TITLE : 虞美人草
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目 次
虞美人草
注 釈
虞美人草
一
「ずいぶん遠いね。元来どこから登るのだ」
と一人がハンケチで額を拭《ふ》きながら立ち留《ど》まった。
「どこか己《おれ》にも判然《はつきり》せんがね。どこから登ったって、同じことだ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯《からだ》も四角にでき上がった男が無《む》雑《ぞう》作《さ》に答えた。
反《そ》りを打った中折れの茶の廂《ひさし》の下から、深き眉《まゆ》を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫《かすか》なる春の空の、底までも藍《あい》を漂わして、吹けば揺《うご》くかと怪しまるるほど柔らかきなかに屹《きつ》然《ぜん》として、どうする気かといわぬばかりに叡《えい》山《ざん》が聳《そび》えている。
「恐ろしい頑《がん》固《こ》な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖《つえ》に身を倚《も》たせていたが、
「あんなに見えるんだから、わけはない」と今度は叡山を軽《けい》蔑《べつ》したようなことを言う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝《けさ》宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃたいへんだ」
「だから見えてるから、いいじゃないか。よけいなことをいわずに歩行《ある》いていればしぜんと山の上へ出るさ」
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽《あお》いでいる。日ごろからなる廂に遮《さえ》ぎられて、菜の花を染めだす春の強き日を受けぬ広き額だけは目だって蒼《あお》白《じろ》い。
「おい、今から休息しちゃたいへんだ。さあはやく行こう」
相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に曝《さら》して、粘りついた黒髪の、逆《さか》に飛ばぬを恨《うら》むごとくに、ハンケチを片手に握って、額ともいわず、顔ともいわず、頸窩《ぼんのくぼ》の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに掻《か》き回した。促されたことには頓《とん》着《じやく》する気《け》色《しき》もなく、
「君はあの山を頑固だと言ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそといったような按《あん》排《ばい》じゃないか。こういうふうに」と四角な肩をいとど四角にして、空《あ》いたほうの手に栄螺《さざえ》の親類をつくりながら、いささか我《われ》も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそというのは、動けるのに動かない時のことをいうのだろう」と細長い目の角から斜めに相手を見おろした。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君はよけいなことを言いに生まれて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜のステッキを、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるやいなや、歩行きだした。瘠《や》せた男もハンケチを袂《たもと》に収めて歩行きだす。
「今日は山《やま》端《ばな》の平八茶屋《*》で一《いち》日《んち》遊んだほうがよかった。今から登ったって中途半端になるばかりだ。元来頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからかわかるものか、高の知れた京都の山だ」
瘠せた男はなんにもいわずににやにやと笑った。四角な男は威勢よくしゃべり続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見《み》損《そこな》ってしまう。連れこそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出しておきながら、どこから登って、どこを見て、どこへおりるのか見当がつかんじゃないか」
「なんの、これしきのことに計画もなにもいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山の高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんなくだらんことを。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それみるがいい」
「なにもそんなに威《い》張《ば》らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さはお互いに知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確かめてこなくっちゃ。予定どおりに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければ遣《や》り直すだけだ。君のようによけいなことを考えているうちには何《なん》遍《べん》でも遣り直しができるよ」となおさっさと行く。瘠せた男は無言のままあとに後《おく》れてしまう。
春はものの句になり易き京の町《*》を、七条から一条まで横に貫いて、煙《けぶ》る柳の間から、温《ぬく》き水打つ白き布を、高《たか》野《の》川《がわ》の磧《かわら》に数え尽くして、長々と北にうねる路《みち》を、おおかたは二里余りも来たら、山はおのずから左右に逼《せま》って、脚下に奔《はし》る潺《せん》湲《かん*》の響きも、折れるほどに曲がるほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更《ふ》けたるを、山を極《きわ》めたらばまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾《すそ》を縫うて、暗き陰に走る一《ひと》条《すじ》の路に、爪《つま》上がりなる向こうから大《お》原《はら》女《め》が来る。牛が来る。京の春は牛の尿《いばり*》の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち留まりながら、先なる友を呼んだ。おおいという声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑と行き尽くして、萱《かや》ばかりなる突き当たりの山に打突《ぶつか》ったとき、一丁先に動いていた四角な影ははたと留まった。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸《の》して、返れ返れと二度ほどゆすって見せる。桜の杖が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思うまもなく、彼は帰ってきた。
「なんだい」
「なんだいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋を渡るのは妙だぜ」
「君みたようにむやみに歩行いていると若《わか》狭《さ》の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出てもかまわんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴《き》いてみた。この橋を渡って、あの細い道を向こうへ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「叡山の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登ってみなければ分からないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったとみえるね。千慮の一矢か。それじゃ、仰せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前だがな」
「なんでもいいから、先へ行くがいい」
「あとから尾《つ》いて来るかい」
「いいから行くがいい」
「尾いて来る気なら行くさ」
渓《たに》川《がわ》に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草《くさ》繁《しげ》きなかを、かろうじて一《いち》縷《る》の細き力に頂へ抜ける小《こ》径《みち》のなかに隠れた。草はもとより去年の霜を持ち越したまま立ち枯れの姿であるが、薄く溶けた雲を透《とお》して真上から射《さ》し込む日影に蒸し返されて、両《りよう》頬《きよう》のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯《からだ》をまっすぐに立てたまま、下を向いて、
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り回す。
振り回した杖の先の尽くる、はるか向こうには、白《しろ》銀《かね》の一筋に目を射る高野川を閃《ひら》めかして、左右は燃え崩《くず》るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦《なす》りつけた背景には薄紫の遠山を縹《ひよう》緲《びよう》のあなたに描き出してある。
「なるほどいい景色だ」と甲野さんは例の長身を捩《ね》じ向けて、きわどく六十度の勾《こう》配《ばい》に擦《す》り落ちもせず立ち留まっている。
「いつのまに、こんなに高く登ったんだろう。はやいものだな」と宗《むね》近《ちか》君《くん》が言う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬまに堕落したり、知らぬまに悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったりするのと同じことかな。それなら、おれもとくに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳《いくつ》だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見だとみえる」
「隠すものか、ちゃんと分かってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ言え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作もなく言って退《の》ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「冗談を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だからお互いにさ。お互いに年と取ったと言うんだ」
「うん、お互いにか、お互いなら勘弁するが、おれだけじゃ………」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「なんだ坂の途中で人をばかにするな」
「そら、坂の途中でじゃまになる。ちょっと退《ど》いてやれ」
百《もも》折《お》れ千《ち》折《お》れ、五間とはすぐに続かぬ坂道を、呑《のん》気《き》な顔の女が、ご免やすと下りて来る。身の丈《たけ》に余る粗《そ》朶《だ》の大束を、緑洩る濃き髪の上に圧《おさ》えつけて、手も懸《か》けずに戴《いただ》きながら、宗近君の横を擦《す》り抜ける。生《お》い茂る立ち枯れの萱《かや》をごそつかせた後ろ姿の目につくは、目《め》暗《くら》縞《じま》の黒きがなかを斜《はす》に抜けた赤《あか》襷《だすき》である。一里を隔てても、そことさす指の先に、引っついて見えるほどの藁《わら》葺《ぶ》きは、この女の家でもあろう。天武天皇《*》の落ちたまえる昔のままに、たなびく霞《かすみ》は長《とこ》しえに八《や》瀬《せ》の山里を封じて長閑《のどか》である。
「このへんの女はみんなきれいだな。感心だ。なんだか画《え》のようだ」と宗近君が言う。
「おれが大原女なんだろう」
「なに八《や》瀬《せ》女《め》だ」
「八瀬女というのは聞いたことがないぜ」
「なくっても八瀬の女に違いない。嘘《うそ》だと思うなら今度逢《あ》ったら聞いてみよう」
「誰《だれ》も嘘だと言やしない。しかしあんな女を総称して大原女と言うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受け合うか」
「そうするほうが詩的でいい。なんとなく雅《が》でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号はいいよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの。万有神教《*》だの、忠、信、孝、悌《てい》、だのってさまざまな奴《やつ》があるから」
「なるほど、蕎麦《そば》屋《や》に薮《やぶ》がたくさんできて、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
「そうさ、お互いに学士を名乗ってるのも同じことだ」
「つまらない。そんなことに帰着するなら雅号はよせばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴《やつ》がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「ばかを申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってるくせに。憚《はばか》りながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき………」
「何遍やるか分からないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君はぜんたい何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足で石を転がしてはいかん。後から尾いて行くものが剣《けん》呑《のん》だ。――ああずいぶんくたびれた。僕はここで休むよ」
と甲野さんは、がさりと音を立てて枯《か》れ薄《すすき》の中へ仰向けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を唱えるが、山登りはからだめだね」と宗近君は例の桜の杖で、甲野さんの寝ている頭の先をこつこつ敲《たた》く。敲くたびに杖の先が薄を薙《な》ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「反吐《へど》が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも一と休息《やすみ》仕《つかまつ》ろう」
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も傘《かさ》も坂道に転がしたまま、仰向けに空を眺めている。蒼《あお》白《じろ》く面高に削りなせる彼の顔と、無《む》辺《へん》際《ざい》に浮き出す薄き雲の〓《しゆう》然《ぜん*》と消えて入る大いなる天上界の間には、一《いち》塵《じん》の目を遮《さえぎ》るものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向かう彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
宗近君は米《よね》沢《ざわ》絣《がすり》の羽織を脱いで、袖《そで》畳《だた》みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんというまに諸《もろ》肌《はだ》を脱いだ。下から袖無《ちやんちやん》があらわれる。袖無の裏から、もじゃもじゃした狐《きつね》の皮がはみ出している。これは支《し》那《な》へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千《せん》羊《よう》の皮は一狐《こ》の腋《えき》にしかず《*》といって、君はいつでもこの袖無を一着している。そのくせ裏につけた狐の皮は斑《まだら》にほうけて、むやみに脱落するところをもってみると、なんでもよほど性《たち》の悪い野《の》良《ら》狐《ぎつね》に違いない。
「お山へお登《あが》りやすのどすか。案内しまほうか。ホホホ妙《けつたい》なとこに寝ていやはる」とまた目暗縞が下りて来る。
「おい、甲野さん。妙なとこに寝ていやはるとさ。女にまでばかにされるぜ。いいかげんに起きてあるこうじゃないか」
「女は人をばかにするもんだ」
と甲野さんは依然として天を眺《なが》めている。
「そう泰然と尻を据《す》えちゃ困るな。まだ反吐を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「やっかいだなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万《ばん》斛《こく》の反吐皆動の一字より来たる《*》」
「なんだほんとうに吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を担《かつ》いで麓《ふもと》まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟《へき》易《えき》していたんだ」
「よけいなお世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛《あい》嬌《きよう》のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「なんのかのといって、一分でもよけい動かずにいようという算段だな。怪《け》しからん男だ」
