ、ミワコ」
波江の手術から三日経った。気がつくと五月の第二週に入っている。ボストンに来て六週目、十週間の半分を過ぎていた。
美和子は学生食堂で自分の食事を済ませた後、鶏肉の香草焼き、野菜サラダ、コーンスープとライ麦パンをお盆に載せ、持ってきたビニール・ラップをかぶせて、東寮に運んで行く。そういうことは許可できないと言い張る食堂の責任者に、日本人留学生の友人がひどい貧血で輸血を受け、今も部屋から動けないのだと涙を浮かべて訴えた。許可願にサインして、やっと三日間だけ持ち出しを許可してもらった。そうやって朝と夜は寮の食事を運び、昼は授業の合間に近くのデリで、サンドウィッチやベーグルを買って持って行った。
「早く元気にならなきゃね、美和子にますます迷惑かけちゃう。こんなに世話になったんだもの、良くなって恩返ししなくちゃ」
波江は我儘《わがまま》を言わず、まずい寮の食事をよく食べ、三度三度きちんと薬を飲む模範的な患者だった。
「学食の責任者にね、波江が極度の貧血で輸血を受けたって説明したの。そしたらやっと持ち出しを許可してくれて」
「うふふ、あの蝶ネクタイのデブでしょ。輸血だなんてさすが美和子、思いつくことが違う。ところで美和子、輸血って英語でなんて言うの」
「ブラッド・トランスフュージョンでしょ」
「すごいね美和子、そんな単語まで知ってるんだ。スペルは? これに書いて」
波江が上智大学卒というのは、本当なのだろうか。美和子は首を傾げる。「輸血」は、専門用語のうちであろうが、波江の英語のボキャブラリーは乏し過ぎる気がする。
「あのね、私、実は中退なの」
何も聞かずとも、言い訳するように波江は言った。
「ふうん」
そんなことはよくあることだ。美和子だって、たまに「どこの大学を出たの」と聞かれた際は、あえて短大部とは言わず四大のふりをしている。美和子はスペルを書いてくれと差し出されたレポート用紙に目を落とす。欄外下の方に、松久電器工業株式会社という社名が入っていた。波江は松久電器で働いていたと言っていたが、おそらくこれはその子会社だ。手渡されたシャープペンシルにも同じ社名が入っている。つまり子会社にいたのを、親会社で働いていたと公言しているのであろう。
まあ、そんなこともよくあることだ。自分だって、銀座でホステスをしていた過去は口をぬぐって、渡米直前まで商社にいたことにしているのだ。
blood transfusion と記す。
「こういうスぺルなんだ。ホント美和子の英語は大したものだよね。絶対、翻訳家になれるよ。絶対に。美和子は何だってできるもん」
医師から、四日間シャワー厳禁の指示を受けた波江の頭には白いフケが浮いていた。
顔は洗っているようだが、化粧はしていない。整形した顔というのは、素顔になるといっそう生々しい。昼間に会う真佐奈もこんな顔をしていたことを、美和子は思い出した。
「ハイ、ミワコ」
波江のルームメイトが食事から戻ってきた。
「アイ、アイワズ、ブラッド・トランスフュージョン」
「Oh, really ?」
スペイン女は碧《あお》い目を見張った。その英語も変だが、聞かれもしないのに三日経ってそんなことを言い出す妙を、波江は感じないらしい。手術から三日間、スペイン女は波江にどこが悪いのかとも、大丈夫かとも尋ねたことがない。察しているのでなく、全く関心がないのである。髪や肌の色の薄い人間に、「察する」という概念はほぼ、ない。ジャニスやスーは、髪も目も黒や褐色である。彼女達を温かく感じるのは、自分の仲間意識のせいなのだろうかと美和子は思う。
スぺイン女は驚きの一言を発したものの、それ以上は何も言わず、日焼けした肌に映えるエメラルド・グリーンのドレスに着替えて、そそくさと出て行った。入れ違いにドアをノックする音がした。
「波江、どおお」
ドアを少し開けて顔を見せたのは若い日本人の女三人だった。日本人達に美和子は、
「貧血がひどいのよ。まだ安静にしてなきゃいけないから、お見舞いはもう少し待ってあげて」
と説明していた。日本語を使いだした美和子に、若い留学生達はきょとんとした顔をしていた。
「美和子さん、大丈夫かな。入って、いい」
若い女三人が、美和子に聞く。
「もう大丈夫よ、カムイン」
にこやかに見舞い客を迎える美和子は、母親になったような気分である。
「大丈夫なのぉ、波江。あんたが寝てると東寮が静かだよ」
「病気はなんだったの」
「病院代、いくらかかったぁ」
三人がそれぞれ口を開き、狭い部屋の中は若いはなやぎでいっぱいになった。
「あんまりにも貧血がひどくてね、輸血してもらったんだ」
波江は堂々と言ってのけた。
「輸血って、英語で何て言うか知ってる? ブラッド・トランスフュージョンて言うんだよ」
ついさっき、美和子が教えてやったことだ。
「アメリカで輸血なんかして、大丈夫なの? エイズにならないかしら」
鋭い質問を挟んだのは、英文法のクラスで美和子と一緒のマユであった。さすがの波江もこの質問には目を白黒させている。いい気味だという気もしないではないが、本当のことがばれたら、自分にもいいことはなさそうだ。美和子は助け舟を出した。
「成分輸血よ。今はエイズが怖いから、血液をそのまま輸血するなんてこと、滅多にしやしないのよ」
銀座の客の医者から聞きかじったことを言う。成分輸血ってなあに、と聞かれたらどうしようかと実は冷や冷やしていたが、三人とも「ふうん」と納得し、それ以上は追及してこなかった。
「それよりさあ、波江。柏木、ヤバイよ。亜矢が大接近しちゃってぇ。このままじゃあの二人、時間の問題だよ」
「そう、こないだなんてぇ」
話題は男のことに移ったらしい。柏木も亜矢も、美和子にはどの学生だかわからないし興味もない。こっそりと部屋を脱け出そうとしたら、新たな来客があった。又も日本人三人である。中に男も一人いる。これは加藤文太という慶應の学生であることを、美和子は知っていた。最近、日本人達に日本語を使うようになった美和子に、「グッモーニンおねえたま」「ハアイおねえたま」と声をかけ、「文太のシスコン」と冷やかされていた。波江にも教えてもらった。
「加藤文太でしょ。でっかい会社の息子でさ、下から慶應なのに二留して今四年生。前から美和子に目ぇつけてたの、みんな知ってるよ。美和子って裏で人気あるんだから」
そう言われても、殴られたような、つぶした亀のような顔の文太であった。背が美和子の鼻先ぐらいと極端に低く、おまけに二十代前半とは思えない、太ってたるんだ体をしている。
「お、おねえたま。付き添い看護で」
早速声をかけた文太とすれ違いに、美和子は部屋を出た。
美和子は文太を、どうしても好きになれなかった。自分に好意を寄せている異性ならば、とりあえず「おっ」と目に留め頭に留めるのが女の常であろうが、文太の顔は、あまりにも見たくない顔である。ええ家《し》のぼんにしてはずいぶんと目が卑しい。文太の父親は叩き上げではなかろうか。夜の銀座で、あんな目をした商売人を何人か見たことがある。大見得をきるわりに、支払いが渋い会社社長というやつだ。
当たらず触らずあと四週間。
念じながら長い廊下を歩く。そして東寮の受付を出ようとしたら、偶然ジャニスに出くわした。
「ジャニス」
「丁度良かったわミワコ。この人がねえ、私はここの学生じゃないから、入れないって言うのよ」
西寮は各玄関がオートロックだが、東寮は大きな入り口が一つで、そこを入るとガラスの扉がある。受付に当番の学生が座っており、当番に開錠ボタンを押してもらわなければ中に入ることができない。今、受付席にいる男子学生はヘッドホンを付け、音楽に合わせて体でビートを刻んでいる。何度も波江に食事を運んでいるうちに、学生証を見せるだけで何も言われなくなったが、最初の頃、美和子もずいぶんうるさく言われたものだった。それは東寮の住人でないからではない。美和子が、そして波江が東洋人だからだ。
「エクスキューズミー」
鼻ピアスをし、腕に蛇の刺青をした学生はわざと逆を向いている。美和子は学生のヘッドホンを両手でひっぱがして、その耳に怒鳴った。
「エクスキューズミー」
ジャニスを連れて再び波江の部屋を訪れる。ドアは開いていた。というよりも、部屋から溢《あふ》れた人が廊下まで続いていた。二十人以上、全部日本人。女も男もいる。波江が東寮の日本人社会でたいへんな社交家であることを、美和子は初めて知った。波江はいつも西寮に来て、東寮の若い日本人達の悪口ばかり言っていた。
「はいちょっと、ごめんなさいよ」
美和子は大声を張り上げた。
「波江が輸血を受けた時の通訳さんがいらしたの。みんな悪いけど、ちょっと席をはずしてくれないかしら。お医者さんからの伝言もあるからね」
人ごみをかきわけて波江のベッドに進むと、たくさんの花束を抱えた波江が、男や女に囲まれていた。まるでスター気取りだ。本当は中絶手術を受けたくせに、と美和子は鼻白む。
「ジャニス」
波江はジャニスを見ると、抱えていた花束を捨て、両の腕を思いきり広げた。
「ハイ、ナミエ、元気。具合はどう」
二人は固く抱擁《ほうよう》し合う。
「みんな、ごめんなさいね。通訳さんが、お医者さんの伝言を伝えに来たのよ、いったんひきとってくれないかしら。申し訳ないわ」
いったい自分は何のために、他人に頭を下げているのだろうかと思いながら、美和子は日本人の群れに謝った。集団の中で「偉そうに何様のつもりだよ」とぼやく男の声が聞こえた。
「出血はおさまった?」
美和子以外、誰も人がいなくなった部屋でジャニスは聞いた。
「ううん、まだ少し」
「どれぐらい?」
「ほんの少しなんだけど。生理の終わりぐらいのが」
これは美和子が英訳してジャニスに伝える。
「それは良くないわね、薬はちゃんと飲ませてるの、ミワコ」
波江に対するのとは違う厳しい口調で、ジャニスは美和子を睨《にら》んだ。
「ええ、ちゃんと飲ませてるわ。一度も忘れたことはない」
「食事は? ちゃんと食べさせてるんでしょうね。アボーションの後は安静と栄養がとても大切なのよ。あなたわかってる?」
叱りつけるような口調に、美和子はいささかふてくされた。
ちゃんと世話してるのに。もともと不始末をしでかしたのは波江で、こちらは好意でその後始末をヘルプしてるのに、なんだってこんな言われ方をしなくちゃならないんだろう。
「わかってる。出血のことは明日、クリニックに行く日だから、ドクターに伝えます」
ぶっきらぼうに美和子は答える。ジャニスの険しい顔の向こうに波江の顔が見える。波江はくすりと笑った。
どうして? どうして? どうして?
言い知れぬ屈辱が美和子を包んだ。
翌日、美和子は授業をさぼってクリニックにつきあった。術後の経過は順調、出血はじきに止まるだろうと医師は告げた。
「良かったね、これからは避妊に気をつけることだ」
ハンサムな医師は、波江の細い肩に手をのせてにっこりと笑った。その笑みもまなざしも波江にのみ注がれ、当たり前だが付き添ってきた美和子をねぎらうことはなかった。波江よりもはるかに美しい美和子に向き直る時、医師はひどく事務的な口調になり用件のみを伝えた。
今だかつて、こんなことがあっただろうか。私は波江のひきたて役?
美和子は首を振った。
どうも私は被害妄想に陥っている。
美和子はアメリカ人がするように、肩をすくめて手のひらをハの字に広げた。
それもこれも終わりよ。一件落着、今日からは勉強に戻れる。
心配事が晴れて歩くキャンパスは気持ち良く、久々の開放感があった。
「おっす」
あまりに気分が良く、図書館の前にいた日本人グループに自分の方から声をかけた。
「お、おす」
中の一人が慌てて返してよこした。リーダーのクラスで一緒の、サトルという青年だ。たしか早稲田卒だったはずだ。
「お、おねえたま。ちょっと」
サトルは美和子を呼び留めた。いつの間にか「おねえたま」は美和子の呼び名になっているらしい。
「リーダーの宿題、やってる?」
「昨日の? うんやってるよ」
「あのさ、俺さ、半分やって麻雀《マージヤン》誘われちゃってさあ」
「何、見せてってか? 君のためにならんぞ」
笑いながら、デイパックの中のプリントを出して渡してやる。
「お、サーンキュおねえたま」
「ちゃんと提出までに返してよ」
波江の手術から四日。あの日はとんでもなく寒い日だったのに、町は初夏の陽気を取り戻していた。街路樹のポプラがぼうぼうと勢いをつけ、誰もが半袖で往き過ぎる。
パーマでもかけようかな。スーがうまい美容院を紹介してくれると言っていた。よし、明日か明後日、行っちゃおう。
歩きながら鼻歌を歌っていた。日本のポップスだった。
その日、美和子と波江は学食をパスして、コ洒落《じやれ》たレストランに名物のロブスターを食べに行った。鋏《はさみ》に黒い輪っかをはめられ、氷の上で窮屈そうに身じろぎしているロブスターはどれも、痩《や》せた波江のふくらはぎほどもあった。「これ」と選んだやつを茹《ゆ》でてもらい、真っ赤に茹だったものが大皿にのってやってくる。ウエイトレスに手伝ってもらいながら関節をはずし、やっと取り出した白い身を、黄色い溶かしバターにどっぷりと漬けて食べる。鮮度抜群、学食のペットフードみたいな食事に慣れた二人の舌に夢のように甘く、そこにソイソース(醤油《しようゆ》)のないのがつくづく残念であった。そしてその帰り、誘われるままに東寮に寄った。
「フィニッシュおめでとう」
美和子はバドワイザー、波江はコークで乾杯する。
「本当にお世話になっちゃって。私、昔なにかの本で読んだんだけど、吊り橋の上で出会った二人は長続きするんですって。危機感がある時に知り合うと、結びつきが強いらしいよ」
それは確か、心理学のテストで、吊り橋の上など潜在的に緊張感を持っている人にアンケート依頼をすると、イエスと答える確率が高いという調査だった気がするが、記憶が不確かなので、へえ、そうと頷《うなず》く。
「私、これから先きっと美和子に恩返しするよ。こんな奴でもお傍においておけば、必ず役に立つ時がくるから」
「もういいわよ。無事に終わってめでたしめでたし、それでいいじゃん」
美和子は照れとビールで火照った頬を押さえた。出会いの時に危機感があったのは、本当は自分の方かもしれない。おっとりとそんなことを思った。
「ところでさあ美和子」
波江は話題を転じた。
「私、柏木が好きなの。もうはまっちゃって毎晩苦しくって」
知らない国で妊娠中絶というアクシデントに見舞われながら、他方ではしっかり恋をしていた波江に、美和子はぽっかり口を開ける。
「柏木ってどの男?」
「背が高くって顔が四角くって、英語がとってもできる男のコ」
そんな奴いたかなあと思い巡らす。
「こないだ、お見舞いに花束持って来てくれてた奴の一人。好きになっちゃったんだよねえ、ひょんなことから」
波江の目はせつなそうに潤んだ。
「恋におちるきっかけって、他愛もないことだよね」
「そう。そうなのよ。わかってくれる? やっぱり美和子だわ。心の内をずばり言い当てる言葉を知ってる。翻訳家の卵は違うわ」
美和子はちょっと自尊心をくすぐられる。
「だけど波江、日本にいる、ソノ」
「ああ、お腹のコのパパ?」
「そう、その人。彼はどうしたの? もういいの?」
「うん。もう全然いい。妊娠のこと伝えてから、煮え切らない態度とられてすっかり嫌気がさしちゃった」
力なく笑う波江を見ると、やはり気の毒になる。異国で中絶手術というプレッシャーに加え、失恋の痛みまで背負っていたのである。美和子は励ますように明るく言う。
「そうね、遠くの恋人より、近くの他の男よね」
「うまいこと言うわ、美和子、天才!」
「おうよ!」
誰に遠慮することなく下品な笑い声をたてた時、ドアがノックされた。
「Who is it ?」
波江は美和子の寮でおぼえた言いまわしを使う。
「ナミエですう」
訪問者は若い、というより幼い少女であった。
「美和子、紹介するわ。このコもナミエっていうの。字が違うの」
波江は社名入りのレポート用紙に、奈美恵と書いて見せた。
「高校卒業したての十八歳。最近、ホームシックと亜矢のイジメで参ってるんだよね」
よろしく、と頭を下げた奈美恵は、おずおずとこちらをうかがう。漆黒のおかっぱ頭に頬っぺたがぽっと赤い、今時こんな十八歳がいるのかというような童顔だった。
「美和子も聞いてやってよ。亜矢ってば、奈美恵のこと馬鹿にするんですって。十八でアメリカ来てホームシックになるの、当然じゃないのよ。それを暗い、トロイってずけずけ言うらしいの」
「それはひどいねえ」
相槌《あいづち》をうつ。亜矢というのがどの学生で、奈美恵との間にどんな確執があるのか知らないが、軽く同調しておく。
「今ね、柏木のことを美和子に相談してたの。亜矢ってば最近、急接近らしいじゃん。もうデキてんのかなあ」
「デキてたって、取っちゃえばいいじゃん」
波江と奈美恵は顔を見合わせ、美和子を振り返る。二人の顔は驚きで固まり、目は好奇心で輝いていた。
年下の女二人の驚きが手に取るようにわかるので、美和子は得意だ。本当は、恋の道、男を手玉にとる方法ほど得意な分野はないのである。
「だってその柏木だって、波江に気がないわけじゃないんでしょ。いくらか気のある素振りを見せたから、波江も期待してますます好きになったわけでしょ」
波江は何度も頷《うなず》く。
「なら、取れるじゃん」
「そんなもの?」
「そんなもの」
ダテに銀座でご飯食べてたわけじゃないのよ。声にならぬ声で呟《つぶや》き、美和子は大人の女を気取って静かに煙草の煙を吐いた。
「美和子さんて、勉強ばかりしてる人かと思ったら、話せる人なんですねえ」
奈美恵が尊敬のまなざしを向ける。
「そうよ。美和子はとっても大人で、人の感情の機微ってやつをぜーんぶわかってくれる人よ。でもダメよ、美和子はあたしのベストフレンドって、さっきリザーブ入れたばっかりなんだから」
波江は美和子の前で両腕を広げ、若い奈美恵からガードするような仕草をした。
「えーそんなー」
若い方の奈美恵はふっくらした頬を膨らます。悪くない気分だった。正直言うと、かなりイイ気分だった。
自分を取り巻く不穏な空気に美和子が気づいたのは、それから間もなくのことだった。何かが変だった。形になったもの、音声になったものとして、証拠は何もない。とるに足らぬ、ささいな出来事の重なりに過ぎなかった。たとえば、「おす」「ハイ」と声をかけても返事が返ってこない、というような。いや、実はそれだけなのだ。いつも三人以上のグループでいる彼らは、美和子が声をかけると互いに顔を見合わせ、こそこそと逃げるように背を向けた。個人的に口をきいたことのある、サトルやマユや文太も反応は同じ。気にし過ぎだと思いながらも、二度、三度と同じ反応を認めるたびに、心に黒い砂塵《さじん》が舞い上がった。
どうしたというのだ。私が何かした?
図書館で、スタディルームで、一人になると美和子は考えずにいられなかった。彼らが発しているのは、イジメの気配、憎悪のオーラではあるまいか。ソバージュにした髪を弄《もてあそ》びながら、安心材料を見つけようと躍起になって記憶をたどってゆく。
ファイナル・テストまであと三週間を切っていた。以前のように「当たらず触らず」と唱えて我が道を行きたいところだが、気になってしょうがない。いったい何なのか、何が起きているのか。それを聞ける相手は一人しかいない。週末の夜、美和子は東寮を訪ねた。
「私の気のせいかなあ。なんか皆おかしい気がするんだよ」
「そおお?」
「波江、何か聞いてない」
「何にも」
波江は煙草を箱から抜き取り、美和子にも勧めた。
「本当に何も、知らない?」
「うん」
波江は頷いた。そしてこうつけ加えた。
「美和子って意外。そんなこと気にするんだあ。他の人のことなんて、全然頭にないタイプかと思ってた。いつも毅然《きぜん》として、自分の道だけ見つめてる人っていう、カッコいいイメージあるもん」
波江はいつものように最後の方は誉め言葉でくくったが、意外にも他人の思惑を気にするタイプ、という指摘は耳に痛かった。それは美和子が最も人に知られたくない、急所である。目立つのが好きなくせに、人一倍他人の思惑を気にする。会社員だった時も学生だった時も、つい目立つことをやってしまい、あとで仲間はずれにされたり足をひっぱられたりした。集団生活、とくに同性の集団というのが、実はとことん苦手であった。立ち回りが下手クソで、気がつくといつも痛い目をみている。女の目はごまかしがきかず厳しい。集団になるとなおきつい。親しくなる女はいつも、許容量の大きい年上の女だった。
はっとして、美和子は波江をうかがった。波江の目は特殊な光を放ってはいない。その弱点を突いてやれという性格の悪さは、波江にはないようだ。あれだけ犠牲になって、あげくに急所を攻撃されたのではたまったものではない。美和子はひそかに安堵の息を吐いた。
「考え過ぎだよ、美和子。でも、わかるよ。私、美和子は本当に人の気持ちがわかる人だと思っていたけど、それは人の気持ちに敏感だっていうことなんだよね。優しい人が鈍感なわけないもの」
そう誉められると、そんな気がしないでもない。こと対人関係に関して、悪いカンがはずれたことはないように記憶しているが、憶測してもどうにもならない。
「そうだね、そう思うことにする。ありがと波江」
不安をふっ切るように素早く立ち上がり、外に出た。
夜の道に草の匂いが溢《あふ》れ、夏がしっかりと腰を下ろしたのを実感する。
今夜こそ、小田島に手紙を書かなくては。
美和子は日本に残してきた二十歳年上の恋人を想った。最初は慣れない生活と勉強で、そのうち波江のことで余裕がなくなり、四月の初めに短い手紙を書いたきりである。小田島からの返事には、お金を送ってあげるからパソコンを買いなさいと書いてあった。インターネットならば簡単に送れるし、すぐに着く。けれど日本にすでにあるのに買うのは勿体《もつたい》ない気がしたし、機械類に弱いのに英語のマニュアルというのはいかにも心許ない。小田島の目を逃れて自由にやりたいという思いも、どこかにあった。
もうすぐ六月だ。
ファイナル・テストの勉強、その直後に行われるTOEFLの勉強。そしてその後移り住む予定の、ロスの市川多賀子へのご機嫌うかがい。やらなければいけないことはいくらでもあった。つまらないことを考えてる暇はない。美和子は波江に感謝した。しかし、疑惑の核心は向こうからやってきたのだった。
「美和子さん、どういうつもりなんですか」
マユはそう切り出してきた。文法の授業が終わり、階段に座って煙草をふかしている横を、通り過ぎようとした時だった。
「は?」
「私、ううん私達みんな、美和子さんて、もっと大人な人だと思ってましたよ」
何のことかわからないが、ここ何日かの不穏な空気のもとを突きつけていることは確かだ。
「しらばっくれないで下さい。全部ナミエがバラしてんですから」
「ナミエって」
「若い方の奈美恵です。美和子さんが亜矢の悪口言って、年とった方の波江に柏木をとっちゃえってたきつけてるって、全部、筒抜けですよ」
錠前に鍵がはまった音を美和子は聞いた。周りに、日本人の女達が集まってきていた。別の女が口を開いた。
「柏木と亜矢はもうステディな関係なのに、そうやって裏で波江を煽《あお》って、表では柏木に宿題貸したりして、自分だけイイコになって。それが大人のやり方ってもんなんですか」
あのリーダーの宿題を貸したサトルが柏木だったのか。
「そんなことして何が面白いんですか? もう若くないから、若いモンにいやがらせするしか楽しみがないんですか」
女は銀色の細いヒールを履いていた。自分のスニーカーは薄汚れている。
「年とった方の波江、柏木を食事に誘ったんですよ。思わせぶりにお話があるからって。柏木、困って文太に相談したんです。そしたら若い方の奈美恵が『私、それどうしてだか知ってる』って言い出して。全部バレバレですよ」
そう言ったのは、黒いスリップドレスの女だ。スリップドレスはアメリカで見るとまさに下着で、異様だ。
「悪いことはできませんね、美和子さん」
勝ち誇ったように一人が言った。
「とにかく私達、がっかりです。美人でガツガツ勉強ばっかして、お洒落《しやれ》も全然しなくて、日本人にも日本語しゃべらない美和子さん、いい味出してるよねってちょっと尊敬してたのに」
「あなたのように、年はとりたくないです」
言いたい放題言って、女達は去って行った。
もう若くないから、若いモンにいやがらせするしか楽しみが……亜矢の悪口言って波江をたきつけて……自分だけイイコになって……さまざまな、自分を侮辱する言葉が甦《よみがえ》る。「クソババア」と叫ぶ声がした。振り返ると文太だ。目も鼻も口も、悪意に照り輝き、醜い顔がなお醜く見えた。
どうして私がこんな目にあうのだろう。
目の前の地面が歪《ゆが》み、美和子は目頭をおさえた。
日本へ帰りたい。
初めて思った。切実な願いだった。道を往く車のどれかが、自分をはねてくれないだろうかと願いながら、美和子は大学の周りを歩き回った。
「美和子、大丈夫?」
夜、西寮に訪ねて来た波江に、美和子は口をきく気力がなかった。追い返す元気すらない。徐々に口を開き始めたのは、波江が一言も謝らないことに違和感を感じたからだ。
「波江、私がみんななんかおかしいって相談しに行ったとき、本当は原因知ってたんでしょ」
波江は力なく頷《うなず》いた。
「どうして黙ってたの」
「言ったら叱られると思って」
蚊の鳴くような声である。
「ねえ波江、私、あんたに何か悪いことしたかしら。どうしてこんな目にあうのか、私わからないのよ」
「そんな、美和子が悪いことなんて何もしてない。一生懸命私の看病してくれて、ジャニスも紹介してくれて。でも私、若い奈美恵があんな奴だったなんて知らなくて」
「知らなくて、ですか」
「だって本当にわからなかったんだもん。亜矢にイジメられて同情したし、なついてくるから大事にしてあげようって。それだけだった」
萎《しお》れていた波江が顔を上げ、目が急に生彩を放った。
「あのコ、私には亜矢の悪口、亜矢には私の悪口言ってたのよ」
「そんなこと聞いてないわ」
美和子はピシリと言った。そしてまくしたてた。
「なぜ私がとばっちりを食わなくてはならないのかってことよ。たかだか十八の小娘を、どうして見抜けないの。私はあんたを信用したわ。あんたの部屋に来てるコだからって、気を許して軽口もたたいたわ。私がしたことはそれだけよ。あんたと関わらなかったら、私はこんな目にあわなかったのよ。波江言ったよね、きっと恩返しするって。大した恩返しだことね」
「ごめん。本当にごめんなさい。美和子、ごめんなさい」
波江はようやく頭を下げた。謝るごとに、声が消え入りそうに揺れる。
「私こういうトラブルって、一番嫌いなのよね」
「知ってる」
波江はぽつりと言った。
「もうしない。絶対しないから」
責め足りない口先に指をあて、美和子はふと黙った。かつての自分が、そこにいるような気がしたのだった。
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生暖かい春の宵。老舗の呉服屋が暖簾《のれん》を仕舞い、三越、和光といったランドマークが灯りを消す頃、銀座はもうひとつの顔を現し始める。老紳士と腕を組む和装の女、折れそうに細いヒールで店に急ぐ女。タクシーのドアからするりと滑り出た脚にはシャネルのアンクレットが巻かれている。
昔と比べたら天国と地獄よという科白《せりふ》を、美和子は女達からも男達からも、耳にタコができるほど聞かされたが、幸か不幸かそんないい時代を知らない身には、銀座は充分、満艦飾の世界だった。ティファニーの、ダイヤが数の子みたいに詰まったチョーカーや、パリの本店で仕立てたオートクチュール・デザイナーのドレス、名人が染め上げた辻が花は、女が一生に一度手にするかどうかという逸品である。そんな宝物を、夜の女達は毎日惜しげもなく身にまとう。銀座の女≠ニいう人種は物欲が並外れて強く、物に転んでしまう自分が滅法好きなように、美和子には見えた。
その日の昼間、美和子は真佐奈から電話を受けた。
「今月のオシャレの日、あんたもう用意できてる?」
銀座『雛乃』には、毎月第三水曜がオシャレの日という取り決めがあった。必ず新調の服で出勤しなければならないという日だ。ヘルプでも最低二十万クラス、売上げのホステスならばその二倍はする新しい衣装を身につける。OL御用達ブティックの服など着ようものなら「安くさいわね」「昼の仕事と兼用なの?」と容赦なく指摘される、と若いヘルプ達から聞いていた。
普段、店に着て行くものは、ありがたいことにもらい物のお古で済んでいた。真佐奈が昔|痩《や》せていた頃に着たものだというスーツを何着かもらったし、入店する時「あたしの従姉妹なの。何にも知らないし、何にも持ってないから皆よろしくね」と真佐奈が嘘宣伝してくれたおかげで、先輩ホステス達からスーツやドレスを何着ももらい受けることができた。お古とはいってもちゃんとしたブランド物で、まだパリッとしたものばかり。金を貯めたい美和子には好都合だった。でもそれはオシャレの日には許されない。
オシャレの日という制度を知り、欲しくもない洋服を月賦で買わなければならないのかと暗い気持ちに襲われた美和子に、真佐奈は言った。
「自分で買うなんてそんなみみっちいこと考えちゃダメよ、美輪。だからって真理みたいに不見転《みずてん》やっちゃうのは馬鹿よ。クズよ」
ヘルプの真理が派手に客と寝ているのは皆知っていることだ。本人は表向き否定しているけれど、寝た客がばらしてしまう。「百万でどうだ」と口説いた客が、ホテルで「ここでウンコしたら、もう百万やる」と現金を積んだら、「本当にしやがった」と吹聴しているのも聞いたことがある。真理は「風俗嬢」と陰口をたたかれていたが、その陰口を言うホステス達の多くが、上客とこっそり寝ていることを美和子はうすうす察している。
「体は惚《ほ》れた男に許すの。金を巻き上げる男とは絶対に寝ちゃダメ」
真佐奈は言うが、二十万円の洋服をポンと買ってもらって、無傷で済むものだろうか。
「欲しいって、伝えればいいのよ。それだけの話。あんた目当てで通ってきてる奈良岡チャンに、言ってごらん」
