最悪
奥田英朗
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)川谷《かわたに》信次郎《しんじろう》は、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第三|京浜《けいひん》に入って流れにのると、
本文中の《》は〈〉で代用した。
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月曜の朝はここのところいつも納品日だ。川谷《かわたに》信次郎《しんじろう》は、六時には起きだし、朝の支度をはじめる。妻の春江《はるえ》が作った朝食をとり、健康のためにと自分でこしらえたぶら下がり機に一分間ぶら下がると、たちまち便意をもよおすので、トイレで用を足し、自宅隣の作業場へと向かう。二人の子供たちはまだ寝ている。
注文の部品は昨日のうちに仕上げてあった。つまり休日出勤をしたわけだが、それは、月曜日の納品だからつい気が緩《ゆる》んで金曜の作業がだらだらとしてしまうせいだと、信次郎は自分でもわかっていた。金曜中の納品ならば、もっと頑張って仕事を済ませ、週末を安らかに過ごせることだろう。
信次郎は使いこんだミニ・フォークリフトを操《あやつ》り、部品の入ったかごを、同じように使いこんだ二トン・トラックに積んだ。部品とはナットを打ちこんだレインフォースで、自動車の後部座席を固定する部分だ。これを午前八時に納めなくてはならない。
納品の日時が細かく指定されるようになったのは、トヨタが「ジャスト・イン・タイム方式」を考えだしてからだ。必要な物を、必要なときに、必要なだけ納入させる――。工場が在庫を持たないというこの素晴らしいアイデアは、倉庫管理の繁雑《はんざつ》さと経費を著しく軽減することから、あっという間に製造業全体に広まった。素晴らしい≠ニいうのは、もちろん親会社にとってだ。高速道路のドライブインで駐車中のトラックは、その大半が休憩のためではない。工場から指定された時間に合わせるべく、時間調整をしているのである。早く着いても中には入れてくれないし、遅れれば、言うまでもなくクレームがついた。近年では中規模の下請け企業もそれを真似るようになり、孫請けに対して同様の要求をするようになっていた。
信次郎は部品を積み終えると、荷台に幌《ほろ》をかぶせた。今朝は雨だった。タイヤの溝を指でなぞってみて、とっくに寿命がきていることに少し考えを巡らしたが、(大丈夫だろう)と自分に言い間かせて運転席に乗りこんだ。
キーを捻《ひね》ると、セルモーターが甲高《かんだか》い音を立て、続いてディーゼル・エンジンがどこどこと回りはじめた。充分に暖機運転をしたいところだが、早朝にこの派手なエンジン音は近所にはばかられるので、軽いノッキングを繰り返しながら五十メートルほど先の大通りまで出て、そこの路肩で車を暖めた。以前は、信次郎の工場「川谷鉄工所」の周辺といえば同業者か田んぼばかりで、誰に遠慮することなく音を出せたのだが、田畑はいつの間にか住宅に変わり、十軒以上あった町工場は半分に減り、新しい住民との付き合いに気を遣わざるをえなくなった。路地をはさんだすぐ前には真新しい七階建のマンションが建っている。
自販機で買った、缶だけがやけに熱いコーヒーを、てのひらを温めがてらゆっくりと飲み干し、ギヤをローに入れた。納入先の「北沢製作所」まで約二十キロ。この時間帯ならば三十分もあれば着く計算だった。北沢製作所は従業員三百人の中規模企業だ。大手自動車メーカーの部品を作っていて、自《みずか》らも多くの関連会社を抱えている。同業者の紹介で、川谷鉄工所は数年前からそのひとつに加わっている。幹線道路に出たところでラジオのボリュームを上げ、交通情報を聞いた。いまのところ事故のニュースはない。いつもの道順で大丈夫だ。
雨で視界が悪いので、いつもより慎重に運転した。隣の車線を大型トラックが駆け抜けるたびに、水しぶきが派手に上がり、フロントガラスが一瞬水槽になった。ワイパーは懸命に動いているのだが、水のきれが悪い。きっとワイパーブレードもそろそろ寿命がきているのだろう。
環状八号線から第三|京浜《けいひん》に入って流れにのると、胸のポケットからキャスターを一本取りだし火を点《つ》けた。一度禁煙したことがあるが、思いのほか簡単にやめられたことが却《かえ》って(いつでもやめられる)という安心感につながり、また吸いだすようになった。本数は減っているので、それほど気にはしていない。自営業者にとっていちばん気がかりなのは自分の健康だが、心配ばかりしていても仕方がない。
京浜川崎インターを下りて五分ほどで北沢製作所に着いた。小学校のグラウンドほどもある大きな工場だ。これでもメーカーの二次下請けというから、製造業のピラミッドは高い。信次郎が仕事で自動車メーカーの社員に会うことは一生ないように思われた。工場の敷地内に入ると、倉庫前にトラックを停め、幌をはずし、近くにあるフォークリフトに乗り換えた。勝手知ったる他人の庭で、誰かに断る必要はない。キーはいつも差したままだ。名札のかかった場所に部品を積み上げ、それが済んだところで伝票をもって事務棟へ行った。
「おはようございまーす」
元気のいい信次郎の声が、まだ人もまばらな事務所内に響いた。
「あっ、川谷さん。ごくろうさまです」顔見知りの女子従業員が椅子に座ったままうしろを振り向き、ぺこりと頭を下げた。「神田さん、まだなんです」
神田というのは外注課の担当者でチェックと判を押す立場にあった。
「ああ、いいですよ。雨だもんね」
信次郎は壁際の棚まで歩き、「川谷鉄工所様」と名札のかかった引き出しを開け、その中から新たな図面と注文書を取りだし、ざっと眺めた。この規模の工場ではたいてい仕事の発注がシステマチックになっている。担当者がいなくてもわかるように、すべては書類でやり取りがなされるのだ。図面には三角の仕上げ記号があり、そこが加工する箇所になっている。注文書には数量、期日、金額がコンピューターで打たれていて、それに合わせて必要な部品を搬出する段取りだ。手渡しでないせいか、あるいはコンピューターの印字のせいか、この方式を取るようになってから、金額や期日に厳しい数字が示されることが多くなった気がする。直接口では言いにくい要求も、書類ならやりやすいのかもしれなかった。
続いて信次郎は、スプリングが軋《きし》んだソファに腰を下ろし、テーブルにあったスポーツ紙を広げた。お茶が運ばれてきたので丁寧に礼を言ってそれをすすった。少し読んだところで、昨日の新聞であったことに気づいたが、ほかにすることもないので、ふだんは縁のない芸能ページを眺めたりする。
「よっ、川谷さん。ごくろうさん」見上げると神田が笑顔で立っていた。「巨人、また負けたね。オープン戦とはいえ困るよね」
「まったくねえ。松井はいいんだけど清原がねえ」
信次郎が八の字の眉にさらに角度をつけ、苦笑して見せた。得意先と共通の話題があることはありがたかった。神田が巨人ファンで初対面から打ち解けられたときは、少なからずほっとしたものだ。
「あれで三億三千万だもんね。テレビで一打席七十万円とか言ってたけど、ほんと、いやになるね」
「こっちは一個で何円何十銭って世界だもんね。あはは」
グチに聞こえないよう、信次郎はつとめて明るく笑った。今回の納品は一個の加工賃が五円三十銭。三百個でワンロットとなり、十ロット引き受けていた。それを信次郎は約七時間で仕上げた。時給にするとどうなるのかなとも思うが、正確には運送の手間もあるので、計算する気にもなれない。
「外人もだめだし」
「ほんと。あれだって億の金、積んでるんでしょ」
「あれじゃあ若手がかわいそうだよ」
「ほんとにね……」
「じゃあ判、押すから」
信次郎が顔を見ると、神田は「ここへ来る前に倉庫へ寄ってきたから」と先回りして言い、机の引き出しから判を出した。
「発注書、見た? 次は三十ロットだけど、いいかな」
「えっ」信次郎があわてて書類を見る。いつもと同様の十ロットかと思っていたら、そこには確かに三十と書かれていた。「あちゃー、ほんとだ。でも、これで月曜日っていうのはきついんじゃないですか」
「うーん……」神田が唸《うな》る。
信次郎は肩を小さく揺すって笑い、抗議が冗談であることを態度で示した。出来ないと言えばその仕事はよそに回るだけなので、ここで引き下がる自営業者はいない。
「無理なら十ロットを月曜日に入れてもらって、残りは後日でもいいんだけど……。まあ、それはこちらの見込みだからね」
下請け製造業はときとして親会社からの注文を見越して部品を作ることがある。「ジャスト・イン・タイム方式」に合わせるためだ。見込みだから作り損になる可能性もあるが、もちろんそれに対して親会社は一切の責任を負わない。
「ま、大丈夫でしょう。やらせていただきますよ。運ぶの、二度手間になっちゃうし、いっぺんでやりますよ」
「あ、そう。悪いね、いつも」
いかにもすまなさそうに神田が頭を掻《か》いた。
神田は、取引先の中ではいちばん人のいい担当者だった。現場や親会社から無理を言われたストレスをその下にぶつける人間が多い中で、そこそこ孫請けに気を遣ってくれるほうだ。声を荒らげたことは一度もない。
「あっ、それから、これね」
神田が引き出しから手形を取りだし、信次郎に差しだす。月末は集金日でもある。
「毎度どうも」
信次郎がおどけて、相撲取りが懸賞金《けんしょうきん》を受け取る手つきをする。
「どう、川谷さん。儲《もう》かってる?」
「あはは。まさか。青息吐息《あおいきといき》ですよ」
「タレパン、入れればいいのに。川谷さん、慎重なんだから」
タレパンとはタレットパンチプレスのことで、合板金から型をくりぬく大型機械だ。神田はこのところ、信次郎に設備投資を勧めている。
「そりゃあ、資金のあてがあるなら入れてもいいけど、うちなんかまず銀行が相手にしてくれないですよ」
「そうかなあ。あの線路の向こう側の」神田は顎《あご》で差した。「かもめ銀行にでも相談してみたら? せっかく取引があるんだから」
「まさか。だってあそこは天下の都銀でしょう」
「都銀だとだめなのかい?」
「そうですよ。神田さんは知らないだろうけど、うちみたいな町工場には絶対に金、貸しませんよ」
「ふうん。そんなもんなのかねえ」
「そうですよ。こんな大きな会社に勤めてるとわかんないでしょうけどね」
「どこが大きな会社なのよ。うちだって親会社次第なんだから」
神田とは始業のベルが鳴るまで世間話をした。
荷台が空《から》になったトラックを駆って、信次郎は北沢製作所をあとにした。納品を無事終えたときの小さな達成感を味わいながら、今度は調布《ちょうふ》の取引先へと向かった。ここでエレベーター用の部品を受け取るのだ。依頼された仕事はネジ穴開け。加工賃は一個あたり七円五十銭。雨脚《あまあし》が少し強くなったので、スモールランプを灯して慎重にトラックを走らせた。
信次郎が「川谷鉄工所」を興《おこ》して十八年になった。順風満帆《じゅんぷうまんぱん》とは言い難いが、よくもたせたものだと、自分で自分を誉めたい気分ではあった。たぶんそれは、勤勉な信次郎の性格によるところが大きいだろう。
親戚の叔父《おじ》から鉄工所をやらないかという話があったのは、東京郊外の文具屋の次男として生まれ育った信次郎が、二十八歳のときだった。荒川区で町工場を開いていた叔父が、後継者がいないことから事業をたたむことになり、設備を、いくつかの得意先を付けて、安く譲ってもいいという申し出があったのだ。このとき信次郎は自動車整備工場で働いていて、すでに妻と子供が一人いた。
給料が思うように上がらないことに不満を抱いていた信次郎は、この話に乗り、しばらく叔父の鉄工所で働いて仕事を覚えることにした。自営業の不安定さを身にしみて知っている母親は反対したが、父親は「やってみろよ」と応援してくれた。父は自分が連帯保証人になって、国民金融公庫から開業資金を引きだす算段も整えてくれた。
一年間の修業を終えて信次郎は独立した。東京の西に、住居が併設された願ってもない物件を捜しだし、看板をあげたのだ。近所には同業者も多く、それが心強かった。二階建の母屋《おもや》と百八十平方メートルの広くて屋根の高い作業場。合わせて二十万円の家賃だった。迷わず契約し、叔父の工場から溶接機、ネジ穴を作るタッビング工作機、小型のプレス機を運び入れた。トラックは思いきって新車を購入し、荷台の横腹に社名を入れた。三十歳を前にしての独立に、信次郎は誇らしい気持ちだった。長男・信明《のぶあき》が二歳、長女・美加《みか》が春江のおなかの中にいた。
最初は叔父の工場で働いていた年配の男と二人で、溶接の注文を中心に仕事をした。働いただけ金が入るというのは、やはり気分がよかった。どれだけ残業しても、休日に働いても、収入が増えることを思えば苦にならなかった。むしろ信次郎は仕事に夢中になった。いつか家を建てようと、夢もふくらんだ。長女を出産すると、妻も戦力に加わった。機械を操作するだけの作業なら女にもできたし、電話の応対や帳簿付けには助かる存在だった。
当時、業界全体の景気は決してよくはなかった。数年前に一ドルが二百円を割ったときから、あちこちのメーカーは輸出をストップし、そのあおりで倒産する下請けはあとを断たなかった。ただ、それは多くの従業員を抱え、多額の設備投資をした企業であって、もともと吹けば飛ぶような信次郎の工場は、どんな小さな仕事も受けるため、逆に重宝《ちょうほう》がられた。大切なのは、細かくても多くの取引先をもち、注文が特定の企業に偏《かたよ》らないようにすることだった。信次郎は町工場のセオリーを守っていた。
そうこうしているうちに、バブルがやってきた。
最初にそれを予感したのは、それまで縁もゆかりもないイベント会社が看板作りを依頼してきたときだった。舞台で使うという複雑な形の看板をなんとか仕上げると、とんでもない金額が口座に振り込まれていた。「当初の見積りでは苦しい」と、途中で泣きを入れただけで一挙に倍になったのだ。その会社はいきなり得意先のナンバースリーになった。注文で猿回しのステージセットまで作った。
続いて現れたのは不動産屋だった。「立ち退く気はないか」と切りだすので一瞬真っ青になったら、立ち退き料を二千五百万円払うと言われ、今度は頭の中が真っ白になった。水道橋の十坪の印刷屋の立ち退き料が三千万円、などという話が仲間内で急速に飛び交うようになった。
わずかのタイムラグを置いて、受注する仕事のロットが増えだした。狐につままれたような気でいると、周囲の同業者が騒ぎはじめた。「カワさん、手伝ってよ」「冗談じゃない。こっちだって人手が足りないんだ」困りながらも顔は笑っていた。新聞は車や家電製品が飛ぶように売れていると伝えていた。信次郎がはじめて経験する好景気だった。みんなの鼻息が荒くなり、自然と気も大きくなった。初めて出稼ぎ外国人を従業員として雇った。商工組合の仲間と台湾旅行にも行った。
不動産屋は銀行を連れてくるようになった。いつのまにか立ち退き料は六千万まで上がっていて、銀行は融資するから土地を買えと言った。もっとも信次郎にとっていちばん切実なのは人手が足りないことだった。工場を建てて設備を増やしたところで、3K職場と嫌われた町工場に働き手があるとは思えなかった。信次郎は決断を先送りにして、日々の仕事に追いまくられていた。度胸がなかったのかもしれないと思うことはある。新たに数千万円の借金を抱えるのは、知りもしない船の操縦を任されるようで、自分には荷が重すぎたのだ。
まごまごしていたのが信次郎には幸いだった。不動産屋が顔を見せなくなり、イベント会社が不渡りを出し、レギュラーの仕事まで激減したところで、新聞やテレビで「バブル崩壊」の文字が躍《おど》った。わずか五年の泡景気だった。
業界全体が真っ逆さまに落ちていく感じだった。取引先がよそよそしくなり、銀行がてのひらを返した。仲間とは寄ると触ると倒産した同業者の噂をし合った。攻めに出た業者ほど悲惨で、多額の設備投資をした近所のプレス工場はあっけなく倒産した。血の気《け》のうせた主《あるじ》の顔は、つらくて正視できなかった。担保割れしたから金を返せという銀行のやり方には、他人事《ひとごと》ながら腹が立った。国民金融公庫や保証協会の取り立ての厳しさにも驚かされた。倒産した経営者たちは、公的融資機関が中小企業の味方にはならないことに怒りが収まらないようだった。信次郎はといえば、蓄《たくわ》えは作ったが、何枚かの不渡り手形をつかまされたうえに月の売り上げも半減し、結局はチャラになった。
暇になった。あまりの暇さに、パキスタン人従業員が気の毒がって辞めた。三日間電話がかかってこないこともあり、そんなときは、このまま取引先から忘れ去られるのではないかと思い、孤独にさいなまれた。
円高も追い討ちをかけた。一次下請けの中には、メーカーから三十パーセントものコストダウンを強《し》いられたところもあり、当然のようにその皺寄《しわよ》せは孫請けにも及んだ。仲間と集まっても、いい話はまるでなかった。
このころ、一度呼吸困難に陥《おちい》ったことがある。夜寝つけないでいると、突然息ができなくなり、空気を求めてパジャマのまま外に飛び出したのだ。一度だけで再発はなかったが、妻の狼狽《ろうばい》した顔は目に焼きついた。慣れない営業活動がストレスになったのだろうと、自分で推測をつけた。先行きが見えない恐怖は、自営業の宿命とはいえ信次郎を暗くした。
二年ほど苦しい経営が続き、円高が峠《とうげ》を越えたところで、川谷鉄工所も少しだけ上向きになった。営業努力の甲斐《かい》あって自販機メーカーの系列に加われたのだ。飲料水やたばこに景気はあまり関係がなかった。精神的にもらくになった。きっかけは実にささいなことだった。賃貸契約を更新する際、不動産会社が自発的に、上がっていた家賃をバブル以前に下げたのだ。たかが数万円だが、信次郎は「不動産屋も捨てたもんじゃない」とうれしくなり、少し世の中を見直した。
都銀との取引も始まった。もっともこれは得意先の北沢製作所からの断れない依頼だった。その地区の担当行員が自分のノルマをこなすため、北沢製作所の下請けを紹介してもらい、半ば強引に口座開設を要求したのだ。ただ、そこには五百万円の定期があり、それが信次郎の虎の子となっている。信用金庫の預金も合わせれば、十八年で蓄えた金が合計八百万ほどある。困ったときは「いざとなればあの金があるんだ」と自分を勇気づけている。
以後、相変わらず景気は停滞したままだが、川谷鉄工所はなんとか続いている。量の多い仕事が海外に移ってしまったり、親会社からのきついコストダウン要求はあるものの、地道をよしと覚悟すれば工場は維持はできた。
自営業は、どこかで達観しなければならないところがある。信次郎がこの十八年で身につけたのは、「他人に多くを期待しない」という癖《くせ》だった。あてが外れたぐらいでいちいち落胆していたら、とてもじゃないが身がもたない。その姿勢は従業員に対しても発揮されていて、信次郎はめったなことでは怒らない。自分が我慢して済むことならば、それで済ませるつもりでいる。
現在の従業員は、出稼ぎで日本に来たタイ人のコビーと、二十歳の松村の二人だ。コビーは故国に妻と子供がいて、ふた駅離れたところにタイ人仲間と共同でアパートを借りて住んでいる。怪しげな日本語を悪びれることなく話し、近所の子供に面白がられている。人材派遣会社から斡旋《あっせん》された研修生という名目の外国人労働者で、一年目は月に九万八千円をブローカーに支払えばいいことになっている。コビーがそこから受け取るのは、信じられないことだが、二万五千円だ。松村は実家からの通勤だが、この若者は極度の引っ込み思案らしく、ほとんど口をきかない。信次郎の息子と同年齢なので、却ってそれがやりにくいのかもしれない。息子の信明は、どういう遺伝子を受け継いだのか、国立の外語大学に通っている。そして松村とは、たぶん別世界の青春を送っている。
川谷鉄工所を息子は継ぐつもりはない。信次郎もそれを望んではいない。そんなときは、母親が自営業に反対していたことを思いだし、一人苦笑してしまう。
調布経由で工場に戻ると、信次郎はトラックから積み荷を降ろし、早速新しい作業の準備をした。コビーと松村は、先週から続いている自販機部品のスポット溶接をこなしていた。
「シャチョさん、おかえりなさい」
コビーが屈託なくほほ笑み、松村は黙ったまま小さく頭を下げる。プレハブ資材で囲っただけの事務室から春江が浮かない顔で出てきた。
「ねえ、おとうさん」
「うん、どうかしたのか」
「前の太田さんって覚えてる?」顎で向かいのマンションを差した。
「ああ。あの派手な眼鏡した奥さんだろ」信次郎の顔が少し曇る。「また何か言ってきたのか?」
「日曜は音を出さない約束でしょ、だって」
「そんな約束してないよ」
どうやら昨日の作業についての苦情らしかった。
「そうよね、してないわよね」春江が口をとがらせる。
「で、何だって?」
「これからは気をつけてほしいって」
「無理だよ、そんなの。今度の土日だって仕事だよ。北沢製作所、三十ロットだもん」
「じゃあ、おとうさん、言ってよ」
「ああ、今度何か言ってきたらおれが話してみるよ」
信次郎は作業場の隅で自分でお茶をいれると、少しぬるいそれを立ったまま飲んだ。
これでも機械の出す音には気を遣っていた。付近に住宅が建ちはじめたころから、誰に言われるでもなく吸音材を壁に組み入れたのだ。その費用だけでも数十万はした。音は町工場にとって共通の悩みだ。隣の「山口車体」の社長は、「あとから来ておいてふざけるな」と息巻くが、信次郎はそこまで開き直る気はない。引っ越した当初は、隣の夜間騒音に辟易《へきえき》したこともあるのだ。
信次郎は自分に気合を入れるように伸びをすると、タッピング工作機の前に座った。これで預かった部品にネジの溝を刻むのだ。右側に加工する部品の山を積み上げ、左側に出来上がったものを入れる鉄製のかごを置く。文庫本ほどの合金板を機械の台座に載せ、穴の位置を合わせたところで右足でペダルを踏む。甲高い金属音とともにドリルが降りてきて、穴の内部に溝が彫られていく。これでネジ穴の完成だ。左手でかごにほうり込みながら同時に右手では部品をつかんでいる。
信次郎は、この作業を一時間に五百個のペースで仕上げていく。
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雨の日と月曜日は憂鬱《ゆううつ》だ。
家の玄関を出たところで、藤崎みどりはやけに暗い朝の空をうらめしそうに見上げ、駅まで自転車で行くか歩いて行くかを考えた。小雨なら傘をさしながら自転車に乗るのも平気だが、雨脚が強くて風があるとそれがむずかしくなる。今朝はその中間で迷うところだった。いつもより五分早く支度をしたから、歩いても電車に乗り遅れる心配はないが、パンプスが濡れることを考えると少し躊躇《ちゅうちょ》してしまう。もっとも自転車に乗ればさらに派手に濡れるのだから、この思案はただの時間の無駄だった。骨を折って少し濡れるか、少しらくをしてたくさん濡れるか、考えたくもない選択があるだけなのだ。まったくバス停もない場所に建て売りなんか買っちゃって……と方向ちがいの恨みを親にぶつけたところで、みどりはふとガレージに目をやり、自転車がないことに気づき、目を軽くつぶる。
また妹だ。妹が勝手に自転車を持ちだし、おまけに外泊したのだ。
ほんとうに雨の日と月曜日は――。門扉《もんぴ》を、手ではなく足で押し開けて、みどりは大きく溜息をついた。昔の外国のポップスにそういう曲があったらしい。そんな日は、まだ二十代なのに、もう若くはないとブツブツつぶやきながらすべてを投げだしたくなってしまうという歌だ。その女性シンガーは拒食症の果てに死んでしまったそうだが、なんとなくわかるような気がした。この手の感受性は、ときどき波のように押し寄せてきては、世界中の女の子をブルーにするものだ。湿気でヘアスタイルが決まらない。それだけのことでも、死ぬのは大袈裟《おおげさ》にしても、朝食のヨーグルトに「おまえなんか食べてやらない」と毒づくぐらいの気は起こさせる。
ましてや三十日《みそか》が重なると、みどりの週明けは最悪だ。雨の日と月曜日と三十日は――。まるで星占いにも手相占いにも姓名判断にも見放されてしまったような気分だ。
(休んじゃおうかな)
路地を歩き、少し先に一面の水溜りを見つけたところで、みどりの心に魅力的な提案が湧いてきた。いま引き返せば、まだ少し体温の残った布団が待っている。ただ、そこにたどり着くまでに母親という難関があることを思うと、足はなかなか止まらなかった。「月曜日に休むなんて不謹慎です」みどりは小学生のころからそう言い聞かされてきたのだ。
おまけに三十日は、誰もが休みたい日だから却って休みづらい。風邪で病欠などとは、まずマザー・テレサだって信じない。以前休んだときは、翌日、性格の悪い課長から「診断書は?」とつっけんどんに言われ、小さな屈辱を味わった。銀行の月末は、誰もが逃げたい戦場なのだ。
だいたい三十日の銀行ロビーは雰囲気が穏やかではない。わずかばかりのソファを確保した幸運な客と、それを逸した圧倒的多数の立たされ組が、仏頂面《ぶっちょうづら》でカウンターの向こうにずらりと並ぶ様は、ちょっとした抗議団の趣がある。支払いを機嫌よく、とは無理な相談だが、なんとかならないものかとみどりは思う。もっとも実際は簡単なことだ。いかにも不機嫌な客を前にしたときは、「自動振り込みにしてくださると、お客様もわたしもハッピーなんですけどね」と言いそうになるのを、みどりは懸命にこらえる。
口座を開いたときなどに税金や公共料金の自動振り込みを勧めることはあるが、振り込みテラーでそれを進言することは自殺行為に近かった。こちらの迷惑顔は、笑みで包み隠したとしても客には瞬時に伝わるものだ。いやそうな顔をされると言うほうもつらいし、十人に一人くらいは「それがあんたらの仕事だろう」と噛みついてくる。客という種族は、王様扱いされないとひどく怒りだす。
先日も、ヒステリーを起こしたやけに顔の大きい太ったおばさんがいた。各種公共料金の振り込み依頼書に合計金額が書きこんでなく、みどりが「次回からは合計金額を記入してくださいね」と言ったら、顔色がさっと変わったのだ。
「あら。どうせそっちでも計算するんでしょ」言いかたに思いきり棘《とげ》がある。
ここで無理にでも笑顔を作って引き下がればよかった。
なのにみどりは成り行き上、言葉を返してしまった。
「ええ。でも、こちらでするのはあくまでも検算ですから」
こんなことできれる人間という生き物はいったい何なのだろうと、ときどきみどりは思う。性善説でも性悪説でもなく、性不機嫌説を唱えたくなる瞬間だ。
「ちょっと、何よ。あんた、客に向かって!」
あとはお決まりのコースをたどる。あんたみたいな小娘じゃ話にならないから上役を出せ、と客が怒鳴る。まずは課長代理が揉《も》み手をして登場する。それでも収まらないときは応接室に通して課長が駆けつける。たいていの客はここらで怒りが鎮《しず》まって、キャンペーン商品を手土産《てみやげ》に帰っていくが、中にはもっと上を出せと息巻く客もいる。怒っている自分にどんどん興奮していくタイプだ。
顔の大きい婦人もそのタイプらしく、腰回りの肉をユサユサ揺らしながら、「あの小娘をここに呼んで頭を下げさせろ」と宣《のたま》った。さすがに合計金額の記入を求めたぐらいで謝罪要求はむずかしいと踏んだのか、新たに「客に向かってボールペンを投げてよこしたのよ」という容疑が加わった。
「わたし、そんなことしてません」
「いや、その、投げるつもりはなくても、手から滑ってポロッと落ちたとかさ」
もちろん、課長代理はそれが客の言いがかりであることを知っている。
「いいえ、それもありません。だいたいボールペンなんて渡してません。合計金額は私が書きこみました」
「あっ、それはまずいよ。金額欄はお客様に記入してもらわなきゃ。いつも言ってるじゃないの」
みどりが黙る。反省ではなく嫌気だ。
「とにかく、応接室へきて謝ってくれないかな」
「ですから」
「わかってる、わかってる。君に落ち度がないのはわかってるけどさ、ほら、相手はお客様だから。ひとこと『すみませんでした』って頭下げてくれれば、それ以上向こうは何も言わないさ」
課長代理は汗だくになっている。
「…………」
「頼むよ。ね、それで済むんだから」
結局、その顔の大きい婦人は、みどりがあっさり謝罪したらばつが悪くなったのか、余計不機嫌になって引き上げていった。たぶんその不機嫌の理由を婦人は考えたりはしないだろう。自己嫌悪に陥るような玉ならば、あんなに太るはずがない。
「藤崎君は少し休憩室で休んでいていいよ。あっ、二十分ね。二十分したらまた窓口に出てね。ほら、気分直してさ」
みどりはまだ直属の上司には恵まれているほうだった。最近マンションを購入したばかりの木田課長代理は気配りの人だ。机の引き出しには漢方胃腸薬が常備してある。尊敬できないのはその上の玉井課長で、女子行員たちは陰で「タマ」と呼び捨てにしている。家に帰れば妻も子もある男子行員を、成績が悪いからといって一時間も立たせたり、ときには床に正座させたりするのだから、どういう神経をしているのかとみどりたちは思う。そんなときは、叱られた男性行員の顔が気の毒でしばらく見られなかった。自分が男ならきっと「いつか殺してやる」と思うだろう。それとも銀行マンというのは、そういう屈辱感が麻痺《まひ》しているのだろうか。
(ふーう)
やっとたどり着いた駅のホームで、たくさんの不機嫌そうな背中を見ながら、みどりは本日二回目の溜息をついた。傘についた雨の滴を小さく、それでも丁寧に切って、留め具をかけた。ふと隣の中年男の手元を見ると、濡れたままの傘がたたまれもせずだらりと下がっている。近くに寄るのはやめようと思った。車内であんなものを体に押しつけられたら、今日という日がますますいやになる。
それにつけても、雨の日と月曜日は――。通勤中のみどりはたいてい空想に耽《ふけ》っている。頭の中で歌手になってみたり、ばりばりのキャリアウーマンになってみたり、恋物語を作ってみたり。そうしていると退屈な時間をしばし忘れられる。
電車がターミナル駅につき、みどりは、皿にあけられたシリアルのように車両から吐き出される。うしろから誰かに押されてつんのめりそうになり、振り返ったら、脂《あぶら》ぎった中年が目も合わせずに足早に抜いていった。押されたぐらいで腹は立たないが、中年に触られると何だか損をしたような気になる。
乗り換えのホームに立つ。やって来た電車は、いかにも鉄で出来てますといったクラシックな形をしていた。その鈍重そうな古臭い車両に合わせるように、ここからは客層ががらっと変わる。沿線には工場がたくさんあり、そこの従業員たちが多くを占めるのだ。工場の始業時間は銀行員の出社時刻と見事なほど重なった。ネクタイをせず鞄《かばん》も持たないこの男たちは、遠慮なく若い女をじろじろと眺める。少なくとも自分にはそう思えるので、みどりは視線を受け付けないように下を向いたままでいる。無愛想《ぶあいそう》に見えてもかまわなかった。わたしに気づいてくれないかな、と思うような男はこの車両には一人としていない。
本線ほど混んではいないが、それでも誰にも触れられずにいることはできなかった。狭い箱の中で湿気が膨《ふく》らんでいくのがわかった。電車が揺れ、男の背中で前髪がひしゃげ、みどりは誰に向かってでもなく顔をしかめた。我ながらつまらない毎日だな、とみどりは思う。
親に勧められるまま入った銀行は、とりたてて不満はないが、少なくとも自分のやりたいことではない。もっとも何がしたいのかと問われると、みどりは口ごもってしまうのだが。
通用口の脇の小窓に、腰を屈《かが》めるようにして顔をのぞかせ、みどりは「おはようございます」と言った。鉄格子《てつごうし》付きのガラスの向こうでは、レジメンタル・タイを太い首に巻きつけた男子行員がぎこちなくほほ笑んで扉の電子ロックを解除した。鉄製の分厚いドアを開けて中に入り、あらためて朝の挨拶《あいさつ》をする。岩井という名前の男は少しつかえながら言葉を返した。もともと赤面の気《け》はあったが、近ごろそれが進んだような気がした。岩井はみどりの顔をまともに見ようとはしなかった。
この銀行は警備員を信じていないのか、出社の点検を自前で行う。業前点検の当番を男子の平《ひら》行員でローテーションし、建物に入る人間を厳重にチェックするのだ。もっともこの得意先係の若い行員は、月の半《なか》ばあたりから毎日この当番をやらされていた。預金獲得のノルマを大きく下回り、意地の悪い支店長が「使えない奴だ」とみんなの前で罵《ののし》り、罰のような形で一ヵ月の点検当番を命じたのだ。はたから見れば立派ないじめにちがいないが、なぜか銀行内では誰も同情していない。「あの馬鹿」と呼ぶ女子行員もいた。みどりも、気の毒とは思うが、半分は仕方がないと思っている。
制服に着替えるため、二階の更衣室に上がった。すでに何人かの女子行員がいて、みどりは一人一人と挨拶を交わした。
「おはようございまーす」
「おはようございまーす」
月曜の朝はどこか声が沈んでいる。同期で融資課の裕子がロッカーの鏡で前髪にスプレーを吹きつけていた。
「ねえ、昨日何してた」鏡に向かったままで聞いてきた。
「買い物」
「誰と」
「近所の幼なじみだけど」
裕子が何を買ったかと根掘り葉掘り聞き、みどりが律義に答える。
「あ、それって脇坂さんの結婚披露宴に着ていく服でしょう」
裕子が今度社内結婚する先輩の名前を出した。
「ううん。だってわたし、振袖《ふりそで》にするもん」
「振袖かあ。わたしもそうしようかな。お金ないし」
裕子が立たせた前髪を指で弾《はじ》き、そこで初めてみどりを見た。どうやら今日のヘアスタイルに納得したようだった。
着替えた順に一階に下りていき、各々が上司に挨拶をする。木田課長代理は愛想よく軽口をたたき、「タマ」こと玉井課長は経済新聞を広げたまま「うむ」と重い声を返す。いつものことだった。タマが頭を下げるのは自分より位が上の、次長と副支店長と支店長だけだ。女子行員は手分けして机の上を雑巾《ぞうきん》で拭き、男子行員たちにお茶をいれる。
八時半になったところで全員がロビーに並び、日課のラジオ体操をはじめた。
一度、デザイン会社に勤める友人にラジオ体操のことを話したら腹を抱えて笑われたことがある。そのときはデパートに勤める別の友人がいて、「うちだってやるわよ」と言ってくれたので多数決に勝つことができた。他の会社が始業時にどうしているのかは、みどりは知らない。みどりの銀行では、そのあとで「いらっしゃいませ」「かしこまりました」「ありがとうございました」の唱和があり、支店長の訓示がある。「えー。最近はよもやという取引先の倒産が多くなっています。担当者もAランクの顧客だからといって油断せず、いま一度チェックし直して……」
たいていは伝達事項だけだが、支店長はときどき癇癪《かんしゃく》を起こすことがある。一年前に赴任してきたこの男は、人を見下すのが好きで、無理難題を吹っかけて楽しむ癖があった。今朝もそうだった。
「ところで……」支店長はこの半期の成績が芳しくないことをあげつらって、最後に、たった今思いついたように「今週は預金を二件、融資を一件、必ず取ってくるように」と言い放ったのだ。「いいか。おまえら。行内でうろうろしているような人間は銀行員とは言えねえんだぞ。稼いでくる奴はいつも外にいるものなんだよ。新規開拓も取らねえで……」途中からはやくざのような口調になった。
前任者が穏やかな人だったので、現在の支店長が来たときはみんなが驚いたものだった。ビニールシートでくるんだ一億円の塊《かたまり》を足で蹴っ飛ばし、「邪魔だ」と舌打ちしたときは、みどりはこの男の顔をまじまじと見詰めてしまった。貧乏人が嫌いで、小口の客を小馬鹿にする。都心から離れた工場地帯の支店に回されたことが、心からいやというふうに見えた。かもめ銀行・北川崎支店は、支店の中では格が下と見られていた。支店長は文句を言うとき以外は、課長以下とは口もきかなかった。
朝礼のあとは各課に分かれてのミーティングとなる。窓口業務を担当する営業課では、取り立てて変化があるわけではない。タマが仏頂面でいつもの注意事項を述べたて、木田課長代理が休憩時間の割り振りをする。
午前九時にシャッターが開き、全員が立ち上がって「いらっしゃいませ」と声を揃えた。三十日だけあってすぐにロビーは人で埋まった。客が順に整理番号票を引き抜き、デジタルの数字がたちまちふた桁《けた》を指した。
自動振り込みの機械の前にも行列ができた。ただ、世の中には機械を恐れる人がいて、彼らは係がいくら説明すると言ってもかたくなに窓口の方を選ぶ。年配者はとくにそうだった。
うしろを通った裕子がみどりの脇腹をつついた。ふと顔を上げると、老紳士がソファの一角で備えつけの新聞を読んでいた。目が合ったのでみどりが小さく会釈する。老紳士は相好《そうごう》をくずし、わざわざ立ち上がって腰を折った。裕子が目で(この忙しい日に)と言っていた。
柴田というこの老人は毎日のように銀行にくる。今日は電気料金の振り込み、明日はガス料金の振り込みという具合に、いちいち小分けして窓口で支払いをするのだ。一度見兼ねた木田課長代理が呼びとめて自動振り込みを勧めたら、副支店長が飛んできて課長代理を裏へ引っぱっていった。柴田老人はこの周辺の大地主で、北川崎支店にかなりの預金があったのだ。おまけに一度、変額保険で大損させ、頭が上がらないということだった。そして少しボケているという噂があった。ひどいときは九時から三時までロビーにいて、誰彼となく話しかけた。うっかり相手になると、戦争の話を一方的に聞かされるらしい。いつも身なりのいい背広を着ているのが銀行側としてはせめてもの救いだ。家族は諦めているのか、いい子守役ができてよかったと思っているのか、やめさせようとはしなかった。
後方の机の島々からは、得意先係や融資係の行員たちが鞄を抱えて出ていく。「いってきまーす」「いってらっしゃーい」小さな声がみどりの背中に届いた。すべての部署がワンフロアに固まった一層営業店なので、部署間の隔たりはあまりない。そのかわりプライバシーもなく、どこの誰がミスをしたかなどは、聞き耳を立てなくても手に取るようにわかった。
「おら、とっとと客のところへ行ってこいよ」
岩井が低い声で怒鳴られていた。色白の太った男が、暗い顔でうなずいている姿が目に浮かんだ。
みどりは手際よく窓口業務をこなす。電卓で検算をし、書類に判を押し、区分けされたトレイに載せていく。客と接するときは笑顔を絶やさなかった。不思議なもので、どんなに気分がのらないときでも作り笑いができた。
機械の合成音が番号を告げたところで柴田老人がみどりの前へ歩いてきた。
振り込み用紙を見ると、今日は水道料金だった。
「今日はひどい雨だねえ、藤崎さん」
柴田は、目だけはいいのか行員の名札を素早く見て、いつも名前で呼びかけた。みどりは、(せめて五十日《ごとおび》と月末は避けてくれればいいのに)と思うが、もちろんおくびにも出さない。
「そうですね、お足元は大丈夫でしたか」
反応が返ってきたことに柴田はよろこび、さらに話しかけてきた。
「この雨で桜も咲き損なったね」
「そうですね」
「花見は、行くのかな」
「ええ、今週の金曜日に、ここの支店の花見会があるんです」
「そうか。そりゃあよかった」
柴田はますます上機嫌でうなずいていた。
札と小銭を数え、皿につり銭を載せて差しだすと、柴田は「つりはいらんよ」と押し返した。「お嬢さん、取っときなさい」
「いえ、それは困ります」
「これでコーヒーでも飲みなさい」
柴田は領収証書だけ手に取ると、満面に笑みを浮かべる。みどりがあわててうしろに助けを求め、それとなく注意を払っていたらしい木田課長代理が、すぐに駆け寄ってきた。
「柴田様。それではこのお金はお預金の方に回させていただきますので」
いつもは黙ってそうしているのだが、今日は客が多いので、誤解を受けないよう課長代理がわざと通る声で言った。
「いや、わたしはこのお嬢さんにあげるんだよ」
「はい、かしこまりました。当行で預からせていただきます」
この状況を周囲にアピールするため、課長代理は、大袈裟《おおげさ》に、少し困った笑みをふりまいた。柴田はなおも食いさがり、課長代理との埒《らち》のあかないやり取りを繰り返した。そうしてロビーから小さな失笑が漏《も》れたところで、目配せされたみどりが礼を言い、事は収まった。もちろん、この金は預金に回され、あとで家族に報告される。得意先係の担当者によると、柴田の家族からは「すみません」のひと言もないそうだ。
柴田老人が再びソファに戻り、今度は備えつけのグラフ誌を広げたところで、みどりは手元のボタンを押した。
「十三番のお客様」という合成音が響き、学生風の男が家賃の振り込みにやってきた。「十六万円」という金額を見て、なんて贅沢《ぜいたく》なところに住んでいるんだと思うが、顔に出すことはない。
みどりの経験によると、窓口業務は午前中が長く感じられ、午後は時間が早く過ぎた。もっとも今日は三十日なので、それはあてはまらない。ひたすら目の回るような忙しさが午後三時まで、そして数字合わせのためそれ以降も続くだけだ。
雨のせいで、ゴム底の靴を履いた客が歩くたびに、キュッキュッという耳障《みみざわ》りな音がロビーの床で鳴った。
みどりの、雨の日と月曜日は始まったばかりだ。
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雨の月曜日がなんとなくほっとするのは、半分は現場作業員をしていたころの名残《なご》りだ。
十七歳で、愛知県の東の外れで土木工事の住み込みをしていたころ、野村和也は、日曜の夜になるとプレハブ小屋の壁にもたれながらラジオの天気予報に耳を傾け、明日雨が降ることを小さく願った。雨天ならば現場作業は中止となり、思わぬ休日が転がりこむのだ。日当はなくなるし、遅れた日程は残業を増やすだけなのだが、それはわかっていても、週明けの雨は作業員たちの顔から緊張を解いたものだ。
そしてあとの半分は、現在の和也が定職に就《つ》いていないからだ。月曜の朝、社会全体が動きだそうとしている中で、空までがそれを励ますように晴れわたるのは、行くところのない人間には甚《はなは》だ面白くなかった。疚《やま》しがるほどヤワな神経の持ち主ではないが、疎外感ぐらいは人並みに覚える。雨だと、それが緩和された。もう一年近く、働いていなかった。最後に職に就いたのは、横浜のゲームセンターの住み込み店員だ。気にいらない先輩を殴って辞めた。もっともあとで袋だたきにされた。
和也は湿った布団の中から、上半身だけ起こしてカーテンをつまみ上げ、窓の外を見た。灰色の空はのっぺりと表情はなく、たくさんの雨粒が、向かいの家の屋根でサイダーの泡のように跳ねていた。足で掛布団を蹴りあげて、両足をそれに載せた。部屋のカーテンは数えるほどしか開けたことがない。布団を干したことは一度もない。もともとこの部屋の押し入れにあったものなので、何年前の物かもわからない。今年末の取り壊しが決まっているため、簡単に入れた鉄筋アパートだった。礼金はおろか保証人も必要とされなかった。狭いくせにいっちょうまえに風呂がついているのが気にいった。
もう一度上半身を捻《ひね》り、右手を伸ばし、畳の上に転がっているヴィトンの財布を手元に寄せた。中を見ると一万円札が一枚に千円札が三枚あった。日課のパチンコ屋に行くには少し心もとない。
何をするかな――。
天井を眺め、いつもしたままの金のネックレスをいじりながら思案した。
いちばん手っ取り早いのは繁華街での学生のカツアゲだが、割りはよくない。ナイフをちらつかせれば震えあがって所持金全部を差しだすものの、たいていは数千円だ。サラリーマンを狙ってもいいのだが、金額が上がるぶん、百パーセント警察に通報するからこちらはリスクが大きい。
次にトルエンの一斗缶を盗むことを考えた。人を介してやくざに頼めば四万円で引き取ってくれるのだ。三ヵ月前、パチンコ仲間と羽田の板金塗装会社に忍びこんで十缶ほど失敬したことがあり、保管場所はわかっている。そろそろ警戒を解いたころだろう。もっともこれは夜まで待たなければならないし、その前に車を調達してこなければならない。必要なのは今日の金だ。
和也は三十分ほどあてのない考えを巡らし、結局はとりあえずパチンコ屋に行くことにした。喧噪《けんそう》が必要だった。耳の奥ではいつもの円盤が飛んでいる。円盤が飛んでいるのを見たことはないが、たぶんこんな音だ。三日間静かな場所にいたら、おそらく自分は気が狂うだろう。
起き上がって服に着替えた。カルヴァン・クラインの白いスウェットの上下に身を包み、龍の刺繍《ししゅう》が入ったスカジャンを羽織った。右のポケットだけが下がって見えるのは、そこにいつもバタフライナイフが突っこまれているからだ。ただし始終|剣呑《けんのん》なことを考えているわけではない。持ち歩いているうちに、それがふつうの状態になった。なくなると、逆にバランスを失ったような感じになる。台所の鏡を見て、髪を少し濡らした。ムースを両手に泡立たせ、前髪にボリュームが出るように整えた。
アパートを出て、大通りまで水溜りを避けながら歩き、タクシーを拾った。川崎の駅前まで二千円ほどで着いた。市役所通り沿いで降り、一度地下街に潜ってマクドナルドでハンバーガーを食べ、やたらと薄いコーヒーを飲み、自販機でマルポロを買ったら残りがちょうど一万円になっていた。
地上に出てアーケードをしばらく歩き、二軒並んだパチンコ屋の前で今日はどちらにしようと迷い、昨日すった方の玄関をくぐった。帰りがけにちらりと目にした百七十五番台にそそられるものがあったからだ。エレベーターに乗って二階ホールへ上がり、目指す台に向かった。店内にはなじんだ機械音が充満している。午前中なので客は半分も埋まってないが、人の体臭と女の化粧と、紫煙《しえん》と床のワックスが雑多に混じり合った独特の匂いが、和也の心を徐々に落ち着かせた。三番目の通路を歩き、目当ての番号を見つけると、そこには知った顔の先客があった。名前も素性《すじょう》も知らないが、いかにも水商売といった風貌の年増女だ。一度だけ言葉を交わしたことはある。「出ねえな」和也がついひとりごとを言ったら、うしろの台から「ほんとにねえ」という女の声が聞こえ、顔を見合わせて笑ったのだ。
斜めうしろまで来たところで立ち止まり、軽く舌打ちしたら女が振り返った。
「あら、お兄さん。ここ、マークしてたの」
女は、くわえていたたばこを肉づきのいい指にはさみ、煙と一緒にかすれた声を吐きだす。口紅がべっとりと付いたたばこのフィルターが目に入った。
「どう?」和也はそれには答えないで、台番号の隣に点灯しているデジタル表示をのぞきこんだ。ここにはその日の当たり回数が出ている。まだ数回だった。
「まだ始めたばかりだもん」女は妙にしなを作って答えた。続けて顎でホール全体を差し「月曜日だし、昨日よりは釘、開けてくれてるんじゃないかしらあ」と語尾をのばして言った。
「甘いよ」
「そお?」
「そうさ。給料日からしばらくは締めてくるんだよ」
本当かどうかは知らない。人から聞いた受け売りだった。
「今日は三十日だっけ。そうかあ、二十五日からまだ日は経ってないものねえ」女は、人と話すことに飢えていたかのように親しげに愛想を振り撒《ま》くと、しばらく間をおいて「お兄さん、この近くの人?」と和也の顔を正面から見た。台のハンドルは百円玉で固定されているので、その間も玉は盤の中で躍っている。
「うん? まあね」和也は曖昧《あいまい》に答え、少し迷ってから向かいの台の空いた椅子に軽く腰かけた。
「毎日、来てるでしょう」
「…………」和也が目を伏せ苦笑いする。
「わたしもそうだけど」
「そうだね。よく見るもんね」
「……お兄さん、学生さん?」
見えるわけがないのに、女はそう聞いた。
「うん? プータローだけど……お姉さんは?」
「わたしはねえ、すぐそこの、平和通りの『ミツコ』ってお店」
「お姉さんが、ミツコさん?」
「ううん、ミツコっていうのはママさん。わたしはそこで働いてるのお」
そう言いながら、年増のくせに、かすかに照れた。
和也は女の体を見た。たっぷりとしたトレーナーの上からでも量感のある乳房が想像できた。その性的な匂いに、ふとこの女を抱いている自分を頭に浮かべた。
「小さいお店なんだけどねえ」
小遣いくれるかな、とそんなことまで考えた。二十歳の和也にこの年恰好《としかっこう》の女は距離感があった。年齢すら見当がつかない。自分のように若くはないことがわかるだけで、二十八と言われても三十八と言われても納得するだろう。
「よかったら、今度ボトル入れてねえ」女が言った。ただし本気で誘っているのではなく、挨拶代わりという感じだった。
「うん。一万発くらい出したらね」
和也は、立ち上がって大きく伸びをすると「さてと」とつぶやき、その場をあとにした。小さく心が弾んだ。人と会話を交わすのは、パチンコに通うぐらいしか用のない和也にとっては日常のささやかな潤《うるお》いだった。
ホールの隅の機械で三千円ぶんのプリペイドカードを買い、出そうな台を探した。まだ打ったことのない新型の機種を見て回ると、一台、風車下の三連釘と誘導釘の甘そうな台があり、そこに座ることにした。三連釘は、風車下の隙間とすぐ右の四連釘との隙間を埋めるように叩かれていて、なおかつ誘導釘はヘソに向いているのが気にいった。ヘソとはデジタルを始動させる穴のことだ。カードを機械に差しこみ、玉出しのボタンを押し、ダイヤルを捻った。ピンク色の派手な桜が一面に描かれた盤の上を、何発もの玉が跳びはねながら下ってゆく。画面には和服を着た女が番傘を差してたたずんでいた。新機種は趣向を理解するのに時間がかかる。パチンコ雑誌で予習してこないとすぐには仕掛けがわからない。
三千円はあっという間になくなった。和也は軽く溜息をついた。よく見てみれば肝腎《かんじん》の命釘は狭いし、ヘソもほかの台と比べてけっして広くはなかった。(失敗したかな)とたばこに火を点けたとき、店内放送ががなりたてた。「百七十五番台、確変《かくへん》スタートおめでとうございます!」年増女のよろこぶ顔が目に浮かんだ。
「兄さん、その台、もうちょっとやってごらんよ」
その太い声に振り向く。ふたつ隣の台で、四十くらいの中年男が前を見たまま打ち続けていた。角刈りのこの男も見たことのある常連客だった。和也が黙っていると、「昨日、三十一回だよ」と男が顎をしゃくって言った。昨日の日曜、この台が三十一回の当たりを出したということだ。
「昨日、それだけ出たんなら、今日はだめなんじゃないの」
「いや、出玉データを見たけど、いま出ないのはその反動だよ。おそらくその台は土曜日から最高設定になってるはずだから、もう少し我慢してれば出るんだよ」
男の足元には、ドル箱と呼ばれる大型の箱が三つ積み重ねられていた。
「……おじさん、信用しちゃうよ」
「責任は取らねえけどな」
男はコンピューターで情報を得ているらしかった。パチンコ屋のホール隅には、台ごとの出玉状況が見られるデジタル画面の機械が設置されていて、会員になれば誰でも自由に利用できた。和也はコンピューターと聞いただけで気おくれするので触ったことはなかった。たぶんこの角刈りは半分プロなのだろう。
和也は再び三千円ぶんのカードを買い求めると、男の言うとおり同じ台に差しこんだ。盤を凝視し、天釘の左から二本目と三本日の間を狙い、玉の流れを目で追った。すると最初の五百円で早くも一回目の当たりがきた。リーチがかかると画面の横から少女のキャラクター・アニメが出てきて、花札三枚の絵柄を揃えたのだ。盤のランプの点灯パターンが変わった。電子音も派手に鳴っている。
「兄さん、おれの言ったとおりだろ?」
角刈りが凄むようにして笑い、和也もつられて笑った。
その後も出玉は好調だった。四千発入りのドル箱はたちまち玉でいっぱいになり、軽くふた箱目に移った。換金率は三・三円なので、一万発も出せば収支はプラス三万になる。もっともそれで満足するつもりはなかった。週末は五万、いかれていた。和也はしばらく台に集中することができた。ピコピコという電子音を浴びていると、時間を忘れられた。
午後三時を回り、ドル箱が四つ目に入ったところで一度休憩を入れることにした。誰が決めたのか、いつごろからかパチンコ屋は「足元に三箱、手元にひと箱」しか置いてはいけない規則ができていた。射倖心《しゃこうしん》を煽《あお》るから、という理由らしい。もっとも守る者はあまりいないし、店側もうるさくはない。
いったん換金するためにパチンコ屋を出た。同じアーケード内の、洋品店の一部を板で囲った粗末な換金所に行くと、三、四人の列ができていて、その中に同年代の知り合いがいた。タカオという名だが、どういう字を書くのかは聞いたことがない。パチンコ屋以外で会ったこともなかった。
「なんだよ、タカオちゃん。いねえと思ったら今日は『ミリオン』か」
和也が二軒並んだ別の店の名前を言った。
「ああ」タカオは気のない返事をした。この色白で痩身長躯《そうしんちょうく》の男は関西弁を使う。岡山出身だと聞いたことがあった。「どや、そっちは?」
「まあまあかな。でもこれからよ。昨日のぶんを取り返さないとな」
「ああ、痛かったな、昨日は」
タカオは先に換金を済ますと、道端でたばこに火を点けた。今日はストライプのスーツを着ていた。見た目は完全なやくざで、実際も似たようなものだ。「先輩」と呼んでいるやくざから携帯電話を持たされていて、なにかにつけては用事を言いつけられている。トルエンの引き取り手を紹介してくれたのはタカオだ。「今度|盃《さかずき》をもらう」とは言っているが、どこまで本当かはわからない。
和也も換金してタカオに並んだ。
「また『ミリオン』?」
「これからコレんとこや」タカオが小指を立てて、つまらなさそうに言った。「あんたは?」
「戻るよ。昨日のリターンマッチだって言っただろ」
「好きやな、ほんまに」
「うるせえよ」本当の理由を話す気はなかった。耳の中の円盤の話など、聞かされた方だって困るだろう。
「なあおい」和也が思いついて言った。「そろそろトルエン、やらねえか」
「おお、ええで。おれが先輩のところへ持っていってやるよ」
「そうじゃなくて、今度はタカオちゃん、一緒にやろうぜ」
「この前の相棒はどうしたんや」
「知らねえ。最近見かけねえんだよ」
前回は現役の暴走族と組んだが、その後は見ていなかった。パチンコ仲間など、だいたいがかりそめの付き合いだった。
「ふうん。……で、いつや」
「いつでもいいぜ。今夜でも、明日の夜でも。……その前に車がいるけどな」
「先輩の車なら借りれるかもしれへんぞ」
「ラッキーじゃん」和也がタカオをつつく。「もしかしてベンツ?」
「そうや。Sクラスや。中古やけどな」
タカオは最後だけ小さく言って苦笑した。
「じゃあ決まったな」
「あんたの携帯の番号は?」
「そんなもん持ってねえよ」
いまどき携帯も持てないことが恥ずかしかったので強い口調で言った。 タカオは和也の腹のあたりに視線を移すと、腑《ふ》に落ちないという顔をした。
「……やったらこれは何や」
そう言って、和也のジャンパーの右ポケットの、見るからに長方形の物が入ってそうな膨らみを上から握った。
「おいおい」タカオが顔をほころばせ、和也のポケットに手を突っこんだ。「物騒《ぶっそう》な野郎やなあ、えっ? あんた」最後はいかにもうれしそうな声をだしていた。
「やめろよ。こんなところで」あわててバタフライナイフを取り返す。
「刺したこと、あるんか」タカオが真顔で聞いてきた。
「あるよ」
和也がぶっきらぼうに答える。本当は刺したのではなく、恐喝のとき抵抗する相手を「はしょった」だけだが、それでも人を傷つけたのは事実だ。
「ふうん」タカオは少し見直したように和也を見た。「ま、どっちにしろこのへんのパチンコ屋やろ? 車借りたら探して連絡するわ」
「ああ、頼むぜ」
タカオとはそこで別れた。パチンコ屋に戻り、ロビーで缶コーヒーを二本買い、二階に上がった。角刈りを探すと、ふたつ隣の台からはいなくなっていた。ホールを一周したが見つからなかった。仕方がないので、依然として百七十五番台で打っていた年増女にコーヒーを差し入れた。
女は少女のようによろこぶと、ハンドバッグから店のマッチを取りだし、ほんとに来てねえと、またしなを作った。
ライターを放りこんでおいた同じ台で、再び打ちはじめた。休憩を入れて流れに逆らったせいなのか、さっぱりデジタルが回らなくなっていた。千円当たりの回転数が十数回と、さっきまでの勢いが嘘のようだった。打つのを止めてたばこを吸った。口の中がヤニでざらついた。もうマルボロが切れかかっている。店内を見渡すと、ホールは七割方の客で埋まっていた。いまさら別の台に移るのも面倒なので、もうしばらく打ってみることにした。まだ数千円しか投資していないから気はらくだった。
休憩前は出玉の好調さに気をよくして気づかなかったが、よく見ていると天釘を越えて右に流れた玉が無駄玉になりやすいようだった。右の風車に絡《から》んだ玉がヘソに向かわない。ダイヤルを調整して、天釘の一本目と二本目を狙うことにした。そうすると玉にブレーキがかかって右には流れない。
我慢しているとだんだん回りがよくなった。釘が変わったわけでもないのに調子に波があるのだからパチンコは不思議だ。打ち込んだ玉数から適当に計算すると千円で二十七、八回くらいはデジタルが回っていそうだった。これなら今の持ち玉の二千発とちょっとで二百二十から二百四十回転は期待できる。
二十分ほどして大当たりがきた。しかも確変ナンバー「1」の三つ揃いだった。この確変には二連チャンでいなされたが、ドル箱の数がひとつ増えた。これでようやくこの台一本で腰を据える覚悟が決まった。そうとなればあとはデジタル・パチンコならではのだらだらとした展開だ。退屈だが、時間は充分潰れる。
誰かの視線に気づいて振り向くと、通路の端で年増女が軽くほほ笑んだ。口の動きだけで「お先」と言って、そのまま引き上げていった。午後五時。これから出勤の準備なのだろう。ポケットを探ってさっき渡されたマッチを見た。一度行ってみるかなと思った。もちろん店の外観を見てからだ。場違いな思いはしたくなかった。
夜に入ってからデジタルの回りが鈍くなった。大当たり一回分の出玉を打ちこんだところで二百回しか回っていない。空腹を覚えたので一階のロビーに降りて、自販機で買ったハンバーガーをひとつ食べた。丸いテーブルで食べていると、大学生らしき男の二人連れが来て向かいに座った。そのうちの一人は万札を数えていた。新しく入った機種の話をしていて、あの台はストロークがどうしたこうしたという会話が聞こえた。ふとこの連中から金を巻きあげることを考えた。見たところ痩《や》せぎすで喧嘩は弱そうだ。喉元にナイフを突きつければ一発だろう。だが想像しただけでやめた。当分この店に近寄れなくなる。
結局、いつものことだが閉店までいた。夜の部は一進一退で、トータルすれば四万八千円のプラスとなった。昨日の負けをほぼ取り返した形となり、和也は満足だった。おけらになっていたら、ポケットの中のナイフにお世話になっていただろう。もっともほっとするほどのことでもなかった。恐喝はすっかり慣れた。興奮することなく、平常心でやれた。相手がびびるほど自分は冷静になれた。
再び換金所で現金に換え、街を少し歩いた。雨はもうあがっていたので、和也は傘を道端に捨てた。どうせどこかで失敬したビニール傘だった。そしてサウナに行った。これも日課だ。アパートの風呂を沸かしたのは最初の一、二回で、あとはシャワーしか使ったことがない。カウンターで三千円と消費税を払い、トランクスとタオルを受け取り、更衣を済ませた。サウナ室は素通りして、浴場に行った。湯舟に浸かり、ゆっくりと手足を伸ばした。この解放感を味わうともうアパートの小さな浴槽には入れない。和也は鼻の下までお湯に浸かって汗をかいている。
湯舟を出る。洗髪し、ついでに髭《ひげ》を剃《そ》った。それを終えると白いトランクスを穿《は》き、ラブホテルにあるようなペラペラのガウンをまとい、広間で汗がひくのを待った。テレビではニュースが流れていて、年度替わりを前にして早くも入社式を行った企業があると伝えている。紺色のスーツを着た同年代の若者たちが神妙な顔で椅子に並んでいた。リクライニングに腰を下ろし、しばらくテレビを眺める。ふとこのまま仮眠室で夜を明かそうかと思ったが、朝が憂鬱になるだけなのでやめた。忙しく身支度をして出ていく客を見送るのは気分が悪かった。
十二時近くになってサウナを出た。タクシーを拾おうと駅前に向かうと、大学生の男女のグループが広場で輪になり、肩を組んで歌を唄っていた。それは校歌というのとは少しちがったが、応援歌とか寮歌といった感じのものだった。邪魔|臭《くせ》えなと思って見ていると、金|釦《ボタン》のブレザーを着た一人の男子学生が、ミニスカートの女子学生を抱き上げ、ひときわ高い嬌声《きょうせい》があがった。まわりが囃《はや》したて、あちこちで笑顔が弾けていた。抱き上げた男はひとしきり照れていて、送っていってやれよ、送り狼になるなよ、という冷やかしの声を浴びていた。
タクシーを探しながらしばらく歩道でたばこを吸っていると、学生グループは解散し、それぞれが駅の改札に向かって歩いていった。和也の腹の中で何かが動く。その動きは胃袋を熱くし、徐々にせり上がっておくびを吐きださせた。耳の奥の円盤がいつのまにか編隊になっていた。またかと思った。耳鳴りは頭の裏側を無軌道に駆け巡り、耳から手を突っこんで掻きむしりたい衝動にかられた。このまま帰れないと思った。「不幸のおすそわけ」をしてやろうと思った。
和也は適当な切符を買い、ブレザーの男のあとに続いて改札を抜けた。男は友人数人と階段を昇っていた。そこにミニスカートの女子学生はおらず、別方向に帰っていったようだった。男は品川方面行きの電車に乗り、和也もそれに続いた。同じ車両の隅に陣取って、男を注意深く見ていた。男は両手で吊革につかまりながら友人と談笑し、ときおり小さく肩をゆらしていた。男は大井町《おおいまち》に着いたところで友人に手を振って降りた。意外に早く一人になったことに和也の心が躍った。男は大井町線に乗り換え、和也もあとをつけた。ふた駅目で男は降りた。和也が十メートルほどの距離をおいて改札をくぐった。あたりを見渡した。十二時過ぎでも駅周辺は人通りがあった。男がコンビニエンス・ストアに入り、和也は少し迷った末、通りで待つことにした。すぐ前の公衆電話をかけているふりをした。男は五分ほど漫画の立ち読みをしたあと、ビニール袋を下げて出てきた。ポテトチップスの菓子袋が透けて見えた。
男は駅前商店街を抜け、住宅街に入っていった。水銀灯の間隔があき、男の背中が明るくなったり暗くなったりした。すぐ先に駐車場が見えたところで和也の決意が固まった。慎重に間合を詰めた。うしろを振り返ったが誰も来ていない。ポケットをまさぐりバタフライナイフを取りだした。音を立てないように刃を出した。少し手が汗ばんでいた。横に並びかけ、男が何気なく顔を向けたところで、和也はアスファルトを蹴った。左手で男の胸倉をつかみ、体重を預けて男を駐車場へ押しこんだ。
低い唸り声をあげながら、ナイフを男の首につきつけた。自分の顔が熱くなるのがわかった。
男は声が出せなかった。口を動かしてはいるが言葉にならない。足がもつれたのか、その場にへたりこみ、あとは和也が引きずる形になった。そのまま駐車場の奥まで連れていった。
「マネー、マネー」
片膝をつき、あらためてナイフを喉《のど》に立てた。外国人の犯行に見せかけるのが、和也の経験から身につけた知恵だった。そのほうが相手が怖がった。
口の端だけで笑い、男を見た。男は顔色を完全になくしていた。汗とも呼べないような液体で額や頬を濡らし、それが水銀灯で青く光っていた。
ナイフを鼻の穴に突っこむと、やっと男が反応した。ひいっという女みたいな悲鳴をあげた。
「マネー」
もう一度低い声で言った。男は震える手でブレザーの内ポケットから財布を出そうとした。引っかかっているのかなかなか出せなかった。仕方ないので和也が男の手を払いのけ、自分で取りだした。革の真新しい札入れだった。
和也はそれをジャンパーのポケットに押しこむと、ゆっくり立ち上がった。ナイフを向けたまま男を見下ろすと、黙って膝蹴《ひざげ》りを顔面に打ちつけた。男はぐえっと喉を鳴らし、その場で虫のように丸くなっていた。いまのこの男は、脱げと命令すればパンツだって脱ぐだろうと思った。支配された人間の姿だった。
和也は砂利《じゃり》を踏みしめながら駐車場を出ると、大通りの方角へ見当をつけて歩いた。カツアゲしたら別のルートで帰れ、と不良仲間から聞いたことがあった。
歩きながらふと夜空を見上げた。風が雲を吹き飛ばしたせいか、星がいくつも輝いていた。暴力の余韻《よいん》さえもない、妙に希薄な時間だった。通りに出てタクシーを拾うと、シートに背中を押しつけ、財布を開いた。八千円あった。
和也の今日の収入は、都合五万六千円になった。
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心配していたとおり、向かいのマンションの太田夫人から騒音の苦情がきた。
川谷信次郎は、木曜日の夕方に北沢製作所から部品を受け取るとその夜から仕事に入り、金曜土曜と残業し、なるべく日曜日の作業を避ける努力をしたのだが、さすがに通常の三倍ものロットは簡単にこなせるものではなかった。雑用の多さもスケジュールを狂わせた。搬出搬入がいつもより重なり、飛びこみの仕事も入った。ネジ穴開け百五十個大至急とか言われると、さすがに人のいい信次郎もむっとはするものの、だからといって得意先の依頼は断れない。せめて持ちこんでくれればいいのだが、力関係はそれを許さず、搬送を考えれば利益も出ない仕事に半日も奪われたのだ。
太田夫人は住民仲間を連れて現れた。妻の春江が作業中の信次郎の背中をつつき、振り返ったら笑みのない顔があったのでだいたいのところを察した。タオルで手を拭いて外に出ると、ぴちぴちのタイツのようなものを穿いた大柄な女がいた。両脇に同じマンションの住民と思われる女二人を従え、その少しうしろには中年の男もいた。こってりとした化粧の匂いがした。
「お仕事中、申し訳ないんですけれど……」太田夫人は軽く会釈して切りだした。最初から喧嘩腰でなかったのはさいわいだったが、その目は少しも笑っておらず、なにやら強い意志を放っていた。女にしては背が高く、踵《かかと》のあるサンダルをつっかけていたので、中肉中背の信次郎は見下ろされる形になった。続けて「日曜日の騒音はやっぱりなんとかしていただかないと」と太田夫人が言い、二人の女が腕を組んで迷惑そうにうなずいた。
「うーん。一応、シャッター閉めてやってるんだけどねえ」信次郎はつとめて明るく振る舞うのだが、女たちの固い表情はいささかも崩れることはなく、逆に頬が軽くひきつるはめになった。太田夫人は慇懃《いんぎん》な態度で苦情を申し立てた。
「日曜日くらいは静かな一日を送っていたいんですよ。耳をふさぐほどの騒音ではないかもしれないけれど、それでも、やっぱり気になっちゃうんですよ。窓を閉めていても、おたくのウィーンっていう機械の昔が部屋の中まで入ってくるでしょう。平日はあれやこれや忙しくて、家事に追われて騒音も少しは忘れられるんだけど、日曜は私たち主婦もお休みなんですよ。そうすると、のんびりしたいからよけいに音が気になって……。ほら、そういうのってありますでしょ。静かだと柱時計の音だって気になるようなことが……。あの、べつに、そんなに私たちが神経質だってわけじゃないんですよ。つまり、本来日曜日はそれほど生活音がしない日だから、よけいに耳に障《さわ》るっていうことなんですよね。……今日はお隣の山口さんの工場がお休みだからいいけれど、たまに両方がやっているときがあって、そういうときはまるで二重奏みたいになって。わかってもらえるかしら。……そりゃあ、山口さんのところも川谷さんのところも、私たちが来る前からここで工場をやってらしたわけだし、あとから来ておいてなんだって思われるかもしれないけれど……」
「ううん」隣の太った女が低い声で言った。「そんなことないわよ、それだったら工場のある周りは家が建てられないことになっちゃうでしょう」と厚化粧の顔をこわばらせた。「そうよねえ」三人の女がうなずき合っていた。
「だから、私たちも少しは遠慮しているわけなんですよ。お互い近所だからあんまり変なことにはなりたくないし、この前、マンションの管理組合の寄り合いがあったときもこの話が出て……。とくに私たちは二階だから、塀《へい》に遮音されずに最短距離でもろに騒音が飛びこんでくるものですから……。本当のことを言うと、日曜日だけじゃなくて土曜日も静かにしてほしいんですよねえ……」
「それから平日の夜七時以降も」と太った女がまた顎を突きだした。そうして再び三人でうなずき合って、口々に不満を述べ立てていた。
信次郎の顔が瞬間熱くなる。夜の七時までというのは、いくらなんでも無理な相談だった。それでも冷静に対応しようと言葉を探していると、太田夫人が「ちょっと、あなたもお願い」とうしろを振り返り、夫らしき男が前に出てきた。
「……まあ、そういうことなんですよ」
男は軽く笑みを浮かべ、営業マンのような柔らかい物腰で言った。女たちは用心棒代わりに連れてきたのかもしれなかったが、信次郎には男相手の方が助かった。仕事の現実を理解してもらえる気がしたのだ。ただ、この男の外見には少し気持ちが圧《お》された。シャツにカーディガンという普段着でも、どこか洗練されていてインテリの匂いがした。
信次郎は、こっちも音には気を遣って吸音材などを、数十万円もかけて壁に貼っていること、今日も春の陽気の中でわざわざシャッターを閉めて作業していたこと、我々町工場の場合は親会社の都合に合わせなければならないので休日出勤は避けられないこと、あなたも仕事をしているのなら下請けの苦労はわかるだろうということを、黙って相槌《あいづち》を打っている男に向かって聞かせた。「下請けの」というところで、へりくだっている自分に少し嫌悪した。そして最後に、明朝八時納品の仕事なので今日の作業をやめるわけにはいかないのだと、自分では毅然《きぜん》とした態度のつもりで告げた。
「そんなあ……」
女たちはあからさまに不快そうな顔をした。
男が「まあまあ」と余裕の態度で女たちを手で制した。いかにも交渉事は慣れているという風情《ふぜい》だった。
「どうでしょう。こういう問題は、当事者同士で話し合ってもこじれるばかりですし。お互いに感情的になると、今度は意地の張り合いみたいになってまとまる話もまとまらなくなりますからね。生活権というのはお互いにあるわけですから、川谷さんにも言い分はあるでしょうし、私たちにも言い分がある。ここはひとつ、間に誰か公的な立場の人を交えて話し合いをするってことにしませんか?」
信次郎がどきりとする。裁判という文字が頭に浮かんだ。
「市役所に環境公害課という窓口があるそうなんですよ。公害の相談にのってくれるところらしいんですがね。私たちは週明けにでもそこに話をもっていきますから、どうでしょう、近々、川谷さんも市役所と一度話をしてみてくれませんか?」
「あんた、公害っていうのはちょっと……」
裁判でないことにほっとはしたが、「公害」という物言いには腹が立った。公害というのは大企業が川や空気を汚染したりすることだと信次郎は思っていた。
「まあ、でも、規模はどうあれ一般住民の生活に害を及ぼすものはそう呼ぶことになっているわけですから」
返答に詰まったが納得はできなかった。
男は終始笑みを絶やさなかったが、それは外国人が理屈を繰りだすときの作り笑いみたいで、隙がまるでなかった。外国人労働者は、ほかに給料のいいところが見つかったからと平然と言い放って辞めていく。あの感じに似ていた。
「こういうのは仲介者を立てるのがいちばんなわけですよ。我々はタックスペイヤーだから市役所にそれくらいの要求ができますからね。そうしましょう。そうやって互いの接点を見つけましょう」
「……ああ、まあ、そうだね」信次郎が呻《うめ》くように言う。
「私たちは無理を言っていますか?」
「いや、無理ってことはないけど……」
「ああよかった。ちゃんと話が通じるお方で」
まるで握手でも求めてきそうな素振りに、信次郎は一瞬体を固くした。外国人は辞めていくとき手を差しだすのだ。思わず応じてしまった自分にあとでじわじわと腹が立ってくる。
「私たちはこの問題が円満に解決することを望んでいます」
こうなると日本人と話している気がしなかった。
マンションの住民たちは最後にもう一度丁寧にお辞儀をすると、ゆっくりとした足取りで敷地を出ていった。女の一人が、築三十年にはなろうかという川谷家の母屋《おもや》をしげしげと眺めていった。怒鳴り合いにならなかったのはよろこぶべきことだったが、信次郎の胸の底には軽い屈辱感が残った。油まみれの作業着の自分と、春らしいかろやかな服装の住民たちとの対比もあまり愉快ではなかった。妻もそれを感じたのか明るさのない顔でずっと押し黙っていた。
信次郎は作業に戻る前に、トラックをシャッターの前に隙間を置かず移動し、荷台に幌をかけた。これで音の伝播《でんぱ》が多少なりともやわらぐのではないかと考えたのだ。荷造り用の毛布をシャッターの内側に吊るそうかとも思ったが、その効果と手間を秤《はかり》にかけてやめた。しばらくして、どこで聞きつけたのか隣の「山口車体」の社長が工場にやって来た。
「よお、カワさん。向かいのマンションの連中が来たんだって?」
「ああ。たまんねえよ。四人でぞろぞろ来ちゃってさ。よっぽど社長呼んで追っ払ってもらおうかと思ったよ」
「呼んでくれよ呼んでくれよ。おれがガツーンと言ってやるよ。てめえらあとから来ておいて、でかい面《つら》するんじゃねえってさ」
「あはは。でも、社長が来たら本当に喧嘩になっちゃうからなあ。いいの? 警察沙汰も二度目になると簡単には帰してもらえないって言うよ」
二人で肩を揺すって笑った。山口社長は以前、飲み屋で若いサラリーマンたちと喧嘩になり、警察にこってりしぼられたことがあった。
「で、どうなったのよ」
「市役所に行くってさ」
「何よ、それ」
「なんだっけ、確か、市役所に環境公害課とかいうのがあって、そこに相談するとか言ってたよ」
「公害?」
「ああ、公害だって」
「冗談じゃねえよ。ふざけるなっ」社長が気色《けしき》ばんだ。
「だろう? おれも頭にきて言ってやったんだよ。こっちは大企業みたいに川の水を汚したり、煙を吐いて病人出したりしてるわけじゃない。正直に働いてる人間に向かってふざけたこと言うなってさ」
「そうしたら?」
「ああ、その点だけは謝ってたよ、すいませんって」
「ふうん」信次郎の小さな嘘に少しは怒りが鎮《しず》まったようだった。「で、どんな奴なのよ」
「女連中はどこにでもいる主婦ってやつよ。ま、多少はお高くとまってるけどね。でも、一人男がいて、それがたぶん太田っていう言いだしっぺの奥さんの亭主だと思うんだけど、どうにも食えない野郎って感じでさ」
「どんなふうに」
「なんて言うのかなあ。口の利き方は紳士的なんだけど、どうも腹ん中は何考えてんだかわかんねえような……」
「人を小馬鹿にしたような態度か」
「うーん。どうかなあ……」
「エリート様ってやつか」
「まあ、そうだろうなあ、頭は切れそうだよ」
「気にいらねえな」山口社長が指の骨を鳴らしたので、信次郎は「おいおい、物騒なことはしないでよね」と笑った。
山口社長はしばらく世間話をして帰っていった。帰り際、今度フィリピン・バーに新しい娘《こ》が入ったので飲みに行こうと言い、うっかり返事をしていたら、勝手に次の土曜と決められていた。
信次郎は「ケトバシ」の前に腰掛け、またナット打ちの作業に戻った。合金板を右手に持ち、ふたつ開いている穴のうちのひとつを台座の中心に合わせ、右足でペダルを踏む。ペダルで操作するからだろうか、昔からこの手の工作機械のことを「ケトバシ」と呼んでいる。もはや古すぎてめったにお目にかかれない機械だ。前方からノズルが伸びてきて、押しだされたナットが穴に重なり、上から降りてきた溶接棒がそれを固定する。部品からは黒い煙が立ち上がり、同時に金属の焦げた臭いが鼻をつく。機械が音を出すたびにマンションの住人たちの顔が浮かび、落ち着かない気分になった。ふとこの発注が「見込み」だったことを思いだし、とりあえず完了分だけを納品して残りは後日にしようかとも考えたが、この先どんな飛びこみの仕事があるかわからないので打ち消した。仕事をあと回しにするとろくなことはないのだ。心の中に小さないらだちがあり、仕事に集中できなかった。住人たちは、作業を止めることはできなかったが、信次郎に充分なプレッシャーをかけることには成功したようだった。
その夜の食事中、信次郎はつまらないことで娘の美加を叱った。自分でも驚くほど感情的になった。それは、美加がアルバイトの履歴書を書くとき「川谷鉄工所」では恥ずかしいということを、まるで遠慮することなく、言ったからだった。
「ねえ、おとうさん。うちもそろそろ名前変えてみたら」
「どういうことだ」
「ほら、やっぱりカタカナの方がかっこいいからさあ。川谷スチールとか川谷メカニックとか」
「なんだそれは。スチールって、それじゃあ製鉄所じゃないか。メカニックだって、まるで整備工場みたいだろう。ちゃんと英語の勉強してるのか」
「だったら、そういうの一切関係なくして、いっそのこと川谷も取っちゃって、株式会社ラビットとか株式会社ドルフィンとか。たとえば、だけどね」
「うちは株式会社じゃないの。有限会社。だいいちこの名前で長く商売してるんだ。そう簡単に変えられるか。なんだラビットってえのは」
「だから、たとえばって言ってるじゃない」
「なんだ。川谷鉄工所だと気にいらないのか。川谷鉄工所のどこが悪いんだ」
「だって履歴書に書くときかっこ悪いんだもん」
ここで信次郎はカッとなった。昼間のこともあったのかもしれない。我を忘れて娘を怒鳴りつけ、こういう台詞《せりふ》は言うまいと思っていたのに、「誰のお陰で食わせてもらってるんだ」という言葉を肚《はら》の中から吐きだしたのだ。
娘は最初目を丸くしたが、すぐさま顔色を変え、プイと横を向いて部屋へ逃げこんでいった。息子の信明は「落ち着いたら」と、いかにも他人事のような顔をして、部屋へ引き上げていった。反抗的というより、この手の家族のいさかいを軽蔑《けいべつ》したような態度だった。
妻の春江は間に入って信次郎をとりなしたが、一緒に怒るでもなく、二人きりになってからは黙って口を動かしていた。
週が明けて、北沢製作所の納品を無事済ませて工場に帰ると、一本の電話が信次郎を待っていた。それは「ヤヨイ工業」という取引先からのもので、電話の向こうの声は重く怒気を含んでいた。
「川谷さん。不良品、出ちゃったよ」
「あ、そうでしたか」
信次郎が声をひそめて言う。製造業に不良品は付き物だが、問題はその程度と発生の状況だ。ヤヨイからはガス給湯器の熱交換器部分のパーツを請け負っていた。
「『そうでしたか』じゃないでしょう。困るよ。この忙しいのに」
担当者は平野という名前の同年配の男だった。
「申し訳ありません。さっそく引き上げに伺いますので」
思わず信次郎の腰が曲がる。これでまた時間が割《さ》かれるかと思うと気が重くなった。
「うちじゃないよ」
「はい?」
「もっと上だから」
担当者の平野はその給湯器を製造しているメーカーの名前を出した。つまり、それは工場の製造ライン上で不良品が発覚したということだった。
「あ……」
言葉を失っていると、平野は、とにかく大至急メーカーの工場まで出向いてほしいこと、その場所は地図を書いてファックスすること、自分もこれから向かうということを、溜息と舌打ちを織り混ぜながら言った。ふだんは冗談を言い合う仲なのだが、このときばかりは不機嫌を隠そうとはしなかった。
信次郎が元締めのメーカーに行くのはこれが初めてだった。だいたいヤヨイとメーカーの関係すら信次郎は知らない。
沈んだ気持ちでトラックを走らせメーカーに向かった。そこは多摩《たま》のはずれで、月曜の交通事情もあって一時間もかかった。ちょうどお昼の時間だったが、昼食をとる余裕はなかった。
着くと、工場内で暗い顔をした平野と、知らない二人の男が立っていた。信次郎は急いで駆け寄り、このたびは大変申し訳ありませんでしたと頭を下げた。どういう状況になっているのかもわからなかったが、とにかく頭を下げることが先決だった。
「ええと……」
この人は誰なの、という感じでネクタイの上にベージュの作業服を着た男がつぶやいた。どうやらメーカーの現場責任者らしかった。現場責任者は、信次郎の知らないもう一人の、きれいに頭の禿《は》げあがった男に疑問を投げかけ、続いてその男は平野に(誰なの?)と視線を向け、そこでやっと平野が信次郎を紹介した。
「熱交換器の溶接をお願いした川谷鉄工所さんです」
信次郎は二人の男に名刺を差しだしたが、あまり関心がない様子だった。
「あっそう」
それだけ言って顔を向けようともしなかった。
現場責任者はひたすら禿頭に向かって何かを言い、平野も信次郎も眼中にないといった態度だった。禿頭はハンカチで額を拭きながら米つきバッタのように腰を折っている。ここで信次郎にもこの男たちのだいたいの関係がわかった。このメーカーは禿頭の会社に仕事を依頼し、禿頭は平野の会社に仕事を下ろした――。一次下請けと二次下請けと、信次郎の三次下請けがここにいるのだった。
現場責任者は名乗りもしなかったが、禿頭は「東雲《しののめ》工業株式会社 営業部長 金子康夫」という名刺を信次郎によこした。ただし、今はそれどころじゃない、というおざなりな渡し方だった。
「とにかく、ひとつでも不良品が見つかった以上、さかのぼってすべての部品のチェックが必要ですから、これからみんなで手分けをして行います。まずは組み上がったものから見ていくので……」
現場責任者はあくまでも金子にだけ話をしていた。「わかりましたか?」と言うと、金子がうなずきながら平野に目線を送り、平野が同じように信次郎に目線を送り、そこではじめて信次郎は首を上下に振るのだ。メーカーに叱られるのを覚悟していたのでやや拍子抜《ひょうしぬ》けしたが、それは相手にされていないということだった。
現場責任者はこういった事故に関しては場数《ばかず》を踏んでいるようで、やけに落ち着き払っていた。てきぱきと指示を出し、多くの部下たちが作業に取り組んでいた。
「どこが悪かったんですか?」
従業員に混じりながら信次郎が小声で平野にたずねる。まだ肝腎《かんじん》の不良箇所を聞いていないのだ。
「溶接だよ。溶接」平野が吐き捨てる。「すぐに剥《は》がれちゃうんだよ。電流が弱かったんじゃないの。困るよ。川谷さんのところを信用して任せてるんだから。こっちの立場もあるでしょう」
どうやら平野はすでに金子からたっぷり油をしぼられたようだった。
信次郎が請け負った仕事は五百個で、そのすべてをチェックする必要があった。すでに本体に組みこまれたものもあり、それが容易でないことはすぐにわかった。本体カバーを外し、分解して調べるのだ。信次郎は自分の工具箱をトラックから運びだし、作業に加わった。みんながむずかしい顔で手を動かしていた。しばらくして気づいたのだが、作業をしている人員の半分は別の制服を着ており、彼らは急遽《きゅうきょ》、「東雲工業」から駆けつけた社員らしかった。胸を見ると、会社名がローマ字で縫いつけてある。事の重大さに、胸の中で灰色の気持ちが膨らんでいった。平野は身の置き場がないといった様子で小さくなっている。そうなると信次郎はもっと小さくならざるをえなかった。冷汗が背中を伝わった。
ただ、信次郎にも言い分がないではなかった。製造ラインまでこの不良品が来てしまったということは、「ヤヨイ工業」がチェックもせずに「東雲工業」に納品したということであり、その「東雲工業」もそれを見逃したということだった。おそらくメーカーの現場責任者にとっては、信次郎のミスなど問題ではないのだろう。不良品を納入した「東雲工業」が問題なのだ。
平野の機嫌があまりに悪いので、信次郎はできるだけ離れるようにして、メーカーの社員たちに混じっていた。現場の人間は残業代がつくので、それほど腹を立てることではないだろう。とくに彼らが期間工ならば、会社への忠誠心も少ないはずだった。話相手はいなかったが、作業ははかどった。
自分が作った部品が多くの人間にチェックされているというのは、試験の採点を衆目の中でされているようで落ち着かなかった。横目で見ていると、メーカーの従業員たちがわざと乱暴に扱っているような気がした。他人の不幸がうれしいのか、パンパンとたたく者までいる。もう少し丁寧に扱ってくれよと、心の中でいまいましく思った。
開始十分ほどで二個目の不良品が発見された。自分のしでかしたことなので黙っているわけにもいかず、現場責任者と金子のところへ行った。平野がすかさず駆け寄ってくる。見ると、板を直角に付けるところの溶接が充分でなく、少し力を加えただけで簡単に外れてしまうようだった。従業員の松村の顔が浮かんだ。この仕事は松村にやらせていた。
「このぶんだと二十個やそこらは出そうだね」
現場責任者が無表情で言い、金子が禿頭の汗をハンカチで拭って頭を下げた。平野と信次郎も同時に頭を下げた。
「東雲さんは先月も一件あったばかりでしょう」
また三人で頭を下げたが、それは信次郎には身に覚えがないことだった。たぶん平野も同様だろう。ここにきてだいたいの成り行きが理解できた。東雲工業は事故続きで、間の悪いことに信次郎のミスがそれに輪をかけたのだ。
しばらくすると、今度は背広姿の男がやってきて現場責任者に深々とお辞儀をした。見ていると、金子が「専務」と呼び、その男が東雲工業の幹部であることがわかった。一次下請けにとっては死活問題なのだろう。この給湯器メーカーは彼らにとって大切な取引先なのだ。東雲工業はこのミスで切られるのだろうか、と信次郎は思った。そうなれば連鎖的に川谷鉄工所も仕事を失う。取引額を頭の中ではじいた。たいした金額ではないな、と自分を慰めた。
夕方までかかってすべてのチェックを終えた。結局、十八個の不良品が見つかり、それを東雲工業が引き取ることになった。平野にも信次郎にも声はかからず、どうやら自分のところで処理するようだった。東雲工業の幹部たちは事務棟に呼ばれ、平野と信次郎はその場に残された。メーカーからは最初から最後まで相手にされていなかった。
「まずかったですね」
信次郎が申し訳なさそうな顔をすると、そのころには平静を取り戻したのか、平野は小さく口の端《はし》だけで笑って「いや、うちのチェックも甘かったんだよ」と言った。やや救われた気がした。二人がそれぞれ背筋を伸ばし、建物の外に出た。少しあたりを見回してから平野が声を発した。
「たまんねえよ」それは中学生のような口のとがらせ方だった。「まったくよお、あの金子のおとっつぁん、頭から湯気だして怒鳴るんだもんなあ。そりゃあ、おれなんか謝るしかないけど、でも二十歳《はたち》やそこらの若造にならまだしも、女房子供もいる大人にああいう怒鳴り方はないんじゃないのって思うわけよ」
信次郎は眉を八の字にして相槌《あいづち》を打っていた。
「顔を見るなりいきなり『この馬鹿野郎』だもんな。そんな言い方されたのなんてほとんど記憶にないよ。三十年ぶりとかじゃないの。少なくとも社会に出て働くようになってからは初めてだね」
平野がしきりにそのときの様子を話す。話しているうちに怒りが甦《よみがえ》ってくるのか、こめかみに青筋が立った。
「あーあ。いやだいやだ。因果な商売だよ、下請けなんてよ」
信次郎が苦笑いすると、その意味を察したのか「いや、川谷さんのところのほうがもっと大変かもしれないけどさ」とつけ足した。
「勝手な時間に呼びつけられて、無理難題吹っかけられて、安い金でこき使われて……」
平野がぼやけばぼやくほど、それは信次郎のことだった。
「どうなの? 景気は」
「バブルがはじけて以降、いいことなんかひとつもないですよ」
「そうだよなあ。おれだって、仕事出しながらこんな単価でよくやるよなあって思うもん。……あっ、気ぃ悪くした? ごめんごめん」
信次郎の表情が一瞬変わったので、あわてて平野が打ち消した。
「いまのは冗談だからね、冗談」
自分より下を探しては憂さを晴らしているようにも見えた。
「でも仕方がないのよ。こっちだって生活かかってるんだもん。ここでコストダウンに応じられなきゃ、メーカーなんかすぐに海外移転だとか言いだすしさ。そうなったらウチだけじゃなくて、金子のおとっつぁんのところだってイチコロだし、みんなで失業だよ。……ま、いいんだけどね。おれなんか世田谷にアパート持ってるし」
「そうなんですか?」信次郎が素直に驚くと、「ふん」と平野が鼻で笑った。
「うそ。うそうそ。いっぺんこういうの言ってみたかっただけ」
平野はたばこに火を点けると、茜色《あかねいろ》の空に向かって大きく煙を吐きだした。春というよりは、もう夏の気配さえある濃い夕暮れだった。信次郎も自分のたばこに火を点けた。おなかが小さく鳴り、昼食をとっていないことに気がついた。
「……何かあるかもしれないよ」
平野が空を見上げたままつぶやいた。
「はい?」
「今回の事故」
「はあ……うちは請求しませんから」
部品一個のスポット溶接が十五円。それに五百個をかけてもわずか七千五百円の仕事だった。
「それで済めばいいけど」
「そうなんですか?」
「製造ラインを止めちゃったからね。こういうのにメーカーはシビアなんだよ」
「…………」
「ま、どっちにしても東雲工業さんの話よ。おれたちゃ、ない袖は振れないからね」
そう言うと平野はやけくそのような笑い方をした。
信次郎はそこで解放された。失った時間は六時間。夕焼けを背中に浴びながらトラックを駆り、家路を急いだ。もちろん帰ってからも山のような仕事が待っている。
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明日にでも車を調達してやってきそうな口ぶりだったのに、タカオはなかなか姿を現さなかった。板金塗装会社の倉庫に忍びこんでトルエンをいただく計画は頓挫《とんざ》したままだ。仕方がないので、野村和也は駅前で毎日パチンコばかりしてすごしている。たまには品川あたりまで足を延ばしたいのだが、タカオの連絡を待つためには川崎にいなくてはならない。
川崎に腰を落ち着けてそろそろ一年になる。
愛知県の東のはずれに生まれ育った和也は、地元の高校を中退すると同時に家も捨てて、遊び仲間の叔父が親方を務める土木会社に飛びこんだ。「家を捨てて」というのは、半分は和也の強がりだ。まだ三十代だった母親は待ってましたとばかりに別の男との生活を始めたし、もともと家に寄りつかなかった父親はそのころ長く病院にいた。「措置《そち》入院」という言葉を聞いたことがある。近所の噂話は和也の耳にもそれとなく届き、薄ぼんやりとだが、父のいるところがどこかの精神科の専門病院であることを察した。家は自然消滅したようなものだった。
作業員宿舎での生活は和也を充分に満足させた。親から離れられたという解放感と、自分で稼いでいるという充実感とがその要因だ。自分の行動にけちをつける者が誰一人いなくなり、大人たちに混じって堂々とたばこを一服したときは、なんだか社会の一員と認められたようで自然と笑みがこぼれたものだ。仕事はきついものの、慣れてしまえば和也の若い肉体がそれにまさった。仕事を終え、宿舎に帰ってひと風呂浴びたあとでも、高校の中退仲間と夜の街に繰りだしていった。夜遊びは、毎晩でもしたい楽しい祭りだった。宿舎に同年代の者はいなかったが、九州から流れてきたという二十代前半の兄弟がいて、和也を可愛がってくれた。ピンサロへ連れていかれたときは、女から股間に手を伸ばされて思わず腰を引き、陰から様子を窺《うかが》っていた兄弟を大いによろこばせた。「こいつ童貞じゃなかとか」とからかわれ、むきになって否定すると彼らはますます腹を抱えて笑い、以来弟分のような形になった。宿舎は、適当に不幸なのが和也にはよかった。肉体労働と大部屋での寝起きを好んでする人間はおらず、誰もが小さな事情を抱えていた。世間の幸福が眩《まぶ》しくて気おくれしてしまうようなうぶな感受性も、それぞれがもっていた。多くの労働者は、ここを出ていってはまた戻ってくる。同類同士でいれば不安はなく、明るくなれた。宿舎は和也と彼らの「身の置き場」だった。九州の兄弟は、和也の身の上をくわしく知ろうともしなかった。聞かれないので、和也もまた聞かなかった。そんなことをする人間はここには誰もいなかった。
和也が従事した仕事は架橋工事だった。朝の七時にマイクロバスに乗って岐阜の山奥まで連れていかれ、そこで小さな橋を作っていた。といっても車の免許もなく土木機械も操作できない和也に与えられる仕事は、一輪車で石を運んだり、ブロックを積んだり、たまに交通整理の手伝いをすることだけだった。言われるままに働いたので、仕事の段取りもシステムもわからなかった。親方がいちばん偉いのだろうと思っていたらそうではなく、親方は、午後に少しだけ顔を出す三十歳くらいのメガネにいつも頭を下げていた。メガネは作業服にヘルメット姿だったが手を汚すことはなく、ときどき図面を広げて測量のようなことをしていた。そのメガネが背筋を伸ばすのは背広の一団が現れたときで、彼らが役人であることは親方から教えられた。ヘルメットをあみだに被っていると、市役所が来るからちゃんと被れと注意されたのだ。背広の男たちが親方と口を利くことは一度もなかった。
和也が半年でそこを辞めたのは、九州の兄弟がいなくなったからだった。ある給料日の夜、兄弟は親方を事務所で殴りつけ、そのまま荷物を抱えて闇に消えていった。計画的な行動で、和也はそれを知らされていた。ピンハネがひどすぎるというのが兄弟の言い分だった。和也は「おまえもついて来い」と誘ってほしかったが、その言葉はなかった。兄弟は荷物をまとめると顔を紅潮させ、プレハブ小屋の階段を駆け降りていった。そののち事務所で怒号がこだました。東京へ行くと彼らは言っていた。
