TITLE : 門
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目 次
注 釈
宗《そう》助《すけ》はさっきから縁《えん》側《がわ》へ座《ざ》蒲団《ぶとん》を持ち出して、日当たりのよさそうな所へ気楽にあぐらをかいてみたが、やがて手に持っている雑誌をほうり出すとともに、ごろりと横になった。秋《あき》日和《びより》と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響きが、静かな町だけに、朗《ほが》らかに聞こえてくる。肱《ひじ》枕《まくら》をして軒から上を見上げると、きれいな空がいちめんに蒼《あお》く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に比べてみると、非常に広大である。たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけでも、だいぶ違うなと思いながら、眉《まゆ》を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩《まぼ》しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫《しごと》をしている。
「おい、よい天気だな」と話しかけた。細君は、
「ええ」と言ったなりであった。宗助もべつに話がしたいわけでもなかったとみえて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君のほうから、
「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と言った。しかしその時は宗助がただうんという生返事を返しただけであった。
二、三分して、細君は障子のガラスの所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿をのぞいて見た。夫はどういう了見か両《りよう》膝《ひざ》を曲げて海老《えび》のように窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、そのなかへ黒い頭を突っ込んでいるから、肱《ひじ》にはさまれて顔がちっとも見えない。
「あなたそんな所へ寝ると風邪《かぜ》引いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。
宗助は両肱の中で大きな目をぱちぱちさせながら、
「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。
それからまた静かになった。外を通るゴム車《*》のベルの音が二、三度鳴ったあとから、遠くで鶏の時音《とき》をつくる声が聞こえた。宗助は仕立卸しの紡績織の背中へ、自《じ》然《ねん》と浸み込んでくる光線の暖か味を、シャツの下でむさぼるほど味わいながら、表の音を聞くともなく聞いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、
「お米《よね》、近来の近の字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君はべつにあきれた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑い声もたてず、
「近江のおうの字じゃなくって」と答えた。
「その近江のおうの字がわからないんだ」
細君は立て切った障子を半分ばかりあけて、敷居の外へ長い物差を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「こうでしょう」と言ったぎり、物差の先を、字のとまったところへ置いたなり、澄み渡った空をひとしきりながめ入った。宗助は細君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」と言ったが、冗談でもなかったとみえて、べつに笑いもしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「ほんとうにいいお天気だわね」となかばひとり言のように言いながら、障子をあけたまままた裁縫《しごと》を始めた。すると宗助は肱ではさんだ頭を少しもたげて、
「どうも字というものは不思議だよ」とはじめて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくらやさしい字でも、こりゃ変だと思って疑りだすとわからなくなる。このあいだも今《こん》日《にち》の今《こん》の字でたいへん迷った。紙の上へちゃんと書いてみて、じっとながめていると、なんだか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなってくる。――お前《まい》そんなことを経験したことはないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかもしれない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上がった。
針箱と糸《いと》屑《くず》の上を飛び越すようにまたいで、茶の間の襖《ふすま》をあけると、すぐ座敷である。南が玄関でふさがれているので、突き当たりの障子が、日向《ひなた》から急にはいって来た眸《ひとみ》には、うそ寒く映った。そこをあけると、廂《ひさし》にせまるような勾《こう》配《ばい》の崖《がけ》が、縁《えん》鼻《ばな》からそびえているので、朝のうちは当たってしかるべきはずの日も容易に影を落とさない。崖には草がはえている。下からして一《ひと》側《かわ》も石で畳《たた》んでないから、いつくずれるかわからないおそれがあるのだけれども、不思議にまだくずれたことがないそうで、そのためか家《や》主《ぬし》も長いあいだ昔のままにしてほうってある。もっとも元はいちめんの竹《たけ》藪《やぶ》だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土《ど》堤《て》の中に埋《う》めておいたから、地は存外しまっていますからね、と町内に二十年も住んでいる八百《やお》屋《や》の爺《おやじ》が、勝手口でわざわざ説明してくれたことがある。その時宗助はだって根が残っていれば、また竹がはえてきて藪になりそうなものじゃないかと聞き返してみた。すると爺は、それがね、ああ切り開かれてみると、そううまくゆくもんじゃありませんよ。しかし崖だけは大丈夫です。どんなことがあったって壊《く》えっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするように力んで帰っていった。
崖は秋に入ってもべつに色づく様子もない。ただ青い草の匂《にお》いがさめて、不《ぶ》揃《そろ》にもじゃもじゃするばかりである。薄《すすき》だの蔦《つた》だのというしゃれたものにいたってはさらに見当たらない。その代わり昔のなごりの孟《もう》宗《そう》が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。それが多少黄に染まって、幹に日のさすときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖か味をながめられるような心持ちがする。宗助は朝出て四時すぎに帰る男だから、日の詰まるこのごろは、めったに崖の上をのぞく暇をもたなかった。暗い便所から出て、手水《ちようず》鉢《ばち》の水を手に受けながら、ふと廂の外を見上げた時、はじめて竹のことを思い出した。幹の頂に濃《こま》かな葉が集まって、まるで坊主頭のように見える。それが秋の日に酔って重く下を向いて、ひっそりと重なった葉が一枚も動かない。
宗助は障子を閉《た》てて座敷へ帰って、机の前へすわった。座敷とはいいながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とかいうほうが穏当である。北側に床があるので、申し訳のために変な軸《じく》を掛けて、その前に朱《しゆ》泥《でい》の色をした拙《せつ》な花《はな》活《いけ》が飾ってある。欄間には額もなにもない。ただ真《しん》鍮《ちゆう》の折れ釘《くぎ》だけが二本光っている。その他にはガラス戸の張った書《しよ》棚《だな》が一つある。けれども中にはべつにこれといって、めだつほどのりっぱなものもはいっていない。
宗助は銀金具のついた机の引出しをあけてしきりに中を調べだしたが、べつになにも見付け出さないうちに、はたりとしめてしまった。それから硯《すずり》箱《ばこ》の蓋《ふた》を取って、手紙を書きはじめた。一本書いて封をして、ちょっと考えたが、
「おい、佐《さ》伯《えき》のうちは中《なか》六《ろく》番《ばん》町《ちよう》何番地だったかね」と襖《ふすま》越《ご》しに細君に聞いた。
「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が名《な》宛《あて》を書きおわるころになって、
「手紙じゃだめよ。行ってよく話をしてこなくっちゃ」とつけ加えた。
「まあ、だめまでも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出かけるとするさ」と言いきったが、細君が返事をしないので、
「ねえ、おい、それでいいだろう」と念を押した。
細君は悪いとも言いかねたとみえて、そのうえ争いもしなかった。宗助は郵便を持ったまま、座敷からすぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いてはじめて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝いに玄関に出た。
「ちょっと散歩に行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。
三十分ばかりして格《こう》子《し》ががらりとあいたので、お米はまた裁縫《しごと》の手をやめて、縁伝いに玄関へ出てみると、帰ったと思う宗助の代わりに、高等学校の制帽をかぶった、弟の小《こ》六《ろく》がはいってきた。袴《はかま》の裾《すそ》が五、六寸しか出ないくらいの、長い黒ラシャのマントのボタンをはずしながら、
「暑い」と言っている。
「だってあんまりだわ。このお天気にそんな厚いものを着て出るなんて」
「なに、日が暮れたら寒いだろうと思って」と小六は言い訳を半分しながら、嫂《あによめ》のあとについて、茶の間へ通ったが、縫いかけてある着物へ目をつけて、
「相変わらず精が出ますね」と言ったなり、長《なが》火《ひ》鉢《ばち》の前へあぐらをかいた。嫂は裁縫《しごと》を隅《すみ》の方へ押しやっておいて、小六の向こうへ来て、ちょっと鉄《てつ》瓶《びん》をおろして炭を継ぎはじめた。
「お茶ならたくさんです」と小六が言った。
「いや?」と女学生流に念を押したお米は、
「じゃお菓子は」と言って笑いかけた。
「あるんですか」と小六が聞いた。
「いいえ、ないの」と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかもしれないわ」と言いながら立ち上がる拍子に、横にあった炭取りを取りのけて、袋戸棚をあけた。小六はお米の後姿の、羽織が帯で高くなったあたりをながめていた。なにを捜すのだか、なかなか手間がとれそうなので、
「じゃお菓子もよしにしましょう。それよりか、今日《きよう》は兄《にい》さんはどうしました」と聞いた。
「兄さんは今ちょいと」と後ろ向きのまま答えて、お米はやはり戸棚の中を捜している。やがてぱたりと戸をしめて、
「だめよ。いつのまにか兄さんがみんな食べてしまった」と言いながら、また火鉢の向こうへ帰ってきた。
「じゃ晩になにかごちそうなさい」
「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。お米は「四時、五時、六時」と時間を勘定した。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼はじっさい嫂のごちそうにはあまり興味を持ちえなかったのである。
「姉《ねえ》さん、兄さんは佐伯に行ってくれたんですかね」と聞いた。
「このあいだから行く行くって言ってることは言ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰るとくたびれちまって、お湯に行くのもたいぎそうなんですもの。だから、そう責めるのもじっさいお気の毒よ」
「そりゃ兄さんも忙しいには違いなかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ち付いて勉強もできないんだから」と言いながら、小六は真《しん》鍮《ちゆう》の火《ひ》箸《ばし》を取って、火鉢の灰の中へなにかしきりに書きだした。お米はその動く火箸の先を見ていた。
「だからさっき手紙を出しておいたのよ」と慰めるように言った。
「なんて」
「そりゃ私《わたし》もつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰ってきたら聞いてごらんなさい。きっとそうよ」
「もし手紙を出したのなら、その用には違いないでしょう」
「ええ、ほんとうに出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」
小六はこれ以上弁解のような慰謝のような、嫂の言葉に耳を借したくなかった。散歩に出るひまがあるなら、手紙の代わりに自分で足を運んでくれたら、よさそうなものだと思うと、あまりいい心持ちでもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々ページをはぐって見ていた。
そこに気のつかなかった宗助は、町の角《かど》まで来て、切手と「敷《しき》島《しま*》」を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのがなんだか不足だったので、くわえ煙草《たばこ》の煙《けむ》を秋の日にゆらつかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京という所はこんな所だという印象を、はっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産《みやげ》に、家《うち》へ帰って寝ようという気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行き通いには電車を利用して、にぎやかな町を二度ずつはきっと行ったり来たりする習慣になっているのではあるが、からだと頭に楽がないので、いつでもうわの空で素通りをすることになっているから、自分がそのにぎやかな町の中に活《い》きているという自覚は近来とんと起こったことがない。もっとも平生は忙しさに追われて、べつだん気にもかからないが、七《なの》日《か》に一ぺんの休日が来て、心がゆったりと落ち付ける機会に出あうと、ふだんの生活が急にそわそわした上《うわ》調《ちよう》子《し》にみえてくる。ひっきょう自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見たことがないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物淋しさを感ずるのである。
そういうときには彼は急に思い出したように町へ出る。そのうえ懐《ふところ》に多少余裕でもあると、これでひとつ豪遊でもしてみようかと考えることもある。けれども彼の淋しみは、彼を思いきった極端に駆り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進するまえに、それもばかばかしくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入れの底がたいていの場合には、軽挙を戒める程度内にふくらんでいるので、おっくうな工夫をこらすよりも、懐手をして、ぶらりと家へ帰るほうが、つい楽になる。だから宗助の淋しみは、単なる散歩か勧《かん》工《こう》場《ば*》縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰謝されるのである。
この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので、例になく乗《のり》心《ごこ》地《ち》がよかった。そのうえ乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれもゆったりと落ち付いているように見えた。宗助は腰をかけながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向かう自分の運命を顧みた。出勤刻限の電車の道づれほど殺風景なものはない。革《かわ》にぶら下がるにしても、ビロードに腰をかけるにしても、人間的な優しい心持ちの起こったためしはいまだかつてない。自分もそれでたくさんだと考えて、器械かなんぞと膝《ひざ》を突き合わせ肩を並べたかのごとくに、行きたいところまで同席して不意とおりてしまうだけであった。前のお婆《ばあ》さんが八つぐらいになる孫娘の耳のところへ口をつけてなにか言っているのを、そばに見ていた三十がっこうの商家のお神《かみ》さんらしいのが、かわいらしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところをながめていると、いまさらながら別の世界に来たような心持ちがした。
頭の上には広告がいちめんに枠《わく》にはめて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んでみると、引っ越しは容易にできますという移転会社の引《ひき》札《ふだ》であった。その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてそのあとにガス竈《がま》を使えと書いて、ガス竈から火の出ている画《え》まで添えてあった。三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」というのと、バンカラ喜劇小《こ》辰《たつ》大《おお》一《いち》座《ざ》というのが、赤地に白で染め抜いてあった。
宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧に三べんほど読み直した。べつに行ってみようと思うものも、買ってみたいと思うものもなかったが、ただこれらの広告がはっきりと自分の頭に映って、そうしてそれをいちいち読みおおせた時間のあったことと、それをことごとく理解しえたという心の余裕が、宗助には少なからぬ満足を与えた。彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出《で》入《はい》りには、落ち付いていられないものであった。
宗助は駿《する》河《が》台《だい》下《した》で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓ガラスの中に、美しく並べてある洋書に目がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞《しま》や模様の上に、あざやかにたたき込んである金文字をながめた。表題の意味はむろんわかるが、手に取って、中をしらべてみようという好奇心はちっとも起こらなかった。本屋の前を通ると、きっと中へはいってみたくなったり、中へはいると必ずなにか欲しくなったりするのは、宗助からいうと、すでに一昔まえの生活である。ただHistory of Gambling《ヒストリ オフ ガンブリング》(博《ばく》奕《えき》史《し》)というのが、ことさらに美装して、いちばんまん中に飾られてあったので、それがいくぶんか彼の頭にとっぴな新し味を加えただけであった。
宗助は微笑しながら、せわしい通りを向こう側へ渡って、今度は時計屋の店をのぞき込んだ。金時計だの金鎖がいくつも並べてあるが、これもただ美しい色や恰《かつ》好《こう》として、彼の眸に映るだけで、買いたい了見を誘致するには至らなかった。そのくせ彼はいちいち絹糸で釣るした価格《ねだん》札《ふだ》を読んで、品物と見比べてみた。そうして実際金時計の安価なのに驚いた。
蝙蝠《こうもり》傘《がさ》屋《や》の前にもちょっと立ちどまった。西洋小間物を売る店先では、シルクハットのわきにかけてあった襟《えり》飾《かざ》りに目がついた。自分の毎日かけているのよりも、たいへん柄がよかったので、価《ね》を聞いてみようかと思って、半分店の中へはいりかけたが、明日《あした》から襟飾りなどをかけかえたところが、くだらないことだと思い直すと、急に蟇《がま》口《ぐち》の口をあけるのがいやになって行き過ぎた。呉《ご》服《ふく》店《みせ》でもだいぶ立《たち》見《み》をした。鶉《うずら》御《お》召《めし》だの、高《こう》貴《き》織《おり》だの、清《せい》凌《りよう》織《おり》だの、自分の今日まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟《えり》新《しん》という家《うち》の出店の前で、窓ガラスへ帽子のつばを突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍《ぬい》をした女の半襟を、いつまでもながめていた。そのうちにちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買っていってやろうかという気がちょっと起こるやいなや、そりゃ五、六年前《ぜん》のことだという考えがあとから出てきて、せっかく心持ちのいい思いつきをすぐもみ消してしまった。宗助は苦笑しながら窓ガラスを離れてまた歩きだしたが、それから半町ほどの間はなんだかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。
ふと気がついてみると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。梯《はし》子《ご》のような細長い枠へ紙を張ったり、ペンキ塗りの一枚板へ模様画みたような色彩を施したりしてある。宗助はそれをいちいち読んだ。著者の名前も作《さく》物《ぶつ》の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、またまったく新奇のようでもあった。
この店の曲がり角の影になった所で、黒い山高帽をかぶった三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうにあぐらをかいて、ええお子供衆のお慰みと言いながら、大きなゴム風《ふう》船《せん》をふくらましている。それがふくれるとしぜんと達磨《だるま》の恰好になって、いいかげんなところに目口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。そのうえ一度息を入れると、いつまでもふくれている。かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻《しり》がすわる。それが尻の穴へようじのような細いものを突っ込むと、しゅうっと一度に収縮してしまう。
忙しい往来の人は何人でも通るが、だれも立ちどまって見るほどのものはない。山高帽の男は賑やかな町の隅《すみ》に、冷やかにあぐらをかいて、身の周囲《まわり》に何事が起こりつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええお子供衆のお慰みと言っては、達磨をふくらましている。宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それを袂《たもと》へ入れた。きれいな床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんなきれいなのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日がかぎってきたので、また電車へ乗って、宅《うち》の方へ向かった。
宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡したときには、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影がさしつのるころであった。降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持ちがした。いっしょに降りた人は、みんなはなればなれになって、ことありげに忙しく歩いてゆく。町のはずれを見ると、左右の家の軒から屋根へかけて、仄《ほの》白《しろ》い煙が大気の中に動いているように見える。宗助も樹《き》の多い方角に向いて足早に歩を移した。今日の日曜も、のんびりしたお天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまた淋《さみ》しいような一種の気分が起こってきた。そうして明日《あした》からまた例によって例のごとく、せっせと働かなくてはならないからだだと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六《むい》日《か》半《はん》の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。歩いているうちにも、日当りの悪い、窓の乏しい、大きな部《へ》屋《や》の模様や、隣にすわっている同僚の顔や、野《の》中《なか》さんちょっとという上官の様子ばかりが目に浮かんだ。
魚《うお》勝《かつ》という肴《さかな》屋《や》の前を通り越して、その五、六軒先の路地とも横町ともつかない所を曲がると、行き当りが高い崖で、その左右に四、五軒同じ構えの貸家が並んでいる。ついこのあいだまではまばらな杉《すぎ》垣《がき》の奥に、御《ご》家《け》人《にん》でも住み古したと思われる、ものさびた家も一つ地所のうちに混じっていたが、崖の上の坂《さか》井《い》という人がここを買ってから、たちまち萱《かや》葺《ぶき》をこわして、杉垣を引き抜いて、今のような新しい普請に建てかえてしまった。宗助の家《うち》は横丁を突き当たって、いちばん奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代わり通りからはもっとも隔たっているだけに、まあいくぶんか閑静だろうというので、細君と相談のうえ、とくにそこを選んだのである。
宗助は七日に一ぺんの日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入《い》って、暇があったら髪でも刈って、そうしてゆっくり晩《ばん》食《めし》を食おうと思って、急いで格子をあけた。台所の方で皿《さら》小《こ》鉢《ばち》の音がする。上がろうとする拍《ひよう》子《し》に、小六の脱ぎすてた下駄の上へ、気がつかずに足を乗せた。曲《こご》んで位置を調えているところへ小六が出てきた。台所の方でお米が、
「だれ? 兄《にい》さん?」と聞いた。宗助は、
「やあ、来ていたのか」と言いながら座敷へ上がった。さっき郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家《うち》へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字もひらめかなかった。宗助は小六の顔を見た時、なんとなく悪いことでもしたようにきまりがよくなかった。
「お米、お米」と細君を台所から呼んで、
「小六が来たから、なにかごちそうでもするがいい」と言いつけた。細君は、忙しそうに、台所の障子をあけ放したまま出てきて、座敷の入口に立っていたが、このわかりきった注意を聞くやいなや、
「ええ今じき」と言ったなり、引き返そうとしたが、また戻ってきて、
「その代わり小六さん、はばかりさま。座敷の戸をたてて、ランプをつけてちょうだい。今私《わたし》も清《きよ》も手が放せないところだから」と頼んだ。小六は簡単に、
「はあ」と言って立ち上がった。
勝手では清が物を刻む音がする。湯か水をざあと流しへあける音がする。「奥様これはどちらへ移します」と言う声がする。「姉《ねえ》さん、ランプの心《しん》を切る鋏《はさみ》はどこにあるんですか」と言う小六の声がする。しゅうと湯がたぎって七輪の火へかかった様子である。
宗助は暗い座敷の中で黙《もく》然《ねん》と手《て》焙《あぶ》りへ手をかざしていた。灰の上に出た火のかたまりだけが色づいて赤く見えた。その時裏の崖の上の、家《や》主《ぬし》の家《うち》のお嬢さんがピヤノを鳴らしだした。宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を引きに縁側へ出た。孟《もう》宗《そう》竹《ちく》が薄黒く空の色を乱す上に、一つ二つの星がきらめいた。ピヤノの音《ね》は孟宗竹の後から響いた。
宗助と小六が手《て》拭《ぬぐい》を下げて、風《ふ》呂《ろ》から帰ってきた時は、座敷のまん中にまっ四角な食卓をすえて、お米の手料理がてぎわよくその上に並べてあった。手焙りの火も出がけよりは濃い色に燃えていた。ランプも明るかった。
宗助が机の前の座蒲団を引き寄せて、その上に楽々とあぐらを書いた時、手拭とシャボンを受け取ったお米は、
「いいお湯だったこと?」と聞いた。宗助はただ一《ひと》言《こと》、
「うん」と答えただけであったが、その様子はそっけないというよりも、むしろ湯上がりで、精神が弛《し》緩《かん》した気味に見えた。
「なかなかいい湯でした」と小六がお米の方を見て調子を合わせた。
「しかしああこんじゃたまらないよ」と宗助が机の端《はし》へ肱《ひじ》を持たせながら、けだるそうに言った。宗助が風呂に行くのは、いつでも役所がひけて、家《うち》へ帰ってからのことだから、ちょうど人のたてこむ夕《ゆう》飯《めし》まえの黄昏《たそがれ》である。彼はこの二、三か月間、ついぞ、日の光に透かして湯の色をながめたことがない。それならまだしもだが、ややともすると三日も四日もまるで銭湯の敷居をまたがずに過ごしてしまう。日曜になったら、朝早く起きてなによりも第一にきれいな湯に首だけつかってみようと、常は考えているが、さてその日曜が来てみると、たまにゆっくり寝られるのは、今日ばかりじゃないかという気になって、つい床のうちでぐずぐずしているうちに、時間が遠慮なく過ぎて、ええめんどうだ、今日はやめにして、その代わりこんだの日曜に行こうと思い直すのが、ほとんど惰性のようになっている。
「どうかして、朝湯にだけは行きたいね」と宗助が言った。
「そのくせ朝湯に行ける日は、きっと寝《ね》坊《ぼう》なさるのね」と細君はからかうような口調であった。小六は腹の中でこれが兄のうまれつきの弱点であると思い込んでいた。彼は自分で学校生活をしているにもかかわらず、兄の日曜が、いかに兄にとって貴《たつと》いかを会《え》得《とく》できなかった。六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでいる。だからやりたいことがありすぎて、十の二、三も実行できない。いな、その二、三にしろ進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間のほうが惜しくなってきて、ついまた手を引っ込めて、じっとしているうちに日曜はいつか暮れてしまうのである。自分の気晴らしや保養や、娯楽もしくは好《こう》尚《しよう》についてですら、かように節倹しなければならない境遇にある宗助が、小六のために尽くさないのは、尽くさないのではない、頭に尽くす余裕のないのだとは、小六から見ると、どうしても受け取れなかった。兄はただ手前がってな男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、いっこう頼りにも力にもなってくれない、しんそこは情《じよう》合《あい》に薄い人だぐらいに考えていた。
けれども、小六がそう感じだしたのは、つい近ごろのことで、実を言うと、佐伯との交渉が始まって以来の話である。年の若いだけ、すべてに性急な小六は、兄に頼めば今日《きよう》明日《あす》にもかたがつくものと、思い込んでいたのに、いつまでも埒があかないのみか、まだ先方へ出かけてもくれないので、だいぶ不平になったのである。
ところが今日帰りを待ち受けて会ってみると、そこが兄弟で、べつにお世辞も使わないうちに、どこか暖か味のあるしうちも見えるので、つい言いたいこともあと回しにして、いっしょに湯になんぞはいって、穏やかに打ち解けて話せるようになってきた。
兄弟はくつろいで膳についた。お米も遠慮なく食卓の一《ひと》隅《すみ》を領した。宗助も小六も猪《ちよ》口《く》を二、三杯ずつ干した。飯にかかるまえに、宗助は笑いながら、
「うん、おもしろいものがあったっけ」と言いながら、袂から買ってきたゴム風船の達磨を出して、大きくふくらませてみせた。そうして、それを椀《わん》の蓋の上へのせて、その特色を説明して聞かせた。お米も小六もおもしろがって、ふわふわした玉を見ていた。しまいに小六が、ふうっと吹いたら達磨は膳の上から畳の上へ落ちた。それでも、まだ覆《かえ》らなかった。
「それごらん」と宗助が言った。
お米は女だけに声を出して笑ったが、お櫃《はち》の蓋をあけて、夫の飯をよそいながら、 「兄さんもずいぶんのんきね」と小六の方を向いて、なかば夫を弁護するように言った。宗助は細君から茶碗を受け取って、一《ひと》言《こと》の弁解もなく食事を始めた。小六も正式に箸を取り上げた。
達磨はそれぎり話題にのぼらなかったが、これが緒《いとくち》になって、三人は飯のすむまで無邪気に長閑《のどか》な話をつづけた。しまいに小六が気をかえて、
「時に伊藤さんもとんだことになりましたね」と言いだした。宗助は五、六日まえ、伊藤公暗殺の号外を見たとき、お米の働いている台所へ出てきて、「おいたいへんだ、伊藤さんが殺された」と言って、手に持った号外をお米のエプロンの上に乗せたなり書斎へはいったが、その語気からいうと、むしろ落ち付いたものであった。
「あなたたいへんだっていうくせに、ちっともたいへんらしい声じゃなくってよ」とお米があとから冗談半分にわざわざ注意したくらいである。その後日ごとの新聞に、伊藤公の事が五、六段ずつ出ないことはないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだかわからないほど、暗殺事件については平気に見えた。夜帰って来て、お米が飯のお給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんのことが何か出ていて」と聞くことがあるが、その時には「うんだいぶ出ている」と答えるぐらいだから、夫の隠袋《かくし》の中に畳んである今朝《けさ》の読《よみ》殻《がら》を、あとから出して読んでみないと、その日の記事はわからなかった。お米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合いに出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引っ張りたくはなかった。それでこの二人《ふたり》の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを言いだしたまでは、公けには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。
「どうして、まあ殺されたんでしょう」とお米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じことをまた小六に向かって聞いた。
「ピストルをポンポン連発したのが命中したんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落付いた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と言って、茶碗の茶をうまそうに飲んだ。お米はこれでもなっとくができなかったとみえて、
「どうしてまた満州などへ行ったんでしょう」と聞いた。
「ほんとうにな」と宗助は腹が張って十分物足りた様子であった。
「なんでもロシアに秘密な用があったんだそうです」と小六がまじめな顔をして言った。お米は、
「そう。でもいやねえ。殺されちゃ」と言った。
「おれみたような腰弁は、殺されちゃいやだが、伊藤さんみたような人は、ハルピンへ行って殺されるほうがいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口をきいた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んでごらん、こうはゆかないよ」
「なるほどそんなものかもしれないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満州だの、ハルピンだのって物騒な所ですね。僕はなんだか危険なような心持ちがしてならない」と言った。
「そりゃ、いろんな人が落ち合ってるからね」
この時お米は妙な顔をして、こう答えた夫の顔を見た。宗助もそれに気がついたらしく、
「さあ、もうお膳を下げたらよかろう」と細君を促して、さっきの達磨をまた畳の上から取って、人差指の先へ載せながら、
「どうも妙だよ。よくこう調子よくできるものだと思ってね」と言っていた。
台所から清が出てきて、食い散らした皿《さら》小《こ》鉢《ばち》を食卓ごと引いていった後で、お米も茶を入れ替えるために、次の間へ立ったから、兄弟は差し向かいになった。
「ああきれいになった。どうも食った後はきたないものでね」と宗助はまったく食卓に未練のない顔をした。勝手の方で清がしきりに笑っている。
「なにがそんなにおかしいの、清」とお米が障子越しに話しかける声が聞こえた。清はへえと言ってなお笑いだした。兄弟はなんにも言わず、なかば下女の笑い声に耳を傾けていた。
しばらくして、お米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出てきた。藤《ふじ》蔓《づる》の着いた大きな急須から、胃にも頭にもこたえない番茶を、湯《ゆ》呑《のみ》ほどな大きな茶碗についで、両人《ふたり》の前へ置いた。
「なんだって、あんなに笑うんだい」と夫が聞いた。けれどもお米の顔は見ずに、かえって菓子皿の中をのぞいていた。
「あなたがあんな玩具を買ってきて、おもしろそうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もないくせに」
宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」と言ったが、あとからゆっくり、
「これでももとは子供があったんだがね」と、さも自分で自分の言葉を味わっているふうにつけたして、生《なま》温《ぬる》い目をあげて細君を見た。お米はぴたりと黙ってしまった。
「あなたお菓子食べなくって」と、しばらくしてから小六の方へ向いて話しかけたが、
「ええ食べます」と言う小六の返事を聞き流して、ついと茶の間へ立って行った。兄弟はまた差向かいになった。
電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだ宵《よい》の口だけれども、四隣《あたり》は存外静かである。時々表を通る薄歯の下駄の響きがさえて、夜《よ》寒《さむ》がしだいに増してくる。宗助は懐手をして、
「昼間はあったかいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿じゃもうスチームを通しているかい」と聞いた。
「いえ、まだです。学校じゃよっぽど寒くならなくっちゃ、スチームなんかたきゃしません」
「そうかい。それじゃ寒いだろう」
「ええ。しかし寒いくらいどうでもかまわないつもりですが」と言ったまま、小六はすこし言いよどんでいたが、しまいにとうとう思いきって、
「兄さん、佐伯のほうはいったいどうなるんでしょう。さっき姉さんから聞いたら、今日手紙を出してくだすったそうですが」
「ああ出した。二、三日じゅうになんとかいってくるだろう。そのうえでまたおれが行くともどうともしようよ」
小六は兄の平気な態度を、心のうちでは飽き足らずながめた。しかし宗助の様子にどこといって、ひとを激させるような鋭いところも、みずからをかばうような卑しい点もないので、くってかかる勇気はさらに出なかった。ただ、
「じゃ今日まであのままにしてあったんですか」と単に事実を確めた。
「うん、実はすまないがあのままだ。手紙も今日やっとのことで書いたくらいだ。どうもしかたがないよ。近ごろ神経衰弱でね」とまじめに言う。小六は苦笑した。
「もしだめなら、僕は学校をやめて、いっそ今のうち、満州か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです」
「満州か朝鮮? ひどくまた思いきったもんだね。だって、お前さっき満州は物騒でいやだって言ったじゃないか」
用談はこんなところに行ったり来たりして、ついに要領を得なかった。しまいに宗助が、
「まあ、いいや。そう心配しないでも、どうかなるよ。なにしろ返事の来しだい、おれがすぐ知らせてやる。そのうえでまた相談するとしよう」と言ったので、談話《はなし》にくぎりがついた。
小六が帰りがけに茶の間をのぞいたら、お米はなんにもしずに、長火鉢によりかかっていた。
「姉さん、さようなら」と声をかけたら、「おやお帰り」と言いながらようやく立って来た。
小六の苦にしていた佐伯からは、予期のとおり二、三日して返事があったが、それはきわめて簡単なもので、はがきでも用の足りるところを、丁重に封筒へ入れて三銭の切手をはった、叔母《おば》の自筆にすぎなかった。
役所から帰って、筒《つつ》袖《そで》の仕事着を、窮屈そうに脱ぎかえて、火鉢の前へすわるやいなや、引出しから一寸ほどわざと余して差し込んであった状袋に目がついたので、お米のくんで出す番茶を一口のんだまま、宗助はすぐ封を切った。
「へえ、安《やす》さんは神戸へ行ったんだってね」と手紙を読みながら言った。
「いつ?」とお米は湯呑を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。
「いつとも書いてないがね。なにしろ遠からぬうちには帰京つかまつるべく候《そうろう》あいだと書いてあるから、もうじき帰ってくるんだろう」
「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」
宗助はお米の批評に、同意も不同意も表しなかった。読んだ手紙を巻きおさめて、投げるようにそこへほうり出して、四、五日目になる、ざらざらした腮《あご》を、気味わるそうになで回した。
お米はすぐその手紙を拾ったが、べつに読もうともしなかった。それを膝《ひざ》の上へ乗せたまま、夫の顔を見て、
「遠からぬうちには帰京つかまつるべく候あいだ、どうだっていうの」と聞いた。
「いずれ帰ったら、安《やす》之《の》助《すけ》と相談してなんとか御《ご》挨《あい》拶《さつ》をいたしますというのさ」
「遠からぬうちじゃ曖《あい》昧《まい》ね。いつ帰るとも書いてなくって」
「いいや」
お米は念のため、膝の上の手紙をはじめて開いて見た。そうしてそれをもとのように畳んで、
「ちょっとその状袋を」と手を夫の方へ出した。宗助は自分と火鉢の間にはさまっている青い封筒を取って細君に渡した。お米はそれをふっと吹いて、中をふくらまして手紙を収めた。そうして台所へ立った。
宗助はそれぎり手紙のことには気をとめなかった。今日役所で同僚が、このあいだイギリスから来遊したキチナー元帥《*》に、新橋のそばで会ったという話を思い出して、ああいう人間になると、世界じゅうどこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういうふうに生まれついてきたものかもしれない。自分の過去から引きずってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されるべき将来をとって、キチナーという人のそれに比べてみると、とうてい同じ人間とは思えないぐらいかけ隔たっている。
こう考えて宗助はしきりに煙草《たばこ》を吹かした。表は夕方から風が吹きだして、わざと遠くの方から襲ってくるような音がする。それが時々やむと、やんだあいだはしんとして、吹き荒れる時よりはなお淋《さび》しい。宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘が鳴りだす時節だと思った。
台所へ出てみると、細君は七輪の火を赤くして、肴《さかな》の切身を焼いていた。清は流し元に曲《こご》んで漬《つけ》物《もの》を洗っていた。二人とも口をきかずにせっせと自分のやることをやっている。宗助は障子をあけたなり、しばらく肴から垂る汁《つゆ》か膏《あぶら》の音を聞いていたが、無言のまま障子を閉《た》てて元の座へ戻った。細君は目さえ肴から離さなかった。
食事をすまして、夫婦が火鉢を間に向かい合った時、お米はまた、
「佐伯のほうは困るのね」と言いだした。
「まあしかたがない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「そのまえにちょっと叔母さんに会って話をしておいたほうがよかなくって」
「そうさ。まあそのうちなんとかいってくるだろう。それまでうちやっておこうよ」
「小六さんがおこってよ。よくって」とお米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下目を使って、手に持った小楊枝を着物の襟《えり》へ差した。
中《なか》一《いち》日《んち》置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。その時も手紙の尻に、まあそのうちどうかなるだろうという意味を、例のごとくつけ加えた。そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。自然の経過《なりゆき》がまた窮屈に目の前に押し寄せてくるまでは、忘れているほうがめんどうがなくっていいぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰ってきた。帰りもおそいが、帰ってから出かけるなどというおっくうなことはめったになかった。客はほとんど来ない。用のない時は清を十時まえに寝かすことさえあった。夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払いを、この三十日《みそか》にはどうしたものだろうという、苦しい所《しよ》帯《たい》話《ばなし》は、いまだかつて一度も彼らの口にはのぼらなかった。といって、小説や文学の批評はもちろんのこと、男と女の間をかげろうのように飛び回る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとにじみになってゆく人のようにもみえた。または最初から、色彩の薄いきわめて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにもみえた。
うわべから見ると、夫婦ともそうものに屈託するけしきはなかった。それは彼らが小六のことに関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけにお米は一、二度、
「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなたこんだの日曜ぐらいに番町まで行ってごらんなさらなくって」と注意したことがあるが、宗助は、
「うん、行ってもいい」ぐらいな返事をするだけで、その行ってもいい日曜が来ると、まるで忘れたようにすましている。お米もそれを見て、責める様子もない。天気がいいと、
「ちと散歩でもしていらっしゃい」と言う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜でしあわせね」と言う。
さいわいにして小六はその後一度もやって来ない。この青年は、いたって凝り性の神経質で、こうと思うとどこまでも進んでくるところが、書生時代の宗助によく似ている代わりに、ふと気が変わると、昨日《きのう》のことはまるで忘れたようにひっくり返って、けろりとした顔をしている。そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。それから、頭脳が比較的明《めい》瞭《りよう》で、理路に感情をつぎ込むのか、または感情に理屈の枠を張るのか、どっちかわからないが、とにかくものに筋道をつけないと承知しないし、また一ぺん筋道がつくと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。そのうえ体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せてたいていのことはする。
宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生して、自分の目の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらすることもあった。また苦々しく思うおりもあった。そういう場合には、心のうちに、当時の自分がいちずにふるまった苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起こさせるために、とくに天が小六を自分の目の前にすえつけるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥るために生まれてきたのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。
けれども、今日まで宗助は、小六に対して意見がましいことをいったこともなければ、将来について注意を与えたこともなかった。彼の弟に対する待遇方はただ普通凡庸のものであった。彼の今の生活が、彼のような過去をもっている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験をもった年長者のそぶりは容易に出なかった。
宗助と小六のあいだには、まだ二人ほど男の子がはさまっていたが、いずれも早世してしまったので、兄弟とはいいながら、年は十《とお》ばかり違っている。そのうえ宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝《ちよう》夕《せき》いっしょに生活していたのは、小六の十二、三の時までである。宗助は剛情なきかぬ気の腕《わん》白《ぱく》小《こ》僧《ぞう》としての小六をいまだに記憶している。その時分は父も生きていたし、家《うち》の都合も悪くはなかったので、抱え車夫を邸内の長屋に住まわして、楽に暮らしていた。この車夫に小六より三つほど年下の子供があって、しじゅう小六のお相手をして遊んでいた。ある夏の日盛りに、二人して、長い竿《さお》のさきへ菓子袋をくくりつけて、大きな柿《かき》の木の下で蝉《せみ》のとりくらをしているのを、宗助が見て、兼《けん》坊《ぼう》そんなに頭を日に照らしつけると霍《かく》乱《らん*》になるよ、さあこれをかぶれと言って、小六の古い夏帽を出してやった。すると、小六は時分の所有物を兄が無断でひとにくれてやったのが、しゃくにさわったので、いきなり兼坊の受け取った帽子を引ったくって、それを地面の上へなげつけるやいなや、駆け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》を踏みつぶしてしまった。宗助は縁からはだしで飛んでおりて、小六の頭をなぐりつけた。その時から、宗助の目には、小六がこにくらしい小僧として映った。
