[#表紙(表紙.jpg)]
バイブを買いに
夏石鈴子
もくじ
バイブを買いに
やっとお別れ
ばかおんな・ばかおとこ
心から
マ マ
虫の女
白い花、そして赤い実
おはようを言うために
あとがき
文庫版あとがき
[#改ページ]
バイブを買いに
全然眠れないから、台所のあさりのことを考えることにした。セックスの後の、ぼんやりした体で考えごとをするのは、わたしの癖だ。
むぅちゃんの背中にそっとくっついて、脇の下から手を入れて抱きついてみる。わたしのよく知っている甘い匂いがパジャマからゆっくり伝わってくる。
むぅちゃんは、ネルの灰色のパジャマを着ているけれど、わたしはスリップのままだ。紺地に白い水玉のスリップは、肌を白く見せる。去年の夏は焼かなかったから、肩は白いままで丸くてすべすべしている。お布団から出ている肩が、いつもひんやりしているから、パジャマを着ろ、と何度も言われるけどパジャマは着ない。理由は@ゴムの跡がおなかにつくAセックスする時、上着のボタンをはずしておっぱいをなめられると「乳飲み子」という言葉が頭をよぎるBセックスの後、ほうぼうに散らばったショーツやパジャマを拾い集めて、もう一度着る時「やれやれ」なんて感じがして、恥ずかしい。
かといって、パジャマの上だけとか、下だけ脱いでセックスするのは、もっと恥ずかしい。
「合体」したいだけで露骨だと思う。
わたしはセックスするなら「合体」よりも「情交」がいい。きれいに裸になれないと情交にならないからパジャマは着ない。パジャマを着るのは生理の時と、出張の時だけ。
わたしのおなかに大きな背中は、ぴったりついて体温が穏やかにしみてくる。こんな風にしていると、わたしたちは生まれたての仲良しの卵みたいだ。
あさりってどうやってするんだろう。お互い向き合って、大きく口を開け濡れた中身を合わせるのか。
それとも貝の隙間から中身をすべらせ合うのだろうか。それに、あさりはどうやって相手を好きになったり、選んだりするんだろう。あの貝の模様はそのためについている何かの暗号なのだろうか。
襖を静かに開けて、台所に行った。あさりはステンレスのボウルの中に沈んでいる。重なっている貝なんてもちろんひとつもない。どの貝もほんの少しだけ中身を見せている。銀色のボウルの中で、肉の色が柔らかい。そのはみ出した部分を触ってみると、ぴゅっと引っこんでしまった。この部分はあさりの一体どこなんだろう。
二時だというのに、あさりはまだ起きていたのかな。
むぅちゃんを起こさないように、そっとお布団に戻る。足が冷たくなったから、驚かさないように少し離れた。
脇から手を入れて、おなかを触る。そして、手をもっと下にしておちんちんを探ってみた。
さっきまであんなに大きくて硬かったのに、今はねずみの赤ちゃんのように、くったり小さくて柔らかい。その柔らかさがかわいくて、もう一度なめて大きくしたかったけどやめた。
ひな鳥を守る親鳥のように手でおちんちんを包んだら、おちんちんはぴくんと動いて、むぅちゃんが寝返りを打った。
「まだ寝ないのか」
「起こしちゃった? ごめんね。まだね、眠くないの」
「またしたい?」
むぅちゃんの指が鎖骨を撫でる。初めてセックスした時、わたしの鎖骨をきれいだとむぅちゃんは誉めた。それからは、お風呂に入るたびに、鏡に映るその場所をいつもじっと見てしまう。むぅちゃんが好きなわたしの鎖骨。
「ううん、あのね、さっきたくさんしたからもういいの」
わたしは、むぅちゃんの顎の下に頭を入れて、すっぽり包まれる。これがわたしの安心のポジションだ。
「それだったらいじるな」
「えーとね、かわいいなぁと思ってさ。むぅちゃんが寝ていたら、ちんちんまで一緒に小さくなって寝ていてね。敵から守ってあげようと思ってさ」
「かわいいなんて言うなよ」
むぅちゃんは、わたしより七歳年上で、本当は「邦夫」という名前だから、全然「むぅちゃん」ではない。それはわたしが付けた名前だ。わたしと付き合う前に、他の女にたくさん「くにお」なんて呼ばれていたかと思うと腹が立って腹が立ってどうしようもないから「わたしだけしか呼ばない名前を付けるよ。誰もこれまであなたのこと『むぅちゃん』なんて呼んだことはないでしょうね」と確かめてから付けたのだ。「むぅちゃん」の「むぅ」は、どんなことを言っても「むぅ」と返事をするからそうなった。
「ちんちんは、かわいいよ。大好き。わたしのことうんと気持ち良くするからね」
おちんちんは、さっきよりも大きくなってそして、ゴムのような弾力を持ち始めていた。むぅちゃんの指が、そっとわたしの前髪に触れた。
「おまえはね、今日もいかなかっただろう。それで寝られないのか。そうなんだろう」
それは静かな声で、怒ってもいないし悲しそうでもなく、普通にむぅちゃんは言った。
わたしの体の中には方程式がある。
それが本当のところ一体どんなものなのか全然わからなかった。
教えてくれたのは男の子たちだ。うんとたくさんじゃないけれど、何人かの男の子たちがわたしに教えた。
でも、解いたのはむぅちゃんだ。あっさりとむぅちゃんが解いてくれて、わたしは本当に嬉しかった。
ああ、こういうことなのね、とまるで細胞が全部入れかわったみたいなその感覚を体全部で味わった。髪の毛一本だって、きのうとはもう違うんだから。何よりも、その相手が今までで一番好きなヒトだったから嬉しかった。むぅちゃんが好きだけど、わたしをこんなに気持ち良くしてくれた、むぅちゃんのおちんちんも「いい奴」だと思う。
おちんちんは本当にわかりやすい。わたしのことを思って、わたしとしたいと思って大きくなっているおちんちんは、いつだってわたしの胸を打つ。かわいくって、ぐっとくる。まるで、しっぽを振りっぱなしのバカな犬みたいだ。
おちんちんが大きくなっちゃって、ハートが丸出しになった男の子は、少し怒っているように見える。でも、それはどうしてだろう。
小さくてまだ柔らかなおちんちんが、口の中で大きくなっていくのも好きだ。口に含んでいると、ほっとする。お母さんのおっぱいに吸いついている子供ライオンの気分になってしまう。
その時、わたしは一体どんな顔でおちんちんをくわえているのだろう。多分、一生懸命でそれでいて嬉しそうな、うっとりした顔だと思う。ずっとくわえて優しい気分で、もうこのまま寝てしまってもかまわないっていう時におちんちんは、口から抜かれてわたしの中に入ってくる。
気持は、おちんちんを伝わって、わたしのハートにたどり着く。そんな風に思うようになったのは、むぅちゃんと暮らすようになってからだ。
前に、セックスのうんと上手な人を知っていた。二十三歳の頃だ。今、思えば上手というよりも、場数を踏んで慣れていた、といったほうが正しいのかもしれない。あまりにも冷静にするから、わたしはだんだん、人体実験をされている気がしてきて恥ずかしくなった。
ここをこうすると女は感じるものなんだけど、と指は実に正しく動くし、的確に駒を進めるというセックスで体は気持ち良くなった。確かに。
でも、あのおちんちんは、わたしにとって「いい奴」ではなかった。体の中に入ってくるたびに、わたしの優しいふわふわした気持が削られていって、セックスをすればするほど心がしーんとするのだった。ある時、おちんちんの根元に輪ゴムが巻かれていることに気付き、バカバカしくなって別れた。あのおちんちんが妙に黒っぽかったことは今も覚えている。
私が使っている化粧水の底にはバラの花びらが沈んでいる。使うたびに容器の下の方で、少し色褪せたベージュっぽい花びらが、ゆっくりと上下する。その花びらを見つめるたびに、わたしは思う。わたしの体を縦に切ったとしたら、こんなふうに、むぅちゃんの液もわたしの中にゆったりと澱《おり》のように残っているだろうと。そして、それがわたしにはもう欠かすことのできない「成分」になってしまったということも。
でも、むぅちゃんの体に、何かわたしのものが残っているのだろうか。わたしはむぅちゃんに与えることができているのだろうか。わたしは一体何を与えているのだろう。そんな思いで頭は一杯になり化粧水を急に激しく振ったら、花びらはピンクの液体のなかでぐるぐると渦を巻いて荒れ、それからぼんやり散っていった。
わたしは、うんと足を大きく広げることや、明るい所で体を丹念にいじられたり、見られたりしても全然恥ずかしくない。静かな指先でそっと触っているむぅちゃんを見ていると、この人は子供の頃、大きなクワガタを見つけた時もこんな顔をしたんだろうなぁと真剣な気持になってしまう。見える? と聞くと、顔をあげずに見えると言うから、もっとよく見てね、とわたしは体を少しずらした。
こんなの、女の子はみんな同じよ。今までだって見てきたんでしょうと、ある時わたしが笑って聞くと、見たいとも思わなかったし見もしなかった、こんなことしたのはおまえだけだと顔をあげて、むぅちゃんは真面目に静かに言った。
ああ、わたしはこの人だけの女になりたい。そう思ったのは、その瞬間からだ。できるならこの先もう他の男とは寝たくない。ずっとずっと、この人のおちんちんだけが欲しい。この人がしたいことは、どんなことでもしてあげたい。わたしの体で、気持ち良くしてあげたい。なんでも、なんでも、わたしがしてあげる。セックスの途中で急に泣き出したわたしを、むぅちゃんは驚いてまじまじと見つめ、それから強く抱き締めた。鼓動と降り始めた雨の音のなかで、わたしは声を上げて泣いた。
前髪に触れられると、小さな子供に戻ったような気がする。わたしの髪は少し明るい色で、そして細くて柔らかい。
「あのね、むぅちゃん」
わたしは、顔をむぅちゃんの体から離した。
「いかなかったのは本当だよ。でも、いかなくってもわたしはうんと気持ち良かったんだよ。よく濡れてぬるぬるだったでしょ。だからね、そんなわけじゃないの、寝ないのは」
「なんでいかないんだよ。前は何度もいったじゃないか」
むぅちゃんは、髪から耳に指をすべらせてわたしの耳をゆっくり撫でている。わたしの耳は、そうじゃないけど、むぅちゃんの耳はとても冷たくて、胸にくっつくといつもひやっとする。
「えーとね、むぅちゃんのことが好きだからちんちんが入ってくるだけで、よくなっちゃうのかも。それに、いっぱいしたから慣れちゃったのかもね」
わたしは笑ったけど、むぅちゃんは全然笑わない。でも、おちんちんは、うんと硬くなっている。
「おまえはね、俺のでいきたくないのか。それでいいのか」
「いくと嬉しいけど、いかなくても嬉しいの。日によって違うんだよ。あたしはね、むぅちゃんが、あたしの中でいくと嬉しいよ」
それは本当のことだ。
むぅちゃんが、わたしより先にいく時、必ず、ごめんって言うけれど、それは全然ごめんじゃない。わたしは嬉しいんだから。いく時には体もぴくっと硬くなって、わたしはむぅちゃんを強く抱き締める。ほっぺたに、むぅちゃんの髪が当るその柔らかい感触は、最初の頃わたしをうんと悲しくさせた。何人の女の子が、この感触を知っているのだろうと思ってしまったから。でも、今はもうそんなことは考えない。わたしの中でむぅちゃんがいくと、ああ、この人はわたしの男だとしんみり思う。
わたしは、いくふりなんかしたことがない。だって、いかなくても気持ちいいんだから。いく、いかないは重要じゃない。わたしがむぅちゃんとこうしているっていうことが、わたしには一番大切なことで、それでハッピーなんだから。
なんで、そんなシンプルなことがわからないの。
「俺のでいけよ。おまえ、好きだろ」
むぅちゃんが? それとも、むぅちゃんのおちんちんが? そう言う前に、むぅちゃんは、わたしのスリップの下に手をすべらせた。さっきしたばかりだったから、わたしはショーツをはいていなくて、まだぬるぬるしている。
むぅちゃんは、怒ったようにおちんちんを強く入れて、なんだか全然知らない人のように乱暴にわたしをつかむ。
「いやだってば。いつもみたいにしてよ」
おっぱいの先も、強くつねりあげて痛い。
「おっぱい優しくしてよ。いやよ」
「それじゃ、おまえはいかないんだろ。いかせてやるよ」
「いかなくたって、いいんだってば。優しくしてよ。あんたは、あたしの男でしょ。痛くしないでよ。こわいったら」
おっぱいは、じんじんして大きくなったままだ。むぅちゃんは、わたしをいじめているみたいに、おちんちんをどんどん動かす。わたしは、悲しくなって、むぅちゃんの背中に手を回して抱きついた。心臓がトクトクいっている。
むぅちゃんは、ようやく手をゆるめて、わたしを抱き締め、おちんちんもゆっくり動かしてくれた。
「ごめんな。痛かったか」
「もう、痛いよ。むぅちゃん、よその人みたいだった。本当にこわかった」
涙が出そうになったから、むぅちゃんの肩に顔を強くつけた。
「むぅちゃんに、あんな風にされると、あたしはいやだよ。あたしは、むぅちゃんのことが好きなんだから、大事にしてよ」
わたしは、むぅちゃんにしがみついた。むぅちゃんの熱い舌が、耳をなぞって、耳の穴に入ってくる。髪をくしゃくしゃと撫でられる。
「おまえね、バイブレーター買ってやろうか。それで、いかせてやるよ」
わたしは、えっという顔でむぅちゃんを見た。いやらしい顔でなく、むしろ優しい顔でそんなことを言っている。
「いやよ。あたしの体の中には、そんなもの入れたくないよ。むぅちゃんの、おちんちんだけがいいよ」
「俺のためにいってくれよ。おまえがいく時の顔が好きなんだよ」
むぅちゃんは、そういって急に動きが速くなって、わたしをきつく抱き締めた。
きのうのあさりは、朝ごはんのおみおつけになった。
一緒に暮らし始めた頃、朝ごはんってなんていやらしいんだろうと照れてしまった。前の晩さんざんなことしたくせに、そんなこと知りませんっていう顔でお互いあじの開きや、お漬物なんか食べちゃって。おまけにお茶も飲む。部屋は明るいし。でも照れていてもしょうがないって決めてから、わたしはどんどん楽しくなってきた。セックスした人と一緒に、向かい合って朝ごはんを食べる。そしてまたセックスする。セックスが「ごちそう」じゃなくて、普段のことになったのが嬉しくなった。
むぅちゃんは、半熟卵をすすっている。八時半だ。もうそろそろお茶を淹《い》れないといけない。むぅちゃんのほうが三十分早く家を出る。わたしは、まだごはんが半分残っていたけれど、台所に行ってお茶の仕度をした。
お茶を飲み終って、むぅちゃんが鞄を持って玄関に行く時、これでと二万円くれた。えっ、何このお金って訊くと、きのうの、とだけ言うから、バイブレーターのことは本気で言ったんだなと、ちょっとびっくりした。
「この金で買ってこいよ。おまえがいいのを選んでおいで」
朝のこんな時間に、むぅちゃんはスーツを着てバイブレーターの話をしている。
「むぅちゃん。このお金、いらないよ」
「なんだ、まだ怒っているのか」
「ううん。違うの。むぅちゃんのお金で買えないよ。わたしが使うものだから自分のお金で買うよ」
そう言って、二万円はむぅちゃんに返した。
「でもね」
わたしは、照れたけど我慢して言った。
「買ってきたらね、それ、むぅちゃんがわたしの中に入れて。自分でするのはいや」
次の日曜日、わたしはそのお店に行った。コンビニエンスストアでレディースコミックを買い、広告を探してそこに決めた。女性専門と書いてあったからだ。電話で行き方を訊いたら、落ち着いた声の女の人が、駅からの道順を丁寧に教えてくれた。行ってみたらそこは、わたしの行く美容院のすぐ近くだった。
マンションの五階にそのお店はあって、エレベーターに乗る時、誰かが乗ろうとしたけれど、わたしは「閉」のボタンを押した。
その部屋だけドアが半開きだった。ここかなぁとのぞいたら、わたしより少し年上でピアノの先生のような女の人が中から出てきて、どうぞと優しく言った。
部屋に入ると誰もいなくて、お客はわたし一人だった。選んでいる時の顔を他の客に見られなくて良かったけれど、でもこうなったら買わないと帰れない。
お昼前の明るい光が差し込むワンルームの棚には、びっしりとバイブレーターが並んでいた。初めて見るそれは、変に大きくてこんな物を入れるのはやっぱりいけないんじゃないか、と思えてくる。お店の方針なのだろう、店の女の人はわたしに声をかけず、コンピューターの画面に向かって仕事を続けた。その人とバイブレーターは全く似合わない。
おちんちんは、わたしを思って大きくなるのに、ここにあるのは最初から大きくなっていて、別にわたしを求めて大きくなっているんじゃない。ただ単純に入れるために大きくなっているわけなのね。
むぅちゃんは、わたしがいいと思うものを買ってこいと言ったけど、今はっきりわかった。こんなのやっぱりわたしは嫌いだ。
かといって、左側にあるトウモロコシ形のものを、入れる気は全くしない。イチゴ形もピーマン形も嫌だ。こんなに間抜けなものを入れて良くなってしまったら、自分が嫌になる。
わたしは、バイブレーターに囲まれ一日中店番をするこのきれいな人に、ふと何もかも打ちあけたくなった。わたしは別に欲求不満じゃないんです。ちゃんとセックスする相手もいるんだけど、その人がバイブレーターでわたしをいかせたいって言うからここまでがんばって来ちゃったんです。こんな大きいの入れちゃって、わたしの体や心は大丈夫なんでしょうか。バイブを入れられてその人の目の前でいってしまったらやっぱり嫌われちゃいそうな気がするんです。それに、もしバイブレーターで気持ち良くなってしまったら、彼のおちんちんを物足りなく思わないでしょうか。わたしはそうなりたくないんです。彼のおちんちんはわたしにはすごく良くて、入ってくるだけでうんとハッピーになれるんです。あの人のおちんちんだけで本当はいいのに、でも今は、自分の体の中に入れるバイブレーターの大きさを決められなくて困っているんです。こんなにいろいろあって、どうやって決めればいいのかわからないんです。他の人たちはどうやってバイブレーターの大きさを決めるんですか……。
でも、そんなことは言わないで、わたしがやっと口にできたのは「あの、ずい分どれも大きいんですね」ということだけだった。
彼女は作業を中断して棚の前にやってきて、ちょっと笑った。
「ええ、だいたい大きめに作ってあるんですよ。初めてでしたら、この辺がいいかもしれません」
まるでブラジャーのサイズをぴったり当てる人のように、バイブレーターをひとつ選んでくれた。この人は、なぜそれをわたし向きだと思うのだろうか。
その白いバイブレーターは、細いドレッシングの瓶ぐらいで、スイッチを入れると、いやいやをするように体全体をくねらせた。ちょうどむぅちゃんのおちんちんぐらいの大きさだ。
「これは音も静かですし、とてもいいと思いますよ」
音のことは全く考えていなかった。彼女の話によれば、安いものは音が大きくて使っている途中で気が散ってしまうらしい。とんまだけれど、実にリアルなアドバイスだ。
「でも、この動きは本当の男の子の動きとは全然違うでしょう? これで気持ち良くなったら男の子に悪いような気がするんです」
彼女は、そうねという感じで笑って、
「男性器とは全く別の物とお考えになったら楽ですよ」
と、いたわるようにそっと言った。
わたしたちは、ぷるぷる動き続けるバイブレーターを見つめながら話した。この人も使うのだろうか。このきれいで優しそうな人も。
「もし男性器に近いものをご希望でしたら、こちらがそうです。振動するタイプのものではありません」
足元の籠には、バイブレーターより小振りのディルドー(張形)がいくつも入っていた。おちんちんそっくりのピンクのディルドー。知らない人のおちんちんみたいで、これを使うなんて考えたくもない。
結局わたしは、彼女が選んでくれたものよりもう少し小さい、一万三千円の紫色のバイブレーターを買うことにした。念のため確かめますね、と彼女は電池をセットして、スイッチを入れると、こもったようなモーター音がして、らせん状に体が動いた。わたしは、これでいってもいいし、いかなくてももういいや、と思い始めていた。
無地の紙袋に入れ、さらに銀色のビニールに入れてくれたバイブレーターは、夏みかんぐらいの重さだった。下りは階段をゆっくり歩くことにした。この階段は暗くてひんやりしている。
その時は向き合って、むぅちゃんの顔を見ながらしよう。どんな顔で、わたしを見ているのか知りたいから。バイブレーターを入れる前に、まず、むぅちゃんのを入れてそして、キスして、ちゃんと「入れて」ってわたしが言わなくちゃ。バイブレーターの入ったわたしを見ている間、むぅちゃんのおちんちんは、ずっと大きいままだろうか。そして、もしバイブレーターで気持ち良くなってしまったとしても、隠さないでおこう。むぅちゃんはきっと許してくれる。
一階まで来て、マンションを出たら、急に光が強く見えて空はすごい青空だった。わたしは包みを胸にしっかり抱いて大またで歩いて行った。早くむぅちゃんに会って、ほらねと見せたかった。
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やっとお別れ
右側が空っぽだったから、はっとして目が覚めて、それから、ああ今日は土曜日なんだっけと思った。体をねじって、目覚まし時計を見たらまだ七時半だった。ほんの少し体を起こして、襖の隙間から隣の部屋を見てみたら、たかちゃんが靴下をはいているところだった。わたしが洗濯をした黒い靴下をはいて、たかちゃんはお家に帰る。小田原のお家に。薄ピンクのバラが咲いていて、奥さんと、二人の女の子のいるお家に帰る、わたしを置いて。それは、今日は土曜日だから。月曜日から金曜日までわたしの所にいるから、土曜日と日曜日はお家に帰る。そうすれば、あとの五日間は美砂子と一緒にいられるんだからそうするんだよ、とわたしに何度も言った。どうして帰らなければならないの、と言って、たかちゃんを困らせる度に、たかちゃんは、わたしの頭の上に手を置いてそう言う。月曜から金曜が許されるのなら、あとの二日間だってもういいんじゃないの、とわたしは思う。でも、たかちゃんがそうしたいなら、そうすればいい。
たかちゃんは、大きな背中を丸めて、靴下を持ってはくところだ。わたしは、靴下をはく所を見るのが好き。あんな小さなものに、大きな足を入れようとしている時の顔が好き。大袈裟な真剣さじゃなくて、何気ない真剣な顔をしていて、おかしくて、そしてかわいい。ここから飛び出して、背中を押してやりたくて、うずうずする。でも、その気持をどうにか我慢する。わたしの知らない三十歳の時のたかちゃんや、二十歳の時のたかちゃんや、中学生の時のたかちゃんも、こんな顔をして、こんな格好で靴下をはいていたのかと思うと、何かが透けて見えてくる気がして、いつもたかちゃんに気付かれないようにそっと見ている。靴下をはいている所が好きよって、一度でも言ってしまえば、すっかり台無しになってしまうから、これはわたしの心の中だけに置いてあることだ。
たかちゃんは、トランクスと靴下だけの格好で着替えを探している。この世で一番間抜けな格好とたかちゃんが呼ぶ姿だけれど、わたしにはそうは思えないよ。たかちゃんだったら、どんな格好でも平気。
「たかちゃん」
「あっ、起こしちゃったか。まだ早いんだから、美砂子はもっと寝ていなさい」
「着替えはね、たかちゃんの坐る所の左側にたたんで置いておいたよ。わかる? コンセントの近くだよ」
「ここか。わかったから、寝てなさい」
もしこれが奥さんなら、いくら眠くても出掛ける旦那さんのために、ご飯の仕度をしなくてはならないのだろう。でも、わたしはたかちゃんの奥さんじゃないから起きない。そんなことは、奥さんにやってもらえばいい。わたしは、そうしなくたってたかちゃんに大事にされているんだから。そうよ、わたしは別にお家のことをやる人間と期待されているわけじゃないんだから。それを思うと、自分にとても値打ちがあるように感じられて、安心する。わたしは寝そべったまま言う。
「たかちゃん、お腹空いてるんじゃないの」
「いいや、空いてない」
「紅茶とトーストで良ければ、今すぐするよ」
「いいよ」
「わたしも食べるから、手間は一緒よ。もし時間が大丈夫なら食べる?」
「美砂子が食べるなら一緒に食べたいよ」
この人は、遠慮しているのだ、帰る前だから。わたしはすたすたとたかちゃんの前を歩き、キッチンから声をかけた。
「パンを焼くからね、その間にティーカップ出しておいてくれる?」
「えーと、どれだっけ」
「いつも使ってるじゃないの、白地に葉っぱの模様のお茶碗よ」
「あ、ごめん、そうだった。淹れてくれるのを飲んでるだけだから、模様なんて見てないんだよ。もう忘れないから」
多分、その後には「怒るなよ」と続くのだろうけど、それを言わないのがたかちゃんなのだ。
「たかちゃん。言っておくけどわたしは怒ってないからね。ただ毎日使っているお茶碗の模様をわからないって言うから、ちょっとびっくりしただけ」
「そうなんだよ。だいたい俺はいつもそうなんだよ」
いつも。たかちゃんの今言ったいつもって、どこのいつもなんだろう。わたしの知っているいつも? それとも、小田原でのいつも? それを考え出すともう限《きり》が無くなるから、考えるのをやめた。それに、そんなことにこだわると、ルール違反になってしまう。
わたしとたかちゃんが決めたルールは、一つだけ。一緒にいる時は、仲良くしていよう。これだけ。これが守れなくなったら、一緒にいるのをやめようと一番最初に決めたのだ。あの時、たかちゃんはこう言った。別に、仲良くなくたって、一緒にいることが楽しくなくたって、人っていうのは一緒に暮らせちゃうものなんだよ。信じられないだろうけどね。でも、俺は美砂子のことが好きだし、美砂子だって俺のことが好きだろ、だったら、一緒にいられる時は仲良くしていよう、もし、そうすることができないんだったら二人で一緒にいても、もう意味がないから別れよう。たかちゃんにそう言われて、わたしはクリーム色の小さなシェルターを作っているような気持になった。悲しいことが入り込まないシェルター。いらいらした気持が入ってこないシェルター。定員二名の小さなシェルターを、わたしとたかちゃんはこの世に作ったのだ。
「パン焼けたよ。二枚食べる?」
「一枚でいいよ」
「一枚で大丈夫? 途中でお腹が空くと機嫌が悪くなるんじゃないの」
「うん。もう一回パン焼いてもらってもいい?」
「いいよ。手間じゃないもん」
「美砂子、ありがとうね、土曜日なのに」
ううん。たかちゃん、それはね、違うの。たかちゃんがお家に着いた時、お腹が空いてなければ、奥さんが作った朝食だか昼食だか知らないけど、それを食べずに済むでしょ? わたしはね、奥さんが作ったお料理が、たかちゃんの血や肉になるのが本当に嫌なのよ。頭に来るの。それだけなのよ。奥さんに言ってやりたい。たかちゃんは、本当は玄米のごはんなんて嫌だって。うちはピカピカの白いごはんだよ。ハーブも、くさくて嫌だって。知っていた? 奥さん? 別に、お家に帰るたかちゃんを許してるわけじゃないの。いい人のたかちゃん。わたしは本当にわかっている?