話相手がいなくなったので、和也は、まだ目の縁《ふち》の黒い親方に辞めますと告げて、名古屋に出た。あてがあるわけではなかったが、中古車が買える程度の蓄えができていたので不安はなかった。スポーツ紙の求人広告を見て、十七という年齢を偽り、キャバレーの住み込み店員になった。ホステスに可愛がられるのではないかという、すけべ心がかすかにあったが、そういうことはまるでなく、逆に先輩のいじめにあった。掃除がなっていないと毎日のように小言を言われ、挨拶がないといっては睨《にら》みつけられたのだ。キャバレーはまるで高校の運動部だった。開店前に全員で、いらっしゃいませ、かしこまりました、と大声で唱和させられるときは、和也はいつも暗い気持ちになった。和也は「服従」というものを抵抗なくできる人間ではなかった。三日でいやになった。キャバレー勤めが三ヵ月も続いたのは、十八になるのを待つためだった。車の免許が取れれば、自分はもっと自由になれる気がした。それまでは住所不定だとまずいと思った。
誕生日が来るやいなや和也は自動車教習所に駆けこみ、ストレートで実習を終えた。車は初めてだったが、単車をさんざん無免許で転がしていたので、スピードに対する勘があり、半クラッチの加減もわけはなかった。そして警察の試験場へいくと住民票が必要だと言われ、仕方なく一度家に戻ることにした。母と母の男に会いたくはなかったが、背に腹は代えられなかった。
およそ十ヵ月ぶりに市営住宅の実家に帰ると、そこには見覚えのない表札がかかっていた。しばらく事態が呑みこめず、ぽかんと口を開けたまま真新しい表札を見ていた。二度三度と家の周りを歩いてみたが、それで何かが変わるわけもなく、真っ白な頭のまま呼び鈴を押したら、当然のように見たこともない中年の女が顔を出した。女はセールスだと思ったのか、目の前の若い男をうさん臭げに眺めていた。
和也は女に向かって「ここにいた野村さんは?」と聞いた。声が掠《かす》れ、自分の苗字《みょうじ》をさん付けで呼ぶ妙な違和感を覚えた。女は、自分たちは二ヵ月前に越してきたばかりで前の住人が誰であったかは知らない、とドアのノブを握ったままで言った。いかにも柄の悪そうな和也の風体に警戒を解いていないようだった。黙って立ちすくんでいると、女は、役所の住宅課に行けば転出先がわかるだろうと教えてくれ、ドアは瞬《またた》く間に閉められた。
和也は門のところで振り返り、十七年間住んだ平屋の建物を見た。便所の汲み取り槽から伸びた煙突の先で、風車が風でからからと回っていた。
役所に行ったら、個人情報は教えられないと素っ気なくあしらわれた。息子だと言うと、息子が母親の引っ越し先を知らないのかと疑いの目を向けられた。ぼそぼそと事情を説明し、自分の住民票が欲しいだけだと告げると、ああ何だそんなことかと書類を渡され、それに記入したらあっさりと住民票の写しが出てきた。見ると住所は前のままで、親子三人の名前がまるで鯉のぼりのように並んでいた。しばらくそれを眺めていたら、一瞬、体が宙に浮いたような錯覚を味わった。
それから二、三日して、耳鳴りがするようになった。突然やってきたのではなく、気がついたら、いつも耳の奥で円盤がヒュルヒュルと飛んでいたのだ。どこか他人事のような冷静さで受けとめたが、何かの終わりを宣告されたような気分だった。
一週間もすると眠っている時間以外が苦痛になり、和也は始終街をさまよい歩くようになった。たまに円盤は編隊を組んでやってきて、そんなときは喧噪を求めて夜明けまでゲームセンターやサウナをはしごした。
キャバレーのあとは、住み込みのところを探していくつか勤めたが、長続きはしなかった。耳鳴りのせいでいつも落ち着かないこともあるが、働くのが馬鹿らしくなったのも事実だった。遊び仲間の何人かはやくざになり、少なくとも和也の前では羽振りがよかったのだ。彼らは働く和也を見ては「真面目やな」と見下すような態度を取った。
和也は、一度先輩の誘いで組の事務所に行ったことがある。ただ、奥の部屋に並べられた二段ベッドを見て気持ちが萎《な》え、やくざになる気はなくなった。「部屋住み」と呼ばれる下働きは土木作業よりつらそうだった。それでもピンクチラシを貼る仕事などはたまに廻してもらい、小遣い稼ぎをした。このころから、金がなくなると恐喝もした。住むところがなくなると仲間のところに転がりこんだ。車の盗み方も覚え、その中で寝泊りすることもあった。何をしても生きていけるんだな、という妙な確信をもった。
名古屋には一年ほどいて、和也は川崎に出た。とくに名古屋を去らなければならない理由はなかったが、作業員時代の九州の兄弟が「東京へでも行くわ」と言っていたのが頭に残っていた。会いたいのではなく、鞄ひとつで暮らしを移すそのかろやかさに憧れていた。環境を変えると耳鳴りが治るのでは、というかすかな想いもあった。もっともそれは、はかない期待に終わった。
川崎を選んだのは、その規模になじめたからだった。最初は東京へ行ったが、新宿と渋谷を半日歩いただけで、その華やかさと猥雑《わいざつ》さに圧倒され、引き返したのだ。街を歩く若い女はどれも手に負えないほど奇麗に見え、男たちは頭のいいやり手に思えた。ここに住むのはもう少し慣れてからだ、と自分に言い訳した。
どこまで戻ろうかと東海道線の車中で思案しながら、さしたる考えもなく川崎で降りた。単に地名を知っていただけの理由だった。車内のアナウンスでその名を聞いて、ちょっと見てみるかという気になった。そして駅を出て、地下街につながる階段に立ったところで、和也の胸が弾んだ。名古屋の地下街にそっくりだったのだ。
うれしくなって地下街をぐるぐると歩き回った。
和也はもうここに住むことを決めていた。
その日は朝から調子がよかった。前の晩にマークしておいた台は釘がほとんどいじられておらず、まずは回転具合を見てみようと思っていたら、最初の五百円の玉でいきなりリーチがかかり、一発で当たりを出してしまったのだ。しかも揃ったのはスリーセブンの確率変動。まだ客もまばらな店内で、自分の台だけが派手な電子音を鳴らしている。和也は、なんだかからかわれているようで実感が湧かなかった。
二回目の当たりも間髪《かんはつ》入れずやってきて、落ち着いてたばこを吸う暇さえなかった。三回目にはまたしてもスリーセブンで確変の引き直し。午前中だけでドル箱は三つになり、三万円以上のプラスになっていた。
その気になればパチンコで生活できる。それは、和也のような風来坊にはありがたい社会の隙間だった。ギャンブルで蔵が建たないのは競輪競馬と同じだが、パチンコは生活費が稼げた。しかも通えば通うほど、台の攻略法がつかめ、その確率は上がった。デジタル台導入以降のパチンコは、もはやセールスマンが仕事をさぼって一、二時間遊べるような牧歌的な遊戯ではなかった。時間を持て余した者が勝つのだ。
和也の通う店にも、あきらかにパチンコで食っているとおぼしき男たちがいた。彼らは開店前から列を作り、扉が開くと同時に通路を走り、マークしておいた台を確保する。玉が出たからといって、何か劇的なことがあるわけではない。そのまま夜まで打ち続け、勝てばいくばくかの現金を手に入れ、帰っていく。これで豪遊ができるわけではないが、少なくとも暮らすことはできた。誰とも関わらずに生きていける。パチンコは、ある種の人間たちにとっては、どこか「救い」のようなところがあった。
台の回りは相変わらず快調だった。千円で三十回近くは回転している。当たりはすでに七回目に入り、和也は昼食もとらずに台に集中していた。
出玉に気をよくしていたら、背中から声がかかった。
「お兄さん、凄いじゃない」
振り返る。肩のすぐうしろに柔らかそうな乳房があり、視線を移すとその上には年増女の顔があった。以前缶コーヒーを差し入れたことがある、ホステスだった。黙っていると、女は台をのぞきこみ、「この機種って、わたし勝ったことがないのよねえ」と馴れ馴れしく言った。乳房が肩に軽く触れ、すぐ横まできた女の首筋からは粉ミルクのような化粧の匂いがした。
「この機種は当たりの確率が低いからね。よく回る台を探さないと大損するんだよ」
和也が無関心を装って答える。こういうとき、どういう態度を取ればいいのかわからなかった。
「ふうん。ちょっとやってみようかしら。隣でやってもいい?」
女はそう言い、肉づきのいい尻を椅子の上に落とした。タイトスカートからは黒いストッキングに包まれた太い足が二本伸びていた。
「お兄さん、お酒飲むんでしょ」前を見たまま女が言っていた。
「あ、ああ、飲むけど」
「だったらお店に来てくれてもいいのにい」
女が口をとがらせる。冗談ともとれるおどけた口調だった。
「……あ、うん。『ミツコ』だっけ」
「そうよお。平和通り。マッチ渡したじゃない」
「……じゃあ、勝ったら行くよ」
「ほんとお、うれしい。約束よ」
ここまで露骨にしなを作られたのは初めてだったが、女からの好意を感じるのは、それが年増でも悪い気はしなかった。
女は三千円ぶんを瞬く間にすると、「あーん」と甘い声をあげて椅子を立った。
「おれのせいじゃないからね」と和也が言い、女は「うふふ」と笑って席を移っていった。赤く塗られた唇が、着色されたたらこのようにてかっていた。
夜の九時までかかって、結局八万円を超える勝ちになった。これまでで三番目くらいの大勝ちで、ここ一週間の収支でも、財布の中は十二、三万のプラスになっていた。通りを歩いていても足取りがかろやかだった。和也は、無性《むしょう》に焼肉が食べたかったが、焼肉屋は一人で入るようなところではないので、仕方なく吉野屋で牛丼を食べ、ビールを一本飲んだ。おなかの中でぽっと灯がともったような気になった。
その後、夜の十二時まで開けているメンズ・ブティックに入り、前から目をつけていたショーウインドウのスーツを試着した。遠目には薄いグレーだが、近くで見ると細いストライプが入っているのだ。着てみると、生地は滑らかで軽く、これからの季節にはうってつけだった。鏡の前でふわりと一回転した。自分が芸能人になったみたいで自然とポーズを取っていた。店主が、お客さんは背が高いから似合うんですよと誉め、自分でもそうだと思った。タカオに対抗できそうな気がした。
和也は上機嫌で「これください」と告げ、店主はそれ以上の機嫌でありがとうございますと腰を曲げた。スーツに合わせて白の開襟《かいきん》シャツも買った。しめて六万五千円の買い物となった。おまけにポケットチーフをくれた。個人経営の店らしくズボンの裾上げはその場でやってくれ、和也は大きな紙袋を提げて夜の街を歩くこととなった。
心が弾んでいた。誰かに伝えたくて、ふと商店のガラスに映る自分に目で訴えかけたりした。もう一人の自分は、いかにも楽しげだった。そして地下街に降りたところで我慢がきかなくなってトイレに駆けこんだ。和也は身障者用の広い個室に入ると、スカジャンとスウェットの上下を脱ぎ、真新しいスーツと開襟シャツに着替えた。続いて大鏡に姿を映し、ポケットチーフを胸に差しこみ、シャツの襟を整えた。袖に鼻を当てると新品の服の匂いがした。足元は運動靴だったが、たいした問題ではなかった。
紙袋に着替えた服を丸めて入れると、和也はそれを駅のコインロッカーに預けた。愛用のバタフライナイフは、一度はジャケットの右ポケットに入れてみたが、不細工な皺ができてしまうので、ズボンの尻ポケットに移すことにした。
そうやって再び地上に出た。和也は平和通りを目指し、スキップをするように歩いた。「ミツコ」へ行くのだ。
「うれしいわあ。約束守って来てくれたのねえ」
カウンターとテーブルがふたつだけある薄暗い店内に、女の甲高い声が響いた。女が洗い物の手を休めて、和也にほほ笑みかける。客は奥のテーブルに二人だけいて、すでに出来上がっているのか和也の方は見向きもしなかった。別のホステス二人が相手をしていた。
「ここ、座ってえ」女は濡れた指先でカウンターをたたくと「おなか、空《す》いてない」と聞いた。
「ううん」
和也が頭を振る。店内をそっと見渡し、自分が場違いではないことに軽く安心した。絵にかいたような場末のスナックだった。
「ねえ、わざわざ着替えてきたの? そんなことしなくてもいいのにい」
女はふきんで両手を拭くと、グラスを取りだし和也の前に置いた。
「でもかっこいいわあ。どこかの映画スターみたい。ハンサムだし背も高いし、女の子にもてて困るでしょう」
「お姉さんだって、きれいですよ」
慣れないお世辞に声がうわずったが、女はうれしいわあと大袈裟に身をよじり、「これ、わたしの気持ちだから」とビールの栓《せん》を抜いた。
「わたし、楓《かえで》っていうの。よろしくね」
「かえでさん?」
「そう、木偏に風って書いてかえでって読むのよ」
「ふうん。……あ、おれ、野村和也」
「和也くん? まあいい名前だわあ。ごめんね、お客さんを『くん』で呼んだりして。でも、凄く若そうだもの、いいよね。和也くん、いくつなの?」
「二十歳《はたち》、だけど」
「うわあ、若いわあ。ああ、だめよ、わたしの齢《とし》聞いちゃ」
女はそう言って顔中に笑いを広げる。その明るい笑顔に、つられて和也も笑った。
しばらくすると奥のテーブルからママらしき女がやってきて和也に挨拶をした。ママは楓に「若いボーイフレンドがいていいわねえ」と冷やかすように言い、楓が「彼、二十歳なのよお」と答え、そこでまた女たちは感嘆の声をあげていた。ママは「わたし、奪っちゃおうかしら」と悪戯《いたずら》っぽく和也をうしろから抱擁《ほうよう》し、楓が「だめよお。わたしが先に唾つけたんだから」とやり返した。こんなに人にかまわれるのは久し振りだった。
ビールを飲み終えたところで和也はボトルを注文した。
「いいの?」楓が少し真顔で聞いた。「うち、オールドで八千円だけど」
「ああ、いいよ。それくらい」
「ねえ、今日、いくら勝ったのよ」楓が身を乗りだし声をひそめた。
「八万四千円」
「うわあ、じゃあもっと高いの入れてもらわなきゃ」
楓がそんな冗談を言いながらうしろの棚からオールドの瓶を取りだす。白いブラウスにブラジャーの線が透けて見え、背伸びをすると、それが窮屈《きゅうくつ》そうに肉に食いこむのがわかった。パチンコ屋にいるときよりスカートは短く、片方の太もものあたりにはスリットが入っていた。
楓は、頼みもしないのにソーセージを手早く炒《いた》め、それを和也にだすと、自分もカウンターから出て隣に腰かけた。
「わたし、ここんとこ負けてばっかりでさあ。ねえ、どうやったら勝てるのかお姉さんにも教えてよお」
楓の膝が和也のももに当たった。一瞬、和也は腰を引いてしまうところだった。
「一応、千円あたりの回転数はいつも数えてるんだけどね」
うんうんとうなずきながら、楓は、たばこをくわえた和也にすかさず百円ライターで火を点けた。
「これくらい回らないとっていう最低線を決めておいて、それに達しなかったらさっさと台を替わるんだよ」
楓は自分のたばこにも火を点け、ふうんという声と紫煙を同時に吐いた。
「でも、我慢してると回りだすってこともあるしね」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「わかんないよ」
楓はからかわれたと思ったのか「んもう」と鼻から声を出し、和也の肩をぽんと押した。和也が、そろそろ気持ちに余裕ができてきたので、その手を軽く押し返す。指と指が触れ、女の生温《なまあたた》かい体温が伝わった。
楓はすかさず和也の手を取ると、手相を見てあげると言って体を寄せてきた。
「うわあ、ピアニストみたいな指。あなた、箸《はし》より重いもの持ったことないんでしょ」
「ううん。おれ、昔、ドカテンやってたよ」
「うそお。ちょっと」楓は和也の肩や胸を遠慮することなく触り、「あっ、見た目は細いけど筋肉質だわあ」と、まるでスーパーで果物を品定めするように言った。
「お姉さんは?」
和也が仕返しに触ろうというポーズを取ると、楓は身をよじり、「だめよお」と言ってはすっぱに笑った。和也はそつなく女の相手をしている自分に満足していた。
楓は和也の手相を見ながら、女を泣かすタイプだとか、でも結婚は早いとか、たぶんほかの客にも言っているであろうことを楽しそうに話した。そしてカラオケをやると言いだし、和也の知らない古い歌を二、三曲唄った。勧められて和也がポップスを一曲だけ唄うと、うまいわあと拍手をし、はしゃいで和也に抱きついた。
いつのまにか時計の針は十二時を回り、奥のテーブルのサラリーマンが帰り支度をはじめていた。和也がそれに目をやり、(じゃあそろそろ)という顔をすると、楓が「ねえ、ラーメン食べに行かない」と聞いてきた。いいよと答えると、すぐに出られるから先に行っててと低い声でささやき、すぐそばのチェーン店の名前を言った。
言われたとおり、ファミリー・レストランのようなその店でラーメンを食べていた。十五分ほどで楓は現れる。自分もラーメンを注文し、左手で髪を押さえながら器用にそれをすすった。あらためて見ると、楓は美人とは言えないが、男好きのする顔立ちをしていた。低い鼻にも愛嬌《あいきょう》があった。
店を出たところで楓が腕を絡ませてきた。
「ねえ、やっぱり、聞いちゃおうかな」
「……何を?」
「わたし、いくつに見える」
「二十七」
楓はあははと上機嫌に笑うと、和也の腕を強く抱えこみ、自分の胸に押しつけた。
和也がそれをほどく。左の腕で女の肩を抱き、右手でその乳房をつかんだ。
「うわあ、怖い顔」
どんな顔をしているのか和也は自分でもわからなかった。
「だめえ、こんなところで」
楓は年上の余裕なのか、楽しむようにゆっくりと和也の右手を引き離した。「うちに来てもいいわ」その手を握った。
二人でタクシーに乗りこみ、ものの十分で女のマンションに着いた。車中で、楓は和也の太ももを触っては、うぶな二十歳の若者の反応によろこんでいた。
マンションのエレベーターでは和也の股間に手を伸ばしてきた。思わず腰を引く。女は「可愛いわあ」と潤んだ目をした。
だから部屋に入り、玄関のドアを閉めたときはもう抱き合ってキスしていた。あわてて靴を脱ぎ、もつれるようにして奥の寝室まで行くと、楓はいったん和也を引き離し、自分から服を脱ぎ、全裸になった。楓も興奮しているのか黙ったままだった。カーテンが開けっ放しにしてあったので、月明かりに女の裸体が浮かびあがり、その陰影は、女の豊かな肉付きをいっそう柔らかく描いていた。荒い息を押し殺しながら、和也も服を脱いだ。楓がベッドに腰を下ろしたので、無言のまま和也は飛びかかった。そのままうしろに転がった楓は、腕を和也の首に巻きつけ、あーんと掠れた鼻声を出した。上半身を強く密着させると、女はそれをこすり合わせ、体をくねらせた。熱い体だった。続いて女は体を入れ換えて上になり、和也の唇を吸った。口の中に入ってきた女の舌は、まるで別の生き物のように激しく動いていた。和也も化粧の上から女の顔をなめた。女の髪が顔にかかり、かまわず一緒になめた。
しばらくむさぼり合ってから、楓がベッド横の引き出しからスキンを取りだした。いざというときのためなんだから誤解しないでねえ、と言った。だってあんた持ってないんでしょう、と重ねて言い訳した。楓に導かれたあと、和也は懸命に動いた。女の呼吸が荒くなると、やがてそれは喘《あえ》ぎ声に変わり、顎を突き上げてからは和也が驚くほどの悲鳴をあげた。
女は続けて三回求め、若い和也は難なくそれに応じた。女の温もりを体いっぱいに感じていた。悪くない一日だった。
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四月も半ばになり、若葉も色づき、そろそろかなと思っていたら、案の定いつもの赤い回覧板が回ってきた。この時期は「新歓キャンプ」の案内だ。藤崎みどりはそれを昼休みに受け取ると、すかさず下のページをのぞき、小さな溜息をついた。今年も、ここまで「不参加」の欄に判を押す勇気ある行員は一人もいなかった。回覧板の縁取りが赤いことから、みんなで「赤紙が来た」と忌み嫌っている。実際、いい知らせなどあったためしがない。
「新歓キャンプ」は、毎年ゴールデンウィークの貴重な二日を潰して行われるかもめ銀行の恒例行事だ。その名が示すように、今年の新入行員を歓迎するキャンプで、その馬鹿馬鹿しさは行内の誰もが認めるところだ。指名された行員がキャンプファイヤーで「誓いの言葉」を述べるときは、聞くほうまで恥ずかしくて逃げだしたくなってしまう。上司たちも陰ではこの行事に「中学生じゃあるまいし」と毒づいている。おかげで世間が騒ぐゴールデンウィークの海外旅行ラッシュなど、みどりの勤めるかもめ銀行では遠い星の出来事だ。
みんながいやがる行事がなぜ続いているかというと、その理由は組合にあった。大きな組織なので、みどりがその仕組みのすべてを知っているわけではなかったが、感じるところだけでも、銀行の組合は御用組合の域を超えていた。それは男たちの出世コースであり、救済センターだった。どういうわけか組合役員を経験すれば黙っていても部長クラスにはなれた。ノルマのない部署だから自然と不出来な、学歴とコネだけは素晴らしい男たちが溜まり、出世が約束された気安さから、ああでもないこうでもないを繰り広げる。黙っていてくれればありがたいのに、行事があればここぞとばかりに存在をアピールする。行員たちも、自分がいつその立場になるかわからないので表立って文句を言わない。寮の運動会、店内旅行、秋のハイキング。みんなが迷惑しているのにやめられない。組織の慣習とは、いつだって不合理なものだった。
おまけに銀行の行事は全員参加が暗黙の了解だった。もちろんどこにも勇気ある人間はいるものだが、そういう行員には支店長の個別面談が待っていた。
去年は先輩の女子行員がその洗礼を受けた。短大時代の友人と海外旅行に行く予定だったその先輩は、昼休みに支店長に呼ばれ、ねちねちと皮肉を言われたのだ。
「いいねえ、若い女の子は。怖いものなんてないでしょ」
それが終わると今度は課長が出てきて「なんとかならないの」と泣きつかれ、最後は「いいの? 人事考課に響くよ」と威《おど》しのようなことを言われた。
もちろん女子行員には痛くも痒《かゆ》くもない台詞だ。そもそも銀行は完全な男社会で、みどりたちに出世の道があるわけではない。
本当の理由は、部下の人事考課ではなく自分たちの人事考課だった。支店から一人でも欠席者が出ると、支店長は自分の管理能力を本店から問われてしまうのだ。
その先輩はハワイ行きを強行突破したが、帰ってからはかなり気の毒だった。お土産のマカデミア・ナッツを配ると、みんなから皮肉を言われ、給湯室で一人泣いていた。たぶん、お土産を買ってこなければ買ってこないで、また皮肉を言われただろう。
ふーう。みどりは軽くあきらめ、机の引き出しから印鑑を出そうとした。ふと振り返ると、うしろの席の裕子と目が合ったので、声を低くして聞いてみた。
「ねえ、新歓キャンプ、どうする」
「どうするって……」
何かほかに手でもあるの、という憂鬱そうな口ぶりだった。
「蹴っ飛ばすとか」
「勇気あるう」裕子が肩をすくめた。
「じゃあ、母の実家の法事があるとか」
「去年はなかったじゃないの」
「七回忌だから今年はどうしても……とか」
「調べると思うな」裕子は書類をとんとんと揃えるとクリップで留めた。
「支店長が? そこまでするかなあ」
「支店長の命を受けたタマが」
みどりは手で口を押さえてあははと笑った。あり得ることだった。
「ねえ、お昼にしようよ」裕子が言い、二人は上の階にある食堂に行った。二人とも、いつも弁当を持参していた。社員食堂は安くて助かるが、味はそれに見合う程度のものだった。
ビルの三階にある食堂からは、横須賀《よこすか》線をはさんだ向こうに工場群の屋根が見えた。みどりはいつもこの窓から、昼休みに構内でバレーボールなどをしている工員たちをぼんやりと眺めている。こういう感情が失礼だとはわかっているが、彼らを見ていると、みどりは一流企業に就職できてよかったなと思うことがある。油にまみれて働くのは、みどりには考えられないことだった。そして自分の将来の伴侶《はんりょ》も、あの中にいるとは思えなかった。いちばん手前の工場は、みどりのいるかもめ銀行・北川崎支店の取引先だった。確か名前は「北沢製作所」だったと記憶していた。
さして大きくない食堂だが、交替で休憩をとるためたいていは空いている。窓際のテーブルについたところで、裕子が男みたいに首の骨を鳴らした。鼻を膨らませて息を吸う。これは愚痴を言うときの前触れだった。
「また?」
みどりがその顔をのぞきこみ、先手を打って苦笑する。裕子はここのところ両親から結婚をせかされていて、それがプレッシャーになっているのだった。この愚痴は毎日のように聞かされていた。
「今朝も言われた」
「何て?」
「いい人がいるなら早く結婚してほしい。そうでないなら見合いの話がある」
裕子は業務連絡のような口調で言った。
「まだ二十二じゃない、わたしたち」
「二十三になった」
「いつ?」
「先週」
「なによ、言ってくれればいいのに」
「言いたくない」裕子が弁当のご飯を口いっぱいにほおばり、黙々と顎を動かしていた。「……やだやだ、四月生まれなんて。うれしかったのは二十歳まで。みんなより早く大人になれた気がして。それから先は逆よ。自分から先頭をきって齢取っていくんだもん」
「ふふ」
「でも理由がわかった」
「何の?」
「両親が結婚をせかせる理由」
「何なの?」
「うちの課に大沢さんっているでしょ」裕子が箸で階下を差した。「あの人の話聞いたら一発でわかった」
「だから何なのよ」
「大沢さん、いま二十八でしょ。あの人は二年前の二十六のときに、いまのわたしと同じように親から結婚をせかされたのよ。でも、それを過ぎたらあまりうるさく言わなくなったんだって」
「どういうこと」
「わたしが愚痴こぼしてたら、大沢さんが『ねえ、あなたのお父さん、いまいくつ?』って聞くから、『五十四です』って答えたら『ああ、だいたいわかった』って。『もしかして、あなたのお父さんの会社、五十五で定年なんじゃないの』って言うわけ。わたし、くわしくは知らないけど、一度、ほとんどの社員は五十五までに出向させられるって親から聞いたことがあったから、ああそれなのかって思って。……大沢さんに言わせると、うちのお父さん、あと一年で会社が変わるから、それであせってるんだって。わたしもピーンときたわ。絶対そうだって」
みどりは意味がよくわからず、ご飯をほおばったまま裕子を見ていた。
「つまりぃ、うちのお父さんはぁ、いまの会社のいまの役職で自分の娘の結婚式に出たいからぁ」裕子が噛んで含めるように言った。「出向前にわたしを片づけたいのよ」
「ふうん」半ば感心してみどりはうなずいた。
「どう思う?」
「どう思うって……」
「勝手じゃない。親の見栄で娘の人生をどうこうしようなんて」
「裕子のお父さん、どこに勤めてるの?」
裕子は誰でも知っている大手ゼネコンの名前を上げ、そこの本部長だとつまらなさそうに口をすぼめた。
「すごーい」
「そうかなあ。いくら世間的にすごくったって、会社の肩書きがなくなったらただのおじさんでしょ。いまの状況にしたって、現在の役職で娘の結婚式に出たいっていうことは、それを自分でも認めてるってことと同じじゃない」
「そうね……」みどりはうなずいた。
「サラリーマンってさ、定年退職したら、きっと刀を取り上げられた侍みたいにおろおろするんだろうね」
その情景が目に浮かんだのでみどりは吹きだしてしまった。
「みどりン家《ち》はそういうの、ない?」
「うちは全然。って言うか、うちの親は妹のことで頭が痛いから、わたしのことなんか考えてないんじゃないかな」
「妹さん、またどうかしたの?」
「うん?」みどりの声が暗くなる。妹のことは、裕子にはそれとなく話してあった。
「いやならいいよ。家のことだもんね」
「ううん。……高校辞めたまではいいんだけど、何をするってわけでもなくて、毎日ぶらぶらしてるの」
「ふうん」
「うちのおかあさん、悩んじゃって」
「いくつだっけ、妹さん」
「十七。わたしとは少し年が離れてて……」
「大丈夫よ。そのうち落ち着くって」
「そうだといいけど」みどりが溜息をつく。
「長女」
「何が?」
「みどりのこと。長女って妙に責任感が強いのよねえ。うちの姉貴なんかもそうだもん。もうそっくり。わたしが親と喧嘩したりすると、関係ないのにハラハラしたりするのよねえ。頼まれもしないのに、間に立っちゃうの」
「ああ、そうかもしれない」みどりが思わず相槌を打つ。
「去年、結婚したんだけど、その相手にしたって、なんてことはない隣町の人でさあ。もちろん好きで結婚したんだろうけど、それとは別に、どこかで親のそばに住まなきゃっていう意識もあったと思うんだよね。だって外資系の会社に勤めてたんだもん。その気になればエリートつかまえて外国暮らしだってできたはずでしょ」
みどりは黙って聞いていた。それは自分にもあてはまると思った。いろいろ夢を見つつも、自分はきっと平凡な人と平凡な結婚をするのだろう。
「結局、慎重なのよね。冒険ができないっていうか、自分からすすんでブレーキを踏んじゃうタイプなのよ、長女って」
「そこまで慎重ってわけじゃないけど……」
「ううん。みどりは慎重よ。だって、飲み会でどんなに盛りあがってたって、十二時近くになるとそわそわして帰ること考えてるでしょ」
「それは妹のことで親が頭痛めてるから、わたしぐらいは心配かけないようにって」
「だから、それが長女なの」
裕子が勝ち誇ったように笑い、みどりは返す言葉がなかった。
「そうかもね」みどりは弁当の蓋を閉じて窓の外に目をやった。「どうせわたしは臆病ですよ」と少しいじけて見せた。
「あっ、お茶もってきてあげるね」裕子は言い過ぎたと思ったのか、みどりの分までお茶を取りに行ってくれた。
「そうそう。新歓キャンプ。早く判押して回した方がいいよ」
「…………」
「どうかしたの」
「……わたし、『不参加』に押そっと」
みどりは椅子の背もたれに体重をあずけると、両手を上げて大きく伸びをした。
「またあ、無理しちゃって」
「だって行きたくないんだもん」天井を見たままできっぱりと言った。
「わたしが変なこと言ったから?」
「ううん。関係ないけど」
裕子が小さく困惑の表情を浮かべみどりを見ている。
文房具を買いに行かなきゃと裕子が席を立ったので、みどりは一人で窓の外を見ていた。線路向こうの工場では、作業服の従業員たちが相変わらずバレーボールに興じている。工場の屋根が、春の太陽を浴びて白く光っていた。「線路向こう」という言い方は男子行員たちが使う言葉だった。みどりは行ったことがないが、線路を越えると町の雰囲気ががらりと変わり、鉄と油の臭いがするのだそうだ。「食堂に置いてある漫画までちがうんだぜ」と誰かが言っていたのをみどりは聞いたことがある。どこの喫茶店にでもあるサラリーマン向けの漫画週刊誌が、線路向こうでは、やくざや麻雀賭《マージャンう》ちが主人公のマイナーな漫画週刊誌にとって代わられているのだ。たぶん、一流企業のやり手課長がキャリアウーマンとできてしまう話など、実感が湧かないか、あるいは読むだけでも不愉快なのだろう。
「線路向こう」には、みどりの中学のときのクラスメートが一人いるはずだった。電車で何回か一緒になったことがある。地味で目立たない女の子だったので付き合いはなかったが、目が合って互いに驚いた顔をして挨拶を交わした。みどりが勤め先の銀行名をあげると、そのクラスメートは「わあ、すごい」と言って、自分の勤め先ははぐらかした。事務をやっているとだけ言っていた。降りる駅が一緒で、みどりは商店街のある東口に出て、そのクラスメートは工場の並ぶ西口へと出ていった。その後は会ってもあまり会話が弾まず、なんとなく向こうもよそよそしいので、ホームで見かけてもみどりは声をかけなくなった。
人はどこで分かれていくのかな、とみどりはときどき考えることがある。
みどりは自販機でコーヒーを買って、また窓際に一人で座った。あと三十分、昼休みはあった。少し離れたテーブルでは、後輩たちが賑やかに昨夜《ゆうべ》のテレビドラマの話をしていた。
窓枠いっぱいの日なたで、みどりはぼんやりと物思いに耽《ふけ》っている。
毎日十二時五十分に鳴る工場のチャイムは、線路のこちら側まで遠慮がちに届いてくる。みどりは腕時計でそれを確認すると、午後の仕事に就くため席を立った。ふと振り返ると、斜めうしろのテーブルでは別の課の男子行員が一人でお茶を飲んでいた。軽く会釈する。男は人懐《ひとなつ》っこい目でにこりと笑った。
「悩める乙女」
「はい?」
「藤崎さん、遠い目で考え事してるんだもん」
男はそう言い、白い歯を見せた。
みどりが顔を赤くする。男は高梨《たかなし》という名前で、二年先輩、年なら四つ上にあたった。国立大出で、支店長から特別扱いされていることは誰でも知っていた。
高梨は口をせわしなく動かし、爪楊枝《つまようじ》をするめのように噛んでいる。何かをかじるのがこの男の癖なのだ。
「またそんなものかじって」
みどりが呆れ顔をすると、高梨は「たばこやめたら口が寂しくってさ」と言って、わざと二本目に手を伸ばした。
「ときどき仕事中にボールペンのしっぽ、かじってるでしょう」
「そうそう。次長にいつも叱られてる。あはは」
高梨は悪びれることなく笑った。
「それじゃあ」
「あいよ」
みどりが見られていることを意識しながら食堂を出ていく。
支店の人事はほとんどが支店長の権限に委《ゆだ》ねられているが、毎年入行する社員の中で数十人だけは、支店に回されても本店人事部の直轄だった。彼らはほとんどが国立大や有名私立の出身者で、銀行は学歴がものをいう世界だった。高梨もそれにあたった。本店から「二年後には本店に戻すから、その間に融資と外国為替を経験させるように」という達しがあり、支店長も口を出せないのだ。女子行員は人事の裏などくわしくは教えられないが、毎日を銀行ですごしていればだいたいのことがわかった。幹部候補は、入行した時点で振り分けられていた。よく体育会出身者は就職に有利というが、彼らは「歩兵要員」にしか過ぎない。支店でこき使われ、五十歳になるまでにきれいに全員が出向という憂き目にあう。数千人もいれば全員がエリートというわけにはいかない。銀行には少数の指揮官がいて、圧倒的多数の兵隊がいるのだ。
事情通の先輩によると、こんな場末の支店に幹部候補が回ってくるのは珍しいことのようだ。だから超エリートというわけではなさそうだが、それでも「あの馬鹿」こと岩井あたりとは雲泥の差なのだろう。銀行では社内結婚率が六割を超えていた。みどりだってそれを意識しないではいられない。
休憩を終えて窓口に戻ると、ちょうど、ロビーの常連客である柴田老人がステッキをついて入ってくるところだった。今日は午後出社かと思っていたら、柴田はそのままみどりの前まで来て「あー、お嬢さん、何かお役に立てることはないかな」と声をかけてきた。
「はい?」
「印鑑なら持っとる。いつも持ち歩いておってね」
「あのう……」笑みの中に少し困惑を滲《にじ》ませて、みどりが老人を見上げる。
「今日は空《す》いてるようだし、番号札は取らんでもいいだろう。ねえ藤崎さん」
「はあ……」
みどりのうしろでは、何人かが心配そうに様子をうかがっているのがわかった。
「わたしは昔、小さいながらも会社を経営しておってな。こういう仕事にもノルマがあることはよく知っておる。お嬢さんにだって多少のノルマはあるはずだ」
みどりはわけがわからず、にこにこと笑っている柴田を見ていた。
「わたしでよかったら協力するよ」
助けを求めようと振り返ると、みんなは一斉に下を向いた。
「あのう……でしたら、年金振り込みは」
「それはもうやってある。嫁が勝手にやりおった」
「料金振り込みはいかがですか?」
「あー、それはできん」柴田は明るいながらもきっぱりと言った。「そうすると、銀行へ来る用事がなくなってしまうからね」
「そうしますと……」
みどりは困った。本当にやってもらいたいのは各種料金の自動振り込みだが、柴田は、それに関してはあっさりと拒否をする。
「銀行さんは、あー、どんなノルマがあるのかな」
「そうですねえ……」まさか少しボケていると噂のある老人に金融商品を売りつけるわけにもいかず、みどりは差し障りのないノルマ項目をあげた。
「ああ、じゃあ、それにしよう。そのクレージーなんとかに入ろう」
「クレジットカード、ですか?」
再びうしろを振り返ると「タマ」が目で「行け行け」と合図していた。
「それでは……担当の者を呼びますので、あちらの相談窓口の方で」
「あー、お嬢さんにやってもらいたい」
結局、タマの指示で窓口を代わってもらい、みどりは柴田のクレジットカードの申し込みを受け付けた。柴田はしっかりとした楷書で申し込み用紙に必要項目を記入し、それを手渡すときにみどりの手を握った。ぎょっとして引っこめると、柴田は少し我に返ったのか「あ、いや、これはすまない」と言って、まるで叱られた中学生のように身をしおらせた。
柴田が帰ると、タマはみどりに「今度は定期を積ませろ」と薄気味悪く笑った。木田課長代理は「大丈夫だよ。担当には言っておくから。家族が取りあげるさ」とみどりの肩をたたいた。
一部始終を見ていた裕子は、この件で三日間ほどみどりをからかった。
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市役所の環境公害課から、相談指導係の肩書きをもつ人物が現れたのは、マンション住民の抗議があってから二週間以上もあとのことだった。
そのタイミングの遅さは、川谷信次郎を大きく落胆させた。
抗議があった夜から、信次郎は落ち着かない日々を送っていた。気に病む、というほどのものではないが、心の中は常に薄曇りの状態だった。マンション住民の苦情を受けた役人はいつ来るのか。それを思うと、納品に出かけるときも留守が心配だった。
妻の春江は信次郎以上に人がよく、不利な要求にも押し切られてしまいそうだった。
信次郎は頭の中でいくつかの詮《せん》ない想像をし、気落ちしたり持ち直したりを繰り返した。もしかすると営業時間を制限されるのではないだろうか。いやそんな権限が役所にあるわけがない。ひょっとして信次郎の知らない市条例があって、騒音を取り締まられるのだろうか。いやそんな話は工場仲間からも聞いたことがない。まさか工業団地への移転を勧告されるとか。それこそ無理な相談だ。この市にはそんな場所はない……。はじめのころは夢にも見た。それはマンションの住民が役人を連れてきて立ち退きを要求するという、いやな夢だった。信次郎の性格は、楽天的にはできていなかった。
ところが一週間ほど経っても市役所の職員が来ないので、少し望みが湧いてきた。マンション住民の苦情を市役所は受け付けなかった。そう思えてきたのだ。先住していたのは川谷鉄工所であって、その営業は既得権として認められるべきものだ。そういう考えが徐々に強くなってきて、二週間経ったところで、信次郎は、役所は来ない、ただの取り越し苦労だった、と自分なりに結論づけたのだ。
だから、午前の作業中に背広の男が二人現れて、「市役所の者ですが」と名刺を出したときは、胸の中で暗い気持ちが膨らむのと同時に、おのれの考えの甘さを呪《のろ》った。信次郎の考えるところ、物事は、たいてい自分の都合の悪い方向に転がるものだった。
年配の男は慇懃《いんぎん》に腰を折ると、「もうすでにお隣のマンションの方からお聞きとは思いますが」と言った。隣では若い男が薄い笑みを浮かべている。若い男の片手には騒音計と思われる道具が握られていた。
「ああ、聞いたけど……」
「それでちょっとご相談がございまして」
男たちはまるで訪問販売員のような腰の低さだった。
信次郎は頭をぽりぽりと掻き、不機嫌そうなポーズをとって、二人を事務室に案内した。愛想よくすればつけいられそうな気がした。
「つい今し方まで、お隣の太田さんをはじめとするみなさんのお話を伺ってきたところなんですが……」年配の職員の話を聞きながら信次郎はたばこに火を点けた。「日曜と夜間の騒音……と言いますか、川谷鉄工所さんの出す機械の音がですね、少しマンションの方々の耳に障るということでですね、まあ、その、ちょっとご考慮いただけないかというお願いに参った次第なんですが」
「……うちだって気を遣ってるんだけどねえ」春江がお茶を運んできて、職員たちは大袈裟なほど恐縮した。「なにも無神経にトンカン音を出してるわけじゃないんだよね。ほら、この壁だって隣のマンションが建つときに吸音材を入れてるでしょ。これだって数十万円かかってるんだから」
年配の職員はほうと言って壁をのぞきこんだ。
「苦情が出てからやったわけじゃないんだよ。その前に自主的にやってるんだから。それ以外にだって、休みの日なんかは夏の暑い日だってシャッター閉めて音が外に出ないようにしているし、だいたいトラックのエンジンかけるときだって、ほら、ディーゼル・エンジンは音がうるさいから、早朝なんかは暖機運転もしないで表通りまで出て、そこで暖めるくらいだもん。うちは気ぃ遣ってるんだかち、ちゃんと」
信次郎は鼻の穴を広げて抗弁し、年配の職員は何度もうなずいていた。
「……それでですね」今度は若い男が言った。「一応、この騒音計で音を測らせていただいたんですが」若い男はトランシーバーのような機械を差しだした。「一応、四十五デシベルということで……」
それがどの程度なのかわからないので、信次郎は黙っていた。
そして事務室の戸をトントンとたたく音がして、振り向くと隣の山口車体の社長が立っていた。そのうしろには、たぶん社長に知らせた、春江がいた。
「よおよお。公害ナントカ課が何の用だってえんだよ。市役所だかなんだか知らねえけどよお」
山口社長はいきなりの喧嘩腰だった。
「あの、こちらは……」
年配の職員は相変わらず顔に笑みを浮かべていた。信次郎が隣の社長だと言うと、「ああこのあとうかがうつもりでした」と白い歯を見せ、「じゃあ、ついでと言っては何ですが、山口さんも一緒にお話ししませんか」と軽く顎を突きだした。
「なによ、おれんとこにも文句言ってるわけ? あの連中は」
山口社長が目を大きく見開き何か続きを言おうとしたので、信次郎はまあまあと腕をたたき、着席を勧めた。小さなテーブルに男四人が膝を突き合わせた。
「で、何だっけ」と信次郎。
「四十五デシベルです」
「なによ、その四十五デシベルってのは」山口社長が口をはさんだ。
「騒音計で測ったんだってさ」
また山口社長が目を剥《む》いたので、信次郎は「社長、とりあえず話は最後まで聞かなきゃ」と手で制した。社長のおかげで信次郎は冷静になれそうだった。
「それで四十五デシベルっていうのは、どの程度なわけ?」
「ええ。一応、第一種住宅地域においては、昼間は一応四十五デシベル以上で、あの、その、一応、ぎりぎりではありますが公害防止条例に触れるということで」
若い男は「一応」を連発した。
「第一種住宅地域?」信次郎は腑に落ちなかった。このあたりは商業地域だと聞いたことがあった。
「あの、ここは確かに商業地域なんですが、一応この前の通りを境にしてですね、向こうのマンションは住宅地域に入っているわけでして……」
「じゃあ問題はないだろう。向こうが住宅地域かなにか知らないけどよお。こっちは商業地域なんだもん。なあ」
山口社長が同意を求め、信次郎は大きくうなずいた。
「だいたいどこで測定したのよ」山口社長が聞いた。
「ええと……」若い男が口ごもったので、年配の職員が引き継いだ。
「苦情があった先方の敷地内で測ることになっておりますが」
「ふうん」山口社長が腕を組んだ。
「それで二十分程前に測らせていただいたんですが」
「家ん中なの? それは」
「いいえ、外、ですが」
「外のどこよ」
「まあ、庭と言いますか……」
「そんなもん、どこで測ってどこにマイク向けるかで数字なんか全然変わるんじゃないの?」
「ええ、それはそうですが」
「ほんとに四十五デシベルだったのかよ」
「ええ、それは事実です」
若い男が騒音計の画面を見せると、そこには「45・0」の数字が表示されていた。
山口社長はそれをしばらく眺め、低く唸ってからぽつりと言った。
「……どうも気に入らねえなあ」
「何が?」信次郎が山口社長に聞いた。
「いやね、カワさん、そう思わないかい? 数字が出来すぎなんだよ。四十五デシベル以上が条例に引っかかるって言って、それで測ったらぴったり四十五デシベルでしたってえのは、どうも怪しい気がするんだよなあ」
言われてみれば信次郎もそんな気がした。
「ああ、もちろん、あんたらが嘘をついてるとは言わないよ。お役所の人だもん。偽の調査をしたとなっちゃあ馘《くび》にかかわるもんなあ」
「偽だなんて――」
「いや、だからその数字は信じてもいいよ。確かに四十五デシベルって数字が出たんだろうよ。でも、それは……何て言うのかなあ、瞬間最大風速みたいなものじゃないのかい? そもそもこの機械だって最大値を測る仕組みなわけでしょ」
年配の職員が何か言いかけるのを抑えて山口社長が続けた。
「これはあくまでも推測だけど……、あのマンションの太田とかいう奥さんの苦情を受けてあんたたちは調査をした、その騒音計を持って外で測定をした、けれど最初は低い数値しか出なかった、ほんとはそうなんじゃないの? ところが太田とかいう奥さんはそれじゃあ納得しない、市の条例を持ちだすことができないからね……。それで不機嫌なおばさん連中につつかれて、あちこち場所を変えて測ったら、なんとか瞬間的に四十五デシベルが出た、それでやれやれっていうんでここにやってきた、そういうことなんじゃないの?」
山口社長は頼りになると信次郎は思った。
「いえ、決してそのようなことは……」
職員たちは揃ってハンカチで汗を拭いはじめた。
「でも瞬間的っていうんなら、前の通りをバイクが走ったときに測ればそれくらいの騒音は出るだろうしね。なあ、役人さん、数値を持ちだすんなら、もう少しちゃんとしたデータを示してくれなきゃ。何月何日、何時から何時までどの地点で計測して平均何デシベルの騒音を記録した――とかね。えっ、そうじゃねえのかい?」
職員たちが「いえ、まあ、そうなんですが」としどろもどろになっていた。
「あのう、ところで」今度は信次郎が聞いた。「仮に四十五デシベル以上が出ているとしてですよ、その、何か、罰則規定でもあるんですか?」
「いえ、とくに、そのようなことは……」年配の職員が答えた。「私どもにそういった権限はないわけで……」
「ふん、なあんだ」山口社長が鼻を鳴らし、「気負って反論するほどのこともなかったってことか」と勝ち誇ったように胸を反《そ》らした。
職員たちが「あはは」と力なく笑いを返す。
それを聞いて信次郎は安堵《あんど》に胸を撫《な》でおろした。とりあえず営業に支障をきたす事態にはならなかった。それはかなりよろこぶべき結果だった。
「そりゃそうだろうよ。もし強制執行なんかしたらこの町から工場がすべてなくなっちゃうよ。そうしたら税金も取れなくてあんたら役人はお手上げだもんな」
山口社長はもう余裕なのかあははと笑った。
職員たちはひたすら頭を低くしている。役人と聞いて最初は身構えたが、面と向かってみれば「権力」のイメージとは程遠く、彼らは一介の陳情団に過ぎなかった。一転して、信次郎は彼らが気の毒になった。おそらく目の前の職員たちは、日々、太田夫人のような市民に突きあげられて、あちこちの町工場を訪問しているのだろう。何の切札も持たず、自分が悪くもないのに頭を下げて回っているのだ。
「ところで、その公害防止条例だっけ、それに触れるとどうなるわけ?」と山口社長。
「指導に乗りだすことになります。音が漏れないように改築していただくとか、もちろんこれは急にできることではありませんから、時間をかけてお願いすることになるんですが……」
「困るケースってどんなのがあるんですか」と信次郎。
「それは……やはり双方が感情的になっておられる場合ですよね」
「おれたちゃ別に感情的になってないよ」山口社長が椅子の背もたれを軋《きし》ませた。
「ええ、もちろんです」
「感情的になってるのは、マンションの太田とかいう奥さんなんじゃないの?」
「いえ、あはは……。しかし、規則では〇・七キロワット以上の動力源は公害防止条例の対象になるわけですから、苦情があれば私どもはどんな小さなことにも伺わなければならないんですよ」
「〇・七キロワット?」
「ええ、そうなると印刷屋さんはもちろん、クリーニング屋さんも対象になるんですよね」
「そりゃあ無茶苦茶だ」山口社長が呆れた。「あんた、役所っていうのは弱者の味方をしてくれるんじゃねえのかい」
「いえ、もちろん、強い指導を出すのは大きな工場に対してであって、自営業の方まで取り締まろうとは……」
「まあ、とにかく」信次郎が言った。「うちらは誰かを困らせようなんてことは少しも思ってないよ。できるだけ音は出さないようにしているし、これからもそうするし、余裕ができたら吸音材を張り足してもいいよ」
「それはありがとうございます」
職員が頭を下げ、山口社長があんたらも大変だねえとつぶやいた。
「それでですね、まず手初めとして休日の作業をですね、もちろん完全にというのは難しいでしょうから、できうる限り避けていくというお約束をいただけないでしょうかねえ」
どうやら、それが太田夫人の出した最低限の要求らしかった。たぶん職員は、「せめてこれだけは約束を取ってきて」と住民たちから送りだされたのだろう。その報告もしなければならないのだ。
「はは、そりゃ無理だわな」山口社長は一笑に付した。「おれたちだって日曜日に働きたくなんかないよ。でも親会社が金曜発注で月曜納品なんてこと言いやがるからさ、仕方なしに営業してるわけよ」
「ええ、もちろんそうでしょう。でも、どうでしょう。できるだけ控えていただくということで、ひとつお約束いただけませんか」
職員は「できるだけ」という部分に力を入れて言った。
「……そうだね、いいんじゃないかな。近所同士で揉めたかないし。うちらも緊急時以外は控えることにするよ」
信次郎はやさしい目で返答した。
「ありがとうございます」
「おいおい、カワさん。安請合いするなよ。おれだって関係者なんだから」
「いいじゃないの、社長。この人たちだって板挟みで大変なんだから」
「ありがとうございます」
「おれたちも安易に残業したり日曜出勤したりするところがあるんだよ。まあいいや日曜日にやれば、なんてさ、心のどこかで思ってるんだよ。そういうのなくしてさ、頑張って平日に仕事片づけてさ、目曜は将棋《しょうぎ》でも指していたいじゃないの、お互いにさ」
「そりゃ言うだけなら簡単よ。おれはいやだね。約束はできねえよ」
「まあまあ、社長もそんなにとんがりなさるなって。とにかく感情的になるのがいちばん悪いわけだから、少なくともこっちに悪意はまったくないことを向こうに知らせておこうじゃないの、ね?」
「……そりゃあ、おれだって丸く収めたいけどね」
「ありがとうございます」
職員たちは何度も頭を下げていた。
ともあれ事態が思いのほか軽微だったのは、信次郎にはありがたいことだった。
ヤヨイ工業へ行くのは久し振りだった。ガス給湯器の熱交換器で不良品を出してからは、こちらから連絡するのは気が重く、もしかすると取引を切られるのではないかと信次郎は心配していた。だから担当の平野からいつもどおりの口調で注文の電話があったときは、少なからずほっとした。
工場へ出向くと、平野はてきぱきと仕様書を広げて説明し、「今度はちゃんとお願いだからね」と肩をたたいた。
「はい、もちろん。いつぞやは大変ご迷惑をおかけしました」
信次郎がしおらしく頭を下げる。すると平野は一瞬真顔になって「ちょっと、時間あるかな」と聞いた。
「ええ、ありますけど」
「じゃあ、外でコーヒーでも飲もうか」
ヤヨイ工業は鉄道沿いの準工業地帯にあり、その門を出ても工場の外という気がしない。目の前のプレハブ小屋では旋盤が回っており、それは道路からものぞくことができる。機械の発する音はそのままこの町のBGMのように違和感なく響き、金属の臭いが町全体に染みついていた。すぐ先の空き地には「マンション建設反対」の立看板があり、そのことを聞くと平野は「商工組合で反対してるのさ」と言った。
「ここに建つらしいんだ。マンション建設を止められるとは思わないけど、出来たら絶対に工場の騒音問題が発生するからね。こっちも先手を打っておくのさ。あんたら音は覚悟してこのマンションを買ったんじゃないのかい――ってね」
信次郎は自分たちもそうしておくべきだったと思った。
タクシー車庫の隣に民芸品店のような喫茶店があり、そこの奥のテーブルで信次郎と平野は向かい合った。いやな予感がしたところ、平野が「この前のことなんだけど」と切りだしたので、信次郎はやはりそうなのかと思った。
「金子のおとっつぁん、覚えてるよね?」
「ええと、東雲工業の方でしたよね」
「ああ、あの禿頭の営業部長さ。さして大きくない部署だけどね。で、そのおとっつぁんから請求書が回ってきたわけ、うちに」
「請求書、ですか」
「まあ損害賠償みたいなものだろうな」平野は眉間にしわを寄せてそう言うと、コップの水で少し舌を湿らせ、話を続けた。「もともとはメーカーから出た請求書なわけよ。製造ラインを止めて自分の会社の人間を点検に使ったからね。その余分な仕事を残業代に換算して、その金額を支払えって言ってきたわけ。もちろん東雲工業にだよ。メーカーの直接の取引先なんだから。――ところが金子のおとっつぁんは、それを受け取るなりうちに回してきたんだよ。ひでえ話だよな、まったく。たぶん専務に『大丈夫です。こんなものはヤヨイ工業に回しましょう』とか調子のいいこと言ったんだろうな。上には頭下げることしか知らねえ男だから。で、昨日、東雲工業に行ったとき、おれは渡されちゃったってわけ、この封筒を」
平野は胸のポケットからふたつ折りにされた封筒を取りだし、そこから書類を抜くとテーブルに広げた。カーボンコピーされた紙切れのいちばん上に数字が見えた。
「三十六万円ですか」
「ああ。メーカーさんもやってくれるよなあ。一時間二千円の残業代で、三十人掛けることの六時間だってさ」
「六時間もかかりましたかねえ」
「そうだろう? せいぜい正味は五時間だよ。それに三十人もいたかどうかも怪しいね。だから、半分はペナルティなんじゃないの? 東雲さんのところは最近事故続きだったらしいから」
「はあ……」信次郎は肩をすぼめて聞いていた。
「だから余計に頭にくるんだよな。メーカーはここらで締めておこうっていう腹積もりなのかどうか知らねえけど、どうしてそれが下に回ってくるのよ。東雲さんの起こした別の事故にうちらはまったく関係がないんだぜ」
「ええ、そうですね……」
「もう頭くらくらだよ」
「ええ……」
「ねえ、川谷さん」
「はい」
「半分、もってくんない?」
「うちが、ですか?」
「そう、十八万。いいじゃない。元はといえば川谷さんのところが出した不良品なわけだし」
「……ええ、まあ……それはそうですけど」
信次郎はいかにもつらそうに顔を歪めた。わずか七千五百円の仕事で十八万円の弁償はあまりだった。
「わかるよ。川谷さんの言いたいことは。こういうときのために管理費の名目でコミッション取ってるわけだからね、うちらは。でもそれを言いだすと、うちの上でもっと上前はねてる東雲工業は何なんだってことになるわけよ。うちだって払ういわれはない。つまり、いちばんワルなのは、素っとぼけて請求書を下に回した金子の野郎なのよ」平野は言っているうちに少し興奮してきたようだった。「こう言っちゃあ何だけど、半額にするっていうのはおれの気遣いなわけよ。だってそうでしょ? もしおれが金子みたいな奴だったら、間違いなく全額川谷さんに押しつけてると思うな。絶対に」
「はあ……」
「川谷さんに回して『あとはよろしく』ってなものよ」
「そんな……」
「いや、もちろんそんなあこぎな真似はしないよ、おれは。不良品を出したのは川谷さんだけど、チェックしなかったのはおれだからね。だから半分でいいから出してもらいたいわけよ」
「…………」
信次郎は黙って聞いている。平野の言い分には確かに理があった。
「……実はね、残りの十八万、おれ自腹切るんだよね」
「そうなんですか?」
驚いて平野を見た。
「社長に言えるかよ、こんなこと。へたすりゃ営業を外されて減俸だよ」
平野はやりきれないといった風に大きく溜息をつき、掠れる声でちくしようとつぶやいた。
「前もこういうことがあったんだけど、そのときは半年ぐらいぶつぶつ言われたもんよ。まったくカラッとしてねえからな、うちの社長も。そんな思いをするくらいなら、いっそ自腹を切ったほうがましなんじゃねえかって思ってさ」
平野はやけくそのような言い方をして、鼻でふんと笑った。
「だからさ、頼むよ。川谷さんも、半額」
「ええ……」
とても断れなかった。信次郎はあきらめ顔で平野を見ると、「わかりました。十八万円はうちで払わせていただきます」と静かに言った。
「あーあ。定期、解約だよ。女房に何て言おうか。今度はそっちのほうでも頭が痛いよ」
「…………」
「川谷さん、十八万、来週にでも用意できる?」
「ええ、それくらいなら……」
「なんだ、金持ちなんじゃないの」
「……いえ」
「冗談だよ、冗談。いくら零細企業だからって、十八万くらいで屋台骨がぐらつくようじゃとっくに倒産してるもんな。ははは」
信次郎はむっとする気にもなれなかった。
「それにつけても金子のおとっつぁんだよ。おれを呼びだして『これ頼むからな』だってよ。申し訳なさそうな顔ひとつしやしねえ。それどころかおれの青くなった顔を楽しむような目でじろじろ見やがって。……初めてだね、あんなに人を憎いと思ったのは。……人間っていうのはさあ、案外ああいう場面で人を殺すんだろうね」
「そんな物騒な……」
軽く笑って場を和らげようとしたが、平野の顔は真剣だった。
「いや、おれ自身も驚いたんだよ。おれみたいな平凡な男でも殺意を抱くことがあるのかってね。ああ確かに殺意が混じってたね、あんときのくやしさには」
平野はその後、お決まりの、下請けの悲哀をくだくだと嘆き、世の中をさんざん罵《ののし》り、金子の悪口をえんえんと述べたてた。
信次郎に話してすっきりしたのか、あるいは少し自分を恥じたのか、最後に「すまないね、愚痴ばっかり聞かせて」とぽつりと言った。
信次郎は帰りのトラックの中で十八万円あったら何が買えるかなと思った。そして、もう一回禁煙しようかなと小さく溜息をついた。
翌日、平野から電話があり、十八万の負担を二十万にしてくれないかと申し入れてきた。こっちは十六万でもかつかつなんだ、と平野は不機嫌そうに言っていた。信次郎はそれを承諾した。
太田夫人からの抗議もあった。夜の九時頃作業をしていると、暗い顔をした太田夫人が現れたのだ。夫人は、今度は居丈高《いたけだか》ではなく、こちらが恐縮してしまうほどの腰の低さで「すいません。今日は頭痛がするので……」と、か細く言った。見るからに辛そうな様子に、信次郎は申し訳なくなってしまい、作業をとりやめた。
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タカオがパチンコ屋に姿を見せたのは結局、そろそろ街に夏服さえ目立つ四月も半ばを過ぎたころだった。タカオはてかてかと光る生地のスーツを身にまとい、髪をオールバックにしているせいか、その顔は以前より大人びて見えた。何をしていたのかと野村和也が聞くと、タカオは少し間を置いて「ちょっとな」と思わせ振りに言った。台にはつかずに喫茶スペースに向かったので、和也は打つのを休止してそのあとに続いた。タカオは自販機でコーヒーを求めると、ソファに腰を下ろしたばこに火を点けた。
「久し振りだな」
「そうやな」
「何だよ。万引でつかまって檻《おり》の中にでもいたのか」
「あほう。誰がそんなもんするか」タカオがゆっくりと紫煙を吐きだす。「おい、あんたええ恰好しとるな。そのスーツ、買ったんか」
和也は以前大勝ちしたときに買ったスーツを毎日のように着ていた。革靴も買い足した。
「そんなことはいいから、何してたんだよ」
「仕事よ仕事」
「何の」
「うん? 立て籠《こ》もりってやつよ」
「立て籠もり?」
「先輩の命令でな、競売物件《きょうばいぶっけん》に入り込んでそこで籠城しとったんや。ドーベルマンと一緒にな」
「よくわからねえよ」
「早い話が借金の担保として差し押さえされた家に寝泊まりして、競売の妨害をするわけや。おれもくわしいことはわからんけどな、占有権を主張するためにどうしても誰かそこにおらなあかんわけや」
「やばくねえのか」
「やばいよ。最初に来たネクタイはドーベルマンにびびってすぐに帰ったけど、しばらくしたら競売屋っていうのが来てな、おれはてっきり出入りかと思ったわ」タカオの鼻の穴が少し開いた。「夜中にどんどんドアを叩かれてな、開けんかいコラッってな、外で何人も男が凄んどるわけよ。慌てて携帯で先輩に連絡したら『おれが行くまで死んでも開けるな』って言われてな、ドアを手で押さえながら『あほう。こっちは賃貸契約書を結んどるんや。裁判所でも何でも連れてこい』っておれも応戦するわけよ」
「すげえな」
「おう。先輩があらかじめ債権者をつかまえてな、抵当権が打たれる前の日付で契約書を書かすんや。それで法律上もこっちが有利になるって寸法よ」
和也はまるで活劇さながらの話に身を乗りだしていた。
「そんで、おれも頑張っとったんやけど、先輩が来る前にパトカーが来てな。近所の者が通報したんやろな。住宅街で夜中に柄の悪い怒鳴り声がするんやからな。で、しゃあないよって出てったら、連中、免許証見せろだの何だの言いよってな、『やかましわ。令状あんのんか!』ってタンカ切ったって、そうこうしとったら先輩がやっと到着して、あとは契約書見せてしまいや。警察も競売屋もグスッとも言えへんわ。もっともあとは組同士の話し合いになるんやろうけどな」
「向こうもやくざか」
「そりゃそうやろ。おれに向かって『誰がケツ持っとるんや』とか『おまえんとこの若い者《もん》、塗りこますぞ』とか言っとったしな。『あほう、おれが若い者じゃ』って怒鳴り返したったわ」
タカオはそう言うと愉快そうに笑った。
「結局、話がつくまで二週間や。えらい目に遭ったわ。電気も水道も来とらんし、しゃあないよって女にコンビニで弁当買わせて、そんなもんばっかり食っとったわ。犬の世話もせなあかんしな」
和也には、タカオが戦場から帰還した兵士のように見えた。
「でも度胸はついたな。玄関にな、ざらめを撒《ま》いとくんや。誰かが来たらそれが潰れて音がするって寸法や。人間っていうのは不思議なもんでな、神経張っとると寝とってもちょっとした音で体が反応するんや。そりゃ最初のうちはなかなか寝つけんかったけど、いつでも来んかいって腹くくると、どんな状況でも熟睡できるぞ」
「そうだろうな」和也は「おれもな」と自分の体験を持ちだしたかったが、あいにく対抗できるほどのものはなかった。
「ま、そんなこんなの半月よ」
「銭にはなったのか」
「それがな」タカオがここで苦虫を噛みつぶしたような顔をした。「先輩も渋うてな。二週間も縛りつけておいて『ほい、小遣いや』って、たったの五万やで。あほらしゅうてやっとれんで。あとは寿司食わせてもらってそれでしまいや。おれが思うに、あれは絶対に百万単位の金が動いとるぞ。いや、へたしたらうちの先輩、一千万ぐらい手にしたかもしれへんな。だいたい横浜の高台の一等地で元々は不動産屋の社長が住んどった家やで」
「豪邸か」
「そうや。二階の窓からな、海が見えるんや。船が向こうをゆっくり進んでいくんや。ええわ、ああいうの。いっぺんでええでおれもああいう家に住んでみたいわ」
タカオは顔に似合わないうっとりするような目をした。
「二週間でも住めてよかったじゃねえか」
「あほう。だから電気も水道も来とらんってゆうとるやないか。おまけに家具はすっかり運びだされとって、寝袋にくるまっとっただけやで。しかもたったの五万で。もうお断りや。いくら先輩の頼みでもやっとれんで」
ふてくされた口調だが、タカオは自慢気でもあった。たぶんこの話はこれから何度も聞かされるのだろうと和也は思った。
「じゃあ、金はないわけだな」
「ああ、ねえよ」
「トルエン、行こうぜ」
「ああ、前に言っとったな、あんた」
「羽田の板金塗装工場。ちょろいもんだぜ。窓割って入って、中からドアを開ければ堂々と持ちだせるぞ」
「ええな。そしたらやるか」
タカオが口だけの男ではないので和也はうれしくなった。
「そや」タカオがセカンドバッグから携帯電話を取りだして言った。「ひとつ買え。あんたなら八千円でええわ。これで連絡し合おうやないか」
のぞきこむと、バッグの中には携帯電話がいくつもあった。
「どうしたんだ、これ」
「実はこれも先輩に頼まれてな、一台一万で売っとるんや。ああ、使用料ならいらんぞ。契約者の名義は別人やでな」
「どういうことよ」
「借金で首が回らん奴をつかまえてな、あちこちで携帯の契約を結ばせるんや。それを取り上げておれらが売り歩くわけやな。ま、借金の回収法の一種よ。よくクレジットカードで買い物させてそれを新品のまま質屋に売るやろ、それと一緒のことや。そいつはどのみち破産するから、誰も使用料を支払う必要はないわけやな。ただしその携帯、使えるのは二ヵ月だけや。支払いがないまま二ヵ月過ぎるとNTTが回線を切るよってな。ま、使い捨てと思ってくれや」
「ふうん」
和也はますます愉快な気分になってきた。
「昨日、女子高生に三台売ったったわ。ひと月五千円で使いたい放題やよって、あいつらにとっても悪うない取引やで」
タカオは番号を書いたメモをくれると、和也から金を受け取り、「ほな今日はこれを五倍にしたるか」と立ちあがり、パチンコ台に向かっていった。なぜかその背中は、同い年とは思えないほど頼もしく見えた。
和也の携帯電話が鳴ったのは、手に入れた日から三日目が最初だった。タカオは「車借りれたぞ」とドライブにでも行くような軽さで言い、早くもその夜にはトルエンをいただくことが決まっていた。少しも怖《お》じけづいていないタカオは、和也の気まで大きくした。夜の十二時に川崎駅前で落ち合い、しばらく時間を潰すことになった。新聞配達が動くまでなら、決行の時間は遅いほどよかった。都合のよいことに土曜の夜だった。月曜の朝までばれないことは、警察の捜査に無知な和也でも有利なことのように思えた。
和也はいつものようにパチンコ屋で閉店まで粘り、それから一度アパートに帰って身軽なジーンズとスカジャンに着替え、用意した二人分の軍手と、ガムテープと懐中電灯をコンビニの袋に入れ、待ち合わせ場所にした百貨店の前に出向いた。閉じられたシャッターの前には不良高校生がたむろしていて、地べたに腰を下ろしておしゃべりをしていた。和也は意味もなくそのシャッターを蹴った。一瞥《いちべつ》をくれると高校生たちは慌てて視線をそらし、和也を満足させた。
十分ほど遅れてタカオが車でやって来た。闇に溶けこむような艶のない黒の大型ワゴンだった。タカオは運転席から顔を出し、「乗れや」と乾いた声で言った。その外見の大きさにあっけにとられた和也が乗りこむと、タカオは「おれ、腹へっとるさかいデニーズにでも行こか」と車を走らせた。内部はマイクロバスのように椅子が並んでいて、数えたら十一人乗りだった。
「変わったベンツだな」
「おお、新型や」
そのとぼけた口調に和也が吹きだす。どう見ても右翼の宣伝カーだった。
「横っ腹に『返せ北方領土』って書いてないだけましか」
「わかるか」
「わかるさ」
「元々は先輩の上の組が持っとった街宣車やったんやけど、お下がりになって黒く塗り潰したらしいんや。明るいとこで見るとうっすらと『ナントカ挺身隊《ていしんたい》』って文字が見えるわ。ま、一斗缶積むんならワゴンの方がええし、こんだけ黒いと目立たんでええやろ」
そのわりには窓に金網があり、リヤのウインドウには日の丸のステッカーが貼ってあった。まるで漫画のような成り行きが無性におかしかった。
駐車場には入れそうもないので路上に停め、二人でデニーズに入った。和也はカレーライスを頼んだだけだったが、タカオは「晩飯食いそこなってな」と言い、和風ステーキ・セットを注文した。本当にドライブに行くような緊張感のなさだった。
「考えてみりゃ、あんたと飯食うの、初めてやな」
タカオがコップの水をひと息で飲んで言った。
「そうだな」
タカオがコップを頭上で振るとウエイターが慌ててつぎたしに来た。
「あんた、このへんの生まれかいな」
「いや、愛知県だよ」
「なんで名古屋弁、出んのや」
「関西弁みたいにかっこよくねえしな」
「阿呆のこと『たわけ』って言うんやろ」
「ああ。田んぼを分けることを『たわけ』って言ったんだよ」
「ふうん」
「昔、田んぼは長男に継がせるものと決まっててな。兄弟に平等に分けるのは愚か者だって言われてたんだよ。その名残りだな。小学校で習った」
「あんた、長男か」
「ああ、そうだよ。一人っ子だけどな」
「家族、何やっとるんや」
「知らねえよ、そんなもん」
「そうか」タカオがにやりとした。「おれも知らんのや。もう生きとるのかどうかも知らんわ。ま、うっとうしいのがおらんさかいその方がええと思っとるけどな」
和也が笑い返す。同類だということは最初から臭いでわかっていた。
「なんでこっちに来たんや」
「うん? 地元のやくざとちょっと揉めてな。……仲間と暴走族シメあげて金集めさせようと思ったら、やくざがそのバックにいたわけよ。一回脅し入れられたけど、構うもんかって一枚一万のパー券百枚ねじこんだら、回状がまわってな。おれらに指詰めさせるとかやくざが息巻いてたらしいんだよ。別におれはどうでもよかったけど周りの連れが心配してな。へたすりゃ殺されるぞって。それでほとぼりさまそうと思ってよ」
もちろん作り話だが、和也に嘘をついている意識はなかった。
「ま、そんなところやろな。おれもな……」
負けじとタカオが披露した話は、地元でキャッチバー荒しをして、警察と組の両方から追われ、中学時代の先輩を頼って出てきたというストーリーだった。
タカオは腕に刺青《いれずみ》があり、シャツをまくるとそこには「御意見無用」という文字が彫られてぃた。これはちょっと後悔しとるんやと、さして後悔してそうもない顔で言った。
「で、あんた、ゆくゆくはどうするんや」
「別に考えてねえけど」
「どや、先輩に会わせたるさかい、一緒に組に入らんか」
「おれはいいよ。名古屋で懲《こ》りた。毎日ピンクチラシを配らされて往生したよ」
「そんなもん最初のうちだけや。このままパチンコで食っとってもどうなるもんでもないやろ。ええぞ、やくざは。先輩見とったらやっぱ憧れるで。企業相手に大きなしのぎをすりゃあごっつい金が転がりこむしな」
「別にパチンコで食ってるわけじゃねえよ」
「ほな、なんや」
「ああ、半分はヒモよ。ちょっと年増だけどよ、ホステスやっててな、あんた遊んでていいからって言うからな」
楓とはその後も四、五回会っていた。会えばそのつどセックスをし、そのたびに楓はあられもなく乱れていた。ただしヒモというのは嘘で、金をくれるほど裕福な女ではなかった。つまらない見栄だったが、タカオが尊敬のまなざしを向けてくれたので満足した。そこからセックスの話になった。「年増は何でもしてくれるぞ」と和也が言うと、タカオは腹を抱えていつまでも笑っていた。
結局、和也はタカオと二時近くまで話しこんだ。調子に乗ってビールを数本空けた。土曜の夜の、どこにでもいそうな二人の若者だった。
高揚した気分は羽田の工業地区に来ても変わらなかった。工場が軒《のき》を連ねる一帯は人の気配がまるでなく、ゴーストタウンのように静まり返っていた。ところどころの街灯がよけいに闇と静寂をあと押ししている。野良猫が前を横切り、タカオがクラクションを派手に鳴らし、「おらおらひいちゃうよ」と言った。「馬鹿、でけえ音たてるな」と言いながら和也が笑った。なぜかささいなことがおかしかった。
目当ての工場はすぐにみつかり、シャッターの前に車を停め、エンジンを切った。前にそうしたように裏手に回り、割るべき窓を探したら、そこには鉄パイプの格子が嵌《は》めこまれてあった。
「おい、どないするんや」タカオがうしろで呆れたような声を出した。
「前はなかったんだけどな」
「そりゃ泥棒に入られたら警戒ぐらいするわな」
おまけに窓ガラスはワイヤー入りに変わっていた。
「あんた、下調べぐらいしろよな」
責めているのではなく、込みあげてくる笑いを噛み殺している口調だった。
「どや、いっそのことワゴンで正面から突っこむか?」
「うるせえよ」
和也は思案しながら格子を小さくゆらした。少しゴトゴトと音がしたので、鉄パイプを両手でつかみ、壁に足をかけると力任せに引っぱってみることにした。すると費用をけちったのか、それはカンと甲高い音を立ててあっけなく外れた。和也が尻餅をついた。鉄パイプを持ったままタカオとしばらく見詰めあった。少しのタイムラグを置いて二人は爆笑した。
「おいおい、手抜きもええとこやないか」タカオは腰を折って笑い転げた。「問題になるで、これは。どうせこの近所の工務店に頼んだんやろうけど、たぶん知り合い同士やろうでな、気まずうなるで、絶対」
和也も笑った。鉄パイプは次々と外れ、そのたびにくすくす笑いが暗闇に響いた。
続いてガラスにガムテープを貼り、近くにあったブロックで割りにかかった。ワイヤー入りの窓ガラスはさすがに簡単にはいかず、割れても手を入れるだけの穴がなかなか空かなかった。それより音が激しくて、さすがに気を遣った。
「ちょっと待てや。車に毛布があったわ」
タカオは、ワゴンに戻って薄汚れた毛布を持ってきた。
「これをガムテープで窓に張れや。ほんでもってブロックぶつけたれ」
和也は窓枠いっぱいにそれを張りつけると、助走をつけてブロックを投げつけた。鈍い音がして、窓が内側にへこんだ。
「いけるで」タカオが自信に溢れた声で言った。
「こうしたれ」
タカオは走りだすと窓に向かって飛び蹴りをくらわせた。
「あんたもや」
そう言われて和也も飛び蹴りをした。二人で交互にやった。ドンドンとかなり大きな音が響いたが、そのころになると音などもうどうでもよくなって、二人はまるで子供の遊びのように破壊行為を繰り返していた。そうして十回ほどでワイヤー入りの窓は四角い形のまま内側に崩れ落ち、鍵を開けるための穴どころか人がそのまま入れる窓枠だけが残った。
荒い息を吐きながら、二人は満足だった。派手なことをしている自分たちに酔っていた。
和也が中に入り、勝手口のドアを内側から開けた。タカオを招き入れ、作業場の隅に積んであったトルエンの一斗缶を二十個ほどワゴンに積みこんだ。本当はそれ以上に山ほどあったのだが、運ぶのが面倒になった。
帰りの車の中で二人は饒舌《じょうぜつ》だった。タカオはこれをさばいた金で中古のポーカーゲーム機でも買うかと言った。そうすればもっと儲《もう》かると声を弾ませ、これからは二人で組んでいこうぜと和也がうれしくなるような提案をした。
くだらないジョークを言い合って二人で笑った。
青春とはこういうものかと和也は思った。
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川谷信次郎がいつものように北沢製作所へ納品に行くと、担当の神田に時間はあるかと聞かれ、ええと答えたら会議室に連れて行かれた。
こういうとき、信次郎はどきりとする。会議室となれば多少はあらたまった話のはずである。となれば、悪い話しかない。事務棟のいちばん奥にあるその部屋へ向かうまで、信次郎は神田の背中を見ながら、落ち着かない気持ちになる。北沢製作所は川谷鉄工所にとってもっとも重要な取引先であった。支払いが遅れることはなく、その手形を銀行にもっていけば文句なく割り引いてもらえた。
中に入り、椅子に座って向き合うと、神田は少し声をひそめるようにして「川谷さんのところ、けっこう広かったよね」と切りだした。
「ええ、まあ、うちみたいな規模にしては……ですけど」
「あれから新しい機械、入った?」
あれからというのは、取引が本格化する際に北沢製作所の設備視察があったときを差していた。
「いいえ、あのまんまですけど」
「じゃあ、まだ広いままなんだ」
バブル景気のあとに不要な設備を整理したこともぁって、信次郎の工場はほぼ半分のスペースが遊んだ状態だった。
「ええ、そうですけど」
「ということは、スペース的には問題ないわけだ」
「何の話ですか?」信次郎が首を捻ると、神田は「いや、タレパンの話なんだけどね」と身を乗りだした。
タレパンとはタレットパンチプレスという大型工作機械のことで、以前から神田は購入を勧めていた。これまで信次郎は、世間話のひとつとして受け流していた。
「どう。ほんとに入れるつもりない?」
会議室で話す以上、どうやらこれはビジネスの話らしかった。
「うーん……」信次郎が腕を組む。設備投資となれば、そう簡単に返事はできない。バブルの頃、設備投資に走って倒産した同業者はさんざん見てきた。
「銀行なら何とかなるかもしれないよ」
「そうなんですか?」意外な言葉に信次郎は顔を上げた。
「実は、先週、線路向こうのかもめ銀行が来てさ、何か融資できる話はありませんかって聞くんだよ」
「へえー。意外ですね。最近の銀行なんて、てっきり貸した金の回収にやっきになってると思ってましたけど」
「そりゃあそうだろうけど、その一方ではノルマがあるっていうのが企業なんじゃないの。まだ若い男でね。なかなか感じはよかったよ。なんでも年度が変わって……こっちは、経済のことはよくわからないんだけど……自己資本率とかいうのもクリアして、公的資金も導入されて、少しは余裕が出てきたんじゃないかなあ。川谷さんの話をしたら、一度お会いしたいってさ。ええとね……高梨とかいったかな。その銀行員」
「はあ……。でも、タレパンとなると、従業員も新しく入れなきゃなんないだろうし、だいいち、それ入れたら、仕事いただけるんですか? 神田さんのところから」
「もちろん。そのつもりで話してるんだよ」
神田はあっさり言った。信次郎はうれしい返事を聞きながらも少し戸惑う。確かに川谷鉄工所と北沢製作所との関係は良好だが、ここまで気にかけられるほどの存在でないことは、信次郎白身がいちばんよく知っていた。
黙っていると、神田は工作機械の販売会社の名前を上げ、そこも紹介するからと澱《よど》みなく続けた。
「新品だと五千万以上だけど、中古なら二千万以下であるはずだよ、きっと」
信次郎は同業者の工場で見たことのあるタレパンを頭に浮かべた。それはコンテナほどの大きさがあり、重さが三十トン近くもある、威風《いふう》堂々たる機械だった。ふと、これを入れたら隣の社長が腰を抜かすだろうなと思った。
「とにかく考えてみてよ。それでさ、早めに返事くれるかな」
神田はそう言い、まるで信次郎の質問を遮《さえぎ》るようにお茶を飲み干し、「巨人、どうしてああなんだろうね」と強引に話題を変えた。
「いやあ、でも、まだ四月だから」信次郎が苦笑する。
「だめだって。巨人は先行逃げ切りしかできないチームなんだから」
神田は不調のくせに高額を稼ぐ四番打者が気にいらないようで、ぶつぶつと難癖をつけていた。
帰りの車の中で信次郎は設備投資のことを考えた。もしもそれを入れることによって北沢製作所からの発注が見合うだけあれば、それは川谷鉄工所にとって画期的なことだった。たぶん、月の売り上げだけでも百万は見込めるだろう。仮にローンを月三十万円払ったとしても、充分におつりが来るはずだった。クリアする問題はいろいろありそうだが、算段を立てる価値は充分にあった。もしうまくいけば……。いきなり土地は無理にしても借地のままで家を建て替えたり、作業場を改築したり、家族に贅沢《ぜいたく》をさせることも可能だった。そうして信次郎は、少し明るい気持ちになった。
交差点を曲がるところでタイヤが鳴った。いいかげんにタイヤを換えなければと思ったが、いや、トラックを買い替えることもできるな、と、どうしても設備投資に絡めて考えてしまうのだった。
「あっ、そりゃあリベートを取る腹積もりだよ、絶対」
隣の山口社長は突きでたおなかをさすりながら、よく響く声で言った。夕方、ひょっこり顔を出した社長にその日のことを話すと、最初に出た言葉がこれだったのだ。
「そうかな」
「そりゃそうさ。だってカワさん、北沢製作所の協力工場としては、言っちゃあ悪いけどその他大勢だろう? そこにわざわざおいしい話を持ちこむわけがないから、つまり、それは神田とかいう外注担当者の思惑ってことで、そうなりゃあ、どうしたって袖《そで》の下《した》欲しさってことになるんじゃないのかい?」
「でもその担当者、これまでリベートを要求したことはないんだけどね」
「十万二十万の発注じゃそれはできないだろう」
「まあ……そうだけど」
「金額が上がれば取りやすいんじゃないの。タレパン入れさせて、百万の仕事出して、はい一割戻してねって、それなら簡単だろう?」
「ああ……そうかもしれないね」
「あるいは販売会社から紹介料がもらえるとかさ。一千万単位の商いだもん。定価なんかあってないようなもんだし、五パーセント紹介料払って、そのぶんカワさんの請求に上乗せすれば向こうだって損はしないさ」
「うん」
「とにかく金が絡んでるね、絶対」
信次郎は紫煙をくゆらせて笑っている山口社長を見ていた。この業界でリベートはまったく珍しい話ではなかった。中には、表向きは下請け企業の研修旅行への招待ということにして、家族の海外旅行費を要求する者までいた。
「ま、でも、カワさんにとっても損な話ではないね」山口社長はたばこを灰皿に押しつけると、小さくしわぶいて続けた。「だって仕事は保証されたようなもんだろ? その神田とかいう担当者と共犯関係になるわけだから、そりゃ願ってもないことだよ。おまけにヨソに営業もかけられるしね。タレパンが入ったとなりゃあ、仕事だって取りやすいさ」
「うん……」
「何悩んでるのさ」
「いや、借金を抱えるとなるとね」
「銀行が相談に乗ってくれるんだろ? しかも都銀が。いい話じゃないの。信金と比べりゃあ二パーセントは金利が安く済むってもんよ」
「そうだね」
「何よ、その都銀にはちゃんと実績積んでるの?」
「実績ってほどのものじゃないけどね。ほら、かもめ銀行の北川崎支店が北沢製作所のメインバンクでさ、こっちは付き合いで口座をつくらされたんだよ。親会社経由で協力してやってくれって言われたら、おれら絶対に断れないじゃない」
「そりゃそうだ」
「ずいぶん付き合わされたよ。なんとか記念の協力預金だとか、クレジットカードのノルマだとか、こっちには何のメリットにもならないけどね」
「でもそういうのが評価されるんだよ、きっと。貸してくれるって言うんだもん、借りなきゃ損だよ」
山口社長は、勝手知ったる他人の家で、ポットから自分でお茶を注《つ》ぎ足し、それをぐいと飲んだ。
「いいよなあ。カワさんのところも、いよいよ設備投資でご発展かあ」
「そんな大袈裟な」
「男だもん、経営者だもん、勝負しなきゃ」
経営者という言葉を出され、なんだか勇気づけられたような気になった。そして儲け話から遠ざかり過ぎて、経営者だということも忘れかけていた己がおかしくもあった。
夕食を済ませ、子供たちがいつものように部屋にこもってから妻の春江にこの話をすると、春江はよろこぶのではなく不安そうな顔をした。
「大丈夫なの?」遠慮がちに聞き、家具調こたつに頬杖をついた。
一度不景気を経験して、春江はすっかり臆病になっていたようだった。中でも、近所の町工場が倒産し、仲のよかった一家が夜逃げしたことは、妻には心的外傷《トラウマ》となっているらしく、今でもその土地の前を歩くと、娘の同級生だった少女を思いだして「ユミちゃん、どうしてるんだろうね」と吐息をつく。以来、贅沢はまるで望まず、家族が揃っていることがいちばんの幸せだなどと、どこか諦めたようなことを言う。
「神田さんが言いだしたことだから、そりゃ大丈夫だろう。こっちから新しく機械入れましたから仕事くださいって言うのとはわけがちがうさ」
「そうだけど」
「仕事があるんだから、それほどの冒険ってわけじゃないだろう」
「うん、そうだけど」
「そうだけどって、何よ」
「完全に保証されるってものでもないんでしょ」
「そりゃあこの業界、保証なんてものはどこにもないよ。いまさら何言ってんだよ」
「……契約書とか、もらえるといいんだけどね」
「無理だよ。大きな取引ならともかく、この程度のことで、そんなもの……」
「この程度って、神田さんのところでは日常茶飯事かもしれないけれど、うちには大事《おおごと》なんだから」
「じゃあ、どうしたいのよ」
「うん?」
「このままがいいのかよ」
「……ほら、ユミちゃん家《ち》のこともあるし」
「またその話かよ」
「あそこだって銀行にうまいこと言われて、工場建て替えて、投機用のマンション買って、それが値下りして……」
「マンション買うわけじゃないよ」
「そうだけど……。ユミちゃん家の奥さんが、ごそっと髪が抜けたの、わたし見てるんだもの。おとうさんはその場にいなかったからわからないのよ。うちにまで無心に来て、もう顔中引きつらせて……。それで居間で話を聞いてたら、畳の上に、何か黒い束がボサッて落ちて、何だろうって思って奥さんの頭見たら、白い地肌がぽっかり浮いていて……。奥さん、さっと顔色変えて、落ちた髪の毛ぱっとつかんで、一目散に逃げてって。それから表も出歩かなくなって……」
「まあ、それがショックだったっていうのはわかるよ。でも、それとこれとは事情がちがうんだから。その家にしたって、儲かってるときはクラウンに乗って、正月には従業員連れてハワイに行って、奥さんも派手な恰好して、ずいぶんイヤミな真似してたじゃないの。まるまる同情はできないさ。うちはマネーゲームやろうってんじゃないんだから。あくまでも正業に対する投資じゃないの」
信次郎がそう言うと、春江は黙った。そのとき電話が鳴った。
「あ、いいよ。おれが出てやるよ」
隣の応接間の隅にある電話を取り、川谷ですと名乗ると、応答がなかった。五秒ほど待ったが、受話器の向こうはしんとしたままだった。
「なんだ無言電話かよ」舌打ちして戻ろうとすると、また電話が鳴った。
「はい、川谷ですけど」
今度は少しぞんざいな声を出した。それでも向こうからは何も言ってこない。
「おとうさん、どうしたの?」
「無言電話だよ。まったくもう」
オフのスイッチを押し、本体に戻す。そのまま見ていたら、三度目の呼び出し昔が鳴った。信次郎は受話器を耳に当て、こちらからは何も言わなかった。十秒ほどの根比べがあり、向こうから電話は切れた。それで無言電話はやんだ。
「暇な野郎だね」
居間に戻ると、春江にお茶をいれ換えてもらい、少し苦めの緑茶を飲んだ。テレビでは芸能人が若い娘たちに説教をする番組が流れていた。
それを見て思いだしたのか春江が「ねえ、おとうさん」と言った。
「美加、やっぱり短大、行きたいって」
「何よそれ。就職することで話ついたんじゃなかったの」
「友達がみんな行くから美加も行きたいって」
「みんな行くからって、そういう理由ありかなあ。これこれこういう勉強がしたいから上の学校へ行きたいっていうのならわかるけど。それじゃあ遊びに行きますって言ってるようなもんじゃない」
「だって」
「だって何よ」
「信明だけ大学行かせて、美加は就職っていうのもかわいそうだし」
「信明は勉強出来るんだから仕方ないだろう。国立だし、その点に関しちゃ親孝行なもんよ」
「うん」
「それに男と女はちがうさ。女はいつか嫁に行っちゃうもんだし、就職しても学歴がものをいうわけでもないさ」
テレビでは、太ももをあらわにした女たちが足を組み、芸能人の説教にけらけらと笑っていた。娘の美加も、制服を着るときは、スカートをお尻に乗せているほどの短さにしていて、父親でも目のやり場に困った。
「……短大って、いくらかかるのよ」
信次郎はたばこに火を点けた。
「なんやかんやで百万」
「百万? どうしてそんなにかかるのよ」
「知らない。文部省にでも聞いてよ、おとうさんが」
「やだやだ。親の弱みにつけこんだ商売しやがって」
信次郎はリモコンスイッチを手元に寄せ、チャンネルを切り替えた。巨人戦をやっていた。
「何だ、プロ野球、やってるんじゃないか。くだらない番組見て損しちゃったよ」
もう九回裏の攻撃をしていて、九回裏ということは巨人が勝ってはいないことを示していた。画面の端に目をやると、1−8というスコアが見えた。黙って見続けた。巨人はなんの抵抗もすることなく、あっさりと負けた。相手チームの、見たこともない若い選手がヒーロー・インタビューを受けていた。満塁ホームランのシーンがVTRで流されていた。
「……タレパン入れたら、美加だって短大、やれるぞ」
「そうね……」
野球に興味がないはずなのに春江もテレビ画面に顔を向けていた。
「うまく行けば五年返済で、あとは純益になるよ」
「うん」
「そうすりゃあ、この土地だって買えるさ」
「うん」
ヒーロー・インタビューの若者が額の汗を拭いながら、ありがとうございますを連発していた。次も頑張りますから応援お願いします、とカメラに向かって頭を下げている。
そのとき急に静かになった。低く唸っていたモーター音がやんだのだ。隣の「山口車体」がいままで仕事をしていたことに気がついて、慣れとは恐ろしいものだと信次郎は一人で感心した。
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カーテンを閉めていても春の太陽は窓枠をスライド映写のように浮かび上がらせ、布地をくぐり抜けてきた光線が部屋の中を薄いモノクロに染めていた。おかげで楓の肌は普段より白く見える。楓の大きな乳房は静脈が透けていて、手で弄《もてあそ》ぶといっそう色濃く波打った。女の乳房をいじるのはまるで飽きがこなかった。触れているだけで妙な安心感と充足感があった。不思議なことに耳鳴りも忘れられた。
「うふふ。赤ちゃんみたい」
楓はそう言いながらも、されるままにしている。
「もう少し前なら、もっと形がよかったのにい」
女はいつも一人で勝手にしゃべっていた。
野村和也が携帯電話を手に入れてから、楓はしばしば昼間から和也をマンションに誘った。たいていは和也がパチンコに打ち興じている午後三時あたりで、楓は「暇だったらおいでよお」と電話でもわかる鼻声を出した。行くと必ずセックスをした。ときに楓は下着姿のまま和也を迎え入れることもあり、そんな日はお茶も出さず、芝居がかった媚態《びたい》であけすけに和也をベッドに導いていった。
昼下りのセックスは、午後の過ごし方としては悪くなかった。たっぷりと肉のついた女を下に敷いていると、何かを征服した気になって、和也は自分でも気が大きくなっているのがわかった。
楓も楓で、子供が新しいおもちゃを手に入れたように、若い男とのセックスを楽しんでいた。ひと回りほどちがう年齢差が、女を大胆にしていた。そのうちいなくなる若い男を、いまのうちにせいぜい味わっておこうという積極的な意志があるようにも見えた。
「ノッポちゃん」と、いつの間にか楓はそう呼ぶようになっていた。「ノッポちゃん、ほんとは彼女いるんでしょお」そして毎回同じことを聞く。「でも、いたら、わたしなんかとっくに用なしだもんねえ」と、なぜかいじけたことも言った。
「そんなことねえよ」
和也がそう答えると、楓は満足そうに抱きついてくるのだが、そんなときは自分がこの関係において上に立っていることが確認できて、和也もまた満足だった。
「ほんとのこと言うとねえ、わたし前に結婚してたのよお」
天井を見ながら楓がつぶやく。思い切って告白するというのではなく、「ちょっと聞いてえ」といった軽い身の上話の口調だった。
「群馬の前橋にいたとき、トラックの運転手とねえ。もう十年も前のことだけど……。その人、最初は真面目に働いてたんだけどねえ、わたしが夜の勤めに出るようになったら、競輪に凝るようになってねえ。……ノッポちゃん、賭け事やるの? あっ、これって変よねえ、うふふ。パチンコ屋で知り合ったのに。わたしが言うのは競輪とか競馬とかのことだけど。ノッポちゃんはやらないわよねえ、あんなの。あれは絶対にやっちゃだめよお。パチンコとちがって勝ったときは大金が入るでしょお。前の旦那も、一度、百円が二万五千円になるような券を当てちゃって、一万円買ってたから二百五十万円になったのよお。そうしたらもう目の色が変わっちゃって。手取りが二十万円をちょっと切るくらいだったから、たった一日で一年分の稼ぎが手に入っちゃったわけだから、そりゃ誰だって働くの馬鹿らしくなっちゃうのよねえ……。トラックの運転手って、給料いいみたいに思われてるけど、車を動かすだけだと安いのよお。自分でセールスして歩合を稼ぐか、それとも、自分でトラック買って持ち込んで自営業みたいな形でやらないと、たいして儲からないのよお。だいたいわたしが働きに出たのも、前の旦那、口はへただったからセールスはできそうもないし、それならトラックを買おうっていうことになって、その資金をためるためだったのよお。……それが、ちょっと余裕ができたからって、ギャンブルにつぎこんじゃうんだもんねえ。でも、その二百五十万円が当たったときは盛りあがったわあ。あれ買おうこれ買おうって。我慢することに慣れてたから、あっ、これ我慢しなくていいんだって思うだけで、すごくうれしいのよお。……それでねえ、そのお金でトラック買えばいいって思うじゃない、普通。でも、それができないのよお。トラックが三百万円して、残り五十万をローンにすればいいものを、いっそのことあとの五十万も競輪で稼いじゃおうって、そういうふうに考えちゃうのよ男の人って。まあ、わたしも洋服買ってもらったりしてたから大きなことは言えないけど、ギャンブルってそうやってはまっていくんだと思うわあ。……たぶん、いざ勤めはじめたら、わたしの方が給料多かったっていうのもあると思うのよねえ。やっぱり、自分が汗水たらして稼いだお金が水商売の女房の給料より少ないっていうのは、男の人、我慢できないって思うもの。……わたし、思うんだけど、人間って幸せになれる金額がそれぞれちがうのよねえ。そりゃあお金はあるに越したことはないけど、たくさんあればいいってものでもないのよ。その人に合った金額っていうものがあって、きっとそれは、その人のいまの給料の二割増ぐらいじゃないかしらあ。ほら、月給二十万円の人が、二十四万円あったらもう少し広い部屋に住めるとか、もっと洋服が買えるとか、月に一回旅行に行けるとか、そんなこと考えるでしょう。幸せって、そういう小さな願いが叶うことなのよお。いきなり宝くじで一億円とか当たったりしたら、わたし絶対に不幸になると思うわあ」