「お洋服が欲しいんですって、言えばいいんですか」
「そ。昼間にデートするでしょ」
そういう誘いは受けていた。
「いいブティックのある通りでデートするのよ。道を歩いていてね、ふとウィンドーに目を留める」
真佐奈は太った首をくるりと回した。夜は金や銀や真珠が飾られるそこは、ネックレスの代わりに太い横皺《よこじわ》が一本走っている。真佐奈には、今は実家の母親にあずけているが、別れた夫との間に二人の子供がいると聞いている。
「ア、いいなあー、って呟《つぶや》くのよ。本気で呟くのよ」
「はい」
「それでいいのよ。やってごらん。買ってくれるよ、金持ちは」
八重歯を出してにっこりと笑う。毎日タワシでこするという顔は皺もないが艶《つや》もない。ノーメイクの真佐奈は、本当の年よりよほど老けている。
「でね、買ってもらった後はちゃんと喜ぶんだよ。大袈裟《おおげさ》にね」
言われたとおりやってみた。タオル会社社長の奈良岡は、クロエのワンピースを買ってくれた。嬉しい嬉しいとはしゃいでみせると、奈良岡も楽しそうだった。
なんだ、そんなことか。
いささか拍子抜けであった。次の月のオシャレの日には、別の美和子|贔屓《びいき》の客に同じことをやって楽に切り抜けた。そして今回が三回目。
「南條ちゃん、知ってんでしょ」
南條は真佐奈を気に入り、ここのところ週に一度は『雛乃』に顔を出している上客である。三十代半ばと、野球選手を除くと『雛乃』の客の中では最年少級に若く、なかなかの男前。それより何より、つい先ごろ十歳年上の大物女優と結婚し、マスコミに騒がれた歯科医である。有名人慣れしたホステス達も、南條が『雛乃』に現れたときには気もそぞろ。自分の客を接待しながら、あちらの卓につきたくて火花が散ったものだった。
ホステスを采配《さいはい》するのは通常フロアの黒服だが、南條は『雛乃』の社長・宮園の客で、ホステスを選んだのは宮園であった。
真佐奈と美和子が呼ばれた。南條が、真佐奈を気に入ることはお見通しの采配だ。美和子をメインにするつもりなら、真佐奈は呼ばない。
「実はね、私、今日南條ちゃんとデートするのよ。服ぐらい買ってくれるはずだから、あんたも誘ってあげようかと思って」
勝負に出る気だな、と美和子は読む。「ヤラないで取る、これが私のやり方よ」というのが真佐奈の口癖だ。南條をサンプルにして腕前を見せてあげる、と前から言っていた。
「うわあ、真佐奈さんありがとうございます」
大袈裟に嬉しがってみせる。本当は、今日は別の客とデートの約束があったのだが、そっちは何か理由をつけて断らねばなるまい。真佐奈は今のところこちらの生命線を握っているのだし、こっちの仕事≠フ時は手伝ってもらうことになるだろう。
「私まで、いいんですかあ」
心とは裏腹の無邪気な声を出すと、真佐奈はほほと笑った。
「二時に×××へいらっしゃいな」
表参道のオープン・カフェを指定して、電話は切れた。あと一時間半しかない。美和子は大急ぎでシャワーを浴びた。
真佐奈には、留学したいから金を貯めたい、翻訳家になりたいのだと、最初に伝えてあった。両親が死んで、自分には頼れる人間はいない。けれど、やってみたいのだと正直に告げた。真佐奈は静かに励ました。
やってごらん。若いうちにいろんなことにトライするのはステキなことよ。夢は叶《かな》えるためにあるのよ。私が知恵を貸してあげる。
力強く頷《うなず》いた真佐奈を、美和子は信じた。むろんこれまでも知恵は借りている。けれど真佐奈の真骨頂はこれからだ。美和子は力を込めてシャワーのバルブを閉めた。
髪を乾かし薄化粧をしていると、また電話が鳴った。客ならば無視しようと思ったら、留守番メッセージに続いて流れてきたのは女の声だった。
「悦代ですぅ。電話くださ……」
慌てて受話器を取る。
「すみません、今シャワーを浴びてたところで」
「あら美輪ちゃん、いたんだ」
悦代は店の先輩ホステスである。三十ちょっとぐらいだろうか。「売上げ」だが、顔もセンスも今イチで影の薄い女だ。水商売の夫と別れかけていて、子供をめぐってモメている最中と聞いている。
「ね、昨日、矢作《やはぎ》さん来た?」
そう言えば悦代は昨日、店を休んでいた。矢作は南條の幼馴染みで、南條が『雛乃』に連れて来た新顔である。杉並と世田谷にスーパー・マーケットをいくつも経営している。しかし、何代も続いた歯医者の南條に比べると、新興の商人である矢作はいかにも品がなく、同い年の南條にはない深い皺が、黒い肌に刻まれていた。
「いえ、昨日はお見えにならなかったですね」
「あ、そう、じゃあいいの。私からこんなこと聞かれたって、真佐奈ちゃんには秘密にしてね」
「わかりました。大丈夫です」
必ず、お願いねと念を押して電話は切れた。
南條はもともと社長・宮園の客であり、つまり店の客である。そしてその南條が連れて来た矢作のような客は「枝」と呼ばれ、南條と同じく店の客という扱いになる。ホステスが「枝」の気を惹《ひ》くことは自由だし、遠慮は無用。ただし、「枝」を連れて来た本家本元を担当している係のホステスがいる場合には、最初のうち、ちょっとした報告と、礼が必要になる。
南條は店の客だが、真佐奈目当てで『雛乃』に通っていることは今や誰もが知っている。つまり南條の「枝」と関わったら、真佐奈に「ご挨拶」はしておいた方がいい。悦代が、真佐奈に黙っててと頼むのは、その辺のからみがあるのだろう。ホステス間の勢力図に興味のない美和子にはどうでもいい話だ。
外でお買い物だけする時は店と全く違う格好をしなさい、という真佐奈のアドヴァイスに従って、美和子はシップスのTシャツにアルマーニのジーンズで、祐天寺のアパートを出た。
オープン・カフェの最前列で、南條はサングラスをかけ脚を組んでいた。膝から下がとても長い。平日なのに仕事はないのか、ジーンズに白のポロシャツ姿だった。芸能人と結婚する医師は頭脳と真面目が取り柄みたいな男が多いが、南條はその逆だ。歯科医なのだからあるていどは頭も良いのだろうが、遊び好きで我儘《わがまま》な感じが顔と体から滲《にじ》み出ている。こういう男を夫にする女というのは、よほど忍耐強い女だろう。しかし今日の南條はいつもとたたずまいが違う。少し猫背で、心に強く念じるもののせいで顔が黒ずんでいるのが、遠目にもはっきりとわかる。
「こんにちは」
はっと顔を上げる南條。次の瞬間、甘ったるい顔に落胆が広がった。真佐奈は遅刻して来るつもりらしい。男を待たせるその間、座持ちをするのは美和子の役目である。
「すみません。真佐奈|姐《ねえ》さん、ちょっとお腹が痛くて遅れちゃうんです。大事な南條先生を待たせたら、あたしの想いはどうなっちゃうのって、さっき唸《うな》りながら電話よこしたんです。急いで病院行って、もうすぐ来るはずです」
「そっか」
南條は不機嫌な横顔を見せた。
あれだけ週刊誌に騒がれていながら、目立つ場所に女といることが不安にはならないのだろうかと、美和子は不思議に思う。不思議といえば、南條の結婚した女優と真佐奈が、あまりにもタイプ的にかけ離れていることも、大きな謎だ。女優は小柄で華奢《きやしや》な感じなのに、真佐奈は背も一六七センチと高く、たっぷりと肉がついたグラマラスなタイプである。普通、体型の好みは一貫しているもので、小柄な女が好きな男はどこの店でも小柄な女を指名する。ひょっとして女優とは愛のない結婚なのかしらと訝《いぶか》りながら「ヨイショ」の口を開く。
「もう最近の真佐奈姐さんはどうかしてるの。おかしいのよ。いっつも南條先生のことばっかり。私なんか真佐奈姐さんから電話もらうとすぐ『なあに、今度は先生がどうしたんですか』って聞いちゃうもん」
「ホントかい?」
こちらに向けた笑顔には、この水商売女めが、という侮蔑《ぶべつ》が含まれている。
「ねえセンセ、ここだけの話、真佐奈姐さんのどこが好きなの。あたしの方が若いしカワイイでしょ」
「どこが好きって聞かれても」
彼の頬に、恥じらいが滲んだ。まったく、他の女に恋する男というのは面白くもおかしくもない。
「そりゃ真佐奈姐さんはゴージャスよ。連れて歩けば皆が振り返るわ。だけど真佐奈姐さんに惚《ほ》れちゃう人って、なんだかそれだけじゃないみたいなのよねえ」
皆が振り返るのは、いかにもオミズだからである。縦にも横にも大きい真佐奈が、金銀でデコデコに飾り立てれば目立つのは道理であろう。
「うーん、やっぱりハートじゃないかな。真佐奈は人がいいからな。あったかいよな、あのコは」
「そうですよねえ」
美和子は眩《まぶ》しいように目を細め、かすかに笑う。
人がよくてあったかい女から、もうすぐあんたは大金貢がされるのよ。真佐奈さん、今回はごっそりイクだろうな。この人、自分の方こそメチャクチャ人が好さそうだもん。
美和子は長い睫毛を伏せ、アイスコーヒーの氷をストローでからからと回した。
「やっぱり最後は心ってこと? 私だって性格は悪くないんですよー」
愛らしく抗議すると、やっと真佐奈がやって来た。今日はスッピンに、デニムのミニスカート。その下に自慢のすらりとした脚が二本伸びている。そして肥えた上半身をやっと支える頼りなげな足首に、純白の包帯が巻かれていた。
「ごめんなさい、センセ。朝からはしゃいでたんで、転んじゃって」
ヤバイ。話の辻褄《つじつま》を合わせなくては。美和子は急いで口を挟む。
「お腹痛いのは治りました? 足はあの後に転んだのね」
「そうなの。私ってバカよね」
真佐奈は小さく舌を出した。粗く編んだニットの下はなんとノーブラで、編み目の隙間から、子供を産んだ女の黒い乳首が見える。
「今日センセにお会いできなかったら、もう一生恋はしない、できない、なんて涙声で言っちゃってさ」
「美輪ちゃん、なんてこと言うのよ。センセの前で」
抜群のコンビネーションである。
「ねえセンセ、ちょっとお散歩しません。私、センセと並んで昼の街を歩いてみたいの。ダメ?」
南條はほくほくと席を立ち、真佐奈が道を歩きながら「わぁ、いいなぁ」と呟《つぶや》いたグッチのウィンドーの、お尻の割れ目まで後ろのあいた黒いドレス四十五万円也を、カードで買ってくれた。さらに美和子は十七万円のワンピースのお相伴にあずかった。
南條は潤んだ目で真佐奈を見た。真佐奈と二人になりたいのだ。けれど真佐奈はそこで次を言わせない。ドレス一着ぐらいでは、まだまだまだ。
「センセ、オシャレの日、同伴してくださる? センセが買ってくださったドレス、『雛乃』で着ているところ、見せたいの。今日は、このコの田舎のお母さんが出てきてるから、これから会わなきゃならなくって」
客に嘘をつくとき、真佐奈は決まって子供みたいな口調になる。
「ごめんなさいセンセ」
真佐奈は南條の口に軽いキスをして車を拾う。甘い余韻に浸りながら、南條は手を振った。
タクシーが赤坂方向に向かって発進し、南條がもうこちらを見ていないのを確認してから、真佐奈は美和子に向き直り、長い舌を出した。
その日の夜、その次の夜と南條は『雛乃』に姿を見せ、口開けからフィナーレまで真佐奈を横につけてコイツの男°C取り。
「真佐奈ってば、うまくやったわね」
真佐奈とナンバーワンを競っているミエが呟くと、ホステス達はいっせいに美和子を見た。
――どうせ寝たんでしょ――
その目はそう言っていた。
翌週水曜、『雛乃』のオシャレの日。
美和子は他のホステス達と客待ちのソファに掛けていた。
「真佐奈ちゃんは南條先生と同伴?」
ミエが聞いた。ミエはイミテーションの真珠で埋め尽くされたロング・ドレスを着ている。頭にも揃いのキャップをかぶり、額や耳に真珠の粒が下がっている。そして頭を動かすたびに、真珠が可憐に揺れた。
「いえ今日はお休みです」
「あら、どしたの。京都?」
真佐奈の男が売れない役者で、映画撮影のために京都に住んでいることは皆が知っている。誰も彼も本当はちゃんと男がいて、ホステスどうしはそれを隠さない。楽屋裏はお互いに秘密、という不文律があるのだ。しかし誰がどこでどう裏切るかはわからない。ミエと真佐奈はライバルでありながら仲が良く、店が終わった後で美和子と三人でうどんなど食べて帰ったこともある。真佐奈もミエも、あけすけに男の愚痴をもらし、きっと固い結束があるのだろうと美和子は感心した。しかし案の定、ミエは上客に真佐奈の秘密をこっそり耳打ちし、まわりまわってそれを知った真佐奈はひどく憤慨していた。けれどそれはいかにもありそうなことで、商売敵にどうして秘密を漏らしてしまうのかと美和子は思う。だから軽い質問にもうっかり答えるわけにはいかない。
「あ、いえ実家のお母さんが具合悪くて」
「ホント?」
ミエはニヤリと笑い、ポーチに手を伸ばして煙草に火を点けた。骨の透ける肩から伸びる二の腕は細く、真っ白で長い。唇と爪はシルバーで、かわりに目尻に赤いアイラインを入れている。まさに絵に描いたような美しさだ。真佐奈の、年齢を感じさせる、太くて触ると案外冷たい上腕や、いつも赤と青のわかりやすい化粧とは対照的である。どうしてこの人と真佐奈がナンバーワンを張り合っているのか、美和子にはわからない。もっとはっきり言えば、真佐奈にのぼせる男の気持ちが理解できない。いったいどこがいいんだろうと、しばしば首を傾げているのだ。
「入院するかもしれないんです。血圧が高くて」
「あら、真佐奈ちゃんはお母さんに似て低血圧だって言ってたけど」
ミエは煙を吐いてくすりと笑う。ソファに掛けていた他の女達からも失笑が漏れ、美和子は赤くなってうつむいた。
「あんた、嘘つくときはつき通さないと。一度|騙《だま》したら最後まで騙せって、真佐奈教えてくれなかった?」
からかいとも叱責とも取れる口調で言って、ミエは席を立った。フロアを振り返ると、いつの間に来たのかおやじが二人ソファに座り、おしぼりで顔を拭《ふ》いていた。二人の間に細い腰を滑り込ませるミエ。黒服がヘルプを二人指名し、その日の商売がスタートした。
「ねえ、真佐奈ちゃん、いつ帰って来るって」
小声で聞いたのは悦代だった。
「わっかりましぇーん」
誰にどこまでしゃべっていいのかわからないので、美和子としてはこう答えるより他ない。ましてや今日の昼間、「五万貸して」と急に真佐奈がアパートにやって来たことなど、誰にも言えない。
「京都なのね」
悦代は妙に濡れた目をしていた。
その夜、南條は荒れた。
「ケイタイも通じやしねえ。どこ行ったんだよ」
十時頃、『雛乃』に一人で来た南條はすでにかなり酔っていた。
「お母さんが悪いらしくて。前から心臓が悪くて心配していたんですけれど」
「けっ」
言い訳など聞く耳持たずといった風に、南條は対面のソファをけった。カミュをロックで何杯も飲み、端正な顔が別人のように崩れている。どうしたものかとオロオロしながらグラスに酒を注ぎ、黒服を仰ぎ見た。そして次の瞬間、美和子は息を飲んだ。小さな炎が視界に入ったからだった。
髪に、火が点いていた。ほんのり茶色に染めた、自分の髪が燃えている。悲鳴を上げそうになったその時、黒服が恐ろしい速さで飛んで来た。卓上のおしぼりを美和子の頭に当ててこする。熱い。灸《きゆう》を据えられた熱さが一箇所に、じん、と来た。足音が聞こえ、さらに何枚かのおしぼりが頭に降ってくる。何が起こったのかわからない。次々と降ってくる白い布の中で、目の前が暗く閉じていった。
気がついたらフロア主任に腰を抱かれて、化粧室にいた。
「大丈夫ですか」
鏡の中に、疲れた顔の自分がいた。
「ね、何だったの今の」
ムード歌謡のバックコーラスみたいな、頬のこけたフロア主任は無表情のままである。薄暗い照明の下ではよくわからないが、触ってみると耳の高さの髪がごわごわと縮れている。そして焦げ臭い。
「南條さんが火を点けたの?」
主任は頷《うなず》いた。鳥肌がたった。酒乱、というやつであろう。これほどひどい酒乱を美和子は初めて見た。
「どうします、帰られますか。でも今日は真佐奈さんのお客さんが、他にも見えるはずです」
美和子が真佐奈の子分であることは客達も知っている。美和子は首を横に振った。
「大きなヘアブラシはあるかしら。それと鋏《はさみ》。髪が切れるやつ。鼻毛切りでも何でもいいわ」
いったん姿を消した主任は、どこから調達してきたのか銀色の、ちゃんとした理髪用の鋏を美和子に手渡した。
「やりましょうか」
「お願い。切り過ぎないでね。焦げたとこだけ切ってちょうだい」
何とか髪を整えフロアに戻ると、ミエが南條の席についていた。南條は、ついさっき美和子の髪に火を点けたとは思えぬなごやかさで、ミエの額を小突いている。
「あら美輪ちゃんお帰んなさい。大丈夫? センセはミエがメって叱っといたわよ」
ミエは南條の片手を掲げてぱしりと叩き、その手を大きく開いた胸元に忍び込ませた。
「ムチと飴《あめ》、こうやって躾《しつ》けられるのが大好きなのよね、センセは」
南條は口の端を下げて下卑た笑いを浮かべた。
「あらセンセ、真佐奈|姐《ねえ》さんにご注進モノだわ」
「ダメよ美輪ちゃん。自由競争の世界では、いない方が悪いんだから」
「美輪、頼む。これだけは真佐奈に内緒にしてくれ」
ドレスに差し入れた手を堂々と動かしてミエの乳房を揉《も》み、南條は脂ぎった顔をこちらに向けた。さすがナンバーワンを競うだけあってミエの接客術はたいしたもの。さっきまで暴れ放題で手がつけられなかった南條は、機嫌を直してゆっくりと飲み始めた。
南條の帰還は、ミエと悦代と三人で見送った。ミエも美和子も次々と客が来て、テーブルをまわされ、ずっと南條の席についていたのは悦代だった。
「センセ、次回からミエ指名でも良くってよ」
ミエがお愛想を言うと、南條は「バカヤロ」と肩をそびやかしタクシーに乗り込んだ。タクシーの後ろ姿が消えるのを待って、女達は肩の力を抜いた。
「ほら」
ミエが万札を一枚差し出した。
「チップよ。先生が美輪に渡してくれって。あれでも反省してんのよ」
「ミエさん納めてください。あんなに助けていただいたんですから」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわ。あたしはこういう小金には執着しないのよ」
ミエは札を美和子の手に握らせた。隣で恨めしそうな顔をしている悦代に気づいたが、美和子はそれを悦代に渡すことはしなかった。悦代がずっと南條の席についていたのは、自分の客が誰も来なかったからだ。オシャレの日なのに、安っぽいフリルのブラウスを着ている悦代。「あのコ、水商売上がった方がいいんじゃない。店が辛気臭くなってどうしようもないわ」と真佐奈も言ったことがあった。ミエも、悦代がそこにいることを忘れたように美和子にばかり話しかける。
「真佐奈から連絡あったら言っといて。貧乏な男にかまけてると泣き見るよって」
「よーく申し伝えますデス」
エレベーターに乗ると悦代の香水が鼻をついた。新製品の方でなく、昔はやった方のプワゾン。扉が開くと、美和子はミエに続いて下りた。悦代のために「開」のボタンを押していてあげるという発想はなかった。
真佐奈がカムバックしたのは翌週明けだった。「腰が痛い腰が痛い」といい気なもので、潤沢な愛をもらった証拠に、肌がしっとりと潤っていた。南條に、母親が心臓病で入院したと嘘八百でっち上げたことを伝える。
「よっしゃ、その線でひっぱって行こ。美輪サンキュ。でもさ、これから医者に嘘つくときは病気じゃない嘘にしてね。こっちも勉強しないと、嘘バレちゃうから」
「大丈夫ですよ。南條先生は歯医者さんだもん」
「そっか。じゃいいや」
ケロリとしたもので、京都に行く前に借りた五万のことなど、真佐奈にはすでに過去のこと。返してとも言えない美和子であった。真佐奈が不在の間、南條が荒れてミエが助けてくれたことは話したが、髪に火を点けられたことは伏せておいた。
「ああいうのが、お金巻き上げるのに最適の男って言うのよ。お坊っちゃまで苦労知らずでお人好しで。寝ないで貢ぐ男の標本みたいなものね。あんたもああいう男に好かれるようにならないと」
得意になって何度も繰り返す真佐奈に、忠告するのは面倒だった。告げ口したら「つけ入られるスキがあるのよ。あんたもまだまだねえ」などと言われかねない。惚《ほ》れた真佐奈には紳士なのだから、何もわざわざ酒乱の正体を明かしてやることもない。自分が言わなくても、ミエか黒服か、誰か他の女の口から真佐奈の耳に入るだろう。それでいいやと思った。
ところが、だった。出勤前に美和子は新橋にある洋菓子店に呼び出された。ケーキの美味しい店として雑誌などにもしばしば登場する店だが、夕方の喫茶席は、右を見ても左を見ても水商売の女だらけ。おかげであたりはケーキの甘い匂いよりも、きつい香水の匂いが交じり合う。塗り絵のごとく厚塗りの、カーニバルのごとく着飾った女達がずらりと並ぶ図は、喫茶席の明るい照明の下で壮観であった。
「南條先生おかしいのよ。外で会っても、何も買ってくれないの。話しかけても熱が醒《さ》めちゃったみたいに生返事だし。あんたまさか浩輔のこと、先生にバラしたんじゃないでしょうね」
浩輔というのは、真佐奈の恋人の役者である。妻子があり、真佐奈と同い年だというが写真で見る限り、真佐奈より五歳は若く見えた。
「とんでもない。私そんなヘマしませんよ」
美和子は言下に否定する。その時、頭にミエが閃《ひらめ》いた。真佐奈は前にもミエに、恋人の存在と職業を密告されている。でもミエが以前バラしたのは、ミエの客にである。おそらくそれは、ピロートークという類のものではなかろうか。真佐奈にぞっこんの南條に、ミエがそこまでするだろうか。しかし「あたしは小金には執着しない」とうそぶいたあの顔。胸まで触らせたこと。横取りを狙ったうえでの振る舞いに見えなくもない。ひょっとしてあのチップの一万円は、「真佐奈に言わないでよ」という口止め料であろうか。美和子は頭を働かす。この疑惑を真佐奈にそのまま告げていいものだろうか。きっと真佐奈は「あんたがついていながら」と怒るだろう。そしてもしミエが南條を横取りしたならば、真佐奈とミエは間違いなく大喧嘩《おおげんか》する。その時、告げ口をした自分はミエから恨まれるはずだ。真佐奈から叱られ、ミエから恨まれる。損な役回りである。逆にここで口をつぐんで何かマズイことは起こるだろうか。いざというときは「気がつかなかった」で逃げ切れば……。
「思い当たる節があるのね」
視線は美和子の瞳孔《どうこう》に穴をうがつようであった。こちらの思案など真佐奈にはお見通しのようだ。仕方なく「はい」と返事する。
「誰」
なんだかんだ言っても真佐奈には逆らえない。二人が喧嘩になったとしても、真佐奈に告げないでおくことなどできない。美和子は口を開いた。
「ミエさんです」
「そお」
真佐奈の片方の眉がはね上がった。
予想に反して、二人は喧嘩にはならなかった。ミエは潔白だったからである。当然、ミエには噛《か》みつかれた。
「あんた、あたしが南條先生|盗《と》ったって言ったそうね」
つめ寄られたのはその夜のうちだった。真佐奈と別れて早めに店に入ったら、どういうわけかミエはもう来ていて、厨房《ちゆうぼう》の他は誰もいなかった。
「お生憎様ね、あたしじゃないわ。だいたいね、真佐奈を好きな客はあたしにはなびかない。逆も真よ。だからあたし達は友達でいられるの。真佐奈だってそのことは知ってる。一応あんたがこんなこと言ってたんだけど、って確認はしてきたけどさ。あんた、も少し男の研究した方がいいんじゃない」
さも馬鹿にしたように顎《あご》をしゃくり、ミエは黒いオーガンジーから透ける細い後ろ姿を見せた。ミエが激していないところが救いではあったが、それゆえの怖さというのもあった。
じゃあ一体、誰が。他の店の女? それとも水商売とは全く関係のない女だろうか。けれどいったん真佐奈にぞっこんになり、それなりに投資もした男が、そうやすやすと他の女に鞍替《くらが》えするだろうか。ただ単に真佐奈に飽きる、というのはもっと考えにくいことである。南條はまだ元を取っていないのだから。答えが出るには数日を要した。
その週の木曜、南條が『雛乃』に現れた。真佐奈のみが席に呼ばれ、美和子は遠くからうかがうしかない。傍目《はため》には以前と変わらぬ二人に見えたが、南條の顔と体から、どす黒い怨念《おんねん》じみた想いが消えているのが美和子にはわかった。忙しい日で、美和子は次から次へと席を移らされ、南條の席を気にしながら、ピアノが『そっとおやすみ』を奏でるまで、そちらに気を配ることができなかった。
「美輪、ちょっといらっしゃい」
午前一時。客もホステスも姿を消し、残っていたのは厨房のチーフとフロア主任だけである。
「阿部ちゃん、コーラかなんか、ない」
真佐奈は主任に声をかける。運ばれてきたグラスにはちゃんと氷が入っていた。
「あんた、なんで全部あたしに言わなかったの」
しんと落ち着いた、教師の口調であった。
「全部って」
「あたしが京都行ってる間のことよ」
「南條先生のことですか」
「そおよ」
真佐奈は煙草の灰をとんとんと叩いて落とした。
何のことだろう。髪の毛に火を点けられたことだろうか。
「それもあるし」
真佐奈が勢いよく吐いた煙が美和子の顔にまともに降りかかった。思わず咳込《せきこ》むと、真佐奈は舌打ちをした。
「悦代」
あっと思い当たった。真犯人は悦代? だけど、あのしみったれた悦代がどうやって。
ミエの言い草ではないが、真佐奈に惚れる男が悦代になびくとは思えない。美和子の見るところ、真佐奈に寄って来る客というのは、何でもいいからド派手で、ゴージャスな雰囲気が好きな男だ。そしてマザコンの気が濃厚な男だ。真佐奈に魅力を感じるのは、その太い首や腕や雰囲気に、どこかしら「おっ母さん」的な郷愁を感じるからであろう。真佐奈が自慢にしていつも露出している華奢《きやしや》な脚は、ゴージャスな雰囲気に属し、大きな胸はおっ母さんに属する。そしてゴージャスとおっ母さんを併せ持つ女を好きな男は、思うよりはるかに多い。しかし悦代がそれのどこに属することができるだろう。手入れが悪くて貧乏臭い髪と肌。細い脚はX脚だし、何よりも顔の表情がまずい。普段から泣き顔で、じっと見ていると、年下の美和子でさえわけのわからぬサディスティックな気持ちを覚える。
「悦代さんが、南條先生と? それはないでしょう。だって悦代さんは矢作さんと」
「美輪、それも私には報告してないわね」
「だって、えっと。あの」
冷たい汗がわき腹を流れていく。
「あの男は真性のサドよ。さっき話しててわかったわ」
ならばどうして真佐奈だったのだろう。こう言っては何だが、真佐奈に寄って来る客はマゾっぽい男ばかりではないか。
「あんたって、ホント何にもわかってないのね。阿部ちゃん、ちょっとお酒ちょうだい」
阿部主任は黙って新しいグラスと南條のカミュを持ってきた。
「南條ちゃんの新しいカミさん、あたしと似てるでしょ」
南條の妻の女優は小柄で痩《や》せていて、真佐奈とは正反対のタイプに美和子には見える。
「体が大きいとか小さいとか、そんなことじゃないわ。強そうな、怒らせたら怖そうな女だってことよ」
それならわかる。美和子は控えめに頷《うなず》いた。
「ああいう男ってね、ほっといたら人を殺しかねないほど凶暴な部分を持ってるから、見張って叱ってくれる女が必要なの。だけど、その怖い母親みたいな女の目を盗んで悪事を働くのも大好きなのよ。尊敬できる女と、遠慮なく足で踏んづけられる女と、両方必要なのよ」
そんなことがあるのかと思いながら、美和子はまだ釈然としない。確かに、酒場に来てまで、男が妻と似たタイプを求める、というのはよく聞く話だ。あるいは逆に、妻とは正反対のタイプを求める、というのもあることだろう。しかし、真佐奈も悦代も好きになれるとは。
「どうして私に全部報告しなかったの、美輪」
真佐奈が、怒れば怒るほど冷静な口調になるのを知っていた。
「すみません、ごめんなさい真佐奈さん。私、まさかあの悦代さんがそんな企《たくら》みをしてるなんて気がつかなくて。ごめんなさい」
真佐奈はハンと鼻で笑った。
「いいこと美輪。企みをしないホステスなんて、いないのよ。いたらクズよ。悦代が矢作に近づいてたってのは今知ったけど、それは南條に近づくためよ。おそらく悦代は矢作経由で私の秘密をいろいろバラしてたはずよ」
言い訳のしようもなくうなだれる美和子の上に影がかぶさった。阿部主任であった。
「許してやんなよ、真佐奈。美輪は全然わけがわかんなかったんだから」
普段、ホステスには絶対にです・ます調をくずさないのに、真佐奈とはつきあいが古いのかもしれない。
「俺、南條さんの前の奥さん知ってるよ。離婚の原因は家庭内暴力さ。美輪、よく覚えておくことだね。ああいう金持ち育ちの、粗暴な男ってのは、思うさま殴らせてくれる女と、それをしないよう首根っこ押さえてくれる女、どっちも同じくらい必要で好きなんだ。ヤジロベエみたいなもんさ。だけどどっちかの女が大金ひっぱっちゃったら、もう一方は指くわえて見てるしかない。そして金出した方の女に、男は執着するだろ。早いもん勝ちさ」
ならば私でなく悦代のせいではないかと思うが、言えるわけもない。悦代から矢作のことで電話をもらったことや、南條に髪を燃やされたことなど、伝えなかったのは自分の落ち度だ。
「早めに手を打てば何とかなったのよ。悦代をつぶすのなんか簡単なんだから」
真佐奈は憎々しげに美和子を睨《にら》みつけた。
「ごめんなさい真佐奈さん、ごめんなさい。今後気をつけます。すみません」
「大目にみてやりなよ、真佐奈。どうせ何にもさせてないんだろ」
なだめる阿部に「まあね」と答えるタイミングが、一拍遅かった。セックスはしないまでも、それに近いことは、ちょっとだけさせていたのかもしれない。だとしたらいっそう罪は重い。
「すみません、本当にすみません」
美和子は繰り返し謝り続けた。
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ファイナル・テストまであと一週間となった。クラスが始まる前の朝一時間、美和子は図書館で、ヘッドホンをつけ英語のテープを聞いている。しかし美和子の頭の中にさっきからリフレインしているのは「なぜだ」という声だ。