二年の時宗助は大学を去らなければならないことになった。東京の家《うち》へも帰れないことになった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母は父よりも六年ほどまえに死んでいた。だからあとには二十五、六になる妾《めかけ》と、十六になる小六が残っただけであった。
佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式をすましたうえ、家の始末をつけようと思ってだんだん調べてみると、あると思った財産は案外に少なくって、かえってないつもりの借金がだいぶあったに驚かされた。叔父の佐伯に相談すると、しかたがないから邸《やしき》を売るがよかろうという話であった。妾は相当の金をやってすぐ暇を出すことにきめた。小六は当分叔父の家に引き取って世話をしてもらうことにした。しかしかんじんの家屋敷はすぐ右から左へと売れるわけにはゆかなかった。しかたがないから、叔父に一時のくめんを頼んで、当座のかたをつけてもらった。叔父は事業家でいろいろなことに手を出しては失敗する、いわば山《やま》気《ぎ》の多い男であった。宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、うまいことをいって金を引き出したものである。宗助の父にも欲があったかもしれないが、この伝で叔父の事業につぎ込んだ金《かね》高《だか》は、けっして少ないものではなかった。
父のなくなったこの際にも、叔父の都合は元とあまり変わっていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこういう男の常として、いざという場合には比較的融通のつくものとみえて、叔父はこころよく整理を引き受けてくれた。その代わり宗助は自分の家屋敷の売却方について、いっさいのことを叔父に一任してしまった。早くいうと、急場の金策に対する報酬として、土地家屋を提供したようなものである。叔父は、
「なにしろ、こういうものは買手を見て売らないと損だからね」と言った。
道具類も積《せき》ばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五、六幅の掛《かけ》物《もの》と十二、三点の骨《こつ》董《とう》品《ひん》だけは、やはり気長にほしがる人を捜さないと損だという叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼むことにした。すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちいくぶんを、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。しかし月々自分の方から送るとすると、今日の位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果に陥りそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、なにぶんよろしくと頼んだ。自分が中途でしくじったから、せめて弟だけはものにしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようし、またしてくれるだろうぐらいのふたしかな希望を残して、また広島へ帰っていった。
それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろという手紙が来たが、いくらに売れたともなんとも書いてないので、折り返して聞き合わせると、三週間ほどたっての返事に、優に例の立替えを償うに足る金額だから心配しなくてもいいとあった。宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節うんぬんとあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話してみると、お米は気の毒そうな顔をして、
「でも、行けないんだから、しかたがないわね」と言って、例のごとく微笑した。その時宗助ははじめて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どうくふうしたって、抜けることのできないような位地と事情のもとに束縛されていたので、ついそれなりになってしまった。
しかたがないから、なお三、四回書面で往復を重ねてみたが、結果はいつも同じことで、版《はん》行《こう*》で押したようにいずれ御面会の節をくり返してくるだけであった。
「これじゃしようがないよ」と宗助は腹がたったような顔をしてお米を見た。三か月ばかりして、ようやく都合がついたので、久しぶりにお米を連れて、出京しようと思うやさきに、つい風邪《かぜ》を引いて寝たのがもとで腸チフスに変化したため、六十日余りを床の上に暮らしたうえに、あとの三十日ほどは十分仕事もできないくらい衰えてしまった。
病気が本復してからまもなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移るまえに、いい機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行せずに、やはり下り列車の走るかたに自己の運命を託した。そのころは東京の家を畳むとき、懐にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実のもとに、父から臨時随意に多額の学資を請求して、かってしだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因《いん》果《が》の束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれがおれの栄華の頂点だったんだと、はじめてさめた目に遠い霞《かすみ》をながめることもあった。いよいよ苦しくなった時、
「お米、久しくほうっておいたが、また東京へ掛け合ってみようかな」と言いだした。お米はむろんさからいはしなかった。ただ下を向いて、
「だめよ。だって、叔父さんにまったく信用がないんですもの」と心細そうに答えた。
「向こうじゃこっちに信用がないかもしれないが、こっちじゃまた向こうに信用がないんだ」と宗助はいばって言いだしたが、お米の伏し目になっている様子を見ると、急に勇気がくじけるふうにみえた。こんな問答を最初は月に一、二へんぐらいくり返していたが、後には二《ふた》月《つき》に一ぺんになり、三《み》月《つき》に一ぺんになり、とうとう、
「いいや、小六さえどうかしてくれれば。あとのことはいずれ東京へ出たら、会ったうえで話をつけらあ。ねえお米、そうすると、しようじゃないか」と言いだした。
「それで、よござんすとも」とお米は答えた。
宗助は佐伯のことをそれなりほうってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向かって言いだせるものでないと、宗助は考えていた。したがってそのほうの談判は、はじめからいまだかつて筆にしたことがなかった。小六からは時々手紙が来たが、きわめて短い形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で会った小六を覚えているだけだから、いまだに小六をたわいない子供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどという気はむろん起こらなかった。
夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さにたえかねて、抱き合って暖を取るようなぐあいに、お互い同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、お米がいつでも、宗助に、
「でもしかたがないわ」と言った。宗助はお米に、
「まあがまんするさ」と言った。
二人のあいだにはあきらめとか、忍耐とかいうものが絶えず動いていたが、未来とか希望というものの影はほとんどささないようにみえた。彼らはあまり多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避するふうさえあった。お米が時として、
「そのうちにはまたきっといいことがあってよ。そうそう悪いことばかり続くものじゃないから」と夫を慰さめるように言うことがあった。すると、宗助にはそれが、真心ある妻《さい》の口をかりて、自分をほんろうする運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそういう場合には、なんにも答えずにただ苦笑するだけであった。お米がそれでも気がつかずに、なにか言い続けると、
「我々は、そんないいことを予期する権利のない人間じゃないか」と思いきって投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつのまにか、自分たちは自分たちのこしらえた、過去という暗い大きな穴の中に落ちている。
彼らは自業自得で、彼らの未来を塗《と》抹《まつ》した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認めることができないものとあきらめて、ただ二人手を携えて行く気になった。叔父の売り払ったという地面家作についても、もとより多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、
「だって、近ごろの相場なら、捨て売りにしたって、あの時叔父のこしらえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまりばかばかしいからね」と宗助が言いだすと、お米は淋しそうに笑って、
「また地面? いつまでもあのことばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事よろしく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と言う。
「そりゃしかたがないさ。あの場合ああでもしなければ方《ほう》がつかないんだもの」と宗助が言う。
「だからさ。叔父さんのほうでは、お金の代わりに家と地面をもらったつもりでいらっしゃるかもしれなくってよ」とお米が言う。
そういわれると、宗助も叔父の処置に一理あるように思われて、口では、
「そのつもりがよくないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はそのつどしだいしだいに背景の奥に遠ざかってゆくのであった。
夫婦がこんなふうに淋しくむつまじく暮らしてきた二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代にはたいへん懇意であった杉《すぎ》原《はら》という男に偶然出会った。杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでにある省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやってきたのである。宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊まっているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分に顧みて、成功者の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思ったうえに、自分は在学当時の旧友に会うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館をたずねる気はもうとうなかった。
ところが杉原のほうでは、妙な引っ掛かりから、宗助のここにくすぶっていることを聞き出して、しいて面会を希望するので、宗助もやむをえず我を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、まったくこの杉原のおかげである。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまった時、宗助は箸《はし》を置いて、
「お米、とうとう東京へ行けるよ」と言った。
「まあ結構ね」とお米が夫の顔を見た。
東京に着いてから二、三週間は、目の回るように日がたった。新しく世帯をもって、新しい仕事を始める人に、ありがちなせわしなさと、自分たちを包む大都の空気の、日夜はげしく震《しん》盪《とう》する刺激とにかられて、何事もじっと考えるひまもなく、また落ち付いて手を下す分別も出なかった。
夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯《ひ》のせいか晴れやかな色には宗助の目に映らなかった。途中に事故があって、着の時間が珍しく三十分ほどおくれたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待ちくたびれたけしきであった。
宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗さん、しばらくお目にかからないうちに、たいへんお老《ふ》けなすったこと」という一句であった。お米はそのおりはじめて叔父夫婦に紹介された。
「これがあの……」と叔母はためらって宗助の方を見た。お米はなんと挨拶のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。
小六もむろん叔父夫婦とともに二人を迎いにきていた。宗助は一目その姿を見たとき、いつのまにか自分をしのぐように大きくなった、弟の発育に驚かされた。小六はその時中学を出て、これから高等学校へはいろうというまぎわであった。宗助を見て、「兄《にい》さん」とも「お帰りなさい」とも言わないで、ただ不器用に挨《あい》拶《さつ》をした。
宗助とお米は一週ばかり宿屋ずまいをして、それから今の所に引き移った。その時は叔父夫婦がいろいろ世話をやいてくれた。こまごましい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければというので、小《こ》人《にん》数《ずう》に必要なだけひととおりとりそろえて送ってきた。そのうえ、
「お前も新世帯だから、さぞものいりが多かろう」と言って金を六十円くれた。
家を持ってかれこれとりまぎれているうちに、はや半月余もたったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家《いえ》邸《やしき》のことは、ついまだ叔父に言い出さずにいた。ある時お米が、
「あなたあのことを叔父さんにおっしゃって」と聞いた。宗助はそれで急に思い出したように、
「うん、まだ言わないよ」と答えた。
「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」とお米がうす笑いをした。
「だって、落ち付いて、そんなことを言い出す暇がないんだもの」と宗助が弁解した。
また十日ほどたった。するとこんだは宗助のほうから、
「お米、あのことはまだ言わないよ。どうも言うのがめんどうでいやになった」と言いだした。
「いやなのをむりにおっしゃらなくってもいいわ」とお米が答えた。
「いいかい」と宗助が聞き返した。
「いいかいって、もともとあなたのことじゃなくって。私《わたくし》はせんからどうでもいいんだわ」とお米が答えた。
その時宗助は、
「じゃ、しかつめらしく言いだすのもなんだか妙だから、そのうち機会《おり》があったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いてみる機会がきっと出てくるよ」と言って延ばしてしまった。
小六はなに不足なく叔父の家に寝起きしていた。試験を受けて高等学校へはいれれば、寄宿へ入舎しなければならないというので、その相談まですでに叔父と打合わせがしてあるようであった。新しく出京した兄からは、べつだん学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに新しい相談も持ち込んでこなかった。従兄弟《いとこ》の安之助とは、今までの関係上たいへん仲が好かった。かえってこのほうが兄弟らしかった。
宗助はしぜん叔父の家《うち》に足が遠くなるようになった。たまに行っても、義理いっぺんの訪問に終わることが多いので、帰り路にはいつもつまらない気がしてならなかった。しまいには時候の挨拶をすますと、すぐ帰りたくなることもあった。こういう時には三十分とすわって、世間話に時間をつなぐのにさえ骨が折れた。向こうでもなんだか気がおけて窮屈だというふうが見えた。
「まあいいじゃありませんか」と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持ちがした。それでも、たまには行かないと、心のうちで気がとがめるような不安を感ずるので、また行くようになった。おりおりは、
「どうも小六がごやっかいになりまして」とこっちから頭を下げて礼を言うこともあった。けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払ってもらった地所家作についても、口をきるのがついめんどうになった。しかし宗助が興味をもたない叔父のところへ、不承無承にせよ、時たま出かけてゆくのは、単に叔父《おじ》甥《おい》の血族関係を、世間並みに持ちこたえるための義務心からではなくって、いつか機会があったら、かたをつけたいあるものを胸の奥に控えていた結果にすぎないのは明らかであった。
「宗さんはどうもすっかり変わっちまいましたね」と叔母が叔父に話すことがあった。すると叔父は、
「そうよなあ。やっぱり、ああいうことがあると、ながくまであとへ響くものだからな」と答えて、因果は恐ろしいというふうをする。叔母は重ねて、
「ほんとうに、こわいもんですね。元はあんな寝入った子じゃなかったが――どうもはしゃぎすぎるくらい活発でしたからね。それが二、三年見ないうちに、まるで別の人見たように老《ふ》けちまって。今じゃあなたよりお爺《じい》さんお爺さんしていますよ」と言う。
「まさか」と叔父がまた答える。
「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」と叔母がまた弁解する。
こんな会話が老夫婦のあいだにとりかわされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。実際彼は叔父のところへ来ると、老人の目に映るとおりの人間に見えた。
お米はどういうものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家《うち》の敷居をまたいだことがない。向こうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧に接待するが、帰りがけに、
「どうです、ちとお出かけなすっちゃ」などと言われると、ただ、
「ありがとう」と頭を下げるだけで、ついぞ出かけたためしはなかった。さすがの宗助さえ一度は、
「叔父さんのことろへ一度行ってみちゃ、どうだい」と勧めたことがあるが、
「でも」と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてそのことを言いださなかった。
両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄脳膜炎とかいう劇症で、二、三日風邪の気味で寝ていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄《ひ》杓《しやく》を持ったまま卒倒したなり、一《いち》日《んち》たつかたたないうちに、冷たくなってしまったのである。
「お米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」と宗助が言った。
「あなたまだ、あのことを聞くつもりだったの。あなたもずいぶん執念深いのね」とお米が言った。
それからまた一年ばかりたったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。
三年目の夏休みに小六は房《ぼう》州《しゆう》の海水浴へ行った。そこに一月余りも滞在しているうちに、九月になりかけたので、保《ほ》田《た》から向こうへ突っ切って、上総《かずさ》の海岸を九十九里伝いに、銚子まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。宗助のところへ見えたのは、帰ってから、まだ二、三日しかたたない、残暑の強い午後である。まっ黒にこげた顔の中に、目だけ光らして、見違えるように蛮色を帯びた彼は、比較的日の遠い座敷へはいったなり横になって、兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るやいなや、むっくり起きあがって、
「兄さん、少しお話があって来たんですが」と開き直られたので、宗助は少し驚いた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎかえずに、小六の話を聞いた。
小六のいうところによると、二、三日まえ彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮れかぎり、気の毒ながら出してやれないと、叔母から申し渡されたのだそうである。小六は父が死んで、すぐに叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物もひとりでにできるし、こづかいも適宜にもらえるので、父の存生中と同じように、なに不足なく暮らせてきた惰性から、その日の晩までも、ついぞ学資という問題を、頭に思い浮かべたことがなかったため、叔母の宣告を受けた時は、ぼんやりしてとかくの挨拶さえできなかったのだという。
叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間もかかってくわしく説明してくれたそうである。それには叔父のなくなったことやら、継いで起こる経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらがはいっていたのだという。
「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日までいろいろ骨を折ったんだけれども」
叔母はこう言ったと小六はくり返した。小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事をかたづけたあと、広島へ帰るとき、小六に、お前の学資は叔父さんに預けてあるからと言ったことがあるのを思い出して、叔母にはじめて聞いてみると、叔母は案外な顔をして、
「そりゃ、あの時、宗さんがいくらか置いていきなすったことは、いきなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きておいでの時分から、お前の学資は融通してきたんだから」と答えた。
小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定で、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう言われてみると、一《ひと》言《こと》も返しようがなかった。
「お前も一人じゃなし、兄さんもあることだから、よく相談をしてみたらいいだろう。その代わり私《わたし》も宗さんに会って、とっくり訳を話しましょうから。どうも、宗さんもあんまり近ごろはおいででないし、私もごぶさたばかりしているのでね、ついお前のことはお話をするわけにもいかなかったんだよ」と叔母は最後につけ加えたそうである。
小六から一部始終を聞いた時、宗助はただ弟の顔をながめて、一口、
「困ったな」と言った。昔のようにかっと激して、すぐ叔母のところへ談判に押しかけるけしきもなければ、今まで自分に対して、世話にならないでもすむ人のように、よそよそしくしむけてきた弟の態度が、急に方向を転じたのを、にくいと思う様子も見えなかった。
自分のかってに作り上げた美しい未来が、半分くずれかかったのを、さもはたの人のせいででもあるかのごとく、心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外にさす夕日をしばらくながめていた。
その晩宗助は裏から大きな芭《ば》蕉《しよう》の葉を二枚切ってきて、それを座敷の縁に敷いて、その上にお米と並んで涼みながら、小六のことを話した。
「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろっていう気なんじゃなくって」とお米が聞いた。
「まあ、会って聞いてみないうちは、どういう了見かわからないがね」と宗助が言うと、お米は、
「きっとそうよ」と答えながら、暗がりで団扇《うちわ》をはたはた動かした。宗助は何も言わずに、頸《くび》を延ばして、庇《ひさし》と崖《がけ》の間に細く映る空の色をながめた。二人はそのまましばらく黙っていたが、ややあって、
「だってそれじゃ無理ね」とお米がまた言った。
「人間一人大学を卒業させるなんて、おれのてぎわじゃとてもだめだ」と宗助は自分の能力だけを明らかにした。
会話はそこで別の題目に移って、再び小六のうえにも叔母のうえにも帰ってこなかった。それから二、三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母のところへ寄ってみた。叔母は、
「おやおや、まあお珍しいこと」と言って、いつもよりは愛《あい》想《そ》よく宗助をもてなしてくれた。その時宗助はいやなのを我慢して、この四、五年ためておいた質問をはじめて叔母にかけた。叔母はもとよりできるだけは弁解しないわけにゆかなかった。
叔母の言うところによると、宗助の邸宅《やしき》を売り払った時、叔父の手にはいった金は、たしかには覚えていないが、なんでも、宗助のために、急場の間に合わせた借財を返したうえ、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供していったのだから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得とみなしてさしつかえない。しかし宗助の邸宅《やしき》を売ってもうけたといわれては心持ちが悪いから、これは小六の名義で保管しておいて、小六の財産にしてやる。宗助はあんなことをして、廃嫡にまでされかかったやつだから、一文だって取る権利はない。
「宗さんおこっちゃいけませんよ。ただ叔父さんの言ったとおりを話すんだから」と叔母が断わった。宗助は黙ってあとを聞いていた。
小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田のにぎやかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。小六にははじめから話してないことだから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
「そういう訳でね、まことに宗さんにも、お気の毒だけれども、なにしろ取って返しのつかないことだからしかたがない。運だと思ってあきらめてください。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃわけはありますまいよ、よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえよければ、焼けた家《うち》と同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」と言って叔母はまたほかの内幕話をして聞かせた。それは安之助の職業についてであった。
安之助は叔父の一人《ひとり》息子《むすこ》で、この夏大学を出たばかりの青年である。家庭で暖かに育ったうえに、同級の学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中のことにはむしろ迂《う》闊《かつ》といってもいいが、その迂闊なところにどこか鷹《おう》揚《よう》な趣をそなえて、実社会へ顔を出したのである。専門は工科の器械学だから、企業熱の下火になった今日といえども、日本じゅうにたくさんある会社に、相応の口の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲りの山《やま》気《ぎ》がどこかに潜んでいるものとみえて、自分で自分の仕事をしてみたくてならないやさきへ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場を月《つき》島《じま》辺《へん》に建てて、独立の経営をやっている先輩に出会ったのが縁となって、その先輩と相談のうえ、自分もいくぶんかの資本をつぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考えになった。叔母の内幕話といったのは、そこである。
「でね、少しあった株をみんなそのほうへ回すことにしたもんだから、今じゃほんとうに一文なし同然な仕儀でいるんですよ。それは世間から見ると、人《にん》数《ず》は少なし、家《いえ》邸《やしき》は持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。このあいだも原《はら》のおっ母さんが来て、まああなたほど気楽なかたはない、いつ来てみても万年青《おもと》の葉ばかりたんねんに洗っているってね。まさかそうでもないんですけれども」と叔母が言った。
宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭がなくなった証拠だろうと自覚した。叔母は自分の言うとおりが、宗助にほんとうと受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。それは五千円ほどであった。安之助は当分のあいだ、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければ、ならないのだそうである。
「その配当だって、またどうなるかわかりゃしないんでさあね。うまくいったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、またひとつ間違えばまるで煙《けむ》にならないとも限らないんですから」と叔母がつけ加えた。
宗助は叔母のしうちに、これというめだったあこぎ《*》なところも見えないので、心の中では少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合いもせずに帰るのは、いかにもばかばかしい気がした。そこで今までの問題はそこにすえっきりにしておいて、自分が当時小六の学資として叔父に預けていった千円の所置を聞きただしてみると、叔母は、
「宗さん、あれこそほんとうに小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へはいってからでも、もうかれこれ七百円はかかっているんですもの」と答えた。
宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨《こつ》董《とう》品《ひん》のなりゆきを確かめてみた。すると、叔母は、
「ありゃとんだばかな目にあって」と言いかけたが、宗助の様子を見て、
「宗さん、なんですか、あのことはまだお話をしなかったんでしたかね」と聞いた。宗助がいいえと答えると、
「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」と言いながら、その顛末を語って聞かした。
宗助が広島へ帰るとまもなく、叔父はその売りさばき方を真田《さなだ》とかいう懇意の男に依頼した。この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入りするそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某《それがし》がなにをほしいというから、ちょっと拝見とか、何々氏がこういうものを希望だから、見せましょうとか号して、品物を持っていったぎり、返してこない。催促すると、まだ先方から戻ってまいりませんからとかなんとか言い訳をするだけで、かつて埒《らち》のあいたためしがなかったが、とうとう持ちきれなくなったとみえて、どこかへ姿を隠してしまった。
「でもね、まだ屏風《びようぶ》が一つ残っていますよ。このあいだ引っ越しの時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、こんだついでがあったら届けてあげたらいいだろうって、安がそう言っていましたっけ」
叔母は宗助の預けていった品物には、まるで重きを置いていないような、ものの言い方をした。宗助も今日までほうっておくくらいだから、あまりその方面には興味をもちえなかったので、少しも良心に悩まされているけしきのない叔母の様子を見ても、べつに腹はたたなかった。それでも、叔母が、
「宗さん、どうせ家《うち》じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。このごろはああいうものが、たいへん価《ね》が出たという話じゃありませんか」と言ったときは、実際それを持って帰る気になった。
納《なん》戸《ど》から取り出してもらって、明るい所でながめると、たしかに見覚えのある二枚折りであった。下に萩《はぎ》、桔梗《ききよう》、芒《すすき》、葛《くず》、女郎花《おみなえし》を隙間なくかいたうえに、まん丸な月を銀で出して、その横のあいた所へ、野路や空月の中なる女郎花、其《き》一《いち*》と題してある。宗助は膝《ひざ》を突いて銀の色の黒くこげたあたりから、葛《くず》の葉の風に裏を返している色のかわいたさまから、大福ほどな大きな丸い朱の輪郭の中に、抱《ほう》一《いつ*》と行書で書いた落《らつ》款《かん》をつくづくと見て、父の生きている当時を思い起こさずにはいられなかった。
父は正月になると、きっとこの屏風を薄暗い蔵の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫《し》檀《たん》の角《かく》な名刺入れを置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからというので、客間の床には必ず虎の双《そう》幅《ふく》をかけた。これは岸《がん》駒《く*》じゃない岸《がん》岱《たい*》だと父が宗助に言って聞かせたことがあるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画《え》には墨がついていた。虎が舌を出して谷の水をのんでいる鼻柱が少しけがされたのを、父はひどく気にして、宗助を見るたびに、お前ここへ墨を塗ったことを覚えているか、これはお前の小さい時分のいたずらだぞと言って、おかしいような恨めしいような一種の表情をした。
宗助は屏風の前にかしこまって、自分が東京にいた昔のことを考えながら、
「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいしてゆきましょう」と言った。
「ああああ、お持ちなさいとも。なんなら使いに持たせてあげましょう」と叔母は好意から申し添えた。
宗助はしかるべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。晩《ばん》食《めし》ののちお米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣《ゆかた》を並べて、涼みながら、昼の話をした。
「安さんには、お会いなさらなかったの」とお米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でもなんでも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「ずいぶん骨が折れるでしょうね」
お米はそう言ったなり、叔父や叔母の処置については、一《ひと》言《こと》の批評も加えなかった。
「小六のことはどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」と言うだけであった。
「理屈をいえば、こっちにも言い分はあるが、言いだせば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠もなにもなければ勝てるわけのものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」とお米がすぐ言ったので、宗助は苦笑してやめた。
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからのことさ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんなことはどうでもよかったんですもの」
夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇の下からのぞいてみて、明日《あした》の天気を語り合って蚊《か》帳《や》にはいった。
次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の言ったとおりを残らず話して聞かせて、
「叔母さんがお前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急なお前の性質を知ってるせいか、それともまだ子供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにもわからないが、なにしろ事実は今言ったとおりなんだよ」と教えた。
小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、
「そうですか」と言ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「しかたがないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い了見はないんだから」
「そりゃ、わかっています」と弟はけわしいものの言い方をした。
「じゃおれが悪いっていうんだろう。おれはむろん悪いよ。昔から今日まで悪いところだらけの男だもの」
宗助は横になって煙草を吹かしながら、これより以上はなんとも語らなかった。小六も黙って、座敷の隅《すみ》に立ててあった二枚折りの抱一の屏風をながめていた。
「お前あの屏風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。
「ええ」と小六が答えた。
「一昨日《おととい》佐伯から届けてくれた。お父《とう》さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これがお前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、はげた屏風一枚で大学を卒業するわけにもゆかずな」と宗助が言った。そうして苦笑しながら、
「この暑いのに、こんなものを立てておくのは、気違いじみているが、入れておく所がないから、しかたがない」という述懐をした。
小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とはあまりにかけ隔たっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩はしえなかった。この時も急に癇癪の角を折られた気味で、
「屏風はどうでもいいが、これからさき僕はどうしたもんでしょう」と聞きだした。
「それは問題だ。なにしろ今年いっぱいにきまればいいことだから、まあよく考えるさ。おれも考えておこう」と宗助が言った。
弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿はきらいである。学校へ出ても落ち付いて稽《けい》古《こ》もできず、下調べも手につかないような境遇は、とうてい自分にはたえられないという訴えをしきりにやりだしたが、宗助の態度は依然として変わらなかった。小六があまりかんの高い不平を並べると、
「そのくらいなことでそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこうさしつかえない。お前のほうがおれよりよっぽどえらいよ」と兄が言ったので、話はそれぎり頓《とん》挫《ざ》して、小六はとうとう本郷へ帰っていった。
宗助はそれから湯を浴びて、晩《ばん》食《めし》をすまして、夜は近所の縁日へお米といっしょに出かけた。そうしててごろな花物を二《ふた》鉢《はち》買って、夫婦して一つずつ持って帰ってきた。夜露にあてたほうがよかろうというので、崖下の雨戸をあけて、庭先にそれを二つ並べておいた。
蚊帳の中へはいった時、お米は、
「小六さんのことはどうなって」と夫に聞くと、
「まだどうもならないさ」と宗助は答えたが、十分ばかりの後夫婦ともすやすや寝入った。
翌日目がさめて役所の生活が始まると、宗助はもう小六のことを考える暇をもたなかった。家《うち》へ帰って、のっそりしている時ですら、この問題をはっきり目の前に描いて明らかにそれをながめることをはばかった。髪の毛の中に包んである彼の脳は、その煩わしさにたえなかった。昔は数学が好きで、ずいぶん込み入った幾何の問題を、頭の中で明瞭な図にして見るだけの根気があったことを思い出すと、時日のわりには非常にはげしく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。
それでも日に一度ぐらいは、小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いてくることがあって、その時だけは、あいつの将来もなんとか考えておかなくっちゃならないという気も起こった。しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。そうして、胸の筋《きん》が一本鉤《かぎ》に引っ掛かったような心をいだいて、日を暮らしていた。
そのうち九月も末になって、毎晩天《あま》の河《がわ》が濃く見えるある宵のこと、空から降ったように安之助がやってきた。宗助にもお米にも思いがけないほどたまな客なので、二人ともなにか用があっての訪問だろうと推《すい》したが、はたして小六に関する件であった。
このあいだ月《つき》島《じま》の工場へひょっくり小六がやってきていうには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやってきて、とうとう大学へはいれずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でもなんでもして、行けるところまで行きたいが、なにかよいくふうはあるまいかと相談をかけるので、安之助はよく宗さんにも話してみようと答えると、小六はたちまちそれをさえぎって、兄はとうてい相談になってくれる人じゃない。自分が大学を卒業しないから、ひとも中途でやめるのは当然だぐらいに考えている。元来今度のことも元をただせば兄が責任者であるのに、あのとおりいっこう平気なもので、ひとがなにを言っても取り合ってくれない。だから、ただ頼りにするのは君だけだ。叔母さんに正式に断わられながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君のほうが叔母さんより話がわかるだろうと思ってきたと言って、なかなか動きそうもなかったそうである。
安之助は、そんなことはない。宗さんも君のことではだいぶ心配して、近いうちまた家《うち》へ相談に来るはずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだという。帰るときに、小六は袂《たもと》から半紙を何枚も出して、欠席届が入用だからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学かかたがつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと言ったそうである。
安之助は忙しいとかで、一時間足らず話して帰っていったが、小六の処置については、両人のあいだに具体的の案は別に出なかった。いずれゆっくりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するがよかろうというのが別れる時の言葉であった。二人になったとき、お米は宗助に、
「なにを考えていらっしゃるの」と聞いた。宗助は両手を兵《へ》児《こ》帯《おび》の間にはさんで、こころもち肩を高くしたなり、
「おれももう一ぺん小六みたようになってみたい」と言った。「こっちじゃ、向こうがおれのような運命に陥るだろうと思って心配しているのに、向こうじゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
お米は茶器を引いて台所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、また床を延べて寝た。夢の上に高い銀河《あまのがわ》が涼しくかかった。
次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信《たより》もなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。夫婦は毎朝露の光るころ起きて、美しい日を廂の上に見た。夜は煤《すす》竹《だけ》の台をつけたランプの両側に、長い影を描いてすわっていた。話がとぎれた時はひそりとして、柱時計の振り子の音だけが聞こえることもまれではなかった。
それでも夫婦はこのあいだに小六のことを相談した。小六がもしどうしても学問を続ける気ならむろんのこと、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助のところへ置くよりほかにみちはない。佐伯ではいったんああ言いだしたようなものの、頼んでみたら、当分宅《うち》へ置くぐらいのことは、好意上してくれまいものでもない。が、そのうえ修業をさせるとなると、月謝小遣いその他は宗助のほうで担任しなければ義理が悪い。ところがそれは家計上宗助のたえるところでなかった。月々の収支を事細かに計算してみた両人《ふたり》は、
「とうていだめだね」
「どうしたって無理ですわ」と言った。
夫婦のすわっている茶の間の次が台所で、台所の右に下《げ》女《じよ》部《べ》屋《や》、左に六畳が一間ある。下女を入れて三人の小《こ》人《にん》数《ず》だから、この六畳にはあまり必要を感じないお米は、東向きの窓側にいつも自分の鏡台を置いた。宗助も朝起きて顔を洗って、飯をすますと、ここへ来て着物を脱ぎかえた。
「それよりか、あの六畳をあけて、あすこへ来ちゃいけなくって」とお米が言いだした。お米の考えでは、こうして自分のほうで部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯から助《すけ》てもらったら、小六の望みどおり大学卒業までやっていかれようというのである。
「着物は安さんの古いのや、あなたのを直してあげたら、どうかなるでしょう」とお米が言い添えた。実は宗助にもこんな考えが多少頭に浮かんでいた。ただお米に遠慮があるうえに、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対《あべこべ》に相談をかけられてみると、もとよりそれをこばむだけの勇気はなかった。
小六にそのとおりを通知して、お前さえそれでさしつかえなければ、おれがもう一ぺん佐伯へ行って掛け合ってみるがと、手紙で問い合わせると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降るなかを、傘《からかさ》に音を立ててやってきて、もう学資ができでもしたようにうれしがった。
「なに、叔母さんのほうじゃ、こっちでいつまでもあなたのことをほうり出したまんま、かまわずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合がよければ、とうにもどうにかしたんですけれども、御存じのとおりだから実際やむをえなかったんですわ。しかしこっちからこう言ってゆけば、叔母さんだって、安さんだって、それでもいやだとは言われないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。私《わたし》受け合うわ」
お米にこう受け合ってもらった小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰っていった。しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんのところへ行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧めてくれと催促していった。
宗助が行く行くと言って、日を暮らしているうちに、世の中はようやく秋になった。その朗らかなある日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのがおくれるので、この要件を手紙にしたためて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だという返事が来たのである。
佐伯の叔母《おば》の尋ねてきたのは、土曜の午後の二時過ぎであった。その日は例になく朝から雲が出て、突然と風が北に変わったように寒かった。叔母は竹で編んだ丸い火《ひ》桶《おけ》の上へ手をかざして、
「なんですね、お米さん。このお部《へ》屋《や》は夏は涼しそうで結構だが、これからはちと寒うござんすね」と言った。叔母は癖のある髪を、きれいに髷《まげ》に結《い》って、古風な丸《まる》打《うち》の羽織の紐《ひも》を、胸のところで結んでいた。酒の好きなたちで、今でも少しずつは晩《ばん》酌《しやく》をやるせいか、色つやもよく、でっぷりふとっているから、年よりはよほど若く見える。お米は叔母が来るたんびに、叔母さんは若いのね、とあとでよく宗助に話した。すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供をたった一人しか生まないんだからと説明した。お米は実際そうかもしれないと思った。そうしてこう言われた後では、おりおりそっと六畳へはいって、自分の顔を鏡に映してみた。その時はなんだか自分の頬《ほお》が見るたびにこけてゆくような気がした。お米には自分と子供とを連想して考えるほどつらいことはなかったのである。裏の家《や》主《ぬし》の宅《うち》に、小さい子供がおおぜいいて、それが崖の上の庭に出て、ブランコへ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞こえると、お米はいつでも、はかないような恨めしいような心持ちになった。今自分の前にすわっている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子が順当に育って、りっぱな学士になったればこそ、叔父《おじ》が死んだ今日でも、なに不足のない顔をして、腮《あご》などは二《ふた》重《え》に見えるくらいに豊かなのである。お母《かあ》さんはふとってるからけんのんだ、気をつけないと卒中でやられるかもしれないと、安之助がしじゅう心配するそうだけれども、お米から言わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、ともに幸福をうけ合っているものとしか思われなかった。
「安さんは」とお米が聞いた。
「ええようやくね、あなた、一昨日《おととい》の晩帰りましてね。それでついつい御返事もおくれちまって、まことにすみませんようなわけで」と言ったが、返事のほうはそれなりにして、話はまた安之助へ戻ってきた。