「不幸でも一億円欲しい」
和也が短く言う。布団も女の休も、触れているものが温かくて、口を開かないと寝てしまいそうだった。
「それはノッポちゃんが若いからよお。わたしだって二十歳くらいだったら、そう思ったかもしれないけど……あっ、言っておくけど、わたし別にそれほどおばさんってわけじゃないのよお。まだこれから結婚したり子供産んだりしても全然おかしくない歳だし、働いている人の中では、わたしくらいの歳の独身ってたいして珍しいわけじゃないのよお。でも、ほら、ノッポちゃんが若すぎるから、どうしてもお姉さんみたいな口の利き方になっちゃうのよ」
和也が楓を抱き寄せ乳首に軽く歯を立てた。女はああんとうれしそうな声をあげ、和也の頭を両方の腕で包んだ。
「ねえ、ノッポちゃん、女の子に手を上げたことある?」
「ないよ」
「ほんと?」
「ああ。女殴ったってしょうがないじゃん」
「よかったわあ」それは意外なほど実感がこもっていた。「前の旦那、暴力をふるう男だったのお。ちょっとしたことでさっと顔色が変わるのよお。気絶するまで殴られたこともあるのよ。別れるときもひと苦労で、ほとんど逃げるようにして前橋出てきたんだもん。ノッポちゃんって女の子にやさしいんだ。よかったわあ」
和也が右手で尻を撫でると、女は腰を前に出しこすり合わせるようにしてきた。半開きの唇に唇を合わせ、舌を絡ませたまま体を入れ換え女を上に乗せた。こうすると楓はさまざまな愛撫を和也に施してくれる。鏡台で反射した薄い光が女の顔にかかっていた。この女をいつでも好きにできるのかと思ったら、甘酸っぱい感情が込みあげてきた。
携帯電話が鳴った。
「電話よお」
楓の声が台所から聞こえた。
和也がまどろみから抜けだして音のありかを探すと、鴨居にハンガーで掛けられた上着が目に入った。ベッドから降りて右のポケットをまさぐり取りだした。ボタンを押すとタカオの声が耳に飛びこんだ。おれや、といういつもの声だった。
「おう、待ってたんだぜ。どう? さばけた?」
羽田の板金塗装会社から盗んだトルエンは、タカオが「先輩」と呼んでいるやくざに納めることになっていた。
電話の向こうで、タカオは「バッチリや」と少し啖《たん》がからんだような声で言った。
「そうか、やったじゃん」山分けしても数十万の儲けは堅かった。「じゃあ、どこで会う?」
タカオは事務所に来てくれないかと言い、いっぺん先輩紹介したるでと明るく続けた。
「事務所ってどこよ」
タカオが道順を手短に説明する。そして何時に来られるかと聞いた。
「これから行けるぜ。三十分もかかんねえよ。よお、ところでいくらになったんだよ、あのトルエン」
和也がそう聞くと、タカオは「それは来てのお楽しみや」と勿体《もったい》をつけて電話を切った。口ぶりからすると、それは悪い金額ではないように思えた。
「ノッポちゃん、誰からなの」
楓がふきんで手を拭きながら顔をのぞかせた。
「連れ」
「ふうん」
ふとこの女を連れて温泉旅行にでも洒落《しゃれ》こもうかと思ったが、連れて歩くには歳の差があることを考えてやめた。
「じゃあ、おれ帰るから」
「うん。また電話するわあ」
和也は楓のマンションを出ると、メモを頼りに「館野親和会《たてのしんわかい》」へと向かった。
「館野親和会」は細長い灰色の雑居ビルの四階にあり、そこへ上がる階段ははしごのように狭くて急だった。壁はペンキで白く塗られているが、その塗装の厚みは決して清潔感を醸《かも》しだすものではなく、古さを強引に糊塗《こと》した印象を与えていた。各階には冷たい鉄製のドアが一枚ずつあり、そこにはいかにも怪しげな看板が張りつけてある。「××経済研究所」と書かれていても、それがまともなものであるとは到底思えない。どのドアも裏世界への入り口といった感じがした。ペンキのせいか薬臭さがそこかしこに漂っている。全体が公衆便所のようなビルだった。四階まで上がると踊り場の蛍光灯がキンキンと不快な音を立てて点滅していて、やくざ事務所の看板をいっそう青白く照らしていた。
インターホンを押した。見上げると天井付近にはビデオカメラが設置されている。しばらく間を置いて「どちらさんで」というドスのきいた声が流れ、名前を告げるとドアの鍵を開ける金属音がコトンと鳴った。
ドアが内側に開かれ、隙間からパンチパーマの若い男が顔をのぞかせた。男は無愛想に顎をしゃくると、和也を中に招き入れ、そのままうしろに回って再び鍵をかけた。目の前には病院にあるようなカーテンの仕切りがあり、首を伸ばすとその奥の壁には「任侠道」と彫られた木製の掛け物が見えた。パンチパーマがうしろから和也を軽く押す。少しむっとしながら前に進むと、仕切りの向こうには応接セットがあり、光沢のある黒いソファに掛けていた、ポマードで髪を撫でつけた男が和也を見るなり立ち上がった。
「おのれが野村とかいうガキか」
鋭くとがった声が耳に突き刺さり、男が顔を近づけてくる。それはとうがらしのように赤い顔だった。男は革のグラブを手にはめていた。
視界の端にタカオが映り、見下ろすとタカオは床に正座をしていた。わけがわからないまま立ち尽くしていると、脇から腕が差しこまれ、両方の肘《ひじ》が跳ねあげられた。次の瞬間、強い衝撃が左顎に走り、続いてみぞおちに何かの塊がめりこんだ。下半身が感覚を失って崩れ落ちそうになるのだが、肩は板に張りつけられたかのように固定されていて、膝が宙に浮いただけだった。やや遅れて激しい嘔吐《おうと》感が込みあげ、同時に、和也は自分がうしろから羽交《はが》い締めにされていることを知った。
「ふざけやがって、このガキがあ」
男の怒声がこだまし、もう一度顎に衝撃が走る。首を立てていられず頭を落とすと、目の前が猛烈な速度で黒く塞がれていき、それが男の膝だと理解したときは鼻の奥がジンときて意識が遠のきそうになった。顔と体のあちこちで激痛が発生し、そのつど頭蓋骨が裏側からハンマーで叩かれているみたいに響く。体中の血球が凍りついたような寒気をおぼえ、なぜかせつなさが全身を貫いていた。
「背の高い二人組だとよ」
その声は上から降ってきた。頬に床の冷たさを感じ、額では生温かい液体がひと筋、伝わっていくのがわかった。
「ひょろっと痩せて背の高い、二十歳くらいの二人組が、黒いワゴン車に一斗缶を積んでいるところを見ましたとよ」
男が和也を足蹴にした。抵抗しようという気はどこにもなかった。ゆっくり手で鼻を押さえると袖のあたりが血に染まっているのが見え、せっかくのスーツがこれでおじゃんだなと妙なことを思った。
「おんどりゃあ、えらいことしてくれよったな」
霞《かす》む目で男を見上げた。目線が合うと、男は和也がまだ生きていることが気にいらないかのように、いっそう顔を紅潮させ、靴の裏を和也の顔に何度も打ちつけた。
「もう一回立たせえ」
荒い息で男がパンチパーマに命じ、和也は再び羽交い締めにされ、ぼろ雑巾《ぞうきん》みたいに引っぱりあげられた。
拳《こぶし》が顔面に連打され、視線がおぼろげに宙をさまよった。左に頭が振られて下を見ると、顔の形が変わったタカオが蒼白の面持ちで和也を眺めていた。ここまで来ると具体的な痛みというものはなかった。痺《しび》れと熱さだけが体を支配している。
こんなシーン、いつかあったな、と和也は曖昧《あいまい》な意識の中で思った。愛知県の東の外れの市営住宅で、夜になると小学生の和也は緊張を抱えていた。一升瓶を手にした父はコイントスのようなものだった。表が出れば上機嫌で息子を膝の上に乗せ、タクシーの仕事のことなどを愉快そうに話したが、裏が出れば茶の間は一転|修羅場《しゅらば》と化した。和也の癖だった、啖を切るため喉を頻繁《ひんぱん》に鳴らす音が気に入らないと、テーブルを蹴飛ばしたのだ。それはあまりに突然だった。仮面がぽろりと剥がれるように、父の顔は鬼の形相《ぎょうそう》となり、拳が飛んできた。
「和也ーっ! いつまでウンウン唸っとるんやーっ!」
父の暴力は容赦《ようしゃ》がなかった。大人の力で、本気で子供を殴りつけ、足蹴にした。担ぎ上げられ、畳にたたき落とされた。
顎を押さえられ、三十分以上にわたって平手打ちを喰らうこともあった。泣けば「やかましい」と目を吊りあげ、泣かなければ「何だその目は」と怒声を浴びせられた。
母はいつも危険を察知すると、「無尽の寄合があるから」と伏し目がちにつぶやき、勝手口からこそこそと逃げていった。
近所中に響いているはずなのに誰の助けも得られなかった。かかわりあいになるのを恐れていることは、子供心にもわかった。
父が暴れると、食器が砕け散り、ふすまが破れ、ときには壁に穴があいた。茶の間の電球が笠ごと揺れて、黒い影があちこちで躍っていた。そんなときの部屋は荒波に浮かぶ難破船だった。
和也にできることといったら、ひたすら時間が過ぎるのを祈るだけだ。
いったい何分経ったのか、やっとリンチから解放されたときは、体中の力が抜け、もはや息をするのが精一杯だった。男は「ここに並んで正座せい」と怒鳴ったが、手をついて体を起こすことすらできず、和也は死体のように床に横たわっている。
「ええか、小僧、よう聞けよ」頬に金属を感じる。それは日本刀の切っ先だった。「てめえらの持ちだした黒のワゴン車はなあ、見られてしもうたんや。近所の工場の宿直当番とやらにな。六十過ぎのじいさんだとよ。老眼は近くのもんは見えんけど、遠くのもんはよぉ見えるそうや。何やら音がするさかい通りをのぞいたら、背の高い二人組が車に一斗缶を積みこんどるのが見えたそうや。おかしいなと思って番号を控えたんだとよ。でもって、月曜になったら向かいの板金塗装屋が『泥棒や』と大騒ぎして、『やっぱりそうでしたか。それならわたしが見てました』だとよ。立派なじいさんやないか。市民の鑑《かがみ》やないか。あ? 聞くところによると、派手な音立てて窓をぶち破ったそうやな。おう? 毛布を張りつけて何べんも飛び蹴り食らわしたやて? 隣町まで聞こえたそうやないか。てめえらはヘタを打ったんじゃ。このドアホウが!」
男が今度はタカオに日本刀を向けた。タカオはとっくに血の気が失せていて、唇さえ真紫だった。あの威勢のいいタカオがこうなっていることが、こんな事態でありながら憂鬱だった。
「おかげであっという間に足がついて家宅捜索じゃ。わかっとんのかいな、このガキどもが。ええか。昨日、事務所がガサ入れ受けたんやぞ。それもなあ、この事務所やあらへんわ。ここの兄弟関係の組や。浅田組や。ええか、あのワゴンは浅田さんのところから譲り受けたもんでなぁ、名義は昔のままなんや。番号調べりゃあ向こうに足がつくんじゃ。わかっとんのかいな。おかげでおれはエンコ詰めじゃ!」
そうだろうな、と和也はぼんやり思った。最近いいことが続き過ぎていた。パチンコは負け知らずで、年増とはいえ女にもありつけた。自分の人生がこんなに順調に行くはずがなかった。どこかで元に戻るはずだったのだ。
「おのれらここで葬式出したろか。絶対に許さへんど!」
男の声が少し裏返り、また足が上から降ってきた。脅しではなく、やくざが本気で怒っていた。タカオは足蹴りを食らったのか真うしろに転がり、事務机に頭を打ちつけて派手な音を立てた。
「山崎。まあ、待て」
別の男の太い声が聞こえ、足蹴りがやんだ。
「こんなガキども、沈めたところで一銭の得にもならねえぞ」
もう一人、髭を生やした中年の男がいつのまにかソファに深く腰掛けていた。
「いや、でも兄貴。こいつら生かしといたらおれのメンツが……」
「馬鹿野郎。ペーペーのやくざのくせして何がメンツだ。ふざけるのもたいがいにしろよ!」
髭の男は乾分《こぶん》の襟首をつかむと、ソファの隣に座らせた。
「なあ、山崎。そもそもそこのタカオとかいう若い衆に車貸したのはてめえだろう。てめえ、素っとぼけてやがるが、本当はトルエンのパクリだってこと知ってたんだろう」
「いや、おれは……」
「まあ、いいやな。それもやくざの器量ってものよ。会費さえ組に納めてもらえりゃあな。それとも何か、組の看板使って小遣い稼ぎするつもりだったら、おれに黙ってトルエンのウリを仕組んだてめえの料簡《りょうけん》からまずおとしまえをつけさせてもらうけどな」
山崎と呼ばれたやくざが黙った。和也がわかったことは、タカオが「先輩」と呼ぶやくざが山崎という名であること、タカオは組に黙って車を持ちだしたわけではないことだった。
「てめえも指なんざ詰めたかねえだろ」
「ええ、そりゃあ」
「だったら上手な絵を描きな。浅田さんのところと警察を納得させるような絵をな」
「はあ……」
「どうするんだ」
「こいつら、自首させます」
「この面でか。この坊やたちの顔見てみろよ。青タン赤タン、まず二週間は消えねえぞ。まったく知恵が足りねえ野郎だな、てめえは。カッとなっていざという手を消しちめえやがんだからな」
「…………」
「銭しかねえだろう、どっちにしろ。ガサがあったのは仕方がねえ。浅田さんのところは、とっくに廃車にしたつもりだったと警察には突っぱねてるらしい。どのみち公安経由で調べりゃあ、一年以上あのナンバーの車を街宣に使ってないことはわかるしな。これは突っぱねてもらうしかない。幸いなことにガサで困ったもんが出たわけじゃねえ。となりゃ迷惑料だろう。うちの親分と浅田の叔父貴《おじき》の間柄でも、最低のけじめはつけとかねえとな。山崎。銭を作るんだよ」
「はあ」
「トルエン、全部でいくつだ」
「二十缶です。いま、女の所に置いてあります」
「二百tのドリンク瓶に詰めて、一本いくらだ。正直に言えよ」
「……二千五百円です」
「じゃあひと缶十八リットルで……おい、小僧ども。いつまでも寝転がってねえでちゃんと正座しやがれ!」
髭の中年やくざに凄まれ、和也とタカオはやっとのことで上体を起こした。中年は若いパンチパーマにそろばんを持ってこさせ、ぶつぶつ言いながらそれを弾いた。
「おい、小僧ども。そろばん、使えるか。てめえらどうせ算数なんざ零点だったクチだろう。おれはな、こう見えても商業高校出てんだぜ」
そう言ってにやっと笑った。
「……おいおい、ひと缶で九十本取れるってことは二十二万五千円じゃねえか。これに二十掛けりゃあ……四百五十万、だとよ。おい、山崎。てめえ、おれに隠れてこんなおいしいシノギにありついてたのか」
中年は大型のそろばんを振りあげると勢いよく山崎の頭に打ちつけた。続いて和也とタカオの頭にもきた。
「おい、わかったか、おれがそろばん使うわけがよぉ」
中年がたばこをくわえる。すかさずパンチパーマがライターで火を点けた。
「いずれにせよ、これで自首の線はなしだな。四百五十万、なにもお上に差しだすことはねえ。山崎。とりあえずトルエンは別の若い衆にさばかせな。言っとくがな、これは全部てめえの裁量でやることだからな。組は関知しねえぞ。それで四百五十万だ。あとは五百五十万か……。てめえら最低でも一本は用意しろよ。そうすりゃあ、それ持っておれが手打ちにしてきてやるよ。なあに、浅田の叔父貴は話がわかるお方よ。少なくともてめえらの小汚ねえ指よりは、福沢諭吉先生の方がずっとお好きだろうよ。おい、オシボリもってきな。このガキどもの分もな」
パンチパーマが給湯室から人数分のオシボリを盆に載せて運んできた。和也は促されてそれを取り、顔に当てた。冷えたオシボリだった。顔を拭うと白いタオル生地はたちまちどす黒く染まった。左目が塞がりかけているのがわかったので、当てたまま手で押さえた。タカオはもう手遅れだった。顔のあちこちが蜂に刺されたように膨れあがっている。
「問題は警察だわな。浅田さんのところは二、三日中にもうちの名前を出すって言ってんだ。そりゃそうだろうな、名義変更してない以上は使用者責任とかもあるだろうし、廃車にしたつもりでした知りませんじゃあ済まねえだろうしな。多少の手土産持たせねえとお上も引き下がるめえよ。そうなりゃあ今度はうちがガサ入れよ。車はボロだし出しても構わねえけど、トルエンは出さねえとなると、うちも警察に対して何か気の利いた絵を描かねえとな」
「……とりあえず、行儀見習いのチンピラが車持ちだしてトンズラしたことにして、うちも探してることに」山崎が言った。
「まあ、最初はそんなところだな。……よし、車のキーを渡してこの連中に処分させろ。いいか、今度はヘタ打つなよ」
中年が立ちあがり、腰を振るようにしながらズボンをずりあげた。
「山崎。おれが知り合いの病院に電話入れておくからよ、こいつら連れて行きな」
やっと解放されそうなことに和也の肩が少しだけ落ちた。
「こいつらいくつだ。まだ二十歳そこそこだろう。こりゃ投げ売りしても五百はいくんじゃねえのか」
中年のやくざは腰をかがめると、品定めするように二人の若者を凝視した。
「てめえら腎臓《じんぞう》売ってこい。それでチャラだ。いいな」
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見上げると、山の稜線《りょうせん》の向こうには淡いブルーがやさしく広がり、その透明度は果てがないように思えた。さらに目線を上げると、ゆるやかなグラデーションによって青はいっそう輝きを増し、今度はたくましく大地を見守っている。ひとつだけ場違いに浮かんだ雲が、飛行船のように悠々と漂っていた。
藤崎みどりは思わず胸を反らし、大きく深呼吸する。内陸の冷たい空気が体の中を心地よく駆け巡り、ついでに吐息がもれた。
富士山の隣、御殿場《ごてんば》に位置するかもめ銀行の保養地はただの原っぱで、一年に一回、新入行員を歓迎するキャンプのためだけに使われる。ポロ競技を三ヵ所で同時に行えそうな広さだが、東京都内にグラウンドを持つよりは安上がりなのだろう。さして有効に利用されることもなく、森に囲まれて横たわっている。もっとも起伏がある土地なので、使いではあまりない。もう少し買い足してゴルフ場開発業者に売りつけるか、こうして行員にテントを張らせるくらいのものだ。
原っぱのいちばん奥の小高い丘には、コンクリート造りのコテージがあった。「清風荘」という名の宿は、かもめ銀行の保養施設で、行員なら一人二千八百円の使用料で誰でも利用することができる。「新歓キャンプ」のときは、役員たちの専用宿となった。役員たちは、身の回りの世話をする秘書を従え、テントではなくここで寝起きするのだ。
みどりは昨年、支店長の言いつけでこの丘に登ったことがあった。支店長が持参した「貢《みつ》ぎもの」のワインを届けたのだ。慇懃な秘書に手渡し、玄関横のテラスに目をやると、そこでは肌の色艶もいい男たちがテーブルを囲んで談笑していた。葉巻をくゆらせコーヒーを飲んでいた。葉巻を吸う人間を実際に見たのはこれが初めてだった。ちがう世界をのぞいた気がした。そしてふと振り返り、コテージから原っぱを見下ろすと、下では、数百のオレンジ色のテントがてんとう虫の大群のようにひしめき合い、その間を行員たちが動き回っていた。心ならずも爽快な眺めだった。このときみどりは黒沢映画を思いだした。それは戦国武将が丘の上で自らの軍隊を指揮しているシーンだった。サラリーマンが出世したがる気持ちがわかった気がした。
ふりそそぐ陽光の下で、みどりは木槌《きづち》をふるってペグを打った。テント張りなど慣れていないので、土にめりこむはずのペグが右に左に揺れた。
「あら、みどりじゃない」その声に振り返ると裕子がいた。「どうしたの? 欠席するって聞いてたけど」裕子は朝から何度もこの意地悪を言った。
「うるさい」みどりが頬を膨らませる。
結局みどりは回覧板の「欠席」に判は押さなかった。支店長及び玉井課長の事情聴取と、ゴールデンウィークの二日間を犠牲にすることを秤《はかり》にかけ、後者を選んだのだ。先のことを考えると、そうせざるをえなかった。
「裕子はもうテント張ったの?」
「うん。高梨さんが女子の分もやってくれた」
裕子は、本部直轄人事と噂のある高梨と同じ班に組まれていた。みどりはと言えば、「あの馬鹿」こと岩井と同じ班だ。岩井は暗い顔で、さっきから上司に言いつけられた付近の草抜きをやっていた。
「高梨さんってさあ」ショートパンツ姿の裕子が言った。「結構変わってるよ」
裕子は体にフィットしたTシャツを着ていた。補整ランジェリーで胸を強調しているのが同性の目には一目瞭然だった。
「どうして?」背中を向けたまま、みどりが興味のない振りをして聞いた。
「だって、ディズニーランドに行ったことないんだって」
「そういうのも『変わってる』うちに入るのかなあ」
「入るわよ。普通、誰だって行くもん」
「勉強ばっかしてたからじゃないの」
「行列に並ぶのがいやなんだって」
「ふうん」
「田舎の修学旅行生がウヨウヨいそうだから避けてるんだって」
ペグがなかなか入らず、みどりは打ちこむ場所を変えて木槌をふるった。
「でも、『ディズニーランドへ行ったことないなんてヘン』ってみんなで責めたら、『そうかなあ』って。それで、こどもの日にみんなで行くことになった」
「みんなって?」
「融資課の人たちと。みどりも行く?」
「どうしようかな……」
みどりの手元では、草の間から小さな虫が這《は》いでてきて右往左往していた。軍手をはめた指先で弾き、少し意地悪をした。
「連休の最終日だからきっと混んでるんだろうね」
「ほかの日は高梨さん、ゴルフなんだって。支店長のお供で接待ゴルフ」
「ふうん」
「じゃあ。行きたいなら言ってよ」
行きたいなら、という言葉が癇《かん》に障《さわ》ったので、みどりは「うん、考えとく」と気のない返事をした。裕子と張りあうのも面倒だなという気持ちもあった。
「タマの頭だと思って叩くといいよ」
「うん?」みどりが見上げると、裕子が腕組みをして笑っていた。
「その杭。高梨さんが言ったのよ。『おまえら、こういうのは上司の頭だと思って叩くんだよ』って。さっき向こうで馬鹿ウケだったんだから」
裕子は、髪をふわりと浮かせて去っていった。
みどりは言われたとおりにやってみた。なるほど作業がはかどった。
テントの設営が終わり、配られた弁当を食べると、支店ごとに分かれて輪を作った。と言っても仕事のミーティングではなく、親睦のためのレクリエーション・ゲームだ。各支店に振り分けられた新人が本部テントに走り、封筒を受け取ってくる。封筒の中の紙には問題が書いてあって、それをみんなであらゆる手を使って解答を見つける。その解答を書いた紙をまた新人が本部テントまで届け、正解率で順位を決めるのである。一問に与えられたタイムリミットは十五分。成績上位の支店には、これで得意先回りをしろということなのか、電動自転車がプレゼントされる。
最初の問題は「今年のワールドカップ・サッカー出場三十二ヵ国をすべて挙げよ」であった。つまり、たわいのない遊びだった。
「おい、誰かサッカーにくわしいやつ」副支店長が声を張りあげる。
「もしくはサッカーにくわしい知り合いがいる人」
誰かがあとを継ぐ。
「ぼくの弟、大学のサッカー部に所属してます」
「じゃあ電話だ電話。雑誌のバックナンバーがあったら調べてもらえ」
「うちにいるかなあ」携帯電話を手にして男がボタンを押している。
馬鹿らしいと思いながらも盛りあがるのが、みどりにはおかしかった。銀行員の習性なのだろうか、ノルマを課せられ、成績を競わされると、みんながはりきるのだ。
隣の輪では新聞社に電話をしていた。さすが都心の支店だけあって得意先に新聞社があるようだった。
結局みどりの支店では、みんなが手分けして方々に電話して聞いてみたが、解答を得ることができなかった。遊びなのに支店長が「使えねえ連中だ」と、半ば本気で吐き捨てた。
二問目は、出題者の性格の悪さが窺い知れる「因数分解」だった。銀行員には、いい歳になっても高校時代の偏差値の話をしたがる男が多かった。
「こりゃだめだ。数学なんかとっくに忘れた」年長の行員がお手上げのポーズをする。「こういうのは新人だ。おい君。まだ受験勉強の名残りがあるだろう」
「いやあ、ぼく、推薦人学だったんで……」
副支店長から指名を受け、いかにも体育会出身という若い男が申し訳なさそうに頭を掻いていた。
「ぼくがやってみましょうか」出題の用紙を覗いたのは高梨だった。「数学、わりと得意だったから」
高梨はクーラーボックスをテーブル替わりにすると、細かい作業でもするように答案用紙に顔を近づけて鉛筆を走らせた。ときどき落ち着きなく指を揺すらせ、鉛筆のしっぽを噛んだ。昔はこうやって試験勉強をしたのだろうな、と容易に想像できる姿だった。
「すごーい」
ちゃっかり隣に陣取っていた裕子が、身を乗りだし、小さく感嘆の声をあげる。裕子の髪が高梨の腕に触れた。わかっているくせに、それをどけようとはしなかった。
「たぶんあってる」
高梨が顔を上げた。みんなが「ほおっ」と溜息をついた。
「わたしだったら耳から煙が出ちゃう」裕子がシナを作っておどけた。
高梨は、少しは照れるのかと思えば、「おれ、旺文社の模試で百点取ったことあるんだよね」と子供が勝ち誇ったように言うのだった。
三問目は「受取人と振出日が白紙の手形が回ってきた場合の対処」という問題で、「これを間違うと洒落にならん」と支店長が真顔になり、自ら知り合いの税理士を電話でつかまえて確認を取っていた。四問目は「SMAPとTOKIOとV6のメンバーをすべて挙げよ」だった。もちろん女子行員がはしゃぎながら片づけた。
組合もよく考えるな、とみどりは感心した。いやだいやだと言いながら、参加してしまえば、それなりに楽しいのが会社の行事だった。
午後のレクリエーションは盛況だった。関東ブロックから集まった三千人の行員たちには、人事異動が多いせいで同窓会のような意味合いもあり、あちこちで「お久し振りです」の声が交わされた。出向先からわざわざ駆けつける男たちもいた。この中には、昔の不倫相手とばったり会ってしまい気まずい思いをする行員が多いことも、みどりは知っていた。
夕食の支度は、まだ夕焼けの序曲といった空模様の午後五時から始まった。支給された段ボールの中に材料が入っていて、それでカレーライスをこしらえるのだ。肉の替わりにコンビーフの缶があった。毎年一緒だった。持ち込みは禁止されていた。自分たちの支店だけ豪華なものを食べると、本店からは協調性に欠けると判断された。
岩井が目をパチパチさせながら玉葱《たまねぎ》を刻んでいた。目にしみるのではなく、ここ数週間の彼の癖だった。岩井はどんどん内向的になっているようで、同じ班なのにあまり会話を交わそうとしなかった。もっともみどりも、自分から話しかけたいとは思わなかった。岩井はこのキャンプでも周囲から無視されている。
銀行は、数十億円の利益を会社にもたらす者もいれば、給料分も稼げない者もいるという組織だった。それでいて三十代半ばまではほぼ同様に昇給するのだから、この「不公平感」を何かにぶつけたいと思うのは必然だった。稼いでいる男は自信満々に廊下を闊歩《かっぽ》し、この会社は自分でもっているんだという態度を隠そうとしなかった。仕事のできない者は辛く当たられ、女子行員にさえ馬鹿にされた。一人がノルマを達成できなくて課全体でカバーしなければならないときは、「てめえのせいで今日も残業なんだよ」と平気で罵倒《ばとう》する者もいた。世の中は、要領の悪い人間に辛くできていた。
岩井は一度辞表を出したが、支店長が受理しなかったという噂だった。おれが異動したら勝手に辞めろと言われたらしい。言いなりになる岩井もどうかしている。
みどりはカレーライスを、同じ課の女子行員たちと食べた。コンビーフ・カレーも、澄んだ空気の中で食べてみれば、味は悪くなかった。
役員たちは、夕食になると丘から降りてきて、あらかじめ本部から通達があった班に加わって同じものを食べた。気さくな経営陣を演出しているつもりだろうが、割り振られた班の人たちと支店長の緊張が手に取るようにわかって、みどりにはおかしかった。きっとおじさんたちは、これで「現場の声」を聞いた気になっているのだろう。
夕食後のあと片づけを済ませると、キャンプファイヤーのために本部テント横の広場に全行員が集まった。何も全員が同じ火を囲まなくてもいいだろうとみどりは思うのだが、何事もみんな一緒というのが銀行の習わしだった。そのため、人の輪はやたらと大きくなり、斜面を利用して座りこむので、まるでカラカラ浴場の様相を呈している。三千人もいるとキャンプもちょっとしたイベントだった。
幸いなことにみどりの支店はうしろの方で、「誓いの言葉」の指名もなかった。場所につくとき支店長が「ああ、いやだいやだ。去年よりうしろかよ」と不機嫌にひとりごとを言っていた。前の方には優良店が並んでいた。
はじめに、全員が起立して銀行歌を唄った。続いて組合委員長の挨拶があり、点火式が始まった。広場のあちこちにはたいまつが設置され、そこにも同時に火が点けられる。どういうセンスで用意したのか「ツァラツストラはかく語りき」のBGMが拡声器から流れ、そのファンファーレが最高潮に達した時点で、選ばれた新入行員たちが一斉に火を放った。あちこちから歓声と指笛が飛び交う。知らない人が通りかかったら、カルトの宗教儀式と誤解しても仕方がない光景だった。
新入行員の代表が「入行の辞」を読みあげた。みどりには顔も見えないが、東大法学部卒であることはわかった。それ以外の大学出身者が任されることがなかったからだ。それが済むと、今度は指名された行員たちが順にマイクの前に立ち、「誓いの言葉」を述べた。弁論大会のようなものだ。しんとさせたり笑わせたり、そうやっていちばん会社の士気を高めた者にはご褒美《ほうび》として、いったい誰が欲しがるのかという創業者のレリーフが授与されるのだ。歴代の受賞者は、当然のように、末長くからかわれることになっている。
「わたくしは、MOF担のときの最初の接待麻雀で、銀行局の担当者から国士無双を上がった男です」どっと笑い声が起きる。「しかし、それで顔を覚えていただきました」やんやの歓声が湧く。「損して得取れと申しますが、わたくしは得して得を取ったわけであります……」
こういうのが幹部にはよろこばれるのだろうな、とみどりは思う。
銀行の男たちは、それぞれ口が達者だった。ほぼ全員が、子供のころ学級委員を経験している。高校時代に生徒会長だったなど、ここでは自慢にもならない。番長だった方が珍しがられるだろう。
みどりは草むらに腰掛けながら、ぼんやりと遠くの火を見ている。うしろの方は、みんな勝手におしゃべりをしていた。話相手がいないので、みどりは一人で考え事をしている。
キャンプファイヤーが終わると、無礼講になって、あちこちで宴会がはじまった。缶ビールが本部から支給されるが、それで足りるわけがないので、各支店が用意したウイスキーや日本酒がふるまわれる。この件に関してだけは本部も何も言わなかった。基本的には班ごとの酒盛りだが、久し振りに会う同期を求めて遠征に出かける者もいる。
「おい、まだ九時だよ」隣の輪で高梨がうれしそうな声を出していた。「接待でもないのにこんなに早く飲み始めるなんて久し振りだなあ」
ここでも高梨の隣には裕子が陣取っている。ランタンの柔らかな光を浴びた裕子の横顔は、くやしいけれど色っぽく見えた。
みどりは適当なきっかけを見つけて隣の班に合流するつもりだったが、裕子に機先を制されてしまった。ふと目が合ったとき、裕子は向き直って「ねえ、そっちは楽しくやってる?」と聞いた。みどりが「うん」と笑顔を作る。裕子は「うふふ。じゃあね」と明るく手を振るのだった。
その言葉で行けなくなった。じゃあね、だと。みどりは同性の意地悪に小さく腹を立てた。
仕方がないので氷なしの水割りを飲んだ。いけるくちではないが、何もしていないと間がもたなかった。岩井はさっきから新歓キャンプの時間割が書かれたプリントをじっと眺めている。この男も、間がもたない様子だった。
「岩井さん、水割り、作りましょうか?」
みどりがそう言うと、岩井は「あ、どうも」と目を見ないで答えた。
「岩井さんって、休みの日とか、何してるんですか?」
ほかの女子行員が、少しでも話題を探さなきゃといった感じで聞いた。
「うーん。寮で寝てるか、たまにドライブしたりもするけど……」
「車持ってるんですか?」
「うん。中古のシビックだけど」
「誰とドライブ行くんですかあ?」少しいたずらっぽく女子行員が聞いた。
「友達とかだけど」
岩井はなんでも「だけど」をつけた。
寮に友人がいるとは思えなかったので、たぶん嘘だろうとみどりは思った。岩井は男子行員からまったく相手にされていない。話が弾まないので、一応義理は果たしたとばかりに、女子は女子で固まっておしゃべりをした。テレビドラマのヒロインはこれからどうなるのだろう、というような話をした。隣の輪で嬌声《きょうせい》があがり、裕子の甘えた声がこちらまで届いてきた。どうやら山手線ゲームで盛りあがっているようだった。そうなると、こちらの輪が地味に思えて、どうにも意気が上がらなかった。みどりは水割りを立て続けに飲んだ。
どれくらい経ったのか、そろそろ宴を切りあげる組が出てきたころ、みどりは気分が悪くなった。知らないうちに飲み過ぎたようだった。頭が痺れたような感覚があり、軽い吐き気がした。「わたし、もう寝る」と他の女子行員に告げると、みんなもそうすると言い、お開きになった。裕子たちの宴会の輪を横目で見ながら、テントに引きあげようとした。足がふらつき、そのとき胃の中のものが喉元まで込みあげてきた。これは吐くべきだと判断して、みどりはテントを通り過ぎ、目の前の森を目指して歩いて行った。誰にも見られたくなかったので、我慢してでも遠くへ行こうと思った。
森の中には、家族で寝泊まりできる広さのバンガローがいくつか点在している。その陰に隠れれば、気がねなくもどせる。
気がついたら、バンガローの壁に手をあてて吐いていた。鼻の奥がツーンとして、目に涙が滲んだ。夕食のカレーが、気味悪く喉を逆流した。
「おい、藤崎君か」
声がした。支店長の声だった。支店長がうしろに立つのがわかった。
「大丈夫?」
支店長の指先が肩に触れ、それはやがててのひらの感触に変わった。「大丈夫です」と言おうとしたが、咳が出てとぎれとぎれになった。
「しようがねえなあ」
支店長の手がみどりの背中をゆっくりと上下していた。
「よし、全部吐いちゃえよ。そうすりゃらくになるから」
むせかえりながら、はっきりしない意識の中で、いいとこあるじゃんとみどりは思った。でも、できるなら放っておいてほしかった。
二度目の大きな吐き気がして、胃の中のすべてを吐きだした。涙が溢れて、たぶん顔はぐちゃぐちゃだろうなと思った。
支店長は背後から両脇を支え、みどりを立たせようとした。みどりもなんとか立とうと思うのだが、足がとられてよろけてしまう。やっとのことで腰を伸ばすと、両方の胸に男の手があった。
支店長の手だった。背後からみどりは乳房をつかまれていた。
何よこれ、と思いながら言葉が出なかった。支店長の手は別の生き物のように動き、耳元に荒い息がかかった。男の顎がみどりの肩に乗っかっていた。
冗談じゃない。信じられない。ふざけるな。
なのに言葉が出てこない。前屈《まえかが》みになると、支店長の腰がみどりの尻に当たった。いったん体を折ると、もう背中と腰は完全に密着していて、動くことすらできなかった。
みどりが小さく呻き声をあげる。それをどう勘違いしたのか、支店長も低く喘《あえ》いだ。
支店長が腰を動かしていた。男の右手がみどりのTシャツをジーンズから引き抜き、中に入ってきた。脱がされるのだろうか。まさか。どうしてこんなところで――。支店長の手が、みどりの、ブラジャーで覆われていない部分の乳房に直《じか》に触れた。いやだ。死んでもいやだ。
強くわしつかみにされた。みどりは振りほどこうとするが力が入らない。男の激しい息遣いが耳元でこだましている。そして股間に手が伸びてきて、みどりは戦慄《せんりつ》した。
男が股間をまさぐる。みどりの首筋に男の舌が吸いついた。そのおぞましさに、みどりの腰がくだけた。
あんた支店長だろう。こんなことしていいと思っているのか。
そのとき、みどりの背中に重くのしかかっていたものがするりと外れた。
「おい、大丈夫か」
支店長の声だった。もうみどりの乳房にも股間にも男の手はなかった。
「まったく若い娘は酒の飲み方を知らねえからな」
背中で支店長が言っていた。ただしそれはみどりにではなく、ほかの誰かに話しているようだった。みどりは胸を手で押さえて振り返る。五メートルほど離れたところに誰かの影があり、よく見ると、そこには岩井がぼんやりと立っていた。
「なんだ、岩井。小便か」
支店長が、怒気を含んだ、それでいて震えた声で言った。
「はあ」
岩井は脅《おび》えたような返事をし、支店長は「藤崎君が悪酔いしてな」と、呼吸の整っていない声のままで言った。
「お前なぁ、小便なら仮設トイレがあるだろうが、そっちでしろよ。行儀悪いぞ」
「すいません」
岩井は消え入りそうな声を出した。
支店長は、無理に咳ばらいをすると、「もう吐いたから大丈夫だな」とみどりに言い、背中をひとつたたいてテントの方向へ歩いていった。早足で行くべきか、ゆっくり行くべきかを判断しかねた、ぎこちない足取りだった。
みどりは、震える手でTシャツを整えた。岩井の方は見なかった。去っていく足音だけは聞こえた。
その場に五分ほどいて、気持ちの整理をつけようとした。もちろん動揺は収まらなかった。みどりはテントに戻った。すでに寝ている同僚を踏みつけないようにして、ペラペラの寝袋にもぐりこんだ。自分の胸を抱えて丸まったところで、悔やし涙が出てきた。
一刻も早く家に帰ってシャワーを浴びたかった。
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ゴールデンウィークだというのに、川谷信次郎は工場でスポット溶接の機械を動かしていた。二人の従業員のうち、無口な松村は休ませ、タイ人のコビーには休日出勤を頼んでいた。引っ込み思案の松村は、どう見ても連休中に誰かと連れだって行楽に出かけるようには見えなかったが、若者をゴールデンウィークに働かせるのはどうにも気がひけて、七連休を与えたのだ。もっとも松村はうれしそうな顔をするでもなく、「はあ」と気の抜けた返事をするだけだったが。タイ人のコビーは、その点、頼みやすかった。給料の大半はブローカーに吸いあげられたが、残業代は自分のものにすることができたのだ。コビーはいつも明るく「シャチョさん、わたし、休み、いらないね」と言う。
妻の春江は近所の奥さんと買い物に出かけていた。息子の信明は、サークルの合宿があるといって伊豆のどこかへ行っていた。娘の美加は、ファーストフードの店でアルバイトをしている。短大へ行きたいのならせめて勉強をするふりだけでもしろよと思うのだが、「欲しいものがあるもん、しょうがないじゃない」と、まるでそれを買ってくれない親が悪いようなことを言う。欲しいものとは、ブランド物のバッグだった。どうしてそんなものを欲しがるのかと聞くと、「みんな持ってるから」と理由にならない理由を言う。「じゃあ、みんなが人殺ししたらお前もするのか」と信次郎が聞いたときは、美加はもう自分の部屋へと向かっていた。
ゴールデンウィーク中の仕事は、隣の「山口車体」から頼まれたものだった。急な注文があり、自分のところでは捌《さば》ききれないので、知り合いの同業者に振り分けたのだ。この業界では珍しくもない、互助システムというか、付き合いだった。信次郎は休みたかったが、隣同士なので、家族旅行だからというヘタな嘘もつけないため、断れなくて引き受けた。もっとも引き受ける以上はにこやかに応対した。一日働いて三万円になるかならないかの仕事に、少しはイロをつけろよと思ったのも事実だが、山口社長なら仕方ないかとあきらめた。
信次郎は機械に向かって黙々と作業を続ける。ペダルを踏むと、台座の真ん中にあるポイントを目指して、上から電極軸が降りてくる。そのとき圧力と熱が発生し、台にセットされた二枚の金属が瞬時に溶接される仕組みだ。スポット溶接は一ヵ所につき数円を請求できた。高圧電流が流れるため、ときおりパンと弾けるような音が作業場にこだました。角度が微妙に狂っただけで、ピストルの連射のような甲高い音がするのだ。
タイ人のコビーは鼻歌を唄いながら作業をしている。歌は聞こえないが、調子よさそうに頭を揺らしているのでわかった。
すぐに体が汗ばんできたので扇風機を回した。コビーがランニング姿になろうとしたので注意した。
「コビーさん、だめだよ。裸で作業して怪我しても、保険、少ししか出ないよ」
コビーが指で丸を作って「オーケー、オーケー」と笑った。
天井近くにある窓から外を見ると、空は塗料スプレーでも吹きつけたように均一に青く澄んでいた。こりゃ行楽|日和《びより》だよなあ、とひとりごちながら信次郎は手を動かした。
一時間ほど作業をしていると、機械音に交じってドンドンという鉄をたたく音が二回した。コビーを見るが別に変わったことはしていない。気のせいかなと思って再び前を向く。また音がしたので機械を止めた。
誰かが作業場のシャッターをたたいていた。
信次郎は立ち上がった。いやな予感を抱えつつ、そのシャッターの横にあるドアを開けて外に出ると、そこには、一度面識のある太田夫人の亭主が憂いを含んだ表情で立っていた。
「あのう」太田が笑みのない顔で静かに言った。「確か、休日は音を出さないということで、市役所とも話がついていた、と思うのですが……」
「あ、いや……」と言ったきり、信次郎が返事に詰まる。無理に笑顔を作ろうとしたが、顔が熱くなるはめになった。
「今日は何の日かごぞんじですか?」
「いや、その、だからね……」
「川谷さん、答えてください。今日は何の日ですか?」
怒っているのではなく、大人が子供を諭《さと》すような口調だった。
「ええと、三日だから、憲法記念日、だったよね」
「そうです。憲法記念日です。全国的に祝日です。今日からはどこも、サービス業等を除けば三連休です。みんなが休日を安らかに過ごす期間です。にもかかわらず……」
「いや、そのね」信次郎が遮った。「迷惑なら謝りますよ。あ、いや、謝るじゃなくて……その、迷惑をかけているのはわかってるよ。でもね。うちだって好きでやってるわけじゃ……」
「そりゃそうでしょう」太田が大きくうなずいた。「誰も好き好んでゴールデンウィークに仕事をするわけがない。よんどころない事情がおありでしょう。親会社の急な注文があったとか、不良品を出してそのあと始末に追われているとか……」
「あんた、不良品ってことは」
「しかしそれはあなた方の事情にすぎない。わたしたちマンションの住人にはまったく関係がないことです。ここが荒野の、アメリカのアリゾナあたりにある町工場なら、まったく問題はないでしょう。いくら音を出してもかまわないでしょう。しかし、残念ながら、ここは日本なんです。それも首都圏の、住宅が密集した、隣の家が車のエンジンをかけただけで、あっ、何々さん、どこかへお出かけかな、とわかってしまうほどの個々の生活が詰まった地帯なんです。こういう環境の中で、どうすればみんなが仲よく暮らせるかと言えば……。何が必要だと思いますか? 川谷さん」
まるで演説だった。
「お答えください。川谷さん」一
「いや、だからね……」
「わかりませんか?」
「いや、あんた、何のことだか。わたしら理屈は苦手だから……」
言ってすぐさま後悔した。少なからず自分はへりくだっていた。
「ルールです」太田は人差し指を突きだした。「みんなが自分の好きなように振る舞えない以上、そこにはルールが必要になってくるのです。ここは我慢しよう、ここは譲ろう、そういった約束事がなければ地域は成り立たないんです。わたしの言ってること、わかりますか?」
口ではかなわないと思ったので、信次郎は黙ってうなずいた。
「あなたは市役所の職員に対して、休日は音を出さないと約束なさった」
「あ、いや、約束したわけじゃないんだよね」
「いいえ。わたくしどもはそう聞いています」
「困ったなあ。そうじゃなくて、なるべく休みの日は作業をしないっていうことで……」
「なるべく?」
「ああ、そうだね。なるべく、だよ」
「そんなものは約束事には入らない。ルールというのは、曖昧《あいまい》さを排除し、ここからここまでという、ちゃんと線を引くことなんです。そしてみんながそれに従う」
「ほんと、何のことだか」
「よろしい。わかりました。川谷さんが約束をしてないと言いはるなら、ここでルールを作りましょう。わたくしどもも精一杯の譲歩をします。さあ、年間で、あなたの工場は何日稼働すれば満足なんですか?」
「そんな、あんた、急に言われたって。それにわたしらの商売はそういうものじゃないんだから」
「それじゃあルールを作りたくないと言っているのと同じことだ」太田が外人のジェスチャーのようにかぶりを振った。「それは認められないことです。いいですか? できるだけ、などという言い方は何の役にも立たないんです。年間、何日までなら稼働できると決めておき、その範囲内であるなら誰も文句は言えない、しかし、それをオーバーするようであれば、あなた方は親会社の急な注文であろうとなかろうと仕事を断らなくてはならない」
「そんな無茶な」
「何が無茶ですか」ここで口調が強くなった。「無茶なのはあなたの方じゃないですか。あなたは、ルールという概念がまったくおわかりになっていない」
「概念って……よそうよ。そういう難しい話は」
信次郎は完全に腰が引けていた。怒鳴りこんでくれた方がどれほどらくかと思った。
「それでは、ちゃんとした話し合いはまた改めて行いましょう。そこでお伺いします。この騒音は、明日とあさっては続くのですか? わたしはそれがぜひ知りたい」
「あのね」もう逃げだしたくなった。「この仕事はさ、隣の山口さんとこから無理に頼まれた仕事でさ、わたしはあんまり関係ないんだよね」言っていて自分は卑怯《ひきょう》だなと思った。「だからさ、もしも山口社長が、これ連休明けでもいいよって言ってくれたら、すぐにでも機械止めるんだけどね」
「そうですか……」太田がしばし考えた。「山口さん、ですね」
「ああ、そう」
「わかりました。お隣ですね?」
「うん、隣の……ああ、工場は裏から入った方がいいかな」
「交渉してきましょう。あっ、その前に」
「何かな」
「わたしの妻が偏頭痛で悩んでいます。以前、住んでいた所ではこのような症状はありませんでした。そのことだけ、お伝えしておきます」
最後まで紳士的だった太田は、踵《きびす》を返すと川谷鉄工所の敷地から出ていった。その背中は敏腕ビジネスマンそのもののうしろ姿だった。きっと会社では切れ者で通っているのだろうなと、信次郎は暗い気持ちで想像した。
作業場に戻ると、コビーが「シャチョさん、どうしたの?」と相変わらず鼻歌混じりに聞いてきた。
「いや、なんでもないさ」そう答え、機械の前に座った。さてどうしたものかと思ったが、やめるわけにはいかないので再びモーターのスイッチをオンにした。
当然のように作業には集中できなかった。二枚続けて合金板をセットする位置を間違えて、そのつど派手な音が鳴った。
十分ほどして胸騒ぎがしたので、信次郎は機械を止め、裏口へと向かった。そのとき扉が開いて、山口社長の奥さんが血相を変えて飛びこんできた。その顔を見て、すぐに事態を察知した。
「あっ、川谷さん。うちの人が……」
信次郎は手でその先を制し、急いで「山口車体」の工場へと向かった。せまい通路をドラム缶や鉄屑《てつくず》を避けながら進み、途中一度転びかけ、最後は小走りになって工場のドアをくぐった。
山口社長の真っ赤な顔が最初に目に入った。山口社長は初老の従業員にうしろから抱えられ、それを振りほどこうとしていた。
その前方に、太田がいた。太田は汚れたズボンの腰のあたりを、まるで公園のベンチから立ち上がったときのように、落ち着いて手で払っていた。そして右のてのひらで口の端を撫でた。遠目からでも血が滲んでいるのが見えた。
「やいっ、てめえ」山口社長がつばきを飛ばして怒鳴った。「人を馬鹿にするのもいいかげんにしろよ。何がルールだ。何が地域社会だ。そんなもんてめえなんぞに言われなくたってわかってらい。なんでおれらが、あとから来たてめえらに説教されなきゃなんねえんだよ」
「社長」信次郎が間に入った。「ちょっと、落ち着こうよ、ね」
正面から山口社長の肩を押さえ、必死になだめようとした。
「カワさん。あんたも一発殴ってやんなよ。こいつ、絶対おれらのこと馬鹿にしてんだよ。見てみろよ、こいつの目を。人を見下したような目ぇしやがって」
「ちがうよ。社長。この人、もともとこういう人なんだよ」
眉を八の字にして懇願するように言った。
「いいや、絶対に馬鹿にしてるね。屁理屈ばっか並べ立てやがって。そいでもって、こっちが口ごもってると、わかりますか? って、目ぇ剥きやがる。さも自分は選ばれた人間みてえな態度を取りやがる。どこの一流企業のエライさんか知らねえけれど、会社の外でもそれが通用すると思ってやがる。おいっ」
「まあ待ちなよ、社長。ね、落ち着いて。そう興奮してちゃ、まとまる話もまとまらなくなっちゃうじゃないの」
山口社長が肩で息をしていた。その小さな上下動は信次郎の手からも伝わった。
「とにかく、暴力はいけないよ」
なだめながら信次郎は自分のしたことを悔やんだ。太田を山口社長のところに行かせれば、これに近いことが起きるのは充分予想できたのだ。
「太田さん」向き直って言った。「大丈夫かい?」
「…………」太田は温度のない目で、静かにかぶりを振った。
「すまなかったね。わたしからも謝るから」
信次郎は深々と頭を下げた。
「謝ることなんかねえ」山口社長が怒鳴った。「謝ることなんかねえ」
「頼むから、社長はちょっと黙ってて。ねえ、奥さん。椅子もってきて、一度社長を座らせて」
山口社長の奥さんが、おろおろしながら折り畳み椅子を運んできた。社長を座らせ、信次郎と太田は立ったまま話をした。
「太田さん、ほんとうに申し訳ない。この社長、ちょっと乱暴なとこあるけど、根はとってもいい人なんだから」
「たいていの人はそう言いますね」太田が無表情に言葉を連ねる。「生徒に体罰をふるった教師も、職員の間では教育熱心ないい先生で通っている。酒場で暴れた空手の有段者も、道場では後輩思いのいい先輩で通っている。そして住民に暴力をふるった町工場の経営者も、同業者の間ではきっぷのいい男で通っている」
「あんたね」
「仲間内でどうかなどとは、社会においては何の関係もないのです。同じ価値観をもつ者同士なんですから、わかりあえるに決まっている。問題は、価値観のちがう者同士、利害を異《こと》にする者同士が、いかにして理解し合うかなのです。この点において、あなた方は、まったくコミュニケーションの取りようがない。川谷さん、わたしの言っていることはわかりますか?」
「それ、あんたの口癖だね」
「はい?」
「あ、いや、わかるよ。こっちが悪かった」
「ほんとうにそう思ってますか?」
「思ってねえよ」山口社長が横から怒鳴った。「ほら、カワさん、聞いただろ。この野郎、こうやって理屈をこねる振りして、結局は人を小馬鹿にしてやがんだよ」
「頼むよ、社長。黙っててよ」
信次郎が少し強い口調で山口社長をいさめた。
「警察を、呼びます」太田が信次郎の目を見て言った。
「よそうよ、そういうの」
「呼べ、呼べ。一個中隊でも何でも呼んでこい!」
「社長。ちょっと黙ってなよ」
「傷害事件ですから、泣き寝入りするわけにはいきません」
「傷害事件って」
「じゃあ何ですか」
「ちょっとした近所のいさかいじゃないか」
「でもあの方は反省の色がまるでない。たぶん」太田が自分の口元の傷を差した。「この治療費も払うつもりはないんでしょうね」
「よくわかってんじゃねえか。誰が払うか!」
「社長。……それは、わたしが代わりに払うからさ」
「それで終わりですか」
「終わりって」
「休日の騒音問題はどうなさるつもりなんですか?」
「だから、それは……」
「あとから来た奴がガタガタぬかすんじゃねえ」
「社長、それを言っちゃあだめなんだって」
「これ以上の話し合いは無理なようですね」
太田は、軽く目をつぶり、首を小さく左右に振った。そして哀れむような眼差しで山口社長と信次郎を眺め、工場から出ていった。出際に振り返り、「やはり、警察を呼ぶことになります」と、乾いた声で言った。
「ふざけるな」山口社長が、少し震える唇で誰に向かってでもなくつぶやいた。山口社長の奥さんが、心配そうに大きな溜息をひとつついた。
二十分ほどして三人の警官が「山口車体」に現れた。そのうちの二人の警官が、それぞれが別になって、信次郎と山口社長から話を聞いた。そのころには山口社長の興奮もおさまって、静かに事情聴取を受けていた。山口社長は、「いや、おれ、ついカーッとなって」と元気なく首をうなだれていた。
信次郎の聴取を担当したのは、近所の交番の顔見知りの警官だった。手をわずらわせたことを謝ると、「頼みますよ、大人同士なんだから」と苦笑混じりにたしなめられた。
「社長、どうなるのかな」
「まあ、大事《おおごと》にはならないと思うけどね。でも、どうかなあ。向こうが刑事告訴するって言ってるからね」
「告訴かい? そんな、ちょっとしたはずみなのに……」
「こういう近所の揉《も》め事《ごと》って、警察も困るんだよね」
「ええ、すいません」
「川谷さん、よかったら間に入ってよ。うちだって和解してくれるのがいちばんありがたいんだから」
「そうだね」自分の手に負えるのだろうかと信次郎は不安になった。
「でもさあ」警官が声をひそめた。「あの被害者、冷静だね」
「そうなのよ。殴られたっていうのに、声ひとつ荒らげないんだよね」
「商社マンだって、外資系の」
「ふうん」
そうだろうなと信次郎は思った。外人を相手に、日々厳しい交渉をしているのだ。町工場の経営者ぐらいわけはないだろう。
警官が山口社長に謝罪させようとしたが、太田がそれを断った。言葉だけの謝罪は意味がありませんから、とあくまでも冷静に言った。
山口社長が後日また出頭することになって、警官は引き上げていった。
こんな事態なのに太田は、信次郎と、目を合わせられない山口社長に向かって「ところで、明日とあさってはどうなるのですか?」と穏やかに聞いてきた。どこまでも妥協しない態度に、信次郎は軽い恐怖を覚えた。
信次郎が黙っていると、山口社長は肩を落とし、作業をやめる旨を力なく告げた。
山口社長はあちこちに電話をかけまくり、仕事を引き受けてくれそうな同業者を探していた。信次郎も協力して知り合いをあたることになった。山口社長は気の毒なくらい意気消沈していた。こんな社長を見るのは初めてだった。
信次郎は連休中の仕事を免除されることになった。
タイ人のコビーだけが残念がっていた。
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野村和也にとってこの三日間は最低の日々だった。痛めつけられた夜はそれほどでもなかったが、一夜明ければ顔は別人で、おまけに打ち身がひどいせいか熱が四十度近くまで上がり、満足に起きあがることもできなかった。和也は冷やしたタオルを顔に載せたまま、アパートの布団の上でひたすら仰向けになっている。へたに寝返りを打てば針を刺しこまれたように鋭敏な痛みが体のあちこちに走り、それが収まるまでは息も止めていなければならなかった。とりわけ右の脇腹はどす黒く腫れあがっていて、肋骨《ろっこつ》にひびでも入っていそうだ。半死半生とはこのことだった。
この間、胃袋に入ったものといえば水道の水だけだった。歯は無事だったが、口の中はずたずたに切れていた。コンビニで買ったおにぎりをひと口|齧《かじ》ったら、苦痛に顔が歪み、歪んだ部分に激痛が走り、二重の苦しみを味わった。そもそも食欲というものがなかった。体の内部は大慌てで、わずかなエネルギーのすべてが治癒《ちゆ》に費やされている感じだった。
ただ、耳鳴りはひどかった。静寂の中で円盤が一機唸りをあげると、すぐにそれは倍々ゲームで増え続け、奥歯を噛み締めていないと気が狂いそうだった。ついさっきも、それまで一定だった耳鳴りが突如として波長を乱し、ちょうど縄跳《なわと》びが耳元で回っているようにヒュンヒュンと速度を上げて迫ってきて、ちょっとしたパニックを味わったばかりだった。そのときは全身が汗だくになり、生きた心地がしなかった。
楓からは一度電話があった。ゴールデンウィークに入ったからお店も休みなのよおと、いつもの誘いの電話だったが、適当な理由を告げて断った。看病してもらうことも考えたが、この姿を見て根掘り葉掘り聞かれることのほうがいやだった。
シミのついた天井を見ながら、命なんか惜しくないな、と和也は思った。このアパートで一人死ぬのはたまらないが、それ以外なら、たとえばスポーツカーを盗んで首都高速をぶっ飛ばし、パトカーとカーチェイスを繰り広げた末に防護壁に激突して砕け散るのであれば、別に悔いなどないような気がした。
「館野親和会」で、和也は身も心も徹底的に打ちのめされていた。プロのやくざの脅しとは、退路を次々と断っていく詰将棋《つめしょうぎ》に似ていた。和也とタカオは上半身裸にされ、髭のやくざの前に並ばされた。脱げと言われて自分で脱いだのだ。「腎臓、どこにあるか知ってるか」髭のやくざはそう言って和也のズボンを下に引っぱり、「この奥だぜ。おしっこを作るところよ」と拳で捩《ねじ》るように下腹部を押しこんだ。
「去年、臓器移植法が施行されてな、おかげでこっちは商売がしやすくなったんだよ。ま、ふたつあるからよ、一個なら取っても死ぬことはねえんだ。いいな」
怒鳴り散らすのではなく、静かな、有無を言わせぬ口調だった。
「それとも目ン玉にするか。アイバンクに売ってやるぞ。玉ごとだったらいい値になるだろうよ。どっちでも好きにしていいぞ。てめえで選びな」
ソファで紫煙をくゆらすやくざの顔を見ることができず、ひたすら下を向いていた。隣でタカオが膝をがくがくと震わせはじめた。それを見たら震えが和也にも伝染した。やくざは本気だった。
「黙ってちゃわかんねえよ」許してもらえる空気はどこにもなかった。「どっちだ。黙ってたらわかんねえだろう。腎臓か、目ン玉か、さっさと決めやがれ!」
一転して怒号が飛び、テーブルの灰皿が和也の耳を掠《かす》めた。うしろの壁ではガラスが砕け散った音が響いている。いつの間にか、和也の頭の中から思考というものが消えていた。何も考えが浮かんでこなかった。相手の言葉だけがどんどん白いスペースを埋めつくし、侵食していった。もはや自分というものはなく、すっぽり他人が入りこんでいた。
「それとも何か、てめえらに銭作るあてでもあんのか。ありゃしめえよ。パチンコ弾いてちんけな小遣い稼ぎしてる与太者だろうが。体売らねえでどうやっておとしまえつけんだよ」
タカオがたまらず嗚咽《おえつ》を漏らした。膝を折り、手を床について「何でもしますから、それだけは勘弁してくださいっ」と涙声で訴えた。「何でもします!」もう一度発したその声は絶叫に近かった。
「何でもするんだな。よし、よく言った。そっちはーっ」
顔を向けられて和也もタカオに倣《なら》った。自我が、がらがらと音を立てて崩れていくのがわかった。とことん追いこまれると、人間はその場だけを逃れるために、どのような要求にも応じるようにできていた。自分たちがしているのは命請いだった。
髭のやくざは、ひと月以内に、どんなことをしても、それぞれ三百万ずつ作れと命じた。片方が逃げたら残った片方を殺すと言った。免許証のコピーを取られ、本籍地をたどって親を殺すと残酷に口を歪めた。この世界には「掛取り」のプロというものが存在することを教えられた。とんずらした人間を地の果てまで追いかけ、連れ戻し、報酬を受け取る職業があることを知らされた。
数時間に及ぶ監禁から解かれたときは放心状態だった。それはタカオが「先輩」と呼ぶやくざ、山崎がアパートを去ったときだった。山崎は和也とタカオを車で送ってきた。もちろんそれは親切などではなく、棲み家を確認しておくためだった。山崎が土足のまま上がり、和也の部屋を見回す。「ふん、こんなもんやろうな」ポマードで固めた髪を撫でながらつまらなさそうに言った。そして隣で棒立ちしているタカオを指して「これからはタカオに連絡を取らす。もしフケたら、そんときはタカオを殺す」と最後の凄みを利かせた。山崎がタカオの首根っこをつかみ、部屋を出ていく。地元の先輩というから、さからいようがないのだろう。男たちが階段を降りる音を聞きながら布団に倒れこんだら、一ミリも動けなくなった。しばらくして猛烈な心細さに襲われ、いまさらながら自分の孤独を思い知った。眠りたかったが神経がささくれだって、眠りの糸口さえ見つからなかった。いっそのこと気絶してくれた方がありがたかった。
手をそっと伸ばしてカーテンをめくる。雲ひとつない青空がガラスの向こうに広がっていて、湿った部屋で横になっている自分がよけいにうらめしかった。
小便が我慢できなくなって便所に立った。三日間避けてきた鏡を勇気を奮って見ると、青痣《あおあざ》は残っているものの、かなり腫れがひいていた。死にたい気持ちなのに、それに反して若い肉体が必死に治ろうとしているのが皮肉だった。試しに伸びをすると右の肋骨がずきんと痛んだ。和也は慌てて丸くなる。歩けるようにはなったので湿布薬を買いに行こうと思った。
階段を誰かが上がってくる音がして、その足音が部屋の前で止まるとドアが乱暴にノックされた。「誰?」息を殺して聞くと「おれや」というタカオの声が聞こえた。鍵を外して扉を開ける。どんな顔をして現れたのかと思ったら、意外にも不敵に笑みを浮かべたスーツ姿のタカオがいた。
「どや、少しはようなったか」勝手に上がりこんで畳に腰を下ろし、和也の顔を覗くようにして見上げた。「ま、少しは見られるようになったな」
タカオは手には缶ジュースをふたつ持っていて、そのうちの一本を和也に差しだし、自分もプルトップを抜いていきおいよく飲んだ。
「おい、もう夏やで。みんな半袖着て歩いとるわ」
タカオの顔を見ると、ところどころ内出血の痕を残して輪郭は元に戻っていた。和也はカーテンを開け、布団の上にあぐらをかいた。
「あんた、ずっと寝とったんか」タカオは両手をうしろにつき、足を前に投げだし、学生が友人の下宿に遊びにきたような風情で言った。「そりゃそうやろな。おれより派手にやられとったしな」
「そうなのか」
「おれは蹴りはそれほど喰らっとらん」
「不公平だな」
「やられ方にもコツがあるんじゃ」
わけのわからない自慢の仕方をした。タカオはたばこに火を点けるとゆっくりと煙を吐きだし、飲み干した缶を灰皿替わりにした。
「で、二人合わせて六百万の話やけどな。どや、事務所荒らしにせんか。もう一回別の塗装会社からトルエンをいただく手もあるけどな。……実際、ひと缶で二十万以上とは思わなんだわ。先輩もあこぎな商売しよるわ。おれらの取り分、五分の一以下やもんな。それやったらあと三十缶ほどで六百万、いく計算になるよってな。……そやけど今回はキャッシュやないと先輩も納得せんやろうし、そうなるとおれらにさばくルートはあらへんし、どうしたって、やっぱ、どっかで現金をいただくしか手はあらへんやろ。事務所荒しがいちばん現実的な線やで。……事務所ゆうても普通の会社やあらへんぞ。そんなとこ、金、置いたらへんよってな。やるならディスカウント屋か中古車屋や。あいつらほとんど現金仕入れやさかい、金庫ごといただけば絶対に札束入っとるやろ。おれ、ドリルは使えるで、開けるのならなんとかなるで。実をゆうとな、昨日の新聞に横浜の安売り電器店に泥棒が入って六百万円盗られたっていう記事が出とってな。おお、おれらが必要な金と同じやないかって思ったわけや」
タカオが一気にしゃべる。あまりの気持ちの切り替えぶりに、和也はあっけにとられるしかなかった。三日前、膝を震わせて土下座した男の気まずさはどこにもなかった。和也が黙っていると「なんや、いやか。ほかにアテでもあるんか」と言った。
「いや、別にないけど」
「そやったら一緒にやろやないか、事務所荒し。あのワゴン車、まだあるで。高速道路の下の駐車場に入っとるわ」
和也は窓のへりに背中をあずけ、小さく咳ばらいをする。いまさら盗みがいやなわけではないが、あれだけ痛めつけられて、そういう意欲を失わないでいるタカオが不思議でならなかった。
「あんた……」タカオが座り直して和也の目を見た。「まさか逃げること考えとるんやないやろうな」
「そんなことはねえよ」
和也が怒ったように答える。だいいち逃げるどころか、この三日間、明日のことは何も考えられなかったのだ。
「逃げたらあかんど」タカオは真顔で言った。「別におれが殺されるとか、そういうことを言っとるんやあらへん。おれはな、決めたんや。金作って根性あるとこ見せて、組から正式に盃もらおうと思とるねん。もうこれしかないんや、おれたちの生きてく道はな。だいたいほかの土地へ行ってどないするねん。働くゆうても身元保証人もおらへん人間を誰が雇う。アパートひとつ借りられへん。そうしたらどうせキャバレーかパチンコの住み込み店員ぐらいのもんやろ。ゆうとくけどな、おれはそんなもんやるために生まれてきたんやあらへん。働くのなんかまっぴらごめんや。あんたも一緒やろ」
「うん。まあ、そりゃそうだけどな」
「そやったら二人でやくざになって、がんがんノシていこうやあらへんか。ま、確かにこの前のリンチは効いたし、先輩もずいぶんな真似してくれると思うけどな。けど、あれかて結局は力関係の問題なんや。同じヘタ打っても、おれらより先輩の方が力関係で上やったゆうだけの話なんや。今んとこおれらがいちばん下っ端で、都合の悪いことは全部押しつけられるっちゅうことなだけや。そやさかい、おれらも組に入ってやがては上に立つ人間にならなあかんのや。下ができたらシノギなんかなんぼでも兵隊にやらせて、おれらは上前ハネとりゃええだけやないか。手を汚すのは兵隊でええんや。おれは兵隊では終わらんぞ。やくざやろうがサラリーマンやろうが、どこの世界でもそうや。兵隊がおって指揮官がおるんや。損する奴がおって得する奴がおるんや。おれは損する側のままで終わりとうないで」
タカオはまるで学生が将来の夢を語るように熱弁をふるった。和也は考えがまとまらないままタカオを見ている。ただ、確かにこの男はやくざに向いているのだろうなとは思った。自分が失意のどん底にいる間、この男は生きていくことを考えていたのだ。
「それに、やくざになるなら早目がええんや。この前のパンチパーマの坊《ぼん》、あれな、十九やで。おれらより年下や。これから組に入っても序列はあの坊の下なんや。腹立つけどしゃああらへん。でもな、うろうろしとったら、もっと下の者にいばられるはめになるやろ。今なら決して遅いわけやあらへん。な、組に入って男、磨こやないか」
「ああ、そうだな」
和也はそう答えたものの、自分がやくざになる自信はなかった。人づきあいの不器用さは自分でも認めていた。それに、耳鳴りという宿痾《しゅくあ》がある限り、どんな組織にも長く留まれるとは思えなかった。
「安心せえ。殺《や》られやせん。あんときはさすがおれもビビッたけどな、あとで冷静に考えてみれば、そんなことぐらいで人は殺さんぞ。やくざがいちばん怖がるもんを知っとるか。懲役や。上に行けば行くほどそうなんや。いま握っとるシノギが全部他人の手に渡ってしまうよってな」
それは確かにそうだった。
「その点、おれらは刑務所なんか別に怖いことあらへん。かえって箔《はく》がつくってもんや。事務所荒しでパクられても……あんた、ところでパクられたことはあるんか」和也が首を横に振る。「ならお互い初犯や。実刑喰らったところでたいしたことあらへん。組の名前出さんとおれらでひっかぶれば、先輩かて少しは認めてくれるやろ。いずれにせよ、おれらは一ヵ月で六百万作るんや。腹くくろうやないか、なあ兄弟」
和也が苦笑いする。この男の明るさが心底|羨《うらや》ましかった。
「ああ、そうだな」当面、タカオの言うとおりにするしか方法はなさそうだった。「とりあえず、六百万、作るか」
「そや。もう怖いもんなんかあらへん。いざとなったらパチンコの景品交換所かて襲ったるんや」
タカオの言葉を聞きながら、とうとう自分は裏の世界に入っていくんだなと和也は思った。そして表と同様、裏の世界でも相応のエネルギーが必要なことを想像し、少し憂鬱になった。本音を言えば、和也はそのどちらでも暮らしたくはなかった。自分が行きたい場所は……と考えてみてもどこにもなかった。
「そや」タカオが思いついたように言った。「館野親和会、ガサが入ったで」
「そうなのか」
「ああ、日本刀一本と防弾チョッキやらジュラルミンの楯やらを差しだして、ひとまずは帰らせたそうや」
事態の大きさに、また和也の心に影がさした。
「心配することあらへん。こんなもん組とサツの馴れあいや。マル暴の刑事とやくざは普段から付き合いがあるんや。担当の刑事が成績上げたくて『何か出せ』って言えば、拳銃を差しだしたりして、そうやって貸しを作ったりしとるんや。ガサ入れかてたいていは事前連絡があるんや。『これから行く。手ぶらでは帰れんさかい、何か用意しとけや』ってなもんよ。そんなもんやで、世の中は」
タカオはもう一度、「そんなもんやで、世の中は」とひとりごとのように言った。そして首をぽきぽきと鳴らし、伸びをして、立ちあがった。
「ほな、一週間以内に連絡するわ。それまでに金のありそうな事務所、探そやないか。あんたも候補を見つけといてや。何度もやりとうないで、一発で済むところや。いっそのこと一千万くらいパクッて、残りの四百万、山分けしようやないか」
タカオは帰り際に、差し入れのつもりか、封の切ってないマルボロをポケットから取りだし、ぽんと投げてよこした。出際に振り返り、「あんた、裏切るなよ」と低く静かな口調で言った。和也は無言でうなずいた。
夜になって和也は川崎の街に出た。パチンコをする気にはなれず目的はなかったが、アパートにいるのはもっといやだった。耳鳴りが激しくなったのだ。ネオンを浴びながら盛り場の喧噪《けんそう》の中をぶらぶらと歩いた。ゴールデンウィークは中盤にさしかかっており、繁華街のあちこちではネクタイ族の代わりに若者のグループや恋人たちが楽しげにたむろしていた。彼らには何の心配事もないように見えた。いつもの「不幸のおすそわけ」をしてやろうかと考えたが、あいにくそれだけの気力はなかった。
ふとサラ金の看板が目に入り、ここには金が唸っているのだろうなと思った。ただ、バタフライナイフ一本でどうにかなる相手ではなかった。その隣のビルにはビンサロの看板があった。ひと晩の売り上げが数百万だと聞いたことがあったが、当然用心棒がいるはずだった。
歩いていると、額が汗ばんできた。春が夏を従えて、大急ぎで駆け抜けようとしていた。Tシャツの脇の下が汗でべとついていた。もう四日もシャワーを浴びていないことを思いだし、サウナに行くことにした。路地を抜けて歩くと、ラブホテルの看板があった。二十室あって一日に五十組が利用するとして……レジにいくらの金があるのだろうと計算してみたが、うまく数字が出てこなかった。
サウナでは恐る恐る湯舟に浸かった。打ち身をした脇腹はそれほどでもなかったが、うっかりお湯をすくって顔を濡らしたら、チクチクと刺すような痛みがあちこちで弾けた。へりに背中をあずけ手足を伸ばした。体中の筋肉がばらけていく感覚があって、このまま湯に溶けていくのも悪くないなと思った。
サウナを出ると、再び街をぶらついた。少しだけ空腹を覚えたので、たまたま目についたマクドナルドに入った。カウンターの前に立ち、品書を眺めてはみたものの、どのハンバーガーにも食指は動かず、仕方なくポテトとコーラだけを注文してテーブルに座った。ウインドウ越しに通りをぼんやりと見ていた。真向かいにはゲームセンターがあり、入り口に設置されたプリクラで若い男女のグループが嬌声をあげていた。つまんだポテトは、なぜかあまり味がしなかった。
夜遅くまで開いている書店をのぞき、レンタルビデオ店の中をぐるりと一周し、あてもなく街をさまよった。大通りを暴走族が通過し、激しい爆音が路地にまで届いた。アーケードの端まで歩き、小さな公園の前でマルボロに火を点けた。この先は住宅街だった。戻ろうと思って踵《きびす》を返すと、そのとき、男が近づいてきた。
和也が何気なく見る。髪を赤く染めた同年輩の男だった。
「てめえ、何見てやがんだよ」男が言った。そのうしろに女がいた。
「いや、別に」煙を吐きだし、ゆっくりと答えた。
「とぼけんじゃねえ。今、おれたちのこと見てただろうが」
男は、ぶかぶかのジーンズに派手なアロハを着ていた。やくざではなくチンピラといった感じだった。
「てめえはおれにガンを飛ばしたんだよ」男が凄んだ。「喧嘩売ってんのか、この野郎」
和也は黙ったまま中肉中背の男を見下ろした。
「あん? 黙ってちゃわかんねえだろうが」
「やっちゃえやっちゃえ」という女の小さな声がうしろから聞こえた。
和也は目の前の二人を交互に眺めていた。
「おいおい兄ちゃん。たばこなんか吸ってる場合じゃねえんだぜ」
男がポケットからバタフライナイフを取りだした。
「どうした、ビビッて口も利けねえのか。へっへ」そして切っ先を和也に向けると「まあ、いいや。ちょっと相談に乗ってもらおうと思ってな」と虚勢をはるように胸を反らせた。
「実は帰りのタクシー代がなくなっちゃってよぉ。誰かに借りなきゃならなくなっちまったんだよ。へっへ。それがてめえだ」
よく見ると、男は額に汗を浮かべていた。和也はたばこをアスファルトに捨てた。
「おら。怪我したくなかったらさっさと出すんだよ」
男はなおも低い声で凄んだ。
和也がスカジャンの右ポケットに手を突っこんだ。
「よしよし。お利口さんだ。なかなか素直じゃねえか」
バタフライナイフを抜きだすと、一方のハンドルを素早く跳ねあげ、ブレードを剥き身にし、セットした。男が弾かれたように二、三歩うしろに下がった。
「よお、おれのと同じだな」和也が静かな目で言った。
今度は男が黙る番だった。目に動揺の色を浮かばせ、身をかがませ、次の動作に移れる体勢を取っていた。ただしそれは、前にではなくうしろにだった。
すべてが面倒臭く思えた。かけひきする気にもなれなかった。
和也はものも言わず踏みこんだ。と同時に右手を、アンダースローのピッチャーのように下から振りだした。ナイフの先が何か捕え、豆腐でも切ったような軽い、それでも確かな手応えがあった。
男が尻餅をついた。わずかな時間差を置いて、男の頬から鮮血が滴《したた》った。それはとろりとした赤くて濃い血だった。
男が手で頬を押さえ、続いてその血で染まった手を見て、ひいっと声をあげた。
「な、なんだよ、こいつ。信じらんねえよ」
その声は完全に裏返っていた。
和也はもう一歩前に出て、男を間近に見下ろした。金のことを考えた。この男が金づるにならないかと考えた。三百万。三百万円、必要だった。
男がわけのわからない悲鳴をあげ、あとずさった。足をばたばたと動かし、醜くもがいていた。そしてやっとのことで立ちあがると、公園へと走りだした。和也はそのうしろ姿を見て、やはり金にはなりそうもないなと諦めた。
男は公園を駆け抜けると、暗闇の中へと消えていった。
その方向へは、地面にこぼれた血の跡が滑走路の誘導灯のように続いていた。
和也はナイフを見た。素早く切ったせいか血はまるでついていなかった。ブレードを折りたたみ、右ポケットにしまった。
まてよ、あの男に腎臓を売らせる手もあったかな。そう思ったがもう遅かった。
「ねえ」女の声がした。
振り向くと、化粧はしているものの、あどけない顔がそこにあった。女は、少し顔を紅潮させながらも、ニコニコと屈託のない笑みを浮かべて立っていた。
「あんた、余裕じゃん」心から感嘆しているような声を出した。
女はウエストのしぼられたジャケットと、同色のパンタロンを着ていた。足元は底の厚いブーツで、はすっぱな芸能人みたいな恰好をしていた。
「すっごーい。あんた、全然ビビッてないんだもん。なんか、すっごい余裕って感じでさあ。めちゃめちゃ渋かったよ、あんた」
「おまえの彼氏、逃げてったぜ」和也が顎をしゃくった。
「彼氏じゃないもん」女は口をとがらせた。
「じゃあ何だ」
「さっきそこで知り合ったばっか。向こうから声かけてきてさ。で、晩ご飯おごってもらったのはいいんだけど、そのあとお金ないって言うから、じゃあ帰るって言ったのよ。そうしたら『まあ待て、おれがすぐに調達してきてやるから』って。それで……」
「おれからタカろうとしたのか」
「うん」申し訳なさそうな顔ひとつしないで女が答えた。「わたしは言ったのよ。もっと弱そうな奴がいいんじゃないのって。それなのにあの男、『あんなの恰好だけよ』とか言ってズンズン行っちゃうんだもん。……でも、やっぱりあんた余裕だよ。普通、ナイフなんか出されたら腰が引けちゃうでしょ。あんた平気な顔して、逆にナイフでいきなりハショッちゃうんだもん。そんな人、はじめて見た」
和也がたばこを取りだし、口にくわえた。女が「あっ待って」と言ってバッグからライターを取りだし、ホステスのように火を点けた。
「わたし、めぐみ。藤崎めぐみっていうの」
「ふうん」
「ねえ、あんたは?」
「おまえ、歳いくつだ」
「十九」
「嘘つけ」
「じゃあ十八。いいじゃん、そんなことどうだって。それより、ねえ、名前教えてよ」
「うるせえな。おまえ高校生かなんかだろう。とっととうちへ帰りな」
「高校生じゃないもん。あんなところとっくに辞めたもん」
和也は黙ったまま女を見ていた。日焼け顔にピンクの口紅が光っていた。
「じゃあケン」
「何だそれは」
「教えてくれないならケンって呼ぶ。高倉健みたいに渋いから」
和也が思わず苦笑する。ふざけるな、と口の中で言った。
「あっ、笑った。ケン、笑うと可愛い」
「いいかげんにしろよ」
怒ってはみせたが、少しだけ相手のペースを楽しんでいた。
「ねえ、これからどこ行くの?」
「帰る」和也は、通りの方向へと歩きはじめた。
前から一陣の風が吹いてきて、和也の額の髪をひゅんと跳ねあげた。
「じゃあわたしも帰ろっと。……でもさあ、携帯の番号だけでも教えてよ。ねえ、ケン、携帯電話持ってるんでしょ」
「うるせえよ」
「あっ、持ってるんだ。じゃあ教えてくれるまであとついて行く」
めぐみという女が、和也のうしろをちょこちょことついてきた。
ブーツの音がアスファルトに鳴っている。面倒臭そうに振り返ると、めぐみは、ハムスターのようにニンマリと白い前歯をのぞかせた。
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ゴールデンウィーク明けの五月六日に出社するのに、藤崎みどりは相当の決心を有した。実際、家は出たものの、電車が進むにつれて気分が悪くなり、何度も引き返すことを考えた。ただ、家に帰るには母親に言い訳をしなければならず、そちらも考えるだけでいやになる。このまま一日どこかをぶらつこうかと思ったが、そうする自分はあまりに惨《みじ》めなので、よけいに気が滅入《めい》る。結局、考えがまとまらないうちに銀行のある駅に着いてしまった。降りたところで同僚に会ってしまい、引き返せなくなった。
ゴールデンウィークの残りの日々を、みどりは部屋に閉じこもって過ごした。どこにも出かける気にはなれず、テレビすら見る気になれず、ただベッドで布団をかぶっていた。ときおり、乳房をつかまれた不快な感触がよみがえって声をあげそうになるのを懸命にこらえ、ジーンズの上からでも股間をまさぐられた忌まわしさに一人で頭をかきむしっていた。
当然、銀行を辞めることを考えた。支店長とは毎日顔を合わせる。それはみどりに耐えられないことで、それを我慢してまで勤める理由はどこにもないように思えた。
躊躇する理由があるとすれば、それは妹のことだけだった。妹のせいで家の中には重苦しい空気が充満していた。何が気にいらないのか、妹は高校をあっさり中退し、それだけでなく勝手な外泊を繰り返すようになっていた。会社人間の父は妹と向き合うことを避け、母は一人で問題を背負いこみ、毎日を暗い顔ですごしていた。できることなら、みどりは心配性の母にこれ以上新たな心配事を増やしたくはなかった。
でも、自分は辞めるだろうなとみどりは思っている。悔しいけれど、それ以外の方法は探す気にもなれない。
ともあれ出社してしまったので、みどりはなるべく動揺を表に出さないよう努力した。朝礼のときは、いちばんうしろにいて、支店長を見ないように目を伏せ、課ごとのミーティングのときは、髪を前に垂らして顔を見られないようにした。
せめてもの救いは、支店長が、課長以下とはめったに口を利かないことだった。少なくとも、今日、顔を突き合わせることはなさそうだ。それに支店長も、まともな神経の持主ならばみどりを避けたいはずだった。
幸いなことに、みどりは新規と相談窓口に回されたので、お金の計算に神経を使うことはなかった。連休明けのロビーは、どことなくまだのんびりとしていて、みどりは下を向いて仕事をしているふりをする。定期預金のパンフレットを見ながら、自分にどれくらいの蓄えがあったかを考えた。二年間の勤務でためた金が百万ほどはあったはずだ。これなら半年ぐらいはなんとかなりそうだった。あせる必要はない。今度は職場を選ぼうと思った。できるなら小さい会社がいい。制服もなくて、社歌もなくて、くだらない行事もないところがいい。それにもっと都心がいい。こんな工場に囲まれた川崎の外れで、アフターファイブにいいことなんかあるわけがない。青山とか原宿がいい。そうだ、今度、デザイン会社に勤めている友達に相談してみよう。もしかして求人募集してない? もちろんデザインのことなんか素人だけど、最初は雑用でいいし、お茶汲みだってするし、でもきっと勉強して役に立つようになるから――。
「あのう……」
驚いて見上げた。急に声をかけられ軽いめまいがした。みどりの前に中年の男が立っていた。
「すいません。高梨さんはいらっしゃいますか?」
「あ、はい。融資課の高梨ですね」答えながら小さな動悸がした。
立ちあがりかけて、もう一度男の方に向き直った。
「あの、失礼ですがどちらさまですか?」
「川谷鉄工所の川谷と申します」
「お約束でしょうか?」
「ええ、そうです」
みどりは、まるで心の中をのぞかれたような気恥ずかしさを感じながら、高梨を呼びにいく。高梨は奥の机から出てくると、やあ、わざわざ来ていただいてすいませんと明るく言い、中年の男を、小さい方の応接室へと導いていった。別の女子行員がそれを見て、給湯室に向かう。小さい応接室の客はお茶だけでいいことになっている。
再び、窓口に戻って仕事のふりをする。ロビーのうしろの方に柴田老人がいた。目が合って、向こうがにっこりほほ笑んだが、ぎこちない目礼しか返すことができなかった。固い顔だったかもしれないが、愛想をふりまく心境ではない。
今日は長い一日になりそうだな、とみどりは溜息をついた。
「みどり、何かあった?」
昼休みになって、裕子が聞いてきた。悟られないよう普段どおりにふるまったつもりだったのに、食堂で弁当箱を開いたとき、さも朝から気になっていたような口調で顔をのぞきこまれたのだ。
「うん? どうして?」髪をかきあげて返事した。
「だって、元気ないし」
「そう?」
「うん。朝から浮かない顔してる」
「そんなことないけど」みどりが小さく笑顔を作る。
「ふうん……」
裕子は納得がいかないという顔をしている。
「ディズニーランド、どうだった?」みどりが話題を変えた。
「すっごい混んでた。だって、そもそも入るのに二時間待ちなんだもん。浦安のデニーズでずっと時間潰してたのよ」
「そう」
「でも楽しかったよ。パレードも見たし、スプラッシュマウンテンにも乗ったし」
「ふうん」
「高梨さんも気にいってたよ。行列だけはうんざりしてたみたいだけど」
「そう」
「高梨さんって、常務に可愛がられてるんだって」
「そうなの?」
「だから支店長も成績を上げさせようとしてるんだって。預かった幹部候補がうちの支店で成績上げられないと、支店長の指導が悪いと思われるみたい」
「そんな詰もしたの?」
「直接じゃないけどさ。そういうことを匂わすのよ。けっこう自慢話、好きみたい」
「ふうん」
「それでね」
裕子が高梨の話を続けた。みどりは弁当をぼそぼそとつつきながら、適当に相槌を打っている。
「やっぱ、へん」
「何が?」
「みどり、うわの空」
「そうかなあ」
「そうよ」
返事につまった。
「いいけど、言いたくないなら」
みどりが箸を止める。裕子を見ると、口元にやさしい笑みを湛《たた》えていた。
裕子には、銀行を辞めるときになれば言うのだろうな、とみどりは思った。親友だもの、理由を話さないわけにはいかない。銀行を離れても、裕子と付き合いを続けていきたい。そう考えると少しセンチメンタルになった。目の前の同性がいとしくなった。
「無理に聞くのも悪いし」
「…………」
「一人で解決できそう?」
その言葉を聞いたら、瞳に涙が滲んできた。友達はありがたいなと思った。ひと粒頬を垂れたら止まらなくなった。みどりは食堂の片隅で、小さな嗚咽を漏らしていた。
裕子が手を伸ばしてきた。みどりの弁当箱を手際よく片づけ、自分のものと一緒に手提げ袋に入れた。
「更衣室、行こ」裕子が立ちあがった。「行こ」
みどりは裕子に腕を支えられ、食堂を出ていった。周囲の視線を感じたが、それで食堂の空気が変わるほどではなかった。男が泣きだしたのならともかく、若い女の涙に、それほど深い興味を抱く者がいるわけではなかった。
更衣室のいちばん奥まで入ると、裕子はみどりをガスヒーターの上に座らせた。そして裕子は、話した方がらくになると思う、と言った。大丈夫、絶対に人に言わないから、ともつけ足した。
みどりは新歓キャンプで起きた出来事を話した。悪酔いし、気持ち悪くなり、森の奥へ一人で行き、そこで支店長に抱きつかれたことを。乱暴されかけた、という言葉をみどりは使った。あれは確かにレイプ未遂に思えた。もしも岩井が用を足しに来なければ……。それを考えると、みどりは今でも体に震えがくるのだ。
話しながら涙がとめどもなく出た。誰にも言えず堪えていた分、堰《せき》を切ったように感情が溢れでてきた。ハンカチを顔にあてながら、みどりはしゃくり上げていた。
「許せない」
裕子もショックを受けたようだった。許せない、と何度も繰り返し、並んで腰を下ろすと、みどりの肩をやさしく抱いた。ただ、裕子もそこから先は言葉が出なかった。大いに怒りながらも、それと同じくらいの困惑に心を占拠されているようだった。こんなとき、若い女に何ができるのだろう。
「みどり、どうするの?」裕子が聞いた。
「どうしよう」情けないと思いつつ、みどりもこんな返事しかできなかった。
「誰かに相談してみる?」
「誰かって」
「木田さんは? 木田さんなら何とかしてくれるんじゃない」
裕子は部下に人気のある課長代理の名前を出した。
「何とかって」
「わかんないけど。……でもタマよりはましでしょ?」
「いや。玉井課長なんて絶対にいや」みどりがかぶりを振る。
「だったら木田さんしかいないよ」
「いい」
「いいって、何が?」
「もういい」
「いいことないよ」
みどりは大きく深呼吸した。自分にエイッと気合を入れ、涙を止めた。
「ありがとう。わたし、裕子が一緒になって怒ってくれただけでうれしい。だから、もういいの」
「そんな……」
「いい」自分に言い聞かせるように言った。
「じゃあ、このままにしておくの?」
「わたし、もう辞めるし」
「うそぉ」
「いい」
「よくない」裕子がきっぱりと言った。「それって絶対によくない」
みどりは小さく驚いて裕子を見る。
「どうしてそんなことで辞めなきゃなんないのよ。みどりは被害者なんでしょ。それじゃあ丸っきり泣き寝入りするようなものじゃない。……言ってみようよ、木田さんに。そして、支店長に一回頭下げさせようよ。向こうだってきっと反省してるよ。まずいことしたと思ってるよ。だから、ちゃんと謝罪させようよ」
「できるかな」不安そうに目を伏せた。
「向こうが頭下げたらどうする?」
「わかんないけど」
「とにかく辞めることないって。再就職って難しいよ。女なんかとくに。それに支店長なんてあと一年もすれば異動するに決まってるんだから」
「そうかなあ」
「そうよ。だってもう一年経つんだもん、あの男が来てから。支店長ってふつう二年ぐらいで替わるじゃない」
そう言われると、少しは救われた気がした。
「それに、みどりがいなくなると、わたし寂しいもん」
止まったはずの涙がもう一度滲んできた。
「わたしが一緒にいてあげる。木田さんにもわたしが時間取ってもらう」
みどりの瞳は再び涙でいっぱいになってしまった。
定時の退社時刻になったとき、裕子が目で合図をしてきた。みどりは帰り支度をし、もう机には戻らなくていいようにして、会議室へと歩いた。裕子もそれを見て、ゆっくりと立ちあがる。二人で、折り畳み式のテーブルが中央に置かれただけの会議室に入り、並んで腰かけた。
五分ほど遅れて木田課長代理が入ってきた。いつもの笑顔だが、固い表情の部下を前にして不穏な雰囲気だけは察知していたようだった。
裕子が切りだしてくれた。新歓キャンプの夜、森でみどりが支店長に襲われかけたことを、みどりから聞いたまま、木田に告げた。裕子はセクハラという言葉を使った。木田の顔がみるみる曇る。三十代前半の、二枚目とは言えないけれどまだ青年の面影を残した男が、上役の起こした出来事を神妙な面持ちで聞いていた。
続けてみどりが、自分の言葉で繰り返した。胸をわしづかみにされたところはいいけれど、股間に手を伸ばされた部分は、恥ずかしさで声が小さくなった。
裕子は、みどりの受けたショックを訴えた。女の子にとって、これがどれほど屈辱的なことであるか、どれほど惨めなことか。裕子は、みどりが辞めたがっていること、それではあまりにかわいそうだということも、はっきりとした口調で木田に伝えた。
「ほんとなの?」と木田は眉をひそめた。
「ほんとうです」と裕子。
「いや、君じゃなくて、藤崎君……」
「ええ」みどりが目を伏せて答えた。
「そうか……」木田はむずかしい顔でうなずくと、「このことは、ほかの誰かに言ったの?」と聞いてきた。
「いいえ、わたしたちだけです」裕子が答える。
「じゃあ……とりあえずは、ここだけの話ということにしよう」重々しい声で木田が言った。「で、君たち……っていうか、藤崎君は、どうしてほしい?」
「謝ってほしいと思います」と裕子。
「支店長が謝罪したら水に流す?」
「…………」みどりは下を向いて黙っている。
「そういうのって、謝ってもらってから考えるものじゃないですか?」
裕子ばかりが話していた。
「そりゃそうだ」木田が腕を組み、片手で顎をさすっていた。「……よし。とにかく話は聞いた。どうなるか、ぼくもわからないけれど、一応のことはしてみよう。今日はここまでだ。君らはもう帰りなさい」
木田はそう言って席を立った。ドアに向かいかけて振り返り、「このことは内密にね」と二人の部下に念を押した。
ともかく一歩踏みだしたことに、みどりの肩が少しだけ軽くなった。
銀行を出てすぐに裕子とは別れた。料理教室に遅れそうと言って、すぐ前の通りでタクシーをつかまえたのだ。「ごめん、タクシー代、わたしが払う」みどりがバッグに手を入れる。裕子は「いいからいいから」と笑顔で手を振って、去っていった。あらためて友達はいいな、と胸が熱くなった。
明日も気が重い一日になりそうだが、それでも今日よりはましに思えた。裕子に打ち明けて少しはらくになり、木田課長代理に訴えて、なんとなく味方を得た気分にもなった。悩みごとは、やはり一人で抱えるものではないと思った。
午後六時を過ぎても、五月の上空は青の余韻《よいん》が広く残り、遠くの星がうっすらと見えるだけだ。浮かんだ雲の横っ面だけが茜色《あかねいろ》に染まり、そのことがかろうじて夕暮れを示している。烏《からす》がのんきに鳴いて、電線にとまっていた。豆腐売りのラッパが聞こえ、やはりここは下町なんだな、とみどりはあらためて周囲を見回す。
裕子に引き留められたが、辞めどきかなという気持ちも多少はあった。希望の仕事に、希望の職場。二十二歳という年齢は、まだいくらでも可能性がある気がする。試しに求人情報誌を買おうかな、とみどりは思った。
「あ」そのとき、うしろから声がかかった。「あのう」
みどりが振り返る。白いシャツにループタイをした老人、柴田がそこに立っていた。「かもめ銀行の人だよね、あんた」
「あ、はい」みどりが会釈する。
「確か、藤崎さん、だよね」
「ええ、そうです」
「制服を着てないと、なかなかわからなくてね。間違ってたらどうしようと思ったけど、よかった、やっぱり藤崎さんだった」
「はい……」みどりは怪訝《けげん》そうに老人の様子を見ている。
「もう、行かんから、安心していいよ」
「はい?」
「もう、おたくの銀行には行かないから、安心していいと言っているんだ」
柴田はステッキを前につき、背筋をぴんと伸ばし、穏やかに言った。みどりはわけがわからなかった。
「あのう……何か、わたくしどもに不手際でもありましたでしょうか」
「いいや。そうじゃない。あんた、いやな顔をした」
「はい?」
「今日、迷惑そうな顔をした」
「あ……」
みどりは思いだした。午前中、ロビーにいる柴田と目が合ったとき、うまくほほ笑むことができなくて、引きつったような固い顔で頭を下げたのだ。
「だからもう行かない。悪かったね」
「あ、その、すみません」みどりがうろたえる。「わたし、その、あのときはちょっと……」
「いやあ、気にせんでいい。別に怒っているわけじゃあない。怒る資格なぞ、わたしにはありゃあせん」
事実、柴田は薄い笑みを浮かべていた。
「ですから、あのときは……」
「迷惑なのはわかっておる」
「そうじゃないんです」みどりは柴田を遮った。