パッタンとドアの閉まる音。この音にはいつまでたっても慣れない。自分が表に出る時には置いていく音だけれど、たかちゃんが帰る時には、わたしが聞かなければならない音だ。置いてきぼりの音。パッタン。玄関まで見送って、その音がすっかり消えてなくなるまで、わたしはそこに立ったまま。そして、やっと部屋に戻る。二人分のお皿とティーカップを流しに運ぶ。洗う気にならないから、やっぱりお布団に戻る。たかちゃんの寝る右側に寝てみる。まだ、ほんの少したかちゃんの熱が残っていた。わたしは、その熱を自分の体に移しながら、たかちゃんを思う。もう駅に着いたかな。駅で朝日と日刊スポーツ買ったかな。今日は、品川に出るのかな。それとも、東京駅に出るのかな。ずっと前、いたずらをしてこっそり駅へ向かうたかちゃんを付けたことがある。少し前のめりにたかちゃんは、歩いていた。売店で新聞を買って、そしてすぐ側の電話で電話をかけた。わたしは、そんなことに負けるもんかと思って、走って部屋に戻った。あとを付けたわたしが悪い。小田原は遠い。小田原に着くまで少し眠るのかな。わたしのこと、ちょっと思ってお家に帰るかな。どうだろう。わたしが考えるのは、そこまで。その先はもう考えない。そこから先は、わたしには関係のないことだから。シェルターの扉は、ぴったりと閉じられている。わたしは、少し眠ろうと思う。これが、わたしの土曜日の始まりだ。
結婚している男と付き合うということで、罪悪感を感じることはなかった。どんな恋愛でも、始まってしまえば結局終るまで続いてしまうのだから。それは多分、災難に似ている。もし奥さんがはっきりとわたしの前に出て来たら、わたしはやめただろう。自分の結婚生活を守ろうと、真剣に抗議するのなら、わたしは彼女の立場を尊重しただろう。けれど、たかちゃんの奥さんという人は、全然そうではなかった。
五日間自宅に戻って来ない自分の夫を、そのままにしている。着替えを持ち出し、下着も靴下も次々と新しい物が増えているのに、何も言わないのだと、たかちゃんは言う。
「なんで? 気にならないのかしら」
「きっと、賢い人なんだろ」
「賢いって何に対して」
「必ず自分の所に帰って来ると思ってるんだよ」
そんなのは賢いとは呼ばないんだと、わたしは思う。思い上がっているか、怠け者かそのどちらかだ。嫌なことは嫌だと言えばいいのに。行かないで、と言えばいいのに。家に戻って、と言えばいい。そういう人は、たとえどこかで泣いているとしても、わたしは全然胸が痛まない。もしも賢いのならば、そんな澄《すま》した態度はちっとも役に立たないのだと覚えればいい。たかちゃんが戻ることで、安心するのなら無駄な安心をすればいい。わたしは、あなたの知らないたかちゃんのいい所、すてきな所を沢山知っているのよ。あなたは、あなたの夫がどんなに、わたしの所でリラックスし、楽しんでいるか知らないでしょう。言っておくけれど、わたしを選んだのは、あなたの夫なのよ。わたしが、あなたの夫を選んだわけじゃない。
月曜日の夜、たかちゃんが戻ってくる時、たかちゃんに膜ができてしまっているようで、少しこわい。二日間、お家にいて、たかちゃんにお家の事柄がしみ付いてしまったようでこわい。わたしの部屋にいても、今朝までいたお家を恋しがっているようでこわい。たかちゃんは、会いたかったよ、と言って笑うけれど。
だから、月曜日の夜にたかちゃんとセックスをする時、少し上目遣いになっている。戻ってきたたかちゃんの夏の雨のような匂いに包まれるたび、わたしは『ハックルベリィ・フィンの冒険』を思い出す。
それは中学生の頃、学級文庫用に出した本で、一学期の終り頃、棚からなくなってしまった。すごく大事な本ではないけれど、自分の本が目の前からなくなってしまうのは嫌な感じがした。どの子が読んでいるんだろう。見知らぬ部屋の勉強机にぽんと置かれているわたしの本。まるで、その子の物のようにその部屋に馴染んでいくわたしの本。それを思う時、自分が汚れていくような気がした。そして、夏休みが終った九月に、担任の黒木先生から「息子用に借りていた」と、『ハックルベリィ・フィンの冒険』を返された。
その本を手に持ってみると、前より少し軽くなってしまったようだし、表紙もどことなく傷んだような気がした。家に戻ってもう一度読んでみると、ページは一ページごとにバラッと開くようになってしまって、本の中心には黄土色のカサカサした粉が、はさまっていた。何だろうと、本を立てて粉を落としてみたら、それはクッキーのくずだった。他のページには、薄茶色のしみがページいっぱいに広がっていた。匂いをかいでみたけどよくわからなくて、たぶん紅茶だろうと思うことにした。担任教師の息子は、クッキーを食べ、紅茶を飲みながらわたしの本を読んで、そして紅茶をこぼした。そうして、そのまま返してきたのだ。自分の跡をたくさんつけたまま。わたしの本には、わたしの知らない誰かの時間がいっぱい付いて戻ってきてしまい、気持が悪くて、そのままごみ箱に捨てた。
だから、わたしは、月曜の夜、上目遣いになってしまう。たかちゃんに、わたしの知らない何かおそろしい物が付いていないかどうか確かめる。そして、目で見てもよくわからないから、目をつむり、たかちゃんの胸にそっと頬を付ける。わたしは点検する。目を閉じたまま。わたしの知らない余計なものが、たかちゃんの中に発芽していないかどうか。たかちゃんは、本当にここに戻りたくて戻ってきたのかどうか。そして、たかちゃんの心は、今わたしの上にあるのかどうか、わたしは目をぎゅっと閉じたまま一生懸命、答を探り当てようとする。
最初の頃、セックスをするたびに「たかちゃん、わたしが誰だかわかる? わたしの名前を呼んでして」と、わたしはいつも言った。「わたしは奥さんじゃないんだからね、この体は、奥さんとは違うでしょ」と、たかちゃんの目を見て言いながらした。誰でも同じと思って、セックスをされたらたまらない。わたしはわたし。奥さんとは違う。奥さんじゃなくて、わたしを選びとってセックスをして欲しかった。
「わかってる。全然違う」。たかちゃんは、そういって、わたしのお尻から背中へ指を滑らせる。わたしは、そうして体全部の肌でたかちゃんの体を覚える。
わたしは、たかちゃんを決して間違えない。今までセックスをした男の子と、まじりあったりしない。たとえ、目隠しをしても、わたしはたかちゃんの体をすぐに見つけられると思う。それは手だ。たかちゃんの手は大きく、そしてふっと、柔らかくわたしの手を包むのだけれど、その手と同じように、たかちゃんの体は、わたしを上手に包む。その包まれる心地良さを、たかちゃんはわたしに与えた。
時々わたしはどす黒い情熱を持って奥さんのことを想像した。それは、苦しくてつらいけれど、薄笑いがこみあげてくるものでもあった。奥さん、見たこともない奥さん、わたしはね、あなたにわたしのきれいな体を見せてあげたい。触りたいなら触らせてあげてもいい。わたしの体は、どんなに気持ちいいものか、奥さんに教えてあげてもいい。奥さん、あなたはどんな体をしているの? 奥さん、最近セックスした? かわいそうな奥さん。わたしよりも年をとってて。自分よりも年下の女に夫を取られて。そしてわたしのいやらしさは、奥さんの前で、たかちゃんとセックスをしたって構わないと思うほどだった。
わたしは、たかちゃんの中身を最初に好きになった。おしゃべりしたり、食事をしたり、映画を観に行ったりして何カ月も過したから、セックスをするとは思わなかった。すっかりわかり合ってからセックスするなんて恥ずかしい。歳が二十も違う人と、セックスするとは正直言って思ってもみなかった。そんなこと、自分にできるとは思ってなかった。セックスなんて、どさくさに紛れてしてしまいたかったし、セックスをしながら中身を見つけたかった。そうでないと、洋服は脱げないのに。
わたしは一日中うつむいて仕事をしているから、誰かが部屋に入って来る時、足音を最初に聞いて、そして次にその人の顔を見ることになる。そんな風にして、仕事をしていたのに、ある時から、石川さんの足音だけは「あっ、石川さんだ」とわかるようになった。ちょっと軽めに楽な感じに歩いている足音。他の人とは全然違う。それを石川さんに言ったら「ハチ公のようだ」と、とても嬉しがってお昼ごはんをごちそうしてくれた。
あの時、たかちゃんは、わたしを犬と同じだって言ったんだよね、と言うと、そんな風に気にしてもらうことがなかったから、本当に嬉しかったんだよと笑った。だからといって、たかちゃんが淋しい暮らしをしていた、というわけでは全然ない。
ある時、真面目な口調で石川さんは言った。
「僕の話を聞いて下さい。僕には、すごく可愛い奥さんがいて、体つきがほっそりした娘が二人います。他の人が見ても、やっぱり可愛い女の子だと思う」
会社から少し離れた喫茶店に、勤務時間なのに石川さんは、わたしを呼び出しそんな話をした。
「うちの奥さんは、バラを作るのがうまいんですよ。井上さんは知らないかもしれないけど、バラを作るの難しいんです」
わたしは、石川さんに甘く見られたのかなぁ、と思って、他人のくだらない自慢話を我慢し、紅茶を半分飲んだ。
「家庭は、だからうまくいってるんです。まぁ、どの家にもあるような、小さな問題はあるけれど、全然不満はない。奥さんはいい奥さんだし」
「へえ、それはいいですね。石川さんは、立派な旦那さんで、いいお父さんで、パーフェクトなんですね。仕事もできるし」
わたしは、露骨に言った。
「わたしは、バラなんか育てようとも思わないし、難しいんなら、この先一生作りません。バラ作りは、石川さんのいい奥さんにまかせるわ」
わたしは、残りの紅茶をごくごく飲んだ。今日は、ワープロ打ちの仕事がまだあるんだけどな。
「井上さん。あなたのことが好きになりました。あなたを好きになったということが、何か家庭の問題の捌《は》け口と、思われたくなかったから、聞きたくもなかっただろうけど、家の話を聞いてもらったんですよ」
「えっ」
「あなたは、とてもいい。誰にも似てない」
「そうですか。それは、ありがとうございます」
石川さんは、石川さんだし、ちょっとそういう風に考えたことはなかったし、真面目というか、照れているのかなんだか知らないけど、筋を通して説明されてもねぇ、と思った。
「話はそれだけです。今日は、田中君のワープロの仕事があるんでしょ。早く行きなさい」
と言った。
たかちゃんの体は、わたしを甘やかす。それは、今まで知ってきた誰とも違うたかちゃんだけのこと。わたしと同じ位の年のコは、わたしとぶつかり合うような体をしていて、わたしを決して優しい気持にしなかった。わたしたちの体はお互いに弾んでしまい、まるで格闘技のようだった。けれど、うんと年上のたかちゃんの体、そしてたかちゃんの心は、わたしを特別扱いする。
「わたしはね、最初たかちゃんとしたくなかったんだよ」
「知ってる」
「なんでだかわかる?」
「結婚してるからだろ」
「そうじゃないよ。誰かのお古なんて相手にしたくなかったの。それだけ」
「誰かって」
「奥さんに決まってるじゃない。奥さんの使い古しなんて、いやだなぁと思って」
「俺は誰のものでもないよ」
「だって結婚してるでしょ」
「結婚してたって、別に奥さんの持ち物じゃないんだよ」
「へぇー、知らなかった。そうなの」
「そうだよ。それに、あんまり使い古されてもいないし」
たかちゃんは、少し笑って言った。奥さんが、ちゃんといく所を見たことがない、とたかちゃんは言った。へぇ、そうなのかなぁと思ったけれど、じゃあ奥さんはいく振りもしないんだから、正直でいい人じゃないのとも思った。
「家に帰っても、美砂子のことばかり考えてる」
「ふーん。どんな風に」
「たとえば、藤棚の下に夜、一人で坐っててすごく気持ちいいだろ、そうするとここに美砂子がいればいいのにな、って思うんだよ」
「わたしは、小田原に行っちゃったたかちゃんのことなんて、全然考えないよ」
でも、それは嘘。わたしは、たかちゃんというこの人が、どんな風にお父さんであり、旦那さんなのか、想像ばかりしていた。どんな風に笑って、そして何を食卓で話すのか知りたかった。透明人間になってずっと付けて行き、見たいもの全てを見たかった。そして、奥さんを見るたかちゃんの顔が、わたしの知っている顔と違っていたら、どんなにつらいだろう。
時々、たかちゃんは「離婚して欲しい?」とわたしに訊く。例えば、金曜の静かな夜に。お風呂にもはいり、最後のお茶も飲み、もうテレビを消そうか、っていう時に。
「下の子が中学生になったら、もうあまり父親は必要じゃないから」
たかちゃんの娘は、今、中学三年生と、小学二年生。少し年が離れている。あと五年。そうしたら、わたしは、三十二歳で、たかちゃんは五十二歳。
「たかちゃんは、わたしと結婚したいの?」
「したいよ。死ぬ時はこわいから、美砂子の側で死にたいよ」
「えっ。わたしの側で死にたいの」
「そうだよ。お袋に死ぬ時は側にいて欲しいけど、それは無理だから、美砂子にいて欲しいよ」
「ううっ、て白目になって苦しむ? なんだか、こわい」
「じゃあ、苦しまないようにするから。手を握ってくれればいいから」
「うーん、じゃあ考えておく」
わたしは予行練習のようにたかちゃんの手を握った。たかちゃんはそっと握り返した。結婚って好きな人の側で死ぬことなのか。知らなかった。
わたしは、たかちゃんは離婚しないと思うし、わたしも離婚して欲しいとは思っていない。離婚したからといって、それまでのことが全て消えるわけではない。「離婚」という新しい関係が始まるだけのことではないか。離婚すれば、きっとたかちゃんの娘だということや、元の奥さんということで公然とつながりができるのだ。電話だってかかってくるだろう。わたしから、一番遠い人たちなのに。結局ずっと追いかけてくるのだろう。そして、たかちゃんは、わたしだけのたかちゃんには一生ならない。そうよ、最初からそれは決まっていたことだ。どうやっても、このシェルター以外、二人が一緒にいられる場所はない。一緒にいられる間は、一緒にいよう。わたしは、そう思った。ボーイ・ミーツ・ガールなんて大昔のことじゃないの? 今はそうじゃないもの。誰かは誰かと付き合っているし、誰かは誰かとまだ結婚しているもの。顔中にこにこして始まる恋愛ばかりじゃないんだから。そうやって、わたしたちは月曜から金曜まで暮らした。まるで犯人のように。どこかから逃げてきて、隠れるように二人きりで暮らした。お互いの味方はお互いしかなく、この世の全てを敵にして暮らした。この暮らしが終らないようにとそれでも思いながら。
八月三日に、幼馴染みの香ちゃんが死んだ。小型飛行機の墜落事故だった。取材でその飛行機に乗って、パイロットのおじさんと一緒に死んでしまったのだ。香ちゃんは、今まで一度も飛行機に乗ったことがなかった。今度、取材の仕事で初めて飛行機に乗るんだよ、小さいのだけどね、と最後に会った時わたしに言った。あんなに嬉しそうに笑っていたのに。あれは、一週間位前のことだったか。
香ちゃんが、死んだのよと、会社に母から電話があった。わたしは、午前中で帰らせてもらい、香ちゃんの家に行った。
香ちゃんの家に向かう途中、いくつも新聞を買って読んだら、
「女性記者ら2人死ぬ」
とか、
「300人の目前、軽飛行機墜落」
「急降下、工場に突入」
と、大きな見出しがあって、わたしの良く知っている香ちゃんの嬉しそうに笑ってる写真が、出ていた。どの新聞も、二人とも即死だと書いてある。そして、予定にはなかったアクロバット飛行が当日行われたとあった。
おばさんが泣いていて、おじさんがきちんと正座して、
「生前は娘がお世話になりました」
と、言った。生前。生前だって。きのうのお昼までは生きていた香ちゃんなのに。本当に死んじゃったんだ。香ちゃんは、三日の二時半頃事故に遭い、おばさんが、香ちゃんだと確認したんだという。「惨めでしたよ」とおばさんは泣いた。
きのうは、一日なんの胸騒ぎもしなかった。いつもの月曜のように、戻ってきたたかちゃんと、ごはんを食べ、そして一緒に寝た。小学校も中学校も高校も同じだった香ちゃん。ソフトボール部で、わたしはセンターで、香ちゃんはライトだった。香ちゃんはサウスポーで、一年中日に焼けて黒かった。でも、香ちゃんの腕はすべすべで気持ち良くて、いつもわたしは撫でていた。そして、撫でるたびに黒い餅肌だね、と言って、二人で笑った。
香ちゃんは、同じ会社で付き合っている人がいて、一緒に旅行したり、出掛けたりしていた。出掛ける度に二人の写真を見せてくれた。軽井沢、金沢、蔵王。相手の人は、遠藤さんと言って、二歳年上の誠実そうな人だった。わたしだったら、彼の良さを見つけられない、そんな感じの人だった。遠藤さんも、来ていて、香ちゃんの部屋にいて、正座して下を向いていた。
「遠藤といいます」
「井上といいます。香ちゃんと、小学校からずっと一緒でした」
「あ、話は聞いていました」
どんな話を遠藤さんは、香ちゃんから聞いていたのだろう。わたしは、たかちゃんのことは、香ちゃんだけに話していた。
「今付き合っている人がいて、でも結婚している人なの」
「えっ」
「そうなのよ」
「奥さんは、知ってるの?」
「知ってると思うよ、だってわたしの家にずっといるんだもん」
「えー、奥さんに殺されないでよ、もー、美砂子はやりたいことやるんだから」
香ちゃんは、自分と遠藤さんの旅行の写真を見せる度、
「一緒に写真も撮れないってつらくないの」
と、小さな声で訊いた。
「だって、旅行になんか行けないもん。考えたこともないよ」
わたしたちには一緒にいるということが、旅行みたいな特別なことだった。
「そう。それでも美砂ちゃんがいいなら、仕方ないね」
と、言うだけだった。
香ちゃんの机の上には、遠藤さんとスキーに蔵王へ行った時の写真が置いてある。香ちゃんは、遠藤さんに後ろから抱き締められ、口を大きく開けて笑ってる。これは二月。半年前なのに。わたしは何も変わらない半年なのに。なんで香ちゃんは死ぬの?
「五年も付き合っていたんだから、もうはっきりさせてやらなきゃいけなかったのに。こんなことになるなんて」
遠藤さんは、両膝の上に置いた握りこぶしが、白く見えるぐらい力を入れていた。
香ちゃんは、お父さんからも、
「早くもらってもらえ」
と、言われたと、わたしに言ったことがある。
香ちゃんは、ちゃんと結婚する人がいたのに、死んでしまった。その日初めて会ったパイロットのおじさんと一緒に。それがうんと、悲しかった。告別式の時、遠藤さんは、親戚の方たちと一緒に坐っていた。誰もが遠藤さんを認めていたし、遠藤さんも堂々としていた。お葬式の後、香ちゃんの歯を遠藤さんにもらってもらったとおばさんが言った。
わたしは、香ちゃんがうらやましかった。もしも、わたしが死んだとしても、わたしのお葬式は両親が取り仕切るだろう。たかちゃんなんて、入る隙間は全然ない。たかちゃんは、弔問客の一人として、遠くからわたしの写真を見るだけだ。それだけなんだ。そして、もしもたかちゃんが死んだとしても、それは同じことだ。どんなに、わたしがたかちゃんを好きでいても、わたしは遠くでたかちゃんを見ているだけだろう。たとえ、病気で倒れたとしても、わたしは一番に駆け付けることは絶対できないのだ。結婚していれば、それは誰にも遠慮なくできる。結婚って、そういうことなんだな。優先順位が最初から保証されているんだ。それを思うと、自分がうんと一人ぼっちのような気がした。保証も約束もない。好きということは、なんて頼りないことだろう。心の中だけのことだ。好きなだけ。わたしは、たかちゃんを好き。本当にただそれだけだった。
香ちゃんのお葬式の後、わたしは変わったとたかちゃんは言う。それは、わたしも自分でわかっていた。わたしは、黙ることが多くなり、そして側にいるたかちゃんを見ていた。
そうやって見てみると、たかちゃんにはやっぱり奥さんの跡がいくつも付いていた。
うちのオーブントースターを見て、これで熱燗ができるよ、とたかちゃんは言う。えっ、そうかなあ、どうやってやるの? 確か、徳利の上をアルミホイルでふたをしてね、一分ぐらい加熱するんだよ。ふーん、そうなの、でもそれ、電子レンジのことじゃないの? えっ、これは違うのかぁ、じゃあ駄目だ。
あのさ、ハンカチにアイロンかけてくれる時、縦にかけたら、それをもう半分にしてから、たたんでくれる? ああ、お家ではそうなのね、そうするわ。
ごはんに味噌汁をかけて食べてもいい? たかちゃん、そうしたいの? うん、家ではできないからさ、ここではさせて欲しいんだよ。お家でできないの? 娘に汚いって言われて駄目なんだよ。
たかちゃん、食べ終ったお茶碗運ぶの手伝ってくれる? えっ、そんなことしたことないよ。でも、今日はたくさんだし、手伝ってよ。うん、いいよ。
もう歯磨がないよ。ああ、そうだった今朝なくなるって思ってたんだ、コンビニに行って、買ってくるね。美砂子は買い置きしてないの? うん、してないの、ごめんね。そうか、してないのか。
そういう小さな事柄からも、奥さんは透けて見えてくる。電子レンジでお燗をする奥さん。そして、それを見ているたかちゃん。わたしは、アイロンがけをする度に、奥さんを思うようになってしまったし、たかちゃんが白いごはんにお味噌汁をかけておいしそうに食べるのを見ると、小田原のお家ではできないんだもの、と思うようになった。食事が終ったら全部、奥さんが片付けるし、歯磨や石けんは、きちんとストックされている。そんな生活。わたしのいる、こことは違う場所のお話。しっかり、扉を閉めていたつもりなのに、しゅうしゅうと音をたてて、この小さなシェルターにやっぱり奥さんたちは入り込んでいた。
わたしが黙ることが多くなると、たかちゃんは「好きだからね」と言って、わたしを安心させようとする。「好きだからね」と言われる度に、わたしも「ええ、好きよ」と思う。でも、好きという気持は変わらないけど、なんだか違う気持も同時に心に涌いてくるのも本当のことだった。
あれは、土曜日の朝だった。たかちゃんがお家に帰る時のことだった。たかちゃんは、台所の隅にたくさん溜っていたスーパーマーケットの白いビニールをもらってもいい? と聞いた。
「なんで、こんなの欲しいの?」
「ごみ箱に入れる袋がなくて困ってるんだよ」
「えっ、誰が?」
「家でさ」
「奥さんが?」
たかちゃんは、うんと平気な顔で「ううん、俺がさ」と言った。
「なんで、うちのビニール袋が欲しいの? お家にないの?」
「買い物は、生協でするから家にスーパーの小さいビニールがないんだよ」
「たかちゃん、うちのビニールを小田原で使いたいの?」
「ごめん。もう言わないよ。俺が悪かった」
食べ物に気を付けて、安全な生協の物を選ぶ奥さん。わたしだって、本当はそうしたいけど、仕事をしていれば、昼間、生協のダンボールは受け取れない。たかちゃんの奥さんは、働いていないから、生協に入っていても大丈夫。たかちゃんのお給料で奥さんはお買い物をする。そして、たかちゃんにごみ箱に使うビニールがないと言う奥さん。
「たかちゃん。これは、わたしが自分のお金でお買い物をして、そして溜ったビニールだよ。これを、小田原に持って行くって今言ったんだよ」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「たかちゃんは、今わたしの所にいるのに、もう小田原のこと考えてる」
「それは、家にいたって、美砂子のことを考えちゃうのと同じだろ」
「そうじゃないわ。たかちゃん、わたしの目の前で、わたしに関係ないこと考えられちゃうのね」
「もういいじゃないか」
たかちゃんは、煙草を吸った。きっと別に吸いたくもないだろうに。
「たかちゃん、このビニール小田原に持って帰って、お家の人たちに平気で使わせるつもりだったの」
「月曜日まで会えないんだから、もうやめようよ」
月曜がやって来て、たかちゃんが戻ってきて、何もなかったようにまたいつものように過す。でも、そんなことの全てが今いっぺんに色褪せてしまった。にせものだ。もう、わたしにはつまらない。今までと同じように大事には思えない。わたしのことだけ大切に思っているわけじゃないんだもの。そうよ、この人、他の家のお父さんなんだもん。
「たかちゃん。ありがと。もう、わたしいいや。小田原のお家に帰って」
「なんだよ。どうしたっていうんだよ。ごみの袋ぐらいのことで」
「うん、ごみ袋のことなんだけどさ、わたしの所でお家のごみ袋のことまで心配できちゃう、いい人のたかちゃんって、わたし、嫌なの」
「両方とも大事なんだよ。知っているだろ」
「うん、知ってるけど、わたしのことだけ考えられないでしょ。もう、そういうのいいや。なんだか嫌になっちゃった」
「そんなの最初からわかってたじゃないか」
「そうなんだけど、やっぱりたかちゃんは、お父さんや、旦那さんやっている方が似合うのよ、きっと。愛人にはなれないのよ。今それが良くわかった」
「そんな言い方、やめてくれ」
「だって、そうじゃないの」
「もう月曜日に、ここに戻れないのか」
「そうよ。もう戻って来ないで欲しいの」
「好きな男ができたのか」
わたしは笑った。そのあまりの陳腐さに。他に好きな人がいなくても別れることだってあるのだ。
「そうじゃないって、知ってるでしょ。たかちゃんのことは好きよ。でも、あなたは、家に帰る時間になった。ただそれだけのことよ」
「美砂子に嫌われて、うんざりされたわけじゃないんだね」
「そうよ。そうじゃなくて、わたし、もうたかちゃんに大事にされるのつらくなったの。わたしだけのこと、一生懸命考えてくれる人が欲しくなっちゃったの。それだけなの。たかちゃんだったら、わたしの言ってることわかるよね」
わたしたちは、最後に玄関の前で、抱き合った。忘れないためには、一体どれほど抱き締めたらいいのだろう。わたしは、たかちゃんの体を長い間覚えているだろう。そして、それでもきっと、そのうち悲しいけれど忘れてしまうのだろう。わたしは手放す、自分の意志で。うんと大事だったこの男を。
「鍵持っていてもいい? もう使えないけど持っていたいんだ」
靴をはいたたかちゃんは、小さい声で言った。この人の、こんな優しい気持、きれいな気持でわたしは大事にされてきた。たかちゃんは、美砂子を見ていると、自分がメジロを世話する年寄になった気がするよと言ったことがある。美砂子のやることの、どんなことも見ていたいよ、美砂子が美砂子だっていうことだけで、それでもう特別なんだよ。
「だめよ、たかちゃん。たかちゃんは、これからは、ずっとお家に帰る人なんだから。わたしの鍵を、お家に持って帰らないで」
たかちゃんは、ゆっくりとポケットから合鍵を取り出して、ぽとりとわたしの掌に落し、そして、わたしの手を大きな手で包んだ。たかちゃんの手は、細かいしわがたくさんあって、少し乾いている。でもそれは嫌いじゃなかった。わたしを長い間可愛がった手だ。もしももらえるものなら、この手をここに置いていって欲しい。
「美砂子はいくつだっけ」
「二十六よ」
「そうかうんと若いんだね」
「十年たったって、今のあなたより若いのよ」
「そうだったんだね。忘れていたよ」
急にわたしは、この人がかわいそうになった。すごく年を取った人のように思えた。この人は、わたしから遠く離れた所できっと死ぬのだと思った。死ぬ時に、やっぱりあの手を握ってあげられないのだと思った。
「たかちゃん、ありがとね」
「そんなこと言うな」
「ううん、きっと、いろいろ無理しててくれたんでしょ。わたしは知っているからね。ごめんね」
「美砂子と一緒にいたかったんだよ。それだけだよ」
「わたしは、あなたに優しかった?」
「うんと優しくしてくれたよ。もうきっと、誰も、こんな風には優しくしてくれないと思うよ。それが淋しいよ」
「たかちゃん、ごめんね」
「美砂子の嫌がることが覚えられないんだから、やっぱり駄目なんだな」
「たかちゃん、元気でね」
「美砂子もね」
そう言って、たかちゃんは出て行った。ドアはいつものようにパッタンと閉まる。わたしは鍵をかけない。たかちゃんが「やっぱりそんなの駄目だ」と言って戻って来るのを待っている。チャイムが鳴るのを待っている。
けれど、やっぱりチャイムは鳴らなかった。ああ、本当に、これでとうとうたかちゃんともお別れしてしまったのだなぁと、お布団の右側の熱が全部消えていくまで、わたしはそこを動けなかった。
[#改ページ]
ばかおんな・ばかおとこ
わたしの体には、まるで記憶力がない。その上、辛抱もできない。そして、我慢もしない。
それがよくわかったのは、トミオが出張に行ってしまってから十日めのことだった。
出掛ける前の晩も、その前だって何度もしたのに、わたしにはもうそれが思い出せない。どこかにすっかり溶けていってしまったように、わたしの体からセックスは消えてなくなってしまった。
あの晩、トミオは最初の頃みたいに、一生懸命な顔をして、口にキスもいっぱいして、他の男に絶対やらせるんじゃないぞ、やったらすぐに俺にはわかるんだからな、他の奴とやったらもう二度とお前にはしてやらない、お前はね、いやな所にホクロがあるから本当に心配なんだよ、お前はいやらしいんだから他の男に嫌われるぞ、お前の体には、俺が一番いいんだなんて言うから、わたしはすっかりワイルドな気持になり、うんと感動した。
もう十月で、ちっとも暑くないのに、トミオには汗がひかっていて、わたしは、口から舌をうんと伸ばして、その汗をひとつひとつなめとってやった。なめようと思って汗をなめたのは、あれが初めてだ。
わたしは、自分がとても大事にされていて立派な人のような気がして、うんうん、大丈夫、絶対しない、帰ってくるまでずっと待ってる、それまでいじったりしない、一カ月しなくたって平気、他の人となんかしない、そんなこと考えられない、それにもう他の人とはきっとできないと思う、本当に大丈夫、夜は早く眠るようにするし、ワインは赤も白も外じゃ飲まない、時間がある時は映画に行くか、ノーチラスに行って自転車漕いでるよ、だからわたしのこと心配しないで、トミオだって他の女のコとしちゃだめなんだよ、あんなに気持のいいこと、他の女のコに教えないで、わたしだけにして、もし、あんたが他のコとしたら、あんたの知り合い全員とうんといやらしいことして、仕返しをしてやる。そう言ったら、泣かなくてもいいのに、どんどん泣けてきて、ぐしゃぐしゃになって誓ったのに。それなのに。
ずっと抱き締めて寝ていたブルーのトミオのパジャマから、すっかり匂いが抜けた十日めの夜、わたしはなんだか急につまらなくなり、そして無理にいい人ぶるのをやめることにした。だって、トミオはここにいないのだから。そしてわたしは一人で、あと三週間を過さなければならないのだから。
そうだ、ここにナカガワヨシキを呼ぼう。お布団の上で、レースがいっぱいついたピンクのスリップを着たまま、わたしはあっさりそう心に決めたら、急にその考えはこの世で一番ロマンチックで、とても正しいことのように思えてきた。えーと、古い年賀状はどこにしまったんだっけ。わたしは、電気をつけて、本棚の一番下の引き出しをあけた。
ナカガワヨシキは、わたしが一番最初に好きになった人で、生まれて初めてキスした相手で、それなのに、とうとうセックスできなかった相手でもある。それ程好きだった。
手を握って、お互い口もきけないまま一日中とにかく歩きまわるのが、わたしたちのデートだった。公園のベンチに坐りもしなかった。今思えば、神話の世界の話だけれど、十年前高校生だったわたしには、それが精一杯だった。ヨシキの指は、わたしよりどの指も関節が一つ分大きく、爪は横に広かった。この指は、時々、知らない町の路地でそっとわたしの頬を触ることもあるけれど、ただそれだけの指だった。ヨシキの指はそういう指だった。
高校卒業後、わたしは短大の寮に入るために、家を出ることになった。学校まで三時間もかかって、自宅からは通える距離ではない。四月のあの日、寮まで送ってくれたヨシキは、右手にわたしの使うオリベッティのタイプライターをぶらさげ、左手はわたしの右手を握っていた。寮までの三時間、電車の中で、わたしたちはお互い決して顔は見ず下を向いて、ポツンポツンと小さな声で話をした。
ヨシキは、寮での門限を尋ね、四月いっぱいは外出禁止で五月から土・日は八時まで、その他は出られないと答えると、せっかく家を出たのにそれじゃ何もできないな、と言った。でも、二時間あれば大丈夫っていうことだし、まぁいいか、とわざとわたしに聞かせるように言うのだった。
セックスのことを言っているのだとすぐにわかった。わたしだけじゃなくて、やっぱりこの人もわたしとしたいと思ってくれていたんだ。わたしはほっとした。わたしは、彼としたかった。セックスをするなら、ヨシキと一番最初にしたかった。手を握られて、手が汗ばんでくると、わたしはそのことばかり考えていた。世の中の人達が不思議でならなかった。どうやってみんなは、その恥ずかしい気持を打ち明け、どんな風に相手の気持を確かめるのだろう。テレビや映画では、なんとなくどさくさに紛れてセックスにもって行っているみたいで、やっぱりよくわからなかった。そして何よりも、男の人の前で裸になるなんて、そんな恥ずかしいことをする勇気が、わたしにあるとは思えなかった。
小田急線に乗り換えて向ヶ丘遊園を過ぎた頃から、どんどん景色が変わってくる。緑が多くなってきて、大きな鯉のぼりをもう出している家が何軒もあった。わたしはまるで、鯉のぼりを今まで見たことのない人のようにじっと見つめた。そうする以外、わたしはうつむくしかなかったのだから。降りる駅が近付いて、何か大切なことをちゃんと言葉にして、ヨシキに聞いてもらわなくちゃいけない、だってこれからはもう毎日会えないんだから。そう思って顔を上げると、ヨシキはうんと優しいけれど少し悲しそうな顔でわたしを見ていた。
たぶん、ずっとそんな顔でわたしを見ていたのだと思う。わたしは、その表情に勇気付けられて、右手を伸ばし人差し指でそっとヨシキの唇を触った。わたしは、透明なマニキュアをしていた。ヨシキの唇は柔らかいけれど、しっかりとした肉の感触でわたしの唇とは違う。男のコって、唇まで男のコなのね、とわたしは言った。
ヨシキは、わたしのその指を今度は自分の手で取り、唇に触らせ、そして一瞬、わたしの指をなめた。この人、本当にわたしのことが好きなんだ、としみじみとヨシキを見つめ、その顔を覚えた。
駅に着いたけれど、学校までは、まだ大分歩かなくてはならない。タイプライターが重いから、タクシーで行こうと言うのに、ヨシキは歩けるから歩こうと言った。またしばらく会えないのだからと、小さな声で付け足した。大きな声ではっきり言って欲しいなぁと思うことを、ヨシキは必ずうんと小さな声で言うのだった。
山が近いからだろうか、空気が家の方よりも冷たく、握っている右手はいつもよりずっと温かい。寮の裏門には、長い階段があって、つつじが咲いていた。今でも覚えている。白いつつじだった。階段をのぼってしまったら、わたしたちはしばらく会えない。何か言ってくれないかしら、何かどうにかしてくれないかしら。わたしは待ってみたんだけれど、ヨシキはタイプライターをぶらさげたまま、馬鹿みたいにわたしを見ているだけだった。わたしのこと好きなんでしょ? このままじゃ絶対にいやだと思った。
だから、わたしは自分からヨシキに抱きついた。そうしたら、ヨシキはすごい力でわたしを抱き締め、タイプライターが、ばたんと倒れ、ヨシキはわたしの唇を探し当て、わたしの口の中にヨシキの舌が入ってきて、わたしたちは顔中べたべたにしながらキスをした。
なんだ、ヨシキだってそうしたかったんじゃないの。わたしだけじゃなかったんだと、わたしは安心してキスをした。
ひげの跡が案外チクチクすること、ヨシキの体からはドーナッツのような甘い匂いがすること、Tシャツ越しのヨシキの体はゴツゴツしていること。わたしはそれを、やっと探し当てた宝物のように感じた。そして、ヨシキだって白いブラウス越しのわたしの体を感じてくれただろうと思った。わたしのセミロングの髪や、わたしの体は、どんな匂いがしただろう。そんな、わたしのいろいろなことを知ってもらいたいと思いながら、何度も何度もキスをした。
新入生は、五時には寮に入らなければならない。わたしはタイプライターを起こして、手に持ち、もう行かなくちゃ、とヨシキに言って、階段をあがった。ヨシキは、必ず電話をするからと言ってにこにこしていた。わたしは、ヨシキが見ているなぁと感じながら、階段をのぼって行った。一番上まで行って、くるりと後ろを見たら、ヨシキは両手を振っていた。わたしも手を振り返し、でも手を振りながら、キスって舌も使うのか、よくそんなことヨシキは知っていたなぁと、感心した。
ヨシキは確かに手紙も書いてくれたし、電話もしてくれたけど、それが五月が近付くと間遠になって、変だと思っていたら他に好きな人ができていたのだった。同じデザイン学校の人で、年上の人だと後から知った。
わたしを嫌いになったらなったでそう言ってくれたら、きっと楽だったろうと思う。なにしろ、大切なことは小さな声でしか言わない男だから、わたしには、なかなかそれがわからなかった。
電話での声はそっ気無くなり、話すこともなくなり、お互い黙ってしまいそのまま電話を切るようになって、ああ、もうだめなんだ、みじめだからもうよそうと、やっとあきらめた。けれど、ヨシキからはっきり別れを告げられたわけではなかったから、どこかでやっぱり犬のようにヨシキの電話を待っているわたしがいて、その後ずい分長い間つらかった。そして、三年間ずっと好きでも、一度のセックスであっさり身も心も丸ごと他の女へ移るわけね、なんて正直でわかりやすい男だろうと思った。
その後、初めて男のコとセックスした時だって、やっぱりヨシキのことを思ったのも本当だし、それからもいくつも戦争はあったけれど、その度、どんなにつらくても、わたしは別れる時は相手の男に「別れて欲しい」と口に出してはっきり伝えてきた。ヨシキがわたしにした、あの置き去りのような別れ方だけはすまいと、思っているから。わたしは煙草を吸うタイプに見えるみたいだけど、煙草は吸わない。それはヨシキが煙草を吸う女は嫌いだと言ったからだし、今でも村上春樹の新刊が出たら必ず読んでしまうのも、ヨシキの最初のプレゼントが『風の歌を聴け』だったから。そうやって、ヨシキはわたしの中に残った。
だから今夜、ナカガワヨシキをここに呼ぼうと思った。そう、わたしはヨシキをあきらめ切れなかった。
これまで好きになった男とはちゃんとセックスをしてきたけれど、最初にあんなに好きになったヨシキとセックスできなかったのが、わたしには残念でしかたなかった。心残りだった。わたしはプラトニック・ラブなんて信じない。心だけが清いわけじゃない。わたしの体は別に汚れていない。好きな男のハートと体を正しく味わってこそ全てが始まるのだし、わたしのハートと体も同じように扱える男でなければつまらない。両方手に入らなければだめなのだ。そんな風に今はっきりとルールを持った、ヨシキの知らない、こんなわたしを見せつけてやりたかった。
ヨシキは、わたしをどう思っているのか、そしてヨシキの記憶の中のわたしはどんなものなのかはわからなかった。
けれどクラス会の名簿で見ているのだろう、年賀状はここ数年杉並のわたしの部屋に届くようになっていた。ブルーのボールペンで、一文ちらりと何かしら書いてあるその文章は「去年、台湾へ遊園地のアトラクションを作りに行きました」とか「パルプ・フィクションはいい映画です」とか「自虐の詩のイサオになりたい」だとか、相変わらず本当に言いたいことはもっと他にありそうなものばかりだった。
もう十一時だったけれど、電話してみることにした。いればいいし、いなければいないでそれで心を納めればいい。年賀状にボールペンで書かれた電話番号を、一度ためらい、でも間違えないようにしっかり押した。
呼び出しの音は三回続き、四度めでヨシキが出た。十年振りに聞くその少しかすれた声がわたしがあのベッドと机しかない寮の部屋で、ずっと祈るように待っていた声だった。
「もしもし」とわたしが話すと、二秒ぐらい間があって「えっ」と声の強さが変わった。
「リョウコです。タグチリョウコ。久し振り。わたしのことわかる?」
「えっ、リョウ、なんだよ、どうしたんだよ。元気か」
ヨシキの声は明るくて、わたしはほっとした。そうだ、わたしはリョウと呼ばれていたのだった。電話の背後からの雰囲気では、ヨシキの部屋はまだ明りがついていて、ヨシキの他には誰もいないようだ。
「元気よ。わたしね、ヨシキはどうしているかなぁって、時々思っていたんだけど、なんだかずっと電話できなかったの」
「それは同じことでしょう」
「電話、あなたが出たけど結婚はしたの?」
「してない。一人だよ。リョウは?」
「してないよ。そうじゃなかったら、ヨシキに電話なんかしないよ」
わたしはトミオと暮らして二年になる。でも結婚しているわけじゃない。ヨシキの声を久し振りに聞いて、わたしはずい分長い間忘れていたことを思い出した。十八だったわたしたちは、一晩中電話で話せたらいいね、と言い合い、そのためだけでも早く家を出たいと思っていたのだ。でも、今、ヨシキの声でリョウと呼ばれたわたしは、早く抱き合い耳元でヨシキにリョウとささやいてもらいたい。トミオは、わたしをリョウコと呼ぶ。
「どうしたんだよ、急に電話なんかしてきて」
「うん、ヨシキの声が聞きたいなって思ってさ。やっぱり、最初に好きになった男だからずっと忘れられなかったの。それに最初にキスした人だもん」
「……ずい分はっきり言うようになったんだな」
「そうよ。ヨシキにあの頃『素直じゃない』って言われてたし、それを直したら、またヨシキに会った時にいいかなって思って一生懸命直したの」
「そうか」
「ヨシキ、あのね、今から来ない? もし明日の土曜日予定がないんだったら、今からうちに来て」
「えっ、今から? もう電車がないよ」
「まだ十一時じゃない。大丈夫よ。あなたは前に三時間かけてわたしを送ってくれた男じゃないの。だから一時間かけて会いに来て」
そう言うと、もうヨシキの声は笑っていなくて、テキパキとうちまでの行き方を尋ね、駅に着いたら電話をすると言って電話は切れた。
わたしは、ざっと部屋を片付け襖の奥の六畳間に、さっさと布団を敷き直した。シーツや枕カバーを替え、つまらないことでどぎまぎするのはやめようと思った。ヨシキの目の前で布団を敷くより、こんな風にもう敷いてしまっておけば、照れずに済むし。
スリップのまま洗面所に行って、鏡の前でスリップのひもをおろしてみた。わたしのCカップの胸はななめにつんとしていて、横から見たら、エンゼルフィッシュみたいで、まあこれなら文句は言わせない、と思った。
さっき、お風呂に入ったのだけれど、念のためにシャワーを浴び、タオルを一番上等な厚地の白いものに替えた。
ショーツは、白か黒か迷ったけれど、白のコットンにした。コットンだけど、前の方は小さく穴のあいたレースを使っているから、少し透けて見える。白くておとなしめに見えながら、でも実際はいやらしい下着のほうが、黒い下着よりもポイントは高いと思う。ブラジャーは、わざと色を変えて、グレーにした。
わたしは胸のところがVの字型にあいている黒のワンピースを選んだ。そして、いつもより丁寧にメイクをした。少し暗い口紅は、わたしの肌を白く見せるだろう。そして、ブラウンがかったチークは、十八歳ではない二十八歳のわたしを際立たせるだろうと思った。
電話が鳴って、さっきよりも大きくヨシキの声が聞こえてきた。駅に向う前に、もう一度部屋を点検して、そして洗面所にあったトミオのグリーンの歯ブラシを捨てた。
地下鉄の改札口に行くと、黒の細いジーンズに、黒いTシャツ、そして革のジャケットを着たサングラスのやせた男がぽつんと立っていた。え、この人がヨシキなのかしら、なんで夜に、そして地下鉄なのにこの人はサングラスをしているんだろうと思って、まわりを見たのだけれど、あとはスエット姿のおばさんが人待ち顔で立っているだけだった。
「ヨシキ?」と声をかけると、その男は安心したように近付いてきた。えっ、あの人こんなに小柄だったっけ、こんな歩き方をしたんだっけ、と思ったけれど、「リョウ?」というその声はヨシキのものだし、そうかわたしはこんな人のことをずっと思っていたのかと、ちょっとびっくりしながら側に行った。
そのヨシキは確かにヨシキなんだけど、わたしの知ってるヨシキの感じが、0.7倍ぐらいに薄まっていて、知らない人みたいな部分もある。本当、十年という時間は確かに流れた。
「ごめんね、無理に来てもらっちゃって。ありがとう」
「何年振りだ?」
ヨシキはサングラスを取った。ヨシキの目がわたしを見ている。
「十年振りよ」
「そうか、十年か。リョウはピンクの口紅してたもんな」
「そうよ。あの時、あなたの白いTシャツに口紅が付いちゃって悪いなぁって思った」
そう、あの日の夕方。つつじは白く咲いていて、桜は甘く咲き、わたしは白いブラウスを着ていて、口紅はピンクで、パーマもかけてなかった。顔中べたべたにしたあと、口を手で拭って、髪を整え、寮に入っていったのだった。
わたしたちは、しーんとした小さな商店街を歩いて行った。夜遅い焼肉屋が一軒だけまだやっている。手はつながないけれど、肩はほとんどくっついている。この人は、わたしとセックスしに来たんだなあと思いながら、それは一体どんな顔だろうとヨシキの横顔を見た。
コンビニエンス・ストアーでヨシキは、歯ブラシとひげそり、そしてシュークリームをふたつ買った。今日は、もう店がやっていないから、これでいいだろうと言いながら。わたしがシュークリームを好きだということを、まだ覚えていたことが意外だった。
細い道に曲ると、のんびりした住宅街になる。どこからか、白い猫がぽんと目の前に降りてきて、わたしたちを振り返りかわいく鳴いた。お風呂のお湯の匂いと、そして最後の金木犀の匂いがして、秋の夜の匂いとしてはパーフェクトだ。
「どうして、わたしたちだめになっちゃったんだっけ?」
「遠かったからでしょ」
「違うよ。ヨシキが他の女の人のことを好きになっちゃったからじゃないの」
「そうだっけか」
「そうよ。あれから、わたしはずっとつらくて長い間、暗かったわよ」
「暗かったか」
「暗かったわよ」
「でも、まぁ、呼んでくれてまた会えたし、いいじゃないか」
ヨシキは何気ないふりをして、わたしの右手を握った。トミオの手とは違う、少しひんやりとして硬い手だった。
「手、こんなに硬かったっけ?」
「ああ、仕事でね、ずい分手を使うし、道具も使うから」
「そう、そんな所も変わったのね。ね、あたしは変わった?」
わたしがそう言うと、ヨシキは立ち止り、突然、抱き締め大きく息を吸い、髪に顔をうずめ、調べてみないとわからない、と言った。
ふーん、進歩したじゃないの、そんなこと言える男になったなんてと思いながら、わたしは、ヨシキのホクロの多い首筋に唇を押しつけた。
部屋に着いて、明るい所でヨシキを正面から見てみると、本当は少し居心地が悪かった。わたしは、どう振る舞えばいいのかわからなくなってきた。あのとんまな十八のわたしは、顔を赤らめ、本当はしたいこと、言いたいことがあるくせに、まるで別なことを言ってしまい、恥ずかしさのあまりに泣きたくなるような、いつも残念な気持を抱えていた。そして今、目の前のヨシキを見ていると、まるで自分の古い日記を読み返すような滑稽さを味わわずにはいられなかった。
シュークリームを食べ、紅茶を飲み、同じクラスだった子の話、お互いの仕事の話をしてしまうと、もう共通の話題はなくなってしまった。
わたしは黙ってしまうのがこわくて、チーズとワインがあるよ、と言ってみた。明治屋で買ったブルーチーズと、カマンベールがおいしいはずだ。
「チーズ? チーズはだめだな、くさくって」
と言った。わたしと、トミオは二人とも癖のあるチーズとワインが好きで、うふふ、くさーい、と笑いながら食べたりするのだけれど、ヨシキはそういう人じゃないんだな。残念。
「そう、それじゃあ何か食べる? お腹はすいてないの」
「動けなくなるとだめだから、ビールだけ飲む。腹が出ると格好悪いなぁ」
ヨシキは、薄く笑って言った。でも、それは、やっぱりわたしに聞かせるために言っていて、その笑う顔が嫌だった。
わたしが嫌だった癖はくっきり残っていて、トミオは決してそんな言い方をしない男だから、ヨシキのその薄笑いが、なおさらざらりと心にひっかかった。
わたしは、夜にサングラスをしちゃうような、ワインとチーズの楽しさもわからないような、共通の話題ももしかして無いような、本当は何が言いたいのかはっきり言葉で伝えられないような男と、果たしてちゃんとセックスできるのか、段々自信がなくなってきた。
本当に、わたしは、この男としたいのかしら?