「愛嬌というのはね、――自分より強いものを斃《たお》す柔らかい武器だよ」
「それじゃ無《ぶ》愛《あい》想《そ》は自分より弱いものを、扱《こ》き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌がいるものか」
「いやに詭《き》弁《べん》を弄《ろう》するね。そんなら僕はお先へご免こうむるぜ。いいか」
「かってにするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両《りよう》袖《そで》をぐるぐると腰へ巻きつけるとともに、毛《け》脛《ずね》にまつわる竪《たて》縞《じま》の裾をぐいと端《はし》折《お》って、同じく白《しろ》縮緬《しろちりめん》の周囲《まわり》にたたみ込む。さいぜん袖《そで》畳《だたみ》にした羽織を桜の杖の先へ引き懸《か》けるがはやいか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨《そば》路《みち》を飄《ひよう》然《ぜん》として左へ折れたぎり見えなくなった。
あとは静かである。静かなること定まって、静かなるうちに、わが一脈の命を託すると知ったとき、この大《だい》乾《けん》坤《こん》のいずくにか通う、わが血潮は、粛々と動くにもかかわらず、音なくして寂《じやく》定《じよう》裏《り*》に形《けい》骸《がい》を土木視して、いかも依《い》希《き》たる活気《*》を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべくうやむやの累《わずら》いを捨てたるは、雲の岫《しゅう》を出で《*》、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘《こう》泥《でい》を超絶したる活気である。古《こ》今《こん》来《らい》を空《むな》しゅうして、東西位を尽くしたる世界の外《ほか》なる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫も吸い尽くして、元の五彩に還《かえ》すことを知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んでみたい。死は万事の終わりである。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年をなすとも、詮《せん》ずるにすべてを積んで墓となすにすぎぬ。墓のこちら側なるすべてのいさくさは、肉一重の垣《かき》に隔てられた因果に、枯れ果てたる骸《がい》骨《こつ》にいらぬ情けの油を注《さ》して、要なき屍《しかばね》に長夜の踴《おど》りをおどらしむる滑《こつ》稽《けい》である。はるかなる心を持てるものは、はるかなる国をこそ慕え。
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起こした。また歩行かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕《こん》迹《せき》を、二、三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて髄に入って消えぬほどある。いたずらに足の底に膨《ふく》れ上がる豆の十や二十――と切り石の鋭き上に半ば掛けたる編み上げの踵《かかと》を見下ろすとたん、石はきりりと面を更《か》えて、乗せかけた足をすわというまに二尺ほど滑《す》べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に吟じながら、傘《かさ》を力に、岨路を登りつめると、急に折れた胸突き坂が、下から来る人を天に誘《いざな》う風《ふ》情《ぜい》で帽に逼《せま》って立っている。甲野さんは真《ま》廂《びさし》を煽《あお》って坂の下から真一文《もん》字《じ》に坂の尽きる頂を見上げた。坂の尽きた頂から、淡きうちに限りなき春の色を漲《みなぎ》らしたる果てもなき空を見上げた。甲野さんはこのとき
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登りつめて、雑木の間を四、五段上ると、急に肩から暗くなって、踏む靴《くつ》の底が、湿っぽく思われる。路は山の背を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江《おうみ》の空を深く色どるこの森の、動かねば、その上《かみ》の幹と、その上の枝が、幾重幾里に連なりて、昔ながらの翠《みどり》を年ごとに黒くたたむと見える。二百の谷々を埋め、三百の神《み》輿《こし》を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三《さ》藐《まく》三《さ》菩《ぼ》提《だい*》の仏たちを埋め尽くして、森《しん》々《しん》と半空に聳《そび》ゆるは、伝教大師以来の杉《すぎ》である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
右よりし左よりして、行く人を両手に遮る杉の根は、土を穿《うが》ち石を裂いて深く地《じ》磐《ばん》に食い入るのみか、余る力に、跳《は》ね返して暗き道を、二寸の高さにだんだんと横切っている。登らんとする岩《いわお》の梯《てい》子《し》に、自然の枕《まくら》木《ぎ》を敷いて、踏み心地よき幾級の階を、山霊の賜《たまもの》と甲野さんは息を切らして上って行く。
行く路の杉に逼って、暗きより洩《も》るるがごとく這《は》い出《い》ずる日《ひ》影《かげ》蔓《かずら》の、足にまつわるほどに繁きを越せば、引かれたる蔓《つる》の長きを伝わって、手も届かぬに、朽ちかかる歯《し》朶《だ》の、風なき昼をふらふらと揺《うご》く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天《てん》狗《ぐ》のような声を出す。朽ち草の土となるまで積み古《ふ》るしたる上を、踏めば深《ふか》靴《ぐつ》を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思いで、蝙蝠傘《こうもりがさ*》を力に、天狗の座まで、登って行く。
「善《ぜん》哉《ざい》善哉、われ汝《なんじ》を待つことここに久しだ。ぜんたい何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと言ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放り出すと、その上へどさりと尻《しり》持《も》ちを突いた。
「また反吐か、反吐を吐くまえに、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖で、杉の間をさす。天を封ずる老幹の亭《てい》々《てい》と行儀よく並ぶ隙《すき》間《ま》に、的《てき》〓《れき》と近江の湖《うみ》が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸《ひとみ》を凝らす。
鏡を延べたとばかりでは飽き足らぬ。琵《び》琶《わ》の銘ある鏡の明らかなるを忌《い》んで、叡山の天狗どもが、宵《よい》に偸《ぬす》んだ神酒《みき》の酔に乗じて、曇れる気息《いき》を一面に吹きかけたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎《かげろう》を巨人の絵の具皿《さら》にあつめて、ただ一《ひと》刷《は》けに抹《なす》り付けた、瀲《れん》〓《えん*》たる春色が、十里の外《ほか》に模《も》糊《こ》とたなびいている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても嬉《うれ》しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そういう恩知らずは、えて哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日《にち》々《にち》人間とご無《ぶ》沙《さ》汰《た》になって………」
「まことにすみません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背《うしろ》にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかしきれいだ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向こうの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片《かた》づけるに限るね。夢のごとしだって懐《ふところ》手《で》をしていちゃ、だめだよ」
「何を言ってるんだい」
「おれのいうこともやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将《まさ》門《かど*》が気炎を吐いたのはどこいらだろう」
「なんでも向こう側だ。京都を瞰《み》下《お》ろしたんだから。こっちじゃない。あいつもばかだなあ」
「将門か。うん、気炎を吐くより、反吐でも吐くほうが哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「ほんとうに哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨《だるま》だね」
「あの煙《けぶ》るような島はなんだろう」
「あの島か、いやに縹《ひよう》緲《びよう》としているね。おおかた竹《ちく》生《ぶ》島《しま》だろう」
「ほんとうかい」
「なあに、いいかげんさ。雅号なんざ、どうだって、質《もの》さえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死というとこだけが真《まこと》だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当たらなくっちゃ、人間の浮《うわ》気《き》はなかなかやまないものだ」
「やまなくっていいから、突き当たるのはまっぴらご免だ」
「ご免だって今に来る。来たときにああそうかと思い当たるんだね」
「誰が」
「小刀細工の好きな人間がさ」
山を下りて近江の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄りつけぬ遠くに眺めているのが甲野さんの世界である。
二
紅《くれない》を弥生《やよい》に包む昼酣《たけなわ》なるに、春を抽《ぬき》んずる紫《*》の濃き一点を、天《あめ》地《つち》の眠れるなかに、鮮《あざ》やかに滴《した》たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶《あで》やかに眺《なが》めしむる黒髪を、乱るるなとたためる鬢《びん》の上には、玉虫貝を冴《さ》え冴《ざ》えと菫《すみれ》に刻んで、細き金《きん》脚《あし》にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸《ひとみ》のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短きを偸《ぬす》んで、疾風の威を作《な》すは、春にいて春を制する深き眼《まなこ》である。この瞳《ひとみ》を遡《さかのぼ》って、魔力の境《きよう》を窮むるとき、桃源《*》に骨を白うして、ふたたび塵《じん》寰《かん*》に帰るを得ず。ただの夢ではない。模《も》糊《こ》たる夢の大いなるうちに、燦《さん》たる一点の妖《よう》星《せい》が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉《まゆ》近く逼るのである。女は紫色の着物を着ている。
静かなる昼を、静かに栞《しおり》を抽《ぬ》いて、箔《はく》に重き一巻を、女は膝《ひざ》の上に読む。
「墓の前に跪《ひざま》づいて《*》言ふ。この手にて――この手にて君を埋《うづ》めまゐらせしを、今はこの手も自由ならず。捕はれて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃《はら》ひ、この手にて香を焚《た》くべきをりをりの、長《とこ》しへに尽きたりと思ひたまへ。生ける時は、莫《ばく》耶《や*》も我らを割《さ》きがたきに、死こそ無惨なれ。ローマの君はエジプトに葬られ、エジプトなるわれは君がローマに埋められんとす。君がローマは――わが思ふほどの恩を、憂《う》きわれに拒める、君がローマは、つれなき君がローマなり。されど、情だにあらば、ローマの神は、よも生きながらの辱《はずかし》めに、市《いち》に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまはざるべし。君が仇《あだ》なる人の勝利を飾るわれを。エジプトの神に見離されたるわれを。君が片身と残したまへるわが命こそ仇なれ。情けあるローマの神に祈る。われを隠したまへ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永《えい》劫《ごふ》に隠したまへ」
女は顔を上げた。蒼白き頬《ほお》の締まれるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重の底に、余れる何者かを蔵《かく》せるがごとく、蔵《かく》せるものを見きわめんとあせる男はことごとく虜《とりこ》となる。男は眩《まばゆ》げに半ば口元を動かした。口の居ずまいの崩《くず》るるとき、この人の意志はすでに相手の餌《え》食《じき》とならねばならぬ。下《した》唇《くちびる》のわざとらしく色めいて、しかもはっきりと口を切らぬ瞬間に、切りつけられたものは、必ず受け損《そこな》う。
女はただ隼《はやぶさ》の空を摶《う》つがごとくちらと眸《ひとみ》を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を顎《あご》頭《さき》に飛ばして、泡《あわ》吹《ふ》く蟹《かに》と、烏《う》鷺《ろ》を争う《*》は策のもっとも拙《つた》なきものである。風励鼓行《*》して、やむなく城下の誓いをなさしむるは策のもっとも凡なるものである。蜜《みつ》を含んで針を吹き、酒を強《し》いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦いには一語をも交《まじ》うることを許さぬ。拈《ねん》華《げ》の一《いつ》拶《さつ*》は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊《ちゆう》躇《ちよ》すること刹《せつ》那《な》なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷いと書き、惑いと書き、失われたる人の子、と書いて、すわというまに引き上げる。下界万丈の鬼火に、腥《なまぐさ》き青《せい》燐《りん》を筆の穂に吹いて、会釈もなく描きいだせる文《もん》字《じ》は、白髪《しらが》をたわしにして洗ってもたやすくは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑いを引き戻《もど》すわけにはゆくまい。
「小野さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、崩れた口元を立て直す暇《いとま》もない。唇に笑いを帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》に草書に崩したまでであって、崩したものの尽きんとする間ぎわに、崩すべき第二の波の来ぬのを煩っていたおりであるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉《のど》を滑《すべ》り出たのである。女はもとより曲《くせ》者《もの》である。「え?」と言わせたまま、しばらくはなんにも言わぬ。
「なんですか」と男は二の句を継いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起こす。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映らぬ男の目には、二の句はもとより愚かである。
女はまだなんにも言わぬ。床に懸けた容《よう》斎《さい*》の、小松に交じる稚《ち》子《ご》髷《まげ》の、太刀持ちこそ、昔から長閑《のどか》である。狩《かり》衣《ぎぬ》に、鹿《か》毛《げ》なる駒《こま》の主人《あるじ》は、事なきに慣れし殿《てん》上《じよう》人《びと》の常か、動く景色も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた。二の矢の中《あた》った所は判然せぬ。これが外《そ》れれば、また継がねばならぬ。男は気息《いき》を凝らして女の顔を見つめている。肉の足らぬ細《ほそ》面《おもて》に予期の情を漲《みなぎ》らして、重きにすぐる唇の、奇か偶かを疑いつつも、手答えのあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ち着いた調子で言う。これは意外な手答えである。天に向かって彎《ひ》ける弓の、危うくもわが頭の上に、瓢《ひよう》箪《たん》羽《ば》を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引きかえて、女ははじめより、わが前に坐《すわ》れる人の存在を、膝に開ける一冊のうちに見失っていたとみえる。そのくせ、女はこの書物を、箔《はく》美しと見つけたとき、今携えたる男の手から〓《も》ぎ取るようにして、読みはじめたのである。
男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女はローマへゆくつもりなんでしょうか」
女は腑《ふ》に落ちぬ不快の面持ちで男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したようなことを言う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得する。小野さんは暗い隧道《トンネル》をかろうじて抜け出した。