「あれもね、おかげさまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配でございます。――それでもこの九月から、月《つき》島《じま》の工場の方へ出ることになりまして、まあさいわいとこの分で勉強さえしていってくれれば、この末ともに、そう悪いこともなかろうかと思ってるんですけれども、まあ若いもののことですから、これからさきどう変《へん》化《げ》るかわかりゃしませんよ」
お米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとかいう言葉を、あいだいあだにはさんでいた。
「神戸へ参ったのも、まったくそのほうの用向きなので。石油発動機とかなんとかいうものを、鰹《かつお》船《ぶね》へすえつけるんだとかってねあなた」
お米にはまるで意味がわからなかった。わからないながらただへええと受けていると、叔母はすぐあとを話した。
「私《わたくし》にもなんのこったか、ちっともわからなかったんですが、安之助の講釈を聞いてはじめて、おやそうかいというようなわけでしてね。――もっとも石油発動機は今もってわからないんですけれども」と言いながら、大きな声を出して笑った。「なんでも石油をたいて、それで船を自由にする器械なんだそうですが、聞いてみるとよっぽど重《ちよう》宝《ほう》なものらしいんですよ。それさえつければ、舟をこぐ手間がまるで省けるとかでね。五里も十里も沖へ出るのに、たいへん楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械を具えつけるようになったら、莫《ばく》大《だい》な利益だっていうんで、このごろは夢中になってそのほうばっかりにかかっているようですよ。莫大な利益はありがたいが、そう凝ってからだでも悪くしちゃつまらないじゃないかって、このあいだも笑ったくらいで」
叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。そうしてたいへん得意のように見えたが、小六のことはなかなか言いださなかった。もうとうに帰るはずの宗助もどうしたか帰ってこなかった。
彼はその日役所の帰りがけに駿《する》河《が》台《だい》下《した》まで来て、電車をおりて、酸《す》いものをほおばったような口をすぼめて一、二町歩いた後、ある歯医者の門《かど》をくぐったのである。三、四日前《ぜん》彼はお米と差向かいで、夕飯の膳について、話しながら箸を取っている際に、どうした拍子か、前歯を逆にぎりりとかんでから、それが急に痛みだした。指で動かすと、根がぐらぐらする。食事の時には湯茶がしみる。口をあけて息をすると風もしみた。宗助はこの朝歯をみがくために、わざと痛いところをよけて楊枝を使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、広島で銀をうめた二枚の奥歯と、といだようにすりへらした不《ぶ》揃《そろ》の前歯とが、にわかに寒く光った。洋服に着換える時、
「お米、おれは歯の性《しよう》がよっぽど悪いとみえるね。こうやるとたいてい動くぜ」と下歯を指で動かして見せた。お米は笑いながら、
「もうお年のせいよ」と言って白い襟を後ろへ回ってシャツへつけた。
宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。応接間へ通ると、大きなテーブルの周囲《まわり》にビロードで張った腰掛が並んでいて、待ち合わしている三、四人が、うずくまるように腮《あご》を襟にうずめていた。それがみんな女であった。きれいな茶色のガスストーブには火がまだたいてなかった。宗助は大きな姿見に映る白壁の色をななめに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、テーブルの上に重ねてあった雑誌に目をつけた。一、二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚もくり返してながめた。それから「成功《*》」という雑誌を取り上げた。その初めに、成功の秘訣というようなものが箇条書にしてあったうちに、なんでも猛進しなくってはいけないという一か条と、ただ猛進してもいけない、りっぱな根底の上に立って、猛進しなくってはならないという一か条を読んで、それなり雑誌を伏せた。「成功」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があるということさえ、今日まで知らなかった。それでまた珍しくなって、いったん伏せたのをまたあけてみると、ふと仮《か》名《な》のまじらない四角な字が二行ほど並んでいた。それには風《かぜ》碧《へき》落《らく》を吹いて浮《ふ》雲《うん》尽き、月東《とう》山《ざん》に上って玉《ぎよく》一団《*》とあった。宗助は詩とか歌とかいうものには、もとからあまり興味を持たない男であったが、どういうわけかこの二句を読んだ時にたいへん感心した。対《つい》句《く》がうまくできたとかなんとかいう意味ではなくって、こんな景色と同じような心持ちになれたら、人間もさぞうれしかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句の前についている論文を読んで見た。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いた後でもしきりに彼の頭の中を徘《はい》徊《かい》した。彼の生活は実際この四、五年来、こういう景色に出会ったことがなかったのである。
その時向こうの戸があいて、紙《かみ》片《ぎれ》を持った書生が野《の》中《なか》さんと宗助を手術室へ呼び入れた。
中へはいると、そこは応接間よりは倍も広かった。光線がなるべくよけい取れるように明るくこしらえた部屋の二《ふた》側《がわ》に、手術用のいすを四台ほどすえて、白い胸掛けをかけた受持ちの男が、一人ずつ別々に療治をしていた。宗助はいちばん奥の方にある一脚に案内されて、これへと言われるので、踏み段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。書生が厚い縞入りの前掛けで丁寧に膝《ひざ》から下をくるんでくれた。
こう穏やかに寝かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないということを発見した。そればかりか、肩も背《せな》も、腰のまわりも、心安く落ち付いて、いかにも楽に調子が取れていることに気がついた。彼はただ仰向いて天井から下っているガス管をながめた。そうしてこの構えと設備では、帰りがけに思ったより高い療治代を取られるかもしれないと気づかった。
ところへ顔のわりに頭の薄くなりすぎたふとった男が出てきて、たいへん丁寧に挨拶をしたので、宗助は少し椅子の上であわてたように首を動かした。ふとった男は一応容《よう》体《だい》を聞いて、口中を検査して、宗助の痛いという歯をちょっとゆすってみたが、
「どうもこうゆるみますと、とても元のようにしまるわけにはまいりますまいと思いますが。なにしろ中がエソになっておりますから」と言った。
宗助はこの宣告を淋《さび》しい秋の光のように感じた。もうそんな年なんでしょうかと聞いてみたくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、
「じゃなおらないんですか」と念を押した。
ふとった男は笑いながらこう言った。――
「まあなおらないと申し上げるよりほかにしかたがござんせんな。やむをえなければ、思いきって抜いてしまうんですが、今のところでは、まだそれほどでもございますまいから、ただお痛みだけをとめておきましょう。なにしろエソ――エソと申してもおわかりにならないかもしれませんが、中がまるで腐っております」
宗助は、そうですかと言って、ただふとった男のなすがままにしておいた。すると彼は器械をぐるぐる回して、宗助の歯の根へ穴をあけはじめた。そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先をかいでいたが、しまいに糸ほどな筋を引き出して、神経がこれだけ取れましたと言いながら、それを宗助に見せてくれた。それから薬でその穴をうめて、明《みよう》日《にち》またいらっしゃいと注意を与えた。
椅子をおりるとき、からだがまっすぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ったら、そこにあった高さ五尺もあろうという大きな鉢《はち》栽《うえ》の松が宗助の目にはいった。その根方のところを、草鞋《わらじ》がけの植木屋が丁寧に薦《こも》でくるんでいた。だんだん露が凝って霜になる時節なので、余裕のあるものは、もう今時分から手回しをするのだと気が付いた。
帰りがけに玄関脇《わき》の薬局で、粉《こ》薬《ぐすり》のまま含《がん》嗽《そう》剤《ざい》を受け取って、それを百倍の微温湯に溶解して、一日十数回使用すべき注意を受けた時、宗助は会計の請求した治療代の案外廉《れん》なのを喜んだ。これならば向こうで言うとおり四、五回通ったところが、さして困難でもないと思って、靴をはこうとすると、今度は靴の底がいつのまにか破れていることに気がついた。
宅《うち》へ着いた時は一足違いで叔母がもう帰ったあとであった。宗助は、
「おお、そうだったか」と言いながら、はなはだめんどうそうに洋服を脱ぎかえて、いつものとおり火《ひ》鉢《ばち》の前にすわった。お米はシャツやズボンや靴《くつ》足袋《たび》をひとかかえにして六畳へはいった。宗助はぼんやりして、煙草《たばこ》を吹かしはじめたが、向こうの部屋で、ブラッシをかける音がしだした時、
「お米、佐伯の叔母さんはなんとか言ってきたのかい」と聞いた。
歯痛がおのずから治まったので、秋に襲われるような寒い気分は、少し軽くなったけれども、やがてお米がポケットから取り出してきた粉薬を、温《ぬる》ま湯にといてもらって、しきりにうがいを始めた。その時彼は縁側へ立ったまま、
「どうも日が短くなったなあ」と言った。
やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口からしんとしていた。夫婦は例のとおりランプのもとに寄った。広い世の中で、自分たちのすわっているところだけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯《ひ》影《かげ》に、宗助はお米だけを、お米はまた宗助だけを意識して、ランプの力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らしてゆくうちに、自分たちの生命を見いだしていたのである。
この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産《みやげ》に買ってきたという養老昆《こ》布《ぶ》の罐《かん》をがらがら振って、中から山《さん》椒《しよ》入りの小さく結んだやつをより出しながら、ゆっくり佐伯からの返事を語り合った。
「しかし月謝と小遣いぐらいは都合してやってくれてもよさそうなもんじゃないか」
「それができないんだって。どう見積もっても両方寄せると、十円にはなる。十円というまとまったお金を、今のところ月々出すのは骨が折れるって言うのよ」
「それじゃ今年の暮れまで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」
「だから、無理をしても、もう一、二か月のところだけは間に合わせるから、そのうちにどうかしてくださいと、安さんがそう言うんだって」
「実際できないのかな」
「そりゃ私《わたし》にはわからないわ。なにしろ叔母さんが、そう言うのよ」
「鰹船でもうけたら、そのくらいわけなさそうなもんじゃないか」
「ほんとうね」
お米は低い声で笑った。宗助もちょっと口のはたを動かしたが、話はそれでとぎれてしまった。しばらくしてから、
「なにしろ小六は家《うち》へ来るときめるよりほかに道はあるまいよ。あとはそのうえのことだ。今じゃ学校へは出ているんだね」と宗助が言った。
「そうでしょう」とお米が答えるのを聞き流して、彼は珍しく書斎にはいった。一時間ほどして、お米がそっと襖《ふすま》をあけてのぞいてみると、机に向かって、なにか読んでいた。
「勉強? もうお休みなさらなくって」と誘われた時、彼はふり返って、
「うん、もう寝よう」と答えながら立ち上がった。
寝るとき、着物をぬいで、寝《ね》巻《まき》の上に、絞りの兵《へ》児《こ》帯《おび》をぐるぐる巻きつけながら、
「今夜は久しぶりに論語を読んだ」と言った。
「論語になにかあって」とお米が聞き返したら、宗助は、
「いやなんにもない」と答えた。それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとてもなおらないそうだ」と言いつつ、黒い頭をまくらの上につけた。
小六はともかくも都合しだい下宿を引き払って、兄の家へ移ることに相談が調った。お米は六畳に置きつけた桑の鏡台をながめて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、
「こうなると少しやり場に困るのね」と訴えるように宗助に告げた。実際ここを取り上げられては、お米のお化粧《つくり》をする場所がなくなってしまうのである。宗助はなんのくふうもつかずに、立ちながら、向こうの窓ぎわにすえてある鏡の裏をはすにながめた。すると角度のぐあいで、そこにお米の襟《えり》元《もと》から片《かた》頬《ほお》が映っていた。それがいかにも血色のわるい横顔なのに驚かされて、
「お前、どうかしたのかい。たいへん色が悪いよ」と言いながら、鏡から目を放して、実際のお米の姿を見た。鬢《びん》が乱れて、襟《えり》の後ろのあたりがあかで少しよごれていた。お米はただ、
「寒いせいなんでしょう」と答えて、すぐ西側についている一間の戸棚をあけた。下には古い創《きず》だらけの箪《たん》笥《す》があって、上には支《シ》那《ナ》鞄《かばん》と柳《やなぎ》行《ご》李《り》が二つ三つのっていた。
「こんなもの、どうしたってかたづけようがないわね」
「だからそのままにしておくさ」
小六のここへ引き移ってくるのは、こういう点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。だから来るといって約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、べつだんの催促もしなかった。一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。小六にもちょうどそれと同じはばかりがあったので、いられるかぎりは下宿にいるほうが便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引っ越しを前《さき》へ送っていた。そのくせ彼の性質として、兄夫婦のごとく、荏《じん》苒《ぜん》の境《*》に落ち付いてはいられなかったのである。
そのうち薄い霜が降りて、裏の芭《ば》蕉《しよう》をみごとにくだいた。朝は崖上の家主の庭の方で、鵯《ひよどり》が鋭い声を立てた。夕方には表を急ぐ豆《とう》腐《ふ》屋《や》の喇叭《らつぱ》にまじって、円《えん》明《みよう》寺《じ》の木《もく》魚《ぎよ》の音が聞こえた。日はますます短くなった。そうしてお米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、爽《さわや》かにはならなかった。夫が役所から帰ってきてみると、六畳で寝ていることが一、二度あった。どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持ちが悪いと答えるだけであった。医者に見てもらえと勧めると、それには及ばないと言って取り合わなかった。
宗助は心配した。役所へ出ていてもよくお米のことが気にかかって、用のじゃまになるのを意識する時もあった。ところがある日帰りがけに突然電車の中で膝《ひざ》をうった。その日は例になく元気よく格子をあけて、すぐと勢いよく今日はどうだいとお米に聞いた。お米がいつものとおり服や靴足袋をひとまとめにして、六畳へはいるあとからついてきて、
「お米、お前《まい》子供ができたんじゃないか」と笑いながら言った。お米は返事もせずにうつむいてしきりに夫の背広の埃《ほこり》を払った。ブラッシの音がやんでもなかなか六畳から出てこないので、また行ってみると、薄暗い部屋の中で、お米はたった一人寒そうに、鏡台の前にすわっていた。はいと言って立ったが、その声が泣いたあとの声のようであった。
その晩夫婦は火《ひ》鉢《ばち》にかけた鉄《てつ》瓶《びん》を、双方から手でおおうようにして差し向かった。
「どうですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。お米の頭の中には、夫婦にならないまえの、宗助と自分の姿がきれいに浮かんだ。
「ちっと、おもしろくしようじゃないか。このごろはいかにも不景気だよ」と宗助がまた言った。二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。それから二人の春着のことが題目になった。宗助の同僚の高《たか》木《ぎ》とかいう男が、細君に小《こ》袖《そで》とかをねだられた時、おれは細君の虚栄心を満足させるためにかせいでるんじゃないと言ってはねつけたら、細君がそりゃひどい、実際寒くなっても着て出るものがないんだと弁解するので、寒ければやむをえない、夜具を着るとか、毛布《ケツト》をかぶるとかして、当分我慢しろと言った話を、宗助はおかしくくり返してお米を笑わせた。お米は夫のこの様子を見て、昔がまた目の前に戻ったような気がした。
「高木の細君は夜具でもかまわないが、おれはひとつ新しい外《がい》套《とう》をこしらえたいな。このあいだ歯医者へ行ったら、植木屋が薦《こも》で盆栽の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」
「外套が欲しいって」
「ああ」
お米は夫の顔を見て、さも気の毒だというふうに、
「おこしらえなさいな。月《げつ》賦《ぷ》で」と言った。宗助は、
「まあよそうよ」と急にわびしく答えた。そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」と聞いた。
「来るのはいやなんでしょう」とお米が答えた。お米には、自分がはじめから小六にきらわれているという自覚があった。それでも夫の弟だと思うので、なるべくはそりを合わせて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日までしむけてきた。そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小《こ》舅《じゆうと》ぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一の原因のように考えられるのであった。
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのはよかあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずるとおり、向こうでも窮屈を感ずるわけだから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思いきって外套を作るだけの勇気があるんだけれども」
宗助は男だけに思いきってこう言ってしまった。けれどもこれだけではお米の心を尽くしていなかった。お米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い腮《あご》を襟《えり》の中へうめたまま、上《うわ》目《め》を使って、
「小六さんは、まだ私《わたくし》のことをにくんでいらっしゃるでしょうか」と聞きだした。宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問をお米から受けて、そのつど慰めるのにだいぶ骨の折れたこともあったが、近来はまったく忘れたようになにも言わなくなったので、宗助もつい気にとめなかったのである。
「またヒステリーが始まったね。いいじゃないか、小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
お米はこんな時に、こういう冗談を言う女であった。宗助は、
「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
翌日宗助が目をさますと、トタン張りの庇《ひさし》の上で寒い音がした。お米が襷《たすき》掛《が》けのまま枕元へ来て、
「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団の中にぬくもっていたかった。けれども血色のよくないお米の、かいがいしい姿を見るやいなや、
「おい」と言ってすぐ起き上がった。
外は濃い雨にとざされていた。崖の上の孟《もう》宗《そう》竹《ちく》が時々たてがみを振うように、雨を吹いて動いた。このわびしい空の下へぬれに出る宗助にとって、力になるものは、暖かい味《み》噌《そ》汁《しる》と暖かい飯よりほかになかった。
「また靴の中がぬれる。どうしても二足持っていないと困る」と言って、底に小さい穴のあるのをしかたなしにはいて、ズボンの裾《すそ》を一寸《すん》ばかりまくり上げた。
午《ひる》過ぎに帰って来てみると、お米は金《かな》盥《だらい》の中に雑《ぞう》巾《きん》をつけて、六畳の鏡台のそばに置いていた。その上のところだけ天井の色が変わって、時々雫《しずく》が落ちてきた。
「靴ばかりじゃない。家の中までぬれるんだね」と言って宗助は苦笑した。お米はその晩夫のために置《おき》炬《ご》燵《たつ》へ火を入れて、スコッチの靴下と縞ラシャのズボンをかわかした。
あくる日もまた同じように雨が降った。夫婦もまた同じように同じことをくり返した。そのあくる日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって、宗助は眉を縮めて舌打ちをした。
「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にもはけやしない」
「六畳だって困るわ、ああもっちゃ」
夫婦は相談して、雨が晴れしだい、屋根をつくろってもらうように家主へ掛け合うことにした。けれども靴のほうはなんともしようがなかった。宗助はきしんではいらないのをむりにはいて出ていった。
さいわいにその日は十一時ごろからからりと晴れて、垣《かき》に雀《すずめ》の鳴く小《こ》春《はる》日《び》和《より》になった。宗助が帰った時、お米はいつもよりさえざえしい顔色をして、
「あなた、あの屏《びよう》風《ぶ》を売っちゃいけなくって」と突然聞いた。抱《ほう》一《いつ》の屏風はせんだって佐伯から受け取ったまま、元のとおり書斎の隅に立ててあったのである。二枚折りだけれども、座敷の位置と広さからいっても、実はむしろじゃまな装飾であった。南へ回すと、玄関からの入り口を半分ふさいでしまうし、東へ出すと暗くなる。といって、残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、
「せっかく親《おや》爺《じ》の記念《かたみ》だと思って、取ってきたようなものの、しようがないねこれじゃ、場ふさげで」とこぼしたことも一、二度あった。そのつどお米はまん丸な縁の焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別できないような穂《ほ》芒《すすき》の色をながめて、こんなものを珍重する人の気が知れないというような見えをした。けれども、夫をはばかって、あからさまにはなんとも言いださなかった。ただ一ぺん、
「これでもいい絵なんでしょうかね」と聞いたことがあった。その時宗助ははじめて抱一の名をお米に説明して聞かした。しかしそれは自分が昔父から聞いた覚えのある、おぼろげな記憶をいいかげんにくり返すにすぎなかった。実際の画の価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると、宗助にもその実はなはだおぼつかなかったのである。
ところがそれが偶然お米のために妙な行為の動機をかたちづくる原因となった。過去一週間夫と自分のあいだに起こった会話に、ふとこの知識を結びつけて考ええた彼女は、ちょっとほほえんだ。この日雨が上がって、日《ひ》脚《あし》がさっと茶の間の障子にさした時、お米は不断着の上へ、妙な色の肩掛けとも、襟《えり》巻《まき》ともつかない織物をまとって外へ出た。通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲がってまっすぐに来ると、乾《かん》物《ぶつ》屋《や》とパン屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。お米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。今火鉢にかけてある鉄瓶も、宗助がここからさげて帰ったものである。
お米は手を袖《そで》にして道具屋の前に立ちどまった。見ると相変わらず新しい鉄瓶がたくさん並べてあった。そのほかには時節柄とでもいうのか、火鉢がいちばん多く目についた。しかし骨《こつ》董《とう》と名のつくほどのものは、一つもないようであった。ひとつなんともしれぬ大きな亀《かめ》の甲が、真向こうに釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子《ほつす》が尻尾《しつぽ》のように出ていた。それから紫《し》檀《たん》の茶棚が一つ二つ飾ってあったが、いずれも狂いの出そうな生《なま》なものばかりであった。しかしお米にはそんな区別はいっこう映らなかった。ただ掛《かけ》物《もの》も屏《びよう》風《ぶ》も一つも見当たらないことだけ確かめて、中へはいった。
お米はむろん夫が佐伯から受け取った屏風を、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こういうことにだいぶ経験を積んだおかげで、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思いきって亭主と口をきくことができた。亭主は五十がっこうの色の黒い頬のこけた男で、鼈《べつ》甲《こう》の縁を取ったばかに大きなめがねをかけて、新聞を読みながら、疣《いぼ》だらけの唐《から》金《かね》の火鉢に手をかざしていた。
「そうですな、拝見に出てもようがす」と軽く受け合ったが、べつに気の乗った様子もないので、お米は腹の中で少し失望した。しかし自分からがすでに大した望みをいだいて出てきたわけでもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見てもらわなければならなかった。
「ようがす。じゃ後ほどうかがいましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」
お米はこのぞんざいな言葉を聞いてそのまま宅《うち》へ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないかはなはだ疑わしく思った。一人でいつものように簡単な食事をすまして、清に膳《ぜん》を下げさしていると、いきなりごめんくださいと言って、大きな声を出して道具屋が玄関からやってきた。座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどと言って裏だの縁だのをなでていたが、
「お払いになるなら」と少し考えて、「六円にいただいておきましょう」といやいやそうに価《ね》をつけた。お米には道具屋のつけた相場が至当のように思われた。けれども一応宗助に話してからでなくっては、あまり専断すぎると心づいたうえ、品物の歴史が歴史だけに、なおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談してみたうえでと答えたまま、道具屋を帰そうとした。道具屋は出がけに、
「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それでお払いください」と言った。お米はその時思いきって、
「でも、道具屋さん、ありゃ抱一ですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。道具屋は、平気で、
「抱一は近来はやりませんからな」と受け流したが、じろじろお米の姿をながめたうえ、
「じゃなおよく御相談なすって」と言い捨てて帰っていった。
お米はその時の模様を詳しく話したあとで、
「売っちゃいけなくって」とまた無邪気に聞いた。
宗助の頭の中には、このあいだから物質上の欲求が、絶えず動いていた。ただじみな生活をしなれた結果として、足らぬ家計《くらし》を足るとあきらめる癖がついているので、毎月きまってはいるもののほかには、臨時に不意のくめんをしてまで、少しでも常以上にくつろいでみようという働きは出なかった。話を聞いたとき彼はむしろお米の機敏な才覚に驚かされた。同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。お米のおもわくを聞いてみると、ここで十円足らずの金がはいれば、宗助のはく新しい靴をあつらえたうえ、銘《めい》仙《せん》の一反ぐらいは買えるというのである。宗助はそれもそうだと思った。けれども親から伝わった抱一の屏風を一方に置いて、片方に新しい靴および新しい銘仙を並べて考えてみると、この二つを交換することがいかにもとっぴでかつ滑《こつ》稽《けい》であった。
「売るなら売っていいがね。どうせ家《うち》にあったってじゃまになるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでもすむよ。このあいだじゅうみたように、降り続けに降られると困るが、もう天気もよくなったから」
「だってまた降ると困るわ」
宗助はお米に対して永久に天気を保証するわけにもゆかなかった。お米も降らないまえにぜひ屏風を売れとも言いかねた。二人は顔を見合わして笑っていた。やがて、
「安すぎるでしょうか」とお米が聞いた。
「そうさな」と宗助が答えた。
彼は安いと言われれば、安いような気がした。もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になったことを見たような心持ちがした。せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものとあきらめていた。
「買手にもよるだろうが、売手にもよるんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、あんまり安いようだね」
宗助は抱一の屏風を弁護するとともに、道具屋をも弁護するような語気をもらした。そうしてただ自分だけが弁護に価しないもののように感じた。お米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。
あくる日宗助は役所へ出て、同僚のだれかれにこの話をした。すると皆申し合わせたように、それは価《ね》じゃないと言った。けれどもだれも自分が周旋して、相当の価に売り払ってやろうと言うものはなかった。またどういう筋を通れば、ばかな目にあわないですむという手続きを教えてくれるものもなかった。宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかにしかたがなかった。それでなければ元のとおり、じゃまでもなんでも座敷へ立てておくよりほかにしかたがなかった。彼は元のとおりそれを座敷へ立てておいた。すると道具屋が来て、あの屏風を十五円に売ってくれと言いだした。夫婦は顔を見合わしてほほえんだ。もう少し売らずにおいてみようじゃないかと言って、売らずにおいた。すると道具屋がまた来た。また売らなかった。お米は断わるのがおもしろくなってきた。四《よ》度《たび》目《め》には知らない男を一人連れてきたが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価をつけた。その時夫婦も立ちながら相談した。そうしてついに思いきって屏風を売り払った。
円明寺の杉がこげたように赭《あか》黒《ぐろ》くなった。天気のいい日には、風に洗われた空のはずれに、白い筋のけわしく見える山が出た。年は宗助夫婦を駆って日ごとに寒い方へ吹き寄せた。朝になると欠かさず通る納《なつ》豆《とう》売《う》りの声が、瓦をとざす霜の色を連想せしめた。宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。お米は台所で、今年も去年のように水道の栓が氷《こお》ってくれなければ助かるがと、暮れから春へかけての取越し苦労をした。夜になると夫婦とも炬《こ》燵《たつ》にばかり親しんだ。そうして広島や福岡の暖かい冬をうらやんだ。
「まるで前の本多さんみたようね」とお米が笑った。前の本多さんというのは、やはり同じ構《かまえ》内《うち》に住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦であった。小《こ》女《おんな》を一人《ひとり》使って、朝から晩までことりと音もしないような静かな生計《くらし》を立てていた。お米が茶の間で、たった一人裁縫《しごと》をしていると、時々お爺《じい》さんという声がした。それはこの本多のお婆《ばあ》さんが夫を呼ぶ声であった。門《かど》口《ぐち》などで行き会うと、丁寧に時候の挨拶をして、ちとお話にいらっしゃいと言うが、ついぞ行ったこともなければ、向こうからも来たためしがない。したがって夫婦の本多さんに関する知識はきわめて乏しかった。ただ息子《むすこ》が一人あって、それが朝鮮の統監府《*》とかで、りっぱな役人になっているから、月々そのほうの仕送りで、気楽に暮らしてゆかれるのだということだけを、出入りの商人のあるものから耳にした。
「お爺さんはやっぱり植木をいじっているかい」
「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」
話はそれから前の家《うち》を離れて、家主の方へ移った。これは、本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、このうえもないにぎやかそうな家庭に思われた。このごろは庭が荒れているので、大ぜいの子供が崖の上へ出て騒ぐことはなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。おりおりは下女かなんぞの、台所の方で高笑いをする声さえ、宗助の茶の間まで響いてきた。
「ありゃいったいなにをする男なんだい」と宗助が聞いた。この問は今までもいくたびかお米に向かってくり返されたものであった。
「なんにもしないで遊《あす》んでるんでしょう。地面や家作を持って」とお米が答えた。この答も今までにもう何べんか宗助に向かってくり返されたものであった。
宗助はこれより以上立ち入って、坂井のことを聞いたことがなかった。学校をやめた当座は、順境にいて得意なふるまいをするものに会うと、今に見ろという気も起こった。それがしばらくすると、単なる憎《ぞう》悪《お》の念に変化した。ところが一、二年このかたはまったく自他の差違にむとんじゃくになって、自分は自分のように生まれついたもの、先は先のような運を持って世の中へ出てきたもの、両方ともはじめから別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、なんの交渉も利害もないのだと考えるようになってきた。たまに世間話のついでとして、ありゃいったいなにをしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えてもらう努力さえ出すのがめんどうだった。お米にもこれと同じ傾きがあった。けれどもその夜《よ》は珍しく、坂井の主人は四十がっこうの髯《ひげ》のない人であるということやら、ピヤノをひくのは総領の娘で十二、三になるということやら、またほかの家《うち》の子供が遊びにきても、ブランコへ乗せてやらないということやらを話した。
「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」
「つまりけちなんでしょう。早く悪くなるから」
宗助は笑いだした。彼はそのくらいけちな家主が、屋根がもると言えば、すぐ瓦《かわら》師《し》をよこしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。
その晩宗助の夢には、本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。彼は十時半ごろ床にはいって、万象に疲れた人のように鼾《いびき》をかいた。このあいだから頭のぐあいがよくないため、寝つきの悪いのを苦にしていたお米は、時々目をあけて薄暗い部屋をながめた。細い灯《ひ》が床の間の上に乗せてあった。夫婦は夜じゅう燈火《あかり》をつけておく習慣がついているので、寝る時はいつでも心《しん》を細目にしてランプをここへ上げた。
お米は気にするように枕の位置を動かした。そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団の上ですべらした。しまいには腹ばいになったまま、両《りよう》肱《ひじ》を突いて、しばらく夫の方をながめていた。それから起き上がって、夜具の裾にかけてあった不断着を、寝巻の上へ羽織ったなり、床の間のランプを取り上げた。
「あなたあなた」と宗助の枕元へ来てこごみながら呼んだ。その時夫はもう鼾をかいていなかった。けれども、元のとおり深い眠りから来る呼吸《いき》を続けていた。お米はまた立ち上がって、ランプを手にしたまま、間《あい》の襖《ふすま》をあけて茶の間へ出た。暗い部屋がぼんやり手元の灯《ひ》に照らされた時、お米は鈍く光る箪《たん》笥《す》の環を認めた。それを通り過ぎると黒くくすぶった台所に、腰障子の紙だけが白く見えた、お米は火の気のないまん中に、しばらくたたずんでいたが、やがて右手にあたる下女部屋の戸を、音のしないようにそっと引いて、中へランプの灯をかざした。下女は縞も色もはっきり映らない夜具の中に、もぐらのごとくかたまって寝ていた。今度は左側の六畳をのぞいた。がらんとして淋しいなかに、例の鏡台が置いてあって、鏡の表が夜中だけにすごく目にこたえた。
お米は家《うち》じゅうをひとまわり回ったあと、すべてに異状のないことを確かめたうえ、また床の中へもどった。そうしてようやく目を眠った。今度はいいぐあいに、眼《ま》蓋《ぶた》のあたりに気をつかわないですむように覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。
するとまたふと目があいた。なんだかずしんと枕元で響いたような心持ちがする。耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分たちの寝ている座敷の縁の外へ、ころがり落ちたとしか思われなかった。しかも今目が覚めるすぐまえに起こった出来事で、けっして夢の続きじゃないと考えた時、お米は急に気味を悪くした。そうしてそばに寝ている夫の夜具の袖《そで》を引いて、今度はまじめに宗助を起こしはじめた。
宗助はそれまでまったくよく寝ていたが、急に目が覚めると、お米が、
「あなたちょっと起きてください」とゆすっていたので、半分は夢中に、
「おい、よし」とすぐ蒲団の上へ起き直った。お米は小声でさっきからの様子を話した。
「音は一ぺんしたぎりなのかい」
「だって今したばかりなのよ」
二人はそれで黙った。ただじっと外の様子をうかがっていた。けれども世間はしんと静かであった。いつまで耳をそばだてていても、再び物の落ちてくるけしきはなかった。宗助は寒いと言いながら、単衣《ひとえ》の寝巻の上へ羽織をかぶって、縁側へ出て、雨戸を一枚繰った。外をのぞくとなんにも見えない。ただ暗いなかから寒い空気がにわかに肌にせまってきた。宗助はすぐ戸を閉《た》てた。
かきがねをおろして座敷へ戻るやいなや、また蒲団の中へもぐり込んだが、
「なんにも変わったことはありゃしない。たぶんお前の夢だろう」と言って、宗助は横になった。お米はけっして夢でないと主張した。たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執した。宗助は夜具から半分出した顔を、お米の方へふり向けて、
「お米、お前は神経が過敏になって、近ごろどうかしているよ。もう少し頭を休めて、よく寝るくふうでもしなくっちゃいけない」と言った。
その時次の間の柱時計が二時を打った。その音で二人ともちょっと言葉をとぎらして、黙ってみると、夜《よ》はさらに静まり返ったように思われた。二人は目がさえて、すぐ寝つかれそうにもなかった。お米が、
「でもあなたは気楽ね。横になると十分たたないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」と言った。
「寝ることは寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」と宗助が答えた。
こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。お米は依然として、のつそつ《*》床の中で動いていた。すると表をがらがらとはげしい音を立てて車が一台通った。近ごろお米は時々夜明けまえの車の音を聞いて、驚かされることがあった。そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、ひっきょうは毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。たぶん牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違いないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始まったごとくに、心丈夫になった。そうこうしていると、どこかで鶏《とり》の声が聞こえた。またしばらくすると、下駄の音を高くたてて往来を通るものがあった。そのうち清が下女部屋の戸をあけて厠《かわや》へ起きた模様だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。この時床の間に置いたランプの油が減って、短い心に届かなくなったので、お米の寝ているところはまっ暗になっていた。そこへ清の手にした灯火《あかり》の影が、襖の間からさし込んだ。
「清かい」とお米が声をかけた。
清はそれからすぐ起きた。三十分ほど経ってお米も起きた。また三十分ほど経って宗助もついに起きた。いつもはいい時分にお米がやってきて、
「もう起きてもよくってよ」と言うのが例であった。日曜とたまの旗《はた》日《び》には、それが、
「さあもう起きてちょうだい」に変わるだけであった。しかし今日は昨夕《ゆうべ》のことがなんとなく気にかかるので、お米の迎いの来ないうちに、宗助は床を離れた。そうしてすぐ崖下の雨戸を繰った。
下からのぞくと、寒い竹が朝の空気にとざされてじっとしている後から、霜を破る日の色がさして、いくぶんか頂を染めていた。その二尺ほど下の勾《こう》配《ばい》のいちばん急な所にはえている枯れ草が、妙にすりむけて、赤土の肌《はだ》をなまなましく露出した様子に、宗助はちょっと驚かされた。それから一直線に降りて、ちょうど自分の立っている縁鼻の土が、霜柱をくだいたように荒れていた。宗助は大きな犬でも上からころがり落ちたのじゃなかろうかと思った。しかし犬にしてはいくら大きいにしても、あまり勢いがはげしすぎると思った。
宗助は玄関から下駄をさげて来て、すぐ庭へおりた。縁の先へ便所が折れ曲がって突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどのところはなおさら狭苦しくなっていた。お米は掃《そう》除《じ》屋《や》が来るたびに、この曲がり角を気にしては、
「あすこがもう少し広いといいけれども」とあぶながるので、よく宗助から笑われたことがあった。
そこを通り抜けると、まっすぐに台所まで細い路《みち》がついている。元は枯れ枝のまじった杉垣があって、隣の庭の仕切りになっていたが、このあいだ家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉をきれいに取り払って、今では節の多い板《いた》塀《べい》が片側を勝手口までふさいでしまった。日当たりの悪いうえに、樋《とい》から雨《あま》滴《だれ》ばかり落ちるので、夏になると、秋《しゆう》海《かい》棠《どう》がいっぱいはえる。その盛りなころは青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなるくらい茂ってくる。はじめて越した年は、宗助もお米もこの景《け》色《しき》を見て驚かされたくらいである。この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれないまえから、何年となく地下にはびこっていたもので、古家の取りこぼたれた今でも、時節が来ると昔のとおり芽を吹くものとわかった時、お米は、
「でもかわいいわね」と喜んだ。
宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の目は細長い路地の一点に落ちた。そうして彼は日の通わない寒さのなかにはたととまった。
彼の足元には黒塗りの蒔《まき》絵《え》の手文庫がほうり出してあった。中味はわざわざそこへ持ってきて置いていったように、霜の上にちゃんとすわっているが、蓋《ふた》は二、三尺離れて、塀の根に打ちつけられたごとくに引っくり返って、中を張った千代紙の模様がはっきり見えた。文庫の中からもれた、手紙や書付け類が、そこいらに遠慮なく散らばっているなかに、比較的長い一通がわざわざ二尺ばかり広げられて、その先が紙《かみ》屑《くず》のごとく丸めてあった。宗助は近づいて、このもみくちゃになった紙の下をのぞいておぼえず苦笑した。下には大便がたれてあった。
土の上に散らばっている書類をひとまとめにして、文庫の中へ入れて、霜と泥によごれたまま宗助は勝手口まで持ってきた。腰障子をあけて、清に、
「おいこれをちょっとそこへ置いてくれ」と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受け取った。お米は奥で座敷へはたきをかけていた。宗助はそれから懐手をして、玄関だの門のあたりをよく見回ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。
宗助はようやく家《うち》へはいった。茶の間へ来て例のとおり火鉢の前へすわったが、すぐ大きな声を出してお米を呼んだ。お米は、
「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と言いながら奥から出てきた。
「おい昨夜《ゆうべ》枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。どろぼうだよ。どろぼうが坂井さんの崖の上から宅《うち》の庭へ飛びおりた音だ。今裏へ回ってみたら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけにごちそうまで置いていった」
宗助は文庫の中から二、三通の手紙を出してお米に見せた。それにはみんな坂井の名あてが書いてあった。お米はびっくりして立《たて》膝《ひざ》のまま、
「坂井さんじゃほかになにか取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことによると、まだなにかやられたね」と答えた。
夫婦はともかくもというので、文庫をそこに置いたなり朝飯の膳《ぜん》についた。しかし箸《はし》を動かす間もどろぼうの話は忘れなかった。お米は自分の耳と頭のたしかなことを夫に誇った。宗助は耳と頭のたしかでないことを幸福とした。
「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅《うち》でごらんなさい。あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」とお米が宗助をやりこめた。
「なに、宅《うち》なんぞへはいる気づかいはないから大丈夫だ」と宗助も口の減らない返事をした。
そこへ清が突然台所から顔を出して、
「このあいだこしらえた旦那様の外套でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。お宅《うち》でなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」とまじめによろこびの言葉を述べたので、宗助もお米も少し挨拶に窮した。
食事をすましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。坂井ではさだめて騒いでるだろうというので、文庫は宗助が自分で持っていってやることにした。蒔絵ではあるが、ただ黒地に亀《きつ》甲《こう》形《がた》を金で置いただけのことで、べつに大して金《かね》目《め》の物とも思えなかった。お米は唐《とう》桟《ざん*》のふろしきを出してそれを包んだ。ふろしきが少し小さいので、四《よ》隅《すみ》をむこう同志つないで、まん中にこま結びを二つこしらえた。宗助がそれをさげたところは、まるで進物の菓子折のようであった。
座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から回ると、通りを半町ばかり来て、坂をのぼって、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。宗助は石の上へ芝を盛って、扇骨木《かなめ*》をきれいに植えつけた垣に添うて門内にはいった。
家の内はむしろ静かすぎるくらいしんとしていた。すりガラスが閉《た》ててある玄関へ来て、ベルを二、三度押してみたが、ベルがきかないとみえてだれも出てこなかった。宗助はしかたなしに勝手口へ回った。そこにもすりガラスのはまった腰障子が二枚閉《た》ててあった。中では器物を取り扱う音がした。宗助は戸をあけて、ガス七輪を置いた板の間にしゃがんでいる下女に挨拶をした。
「これはこちらのでしょう。今朝《けさ》私《わたし》の家《うち》の裏に落ちていましたから持ってきました」と言いながら、文庫を出した。
下女は「さようでございましたか、どうも」と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切りまで行って、仲働きらしい女を呼び出した。そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働きはそれを受け取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へはいった。入れ違えに、十二、三になる丸顔の目の大きな女の子と、その妹らしい揃いのリボンをかけた子がいっしょに駆けてきて、小さい首を二つ並べて台所へ出した。そうして宗助の顔をながめながら、どろぼうよとささやきあった。宗助は文庫を渡してしまえば、もう用がすんだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。
「文庫はお宅のでしょうね。いいんでしょうね」と念を押して、なにも知らない下女の気の毒がらしているところへ、最前の仲働きが出てきて、
「どうぞお通りください」と丁寧に頭を下げたので、今度は宗助のほうが少し痛み入るようになった。下女はいよいよしとやかに同じ請求をくり返した。宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じだした。ところへ主人が自分で出てきた。