大丈夫かな、大丈夫よね、だってわたしはこの人としたかったんだもん、ずっとあきらめ切れなかったじゃない、電話で呼び出しちゃってにこにこして来ちゃった男を帰すわけには、もういかないでしょう、トミオはいないし、十日前にしたんだっけ、十日だもん、しかたないわよね、十日は長い、ヨシキってどんな風に女のコとするのかなあ、どのくらい女のコと寝たのかな、わたしの体、好きだといいな、とごちゃごちゃ考えながら、ちょっとお風呂に入っちゃうからね、とテレビを見ているヨシキに言って、わたしは平気な感じでお風呂場に行った。
今日は何度もお風呂に入っちゃった。アボカドの石けんを、手でよく泡だてて、手のひらで体を洗った。青っぽい匂いに包まれるとわたしは、冷蔵庫から出したばかりの野菜みたい。そんな風に思うことが好きだ。白い泡が体中に広がって、そしてシャワーを浴びると、泡は肌をすべって消えてなくなった。
洗面所に飾ってあった白い百合の花を、枕元に飾ろう。青いガラスの一輪ざしごと持って出た。
ショーツをつけ、ブラジャーは結局せずにバスローブをはおって部屋に戻ると、ビールで赤くなった顔でヨシキはじーっとわたしを見た。
「なんだ、化粧取ると十年前と同じじゃないか」
わたしの顔は実は子供顔だ。トミオはそれをよく笑う。そして、わたしを化粧の上手い奴と、また笑う。わたしのトミオ。
「じゃあ、俺もちょっとシャワーを使わせてもらうわ」
と、ヨシキはお風呂場に行った。ちゃんと好きな人がいるのに、こんなこともできちゃうなんて、わたしってちょっと凄いかもしれない、と思った。
お布団に入って、スタンドをつけてうつ伏せになった。雑誌を読むふりをしたけれど、どきどきしていて、もうすっかりぬるぬるしていることに、自分で笑ってしまった。百合の花が、うっすらと低く匂う。
戸の閉まる軽い音がして、パタパタとスリッパの音がして、バスタオルを首にかけたヨシキは、襖の向こうから、わたしを見た。ヨシキの下着は、黒のビキニで、ちょっとそれはないんじゃないの、と思ったけれど、お布団の端を少しもちあげて、入ってとわたしは言った。わたしは、いつもはトミオが寝る右端に寝た。ヨシキは、するりとわたしの横に入り、わたしに体を向け、大きく息を吐いて、体を押し付けてきた。ペパーミントの匂いの息。あの懐しいドーナッツのような甘い体の匂い。匂いって変わらないものなのね。わたしの体は、うっとりとしなる。そして、もうヨシキのおちんちんは、すっかり大きくなっていたから、わたしは恥ずかしくはなかった。
新しく付き合い出した男と初めてセックスする時、わたしは一番わくわくする。一番興奮するというわけでは、ない。やっと、セックスにたどりつくと、なんだかその男の本当の中身を手に入れた気持になれるからだ。どんな質《たち》の男で、これまでどんな風に女のコと付き合ってきたのか、そしてどんな風にわたしを扱うのか、言葉では知ることのできない、そして光の中では見ることのできない、その男の奥底の秘密をわたしは体で抜き取ることができる。
ヨシキは、めちゃくちゃにわたしにキスをし、そのくせ、すごくスムーズにショーツを脱がせたから、ああこの人慣れている、と思った。ゆっくりと唇は首筋を降りてきて、おっぱいまできたとき、したかった、とヨシキは息の声で言った。
そう、あたしだってしたかった。して欲しかったけど、どうしたらいいのか全然わからなかったし、ヨシキはそんな風に見えなかったよ、と言うと、でも、本当はそうだったんだよ、と言って、初めてわたしのおっぱいをそっと口に含み、小さく甘く噛んだ。指もゆっくり下まで伸ばしてきた。わたしはここまで来て照れたくなかったから、ほらね、もうぬるぬるでしょう、わたしはね、いつもこうなのよ、と言ってヨシキの、そのよく動く手に自分の手を重ねた。
でも、その指の動きや、おっぱいをなめる力の加減は、わたし以外の女のヒト用のもので、トミオがわたしにしてくれているものとは違っている。ヨシキの動きの丁寧さが伝われば伝わるほど、わたしにはもどかしい。わたしは、そんな風にされるのは好きじゃないの、もっとゆっくりしてくれないとよくなれないの。トミオがこれまでわたしに注ぎ込み、染み込ませたセックスは、わたしの体にはもうまるで刺青のように刻まれていて、それが欲しくてその模様が、今この瞬間、一斉に肌から噴き出すのがわかった。トミオが欲しかった。
ヨシキは、わたしの濡れた感触を確かめ、ゆっくり下着をとって、むき出しのおちんちんがぷるんと出て、それをわたしに当て、少しこすってから、中に一気に埋めた。
でも、その感じもトミオとは、やっぱり全然違っていて、わたしの中に大きな異物のようにずんと入ってきた。多分、トミオのよりも大きいのだろう。そして、ヨシキはそれが自慢なんだろうし、自信もあるのだろう。今までの女のコたちには、それがぴったりだったんだろうと思った。十八のヨシキは、そんな体でわたしと会っていて、そのくせ、セックスはできないで、わたしのことを思っているだけだったのね。他に何かしていた? それを思うとおかしくてたまらない。ヨシキのおちんちんは、今わたしの中身を押し広げながら動いている。でもヨシキは、ただ、はぁはぁ言っているだけで、何も言わず修行のように苦しい顔で、力一杯体を動かしていて、それは、わたしの大嫌いなニホン映画のいかにもなラヴシーンそのままの男で、わたしは泣きたいような笑いたいような気持で、いつまでもぬるぬるしている自分が嫌だった。ヨシキが、わたしの体に集中し、わたしの体がどんどんそれに引きずり込まれるほど、わたしはトミオを思った。そうね、わたしは、トミオが言う通りで、きっといやらしいから、こんなにされても、こんなセックスのやり方でもぬるぬるなのねと思い知った。そして、ヨシキが最初にいった時、わたしは、ざまぁみろと思った。
ヨシキは、自分の知っていることを全てわたしにした。一体、この人はどうやって、そして誰からこんなに馴染んだんだろう。彼の指は、その太さ分、ちゃんと意味のある働きをしている。ヨシキは、そして、わたしの頭をおさえて、なめてと言うから、わたしはしょうがないからヨシキのおちんちんをなめた。ヨシキのおちんちんは、ぱんぱんという感じで先から根元まで実がつまっている。
ヨシキはコンドームを使わなかった。コンビニエンス・ストアーでコンドームを買うのかなぁ、と思ったけれど買わなかった。じゃあ持ってきたのかなとも思ったけれど、それも違った。わたしに、有るの? とも聞かなかった。そして、どうするつもりなのか、わからないままセックスは始まったのだけれど。
わたしは、ピルをのんでいる。もう一年近くになるのだろうか。毎日、綿棒の先ぐらいの小さな白い錠剤をのむ。毎月一回、クリニックに行くのはめんどうだけど、今はまだ子供を産めないからそうしている。
ピルのことを言い出したのは、トミオだった。ピルにしたら、と言われた時、悲しいような恥ずかしいような気持になって、コンドームするのがそんなに嫌なわけ? 前のオンナにもそうさせていたの? となんだか怒ってしまった時、トミオは違うよ、と言って、わたしの手を取った。
「違うよ、リョウコ。そんな風にすぐ考えちゃだめだ。お前はね、毎月生理が来るかどうかすごく心配しているだろう。あれを見ていると、お前がかわいそうで嫌なんだよ。でもピルをのめば、自分ですることなんだからお前は安心だろう。副作用のことは俺にはわからないから、医者に行って聞いて来いよ」
トミオはそう言ったのだ。だから、わたしは血液検査も毎回して毎月ピルをもらっている。夜、寝る前に、お前薬はのんだのか、と時々トミオは言う。子供が出来たことをきっかけにして結婚する人もいるだろう。それも一つの考えだ。けれど、わたしはそうしたくはなかった。
それなのに、ヨシキはそんなことは全然考えないで構わず自分がやりたいように、どんどんやるから、わたしはがっかりした。でもまるでそれまでの思いをぶつけるように、わたしたちはからみ合って、体の芯がすっかりふやけるぐらいした。セックスはセックスだから気持ちいい。
ふと時計を見るともうすぐ四時だった。ちょっと、眠らなきゃ。わたしはヨシキの方を向き眠ろうとした。ヨシキはわたしと同じ位の背だから、わたしの顔のすぐそばにヨシキの顔があった。でも、トミオだと、わたしの顔はトミオの首のところに入る。だから、ヨシキと抱き合って眠ると、自分自身に抱きついているみたいで変な感じがする。
ああそうだ、眠る前にヨシキの気持を聞いておこうと思って、わたしは小さな声で言った。
「あのさ、ヨシキ。これで、もしわたしが妊娠しちゃったら、どうするつもり?」
ヨシキは眠そうな声で、そして、少し笑って、そんなこと知らねぇよ、勝手にしてくれよ、と言った。まさか、じゃあ、結婚しようと言うはずのないことは、知っていたけれど、これはないんじゃないの。そんなのおかしい。ふざけてる。
わたしは、かちんときた。とてもはっきりと。この男の、本当のところをごまかしなしに、今はっきりとわかった。地下鉄のサングラスだって、黒のビキニだって同列よ。どういうセンスの持ち主。トミオはね、わたしのことあんなに大事に思ってくれてるのよ。そのわたしに、こんなこと言っていいと思っているの? わたしと、トミオを馬鹿にしないでよ。粗末に扱わないでよ。目を閉じて寝ようとしているヨシキをゆさぶった。
「ヨシキ、あんたね、何のプロテクトもしなかったじゃないのよ、それなのに、そんなこと言うの変じゃない。あんたひどいじゃないの」
「うるせぇな、それがどうしたっていうんだよ。そんなに簡単に子供なんて出来ないよ。ごちゃごちゃ言わないで寝かせろよ。疲れたんだよ」
最初からあった違和感は本物だったのだ。ここにいる男は、わたしの知らない男だ。こんな男、好きじゃない。納得するつもりは全然ない。わたしの隣りに寝かすもんか。
わたしは、布団をはぎ取った。ヨシキの細い体が滑稽に今は見える。
「なにすんだよ」
「ヨシキ、もう帰って」
「なんだよ、お前、怒ったのかよ。冗談だろ」
小さくなったおちんちんが、大きな裸の虫のように見える。
「冗談じゃないわよ。帰って欲しいの、本当に」
「わからない奴だな、勝手に呼び出しておいて、用が済んだら追い出すのかよ。ひどい女だな、お前」
わたしは、裸のままお風呂場に行き、ヨシキが脱いだシャツやジーンズを探した。きちんとたたんであったそれは、洗濯機の上に置いてあった。
それを取って帰り、裸のままだけど、おかしく見えませんようにと思いながら、ヨシキの顔に投げつけた。投げたはずみで、百合の花がパタリと倒れてしまった。
「痛てぇな。なんだよ、お前。おかしいんじゃないの。まだ足りないのかよ、それならもっとしてやるから、ちょっとこっちに来いよ」
そう言って、わたしの手を取ろうとするから、ああ本当にこの男は、言葉の通じない、ただのちんけな奴だと思った。わたしは、ショーツをはいてヨシキに言った。
「ヨシキ、そこから出なさいよ。コーヒーが飲みたいんだったら、嫌だけど気の毒だから淹れてあげてもいい。だから、着替えなさいよ、今すぐ。もう終ったんだから」
「お前なぁ、なんか間違ってないか。お前が俺に会いたいって言って呼び出したんじゃなかったのかよ」
「そうよ。ずっとヨシキのことが好きだったのよ。忘れられなかったわよ。でも、今やっとわかったわ、本当はあなたのことなんか、なんとも思ってなかった。もっと好きな人がいるのよ、わたし。その人ね、わたしのことうんと大事にしてくれるし、今、一緒にここで暮らしているの。だから、もういいの。ありがとう、はるばるやりに来てくれて。ご苦労様。もうすぐ始発が出るけど、どうする? タクシーがよければ、もうつかまるけど。あんたみたいな、やるだけの人でなしで嫌な奴、もう二度と思い出さないから安心してよね。わたしのことも、もう思い出さないでよね」
ヨシキは、何か言いたそうな顔をしたけれど、もう何も言わずに着替えた。負けた男が、服を着るところって、こんな感じなんだと、わたしはしっかり見とどけた。
「コーヒー飲む?」
「いらない」
「そう。わかったわ。じゃあ、早く出て行って。早く行ってよ」
わたしは、ショーツのまま玄関まで行きドアを開け、ヨシキの革のジャケットの背中を強く押した。そのジャケットの冷たくて、重い感じが手に残った。
ヨシキを外に出し、わたしは窓を開け空気を入れ換えた。ヨシキが坐っていた所に戻ったら茶色い紙袋があって、何かと思ったらウルフルズのバンザイが入っているCDだった。
九時になれば、いつものようにきっとトミオは電話してきてくれる。早くトミオの声が聞きたかった。トミオの声さえ聞ければ、わたしは元通りになれる。今日は、トミオに、あなたが一番好きよと伝えたい。
ヨシキがわたしにしたことなんて、なんでもない。大丈夫よ、きっとすぐに忘れられる、何も変わっていない、何も残らない。残るはずがない。わたしはそう自分にいいきかせ、湯船に熱めのお湯を入れ始めた。ラベンダーの香りのする、ざらめのようなオレンジ色のバスソルトを多めに、まいてみた。バスソルトの粒は、お湯に落ち、ぼんやり溶け、オレンジ色の模様になって、ぐらりとゆれている。本当、大丈夫、なんてことない、だってわたしはいやらしいんだもん、大丈夫よ。わたしはそう思って、そしてオレンジ色のお湯を強くかきまぜた。
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心から
おちんちんは、本当におかしな食べ物だ。わたしの口に入るのに、決して咀嚼されることがない。そのくせ、あれほどわたしの心に作用するものはない。何か特別な栄養がある。
汚い物を口に入れてはいけないと、小さい頃から厳しく躾られてきた。食べる前には手を洗いなさい。落ちた物は食べちゃだめ。お腹が痛くなるわよ。道に落ちている物は絶対だめ、犬のおしっこが付いているかもしれないでしょ。だから、あの赤いサルビアの蜜を吸う時だって、いつも一大決心だった。犬のおしっこが飛んでいたかもしれない。わたしは、大人たちに見つからないように、花の方を向いてしゃがみ、あの薄い花の蜜をにこりともせずに吸ったものだった。わたしの周りには花の死骸がたくさん落ちていた。
でも、おちんちんを汚いと思ったことは一度もない。たぶん、あれが食べ物になるためには、お互いに資格が必要なのだ。食べる方にも、食べられてしまう方にも。
子供の頃、友達の家で遊んでいて、そのうちトイレを貸してもらうことがある。遊んでいる部屋を出て、暗い廊下を通り、その家の普段の部分を感じながら、トイレに案内される。おかしなことに、トイレを使わせてもらった後はその友達に急に馴れる。よそよそしさが消えていく。もっと、そのコに近くなる。
あれによく似ている。
食べ物になったおちんちんは、わたしをせつなさで満たす。動物は、生まれたての自分の子供を口でなめるけど、あの時のわたしだって似たようなものだ。わたしの口は、その時一番慈悲深いはずだ。そして、そのわたしの姿を、もしも愛しく思ってくれたなら、もうわたしたちは決して離れられない。
本当は、最初の時、わたしは口でしてあげたかった。そうしたかった。でも自分から言うのは、なんだか図々しいように思えたし、もし言ったところで彼の気持が一歩後ろに行ったら悲しい。だから言わなかった。最初のセックスは手加減が難しい。だって、あれは調査だもの。わたしにはそう感じられる。気持ち良さは時々わたしを悲しくさせる。そのうちのいくつかは、生まれた時から体が持っている、癖と同じだ。でも、残りの多くの気持ち良さは、今までの誰かが見つけて、そして誰かに育てられた気持ち良さだ。置き土産というわけだ。
だから、最初のセックスは、相手に残っているいろいろな跡を自分の体を使って見つけていくようなものだ。どうして、こうすると気持ちがいいって知っているの? どうして、そんな所を見つけられるの? なんで、こんな動き方ができるの? 誰かがそれを好きって言ったの? あなたはどうすると一番気持ちがいいの? いつか誰かに伝えたように、今度はわたしにも教えて。
セックスに関しては誰もが最初は白紙だったのに。顔の洗い方、歯の磨き方、トイレの使い方。その全ては親が教えてくれるのに、セックスに関しては、真白なまま独学でわたしたちは身につけていく。わたしたちはスタンプ帳だ。大きいスタンプ。小さいスタンプ。くっきりと鮮やかなスタンプ。にじんでもう見えないスタンプ。わたしはいつも思う。もしも、もしもまだ余白が残っているのなら、それがどんなに小さな余白でもいい、わたしだけのスタンプを押せないだろうか。そして、同時に、ふと自分に押されてきただろうスタンプを思う。あのね、びっくりしないで、嫌いにならないで、そして、お願いこわがらないで。それとも、わたしがセックスが下手だったら嬉しい? 安心するの? わたしは、そんなのは嫌だ。わたしは、自分の男から言われたい。たくさんの女のなかで、一番特別だと。今までの女とは比べものにはならないと。きっとその時わたしは言うだろう。そうよ、知っているわ、ただそれだけを言う。あなたには、わたしが一番いいのよ。それは、わかっていたと。
最初に野口さんに会った時、わたしは黒の小振袖を着ていた。それは三カ月前にあった友達の結婚式だった。わたしは新婦側の受付をして、新郎側の受付が野口さんだった。振袖は確かに結婚していなければ着る資格のある着物だけれど、いつまでも着ていると物欲し気に見えてしまう。いい歳をしてと言われてしまう。正直なところそれが少し心配だった。でも、わたしの振袖は、黒地に桜の模様で夜桜のようなものだから、きれいだけれど派手ではなかったし、まだ着ていてもきっと大丈夫。あれは、好きな着物だもの。それに、わたしには、そんなおめでたい席に映える服がなかった。わたしの手持ちの服は大抵黒だ。
受付の顔合せの時、野口さんは名刺を出してきちんと挨拶をした。国際会議を準備する仕事をしていて、今日の新郎と一緒に働いていると言った。わたしは、休みの日で名刺を持っていなかった。新婦と短大で一緒だったと言うと、学校名を尋ね、ああ、あそこを卒業したのなら、英語ができるでしょう、会社にも何人か優秀な人間がいますよと、野口さんは言った。
わたしたちの学校は、東京から電車で二時間かかる、カソリック系の短大だった。神様のことを考えるか、勉強するか、それしかない学校で、わたしは結局、両方ともしなかったと言うと、野口さんは笑った。
「着物が良く似合いますね」
「どうも、ありがとうございます。でもね、きっと日本人だったら誰でも着物は似合いますよ」
「そうなのかな。でも、こうやって一緒に受付できるなんて、ぼくは今日は良かった」
野口さんは、受付をしている間中、わたしの着物が汚れないか、立ったり坐ったりして苦しくないか気を付けてくれて、日頃わたしは自分のことは自分でやっているから、男の人に久しぶりに庇ってもらったようでおかしかった。
着物が良く似合う、と言われた。スーツだって、ワンピースだって、わたしは似合うと思うけれど、スーツが似合いますね、なんて言う人はこの世にいない。着物には、相手の気持をゆるめる力があるのだろう。
「でも、わたし着物じゃないと、今日とずい分違うから、野口さん、今度わたしとすれ違ってもわからないんじゃないかしら」
「じゃあ、それを確かめてみますよ。今度、食事に誘ってもいいですか」
「ええ。お願いします」
笑って、わたしは会社の電話番号を紙に書いて渡したけれど、本気にはしていなかった。言ってみるだけ。優しいことを言葉にしてみるだけの男は、とても多いから。
野口さんとおっしゃる方からです、と交換台から電話が入った時、えーと、どこの野口さんだったかしらと、まず考えた。
「はい、小林です」
「あっ、こんにちは、野口です」
「えーと、あの……」
「野口誠です。この前、結婚式で一緒に受付をした」
「ああ、ごめんなさい。すぐにわからなくて」
「今、電話していて大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫です」
「もっと早くご連絡したかったんだけど、こんなに遅くなっちゃって」
あれから二週間が過ぎていた。
「小林さん、今日は夜、お時間ありますか」
「ええ、あります。何の予定もありません」
「じゃあ良かった。今日、よかったら一緒に食事でもどうですか」
「いいですよ。今日は着物じゃないし」
野口さんは笑って、待合せの時間と場所を言った。
「ぼくは、この前と同じですから、すぐにわかりますよ」
そう言って、電話は切れた。
この前と同じ。それだったら、すがすがしくて、山に登ったら腰に手を当てて、ヤッホーと言いかねないタイプ。それでいて小学生の頃、図工がうんと得意だったタイプ。夏は海に行って、冬はスキーにたくさんの友達と行くタイプ。少し日に焼けた顔からすぐに立派な経歴が浮かぶタイプ。つまり、わたしが一番苦手なタイプね、と思った。
わたしは、本当はああいう整った感じの男は嫌なのだ。なんだか、自分のでこぼこさが際立つようで、自分が急にみっともなく思えてしまって居心地が悪くなる。でも本当は、全然みっともなくないのに。
それでも、ちゃんと電話してきたことが、気に入った。偉いじゃないの。
待合せの、表参道のドトールに入って行くと、野口さんは、文庫本を熱心に読んでいた。
わたしが入って来ても目を上げずに読んでいる。
「何読んでいるの?」
わたしは、野口さんが読んでいる本の表紙を指でおさえた。
「わぁ。びっくりした」
「ごめんなさい。お待たせして。ずい分待った?」
「十分ぐらい」
「何の本?」
「これは、山田風太郎。知ってる?」
「知ってるけど、読んだことはない」
「読み終ったら貸しましょうか。面白いですよ」
「うん。ありがとう。じゃあ、わたしが今読んでいる森茉莉を今度貸してあげる」
「何、飲む?」
「あ、買って来るね」
「いいよ、ぼくが行く。何?」
「ミルクティ。温かいやつ」
「わかった。ちょっと待っていて」
野口さんは、わたしのミルクティを注文してくれて、グラスにお水も入れて持って来てくれた。
「どうもありがとう」
「やっぱり、着物の時とずい分感じが違うね」
「そうでしょう。言った通りでしょ」
野口さんは、最初に今日のわたしに会っていたら食事には誘わなかったかもしれない。
「黒が好きなの?」
「うん。だいたい、いつも黒なの」
母は若いのに陰気くさい、というけれど、わたしにとっては、黒はほっとする色なのだ。それに、他の色を上手にひきたてる色だ。他の人を圧倒するために着ているわけじゃない。着物の黒は、シックだと言われるのに。どうして洋服の黒は、こうも受け取られ方が違うんだろう。まるで正反対の色のようだ。黒を着ているからって、こわい人じゃないんだけどな。それに、大人になって気が付いたら、わたしはフリルや花柄が似合わない顔になっていた。それだけのことだ。
「ああ、そうだ。野口さん、あのね、このスカート、今日初めておろしたんだけど、どうかしら、ちょっと短か過ぎないかしら」
わたしは、野口さんから三歩後ろに下がって見てもらった。革のミニスカートが前から欲しくて買ったのだけれど、あんまりにもミニ過ぎるようで、今日一日落ち着かなかった。野口さんは、スツールからわたしを見て、
「うーん、ぼくは短か過ぎるとは思わない。格好いいけど、でも、それで寒くないの」
と、野口さんは笑いもせずに言った。
あら、わたし、あんまりこの人嫌いじゃない。野口さんの隣りに戻って、紅茶を飲んだ時そう思った。
本当を言えば、この時わたしは少し嫌な奴だった。
楽をして、男をつかまえたかった。振り向きざまに、腕をつかむように。わたしのどこを好きになるのか、そんなことはあの時のわたしには、重要ではなかったように思う。
他の知らない男に、わたしを欲しいと言わせたかった。たった一人の男以外にも、自分は十分通用するのだと知って安心したかったのだ。
なぜなら、たった一人と大事に思っていたその男は、少し前から、わたしのためだけの男ではなかったらしいから。
ああ、そうだったの。
そういうことだったの。
気持が、すうっと冷めたのと同時に、自分の中に、一人ではどうすることもできない大きな穴が空いていることも知ってしまった。
少なくとも、あの男は埋めていてくれた。
男が空けた穴ならば、男で埋めればいいだけのこと。それから正気に戻ってもいいんじゃないの?