マユや文太に責められてから二週間。美和子は日本人留学生達から、総スカンをくらっていた。すれ違いざま「二重人格」「性格悪過ぎ」などという言葉を投げつけられることもある。陰湿なイジメというやつだ。ひどい苦痛であった。中学生の頃、こんなイジメにあったことがある。集団は怖いものだと知ったのも、無防備に目立つとこういうしっぺ返しをくうと知ったのも、あの時だ。だからそれ以降、目立つことをやる前には、いつも周囲をうかがってきた。失敗はしょっちゅうしたが、総スカンをくらうほどの大失敗はしなかった。
それが今回はどうだろう。自分は気をつけるだけ気をつけて、関わらないように避けていた連中からこれだ。何か言われるたび、美和子は波江に愚痴をこぼさずにはいられなかった。
「まったく、一体なんだって私がこんな目にあわきゃなんないのよ。私はあんなに気をつけてたのに」
最初のうち、ごめんね、ごめんね、と謝っていた波江は、ある時きっぱりと言った。
「本当に申し訳ないと思ってるよ、美和子。でも私、間違いはしょうがないと思うんだ。一度間違えたら、それを教訓にして同じことをしないように気をつける。これしかないと思うの」
正論であった。ぐずぐずと責めている自分を情けなく感じていたし、それ以上波江を責めると波江まで去って行きそうなので、その件に関して愚痴を言うことはやめなければならなかった。けれど、若い連中の残酷な仕打ちにはその都度反応して「なんで私がこんな目に」と一人嘆いた。
そんなことを知ってか知らずか、波江が電話をよこした。
「美和子テニスしない。ちょっとした伝手《つて》から誘われたのよ。社会人で企業からMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学してる人達よ。大人とつきあおうぜ。ラケット貸してくれるって。行かない?」
あれほど理不尽な苦痛を与えられながら、波江がそう言ってくると美和子は断れなかった。どころか、むしろほいほい誘いに乗った。
日曜のバスに揺られて小一時間。着いた先は市のはずれのオールウェザーコートだった。二十代後半の日本人の男一人と、もう少し若いタイ人の男が一人来ているはずだ。
褐色の男が手を振り、日本人の男がこちらを振り向いた時、女二人は生唾《なまつば》を飲んだ。一八〇センチはある上背、細身で銀縁眼鏡。やや古いタイプの、知的でセクシーな男である。男は美和子の顔をじっと見た。そして上から下まで眺めた。「やりたい」――男の目はそう言っていた。
自分を気に入ったらしい男の前で、美和子はつとめて冷静を装った。ボストンに来て初めて接する年上の日本人の男だ。彼が魅力的なだけに気恥ずかしかった。
テニスは学生時代にスクールに通っていたから、まあまあできる。カンを取り戻すとサーブも入り、スマッシュも決まるようになった。
波江はきゃあきゃあと声を上げ、ボールを追いかけながらしくじってはよく笑った。点数の数え方も知らないし、フットワークもできない。二、三回ラリーが続くと「うわ、テニスみたい」と歓声を上げた。とんでもないところに球を返すので、向こうからも変なところに戻って来る。痩《や》せっぽちで体力がないから、走って笑って、すぐにへばった。
「波江、大丈夫」
美和子は息をはずませベンチに戻った。汗をかいて紅潮した波江の顔。その真ん中の鼻筋に、微妙に白い部分があった。
「ハイ交替ネ」
タイ人が休みに来ると、波江は一歩先んじてすぐに立ち上がった。その体から、普段はしないコロンの匂い。美和子は長い胴を睨みつけた。
タイ人は日本語が達者だった。男二人が同じ会社から企業留学で来ていることと、日本人が柴野という名前だということを教えてくれた。
二人ずつコートに入るのだが、気がつくと柴野は波江と球を打ち合い、下手糞な波江に「右、右」などと声をかけては白い歯を見せる。いい感じの雰囲気が漂い始めていた。
こんなことが今まであっただろうか。
ジャニスと中絶の病院へ行った時の思いが甦《よみがえ》ってきた。人の好意が、自分の横をすり抜けて波江の受け皿にすっぽりと入っていく。整形で、でも決してきれいとはいえない波江のところに。
いったいこれは、どういうことなんだろう。
ベンチに戻ると、波江は「あたし、ジュース買ってくる」と財布を持って駆け出し、コーラを四本抱えて帰って来た。それぞれに一本ずつ缶を手渡す波江に、柴野がにっこり笑いかけた。
「この人はねえ、英語はできるし真面目だし、みんな特別視してるのよ」
波江が男達に言う。「この人」「真面目」「特別視」という言葉が美和子のカンに障った。これが中絶手術の面倒を見た友達を評する言葉だろうか。その日の波江は、これまで美和子に見せていた、弱々しくいつも困っている顔を脱ぎ捨て、別人のようだった。
「へえ」
柴野が美和子をちらりと見る。出会い頭の「やりたい」オーラは消えていた。
「柴野さん、大学はどこ? 東工大ですかあ、さっすがあ。私? 私は上智。比較文化なんですけど、英語は忘れちゃってもう全然」
上智の比文なんて、ずいぶん大きく出るじゃないか。
美和子は口をへの字に結んだ。比較文化学部は、各国からの優秀な留学生が集まり、授業も試験もすべて英語で行われる上智大学の有名学部である。
昨夜、美和子のところに英文法の問題集を持って聞きに来た波江は、受験英語に必須の「仮定法」を全く理解していなかった。昔やって忘れたのなら、自転車に乗る感覚と同じように思い出せる法則である。ところが波江は、一度やって忘れたのでなく、一度もやったことがないのがはっきりとわかった。
このコは大学受験はしていない。
美和子は確信した。しかしそのこと自体は、別にいいのだ。「上智の比文を出た」なんて嘘八百吹かなければ。
「ゼミ誰デスカ」
タイ人が口を開いた。
「ボク、上智ノ比文デス」
えっとつまった波江の顔。目をまん丸に見開き、何度かまばたきをしてから波江は頭を傾げた。
「えーと、あの誰だっけぇ、うーんと。忘れちゃった」
美和子は唇の先で呟《つぶや》く。嘘つき。
「ミワコサンハ」
なんで話題をこっちに振るのよ。美和子は地団駄踏む思いだ。
「バカ大、うふふ」
精一杯可愛らしく舌を出すと、話題は会社のことに移っていった。男二人は電話回線の会社から来ていた。
「柴野さんエンジニアなんですか。私、エンジニアの人って大好き」
男は二人ともエンジニアなのに、波江は大胆にタイ人を切り捨てる。柴野にさえよく思われれば、あとの人間はどうでもいい。そんな欲望を堂々とさらけ出す波江に、美和子は圧倒される。そして今の波江にとって自分も又、その他のどうでもいい人間であることに痛みを感じた。
「柴野さん、今度クラブとか連れてってください。私の寮の電話番号ね」
借り物のヴィトンのバッグからペンを取り出し、「紙がない紙がない」と騒ぐ。仕方なく美和子が手帳のページを裂いて差し出したのは、柴野の手に直接書こうとしたのを制止するためだった。
「残念ながらこの人は、この|セミスター(学期)が終わったらロスにトランスファーするの」
タイ人が「エエーッ」と不満の声を上げ、波江と柴野がそれをひやかす。波江は望み通り、柴野とペアになりつつあった。
困った時だけ私を頼り、おいしいところは全部持っていく。
美和子ははっきりと波江を憎んだ。目に映る緑色のコートに、黒い点が落ちた。雨だった。
「白人から差別されてコンチクショーと思うくせに、黒人に対しては、自分の中の偏見を意識することがあるんですよねえ」
コートの隅の屋根のついた休憩所で、波江が一生懸命しゃべっているのは、美和子が前に口にしたことである。雨足がいっそう激しくなり、遠くで雷が光った。
「キャア」
波江は悲鳴を上げて美和子に抱きついた。一番年下の可愛いコ役をしゃあしゃあと演じるその小さな頭を、突き飛ばしてやりたい衝動に駆られる。
自分もこうだったのだろうか。美和子は苦い唾を飲み込む。
白い光がたて続けに四人を照らし、直後、雷鳴が轟く。美和子の脳裡《のうり》に、見たくない過去の自分が広がってゆく。
銀座に出勤する前の時間、バスルームから出て髪を乾かしていると電話が鳴った。
「今日はあたしと一緒にいらっしゃい。あたしのお客さんに会わしてあげる。一緒に同伴よ。阿部ちゃんにはあたしから言っとくから大丈夫よ」
同伴とは、客と外で待ち合わせして食事をし、その後一緒に店へ行くことをいう。
店は七時半に開くが、同伴出勤の時は九時までに店に入ればいいことになっている。「売上げ」ホステスの場合、月に四回の同伴というノルマがあり、ヘルプも入店して一ヶ月を過ぎると月二回の同伴ノルマを負う。こなせなければ一回につき五千円のペナルティがつく。ヘルプの同伴相手は、店の客であっても「売上げ」ホステスの客であっても構わない。ただし、「売上げ」ホステスの客と同伴する時は、手厚い気配りをしなければならない。誰それさんに誘われたんですが、ご一緒していいですかと伺いをたて、外で会った後は、どこそこに連れて行っていただきましたと報告しつつ礼を言う。この時、「××さんがお姐《ねえ》さんにって下さいました」と小物の一つも差し出すのが礼儀。たいていそれは、客がニューカマーに買ってやったと認識しているものである。ヘルプが同伴して店に連れて来た客の飲食代は「売上げ」ホステスの稼ぎとして換算される。
入店して二週間足らずの美和子は、まだ何のノルマも負わない時給だけの身であった。真佐奈が美和子を呼び出すのは、客が美和子を気に入れば、その後、楽をして売上げを伸ばすことができるという目算からであろう。しかし真佐奈と一緒という曖昧《あいまい》な形の同伴では、美和子はしっかり時給を引かれる。社長の宮園はけっこうシブチンだ。
留学したい、短期間でお金を貯めたいと正直に告げ、真佐奈に命綱を握られてしまったことは、良かったのだろうかと一瞬首を傾げたが、近い将来、同伴ノルマを背負わなければならないことを思えば、贔屓《ひいき》にしてくれる真佐奈がいることはやはり心強い。気をとり直して美和子は鏡に向かった。
シャギーをいっぱい入れたロングヘアをホットカーラーで巻き、癖がつくかつかないかのうちに取り外してしまう。こうして根元を立たせた髪に、今度はドライヤーの冷風をあてブローブラシで整えてゆく。毛先にヘアクリームをすり込み、遊ばせる感じに散らして全体にヘアスプレーをふりかければでき上がりだ。肩を出した白い絹のミニワンピ。先輩からもらったお古だ。腰に銀のチェーンを巻き、靴も銀のサンダルで合わせる。真珠のピアスは、これは自前。二月とは思えない格好の上に、この間、真佐奈からもらった白いアンゴラのロングコートを羽織って、美和子はタクシーに飛び乗った。
赤坂にあるホテルの名を告げる。シートに背を凭《もた》せかけながら、さっき真佐奈から聞いた話を思い起こした。
昔、私に惚《ほ》れて大変だったんだから。横浜の、私の母親と子供が住んでる横浜のマンションね、最初にかかるお金、全部出してくれたのよ。引っ越したらいろいろと物入りだからって、プラス二百万くれたわよ。寝てないのによ。ありがと、って目に星入れて涙ぐんで見せたわ。
電話でそれだけの情報をもらっていた。
日本庭園の飛び石の上を渡り、真佐奈とともに着物の仲居に案内されてゆく。
雪見障子が開かれた。
「お、妹連れかい。こっちは息子連れだよ」
袴田というその男は、息子の年から推測すると五十代後半だろうか。神戸で製薬会社を経営する社長だった。父子とも、背が高く痩《や》せて格好が良い。色恋がらみのホステスと息子を引き合わせるというのは、どんな気分なものだろうか。
父は冬だというのに日焼けして黒く、息子は白いままだ。年齢からすれば、美和子は息子と並ぶとちょうど恋人どうしに見えるのだが、美和子がくつろげるのは父親の方であった。同世代の、血気盛んな男は苦手だ。負けん気丸だしでつっかかってきたり、不用意に「あ、笑うと目尻に皺《しわ》が寄る」などと言って傷つけたりする。OLをしていた頃につきあっていた男は、一度だけの不倫を除いて二十代後半から三十代半ばまでの独身の男だが、いつも十歳前後離れていた。
「お名刺をくださいな」
美和子は父親の方にせがんだ。
「これ、美輪」
真佐奈は美和子が出した手をぴしりと叩く。
「お名刺はこっちから催促するもんじゃありません。ごめんなさいね袴田さん」
まあいいじゃないかと、袴田父は真佐奈に熱燗《あつかん》をついだ。オークラ陶器のカフスの下に手首の骨が高く浮きあがっている。息子の、ワイシャツを腕まくりした健康な腕も悪くないが、美和子が魅力を感じるのは皮膚を持ち上げる手首の関節と、長い指だ。
「お父様は、よく東京にいらっしゃるんですの」
先付けの、河豚《ふぐ》の白子のゼリー寄せを箸でつまみ、美和子は尋ねる。
「月に一度はね。こいつの監視方々来るのさ」
将来、親の会社を継ぐ予定の息子は、早稲田大学を卒業し、他人の会社で修行中の身であった。
「お父様の方は東大なのよ」
真佐奈が胸を張ると、袴田父ははにかんだように下を向いた。
「ええー、東大。やだー」
美和子はうっかりスに戻って声を発する。
袴田父は、顔を上げて美和子を見た。父もまたその瞬間だけがスの顔だっただろう。
「おい、こら美輪。何がヤなんだ」
怒ったふりで睨《にら》みつけたときにはもう大人の顔に戻っていたが、美和子は袴田父の心臓に小石を投げ込んだことがわかる。これが特定のホステスについている客でなく、宮園の客、つまり店の客ならば「やりィ」とこぶしを握るところである。
「だってえ、東大の人ってみんなちょっとさあ」
真佐奈の冷ややかな視線に気づいて、美和子は口をおさえた。
「すみません。学生の時とか会社にいた頃とか、東大の人、みんな変わってたんです。死ぬほどボディビルやって胸の肉ピクピクとか、ミスコンのミスをやっちゃうことに燃えまくってたりぃ」
袴田父と話そうとすると、どういうわけかOL言葉になってしまう。一流クラブのホステスという立場であり、しかも真佐奈の前で、本当なら大失態だ。しかし袴田父は軽い咳をするように笑ったのだった。
「そうそう。マス目を埋めるのが得意なんだよな」
「それ、それそれ、その自虐的な言い方。まさに東大」
ツッコムと袴田父は腕を伸ばして美和子の頭を軽くぶった。男が誉め言葉を喜ぶとは限らない。特に、いつも持ち上げられおべんちゃらなど聞き飽きている男は、人が誉めるところを逆にチクリと突いてやると、意外なほどこちらの人格を認め、食いついてくる。もっともツボにはまっていなければ気を悪くするだけだが。
「東大で、悪かったな」
「とんでもございません、ユアマジェスティ」
「お、妹は英語がイケルのか」
「英文科卒でございます、ユアマジェスティ」
「ホステスも大卒の時代になったか。こりゃいよいよ不況は明けないな、真佐奈」
真佐奈は雲丹《うに》の入った茶碗蒸しの蓋《ふた》を開けたところだった。やっと自分の方を向いた袴田父に、熱燗をついでやる。
「悲しいことおっしゃらないで下さいよ。でも不況の方がお薬は売れるんじゃなくって」
袴田父は、はははと笑った。酒がまわり、日に焼けた肌が喉まで赤く染まっている。
「まあ。それも全くハズレではないな。さすが真佐奈だ」
徳利に添えられた真佐奈の手を握る。遊び慣れた男は姐さん株に恥をかかせるような真似はしない。けれど鷹揚《おうよう》に笑っている真佐奈が、その状況を決して喜んではいないのが美和子にはわかった。わかってはいるのだが、美和子自身は楽しかった。おどけて、少々図に乗ってしまった。真佐奈がいない席ならば、これほど楽しめないだろう。真佐奈という後見人がいるからこそ、お気楽にはしゃげるのだ。浮かれてしゃべり、はしゃいで、デザートのよく熟れたメロンが出てくる頃には、商売そっちのけで酒に酔った。
そのままタクシーで『雛乃』に向かい、一応仕事をしたのだが、その夜のことはよく覚えていない。袴田父子をビルの外まで見送った後、真佐奈が「あの息子の方、あたしにくびったけよ」と言ったのだけ、覚えている。酔った頭で、それは嘘だ、と思った。息子は話しやすいから真佐奈と話していただけで、その体から「やりたい」のオーラは出ていなかった。真佐奈が父とダンスに立つと、これ幸いとケイタイ番号を書き添えた名刺を美和子に手渡し、「美輪ちゃんのも教えてよ」と妖《あや》しい目をした。すっかり酔っ払いながら、真佐奈に対する年下の女の優越感が、どうしようもなく湧き上がってくるのだった。
あの時、真佐奈の心境はいかばかりであったろうか。
あの時だけではない。長いつきあいの客と同伴する時、真佐奈はきまって自分を呼び出した。横柄な弁護士は「やはりフレッシュなのは、いいね」と好色な笑みを向け、品のない予備校の理事長は真佐奈を「婆」呼ばわりした。
真佐奈の、女としての自尊心を思うと胸が痛んだ。でも、と美和子は思い直す。あれは商売だ。自分のおかげで真佐奈はかなり売上げを伸ばしたはずである。
商売でもないのに、自分の方がはるかに美しいのに、そして柴野は初め自分の方を気に入っていたのに。さんざん恩をうった女から、いつもいつも惨めな思いをもらってしまうのは、どうしてなんだろう。
「小降りになってきたね、今のうちに行こう」
柴野が言い、四人で車にかけ込んだ。運転席には柴野、助手席に座ったのは波江である。
「はい柴野さん、ガム」
波江はミントガムの銀紙をむいて、柴野の口にすべりこませてやる。
「やあだ柴野さん、指まで食べたあ」
波江は両手を頬にあて、くつくつと笑った。
リスニング・ラボを聞く美和子の目に波江の後頭部が映っている。うっかり授業が始まる前にラボをやっていると漏らしたら「あたしも行くー」と波江は叫んだ。
ジャニスを奪われ、日本語は決して使わないという決意を翻され、男をかすめとられた。気の利いた言葉も勉強法も全部、真似される。
私はいったい、波江から何をもらっているのだろう。奪われる一方ではないか。友達に対して、こんなことを考える私は卑しいのだろうか。
美和子は腕組みをして、波江が自慢にして決してドライヤーをあてない、黒々と光る豊かな髪を凝視した。
その翌日から、三日間のファイナル・テストが始まった。文法、読解、作文、聞き取りのそれぞれについてレベル別の筆記試験が、会話は面接試験が行われた。各科目七十点以上が合格とされ、アメリカ国内の大学に進学する者は、TOEFLと並んでこの点数が資料となる。美和子も波江も大学進学を希望してはいないので、七十点をクリアしたかどうかは何かを決定するものではない。しかし最後の試験は、せっかく来て頑張った成果を確かめるチャンスである。
美和子は文法、読解、作文に八十点以上の高得点を上げ、会話はぎりぎり七十点の合格、一番弱い聞き取りは六十点でただひとつ「F」であった。これに対し波江は会話と聞き取りがからくも合格、他のデスクワークものはすべて「F」をもらった。受けた試験のレベルが違うものも多いのだが、性格の違いを見たような気がした。
「おおジュディ、私は悲しい」
最後の授業の後、女性教師と美和子以外、誰もいなくなった教室で、例によって波江は派手なパフォーマンスを繰り広げた。
「あなたと会えて私はとても嬉しかった。私はこの後、ハーバードのELCにトランスファーするのだけれど、あなたと二度と会えなくなるのがとても悲しい」
訴えながら波江は涙ぐんだ。
この女は、どうして私が「できることならやりたい、でもみっともないかもしれないから我慢しよう」と思うことをドンピシャリやってくれるのだろう。
美和子はすでにおなじみになった感情と向き合う。
「二度と会えないわけじゃないわ。私はボストンに住んでいるし、あなたもここに滞在し続けるのだから」
教師は、いよいよ派手に泣き出した波江の頭をやさしく撫《な》でた。
「私達はこれからしばらくの間、休みに入るのよ。私の家に遊びにいらっしゃい。車で迎えに行くから、住む場所が決まったらここに電話してね」
電話番号を書いたメモを波江に渡す。
「サンキュー、ジュディ。必ず電話します。ところでねえ、ジュディ、次のステイ先について私は迷っているの。シングル・マザーの家か、ハーバードの講師をしている若夫婦のアパートメントか」
洟水《はなみず》と涙でぐしょぐしょになった顔を拭《ふ》きもせず、波江は教師に相談を持ちかけた。
美和子は白けた気分でそれを見下ろす。
このコはいつもそうだ。「ねえ、どうしたらいい?」「どう思う?」切羽詰った表情で相談を持ちかけ、年上の人間を味方につけてしまう。
「シングル・マザーの方は、下手をするとあなたがベビー・シッターにされてしまうかもしれないわね。日本人は毅然《きぜん》と断ることができないから。若夫婦の方はその心配はない。ただハーバードで教えている人達の中には、それをとてもプライドにして横柄な人もいるようよ。私がアドヴァイスできるのはそれだけ。決めるのはあなたよ」
最後の方がちょっと面倒臭そうな、突き放した言い方になったのが小気味良かった。
腰を上げた教師に美和子は「あなたはこれまで私が出会った教師の中でベスト・ティーチャーでした」と告げる。波江に大泣きされた後で、美和子に伝えられる精一杯の言葉だ。
「サンキュー」
教師は笑みを返して去って行った。
きっと彼女は、優秀だけど印象の薄い生徒として私のことはすぐに忘れてしまうだろう。でも波江のことは、勉強はあまりできないけど、ずっと覚えているだろう。
「寂しいな」
そんな声が口から出ていた。
「ホントよ。寂しい、寂し過ぎる。何が寂しいって、美和子がいなくなることほど寂しいことはないよ。美和子、今からでも遅くないわよ。心変わりしてボストンにいなよ」
冗談じゃない。私はもう、あんたの犠牲になるのは御免だわ。
心の中で毒づきながら、追いすがられるのはやっぱり気持ちが良かった。
その夜、美和子は小田島に手紙を書いた。大学はまだ試験中とあって、ルームメイトのメリー・ジョーも隣の部屋のスーもスタディルームに消えて、部屋にはいない。珍しく静かな時間だった。
小田島さん、元気ですか。日本は梅雨の真っ只中でしょうね。この前、手紙を書いたのはいつだったかな。試験勉強の追い込みに入る前だから、もう三週間たってしまった。ごめんなさい。
言い訳じみてしまうけど、ボストンに来てからの十週間は、本当に忙しかった。まさに目が回る思いで、学校と図書館と寮の往復。そんな中で、妹みたいに大事にしたコがいたのよ。トラブルを起こしては泣きついてくる困ったコ。そのコといると損ばかりしているような気がしたけど、どうしても手をふりほどけなかった。私も大人になったものでしょう? 真佐奈さんや明美さんにしてもらったことを、私はそのコに返す運命なのかも。あなたが小説のなかに書いていた「人は誰かの面倒を見ずにはいられない生き物ではないか」という一文を、今になってしみじみと噛《か》み締めているわ。『雛乃』で働いていた時は、「ンなこと、ありまっかいな」と思ったけどね。ウフフ。
私が日本を発つ頃に始まった新聞連載小説は、まだ続いているのでしょう? 他のものでも、本が出たらすぐ送ってね。私はこの後TOEFLを受け、ロスに飛びます。多賀子のところにお世話になりながら、新しい住まいを探すつもり。新住所が決まったらすぐ連絡するね。お酒だけは飲み過ぎないでね。私は翻訳家目指してもうひと頑張りします。
[#地付き]美和子
手紙を書き終えて封筒にしまい、七十セントの切手を張って美和子は目を閉じた。波江とテニスをしてから、真佐奈のことが頭を離れなかった。
真佐奈が三度目の「やってごらん」を口にしたのは、ちょうど一年ぐらい前だ。
「やってごらん」
真佐奈の目は、周りの皮膚だけが笑いの体裁をつくっていたが、眼球は妙な光を放っていた。
最初の「やってごらん」は、留学したいと告げた時だった。先の見えないものに挑戦する人間を、励まし支えてやろうとする力強さと温かさがあった。二度目はオシャレの日のドレスを買ってもらいなさい、という指示だった。欲しいものを欲しいとその口から出してごらん、どうなるか私が見ていてあげるから実行してみなさい、と勧めていた。そして三度目。
「お給料でお金貯めようなんて、考えてないでしょうね」
真佐奈はそう言った。考えたところで時給五千円の日当二万五千円で、それは無理だった。仕事のためにきれいに作ってタクシーに乗れば、残りは生活費に消える。電車通勤は真佐奈が禁じた。
「電車に乗るホステスには電車賃しか入らない。早くお金を貯めたいなら、電車で通うなんてみみっちい真似はするんじゃない」
と最初に言われたのだ。
南條の件があっていったんヘソを曲げた真佐奈は、間もなく機嫌を直した。新しい金づるを見つけたからであった。代々の地主で、相続税を免れるためにいろんな商売をやっているというその男は、見るからに年をとったぼんぼんで、少なくとも南條のようなクセはなさそうだった。美和子に知恵をさずけてやろうという気になったのは、好調の時は、福を分けると運が長続きするという水商売の縁起をかついだのかもしれない。
真佐奈は言った。
「何か、学校に通いたいって言いなさいな」
「一番行きたいのは英語の学校ですけど」
「英語じゃお金は引っ張れないわ。夢がなさ過ぎる。もっと女の匂いがしなくちゃ。そうねえ。そうだ、夢は女優にしな。小さい頃から女優になるのが夢で今も諦めきれなくて、どうしても劇団に入りたいって。美輪なら案外イケルんじゃないかって男は思うから。男はケチよ。英語学校なんつーOLが自分探しするようなことじゃ、助けてやろうって気にはならない。こいつの夢を叶《かな》えてあげたいって思わせなきゃ」
はあ、と返事しながら、美和子はどうもピンと来ない。惚《ほ》れた相手の夢を叶えさせてあげたい、などと考えたことがないせいかもしれない。そういえば真佐奈の現在の恋人は売れない俳優だし、離婚した夫は、今はメジャーになったギタリストである。
「やってごらん。あんたに惚れてる客に。コンピューター会社の社長さんと、ブティック屋さんと、作家の小田島さんと。三人とも、やらなくても小金なら取れるタイプよ。三人同時進行してごらん。その方がイレ込まなくていいから」
自信たっぷりな真佐奈に押されて、美和子は「はい」と返事する。
「金額は四十万ずつ。五十でも取れないことはないけど、区切りが良過ぎるの。ピリオドを打つと男は次を、代償を求めてくるから」
「はい」
そんなことをしてレイプされやしないかと心配ではあるが、ヤバクなったらお金を返せばいい、と思う。
「劇団にいったん本当に入ってしまうのがベストなんだけど、それはいいわ。私が京都から劇団のテキストとか色々もらってあげる。入ったふりができるようにね」
真佐奈の下|目蓋《まぶた》の肉が盛り上がり、唇の端も持ち上がる。きっと自分も同じ顔をしているだろう。美和子は頷《うなず》いた。
店がはねた後、美和子は男を青山の小さなビストロに連れて行った。古い分譲マンションの地下にあるその店は、前の週に真佐奈から「やってごらん」と言われた場所である。そして同じ建物の602号には真佐奈が住んでいる。
「浅丘さん、私、夢があるの。そのために東京に出てきて、銀座で働いて……」
都内の高級住宅地に何軒かのブティックを構える男は、チビでハゲだがさすがにお洒落《しやれ》だ。シャツとジャケットはグレーの濃淡で、ネクタイはしていない。
「どうしても諦めきれなくって」
美和子はそこでうつむき、持っていたフォークをピンクのテーブルクロスの上に置いた。悲しいことを思い出そうとする。母親が死んだ時のことや、高校時代の同級生が脳腫瘍《のうしゆよう》で亡くなったことや、可愛がっていた飼い犬を父がどこかへくれてやったこと。少しずつ涙がたまり、ふくれてきたところで顔を上げる。
「浅丘さん」
メガネでちょび髭《ひげ》の男は卓の上に二つの手を合わせて握り、誠実な目で美和子を見た。
「私、どうしても女優になりたいの。劇団に入りたいんです。どうしても」
いい具合に涙がつーっと頬をつたう。
「誰も助けてくれない。誰も。私には親もいない。でもこの夢だけは捨てたくないの。お願い、浅丘さん」
ここまで言って美和子はしゃくり上げた。懸命に声をこらえて下を向く。肩が大きく上下するわりに涙の量は少ないが、何とかごまかせそうだ。
「お金を貸してください」
「美輪ちゃん」
男は握っていた手をほどき、片手を美和子の肩に置いた。
「ごめんなさい。私、こんなこと頼めるの浅丘さんしかいなくって。ごめんなさい」
嗚咽《おえつ》をこらえるふりをすると、浅丘の手に力がこもった。
「僕が店を持ちたいと思ったのも、美輪ちゃんぐらいの年だった」
美和子は二十五歳だが営業年齢二十三である。
「大学卒業して大手の広告会社に入ったんだけど、すぐに辞めてね。親からはもう勘当同然だったよ」
男は美和子の肩から手を引き、遠くを見る目をした。
「石にかじりついてもやってやると思ってたね。誰も本気にしなかった。むしろ馬鹿にしたよ。だけど強く強く念じれば、夢はきっと叶うんだ」
「本当ですか、浅丘さん」
美和子は眉根を寄せて、神々しいもののように浅丘を仰ぐ。
「そうさ。本当に好きなことを一生懸命やっていれば、道は自然と開けてくる。世の中そういう風に回るんだよ」
浅丘はグラスのワインを飲み干し、ウエイターに手を上げた。
「シャトー・レオヴィル・ポアフェレはある?」
「ございます」
「じゃあそれを」
浅丘とは何度か食事をしたことがあったが、いつもグラスワインを一、二杯飲むだけで、ちゃんとしたワインを頼むのはこれが初めてである。テイスティングのためにほんのちょっと注がれた赤ワインを口に含む。うん、と頷き、自分と美和子のグラスが満たされると「乾杯だ」と囁《ささや》いた。
「将来の大女優に」
なりきってクサイ科白《せりふ》をはく男に、美和子は気恥ずかしさを覚えた。そして、どうしても「四十万」という金額を言うきっかけがつかめないのだった。
食事を終え、タクシーに乗り込む。このままホテルに連れこまれたらどうしようと不安になるが、浅丘は「美輪ちゃんはどこだっけ」と聞く。
これはもしかして、私のアパートに入り込むつもりか?