主人は予想どおり血色のいい下《しも》ぶくれの福相をそなえていたが、お米の言ったように髭《ひげ》のない男ではなかった。鼻の下に短かく刈り込んだのをはやして、ただ頬《ほお》から腮《あご》をきれいに蒼《あお》くしていた。
「いやどうもとんだお手《て》数《かず》で」と主人は目じりに皺《しわ》を寄せながら礼を述べた。米《よね》沢《ざわ》の絣《かすり》を着た膝を板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにもゆっくりしていた。宗助は昨夜《ゆうべ》から今朝《けさ》へかけての出来事を、ひととおりかいつまんで話したうえ、文庫のほかになにか取られたものがあるかないかを尋ねてみた。主人は机の上に置いた金時計を一つ取られたよしを答えた。けれどもまるでひとのものでもなくなした時のように、いっこう困ったという気《け》色《しき》はなかった。時計よりはむしろ宗助の叙述のほうに多くの興味をもって、どろぼうがはたして崖を伝って裏から逃げるつもりだったろうか、または逃げる拍子に、崖から落ちたものだろうかというような質問をかけた。宗助はもとより返答ができなかった。
そこへ最前の仲働きが、奥から茶や煙草《たばこ》を運んできたので、宗助はまた帰りはぐれた。主人はわざわざ座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》まで取り寄せて、とうとうその上へ宗助の尻《しり》をすえさした。そうして今朝早く来た刑事の話をしはじめた。刑事の判定によると、賊は宵から邸内に忍び込んで、なんでも物置かなぞに隠れていたに違いない。はいり口はやはり勝手である。マッチをすってろうそくをともして、それを台所にあった小《こ》桶《おけ》の中へ立てて、茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていると、このあいだ生まれた末の男の子が、乳を飲む時刻が来たものか、目を覚まして泣きだしたため、賊は書斎の戸をあけて庭へ逃げたらしい。
「いつものように犬がいるとよかったんですがね。あいにく病気なので、四、五日まえ病院へ入れてしまったもんですから」と主人が残念がった。宗助も、
「それは惜しいことでした」と答えた。すると主人はその犬の種《ブリード》やら血統やら、時々猟《かり》に連れてゆくことや、いろいろなことを話しはじめた。
「猟《りよう》は好きですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。なにしろ秋《あき》口《ぐち》から冬へかけて鴫《しぎ》なぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へつかって、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、まったくからだにはよくないようです」
主人は時間に制限のない人とみえて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか言っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむをえず中途で立ち上がった。
「これからまた例のとおり出かけなければなりませんから」と切り上げると、主人ははじめて気がついたように、忙しいところを引きとめた失礼を謝した。そうしていずれまた刑事が現状を見にゆくかもしれないから、その時はよろしく願うというようなことを述べた。最後に、
「どうかちとお話に。私も近ごろはむしろひまなほうですから、またおじゃまに出ますから」と丁寧に挨拶をした。門を出て急ぎ足に宅《うち》へ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほどおくれていた。
「あなたどうなすったの」とお米が気をもんで玄関へ出た。宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、
「あの坂井という人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああゆっくりできるもんかな」と言った。
「小六さん、茶の間から始めて。それとも座敷のほうを先にして」とお米が聞いた。
小六は、四、五日まえとうとう兄のところへ引き移った結果として、今日《きよう》の障子の張り替えを手伝わなければならないこととなった。彼は昔叔父の家にいた時、安之助といっしょになって、自分の部屋の唐紙を張り替えた経験がある。その時は糊《のり》を盆にといたり、篦《へら》を使ってみたり、だいぶ本式にやりだしたが、首尾よくかわかして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚ともそっくり返って敷居の溝ヘはまらなかった。それからこれも安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の言いつけで、障子を張らせられたときには、水道でざぶざぶ枠《わく》を洗ったため、やっぱりかわいたあとで、総体にゆがみができて非常に困難した。
「姉《ねえ》さん、障子を張るときは、よほど慎重にしないとしくじるです。洗っちゃだめですぜ」と言いながら、小六は茶の間の縁側からびりびり破きはじめた。
縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲がって、左には玄関が突き出している。その向こうを塀《へい》が縁と平行にふさいでいるから、まあ四角な囲い内といっていい。夏になるとコスモスをいちめんに茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景《け》色《しき》を喜んだこともあるし、また塀の下へ細い竹を立てて、それへ朝顔をからませたこともある。その時は起き抜けに、今朝《けさ》咲いた花の数を勘定し合って二人《ふたり》が楽しみにした。けれども秋から冬へかけては、花も草もまるで枯れてしまうので、小さな砂《さ》漠《ばく》みたように、ながめるのも気の毒なくらい淋《さび》しくなる。小六はこの霜ばかり降りた四角な地面を背にして、しきりに障子の紙をはがしていた。
時々寒い風が来て、後から小六の坊主頭と襟《えり》のあたりを襲った。そのたびに彼は吹きさらしの縁から六畳の中へ引っ込みたくなった。彼は赤い手を無言のまま働かしながら、バケツの中で雑巾を絞って障子の桟《さん》をふきだした。
「寒いでしょう、お気の毒さまね。あいにくお天気がしぐれたもんだから」とお米が愛《あい》想《そ》を言って、鉄《てつ》瓶《びん》の湯をつぎつぎ、昨日《きのう》煮た糊をといた。
小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに軽《けい》蔑《べつ》していた。ことに昨今自分がやむなく置かれた境遇からして、この際多少自己を侮《ぶ》辱《じよく》しているかの観をいだいて雑巾を手にしていた。昔叔父の家で、これと同じことをやらせられた時は、暇つぶしの慰みとして、不愉快どころかかえっておもしろかった記憶さえあるのに、今じゃこのくらいな仕事よりほかにする能力のないものと、しいて周囲からあきらめさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのことしゃくにさわった。
それで嫂《あによめ》には快い返事さえろくにしなかった。そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸《シヤボン》と歯《は》磨《みがき》を買うのにさえ、五円近くの金を払う華《か》奢《しや》を思い浮かべた。するとどうしても自分一人が、こんな窮境に陥るべき理由がないように感ぜられた。それから、こんな生活状態に甘んじて、一生を送る兄夫婦がいかにもふびんに見えた。彼らは障子を張る美《み》濃《の》紙《がみ》を買うのにさえ、気がねをしやしまいかと思われるほど、小六から見ると、消極的な暮らし方をしていた。
「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」と言いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日にすかして、二、三度力まかせに鳴らした。
「そう? でも宅《うち》じゃ子供がないから、それほどでもなくってよ」と答えたお米は、糊を含ました刷《は》毛《け》を取ってとんとんとんと桟の上を渡した。
二人は長く継いだ紙を双方から引き合って、なるべくたるみのできないようにつとめたが、小六が時々めんどうくさそうな顔をすると、お米はつい遠慮が出て、いいかげんに髪《かみ》剃《そり》で小口を切り落としてしまうこともあった。したがってできあがったものには、ところどころのぶくぶくがだいぶ目についた。お米は情けなさそうに、戸袋に立てかけた張り立ての障子をながめた。そうして心のうちで、相手が小六でなくって、夫であったならと思った。
「皺が少しできたのね」
「どうせ僕のおてぎわじゃうまくはいかない」
「なに兄さんだって、そうおじょうずじゃなくってよ。それに兄さんはあなたよりよっぽど無精ね」
小六はなんにも答えなかった。台所から清が持ってきたうがい茶碗を受け取って、戸袋の前へ立って、紙がいちめんにぬれるほど霧を吹いた。二枚目を張ったときは、先に霧を吹いた分がほぼかわいて、皺がおおかた平らになっていた。三枚目を張ったとき、小六は腰が痛くなったと言いだした。実をいうとお米のほうは今朝《けさ》から頭が痛かったのである。
「もう一枚張って、茶の間だけすましてから休みましょう」と言った。
茶の間をすましているうちに午《ひる》になったので、二人は食事を始めた。小六が引き移ってからこの四《し》、五日《ごんち》、お米は宗助のいない午《ひる》飯《はん》を、いつも小六と差向かいで食べることになった。宗助といっしょになって以来、お米の毎日膳《ぜん》をともにしたものは、夫よりほかになかった。夫の留守の時は、ただひとり箸《はし》を取るのが多年の習慣《ならわし》であった。だから突然この小《こ》舅《じゆうと》と自分のあいだにお櫃《はち》を置いて、互いに顔を見合わせながら、口を動かすのが、お米にとっては一種異な経験であった。それも下女が台所で働いているときは、まだしもだが、清の影も音もしないとなると、なおのこと変に窮屈な感じが起こった。むろん小六よりもお米のほうが年上であるし、また従来の関係からいっても、両性をからみつけるつやっぽい空気は、箝《けん》束《そく》的《てき》な初期においてすら、二人のあいだに起こりうべきはずのものではなかった。お米は小六と差向かいに膳につくときの、この気ぶっせいな心持ちが、いつになったら消えるだろうと、心のうちでひそかに疑《うたぐ》った。小六が引き移るまでは、こんな結果が出ようとは、まるで気がつかなかったのだからなおさら当惑した。しかたがないからなるべく食事中に話をして、せめて手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》な隙間だけでも補おうとつとめた。不幸にして今の小六は、この嫂の態度に対してほどのいい調子を出すだけの余裕と分別を、頭の中に発見しえなかったのである。
「小六さん、下宿はごちそうがあって」
こんな質問にあうと、小六は下宿から遊びに来た時分のように、淡泊な遠慮のない答をするわけにゆかなくなった。やむをえず、
「なにそうでもありません」ぐらいにしておくと、その語気がからりと澄んでいないので、お米のほうでは、自分の待遇が悪いせいかと解釈することもあった。それがまた無言のあいだに、小六の頭に映ることもあった。
ことに今日は頭のぐあいがよくないので、膳に向かっても、お米はいつものようにつとめるのがたいぎであった。つとめて失敗するのはなおいやであった。それで二人とも障子を張る時よりも、言葉少なに食事をすました。
午後は手が慣れたせいか、朝に比べると仕事が少しはかどった。しかし二人の気分は飯まえよりもかえって縁遠くなった。ことに寒い天気が二人の頭にこたえた。起きた時は、日をのせた空がしだいに遠のいてゆくかと思われるほどに、よく晴れていたが、それがまっさおに色づくころから急に雲が出て、暗いなかで粉《こ》雪《ゆき》でもかもしているように、日の目を密封した。二人はかわるがわる火鉢に手をかざした。
「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」
ふと小六がこんな問をお米にかけた。お米はその時畳の上の紙《かみ》片《きれ》を取って、糊によごれた手をふいていたが、まったく思いもよらないという顔をした。
「どうして」
「でも新聞で見ると、来年から一般に官吏の増俸があるという話じゃありませんか」
お米はそんな消息をまったく知らなかった。小六から詳しい説明を聞いて、はじめてなるほどとうなずいた。
「まったくね。これじゃだれだって、やっていけないわ。お肴《さかな》の切り身なんか、私《わたし》が東京へ来てからでも、もう倍になってるんですもの」と言った。肴の切り身の値段になると、小六のほうがまったく無識であった。お米に注意されてはじめて、それほどむやみに高くなるものかと思った。
小六にちょっとした好奇心の出たため、二人の会話は存外素直に流れていった。お米は裏の家主の十八、九時代に、物価のたいへん安かった話を、このあいだ宗助から聞いたとおりくり返した。その時分は蕎麦《そば》を食うにしても、盛《もり》かけが八厘、種《たね》ものが二銭五厘であった。牛肉は普通《なみ》が一人前四銭で、ロースは六銭であった。寄《よ》席《せ》は三銭か四銭であった。学生は月に七円ぐらい国からもらえば中の部であった。十円も取るとすでにぜいたくと思われた。
「小六さんも、その時分だとわけなく大学が卒業できたのにね」とお米が言った。
「兄さんもその時分だと、たいへん暮らしやすいわけですね」と小六が答えた。
座敷の張りかえがすんだ時にはもう三時過ぎになった。そうこうしているうちには、宗助も帰ってくるし、晩のしたくも始めなくってはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃をかたづけた。小六は大きな伸びを一つして、握《にぎ》り拳《こぶし》で自分の頭をこんこんとたたいた。
「どうも御苦労さま。疲れたでしょう」とお米は小六をいたわった。小六はそれよりも口さむしい思いがした。このあいだ文庫を届けてやった礼に、坂井からくれたという菓子を、戸棚から出してもらって食べた。お米はお茶を入れた。
「坂井という人は大学出なんですか」
「ええ、やっぱりそうなんですって」
小六は茶を飲んで煙草を吹いた。やがて、
「兄さんは増俸のことをまだあなたに話さないんですか」と聞いた。
「いいえ、ちっとも」とお米が答えた。
「兄さんみたようになれたらいいだろうな。不平もなにもなくって」
お米は特別の挨拶もしなかった。小六はそのまま立って六畳へはいったが、やがて火が消えたと言って、火鉢をかかえてまた出てきた。彼は兄の家にやっかいになりながら、もう少し立てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向き休学の体《てい》にして一時の始末をつけたのである。
裏の坂井と宗助とは、文庫が縁になって思わぬ関係がついた。それまでは月に一度こちらから清に家賃を持たしてやると、向こうからその受け取りをよこすだけの交渉にすぎなかったのだから、崖の上に西洋人が住んでいると同様で、隣人としての親しみは、まるで存在していなかったのである。
宗助が文庫を届けた日の午後に、坂井の言ったとおり、刑事が宗助の家の裏手から崖下を調べに来たが、その時坂井もいっしょだったので、お米ははじめて噂に聞いた家主の顔を見た。髭《ひげ》のないと思ったのに、髭をはやしているのと、自分なぞに対しても、存外丁寧な言葉を使うのが、お米には少し案外であった。
「あなた、坂井さんはやっぱり髭をはやしていてよ」と宗助が帰ったとき、お米はわざわざ注意した。
それから二日ばかりして、坂井の名刺を添えたりっぱな菓子折を持って、下女が礼に来たが、せんだってはいろいろお世話になりまして、ありがとう存じます、いずれ主人が自身に伺うはずでございますが、と言いおいて、帰って行った。
その晩宗助は到来の菓子折の蓋《ふた》をあけて、唐《とう》饅《まん》頭《じゆう》をほおばりながら、
「こんなものをくれるところをもってみると、それほどけちでもないようだね。ひとの家《うち》の子をブランコへ乗せてやらないっていうのは嘘だろう」と言った。お米も、
「きっと嘘よ」と坂井を弁護した。
夫婦と坂井とはどろぼうのはいらないまえより、これだけ親しみの度が増したようなものの、それ以上に接近しようという念は、宗助の頭にも、お米の胸にも宿らなかった。利害の打算からいえばむろんのこと、単に隣人の交際とか情《じよう》誼《ぎ》とかいう点から見ても、夫婦はこれよりも前進する勇気をもたなかったのである。もし自然がこのままに無為の月日を駆ったなら、久しからぬうちに、坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になって、崖の上と崖の下に互いの家がかけ隔たるごとく、互いの心もはなればなれになったに違いなかった。
ところがそれからまた二日置いて、三日目の暮れ方に、獺《かわうそ》の襟《えり》のついた暖かそうな外套を着て、突然坂井が宗助のところへやってきた。夜間客に襲われつけない夫婦は、軽微の狼《ろう》狽《ばい》を感じたくらい驚かされたが、座敷へ上げて話してみると、坂井は丁寧に先日の礼を述べた後、
「おかげで取られた品物がまた戻りましたよ」と言いながら、白《しろ》縮《ちり》緬《めん》の兵《へ》児《こ》帯《おび》に巻きつけた金鎖をはずして、両蓋の金時計を出して見せた。
規則だから警察へ届けることは届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないぐらいにあきらめていたら、昨日になって、突然差出人の不明な小包が着いて、その中にちゃんと自分のなくしたのがくるんであったんだという。
「どろぼうも持ち扱ったんでしょう。それともあまり金にならないんで、やむをえず返してくれる気になったんですかね。なにしろ珍しいことで」と坂井は笑っていた。それから、
「なに私からいうと、実はあの文庫のほうがむしろ大切な品でしてね、祖母《ばば》が昔御殿へ勤めていた時分、いただいたんだとかいって、まあ記念《かたみ》のようなものですから」というようなことも説明して聞かした。
その晩坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていたお米も、たいへん談話の材料に富んだ人だと思わぬわけにゆかなかった。あとで、
「世間の広いかたね」とお米が評した。
「ひまだからさ」と宗助が解釈した。
次の日宗助が役所の帰りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例の獺の襟をつけた坂井の外《がい》套《とう》がちょっと目についた。横顔を往来の方へ向けて、主人を相手になにか言っている。主人は大きなめがねをかけたまま、下から坂井の顔を見上げている。宗助は挨拶をすべきおりでもないと思ったから、そのまま行き過ぎようとして、店の正面まで来ると、坂井の目が往来へ向いた。
「やあ昨夜は。今お帰りですか」と気軽に声をかけられたので、宗助も愛《あい》想《そ》なく通り過ぎるわけにもゆかなくなって、ちょっと歩調をゆるめながら、帽子を取った。すると坂井は、用はもうすんだというふうをして、店から出てきた。
「なにかお求めですか」と宗助が聞くと、
「いえ、なに」と答えたまま、宗助と並んで家《うち》の方へ歩きだした。六、七間来たとき、
「あの爺《じじ》い、なかなかずるいやつですよ。崋《か》山《ざん》の贋《にせ》物《もの》を持ってきて、押しつけようとしやがるから、今しかりつけてやったんです」と言いだした。宗助ははじめて、この坂井も余裕ある人に共通な好《こう》事《ず*》を道楽にしているのだと心づいた。そうしてこのあいだ売り払った抱《ほう》一《いつ》の屏《びよう》風《ぶ》も、最初からこういう人に見せたら、よかったろうにと、腹の中で考えた。
「あれは書画には明るい男なんですか」
「なに書画どころか、まるでなにもわからないやつです。あの店の様子を見てもわかるじゃありませんか。骨《こつ》董《とう》らしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙《かみ》屑《くず》屋《や》から出世してあれだけになったんですからね」
坂井は道具屋の素《す》性《じよう》をよく知っていた。出入りの八《や》百《お》屋《や》の阿爺《おやじ》の話によると、坂井の家は旧幕のころなんとかの守《かみ》と名乗ったもので、この界《かい》隈《わい》ではいちばん古い門《もん》閥《ばつ》家《か》なのだそうである。瓦《が》解《かい*》の際、駿《すん》府《ぷ》へ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出てきたんだとかいうことも耳にしたようであるが、それははっきり宗助の頭に残っていなかった。
「小さいうちからいたずらものでね。あいつが餓《が》鬼《き》大《だい》将《しよう》になってよく喧嘩をしに行ったことがありますよ」と坂井はお互いの子供の時のことまで一口もらした。それがまたどうして崋山の贋物を売り込もうとたくらんだのかと聞くと、坂井は笑って、こう説明した。――
「なに親父《おやじ》の代からひいきにしてやってるものですから、時々なんだかだって持ってくるんです。ところが目もきかないくせに、ただ欲ばりたがってね、まことに取扱いにくいしろものです。それについこのあいだ抱一の屏風を買ってもらって、味を占めたんでね」
宗助は驚いた。けれども話の途中をさえぎるわけにゆかなかったので、黙っていた。坂井は道具屋がそれ以来乗《のり》気《き》になって、自身にわかりもしない書画類をしきりに持ち込んでくることやら、大坂出《で》来《き》の高《こう》麗《らい》焼《やき》を本物だと思って、大事に飾っておいたことやら話した末、
「まあ台所で使う食卓《ちやぶだい》か、たかだか新《あら》の鉄《てつ》瓶《びん》ぐらいしか、あんなところじゃ買えたもんじゃありません」と言った。
そのうち二人は坂の上へ出た。坂井はそこを右へ曲がる、宗助はそこを下へおりなければならなかった。宗助はもう少しいっしょに歩いて、屏風のことを聞きたかったが、わざわざ回り路をするのも変だと心づいて、それなり分かれた。分かれる時、
「近いうちおじゃまに出てもようございますか」と聞くと、坂井は、
「どうぞ」と快く答えた。
その日は風もなくひとしきり日も照ったが、家《うち》にいると底冷えのする寒さに襲われるとかいって、お米はわざわざ置《おき》炬《ご》燵《たつ》に宗助の着物をかけて、それを座敷のまん中にすえて、夫の帰りを待ち受けていた。
この冬になって、昼のうちに炬燵をこしらえたのは、その日がはじめてであった。夜はとうから用いていたが、いつも六畳に置くだけであった。
「座敷のまん中にそんなものをすえて、今日はどうしたんだい」
「でも、お客もなにもないからいいでしょう。だって六畳のほうは小六さんがいて、ふさがっているんですもの」
宗助ははじめて自分の家に小六のいることに気がついた。シャツの上から暖かい紡《ぼう》績《せき》織《おり》をかけてもらって、帯をぐるぐる巻きつけたが、
「ここは寒帯だから炬燵でも置かなくっちゃしのげない」と言った。小六の部屋になった六畳は、畳こそきれいでないが、南と東が開いていて、家《うち》じゅうでいちばん暖かい部屋なのである。
宗助はお米のくんで来た熱い茶を、湯《ゆ》呑《のみ》から二口ほど飲んで、
「小六はいるのかい」と聞いた。小六はもとよりいたはずである。けれども六畳はひっそりして人のいるようにも思われなかった。お米が呼びに立とうとするのを、用はないからいいととめたまま、宗助は炬《こ》燵《たつ》蒲《ぶ》団《とん》の中へもぐり込んで、すぐ横になった。一方口に崖を控えている座敷には、もう暮れ方の色がきざしていた。宗助は手枕をして、なにを考えるともなく、ただこの暗く狭い景色をながめていた。するとお米と清が台所で働く音が、自分に関係のない隣の人の活動のごとくに聞こえた。そのうち、障子だけがただ薄《うす》白《じろ》く宗助の目に映るように、部屋の中が暮れてきた。彼はそれでもじっとして動かずにいた。声を出してランプの催促もしなかった。
彼が暗いところから出て、晩《ばん》食《めし》の膳《ぜん》についた時は、小六も六畳から出てきて、兄の向こうにすわった。お米は忙しいので、つい忘れたと言って、座敷の戸をしめに立った。宗助は弟に夕方になったら、ちとランプをつけるとか、戸を閉《た》てるとかして、忙《せわ》しい姉の手伝いでもしたらよかろうと注意したかったが、昨今引き移ったばかりのものに、気まずいことを言うのも悪かろうと思ってやめた。
お米が座敷から帰ってくるのを待って、兄弟ははじめて茶碗に手をつけた。その時宗助はようやく今日役所の帰りがけに、道具屋の前で坂井に会ったことと、坂井があの大きなめがねをかけている道具屋から、抱一の屏風を買ったという話をした。お米は、
「まあ」と言ったなり、しばらく宗助の顔を見ていた。
「じゃきっとあれよ。きっとあれに違いないわね」
小六ははじめのうちなんにも口を出さなかったが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちに、ほぼ関係が明《めい》瞭《りよう》になったので、
「ぜんたいいくらで売ったのです」と聞いた。お米は返事をするまえにちょっと夫の顔を見た。
食事が終わると、小六はじきに六畳へはいった。宗助はまた炬燵へ帰った。しばらくしてお米も足をぬくめに来た。そうして次の土曜か日曜には坂井へ行って、ひとつ屏風を見て来たらいいだろうというようなことを話し合った。
次の日曜になると、宗助は例のとおり一週に一ぺんの楽《らく》寝《ね》をむさぼったため、午《ひる》まえ半日をとうとう空《くう》につぶしてしまった。お米はまた頭が重いとか言って、火鉢の縁によりかかって、なにをするのもものうそうに見えた。こんな時に六畳があいていれば、朝からでも引っ込む場所があるのにと思うと、宗助は小六に六畳をあてがったことが、間接にお米の避難場を取り上げたと同じ結果に陥るので、ことにすまないような気がした。
心持ちが悪ければ、座敷へ床を敷いて寝たらよかろうと注意しても、お米は遠慮して容易に応じなかった。それでは、また炬燵でもこしらえたらどうだ、自分もあたるからと言って、とうとう櫓《やぐら》と掛蒲団を清に言いつけて、座敷へ運ばした。
小六は宗助が起きる少しまえに、どこかへ出ていって、今朝は顔さえ見せなかった。宗助はお米に向かってべつだんその行く先を聞きただしもしなかった。このごろでは小六に関係したことを言いだして、お米にその返事をさせるのが、気の毒になってきた。お米のほうから、進んで弟の讒《ざん》訴《そ》でもするようだと、しかるにしろ、慰めるにしろ、かえって始末がいいと考える時もあった。
午になってもお米は炬燵から出なかった。宗助はいっそ静かに寝かしておくほうがからだのためによかろうと思ったので、そっと台所へ出て、清にちょっと上の坂井まで行ってくるからと告げて、不断着の上へ、袂《たもと》の出る短かいインバネス《*》をまとって表へ出た。
今まで陰気な室《へや》にいたせいか、通りへ出ると急にからりと気が晴れた。肌の筋肉が寒い風に抵抗して、一時に緊縮するような冬の心持ちの鋭く出るうちに、ある快感を覚えたので、宗助はお米もああ家《うち》にばかり置いてはよくない、気候がよくなったら、ちと戸外の空気を呼吸させるようにしてやらなくては毒だと思いながら歩いた。
坂井の家《うち》の門をはいったら、玄関と勝手口の仕切りになっている生《いけ》垣《がき》の目に、冬に似合わないぱっとした赤いものが見えた。そばへ寄ってわざわざ調べると、それは人形にかける小さい夜具であった。細い竹を袖《そで》に通して、落ちないように、扇骨木《かなめ》の枝に寄せかけた手ぎわが、いかにも女の子の所《しよ》作《さ》らしく殊勝に思われた。こういういたずらをする年ごろの娘はもとよりのこと、子供という子供を育て上げた経験のない宗助は、この小さい赤い夜具の尋常に日に干してあるありさまを、しばらく立ってながめていた。そうして二十年も昔に父母が、死んだ妹《いもと》のために飾った、赤い雛《ひな》壇《だん》と五《ご》人《にん》囃《ばやし》と、模様の美しい干《ひ》菓《が》子《し》と、それから甘いようでからい白《しろ》酒《ざけ》を思い出した。
坂井の主人は在宅ではあったけれど、食事中だというので、しばらく待たせられた。宗助は座につくやいなや、隣の室《へや》で小さい夜具を干した人たちの騒ぐ声を耳にした。下女が茶を運ぶために襖《ふすま》をあけると、襖の影から大きな目が四つほどすでに宗助をのぞいていた。火鉢を持って出ると、そのあとからまた違った顔が見えた。はじめてのせいか、襖のあけたてのたびに出る顔がことごとく違っていて、子供の数が何人あるかわからないように思われた。ようやく下女がさがりきりにさがると、今度はだれだか唐《から》紙《かみ》を一寸ほど細目にあけて、黒い光る目だけをその間から出した。宗助もおもしろくなって、黙って手招ぎをしてみた。すると唐紙をぴたりと閉《た》てて、向こう側で三、四人が声を合わして笑いだした。
やがて一人の女の子が、
「よう、お姉さままたいつものように叔母さんごっこしましょうよ」と言いだした。すると姉らしいのが、
「ええ、今日は西洋の叔母さんごっこよ。東《とう》作《さく》さんはお父さまだからパパで、雪《ゆき》子《こ》さんはお母さまだからママって言うのよ。よくって」と説明した。その時また別の声で、
「おかしいわね。ママだって」と言ってうれしそうに笑ったものがあった。
「私《わたし》それでもいつもお祖母《ばば》さまなのよ。お祖母さまの西洋の名がなくっちゃいけないわねえ。お祖母さまはなんて言うの」と聞いたものもあった。
「お祖母さまはやっぱりババでいいでしょう」と姉がまた説明した。
それから当分のあいだは、ごめんくださいましだの、どちらからいらっしゃいましたのと、盛んに挨拶の言葉が交換されていた。そのあいだにはちりんちりんという電話の仮声《こわいろ》もまじった。すべてが宗助には陽気で珍しく聞こえた。
そこへ奥の方から足音がして、主人がこっちへ出てきたらしかったが、次の間へはいるやいなや、
「さあ、お前《まえ》たちはここで騒ぐんじゃない。あっちへ行っておいで。お客さまだから」と制した。その時、だれだかすぐに、
「いやだよ。お父《と》っちゃんべい。大きいお馬《むま》買ってくれなくっちゃ、あっちへ行かないよ」と答えた。声は小さい男の子の声であった。年がいかないためか、舌がよく回らないので、抗弁のしようがいかにもおっくうで手間がかかった。宗助はそこを特におもしろく思った。
主人が席に着いて、長いあいだ待たした失礼をわびているまに、子供は遠くへ行ってしまった。
「たいへんお賑やかで結構です」と宗助が今自分の感じたとおりを述べると、主人はそれを愛《あい》嬌《きよう》と受け取ったものとみえて、
「いや御覧のごとく乱雑なありさまで」と言い訳らしい返事をしたが、それをいとくちに、子供の世話のやけて、おびただしく手の掛かることなどをいろいろ宗助に話して聞かした。そのうちできれいな支那製の花《はな》籃《かご》のなかへ、炭《た》団《どん》をいっぱい盛って床の間に飾ったという滑《こつ》稽《けい》と、主人の編上げの靴のなかへ水をくみ込んで、金魚を放したといういたずらが、宗助にはたいへん耳新しかった。しかし、女の子が多いので服装に物がいるとか、二週間も旅行して帰ってくると、急にみんなの背《せい》が一寸ずつも伸びているので、なんだか後から追いつかれるような心持ちがするとか、もう少しすると、嫁入りのしたくで忙殺されるのみならず、きっと貧殺されるだろうとかいう話になると、子供のない宗助の耳にはそれほどの同情も起こしえなかった。かえって主人が口で子供をうるさがるわりに、少しもそれを苦にする様子の、顔にも態度にも見えないのをうらやましく思った。
いいかげんなころを見はからって宗助は、せんだって話のあった屏風をちょっと見せてもらえまいかと、主人に申し出た。主人はさっそく引き受けて、ぱちぱちと手を鳴らして、召使を呼んだが、蔵の中にしまってあるのを取り出してくるように命じた。そうして宗助の方を向いて、
「つい二《に》、三《さん》日《ち》まえまでそこへ立てておいたのですが、例の子供がおもしろ半分にわざと屏風の影へ集まって、いろいろないたずらをするものですから、傷でもつけられちゃたいへんだと思ってしまい込んでしまいました」と言った。
宗助は主人のこの言葉を聞いた時、いまさら手《て》数《かず》をかけて、屏風を見せてもらうのが、気の毒にもなり、まためんどうにもなった。実をいうと彼の好奇心は、それほど強くなかったのである。なるほどいったんひとの所有に帰したものは、たとい元が自分のであったにしろ、なかったにしろ、そこを突きとめたところで、実際上にはなんの効果もない話に違いなかった。
けれども、屏風は宗助の申し出たとおり、まもなく奥から縁伝いに運び出されて、彼の目の前に現われた。そうしてそれが予想どおり、ついこのあいだまで自分の座敷に立ててあった物であった。この事実を発見した時、宗助の頭には、これといって大した感動も起こらなかった。ただ自分が今すわっている畳の色や、天井の柾《まさ》目《め》や、床の置物や、襖の模様などのなかに、この屏風を立ててみて、それに、召使が二人がかりで、蔵の中から大事そうに取り出してきたという所作をつけ加えて考えると、自分が持っていた時よりは、たしかに十倍以上たっとい品のようにながめられただけであった。彼は即座に言うべき言葉を見いだしえなかったので、いたずらに見慣れたものの上に、さらに新しくもない目をすえていた。
主人は宗助をもってある程度の鑑賞家と誤解した。立ちながら屏風の縁へ手をかけて、宗助の面《おもて》と屏風の面とを比較していたが、宗助が容易に批評をくださないので、
「これは素性のたしかなものです。出が出ですからね」と言った。宗助は、ただ、
「なるほど」と言った。
主人はやがて宗助の後ろへ回ってきて、指でそこここをさしながら、品評やら説明やらした。そのうちには、さすがお大名だけあって、いい絵の具を惜しげもなく使うのがこの画家の特色だから、色がいかにもみごとであるというような、宗助には耳新しいけれども、普通一般に知れ渡ったこともだいぶまじっていた。
宗助はいいかげんなころを見はからって、丁寧に礼を述べて元の席に復した。主人も蒲団の上に直った。そうして、今度は野《の》路《じ》や空云々《うんぬん》という題句やら書体やらについて語りだした。宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味をもっていた。いつのまにこれほどの知識を頭の中へたくわえられるるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。宗助はおのれを恥じて、なるべく物《もの》数《かず》を言わないようにして、ただ向こうの話だけに耳をかすことをつとめた。
主人は客がこの方面の興味に乏しい様子を見て、再び話を画《え》のほうへ戻した。ろくなものはないけれども、望みならば所蔵の画《が》帖《じよう》や幅物を見せてもいいと親切に申し出した。宗助はせっかくの好意を辞退しないわけにいかなかった。その代わりに、失礼ですがと前置きをして、主人がこの屏風を手に入れるについて、どれほどの金額を払ったかを尋ねた。
「まあ掘出し物ですね。八十円で買いました」と主人はすぐ答えた。
宗助は主人の前にすわって、この屏風に関するいっさいのことを自白しようか、しまいかと思案したが、ふと打ち明けるのも一興だろうと心づいて、とうとう実はこれこれだと、今までの顛末を詳しく話しだした。主人は時々へえ、へえと驚いたような言葉をはさんで聞いていたが、しまいに、
「じゃあなたはべつに書画が好きで、見にいらしったわけでもないんですね」と自分の誤解を、さもおもしろい経験でもしたように笑いだした。同時に、そういうわけなら、自分がじかに宗助から相当の値《ね》で譲ってもらえばよかったに、惜しいことをしたと言った。最後に横町の道具屋をひどくののしって、けしからんやつだと言った。
宗助と坂井とはこれからだいぶ親しくなった。
佐伯の叔母《おば》も安之助もその後とんと宗助の宅《うち》へは見えなかった。宗助はもとより麹《こうじ》町《まち》へ行く余暇をもたなかった。またそれだけの興味もなかった。親類とは言いながら、別々の日が二人《ふたり》の家を照らしていた。
ただ小六だけが時々話しに出かける様子であったが、これとても、そうしげしげ足を運ぶわけでもないらしかった。それに彼は帰ってきて、叔母の家の消息をほとんどお米に語らないのを常としておった。お米はこれを故意から出る小六のしうちかとも疑った。しかし自分が佐伯に対して特別の利害を感じない以上、お米は叔母の動静を耳にしないほうを、かえって喜んだ。
それでも時々は、先方《さき》の様子を、小六と兄の対話から聞き込むこともあった。一週間ほどまえに、小六は兄に、安之助がまた新発明の応用に苦心している話をした。それはインキの助けを借らないで、鮮明な印刷物をこしらえるとかいう、ちょっと聞くとすこぶる重《ちよう》宝《ほう》な器械についてであった。話題の性質からいっても、自分とはまったく利害の交渉のないむずかしいことなので、お米は例のとおり黙って口を出さずにいたが、宗助は男だけにいくぶんか好奇心が動いたとみえて、どうしてインキを使わずに印刷ができるかなどと問いただしていた。
専門上の知識のない小六が、精密な返答をしうるはずはむろんなかった。彼はただ安之助から聞いたままを、覚えているかぎり念を入れて説明した。この印刷術は近来英国で発明になったもので、根本的にいうとやはり電気の利用にすぎなかった。電気の一極を活字と結びつけておいて、他の一極を紙に通じて、その紙を活字の上へおしつけさえすれば、すぐできるのだと小六が言った。色は普通黒であるが、手加減しだいで赤にも青にもなるから、色刷りなどの場合には、絵の具をかわかす時間が省けるだけでもたいへん重宝で、これを新聞に応用すれば、インキやインキロールの費《つい》えを節約するうえに、全体からいって、少なくとも従来の四分の一の手《て》数《かず》がなくなる点から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六はまた安之助の話したとおりをくり返した。そうしてその有望な前途を、安之助がすでに手のうちに握ったかのごとき口《こう》気《き》であった。かつその多忙な安之助の未来のなかには、同じく多忙な自分の影が、含まれているように、目を輝かした。その時宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに、弟の言うことを聞いていたが、聞いてしまったあとでも、べつにこれという目立った批評は加えなかった。実際こんな発明は、宗助から見ると、ほんとうのようでもあり、また嘘《うそ》のようでもあり、いよいよそれが世間に行なわれるまでは、賛成も反対もできかねたのである。
「じゃ鰹《かつお》船《ぶね》のほうはもうよしたの」と、今まで黙っていたお米が、この時はじめて口を出した。
「よしたんじゃないんですが、あのほうは費用がずいぶんかかるので、いくら便利でも、そうだれもかれもこしらえるわけにゆかないんだそうです」と小六が答えた。小六はいくぶんか安之助の利害を代表しているような口ぶりであった。それから三人のあいだに、しばらく談話が交換されたが、しまいに、
「やっぱりなにをしたって、そううまくゆくもんじゃあるまいよ」と言った宗助の言葉と、
「坂井さん見たように、お金があって遊んでいるのがいちばんいいわね」と言ったお米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部《へ》屋《や》へ帰っていった。
こういう機会に、佐伯の消息はおりおり夫婦の耳へもれることはあるが、そのほかには、まったくなにをして暮らしているか、互いに知らないですごす月日が多かった。
ある時お米は宗助にこんな問をかけた。
「小六さんは、安さんのところへ行くたんびに、小遣いでももらってくるんでしょうか」
今まで小六について、それほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問にあって、すぐ、「なぜ」と聞き返した。お米はしばらくためらった末、
「だって、このごろよくお酒を飲んで帰ってくることがあるのよ」と注意した。
「安さんが例の発明や、金もうけの話をするとき、その聞き賃におごるのかもしれない」と言って宗助は笑っていた。会話はそれなりでつい発展せずにしまった。
越えて三日目の夕方に、小六はまた飯《めし》時《どき》をはずして帰ってこなかった。しばらく待ち合わせていたが、宗助はついに空腹だとか言いだして、ちょっと湯にでも行って時間を延ばしたらというお米の小六に対する気がねにとんじゃくなく、食事を始めた。その時お米は夫に、
「小六さんにお酒をやめるように、あなたから言っちゃいけなくって」と切り出した。
「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」と宗助は少し案外な顔をした。
お米はそれほどでもないと、弁護しなければならなかった。けれども実際はだれもいない昼間のうちなどに、あまり顔を赤くして帰ってこられるのが、不安だったのである。宗助はそれなりほうっておいた。しかし腹の中では、はたしてお米の言うごとく、どこかで金を借りるか、もらうかして、それほど好きもしないものを、わざと飲むのではなかろうかと疑《うたぐ》った。
そのうち年がだんだん片寄って、夜が世界の三分の二を領するように押し詰まってきた。風が毎日吹いた。その音を聞いているだけでも、生活《ライフ》に陰気な響きを与えた。小六はどうしても、六畳にこもって、一日を送るにたえなかった。落ち付いて考えれば考えるほど、頭が淋《さむ》しくって、いたたまれなくなるばかりであった。茶の間へ出て嫂《あによめ》と話すのはなおいやであった。やむをえず外へ出た。そうして友だちの宅《うち》をぐるぐる回って歩いた。友だちもはじめのうちは、平生《いつも》の小六に対するように、若い学生のしたがるおもしろい話をいくらでもした。けれども小六はそういう話が尽きても、まだやってきた。それでしまいには、友だちが、小六は、退屈のあまりに訪問をして、談話の復習にふけるものだと評した。たまには学校の下読みやら研究やらに追われている多忙の身だというふうもして見せた。小六は友だちからそうのんきな怠けもののように取り扱われるのを、たいへん不愉快に感じた。けれども宅《うち》に落ち付いては、読書も思索も、まるでできなかった。要するに彼ぐらいの年輩の青年が、一人前の人間になる階《かい》梯《てい》として、修むべきこと、つとむべきことには、内部の動揺やら、外部の束縛やらで、いっさい手がつかなかったのである。
それでも冷たい雨が横に降ったり、雪どけの道がはげしくぬかったりする時は、着物をぬらさなければならず、足袋《たび》の泥をかわかさなければならないめんどうがあるので、いかな小六も時によると、外出を見合わせることがあった。そういう日には、じっさい困却するとみえて、時々六畳から出てきて、のそりと火鉢のそばへすわって、茶などをついで飲んだ。そうしてそこにお米でもいると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかった。
「小六さんお酒好き」とお米が聞いたことがあった。
「もうじきお正月ね。おなたお雑《ぞう》煮《に》いくつあがって」と聞いたこともあった。
そういう場合がたび重なるにつれて、二人のあいだは少しずつ近寄ることができた。しまいには、姉《ねえ》さんちょっとここを縫ってくださいと、小六のほうから進んで、お米に物を頼むようになった。そうしてお米が絣《かすり》の羽織を受け取って、袖《そで》口《ぐち》のほころびをつくろっているあいだ、小六はなんにもせずにそこへすわって、お米の手先を見つめていた。これが夫だと、いつまでも黙って針を動かすのが、お米の例であったが、相手が小六の時には、そうなげやりにできないのが、またお米の性質であった。だからそんな時にはつとめても話をした。話の題目で、ややともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未来をどうしたらよかろうという心配であった。
「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。なにをしたってこれからだわ。そりゃ兄《にい》さんのことよ。そう悲観してもいいのは」
お米は二度ばかりこういう慰め方をした。三度目には、
「来年になれば、安さんのほうでどうか都合してあげるって受け合ってくだすったんじゃなくって」と聞いた。小六はその時ふたしかな表情をして、
「そりゃ安さんの計画が、口でいうとおりうまくいけばわけはないんでしょうが、だんだん考えると、なんだか少しあてにならないような気がしだしてね。鰹船もあんまりもうからないようだから」と言った。お米は小六の憮《ぶ》然《ぜん》としている姿を見て、それを時々酒気を帯びて帰ってくる、どこかに殺気を含んだ、しかもなにがしゃくにさわるんだか訳がわからないでいて、はなはだ不平らしい小六と比較すると、心のうちで気の毒にもあり、またおかしくもあった。その時は、
「ほんとうにね。兄さんにさえお金があると、どうでもしてあげることができるんだけれども」と、お世辞でもなんでもない、同情の意を表した。
その夕暮れであったか、小六はまた寒いからだを外套《マント》にくるんで出ていったが、八時過ぎに帰ってきて、兄夫婦の前で、袂《たもと》から白い細長い袋を出して、寒いから蕎麦《そば》掻《が》きをこしらえて食おうと思って、佐伯へ行った帰りに買ってきたと言った。そうしてお米が湯を沸かしているうちに、煮出しをこしらえるかと言って、しきりに鰹節を掻いた。
その時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びたことを聞いた。この縁談は安之助が学校を卒業するとまもなく起こったもので、小六が房《ぼう》州《しゆう》から帰って、叔母に学資の供給を断わられる時分には、もうだいぶ話が進んでいたのである。正式の通知が来ないので、いつまとまったか、宗助はまるで知らなかったが、ただおりおり佐伯へ行っては、なにか聞いてくる小六を通じてのみ、彼は年内に式をあげるはずの新夫婦を予想した。その他には、嫁の里がある会社員で、裕福な生計《くらし》をしていることと、その学校が女学館《*》であるということと、兄弟がたくさんあるということだけを、同じく小六を通じて耳にした。写真にせよ顔を知っているのは小六ばかりであった。
「いい器量?」とお米が聞いたことがある。
「まあいいほうでしょう」と小六が答えたことがある。
その晩はなぜ暮れのうちに式を済まさないかというのが、蕎麦掻きのでき上がるあいだ、三人の話題になった。お米は方位でも悪いのだろうと憶《おく》測《そく》した。宗助は押し詰まって日がないからだろうと考えた。ひとり小六だけが、
「やっぱり物質的の必要かららしいです。先がなんでもよほどはでな家《うち》なんで、叔母さんのほうでもそう簡単にすまされないんでしょう」といつにない世帯じみたことを言った。
十一
お米のぶらぶらしだしたのは、秋も半ば過ぎて、紅葉《もみじ》の赤黒く縮れるころであった。京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のないお米は、この点にかけると、東京へ帰ってからも、やはり仕合わせとはいえなかった。この女には生まれ故郷の水が、性に合わないのだろうと、疑れば疑られるくらい、お米は一時悩んだこともあった。
近ごろはそれがだんだん落ち付いてきて、宗助の気をもむ機会《ばあい》も、年にいくどと勘定ができるくらい少なくなったから、宗助は役所の出入りに、お米はまた夫の留守の立《たち》居《い》に、等しく安心して時間を過ごすことができたのである。だから今年の秋が暮れて、薄い霜を渡る風が、つらく肌《はだ》を吹く時分になって、また少し心持ちが悪くなりだしても、お米はそれほど苦にもならなかった。はじめのうちは宗助にさえ知らせなかった。宗助が見つけて、医者にかかれと勧めても、容易にかからなかった。
そこへ小六が引っ越してきた。宗助はそのころのお米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら、夫だけによく知っていたから、なるべくは、人《ひと》数《かず》をふやして宅《うち》の中を混雑《ごたつ》かせたくないとは思ったが、事情やむをえないので、なるがままにしておくよりほかに、手段の講じようもなかった。ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけないという矛盾した助《じよ》言《ごん》は与えた。お米は微笑して、
「大丈夫よ」と言った。この答を得た時、宗助はなおのこと安心ができなくなった。ところが不思議にも、お米の気分は、小六が引っ越してきてから、ずっと引き立った。自分に責任の少しでも加わったために、心が緊張したものとみえて、かえって平生よりは、かいがいしく夫や小六の世話をした。小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、お米が在来よりどれほどつとめているかがよくわかった。宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新しい感謝の念をいだくと同時に、こう気を張りすぎる結果が、一度にからだにさわるような騒ぎでも引き起こしてくれなければいいがと心配した。
不幸にも、この心配が暮れの二十日《はつか》過ぎになって、突然事実になりかけたので、宗助は予期の恐怖に火がついたように、いたく狼狽した。その日ははっきり土に映らない空が、朝から重なり合って、重い寒さが終日人の頭をおさえつけていた。お米はまえの晩にまた寝られないで、休ませそくなった頭をかかえながら、辛抱して働きだしたが、立ったり動いたりするたびに、多少脳にこたえる苦痛はあっても、比較的明るい外界の刺激にまぎれたためか、じっと寝ていながら、頭だけがさえて痛むよりは、かえってしのぎやすかった。とかくして夫を送り出すまでは、しばらくしたらまたいつものように折り合ってくることと思って我慢していた。ところが宗助がいなくなって、自分の義務に一段落がついたという気のゆるみが出ると等しく、濁った天気がそろそろお米の頭を攻めはじめた。空を見ると凍《こお》っているようであるし、家《うち》の中にいると、陰気な障子の紙をとおして、寒さがしみ込んでくるかと思われるくらいだのに、お米の頭はしきりにほてってきた。しかたがないから、今朝《けさ》あげた蒲団をまた出してきて、座敷へ延べたまま横になった。それでもたえられないので、清に濡《ぬれ》手《て》拭《ぬぐい》をしぼらして頭へ乗せた。それがじきなまぬるくなるので、枕元に金《かな》盥《だらい》を取り寄せて時々しぼりかえた。
午《ひる》までこんな姑《こ》息《そく》手段でたえず額を冷やしてみたが、いっこうはかばかしい験《げん》もないので、お米は小六のために、わざわざ起きて、いっしょに食事をする根気もなかった。清にいいつけて膳《ぜん》立《だ》てをさせて、それを小六にすすめさしたまま、自分はやはり床を離れずにいた。そうして、平生夫のする柔らかいくくり枕を持ってきてもらって、堅いのと取り替えた。お米は髪のこわれるのを、女らしく苦にする勇気にさえ乏しかったのである。
小六は六畳から出てきて、ちょっと襖《ふすま》をあけて、お米の姿をのぞき込んだが、お米がなかば床の間の方を向いて、目をふさいでいたので、寝ついたとでも思ったものか、一《ひと》言《こと》の口もきかずに、またそっと襖をしめた。そうして、たった一人大きな食卓を占領して、はじめからさらさらと茶漬をかきこむ音をさせた。
二時ごろになって、お米はやっとのこと、とろとろと眠ったが、目がさめたら額をまいた濡手拭がほとんどかわくくらい暖かになっていた。その代わり頭のほうは少し楽になった。ただ肩から背筋へかけて、全体に重苦しいような感じが新しく加わった。お米はなんでも精をつけなくては毒だという考えから、一人で起きておそい午《ひる》飯《はん》を軽く食べた。