あの時、わたしはそう思っていたのだった。
野口さんとは、それからも会って、わたしは小林さんではなく、みちるちゃんと呼ばれるようになった。話をしてみたら、わたしの方が二歳年上だということがわかった。
「みちるちゃんは、なんだか歳がわからないね」
「別に隠しているわけじゃないわ」
「ふーん、いくつ?」
「あのね、野口さん。歳を言うのは全然構わないけど、もしわたしの方が年上でも、急にしゃべり方を敬語に直したりしないで。会社じゃないんだから」
わたしは、なんとなく野口さんはわたしより年下なんじゃないかな、と思っていたからそう先に言った。指先の感じとか、目の辺がそう思わせた。丁寧な言葉で話をするのは構わないけど、年齢がはっきりと数字になった途端に敬語を使われると、がっかりする。
「わかったよ。敬語で話さない」
「わたし三十一」
「あっ、そう。ぼくは二十九。わからなかったなぁ」
野口さんは、わたしが言った通り、敬語を使うことはせず、そのまま、みちるちゃんと呼んだ。わたしも、野口さんをやっぱり野口さんと呼んだ。野口さんは、大事な人だから。
気立てがいい、という言葉が二十九の男にも使えるのかどうかは知らない。けれど、野口さんは気立てのいい男だった。
外で食事をして、お店を出る時、必ずごちそう様とお店の人に言った。今まで三回食事をして、その都度連れて行ってくれたお店は皆違ったけれど、お店の感じはどこも似ていた。
居酒屋というよりは、夜でもちゃんとしたごはんとおみおつけ、そして、しっかりしたおかずを食べさせてくれる、和食のお店だった。
「ここは、ポテトサラダに少しからしが入っていておいしいんだよ」
とか、
「ここの、にらたまは、ちょっと違うから食べて」
とか、選んでくれるおかずは、蓮の天ぷらや、アスパラガスのおひたしとかでどれも大袈裟なものでなくて、おいしかった。わたしはそれをとても好ましいと思った。
そして、何よりわたしが、野口さんをいいな、と思ったのは、野口さんは決してわたしの部屋に寄ろうとしない所だった。
わたしが親元を離れて一人暮らしだと知ると、装った平気さで、
「今度、遊びに行ってもいい? ごはん食べさせてよ」
と、気軽に言う男っている。別に付き合っているわけでもなくて、まして何度も食事をした間柄でもないのに。わたしは、こういう男が、とてもこわい。
野口さんの、これまで付き合ってきた女のコというのも、ややこしい感じのコはいなかったように思う。だって野口さんは、荒されていないもの。
でも、野口さんの何が傷となって、これまでの女のコは別れてきたのだろう。どんなに彼を見ても、ひっかかるようなことを、わたしには見つけられなかった。
そして、野口さんという人が、わたしの中に温い水のように入ってくるのは、いつも別れ際だった。
わたしは、田園都市線で、野口さんは東横線だから、いつもJRの渋谷駅の所で別れる。その時、野口さんは、何か忘れ物を思い出したような、でも、ためらうような表情で、一瞬わたしを強く見るのだけれど、でも、少し笑って下を見て、もう一度わたしを見て、
「みちるちゃん、気を付けて帰って」
と、言う。
この人は。と、わたしは思う。
この人は、たぶん馴れるということのない人なのだろうと思った。
「うん」
と、言ってわたしは階段を降りて行く。
わたしは、どんどん野口さんを好きになっていたし、お互いに気に入った本を交換したり、おしゃべりをして中身の調査は済んだから、もうセックスに移ったほうがもっと楽なのになぁ、どうしてこの人、いつまでも、すがすがしくしているんだろうと思っていた。恥ずかしいことの力を借りて、いっぺんにうんと仲良くなってしまいたかった。他に付き合っている人がいるわけでもないのに、どうしてだろう。なんなんだろう? これでいいと思っているのかしら?
もしかして、と、わたしはとても失礼なことを想像していた。
もしかして、野口さんはおちんちんが小さいのかしら、と思ったのだ。小さい人というのは、きっと全員がそんなわけでもないのだろうけれど、おちんちんを見せびらかす気持は少ないのではないか。でも、大きい人というのは、大抵早く自分のおちんちんを見せたくてしょうがないみたい。自分の大きいおちんちんが、自分でもすごく気に入っているから、早く使いたがる人が多い。そしてだいたい、いばったセックスをする。
大きいおちんちんが体に入った女が、一体どんな反応を示すか。それを見ることが、その男の一番の楽しみなのだ。
「ちょっと、やめて。やめてよ」
前に、途中で男の背中を叩いてやめさせたことがある。
その男は、最初からうんと押しが強くて、この自信は一体どこから来るのだろうと不思議に思ったら、大きかったのだ。男は、笑いながら、どうしたんだよ、痛いのかよ、と言った。わたしは、うん、ちょっとね、と言って、ベッドを降りて男の目の前でショーツをはいた。
「おい、なんだよ。ちょっと、待てよ」
「嫌よ。あんた、何か勘違いしてない? 大きいってことだけで、何偉そうにしてんのよ。そんなにそれが大事なら、自分一人でやってたら?」
男が初めからずっとわたしに言い続けたことは、どう大きいだろ? こんなの使ったことある? 彼氏のとどっちが大きい? ねぇ、大きいと全然違うだろ? 気持ちいいでしょ? ねえ、どう? ということだけだった。
わたしは、欲しいものは本当に欲しいけれど、いらないものまで欲しいわけじゃないのよ。裸でいても、思考能力が停止するわけじゃないのよ。バカだからあんたは知らないだろうけど、おちんちんを使うということがセックスじゃないのよ。男におちんちんが付いているの。おちんちんに、男が付いているわけじゃないんだから。あんたの態度は不遜《ふそん》じゃないの、たかが体の一部分のことだけで。わたしの体や心は、そういうことのためにあるんじゃないの。
さっさと着替えて部屋を出た。その後は、どうなったか知らない。
でも、逆に小さい人というのは、なんだか関係ないことを延々とするから困る。工夫してくれているつもりなんだろうけれど、度が過ぎると「いじましい」という気持になってくる。セックスに努力は似合わないと、思っているのだけれど。努力している人を裸の時は見守りたくない。セックスって、そんなに特別なことなのだろうか。セックスに必要なものって、とってもシンプルなことだと思うけど。
わたしは、野口さんと、このまま気の合うただの仲良しになってしまったら、本当につまらないと思っていた。そうしたら野口さんを嫌いになりそう。なんのために、これまで何度も会ってお互いの中身を交換してきたのかわからない。まだ少しわたしたちの間に残っている薄い透明の膜を破りたい。わたしは、野口さんから名前を呼ばれるたびに、蜜《みつ》を引きながら生身のわたしに戻っていった。
四度めに食事に出掛けた帰り、野口さんはもうちょっと、お酒を飲まない? と言って大きなホテルのバーに誘った。そして、最初の白ワインのグラスが空になりそうな時に、
「みちるちゃん、今日、外泊しても大丈夫?」
と、言った。
わたしは、ふーん、こう来たのね、と思った。
「うん、大丈夫」
今日は、まだ火曜日で、明日も会社があるから、朝早く起きて着替えに戻ればいいと思った。
「じゃあ、ちょっとここで、待ってて」
野口さんは、わたしを残して席を立った。白いシャツの背中が、何か目印のように動いて行った。
わたしは、もし、今日、野口さんが何も言わなかったら、自分から部屋に来て欲しいと言うつもりだった。どうやってそれを言うか台詞まで考えていた。それは、
「ちょっと、わたしの部屋に寄って一緒にフルーツを食べない?」
と、いうのだ。もしも、わたしが男だったらこうやって女のコを口説きたいと想像したことがあった。その時のフルーツはぶどうがいい。できたらマスカット。暗い光の中でもきれいだろうから。今はマスカットはないから、まだ少し高いけどいちごがいいな。
わたしは、二杯めのワインを飲みながら、ちらっと、えーと、今日着けている下着ってどれだっけ、と今朝の自分をおさらいした。野口さんは、仕事の都合だろう、突然時間ができるらしくて、その当日に電話をかけてくる。前からわかっていれば、下着もそれなりに選べるのだけれど、それは無理だから、わたしは以前よりも、普段から下着に気を付けるようになっていた。
今日は、この前買った黒地に細かいピンクの花がプリントされているシルクのブラジャーだった。ショーツは、ストレッチの素材のチョコレートブラウンのもので、前はレースが透けない程度に使ってあった。洋服で、花柄を着ない分、きれいな色の花のプリントのランジェリーが好きだ。今日は少し寒かったから濃紺の長袖のシャツを着ていた。戦闘服としてはいいんじゃないの。ベージュにしなくて、良かった。あれは野良着だからね。ベージュだったら、うんと言えなかったかもしれない。
野口さんが戻ってきた。
「みちるちゃん、あのね、部屋がないんだ」
「えっ、なんで。まだ火曜日よ」
「お医者さんの大きな会議があって、そのお客さんで一杯なんだ。あとは、うんと高い部屋になっちゃうんだって」
こんな大きなホテルの高い部屋って、どの位しちゃうんだろう。きっと新しいスーツが買える位の値段だろう。セックスのために、たくさんのお金を使うのは恥ずかしい。
「そう。それだったら、あのね、野口さん、わたしの部屋に来ない?」
「みちるちゃん、それはできないよ。そういうことで女のコの部屋を使うのは、なんだか悪くて好きじゃないんだ」
「わたしは、そんな風に思わないよ。食べる物もあるし、フルーツとか」
「今度、みちるちゃんが『いらっしゃい』って言ってくれた時に行くよ。でも、今日は行けないよ」
「そう。わかった。野口さん、ありがとうね。部屋のこと聞いてくれて。わたし、嬉しかった。じゃあ、これを飲んじゃったら、帰ろうよ」
わたしたちは席を立った。野口さんは、わたしの手を取った。暗いのをいいことに、わたしたちは指をからめて出口に向かった。口では、帰るなんて言いながら、指を伝わって、わたしたちのセックスは、もう始まってしまった。まだ、キスもしていなかったというのに。それなのにエレベーターを待つ間、野口さんは、
「みちるちゃん、送って行くよ。どこだっけ」
と言うのだった。
「上馬。246を通って行くの」
まだ地下鉄が動いている時間ではあった。野口さんは、指をほどかずに少し考え、
「それなら、みちるちゃんの家の途中の部屋でもいい?」
と言った。
車で帰る時、右側に見えるネオンのあるホテルのことだ。
「うん。一緒にいられるならいい」
エレベーターが来た。乗る人は、わたしたちの他に誰もいなくて、ドアが閉ると野口さんは初めてそっと、わたしの唇に触れ、そして次にうんときつく抱き締めて、わたしは一気に吸われた。
タクシーの中で、野口さんは、
「おなかがすいているの?」
と、訊いた。
「ううん、そうじゃない」
「何か欲しいもの、ある?」
「ワインを飲んだから。シャーベットが欲しい。オレンジ・シャーベット」
「うん、いいね。コンビニがきっとあるだろうから、買おう」
「遠足みたい」
野口さんは、それには答えず手を、わたしに預けたまま、前を向いた。わたしは、親指のつけ根をそっと触った。手は体の中心から遠いのに、心にはこんなに近い。今日やっと知った野口さんの手。わたしは、この手が好きだ。
「みちるちゃん」
前を見ていた野口さんが、わたしを見てわたしの名前を呼んだ。
その声は、そのままわたしの気持に入る軽い声で、心を伝える時って余分なものが付かない声になるんだと、わたしは知った。
わたしは、セックスの時、目を閉じない。顔は見てこそ顔、目は見てこそ目なのだから。わたしを見つめる目、わたしのためだけによく動く唇と柔らかな舌、そして体の全ての部分、どんな部分も、わたしにはとても大事だ。全部見ていたい。
けれど、目、閉じないの? と、必ず男はそう聞く。そして、それから男はばらけていくのだ。怒った男がいた。ネクタイでわたしに目隠しをした男がいた。ゆるやかに崩れ、低い声で、他にどんなことが好きなのかと尋ねた男もいた。
「みちるちゃん、目、閉じないんだね」
「うん、びっくりした?」
「びっくりするさ。目が合うと笑うんだもん」
「だって好きなんだもん。野口さんとこうしていることが」
野口さんは別に小さい人ではなかったのだ。たぶんそんなことは全然考えなくていいタイプで、野口さん自身も、わたしをこねくり回すこともなく、いばりもしなかったから、もう何も余計なことを考えなくてよかった。ほっとした。こういう時、ちょっと自分のでこぼこさが恥ずかしい。
「で、何を見てるの?」
「全部。見てると安心するの」
「最初、困っちゃったよ」
「もしも野口さんが嫌だったら、目を閉じるから」
「嫌じゃないよ。みちるちゃんが気持ちいいならいいんだよ」
わたしは、野口さんの上にいた。
「野口さん、あのね、わたし脇の毛、剃っていないよ」
「へぇ、気が付かなかった。女の人はだいたい剃っているんでしょ?」
「うん」
「なんで剃らないの?」
「つるつるにしちゃうと、感が鈍っちゃうような気がするし、わたし、いい匂いがするから、もったいないと思って。この毛はわたしには無駄毛じゃないの」
「ふーん。どれ、匂いをかがせて」
わたしは、脇の部分を野口さんの鼻の近くに持っていった。毛は、そんなに濃くなくて、暗い光では見えない。野口さんは、目を閉じてわたしの匂いを知る。
「本当だ。甘い匂いがするね」
野口さんは、指でわたしの細い毛を引っぱった。
「痛い?」
「痛くない」
わたしが腕時計をしないのも、同じように感が鈍る気がするからだ。
「脇に毛が生えている女のコなんて、嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ」
わたしは確認ばかりしている。でも、どんどん安心している。
わたしは、手をうーんと上にあげて右と左の手を組んで、
「今、わたしはどんな顔をしているの?」
と、訊いた。
「目がきらきらしていて可愛いけど、いやらしい顔」
「嫌いになった?」
手の力を抜いて、くったりと手を下ろしたらおっぱいがふたつとも、ぷるんと揺れて、二人とも笑った。
「嫌いにならないよ、好きだよ」
大事なことは、ちゃんと言葉で確認しなくちゃ。そのために言葉はあるのよ。わたしは、いつもそう思っている。
わたしは、自分の体を前に倒し、ぴったりと、野口さんの体に合せた。それは暖かく、ああ本当に、これはわたしにぴったりの乗り物だな、と思った。
次の朝、わたしたちは二人とも同じ体の匂いで坂を下った。
わたしは、化粧道具がなくて、きのうから同じ顔だ。アイラインがにじんでいるだろう。家に戻って、早くお化粧を落さなくちゃ。
「今まで気が付かなかったけど、みちるちゃんの髪は赤いね」
野口さんは、つないでいた手をほどいて、ふわりとわたしのセミロングの髪を触った。その髪のかさりとした一本一本の感覚が、わたしに届いた。
「うん、赤いヘア・マニキュアをしているの」
美容師さんに、赤いヘア・マニキュアをすると、肌がきれいに見えると言われたのと、黒を着る時、明るい感じがするから、二カ月前にしてみたのだ。
「シャンプーするとね、マニキュアが落ちて泡がピンクになるの。ケーキのクリームみたいでおかしいよ」
「きれいな色だ。この前一緒に仕事をしたドイツの通訳も、こんな色の髪だったよ」
「ロックの人みたいじゃない?」
わたしは、ヒョウ柄の細身のコートを着ていた。
「いや、きれいな動物みたいだ」
始まったばかりの朝の光で見てみると、野口さんは今、着ている紺のダッフルコートよりも、むしろグレーのスエットパンツと、ウインドブレーカーでマラソンが似合いそうだった。
「みちるちゃん、時間は大丈夫? 何か食べようよ」
「時間は大丈夫だけど、やっているお店なんてあるの?」
「牛丼屋の朝定食か、立喰いそば屋がある」
「今日は寒いから、おそばがいい」
「そうしよう」
わたしが知っているいくつかの、こんな朝は、食事なんか考えられなかった。先に行ってしまう大きな背中を追いかけたり、二人ともうつむいて足早に駅に向かったり、じゃあと先にタクシーに乗り、振り返りもしないものだった。さっきまでしてきたことについて、何も話さない、そして、次に会うことを考えてはいけないようなものだった。それは、いつも朝の光に負けてしまうものだった。
この人は何が違うんだろう。
野口さんは、わかめそばがおいしいからとわたしの分も食券を買ってくれ、生卵を注文して、自分の丼とわたしの丼に割って落した。卵の白身は周りから、ふわふわと白くなった。
「黄身は、こわさないように最後に食べよっと」
「みちるちゃん、あわてて食べなくても大丈夫だからね」
始まったばかりのおそば屋なのに、どんどんお客が入ってくる。
「わたし朝からおそばを食べたの初めて」
「おいしいでしょ?」
「うん」
野口さんは、おそばの薬味のねぎを割箸で一つ一つよけている。
「野口さん、ねぎ嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。今日は、これから打合せがあるから、ねぎは食べないほうがいいんだよ」
「わたし食べちゃった」
「みちるちゃんはいいんだよ。歯を磨いても気になるから食べないだけだよ」
野口さんは、グラスに水を入れて持って来てくれた。
「今度、野口さんもねぎ食べていい時、また一緒におそば食べて」
「うん、いいね。今度はいか天そばにしよう」
そう言って野口さんはグラスの水を、飲んだ。
ああ、この人は、服を着ていても着ていなくても全然変わらない。そういう人なのね。
野口さんが、うちに食事に来ることになったのは、あれから一カ月たってからのことだった。
土曜日だけれど、その日の夕方まで野口さんは打合せがあって、約束は七時半だった。約束の時間の前から、野口さんの頭の中にはわたしのことがインプットされていて、約束の時間通りに、野口さんは地下鉄に向かったり、電話を掛けたりする。わたしには、それが嬉しい。
うちで一緒に食べる最初のごはんだから、献立は何にしようかと木曜日位からわくわくしていた。それよりも、わたしのうちで、野口さんは、どんな風に見えるのか、それも楽しみのひとつだった。外で会っているのと、自分の生活している空間で会うのとでは、また感じが違うものだから。
献立は、カレーや肉じゃがのような作戦めいたものにしたくなかった。ああいうのは、もっと後でいい。何にしようかな、と思った時、煮魚は作りたかった。自分のために。
よく覚えている。
わたしが、はっきりと野口さんについて気持が動いたのは、三度めの食事の時だった。野口さんとわたしはカウンターの席に隣合って坐り、その時、野口さんは鯛のかぶと煮を食べていた。箸で小さな身を上手につまみ、口の端から骨だけを出した。魚を食べるのが上手で、唇と舌がよく動き、時々身をすする音も、わたしには嫌な音ではなかった。ライオンがもし魚を食べることができたら、こう食べるだろうと思った。この唇と舌を今度はわたしのために働かせたい。そして、それを弱い光のなかで見られたら、どんなにすてきだろう。
本当は、ここの肉が一番おいしいんだと、野口さんは目玉のことを言った。わたしは、特別食べたいわけではなかったから、野口さんに、食べて、と言った。
野口さんは、目玉のところをくるりと抜き取って、口に含んだ。そして、柔らかい肉をすすり、口から、ぽとんと、白い玉を出した。いやらしい唇。その剥き出しになった小さな白い玉は、野口さんの舌と口を知っているのだと思ったら、わたしもそれをそのまま自分の口に入れてみたくて、その気持を抑えるために、
「上手に食べるね」
と、言って、野口さんの口から出た魚の骨と白い玉を、じっと見た。
目の前で、ああやって魚を食べる野口さんを見たかった。あの唇が、魚の身をきれいになめ取るところを見たかった。
献立は、カレイの煮付と白菜のスープにすることにした。スープは、お客様なのだから本を見ながら鳥ガラから取ることにした。
でも、電話は八時になっても鳴らなかった。本当は、この時間だったら最初のワインのボトルが空になってもいい頃なのに。どうしたんだろう。
ごはんは炊き立てがおいしいから、まだ炊いていなかった。お昼ごはんを昼間食べただけだから、お腹がすいちゃった。トーストを一枚先に食べよう。後で、まだ一緒に食べられるし。卓上コンロで、目の前でスープを作ろうと思って用意した白菜が少ししおれて見える。
トースターに食パンを入れた時に、電話が鳴った。八時二十分だった。
「みちるちゃん、遅くなって、ごめん」
「野口さん、どうしたの? 心配したよ」
「悪かった。来週ある会議のスピーカーが一人、来日できなくなったんだよ。それが今日の昼過ぎにわかってね、今までずっと打合せしていたんだよ」
「そうだったの。それじゃ仕方ないね」
「ずっと気になっていたんだけど、みんな殺気立っててね、電話できる雰囲気じゃなかったんだよ」
「ごはん食べた?」
「うん、さっき弁当が出た」
「そうだよね。こんな時間じゃ」
「みちるちゃんは?」
「ずっと待ってたから、まだ食べてない」
「そうだよな。みちるちゃん、ごめんね」
「大丈夫、そんなことで怒らない」
「みちるちゃん、あのさ、今、渋谷の近くにいるんだけれど、みちるちゃんの所に行ってもいい? 十時からまた打合せをしなくちゃいけなくて、また戻るんだけど」
「だって、もうごはん食べたんでしょう?」
「うん、そうなんだけど。みちるちゃん、そんなの嫌?」
「ううん。そんなことない。嬉しいからすぐ来て」
「地下鉄は、どこの駅?」
「駒沢大学よ」
「駅から近い?」
「うん、近いの。改札まで迎えに行くから」
「夜なのに、大丈夫?」
「大丈夫。改札はひとつだから出た所で待っていてね」
トーストに何も付けずに、カリカリと急いで食べ駅に急いだ。
駅まで歩いて十分もかからないのに、野口さんは先に改札に立っていた。隣に柴犬を連れたおじさんがいて、おじさんの柴犬は野口さんの脚の匂いをかいでいた。
野口さん、と声をかけ近付いていくと、犬とおじさんと、野口さんがわたしを見た。
「野口さん、こっち」
と、階段のほうへ一緒に歩いて行って、後ろを見たら、犬はしっぽを振っていた。
「みちるちゃん、ごめんね」
「ううん、わざわざ来てくれてありがとう」
野口さんは、革の手袋をしているわたしの手を握ったから、わたしは手袋を取った。
野口さんは、部屋に上る時、お邪魔しますと言った。
「本当はね、カレイの煮たのと白菜のスープにしようと思ったの。野口さん、魚好きみたいだから」
こたつの上には、お皿にのったカレイと、土鍋が用意してあった。野口さんは、土鍋のふたを取り、スープを見た。
「鳥ガラでスープを取ってみたの」
「透明できれいなスープだね。あくを取るの大変だった?」
「本の通りにやってみたら、上手にできたの」
「おいしそうだから食べてもいい?」
「いいけど、お腹に入る?」
「今日は、まだこれから続くから食べたい」
わたしは、カレイを温め、野口さんに言われた通りに、スープにおしょう油を少し落しねぎをきざんで浮べた。
野口さんは、味付けをほめ、カレイの身をやっぱり箸で丁寧に取り、その骨は櫛のようにきれいに残った。
わたしは野口さんの正面に坐り、野口さんの話を聞いた。国際会議では、予定者のキャンセルは珍しいことではないということ、代理の候補者と連絡が時差の関係でなかなか取れないということ。だから、今日はこれから戻って仕事をするのだと言った。
わたしは、この人、なんだろうと思って話を聞いていた。せっかくわたしの部屋に来たのに、そして時間がほんの少ししかないのに、にこにこと料理を食べて一生懸命仕事の話をして。わたしだったらそんなことは、しないだろうな。そして、わたしの知っていた男もそんなことは、しない。わたしの顔を見ただけでまた、この寒いなかを仕事に戻って行く人。野口さん、あなたはバカでいい人ね。
「あとどの位いられるの? 今、九時十五分だけど」
「じゃあ、あと十分もないや。みちるちゃんお茶淹れてくれる?」
「うん」
わたしは、そう返事をして、お湯を沸そうと思って台所に行ったのだけれど、やめた。こたつの部屋に戻って、坐っている野口さんの手を取り、あのね、と奥の部屋に連れて行った。
そこは、寝室でセミダブルのベッドと、本棚がある。
野口さんは、わざとなのかベッドの方は見ないで、本棚の方を見て、たくさん本があるね、と言った。あのね、こんな時、そんなこと、本当に言いたい?
わたしは、明かりはつけずに、そのままで、お布団をめくり、野口さん、ここに坐ってと言った。
「何、みちるちゃん」
わたしは、膝をきちんとそろえて、野口さんの前に坐り、野口さんのズボンの膝に手を置いて、言った。
「野口さん、出して」
「えっ」
「あのね、出してちょうだい」
わたしは、ベルトに手をかけた。こういう時は、どちらかが一生懸命にならなければ、恥ずかしいだけだから。
「みちるちゃん、だめだよ。もう時間ないし、シャワー浴びてないんだから」
「いいから。だって、野口さん、もうすぐ行ってしまうんでしょ。だから」
わたしは、この人をうんと可愛がりたい、心から。優しくしたいわたしの気持が、どうにかそのままそっくり伝わらないだろうかと、わたしの唇と舌は働いた。
そして、わたしを残して仕事に戻る野口さんに、わたしの跡を残したい、そうしたら一体どうなるだろう。そんな残忍な思いも、わたしの舌は持ったのだ。
わたしは、顔を上げ野口さんの目を見て言った。
「この前、あなたは、こうやって鯛の目玉をすすったのよ」
わたしは口の中で、音をたてて舌を柔らかくすすり上げたけれど、あの白い玉のように吐き出すものは何も無い。わたしは、この食べ物を可愛いと思う。
野口さんは苦しそうに、恥ずかしそうに、そしてたまらなそうに、みちるちゃんの中に入れさせてと言った。
わたしは、自分でストッキングと、ショーツを脱ぎ、野口さんの肩から手を回し、野口さんの膝の上に、わたしの剥き出しの股《もも》は白かった。
そして、一体どうなっているのだろうと、お腹の下の所にくしゃくしゃになっている、白いエプロンとニットのむらさきのスカートをどかしてみたら野口さんのうんと大きくなったおちんちんは、まるでわたしから生えているように見えて、本当にこれはわたしに似合ってる、なんていいんだろうと、ため息をつきながら、そのまだ少し残って見えているわたしのおちんちんを赤い爪の人差し指でそっと触った。
[#改ページ]
マ マ
ママ、きのうはわたしの誕生日でした。
昼間ずっと外に出ていて、夕方会社に戻ったら大きな包みが届いていました。えー、何かなと思って開けたら、わたしが前から好きだったあの鶴の刺繍の帯でした。この帯は、ママもまだ締められるものなのに。もう、わたしがもらっちゃって良かったのかな。でも、嬉しかった。どうもありがとう。大切に使います。
それから小さい白い箱が、ころんと出てきて、そっと開けたら指輪のケースでした。わたしは開ける前からわかっていました。そう、中はきっとあの瑪瑙《めのう》の指輪。紅茶のキャンディみたいな色の石に、黒い筋が少し散っているママの指輪。
子供だったわたしは、その黒い筋を、なぜか小さな魚だと信じていた。ママは大人だから、魚を指輪の中に閉じ込めることだってできる。ママ、そうでしょ、おさかなを入れてあるのよね、とわたしが言うと、ママは笑ってその石をそっと撫で、この指輪は結婚する時パパが買ってくれたのだと言った。貧乏だったけど、どうしても指輪が欲しかったから買ってもらった指輪なのだと。ユミちゃんが生まれる前から、ママはこの指輪をしているのよ、と言うから、わたしもそっとその茶色の石に触れてみた。ひんやりと冷たい石。
わたしは、その溶けるような色の石を見つめるママを思う。わたしを身籠るまでの三ヵ月間、とにかくママのしあわせをその石は見ていたのだから。わたしは、せめてそう思いたかった。
わたしの成人式の写真が出来てきた時、やっぱりあの時あんたを産んで良かった、だって、そうじゃなかったら、こんなにきれいな着物を着た子がいなかったってことになるって、ママがわたしに言った。えっ、何それ、と訊いたら、あんたを妊娠した時、パパは「ねぇ、堕ろすんでしょ、ね」って言ったのよ、そのことで毎日ケンカしたのよ。でもがんばって産んで良かったって、この写真見たらつくづくそう思ったのよ。ママはそう言った。
そうか、パパまでもわたしを欲しくなかったのか。ママがわたしを欲しくなかったっていうのは知っていたけれど、パパのことは全然知らなかったから、がっかりした。わたしは、結局誰からも欲しがられない子供だったというわけだ。
ママはパパと言い争いになると決まってわたしに言うのだった。子供なんて欲しくなかった、子供なんて産むんじゃなかった、結婚なんてするんじゃなかった、そうしたら、わたしは何処にでも行けたのに、こんな家、もういやだ、出ていく、そう言って、ママは泣く。
ママは強い人で、何でもできて、お料理もお洗濯も、おうちのことも、わたしのことも妹のタエコのことも全部ちゃんとやってくれる。そのママが、時々大きな声をあげて泣くから、わたしはうんとこわくなる。パパとママがケンカをしている隣の部屋に走って行って、泣いているママにわたしは飛び付く。
ママ、どこに行くの、ユミも一緒に連れていって、ママ、置いていかないで、一緒じゃないといやと、わたしは泣く。
そうすると、ママは、もっと、こわい顔でわたしの両肩を力一杯つかんで、ゆさぶる。冗談じゃないわよ、あんたがいるから、あたしはもう何処にも行けないんじゃないの、あたしはね、本当はあんたなんか産みたくなかったのよ、全部あんたのせいじゃないの、と言うから、パパは、子供になんてこと言うんだと、ママを何度もぶった。
そんなことがあった次の朝は、ママが家にいるかどうか一番最初に確かめる。瞼を腫らし厚ぼったい顔だけれど、ママはやっぱり台所に立っていた。いつものように。そして、ユミ、早くごはんを食べなさいと言う。
ママは決して言わない。きのうはひどいことを言って悪かったとか、あれは嘘だとか、そんなことは言わない。だからわたしにはよくわかる。ママは、子供を欲しくなかったこと、本当は何処かへ行ってしまいたいこと、でも、我慢して何処へも行かずここにいるということを。わたしは、それを知っている子供だった。
そう、二十九歳のママには、五歳のわたしと二歳のタエコと、三歳年上のパパがいた。そして、小さな台所と六畳二間のお風呂のない小さな社宅に住んでいた。全てが暗くしーんとした部屋だった。
二十九歳のわたしには、それがとてもおそろしいことに思える。わたしは、そんな生活引き受けられない。体が弱くてすぐに熱を出す五歳の娘、おしめがなかなか取れない二歳の娘、そして結婚する前とはすっかり人が変わってしまった三歳年上の夫。それが、自分の持っている全てだとしたら、一体どこから手を付けていいのかわからない。何のために大人になったのか、何のためにその男を選んだのかわからないだろう。それなのに、自分の産んだ二人の娘ときたら手放しで、自分を頼っているのだ。きっともう、何処へも逃げることはできないのだ。知らない間に足枷がはめられていた、そんな気分だっただろう。
今のわたしには到底できないことを、二十九歳のママはやっていた。ママはあの時、まだ二十九歳だったんだね。かわいそうに。
わたしは、ママがしてくれた蜂蜜の話が好きだ。
結婚する前、パパの誕生日に、ママは蜂蜜をプレゼントした。重くてかさばるそのプレゼントにパパは大喜びし、にこにこしながらそれを開けたら、蜂蜜の大瓶が出てきて、なぁんだとがっかりした話。
なんで誕生日のプレゼントに蜂蜜なの、とわたしが笑いながら訊くと、あの頃のパパは栄養が悪くてうんと痩せていたから、栄養をつけさせてあげたかったと、ママは言った。栄養。わたしは、付き合ってきた男たちの栄養を心配したことはなかった。おいしいものを食べさせようと思うことはあるけれど、栄養の心配は必要なかった。プレゼントはマフラーや、ネクタイで、栄養は考えなくてもよかった。その蜂蜜をパパがなめたのかどうかは知らない。でも、わたしが覚えているパパは、痩せた男ではなかった。
わたしたちには目覚し時計はいらなかった。朝から罵り合う二人の声で目が覚めるのだった。そんなに大きな音をたてて新聞を置く奴がどこにいる、朝からこんなごてごてした味噌汁を出すな、なんだこの豆腐の切り方は、飯が軟らか過ぎる、クリームを塗った手でお茶を出すなよ化粧臭いじゃないか、靴下にまた毛玉が付いている。
あまりにも些細なことを怒り過ぎるとママは言い、こんなこともわからないのかとパパは怒る。ママは何度も同じことをしてパパを怒らせるから、きっともう直すつもりもなかったのだろう。
些細なことでとママは言った。確かにそれらは、みなどれも小さな事柄だった。でも、今のわたしにはわかる。二人の関係が崩れていく時、まず最初に些細な事柄からずれ始め、そして、そのずれがトゲのようにうずくのではないかと。その痛みで心はすっかり駄目になっていくのだろうと。わたしがこれまで男と別れてきた原因も、やっぱり最初は些細な事柄だったではないか。
そう、好きということで一緒にいるわけでもない、好きでなくても生活は続けられるということを、わたしはこうやって知った。
ママは、なぜパパと結婚したの。わたしはママに聞いたことがある。そうね、家を早く出たかったのかもしれない、最初の頃はものすごく貧乏で、ひとつのコッペパンを二人で半分ずつして食べたこともあって、それでも嬉しかったのよ、それにパパは苦労した人だから間違いないと思ったし、あの頃は、自分にいろいろコンプレックスがあったから見初められてほっとしたのかもしれない、今思うとなんであんなにコンプレックスが強かったのかわからない、自分でもかわいそうなぐらい、もっと自信を持って男の人を選べば良かったのに、本当は洋裁の先生になる口も来ていたんだけど、どうして断っちゃったのか、あの時、先生になっていたら、あんたはこの世にいないっていうことね、とママは言った。
結婚のお祝いは、友達に頼んで料理用のハカリにしてもらったとママは言う。ハカリ? 何で、と訊いたら、台所にハカリのある家は、ちゃんとした家のように思えたから。ちゃんとした家にしたかったから、と言った。
ちゃんとした家。あの家は果たしてちゃんとした家だったのだろうか。お風呂屋さんへ行く時、わたしとタエコはママの後を付いて歩く。アヒルの親子のように三人が固まって歩く。冬のあの夜、いつものように床屋さんの角を曲って、路地に入った時、どこかの家から大きな笑い声が聞こえてきた。ああ、いいねぇ、このうちは笑ってるよ、ママがそう言ったのをわたしは覚えている。わたしたちの家は、決して笑わない。いつも叱られないようにじっとしている家だった。
わたしは、大人の男というのは全員がパパのような人なのだろうと思っていた。男の手本は、パパしかわたしの世界にはいなかったから。だから実際に社会に出てみて、笑い出しそうになった。男っていろんな種類の人間がいるんじゃないの。こわくない男、面白い男、きちんと言葉を使って感情を表現できる男、わたしをぶたない男、わたしを直そうとしない男、そして、わたしを叱らない男。世の中は、なんて楽なのだろうとわたしは心から思った。
わたしがどうしても嫌だったのは、パパがママやわたしたちに言う「誰に養ってもらってると思っているんだ」という台詞と、「そんなに嫌ならとっとと出て行け」という台詞だった。もう何処へも行くことのできないママや、行く所のないわたしたちにそう言うのは卑怯なことだった。だから、二十五歳の時、何かでもの凄いケンカになり、わたしは殴られ口を切り血が出て、「いい面だな、そんなにこの家が嫌なら出て行け」と、また言われたから、一カ月後本当にスーツケースを一つ提げて出て行った、さようなら出て行きますと言って。
わたしは一人で不動産屋を廻り、一度も聞いたことのない町に部屋を借りたのだ。貯金は全てなくなり、秋だったけれど布団も買えなくて、毛布を体に巻き付け床に寝た。テーブルもなくて、脱衣籠を逆さにし、タオルをかけた。トースターもなかったから食パンをそのまま食べた。それでも、聞きたくないことを聞かずに済む生活は、わたしには何よりも欲しいものだった。わたしはどんなに得意だったろう。
パパと離れたかったからわたしは家を出たのだけれど、でもそれは、ママやタエコ、そして一番下の妹のヨウコとの生活もやめることだった。わたしが勝手に出て行った後、一体ママはどんな気持だっただろう。それを思うようになったのは、つい最近のことだ。
あのね、ユミちゃんがいなくなっちゃった後も、パパはずっとあの金町のおいしいケーキを五つ買って来てたんだよ、そして、ユミはまだ戻らないのかって、ママに言ってたんだよ、そうしたら、ママはね、出て行けってあんたが言ったからあの子は本当に行っちゃったんだって言ったんだよ。
そう、そしてわたしの分のケーキはどうしたの。
ヨウちゃんとタエちゃんと半分ずつ食べた、と十歳下のヨウコが言った。