「あの、ほんとうにすみません。気を悪くなされたのならお許しください。今日は、わたし……あの、こんなこと言い訳にならないことはわかってるんですが……、個人的にすごくいやなことがあって、それで気持ちが朝からずっと沈んでいて、それでお客様に無愛想な顔を見せちゃって……。だから決してお客様が思っているようなことではないんです」
みどりは丁寧に頭を下げた。
「お客様に不愉快な思いをさせてしまって、ほんとうに申し訳ありませんでした」
「そうなのかい?」
柴田は終始穏やかな表情を崩そうとしない。
「ええ……そうなんです」
「いやはや、何だ。わたしの思いちがいか」
「そうなんです、思いちがいなんです」
「そうか」
「そうです。明日も、いらしてください」
「そうかそうか」柴田がひとりごとのようにつぶやいた。
この老人はわざわざ待っていたのだろうか、とみどりは思った。その健気《けなげ》さに、不思議とやさしい気持ちになった。
「あんた、いやなことがあったと言ったね」
「はい……」
「いや、そこまで立ち入らんから安心していい」
「はい」
「いやなことがあるというのは、人生の真っただなかにいる証拠だ」
「はい?」
「わたしくらいになると、いやなことすらない。そもそも行くところといえば、病院と図書館と銀行ぐらいしかない。そんなところをぐるぐる回っていても、何が起こるわけでもない。ゴールデンウィークの間はほんとうに困った。なにしろ病院も図書館も銀行も休みでね。だから連休が明けてやれやれと思った。そう思って銀行に行ったら、あんたが怖い顔をした」
「あの、ほんとに……」
「いや、だから勘違いとわかってほっとした」
「はい」
「ともかく、いやなことでも、何もないよりはましだ」
「はい」勝手なことを、と思ったけれど黙ってうなずいた。
「すまなかったね。邪魔をした」
「いいえ」
柴田は一礼をすると、もう一度背筋を伸ばして踵を返した。
「あの」みどりが呼び止める。「明日も、お待ちしています」
「ありがとう」
柴田が子供のようににっこりと笑った。
駅に向かいながら、気持ちが揺れた一日に、みどりはくたびれていた。
でも家で悩んでいるよりはよかったのかな、と薄暮《はくぼ》の星を見上げながら考え直すことにした。
辞める辞めないはともかく、支店長が謝ったら許そうとみどりは思った。
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連休明けの朝いちばんで、川谷信次郎はかもめ銀行・北川崎支店へと出向いた。北沢製作所の神田が、頼まれもしないのにお膳立てをし、「融資の人に一度会ってごらんよ」と告げてきたのだ。その日は午前八時に北沢製作所への納品があったので、その帰りという形になった。北沢製作所とかもめ銀行は線路を挟んで向かい合っている。もっとも車で行くとなると大回りを強いられた。近くにある、高さ一・五メートルという不思議な高架下トンネルは背の低い普通乗用車しか通れず、信次郎のトラックは陸橋のあるところまで迂回《うかい》を余儀なくされる。
かもめ銀行は、川谷鉄工所と取引こそあるものの、親しい付き合いなどまるでなかった。そもそも北沢製作所に頼まれて口座を開いただけで、向こうにしても地元というわけでもないので、銀行員が頻繁《ひんぱん》に顔を見せるということもなかった。来るとすれば、預金の協力を要請してくるときぐらいだった。
信次郎にしてみれば、取引は信用金庫の方が都合がよかった。確かに借りる場合の金利は都市銀行より高いが、行員はみな気さくで、預けたい金があると言えばすぐに飛んできてくれた。人情が通じ、地域に密着していた。
信次郎は慣れない背広を着ていた。妻の春江が「ちゃんとした恰好の方がいいんじゃない」と勧め、最初は笑って首を振っていたものの、さりとていつもの作業着というのも失礼なような気がして、紺の背広を引っぱりだした。納品先では神田にからかわれ、遠慮のない女子事務員には、それでトラックに乗るんですかと言われた。
都市銀行というのは、やはり零細企業には敷居が高かった。信金と外観の差異はなくても、そこに働く行員たちに、なんとなく気おくれがした。週刊誌では銀行員たちの高給ぶりをうたっている。三十歳で年収一千万という話を聞くと、嫉妬《しっと》するより世界がちがうと信次郎は思ってしまう。町工場で働く者は、三十年勤務してその半分に届くかどうかだ。
玄関を入り、軽く緊張しながら窓口へ歩いて、中の女子行員に声をかけたらあっさり無視されてしまった。なんだこの女、と信次郎は思う。もう一度すみませんと言ったら、やっと顔を上げて応対してくれた。ちらりと名札を見ると「藤崎」とあった。
「川谷鉄工所の川谷と申します」
名前を名乗り、高梨さんにお会いしたいと告げると、女子行員は伏し目がちに奥へ呼びにいった。お掛けくださいとも言わないので、町工場のおやじと軽く見られたのだろうかと少し勘ぐったが、出てきた若い男がにこやかに頭を下げたのですぐに忘れた。
カウンターで面談するのかと思ったら応接室に通された。やはり背広を着てきてよかったと信次郎は思った。名刺を交換して、ビニール張りのソファに腰を下ろす。
「北沢製作所の神田さんからお話はうかがってます」高梨はよく通る声で言った。「信用のおける協力工場ということで」
「神田さんがそう言ったんですか?」
「ええ。納期に遅れたこともないし、事故が起きたときも誠実に対処なさると」
「あ、いや。そんな、不良品は確か一、二回だけだったと……」
「いえ、別にそれを問題にしているわけじゃありませんよ。不良品を出したことがない方より、不良品を出したけどちゃんと責任を取った方のほうが、得た信用は大きいということです」
「あ、そうだね。うんうん」
信次郎はまんざらでもなかった。
「この世界は結局信用ですから。幸いなことにうちの方も川谷鉄工所さんとはお付き合いをさせていただいて……」高梨が書類をめくる。「定期で五百万ほど積んでいただいてます。決算期の預金にもちゃんと協力していただいてますし。不動産の担保はないということですが、保証協会付きで、連帯保証人をいただければ」
話が簡単なので信次郎は少し驚いた。
「設備投資をなされるそうで」
「あ、その……」
「いやあ、どこも設備投資には及び腰ですから、そういう話はこちらも勇気づけられますよ」
「あの、実を言うと、まだ決めたわけじゃないんだよね」
「そうなんですか?」
「あの、何て言っていいのかなあ……。そのつもりはあるんだけど、本当にお金が借りられるかどうかもわからなかったし……。神田さんが話だけでも聞いておいでよって言うもんだから」
「ああ、そうでしたか」高梨は、若いくせに余裕の笑みで返す。
「それに、タレパン入れるとなると、人も増やさないといけないからね」
「そうでしょうね」
「でも……」
「何ですか?」
「最近の銀行は貸し渋りだって聞いてたから……」
「それはマスコミが大袈裟に騒いでるだけですよ。だいいちお貸ししないと我々は利益が上がりませんよ」
「それに同業者からもいい話は出てこないし」
「ケース・バイ・ケースですよ。急な運転資金を貸せと言われても、わたくしどもは困るわけでして……。確かに融資枠はきびしい状況ですが、川谷さんのように堅実な経営をなされている方にまで貸し渋るってことはありませんよ」
「いやあ、堅実って言われると……」
「もちろん、審査はあります。稟議《りんぎ》を上に通さなくてはなりません。……出来ましたら、次回にでも決算書と帳簿を見せていただければ」
「ああ、そうですね」信次郎の声が一瞬うわずる。
中小企業の決算はそのほとんどがドンブリ勘定といってよかった。真正直に税金を納めている者は皆無に近い。信次郎も隣の山口社長も、売り上げを過少申告することにより、かなり大胆な「節税」をしていた。
「ありのままでけっこうですから」
高梨はそれを知ってか明るく言った。少し気がらくになった。
「わたしら小さな会社は、大儲けってことはないけど、大損するってこともないから、地味な帳簿になりますけど」
信次郎は会社の現状を包み隠さず語った。現在の設備はすべて支払いが済んでいること、末端の下請けなのでリスクだけは少ないこと、何でも引き受けるから残業ばかりだということ。わたしらプライドないから、と自嘲気味にも笑った。
「それがいちばんですよ」
高梨は、サービス業や小売業が不調な今だからこそ製造業には期待をしているということを、経済新聞の受け売りのようにしゃべった。そして日本の経済を支えているのは現場でモノを作っている方々だと、信次郎を持ちあげた。
信次郎のことを正直だとも言った。金を借りにくる経営者はどこか見栄をはる部分があり、そういう態度はかえって心証を悪くするものだと内輪話までした。
「ところで」高梨が少し声をひそめる。「他行さんは、どこと取引をなさってますか?」
信次郎は近所の信金の名前を挙げた。
「立ち入ったことを聞くようですが、どの程度の預金をなされてますか?」
「ええと、なんやかんやで五百ぐらいかな」
本当は三百万程度だが、そこだけは見栄をはった。
「わかりました。大きな借り入れもなさってないようですし、問題ないと思います」
高梨はいかにもエリートといった感じではきはきと話した。やはり信金とはちがうなと信次郎は思った。帰り際に忙しく働く女子行員をそれとなく見た。こちらも信金よりきれいどころが多い気がした。最初に無愛想な応対をした藤崎という女子行員を見つけ、この子もよく見ればなかなか美人だと、気持ちの余裕からか、そんなことを思った。
工場に帰り、昼食を事務所で食べながら、信次郎は無口な松村に誰か働き手はいないかと聞いた。
「誰か、君の友達でいないかな。別に経験者でなくてもいいからさ」
「あ、ええと……」
「今度、新しく機械入れるかもしんないからさ。そうなるとまた忙しくなるからね」
「あの……聞いてみます」
松村がぼそぼそと言う。その明るさのない顔を見ていたら、信次郎はなぜかひとこと言いたくなった。
「連休、何してたの?」
「友達と遊んでましたけど」
「どっか行ったの?」
「いえ、そのへん、ですけど」
「友達って、どういう友達なの?」
「高校時代の、ですけど」
嘘だろうな、と信次郎は思った。勤めて一年以上になるが、仕事場に友達から電話がかかってきたことは一度もなく、二十歳の若者なら当然欲しがる携帯電話も持っていなかった。
「若いんだから遊ばなくちゃだめだよ。おれなんか二十歳っていったら、毎日仕事終わってから車で盛り場走り回ってたよ。どう、車でも買ったら? 安月給かもしんないけど、自宅通勤なんだから中古車ぐらい買えるだろうよ」
話しながら、若者に説教するのは何年振りだろうと妙なことを考えた。サラリーマンなら説教する部下はいくらでもいるだろう。しかし、町工場では若い話相手を見つけることの方がむずかしい。そう思った途端にもっと上司風を吹かしたくなった。あるいは、午前中に元気な若者を見て、松村に歯痒《はがゆ》さを覚えたのかもしれなかった。
「その髪なんかもさ、別に染めたっていいんだよ。茶色でも金色でもさ。ピアスだっていいじゃない。そういうのって、ほら、こういう仕事の特権みたいなもんだからさ。銀行なんか勤めてごらんよ。髪が耳にかかってただけでうるさく言われるだろうし、ましてやピアスなんかしようものなら減給もんだろうし、自由なんかまったくないんだよ。その点、うちらは自由じゃないの。そりゃあ営業がそういうことやってもらうと困るけど、君なんかは得意先に気ぃ遣うこともないんだから、もっと、何ていうのかなあ、いまどきの若者らしくさ、派手にやってもいいんじゃないの」
松村は下を向いて仕出し弁当を食べている。
「こっちの方はどうなのよ」
信次郎が小指を立てる。
「はあ……」
松村は引きつった笑い方をした。
「だめだよ、そんなんじゃ。ほら、ときどきうちにコーヒーの出前に来てくれる『サフラン』のウエイトレス、いるじゃない。あの娘なんかいっぺんデートに誘ってみればいいじゃない。ちょっと太めだけど、まあ、娘十八、番茶も出花って言ってさ、ピチピチして可愛いもんじゃない。彼氏いるの? って聞いてみりゃあいいんだよ」
松村はぎこちなくうなずいている。
「それともフィリピン・バーに一度行ってみるかい。今度隣の社長に誘われたら、君も連れてってやるよ。フィリピンの女の子ってなんであんなにやさしいのかねえ。日本のホステスみたいにツンとしてないから、こっちも気がらくってぇもんだよ。サービスもいいんだよ」
「ちょっと、おとうさん」
それまで黙っていた春江が口を挟んだ。
「いや、サービスっていったって、別にいやらしい真似するわけじゃないんだよ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何よ」
「松村君、いやがってるんだからやめなさいよ」
「いやってことがあるかよ。男だもん。なあ、松村君よ」
「やめなさいって」
「うるさいなあ。男同士の話に横槍《よこやり》入れるんじゃないの」
「この人はおとうさんとちがって、本を読んだりビデオ見たり、そういうのが好きなんだから。ねえ、松村君」
松村が口ごもる。いつの間にか顔を真っ赤にしていた。
「そりゃあ趣味ってものはあるだろうけど、男ってぇのは表で遊んでナンボってところもあるんだよ。ましてや彼は二十歳じゃないの。仕事が終わったらパーツと酒でも飲んで、カラオケ唄って、そうやって発散して、たまにはハメはずして」
「おとうさん」
「二十歳なんだもん、女の尻追っかけなきゃ」
「おとうさんってば」
「もったいないよ。四十過ぎて、ああ、あれやっときゃあよかったって思ったって遅いんだもん」
「もう、松村君、いやがってるんだから」
「いやってことがあるかよ」
最後には夫婦喧嘩のような形になってしまい、春江は怖い顔をして信次郎を睨《にら》んだ。そして松村といえば、まるで叱られた子供のように肩をすぼめて下を向き、もたもたと弁当をつついている。
夜になって信次郎は帳簿を広げていた。
売り上げの三割以上をなかったことにしているので、その数字は親子四人がかつかつに食べていける程度のものでしかなかった。これは口で説明するしかないな、と信次郎は思った。もっともタレパンが入り、神田がそれなりの仕事を回してくれれば、売り上げは飛躍的に伸びるはずだった。適当に電卓をたたいただけで年に数百万の増収が見込めるのだ。信次郎は一人うれしくなってビールの栓《せん》を抜いた。もっとも春江は、不安そうに横から帳簿をのぞいている。
「まだ決めたわけじゃないんでしょ」
「ああ、まだ販売会社に見積もりとか出してもらわないとな。それも神田さんが仲介してくれるっていうから」
信次郎はテレビの巨人戦にときどき目をやりながら、慣れない数字と格闘する。
「連帯保証人はどうするの?」
「兄貴に頼むさ」
春江は黙っている。
「おやじが死んだとき、相続は放棄したんだ。それくらいのことはやってくれるだろう」
「だって、相続税で向こうは大変だったんだから」
「それにしたって不動産を相続したんだから」
「うん、そうだけど……」
「これから忙しくなるぞ」
「うん」春江は気のない返事をして、何か言いたそうにしていた。
午後九時から十時にかけて無言電話が数回鳴った。
「気味が悪い」と春江が顔を曇らせた。
翌日、松村が無断欠勤した。
「何だ、電話も出ないってか」
信次郎が機械が音を立てる中で大声を出し、振り向くと、妻の春江が怒ったような顔でうなずいていた。
「親はどうしたのよ。あいつは自宅通勤だろう」
「共働きだって聞いたことあるけど」
「もう一回かけてみろよ」
「もう三回かけた」春江がとげのある声を返す。
信次郎はタッピング工作機のペダルを踏み、部品にネジ穴を刻んでいる。ドリルの甲高い音が会話を妨げていた。
「おとうさんが、あんなこと言うから」
「なんだって?」
「昨日、おとうさんが、からかうようなこと言ったから」
「からかってなんかいないじゃない」
言いながら、信次郎が忙しく手を動かす。午後一時の納品なので時間の猶予《ゆうよ》がなかった。松村をあてにしていた仕事だった。
「あの子は繊細なんだから、ああいうことでも傷ついちゃうのよ」
「もっと遊べって言っただけじゃないか」
「遊べる子なら、要領のいい子なら、こんな地味な仕事するわけないじゃない」
「なんだって?」
「なんでもないわよ」
隣ではタイ人のコビーが電動ノコで派手に火花を上げている。朝から目の回るような忙しさだった。
「とにかく、一時までに千個だから。これはおれが片づけるから、おまえは板打ちの方、頼むよ」
「松村君、辞めるって言ったらどうするのよ」
「辞めるって、どうしてそんなことで辞めるのよ」
怒鳴りつつも、信次郎の心に不安がよぎる。春江が軍手をはめて部品の入ったかごを運んでいた。
「ああ、それはおれが運んでやるよ、重いから」信次郎は鉄製のかごを運びながら、「納品の帰り、松村ん家《ち》に行ってみるよ」と言った。
「だめよ。そういうの、あの子には負担なんだから」
「じゃあどうするのよ」
「今日のところは放っておくしかないわよ」
「まったくもう、今日が忙しいこと、あいつだって知ってるだろうに。このあと、佐藤さんのところの仕事だって入ってるんだから。あれだって急ぎだぞ」
つい腹が立った。信次郎は再びネジ穴開けの作業に戻り、いつもの五割増のスピードでペダルを踏む。
そのとき作業場の扉が開いて、逆光線の中に男の影が見えた。信次郎は首を横に振り、目を凝らすのだが、それが誰であるのかすぐには思いだせなかった。
男は軽く会釈をして中に入ってくると、信次郎のそばまで近づき何か言った。
「はい、何? 何かのセールス? いま忙しいんだよね」
「いえそうではなくて……」男がさらに耳元まで顔を寄せた。「以前、お伺いした市役所の環境公害課の者です」
信次郎が顔を見る。男は作ったような笑みを浮かべ、慇懃《いんぎん》に腰を折っていた。前回は二人だったが今日は年配の職員が一人だった。仕方がないのでいったん作業の手を止めた。
「何よ、また向かいのマンションの太田さん?」
「ええ、そうでして……」
「悪いけど、またにしてくれるかなあ。ほら、今日は猫の手も借りたいほどの忙しさでさ」
信次郎がそう言って作業場の中にぐるりと目をやった。
「十五分でけっこうですから、お時間いただけませんか?」
「あのね、こっちはその十五分が惜しいわけよ」
「じゃあ、十分だけでも……」
うしろでは春江が心配そうな顔をしている。「ほんと十分だけだからね」信次郎はひとつ咳ばらいをすると、機械を止め、職員を事務所に通した。ドアを閉め、「悪いけど、お茶出す暇もないから」と椅子を勧め、自分もテーブルをはさんで腰かけた。忙しくて愛想を振りまく気にもなれなかった。職員は「ええ、もちろんです」と腰が低かった。
「実は昨日、太田さんの、ご主人の方なんですが、そちらの勤務先に出向きましてお話を伺ったんですが」
「勤務先に? あんたたち、そんなことまでするの」
「いえ、通常ですと、そこまでは……」
「呼びつけられたわけだ」
「ええ、まあ」職員は額の汗を拭いている。
「相手が一流企業だと、役所も態度が変わるね」
「いいえ、そんなことは……」
「理屈攻め、されたんだ」
「はい?」
「太田さんに理屈で攻められたんでしょ」
「はは……、よくご存じで」
「何て言われたの? ……いいじゃない、わたしはあんたたちの立場もわかるし、丸く収めたい方なんだから」
「ええ、まあ……」職員が小さく身を乗りだした。「わたくしどももああいった方は初めてなものですから、少し圧倒されたと申しますか……。電話をいただきまして、早急に会いたいから来てほしいって言うわけですよ。虎ノ門まで。それは無理だと申しましたら、じゃあこちらが行くから午後十時まで市役所で待っていてくれって。そんな遅くまでは、と答えましたら、だったら土曜に行くから時間を取ってほしいと言われまして、土曜は休みだと答えましたら……」
「それで?」
「わたしは平日が使えない。たいていは夜も残業している。おたくは虎ノ門までは来れないと言う。ということは、あなたが休日出勤するか、わたしが仕事を抜けるしか会う方法がないと言うんですよ。あなたが休日出勤する気もなく、出向く気もないということは、わたしに仕事を抜けろと言うわけですね、なんていう話になりまして、気がついたら、こちらが出向くことになっていたわけでして……」
その情景が目に浮かんだので、信次郎は思わず苦笑いしてしまった。
「わたしの言っていることはわかりますか? そう言ってたでしょう」
「ええ、まったくその通りで」職員も苦笑した。
「おれ、苦手なんだよねえ、ああいうの」
「ええ、まあ」職員が曖昧に笑う。
「で、なんだって言うの?」
「ルールをちゃんと決めたい、と。一年に土日が約百日、祝日が十四日、盆と正月に一週間ずつ休むとして……」職員が手帳をペラペラとめくった。「先方はですね、一年に最低百十日は工場を止めてほしいと」
そう言われてもピンとこなかった。
「それから午後七時以降の稼働は原則としてやめてほしいと」
「そりゃ無理よ」
「いえ、原則として、です。ええと……あちらが言うには、月に合計七時間までは例外を認めるそうです」
「何よ、それ。どっからそういう数字が出てくるのよ」さすがに信次郎の語気が強くなる。
「ええ。しかし、先方も確かに譲歩しているわけですから」
「あんた言いくるめられてきたんでしょう、あの太田って人に」
「いえ、そういうわけでは」
「でもさあ、うちらの商売、そうやって割り切れるものでもないんだよね」
ふと、新しく入れる機械のことを考えた。それを入れるとなると、どうしても騒音は増す。
「それはわかりますが」
「わかってないよ。ああ」信次郎は壁の時計を見た。「とにかく、今日は忙しいから、それはまた今度ってことで」
「いつでしょう。その、わたしも報告があるものですから」
「じゃあ、明日にでも電話してよ」
そう言いつつ、なんのアイデアもないことに気が沈んだ。信次郎が立ちあがる。
「それから」
「何よ、まだあるの?」
「隣の山口さんには、川谷さんの方から、今のことをお伝え願えますか。その、太田さんは、山口さんとは会話にならないとおっしゃるものですから」
何か言いたかったが言葉が出てこなかった。「……わかった」信次郎は短くそう言うと、市役所の男が出るより先に作業に戻り、機械のスイッチを入れた。
職員が何度も頭を下げて帰っていった。
仕事は頻繁《ひんぱん》にミスが出て、作業ははかどらなかった。そのつど歪んだ金属音が発生して、信次郎は自分でも顔をしかめた。
結局、午後一時の納品には間に合わず、大幅に遅れて取引先に着いたときは、担当者に険しい顔で叱責された。
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「ねえ、ケン。この布団、干した方がいいよ」めぐみは薄くひしゃげた敷布団の上であぐらをかき、ぱんぱんと手で叩いた。「なんか湿ってるかんじ」
「じゃあおまえが干せよ」
野村和也は流しで歯を磨きながら気のない返事をする。
めぐみは窓を開け、日が当たる部分に布団を引きずって移動させ、「まあ、これで少しは変わるかな」と面倒臭そうにつぶやき、メンソールのたばこに火を点けた。
「バイト、行かねえのか」
「うん? ……今日は休む。いいよ、どうせ暇な喫茶店だし。ほかにもう一人いるし」
和也は水道の水で口をゆすぎ、使い終えた歯ブラシをコップに放りこむ。そこには赤い歯ブラシもあり、それはめぐみが自分で買ってきたものだ。
川崎の盛り場で奇妙な出会い方をし、あとをついてきためぐみは、そのまま和也の拾ったタクシーに強引に乗りこみ、ふざけ半分でアパートまでやってきた。めぐみはまるで怖いものがないといった態度で見知らぬ男の部屋に上がりこみ、「今夜、泊めてね」と明るく言った。「おまえ、おれがやくざだったらどうするんだ」和也が呆れると、「ケンってやくざ屋さんなの?」とまるでそれを期待するかのように言い、首を振る和也に「やくざでもよかったのに」とおどけて口をとがらせた。
危険なことが大好きといった感じの女だった。
唯一少女らしい素顔を見せたのは、電気を消したときで、めぐみは「わたし、うまくないよ」とか細い声を漏らした。事実、楓に比べればはるかに幼いセックスだった。
それ以来、連日のように和也の携帯に連絡を入れ、会うことをせがんだ。和也は、金を作ることで頭がいっぱいでそれほど気乗りはしなかったが、女から慕われるのは少しばかり優越感を覚えた。
めぐみは歳も教えなかったが、両親と姉がいることだけ話した。姉とは半分だけ血がつながっていると、それがいまいましいことのように言った。
そのくせ和也のことは聞きたがった。親とはとっくに縁が切れたと言うと、同情するより羨ましがり、多少脚色した風来坊生活を話すと、目を輝かせて面白がった。
金を必要としていることも話した。そのときだけは深刻な顔をしたが、めぐみは心のどこかで、そういった非日常的なドラマを楽しんでいるようにも見えた。めぐみは、銀行、やっちゃいなよ、と冗談とは思えない台詞《せりふ》を口にしたのだ。
名前は教えた。ただ、野村和也というありふれた名を聞くと、めぐみは少し考え、「でも、ケンでいいか」と呼び名を変えようとはしなかった。
「ゲーセンでも行く?」
めぐみは膝小僧を抱えながらたばこをふかしている。
「金がねえよ」
「全然?」
「全然ってことはねえけど」
「どっかで調達しないとね」カツアゲの話を聞かせたせいか、めぐみはやけに煽《あお》るようなことを言った。「土曜だし、とにかく街へ行こうよ。だいたいテレビもないんだもん。こんな一人暮らし、初めて見たよ」
「うるせえよ」
アパートを出てタクシーをつかまえ、いつものように川崎に向かった。マクドナルドで腹ごしらえをし、繁華街をぶらぶらと歩いた。パチンコにでも行こうかと思ったが、楓に会うと面倒なのでやめにし、時間の過ごしようがなくて、結局ゲームセンターに落ち着くことになった。一人で退屈するのは慣れていたが、二人で退屈なのは、することが思いつかなくて困った。
めぐみはプリクラを一緒に撮りたいと腕をつかんだ。和也はいやだと振りほどいた。少しふくれためぐみは一人でクレーンゲームを始め、和也はうしろのベンチでたばこを吸いながらそれを見ていた。
めぐみの尻は形よく上がっていて、パンタロンがいやみなほど似合っていた。昨夜合わせた肌のみずみずしさを思いだし、やや甘い気持ちになった。そしてふと、やくざならこういう女に貢《みつ》がせるのだろうなと思った。
携帯電話が鳴った。ポケットから取りだし通話ボタンを押すと、激しい雑音の中でタカオが何かわめいていた。
「ちょっと待ってくれ」和也は急いで立ちあがり、通りに出て、受信が良好になる地点まで歩いた。「何だ」
「今夜、やるで」タカオが威勢のいい声で言った。「パソコンの中古屋じゃ。第二京浜沿いに見つけた。『即金買取』の看板があるさかい絶対に現金うなっとるぞ」
「大丈夫なのか」
「知るか、そんなもん。やってみなわからんやないか」タカオは完全に腹をくくっているようだった。「いざとなったら金庫ごと盗んだる」
「そうか」
「電気ドリルとか小道具はおれが用意する。あんたは車、なんとかしてくれ。あのワゴンはもう使えん。どうせ小回りもきかんしな」
「今夜だろ」急な話で和也が絶句する。
「そや」
「車、手に入れてから日にちを決めた方がいいんじゃないのか」
「あのな。明日は日曜やさかい売りにくる客も多いはずなんや。ということは現金も普段より多めに用意してあるっちゅうことや。今夜がええんじゃ」
「店の金庫にあるとは限らねえぞ」
「知らんっちゅうに。そんなこと心配しとったらなんもできんぞ」タカオはうむを言わせぬ口調だった。「この前のデニーズ、覚えとるか」
「ああ、覚えてるよ」
「そこに夜の十二時でどうや」
「いいけど」
「車は目立たんやつ頼むで」
「ああ……」
「今夜でケリ、つけようぜ」
「ああ、そうだな」
「なんや、兄弟。もっと威勢のいい声、聞かせてえな」
「……よし、わかった。やろうぜ」
和也は腹の底から声を出した。気の重いことばかりだったが、嘘でも気合を入れて振り払うより方法はないように思えた。
和也はゲームセンターに戻ると、めぐみの背中をつつき「用事ができた」と告げた。めぐみが不満そうな顔をする。言い訳を考えるのも面倒なので、和也は「これから車を盗まなきゃなんねえからよ」とぶっきらぼうに言い、タクシー代のつもりで千円札を二枚めぐみの手に握らせた。
ところがめぐみは、自動車泥棒と聞いて子供のように興味を示した。「じゃあ、わたしが見張り役だね」そう言って帰ろうとしない。説得するのも面倒臭かった。和也はめぐみがついてくるにまかせ、大通りを歩いた。名古屋にいた頃、針金を使ったロックの外し方と配線をいじってのスターターの回し方を覚えていたが、真昼にその作業は人目につくので、エンジンをかけっ放しにしてある車を探した。なるようになれ、という思いだった。なんなら駐車中の車から運転手を引きずりだして強奪してもいい。その場で逮捕されたなら、その方がいいかもしれない気もした。
しばらく歩くと、コンビニの前に車が停まるのが見えた。白のグロリアだった。ハザードランプが点きドアが開くと、ポロシャツの襟を立てた気障《きざ》な男が降りてきて、エンジンをかけたままコンビニへと入っていった。迷いはなかった。和也がガードレールをまたぐと、めぐみも黙ってそれにならった。運転席のドアを開けるとまだ新車の匂いがした。乗りこんだときには、もう助手席にめぐみがいた。シフトレバーを「D」に合わせ、サイドブレーキを下ろし、ゆっくりとアクセルを踏んだ。こんなにいい車に乗るのは初めてだった。
「ケン、八景島《はっけいじま》、行こうよ。水族館、見てみたい」
めぐみが身を乗りだした。
「ふざけるな」
そう言いつつ、八景島のシーパラダイスへ行った。夜の十二時まで何をして過ごしていいのかわからなかったからだ。
夜になってめぐみと別れた。あまり口を利かない和也に何かを感じたのか、自分から帰ると言った。さすがに事務所荒しをするとは言えなかった。めぐみは「また明日電話するね」とあくまでも明るく笑い、車から降りていった。
和也は何もする気になれなくて、国道沿いに停めた車の中でじっとしていた。一度パトカーが横を通り過ぎ、股間が縮みあがった。たかが車の盗難程度で警察が捜査に乗りだすとは思えなかったが、この車のナンバーが警察のデータにインプットされたことは間違いなさそうだった。
シートを倒してたばこに火を点けた。サンルーフが付いていたのでそれを開け、煙が夜空に吸いこまれていくのをじっと眺めていた。
すると耳の奥の円盤がヒュルヒュルと音を立てはじめた。また耳鳴りがひどくなりそうだった。和也はシートを起こし、ひとつ息をつく。ステレオのスイッチを入れた。誰だか知らないハードロックだった。ボリュームを上げ、車をゆっくりと走らせた。そのまま高速に乗り、かなりのスピードであてもなく走り回った。速度を警告するチャイムが鳴っている。開けっ放しのサンルーフから風が舞いこみ、和也の髪をはためかせていた。
午前零時がやってきて、和也は待ち合わせ場所のデニーズの玄関をくぐった。タカオはすでに食事をしていて、四人掛けのテーブルから手招きした。タカオの前にはスパゲティがあった。
「なんや、緊張しとるんか」
タカオが表情の固い和也を見て言う。
「別に」
「ま、トルエンやるのとはちゃうでな……。で、車はどうや」
「ああ、乗ってきたよ。白のグロリア」
タカオはにやっと笑って拳で和也の腕をつついた。タカオがどうやってパクッたと聞き、和也がありのままを話した。
「これでケリがつくとええな」
「ああ、そうだな」
「盗みなんてもんはケチな仕事や」タカオがフォークを小さく振った。「男のやる仕事やあらへん。そやから、こういうのは早めに済ませて、やくざになって、もっと大きなシノギをせなあかんのや」
和也が目を伏せ、小さく苦笑いする。
「金返したら自由や。今おれな、本読んでな、倒産整理の勉強しとるんや。これほどおいしい商売はないで。債権者蹴散らすだけで大金が転がりこんでくるんじゃ。女には水商売さす。どっかで正業についとりゃあ隠れみのにもなるしな」
タカオは相変わらず元気だった。
一時間ほどそこにいて、二人は車に乗った。タカオが真新しいグロリアを見て「おい、これ売れるで」と一人ではしゃいだ。
いったん駅まで戻り、タカオはコインロッカーから大きなバッグを運んできた。古道具屋で手に入れた電気ドリルだとタカオが言った。それで金庫が開くのかどうかは知らないが、もうやるしかなかった。
タカオの指示にしたがって第二京浜を東京に向かって走った。幹線道路だけあって、深夜だというのにトラックが頻繁に行き来している。民家も少なく、すくなくとも音の心配だけはしなくて済みそうだった。
「そこやそこや。その信号、渡ったとこや」
タカオが隣で指を差す。アクセルを緩め、目を凝らすと、薄闇の中に古びた雑居ビルがあり、そこにパソコンショップの看板があった。窓には「即金買取」とある。
「裏や、その先で裏に回るんや」
角を二度曲がり、ビルの裏手につけた。隣がガソリンスタンドというのが好都合だった。宿直などいるわけがない。
大胆にもビルの駐車スペースに車を尻から入れた。路上駐車より怪しまれんとタカオが言い、なるほどそうだと思った。
「よく探したな」
「感謝せえよ」
その不敵な笑い顔を見て、和也も腹をくくった。渡された軍手をはめ、胸の前で指を鳴らした。
正面はシャッターが降りていて、タカオはガソリンスタンドとの間の狭い路地に回った。和也を見て通用口の隣の窓をちょんちょんと指差した。
「またワイヤー入りだな」
「ワイヤーカッターがあるんじゃ」
タカオがバッグから巨大な鋏《はさみ》を取りだす。「おまえ、やくざより泥棒の方が向いてるぜ」と言うと、タカオは「あほう」と和也の頬をつねった。
ガムテープを貼ってガラスを割り、細かい破片を取り除いてから、タカオがワイヤーカッターで針金を一本ずつ切断した。わけはない作業だった。腕が入れられるだけの穴が見る間に開き、鍵を外して二人は中に入った。暗闇の中をそのまま二階の事務室へと階段を上がった。店名の看板がかかったドアに懐中電灯を当てると、警備会社システムの名を刷ったシールが貼られてある。
「はったりじゃ。こんなぼろビルで」
タカオが自分に言い聞かせるようにつぶやいた。ドアはどこのアパートにもありそうな鉄製のものだった。
「これ、どうやって開けるんだよ。ドリル使うっていっても……」
「そんな呑気《のんき》なことはせん。こっちじゃ」
タカオは階段の踊り場の窓を開け、裏通りの側の外をうかがった。「見てみい」と言われて窓から下を見た。
「足場があるやろ。それを伝ってもういっぺん窓から入るんじゃ」
「大丈夫か」
「二階や。落ちたかてたいしたことあらへん。それにここの窓はワイヤーが入っとらん」
和也はタカオのやる気に敬服した。
タカオはバッグからハンマーを取りだす。それを見ていたら自分がやりたくなった。「おい、おれにやらせろ」タカオは和也の顔を見ると、にやっとしてうなずいた。
踊り場から外に出て、足幅程度の出っぱりを歩いた。ビルが少し奥まっているのが救いだが、前の道を誰かが通ったら一巻の終わりに思えた。いちばん手前の窓の鍵のあるあたりにガムテープを貼った。よく見ると学校の校舎にありそうなお粗末な窓だった。「おい、一気にいけや」タカオが言った。和也も何度も音は出したくなかった。
振りかぶったとき、遠くから爆音が聞こえてきた。和也は動きを止め、耳を澄ます。暴走族のお出ましだった。タカオと目が合い、互いが無言でうなずいた。何十台もの車のエンジン音が深夜の街で唸りを上げて近づいてきた。先導役だろうか、マフラーを外したバイクの甲高い音が表通りを通過する。少しの時間差で本隊が、ゆっくりと、まるで祭りの山車《だし》のように地響きを立てて、この薄汚れたビルの前に差しかかった。裏側の壁に張りついていても、その騒音が和也の鼓膜を震わせた。
和也はハンマーを力いっぱい振り下ろした。
その瞬間、亀裂が斜めに走り、手元ではきれいな弧を描いてガラスに穴が開いた。
すぐさま右手を差しこみ、ロックを外す。窓をスライドさせ、両手をへりにかけた。和也がジャンプすると、鉄棒の前回りみたいに体が前に倒れこみ、カーテンをこすりながら頭から事務所の中に転がった。
暴走族が去ってゆく音を聞きながら窓を閉め、内側から入り口のドアを開けた。
目の前に立っていたタカオがにやりと笑い、「あんた、見直したで」と胸をつついた。
早速、二人で室内を物色《ぶっしょく》した。目につくところに金庫はなかった。殺風景な事務所だった。部屋の隅にはパソコンと思われる段ボールが積みあげられている。続いて奥の社長室と思われる部屋に行った。そして、場違いに豪華な机の裏に回ると、鉄の大きな立方体が鎮座《ちんざ》していた。
「これ、金庫か?」
和也にはそれが何であるか最初わからなかった。タカオも黙ってそれを見ている。その表面には何もなく、二人が抱いていた金庫のイメージとは大きく異なったのだ。
「なんやこれ。ダイヤルもレバーもあらへんで」タカオが顔を近づける。
ただ、これが金庫なら中に金があることを確信した。単なる手提げ金庫ではないのだ。
懐中電灯を向けると、かすかに小窓のようなものがあった。タカオがいじると、茶だんすみたいに横に開き、そこには電卓と同じようなボタンが配列されていた。
「たぶん暗証番号式やな」タカオがつぶやいた。「まあ、ええ。ダイヤル式やろうがなんやろうが、どっちにしろ開け方はわからんのや」
タカオはバッグの中から電気ドリルを取りだし、コンセントを探した。
こんなもので本当に開くのか、と和也は思った。
「蝶つがいを壊すんや。これは木工ドリルやあらへん。ちゃんとした工業用や」
電気ドリルはけっこうな音を立てて回りはじめた。タカオは上下に二箇所ある蝶つがいの上の方の、円筒を溶接してある部分に刃先を当てる。きりきりと頭を突き刺すような甲高い音が響き、金属の焦げる臭いが鼻をついた。飛び散る金属片が懐中電灯の光の中できらめいている。和也が袖で額の汗を拭う。ふとタカオの横顔を見たら、汗が顎を伝ってぽたぽたと床に落ちていた。そうしてやっとひとつの穴が開いた。
「いま何時や」
「そろそろ二時だ」
「長丁場になるな。ま、しゃああらへん」
タカオは続けて、開いた穴のすぐ下にドリルを当てる。再びモーターが唸りをあげ、鋼鉄の刃先がめりこんでいく。
コツを得たのか三つ目からはスピードが上がった。結局、六つの穴を開けて上の蝶つがいが扉から切断された。これで半分だ。先が見えたことに少しだけ安堵した。
「あーっ、休憩じゃ」
タカオが尻餅をつき、足を前に投げだした。ポケットからたばこを出し、高級そうなライターで火を点ける。
「おい、吸い殻は持ち帰れよ」
「わかっとる。あんたも一服つけや」タカオはおいしそうにたばこを吸った。
「おれが代わろうか」和也もマルボロを口にくわえた。
「いや、おれがやる。これは角度がむずかしいんじゃ。素人がやると刃が一発でおじゃんになるんや。おれ、こう見えても機械科の出じゃ」
薄闇の中で、紫煙がゆらゆらと昇っていった。あらためて部屋を眺め回すと、サイドボードや虎の置物があり、経営者の成金趣味を窺わせる。ますます金庫の中に金が唸っている気がした。
「先輩のな」タカオがぽつりと言った。「兄貴分がおるやろ。この前の髭のやくざ」
「ああ」
「一千万で浅田組と手打ちやゆうとったけど、あれ、たぶん嘘やろな」
「そうなのか」
「一千万もいるか、ガサが入ったくらいで。警察にしたかてそんな真剣に捜査しとるわけやあらへん。たかがトルエンの窃盗やで。原価にすりゃあ数万円や。そんなもんに刑事が何人も動くか」
「ああ、そうだな」
「おれが思うに、半分はあの兄貴分のフトコロや。大袈裟な騒ぎに見せといて、おれらが苦労して手に入れた金、ネコババするつもりなんや」
そうだろうな、と和也も思った。
「でもな、それがやくざなんや。おれらも早《はよ》う上に立って、下の者に稼がせなあかんのや。こんな事務所荒らしなんか今日限りじゃ」
「ああ……金が入ってりゃあな」
「ふん」タカオが皮肉っぽく笑った。「入っとらんかったらこのビル、火ぃつけたる」
タカオは「よし、やるで」と膝を立てると、再び電気ドリルを手にした。
要領がわかったようで、タカオは続けざまに蝶つがいの溶接部分に穴を開けた。
その間、二度ほど和也はタカオに言われ、外の様子を見にいった。街には人っ子ひとりおらず、深夜の澄んだ冷気が目にしみた。
午前三時近くになって、金庫の扉は蝶つがいから外れた。
「やったな」
「おお」タカオがバールを扉と本体の溝に差しこんだ。「頼むで。札束、積んどってくれよ」
タカオが力いっぱいこじ開けようとする。
ところが金庫の扉は五ミリほど浮くだけで、そこから先は動こうとしない。
「なんでや」タカオが信じられないといった声を出した。「蝶つがいと離れたんやで。どうして開かんのや」
「ちょっと、おれと替われ」和也がバールを握った。
渾身の力をこめて動かそうとするのだが、扉はせいぜい五ミリから一センチ、手前に出るだけだった。寸分の狂いもない工作精度に多少のガタがきた程度でしかない。
「どういうこっちゃ」
「鍵のフックが深いんじゃねえのか」
和也はあてずっぽうで答えたが、案外、当たっている気がした。
「それにしたってやな……」
タカオは納得がいかないという顔でしつこくバールを差しこんでいる。
和也はそれを見ながら、そうだろうなと思った。金庫破りが簡単にいくわけがない。新聞に載る事務所荒らし事件は、プロの仕業なのだ。素人が思いつきでできるものではない。
「フックが折れなきゃだめだろうな。もっと大きな力が加わらないと」
「そうなんか」
「この扉を固定してるのは、あとはフックだけだから、それさえ折れるなり外れるなりすれば、開くんじゃねえのか」
「よしっ」タカオが立ちあがった。「これ、運びだすで。もう意地じゃ。絶対にこの金庫、開けたる」
タカオが金庫の奥に手をかけ、足を踏んばり、動かそうとした。ごとごとと揺さぶっても五センチ手前に出すのが精一杯だった。
「あんた、手ぇ貸せや」
和也が片側を持ち、二人がかりで引っぱりだそうとする。腰の高さもない金庫なのに、大型冷蔵庫より重量があるように思えた。
「あかん。とてもやないが持ちあがるようなもんやない」タカオが荒い息をついて腰を前に折った。「百キロではきかんぞ、これ」
流れ落ちる汗を袖で拭いながら、世の中甘くはないな、と和也は思った。開けることも、持ち運ぶこともできないように金庫は作られているのだ。
「おい、諦めるか」
「あほう。ここで引き下がれるか。ええか、ここに金庫を持ち運んだっちゅうことは、持ちだせるっちゅうことなんや。まさかクレーン使ったわけやあるまいし、人間がここに運んだんじゃ」
「そりゃあそうだけど」
「台車じゃ。台車がどっかにあるはずや」タカオが部屋を出た。「あんたも探してくれ。商売やっとって台車がないわけないで」
二人で事務所を捜し回った。ほどなくして段ボールの積みあげられた部屋の隅に、台車が立てかけてあるのを和也が見つけた。
台車を金庫の前に置き、その上に倒そうとした。
二人で金庫の後方に手を伸ばし、呼吸を整えた。せえのっ。
鉄の塊とも思える立方体の、うしろの足が浮いた。
「そこや、もうひと息や」
前足を支点にして、金庫が前方に傾いた。次第にその角度が増していく。
「あんた、台車、押さえとってくれ」
和也が台車のハンドルをつかみ、足を車輪が動かないようにかました。バランスの山を超えた金庫は、そのまま台車の上にどすんと音を立てて乗りあげる。
ひゅうとタカオが声を発した。
「やったで」
和也も思わず笑みがこぼれた。
「よし、退散じゃ。手間かけさせやがって」
台車に載せたものの、金庫はすこぶる重かった。ドアの下の桟《さん》を乗り越えるだけでひと苦労し、エレベーターに乗ると床が少し沈んだ。
車に積むのはさらなる難事業だった。トランクは無理と諦め、後部座席に押しこむため、いったん金庫を立たせ、シートに倒れかけさせ、下を持ちあげて滑りこませようとするのだが、すでにパンパンに張った腕の筋肉がいうことをきかない。仕方がないのでタイヤ交換用のジャッキを持ちだし、金庫の下にもぐりこませて少しでも浮かせ、最後は死物狂いで押しあげた。
結局、後部座席に金庫が収まったのは東の空が白く染まりはじめた午前四時だった。和也は、金庫破りがこれほど苛酷なものだとは思いもよらなかった。
車に乗りこむと、エアコンを全開にした。タカオがたばこに火を点け、盛大に煙を吐く。ひと息つき、「どっかジュースの自販機の前で停めてくれ」と掠れる声で言った。異論はなかった。最初に見つけた自販機でふた缶ずつスポーツドリンクを買い、一気に喉に流しこんだ。
和也の運転で国道246号線を下った。タカオが橋か崖から落とすと言ったからだ。二人とも自然には縁がないため、あて推量で山間部を目指した。
うしろに金庫を積んでいるせいか、アクセルの反応が鈍く、リヤのサスペンションが心持ち沈んでいる。ただ高性能車だけあって、グロリアはすいている国道を滑るように走った。
厚木を過ぎ、しばらく行ったところで右に折れた。向こうに山が見えたからだ。
二車線の道路がやがて一車線となり、曲がりくねるようになった。民家が途絶え、「落石注意」の標識が目立つようになった。川があり、二人を乗せた車はその上流を目指す形で走ることとなった。もはや擦れ違うのがやっとという道幅になったところで前方に橋があった。
「あの橋じゃ。あそこでやるで。欄干《らんかん》から河原に突き落としたる」
渓谷にぽつんとある、やけに真新しい橋だった。その上で車を停めた。
降りて下をのぞくと、自殺には足りないが、金庫を落とすには申し分ない高さだった。何より誰も通りそうにないのがいい。日曜の早朝は木こりだってまだ寝ている。
二人は後部座席のドアを開け、金庫を降ろす作業をはじめた。シートが滑るのでそれはたやすかったが、金庫を欄干まで持ちあげるのは不可能に思えた。
「どうするよ」
「やるしかないやろ」タカオがやけくそのような声を出す。
仮に成し遂げたところで金庫が開く保証はないのだが、もはやそこまで考えは浮かばなかった。この橋から金庫を落下させることしか考えていなかった。
とりあえず車に積んだときのように、片側を浮かせ、底の部分にジャッキを当て、欄干にもたれさせた形で持ちあげていった。ただし金庫は二十センチほど浮かせるのが精一杯だ。欄干は軽く一メートルはある。
「まて、ロープがあったわ」
タカオは、バッグからロープを取りだした。
「おまえ、ドラえもんみたいな奴だな」
「ほざけ。おれは用意がええんじゃ」
タカオはロープで金庫を十文字に縛った。それは建設現場で使うような、蝋《ろう》でコーティングされた頑丈な縄だった。
「これをこうしてやな」タカオはロープの先を欄干の上から、七、八メートル下の河原に投げた。「あんた。体重何キロや」
「六十五か六、だけど」
「おれと同じくらいやな。ほなジャンケンや」
「何だよ」
「ええからジャンケンや」
言われるままジャンケンをし、和也が負けた。
「あんた、下に行ってこのロープ引っぱってくれ。おれはここから押しあげる。ええか、体重、思いっきりかけてえや」
「ひとつ聞いていいか」
「何や」
「もし、それで欄干まで持ちあがって落ちるとするよな。その場合、金庫はおれの頭めがけて落ちてくるわけか」
「そや。うまいこと避《よ》けたってくれよ」
和也が小さく溜息をついた。
「もし、それで金庫が開いて中に金が入ってなかったら、おまえをここに置いておれは一人で帰るからな」
タカオは憔悴《しょうすい》しきった顔で口の端だけ持ちあげた。
「一回きりや。落としたらどうせもう持ちあがらん。これでアカンかったら銀行でも襲ったろうやないか」
本当にその方がらくだと和也は思った。
和也は橋のたもとから崖を滑り下りた。もう膝はがくがくで、自分の足の気がしなかった。河原の上で足場を固め、欄干から垂れ下がったロープを両手でつかんだ。
「いくぞーっ」と、やけになって大声を出したら、周囲にこだまして、山びこを聞くなど何年振りだろうと妙なことを思った。
渾身の力で引っぱった。手応えがあり、金庫が少しずつ持ちあがっているのが離れていてもわかった。背中はもはや地面と平行になり、和也は全体重をかけてロープを手繰《たぐ》り寄せた。顔が熱くなり、奥歯がぎりぎりと鳴った。
そのとき「逃げろーっ」の声が上から降ってきて、同時に背中が河原に打ちつけられた。空には黒い物体が宙に舞っていた。それはみるみる間に大きくなり、和也の視界を占拠していく。
慌てて体を反転させ、河原を転がった。耳元の、数十センチのところで石が砕ける音がして、その破片が和也の頭を襲った。白煙が上がっていた。
金庫が、和也のすぐ脇で横たわっていた。しかも、扉がない状態で。
目をさまよわせると、分厚い扉が、水辺の近くまで吹き飛んでいるのが見えた。
「やったで」
タカオが転げるようにして崖を下りてきた。和也がよろよろと膝を立てる。腰を伸ばしたら軽い立ち眩《くら》みがした。タカオがうしろから抱きついてきた。
「見てみい。札束や」
その声に反応して足元を見た。確かに札束が、金庫から飛びでて河原に散乱していた。それも、ひとつやふたつではない。
「やったやった」タカオが和也の首を絞めるように、腕を巻きつけていた。
和也は苦しいのも忘れて、どうしていいのかもわからず、タカオに揺すられるまま呆然と立ちすくんでいた。
昨日までの鬱屈した気持ちが嘘のように、心の重りがぽとりと外れるのがわかった。
ふと見上げると、東の空では朝日が燦然《さんぜん》と輝いていた。
和也はやっと我に返り、「やったやった」と同じようにタカオに抱きついた。
これで自由になれると和也は思った。
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我ながら損な性格だなと、通勤途中の藤崎みどりは思った。
自分のせいでもないことを、くよくよと思い悩んでしまう。
昨夜、遅く帰ってきた妹が母と言い争いをした。それを二階の部屋で聞いていて気が滅入《めい》ってしまった。妹は、いつもの口癖で「どうせわたしは馬鹿ですよ」と言っていた。「おねえちゃんみたいに出来がよくないし」と、たぶん口をとがらせていた。階段を降りていって、間に入るべきだろうかと逡巡《しゅんじゅん》しながら、結局その勇気が湧かなかった。
何を遠慮しているのだろうと、みどりは自分がいやになった。堂々と母親の味方をして、妹を叱りつければいいのにそれができない。今朝、母親の、元気を装うもののどこか暗い顔を見て、小さな自己嫌悪を覚えた。
おまけに我が身のことでも大変だ。昨日、木田課長代理に話したことがこれからどうなるのか、考えるだけで心に影がさす。本来ならば、加害者の支店長が悩むべきことなのに、おそらく被害者の自分の方が心を痛めている。支店長はどう思っているのだろう。ちゃんと悔いているのだろうか。
通用口から入り、タイムカードを押し、更衣室でみんなと挨拶を交わした。裕子がすでに着替えを済ませていて、笑顔でみどりを迎えた。何を話していいのかわからなかったので、とりあえず昨日の礼を言った。裕子は「ううん」とやさしく首を振る。
「料理教室、遅れなかった?」
「うん、大丈夫。どうせ定時に始まったことないし」
「昨日は何?」
「鰹《かつお》のたたき。ムードないでしょ」裕子が顔をしかめ、みどりがつい笑ってしまう。「ガスコンロの上でこんなことやらされてさあ」身振りで演じてみせた。「もっとフランス料理とか、そういうの教えてくれればいいのに」
「でも、結婚しても毎日凝ったもの作るわけじゃないし」
「そうだけど」
普通に接してくれたので、なぜかみどりはほっとした。
朝礼のときはまた下を向いてやり過ごした。支店長はいつもと変わりなく、預金と融資のノルマについて檄《げき》を飛ばしている。もう、昨日の抗議の話は伝わったのだろうかと思い、途端に暗い気持ちになった。
課ごとのミーティングが終わり、それぞれが持ち場に散りかけたところで、木田課長代理が目配せしてきた。木田が先に立ちあがり、会議室の前まで行って手招きをした。みどりが緊張する。ひとつ小さく深呼吸してあとに続いた。
入ってみると、そこには「タマ」こと玉井課長がいた。
順序としては当然そうなるはずなのに、まるで考えもしなかった自分の迂闊《うかつ》さを、みどりは呪った。木田課長代理に相談すれば、やはり玉井課長の耳に入るのだ。
玉井は落ち着きなく首をひねり、睨むような目つきでみどりを見た。
みどりが木田に促されて席につく。椅子に腰を降ろした途端、玉井が口を開いた。
「不愉快だよ、そういう話は」
あまりの威圧的な声に、みどりの体が固くなる。思わず玉井の顔を見た。
「子供じゃないんだから。ちょっと抱きつかれたぐらいで大袈裟に騒がないでくれよ」
たちまち全身から血の気が引いていくのがわかった。どうして自分がこんな言われ方をされるのか、信じられなかった。
「そりゃ酒が入ればそういうことぐらいあるよ。無礼講っていうのはそういうものなの。女だって逆に男にからんだり、ときには色目遣ったりもするじゃないか。酒が入ればお互い様なんだからさあ、それをどうして、君はセクハラなんてことを言いだすのよ」
木田課長代理を見たら慌てて目をそらした。
「だいいちそんなことで目くじら立てたら、日本中の会社という会社は、男と女を別々に働かせなきゃなんないよ。君、もしかして女子校出じゃないの。もうちょっと免疫ってものをつけてもらわないと、この先、やっていけないよ」
いけない、何か言わなきゃ、と思うのに声が出てこない。考えも浮かばず、頭の中が真っ白になった。
「だいいちさあ、それ本当の話なの。君、酔ってたっていうし、介抱されてるのを何か勘違いしたんじゃないの。支店長っていう人は、たしかに厳しいところもあるけど、いつもこの支店のこと考えてるいい人なんだよ」
「いえ、本当です」やっと言葉が出た。ただし目には涙も滲んだ。
「証拠は」
そんな台詞が出たことに驚いた。証拠? 警察の取り調べじゃあるまいし。
「こういうのは証拠がなければ話になりようがないんだよ。男と女のことなんてさ、女が言いはれば男の方が分《ぶ》が悪いに決まってるんだからさ。それじゃあフェアじゃないだろう。君が何をしたいのか知らないけど、『セクハラされました』『はいそうですか』で動くほど会社も暇じゃないんだよね」
みどりが唇を噛む。堪《こら》えていないと感情が溢れてしまいそうだった。
「もうよそうよ。こういうの。ね、よしんば抱きつかれたとしてもさ」玉井がいきなり猫撫で声になった。「男ってのはしょうがないなあって、軽く受け流すくらいの心の広さがだね……」
突然みどりは思いだした。目撃者がいたのだ。
「あの」顔を上げた。
「何よ」
「岩井さんが見てます。岩井さんが現れたから、支店長が慌ててやめたんです」
「それ本当なの?」玉井がうんざりという顔をする。
「ええ、本当です」
玉井が木田の方を見て、しばらく黙った。いらついた様子でたばこに火を点けた。そして何事か思案して「岩井を呼んでくれ」と乱暴に言った。
「まだいるだろう。得意先係の課長にはあとでわたしから言っておくから、ちょっと用事があるからって」
木田が会議室から出ていった。玉井は落ち着かなくたばこを吹かしている。みどりの目を見ようとはせず、指でテーブルをしきりに叩いていた。木田に連れられ岩井はすぐに現れた。
「おお、岩井。この前の新歓キャンプのことなんだけどな」玉井が言いかけたところで、みどりの方を向いた。「君はちょっと席を外してくれ。あとでまたすぐに呼ぶから」
みどりは言われるまま席を立った。自分の机に戻り、動揺を隠しながら仕事の準備をした。同僚たちは忙しく働いていて、みどりが呼ばれたことには関心を持っていないようだった。午前九時のチャイムがなり、同時にみんなが立ちあがった。エントランスのシャッターが開いたのだ。みどりもそれに倣《なら》う。何人かの客が入ってきて行員が口々に「いらっしゃいませ」と挨拶をした。客の中に柴田老人がいた。みどりは精一杯の愛想を浮かべるが、うまくほほ笑むことができたか自信がなかった。
十分ほどして、木田課長代理が名前を呼んだ。みどりは再び会議室に入り、入れ違いで岩井が引きつった顔で出ていく。
「君ぃ、岩井は知らないって言ってるよ」
玉井が強い口調で言い、みどりは絶句した。
「確かに森の中で女子行員を介抱してる支店長を見たそうだが、抱きついたとか、そういうのは見てないって」
「そんな」
「だいいち暗くて、その女子行員が誰だったかもわからないってさ」
「…………」
「はい。これでもう終わり」玉井が席を立った。「お、わ、り」と区切るように言った。出際に振り返り、「妙な噂を立てないように」とも言った。「支店っていうのはひとつの家族みたいなものなんだから。いいか、チームワークが大切なんだ」
みどりは呆然と立ちつくす。突然、現実の壁が立ちはだかった、そんな感じだった。若いとちやほやされていても、男たちの社会は、いざとなれば我が身を守るために豹変するのだと思った。こんなものだ。みどりはもっと甘いことを空想していた。
木田課長代理が無言のままみどりの肩に手を置いた。顔は見なかった。やさしい上司でもできないことがあると、みどりは悲しくなった。
せめてもの救いは、裕子が再び一緒に怒ってくれたことだ。もっとも、若い女が二人で怒ったとしても、組織の中でできることは何もなさそうだった。
もう辞めると言うみどりに、当初は説得していた裕子も、最後は悲しい顔で「せめてボーナスが出るまではいなよ」と肩に手を置いた。
それはもっともな提案だった。ただ、七月はずいぶん遠い先のように、みどりには思えた。
みどりは定時に銀行を出た。残業の雰囲気があったが、木田課長代理が、多少はばつが悪かったのか「あとはぼくがやるから」とみどりに告げ、伝票の束を取りあげたのだ。お酒でも飲んで、カラオケで唄って、パーッと発散したい気分だった。昔の同級生でも呼びだして、横浜あたりで――と考えたところで目の前に人影が立った。柴田老人だった。柴田がにこやかな顔で小さく会釈した。
「もう仕事は終わりですか」
「あ、はい」
みどりは柔らかく答えたつもりだったが、またか、という気持ちが表情に出てしまい、しまったと思った。
「あ、いや」と柴田は顔の前で手を振った。「あなたを待ち伏せしてたわけじゃないんだ」
「いえ、そんな」
「ほら」柴田が布製の手提げを開いて見せた。「図書館へ行った帰りでね。たまたま通りかかっただけなんだよ。そこへ藤崎さんが出てきた」
「はい」
突きだすので仕方なくみどりは手提げをのぞく。確かに本が数冊入っていた。
「年寄りは読書が楽しみでね」
「ええ」何か返事をしなくてはいけないと思い、「けっこうなご趣味で」と続け、あまりの型通りさに自分は何を言っているのだろうと居心地の悪さを覚えた。
本の背中を見ると、中に『地球の歩き方・モロッコ』があった。
「モロッコへ……行かれるんですか?」
「いやあ」柴田が相好《そうごう》を崩してかぶりを振る。「読んで、行った気になってるだけだよ。もう、わたしはどこへも行けん。せめて頭の中で旅行をしようと思ってね。ほら、これだとタダだから」
「はあ……」
「先週はグアムとサイパンに行った。グアムとサイパンっていったらわたしら戦争のイメージしかないけど、今は立派なリゾートになっとるので驚いた」
「ええ……」
「藤崎さんなんかだと、逆に戦争って言われてもピンとこないだろうね」
「あのう」相手をするほどの気分でもないので、みどりは「すいません。ちょっと約束があるので」と頭を下げ、歩きだそうとした。
「藤崎さんは」背中に声がかかった。「相談する人はいるんだよね」
何を言っているのだろうと思った。
「悩み事を打ち明けられる人は、いるんだよね」
「ええ、いますけど」
「じゃあ、いい」
なんだこのジジイは、と癇に障った。そんなに自分は暗い顔をしていたのだろうか。それにしたって、余計なお世話だ。
「失礼します」とみどりは慇懃に会釈した。
孤独な老人かなにか知らないが、馴れ馴れしくされたってこちらだって困るのだ。
みどりは足早に駅に向かった。
その背中は拒絶の色が滲みでていたかもしれないが、構ってなどいられなかった。
もう同級生を呼びだす気も失《う》せていた。さっさと一人になりたかった。
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「松村、どうしちゃったのよ。どうして電話にも出ないのよ」
「そんなことわたしに言っても」
「電報でも打ってみろよ」
「何?」
「電報だって。デ、ン、ポ、ウ。至急連絡されたし、とか」
機械の音に消されて、なかなか会話にならない。ともに作業をしながらの夫婦のやりとりは、まるで怒鳴りあいのように見える。
川谷信次郎は今日も朝からてんてこまいだった。松村が二日続きで無断欠勤し、おかげで予定がまったく消化できない。それどころか、午後の納品も危ないところだ。
「そんなことしたって、意味ないと思うけど」
「どうしてよ」
「だって、自分が休んでわたしたちが困ってることは百も承知なんだろうし」
「じゃあ、おれたちを困らせようとしてやってるのか」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何だ」
「つい一日無断で休んじゃって、今朝になったら、今度はそのことで出社しづらくなって」
「何だって? 聞こえないよ」
「もういい」
「いいってことはないだろう」
「おとうさんにはわからないの。そういう人の心っていうか、デリカシーっていうか」
「いい若い者がそんなことでこれからどうするんだ」
「おとうさん」
「何だ」
「もし出てきても、何か言っちゃだめだからね」
「何言ってんだ。そんなもん」
社会人が仕事をすっぽかしてどうするんだ――。
信次郎は腹立ちまぎれに乱暴にレバーを下ろす。鉄のパイプが火花を散らして切断されていく。預かった素材を定められた寸法に切り揃え、研磨し、その側面にネジ穴を開けなくてはならない。数は二百個で納品は午後の三時だった。せめて搬入を誰かがやってくれればと思うのだが、もちろん川谷鉄工所にそんな人手はない。自分の会社の弱点が、経営者が搬出搬入までしていることだと、いやでも痛感させられる。
「シャチョさん」
タイ人のコビーが大声を出した。指で壁を差している。音がうるさいため、電話が鳴ると赤いランプが点くようになっていた。
電話に出ると、かもめ銀行の高梨だった。元気のいいおはようございますという声が耳に飛びこんだ。
「あ、どうも」信次郎が思わず頭を下げる。「決算書と帳簿の件ですね。用意はしてあるんですが、ここんとこ立てこんでまして……」
「ああそうですか。別にそれは急がないんですが――」
工場の音がうるさくて聞こえなかった。信次郎は受話器を持ったまま体を伸ばしてドアを閉めた。
「あ、すいません。もう一度言ってもらえますか」
「ええとですねえ、川谷さん、よその信金さんに五百万円の預金があるとおっしゃってましたよね。どうですかねえ、それ、うちにまとめて預けていただけませんか」
「あ、ええと……」信次郎は口ごもった。
「そうすると預金がちょうど一千万になるんで、これを担保の一部にさせてもらいたいんですけどねえ」
「ああ、そうですか」
困ったなと信次郎は思った。付き合いのある信金から預金を引き下ろすのも大変だが、それよりなにより、実際は三百万ほどしかない。五百万と言ったのは咄嗟の見栄だ。
「そうなると稟議も通りやすいんですよね。うちの支店長の方も、ぜひそうしていただきたいと申しておるもので」
「ええ……」
「どうでしょう。無理ですか?」
「いや、無理ってことは……」
「じゃあよろしいわけですね?」
「ええ……まあ」
「ああよかった。断られたらどうしようと思いましたよ。いやね、正直言って不動産担保なしの融資っていうのは厳しいものですから」
「ああ、そうでしょうね」
「でも、ぼくは、だからこそ逆に成功させたいわけですよ。言ってみれば、こういうのが銀行本来の使命なんですよね。担保が万全でなくても事業計画さえしっかりしていれば融資ができるっていうところを見せつけたいじゃないですか」
高梨は電話の向こうで、銀行のあるべき姿のようなものを説いていた。
「大丈夫です。これで上を説得できますから」
「そう……」
信次郎は電話を切り、事務所に置かれた古びた冷蔵庫から麦茶を取りだし、ゆっくりと喉を湿らせた。椅子に腰かけ、たばこに火を点けた。その煙を見ながら、後悔というほどではないけれど、小さく(しまったな)と思った。融資を受けられそうなことは結構だが、信金から預金を移し、そのうえどこかから不足分の二百万円都合をつけてこなければならない。それはかなり気の重い作業だった。
仕事に戻ろうとしたところでまた電話が鳴った。市役所の環境公害課の職員からだった。男は「今日、電話をさしあげることになってましたので」と腰の低さが見えるような声を出した。
「昨日の件、結論は出ましたでしょうか」
「何よ、結論って」
「年間休業日数が百十日で、午後七時以降の残業は月に合計七時間まで、という先方様の提案についてのですね……」
「そりゃあちょっと無理よ」信次郎はつい声を荒らげた。「どうしてそんなこと決められるのよ。あんた仕事ってものがわかってないんじゃないの」
「それでは、その提案は受け入れられないということで、とりあえず報告させてもらってよろしいでしょうか」
「えっ?」返事に詰まった。「ちょっと待ってよ」
「じゃあ、どういたしましょうか」
「こっちが丸く収めたいっていうことは何度も言ってるじゃないの」
「それはそうですが……。実は、イエスかノーかで今日中に太田さんの方に返事をしなければならないものですから」
信次郎はかっとなった。どうしてあの太田とかいう男は万事がこうなのか。世の中、白じゃなければ黒というわけでもないだろう。
「だいたい隣の山口車体にだってまだ話してないんだよ」
「では、いつお話しいただけますか?」
「あんたもだんだんあの男に似てきたね」
「はい?」
「なんでもないよ。とにかくね、今はとっても忙しいわけ。こうやって電話してる時間も惜しいくらい時間に追われてるわけよ」
「でも、わたくしもこれから返事をしなければならないわけでして」
「なんとか引き延ばしてよ」信次郎の声が懇願《こんがん》調になった。
「では、いつまでに」
「明日、ああいや、あさって」言いながら、信次郎には何の考えも浮かばなかった。「あさっての昼頃に電話くれるなり来るなりしてよ。それまでには隣の社長とも話をして返事できるようにするから」
「わかりました。あさってのお昼ですね。川谷さんも大変とは思いますが、わたくしもできるだけ早くこの間題を片づけたいわけですので」
「片づけるってのは何よ」また語気が荒くなった。
「はい?」
「こっちは生活かかってるんだから、ごみのあと始末みたいな言い方しないでよ」
「あの、そのようなつもりでは決して」
「もういいよ」
受話器を乱暴に置き、ますます信次郎は憂鬱になった。ほとんど吸わないまま灰になったたばこを指で灰皿の中に落とし、大きく息をついた。何か考えようとしたが、納品の時間が迫っていることに気づき、慌てて作業場に戻っていった。
鉄パイプを切断しながら、山口社長はどのような反応を示すだろうと思った。先日は意気消沈していたが、太田の要求に再び怒りだす可能性はかなり高いように思えた。意地になるタイプだもの、おとなしく受け入れるわけがない。また騒動にならなければいいが。そんな思案をしながら、「はてこれだけだったかな」と考え、融資の条件があったことに気がつき、胸の中で暗い気持ちがいっそう膨らんだ。二百万円を用意するあてといえば、自分か妻の実家しかなかった。
「シャチョさん」コビーがこちらを見ていた。
気がつくとレバーを途中で止めたまま火花と音が出るにまかせていた。急いで引き下ろし、切ったパイプを下のかごに移した。二百個の部品加工のうち、切断だけでもまだ半分に達していない。次の工程に進むのは午後になってしまいそうだった。松村がいれば流れ作業でできることが、一人欠けるだけで手間の多い仕事になった。
どう算段を立てても間に合いそうにないので、信次郎は納品が遅れるかもしれないことを取引先に告げることにした。催促《さいそく》の電話が鳴るのではないかとひやひやしながら作業するより、先手を打って謝った方が気がらくだと思った。まだ付き合いの浅い取引先で、信用を失いたくなかった。
電話をし、従業員に急病で休まれて遅れそうだと、精一杯申し訳なさそうな声で話した。担当者はごく事務的に「半分だけでも三時に届けてほしい」と言った。それがないと現場が次の仕事にかかれないということだった。電話をしてよかったと思った。知らずにいたら相手に迷惑をかけるところだった。搬入が二度手間になるが、それは仕方がないことだ。
信次郎は急いで研磨の準備をする。コビーに手伝ってもらい、鉄パイプを工場の隅に並べた。コビーのやっていた仕事がまたあと回しになるが、それは残業で取り戻すことにした。集中して取り組んだので、なんとか半分を間に合わせることができた。納品先で「大変だね」といたわられたのが救いだった。
夜、コビーと二人で仕事をしていると、山口社長が草餅を持って工場に現れた。山口社長は自分で三人分のお茶を入れると、機械の台の邪魔にならないところに置き、椅子を持ってきて、スポット溶接をしている信次郎の隣に並んで座った。
「話ってぇのは例の太田さんのことかい」
山口社長が「さん」付けで呼んだのが意外だった。もっと不愉快そうな顔をするのかと思えば、その表情はどこか乾いていた。
「おれ、だめだ。ああいうのは」
「こっちだって」
「よく考えてみれば、あの男、人を小馬鹿にするっていうより、おれたちを元々ちがう人種だと思って接してるんじゃねえのかな」
「どういうことよ」
「うまく言えねえけど……。ほら、映画なんかで外人がメイドに何かを頼むシーンがあるじゃない。たばこ買ってきてくれとか、下着洗ってくれだとか。ああいうのって、おれらにはできないじゃない。なんか自分のことで人を使うのって申し訳なくて、ついすいませんなんて頭下げちゃったりして。でも外人はそれがメイドの仕事だって思ってるから、平気でこき使うだろ。つまり、なんて言えばいいのかなあ……。もともと同類だと思ってないから、相手がどう思おうが気にしてねえんだよ」
信次郎は意味がわからなくて黙っていた。
「おれなんか、ハワイヘ行ったとき、ホテルのボーイが荷物運ぼうとしただけで、あ、いい、自分でやるからって、取りあげちゃってさ。ましてや用事を言いつけることなんか、たとえ向こうが日本語話せてもできないわけ。でも、あの男なら平然とコンドームだって買いにいかせるんじゃねえのか。チップ渡してさ」
それならなんとなくわかった。
「あの男もそういう人間なんだよ。自分とは身分がちがうと思ってるんだよ。でなけりゃ近所でああいう態度は取れねえだろ」
「こっちはボーイかい」
「そうよ。見下すっていうのじゃなくて、もともとそういうもんだと分けて考えてんだよ」
合金板にごみでも付着していたのかパンと大きな音を立て火花が飛んだ。
「うちの女房が五万包んで謝りに行ってな」山口社長がその失敗した板を取りあげ、鉄かごに放りこんでくれた。「ちょうどマンションの奥さん連中が集まって、フラワーなんとかっていうのやってて、その、生け花とちがって花をうまく飾るお稽古《けいこ》ごとらしいんだけど、すっかり気おくれして帰ってきてさ。みんなの前で、あなたもご主人から暴力ふるわれるの? って聞かれたんだってよ」
「夫婦揃っていやみなやつらだな。で、五万は受け取ったのかい」
「ああ、とりあえずお預かりします、だとよ」
「ふうん」
「ああ、いやだいやだ。昔はここいら、あんな連中はいなかったよ」
山口社長は、愚痴なのに、なぜか淡々と話した。
「ああそうだ」信次郎は機械をいったん止め、山口社長に向き直った。「それで、太田って人の要求なんだけどね……」
信次郎は、太田が具体的な数字を出して休日稼働と残業の規制を求めてきたこと、その返事をあさって市役所の職員を通じてしなければならないことを話した。山口社長は神妙な顔をして聞いていたが、午後七時以降の残業を月に七時間しか認めないというところで目が吊りあがった。
「そんなもんは呑めねえな」重々しい声で言った。「うちなんかは無理がきくから仕事が回ってくるんだよ。それがなくなったら、親会社だって別を探すさ」
「そりゃこっちも同じよ。残業できなきゃ死活問題だよ」
「カワさん、蹴ってくれ」
「ああ、そうだな」
「気にいらなきゃ裁判でもなんでも好きにやってくれって」
「でも、裁判っていうのはちょっと」
「ビビるこたぁねえや。裁判所はちゃんとおれらの味方をしてくれるさ」
「でも、弁護士なんてのは三十分相談しただけでも結構な金がかかるっていうし」
「それは向こうだって同じことよ」
山口社長は、少し目がすわっていた。
「なんとか、丸く収まらないものかね」
「無理だね。だいいち殴っちまったんだ。これが同業者なら、潔《いさぎよ》く頭下げて、酒を酌《く》み交わして、水に流してくれって頼めばなんとかなるけど、あの男にはそういうの、到底通じるとは思えねえ」
「ああ、そうだね」
「同じ土俵に上がってないんだよ。言いたかねえけど、一段高い所で別の暮らしをしてるんだよ、あいつら」
いつもは強気な山口社長がそんなことを言いだすのが意外だった。
山口社長は首の骨を左右に鳴らすと、「さてと」と溜息混じりに声を発し、帰っていった。拒否か。信次郎はそう思いながら、機械のスイッチを入れた。それで済むのだろうか。考え事をしながら作業したので、なかなかはかどらなかった。不良品をいくつか出し、予定の量を終えたときは午後十一時を大きく回っていた。
風呂上がりに台所でビールの栓を抜くと、パジャマ姿の春江が寝室から現れ、冷蔵庫からチーズを出して信次郎の前に置いた。
「松村君と電話で話したわよ」
信次郎は思わず顔を上げる。明日も休まれると、川谷鉄工所は大打撃だった。
「それで? 明日は来るの?」
「それがね、おかあさんが電話に出たから、『川谷鉄工所ですけど、松村君はいらっしゃいますか』って聞いたのよ。そしたら風呂に入ってるって言うから、『昨日今日とお休みだったんで、もしかして風邪でも……』って聞いたら、向こうのおかあさんびっくりして」
「何よ」
「朝、ちゃんと家を出てるんだって」
「どういうことよ」
「家は出たけど、うちには来なかったってことよ」
信次郎がビールを飲み干し、春江がテーブルの前から注いだ。
「わたし、しまったなって思って。ずる休みだってことは想像がついたから、おかあさんに知られないように聞けばよかったなって」
「まあいいよ、そんなこと。で、松村はどうなったのよ」
「それで、今度は三十分後にかけ直して、松村君と代わってもらったら、受話器の向こうでずうっと黙ってて、ひとことも言わないのよ」
「すいません、ともか」
「うん」
「ふざけてるな」
「だめだって、そういうこと言っちゃ。あの子、どこかで一日時間を潰してたのよ。公園のブランコに一人で揺られてたりして」
「また見てきたようなことを。ブランコって何よ。漫画じゃないんだから」
「わたし、それを思ったら何だかかわいそうになっちゃって」
「かわいそうなのはこっちさ」
「とにかく、こっちは全然怒ってないし、松村君が来てくれないと本当に困るから、明日は絶対にお願いねってそれだけ言って切ったの」
「ふうん」
「おとうさん、明日、絶対に叱ったらだめだからね」
「わかったよ」
信次郎がビールを飲み終えると、春江がすかさずコップを取りあげ、流しで洗った。「何だよ、もう一本飲もうと思ったのに」
「だめ」
仕方がないのでたばこに火を点けた。
「あ、そうだ。かもめ銀行の人が、信金に預けてある金、移してくれないかって」
「どうしてよ」
信次郎は朝方、高梨と電話で話したことを春江に告げた。ついでに二百万円必要になったことも、わざと何事でもないように、さらっと言った。
「どうしてそういう見栄を張るのよ」
「勢いだよ。話の勢いってあるじゃない」
「じゃあ正直に言えばいいじゃない。実は三百万しかないって」
「そんなこといまさら」
「どうするのよ、二百万円も。借りるあてでもあるの」
その言葉で、春江の実家が候補から消え、信次郎は「お袋に頼むさ」と答えた。
七十二になる母はいたって元気で、老人会の付き合いといってはあちこちに行楽に出かけていた。年金暮らしだが、金は持っているはずだった。
「義兄《にい》さんに保証人、頼むんでしょ。すぐ耳に入るわよ。毎日顔合わせてるんだもの」
「ちゃんと事情を話すさ」
「銀行に事情話した方がいいんじゃないの」
「うん? ……」
最後は曖昧に返事をして、信次郎は先に寝室へいった。
布団にもぐりこみ、少し酔いの回った頭で考えを整理した。まずは実家へ行く必要があった。兄に少しあらたまった話をしなければならず、兄弟仲は悪くないものの、やはり連帯保証人を頼むのは気の進むことではなかった。信金の預金を下ろす手続きも必要だった。気軽に集金に来てくれる行員にそれを告げるのは少し辛いことに思えた。松村は明日ほんとうに来てくれるのだろうかと思った。もし休まれたら、どこかに応援を頼まなくてはならない。いや、今日、春江が低姿勢で頼んだのだ。来ないことはないだろう――。そして(これだけだったかな)と思い、向かいの太田の件があることに気づいていやになった。
信次郎は、掛布団を頭からかぶると体を横にし、目を閉じた。今日一日、集中して働いて疲れたせいか睡魔がすぐにやってきた。おかげで眠るのに苦労はしなかった。
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揃いのユニフォームを着た男たちが数人がかりで車を磨いているのをガラス越しに見ながら、野村和也は缶コーヒーを飲んでいる。その車は大きくて見栄えがし、心なしか出迎えた店員の態度もちがった気がした。
盗んだグロリアはなかなかの高級車で、和也はすっかり気にいってしまった。本屋で自動車雑誌を立ち読みし、値段を調べたら三百五十万円もすることがわかり、驚くと同時に大切にしたい気分になった。白いセダンというのも、少なくとも赤いクーペなどよりは目立たなくてよかった。盗難車は、はたして警察がどの程度の熱意で捜査をするのだろう。和也にその知識はなかったが、おそらく被害届けを提出させて終わりのように思え、そのまま街を走らせるのに躊躇《ちゅうちょ》はなかった。
タカオはグロリアを「売れる」と言っていた。盗難車を扱う裏の業者がいて、持ち込めば簡単に現金にしてくれるらしい。ただ、買い取り値段が新車でも正価の十分の一と聞いて、その気が失せた。金庫を積んで走り、苦労をともにしたせいか、妙な愛着もあった。和也は、すっかりオーナードライバーのつもりになっていた。
こうしてガソリンスタンドで洗車をさせているのも、その表れだった。ロビーに陳列されたカー用品を見ながら、ワックスでも買おうか、などと和也は思ったりする。
丹沢《たんざわ》の山奥で、橋から落としてなんとか開けた金庫には、全部で五百万円近い札束が詰まっていた。帯封《おびふう》された一万円の束が四つと、千円の束が七つと、あとは硬貨の入った麻袋が入っていたのだ。とりあえずそのすべてを車に運びこみ、帰りの車中でタカオが数えた。
「おい、しめて四百八十五万じゃ」
助手席のタカオは、興奮を隠しきれないといった様子で顔を紅潮させ、いまにも札束を撒き散らさんばかりに大声ではしゃいでいた。和也も笑いが止まらなかった。金が入っているとは思っていたが、こうして実物を目にすると、まるで夢のようで、世の中も捨てたものじゃないと泥棒のくせに感慨にふけってしまう。
やくざから要求されていた金は、一人三百万ずつの二人で六百万円だったが、なぜかこれで済んだ気になっていた。タカオが「ちょっと足らんけど、これ持っていけば勘弁してもらえるやろ」と言い、和也もそうだと思った。むしろ誉めてもらえる気がした。二十歳の二人組が、自分たちの才覚だけで五百万近い現金を手に入れたのだ。この快挙には、やくざといえども心を動かされるはずだった。
「これで盃もらえるで」タカオが前を見たまま言った。
「ああ、そうだな」和也が答える。
和也は、やくざにたいして憧れはなかったが、タカオと一緒ならそれほど悪い選択ではないと思えた。この男の生来の明るさには、少なからず勇気づけられる。
金はタカオが「館野親和会」に届けることになった。
「週明けの月曜日にでもおれが持っていくわ。それで先輩にナシつけて、そのあとであんたに携帯で連絡入れるわ。つながるとこにおってや」
タカオは、一万円札の束の帯封をひとつちぎり、十万円を和也のポケットにねじこんだ。和也は了解した。ひと晩がかりで金庫を開けた日曜日の朝は、アパートに帰ってから泥のように眠った。目が覚めたときは、もう金の心配から解放されたことをあらためて知り、心がおどった。
夜になると、久し振りに楓のマンションへ行き、肉づきのよい年増女を抱いた。楓は「もう、どこで浮気してたのよお」と甘い声を出すと、いつも以上にベッドの上で乱れた。それが済むと今度はめぐみから電話がかかってきて、会いたいと言った。明日ならいいよと和也は答えた。まるでジゴロにでもなったような快感があった。
白のグロリアは水滴がきれいに拭き取られ、ロビーの前にゆっくりと横づけされた。和也は会計を済ませ、ついでにチューインガムを買って車に乗りこむ。梅の味がするそれを口の中に放りこみ、顎を動かしながらめぐみを迎えにいった。つい鼻歌が出たのが自分でもおかしかった。
デパートの前で待っていためぐみを乗せ、し目的もなく車を走らせた。
「喫茶店、クビになっちゃったよ」
めぐみは悪びれるふうでもなく、髪をいじりながらつぶやいた。
「そりゃあ勝手に休んでばかりいればクビにもなるだろうよ」
「でもさあ、もう一人、短大生のバイトもいるんだけど、その子は休んでも叱られないんだよ。マスター、絶対にえこ贔屓《ひいき》してる」めぐみが口をとがらせる。「その女ってさあ、ムカつくんだよね。いい子ぶっちゃって。根っからの優等生」
「ふうん」
「ねえ、その女、呼びだすからさあ、ケン、一度やっちゃってよ」
「何言ってんだ、おまえ」眉をひそめてめぐみを見た。
「わたしさあ、優等生って大嫌いなんだよね。うちのお姉ちゃんがそうでさあ」
「おまえの姉さんって何やってんだ」
「OLだよ。銀行に勤めてる」
「へえ、真面目じゃん」
「だからムカつくんだよ。親の前でいい子ぶって、出来の悪い妹なんか関係ないって態度でさ。夜遅く帰って廊下ですれ違ってもまるっきりシカトするんだもん。あんな奴いなくなればいいんだよ」
めぐみが家族のことをあまりに憎々しげに言うので和也は少し驚いた。
「ま、いいけどね。どうせ本当のお姉ちゃんじゃないし」
「そうなのか」
「うん……まあね」
めぐみが足をダッシュボードに載せて膝をぽりぽりと掻いた。
自分の愛車のつもりになっていたので軽く頭をたたいた。
めぐみは首をすくめ、「ねえ、原宿に連れてってよ」と話を変えた。
「だめだ。おれは連絡待っててな、あんまり川崎から離れたくねえんだ」「誰から」
「相棒だ」
「相棒って?」
「タカオっていうダチよ」
「ふうん」めぐみは小さくふてくされると「ねえ、この車で何したのよ」と聞いた。
「そのタカオって人と組んで何かやったんでしょ」
「うん? ……」曖昧に返事をした。
「前に、お金作んないとやばいことになるって言ってたじゃない。だから――」
「知りたいか」
「うん」めぐみが和也の方に向き直った。
「金庫破り」
「うそぉ」
「嘘じゃねえ。五百万、獲《と》った」
めぐみは隣で目を丸くしていた。
「苦労したんだぜ。丹沢の山奥まで運んでな、橋から突き落としてやっと開けたんだよ。そうしたら……」
「そうしたら?」
「中に札束がうなってた」
「すっごーい」
どんな反応を見せるのかと思えば、めぐみは興奮した面持ちで和也の腕をつかみ、それを大きく揺すっていた。「ねえねえ、最初から」とめぐみがくわしい話をせがむ。和也はまんざらでもない気になって、一連の出来事をすべて話した。その金でやくざも納得しそうなことも告げた。
「じゃあもうお金の心配しなくていいんだ」
「ああ」
「ケン、やくざになるんだ」
「ああ」
「じゃあ、わたしはやくざの女だね」
「何言ってんだ」和也が苦笑する。
「もう少し広いアパートに引っ越しなよ」
「何で」
「そうしたら、わたし、荷物運びこんで一緒に暮らす」
「金がねえよ。あの金は示談金みたいなもんだから……」
「じゃあこれから稼ご。ケン、カツアゲするとこ見せてよ」
「おまえな……」
和也は車をアパートに向けて走らせた。助手席の女が無性に可愛くて、抱きたくなったのだ。
アパートでは昼間から裸や抱き合った。かび臭いカーテンを閉めながら、めぐみが「新しいのに替えようよ」と言った。そして、「少し狭いけど、わたしもここに住むね」とほほ笑んだ。めぐみに腕枕しながら、甘い感情が込みあげてきた。
その日は結局、タカオからの連絡は入らなかった。こちらから電話をしても携帯はつながらなかった。べつにあせることでもないので、和也は気にもしなかった。
翌日になってめぐみが荷物を取りにいったん家に帰ると、和也はすっかりやることがなくなり、ひたすらタカオの連絡を待つ身になった。外は快晴で、もはや自分の足になったグロリアで峠道《とうげみち》でも飛ばしたい気分だが、携帯の感度を考えると、遠くへ出かけたくはなかった。こちらからは数回呼びだしてみたが、無機質な声の案内が流れるばかりで、どうやらタカオが電源を切っているようにも思えた。
ふと、あの金庫破りはニュースになったのだろうかと気になり、載ったとしたら昨日の新聞なので、近所の図書館へ行ってみることにした。
もっともそうするまでに時間がかかった。昨日の新聞を読むためにはどうしていいかわからず、喫茶店へ行き、昨日の新聞はないかと尋ね、そこでこの方法を教えられたのだ。図書館などこれまで足を踏みいれたことがなかった。
まずは一般紙を開くと、そこには金庫盗難の記事はまるでなかった。地方版を探してもないので少し拍子抜けした。続いてスポーツ紙を見ると、社会面に小さく「パソコン店で金庫盗まれる」の見出しがあり、十行ほどの記事があった。「現金五百万円の入った……」という記述もあり、そこで初めて小さな実感が湧いた。
もっとも安心もした。世の中全体にとって、和也たちが起こしたことは、一般紙が無視するほど些細な事件なのだ。なんだか免責された気にもなった。
和也は図書館の帰りに商店街の家具屋に寄り、小さなテーブルを買った。めぐみが欲しいと言ったからだ。コンビニで買った弁当を、畳の上で食べるのは少々|侘《わび》しいと自分でも思ったので、迷うことはなかった。
店のおやじは愛想よく、あれこれ引っぱりだしてきては和也に勧めた。
「いいよ、もっと安いので」
「お客さん、一人暮らし?」
「そうじゃないけど」言葉を濁すと、おやじは人懐《ひとなつ》っこく笑い、「いいねえ若い人は」と勝手に勘ぐって調子をくれた。
和也は、いちばん安い折り畳み式を選びながら、若さを羨ましがられたことに気分をよくする。二十歳という年齢は、それだけで価値があることなのかもしれないと思った。
アパートに持ち帰り、白いデコラ張りのテーブルを部屋の真ん中に置いてみた。すると殺風景だった六畳間ががらりと雰囲気を変え、妙な気持ちのふくらみを覚えた。そこには和也がすっかり忘れていた生活の匂いがあった。ここでめぐみと向かい合いながら飯を食べる。そう想像するだけで楽しくなった。今度はテレビを買おうと思った。そうやって暮らしというものをしてみるのだ。
和也は布団をたたんで部屋の隅に動かし、それにもたれて目を閉じた。
窓から差しこむ五月の陽は、神経の一本一本が溶けるような心地よさがあり、和也はいつの間にか眠りに落ちていた。
誰かが戸をたたく音で目が覚めた。めぐみかなと思ったが、合鍵をすでに渡してあるので、それならタカオだろうと決めつけてロックを外すと、そこにはパンチパーマの若い男がぬっと立っていた。見覚えのある顔だった。和也が「先輩」と呼ぶやくざ、山崎の舎弟だ。タカオは確か「あの坊、まだ十九やで」と言っていた。
「あ、ええと……」自分から訪ねてきたくせに男が口ごもっていた。
パンチパーマの顔を見ながら、和也も用件を計りかねている。
それでも、組に入ったらこの男の序列が自分より上になることを考えて「何かな」と和也から切りだした。
「……ちょっと事務所まで来てくれる?」
男はかたぎのように普通の口調で言った。
「タカオ?」和也は聞いた。タカオが呼んでいるのか、という意味だった。
男は答えずに、部屋の中を少しのぞき、「車で来てるから」と顎で外を差した。
和也はスカジャンをはおり、靴をつっかけて廊下に出た。
男はそれを見て歩きだし、和也があとに続く。
「金はもう納めたのかな、タカオの奴」
男は何の話かわからないといった様子で振り返り、曖昧に先をうながした。車はベンツだった。
「これ、山崎って人の車?」
「ああ、そうだよ」
助手席に乗りこむと、固めのシートが背中を軽く押し返した。
男はエンジンをかけ、無言でアクセルを踏んだ。
「タカオは事務所にいるわけ?」
「あ、いや……おれ、兄貴に言われて迎えにきただけで、どういう用なのかわからないから」
男は意気がるような口ぶりは見せず、なぜか丁寧な言葉を遣った。
「タカオはいないの?」
「ええと……おれ、外にいたから、携帯で呼びだされて、あんたのこと迎えにいってやってくれって言われて……」
どうやらこの男は事情がわかっていないようなので、和也も聞くのはやめた。
パンチパーマが運転する車は、路地を抜けたのち大通りに入り、辺りを威圧するように中央レーンを走った。ウインドウは黒くシールドされ、周囲の車が遠慮しているのが助手席に座っていてもわかった。今度、自分のグロリアの窓もそうしようと和也は思った。
「さっき」男が言った。「金を納めるとか言ってたけど、どういうこと?」
「聞いてない?」
「だから……おれ、外にいたから」
「ほら、例のトルエンでしくじった件の慰謝料っていうか、示談金っていうか……おれら二人で六百万、作るように言われてただろう? その金の都合がついたから……」
「六百万、あんたら作ったの?」男が驚いた顔をした。
「ああ、実際は五百にちょっと足りねえくらいだけど、それを納めりゃあ勘弁してもらえるんじゃないかと……」
「どうやって」
「パソコンの中古屋の金庫かっぱらってな。新聞に出てたぜ。スポーツ新聞だけど」
和也は何も知らないパンチパーマに、金庫破りの一件を話して聞かせた。タカオが盃を欲しがっていることもつけ加えた。男は感心したように唸り、小さく「そういうことか……」とつぶやいた。
「うん?」和也が男を見る。
「いや、何でもねえよ」男の表情がかすかに険しくなった。
事務所の前に車を停め、和也は男と一緒に狭い階段を上がった。かつて半殺しの目に遭った事務所に入るのは、あまり気持ちのいいことではなかったが、中にタカオがいるだろうことを思えばたいして気にはならなかった。
ところが、鉄の扉を開け、足を踏み入れ中を見渡すと、そこにタカオの姿はなく、ソファに座った山崎が意外そうに和也を見ていた。
ポマードで固めた髪を撫でながら、なにやら言葉を探しあぐねているといった表情だった。
和也が頭を下げる。口の中で「どうも」と挨拶した。
その自然なそぶりを見て、ますます山崎は不可解そうな顔をする。
「ちょっと」とパンチパーマが山崎に耳打ちした。なにやら短いやりとりがあり、兄貴分と舎弟は隣の部屋へ入っていった。
仕方なく和也は立ったまま待っていた。
事務所には他に二、三人のやくざがいて、遠慮のない視線で和也を睨《ね》めまわした。
五分ほどして二人が出てきて、山崎がソファに腰を沈めた。
「おい、野村とかいうの。おのれも座れや」
静かだが重々しい声だった。様子がちがうと思った。
「金庫を破ったんやてな」
「ええ……」山崎は知らないのかと、わけがわからなくなった。
「五百万、入っとったそうやな」
「ええ」
「その口ぶりやと、知らんようやな。タカオのガキな、逃《ふ》けよったで」
一瞬にして血の気が引いた。
「今日、あのガキのアパートへ行ったらもぬけの殻や。女もおらへん」
言葉がなかった。
「おまえらみてえなガキになめられて、おれも安うみられたもんや」
山崎の真っ赤な顔だけが和也の視界を支配していた。
「約束じゃ。おのれを殺したる」
何も考えが浮かんでこなかった。
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妹が家出らしきものをしでかし、藤崎みどりの心配事はますますその嵩《かさ》を増した。
連休明け、しばらくおとなしくしていると思ったら、突然、家からいなくなったのだ。母親が子供部屋の異変に気づき、洋服ダンスを開けたところ、衣類の半分がなくなっていたのでそう判断せざるをえなかった。バイト先の喫茶店に電話をすると、無断欠勤が多すぎるので辞めてもらったと経営者が憮然《ぶぜん》とした口調で言っていたらしい。
前にもこういうことがあったので、母親は警察に届けるべきか迷っていた。おとなしい父親は途方に暮れた顔をしていた。どうせまたすぐに帰ってくるよ、とみどりは両親を慰めたが、それでこの家の暗さが救われるものでもなかった。
どうして妹がグレたのか、みどりにはまるで理解できなかった。
それどころか、グレる権利なら自分の方にあるはずじゃないかと思っていた。
みどりが四歳のときに産みの母親が病気で死んだ。まだ悲しみの湧く年齢ではなかった。父は、周囲の、子供が小さいうちに再婚した方が新しい母親になつくという勧めに従って、今の母と見合いで結婚した。母も一度結婚に失敗したくちなのでまとまった話だった。
みどりが数えで六歳のときに、新しい子供、めぐみが産まれた。
そのときの光景をみどりは覚えている。母が病院のベッドにいて、その横で父が赤ん坊を抱いているというシーンだ。両親はこれまで見せたことのない幸福そうな笑顔で、何事かを語り合っている。それをみどりは、形容のできない不安感で見上げていた。
あわてて会話に割りこむと、母が触ってもいいよと言うので、仲間外れにされたわけじゃないことに小さく安堵したが、それでも警戒が解けたわけではなかった。
いい子でいなければ、たちまち愛情のすべてが新しい赤ん坊に向かってしまうような気がしたのだ。