「祐天寺です」
「じゃあ、祐天寺」
どうしよう。部屋に入られたら、断るのがかなり苦しくなる。それに、四十万要るんですっていつ言おう。
「美輪ちゃん」
並んで掛けるタクシーの後部座席で、浅丘は美和子の手を握った。白くて小さな手だった。
「頑張りなさい。二十代をどう過ごしたかは、一生を左右するよ」
「はい」
それはわかったから、金額を言わせて欲しい。しかし走る密室の中には運転手という第三者がいる。ここで金額を切り出したら、いかにもそれっぽい。迷っているうちに車は246から山手通りに入り、さらに進んで駒沢通りに入った。
「運転手さん、そこを右です」
外見だけは可愛らしい、隣の音が筒抜けの白いアパートが見える。どうしよう。金額を言えないまま、ごそごそと車を下りると浅丘も一緒に下りた。タクシーを待たせているから、部屋に上がり込むつもりはないらしい。とりあえずほっとする。
「いくら要るの」
背の低い浅丘は、ヒールをはいた美和子より目線が低い。
「四十万」
「わかった。電話する」
あっという早さで浅丘は美和子の腰を抱き、軽いキスをした。じゃあね、と再び車に乗る浅丘の顔の、何と若々しいこと。目の光、顎《あご》の線、直線的に尖《とが》ってイイ男風ではないか。赤いテールランプが角を曲がって見えなくなるまで、美和子はそこに立っていた。
男って、不思議なもんだなあ。
美和子は前屈みにアパートの外階段を上った。
浅丘から電話があったのはその三日後。昼間、赤坂のホテルラウンジで銀行の封筒を受け取った。
「ありがとうございます」
神妙に頭を下げ、もう一度涙を見せようと試みたがうまくいかなかった。何か仄《ほの》めかされるかと思ったが、「じゃ、僕はこれで。仕事の途中で抜けて来たんだ」と浅丘は腰を上げ、爽《さわ》やかな笑顔を向ける。顔の皮膚はみずみずしく張り詰めて、白い歯が青年のように輝いていた。路上に停めているのは白のBMWだ。
「これから美容院かい? 送って行こうか」
「いえ、劇団の資料を買いに六本木へ。電車で行きます」
満足そうに頷く浅丘と、握手をして別れた。車が消えるのを待って、銀行へ入金し、タクシーで新宿へ向かう。次はコンピューター会社社長の松添に泣いてみせなければならない。冷房の強過ぎる車内で、五十五の年より十歳は老けて見える松添の白髪頭を思い出し、美和子は目眩《めまい》をおぼえた。
八月上旬並みの夏日とテレビが伝えた日、美和子は『ルコント』のサバランを携えて、真佐奈のマンションを訪ねた。「やってごらん」から二週間たっていた。
カップとソーサーに熱湯をかけ、布巾で丹念に拭《ふ》く。ポットにも湯を入れて一度捨て、茶葉をスプーンで計り入れ熱湯を注ぐ。
茶葉が耐熱ガラスのポットの中で躍っているのを確かめて、砂時計を逆さにする。ジャスミンのいい香りが漂った。真佐奈の部屋はすでに何度か来ていたが、こういうことにうるさい真佐奈に、お茶やコーヒーを淹《い》れる時はいつも軽く緊張した。
「はい、真佐奈さん」
古い2DKだがそのぶん部屋は広く、居間は江戸間の八畳だ。ソファを持ち込まず、カーペット敷きの床に座布団を敷いて和室風に使っている。真佐奈はきれい好きで、アンティークの仙台|箪笥《だんす》は磨き込まれ、天井から下がる和紙を用いた照明器具には埃《ほこり》一つない。しかし壁には大きなソンブレロや意味不明の風呂敷や簾《すだれ》が張ってあり、これらはたっぷりと埃を吸っている。
「早い勝負だったわね」
訪ねて来た用件は先刻承知のようだった。
「ええ、おかげ様で三人ともうまくいきました」
「何にもされなかったでしょ」
「ええ、まあ。キスぐらいで」
「ダメよお、四十万ぽっちでキスさせちゃ。私なんか百万とっても指一本触れさせやしないわよ」
真佐奈は顎をつんと上に上げた。嘘つけ、と美和子は思う。あの南條とだってまるで何もなかったわけでは、ないんじゃないの? と思うが、口に出そうものならヤブヘビだ。
「でも男の人って不思議ですね。お金を出すと途端にいい人になろうとするの。顔まで生き生きしちゃって」
「それはね美輪、出したお金の分、あんたに好かれようとするからよ。これが百万ぐらい取ると、今度は顔がどす黒くなってくるわ。女に執着してるんだか、出したお金に執着してるんだか、自分でもわからなくなるの」
美和子は表参道のカフェで会った南條を思い出した。あの時、南條の顔はどす黒かった。すると真佐奈は、言わなかったけれど、すでにいくらか南條から受けとっていたのだろうか。
「二週間で百二十万か。悪くないわね。いいこと。月々一万円ずつ返しなさい」
「え? 返すんですか」
「当たり前よ。教えてあげたでしょ、貸してって言えって。借りたもんは返すのよ」
「えー、そんなー」
三人の男から四十万ずつ徴収した後、美和子は熱を出し、だるくて昼間は何もできずにひたすら寝ていたものだ。相当なストレスがかかっていたのだろう。やはり金を得るということは生半可なことではないと思い知った。それを今さら返せなんて言われても困る。
「馬鹿だね美輪。月々一万ずつよ。いいカッコしてお金渡した大人の男なら、二、三ヶ月でもういいよ、って言うわよ」
「え、ホントですか」
ふくれっ面をしていたくせに、げんきんに顔がぱっと輝く。「まったくあんたは天性のホステスだよ」と真佐奈は呆《あき》れ顔。それからふと思いついたように言った。
「ね、あたし来週から京都行きたいの。今月売掛けで苦しいから、十万貸して」
風が吹いたか貝殻細工の風鈴が、窓辺でしゃらしゃらといい音をたてる。美和子の腕に筆でさっと撫《な》でたような鳥肌がたった。
[#改ページ]
[#5字下げ]六
ファイナル・テストから二日後、まだ薄暗いうちに美和子はボストンを発った。空港で、波江一人に見送られ、目と鼻を真っ赤にして泣く波江に高々と手を振って別れた。
立ち去る者はつねに美しい。胸を張って飛行機に乗り、シートベルトを締めるとすぐに眠りにおちた。そして目を覚ますと眼下に青い海が広がっていた。
ロサンジェルスの風は乾いていた。
町は平面的にだだっ広く、滑らかな道路も等間隔に植わった椰子《やし》の木も、まさにカリフォルニアだ。紫外線をさえぎるためにサングラスをかけた人々は、肥満体も多いが、どことなく都会的に洗練されてかっこいい。ハイウェイの両脇には高層ビルが林立していた。城下町のようにこぢんまりとまとまったボストンとのあまりの違いに、美和子は口を開けた。
驚きの中には気後れのようなものもあり、ボストンの湿気が懐かしく思い出されたが、美和子はそれをただちに揉《も》み消した。東部と西部の英語は違うから、翻訳家になるために東と西のはずれに留学先を定めたのだ。その選択は間違っていないはずだ。新生活に祈りを込めて、美和子はタクシーの運転手に五ドルのチップをはずんだ。
市川多賀子の住まいは市の西側、LA国際空港から車で三十分ほどのところにあった。平屋のアパートメントで、長屋のような作りだ。四畳半ほどの部屋に半畳もないキッチン、ガスコンロは一口の、丸いものを置いていた。
「家具付きで二百五十ドル、安いでしょ」
ゴミ置き場から拾ってきたようなソファベッドと、縞《しま》模様の入る古いテレビ。日系企業でセクレタリーをしているという多賀子の暮らしは、聞いていたよりもずっと質素だ。ロスで必需品の車は、塗装の剥《は》げたダットサンだった。
多賀子とは家が近く、小学校、中学校と同じ学校に通った。美和子は県下で一番の進学校に進み、多賀子は中レベルの女子高に進学。高校を卒業後、地元の証券会社に就職した多賀子が、いきなり渡米したと聞いた時は驚いた。陸上をやっていたことの他は、これといって特徴のない地味な少女だった。
留学の目鼻がつき、迷いながら国際電話をかけると、多賀子は頼もしいことを言ってくれた。
「いいよ、あたしンとこ来て部屋探せばいい。手伝うよ。うだうだ考えてるより金握って飛行機乗った方が話早いよ」
それがボストンから電話を入れた時は「ああ、うんいいよ」といささか醒《さ》めた声だった。大丈夫なんだろうかと不安をおぼえたが、気がつかないふりをしてやって来た。日本で買って来たブラウスを渡すと、多賀子はやっと笑ってくれた。
「まず部屋探しね」
英字新聞と日本語の羅府新報を広げて「ルームメイト募集」のめぼしいところに片っ端から電話をかけ、その場で約束をとりつけてくれた。ステューディオと呼ばれるワンルームはあまりにも高いので、何部屋かある物件を借りて、部屋を又貸しするというのが独身者の一般的なスタイルだった。
車がないと部屋を見に行けず、多賀子があく土曜日まで、美和子は狭い部屋の掃除と料理をする。が、これ又車がないので、買い出しに行くこともできない。冷凍庫の中の骨付き牛肉を使ってシチューを作ったら、多賀子は「あれ、全部使ってしまったの!」と怒りをあらわにした。どうやら失敗してしまったと思い「いろいろお世話になるから」と二百ドルを差し出すと、途端に口元が緩む。小さい頃から色黒でエラの張った顔だったが、ロスで見る多賀子はいっそうきつい「根性ありそう」な顔になっていた。
週末、新聞で問い合わせたコンドミニアムを見て回り、それから、中国人が買収した元日系のデパートに掲示板を見に行く。家電製品や車の売買情報に混じって、ルームメイト募集の張り紙も出ていた。月四百ドルというのがこちらの条件だ。「これ良さそう」という多賀子に連れられ、電話をして見に行くことにした。
UCLAにほど近い、リトル日本人街と呼ばれるウエストLA地区である。日本語の新聞やミニコミ誌を読むうちに知ったのだが、ロスの町は人種、経済状況、血統などで住む地域がはっきりと分かれている。道に線は引かれていないものの、道一本隔てただけで金持ちの白人が住む地区、中流のインテリが住む地区、労働者階級の黒人が住む地区などと厳然と区別されている。ウエストLAのその地区は、比較的裕福な白人が多く住む治安のいい地域だ。日本食のスーパーや日本人経営の美容院があるせいで、日本人も多い。
四階建てのコンドミニアムの3LDK。そこにいたのは、小さな関西人だった。黄色いタンクトップにLeeのGパン。スニーカーを履いている足だけが、妙に大きくてアンバランスな感じだ。
「このコンドは新築での。こっちの部屋はフィリピン系のアメリカンが入りまんのや。女のコな。あんたの部屋はこの部屋やな」
一部屋の広さは八畳ぐらいだろうか、各部屋にバス・トイレがついており、大きなLDKが共有スペースである。関西人の部屋はキッチンを隔てた向こう側だから、そういう意味では安心だ。
「ま、早めに返事してや。今日、これからも人が見に来るさかい」
受け口の関西人は、美和子が通おうとするELCの本学のカレッジの学生だった。大学をとっくに卒業した年に見えるが、美和子よりは年下のようだ。
「どうするの」
大きなピザの八分の一カットを食べながら、多賀子はおんぼろダットサンを片手で運転している。コーンや肉のかけらが下に落ちるのは気にならないらしい。
「部屋はあの関西人のとこのがいいんだけど、日本人と暮らすっていうのがちょっとねえ。せっかくアメリカ来たんだから、英語に囲まれて暮らしたいんだよね」
多賀子はふんと鼻を鳴らした。
「英語も満足に話せない日本人と部屋をシェアしたいってアメリカ人はいないよ。みんなヘッドは日本人だったじゃない。さもなきゃ二番目に見に行った変な白人のとことかさ」
白人は舐《な》めるように美和子を見た。寝室は二つあったが、あれはルームメイトというより同棲《どうせい》相手募集であろう。
「美和子みたいなぼおっとした日本人が、ネイティブと一緒になんか住んだら、すぐにカモにされちゃうよ。体かお金か、いいだけ吸い尽くされるに決まってる。LAってそういう町だよ。誰もタダで好意をくれない。みんな自分の得と損を常に秤《はかり》にかけて動くし、何も言わなきゃどこまでもつけこんでくる。アメリカ人は、気に入らなきゃ手加減しないで抗議するし、裁判起こす。こうやって部屋探しにつきあっているのだって、本当はペイに価するんだよ」
二百ドルでは足りなかったのだろうかと美和子は反省する。その直後、こうやって「カモにされちゃう」のだろうと思い知る。それにしても、あの関西人と住むのは気が乗らなかった。
「いいんじゃないの、あそこで。車買うまで学校連れてってもらえるよ」
ラーメン・ショップに寄って麺《めん》をすする間、多賀子はずっと仏頂面をしていた。美和子が支払いを済ませると「サンキュ」と笑顔を見せる。こんな人間ではなかったのに、これもロスの水に洗われた結果なのだろうか。車窓から乾いた風が吹き込む。美和子はそっと腕を抱いた。
夜、セルラーが鳴った。それは波江が柴野から借りて、美和子がボストンを発つ時に手渡したものである。
「日本に帰る前にロスに寄るから、その時まで使ってて。料金は柴野さん持ちだから」
こういうところ、波江の手腕は大したものだ。いかにも気が利いている。こいつは又私を追いかけてくるのかと煩わしかったが、別れの感傷もあって、美和子は波江を抱き締めた。わずか一週間前のことだった。
「もしもし美和子」
懐かしい声が聞こえる。
「ああ波江、元気」
共に住む多賀子から棘《とげ》のあることばかり言われ、すっかりささくれていた心に一滴のオイルが染み込む。
「波江、私ボストン帰りたいよ」
「だから言ったじゃない。ボストンにいなよって」
波江は陽気な声を上げた。たった十週間のつきあいだったのに、ずっと前からの友のように感じる。
「私ね、結局ハーバードの先生夫婦のところに一部屋借りたんだ。二人ともとっても知的で素晴らしい人達。学校のことも色々教えてくれるしね、そうそう、もうクラス始まってるんだよ。私、春のセミスターの間に英語力ぐーんと伸びたみたいで、ネイティブが言うこと、はっきりわかるんだ。けっこう高いクラスに入ってね」
「そお、良かったじゃない」
私もボストンにいれば、と胸の中が粟立った。
しかし後悔などしても始まらない。ロスの学校に入る手続きはしてしまったのだし、今から戻ってもお金が減るだけだ。
しっかりしなくては。ここで切り開くんだ。
美和子はぐいと顎《あご》を上げて電話を切った。そしてベッドの上でマリワナを吸い、いい気持ちで伸びている多賀子を揺すった。
「あたし決めたわ。最後に見た部屋にする。明日ここ出て行くから」
揺り動かしても、多賀子はだるそうに頭を振るばかり。
「多賀子わかった? 明日から私の新生活だからね。早く軌道に乗せるんだからね。波江に負けないんだからね」
多賀子は壁の方に寝返りをうち、大きな屁《へ》をひとつした。
「やっぱりあんたが来はったな。なんやそんな予感しててん。縁ちゅうか運ちゅうか、な」
小さな関西人はトシオといった。関西は大阪の生まれだ。
「トシて呼んで。苗字? ええやんか。むつかし名前なんてエルエーではいらんのよ。あっちのルームメイトはビイビイ言わはんね。愛称らしいで。本名は何やったかな。契約書に書いとったんは長ったらしい垢《あか》抜けん名前やったで。ハタチやけど学生やのうて、働いとる」
「まず条件があるの。車を買うまで学校に連れて行って欲しい。帰りはバスに乗るからいいわ。それから車を買うのを手伝って欲しいの。車を見に行くのもそうだけど、私、車を見ても、生きてるかクズか全然わからないから」
最初に条件をつけておけと多賀子から入れ知恵されていた。
「ええよ、お安いご用」
トシオは馴れ馴れしく美和子の腰に腕を回した。
こいつはこっちがロスに不慣れなのに乗じて、スキンシップし過ぎじゃないの?
首を傾げる美和子を、一重の目がにんまりと見上げた。
「そん代わり今日の飯作ってや。あとでジャパニーズフードのスーパー連れてくさかい」
誰もタダでは好意をくれない、と多賀子が言ったのを思い出した。それがロスの常識なのだろうが、トシオの場合はただの大阪のケチという気もする。彼の真っ赤なホンダのスポーツ・カーには、シートにビニールがかけられたままで、足元には薄紙が敷かれていた。仕送りで買ったのかと聞くと、「そやない」と答えはしたが、それ以上の説明はしなかった。日本の専門学校を辞めて、こちらのカレッジに入ったのだという。学生をやっていると誰でもそうだが、二十三歳という年よりも、ずいぶん幼く見えた。
「俺これ、食いたいなあ。買って」
揚げればいいだけになっているジャガイモのコロッケや蟹カマを、トシオは次々とカートに入れていく。お母さんと一緒に買い物に来た子供みたいだ。誰が払うと思ってんのよと腹が立ったが、日本食に飢えていた美和子は、甘エビの刺身や切干大根やおはぎなどをしこたま買い込んだ。
久しぶりに味噌汁を作り、椀《わん》によそう。
「はーええ香りや」
リビングダイニングには家具がまだ何もないので、段ボール箱にシーツをかけてテーブルがわりにする。その上に料理を並べ、向い合って正座した。
「ほな、いただこか」
二人で箸《はし》をつけようとしているところに、ドアが開いた。入って来たのは、褐色の肌に睫毛《まつげ》が黒々と密生した美人である。「我らがルームメイト、フィリピン系二世のビイビイや」とトシオが囁いた。彫刻刀で削ったような足首の線は、いかにもフィリピン系だ。
「Hi, I'm Bebe(ビイビイよ)」
「Miwako(ミワコよ)」
ビイビイは美和子の手を握り、華やかな笑顔をくれた。しかし段ボール箱の上に並ぶ日本食を見咎《みとが》めると怪訝《けげん》な顔をした。
「Did you cook ?(あなたが料理したの)」
「Yes, I did(そうよ)」
途端にかっと痰《たん》を吐き捨てるような音をたて、言い捨てた。
「Typical Japanese, sexist(典型的日本人ね、男尊女卑)」
ビイビイが大きな音をたてて自室に消えると、トシオは「なんや怒りっぽいネエちゃんやで。ま、こっちのおなごはあんなもんや」と呟《つぶや》いた。ここに引っ越して来て良かったのだろうかと後悔に襲われそうになったが、今考えても始まらない。動けば動くほどお金が出て行くのだし、少なくとも車を買うまではここにいた方がいい。どうしてもダメなら、車を買った後で、自分で部屋を見に行けばいい。ロスには礼金という制度はなく、敷金のみを全家賃の四ヶ月分、ヘッドのトシオが払っていた。頭金の損を考えなくていいからいつでも気軽に動くことはできる。それにしても、と美和子はため息をつく。迷いと後悔。ロスに来てから、そればかり味わっている。
「困っちゃうのよ、二人とも我儘《わがまま》で」
住まいを定めてから二週間後、美和子はボストンに電話を入れた。電話線をトシオと共有して、電話機を部屋につけたので、セルラーを使わずにボストンに電話することができる。セルラーから電話したところで、支払いは柴野だけれど。
二週間の間、だんだん車探しにつきあうのを嫌がるようになったトシオをおだてて、ご飯を作り機嫌をとりまくって、イラン人から二千ドルのカローラを買った。車の修理工場でスモッグ・チェックをし、日本人のいる保険代理店で車に保険をかけ、陸運局へ行って車を登録すると、すべてが終わったような気がした。授業はすでに始まっていたが、車がないとどこへ行くにもトシオかビイビイを拝みたおさなければならず、車を買って乗れるように準備万端整うまで、美和子は勉強どころではなかった。
「ガキは困るよねえ」
インテリの若夫婦と暮らしている波江は、かつて美和子を振りまわしたことなど忘れたように言う。
「いつもビイビイとトシと二人で喧嘩《けんか》なの。二人とも私を味方につけようとして罵詈雑言《ばりぞうごん》言いにくるんだ。二人の言い分、両方ともわかるから、私困っちゃって」
「ふうん」
興味なさそうな波江の返事。そっちはどお、と聞く前に波江は告白した。
「美和子。あたし柴野さんとつきあってるんだ」
セルラーを貸して料金を払ってくれるぐらいだから、そうだろうと思っていた。
「それがね、聞いてよ美和子。柴野さん日本に女を残してきてるのよ」
思わず口元が緩む。
あんたにばかり、そうそういい事があってたまるもんですか。
「日本で働いてるんだって。ポン女出身だって。写真見たらきれいな人だった。もう私、苦しくてたまらないよ」
つらそうな声だった。
「そお。それは苦しいでしょう」
笑えてしょうがないのを我慢して、しんみりとした声を出す。そして言おうと思っていた、昨夜、夜中に目を覚ましたらトシオが枕元に立っていた、という事件を慌てて引っ込める。「うん。だって」と波江は何か言いかけたが、そのまま黙った。
「しょうがないよ。好きなんでしょ。もし、本当に本当に好きなら」
波江はすかさず割って入る。
「うん。本当に本当に好き」
「奪ってしまえばいいじゃない」
「だって……柴野さん、エリートだよ」
「エリートなんて関係ないよ。彼が心底波江を好きになって愛してくれたら、波江を選ぶでしょう」
「とれるかなあ」
「とれるよ。とれない男なんて、いないのよ」
美和子はそう思っているが、それが波江に当てはまるかどうかは知らない。ドアに鍵をつけなくては、何とかして木工具をトシから借りられないかなあ、と頭は別のことを考えている。
「美和子、頼もしいー!」
波江は叫んだ。
「ああ早く美和子のところに行きたい。ハーバードの夏期講習は六週間で短いの。あと一ヶ月もないね。柴野さんが日本に帰るのも偶然同じ頃なんだ。だからきっとこの関係は日本に帰っても続くと思うの。美和子、私に知恵を貸して。お願い」
「わかったわ。クラス終了したら、こっちにおいでよね」
部屋、車とロスに来てからいつも他人を頼りにしなければならず、自分の価値をたいそう低く感じていた矢先、波江の「お願い」は、不足していた酸素を送り込んでくれた。
「まったくしょうがないコ、やっぱり波江はお子ちゃまね」
さっきから電話を使いたいと、部屋をノックしに来ていたトシオに「終わったからもういいよ」と伝えに行く。久々に足取りが軽かった。
アメリカの電話は番号を押す前も切った後も、不快な音が流れる。まるで威嚇するように大きな音をたてる受話器を、波江は本体に戻した。窓を全開にして煙草に火を点ける。部屋を借りる時、煙草は喫わないという条件で入ったのだが、実は毎晩、違反している。夜、夫婦二人が寝静まった後で、窓を開け身を乗り出して喫っているのだ。煙草を喫わない夫婦は、おそらく匂いで気づいているはずだが、大目にみてくれている。二人ともハーバードの講師をしているので忙しく、間借り人に干渉しない、いい大家さんだった。以前東寮にいた頃はルームメイトとソリが合わず、毎日寝て起きるだけでストレスがたまった。それを思えば、今の居住環境は天国だ。しかし、あっちが良ければこっちがダメ。人間の心は、一定量の悩みを抱えるようにできているのではないかと波江は思う。
柴野の事情を知ったのは、美和子がロスに発って間もなくのことであった。
「僕の部屋を見においでよ」
飛びあがる嬉しさだった。部屋に誘う。つまり、あーしてこーしてベッド・イーン!
紺に金のレースがついたブラとパンティを買い揃え、寝つきのいい波江が、興奮してなかなか眠れなかった。こんなにうまくいっていいのかしら。男にはいつも痛い目にあわされてきた自分に、これほどスムーズに運ぶ恋愛が訪れるとは、信じがたい思いだった。
柴野の部屋は住宅街の一軒家の二階部分であった。下に大家さんが住んでいるのだという。
「大家さん、一週間の旅行に出てるんだ」
え? それって? 波江は目が半月の形に歪《ゆが》むのを我慢する。
「あっちの部屋も柴野さんのなの?」
「そうだよ」
柴野はさり気なくドアを開けた。そこには大きなベッド。
「あ、あら」
波江は恥じらってみせた。
「ずいぶん大きなベッドね」
ゆっくりと窓際まで歩いていく。出窓のところにベッド・ヘッドがくるように置いてある。そこまで歩いて行き、外を見ていると、後ろから柴野の手が伸びてくる。という計画であった。
「波江ちゃん」
柴野の震えた声が響いた。それここだ。「え?」と振り向くか振り向かないかに、柴野の長い腕が伸びてくる。
「あら」
出窓に置かれた小さな写真立てが目に入った。真鍮《しんちゆう》のフレームの中で笑っているのは女である。波江は思わずそれを手に取った。
「これ、誰」
振り向くと、柴野が赤い顔をしていた。
「つ、妻」
「柴野さん、け、け、結婚してるの」
波江の声は上ずって、悲鳴のような尾をひいた。
「……そう、なんだ」
頭の後ろでパイプオルガンが鳴り響いた。
大家さんが旅行中に自分を招いたのは、そういうことだったのか。それにしても、女が来るというのに、枕元に妻の写真を堂々と飾っておくとは、どういう神経なのか。
「どうしてこの写真、隠しておかなかったの? 寝室に飾っておくなんて、あんまりだわ」
寝る気で来たと、あからさまに告白しているようなものだがかまうものか。こうなってはそれどころの話ではない。本当の僕を知って欲しかった、とか、不倫であることを隠したまま関係に及ぶのは卑怯《ひきよう》だと思ったとか、こちらを思いやる言葉を言って欲しい。ところが柴野は力なく肩を落として言った。
「つまりその、忘れたんだ」
何ですってえ?! 怒りで体が熱くなった。波江は写真立てを手にしたまま寝室を出、それを冷蔵庫の中にしまった。ついでにそこに冷えていた白ワインの瓶とグラスを二つ持って寝室に戻る。波江は怒ると、行動がてきぱきするのである。
「あ、オープナー忘れてきた。柴野さん、持って来て」
「はい」
柴野は命令に従う。
「開けて」
「はい」
二つのグラスを満たし、合わせる。
「柴野さん、抱いて」
酒はからきし弱い波江だが、酔ってはいなかった。波江の頭にあるのは、ここでセックスしてしまわなければならぬという、強迫観念にも似た思いだ。これを逃したら、柴野は二度と自分を誘ってくれないかもしれない。
柴野が真新しい紺のブラジャーをはずすと、二つのふくらみが現れる。お椀《わん》を伏せたようにぽっこりとして、AVを見慣れた男ならすぐにわかる整形おっぱいである。術後は乳首が小さくなると本で読んで知っていたが、小さくなった分、色素が詰まって黒くなった。可愛げのない、男の子供みたいな乳首になってしまった。しかし、そんなことをクヨクヨ気に病むのは時間と金の無駄だ。
服を着てればあたしも立派なプチ巨乳。水着になれば誰もがこのおっぱいに魅了される。チャームポイントが増えたんだもの、それってスゴイことじゃない。整形してから寝た男はお腹にいた子供のパパ一人だけど、彼だってこのおっぱいは大好きだった。
波江は自信を持って、横になっても天井を向いたままくずれない二つのふくらみを両手で寄せた。
「舐《な》めて」
柴野の唇が二つの乳首をかわるがわる愛撫《あいぶ》する。それから思い出したようにキスをして、手で胸を揉《も》みしだいた。
「あぁ」
堪《こら》えきれない、というように息混じりの声を発するが、実は痛みに近い危惧《きぐ》からである。どうやら柴野はあまり経験豊富ではない。手の力が強すぎるのだ。生理食塩水を入れたバッグが、皮膚の下で動いたりつぶれたりするのがわかって波江は気が気でない。
「もう少し、軽くして」
柴野は大きく二度|頷《うなず》いた。手の力が弱くなったのはいいが、柴野の愛撫は単調だ。二つの乳房を二つの手で、円を描くように揉むばかり。まるで妊婦の乳房マッサージだ。ずいぶん長いことそれをした後で、ようやくレースのパンティに手がかかる。腰の左右に手をかけてそのまま一気に引き下ろしたので、肝心なところにあたっていた布部分が表になり、そこに白いおりものがべったりと付着していた。生理が近いせいで、分泌物が多いのだ。やっぱり白系にすれば良かった、と波江は後悔した。
「うふふ」
大きくM字に開かされた両脚の間から、柴野のこもった笑い声が聞こえる。何をしているんだろうと波江はそっと頭を起こした。裸でうずくまった柴野は、目を細めてその部分を見つめていた。波江の両|腿《もも》に手をかけ、力を加えては、開いたり閉じたりするそこを楽しんでいるようだ。
どうして直接触らないんだろう。
それでもじっとしているとやがて指が核心部分に近づいてきた。
「あ、ヤ」
やっと来たかと安心して、ほんのちょっと脚を閉じるふりをする。すると柴野の指はビクリと反応し、再び太腿に戻ってしまった。
ちょっとお、いい加減にしてよお。
産婦人科の診察台みたいな格好を長い時間させられ、波江は段々苛立ってきた。
「触って」
手を握り、導いてやる。インテリにしては関節の太い指が、なおも周辺を引っ張って開いたり閉じたりを繰り返し、「うふふ」という低い声がBGMのようにサウンドした。
うふふ、うふふ、うふふ……。
「ひっ」
波江は声を上げた。いきなり指が入ってきたからだった。あまりにも急だった。波江はこれまで関係した二十三人の男の前戯を思い起こす。数を明白に把握しているのは、時々数えてみるからだ。
「ああ〜ン」
今度のこれは、本気の声だった。柴野の指が、ゴシゴシと出し入れを始めたからだ。
「ねえ、もう」
入れて、と言うかわりに柴野のモノに手を伸ばす。
お、大きい!
波江は息を飲んだ。今だかつて、このような逸品に出会ったことがあっただろうか。いや、ない。手で握ろうとしても指が届かない。そして多分、両手を上下にして握っても相当余る長さだ。
「ほぉー」
我ながらはしたないと感じる感嘆の息が漏れた。この器官から送り出される快感は、どれほどのものであろうか。しかしこれほど大きなモノを、自分の体は受け入れることができるのだろうか。処女のような不安と、経験豊富な快感バロメーターがないまぜになって波江を目眩《めまい》の岸に連れてゆく。
「ああ、早くきて」
早く、ああ早く。波江はうっとりと目を閉じてその瞬間を待った。しかし一向にそれが押し当てられる感触はこない。ああそうか、アレを付けているのね。手伝おうと身を起こす。前に譲から仕込まれて、波江は風俗嬢みたいに口でそれを装着することだってできるのだ。
ところが、柴野はソレを付けようとしているのではなかった。M字型に開いた波江の脚の間で、自分自身をしごいていた。
「柴野さん、いいのよ」
柴野は恐るべき早さで上下していた手を止めた。
遠慮しているのだろうか。ここまできて。結婚しているから、挿入してはならないと思っているのだろうか。
「私の中に」
柴野はぷいと横を向いた。
「いいんだ」
「柴野さんが結婚していても、私は柴野さんが好き。だから……」
波江は彼の胸にすがった。しかし柴野は最後の行為に及ぼうとはしない。ほどなく海綿体は怒張を緩め、ふにゃりと力なく下を向いた。沈黙の中、波江はそれを見守る。
やっぱり大きいワ。普通の状態で、並みの男が勃《た》ってるぐらい、あるもん。
「どうして入れないの」
聞きたい、というより責めたい気持ちは山々だが、あんまり聞くと二度と自分に触れなくなるかもしれない。
それはイヤだ。私はきっと、このモノをモノにしてみせる。
波江は何気ない風を装って、柴野を自分の隣に寝かせた。
「あたし、柴野さんが好き。結婚してるって聞いてますます好きになったわ」
柴野の上にかぶさる形で軽いキスをする。何だかわからないけれど、今日のところは深追いは禁物だ。たくさんの苦い経験が、波江にそう教えていた。波江は柴野のさらさらした茶色い髪を母親のように撫《な》でた。
ああ柴野さん。波江は熱い息を吐く。
あれから週に二回のペースで、波江は柴野の部屋に行っている。大家が寝静まった夜中、足音を潜めて外階段を上ってゆく。隠れて外階段を上ったことは、以前にもあった。譲の時である。
私って、隠しておきたい女なのかしら。
波江は激しく頭を振って、悪い考えを追い出す。譲の時はそうだったかもしれない。あの男は意地悪で陰険で、私を貶《おとし》めることで自分が偉いと確認したい男だったから。でも柴野さんは違う。たまたま結婚していて、大家さんもそれを知っているから隠れて会うしかないのだ。
それを裏付ける日頃の柴野のやさしさを、波江は一生懸命なぞる。会えばいつも、ちゃんとしたレストランに連れて行ってくれるし、支払いは必ず彼がする。食事代を払ってくれる男なんて、波江は不倫の羽田しか知らない。どの男も、良くてワリカン。当たり前のような顔をして波江に払わせる男も少なくなかった。
しかし柴野も女房持ちだ。そういう、弱みを持つ男しか、自分にはご馳走《ちそう》してくれないのだろうか。いいえ、違うわ。波江はもう一度激しく頭を振る。羽田の連れて行く店は居酒屋が多く、ひどくするとホテルに行く前にコンビニに寄り、ビールと弁当を買って、密室で一戦を交える前に食べることもあった。それにひきかえ柴野は必ず、チップを置いて出なければならないレストランに連れて行ってくれる。おかげでボストンのロブスターは飽きるほど食べたし、名物のクラムチャウダーが美味しい店も知った。野球も観に行ったし、ボストン交響楽団も聞きに行った。週末は食事の後にバーへ行ったりする。
夢のようなデートだった。普通の女のコ、例えば美和子などは、いつもこんな恩恵に浴してきたのだろうか。波江は美和子の、濃厚に美しい、女でも「この女の深い部分を知ってみたい」と思ってしまう謎めいた笑みを思い出す。
「とれない男なんて、いないのよ」
あの余裕ありげな物言い。異性に自信がある分、同性との対人関係にはからきし弱く神経質なところがあるようだが、それは正統派の美女としていたしかたないことであろう。少女の頃から美しかったであろう美和子は、人一倍|妬《ねた》みを受けて成長してきたはずだ。目標を持ち、それを完遂させるために、日本人との交流をいっさい断とうしていた美和子の心情は理解していた。
それも私が翻させてしまったけれど。ごめんね美和子。でもま、世の中迷惑かけたりかけられたりよ。それより柴野さんだわ。
波江の頭は軌道修正して目下の難題に戻る。
キスはする。舌を入れるのはあまり好きではないようだが、一応、チョチョッと入れてくる。おっぱいにも触る。下手糞だが、熱心に乳揉みをする。アソコにも触る。相変らず「開いて閉じて」が好きだが、まあ、触る。最も敏感な箇所は触らない。その存在を知らないのではないかと疑われるほど、そこは無視する。そして指も入れる。出し入れする。アソコは出し入れするためのものだということは知っているらしい。ところがモノを入れない。
もう何回もベッドを共にしているのに、波江は「処女」のままだ。ほうっておくと波江のアソコを見ながらオナニーしようとするので、最近は口に含んでイカせるようにしている。それはイヤがらない。頬張るのも大変なモノだが、普通にしてやると普通にイク。やや遅めだが、異常なほどではない。