ママは一度だけわたしの部屋を見に来た。ヨウコと一緒に。六畳二間のわたしの部屋を見て、贅沢だと怒った。そう、それじゃあママは、わたしが暗くて狭い部屋に暮らしていたら嬉しいの、と訊いたら、そうじゃないけどね、と笑った。部屋にはまだ内装工事の匂いが残っていた。ああこの匂い、あの社宅に引越して来た時もこんな匂いがしていたわ、とママは懐しそうに言った。
わたしのパパは五十五歳で死んだ。
一月に倒れて二度と歩くことはなくて、三月三十一日に死んだ。
わたしは家を出てから、夏とお正月は顔を見せに戻るようにしていた。そうでないと、勝手にパパがわたしの会社に来てしまうから。ある時、受付から、小川さん、お父さんがいらしてるわよ、と呼ばれてギョッとして玄関に行くと、パパが立っていた。この近くで会議があったから寄ってみたと言った。飯でも食うかと言うから、しかたなく近くのレストランで向かい合って食べたけど、特に話すこともなくて、結局、パパは、お前の会社には社員食堂はあるのか、と訊きわたしは、うんと答えた。話したことは、それだけだった。その後も数回来た。最中《もなか》を山ほど持って。わたしは、あんこが大嫌いだというのに。帰る時に、お金はあるのか、と言うから、ある、と答えると、そうかと言って帰っていった。
その年のお正月、パパは腰が痛いと言って寝ていた。わたしは、黄土色の地に桃の柄の着物を着て家に戻った。寝ているパパに、ほらね、お正月だから着物を着たの、と見せたら、ずい分大人っぽい着物だなぁなんて言うから、わたしは笑って、もう二十七で大人なんだよ、と言った。二十七か早いもんだなぁとポツンとパパは言った。なんだか聞いてはいけない生の声を聞いてしまったようで、心がしーんとした。夕方近くになって、もう帰るからと声をかけると、ゆらりと起きて駅まで送ると言う。腰が痛くて寝ていた人なんだからいいよ、と言うのに、いいからいいからと言って車を出してくれた。
それから数日後にパパは足が立たなくなり倒れて入院することになる。
あの時のパパの顔、とヨウコは言う。自分は、もう立てないのだと知った時、パパはどんなにこわかっただろう。だから、ユミを駅まで送った時も、相当痛かったはずよ、とママはお葬式の後に言った。きっと、少しでもあんたの役に立とうと思ったんじゃないの。
三月に入ってから、今年の桜は見られるだろうかとパパは毎日言うようになった。近所の方が沈丁花の小枝を持ってきて下さった時、ああもう少しで桜が咲くなぁと、みんなでほっとしたのだけれど、金曜日に意識が無くなり、日曜日にパパは死んでしまった。
パパが死んだ時、ママは大きな声で「あなた!」と言った。パパのことを「あなた」なんて呼ぶのを聞いたのは初めてだった。
あなた! 一人で死んじゃうなんて、これから大変なのに無責任じゃないの、女の子が三人もいるのに誰の結婚式も出ないなんて、とママは泣いた。
えっ、ママそんなことやっぱり思ってたの? パパが目の前で死んだこともショックだったけれど、さんざんあんなことを言ってたママが、そんな風に嘆くなんて、わたしはびっくりした。何か裏切られた気がした。
死体になったパパは、お棺に入り菊の花で埋められて全然知らない人のようだった。日頃仏教のことを何もしていないのに、お葬式の時は見たこともない菅笠《すげがさ》を、パパは頭にかぶせられてしまい、ひどい冗談のようだった。パパはこんな姿を恥ずかしく思うだろうと、わたしは思った。
桜はお葬式の時にちらちらと咲き、喪服の黒に花の色は冴えて美しかった。
焼かれたパパの骨は緑青《ろくしよう》のように、ほんの少し青かった。わたしはその色を見た時、昔観た映画、『ツィゴイネルワイゼン』のワンシーンを思い出した。血を吐かないように我慢した弟のお骨が、うっすらと赤かったんです。そう芸者が、ぽつんと言う場面を。
その淋しく骨に染み出た薄い青は、パパが最後まで我慢した癌の痛みのようにわたしには思えて、その時初めてパパを哀れだと思った。
会社から引き上げたパパの私物を整理したのは、わたしとタエコだ。ユミちゃん、ほら、とタエコがわたしに差し出したアドレス帳にはちゃんと「小川由美」の項目があった。わたしのマンションの住所が書いてあり、そして赤いボールペンで電話番号が書かれていた。一度も電話してきたことはなかったのに。赤いボールペンでパパはわたしの電話番号を書いていたのか。
手帳は年末に買い替えていたのだろう、一月に予定されていた会議の日程が書き込まれていた。手帳の最後の頁を見たら、そこにはわたしたち家族全員の名前と誕生日が書いてあった。由美 昭和四十三年一月二十六日、そのパパの筆跡を見た時わたしは、声も出ないほど泣いた。
パパが死んでから心に決めたことがある。いつかやっぱり、子供を産もうと思う。できたら結婚をして。もし、結婚はできなかったらそれはそれで、わたしは子供を産もうと思う。本当に好きで大事に思える男の子供を育てようと思う。そうしたら、わたしが産んだ子供の中に、パパの命も溶けて続いていくだろう。わたしは、そう思った。
どうしてもその子を欲しいと思って、そして、産もうと決心して産むつもりだ。できるなら子供に向かって、おまえなんか欲しくなかったとは言いたくないから。自分がママに言われたからわたしも、自分の子供に言ってしまいそうでそれだけが心配だ。
わたしは、あの時のママを心底かわいそうに思う。気持を打ち明ける相手が誰もいなくて、結局、自分の子供に言うしかなかったんだろう。
ママ。ママは、わたしをもしかしたら本当に欲しくないと思ったのかもしれません。わたしを邪魔に思ったのかもしれません。ママは頭のいい人だからもっと、自分のやりたいこと、自分のやれることを探したかったかもしれない。だって今のわたしがそうだから。でもママは、五歳のわたしの誕生日に『赤いろうそくと人魚』を買ってくれて、本を読む楽しさを教えてくれました。その後もわたしが勉強したいことを本当に応援してくれました。わたしが今、こんな風に仕事をしていられるのも、ママがわたしを上手に育ててくれたからかもしれません。わたしは、自分の子供を、ママがわたしにしてくれたみたいに、育てられるかな。
わたしがいたせいで、ママは自由になれなかったのだと思うと本当に胸が痛みます。
でもね、それでもやっぱりわたしはこの世に生まれてきたかったんだと思います。生まれて、こんな風に仕事をしたり、暮らしていったり、人に会ったり、笑ったり、つらい思いをしてもいい、そんなこと全部を味わうために、わたしはママから生まれてきたんだと思います。わたしは、しあわせになるためにこの世に生まれてきた。そう思っています。
だから、ママ。わたしを産んでくれて本当にありがとう。あの指輪ね、わたしの左手の薬指にぴったりでした。ママとわたしが同じサイズだなんて、きっとパパは知らないでしょう。この指輪は、大事にして御守りにするから。そして、もし、わたしがいつか子供を産んで、その子が女の子だったら、わたしも、ママと同じように、その子にこの指輪をやろうと思います。
ママ、あの時がんばってわたしを守ってくれてありがとう。そして、産んでくれてありがとう。わたしは生まれてきて本当によかったよ。
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虫の女
わたしには、男に抱き締められることがセックスだった。あの朝までは。
男の背中はいつだって広くて、わたしの腕は気持のそのままの力を込めて、何度も行ったり来たりを繰り返す。そうして、もっともっとわたしを男に差し出せば、わたしはあまりにもシンプルな生き物になれるのだった。
笑いながら、よだれをたらしながら、体全ての部品が「好きよ」と大声で叫ぶ生き物。それがわたしのはずだった。
でも、あの朝、うん、ありがとう、サインしてくれてありがとう、これで大丈夫、それじゃあこれから病院に行ってくるからね、このコは産んであげられないけど、もしこれから先、わたしがあなたの子供産めたら、その子供のこと、このコの分までうんと可愛がるよと、ススムに言った時、ススムは身をかがめわたしの白いモヘアのセーターに顔を埋めた。
わたしは、彼がいつもわたしにしてくれるように髪を静かに撫で、もう行くね、と言ったのにススムは、黒いワンピースの下から手を入れわたしの脚をそっと触り、脱いでと小さな声で言った。
こんな時にこのヒトは、と実際わたしは思ったけれど、じゃあ、もういいやどうせ同じだもの、と思って、自分で脱いで、わたしたちは、そのまま毛足の短いグレーのカーペットの上で、した。
その時、ススムは、わたしの背中に彼の腕をまわしてわたしに、抱きついてきた。そうするのは、いつもわたしだったのに。かわいそうに、このヒトは。このヒトは、今、とってもかわいそうなのだ。わたしには突然それがわかった。だからわたしは、ススムを抱き締めた。いつもススムがわたしにしてくれるように。
きのうの朝、会社に行く前に渋谷で会った時、同意書にサインしてもらえると思っていたのに、ススムはサインしなかった。もう一晩あずからせて欲しいと言うのだった。一日遅くなったって、わたしは何も変わらないとわかっていたけれど、彼には彼の考えがあるのだろう、きっと。じゃあ、明日の朝までにサインしておいて。わたしがあなたの所に取りに行くから。ここに判子も押してね。鉛筆でマルをした所よ。これはすごく大事な書類で一枚きりしかなくて、これをなくしちゃうと手術できないんだからなくさないでよ。そうしたら、わたしは明日、あなたのマンションに寄ってから病院に行って、先生と打合せしてくるから。そして、いろいろ決まったら、あなたにも電話する、と言った。ススムは、わたしが決めたことに対して何も言わないで、わたしの説明を聞いているだけだった。二人の前で手つかずの紅茶が静かに冷めていく。
先生は、今のうちだったらダメージは少なくて済むっておっしゃったから安心したよ、次にも子供ができるように注意してやって下さるって。
わたしだって、なにもこんな話、大切な会議があるその日の朝、自分の男とするのは嫌だった。でも、わたしには大事なことだし、自分勝手にいろいろ決められないし、ススムの気持も聞きたかった。だって二人でした二人のことだから。ススムにも知って欲しかった。そして、とにかく何かわたしに言って欲しかった。
でも、結局ススムは自分の気持を言葉にしなかった。
待合せの九時にフルーツパーラーで会った時、ススムはわたしを見て、大丈夫? と言った。
何をこの男は言っているのか、わたしには全然わからなかった。妊娠しているのにミニスカートでいることを言っているのか、今日ヒールのある靴をはいてきちゃったことを言っているのか、それともわたしの体のことを言ってくれているのか。
わたしは、とりあえずススムには、わたしの体を心配して欲しいから、まだ本当に始まったばかりだし、つわりも何もないんだよと言ったら、ああ、それは良かったと言った。病院の先生も同じことをおっしゃった。そうか、それは良かった。まぁ、確かにそうだけど。
今は産めないから、産むのよそうと思う。わたしは、前の晩、ススムと電話で話したことを、もう一度、口に出して言った。ススムは、きのうの晩は眠れなかったと言った。
何度も電話し、夜遅くやっとつかまったススムは、疲れた声をしていた。
夜遅くで悪いんだけど、話があるの。なんだよ。あのね、今、会社のロビーからかけていて、ここからじゃ言いたくないことなのよ、明日の朝でいいからちょっと会ってもらえないかしら。明日どうなるかわからないから、今話せよ、聞くから。でもね。いいから、話せよ。そうわかった、じゃあ言うけどね、あのね、あたし妊娠してるの。えっ、……なんだって。
わたしは、その時のススムの声で、やっぱりわたしが決めたことは正しいことだったんだとわかった。夜十一時のロビーは暗く、公衆電話にはわたし一人だったけど、誰かが途中で廊下を引き返していく足音がしていた。
まいったなぁ。
正直な男だと思う。もしも、わたしが今のススムならわたしだって絶対そう言うだろう。
そうなの、まいっちゃうでしょう。
あ、そういう意味じゃないよ。
ススムの声は、もうすっかり目が覚めた声になっていた。
ううん、本当にまいっちゃったの、今日ね、昼間、病院に行ってきたの、それでね、よく考えたんだけどわたし、やっぱり産まないことにしようと思って、そのことをあなたに伝えたかったの、わたし仕事しているから、自分のことは自分でできるし、あんまりあなたにも甘えることしないし、あなたにはきっとわたしは可愛くないオンナだとは思うけど、わたしこのことも今日自分で決めたの、そして病院に行って先生に言ったら、先生が同意書に相手のヒトのサインが必要だからっておっしゃって同意書いただいてきたの、インチキの名前と住所を書く人もいるらしいけど、わたしにはあなたがいるし、わたしはあなたに、あなたの字でサインして欲しいの、やっぱりわたしはさ、あなたが好きだから、だから電話したの。
そうか、わかった、とにかく明日会おう、全部何もかもお前一人で決めなくていいから、明日九時に渋谷のあのフルーツパーラーでいいか、と言って、わたしたちは次の朝会うことにした。
ススムは、わたしの説明を全部聞くと、目の前に置いた同意書を手に取り、サインすべき「配偶者欄」をじっと見つめた。この書類によればセックスをした相手を配偶者と呼ぶらしい。ススムはわたしの配偶者として同意するのだ。配偶者だって。ススムが。
サインするのは今だろうが、明日になろうが、わたしがこのコを産めるはずがないのに、なんのためにもう一日時間をくれと言うのかわからなかった。
お茶のお金を払い、ススムの所にわたしが戻ると、ススムは同意書を丁寧に折って茶色の鞄に入れて、ありがとうと小さな声で言った。ススムはその時、確かにありがとうと言ったのだった。ああ、こんなことにも、ありがとうという言葉は使われるのだ。わたしは、これから電車に乗らなきゃいけなかったし、お化粧してある顔だから、泣いちゃ駄目、と口をぎゅっと強く閉じて、うん、と言ってススムに地下鉄の駅まで送ってもらった。やっぱり、こうするしかないのだから。
カーペットの上でススムの体を抱き締めていると、悲しみというものは、体温に溶け出すものだとよくわかった。わたしの体は、今ススムにとって温かいだろうか。わたしは自分の体で温めてやりたかった。
いつだったか、わたしの中身はどんな感じがするの、とススムに訊いたことがある。柔らかくて、あったかくて、締めつけていて、すっぽり全部はいっちゃうんだと、ススムはおちんちんをわたしに入れたまま、息のような声で答えた。そうか、それは確かに気持ち良さそうだと、おちんちんを締めつけながら、わたしは感心した。ススムを気持ち良くできるわたしの体が好き。
わたしは、こんな時だけどススムに嫌われないようにと思いながら、おちんちんをそっと自分から触ってみたら、やっぱり硬くなっていて、嬉しかった。入れて、と言ったら、だってこれから病院に行くんだろう、と言った。うん、でもシャワーを浴びればいいのよとわたしが言ったら、ススムは、すぐにおちんちんを入れた。
それは、キスもしない、優しいことも、ましていやらしいこともささやかない、おっぱいもなめない、あれにも少しも触らず、ただおちんちんを入れて抱き合うだけのセックスだった。
そして、正直に言ってしまえば、それはものすごく良かった。あんな思いはしたことがない。悲しい時の快楽は圧倒的なものなのか。わたしたちは、流され溺れそうな二匹の虫で、それが互いにしがみついているようなものだった。最初はほんの小さな祈りにも似た体温だったのに。
中に出したい? そうしたければ、そうしてもいいのよ、とわたしは言った。それはやっぱりだめだよ、とススムは抜いて、わたしに見られながら、いった。
ススムがお風呂を入れてくれて、わたしはよく体を洗い、ぬるぬるがすっかり抜けるまで丁寧に洗った。お湯の中で、わたしの足の指はうんと白くて、ペディキュアがちょっと赤過ぎるようで、先生に失礼かなって思った。そもそも産婦人科に来る人って、ペディキュアをしているだろうか。あの病院で見た人たちは、もうすっかりお母さんという感じで、ペディキュアをするタイプじゃなかった。
お風呂からあがって、いつもの黒いスリップを着けても、わたしのお腹はぺっちゃんこで、妊娠なんて嘘みたいだった。ススムにも、ほら、こんなにぺっちゃんこなのにね、とお腹を見せた。でも、それはやっぱり本当のことで、今日はこれから、その妊娠をいつ止めるか先生と決める日だった。
その病院は、わたしが長い間通っていた病院とは別の病院だった。わたしは、元々生理不順で一年に三回ぐらいしか生理が来なくて、そのことは、あまり真剣に考えていなかったのだけど、ススムに会って、ススムのことが好きになって、やっぱり毎月生理が来る体に戻したくて、会社の近くにある病院に行った。そこは、谷医院といって、品のいい女の先生と物静かな看護婦の佐藤さんがいる小さな病院だった。
谷先生によると、わたしの体は子宮後屈といって、妊娠しにくい体であること。でも、今結婚しているわけでもないし、後屈気味といっても妊娠する人はいっぱいいるわけであまり気にしなくてもいい。生理が不順なのは、夜遅くまでの仕事や毎日時間通りに食事ができないといった生活全体から来ることで、生活を変えないといけない。とりあえず、朝食はとること、夜は十二時ぐらいまでに寝ること、体のために漢方薬を出すのでそれをのむこと。それから、毎朝できたら決まった時間に体温を計って表にすること。そうすれば、わたしの体がきちんと機能しているかどうかわかるらしい。
こうして、わたしは朝起きる前に体温計をくわえるようになった。眠くてそれどころではない朝ももちろんあったし、目が覚めてすぐにススムとセックスして、正確な体温が計れない日もあって、わたしの体温表は点と線であまりあてにはならなかった。でも、朝顔の観察日記のようで面白いと思えば面白いもので、生理が来る前の体温は高くても、生理が来る直前には正直にすとんと下がるのだった。やがて生理は二ヵ月に一度というペースで来るようになった。
今思えば、本当のきっかけはススムが言ったひとことだった。何人かで食事をし、遅くなったあの日、木ノ内進さんがわたしを車で送ってくれた。
「山本さんのような人は、子供を産むといいですよ」
二人きりのタクシーのなかで、そんなことを言うのだった。わたしは、もう子供がいてもおかしくない年齢だった。
「本当? そんなこと言ったのは木ノ内さんが初めてよ。けど、今一番会ってみたいヒトは自分の子供なの。どんなことが好きで、どんな顔をしているのか見てみたい。名前もね、もう考えているのよ」
「どんな名前です、それは」
「男の子だったら弾《だん》、女の子だったら凜《りん》という名前。友達に言ったら忍者みたいだって」
「うん、その名前も悪くないけど、僕も子供の名前、考えてあるんですよ」
「どんな名前?」
「楽しい子と書いて、らっこっていうんですよ。いいでしょ、親が楽そうで」
そう言っておかしそうに笑った男と、結局わたしはもう五年一緒にいる。ススムは、わたしと十五違う。
ススムの経営する会社が、だんだん大変になってきたらしいというのは、五年も一緒にいればわたしにもわかっていた。会える時間も急に少なくなり、会えたとしてもうんと夜遅く「たどりつく」という感じでわたしの部屋にやって来た。
そしてそれから眠ればまだましで、テレビをつけたまま暗い部屋に、沈むように身を置いていた。テレビが終ってしまえば、そのままそこに坐っていた。会うたびに、どこかが荒れ、そしてどこか乾いていく自分の男を、わたしはやっぱり嫌いにはならなかった。わたしの部屋を目指して、この男は痛いハートでやって来る。そう思えば、それはそれでなかなかよかった。
けれど、わたしとススムの付き合いを知る全ての人は、早く別れなさいと言うのだった。ある時、ススムの会社で長い間仕事をしていた杉山さんという女の方から電話をもらった。
ここにいてももう仕方がないし、知り合いから声をかけてもらったの、だからそこへ行くことにしたの。美穂さんのことは好きだから最後に言うけど、あなた早く木ノ内さんと別れなさい。あの人は、女の人をしあわせにできない人だから。わたしは、なんであなたみたいな人が、彼と付き合っているのか全然わからない。美穂さんだったら、会社でも、うんともてるでしょう。もう何年一緒にいるの? 五年? 女の五年っていえば大切な五年じゃないの。その間に、結婚しようとか、なんとか、そんなこと一度でも言われたことあるの? ないでしょう? でも、あの人と結婚したところで、長くもつとも思えないけど。もしかして、美穂さん、お金も貸したんじゃないの? ああ、もう、本当、やんなっちゃう。そのお金、もう戻って来ないわよ。かわいそうだけど。で、これから先、あなたはどうしたいの? ちゃんと考えたほうがいいわよ、まだ若いんだから。とにかく、しあわせになりたいんだったら、木ノ内さんとは別れることね。わたしもね、この会社、恨む前にやめようと思って。それじゃあ、元気でね。さよなら。
そもそもわたしには、男の人に「しあわせにしてもらう」という発想がない。自分のしあわせが、他人まかせだなんておそろしい。人は、女であれ男であれ魔法使いではないのだから、相手をしあわせにしてあげられるわけがない。しあわせになる力は、自分の中にしかないのに。だから、杉山さんが言うことは、わたしには理解できないことだった。後で、ススムに杉山さんから、「木ノ内さんは女の人をしあわせにできない人だから別れたほうがいい」って言われたよ、と言うと、あの人は親切ないい人だからと笑った。
杉山さんは、わたしにどうしたいのか、と訊いた。わたしは、ススムとずっと一緒にいたい。ただそれだけなのだ。二人でごはんを食べ、話をして、一緒に眠って。一緒にいい思いをして。そして、黙って隣に坐ってぼんやりしたい。いいことがあったら一番最初に教えたい。一日の一番最初に会って、一日の終りに顔を見たい。好きなことと嫌いなことを覚えたい。たとえ、悲しい時でも、わたしにはあの人がいてくれるから大丈夫と思っていたい。雨の日なんか、あいつはどうしているかなぁって、わたしをちょっと思って欲しい。とにかくわたしはそうしていたい。でも、それが結婚ということなのかどうか、わからなかった。現に、わたしたちは、結婚していなくても、そう過して来た。それとも、そのわたしたちの生活というのは「本物」ではないというのだろうか。どこかが偽物で、どこかが真剣でないということなのか。わたしたちは仲がいいと思う、確かに。けれど、それでは、なぜ一度も結婚ということが浮かんでこないのだろう。わたしは、思う。仲がいいから人は、結婚するんじゃない。結婚しようと思って人は結婚するのではないか、と。
ある時、ふとススムの寝顔を見て、急に気持が静かになったことがある。その顔は、空っぽで、淋し気で、搾りかすのような顔だった。きっと、わたしの寝顔だって、同じようなものだろう。わたしは、その淋し気な寝顔を見て、この人、いつかわたしの夫になるのかしら、そして、いつか、こんな人もお父さんになるのかしらと思ったのだけれど、やっぱりこんな顔をして眠る男には、それは気の毒な気がした。
あれは二の酉の夜だ。お金のことで、ごたごたがあって、一ヵ月以上連絡もつかず、どうしただろうと思っていた時だった。夜中の一時に、花園神社の帰りだと言って、造花のついた熊手と駄菓子をいくつも買って部屋に来た。不精髭があんなに伸びている顔は初めて見るし、最後に会ったのは二ヵ月ぐらい前だったし、照れた子供のようなわたしに、元気にしていたか、と声をかけ、それから、虎が人を喰うように、セックスをした。わたしは、今日しちゃうと妊娠しちゃうような気がしたのだけれど、そのままにしてしまった。それは気のせいかもしれないし、どうにかなるとも思っていたのだ。ああ、なぜ、あの時冷静にならなかったのか。
十二月に入ってから、わたしは眠くて眠くてしかたがなかった。その眠気というのも、体全部が溶けてしまうような、体が引きずり込まれるような眠さで、生まれて初めて感じる変な眠気だった。ふと、次の生理はいつだろうと体温表を見てみると、本当は十一月末に来る予定だった。また遅れているのかもしれない。そう思って、毎日体温計をくわえるのだけれども、体温は37度近くあって、全然下がらない。指を折って数えてみたら高温期がもう二十日続いていた。わたしは血が凍りそうなぐらい、こわかった。出勤途中の薬局で妊娠判定薬を買い、会社に着いてからすぐにトイレに行った。
息をつめて見ていたら、一分もたたないうちに、みるみる赤いプラスのマークが浮かび上がった。これが妊娠なのか。これが。妊娠ってこれなの? なんで今。わたしは、胸がどきどきし、何をしたらいいのかわからず、とりあえず手を丁寧に何度も洗った。そして、プラスのサインの出た判定薬を何重にもペーパー・タオルで包んで捨てた。
ともかく、病院へ行かなくちゃ。今日はあまり忙しくもないし、黒板には外回りと書いて、外へ出た。いつもの道を歩いても、もうきのうまでの道には思えなかった。わたしのお腹の中にはコドモがいて、そして、そのコドモは今日はきのうよりも少し大きくなっている。それは吐きたくなるほどこわくてこわくてたまらないことだった。
谷先生は、いつものように、今日はどうしました、と訊いた。わたしは、もうどう取り繕ってもしょうがないから、本当のことを、そのまま言うことにした。
体温が上がりっぱなしで、とても眠いし、変だと思って今日妊娠判定薬を買ってみたら、妊娠していることがわかったんです。でも、わたし、産めないんです。
えーと、あなたは結婚しているんでしたっけ?
いいえ。
そう。どうして産めないの?
付き合ってる人はいるんですけど、今、彼の会社の経営がうまく行っていなくって、今住んでる所もいつまでいられるかどうかわからない位で、わたしは働いていますけれど、貯金も、もう全然なくなってしまって、だから今、子供なんてこわくて産めるような場合じゃないんです。
心では繰り返し思っていたことでも、言葉にして口から出すとみじめで、残酷だった。
わたしは、ここの病院に長い間お世話になっているし、だから、全然知らない病院に行って手術を受けて、平気な顔をして、この病院にまたうかがうなんて、できないんです。本当にどうすればいいのか、わからなくて来ました。
その時、奥の部屋から看護婦の佐藤さんが出てきて、わたしのことを見て、あら今日はどうなさったの、と笑って言った。
あのね、山本さん、体温が上がりっぱなしで、妊娠判定薬もプラスだったんですって。
えっ、……それで、どうなさるの。
それでね、やっぱり産めないって、おっしゃるの。
まぁ。それは……本当に……。
あのね、山本さん、おかしなこと言うと思わないで下さいね。わたしはね、クリスチャンなんですよ。
ああ、道理で。わたしは診察室の一番奥にかけてあるマリア様の絵に気が付いていた。マリア様は何があっても静かなお顔だ。
ですから、人間の命は神様のものだから、わたし、医者ですけれどそういう手術はしないんです。それに、七十近いですし、たとえ手術しても失敗してご迷惑が、かかるといけませんしね。あなたは、ここに通ってずい分になるし、あなたのことは知っているから、今回のことも、あら子供ができたわ、じゃあいらないわ、ってあなたが思ったんじゃないっていうことも、わかります。あなたは、今、十分苦しんでいる。たぶんね、それできっと、神様は許して下さると思うんですよ。そうねえ、この近くに、川上レディス・クリニックっていう病院があります。そこは、個人の病院で、ここら辺では珍しくお産も扱うから、きっと中絶も引き受けてくださるでしょう。地元で長くやっている所だから、信頼もあるし。そこへいらしてみたら。もうすぐクリスマスですし、きっと神様はあなたを助けて下さるでしょう。
谷先生は、パタンとわたしのカルテを閉じ、そして最後に、わたしの目を見て、妊娠すれば結婚してもらえると思った? と言った。
結婚していないで、セックスして、子供ができて、そして、その子供を産まないと言ったから、わたしは、こんな恥ずかしいことを他人に言われるのだなぁと、つくづく思った。
今日の相談料の千円を佐藤さんに払うと、佐藤さんは泣いていた。わたしは佐藤さんに、軽蔑しないでねって頼んだら、佐藤さんは、首を振って、早く川上さんの所に行きなさいと、電話番号をくれた。
わたしだって、産めるものなら産みたい。年が明ければ、わたしは三十で、もう子供を産んでおいたほうがいい年齢だ。それは、十分知っている。まして、わたしはススムの子供が欲しくて何年もかけて体を治してきたのだから。わたしは産みたいと正直に思う。けれど、産んだ後をどうする。産んだら育てなくちゃいけない。産めばいいっていうもんじゃない。その後もずっと続きがあるんだ。そして、産むまでに、日に日に大きくなるわたしのお腹を、ススムは一体どんな顔をして見るというのだ。そして、そんな顔をしているススムを見るのは、このわたしなのだ。それとも、神奈川にいる母の所に置いてもらって、一人で産んで育てられるのかといったら、わたしにはそんなこと、できないと思う。ススムがいてくれなければ、わたしはしっかりしていられない。何の役にも立たなくていいから、ススムに側にいてもらえないと、子供を育てられないと思う。それに、もしこんな状況で産んで、産んだ後も不安な毎日を過したら、わたしは果たしてその子供を愛せるんだろうか。わたしの母がわたしに言ったように、わたしもまた、きっと子供に言うだろう、お前なんて産まなければ良かった。お前なんか、本当はいらなかった、と。あの時の、母と同じ顔で言うだろう。わたしは、何よりもそれがこわかった。そしてわたしは、ススムを困らせたくなかった。ススムに嫌われたくなかった。結局、わたしには自分の子供よりも、自分の男のほうが大事なのだろう。
川上レディス・クリニックに電話をし、行き方を尋ね、バスで三つめの停留所で降りた。受付で保険証を出すと、あっ今電話下さった方ね、初めての方はこの表に記入して下さいと表を渡された。その表は、来院理由に丸をするものだった。しょうがないから、「妊娠かどうか」に丸をつけ、そして「分娩希望」「中絶希望」と続いている項目で「中絶希望」に小さく丸をし、受付に返した。受付の人は、わたしをじっと見たように思えた。
先生は、男の先生で俳優の誰かに似ている気がした。時代劇で見かける誰かに。
そう、君、産めないの。なんで。
付き合ってる人の、会社の経営がうまく行ってなくて、今住んでいる所もなくなっちゃうかもしれないし、わたし、本当は産みたいけど、今は産めない気がするから。
そうか、旦那さん、バブルにやられちゃったのかぁ、かわいそうに。
旦那じゃないです。
あ、そうか。結婚してないんだね。ああそうか。
たった今、会った先生だって納得するぐらいだから、やっぱりわたしは産めないのだ。
そう、とにかく内診しましょう、こちらにどうぞ。
わたしは、内診台にあがって、脚をうんと開かされ、器具を入れられた。
超音波で見るからね。うーん、そうだね見える? この画面。
お腹の上のカーテンをどかしてまるで、腹筋の体操のように、首だけ起こしてモニターを見た。
この白いのが胎児。ちゃんと着床しているのになぁ。知ってると思うけど、君は子宮後屈気味だからね。君の今回のこの妊娠は、たぶん貴重なものだと思うよ。本当に産まないの? もったいないなぁ、もう一度よく考えてみたら。
わたしは、この先生は、いい人なんだと思った。いい人にひどいことを言うのは、つらいけれどやっぱりススムのことを思うと産めない。
わたしは、今妊娠二ヵ月のごく初期の段階で、もし手術をするとなれば、もう少し胎児が育ってからでなければ手術できないと、先生はおっしゃった。なんて運の悪い胎児だろう。ちょうど良い大きさにさせられてから、取られてしまうなんて。先生が撮ったエコーの写真に浮かぶ白いインゲン豆のようなものが、わたしとススムの運の悪い子供だった。
先生、本当はわたしだって産みたいの。わたし初めて妊娠したし、相手の人のことも本当に好きなの。もうすぐ三十だし。でもね、今回はどうしても産めないの。だから、急いで来たんです。
そうか。わかったよ。
あなたの場合、このまま出産すれば、母体に負担がかかるので、優生保護法からみて、中絶手術が必要と認められます。
先生は、何か大切な手続きのように、そうわたしに告げた。そして、また普通の口調に戻って言った。
手術には同意書が必要だから、相手の人のサインと判子をもらってきてね。君の場合は、まだ初期の段階だからダメージも少ないと思う。内膜もあまり取らないようにしてあげる。次もちゃんと妊娠できるからね。つわりは、あるの? そう、ないの。それはよかった。そうなんだな、本当に始まったばかりだもんな。同意書に彼のサインをもらってきて、そうしたら、次回、手術の日を決めよう。君は初めてだから、前の日に入院できたら、入院したほうがいいと思う。会社休める? そのほうが安心だからね。じゃあ、同意書にサインして次、また来てね。お大事に。
お大事に。
わたしは、大事にしても結局は産むことのできない自分の子供をお腹に、ゆっくりと病院を出た。どうやって、このことをススムに言おうか。住宅街を歩きながら考えた。ススムは何と言うだろう。産んでくれとは言わないだろうなぁ、やっぱり。でも、もし、もし万が一ススムがそう言ってくれたら、どんなことをしてでも、この白いインゲンを人間の子供に育てて産みたいなぁと思った。
ススムから渡された同意書には、きちんと万年筆でサインがしてあった。ブルー・ブラックのインクで。意外だけれど、ススムの字を見たのはもしかしたら初めてかもしれなかった。上手なのか下手なのかよくわからない、そして年齢もよくわからない字だった。こんな字を書くのか、あの人は。その字は、陽気だけれどちょっと頼りな気な字で、ススムのあの寝顔を思わせた。
先生は、同意書を確認し、二人でよく話し合ったんだね、と念を押した。
手術は、十日後の二十一日の金曜日に決めた。次の日は土曜日だし寝ていられるからね、そのほうがいいでしょう、と先生はおっしゃった。だから、その前の日の木曜日に入院することにした。そして、費用は十七万円。
その十七万円という金額は、高いのか安いのかわからなかった。けれど、今のわたしを助けてくれる金額なのだ。お金で解決できることならば、それで解決できたら一番いい。でも、そのお金をどうしようかと思った。わたしは、限度ギリギリまで自分の貯金を使っていたし、冬のボーナスの全てを、ススムに渡していた。わたしよりお金に困っているススムから十七万円はもらえない。お金は、あればあるほどいいなぁというのが正直な感想だ。ああ、もうしょうがない、クレジット・カードでお金を借りよう。そう、あっさり決めてしまえば、ほんの少し気が楽になった。
病院の帰り本屋で買った『女性の医学』の「望まない妊娠をしてしまったら」の頁を読んでみた。「手術後は、三時間ほど休んだら帰宅できますが、やはり安全のため、パートナー、あるいは母親・姉妹・親友など、信頼できる人に付き添ってもらった方が安心できます」
はい、それは、そうでしょう。それは正しいと思います。けれど、そんなことを母親や妹に打ち明けなければならない女のコの孤独を思った。それを思えばわたしは、まだましだ。わたしは、ススムに打ち明ければいいだけなのだから。パートナー。どこか空々しく、きれいごとを言って済ましている言葉じゃないか。ススムは、わたしのパートナーなんかじゃない。ススムは、わたしの男だ。そして、わたしはススムの女だ。
二十一日の朝に手術だと、ススムに夜、電話をすると、その日は東京にいないと言う。お金のことで地方に行くと言う。一緒にいてやれないけど大丈夫かと言うから、お昼頃までには終るから、必ず病院に電話をしてと、わたしは頼んだ。
もしも、もしも事故があったら緊急連絡先として書いた、母に電話されてしまう。わたしは、それだけは嫌だった。手術は九時からで、三時間位休めば、わたしは起きて一人で帰る。もしお腹が痛かったら、タクシーで帰ればいい。とにかくお昼に電話してね、声を聞かせてね。わかった、ぴったり十二時には無理かもしれないけど、必ず電話するから。ススムはそう言った。
二十日の朝、会社に電話をして熱があるので休ませて欲しいと頼んだ。もうそろそろ年末だし、その前の週にうんと働いたからそれほど仕事はなかったので、休むことはむずかしくなかった。そしてわたしは、大きなお鍋に、チキン・スープを作った。病院から戻ってきたら、このスープがなくなるまで、じっとしていよう。早く元気にならなくっちゃと、ニンニクをたくさん入れた。牛乳と、フランスパンとバナナもある。食べ物は、これで大丈夫。お布団も敷いた。もう決めてしまったのだから、その後のことを考えたほうがいい。病院に行く準備をした。ショルダーバッグに、先生に持ってくるようにと言われた生理用のショーツと夜用のナプキン、そしてパジャマ、化粧道具を入れた。一泊二日の出張みたいだ。病院へ行く前に、渋谷の西武のキャッシングコーナーに寄って、セゾンカードで十七万円作った。日本中で一体何人、自分の子供を堕ろすのに、キャッシングする女がいる?