みどりは自分にできる精一杯のことをした。小学校に上がったばかりなのに、すすんで掃除の手伝いをし、お使いに行きたがった。妹の世話もした。そういうときは、母親の歓心を充分に得られ、みどりは満足するのだった。
少女漫画で継母《ままはは》という言葉を知ったとき、少しだけ不幸なヒロインを演じてみたくなったが、その感情が長続きすることはなかった。一度だけ母に、それらしき言葉を遣って、冷たく当たったことがあった。母はさっと顔色を変えるとあられもなくすすり泣き、その涙を見たら自分の方が大泣きしてしまった。もうあのときの母の顔を見たくはなかった。
みどりには反抗期のようなものもなかった。
だから、妹の荒れ方を見ていると、何が気に入らないのかがまるでわからない。
わたしがグレるのなら世間は納得しても、あんたがグレるのは理由が見つからないだろう――。妹の顔を頭に浮かべ、ついそう言ってやりたくなる。
家に帰っても安らげないというのは、精神的疲労が蓄積するばかりだった。
だいいち、いまのみどりは職場が悩みの種なのだ。銀行を辞めることはほとんど決断していた。昨日、支店長と階段ですれちがったとき、みどりは緊張して会釈したのに、支店長はふだんどおりの無愛想さでうなずいただけだった。もう、あの一件はなかったことにされたのだ。それを思うと、ささやかなプライドさえ踏みにじられたようで、やりきれなかった。
毎日が溜息の日々だった。
その日、夕方になって木田課長代理から声をかけられた。机に呼ばれ、その前まで歩いていくと、声を低くして「今夜、あいてる?」と聞いてきたのだ。
何だろうと思いながらうなずくと、木田は「横浜あたりでごちそうしたいんだけど」と軽くほほ笑んだ。
「仕事の話」誤解されたくないのか、慌ててつけ加えた。
そして、「ちょっと内密の、だけど」とも言った。他言するなという意味だろうと、みどりはぼんやり聞きながらもそう受け取った。
「七時半ね。悪いけど、定時には抜けられないから」
木田は横浜に古くからあるホテルのカフェテリアの名前をメモ用紙に書き、それをみどりに渡した。
気にはなったが、想像もつかないので、みどりはただ時間を待つことにした。
定時に銀行を出ると、石川町駅まで行き、そこから海岸通りを目指して歩いた。けっこうな距離だったが、中華街を抜けてのコースなので退屈はしなかった。
中華街はちょうど夕食どきのせいか、人であふれかえっていた。旗を持った若い添乗員風の男に連れられて団体客が通り過ぎてゆく。ふと木田課長代理のごちそうとは中華料理だろうかと思い、いまの自分にはちょっと重いなと吐息をついた。
時間があるので山下公園まで足を延ばした。
ベンチに腰を下ろして所在なく港を眺めていた。
ベイブリッジはとっくにライトアップされていて、まだ蒼《あお》さの残った空をバックに宝石のように輝いている。その輝きは水面にも反射され、都会の湾岸エリアをいっそう華やかなものに見せていた。目の前の海では、遊覧船だろうか、窓がやけに明るい大型のクルーザーが白い波を立ててゆっくり横切ってゆく。そのデッキでは若い男女が数組、肩を寄せあっていた。
公園内もカップルが多かった。肩を寄せ合いながらそれぞれが二人の世界に入っている。みどりは自分があまりに場違いなので、仕方なく、ときどき腕時計に目をやり、いかにも誰かを待っているポーズをとった。
恋人が欲しいな、とみどりは心の中でつぶやいた。
恋人がいれば、少しは毎日がちがったものになるだろう。いくつかの悩みも、相談することによって軽減されるような気がした。セックスにも溺《おぼ》れてみたかった。好きな男に抱かれれば、いやなことも忘れられるだろう。なにより、誰かに守られたかった。
時間がきたので、みどりはホテルに向かった。海岸通りは派手なアメ車が、街路樹の幹まで震わせるような重低音でカーステレオを鳴らし、得意げに徐行している。そのうちの一台から声がかかった。彼女、どこ行くの? と頭の悪そうな茶髪の男が窓から身を乗りだしていた。みどりは無視して歩いた。お高くとまるんじゃねえよ、というとがった声がかすかに聞こえ、ささいなことなのに傷ついた。
ホテルの玄関をくぐり、ロビーを奥に進むと、すでに木田課長代理は到着していて、ソファから立ちあがり手を振った。
「藤崎君、悪いね、こんなところまで」
木田の横には見たことのない中年の男が立っていた。
「混んでたからさ」隣接するカフェテリアを顎で差し、「お茶は省いて、もう食事にしようか」と言った。
「あっ、こちらはね」木田が一人でしゃべっていた。「君は知らないだろうけど、かもめ銀行の先輩で篠原《しのはら》さんっていうの。ぼくの大学の先輩にもあたる人なんだけど」
篠原と紹介された四十代に見える男は、初対面にふさわしく温厚そうにほほ笑む。
「篠原です。二年前までは本店で法人営業をやっていたんだけどね、いまは子会社のかもめファイナンスにいます」
出向の身分のようだが、それがどういうコースなのか、みどりには判断できなかった。
みどりも自己絡介して頭を下げた。
「歩くの面倒だし、上のレストランに行こうか。予約ないけど、平日に満席ってことはないだろうから」
木田が提案し、三人でエレベーターに乗った。
エレベーターの中で、木田と篠原が、誰それは元気にしてるのといった会話をしている。みどりは少し固くなって、階数を示すランプ表示を見上げていた。
着いた先は中華料理のレストランだった。もっとも、おじさんたちとフランス料理を食べるのも気が進まない話なので、みどりはあきらめることにした。
入り口で、木田が「個室はあるの」と聞き、ボーイが慇懃にうなずき、港が一望できる六畳ほどの部屋に通された。
「おう、いい眺めだ。何よ、木田はこんなところでいつも接待されてるわけ」
窓辺に手をついた篠原がからかうように言い、木田が「初めてですよ」と苦笑してかぶりを振った。
「支店の営業なんて接待とは無縁ですよ」
「おれなんかもっと無縁だぜ。近ごろは酒もゴルフもみんな自腹なんだから」
木田がメニューを決め、まずビールがテーブルに運ばれてきた。
みどりがそれに手を伸ばすと、木田が先にビールを取りあげ、最初に篠原、続いてみどりのグラスに注いだ。
「じゃあ」曖昧にグラスを持ちあげ、三人で乾杯らしきものをした。
「この先輩は、ぼくが就職するときにもお世話になってね」木田が言った。「とても信用のおける人だから」
篠原は、みどりの緊張を解こうとしてか、やさしい目で肩をすくめた。
「だから……」木田は篠原の方に視線を移した。
その先を引き継ぐ形で、篠原は「藤崎君、ひどい目に遭ったんだってね」とみどりを見る。
はっとして顔を上げた。こういう話だとは思ってもみなかった。
「あの男は昔っからそういう真似をしてきたからね。君が最初じゃないんだ。本部にいたころも、酒に酔って部下の女の子に抱きついたり、セクハラまがいのことをしてきてね。別の支店で副支店長をしてたときなんか、金額が合わないっていうんで女子行員の身体検査までしたって噂になったこともあったんだ」
みどりは、これがどういう事態なのか考えようとしたが、突然のことにうまく頭が回らなかった。
「それでも問題にならないのは、あの男が常務の子飼いだからでね。まあ、子飼いっていっても下っ端なんだけど、それでもそういう影響力っていうのは大きいんだよね、会社組織ってところは」
木田は黙っている。最初のスープが運ばれてきて、木田がウエイターを制して自分で器に三人分をよそった。
「しばらく顔も見なかったけど、何をしてるのかと思えば、相変わらず助兵衛なことやってんだよな、あの馬鹿は」
篠原の口ぶりは穏やかだが、支店長に対してはあきらかに腹に一物《いちもつ》あるといった感じだった。
「おまけに玉井とかいう乾分《こぶん》を使って揉み消そうとしている」
それは少しちがう気がしたが、口は挟まなかった。おそらくタマが勝手にしたことだろうとみどりは推察している。
「藤崎君、怪我とかはしなかったの?」
「いいえ」聞かれて首を振った。
「でも、こういうのは心に傷を残す」
それはそうなので小さくうなずいた。
「恐怖心はなかなか消えるものではない。……夜はちゃんと眠れるの?」
「……ええと」何と答えようかと思い、「いろいろと考えごとをしてしまうようにはなりましたけど……」と返事した。
「それは立派な不眠症だ。……じゃあ、立ち入った話だけど、男性恐怖症のようなものにはなっていない?」
いったい何を言いたいのか、みどりにはよくわからない。
「あの……、電車に乗っていて痴漢に遭ったらどうしようかって、いつもより身構えていることはありますけど……」
それは事実だった。できるだけ中年男を避けて乗る場所を選ぶようになった。
「うんうん」
篠原は納得したようにうなずいている。その間に、テーブルにはエビチリや春巻といった料理が並んでいた。篠原はそれらをつつきながら、木田を相手に「そうなんだよ。こういう事件は心的外傷《トラウマ》を残すんだよ」と、やけに物分かりのいいことを言う。
「どうだろう、藤崎君」篠原があらためてみどりに向き直り、声を低くした。「一度、病院の神経科へ行って診《み》てもらったらどうかな」
「はい?」
「別に怖がるような所じゃないよ。神経科っていうと、どうしても深刻な心の病を連想する人がいるけど、最近じゃ、ちょっとした悩みごとを気軽に相談に行く人が多いんだから」
「はあ……」
「よかったら手配するよ。知り合いに気さくな先生がいるから……。もし女医さんがいいっていうのなら、そういう人を紹介してもらってもいいし」
「あの……」
「いや?」
「そうじゃないんですが、病院へ行くほどってことでもありませんから……」
「藤崎君」そのとき木田が口をはさんだ。「はっきり言うとね……」
木田は、みどりの目を見ながら、慎重に言葉を探しているようだった。
「診断書が欲しいんだよ。この問題を解決するために。どういうことかというと……、あの支店長に罪を認めさせるためには、なんらかの形が必要なんだよ。この篠原さんは、いまは出向中だけど、本店にはいまだ知り合いが多いしね。かつての部下にも慕われている。その診断書のコピーでも貰えれば、この間題を何とかできるかもしれない」
みどりは混乱していた。いろいろ驚いたが、いちばん驚いたのは木田がそういう考えをもっていることだった。てっきり誰とでもうまくやる八方美人タイプだと勝手に思っていた。
「ただ人事に訴えるだけじゃ弱いんだよ。尾ひれがついた噂ぐらいにしか思われない可能性がある。玉井さんの言い方じゃないけど、酔って部下に抱きついたぐらいにしか思わない連中はいっぱいいる。本店だって基本的には事を荒だてたくないからね。サラリーマンって生き物はそうなんだ」
どう返事をしていいのかわからず、みどりはただ黙っていた。
「たとえばの話、診断書があれば警察に被害届けを出すこともできる」
みどりが一瞬、体を固くした。
「たとえばの話、だよ。君がいやなら別の方法もある」
それを感じとったのか、木田がやさしく言った。
「君、やっぱり辞める気でしょ」
どきりとしたが、顔は上げなかった。もう食欲は湧かないな、と料理を視界に入れながら思った。
「毎日見てりゃあわかるよ。元気もないし、笑顔もない。でも、君が辞めることはない。職場でこんな不正義がまかり通るのはよくない」
不正義、という言葉が気にいったのか、篠原が我が意を得たとばかりによく通る声で続けた。「そうなんだよ。これは不正義なんだ。あの男は一度とっちめてやらなきゃいかんのだよ」
来るんじゃなかったとみどりは後悔した。そりゃ謝ってはほしい。でも、大袈裟になることは決してみどりの望むところではないのだ。
「ぼくに任せてくれないかな」篠原が言った。「君の悪いようにはしない。それどころか、力になれると思う」
「でも、診断書っていうのは……」やっとのことで口を開く。
「いやかい?」
「…………」
「どうしていやなの?」
みどりは勇気をふるって聞くことにした。
「あの、篠原さんは、どうしてわたしを助けようと思われたんですか?」
「ぼくが相談をもちかけたからだよ」木田がすかさず答えた。「残念ながら、いまのぼくの立場で支店長と対立することはむずかしい。そこで」
「いいよ」篠原が木田を手で制した。「出向中のおっさんが、こんなことに首を突っこむのはおかしいって思ってるんだよね」
「そんな……」
「いや、いいよ。たいして裏があるわけじゃない」
篠原は自嘲気味に小さく笑うと、額をぽりぽりと掻いた。
「サラリーマンやってるとね、こいつだけは許せないって奴が一人か二人はいる。ぼくにとってはそれがあの男なんだ。こんな話は興味がないだろうけど、あいつとは同期でね、いろいろ競争させられた。ついた上司もちがった。ぼくがついた上司はとても有能な人でね、この人についていけばいずれ引きあげられると思ってた。でも、有能過ぎた。有能過ぎて煙たがられた。結果、部下も上司もまとめて飛ばされた。もっと下っ端なら免れたかもしれないが、なまじコースに乗っていたからぼくも同じ憂き目に遭った。もちろんそれも人生だ。人生には運ってものがある。そんなことで逆恨みなどはしない。でも、飛ばされたあとで、仕組んだのがあの男の上司で、実際に動いたのはあいつだということがわかった。役員にとりいって……」
そんな話はたくさんだった。篠原は、思いだすだけで頭にくるのか、こめかみのあたりを次第に赤くしていった。
篠原は不良債権を押しつけられただの、不正融資がどうだの、みどりにはまるでわからない話をした。たぶんこういうのを派閥争いというのだろうと思った。
最後になると、篠原の話は、支店長から届いた年賀状の文面にまで及んだ。「いっそうのご活躍を」と書いてあったそうだ。逆恨みとどこがちがうのか。みどりはつい考えてしまう。
ただ、若い女を相手にこんな話をする自分を恥じたのか、「男ってくだらないと思うだろうけど」と口を皮肉っぽく歪めてはいた。
みどりは考えた。支店長を懲らしめるというのは痛快なことのように思えた。あの支店長がどこかに飛ばされたらどれほど気持ちがいいだろう。しかしその現実感はなかった。映画のようにはいかない。きっと、もうひとつのいやなことがあるに決まっているのだ。人事に呼ばれて事情聴取を受けるとか、あらぬ噂をたてられるとか。
みどりはナプキンで口を拭くと、水を飲んで喉を湿らせた。そして姿勢を正すと遠慮がちに言った。
「申し訳ないんですが……わたし、そういうの、いいですから」
「どうしてよ」二人の男が声を揃えた。
「もう、忘れようと思ってますから」
「いけないよ。悔しいじゃない」
「君は何もしなくていいんだからさ」
何もしなくていいわけはない。医者に行って診断書をもらってくるエネルギーも、いまのみどりには湧かないのだ。
「いいんです」
「よかないなあ」
「うん。勇気、出そうよ」
二人の男が懸命に、それでも一応はやさしく説得する。みどりは首を縦に振らなかった。その説得はしばらく続いたが、みどりは黙ってうつむいている。
これ以上は態度を頑《かたく》なにさせるだけだと判断したのか、篠原が「でも、ひと晩だけ考えてくれる?」と聞いた。
「うん、そうだ。気が変わるかもしれないし」木田もうなずいた。
「はい」みどりが力なく答える。
そこで話題が変わって、篠原の昔話になった。重くなった空気を和らげようとしてか、木田の新入行員時代の失敗を愉快そうにしゃべり、木田が「まいったなあ」と顔を赤くする。みどりに気を遣っているのがわかった。
悪い人ではないな、と思った。木田課長代理が信頼を寄せるくらいだから、篠原はきっと部下思いの頼れる上司だったのだ。
残りの料理をほとんど残し、レストランをあとにした。
木田と篠原は、会うのは久し振りだからと言って、タクシーを拾い、伊勢佐木町《いせざきちょう》へと繰りだしていった。
それを見送り、みどりは一人で駅に向かった。
何の話かと思えば――と、深い溜息をついた。
星空を見上げ、いつかこの一件が笑い話になる日は来るのだろうか、と思った。無理だろう。男がチンピラに殴られたとかの話ではない。女が襲われかけたのだ。あのときはひどい目に遭ったと笑えるわけがない。やはり心の傷になりそうだ。
そんな物思いにふけりながら、中華街の東門に差しかかったところで、一軒の店からひと組の男女が現れるのに出くわした。
裕子と高梨だった。
二人は楽しそうに笑顔を交わしていた。
みどりは反射的にUターンして、二、三歩戻り、門の柱の陰に隠れた。どうして自分がそうしたのか考える余裕もなく、ただ本能が鉢合わせだけは避けようとしていた。
見られたかな、と思った。一瞬、裕子がこちらを振り向いた気がした。
見られたのなら、これは明らかに不自然な行動だった。
いや、そんなはずはない。裕子は高梨と顔を見合わせていたのだ。その横顔をみどりが一方的に見ただけなのだ。
なぜかカーッとなっていた。自分がうろたえなくてはならない理由などどこにもないのに。
続いて今朝、更衣室で見た裕子の服装を思いだした。裕子は袖と胸元がシースルーのワンピースを着ていた。いい服と褒め、それ以上は立ち入らなかったが、こういうことだったのかと納得がいった。
おそるおそる柱から顔を出すと、二人のうしろ姿が三十メートルほど先にあった。
そこで初めて二人が腕を組んでいることを知り、軽いショックを受けた。
不思議な感情だった。それは嫉妬といわれても仕方のない、黒い気持ちだった。
とりたてて高梨に気があったわけではない。これが知らない女と腕を組んで歩いているのなら、あわてはしなかっただろう。相手が裕子というのが、ショックだった。
二人はレストランの並ぶ方角へは進まず、どうやら駅へ向かう様子もなく、脇の道を足早に歩いている。みどりは、気がついたらそのあとをつけていた。
その先に新しくできたホテルのネオンがあり、胸が小さく締めつけられた。
入るのだろうか。入ったとしたら、二人はすでに肉体関係があるということになる。初めてというには、裕子も高梨もあまりにリラックスした雰囲気なのだ。
裕子の横顔が見え、どきりとして距離をおいた。女同士では見せたこともない、よそいきの笑顔だった。
二人は大理石のエントランスのあるホテルの前にさしかかると、あっさり中に入った。予想していたことなのに、いざ目の前でそうされると、なんだか打ちのめされたような気分になった。
心臓が高鳴っていた。みどりはホテルの前で立ち止まると、ガラス越しに奥のカウンターで手続きをしている高梨を見た。裕子は少しうしろに立っていた。中は照明が明るいので、暗い路上にいるこちらはわからないだろうと思った。
受付を済ますと、ボーイを断ったらしく、二人だけでエレベーターホールに向かった。そこで柱の陰に消えた。
裕子はどんなふうに抱かれるのだろうと不意に頭に浮かび、そんな想像はしたくもないとかぶりを振った。
駅に向かう足取りは重かった。嫉妬じゃないんだと自分に言い聞かせたが、ならばこれがどのような感情なのかは自分でも計りかねた。
早く家に帰って布団でもかぶりたかった。
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その日、川谷信次郎は朝から実家の文具屋に行き、母に借金を申しこんだ。二百万円貸してほしいと告げると、母は驚き、信次郎の仕事を心配したが、事情を説明すると信金に預けてある二百万円を解約して貸してあげると言ってくれた。ついでに兄に連帯保証人になってほしいと頼んだ。兄は、近所の書店の二階に文具売り場ができたと、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたが、信次郎の願いに対しては首を縦に振った。しおらしく頭を下げると、「兄弟で断ってどうするんだ」と少し怒ったように言った。信次郎は肩の荷がひとつ降りたことにほっとした。肉親だから断られることはないとわかっていても、返事が延ばされたりしたら、自分は落ちこんだだろうなと思った。
大急ぎで工場に戻り、仕事に取りかかった。夕方までに千五百個の部品にネジ穴を刻み、それを北沢製作所に納品しなければならない。ついでに外注担当の神田からタレパンの販売会社を紹介されることになっている。遅れるわけにはいかない。
幸いなことに松村は二日間無断欠勤しただけで、この日は出社してきた。
朝、なるべくふつうに出迎えようと考え、かといって黙っているのも妙な気がして、「よお、大将、頼りにしてるよ」と軽口をたたいた。松村はうつむいたままで会釈し、それでこの件は終わりとなった。この若者はこの先どうやって生きていくのだろうと思うことはあるが、信次郎が心配しても仕方のないことだった。
信次郎はタッピング工作機の前に座り、部品を台の上にセットし、右足でペダルを踏んだ。上からドリルが降りてきて、金属片を飛ばしながらネジの穴をきれいに開けていく。松村は図面に沿って黙々と形の削り出し作業をしている。タイ人のコビーは小さくリズムをとりながら溶接機を動かしている。松村が二日休んだせいで、仕事は大幅に遅れていた。
一時間ほどして春江が戻ってきた。信金に定期預金を解約してくるように頼んであったのだ。
春江は困ったような顔をして信次郎の背中をつついた。
「信金の片岡さん、表まで来てるの」
「どうかしたのか」
「とにかく」
うながされて外に出ると、いつも集金に顔を見せる片岡が額に汗を光らせて立っている。「自転車で一緒に来たから」と春江が言った。
「川谷さん」片岡が懇願するような声を出した。「ぼく、支店長に怒られちゃいますよ」
「いや、そうだろうけど……」信次郎が言葉につまる。
暗い工場からいきなり外に出たため太陽がいっそう眩しい。天気予報は夏日になると言っていて、その通り全身に日差しがきつく降りかかった。
「奥さんからだいたいのお話は伺いましたけど、何とかなりませんか? これからボーナス期までは、ぼくらも預金獲得のノルマがきついんですよ。いま解約ということになると、ぼくなんか逆にマイナス査定で上からとっちめられちゃいますよ」
「うん……」
「融資ならうちでも考えさせてくださいよ。そりゃ都銀さんみたいなわけにはいかないでしょうけど、精一杯のことはやらせてもらいますから」
「でも、ほら……」
「じゃあ三百万、うちから借りてください。すぐに稟議《りんぎ》通して二日で下りるようにしますから」
「でもさあ、三百万預けて三百万借りるって、それじゃあ金利分だけ損しろってことじゃないの」
「しかし、ここで解約なされると今後のことが……」
それは一理あった。結局ビジネスといえども日頃の付き合いなのだ。
「機械を入れて、利益が上がったらまたおたくに預けさせてもらうからさ。試算してみたけど、返済しながらでも月に数十万は純利が出るはずだし」
「ならば三百万、借りてくださっても」
「そりゃそうだけど」
「お願いしますよ、川谷さん」
片岡というまだ顔に幼さの残った若者が、土下座せんばかりの勢いで頭を下げている。この若者も毎日の成績を問われているのだろうな、と信次郎は思った。ここで貸しを作っておけば、とも思った。こまったときに親身になってくれるのは、都銀よりも信金の方だった。
「お嬢さんの進学ローンでもまた相談に乗らさせてもらいますし」
信次郎が春江を見た。
「またおまえは家のことをぺらぺらと」
「だって」と春江。
「あ、すいません。わたくし、よけいなことを」
「いや、いいんだよ。娘が来年高校を出るんだけど、短大に行きたいなんて言うもんだからね」
「ええ、でしたら、ぜひその節はうちの方で……」
黙っていると片岡はもう一度「お願いします」とよく通る声で言い、頭を下げた。
「ちょっと、いま、とにかく忙しくてさ……。その件は、ひと晩だけでも考えさせてよ」
信次郎が言った。そう言いつつ、ここまで頼まれたら解約はできないだろうなという諦めが頭をよぎる。
「ありがとうございます。必要書類を用意して待ってます」
片岡は信次郎の性格を知っているかのように、再度、深々と頭を下げた。
信金の年利が七・五パーセントとして……と頭の中でソロバンをはじいてみたが、気が急《せ》いているせいか答えが出てこなかった。信次郎は腕時計を見た。それより仕事に戻らなければ。
気がつくと片岡のうしろに中年の男が立っていた。
市役所のいつもの職員だった。
「またかよ」
口の中でつぶやいたつもりがつい声に出てしまった。
信金の片岡が「それでは失礼します。よい返事を期待してますから」と元気に言い残し、自転車にまたがり去っていく。
「そういやあ今日の昼に返事するって約束だったよね」
「ええ。川谷さんもお忙しいとは存じますが」
「忙しいよ。死ぬほど忙しいよ」
とげのある言い方だったが、愛想よく振るまう心境ではなかった。
「わたくしどもも、できるだけ早い解決を願っておりまして……」
信次郎は溜息をひとつついた。裁判でもなんでも好きにしろと言っていた山口社長の顔が頭に浮かんだ。
「悪いけど、太田さんの要求は呑めないよ。残業を制限されたりなんかしたら、うちなんかたちまち干上がっちゃうよ」
「では、どの程度の条件なら……」
「だからぁ」やけくそのような声になった。「うちらの仕事はそうやって杓子定規《しゃくしじょうぎ》に測れるもんじゃないって何度も言ってるじゃないの。急な仕事が入れば徹夜作業だってやんなきゃなんないの」
「では、一切拒否なされるということですか」
職員が信次郎の顔をのぞきこむ。
「ああ」信次郎は生返事し、少し間を置いてから「拒否だな」とつぶやいた。
「無理なものは無理だ。夜七時以降の残業は月に七時間までなんて、そんなの、もしあんたたちが言われたらどうするのよ。はいそうですかって仕事止めるのかい」言いながら無性に腹が立ってきた。「残業しない会社なんてありゃしないんだよ。あの太田って人だって毎日遅くまで会社にいるわけでしょ。どうして人にそんなこと言えるのよ」
「ええ、しかし、オフィスは音を立てないものですから」
「ふざけるなよ」
とうとう声を荒らげてしまった。
「おとうさん」それまで黙って聞いていた春江が腕をつかんだ。
「何だよ」
「ちょっと、近所に聞こえるから」
「知るかよそんなこと」
「まあまあ」と職員。
「町工場をいじめてそんなに楽しいのかよ」
「いえ、けっしてそんな」
「あとから来ておいてふざけるんじゃないよ」
「あの、どうか、落ち着いて」
「もう帰ってくれっ。こっちは猫の手も借りたいほどの忙しさなんだよ!」
信次郎は踵を返すと、さっさと工場の中へと戻っていく。
なんなんだよ、どいつもこいつも自分の都合ばかり言いやがって。こっちがおとなしくしてりゃあつけ上がりやがって。そうそういい顔ばかりしてられねえぞ。
他人相手に怒鳴ったことなどめったにないので、興奮している自分に違和感があった。小さないらいらが積み重なり、突然、場違いに噴火してしまった感もあった。
「ほんと、すいません」
春江が背中で職員に謝っていた。
何を謝ってるんだ。信次郎は腹の中で毒づき、ますます怒りが膨らんでいく。
事務室を抜けるとき電話が鳴った。
母の呑気な声が受話器の向こうから聞こえた。
「あ、信次郎かい。いま、信用金庫の人が来てるんだけどね。あんたの話をしたら、わたしが連帯保証人になるなら二百万円貸してくれるって言うのよ。どうする?」
「どうするって」
「わたし、解約しないでくれって頭下げられちゃって。ほら、やっぱり昔からの顔見知りだから」
信次郎はできるだけ感情を抑えて、母に解約してくれるように頼んだ。
母は、「でも」とか「そうだけど」と言いながら、最後は説得に応じてくれた。
どいつもこいつも。信次郎は何度もその言葉を繰り返していた。
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不気味な沈黙が二十歳の若者を取り巻いていた。
聞こえるのは、頬が平手打ちされる音と自分の息遣いだけで、ときおりそれに低い呻き声が混じり、鼓膜を内側から震わせた。
首筋を、ねばっこい汗がぬるぬると這《は》い落ちていく。あるいは、それは血なのかもしれなかった。
野村和也は両手を縛られている。その紐の先は、二段ベッドの手摺りにくくりつけられていて、中途半端に吊るされた恰好《かっこう》になっている。
立っていないと全体重が手首にかかり、腰が砕けたとたん、腕の関節が激しく軋《きし》んだ。
もっとも体を起こしているだけの力はもはや和也にはなく、解体された肉のようにただベッドにぶら下がっている。
目は閉じていた。片方の瞼《まぶた》はとっくに眼球をふさいでおり、もう片方にしても、仮に開けていたとしても視界がぼんやりと霞《かす》むだけだった。
タカオが「先輩」と呼んでいたやくざ、山崎はすでに怒鳴ることも凄むこともやめていて、ひたすら和也を痛めつけることに没頭していた。
汗と血でぐちゃぐちゃになった和也に触れるのがいやなのか、途中から革の手袋をはめるようになっていた。
山崎の繰りだすビンタからは明らかな殺意を感じた。
もはや殺さないと気が済まないという、憤りを通り越した冷たい意志がひしひしと伝わってきて、和也の心は完全に打ち砕かれていた。
助けを請う気も起きなかった。どこが痛いのかもわからなかった。全身が燃えるように熱く、こめかみがズキズキと疼《うず》いている。
三十分ほど前に、下の事務所から、同じビルの屋上にあるプレハブ小屋に連れていかれた。山崎と若いパンチパーマに挟まれて階段を上がった。死刑台に昇る気分とはこのことかと思った。
「おれはな、もうええ考えが浮かばんのじゃ」と山崎はつぶやいた。
その言葉の裏には、もう一回、一人で金を作ってこいと命令したところで、この男は逃げるに決まっている、そういう確信があるようだった。
和也にしたところで、もはや金を納めて盃を貰おうという考えなど、頭の中のどこを探してもなかった。
タカオが逃げた。にわかには信じられないことだった。それを告げられたときは、いかなる感情も湧いてこず、ただ目眩《めまい》をこらえるのに必死だった。
プレハブ小屋には二段ベッドがふたつ並べられていた。どうやら部屋住みの若い衆が寝起きする場所のようだった。
うしろ手に紐で縛られ、床に正座させられたところで山崎が低く言った。
「おい、野村。おのれ、どないさらすつもりなんや」
和也は黙って目を伏せていた。考えなど浮かぶ道理もなかった。
「おのれが金を作らんかったらな、今度はおれがシメられるんじゃ。こないなヘタ打って上が黙っとるほどこの世界は甘いもんやあらへん。なあ、聞かせなや。おのれ、これからどうやって責任取るつもりじゃ」
それでも和也は下を向いていた。
「タカオのガキは絶対に許さん。どんな手ぇ使っても捜しだして殺したる。手初めにあいつの実家に押しかけて親兄弟全員カタにはめたる。親子の縁を切ってようが関係あらへん。やるっちゅうたらやるんや」山崎はそこで少し語気を強めた。「やくざはな、ナメられたらしまいなんじゃ。てめえらみたいなガキにナメられて、はいそうですかで引っこんどったら、おれはもうこの世界では生きていけんのじゃ。さあ、はよ聞かせえ。おのれはどうやってオトシマエをつけるつもりや」
「あの……」和也はか細い声で答えた。「もう一回、事務所荒らし、やってきますから……」
「嘘や」山崎がかぶせるように言った。「嘘つかんかい」二度目はいきなりの怒声だった。
「ここで放したら、おのれは逃げるんじゃ。そうに決まっとる」
耳元で風が、待ち構えていたように唸りをあげる。山崎の右足が飛んでくると、革靴の甲が頬の肉を裂き、口の中で何かが弾けた。たまらず床を転がった。
「誰がおのれの言うことなんぞ信じるか」
もう一度風が向かってきて、今度はあばらに靴がめりこむ。むせ返って口を開けたら、血が飛び散ってついでに折れた奥歯が宙を舞った。
「おのれ、この街になんか用事でもあるんか。あらへんやろ。そやさかいとっとと逃げるに決まっとるんや」
いえ、逃げません。
答えようとしたとき、靴の先が唇をかすめた。たちまち血があふれ、和也の口をふさいだ。うっかり何か言おうとすると、蹴られたはずみで舌を噛み切ってしまいそうだった。和也は顎を引き、前歯をしっかりと合わせ、無言で首を振り続けていた。
「殺したる。せめておのれを殺して、おれは組に詫びを入れるんじゃ」
山崎の暴力は容赦がなかった。逃げ惑うゴキブリを退治するかのように和也の体中を踏みつけ、逃れようとするとすかさず蹴りあげた。
続いて山崎は、そばで見ていたパンチパーマに命じ、いったん和也の手の紐を解いてから、今度は二段ベッドに吊るすようにあらためて縛りあげる。
拳が振ってきて和也は顔をそむけた。まるでサンドバッグだ。右に左に体が揺れた。
「おりゃー!」
山崎はもう言うべき台詞も見つからないようで、ひたすら激高の雄叫《おたけ》びをあげている。
和也は吊るされながらも身を縮め、腹の底から込みあげてくる恐怖に耐えていた。少しでも気が緩むと、大声で叫んでしまいそうだった。
なんでこうなるのかと思った。
少しでもいいことがあると、その数倍の量で悪いことが自分にのしかかってくる。
まるで人の運命を弄《もてあそ》ぶかのように、悪魔がどこかでほくそ笑んでいる。
もうたくさんだ。殺してくれてかまわない。
そもそもこの世に生を受けたときから、配られたカードがひどすぎたのだ。これでどうやって手を作れというのだ。全取っ替えでもしなけりゃ、おれの人生は永遠に負け続けるのだ。一度きりの人生で、貧乏くじを引かされて、これを神様はどうやって説明するつもりなのか。
もういい。あきらめた。死にたくはないけど、ここで命拾いしたとして、この先何かいいことでもあるのだろうか。ありゃしないだろう。
和也から生への渇望がそろそろなくなろうとしている。生きる気力が完全に萎《な》えたのが自分でもわかった。
山崎は殴り疲れると、椅子を持ってきて和也の正面に腰かけた。肩で息をしていた。そしてビンタを張った。もう口を利かなかった。
黙ったままで、間欠的に平手を和也の頬に繰りだした。
山崎は考えが浮かんでこないといった様子だった。何かをやらせるにせよ、肝腎《かんじん》の脅し文句が出てこない。山崎もまた途方に暮れているのかもしれなかった。
ただしそれで怒りが軽減されるものでもなかった。
むしろ時間が経過するほど苛立ちが膨らみ、暴力に執物さが増した。ときおり「ふん」と鳴らす鼻が、男の残忍さを物語っている。
平手はときどき拳に替わった。小動物をいたぶるように、いつまでもリンチを続けていた。
「おい、野村よ」山崎が久し振りに口を開いた。「なんかええアイデアがあったらおれに教えてくれや。おのれを逃がさん方法と、六百万の現金を作る方法や」
言いながらパシンと平手が飛んでくる。
「マグロ漁船にでも乗るか。遠洋漁業でな、一年間、海の上や。これやったらおのれも逃げられへん。……でもな、若造一人を業者に売り渡したところで二百万にもならんのじゃ。……おい、黙っとったらわからんぞ」
うっかり息をはいたら、口の中で溜まっていた血が流れ落ちた。
「やっぱり兄貴に頼んで病院、紹介してもらうか。腎臓。前にも言っとったやろ。腎臓はけっこうな値で売れるんや。六百万にはちょっと足らんかもしれんけど、それしかないやろ。なあ、おのれいっぺん手術台に乗ってこいや」
喉がひりひりした。水が飲みたかった。
もう呻き声すら出てこなかった。
「おれもな、銭、急いで作らなあかんのや。てめえらがパクッたトルエン、イラン人を使ってさばいとるけどな、すぐには銭にならんのや。まさかよそのシマで商売するわけにはいかんしな。そうなると、どうしてもひと晩で十万とか二十万とかのあがりにしかならへん。おれも立場が悪うなっとるんや。おい、聞いとるか。てめえらのせいでな、おれも上からケジメ取られそうなんじゃ。ええか。やくざっていうのは、ごめんでは絶対に済まん世界なんじゃ。てめえら簡単に盃が欲しいとかぬかしやがるけどな」
そのとき、鈴虫が鳴くような携帯電話の音が響いた。
それは和也のズボンの尻ポケットから発せられていた。
「誰や」山崎が言った。「誰からなんや」
山崎が色めき立つのがわかった。
「タカオか。そうやろ。あのガキからの連絡なんやろ」
山崎は椅子から立ちあがると、和也の尻に手を回し、携帯電話を引き抜いた。そして窓辺へ歩くと、スイッチを押した。
「もしもし」やくざとは思えない普通の声で応対した。態度が豹変した。
「あ、いや、ちゃうけどね……。いま、ちょっと席を外しとってね……。ケン? ケンって野村のことかいな?」
めぐみからだとわかった。わかったけれど喉が石のように固まって声が出ない。
「お嬢ちゃん、野村に何か用でもあるの? なんなら伝えとくけどね。うん……うん……アパートに荷物運んだって言えばわかるの? ほお。で、その荷物って何やのん。……あ? 着替え? なんや、お嬢ちゃん、野村の彼女かいな。うん、うん……おれ? おれは友達みたいなもんやけどね」
何を言いやがる。どういうつもりだ。
「いや、そういうもんやなくて、まあ兄貴分ってところや。……そうそう。なんや、お嬢ちゃん知っとるんやないか。野村に組の盃あげよう思うてな……」
この野郎、何をたくらんでいやがる。
「そうかあ、すぐに戻って来るんやけどな……。どや? お嬢ちゃん、もしよかったら事務所まで遊びに来いへんか?」
何だって――。体を起こしかけたところで、これまで脇で突ったっていたパンチパーマがすばやく和也の頭に毛布をかけた。両手で顔が押さえこまれ、声をふりしぼったつもりが、厚い布に遮られた。ついでに山崎の声もフィルターがかかったみたいにぼんやりと霞んだ。
「そうやろ、そうやろ。いっぺんこういうとこ見とくのもええで。……恐いことあらへん。みんな女の子にはやさしいおにいちゃんや。道順、教えたるわ。……そうそう、タクシー使っておいで。三十分もかからんわ」
だめだ。来るな。来たら――。
「うん、うん。ほな、待っとるで」
山崎は電話を切ると、和也に歩み寄り、頭の毛布を剥いだ。
「なんや。おのれ、スケがおるんやないか。隅に置けんやっちゃのう」
そう言って見下ろし、にやりと口を歪めた。
「ええ人質ができそうや。それとも、おのれのスケ、堀之内《ほりのうち》にでも沈めるか? 可愛い声やったで。高《たこ》う売れるかもしれんで、おう?」
「金……」和也がかろうじて声を出した。「作ってきます。だから……」
「なんやて? よう聞こえんな」
「金……必ず作ります。絶対に、逃げません」
「そうか、よう言った。おれはな、その言葉を待っとったんやで」
「だから、女は、帰してやってください」
「あほう」山崎が爬虫類《はちゅうるい》のように笑った。「そんなお人よしがどこにおる。おのれが金を作ってくるまでは預からせてもらうで。安心せえ。おのれが逃げんかぎりは大事なお客さんや、手荒な真似はせえへんがな。そやけどな、もし逃げよったら、そんときは覚悟せえよ」
黙ってうなずいた。
「おれも必死なんや。メンツがかかっとるんや。自分のフトコロやったら誰がおのれみたいなチンピラ相手にここまで追い詰めるかいな。組のフトコロなんじゃ。てめえらが思っとるほどおれは幅を利かせとるわけやあらへん。組ん中ではまだペーペーや。兄貴はいま義理がけで大阪へ出かけとるけど、帰ってきてこないなことになっとるのを知ったら、おれがヤキを入れられるんじゃ。そやさかいおれには死活問題なんじゃ。どんなやばい橋でも渡ったるで」
銀行強盗でもなんでもやってやろうと思った。
和也は舌で唇をなめた。舌を這わせた先は他人の肌のように感覚がなく、生温かい血の味がした。
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やっとのことでネジ穴開け千五百個の作業を済ませ、トラックを飛ばしに飛ばして北沢製作所へ納品に出かけると、外注課の神田は応接セットのソファで背広を着た男と談笑中だった。
「やあ、川谷さん。ご苦労様」
「あ、どうも。二十分ばかり遅れてしまって」川谷信次郎が頭を掻いて会釈した。
「いいよいいよ、それくらい」神田が顔の前で手を振る。そして、立ちあがって上着の釦《ボタン》を留めた男の方を向いて「こちら、レインボー商事の矢野さん」と紹介した。
「このたびは神田さんの方からご紹介いただきまして……。セールスを担当させていただいてます、矢野と申します」
「あ、こちらこそ」
名刺を交換し、自分も腰を下ろそうとしたところで神田が「ちょっと外へ行こうか」と言った。「川谷さん、時間、あるでしょ?」
一刻も早く帰って溜まった仕事を片づけたかったが「ええ」と反射的に答えた。
三人で工場を出る。「このへんの喫茶店はうちの人間ばかりだから」神田はなぜか会社の人間に会いたくないようなことを言い、先に立って線路のガード下の細い道に向かった。
そのガード下は高さが一メートル五十センチしかない。信次郎がトラックで行くとき、いつも遠回りを強いられる短いトンネルだ。
「うわあ、こんな道があるんですね」矢野が腰を屈めて歩きながら笑う。
「頭、気をつけてね。それから車も」と神田。
脇をセダンの乗用車が、トコロテンの突き棒のように一直線に通過していった。
「車の屋根もぎりぎりですね」信次郎も感心してしまった。
「タクシーはだめみたいだね。屋根にランプがあるから」
「市役所もなんとかすればいいのに」
「あるだけ感謝しろってことなんじゃないの。入場券買って駅を通り抜けるのも馬鹿らしいしね」
しばらく歩いて駅前の商店街に出た。目の前にはかもめ銀行の北川崎支店がある。信次郎がその看板を見上げる。ここで金を借りるのだなと思ったら、妙な親近感が湧いてきた。
ガラス張りの喫茶店に入り、奥のテーブルで向かい合った。矢野という名のセールスマンがアタッシェケースから書類を取りだし、パンフレットを上にして信次郎に差しだした。
「これがカタログと仕様書になります。すでに概略は神田さんの方からお聞きかと思いますが、アマダ社製のタレットパンチプレスで、九二年モデルになります。ですから約六年落ちの商品ということですね。全長が約四・七メートル、全幅が約三・七メートル……」
矢野がてきぱきと工作機械の説明をする。いかにも慣れているという感じで、信次郎の投げかけた、メンテナンスや保証期間といった二、三の質問にも澱《よど》みなく答えた。
あらためてその写真を見ると、タレパンは威風堂々たる機械で、信次郎の心が膨らんだ。これを工場の一角に設置したところを空想した。
「お値段の方は精一杯勉強させていただきまして、消費税、搬入経費等すべて込みでジャスト二千万ということで……」
その値段に関してもすでに神田を通して聞いていた。信次郎はゆっくりとうなずき、出された見積書に目を走らせる。新品が六千万円以上する機械なので、概《おおむ》ね妥当な金額に思えた。
「技術者のほうはこちらで派遣します。それも費用に含まれています。都合二日間、プログラミングなどの講習を行いますので、できましたら社長様自ら受講していただけたらと思います」
「どう、人は雇ったの?」神田が口を挟んだ。
「いえ、それが……」
「まだなら紹介するよ。うちを定年退職した人がいるんだけど、長いこと旋盤回してきた人だから腕は確かだよ」
「あ、そうですか。これは、なにからなにまで……」
「もっともこれはコンピューター制御だからね。そっちの知識は保証できないけど」
「ああ、それはそうですね……」
「大丈夫ですよ」今度は矢野が身を乗りだした。「たいていの方なら使いこなせるように出来てますから」
その意見は少し怪しかった。図面を見ながらデータをキーボードでインプットしていく作業なので、少なくとも簡単な計算ぐらいはできないとお話にならないはずだった。もっとも、タレパンの操作は自分で覚え、単純な溶接や平削《ひらさく》をそのベテランに回すという手も考えられるので、退職者でも当座の人手としてはありがたい。
その後も矢野の説明は続いた。工場の前の道幅まで聞かれ、大型トレーラーが入れるかどうかの検討もなされた。信次郎は、これまでどこか他人事のような受け止め方をしていたが、具体的な打ち合わせが進むにつれ、気持ちの昂《たか》ぶりを覚えずにはいられなかった。同時に、責任の大きさも痛感した。喉がやたらと渇き、水をたて続けに飲んだ。引き返せないな、とも思った。
話が一段落したところで、神田と矢野が目配せをした。
「川谷さん」神田が少しあらたまった口調で言った。「ところで振り込みのことなんだけどね。振り込み先は……」神田は小さく咳ばらいすると、作業着のポケットからメモ用紙を取りだした。「ここにしてくれないかな」
そこには「関東機器販売」という社名と口座番号が書いてある。
「ええと、これはどういうことで……」
「この会社を経由して川谷さんに販売するってことにしたいんだよね。もちろん、機械は矢野さんが保証するし、ぼくもついてるし、そのへんはまるで心配ないから」
神田がそう言い、矢野が隣でうなずいていた。
信次郎は言葉を探している。どういうことか理解できなかった。
「この関東機器販売という会社は……」
信次郎が聞くと、それには矢野が答えた。
「ご心配なく。実際にある会社です。わたしの友人がやっている販売会社で、今回はそこから購入するという形でお願いしたいわけで」
「あの……」信次郎が遠慮がちに尋ねる。「もちろん神田さんの紹介ですから、何も問題はないと思うんですが、何と言いますか、やっぱり二千万っていうと、わたしにとっては非常に大きな買い物なわけですから……」
「そうでしょうね」矢野が真顔で相槌を打った。
「どういうことなのか、ちゃんと知っておきたいんですけど」
「まあ、はっきり言うとね」神田が少し声をひそめた。「矢野さんの知り合いが経営する会社の名義を借りて、ぼくら、少しコミッションみたいなものが欲しいんだよね」
神田は居心地が悪いのか、少し顔を引きつらせた。
「もちろん、だからといって川谷さんにふっかけてるわけじゃないよ。この値段はほかよりも良心的な設定だと思う。実を言うと、このタレパン、矢野さんのところがリースした先が倒産してね、大慌てで回収してきたブツなんだよ。いつまでも倉庫に置いておくわけにはいかないし、矢野さんとしても早めに次の買い手を探したいと……。それで相談を受けたわけなんだ」
「はあ、でも、いくら倒産した先の機械といっても……」
それが高額な商品を急いで売る理由にはならないように思えた。
「製品に付属しているオプション類をね」話を矢野が引き継いだ。「回収できなかったことにして会社には報告してあるんですよ」
矢野は、神田とはちがってくだけた笑みを見せ、陽気に振る舞っていた。
「それでさっさと知り合いの販売会社に安く転売しちゃったわけです。もううちの損益は三月で決算済みだから、何も問題はないわけです。あとは川谷さんに買いあげていただけると、これ以上倉庫代を払わなくて済むと」
「じゃあ、どうして、この関東機器販売ってところが営業しないで矢野さんが……」
「あ、ノウハウがないわけですね」矢野が明るく言う。「だって、その会社、オフィス機器のディーラーですから」
信次郎は呆れた。簡単に言えば矢野が仕組んだ業務上横領ではないか。その差額は、神田と矢野と、矢野の知り合いの経営者とやらが山分けするのだ。どうりで神田がしつこく勧めるわけである。
「あのう……」
「何でしょう」
「製品には何も問題はないわけですよね」
「もちろんです」
「アフターサービスなんかも……」
「大丈夫です。わたしに連絡いただければ当社の顧客と同様に面倒みさせていただきます」
この男たちはいくら儲けるのだろうな、と信次郎は思った。おそらく数百万円の金を三人で分けるのだろう。うまい話には裏がある、か。
「神田さん」こうなったら調子を合わせるしかない。「仕事の方は、ちゃんと回していただけるんですよね」
信次郎はわざと下卑《げび》た口調で笑みを作った。山口社長の言葉ではないが、外注担当と共犯関係になるのは、下請けにとってむしろ都合のよいことなのだ。
「ああ、もちろんさ。すぐにでも出せるよ」
神田はほっとしたように表情をゆるめると、具体的に他社の名前を出し、そこの発注分を川谷鉄工所に回せると言った。「わたしも営業させてもらいますよ」ついでに矢野までが調子を合わせた。
「あのう」そうなるとますます勘ぐりたくなった。「かもめ銀行の高梨さんも、これには一枚噛んでるわけですか?」
「ううん。まさか」神田がかぶりを振った。「あっちはあっちの事情があるんじゃないの。なんか支店長のうしろ盾で成績を上げたがってるみたいだけどね」
「いや、ふつう都銀さんっていったら、うちみたいなところにはまず融資なんかしてもらえませんからね」
「貸してくれるっていうんだもん、堂々と借りればいいさ」
信次郎はラッキーなことだと思うことにした。裏があったことでケチがついた気がしないでもないが、とにもかくにも仕事は増えるのだ。
その夜、遅くまで残業をして母屋《おもや》に戻ると、銀行に提出する書類作成をした。決算書、試算表、資金繰り表などをまとめ、矢野から渡された製品カタログと見積書を添えてファイルにした。信金からおろすはずだった三百万円は結局借りることにした。その分、月々の返済が新たな負担になるが、それは仕方のないことだった。
出来上がった書類を眺めながら、信次郎は居間でビールを飲んでいた。開業以来の冒険だなと、少々大袈裟な感慨が湧いてきた。長い不景気のせいですっかり諦めることに慣れていたので、この手の気持ちの昂ぶりは久し振りだった。そういえば、昔はハワイ旅行に行ったこともあれば、ブランデーを飲んだこともあったのだ。
もしもタレパンが入って仕事が回り始めたら。それは信次郎にとって甘美な空想だった。そろそろ古くなったテレビも買い替えようと思った。実家に行ったとき、横に長い大型のテレビを見て、自分の知らない間に世の中が進んでいることに小さな気おくれを感じていた。パソコンというものも買おうと思った。いつまでも手書きの請求書を渡していたのでは、いかにも遅れた会社の印象があった。
「自分からおとうさんに言いなさい」台所から妻の低い声が聞こえた。さきほどから妻は娘の美加とひそひそ話をしている。何だろうと思っているとガラス戸が開き、春江が顔を出して「おとうさん、美加が進路のことで話がしたいって」と目配せした。美加が、親子なのに恥ずかしそうな表情で入ってくる。
「何だ」
「明日、学校で進路相談があってぇ、就職か進学か、決めなきゃなんないしぃ」
どういう言葉遣いかと呆れたが、文句は言わなかった。
「担任と個人面談しなきゃなんないから」
美加はもじもじした態度で父親の顔を見ようとはしない。
「おまえはどうしたいんだ」
「短大、行きたいけど」
「ちゃんとお願いしなさい。お金出してくれるのおとうさんなんだから」
春江がうしろから口を挟んだ。
美加が頬を赤くしてぽつりと言った。
「……短大へ行かしてください」
「ちゃんと勉強してくれよ」
「はい」
何年も聞いたことがないしおらしい返事だった。
「遊ばせるために大金出すわけじゃないんだからな」
「はい」
「うちの手伝いもちゃんとすること」言いながら信次郎も照れ臭かった。
「うん、わかってる」
「じゃあ、行かせてあげるよ」
「ありがとう……」
最後は消え入りそうな声だったが、信次郎には心がこもって聞こえた。
美加が立ちあがり、逃げるようにして二階の子供部屋に去っていく。信次郎はもっと娘と話をしたかったが、それ以上に、自分が久し振りに父親らしく扱われたことに満足していた。
「アルバイトさせるから」麦茶を運んできた春江が言った。
「ビール飲んでるのに麦茶持ってきてどうするのよ」
「あら、まだ飲んでたの」
「それに、ビール飲んだあとにお茶なんて飲みたくないだろうに」
春江が横に座って煎餅《せんべい》をかじった。
「美加のこと、ありがとね」
「何だよ、おまえまであらたまって」
「おとうさん、健康に気をつけて」
「わかってるさ」
こちらも久し振りに夫婦らしい会話をした。春江は、美加が将来は保母さんになりたがっていることを教えてくれた。へえー、茶髪のくせしてそんな古風な一面もあるのかと、信次郎は意外な気がした。
「そうそう、九時頃、また無言電話が何回かあったの」春江が浮かない顔をした。生返事をしただけだが、二人ともなんとなく心当たりがあるのでその話題には深入りしなかった。
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顔を見られたくないので帽子とサングラスを買った。
通りすがりのスポーツ用品店に入り、選ぶ余裕もないので最初に目についたものを手にしてレジに向かうと、若い女性店員は脅えたように下を向いて商品を紙袋に入れ、顔を腫らした若い男に手渡した。
鏡に向かう勇気はなかったが、街のショーウインドウにちらりと映る自分の姿を垣間《かいま》見るだけで、顔の造作が変わっているのが充分すぎるほどわかった。あばらは軋み、蹴られた背中は熱く疼いている。
歩きながら、野村和也は体の震えが止まらなかった。足を交互に出していても、それが、地についている気がせず、体中の関節がぎくしゃくしていた。
心の揺れはさらに激しかった。風にさらされた蝋燭《ろうそく》の炎のように頼りなく、少しでも強い風が吹いたなら、たちどころに存在をなくしてしまいそうだった。
「館野親和会」に現れた何も知らないめぐみは、屋上のプレハブ小屋に連れてこられ、そこで顔色を失った。目を見開くと、少しのタイムラグを置いて悲鳴をあげ、その口はたちまちパンチパーマの舎弟にふさがれた。
「お嬢ちゃん。可愛い子やないか」山崎がサディスティックに口を歪めた。「お嬢ちゃんの彼には、これからお金を作ってきてもらうよって。そやさかい、それまではお嬢ちゃん、ここでおとなしゅう待っとるんやで」
和也はけんめいに声を振り絞り、絶対に逃げないと訴えたが無駄だった。
「安心せえ、おれらはこう見えても紳士や。おのれが逃げんかぎりお客さん扱いしたる。ベッドに寝かせたるし、ちゃんと出前も取ったるがな。そやけどな、おのれが妙な気を起こしたら、そんときはわかっとるな。おれはなあ、もう懲役かて覚悟しとるんじゃ。行く道行ったるで」
山崎の目は完全にすわっていて、その奥には狂気さえあった。
めぐみは呆然自失の体《てい》で床にしゃがみこんでいる。度胸のいいめぐみが唇を紫色に染めて震えていた。
和也は何か話しかけたかったが、その前に腕の縄を解かれ、外へ放りだされた。
「おら、どこへでも行って金を作ってこんかい。きりのええとこで五百万じゃ。五百でみんな忘れたる。携帯のスイッチは切るな。出んかったらあのスケは容赦なく殺す。それから夜はここへ戻ってこい。おのれは金ができるまでここで寝泊りするんじゃ」
かろうじてうなずいた。
「ええか、おれは本気やぞ」山崎は言った。言われなくても目を見ればわかった。
和也はおろおろと街をさまよい歩いた。スカジャンの右ポケットにはバタフライナイフがあった。これ一本で何ができるのだろうと思った。行きずりの恐喝をしたところで数万円にしかならない。金がある場所に押し入るしかなさそうだった。
川崎の盛り場にかかったところで携帯電話が鳴った。
ホステスの楓からだった。いつものように家に来ないかという誘いだった。そのとき黒いたくらみが和也の中で不意に浮かんだ。自分でも意外なほど、するりと出た考えだった。
とりあえず足を確保するため車を取りにいくことにした。白いグロリアは、アパートの近くの無人パーキングに停めてあった。何をするにしても車が必要だった。
和也はタクシーを拾うとアパートの前に乗りつけた。ふと二階の部屋を見上げると、ガラス越しにベージュのカーテンが掛かっているのが見え、めぐみが新しく買ったカーテンだとわかった。めぐみは見捨てられない。絶対に取り戻さなくてはならない。いったん入ろうかと思ったが、そうすると、布団の上に崩れ落ちてしまいそうなので、そのままパーキングに向かった。振り返り、今度ここに帰ってこれるのはいつだろうと空虚な気持ちのまま考えた。
住宅街の中にあるパーキングで自動支払い機の中に現金を入れ、グロリアに向かった。キーのリモコンでロックを解除し、運転席に乗りこむ。そしてドアを閉めようとしたところで、その扉が何かに当たった。振り向くと男がそのドアを手で押さえていた。
同時にフロントガラスに人影が映る。
三人いた。いずれも背広を着た男たちだった。一人が行く手をふさぐように前方に立ち、二人が運転席側に回っている。すでにドアに体を割りこませていた。
しまった。なぜ近づいてくる男たちに気づかなかったのか。
手遅れなのに、同じパーキングに停めてあった車から男たちが降りたつのを、視界の端で捕えていたことを思いだした。
「おにいさん、警察だけど、ちょっといいかな」
言葉は丁寧だが、その物腰はけっして柔らかくない。名乗らなくてもわかったが、ダメを押された気分だった。
「うわあ」うしろの中年の男が声をあげる。「おにいさん、どうしたの、その顔」
中年は油断させようとしてなのか笑顔を作った。
「ちょっと」二人揃って手招きをする。
和也が目線を落とす。ゆっくりと右足を外に出し、そこで素速く膝を折り、体重を乗せ、靴の底を手前の男の胸めがけて打ちつけた。きれいに前蹴りがヒットした。
ドア側にいた二人が重なって尻餅をついた。
「おい!」
男たちの怒号が飛ぶ。前にいた男がボンネットに駆けあがり、フロントガラスが影で覆われた。
かまわずドアを閉め、震える手でロックをかけた。ドンドンドンと前と横からガラスが激しく打ちたたかれる。
キーをイグニッションに差しこもうとして二度三度失敗した。
落ち着け。落ち着くんだ。
やっとのことでキーの先が何かを捕え、奥に回すとエンジンが唸りをあげた。
シフトをいちばん手前まで引く。アクセルを踏むのとサイドブレーキを外すのはほとんど同時だった。タイヤが猛禽類《もうきんるい》の鳥のような悲鳴をあげる。
いきなり目の前が開け、ボンネットの上にいた男が振り落とされるのが見えた。後方からはなおも叫び声が聞こえてくる。パーキングの出口のところで自転車をはねた。中学生の凍りついた顔が和也の網膜《もうまく》にくっきりと映された。
そのまま減速することなく歩道を横切り、車道に進入する。いきなり飛びでたセダンに驚愕して急停車するタクシーの運転手の顔がサイドウインドウ時しに見えた。どうしてこんなときに人の顔が焼きつくのかと思った。
警察だ。和也はハンドルから手を離して頭を抱えたかった。
盗難車の捜査か。いやちがう。そんなことぐらいで刑事が動くものか。
となると金庫破りだ。
目撃者がいたのだ。きっとそうだ。パソコン屋の裏に停めてあったグロリアを、あるいは丹沢の山奥にいた場違いな不審車両を、誰かが見たのだ。
和也は自分の甘さを呪《のろ》った。なぜ警察に対してはこれまで楽天的だったのだろう。大金の入った金庫が盗まれたのだ。警察が手をこまねいているわけがないじゃないか。
信号無視をした。少しだけブレーキを踏んで車のノーズを衝突覚悟で交差点に突っこみ、盛大なクラクションを浴びながら赤信号を走り抜けた。かすかなサイレンの音が後頭部に届いた。
この車はもうまずい。早く乗り捨てなければ。
また視界の先に赤信号があった。何台もの車が列を作っている。和也は対向車線に飛びでると、そのままアクセルを踏み続けた。正面から来た軽自動車が、ライオンに襲われた哀れなインパラのように慌てて方向を変え、ガードレールに激突した。すべての通行人が立ち止まり、暴走する白いグロリアを眺めている。
横断歩道を渡る人間どもを蹴散らした。次の瞬間、ハンドルを通して両腕に衝撃が走る。強引に割って入った交差点で乗用車の鼻先にバンパーをぶつけていた。
またしても運転手の色をなした顔が目に飛びこんできた。和也はアクセルを踏んだままハンドルを切り、乗用車を押し退《の》けるようにして前に進んだ。横っ腹をガリガリと音を立ててこすり、もう一度横断歩道で人を蹴散らした。凶暴化したグロリアが街に恐慌をばらまいていく。
これ以上は自分の身が危ないと判断して、幹線道路に出たところで路肩に車を停めた。エンジンも切らずにグロリアを乗り捨て、街を走った。
方角もわからず、ただ現場から離れることだけを目的に走った。
自分がどんどん深みにはまっていくのがわかった。
ついこの前まではちんけなカツアゲとトルエン泥棒だけだった。そんな自分が懐かしかった。
それが今では、車の窃盗に金庫破りが罪状に加わった。つい今しがた、自転車の中学生を撥《は》ね、衝突事故を起こした。そういえば刑事を車のボンネットから振り落とした。怪我を負わせていれば、さらに罪は重くなる。
十分ほど走って小さな公園に差しかかった。水道の蛇口を見つけ、一目散に駆け寄った。生ぬるい水を喉に流しこみ、帽子とサングラスを取って頭から水をかぶった。
胸が激しく高鳴っていた。あらためて全身に疼痛《とうつう》がよみがえった。
体の奥で何かがヒクヒクと痙攣《けいれん》した。肚《はら》の底から吐き気が込みあげ、和也はうずくまって胸を抱えこんだ。黄色いぬるぬるした胃液が吐きだされ、唇の先で糸を引いていた。喉元が焼けるように熱かった。
満身創痍《まんしんそうい》とはこのことだった。
めぐみのことさえなければ、このまま行き倒れたい気分だった。
タクシーに乗るのも怖かったので自転車を盗んで楓のマンションに向かった。タクシー無線は、警察の張る非常線に協力していると聞いたことがあった。夏のような午後の日差しを浴びて、和也は自転車を漕ぐ。Tシャツは汗でぐしゃぐしゃで、鼻と顎からはぽたぽたと汗が滴り落ちた。
マンションに着くと、楓が和也の姿に絶句した。
「ち、ちょっと、ノッポちゃん、どうしたのお」
和也は黙って入る。楓は慌てて中に招き入れ、ソファに和也を座らせ、水で濡らしたタオルを用意した。
「ねえ、どうしたのよ」
ジャンパーを脱がせようとして、その下のTシャツが血で染まっていることに気づき、小さな悲鳴を発した。
「とにかく、脱いで」
万歳をしてTシャツが脱がされる。上半身の皮膚のあちこちが内出血でどす黒く濁っていて、またしても楓が声をあげた。
「暴走族にやられた」和也は嘘をついた。
「いつよ」
「さっき。クラクションを鳴らされて、睨んだら、四人降りてきて、それで袋だたきにされた」
「どうして逃げないのよお」
楓は濡れたタオルを追加して、和也の顔や胸を冷やした。
和也が右手を伸ばして楓の乳房をつかむ。
「だめよ。こんなときに」
心配そうな顔でなおも手当てをしている。
和也は楓の腕を取ると、体を入れ換え、ソファに女を押し倒した。不思議な興奮があって、性器はとっくにジーンズを押しあげていた。
「ちょっとお」楓が戸惑っている。
かまわずのしかかり、股を押し広げ、ブラウスの釦を外し、ブラジャーをずり下げ、はみでた乳房をわしづかみにした。
「どおしたの、ノッポちゃん」楓がか細い声を出した。
「体は平気だよ」和也が荒い呼吸で言う。
「ならいいけど……」楓がつぶやいて目を閉じた。
強引に下着を脱がせると、自分も裸になって腰を動かした。
乱暴にしたかった。何かを吐きだしてしまいたかった。
楓は、いつものような喘ぎ声は出さなかったが、その行為がリズムを刻むと、徐々に掠れた溜息を漏らし、最後は和也の背中に爪を立てた。
欲望もあったが、こうする必要があった。セックスをすると、楓は必ず出勤に備えてシャワーを浴びるのだ。
ことのあとはベッドに移り、楓はしばらく和也の体をいじった。「ちゃんと治療した方がいいねえ」と、医者に行くことを勧めた。和也は生返事する。「少し横になりたい」と言ったら、思惑どおり楓は浴室へと消えていった。
早速ベッドから降り、ジーンズだけ穿《は》いて部屋を眺め回した。台所の横の浴室からシャワーの水がタイルを打つ音が聞こえた。
まずは隣の和室のタンスだ。下から引き出しを順に開けていく。そんな用心はしていまいと思ったが、念のために衣類をどけて底まで確認した。
通帳を探していた。水商売の独身でしかも年増だ。若い女のような無分別な浪費はするまい。普通に考えればかなりの蓄えがあるはずだ。
タンスをすべて物色したが何も出てこなかった。
再び視線をさまよわせる。サイドボードの上に小物入れがあった。歩み寄り、蓋を持ちあげ中をのぞく。それほど高価とは思えないアクセサリーが詰まっていた。ついでにサイドボードの中まで調べた。酒ではなく不似合いな縫いぐるみが並んでいるだけだ。
そっと押し入れを開けた。衣類と布団があるだけだった。
テレビ台のガラス扉も開けた。何もない。
あるわけがないと思いつつ、ソファのクッションの下にも腕を入れてみた。
次第に焦りが出てきた。さして広くない部屋に、それほど保管場所があるとは思えない。いったん台所に身を乗りだし浴室をうかがった。大丈夫だ。まだシャワーの音がする。そして振り返ったとき、ふと視線がベッドの脇の鏡台を捕えた。
心がはやった。なぜかここにあるという予感がした。
急いで引き出しを開けた。ヘアピンや爪切りが雑然と放りこまれていた。奥まで手を突っこみ掻き回す。物色した跡が残ってしまうが、元どおりにする余裕がなかった。
大きな引き出しも見た。ここには化粧水やクリームの瓶が並んでいる。ここにもない。その引き出しを閉じかけたところで、中にあった半透明のビニールケースが目に飛びこんだ。口紅だと思ったのが判子だとわかるのに時間はかからなかった。
手にとってファスナーを開いた。あった。通帳だ。震える手でページをめくった。この女はいったいいくら持っているんだ。
そのとき鏡に人影が映った。見上げると、開いたままの三面鏡にいくつもの楓の像が映しだされていた。
「ちょっと……」その顔は青ざめていた。「あんた、何してるのさ」
目の前のことが信じられないのか、声に力がなかった。
和也の顔が熱くなる。わけのわからない感情だった。
「ねえ……言いなさいよ。ねえ、何してるのさ」
最後は強い口調だった。楓は和也の肩を揺すった。ただ、責めているより悲しんでいるといった態度だった。
「あんた、その通帳どうするのよ。盗むつもりなの」
「うるせえ」和也が手を振りほどいた。「ちょっと借りるだけだよ」
「嘘言いなさい。あんた、わたしのお金、取るつもりなんでしょ」
和也が立ちあがる。振り向きざまに平手打ちを楓の頬に繰りだした。
「やかましい」
激情が湧いてきた。顔だけでなく全身が熱くなっていた。
髪をつかみ、楓を床に引き倒した。
「あんたもやっぱり、そういう人だったのねえ」
楓が涙声で言い、和也の足にすがりつく。見下ろすと、乱れた髪の間からくしゃくしゃの顔が覗いていた。
膝で払いのけて通帳をめくった。楓が泣き叫ぶ。
「いくらもないわよ。銀座のホステスじゃあるまいし。川崎の、あんな小さな店に勤めて、どれだけ稼げると思ってるのよ。ここの家賃払って、洋服買って、美容院代払ったらいくらも残るわけがないじゃない」
やっと最後のページにたどり着いた。数字の桁がなかなか数えられない。
楓が立ちあがって和也の手にある通帳を奪い返そうとした。
「だめよお、このお金は。少なくたってわたしの貯金なんだから」
拳を楓の頬骨に打ちつけた。子供でも殴ったようないやな感触だった。それでも楓がすがってきたので、和也は足で蹴りつけた。きれいに顎に入り、女が呻き声をあげて絨毯《じゅうたん》の上を転がった。
「なんでわたしはこういう目にばっかり遭うのよお」女は泣き崩れながら、独り言のように言葉を吐き続けた。「知り合う男、知り合う男、みんな暴力ばかりふるって……。どうしてよお。わたしが何か悪いことでもしたの? してないわよ。何かねだったこともないし、お客さんと浮気もしたことないし……。ちゃんと男の人の世話をしてあげて、一生懸命に尽くしてるのに、それなのに、みんな、最後にはわたしを殴りつけて、お金をむしり取って……。ねえ、どうしてよお。どうしてわたしだけ、いつも暴力ふるう男とばっかり付き合うのよお」
「あーっ」和也が苛立った声を出す。通帳に並んだ数字は百万円と少ししかなかった。どうするか。これだけでもいただくか。いや、こうなった以上、銀行でおろすのが危険になる。
通帳を女に投げつけた。
「あんた、前に聞いたときは、女には手を上げないって言ってたじゃない」
「うるせえよ。この貧乏人が」
だめだった。和也は別の手を考えなくてはならないと思った。五百万円、手に入れるために――。和也が天を仰ぐ。
「あんたは何よ。その貧乏人から金を取ろうとして」
「やかましい」
ほとほと生きてることに嫌気がさした。男運のない哀れな年増女。そんな女相手にしか優位に立てない二十歳の自分。いったいどこまで自分は人生というものに無縁なのか。おれはこのまま、心が和むということさえ知らずに、生き続けなくてはならないのか。
そのとき頭に刺すような感触が走った。耳の奥でまた円盤が唸りをあげて回りはじめた。和也は歯を食いしばり、両手で頭を掻きむしる。最大級の耳鳴りだった。気が狂いそうだ。いや、もうおれは狂っているんじゃないか。
血と汗でべとべとになったシャツを着た。上にジャンパーを羽織った。
「あんた、もう、来ちゃだめだからねえ」女が訴えるような声で言った。
「誰が来るか」
「店にだって来ちゃだめよお。そんなことしたら、知り合いのやくざに頼んで、あんた追いだしてもらうから」
「やくざだと。やれるもんならやってみろ」
鏡台の椅子を振りあげて床にたたきつけた。乱れた髪の奥から覗く女の脅えきった目を見ていたら、いっそう残酷な昂ぶりを覚えた。
和也はふすまを蹴りあげた。和室に行ってタンスを引き倒した。雄叫びをあげていた。こうしないと女を殺してしまいそうだった。
サイドボードのガラスが割れる音がする。カーテンがレールごと引きちぎられた。
耳鳴りと荒い息が鼓膜を内側から震わせていた。
和也は帽子とサングラスをつかむと楓のマンションから逃げだした。
いよいよおれの知り合いはめぐみだけになってしまった。なんとしてもめぐみだけは、この手に取り戻すのだ。金を作って。
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母親から二百万円を借り、信金からは、担当行員が本当に二日で決裁を済ませた三百万円を受け取り、合わせて五百万円を用意して川谷信次郎はかもめ銀行の高梨が来るのを待った。このまま書類のやり取りだけで行うのかと思ったが、さすがに融資先を下見もせずに済ませるわけにはいかないらしく、高梨は電話で来意を告げてきた。
いまさら恰好《かっこう》をつけたところで仕方がないが、それでも工場のトイレは念入りに掃除し、事務室には初めて花を置いた。
落ち着かなくて何度も金庫の中の五百万円を確認した。それは子供が遠足の前の晩に、リュックの中のお菓子を何度も眺めては安心する行為に似ていた。
恐らくこの五百万円で、高梨という若い行員は預金獲得の成績をも上げるのだろうなと思った。煉瓦《れんが》くらいもあるお札の束を見ていると少し怖い気もした。
高梨が来るまでひと仕事と思って溶接機の前に座ると、春江が顔を曇らせて工場に駆けこんできた。何かに脅えたような目をしていた。「おとうさん、表」そう言って向かいの道路を指さした。
不思議と予感めいたものがあり、工場を出るまでの時間が長く感じた。膝にうまく力が入らなかった。ドアを開け、顔を上げる。白い大きな何かが目に飛びこみ、一瞬のうちにそれが抗議の立看板であることがわかった。
畳二帖分はあろうかという板には、「私達は工場の騒音に苦しんでいます」という太い文字が躍っていて、その下に「静かな生活を――。マンション住民一同」の色を変えた文字とイラストがあった。
信次郎は目眩《めまい》がした。頭の中が真っ白で、指先が震えた。
柔らかい表現が逆にショックだった。これが「断固反対」といったとがった言葉なら反発も覚えるが、そうではなく、弱者の訴えというニュアンスがそこにはあった。イラストは、ゆりかごで眠っている赤ん坊の姿だった。
どうしていいのかわからず、信次郎は立ち尽くしている。
「おとうさん、どうしよう」春江はいまにも泣きそうだった。
真っ先に子供の顔が浮かんだ。これを息子と娘の目に触れさせてはいけない。肩身の狭い思いをするのは自分だけで充分だった。
そしてもうすぐかもめ銀行の高梨が訪れることを思いだし、青くなった。
考える余裕もなく、信次郎は駆け寄ると立看板を外しにかかった。
「おい、ペンチ持ってこい」
怒鳴りたくても大声が出なかった。
抗議がこのような形になると、口で言われるのとはまるでちがった衝撃があった。
もはや太田夫妻だけではなく、マンションの住民たちが相談の上でこの立看板を作った。そう思うと、何も知らないで仕事をしていた自分に冷汗が出て、ますます頭の中が混乱した。
信次郎はペンチで、ブロック塀に板を留めてある針金をほどこうとした。あとのことはともかく今日だけでも……。銀行の融資係がこれを見てどう思うかは容易に想像がついた。
「川谷さん、困りますね」
その声に振り返るとカジュアルな服装に身を包んだ太田がいた。「今日は代休をとりまして」と信次郎の疑問に先回りして答え、冷たく口の端で笑った。
「困るのはこっちだよ」自分の声がうわずっていた。「何よ、いきなりこんなもん立てて。冗談じゃないよ」
「とにかく」太田が立看板と信次郎の間に割って入った。「これを撤去されては困ります。あなた方はこちらの譲歩案にノーと言った。それはつまり歩み寄ろうという意志がないということです。ならば、私たちも対抗|措置《そち》を取らざるを得ない」
「何言ってんだい。あんた、ふざけるなよ」
「いいえ、ふざけてなどいません。わたしたちは生活権を主張しているだけなのです」
「こっちの生活権はどうなってんだよ」
「ですから歩み寄ろうとこちらは言っているのです。権利はいかなるものでも無限ではありません。我々の権利もそうですし、あなたの権利もそうです」
「ああ、もういいよ。あんたと話してると頭が変になっちまうよ」信次郎は太田の肩に手をやった。「これだけは外させてもらうよ」
「いいえ、だめです」太田が足を踏んばった。
信次郎は自分の顔が引きつるのがわかった。かろうじて気持ちを抑え、春江をこの場から退かせた。この醜いやり取りを妻に見せたくなかった。
太田がその様子を見、憐憫《れんびん》の混じった笑みを漏らしたので、信次郎の感情はいとも簡単に反転した。
「あんた、何がおかしいんだよ」
「いえ、別に」
「いま笑ったじゃないか」
「笑ってません」
「もういい。とにかくどけよ」
「大きな声を出さないでください」
「おまえらふざけるな。このマンションだって昔は工場だったんだよ」
「しかし今は第一種住宅地域です」
「ふざけるなよ」その言葉しか出てこなかった。
自分でもどうしていいのかわからなかった。このままでは銀行に見られてしまう。それだけは避けなくてはならないと思った。
太田のシャツの襟をつかみ、力任せに引きつけた。太田は両手をうしろに回して無抵抗のポーズを取る。怜悧《れいり》な態度を崩そうとはしなかった。
背の高い太田に、ぶら下がるようにして信次郎は食らいついた。
そのとき足が滑った。腕力沙汰に慣れていないので自分から足を滑らせて後方に倒れた。太田も同時に重心を失い、すべての体重を信次郎にあずける。アスファルトに背中をしたたか打ちつけた。信次郎は地面と太田にサンドウィッチされる形になった。
一瞬、息が詰まった。空がやけに青くて、自分はこんないい天気の日に何をしているのかと思った。
太田はなかなか上をどいてくれない。太田の頭がちょうど信次郎の鼻の下にあった。
ふと右手にいやな感触があった。それをあらためて握り直してどきりとした。
信次郎はペンチを持ったままだった。それも先が少しとがったラジオペンチだった。それがどうやら太田の顔のどこかに当たっている。
太田が呻き声を漏らしていた。
信次郎は慌てて体をひねり、下敷になっている状態から抜けだす。太田の肩を起こすように抱きあげたところで、男の口が血まみれになっているのが見えた。
ああ、やっちまった。信次郎は顔を歪めて肚の中で叫んだ。
なんてこったい。こんなときに、よりによって。
「太田さん」信次郎が震える声で呼びかけた。「大丈夫かい?」
太田はやっとのことで片膝をつくと、手で口を覆った。血がアスファルトの上にぽたぽたと滴った。
信次郎が腰の手拭を差しだすと、太田はそれを受け取らず、自分のズボンの尻ポケットからハンカチを取りだし、口に当てた。
「わざとじゃないんだ。ほら、足が滑って、あんたがのしかかってきて、たまたま右手にペンチ持ってるのを忘れて……」
「それは警察に判断してもらいましょう」
こんなときなのに太田は怒鳴り声ひとつあげず、冷徹な目で信次郎を見ていた。そして唾を吐く。歯の破片が混じっていた。
「口を切ってます。それに歯も欠けたようですね」
どこか他人事のように太田は言った。「安い歯科医で治療するつもりはありません。それなりの賠償はしていただきます」
信次郎の頭の中がぐるぐると回っていた。自分がしなくてはいけないことがまるでわからなかった。太陽が真夏のように照りつけている。汗まみれの皮膚がちりちりと小さく焦げていた。
とりあえず、この立看板を……。ふらふらと歩いて信次郎はペンチで針金を外しにかかった。
「川谷さん。あなたという人は――」
こんなもの立てられて、銀行や子供たちにどんな顔をしろというのか。
「川谷さん。人に怪我を負わせておいてどういうつもりなんですか」
太田が横から信次郎の腕をつかんだ。それを払いのけ、一ヵ所の針金をほどいた。汗が全身から噴きでていて、額から垂れて目に入った。
「川谷さん」太田がやや強い口調で言った。「警察を呼びますよ」
そんなことより、とにかくこの立看板を。
太田が頭を小さく振って踵を返す。その襟首に信次郎の手が伸びた。無意識の行為だった。
「何をするんですか」
血走った信次郎の目を見て太田があとずさりした。
「ち、ちょっと、あんた。少しの間、消えててくれないか」
「何を言っているんですか」
自分でも何を言っているのかわからなかった。信次郎は太田をつかまえると隣接する山口車体と作業場の隙間にひっぱりこもうとした。深い考えはなく、視線の先にそこがあっただけのことだった。
「川谷さん。やめなさい」
自分でも思いがけない力が出た。それとも太田が見かけ倒しで非力なのか、人ひとりがやっと通れる隙間にやすやすと押しこんだ。
「何をするんですか」太田が血に染まった口で言ったが、左右の作業場からは機械音が絶え間なく響いてきて、その声を簡単に掻き消した。
どうしていいのかわからなかった。どうしたいのかもわからなかった。
「おい、カワさん」背中で声がする。振り返ると山口社長が深刻な面持ちで立っていた。「何やってんだい。表で誰かが言い争ってると思ったら……。あんたまで喧嘩したらまずいだろう」
山口社長はすぐさま太田の口の怪我を見つけ、いっそう表情を険しくした。
「社長。ちょっと、この男、押さえておいてくれないか」
山口社長が今度は信次郎の顔を見てたじろぐ。もちろんどんな顔をしているのか自分ではわからない。
「カワさん落ち着けよ。こんな真っ昼間に、物騒なことするなよ」
「社長、あの看板見ただろう。あれを外さないと……」
「いいじゃないか。放っておけよ。こんな奴らの言うことなんか」
「放っておけるかよ。うちの子供はまだ学校行ってるんだよ。あんたん家《ち》みたいに大人じゃないんだよ。まだ難しい年頃なんだよ。そうだ。社長、おれが看板外してくるから、その間、この男を見ててくれないか」
返事を待たずして信次郎は再びペンチを片手に取り外しの作業にかかった。もう一方の端と中央の針金をほどき、塀から引き剥がし、引きずって道を横断して山口社長のところへ運んだ。
「とりあえず、ここに隠しとこう」そうひとりごとのように言って作業場の隙間に放りこんだ。
山口社長と太田が思わず体をよける。
「おい、カワさんってば」
ああ、次にしなくてはならないことは――。
「社長」
「なんだい」
「この人、しばらく社長の工場に閉じこめておいてくれないか」
「なに言ってんだい。そんなことできるわけがないだろう」山口社長が信次郎の肩を揺すった。「そんなことして、その先はどうするんだよ」
「じゃあ、この人連れて、どっかへ……。そうだ、病院にでも連れてってくれよ」
「病院ならいいけどさ」
「お断りですね」太田が冷たく言い放った。「自分で救急車を呼びます。あなた方はどうかしてます。地域社会でこんな真似が許されるわけがありません。気に入らなければ暴力をふるう。まるでならず者じゃありませんか」
「暴力じゃないよ」
信次郎の声が裏返っていた。
「おい、カワさんってば。落ち着きなよ」
信次郎は荒い息を吐いて視線をさまよわせている。
「太田さん」山口社長が言った。「おれがこんなこと言うのはなんだけど、カワさんを許してやっちゃもらえないか。この人はいい人なんだよ」
「どこがいい人なんですか。あなた方の価値観はまったく理解できない。まるで火星人と対話を試みているような感じです」
「それはこっちも同じなんだけどね」
「何ですか?」
「いや、おれたちにとってはあんたらが火星人みたいなもんでね」
山口社長が下を向き、作業靴で地面の砂利を踏み鳴らした。
「おとうさん」そのとき春江の声がした。「かもめ銀行の人が来たけど……」
太田の血だらけの顔を見て絶句した。
「あっちへ行ってろ」信次郎が怒鳴り、春江を押し戻した。「すぐに行くから、待っててもらってくれ。ああ、事務室じゃなくて、母屋の方に……」
もはや何の手も思い浮かばなかった。信次郎は膝を折り曲げると両手をついて頭を下げた。
「太田さん、このとおりだ」
「カワさん」山口社長が上から襟をつかんだ。「何やってんだい。土下座なんかするこたぁねえ」
「警察を呼んでもかまわない。でも、あと三十分だけ待ってくれないか。銀行さんが来てんだ。こんなところ絶対に見せられねえ。後生だから自分で医者に行ってくれないか。いえ、行ってくれませんか」
「カワさん。土下座なんかするなよ」山口社長が顔を赤くしていた。
「そうです。そんなことをされても困ります」
泣けてきた。説明のつかない感情が溢れでて、信次郎はポタポタと涙の滴を落とした。四十七年間生きてきてこんなことは初めてだった。
「カワさんよぉ、どうしちゃったんだい。こんなの、小さなことじゃないか」
「小さなこととは言えませんがね」
「あんたは黙ってろよ。大の男が頭下げてるんだ。何にも感じねえのかよ」
「たまりませんね」太田が小さくかぶりを振る。
「何がだよ」
「あなた方のやってることがですよ。理屈というものがまったく通用しない。わめいてみたり泣いてみたり、まるで子供だ」
「子供たぁなんだ。人間てぇのはそういうもんなんだよ。おまえさんみたいに澄まして生きてて何が楽しいんだよ」
今度は山口社長がつかみかからんばかりの勢いで太田に怒っていた。
「とにかくさ」信次郎が立ちあがって訴えた。「三十分だけ待ってくれませんか。客が来てんですよ。その客が帰ったら、いくらでも償いはするし、ええと、警察にだって行くし、騒音の話だって聞くし……あの、あの」
「カワさん、落ち着きなってば。いいよ、この男はおれが医者に連れてってやるよ」
「ご冗談を」太田がきっぱりと言う。
「なんだと」
もうかまっていられない。信次郎は踵を返し、小走りに工場に入った。入るときふと目をやると、さっきまで立看板のあったところの前に高梨が乗ってきたと思われる白いバンが停めてあった。ただ、間に合ったことに安堵するより、外さなかった場合のことを思い冷汗が出た。隅の流しで顔と手を水で洗い、タオルで念入りに拭いた。すぐそばでタイ人のコビーが不思議そうに見ていた。
大きく深呼吸をして金庫を開け、五百万円を紙袋に入れ、事務室に置いてあった書類と一緒に脇に抱えて母屋へ行った。まだ心臓が高鳴っている。さっき自分が涙を流したという現実感がなぜか希薄だった。
玄関を上がると春江が台所から走ってきた。
「ねえ、また山口さん、手をあげたの?」心配そうな顔でそう言った。
「あ、いや、うん」
信次郎が曖昧にうなずく。その勘違いはありがたかった。信次郎はもう一度大きく息を吸うと、笑顔を取り繕ってガラス戸を開けた。
「いや、どうもお待たせしてすみません。ちょっと手が離せなくって」
「いえいえ、こちらこそ、お忙しいところをすみません」かもめ銀行の高梨は腰だけ浮かして軽く会釈する。「お先に工場の方を少し見学させていただきました。ぼくはこういう場所は初めてだったんで、大変興味深く見させてもらいました。いやあ、鉄工所の機械ってどれも結構大きいんですね」
信次郎ははっとして高梨の顔色を見た。無邪気ともいえる明るい表情に安堵する。壁を隔てたすぐ隣で三人の男が揉めていたとは知らないようだ。
「ええと、じゃあ先に」五百万円の袋を高梨に差しだした。
「ありがとうございます。あらためさせていただきます」高梨は札束の帯封を切り、器用な手つきで数えはじめた。扇状に広げると、数枚ごとに指先で一定のリズムを刻んでいく。
信次郎は妻の出したカルピスを飲みながら外の様子を窺っていた。
山口社長と太田の間で新たな揉め事が起こっていなければいいが。社長は本当に太田を病院へ連れていってくれたのだろうか。いや、太田がそれに従うとは思えない。一度は殴られた相手なのだ。少し様子を見にいくべきだろうか。
信次郎の気が急《せ》いてきた。
それにしても自分はなんてことをしてしまったのか。あれは傷害の部類に入るのだろうか。いや、ただの過失だ。治療費を払えば済むことだ。それに、あの看板を外したのは正解だった。あれは絶対に今後も認めるわけにはいかない。
「川谷さん」
呼ばれて我に返った。
「どうかなさいましたか」高梨が怪訝《けげん》そうな表情でのぞきこんでいる。
気がつくとすでに目の前には受取の書類と通帳が並んでいた。
「あ、いや、その」信次郎はしどろもどろになって額の汗を拭い、用意しておいた決算書、試算表、製品カタログ等の計画資料を差しだした。
高梨はそれを手元に引き寄せ、静かな目で数字を眺めている。高梨がいくつかの質問をし、信次郎がそれに答えた。高梨は金利は五・五パーセントぐらいになりそうだと言い、それなら信金に比べて二パーセントは低いのでやはり都銀は得だと思った。
表で車が停まった音がした。ギクッとして信次郎は身構える。
「あ、あの……」動揺を悟られたくないので何か話題を探した。「どうですか、銀行さんの最近の景気は」
まぬけなことを聞いているなと思った。
「ええ、もちろん好景気というわけではありませんが、マスコミが騒ぐほどひどいというわけではありませんよ。ちゃんと給料をいただいておりますから」
高梨が愛想よく笑う。
「その、うちみたいな中小企業に貸してくれるなんて思ってもみなかったし」
「それも偏見ですよ。まあ、確かに銀行は担保主義みたいなところもありますが、そんなことばかりしていたら企業は一向に成長しないし、そうなれば我々も……」
表で男たちの話し声がする。信次郎は気が気ではなかった。
「それから」高梨が言った。「従業員様は奥様も含めて三人ということですが……どうでしょう、今後は給与振り込みもうちにしていただけませんか」
「あ、いいですよ」
心ここにあらずといった体《てい》で返事した。言った瞬間心の隅で困ったと思った。タイ人のコビーの給料はブローカーに払っている。直接は払えない。
「それから従業員様の定期預金の方もお願いしたいのですが」
「ああ……そうだね」
玄関の玉砂利を誰かが踏む音がした。心臓の動悸が激しくなった。
ガラガラと引き戸が開けられた。「おい、カワさんよ」という山口社長の低い声が応接間まで届いた。どこかやけになったような声色だった。
「ち、ちょっとすいません」
青い顔で高梨に中座を告げると、信次郎は玄関へと走った。
山口社長は首の骨を鳴らし、憮然とした面持ちで立っていた。
「だめだわ」鼻をひとつすする。「あの男、情とかそういったもんが丸っきり通じねえんだ。おれも必死で頭下げたんだけど……警察、呼びやがった」顎で外を差した。
三和土《たたき》に片足だけ降ろし、外を見ると、制服姿の警官が何人かいた。
再び頭の中がぐるぐる回る。この場を切り抜ける方法などどこにもなさそうだった。
外に出る。以前、山口社長が太田を殴ったときに駆けつけた顔見知りの巡査も来ていた。
「あ、あの……」言葉が出てこない。
「たのみますよ、川谷さん」巡査は憮然とした表情で言葉を吐いた。
「いやその、これはね、ちょっとした間違いなんだ」
「ちょっとした間違いって、怪我人を出したら洒落《しゃれ》にならんでしょう。しかも、川谷さん、そのあとも工場の裏に引きずっていったそうじゃない」
「だから、これはね」
信次郎は必死に言い訳をしようとするのだが、言葉は探しても探しても見つからず、ただ唇を震わせるだけだった。
警官は三人いた。そのうしろでは太田とその夫人と、いつの間にか集まってきたマンションの住人が数人、輪を作っている。冷たい視線が信次郎に容赦なく注がれていた。
ふと母屋を振り返る。ガラス戸の向こうにうっすらと首を伸ばしてこちらを見ている高梨と目が合った。春江はすでに玄関口に立っていた。
信次郎は両手で髪を掻きむしった。
相変わらず言葉が出てこない。一人の警官が、太田の事情を聞いてか、工場横の隙間から立看板をひっぱり出してきた。「これを無理に外そうとしたわけですね」という会話がかすかに聞こえた。
だめだ。これだけは銀行の目には触れさせたくない。
信次郎は慌てて駆け寄ると、立看板を奪い取り、もう一度隠そうとした。
「あんた、何をするんだ」警官が声を荒らげる。
「いや、だからね、これは困るんですよ」
「何を言っとるんだ」
若い警官が間に入り、信次郎を押し返した。
「カワさん、落ち着きなよ」
山口社長が前回とはまるで逆の立場で信次郎をなだめようとする。
「じゃあ、ちょっとだけ待っててよ。ね、少しでいいから」
信次郎が家に戻ろうとすると警官が腕をつかんで「だめだめ」と言った。その手を振りほどく。警官はむっとしたのか今度は体を抱えようとした。
「離してよ。逃げやしないんだから」
「とにかくだめだ」顔見知りなのに警官の声が厳しくなっていた。
「社長、ちょっと、助けてよ」
「カワさん、だから少し落ち着いてさ」
「これが落ち着いていられるかよ」
声が掠れた。喉がからからに渇いていた。路地の向こうから赤色灯を回して救急車がやってきた。誰だよ、あんなの呼んだのは。
「川谷さん」振り返ると高梨が立っていた。「お取り込みのようなので、今日はこれで……」
穏やかな物言いだったが、それでも表情にどこか好奇の色が見てとれる。そしてその視線は、信次郎の肩を越えてうしろに向かっていた。立看板を見られたと思った。
「ち、ちょっと……」
信次郎は高梨の腕を取って五メートルだけその場を離れる。誰かが名前を呼んでいたが耳に入らなかった。
「どうかなさったんですか」高梨が不思議そうな顔で聞く。
「あ、いや、あのね……。隣の社長がちょっと腕力沙汰をね」もう嘘をついているという自覚はなかった。「わたしが間に入って収めようとしたんだけど、ほら、みんな大人気《おとなげ》なくって……」
意味もなく腕時計を見た。行動のいちいちに理由がつかなかった。
「あの、その、書類はこれで揃ってるよね」
「ええ。細かいところは帰ってから見させていただきます」
「そ、そうだね。じゃあ、今日はこれで……」
「車が……」
高梨が首を伸ばす。見ると、高梨の乗ってきた車がパトカーと救急車とにはさまれていた。おまけに周りにはマンションの住民もいる。
「あの、わたしが車、動かすからさ」
「いえ、そんな……」
その声を振り切って信次郎が白い商用車に向かう。足取りがぎこちなかった。そして鍵がかかっていたのでさらにうろたえた。
「高梨さん、鍵」
「あの、自分でやれますから」
高梨が車までやってきた。もはや自分は、どう見ても不自然な行動をとる町工場の経営者に思えた。
警官たちが憤然として信次郎を眺めている。
「ちょっと、そこ、どいて」
高梨が車に乗りこもうとする脇で、信次郎が太田や救急隊員に手振りをまじえて言った。
「あなた、どいてとは何ですか」太田の顔が強《こわ》ばる。
「いいからどいてよ」
この場を逃れることしか信次郎の頭にはなかった。
「お金、持ったよね」
「ええ、確かにお預かりしました」
周囲の不穏な空気に戸惑った若い銀行員が、それでも笑顔を作りながら黒い鞄をポンポンとたたいた。
高梨はエンジンをかけ、ゆっくりとハンドルを切って車を出す。その先に警官がひっぱり出した看板が塀に立てかけてあった。「私達は工場の騒音に苦しんでいます」白地に黒いゴチック体で書かれた文字がいやでも信次郎の目に入った。
車の中の高梨の後頭部を見る。明らかに高梨の目はその看板に向かっていた。
信次郎が心の中でわめき声をあげた。
だめだ。見られちまった。いったい何のために自分は右往左往したのか。
真っ白な車が、そのボディに太陽を照り返しながら、狭い路地を徐行していった。
額に手をやると、その手の甲には大量の汗がぬるりと付着していた。
「川谷さん」警官が目を吊りあげていた。「署までご同行願えますか」
信次郎が大きく息をつく。山口社長までが憐れみの視線を投げかけていた。
夜、風呂に浸かりながら信次郎は後悔の念にさいなまれていた。太田に怪我を負わせたことよりも、高梨に看板を見られたことよりも、自分があられもなく取り乱してしまったことの方がショックだった。
自分が涙を流して土下座した。その事実は津波のように信次郎の心に押し寄せてきて、思わず叫びだしてしまいそうだった。
山口社長にはどんな顔をすればいいのか。もちろん隣人はそのことをからかったりはしないだろうが、忘れてくれるはずもなく、明日が憂鬱になった。
妻の春江にも、警官を前にして我を忘れてうろたえる姿を見られてしまった。
辛い記憶になりそうだった。
看板は、そのあとマンションの住民の手によってつけ直された。もう取り外す気力も、彼らに立ち向かう勇気も湧いてこなかった。
息子の信明と娘の美加はきっとあの立看板を見ただろう。工場のすぐ前にあるのだから気づかない道理がない。夕食時にそれを口にしなかったのは春江が言い聞かせたからにちがいない。そう思うと、子供にまで気遣われている家長たる自分がますます情けなく感じられて、胸が激しく痛んだ。
信次郎は、以前美加が「川谷鉄工所」といういかにも町工場といった社名を変えてほしいと言ったことを思いだした。ただでさえ家業に、コンプレックスというほどではないにしろ小さな羞恥《しゅうち》を抱いているところへ、あの立看板の出現にはさぞや打ちひしがれたことだろう。少なくとも、娘や息子が、もう家に友達を連れてくる気になれないことは容易に想像できた。