「シェイクスピアの書いたもの《*》を見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
小野さんは隧道を出るやいなや、すぐ自転車に乗って馳《か》け出そうとする。魚は淵《ふち》に躍《おど》る、鳶《とび》は空に舞う。小野さんは詩の郷《くに》に住む人である。
ピラミッドの空を燬《や》くところ、スフィンクスの砂を抱《いだ》くところ、長《ちよう》河《が》の鰐《がく》魚《ぎよ*》を蔵するところ、二千年の昔妖《よう》姫《き》クレオパトラのアントニイと相擁して、駝《だ》鳥《ちよう》の〓《しよう》〓《しよう*》に軽く玉《ぎよつ》肌《き》を払えるところ、は好画題である、まだ好詩料である。小野さんの本領である。
「シェイクスピアの描《か》いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出ることができなくなって、ぼんやりしているうちに、紫色のクレオパトラが目の前に鮮やかに映ってきます。剥《は》げかかった錦《にしき》絵《え》のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出してきます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そういう感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き袖《そで》を、さっと捌《さば》いて、小野さんの鼻の先に翻す。小野さんの眉《み》間《けん》の奥で、急にクレオパトラの臭《にお》いがぷんとした。
「え?」と小野さんは俄《が》然《ぜん》として我に帰る。空を掠《かす》める子規《ほととぎす》の、駟《し*》も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける異《あや》しき色は、とくに収まって、美しい手は膝《ひざ》頭《がしら》に乗っている。脈打つとさえ思えぬほど静かに乗っている。
ぷんとしたクレオパトラの臭いは、しだいに鼻の奥から逃げてゆく。二千年の昔から不意に呼び出だされた影の、恋々と遠のく後を追うて、小野さんの心は杳《よう》窕《ちよう》の境《さかい》に誘《いざな》われて、二千年のかなたに引き寄せられる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息の恋じゃありません。暴風雨《あらし》の恋、暦にものっていない大《おお》暴雨《あらし》の恋。九寸五分《*》の恋です」と小野さんが言う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬《き》ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒《おこ》ると九寸五分が紫色に閃《ひか》るというのです」
「シェイクスピアがそんなことを書いているんですか」
「シェイクスピアが描いたところを私《わたし》が評したのです。――アントニイがローマでオクテヴィアと結婚したときに――使いのものが結婚の報道《しらせ》を持って来たときに――クレオパトラの………」
「紫が嫉《しつ》妬《と》で濃く染まったんでしょう」
「紫がエジプトの日で焦げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さかげんならだいじょうぶですか」と言うまもなく長い袖《そで》がふたたび閃《ひらめ》いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むところがあるときでさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺《なが》めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と抑《おさ》えた女はふたたび手綱を緩《ゆる》める。小野さんは馳け出さなければならぬ。
「オクテヴィアのことを根掘り葉掘り、使いのものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰《なじ》り方が、性格を活動させているからおもしろい。オクテヴィアは自分のように背が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮します。………」
「ぜんたい追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶお婆《ばあ》さんね」
女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき靨《えくぼ》のなかに捲《ま》き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓《しろ》い歯に交じる一筋の金の耀《かがや》いてまた消えんとする間ぎわまで、男はなんの返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違いであることをとうから知っている。
美しき女の二十《はたち》を越えて夫なく、空《むな》しく、一、二、三を数えて、二十四の今日まで嫁《とつ》がぬは不思議である。春院いたずらに更《ふ》けて、花影欄《おばしま》に酣《たけなわ》なるを、遅日早く尽きんとする風情と見て、琴を抱いて恨み顔なるは、嫁ぎ後《おく》れたる世の常の女の習いなるに、塵尾《ほつす》に払うおりおりの空《そら》音《ね》に、琵《び》琶《わ》らしき響きを琴《こと》柱《じ》に聴《き》いて、本来ならぬ音色を興ありげに楽しむはいよいよ不思議である。仔《し》細《さい》はもとより分からぬ。この男とこの女の、互いに語る言葉の影から、時々に覗《のぞ》き込んで、いらざる憶《おく》測《そく》に、うやむやなる恋の八《はつ》卦《け》をひそかに占うばかりである。
「年を取ると嫉妬が増してくるものでしょうか」と女は改まって、小野さんに聞いた。
小野さんはまた面《めん》喰《くら》う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬことは答えられるわけがない。中年の人の嫉妬を見たことのない男は、いくら詩人でも文士でも致《いた》し方がない。小野さんは文字に堪《たん》能《のう》なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人によるでしょう」
角《かど》を立てない代わりに挨《あい》拶《さつ》は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんなお婆さんになったら――今でもお婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬なんて、そんなものは、今だって………」
「ありますよ」
女の声は静かなる春風をひやりと斬《き》った。詩の国に遊んでいた男は、急に足をはずして下界に落ちた。落ちてみればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖《がけ》の上から、こちらを見下ろしている。自分をこんな所に蹴《け》落《お》としたのは誰だと考える暇もない。
「清姫が蛇《じや》になったのは何歳《いくつ》でしょう」
「さよう、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八、九でしょう」
「安珍は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたはお何歳《いくつ》でしたかね」
「私ですか――私はと………」
「考えないと分からないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同《おな》い年でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄のほうがよっぽど老《ふ》けて見えますよ」
「なに、そうでもありません」
「ほんとうよ」
「何か奢《おご》りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊《ぼ》っちゃんのようですよ」
「かわいそうに」
「かわいらしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ回転して、なぜ落ち着くかはむろん知らぬ。大いなる古今の舞台の極《きわ》まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかはもとより知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にすることも、国家を向こうへ回すことも、一団の群衆を眼前に、事を処することも、女にはできぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦うとき、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠《かご》の中に飼われて、個体の粟《あわ》を喙《ついば》んではうれしげに羽《は》搏《ばた》きするものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音《ね》を競《きそ》うものは必ず斃《たお》れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損《そこ》ねた。
「かわいらしいんですよ。ちょうど安珍のようなの」
「安珍は苛《ひど》い」
許せといわぬばかりに、今度は受け留めた。
「ご不服なの」と女は目元だけで笑う。
「だって………」
「だって、何がお厭《いや》なの」
「私は安珍のように逃げやしません」
これを逃げ損ねの受け太刀という。坊っちゃんは機を見てきれいに引き上げることを知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追っかけますよ」
男は黙っている。
「蛇《じや》になるには、少し年が老けすぎていますかしら」
時ならぬ春の稲妻は、女を出でて男の胸をするりと透《とお》した。色は紫である。
「藤《ふじ》尾《お》さん」
「なんです」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向かって対座している。六畳の座敷は緑濃き植え込みに隔てられて、往来に鳴る車の響きさえ幽《かす》かである。寂《せき》莫《ばく》たる浮き世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶《ちや》縁《べり》の畳を境に、二尺を隔てて互いに顔を見合わしたとき、社会は彼らの傍《かたえ》を遠く立ち退《の》いた。救世軍はこのとき太鼓を敲《たた》いて市中を練り歩いている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息《いき》を引き取ろうとしている。ロシアでは虚無党《*》が爆裂弾を投げている。停車場《ステーシヨン》では掏摸《すり》が捕《つか》まっている。火事がある。赤子が生まれかかっている。練兵場で新兵が叱《しか》られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄《あに》さんと宗近君は叡山に登っている。
花の香さえ重きにすぐる深き巷《ちまた》に、呼び交《か》わしたる男の女の姿が、死の底に滅《め》り込む春の影の上に、明らかに躍《おど》りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来る心臓の扉《とびら》は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男《なん》女《によ》を、躍然と大《だい》空《くう》裏《り》に描き出している。二人の運命はこの危うき刹《せつ》那《な》に定まる。東か西か、微《み》塵《じん》だに体を動かせばそれぎりである。呼ぶは只《ただ》事《ごと》ではない、呼ばれるのも只事ではない。生《しよう》死《し》以上の難関を互いの間に控えて、羃《べき》然《ぜん*》たる爆発物が抛《な》げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体《からだ》は二《ふた》塊《かたまり》の炎である。
「お帰りいっ」と言う声が玄関に響くと、砂利を軋《きし》る車輪がはたと行き留まった。襖《ふすま》を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張りつめた二人の姿勢は崩《くず》れた。
「母が帰ってきたのです」と女は坐《すわ》ったまま、何気なく言う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心をはっきりと外にあらわさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎《なぞ》は、法廷の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互いに何気のあったことを黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何《なん》人《びと》も後ろ指をさすことはできぬ。できれば向こうが悪い。天下はあくまでも太平である。
「御母《おつか》さんは、どちらへかいらしったんですか」
「ええ、ちょっと買い物に出かけました」
「だいぶおじゃまをしました」と立ちかけるまえに居ずまいをちょっと繕い直す。ズボンの襞《ひだ》の崩れるのを気にして、常はできるだけ楽に坐る男である。いざといえば、突っかい棒に、尻《しり》をあげるための、膝《ひざ》頭《がしら》に揃《そろ》えた両手は、雪のようなカフスに甲まで蔽《おお》われて、くすんだ鼠《ねずみ》縞《じま》の袖《そで》の下から、七宝の夫婦《めおと》釦《ぼたん》が、きらりと顔を出している。
「まあごゆっくりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気《け》色《しき》もない。男はもとより尻を上げるのは厭である。
「しかし」と言いながら、隠袋《かくし》の中をさぐって、太い巻《ま》き煙草《たばこ》を一本取り出した。煙草の煙《けむり》はたいていのものを紛らす。いわんやこれは金の吸い口のついたエジプト産である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ちかけた腰を据え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰《つづ》める便りができんとも限らぬ。
薄い煙の、黒い口《くち》髭《ひげ》を越して、ゆたかに流れ出したとき、クレオパトラは果然、
「まあ、お坐りあそばせ」とていねいな命令を下した。
男は無言のままふたたび膝を崩す。お互いに春の日は永い。
「近ごろは女ばかりで淋《さむ》しくっていけません」
「甲野君はいつごろお帰りですか」
「いつごろ帰りますか、ちっとも分かりません」
「お音信《たより》がありますか」
「いいえ」
「時候がいいから京都はおもしろいでしょう」
「あなたもいっしょにお出でになればよかったのに」
「私は………」と小野さんは後をぼかしてしまう。
「なぜいらっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古いお馴《な》染《じ》みじゃありませんか」
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落とす。「え?」と言うとき、不用意に手が動いたのである。
「京都には長いこと、いらしったんじゃありませんか」
「それでお馴染みなんですか」
「ええ」
「あまり古い馴染みだから、もう行く気にならんのです」
「ずいぶん不人情ね」
「なに、そんなことはないです」と小野さんは比較的真面目《まじめ》になって、エジプト煙草を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向こうの座敷で呼ぶ声がする。
「御母さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何かご用がおありになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わっているじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいでよければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっとご免こうむります。――なにまだ伺いたいことがあるから待っていてください」
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平《ひら》床《どこ》に据えた古《こ》薩《さつ》摩《ま》の香炉に、いつ焼《た》き残したる煙の迹《あと》か、こぼれた灰の、灰のままに崩れもせず、藤尾の部《へ》屋《や》は昨日も今日も静かである。敷き棄《す》てた八《はつ》反《たん》の座《ざ》布《ぶ》団《とん》に、主を待つ間《ま》の温気《ぬくもり》は、軽く払う春風に、ひっそり閑と吹かれている。
小野さんは黙《もく》然《ねん》と香炉を見て、また黙然と布団を見た。崩《くず》し格《ごう》子《し》の、畳から浮く角《かど》に、なにやら光るものが奥に挟《はさ》まっている。小野さんは少し首を横にして輝くものを物色して考えた。どうも時計らしい。今まではとんと気がつかなかった。藤尾の立つときに、絹《きぬ》障《ざわ》りのしなやかに、布団が擦《ず》れて、隠したものがでかかったのかもしれぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんはふたたび布団の下を覗《のぞ》いて見た。松葉形に繋《つな》ぎ合わせた鎖の折れ曲がって、表に向いているほうが、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七《なな》子《こ*》の縁がかすかに浮いている。たしかに時計に違いない。小野さんは首を傾けた。