「お気分はいかがでございます」と清がお給仕をしながら、しきりに聞いた。お米はだいぶいいようだったので、床を上げてもらって、火鉢によったなり、宗助の帰りを待ち受けた。
宗助は例刻に帰ってきた。神田の通りで、門《かど》並《なみ》旗を立てて、もう暮れの売り出しを始めたことだの、勧工場で紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさしていることだのを話した末、
「にぎやかだよ。ちょっと行ってごらん。なに電車に乗って行けばわけはない」と勧めた。そうして自分は寒さに腐食されたように赤い顔をしていた。
お米はこう宗助からいたわられた時、なんだか自分のからだの悪いことを訴えるに忍びない心持ちがした。実際またそれほど苦しくもなかった。それでいつものとおり何《なに》気《げ》ない顔をして、夫に着物を着換えさしたり、洋服を畳んだりして夜にはいった。
ところが九時近くになって、突然宗助に向かって、少しかげんが悪いからさきへ寝たいと言いだした。今まで平生のとおり機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚いたが、大したことでもないというお米の保証に、ようやく安心してすぐ休む仕度をさせた。
お米が床へはいってから、約二十分ばかりのあいだ、宗助は耳のはたに鉄《てつ》瓶《びん》の音を聞きながら、静かな夜《よ》を丸《まる》心《じん》のランプに照らしていた。彼は来年度に一般官吏に増俸の沙《さ》汰《た》があるという評判を思い浮かべた。またそのまえに改革か淘汰が行なわれるに違いないという噂に思い及んだ。そうして自分はどっちのほうへ編入されるのだろうと疑った。彼は自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいないのを遺憾とした。彼は東京へ移ってから不思議とまだ病気をしたことがなかった。したがってまだ欠勤届を出したことがなかった。学校を中途でやめたなり、本はほとんど読まないのだから、学問は人並にできないが、役所でやる仕事にさしつかえるほどの頭脳ではなかった。
彼はいろいろな事情を総合して考えたうえ、まあ大丈夫だろうと腹の中できめた。そうして爪の先で軽く鉄瓶の縁をたたいた。その時座敷で、
「あなたちょっと」と言うお米の苦しそうな声が聞こえたので、我知らず立ち上がった。
座敷へ来てみると、お米は眉《まゆ》を寄せて、右の手で自分の肩をおさえながら、胸まで蒲団の外へ乗り出していた。宗助はほとんど器械的に、同じところへ手を出した。そうしてお米のおさえている上から、固く骨の角《かど》をつかんだ。
「もう少し後の方」とお米が訴えるように言った。宗助の手が米の思うところへ落ち付くまでには、二度も三度もそこここと位置をかえなければならなかった。指でおしてみると、頸《くび》と肩の継ぎ目の少し背中へ寄った局部が、石のようにこっていた。お米は男の力いっぱいにそれをおさえてくれと頼んだ。宗助の額からは汗がにじみ出した。それでもお米の満足するほどは力が出なかった。
宗助は昔の言葉で早打ち肩《*》というのを覚えていた。小さい時祖父《じじい》から聞いた話に、ある侍が馬に乗ってどこかへ行く途中で、急にこの早打ち肩に冒されたので、すぐ馬から飛んでおりて、たちまち小柄を抜くやいなや、肩先を切って血を出したため、危うい命をとりとめたというのがあったが、その話が今明らかに記憶の焦《しよう》点《てん》に浮かんで出た。その時宗助はこれはならんと思った。けれどもはたして刃物を用いて、肩の肉を突いていいものやら、悪いものやら、決しかねた。
お米はいつになくのぼせて、耳まで赤くしていた。頭が熱いかと聞くと苦しそうに熱いと答えた。宗助は大きな声を出して清に氷《こおり》嚢《ぶくろ》へ冷たい水を入れて来いと命じた。氷嚢があいにくなかったので、清は朝のとおり金《かな》盥《だらい》に手拭を浸《つ》けて持ってきた。清が頭を冷やしているうち、宗助はやはりせいいっぱい肩をおさえていた。時々少しはいいかと聞いても、お米はかすかに苦しいと答えるだけであった。宗助はまったく心細くなった。思い切って、自分で駆け出して医者を迎いに行こうとしたが、あとが心配で一足も表へ出る気にはなれなかった。
「清、お前急いで通りへ行って、氷嚢を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きてるだろう」
清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
「九時十五分でございます」と言いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄を捜しているところへ、うまいぐあいに外から小六が帰ってきた。例のとおり兄には挨拶もしないで、自分の部屋へはいろうとするのを、宗助はおい小六とはげしく呼び止めた。小六は茶の間で少し躊《ちゆう》躇《ちよ》していたが、兄からまた二声ほど続けざまに大きな声をかけられたので、やむをえず低い返事をして、襖から顔を出した。その顔は酒気のまださめない赤い色を目の縁に帯びていた。部屋の中をのぞき込んで、はじめてびっくりした様子で、
「どうかなすったんですか」と酔いが一時に去ったような表情をした。
宗助は清に命じたとおりを、小六に繰り返して、早くしてくれとせきたてた。小六は外套《マント》も脱がずに、すぐ玄関へ取って返した。
「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間がかかりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」
「ああ。そうしてくれ」と宗助は答えた。そうして小六の帰るあいだ、清に何べんとなく金盥の水をかえさしては、一生懸命にお米の肩をおしつけたり、もんだりしてみた。お米の苦しむのを、なにもせずにただ見ているにたえなかったから、こうして自分の気をまぎらしていたのである。
この時の宗助にとって、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほどつらいものはなかった。彼はお米の肩をもみながらも、たえず表の物音に気を配った。
ようやく医者が来たときは、はじめて夜が明けたような心持ちがした。医者は商売柄だけあって、少しもうろたえた様子を見せなかった。小さい折り鞄をわきに引きつけて、落ち付きはらった態度で、慢性病の患者でも取り扱うようにゆっくりした診察をした。そのせまらない顔色をはたで見ていたせいか、わくわくした宗助の胸もようやく治まった。
医者は芥子《からし》を局部へはることと、足を湿《しつ》布《ぷ》であたためることと、それから頭を氷で冷やすこととを、応急手段として宗助に注意した。そうして自分で芥子をかいて、お米の肩から頸の根へはりつけてくれた。湿布は清と小六とで受け持った。宗助は手拭の上から氷《こおり》嚢《ぶくろ》を額の上に当てがった。
とかくするうち約一時間もたった。医者はしばらく経過を見てゆこうと言って、それまでお米の枕元にすわっていた。世間話もおりおりはまじえたが、おおかたは無言のまま、二人ともにお米の容体を見守ることが多かった。夜《よ》は例のごとく静かにふけた。
「だいぶ冷えますな」と医者が言った。宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いたうえ、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。その時お米はさっきよりはだいぶ軽快になっていたからである。
「もう大丈夫でしょう。頓服を一回上げますから今夜飲んでごらんなさい。たぶん寝られるだろうと思います」と言って医者は帰った。小六はすぐその後を追って出ていった。
小六が薬取りに行ったあいだに、お米は、
「もう何時」と言いながら、枕元の宗助を見上げた。宵《よい》とは違って頬《ほお》から血がひいて、ランプに照らされたところが、ことに蒼《あお》白く映った。宗助は黒い毛の乱れたせいだろうと思って、わざわざ鬢《びん》の毛をかき上げてやった。そうして、
「少しはいいだろう」と聞いた。
「ええよっぽど楽になったわ」とお米はいつものとおり微笑をもらした。お米はたいてい苦しい場合でも、宗助に微笑を見せることを忘れなかった。茶の間では、清が突っ伏したまま鼾《いびき》をかいていた。
「清を寝かしてやってください」とお米が宗助に頼んだ。
小六が薬取りから帰ってきて、医者の言いつけどおり服薬をすましたのは、もうかれこれ十二時近くであった。それから二十分とたたないうちに、病人はすやすや寝入った。
「いいあんばいだ」と宗助がお米の顔を見ながら言った。小六もしばらく嫂《あによめ》の様子を見守っていたが、
「もう大丈夫でしょう」と答えた。二人は氷嚢を額からおろした。
やがて小六は自分の部屋へはいる。宗助はお米のそばへ床を延べていつものごとく寝た。五、六時間の後冬の夜《よ》は錐《きり》のような霜をさしはさんで、からりと明け渡った。それから一時間すると、大地を染める太陽が、さえぎるもののない蒼空にはばかりなくのぼった。お米はまだすやすや寝ていた。
そのうち朝《あさ》餉《げ》もすんで、出勤の時刻がようやく近づいた。けれどもお米は眠りからさめる気《け》色《しき》もなかった。宗助は枕《まくら》辺《べ》にこごんで、深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えた。
十二
朝のうちは役所で常のごとく事務を執っていたが、おりおり昨夕《ゆうべ》の光景が目に浮かぶにつれて、しぜんお米の病気が気にかかるので、仕事は思うように運ばなかった。時には変な間違いをさえした。宗助は午《ひる》になるのを待って、思いきって宅《うち》へ帰ってきた。
電車の中では、お米の目がいつごろさめたろう、さめたあとは心持ちがだいぶよくなったろう、発作ももう起こる気づかいなかろうと、すべて悪くない想像ばかり思い浮かべた。いつもと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせたので、宗助は周囲の刺激に気を使う必要がほとんどなかった。それで自由に頭の中へ現われる画を何枚となくながめた。そのうちに、電車は終点に来た。
宅《うち》の門《かど》口《ぐち》まで来ると、家の中はひっそりして、だれもいないようであった。格子をあけて、靴を脱いで、玄関に上がっても、出てくるものはなかった。宗助はいつものように縁側から茶の間へ行かずに、すぐとっつきの襖《ふすま》をあけて、お米の寝ている座敷へはいった。見ると、お米は依然として寝ていた。枕元の朱塗の盆に散薬の袋とコップがのっていて、そのコップの水が半分残っているところも朝と同じであった。頭を床の間の方へ向けて、左の頬《ほお》と芥子《からし》をはった襟《えり》元《もと》が少し見えるところも朝と同じであった。呼息《いき》よりほかに現実世界と交通のないように思われる深い眠りも朝見たとおりであった。すべてが今朝《けさ》でがけに頭の中へ収めていった光景と少しも変わっていなかった。宗助は外《がい》套《とう》もぬがずに、上からこごんで、すうすういうお米の寝息をしばらく聞いていた。お米は容易にさめそうにも見えなかった。宗助は昨夕《ゆうべ》お米が散薬を飲んでから以後の時間を指を折って勘定した。そうしてようやく不安の色を面《おもて》に表わした。昨夕までは寝られないのが心配になったが、こう前後不覚に長く寝るところをまのあたりに見ると、寝るほうがなにかの異状ではないかと考えだした。
宗助は蒲団に手をかけて二、三度軽くお米をゆすぶった。お米の髪がくくり枕の上で、波を打つように動いたが、お米は依然としてすうすう寝ていた。宗助はお米を置いて、茶の間から台所へ出た。流し元の小《こ》桶《おけ》の中に茶碗と塗椀が洗わないままつけてあった。下女部屋をのぞくと、清が自分の前に小さな膳《ぜん》を控えたなり、お櫃《はち》によりかかって突っ伏していた。宗助はまた六畳の戸を引いて首を差し込んだ。そこには小六が掛け蒲団を一枚頭から引っかぶって寝ていた。
宗助は一人《ひとり》で着物を着換えたが、脱ぎ捨てた洋服も、人手を借りずに自分で畳んで、押入れにしまった。それから火鉢へ火をついで、湯を沸かす用意をした。二、三分は火鉢にもたれて考えていたがやがて立ち上がって、まず小六から起こしにかかった。次に清を起こした。二人とも驚いて飛び起きた。小六にお米の今朝から今までの様子を聞くと、実はあまり眠いので、十一時半ごろ飯を食って寝たのだが、それまではお米もよく熟睡していたのだという。
「医者へ行ってね、昨夕《ゆうべ》の薬をいただいてから寝だして、今になっても目がさめませんが、さしつかえないでしょうかって聞いてきてくれ」
「はあ」
小六は簡単な返事をして出ていった。宗助はまた座敷へ来て、お米の顔を熟視した。起こしてやらなくっては悪いような、また起こしてはからだへさわるような、分別のつかない惑いをいだいて腕組みをした。
まもなく小六が帰ってきて、医者はちょうど往診に出かけるところであった、訳を話したら、では今から一、二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と告げた。宗助は医者が見えるまで、こうしてほうっておいてかまわないのかと小六に問い返したが、小六は医者が以上よりほかになんにも語らなかったというだけなので、やむをえず元のごとく枕辺にじっとすわっていた。そうして心のうちで、医者も小六も不親切すぎるように感じた。彼はそのうえ昨夕お米を介抱している時に帰ってきた小六の顔を思い出して、なお不愉快になった。小六が酒をのむことは、お米の注意ではじめて知ったのであるが、その後気をつけて弟の様子をよく見ていると、なるほどなんだかまじめでないところもあるようなので、いつかみっちり意見でもしなければなるまいくらいに考えてはいたが、おもしろくもない二人の顔をお米に見せるのが、気の毒なので、今日《きよう》までわざと遠慮していたのである。
「言いだすならお米の寝ている今である。今ならどんな気まずいことを双方で言いつのったって、お米の神経にさわる気づかいはない」
ここまで考えついたけれども、知覚のないお米の顔を見ると、またそのほうが気がかりになって、すぐにでも起こしたい心持ちがするので、つい決しかねてぐずぐずしていた。そこへようやく医者が来てくれた。
昨夕の折り鞄をまた丁寧にわきへ引きつけて、ゆっくり巻《まき》煙草《たばこ》を吹かしながら、宗助の言うことを、はあはあと聞いていたが、どれ拝見いたしましょうとお米の方へ向き直った。彼は普通の場合のように病人の脈を取って、長いあいだ自分の時計を見つめていた。それから黒い聴診器を心臓の上に当てた。それを丁寧にあちらこちらと動かした。最後に丸い穴のあいた反射鏡を出して、宗助に蝋《ろう》燭《そく》をつけてくれと言った。宗助は蝋燭を持たないので、清にランプをつけさした。医者は眠っているお米の目を押しあけて、仔《し》細《さい》に反射鏡の光を睫《まつげ》の奥に集めた。診察はそれで終わった。
「少し薬がききすぎましたね」と言って宗助の方へ向き直ったが、宗助の目の色を見るやいなや、すぐ、
「しかし御心配になることはありません。こういう場合に、もし悪い結果が起こるとすると、きっと心臓か脳を冒すものですが、今拝見したところでは双方とも異状は認められませんから」と説明してくれた。宗助はそれでようやく安心した。医者はまた自分の用いた眠り薬が比較的新しいもので、学理上、他の睡眠剤のように有害でないことや、またそのきき目が患者の体質によって、程度にたいへんな相違があることなどを語って帰った。帰るとき宗助は、
「では寝られるだけ寝かしておいてもさしつかえありませんか」と聞いたら、医者は用さえなければべつに起こす必要もあるまいと答えた。
医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。茶の間へ出ると、さっきかけておいた鉄瓶がちんちんたぎっていた。清を呼んで、膳《ぜん》を出せと命ずると、清は困った顔つきをして、まだなんの用意もできていないと答えた。なるほど晩《ばん》飯《めし》には少し間《ま》があった。宗助は楽々と火鉢のそばにあぐらをかいて、大根の香の物をかみながら湯漬を四杯ほどつづけざまにかき込んだ。それから約三十分ほどしたらお米の目がひとりでにさめた。
十三
新年の頭をこしらえようという気になって、宗助は久しぶりに髪《かみ》結《ゆい》床《どこ》の敷居をまたいだ。暮れのせいかい客がだいぶ立て込んでいるので、鋏《はさみ》の音が二、三か所で同時にちょきちょき鳴った。この寒さをむりに乗り越して、一日も早く春に入ろうとあせるような表通りの活動を、宗助は今見てきたばかりなので、その鋏の音が、いかにもせわしない響きとなって彼の鼓膜を打った。
しばらくストーブのはたで煙草を吹かして待っているあいだに、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動にいやおうなしにまきこまれて、やむをえず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を目の前へ控えた彼は、実際これという新しい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、なんだかざわざわした心持ちをいだいていたのである。
お米の発作《ほつさ》はようやく落ち付いた。今ではいつものごとく外へ出ても、家《うち》のことがそれほど気にかからないぐらいになった。よそに比べると閑静な春の仕度も、お米からいえば、年に一度の忙がしさには違いなかったので、あるいはいつもどおりの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、よみがえったようにはっきりした妻《さい》の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠のいた時のごとくに、胸をなでおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕えに来るかわからないという、ぼんやりした懸《け》念《ねん》が、おりおり彼の頭のなかに霧となってかかった。
年の暮れに、事を好むとしか思われない世間の人が、わざと短い日を前に押し出したがってあくせくする様子を見ると、宗助はなおのことこの茫《ぼう》漠《ばく》たる恐怖の念に襲われた。なろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走《しわす》のうちに一人残っていたい思いさえ起こった。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見いだした時、ふとこの影は本来何者だろうとながめた。首から下はまっ白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞もまったく見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥のかごが、鏡の奥に映っていることに気がついた。鳥が止まり木の上をちらりちらりと動いた。
頭へにおいのする油を塗られて、景気のいい声を後からかけられて、表へ出たときは、それでも清々した心持ちであった。お米のすすめどおり髪を刈ったほうが、つまり気を新たにする効果があったのを、冷たい空気のなかで、宗助は自覚した。
水道税のことでちょっと聞き合わせる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。下女が出てきて、こちらへと言うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導いていった。すると茶の間の襖が二寸ばかりあいていて、中から三、四人の笑い声が聞こえた。坂井の家庭は相変わらず陽気であった。
主人は光沢《つや》のいい長火鉢の向こう側にすわっていた。細君は火鉢を離れて、少し縁側の障子の方へ寄って、やはりこちらを向いていた。主人の後に細長い黒い枠《わく》にはめた柱時計がかかっていた。時計の右が壁で、左が袋《ふくろ》戸《と》棚《だな》になっていた。その張《はり》交《まぜ*》に石《いし》摺《ずり》だの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。
主人と細君のほかに、筒《つつ》袖《そで》のそろいの模様に被《ひ》布《ふ》を着た女の子が二人肩をすりつけ合ってすわっていた。片方は十二、三で、片方は十《とお》ぐらいに見えた。大きな目をそろえて、襖の陰からはいってきた宗助の方を向いたが、二人の目元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。宗助は一応室《へや》の内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、いちばん入口に近い所にかしこまっているのを見いだした。
宗助はすわって五分とたたないうちに、さっきの笑い声は、この変な男と坂井の家族とのあいだにとりかわされた問答から出ることを知った。男は砂《すな》埃《ほこり》でざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて生《しよう》涯《がい》さめっこない強い色をもっていた。瀬戸物のボタンのついた白木綿のシャツを着て、手織のこわい布《ぬの》子《こ*》の襟から財布の紐みたような長い丸打ちをかけた様子は、めったに東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。そのうえ男はこの寒いのに膝《ひざ》小《こ》僧《ぞう》を少し出して、紺の落ちた小《こ》倉《くら》の帯の尻に差した手拭を抜いては鼻の下をこすった。
「これは甲《か》斐《い》の国から反《たん》物《もの》をしょってわざわざ東京まで出てくる男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、
「どうか旦那、一つ買っておくれ」と挨拶をした。
なるほど銘《めい》仙《せん》だのお召《めし》だの、白《しろ》紬《つむぎ》だのがそこらいちめんにとり散らしてあった。宗助はこの男の形装《なり》や言葉づかいのおかしいわりに、りっぱな品物を背中へ乗せて歩くのをむしろ不思議に思った。主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米も粟《あわ》もとれないから、やむをえず桑を植えて蚕《かいこ》を飼うんだそうであるが、よほど貧しい所とみえて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う子供が三人しかないという話であった。
「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」と言って細君は笑った。すると織屋も、
「ほんとうのことだよ、奥さん。読み書き算《さん》筆《ぴつ》のできるものは、おれよりほかにねえんだからね。まったくひどい所にゃ違いない」とまじめに細君の言うことをうけがった。
織屋はいろいろの反《たん》物《もの》を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」という言葉をしきりに繰り返した。そりゃ高いよ、いくらいくらにおまけなどと言われると、「値《ね》じゃねえね」とか、「拝むからそれで買っておくれ」とか、「まあ目方を見ておくれ」とかすべて異様ないなかびた答をした。そのたびにみんなが笑った。主人夫婦はまたひまだとみえて、おもしろ半分にいつまでも織屋の相手をした。
「織屋、お前そうして荷をしょって、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳を食べるんだろうね」と細君が聞いた。
「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減ることちゅうたら」
「どんな所で食べるの」
「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」
主人は笑いながら茶屋とはなんだと聞いた。織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。それから東京へ出《で》立《たて》には、飯が非常にうまいので、腹をすえて食いだすと、たいていの宿屋はかなわない。三度三度食っちゃ気の毒だというようなことを話して、またみんなを笑わした。
織屋はしまいに撚《より》糸《いと》の紬と、白《しろ》絽《ろ》を一匹細君に売りつけた。宗助はこの押し詰まった暮れに、夏の絽を買う人を見て、余裕のあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向かって、
「どうですあなたも、ついでになにか一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこういう機会に買っておくと、幾割か値安に買える便宜を説いた。そうして、
「なにお払いはいつでもいいんです」と受け合ってくれた。宗助はとうとうお米のために、銘仙を一反買うことにした。主人はそれをさんざん値切って三円にまけさした。織屋はまけたあとでまた、
「まったく値じゃねえね。泣きたくなるね」と言ったので、大勢がまた一度に笑った。
織屋はどこへ行っても、こういうひなびた言葉を使って通しているらしかった。毎日なじみの家をぐるぐる回って歩いているうちには、背中の荷がだんだん軽《かろ》くなって、しまいに紺の風呂敷と真《さな》田《だ》紐《ひも》だけが残る。その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新しい反物をしょえるだけしょって出てくるのだと言った。そうして養蚕の忙しい四月の末か五月の初めまでに、それをすっかり金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小《こ》村《むら》へ帰って行くのだそうである。
「宅《うち》へ来だしてから、もう四、五年になりますが、いつ見ても同じことで、少しも変わらないんですよ」と細君が注意した。
「じっさい珍しい男です」と主人も評語を添えた。三日も外へ出ないと、町幅がいつのまにかとり広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過ごしたりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持してゆくのは、じっさい珍しいに違いなかった。宗助はつくづくこの織屋の容《よう》貌《ぼう》やら、態度やら、服装やら、言葉使いやらを観察して、一種気の毒な思いをなした。
彼は坂井を辞して、家《うち》へ帰る途中にも、おりおりインバネスの羽根の下にかかえて来た銘仙の包みを持ちかえながら、それを三円という安い価で売った男の、粗末な布《ぬの》子《こ》の縞と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気のないこわい髪の毛が、どういうわけか、頭のまん中でりっぱに左右に分けられているさまを、絶えず目の前に浮かべた。
宅《うち》ではお米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、圧《おし》の代わりに座蒲団の下へ入れて、自分でその上へすわっているところであった。
「あなた今夜敷いて寝てください」と言って、お米は宗助をかえりみた。夫から、坂井へ来ていた甲斐の男の話を聞いた時は、お米もさすがに大きな声を出して笑った。そうして宗助の持って帰った銘仙の縞《しま》柄《がら》と地《じ》合《あい》を飽かずながめては、安い安いと言った。銘仙はまったく品のいいものであった。
「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」としまいに聞きだした。
「なに中へ立つ呉服屋がもうけすぎてるのさ」と宗助はその道に明るいようなことを、この一反の銘仙から推断して答えた。
夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のあることと、その余裕のために、横町の道具屋などに意外な儲け方《かた》をされる代わりに、時とするとこういう織屋などから、さしむき不用のものを廉価に買っておく便宜を有していることなどに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、にぎやかな模様に落ちていった。宗助はその時突然語調をかえて、
「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、たいてい貧乏な家《うち》でも陽気になるものだ」とお米をさとした。
その言い方が、自分たちの淋《さみ》しい生涯を、多少みずからたしなめるような苦い調子を、お米の耳に伝えたので、お米はおぼえず膝の上の反物から手を放して夫の顔を見た。宗助は坂井から取ってきた品が、お米の嗜《し》好《こう》に合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、べつだんそこには気がつかなかった。お米もちょっと宗助の顔を見たなり、その時はなんにも言わなかった。けれども夜《よ》に入って寝る時間が来るまで、お米はそれをわざと延ばしておいたのである。
二人はいつものとおり十時過ぎ床にはいったが、夫の目がまださめているころをみはからって、お米は宗助の方を向いて話しかけた。
「あなたさっき子供がないと淋《さむ》しくっていけないとおっしゃってね」
宗助はこれに類似のことを普般的に言った覚えはたしかにあった。けれどもそれはあながちに、自分たちの身の上について、特にお米の注意をひくために口にした、故意の観察でないのだから、こう改まって聞きただされると、困るよりほかはなかった。
「なにも宅《うち》のことを言ったのじゃないよ」
この返事を受けたお米は、しばらく黙っていた。やがて、
「でも宅のことを始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、ひっきょうあんなことをおっしゃるんでしょう」とまえとほぼ似たような問を繰り返した。宗助はもとよりそうだと答えなければならないあるものを頭の中にもっていた。けれどもお米をはばかって、それほどあからさまな自白をあえてしえなかった。この病気あがりの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談にして笑ってしまうほうがよかろうと考えたので、
「淋しいといえば、そりゃ淋しくないでもないがね」と調子をかえてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったきり、新しい文句も、おもしろい言葉も容易に思いつけなかった。やむをえず、
「まあいいや。心配するな」と言った。お米はまたなんとも答えなかった。宗助は話題を変えようと思って、
「昨夕《ゆうべ》も火事があったね」と世間話をしだした。するとお米は急に、
「私は実にあなたにお気の毒で」とせつなそうに言い訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。ランプはいつものように床の間の上にすえてあった。お米は灯《ひ》にそむいていたから、宗助には顔の表情がはっきりわからなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。今まであお向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻《さい》の方へ向き直った。そうして薄暗い影になったお米の顔をじっとながめた。お米も暗いなかからじっと宗助を見ていた。そうして、
「とうからあなたに打ち明けてあやまろうあやまろうと思っていたんですが、つい言いにくかったもんだから、それなりにしておいたのです」ととぎれとぎれに言った。宗助にはなんの意味かまるでわからなかった。多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらくぼんやりしていた。するとお米が思いつめた調子で、
「私にはとても子供のできる見込みはないのよ」と言いきって泣きだした。
宗助はこの可憐な自白をどうなぐさめていいか、分別に余って当惑していたうちにも、お米に対してはなはだ気の毒だという思いが非常に高まった。
「子供なんざ、なくてもいいじゃないか。上の坂井さん見たようにたくさん生まれてごらん、はたから見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
「だって一人もできないときまっちまったら、あなただってよかないでしょう」
「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生まれるかもしれないやね」
お米はなおと泣きだした。宗助もとほうにくれて、発作《ほつさ》の治まるのを穏やかに待っていた。そうして、ゆっくりお米の説明を聞いた。
夫婦は和合同《どう》棲《せい》という点において、人並み以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それもはじめから宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落としたのだから、さらに不幸の感が深かった。
はじめて身《み》重《おも》になったのは、二人が京都を去って、広島に痩《やせ》世《じよ》帯《たい》を張っている時であった。懐妊とことがきまったとき、お米はこの新しい経験に対して、恐ろしい未来と、うれしい未来を、一度に夢に見るような心持ちをいだいて日を過ごした。宗助はそれを目に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。そうして自分の命を吹き込んだ肉の塊《かたまり》が、目の前におどる時節を指を折って楽しみに待った。ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五か月まで育って突然おりてしまった。その時分の夫婦の活計《くらし》は苦しいつらい月ばかり続いていた。宗助は流産したお米の蒼い顔をながめて、これもつまりは世帯の苦労から起こるんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のためにうちくずされて、ながく手のうちに捕えることのできなくなったのを残念がった。お米はひたすら泣いた。
福岡へ移ってからまもなく、お米はまた酸《す》いものをたしなむ人となった。一度流産すると癖になると聞いたので、お米はよろずに注意して、つつましやかにふるまっていた。そのせいか経過は至極順当にいったが、どうしたわけか、これという原因もないのに、月足らずで生まれてしまった。産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。医者に診てもらうと、発育が十分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変わらないくらい、人工的に暖めなければいけないと言った。宗助のてぎわでは、室内に暖炉をすえつける設備をするだけでも容易ではなかった。夫婦はわが時間と算段の許すかぎりを尽くして、専念に赤《あか》児《ご》の命をまもった。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けた情の塊はついに冷たくなった。お米は幼児の亡《なき》骸《がら》をいだいて、
「どうしましょう」と啜《すす》り泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土に和《わ》するまで、一口も愚痴らしい言葉は出さなかった。そのうちいつとなく、二人のあいだにはさまっていた影のようなものが、しだいに遠のいて、ほどなく消えてしまった。
すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移ってはじめての年に、お米はまた懐妊したのである。出京の当座は、だいぶからだが衰えていたので、お米はもちろん、宗助もひどくそこを気づかったが、今度こそはという腹は両方にあったので、はりのある月を無事にだんだんと重ねていった。ところがちょうど五《いつ》月《つき》目《め》になって、お米はまた意外の失敗《しくじり》をやった。そのころはまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井《い》戸《ど》端《ばた》へ出て水をくんだり、洗濯をしなければならなかった。お米はある日裏にいる下女に言いつける用ができたので、井戸流しのそばに置いた盥《たらい》のそばまで行って話をしたついでに、流しを向こうへ渡ろうとして、青い苔《こけ》のはえているぬれた板の上へ尻持ちを突いた。お米はまたやりそこなったとは思ったが、自分の粗《そ》忽《こつ》を面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分のからだにも少しの異状を引き起こさなかったことがたしかにわかった時、お米はようやく安心して、過去の失《しつ》を改めて宗助の前に告げた。宗助はもとより妻をとがめる意もなかった。ただ、
「よく気をつけないとあぶないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。
とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生まれるという間ぎわまで日が詰まったとき、宗助は役所へ出ながらも、お米のことがしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子の前に立った。そうしてなかば予期している赤児の泣き声が聞こえないと、かえってなにかの変でも起こったらしく感じて、急いで宅《うち》へ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずることがあった。
さいわいにお米の産気づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、そばにいて世話のできるという点から見ればはなはだ都合がよかった。産婆もゆっくり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なくとりそろえてあった。産も案外軽かった。けれどもかんじんの小児《こども》は、ただ子宮をのがれて広いところへ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細いガラスの管《くだ》のようなものを取って、小さい口のなかへ強い呼息《いき》をしきりに吹き込んだが、きき目はまるでなかった。生まれたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、目と鼻と口とをほうふつした。しかしそののどから出る声はついに聞くことができなかった。
産婆は出産のあったつい一週間まえに来て、丁寧に胎児の心臓まで聴診して、至極御健全だと保証していったのである。よく産婆の言うことに間違いがあって、腹の児《こ》の発育が今までのうちにどこかで止まっていたにしたところで、それがすぐ取り出されない以上、母体は今日まで平気に持ちこたえるわけがなかった。そこをだんだん調べてみて、宗助は自分がいまだかつて聞いたことのない事実を発見した時に、思わず恐れ驚いた。胎児は出る間ぎわまで健康であったのである。けれども臍《さい》帯《たい》纏《てん》絡《らく》といって、俗にいう胞《えな》を頸《くび》へまきつけていた。こういう異常の場合には、もとより産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆《ばあ》さんなら、取り上げる時に、うまく頸にかかった胞をはずして引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年と取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸をからんでいた臍帯は、時たまあるごとく一《ひと》重《え》ではなかった。二《ふた》重《え》に細い咽喉を巻いている胞を、あの細いところを通す時にはずしそこなったので、小児《こども》はぐっと気管をしめられて窒息してしまったのである。
罪は産婆にもあった。けれどもなかば以上はお米の落度に違いなかった。臍帯纏絡の変状は、お米が井戸端で滑って痛く尻持ちをついた五か月まえすでにみずからかもしたものと知れた。お米は産後の蓐《じよく》中《ちゆう》にその始末を聞いて、ただ軽くうなずいたきりなんにも言わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ目をうるませて、長い睫《まつ》毛《げ》をしきりに動かした。宗助はなぐさめながら、ハンケチで頬《ほお》に流れる涙をふいてやった。
これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦い経験をなめた彼等は、それ以後幼児についてあまり多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋《さむ》しく染めつけられて、容易にはげそうにはみえなかった。時としては、彼我の笑い声を通してさえ、お互いの胸に、この裏側が薄暗く映ることもあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向かって新たに繰り返そうとは、お米も思いよらなかったのである。宗助も、いまさら妻からそれを聞かせられる必要は、少しも認めていなかったのである。
お米の夫に打ち明けるといったのは、もとより二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からそのおりの模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下した覚えがないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗《くら》闇《やみ》と明るみの途中に待ち受けて、これを絞《こう》殺《さつ》したと同じことであったからである。こう解釈したとき、お米は恐ろしい罪を犯した悪人とおのれをみなさないわけにゆかなかった。そうして思わざる徳義上の呵《か》責《しやく》を人知れず受けた。しかもその呵責を分かって、ともに苦しんでくれるものは世界じゅうに一人もなかった。お米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
彼女はそのとき普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それはからだからいうときわめて安静の三週間に違いなかった。同時に心からいうと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さい柩《ひつぎ》をこしらえて、人の目に立たない葬儀を営んだ。しかる後、また死んだもののために小さな位《い》牌《はい》を作った。位牌には黒い漆《うるし》で戒名が書いてあった。位牌の主は戒名を持っていた。けれども俗名は両《ふた》親《おや》といえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間の箪《たん》笥《す》の上へのせて、役所から帰ると絶えず線香をたいた。その香《にお》いが六畳に寝ているお米の鼻に時々通った。彼女の官能は当時それほどに鋭くなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌を箪笥の引出しの底へしまってしまった。そこには福岡でなくなった子供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が、別々に綿でくるんで丁寧に入れてあった。東京の家を畳むとき、宗助は先祖の位牌を一つ残らず携えて、諸所を漂泊するのわずらわしさに堪えなかったので、新しい父の分だけを鞄の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
お米は宗助のするすべてを、寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして蒲団の上にあお向けになったまま、この二つの小さい位牌を、目に見えない因果の糸を長く引いて互いに結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、はじめから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。お米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命のおごそかな支配を認めて、そのおごそかな支配のもとに立つ、幾月日の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じたとき、時ならぬ呪詛《のろい》の声を耳のはたに聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団の上にむさぼらなければならないように、生理的にしいられているあいだ、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安《あん》臥《が》は、お米にとって実に比類のない忍耐の三週間であった。
お米はこの苦しい半月あまりを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにもつらかったので、看護婦の帰ったあくる日に、こっそり起きてぶらぶらしてみたが、それでも心にせまる不安は、容易にまぎらせなかった。たいぎなからだをむりに動かすわりに、頭の中は少しも動いてくれないので、またがっかりして、ついには取り放しの夜具の下へもぐり込んで、人の世を遠ざけるように、目を堅くつぶってしまうこともあった。
そのうち定期の三週間も過ぎて、お米のからだはおのずからすっきりなった。お米はきれいに床を払って、新しい気のする眉《まゆ》を再び鏡に照らした。それは更衣《ころもがえ》の時節であった。お米も久しぶりに綿のはいった重いものを脱ぎ捨てて、肌《はだ》に垢《あか》の触れない軽い気持ちをさわやかに感じた。春と夏の境いをぱっと飾る陽気な日本の風物は、淋《さむ》しいお米の頭にもいくぶんかの反響を与えた。けれども、それはただ沈んだものをかき立てて、にぎやかな光のうちに浮かしたまでであった。お米の暗い過去のなかに、その時一種の好奇心がきざしたのである。
天気のすぐれて美しいある日の午前、お米はいつものとおり宗助を送り出してからじきに、表へ出た。もう女は日《ひ》傘《がさ》をさして外を行くべき時節であった。急いで日向《ひなた》を歩くと額のあたりが少し汗ばんだ。お米は歩き歩き、着物を着換えるとき、箪笥をあけたら、思わず一番目の引出しの底にしまってあった、新しい位牌に手が触れたことを思いつづけて、とうとうある易者の門をくぐった。
彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけですんでいた。それが実生活のおごそかな部分を冒すようになったのは、まったく珍しいといわなければならなかった。お米はその時まじめな態度とまじめな心をもって、易者の前にすわって、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確かめた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一、二銭でうらなう人と、少しも違った様子もなく、算《さん》木《ぎ》をいろいろに並べてみたり、筮《ぜい》竹《ちく》をもんだり数えたりした後で、しさいらしく腮《あご》の下の髯《ひげ》を握ってなにか考えたが、終わりにお米の顔をつくづくながめた末、
「あなたには子供はできません」と落ち付きはらって宣告した。お米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中でかんだり砕いたりした。それから顔を上げて、
「なぜでしょう」と聞き返した。その時お米は易者が返事をするまえに、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともにお米の目の間を見つめたまま、すぐ、
「あなたは人に対してすまないことをした覚えがある。その罪がたたっているから、子供はけっして育たない」と言いきった。お米はこの一《いち》言《げん》に心臓を射抜かれる思いがあった。くしゃりと首を折ったなり家《うち》へ帰って、その夜《よ》は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
お米の宗助に打ちあけないで、今まで過ごしたというのは、この易者の判断であった。宗助は床の間に乗せた細いランプの灯《ひ》が、夜《よる》の中に沈んでゆきそうな静かな晩に、はじめてお米の口からその話を聞いたとき、さすがにいい気味はしなかった。
「神経の起こったとき、わざわざそんなばかなところに出かけるからさ。銭《ぜに》を出してくだらないことを言われて、つまらないじゃないか。その後もその占《うらな》いの宅《うち》へ行くのかい」
「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」
「行かないほうがいい。ばかげている」
宗助はわざとおうような答をしてまた寝てしまった。
十四
宗助とお米とは仲のいい夫婦に違いなかった。いっしょになってから今《こん》日《にち》まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気まずく暮らしたことはなかった。いさかいに顔を赤らめ合ったためしはなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らにとって絶対に必要なものはお互いだけで、そのお互いだけが、彼らにはまた十分であった。彼らは山の中にいる心をいだいて、都会に住んでいた。
自然の勢いとして、彼らの生活は単調に流れないわけにいかなかった。彼らは複雑な社会のわずらいを避けえたとともに、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分とふさいでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を捨てたような結果に到着した。彼らも自分たちの日常に変化のないことはおりおり自覚した。お互いがお互いに飽きるの、物足りなくなるのという心はみじんも起こらなかったけれども、お互いの頭に受け入れる生活の内容には、刺激に乏しいあるものが潜んでいるような鈍い訴えがあった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日をうまず渡ってきたのは、彼らがはじめから一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会のほうで彼らを二人ぎりに切り詰めて、その二人の冷ややかな背《そびら》を向けた結果にほかならなかった。外に向かって生長する余地を見いだしえなかった二人は、内に向かって深く延びはじめたのである。彼らの生活は広さを失うと同時に、深さを増してきた。彼らは六年のあいだ世間に散漫な交渉を求めなかった代わりに、同じ六年の歳月をあげて、互いの胸を掘り出した。彼らの命は、いつのまにか互いの底にまでくい入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互いからいえば、道義上切り離すことのできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互いに抱き合ってできあがっていた。彼らは大きな水盤の表にしたたった二点の油のようなものであった。水をはじいて二つがいっしょに集まったというよりも、水にはじかれた勢いで、丸く寄り添った結果、離れることができなくなったと評するほうが適当であった。