これまでテレビで工場の騒音問題を見るたびに、身につまされる思いをしてきたが、いざ自分に降りかかり、立看板を突きつけられると、たまらない圧迫を感じた。なんだか自分の人生を根こそぎ否定された気分だった。
かもめ銀行の高梨もさぞや怪しんだにちがいない。融資に影響はあるのだろうか。これだけは楽天的になれない。
いっそのことすべてを白紙に戻そうかとも思った。そうなればどれほど気がらくだろう。生計が立たないわけではないし、今まで通りの暮らしをすれば済むことだ――。いや、それはできない。信次郎は一人でかぶりを振った。
北沢製作所の神田に顔が立たないし、そうなれば今後の受注にも影響する。だいいち美加の進学のこともある。まさか頭まで下げさせてあきらめろとはとうてい言えない。どんなことをしても、たとえ老後の蓄えを崩してでも、美加は短大にやらなくてはいけない。
信次郎はお湯をすくって顔を洗い、あらためて溜息をついた。
警察署では、若い警官に叱責された。交番勤務の顔馴染みは、ばつが悪いのか席を離れ、まだ頬の線も幼い巡査に居丈高《いたけだか》に怒鳴られたのだ。机に額をこするようにして謝罪しながら、へたをすれば二十歳近くも年下の男にへりくだっている自分がやりきれなかった。どうやら太田は刑事告訴をすると言っているようだった。それがどのようなことなのかは信次郎には見当もつかなかった。巡査は、仕事が増えるのを避けたいのか、「あんた、何としても謝罪して和解しなさい」ときつく命令した。
明日。それは面倒なことばかりだった。おかげで仕事はたまる一方だ。
風呂からあがって、台所でビールの栓を抜いた。
春江は沈んでいた。不機嫌というより、夫の理性を失った姿を見せられて、心を痛めた様子だった。
沈黙が重苦しかった。子供はとっくに二階に上がっている。春江は夫を一人にするべきか迷っているようで、所在なげに流しに立っていた。
電話が鳴った。春江が出る。「はい川谷です」と言ったきり黙ったので、信次郎はそれが無言電話であるとわかった。
「またか」
「うん。……おとうさんがお風呂に入っているときもかかってきた」
「陰険な野郎たちだな」
春江は返事をしなかった。春江が戻りかけるとまた鳴った。
「出るな。出なくていい。こんな夜中だ。知り合いならかけてこないさ」
春江は電話機のスイッチをいじり、呼び出し音をオフにした。それで音はやんだ。
「明日、電話機、買ってこい。ほら、相手の番号が出るやつがあるだろう。ナンバーディスプレイとかいうやつ」
「どこに売ってるのよ」
「電器屋に行けばあるさ」
「高いんじゃないの」
「それくらいいいさ。前から欲しいと思ってたんだ」
「うん」
妻は元気なく返事した。
ビールを自分で注ぎ足すと、手の力がふいに抜け、落としそうになった。
なんとかこぼさずに済んだが、コップの半分以上が泡になり、それを口につけると苦味だけが口の中に広がった。
今夜は寝つけないだろうなと信次郎は思った。
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ここのところ時間があると求人情報誌を読んでいる。
かもめ銀行に入ったのは親戚のコネだったので、この手の雑誌を手にするのは初めてだ。だから予想外に世間を知らないことに、藤崎みどりは自分でも戸惑っている。「フロアレディ募集」という高収入の広告に小さく胸を躍らせ、読むうちにそれがホステスらしいことに気づき、落胆するというようなことを繰り返している。
ひととおり目を通して、世の中、甘くはないとみどりは溜息をつく。そもそも中途入社を受け入れる会社といえば中小企業で、当然待遇は都市銀行とは比ぶべくもなかった。小さな会社がいいと思いつつ、事務職で手取り十二万円などという金額を見ると、やはり憂鬱な気分になる。
退社は七月のボーナスまで待つつもりだった。女子の一般職でもそれなりの賞与が出る。支店長と顔を合わせるのは苦痛だが、ボーナスを捨てるのはもっと癪《しゃく》にさわる。おまけに妹の家出もあった。せめて妹が帰ってきて、母親の精神状態が落ち着いてから辞めた方が、家族に対してもいいような気がした。
「藤崎君」
声をかけられて顔を上げる。木田課長代理が壁の時計を指さした。そろそろ窓口業務につく時間だった。みどりは机の上を整理して窓口に行く準備をする。
木田は横浜の一件以来、かすかによそよそしくなった。横浜のホテルで、木田はみどりをかつての上司に引きあわせ、支店長のセクハラを告発する算段を聞かせた。それは、木田が支店長を快く思っていないことを露呈した意外な出来事だった。木田はひと晩考えるように言ったが、みどりは翌日断った。それで少し気まずくなった。
木田は固い表情のみどりを見てしばらく黙り、軽くほほ笑んで「じゃあ、仕方がないね」とあきらめたが、それでも心残りの様子だった。
支店長をどこかに飛ばしたところで自分に何か得があるわけではない。それがみどりの出した結論だった。襲われかけた悔しさは今でも消えないが、もう面倒はごめんだった。
デスクワークをしている裕子を見る。その斜めうしろには高梨が電話に応対する姿があった。つい、二人はどんなふうに抱きあったのだろうとみどりは思ってしまう。そして、肉体関係をもった男女が同じ職場で働く気持ちはどんな感じなのだろうと詮ない想像をする。秘密を共有するという行為はきっと甘美なのだろう。なぜなら、最近の裕子は、小さな仕草さえもとてもきれいに見える。
いつ裕子は高梨との関係を報告するのだろう。そのとき自分はどんな顔で話を聞くのだろう。うまく笑顔を作り祝福できるのだろうか。
みどりは同僚の肩に手をやり、交替の意志を示す。
簡単な挨拶を交わし、椅子に腰かけ、手元のボタンを押す。「六十八番の番号札をお持ちのお客様、三番の窓口までどうぞ」という合成音が客もまばらなロビーに流れる。
辞めるとなると、単調な窓口業務がますますつまらなく思えた。他人のお金を数えて、数字を合わせて、一日が暮れる。
辞めたらもっと楽しい仕事に就《つ》こう。とは思うものの、求人情報誌の現実に気持ちが沈むみどりのここ数日だ。
定時に銀行を出た。木田も仕事を頼みづらいのか、ほかの女子行員が残業の補佐に充《あ》てられた。
通用口を出て通りを歩く。このまま帰ってもすることがないし、どこか寄り道でもしたいところだが行くあてもなく、友人を呼ぶ気にもなれず、ぼんやりと町を眺めながら、気怠《けだる》い足どりでみどりは歩いている。
仕方がないので本屋にでも寄ろうと思った。たまには小説でも読もう。できればスカッとするやつを。主人公がうじうじ悩んだりせず、明るく乱暴に強がってみせるやつがいい。
酒屋の角に人が立っていた。柴田老人だった。今日は銀行に顔を見せないと思っていたら、みどりの勘違いでなければ、こんなところでの待ち伏せだった。みどりは薄い笑みを作って会釈する。
「こんにちは」
できるだけつけいられないように、無表情で言った。
「いまお帰りですか」柴田はにこにこ笑っている。
「ええ」
老人ストーカーという言葉がみどりの頭に浮かんだ。早々に退散したかった。
「知ってますか?」
「はい?」
「この先の公園の向かいにね、新しい喫茶店が出来てね、わたしはよう知らんのだけど、どうも隣のケーキ屋が経営してるらしくて、お茶を飲みながらいろんなケーキが食べられるそうなんですよ。町内の老人会の宮崎さんが言っておった」
そんな知らない人の名前を出されても困る。公園の向かいと言われてもピンとこなかった。だいいち勤務先ではあるものの、この町をちゃんと歩いたことなどなかった。
「いっぺん話のタネに入ってみたいと思っておるんだが、なにしろわたしのようなジイサンが一人で入れるようなところでもない。さっき前を通ったら、いかにも西洋風でね。まるでジイサンには入るなと言わんばかりの外観だった」
いったいこの老人は何が言いたいのか。みどりはぎこちない笑みで聞いている。
「あんたのような若い娘さんなら、さぞやああいう場所が似合うだろう」
「はあ……」
「この歳になると、どうも行動範囲が狭くなっていかん。見聞を広めたくても、華やかなところは気おくればかりしてしまう」
もしかしてお茶に誘っているのだろうか。冗談じゃない。
みどりはわざとらしく腕時計を見た。
一瞬、柴田の表情に影がさした。笑顔は消えなかったが、哀愁をおびた目で「いかんいかん」と言った。
「つい年寄りは自分の都合で話しかけてしまう。お急ぎのようだね。そりゃあそうだ。若い人は忙しいものと相場が決まっている」
「ええ、すいません」
冷淡に言い放った。ここで甘い顔をしてはいけない。
「あの……」
「なんでしょう」
「今度、お茶でも奢《おご》るよ」
柴田が意を決したような顔で言った。
「いいえ、けっこうです」
みどりは少しも表情を崩すことなく、慇懃に会釈して歩きだした。
目の端に、いかにもしょんぼりとした柴田老人が映った。
人に冷たく接したことに、小さく動揺した。
でも仕方がないとみどりは思った。他人を思いやる余裕など、いまの自分にはないのだ。
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「別に怖くなかったよ」
めぐみは髪をかきあげると、上目遣いに野村和也を見て低い声で言った。
「本当に?」
「うん。さっきまで山崎って人のコレが来てたから」めぐみが小指を立てる。「康子さんっていう人。見張り役で来てたみたい。女の人質だとトイレとかも大変だからじゃないかな。山崎って人とパンチパーマの人は出たり入ったりしてた」
屋上の部屋の隅で二人がひそひそ話をしている。山崎の舎弟のパンチパーマは、外で椅子に座って弁当を食べている。ただしドアは開けたままで、その先にパンチパーマのうしろ姿が見える。
金を作ってこいと言われたところで、五百万円など容易に手に入るものでもない。結局、警察に追われ、交通事故を起こし、年増女に暴力をふるい、くたびれ果てて「館野親和会」に帰ってきただけだった。事務所に顔を見せると、ソファにふんぞり返った山崎は残忍な目で「銭はどないや」と聞き、和也が首を振ると、「さっさと屋上へ行けや。銭ができるまでここからご出勤や」と冷たく手で追い払った。
屋上へ行くと、街の夜景をバックにパンチパーマが和也を睨み、顎でプレハブ小屋の中を差す。入るとめぐみがベッドの上で膝を抱えていた。
「何もされなかったか」和也がめぐみの体を見て聞いた。
「うん、大丈夫。最初はわたし絶対に強姦《ごうかん》されるんだって思ったけど、それはないみたい。康子さんって人は同情してくれたよ。あんたは悪い男に引っかかったんだって」
「おれのことか」
「だからわたし言ったんだよ。自分から押しかけたんだって」
「ふうん」
「そうしたら、アタシと一緒だねって笑ってた。やくざに憧れてたんだって。それで山崎って人と付き合いだしたのはいいけど、すぐにピンサロで働かされることになったんだって。いまの時間はそこで働いてるみたい。昼間だけここへ来るんじゃないのかな」
「たばこ、ないか」
「あるよ」めぐみがバッグからメンソールたばこを取りだした。「携帯は取られちゃった。警察に通報されるとまずいからだろうね」
たばこに火を点け吸いこむと、口の中の傷がチクチクと痛んだ。
「わたし、ピンサロはやだな」
「当たり前だろう」
「ふつうの水商売ならいいけど。向いてる気がするし」
「逃げられそうにないか」
「ここを?」めぐみもたばこをくわえた。
「ああ、女が見張りならなんとかなるだろう」
「なるかなあ。康子って人、昔はレディースに入ってたみたいだし」
「おまえは呑気《のんき》だな」
「ねえ、ケン。お金、なんとかなりそう?」
「そう簡単にいくか。五百万だぞ」
「そうだけど」
「でも安心しな。おれは絶対におまえを見捨てないからな」
「うれしい」めぐみが少しはにかんだような顔をした。
「馬鹿。こんなときにうれしがるな」
「だってうれしいもん」
「おい」うしろから太い声が聞こえた。「何ひそひそ話してやがんだ」
パンチパーマが入り口に立ち、二人を見下ろしている。
「なんでもねえよ」和也が答える。
パンチパーマは「ふん」と鼻を鳴らし、空になった弁当を部屋のごみ箱に放り投げた。そして和也に近づくとポケットから手錠を取りだし、一方を和也の右手に、もう一方を二段ベッドの柱にかけた。
「こんなことしなくても逃げねえよ」
「黙ってろ。女の方は勘弁してやる。それから携帯電話、出しな。充電しといてやる」
「あんたが見張り役か」
「ああ。てめえらのせいでおれは寝ずの番だ」
「風邪ひかねえようにな」
「殺すぞ、この野郎」
パンチパーマは棚の上にあったラジオを手に持ち、外の椅子に戻っていく。電波の雑音が聞こえ、すぐにそれが歌謡曲に変わった。
「おまえ、後悔してないか」
「うん、してないよ」
「なんでだ。こんなひどい月に遭ってんだぞ」
「わかんないけど」
「わかんないってことはないだろう」
「だって……」
「だって何だ」
「普通にしてた方がつまんないし」
「そんなもん理由になるか」
「じゃあケンは後悔してる?」
「後悔だらけだよ、決まってるだろう。この顔見てみろ。やくざにボコボコにされて大金要求されて」
「どこに戻りたい?」
「トルエンを盗む前だよ。あれさえやらなきゃ」
「今頃何してた?」
「知るかよそんなこと」
「考えてよ」
「パチンコでもしてたよ」
「それで面白い?」
「ああ面白いね」
そんなはずはなかった。一ヵ月前までの自分は死んだような生活をしていた。朝起きて、耳鳴りから逃れるために街を歩き、パチンコで生活費を稼ぎ、夜になったらサウナで時間を潰す、そんな毎日だった。一日が長くて、そのくせ一週間が早かった。
ならばもっと昔に戻りたいかといえば、そんなこともなかった。どのみち戻りたい過去など自分にあるわけがないのだ。
「アパート、カーテンつけ替えたよ」
「ああ、外から見た」
「早く帰りたいね」
「おまえは本当に呑気だな」
二段ベッドの下で二人並んで横になった。せめてもの救いは、めぐみが簡単に泣いたりしない少女だということだった。
外のラジオからDJの軽快なしゃべりが聞こえてきた。
疲労からか全身に鈍痛がはりついている。右手に手錠がはめられているのでその腕を枕代わりにするしかなかった。
めぐみが黙ったまま体を寄せてきた。まだ五月だというのに、じっとりと熱をはらんだ夜気が開いたままの扉から染みこんでくる。
めぐみだけが自分と世界をつないでいる糸のように思えた。
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早朝の六時から川谷信次郎は工場の機械を作動させた。ごたごたが続いたせいで仕事は大幅に遅れていて、こうでもしなければ午前の納品が間に合いそうになかった。幸いなことに外は雨で、湿った空気と降り注ぐ雨の音が、モーターの唸り声を紛らわせてくれそうな気がした。シャッターは閉めたままだ。天井の蛍光灯が青白く作業場内を照らしだし、油を吸いこんだ工作機械を冷たく光らせている。
朝食は春江にお握りを作らせ、立ったまま食べた。春江は「コビーさんか松村君に早朝出勤を頼めばいいじゃない」と言っていたが、残業をさせた上に朝の六時に来てくれとはなかなか口に出せなかった。少し胃が痛んでいた。春江のいないところで胃薬を飲もうと思った。
作業場に入ったとき、空気を入れ換えるために一度シャッターを開けると、目の前の塀に例の立看板があった。雨で文字が少しは滲んでくれるかと思えば、ペンキの艶が余計に増し、強く静かに抗議の意志を放っていた。
やはり立看板を見ると気が滅入った。一夜明けてもそのショックがやわらぐことはなかった。家を出るとき、息子と娘は毎日これを見ることになる。太田に怪我を負わせた件のあと始末も、考えるだけで憂鬱になる。そしてもうひとつ不安を挙げるなら、融資の件も気がかりだった。近隣との騒音問題が審査のマイナス材料になることは目に見えている。
信次郎は、積み重なる難問を振り払うように仕事に没頭した。スポット溶接の機械の前に座り、次々と部品に加工を施してゆく。右のかごから左のかごへと鉄の部品を移していると、自分はやはり黙々と作業をするのが性に合っているなと気弱なことを考えてしまう。経営者はリスクを背負わなければならない。もちろん十八年も鉄工所をやっていれば今に始まったことではないが、うまくいかないときはその責任が重かった。
八時になってコビーと松村が出勤してきた。二人は昨日から立看板については何も言わなかった。コビーは日本語の読み書きはできないが、それでもあけすけな性格の男が何も聞いてこないところをみると、だいたいのことは察しているように思えた。松村は、遠慮しているのか関心がないのか黙ったままだ。こんなときは、信次郎も仕事場での孤独を感じた。
山口社長は、二日にいっぺんは朝のコーヒーを飲むために顔を見せるのだが、さすがに昨日の信次郎の醜態に気を遣ったのか、姿を見せることはなかった。
右手でレバーを引き、中央から降りてきたノズルが規則正しく溶接を完了していく。圧縮音と金属音と火花の散る音が混ざりあって作業場に鳴り響いている。
居直るしかないな、と信次郎は思う。引っ越すわけにはいかず、防音改築をする余裕もなく、とりあえずはこのまま仕事を続けるしかないのだ。それは針の筵《むしろ》だが、ほかに方法はない。
解決する方法があるとすれば金だ。金があれば工業団地に物件を探し、自分の家を建てることができる。やはり家は欲しかった。契約更新のたびに、信次郎はひやひやしていた。立ち退き要求など簡単に出ないことはわかっていても、よからぬ空想をしては身の細る思いをしてきた。近所の苦情が出たとなれば、不動産屋が難色を示す可能性は大いにある。そうなると次の更新はもっと心配のタネになる。そのためにはタレパンが必要だった。仕事は保証されているのだ。五年で完済すれば、あとは潤うばかりだ。
引き返せないな、と信次郎は思った。現状のままでは先細りするばかりなのだ。
「シャチョさん」外に置いてある資材を取りにいっていたコビーが声をかけてきた。「表で誰か写真撮ってる」身振りでカメラを構える真似をした。
「何よ、何を撮ってるのよ」
「わからないね」
信次郎が表に出る。
「何だい、またあんたかい」信次郎がうんざりした声を出す。
「あ、おはようございます」
市役所のいつもの職員がコンパクトカメラで塀の立看板を写真に収めていた。
「あんた、何してんのよ」
「ええ。わたくしどもも一応、資料を作成しなくてはならないものですから」
「何の資料を」
「ま、役所ですから、何にでも報告書がつきものなんですよ」職員は相変わらず腰が低かった。「どこでどういうケースの問題が発生しているかを記録として残しておきまして、今後のことにも役立てたいと……」
「意味がわからんね」
「たとえば、市民の中にも環境公害問題に関心が高い方がいらっしゃいまして、わたくしどもはいろいろな質問に答えなければならないわけでして」
「それって市民団体か何かのこと?」暗い気持ちがみるみる膨らんだ。「あの太田って人、市民運動でもやらかす気なの?」
「いえ、そういうことはないでしょうけど」
「冗談じゃないよ。頼むよ。もう勘弁してくれよ」信次郎は泣きだしたい気分だった。「うちがいったい何をしたっていうんだよ。働いて、税金納めて、真面目に生きているだけじゃないか」
「ええ、しかし、警察沙汰になりますと……」もう市役所に知らせてあるのだ。それはそうだ。あの太田がそうしないわけがない。「どうでしょう。ここはひとつ、あちらさんの提案を尊重していただくということで……」
「だからそれは無理だって」
「しかし、そうなりますと、いつまでも平行線のままで……」
信次郎は焦《じ》れた。午前中の納品があるのだ。かまっている暇はない。
「とにかく、今は忙しいから」
「先日もそうおっしゃいましたが」
「いつだって忙しいんだよ」刺々《とげとげ》しく言ったつもりだが力は入らなかった。
「おとうさん」春江の声がうしろから聞こえた。振り返ると、最近すっかり心配癖がついた妻の浮かない顔があった。「電話。かもめ銀行の高梨さんから」
「ああ、わかった」
何事もないように答えながら、心のどこかに「来たか」という思いがあった。やはり昨日の騒ぎが引っかかっているのだ。少なくとも、融資係なら、どういうことかを知りたがるのは当然だった。
それまで重かった胃が刺すように痛んだ。信次郎は事務室に走っていき、受話器を取ると無理に明るい声を作った。
「昨日はどうも、わざわざ来ていただきまして」電話に向かって頭を下げていた。
「決算書等はくわしく見させていただきました。それでですね……」
信次郎の心臓が高鳴った。
「まずは連帯保証人様のことで……。お兄様が引き受けてくださるということですが、保証意思を確認する文書をお兄様にお送りしますので、署名捺印してこちらに送り返してくださるように、川谷さんの方から事前に連絡しておいていただけますか」
「あ、ええ、構いません」
肩の力が抜けた。てっきり融資にケチがつくものと思っていた。
「できましたら、お兄様の方も定期を積み立てていただけるようお力添えをいただけるとありがたいのですが」
ここは高梨が少しおどけて言った。
「うーん。そこは遠いからね、兄貴の家からだと」
そう答えて信次郎は胸を撫でおろした。高梨はどこでも伺いますよと明るい声を出した。
「それから、設備投資なされる機械を預金とは別に担保にさせていただきます」
「ああ、いいですよ」それは当然だと思った。
「それからもうひとつ、これはちょっと申し上げにくいことなんですが……」
「ええ……」再び心に暗雲が差した。気持ちの上下動が激しかった。
「やはり初めてのご融資ということで、それも不動産担保がないものですから……どうでしょう、あと二パーセントほど金利を上乗せさせてもらえないでしょうか」
「二パーセント、ですか」
「わたしも努力はしているのですが、稟議《りんぎ》を通すためにはどうしても……」
信次郎は答えに詰まった。昨日、高梨は五・五パーセントほどだと言っていた。それが七・五パーセントになるということは、信用金庫とほとんど変わりない金利で借りることになる。
「その代わり、これで実績を作っていただけたら、次からはもっと低い金利でご融資させてもらいます」
そういうことは最初から言えよな、と思った。土壇場で逃げにくくしておいて、金利をふっかける。汚いじゃないかと信次郎は思った。
「どうでしょう。呑んでいただけませんでしょうか」
どうせこちらに選択の余地などないのだ。
「……ええ、わかりました」
「ありがとうございます。どうもすいません」
すいませんじゃないだろうが。信次郎が肚の中で毒づく。
「さっそく稟議を審査に回しますんで、そうですねえ、一週間かからずに二千万円、ご用意できると思います」
信金なら二日だぞと思ったが、黙ってうなずいていた。
電話をきってお茶を一杯飲んだ。最初から近くの信金に相談した方がよかったのではないかと思ったが、北沢製作所の神田の紹介があったからこそ融資を受けられるのも事実なので、信次郎は無理にでも納得することにした。
立看板のことは問題にされなかった。それは安堵すべきことだった。
作業場に戻ろうとすると、通用口のところにまだ市役所の職員がいた。
「あんた、まだいたの」
「ええ、ですから、わたくしどもとしてもできるだけ速やかに、かつ穏便に解決したいものですから」
「やけに仕事熱心じゃないの。公務員はいつからそんなに仕事熱心になったのよ」
「いえ、そんな」職員はハンカチで額の汗を拭いていた。
信次郎が壁の時計を見る。時間がなかった。
「本当に忙しいんだよ、こっちは。頼むよ、放っておいてよ」
「ええ、しかし」
なおも職員は食い下がろうとした。
「あんた」信次郎がなんとか苛立ちを抑えて職員を見た。「賄賂《わいろ》でももらってるんじゃないの。おかしいよ。ふつう公務員はここまでやらないだろう」
「そんな……それは失礼なんじゃないですか」
「じゃあ何よ。何で向こうの味方ばかりするのよ」
信次郎がまくしたてると職員の目が少しだけ落ち着きを失った。
「あ、何か隠してるだろう。何か裏があるんでしょう」
「裏だなんて」
「じゃあ何よ。言っちゃってくれよ。もうたいして驚きゃしないから」
また時計を見た。これ以上の時間のロスは納品に支障をきたしそうだった。
「あの、実は……どうやら太田さんが市会議員に働きかけたらしくて」
「市会議員?」
信次郎は途端に息苦しさを覚える。ストローで空気を吸っているような感じだった。「ええ。わたしが直接承ったわけではないのですが、上司の方から……」
何か言いたかったが言葉が出てこなかった。
「もちろん当方に強制力はないわけですが」
信次郎は慌てて胸を押さえる。おくびを吐こうとした。盛大にげっぷをすると、そのときだけ空気が喉を通った。
「……どうかなさいましたか」
「いや、何でもないよ。市会議員っていうのなら、おれたちだって商工会が推《お》している議員がいるんだからね」
「ですからわたくしどももできるだけ穏便に」
事務室の電話が鳴った。見回しても春江がいなかったので自分で出た。
交番の顔なじみの警官だった。覇気《はき》のない声で「川谷さん大変だよ」と言った。
「どうかしましたか」細い声しか発せられなかった。
「太田さん、被害届けを出したからね。このままいくと逮捕かもしれないよ」
「タイホ?」
喉に何かが絡みついているような錯覚を覚えた。
「そう。そうなると調書を取って書類送検して……」
まさかそんな言葉が現実に突きつけられるとは思わなかったので、信次郎は唖然《あぜん》とした。ゆっくりと頭から血の気が引き、肩から下まで悪寒《おかん》が降りていった。
「もちろん不起訴処分で済むとは思うけど、困るんだよね、近所でこういうことがあると。川谷さん。三日待ってあげるからちゃんと謝罪して、それなりの賠償をして、和解してくんない? それでもって被害届け、取り下げてもらってよ。そうしてくれるとうちらも助かるなあ。上がさあ、この忙しいときにこんな筋の悪い事件を持ちこむなって。交番も立場あるんだよね。ねえ、川谷さん、聞いてる?」
「あ、ええ」
息を吸いこもうとするのだが、胸さえ膨らんでくれない。
「とにかく、頼んだから」
警官は、最後にはつっけんどんな態度になって電話をきった。信次郎はその場でうずくまった。何年か前の記憶が甦ってきた。バブルが弾けて仕事が減り、青くなっていたときに一度経験したことがあった。たぶん過呼吸だ。
「川谷さん、どうかしましたか」
市役所の職員が事務室に駆けこんできて信次郎の背中をさすった。
口を押さえ、時間がたてば治るはずだった。
信次郎は片膝を立て、左のてのひらで口をふさぎ、右手で上から押さえた。胸の中の空気を吐きだしたいのに咳すら出てこない。目に涙が滲んだ。
何が悪いのだろうと思った。タレパンを買おうとしていることだろうか。いや、銀行は金を貸してくれるし、神田は仕事を出すと言っているのだ。ならば太田に怪我を負わせたことだろうか。しかしあれは不慮の事故だった。そもそもあの立看板が発端なのだ。どうすればよかったのか。手がないじゃないか。
一分か、二分か、それとも数十秒だったのか、しばらくうずくまっていたら呼吸が回復した。激しく咳きこんだ。全身にびっしょりと汗をかいていた。
「大丈夫、ですか」
職員がおそるおそる聞いてきた。
「あんたらがいじめるからだよ」
冗談ではなく、恨みを帯びた口調で言った。
「けっしてそんなつもりは……」
信次郎はまた時計を見た。本当にこんなことをしている場合ではなかった。
窓から外を見ると春江が帰ってくるところだった。春江も動員して、とにかくスポット溶接を済ませなくてはならない。
「どこへ行ってたんだ」窓を開けて八つ当たり気味に怒鳴った。
「電話。おとうさんが買ってこいって言ったんじゃないの。ナンバーディスプレイの付いてるやつ」春江が何を怒っているのかという顔で見る。
「暇なときに行けばいいだろう。何もこんな忙しいときに」
「出かけるときにちゃんと言ったじゃない。黙って留守にしたわけじゃないでしょう」
春江がめずらしく表情を強ばらせて反抗した。
「まあまあ」
職員がとりなそうとした。
「まだいたのかよ」
「ええ、ですから」
「とっとと帰れよ。もう二度と来ないでくれっ」
自分でも顔が赤くなっているのがわかった。信次郎は乱暴に事務室のドアを開けると溶接機の前に座った。感情を昂ぶらせたせいか手先が震え、二、三個立て続けに不良品を出した。そのつど火花が飛び、スパークする音が鳴り響いた。
どう考えても納品は間に合いそうになかった。
春江に、受注先に間に合いそうにない旨を電話で伝えてくれと頼むと、春江は「おとうさんがやってよ」と刺々しく言い、そこで小さな夫婦喧嘩をした。
コビーが困った顔で雇い主夫婦の様子を窺い、松村は黙ったまま仕事を続けていた。
夜になって信次郎はタンスからワイシャツを取りだし、ネクタイを締めた。ゴルフ用のシャツにしようかと思ったが、少しでも誠意を見せた方がいいと判断して背広を選んだ。春江の機嫌が悪いので自分でメロンを買いにいった。近所の果物屋は避けたくてスーパーまで行って買った。一万円の値札を見ると、これからいくらかかるのだろうと溜息がでた。
マンションの敷地に入り、七階建てのビルを見上げた。あちこちの部屋に白熱灯の柔らかい明かりが灯っていた。玄関まで行ってここがオートロック式であることを初めて知った。すぐ横に名札と部屋番号の掲示ボードがあり、太田の名前を探した。二〇三号室にその文字があった。
押すと太田夫人のよそいきの声がスピーカーから聞こえた。
「あの、向かいの川谷です。昨日は大変申し訳ないことをいたしまして……」
すぐに返事はかえってこなかった。
「ご主人様はもうお帰りでしょうか」
「いいえ、まだです」声のトーンが低くなっていた。
とりあえず夫人でもいいから会って謝罪しなければならない。次の言葉を探していると、太田夫人はごく事務的に「川谷さんのお電話番号をいただけますか」と聞いてきた。「後日、弁護士からご連絡さしあげます。わたしたちは会うつもりはありません」続けて早口で言った。
「あのう……」
「電話番号を」
とりつくしまがまるでなかった。信次郎は仕方なくマイクに向かって自宅の電話番号を告げ、メロンを脇に抱えたまま家に帰るのだった。
ますます気が重くなった。弁護士という言葉には、信次郎のような平凡な男には縮みあがってしまいそうな威圧的な響きがあった。
春江は信次郎がメロンを持ち帰ったところを見て、あまり詳細を聞こうとはしなかった。二人の子供はよそよそしく、いつものことだが夕食を済ませるとさっさと二階へ上がっていった。
もう一度作業場に戻ろうかと思った。仕事が溜まっていた。気が入らず昼間の作業がはかどらなかったせいだ。しかし音のことを考えると躊躇せざるをえなかった。当分、早朝に仕事をしようと思った。
テレビの巨人戦をぼんやり見ていたら電話が鳴った。
台所で帳簿をつけていた春江がはっとして振り向き、信次郎の方を見た。
信次郎は立ちあがって電話台に歩いていくと、春江があとからついてきた。
二人で真新しい電話機の灰色の小窓を見た。そこには数字が並んでいる。信次郎には見覚えのない番号だった。
そっと受話器を外して耳に当てると、向こうは無言のままだった。春江が番号をメモしていた。受話器を降ろす。
「誰だよ、この番号」
「わたし、知らない」
また鳴った。同じ番号だった。信次郎は呼び出し音のスイッチを切り、電話が鳴るのを止めた。
「よし、電話帳で調べよう」
その場にしゃがみこんで分厚い電話帳を広げた。「オ」の行で調べた。
「太田ナニって言うの」春江に太田のフルネームを聞いた。
「知らないわよ」
調べたからといって、自分が抗議できるかどうかわからなかった。
太田というありふれた名字はたくさんあったが、記載されている住所を見れば特定できるはずだった。
同じ番号はなかった。それらしい住所も見つからず、もしかすると掲載を拒んでいる可能性もあった。そんな気がした。あのよそよそしい太田のことだ。プライバシーがどうのこうのという理由で載せないのかもしれなかった。
横で春江が住所録をめくっていた。
「何してるんだ」
「うん」はっきりしない答え方をした。
「心当たりでもあるのか」
「わからないけど」
不安そうな声を出していた。やがて春江の手が止まる。しばらく紙の上の数字を眺め、なかば放心したような表情で信次郎を見た。犯人がわかったのだと直感した。
「誰だかわかったのか」
春江は無言でうなずいた。住所録の一ヵ所を指さした。
確かに、さきほど妻が急いでメモした番号がそこに書いてあった。
「ほら、この前、無断欠勤したとき何度も電話したから」
「なんで松村が……」
信次郎の頭は混乱した。わけがわからなかった。
「おとうさん、問い詰めたりしないでね」
「何言ってんだい」
「だめだって。あの子、また来なくなっちゃうから」
「ふざけるなよ」
「あの子は、こういうことでもしないと何も発散できないのよ」
自分の部屋に閉じこもり、雇い主の家にひたすら無言電話をかけている松村の姿を想像した。
「何なんだよ、あいつは」
「ほんと、だめだからね」
春江が悲しそうな目で信次郎に訴えていた。
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藤崎みどりが毅然とした態度を取ったせいか、柴田老人はここ二日ほど顔を見せていない。お茶の誘いを断ったときは、あとになって「言い過ぎたかな」と胸が痛んだが、曖昧な返事をすればつきまとわれるだけなので、正解だと思うことにした。
どうせまたすぐ現れるに決まっている。同情は禁物だ。老人と過ごす時間は、不愉快というほどではないが、お世辞にも楽しいものではない。
みどりは窓口で黙々と仕事をこなした。客から手渡された金を数え、受領のスタンプを押し、お釣りの小銭を揃える。手元の引き出しには一万円の無造作な束が唸っている。この仕事を続けていると、それが単なる物に見えてしまうから不思議だ。どうせ他人の金だと思えば、大切に扱おうという気さえなくなる。
なんだかオフィスの後方がざわついている気がした。伝票をうしろの係に回すとき、さっきから何度も振り返っているのだが、何人かの行員が急ぎ足で歩き回り、ひそひそ話をしているのだ。そしてときおり背中に視線を感じる。ちらりと目をやると、気のせいか、さっと目をそらす者がいる。
何かあったのだろうか。みどりは怪訝そうにあたりを窺い、仕事を続けていた。隣の窓口の同僚も妙な雰囲気に気づいたらしく、みどりに小声で「何かあったの」と聞いてきた。もちろんみどりは首を横に振る。
しばらくしたら別の女子行員がみどりを呼びにきた。
「藤崎さん、玉井課長がちょっと会議室へ来てくれって」耳元でささやき、「わたしが代わるから」と肩に手を置いた。
タマが何の用だろう。考えてみたがわからない。会議室までほんの十メートルを歩くだけなのに、周囲の重い視線を感じた。
ドアを開けて中に入ると直属の上司にあたる玉井課長と、副支店長が厳しい顔でテーブルに並んでいた。
「藤崎君、何のことかわかるよね」
副支店長が、みどりの表情を読みとらんとするような目つきで言った。タマもみどりを凝視している。
「いいえ」
みどりは恐る恐る声を発した。よくない話であることは確かなように思えた。
「正直に言いなさい」
今度はタマが非難めいた目でみどりを見据えた。
「何のこと、ですか?」
見当もつかないことなので、みどりは首を傾げざるをえなかった。
二人の中年男が顔を見合わせる。互いにうなずきあうと、みどりを蚊帳《かや》の外にして何かボソボソと話していた。
「どうやら知らないようですね」タマが言うのが聞こえた。「そりゃあそうだろうな。イニシャルとはいえ、名簿を見れば誰でもわかることだし、そんなことを嫁入り前の娘が自分でするとは思えない」と副支店長が答えるのが聞こえた。
わけがわからずみどりはただ立っている。
「誰に言った?」タマが顎を突きだした。「ほら、新歓キャンプで支店長に酔って抱きつかれたとかいう話」
いまさらそんな話が出てくるとは思わなかった。
「ええと……誰にも言ってませんけど」
「それは嘘だろう。だいいち木田には言ってるんだし」
そのぞんざいな口調にみどりは腹が立った。前からそうだったが、このタマという男はつくづく嫌いだと思った。
「誰かに話してるはずだ」
どうしてこんな独善的な物言いができるのだろう。よく結婚できたものだと思う。こういう男にも妻がいることがみどりには到底信じられない。
まるで叱られているような不快さを覚えながら、着席も促されず、みどりはただ立っている。そして裕子の顔が浮かんだ。裕子にだけは話している。
どうしようかと迷ったが、隠すようなことでもないので、仕方なく裕子の名前を出した。何でも打ち明ける仲なので彼女だけには相談したと、二人の中年男に告げた。
「そりゃ宣伝してるようなもんだ」副支店長が言った。「若い女の子がそういう話を黙っていられるわけがない」
「そうでしょうね」タマが苦虫を噛みつぶしたような顔でうなずいている。
「ネズミ算式ってやつだ。女の口コミは早いからなあ。男みたいに肚に溜めておくってことができない」
なんだか知らないが自分たちが侮辱《ぶじょく》されていることだけはわかった。
「あっと言う間に本店に知れ渡って、よからぬ考えの持ち主にも伝わる」
「まったくそのとおりです」
「玉井君、君がこういうことはちゃんとケアしてくれないと」
「申し訳ありません。まったくわたくしの不徳のいたすところで……」
何を言ってるんだ、このおやじたちは。不快感がどんどん膨らんでいく。呼んでおいてみどりはまったく相手にされていなかった。
「あのう……」みどりが遠慮がちに口をはさんだ。「何かあったんですか」
二人がまた顔を見合わせる。
副支店長が小さく溜息をついたように見えた。
「……どうせ、本店に行けば見せられるだろうし」
「うちの支店ですらコピーが出回り始めてるみたいですし」
「まったく人間ってやつは他人の不幸がうれしくてしょうがないからな」
わけがわからなかった。
「藤崎君」タマが言った。気がつかなかったが手には一枚の紙があった。「つい一時間ほど前、こんな文書がファックスで流れてきてね。うちだけじゃない。本店からさっそく問い合わせがあった。どうやらあちこちの支店にも流れているらしい」
その紙が、テーブルの上を滑るようにしてみどりの手元に差しだされた。
視線を落とす。「北川崎支店長、女子行員M・Fを暴行未遂」という文字が目に飛びこんだ。一瞬、目眩がした。
「内部告発だよ」副支店長の声がなぜか遠くに聞こえた。「まあ、一般的には怪文書ともいうんだろうがね」
首の裏あたりの皮膚がゾワゾワとうごめき、その痙攣《けいれん》にも似た感覚が背中を伝ってゆっくりと降りていく。足元からどんどん体温が奪われていくような気がした。
活字を目が追えなかった。断片的に「バンガローの中」「乳房」「股間」という文字が浮かび上がってきた。いつの間にか、バンガローの中に引きずりこまれたことになっている。
木田課長代理だ。みどりはそう思った。いや、木田本人ではなく、横浜のホテルで木田が引き合わせたかつての上司、名前は何といったか……確か篠原だ、その篠原がしでかしたことなのだ。同期の支店長に対する怨恨を、みどりを道具にして晴らそうとしているのだ。
「もちろんこれは濡衣《ぬれぎぬ》だ」副支店長が何か言ったが耳に入らなかった。
どうして自分がこんな目に。
「支店長も当惑しておられる」
あんまりだ。同情するような振りをしておいて。
もうこの銀行にはいられない。七月のボーナスまでなんてとんでもない。今すぐ逃げだしたい。このドアの向こうの同僚とも顔を合わせたくない。窓から外へ出て、そのまま自宅のベッドの中へ直行したい――
顔が石のように固まっている。涙は出てこない。きっと一人になって泣くのだろうなと思った。
「まあ、君もショックだろうとは思うが」
やっとおじさんたちの声が聞こえた。
みどりの目は文書に向かったままだ。パニックの中でも少しずつ内容が読みとれた。「目撃者の部下Iを恫喝《どうかつ》し……」岩井のことだ。「揉み消しを図り……」そこで目をそらした。こんなものをくわしく読みたくはなかった。
「君にはこれから本店に行ってもらう。人事部が事情を知りたいと言っているから、そこへ出向いて疑いを晴らしてもらうことになる」副支店長が言った。
勘弁してもらいたかった。もう何もする気力はない。早く家に帰りたい。それに、疑いを晴らすだって? 被害者の女子行員に、支店長の味方をしろと言うのだろうか。
副支店長が封筒を内ポケットから取りだした。「君にはご足労を願うわけだから」重々しく言ってみどりの前に差しだした。
「何ですか」
みどりが聞く。声を出して、これまでずっと黙っていたことにやっと気がついた。
「受け取りなさい」
お金だと思った。みどりは手を出さなかった。
「タクシー代だから、変に思うことはない」
黙って下を向いていた。
「藤崎君。副支店長がそうおっしゃってるんだ。ちゃんと従いなさい」とタマ。
「まあまあ。急なことで彼女も気が動転してるんだろう」副支店長が手でタマを制した。「……これが男だと話はしやすいんだが……いや失礼、別に女の子だからどうこういうつもりはない。……その、我々は支店をひとつの家族だと思っている。支店長が家長で君らは娘のようなものだ」
そんなのは迷惑だ。あかの他人で結構だ。
「だから支店の不祥事はみんなの迷惑になる。仮に……あくまでも仮にだが、支店長が酒に酔い、冗談半分に女子行員に抱きついたとする」
冗談半分だと。それこそ冗談ではない。
「しかし、問題なのは行為そのものではない。それが外部に漏れて、支店長に反感を抱く者によって利用されている、それこそが問題だ。この支店が一枚岩ではない、それが憂慮すべきことなんだ」
いまさら謝ってもらおうとは思っていないが、みどりは、あらためて中年男たちの高い壁に弾き返された気がした。
「君はこれから本店の人事部へ行く。そこでいろいろなことを聞かれるだろう。しかし、もし君がそこで何か……たとえば支店長に不利なことを訴えたとしても、今度は人事部が困ってしまうだろう。そんな答えは人事部も望んではいない。わかるだろう?」
みどりは首を横に振った。文書の内容を否定してくれという頼みだということは想像がつくが、それに至る理屈がわからない。
副支店長が溜息をついた。
「藤崎君」タマがとがった声を出した。「子供じゃないんだから」
「まあいいや」副支店長が顎を撫で、椅子の背もたれを軋ませた。「君が事情聴取に何かを期待しているとしたら、失望するだけだから、あらかじめそれだけは忠告しておく。組織とはそういうものではない。一人の女の子の意見を汲みあげるほど、牧歌的な集団ではない」
家族だと言ったり、組織だと言ったり。どうだっていい。
「はい、タクシー代」
副支店長は立ちあがり、あらためて封筒をみどりの手に持たせた。
みどりは逆らわなかった。早く解放されたかった。いやなことをさっさと済ませたかった。
「本店の八階に総務本部がある。まずはそこへ行きなさい。大至急だ。噂は放っておくとどんどん広がる。それは君にとっても歓迎できないことだ」
担当者の名前を教えられ、制服を着たまま行くよう命令された。
みどりは会議室を出た。真っ先に木田を探したが、逃げたのかオフィスには見あたらなかった。
裕子が駆け寄ってきた。「大丈夫?」心配そうにみどりをのぞきこんだ。
支店のみんなが知っていると思ったらいたたまれなくなった。
小さくうなずき、逃げるようにしてみどりは銀行をあとにした。
タクシーを拾って封筒の中を見る。五万円あった。この金額をどう判断していいのかわからなかった。
本店の人事部で、みどりは副支店長の言いたかったことをいやというほど痛感した。おじさんたちが恐れていたのは、このスキャンダルが外部に漏れることだけで、一女子行員が実際にセクハラを受けたかどうかなどどうでもよかった。
たぶん彼らは、この一件が総会屋とかゴロッキのような経済記者に知られることを、自身の職務にかけて阻止したいのだろう。
みどりは何度も説得された。文書に書かれた内容が真実ではないこと、悪質な噂にすぎないこと、それを認める書類に署名すること。面倒臭いのでみどりは一貫して黙っていたが、最後には根負けした。
どうだっていい。どうせ明日にでも辞めるのだ。それにこの怪文書が支店長の出世に響くことは確実のように思えた。銀行は徹底した減点主義だ。こっちの傷の方が深いが、相手も無傷なわけではない。
続いておじさんたちの犯人捜しが始まった。本店の各部署と各支店のファックス番号を知っていることから、内部犯行と決めてかかっているようだった。木田と、木田のかつての上司の名前をみどりは出さなかった。心当たりがないと言いはった。木田に気兼ねしたわけではない。もう関わりあいになりたくなかったのだ。
事情聴取は二時間にも及んだ。その間おじさんたちから、みどりをいたわる言葉はついぞ聞かれなかった。
総務の部屋から出るとき、ちょうど定時の退社時間と重なった。エレベーターに乗りこむと、本店勤務の、ポイントの高いコネによる入社でここに配属された女たちと一緒になった。
何人かはあのファックスを見たのだろう。きっと恰好の噂話になったことだろう。そう思うと急に息苦しくなり、みどりは途中の階で人をかき分けるようにして降りた。
階段を、顔を伏せ、早足で降りながら、知っている顔に出会わないように祈った。
身も心もぼろぼろだった。
残業をしているかもしれない裕子や同僚と顔を合わせたくなかったので、少し書店で時間をつぶした。七時になるのを待って東京駅からタクシーに乗った。こんな長距離をタクシーで移動するのは初めてだったが、制服姿で電車に乗る勇気はなく、どうせ貰った金なので贅沢だとも思わなかった。いつの間にか雨が降っていた。静かな車内で、ワイパーの動く音が規則正しく響いている。
ここへきて初めて五万円という金額が実感できた。慰謝料代わりだとすれば、ずいぶん安く見られたものだ。じんわりと情けなさが込みあげてきた。
支店長のポケットマネーだろうか。それとも副支店長やタマが忠誠の証《あかし》として自腹を切ったのだろうか。早く使ってしまいたかった。こんな金、自分の財布に入れておきたくない。
北川崎支店に到着し、通用口から中に入った。タマに報告があるかと思うと、それも憂鬱だった。オフィスでは男たちが忙しく働いている。木田課長代理が、青い顔でもしているのかと思えば、ごくふつうに「弁当あるけど食べる?」と聞き、食堂のある上の階を差した。みどりが固い顔で「いいえ」と返す。机にいたタマは、みどりの方を見もせず「ご苦労さん」と言った。「もう着替えて帰っていいよ」
どうやら本店から電話連絡でもあったのだろう。もう自分は用なしなのだ。正直ほっとした。タマとは、ほんの数秒でも時間を共有したくない。本店からは犯人がわかっていない旨も伝えられたにちがいない。だから木田は平然としているのだ。庇《かば》ってやったのだから少しは感謝しろと腹が立った。
みどりが階段を上がる。食堂に電気が灯っていて、何気なくのぞいたら岩井が一人で仕出し弁当を食べていた。一人なら窓際のいい席で食べればいいのに、わざわざ壁の前に座っている。とことんこの男の考えていることがわからなかった。上司に怒鳴られ、同僚から仲間外れにされ、女子行員からは「あの馬鹿」と呼ばれている。生きていて何が楽しいのだろう。岩井は黙々と箸を動かしている。
顔をてのひらでこすって更衣室に入った。ロッカーを開け、制服を脱ぐ。あと何日これを着るのだろうかと、淡いベージュのベストを眺めた。天井では蛍光灯がジージーと鳴っていた。ふいに涙が出そうになって、もう少し我慢するんだと自分に言い聞かせ、おなかに力を入れて堪えた。
ロッカーの鏡に自分を映す。どうしてこうなったのかと思った。毎日が退屈だと不平を言っていたころが懐かしかった。中年男に襲われかけて、抗議をしても無視されて、おまけに怪文書の餌食《えじき》にされて。いいことないじゃないか。
私服に着替え、置き傘を持って更衣室を出た。もう一度食堂をのぞく。まだ岩井は黙々と箸を動かしていた。食事までもがのろいのか。みどりはひとこと言いたくなった。多少残酷なことでもいい。この意気地なし。それくらい言う権利が自分にはある気がする。
みどりは食堂に入り、ゆっくりと岩井に近づいた。気づかないはずはないのに、岩井は視線を弁当に向けたままだった。無視しているのかとカチンときた。さらに近づき正面に立ち、咳ばらいした。
岩井さん――。冷たく口を開こうとしてみどりは息を呑んだ。
見るんじゃなかったと思った。
弁当箱はとっくに空だった。
空の容器に向かって岩井は箸を伸ばし、宙をすくって口に運んでいた。
目がすでにまともではなかった。能面《のうめん》のような、感情をどこかに置き忘れた目だった。みどりはかろうじて声をあげるのを抑えた。
逃げるようにしてその場を離れた。階段をかけ降り、タイムカードを押し、外へ出た。自分の胸を抱えこむ。心臓が高鳴っていた。
考えてみれば、岩井も怪文書の餌食になっているのだ。いつも以上に冷たい視線を受けていたことは容易に想像できた。
「藤崎さん」その声に振り返る。「どうしたの、顔色悪いよ」
高梨が屈託のない笑顔でうしろに立っていた。
「いえ、何でもないんです」慌ててかぶりを振る。
「あっ、傘持ってる」みどりの手元を指さした。「用意がいいんだ。ねえ、駅まで入れてってよ。ぼくも帰るところだから」
「あ、はい……」
傘は高梨が持ってくれて二人で駅まで歩いた。肩と腕が触れあう。アスファルトをたたいた雨粒がパンプスの上で水滴を作っていた。
「気にしない方がいいよ」高梨が言った。「どうせろくでもない噂だよ」
今日、初めて聞いた慰めの言葉だった。ただ、やっぱりみんなが知っているのだと思った。
「先輩に聞いたけど、うちの銀行って怪文書が多いんだって。ま、組織がでかいからね。いろんな人がいるんだよ。派閥があちこちにあるしね」
「ええ……」
「かく言うぼくも、ある常務の子飼いだって言われてるみたいだけどね。常務が大学の先輩にあたるからね。しかも同じテニス部のOBだし」
どうりで支店長も気を遣っているはずだと思った。もっともその支店長も今は顔色をなくしていることだろう。いい気味だ。せいぜい困ればいい。
「常務もなあ、もう少しましな支店に回してくれればいいのになあ。町工場のおっさん相手に融資の相談だもの。しょぼいったらありゃしないよ」
高梨が口をとがらせる。自分の職場を悪く言われて愉快ではないが、その無邪気さに異議を唱える気にもなれなかった。
「支店長が成績上げさせてくれるのはいいけど、二、三千万の融資をまとめても野球でいえばバントを決めた程度なんだよね。あ、そうだ。晩ご飯食べた?」
「いえ……まだですけど」
「じゃあ食べに行こうよ。どうせ寮に帰っても冷めたおかずがあるだけだしさ。横浜においしいレストランがあるんだ。行こう行こう」
有無を言わせない口調なので、みどりは思わず「はい」と語尾が消えるように返事をしてしまう。そんな気分じゃないのに。
「じゃあタクシーにしよう。雨の日の電車っていやなんだよね、湿ってて」
駅前でタクシーに乗りこみ、横浜を目指した。もしかして裕子と行った店なのではないかと想像した。聞くべきかと思った。裕子と付き合ってるんでしょ、と。
「線路向こうって行ったことある?」
高梨が窓の外を見ている。線路向こうとは工場が立ち並ぶ地域だ。
「いいえ、ないですけど」
「手洗い場の石鹸が工業用なんだぜ。初めて見たよ、そんなの。それがミカンの網袋みたいなのに入って水道にぶら下げてあるわけ。ちょっと世界、ちがうよね」
少し考えて聞くのはやめた。
「それに『安全第一』とかの看板がやたらあるしね。ぼくら仕事で怪我をするなんてピンとこないもんなあ」
高梨は一人でしゃべっている。タクシーの冷房が効き過ぎで、みどりは手で両腕をさすっていた。
「あ、そうそう。お得意さんの柴田さんって知ってる? 朝日町の大地主」
「あ、はい」
「死んだって」
みどりが思わず顔を上げる。
「支店からも何人か葬儀の手伝いに出るみたいだよ」
そんな……。二、三日前のやりとりが頭に浮かんだ。そんなことならもっとやさしくしておけばよかった。
「自殺だって」
「えっ……」みどりが絶句した。
「孤独な老人だったんだよ。毎日銀行のロビーに来てんだもん。息子の嫁が老人ホームに入れようとしてたみたいだし」
背筋が寒くなった。高鳴る動悸の中で、自分のせいじゃないんだと言い聞かせた。
「さあ、通産相続が大変だ。この近辺だけで二千坪だって」
たかがお茶を断られたぐらいで死ぬわけがないじゃないか。
みどりは懸命に否定している。
ますます最低の一日だ。
着いた先は、この前みどりが高梨と裕子を目撃した、中華街のはずれのレストランだった。この無頓着さは、ちょっとわからなかった。
洋食風にアレンジしたという中華料理を二人で食べた。ワインを少し飲んだ。高梨は仕事の話ばかり一方的にし、今日の怪文書のことには一切触れなかった。それは気遣いというよりは、ほとんど関心がないという風に見えた。別に誰かに悩みなど相談したくないし、それはそれでありがたかった。柴田老人のことは無理にでも頭から追い出すことにした。
でも、やっぱりごちそうを楽しむ気分ではない。味があまりわからなかった。
「あ、水割りはもういいです」高梨がウイスキーを注《つ》ぎ足そうとするのを手で制し、「何かちがうのがいい」と言った。ウイスキーは苦いのであまり好きではなかった。
「ソルティドッグなんかどう? ウォッカのグレープフルーツ割りなんだけど、飲みやすいと思うよ」
「じゃあ、それにしようかな」
二軒目の地下のバーで、みどりはカクテルを飲んでいる。最初に飲んだワインがことのほか酔いを誘い、珍しく「今日は飲んでやろう」という気にさせた。やけ酒という経験がないので、徐々に頭が痺《しび》れていく自分に興味があった。
そうか、男の人はこうやってウサを晴らすのか。
「それでね、最後の問題を解くときにね」
高梨はよほど自慢話が好きらしい。旺文社の模試で満点を取った話は、確か新歓キャンプのときもしていた気がする。
「でも東大に落ちちゃったんだよなあ。一浪しようかと思ったんだけどさ、もう一年受験勉強するのもかったるいからさあ」
なんでもかもめ銀行は役員の半分が東大卒なのだそうだ。高梨も、一応東大を受けたことを言っておきたいらしい。
カウンターの隣のカップルを盗み見る。女の方の目が潤んでいる。同性の前では絶対に見せない目だ。自分もあんな目をしているのだろうか。まさか。それにしてもカップルばかりだ。どんなつもりで高梨はここへ連れてきたのだろう。
「もう一杯飲む?」
「あ、はい」
「強いじゃん。これって飲みやすいけどベースはウォッカだからね。酔っ払うよ」
「いい」
ちょっと思わせ振りな言い方をしたかな、と小さくスリルを感じた。高梨の目が反応する。誘惑してやろうか。もちろん冗談だ。
店内にはジャズが流れている。どこの誰かは知らないけれど、暗いラッパを鳴らしている。
「これ、誰ですか?」
「知らない。……ねえ、これ誰?」高梨がバーテンダーに聞く。「有線放送だからわからないって」
「ふうん」
「気に入ったの?」
「いいえ、別に」
高梨の目に、酒瓶が並んだ棚の照明が映っていた。酔いも手伝ってか、やっぱり聞いてみたくなった。
「ねえ、高梨さん。裕子と付き合ってるんでしょ」
高梨がふざけて「ワオ」と言った。水割りを目の高さに持ちあげて氷をカランと鳴らす。
「彼女がそう言ってたの?」
「いいえ」みどりは首を振り、困ったと思った。どうやって知ったことにしよう。「……その、二人でいるのを見かけた人がいて、その人に聞いたの」
「二人でいたら恋人同士?」
「そうじゃないけど。でも、そんな雰囲気らしかったから」
「それって支店で噂になってるの?」
「そんなことない。知ってるのわたしだけ」
話の辻褄《つじつま》が合っていない気がしたが、高梨も気づかなかった。
「まあ、付き合ってるってほどでもないと思うけど」
「そうなんですか」
「彼女がどう思ってるのかは知らないけど」
「裕子は真剣なんじゃないかなあ」
「でも、近々見合いするようなこと言ってたぜ」
それは止めてもらいたいからかもしれない。裕子もクサい手を使うな、と意地悪く思った。
「それにぼくだって結婚は三十までする気ないし」
ま、いいか。裕子だって大人なんだから。
エリートかもしれないが、少々幼稚で、夢中になるほどの男ではない。裕子だってそのくらいわかっているはずだ。
トイレに立って洗面台で顔を見た。こめかみのあたりが赤くなっている。こんなに飲んだのは久し振りだった。
頬を手でさわり、自分の熱を感じていた。そして怪文書のことを忘れていたことに気づき、酒も飲んでみるものだと思った。
明日を考えると気が重い。ならば今夜だけでも忘れていたい。
鏡に向かってつぶやいた。ボーナスがなんだ。あんな銀行、さっさと辞めてやる。あの老人も老人だ。その歳まで生きて、自分で命を断つことはないだろう。
カウンターに戻り、グラスに残ったソルティなんとかというカクテルを飲み干した。
高梨がまた「ワオ」と外人みたいに言った。
「酔っ払ってるんじゃない?」
「ううん。そんなことない」
「酔ってるよ」
「酔ってない」
同じやりとりを何度かした。
高梨が苦笑し、みどりもウフフと笑った。
「ねえ、どこかで休んでかない?」
なんとまあ古典的な誘い文句であることか。
「うん。いいけど」
えっ? 何を言ってるんだ、このわたしは。
あろうことか横浜の、いつか二人が入るのを目撃した同じホテルで、みどりは抱かれた。さすがに部屋に入ったときは心が揺れたが、カーテンを閉めて部屋を真っ暗にしたら、どうでもよくなった。
行きずりの男と膚《はだ》を合わせていると思えばいい。そういう願望だって、これまでなくはなかったのだ。
処女というわけでもないし。あんまり遠ざかると、セックスを忘れてしまうんじゃないかという心配もある。
ずっと目を閉じていた。目を閉じて、男の行為をすべて受け入れていた。
どうせなら感じさせてほしい。めちゃめちゃにしてほしい。
焼けついてくる額の奥で、みどりは、恍惚《こうこつ》というほどではないけれど、自分が汚れていく快感に犯されていた。
もっとも、それはみどりの自己陶酔で、実際はあっという間のセックスだったのだが。
瞼の裏に赤い光を見つけ、みどりは自分がしばしまどろんでいたことを知った。
ゆっくりと目を開ける。お尻のあたりに乾いたシーツの感触を覚え、これが実際に起こったことであると、いまさらのように思った。
まだ頭が痺れている。体の熱っぽさはすでに取れていたが、思考はまとまらなかった。
首を起こす。電気スタンドの横には高梨がいて、机に向かって何かの書類をいじっていた。
みどりはシーツを胸に抱え、床に落ちていた下着を拾う。それが鏡に映ったのか、高梨が振り向いて「泊まっていく?」と聞いた。
「あ、いいえ。帰ります」
ベッドサイドの時計を見る。午前二時をさしている。
「そうだよな。女の子は同じ服で出勤するとまずいもんな」
シーツを前からかぶってゴソゴソと下着をつけた。
「仕事、ですか?」
こんなときまで仕事をするなんてどうかしてると思った。
「稟議書を作ってるんだけど、どうしようかなあ。ふたつ融資先があってね、最初は支店長がどんどんやれって言ってたんだけど、課長がどっちかにしろって。まあ支店全体としては回収にやっきになってる最中だからね」
みどりが小さく呆れる。よくもまあ情事のあとに――。
「ま、どっちもしょぼい町工場だからどうでもいいんだけど……。やっぱりこっちを落とすかなあ。……そうだよなあ、いい歳したおっさんが不動産も持たないでやってるんだもんなあ。いくら取引先のバックアップがあるっていっても所詮は口約束だし。……川谷鉄工所様、落選と」
高梨は一枚の書類をヒラヒラと床に落とした。
「あのう……」みどりが帰り支度を済ませる。
「何?」
「このこと……」どんな言葉を遣っていいのかわからなかった。
「ああ、いいよ。秘密ってことね。そうしよう。お互いのために」
どんどん気持ちが冷えこんでいくのがわかった。ロマンチックな期待などなかったはずなのに、どこか裏切られた気がした。
一刻も早くここを去りたかった。何かが胸を圧迫している。
バッグを持って扉に向かって歩く。
何て言おう。さようなら、だろうか。おやすみなさい、だろうか。
「じゃあね」
高梨がそう言ったので、目を合わせないで小さく会釈した。
廊下に出る。エレベーターに乗る。ロビーでは目を伏せて足早に歩いた。
タクシーに乗りこんで自宅の地名を告げる。
ここで初めて、みどりは胸の中の暗い塊が何であるかに気づいた。
当たり前じゃないか。どうして裕子のことを考えなかったのだろう。
自分が信じられなかった。
後悔というには、あまりに情けない感情だった。
こんなに自分が馬鹿だとは思わなかった。
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ポリバケツが音を立てて転がり、路上にごみがぶちまけられた。ジュースの空き缶らしきものがカランカランと背中で鳴っている。
曲がり角で、突然目の前に現れた背広の男を弾き飛ばす。前のめりになって転びそうになるが、懸命に踏んばってなんとかもちこたえた。罵声《ばせい》が飛んできた。何事かと通行人が立ち止まっている。
景色がどんどん後方へ流れていく。鼓膜では、自分の荒い息と靴がアスファルトをたたく音が響いている。喉が渇いていた。心臓が口から飛びでそうだ。
野村和也は、首をちょん切られた鶏《にわとり》のように全力で街を駆け抜けている。行く先なんかあるわけがない。
ときどきうしろを振り返る。まだ追いかけてきやがる。それはそうだ。それがお巡りの仕事だ。
パチンコ屋の景品交換所を狙おうとして、あっけなく警察に追われることになった。野球帽にサングラスの男が、朝から周りをうろうろしていたのだから、通報されたのも当然だった。パチンコ屋の前にパトカーがゆっくりと止まり、警官が降りたところで、そのうちの一人と目が合った。反射的に和也が駆けだす。当然のように逃走劇がはじまった。
「待てーっ」という怒声が五月の青空に響き渡った。
和也は繁華街を目指して走った。車道を大股で横切り、急ブレーキとタイヤの軋む音を引き起こし、ついでに通行人の顔を引きつらせた。歩道いっぱいになって歩く中学生をうしろから突き飛ばし、放置自転車を何台もなぎ倒した。
交差点を斜めに横断していく。クラクションがあちこちから飛び交う。中年男がトラックの窓から顔を出し、「馬鹿野郎」と怒鳴っていた。偶然にも渡った先が交番だった。追っ手が一挙に増えることになった。
「待てーっ」その台詞しか知らないかのように、警官が叫んでいる。足を動かすたびにあばらが痛んだ。最初にリンチを受けてからずっとだ。骨にひびでも入っているのかもしれなかった。
空気が口から流れこみ、喉の渇きが増していく。心臓はとっくに悲鳴をあげている。ふとタカオは今ごろ何をしているのかと思った。きっとあの調子で、新しい土地でも陽気に粋《いき》がっているのだろう。そう思うと、自分の要領の悪さに嫌気がさして、走りながら叫びたくなった。
四つ辻でバイクが横から現れた。白い割烹着《かっぽうぎ》姿の出前の男が、目を丸くして和也を見ている。どけっ。そう思ったときには体ごとバイクに突っこんでいた。バイクを横倒しにし、足が宙に弧を描く。目の前が暗くなると同時に顔からアスファルトにたたきつけられた。背骨が反《そ》っくり返り、一回転して腰までしたたかに打ちつけた。視界に銀の粉が舞っている。横転したバイクの後輪が空回りしていた。
「あんた、何すんだよぉ」出前持ちが声をうわずらせた。「蕎麦《そば》、だめになっちゃったじゃないか。ああ、器も」
うしろを見た。制服の警官が必死の形相《ぎょうそう》で追いかけてくる。
「おーい」という声が聞こえた。「その男を」
和也は急いで立ちあがり、出前持ちの胸倉をつかんだ。男がひいっと悲鳴をあげる。そのまま地面に押し倒し、荷台に小さなクレーンのようなものを積んだ蕎麦屋のバイクを起こした。またがってアクセルを吹かす。五十tのくせにタイヤが白煙を上げ、再び和也は人が行き交う繁華街を駆け抜けた。
甲高いエンジン音に人々が振り返り、慌てて逃げ惑う。かぶっていた帽子が風に吹き飛ばされた。髪が一斉になびく。食いしばった歯の隙間から風が入りこみ、ますます喉が渇いた。
左手で鼻を押さえた。そのてのひらを見ると、びっしょりと血がついていた。毎日血を見ている気がする。おれはどうなるんだと思った。これから何日、こんな日々を送らなければならないのか。
バイクを捨てたあとは電車に乗り、その中で金を作る次の方法を考えた。棚にあった新聞を広げて顔を隠し、車両の隅の席でじっとしていた。体のあちこちが痛んだ。バイクとぶつかったときに背骨もどうにかなったらしい。横にねじっただけで脳天まで激痛が走った。気ばかりが焦ってうまく考え事ができなかった。金があって警備が手薄なところ……。そんなところあるわけがない。
いつの間にか寝てしまった。気がついたときはどこかの駅で駅員に肩を揺すられていて、和也はホームに降りて再び帰る電車に乗った。
日が暮れてから「館野親和会」へと戻った。重い足取りでビルの階段を上がりながら、めぐみは無事だろうかと思った。
今朝、見張り役で現れた康子という女を見た。いかにもやくざの情婦といった風体の女は、肌が荒れて痩《や》せぎすで、和也の見たところ明らかな覚醒剤常用者だった。その瞬間、めぐみがシャブ漬けにされるのではないかという恐怖が頭をよぎった。おまけに、めぐみは何にでも興味を示すところがある。
また手錠をはめられると思ったら、体に悪寒が走った。どうして自分はのこのこと監禁されにいくのだろう。逃げればいいじゃないか。たぶんタカオならそうするだろう。女を見捨てることぐらいに躊躇していたら、やくざにはなれないのかもしれない。
鉄の扉を押して屋上に出た。康子とかいう女が椅子に座り、夜空に向かってたばこをふかしていた。目が合うと、かすかに頬を痙攣させた。
プレハブ小屋のドアを開き、中に一歩踏み入れた。
山崎がいた。椅子を逆にして腰かけ、背もたれを抱えこんでいた。端にはパンチパーマもいた。何やら談笑していたらしく、口の端に笑みがかすかに残っていた。
何か様子が変だと思った。
「なんじゃい。もう帰ってきたんか。銭はできたんかい」
めぐみが二段ベッドの下側で、タオルケットをかぶり、背中を向けて寝ている。
「おい。答えんかい。銭はどうなっとるんや」山崎がいつものように凄んだ。
和也の顔から血の気が失せる。そのまま数秒立ちつくした。
「なんや、また坊主かいな。そろそろ姉ちゃん、売ってまうぞ」
タオルケットからのぞくめぐみの肩は素肌だった。ブラジャーの紐だけが見える。めぐみは体を固くしていた。起きていると思った。
「なんじゃい、その目は。なんぞ文句でもあるんかい」
その台詞で確信した。和也はめぐみに駆け寄り、肩に手を置いた。振り向かせようとしたが抵抗する。和也が身を乗りだして顔をのぞきこむと、めぐみはうつぶせになって最後まで目を合わせようとしない。
引いたはずの血がいっきに体を駆けのぼった。目の下の皮膚がチリチリと波打ち、額が焼けた石のように熱くなった。
「あんた」和也の声が震えた。「この子、やったのか」
「おい、小僧。口の利き方に気ぃつけえや」
「答えろ。やったのか」
声の震えが全身に及び、指先が小刻みに動いていた。
山崎が「ふん」と鼻で笑う。うしろでパンチパーマが立ちあがった。
「おい、やったのか!」
自分の怒声がやくざの顔に降りかかる。他人の声のような気がした。
山崎が顔色を変えた。目の縁が赤くなり、見る見るうちに目を充血させた。
「おい、小僧。誰に向かって口利いとるんや」低く唸った。「おのれ金作れるんか。お。そこいらぶらついとるだけやないか。おのれが金を作れんかったら、この姉ちゃんに体で稼いでもらうんじゃ。判子を押されたぐらいでガタガタぬかすな、このドアホが」
和也の喉が鳴った。唾もないのに口の中で息を呑みこみ続けた。何かが体の中を駆け巡り、全身の毛穴が開く錯覚をおぼえた。
右手をポケットに突っこみ、バタフライナイフを取りだした。背中で影が動く。和也は振り向きざまに肘《ひじ》を突きだし、パンチパーマの顔面にめりこませた。若い舎弟が呻き声をあげて床に転がった。
前方では山崎が立ちあがる。椅子を盾にして部屋の隅まであとずさりした。
「なんや、このガキ。やんのか」まだ余裕を見せていた。「おれらにこんな真似してただで済むと思うなよ」
視界の端にめぐみが映った。驚いて体を起こしていた。
ものも言わず突進した。ナイフを両手で持ち、山崎めがけて駆けだした。
胸に椅子の脚が当たった。手を伸ばすとナイフの切っ先は窓ガラスに当たり、乾いた破裂音がした。手が血まみれになった。痛みはなく、赤い液体が滴るのをただの光景として見ていた。
「このガキャあ!」山崎が叫ぶ。
椅子が上から降ってきた。避けることなくもう一度突進した。頭と肩に衝撃が走ったが、その痛みもなかった。
山崎が体を入れ換える。よろけてそのまま別の壁までつんのめっていった。
山崎の目に驚愕《きょうがく》と恐怖の色が走った。こいつを殺そうと思った。
今度はじりじりと近寄った。逃がさねえ。ぶっ殺してやる。
入り口で悲鳴がした。山崎の女、康子が頬を手で押さえて固まっていた。
そのとき横から影が降ってきた。衝撃が走る。バランスを失い宙に浮きながら、パンチパーマに突き飛ばされたことを知った。肩から床に落ちた。そのまま転がり壁に頭を打ちつけた。パンチパーマの足が唸りをあげて迫ってくる。反射的に両腕で止めたが、その間から飛びこんだ靴の先が和也の顔面をとらえた。一瞬、気が遠くなりそうなのをこらえ、和也は夢中でナイフを振り回した。
自分の重心を探りながらなんとか立ちあがった。再び身構える。目の前ではパンチパーマが二の腕を押さえ、「このやろう、このやろう」と吠えていた。気障《きざ》な白いシルクシャツが赤く染まっていた。そのうしろでは山崎が椅子を盾にして立っている。少し気を持ち直したのか、「さっさとこのガキいてもうたらんかい」と舎弟を怒鳴りつけていた。めぐみはベッドの隅でタオルケットをかぶって小さくなっている。
パンチパーマが、度胸がいいのか兄貴分が怖いのか、丸腰のままじりじりと間合を詰めてきた。和也がナイフで牽制《けんせい》する。パンチパーマの肩越しに椅子が飛んでくるのが見えた。慌てて避ける。目線をはずしたわずかの隙にまたパンチパーマが突っこんできた。今度はタックルする形で両腕を巻きつけられた。和也が必死にもがくと、もうひとつの影が覆いかぶさってきて、右の手首がいうことを聞かなくなった。手首を踏みつけているのは山崎の足だった。
「このガキ、調子に乗りやがって」
パンチパーマがのしかかる。首をうしろから絞められ、上体をねじあげられた。
右手の握力が尽きた。花が開くように指がほどけ、ナイフが和也のものでなくなった。
山崎がそれを蹴飛ばす。鉄の凶器が、音を立てて床を滑っていった。
「もう勘弁できん。おのれは殺したる」
革靴の踵《かかと》が頭に降ってきた。逃げたくてもパンチパーマに体を押さえられていた。
「殺したる! 殺したる!」
何度も同じことを言った。山崎が怒りで震えていた。
意識が薄れてきた。これは本当に死ぬなと、別の自分が思っていた。もう諦めた。死ぬのはかまわない。でも、せめてめぐみだけは。
こんなときに母の顔が浮かんだ。若い母が台所に立っていた。振り返ってにっこりと笑った。何で出てくるんだ。おまえなんか会いたくもないのに――。
二人がかりで痛めつけられた。もはや威《おど》しではなく、明らかな殺意があった。
「おい、てめえら何をしてやがんだ」
遠くに声が聞こえた。暴力がやむ。目を開けると何本かの足がぼんやり見えた。
山崎が何か言っていた。だんだん声が大きくなる。
「このガキが」
おとしまえをつけようとしたら……。そんな話が聞こえてきた。
和也は横になって視線をさまよわせた。恰幅《かっぷく》のいい男が立っていた。見たことがある。山崎が兄貴と呼んでいた髭のやくざだ。
「この娘は何だ」
「ええ、ですから、この野村っちゅうガキのスケですわ。カタに取ってこのガキが逃げんようにと……」
山崎が髭のやくざに弁明していた。
「馬鹿野郎。おれの留守に何やってんだ」髭が一喝する。「誰がこの部屋使っていいって言ったんだ」
髭が一人でまくし立てていた。山崎がいくつか言い訳をし、そのつど髭が大声で怒鳴りつけた。
「お嬢ちゃん。服を着な」今度はめぐみに話しかけた。「お嬢ちゃん、歳はいくつだ。正直に言いな」
「十七……」めぐみのか細い声が和也の耳に届いた。
「この大馬鹿野郎どもが」髭のやくざがいっそう気色《けしき》ばんだ。大きな物音がして、見ると山崎が壁に背中を打ちつけていた。ポマードで撫でつけた前髪が乱れ、口元から血が流れている。「おい、てめえら脳味噌はあんのか。未成年の娘を組の部屋に連れこんで、借金のカタに柄《ガラ》を押さえて、それでツッコミか。この野村とかいうガキが強盗でもして警察につかまったらどうするつもりだったんだ。あっと言う間に警察が押し寄せて全員お縄を頂戴か」
髭は怒りが収まらないといった様子で山崎の頭を殴り続けていた。
「そんなんだからてめえはチンピラ止まりなんだよ。組の迷惑を考えたことがあんのか。おいコラで小僧を脅してやっていけるほど極道の世界は甘いもんとちゃうぞ。おまえはやくざに向いてねえ。さっさと足洗え。盃返しな。いますぐエンコ詰めておれんところへ持ってこい」
和也がうつぶせになって頭を振る。リンチがやんだのを幸いに呼吸を整えた。ふと床の先を見る。手の届きそうなところにナイフが転がっていた。
「おい、山崎。どうするつもりだ。金は作れねえわ、こんな役に立たねえガキどもはしょいこむわ、どうやっておとしまえをつけるつもりだ」
「はい。とりあえず……」山崎が、さっきまでとは別人のような甲高い声を出した。「このガキどもは康子のところに連れていきます。男の方はマグロ船にでも売って、女の方は、康子の店ででも働かせて……」
「馬鹿野郎。そんなことおれに相談するんじゃねえ。おれを共犯にするつもりか。てめえが決めて、てめえが実行するんだよ。おれが知りてえのは、いつ金を用意できるかってことなんだよ」
和也が手を伸ばす。「ええ、ですから」山崎が必死にしゃべっている。こいつも兵隊かと思った。指先に冷たい金属が触れ、やがてナイフの感触がてのひら全体に及んだ。
両腕をいっきに引いた。同時に膝を跳ねるように立て、顔を上げた。はっとして山崎が和也を見る。一瞬のうちに部屋を眺め回した。尻餅をついたままの山崎、腕を押さえてうなだれているパンチパーマ、入り口で青い顔をしている康子という女、そして中央で仁王立ちしている髭のやくざ。
和也は床を蹴った。ビデオをコマ送りしているように、髭のやくざが目を大きく見開くのが見えた。両手を腰のあたりにかまえ、そのまま髭のやくざに突進していく。誰も声を発しなかった。和也以外の時間が止まっている気がした。
まるでプリンにナイフを突きたてたように、するりと鋼鉄のブレードが埋まっていった。髭のやくざの顎が和也の肩にある。中年男の体臭と香水が混じった匂いが鼻先で漂っていた。
もう一歩、和也が足を踏みだす。すると髭のやくざは自分の腹を押さえたままうしろにゆっくりと倒れていった。自分の心臓の鼓動だけが鼓膜を震わせていた。
「きゃーっ」青白い痩せぎすの女が悲鳴をあげる。それでも全盲が固まっていた。
「や、野郎……」山崎がやっとのことで声を出す。
和也が振り返る。その形相に気圧《けお》されたのか、山崎が小さくあとずさりした。
「うわーっ」
和也は大声を発した。ナイフを左手に持ち替え、ベッドに駆け寄った。めぐみの腕を取り、力任せに引っぱった。早く立て。出るぞ。
入り口で棒立ちになっていた女が弾かれたように外に逃げた。先にめぐみを走らせ、屋上の扉を聞かせた。
「野郎。逃がすか」
背中で山崎が叫んでいた。入り口で振り返って牽制する。屋上の周囲では派手なネオンが瞬いていた。夜の湿気が肌に絡みついた。
「めぐみ、早く逃げろ」
めぐみが階段を降り始めたのを見て、自分も薄暗い扉枠に飛びこんだ。
底の厚いブーツを履いためぐみが、コンコンと音を立て、それでも懸命にかけ降りていく。和也がそれに続く。頭の上では山崎が何かわめいていた。
このビルを出られれば、当面の地獄からは脱出できる気がした。その先のことはわからない。
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北沢製作所の神田から催促の電話があったのは、川谷信次郎が時計を見ながら大急ぎで部品にネジ穴を開けているときだった。
ただしその催促は納品のことではなく、タレパンをいつ搬入できるかという問い合わせだった。
「銀行はいつお金を用意してくれるの」神田が聞く。
「書類はすべて提出して、基本的にはオーケーみたいですから……。来週あたりかなと思ってるんですが」
「ねえ、川谷さん、お願いがあるんだけど。タレパン、明日にでも運ばせてもらえない?」神田が電話の向こうで声をひそめる。自分の机からかけているのだろう。リベート絡みだけに注意を払っているようだった。「実を言うとさ、もうすぐ月替わりでしょ。そうすると倉庫代がまたひと月分かかるんだよね。これがけっこう馬鹿にならなくてね。レインボー商事の矢野君に泣きつかれちゃって」
「はあ……」
「どうせ川谷さんは身内みたいなもんだし」調子のいいことを言った。「本契約はあとでもかまわないし。とりあえず明日搬入して仮契約だけでも済ませちゃってよ」
心の準備ができていなくて、信次郎は戸惑う。
「ええと、でも、そんな急に……」
「頼むよ」
「はあ……」
そうやって信次郎はあっけなく押しきられた。
念願の設備投資なのに、なぜか心がはやらない。むしろ心の中では説明のつかない不安が膨らんでいく。もちろんそれは太田の一件がもっかの大問題だからだった。
搬入するとき、また誰かにあの立看板を見られる。商事会社の人間は「大丈夫か」と思うことだろう。神田に報告が及ぶかもしれない。そう考えるだけで、信次郎は気が気ではない。
今朝も午前六時に起きて工場を稼働させた。部品にネジ穴を開ける作業を一人で黙々とこなした。もはや人員に問題があるのは明らかだった。簡単な作業しか任せられないコビーと、仕事が遅い松村。しかも経営者の自分が営業から納品までこなしているのだ。もっとも人を雇うのは勇気がいる。暇なときは二、三日、従業員を遊ばせているときもあるのだ。
いつもならこんなときは隣の山口車体に助けを求めるところだ。しかし騒音問題を抱えている今、それをするのは気がひけた。心なしか、山口社長が弱気になっているように見えた。耳を澄ませても、夜の七時以降、隣は機械を動かしていない。山口社長は彼なりに傷つき、マンション住民たちとのトラブルを避けたがっているのかもしれなかった。
信次郎は、心のよりどころを失ったような気になって、ますます孤独が深まった。
いつものように八時になるとコビーと松村が出勤した。コビーは鼻歌を唄い、松村は黙って仕事をしている。朝方、再び妻の春江に釘《くぎ》をさされた。「電話のことは絶対に言っちゃだめだからね」信次郎は松村をうしろから眺めた。いったいこの若者は何を考えているのだろうと思った。
なんとか千個のネジ穴を開け、納品に向かった。今日はもう一件納品がある。いっぺんに回れればよかったが、午前中に仕上げることができず、仕方なしに午後もう一度出かけることにした。
カーラジオを聞きながら、信次郎は渋滞の幹線道路を走った。まだ梅雨《つゆ》もきてないのに、空はすっかり夏気取りで、ふりそそぐ太陽がフロントガラスの汚れを白く目立たせている。ワイパーを一往復させたら余計に見にくくなり、しばらくは身を乗りだすようにして運転した。
川崎の工場街へ行く途中、繁華街を抜けるときに肝《きも》を冷やす場面があった。信号が青に変わり、発進した矢先に人影が飛びだし、慌てて急停止したのだ。背の高い若い男が、大股で交差点を斜めに突っ切っていった。あちこちでタイヤが悲鳴をあげている。信次郎は思わず窓から顔を出し、「馬鹿野郎」と怒鳴った。男のうしろからは警官が数人、「待てーっ」と叫びながら必死の形相で追いかけていく。あたりは一瞬騒然となった。
何をしでかしたんだあの男は。心のどこかでおれより大変な奴もいるんだなと同情していた。そしてつい大声を出してしまった自分にも驚いた。
春江には、どこかで蕎麦《そば》でも食べると言っておいたが、そんな時間はなく、昼飯を抜いたまま信次郎は工場へ帰った。午後の納品のために仕事を片づけ、また出かけなければならない。
トラックを作業場の前に止め、荷台からかごを降ろす。するとエンジン音を聞きつけたのか春江が母屋から小走りに出てきた。
「おとうさん」
また何かあったのかと思う。
「何よ。ああ、それより、ヤヨイ工業の納品分、どうなってる? 三時までに届けなきゃなんないから」
「弁護士さん、来てる。太田さんのことで」
やっぱりそうか。信次郎の肩が落ちた。
春江を見ると、目に非難の色があった。それは太田に怪我を負わせてしまったことよりも、もっと深い、どこか家長としての不手際を責めているような目だった。
「弁護士が? 何だよ急に。ちゃんと連絡してからにできないのかよ、非常識な」
「おとうさんが出かけてから電話があったのよ。午後には帰ってくるって言ったら、そのころ伺いますって」
「おれの都合も聞けよ。携帯もってんだから知らせてくれればいいじゃない」
「そうだけど……」
信次郎は大きく息をつく。納品のことを考えると、一分もむだにしたくなかった。仕方なく信次郎は春江に仕事を頼み、自分は母屋へと向かった。頼むから面倒なことにならないでくれよと心の中で祈った。
応接室に髪を七三に分けた三十代と思える男がいた。地なのか、最初に威圧しておくつもりなのか、難しい顔で立ちあがり、名刺を差しだした。自分の名を冠した弁護士事務所が書かれていた。
「向かいの太田さんよりご依頼されまして、こうして伺いました」
「あ、はい。このたびは本当に申し訳ないことをしてしまいまして」
信次郎は深々と頭を下げるのだが、弁護士はそれには答えなかった。
「川谷さんは」弁護士が勝手に腰かけ、上目遣いで言った。「どのような解決策をお考えですか」
「あの、実は警察の方からも電話をもらってですね、いや、顔見知りの警官なんですけど、川谷さん和解して被害届け取り下げてもらってくださいよって頼まれたものだから。できれば治療費と……」
「警察がそう言ったのですか?」
弁護士が「ほう」という顔をした。まずかったかなと心の中で舌打ちした。
「ちなみにその警官は何ていう名前ですか?」
「いや、その」しどろもどろになった。「頼まれたって言っても、何て言うか、ふだん冗談を言い合う間柄だから……」
「冗談だったんですか?」
こいつも太田と一緒だ。なんでも理詰めで責めてくる。
「いや、ですから……ちょっとすいません」
台所に逃げて冷蔵庫から麦茶を出して喉を湿らせた。これは向こうの要求だけ聞いた方がいいと思った。
「川谷さん」弁護士がメモ用紙を取りだして言った。「太田さんは都合三本の歯が欠けました。その内の二本は抜いて差し歯に代えるしかないそうです。それから歯茎と口の内壁、唇にも損傷があります。全治一ヵ月という診断です」
「はあ、まことに申し訳なく……」
「歯の治療には五十万円ほどかかると見込んでいます」
「五十万円、ですか?」
胸がギュンと縮みあがり、血の気が引いた。言葉も出なかった。
「医者へ通うタクシー代等も考慮させていただきました。太田さんは会社を休み、通院なされるわけですから」
吹っかけやがるなと思ったが、心のどこかで最初からある種の諦めがあった。こんなものだ、世の中は。さて困った。五十万円か。
「それに慰謝料が加わります」
まだあるのか。信次郎はますます落胆する。
「合計で二百万円を要求したいと考えています」
「二百万?」
目の前が真っ暗になった。考えてもみなかった金額に、まるで舞台がバタンと反転するように、すまないという気持ちはどこかに吹っ飛び、怒りが込みあげてきた。
「あんた、二百万っていうのはいくらなんでも法外だろう」
「いいえ」弁護士が冷たい目で信次郎を見据えた。「けっして法外ではありません。太田さんご夫婦が受けた心の傷を考えると、ごくごくリーズナブルな金額です」
「ふざけるなよ」まだ信じられなかった。「まるでやくざじゃないか」
「やくざとは随分ですね」余裕なのか冷たく笑った。
「だって……どうして……」
「よろしければ、どこかの弁護士に相談なさってみてください。妥当な金額だと誰もがおっしゃるでしょう。それとも裁判をなさいますか?」
「裁判って、あんた……」
「この手の訴えは、裁判官がほとんど和解を勧めます。法廷に持ちこまれることはまずないでしょう。同じことなのです」
「ちょっと、頼むよ。そんな大金、むちゃくちゃじゃないか」
信次郎が顔を歪める。また呼吸が苦しくなった。
「時間を差しあげますので、お考えください。またご連絡さしあげます。今日のところはこのへんで」弁護士が立ちあがった。「それから騒音に関してですが、これもいずれ話し合いたいと思っています」
信次郎が胸を掻きむしる。返事ができなかった。
弁護士は鞄を持つと、見送りは無用だとばかりに足早に玄関へ歩いていった。
信次郎はまた右手で口を押さえ、なんとか過呼吸をこらえた。
激しく咳きこんだ。よろよろと台所へ歩き、麦茶を容器から直接飲んだ。こぼれたお茶が喉を伝って床にこぼれた。
素人だと思って、無理難題を吹っかけやがって。
信次郎は草履《ぞうり》をつっかけると、そのまま交番へと走った。いくら弁護士といえどもこれは恐喝に等しいのではないかと腹が立った。
交番へ駆けこむと、幸いなことに電話で和解を勧めた警官がいた。警官は血走った信次郎の目を見て驚き、落ち着くように言い、椅子を勧めた。信次郎が事情をまくしたてる。しゃべっているのが自分のような気がしなかった。
警官の答えは信次郎を気落ちさせるに充分だった。
「うちら、民事に立ち入れないんだよ。それに川谷さん、二百万は確かにずいぶんだとは思うけど、そういう話って結構あるんだよね。前に勤務してた交番でもさ、追突されてカッとなった男が、相手を車から引きずりだしてボコボコに殴ってね、どうなったと思う? 頬骨を骨折して慰謝料三百万。やっぱり世の中、大人の暴力には厳しいんだよね。ほんと、同情はするけど、うちらではどうすることもできないんだ」
警官は信次郎の肩をたたくと、「なんとか被害届け、取り下げてもらってよ」と言った。誰かに助けてほしかった。
帰り道、この混乱を整理しようと試みたが、頭の中には何も浮かんでこず、奇妙な空白を味わっていた。公園で若い母親たちが子供を遊ばせていた。信次郎はふらふらと中に入り、ベンチに腰かける。
そうだ信金に三百万あったと思い、一人色めきたち、すぐさまそれが三百万借りた担保であることに気づいて落胆した。また母に借りようかと思った。いやさすがにそれはできない。だいいち兄が黙っていないだろう。
背もたれに体をあずけ、上を見た。いちょうの大木が空を半分隠していた。豊かに茂った緑が風にゆらゆらと揺れている。近所の公園にこんな立派な木があることに、十八年間も気づかなかった自分に唖然とした。
かもめ銀行に借りられないだろうか。そう考えた。二千万も二千二百万もたいして変わりはないだろう。連帯保証人もいるし、一千万の担保預金もあるのだ。
急いで工場に帰った。事務室から春江が「どこに行ってたの」と不機嫌な声を出し、信次郎は曖昧な返事でごまかした。
「ねえ、弁護士さんに何て言われたの?」
「治療費と慰謝料を払えってよ」
「いくらなの?」
「五十万」目を合わせないでつっけんどんに言った。
「そんな……」
春江が泣きそうな声を出す。本当のことは言えないなと思った。
「一生懸命働くさ。働いて、働いて、朝から晩まで働いて。風邪をひいても働いて。癌《がん》になっても働いて。そうやって金を稼いで返せばいいじゃないか」
「おとうさん、どうしたのよ」
「どうもしやしないよ」
「ちょっとお……」
「ヤヨイ工業、どうなった?」
「出来てるけど……」
「よし、それは松村に納品させよう。あいつだって車の免許持ってんだ。こんな薄暗い工場で一日働いてたって少しも面白かぁねえだろう」
「おとうさんってば」
「ちょっとは外へ出ればいいんだよ。そうやって世間を見ればいいじゃないか。ヤヨイ工業には事務の女の子だっているんだよ。なんべんも通ってりゃあ仲よくなれるかもしれないじゃないか」
「ほんとにどうしたのよ」
「おーい、松村」事務室のドアを開けて大声を出した。「ちょっとトラック運転してヤヨイ工業まで納品に行ってくれないか」
松村がビクッとして振り返り、脅えたような目でうなずいた。
「地図書いてやるから、パーッとひとっ飛ばしで行ってきてくれ」
うしろで春江が作業服の裾を引っぱっていた。
「なんだよ、おまえは。うるさいな」
「おとうさん……」
春江が心配そうな顔で立ちつくしていた。
春江を母屋に追いやり、信次郎は受話器を取った。名刺ホルダーを開いてかもめ銀行に電話した。「融資課の高梨さんをお願いします」と告げると、聞いたことのある曲がオルゴールで流れ、しばらく待たされてから高梨が出た。
「あ、川谷さんですね。実はわたしもお電話さしあげようと思ってまして」
「あのね、お願いがあるんだけどね」
「……え、ええ」
「二千万の融資、あと二百万円、なんとかならない?」
「あ、はい……」
「ちょっと、オプション・パーツを買い足したくてさ。そうするとますます仕事を取りやすくなるって寸法で」
高梨が黙って聞いていた。
「どうかな」
「あの……川谷さん。まことに申し上げにくいんですが」
「だめ? そこをなんとか」
「いえ、そうではなくて……実は融資そのものをですね、いったん白紙に戻していただきたいんですよね」
「えっ?」すぐには頭に入ってこなかった。
「本店の審査に回したところ、今回は見送りということで……」
「ちょっと、それって、どういうことよ」
まだ何かにすがっていた。聞き間違いであるとか、勘違いであるとか。今回は、ということは、ちょっと決裁が遅れるだけとか。
「申し訳ありません。審査が思ったよりシビアで……」
「融資できないってこと?」
「はい」
「はいって、あんた。ひどいじゃないか。今頃になって」自分の声が裏返っていた。
「ええ。しかし、ご本人様の不動産担保がないとなると、やはり」
「何言ってんだい。あんた、不動産ばかりに頼るのは銀行本来の姿ではないとか、確か前にそういうこと言ってたじゃないか」
「もちろんわたしはそう思ってます。しかし、上がですね……」
次の言葉が出てこなくて、信次郎は手で髪をかきあげた。またしても頭の中が真っ白になった。前にもうしろにも進まない、そんな停止状態だった。
「川谷さん、聞いていただいてますか」
「ああ、聞いてるよ」
「わたしも本当に残念なんですが。次は必ず稟議を通してみせますから」
ふざけるな。次って何だ。信次郎は急に思いだした。明日、タレパンが来るのだ。融資が受けられなければ支払いはできない。
「高梨さん。やっぱ納得できないよ、これは。だいいちこの話はあんたと北沢製作所の神田さんが持ちかけたことじゃないか」
「いえ、わたしは神田さんから紹介を受けただけで」
「冗談じゃないよ。あんたらが勧めるからこっちは高い設備投資をする気になったんじゃないか」声を荒らげた。「どうしてくれるのよ」
「そう申されましても……」
気ばかりが焦ってどうしていいかもわからない。とにかく、別の融資先を探さなければ。信金に頼んでみよう。この前預金を引き上げなかったのは正解だった。
「高梨さん、どうしてもだめなわけかい」
「ええ、あいすいません」
「じゃあ定期を解約するから、すぐに持ってきてくれ」
「あ、それなんですがね。どうでしょう。うちに預けておいてもらえませんか。今後のこともございますし」
「ふざけるなっ」とうとう信次郎は怒鳴っていた。「何が今後だ。不動産担保がないとおたくは貸せないんだろう。だったらどうして次があるんだ」
「ちょっとお待ちいただけますか。上司と相談させていただきますから」
再びオルゴールが流れる。その人の気も知らない呑気なメロディを聞きながら、設備投資をやめるべきかなと、またしても思った。そもそも二千万の借金は自分には荷が重すぎるのだ。しかし、すぐに同じ理由で思い直した。まず北沢製作所の神田に顔が立たない。いまさらキャンセルしたら気まずくなってしまうだろう。契約書も持たず、人対人で保っている関係だけに、それだけは避けたい。娘の進学もあった。それに、このまま現状維持を続けたとしても、いいことなどあるわけがない。たぶん、金が回り始めたらほとんどの問題は解決するだろう。それまでの我慢なのだ。騒音問題も、一年居直れば、そのころには蓄えができてなんらかの方法が取れるはずだ。
「あ、川谷さん、お待たせしてすいません」また電話がつながった。「いま上司と相談したんですが、どうでしょう、一千万の融資ということでしたらすぐにでもオーケーが出ますが」
「ふざけるな」信次郎は今度こそ真剣に怒鳴った。「一千万預けて一千万借りて、だったらうちは金利を払うだけか。今すぐ解約だ」
剣幕に驚いたのか高梨は「ちょっと」と言い、また電話を保留にした。
どいつもこいつも。怒りで受話器を持つ手が震えていた。
「お待たせしました。川谷さん」高梨が悪びれない声で言う。「それじゃあ新しく積んでいただいた五百万に関しては明日にでも解約の手続きを取りますので」
「馬鹿野郎!」こめかみがヒクヒク痙攣していた。「一千万全部だ。すぐにでも持ってこい」
受話器の向こうがしばし沈黙する。
「そうですか……それは残念です。でもすぐにはちょっと……。どうしてもとおっしゃるなら、明日の午後イチにでも取りにきていただけますか。用意しておきますから」
すでに声の調子が他人行儀になっていた。信次郎は「よし、行くからな」と鼻息を荒くして電話を切る。そして切った途端に新たな怒りが込みあげてきた。
預金を積むときはえびす顔でやってくるくせに、解約となると取りにこいだと?