金は色の純にして濃きものである。富貴を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀《こいねが》うものは必ずこの色を撰《えら》む。盛名を致《いた》すものは必ずこの色を飾る。磁石の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なきゴムである。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
おりから向こう座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲がり縁《えん》を伝わって近づいてくる。小野さんは覗き込んだ目を急にそらして、素知らぬ顔で、容斎の軸を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
黒《くろ》縮緬《ちりめん》の三つ紋を撫《な》で肩《がた》に着こなして、くすんだ半《はん》襟《えり》に、髷《まげ》ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母さんは軽く会釈して、縁に近く座を占める。鶯《うぐいす》も鳴かぬ代わりに、目に立つほどの塵《ちり》もなく掃《そう》除《じ》の行き届いた庭に、長すぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、なんとなく同一体のように思われる。
「藤尾が始終ごやっかいになりまして――さぞわがままばかり申すことでございましょう。まるで子供でございますから――さあ、どうぞお楽に――いつもご挨《あい》拶《さつ》を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみいたします――どうも実に赤児《ねんね》で、困りきります、駄《だ》々《だ》ばかり捏《こ》ねまして――でも英語だけはおかげさまでたいへん好きな模様で――近ごろではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――なに兄がいるのでございますから、教えてもらえばよいのでございますが――どうも、その、――やっぱり兄弟はゆかんものとみえまして――」
御母さんの弁舌は滾《こん》々《こん》としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟《さしはさ》む遑《いとま》なく、口車に乗って馳《か》けて行く。行く先はもとより判然せぬ。藤尾は黙ってさいぜん小野さんから借りた書物を開いて続きを読んでいる。
「花を墓に、墓に口を接吻《くちづけ》して、憂きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯《ゆ》をこそと召す。浴《ゆあ》みしたる後《のち》は夕《ゆふ》餉《げ》をこそと召す。このとき賤《いや》しき厠卒《こもの》ありて小さき籃《かご》に無花果《いちじく》を盛りて参らす。女王のシイザアに送れる文に言ふ。願はくはアントニイと同じ墓にわれを埋めたまへと。無花果の繁れる青き葉《は》陰《かげ》にはナイルの泥《つち》に炎の舌を冷やしたる毒《どく》蛇《だ》を、そつと忍ばせたり。シイザアの使は走る。闥《たつ》を排して《*》眼《まなこ》を射れば――黄《わう》金《ごん》の寝台に、位高き装《よそほひ》を今日と凝らして、女王の屍《しかばね》はぜひなく横《よこた》はる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チヤーミオンと名づけたるは、女王の頭《かしら》のあたりに、月黒き夜《よ》の露をあつめて、千《せん》顆《くわ》の珠《たま》を鋳たる冠の、今落ちんとするを力なく支《ささ》ふ。闥を排したるシイザアの使はこはいかにと言ふ。エジプトの御《み》代《よ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チヤーミオンは言ひ終つて、倒れながらに目を瞑《ねむ》る」
エジプトの御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそという最後の一句は、焚《た》き罩《こ》むる錬《ねり》香《こう》の尽きなんとして幽《かす》かなる尾を虚《きよ》冥《めい》に曳《ひ》くごとく、全きページが淡く霞《かす》んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母さんは呼ぶ。
男はやっと寛容《くつろい》だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯《うつ》向《む》いている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の目はようやくにページを離れた。波を打つ廂《ひさし》髪《がみ*》の、白い額に接《つづ》く下から、骨張らぬ細い鼻を承《う》けて、紅《くれない》を寸に織る唇《くちびる》が――唇をそと滑《すべ》って、頬《ほお》の末としっくり落ち合う顎《あご》が――顎を棄ててなよやかに退《ひ》いて行く咽喉が――しだいと現実世界に競《せ》り出してくる。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜のあいだに立つ人の、昼と夜のあいだの返事である。
「おや気楽な人だこと。そんなにおもしろいご本なのかい。――あとでご覧なさいな。失礼じゃないか。――このとおり世間見ずのわがままもので、まことに困りきります。――そのご本は小野さんから拝借したのかい。たいへんきれいな――汚《よご》さないようになさいよ。本などは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、いいけれども、またこないだのように………」
「だって、ありゃ兄《にい》さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんははじめて口らしい口を開いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者の寄り合いだもんでござんすから、始終、子供のように喧《けん》嘩《か》ばかりいたしまして――こないだも兄の本を………」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかという態度を取る。同情のある恐《きよう》喝《かつ》手段は長《ちよう》者《じや》の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんはおそるおそる聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具《おもちや》の九寸五分を突きつけたような気合いである。
「兄の本を庭へ抛《な》げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭い返事を小野さんの眉《み》間《けん》へ向けて抛げつけた。御母さんは苦笑いをする。小野さんは口をあく。
「これの兄もご存じのとおりずいぶん変人ですから」
と御母さんは遠回しに棄《す》て鉢《ばち》になった娘のご機《き》嫌《げん》をとる。
「甲野さんはまだお帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終身体が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもしてはきはきしたらよかろうと申しましてね――でも、まだ、なんだかだと駄々を捏《こ》ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出してもらいました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは………」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんにはなんだか分からないけれども――それにあなた、あの宗近というのが大の呑《のん》気《き》屋《や》で、あれこそほんとうの鉄砲玉で、ずいぶんの困りものでしてね」
「アハハハ快活なおもしろい人ですな」
「宗近といえば、お前《まい》さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした目を上げて部屋のうちを見回す。
「ここです」と藤尾は、軽く諸《もろ》膝《ひざ》を斜めに立てて、青畳の上に、八反の座布団をさらりと滑《す》べらせる。富貴の色は蜷局《とぐろ》を三重に巻いた鎖の中に、堆《うずたか》く七子の蓋《ふた》を盛り上げている。
右手を伸べて、輝くものを戞《かつ》然《ぜん》と鳴らすよと思うまに、掌《たなごころ》より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰《く》い留められると、余る力を横に抜いて、端《はじ》につけた柘榴石《ガーネツト》の飾りとともに、長いものがふらりふらりと二、三度揺れる。第一の波は紅《くれない》の珠《たま》に女の白き腕《かいな》を打つ。第二の波は観《かん》世《ぜ*》に動いて、軽く袖《そで》口《ぐち》にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女はつと立ち上がった。
きれいな色が、二《ふた》色《いろ》、三《み》色《いろ》入り乱れて、とく動く景色を、茫《ぼう》然《ぜん》と眺めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は、
「お母《かあ》さん」と後ろを顧みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と言って故《もと》の席に返る。小野さんのチョッキの胸には松葉形に組んだ金の鎖が、釦《ぼたん》の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦《さん》爛《らん》と耀いている。
「どうです」と藤尾が言う。
「なるほどよく似合いますね」と御母さんが言う。
「ぜんたいどうしたんです」と小野さんは煙《けむ》に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、よしましょう」と藤尾はふたたび立って小野さんの胸から金時計を外《はず》してしまった。
三
柳《やなぎ》たれて条々の煙《けむり》を欄に吹き込むほどの雨の日である。衣《い》桁《こう》に懸《か》けた紺の背広の暗く下がるしたに、黒い靴《くつ》足袋《たび》が三《さん》分《ぶ》一《いち》裏返しに丸く蹲踞《うずくま》っている。違《ちが》い棚《だな》の狭い上に、偉大な頭《ず》蛇《だ》袋《ぶくろ》を据《す》えて、締《し》め括《くくり》りのない紐《ひも》をだらだらと嬾《ものう》くも垂《た》らした傍《かたわ》らに、錬《ね》り歯粉《はみがき》と白《しろ》楊《よう》子《じ》がおはようと挨《あい》拶《さつ》している。立てきった障子のガラスを通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近君は貸《か》し浴衣《ゆかた》の上に銘《めい》仙《せん》の丹前を重ねて、床柱の松の木を背負《しよ》って、傲《ごう》然《ぜん》と箕坐《あぐら》をかいたまま、外を覗《のぞ》きながら、甲野さんに話しかけた。
甲野さんは駱《らく》駝《だ》の膝《ひざ》掛《か》けを腰から下へ掛けて、空《くう》気《き》枕《まくら》の上で黒い頭をぶくつかせていたが、「寒いより眠い所だ」
と言いながらちょっと顔の向きを換えると、櫛《くし》を入れたての濡《ぬ》れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄《す》てた靴足袋といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ寝に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母《おつか》さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんはご挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの額の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。〓《せん》雨《う》〓《しゆう》風《ふう*》か、見たことがないな。なんでも人《にん》扁《べん》だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分からんね」
「分からんでもいいや。それよりこの襖《ふすま》がおもしろいよ。一面に金《きん》紙《がみ》を張りつけたところは豪勢だが、ところどころに皺《しわ》が寄ってるには驚いたね。まるで緞《どん》帳《ちよう》芝《しば》居《い*》の道具立てみたようだ。そこへもってきて、筍《たけのこ》を三本、景気に描《か》いたのは、どういう了見だろう。なあ甲野さん、これは謎《なぞ》だぜ」
「なんという謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが描いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気《き》狂《ちがい》の発明した詰め将棋の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違いの画工《えかき》が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理が分かったら煩《はん》悶《もん》もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話にゴーディアン・ノット《*》というのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いてみるんだ。知ってるなら言ってみろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから言ってごらんなさいよ。哲学者なんてものは、よく胡《ご》魔《ま》化《か》すもので、何を聞いても知らないと白状のできない執念深い人間だから、………」
「どっちが執念深いか分かりゃしない」
「どっちでも、いいから、言ってごらん」
「ゴーディアン・ノットというのはアレキサンダー時代の話さ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴーディアスという百姓がジュピターの神へ車を奉納したところが………」
「おやおや、少し待った。そんなことがあるのかい。それから」
「そんなことがあるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「なんだ。自分こそ知らないくせに」
「ハハハハ学校で習ったときは教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違いない」
「ところがその百姓が、車の轅《ながえ》と横木を蔓《かずら》で結《ゆわ》いた結び目を誰がどうしても解くことができない」
「なあるほど、それをゴーディアン・ノットというんだね。そうか、その結び目《ノツト》をアレキサンダーがめんどうくさいって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーはめんどうくさいともなんとも言やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結び目《ノツト》を解いたものは東方の帝たらんという神託を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだといって………」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わったところだ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだという了見がなくっちゃだめだと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合いがないな。ゴーディアン・ノットはいくら考えたって解けっこないんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中には都合ほど卑《ひ》怯《きよう》なものはない」
「するとアレキサンダーはたいへん卑怯な男になるわけだ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪《えら》いと思ってるのか」
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐《あぐら》のまま旅行案内をひろげる。雨は斜めに降る。
古い京をいやがうえに寂《さ》びよと降る糠《ぬか》雨《あめ》が、赤い腹を空に見せてついと行く乙鳥《つばくら》の背に応《こた》えるほど繁《しげ》くなったとき、下《しも》京《きよう》も上《かみ》京《きよう》もしめやかに濡《ぬ》れて、三十六峰の翠《みどり》の底に、音は友禅の紅《べに》を溶いて、菜の花に注ぐ流れのみである。「お前川上、わしゃ川下で………」と芹《せり》を洗う門口に、眉《まゆ》をかくす手《て》拭《ぬぐ》いの重きを脱げば、「大《だい》文《もん》字《じ》」が見える。「松虫」も「鈴虫」も《*》幾代の春を苔《こけ》蒸《む》して、鶯《うぐいす》の鳴くべき藪《やぶ》に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅《ら》生《しよう》門《もん》に、鬼が来ずなってから、門もいつの代《よ》にか取り毀《こぼ》たれた。綱が〓《も》ぎとった腕の行末《ゆくえ》は誰にも分からぬ。ただ昔ながらの春《はる》雨《さめ》が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇《ぎ》園《おん》では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