四時に病院に着いて、最後にもう一度診察を受けた。
うん、だいぶ大きくなっているよ、見てみる?
いいえ、こわいから見ません。
こわくないよ。
わたしは、やっぱりこわい。もう一度エコーを見て、前より少し大きくなったインゲンを見てしまえば、愛しいに決まっている。そうしたら気持が変わってしまいそうで、こわかった。
じゃあ、明日の手術のために子宮口をもっと広げなきゃいけないから、海草で作ってある棒を入れるからね。ほとびて、ちょうどいい大きさに開くから。生理痛みたいな痛みがあるけど、我慢して。部屋は、この診察室の上だから、看護婦さんに案内してもらってね。明日は、診察は九時半だから、その前の九時に手術しよう。今日はよく寝てね。食事は十時以降、何も口にしないで。水分もだめ。それじゃあ、また後でね。
わたしの体には、海草でできた棒が入って、そして、まだお腹にはコドモがいるのだけれど、明日の朝九時過ぎには、もういなくなる。そのための棒、そのための違和感。そして、それを望んだのは、このわたし、と思ったら自分が今とてもひどいことをしているんだと、はっきりわかった。これから、本当にわたしは、ひどいことをするんだ。
受付で、先に十七万円を払い、女優の伊佐山ひろ子によく似た看護婦さんが二階の部屋に案内してくれた。ここが、洗面台、シャワーは奥にあるけど、お風呂はないの。お部屋は三部屋あって、山本さんのお部屋は、ここの三号室ね。
部屋は明るくて、ベッドとクローゼットがあった。六畳ぐらいの広さか。電話は枕元にある。着信専用の電話だ。
お夕食は六時ですから、もう今日はゆっくりして下さいね。
ピンクの制服を着た看護婦さんは、優しく言った。この人は、なんでわたしが入院するのか知っているんだろうな。ここは子供を産むための病院なのに、子供を堕ろしにきたわたしに、優しかった。
あの、わたしね……。
わたしは、泣き出した。もうここまできてやめるわけにもいかないのだけれど、優しくされて、急に何もかもいやになった。
あのね、わたし、わたしだって産みたいの、でも今ね、産んでも赤ちゃん育てられなくて、だから産めないの。相手の人も困るし、そうすると、わたしも困っちゃうから。だからだめなの。彼が困ること、したくないの。でもわたし、本当はいやなの。どうしてこんな時妊娠しちゃったんだろう。
大丈夫よ。これも二人のこと考える、いいチャンスになるよ。あまりこわがらないで。
看護婦さんに、背中をさすられて、わたしはベッドに腰をおろした。気持が落ち着いてきて、外を見たら窓からは、マンションとお寺が見えた。何人の女の人が、この窓から、この景色を見たのだろうと思った。みんな、赤ちゃんと一緒にこの景色を見たのだろうか。よく見るとマンションの入り口に、壊れたツバメの巣がふたつあった。
ノックの音がして、診察が終った先生が入ってきた。
どう、落ち着いた? 大丈夫? 今日はよく寝てね。
はい、ありがとうございます。もう大丈夫です。すみません泣いたりして。あの、先生、あれは、ツバメの巣?
ああ、よく見つけたね。そうなんだよ、ツバメの巣なんだけど、前にね、マンションの人が巣を壊したんだよ、汚いからって。そうしたら、今年は、もうツバメは戻って来なかったなぁ。あそこに行くとひどいめに遭うって、ツバメは覚えてるのかなぁ。なんだか、かわいそうだね。
そうですね。ひどいめに遭ったって、小さな脳みそなのにしっかり覚えているんですね。
うん、そうだね。そうでないと生きていけないんだよ、弱い生き物は。じゃあ、山本さん、ごはんをしっかり食べて元気を出すんだよ。もう泣かないでね。何かあったら呼んでね。
先生は、そう言って階下へ戻って行った。
夕食は豚カツだった。わたしは残さずきれいに食べた。
食事が済んでしまうともうすることもなくて、シャワーを浴びようと思って廊下に出たら、ピンクのキルティングのガウンを着た人に会った。
あら、入院の方?
ええ、この部屋なんです。今日だけなんですけど。
そうなんですか。わたし、この一号室なんですよ。
その人は、わたしと同じ位の歳で、化粧気はなく髪を三つあみにしている。そういえば、赤ちゃんの泣き声がしている。
あれ? 赤ちゃんですか?
ええ、女の子だったんです。
ああ、それは良かったですね。うらやましいわ。
その人は、お腹も大きくないわたしがどうしてここにいるのか、きっとわからないのだろう。わたしの顔を見ている。
あっ、わたしね、わたしも妊娠しているんだけど、今回、事情があってどうしても産めないの。それで、恥ずかしいんだけど明日手術するの。だから入院しているの。ごめんなさいね、赤ちゃん産んだ方にこんなこと言って。
ううん、そうだったの。
でも、がんばって、この次は産めるようにって思っているの。わたしは、ワンピース越しにお腹に手をやった。
そう。がんばってね。
うん、ありがとう。
それじゃあ、と洗面台の前で別れた。シャワーを浴びて、部屋に戻ると、ノックの音がして、さっきの一号室の女の人がゆっくり入ってきた。白い紙の箱を持っている。
あの、これ、もしよかったら食べてもらおうと思って。ケーキなんだけど、お祝いでたくさんいただいて、もう食べきれないの。
えっ、わたしなんかがいただいていいの、お祝いのケーキなのに。
ううん、ぜひ食べて。
ありがとう。いただくわ、いただいて、栄養にさせていただくね、と言ったら、その人は、うんと言って、赤ちゃんの待っている一号室にゆっくり戻って行った。
手術の朝、わたしは六時に目がさめた。わたしは死なないかな、手術は成功するかな、また子供を産めるかな、血はいっぱい出るのかな、痛いかな、といっぺんに、こわくなって、ススムの声が聞きたくなった。七時まで待って、一階の受付に行き公衆電話からススムに電話した。受付の台には、ピンクの小さな菊が飾ってあった。
もしもし、ススム? よかった、まだいたの?
おっ、どうした? 今日の十二時だったよな。必ず電話するから安心しろ。
あのね、わたしね、急にこわくなっちゃった。わたし、やっぱり手術こわいよ。
それはそうだろう。当然だよ。でも、きっと大丈夫だから。必ず電話する。心配するな。電話するからな、待ってろよ。手術は何時からだっけ?
九時からだよ。
そうか。じゃあ、九時になったら手術だなって思うことにするよ。
ススムがそう言うから、わたしは心配するのはよそうと思って、一生懸命我慢した。
九時少し前に名前を呼ばれて、わたしはトイレに行った。そのままショーツをはかないで、手術着に着替えた。救命胴着みたいな木綿の手術着。手術着のポケットはふたつあって先生に言われたように、生理用のショーツを右に入れ、夜用のナプキンをもう片方に入れた。手術台は、銀色にピカピカしていて、わたしは踏み台を使って、乗った。足をのせるところに革のベルトが付いている。
これは、もしも手術中にあばれたりすると危ないから付いているんだよ、と先生は、わたしに説明した。だから念のためにするからね、と、わたしの足を革のベルトで固定した。麻酔だけどね、アメリカの麻酔を使うよ、君には、この麻酔がいいからね。そうか、アメリカの麻酔なのね。アメリカの麻酔なんだな。
先生、わたし、大丈夫? 平気?
大丈夫だよ、安心して、こわくないからね、それじゃあ、数を一から十まで数えて。
わたしは、マスクの上に見えている先生の目を見て確か三までは声を出したはずだった。
こっとんと、音をたてて麻酔は切れた。眠気とは、全然違う眠りから、一瞬にしてぱっとわたしの意識は戻った。
あ、わたし大丈夫だった、あ、またススムに会えるんだ。わたしは嬉しくて、開けた目をもう一度ゆっくり閉じた。
きのうの看護婦さんが入ってきた。
目、覚めた? あとで、ガーゼ取り替えに来ますからね。
紅茶とチョコレート・クッキーを持ってきてくれたのだ。きのうの十時から水も飲めなかったから紅茶がじわじわと、喉にしみ込んでいく感じがはっきりわかった。わたしは、この紅茶の味をずっと忘れないと思う。
わたしは、ナプキンをあて生理用のショーツをはいていた。
麻酔のせいだろうか、お腹は全然痛くなかった。もう白インゲンはどこにもいないんだな、とそっとお腹に手を当ててみた。すべて終った。
看護婦さんがまた入ってきて、ガーゼ替えますね、と、明るい光の中でわたしのショーツをおろし、体の中から、血の付いたガーゼをピンセットで引っぱりだした。出血はほんの少しだったけど、わたしの血は、うんと赤かった。看護婦さんは、何も言わない。
中絶なんてひどいことをしたわたしに、この看護婦さんは意地悪をしたっていいのに、普通に接してくれている。そんな看護婦さんに、何か言わなくちゃいけないと思って、わたしの子供小さかった? と訊いた。そうしたら、まだ子供なんかじゃなかったよ、と言ってくれた。
優しくしてくれてありがとう、わたしは泣かずにやっと言ったら、その人は、うん、と言った。
あの、わたしに電話来ましたか?
ちょっと待ってね、山本さんに電話ありました? ああ、まだみたいよ。
あーあ、やっぱりね、いっつもそうなんだから、そうだと思った。わたしは、まだ麻酔でぼんやりしている体で立ちあがった。
山本さん、そんな考えいけないよ、相手の方、お仕事で忙しいのかもしれないじゃない、もう一度受付に電話するから、ちょっと待ってて、あっ、二階の山本さんに電話が来たらすぐ廻して下さいね。
わたしは、ワンピースに着替え、ベッドに腰をおろして待った。足をぶらぶらさせて待った。何度も赤いスリッパが床に落ちてしまった。もう一時近かった。なんだ、やっぱり電話来ないじゃない。あれほど頼んだのに。やっぱり、いつもの通りじゃないの。何よ、わたしにだけこんなつらい思いをさせて。自分は楽して。いつもそうなんだから。なんなのよ、全く。甘えないでよ。電話なんて一分あればできるでしょ。電話するって言って電話してきたためしがないじゃないの。今日のことは特別で、あれほど頼んだのに。電話するって言ったのに。大丈夫だって言ったのに。
わたしは、もう待たずに帰ることにした。グリーンのコートを着たら、きのう着てたコートなのに、きのうよりも重たかった。一号室にあいさつに行ったら、今日は旦那さんもいて白いカーテンの乾いた光の中で、あの人は、ベッドの上で赤ちゃんを抱いていた。わたしは、その赤ちゃんを見せてもらい、寝ている赤ちゃんにもありがとう、さよならね、と言って部屋を出た。体をかばうように階段をおりて、受付に帰りますと、あいさつをした。あら、一人? お迎えの方はいないの? 気を付けてね、と見送られた。
窓から見えたマンションの側まで行って、壊れたツバメの巣を見た。このツバメは、もう来年もさ来年も、ずっと来ないんだろうな。ひどいめに遭ったら、ちゃんと覚えておかなくちゃ。そうでなくちゃ、だめなんだ。本当は。それならわたしは、ツバメ以下の生き物だ。せいぜい、ツバメに喰われる虫程度かも。ススムが電話してくれるって思ってがんばっちゃって、バカみたい。ススムのためになんて思っちゃって、まるでバカじゃないの。
そう思って、バス通りに向かって歩き出したわたしを、やまもとさぁん、とあの看護婦さんが大きな声で叫びながら追いかけて来た。
山本さん、木ノ内さんって方から電話よ。
わたしは、はーいと言って振りかえり、そしてにっこり笑って手を大きく振った。
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白い花、そして赤い実
わたしは何日も笑わずに過した。そして、夢も見なかった。部屋には、音もなく、わたしは一人だった。
やっと鏡を見たのは、手術が終って五日めの夜だ。わたしは、顔がすっかり変わってしまったんじゃないかと思っていた。だから、こわくて鏡を見られなかった。一体どう変わってしまったんだろうと、あの夜、わたしは夜の光の中で自分の顔を鏡で見た。罰を引き受ける気持で。
青ざめた頬、赤い唇。それがわたしの顔だった。けれど、その顔は何かが終ってしまった顔でもなく、つらさに打ちのめされた顔でもなかった。鏡は一体、どこまで映すのか。わたしの顔は、何も変わっていなかった。全く何も。あんなこと、あんな思いもしたのに、それは少しも顔に出ていなかった。目の端や頬の影に、悲しみが見つかれば、かえって安心できたのに。わたしの顔は、まるで平気な顔だった。
それがきっと罰といえば罰なのだろう。この位のことは、悲しみではないのだと、あの顔は言っていた。まだ大丈夫、こんなものじゃないのよ、顔に出るほどの悲しみは。じゃあそれは、一体どれほどひどいことなのだろうと考えてみたけれど、わたしにはわからなかった。五日間手入れをしていなくて、ぼさぼさになった眉を剃刀で整えて笑ってみたら、その顔は休み明けのようだった。そして、それが、その年のわたしのクリスマスだった。
年内の診療は二十八日までで、わたしはたぶんその年、最後の患者だった。手術が終った後、二度検診に行かなければならなかった。出血の程度を調べ、そして体の回復具合いを確認するのだ。
一回めの検診に行った時、先生は、わたしを見て君よく来たね、とおっしゃった。言われた意味がわからなくて、えっ? と先生を見たら、手術した後は、もう来ない人もいるんだよ、だから、いつも心配なんだよ、よかったよ君は来てくれて、安心した、じゃあ、内診しましょう。
出血は? あまりありません。わたしは台に乗ったまま答えた。そうだね、大丈夫みたいだね、子宮もずい分小さくなっているし、問題ない、痛みはある? ないです。じゃあ良かった、時々傷が感染を起こすこともあるけど、君の場合はその心配はなさそうだ、ちょっと、エコーを撮るからね。
わたしは、台から降りて、診察室の椅子に戻った。先生は、エコーのプリントアウトをわたしに見せた。そこには暗くて月面のような空間がぽっかりと写っていて、先生は、その空間を人差し指で示して、これで妊娠は完全に中絶されました、と宣言をするようにわたしに伝えた。こんな時、なんて返事をするものだろうと、ちょっと考え、はい、良くわかりました、と答え、そのエコーの暗い空間をもう一度、わたしは見た。
それじゃあ、次は二十八日に来てね、それで終りだから、そう先生はおっしゃった。
そして二十八日、わたしは最後の診察を受けた。先生は、じゃあ見ようか、とわたしを内診台に促した。
診察室のわたしの坐っている席の右手に内診室のクリーム色のドアがある。ドアを開けると、床屋の椅子のような椅子がある。その椅子が、床屋のものと大きく違うのは、足を置く台が、左右に離れている所だ。ストッキングとショーツを脱いでその椅子に乗ると、看護婦さんがスイッチを入れて、台はグーンと右廻りに動いて先生の待っている正面で止る。看護婦さんがバスタオルをお腹にかけてくれて、そして背もたれは後ろに倒れる。わたしのお腹の上にはピンクのカーテンがある。カーテンの向こうは、ライトが当たって、うんと明るく、わたしの脚は大きく開いている。先生の表情は、わからない。先生に、中を見ますね、と言われなければ、器具や先生の指が入ってくる瞬間もわからない。あの格好のまま、どうするのかなぁ何が入ってくるのかなぁと待っているのが、患者のわたしだ。あのカーテンって、患者のためにあるのか、それとも先生のためにあるのだろうか。
あの、先生。わたしは、内診室のノブに手をかけながら言った。先生、わたし、本当はあんな格好するのはすごく恥ずかしい、あんな明るい所で、自分の相手にもしたことがない格好するのは本当に恥ずかしいです。そう言ったら、先生は、君が恥ずかしいなら、俺のほうがもっと恥ずかしいよ、と笑った。だから、わたしも笑って、恥ずかしいけど、これは恥ずかしいことじゃないと思って、内診台に乗った。
もう大丈夫だね、出血もないし、傷も問題ない。
わたしは、台から降りて診察室に戻った。体の回復、早かったね、お風呂に入ってもいいよ、それから、そうだな、|三カ日《さんがにち》過ぎたら、普通の生活に戻って大丈夫だよ、もう何してもいいんだよ、とカルテに目をやってわたしを見ずに先生は、おっしゃった。
それは、セックスしたければ、してももう大丈夫だよと、先生は言ったのだ。普通の生活。ススムがいて、そしてススムとセックスをするわたしの普通の生活。その普通を、他の人に見抜かれてしまった気がした。でもそれは嫌な気持ではなかった。その時聞いた「普通」ほど贅沢に思えたことはなかった。
診察室を出る前に、わたしは、ブラウンのリボンのついた小さな緑色の包みを先生に渡した。これ、何? これは、紅茶です、オレンジ色の花びらや、ドライフルーツも一緒に入っていて、いい香りがして大好きなお茶なんですけど、わたしと同じようなことで入院する人がいたら、淹れてあげて下さい。先生は、ちょっとわたしを見て、そう、わかったよ、どうもありがとう、そうするからね、じゃあ、良いお年を。ええ、ありがとうございます、来年はいい年にしなくちゃ、とわたしが言ったら、そうだね、と先生はおっしゃった。
ススムは、あの夜わたしをそっと抱き締め、わたしは、うんと弱い生き物のようにススムの腕の内にいた。ススムは、わたしの首筋に唇を押し付け、わたしがそれに反応すると、だって、まだだめでしょ? と言った。ううん、先生はもう大丈夫だって言ったよ、三カ日過ぎたらもういいって、わたしがそう答えたら今日は何日? とススムは訊いた。四日だよ、やっと一緒にお雑煮食べられたね、と言うと、悪かった、本当はもっと早く会いたかったんだけど、そうできなかったんだよ、と言った。
あの後も、ススムはわたしに電話をしてきたから、お布団のなかで声は聞いていた。どうだ、大丈夫かと言い、うん、と答えるだけの会話だけれどわたしは、ススムが心配してくれることで自分を嫌いにならずに済んだ。
ススムは、まるで調べものをしているように丁寧にわたしを扱った。したかったかと訊くから、したかった、一人で淋しかったと正直に答えた。
それは、声を滲ませるようなものでもなく、わたしの背中が、そしてわたしの背景が快楽でごっそり削られていくセックスでもなかった。山の中で出会った目の見えない獣が互いの匂いを確め合うような、慎重で静かなものだった。肌と肌はこんなにも温かく、そして体温の伝わる速度は、ため息まじりにわたしを安心させる。抱き締められ、もうどこにも行かないようにと男から押さえつけられる力。その力は、わたしを生き返らせる。気持ち良くなりたくて、体をこきつかうセックス。男を気持ち良くしてやりたくて、わたしを与えるセックス。気持ち良くなることで、相手をしあわせにできるセックス。そのどれもとても愛しいものだけれど、あの夜、わたしたちは、なんだかまるで別なものを手に入れてしまった気がする。
わたしは、心底ほっとしてしまったのだ、ススムとセックスをして。遠い所から、この男、一人を目指してやっと戻ってきた、そんな感じで息をした。言葉だけでは元通りにならないこともあって、そこから救われるためには、わたしにはどうしてもこの男が必要なのだ。こうやって抱き締められ、体温を分け与えることのできるこの男が。たぶん分け与えているのは、体温だけではないのだ。他の人には決して言えない共通の思い、それをわたしたちは持ってしまったということなのだ。
気持ちいいかと訊かれれば、気持ちいいと答える。そして、嬉しいかと訊かれれば、嬉しいと答える。わたしは、こうやってだんだん悟るのだ。わたしのハートは、子供の頃とちっとも変わっていない。けれど、わたしの体は? わたしの体は、なんだかもう、すっかり駄目になってしまった気がする。
ススムと、わたしはもう組み合せになってしまったのだ。わたしの体は、わたしの味方だったのに。でもこれから先わたし一人では、もう二度と完成品にはなれないのだ。セックスをして、こんなにほっとして、安心してしあわせになって、心が再生されて、それをこんなに深く体は覚えてしまった。とうとう体までが感情を持ってしまった。もう前のわたしには決して戻れないだろう。わたしは、悲しいこと、恐ろしいことがある度に、ススムときっとこんな風に抱き合うのだろう。そんな時、いつもススムはわたしの側にいるのだろうか。そう思ったら、わたしはうんと恐ろしいことを考えてしまった。もしも、わたしがススムと別れてしまう時があるとしたら、わたしはその悲しみをどうやって埋めるのだろう? そして、一人になったススムはその時、その悲しみをどう癒すのだろう?
あの時、剥き出しの快楽と熱ですっかり満たされた体で、つくづく思い知ったのだ。わたしにとっての快楽は、もはや男と一緒に声を絞り出すことだけではなくなったのだと。まるで柘榴《ざくろ》の赤い粒をひとつずつ押し潰していくように、お互いの気持を確かめ、それを味わえなければわたしには、全く意味がない。そして、わたしの中身を知ることのできない男も意味がないのだ。
わたしは、月の光が差し込むこの部屋で眠るススムを見た。ススムは、手を広げて寝ている。太くて大きな指も、眠って力無く布団の上に置かれている。この指は、しあわせになる指なのだろうか。爪はきちんと切って丸い。わたしはその指を見ていたら、急にススムにうんと優しくしてやりたくなって、眠るススムをそっと撫でた。まるで傷付いた大きな黒い犬を撫でるように。
外を歩いたり、テレビの画面を見ていると、世界は赤ん坊で溢れている。そんな気持になってくる。どこへ行っても赤ん坊は笑ったり泣いたりしている。けれど、その赤ん坊を見てわたしは涙ぐんだりすることは決してなかった。あの時、二ヵ月だったから、もし産んでいたとしたら予定日はいつぐらいだったんだろう。わたしは、それを聞かずに済んでいたから、とても救われていた。六月とか、七月だったかもしれない。わたしは、カレンダーをめくるたびに、「21」の場所を見るようになった。二十一日。わたしが手術した日。「20」が過ぎて、そして「21」も過ぎると、ほっとして斜線を引く。そして、その作業は、七月二十一日が終った後止めた。
むしろ、わたしがいつも見ていたのはお腹の大きな女の人たちだった。電車でも、坐っているわたしの近くに、そんな人がいたら席を譲らずにはいられなかった。いかにも、仕事帰りらしく、ハンドバッグを持ちヒールのない靴をはき、たぶん妊娠前とは全く違う好みの服になっている人。ラッシュの中でそっとお腹に手を当て目を閉じている人。その人たちは、一体どんな気持でその妊娠を受け入れたのか。みんな少しも迷わなかったのだろうか。みんな手放しに嬉しかったのか。
ある時、わたしは地下鉄の一両目に乗っていた。渋谷からお腹の大きな女の人が乗って来た。一番手前の座席に坐っている男の人の前に立つと、その男の人は、黙って彼女の荷物を受け取り、さっと席を立ち彼女に坐らせた。えっ、と思ってよく考えたら、きっと二人は夫婦なんだろう。旦那さんが、彼女のためにあらかじめ席を取っておき、渋谷から奥さんが乗ってきたら坐らせてやるのだろう。なんだかその二人は、せっせと巣を作っている番《つが》いの鴨のようにわたしには思えた。物には順序があるんだな、とつくづく思った。あの二人は、やっぱり結婚してから、妊娠したんだろうな、きっと。だからあんなに当然のように、旦那さんが奥さんを助けられるんだな。先に妊娠して、それから結婚してもあんな風にできるのかな。そして、あの時のわたしのように、妊娠していても、結婚できない状態だったら、一体どうだっただろう。
時々、あのまま妊娠していたら、と思う。地下鉄で隣の席に坐った子供に強く見つめられる時など特に。わたしは、どんな風に大きなお腹で毎日暮らしただろう。会社の人たちはどう思っただろう。わたしは残業もなく徹夜もない部署に異動させられただろうか。それとも、そんなのは個人の勝手だからと、大きいお腹で夜遅くまで机に向かっていただろうか。どんな風に母に打ち明けただろう。母は何と言っただろう? 恥だと言っただろうか、やはり。勝手だと泣いただろうか? わたしは、そんな状態で出産を心待ちにできただろうか。わたしの想像はお腹の大きな自分を思い描くところまでで、いつもストップした。産む時のことや、産んだ後のことは想像できなかった。わたしには、あの地下鉄の二人の姿に、自分たちを重ねることはやっぱりできなかった。
わたしとススムは、一度だけそんな話をしたことがあった。あれから一年が過ぎ二月ぐらいのことだった。わたしの部屋で二人でテレビを見ていた時だ。画面はCMに変わって、赤ん坊が歩いている。紙おむつの宣伝なのだろう、赤ん坊はパンツのようなおむつをはかされて、手を振り笑っている。何があんなにおかしいのだろう。あんなに笑って。肌はすべすべで光って見えた。わたしとススムは、それを見ていた。わたしは、この赤ん坊は何ヵ月ぐらいだろうと思い、産んでいたら、このぐらいなのかなぁと思った。ああするしかなかったのよね? と、わたしは、とことこ歩くその子供を見ながらススムに訊いた。何のこと? なんてススムは言わなかった。ススムは、画面を見つめ、ああするしかなかった、と言って、チャンネルを変えた。
ススムは、ある角度からまっすぐ見ると、どうかすると瞳がきれいな茶色に見える時がある。わたしはその一瞬の表情を誰にも知られたくないと思う。あの色のためだけでも、この男を手放したくないと思う。ススムは、あの時、チャンネルを変え、寝そべったまま、あの色の目の角度でわたしを見た。もう、言うな。そう、ススムは言った。わかっているから。うん。そう答えて、お茶を淹れようとわたしは立ち上がったけれど、でも、男だったのかしら、女だったのかしらとその続きを考えていたら、もうよせ、とススムが足首をつかんだ。何も考えてないよ。いいや、何かお前は考えていただろう、お前のことはわかるんだからな。わかるの? わかるよ。そう、じゃあ、もういいや、わかっちゃうんなら。わたしは、笑って台所へ行こうとして、手、放してよ、と言った。ススムは、放さなくて、ちょっとここにおいでと言って、わたしを引っぱったけど、わたしはキスだけして、セックスはしなかった。
わたしたちは、そんな風に暮らした。だらだらと。どうにか、こうにか生活が、だらだらと続いてしまうことは驚きだったけれど、なんだかその感じは、他の相手からは与えられそうにもない心地良さがあった。わたしは、手加減なしにススムと話をすることができた。
それは、わたしにはうんと大切なことだ。セックスをたくさんしている間柄でも、手加減なしにおしゃべりできて、わたしは嬉しい。わたしはこれまで付き合ってきた相手とは、そうではなかった。セックスしていない時、たとえば昼間、どこかで待合せする時、近付いてくる男を見ると、セックスしている時のめためたな自分が思い出されてしまい恥ずかしさのあまり、話をしてもはぁそうですね、などと言ったりただ照れまくってしまうのだ。自分の重大な弱味を握られたように、心細く恥ずかしくなってしまう。真剣な表情や、一生懸命な姿って、間違った相手に知られると、そっくりそのまま返して欲しくなる。たぶん、ススムには、そんな所を見られても恥ずかしくなかったんだと思う。ススムは、わたしを恥ずかしくさせない男だ。だから、わたしは、時々、少し笑ってセックスしたりもする。何だ、と聞かれると、嬉しいなぁと思ってね、と答えて、もうその先は笑わないけれど。ススムとセックスをしていると、わたしは深刻にならなかった。気が楽になった。ただのしあわせな生き物でいられた。もしかしたら、本当はお金のこと、ススムの会社のことを考えれば深刻になるべきだったのかもしれないけれど。うふふと笑い、うつ伏せで息をしながらも、ほんの少し、でもこれは、とてもこわいことだなぁと気が付いてはいた。
朝・昼・晩のうち、ススムとの食事は晩ごはんが一番多い。最近は朝ごはんも多くなったけれど、昼ごはんは本当に少ない。好きな男と、外で一緒にとる昼食は連絡会議や打合せみたいだ。純粋に食事用の食事をして、昼間用の丁寧な言葉で、周りの人に聞かれても困らない会話をしていると、笑いそうになる。
四月の人事異動で、わたしは外廻りの多い営業に異動になった。最初の打合せは、午前中いっぱいかかり、このまま社に戻っても中途半端なので、ススムを呼んで一緒にごはんを食べようと思った。今いる場所から、ススムの所まで一駅だった。ススムは、仕事のペースがだんだん元に戻っていたから、あまり無理は言いたくなかったけれど、会える時に会っておかないと次にいつ会えるのかわからなかった。
一緒にごはんを食べるって大事なことだ。あんまり話すことがなくても、一緒に食べることでお互いが確認し合っているような気がする。そうね、食事は、手と口だけを使う、シンプルで軽いセックスだ。日の下でも、人前でしても許されるセックス。その考えが、あまりにもぴったりで、わたしは定食屋のカウンターの下の、ススムの脚にこっそりさわった。ススムは、おい、よせ、人が見ていると怒った。
今度の日曜日はどうしてる、と日替りのハンバーグ定食を食べ終ったススムが訊いてきた。ああ、日曜日ね、ごめんなさい、もう出掛ける約束しちゃったの、このところあなたは忙しかったから、今度もそうだと思って先に訊かなかったの。わたしは銀だら定食。おひたしも付けて。
別にそんなこと、いいよ、で、どこに行くの? あのね、短大の時の友達が赤ちゃんを産んで、そのお祝いに呼ばれて、赤ちゃん見てくるの。ふーん、行っておいでよ。ススムはそう言ってお茶を飲み、顔は正面にあるテレビに向けたまま、続けた。でも、子供が生まれて一体何がめでたいんだ、生まれてきたって、どうせいつかは死ぬんだ、こんな世の中、最初から生まれてこなければ、それに越したことないじゃないか。
ススムは、ちょっと笑って軽く言った。画面では、結婚して十五年めの芸能人の離婚の会見が流れていて、ススムはそれを見ていた。もう食べ終ったか、じゃあ行こうかと、わたしを見た。
ススムは本当にそれをわたしに聞かせたかったのだろうか。わたしはススムの顔を見たけれど、いつもと同じ顔だった。まだ笑った顔のままだった。同じ顔だけど、なんだか突然、全然知らない人のようにわたしには見えた。こわい人だ、この人。わたしに平気な顔でいやなことを言う赤の他人のようだった。わたしにこんなこと言うなんて。早くここから出て行きたい。早く出て行かなくちゃ。早く。
わたしは、カウンターの上の伝票をつかむと、ずんずんレジにお金を払いに行った。いいよ、俺が払うよ。いいです。おい、おい! どうしたんだよ、ちょっと待てよ。
わたしは、食堂を出ると後ろにススムを残したまま振り向かず早足で駅に向かった。肩からかけた大きなバッグがすごく邪魔。おい、待てよ、とススムが追いかけてきて、肩をつかんだから、力一杯それを振りほどいて駅に向かって走って行った。周りの人は驚いて、さっと道をよけた。
急行待ちの各駅停車がホームにいて、わたしは急いで乗った。昼間だから、空いている。一番端の座席に足をきちんと揃えて坐った。電車はゆっくり動き出す。わたしはススムが今はっきりと憎かった。電車は左手にゆるやかにカーブし、ススムの住む白いタイルのマンションがちらりと見えた。
同意書にサインしたブルー・ブラックのススムのあの字が憎かった。手術の前の日、窓から見えた風景が憎かった。ピカピカの手術台が憎かった。麻酔を打たれ、三まで声を出して数えた自分が憎かった。目が覚めた後、最初に見えたベージュのカーテンが憎かった。あの部屋でススムの電話をじっと待っていた自分が憎かった。エコーに映った白いインゲンの小ささが憎かった。もうできていた点のような黒い目が憎かった。お前なんかいらないと言った母が憎かった。そして、あの日、死んでしまったわたしのコドモが憎かった。
わたしは、身を二つに折り曲げじっとこらえた。そうでもしなければ、わたしの中から、やっとの思いで封をしていたものが一気に噴き出して、わたしは音をたててあっという間に壊れてしまいそうだった。
美穂ちゃん、どうしたの? 顔が青いけど。会社に戻ったら同じ部署の夕佳ちゃんが近くに来て言った。うん、気持ち悪くて、貧血かもしれない。大丈夫? 休憩室で少し休んでくれば? あっ、そうだ、さっき男の人から電話があったよ、名前は言わなかったけど、訊いておけばよかったね。夕佳ちゃんあのさ、ちょっとわたし休んでくるね、それでもしまた同じ人から電話があったら、まだ戻ってないって言っておいて。いいの? いいのよ、お願いね。
わたしは地下の女子休憩室の奥にあるベッドに、虫のように丸くなって寝た。ここは、白い木綿のカーテンで仕切られていて中学校の保健室みたいだ。わたしは何年ススムと一緒にいるんだろう? 六年か。ススムに会う前はどうしていたんだっけ。夜遅くまで仕事をして、土曜日はお昼過ぎまで寝て、時々男の人と付き合って、そして当り前みたいにただセックスをして、お互い連絡をしなくなったら、それが別れだった。未練なんてなかった。平気で男と別れてきた。簡単なものだ。わたしはあの頃、誰と一番おしゃべりしていたんだっけ? 誰と一緒に笑っていたんだっけ? 誰だったんだろう、ススムの前は? わたしの記憶のすみずみまで、ススムとの日々で埋めつくされ、なんだか、もうはっきりと思い出せない。こんなに深くなってしまった。わたしの日々。わたしの記憶。そして、わたしの体。
わたしは、どんな大人になりたかったんだっけ? 好きな男の人をきちんと自分で選び取って、一緒にいるのは好きだからって言える大人になりたかったんだ。嫌なことがあるのに、セックスの気持ち良さに引きずられちゃうような人にはなりたくないって思っていたんだ。演歌の人になるまいって、決めていたんだ。そうだった、わたしは、そう思って大人になったんだ。わたしに平気であんなことを言う男は、わたしには相応しくない。大事になんてもう二度と思えない。笑って言ったのよ、あの時。もういいや。うんざりだ。杉山さんの言う通り本当に、あの人は女をしあわせにできない男だったんだ。気が付いて良かった。もうたくさん。もうおしまい。
わたしは、ベッドから起きて、髪を直した。別れるにしても、その前にしておきたいことがまだ一つあった。
病院に行って来ると、夕佳ちゃんに言ったら、木ノ内さんっていう人から二回電話あったよ、電話下さいって言ってたけど、と言った。そう、わかった、と言ってオフィスを出た。何が電話をしろよ、わたしが頼んでも電話してきた例《ためし》がないじゃないの。同じ思いをすればいい。わたしは電話をしなかった。
バスに乗って病院に急いだ。まだ今日の診療に間に合うだろう。わたしは川上レディス・クリニックに急いだ。患者さんが中にいるらしく診察室から先生の声が聞こえている。
山本さん、しばらくいらっしゃっていませんでしたけど、今日はどうなさいました? と受付の人に訊かれた。
先生にお願いしたいことがあってうかがいました。
そうですか、わかりました、ちょっとお待ち下さいね。
山本さん、どうぞと呼ばれて診察室に入ると、先生は、わたしを見て、やぁ君かと言った。
あれからずい分来なかったね、元気だった?