手で机の上の書類を払い落とした。湯飲み茶碗がついでに飛んで、床で砕け散る音を響かせた。
じっとしていられなくて事務室を歩き回った。いま自分がすべきことがまるでわからなかった。
考えがまとまらないまま仕事に戻った。せめて半日でも手と頭を休ませる時間が欲しいのに、こんなときに限って注文が集中する。精神的余裕のなさが、いまの自分を余計に苦しめている。しなければならないことが多すぎた。
たばこを何本も吹かし、あちこちの機械を移動した。火花が音を立てて散り、不良品を出しては苛立ちの声をあげる。コビーが何事かと振り返った。隅でナットにブラシをかけていた春江は不機嫌そうな背中を向けたままだった。
今日は遅くまで残業をしようと思った。朝の六時からだから何時間労働になるかわからないが、とにかく仕事を間に合わせることが先決だった。騒音に関しては居直る決心をした。どうせとっくにマンションの住人との関係は修復ができない状態なのだ。仕事を一段落させて次のことを考えよう。それは信金から融資を引き出すことであり、太田の要求する慰謝料を値切ることだ。弁護士の前ではうろたえてしまったが、二百万円はどう考えても払えない。
午後の三時半になって春江が事務室から信次郎を呼びにきた。ヤヨイ工業の外注担当である平野からだった。また不良品でも混ざっていたのかと不安が膨らんだ。
「何よ。どうしてまだそこにいるのよ」これが平野の第一声だった。「いつもの熱交換器。三時の約束じゃない。忘れたの」
「あ、いえ。うちの松村という者が納品に伺ったはずですが。二時にはこっちを出てますから、とっくに着いてるはずなんですけど……」
「え、そうなの。おかしいなあ。ちょっと調べてみるわ」
そう言って平野が電話を置く。受話器の向こうで「おーい、アケミちゃん」という声が聞こえた。いやな予感がした。
「やっぱりまだだよ。受領書がこっちにあるもの」
「あ、そうですか。いや、すいません。初めて行かせるものですから、地図を書いて渡したんですが、もしかしたら道に迷ってるのかもしれません」
「困るなあ、川谷さん」
「申し訳ありません」
「まあ、いいや。もう少し待ってみるわ。こっちもその部品がないと仕事が進まないからさ」
「ほんとうにすいません」
頭を下げながら電話を切る。携帯を持たせるべきだったなと後悔した。
「おとうさん、どうしたの」伝票整理をしていた春江が聞いた。
「松村、まだ着いてないって」
「ほんとに?」春江の顔が曇った。「だからおとうさんが行けばよかったのよ」
「何でおまえはそうやって松村の肩をもつわけよ。こっちは雇い主で、あっちは従業員だろう。どうしてそこまで気を遣わなきゃなんないのさ」
「あの子にとっては人と会うのが苦痛なのよ」
「またわかったようなことを。おまえは事務室で一日ラジオ聞いてるから、余計な知識ばっか詰めこんで」
「一日って何よ。さっきまでちゃんとブラシかけてたじゃない」
「もういいよ、そんなこと。とにかく松村から電話があったら、もう一回道順教えて早く納品してこいって」
信次郎は事務室を出る。今度は部品のカッティングを始めた。甲高い音を周囲に撒き散らして金属パイプが切断されていく。平静を装ったものの、松村が着かないことは大きな気がかりだった。もしや事故でもと思い、不安が胸をよぎる。慌てて保険のことを考えた。あのトラックはどんな保険に入っていたっけ。大丈夫だ。運転者の年齢制限はなかったはずだ。
三十分してまたヤヨイ工業の平野から電話があった。まだ来ないという、少しとがった声の苦情だった。
ますます不安になる。今度は信次郎も、松村に行かせたことを失敗だと思った。壁の時計を見る。いくらなんでも一時間の遅刻は距離からして考えられなかった。
そうなると仕事もはかどらなかった。どこかで途方に暮れている松村の姿が頭に浮かんだ。道に迷い、誰にも聞くことができず、会社に電話することもできない。
本格的に後悔した。あの若者には、ごく普通のことがとてつもない試練なのだ。
五時にまた苦情の電話があった。もう仕事が手につかなかった。六時になるとヤヨイ工業の平野はかなり憤慨して、「もう今日は従業員を帰す」と電話で言ってきた。「だから明日の朝イチだけは守ってよ」と念を押された。
午後七時。もうじっとしていられなかった。二時に工場を出たのだからすでに五時間が経過している。事故なら警察から連絡があるだろうし、迷って走り回っているならとっくにガソリンが切れている。信次郎には松村がどうしているか見当がつかなかった。
春江が恐る恐る松村の家に電話した。「まだ帰ってませんが」と母親に告げられ、春江はおたくの息子が行方不明であると言えなかった。
八時まで、はかどらないながらも仕事を続け、とうとう信次郎は捜しに出ることにした。山口社長に車を借りた。事情を話すと社長は我がことのように、松村ではなく信次郎の災難を心配し、乗用車の鍵を与えてくれた。
とりあえず工場からヤヨイ工業までの道程を走った。すれちがうトラックや路肩に停めてある車に注意して目を配り、まだ多くの車が行き交う幹線道路を流した。
ヤヨイ工業に着くとすでに人の気配はなく、門も閉じられていた。帰りは別の道を通った。路地にも入りこみ、まさかと思いつつパーキング場ものぞいてみた。三十分おきに携帯で春江と連絡を取った。妻は沈んだ声で「まだ」と言い、そのつど溜息をついた。
そうやって十一時まであてもなく走り回った。川崎の埠頭《ふとう》までたどり着いたときは、街灯を映して小さく揺れる海面を見て、どこかに沈んでいるのではないかとよからぬ想像までした。
信次郎はくたびれ果てて家に帰った。胃が鉛でも飲んだように重い。ふと晩飯を食べていないことに気づき、さらには昼食も抜いていたことに思い当たり、それまで食欲が湧かなかった自分に驚いた。とりあえずお茶漬を流しこんだ。一杯で充分だった。
テレビをつける気にもなれず、静かな夜更けに、夫婦で居間に座っていた。
「あの子、辞めたいんじゃないの」春江がぽつりと言った。
「どういうことよ」
「辞めたいんだけど、それが言えなくて、馘《くび》にしてくれるのを待ってるんじゃないのかしら」
「どうしてそういう考えが浮かぶんだよ。じゃあ何か、馘にしてほしくってトラックに商品積んだまま消えたっていうのか?」
「それはわからないけど……」
「いいかげんなこと言うなよ」
春江にコーヒーをいれさせ、それを飲んだ。じっとしていると瞼が落ちそうになる。なんて長い一日だろうと思った。溜息しか出てこなかった。
「捜索願いでも出すか」信次郎が言った。
「うん……でも警察って、そういうの、受け付けはするけど探してはくれないわよ」
「そりゃそうだな」
たばこに火を点ける。口の中がヤニで汚れきっていた。
「警察か……」信次郎はつぶやく。
問い合わせる価値はあるような気がした。松村がどこかでトラックを乗り捨てたのだとしたら、それは駐車違反となり、レッカー移動にせよ、ミラーにくくり付ける札にせよ、警察にナンバーが記録されているはずだった。
何もしないよりはましだと、信次郎はいちばん近い警察署に電話をした。無愛想な男が出て該当車両はないと答えた。今度は地図を広げ、ヤヨイ工業までの間にある警察署に次々と電話で問い合わせた。
そして四つ目の警察で、川谷鉄工所のトラックが駐車違反で記録されていることがわかった。信次郎は崩れ落ちそうになった。路上に停まったままなので早急に移動せよと、交通課の警官が威圧的に電話の向こうで言った。
助かったと思った。信次郎はこのとき、自分がいちばん恐れていたのは商品の紛失なのだということを知った。明日の納品がなんとかなる。そのことに安堵の息を漏らしていた。信次郎はタクシーでその場に行くことにした。もう腹も立たず、ただただ早く引きあげて眠りたかった。
「ねえ、だったら松村君はどこへ行ったのよ」
「知るか、そんなもん。もう出てきてもあいつは馘だ」
「そんな……ただでさえ人手が足りないのに」
それはそうだった。明日だって、一人欠けるだけでやっかいなことになるのだ。
「……家に電話してみろよ」
「これから? もう二時よ」
「だいたいあいつの親は何なのよ。息子が帰ってこないのにどうして心配して勤め先に電話をかけてこないのよ」
そう言ってはっとした。松村はすでに帰宅しているのではないか。布団にくるまって寝ているのではないか。そんな気がしたのだ。
いやがる春江に電話をかけさせた。春江は声をひそめ、恐縮して松村が帰っているかを尋ねた。案の定、松村は家にいた。十時ごろ帰宅し、風呂に入ってすでに寝ていると、病的なほど引っ込み思案の息子を持つ母親が教えてくれた。信次郎は言葉がなかった。ただ、当分松村は工場に顔を見せないだろうなと思った。
とにかく今はトラックを――。信次郎は深夜の通りに出てタクシーを拾った。
明日のことなど考えたくもなかった。
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今頃になって、人を刺した感触がてのひらに滲んできた。それは他人の汗で濡れた吊革をつかまされているような、いやな感触だった。肘から先全体にはどこかくすぐったさもあった。拳を握り、軽く力を入れていないと落ち着かなかった。
野村和也は、赤い間接照明が壁を照らすラブホテルの一室で、ベッドに横たわっていた。隣にはめぐみがいる。めぐみは、バスルームにあったハンドタオルに水を含ませ、和也の体を拭いていた。右の脇腹はどす黒く変色していて、それ以外にも、内出血をした箇所が無数にあった。
めぐみの顔には表情がなかった。目が合っても、哀しそうな笑みを一瞬浮かべるだけで、あとは押し黙ったまま和也の看病をしている。
テーブルにはサンドウィッチの載った皿があった。フロントに電話して出前をとったものだった。半分以上残っている。腹は減っているのに、喉に通すと途端に吐き気がした。
めぐみは風呂に入ったが和也は入れないので、こうしてめぐみが汚れた体を拭いてくれている。めぐみの仕草は、ぬいぐるみをいたわっているようだ。
「なあ、めぐみ」和也が掠れた声で言った。
「うん?」
「おれ、人殺しになっちゃったよ」
「死んでないよ」
「なんでわかる」
「だってあのやくざデブだもん。贅肉《ぜいにく》を刺しただけだって」
天井を見ながらそうあってほしいと思った。またあのいやな感触が甦ってくる。あの瞬間の、髭のやくざの驚愕した表情も目に焼きついている。
「ねえ、ケン」めぐみがタオルを折りたたみ直しながら言った。「わたしこそ、やられ女になっちゃったよ」
和也は答えなかった。
「山崎って奴、最初はやさしいこと言ってたんだよ。おまえは可愛いからモデルになれって。この件が片付いたらおれが知り合いの芸能事務所を紹介してやるなんて言って。刺青《いれずみ》も見せてくれたしね。なんか鯉が滝を昇ってる絵だった。すごいですねってお愛想言ったら、馬鹿みたいによろこんで。頼みもしないのに、乾分《こぶん》の刺青まで見せてくれて。……でも、しばらくしたら目つきが変わって。康子って女の人に、おまえは外へ出てろって。あ、マズイなって思ったら、いきなり腕をつかまれて」
「もういいよ」
「あの康子って人も信じらんないよ。自分のオトコがこれから別の女を強姦しようとしてんのに、黙って外へ出ていくんだもん」
「やめろって」
「わたし、舌噛み切ろうかと思ったよ。……強姦される気持ちってわかる? あれって捕まえたら死刑にしなきゃ嘘だよ、絶対に」
「刺す相手、間違えたな」
「……そうだね。でも、もういい。ケンが助けてくれたし」
「何言ってんだ。おれのせいで監禁されたんじゃねえか」
「ケン、わたしのこと嫌いになった?」
「馬鹿言え。何でそんなこと言うんだ」
「わたしとセックスするのもういやじゃない?」
その声がどこか震えている。顔を上げたらめぐみが泣いていた。溢れでる涙を手で必死に拭っていた。
体を起こそうとしたが力が入らない。仕方がないので右手だけを伸ばし、めぐみの腕を撫でた。しばらくそのままでいた。
「めぐみはどこへ行きたい?」
「どこって?」
「もうこのあたりにはいられねえだろう。東京だってまずいだろうし。どっか遠くへ行ってやり直さないと」
「どこでもいいけど、わたし、寒いのはやだな」
「じゃあ沖縄か」
「そんなに暑くなくてもいいけど」
「とにかく東海道でも下ってみるか」
「そうだね。でも、その前に医者に診《み》てもらわないとね。ケンの胸の脇、なんか腐りかけてるみたいだよ」
「人を死人みたいに言うな。だいいち病院へ行ったら足がついちゃうだろう。金だってないし」
「今いくらある?」
「ここのホテル代払ったら、残りは二万かそこらだ」
「じゃあ何かして稼がないと。コンビニでも襲ってみる?」
「うん。でも、もっとでっかい金が欲しいな。それがあったら一年くらい遊んで暮らせるような」
「そうだね。いちいちお金の心配するのやだもんね。その都度やばい橋を渡るっていうのも大変だし。ねえ、いっそのこと銀行でも襲ってやろうよ」
「バタフライナイフ一本でか」
「大丈夫。何とかなるよ。だって他人の金だもん、命張って守る奴なんかいないよ」
「そりゃそうだけど」
「中学んときテレビでそういう外国映画観たなあ。男と女が銀行強盗しながら旅するやつ。題名忘れたけど」
「その二人はちゃんと幸せになったのか」
「ううん。最後、マシンガンでバーッと撃たれて二人とも死んじゃうけど」
「それじゃあだめだろう」
「うふふ」やっとめぐみが笑った。「でも、襲うんなら適当な銀行知ってるよ。小さな所だし、まわりは工場だから繁華街なんかより逃げやすいんじゃないかなあ」
そのとき携帯電話が鳴った。
和也が弾かれたように身を起こす。ソファに掛けたスカジャンのポケットから、呼び出し音が響いていた。二人で顔を見合わせた。
和也がゆっくりと近づき、ダイナマイトでも扱うように慎重に手に取った。
スイッチを押し、耳にあてた。
「よお。野村だろ?」山崎の声がした。「ああ切るな切るな。怖がらんでもええ。うちの兄貴な、病院に運びこんだけど全然たいしたことあらへん。内臓には達しとらんかったし、ちょこっと入院しとったら治るそうや」
なぜか山崎は明るい調子でしゃべっていた。
「いやあ、おまえもええ度胸しとるわ。どんだけフクロにしても音《ね》をあげんし、おまけに兄貴には向かっていくわ、ちょっと最近おらんで、おまえみたいな根性者《こんじょうもん》は。でな、うちの兄貴も気にいったってゆうとってな。どや、組の盃、受けんか」
ふざけるな。そんな話があるものか。
「銭の話ももうチャラや。おれも降参や。そやさかいいっぺんどっかで会おやないか。おまえは極道に向いとるで。有望新人や。なあ、うちの組に入ってガンガンのしていこうやあらへんか」
何を見え透いたことを。
「野村よ。今どこにおるねん」
「言えるかよ、そんなこと」
「お、やっと口利いたな。どや、うちの組に入らんか」
「何を言ってやがる。人をさんざんオモチャにしやがって」
「なんや、いやか」
「あたりめえだろう」
「ほうか……。なら、しゃあないな」ここで口調が変わった。「おい、小僧。おれはおのれを絶対に逃がさんぞ。どんなことしても捜しだして命《タマ》取ったる。ええか、聞いとるか。おのれのおかげでな、おれは組にも帰れん始末や。このままやと指三本落とさなあかんことになったわ。三本やで。そうなったら恥ずかしゅうて外も歩けんわ。もうこの世界ではやっていけん。おまけに詫びの印に三千万や。指三本と三千万やで」
「あんたの不始末だろうが」
「おお、ようゆうた。覚えとけ。どんなことをしても捜しだしたる。おれの人生がかかっとるんや。ただの脅しと思うなよ。絶対におのれを見つけて殺したる。ええか。絶対に」
和也は携帯のスイッチを切り、慌ててソファに投げ捨てた。
体に震えがきた。めぐみが電話の相手を察したのか、脅えた顔で和也を見ていた。
逃げなくては。金を手に入れできるだけ遠くへ。
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川谷信次郎は、朝一番の八時にヤヨイ工業の納品を済ませた。担当者の平野に平身低頭し、事務員に缶コーヒーを差し入れ、なんとかペナルティを逃れることができた。
帰りは朝の太陽を正面から浴びることになった。車内に暖気が充満している。クーラーを入れると年式の古いトラックはたちまちパワーを落としてしまうため、信次郎は窓を全開にして家路を急いだ。昨夜はまったく眠らなかった。路上に放置されたトラックを見つけたのが午前三時。それから警察署に出頭して駐車違反の手続きをし、家に帰ったのが午前四時半。布団に入ると起きる自信がないので居間で横になったが、目を閉じていただけで眠れなかった。四十も半ばになっての徹夜はさすがに辛いものがあった。
帰ってからは、まず最初に近所の信用金庫に電話をした。一千万の預金をそちらに移すから倍額の融資を受けられないかと相談した。先日、預金を引き出させなかった行員は驚き、「とりあえずうちに預けてください。それからご相談に乗りましょう」と弾んだ声を出した。
どうなるかわからないが、ほかにあてがない以上、そうするしかなかった。たぶんすんなりとはいかないだろう。連帯保証人を増やせと要求されるかもしれなかった。
工場に入り、部品の山を見て呆然となり、山口社長に泣きついた。たまっている仕事の何割かを依頼し、自分の負担を少しでも減らした。目の下にくまを作った信次郎を見て、山口社長は断れなかったようだった。
やはり松村は来なかった。あの男についてはもうどうでもよかった。怖くて残りの給料分も取りにこないだろう。ありがたいことだった。
工場前の立看板はトラックの幌を干すふりをして覆い隠した。マンションの住人に見つかると何か言われそうだったが、時間がたつにつれ不思議な開き直りがあり、来るなら来いという気持ちだった。
その間も信次郎は仕事をした。コビーと二人でスポット溶接をこなし、絶え間なく音と火花を作業場内に散らした。なぜか憑《つ》かれたような集中力があり、ふだんの倍近いペースで加工済みの部品をかごに増やしていった。
そして午前十時になって、川谷鉄工所の前の道に大型のトレーラーが姿を現した。それはまるで家が動いているような壮観な眺めだった。
トレーラーが道幅ぎりぎりに入ってくる。バックミラーを折りたたみ、電柱を避け、巨大な立方体が工場の前に立ちはだかる。荷台には兵器のようなタレットパンチプレスが鎮座《ちんざ》していた。信次郎が思わず息を呑む。いつの間にか見物に来ていた山口社長がポンと肩をたたいて「こりゃ凄《すげ》えや」と口を開けっ放しにした。
トレーラーのうしろには軽自動車がついていて、そこからレインボー商事の矢野が降りてきた。「おはようございます」そう言って調子よく腰を折る。
「すいませんね、無理を言っちゃって。どうしても今月中に搬入を済ませたかったものですから」
「いや、いいですよ。それより、こんなでかいの、どうやって入れるの」
「クレーンが付いてますから。それで降ろして、あとは滑車を使ってフォークリフトで押して。大丈夫ですよ、川谷さんは何もしなくても。この人たち慣れてますから」
「ああ、そう」
いよいよ引き返せないなと思った。そして晴れの日のはずなのに、喉に何か引っかかったような違和感があった。
どうして自分は立ち止まろうとしないのだろう。少なくとも融資が決まるまでは、保留にするべきなのではないだろうか。
トレーラーに付属したクレーンが、唸りをあげてタレパンを引き上げている。ヘルメットをかぶった数人の男たちが、クレーンの音に負けないように大声をはりあげている。信次郎はそれをぼんやりと眺めていた。
自分は間違っているのだろうか。
樹木の葉をゆらすほどの分厚い音に驚いてか、向かいのマンションの廊下に人の姿があった。ふと見上げると、太田夫人だった。憎しみのこもった目で、信次郎を凝視していた。二十メートルは離れているはずなのに、目の色まで見えた。まるで催眠術でもかけられたみたいに、信次郎は動けなくなった。
やがてその人影は、二人になり、三人になり。平日の午前を過ごす主婦たちは、電線にとまるツバメのように、マンションの廊下に列をなしていた。誰かが信次郎を指差している。
風景が少し歪んだような気がした。一瞬のうちに目に映るものが上方へと流れていき、視界をコンクリートが占めている。
「川谷さん」矢野が名前を呼んでいた。「どうしたんですか」
気がつくと自分は膝をついていた。
「大丈夫ですか」矢野の手が信次郎の腕を取っていた。
「あ、いや」目を固く閉じて痺れが去るのを待った。「何でもないんだ」とやっとのことで答える。
「貧血ですか? だめですよ。こういうおめでたい日に」あくまでも矢野は軽口をたたいていた。「さ、さ。あとは任せて我々は契約の方を済ませましょう」
信次郎は矢野を事務室へと案内した。
矢野がテーブルに書類を並べ、あらためて保証その他の説明をしていた。一生懸命耳を傾けているのに頭に入ってこない。おまけに文字まで歪んで見えた。
「それで支払いの方はいつごろになりますかねえ」
「来週にはなんとか」
「ありがとうございます。こういうのは普通はないんですけど、北沢製作所の神田さんの絡みだから信用しちゃいます」
来週にはなんとか、だって? いや大丈夫だ。信金の審査は二日あればオーケーのはずだ。
「じゃあ、本契約は支払い時ということで、とりあえずこことここに印鑑を」
言われるままに信次郎は印鑑を押した。
自分がやっているような気がしなかった。
「機械の設置はもうちょっとかかりますから。なんせ大きいから。業者にしてみれば一日仕事ですよ」
事務室の窓から見ると、まだタレパンを降ろしただけの状態だった。
「わたしはまた夕方にでも様子を見にきますから」
そう言い残して矢野は帰っていった。
タレパンの設置は作業場を縦断するため、その間の仕事は中断することになった。コビーは表でたばこを吹かしている。
しばらく事務室で目を閉じていると、ヤヨイ工業の平野から電話がかかってきた。
それは今朝の納品分に不良品が混ざっているという知らせだった。
以前やったのと同じ溶接のミスだった。
「川谷さん、困るじゃないの。時間に遅れて、しかも不良品かい? こっちは予定が狂って大変だよ。親会社からも催促がきてるし。とにかく大至急やり直してよ」
平野は怒り心頭に発しているといった様子だった。信次郎はひたすら謝り続ける。
「今日中になんとかなる?」と聞かれて「はい、なんとかします」と答えてしまった。
信次郎は部品を引き上げるためにトラックに乗りこんだ。
そして、ここへきて松村が失踪した理由がわかった。松村は溶接の電圧を間違えた。ところがそれを言いだせないまま、自分の作った不良品を運ばされることになった。二重の心配事を彼は抱え、土壇場で逃げだしてしまったのだ。
あの馬鹿が。逃げだしたいのはこっちだ。
時計を見る。午後一時にはかもめ銀行に行かなくてはならない。頭がうまく働かなくて、まるで算段がたてられなかった。
ヤヨイ工業で部品を引き上げ、その足でかもめ銀行に寄ることにした。平野は不機嫌を隠そうとせず、信次郎に向かって「夕方の五時」とだけ言い捨てた。
途中、コンビニでおにぎりを買い、ハンドルを握ったままほおばった。なぜかゲップが立て続けに込みあげてきてうまく食べられなかった。トラックを運転しながら、まだ一千万円ある、恐れることはないと自分に言い聞かせた。
道路は混んでいてなかなか前に進まなかった。ラジオではニュースをやっている。
「今日、午前十一時ごろ、川崎市中区の路上で若い男女の二人組が信号待ちをしていた会社員の車を拳銃を突きつけて強奪し……」
荒っぽいことしやがるな。ぼんやりと聞いていた。幹線道路が流れそうにないので裏道に回った。
そこでふと気づいた。一千万円がどうして自分の金なのだろう。そのうちの二百万円は母からの借金で、三百万円は信金から借りた金ではないか。元々預けてあったのは五百万だったのだ。そして自分は今、太田から二百万円の慰謝料を求められている。娘の美加の進学には百万円用意しなければならない。すると、残りは二百万しかないのだろうか。信次郎の肩のあたりに悪寒が走り、ハンドルをもつ手が震えた。
いや、そんな馬鹿な。信金には三百万円の預金が担保としてあるじゃないか。あれは間違いなく自分の金だ。しかし、担保ということは完済しないことには引き出せない。ということは……。
信次郎は必死に考えようとするのだが、まるで脳がストライキでもしているみたいに働かなかった。それよりヤヨイ工業の五時は間に合うだろうかと思い、それがかなり困難なことだけははっきりとわかった。
北川崎駅の小さな商店街に駐車スペースを見つけ、鞄を持ってトラックを停めた。降りるときルームミラーで顔を見ると、不精髭《ぶしょうひげ》がうっすらと頬まで覆っていた。いまさらいい恰好をしようとは思わないのでどうでもよかった。
そうして信次郎は銀行に入った。
相談窓口で来意を告げる。
「高梨さんをお願いします」
そこに座っていた女子行員は、なぜか固い表情をしていた。うしろを振り返り、オフィスを見回した。
「お約束でしょうか」
「そう。一時。ちょっと遅れちゃったけど」
「お待ちください」そう言って立ちあがる。
信次郎はこの女子行員に見覚えがあった。前に来たときも無愛想な応対をした女だ。ちらりと名札を見る。「藤崎」という女だと思いだす。
椅子に座ってたばこに火を点けた。煙が肺の中で渦巻き、じんわりと血管にまで染みていく感覚があった。
何気なく隣の窓口をのぞくと、女子行員の腰のあたりの引き出しにお札の束が見えた。ここではお金はあくまでもモノとして扱われている感じがした。それは病院で、患者は一大事なのに医者はつとめて冷徹に、あるいは医学的興味のみで接しているのに似ていた。金と病気は、本人のみにとって重要なものなのだと思った。
しばらく待たされ、藤崎という女子行員が戻ってきた。
「あのう、定期の解約ですよね」どこか不貞《ふて》くされたような態度で言うと、用紙を一枚カウンターの上に置いた。「手続きをいたしますのでこの太枠のところに」
「ちょっと待った」カチンときた。信次郎が手で制する。「高梨さんはどうしたの。いるんでしょ」
「いえ、その……」
信次郎の険のある言い方に、女子行員が小さくたじろいだ。
「どうして出てこないのよ」
「あのう、ただいま高梨は休憩中で」
「そりゃあ少しは遅刻したよ。でも社内にいるんだろう。昼飯中断したって本人が出るべきだろうが。そもそもなぁ、そっちが金持って客の家まで来るのが筋なんだよ。集金のときだけニコニコして来るくせに、解約となるとこっちへ来いとは何事だよ。客をなめるのもいいかげんにしろ」
デスクの行員たちが信次郎を見ていた。背中にも客の視線を感じる。
「はあ……」
「はあじゃないの。さっさと連れてこい」
藤崎という女子行員が、顔色を変えて奥へ引っこんだ。この女の態度にも少なからず腹が立った。その顔には「わたしのせいじゃない」と書いてあった。
鼻から大きく息を吐いて周囲を見回すと、何人かがさっと視線をそらした。
携帯電話が鳴った。ポケットから取りだして耳にあてると妻の春江からだった。
「おとうさん、信金の片岡さんに融資を頼んだって本当?」
「ああ、ちょっとな」
「ちょっとって、そういうのどうして教えてくれないのよ」
「時間がなかったんだよ」
「今どこにいるの?」
「かもめ銀行」
「どうして?」
「どうしても」
「そんな……」あからさまな非難の声だった。
「だから何だ。用を言え」
「やっぱり融資はむずかしいって。融資を期待して一千万円預けられると、期待に添えないときに申し訳ないから、あらかじめ言っておきますって」
目の前が真っ暗になった。この場で盛大に頭をかきむしりたい衝動に駆られた。
「片岡さんはいい人よ。調子のいいこと言わないで、ちゃんと教えてくれるんだから」
また呼吸がしづらくなった。いったい何度目だろう、ここ数日で。
「それから市役所の人が来てねえ、新しい機械が入ったそうだからあらためて騒音計で測らせてもらうって。まだ動かせないって言ったら、また来るって」
「……わかった」
やっとのことで声を振り絞り、電話を切った。
咳をしたいのに、それが出てこない。喉の奥にコルクでもはめられたような状態だった。手で口を押さえ、鼻までつまんだ。そうやってカウンターで作業服の中年男がうずくまっている。体が小刻みに震えた。見られたくないのでカウンターの下に潜った。変なことをしているとも思わなかった。「お客様」という声が聞こえ、何人かの足が見えた。手で追い払うがもちろん立ち去るわけがない。
そろそろまずいなと思ったころ、やっと呼吸が甦った。赤い目をして「何でもない」と言い、椅子に座り直す。隣の窓口の女子行員が脅えた目で信次郎を盗み見ていた。
「あ、どうも」申し訳なさそうな顔ひとつしないで高梨は現れた。「解約なされるんですよね」と涼しい顔で言う。
当たり前だと肚の中で怒鳴ったが、出てきた台詞は自分でも意外だった。
「高梨さん。なんとかなりませんかねえ」それは懇願する口調だった。「もう一人、連帯保証人をつけてもいいし」
「いやあ、ちょっと、保証人さんだけ増えても……」
「だって親会社の勧めによる設備投資なんですよ。神田さんから聞いてそれは知ってるでしょう。仕事は保証されたようなもんじゃないですか」
「その契約書はおありですか?」
「いや、ないけどさ」
「それでしたら、ちょっと。……あ、ここに印鑑をお願いします」
高梨はかまわず解約手続きを進めている。
「そもそもこの話はそちらが最初に持ちかけた話じゃないですか。あなたが融資したいって言うから、こっちもその気になってタレパン買うことにしたんでしょう」
「神田さんからご紹介を受けたのは事実ですが、融資を約束したわけでは……」
「ねえ、高梨さん」
「何でしょう」
「お願いしますよ。タレパン、もう工場に入っちゃってるんだよね」
「支払いもしてないのにですか」
「ああ、そう。向こうの都合でそうなったんだけど」
「そんな会社があるんですか」
「ちょっと説明が面倒だけど」
「とにかく今は無理です。……印鑑をここに」
信次郎は判子を出さなかった。押したら終わってしまう気がした。
「解約なさらないわけですか? でしたらこちらもありがたいのですが」
反論できなくて信次郎は黙った。これからどうするべきか、考えてもわかるわけがなかった。鞄から判子を出して捺印した。
それを待っていたかのように、高梨は足元から大きな封筒を取りだしてカウンターに置いた。
「一千万円、お調べください」
「あんた、こういうのは応接室でやるもんじゃないのかい」
「あいにくふさがっておりまして」
「ずいぶん態度がちがうんだな。今日はお茶もなしか」
「お飲みになりますか?」
頭蓋骨の内側で、脳みそがチリチリと焼けている気がした。
「おい、支店長を出しな。ちょっとひとこと言わせろ」
「川谷さん」
「ちょっと、あんた」隣の椅子で、暗い顔でうつむいていた女子行員に言った。「あんただよ、藤崎さん。支店長をここへ呼んできてくれ」
「川谷さん、こちらにどういった落ち度があるというのですか」
そのときオフィスのいちばん奥の通路を、見るからに上等そうなスーツを着た男が横切ろうとしていた。うしろには鞄を抱えた部下がいる。
「おい、あの男が支店長だろう」
高梨がポーカーフェイスで振り返る。その表情で支店長だと確信した。
「おい、そこの人。あんた支店長だろう」
信次郎の大声に店内の全員が動きを止めた。
「なんだ、この銀行は。客を馬鹿にしやがって」
高梨が急いで男のところへ駆け寄った。何かを説明している。
ほかの行員が近寄ってきて信次郎をなだめにかかった。
「ちょっと、こちらへ」
「どこへ行くんだっ」
「奥に応接室がございますから」
「ふさがってるんじゃないのか。さっき高梨とやらがそう言ってたぞ」
「お客様、何卒お声の方を……」
「じゃあ支店長をここへ連れてこい。おれはひとこと言うだけでいいんだ」
口の端に泡が立っているのが自分でもわかった。いくらでも言葉が出てきそうな気がした。
しばらくわめいていたら、本当に支店長がやってきた。ただし揉み手もせず、腰を折ることもなく、いかにも居丈高な姿勢で信次郎と向かい合った。
ますます頭に血が昇った。信次郎はカウンターを回ってオフィスの中に入りこんだ。周囲が固唾《かたず》を呑んで見守っている。
「あんたが支店長か」顔を近づけ低い声で言った。
「川谷さんですね。だいたいの話は今、高梨から聞きましたが、あなたが何をお怒りなのか当方はさっぱりわかりませんな」
「なんだと。預金を一千万にしたら融資するって言うから、こっちはなぁ、あっちこっちから工面してきたんだ。それを土壇場になって融資はできないって。どうしてくれるんだよ、あんた」
「一千万ぐらいのことで……」
「おいっ。今あんた何て言った」
信じられなかった。追突されて抗議をしたら逆に罵倒されたようなものだった。
「さっさと解約すればいいでしょう。こっちは忙しいんだ。町工場の社長さんに付き合ってる暇はないんですよ」
「なんだって……」信次郎の声が震えた。体中の、すべての血液が頭に向かって結集していた。「本店に抗議してやる。この北川崎支店にはこんなひどい支店長がいるって抗議してやる」
「好きにしなさいよ、あんた」まるで与太者のような口調だった。「どうせもうすぐ出向なんだよ、こっちは。人事が何言ったって知らないね」
「何をわけのわからんことを……」
背中で女の悲鳴がした。信次郎はそれを意識の端で聞いていた。
「だいたいおれはこんな銀行と取引する気なんかもともとなかったんだよ。それをおまえらが、親会社を威すようにして口座の開設を求めるから、こっちは渋々金を預けたんだよ。それをだなあ」
なぜか周囲の視線が信次郎から離れていた。
信次郎の腕を押さえていた行員の手が、いつの間にかほどかれていて、誰も自分の邪魔をしようとしない。
支店長を見ると、この同年配と思われる男も口を半開きにして一点を見つめていた。
みんなが同じ方向を黙って見ている。
「おまえら動くんじゃねえ!」
そんな怒声が聞こえた気がした。
信次郎が皆の視線を頼りにその先を追う。そこには野球帽をかぶりサングラスをした若い男女の二人組がいた。
「男は壁まで下がれ!」
今度ははっきりと耳に届いた。
あ、これは銀行強盗なのだと信次郎は無感情に思った。
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銀行で働いていると、青い顔をした中小企業の社長という生き物をよく見かける。いちばん多いのは月曜の朝いちばんで駆けこんでくる経営者で、緊急融資を申しこんできたりする。決まって目に落ち着きがなく、貧乏ゆすりをして、ときには声を荒らげたりする。「貸さないのも客のため」という業界の格言も、個々の事情は知らなくても、なんとなく見ていて納得がいくものだ。会社を守りたい一心の経営者には、どこか狂気じみたところがある。
今日の客は、ひと目見て変だと藤崎みどりは思った。目の下にくまを作り、髭が不潔に口の周りを覆い、肌には脂が浮きでている。身なりを構わないほど憔悴《しょうすい》しているのだろう。
この客が、今、カウンターをはさんだ斜め前で高梨に頭を下げている。みどりが応対したときは、高梨を呼べと息巻いたくせに、本人が現れると途端に態度を変え、眉を八の字にして懇願しはじめたのだ。
この光景はみどりを暗い気分にした。自分の父親ほどの男性が、若者相手になりふりかまわずすがりつく様は、気の毒を通り越して哀れを催す。ふてぶてしく居直ってくれた方がどれだけありがたいことか。
辞表を提出したのに、課長の玉井はなかなか受理しようとしなかった。苦虫を噛みつぶしたような顔で「もうちょっと待てない? タイミングが悪いんだよなあ」とひとりごとのようにつぶやいた。
怪文書が出回ってすぐなだけに、今みどりが辞めると、それが事実である印象を社内に与えてしまう。タマはそれを恐れているようだった。
みどりが今すぐ辞めたいと言う。「もうすぐボーナスだよ」玉井は見透かしたようなことを言う。それでも首を横に振ると、最後には「じゃあ結婚退職ってことにしてくれない?」と卑屈に笑った。
結局、とりあえずは明日から有給休暇をとることになった。ほとぼりが冷めたころそっと辞めさせてくれるのだろう。
支店長はやはり飛ばされるようだ。さっそく本店に呼びだされたらしい。事情通の先輩が耳打ちしてくれた。こちらも頃合を見計らって、子会社行きの片道切符を手渡されるのだろう。みどりは少しだけ溜飲を下げている。
裕子とは目を合わせられない。でも、みどりがぎこちない態度をとるのを、辞表を出したためだと思ってくれているらしい。みどりが願うのは、間違っても高梨と裕子から結婚披露宴の招待状がこないように、ということだ。
ちなみに高梨は涼しい顔をしている。それはそれでありがたいのだが。
隣では、まだどこかの社長が頭を下げている。確か川谷とかいう名前だ。
どこかで聞いたことのある名前だな、とみどりは思った。もしかすると、高梨と過ごしたホテルで、高梨が二件のうちどちらに融資するかで、ヒラヒラと床に落とした方の稟議書が「川谷鉄工所」という名前だった気がする。もっともどうでもいいことだった。自分には関係がない。
相談窓口に座りながら、そうやってしばらく考え事をしていたら、いつの間にか川谷という客の口調が激しくなっていた。
みどりが顔を上げる。客はこめかみに青筋を立てていた。
そしてみどりに向かって何か言った。
「あんただよ、藤崎さん。支店長をここへ呼んできてくれ」
はっと我に返る。客がうしろを指さすのでそちらを見たら、奥の通路を支店長が歩いていくところだった。たぶん本店からの帰りだ。
高梨がなだめようとしたが、客はなにやら激高しているようだった。「おい、そこの人。あんた支店長だろう」そう怒鳴ると立ちあがったのだ。
店内の視線が川谷という客に集中し、行員が何人か駆け寄ってきた。みどりは呆然とその様子を眺めていた。
客はなおもわめいていた。どういうつもりか支店長も近寄ってきた。ふつう、支店長が個々の客のクレームに応じることはないのに。
客がカウンターを回って中に入ってきた。さすがにまずいと思って男子行員が押さえようとした。一千万円がどうしたこうしたと客が唾を飛ばしていた。みどりがふとテーブルを見ると厚く膨らんだ封筒があった。これが一千万円らしい。自分の預金を解約にきて何を怒っているのかまるでわからなかった。
そしてもっとわからないのは、支店長が応戦していることだった。苛立った様子で客に言い返していた。客はひきつけを起こさんばかりに猛《たけ》り狂っている。
みどりはそれを、ガラス越しの光景のような感覚で見ていた。目の前のことなのにどこか距離がある。好きなだけ騒げばいいと思った。みんなで、洗濯機の中で攪拌《かくはん》される汚れ物のように、捩《ねじ》れあっていればよいのだ。
そのとき、ロビーの方で誰かが大声をあげた。
みどりがそちらを見る。若い男が何かわめいていた。
今度は何だ。この客は何を怒っているのか。男は野球帽にサングラスという姿だった。
手には、もしみどりの見間違いでなければ、拳銃が握られていた。
「おまえら動くんじゃねえ!」男が牙《きば》を剥いた犬のように吠えている。
そしてみどりは凍りついた。
「男は壁まで下がれ!」
一瞬にして全身から血の気が失せていくのがわかった。目前の光景の一点が、なぜか拡大されて網膜《もうまく》を支配していた。
銀行強盗の男に驚いたのではない。
その隣で、バッグの口を開けている女が、自分の妹だったのだ。
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エンジンをかけて停車している無人の車が見つからなかったので、野村和也はあっさりと路上で強奪することに決めた。
手初めに帽子とサングラス、ジャンパーを買いにいった。スカジャンは目立ちすぎるので、何の変哲もない安手のジャンパーを買った。次にミリタリー用品店に飛びこんだ。そして七千五百円のトカレフもどきを買ったら本格的にオケラになった。ポケットには小銭しか残っていない。これでますます肚が固まった。銀行を襲う口実ができたような気になった。
幹線道路の横断歩道で車を物色した。こんなときでも好みの車を選ぼうとする自分がおかしかった。しばらく待っていたら白いグロリアがいちばん手前で停まった。これも何かの縁だと思った。中にはおとなしそうな男が一人で乗っている。歩行者用の青信号が点滅してから行動を起こした。めぐみを見ると、黙ってうなずいた。
めぐみが運転席に回って窓をノックする。男が怪訝そうな顔でウインドウを降ろしたところで和也が割って入り、腕と頭を突っこんだ。内側からロックを外し、ドアを開き、男を引きずりだした。背中に挟んであったモデルガンを突きつけたら男は声もあげずにその場にへたりこんだ。めぐみが助手席から乗りこむ。これで終わりだった。周囲の何台かはこの強奪劇に気づいたようだが、信号が変わったら何事もなかったように車は流れだした。
「いよいよだね」めぐみが思いつめた顔で言った。
「ああ」和也は短く返事してうなずいた。
「かもめ銀行の北川崎支店ってところだからね」
昨夜《ゆうべ》言いだしたことだが、それを和也は何の疑問も抱かずに聞き入れた。繁華街の銀行を襲うよりリスクが少ないことは事実だったからだ。たぶん警察署からも遠いのだろう。
「日本が大陸だったらいいのにね」めぐみが隣でつぶやいた。
「どうして?」
「いっぱい逃げられるから。昨日話した映画だけど、日本じゃ絶対に作れないよね。二日も車で走ったら北海道か九州だもん。その先は海なんだよね。大陸だったら国境を越えて、いつまでも逃げられるじゃない」
「そうだな」
「名前を変えて、気分変えて、やり直しがきくじゃない」
「ああ」
「日本人が臆病なのはそういう道がないからだろうね。いやなことがあっても、海があるから逃げられないんだよ。だからみんなで固まって我慢してるんだ」
「ああ、そうだな」
「ほんと、大陸だったらいいのにね」
道がわからなくてしばらく工場街をさまよった。午後一時半を過ぎてから銀行の看板を見つけた。それは小さな町で、あたりを睥睨《へいげい》するようにそびえ立っていた。駅前を通るとき交番が目に入った。中年の太った巡査がのどかに立ち番をしていた。かまうものかと思った。
恐怖もなければ心臓が高鳴ることもなかった。助走はとっくに始まっていて、和也にとっては、あとは踏み切り板を思いっきり蹴りつけるだけのことだった。てのひらだけはじっとりと汗ばんでいた。
銀行の裏手に車を停めた。エンジンをかけたままで降りた。少しでも立ち止まると躊躇してしまいそうなので、和也はすぐに駆けだした。小走りに正面玄関まで駆けていった。ガラスの自動ドアが左右に開いた。ジワッと自分の顔が熱くなるのを感じた。いつもの耳鳴りが一瞬ボリュームを上げた。中へ一歩、踏み入れる。モデルガンを右手に構え、腹の底から声をはりあげた。
「おまえら動くんじゃねえ!」
自分の声のような気がしなかった。
和也はロビーの中央で足を踏んばり、腰を落とし、伸ばした腕でモデルガンを右に左に動かした。斜めうしろでめぐみがバッグを持って立っている。もう一度叫んだ。
「動くんじゃねえ。じっとしてろよ」
全員が動きを止めてこちらを見ていた。モデルガンをロビーの客に向けると、方々で女の悲鳴があがった。客は弾かれたように一斉に身を低くし、何人かが床に這いつくばった。
続けてカウンターの中へ銃口を向け、「男は壁まで下がれ!」と怒鳴った。
女子行員たちが頭を抱えてその場にしゃがみこむ。恐怖に犯されたいくつかの目が、弱々しく飛びこんできた。男たちは蒼白の面持ちでゆっくりとあとずさりしていく。
まずは予定どおりだった。
なのに、カウンターの一角だけは人が立ったままだった。
三、四人が呆然と立ちすくんでこちらを見ている。
「よしっ。金だ、金を出せっ」
和也はかまわず前へ進んだ。景気づけに目の前の植木と灰皿を蹴り倒す。派手な金属音が店内に響いた。めぐみがショルダーバッグの口を広げ、あとをついてきた。
そのときカウンターの上に置かれた封筒が和也の目に入った。
なぜか逃げようとしない三、四人の前に、その封筒はあった。その口からは分厚い札束が顔をのぞかせていた。
心臓が早鐘を打った。これをいただかない手はなかった。和也はモデルガンを水平に構えたまま大股で突き進んだ。全身を熱い血が駆け巡っていて、体中に不思議な力がみなぎっていた。
和也が近寄ると、背広の男が腰を引きながら、反射的に封筒を押した。金ならやるからさっさと出ていってくれ、といった脅えた態度だった。
金が手に入ったと思った。欲しかった大金が。
ところが、和也が手を伸ばすと、同時にもう一本の手が正面から伸びてきた。
その手は封筒を押さえると、必死に引き寄せようとした。
和也が顔を上げる。そこには作業服を着た、目を血走らせた中年の男が立っていた。作業服の男は歯を食いしばって取られまいとしている。
「撃つぞ。この野郎」
そう叫んでも、男は耳が聞こえないかのように、必死の形相で封筒の金を守ろうとしていた。
和也は反射的にモデルガンの台尻で男の頭を打ちつけた。一発、二発。それでも離そうとしない。和也は封筒の上に身を乗りだして片腕で抱えこみ、体重をかけて一気に奪い取ろうとした。
腰を折って足を踏んばる。綱引のように懸命に引っぱった。すると封筒は、男ごとカウンターの外側に転がりでて、ロビーの床で和也と重なりあった。
またどこかから女の悲鳴が飛んだ。「ケン!」というめぐみの声も聞こえた。
急いで立ちあがると、作業服の男は封筒を胸に抱えてうずくまっている。
和也が馬乗りになった。
「おい、その封筒を渡せ」
「馬鹿野郎。誰が渡すか」男が怒鳴り返した。「この金はなあ、この金はなあ……」
「うるせえ、何言ってやがんだ。渡さねえと撃つぞ」
「おお、撃てるもんなら撃ってみろ」
和也の心に動揺が走った。この男はこれがモデルガンだと知っているのか? いやそんなはずはない。
「銀行にコケにされて、マンションの連中には立看板を立てられて、おまけに弁護士なんか担ぎだしてきやがって。もうタレパンは入っちゃってるんだよ。すぐにでも金を払わなきゃならないんだよ」
男はわけのわからないことをわめいていた。
「本当に撃つぞっ」
和也は後頭部に銃口を突きつけた。焦りを感じた。こんなことで時間を食っていいはずがない。
「だから撃てって言ってんだろう。こっちは生命保険が下りてちょうどいいんだよ」
なんなのだ、この男は。
考えが浮かんでこなかった。出直すか。いや、ここまで来ておいて。
和也は馬乗りをやめ、もう一度銀行内を眺めまわした。
客も行員もまだ床や壁に張りついていた。息を呑んでこちらを見ている。
何をするべきか。とにかく金だ。
「おいっ」
作業服の男が叫んだ。いつの間にか封筒を抱えて立っていた。
「てめえ、いま何しやがった」和也にではなく、カウンターの中の背広に向かって怒鳴っていた。「おれの金を渡そうとしやがっただろう。この強盗に、おれの金を差しだそうとしただろう」
背広を着た年配の男は青い顔でかぶりを振っている。
いったい何の話だ。わけのわからないことを。
「おいっ、そこの若いの」男が和也に向いた。「その窓口の引き出しに金が入ってるぞ。取るならそっちだ」
ひとつの窓口を指さした。男はつかつかと歩み寄ると、カウンターに飛び乗り、ひらりと向こう側に降りた。
「ここだ。この引き出しだ」
本当になんなのだ、この男は。
「鞄を出せ。おれが詰めてやる。おい、そこの女、あんたも仲間だろう」
めぐみが和也を見る。不安そうな顔をしてそれでも男に従った。
「あるところにはあるんだよ。こんなところに詰まってるからなあ、いつまで経ってもこっちには回ってこねえんだよ」
男は真っ赤な顔で一人怒鳴り散らしながら、一心不乱に金を詰めこんでいる。
男の目には、確かな狂気の色があった。気がつくと、和也はモデルガンを持つ手を下げていた。めぐみと二人で棒立ちしていた。不思議な時間が流れていた。
グイーン。
背中で自動ドアが開閉する音がした。
和也が振り返る。制服姿の警官が目に飛びこんだ。一人だった。さっき見かけた駅前交番の太っちょだとすぐにわかった。和也が慌てて身構える。通報ブザーが押されたのだ。きっともうすぐ本署から大部隊が駆けつけてくるのだ。
「き、君たち」警官の声は震えていた。「馬鹿な真似はやめなさい」
その声には力もなかった。腰の拳銃に手もかけず、及び腰で距離を置いていた。
和也はいちばん近くにいた女性客の襟をつかみ、むりやり立たせた。
「下がれっ。近づいたらぶっ殺すぞ」
モデルガンを女のこめかみに当てた。再び血の気が戻ってきた。
作業服の男がカウンターを乗り越えて和也の隣にきた。「ほらよ」とバッグを差しだして言った。めぐみがそれを受け取り胸に抱きしめた。
「あんたの欲しかった金だ。うまく逃げろよ」
男は和也の肩をたたいた。鼻息を荒く吐いていた。
表から出るべきか迷った。そのためには警官を下げさせなくてはならない。通用口があるはずだ。車はビルの裏手に停めてある。
店内の奥をのぞいた。それらしき通路がある。
和也は客の女を抱えたまま横に移動した。
「その女性を放しなさい」
初めて警官が大声を出した。
「やかましい。あとを追っかけてこなかったら解放してやるよ」
「あのう……」そのとき背中から女の声がかかった。驚いて振り向いた。「人質、わたしが代わります」
若い女子行員が耳元で、訴えるような目で言っていた。
「わたしが人質になりますから」
もう一度言った。女子行員は、銀行強盗に対峙《たいじ》することとは別の恐怖を抱えた面持ちで、勝手に女性客を引きはがし、みずから和也の腕の中に入った。
わけがわからなかった。いったいこの女は何を考えているのか。
とにかく和也は退散することにした。青い顔をしためぐみを先に行かせ、自分もそれに続こうとした。
「待ちなさい」警官が近寄ろうとした。
和也は新しい人質にモデルガンを突きつける。
「あっちへ行ってろ」
あらんかぎりの声をはりあげ、和也は通路へと急いだ。人質の女子行員は一切抵抗することなく、まるで共犯者のように同じスピードでついてきた。
うしろで複数の人の足音がする。「待ちなさい」まだ警官が叫んでいた。
薄暗い通路を抜けて鉄の扉を開けると、まばゆい光が視界を白く支配した。ありがたいことに目の前に車があり、運転席がこちら側に向いていた。
近くでサイレンの音がした。銀行の正面からだ。いま到着したのだ。
「ケン、早く!」めぐみが助手席で声をはりあげる。
慌てて飛びのった。なぜか人質は自分からうしろのドアを開けて乗りこんだ。
通用口から太っちょの警官が顔を出し、車に向かって走ってきた。
「ケン、早く早く!」
アクセルを力いっぱい踏む。ボンネットの下で獣の唸り声のような音が上がった。
しまった、ギヤを入れていない。もう一度踏む。何かが引っかかっている。今度はサイドブレーキを下ろし忘れていた。落ち着け、落ち着くんだ。
「おい、どこへ行く。待て!」警官が窓をたたいて叫んでいる。
やっとのことでグロリアが動いた。タイヤが派手に悲鳴をあげ、前輪を浮かせるようにして、白いセダンは、小さな町の裏道を発進した。
すぐの四つ辻を左に曲がった。買い物袋を提げた主婦が驚いて塀にはりついた。
「その先を右だ!」
リヤシートから男の声が飛んだ。
頭の中が真っ白になった。誰だ、誰が乗っているんだ。
和也はアクセルに足を乗せたまま振り返った。
助手席のうしろには人質の女子行員がいた。
その隣、自分の真うしろには中年の男がいた。和也は戦慄《せんりつ》した。なんでこのオッサンが。
その男が、運転席と助手席の間から身を乗りだした。
「線路をくぐって行け。そういう道があるんだ」
作業服を着た中年の男だった。そう言うとシートに背中をぶつけ、頭を抱えて「ああ、もうおれはおしまいだ」と呻き声をあげた。
セダンには、自分を含めて四人の男女が乗っていた。
おい、いったいどうなってやがんだ。
逃げなければという焦りと、状況をつかめない困惑で、和也の頭はますます混乱した。
そしてその混乱にとうとうとどめが刺された。人質の女子行員が泣きながら「めぐみ」と名前を呼んだのだ。
「めぐみちゃん、どうしてなのよ……」
リヤシートの奥で女がポロポロと涙を流していた。
本当に、どうなってんだ。これは現実か――?
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町のあちこちでサイレンが鳴っていた。人を急かせる甲高い音が、澄んだ青空に響き渡っている。車が路地を曲がるたびに、その昔は大きくなったり小さくなったりし、ステレオのように左右の耳に届いた。
車が線路沿いの道路に出たところでパトカー数台とでくわした。白いセダンはすぐに発見され、サイレンの鳴る方向がうしろからだけになった。エンジンが乾いた唸り声をあげる。窓の景色がうしろへ吹っ飛んでいった。
「真っすぐ行け。あと五十メートルぐらいだ」
川谷信次郎がリヤシートから身を乗りだして怒鳴った。足元には一千万円の入った封筒があり、隣には藤崎という女子行員がいて、前の席には二人組の銀行強盗がいた。
小さな段差をバウンドし、四人が同時に車内で跳ねた。
「もう少しだ。線路の金網が切れるところがあるだろう。そこを左に曲がれ」
猛烈なスピードで車はなだらかな坂を下っていく。すぐ先に暗いトンネルの入り口が見えた。
「よし、ここでブレーキだ!」
そう叫んだら若い男が慌てた声で「通れるのかよ」と言った。
「大丈夫だ。高さが一メートル五十あるんだ。乗用車なら通れるんだ」
信次郎の言葉を信じたのか、男は、タイヤをスピンさせながら車を九十度ターンさせ、猛然とトンネルに突っこんでいった。
ちょうど上を電車が通過している。全員が頭を低くしていた。ノイズにくるまれて闇の中を走り抜けると、白い光が目の前に現れた。
信次郎がうしろを振り返る。トンネルの入り口でパトカーが立ち往生していた。このトンネルは屋根にランプのあるタクシーが通れないことで知られていた。ということは、パトカーも当然通れないはずだった。
サイレンの音が徐々に遠ざかっていく。運転している男が首だけでうしろを見た。あっけにとられた顔をしていた。
「次はどっち?」男が聞いた。
「知るかっ、そんなこと」
信次郎はリヤシートに深くもたれこみ、手で顔を覆った。自分の肩が震えていた。
なんてこったい。そう心の中でつぶやいたら全身に悪寒が走り、吐き気をもよおした。両腕で自分の腹を抱えこむ。瞬間、胃液が喉元まで込みあげてきた。
嘔吐《おうと》を堪《こら》えながら窓の外を見た。北沢製作所の工場の屋根が、ゆっくりと後方へ流れていく。外注担当の神田の顔が浮かんだ。きっと彼は、取引先の社長が今ここにいることなど想像もできないだろう。
ふと、自分がトラックで来ていることを思いだした。そして、荷台には熱交換器の不良品が積まれていることが突如として頭の中に浮かんだ。いきなり脳を占拠された感じだった。ヤヨイ工業からは、確か夕方の五時までにと言われていた。
腕時計を見る。午後二時だった。今から帰って大急ぎで溶接をし直せば、間に合うかもしれない。
「ちょっと、あんた」運転している若い男に慌てて言った。「ちょっと引き返してくれないか。大事な仕事があるんだ。トラックも停めっ放しだから」
「あんた頭がおかしいんじゃねえのか!」
「頭がおかしいとはなんだ」
「おかしいものはおかしいんだよ!」
男はヒステリックに叫ぶと、ジェットコースターのように工場街を右に左に車を走らせた。
せめて隣の山口社長に頼もうか。悪いけど北川崎駅まで行って、うちのトラック引き上げて、積んである熱交換器を作り直してよ。いや、これはあまりにずうずうしすぎる。だいいち、すでに仕事を頼んであるのだ。……ということは、その完成品の受け取りと納品もしなければならない。それはいつにしようか。
信次郎は頭の中の迷路をさまよっている。
隣では人質の女子行員が泣いていた。
「めぐみちゃん。どうしてなのよ」
そんな悲痛な叫び声が聞こえた。どうやら助手席に座っている女がめぐみという名前らしい。どうして女子行員と銀行強盗の片割れが知り合いなのだろう。
「めぐみ、どうなってんだ」
若い男も大声を出している。この男もまたパニックに陥っているようだった。
めぐみと呼ばれた女は、深く腰かけたまま微動だにしない。窓の方に顔を向け、不貞くされたように黙っていた。
「あなた、どういうつもりなのよ。自分の姉が勤めてる銀行に押し入ったりして」
「おまえら、姉妹なのか」男の声が裏返った。
男がハンドル操作を誤り、車体が大きくロールした。フロントガラスに電柱が迫る。目を覆ったらタイヤの悲鳴とともにもう一度逆方向にロールして、信次郎が窓に側頭部を打ちつけた。
「おかあさんが心配してるのよ。めぐみが家出してから、夜も眠れないで、ずうっと待ってるのよ」
「おいっ、なんとか言えよ」
めぐみという女はますます頑《かたく》なに口を閉ざし、金の入ったバッグを胸に抱きしめていた。斜めうしろからでも、体を固くしているのがわかった。女子行員はハンカチを目に当てて泣きじゃくっていた。
車が幹線道路に出た。サイレンはどこからも聞こえてこなかった。どこに向かっているのか。とりあえず空の様子から西だということがわかった。ますます自分のトラックから遠ざかっていく。
「おい、君」信次郎が男に声をかけた。「どこへ行くんだい」
脳を素通りして出た言葉だった。
「何言ってんだよ。あんたがトンネルくぐれって言ったんだろう」男はハンドルをバンバンたたいて荒い息を吐いた。「だいたいあんたは何者なんだよ」
「わたしか。わたしは川谷だ」
「そんなことじゃねえよ。どうしてついてきたんだよ」
返答に詰まった。自分はどうしてこの車に乗っているのか。
何気《なにげ》なく身をよじったところで胸ポケットの中の携帯電話が目に入った。つい数分前の電話が頭の中でフラッシュバックした。
信金の融資はだめだった。その宣告が嵐のように内部で渦巻いている。再び悪寒が走った。そして電話で知らせてくれたのが春江であることを思い出して心臓が縮みあがった。
信次郎は震える手で携帯電話の電源を切った。
今、妻から電話がかかってきたらどうしようかと思った。
パズルがとっちらかったままの頭で、自分のしでかしたことを考えた。
仕事を放り投げた。ヤヨイ工業の熱交換器はトラックに載せたままで、しかも銀行のそばに乗り捨ててある。それ以外にもたまった仕事はあり、作業場に積み上げてある。自分が指示しなければコビーも手を出せないだろう。明日になれば方々から催促の電話がかかってくる。
タレパンを入れてしまった。主《あるじ》を失ってしまった機械は作業場の奥で、稼働することもなく眠っている。もう返却するしかない。輸送費と違約金を払っても。神田がどう言おうとも。きっと川谷鉄工所はいちばんの取引先を失うにちがいない。
例の弁護士はいつ来るのだろうか。二百万円という金額を聞かされて妻はどんな顔をするのだろう。いや、もはやこの時点で途方に暮れているだろう。連絡もなく、帰ってこない夫を心配して。
心のスクリーンに、敵前逃亡という言葉が、あぶり出しのように浮かびあがってきた。信次郎は叫びだしたくなった。
拳を握り締め、声を呑みこんだ。なんだか細胞のひとつひとつがざわついている気がした。じっとしているのが苦しかった。
信次郎が顔を上げる。ラジオで臨時ニュースをやっていた。これまでラジオがついていることすら気づかなかった。〈銀行……〉という言葉が聞きとれた。
思わず身を乗りだした。運転していた若い男が速度を落とし、ラジオのボリュームを上げた。途中からはっきりと聞こえた。
〈……男二人女一人の三人組がかもめ銀行北川崎支店に押し入り、行員に拳銃を突きつけ、現金およそ五百万円を強奪し、白い乗用車で逃走しました。なお逃走の際に女子行員一人を人質として……〉
「三人組だって?」信次郎が声をはりあげた。
「ちょっと静かにしろよ!」若い男が怒鳴り返す。
〈……神奈川県警は緊急配備をしいて白い乗用車を追うとともに、人質の救出に全力で取り組む方針です〉
信次郎はおのれの迂闊《うかつ》さが信じられなかった。仕事の心配ばかりして、どうして銀行強盗の手助けをしたことを忘れていたのだろう。これこそが、いま自分に降りかかっている最大の問題だった。しかも警察は三人組だと思っている。自分もその一味と考えられている。
「あーっ」
信次郎の絶叫が狭い車内にこだました。頭を抱えて運転席のうしろにたたきつけた。「うるせえ」男が金切り声を上げ、急ブレーキを踏んだ。
体が宙に浮く。路肩に車が停まり、四人の男女が車内でこんがらがった。
「おまえら降りろよ」男は顔を真っ赤にしてうしろを振り返った。「おまえらがいるから捜査が大掛かりになるんだよ。人質だってこっちはいらねえんだよ」
信次郎がリヤシートで体勢を立て直した。
「さあ、ここで降りてくれ。そりゃあ少しは世話になったかもしれねえけど、あとはおれたち二人で大丈夫だ。とっとと降りてくれ」
「冗談じゃない。何が二人で大丈夫よ」藤崎という女子行員が目を吊りあげて怒った。「降りるわよ。でも逃げるならあんた一人で逃げなさい。めぐみを道連れにしないでちょうだい。めぐみは返してもらうわよ」
「お姉ちゃんは関係ないでしょ」助手席の女が初めて顔を見せた。「関係ないんだから黙っててよ」
「関係ないわけないじゃない……」また女子行員が泣き崩れた。
男が天を仰ぐ。大きく息を吐き、血走った目で信次郎を見た。
「あんたは降りてくれるよな。な、あんただけでも降りてくれ」
信次郎が黙って男を見返した。自分でもどうしていいのかわからない。ただ、ここで一人にされても困るような気がした。
「何なんだよ、あんたら……」男が泣きそうな声を上げる。「このままだと目立つんだよ。こんなおかしな四人組があるかよ。誰が見たって怪しいだろう」
そのとき、頭上でヘリコプターの音がした。バラバラと轟音をふりまいて、低空飛行していた。信次郎が窓に顔をつけるようにして見上げると、その腹には〈神奈川県警〉の文字があった。遠くでかすかにサイレンの音がする。
男が黙りこくり、車のリヤウインドウを見ていた。
「……あの、赤いのは何だよ。まさか、血じゃねえよな」
みんながうしろを振り返る。今まで気づかなかったが、リヤウインドウには血のような赤いしぶきが付着していた。
信次郎が身を乗りだす。トランクはしぶきどころではなく真っ赤に染まっていた。
「カラーボールだ……」女子行員がつぶやいた。
「何だよ、それ」
「銀行強盗に入られたとき、犯人にぶつけるボールよ。中に特殊塗料が入っていて、目印になるように……」
「いつのまに……」男が苛立って髪をかきあげた。「あのお巡りだ。銀行から逃げるとき、追いすがってきた、あの太っちょのお巡りだ」
男が弾かれたように車から飛び出た。同時に助手席の女がドアを蹴り開けた。それを見た女子行員があとに続く。信次郎も車から降りた。
銀行強盗の二人組が路地の角を曲がり、いつの間にか低く雲の垂れこめた空の下を、全力で駆けていく。女子行員が髪をゆらし、同じように走っている。信次郎は一千万が入った封筒をかかえ、三人を追った。
どうして自分がそうしているのかわからなかった。
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逃げているのだろうか、追っているのだろうか、自分でも判断がつかないまま藤崎みどりは全力で走っていた。体が勝手に動いていた。もはや頭の中はパニック状態を通り越し、思考が停止していた。
涙は乾いているのに、眼球はやけに熱く、視界がぼやけて揺れた。パンプスの底がアスファルトをたたく音が、強引にみどりの耳に分け入ってくる。スカートが太ももを圧迫していた。ベストの釦《ボタン》も飛び散りそうだ。
先を行く男とめぐみが路地に入り、みどりも同じように駆けこんだ。上空では警察のヘリコプターが舞っている。自分たちは見られているのか。まさか、そんなはずはない。田舎道ならいざしらず、ここは街中だ。人通りだって少なくないのだ。喉が鳴った。唾液《だえき》すら出てこなかった。
サイレンの音がだんだんはっきりと聞こえてきた。一台や二台ではない。大群といった感じだ。まるで地鳴りのように響いている。
走っているうちにどこかの商店街にさしかかった。これでますますヘリコプターは犯人を見つけるのが難しくなる。通行人との衝突を避けてか、男とめぐみが駆け足程度のスピードになった。みどりも速度を緩めた。十メートルほど離れてその背中を見ている。このまま走れば追いつくのに、なぜか躊躇した。
荒い息を吐きながら、何をすべきか考えた。
めぐみを捕まえたとして、何ができるのだろう。妹を警察に突き出すのか。できるわけがない。そんなことをしたら家庭は崩壊するし、自分も無事ではすまない。銀行OLの勤める支店にその妹が押し入った。それがいったいどれほどのスキャンダルになるのか――。
胸が張り裂けそうになった。実際、突き刺すように痛んだ。
商店街が途切れたところにバス停が見えた。まるでタイミングをはかったかのように、バスが右手から現れた。めぐみと男がそれに乗りこもうとする。
冗談じゃない。置いていかれるわけにはいかない。
みどりは懸命に走ってバスに飛び乗った。なんとか間にあった。そして料金入れを見て髪をかき上げた。銀行の制服姿なのでお金がない。どうしよう。あたりを見回す。うしろで小銭をいじっている音がした。振り返ると、封筒を胸に抱えた作業服の中年がいた。川谷だった。川谷は顔を汗でびっしょりと濡らし、無言で二人ぶんの料金四百円をボックスに放りこんだ。扉が閉まってバスは発進した。
みどりが驚いて川谷を見る。青ざめた中年男は目を合わせることもなく、いちばん手近な吊革につかまった。
わけがわからない。ただ、この中年男が自分と同じくらい我を失っていることだけは見て取れた。川谷は、視線がどこにも定まっていない。
みどりもとりあえず吊革に手をかけた。首を捻って奥を見る。めぐみと男が出口付近に立っていた。二人ともまだ帽子とサングラスをつけたままだ。めぐみはバッグを肩から掛けている。あの中に金が入っていると思ったら、あらためて絶望的な気分になった。とうてい取り返しがつきそうにない。
微妙な距離を保ちながら、四人の男女がバスに揺られている。誰も口を利こうとはしなかった。
サイレンがあちこちで鳴っている。音がやみそうな気配はない。それはそうだと思った。銀行強盗が起きれば、ましてや人質がいるともなれば、警察は必死で犯人を追うに決まっている。
人質――? みどりは吊革を持つ手に力をこめて目眩に耐えていた。自分は人質なのだ。警察にはそう思われている。体の震えが止まらなかった。
家に帰りたくなった。途中で解放されたことにして自分は帰ろうかと思った。めぐみなど、もう知ったことではない。自分の責任ではない。
だめだ。一回息を呑んでみどりがかぶりを振る。もし彼ら二人が捕まったら、犯人が妹であることがばれる。そうなったら……。
どこかのバス停に着き、高校生がどやどやと乗りこんできた。車内がいっきに騒々しくなり、押されるかたちでみどりは通路を奥に進む。
めぐみを探したら斜めうしろにいた。固い表情でうつむいている。
このバスはどこへ行くのか。見当もつかない。ただ、偶然にせよバスに乗ったのが功を奏していることはわかった。まさか犯人が人質を連れてバスや電車に乗るなどとは、警察だって考えないだろう。きっと車を乗り捨てた地点を中心に捜しまわっているはずだ。
みどりは、時間の経過さえはっきりしない奇妙なときを過ごしている。窓の外を見ていても、目には何も映らなかった。
バスが停まって乗客がいっせいに動き出した。終点だった。慌てて出口を見ると、めぐみと男が降りていく。人を掻き分けるようにしてみどりもあとに続いた。目の前は駅だった。
二人が駅舎に入り、切符の自販機に向かっていった。めぐみが帽子を脱ぎ、髪をひと振りした。自分の姉がついてきていることは知っているはずなのに、見向きもしなかった。
切符か。またお金がいる。反射的にうしろを見たら川谷が立っていた。
「あの、お金を」
みどりが言い終わらないうちに川谷は財布から千円札一枚を取り出し、突きつけた。
「すいません」
川谷の表情にはいっさいの色彩がなかった。こんな顔の人間を見るのは初めてだった。この男は、本当にどういうつもりなのだろう。
みどりは自販機に千円札を滑りこませ、ランプの点いたいちばん高い金額を押した。
そのとき、めぐみが駅舎の外へと歩いていった。男が少し間を置いて同じように外に出る。みどりの視界の端に制服警官が映った。改札付近に二人いる。
見ないようにしてみどりも切符売り場から離れた。下校中の高校生がたくさんいるせいで、その行動が目立つことはなかった。
緊急配備だと思った。神奈川県全域は、道路も駅もきっと警官だらけなのだ。呼吸ができなくなるほどの恐怖を抱えこみ、みどりは、今起きている現実を認めようとしていた。
めぐみと男は駅を出ると線路沿いに少し歩き、駐輪場に入っていった。
みどりがあとを追う。砂利《じゃり》を踏み締めたところで初めてめぐみと目が合った。
めぐみが目をそらす。男は険しい顔で下を向いている。人の気配がして振り返ると、またしても川谷がいた。
途方に暮れた四人が駐輪場の片隅で立ち尽くしている。
最初に男が動いた。ジャンパーを脱いで近くの自転車のかごに投げ入れると、鍵を蹴飛ばし始めた。
「何してるのよ」みどりが背中に問いかける。
「自転車で逃げるんだよ」
男は苛立った口調で返した。
「無理よ。無理に決まってるじゃない」
「じゃあどうするんだよ」
男が帽子を脱ぎ捨てる。顔中が痣《あざ》だらけだった。そもそもこの男は何者だ。めぐみとはいったいどういう関係なのか。男はなおも自転車の鍵を壊そうとしていた。
「わたし、帰る」横から口をはさんだのはめぐみだった。中空にぽんと飛び出たような台詞だった。
何のことか、にわかにはわからなかった。
「わたし、捕まるのいやだし」
めぐみは不機嫌そうに言うと、ショルダーバッグを地面に下ろした。男が動きを止める。しばらく沈黙が流れた。
「……あんた、何言ってるのよ」みどりがやっとのことで声を発する。「あんたがしでかしたことでしょう」
自分の顔が紅潮しているのがわかった。めぐみの袖《そで》をつかんだ。
「無責任なこと言わないでよ。こんなことをして、わたしたちはどうなるのよ」
「だって、もういやだもん」
体を揺すった途端、めぐみは子供のようにあとずさりした。
ジャンパーを脱いでTシャツ姿になった男は、呆然と佇んでいる。
「いやって……、ふざけないでよ」
どうしていいのか見当もつかなかった。めぐみを取り返そうと追ってきたはずなのに。自分でも筋道が立てられない。
ここで妹に行方をくらまされると自分はどうなるのだろう。男は一人で逃げることになる。もし男が捕まったら、当然めぐみの名前が出る。
だめだ。おまけに川谷も自分たちが姉妹だということをすでに知っている。じゃあどうすればいいのだろう。みどりの頭の中がぐるぐる回る。
「おい、めぐみ。どういうことだ」男が動揺を抑えるようにして言った。「ふざけんじゃねえぞ」
「だって」
「だってじゃねえ。おまえがあの銀行をやれって言ったんだろう」
みどりの心臓が締めつけられた。まさかという思いが残っていたのに。
「黙ってちゃわかんねえだろう」
めぐみは顔を上げようとはしない。しでかした事の重大さに、今頃になって気づいたという感じだった。
「何とか言えよ」
男は泣きそうな声をしてる。
死んでくれればいいのに、とみどりは混乱する頭で思った。ここにいる二人の男が死ねば、一挙に問題は解決するのだ。めぐみは何食わぬ顔で家に帰り、自分は警察に保護を求めればいい。自分一人なら、いくらだってごまかしがきく。
みどりは無意識にベストを脱いだ。リボン・タイも外した。ブラウスとスカートだけなら私服に見える。とにかく、発見されることだけは避けたい。
それを見て川谷が作業着を脱いだ。その下はランニングシャツ一枚だった。よけいに目立つのに、何を考えているのか。たぶん今の川谷には、小学生ほどの思考力もないのだろう。
気ばかりが焦っていた。少し離れたところでは、学生が自転車を出そうとして怪訝そうな目をこちらに向けていた。
だめだ。早く何とかしなければ。ここも長居はできない。
「ごめん。今の取り消し。やっぱりケンと行く」めぐみが髪をかき上げてつぶやいた。「怒んないで。ちょっと怖かったから」
何を勝手なことばかり言っているのか。みどりが心の中で叫ぶ。
ケンと呼ばれた男は、めぐみの心変わりに振りまわされている様子で、口を固く結んでいる。
みどりは湧きでる感情を必死に堪えていた。とにかく、この場だけでも早急に逃れなければ。
駐輪場の横を電車が、駅のホームめがけてゆっくりと通過していった。ふと見上げると、昼下りの車両はまばらな客を乗せ、のんびりと動いていた。
「一人ずつ電車に乗ろう」誰か他人が言っているような感じだった。「一人ずつなら平気よ。警察だってわからないわ。これ、東海道線だから、とりあえず神奈川を出るまで乗って……。東京じゃなくて、静岡の方へ。そうだ御殿場にしよう」
みどりの頭にバンガローが浮かんだ。かもめ銀行の保養施設で、管理人もいない森の中の建物。支店長に襲われかけた、人里離れた暗がりの場所。
「何言ってんだよ」男が声を荒らげる。
「確か、小田原の手前で支線に乗り換えて……」
「あんた、勝手に決めんじゃねえ」
「いい。御殿場だからね。電車の中ではみんな知らないふりをするんだよ」
「おい」
「めぐみはサングラスを外しなさい。あなたは」男に向かって言った。「ジャンパーはここに脱ぎ捨てなさい。Tシャツのままでいいわ。ねえ、拳銃はどうしたの」
「車ん中に置き忘れたよ。どうせオモチャだよ」
「じゃあいいわ」
「そのジャンパー」突然、川谷が口を開いた。「わたしが着てもいいかな」
「どうなってんだよ。何なんだよあんたら」
男が興奮した面持ちで地面を蹴りあげた。
「わたしも連れてってくれ」川谷が訴える。「一人にしないでほしいんだ」
自分の父親ほどの男が、憔悴《しょうすい》しきった顔で立ち尽くしている。
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空が泣きだしていた。午前中は晴れていたくせに、低く垂れこめた雲はところどころがどす黒く、二階建てが並ぶ住宅街に蓋をするように覆いかぶさっている。野村和也は桟《さん》に肘をつき、その上に顎を乗せ、流れてゆく線路沿いの景色を見ていた。窓の外には色とりどりの瓦屋根が並び、そぼ降る雨に照かっている。太陽が姿を消したせいか、もう部屋の電気を灯している家もあった。
あの屋根の下には暮らしがあるのだな、と思った。子供がそろそろ学校から帰り、母親が夕食の献立を考えはじめる。家族との会話と、どこにでもある平穏な生活。自分にそういう日々は訪れるのだろうか。和也は空想するだけで惨めな気分になった。
四人掛けの対座シートの前には制服姿の小学生がいる。二人で一冊の漫画を読み耽っていた。隣にはめぐみがいて、固い表情のままうつむいている。和也が黙りこくっているため、声をかけられないのかもしれない。
視線を移すと、通路を挟んで斜め前には中年男が座っていた。確か車の中で川谷と名乗っていた。今朝買ったばかりの和也のジャンパーを着ている。いったい何者か見当もつかないが、今となってはとんだお荷物だ。
めぐみの姉はすぐうしろの座席にいた。金が入ったバッグはその女が持っている。駐輪場で取りあげられた。どうして言いなりになったのか自分でも不思議だった。
「バッグは私が持つからね。その方が怪しまれないから。さあ、一人ずつ、早く改札をくぐって。警官と目を合わせちゃだめよ」
急かされて子供のように従った。そうする以外に方法はないように思えたし、勢いにも圧《お》された。手ぶらで改札に向かうと、警官は見向きもしなかった。そのまま東海道線の下り列車に乗った。めぐみの姉は、御殿場に行けば誰もいない会社のバンガローがあると言っていた。
和也が椅子に足を乗せ、膝を立てた。小学生がちらりと見たがすぐに漫画に目を落とす。耳鳴りが徐々にボリュームを上げてきた。奥歯を噛みしめ、目を閉じ、そっと耐えた。
銀行強盗に成功したまではよかったが、あとに起こったことに関しては混乱するばかりだった。
めぐみが自分の姉の勤める銀行を襲わせた。そのショックが和也を打ちのめしている。肉親への屈折した感情は自分にも思いあたるが、過激なぶつけ方は、どこか女という生き物の心の闇をのぞいてしまった気がする。
めぐみの姉と会ってしまったことも心を乱した。この姉の前で、自分はめぐみを連れ去ることができるのだろうか。
いや、そもそもめぐみがついて来るかがわからない。めぐみはつい三十分ほど前、帰ると言い出した。すぐに取り消したが、それで水に流せるようなことでもない。焚きつけておいてそれはないだろう。もう誰も信じられないという気持ちが、胸の奥でくすぶっている。
銀行強盗を犯したことは完全に後悔していた。思い返すだけで、てのひらに汗が滲む。
やくざばかりでなく、警察にも追われている。この場を逃げおおせたとしても、安息を手に入れることはできない。事態は最悪だった。
これから自分はどうなるのか。和也はとっちらかった頭で考えた。少なくとも、めぐみの姉と中年男とが敵ではないことは判断できた。めぐみの姉は、妹の犯行を隠したい一心で人質になったのだし、川谷という中年に至っては立派な共犯者なのだ。
誰もが弱みを持っている。それが唯一の救いのように思える。
たぶん、自分は適当なところでこの奇妙な集団から別れるのだろう。一人か二人か。一人になるような予感がするが、もはやどうだっていい。めぐみがいたところで、耳鳴りがあるかぎり安息は得られないのだ。
とりあえずは金を取り返そうと和也は考えた。ラジオでは「五百万」と言っていた。それだけあればどこにでも行けるし、当分は身を隠せる。
ふと中年男が大金の入った封筒を抱えていることが思い浮かんだ。どんな類《たぐ》いの金かは知らないが、いざとなったらあの金もいただこう。
御殿場に行って、少し落ち着いたら、自分は西へ逃げるのだ。
「ケン」めぐみが耳元でささやいた。「起きてる?」
当たり前だと心の中でつぶやいた。
「さっき、ごめんね。わたし、どうかしてたから」
どうやら駐輪場で帰ると言いだしたことの謝罪らしかった。
「なんか、急に怖くなって……。でも、もう大丈夫だから」
「ああ、いいよ」
そう返事しながらも、釈然とはしなかった。めぐみの行動は、すべてにおいて衝動的なところがある。
めぐみもきっと後悔しているのだろう。十七歳の銀行強盗なのだから。
やくざに犯され、人を刺す現場を目《ま》のあたりにし、もう帰りたいと思っても少しも不思議はない。考えてみれば、めぐみにも大いに同情はできた。
それぞれの罪を乗せて、電車は西へと進んでいる。
御殿場の駅に降り立つと、雨脚は本格的になっていて、すぐそばにあるはずの富士山は輪郭さえも見えなかった。和也がTシャツから出た腕をさする。高原だけあって寒気《さむけ》がした。
めぐみの姉が沈んだ顔で空を見上げている。川谷は無表情だった。
とりあえず警察の追跡はかわしたものの、今後のこととなると、めぐみの姉も考えていないようだった。
「どうすんだよ」
和也が振り向く。姉は金の入ったバッグを大事そうに抱えていた。
「バスが出てると思うんだけど」
電車に揺られているうちに興奮から覚めたのか、さらに落ちこんだのか、その声に覇気はなかった。
「そのバンガローとかの近くにバス停があるのかよ」
「……じゃあ、タクシーで」
「あのなあ」声を潜めた。「警察が探してるのは神奈川県内だけじゃないんだぜ。たぶんここいらだって警察署に連絡ぐらいは行っているさ。そうなりゃあタクシーだって危ないさ」
苛つきながら、思わず周囲を見渡した。警察が必死の捜査を続けていることは容易に想像がついた。何しろ人質がいるのだ。和也があらためて息を呑む。
「じゃあ、どうしよう……」
「そもそも会社のバンガローとやらへ行ってどうすんだよ。あんたまで逃げてどうするんだよ」
「…………」姉が言葉を探している。
「……あんた、やっぱりここで帰ってくれないか。警察は人質がいると思ってんだ。これがいちばんやばいんだよ。人質が戻れば、警察だってひと息ついて捜査も緩むさ」
「だめよ」
「どうして」
「だって、めぐみはどうなるのよ」
「じゃあ返してやるよ」するりと出た言葉だった。
自分でも不思議な気がした。やくざを刺してまで助けようとした女なのに。
「何よ、ケン」めぐみが顔を強張らせる。「さっきのこと、まだ怒ってるの」
「そうじゃねえ。お前はやっぱり家に帰った方がいいんだ。おれなんかと一緒にいてもいいことなんかあるはずがねえ」
本心なのかどうかわからなかった。ただ、この言い方なら大義名分が立つような気もした。
「やだよ」
「じゃあついてくるのか。どこへ行ってもやばい橋を渡ることになるんだぞ」
「それでもいい」
「よかねえ。お前は引っこみがつかなくなってそう言ってるだけだ」
「そんなことない」
めぐみがムキになって抗弁する。ただしその言葉に力はなかった。めぐみだって助かるものなら助かりたいにちがいない。
昨日までの熱い想いはどこへ行ったのだろう。なんだかすべてが急速に冷めていく感じがした。ひょんなことからたどり着いた御殿場の気候のように。
「ねえ」姉が口をはさんだ。「あなた、めぐみのことは黙っててくれる」
「ああ、いいよ。でも金はおれにくれよ」
「もし捕まっても、一人でかぶってくれる」
「ああ。だから金は――」
「約束できる?」
「約束するさ。そっちこそ、おれのこと、ペラペラしゃべらねえでくれよ」
めぐみの姉がバッグを肩から下ろし、和也に差し出した。
「ああ、でもだめだ」
伸びた手が途中で止まる。再びバッグを胸に抱えた。
「何だよ」和也が焦れる。強引に奪うにも人目があった。
「あの人がいるから」
視線の先には川谷という中年男がいた。少し離れた所で、男は静かな目で駅前の風景を眺めている。
「あのオッサンがどうかしたのか」
「わたしたちが姉妹だということを知ってるから」
男は、和也のジャンパーから取り出したたばこをくわえていた。その煙が、ゆらゆらと立ちのぼってゆく。
「……だいたいあのオッサン、何者なんだよ」
「客なのよ。川谷さんっていう。客だから名前も住所もわかってるし、あの人は逃げきれないのよ。そうしたら、わたしたちのことも」
「客? 客がなんであんなことをしたんだよ」
「知らないわよ」
「埋めるか」
男の持つ封筒に目がいった。めぐみの姉は、何のことだかわからないといった様子で和也をのぞきこむ。
「殺《や》っちまって、どこかに埋めるか」
冗談なのか本気なのか、自分でもわからなかった。
「何言ってるの」さっと顔色が変わった。「そんなことできるわけないでしょう」
「じゃあどうするんだ」
「どうするって……あの人にも頼んでみるわよ」
「あのオッサン、まともじゃねえんだぞ。話なんか通じるもんか」
そのとき視界の端で影が動いた。振り返ると、川谷がすぐうしろまで来ていた。
「あのう……」意外にもはっきりした声で言った。「わたしがレンタカー、借りてこようか」
川谷が顎をしゃくる。駅前通りの一角にレンタカーの看板があった。
「あんた、何言ってんだよ」和也が眉間に皺を寄せる。
「お嬢さんの言ってるバンガローっていうのは、もっと遠くにあるんだろ。だから」
「そんなことしたら警察に足がつくに決まってんじゃねえか」
「こんなところまで手は回っていないさ」
「川谷さん」めぐみの姉が割って入った。「お願いがあるんですけど」
「何かな」
「この子」めぐみを差した。「ここで帰したいんですが、あの、その……」
「お姉ちゃん、勝手に決めないでよ」めぐみが唸るように姉の言葉を遮った。「誰が帰るって言ったのよ」
「めぐみちゃん」姉が声を詰まらせる。
「まあまあ。こんなところで姉妹喧嘩もないだろう。……実を言うと、昨日から一睡もしていなくてね、悪いがそのバンガローとやらで少し休みたいんだ。藤崎さんだったよね、わたしが車を借りてくるから、そこへ案内してくれないか」
川谷はそう言い残すと、雨の中を急ぐでもなく、濡れるままに歩いていく。どこか開き直りのようなものが感じられた。それとも本当にくるっているのだろうか。
和也は川谷のうしろ姿を見ながら思った。車があるのは悪いことではない。ほかの連中がどうするかは知らないが、自分の方針は逃げることで決まっているのだ。
手持ちぶさたのまま三人で待った。会話はなかった。
十五分ほどして川谷はありふれたセダンに乗って駅前に現れた。
助手席に乗りこむとコンビニの袋があり、飲物と食料が入っていた。何を考えているのやら。川谷の静けさは不気味でもあった。
何度も道に迷ってバンガローにたどり着いた。米軍ハウスを想わせる木造の平屋建ては、広大な原っぱを囲む森の中に五つほど点在しており、そのうちのひとつに川谷は車を寄せた。
少し離れた丘の上にはコンクリート造りの建物があるが、木々に遮られて直接見ることはできない。めぐみの姉がしきりに気にしていたので、おそらくバンガローを管理している所だろう。雨脚が強くなってきたのも好都合だった。多少の音は雨に掻《か》き消され、外を出歩く者もいない。
鍵がかかっていたので和也が窓を割って中に入り、内側から開けた。玄関横のブレーカーを背伸びして上げると室内の電気が灯り、ちょうど目の前にあった鏡に自分の顔が映った。思わず目を背けていた。
バンガローの中は、板の間のダイニング・キッチンと、奥に八畳の和室があった。まだ新しい畳が薫っている。
「いい部屋じゃん」みんなが黙っているので和也が空元気《からげんき》をだして言った。「冷蔵庫もあるし、食器もテーブルもあるし。ないのはテレビだけだな」
テレビはなくてよかったと思った。きっと大きなニュースになっているはずだ。自分たちのしでかしたことを直視したくはない。
めぐみの姉が押し入れを開ける。
「川谷さん、ここに布団があるから。よかったら」
川谷はその言葉に従い、自分で布団を出すと、和室ではなくダイニングのほうに敷いた。
「悪いけど、少し横にならせてもらうよ」
ジャンパーを脱いで布団にもぐりこむ。金の入った封筒は抱えたままだった。
「オッサン」和也が声をかける。「ジャンパーは返してくれよ」
紺色のジャンパーを取り返した。ポケットのたばこを手にする。すっかり忘れていたが、中には携帯電話とバタフライナイフも入っていた。
川谷が買ってきたコンビニの袋をのぞくと、たくさんの缶入り飲料とパンが見えた。ウーロン茶を拾いあげて喉を湿らせた。
「あんたらも飲みなよ」
めぐみと姉が同じようにウーロン茶を選んだ。
「さてと」畳の上に足を投げだした。「これからどうするかだな」
とりあえず逃げきった安堵からか、多少は気持ちが落ち着いてきた。久し振りにたばこに火を点けた。深く吸いこむと、全身の血管に染みていくような快感があった。
「わたしは」めぐみの姉がつぶやいた。「さっきも言ったとおり、めぐみが帰ってくれて、わたしたちのことを黙っていてくれたらそれでいいけど」
「めぐみは?」
「わたし、帰らない」不貞くされて言った。
姉は言葉を返さない。口論するにも疲れきっているといった様子だった。
早くも会話が途切れた。めぐみについては、和也自身もどうするべきか判断がつかない。一人に戻るのは辛いことだが、こうなったら連れては行けないなという思いもあった。
「あなたは」姉が溜息混じりに口を開いた。「どうしたいんですか」
「……金だな。こんな目に遭ったんだ。金がなきゃやってらんねえよ。そのバッグの金はもらっていくぜ。それでどこか遠くへ逃げるさ」
飲み干したウーロン茶の缶にたばこを放り入れる。ジュッと音がした。
「めぐみは、いったん帰りな。やっぱりそうした方がいい」
めぐみが不満そうに下を向いている。和也はポーズだと思った。内心はほっとしているような気がした。
「まだ警察はおれたちが何者か知らねえはずだ。銀行の防犯ビデオに映ってるかもしれないけど、帽子とサングラスをしてるから、身元までは割れっこないだろう。今なら引き返せるさ。仮におれが捕まっても黙っててやるし。……たまたま知り合った家出娘で、銀行を襲ったあと怖くなって逃げ出したとでもトボけてやるし、それがいちばんいいんじゃねえのか」
姉は黙って考えごとをしている。おそらく和也の捏案に異論はないだろう。どうせ金は銀行の金だし、自分の腹が痛むわけではない。
「決まりだな。だったら早く別れた方がいい」
「ちょっと待って」姉が遮る。
「何だよ。あんた人質ってことになってんだぜ。時間が経てば経つほど騒ぎは大きくなっていくだろう」
「だって」
「だって何だよ」
「頭がまだこんがらがっているから」
姉が不安そうな目で横を見ている。その視線の先に、布団をかぶった川谷がいる。
そうだった。やはりこの男が邪魔なのだ。三人だけなら問題は解決する。和也が金を持って逃げ、めぐみが家に帰り、姉が警察に保護を求める。それですむのだ。三人でしらばっくれていればいいのだ。
川谷が事態をややこしくしている。すでに身元が割れた川谷は、逃げるのも難しいし、捕まれば言い逃れも苦しい。まさか三人の秘密を胸にしまっておいてくれるほどお人よしでもないだろう。何の得にもならない。
一人だけ余分なのだ。
「あのオッサンなら、おれが何とかしてやるよ」
和也が小声でつぶやく。再び札束が目に浮かんだ。川谷が胸に抱えた封筒の中の札束。
「何とかって?」
「黙っててくれって頼んでやるさ」
確か富士山の裏側には樹海があったはずだ。テレビで見たことがある。自殺の名所でなかなか発見されることはない。
自分に人が殺せるだろうかと思った。やくざを刺したのは咄嗟の行動だが、寝ている人間を殺すのは、決心が必要だ。
「わたしも頼んでみる」
「いいよ。おれがやってやる。とにかくあんたらは早く帰ってくれ。駅まで乗せていってやるよ。すぐに警察に行かれると困るから、時間を決めておこう。五時でどうだ。犯人に銃を突きつけられて、あちこち引っぱりまわされてたって……。ああ、もう銃はないのか。もっと何かちゃんと口裏を合わせねえとな……」
姉が思い詰めた表情で川谷を見ている。
「何も御殿場で警察に駆けこむことはないか。横浜あたりまで戻ってそこで保護を求めてもいい」和也がまくしたてる。饒舌《じょうぜつ》な自分が不思議だった。「そうだな……、車を乗り捨てた地点に、逃走用の車がもう一台あったことにしよう。オッサンとはそこではぐれた。それに乗せられて市内をぐるぐる走り回っているうちに、もう一人の女が帰りたいと言いだして、犯人同士が喧嘩になった。女は車から降りてどこかへ行ってしまい、途方に暮れた犯人は、人質を捨てて一人で逃げた」
「あの人、御殿場でレンタカー借りてるでしょ。それはどうやって言い訳するのよ」
「別におれたちゃ見られたわけじゃねえ。オッサンが一人で借りてるんだ」
言いながら好都合だと思った。強盗に加担し、悲観した中年男がレンタカーを借り、富士の樹海で自殺する。筋書としては悪くない。
めぐみの姉は、どこかうわの空で考え事をしている。
しばらくして和也の方を向いた。
「あの人、どうするつもりなのかしら」
「おれに聞いたってわかるもんか」
ふと、この女も自分と同じことを考えているのではないかと思った。
川谷がいなくなれば、女は警察にいくらでも言い逃れができる。
姉は唇を噛んでいる。何か逡巡《しゅんじゅん》しているようにも見えた。部屋の中には重い沈黙が流れている。