甲野さんは寝ながら日記を記《つ》けだした。横《よこ》綴《と》じの茶の表布《クロース》の少しは汗に汚《よご》れた角を、折るようにあけて、二、三枚めくると、一ページの三が一ほど白いところが出てきた。甲野さんはここから書きはじめる。鉛筆を執って景気よく、
「一 奩 楼 角 雨《いちれんろうかくのあめ》、閑 殺 古 今 人《かんさつすここんのひと》」
と書いてしばらく考えている。転結を添えて絶句にする気とみえる。
旅行案内を放り出して宗近君はずしんと畳を威嚇《おどか》して縁《えん》側《がわ》へ出る。縁側にはお誂《あつら》え向きに一脚の籐《とう》の椅子《いす》が、人待ち顔に、しめっぽく据《す》えてある。連《れん》〓《ぎよう》の疎《まば》らなる花の間から隣り家の座敷が見える。障子は立てきってある。中では琴の音《ね》がする。
「忽 〓 弾 琴 響《たちまちきくだんきんのひびき》、垂 楊 惹 恨 新《すゐやううらみをひいてあらたなり》」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬとみえて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は謎である。謎を解くは人々のかってである。かってに解いて、かってに落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは、解けぬ謎を押しつけられて、白《はく》頭《とう》に〓《せん》〓《かい》し《*》、中《ちゆう》夜《や》に煩《はん》悶《もん》するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これができねば、親も妻も宇宙も疑いである。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟という解けぬ謎のあるやさきに、妻という新しき謎を好んで貰《もら》うのは、自分の財産の所置に窮しているうえに、他人の金銭を預かると一般である。妻という新しき謎を貰うのみか、新しき謎に、また新しき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。………すべての疑いは身を捨ててはじめて解決ができる。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
宗近君は籐の椅子に横《おう》平《へい》な腰を据えてさっきから隣りの琴を聴いている。御《お》室《むろ》の御所《*》の春《はる》寒《さむ》に、銘を給わる琵《び》琶《わ*》の風流は知るはずがない。十三弦を南部《*》の菖蒲《あやめ》形《がた*》に張って、象《ぞう》牙《げ》に置いた蒔《まき》絵《え》の舌を気高しと思う数《す》奇《き》も有《も》たぬ。宗近君はただ漫然と聴いているばかりである。
滴々と垣《かき》を蔽《おお》う連〓の黄な向こうは業《なり》平《ひら》竹《だけ》の一《ひと》叢《むら》に、苔の多い御《み》影《かげ》の突《つ》く這《ば》いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡《えい》山《ざん》苔《ごけ》を這わしている。琴の音はこの庭から出る。
雨は一つである。冬は合羽《かつぱ》が凍る。秋は燈心が細る。夏は褌《ふどし》を洗う。春は――平《ひら》打《う》ちの銀《ぎん》簪《かん》を畳の上に落としたまま、貝合わせの貝の裏が朱と金と藍《あい》に光る傍《かたわ》らに、ころりんと掻《か》き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いているのはまさにこのころりんである。
「目に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書きだした。
「耳に聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証《しよう》得《とく》しないものには形も声も無意義である。何者かをこの奥に捕えたるとき、形も声もことごとく新しき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本《ほん》来《らい》空《くう》の不可思議を目に見、耳に聴くための方便である。………」
琴の手はしだいに繁《しげ》くなる。雨《あま》滴《だ》れの絶え間を縫うて、白い爪《つめ》がいくたびか駒《こま*》の上を飛ぶと見えて、濃《こま》やかなる調べは、太き糸の音と細き糸の音を綯《よ》り合わせて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無弦の琴を聴いてはじめて序破急の意義を悟る」と書きおわったとき、椅子に靠《もた》れて隣家《となり》ばかりを瞰《み》下《おろ》していた宗近君は、
「おい、甲野さん、理屈ばかり言わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなかうまいぜ」と縁側から部屋の中へ声をかけた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと縁まで出張を命ずるから出てきなさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色がない。
「おい、どうも東山がきれいに見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨《かも》川《がわ》を渉《わた》る奴《やつ》がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布《ふ》団《とん》着て寝たる姿やとかなんとかいうが、どこに布団を着ているわけかな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加《か》茂《も》の水《みず》嵩《かさ》が増してきたぜ。いやあたいへんだ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちてもさしつかえなしだ」
「落ちてもさしつかえなしだ? 晩に都踊りが見られなくってもさしつかえなしかな」
「なし、なし」と甲野さんはめんどうくさくなったとみえて、寝返りを打って、例の金《きん》襖《ぶすま》の筍《たけのこ》を横に眺《なが》めはじめた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう我を折って部屋の中へはいってくる。
「おい、おい」
「なんだ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと言ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「あたりまえさ」
「幾歳《いくつ》だと思う」
「幾歳《いくつ》だかね」
「そう冷淡じゃ張り合いがない。教えてくれなら、教えてくれとはっきり言うがいい」
「誰が言うものか」
「言わない? 言わなければこっちで言うばかりだ。ありゃ、島田だよ」
「座敷でも開《あ》いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締まっている」
「それじゃまた例のとおりいいかげんな雅号なんだろう」
「雅号にしても本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら聴きたくなった」
「なに聴かなくってもいいさ。そんなことを聞くよりこの筍を研究しているほうがよっぽどおもしろい。この筍を寝ていて横に見ると、背《せい》が低く見えるがどういうものだろう」
「おおかた君の目が横についているせいだろう」
「二枚の唐《から》紙《かみ》に三本描《か》いたのは、どういう因縁だろう」
「あんまり下手《へた》だから一本負けたつもりだろう」
「筍の真《まつ》青《さお》なのはなぜだろう」
「食うと中毒《あた》るという謎なんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎を釈《と》くじゃないか」
「ハハハハ。ときどきは釈いてみるね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうというのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心なことだと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、後から頭を下げさせることにしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話すこともない」
「なければ、いいさ」
「いやよくない。それじゃ話す。昨日ね、僕が湯から上がって、縁側で肌《はだ》をぬいで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨《おう》東《とう》の景色を見回して、ああいい心持ちだとふと目を落として隣家を見下ろすと、あの娘が障子を半分開けて、開けた障子に靠《も》たれかかって庭を見ていたのさ」
「別《べつ》嬪《ぴん》かね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが糸公よりいいようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、あんまりたあいがなさすぎる。そりゃ残念なことをした、僕も見ればよかったぐらい義理にも言うがいい」
「そりゃ残念なことをした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから縁側まで出てこいと言うのに」
「だって障子は締まってるんじゃないか」
「そのうち開くかもしれないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかもしれない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやればよかった」
「京都はああいう人間が住むにいい所だ」
「うんまったく小野的だ。大将、来いというのになんのかのといって、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようというんだろう」
「春休みに勉強ができるものか」
「あんなふうじゃいつだって勉強ができやしない。いったい文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちもあんまり重くはないほうだからね」
「いえ、単なる文学者というものは霞《かすみ》に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を披《ひら》いて本体を見つけようとしないから性《しよう》根《ね》がないよ」
「霞の酔っ払いか。哲学者はよけいなことを考え込んで苦い顔をするから、塩水の酔っ払いだろう」
「君みたように叡山へ登るのに、若《わか》狭《さ》まで突き貫《ぬ》ける男は白雨《ゆうだち》の酔っ払いだよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕《まくら》を離れた。光沢《つや》のある髪で湿っぽく圧《お》しつけられていた空気が、弾力で膨《ふく》れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと回った。同時に駱《らく》駝《だ》の膝《ひざ》掛《か》けが擦《ず》り落ちながら、裏を返して半分に折れる。下から、だらしなく腰に捲《ま》きつけた平《ひら》絎《ぐけ》の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違いない」と枕元に畏《かしこ》まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は痩《や》せた体躯《からだ》を持ち上げた肱《ひじ》を二段に伸ばして、手の平に胴を支《ささ》えたまま、自分で自分の腰のあたりを睨《ね》め回していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍しく畏まってるじゃないか」と一《ひと》重《え》瞼《まぶた》の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
「居ずまいだけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「どてらを来て跪坐《かしこまつ》てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔っ払いらしくするがいい」
「そうか、それじゃご免こうむろう」と宗近君はすぐさま胡坐《あぐら》をかく。
「君は感心に愚を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹痛いことはないものだ」
「諫《いさ》めに従うこと流るるがごとしとは僕のことをいったものだよ」
「酔っ払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気をいう君はどうだ。酔っ払っていると知りながら、胡坐をかくことも跪坐《かしこま》ることもできない人間だろう」
「まあ立ちん坊だね」と甲野さんは淋《さび》しげに笑った。勢い込んでしゃべってきた宗近君は急に真面目になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺《はい》腑《ふ》に入る。面上の筋肉がわれがちに躍《おど》るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻を起こすためでもない。涙管の関が切れて滂《ぼう》沱《だ》の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床を斬《き》るようなものである。浅いから動くのである。本郷座《*》の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
毛筋ほどな細い管《くだ》を通して、捕えがたい情けの波が、心の底からかろうじて流れ出して、ちらりと浮き世の日に影を宿したのである。往来に転がっている表情とは違う。首を出して、浮き世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返すまえに、捕《つら》まえた人が勝ちである。捕まえ損《そこ》なえば生《しよう》涯《がい》甲野さんを知ることはできぬ。
甲野さんの笑いは薄く、柔らかに、むしろ冷ややかである。そのおとなしいうちに、その速やかなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明らかに描き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己である。斬った張ったの境《さかい》に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、はじめて甲野さんの性格を描き出すのはやぼな小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出てくるものではない。
春の旅は長閑《のどか》である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。そのあいだに宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ちん坊か」と言ったまま宗近君は駱《らく》駝《だ》の膝掛けの馬《ば》簾《れん*》をひねくりはじめたが、やがて、
「いつまでも立ちん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語《ひとりごと》のように、駱駝の膝掛けに話しかけるように、立ちん坊を繰り返した。
「立ちん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時はじめて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父《おじ》さんが生きてるといいがな」
「なに、阿爺《おやじ》が生きているとかえってめんどうかもしれない」
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っぱった。
「つまり、家《うち》を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ちん坊さ」
「いよいよほんとうの立ちん坊か」
「うん、どうせ家を襲《つ》いだって立ちん坊、襲がなくったって立ちん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母《おば》さんが困るだろう」
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑えば己《おのれ》にさえ欺かれる。まして己以外の人間の、利害の衢《ちまた》に、損失の塵《ちり》除《よ》けと被《かぶ》る、面の厚さは、容易には度《はか》られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみいう了見か。己にさえ、己を欺く魔の、どこかに潜んでいるような気持は免れぬものを、無二の友達とはいえ、父方の縁続きとはいえ、迂《う》闊《かつ》には天機《*》を洩《も》らしがたい。宗近の言《こと》は継母に対するわが心の底を見んための鎌《かま》か。見たうえでも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌をかけるほどの男ならば、思うとおりを引き出した後で、どうひっくり返らぬとも保証はできん。宗近の言は真率なる彼の、裏表の見《み》界《さかい》なく、母の口《くち》占《うら》をいちずにそれと信じたる反響か。平生のかれこれから推してみるとたぶんそうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵の底に、詮索《さぐり》の錘《おもり》を投げ込むような卑劣な振《ふる》舞《まい》はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見《み》損《そこ》なった母の意を承《う》けて、お互いにおもしろからぬ結果を、必然の期程以前に、家庭のなかにぶちまけることがないとも限らん。いずれにしてもいらぬ口は発《き》くまい。