「どうして、してくれないの」
海の見えるレストランで食事をした時、波江はつい恨み言を言った。
「してるじゃないか」
柴野はやさしい笑顔を向けた。
「そうじゃなくて、最後まで」
柴野は横を向いた。海から吹く風が、柴野の色の薄い髪をなびかせた。知的な、きれいな顔だった。この人が、どうしても入れようとしないなどと、誰が気づくだろう。波江の胸はせつなく痛んだ。
「僕は結婚してるし」
「だから、それはいいって言ってるじゃない」
「先々、波江ちゃんを苦しめることになるだろうと思うと」
入れる入れないで、苦しみに違いなどあろうか。よく考えると、違いがあるような気がしないでもないが、あそこまでしておいてそれはないだろうと思う。
「私は望んでるのに」
潤んだ目を柴野に向ける。思わせぶりに半開きにした唇からウサギみたいな前歯が二本のぞいている。その歯に、口紅がついていることを波江は知らなかった。
最後までしたい。ちゃんと合体したい。いや、してみせる。それには美和子だ。
波江は開けた窓から新月を睨《にら》んだ。
美和子なら、きっといい知恵を与えてくれる。男にかけては凄腕《すごうで》の悪女だ。絶対に、柴野さんを自分のものにしてみせる。神様お願い。
波江は首にかけたダイヤモンドのクロスを握った。それは整形する直前、最後に会った羽田がくれたものだった。
同じ頃、美和子はリビングで立ち話をしていた。
「ミワコ、あなたはあの家具をどう思って!」
フィリピン系二世のビイビイは、何を言うにも語尾に「!」を付ける。そのため美和子はいつも、叱られているような気分に陥る。
「どうって、あれらはトシが中古を安く買いつけてきたものだわ」
「汚らしいと思わない!」
まあ、それは本当だ。時代がかった王朝風の装飾のついたソファとテーブル。ご飯を食べるテーブルと椅子は、昔々ラーメン食堂にあった黒いパイプ脚のついた代物である。
「ソファとテーブルは古くて大き過ぎるし、あのダイニングチェアは何? 私はあんな家具を生まれて初めて見たわ!」
そうは言ってもねえと美和子は口を濁す。自分は三ヶ月でここを離れる身だし、トシオだって新聞のリサイクルの欄を見て電話をし、見に行って、搬入のためにトラックを借りて運んで来たのである。
「こんな汚らしい家具が入るなら、私はここに引っ越さなかったわ!」
彫りの深いフィリピン系の顔は、強い怒りがよく似合う。アメリカ人が、日本人は無表情だというのがわかる気がする。
「こんな劣悪な家具に囲まれるなんて、大失敗よ!」
ビイビイはまるで美和子を責めるように怒鳴った。美和子はいささか腹が立ってきた。
家具は私のせいではないし、この間、前髪を切るからと持っていった鼻毛切り鋏《ばさみ》だってそのままになってる。だいたいあなたは不満をぶつけるばかりで、当番の仕事をちっともやらないじゃないか。
「ゴミを捨てておいてね、ビイビイ。あなたの当番よ」
口を開いた美和子に、ビイビイは驚愕《きようがく》の目を向けた。美和子は頷《うなず》く。
当たり前よ。私にだって口があるのよ。日本的な謙虚、融和の精神でうるさく言わないだけで。
「OK!」
ビイビイはふてくされ、わざと大きな音をたててゴミを捨てに行った。
「なんやってん」
入れ違いにリビングに出てきたのはトシオだ。
「家具が不満らしいのよ。あのコきれいな物が好きだから」
大学の通信教育でインテリアの勉強をしているビイビイの部屋には、直線的でシンプルなデザインの美しい家具が揃っている。
「そんなん言うんやったら、自分で買《こ》うて来たらええやんけ!」
トシオは叫んで、これも大きな足音をたてて自分の部屋に戻って行った。
間もなくビイビイが帰ってきた。
「私が出て行った後、トシが何か言ってたでしょう!」
寄せた眉毛の間に何本か黒い毛が生えている。
「もしあなたがあれらの家具を気に入らないのなら、あなたが買ってくださいと言っていたわ」
「んまあ。これだからジャパニーズは!」
美和子はむっとする。ビイビイは何かと言うと「ジャパニーズはダメ」を口にする。その口調は、アメリカ白人のそれと全く同じだ。両親がフィリピンからアメリカに渡って生まれたビイビイのマインドは、アメリカ人なのである。
美和子の世界は、ほとんど学校と住んでいるコンドミニアムで回っていたが、それでもアメリカ白人から受ける差別というのは、事あるごとに感じていた。車を運転して学校に行く途中、歩いている同性がいれば、知らない人でも乗せてあげるのが学生同士の礼儀だが、白人女を乗せてやって「サンキュー」と言われたためしがない。彼女達は当然のように黙って車を降りる。多賀子とパスタを食べに行ったレストランでは、トイレの脇のひどい席に座らせられた。その一角は黒い目、黒い髪の人間ばかり座っていた。自由に席を選べる学食でも、白人と黒人、白人と東洋人が並んで座っているのを見たことがない。いつでもどこでも、差別はついて回る。アメリカ人は人種差別の国だ。そして差別というのは、怖いことに慣れる。いつの間にか白人にはそうされても仕方がないと感じていた。しかしそれをフィリピン人の顔をしたビイビイにやられるとむかっ腹が立つのだ。
「家具を買うなら三人でシェアしましょ。とびきりシャープで繊細なデザインの新品をね!」
怒鳴り声は、ラーメン食堂の椅子にかけている美和子の頭に容赦なく降り注いだ。
どうしてこうなのだろう。トシオとビイビイはいがみ合っているくせに、直接喧嘩はしない。二人ともいつも美和子に不平不満をぶつけ、そのたびに不愉快な思いをさせられる。
「まったくガキはいやや」
大阪弁が口をついて出、美和子はふっと笑う。
「ねえ、トシ」
ノックしながらドアを開ける。
「大工道具貸して、あんた持ってたでしょ」と言いかけて美和子は息を飲んだ。
最高にマズイ場面であった。
トシオはベッドに横になり、枕元にカラーグラビアを広げ、そうして下半身裸であった。
「ご、ごめん」
慌ててドアを閉め、自分の部屋に戻る。見てしまったトシオの、手に握られたモノの先っぽが目に甦《よみがえ》る。美和子は上気した頬を手で冷やしながら頭を振った。
各部屋に鍵をつける必要があるわ。鍵はたしかスーパーで売っていたから、まずあれを買って来なくては。私の飲み水も切れていたはずだ。
なるべく生活の細々としたことを考えるようにしたが、体は火照っていた。
いかん、あたしもたまってるぅ。
美和子はTシャツの下から手を入れて自分の胸をつかんだ。乳首が痛いほど立っている。
一度立ち上がってドアの外を確かめ、誰もいないことを確認してからベッドに入る。トシオの二の舞にならないように布団をかけ、Gパンのファスナーに手をかけた。冷え性の、年中冷たい指先が亀裂の中に忍び込む。喉《のど》の奥から「キュン」と小さな音が出た。
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[#5字下げ]七
八月の初め、波江はロスにやって来た。「すんごい可愛いコが来るんだから」と言い含めてトシオを車に同乗させ、美和子はサンディエゴ・フリーウェイに乗った。方向音痴なので、地図を見ながら運転、なんてことはできないのだ。「日曜やんけ、ここはキリシタンの国よ、サンデイは昼まで寝るためにあるんちゃうんけ」とぶうたれるトシオに、ハンバーガーとコークを買い与えて黙らせ、どうにか空港まで行き着いた。
「これがウワサのトシよ」
「お会いしたかったんですよ」
波江の整形顔は、心なしか落ち着いてきた気がする。二重の線が、以前より上目蓋《うわまぶた》のきわに近くなり、鼻は何か入っている感じは残っているものの、入れたプロテーゼがなじんできた感じだ。にっこりと手を差し出す波江に、トシオははにかみ、半ズボンの尻で手をぬぐってから握手した。
来る時は助手席に座っていたのに、トシオはいそいそと波江と並んで後部席に座り、二人でアメリカ人の悪口に花を咲かせる。
「ねえトシ、ピコ(Pico blvd./道の名前)よ。右だよね」
車で道を間違えることが恐怖でハラハラしている美和子に、トシオは、
「頭悪い姉ちゃんやなあ、さっき来たやんけ」
と横柄この上ない。そのくせ、「ほな、波江はこの後ジャポネに帰って就職活動かいな」と、話しかける口調はいやに優しげであった。
部屋に着くと、ビイビイが波江を迎えた。
「Nice to see you(よく来たわね)」
晴れやかな笑みは、美和子が入居した初日以来、見たことのないものだ。
少し疲れたから昼寝させて、という波江を自分のベッドに寝かせ、美和子はLDKでカレーの仕込みをした。ビイビイが部屋から出てきた。げんこつよりも小さい林檎《りんご》をむきながら、囁《ささや》く。
「Toshi likes Namie, maybe(トシは多分、波江が好きよ)」
美和子はブーケガルニのセロリやパセリの茎を糸で縛る手を止めた。
それは何となく感じていたことで、波江が来る前から抱いていたイヤな予感でもある。
二十三歳の若者のくせに、トシオはひどく古臭い、一世代上のおやじのような「女かくあるべし」を持っている。トシオのそれは幼稚な男の虚勢に加えて、関西の価値観がベースにあるように美和子は感じる。そしてそんなトシオの女性観に、波江はうってつけに思われた。細い体、頼りなく心細気な表情。本当は滅法タフなくせに、ぱっと見の波江はいかにも弱々しい。
「I think so, too(私もそう思うわ)」
つまらなそうに返事しながら、内心は穏やかでない。ジャニスをとられ、柴野をさらっていかれた時の感覚が体中に広がる。
何を考えてるんだろ、私ってば。
美和子はサイコロに切った牛肉に、黒|胡椒《こしよう》を挽《ひ》いてふりかけた。
トシが波江を好きだって、別にいいじゃない。私がトシを好きなわけじゃなし。
夜中に目を覚ましたらトシオが枕元に立っていた、ということが二度続いた後、美和子は部屋に鍵を取り付けた。大工道具はトシオが学校に行ってる間に、彼の部屋から失敬した。日頃、部屋に傷をつけたら出る時に敷金から引かれると、画鋲《がびよう》一本うつのにもうるさいトシオだが、勝手に鍵を付けたことに関しては何も言わなかった。
トシなんて、私が相手にする男じゃないよ。
肉に胡椒をなじませた後、アメリカの牛肉が固くて水分が少ないことを思い出し、肉片をフォークで突き刺した。
年が若く、何かと経験不足なのは仕方のないことだが、人間として大きく成長してゆける可能性を持っているかどうかは、やはり人による。そしてそれは、ハタチも過ぎていればおおよそわかる。男は特にわかりやすい。学生という身分に戻り、年下の人間にばかり囲まれるようになって、人を見る目が肥えたように感じる。伸びる可能性を持っているかどうか。美和子はそれを「ステージ」と呼んでいる。それは先を読んで功利的に立ち回る頭の良さと、時に損を承知で他人に何かしてやるスカッとした人の好さや爽《さわ》やかさとのバランスである。
ボストンで会った加藤文太などは、家庭の経済事情や、下から慶應というバックグラウンドは極上だが、「ステージ」が低い。父親が公立中学の教師だというトシオは、文太ほど派手な舞台に立ってはいないから、失敗しても地味なものであろうけれど、こちらも「ステージ」が高いとはちょっと言えない。一人っ子のトシオは親に甘やかされ過ぎ、我儘《わがまま》で、口ばかり達者で姑息《こそく》に人を操ろうとする。
姑息なのよ。小さいのよ。
玉葱《たまねぎ》を切りながら、美和子はふと、あの日見てしまったトシオの姿を思い出した。色は淡いが、右手から余って顔を出していたソレは、美和子が知っている年上の男達のどれよりも長い――ように見えた。
いかん。あんなのと寝てしまったら、私の格が落ちる。「ステージ」が低くなる。
オリーブオイルで肉を炒《いた》め、玉葱と人参を加えて大量の水を加える。煮立ったところですべてを寸胴《ずんどう》にうつし入れて、ブーケガルニと切れ目を入れた月桂樹の葉っぱを浮かべた。主婦のいる温かい家庭の匂いが立ちのぼった。
「なんやええ香りやな」
トシオが部屋から出てきた。
「俺、腹へってん。今ちょっと食べられへんかなあ」
鍋を覗き込む。
「無理ね。こっちの固い牛肉が柔らかく煮えるのは、少なくとも二時間後だよ。夕食は一緒に食べよ」
素っ気なく言うと、ああ腹へった待ちきれんと冷蔵庫から明太子を取り出す。
「飯はあったよな、昨日炊いたもんな」
米はビイビイと三人で金を出し合って買い、最後の一膳を食べた者が炊いておくことにしていた。新しいご飯を炊くのを嫌がって、ほんの一口残しておく男であった。そんなところも、美和子が「ステージ」の低さを感じる所以である。トシオがご飯を茶碗によそおうとしていると、いつ起きてきたのか波江が立っていた。
「明太子オムレツ作ってあげようか」
寝ぼけ顔の波江が言う。
「え? ホンマ?」
いかにも嬉しそうなトシオ。化粧くずれした顔で冷蔵庫から卵を取り出す波江を、美和子は制した。
「その卵、ビイビイのよ。ちゃんとことわって、あとで買って返さないと大変よ。私が文句言われるんだから。それに波江、飛行機で来て疲れてるんだから、気ぃつかって働かなくていいよ」
声は予定よりも厳しくサウンドし、波江とトシオは顔を見合わせた。何だか自分が、ガミガミおばさんになってしまった気分である。仕方なく明太子でご飯を食べようとするトシオを尻目に、美和子は鍋の火を弱め「波江、行こ」と自室に波江を誘った。
夕刻、屋上にカレーを持って行き、まだ昼の明るさを保った町を一望しながら皆で食べた。その翌日は屋上のジャグジーに脚だけ浸《つ》けて、二人であーでもないこーでもないと話した。屋上には、日本の家庭の風呂桶ほどのジャグジーが泡を吹いている。
滞在中、波江はユニバーサル・スタジオ、ディズニーランドといった観光名所めぐりをいっさい拒否した。唯一行ったのはロデオドライブのブランドショップで、あとはただひたすら、美和子と話し込んでいたのである。波江が来ても学校は休まずに行こうと思っていたが、話し相手がやって来た嬉しさに、三日間休んでしまった美和子だった。
細い体から、目一杯の愛想をふりまいて、波江は帰って行った。たった二泊三日だったけれど、仲が良いとはいえない二十代の三人に、波江はあったかいものを残してくれた。
コンドミニアムの屋上の、白いプラスチックの椅子に腰掛け、美和子は波江のいた時間を懐かしんでいた。
楽しかったなあ。息抜きも必要ってことよ。
勤勉な美和子は成績は良い方だったが、やはり聞き取りと会話の力が弱かった。日常生活で、どっぷり日本語に漬かっているのだから無理もない。といって、LA滞在期間の半分を過ぎて、今さら引っ越すのは面倒臭さが先に立った。
「おう、ここにおったんか」
トシオがやって来た。美和子の後ろに立ち、その両肩にひとつずつ手を置いた。二人の目の前に、だだっ広いLAの町が広がっていた。青い空と低い家並み。ずうっと遠くに見える高層ビルは激安ガソリンのARCOビル、それからセンチュリー・シティーという巨大なショッピング・モールだ。
「波江がおらんようになって、寂しいやろ。ええコやったもんなあ」
「うん。寂しいよ。ボストンにいた頃は、とんでもない足手まといだったけど」
下から突かれたように涙がこぼれた。
「寂しいか。可哀想に」
後方から腕を伸ばして、美和子の前で交差させる。細いわりに肩、肘《ひじ》、手首と関節のしっかりした腕は、すべすべして、日に焼けた匂いがした。
「大丈夫よ」
さり気なくトシオの腕をほどき、涙をぬぐって顔を上げる。
「ね、トシさ、波江のこと好きでしょ」
トシオの表情をうかがう。
「好っきやないよ、別に」
「嘘つけ。ああいう細くて頼りなくて弱々しい女のコ、大好きのくせに」
「好きやないて、あんなコ」
トシオは再び美和子の前に腕を回した。あんなコ、の一言が気に入って、美和子は腕を回しておくことを許した。
「細いは細いが、痩《や》せ過ぎやで。脚は短いワ胴は長いワ、ひとっつも色気ちゅーもんないやん。顔も大したことないしの」
もっと言え、もっと言え。
トシオは後ろから、美和子の頬に顔を寄せて囁《ささや》いた。
「ミワの方が、ずっと魅力的やで。きれいやし、色っぽいし」
ここでにやけては女失格、さらりと流すのが大人の女というものだ。
「一応、聞いとくよ」
「ほんまやで。こないだ一緒にトラックで家具運んで来た俺の友達おったやろ。あいつもエライ別嬪《べつぴん》の姉ちゃんと住んどるんやなあ、てうらやましがっとった」
カレッジの友人であるその青年の前で、いやによそよそしい態度をとったトシオであった。まるで「この姉ちゃんと俺は、関係ないで。仲良うないで」と言わんばかりに。
「俺も、そう思うな。ミワはきれいや。可愛い」
耳元で囁くトシオの頭が前に回り、美和子の唇をとらえた。トシオの舌が入ってくる。喉《のど》のところで交差していた腕がほどかれ、小さな二つの手が、美和子のTシャツの二つのふくらみにかぶさる。うふーんと息が漏れる。そっとあてられた手にやがて力がこもり、人差し指と親指が、美和子の乳首をつまんだ。
「ミワの方が、波江よりずっと美人や。波江なんかより、ずっと好きや」
自分の内側が潤ってくるのを美和子は感じる。トシオの指はTシャツとブラジャーごしに、二つの乳首を器用にくりくりと回す。あはん、といやらしい自分の声が聞こえ、美和子はトシオの手と唇を引き剥《は》がす。
「俺の部屋に、行こか」
美和子は潤んだ目でトシオを見た。
驚いた。最近のコってみんなああなわけ?
初めて寝た年下の男の体に、美和子は驚いた。トシオは一六四センチの美和子よりわずかに背が低く、痩せているのでいっそう小さく見える。それが服を脱いだら、どうだろう。屹立《きつりつ》したモノはほとんど臍《へそ》まで届きそうであった。
「すんごいおっきいの」
その科白《せりふ》を、美和子は波江からも聞いた。柴野のことであった。もっとも柴野は美和子よりも三歳年上の二十九歳である。しかし、これまで美和子の恋人は十歳近く離れているのが常で、日本においてきた小田島に至っては二十歳離れている。
「これくらい?」
美和子は部屋にあった円筒形の化粧水の瓶を手にとって訊《き》いた。
「ううん。そんなもんじゃない。もっと大きい」
「じゃあ、これぐらい?」
日本から持って来た折りたたみ傘を手に持つ。バッグに入るコンパクトなものでなく、昔からある長いやつである。
「長さはそんなもん。で、もうひとまわり太い。指が周らないもん」
「へええー、あの人がねえ」
背が高く手足が長くさらさら髪の、いかにもインテリ風の柴野の姿を思い浮かべる。そう言われてみれば、何となく精子の匂いが身辺に漂っているような男だった。
「そんなのが相手で、波江大丈夫なの」
痩せっぽちの波江は骨盤も極端に狭い。ウエストは細いが、胸や腰はちゃんと張って肉がついている美和子とは対照的だ。それほど巨大なものを受け入れるとしたら、さぞかし苦痛であろう。
「それがね、どうしても入れないの」
「え?」
「キスだの乳|揉《も》みだのはするけど、挿入しないの」
「なんで」
さっきまで柴野がどんなに自分にやさしくしてくれるかをしつこいほど語っていた波江は、敗北したようにうつむいた。
「実は柴野さん、結婚してるの」
「そうだったの。じゃあ不倫なんだ。日本に残してきた女って、奥さんだったの」
「そう。でも私、それでもいいから入れてくれって言ってるのにダメなの。直前までやるくせに最後のそれだけはしないの」
へええ、と相槌《あいづち》をうつ。
ほれごらん、あんたにばかりそうそう僥倖《ぎようこう》が降ってくるもんですか。
美和子はボストンで波江がどれほど自分の足を引っ張ってくれたかを一瞬で全部なぞる。これで波江が柴野に熱愛され、幸せを噛《か》み締めているとしたら、世の中どこかおかしい。
「でも、指は入れるのよ」
言い訳するように波江はつけ加え、美和子は思わず吹き出した。
「とんでもない傘男ね」
「ホント。あそこまでして入れないなんてさ。失礼しちゃうよ。ひどいよ。ねえ美和子」
波江は真顔で向き直った。
「どうしたら入れてくれる? 教えて美和子」
真剣な眼差しだった。柴野と関わってからというもの、覚醒《かくせい》している時間の九割はそのことばかり考えてきたのだ。アレをアソコに入れて欲しい――切実な思いだった。
どうしようかなあ。
美和子の頭に迷いが生まれる。ここで波江に知恵をつけてあげて、何か得することがあるだろうか。ボストンではもちろん、ロスでも波江がいると損ばかりしているような気がする。一緒にいると、自分が持っている知恵やエネルギーや運など、貴重なものがどんどん、水が低きに流れるように波江の方へ吸われていくのだ。
「こんなこと教えてくれるの、美和子しかいない。美和子はなんだって、私より知っているし、できる。お願い、教えて美和子。私、男の人とのことでいい目にあったことがないの。いつも惚《ほ》れて尽くして、馬鹿にされて利用されてきた。だから……だから整形したんだもん」
まっすぐな目に涙がたまっていた。
その目で見つめられて、我慢して絞っていた心の紐《ひも》は簡単にほどけてしまう。知恵をつけてあげることをためらった自分が、みみっちい人間に思えた。
このコが柴野に愛されたからといって、自分に損はないじゃないか。
人にはできるだけよくしてあげなさい。それは必ず自分の幸せにつながるんだから。
死んだ母親の声が甦《よみがえ》ってきた。美和子はゆっくりと話し出した。
「あんたがせがんで入れてもらうことないよ、波江。彼だって、したいに決まってるんだから。そこまでやっといて挿入しないのは、もしもに備えてるんでしょ。もしも妻にバレた時、『でも入れてない』と逃げ切れるように。そこら辺の意地汚さというか、病的な小心者というか、アホらしさが私は気に入らないけど、波江は好きなんでしょうから、まあいいわ。あのね、男は誰だって自分で苦労して、やっと手に入れた女が好きなのよ。簡単にさせてくれて、奉仕しなくても自分の方を向いてくれている女を、誰が大事にしますかって。離れていかない、ううん、離れていけない人間を大切にするのは、案外難しいことなのよ。犬の仔だって、よそにやるときはお金を取れと言うわ。只《ただ》でもらった仔犬は大事にされないものだから。わかる気がしない? 高いお金を出して買ったものって、大事にするでしょう。さんざん手こずらせて、気のあるようなないようなふりをして、いっぱいお金を使ってもらって、ついにこの女を手に入れた、って感動を男から奪ってはダメ。あのジャクリーン・ケネディ・オナシスだって、男の前ではできるだけツンツンしていなさい、と父親から躾《しつ》けられたらしいよ」
「でも」
波江は気弱に言いつのる。
「美和子がそういうことをやっても、男はちゃんとついてきて振り回されてくれるかもしれないけど、私がそんなことをやったら、男は簡単に『あっそ』って、離れていっちゃうよ。今まで、私から別れようって言って、男がイヤだって言ったことないもん。みんな『いいよ、じゃあな』って、せいせいしたように離れていった。好きで好きでたまらない柴野さんに、とてもそんなことできないよ」
「違う!」
美和子はその言い分を却下する。
「それはね、波江。あんたが、いつかこの人は自分から離れちゃうんじゃないかっていつもいつも恐れているからよ。いつもいつも心配してるってことは、それを願っているのと同じなのよ」
「じゃあ、美和子は心配じゃない? 好きな人がせっかく自分に寄って来て、チョッカイ出してるのに、それをかわして逃げるふりなんかするわけでしょ。これで離れて行っちゃうんじゃないかって心配にならない?」
「誰だって心配よ。それ来たぜって待ってましたとばかりに合体したいよ。でも、私なら我慢する。それでどっか行っちゃう男は、たとえ機を逃さずセックスしても、すぐ離れちゃうよ。離すまいとしたら、女の方が相当無理することになる。尽くして貢いで、それでも彼の心は手に入らない。挙句の果てにやっぱりどっか行かれちゃうんだよね」
波江は顔を赤らめた。それは日本にいた頃、自分がやっていたことそのままである。
「でも美和子、それで後悔したこと、ない? チャンスだったのに、気のないふりして去っていかれて」
美和子は上を向き、過去の男達を思い起こす。
「AB型の男が比較的そうかな。私、O型だから。振り回してるはずが、ホントにどっか行っちゃったりしてさ」
波江は大きな笑い声を上げた。
「あはは、おっかしいの美和子って。こんなにきれいなのに、真面目な顔して面白いこと言う。言葉に独特のセンスがあるよね」
「でもさ、私、あんまり男に執着しないタチなんだよね。あれがダメならこれで。ついでに言うとセックスにも、あんまり執着がない。イヤな相手とは絶対に寝たくないけど、なんかさ、寝る前に頭使って駆け引きしまくると、燃焼しきっちゃって、寝る頃には好きな男なんだか、金ひっぱるために好きなふりしてる男なんだか、自分でもわかんなくなってるんだよね」
「え? 金ひっぱるって」
しまったと美和子は口を押さえた。ついボロを出してしまった。しかし、もういいやと諦める。過去のことだし、波江はそれを共通の知人に告げ口したりするタマではない。
「私ね、水商売してたんだ。銀座のホステス。ほんの一年ぐらいだけどね、この留学の費用貯めるために。でも、その前は普通のOLだったよ。これは本当」
「そうなんだあ。それで男ごころに詳しいんだ」
波江は納得した風に頷《うなず》いた。
「ね、美和子。じゃあすぐに寝ちゃったら、いけないの」
「当ったり前よ。あのさあ」
美和子はそこで大きく息をついた。
「男のセックスって、最初の時が一番感動が大きいんだよね」
それは真佐奈に勧められて読んだ、渡辺淳一のエッセイに書かれてあったことである。
「女と違って、男のセックスはその後深まることはあんまりない。だからセックスする前よりも思いが強くなることはまずない。セックスする前に七好きならば、七を頂点に段々落ちて行く。セックスする前が五ならば頂点は五。寝る前しか男のボルテージを上げることはできないのよ。女って、そうじゃないでしょ」
「うん。やったら執着するし、セックスが良ければもっと好きになる。メタメタになって尽くしたくなって、完全に自分のものにしたくなる」
果たして自分はそこまで男に執着したことがあっただろうかと疑問がよぎるが、先を続ける。
「だから、寝る前に頭を使って、手を尽くして男の愛情を深めておくのは、女の自衛手段なのよ」
「そうなんだ」
「そうだよ。気の利いた女なら、皆やってること」
「そうだったんだあ」
従順な生徒であった。自分がものを教えることが好きだということを、美和子は初めて知った。
しかし、トシオとは何の計算もなく、寝てしまった。これも初めての経験であった。オミズをしていたとは言っても、パンツの紐はそこいらの姉ちゃんよりよほど固かったし、OLの頃だって、いつも計算していた。この男はちゃんと自分を愛してくれるかどうか。この男と関係を持ったら自分にどんな利益があるか。関係を持った後、この男が自分を手ひどく傷つけることはないか。そして、自分はどうあれ、男が結婚を望んでいるかどうか。
体を開く前にいくつもの篩《ふるい》にかけ、それにパスした男にのみ抱く権利を与えた。もちろん、早く結ばれてしまいたいという急《せ》くような気持ちはあったが、それを我慢するのは大した苦労ではなかった。
少なくとも寝た後で相手に執着したり嫉妬《しつと》したりする気持ちを抑えるよりは、うんと易しいことだ。ずっとそう思って生きてきた。
それが、何の計算もなくやってしまった。性欲。体を開かせたものは単純にそれであった。欲望だ、本能だ、いいも悪いもない、と思いたかったが、正直なところかなり良かった。
「ミワのここ、何て言うの。言ってごらん」
「もうビシャビシャだよ」
「開いて見せて。あ、ミワ左の方が長い。ほら」
大して経験がありそうでもないくせに、トシオは巧かった。言葉がいやらしいし、指の力がちゃんと抜けていて、撫《な》でまわすように触られると思わず声が漏れた。そしてそのモノ。先日例のシーンを目撃した時から知ってはいたが、美和子はそれほど長く見事に反ったモノにお目にかかったことがない。入ってきた時は、目がかすみ気が遠くなった。
「ああ、トシ、気持ちいい」
演技でなく、そういうことを口にしたことはない。
「奥が、奥がいいの」
堪えきれずに漏れる声と息。自分のものとは俄《にわ》かに信じがたいほどだ。
いつの間にか眠りに落ち、朝、ネグリジェでこっそりトシオの部屋から出る。さっきビイビイが出て行く音を聞いていたから、もういないことはわかっているのだが、どこか後ろめたい。キッチンを通って自室の前に立ち、美和子は愕然《がくぜん》とした。
自分の部屋のドアが、小さく開いていた。以前から、風が吹いたり、誰かが強くドアを閉めるとはずみで開いてしまうことがあった。
知られた。
動悸《どうき》がした。トシオとこんな関係になるまで、トシオとビイビイの間で中立を保とうとしながら、どちらかと言えばビイビイ寄りで、一緒に彼の悪口など言い合っていた。おかげで「Denth(グズ、のろま)」などという俗語を知った。日本に、うんと年上の恋人がいることも話していた。
マズイよなあ。美和子は憂鬱《ゆううつ》になった。しかし、知られたからどうだと言うのだ。段々居直る気持ちになってくる。ビイビイには自分を管理する権利も義務もない。どうせあと二ヶ月で自分はここをおさらばする。小田島にだって、知られなければどうってことはない、と思う。そしてそれは知れるはずのないことだ。
「ねえトシ、ハムエッグにする? ただの目玉焼きにする?」
顔を洗い、フライパンを温める頃には鼻歌が出た。
「それよりミワ、来て」
起きたばかりのトシオに手を引っ張られ、さっきまで寝ていたベッドに再び押し倒される。
波江が来なかったら、トシと寝ることはなかっただろうなと思う。
それがいいことなのか悪いことなのか、今はわからない。考えたくない。しかし、部屋に流れている日本の歌謡曲が耳に入り、小田島の顔が甦《よみがえ》った。いつも後ろから見守ってくれる小田島。
罪悪感が体に広がる。けれど、もっと強い感覚が襲ってきて思考は止まってしまう。あ、あ、と息が荒くなり、全身の毛穴という毛穴がすべて快感を取りこむ神経と化している感覚に酔いしれる。しかし頭の片隅にはずっと小田島が消えず、美和子の薄く開いた目に、彼ともう一歩近づくきっかけとなったある出来事が、夜の夢のように見えていた。
真佐奈が四度目の「やってごらん」を言い渡したのは、残暑の頃だった。
真佐奈の部屋にヒグラシの鳴き声が聞こえ、自分は「港区にも蝉が鳴くんですね」と言ったはずだ。水商売を始めてから、かれこれ半年以上過ぎていた。
「今度のはちょっと、大きい勝負よ」
金づるの地主に買ってもらった金の扇子で、真佐奈は顔を煽《あお》いだ。
「うまくいけば、あんたの留学資金はこれで貯まってしまう。今までの臨時収入は百二十万だけでしょ」
そのうち三十万ほどは、なんだかんだで真佐奈に吸い取られていた。
「目標は五百万だから、あと四百万ね」
「そんな大金、無傷でとれるでしょうか」
「とれるよ。美輪、あんた引っ越しな」
なるほど、それは前回よりも大きな仕事だ。一流のホステスが住むマンションならば家賃二十五万は固い。真佐奈のマンションがそれぐらいだ。最初に不動産屋に払う金は港区ならば八ヶ月分、つまり二百万ほどだ。
「大きな嘘だからね、バレたら大変よ。今のアパートにそのまま住んでいたら絶対にダメ。近くにエリーが住んでるでしょ」
エリーは『雛乃』の「売上げ」ホステスである。近所に住んでいるのは互いに知っていて、たまにスーパーなどで見かけることがあった。
本当に引っ越すとしたら、四百万貯めるには、三人から取る必要がある。
大丈夫だろうか。美和子は眉を寄せ、頭を揺らした。四十万とるために、その後熱を出し、何週間も体の具合が悪かった。二百万もの大金をとるレースを三人とやったら、本当に病気になってしまいそうだ。
「三人やってもいいけどさ」
正直に体の不安を訴えると、真佐奈は言い出した。
「二人でも、何とかなるよ。うちの裏にさ、丁度いい物件があるのよ」
真佐奈は不動産の、物件説明書を差し出した。家賃八万円の木造アパートであった。どういうことだろう。これでは今住んでいる祐天寺のアパートと大して変わらない。よく見ると、敷金なし礼金〇・五ヶ月とある。さらに説明書を見て行くと、一番下の部分に「半年限定」とあった。
「半年後には壊して鉄筋のマンションになるのよ。それを納得ずくで住んでくれる人ってことね」
真佐奈は前屈みになってひと膝乗り出した。黒いサマーニットのV首に、窮屈に寄せられた二つのふくらみの筋が入った。
「そこに引っ越しなさいな。タクシーで送ってもらう時は、うちの前で下りればいいのよ。男を見送ってから、裏へ行けばいい」
真佐奈のマンションは凹型の建物で、中空きの部分から、突っ切って裏に抜けることができる。なんとまあ、真佐奈はすごいことを思いつくのだろう。
「男にとっても小さいお金じゃないからね、今度はこの間みたいにはいかないよ。男はやりたがるでしょう。でも大丈夫。お金を取ったら、ちゃんとお招きして食事をふるまうの。本当にあなた様のおかげですって、涙ためてさ。その前にどうしても引っ越ししなきゃいけないって風に持ってくのよ。理由はあんたが考えな。お招きするときは、この部屋を提供するわ。あんたがやられないように、私も最大限知恵を貸す。それでさ」
真佐奈は早口になり、目が妖《あや》しく光った。
「家賃は三十ってことにする。八ヶ月分で二百四十万ずつ二人からとったらさ、四百八十でしょ。あんたが必要なのは四百。八十をあたしに頂戴《ちようだい》」
こういうことを、これ以上ないほど優しい笑顔で言える女は、どういう育ち方をしてきたのだろうか。呆《あき》れながら、一度伏せた目を開き、美和子は顔を上げた。
「わかりました。作家の小田島先生と、洋服屋さんの浅丘さんと、二人やってみます。成功した時点でお礼は必ず」
犯罪者の心理というのはこんなものだろうか、と美和子は思う。最初に軽いものに成功すると、より困難なものに挑みたくなるのである。小田島も浅丘も、自分にベタ惚れである。四十万を引き出してから、いっそう執着はしているが、二人ともキザのええかっこしいなので、「やろうよ」とは言い出せない。あんなハシタ金で君を縛ろうなど、思ってもいないという表ヅラを保っていたし、出した金への執着によっていっそう君から目が離せなくなったよ、とは決して白状しないダンディな男達であった。