和也がジーンズのベルトを抜いた。はっとして姉が顔を上げる。ほとんど血の気の失《う》せた顔だった。
和也が立ち上がってダイニングに歩を進める。弾《はじ》かれたように姉もあとに続いた。
板の間で川谷を見下ろした。微かな寝息が聞こえた。すぐうしろに姉がいる。
耳鳴りが一瞬にして激しくなったが、動悸が早くなることはなかった。踏みつけないように布団をまたいだ。
「あんたは足を押さえててくれ」
背中の姉にそう言い、ベルトの両端を持ち、腰を屈めた。
「ちょっと」めぐみの声だった。「嘘でしょ」
「ねえ、ちょっと!」
次に聞こえたときは悲鳴に近かった。
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川谷信次郎は、深い闇にくるまれていた。その闇はまるで泥のような重力があり、全身を静かに包んでいる。ほのかな熱が肌を伝って体の中にまで染みてくる。
信次郎が逃げこんだ暗闇には摩訶不思議《まかふしぎ》な安らぎがあった。それは、救済の慰めだった。外が嵐ならば出て行かなければいい。鬼がいるなら隠れていればいい。立ち向かう必要などどこにもないではないか。そんなやさしい声がどこからともなく聞こえた。
一生こうしていたい。誰もいないところで、小さくなって、丸くなって。いっそのこと時間が永遠に止まってくれたらどれほどいいだろう。いや、それより時間にさかのぼってほしい。まるで心配事がなかった幼い日々へと。母の腕の中、父の膝の上。子供のように守られていたい。
信次郎は母の口癖を思いだした。文具屋に嫁いだ母は、自営業の不安定さがいやで、父のいないところでよく信次郎に言っていた。公務員がいいよ、恩給があるから。だから信次郎は小さな頃からオンキューという言葉を知っていた。それはテレビ・ヒーローのような頼もしい存在のように思えた。困ったときに現れて、みんなを救ってくれるような――。
小さな覚醒があった。
泥の底からふわりと浮かんだ感じがあり、瞼《まぶた》の裏が赤く染まる。
喉に微かな違和感が走り、何かが流れを止めた。呼吸が苦しい。
これは過呼吸だと、ぼんやりとした意識の中で思った。ここ数日、信次郎をいたぶってきた、理由のない責め苦。
口と鼻を押さえなくては。そうやって空気が過剰に入るのを防ぐのだ。
ところが無意識に動かした手は、顔ではなく首に伸びていった。
指先が何かに触れて信次郎は体を固くする。いっきに緊張が走った。
目を開く。光が飛びこんでくるかと思えば、映る景色は薄暗く濁っていた。靄《もや》がかかったようなスクリーンの向こうには男の影があった。
何が起こっているのか。遠くで女の悲鳴が聞こえた。
信次郎は首に巻きついた何かをつかもうとする。なのに指先は喉を掻きむしるだけだ。体を捩ると、胸から下は縛りつけられたように自由がきかない。
渾身《こんしん》の力をこめて跳ねた。またしても女の叫び声がした。
呼吸ができない。顔が熱くなった。本当に、何が起こっているのか。
そのとき体にのしかかっていた影が消えた。大きな物音がして空間全体が揺れた気がした。
信次郎は体を丸めた。呼吸がよみがえる。目に飛びこむ光がいきなり照度を上げた。途端に嘔吐感が襲ってきて、口を思いきり開けた。同時に涙があふれ出てきた。
自分は布団の上にいた。左手がシーツを力任せにつかんでいる。咳が止まらなかった。盛大にむせかえり、懸命に胸をさすっている。
錯乱しながらも、はっきりとした苦しさのおかげで信次郎は完全に覚醒することができた。自分がいったいどうなっているのか考えようと試みた。
女が泣いていた。声を上げて泣き叫んでいる。誰の声だ。視線をさまよわせる。
強盗の片割れの女がすぐ隣でふせっていた。
「やめてよ、もう!」叫び声が耳に響いた。
もう一人の女、女子行員は、自分の足元で、恐怖に引きつった顔で尻餅をついている。
手を首に運ぶ。そこにはベルトがかかっていた。
はっとして見上げる。部屋の隅では、男が肩で息をしながら立ち尽くしていた。蒼白の面持ちだった。
自分は殺されかけたのだと、やっとのことで結論を導いた。
「どうしたのよ。ケンもお姉ちゃんも。なんでこんなことしなきゃなんないのよ」
女は髪を振り乱して泣きじゃくっている。
布団からはみ出した封筒が目に入った。慌てて引き寄せた。
今度は女子行員が泣き出した。何かに憑《つ》かれたように中空を見つめ、ポロポロと涙をこぼしている。
再び吐き気がした。胃の中など何もないはずなのに。
信次郎はよろけながら台所へ行くと、流しのへりに手をついておくびを吐き続けた。胃液らしきものが唾とともに糸を引いている。
蛇口のコックを捻って水を顔に浴びせた。濡れた唇をなめ、呼吸を整えた。
「殺そうとしたな」
やっと発した声は、二日酔の翌朝のように嗄《か》れていた。その声が合図のように、胸の中で激情が膨らんでゆく。
「おれを殺して金を取ろうとしたな」
男を正面から見据えた。背の高い男が壁にもたれ、目を伏せている。
信次郎は歩み出ると、男を殴りつけた。
男は簡単に膝を折り、その場に崩れ落ちる。気が収まらなくて馬乗りになった。
「きさま……」声にならなかった。何度も拳をふるった。男は無抵抗だった。
振りあげた腕にうしろから誰かが抱きつく。片割れの女が「ごめんなさい、ごめんなさい」とわめいていた。
男から引きはがされる形で、信次郎は背中から転がった。
体を起こすと、床に手をついて、荒い息を吐いた。
もう力が湧いてこなかった。全身ががたがたと震えていた。
男は壁の隅に横たわり、女は手で顔を覆っている。女子行員は呆然自失の体で、ひたすら嗚咽《おえつ》を漏らしていた。
目が覚めてみれば、やはりここは地獄だった。
時間は止まってはくれなかった。信次郎は深い絶望を味わっている。
四人が興奮を鎮《しず》めるのに、一時間近くかかった。
もっともそれで正気に戻ったのかどうかは、この場にいる誰もわからなかった。
信次郎自身も、胸の奥ではいまだに何かがうごめいている。それは、無数の小さな磁石が並び方を間違えて反発しあい、いつまでも整列できないでいる感じだった。
ひたすら泣いていた女子行員は、今は青白い顔で黙りこくっている。信次郎が「あんたもわたしを殺そうとしたのか」と聞くと、一度はうなずき、すぐさま慌ててかぶりを振った。完全に自分を見失っている様子だった。
その妹だという女は、どうやら止めに入ってくれたらしいのだが、ショックのためか口もきけない状態だった。「君が止めてくれたのか」と聞いても、何の反応も示さなかった。
首を絞めようとした男もうろたえていた。それは、殺人という行為の重さを思い知らされたような動揺ぶりだった。銀行を襲ったときの威勢のよさはどこにもなかった。よく見れば自分の息子と同じくらいの年格好に、信次郎はやりきれない思いを抱いた。
ここには、まともな人間は一人としていなかった。
御殿場に来るまで、漠然とではあるが、信次郎の頭の中にはふたつの身の処し方があった。
死と蒸発だった。
自首することは考えていなかった。
罪を問われるのを恐れているのではない。もはや誰にも合わせる顔がないと思ったからだ。信次郎にとっていちばん辛いのは、鉄工所へ帰ることだった。そこには金の工面がつかないタレパンがあり、加工すべき部品の山があり、騒音を非難する立看板がある。弁護士からは慰謝料を要求されている。そして家族は途方に暮れている。
自分はすべてを放り投げてしまった。
おまけに犯罪者になった。取り返しなどつくはずもない。
こうして人は家族を捨てるのかと思った。
信次郎はらくになりたかった。それが死なら、それでもいい気がした。
興奮が覚めてみれば、それぞれが惨めだった。これからどうしていいのか、誰もわからなかった。
沈黙がすっかりなじんでいた。部屋の空気は重く沈んでいた。
「もう一回やるか」信次郎がぽつりと言った。
男が軽く顔を上げる。
「もう一回、わたしの首を絞めてみるか」
さっと目を伏せ、小さく喉を鳴らした。
「もっとも殺されて金を取られるのはかなわないけどな。たとえば、今わたしが持っている金を銀行の口座に振り込んでからなら、殺してくれてもいいぞ。確か、自殺と殺人とじゃ生命保険の下り方もちがってたようだし」
半分以上、本心だった。もしも男が乗ってくるなら、悪くないアイデアのように思えた。生きて行く道を考える方が、信次郎には気が滅入《めい》る。
男は口を開こうとはしない。先程の行為を責められているととったようだった。
「でも、やっぱり首を絞められるというのもな……」
溜息が出た。死ぬのも生きるのも、全部いやだった。
また沈黙が流れる。雨の音だけが部屋の中で響いている。
くしゃみをひとつした。肌寒かった。ジャンパーを男に返したので信次郎はランニング姿だった。
女子行員がバッグから作業着を取り出し、信次郎に渡した。そういえば、自分はどこかで脱ぎ捨てたのだと思いだした。拾って持っていてくれたのか。
「川谷さんは」女子行員がかぼそい声を発した。「これからどうするつもりなんですか」
信次郎が女子行員を見る。多少は落ち着いてはきたが、崩れそうな自分に必死に耐えているといった風情《ふぜい》だった。
「君らこそどうするんだ」
「妹は、帰します。もうわかってると思いますけど、わたしたち、姉妹なんです」
ここへきて信次郎は、女子行員が追いかけてきたわけを理解した。妹が、自分の姉の勤める銀行を襲ったのか――。初めて頭が回った感じだった。
「この人は」男を目で差した。「お金を持って逃げます。たとえ捕まっても、わたしたちのことは黙っていてくれる約束です。だから川谷さんも……」
信次郎の中で、ゆっくりと思考が巡っていった。
「秘密を守りたくて、わたしを殺そうとしたわけか」
「あれは……どうかしてたんです。それで許してもらえるとは思ってませんが」
「信じてはくれねえだろうけど」今度は男が低くつぶやいた。「オッサンが目を開けた瞬間、おれはやめたんだ。できねえと思ったんだ」
「嘘をつけ」一瞬、血が昇りかけた。
「嘘じゃねえよ」
男は唇を噛みしめて下を向いている。
「川谷さんも、わたしたちのこと、黙っていてもらえませんか。妹は、素性《すじょう》も知らない家出娘で、怖くなって途中で逃げたということにしたいんです。それでわたしは警察に保護を求めます」
何を虫のいいことを。
自分たちだけ助かろうというのか。こっちは死ぬか蒸発しかないのに。
信次郎は不公平だと思った。すぐに返事はしたくなかった。
遠くで雷鳴がした。暗くなった外では、雨がますます激しくなっている。
腕時計を見た。午後八時を回っていた。
いったいこの事件はどのようになっているのかと、信次郎は考えた。
確か、車の中で聞いたラジオは「犯人は三人組」と言っていた。しかしあれは事件直後だった。情報が錯綜《さくそう》していた可能性が高い。銀行から事情聴取すれば、信次郎が我を失った客であることはすぐにわかるはずだ。
ひと筋の光明が射した気がした。
もっとも強盗の幇助《ほうじょ》を働いた事実は消えるものではない。さらに素性が割れている以上、自宅には間違いなく連絡がいっている。
だめだ。やはり帰れない。
また奈落の底に突き落とされる。
「あのう……」長い沈黙を経て女子行員が口を開いた。「本当にお願いできませんか。さっきのこと」
信次郎はまだ答えない。簡単に承諾したくはなかった。
たぶんこの女子行員は、信次郎が自首するかもしれないと恐れているのだろう。
誰が自首などするものか。仮に刑が軽かったとしても、釈放されたあとのことの方が辛いのだ。
しかしそれを漏らすと、この件は信次郎の一人損となる。男は金を手にして逃げ、女は元の鞘《さや》に収まり、女子行員はあくまでも被害者でいるのだ。どうにも納得がいかない。
「どうしたら、聞いてもらえますか」
女子行員が小さい声で言った。
「とりあえず、その金は、わたしがもらおうか」
これくらいは当然だと思った。
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藤崎みどりは、自分がどんどん深みにはまっていくのがわかった。
思い返してみても……。車を乗り捨てた時点で追いかけなければ、まだ被害者でいられた。彼らが逃げきればそれでよし。摘まったとしても、妹を自首させたくて人質になったと言えばいい。
妹が帰ると言い出したときに男たちと別れてもよかった。男にたぶらかされ、犯罪の片棒を担がされた妹を取り返したくて追いかけたことにすれば、まだ同情は得られたのだ。
なのに、自ら率先して御殿場まで来てしまった。この言い訳は立ちようがない。もはや脅されてついて来たとは言えない距離だ。
そもそも人質になどならなければよかった。
たぶん、世間は大騒ぎだろう。銀行強盗が人質を連れ回し、はや数時間が過ぎているのだ。時間が経てば経つほど、出て行きにくくなる。
母の顔が浮かんだ。娘が人質になっていると思い、激しく狼狽しているにちがいない。早く電話だけでもしなければ。胸がきりきりと痛んだ。
妹の犯罪を隠したくて、自分は次から次へと嘘の上塗りをしていく。
ひとつの過《あやま》ちを隠匿《いんとく》するために、ふたつ目の過ちを犯す。今となってはひとつ目でやめておけばよかったと悔やむばかりだった。
おまけに自分は人殺しの手助けをしようとした。
夢遊病者のように、現実味のないまま、みどりは川谷の足を押さえた。暴れられた瞬間、我に返って飛びあがったが、あのときの衝撃はまだ頭の中を支配している。妹が男を突き飛ばして結局は未遂で済んだものの、行為に向かったという事実だけで恐怖の虜《とりこ》になっている。
もしかすると人を殺したかもしれない。それを思うと体が震え、じっとしているのさえ苦しくなる。
どうすればいいのかわからない。誰か助けてほしかった。
唯一の方法と思えるのは、川谷がすべてを黙っていてくれることだった。
興奮が覚めてからはずっと頼みこんでいる。虫のよい頼みだとわかっているが、それしか道はない。
川谷は何を考えているのか、なかなか返事をしようとはしない。もっとも殺されかけたのだから、納得がいくはずもないのだろう。
殺風景な和室で、中央にテーブルを置いて四人の男女がいる。めぐみは部屋の隅で横になっている。泣き疲れてしまったようだ。外は激しい雨が降っている。
長い沈黙があった。川谷はひとつ咳ばらいし、顎をしゃくると、「とりあえず、その金をもらおうか」と言い出した。
金の入ったバッグはみどりの横に転がっていた。みどりがバッグに目をやる。真っ先に口を開いたのは、めぐみがケンと呼ぶ男だった。
「冗談じゃねえよ。オッサン、何言ってんだ」
「確か五百万だとかラジオで言ってたな。それをわたしがもらおうか。そうすれば君らのことは誰にもしゃべらない。それでどうだ」
「ふざけるなよ」
「もともとはわたしが詰めた金だ。君らだけなら手にすることは出来なかったはずだろう。だから」
「オッサン。誰のおかげで逃げられたんだよ。勝手について来たくせしやがって」
みどりは唖然として川谷を見ていた。
「わたしがいなけりゃ、君らはとっくに捕まっている」
「何言ってやがんだ」
「おまけにわたしを殺そうとした。ただで黙ってろとはずうずうしすぎるだろう」
「だから、あれは……」男は言葉が続かない。
「立派な殺人未遂だ」
「あんた、威《おど》す気かよ」
二人の男が言い争っている。川谷が金を要求したのは意外だったが、みどりは心のどこかで救われたと思った。
少なくとも、川谷は正直すぎる男ではない。逃走中はただの錯乱した中年だった。正気に返れば、犯罪者としての自分に耐えられるような人間には見えなかった。しかし今、川谷は取引をしようとしている。
「半分だったらどうですか」
みどりが身を乗りだした。川谷の要求に異存はなかった。
「何だよ、あんたまで」男がいきり立つ。
「全部だと、この人、逃げられないんです」
みどりは右手でバッグを起こすと背中に回した。
「ふざけるなよ」
「半分だって二百五十万じゃない。充分でしょう」
「なんであんたが決めるんだよ」
「でも、そうしないと」
「あんたにゃ関係ねえだろう」男がバッグに手を伸ばそうと腰を浮かせた。
みどりが前に立ち塞がる。
「お願いだから」手で押し返してなだめようとした。「気を鎮めて、話し合いましょう」
「何が話し合いだ。おれがいちばん苦労してんだよ。おまけにもし捕まってみろ。おれは絶対にただではすまねえんだぞ」
「まあ待てよ」川谷が男を手で制した。「わたしは半分でいいとは言ってない」
「何だと」
「全部だ。全部もらう」
「この野郎」
男がテーブルに手をつく。卓が揺れ、ジュース缶が倒れてころころと転がった。
「この中じゃわたしがいちばん分《ぶ》が悪い。名前も顔も警察に知れてるし、歳も歳だ」
「分《ぶ》が悪いって何のことだよ」
「不公平だと言ってるんだよ」
静かな口調だった。川谷は座ったまま後ずさりすると壁に背中をもたれさせる。手で首のうしろを揉んで足を投げだした。
「あんた、藤崎さんとか言ったね、あんたは解放された人質として帰るつもりなんだろう。じゃあ何の問題もない」
みどりが視線を落とす。何を言おうとしているのかはよくわからなかった。
「妹さんの方は、途中で逃げたことにして家に帰る。これはちょっと虫がよすぎるよな。でも、まあいい。わたしが殺されそうになったのを、助けてくれたし」
めぐみは相変わらず畳の上で横たわったままだ。
「そして君だ。君はどっちみち逃げるしかない人間だ。よくは知らんが、たぶん失うものなどない。そうだろう? つまり捕まらないだけでももうけもののようなところもある。それに若い。やり直しもきく」
「きかねえよ」男が色をなした。「何を勝手なこと言ってやがる」
「でも、何をしたって生きていけるだろう。わたしはそうはいかん。失うものが多すぎる」
「何のことだよ」
「わたしは鉄工所を経営している。小さな町工場だ。十八年間やってきた。まずそれを失う。こんなことをしでかして取引先が仕事を出すわけがない。もう終わりなんだ」
川谷が片方の膝を立て、腕で抱えた。
「この歳で信用をなくして、これからどうやって生きていくんだ。本当のことを言えばな、さっき首を絞められたとき咄嗟に抵抗したけど、あとになってみりゃあ死んでもよかったかなって半分くらい思ってるんだ。家族も捨てなきゃならんしな」
みどりは驚いて川谷を見た。この男はこれからも逃げるつもりでいるのだ。
「大学生の息子と高校生の娘がいる。ちょうど君と、そこで寝ているお嬢さんくらいの年頃だ。もう顔は合わせられん。要するに、この中じゃわたしがいちばん不幸だってことだ。金ぐらいもらわんとな」
「オッサン、金なら持ってるじゃねえか。その封筒に入ってるのは結構な大金じゃねえか」
「これはだめだ。どこかで銀行口座に振り込んで家族に渡す。せめてもの罪滅ぼしだ。逃げるには別の金がいる」
「何なんだよ、いったい。よくわかんねえな。オッサン、別に逃げなくたっていいじゃねえか」
「じゃあどうしろっていうんだ」
「だって、銀行を襲ったのはおれたちで、あんたは手助けをしただけじゃねえか。たいした罪にはなんねえだろう」
「手助けでも、それだけで充分だ」
「家族まで捨てるようなことじゃねえだろう」
「君にはわからんよ。仮に自首して情状酌量《じょうじょうしゃくりょう》の余地をもらったところでな、帰る場所はあまりに辛すぎるんだ」
「でも帰る場所があるんだろ。だったら結構なことじゃねえか。家族がいるんだろ。しあわせなもんじゃねえか」鼻息が荒くなる。男は苛立っていた。「何がこの中じゃいちばん不幸だよ。ふざけるなよ。こっちなんかなあ、やくざに脅されて、そのやくざの兄貴分っていうのを刺しちまって、それで逃げ回ってんだよ。おまけに親父はアル中でお袋は行方知れずで、逃げるにしてもどこへ行っていいのかわかんねえんだよ。誰が見てもおれがいちばん不幸だろうが」
「君にわたしのことはわからん。コツコツと築いてきたものが、一瞬にして崩れてしまったんだ。もうやり直そうって気にはなれん」
「冗談じゃねえ。そんなの同情できるか。同情してもらいたいのはこっちだよ」
みどりは意外なことの運びに戸惑っていた。川谷は自首するつもりはなさそうだ。それはありがたかった。しかし、身元がばれているのに逃げきれるのだろうか。簡単なこととは思えない。
「とにかく、その金をくれ」川谷が座り直した。「わたしは車に乗ってどこかへ消える。もっともレンタカーだから適当なところで捨てなきゃならんがな」
「だめだね。そんなまね絶対にさせるかよ。だいいちオッサン、頭冷やした方がいいんじゃねえのか。蒸発するようなことかよ。家族はどうなるんだよ」
「君からそんな台詞が出るとは思わなかったな」
「おれは捨てられた口なんだよ。さっきも言ったろう。親父は家にも寄りつかず、お袋は男を作ってドロンさ」
「一緒にしないでくれ。わたしはやるだけのことはやったんだ」
川谷はテーブルのたばこに手を伸ばすと、それに火を点けた。ゆらゆらと立ちのぼる煙を見ている。もはや逃げているときの焦点の定まらない目ではなかった。乾いてはいるが意志を持った目だった。
みどりが腕時計を見る。もう九時だった。騒ぎはどんどん大きくなっているだろう。母はきっと娘の安否を気にかけているにちがいない。
「あのう」男に声をかけた。「携帯、貸してくれませんか」
「どうするんだよ」
「家に電話したいから」
「ふざけるな。そんなことさせるかよ」
「大丈夫よ。居場所は言わないから。めぐみのことも。わたしのことだけ。母親に心配しないでって、それだけ言いたいの」
「信用できるかよ」
「警察に連絡するくらいならとっくに逃げてるわよ。いい? わたしだってあなたたちに捕まってもらったら困るのよ」
男が言葉に詰まる。忌ま忌ましそうにみどりを見ている。
「わたしのを使いなさい」川谷が作業着から携帯電話を取り出した。「ただし終わったらすぐに電源を切ってくれ。誰かからかかってきたらかなわん」
みどりが礼を言って受け取る。川谷が「でも電波はとどくのか」と聞き、みどりは「近くに中継アンテナがあるから」と答えた。保養施設の屋根に、そのアンテナは設置されている。
みどりはダイニングへ移動して、そこから自宅へ電話を入れた。
やはり家には警察と銀行から連絡がいっていた。母は電話口で絶句し、無事なのか、今どこにいるのかと涙声でまくしたてた。
みどりは、自分はまったく無事なこと、犯人との約束で居場所は教えられないことを伝え、頼みこんでこの電話をかけていることを話した。犯人は少しも乱暴そうな人じゃないから、女の人もいるし、と少しでも母を安心させようとした。
あまりに母がうろたえているので、明日の朝、また連絡すると約束した。
そう告げながら、今夜はもう帰れないなとみどりは思う。
切ると、心が痛んだ。
和室に戻る。たぶん聞き耳を立てていたのだろう、男が「乱暴そうな人じゃない、か」と皮肉っぽく口を歪めた。
そのあと、部屋はまた沈黙に支配された。
テーブルの上には食料があった。川谷が買ってきたものだ。コンビニのお握りやサンドウィッチがあるが誰も手を伸ばそうとはしない。みどりも食欲はなかった。ただ、喉だけはやけに渇くので、缶飲料を頻繁《ひんぱん》に開けた。
めぐみは寝入ってしまったようだ。毛布をかけてやった。その寝顔を見ていたら、妹の人生を想った。きっと姉の知らないところで泣いたり苦しんだりしてるのだろう。もっともそれは自分とて同じことだ。
「眠りたくても」川谷が口を開いた。「わたしは眠れんな」
みどりが顔を上げる。
「また首なんか絞められたらかなわんしな」
「もうしねえよ」男がつぶやく。「あのことは言わないでくれよ。おれだって思いだしたくねえんだ」
「ふふ。どっちにしろ眠たくないさ。不思議なもんだな、昨夜も寝てないのに」
「昨夜も? 何で寝てないわけ」
「忙しかったのさ。もっともこれからはいくらだって寝てやるさ。橋の下でも、駅の片すみでもな」
「ホームレスになるのかよ」
「わからんよ。でも、まともな職には就《つ》けんだろう。働きたくもないがな」
「おれ、いまだによくわかんねえんだけど、オッサン、銀行で何を怒ってたんだよ」
「ふん。……融資がパーになったのさ」川谷は小さくみどりの方を見た。「それでつい我を失ってしまった。自分でも驚いている」
「おれ、あんとき、命が惜しくない人間、初めて見たぜ。拳銃……まあモデルガンだけど、突きつけても全然ひるまねえんだもんな」
「そう言やあ、あのとき、私の頭を何度も殴ってくれたな」
「あ、ごめんよ」
男が素直に謝り、川谷は微かに笑った。
「川谷さん」みどりが話に割って入った。「本当に半分の二百五十万じゃだめですか」
川谷がひとつ息を吐く。てのひらで顔をこすった。
「……じゃあ三百万で手を打とう」
それを聞いて男がまた顔色を変えた。
「なんだよ。おれは二百万かよ。ふざけるな。絶対にだめだ。何でたかが口止めに三百万も払わなきゃなんねえんだよ。だいいちおれには関係がないことだろう」
「関係ないって……」
「そうじゃねえか。ばれてやばいのはあんたなんだろ? だったら、このオッサンを口止めしたけりゃ、あんたが金を払うのが筋だろう。そうだよ。あんたが金を払えばいいんだよ」
「あなたはめぐみを庇《かば》ってくれないの」
男はしばらく考えてから「知るかよ」と吐き捨てた。
「そもそも、あんたの勤めてる銀行を襲わせたのは、あんたの妹なんだぜ。おれだって大迷惑してんだよ」
みどりは返す言葉がなかった。半分あきらめの気持ちがよぎった。
もうこの男たちに任せよう。明日の朝、自分はめぐみを連れて帰るのだ。そして彼らが捕まらないことを神に祈る。
それともめぐみには自首させようか。警察にはすべてを話して、許しを請う……。
だめだ。みどりはすぐにかぶりを振る。妹が姉の勤める銀行を襲ったなどというニュースに、世間が無関心でいるわけがない。我が家は絶対に崩壊する。もう今の家にも住むことはできないだろう。
気持ちが悪くなった。本当にどうしていいかわからない。
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野村和也は部屋の壁際に布団を敷き、横になっていた。めぐみの姉はもう一方の隅でタオルケットだけかぶっている。
姉が少し横になりたいと言い出したので、和也も体を休めることにした。川谷は警戒心を解いていなかったが、疲労には耐えられないのか、ダイニングで横になると身じろぎひとつしなくなった。
バッグは姉が自分の背中と壁の間に置いた。テーブルの上などに置かれるよりはいいように思えた。和也と川谷は、金を間にして牽制《けんせい》しあう形になっている。
めぐみは一度起き、トイレを済ませると和也の隣にきた。
外の雨はますます激しくなっている。何か言ったが聞こえなかった。
「何だ」互いに顔を近づけて話した。
「ケン、これからどうするの?」
「逃げるに決まってんだろう」
「ふうん」
めぐみが暗い声を発する。この女も、すべてがいやになっているのだと思った。
「めぐみ」
「なに?」
「おまえ、なんでお姉さんの勤めてる銀行に押し入ろうって決めたんだ」
「うん? ……」
「ちゃんと答えろよ」
「……不公平だと思ったから」
「何がだ」
「やくざにやられたとき、これは不公平だと思ったんだ。だから」
「馬鹿かおまえは」
「お姉ちゃんが青くなるとこ、一回でいいから見たかったんだ」
「……で、満足したのかよ」
めぐみは答えなかった。
「おまえは帰った方がいいな」
「いや。わたしも一緒に逃げる」
「もういいよ。無理するな」
「無理なんかしてないもん」
めぐみはそう答えたが、言葉に力はなかった。
じっとしていると、あらためて体のあちこちが疼《うず》いた。寝返りを打とうとするだけで飛びあがりそうになる。これまで痛みに気づかなかった自分が不思議なくらいだ。
再び目を閉じると、耳の奥で円盤が徐々に唸りを上げていた。
やっぱり自分がいちばん不幸だと思った。
雨音と耳鳴りの合奏を、消耗しきった意識の中でうつろに聞いている。めぐみはやがて寝息をたてはじめた。
天井を見ながら、煮えきらない自分を不思議に思った。
自分は、どうしてめぐみの姉や川谷の事情に付き合っているのだろう。
考えてもわからなかった。
黒い影がよぎった気がした。ぼんやり赤かった瞼の裏に、ふいに何かが映った感じだった。誰かが電気を消したのだろうか。全身に張りついた疲労が、目を開けることすら困難にしている。
夢だろう。そうにちがいない。さっきから何度も夢とうつつを行き来しているのだ。母も現れた。男とは別れたから帰ってらっしゃいと言っていた。和也は不貞くされながらも内心はよろこんでいる。いっそのことすべてが夢だったらどれほど素晴らしいだろう。どんな仕事でもいい。自分は地道な暮らしをするのだ。
畳を擦《こす》る音がした。もう一度瞼に影が映る。現実だと思った。
痺れがすーっと引いてゆく感覚があって、和也は目を覚ました。
川谷が和室の隅で腰を屈めていた。その手はめぐみの姉の背中に伸びている。
「おい」
すぐには体が動かず、声だけが出た。
川谷は慌ててバッグをつかみ、胸に抱える。
「おい!」
今度は怒声だった。呪縛《じゅばく》がとけたように跳ね起き、和也は立ちあがった。
めぐみと姉が何事かと体を起こす。
「もういいじゃないか」と川谷は言った。顔が引きつっている。「君らは充分若いじゃないか。金なんかなくたって、生きていけるだろう。こっちは何もないんだよ。金ぐらいくれたっていいだろう」
「ふざけるな」
「わたしは四十七だぞ。金がなくて、どうやって生きていけるんだよ」ほとんどわめき声になっていた。「君らは若いだろう。若いだろう」
「何言ってやがんだ。このくそオヤジが」
和也が歩み寄る。豪雨が屋根を叩いていた。川谷はバッグを抱いたままダイニングへとあとずさりした。手探りで自分の封筒を拾いあげると、脇にはさんだ。
「オッサン、金を渡せよ」
「いやだ。渡さん」
和也はジャンパーからバタフライナイフを取り出した。背中で「ちょっと」と姉が声を上げていた。
「おお、殺したければ殺せ。やるなら心臓をひと突きにしてくれよ」
「なんだと」
「ケン、やだよぉ。もうやだよぉ」
めぐみがうしろからシャツをつかんだ。泣きだしそうな声だった。
和也はそれを振りはらい、なおも距離を詰めようとする。
姉が間に割って入った。青ざめた顔でバッグを取り返そうとした。
「川谷さん、お願いです」
「離せ。おまえらにわたしの気持ちがわかってたまるか」
「お金ならわたしが払います。五百万なんて大金は無理だけど、川谷さんが納得するように、あとでちゃんと払いますから」
和也はナイフをしまうと、川谷につかみかかった。
「ちょっと、ケン、だめだってば」
めぐみは和也を引きはがそうとする。かまわず川谷を押しこんでいった。
川谷の腰が砕けて四人が重なり合う形となった。川谷の腕がちょうど和也の目の前にあった。腕時計の針が午前二時を差しているのが見えた。こんな時間におれたちは何をしているのかと、興奮した意識の端でかすかに思った。
気がつくと、バッグは姉が持っていた。素早く立ちあがると和室に逃げ、そこで子供を守るようにうずくまった。
川谷は顔を手で押さえ、低く呻《うめ》いている。体を反転させ、うつぶせになった。
鼻を啜《すす》るような音が聞こえた。泣いているのかと思った。
泣きたいのはこっちだろうと、和也は荒い息を吐いている。
「あんた大人だろう。大人ならそれらしくしてろ。こんなみっともないまねするんじゃねえよ」
憤りの一方で、和也はやりきれなさを抱いていた。自分の父親ほどの男があられもなく取り乱す様は、どんな状況であれ見たくはなかった。
「頼むよ。オッサン、しっかりしてくれよ」
妙なことを口走っているとも思わなかった。
再び和室に四人が揃った。もう誰も横になろうとはしなかった。めぐみはひたすら固い表情でうつむき、姉は何度も溜息をつきながらバッグを胸に抱えている。川谷は憔悴しきった顔でうなだれていた。
「もういいよ。三百万でよかったらやるよ」
切りだしたのは和也だった。醜い争いにほとほと疲れていた。
「おれは二百万を持って逃げる。オッサンは三百万を持って逃げる。めぐみは家に帰る。お姉さんは警察に助けを求める。それでいいじゃねえか」
姉が川谷を見た。
「それでいいですか」
川谷がこくりとうなずく。
「とんだ銀行強盗だよ」
和也は投げやりに言い、自分でもあきらめようとした。パトカーから逃げられたのは川谷のおかげだと、無理にでも納得することにした。
「……川谷さん、本当に逃げるんですか」姉が遠慮がちに聞いた。
「ああ」川谷が力なく返事する。
「わたし、逃げるほどのことじゃないように思えるんですけど……」
「おれもそう思うね」和也がたばこに火を点けた。「法律のことはよく知らねえけど、懲役をくらうようなことじゃないんじゃない」
「こんなことを言ったら失礼かもしれないけど、あのとき、川谷さん、精神的に普通じゃなかったから、心神喪失状態っていうことでたいした罪にはならないと思うんですけど」
「そうだよ。言っちゃあ悪いけど、あんときのオッサン、まともじゃなかったね。それを訴えれば何とかなるんじゃないの」
川谷は黙って聞いている。
「たとえば……、我を失って強盗の手助けをしてしまったけれど、すぐに後悔して犯人を追いかけたことにするとか」めぐみの姉が、言葉を選びながら話していた。「それで、犯人を説得したけどうまくいかなかったとか……。なんならわたしが話を合わせて証人になってもいいし」
「ああ、それはいいんじゃない」
和也も同意した。自分だけが悪者にされるが、中年男に惨めな姿をさらされ、怒る気にもなれなかった。
「わたし、顔も名前もわかっている川谷さんが逃げるのは難しい気がするし」
「おれもそう思うな」
「本当は、説得してお金を取り返したことにできればいちばんいいんだけど」
「どういうことよ」
「あなたがお金をあきらめてくれればもっといいってことよ。盗んだお金を返せば罪には問われないでしょ」
「冗談じゃねえ」
「だから理想を言っただけ。……あなたのことも、警察には親切だったって言っておいてあげるわ」
「ふん。それよか自首するんなら逃走資金はいらねえんじゃないの」
「いまさらそんなこと言わないで」
「わかったよ。首絞めちゃったし、慰謝料代わりでいいよ」
川谷はまだ黙っている。
「本当に余計なお世話かもしれないけど、わたしには鉄工所や家族を放り投げて逃げるっていうのは……」
「ああ。逃げたってろくなことはないぜ。おれ、飯場にいたことあるけど、中にはオッサンみたいなのもいたよ。自分のこと一切話さなくってさ。誰とも仲良くしねえんだ。それであのオッサン何者なんだろうなって噂が立ちはじめると、逃げるようにして辞めてくんだ。そういうのの繰り返しさ」
「わたし、川谷さんが自首しないってわかったときは、正直ほっとしたけど、よく考えてみれば、捕まったときに警察の追及を受けることの方が怖いし。できれば帰ってくれた方が安心できるっていうか……」
妙な成り行きだった。二十歳そこそこの自分とめぐみの姉が、父親ほどの男を諭《さと》している。殺そうとしたり、金を奪いあったり、自首を勧めたり。わずか数時間のうちに関係は目まぐるしく変化している。
和也は自分の父を想った。あのアル中にはどんな素顔があったのだろう。家族には見せない、焦りとか、悲しみとか。
「……金を分けようか」
やっとのことで川谷が口を開いた。誰とも目を合わせようとしない。
「そりゃいいけどさ」
それぞれが溜息のようなものをついた。
めぐみの姉がバッグの中の金をテーブルにあけた。十万ずつが束になっていて、姉が手際よく一万円札を数えた。先に三百万を川谷に渡し、残りを和也の方へ押した。
川谷は受け取ると、自分の封筒の紐を解き、その中に入れた。和也は少し考えて、半分はズボンの尻ポケットに、半分はジャンパーのポケットに突っこんだ。
「オッサンは、どこへ行くわけ」
「知らんよ」
「くどいようだけど、本当に逃げるの? さっきこの人が言った、犯人から金を取り返そうとして追いかけたっていうシナリオは悪くないんじゃない? 仮におれが捕まったとしても話は合わせてやるぜ」
「やけに親切だな」
「見ちゃいられねえからだよ。でもな、これだけはもういっぺん言っとくけど、おれがいちばん不幸なんだからな」
「君にはわからんさ」
「川谷さん」姉がテーブルに肘を載せた。「やっぱり、わたしと一緒に警察へ行きませんか。レンタカーでここまで来たこととか、説明がつかなくなっちゃうし」
「何だ、自分の都合か」
「そうじゃなくて……」姉が口ごもる。
「オッサン、帰りなよ。家族はどうなるんだよ」
「うるさい」
「今逃げると、ずっと逃げなきゃなんねえぜ」
「うるさい、うるさい」
川谷はずっと下を向いたままだった。何かに耐えるように口を真一文字に結んでいる。
「ま、いいさ。オッサンの人生だから好きにしなよ」
金を分けたので、あとは朝になるのを待つだけになった。
和也は再び横になった。めぐみはそばには来なかった。
いつの間に寝てしまったのか、目が覚めるとめぐみの姉はテーブルに臥《ふ》せっていた。和也の気配を感じたのか軽く顔を上げると、「今日も雨みたい」とつぶやいた。
カーテンは閉め切ったままだが強風が吹いているのがわかった。窓がギシギシとときおり軋《きし》む。季節はずれの台風のようだった。逃げるのに都合がいいのか悪いのか、判断がつかなかった。
川谷は布団の上で目を閉じている。めぐみは部屋の隅で丸くなっている。
和也はたばこに火を点けると、壁にもたれかかった。天気予報が知りたかったが、テレビもラジオもない。少し考えて電話の一七七で聞くことにした。
スカジャンのポケットから携帯を取り出し、電源を入れた。
途端に呼び出し音が鳴りはじめた。
驚いて畳に落とす。めぐみの姉がじっと和也を見ていた。
山崎だろうか。また脅しの電話だろうか。ほかに心当たりがない。どっちにしろ、いい知らせの訳がない。
恐る恐る拾いあげた。出るべきか。迷った末に出ることにした。
「よお、あんたか」電話の向こうはそう言った。「やっとつながったわ。ずっとかけとったんやで」
一瞬にして和也の頭に血が上った。
「てめえ! タカオだろう」大声で怒鳴りながら腰を上げ、ダイニングへと歩いた。「貴様よくも」
「まあ、落ち着けや。そう大声出さんといてや」
「ふざけるな! てめえのせいでおれはなあ」
「わかったわ。そやさかい普通にしゃべってくれや。頼むよって」
「何がわかっただ。おれがどんな目に遭ったかわかってんのか」
「悪かったわ。おれが悪かった」
「当たり前だ!」
「でも、あの金、おれがネコババしたわけやないんやで」
「どういうことだよ」
「女や、女。おれの女が持ち逃げしよってな。おれ、あんたにも先輩にも合わす顔がのうなって、それで隠れとったんや。ほんま、我ながら情けない話や。あんたにはいくらでも謝る。一生の借りやと思うとる」
「ふざけるな。今頃そんなこと言っても遅いんだよ」
「だからおれが助けたる」
「何をだ」
「あんた、銀行襲ったやろ」
和也は絶句した。
「テレビで見たで。ニュースでなんべんもやっとった。日本中大騒ぎや。あんたがあんな派手なことするとは思っとらんかった。帽子とサングラスで変装してもおれにはわかるがな。ああコイツやってもうた、おれのせいや、そう思ってな」
「……なんだ、タカオ。また金が目当てか。おれが苦労して取った金にありつこうって魂胆か」
「ちゃうわい。見損なうな。そこまでおれも陰険な男とちゃうで。約束する。金はいらん。あんたのもんや。おれはあんたに対してメンツを取り戻したいんや。男を下げたままでおりとうないんや」
「タカオ、てめえ今どこにいるんだ」
「横浜や。関西はかえって先輩に見つかりやすいしな。灯台もと暗しや。縄張りがちがうと近くでもわからんもんや」
和也は大きく息を吐いた。どうしてやるかと思った。
「あんたはどこや。車で迎えに行ったる。おれ、あんたのこと好きなんや。ええコンビになれると思っとるんや」
「おれはなあ、てめえのおかげで山崎から散々な目に遭ってんだぞ。リンチ喰らって、金を要求されて」
「わかったわかった。会ったときに聞くわ。一発殴られるぐらいのことは覚悟しとる」
「一発ぐらいで済むか!」
「頼むで怒鳴らんといてや。ほんま、反省しとるんや。な、あんた今どこや」
「御殿場だよ」
「しゃれたとこにおるやないか」
「うるせえ」
「人質はどないしたんや。まさか殺《や》ってもうたわけやないやろうな」
「殺るか。ぴんぴんしてるよ。そもそもあれは人質じゃねえんだよ」
「どういうことや」
「電話でなんか説明できねえよ」
「そうか、まあええわ。とにかく場所を教えてえな。速攻で迎えにいったる。それで名古屋にでも行かんか。あんたのホームタウンや。おれも新しい場所で出直そうと思とってな。あんたと組みたいんや」
「…………」
「な。どうせあんたも川崎にはおれんのや」
しばらく考えた。調子のいいタカオには心底腹が立つ。しかし、どこかで安堵の思いもあった。あの明るいタカオとまた組める。めぐみを失おうとしている今、仲間に飢えているのも事実だった。
和也はいくつか悪態をつき、タカオに何度も謝らせ、めぐみの姉から聞きだした道順を教えた。
逃げる算段がついたことに、正直ほっとしていた。
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川谷信次郎は男の怒鳴り声で起こされた。「ふざけるな!」という雷のような声が遠く頭の中に響き、じんわりとボリュームを上げて迫り、意識を覚ましたときは男が隣のダイニングでわめき散らしていた。
上体だけで振り返る。閉められたガラス戸越しに動く男のうしろ姿が目に映った。
じっとしていられないらしく、熊のようにうろうろと歩き回っている。
この若者も大変だな、とはっきりしない頭で思った。
自分の息子と同じくらいの男が、犯罪を重ねながら生きている。それを思うと不思議な気がした。
疲労が背中一面に張りついていた。少し寝たくらいでは取れそうもない。次に寝るとき、自分はどこにいるのだろうと考え、いきなり心臓をわしつかみされたような痛みを感じた。闇に引っぱりこまれるような不安感だった。
信次郎は深く息を吸って、懸命にその考えを頭の外へ追いやろうとした。これからは、考えないことに慣れなくてはいけない。自分に言い聞かせた。
「川谷さん」女子行員が声をかけてきた。「もう少ししたら、御殿場の駅まで乗せていってもらえますか。そこで妹は帰して、わたしは警察に行きます」
「ああ、いいよ」
答えながら、なおも深呼吸を続けた。
「わたし、警察には、川谷さんのこと何て言えばいいんでしょうか」
「ヤケをおこしたおじさんとでも言っておいてくれるか」
「……考え、変わりません?」
「ああ、変わらんね」
騒々しい電話を終えた男が現れた。畳に腰をおろすと、すっかりぬるくなったジュースを喉を鳴らして飲んだ。
「すいません。また携帯、貸してもらえませんか」女子行員がそう言い、信次郎は自分の携帯電話を貸し与えた。
男と入れ代わるように女子行員は隣のダイニングへ行き、小声で自宅に連絡を入れている。
「オッサン、やっぱり逃げるわけ」男が言った。
「君までか」
「あ?」
「なんでもない。若い者に代わる代わる心配されるとはな」
「だって、なんべん考えてもオッサンが逃げる理由がわかんねえんだもん、警察へ行って事情を話せば、軽い罪で済むと思うんだけどな」
「帰りたくないんだ」
「何よそれ」
「待ち受けていることの多さを思うとな、帰るのが怖いんだ」
タレパンが目に浮かんだ。駐車しっぱなしのトラックも、仕事を頼んだ山口社長も、スライド映写のように次々と浮かんだ。
「ふうん」
「もういい。君らにはわからんよ。その話はしないでくれ」
「でも、オッサンの歳で住所不定っていうのもなあ」
「頼むからやめてくれ」
呼吸が苦しくなった。慌てておくびを吐き出そうとした。右手で胸を叩き、苦しさを紛《まぎ》らわせようとする。
「どうかした?」男が信次郎の顔をのぞきこんだ。
そばにあった枕を手にすると、それで口と鼻をふさいだ。
「オッサン……」
だめだ。これからのことは辛すぎる。昨夜は蒸発することに決めていたが、朝を迎えてみれば心が大きく揺らぐ。
敷きっぱなしの布団にうずくまる。男が何か言いながら背中をさすっている。
ここで一歩を踏み出せば、自分は一生家族の元へは戻らないだろう。
信次郎は激しく咳きこんだ。顔が熱くなり、目に涙が滲んだ。
「君」枕を手放し、掠れる声で男に言った。「わたしを刺してくれんか」
思考より先に言葉がぽろりと漏れた。
「何言ってんだよ」男が眉をひそめる。
「確かナイフを持っていたな。それで腹でもどこでもいいから刺してくれんか」
「オッサン、落ち着けよ」
「いや、殺さなくていいんだ。怪我を負わせる程度でいいんだ」
「どういうことよ」
「入院したいんだ」
「わかんねえよ」
「そうすりゃあ帰れるかもしれん。とてもじゃないが、五体満足では帰れない」
「言ってることがわかんねえよ」
「いやか」
「いやに決まってるだろう」
「じゃあナイフを貸してくれ。自分でやる」
信次郎が手を差し出す。男は弾かれたように信次郎から離れた。
「悪いが君にやられたことにする。君はどっちにしろ逃げるからかまわんだろう」
「冗談じゃねえぞ。何でおれのせいにするんだよ」
「じゃあ金はやる。取引だ。三百万でわたしを刺してくれ。こうなりゃ金なんかいらん」
うまく説明できない。突然湧き起こったこの感情を、自分でも整理することはできなかった。ただ、信次郎は被害者になりたかった。同情される被害者に。
電話を終えた女子行員が戻ってきた。
「このオッサン、やっぱ変だよ」男が助けを求めていた。「おれに刺してくれって言うんだ」
「いいじゃないか。それくらいのことをしてくれても」
「オッサン、落ち着けよ」
女子行員が近くに腰をおろした。
「川谷さん、どうしたんですか」
「死ぬ気はないんだ。わたしが刺されたら救急車を呼んでくれ」
「何のことですか」
「だめだ。このオッサン、完全にいかれてるよ」
「いかれてなんかいない。わたしは真剣だ」
男と女子行員は黙って信次郎を眺めている。信次郎も次の言葉がみつからない。三人で奇妙な空白を味わっていた。
そのとき、体の周囲で波が引いていくような感覚があった。胸まであった海水がいっきに足首まで下がった感じだった。
布団の上に座り直して、目眩に堪えた。まるでジェットコースターだった。感情がうねっている。
「オッサン、本当に大丈夫か」
「……ああ」再び深呼吸をしてうなずいた。
「なんだよ、帰りてえんじゃねえか」
「いや、そんなことない」
答えたものの、もう自分のしたいことすらわからなかった。
「悪いけど、もう少ししたらおれのツレが迎えに来るんだ。おれ、それでおさらばするからな」
「ああ」
信次郎は布団に横になった。目を閉じる。
また取り乱してしまった。もう自分で決めたことなのに。
この若者たちと別れたら、いよいよ一人になる。これからは孤独に耐えなくては。
現実逃避なのに、信次郎は自分を励ましている。
女子行員が熱いお茶をいれてくれた。
台所を探してみたらあったようだ。意外にも香りのいいお茶を飲んで信次郎の気持ちが少しだけ落ち着いた。
「すげえ雨」カーテンをつまんで外を見た男が言った。「さて、逃げたら何をするかだな」
どうやらめぐみという少女は連れていかないらしい。少女は男の方を見ないで膝小僧を抱えている。
いったいなぜこの少女は姉の勤める銀行を襲ったのか。信次郎にはわからないことだらけだが、いまさら詮索《せんさく》する気にもなれなかった。
女子行員は律義にも部屋の掃除をしている。
「オッサン、もし捕まってもおれたちのこと、本当に内緒にしてくれよな」
なぜか男は陽気に振る舞っていた。友だちが迎えに来てくれることがよほど心強いらしい。
「たぶん、警察もおれのことは名前もわかってないはずなんだよな。ひょっとして、やり直せたりして」
「羨《うらや》ましいな」
「オッサンだって帰ればやり直せるんだぜ」
「わたしだって君ぐらい若ければそうするさ」
「また歳の話かよ」
「今にわかるさ」
玄関のチャイムが鳴った。信次郎がどきりとする。バンガローのくせにそんなものがあることに驚き、余計に身構えた。
「ああ、おれのツレだよ。迎えにきたんだ」
男が玄関へ小走りで行った。
自分はこれから住所不定か。後悔しようにもどこから後悔していいのかわからなかった。仮に銀行での一件の前に戻れたとしても、難問は山積みだ。いずれにせよ、自分はどこかで壊れていた気がする。
玄関で大きな物音がした。鋭い男の声が響く。
信次郎が振り返った。女たちも同時に顔を上げた。様子が変だと思った。
ダイニングから男が転げこんできた。そのうしろからは三人の男たちがドヤドヤと入りこんでくる。足元に目がいった。男たちはずぶ濡れの土足だった。
「おらぁ、このガキが!」
なんだ、こいつら――。
真ん中の、髪をポマードで撫でつけた男が声をはりあげた。
「どうじゃ。おれは逃がさん言うたやろ」
信次郎は思わずあとずさりしていた。
女子行員は一瞬にして血の気を失い、部屋の隅で妹と抱き合っている。
「よお、邪魔するで」
ポマードが蛇のような目で凄んだ。右手には拳銃が握られていた。
本当になんなのだ、こいつらは。わけがわからない。
「タカオ、てめえ……」男が唇から血を流しながら呻いた。
「悪う思わんといてや。おれも死にとうないんや」
タカオと呼ばれた背の高い男が目を細くして言う。もう一人、パンチパーマをかけた男は黙って立っていた。
「このあほうの立ち回り先なんざすぐにわかるんじゃ。タカオは昨日、連れ戻したったわ。すぐにヤキ入れようと思うたけどなぁ、おのれが銀行強盗やったのテレビで見て、もう一回チャンスを与えたることにしたんじゃ。どや、おれは頭がええやろ。恐れ入ったか、このボケが!」
ポマードが倒れている男を蹴りつける。
反射的に止めようと腰を浮かしたが、ポマードに睨まれるとすぐさま壁に張りついた。やくざらしき男たちの迫力に、信次郎は膝を震わせていた。
「なんや、ぎょうさん人がおるな」ポマードが部屋を眺め回す。隅で小さくなっている女たちに目をやると、「よお、お嬢ちゃんも一緒やな」と不気味に笑った。
少女はこの男を知っているのか。ますますわからなくなった。少女は目に恐怖の色を浮かべ、闖入入者《ちんにゅうしゃ》たちを見ている。
「おい、野村、覚悟せえよ。タカオは銭で済ますけど、おのれは命《タマ》とったるで」
この男は野村というのか。男は口についた血を手で拭うと、ポマードではなく背の高い男に向かって言葉を吐いた。
「タカオ、おまえはやくざに向いてるな」
「そうか、おおきに」
「……いつか殺してやるからな」
「あほう」またポマードが蹴飛ばした。「おのれが先に死ぬんじゃ。まずは兄貴の入院先まで行って、面《つら》見せて、手初めにそこで爪を剥《は》がしたる。指十本全部や。そのあとは倉庫へ連れてってなぶり殺しじゃ。ええか。おのれが生きて警察に捕まるとこっちも都合が悪いんや。トルエンから何から何までばれてまうよってな。おれらも必死やっちゅうことや。覚悟せえよ」
「あんたたち」やっとのことで言葉を発した。「乱暴はいかんよ」
「なんじゃい、このオッサンは」
「ねえ、穏やかにいこうじゃないの」
「てめえ、何者じゃい」
「わたしは、その」舌がもつれる。心臓が早鐘を打っている。
「あん? てめえか、ニュースで言うとった共犯っちゅうのは」
「だから、あのね」
「はっきりせんかい」
「共犯というわけではないんだ」
「話がわからんな。どこで野村と知り合《お》うたんじゃ」
「あの、ちょっと、これにはね……」言葉がなかなか出てこなかった。
「もうええ、黙っとれ」ポマードが吐き捨てる。「それより、ええと、うしろにおるOLさんが人質っちゅうわけやな」
女子行員は脅えて顔を伏せた。
「ええぞ、怖がらんでも。あんたは解放したる。ついでにオッサンも好きなとこへ行けや。勘弁したる。おれらには関係ないよってな。けどな、警察には余計なこと言うな。知らない人が来て犯人を連れていった、そんだけのことにしといてや。どや、おれら救世主みたいなもんやろ。おれらが欲しいのは、野村とめぐみとかいうスケと、金だけや」
かろうじて残っていた血の気《け》までなくなった。
「あんた、ちょっと」
信次郎が恐怖に耐えて言う。男はともかく、ここで少女を見捨てたら大人としてはもう生きていけない気がした。
「それはやめてくれ。この子は家に帰るんだ」
「あほう。何をゆうとるんじゃ。こっちの素性を知っとる者を逃がせるかいな」
「だめだ。お願いだから」
「やかましいわい、このオッサンが。ほれ、めぐみ。こっちへこい」
姉妹は必死に抱き合っている。
「なんや、人質と仲ようなってしもうたんか。女はこれやからな。ほれ、こっちへこい。またおれが可愛がったるで」
そのとき女子行員の顔色が変わった。
「ヒイヒイ言わせたるがな」
「ちょっと……」女子行員が険しい表情で口を開いた。「あんた、この子に何したのよ」
「なんや、おまえは」
「ちょっと。言いなさい。わたしの妹に何かしたわけ」
「妹? なんやそれは」ポマードが目を見開いた。「おまえら姉妹なんか」
ポマードが絶句する。そのまま顔をしかめて立ち尽くしていた。
「どういうこっちゃい……」
「だから連れていってもむだだぞ。いや、連れていった方が危険だぞ」
信次郎が訴えた。女子行員は敵意に満ちた目でやくざたちを睨んでいる。
「おい、ちゃんと説明せんかい」ポマードが気色ばむ。
「大丈夫だ。警察には言わん。早い話がこっちにも弱みがあるってことだ。あんたら、その男だけ連れて帰ってくれ」
口を血だらけにした男が信次郎を見た。信じられないといった目だった。
信次郎は慌てて顔をそむけた。
仕方がないじゃないか。この状況でほかにどうしろというのか。
「なんじゃい、ここの連中は」
ポマードが苛立った様子でガラス戸を蹴飛ばす。何枚かのガラスが砕け散り、床の上で弾けた。
「とにかく金を出せ。話はそれからじゃ。おい野村、金はどこや」
ポマードが男の体に手を伸ばす。ポケットにしまわれた札束はすぐにみつかった。
「おい、えらい少ないやないか。残りはどこじゃ」
ほかのやくざが信次郎の身体検査をする。信次郎のポケットから金は出てこなかった。封筒はテーブルの下にあった。立っているやくざたちからは見えない。
あの金を取られたら、本当に自分は死ぬしかない。
指先に震えがきた。
「確かニュースでは五百万とか言うとったぞ。残りはどこじゃい」
男と目が合った。男は畳に横たわりながら信次郎をじっと見ていた。
信次郎は視線をそらし、唇をかみしめる。
見ないでくれ。頼むからこっちを見ないでくれ。
「途中で落としたよ」男が呻くように言った。「逃げてるときに落としたんだよ」
信次郎は弾かれたように顔を上げた。
「あのなあ、めぐみはお姉さんの銀行に押し入ったんだよ。だから警察には言うわけがねえんだ。めぐみは家に帰る。お姉さんは警察に行く。このオッサンは逃げる。心配しなくたって、おれだけ連れていけば警察にはばれねえよ」
「なんやと、えらそうに」
ポマードが男を蹴りあげる。
「おい、そこの女ども、本当か」
女子行員が、何かに懸命に耐えているような顔で首を振っている。
「よし。まあええ、こんなややこしい話はもうたくさんや。ええか、おまえら、サツにうたったら絶対にお礼に行ったるでな。おう、タカオ、野村を立たせんかい。引きあげるぞ」
男は若いやくざにつかまれ、玄関へと引きずられていく。
「待て」信次郎が言っていた。思わず発した言葉だった。「その男を連れていくな」
「なんやと」
「殺すつもりだろう」
信次郎は立ち上がっていた。肚《はら》の中がカッと熱くなり、その不思議な塊が徐々に喉をせりあがった。全身がジリジリと焦げていく感じがした。
「どあほう。さっき連れて帰れって言うたのはおのれやろうが」
「そうはさせん」
「オッサン、血迷ったか」
「その、野村君とやらは、わたしの息子と同じくらいなんだ」
勝手に足が動き、信次郎はポマードに近づいていた。
「何をわけのわからんことを。なんじゃい、その目は。死にたいんか」
「彼はやり直したがってるんだ」
言いながら奇妙な既視感を味わっていた。銀行でカウンターを乗り越えたときと同じ感覚だった。
「撃つぞ、こら」
ポマードが拳銃を右手に持ち直し、信次郎に突きつけた。
「撃ちたかったら撃て」
恐怖は消えていた。ただあるのは、自分の中の最後の何かを守りたいという思いだった。
「オッサン、やべえよ」
男がうしろで声をあげた。
「あほんだらぁ。なめたらあかんど」
ポマードが右腕を振り回し、拳銃のどこかが頬に当たった。信次郎が床に崩れ落ちる。女の悲鳴が響いた。
「このやろう」
男がポマードに飛びかかった。ほかのやくざが慌てて引きはがす。床に散らばっていたガラス片がバリバリと音をたてた。
信次郎は立ちあがると男に続いた。起きあがろうとしたポマードの顔面に拳を入れ、無我夢中で押し倒した。
「てめえらぶっ殺すぞ」ポマードがわめいた。
信次郎がその首に腕を巻きつけ、額に歯を立てた。二度三度と床を転がる。背中を誰かが蹴った。髪をうしろから引っぱられた。男たちの怒声が天井にこだまする。
そして乾いた破裂音がした。
信次郎の腹部が一瞬にして熱くなる。
痺《しび》れが全身を走り、体が動きを止めていた。
熱い部分に手をやる。てのひらを濡らすものがあり、すぐに血だとわかった。
信次郎はエレベーターで急速に下がっていくような感覚を味わう。
薄れてゆく意識の中で、なぜか自分は救われたと思った。
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思わず悲鳴をあげ、藤崎みどりは、めぐみを抱く腕に力を込めた。
一瞬にして男たちの怒号がやみ、静寂が部屋の中を支配する。
雨音だけが耳に響いていた。
恐る恐る目を開けたら、男たちが棒立ちになっていた。
銃声? にわかには信じられなかった。
めぐみを抱く腕をほどき、ゆっくりと首を伸ばして玄関の方を見た。
倒れているのは川谷だった。尻をこちらに向け、横たわっている。
川谷が撃たれた。
「ふん」やくざは上着の埃《ほこり》を払っていた。「あほとちゃうか。拳銃持っとる人間によう素手で向かってくるわ」その声は小さく震えていた。
「うおーっ」男が叫んだ。「やりやがったな、やりやがったな」
その途端、やくざの手下たちがつかみかかり、男は壁に押しつけられた。
「山崎ーっ。てめえ殺してやるーっ」
首筋を痙攣《けいれん》させての絶叫だった。
「やかましいっ」やくざも怒鳴り返した。「おのれもここで殺したろか」
やくざが拳銃の台尻で男の顔を打ちつけた。血が宙に飛び散り、みどりは目をそむけた。男が床に崩れ落ちる。
「おい、女ども!」やくざが和室へ来た。「ええか、おまえら絶対に見んかったことにするんやで」
みどりはめぐみを抱きしめ、部屋の隅で小さくなっていた。なれるものなら、もっともっと小さくなりたい。
「このオッサンはトランクや。野村のガキは縛ってリヤシートに転がしとけ」
やくざが手下に指示している。その顔は紅潮し、目は真っ赤だった。
「毛布があるやろ。それでくるんだれ」
やくざの手下が和室に駆けこみ、押し入れから毛布を引っぱりだす。
「おい、その前に血や。この床の血をなんとかせえ」
やくざは明らかに狼狽していた。自ら散乱したガラス片を隅によけようと腰を屈め、素手では何もできないことに気づき、うろうろと歩き回っている。
「あかん……。最悪や」やくざが立ち尽くした。「なんで丸腰のくせしてくるんや。オッサンは関係ないやないか。逃がしたるゆうとるやないか」
やくざはうわごとのように言うと、再び和室のみどりたちに顔を向けた。
ゆっくり近づいてきた。
「おい、おまえら、黙っとれんやろ」
みどりが慌ててかぶりを振る。
「嘘や。こんだけのことがあって、女が警察にシラを切りとおせるかい」
やくざは口を半開きにしてみどりたちを見つめ、何かを逡巡していた。
みどりは気が遠のきそうになる。殺されると思った。
玄関のチャイムが鳴った。
同時に戸をドンドンと叩く音が響いた。
「誰や」
やくざが一瞬にして青ざめた。みどりは懸命にかぶりを振り続ける。
「もしもーし」という誰かの声が聞こえた。
「開けるな。鍵かけい」
手下に向かって低く唸る。すぐさまロックがかけられた。
「もしもーし。開けてくださーい」
やくざは大股で窓まで歩くとカーテンをつまみあげ、外をうかがった。
その場で膝をついた。
「なんでや」
体を回転させ、虚《うつ》ろな目で腰をおろし、壁に背中をあずけた。
玄関ではドアノブが外から乱暴に回されている。
「冗談やないぞ」
やくざが左手で髪をかきあげた。
「なんでおればっかこんな目に遭わなあかんのや。たかがチンピラ脅しただけやないか。それがなんで組にケジメ取られて、御殿場くんだりまで追いかけさせられて、おまけに警察に包囲されなあかんのや」
警察? なおも玄関の戸は叩かれていた。
「こんな不幸な男がどこにおる」
やくざはひとりごとを言っている。
そのとき拡声器の大音量が、窓ガラスを震わさんばかりに鳴った。
〈こちら神奈川県警。こちら神奈川県警〉
「わかった、わかった」やくざが足を投げ出した。
〈中にいる者に告ぐ。ドアを開けて出てきなさい。繰り返す。ドアを開けて速やかに出てきなさい――〉
「おしまいや。おれはもうおしまいや」
やくざが放心状態で、拳銃をぽんと放った。
手下たちはどうしていいのかわからず、玄関でうろたえている。
みどりは体中から力が抜けていく感覚を味わいながら、自分もこれで終わったと思った。
「もうええ。開けたれ」やくざがつぶやく。
ダイニングで男が体を起こした。めぐみがケンと呼ぶ男と目が合った。
険しさの消えた、静かな目だった。
玄関の扉が開き、何人もの男がどやどやと上がりこんできた。
「動くな。全員そのままでいろ」先頭の男がよく透る声を響かせた。
真っ先に床に倒れている川谷に目がいったようで、「救急車!」という声が飛んだ。
雨合羽を着た大男がつかつかと歩み寄ってきた。
「あなた、藤崎さんだよね」
涙が洪水のように出てきた。くしゃくしゃの顔でみどりは強くうなずく。
「大丈夫ですよ。あなたは助かったんだから」
「すいません」泣きながらみどりが言う。
「はいはい。大丈夫だよ」そう言ってみどりを抱きあげた。
「そうじゃなくて……」
婦人警官が現れ、めぐみの腕をとった。それを視界の端で見た。
安堵と諦めが入り混じり、ますます涙が出た。
バンガローを出た。毛布をかけられ、森の中を抱えられたまま進む。あちこちにずぶ濡れの警官の姿がある。いくつものパトカーの赤色灯が、薄暗い森を、映画のコマ送りのように照らしていた。
救急車のベッドに寝かされそうになるのを断り、横のベンチに座った。濡れた前髪が額に張りついている。みどりの体がガタガタと震えた。
窓越しにタンカで運ばれる川谷が見えた。
そのうしろでは、大勢の警官にこづかれるようにして、やくざたちが連行されていく。
最後に、めぐみと男が出てきた。
めぐみが泣いている。胸が締めつけられた。
みどりも、泣くしか方法が思いあたらなかった。
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「入浴はじめーっ」
看守の号令がタイル張りの風呂場にこだまし、野村和也は浴槽に足を入れた。
ほかの未決囚とあまり触れあいたくないので、早めに奥の場所を確保し、ゆっくりと体を沈める。誰が決めたのか湯水の量は湯舟の上端から三十センチまでにとどめなければならず、そのため大勢が一度に浸かってもお湯がこぼれることはない。
浸かっていられるのはきっかり三分だ。和也が放りこまれた拘置所は、週二回の入浴時間が十分で、しかも三分浴槽、四分洗身、三分浴槽と、風呂場での行動も細かく決められている。監視台では看守がメガホンをもって見張っており、もちろん少しでも遅れると叱責が飛ぶことになっている。
サウナで両足を伸ばしていたころが懐かしい。ここでは鼻歌ひとつ唄っても看守が血相を変えて走ってくる。
「なあ、あんた」
隣にいるマサオがささやきかけてきた。どういう字を書くのかは知らない。和也より一週間遅れて雑居房に落ちてきて、齢が同じということではじめから馴れ馴れしく近寄ってきた男だ。奈良出身とかで関西弁を使う。
「で、刺したやくざはどうなったんや」
「うるせえよ」前を見たまま和也が低く言った。
「あいつら絶対に忘れえへんよってな、シャバに出たあとも気ぃつけなあかへんで。おれの先輩でな」
「うるせえって言ってんだろ。まだ裁判も終わってねえのに、何がシャバだ」
「そんなもんすぐや。懲役なんかあっという間や。おれら人を殺《や》っとるわけやあらへん。仮に四年の実刑くらっても、実際は二年程度のもんや」
返事をしないでお湯をすくい、顔を洗った。
和也の裁判が長引いているのは、罪状の多さと情状酌量が綱引をしているからだ。強盗、傷害、器物破損と犯した罪は数知れないが、ゴマ塩頭の国選弁護人が和也の生い立ちや暴力団から脅迫を受けていたことを持ちだして頑張っている。おまけに銀行強盗はめぐみが持ちかけた側面もあり、裁判所は慎重になっているようだ。たぶん、もう少しこの拘置所で暮らすことになるのだろう。
「……そやさかい、どや、おれと一緒に組の盃、受けんか」マサオはまだしゃべっている。「組に入ればむこうかて簡単には手を出せんぞ」
「こらーっ。そこ。私語禁止」
看守の怒鳴り声がとんできた。マサオは舌打ちして「うるせえオッサンや」とつぶやいている。
「入浴やめ」の号令があって、全員がぞろぞろと洗い場に向かった。男たちの背中を見ていると、およそ三割が刺青《いれずみ》をしている。やくざたちはいかにも慣れた感じで、お湯をタライに溜めている。ここの洗い場は、レバーを押していないと湯も水も出ない仕組みなので、湯温の調整がむずかしい。
ひとつの石鹸で頭も体も洗う。和也は丸刈りにしたので時間はかからなかった。石鹸を頭にあててこすると、うまい具合に泡が立ってくれるので、その泡を使って体も洗うのだ。洗身で使用できるお湯は四杯まで。決めたやつの顔を見てみたい気がする。
風呂を出ると更衣室に整列させられた。ここでも号令があってはじめて体を拭くことが許される。今は夏だからいいが、冬場は風邪をひく者が続出するらしい。
その後、隊列を組んで食堂に向かう。前科がふた桁《けた》になる年寄りに言わせると、ここの拘置所はとにかく並ばせるのが好きなのだそうだ。
だだっ広い食堂に入り、固いベンチに腰かける。今夜の献立はカレーマカロニだった。それに糸こんぶと油揚げの煮物と福神漬がつく。品書きだけ見ればまともだが、味は最低だ。臭いメシとはよく言ったものだと和也は思う。主食は噂に聞いた麦飯で、モソモソしてさっぱり喉を通らない。
「なあ、あんた」またマサオが話しかけてきた。「拳銃持っとるやくざに向かっていって、怖くなかったんか」
「うん? まあな」和也が面倒臭そうに答える。「こっちも興奮してたからな。そんなもんよ」
マサオは何度も和也の話を聞きたがった。日本中を騒がせた銀行強盗の主犯が、近くにいることがうれしくて仕方がないといった様子だった。
あの雨の日、御殿場のバンガローで、和也は山崎に飛びかかっていった。殴られた川谷を見て、頭の中で何かが爆発し、我を失ったのだ。気がついたらタカオとパンチパーマをふりほどき、山崎の首にしがみついていた。
山崎たちに連れ去られそうになったとき、川谷は「待て」と言った。それは生まれて初めて聞いた、和也のための言葉だった。自分を救おうとしている人間がこの世にいることに驚き、戸惑った。
川谷は銃を突きつけられても山崎に向かっていった。その真意はわからないが、もしも自分に保護者がいたならこういうものだろうかと、和也は混乱する頭で思った。ひと晩中続いた醜い争いが、消し飛んでいた。川谷が撃たれたときは、死ぬなら自分だと心の中でわめいた。オッサンが死ぬのは結末がちがうと思った。拳銃など少しも怖くなかった。
気がついたら太鼓を鳴らすような足音が聞こえ、警官に取り囲まれた。警察は和也が何者か判断がつかない様子で、「あんたは」と聞いてきた。誰が犯人なのかわからなかったのだろう。言葉が出てこず、自分の奥歯がぎりぎりと鳴った。おまえが強盗かと聞かれ、無意識のうちにうなずいていた。そのまま手錠をかけられ、起こされた。
警官は和也を壁に押しつけ「女は」とわめいた。唾が顔にかかった。「女の方はどこだ」どさくさまぎれに頬を二、三発はられた。和也は和室にいためぐみの方を顎でしゃくった。しょうがねえだろうと言いたかった。
雨の中を連行され、パトカーに乗せられた。中で責めたてられるのかと思ったら、そうではなく、警官はたばこを吸わせてくれた。たぶん、和也の顔が血まみれだったからだろう。車内にたちこめる煙を見ながら、これで終わったなと思った。安堵の気持ちがあるのが、自分でも不思議だった。
県警のビルに着くと、マスコミのフラッシュを浴びた。隣の警官がジャンパーを頭からかけてくれた。観念しろよとささやきかけられ、和也は黙ってうなずいた。
簡単な手当を受け、取り調べはその日のうちから始まった。和也は真っ先に川谷の安否を尋ねた。重傷だが命に別条はないと聞かされ、小さく胸を撫でおろした。死なれると寝覚めが悪い。
聞かれたことは素直に答えた。もうめぐみが逮捕された以上、隠すことは何もないように思えた。ただ御殿場での出来事については、黙っていたかった。金の分配を巡って言い争ったことや、川谷の首を絞めかけたことだ。川谷が言いださないかぎり、記憶の闇に葬りたかった。
夜になって留置場に放りこまれた。鉄の檻《おり》が閉まる音を聞いたら、体中の力が抜け、冷たいベッドに倒れこんだ。
横になりながら和也は何かがちがっていることに気がついた。
それは心の奇妙な軽さだった。牢屋《ろうや》の中にいるのに、解放感がある。
しばらくして理由がわかった。耳鳴りがやんでいたのだ。
歌でも唄ってやろうかと思った。
取り調べは毎日続いた。めぐみは十七歳の少女に戻ったのか、何でもしゃべっているらしい。一度、取調官から「おまえ、ケンって呼ばれてたのか」とからかわれた。川谷との金の分配については言い逃れがきかなくなった。川谷の封筒から、自分の金とは別の三百万が出てきたからだ。川谷は当初、犯人を説得するために追いかけたと言い張っていたようだ。嘘はどこかでほつれるものだ。退院すれば裁判が待っているだろう。
その後、神奈川県内の拘置支所に送監された。雑居房に入れられ、判決が出るまでの退屈な時間をすごすこととなった。
一度、母が面会に来た。拒否したが同伴の弁護士に説得されて会うことになった。
二畳ほどの広さの箱に入ると、プラスチックボードがあり、その向こうに二年半ぶりに見る母がいた。時間は十分と決められた。
「久し振りだねえ」と向こうから言った。「ちょっと痩せた」
「別に」
「新聞見てびっくりしてまってねえ」懐かしい三河弁《みかわべん》だった。「もっと早《はよ》う来なあかんと思っとったけど、あんたどうせいやがるやろうで」
顔は見なかった。母のマニキュアが塗られた爪を見ている。
「そしたら弁護士さんが来て、いっぺん会ったってって言うもんやで」
「おれは頼んどらんぞ」自分も三河弁のイントネーションになっていた。
「……おかあさん、おとうさんと離婚したでね」
「ふうん」
「おとうさん、病院抜け出してはおかあさんのところへ来てね。そのたんびに暴力ふるうで逃げ回っとったけど。去年、やっと離婚届けにハンコ押してくれてね。今は豊橋の別の病院におるらしいわ」
「もうええわ、そんな話」
「おかあさんは今、岐阜におるんやよ。柳《やな》ヶ瀬《せ》で働いとる」
「ふうん」
「おかあさん、名古屋より岐阜がええわ」
「そう……」
会話はそれで続かなくなった。十分が経つのを待たずに母は帰っていった。
最後に母は「元気でね」と言った。住所も電話番号も教えてはくれなかった。
どれだけの刑期になるのかわからないが、もう自分に面会人が来ることはないだろうと思った。
「なあ、あんた」マサオが言った。
雑居房にもどってからも、この男はしきりに話しかけてくる。半袖の官衣からは刺青がのぞいていた。〈真由美命〉と彫ってあった。ここにも馬鹿が一人いる。
「あんた、そんだけ度胸がよかったら、どっかの組がスカウトに来るんとちゃうか」
「知らねえよ、そんなもん」
「もったいないで。やくざの幹部を刺して、銀行襲って、警察の追跡ふりきって。金看板やないか」
うるさいので相手にしなかった。
「そのキャリアを使わん手はないで」
何がキャリアだ。
「なあ、ほんまの話、勤め終えたら、おれの先輩に会ってみんか。キップのええ先輩やで。おれは盃もらう約束になっとるんや」
「やくざはいやだって言ってるだろう」
「ほな、何するんや。前科者に世の中は冷たいで。おれら身元保証人もおらへん。働くとしてもパチンコかキャバレーの住み込みしかあらへん。そんなことして楽しいか」
「うるせえよ」
「おれはあんたが気にいったんや。ほれたんや。一緒に組に入ってがんがんノシてこうやあらへんか」
「あのなあ……」
「なんや」
「おれはな、関西弁を使うやつは信用しねえことにしてんだよ」
「そんなことゆうなや。なあ、兄弟」
和也が枕でマサオの頭をたたく。
マサオはそれでも犬のようになついてきた。
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右手で合金板を拾いあげ、台座の中央に置いたところでペダルを踏んだ。
唸るようなモーター音とともに上からドリルが降りてきて、穴の内部に溝が刻まれていく。これでネジ穴の完成だ。
川谷信次郎はタッピング工作機に向かって黙々と作業を続けている。
作業場には山口社長と初老の従業員がいた。
それぞれが機械を動かし、音と火花をあげている。
以前より天井が低いせいか、音がこもりやすい気がした。
自分の鉄工所は、畳んだ。あんな事件を起こせば、銀行を含めて取引先が逃げるのは当然だった。松村はいなくなり、タイ人のコビーには辞めてもらった。
タレパンは返し、ほかの機械もあらかた処分した。
信次郎はタッピング工作機一台を持参して、隣の「山口車体」で働いている。かつての川谷鉄工所は空き家となっており、シャッターには〈入居者募集〉の張紙がはってある。
最初は山口車体の社員になることを希望した。警察病院に見舞いにきた社長に、信次郎が恥をしのんで頼みこんだのだ。山口社長はふたつ返事で了承してくれたものの、信次郎の保釈が近づくと、別の提案をした。場所を貸すからフリーランスとしてやらないか、と勧めたのだ。
「いつかまた再開するときのためにはその方がいいじゃない。自分の機械入れて、電話もひいてさ」
山口社長はそう言ったが、この不況時に新たに人を雇いたくないのと、友人を社員にすると使いづらいという理由もあるのだろう。
働ければなんでもいいので、信次郎は受け入れた。
もっともそのもくろみは二、三日で破綻をきたした。
電話をかけられなかった。
山口社長が紹介してくれた新しい取引先に用があっても、電話機を前にすると心臓が高鳴り、全身から汗が吹き出てくるのだ。
かかってくる電話も同様だった。社長の奥さんから「電話ですよ」と言われただけで体が緊張し、気分が悪くなった。
そんな状態だからトラックを駆っての搬出搬入などできるわけがなかった。これから人と会うとなると、途端に動悸が激しくなるのだ。
まるで松村だと思った。
結局、山口社長がすべての面倒をみてくれることになり、信次郎はただネジ穴を開けるだけの毎日になった。フリーランスではなく、歩合給の従業員のようなものだ。
気安く話せる相手は山口社長一人だった。
「よお、カワさん、そろそろ昼にしようよ」
山口社長から声がかかり、信次郎は機械を止めた。
「どうだい、たまには蕎麦《そば》でも食いにいかないか。いや、女房が仕出し屋に電話するの忘れちゃってさ」
「ああ、そうだね。じゃあザルでも頼もうかな」
「いや、出前じゃなくて食いにいこうって言ってんだけど」
「うん……でも、混んでんじゃないの。昼どきは」
あまり外に出たくないので、信次郎はいろいろ理由をつけて工場内にいようとする。
「いい天気だよ」
それを知っている山口社長は、なんとか連れ出そうとした。
「じゃあ社長、行っといでよ。こっちは適当に済ませるから」
「そうかい」
山口社長はもう一人の従業員と出かけていった。
それを見届け、信次郎はポケットからマスクを取り出す。
これも事件の後遺症だろう。
コンビニにでも弁当を買いにいこうと思った。
銀行強盗の幇助については現在公判中だ。あのとき信次郎が心神喪失状態であったかどうかで争われている。強盗ならばまず保釈は認められないが、幇助だと微妙なようだ。信次郎の場合、逃走や証拠|隠滅《いんめつ》の恐れがないことから、入院中に許可が出た。保釈保証金は二百五十万円だった。持ち帰った一千万の中から納めた。したがって今の身分は「在宅被告人」である。
保釈は妻の春江が希望した。信次郎は気が乗らなかった。もう少し、どこかに隠れていたかったのだ。実を言えば、三週間の入院で済むと聞かされた際も、信次郎は大きく落胆した。
やくざに撃たれたとき、信次郎は薄れていく意識の中で「これで逃げなくて済む」と考えた。奇妙な安堵感だった。死ぬのならそれでもよかったし、助かるのなら被害者になれると思った。怪我人ならばやさしく接してもらえる。少なくとも責められることはない。それしか家族と顔を合わせる方法はないように思えた。
野村という若者を見捨てられないという気持ちもあった。しかし、拳銃を持ったやくざに向かっていけたのは、やはり無意識の打算というべきものだった。
もっとも検察は、盗んだ金の奪い合いによる争いだと、冷めた見方をしていた。女子行員が証言してくれなければ、実際そう決めつけられただろう。藤崎みどりは、自分の妹が連れ去られそうになったのも川谷が止めてくれた、と証言している。
信次郎は、女子行員の厚意が、発作的とはいえ信次郎を殺しかけたことへの償《つぐな》いだと受け取っていた。あの場にいた者は、全員が疚《やま》しいのだ。だからその件に関して、自分からは何も言わなかった。
二日続けて死にかけた。今となってはおかしくもある。
金を取り戻すために犯人を追いかけた、というシナリオはあっけなく崩れた。封筒に銀行から盗んだ三百万が入っていたのだから、弁解しようがない。ヤケを起こして蒸発しようとした。信次郎は正直に告白した。
裁判で有利な点があるとすれば、銀行から受けた仕打ちと、やくざから二人の若者を守ったことだ。若い国選弁護人は「百パーセント執行猶予がつくでしょう」と言っている。
マスコミはどちらかというと信次郎に同情的だ。支店長が、銀行強盗に対して客の預金を、咄嗟とはいえ、差し出してしまったのだ。人命第一であとから弁償するつもりだったと弁明しても、マスコミは銀行に厳しい。「客の虎の子を差し出した銀行の非常識」、「銀行の融資キャンセルに町工場社長がキレた」という週刊誌の見出しは警察病院のベッドで読んだ。もっともそのぶんさらし者になり、身の縮む思いがした。
マンションの太田には五十万円の治療費を払い和解した。妻が国選弁護人に事情を話すと、安い料金で間に入ってくれた。向こうももう関わり合いになりたくない様子だった。立看板も外された。山口社長は「ざまあみろ」と気勢をあげている。
息子の信明は「一人暮らしをしたいから」と出ていった。
娘の美加は学校に行っていない。二学期から登校するとは言っているが、休めば休むほど行きにくくなるにちがいない。
失うものはやはり大きかった。
しかし、どこから後悔すればいいのだろう。
信次郎にはそれすらわからない。
昼食を食べ終え、信次郎は再び機械の前に座った。金属音とともに部品にネジ穴をあけていく。作業に没頭していると、やはり自分は黙々と仕事をするのが似合っていると思う。冒険は、性に合わない。
ネジ穴の加工賃は一個が五円六十銭。そのうちの三割が山口社長へのコミッションとなる。信次郎は、それを一時間に五百個のペースで仕上げていく。
夕方、あと片づけをしていると山口社長がまた誘ってきた。
「よお、カワさん。フィリピン・バーに行かないかい。また可愛い子が入ったみたいなんだけどさ。奢《おご》っちゃうよ」
「あはは。社長、こっちは病みあがりなんだから勘弁してよ」
「だめだって、養生しすぎも。たまには酒も飲まなくちゃ」
「うん、でもやめとくよ」
厚意はありがたかったが、やはり人のいる場所には行きたくなかった。
信次郎は手洗いを済ませ、工場を出て、裏手に止めてあった自転車にまたがる。ポケットに手を突っ込み、マスクを取り出すと、また山口社長がやってきた。
「なあ、カワさん」
「うん、なんだい」
「余計な世話かもしれないけど、そのマスク、そろそろやめにした方がいいんじゃないのかい」
「ああ、これかい。いや、なんか癖になっちゃって」
「うちの女房が言ってたんだけど、近所の人まで気になってるみたいだから」
「そうなの?」
平静を装ったが、額に汗が滲んできた。
「却って目立つんじゃないの」
「いや、別にそういうつもりじゃなくて」
「気持ちはわかるよ。とくに向かいのマンションの連中とは顔を合わせたくないだろうし」
「いや、本当にそんなつもりはないんだよ。単なる習慣だって」
「そうかい?」
「そうだよ」
「ならいいけど……。ま、でも焦ることはないか。リハビリだと思えばいいんだもんな」
山口社長が笑顔を作り、軽く背中を叩いた。
信次郎はマスクをはめ、ペダルを漕ぎだす。
「じゃあまた明日」
「うん、お疲れ」
信次郎は夕日に向かって自転車を走らせた。
市営団地では妻と娘が待っている。
妻は、まだ少々はれ物に触るようなところがあるが、やさしく接してくれる。
帰ってよかったと、信次郎は心から思っている。
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月曜日じゃなくても雨の日は憂鬱だ。
藤崎みどりは、玄関を出たところで空を見上げ、エイッと自分に気合をいれる。空元気でも出さなければ、心まで灰色の雲に染まってしまいそうだ。
今年の梅雨は、何をはりきっているのか、皆勤賞で雨を降らせてくれる。母は布団が干せないとぼやいている。みどりは前髪が湿気できまらない。いっそのことショートカットにでもしようかと思うこのごろだ。みどりは駅まで自転車に乗っていこうかどうか迷い、歩くことにした。水溜りをよけ、買ったばかりのパンプスが汚れないように。
今月に入ってから、みどりは友人の勤めるデザイン会社でアルバイトをしている。女が三人、家にこもっていると気が滅入るばかりなので、勇気をふるって外に出ることにした。
正社員でないのはまだ体力に自信がないからだ。どういうわけか五時間を過ぎると体がだるくなり、気分がすぐれないのだ。社長が話のわかる人で助かっている。みどりは通勤ラッシュをさけ、十時から三時という変則的な勤務をしている。
仕事は補助的作業だが、職場が明るいので不満はない。
御殿場のバンガローで救出された日、警察には本店の幹部たちがおっとり刀で駆けつけてきた。最初に病院で検査を受けたのだが、そのときも何人かが付き添い、あれこれと世話を焼いた。着替えが欲しいと言うと、女子行員を派遣し、下着からブラウスまで買い揃えてくれた。取り調べには弁当の差し入れがあり、常に誰かが廊下で待機していた。みんなが親切だった。
ただし、本店の厚遇は長くは続かなかった。犯人の一人がみどりの実の妹であることが判明し、場の空気が一変したのだ。
銀行の心配は一介の女子行員から、企業イメージをいかに保つかということに移行した。支店には箝口令《かんこうれい》が敷かれ、みどりに関してはいかなる取材にも応じない体制がとられた。不幸中のさいわいは、めぐみが十七歳だったことだ。犯人を特定するような報道はできず、必然的にみどりも匿名になった。
なんてことをしてくれたんだ。幹部たちの顔には明らかにそう書いてあった。
警察の取り調べも冷徹だった。もっと同情してくれるのかと思いきや、何でも疑ってかかるのが習性らしく、「手引き」説までぶつけられた。警察は怪文書が出回っていたことや、みどりが前日に退職願いを出していたことを知っていて、その点にも関心を抱いていたのだ。銀行の保養施設に逃げこんだのだから、疑われても仕方がない部分はあった。
御殿場のバンガローに警察がやってきたのは、その朝みどりが家に電話をかけたとき、自宅に刑事が待機していて逆探知を成功させたからだった。携帯は中継アンテナしか特定できないが、付近は別荘しかないので捜索に時間はかからなかったようだ。
予想どおり、マスコミは騒いだ。人質の安否を心配していたら、犯人の姉だった。彼らがよろこばないわけがない。自宅は三日間にわたって取り囲まれ、家族はホテルに避難せざるをえなかった。もっとも忘れるのも早く、有名女優の離婚話が持ちあがったら、風のように去っていった。
近所の好奇の目は持続中だ。道ですれちがうときは、ぎこちなく会釈するか、さっと目をそらすかのどちらかだ。話しかけられることはない。母は心労で倒れ、しばらく点滴のお世話になった。父は会社勤めを続けているが、肩身はせまいことだろう。仕方がない。覚悟していたことだ。
めぐみは家裁送りのあと、一ヵ月ほどで保護観察処分となって家に帰ってきたが、母はあまり表には出したがらない。
みどりも銀行を退職して、しばらくは部屋にこもっていた。
犯罪は、家族に後遺症を残す。
会社に着き、タイムカードを押した。午前十時なのにたいていはいちばんで、事務所はがらんとしている。デザイナーという人種は午前中を有効に使うということを知らないのか、昼近くになってから三々五々、出社してくる。
みどりは簡単な掃除をする。机の上は拭かない。拭ける状態ではないからだ。窓を開け、空気を入れ換え、ついでに伸びをした。「あーあ」という自分ではない声が聞こえる。はっとして振り返ったら、応接スペースのソファで男があくびをしていた。
「泊まりですか」みどりが思わず笑う。
「そう不幸でしょ」
男は相好《そうごう》をくずした。この若いデザイナーは、ちょっとハンサムだ。
「コーヒーいれましょうか」
「あ、うれしいな」
この会社では原則として社長以外は自分でお茶をいれることになっている。そういうところもみどりは気にいっている。
「砂糖とミルクはどうします」
「砂糖は五グラム、ミルクは八グラム」
こんな人ばかりだから、お金をもらって心を癒《いや》しているようなものだ。
その日は退社後、クリニックへ寄った。週に一回、みどりは精神科医のところへ通っている。いまのところ、みどりにとっていちばんの楽しみは医師と会話をかわすことだ。初老の温和な医師と話していると、気持ちが軽くなる。薬ももらう。何の薬か知らされていないが、それを飲むとよく眠れる。
「どうです。体の調子は」医師がのんびりした口調で聞く。
「ええ、まだちょっと疲れやすくて」
「まあ、無理をすることはないですよ。この前も話しましたがPTSDの一種ですから、別に不思議なことじゃありませんよ」
その言葉はすっかり覚えた。心的外傷後ストレス障害の略称だ。
「妹さんは、何をなさってるんですか」
「うちでおとなしくしてます。でも、あまりこたえてないみたいなんですよね。テレビ見て笑ってるし、食後はケーキもたいらげるし」
医師が白い歯を見せる。
「いいじゃないですか。ふさぎこんでいるよりよっぽどましですよ」
「まあ、そうですけど……」
「一人暮らしの件はどうなりました」
「やっぱりやめようと思って」
「どうして?」
「今、家を出るとなんだか逃げ出したような感じだし。母にも悪いし」
「そんなに気を遣うことはありませんよ。案外、あなたがいなくなったら、おかあさんと妹さんは、助け合って仲よくやっていくかもしれない」
「ええ……」
「おかあさんと妹さんが仲よくなるのを、あなたは望んでますか」
「ええ、もちろん」
「あなたがそこに加わらなくても?」
よく意味がわからないので黙っていた。
「子供のころ、おかあさんを独占したいと思ったことはありますよね。……いや、もちろん一人っ子以外は誰でもあることですから、深く考えなくていいんですが。今も、そういう気持ちはありますか」
「いいえ」みどりはかぶりを振った。
「じゃあ一人暮らしをなさい。一度やってみるべきですよ。少し離れてみるのもいいもんですよ」
「ええ、母に相談してみます」
みどりは椅子に深くもたれて窓の外に目をやる。遠くに雲を突き刺しそうな高層ビル群が見える。クリニックはビルの八階にあり、この景色を見るのもみどりの楽しみのひとつだ。天気のいい日は富士山まで姿を現す。
「ところで、薬はまだ毎日飲んでますか」
「はい」
「一日おきにしようとかは思いませんか」
「まだ、ちょっと怖くて」
医師は、調子がいい日はなるべく薬を飲まないようにと言っている。みどりは一度そうしてみた。しかし、その晩はまったく眠れず、しかも得体のしれない恐怖感に襲われパニックを味わったので薬は欠かせない。
「半分にしてもいいんですよ」
うなずくものの、やはり躊躇する。
「御殿場であったことは前に少し話してくれましたよね」
「ええ」
「今日はもっと話してみませんか?」
みどりは顔が強張りそうになるのを隠し、笑みを作る。
「でも、あれですべてなんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。犯人は怖い人じゃなかったし、ついてきた社長さんも悪い人じゃなかったし、だいいち妹がいたし」
「じゃあ、問題はあとから来たやくざ者たちだ」
「ええ」
「まだ怖いですか」
「はい、少し」
「連中は刑務所に入っている。当分は出てこれない。それでも?」
「はい」
本当はちがった。夜、ふと胸を圧迫するのは川谷を殺そうとしたことだ。自分の手で川谷の足を押さえた。そのことを考えると今でも叫びたくなる。
「……ま、気長に治していきましょう」
たぶん、あの一件に関しては誰にも打ち明けないだろう。川谷がどうして警察に言わなかったかはわからないが、許してくれた、そう考えることにした。
「仕事は楽しいですか」
「はい」みどりはそこで初めて自然な笑顔を見せた。
「ふふ。本当に楽しそうですね」
医師もうれしそうにうなずいている。
会計を済ませるためにロビーに出た。小窓からは西の空が見えた。
風が出てきたのだろうか、まだらな灰色の雲がゆっくりと移動している。
視線を遠くに向けると、雲のところどころにほころびがあり、そこから光が差しこんでいた。
高層ビルのひとつだけが陽光を浴び、宝のありかのようにキラキラと輝いている。
もうすぐ本当の夏だ。
その美しさに、みどりは思わず見とれている。
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●主要参考文献
「はみ出し銀行マンの勤番日記」 横田濱夫著 オーエス出版社
「銀行のヒミツ」 別冊宝島編集部編 宝島社
「どんとこい銀行」 岩井義照著 サンマーク出版
「がんばれ!ニッポン『最底』企業」 相川俊英著 ダイヤモンド社
「全国監獄実態」 監獄法改悪とたたかう獄中者の会編著 緑風出版
「逮捕・拘禁セキュリティ」 佐藤友之著 緑風出版
この作品はフィクションであり、実在する個人、団体とは一切関係がありません。
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底本
単行本 講談社刊
一九九九年二月一八日 第一刷