二人はしばらく無言である。隣家《となり》ではまだ琴を弾いている。
「あの琴は生《いく》田《た》流かな」と甲野さんは、つかぬことを聞く。
「寒くなった、狐《きつね》の袖無《ちやんちやん》でも着よう」と宗近君も、つかぬことを言う。二人は離れ離れに口を発いている。
丹前の胸を開いて、違い棚の上から、例の異様なチョッキを取り下ろして、体《たい》を斜めに腕を通したとき、甲野さんは聞いた。
「その袖無は手製か」
「うん、皮は支《し》那《な》に行った友人から貰《もら》ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。うまいもんだ。お糸さんは藤尾なんぞと違って実用的にできているからいい」
「いいか、ふん。あいつが嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「ないこともないが……」
とだらりと言葉の尾を垂《た》れた。甲野さんは問題を転じた。
「お糸さんが嫁に行くと御叔父《おじ》さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わすことができないもの」
「だから御母《おつか》さんの言うとおりに君が家《うち》を襲《つ》いで……」
「そりゃだめだよ。母がなんと言ったって、僕は厭《いや》なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また鱧《はも》を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都という所は実に愚な所だ。もういいかげん帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅《きゆう》覚《かく》は非常に鋭敏だね。鱧の臭《にお》いがするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺《おやじ》も外国で死ななくっても済んだかもしれない。阿爺は嗅覚が鈍かったとみえる」
「ハハハハ。時に御叔父《おじ》さんの遺物はもう、着いたかしら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐《さ》伯《えき》という人が持ってきてくれるはずだ。――なんにもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。ロンドンで買った自慢の時計か。あれはたぶん来るだろう。子供の時から藤尾の玩具《おもちや》になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あの鏈《くさり》に着いている柘榴石《ガーネツト》が気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺がはじめて洋行したときに買ったんだから」
「あれを御叔父さんのかたみに僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝いにこれをお前にやろうと約束していったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今ごろは藤尾が取ってまた玩具にしているかもしれないが………」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の眉《まゆ》の間を、長いこと見ていた。お昼の膳《ぜん》の上には宗近君の予言どおり鱧が出た。
四
甲野さんの日記の一節にいう。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一節にまたいう。
「生死因縁無了期《しやうしいんねんれうきなし》、色相世界現狂癡《しきさうせかいきやうちをげんず》」
小野さんは色《しき》相《そう》世《せ》界《かい*》に住する男である。
小野さんは暗い所に生まれた。ある人は私生児だとさえ言う。筒《つつ》袖《そで》を着て学校へ通うときから友達に苛《いじ》められていた。行く所で犬に吠《ほ》えられた。父は死んだ。外で辛《ひど》い目に遭《あ》った小野さんは帰る家がなくなった。やむなく人の世話になる。
水《みな》底《そこ》の藻《も》は、暗い所に漂うて、白帆行く岸《きし》辺《べ》に日のあたることを知らぬ。右に揺《うご》こうが、左に靡《なび》こうが嬲《なぶ》るは波である。ただその時々に逆らわなければ済む。馴《な》れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇もない。ただ波がつらく己《おのれ》にあたるかはむろん問題にはのぼらぬ。のぼったところで改良はできぬ。ただ運命が暗い所に生《は》えていろという。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けという。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
京都では孤堂先生の世話になった。先生から絣《かすり》の着物をこしらえてもらった。年に二十円の月謝も出してもらった。書物もときどき教わった。祇《ぎ》園《おん》の桜をぐるぐる周《まわ》ることを知った。智《ち》恩《おん》院《いん》の勅額を見上げて高いものだと悟った。ご飯も一人前は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
東京は目の眩《くら》む所である。元《げん》禄《ろく》の昔に百年の寿《ことぶき》を保ったものは、明治の代に三日住んだものよりも短命である。よそでは人が蹠《かかと》であるいている。東京では爪《つま》先《さき》であるく。逆立ちをする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
きりきりと回った後で、目を開けて見ると世界が変わっている。目を擦《こす》っても変わっている。変だと考えるのは悪く変わったときである。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だという。教授は有望だという。下宿では小野さん小野さんという。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜わった。浮かび出した藻は水面で白い花をもつ。根のないことには気がつかぬ。
世界は色の世界である。ただこの色を味わえば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれて鮮《あざ》やかに目に映る。鮮やかなること錦《にしき》を欺くに至って生きて甲斐《かい》ある命は貴《とうと》い。小野さんのハンケチにはときどきヘリオトロープの香《におい》がする。
世界は色の世界である。形は色の残骸《なきがら》である。残骸を論《あげつら》って中味のうまきを解せぬものは、方円の器に拘《かか》わって、盛り上がる酒の泡《あわ》をどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに見きわめても皿《さら》は食われぬ。唇《くちびる》をつけぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の巵《さかずき》を抱《いだ》いて、路頭に跼《きよく》蹐《せき》している。
世界は色の世界である。いたずらに空《くう》華《げ*》といい鏡《きよう》花《か*》という。真《しん》如《によ*》の実相とは、世に容《い》れられぬ奇形の徒が、容れられぬ恨みを、黒《こく》甜《てん》郷《きよう》裏《り*》に晴らすための妄《もう》想《そう》である。盲人は鼎《かなえ》を撫《な》でる。色が見えねばこそ形が究《きわ》めたくなる。手のない盲人は撫でることをすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所《しよ》作《さ》である。小野さんの机の上には花が活《い》けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡《めがね》が掛かっている。
絢《けん》爛《らん》の域を超《こ》えて平淡に入るは自然の順序である。われらは昔赤ん坊と呼ばれて赤いべべを着せられた。たいていのものは絵画《にしきえ》のなかに生い立って、四条派の淡彩から、雲《うん》谷《こく》流《りゆう》の墨《すみ》画《え》に老いて、ついに棺《かん》桶《おけ》のはかなきに親しむ。顧みると母がある、姉がある、菓子がある、鯉《こい》の幟《のぼり》がある。顧みれば顧みるほど華麗《はなやか》である。小野さんは趣味が違う。自然の径路を逆しまにして、暗い土から、根を振り切って、日の透《とお》る波の、明るい渚《なぎさ》へ漂うてきた。――坑《あな》の底で生まれて一段ごとに美しい浮き世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴から覗《のぞ》いて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点の紅《くれない》がほのかに揺《うご》いている。東京へ来たてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのも厭《いと》わず、たびたび過去の節穴を覗いては、長き夜を、永き日を、あるは時雨《しぐ》るるを床《ゆか》しく暮らした。今は――紅もだいぶ遠《とお》退《の》いた。そのうえ、色もよほど褪《さ》めた。小野さんは節穴を覗くことを怠るようになった。
過去の節穴を塞《ふさ》ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇《ばら》である。薔薇の蕾《つぼみ》である。小野さんは未来を製造する必要はない。蕾《つぼ》んだ薔薇を一面に開かせればそれがおのずからなる彼の未来である。未来の節穴を得意の管《くだ》から眺《なが》めると、薔薇はもう開いている。手を出せば捕《つら》まえられそうである。はやく捕まえろと誰かが耳の傍《そば》で言う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
論文ができたから博士になるものか、博士になるために論文ができるものか、博士に聞いてみなければ分からぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、必ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっともみごとなるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金《こん》色《じき》に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸《か》かっている。時計の下には赤い柘榴石《ガーネツト》が心臓の炎となって揺れている。その側《わき》に黒い目の藤尾さんが繊《ほそ》い腕を出して手招ぎをしている。すべてが美しい画《え》である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
昔タンタラスという人があった。わるいことをした罰《ばち》で、苛《ひど》い目に逢《お》うたと書いてある。身体《からだ》は肩深く水に浸っている。頭の上にはうまそうな菓物《くだもの》が累々と枝をたわわに結実《な》っている。タンタラスは咽喉《のど》が渇《かわ》く。水を飲もうとすると水が退《ひ》いてゆく。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げてゆく。タンタラスの口が一尺動くと向こうでも一尺動く。二尺前《すす》むと向こうでも二尺前む。三尺四尺はおろか、千里を行き尽くしても、タンタラスは腹が減りどおしで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っかけて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、なんだかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましていることがある。長い眉を押しつけたように短くして、きっと睨《にら》めていることがある。柘榴石《ガーネツト》がぱっと燃えて、炎のなかに、女の姿が、包まれながら消えてゆくことがある。博士の二字がだんだん薄くなって剥《は》げながら暗くなることがある。時計がはるかな天から隕《いん》石《せき》のように落ちてきて、割れることがある。そのときはぴしりという音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を描き出す。
机の前に頬《ほお》杖《づえ》を突いて、色ガラスの一輪《りん》挿《ざ》しをぱっと蔽《おお》う椿《つばき》の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。いくとおりもある未来のなかで今日はいっそう出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が言う。どうかくださいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手でたたいて、お気の毒様もう約束済みですと言う。じゃ時計はいりません、しかしあなたは………と聞くと、私? 私はむろん時計にくっついているんですと向こうをむいて、すたすた歩きだす」
小野さんは、ここまで未来をこしらえてみたが、あまり残《ざん》刻《こく》なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなりかけた顎《あご》を持ち上げると、障子が、すうと開《あ》いて、お手紙ですと下女が封書を置いてゆく。
「小野清三様」と子昂《すごう》流《りゆう*》にかいた名《な》宛《あ》てを見たとき、小野さんは、急に両《りよう》肱《ひじ》に力を入れて、机に持たした体《たい》を跳《は》ねるように後ろへ引いた。未来を覗く椿の管が、同時に揺れて、唐《から》紅《くれない》の一《ひと》片《ひら》がロゼッチ《*》の詩集の上におとなしく落ちてくる。完《まつた》き未来は、はや崩《くず》れかけた。
小野さんは机に添えて左の手を伸《の》したまま、顔を斜めに、受け取った封書を掌《てのひら》の上に遠くから眺めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当はついている。ついていればこそ返しにくい。返したあかつきに推察のとおりであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて亀《かめのこ》に聞いたことがある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、できるならばと甲《こう》羅《ら》の中に立て籠《こも》る。打たれる運命を眼前に控えた間ぎわでも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸に逃《のが》れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違いない。
ややしばらく眺めていると今度は掌がむず痒《がゆ》くなる。一刻の安きを貪《むさぼ》った後は、安き思いを、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思いきって、封筒を机の上に逆に置いた。裏から天井孤堂の四字が明らかにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記《しる》した草《そう》字《じ》は、小野さんの目に、針の先を並べて植え付けたように、紙を離れて飛びついてきた。
小野さんは障《さわ》らぬ神に祟《たた》りなしというふうで、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机と膝《ひざ》とは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとしてなんだか肩から抜けてゆきそうだ。
封を切ろうか、切るまいか、だれか来て封を切れと言えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈状させないととうてい自分も屈状させることができない。あやふやな柔術使いは、一度往来で人を抛《な》げてみないうちはどうも柔術家たる所以《ゆえん》を自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
二階の書生がバイオリンを鳴らしはじめた。小野さんも近日うちにバイオリンの稽《けい》古《こ》を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起こらぬ。あの書生は呑《のん》気《き》で羨《うらやま》しいと思う。――椿の花片《はなびら》がまた一つ落ちた。
一輪挿しを持ったまま障子を開けて縁《えん》側《がわ》へ出る。花は庭へ棄てた。水もついでにあけた。花《はな》活《い》けは手に持っている。実は花活けもついでに棄てるところであった。花活けを持ったまま縁側に立っている。檜《ひのき》がある。塀《へい》がある。向こうに二階がある。乾きかけた庭に雨《あま》傘《がさ》が干してある。蛇《じや》の目《め》の黒い縁に落花が二片《ふたひら》へばりついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引きずってまた部屋のなかへはいってきた。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴がすうと開いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃えだした。動いて来る。小野さんは急に腰を屈《かが》めて手を伸ばすやいなや封を切った。