彼らはこの抱合のうちに、尋常の夫婦に見いだしがたい親和と飽満と、それに伴う倦《けん》怠《たい》とを兼ねそなえていた。そうしてその倦怠のものうい気分に支配されながら、自己を幸福と評価することだけは忘れなかった。倦怠は彼らの意識に眠りのような幕をかけて、二人の愛をうっとり霞ますことはあった。けれども簓《ささら*》で神経を洗われる不安は、けっして起こしえなかった。要するに彼らは世間にうといだけそれだけ仲のいい夫婦であったのである。
彼らは人並以上に睦まじい月日をかわらずに今日《きよう》から明日《あす》へとつないでいきながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分たちの睦まじがる心を、自分でしかと認めることがあった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳《とし》月《つき》をさかのぼって、自分たちがいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかという当時を思い出さないわけにはいかなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復《ふく》讐《しゆう》のもとに、おののきながらひざまずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互いの幸福に対して、愛の神に一弁の香をたくことを忘れなかった。彼らは鞭打たれつつ死におもむくものであった。ただその鞭の先に、すべてをいやす甘い蜜《みつ》のついていることを覚ったのである。
宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通なはでな嗜《し》好《こう》を、学生時代には遠慮なくみたした男である。彼はその時服装《なり》にも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影をみなぎらして、昂《たか》い首を世間にもたげつつ、行こうと思うあたりを闊《かつ》歩《ぽ》した。彼の襟の白かったごとく、彼のズボンの裾《すそ》がきれいに折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴《くつ》足袋《たび》が模様入りのカシミヤであったごとく、彼の頭は華《きや》奢《しや》な世間向きであった。
彼は生まれつき理解のいい男であった。したがって大した勉強をする気にはなれなかった。学問は社会へ出るための方便と心得ていたから、社会を一歩退かなくっては達することのできない、学者という地位には、あまり多くの興味をもっていなかった。彼はただ教場へ出て、普通の学生のするとおり、多くのノートブックを黒くした。けれども宅《うち》へ帰ってきて、それを読み直したり、手を入れたりしたことはめったになかった。休んで抜けたところさえ、たいていはそのままにしてほうっておいた。彼は下宿の机の上に、このノートブックをきれいに積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎をからにしては、外を出歩いた。友だちは多く彼の寛《かん》闊《かつ》をうらやんだ。宗助も得意であった。彼の未来は虹《にじ》のように美しく彼の眸《ひとみ》を照らした。
そのころの宗助は今と違って多くの友だちを持っていた。実をいうと、軽快な彼の目に映ずるすべての人は、ほとんどだれかれの区別なく友だちであった。彼は敵という言葉の意味を正当に解しえない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。
「なに不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって歓迎されるもんだよ」と学友の安《やす》井《い》によく話したことがあった。じっさい彼の顔は、ひとを不愉快にするほど深刻な表情を示しえたためしがなかった。
「君はからだが丈夫だから結構だ」とよくどこかに故障の起こる安井がうらやましがった。この安井というのは国は越《えち》前《ぜん》だが、長く横浜にいたので、言葉や様子はごうも東京ものと異なる点がなかった。着物道楽で、髪の毛を長くしてまん中から分ける癖があった。高等学校は違っていたけれども、講義のときよく隣合わせに並んで、時々聞きそこなったところなどをあとから質問するので、口をききだしたのがもとになって、つい懇意になった。それが学年のはじまりだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜であった。彼は安井の案内で新しい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいうにぎやかな町を歩いた。時によると京《きよう》極《ごく》も通り抜けた。橋のまん中に立って鴨《かも》川《がわ》の水をながめた。東《ひがし》山《やま》の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人にあきたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。宗助は至る所の大《おお》竹《たけ》藪《やぶ》に緑のこもる深い姿を喜んだ。松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風《ふ》情《ぜい》を楽しんだ。ある時は大《だい》悲《ひ》閣《かく*》へ登って、即非《*》の額の下にあお向きながら、谷底の流れを下る櫓《ろ》の音を聞いた。その音が雁《かり》の鳴き声によく似ているのを二人ともおもしろがった。ある時は、平《へい》八《はち》茶《ぢや》屋《や*》まで出かけていって、そこに一日寝ていた。そうしてまずい河《かわ》魚《うお》の串《くし》に刺したのを、かみさんに焼かして酒をのんだ。そのかみさんは、手拭をかぶって、紺の立《たつ》付《つけ》みたようなものをはいていた。
宗助はこんな新しい刺激とともに、しばらくは欲求の満足を得た。けれどもひととおり古い都の臭《にお》いをかいで歩くうちに、すべてがやがて、平板に見えだしてきた。そのとき彼は美しい山の色と清い水の色が、最初ほど鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思いはじめた。彼は暖かな若い血をいだいて、その熱《ほて》りをさます深い緑にあえなくなった。そうかといって、この情熱をやき尽くすほどのはげしい活動にはむろん出会わなかった。彼の血は高い脈を打って、いたずらにむずがゆく彼のからだの中を流れた。彼は腕組をして、いながら四方の山をながめた。そうして、
「もうこんな古くさい所にはあきた」と言った。
安井は笑いながら、比較のため、自分の知っているある友だちの故郷の物語をして宗助に聞かした。それは浄《じよう》瑠《る》璃《り》の間《あい》の土《つち》山《やま》雨が降る《*》とある有名な宿《しゆく*》のことであった。朝起きてから夜寝るまで、目に入るものは山よりほかにない所で、まるで擂《すり》鉢《ばち》の底に住んでいると同じありさまだと告げたうえ、安井はその友だちの小さい時分の経験として、五月雨《さみだれ》の降りつづくおりなどは、子供心に、今にも自分の住んでいる宿が、四方の山から流れてくる雨の中につかってしまいそうで、心配でならなかったという話をした。宗助はそんな擂鉢の底で一生を過ごす人の運命ほど、情けないものはあるまいと考えた。
「そういう所に、人間がよく生きていられるな」と不思議そうな顔をして安井に言った。安井も笑っていた。そうして土山から出た人物のうちでは、千両箱をすり替えて磔《はりつけ》になったのがいちばん大きいのだという一口話を、やはり友だちから聞いたとおり繰り返した。狭い京都にあきた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そういう出来事も百年に一度ぐらいは必要だろうとまで思った。
その時分の宗助の目は、常に新しい世界にばかりそそがれていた。だから自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼びもどすために、花や紅葉《もみじ》を迎える必要がなくなった。強くはげしい命に生きたという証券をあくまで握りたかった彼には、活《い》きた現在と、これから生まれようとする未来が、当面の問題であったけれども、消えかかる過去は、夢同様に価の乏しい幻影にすぎなかった。彼は多くのはげかかった社《やしろ》と、さびはてた寺を見尽くして、色のさめた歴史のうえに、黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。ねぼけた昔に〓《てい》徊《かい》するほど、彼の気分は枯れていなかったのである。
学年の終わりに宗助と安井とは再会を約して手を分かった。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へ下ろう、もし時間が許すなら、興《おき》津《つ》あたりで泊まって、清《せい》見《けん》寺《じ》や三《み》保《ほ》の松《まつ》原《ばら》や、久《く》能《のう》山《ざん》でも見ながらゆっくり遊んでいこうと言った。宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井のはがきを手にする時の心持ちさえ予想した。
宗助が東京へ帰ったときは、父はもとよりまだ丈夫であった。小六は子供であった。彼は一年ぶりにさかんな都の炎熱と煤《ばい》煙《えん》を呼吸するのがかえってうれしく感じた。やくような日の下に、渦《うず》をまいて狂いだしそうな瓦《かわら》の色が、幾里となく続く景《け》色《しき》を、高い所からながめて、これでこそ東京だと思うことさえあった。今の宗助なら目をまわしかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼きつけべく、その時は反射してきたのである。
彼の未来は封じられた蕾《つぼみ》のように、開かないさきはひとに知れないばかりでなく、自分にもしかとはわからなかった。宗助はただ洋々の二字が彼の前途にたなびいている気がしただけであった。彼はこの暑い休暇中にも、卒業後の自分に対する謀《はかりごと》をゆるがせにはしなかった。彼は大学を出てから、官途につこうか、また実業に従おうか、それすら、まだはっきりと心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でもかまわず、今のうちから、進めるだけ進んでおくほうが利益だと心づいた。彼は直接父の紹介を得た。父を通して間接にその知人の紹介を得た。そうして自分の将来を影響しうるような人を物色して、二、三の訪問を試みた。彼らのあるものは、避暑という名義のもとに、すでに東京を離れていた。あるものは不在であった。またあるものは多忙のため時を期して、勤務先で会おうと言った。宗助は日のまだ高くならない七時ごろに、エレベーターで煉《れん》瓦《が》造りの三階へ案内されて、そこの応接間に、もう七、八人も自分と同じように、同じ人を待っている光景を見て驚いたこともあった。彼はこうして新しい所へ行って、新しい物に接するのが、用向きの成否にかかわらず、今まで目につかずに過ぎた活きた世界の断片を、頭へ詰め込むような気がしてなんとなく愉快であった。
父の言いつけで、毎年のとおり虫干の手伝いをさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前の湿《しめ》っぽい石の上に腰をかけて、古くから家にあった江戸名所図《ず》会《え*》と、江戸砂《すな》子《ご*》という本を物珍しそうにながめた。畳まで熱くなった座敷のまん中へあぐらをかいて、下女の買ってきた樟《しよう》脳《のう》を、小さな紙きれに取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。宗助は子供の時から、この樟脳の高い香りと、汗の出る土用と、炮《ほう》烙《ろく》灸《きゆう*》と、蒼《あお》空《ぞら》をゆるく舞う鳶《とび》とを連想していた。
とかくするうちに節は立秋に入った。二百十日のまえには、風が吹いて、雨が降った。空には薄墨のにじんだような雲がしきりに動いた。寒暖計が二、三日下がりきりに下がった。宗助はまた行《こう》李《り》を麻《あさ》縄《なわ》でからげて、京都へ向かう仕度をしなければならなくなった。
彼はこのあいだにも安井と約束のあることは忘れなかった。家《うち》へ帰った当座は、まだ二か月も先のことだからとゆっくり構えていたが、だんだん時日がせまるに従って、安井の消息が気になってきた。安井はその後一枚のはがきさえよこさなかったのである。宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出してみた。けれども返事はついに来なかった。宗助は横浜のほうへ問い合わせてみようと思ったが、つい番地も町名も聞いておかなかったので、どうすることもできなかった。
たつまえの晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求どおり、普通の旅費以外に、途中で二、三日滞在したうえ、京都へ着いてからの当分の小遣いを渡して、
「なるたけ節倹しなくちゃいけない」とさとした。
宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。父はまた、
「来年また帰ってくるまでは会わないから、ずいぶん気をつけて」と言った。その帰ってくる時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。そうして帰って来た時は、父の亡《なき》骸《がら》がもう冷たくなっていたのである。宗助は今に至るまで、その時の父の面影を思い浮かべてはすまないような気がした。
いよいよたつという間ぎわに、宗助は安井から一通の封書を受け取った。開いて見ると、約束どおりいっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があってさきへたたなければならないことになったからという断わりを述べた末、いずれ京都でゆっくり会おうと書いてあった。宗助はそれを洋服の内《うち》懐《ぶところ》に押し込んで汽車に乗った。約束の興津へ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一《ひと》筋《すじ》町《まち》を清見寺の方へ歩いた。夏もすでに過ぎた九月の初めなので、おおかたの避《ひ》暑《しよ》客《かく》は早く引き上げたあとだから、宿屋は比較的閑静であった。宗助は海の見える一室の中に腹ばいになって、安井へ送る絵はがきへ二、三行の文句を書いた。そのなかに、君が来ないから僕一人でここへ来たという言葉を入れた。
翌日も約束どおり一人で三保と竜《りゆう》華《げ》寺《じ》を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけこしらえた。しかし天気のせいか、あてにした連れのないためか、海を見ても、山へ登っても、それほどおもしろくなかった。宿にじっとしているのは、なお退屈であった。宗助はそうそうにまた宿の浴衣《ゆかた》を脱ぎ捨てて、絞りの三尺とともに欄干にかけて、興津を去った。
京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往来の日影を知らずに暮らした。二日《ふつか》目《め》になってようやく学校へ出てみると、教師はまだ出そろっていなかった。学生も平日《いつも》よりは数が不足であった。不審なことには、自分より三《さん》、四《よ》っ日まえに帰っているべきはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回ってみた。安井のいる所は樹《き》と水の多い加茂の社のそばであった。彼は夏休みまえから、少し閑静な町はずれへ移って勉強するつもりだとか言って、わざわざこの不便な村同様な田舎《いなか》へ引っ込んだのである。彼の見つけ出した家からがさびた土《ど》塀《べい》を二方にめぐらして、すでに古風にかたづいていた。宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人であったという話を聞いた。非常に能弁な京都言葉をあやつる四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。
「世話って、ただまずい菜《さい》をこしらえて、三度ずつ室《へや》へ運んでくれるだけだよ」と安井は移り立てからこの細君の悪《わる》口《くち》をきいていた。宗助は安井をここに二、三度たずねた縁故で、彼のいわゆるまずい菜をこしらえる主を知っていた。細君のほうでも宗助の顔を覚えていた。細君は宗助を見るやいなや、例の柔らかい舌でいんぎんな挨《あい》拶《さつ》を述べた後、こっちから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向こうから尋ねた。細君のいうところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の音信さえ下宿へは出さなかったのである。宗助は案外な思いで自分の下宿へ帰ってきた。
それから一週間ほどは、学校へ出るたんびに、今日《きよう》は安井の顔が見えるか、明日《あす》は安井の声がするかと、毎日漠《ばく》然《ぜん》とした予期をいだいては教室の戸をあけた。そうして毎日また漠然とした不足を感じては帰ってきた。もっとも最後の三、四日における宗助は、早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから、失敬してさきへたつとわざわざ通知しながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。彼は学友のだれかれにまんべんなく安井の動静を聞いてみた。しかしだれも知るものはなかった。ただ一人が、昨夕《ゆうべ》四条の人《ひと》込《ご》みの中で、安井によく似た浴衣《ゆかた》がけの男を見たと答えたことがあった。しかし宗助にはそれが安井だろうとは信じられなかった。ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話のとおりの服装《なり》をした安井が、突然宗助のところへ尋ねてきた。
宗助は着流しのまま麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》を手に持った友だちの姿を久しぶりにながめたとき、夏休みまえの彼の顔のうえに、新しい何物かがさらにつけ加えられたような気がした。安井は黒い髪に油を塗って、目立つほどきれいに頭を分けていた。そうして今床屋へ行ってきたところだと言い訳らしいことを言った。
その晩彼は宗助と一時間余りも雑談にふけった。彼の重々しい口のきき方、自分をはばかって、思いきれないような話の調子、「しかるに」という口《くち》癖《ぐせ》、すべて平生の彼と異なる点はなかった。ただ彼はなぜ宗助よりさきへ横浜をたったかを語らなかった。また途中どこで暇取ったため、宗助よりおくれて京都へ着いたかをはっきり告げなかった。しかし彼は、三、四日まえようやく京都へ着いたことだけを明らかにした。そうして、夏休みまえにいた下宿へはまだ帰らずにいると言った。
「それでどこに」と宗助が聞いたとき、彼は自分の今泊まっている宿屋の名前を、宗助に教えた。それは三条辺の三流ぐらいの家であった。宗助はその名前を知っていた。
「どうして、そんなところへはいったのだ。当分そこにいるつもりなのかい」と宗助は重ねて聞いた。安井はただ少し都合があってとばかり答えたが、
「下宿生活はもうやめて、小さい家《うち》でも借りようかと思っている」と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚かした。
それから一週間ばかりのうちに、安井はとうとう宗助に話したとおり、学校近くの閑静な所に一戸を構えた。それは京都に共通な暗い陰気な作りのうえに、柱や格子を赤黒く塗って、わざと古臭く見せた狭い貸家であった。門口にだれの所有ともつかない柳が一本あって、長い枝がほとんど軒にさわりそうに風に吹かれるさまを宗助は見た。庭も東京と違って、少しは整っていた。石の自由になる所だけに、比較的大きなのが座敷の真正面にすえてあった。その下には涼しそうな苔《こけ》がいくらでもはえた。裏には敷居の腐った物置がからのままがらんと立っている後に、隣の竹《たけ》藪《やぶ》が便所の出はいりに望まれた。
宗助のここを訪問したのは、十月に少し間《ま》のある学期のはじめであった。残暑がまだ強いので宗助は学校の往復に、蝙蝠《こうもり》傘《がさ》を用いていたことを今に記憶していた。彼は格子の前で傘を畳んで、内を覗き込んだ時、粗《あら》い縞の浴衣を着た女の影をちらりと認めた。格子の内は三和土《たたき》で、それがまっすぐに裏まで突き抜けているのだから、はいってすぐ右手の玄関めいた上がり口を上がらない以上は、暗いながら一筋に奥の方まで見えるわけであった。宗助は浴衣の後影が、裏口へ出るところで消えてなくなるまでそこに立っていた。それから格子を開けた。玄関へは安井自身が現われた。
座敷へ通ってしばらく話していたが、さっきの女はまったく顔を出さなかった。声もたてず、音もさせなかった。広い家《うち》でないから、つい隣の部《へ》屋《や》ぐらいにいたのだろうけれども、いないのとまるで違わなかった。この影のように静かな女がお米であった。
安井は郷里のこと、東京のこと、学校の講義のこと、なにくれとなく話した。けれども、お米のことについては一言も口にしなかった。宗助も聞く勇気に乏しかった。その日はそれなり別れた。
次の日二人が顔を合わした時、宗助はやはり女のことを胸の中に記憶していたが、口へ出しては一《ひと》言《こと》も語らなかった。安井もなにげないふうをしていた。懇意な若い青年が心やすだてに話し合う遠慮のない題目は、これまで二人のあいだに何度となく交換されたにもかかわらず、安井はここへ来て、いきづまったごとくに見えた。宗助もそこをむりにこじあけるほどの強い好奇心はもたなかった。したがって女は二人の意識のあいだにはさまりながら、つい話題にのぼらないで、また一週間ばかり過ぎた。
その日曜に彼はまた安井を訪《と》うた。それは二人の関係しているある会について用事が起こったためで、女とはまったく縁故のない動機から出た淡泊な訪問であった。けれども座敷へ上がって、同じ所へすわらせられて、垣根に沿うた小さな梅の木を見ると、このまえ来た時のことが明らかに思い出された。その日も座敷のほかは、しんとして静かであった。宗助はその静かなうちに忍んでいる若い女の影を想像しないわけにいかなかった。同時にその若い女はこのまえと同じように、けっして自分の前に出てくる気づかいはあるまいと信じていた。
この予期のもとに、宗助は突然お米に紹介されたのである。そのときお米はこのあいだのように粗い浴衣を着てはいなかった。これからよそへ行くか、また今外から帰って来たというふうな粧《よそお》いをして、次の間から出てきた。宗助にはそれが意外であった。しかし大した綺《き》羅《ら》を着飾ったわけでもないので、衣服の色も、帯の光も、それほど彼を驚かすまでには至らなかった。そのうえお米は若い女にありがちの嬌《きよう》羞《しゆう》というものを、初対面の宗助に向かって、あまり多く表わさなかった。ただ普通の人間を静かにして言葉すくなに切り詰めただけに見えた。人の前へ出ても、隣の室《へや》に忍んでいる時と、あまり区別のないほど落ち付いた女だということを見いだした宗助は、それから推《お》して、お米のひっそりしていたのは、あながち恥ずかしがって、人の前へ出るのを避けたためばかりでもなかったんだと思った。
安井はお米を紹介する時、
「これは僕の妹《いもと》だ」という言葉を用いた。宗助は四、五分対座して、少し談話をとりかわしているうちに、お米の口調のどこにも、国《くに》訛《なま》りらしい音のまじっていないことに気がついた。
「今までお国の方に」と聞いたら、お米が返事をするまえに安井が、
「いや横浜に長く」と答えた。
その日は二人して町へ買物に出ようというので、お米は不断着を脱ぎかえて、暑いところをわざわざ新しい白足袋まではいたものと知れた。宗助はせっかくの出がけをくいとめて、じゃまでもしたように気の毒な思いをした。
「なに宅《うち》を持ちたてだものだから、毎日毎日いるものを新しく発見するんで、一週に一、二へんはぜひ都まで買い出しに行かなければならない」と言いながら安井は笑った。
「途《みち》までいっしょに出かけよう」と宗助はすぐ立ち上がった。ついでに家《うち》の様子を見てくれと安井の言うに任せた。宗助は次の間にあるトタンの落としのついた四角な火鉢や、黄な安っぽい色をした真《しん》鍮《ちゆう》の薬《や》鑵《かん》や、古びた流しのそばに置かれた新しすぎる手《て》桶《おけ》をながめて、門《かど》へ出た。安井は門口へ錠をおろして、鍵《かぎ》を裏の家《うち》へ預けるとか言って、かけていった。宗助とお米は待っているあいだ、二《ふた》言《こと》、三《み》言《こと》、尋常な口をきいた。
宗助はこの三、四分間にとりかわした互いの言葉を、いまだに覚えていた。それはただの男がただの女に対して人間たる親しみを表わすために、やりとりする簡略な言葉にすぎなかった。形容すれば水のように浅く淡いものであった。彼は今日まで路傍道上において、なにかのおりにふれて、知らない人を相手に、これほどの挨拶をどのくらい繰り返してきたかわからなかった。
宗助はきわめて短いその時の談話を、いちいち思い浮かべるたびに、そのいちいちが、ほとんど無着色といっていいほどに、平淡であったことを認めた。そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああまっかに、塗りつけたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経て昔の鮮《あざや》かさを失っていた。互いをやきこがした炎は、しぜんと変色して黒くなっていた。二人の生活はかようにして暗いなかに沈んでいた。宗助は過去を振り向いて、事のなりゆきを逆にながめ返しては、この淡泊な挨拶が、いかに自分らの歴史を濃くいろどったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
宗助は二人で門の前にたたずんでいる時、彼らの影が折れ曲がって、半分ばかり土塀に映ったのを記憶していた。お米の影が蝙蝠傘でさえぎられて、頭の代わりに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少しかたむきかけた初《はつ》秋《あき》の日が、じりじり二人を照りつけたのを記憶していた。お米は傘をさしたまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まださめきらない柳の葉の色を、一歩遠のいてながめ合わしたことを記憶していた。
今考えるとすべてが明らかであった。したがってなんらの奇もなかった。二人は土塀の影から再び現われた安井を待ち合わして、町の方へ歩いた。歩く時、男同志は肩を並べた。お米は草履《ぞうり》を引いてあとに落ちた。話しも多くは男だけで受け持った。それも長くはなかった。途中まで来て宗助は一人分かれて、自分の家《うち》へ帰ったからである。
けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。家へ帰って、湯にはいって、燈《ともし》火《び》の前にすわった後にも、おりおり色の着いた平たい画《え》として、安井とお米の姿が目先にちらついた。それのみか床に入ってからは、妹《いもと》だと言って紹介されたお米が、はたしてほんとうの妹であろうかと考えはじめた。安井に問い詰めないかぎり、この疑いの解決は容易でなかったけれども、憶《おく》断《だん》はすぐついた。宗助はこの憶断を許すべき余地が、安井とお米のあいだに十分存在しうるだろうぐらいに考えて、ねながらおかしく思った。しかもその憶断に、腹の中で低回することのばかばかしいのに気がついて、消し忘れたランプをようやくふっと吹き消した。
こういう記憶の、しだいに沈んであとかたもなくなるまで、お互いの顔を見ずにすごすほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。二人は毎日学校で出合うばかりでなく、依然として夏休みまえのとおり往来を続けていた。けれども宗助が行くたびに、お米は必ず挨拶に出るとは限らなかった。三べんに一ぺんくらい、顔を見せないで、はじめての時のように、ひっそり隣の室《へや》に忍んでいることもあった。宗助はべつにそれを気にもとめなかった。それにもかからわらず、二人はようやく接近した。いくばくならずして冗談を言うほどの親しみができた。
そのうちまた秋がきた。去年と同じ事情のもとに、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井とお米に誘われて茸《たけ》狩《がり》に行った時、ほがらかな空気のうちにまた新しい香《にお》いを見いだした。紅葉《もみじ》も三人で見た。嵯《さ》峨《が》から山を抜けて高《たか》雄《お》へ歩く途中で、お米は着物の裾をまくって、長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》だけを足袋の上までひいて、細い傘を杖にした。山の上から一町も下に見える流れに日がさして、水の底が明らかに遠くから透かされた時、お米は、
「京都はいい所ね」と言って二人をかえりみた。それをいっしょにながめた宗助にも、京都はまったくいい所のように思われた。
こうそろって外へ出たことも珍しくはなかった。家《うち》の中で顔を合わせることはなおしばしばあった。あるとき宗助が例のごとく安井を尋ねたら、安井は留守で、お米ばかり淋《さみ》しい秋のなかに取り残されたように一人すわっていた。宗助は淋《さむ》しいでしょうと言って、つい座敷に上がり込んで、一つ火鉢の両側に手をかざしながら、思ったより長話をして帰った。あるとき宗助がぽかんとして、下宿の机によりかかったまま、珍しく時間の使い方に困っていると、ふとお米がやってきた。そこまで買物に出たから、ついでに寄ったんだとか言って、宗助のすすめるとおり、茶を飲んだり菓子を食べたり、ゆっくりくつろいだ話をして帰った。
こんなことが重なってゆくうちに、木の葉がいつのまにか落ちてしまった。そうして高い山の頂が、ある朝まっ白に見えた。吹きさらしの河原《かわら》が白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。その年の京都の冬は、音をたてずに肌をとおす陰忍なたちのものであった。安井はこの悪性の寒《かん》気《き》にあてられて、ひどいインフルエンザにかかった。熱が普通の風邪《かぜ》よりもよほど高かったので、はじめはお米も驚いたが、それは一時のことで、すぐひいたにはひいたから、これでもう全快と思うと、いつまで立ってもはっきりしなかった。安井は黐《もち*》のような熱にからみつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。
医者は少し呼吸器を冒されているようだからと言って、せつに転地を勧めた。安井は心ならず押入れの中の柳《やなぎ》行《こう》李《り》に麻縄をかけた。お米は手提鞄に錠をおろした。宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまで室《へや》の中へはいって、わざと陽気な話をした。プラットフォームへおりた時、窓の内から、
「遊びに来たまえ」と安井が言った。
「どうぞぜひ」とお米が言った。
汽車は血色のいい宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向かって煙を吐いた。
病人は転地先で年を越した。絵はがきは着いた日から毎日のようによこした。それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてないことはなかった。お米の文字も一、二行ずつは必ずまじっていた。宗助は安井とお米から届いた絵はがきを別にして机の上に重ねておいた。外から帰るとそれがすぐ目についた。時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。しまいにもうすっかりなおったから帰る。しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾だから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いというはがきが来た。無事と退屈を忌む宗助を動かすには、この十数言で十分であった。宗助は汽車を利用してその夜《よ》のうちに安井の宿に着いた。
明るい燈《ともし》火《び》の下に、三人が待ち設けた顔を合わした時、宗助はなによりもまず病人のいろつやの回復してきたことに気がついた。立つまえよりもかえっていいくらいに見えた。安井自身もそんな心持ちがすると言って、わざわざシャツの袖《そで》をまくり上げて、青筋のはいった腕をひとりでなでていた。お米もうれしそうに目を輝かした。宗助にはその活発な目づかいがことに珍しく受け取れた。今まで宗助の心に映じたお米は、色と音の撩《りよう》乱《らん》するなかに立ってさえ、きわめて落ち付いていた。そうしてその落ち付きの大部分は、やたらに動かさない目の働きからきたとしか思われなかった。
次の日三人は表へ出て、遠く濃い色を流す海をながめた。松の幹から脂《やに》の出る空気を吸った。冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤に竈《かまど》の火の色に染めていった。風は夜《よ》に入っても起こらなかった。ただ時々松を鳴らして過ぎた。暖かいいい日が宗助の泊まっている三日のあいだ続いた。
宗助はもっと遊んでゆきたいと言った。お米はもっと遊んでゆきましょうと言った。安井は宗助が遊びに来たからいい天気になったんだろうと言った。三人はまた行李と鞄を携えて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山の上を明らかにしたまだらな雪がしだいに落ちて、あとから青い色が一度に芽を吹いた。
宗助は当時を思い出すたびに、自然の進行がそこではたりととまって、自分もお米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭をもたげる時分に始まって、散り尽くした桜の花が若葉に色をかえるころに終わった。すべてが生《しよう》死《し》の戦いであった。青竹をあぶって油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時は、どこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分たちを認めた。けれども、いつ吹き倒されたかを知らなかった。
世間は容赦なく彼らに徳義上の罪をしょわした。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められるまえに、いったん茫然として、彼らの頭が確かであるかを疑った。彼らは彼らの目に、不徳義な男《なん》女《によ》として恥ずべく映るまえに、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言い訳らしい言い訳がなんにもなかった。だからそこにいうに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気まぐれに罪もない二人の不意を打って、おもしろ半分おとしあなの中に突き落としたのを無念に思った。
暴露の日がまともに彼らの眉《み》間《けん》を射た時、彼らはすでに徳義上の痙《けい》攣《れん》の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこに炎に似た烙《やき》印《いん》を受けた。そうして無形の鎖でつながれたまま、手を携えてどこまでも、いっしょに歩調をともにしなければならないことを見いだした。彼らは親を捨てた。親類を捨てた。友だちを捨てた。大きくいえば一般の社会を捨てた。もしくはそれらから捨てられた。学校からはむろん捨てられた。ただ表向きだけはこちらから退学したことになって、形式のうえに人間らしいあとをとどめた。
これが宗助とお米の過去であった。
十五
この過去を負わされた二人《ふたり》は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出てきても、依然として重い荷におさえつけられていた。佐伯の家とは親しい関係が結べなくなった。叔父《おじ》は死んだ。叔母《おば》と安之助はまだ生きているが、生きているあいだに打ち解けた交際《つきあい》はできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。今年はまだ歳暮にも行かなかった。向こうからも来なかった。家に引き取った小六さえ、腹の底では兄に敬意を払っていなかった。二人が東京へ出たてには、単純な子供の頭から、正直にお米をにくんでいた。お米にも宗助にもそれがよくわかっていた。夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。今年ももう尽きる間ぎわまで来た。
通《とおり》町《ちよう》では暮れのうちから門《かど》並《なみ》そろいの注連《しめ》飾《かざ》りをした。往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹《ささ》が、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘づけにした。それから大きな赤い橙《だいだい》をお供えの上にのせて、床の間にすえた。床にはいかがわしい墨《すみ》画《え》の梅が、蛤《はまぐり》の格好をした月を吐いてかかっていた。宗助にはこの変な軸の前に、橙とお供えを置く意味がわからなかった。
「いったいこりゃ、どういう了見だね」と自分で飾りつけた物をながめながら、お米に聞いた。お米にも毎《まい》年《とし》こうする意味はとんとわからなかった。
「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」と言って台所へ去った。宗助は、
「こうしておいて、つまり食うためか」と首を傾けてお供えの位置を直した。
伸《のし》餅《もち》は夜業《よなべ》に俎《まないた》を茶の間まで持ち出して、みんなで切った。包丁が足りないので、宗助ははじめからしまいまで手を出さなかった。力のあるだけに小六がいちばん多く切った。その代わり不同もいちばん多かった。なかには見かけの悪い形のものもまじった。変なのができるたびに清が声を出して笑った。小六は包丁の背に濡《ぬれ》布《ぶ》巾《きん》をあてがって、かたい耳のところを断ち切りながら、
「格好はどうでも、食いさいすればいいんだ」と、うんと力を入れて耳まで赤くした。
そのほかに迎《げい》年《ねん》の仕度としては、ごまめをいって、煮しめを重詰めにするくらいなものであった。大《おお》晦日《みそか》の夜《よ》に入って、宗助は挨拶かたがた屋賃を持って、坂井の家に行った。わざと遠慮して勝手口へ回ると、すりガラスへ明るい灯《ひ》が映って、中はざわざわしていた。上がり框《がまち》に帳面を持って腰をかけた掛取りらしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。茶の間には主人も細君もいた。その片《かた》隅《すみ》に印《しるし》袢《ばん》天《てん》を着た出入りのものらしいものが、下を向いて、ちいさい輪飾りをいくつもこしらえていた。そばに譲《ゆずり》葉《は》と裏《うら》白《じろ》と半紙と鋏《はさみ》が置いてあった。若い下女が細君の前にすわって、釣銭らしい札と銀貨を畳に並べていた。主人は宗助を見て、
「いやどうも」と言った。「押し詰まってさぞお忙しいでしょう。このとおりごたごたです。さあどうぞこちらへ。なんですな、お互いに正月にはもう飽きましたな。いくらおもしろいものでも四十ぺん以上繰り返すといやになりますね」
主人は年の送迎にわずらわしいようなことを言ったが、その態度にはどことさしてくさくさしたところは認められなかった。言葉づかいは活発であった。顔はつやつやしていた。晩食に傾けた酒の勢いが、まだ頬の上にさしているごとく思われた。宗助はもらい煙草《たばこ》をして二、三十分ばかり話して帰った。
家《うち》ではお米が清を連れて湯に行くとか言って、石鹸《シヤボン》入れを手拭にくるんで、留《る》守《す》居《い》を頼む夫の帰りを待ち受けていた。
「どうなすったの、ずいぶん長かったわね」と言って時計をながめた。時計はもう十時近くであった。そのうえ清は湯のもどりに髪《かみ》結《ゆい》のところへ回って頭をこしらえるはずだそうであった。閑静な宗助の活計《くらし》も、大晦日にはそれ相応の事件が寄せてきた。
「払いはもうみんな済んだのかい」と宗助は立ちながらお米に聞いた。お米はまだ薪《まき》屋《や》が一軒残っていると答えた。
「来たら払ってちょうだい」と言って懐の中からよごれた男持ちの紙入れと、銀貨入れの蟇《がま》口《ぐち》を出して、宗助に渡した。
「小六はどうした」と夫はそれを受け取りながら言った。
「さっき大晦日の夜の景色を見てくるって出ていったのよ。ずいぶん御苦労さまね。この寒いのに」と言うお米のあとについて、清は大きな声を出して笑った。やがて、
「お若いから」と評しながら、勝手口へ行って、お米の下駄をそろえた。
「どこの夜景を見る気なんだ」
「銀座から日本橋通りのだって」
お米はその時もう框からおりかけていた。すぐ腰障子をあける音がした。宗助はその音を聞き送って、たった一人《ひとり》火鉢の前にすわって、灰になる炭の色をながめていた。彼の頭には明日《あした》の日の丸が映った。外を乗り回す人の絹帽子の光が見えた。サーベルの音だの、馬のいななきだの、遣《やり》羽《は》子《ご》の声が聞こえた。彼は今から数時間の後、また年中行事のうちで、もっとも人の心を新たにすべく仕組まれた景物に出会わなければならなかった。
陽気そうに見えるもの、にぎやかそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、そのうちで彼の臂《ひじ》をとって、いっしょに引っ張っていこうとするものは一つもなかった。彼はただ饗《きよう》宴《えん》に招かれない局外者として、酔うことを禁じられたごとくに、また酔うことをまぬかれた人であった。彼は自分とお米の生命《ライフ》を、毎年平凡な波《は》瀾《らん》のうちに送る以上に、まのあたり大した希望も持っていなかった。こうして忙がしい大晦日に、一人家を守る静かさが、ちょうど彼の平生の現実を代表していた。
お米は十時過ぎに帰ってきた。いつもよりつやのいい頬を灯《ひ》に照らして、湯のぬくもりのまだ抜けない襟《えり》を少しあけるように襦《じゆ》袢《ばん》を重ねていた。長い襟首がよく見えた。
「どうも込んで込んで、洗うことも桶《おけ》を取ることもできないくらいなの」とはじめてゆっくり息をついた。
清の帰ったのは十一時過ぎであった。これもきれいな頭を障子から出して、ただ今、どうもおそくなりましたと挨拶をしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合わしたという話をした。
ただ小六だけは容易に帰らなかった。十二時を打ったとき、宗助はもう寝ようと言いだした。お米は今日にかぎって、さきへ寝るのも変なものだと思って、できるだけ話をつないでいた。小六はさいわいにしてまもなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水《すい》天《てん》宮《ぐう》の方へ回ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために、おそくなったという言い訳をした。
白《はく》牡《ぼ》丹《たん*》へはいって、景物の金時計でも取ろうと思ったが、なにも買うものがなかったので、しかたなしに鈴のついたお手玉を一箱買って、そうして幾百となく器械で吹きあげられる風船を一つつかんだら、金時計は当たらないで、こんなものがあたったと言って、袂《たもと》から倶《ク》楽《ラ》部《ブ》洗《あらい》粉《こ》を一袋出した。それをお米の前に置いて、
「姉《ねえ》さんにあげましょう」と言った。それから鈴をつけた、梅の花の形に縫ったお手玉を宗助の前に置いて、
「坂井のお嬢さんにでもおあげなさい」と言った。
事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終わりを告げた。
十六
正月は二日《ふつか》目《め》の雪をひきいて注連飾りの都を白くした。降りやんだ屋根の色がもとにかえるまえ、夫婦はトタン張りの庇《ひさし》をすべり落ちる雪の音に幾へんか驚かされた。夜《よ》半《なか》にはどさという響きがことにはなはだしかった。小《こう》路《じ》の泥濘《ぬかるみ》は雨上がりと違って、一《いち》日《んち》や二日《ふつか》では容易にかわかなかった。外から靴をよごして帰ってくる宗助が、お米の顔を見るたびに、
「こりゃいけない」と言いながら玄関へ上がった。その様子があたかもお米を路《みち》を悪くした責任者とみなしているふうに受け取られるので、お米はしまいに、
「どうもすみません。ほんとうにお気の毒さま」と言って笑いだした。宗助はべつに返すべき冗談ももたなかった。
「お米ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄をはかなくっちゃならないようにみえるだろう。ところが下町へ出ると大違いだ。どの通りもどの通りもからからで、かえって埃がたつくらいだから、足駄なんぞはいちゃきまりが悪くって歩けやしない。つまりこういう所に住んでいる我々は、一世紀がたおくれることになるんだね」
こんなことを口にする宗助は、べつに不足らしい顔もしていなかった。お米も夫の鼻の穴をくぐる煙草の煙《けむ》をながめるくらいな気で、それを聞いていた。
「坂井さんへ行って、そう言っていらっしゃいな」と軽い返事をした。
「そうして屋賃でもまけてもらうことにしよう」と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。
その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のあるところを一日のうちにほぼかたづけて夕方帰ってみると、留守のあいだに、坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。二日は雪が降っただけで何事もなく過ぎた。三日目の日暮れに下女が使いに来て、おひまならば、旦那様と奥様と、それから若旦那様にぜひ今晩お遊びにいらっしゃるようにと言って帰った。
「なにをするんだろう」と宗助は疑った。
「きっと歌《うた》歌《が》留《る》多《た》でしょう。子供が多いから」とお米が言った。「あなた行っていらっしゃい」
「せっかくだからお前行くがいい。おれは歌留多は久しく取らないからだめだ」
「私も久しく取らないからだめですわ」
二人は容易に行こうとはしなかった。しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くがよかろうということになった。
「若旦那行ってこい」と宗助が小六に言った。小六は苦笑いして立った。夫婦は若旦那という名を小六にかむらせることを、たいへんな滑《こつ》稽《けい》のように感じた。若旦那と呼ばれて、苦笑いする小六の顔を見ると、等しく声を出して笑いだした。小六は春らしい空気のうちから出た。そうして一町ほどの寒さを横切って、また春らしい電燈のもとにすわった。
その晩小六は大晦日に買った梅の花のお手玉を袂《たもと》に入れて、これは兄からさしあげますとわざわざ断わって、坂井のお嬢さんに贈り物にした。その代わり帰りには、福引に当たった小さな裸人形を同じ袂に入れて来た。その人形の額が少し欠けて、そこだけ墨で塗ってあった。小六はまじめな顔をして、これが袖《そで》萩《はぎ*》だそうですと言って、それを兄夫婦の前に置いた。なぜ袖萩だか夫婦にはわからなかった。小六にはむろんわからなかったのを、坂井の奥さんが丁寧に説明してくれたそうであるが、それでもふに落ちなかったので、主人がわざわざ半《はん》切《きれ》に洒落《しやれ》と本《ほん》文《もん》を並べて書いて、帰ったらこれを兄《にい》さんと姉《ねえ》さんに、お見せなさいと言って渡したとかいう話であった。小六は袂をさぐってその書付けを取り出して見せた。それに「この垣《かき》一《ひと》重《え》が黒《くろ》鉄《がね》の」としたためたあとにかっこをして、(この餓鬼額《ひたえ》が黒《くろ》欠《がけ》の)とつけ加えてあったので、宗助とお米はまた春らしい笑いをもらした。
「ずいぶん念の入った趣向だね。いったいだれの考えだい」と兄が聞いた。
「だれですかな」と小六はやっぱりつまらなそうな顔をして、人形をそこへほうり出したまま、自分の室《へや》に帰った。
それから二、三日して、たしか七《なぬ》日《か》の夕方に、また例の坂井の下女が来て、もしおひまならどうぞお話にと、丁寧に主人の命を伝えた。宗助とお米はランプをつけてちょうど晩《ばん》食《めし》を始めたところであった。宗助はそのとき茶碗を持ちながら、
「春もようやく一段落がついた」と語っていた。そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、お米は夫の顔を見て微笑した。宗助は茶碗を置いて、
「まだなにか催しがあるのかい」と少し迷惑そうな眉《まゆ》をした。坂井の下女に聞いてみると、べつに来客もなければ、なんの仕度もないということであった。そのうえ細君は子供を連れて、親類へ呼ばれて行って留守だという話までした。
「それじゃ行こう」と言って宗助は出かけた。宗助は一般の社交をきらっていた。やむをえなければ会合の席などへ顔を出す男でなかった。個人としての朋友《ともだち》も多くは求めなかった。訪問はする暇をもたなかった。ただ坂井だけは取りのけであった。おりおりは用もないのにこっちからわざわざ出かけていって、時をつぶしてくることさえあった。そのくせ坂井は世の中でもっとも社交的の人であった。この社交的な坂井と、孤独な宗助が二人寄って話ができるのは、お米にさえ妙にみえる現象であった。坂井は、
「あっちへ行きましょう」と言って、茶の間を通り越して、廊下伝いに小さな書斎へはいった。そこには棕《しゆ》梠《ろ》の筆で書いたような、大きな硬《こわ》い字が五字ばかり床の間にかかっていた。棚の上にみごとな白い牡《ぼ》丹《たん》がいけてあった。そのほか机でも蒲団でもことごとくきれいであった。坂井ははじめ暗い入り口に立って、
「さあどうぞ」と言いながら、どこかぴちりとひねって、電気燈をつけた。それから、
「ちょっと待ちたまえ」と言って、マッチでガス暖《だん》炉《ろ》をたいた。ガス暖炉は室《へや》に比例したごく小さいものであった。坂井はしかる後蒲団をすすめた。
「これが僕の洞《どう》窟《くつ》で、めんどうになるとここへ避難するんです」
宗助も厚い綿の上で、一種の静かさを感じた。ガスの燃える音がかすかにして、しだいに背中からほかほか暖まってきた。