どうしても引っ越したい理由。それを美和子は、何者かにストーキングされていることにした。
「もうダメ。この間は玄関の前に猫の死骸《しがい》が捨てられてたわ。夜、帰って明かりを点けると決まって電話が鳴るの。深夜にドアがノックされたり。もう私、おかしくなりそう」
美和子は小田島に強く抱きついた。週末のお台場。日の落ちかけた海辺で二人は抱きあった。そうしながらも小田島が、愛車をホテル日航の地下に入れたことがちょっと気にかかる。
「警察にも届けたけど、何もしてくれない。襲いかかってきたり、部屋に押し入られたら一一〇番して下さいって言うのよ。警察は私がレイプされるまで、何もしてくれないんだわ」
恐怖を訴えていると、本当に体が震えて泣けてきた。
「夜も眠れないし、いつも見張られてる気がして、窓も開けられないの。怖い、怖いの。私、殺されるかもしれない」
「美輪」
小田島は美和子の背中を撫で、髪を撫《な》で、キスをした。
「引っ越すか」
「だって私、そんなお金ないもの。引っ越すとなったら二百万は軽くかかるわ。今住んでるところはOLの頃からのところだけど、店からも、銀座の女らしいところへ引っ越せって言われてるの。木造アパートなんて店の格に関わるって。そんなお金、とっても無理だわ」
小田島の胸の中でそれだけ言いたて、数を数えて返事を待つ。
――1、2、3、4――
沈黙が流れた。
「何とかしよう」
ヤッタ! 美和子は驚いた顔で小田島を見上げる。
「何とか、って? え、ダメよ。小田島さんにそんな迷惑はかけられない。引っ越しはしたいけど、ダメよ。これは私の問題だもの。自分で解決しなくちゃいけない」
小田島はこちらを見下ろし、静かに笑った。
「どうして美輪は、そんなに何でも自分で背負い込もうとするんだ」
「だって」
恥じらったように下を向く。
「私は公務員の娘だもん」
小田島はあはは、と素直な笑い声を上げた。
「面白いこと言うなあ。美輪、僕が書く女はリアリティーがないとよく言われるんだ。男が都合のいい、理想の女を書いてるってね。そうかもしれない。僕は別居してる妻とも、あまり深く関わったとは思えないからね。だからこうしよう。僕が女を書く資料を提供してくれ。引っ越しの頭金はその報酬の前払いだ。普通のOLが何を考えているのか、リアルに教えて欲しい」
「普通の女が考えてることって、とっても下品なことよ。小田島さんがブッ飛んじゃうようなね」
「いいんだ。書くか書かないかは、聞いた後で決める。ただ現実を知りたい」
「でもぉ。私の口から下品なことがいっぱい出てきたら、小田島さん、私のこと軽蔑《けいべつ》しない? 嫌いにならない?」
「ならないよ。僕はそのままの美輪が全部好きだからね」
もう一度きつく抱きつきながら、この流れでいくとヤバイなあと考える。ホテルに車を取りに戻り、「今夜、いいだろう」なんて言われたら、かなり苦しい。アレだという言い訳も嘘っぽいし。その時、美和子の中を、するりと下りてくる生き物がいた。
「あ」
「どうしたの」
「ウソ。何で今日なの? 予定日じゃないのに」
白いカプリ・パンツのお尻の部分が、じんわりと暖かくなった。
「ウッソー。こんな醜態って……」
美和子はお尻の部分を手で隠す。予定日まであと二週間もあるので、何の準備もしていない。ズボンの下に穿《は》いているのは、パンティー・ラインが透けないためのTバックだ。
「小田島さん、これ小説に書く?」
「さあ、どうしようかなあ」
必死に後ろを隠す美和子を横目で見ながら、小田島は笑っている。
「しかしそれじゃ、困るだろう」
美和子はバッグを後ろに当てて、小田島と共にまずコンビニへ行った。生理用品を買い、トイレを借りて緊急手当てをする。白いズボンに小さく赤いシミができていた。それからホテルのブティックで、黒い麻のスカートを買った。これは小田島が払ってくれた。そしてそのまま、泊まった。美和子は無傷で朝を迎えたのだった。
自分の体を、これほど気味悪く感じたことはない。どういうメカニズムなのか、もう一人の男、浅丘に同じことを申し出た時も、体は同じ反応を示したのである。
こんなことって。
信じられない思いであった。二度とも、出血は一日で止まった。不思議だった。
二百四十万ずつを受け取った後はやはりぐったりと疲れ、微熱が続いた。しかし寝てはいられない。仕事が残っていた。
真佐奈の部屋に、男を一人ずつ招待した。引っ越ししたてに見せるため、家具の裏まで念入りに掃除をし、壁に貼られたソンブレロや風呂敷は取り払い、新しいカーテンを買って下げた。ゴミ箱や台所の布巾、ザルなども新しいものを買った。
「ありがとうございました」
料理の本を見て作った料理を並べ、男に不動産契約書を見せる。それは真佐奈が、自分の契約書から名前と金額を修正液で消して、カラーコピーし、新しく書き入れたものだ。やり慣れているのだろう、真佐奈のトリックは念が入り、無駄がなかった。
食事を済ませ、お茶を淹《い》れるとチャイムが鳴った。真佐奈であった。
「どお、落ち着いた? 美輪ちゃん、あらお客様?」
真佐奈は引っ越し祝いの掛け時計を差し出した。それは真佐奈が「これがいい」というのを、あらかじめ買って渡しておいたものだ。
「まあ、美輪がいつもお世話になっております」
二児の母の真佐奈は、さすがに貫禄《かんろく》がある。こうして見ると立派な保護者である。
「私と美輪とは従姉妹同士なんですよ。どうしても芝居をやりたいって、泣きついてきましてね、私が社長に口をきいてあげて『雛乃』に勤め始めたんですよ。劇団の方も頑張ってはいるんですけど、芽が出るかどうかねえ。あの世界はお金ばかりかかって、美輪も大変ですよ。ついこの間も公演のチケット三百枚買わされて、あのコ先月はお給料全部つぎ込んだんじゃないかしら。だけどその公演、端役で出たら、有名プロダクションのスカウトの目に留まって、うちに来ないかって言われてるようですよ。ねえ美輪、あの話どうしたの」
台所でお茶を淹れている美和子に声をかける。
「一応話は聞きに行ったんだけど、所属すると劇団辞めなきゃならないの。せっかく入って一から芝居の勉強してるとこだから、どうしようかと思って」
やっぱり真佐奈はスゴイと思う。保護者然としながら、前回の嘘の上塗りまでしてくれる。おまけに恋人が芸能関係だけあって、その世界に詳しいから嘘に不自然なところがない。男がいい人≠フまま帰って行った後、美和子は箪笥《たんす》の引き出しに仕舞っておいた封筒を手に、すり膝で真佐奈に近寄った。
「真佐奈さん、本当にありがとうございました」
真佐奈は指に唾《つば》をつけ、札を数える。それから険しい顔で美和子を見た。
「八十って言ったら、色つけて百よこすものよ」
晩夏の蚊が、羽音をたてて二人の間を飛んでいった。
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夜間飛行のユナイテッド・エアの中で、美和子はこの半年余りの間にあったさまざまなことを思い出している。
ボストンに初めて降り立った日から、トシオに見送られてLA国際空港のゲートに入るまで、学生という身分に戻り、他愛のないことで悩んだり怒ったりした。過ぎてしまった時間は甘かった。日本に着いたら、また小田島との生活が始まる。そうして何よりも、留学を思い立った当初の目的、翻訳家に向かって動かなければならない。その扉がどこにあり、どうやってアプローチするものなのか皆目わからないけれど、きっとできる。美和子は機内食をほんの少し口に入れ、睡眠導入剤を飲んで眠りについた。
成田の出迎えゲートから、特大スーツケースをひきずって出る。別のゲートの前で待つ小田島の姿を、美和子は出迎え人を映し出すモニター画面で見つけた。後ろ姿の小田島は、前より少し太ったようだ。今か今かと前屈みになり、背中がずんぐりと丸くなっている。美和子はうっすらと嫌悪感をおぼえた。
後ろからぽんと肩をたたく。
「あれ、どこから出てきたの」
やはり小田島は以前より太った。肥満体というほどではないが、頬が飴玉《あめだま》をくわえたようにふっくらとし、肌から脂が分泌されて光っている。少し毛穴も開いたようだ。
「あっち」
無愛想に返事をし、顎《あご》で向こうを指す。
「疲れただろう。ロスに行って最初に一通きたきり全然手紙が来ないから、心配してたんだよ」
「電話はしたじゃないの」
小田島がスーツケースを引き受け、空港の外に出る。見知った小田島のジャガーが停まっていた。首都高を揺られながら眺める、よその国のような東京。何もかも小作りで、箱庭みたいだ。
「どうだった、向こうは。夏の間に休暇をとって行こうかと思ってたんだけど、美和子がもう一度青春してるとこを邪魔するのも野暮だと思ったんだ。美和子、少し太ったんじゃないか、あっちの食べ物は何でも脂肪分たっぷりだからなあ」
饒舌《じようぜつ》な小田島と対照的に、美和子は無口で不機嫌だった。小田島の言うことひとつひとつがなぜだかカンに障る。
「ごめん、眠っていい? 飛行機の中で薬飲んで眠ってきたんだけど、中途半端なところで目が覚めちゃって、まだ薬効いてるみたいなんだ。ちょっと気分が悪くて」
助手席の美和子は間もなく眠りにおちた。ジャガーの向かう先は、白金にある小田島のマンションである。八百万の売掛け金を回収し、銀座を退いた後、美和子は乞われるままに小田島のマンションに移り住んだ。渡米まで二ヶ月足らずの気ぜわしい蜜月だったが、小田島は美和子が日本を発つ間際には結婚を口にしたりした。しかし、そうは言っても小田島には別れて住む妻と娘がいるし、美和子の方はアメリカが目の前に迫っていた。だから、さまざまな思いを込めて、美和子は答えたのだった。そうね、と。
「着いたよ、美和子起きなさい」
子供のようにぐずりながらエレベーターに乗り、部屋に上がる。以前と同じ、アクリル・ペインティングが飾られたリビングだ。おみやげを広げ、寿司をとってもらいソファに寝そべって、懐かしい日本語のテレビに見入っていた時だった。
「美和子」
小田島の顔が近づいてきた。
ああ、いや。いやだ。泣きたいほどイヤだと思いながら、目を閉じて唇を受ける。舌が入ってくる前に、美和子は顔を離した。
「ごめん、疲れてて」
気まずい沈黙だった。小田島は先に寝室に消え、彼が眠ってしまうのを待つために、美和子は深夜までテレビを眺めた。
こうなるとは、予想していなかった。トシオのことはロスで終わりで、日本に帰れば小田島に抱かれることができると思っていた。自分はそれぐらいのコントロールがきく人間だと思っていた。トシオには未練などないし、我儘《わがまま》なお子チャマと恋人の真似ができたのは、ほんの二ヶ月という短い期間だったからだ。トシオなんて、人間的には、どちらかというと嫌いである。小田島のことは尊敬しているし、好きか嫌いかと問われれば好きだ。一緒に住む前から首ったけというほどの情熱はなかったし、感情の種類とボルテージは今も変わっていないと思う。けれど、肌を合わせることを思うと鳥肌がたつ。それほどイヤだ。もう二度と寝たくない。体の奥が、絶対にイヤだと拒否している。あの人に裸を見られたくない。触られたくない。
「美和子」
寝室から出てきた小田島に、美和子は身を固くした。
「昨日、坂ノ上さんて人から電話があったよ」
「波江から?」
「加納さんのお宅と違いますかって。不思議そうな声を出してた。明日帰りますって伝えといたよ」
波江がロスを発つ時に、せがまれてこの家の電話番号を教えたのだ。日本に着く日は国際電話でちゃんと知らせておいたのに、おっちょこちょいで間違えたのだろう。いかにもあの波江のやりそうなことだ。美和子は小さく笑った。小田島のことは、帰国してからも会うようなことがあれば話そうと思っていた。
やれやれ、あいつとは日本でも続くのか。
小田島がおとなしく寝室に消えたのを確認すると、波江に会う嬉しさとうっとうしさが、交互にやってきた。
波江と再会したのは翌々日の夜だった。美和子は西麻布のイタリアン・レストランまで、小田島のジャガーを走らせた。九月も終わろうとしているのに残暑の厳しい日だった。波江が指定したその店は、こぢんまりとしているが有名店で、渡米する前に女性誌で何度かその店の写真を見たことがあった。
「ひゃー美和子、帰って来たのね。嬉しい、待ってたんだよ」
波江は人が振り返るほどの大声を出して涙ぐんだ。一足先に帰国した波江は、人材派遣で働きながら十数社の中途採用試験を受けていた。
「美和子聞いてよ、又落ちたの。私もう就職できないかもしれない」
波江の国際電話はいつだって泣きべそをかいていた。それが「受かったの、ついに決まったの。アイム・イン! よ」と興奮して電話をよこしたのは、美和子があと十日ばかりでロスを離れようという頃だった。外資系の車の会社だと言っていた。
つややかに光る長い髪をバレッタで後ろにまとめた波江は、Oの字に湾曲した脚はしょうがないとして、J&Rのミニのスーツがよく似合い、すっかり日本社会に順応しているようだ。整形顔はロスで見た時よりもいちだんと馴染み、鼻の先と鼻穴の距離以外、不自然なところはないほどだ。美和子はといえば、日本に違和感ばかり感じ、一年前のカジュアルっぽいスーツを着て来たものの、人の視線が妙に気になり、自分は何か変なのかと落ち着かなかった。そのくせ、ぶつかっても謝らないなどといった些細《ささい》なことで「日本人は失礼だ」と腹を立てた。
「わかるよお。私も日本に帰って来てしばらく変だったもん。何でもムカついて。私はね、向こうの感覚が抜けないだけじゃなくて、自分は英語をしゃべれる特別な人間だってカン違いしてた。あの調子で採用試験受けたって、受かるわけないんだよね。今から思えば私、すっごい生意気だったよ」
波江のそれはもう過去の記憶になっているようだ。笑うと盛り上がる部分に、ピンクの頬紅が丸く刷《は》かれている。美和子が日本にいない間に流行り、定着したそのメイクは、美和子にはどうしてもできないものだ。
「今の会社はね、外資だからペイは悪くないの。経理で年収七百万」
「七百万!」
OLをしていた頃、四百万円弱の年収しかなかった美和子は、驚きの声を上げる。この不況下に、この波江を七百万円もかけて雇う会社があろうとは。
「ふっかければもっとイケタかもね。私ね、本当は中退だけど、上智大学卒業って書いちゃった」
波江はぺろりと舌を出す。
――嘘つき。本当は上智に入ってもいないくせに――
「経歴詐称じゃない」
尖《とが》った声が出た。
「大丈夫よ、調べやしないって。ただね、同じ経理課にやっぱり上智の比文の人がいて、いつかのタイ人と同じく『ゼミ誰?』って聞かれて、これはちょっと困った。私ってほら、入ってすぐ辞めちゃったから」
――よく言うよ。受験さえしたことないくせに――
「で、どうしたの」
「K先生って言っといた。私、その先生の著書買っておいたんだ」
波江の嘘はいっそう巧妙になったようだ。
「ところでさあ美和子。一昨日電話に出た人、だあれ? 美和子、結婚してるの?」
「一緒に住んでるだけよ。作家の小田島卓、知らない? 銀座にいた頃の客でね、アメリカに行く少し前から一緒に住みだしたの。四十七歳、奥さんとは別居して十年ぐらいかな」
「ご両親はご存知なの?」
「うちは両親ともにもう死んで、いないの。母は学生の時、父は就職して四年目に病気で逝っちゃった。田舎には兄貴と太った嫁さんと三人の子供。もう私は天涯孤独みたいなもんよ」
田舎の家のことを波江に話したのは初めてだ。
「そうだったんだ。でも、親代わりみたいな人がいて良かったね」
曖昧《あいまい》に頷《うなず》き、美和子は小田島と合体できないでいることを話そうか、迷う。
「ね、聞いて聞いて」
波江は口を大きく横に開いた。
「来週ね、ダニーが日本に来るのよ」
「ダニーって誰」
「ハーバードの銀行窓口にいた白人。通ってるうちに仲良くなっちゃって。ていうか、仲良くなるために通ったの。日本人が大好きで日本語ぺらぺら。手紙書いたら電話がきてね、今や熱烈状態。もうすぐ休暇とって日本に来るって」
「え、だって波江、柴野さんはどうしたの。ロスに来た時、あんなに悩んでたじゃない。好きで好きでたまらないって」
「ま一応、続いてはいるのよ。でもホテル行っても相変らず入れないし、段々|呆《あき》れてきちゃった。こいつ馬鹿じゃないかって」
よくしゃべり、くるくると表情が変わる波江を見ていると、美和子はついて行けない気分になる。
「でね、最近、羽田さんとも会ってるのよ。羽田さんてのは、前にいた会社の社長ね。今四十八かな、九かな。私、松久電器に三年勤めててさ、社長と不倫してたんで、操作してもらって退職金ガバチョの羽田さんから餞別《せんべつ》ガバチョで、それで留学できたんだ。あ、それと整形もね」
最後の方は、さすがに声を潜めて呟《つぶや》いた。
自分が危ない橋を渡り、とてつもないストレスにさらされながら貯めた留学資金を、この女は一人の男と寝ることでたやすく手にしたのだ。美和子はどす黒い思いに胸を焼かれる。もっとも、自分だって男達を騙《だま》して吸い上げた五百万だ。セックスは、すすんで抱かれた小田島以外の誰ともしてはいないのだから、どっちもどっちと言えないこともない。しかし、さっさと小田島と寝て丸抱えになってしまっていたとしたら、丁度波江とイーブンという気がする。何人もの男に媚《こ》びてだまし、雲隠れした真佐奈の売掛けに拘束され、留学資金が貯まった後々まで苦しんだことに、何の意味があったのだろうかと美和子は思う。波江にあって自分にないのは要領の良さだ。そうわかりながらも、何か釈然としない。
それに、だ。美和子は横目に波江を睨む。あんたのいた会社は松久電器じゃなくて、子会社の松久電器工業だろうが。
「再会した時、羽田さん、私だってわからなかったんだよ。整形のことは言ってない。もしかしてと思ってるみたいだけど、あの年代だとまさか、の方が強いみたい」
羽田と小田島はほぼ同世代だ。
「向こうはすっかりその気で会いに来たけど、もう私、ダメなの。柴野さんの、ご立派な肉体を知ってしまったでしょう」
波江は顔をしかめた。
「もうあの年とった体は見たくないし、触られたくないの」
「わかるわ」
美和子は強く頷いた。幸か不幸かそれを深読みする洞察力は波江にはない。
「わかってくれるう? さすが美和子、恋愛の神様」
その神様は同棲《どうせい》相手とセックスができなくなって、不幸のどん底よ。すっかり冷めた何とかいう珍しいキノコのパスタを前に、美和子は寂しく笑った。
又こうなるわけ。
美和子はさっきから、とろ火のような苛立《いらだ》ちの炎を燃やしている。わざわざ車で桜新町まで行って買い求めた近江牛のしゃぶしゃぶは、舌がとろけるほど甘く柔らかく、まだ舌がアメリカ感覚の美和子だけでなく、波江も小田島も、感激してくれた。
「美味しいわあ」
波江は百グラム千円もした肉をばくばくと頬張った。ビールを飲んだその顔は、例によって鼻筋だけが妙に白い。
「ペンティアム……最初はコボルで……Cが……」
波江と小田島はパソコンの話に興じている。昔から理数系が強かったという波江は、コンピューターやプログラムにそこそこの知識を持っているらしい。小田島は機械類が好きで、それが美和子に、この人と一緒に住んでもいいな、と思わしめた一因でもある。言うまでもなく美和子は機械類に弱い。会社で使っていたから、パソコン入力ぐらいはできるが、使ったことのある機能しか知らない。オーディオも然りだ。
「渡米する前に売っちゃったんですけど、ホンダの400に乗ってたんです」
話題はバイクのことに移った。これも美和子には立ち入れぬ領域である。
「実は今、うちの会社ってアメリカ本社で、他社との合併話が進んでいるんです」
今度は会社の話になった。波江の会社はアメリカ車の日本支社である。この話題も、車好きな小田島を喜ばせたようである。
「どっちかって言うと、うちが吸収される感じですよね。そうなるとどうなるんだろうって、皆不安はあるみたい。でも、外資で働く人間って、外国人みたいに最初から転職する気で入ってきますからね。自分はもっといい会社に転職するつもりだって、社内で口にすることもタブーじゃないし」
「日本の会社も今はそうだよな。社内で言うかどうかだけが違う」
「そのウェットさだけが日系企業最後の砦《とりで》ですよね」
コンピューター、バイク、車、外資系企業。どれひとつとっても美和子が参加できる話題はない。『雛乃』で働いていた頃、話題の豊富なホステスとして人気を集めていたのに、いったい自分は男達と何を話していたのだろう。しかし、波江の話は尻つぼみというか、浅い知識を大風呂敷に広げて話しているだけのようなふしもある。小田島がちょっと突っ込むと、たちまちシドロモドロになる感じは、ボストンでタイ人に「ゼミは誰」と聞かれた時とそっくりだ。
ダイニング・テーブルをはなれ、テレビの前に三人は移動する。お腹がいっぱいになったので、椅子に座っているのがシンドイと波江が言ったからだった。
波江と小田島は床のクッションの上に腰を下ろし、美和子はキッチンへ消える。
「波江、何か飲む?」
「ううん。申し訳ないけど、もう何にも入らない。できたらお水をちょうだい」
「わかった。小田島さんは」
「マーテルをちょっと。氷も何にもいらない」
グラスとボトルをトレーに乗せて運んでゆくと、二人はお笑い番組を観て腹を抱えていた。
「私この人達、大好きなんですよ。最近メジャーになったけど、実はデビューは古いんですよね」
「お、知ってるね。確か、何かアクシデントがあって十年ぐらい干されたんだよな」
「そうそう」
二人は又も趣味が一致したようだ。そして美和子が見ているのは、テレビでなく、小田島の横顔だ。小田島の目線は、テレビに見入っている波江の枯葉色のシガレット・パンツに包まれた細い腰、そして股間《こかん》に注がれている。美和子はそれを、じっと見咎《みとが》める。五秒ほど見ていると、さすがに小田島は視線に気づいて目をそらしたが、美和子の胸を占めるのは、アメリカで何度となく味わった苦い味だ。
「トシはきっと波江を好きよ」と囁《ささや》いたビイビイの声。「あなたがしっかりしないと。いいこと」と睨《にら》んだジャニスの目。それからあっけなく柴野を奪われたテニスコートの緑色の地面。
波江といると私はまるで引き立て役だ。おつきの婆や、縁の下の力持ち。
ミワの方がきれいや、好きや。と言ったトシの、あれは本音だったのだろうか。
波江と比較され、優位を認められなければ、自分は決してトシオと寝ることはなかったと思う。そしてトシオと寝たことで、小田島を受け入れられなくなり、ぎくしゃくした生活を送っている。
波江は私の幸せを奪ってゆく。そうして自分だけ幸せになってゆく。そう思う一方で、自分が被害者意識を持ち過ぎるだけで、それはひがみ根性ではないのかと咎《とが》める声もする。
小田島と波江が笑い声を上げるテレビの前で、美和子はとり残されたような孤独感をおぼえた。
「波江、私の部屋においでよ。作家先生はそろそろ仕事の時間だから。帰りは私が送るから、心配要らないよ」
「いや、作家先生は今日はもう店仕舞い、悪いが先に休ませてもらうよ」
小田島は酔っ払いの顔で、又来てくださいと波江に挨拶をして寝室に消えた。
「ダニーったらスゴイのよ」
美和子の部屋に入った波江は早速、第三者がいては言えないことを話し出した。ハーバードの白人銀行員ダニーは、つい先日、休暇をとって日本にやって来て帰ったばかりだ。
「やっちゃったの」
「モチロン。アメリカ人だもん、じらすことないよね。私、外国人て初めてだったんだけどさ、やっぱりムード作りがすごく巧いの。アイラーヴューって何回も囁きながら髪を撫《な》でてくれて」
さっきまでの被害者意識はどこへやら、美和子は波江の話にひき込まれていく。
「で、その、どうだったわけ。肝心のその」
「白人が柔らかいってのは本当ね。でも、それで気持ち良くないかっていうと、それは別問題。ちゃんとイケたもん」
「へええ。私イッたことって、ないよ」
「えー、可哀想。でね、やっぱり鮫《さめ》肌っていうか、背中に腕を回すと乾いてざらっとしてるの。で、後ろから入れてクライマックスの直前に私の髪をこう、手綱みたいにぐっと引っ張るのよ。何回やっても必ずそれしてた」
見たことも聞いたこともないセックスに、美和子は目を見張る。波江は夢見る乙女の顔で両腕を抱いた。
「ああ、私ダメだわ。ダニーに本気なの。もういよいよ絶対に羽田さんとは寝られないわ、あんな年寄り。あら、ゴメン」
羽田と小田島が同世代なのに気がついて、波江は小さく舌を出した。
「ううん、いいのよ。私もね、日本に帰って来てからずっと小田島とはないの。向こうでトシとそうなっちゃって。旅の恥はかきすてみたいな関係だったんだけど」
「そうだったんだ。じゃあ、ずっとセックスしてないの」
「うん」
「やだー、美和子カワイソー」
惨めだった。波江の明るい声が憎らしかった。けれど、怒ることもできない。泣くこともできない。プライドが傷ついて何もできない時、人は笑うものなのだ。美和子は神経質にひきつった笑いを浮かべる。
「でもね、今の私には仕事の方が優先課題なんだ。全然手掛かりがないの」
そう切り返したのは、ずっと上の立場を演じてきた女の意地もあったが、一面、本音でもあった。
美和子はこれまでに、小田島の紹介で大手出版社の編集という人々に何人か、会っていた。小田島が本を出している会社の翻訳書籍部に席をおく人達だ。小田島と直接の知り合いではないが、作家・小田島の息がかかっているので、皆愛想は良く、表向き失礼はない。しかし、いずれも手応えはないに等しかった。肝心の「どうやって文芸翻訳の仕事にありつくのか」という質問については、どうにも使えない回答ばかりであった。
学生の頃から翻訳家でもある教授に師事する人もいるようですよ、とか、もともと洋書の編集をやっていた人が自分で訳す方にまわることもあります、とか、今からどうあがいても無理なことを言う。何かの伝手でプロの翻訳家の下訳をして修行する、という道を教えてくれた編集者もいたが、ではその伝手になってくれるのかというと、それはお断りだという態度を婉曲《えんきよく》に示した。
「新人はみんな嫌がるんですよ。誤訳があると二倍三倍の手がかかりますしね、それに文芸翻訳というのは、作家のセンスというか、魂にのっとらなくちゃいけないわけでしょ。だから下訳を頼むと、かえって手間がかかるとおっしゃる先生もいらっしゃる。気に入った下訳を、先生方がどうやって見つけてらっしゃるのか、私どもが知りたいぐらいでして」
面倒は御免だと、スルリと逃げられた感触があった。TOEFL575点の結果通知と、ボストン、ロスのELCの終了証明書を持参して出向いたが、編集者と会うたびにひどく惨めな気持ちになった。身のほど知らずな夢を見るんじゃないぜ、と冷笑されている気がしてならなかった。
「無名の新人なんてそんなものだよ。僕は新人賞をとった後、作品を書いて編集部に持って行っても、椅子もすすめられなかったよ。担当の編集者は僕を立たせたままあっち行ったりこっち行ったりしてさ。どういう顔をして立っていればいいのか、悩んだよ。デビューして五年たって、ヒットが出たら全然待遇が変わったがね」
小田島は言うが、それでも新人賞という資格を手にしていたことを、美和子は羨《うらや》ましいと思う。海のものとも山のものともつかなくても、スタートラインにつくことは許されるのだから。
「あれだけ頑張ったのに。私、もうダメなのかもね」
美和子は独り言のように言った。帰国してからずっと、嘆いても嘆ききれない気持ちだったのである。
「会社と違って、とらばーゆもB―ingもない世界だから難しいよね。でも美和子はきっと、ううん、必ずできるよ。あんなに優秀なんだもの。美和子には物事を表現する独特の力があること、私は知ってるよ。あなたはものを書く人よ。大丈夫よ、絶対に」
「そうかしらね」
美和子は自嘲《じちよう》的に呟《つぶや》いた。
翌朝、いつもより早く起きた小田島は、鼻歌を歌っていた。
「昨日のあのコ、波江さんか、頭のいいコだね」
トーストしたフランスパンにバターを塗っている美和子のこめかみがピクリと動く。
「そうね、悪知恵は働くコだから」
小田島は怪訝《けげん》な顔を向ける。
「上智大学比較文化学部卒業って嘘を、堂々と履歴書に書いて就職したのよ。本当は高卒で、大学受験なんかしたこともないのに」
ここで波江の奔放でだらしない男関係を暴露してやれたら、どんなにいいだろう。整形のことも、中絶のことも。喉《のど》まで出かかっているのを吐き出さないのは、美和子の美意識だ。自分の男に友達の秘密を何でもしゃべる女を、美和子は心《しん》から軽蔑《けいべつ》している。しかし、学歴詐称はぎりぎりバラしても許される線だと思うのである。
「ずっと、英語は私の方ができたんだけどね」
そこまで言うと涙が落ちた。昨夜、波江を三軒茶屋まで車で送った後、一睡もできずに朝を迎えていた。
「美和子」
小田島は驚いて美和子を見た。
「いつもトラブルを起こして、面倒みさせられた。なのに私だけが報われないの」
美和子は手で顔を覆った。言えば言うほど惨めになると知りながら、嘆かずにいられなかった。
「情けない」
こんな愚痴を言っている自分も情けないが、大金はたいて渡米して精一杯頑張ったのに、何一つ成果が見えないことが一番惨めだった。
「きっと日の目を見る時がくるから。今だけで判断しちゃダメだよ。美和子に文章の才能があることは俺が知ってる。現役の作家が保証するんだから大丈夫だ」
頭を撫でられながら、美和子はそれを嘘の励ましだと思う。しょせん自分の英語は、奥様の手なぐさみみたいなものなのだ。そうでなければ、どうして何一つ仕事に結びつく手掛かりがないなんて事態になるだろう。自分には真っ当な社会でお金を得る技量がないのだ。これほどの失意を、波江は味わったことがないだろう。上智大学、松久、整形、中絶、ダニー。嘘で固めた波江のバックグラウンドが美和子の中を駆け巡る。
波江から遠ざかろう。
そう思うと、胸の軋《きし》むような痛みが消えた。
少しの間か、この先ずっとかわからないが、ひとまず波江と較べないで自分のペースを作る必要がある。小田島との生活も、どうかしなければならないと焦っているのだが、それを考えるのはもう少しだけ先だ。美和子は目をこすり、フライパンを火にかけた。
朝起きて食事をし、簡単な掃除をして本を読む。本は向こうで買い漁ったハードカバーである。スーツケースにも何冊か入れて持ってきたし、小さな段ボール箱に詰めて送っておいたのが届いた。食事の買い物、料理、そして小田島が家で夕食をとる時は彼と話す。それ以外の時間のすべてを、美和子は本を読むことに費した。帰国してから翻訳して、自分で出版社に持ち込んでみてはどうかと淡い期待を抱いて買い集めた本であったが、そんな考えは実に生ぬるい、素人のものだった。
いろいろ本を調べたが、英語の場合、新人が勝手に訳して持ち込むものに、ほとんど勝算はない。翻訳に関する権利の売買は、版権エージェントが握っている。エージェントは海外に情報網を持ち、海外で流行っている、もしくは流行りそうな本にアンテナを張り巡らし、その情報を日本の出版社に流している。それを受けて出版社が翻訳本を出すことを決めれば、担当編集者が翻訳者を選び、いよいよ翻訳作業に入る。それがおおよその流れである。
編集者は翻訳者を選定する際、それまでの作品の内容や文体を見て選ぶから、翻訳者として一番大変なのは、第一作をどうやって出すかだ。帰国してからずっと疑問のその部分に、ズバリ答えた刊行物に、美和子はいまだお目にかかっていない。「翻訳学校の講師が元編集者で、出版社に推薦してくれた」というのが、唯一現実的な体験談であるように思われた。わざわざアメリカに行って、東部と西部の英語を身につけて帰ってきたのに、また翻訳学校に通わなければならないのだろうか。それもコネ作りのために。コネというのならば、自分はもう持っている。ただ彼らが、自分を気に入らないというのだから、しょうがない。彼らは皆、TOEFL575点の成績を、「すごいですねえ」と誉めはしたが、得点と翻訳の能力は別だと割り切っているように見えた。
翻訳に関する本や雑誌を読んで、翻訳の世界に少しずつ知恵がつき、それにつれてますます見通しが悪くなる一方だった。
それでも美和子はひたすら本を読む。時間をつぶすためでもあったし、マイナーな感情から逃れるためでもあったし、ただ単に好きだからでもあった。自分で送ったものなのに、本がいっぱい詰まった箱を開けた時は嬉しさがこみあげた。それに、読む行為に向かわせる動機が何であれ、本は滅茶苦茶おもしろかった。英語で書かれた小説は、やはり英語で読む方が生の味がよく伝わる。まるで砂が水を吸うように、美和子は飽きることなく洋書を読み続けた。
深夜に電話が鳴った。遅い時間の電話は、期待か恐怖かのどちらかを呼び起こすものだ。
普段、深夜の電話は小田島へのものと決まっているから美和子は出ない。ところが小田島は中国へ取材旅行で不在だ。小田島本人から電話が入る時間ではない。いつもならば、留守番電話に任せておくのだが、電話のベルは自分を呼んでいる気がした。胸が高鳴った。水商売の頃の知り合いともOL時代の同僚ともつきあいを断った自分に、電話をよこす人物は小田島以外、一人しかいない。コール音は鳴り続ける。美和子は電話の前に立ち尽くした。
この三週間、ずっと避けていた電話であった。いつも留守電にして出ないか、小田島に「いない」と言ってもらって。四回半のコールで電話は留守番メッセージにつながった。
「小田島です。ただいま電話に出られません……」
ピーという発信音に続いて、声がした。
「もしもし、美和子。波江です。もしもし。私、大変で。もしもし」
言葉の合間に荒い息が聞こえ、こらえ切れず美和子は受話器をとった。
「美和子、美和子、助けて」
「どうしたの? ちょっと!」
何を尋ねても波江は要領を得ない。「大変」と「痛い」だけが理解できる単語だ。
「待ってて、今行くから」
美和子はジャガーを走らせた。雨のせいで車量が増えたのに加え、道路工事で車線が減り、外苑西通りは混んでいた。粒の小さい雨がフロントガラスに打ちつけ、ついこの間までの夏の名残は微塵《みじん》もない。十月も半ばに入って東京も長袖の秋になっていた。