「拝啓柳暗花明の好時節と相成り候《さふらふ》ところいよいよ御壮健賀し奉り候《さふらふ》。小生も不相変頑強《あひかはらずぐわんきやう》、小夜《さよ》も息災に候《さふら》へばはばかりながら御休神くださるべく候。さて旧《きう》臘《らふ》中《ちゆう》ちよつと申し上げ候東京表《おもて》へ転住の義、その後いろいろの事情にて捗《はかど》りかね候ところ、このほどに至り諸事好都合に埒《らち》あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつきさやう御承知くだされたく候。二十年前にその他を引き払ひ候まま、両度の上京に、五、六日の逗《とう》留《りう》ほかは、まつたく故郷の消息に疎《うと》く、万事不案内に候へば到着のうへはさだめて御《ご》厄《やく》介《かい》のことと存知候。
「年来住み古《ふ》るしたる住宅は隣家蔦《つた》屋《や》にて譲り受けたきむね申し込みこれあり、その他にも相談の口はかかり候へども、こちらに取り極《き》め申し候。荷物その他嵩《かさ》張《ば》り候ものはみな当地にて売り払ひ、なるべく手軽に引き移るつもりにござ候。ただ小夜所持の琴一面は本人の希望により、東京まで持ち運び候ことに相成り候。故《ふる》きを棄てがたき婦女の心情御《ご》憐《れん》察《さつ》くださるべく候。
「御承知のとほり小夜は五年前当地に呼び寄せ候まで、東京にて学校教育を受け候こととてせつに転住の速《すみ》やかなることを希望いたしをり候。同人行《ゆ》く末《すゑ》の義に関しては大略御同意のことと存知候へば別に申し述べず。おつてその地にて御面会のうへとくと御協議申し上げたくと存じ候。
「博覧会《*》にて御《おん》地《ち》はさだめて雑《ざつ》沓《たふ》のことと存じ候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰《えら》みたくと存じ候へども、急行は非常に乗客のよしにつき、いつそ途中にて、一、二泊のうへゆるゆる上京いたすやも計りがたく候。時日刻限はいづれ確定次第御報いたすべく候。まづは右当用まで〓《そう》々《そう》不《ふ》一《いつ》」
読みおわった小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂《た》れて、清三様………孤堂とかいた端《はじ》が青いカシミヤ《*》の机掛けの上に波を打って二、三段にたたまれている。小野さんは自分の手元から半切れ《*》を伝わって机掛けの白く染め抜かれているあたりまで順々に見下ろしてゆく。見下ろした目の行き留まったとき、やむを得ず、睛《ひとみ》を転じてロゼッチの詩集を眺めた。詩集の表紙の上に散った二片の紅も眺めた。紅に誘われて、右の角にあるべき色ガラスの一輪挿しも眺めようとした。一輪挿しはどこかへ行ってあらぬ。一昨日《おととい》挿《さ》した椿は影も形もない。うつくしい未来を覗く管がなくなった。
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭《にお》いが立ち上る。一種古ぼけた黴《かび》臭《くさ》いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊《ちゆう》躇《ちよ》する毛筋の末を引いて、細い縁《えにし》に、絶えるほどにつながるる今と昔を、まのあたりに結び合わす香《におい》である。
半世の歴史を長き穂の心細きまで逆しまに尋ぬれば、遡《さかのぼ》るほどに暗《あん》澹《たん》となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ枝《え》の末に、錐《きり》の力の尖《とが》れるを幸いと、記憶の命を突き透《とお》すは要なしといわんよりむしろ無惨である。ジェーナス《*》の神は二つの顔に、後ろをも前をも見る。幸いなる小野さんは一つの顔しか持たぬ。背《そびら》を過去に向けたうえは、芽に映るは煕《き》々《き》たる前程のみである。後ろを向けばひゅうと北風が吹く。この寒いところをやっとの思いで斬《き》り抜けた昨日今日、寒い所から、寒いものが追っかけてくる。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖かく鮮やかなるうちに、己《おのれ》を捲き込んで、一歩でも過去を遠退けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤《ちりば》められて、動くかとは掛《け》念《ねん》しながらも、まずだいじょうぶだろうと、その日、その日に立ち退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫《な》でていた。ところが、昔ながらと高を括《くく》って、過去の管をいまさら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいてくる。逼《せま》ってくる。静かなる前後と枯れ尽くしたる左右を乗り超えて、暗《やみ》夜《よ》を照らす提灯《ちようちん》の火のごとく揺れてくる。動いてくる。小野さんは部屋の中を回りはじめた。
自然は自然を用い尽くさぬ。極《きわ》まらんとするまえに何事か起こる。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を回りはじめて半《はん》分《ぶん》とたたぬうちに、障子から下女の首が出た。
「お客様」と笑いながら言う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。おはようと言っては笑い、お帰んなさいと言っては笑い、ご飯ですと言っては笑う。人を見てみだりに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛《あい》嬌《きよう》があるからである。愛嬌のないお客は下女から見ると半文の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日まで下女の人望を繋《つな》いだのもまったくこの自覚に基づく。小野さんは下女の人望をさえみだりに落とすことを好まぬほどの人物である。
同一の空間は二物によって同時に占有せらるることあたわずと昔の哲学者が言った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿ることはこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退《の》いて不安がはいる。下女は悪いところへ打《ぶ》つかった。愛嬌が退いて不安がはいる。愛嬌が付け焼き刃で不安が本体だと思うのは偽《にせ》哲《てつ》学《がく》者《しや》である。家主がはいるについて、愛嬌が示談のうえ、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪いところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「おるすだって言いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「おるす?」
「そうさね」
「おるすになさいますか」
「どう、しようかしら」
「どっち、でも」
「逢《あ》おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「なんです」
「ああ、いい。よしよし」
友達には逢いたいときと、逢いたくないときとある。それが判然すればなんの苦もない。いやならるすを使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬかぎりはるすを使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり後ろへ戻《もど》ったりして下女にまでばかにされるときである。
往来で人と往《ゆ》き合うことがある。双方でちょっと体《たい》を交《か》わせば、それぎりでお互いにもとのとおり、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左へ避《よ》ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向こうもこれではならぬと気を換えて反対へ出る。反対と反対が鉢《はち》合《あ》わせをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向こうでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振り子のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの悪い野郎だと悪《わる》口《くち》が言いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪い野郎だと言われるところであった。
そこへ浅井君がはいってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手で圧《お》し潰《つぶ》すように握って、畳の上へ抛《ほう》り出すやいなや、
「ええ天気だな」と胡坐《あぐら》をかく。小野さんは天気のことを忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行ってみい、おもしろいぜ。昨日行っての、アイスクリームを食うてきた」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度はロシア料理を食いに行くつもりだ。どうだ、いっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し………」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。はやく博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんなことはない。勉強がちっともできなくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上のお嬢さんが心配する、はやくロシア料理でも食うて、ようならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上のお嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君のところへはむろん通知が来たはずじゃ」
「君のところへは来たかい」
「うん、来た。君のところへは来んのか」
「いえ来たことは来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻《さつき》だった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんなことがあるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおってゆっくり話すよ。僕も井上先生にはたいへん世話になったし、僕の力でできることはなんでも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思うとおりに急にできるものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たらゆっくり話そうと思うんだね。そう向こうだけで一人極《ぎ》めに極めていても困るからね」
「どんなに一人で極めているんだい」
「極めているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生もずいぶん昔《むかし》堅《かた》気《ぎ》だからな」
「なかなか自分で極めたことは動かない。一徹なんだ」
「近ごろは家計《くらし》のほうもあまりよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「うまいことをしたなあ。僕も貰っておけばよかった。こういうものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そういうこともあるまい」
「いやある。なにしろ天皇陛下が保証してくださったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだ、いっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
門口で分かれた小野さんの足は甲野の邸に向かった。
五
山門を入ること一歩にして、古き世の緑が、急に左右から肩を襲う。自《じ》然《ねん》石《せき》の形状《かたち》乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、錯《さく》落《らく》と平らかに敷き詰めたる径《こみち》に落つる足音は、甲野さんと宗近君の足音だけである。
一条の径の細く直《すぐ》なるを行き尽くさざるこなたから、石に目を添えてはるかなる向こうを極《きわ》むる行き当たりに、仰げば伽《が》藍《らん》がある。木賊《とくさ》葺《ぶき》の厚板が左右から内輪にうねって、大なる両の翼を、険しき一本の背筋にあつめたる上に、今一つ小さき家《や》根《ね》が小さき翼を伸《の》して乗っかっている。風抜きか明かり取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの精《しよう》舎《じや》を、もっとも趣ある横側の角度から同時に見上げた。
「明らかだ」と甲野さんは杖《つえ》を停《とど》めた。
「あの堂は木造でも容易に壊《こわ》すことができないように見える」
「つまり恰《かつ》好《こう》がうまくそういうふうにできてるんだろう。アリストートルのいわゆる理形《フオーム*》に適ってるのかもしれない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、このへんの寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「舟《ふな》板《いた》塀《べい》趣味《*》や御《ご》神《じん》燈《とう》趣味《*》とは違うさ。夢《む》窓《そう》国《こく》師《し》が建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大《だい》燈《とう》国《こく》師《し》になるから、こんな所を逍《しよう》遥《よう》する価値があるんだ。ただ見物したってなんになるもんか」
「夢窓国師も家根になって明治まで生きていれば結構だ。安直な銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、一目瞭《りよう》然《ぜん》だ」
「何が」
「何がって、この境内の景色がさ。ちっとも曲がっていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へはいるといい気持になるんだろう」
「ハハハそうかもしれない」
「してみると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、いいさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮《れん》池《ち》に渡した石《せつ》橋《きよう》の欄干に尻《しり》をかける。欄干の腰には大きな三階松が三寸の厚さを透かして水に臨んでいる。石には苔《こけ》の斑《ふ》が薄青く吹き出して、灰を交えた紫の質に深く食い込む下に、枯《か》れ蓮《はす》の黄な軸がすいすいと、去年の霜を弥生《やよい》の中に突き出している。
宗近君はマッチを出して、煙草《たばこ》を出して、しゅっといわせた燃え残りを池の水に棄《す》てる。
「夢窓国師はそんな悪戯《いたずら》はしなかった」と甲野さんは、顎《あご》の先に、両手で杖の頭《かしら》をていねいに抑《おさ》えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の真《ま》似《ね》をするがいい」
「君は国師より馬賊になるほうがよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と北京《ペキン》へ駐在することにするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経《けい》綸《りん》さ。ハハハハおれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の阿爺《おやじ》ぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃたいへんだ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいなことはしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君はわがまますぎるよ。日本という考えが君の頭のなかにあるかい」
今までは真面目《まじめ》のうえに冗談の雲がかかっていた。冗談の雲はこのときようやく晴れて、下から真面目が浮き上がってくる。
「君は日本の運命を考えたことがあるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体《からだ》を少し後ろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま風《か》邪《ぜ》が癒《なお》れば長命だと思ってる」
「日本が短命だというのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本とロシアの戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「むろんさ」
「アメリカを見ろ、インドを見ろ、アフリカを見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬという論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「たいがいは知らぬまに殺されているんだ」