「ここにいると、もうどことも交渉はない。まったく気楽です。ゆっくりしていらっしゃい。じっさい正月というものは予想外にうるさいものですね。私も昨日《きのう》までほとんどへとへとに降参させられました。新年がもたれているのは実に苦しいですよ。それで今日の午《ひる》から、とうとう塵《じん》世《せい》を遠ざけて、病気になってぐっと寝込んじまいました。今しがた目をさまして、湯にはいって、それから飯を食って、煙草をのんで、気がついてみると、家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間もずいぶんわがままなものですよ。しかしいくら退屈だって、このうえおめでたいものを、見たり聞いたりしちゃ骨が折れますし、またお正月らしいものを、飲んだり食ったりするのも恐れますから、それで、お正月らしくない、というと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のないあなた、といってもまだ失敬かもしれないが、つまり一口にいうと、超然派の一《いち》人《にん》と話がしてみたくなったんで、それでわざわざ使いをあげたような訳なんです」と坂井は例の調子で、ことごとくすらすらしたものであった。宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れることがあった。そうして時によると、自分がもし順当に発展してきたら、こんな人物になりはしなかったろうかと考えた。
そこへ下女が三尺の狭い入り口をあけてはいってきたが、改めて宗助に丁寧なお辞儀をしたうえ、木皿のような菓子皿のようなものを、一つ前に置いた。それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一口もものを言わずにさがった。木皿の上にはゴム毬《まり》ほどな大きな田舎《いなか》饅《まん》頭《じゆう》が一つのせてあった。それに普通の倍以上もあろうと思われる楊《よう》枝《じ》が添えてあった。
「どうですあったかいうちに」と主人が言ったので、宗助ははじめてこの饅頭の蒸してまもない新しさに気がついた。珍しそうに黄色い皮をながめた。
「いやできたてじゃありません」と主人がまた言った。「実は昨夜あるところへ行って、冗談半分にほめたら、お土産《みやげ》に持っていらっしゃいと言うからもらってきたんです。その時はまったくあったかだったんですがね。これは今あげようと思って蒸し返さしたのです」
主人は箸《はし》とも楊枝ともかたのつかないもので、無造作に饅頭を割って、むしゃむしゃ食いはじめた。宗助も顰《ひん》にならった《*》。
そのあいだに主人は昨夕《ゆうべ》行った料理屋で会ったとか言って、妙な芸者の話をした。この芸者はポッケット論語《*》が好きで、汽車へ乗ったり遊びに行ったりするときは、いつでもそれを懐にして出るそうであった。
「それでね孔《こう》子《し》の門人のうちで、子《し》路《ろ》がいちばん好きだっていうんですがね。そのいわれを聞くと、子路という男は、一つなにか教《おす》わって、それをまだ行なわないうちに、また新しいことを聞くと苦にするほど正直だからだっていうんです。実のところ私《わたし》も子路はあまりよく知らないから困ったが、なにしろ一人いい人ができて、それと夫婦にならないまえに、また新しくいい人ができると苦になるようなものじゃないかって、聞いてみたんです……」
主人はこんなことをはなはだ気楽そうに述べたてた。その話の様子からして考えると、彼はのべつにこういう場所に出《しつ》入《にゆう》して、その刺激にはとうに麻《ま》痺《ひ》しながら、因習の結果、依然として月に何度となく同じことを繰り返しているらしかった。よく聞きただしてみると、しかく平気な男も、時々は歓楽の飽満に疲労して、書斎のなかで精神を休める必要が起こるのだそうであった。
宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、しいて興味を装う必要もなく、ただ尋常な挨拶をするところが、かえって主人の気に入るらしかった。彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去をのぞくようなそぶりを見せた。しかしそちらへは宗助が進みたがらない痕《こん》迹《せき》が少しでも出ると、すぐ話を転じた。それは政略よりもむしろ礼譲からであった。したがって宗助にはごうも不愉快を与えなかった。
そのうち小六の噂《うわさ》が出た。主人はこの青年について、肉身の兄が見のがすような新しい観察を、二、三もっていた。宗助は主人の評語を、当たると当たらないとに論なく、おもしろく聞いた。そのなかに、彼は年に合わしては複雑な実用に適しない頭をもっていながら、年よりも若い単純な性情を平気であらわす子供じゃないかという質問があった。宗助はすぐそれをうけがった。しかし学校教育だけで社会教育のないものは、いくら年をとってもその傾きがあるだろうと答えた。
「さよう、それと反対で、社会教育だけあって学校教育のないものは、ずいぶん複雑な性情を発揮する代わりに、頭はいつまでも子供ですからね。かえって始末が悪いかもしれない」
主人はここでちょっと笑ったが、やがて、
「どうです、私のところへ書生によこしちゃ、少しは社会教育になるかもしれない」と言った。主人の書生は彼の犬が病気で病院へはいる一か月まえとかに、徴兵検査に合格して入営したぎり、今では一人もいないのだそうであった。
宗助は小六の所置をつける好機会が、求めざるに先だって、春とともにおのずからめぐってきたのを喜んだ。同時に、今まで世間に向かって、積極的に好意と親切を要求する勇気をもたなかった彼は、突然この主人の申しいでにあって少しまごつくくらい驚いた。けれどもできるならなりたけ早く弟を坂井に預けておいて、この変動から出る自分の余裕に、いくぶんか安之助の補助を足して、そうして本人の希望どおり、高等の教育を受けさしてやろうという分別をした。そこで打ち明けた話を腹蔵なく主人にすると、主人はなるほどなるほどと聞いているだけであったが、しまいにぞうさなく、
「そいつはいいでしょう」と言ったので、相談はほぼその座でまとまった。
宗助はそこで辞して帰ればよかったのである。また辞して帰ろうとしたのである。ところが主人からまあゆっくりなさいと言ってとめられた。主人は夜《よ》は長い、まだ宵だと言って時計まで出して見せた。じっさい彼は退屈らしかった。宗助も帰ればただ寝るよりほかに用のないからだなので、ついまた尻をすえて、濃い煙草を新しく吹かしはじめた。しまいには主人の例にならって、柔らかい座蒲団の上で膝《ひざ》さえくずした。
主人は小六のことに関連して、
「いや弟《おとと》などをもっていると、ずいぶん厄介なものですよ。私も一人やくざなのを世話をした覚えがありますがね」と言って、自分の弟が大学にいるとき金のかかったことなどを、自分が学生時代の質《しつ》朴《ぼく》さに比べていろいろ話した。宗助がこのはで好きな弟が、その後どんな径路をとって、どう発展したかを、気味の悪い運命の意思をうかがう一端として、主人に聞いてみた。主人は卒然
「冒険者《アドベンチユアラー》」と、頭も尾《しつぽ》もない一句を投げるように吐いた。
この弟は卒業後主人の紹介で、ある銀行にはいったが、なんでも金をもうけなくっちゃいけないと口癖のように言っていたそうで、日露戦争後まもなく、主人のとめるのも聞かずに、大いに発展してみたいとかとなえて、ついに満州へ渡ったのだという。そこでなにを始めるかと思うと、遼《りよう》河《が》を利用して、豆《まめ》粕《かす》大《だい》豆《ず》を船でおろす、大仕掛けな運送業を経営して、たちまち失敗してしまったのだそうである。もとより当人は、資《し》本《ほん》主《ぬし》ではなかったのだけれども、いよいよというあかつきに、勘定してみると大きな欠損と事がきまったので、むろん事業は継続するわけにゆかず、当人は必然の結果、地位を失ったぎりになった。
「それからあと私《わたし》もどうしたかよく知らなかったんですが、その後ようやく聞いてみると、驚きましたね。蒙古へはいってうろついているんです。どこまで山《やま》気《ぎ》があるんだかわからないんで、私も少々けんのんになってるんですよ。それでも離れているうちは、まあどうかしているだろうぐらいに思ってほうっておきます。時たま音便《たより》があったって、蒙古という所は、水に乏しい所で、暑い時には往来へどぶの水をまくとかね、またはそのどぶの水がなくなると、今度は馬の小便をまくとか、したがってはなはだ臭《くさ》いとか、まあそんな手紙が来るだけですから、――そりゃあ金のことも言ってきますが、なに東京と蒙古だからうちやっておけばそれまでです。だから離れてさえいれば、まあいいんですが、そいつが去年の暮れ突然出てきましてね」
主人は思いついたように、床の柱にかけた、きれいな房のついた一種の装飾物をとりおろした。
それは錦《にしき》の袋にはいった一尺ばかりの刀であった。鞘《さや》はなにとも知れぬ緑色の雲母《きらら》のようなものでできていて、そのところどころが三か所ほど銀で巻いてあった。中身は六寸ぐらいしかなかった。したがって刃も薄かった。けれども鞘の格好はあたかも六角の樫の棒のように厚かった。よく見ると、柄《つか》の後に細い棒が二本並んでささっていた。結果は鞘を重ねて離れないために、銀の鉢《はち》巻《まき》をしたと同じであった。主人は、
「土産にこんなものを持ってきました。蒙古刀だそうです」と言いながら、すぐ抜いて見せた。後にさしてあった象《ぞう》牙《げ》のような棒も二本抜いてみせた。
「こりゃ箸ですよ。蒙古人は始終これを腰へぶら下げていて、いざごちそうという段になると、この刀を抜いて肉を切って、そうしてこの箸でそばから食うんだそうです」
主人はことさらに刀と箸を両手に持って、切ったり食ったりするまねをして見せた。宗助はひたすらにその精巧な作りをながめた。
「まだ蒙古人のテントに使うフェルトももらいましたが、まあ昔の毛《もう》氈《せん》と変わったところもありませんね」
主人は蒙古人のじょうずに馬を扱うことや、蒙古犬のやせて細長くて、西洋のグレー・ハウンドに似ていることや、彼らが支《し》那《な》人《じん》のためにだんだん押しせばめられてゆくことや、――すべて近ごろあっちから帰ったという弟に聞いたままを宗助に話した。宗助はまた自分のいまだかつて耳にしたことのない話だけに、いちいち少なからぬ興味をもってそれを聞いていった。そのうちに、元来この弟は蒙古でなにをしているのだろうという好奇心が出た。そこでちょっと主人に尋ねてみると、主人は、
「冒険者《アドベンチユアラー》」と再びさっきの言葉を力強く繰り返した。「なにをしているかわからない。私には、牧畜をやっています、しかも成功していますと言うんですがね、いっこう当《あて》にはなりません。今までもよくほらをふいて私をだましたもんです。それに今度東京へ出てきた用事というのがよっぽど妙です。なんとかいう蒙古王のために、金を二万円ばかり借りたい。もし貸してやらないと自分の信用にかかわるって奔走しているんですからね。そのとっぱじめにつかまったのは私だが、いくら蒙古王だって、いくら広い土地を抵当にするったって、蒙古と東京じゃ催促さえできやしませんもの。で、私が断わると、蔭《かげ》へ回って妻《さい》に、兄さんはあれだから大きな仕事ができっこないって、いばっているんです。しようがない」
主人はここで少し笑ったが、妙に緊張した宗助の顔を見て、
「どうです一ぺん会ってごらんになっちゃ、わざわざ毛皮の着いただぶだぶしたものなんか着て、ちょっとおもしろいですよ。なんなら御紹介しましょう。ちょうど明後日《あさつて》の晩呼んで飯を食わせることになっているから。――なにひっかかっちゃいけませんがね。黙って向こうにしゃべらして、聞いている分には、少しも危険はありません。ただおもしろいだけです」としきりに勧めだした。宗助は多少心を動かした。
「おいでになるのは御令弟だけですか」
「いやほかに一人弟の友だちで向こうからいっしょに来たものが、来るはずになっています。安井とかいって私はまだ会ったこともない男ですが、弟がしきりに私に紹介したがるから、実はそれで二人を呼ぶことにしたんです」
宗助はその夜《よ》蒼い顔をして坂井の門を出た。
十七
宗助とお米の一生を暗くいろどった関係は、二人の影を薄くして、幽霊のような思いをどこかにいだかしめた。彼らは自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものがひそんでいるのを、ほのかに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互いと向き合って年を過ごした。
当初彼らの頭脳に痛くこたえたのは、彼らのあやまちが安井の前途に及ぼした影響であった。二人の頭の中で沸き返ったすごい泡《あわ》のようなものがようやく静まった時、二人は安井もまた半途で学校を退いたという消息を耳にした。彼らはもとより安井の前途を傷つけた原因をなしたに違いなかった。次に安井が郷里に帰ったという噂を聞いた。次に病気にかかって家に寝ているという報知《しらせ》を得た。二人はそれを聞くたびに思い胸を痛めた。最後に安井が満州に行ったという音信《たより》が来た。宗助は腹の中で、病気はもうなおったのだろうかと思った。また満州行のほうが嘘《うそ》ではなかろうかと考えた。安井はからだからいっても、性質からいっても、満州や台湾に向く男ではなかったからである。宗助はできるだけ手を回して、事の真疑をさぐった。そうして、ある関係から、安井がたしかに奉天《*》にいることを確かめえた。同時に彼の健康で、活発で、多忙であることも確かめえた。そのとき夫婦は顔を見合わせて、ほっという息をついた。
「まあよかろう」と宗助が言った。
「病気よりはね」とお米が言った。
二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出すことさえもあえてしなかった。彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気にかからせ、もしくは満州へ駆《か》りやった罪に対して、いかに悔恨の苦しみを重ねても、どうすることもできない地位に立っていたからである。
「お米、お前信仰の心が起こったことがあるかい」とあるとき宗助がお米に聞いた。お米は、ただ、
「あるわ」と答えただけで、すぐ「あなたは」と聞き返した。
宗助は薄笑いをしたぎり、なんとも答えなかった。その代わり推《お》して、お米の信仰について、詳しい質問もかけなかった。お米には、それがしあわせかもしれなかった。彼女はその方面に、これというほどはっきりした凝《こ》り整った何物ももっていなかったからである。二人はとかくして会堂のベンチにも倚《よ》らず、寺院の門もくぐらずに過ぎた。そうしてただ自然の恵みから来る月日という緩和剤の力だけで、ようやく落ち付いた。時々遠くから不意に現われる訴えも、苦しみとか恐れとかいう残酷の名をつけるには、あまりかすかに、あまり薄く、あまりに肉体と欲得を離れすぎるようになった。ひっきょうずるに、彼らの信仰は、神を得なかったため、仏に会わなかったため、互いを目《め》標《じるし》として働いた。互いに抱き合って、丸い円を描きはじめた。彼らの生活は淋《さみ》しいなりに落ち付いてきた。その淋しい落ち付きのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味をなめ尽くしながら、自分で自分の状態を得意がって自覚するほどの知識をもたなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、いっそう純粋であった。――これが七日《なのか》の晩に坂井へ呼ばれて、安井の消息を聞くまでの夫婦のありさまであった。
その夜《よ》宗助は家に帰ってお米の顔を見るやいなや、
「少しぐあいが悪いから、すぐ寝よう」と言って、火鉢に倚りながら、帰りを待ち受けていたお米を驚かした。
「どうなすったの」とお米は目を上げて宗助をながめた。宗助はそこに突っ立っていた。
宗助が外から帰ってきて、こんなふうをするのは、ほとんどお米の記憶にないくらい珍しかった。お米は卒然なんとも知れない恐怖の念に襲われたごとくに立ち上がったが、ほとんど器械的に、戸棚から夜具蒲団を取り出して、夫の言いつけどおり床を延べはじめた。そのあいだ宗助はやっぱり懐手をしてそばに立っていた。そうして床が敷けるやいなや、そこそこに着物を脱ぎ捨てて、すぐその中にもぐり込んだ。お米は枕元を離れえなかった。
「どうなすったの」
「なんだか、少し心持ちが悪い。しばらくこうしてじっとしていたら、よくなるだろう」
宗助の答はなかば夜着の下から出た。その声がこもったようにお米の耳に響いた時、お米はすまない顔をして、枕元にすわったなり動かなかった。
「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」
お米はようやく茶の間へ帰った。
宗助は夜具をかぶったまま、ひとりかたくなって目を眠っていた。彼はこの暗いなかで、坂井から聞いた話を何度となく反覆した。彼は満州にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知ろうとは、今が今まで予期していなかった。もう少しのことで、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣合わせか、向かい合わせにすわる運命になろうとは、今夜晩《ばん》食《めし》をすますまで、夢にも思いがけなかった。彼は寝ながら過去二、三時間の経過を考えて、そのクライマックスが突如として、いかにも不意に起こったのを不思議に感じた。かつ悲しく感じた。彼はこれほど偶然な出来事を借りて、後ろから断わりなしに足《あし》絡《がら》をかけなければ、倒すことのできないほど強いものとは、自分ながら任じていなかったのである。自分のような弱い男をほうり出すには、もっと穏当な手段でたくさんでありそうなものだと信じていたのである。
小六から坂井の弟、それから満州、蒙古、出京、安井、――こう談話のあとをたどればたどるほど、偶然の度はあまりにはなはだしかった。過去の痛恨を新たにすべく、普通の人がめったに出会わないこの偶然に出会うために、千百人のうちから撰《え》り出されなければならないほどに人物であったかと思うと、宗助は苦しかった。また腹だたしかった。彼は暗い夜着の中で熱い息をついた。
この二、三年の月日でようやくなおりかけた創《きず》口《ぐち》が、急にうずきはじめた。うずくにつれてほてってきた。再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。宗助はいっそのこと、万事をお米に打ち明けて、ともに苦しみを分かってもらおうかと思った。
「お米、お米」と二声呼んだ。
お米はすぐ枕元へ来て、上からのぞき込むように宗助を見た。宗助は夜具の襟から顔をまったく出した。次の間の灯《ひ》がお米の頬《ほお》を半分照らしていた。
「熱い湯を一杯もらおう」
宗助はとうとう言おうとしたことを言いきる勇気を失って、嘘をついてごまかした。
翌日宗助は例のごとく起きて、平日と変わることなく食事をすました。そうして給仕をしてくれるお米の顔に、多少不安の色が見えたのを、うれしいような哀れなような一種の情《じよう》緒《しよ》をもってながめた。
「昨夕《ゆうべ》は驚いたわ。どうなすったのかと思って」
宗助は下を向いて茶碗についだ茶をのんだだけであった。なんと答えていいか、適当な言葉を見いださなかったからである。
その日は朝からから風が吹きすさんで、おりおり埃《ほこり》とともに行く人の帽を奪った。熱があると悪いから、一日休んだらというお米の心配を聞き捨てにして、例のとおり電車へ乗った宗助は、風の音と車の音のなかに首を縮めて、ただ一つ所を見つめていた。降りる時、ひゅうという音がして、頭の上の針《はり》線《がね》が鳴ったのに気がついて、空を見たら、この猛烈な自然の力の狂うあいだに、いつもより明らかな日がのそりと出ていた。風はズボンの股《また》を冷たくして過ぎた。宗助にはその砂を巻いて向こうの堀の方へ進んでゆく影が、斜めに吹かれる雨の脚のようにはっきり見えた。
役所では用が手につかなかった。筆を持って頬《ほお》杖《づえ》を突いたままなにか考えた。時々は不必要な墨をみだりにすりおろした。煙草はむやみにのんだ。そうしては、思い出したように窓ガラスを通して外をながめた。外は見るたびに風の世界であった。宗助はただ早く帰りたかった。
ようやく時間が来て家《うち》へ帰ったとき、お米は不安らしく宗助の顔を見て、
「どうもなくって」と聞いた。宗助はやむをえず、どうもないが、ただ疲れたと答えて、すぐ炬《こ》燵《たつ》の中へはいったなり、晩《ばん》食《めし》まで動かなかった。そのうち風は日とともに落ちた。昼の反動であたりは急にひっそり静まった。
「いいあんばいね、風がなくなって。昼間のように吹かれると、家《うち》へすわっていてもなんだか気味が悪くってしようがないわ」
お米の言葉には、魔物でもあるかのように、風を恐れる調子があった。宗助は落ち付いて、
「今夜は少しあったかいようだね。穏やかでいいお正月だ」と言った。飯をすまして煙草を一本吸う段になって、突然、
「お米、寄《よ》席《せ》へでも行ってみようか」と珍しく細君を誘った。お米はむろんいなむ理由をもたなかった。小六は義《ぎ》太《だ》夫《ゆう》などを聞くより、宅《うち》にいて餅《もち》でも焼いて食ったほうがかってだというので、留守を頼んで二人出た。
少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいであった。二人は座蒲団を敷く余地もないいちばん後の方に、立《たて》膝《ひざ》をするように割り込ましてもらった。
「たいへんな人ね」
「やっぱり春だからはいるんだろう」
二人は声高に話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回した。その頭のうちで、高座に近い前の方は、煙草の煙でかすんでいるようにぼんやり見えた。宗助にはこの累々たる黒いものが、ことごとくこういう娯楽の席へ来て、おもしろく半夜をつぶすことのできる余裕のある人らしく思われた。彼はどの顔を見てもうらやましかった。
彼は高座の方を正視して、熱心に浄《じよう》瑠《る》璃《り》を聞こうとつとめた。けれどもいくらつとめてもおもしろくならなかった。時々目をそらして、お米の顔をぬすみ見た。見るたびにお米の視線は正しい所を向いていた。そばに夫のいることはほとんど忘れて、まじめに聞いているらしかった。宗助はうらやましい人のうちに、お米まで勘定しなければならなかった。
中入りの時、宗助はお米に、
「どうだ、もう帰ろうか」と言いかけた。お米はそのとうとつなのに驚かされた。
「いやなの」と聞いた。宗助はなんとも答えなかった。お米は、
「どうでもいいわ」と半分夫の意にさからわないような挨拶をした。宗助はせっかく連れてきたお米に対して、かえって気の毒な心が起こった。とうとうしまいまでしんぼうしてすわっていた。
家《うち》へ帰ると、小六は火鉢の前にあぐらをかいて、背表紙のそり返るのもかまわず、手に持った本を上からかざして読んでいた。鉄《てつ》瓶《びん》はわきへおろしたなり、湯はなまぬるくさめてしまった。盆の上に焼き余りの餅が、三切れか四切れ載せてあった。網の下から小皿に乗った醤《しよう》油《ゆ》の色が見えた。
小六は席を立って、
「おもしろかったですか」と聞いた。夫婦は十分ほどからだを炬《こ》燵《たつ》で暖めたうえ、すぐ床へはいった。
翌日になっても宗助の心に落ち付きがこなかったことは、ほぼまえの日と同じであった。役所がひけて、例のとおり電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来るということを想像すると、どうしても、わざわざその人と接近するために、こんな速力で、家《うち》へ帰っていくのが不合理に思われた。同時に安井はその後どんなに変化したろうと思うと、よそから一目彼の様子がながめたくもあった。
坂井が一昨日《おととい》の晩、自分の弟《おとと》を表して、一口に「冒険者《アドベンチユアラー》」と言った、その音《おと》が今宗助の耳に高く響き渡った。宗助はこの一語の中に、あらゆる自暴と自棄と、不安と憎悪と、乱倫と悖《はい》徳《とく》と、盲断と決行とを想像して、これらの一角に触れなければならないほどの坂井の弟と、それと利害をともにすべく満州からいっしょに出てきた安井が、いかなる程度の人物になったかを、頭の中で描いてみた。描かれた画はむろん、冒険者《アドベンチユアラー》の字画の許す範囲内で、もっとも強い色彩を帯びたものであった。
かように、堕落の方面をとくに誇張した冒険者《アドベンチユアラー》を、頭の中でこしらえあげた宗助は、その責任を自身一人でまったく負わなければならないような気がした。彼はただ坂井へ客に来る安井の姿を一目見て、その姿から、安井の今日の人格をほうふつしたかった。そうして、自分の想像ほど彼は堕落していないという慰謝を得たかった。
彼は坂井の家のそばにたって、向こうに知れずに、ひとをうかがうような便利な場所はあるまいかと考えた。不幸にして、身を隠すべきところを思いつきえなかった。もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが認められない便宜があると同時に、暗いなかを通る人の顔のわからない不都合があった。
そのうち電車が神田へ来た。宗助はいつものとおりそこで乗り換えて、家《うち》の方へ向いて行くのが苦痛になった。彼の神経は一歩でも安井の来る方角へ近づくにたえなかった。安井をよそながら見たいという好奇心は、はじめからさほど強くなかっただけに、乗り換えの間ぎわになって、まったくおさえつけられてしまった。彼は寒い町を多くの人のごとく歩いた。けれども多くの人のごとくに、はっきりした目的はもっていなかった。そのうち店に灯《ひ》がついた。電車も燈火《あかり》をともした。宗助はある牛肉店に上がって酒を飲みだした。一本は夢中に飲んだ。二本目はむりに飲んだ。三本目にも酔えなかった。宗助は背を壁に持たして、酔って相手のない人のような目をして、ぼんやりどこかを見つめていた。
時刻が時刻なので、夕《ゆう》飯《めし》を食いに来る客は入れ代わり立ち代わり来た。その多くは用弁的に飲食をすまして、さっさと勘定をして出てゆくだけであった。宗助は周囲のざわつくなかに黙《もく》然《ねん》として、ひとの倍も三倍も時を過ごしたごとくに感じた末、ついにすわりきれずに席を立った。
表は左右からさす店の灯で明らかであった。軒先を通る人は、帽も衣装もはっきり物色することができた。けれども広い寒さを照らすにはあまりに弱すぎた。夜は戸《こ》ごとのガスと電燈を閑却して、依然として暗く大きく見えた。宗助はこの世界と調和するほどな黒味の勝った外《がい》套《とう》に包まれて歩いた。そのとき彼は自分の呼吸する空気さえ灰色になって、肺の中の血管にふれるような気がした。
彼はこの晩にかぎって、ベルを鳴らして忙がしそうに目の前を行ったり来たりする電車を利用する考えが起こらなかった。目的をもって路を行く人とともに、抜け目なく足を運ばすことを忘れた。しかも彼は根の締まらない人間として、かく漂浪の雛《ひな》形《がた》を演じつつある自分の心を省みて、もしこの状態が長く続いたらどうしたらよかろうと、ひそかに自分の未来を案じわずらった。今日までの経過から推《お》して、すべての創口を癒《ゆ》合《ごう》するものは時日であるという格言を、彼は自家の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた。それが一昨日《おととい》の晩にすっかりくずれたのである。
彼は黒い夜《よ》のなかを歩きながら、ただどうかしてこの心からのがれ出たいと思った。その心はいかにも弱くて落ち付かなくって、不安で不定で、度胸がなさすぎてけちにみえた。彼は胸をおさえつける一種の圧迫のもとに、いかにせば、今の自分を救うことができるかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失はまったくこの結果から切り放してしまった。その時の彼はひとのことを考える余裕を失って、ことごとく自己本位になっていた。今までは忍耐で世を渡ってきた。これからは積極的に人生観を作りかえなければならなかった。そうしてその人生観は口で述べるもの、頭で聞くものではだめであった。心の実質が太くなるものでなくてはだめであった。
彼は行く行く口の中で何べんも宗教の二字を繰り返した。けれどもその響きは繰り返すあとからすぐ消えていった。つかんだと思う煙が、手をあけるといつのまにかなくなっているように、宗教とははかない文《もん》字《じ》であった。
宗教と関連して宗助は、座《ざ》禅《ぜん》という記憶を呼び起こした。昔京都にいた時分、彼の級友に相《しよう》国《こく》寺《じ》へ行って座禅をするものがあった。当時彼はその迂《う》闊《かつ》を笑っていた。「今の世に……」と思っていた。その級友の動作がべつに自分と違ったところもないようなのを見て、彼はますますばかばかしい気を起こした。
彼はいまさらながら彼の級友が、彼の侮《ぶ》蔑《べつ》に値する以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考えだして、自分の軽薄を深く恥じた。もし昔から世俗でいうとおり安《あん》心《じん》とか立《りつ》命《めい》とかいう境地に、座禅の力で達することができるならば、十日や二十日《はつか》役所を休んでもかまわないからやってみたいと思った。けれども彼はこの道にかけてはまったくの門外漢であった。したがって、これより以上明《めい》瞭《りよう》な考えも浮かばなかった。
ようやく家《うち》へたどり着いた時、彼は例のようなお米と、例のような小六と、それから例のような茶の間と座敷のランプと箪《たん》笥《す》を見て、自分だけが例にない状態のもとに、この四、五時間を暮らしていたのだという自覚を深くした。火鉢には小さな鍋《なべ》がかけてあって、その蓋《ふた》のすき間から湯気が立っていた。火鉢のわきには彼の常にすわるところに、いつもの座蒲団を敷いて、その前にちゃんと膳《ぜん》立《だて》がしてあった。
宗助は糸底を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二、三年来朝晩使い慣れた木の箸をながめて、
「もう飯は食わないよ」と言った。お米は多少不本意らしいふうもした。
「おやそう。あんまりおそいから、おおかたどこかで召《めし》上《や》がったろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」と言いながら、布巾で鍋の耳をつまんで、土《ど》瓶《びん》敷《しき》の上におろした。それから清を呼んで膳を台所へさげさした。
宗助はこういうふうに、なんぞ事故ができて、役所の退出《ひけ》からすぐほかへ回っておそくなる場合には、いつでもその顛《てん》末《まつ》の大略を、帰宅早々お米に話すのを例にしていた。お米もそれを聞かないうちは気がすまなかった。けれども今夜にかぎって彼は神田で電車を降りたことも、牛肉屋へ上がったことも、むりに酒を飲んだことも、まるで話したくなかった。なにも知らないお米はまた平常のとおり、無邪気にそれからそれへと聞きたがった。
「なにべつにこれという理《わ》由《け》もなかったのだけれども、――ついあすこいらで牛《ぎゆう》が食いたくなっただけのことさ」
「そうしてお腹《なか》を消化《こな》すために、わざわざここまで歩いていらしったの」
「まあ、そうだ」
お米はおかしそうに笑った。宗助はむしろ苦しかった。しばらくして、
「留守に坂井さんから迎いに来なかったかい」と聞いた。
「いいえ、なぜ」
「一昨日《おととい》の晩行ったとき、ごちそうするとか言っていたからさ」
「また?」
お米は少しあきれた顔をした。宗助はそれなり話をきりあげて寝た。頭の中をざわざわなにか通った。時々目をあけてみると、例のごとくランプが暗くして床の間の上にのせてあった。お米はさも心《ここ》地《ち》よさそうに眠っていた。ついこのあいだまでは、自分のほうがよく寝られて、お米は幾晩も睡眠の不足に悩まされたのであった。宗助は目を閉じながら、明らかに次の間の時計の音を聞かなければならない今の自分をさらに心苦しく感じた。その時計は最初はいくつも続けざまに打った。それが過ぎると、びんとただ一つ鳴った。その濁った音が彗《ほうき》星《ぼし》の尾のように、ぼうと宗助の耳たぶにしばらく響いていた。次には二つ鳴った。はなはだ淋しい音であった。宗助はそのあいだに、なんとかして、もっとおうように生きていく分別をしなければならないという決心だけをした。三時はもうろうとして聞こえたような聞こえないようなうちに過ぎた。四時、五時、六時はまるで知らなかった。ただ世の中がふくれた。天が波を打って伸びかつ縮んだ。地球が糸で釣るした毬《まり》のごとくに、大きな弧線を描いて空間にうごいた。すべてが恐ろしい魔の支配する夢であった。七時過ぎに彼ははっとして、この夢からさめた。お米がいつものとおり微笑して枕元にかがんでいた。さえた日は黒い世の中をとくにどこかへ追いやっていた。
十八
宗助は一封の紹介状を懐にして山門をはいった。彼はこれを同僚の知人の某《なにがし》から得た。その同僚は役所の往復に、電車の中で、洋服の隠袋《かくし》から菜《さい》根《こん》譚《たん*》を出して読む男であった。こういう方面に趣味のない宗助は、もとより菜根譚の何物なるかを知らなかった。ある日一つ車の腰掛けに膝《ひざ》を並べて乗った時、それはなんだと聞いてみた。同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。宗助は重ねてどんなことが書いてあるかと尋ねた。そのとき同僚は、一口に説明のできるかっこうな言葉をもっていなかったとみえて、まあ禅学の書物だろうというような妙な挨拶をした。宗助は同僚から聞いたこの返事をよく覚えていた。
紹介状をもらう四《し》、五日《ごんち》まえ、彼はこの同僚のそばへ行って、君は禅学をやるのかと、突然質問をかけた。同僚は強く緊張した宗助の顔を見てすこぶる驚いた様子であったが、いややらない、ただ慰み半分にあんな書物を読むだけだと、すぐ逃げてしまった。宗助は多少失望にゆるんだ下《した》唇《くちびる》をたれて自分の席に帰った。
その日帰りがけに、彼らはまた同じ電車に乗り合わした。さっき宗助の様子を、気の毒に観察した同僚は、彼の質問の奥に雑談以上のある意味を認めたものとみえて、まえよりはもっと親切にその方面の話をして聞かした。しかし自分はいまだかつて参禅ということをした経験がないと自白した。もし詳しい話が聞きたければ、さいわい自分の知り合いに、よく鎌倉へ行く男があるから紹介してやろうと言った。宗助は車の中でその人の名前と番地を手帳に書きとめた。そうして次の日、同僚の手紙を持ってわざわざ回り道をして訪問に出かけた。宗助の懐にした書状は、そのおり席上でしたためてもらったものであった。
役所は病気になって十日ばかり休むことにした。お米の手前もやはり病気だととりつくろった。
「少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んで遊《あす》んでくるよ」と言った。お米はこのごろの夫の様子のどこかに、異常があるらしく思われるので、内心では始終心配していたやさきだから、平生煮えきらない宗助の果断を喜んだ。けれどもその突然なのにもまったく驚いた。
「遊びに行くって、どこへいらっしゃるの」と目を丸くしないばかりに聞いた。
「やっぱり鎌倉辺がよかろうと思ってる」と宗助は落ち付いて答えた。地味な宗助とハイカラな鎌倉とは、ほとんど縁の遠いものであった。突然二つのものを結びつけるのは滑《こつ》稽《けい》であった。お米も微笑を禁じえなかった。
「まあお金持ちね。私《わたし》もいっしょに連れてってちょうだい」と言った。宗助は愛すべき細君のこの冗談を味わう余裕をもたなかった。まじめな顔をして、
「そんな贅《ぜい》沢《たく》な所へ行くんじゃないよ。禅寺へとめてもらって、一週間か十日、ただ静かに頭を休めてみるだけのことさ。それもはたしてよくなるか、ならないかわからないが、空気のいい所へ行くと、頭にはたいへん違うとみんな言うから」と弁解した。
「そりゃ違いますわ。だから行っていらっしゃいとも。今のはほんとうの冗談よ」
お米は善良な夫にからかったのを、多少すまないように感じた。宗助はそのあくる日すぐもらっておいた紹介状を懐にして、新橋から汽車に乗ったのである。
その紹介状の表には釈《しやく》宜《ぎ》道《どう》様《さま》と書いてあった。
「このあいだまで侍《じ》者《しや*》をしていましたが、このごろでは塔頭《たつちゆう*》にある古い庵《あん》室《しつ》に手を入れて、そこに住んでいるとか聞きました。どうですか、まあ着いたら尋ねてごらんなさい。庵の名はたしか一《いつ》窓《そう》庵《あん》でした」と書いてくれる時、わざわざ注意があったので、宗助は礼を言って手紙を受け取りながら、侍者だの塔頭だのという、自分にはまったく耳新しい言葉の説明を聞いて帰ったのである。
山門をはいると、左右には大きな杉があって、高く空をさえぎっているために、路《みち》が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急にさとった。静かな境《けい》内《だい》の入り口に立った彼は、はじめて風《ふう》邪《じや》を意識する場合に似た一種の悪寒《さむけ》を催した。
彼はまずまっすぐに歩きだした。左右にも行《いく》手《て》にも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。けれども人の出入りはいっさいなかった。ことごとく寂《せき》寞《ばく》として錆《さ》び果てていた。宗助はどこへ行って、宜道のいる所を教えてもらおうかと考えながら、だれも通らない路のまん中に立って四方を見回した。
山の裾《すそ》を切り開いて、一、二丁奥へのぼるように建てた寺だとみえて、後の方は樹《き》の色で高くふさがっていた。路の左右も山続きか丘続きの地勢に制せられて、けっして平らではないようであった。その小高いところどころに、下から石段を畳んで、寺らしい門を高く構えたのが二、三軒目についた。平《ひら》地《ち》に垣をめぐらして、点在しているのは、いくらもあった。近寄って見ると、いずれも門《もん》瓦《がわら》の下に、院号やら庵号やらが額にしてかけてあった。
宗助は箔《はく》のはげた古い額を、一、二枚読んで歩いたが、ふと一窓庵から先へ捜し出して、もしそこに手紙の名あての坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って尋ねるほうが便利だろうと思いついた。それから逆戻りをして塔頭をいちいち調べにかかると、一窓庵は山門をはいるやいなや、すぐ右手の方の高い石段の上にあった。丘はずれなので、日当たりのいい、からりとした玄関先を控えて、後の山の懐に暖まっているような位置に冬をしのぐ気《け》色《しき》に見えた。宗助は玄関を通り越して、庫《く》裡《り》の方から土間に足を入れた。上がり口の障子の立ててあるところまで来て、たのむたのむと二、三度呼んでみた。しかしだれも出てきてくれるものはなかった。宗助はしばらくそこに立ったまま、中の様子をうかがっていた。いつまで立っていても音《おと》沙《さ》汰《た》がないので、宗助は不思議な思いをして、また庫裡を出て門の方へ引き返した。すると石段の下から、そりたての頭を青く光らした坊さんが上がってきた。年はまだ二十四、五としかみえない若い色白の顔であった。宗助は門の扉《とびら》のところに待ち合わして、
「宜道さんとおっしゃるかたはこちらにおいででしょうか」と聞いた。
「私《わたくし》が宜道です」と若い僧は答えた。宗助は少し驚いたが、またうれしくもあった。すぐ懐中から例の紹介状を出して渡すと、宜道は立ちながら封を切って、その場で読み下した。やがて手紙を巻き返して封筒へ入れると、
「ようこそ」と言って、丁寧に会釈したなり、先に立って宗助を導いた。二人は庫裡に下駄を脱いで、障子をあけて内へはいった。そこには大きな囲《い》炉《ろ》裏《り》が切ってあった。宜道は鼠《ねずみ》木《も》綿《めん》の上に羽織っていた薄い粗末な法衣《ころも》を脱いで釘《くぎ》にかけて、
「お寒うございましょう」と言って、囲炉裏の中に深くいけてあった炭を灰の下から掘り出した。
この僧は若いに似合わずはなはだ落ち付いた話しぶりをする男であった。低い声でなにか受け答えをしたあとで、にやりと笑うぐあいなどは、まるで女のような感じを宗助に与えた。宗助は心のうちに、この青年がどういう機縁のもとに、思いきって頭をそったものだろうかと考えて、その様子のしとやかなところを、なんとなく哀れに思った。
「たいへんお静かなようですが、今日《きよう》はどなたもお留守なんですか」
「いえ、今日に限らず、いつも私一人です。だから用のあるときは、かまわず明け放しにして出ます。今もちょっと下まで行って用を足してまいりました。それがためせっかくおいでのところを失礼いたしました」
宜道はこの時改めて遠来の人に対して自分の不在をわびた。この大きな庵を、たった一人で預かっているのさえ、相応に骨が折れるのに、そのうえに厄介が増したらさぞ迷惑だろうと、宗助は少し気の毒な色をほかに動かした。すると宜道は、
「いえ、ちっとも御遠慮には及びません。道のためでございますから」とゆかしいことを言った。そうして、目下自分のところに、宗助のほかに、まだ一人世話になっている居《こ》士《じ*》のある旨を告げた。この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話であった。宗助はそれから二、三日して、はじめてこの居士を見たが、彼は剽《ひよう》軽《きん》な羅《ら》漢《かん》のような顔をしている気楽そうな男であった。細い大《だい》根《こ》を三、四本ぶら下げて、今日はごちそうを買ってきたと言って、それを宜道に煮てもらって食った。宜道も宗助もその相《しよう》伴《ばん》をした。この居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の衆にまじって、村のお斎《とき*》などに出かけることがあるとか言って宜道が笑っていた。
そのほか俗人で山へ修業に来ている人の話もいろいろ聞いた。なかに筆《ひつ》墨《ぼく》をあきなう男がいた。背中へ荷をいっぱいしょって、二十日《はつか》なり三十日なり、そこらじゅう回って歩いて、ほぼ売り尽くしてしまうと山へ帰ってきて座禅をする。それからしばらくして食うものがなくなると、また筆墨を背にのせて行商に出る。彼はこの両面の生活を、ほとんど循環小数のごとく繰り返して、飽くことを知らないのだという。
宗助は一見こだわりのなさそうなこれらの人の月日と、自分の内面にある今の生活とを比べて、その懸隔のはなはだしいのに驚いた。そんな気楽な身分だから座禅ができるのか、あるいは座禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った。
「気楽ではいけません。道楽にできるものなら、二十年も三十年も雲《うん》水《すい》をして苦しむものはありません」と宜道は言った。
彼は座禅をするときの一般の心得や、老《ろう》師《し》から公《こう》案《あん*》の出ることや、その公案に一生懸命かじりついて、朝も晩も昼も夜もかじりつづけにかじらなくてはいけないことやら、すべて今の宗助にはこころもとなくみえる助《じよ》言《ごん》を与えた末、
「お室《へや》へ御案内しましょう」と言って立ち上がった。
囲炉裏の切ってある所を出て、本堂を横に抜けて、そのはずれにある六畳の座敷の障子を縁からあけて、中へ案内された時、宗助ははじめて一人遠くに来た心持ちがした。けれども頭の中は、周囲の幽静な趣と反照するためか、かえって町にいるときよりも動揺した。
約一時間もしたと思うころ、宜道の足音がまた本堂の方から響いた。
「老師が相《しよう》見《けん》になるそうでございますから、御都合がよろしければ参りましょう」と言って、丁寧に座敷の上に膝《ひざ》を突いた。
二人はまた寺をからにして連れ立って出た。山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左がわに蓮《はす》池《いけ》があった。寒い時分だから池の中はただ薄濁りによどんでいるだけで、少しも清《しよう》浄《じよう》な趣はなかったが、向こう側に見える高い石の崖はずれまで、縁に欄干のある座敷が突き出しているところが、文《ぶん》人《じん》画《が》にでもありそうな風致を添えた。
「あすこが老師の住んでいられる所です」と宜道は比較的新しいその建物を指さした。
二人は蓮池の前を通り越して、五、六級の石段をのぼって、その正面にある大きな伽《が》藍《らん》の屋根を仰いだまますぐ左へきれた。玄関へさしかかった時、宜道は、
「ちょっと失礼します」と言って、自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出てきて、
「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へつれていった。
老師というのは五十がっこうに見えた。赭《あか》黒《ぐろ》いつやのある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとくしまって、どこにも怠りのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇があまり厚すぎるので、そこにいくぶんのゆるみが見えた。その代わり彼の目には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩がひらめいた。宗助がはじめてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思いがあった。
「まあなにからはいっても同じであるが」と老師は宗助に向かって言った。「父《ふ》母《ぼ》未《み》生《しよう》以《い》前《ぜん》本《ほん》来《らい》の面《めん》目《もく》はなんだか、それをひとつ考えてみたらよかろう」
宗助には父母未生以前という意味がよくわからなかったが、なにしろ自分というものはひっきょう何物だか、その本体をつらまえてみろという意味だろうと判断した。それより以上口をきくには、あまり禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道につれられて一窓庵へ帰ってきた。
晩《ばん》食《めし》のとき宜道は宗助に、入《にゆう》室《しつ*》の時間の朝《ちよう》夕《せき》二回あることと、提《てい》唱《しよう*》の時間が午前であることなどを話したうえ、
「今夜はまだ見《けん》解《げ*》もできないかもしれませんから、明朝か明晩お誘い申しましょう」と親切に言ってくれた。それから最初のうちは、詰めてすわるのは難儀だから、線香を立てて、それで時間を計って、少しずつ休んだらよかろうというような注意もしてくれた。
宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分の室《へや》ときまった六畳にはいって、ぼんやりしてすわった。彼からいうといわゆる公案なるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛という訴えをいだいて来てみると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと言われたと一般であった。考えろと言われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからのことでなくては無理であった。
同時に彼は勤めを休んで、わざわざここまで来た男であった。紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽卒なふるまいはできなかった。彼はまず現在の自分が許すかぎりの勇気にひっさげて、公案に向かおうと決心した。それがいずれのところに彼を導いて、どんな結果を彼の心にもちきたすかは、彼自身といえどもまったく知らなかった。彼は悟りという美名に欺かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救うことができはしまいかと、はかない望みをいだいたのである。
彼は冷たい火鉢の灰の中に細い線香をくゆらして、教えられたとおり座蒲団の上に半《はん》跏《か*》を組んだ。昼のうちはさまでとは思わなかった室《へや》が、日が落ちてから急に寒くなった。彼はすわりながら、背中のぞくぞくするほど温度の低い空気にたえなかった。
彼は考えた。けれども考える方向も、考える問題の実質も、ほとんどつらまえようのない空《くう》漠《ばく》なものであった。彼は考えながら、自分は非常に迂《う》闊《かつ》なまねをしているのではなかろうかと疑った。火事見舞に行く間ぎわに、細かい地図を出して、仔《し》細《さい》に町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当違いの所作を演じているごとく感じた。
彼の頭の中をいろいろなものが流れた。そのあるものは明らかに目に見えた。あるものは混《こん》沌《とん》として雲のごとく動いた。どこから来てどこへ行くともわからなかった。ただ先のものが消える、すぐ後から次のものが現われた。そうしてしきりなしにそれからそれへと続いた。頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、けっして宗助の命令によって、とどまることも休むこともなかった。断ち切ろうと思えば思うほど、こんこんとしてわいて出た。
宗助はこわくなって、急に日常の我を呼び起こして、室《へや》の中をながめた。室はかすかな灯《ひ》で薄暗く照らされていた。灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていなかった。宗助は恐るべく時間の長いのにはじめて気がついた。
宗助はまた考えはじめた。すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通りだした。ぞろぞろと群がる蟻《あり》のごとくに動いてゆく、あとからまたぞろぞろと群がる蟻のごとくに現われた。じっとしているのはただ宗助のからだだけであった。心はせつないほど、苦しいほど、堪えがたいほど動いた。
そのうちじっとしているからだも、膝《ひざ》頭《がしら》から痛みはじめた。まっすぐに延ばしていた脊《せき》髄《ずい》がしだいしだいに前の方に曲がってきた。宗助は両手で左の足の甲をかかえるようにして下へおろした。彼はなにをする目的《めあて》もなく室の中に立ち上がった。障子をあけて表へ出て、門前をぐるぐる駆け回って歩きたくなった。夜《よ》はしんとしていた。寝ている人も起きている人もどこにもおりそうには見えなかった。宗助は外へ出る勇気を失った。じっと生きながら妄《もう》想《ぞう》に苦しめられるのはなお恐ろしかった。
彼は思いきってまた新しい線香を立てた。そうしてまたほぼ前《ぜん》と同じ過程を繰り返した。最後に、もし考えるのが目的だとすれば、すわって考えるのも寝て考えるのも同じだろうと分別した。彼は室の隅《すみ》に畳んであったうすぎたない蒲団を敷いて、その中にもぐり込んだ。するとさっきからの疲れで、なにを考える暇もないうちに、深い眠りに落ちてしまった。
目がさめると枕元の障子がいつのまにか明るくなって、白い紙にやがて日のせまるべき色が動いた。昼も留守を置かずにすむ山寺は、夜に入っても戸を閉《た》てる音を聞かなかったのである。宗助は自分が坂井の崖《がけ》下《した》の暗い部《へ》屋《や》に寝ていたのでないと意識するやいなや、すぐ起き上がった。縁へ出ると、軒《のき》端《ば》に高く大《おお》サボテンの影が目に映った。宗助はまた本堂の仏壇の前を抜けて、囲炉裏の切ってある昨日《きのう》の茶の間へ出た。そこには昨日のとおり宜道の法衣《ころも》が折れ釘にかけてあった。そうして本人は勝手の竈《かまど》の前にうずくまって、火をたいていた。宗助を見て、
「おはよう」といんぎんに礼をした。「さっきお誘い申そうと思いましたが、よくおやすみのようでしたから、失礼して一人参りました」
宗助はこの若い僧が、今朝《けさ》夜明けがたにすでに参禅をすまして、それから帰ってきて、飯をかしいでいるのだということを知った。
見ると彼は左の手でしきりに薪《まき》をさしかえながら、右の手に黒い表紙の本を持って、用の合い間合い間にそれを読んでいる様子であった。宗助は宜道に書物の名を尋ねた。それは碧《へき》巌《がん》集《しゆう*》というむずかしい名前のものであった。宗助は腹の中で、昨夕《ゆうべ》のようにあてどもない考えにふけって、脳を疲らすより、いっそその道の書物でも借りて読むほうが、要領を得る捷《ちか》径《みち》ではなかろうかと思いついた。宜道にそう言うと、宜道は一も二もなく宗助の考えを排斥した。