はい、お蔭様で元気にしております、ありがとうございます。
そう、それは良かった、それで今日はどうしたの?
あの、先生にお願いがあって、うかがいました。
ふーん、何?
あの、カルテに貼ってある、あの時のエコーのコドモの写真、いただけないでしょうか。
えっ、どうして、そんなの欲しいの?
自分の手元に置いて、時々見たいんです。
わたしは、それがどんなに馬鹿らしく、そして悪趣味なことかよくわかっている。見たって何にもならない。見て記憶を鮮明にしたところで、何の役にも立たないことはよくわかっている。でも、わたしはもう一度あのかたちを見たかった。わたしの中に、ほんの数十日間いたわたしとススムのコドモのかたちを。いなかったことにされているけれど、本当はいたということを、ずっと覚えておきたかった。ススムとは別れてしまうけど、このコドモのことはちゃんと手元に置いておきたい。わたしだけが見て記憶しているのはフェアじゃない。これをコピーして、ススムに送りつけてやりたい。150%ぐらいに拡大したっていいかも。確かに目のあるコドモの姿を、ススムにも記憶して欲しい。なにより、これはわたしのコドモじゃないの、こんな所に置いてあるよりも、連れて帰りたい。きれいな色の革のフレームにでも入れてやりたい。可愛がりたい。わたしは、死んでしまったこのコドモになんにもしてやれないんだもの、せめてそうしてやりたい。だって、わたしにはコドモがいたんだから。そう、大きな声で言ってやりたい気持だった。
そう、それで見てどうするの。
見るだけです、見てね、思い出すだけでいいんです。
ふーん、君、変わってるね、わかったよ、と先生はカルテをめくって、エコーのプリントアウトをはがそうとして、そして指を止めた。
やっぱり止めよう。そんなことしてもなんにもならないよ。君ね、いいことだけを覚えておけば? どうしても、って言われればこれは君のカルテだから、エコーの写真はあげられるけどね、でも、そんなこと、良くないよ。今さら見てもどうにもできないんだよ。
先生、わたし悪いことしちゃったから、うんと苦しいの。どうして産まなかったんだろうとか、産んでいたらどのくらいなのかな、なんて、やっぱり思ってしまってつらくなる。
確かにね、いいことじゃないよね。でも君はこれからもずっと生きていく人なんだから、くよくよしても仕方ないんだよ。いつか、子供作っても良くなったら来ればいいじゃないか。こんなの持ってたら、もっと苦しいだけなんだよ。
そうですか?
そうだよ、だから止めよう、で、そうだ、生理はきちんと来てるんだっけ?
ちょっと長めの周期ですけど来てます。
そう、良かったね、じゃあ漢方薬のんで、今の状態キープしてみる?
はい、そうします。
そうだよ、そうするほうが君のためには、ずっといいよ。
はい、わかりました。
薬が切れたらちゃんと、また取りに来るんだよ。
はい。
じゃあ、お大事に。
先生は、そう言ってカルテを閉じた。
山本さん、と名前を呼ばれて受付にお金を払った。その時わたしは、台の上に置いてある植木の名前を知りたいと思った。それは、白いドロップ型のつぼみをびっしりと付けた木だった。
これは何の木ですか?
ヒメリンゴですよ、可愛いでしょ?
じゃあ秋にはあの小さなリンゴが生《な》るんですか?
ええ、実が生ったところも可愛いの、小さな赤い音符みたい。
ああ、それはいいですね。
わたしは、その白いつぼみをそっと触ってみた。このぐらいの大きさだったかな、とどうしても思ってしまった。
家に戻ると留守番電話のランプが点滅していたけれど、再生しなかった。バッグを置いて、ベランダに出た。わたしも、何か育ててみようかな。去年の夏の枯れた朝顔の鉢が二つあるだけだった。去年の夏は白と青い花がたくさん咲いた。ベッドルームへ戻り、ワンピースを脱いで、スリップのままベッドにうつ伏せになった。
その時、鍵が回され、そしてドアが開いて、誰かが入ってくる音がした。ススムだ。リビングのわたしのバッグを見つけたんだろう、ベッドルームのドアがそっと、開けられた。
なんだ、やっぱりいるんじゃないか、暗いままで、どうしたんだよ、具合い悪いのか?
わたしは、答えない。ススムは近付いて来る。
今日、会社に電話したんだよ、何で電話かけて来なかったんだ。
ススムは、ベッドに坐って、わたしの肩に触った。
触らないで。
なんだよ。
あんたなんて大嫌いよ。
わたしは、ベッドから起き上り、ススムをまっすぐ見た。
あなたは、今日わたしにひどいことを言ったのよ、わかってるの? わかってるよ、すぐ気が付いたよ、だから謝ろうとして電話したんじゃないか、どうして電話に出ないんだよ。うるさいわね、あんたなんて、いつだってわたしが頼んでも電話して来ないでしょ、それと同じよ、どんな思いがするかこれで少しは、わたしの気持がわかったでしょう。お前はじゃあ、わざと電話しなかったのか? そうよ、わたしがわざわざ電話して謝ってもらう必要ないもの。いやな奴だな、俺は忘れるだけで、わざと電話しないなんてことはないぞ。うるさいってば、同じことじゃないの、どうせ、あれはあなたの本心なんでしょ、よくわかったわよ、わたしがあの時さっさと中絶してせいせいしたんでしょ。そんなわけないじゃないか。やっぱりせっかくだから産んでおけば良かった、そうしたら、あなたをうんと困らせてやれたのに、これじゃ、わたしはただの都合がよくて、物わかりのいい人ね。あれは、お前のことを言ったんじゃない、俺のことを言ったんだ、何年も一緒にいるんだからそれぐらい、お前だってわかるだろう。いいえ、わからないわ、あの時ね、わたしは看護婦さんに訊いたのよ、わたしのコドモは小さかった? って、そうしたら、まだコドモなんて呼べる段階じゃなかったって、そう言ったのよ。もう、よせ。よさないわよ、何度でも言ってやるから、あのコドモはね、わたしが十七万円出して死んでもらったんじゃないのよ、それをよくもまぁ、あんなことわたしに笑って言えるわね、なんなのよ、あんた、あたしのことわかるって言ったじゃないのよ、あんた、あたしの味方だったじゃないのよ、あのことは、あたしの一番言われたくないことなのに、それなのにどうしてそれを、あんたから言われなきゃならないのよ、触らないでよ、あんたはね、あたしがあんたのこと好きだって知ってるから、何をしてもいいと思ってるんでしょ、そうじゃないんだからね、言っておくけどあたしはね、あんたと別れることなんて、全然こわくないんだから、あんたのことだけ好きなわけじゃないんだから、触らないでよ、出て行ってよ、出て行って、あんたなんて顔も見たくない。
わたしは、わたしを抱き締めようとするススムと争い、ススムを部屋から追い出し、鍵をかけた。
おい、開けろよ、人の話を聞けよと、ススムは大声を出し、ドアを叩いた。わたしは、枕を力一杯投げつけ、ベッドに横になった。
わたしは、泣いたりなんかしない。泣かないわ。泣くなら自分のために泣かなくちゃ。絶対泣かない。言いたいことを言って、せいせいした。一度言ってやりたかった。そうよ。隣の部屋は音もしない。もういい、あんな男。
どのくらいそのままでいたんだろう。ふと、自分の匂いではない匂いに気が付いた。青い植物のような、甘くて苦い静かな匂いがした。これは、ススムの匂い。わたしは、グリーンのストライプのカバーをした枕を、自分にたぐり寄せ、目を閉じた。ススムの匂いだ。
でもススムは、今日、仕事の後すぐ来たんだ、わたしがいるかどうかもわからないのに。ススムって、そういう所がある。枕をそっと抱き締め、寝返りを打った。たくさんひどいこと言っちゃった。先生はいいことだけを覚えておけばって、おっしゃった。
会社でわたしが出した企画が通ったのに、女には仕事は教えられないと担当をはずされ、仕事は新人の男のコに持っていかれた。あの時のことを思うと今でも本当にみじめな気持になる。あの時ススムはがんばるんだよって言った。こういう時だから、がんばって一生懸命仕事をするんだ、むくれていたら、だから女は駄目なんだって言われるだけだよ、そうススムは言ったんだっけ。だからわたしは平気でがんばれた。父が危篤になった時、合鍵で部屋に入ってくれて、うちの文鳥をお葬式が終るまでめんどうみてくれたんだっけ。ごはんを作る時も、お味噌汁作ってねっていっつも言って、当り前じゃないって言うと、これだけあればいいんだってやっぱりいつも言う。あんなこと言った男って他にいない。ごはんの時、二人の箸をまっすぐに並べるススムの指。あれはわたしを黙らせる。あの指。ススムは作戦のない男だ。ススムはバカだけど、確かに上等な部分もいっぱいある。それをわたしは、知っているのに。だから、あの時わたしはかばったんじゃない。終ったことで、けんかをして別れるのは、間違っている。
いいことだけを覚えておけば?
別れるのは簡単。いつでもできる。ああ、こんな時こそ言葉を尽くさなきゃ。なんのために今まで時間をかけてわかり合ってきたのか、これじゃなんにもならないじゃない。ススムはわたしの男じゃないの。わざと言ったんじゃない。そんなはずない。わたしの味方だもん。きっと、うっかりしたんだ。ススムは男だからね。ススムの中じゃ、もう終ったことなんだ。ススムは、ちょっとバカだ。あたしだって、パーフェクトじゃない。すぐ怒るし。だから、あたしも許してあげなくちゃいけないんだ。ススムはわたしを許してくれている、いつも。ススムは、説明をしに来たんだから、ススムの女だったら、説明を聞かなくちゃ。だって、ススムは、わたしの所に来たんだもん。好きだったら、やっぱり困らせちゃ駄目。悲しくさせちゃ駄目。世の中、他人だらけなのにやっと見つけた仲良しだもん。いいことは、今までいっぱいある。でも、ひどいことって、他になかったじゃないの。わたしは、ススムの目の、きれいな茶色を思った。そしてやっと心が晴れた。
わたしはドアを静かに開けた。リビングも暗いままだ。あれじゃあ、やっぱりススムは帰っちゃったのかな。今ならまだ間に合うかもしれない。ススムの所へ行こう。急がなくちゃ。洗面所に行ったら、電気がついていて、お風呂場から音がしている。なんだろうと開けてみたら、バスタブを洗ってるススムが振り向いた。
何やってんのよ。おう、もう機嫌直ったのかよ。うるさいわね、何やってんのよ、うちのお風呂で。しばらくお前が出てくるのを待ってたんだけど、全然出てこないし、だからもう帰ろうと思ったんだけど、なんだかお前、疲れてるみたいだし、風呂にでも入れば少しは違うかと思ったんだよ、お前は、風呂上りはいつも気持ち良さそうにしているから。そう。かわいそうな思いさせちゃったし、ぷんぷん怒ってるし、こりゃもう駄目だと思ったから、せめてこのぐらいはと思ったんだよ。そう、それはどうもありがとう。悪かったな、本当に、もっと気を遣ってやらなきゃいけなかった、あれは、お前のことを言ったんじゃないんだ、悪かったよ、でも、これでもう行くわ、見つかっちゃったら、格好つかないし、じゃあお前、元気でな。
えっ。
ススムは、わたしを見た。タオルで手をふきながらススムは言う。
お前は、そのうち俺をきっと恨むと思うよ、さっきのお前を見ててそう思った、やっぱり俺はお前に良くしてやれないと思う、お前、子供欲しいだろう? 俺と一緒にいちゃいつ産めるかわからないよ、お前、もう三十過ぎたもんな。
いつ立場が逆転しちゃったんだろう。これで終り? さっきまでわたしは、ススムを許す側だったのに。
じゃあススムは、お風呂をこっそり洗ってお湯を入れて、そして黙って帰るつもりだったの? それで、あたしが喜ぶと思ったの? 喜ぶとは思わないけど、そうするしかないかなぁと思った。それで、さっさと家に帰ってわたしと別れたつもりになってたの? じゃあ、お前はどうしたいんだよ? あんた、ずるいわよ、別れるんだったらもっとうんと前に別れてよ、こんなになってから別れるなんてずるいじゃないの。
これで、行かないでってススムに言ったらわたしは演歌の人だ。わたしは、そう思った。こんな時も泣いちゃ駄目。わたしは、ススムを見た。
わたしは、ススムと別れたくないよ。俺だって、別にお前と別れたいわけじゃないよ、でもそうするのがお前にはいいんだよ。
そんな言い方、ずるいわよ、あたしにいいかどうか、どうしてあんたがわかるのよ、あんたなんて脳みそ小さいくせに、あたしのことは、あたしが一番知ってる、あんたは、あたしのこと、わかってるって、もうこれから言わないほうがいいわ、だって、全然わかってないから。
うるせえなぁ、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。ススム、他に好きな人いるの? いないよ。それだったら、別に誰も別れたくないんだから、別れなくてもいいんじゃないの? そうか? そうよ、別れる時が来たら何をどうしたって別れちゃうんだから、今は別れなくてもいいんじゃない? わたし、あなたのこと許してあげるからさ。なんだかこいつ、いばってる。いばってないよ、言葉を使って説明してるだけよ、だってあんたはバカなんだもん。
バカだけど、わたしの好きな男。そう思って、ススムの手を取りベッドルームに連れ戻した。わたしは、やっぱりこの男が好き。この目の前の、さっきまでわたしを置いて出て行こうとしたうんとバカな男が。この男に、一体どうやって、わたしの気持をわからせようか。ススムは、わたしに手を握られたまま、ベッドの側に立っている。わたしは、ベッドに坐って、ススムの左手を、わたしの右の手と左の手で挟んで、わたしの頬に押しつけた。
ススム、好きよ。行っては駄目。バスタブ洗ったりして、わたしを泣かせないで。お願いよ、ススム。
わたしは、白インゲンのことは決して忘れないけど、もうこの先思い出すのをやめようと思った。わたしも、あんなヒメリンゴを買ってきて、大事に育てよう。今なら、あの小さなつぼみが大きくなっていくところが見られる。つぼみ、大きくなりなさい。白い花が咲いて、そして赤い実が生る。わたしには、それが何か美しい約束のように思える。わたしは、これからもきっと大丈夫。白いつぼみは大きくなるのだから。それを夢見て、木は芽吹くのだから。
わたしは、わたしの方を向いて眠るススムを見た。わたしは、この男をいつか嫌いになることがあるんだろうか? わたしたちは一体どんなことで別れることになるんだろう? そんなことをふと思い、少し冷たくなったススムの肩に布団をそっとかけてやった。
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おはようを言うために
それは、そっとわたしを貫いた。
静かだったし、穏かだったから、わたしは全然気が付かなかった。
ちょうど虫ピンで止められた蝶も、こんな具合いではなかったか。
蝶は、もうどこへも行けない。そこにいるしかない。
蝶は悲しいだろうか。もう飛べなくて。
でもわたしは、おかしなことにほっとした。こうして止められたことで。わたしの意志で決めたことではなかったけれど。わたしは、それに従うことにした。悲しくはなかった。
虫ピンは、今、深々とわたしを刺し貫いた。
そうして、春のあの日、わたしの生理は静かに消えて、わたしは妊娠した。
自分の体のことは、自分でわかるというけれど、わたしもわかった。生理が少し遅れて、あの力強い眠気が再び来た時に、ああそうなのか、と思った。わたしは、これを知っていると思った。
本当はその前の月も、同じようなことがあって、わたしはカレンダーを見て数日間過した。結局、生理は来たのだけれど、
「もし、妊娠していたらこのまま産もうと思ったんだよ」
と、ススムに言ったら、
「何をにやっとしながら、お前は言うんだよ」
と、言った。
「にやっと、じゃなくて、にっこりしただけでしょう」
でも、あの時、わたしは確かにそう思っていたのだ。だから、翌月、生理が来なくて妊娠した時、あまり驚かなかった。
買ってきたスティック状の判定薬は、窓が二つあって、妊娠していれば、その両方に青い線が出るようになっていた。
わたしは、くっきりと二つ並んだ線を見つめ、前は、赤のプラスマークだったなぁと思った。今度は、青い線なのね。今日は、ススムは出ていて、週明けに戻って来るはずだった。わたしは、判定薬をそのまま箱に入れ、洗面所の棚に戻した。
わたしのお腹は、もちろんまだ何も変わっていない。そっと、さすってみた。
知っていたの? わたしの気持を。どこかで見ていたの? だから、来ることに決めたの? もう、大丈夫だって思ったから?
驚きはしなかったけれど、その代わり訊いてみたいことは、たくさんあった。
朝が来て、自分に起こったこのことを、誰かに言ってみたくなった。
言葉にして、相手に聞いてもらって、どんどん心を決めてしまいたかったから。迷いが生まれたり、おじけ付いたりするのが、自分でこわかった。妊娠を認めることと、産もうとちゃんと決心することに距離があるような気がしたから、自分で何か少しでも具体的なことをしてしまいたかった。誰かに、その誰かはわたしの毎日と少し遠くて、でもわたしを知っている人に伝えたかった。ススムは、駄目だ。当事者過ぎる。わたしは、会社の洗面所で夕佳ちゃんと二人きりになった時、思い切って言ってみた。
「夕佳ちゃん、わたし妊娠したんだよ。判定薬がプラスでね、自分で計算してみたら、十二月に子供が生まれるの」
それを言った時、夕佳ちゃんは口を「あ」の字の形のままにちょっとして、そして、その唇がにゅうっと、柔らかく伸び「へえ、おめでたなの」と言った。
夕佳ちゃんは、本当にいい人だ。
その、ベージュとピンクが混ざった口紅が塗られた唇は、声を低くして「できちゃったの?」とは決して言わなかったのだ。
わたしは、この人は本心で言っているのかな、それともすごくいい加減に言ったのかな、と思って、もう一度夕佳ちゃんの顔を見たら、夕佳ちゃんは、平気な顔でにこにこしていた。
「美穂ちゃん、良かったね。木ノ内さんの子供なんでしょう?」
「うん」
そうよ。
でも、それを知っていれば普通は、おめでたなんて、言ってもらえる状態ではなかった。
「味方が一人できたっていう感じ?」
夕佳ちゃんは続けた。
そうね。そうかもしれないと、わたしは思いたかった。少なくとも、敵じゃない。
「そうだ、夕佳ちゃん、これ使ってくれる?」
わたしは、洗面所の小物入れに置いてあった、ブルーのサテンのポーチを夕佳ちゃんに渡した。
「これ、なぁに?」
「わたしは、もう、しばらく使わないから」
「あぁ」
と、夕佳ちゃんは笑ってナプキンを受け取った。
それにしても、とわたしは思った。「おめでた」とはなんと不思議な言葉だろう。
わたしは、ススムと別れることも、そして結婚することもなくただ一緒にいただけだ。その生活のなかで、深呼吸をするようにススムとセックスをしてきただけ。おめでた? 好きな男とセックスをしてきて、子供が出来るということが? 確かに、わたしには嬉しいことだけど、他の人にも、おめでたいの? あの感じ、心と体に残される零《こぼ》れるようなあの感じと、この白昼堂々口にされる言葉とは別の物のような気がした。洗いざらしのごわごわとした言葉だと思った。わたしは、セックスをしていただけ。好きな男と、そうしていただけだったのに。
わたしは、三十五になり、ススムは五十だった。彼は仕事と住む所を失い、六畳二間のわたしの所にいた。そして、そんな暮らしで二年が過ぎていた。
わたしの所にやってきたススムの手荷物は、あっけないほどの小ささだった。それは、箱根へ行くにはちょうど良かったかもしれない。黒いその鞄には、下着と、当座の着替えと、そして青い蝶の標本が入っていた。それを言えばススムは優雅な難民だったかもしれない。
今までの生活を終え、そして次は一体どうするのか。それを考える程の時間もなかったような、小さな荷物だった。
ススムの部屋の壁いっぱいにあった本。台所にあった一人暮らしには多過ぎた器。ススムは自分で料理をする男だった。この人のクローゼットには、何着もスーツが下がっていたはずだ。カシミアのコートも。
あの部屋にあった、古い時代の柱時計はどうしたのだろう。夜中、ススムが先に寝て、わたしは何度もボーンという、散っていくような音を一人で聞いた。
この人は、こんな音のする空間で生きているのかと、わたしはその闇の中で思った。あの時計の音は、子供の頃、海の近くの親戚の家で、お線香の匂いと一緒に聞いた音だった。いつも夏に聞く音だったから、ススムの部屋で初めてあの音を聞いた時、わたしははっとして振り向いたはずだ。
あのたくさんの大事な古い本は、どうしたの。あのお皿はどこに行っちゃったの。仕事にスーツは必要なのに、どうして一着も持って来なかったの。あの柱時計は今どこで鳴っているの。そして、あなた、一体どうしたの。
わたしには、ススムから聞きたいことが山ほどあった。けれど、あのセミも鳴けないような夏の日に、うちのチャイムを鳴らして、しばらくいてもいいか、とただそれだけを告げた男には訊けないことだった。
部屋に上げて、荷物を受け取ったわたしはススムの背中を見た。
茶色の麻のシャツの背中は、汗で黒かった。この男は、と、わたしは思った。
この男の流していた汗は、果たして暑さのためだけだったのだろうか。むしろ、それは冷たく、そして黒い汗ではなかっただろうか。結局、もう他に行く所がなくて、最後に十五も違う女の場所を、まっすぐ目指す気持は、なんとも残酷なものだっただろう。あの汗の色は、わたしの心に残った。
わたしは、それを知っていた。それを覚えてしまう恐ろしい自分を。
そのまま進んでも、決していいことは起らないだろうと、わたしは全身で理解していた。ただし、理解と選択はまた別物である。
わたしのどうしても直らない癖は、一瞬にして、さっと心が覚めるということだ。たった今、間違いなく目にしたはずの「火」が、平気だった。わたしは、平気だと思った。この疲れた男が、ここにいたいのならいればいいと思った。ススムが、あの日、わたしを選んだ日から、とにかく生活は始まってしまう。単純なことなのだ。
わたしは、それが嫌だったろうか。ススムは、大きなマイナスだけだったろうか。でもわたしは、ただ選ばれただけではないのだ。わたしだって、ススムを選んだのだ。この男は、選んでやって来たのだから、またいつか、何かをきっと選ぶだろう。だから、とりあえず今は、何も考えたくなかった。考えなくてもいいのではないか。考えないということも、時には有効な武器になる。その日から、わたしにとって、一番大切なことは、とにかくここで毎日をどうにかやり過すということになった。
四時半になると、仕事の手を休め、わたしは小さなノートをハンドバッグから取り出す。ノートには朝刊の家庭欄にある、お料理のメモをスクラップしてある。
シラスと野菜のおろしあえ・牛肉とキャベツの春雨いため・麻婆豆腐・ゆで卵と野菜の筑前煮・厚揚のスープ煮・牛肉とオクラのトマト煮・レンコンとコンニャクのきんぴら。
わたしの仕事は、六時に終り、そして会社を出る前に、家にいるススムに電話をするようになっていた。
ススムは、ずっと家にいる。朝から晩まで。
「今、仕事が終ったから」
とか、
「玄関を開けておいて」
と、わたしが伝えると、ススムは、
「ビールを二本買ってきて」
と、必ず言う。
ある時、ススムは、
「今日の晩ごはんは何?」
と、言った。
たぶん、本人は何気なく言ったのだろうけれど、なんだかとても嫌だった。わたしは、こんな暮らしのつまらなさがうっすらとススムに積ってしまったような気がした。こわかった。食べることは、大切だけれど、それしか考えられなくなってしまうことは、大きな悲しみだった。けれど、お腹がすいている人を、責めるつもりはないし、わたしだってお腹はすく。だからごはんを作らなければならない。わたしと、ススムの分を。でもお腹がすくということが、急に恥ずかしい気がして、そして、そんな風に思ってしまった自分が悪くて、わたしは明るい声で、
「今日はお刺身。白身のところ」
と言ったら、ススムは嬉しそうに、
「いいね、それは」
と言った。
それから、わたしは晩ごはんのためにスクラップをするようになった。献立を決めてから、ススムに電話をする。
「今日の晩ごはんは、大根と牛肉のうま煮ときゅうりとわかめの酢の物。おみおつけは、あさり。これでどう?」
「いいけど、みょうがも買ってきて」
「みょうがね。あとビールも買っていくからね」
「二本ね」
「うん、二本ね」
そういって、電話を切って、わたしは地下鉄の駅に向かうのだけれど、なんだか、ススムは、これじゃあ、王様のようじゃないのと、思った。
ススムは童話の中の王様に、だんだん似てきた。御伽の国の王様は、特に何もしないのに、いつもいい目を見ている。村人に大事にされている。それは、王様だから。王様は、そういうものだから。おいしい物を食べて、優しくされて、人に守られて、そして、権力もなくて、仕事もしない。ただ、そうしているだけの王様。王様万歳。
家に来たススムは、一体どうするのかなぁと見ていたら、これは想像していたことだったけれど、何もしなかった。ただ部屋にいるのだ。一日中。
朝、わたしが出掛ける時は、まだ寝ている。わたしは、テーブルの上に、そのまま食べられるように、朝食を用意しておく。それは、おむすびだったり、トーストだったり、時間があれば、自分の分と一緒にお弁当を作った。
ススムは、何時に起きるのか、わたしにはわからないことだった。ススムを起こさないように、そっとドアを閉め、わたしは仕事に行った。
わたしは、ススムを甘やかしているつもりもなく、優しくしているつもりもなかった。ただ、ススムがその日一日を無事に過せばほっとするのだった。自分が安心したかったから、かまっていたのかもしれない。
ひ弱な王様は、他の空間では王様ではいられない。この閉じ込められたわたしの部屋を出ることもなく、ススムは、限定された王様の暮らしを続けた。
「あなたって、王様みたい」
ある日、わたしは自分の考えを声に出してススムに言った。あの日、夕方家に戻ってみるとテーブルの上は、わたしが朝、ススムのために支度をしたままになっていた。お鍋も、お皿も食べ終った状態で残っていた。
それまでは、ススムは、お皿を運んでくれたり、時には洗っておいてくれた。それは、当り前とは思っていなかったけれど、ありがたかった。そうしてくれる、ススムを、大事に思えていた。
「これ、朝と同じじゃない。あなた、こんなに散らかったまんまで、一日いて平気だったの?」
「今日は、何もする気が起きなかったんだよ」
この人は、自分が使ったお皿を前に、一日一体何をしていたんだろう。お皿には朝、作っておいたオムレツの、卵の黄色と、ケチャップの赤が乾いてこびりついていた。
「だって、あなた、別に毎日何もしていないじゃない。うちにいるだけじゃないの。王様みたいに、なんでもしてもらえると思っているの?」
「うるさいな。こんな暮らし、やりたくてもやれるもんじゃないんだ。正しいことばかり言いやがって」
ぶたれるかと思った。父は母を、ぶっていたから。
でも、ススムは、わたしをぶたなくて、テーブルの上の物を流しに運び、立って見ているわたしの前で、黙って洗い始めた。
「これでいいのか。気が済んだか」
「そんなつもりで、言ったんじゃないわ」
ススム。そうじゃないのよ。あなたは、わたしの大事な人だから、あなたのことで、がっかりしたくないのよ。別にあなたのこと、本当は王様なんて思いたくないの。こんなこと、ずっと続くんじゃないって、思いたいの。ほんの少し、今だけだって。あなたのこと、立派な人って、今までみたいに思っていたいの。好きでいたいの、努力なしで。ただ、それだけで、お皿のことを言いたいんじゃないのよ。わたしは、こわいのよ。
あなただって、このままでいいって思っているわけじゃない。それが、今わかったから、もういいの。もう言わないから、ススム、ごめんなさい。
「ごめんなさい。今日から、生理で、お腹が痛くて、だからいつもみたいにできなくて、ごはん早く作らなくちゃいけないと思って、それであんなこと言っちゃったの。ごめんなさい」
ススムは、布巾でお皿をふいた。
「痛むのか」
「うん。始まったばかりだからね」
それは本当で、余計いらいらしたのかもしれない。
「お前は、なんだかかわいそうだね」
ススムは、わたしが置いたままのスーパーの袋から、食べ物を取り出し、冷蔵庫に入れながら言った。
「別に、わたしは、全然かわいそうじゃないわ」
わたしは、顔を洗うために洗面所へ行った。
わたしは、かわいそうではなかった。こうしていることが、好きなわけではなかったが、自分で選んだことだった。嫌なら、全てをやめればいいだけのことで、そうしないのも、自分の意志だった。
自分の力を過信していたわけでもない。まして、自分の力で、男一人がどうなるわけでもないことは、最初から知っていた。わたしは、自分がススムにとって特別な存在だなんて、一度も思ったことがない。駄目になるなら、駄目になるしかない。そうなることが、結末にあるのなら人一人が、駄目になっていくところを一緒に見てもいいとすら思った。別に、それで、わたしが殺されるわけでも、片腕を失うわけでもない。ただお金は失うかもしれない。それがいくらになるのかは、わからなかったが。それにしても、持っている以上は失わないだろう。お金は、お金でしかない。わたしは、働いているから、食べることは心配しなくても大丈夫。そう思うと、暗い娯楽に身を投じているような、妙な落ち着きさえ涌いてくるのだった。
わたしは、ススムに出て行って欲しかっただろうか?