「美和子、美和子オー」
三軒茶屋の自室で、波江は赤子のように口を開けて泣いていた。
「おっぱいが破れちゃったよー」
何を言っているのか、さっぱりわけがわからない。
「助けて美和子、つぶれたの、生理が」
「生理なの」
「ううん、生理食塩水なの」
波江は突然、えいや、とパジャマの上衣をたくし上げた。二つの乳房が現れた。ソフトボールを半分に切ったようなのに、黒い干し葡萄を載せたふくらみがひとつ。もうひとつは輪郭がはっきりしない垂れ気味のふくらみだ。ちょっと待ってて、と美和子はキッチンで湯を沸かして番茶を淹《い》れ、波江に飲ませた。
「こっちがバチンて。さっきまで羽田さんが来てて、そいでセックスした後、私ダニーのことを話したの。とっても好きな人でセックスもすごくいいんだ、って。だけど日本に一度来て帰ったら冷たくなっちゃったんだ、って。私、羽田さんなら『そうかそうか可哀想に』って慰めてくれると思ったんだ。なのに羽田さん、怒り狂って別れるって言って。行かないでってすがったら、その電話帳手に持って振りまわしたの。それがここに当たって」
体が温まると少しずつ錯乱がおさまり、美和子はようやく事情を理解した。
「あんた、胸もやってたんだ」
こくん、と波江は頷《うなず》く。
「痛む?」
「ぶつけたときは気が遠くなるほど痛かったけど、今はそれほど痛くない。ただ何か変、気持ち悪い。いかにも異物がここで異常を起こしてますって感じ」
美和子は波江の二つのふくらみをまじまじと見た。ちょっと触ってみたかったが、場合が場合なのでそれは我慢した。
「病院行こう。私、車で来たから。手術受けた病院はどこ」
「新橋」
古い診察券を見て電話を掛けたが、誰も出ない。さっき羽田が振りまわしたという電話帳を開き、近そうな美容外科を探して次々と電話をかける。美和子は初めて知ったのだが、美容外科には、夜勤の医師はいないもののようだ。鼻がつぶれた、傷が痛いという患者もいるだろうに、そうした場合どこへ行けというのか。「入院設備あり」と書かれた美容外科でさえ、電話を取る者はいなかった。仕方なく近所の救急指定の病院に電話をかける。「専門じゃないんでぇ」としぶる若い医師に「診るだけ診てください」と頼み、返事を待たずに「今から行きます」と告げた。
夜中の道を二人でとぼとぼ歩いた。波江はパジャマの上にトレンチコートをひっかけている。泣いた目が、街灯の下で赤く腫《は》れていた。
「僕は専門じゃないんで」
若い医師は、困惑顔で電話と同じ科白《せりふ》を繰り返した。
「いいから、診て下さいよ」
美和子が怒鳴ると、彼は波江の崩れた方の乳房を、二本の指でつん、つん、と突いた。
「やっぱりわかんないや。明日九時半過ぎに、もう一度来てもらえますか」
「今日はほっといて大丈夫ってことですね」
「だと思うんですけどね」
「思う、じゃなくて、大丈夫かどうか、ちゃんとした先生に聞いてください」
美和子に叱りつけられて、医師はどこかに電話をかけ、「やっぱり出ませんねえ」と頭をかいた。ただ胸を見、電話一本かけただけなのに、夜間診療代は五千円もした。
「明日、ちゃんとした美容外科に行こうね」
波江のマンションに帰り着き、電気の紐を引っ張る。
さっきは動転していたので気がつかなかったが、こうして見ると波江の部屋はすごい散らかりようだ。フローリングの床は綿挨《わたぼこり》がころがり、よく見ると無数の髪の毛。洗濯|籠《かご》からは汚れ物があふれ、床に置かれたベンジャミンもポトスも脱水状態でへたっている。テレビの上には雑誌やCDが積み上げられ、さらにその上に脱いだままの白いブラウスとショーツが置かれ、テレビ画面に伸びたストッキングが垂れ下がっていた。ここで羽田とセックスしたとは、ちょっと信じがたい。いや、したのだろう。テレビの上のブラウスやショーツやストッキングはその時に肌から離し、床に置くよりはましだとそこに置いたに違いない。
羽田という男は、こんな汚い部屋で息はずませることが平気なのだろうか。それに、この部屋を男に見せて平気な波江の神経も、ちょっとはかりがたいものがある。
「明日、前に手術受けた病院に行こうね」
「たぶん再手術になるよね」
すがるように見られて美和子は微笑む。
「私も付き添うから」
「へへ、ボストンの時みたいだね」
波江は子供みたいな顔になった。
そして翌日、診察を受けてすぐ波江は再手術を受けた。
麻酔が覚めかけ、傷が痛むのか、波江は低く唸《うな》る。
「痛い?」
「うん。胸は痛いんだよね。前もそう思った。ううん、目も鼻も全部痛かった。じんじん、じんじん痛くて、とても眠れなかったよ。あの時は一人で我慢したのにね」
「今はなんで一人で耐えられないンダ」
怒ったフリをするが、本当は嬉しかった。波江の電話を避けている間、だからと言って波江のことを忘れた日はなかった。
「美和子いないのー、いないのねー。又電話するね」「美和子、どこか旅行でも行ってるんですか。できたら自宅かケイタイに電話ください」「まだお出かけ中なのね。では」「波江でした」留守番電話から波江の声がするたび、美和子は電話に駆け寄ってそれを聞いていた。続いていた電話がだんだん間遠くなり、もうかかってこないかも、と考えると、寂しさが体を絞り上げた。けれど以前のような惨めな思いが繰り返されるのも、寂しさと同じぐらいつらかった。その思いが、かろうじて手にブレーキをかけていた。
「美和子、私、美和子に何かした? ずっと電話に出なかったでしょう」
波江は病院の清潔なベッドの上で、顔だけこちらに向けた。
「ううん。私ね、苦しかったの。波江は順調に就職できたのに、私はまるでダメだから」
うふふ、と波江は笑う。
「美和子は完璧主義だからなあ。でもね、きっと大丈夫。実力があるんだもの。美和子は今に、私なんかよりずっといいお金取るようになるよ」
波江よりいいお金を取る。そんな日がくるとはとても思えないが、「私なんかより」という比較が、空腹の舌にすりこまれた砂糖のように甘い。
「昨夜、どさくさに紛れて話したこと、覚えてる? 私、ダニーにふられちゃったんだ。あいつ、日本でやりまくって帰った後、手紙も電話も来なくてさ。メール入れても返事来ないし、こっちから国際電話したら、日本に滞在中の食事代を半額返してくれって言われた。やっぱ、アメリカ人といえども、男はちゃんとじらさないとダメなのね。羽田さんともこれで終わりだし。やっぱり私みたいな男運のない女は、ダメね。愛されない」
天井を向いた目から涙が溢《あふ》れ出していた。
「男から愛されたくて整形までしたのに、ダメ女はダメ女のまま」
波江の嗚咽《おえつ》が、白い個室に響く。それほどまでに男に愛されたいのかと、美和子は一種感動を覚える。それにしては、やっていることは、愛さないでくれ、私など足蹴にしてくれと言わんばかりなのだが、美和子はもう理解している。このコは男に愛されるための戦略を知らないのだ。捨てられるのではないかと怖れるから、一生懸命尽くして軽く見られる。そして不安になるから、タコ足状に男と寝て、平静を装おうとする。本当は一途なのに、わざと一途でないことをして、どの男からも疎んじられてしまうのだ。
「愛されることはできるよ、波江。協力するよ。自信を持てば、必ず愛されるから」
美和子は波江の顔をティッシュでぬぐいながら囁《ささや》いた。
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正午前、英語の小説を読みながら、波江からの電話を待つのが美和子の日課になった。夜中に原稿を書き、昼過ぎまで寝ている小田島のために、電話の音は消してある。どうやって電話がかかってきたことがわかるのかというと、文字盤の点滅で知るのである。うっかり本に熱中して見逃したこともあったけれど、そのうち電話は十一時四十五分ぴったりにかかって来るようになった。
「さっきツネマルが経理部に来たのね」
波江の用件は、営業の恒丸という男の動向を報告することだ。
何としても男に愛されてみたい、と泣く波江に、美和子は二つの約束をさせた。どんな小さな出来事でも報告すること、そして簡単に寝てしまわないことである。気のある素振りを見せつつ、女の方からは決して積極的に出ていかない。ちょっと控えめに恥じらいながら、それでいて機を逃さず自分の魅力をアピールしてハッとさせる、という古典的な戦略である。真佐奈がいつか細い足首に巻いていた包帯など、これの最たるものであろう。近づき、遠ざかり、を繰り返すうちに、男は勝手に、スタンダール言うところの「恋の結晶作用」を起こしてくれるはずなのだ。
「私、もう待ちきれないよ。こっちから食事に誘ってみようと思うんだけど」
「ダメよ」
どうも反応の鈍い恒丸に、仕事にかこつけてケイタイ番号を教えさせたばかりだった。ちょっと目を離すと、すぐに自分からアクションを起こしてベッドまで直行したがるから油断ならない。
「必ず電話がかかってくるから」
「いつ?」
「来週の水曜ってとこね」
果たして美和子の「予言」は当たった。
「すごいよ美和子。教祖様だわ」
以来、波江はどんな些細《ささい》なことでも美和子に報告し、意見を仰ぐようになった。
そしてアプローチを始めてから約一ヶ月後の十一月下旬、恒丸はようやく波江に、社外で会いたいと誘ってきた。
「最初のデートでホテル行くんじゃないわよ、いいわね」
美和子はきつく言い渡した。受話器を置いた後、自分の口調がかつての真佐奈にそっくりなことに気がついて、苦笑する。その時は、うるさいとも煩わしいとも感じたが、今はよくわかる。真佐奈も「このコが欲しがっているものを、手に入れさせてあげよう」と親身になって味方してくれていたのだ。真佐奈の、シャンソン歌手のおばさんによく似た顔立ち。うつむいた額にかかる茶色いウエーブヘア。きれぎれの記憶が次々と思い浮かび、真佐奈の全体像が形作られてゆく。
あんなことさえなければ、きっといい顔をしたまま、真佐奈から離れられたと思う。口の中に苦い味が広がり、当時住んでいた日当たりの悪い、青山のアパートの黴《かび》臭い匂いを美和子ははっきりと嗅《か》いだ。
二人の男から引っ越し代合計四百八十万円をもらい受け、謝礼の八十万を真佐奈に手渡してから、真佐奈との関係はガラリと色合いを変えた。金額に、真佐奈が不服をとなえたからだ。その不満を美和子は黙殺した。最初に約束した金額じゃないかと思ったし、もう言うことを聞きたくないと強く思った。
それでも真佐奈の住まいの裏にあるアパートに引っ越さざるを得なかった。うっすらと悪い予感はしたが、祐天寺のアパートに住み続けるのはあまりに危険だった。祐天寺には『雛乃』に働くホステスが一人住んでいる。住み続けていたら、どこで見られて告げ口されるかわからない。二人の男に嘘をつき通すためには引っ越してしまうしかなく、そうなると、頭金がほとんどいらないそのアパートしかアテはなかった。そうして引っ越しを済ませると、真佐奈がちょくちょく訪ねて来るようになった。すぐ裏なのだから、来ることは予想していたが、そのたびに三万、五万と金を無心していくのには閉口した。けれども、真佐奈のおかげで預金通帳に、目標額の五百万が貯まった。そうとなったらなるべく早く銀座の勤めを辞めて、別のアルバイトでもしながら留学準備に専念したいところだった。ところが、その気配を察したのか、真佐奈は言ったのである。
「あんたが成功したのはあんたの力じゃないわ。それがわかっているなら、あと三ヶ月は『雛乃』にいてね。連れて行ったあたしの顔を立てて」
自分が不義理をすると迷惑のかかる人がいる。こういう説得に美和子は弱い。自分がちょっと我慢して、その人が助かるならばそうしてあげようと思ってしまう。まして相手は酒のつぎ方から男のだまし方まで教えてくれた真佐奈。しかも今では目と鼻の先に住んでいる恩人である。
三ヶ月はイヤだけど、二ヶ月、いや一ヶ月半ぐらいで勘弁してもらおう。真佐奈が客を店に呼べるよう協力し、彼女の客からもらったチップは彼女に渡す。銀座まで、行きのタクシーは一緒に乗って、タクシー代は払う。小さな誠意を積み重ねればきっとわかってもらえるはずだと思った。世話になった真佐奈に、善意を返して別れたかった。ところが真佐奈はちゃっかりと金を「貸して」と言っては持って行く。そして美和子の生活に細かく干渉するようになった。
「ダメじゃないの、お客さんからもらった鉢植えを枯らしちゃ」
「美輪、食事はちゃんととりなさい。どんなに忙しくても、きちんとしなさい。生活習慣は必ず表に現れるものよ」
「今日は竹林さんとデート? ダメよあのおっちゃんはすぐやりたがるから。客とやるんじゃないわよ、わかってるわね。最初に教えた通りよ」
うるさい小言は「ダメ」と「しなさい」がたっぷりと盛り込まれ、まるで姑《しゆうとめ》だ。言いたいだけ言って、挙句の果てに金をせびって持って行く。玄関の呼び鈴が鳴るたびに美和子は「また来た」とうんざりするようになった。けれど、もう少しの我慢だと思った。今は乞われるままに小金を渡し、機嫌のいい時に銀座を退くことを伝えようと考えていた。
「ね、もう二万貸してよ」
さっき三万持って行ったばかりの昼下がりだった。現金の持ち合わせがない、と断りたいところだが、真佐奈はあまりにも逼迫《ひつぱく》した様子だった。顔色もひどいし唇の色は水死体に近い。目だけが異様に光るその顔は、否と言わせぬ迫力があった。
美和子はしぶしぶ冷蔵庫の中の、バドワイザーの缶の形をしたヘソクリ貯金箱から万札を二枚ゆっくりと抜き、ゆっくりと真佐奈に渡す。ありがとうも言わず札をひったくる手は細かく震え、背をひるがえすと汗の匂いがした。清潔好きの真佐奈がどうしたことだろう。美和子は首を傾げた。どこか具合が悪いのではないかと心配になりながらも、ここで甘い顔をしたらまたよくないことが起こると、お人好し虫≠ェ騒ぐのをぐっと我慢した。
「美輪、悪いけどここに行って来てくれない」
真佐奈が、新宿のスナックの名前と電話番号を書いた紙切れを持って、頼みに来たのはそれから数日後のことだ。
「先方が渡すものを、ただ受け取ってくればいいだけだから」
その日も真佐奈は強い汗の匂いを発していた。美和子は言われた通りそこへ行き、アフロヘアの男から、小さなマッチ箱を受け取って来た。中を見たかったが、箱は角から角まで全部几帳面にセロテープで留められ、開けたら最後、バレること必至だ。そのまま真佐奈に手渡した。
「ありがと」
箱を手にした真佐奈が、ふらりとこちらに倒れ込んだ。むせるような汗臭さが鼻をついた。
「真佐奈さん、体が悪いんじゃないんですか。今日はお休みします?」
そろそろ店に出る支度をしなければならない時間だ。真佐奈は首を横に振った。
「大丈夫よ。ちょっと失礼」
真佐奈はバスルームに消えた。吐いているのだろうか。美和子はそっとバスルームに近づいた。ドアが、ほんの少し開いていた。
洋式便器の閉じた蓋《ふた》の上に、真佐奈は片足を載せて立っていた。そしてその腿《もも》の上に左の肘を置き、上腕部に医療用のゴム紐《ひも》をきりきりと巻き上げている。右手に持っているのは小さな注射器だ。何発か、腕を叩く音がした。血管を探し当てられないのか、皮膚が硬くなって針が通らないのか、真佐奈は腕を叩きながら舌打ちをする。体中から、怨《うら》みのようなオーラが漂うのを見て、美和子は総毛だった。
――そういうことだったの――
美和子は急いでドアから離れた。心臓が口から出て来そうなほど打っていた。真佐奈がごくたまに、マリワナをたしなんでいることは知っていた。海外旅行帰りの客からもらったりした時だ。しかし、注射にまで手を出していたとは。これはゆっくり構えてなどいられない。覚醒剤《かくせいざい》の類いの恐ろしさを、実感はできないが、明らかに依存性のある薬物を注射する人間の側にいてロクなことがあるはずがない。それにその違法性。美和子が現実的に理解できる恐ろしさはむしろ、そっちの方だ。そんな犯罪の使いっ走りなど真っ平御免。短大に進学するため上京する際、父親に、覚醒剤とサラ金にだけは手を出すなと、これだけは厳しく言われたのだ。
早く真佐奈から離れなければ。どうやって――。
美和子は恐怖で凍りついた脳みそを、無理矢理働かせようと頭を振る。味方が要る。一人では危ない。動揺し、吐き気を覚えながら、味方、味方と、それだけを心の中で繰り返し唱えた。
気がつくと真佐奈がすぐ横に立っていた。いつからそこで自分を見ていたのだろう。真佐奈の秘密を見てしまったことに気づかれただろうか。湧き上がるいくつもの疑問をごっくんと飲み込んで、美和子は愛想良く言った。
「ねえ真佐奈さん、今日も神島さん、お見えになるかしら」
ゴマスリのつもりで口にした言葉が、美和子にあることを気づかせた。神島は関東の大きなヤクザ組織の幹部だ。社長の宮園の客だが、『雛乃』に来るなり真佐奈を気に入り、ここ二週間ばかり頻繁に顔を出している。薬の仕入れ先はおそらくあの男だ。男の縮れたもみあげが思い浮かんだ。
「来るわよ」
笑みを向ける真佐奈には、さっきまでのひどい顔色の余韻はない。ウォークイン・クローゼットから明るいブルーのミニドレスを取りだし、金の鎖と銀の鎖をかわるがわる合わせて、こちらを振り返った。
「ねえ、どっちがいい」
「金の方が似合います」
我が意を得たりとばかりに、真佐奈は頷《うなず》く。
「そうなのよ。今は銀が流行だっていうのに、私はどうしても金なのよね。顔と雰囲気が派手だからよね」
真佐奈は「いそしぎ」を歌いながらファンデーションを顔にのばし始めた。
味方、味方、私の味方――思い当たる人物は一人しかいなかった。
「助けて、小田島さん。私を助けて」
本当の引っ越し先を除くすべてを打ち明け、美和子は小田島の胸に飛び込んだ。痩《や》せこけた頬と長い指を持つ小田島に、本当は出会いの時から好意を持っていた。
作家という人種は時々『雛乃』に現れたが、ひどい醜男か、枯れ枝のような年寄りばかりだった。それが小田島は違った。「先生」をふりかざすこともなく、ホステスの体を触ったりもしない。だいいち、顔がいい。当然ホステスの間でも人気があった。マッチョが好きな真佐奈は全く興味を示さなかったが、真佐奈とナンバーワンを競うミエなども、「小田島先生だったら、何も買ってくれなくてもいいわ」と言っていた。
客とホステスという立場で知り合った場合、これは稀有《けう》なことだった。客の中に男はいない、というのが水商売で働く者の常識だ。客が持つのは財布と性器だけ。頭も心も、財布と性器を都合良く操るための器官でしかない。「帰り、送ってくださる」と申し出るのが億劫《おつくう》でない客は小田島しかいなかったし、お金をせびる時に申し訳ない思いがしたのも彼一人だった。いいな、と思いながら寝なかったのは、真佐奈の目が光っていたからだ。
「あなたのものにして」
小さくはない金を引っ張られて、やっと飛び込んできた小鳥なのに、なかなか手を出そうとしない小田島に、美和子は自分から言った。
「私はこれからどうなるかわからない。田舎の親は両方とももう死んでいないし、糸の切れた凧《たこ》みたいだわ。だから、しっかり捕まえていて欲しい。真佐奈さんと切れて、水商売を上がるまで、私を見ていて欲しいの」
心も不安定だったが、体も飢えていた。日頃、紳士然とした小田島が、ベッドの中ではねちこくエッチなのが意外だったけれど、望むところだった。
これで、私が行方不明になってもすぐに捜してくれる人ができた。美和子は軽い鼾《いびき》をかいている小田島の体を、唇で撫《な》でた。渡米する半年前のことだった。
波江が恒丸と初デートをした十二月初旬から、美和子は俄然《がぜん》忙しくなった。小田島の伝手を使って面会した編集者達からは、なしのつぶてであったが、美和子が自分である策略を思いついたのである。
翻訳の権利を売買する版権エージェントは、「翻訳して出しませんか、儲《もう》かりますよ」というニュアンスを込めて、出版社に海外刊行物の情報を流す。翻訳本を出すかどうかは出版社の会議で決まるのだが、その際、編集者がその本を読んでいなければ話にならない。ところが忙しい編集者にはそんな時間がない。そこで本読みを外注に出すのだ。これをリーディングといい、新人の翻訳者が依頼されることが多い。というのを、翻訳に関する書物の中に見つけた。
これだ。美和子は息をつめてその箇所を何度も読んだ。
じっと待っていたら自分には、未来|永劫《えいごう》、依頼なんか来ないだろう。ならば、と閃《ひらめ》く。こちらから「私はこれこれの本を、すでに読んでおります」と、出版社に送っておいたらどうだろう。現地で買いつけた比較的新しい本ばかりだから、運が良ければ版権エージェントからの情報と合致するものもあるかもしれない。いやきっとある。
編集の人々に会ってからすでに二ヶ月が経っているが、おかげでこちらは好きな本を楽しんで読むことができた。段ボールいっぱいの小説本は、すでに半分近く読み終えている。乱読だったけれど、あらすじはしっかり頭に入っているし、うんと面白かったり複雑だったりする小説には、要所要所に付箋《ふせん》までうってある。何の気なしにそうして読んだのだが、仕事に結びつけようとしたら、役に立つに違いない。読んだものの中で、面白かった本について、内容のあらすじとコメントを添えて送る。それをやってみたら、どうだろう。
でも、と美和子はためらった。もしそれが役に立ったとしても、編集者が連絡をくれなければ、自分は気がつかない。只《ただ》で利用されて終わりだ。小田島に尋ねたら「何とも言えないが、力のこもった丁寧な梗概《こうがい》が役に立ったとしたら、きっと連絡をくれるはずだよ。それは賭けだし、信じるしかない」という答えであった。こちらから送りつけたものなら、金銭交渉などの立場は弱くなるだろうが、そんなことを言っていられる立場ではない。一番大変な、第一作にありつく布石になるなら、ボランティアだって構わない。
「そうよ」と美和子はこぶしを握り上を向く。
ただ……ここでもうひとつの、越せない壁を感じてしまう。それは「頼まれもしないのに、勝手に本のレジュメを送りつけたりして、図々しくないだろうか」というためらいだ。編集者達に会った際、「お前なんか要らないよ、お呼びじゃないんだよ」と指先で追っ払われている気がして、その後何日も屈辱感が残った。「先走って困った人だ」「才能もないくせに」と嘲笑《ちようしよう》されたら、と想像すると目眩《めまい》がするほど恥ずかしい。「勝手に送る」という、図々しく物欲しげな行為を、やっていいものだろうか。この疑問を、波江は笑い飛ばした。
「仕事ってのはね、自分のこの手で回していくのよ。ゴリ押しでも無茶でも、何でもして。つまりね、私は最近になって悟ったんだけど、仕事は、美和子の教えてくれる男の転がし方の逆。自分がこうしたいと思う方向に、はっきりと積極的にうって出ていいの。迷わない、ためらわない。失敗したら反省して次に進む。それだけの実にシンプルなことなんだよ」
なるほど言われてみれば、以前の波江の男との関わり方はまさにそうだ。攻めて攻めて玉砕して泣く。そして次へ進む。美和子は波江の勇気に、つくづく感心した。又ダメかもしれない、と危ぶみながら欲しいものに向かって行くのは、何と怖いことだろう。出会ってから初めて、波江を尊敬する気持ちが起きた。
「やってごらんよ美和子。送るだけだもん、なんてことないよ。送らなかったらいつまでも今のままだよ。遠くにあるチャンスを、ああ、あそこにあるのになあって見てるだけの人生で、いい?」
ぐずぐずと恥ずかしいだの、図々しいんじゃないかしらだの、御託《ごたく》を並べる美和子を動かしたのは、波江のその科白《せりふ》であった。
私はこのままでは、イヤだ。これはここから動き出すための、第一歩だ。
美和子はそう言って臆病な自分の尻を叩く。もともとひとつことに入り込むのは得意だ。入り込んだら命がけ。他の何事にも目をくれず、集中して辛抱強くことにあたる。複数を同時進行させられるのは、男との駆け引きだけといっていい。
「私はそれが羨《うらや》ましいよ」
波江は言うが、それは美和子が男に執着がないからである。そしてそれはおそらく、波江が自分の仕事に、大してこだわりがないのに似ている。この不況下に、若冠二十五歳で七百万円の年俸を保証された波江だが、その金額も会社名も、たまたまそうなったから「ラッキー」ぐらいのもので、あれがダメならこれにしよう、と軽くとらえているのだ。執着心がないから、そこそこのところで満足するし、小さな失敗はすぐに忘れる。結果として自信が積み重なっていくから、リラックスしてことに取り組み、ますます良い結果を生むのだ。
それだけわかっていても、もしダメだったら、送ってもやはり何の反応も返ってこなかったら、と考えずにいられなかった。必要とされていないのにすがりついて、挙句の果てにダメの烙印《らくいん》を押されるようなものだ。「あなたには才能がありません」と宣告され、今度こそすべての可能性を失ってしまう。けれど幸いなことに、まだ読んでいない本は箱にいっぱい残っていた。それらを全部読んで、面白いもののレジュメを送って、ダメだったらそれはその時考えようと決めた。
「それよ、美和子。それが仕事のセンスってものよ。その飲み込みの早さ、さすがね。美和子は男だけじゃなく仕事のセンスも抜群よ。あとは続けること。それだけよ」
やる気になった美和子を、波江は誉めまくった。誉め言葉は、自信のない者にこれほど有効なものなのだと美和子は知る。果たして自分は、波江にそんな誉め言葉を与えたことがあっただろうか。ちらと反省し、これからは波江の男関係も誉めようと誓った。
美和子は自室で、黙々とパソコンを打ち続けた。正午前に波江からの「本日の恒丸情報」は相変らず続いたが、それだけが唯一の休憩である。
頭を動かすと臭いのは、風呂にもろくに入っていないせいだ。かゆいが掻《か》くと手が汚れるので掻かない。キーボードを打つ手が汚れると、手を洗いに立たなければならず面倒なのだ。食事はコンビニ弁当か店屋物。最初のうち飲み屋に逃げていた小田島は、自分ででき合いの惣菜《そうざい》を買ってくるようになった。そうしてクリスマス前までの約三週間で、美和子は七冊の本のレジュメを作り上げた。
本のあらすじを一冊につき四百字詰めで約二十枚。他に作品に対するコメントを書き添える。どこがどんな風に面白いのか、日本の読者の支持を得られるかどうか、どの読者層に受けるかなどを自分なりに考えて書いた。一冊目よりは二冊目、二冊目より三冊目と、書けば書くほど文章がスムーズになっていく。肩こりはひどいし、肌はぼろぼろになったが充実した時間であった。すぐにでも郵送したいところだが、年末は編集者も忙しく、届いた郵便物も重要なものでないとほっぽらかされる危険がある。年明け十日過ぎに出した方がいい、という小田島の助言に従って、郵便局に出しに行くのはちょっと我慢した。
イブの夜、美和子は一人でテレビを眺めている。小田島と広尾のレストランに食事に出かけ、ルビーのピアスをプレゼントしてもらったが、時間を気にする小田島に意地悪い気持ちが芽生えないはずはなかった。美和子を白金のマンションに置いた後、葉山の妻子のところへ向かおうとする小田島に、「お正月明けまでずっと向こうにいていいよ」と言ったのは、勿論《もちろん》、思いやりでなく皮肉である。
小田島に妻子があることは最初から承知の上だし、彼の家族に対して嫉妬《しつと》などという濃い感情はないが、まるで仕事のようにスケジュールをこなす小田島を見ると、やはり「ケッ」と思う。彼に家庭がなく、クリスマスも正月もずっと一緒に家にいたら、それはそれでうっとうしいだろうと思うのだけれども。
テレビを消し、FMをつけると電話が鳴った。小田島か、彼あての電話だろう。波江はデート中だし、田舎には甥《おい》と姪《めい》がいるが、クリスマス・イブに電話をよこすほど親しい実家ではない。
「美和子、いませんか。波江です」
留守電から流れる声に、美和子は急いで受話器を取り上げた。
「どうしたの」
「どうもこうもないわよ。恒丸の馬鹿ってば待ち合わせひとつロクにできやしない。ね、今から行っていい?」
「いいよ。ちょうど小田島クンも本宅に御帰還中だし」
「ほんと、良かった。じゃ今からタクシーで行くね。すぐだから」
不況のせいで、イブだというのに車は簡単に拾えたらしく、波江は本当にすぐに、ものの十分でやって来た。黒いベルベットのミニドレスに、イミテーションの大きな真珠のネックレス。耳から下がる大粒の真珠もお揃いのもの。O脚はいつものとおりだが、ラメの入ったストッキングをはいて、完璧なイブのおめかしだ。
「五反田の西口で待ち合わせをしたの。向こうが先に着いたらしいんだけど、あのコ、そこで待ってることができないのよ。落ち着きなくチョロチョロ動き回って、やっと来たのが二十分後。おかしいと思ったらケイタイに電話すりゃいいじゃん。そういう機転が全く利かないの。こっちからケイタイに電話してもつながらないし。電池切れだって」
頬を膨らます波江の目の周辺は、きらきら光るパウダーが刷かれている。波江は会うごとにきれいになってゆく、と美和子は思う。会社組織に所属する女の画一的な美しさだけれど、どこにも所属せず、ひたすら自室でパソコンをうち、日に日に身汚くなってゆく自分とは正反対だ。どすんと椅子に腰を下ろした波江から、美和子は目をそらした。
「あんな男、もうやめちゃおっかな」
「そうね、頭悪そうだしね」
美和子はキッチンに立って行って、シャンパンとグラス、それに乾き物のつまみを盆に載せて運んでくる。
「何か食べる? 食事してないんでしょう」
波江はぺろりと舌を出す。
「実はそうなんだ。カップ麺《めん》でいいから何か食べさして」
そういうものを買い置きする習慣がないので、冷蔵庫にあった金目鯛の西京漬けを焼き、缶詰のアスパラガスを添えた野菜サラダと豆腐の味噌汁を作り、もらい物の千枚漬けを並べた。
「うわー、感激。こんなちゃんとした食事、実家以外でしたことない」
波江は早速|箸《はし》をとり、「美味しい」を連発した。美和子は料理は好きだし、たぶんうまい。手早いし、いかにも美味しそうに盛りつけて出す。あちこちで高級料理を食べ尽くしている小田島が誉めるほどだ。しかし、高給を取り、きれいに着飾って外で生き生きしている波江を見ると、そんな自分の取り柄はいかにも家の中にいるのがふさわしい女のものに思えて、逆にコンプレックスを感じる。
「本当に、やめちゃおうかって、何度思ったことか」
食後の一服をしながら、波江はさっきの続きを始める。
「でも私さ、馬鹿な男が案外好きなんだよね」
「どうして?」
「馬鹿な男の面倒をみて、少しずつ賢くしていくのが好きなの」
波江は鼻から二本の煙の筋を吐き出した。姉さん女房タイプ、というのだろうか。いかにも稼ぎのいい女が考えそうなことだ。美和子には、どこを掘っても出てこない指向である。
「意地悪な男か、馬鹿な男か、役に立つ男。そういうのが好きなの」
美和子が理解できるのは、役に立つ男、というのだけである。恋人にするのならば、優しい男か頭のいい男がいいに決まっているではないか。優しさも頭の良さも、役に立つ、に集約されるものかもしれないが。
「意地悪な男は尽くす悦びをくれるもん。性格が悪ければ悪いほど、こんなヤツにここまで尽くせる女は私しかいないって思えるの。馬鹿な男はサ、ちょっと何か教えてやると『うわあ、波江さん、スゴイ。波江さんは素晴らしい人だ』って尊敬してくれるからね」
自分は特別な人間だ、と思わせてくれる男が好き。つまりそういうことだ。波江の自己顕示欲の強さ、そしてその根源になっているコンプレックスの深さをのぞき見た気がする。しかし波江は、コンプレックスに浸り込んで動かない女ではない。逆にそれをバネにして、できる限りのパフォーマンスで自分をでっち上げ、欲しいものに向かって行く。そして手に入れる。たくましい女だ。美和子は低く唸《うな》った。
美和子が小田島と派手に喧嘩《けんか》をしたのは、年が明け、一月ももうすぐ終わろうとしている頃だった。
そもそもその日、美和子は機嫌が悪かった。月のものが近いのに加えて、正月明けに出版社に送ったレジュメに対する反応がひとつもないからだった。すぐに返事が来るとは思わなかったが、一社ぐらい「届きました」の連絡をくれても良さそうなものではないか。別の小説本のあらすじをまとめながら、自分はとてつもない徒労をしているのではないかと悲しくなり、不安になり、苛立《いらだ》つのである。
「飯を作れとは言わないが、買い物ぐらいしておいてくれてもいいだろう」
そう言った小田島も、虫の居所が悪かったのだろう。しかし、翻訳にはまって、身の周りもかまわなくなり、掃除も食事の支度もほとんどやらなくなった美和子を、小田島が日頃から快く感じていないことは察していた。
「私だって忙しいのよ。私は今は無収入だけど、それは仕方のないことだって、あなただって認めてくれたじゃないの」
「じゃあ、僕が月々君に渡している金は何なんだ」
美和子は唇を噛《か》んだ。
毎月一日、小田島は美和子の口座に金を振り込んでいる。アメリカに行く前は五十万だったのが、帰って来てからは三十万に減った。減額の理由は言わずと知れたことだ。二度か三度、求められたことはあったが、そのたびに断ったらそれっきりになった。
小田島のところを出ることもずいぶん考えた。しかし一人暮しをして勤めに出たら、それだけで手一杯になり、せっかく勉強してきた英語も使わなければあっという間に忘れてしまう。翻訳家への夢だけは譲りたくなかった。波江ではないが、何かやってやろうと思ったら、正直と一生懸命だけではダメなのだ。出版社へ洋書のレジュメを送ることを思いついてから、ズルイけれど追い出されるまでここにいようと美和子は決めた。小田島からもらう三十万は食費プラス家事労働の報酬と考えることにした。けれど自分の作業に熱中して、家事はついつい後回しになっていたのである。
「だって」と言いかけたが、言葉が続かない。悪いのは自分だとわかっているのに、謝る気持ちがどうしても起きなかった。かわりに、もうたくさんだという投げやりな気持ちが湧き上がった。
二人はしばらく睨《にら》み合い、美和子は匂う髪を洗うために真冬のバスルームに消えた。