「書物を読むのはごく悪うございます。ありていに言うと、読書ほど修業の妨げになるものはないようです。私どもでも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。それをいいかげんに揣《し》摩《ま*》する癖がつくと、それがすわる時の妨げになって、自分以上の境《きよう》界《がい》を予期してみたり、悟りを待ち受けてみたり、十分突っ込んで行くべきところに頓《とん》挫《ざ》ができます。たいへん毒になりますから、およしになったほうがよいでしょう。もししいてなにかお読みになりたければ、禅《ぜん》関《かく》策《さく》進《しん*》というような、人の勇気を鼓舞したり激励したりするものがよろしゅうございましょう。それだって、ただ刺激の方便として読むだけで、道そのものとは無関係です」
宗助には宜道の意味がよくわからなかった。彼はこの生若い青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持ちを起こした。彼の慢心は京都以来すでに消《しよう》磨《ま》し尽くしていた。彼は平凡を分として、今日まで生きてきた。聞《ぶん》達《たつ*》ほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分よりはるかに無力無能な赤《あか》子《ご》であると、さらに自分を認めざるをえなくなった。彼にとっては新しい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。
宜道が竈《へつつい》の火を消して飯をむらしているあいだに、宗助は台所からおりて庭の井《い》戸《ど》端《ばた》へ出て顔を洗った。鼻の先にはすぐ雑木山が見えた。その裾《すそ》の少し平らな所をひらいて、菜園がこしらえてあった。宗助はぬれた頭を冷たい空気にさらして、わざと菜園まで下りて行った。そうして、そこに崖を横に掘った大きな穴を見いだした。宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方をながめていた。やがて、茶の間へ帰ると、囲炉裏には暖かい火が起こって、鉄《てつ》瓶《びん》の湯のたぎる音が聞こえた。
「手がないものだから、ついおそくなりましてお気の毒です。すぐ御《ご》膳《ぜん》にいたしましょう。しかしこんなところだからあげるものがなくって困ります。その代わり明日《あした》あたりはごちそうに風《ふ》呂《ろ》でも立てましょう」と宜道が言ってくれた。宗助はありがたく囲炉裏の向こうにすわった。
やがて食事をおえて、わが室《へや》へ帰った宗助は、また父母未生以前という希《け》有《う》な問題を目の前にすえて、じっとながめた。けれども、もともと筋の立たない、したがって発展のしようのない問題だから、いくら考えてもどこからも手を出すことはできなかった。そうして、すぐ考えるのがいやになった。宗助はふとお米にここへ着いた消息を、書かなければならないことに気がついた。彼は俗用の生じたのを喜ぶごとくに、すぐ鞄の中から巻紙と封じ袋を取り出して、お米にやる手紙を書きはじめた。まずここの閑静なこと、海に近いせいか、東京よりはよほど暖かいこと、空気の晴朗なこと、紹介された坊さんの親切なこと、食事のまずいこと、夜具蒲団のきれいにいかないこと、などを書き連ねているうちに、はや三尺余りの長さになったので、そこで筆をおいたが、公案に苦しめられていることや、座禅をして膝の関節を痛くしていることや、考えるためにますます神経衰弱がはげしくなりそうなことは、おくびにも出さなかった。彼はこの手紙に切手をはって、ポストに入れなければならない口実を求めて、さっそく山を下った。そうして父母未生以前と、お米と、安井に、おびやかされながら、村の中をうろついて帰った。
午《ひる》には、宜道から話のあった居士に会った。この居士は茶碗を出して、宜道に飯をよそってもらうとき、はばかりさまともなんとも言わずに、ただ合掌して礼を述べたり、合図をしたりした。このくらい静かに物事をするのが法だとか言った。口をきかず、音をたてないのは、考えのじゃまになるという精神からだそうであった。それほどしんけんにやるべきものをと、宗助は昨夜からの自分が、なんとなく恥ずかしく思われた。
食後三人は囲炉裏のはたでしばらく話した。その時居士は、自分が座禅をしながら、いつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る間ぎわに、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さていよいよ目を開いてみると、やっぱり元《もと》のとおりの自分なので失望するばかりだと言って、宗助を笑わした。こういう気楽な考えで、参禅している人もあると思うと、宗助も多少はくつろいだ。けれども三人が分かれ分かれに自分の室《へや》にはいる時、宜道が、
「今夜はお誘い申しますから、これから夕方までしっかりおすわりなさいまし」とまじめに勧めたとき、宗助はまた一種の責任を感じた。こなれない堅い団《だん》子《ご》が胃に滞っているような不安な胸を抱いて、わが室へ帰ってきた。そうしてまた線香をたいてすわりだした。そのくせ夕方まではすわり続けられなかった。どんな解答にしろ一つこしらえておかなければならないと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が夕《ゆう》食《めし》の報知《しらせ》に本堂を通り抜けてきてくれればいいと、そればかり気にかかった。
日は懊《おう》悩《のう》の困《こん》憊《ぱい》のうちに傾いた。障子に映る時の影がしだいに遠くへ立ちのくにつれて、寺の空気が床の下から冷えだした。風は朝から枝を吹かなかった。縁側に出て、高い庇《ひさし》を仰ぐと、黒い瓦《かわら》の小《こ》口《ぐち》だけがそろって、長く一列に見える外に、穏やかな空が、蒼い光をわが底の方に沈めつつ、自分と薄くなってゆくところであった。
十九
「あぶのうございます」と言って宜道は一足先へ暗い石段をおりた。宗助はあとから続いた。町と違って夜になると足もとが悪いので、宜道は提《ちよう》灯《ちん》をつけてわずか一丁ばかりの路を照らした。石段をおりきると、大きな樹《き》の枝が左右から二人の頭におおいかぶさるように空をさえぎった。闇《やみ》だけれども蒼い葉の色が二人の着物の織目にしみ込むほどに宗助を寒がらせた。提灯の灯《ひ》にもその色が多少映る感じがあった。その提灯は一方に大きな樹の幹を想像するせいか、はなはだ小さく見えた。光の地面に届く尺数もわずかであった。照らされた部分は明るい灰色の断片となって、暗いなかにほっかり落ちた。そうして二人の影が動くにつれて動いた。
蓮《れん》池《ち》を行き過ぎて、左へのぼる所は、夜はじめての宗助にとって、少し足もとがなめらかにいかなかった。土の中に根を食っている石に、一、二度下駄の台を引っかけた。蓮池の手前から横に切れる裏路もあるが、このほうは凸《とつ》凹《おう》が多くて、慣れない宗助には近くても不便だろうというので、宜道はわざわざ広いほうを案内したのである。
玄関をはいると、暗い土間に下駄がだいぶ並んでいた。宗助はこごんで、人の履《はき》物《もの》を踏まないようにそっと上へのぼった。室《へや》は八畳ほどの広さであった。その壁ぎわに列を作って、六、七人の男が一《ひと》側《かわ》に並んでいた。なかに頭を光らして、黒い法衣《ころも》を着た僧もまじっていた。ほかのものはたいがい袴《はかま》をはいていた。この六、七人の男は上がり口と奥へ通ずる三尺の廊下口を残して、行儀よく鉤《かぎ》の手に並んでいた。そうして、一《ひと》言《こと》も口をきかなかった。宗助はこれらの人の顔を一目見て、まずその峻《しゆん》刻《こく》なのに気を奪われた。彼らはみな固く口を結んでいた。事ありげな眉《まゆ》を強く寄せていた。そばにどんな人がいるか見向きもしなかった。いかなるものが外からはいってきても、まったく注意しなかった。彼らは活《い》きた彫刻のようにおのれを持して、火の気のない室に粛然とすわっていた。宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に、一種おごそかな気が加わった。
やがて寂《せき》寞《ばく》のうちに、人の足音が聞こえた。初めはかすかに響いたが、しだいに強く床を踏んで、宗助のすわっている方へ近づいてきた。しまいに一人の僧が廊下口からぬっと現われた。そうして宗助のそばを通って、黙って外の暗がりへ抜けていった。すると遠くの奥の方で鈴《れい》を振る音がした。
このとき宗助と並んで厳粛に控えていた男のうちで、小《こ》倉《くら》の袴を着けた一《いち》人《にん》が、やはり無言のまま立ち上がって、室の隅の廊下口の真正面へ着て着座した。そこには高さ二尺幅一尺ほどの木の枠《わく》の中に、銅《ど》鑼《ら》のような形をした、銅鑼よりも、ずっと重くて厚そうなものがかかっていた。色は蒼黒く貧しい灯《ひ》に照らされていた。袴を着けた男は、台の上にある撞《しゆ》木《もく》を取り上げて、銅鑼に似た鐘のまん中を二つほど打ち鳴らした。そうして、ついと立って、廊下口を出て、奥の方へ進んでいった。今度は前と反対に、足音がだんだん遠くの方へ去るにしたがって、かすかになった。そうしていちばんしまいにぴたりとどこかでとまった。宗助は坐《い》ながら、はっとした。彼はこの袴を着けた男の身の上に、今何事が起こりつつあるのだろうかを想像したのである。けれども奥はしんとして静まり返っていた。宗助と並んでいるものも、一人として顔の筋肉も動かすものはなかった。ただ宗助は心の中で、奥からの何物かを待ち受けた。すると忽《こつ》然《ぜん》として鈴を振る響きが彼の耳にこたえた。同時に長い廊下を踏んで、こちらへ近づく足音がした。袴を着けた男はまた廊下口から現われて、無言のまま玄関をおりて、霜のうちに消え去った。入れ代わってまた新しい男が立って、最前の鐘を打った。そうして、また廊下を踏み鳴らして奥の方へ行った。宗助は沈黙のあいだに行なわれるこの順序を見ながら、膝に手をのせて、自分の番の来るのを待っていた。
自分より一人置いて前の男が立って行った時は、ややしばらくしてから、わっという大きな声が、奥の方で聞こえた。その声は距離が遠いので、はげしく宗助の鼓動を打つほど、強くは響かなかったけれども、たしかにせいいっぱい威を振るったものであった。そうしてただ一《いち》人《にん》の咽《の》喉《ど》から出た個人の特色を帯びていた。自分のすぐ前の人が立った時は、いよいよわが番が回ってきたという意識に制せられて、いっそう落ち付きを失った。
宗助はこのあいだの公案に対して、自分だけの解答は準備していた。けれども、それははなはだおぼつかない薄手のものにすぎなかった。室《しつ》中《ちゆう》に入る以上は、なにか見《けん》解《げ》を呈しないわけにはいかないので、やむをえずおさまらないところを、わざとおさまったように取繕った、その場かぎりの挨拶であった。彼はこの心細い解答で、僥《ぎよう》倖《こう》にも難関を通過してみたいなどとは、ゆめにも思いもうけなかった。老師をごまかす気はむろんなかった。その時の宗助はもう少しまじめであったのである。単に頭から割り出した、あたかも画にかいた餅のようなしろものを持って、義理にも室中に入らなければならない自分の空虚なことを恥じたのである。
宗助は人のするごとくに鐘を打った。しかも打ちながら、自分は人並にこの鐘を撞木でたたくべき権能がないのを知っていた。それを人並に鳴らしてみる猿のごときおのれを深く嫌《けん》忌《き》した。
彼は弱味のある自分に恐れをいだきつつ、入り口を出て冷たい廊下へ足を踏み出した。廊下は長く続いた。右側にある室《へや》はことごとく暗かった。角を二つ折れ曲がると、向こうのはずれの障子に灯《ひ》影《かげ》がさした。宗助はその敷《しき》居《い》ぎわへ来てとまった。
室中に入るものは老師に向かって三拝するのが礼であった。拝しかたは普通の挨拶のように頭を畳に近く下げると同時に、両手の掌《てのひら》を上向きに開いて、それを頭の左右に並べたまま、少し物をかかえた心持ちに耳のあたりまで上げるのである。宗助は敷居ぎわにひざまずいて形のごとく拝を行なった。すると座敷の中で、
「一拝でよろしい」と言う会釈があった。宗助はあとを略して中へはいった。
室の中はただ薄暗い灯《ひ》に照らされていた。その弱い光は、いかに大《だい》字《じ》な書物をも披《ひ》見《けん》せしめぬ程度のものであった。宗助は今《こん》日《にち》までの経験に訴えて、これくらいかすかな燈《ともし》火《び》に、夜《よ》を営む人間を思い起こすことができなかった。その光はむろん月よりも強かった。かつ月のごとく蒼白い色ではなかった。けれどももう少しでもうろうの境に沈むべき性質《たち》のものであった。
この静かなはっきりしない燈《ともし》火《び》の力で、宗助は自分を去る四、五尺の正面に、宜道のいわゆる老師なるものを認めた。彼の顔は例によって鋳物のように動かなかった。色は銅《あかがね》であった。彼は全身に渋に似た柿《かき》に似た茶に似た色の法衣《ころも》をまとっていた。足も手も見えなかった。ただ頸《くび》から上が見えた。その頸から上が、厳粛と緊張の極度に安んじて、いつまでたっても変わるおそれを有せざるごとくに人を魅《み》した。そうして頭には一本の毛もなかった。
この面前に気力なくすわった宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければだめだ」とたちまち言われた。「そのくらいなことは少し学問をしたものならだれでも言える」
宗助は喪《そう》家《か》の犬のごとく室中を退いた。後に鈴を振る音がはげしく響いた。
二十
障子の外で野中さん、野中さんと呼ぶ声が二度ほど聞こえた。宗助は半睡のうちにはいとこたえたつもりであったが、返事をしきらないさきに、早く知覚を失って、また正体なく寝入ってしまった。
二度目に目がさめた時、彼は驚いて飛び起きた。縁側へ出ると、宜道が鼠《ねずみ》木《も》綿《めん》の着物に襷《たすき》をかけて、かいがいしくそこいらをふいていた。赤くかじかんだ手で、濡《ぬれ》雑《ぞう》巾《きん》を絞りながら、例のごとくやさしいにこやかな顔をして、
「おはよう」と挨拶した。彼は今朝もまたとくに参禅をすました後、こうして庵《あん》に帰って働いていたのである。宗助はわざわざ呼び起こされても起きえなかった自分の怠慢を省みて、まったくきまりの悪い思いをした。
「今朝もつい寝忘れて失礼しました」
彼はこそこそ勝手口から井戸端の方へ出た。そうして冷たい水をくんでできるだけ早く顔を洗った。延びかかった髯《ひげ》が、頬《ほお》のあたりで手を刺すようにざらざらしたが、今の宗助にはそれを苦にするほどの余裕はなかった。彼はしきりに宜道と自分とを対照して考えた。
紹介状をもらうときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、たいへん性質《たち》のいい男で、今では修業もだいぶできあがっているという話だったが、会ってみると、まるで一《いつ》丁《てい》字《じ》もない小《こ》廝《もの*》のように丁寧であった。こうして襷掛けで働いているところを見ると、どうしても一個の独立した庵の主人らしくはなかった。納《なつ》所《しよ*》とも小坊主とも言えた。
この矮《わい》小《しよう》な若《じやく》僧《そう》は、まだ出家をしないまえ、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日のあいだ結《けつ》跏《か》したぎり少しも動かなかったのである。しまいには足が痛んで腰が立たなくなって、厠《かわや》へのぼるおりなどは、やっとのこと壁伝いにからだを運んだのである。その時分の彼は彫刻家であった。見《けん》性《しよう*》した日に、うれしさのあまり、裏の山へ駆け上がって、草《そう》木《もく》国《こく》土《ど》悉《しつ》皆《かい》成《じよう》仏《ぶつ》と大きな声を出して叫んだ。そうしてついに頭をそってしまった。
この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を並べて、楽に足を延ばして寝たことはないと言った。冬でも着物のまま壁にもたれて座《ざ》睡《すい》するだけだと言った。侍者をしていたころなどは、老師のふんどしまで洗わせられたと言った。そのうえ少しの暇をぬすんですわりでもすると、後から来て意地の悪いじゃまをされる、毒づかれる、頭のそりたてにはなんの因果で坊主になったかと悔むことが多かったと言った。
「ようやくこのごろになって少し楽になりました。しかしまだ先がございます。修業はじっさい苦しいものです。そう容易にできるものなら、いくら私《わたくし》どもがばかだって、こうして十年も二十年も苦しむ訳がございません」
宗助はただ惘《ぼう》然《ぜん》とした。自己の根気と精力の足らないことをはがゆく思うゆえに、それほど歳月をかけなければ成《じよう》就《じゆ》できないものなら、自分はなにをしにこの山の中までやってきたか、それからが第一の矛盾であった。
「けっして損になる気づかいはございません。十分すわれば、十分の功があり、二十分すわれば二十分の徳があるのはむろんです。そのうえ最初を一つきれいにぶち抜いておけば、あとはこういうふうに始終ここにおいでにならないでもすみますから」
宗助は義理にもまた自分の室《へや》へ帰ってすわらなければならなかった。
こんな時に宜道が来て、
「野中さん提《てい》唱《しよう》です」と誘ってくれると、宗助は心からうれしい気がした。彼は禿《はげ》頭《あたま》をつらまえるような手のつけどころのない問題に悩まされて、坐《い》ながらじっと煩《はん》悶《もん》するのを、いかにもせつなく思った。どんなに精力を消《しよう》耗《こう》する仕事でもいいから、もう少し積極的にからだを働かしたく思った。
提唱のある場所は、やはり一窓庵から一町も隔たっていた。蓮池の前を通り越して、それを左へ曲がらずにまっすぐに突き当たると、屋根瓦をいかめしく重ねた高い軒が、松の間に仰がれた。宜道は懐に黒い表紙の本を入れていた。宗助はむろん手ぶらであった。提唱というのが、学校でいう講義の意味であることさえ、ここへ来てはじめて知った。
室《へや》は高い天井に比例して広くかつ寒かった。色の変わった畳の色が古い柱と映《て》りあって、昔を物語るように寂《さ》びはてていた。そこにすわっている人々もみな地味に見えた。席次不同に思い思いの座を占めてはいるが、高《こう》声《せい》に語るもの、笑うものは一人もなかった。僧はみな紺《こん》麻《あさ》の法衣《ころも》を着て、正面の曲《きよく》〓《ろく*》の左右に列を作って向かい合わせに並んだ。その曲〓は朱で塗ってあった。
やがて老師が現われた。畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通って、どこからここへ出たかさっぱりわからなかった。ただ彼の落ち付きはらって曲〓による重々しい姿を見た。一人の若い僧が立ちながら、紫の袱《ふく》紗《さ》を解いて、中から取り出した書物を、うやうやしく卓上に置くところを見た。またその礼《らい》拝《はい》して退くさまを見た。
このとき堂上の僧はいっせいに合掌して、夢《む》窓《そう》国《こく》師《し*》の遺誡を誦《じゆ》しはじめた。思い思いに席を取った宗助の前後にいる居士もみな同音に調子を合わせた。聞いていると、経文のような、普通の言葉のような、一種の節を帯びた文《もん》字《じ》であった。
「我に三等の弟《で》子《し》あり。いわゆる猛烈にして諸縁を放《ほう》下《げ》し、専一に己《こ》事《じ》を究明する。これを上等と名づく。修業純ならず駁《はく》雑《ざつ》学《がく》を好む、これを中等という」うんぬんという、あまり長くはないものであった。宗助ははじめ夢窓国師の何《なん》人《ぴと》なるかを知らなかった。宜道からこの夢窓国師と大《だい》燈《とう》国《こく》師《し*》とは、禅門中興の祖であるということを教わったのである。平生跛《ちんば》で十分に足を組むことができないのを憤って、死ぬ間ぎわに、今日こそおれの意のごとくにしてみせると言いながら、悪いほうの足をむりに折っぺしょって結《けつ》跏《か》したため、血が流れて法衣《ころも》をにじましたという大燈国師の話もそのおり宜道から聞いた。
やがて提唱が始まった。宜道は懐から例の書物を出して、ページをなかばずらして宗助の前へ置いた。それは宗《しゆう》門《もん》無《む》尽《じん》燈《とう》論《ろん*》という書物であった。はじめて聞きに出た時、宜道は、
「ありがたい結構な本です」と宗助に教えてくれた。白《はく》隠《いん》和《お》尚《しよう*》の弟子の東《とう》嶺《れい》和《お》尚《しよう*》とかいう人の編集したもので、おもに禅を修業するものが、浅いところから深いところへ進んでゆく径路やら、それに伴う心境の変化やらを秩序立てて書いたものらしかった。
中途から顔を出した宗助には、よくも解《げ》せなかったけれども、講者は能弁のほうで、黙って聞いているうちに、たいへんおもしろいところがあった。そのうえ参禅の士を鼓舞するためか、古来からこの道に苦しんだ人の閲《えつ》歴《れき》譚《だん》などを取り交ぜて、一段の精彩をつけるのが例であった。この日もそのとおりであったが、あるところへ来ると、突然語調を改めて、
「このごろ室中に来たって、どうも妄《もう》想《ぞう》が起こっていけないなどと訴えるものがあるが」と急に入室者の不熱心を戒めだしたので、宗助はおぼえずぎくりとした。室中に入って、その訴えをなしたものは実に彼自身であった。
一時間の後宜道と宗助は袖《そで》をつらねてまた一窓庵に帰った。その帰り路に宜道は、
「ああして提唱のある時に、よく参禅者の不心得を諷《ふう》せられます」と言った。宗助はなにも答えなかった。
二十一
そのうち、山の中の日は、一日一日とたった。お米からはかなり長い手紙がもう二本来た。もっとも二本とも新たに宗助の心を乱すような心配事は書いてなかった。宗助は常の細君思いに似ずついに返事を出すのを怠った。彼は山を出る前に、なんとかこのあいだの問題にかたをつけなければ、せっかく来たかいがないような、また宜道に対してすまないような気がしていた。目がさめている時は、これがために名状しがたい一種の圧迫を受けつづけに受けた。したがって日が暮れて夜《よ》が明けて、寺で見る太陽の数が重なるにつけて、あたかも後から追いかけられでもするごとく気をいらった。けれども彼は最初の解決よりほかに、一歩もこの問題にちかづく術《すべ》を知らなかった。彼はまたいくら考えてもこの最初の解決は確かなものであると信じていた。ただ理屈から割り出したのだから、腹のたしにはいっこうならなかった。彼はこの確かなものを放り出して、さらにまた確かなものを求めようとした。けれどもそんなものは少しも出てこなかった。
彼は自分の室《へや》でひとり考えた。疲れると、台所からおりて、裏の菜園へ出た。そうして崖の下に掘った横穴の中へはいって、じっと動かずにいた。宜道は気が散るようではだめだと言った。だんだん集注してこり固まって、しまいに鉄の棒のようにならなくてはだめだと言った。そういうことを聞けば聞くほど、実際にそうなるのが、困難になった。
「すでに頭の中に、そうしようという下心があるからいけないのです」と宜道がまた言って聞かした。宗助はいよいよ窮した。忽《こつ》然《ぜん》安井のことを考えだした。安井がもし坂井の家へ頻《ひん》繁《ぱん》に出入りでもするようになって、当分満州へ帰らないとすれば、今のうちあの借家を引き上げて、どこかへ転宅するのが上分別だろう。こんな所にぐずぐずしているより、早く東京に帰ってそのほうの所置をつけたほうが、まだ実際的かもしれない。ゆっくり構えて、お米にでも知れるとまた心配がふえるだけだと思った。
「私のようなものにはとうてい悟りは開かれそうにありません」と思い詰めたように宜道をつらまえて言った。それは帰る二《に》、三《さん》日《ち》前のことであった。
「いえ信念さえあればだれでも悟れます」と宜道は躊《ちゆう》躇《ちよ》もなく答えた。「法華《ほつけ》のこり固まりが夢中に太鼓をたたくようにやってごらんなさい。頭のてっぺんから足の爪《つま》先《さき》までがことごとく公《こう》案《あん》で充実したとき、俄《が》然《ぜん》として新天地が現前するのでございます」
宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働きをあえてするに適しないことを深く悲しんだ。いわんや自分がこの山で暮らすべき日はすでに限られていた。彼は直《ちよく》截《せつ》に生活の葛《かつ》藤《とう》を切り払うつもりで、かえって迂《う》闊《かつ》に山の中へ迷い込んだ愚物であった。
彼は腹の中でこう考えながら、宜道の面前で、それだけのことを言いきる力がなかった。彼は心からこの若い禅僧の勇気と、熱心と、まじめと、親切とに敬意を表していたのである。
「道は近きにあり、かえってこれを遠きに求む《*》という言葉があるが実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」と宜道はさも残念そうであった。宗助はまた自分の室《へや》に退いて線香を立てた。
こういう状態は、不幸にして宗助の山を去らなければならない日まで、目に立つほどの新生面を開く機会なく続いた。いよいよ出立の朝になって宗助はいさぎよく未練をなげすてた。
「ながながお世話になりました。残念ですが、どうもしかたがありません。もう当分お目にかかるおりもございますまいから、ずいぶんごきげんよう」と宜道に挨拶をした。宜道は気の毒そうであった。
「お世話どころか、万事不《ふ》行《ゆき》届《とどき》でさぞ御窮屈でございましたろう。しかしこれほどおすわりになってもだいぶ違います。わざわざおいでになっただけのことは十分ございます」と言った。しかし宗助にはまるで時間をつぶしに来たような自覚が明らかにあった。それをこうとりつくろって言ってもらうのも、自分のふがいなさからであると、ひとり恥じ入った。
「悟りの遅速はまったく人の性質《たち》で、それだけでは優劣にはなりません。入りやすくてもあとでつかえて動かない人もありますし、また初め長くかかっても、いよいよという場合に非常に痛快にできるのもあります。けっして失望なさることはございません。ただ熱心がたいせつです。亡《な》くなられた洪《こう》川《せん》和《お》尚《しよう*》などは、もと儒教をやられて、中年からの修業でございましたが、僧になってから三年のあいだというものまるで一《いつ》則《そく》も通らなかったです。それで私《わし》は業《ごう》が深くて悟れないのだと言って、毎《まい》朝《ちよう》厠《かわや》に向かって礼《らい》拝《はい》されたくらいでありましたが、後にはあのような知識になられました。これなどはもっともいい例です」
宜道はこんな話をして、暗に宗助が東京へ帰ってからも、まったくこのほうを断念しないように、あらかじめ間接の注意を与えるようにみえた。宗助は謹んで、宜道のいうことに耳を借した。けれども腹の中では大事がもうすでに半分去ったごとくに感じた。自分は門をあけてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、
「たたいてもだめだ。ひとりであけてはいれ」と言う声が聞こえただけであった。彼はどうしたらこの門の閂《かんのき》をあけることができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中でこしらえた。けれどもそれを実地にあける力は、少しも養成することができなかった。したがって自分の立っている場所は、この問題を考えない昔とごうも異なるところがなかった。彼は依然として無能無力にとざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別をたよりに生きてきた。その分別が今は彼にたたったのを口《くち》惜《お》しく思った。そうしてはじめから取捨も商量《*》もいれない愚なものの一徹一図をうらやんだ。もしくは信念にあつい善《ぜん》男《なん》善《ぜん》女《によ》の、知恵も忘れ、思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外にたたずむべき運命をもって生まれてきたものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまでたどりつくのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気をもたなかった。彼は前をながめた。前には堅固な扉がいつまでも展望をさえぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
宗助はたつまえに、宜道と連れだって、老師のもとへちょっと暇《いとま》乞《ご》いに行った。老師は二人を蓮《れん》池《ち》の上の、縁に勾《こう》欄《らん》のついた座敷に通した。宜道はみずから次の間に立って、茶を入れて出た。
「東京はまだ寒いでしょう」と老師が言った。「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜しいことで」
宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、また十日まえにくぐった山門を出た。甍《いらか》を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後にそびえた。
二十二
家の敷居をまたいだ宗助は、おのれにさえ憫《びん》然《ぜん》な姿を描いた。彼は過去十日間、毎朝頭を冷水でぬらしたなり、いまだかつて櫛《くし》の歯を通したことがなかった。髭《ひげ》はもとよりそる暇《いとま》をもたなかった。三度とも宜道の好意で白米の炊《かし》いだのを食べたには食べたが、副食物といっては、菜の煮たのか、大根の煮たのぐらいなものであった。彼の顔はおのずから蒼かった。出るまえよりも多少おもやつれていた。そのうえ彼は一窓庵で考えつづけに考えた習慣が、まだまったく抜けきらなかった。どこかに卵をいだく牝《めん》鶏《どり》のような心持ちが残って、頭が平生のとおり自由に働かなかった。そのくせ一方では坂井のことが気にかかった。坂井というよりも、坂井のいわゆる冒険者《アドベンチユアラー》として宗助の耳に響いたその弟《おとと》と、その弟の友だちとして彼の胸を騒がした安井の消息が気にかかった。けれども彼は自身に家主の宅へ出向いて、それを聞きただす勇気をもたなかった。間接にそれをお米に問うことはなおできなかった。彼は山にいるあいださえ、お米がこの事件について何事も耳にしてくれなければいいがと、気づかわない日はなかったくらいである。宗助は年来住み慣れた家の座敷にすわって、
「汽車に乗ると短い道中でも気のせいか疲れるね。留守中にべつだん変わったことはなかったかい」と聞いた。じっさい彼は短い汽車旅行にさえたえかねる顔つきをしていた。
お米はいかな場合にも、夫の前に忘れなかった笑顔さえ作りえなかった。といって、せっかく保養に行った転地先から今帰ってきたばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話しにくかった。わざと活発に、
「いくら保養でも、家《うち》へ帰ると、少しは気づかれが出るものよ。けれどもあなたはあんまり爺々《じじ》むさいわ。後生だから一休みしたらお湯に行って、頭を刈って髭をそってきてちょうだい」と言いながら、わざわざ机の引出しから小さな鏡を出して見せた。
宗助はお米の言葉を聞いて、はじめて一窓庵の空気を風で払ったような心持ちがした。ひとたび山を出て家《うち》へ帰ればやはり元の宗助であった。
「坂井さんからはその後なんともいってこないかい」
「いいえなんとも」
「小六のことも」
「いいえ」
その小六は図書館へ行って留守だった。宗助は手拭と石《せつ》鹸《けん》を持って外へ出た。
あくる日役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれた。なかには少しやせたようですねと言うものもあった。宗助にはそれが無意識の冷評の意味に聞こえた。菜根譚を読む男はただ、どうですうまくいきましたかと尋ねた。宗助はこの問にもだいぶ痛い思いをした。
その晩はまたお米と小六から、代る代る鎌倉のことを根堀り葉堀り問われた。
「気楽でしょうね。留守居もなにも置かないで出られたら」とお米が言った。
「それで一日《いちんち》いくら出すと置いてくれるんです」と小六が聞いた。「鉄砲でもかついで行って、猟でもしたらおもしろかろう」とも言った。
「しかし退屈ね。そんなに淋《さむ》しくっちゃ。朝から晩まで寝ていらっしゃるわけにもいかないでしょう」とお米がまた言った。
「もう少し滋養物が食えるところでなくっちゃあ、やっぱりからだによくないでしょう」と小六がまた言った。
宗助はその夜《よ》床の中へはいって、明日《あした》こそ思いきって、坂井へ行って安井の消息をそれとなく聞きただして、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引っ越してしまおうと考えた。
次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落とした。夜に入って彼は、
「ちょっと坂井さんまで行ってくる」と言い捨てて門を出た。月のない坂をのぼって、ガス燈に照らされた砂利《じやり》を鳴らしながらくぐり戸をあけた時、彼は今夜ここで安井に落ち合うような万一は、まず起こらないだろうと度胸をすえた。それでもわざと勝手口へ回って、お客来ですかと聞くことは忘れなかった。
「よくおいでです。どうも相変わらず寒いじゃありませんか」と言う常のとおり元気のいい主人を見ると、子供を大ぜい自分の前へ並べて、そのうちの一人と掛け声をかけながら、じゃん拳《けん》をやっていた。相手の女の子の年は、六つばかりにみえた。赤い幅のあるリボンの蝶々のように頭の上にくっつけて、主人に負けないほどの勢いで、小さな手を握り固めてさっと前へ出した。その断然たる様子と、その握り拳《こぶし》の小ささと、これに反して主人のぎょうさんらしく大きな拳《げん》骨《こつ》が、対照になってみんなの笑いをひいた。火鉢のはたに見ていた細君は、
「そら今《こん》度《だ》こそ雪子の勝だ」と言って愉快そうにきれいな歯をあらわした。子供の膝のそばには、白だの赤だの藍《あい》だののガラス玉がたくさんあった。主人は、
「とうとう雪子に負けた」と席をはずして、宗助の方を向いたが、「どうですまた洞《どう》窟《くつ》へでも引き込みますかな」と言って立ち上がった。
書斎の柱には、例のごとく錦《にしき》の袋に入れた蒙古刀がぶら下がっていた。花《はな》活《いけ》にはどこで咲いたか、もう黄色い菜の花がさしてあった。宗助は床柱の中途をはなやかにいろどる袋に目をつけて、
「相変わらずかかっておりますな」と言った。そうして主人の気《け》色《しき》を頭の奥からうかがった。主人は、
「ええちとものずきすぎますね、蒙古刀は」と答えた。「ところが弟《おとと》のやろうそんなおもちゃを持ってきては、兄貴を籠《ろう》絡《らく》するつもりだから困りものじゃありませんか」
「御舎弟はその後どうなさいました」と宗助はなにげないふうを示した。
「ええようやく四、五日まえ帰りました。ありゃまったく蒙古向きですね。お前のような夷《い》狄《てき*》は東京にゃ調和しないから早く帰れったら、私《わたし》もそう思うって帰っていきました。どうしても、ありゃ万里の長城の向こう側にいるべき人物ですよ。そうしてゴビの沙《さ》漠《ばく》の中でダイヤモンドでも捜していればいいんです」
「もう一人のお伴侶《つれ》は」
「安井ですか、あれもむろんいっしょです。ああなると落ち付いちゃいられないとみえますね。なんでも元は京都大学にいたこともあるんだとかいう話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」
宗助は腋《わき》の下から汗が出た。安井がどう変わって、どう落ち付かないのか、まったく聞く気にはならなかった。ただ自分が主人に安井と同じ大学にいたことを、まだもらさなかったのを天《てん》佑《ゆう》のようにありがたく思った。けれども主人はその弟と安井とを晩《ばん》餐《さん》に呼ぶとき、自分をこの二人に紹介しようと申し出た男である。辞退をしてその席へ顔を出す不《ふ》面《めん》目《もく》だけはやっとまぬかれたようなものの、その晩主人がなにかのはずみに、つい自分の名を二人にもらさないとは限らなかった。宗助は後ろ暗い人の、変《へん》名《みよう》を用いて世を渡る便利をせつに感じた。彼は主人に向かって、「あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか」と聞いてみたくてたまらなかった。けれども、それだけはどうしても聞けなかった。
下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。一丁の豆腐ぐらいな大きさの金《きん》玉《ぎよく》糖《とう*》の中に、金魚が二疋すいて見えるのを、そのまま包丁の刃を入れて、元の形をくずさずに、皿に移したものであった。宗助は一目見て、ただ珍しいと感じた。けれども彼の頭はむしろほかの方面に気を奪われていた。すると主人が、
「どうです一つ」といつものとおりまず自分から手を出した。
「これはね、昨日《きのう》ある人の銀婚式に呼ばれて、もらってきたのだから、すこぶるおめでたいのです。あなたも一切れぐらいあやかってもいいでしょう」
主人はあやかりたい名のもとに、甘たるい金玉糖を幾切れか頬《ほお》張《ば》った。これは酒も飲み、茶も飲み、飯も菓子も食えるようにできた、重《ちよう》宝《ほう》で健康な男であった。
「なに実をいうと、二十年も三十年も夫婦が皺《しわ》だらけになって生きていたって、別におめでたくもありませんが、そこが物は比較的なところでね。私はいつか清水《しみず》谷《だに》の公園の前を通って驚いたことがある」と変な方面へ話をもっていった。こういうふうに、それからそれへと、客を飽かせないように引っ張ってゆくのが、社交になれた主人の平生の調子であった。
彼のいうところによると、清水谷から弁《べん》慶《けい》橋《ばし》へ通じるどぶのような細い流れの中に、春先になると無数の蛙《かえる》が生まれるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って成長するうちに、幾百組か幾千組の恋がどぶの中で成立する。そうしてそれらの愛に生きるものが、重ならないばかりにすき間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互いにむつまじく浮いていると、通りがかりの小僧だの閑《ひま》人《じん》が、石を打ちつけて、無残にも蛙の夫婦を殺していくものだから、その数がほとんど勘定しきれないほど多くなるのだそうである。
「死《し》屍《し》累《るい》々《るい》とはあのことですね。それがみんな夫婦なんだからじっさい気の毒ですよ。つまりあすこを二、三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出会うかわからないんです。それを考えるとお互いは実に幸福でさあ。夫婦になってるのがにくらしいって、石で頭をわられる恐れは、まあないですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、まったくおめでたいに違いありませんよ。だから一切れぐらいあやかっておく必要もあるでしょう」と言って、主人はわざと箸《はし》で金玉糖をはさんで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた。
こんな冗談まじりの話を、主人はいくらでも続けるので、宗助はやむをえずある辺まではつられていった。けれども腹の中はけっして主人のように太平楽にはゆかなかった。辞して表へ出て、また月のない空をながめた時は、その深く黒い色のもとに、なんとも知れない一種の悲哀とものすごさを感じた。
彼は坂井の家に、ただいやしくもまぬかれんとする了見で行った。そうして、その目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と真《しん》率《そつ》の気にみちた主人に対して、政略的に談話を駆《か》った。しかも知ろうと思うことはことごとく知ることができなかった。おのれの弱点については、一《ひと》言《こと》も彼の前に自白するの勇気も必要も認めなかった。
彼の頭をかすめんとした雨雲は、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれからさき何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような、虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天のことであった。それを逃げて回るのは宗助のことであった。
二十三
月が変わってから寒さがだいぶゆるんだ。官吏の増俸問題につれて必然起こるべく、多数の噂にのぼった局員課員の淘汰も、月末までにほぼかたづいた。そのあいだにぽつりぽつりと首をきられる知人や未知人の名前を絶えず耳にした宗助は、時々家《うち》へ帰ってお米に、
「今《こん》度《だ》はおれの番かもしれない」と言うことがあった。お米はそれを冗談とも聞き、また本気とも聞いた。まれには隠れた未来を故意に呼び出す不吉な言葉とも解釈した。それを口にする宗助の胸の中にも、お米と同じような雲が去来した。
月が改まって、役所の動揺もこれで一段落だと沙《さ》汰《た》せられた時、宗助は生き残った自分の運命をかえりみて、当然のようにも思った。また偶然のようにも思った。立ちながら、お米を見おろして、
「まあ助かった」とむずかしげに言った。そのうれしくも悲しくもない様子が、お米には天から落ちた滑稽に見えた。
また二、三日して宗助の月給が五円のぼった。
「原則どおり二割五分増さないでもしかたがあるまい。やめられた人も、元給のままでいる人もたくさんあるんだから」と言った宗助は、この五円に自己以上の価値をもたらし帰ったごとく満足の色を見せた。お米はむろんのこと心のうちに、不足を訴えるべき余地を見いださなかった。
あくる日の晩宗助はわが膳《ぜん》の上に頭《かしら》つきの魚《うお》の、尾を皿の外におどらすさまをながめた。小豆《あずき》の色に染まった飯のかおりをかいだ。お米はわざわざ清をやって、坂井の家に引き移った小六を招いた。小六は、
「やあごちそうだなあ」と言って勝手からはいってきた。
梅がちらほらと目に入るようになった。早いのはすでに色を失って散りかけた。雨は煙るように降りはじめた。それがはれて、日に蒸されるとき、地面からも、屋根からも、春の記憶を新たにすべき湿気がむらむらと立ちのぼった。背《せ》戸《ど》に干した雨《あま》傘《がさ》も、子犬がじゃれかかって、蛇《じや》の目の色がきらきらするところに、陽炎《かげろう》が燃えるごとくのどかに思われる日もあった。
「ようやく冬が過ぎたようね。あなた今《こん》度《だ》の土曜に佐伯の叔母《おば》さんのところへ回って、小六さんのことをきめていらっしゃいよ。あんまりいつまでもほうっておくと、また安さんが忘れてしまうから」とお米が催促した。宗助は、
「うん、思いきって行って来《き》よう」と答えた。小六は坂井の好意で、そこの書生に住み込んだ。そのうえに宗助と安之助が、不足のところを分担することができたらと小六に言って聞かしたのは、宗助自身であった。小六は兄の運動を待たずに、すぐ安之助に直《じか》談《だん》判《ぱん》をした。そうして、形式的に宗助のほうから依頼すれば、すぐ安之助が引き受けるまでに自分で埒《らち》をあけたのである。
小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。ある日曜の午《ひる》宗助は久しぶりに、四日目の垢《あか》を流すため横町の洗湯に行ったら、五十ばかりの頭をそった男と、三十代の商《あき》人《んど》らしい男が、ようやく春らしくなったと言って、時候の挨拶をとりかわしていた。若いほうが、今朝《けさ》はじめて鶯《うぐいす》の鳴き声を聞いたと話すと、坊さんのほうが、私《わたし》は二、三日まえにも一度聞いたことがあると答えていた。
「まだ鳴きはじめだからへただね」
「ええ、まだ十分に舌が回りません」
宗助は家《うち》へ帰ってお米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。お米は障子のガラスに映るうららかな日影をすかして見て、
「ほんとうにありがたいわね。ようやくのこと春になって」と言って、はればれしい眉《まゆ》を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を切りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。
注 釈
*ゴム車 当時改良されていた鉄製ゴム輪の人力車。以前は木製鉄輪であった。
*敷島 当時売出されていた吸口付きのたばこ。
*勧工場 デパートの前身。個々の商店が協同して、主として雑貨日用品を販売した。
*キチナー元帥 Horatio Herbert Kitchener (1850―1916)イギリスの将軍。明治四十二年(一九〇九)、インド軍総司令官の時、大演習参観のため来日した。第一次世界大戦で戦死。
*霍乱 日射病のこと。
*版行 ふつう「判子」と書く。
*あこぎ あつかましく欲の深いこと。
*其一 画家。寛政八年―安政五年(一七九六―一八五八)。本名、鈴本元長。酒井抱一の弟子。
*抱一 画家。宝暦十一年―文政十一年(一七六一―一八二八)。姫路城主酒井忠《ただ》以《さね》の弟。真宗の僧となり、宗達風の画をかくほか、俳諧・狂歌にも通じた。
*岸駒 画家。寛延二年―天保九年(一七四九―一八三八)。富山侯に仕え、のち朝廷の絵所に出仕した。狩野派など諸画風をとりいれて独特の写生画法をあみだした。
*岸岱 画家。天明二年―慶応元年(一七八二―一八六五)。岸駒の長男。
*「成功」 明治三十一年(一八九八)「成功」雑誌社から発刊された。
*風碧落を……玉一団 迷いからさめた無私の心境。出典は『禅林句集』で「東山」は「青山」となっている。
*荏苒の境 「荏苒」は長引くさま。ぐずぐずして、どっちつかずの状態でいること。
*統監府 明治三十八年(一九〇五)日韓協約にもとづき、京城に設置された。統監は朝鮮における日本政府のあらゆる権利を代行した。明治四十三年、日韓合併によって廃止。
*のつそつ 伸っつ反っつ、か。体を伸ばしたり反転したり、おちつかないさま。
*唐桟 紺地に赤や浅黄の縦じまのある粋な綿織物。通人・職人が多く着用した。桟留縞。
*扇骨木 カナメモチ。生垣などに用いる常緑灌木。初夏に白い花が咲き、秋には赤い実をつける。
*好事 ここでは書画・骨董の趣味をいう。
*瓦解 徳川幕府の崩壊をさす。
*インバネス 当時の男子用外套。別称「二重まわし」「とんび」。inverness coat の略。
*女学館 当時麹町虎の門にあった東京女学館。良家の子女が多く、貴族的な校風で知られた。
*早打ち肩 「早肩」ともいう。江戸ことばで、狭心症のこと。
*張交 いろいろな書画をまぜ合わせて張ること。またその張りつけた屏風や襖のこと。
*布子 和服で木綿の綿入れ。
*簓 竹を細く割り、束ねて食器などの汚れを洗うに使用する道具。
*大悲閣 京都嵐山中腹の千光寺内にある観音堂。
*即非 中国福州の高僧(一六一六―一六七一)。隠元に従って来日、黄《おう》檗《ばく》宗《しゆう》を広めた。
*平八茶屋 京都市左京区修学院山端にあり、川魚料理で知られた。
*間の土山雨が降る 近松門左衛門「丹波与作待《まつ》夜《よ》の小《こ》室《むろ》節《ぶし》」中の馬子歌の一節。
*有名な宿 滋賀県甲賀郡土山。東海道鈴鹿越えの宿場であった。
*江戸名所図会 斎藤幸雄編、長谷川雪旦画。文化年間(一八〇四―一八一八)に作成、天保七年(一八三六)幸雄の孫幸成によって出版された。
*江戸砂子 江戸の地誌。享保十七年(一七三二)菊岡沾涼著。
*炮烙灸 炮烙(素焼きの土なべ)を頭にのせ、もぐさを入れてすえる。頭痛持ちや脳の悪い入に用いる灸で、夏の土用に社寺などで行なわれた。
*黐 とりもち。もちの木などの樹皮から得られる軟いゴム状の粘着性物質。虫や鳥を捕えるのに用いる。
*白牡丹 当時尾張町と伝馬町にあった西洋小間物店。
*袖萩 浄瑠璃「奥州安達原《あだちがはら》」の三段目「袖萩祭文の段」に登場する女性。
*顰にならった 「ひそみにならう」ともいう。むやみに入まねをすること。中国周代の美女西《せい》施《し》が、心の痛みのため眉をひそめたところ、いっそう美しかったので、醜婦もこぞってまねた故事から出たことば。
*ポッケット論語 明治末年に出版されたポケット判の論語。矢野恒太の平易な解釈で好評をよんだ。
*奉天 中国の都市で現在の瀋陽《シエンヤン》。撫順《フーシユン》・本渓《ペンチー》・鞍山《アンシヤン》を含めて瀋陽工業区と称し、中国工業の要地。
*菜根譚 明末の儒者、洪自誠著。儒教・老荘・禅の思想などを説き、語録体で簡潔・風流。
*侍者 和尚に侍して雑用に従う僧。
*塔頭 禅寺の境内にある小寺院。わきでら。
*居士 出家しないで、仏道や禅の修行をする男子。
*お斎 法要法事のとき、参会者に出す食事。
*公案 禅宗で悟りを開くために修行者に考えさせる問題。祖師(一宗一派の開祖または高僧)が定める。
*入室 禅宗で修行者が公案の問答のため師の室へはいること。
*提唱 禅宗で師が大衆のために説法すること。
*見解 知見解会。公案の答をさとること。
*半跏 坐禅で、左足を右股の上におく組み方。または右足を左股の上におく坐法。足背で左右互いのももを押える坐法「結跏趺坐」の対。
*碧巌集 『碧巌録』。中国宋代(九〇六―一二七九)の圜《えん》悟《ご》禅師が霊泉院の碧巌方丈で雪《せつ》竇《ちよう》禅師撰の頌《しよう》古《こ》百則(修行者の研究課題となる釈迦の言動百を撰し、これを賛える歌を付したもの)を講じたのを弟子たちが編纂したもの。
*揣摩 当て推量。
*禅関策進 中国の高僧雲棲(諱は〓宏)撰。一六〇〇年成立。前後集あり、前集は「諸祖法語節略」「諸祖苦功節略」の二門に分かれ、後集は「諸経引証節略」から成る。
*聞達 名声が世に聞こえ達すること。
*一丁字もない小廝 一個の文字も解さない、下男・丁稚《でつち》のような無学文盲の者。
*納所 納所坊主。会計・庶務を取扱う下級僧。
*見性 ものの本性を見ぬき、悟りをひらくこと。
*曲〓 僧の使う椅子。木製漆塗でよりかかる所をまるく曲げてつくり、脚は折り畳み式に交差させてある。
*夢窓国師 臨済宗の高僧疎石の号。建治一年―正平六年(一二七五―一三五一)。足利尊氏の請によって天竜寺を開山した。
*大燈国師 臨済宗大徳寺派の祖妙超の号。弘安五年―延元二年(一二八二―一三三七)。幼時より天台の学をまなび、正中元年(一三二四)大徳寺を創建した。
*宗門無尽燈論 東嶺和尚著。禅宗における信心修行の次第を述べたもの。白隠のもとで苦行中、瀕死の重病を冒して書いたといわれる。
*白隠和尚 臨済禅中興の祖。貞享二年―明和五年(一六八五―一七六八)。伊豆竜沢寺の開祖。終生王侯に近づかず、庶民に慕われた。
*東嶺和尚 享保六年―寛政四年(一七二一―一七九二)。大徳寺高山和尚について得度し、のち白隠の弟子となった。白隠とともに伊豆竜沢寺を開いて、みずから第二世と称し二十年住した。
*道は近きに……遠きに求む 『孟子』離婁編にあることば。
*洪川和尚 文化十三年―明治二十七年(一八一六―一八九四)。はじめ藤沢東〓に儒学を学び、十九歳で出家、二十五歳で大拙禅師について修行し、明治八年(一八七五)鎌倉円覚寺管長となった。
*商量 はかり考えること。
*夷狄 未開人。野蛮人。
*金玉糖 ざらめ砂糖をまぶした寒天菓子。
門《もん》
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
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平成12年12月8日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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角川文庫『門』昭和26年2月15日初版刊行
平成9年10月30日改訂53版