そうすることが、彼にとって一番良いことなら、止めるつもりはなかった。けれど、出ていかれたら、わたしはきっとつらいだろう。「王様」になってしまった男にも、見限られるような女。そんな男からも、価値がないと判断されるわたし。それを思えば、かわいそうなのは、ススムの方だった。ススムは、何かの人質だったかもしれない。
時々、ススムは真夜中に出掛けることがあった。
「外に行くよ」
と、言って行くこともあるし、わたしが寝ている間に、出掛けることもあった。どこに行くの、と訊くと、麻雀とだけ言って、タクシーで出掛けて行った。うちのお金を持って出て行く。
翌朝、わたしが出掛ける前に戻ってくることもあったし、戻らないこともあった。わたしは、そんな時、毎回、置いて行かれたのではないかと、思わずにいられなかった。あの人は、あんな小さな荷物でやって来た人だった。何も持たずに、また出て行ってしまっても、不思議はなかった。平気で、そんなことをする人だと思った。わたしは、彼の靴の数を数え、シャツを数えた。黒い鞄があるかどうか、確認した。そして、あの青い蝶の標本が、まだこの部屋にあるかどうか探した。ピンで止められた羽は青い絹のように見える。その青のグラデーションは、明るくなっていく空に似ている。標本は、たんすの上に兎の置物と一緒に置いてあった。あの人は、蝶を置いて行っている。だから、出て行ったのではない。ただ、出掛けているだけなんだ。またここにちゃんと戻ってくる。
蝶は、別に何も約束はしていなかった。けれど、この蝶は、あの人にとって、蝶以上の物ではなかったか。
荷物を受け取った夏の日、蝶が出てきた時、一瞬のん気に見える、このことに、わたしはかえって事の深刻さを知った。無駄なものは、たったひとつしか選べなかったのだ、この人は。最低限必要なものだけではなく、役に立たない美しいものを持つことで、あの人は何かを保とうとしたのではなかったか。彼の心の奥には、絹のハンカチがきっちりたたまれているようなところがある。そして、ススム自身、それをよく知っていて、それを見せまいとするが、絹はあるだけで遠目に違う。今までわたしは、ススムを恥ずかしくさせないように、見て見ぬふりをしていた。
困りながら、隠れながら、そんな美しさを身の内に持つ、ススムという男は、わたしには見たことのない宝物のようだった。
ただ、あの青い蝶は、ススムの心、剥き出しだった。かわいそうに、照れることすら、あの時のススムはもうできなかった。
「羽が、うんとぴんとしている。鱗粉もそのままだね」
しかたなく、わたしがそう言ったら、ススムは、これは、さなぎが羽化した後、すぐにピンで止めちゃうんだよ、だから、きれいなままなんだと、説明した。
大丈夫。蝶の標本は、この部屋にまだある。わたしは、やっと安心して、朝食のための卵を、半熟にゆでて、エッグスタンドにそっと立てた。
これが、わたしの生活。生活とはいえないような生活。大事なことは後回しにしても、とりあえず一日は終る。何も新しく始まらない終るだけの毎日。それが、わたしのここ二年の生活だった。
先を考えられないということは、ゆっくり何かを失うのに似ていた。
何も前に進まない日々のなかで、わたしたちは、お互いに慣れていった。それは、愛などという、遠い外国の言葉のようなものではなく、むしろ情という、もっとわかりやすいものが、わたしたちの間にできていた。繭とはこうして、できあがるものかもしれない。わたしたちは、知らない間にすっかり、繭に包まれていた。
ただし、その繭の糸は、自分で自分に吐いたものではなかった。お互いがお互いに向かって、糸を吐いたのだ。そうやって、繭に閉じ込められたようにわたしには思える。情という糸は、鎖のようにわたしを閉じ込めた。
ある日、忘れ物に気が付いたわたしは、出てきた道を引き返し、鍵を開け、急いで部屋に戻った。そして、襖をそっと開けて、寝ているススムを起こさないように、部屋に入った。前の晩、遅くまで見ていたファイルが必要だった。ススムの側に静かに立ち、枕元に置いてあった、水色のファイルを手にした時、ススムが寝返りを打ち、わたしがいつも、寝ている、左側の方へ手を伸ばした。
わたしはそれを、ファイルを持ったまま見ていた。
ススムの手は、空っぽの場所で、わたしを探していた。三回。四回。そして、わたしがいないとわかって、あれっ、という感じで、目を開けて、側に立っていたわたしに気付いた。
「なんだ。そこにいたのか。もう行くの?」
ススムは、布団の中からわたしを見上げて言った。
「うん。一度出たんだけどね、忘れ物しちゃって、今、取りに戻った所」
「忘れ物は、あったのか?」
「うん。このファイル。会議の資料だから」
「そうか。気を付けないと」
「うん」
「じゃあ、行っておいで。もう九時だぞ」
「うん。行ってきます」
「気を付けて」
ススムの、わたしを探していた手を思った。そんな時、糸は吹き付けられる。火を見ていて、この火にいっそ、このまま身を投じてしまいたいと思わせるのは、こんな時だった。
出がけに、ああ洗濯物がたまっちゃったなぁ、明日は洗濯しないといけないと、思っていた日だった。帰ってみると、洗濯物の籠は空っぽで、なんだろうと見たらベランダに全部干してあった。
その中には、ススムには、ススムだからこそ見られたくない汚れた物もあって、わたしは急いで、干してある洗濯物を見た。
どれも、ひとつひとつしわを伸ばし、洗濯ばさみで止められ、ハンガーに吊してあった。朝、出勤前に大急ぎでするわたしのやり方とは違い、どれもきれいに干してあった。
ススムは、自分の身の回りのことは、一人でやってきた人だった。この人のやり方は、こんなに丁寧で、それだったら、さぞわたしのやり方には、いやな気持でいただろう。
わたしは、きれいに乾いたその洗濯物をひとつひとつ、取り込んだ。
「ススム」
「うん?」
「あんた、全部洗ってくれたの?」
「そうだよ」
「いやじゃなかったの?」
「何が」
「わたしの下着なんか洗うの」
「別に、なんとも思わないよ。今日は、天気が良かったし、自分のを洗おうと思ったら、洗濯物がどんどん下から出てきて、だから全部洗っただけだ」
「そう。でも、わたしは恥ずかしい」
どれも、汚れが残らず落ちていた。
「お前だって、俺の物を洗っているだろう。それと同じだ」
「そうかしら」
「それじゃあ、お前のだけ残したほうがいいのか? その方が、よっぽど恥ずかしいだろう」
わたしは笑った。洗濯をしようとしているススム。あの大きな指が、わたしの下着をそっと指でつまみ、「あっ、あいつのだ」と、また、ぽとりと洗濯籠に落す。一体、どんな顔で?
「うん。そっちの方がいやだわ」
「漂白剤を使うと、落ちが違うんだよ。また今度やってやるから」
「ススムね、もしかしたら、わたしのやり方いやだなぁ、と思っていなかった?」
「なんのこと?」
「わたしは、こんな風にきちんと干さないでしょう。ススムみたいには丁寧じゃないから」
「だって、お前は会社に行く前に洗濯するんだから、しょうがないじゃないか。俺はそんなに、いやな奴じゃない」
「そう。それは、ありがとうね」
わたしは、ススムの洗ってくれた洗濯物をきれいにたたみ、そして、ごはんの支度をした。
わたしは、そんな生活の瑣事が、ススムの値打ちを減らすのではないかと思っていた。お皿を洗ってくれたり、掃除をしてくれることで、この人が、このままで終ってしまうような気がしてこわかった。だから、手伝ってくれることは嬉しかったけれど、そうしなくても、ススムへの気持は何も変わらなかった。
そんな毎日のなかで、自分では気が付かなかったが、わたしもやはりまた、ススムに糸を吐き続けていたのだろう。
今思えば、そんな時に、わたしの心の中にそっと隙間ができたように思える。わたしは少し疲れてきたのだ。子供ができないように気を付けるセックスに。こんなに強く抱き締めるのに妊娠してはいけないセックスに。いつもその後に、あぁ大丈夫かなぁと思わなくてはならないことに。ススムと一緒にいることに慣れ、馴染み、そして、それがすでに生活にすらなっているのに、心のどこかで、常に緊張を保つのは疲れることだった。もう楽になりたかった。
楽になるために、ススムと別れるということは、考えなかった。もし、子供を産むということのためだけに、他の男と一緒になっても、わたしは、いつも、どんな時でも、ススムを思うだろうと知っていた。別れて、遠く離れて、もう会わない男を思いながら生きることのほうが、わたしにはつらかった。死にながら生きるようなものだと思った。未練を恐れる前に、わたしには、別れるという選択はなかった。わたしは、ただ自分のいる状況で、これで楽になれたらどんなにいいだろう、それよりも、もう子供がいっそできてしまったらどれほど楽だろうと思っていたのだ。
たぶん、それで何かが解けて、ゆるんだのだと思う。そして、わたしは妊娠したのだった。
月曜日にススムは戻ってきた。
わたしは、いつ、どんな風にススムに言おうかな、と考えていた。晩ごはんの前に話すと、なんだか深刻になってしまいそうだった。そうだなぁ、ごはんを食べて、お腹が落ち着いてからにしようとわたしは決めた。
ススムは、ごはんを食べた後、ナイターの中継を見ていた。この人は、よくテレビを見る。
わたしは、洗面所の棚からこの間の判定薬の箱を取り出して、中を見てみた。まだスティックの二つの窓には、青い線がきれいに二本残っていた。
「ススム。ちょっと、これ見てくれない?」
わたしは、ススムにスティックを渡した。
「何これ?」
「うん、ちょっとね。あのさ、わたしには線が二本見えるんだけど、あなたもそう見える?」
「ちょっと待て。今、見てやるから」
ススムは、眼鏡を替えてスティックを手に取り、見てくれた。
「線は二本出ているよ」
そういって、ススムはスティックをテーブルに置き、またテレビに戻った。
「で、これ何?」
わたしは、もう言おうと思った。
「ススム、これは妊娠判定薬。線が二本っていうことは、妊娠しているっていうことなの」
ススムの横顔が固まった。
「えっ。お前、そんなことを、こんな風に言うの」
ススムは、テレビを消した。
「ススム。わたし妊娠したよ」
「もう医者には行ったのか?」
「ううん、まだ。だって、あなたに言ってからと思って」
「じゃあ、まだわからないじゃないか」
「そんなことないよ。だって、これで陽性反応が出ているじゃない」
「これはただの線じゃないか」
この人は、打ち消したくてしょうがないみたいだ。
「ススムは、そう言うけどね、これだけで妊娠していることはちゃんとわかるんだよ。病院にこれから行ってわかることは、正しい位置に妊娠しているかとか、いつ生まれるかとか、そういうことだけなんだよ」
ススムは、わたしを見た。
「それで、お前はどうするんだ」
男っていやだな。平気で、こういうことを言う。もう、わたしの中にできてるって、知ってるくせに。どうするって、どうすることもできないじゃない。ここにいるのに。
自分だって、お母さんから生まれてきたくせに。
「産むよ」
「それじゃあ、お前は苦労して、がんばってそれで、つらいめにあおうっていうのか」
こわい思いや、痛いめにあうのは、わたしなのに、なんでこの人は、こんな風に言うんだろう。
「俺はね、もう五十なんだよ」
「それが、どうしたの? あなたが早く死んじゃうっていうこと?」
わたしの父は五十五で死んだ。この人には五十で子供が出来た。それだって、人の運命だと思った。
「早く死ななければいいんじゃない。一緒にいられる間、子供を可愛がってくれればいいんだから。父親なんて、きっと何もしてくれなくてもいるだけでいいのよ」
わたしは、父と話をしたことがない。父は、わたしにわかるやり方で、わたしに優しくしてくれなかった。
「お前は、そんな風に考えているの?」
「そうよ。ススム、わたしはね、もう三十五なのよ。あなたよりはうんと若いけれど、子供を産むには、もう早い歳じゃあないのよ」
こんなことを、自分の口から言うのはつらいことだった。あの時、二十九歳のあの時産めていたらどんなに良かっただろう。
「あなたは、この子のこと、いらないの?」
「そんなことを言ってるんじゃないよ」
「わたしはね、もう二度と、あんな思いをするつもりはないからね」
もしも、子供を産まないということがススムを助けるということなら、二度は助けるつもりはなかった。
堕ろせとか、そんなことを、この人から聞かされたくなかった。わたしの父は、わたしの母にそう言った。「ねぇ、堕ろすんでしょ,ね」と。母は、一体どんな気持だっただろう。けれど、その母だってわたしに言ったのだ。お前なんか、やっぱり産むんじゃなかったと。わたしはね、ススム。もう、こんなことから抜け出したいの。自分の親とは違うことだって、わたしにはできる。なんでも親と同じになるわけじゃない。そう思ってきたんだよ。もしも、ススムが子供をいらないと言うのなら、わたしには、うっすらとした覚悟ができていた。
どんなに言葉を尽しても、ススムの気持がわたしと違うのだったらしょうがないと思った。子供とそしてわたしを受け入れてもらうために下手《したて》に出なくてはならないとしたら、わたしは、この男をあきらめるつもりだった。最後の最後で五分と五分でいられないなら、わたしは、もうこの男はいらない。
「俺は、まだどう考えていいかわからないんだよ。だから、このことを受け入れる時間をくれ」
ススムは、わたしを見て、そして下を向いた。
「時間はあげるけどね。毎日、その分大きくなるのよ。それでもいいの」
「いいよ」
「ススム。言っておくけどね、子供ができたから、しょうがなくて産むんじゃないからね。わたしはね、嬉しいんだよ」
「嬉しいのか」
「そうよ。また、ちゃんと妊娠できたなぁと思って」
「でも、早めに医者に行って来いよ」
ススムは、そう言って「お前は強いね」と言った。
ススム、あんたまでそんなこと言うの。それはね、違うよ。
わたしは、つらいことや、ひどいことがあると、うんと悲しいのよ。それで、その悲しい思いをどうにかできないかと思うだけなのよ。もしも最初から、しあわせだったらきっと何もしない。
男の子に全てまかせて、ただ後を付いて行って、男の子が困ったら一緒に困ったりするのがバカみたいで、嫌なだけなのよ。ふたり人間がいるんだったら、困っているもう一人を手伝えるほうがいいでしょう? ただそれだけなんだよ。こんなことの一体、どこが強いっていうの? それは普通のことじゃないの。
「ススムが、そう思うならそれでもいいけど、わたしは、ススムがいてくれるから、ちゃんとしていられると思っているよ」
「そうなのか」
「そうよ。わたしは別に、好きで強くなったんじゃないわ」
ススムは前にわたしに言った。子供が生まれて一体何がめでたいんだ、生まれてきたって、どうせいつかは死ぬんだ、こんな世の中、最初から生まれてこなければ、それに越したことないじゃないか。そう言って、わたしを、うんと悲しくさせたのだった。でもね、ススム。今わたしは思うよ。そうよ、どうせ死ぬんだから、生きている間、何をしてもいいんじゃないの? それなら、わたしがあなたの子供を産んでもいいじゃない。そんなこと、別に全然たいしたことじゃないのよ。結局、わたしたちは、いつかは死ぬ子供なのだから。
そう思えば妊娠したのが今でも、そして半年後でも、あるいは、一年後でも、もうあまり違いがないように思えた。お金の心配も、ススムの仕事のことも、今とはきっと大して変わりがないだろう。それだったら、今妊娠したっていいはずだ。あの時と違うのは、自分の決心。それだけだった。でもこれじゃあ、まるでメロドラマじゃないの。わたしはススムの子供を産んで、そしていつか死ぬんだ。わたしは、そう思った。でも、これはメロドラマの終りじゃなくて、始まりだと思った。
その晩ススムは、ずい分遅くまで起きていて、お布団にそっと入って来た。
「ススム」
「まだ寝ていなかったのか」
「うん」
「眠れないか」
「大丈夫。あのね、ススム」
わたしは、ススムのあたたかいパジャマの胸に顔をうずめた。わたしには、こうすることのできる男がいる。
「わたしね、いろんなことちゃんとやれると思う? 平気だと思う?」
「なんだお前は、こわいのか」
「そうだよ」
「お前はおかしな奴だね。がんばったり、心配したり」
「わたしは、いつもそうだよ」
「知らなかったよ」
「あんたみたいな王様にわかってたまるもんか」
ススムは、もうそれには何も言わず、わたしを抱き締めた。
次の日、出勤前に病院に行った。
初めての病院へ行くよりも、わたしを知っていてくれる、川上先生の病院を迷わず選んだ。わたしの、つらかったことを知っている先生だった。
「山本さん。今日はどうしました?」
何年も来ていなかったから、新しく診察券を作ってもらい、わたしは窓口の人にそう聞かれた。わたしは、その日一番最初の患者で他にはまだ誰もいなかった。
「えーと、妊娠したようなのでうかがいました」
「そうですか。もう少しお待ち下さいね」
名前を呼ばれて、わたしは診察室に入った。
「やあ、久しぶりだったね」
「はい」
「君、妊娠したの?」
「ええ。判定薬はプラスでした」
「そう。それで、最後の生理はいつ?」
わたしは、きのうのうちに確認していた。
「三月十四日からでした」
「そう。じゃあ、見てみましょう」
わたしは、右手奥の内診室に入った。
お腹の上のカーテンの向こうから、先生が声をかけた。
「前の画面を見て」
わたしは、カーテンを手でどかし、エコーの画面を見た。黒く横に広がる空間に、小さな白い物がぽつんと落ちていた。それは置き去りにされたさなぎのようだった。たったひとつだけ、そこに残ったさなぎ。白いさなぎには、黒い点が付いていた。その点は目だ。その目を見た時、うんと淋しかった。こんな場所で、他に誰もいないのに一体何を見るというのか。
わたしは、これを知っていた。このかたちを知っていると思った。そして、前と違うのは、この画面から今見える以上に、何かもっと見えるものは無いだろうかと、わたしがいつまでも見続けたことだった。さなぎの半分より、少し上の部分が、ひくひくと透明に動くこともわたしには見えた。
「そうだね。君は妊娠しているよ」
内診台から降り、わたしは診察室に戻った。先生は、エコーのプリントアウトの余白に「7W」と書いて、渡してくれた。産むつもりのない患者と、そうではない患者は見分けがつくものなのだろう。
「今、七週め。予定日はね」
先生は、銀色の龍角散の入れ物のようなものを動かした。二つのふたの横にはそれぞれ目盛りが書いてあり、上には桃のマークが付いていた。
予定日は、こんな道具で数字を合せて出される。
「うーんとね、最終月経からすると十二月二十一日」
「えっ。十二月二十一日なんですか」
「大丈夫だよ。まだこの日だったら、少しずれても病院はやっているし、年末でも、お産はちゃんと引き受けるから問題ないよ」
わたしは、そんなことを言っているのではなかった。十二月二十一日。この日は、わたしが前にここで手術をした日だった。どうしても、あの時、子供を産めないと思い入院したのだった。
もちろん、今回の妊娠がわかった時から一度も堕ろすという気持はなかった。でも、ちゃんとこの子供を産もうとはっきり思ったのは、この時だった。
「先生。今おっしゃった予定日っていうのはわたしが前に、ここで手術を受けた日なんです」
こんなことってあるんだろうか。偶然というのは、容赦ないものだ。
もちろん、セックスをしたから妊娠したのだけれど、それ以上に何かがあるような気がした。
よく迷わないで来たね。
そんなにわたしから生まれたかった? 恨まずによくもう一度来てくれたね。わたしのどこをそんなに見込んでくれたの? わたしはね、本当はそれほどいい人じゃないのよ。がんばってみるけどね。でも、本当にわたしでいいの? あんたは、わたしを欲しかったの?
先生は、カルテの前の頁を見ていた。でももっともらしいことは何も言わずに、
「今度は大事にしてね」
とだけおっしゃった。
わたしは、病院を出て向かいのマンションまで行ってみた。前には、ここに壊されたツバメの巣があった。その後、塗装工事でもしたのだろう。クリーム色にきれいに塗られた壁には、ツバメの巣はなかった。もう二度と、ツバメはここには戻らないのだろう。わたしは手帳にはさんだ、さなぎの姿を思った。
妊娠する前の最後の生理は、よく覚えている。まだ空気が固く冷たいあの日、ススムとわたしは、長野の野沢温泉に出掛けたのだった。
何も変わらない毎日というよりも、変えることのできない毎日は、突然わたしたちを正気にゆり戻す。
こんなことになっちゃって。これから先、一体どうしたらいいの。あとどのくらい続ければ済むの。もしも今、わたしたちは双六の上にいるのなら、一体どの辺にいるのか知りたかった。
だましだまし続ける生活が、どうしてもだまし切れなくなると、わたしたちは出掛けた。それは、観光やレジャーなどという優雅なものでなく、またこの生活を続けるための手段のひとつだった。今は、どうあっても続けるしかなかった。
知らない場所で二人でいると、ススムは王様でなくちゃんと大人の男に見えた。他の人たち、人ごみの中で見るススムは、どこもおかしくない、木ノ内進という人で、わたしはそれを感じることでほっとする。
ススムは、どうだっただろう。人ごみの中でのわたしは、どんな風に見えただろう。わたしは、生活を支えるなんていう重要な役の人から、ただのおねえちゃんになりたかった。
旅館に泊まる時、めんどうなのは、わたしたちは普通にしているのに、どうしても不倫のカップルとして扱われることだった。わたしは、どこへ行っても「お連れ様」と呼ばれ、ススムは「男性の方」と呼ばれた。宿帳を渡され、山本の名前で二人の名前をわたしが書いても、そう呼ばれ続けた。
不倫のカップルだったらまだましだ。うちはね、旅行に行くにも、わたしのお金で出掛けて、おまけにそのお金を「男性の方」に渡して、そして支払うっていうお芝居までしなくちゃならないんですよ。不倫よりひどい。全くわたしは損だった。
その時の行き先の、野沢温泉は、ススムが「そばを食べにどこかへ行きたい」と言ったから、長野だったら大丈夫だろうと見当を付けて行ったのだった。わたしは温泉に行きたいと思っていたし、まぁ丁度良かった。
けれど、前の晩からお腹が痛くて、嫌だなぁと思っていたら、出発当日から、生理になってしまった。せっかく温泉に行くのに。せっかくススムと出掛けるのに。わたしは、荷物にナプキンではなくて、タンポンを入れた。
旅館の周りには、まだ雪が残っていた。
ススムが楽しみにしていたおそばも、特に凝ったお店もなく、食堂のメニューのなかにおそばが並んでいる程度だった。おそばを特別扱いするのは、東京に住んでいる人間の特権なのかもしれない。ここに住んでる人たちにとっては、きっと普通の食べ物なのだ。
「せっかく来たのにね」
わたしはこたつに入ってススムに言った。外は出歩くのには少し寒く、わたしたちは結局こたつに向かい合ってじっとしたままだった。これじゃあ、うちにいるのと同じだ。
「まぁ、時間をかけて違う場所に来たんだし、これはこれでいいんだよ」
ススムは、土曜日だからテレビをつけて競馬を見た。
「さっき旅館に来る途中の坂の所に、クアハウスがあったよ」
「クアハウスって何だ」
「たくさん温泉があるの。泡風呂とかね。露天風呂とか」
「いろいろあってお前向きだよ。行っておいでよ」
「うん。ススムは?」
「俺は、いいや。ここにいる」
「そう」
わたしは、まだそんなにお腹も痛くないしせっかく温泉に来たんだからと、支度をして一人で行った。
夜になると、ますます何もすることがなかった。ここは温泉場と言っても山の近くで、静かにお湯を楽しむ土地だった。
「そこらを歩こうか」
八時を少し過ぎた時に、ススムが言った。浴衣の上に宿の丹前をはおり、わたしたちは念のため、マフラーをした。
昼間わたしが一人で下った坂を、二人でだらだら歩いた。静かで、星がたくさん見えた。ここは源泉の近くで、暗いところに、白い蒸気がいくつも上がり、きれいだった。
わたしは、いたずらをしてやれ、と一緒に歩くのを止めた。そして、坂を一人でそのまま歩いていくススムの背中を見た。ススムの丹前を着た大きな背中は、月の光を受けていた。隣にわたしがいることを少しも疑わないでそのまますたすた歩き続けていた。そうしたら、急に、いつかの、わたしを探して布団の上に動いていたススムの手を思い出してしまった。ススムのその感じ、全然何も疑っていない感じが、わたしを苦しくさせた。いつも、わたしは側にいると思っているススムの心。一体、いつからこうなったのだろう。
ススムは、見ているうちにどんどん一人で行ってしまい、とうとう坂の一番下まで行ってしまった。ようやく、おかしいと思ったらしく、ススムは立ち止まりキョロキョロし、後ろを振り返り、おーい、大丈夫かとわたしを呼んだ。
わたしは最初は小走りで、そして、下駄で走れるだけ速く走った。ああ、わたしは犬だった。王様の側にいたい犬。それが嬉しい犬。ススムだったら、わたしは犬になってもいいよ。まるで懐しい人を見つけたように、わたしはススムに体ごとぶつかって行った。
「ススム」
わたしは、ススムの手を取った。
「どうしたんだよ。腹が痛んだのか」
「うん。ちょっとね。もう大丈夫」
わたしは、ススムが優しいのをいいことに、そのまま手をつないで一緒に歩いた。手をつないで歩くのは久しぶりだった。
わたしを心配してくれるこの男は、今、全てを失い、毎日何もしないで終っちゃう人だ。でも、わたしを心配してくれるのは、今はもうこの人しかいないんだ。わたしが走って側に行く人は、この人なんだ。
たぶん、あの晩だったのだと、わたしは思った。おかしなことに生理の始まったあの晩に、わたしの妊娠は決まったのだろう。あの月の光の中を、坂を下って行くススムの背中。あれを見た気持そのままを胸に抱いて、わたしは繭を喰い破り、そして羽を広げたところを、ピンで止められたのだ。
その夜、エコーのプリントアウトをススムに渡した。ススムは、なんだか小学生の通知表を見る父兄のように、それを受け取り、じっと見た。そして、
「はい」
と言ってわたしに返した。
返されたエコーをわたしは見た。これは何かに似ている。なんだろうと思ったら、心霊写真によく似ていた。
ここが目です。ここが頭になります。ここには、もう心臓があります。そう説明されればそうだろうけれど、言われなければわからないことでもあった。わたしはススムに同情した。困っちゃうよね。わたしだって、セックスしていただけなんだもん。それで、いきなり自分の物じゃない心臓が、体の中にできちゃって、本当にびっくりだよ。こんなことになるとは。今わたしには、心臓がふたつあるんだよと言うと、ススムは気持ち悪がるだろうから、それは言わなかった。
わたしは、夜のうんと早い時間に眠くなりそして、朝早く、目が覚めるようになった。体の変化は、こんな所にも現れてきた。
五時半に目の覚めたわたしは、ススムを起こさないように、そろそろとお布団を出て、襖を開けて隣の部屋に行った。部屋は、まだ薄暗くわたしは、いつもススムが坐る方に坐った。
畳にいくつも、煙草の黒こげができていて、大きな虫のように見える。わたしは、後ろの窓を少し開けてベランダを見た。鉢植えの花は、近頃は手入れをしていなくて、草ぼうぼうだった。それでも、もう終りに近いパンジーが咲いている。白地に紫の花と、オレンジの花だった。半月ぐらい前、ススムもこうやって外を見ていた。きれいだと、声に出して言うから何かと思ったら、このパンジーを見ていたのだ。夜のうちに降った雨のせいで、ほこりが流されて花がうんときれいに見えた。あの時は、もっとたくさんパンジーが咲いていて、ススムが、きれいだと言ったのだ。わたしは、ススムを喜ばせてくれた花が嬉しかった。何気なく植えた花だったけれど、植えて良かったと思った。今は、その花も終るけれど。
こうやって、毎日少しずつ動いていく。きのうと今日は、あまり変わりがわからない。でも、やっぱり同じじゃない。
わたしたちは、おはようを言って一日を始める。わたしは、どれだけのおはようを言ってきただろう。一日に一番最初に言う言葉。ママに、パパに、妹に。先生に、友達に、会社の人たちに。
でも、今、わたしがおはようを一番最初に言えるのは、ススムだ。わたしの好きな人。わたしの大事な人。ススムに、おはようを言える日が来るなんて、わたしは知っていただろうか。
わたしは、自分のお腹をさわってみた。
今わたしの中にいる、この子供はどんな夢を見ているのだろう。わたしとススムを選んだ人。わたしたちに会いに来る人。この世に新しくやって来る人。会うために、こんなに時間がかかったね。わたしは、この人に、おはようを教えてあげよう。好きな人に、おはようを言えることは、とてもいいことなんだよ。
わたしは、無事におはようを言えるだろうか。こんな風になるとはね。あの日、ススムに初めて会った日、わたしは想像できただろうか。取材で事務所へ行った時、わたしは二十五だった。大勢のスタッフに囲まれて笑っていた人が、わたしを見つけると「山本さんですね。今日は、よろしくお願いします」と、丁寧におじぎをした。黒いスーツに黒いシャツを着た大きな人だった。わたしはその時、こんな人の奥さんは一体どんな女のヒトなんだろうと思った。あの頃のわたしは、朝起きても一人で、おはようを言う相手はいなかった。黙って一日を始めていた。
おはようを言うたびに、わたしたちは新しく生きていく。今わたしは窓を閉め、起きてくるススムに、おはようを言うために静かに待った。
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あとがき
子供の頃考えていたことは、たいてい間抜けだ。わたしも、とても残念だけどやっぱり間抜けで、セックスは美男美女の特権だと信じていたから、悲しかった。きっと自分には、順番が回ってこないと思っていた。人から欲情されずに真面目なまま一生が終るのかと思ったら、自分が不憫だった。せめて一度ぐらい……と夢を見ていた。
でもね、全然そんなことありませんでした。大丈夫でした。おまけに、こうしてセックスについてお話が書けるようになるなんて、わたしも本当に出世したものです。良かったな。
わたしが原稿を書き始めたのは、97年の1月から。きっかけは、とても簡単でリトル・モアから頼まれたからです。「お前なら絶対書ける。短くてもいいから原稿をくれ」と、昼間、勤務先に電話が掛かってきたのです。どうして、わたしが書けると思うの、と訊いたら「面構え」と言われました。面構えねぇ。
この97年というのは、実は水瓶座にとって十二年に一度の良い年で、わたしは水瓶座です。どの占いを見ても、とにかく何かやれ、どんどんやれ、この年に何もやらないのは大バカだ、ということが書いてありました。わたしは、お金で買えない物、努力が追い付かない物が好きだから、この電話が来た時、もしかして、これかなぁと思ったのです。
それに、書くつもりになったもう一つの理由があります。ずっと前、一度わたしは、大橋歩さんにお仕事をお願いしたことがありました。大橋さんの描く女のコたちは、いつもその時代を生きていて、かっこいいでしょう? だから大好きなのだけど、ある時、大橋さんから「あの……失礼だけど言いたいことがあるの」と、言われました。わたしは、とても緊張して、はい、なんでしょうか、とうかがったら、「あなたは、いつかそのうち本を書く人になると思う」と大橋さんは、おっしゃいました。だから、わたしは笑って、その時は装幀をお願いしますと、お約束をいただいた。それが、本当になるなんてね。『バイブを買いに』を書いた日のことは、ちゃんと覚えている。わたしは、うつぶせに寝て、UAのCDを何度も聴いて、なんとかこの感じが体に移らないかなぁと思った。ある瞬間に、あっ大丈夫と思えて、体をそっと起こして、そのまま大急ぎで書きました。
この本を読んだ後、好きな人に会いに行きたくなったら嬉しいです。わたしに書かせたリトル・モア、ありがとう。あんたは本当、おかしな博徒だね。
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文庫版あとがき
わたしが書いたものを、お読み下さいましてありがとうございました。文庫にするために、読み返しました。「あーあ、こんなことまで書いちゃって」とか、「何もここまで書かなくてもいいじゃない」と、正直に思いましたが、もう書いてしまったので、仕方ありません。
お読み下さった方は、どのような方なのでしょうか。この本の場合、実は読者が一番勇敢なのではないか、と作者のわたしは思います。
単行本が出来た時のことです。出版社の担当者が、ある新聞の書評欄担当者に売り込みに行ってくれました。その学芸部の人は、本を見て言ったそうです。「あっ、こういうタイトルの本は、うちではやりません」と。それでおしまい。
へえ、そういう仕事の仕方なの、それでいいの。書評欄って、そうやって作るの、一行も読まないでさ。こういう話は、本当につまらない。
たぶん、書店で本を買う人と書評欄の人との大きな違いは、本のとらえ方なのでしょう。本屋さんで、「どれを読もうか」と本を探す目と、たくさんの新刊本を見て「どれを落とそうか」と考える人の目。これが同じであるわけがないのです。読まずに、この本は駄目と言われることと、読んで、こんな本は駄目と言われることの、どちらが本として駄目なのか。まあ、わたしは作者なのでよくわかりませんが、わたしの本は読めばわかるように書きました。この文庫はあの方にも、読んでいただきたいとは思います。書評欄担当者なのだから。
「なにもこんなタイトルにしなくても」と、実は単行本を出す時、出版社も消極的でした。でも、わたしはどうしてもこのタイトルでいきたかった。最初はびっくりするかもしれない。でも、手に取ってくれればわかってくれる。自由な気持を持った人は、きっといる。そういう人に読んでもらえばいい。そんな思いで、この本を世の中に送り出しました。
出してからしばらくは、息を凝らす思いでした。そのうち本に入っていた読者カードが戻ってきました。かくかくした、かわいい字が多かったです。泣いた、と書いてあるものが多くて、わたしはびっくりしました。えっ、どこで泣くの? 泣いてもらうように書いたわけでは、ありませんでした。御自分の、今の恋愛について書かれた、お手紙をいただいたり、「この本を読んで、付きあっている彼と別れる決心をしました」というカードもいただいてしまい、今は、その方のしあわせをお祈りするだけです。本当、そんなつもりはありませんでした、すみません。
作家になろうとも、作家になれるとも思っていませんでした。わたしは、頼まれたから書いただけなのです。十年来の友人である孫家邦から新しい雑誌を出すから、書いて欲しいと言われました。それは、単行本のあとがきにある通りです。あっ、孫のためなら、わたしにできることは何でもしよう、孫の雑誌が困らないように一生懸命やってみよう。そう思って、わたしは書きました。書くといっても、歴史物やサスペンスをわたしが書けるわけもなく、恋愛物なら身一つで書けるので、楽でした。孫家邦は映画も作る人なので、わたしの中に何かを見つけて、作家という役を振ってくれたのでしょう。もう始まってしまったのですから、後戻りはしません。
わたしが本を書いたというので、友人が六本木の本屋さんで買ってくれました。レジでお金を払う時、店員さんが「この本、わたしも買いました。いい本ですよ」とおっしゃったそうです。ありがたいことだと思います。
この本がこうやって文庫になるまで、たくさんの方に助けていただきました。角川書店の方々、解説を引き受けて下さった高山なおみさん、ありがとうございました。そして、やっぱり何度でもお礼を言いたいのは、読んで下さった方々です。無名の人間の、このタイトルの本を、よく選んで下さいました。ありがとうございました。そういう方がいて下さることを誇りに思います。
二十一世紀最初の秋
[#地付き]夏 石 鈴 子
本書は一九九八年十一月、リトル・モアより刊行された単行本を文庫化したものです。
角川文庫『バイブを買いに』平成13年11月25日初版発行
平成16年3月25日再版発行