風呂に入るのが嫌いな美和子は、いつものようにシャワーで済ませることにする。服を脱ぐ前に、寒くないようにシャワーの湯を全開にしてもうもうと湯気を上げた。
彼は、私がずっとセックスを拒んでいることを、どう整理|整頓《せいとん》したのだろう。
帰国後から拒みだしたのだから、アメリカで何かあったということは察しているだろう。でも、それについて尋ねられたことはないし、家事怠慢にいい顔はしなかったけれど、やろうとしている翻訳の仕事については、基本的には応援する姿勢を見せていた。
だけど、この生活を続けるのはもう無理だ。
美和子はシャンプーの泡を立て、がむしゃらに頭をこすった。
下着類とセーターとGパンを詰めたバッグを持って、美和子は夜のタクシーに乗った。
小田島のことを嫌いではないが、英語の小説のレジュメを作り出したら、正直、邪魔に感じ始めた。区切りがつくまで没頭していたいのに、部屋を片付けたり、買い物に出たりしなければならない。そんな自分に浴びせられる冷たい視線も、たいそう煩わしい。それにあの白金の住まいも、実はあまり好きではなかった。間取りがどうの内装がどうのというのでなく、電車の便が悪い立地が嫌いなのだ。小田島が車に乗って行ってしまうと、自由に外出もできない。タクシーに乗れば何とかなるのだが、近距離で、無愛想な運転手に恐縮しながら乗ることを思うと、それだけで外出が億劫《おつくう》になってしまう。OL時代から住んでいた祐天寺のアパートも、真佐奈の裏のアパートも、建造物としてはひどい代物だが、駅から五分と地の利だけは抜群だった。思い立ったらぱっと好きなところに行ける住まいが、美和子は好きなのである。
といって、小田島の視線や住まいを嫌った自分が、無収入の今の自分が、何をどうできるとも思わないのだが、とにかく! 波江だ。波江に会えばきっと何か知恵をくれる。
それは翻訳を諦めずに独立生計を立てるためのヒントかも知れないし、とるものもとりあえず小田島と別れる勇気かもしれない。波江にはこれまでさまざまなものを与えてきた。現在の恋人、恒丸とうまくいっているのだって自分のおかげなのだ。きつく言い渡してあるので、二人はまだキスどまりだが、波江は順調に恒丸の愛を獲得しつつある。連日の電話で「ボーナスで指輪を買ってくれたんだ。シルバーの安物だけど、私、不倫でない男から物をもらったのって、これが初めてよ」「初詣に一緒に行ってね、今年も波江さんが僕から離れていきませんようにって祈ったって言うの。信じられないよ。そういうこと言うのは、ずっと私の役目だったんだから」などのノロケを聞かされている。切羽詰まった今ぐらい、波江に頼ってもいい。いや、今こそこれまでの貸しを返してもらう番だ。
「波江、お世話になるわ」
靴があふれる玄関で、美和子は頭を下げた。
「いいよ。いつまでいてくれても構わない」
こころよくそう言ってくれた波江に、美和子は深く感謝した。アメリカで知り合いさんざん苦労させられたのは、この日のためだったのではないかと思ったほどだ。
けれど、波江がいい顔をしてくれたのは、最初の二日間だけだった。三日目の夜、波江は訊《き》いた。
「美和子、ここに長く居ることになりそう?」
冷水を浴びせられた気がした。それは少なくとも、歓迎を表わしてはいない。確かに、七帖の洋室は一人でいるには丁度いいが、波江が会社から帰って来ると狭い。鼻を突き合わせる、という表現がぴったりだ。
「何日居るとか、これからどうしようとか、決めて出てきたわけじゃないから」
美和子は語尾を濁した。すると波江は言った。
「じゃあ、お客さん扱いじゃなくて、私は私のペースで生活するから、美和子もそうして」
相談したいことは山のようにあるのに、波江はユニット・バスに消え、歯を磨く音が終わったと思ったら、さっさと布団に入った。朝、波江の方が先に起きて出て行くからと、部屋の隅のベッドを美和子に明け渡し、自分は固い床に敷いた布団に寝ることにしたのである。そして翌日の夕方「今日は恒丸のとこに泊まるから」と電話があった。
「泊まるって、あんた」
あれほど簡単に寝るなと言っておいたのにと歯噛《はが》みするが、自分のせいだと思えばそこから先は言えた義理じゃない。
「大丈夫、やらないってば。ただ泊まるだけ」
最後に、「そこにかかってきた電話には、出ないでね。留守録から私の声がしたら出ていいから」と指示して電話は切れた。その翌日も、波江はいったん帰宅したのに、洋服を何種類かと化粧品を持って又出て行こうとした。
「そんなの、申し訳なさ過ぎるよ」
美和子は謝ったのではない。すがったのである。お願い、ここに居て。私と話して、と本当は頼みたい。
「いいのよ、気にしないで。ここに居ていいから」
ごく軽く言って、波江は出て行った。戻って来たのは日曜の午後。美和子が小田島の家を出たのが月曜日だったから、木、金、土と三日間部屋を空けたことになる。
どうして、一緒に居てくれないの? 私の話を聞いて、一緒に考えて欲しいのよ。
本当は言いたいそれらの言葉の代わりに、美和子の口をついて出るのは、口うるさい小言だ。
「ダメじゃないの、洗濯は日曜の朝のうちにしないと」「夕食も買って来たお寿司だけなの? それじゃ体壊しちゃうよ」
すがりつきたい人間は、相手から目が離せなくなる。少しでもこちらを向いてくれるチャンスをうかがうために、相手を注視するのである。けれどもその機会が一瞬も与えられないとしたら、かつえた人間は、嫌がられることをする以外何もできないのだ。
週明け、波江は再び服を持って部屋を出て行った。次に戻って来たのは木曜の夜だった。掃除機のない部屋で、髪の毛を拾いガムテープで挨《ほこり》を取っているところに「ただいまー」と能天気な声で帰って来たのだ。
「ちょっと話したいんだけど、いいかしら」
波江は返事をしなかった。こちらを見ることもしなかった。その横顔を見ると、怒りと悲しみが氷のかけらのようになって胸を刺した。
真冬の冷たい床に座り、ガラステーブルを挟んで二人は向かい合った。
「ねえ波江。私、あんたに色々教えたよね」
我ながら恨みがましい声だった。
「ん? ああ、男のことね。感謝してます。おかげで恒丸とは今も熱愛中」
波江はさらりとかわそうとする。
「それだけじゃないわ。ボストンのことだって」
お願い、聞いて。こっちを向いて。本心ではそう願うのに、口は恩着せがましくそんなことを言いたてる。
「ああ。あの時のこと。感謝してるよ。美和子がいなかったら、どうなっていたかって思うよ、まあ」
逃げ通そうとした波江だが、さすがにムカついてきたようだ。口調の端々に、あんな大昔のこと、という感じが滲《にじ》み出ていた。
「波江が白金に遊びに来た時、高い牛肉わざわざ桜新町まで買いに行ってご馳走した。イブに急に来た時だって、あり合わせのものだけど、ちゃんと出したよね」
「何が言いたいの!」
波江は怒鳴った。こちらをきつく睨みつけている。美和子は人が激しい感情を剥《む》き出しにしてぶつけてくるのが大嫌いだ。それは可能な限り避けてきたことだ。けれど今日は引かない。キッと波江を睨み返し、腹に力をこめる。
「私はあなたに、いろんなものを与えた。欲しがるものを何でも、惜しみなくあげた。あれも欲しい、これも欲しい、あなたは何でも欲しがった。とっても無邪気にね」
「だから何なの。人が欲しいものに向かって行きたいのは素直な感情じゃないの。美和子だって、向かって行きたいでしょう。行けばいいじゃないの」
「いいえ」
美和子はそこで一旦言葉を止め、息を吸った。
「私が言いたいのはそんなことじゃないわ。私は惜しみなく与えているのに、どうしてあなたからは何も返って来ないのかってことよ」
「与える? 返す? 何言ってんの?」
波江は呆《あき》れたように顎《あご》をしゃくった。その場にナイフがあったら、美和子はそれを手にしておどりかかっていただろう。
「ううん、波江。私はわかってるのよ。あなたには、私に与える何物もないってことをね。傷心の友人に夕食を作ってあげる思いやりもなければ、有効なアドヴァイスをする能力もない。だってあなたの中には何もないんだもの。少なくとも、私が持っていなくて、必要としているものはね」
「だって」
波江は下を向いた。眼の下に隈《くま》ができていた。外泊が続いて疲れているのだ。後ろめたさをおぼえながら、美和子は波江を睨《にら》み続ける。
「小田島さんとのことなんて、訊《き》かれてもわかんないよ。別れるか続けるか、どっちにしろなんて言えないよ」
「そうじゃないでしょ」
あやうく涙ぐみそうになり、唇の端を両側にぐいと引っ張る。話を聞いて、こうなんじゃないか、ああなんじゃないかと言葉を返して欲しいのだ。こうしたらああなるから、じゃあこっちにしよう、と決めるまで見守って欲しいのだ。
「自分のことは結局、自分で決めるしかないわけだしさぁ」
波江はヘアブラシの柄を持ち、先をぽんぽんとはずませた。
「じゃあ、恒丸のことはどうなのかしら」
「だからぁ、それは感謝してるって言ったじゃん」
感謝してるだと? そのお返しが、部屋を明け渡すことなのか? ずっといてくれていいよ、なんて口先だけいいことを並べて、その実、私をほっぽらかして男のところへ逃げただけじゃないか。私のおかげで手に入った男のところへ。
「波江、私はあんたのことなんか大嫌いだった。整形で嘘つきで。あんたの嘘なんか、全部お見通しよ。上智卒は大嘘でしょ。本当は大学受験もしたことない。勤めてたのは松久じゃなくて、松久電器工業だよね。私が口にしたカッコイイ言葉を、あんたはすかさず真似をした。きっと、あんたがしゃべるカッコイイ言葉は全部誰かの物真似だよね。私のルームメイトも、ジャニスも、英語の勉強法も、私の持っているものを遠慮なく奪っていった。柴野さんだって、最初は私のこと気に入ってたの、気づかなかったわけじゃないでしょ。あんたの中身は全部、他の誰かの持ち物の寄せ集めよ」
「だからどうだって言うの」
美和子が感情的になれぼなるほど、波江は冷静になった。そしてそれが、ますます怒りに油を注ぐ。
「返してよ! 私から奪って行った分、返してよ!」
鼻の先が熱く痺れ、波江を睨む二つの目に涙がふくれ上がった。顎が細かく震える。窓から射す冬日の中で、波江はうっとうしそうに眉を寄せ、長い息を吐いた。
「返す、与える……友達って、そんなもの? 私は誰に何をしてあげても、お返しなんか期待しないよ」
正論であった。しかし何かが違う。奪われる一方だった自分。決して見返りを期待してやったことではないけれど、波江はできることさえしてくれなかったではないか。いつ? 今。最近。ここ十日ばかりの間にされた仕打ちを思い返し、美和子は床に手をついて、ついに泣いた。こらえても嗚咽《おえつ》が漏れ、コンクリートの部屋に反響した。
「私のことが、そんなに嫌いだったんだ」
美和子は息を止めた。そうよ、と違うわ、が胸の中で交錯する。
「それじゃあ今までつきあっていて、さぞかし辛かったでしょう。それを気づいてあげられなかったのは悪かったと思うよ。それだけは謝る。だけど私はあんたのこと、好きだったよ」
波江の声が薄い幕のように降りかかった。これはもう喧嘩ではないのだと美和子は知る。声は静かだけれど、きっぱりとした決意がこもっていた。痩せた膝が床を動き、さっと立ち上がった。足首でたるんだストッキングを美和子は見つめる。土踏まずのない、薄い足は軽々とむこうを向いた。
「返してよ、ちゃんと返してよ!」
声はわずかに反響する。
「さよなら美和子。元気でね」
ドアの閉まる音がした。
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こんなことって、ありかしら。
幼いって残酷なことだ。年下って傲慢《ごうまん》なものだ。
床の髪の毛と埃《ほこり》を拾い集めながら、美和子は半日泣いた。波江はいとも簡単に自分を見捨てた。
いつも片方だけが何かしてもらい、得をするのが当たり前の関係だった。与える方はいつまでも与え続け、餌をもらって大きくなった雛鳥《ひなどり》は親鳥の労を顧みることもなく飛びたってしまう。
私もそうだったのだろうか。真佐奈にあんなことをしたから、因果応報なのだろうか。そうではないと思いたい。過去の自分は、波江ほどはひどくなかったと信じたい。
だって私が造反を企てたのは、いろんな事情があったからだもの。波江みたいに男に狂って、世話になった人を足蹴にしたわけじゃない。
持って来た衣類や化粧品を、美和子はバッグに詰める。泣き疲れた顔は腫《は》れて火照っていたが、頭は妙に冴《さ》えていた。
「私は波江とは違うわ」
誰も答えてくれない他人の部屋に、声はむなしく響いた。
真佐奈と別れよう。真佐奈の覚醒剤《かくせいざい》使用を知った美和子は決意した。
一番最初にしたことは、小田島と寝ることであった。一人で立ち向かうには、真佐奈は強過ぎる相手だった。東南アジアに売られ臓器を抜かれても、すぐには誰も捜してくれる人のない美和子だったから、つかまる浮き輪は絶対に必要であった。そして一計を案じた。それをすれば、真佐奈はこれまでのように自分に手出しをしてこなくなるだろう。三万、五万と金を毟《むし》り取って行くこともなくなるだろうし、何よりも、水商売を退く邪魔をしなくなるはずだ。従順に、何でも言うことを聞いてきた自分を、真佐奈は、思い通りになる便利な手下と思っているふしがあった。こちらにも意志があり、行こうとする道があることを、わかってもらわなくては困る。そしてそれが、真佐奈の道と違うことを。できるだろうか。いや、やるのだ。自分は今、崖っぷちに立っていると美和子は思った。
陽射しの色が、夏の終わりを告げていた。水商売の女は、できるだけ薄着をするのが義務だが、季節をいち早く装いにとり入れるのもお洒落《しやれ》とされている。だから、夏から秋への変わり目に着るものはたいそう難しい。まだ冷房のきいた店内で、プレスから上がってきたばかりの、ウール素材のヴェルサーチを着るのも悪いことではないが、デシン(フランスちりめん)の深い赤の方が粋だ。
もっとも、そんな繊細なお洒落は店の中ですればいいことだ。銀座で一流を自認する女達は、普段着までクレージュやサンローランを揃えようとするが、美和子は普段着なんかどうでもいい。薄汚い格好はしないが、普通の娘が親しい女友達に会う時の服が、自分には一番似合うと思う。
真佐奈の恋人・鮫島浩輔と会う時も、美和子はそんな格好で出掛けた。カルバン・クラインの白いTシャツにデプレの黒いパンツ。シンプルで体の線をきれいに見せるその組み合わせが、美和子は好きだった。
映画の撮影が終わった鮫島浩輔が、東京に来ていることは店中の誰もが知っていた。客が入る前のひととき、真佐奈がノロケまくっていたからである。「浩輔がね、浩輔がね」と子供のようにはしゃぐ真佐奈を、美和子は醒《さ》めた目で見ていた。真佐奈の部屋に泊まっている浩輔を呼び出すのは難しいかと思われたが、チャンスはすぐにやってきた。
夕方の四時、美和子はまず真佐奈の部屋に電話を入れた。その日、真佐奈は金づるに買ってもらった着物を着るため、早くから新橋の美容院に出かけるはずである。これも真佐奈が店で自慢していたから、知っているのである。オミズ御用達のその美容院は、なんと二十分で髪を結い上げ、しかも巧いと評判である。客の誰もが煙草を喫うため、夕方の店内は煙で真っ白になるという。
真佐奈の部屋の電話に、当然、浩輔は出なかった。客かもしれないのだから、出るわけがない。留守番メッセージを聞いて、美和子は受話器を置いた。真佐奈がいないことが確認できれば、それでいいのだ。美和子はサンダルをつっかけて、真佐奈のマンションを訪ねた。
「美輪です、真佐奈さんの弟子の美輪です」
ドアの前で怒鳴った。
「あい」
出てきた男は不精|髭《ひげ》を生やしていた。肌も黒いし、眉も睫毛《まつげ》も濃い。全体的に黒っぽい男であった。ちょっと時代遅れの深い二重|瞼《まぶた》の奥に鋭い目が光り、俳優だけあってなるほど美しい男だ。
「真佐奈いないよ。美容院」
低音のいい声だった。無愛想だが冷たさは感じない。
「いいんです。私、浩輔さんにお話があって来たんです」
浩輔は「え?」という顔をして、自分を指差した。不器用ないいヤツに見えた。
「あがる?」
「いえ、ちょっと外に出られませんか」
二人はマンションの向かいの喫茶店に腰を下ろした。Tシャツの半袖を肩までまくりあげ、肉体労働者のようにそこからセブンスターを取り出す。こういう仕草に、真佐奈はきっと胸がきゅんとするのだろう。銀座で金持ちを見慣れた真佐奈が、浩輔に惹《ひ》かれる気持ちはわかる気がした。
「あんたは確かまだ駆け出しだろ、水商売」
浩輔はにやりと笑った。やはり真佐奈と同い年には見えない。二十代後半ぐらいの感じだ。
「ええ、そうです。だから真佐奈さんに色々お世話になっているんです」
さっきから浩輔の目が、自分の胸元を見ていることを美和子は知っている。骨細で痩《や》せているわりに豊かな胸は、服の装飾が少ないほど強調される。釣り鐘型につんと上向いた胸を、彼は注視していた。美和子はコマを一つ進めた。
「ちょっとご相談がありまして」
「何。俺、金はないよ」
「そうじゃなくって、真佐奈さんのことです。実は真佐奈さん、私にお金を借りに見えるんです。お世話になった人ですから、何とかしてあげたいんですが、私も私でいろいろ都合があるものですから、困ってまして」
浩輔は口を尖《とが》らせて、少しの間黙った。そして口を開いた。
「あんたさあ、ずいぶんヒドイんじゃないの」
美和子ははっとして浩輔を見る。
「真佐奈のおかげで、ずいぶん貯め込んだんでしょ。お礼にピンハネされんのは、どこの業界だってしょうがないでしょ」
甘かった。こういう流れになるとは。舌打ちしたい思いであった。それはうちの真佐奈がご迷惑をおかけしてすみません、とはいかないまでも、真佐奈がそんなことをしていたのか、と驚き、家に帰って真佐奈と顔を合わせた時に、「あのコも困ってるんだから」と諫《いさ》めてくれることを期待していたのである。
「でもお礼の分はちゃんとお渡ししたんです。最初の約束通りに。でもその後も週に二回はうちにやって来て、だらだらと三万、五万と持って行くんです」
「ちゃんと、イロつけて渡した?」
「い、いいえ」
「それマズイんじゃないの。感謝の気持ちはきちっと表わさないとさ、相手は不満が残るよ、そりゃ」
では真佐奈が正しいのだろうか。八十万と約束して、その通りの金額を渡した自分が間違っていたのだろうか。仮にそうだとしてもだ。あの時、真佐奈は「八十って言ったら百寄越すもんだよ」とこちらを睨《にら》みつけたが、差額の二十万は、小分けにしてとっくにかすめ取られている。どこまで取られればいいのだろうと思うからこそ、不安になったのだ。イロ分は何回かに分けてとっくに渡したと伝えたが、
「しょうがないんじゃないの」
浩輔はさっさと席を立った。失敗だ。あのぶんでは真佐奈に伝わらない。おそらく浩輔は、今聞いたことを「くっだらねえ」とブン投げて、そのまま忘れてしまう。ならば。美和子は翌日、次の手を打った。
「真佐奈のことで話って、何だい」
梅田は急かすように言った。梅田も美和子の尖った胸にじっと見入ったが、それは一瞬だった。「真佐奈さんのことで相談が」と持ちかけたら、会社からぬけてきたのである。早く済ませたいのも道理であろう。
梅田は真佐奈の目下の金づるである。歯科医の南條に失敗した後、タイミング良く現れて真佐奈に惚《ほ》れ、おかげで美和子は南條の件での失敗を、長く恨まれることなく放免された。親の資産を税金で持って行かれないために、ビルを建てたりガソリンスタンドを経営したり果物を輸入したり、いろんな会社の社長や副社長を名のってはいるが、どれも兄任せで、本人はいたってお気楽に壮年のぼんぼんを謳歌《おうか》している。
「店のことかい」
ぐびりと音をたてて、彼はコーヒーを飲んだ。
真佐奈はこの男から、これまでいくらぐらい引っ張ったのだろうか。美和子は彼の、まばらに毛の生えた額を見る。お気の毒なそこには、汗の玉が浮いていた。真佐奈はどうせのっぴきならない事情をでっち上げ、「どうしても必要なの」と涙を浮かべて金を受け取ったに決まっている。
「真佐奈さんがお金に困っているのは、ご存知ですよね」
「うん。お母さんの病気は大変だよな。腎臓透析は金を湯水のように食うからね。亡くなったお父さんが残した借金もあるし、子供の入園入学。金ってのは出る時は一度に来るからね」
そういう戦法であったか。
「俺はこの間、横浜の真佐奈の実家に行って来たよ。あなた様のおかげで生きておりますってお母さんが泣いてね」
本当に気合入れてだます時は親掛かりよ、と以前、真佐奈から聞いたことがあった。おそらく真佐奈の母親も、水商売上がりだろう。
「子供達が大きくなってきて、自分の部屋を欲しがるだろ。男の子と女の子一人ずつだから、そろそろ部屋分けないとまずいしね。上の男の子が学校で言われるんだそうだ。『お前んち、ちっちゃいな』って。可哀想だよなあ。俺んとこのマンションさ、山手にあるやつを真佐奈にひとつやろうかと思ってるんだ。やってもいいんだけどね、俺がためらっているのはね、場所が山手だってことさ。子供を育てるのにいい環境かどうか、ねえ」
迷っているのは本当は場所なんかじゃない。それをくれてやったら、真佐奈が手に入るのかということだ。それにしても、と美和子は感心する。三十五歳の子持ちの女が、寝もしないで不動産をもらい受けるほど男を骨抜きにしているのである。真佐奈の腕前は、さすがだ。いや、感心している場合ではない。自分の身を守ることをしなければ。
「それでね、梅田さん。私、困ってるんです」
ありったけの可愛らしさを演出するが、梅田には何の意味もなさないようだ。
「何が」
コーヒーカップの上から出た目は、全く醒めていた。お前が困ってることなんて俺には関係ないぜと、その目は告げている。ただそれが、真佐奈とどうつながっているのか、簡潔に話せ、と急かしていた。
「私にまでお金を借りに来るんです」
客に内幕を暴露するのは掟《おきて》破りだけれど、これなら真佐奈に決定的なダメージを与えることはないだろうと思った。それほど真佐奈は金に困っているのだから、よろしく頼みますよ、という風にとれないこともない。そして梅田は浩輔と違って、間違いなく、真佐奈に今日のことを話すだろう。こちらが動き出したことを知れば、真佐奈は慌てるはずだ。何しろ自分は、真佐奈の手のうちを全部知っているのだから。今日のところはここまでだ。美和子はかすかに頷《うなず》く。私にもアクションを起こすことができるんですよ、と伝われば十分だ。それで銀座を退くことを認めてくれ、覚醒剤を受け取る使いっ走りをさせられなければ。そして、それを買う金をせびりに来なければそれでいい。もし今後もそれらが続くようならば、と考えながら息を吸った時、梅田が口を開いた。
「いくらぐらいだい」
梅田は煙いように目を細めた。
「三万とか五万とか、大した額じゃありません。でも私も楽じゃないもんですから」
美和子は困った顔をつくる。梅田は斜め下を向き、じっと何か考えていた。
真佐奈はその夜『雛乃』を休んだ。顔を合わせなくてすんだことにほっとしながら、時間が経つほどに重苦しい気分に包まれた。
次の日の夜、美和子は客と同伴して九時近くに店に入った。
「いらっしゃいませ」
黒服がかしずく。客を彼らにまかせて美和子は一度、化粧室に消える。客待ちのソファに、後ろを向いた真佐奈の丸い肩がちらりと見えた。
落ち着け。顔を合わせるぐらいでびくびくしてどうする。
パフで顔を押さえながら、鏡の中の自分に言い聞かせる。
私は自分を守るために立ち上がったんだ。もしも真佐奈が変わらなければ、私はもっと戦う。私は負けない。絶対に。
ペンシルで唇の輪郭を描き直し、その内側をリップグロスで埋めてゆく。ビューラーでもう一度|睫毛《まつげ》をはさんで上向かせ、髪を整え、ロングミラーで全身をチェックしてから化粧室を出た。客は奥の卓に通され、黒服が相手をしていた。
客待ちソファに近づいて行く。その前を横切らなくてはならない。十五人ほど並んだホステス達の視線が、全身に刺さるように感じられる。気のせいだと思いながら顔がこわばった。
「おはようございます」
視野の端に、真佐奈の茶色い髪が見えた。いけない、と止めるのに、目がそちらに吸い寄せられてゆく。一歩、一歩、足を進めながら、真佐奈の手が、鎖骨が、耳が、ゆっくりと視界を行き過ぎ、もうすぐ見えなくなるという時、ちらとそちらを見た。美和子は心臓を貫かれる。
あんたは私を裏切ったのね。
その目は悲しく訊《き》いていた。
「クラッシュド・アイスをお願い」
客の隣に腰掛け、ヘネシーをフラッペにして飲む客のために、砕いた氷を頼む。
「だって峰岸さんてばぁ」
嬌声《きようせい》を上げながら、頭は真佐奈から離れない。傷つけた。私は世話になった大恩人からもらった刀で、その人を刺した。真佐奈の耳に入れたのが梅田か浩輔かはわからない。けれど真佐奈の、静かな悲しみをたたえた目は、浩輔から聞いたためではなかろうか。
とりかえしのつかないことをした後悔が広がる。けれど、こうする以外、何ができただろう。逆らわなければ、自分はいつまでも真佐奈の手下のままだ。それにしても、もっと別の方法があったのではあるまいか。反逆を企てる前は真佐奈にされたひどいことばかり数えていたのに、今はよくしてもらったことが鮮明に甦《よみがえ》ってくる。
美和子はロックのブランデーを一息にあおった。もう一杯飲み、それから手の甲で口をぬぐい、客の唇にむしゃぶりついた。卓についていた女達が「ヒュー」と声を上げる。
私は何をやってるんだろう。目を閉じて客の舌を吸いながら、真佐奈のぬめるような背中がドアから消えてゆくのを美和子は確かに見た。そしてそれきり、真佐奈は『雛乃』に現れなかった。
あの時。真佐奈を裏切る前、自分は怖かった。真佐奈にとりこまれて、一生いいように使われるか、さもなければ本当に東京湾に沈められてしまうと思った。だから、しょうがなかったんだ。波江とは違う。美和子は自分を慰めながら表へ出る。白く煙る息が、その場で凍りつきそうな夜だった。大きなバッグを持ち、タクシーに手を上げた。
「白金まで」
無言のまま、車は発進する。今頃、波江は男にさっきの一件を告げ口しているだろうか。きっと、かつて自分が小田島にしたように、徹底的に自分を被害者に仕立て上げ、都合の悪いところは大胆にはぶいた報告だろう。自分のことであっぷあっぷしている人間は、逆に強い。目先に大変なことがぶら下がっているから、他人の名誉などどうでもいい。自分可愛さだけを前面に押し出して、何の呵責《かしやく》も感じないでいられるのだ。
あの時、小田島は言った。
「売掛け金は全部払ってあげるから、すぐに店を辞めなさい」
社長の宮園に店を辞めると申し出、自分に八百万もの売掛け金がかぶさっているのを知った直後である。鮫島浩輔や梅田に、真佐奈から金をせびられて困っていると密告したことは蓋をして、自分がいかに被害者であるかだけをまくしたて、嘆いた。
小田島はこう続けた。
「僕はすごい金持ちじゃないけど、何とかならない金額じゃない。早く水商売との関わりを断った方がいいだろう」
美和子は首を振った。小田島を愛し始めていた。自分の不始末の尻拭《しりぬぐ》いをさせるのは、あまりにも心苦しい。それに、これは自分で決着をつけるべき問題だ。
貯金通帳には五百万がある。小田島を始め、複数の男から騙しとった金だ。それを売掛け金に充てれば残りは三百万で、店への支払いもぐんと楽になるのだが、それはどうしてもイヤだ。
大事な留学資金を、寝るよりもシンドイ思いをして貯めた金を、客の飲み代なんかに使ってたまるか。客達に、ちゃんと払ってもらう。集金して、店に払って、きっちり水商売から上がろう。
美和子は自らすすんで大荷物を背負ったのだった。
「そこの角を左です」
寺の角を曲がると、見慣れた薄紫のタイル張りのマンションが見える。電車の駅が近くにないのは不満だが、自分が住む場所はやはりここなのだと美和子は思う。
エントランスのインターホンで部屋番号を押したが、小田島は不在だった。自分で鍵を開け、住み慣れた家に灯りを点ける。ここで、明日からまた小説を訳そう。
「美和子なら必ずできるよ」
あれほどひどい目にあって帰って来たのに、耳に甦るのは波江の声だった。
これは面白い、と思う本を優先してレジュメを作り、五冊分たまったら編集者に送ることを続けた。出版社からは何の反応もないまま冬が往き、春が過ぎ、東京は梅雨に入った。美和子は二十七歳になっていた。
出版社でどのように扱われるかわからない、本のあらすじをパソコンに打ち込みながら、レジュメを郵送した後しばらくは、向こうから連絡がくることを願った。又ダメだったと落胆し、もうこんなことはやめてしまおうと何度も匙《さじ》を投げようとした。けれどそんな時、決まって波江の声が聞こえてくるのだった。
「美和子はできる人よ」
「続けていれば、チャンスは必ず来るんだよ。仕事ってそういうもの」
あれから絶縁状態のままで、金輪際仲直りなどする気もないので、波江の声が甦るのはシャクだったが、その声に導かれて作業を続けてこられた。ダンボールの本はあと数冊を残すのみとなり、それを全部訳し終えた時の不安は、もうなかった。これだけやってダメなら、違うことをやろうというすっきりした気持ちになっていた。小田島は離婚が成立しつつあり、それが済んだら、美和子を入籍したいと言う。どうしても結婚したいというわけではないが、それもいいかなと思う。専業主婦にはなりませんよと、宣言してあることだし。
久しぶりに晴れ間がのぞいた六月半ばの月曜日。洗濯機を回しながら朝刊を読んでいると電話が鳴った。波江が電話してこなくなってから、小田島が起きるまで電話の音を切る習慣がなくなっていた。
もしかして。
心臓が高鳴った。波江が?
美和子は走って行って受話器を取り上げる。
「もしもし」
残念ながら男の声であった。
「わたくしS社の早瀬と申しますが」
若そうな、高い声だった。どうやら小田島あての電話だ。担当の編集者は皆、小田島が午後でないと起きないことを知っているし、彼らも出社が遅いため、こんな時間に電話をかけてくることはない。しかしごくたまに、雑誌の取材依頼などで、知らない編集者が変な時間に電話してくることがあった。
「申し訳ございません、小田島はまだ休んでおりまして」
親しい編集者は、小田島のところに妻でない女が住んでいることを承知しているが、こんな時間にかかってくる電話には、秘書を装うことにしている。
窓に、いつの間にか降り出した雨があたっているのを、美和子はぼんやり見た。
「は? あの、加納美和子さんのお宅と違いますか」
「あ、ええ、そうですが。私です」
「S社文芸翻訳部編集の早瀬という者です」
「は、はい」
全身に、鼓動が響いた。
「時々、洋書のレジュメを送っていただきまして」
美和子は覚悟した。迷惑だから、もうやめてくださいと言い渡されるのだろう。
「ご連絡が遅れましてすみません。今年一月に送っていただいた『バッド・ガールズ』、先月うちの社で版権を取りまして、これに関しましてはリーディング、つまり下読みのギャラをお支払いします」
予想していたこととあまりにかけ離れたことを言われ、美和子は絶句した。勝手に送りつけたものがちゃんと読まれ、採用されていたなんて。早瀬という男はなぜかそこで、照れたように笑った。
「この作者はすでに訳者が定番で決まっているものですから、本チャンの訳まで加納さんにお願いすることはできないんですよ」
別にそこまで期待して送ったわけじゃないと弁解したくなるが、それは言わない方がいいような気がする。それに、舌がもつれてほとんど何も言うことができず、美和子はさっきから「はい、はい」ばかり繰り返しているのである。
「それでですね、四月に送っていただいた『パッション』、これはまだ決定というわけではないんですが、十中八九うちが版権を取ります」
それは美和子が買いつけてきて今まで読んだ本の中で、もっとも面白いと思った小説である。地位のある中年女性が、若い恋人に利用され振り回され、別れるまでを描いた作品だ。わがままな恋人に執着する女の心情が余すところなく描かれ、読み進むうちに主人公に肩入れせずにいられない。愛するがゆえに復讐《ふくしゆう》めいた企みをして別れるラストシーンは、思わず泣けてしまったほどだった。
「加納さん。やってみませんか」
美和子は耳を疑った。こんなうまい話が、自分に降ってくるわけがない。自分は仕事運のない女なのだ。
「TOEFL575点ならば英語力は十分ですし、いつも本のレジュメを拝読して、独特のセンスを感じていました。抑えた文章ですが、筆に力がある。『パッション』、やってみませんか。というより、まず一度お会いしませんか」
「はい。はい。喜んで」
こみ上げるものがあって、言葉にならない。泣いていることを知られたくなかった。
早瀬は、出版社のある場所と日時、それから社の受付で文芸翻訳部の早瀬の名を告げるよう指示して電話を切った。
それご覧なさい。美和子は必ずできるって言ったでしょ。
どこからか波江の声がした。波江。波江に知らせなくては。懐かしい電話番号は、指がしっかり憶えていた。
「……になった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになってもう一度……」
美和子は驚き、戸惑う。一度切ってもう一度かけ直してみる。流れるアナウンスは同じだ。引っ越したのか、電話番号を変えたのか、あるいは結婚したのか、以前の電話番号は使われていない。新しい番号を案内しないのは、本人が公開を拒否したのである。
それは多分、私に向けられた拒否だ。
胸が、きりりと痛んだ。
これでいい。これでいいんだ。私達は別れたんだ。会ったら、私達はきっとまた同じことを繰り返す。
「なぜ」「どうして」と、身悶《みもだ》えするような理不尽に耐えた時期を、思い起こそうとする。そして、もうあんな思いはたくさんだと吐き捨てるように呟《つぶや》く。
でも。
美和子はしゃくり上げた。
もう一度会いたい。あの声を聞きたい。大嫌いだけど、大好きだった。
受話器を握ったまま、美和子は眠ったようにじっとしていた。急に強くなった雨の音は、耳に少しも入ってこなかった。
角川文庫『調子のいい女』平成16年1月25日初版発行
平成17年4月10日3版発行