すべてを爪《つま》弾《はじ》きした甲野さんは杖の先で、とんと石橋を敲《たた》いて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩《が》山《ざん*》という坊主は一椀《わん》の托《たく》鉢《はつ》だけであの本堂を再《さい》建《こん》したというじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横に寝《ね》た箸《はし》を竪《たて》にすることもできん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角をさす。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉《とびら》を左右にさっと開いたなかを、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。子供が通る。嵯《さ》峨《が》の春を傾けて、京の人は繽《ひん》紛《ぷん》絡《らく》繹《えき》と嵐《らん》山《ざん》に行く。
「あれだ」と甲野さんが言う。二人はまた色の世界に出た。
天竜寺の門前を左へ折れれば釈《しや》迦《か》堂《どう》で右へ曲がれば渡《と》月《げつ》橋《きよう》である。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打ったなにやらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場《ステーシヨン》の方へ旅《たび》衣《ごろも》七日余りの足を旅心地に移す。出《で》逢《あ》うは皆京の人である。二条から半《はん》時《とき》ごとに花時を空《あだ》にするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向かって吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢を忘れている。京ほどに女の綺《き》羅《ら》を飾る所はない。天下の大勢も、京女の色には叶《かな》わぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だというんだ」
「しかし都踊りはいいよ」
「悪くないね。なんとなく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性《セツクス》の感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさ、その理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭《いや》味《み》がない」
「どうも淡粧《あっさり》して、活動する奴《やつ》がいちばん人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊りとなると、外交官にも危険はない。至極ご同感だ。お互いに無事な所へ遊びに来てまあよかったよ」
「人間の分子も、第一義が活動するといいが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから厭《いや》になっちまう」
「お互いは第何義ぐらいだろう」
「お互いになると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「いうことはたわいがなくっても、そこにおもしろみがある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か、第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた了見を洗ったときに、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代わりに、売店に陳《なら》べてある、抹《まつ》茶《ちや》茶《ぢや》碗《わん》を見はじめた。土を捏《こ》ねて手造りにしたものか、棚《たな》三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけている。
「そんなとぼけた奴は、いくら血で洗ったってだめだろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは………」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて眺めている袖《そで》を、宗近君はことわりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊《こわ》れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れた片《かけ》を土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居を跨《また》ぐ。「なんだ」と天竜寺の方を振り返る向こうは例の京人形の後ろ姿がぞろぞろ行くばかりである。
「なんだ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しいことをした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの琴の主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、くだらない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しいことをした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残なことをした。罪は君にある」
「あってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったぐらいじゃ追《お》っつかない。壊してしまわなけりゃ直らないやっかいものだ。ぜんたい茶人の持っている道具ほど気に食わないものはない。みんなひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく敲《たた》き壊してやりたい気がする。なんならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊してゆこうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、停車場《ステーシヨン》へ来る。
浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯《さ》峨《が》より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹《たん》波《ば》へ抜ける。二人は丹波行きの切符を買って、亀《かめ》岡《おか》に降りた。保《ほ》津《づ》川《がわ》の急《きゆう》湍《たん》はこの駅より下る掟《おきて》である。下るべき水は目の前にまだ緩《ゆる》く流れて碧《へき》油《ゆう》の趣をなす。岸は開いて、里の子の摘む土筆《つくし》も生える。舟子は舟を渚《なぎさ》に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が言う。底は一枚板の平らかに、舷《こべり》は尺と水を離れぬ。赤い毛布《ケツト》に煙草《たばこ》盆《ぼん》を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が言う。船頭の数は四人である。真っ先なるは、二間の竹《たけ》竿《ざお》、続く二人は右側に櫂《かい》、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいと櫂が鳴る。粗《あら》削《けず》りに平らげたる樫《かし》の頸《くび》筋《すじ》を、太い藤《ふじ》蔓《づる》に捲《ま》いて、余る一尺に丸味をもたせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節の隆《たか》きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻《か》く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根を抑《おさ》えられた櫂が、掻《か》くごとに撓《しわ》りでもすることか、強《こわ》き項《うなじ》をますぐに立てたまま、藤蔓と擦《す》れ、舷《こべり》と擦れる。櫂は一掻きごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二、三度うねりを打って、音なき水を、停《とど》まる暇なきに、前へ前へと送る。重なる水の蹙《しじま》ってゆく、頭《こうべ》の上には、山《やま》城《しろ》を屏《びよう》風《ぶ》と囲う春の山が聳《そび》えている。逼《せま》りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟ははやくも山峡に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の体《たい》を透かして岩と岩の逼る間を半丁の向こうに見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、舷《ふなばた》から首を出したとき、船ははや瀬の中に滑《すべ》り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を緩める。櫂は流れて舷に着く。舳《へさき》に立つは竿を横たえたままである。傾いて矢のごとく下る船は、どどどと刻み足に、船底に据《す》えた尻に響く、壊れるなと気がついたときは、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が指《ゆびさ》す後ろを見ると、白い泡が一町ばかり、逆《さか》落《おと》としに噛《か》み合って、谷を洩《も》る微《かす》かな日影を万《ばん》顆《か》の珠《たま》とわれがちに奪い合っている。
「壮《さか》んなものだ」と宗近君は大いに御意に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちのほうがえらいようだ」
船頭はしごく冷淡である。松を抱《いだ》く巌《いわお》の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来たり、棹《さお》を操《あやつ》り去る。通る瀬はさまざまに回《めぐ》る。回るごとに新たなる山は当面に躍《おど》り出す。石山、松山、雑木山と数うる遑《いとま》を行《こう》客《かく》に許さざる疾《はや》き流れは、船を駆ってまた奔《ほん》湍《たん》に躍り込む。
大きな丸い岩である。苔《こけ》をたたむ煩わしさを避けて、紫の裸《はだか》身《み》に、撃ちつけて散る水沫《しぶき》を、春寒く腰から浴びて、緑崩るる真ん中に、舟こそ来たれと待つ。舟は矢も楯《たて》もものかは。いちずにこの大岩を目がけて突きかかる。渦《うず》捲《ま》いて去る水の、岩に裂かれたる向こうは見えず。削られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末《ゆくえ》である。岩に突き当たって砕けるか、捲き込まれて、見えぬかなたにどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当たるぜ」と宗近君が腰を浮かしたとき、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合いを入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を呑《の》む岩の太腹に潜《もぐ》り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が揚がるとともに舟はぐうと回った。この獣《けだもの》奴《め》と突き離す竿の先から、岩の裾《すそ》を尺も余さず斜めに滑って、舟は向こうへ落ちだした。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら言う。
急《きゆう》灘《だん》を落ち尽くすと向こうから空《から》舟《ふね》が上ってくる。竿も使わねば、櫂はむろんのことである。岩角に突っ張った懸命の拳《こぶし》を収めて、肩から斜めに目《め》暗《くら》縞《じま》を掠《かす》めた細《ほそ》引《びき》縄《なわ》に、長々と谷間伝いを根かぎり戻り舟《ぶね》を牽《ひ》いてくる。水行くほかに尺《せき》寸《すん》の余地だに見出だしがたき岸《きし》辺《べ》を、石に飛び、岩に這《は》うて、穿《は》く草鞋《わらんじ》の滅《め》り込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手は塞《せ》かれて注ぐ渦の中に指先を浸すばかりである。うんと踏ん張る幾世の金剛力に、岩は自《じ》然《ねん》と擦《す》り減って、引きかけて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽《ひき》綱《づな》をわが勢いに逆らわぬほどに、とく滑らすための策《はかりごと》という。
「少しは穏やかになったね」と甲野さんは左右の岸に目を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山のはるかの上に、鉈《なた》の音が丁々とする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿《さる》だ」と宗近君は咽喉《のど》仏《ぼとけ》を突き出して峰を見上げた。
「慣れるとなんでもするもんだね」と相手も手を翳《かざ》して見る。
「あれで一日働いていくらになるだろう」
「いくらになるかな」
「下から聞いてみようか」
「この流れはあまりに急すぎる。少しも余裕がない。のべつにはしっている。ところどころにこういう場所がないとやはりいかんね」
「おれは、もっと、はしりたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がったときなんか実に愉快だった。願わくは船頭の棹を借りて、おれが、舟を回したかった」
「君が回せば今ごろはお互いに成仏している時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間のお手本だね」
「なに人間が自然のお手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのはなんだい」
「たいてい困るじゃないか」と甲野さんは打ち遣《や》った。
「そう困ったひにゃ方《ほう》がつかない。お手本がなくなるわけだ」
「瀬を下って愉快だというのはお手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳するまえに、人間が自然を翻訳するから、お手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「肝胆相照らすというのはお互いに第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものに違いない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは黙《もく》然《ねん》として、船の底を見つめた。言うものは知らず《*》と昔老子が説いたことがある。
「ハハハハ僕は保津川と肝胆相照らしたわけだ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手を敲《たた》く。
乱れ起こる岩石を左右に〓《めぐ》る流れは、抱《いだ》くがごとくそと割れて、半ば碧《みどり》を透明に含む光《こう》琳《りん》波《なみ》が、早《さ》蕨《わらび》に似たる曲線を描いて巌《いわ》角《かど》をゆるりと越す。河《かわ》はようやく京に近くなった。
「その鼻を回ると嵐《あらし》山《やま》どす」と長い棹を舷《こべり》のうちへ挿《さ》し込んだ船頭が言う。鳴る櫂に送られて、深い淵《ふち》を滑るように抜け出すと、左右の岩がおのずから開いて、舟は大悲閣《*》の下《もと》に着いた。
二人は松と桜と京人形の群がるなかに這《は》い上がる。幕と連なる袖の下を掻《か》い潜《くぐ》って、松の間を渡月橋に出たとき、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
赤松の二《ふた》抱《かか》えを楯《たて》に、大堰《おおい》の波に、花の影の明らかなるを誇る、橋の袂《たもと》の葭簀《よしず》茶《ぢや》屋《や》に、高島田が休んでいる。昔の髷《まげ》を今の世にしばし許せと被《かぶ》る瓜《うり》実《ざね》顔《がお》は、花に臨んで風に堪えず、俯《ふ》し目《め》に人を避けて、名物の団《だん》子《ご》を眺めている。薄く染めた綸《りん》子《ず》の被《ひ》布《ふ》に、正しく膝《ひざ》を組み合わせたれば、下に重ねる衣《きぬ》の色は見えぬ。ただ襟《えり》元《もと》より燃え出《い》ずるなんの模様の半《はん》襟《えり》かが、すぐ甲野さんの目についた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが琴を弾《ひ》いた女だよ。あの黒い羽織は阿爺に違いない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京ものだ」
「どうして」
「下宿の下女がそう言った」
瓢《ひよう》箪《たん》に酔《えい》を飾る三五の癡漢《うつけもの》が、天下の高笑いに、腕を振って後ろから押してくる。甲野さんと宗近さんは、体を斜めにえらがる人を通した。色の世界は今が真っ盛りである。
六
丸顔に愁《うれ》い少《すく》なし、さっと映る襟《えり》地《じ》の中から薄《うす》鶯《うぐいず》の蘭《らん》の花が、幽《かす》かなる香《か》を肌《はだ》に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子はこんな女である。
人に示すときは指を用いる。四つを掌《たなごころ》に折って、余る第二指のありたけにあれぞとさすとき、さす手はただ一筋の紛れなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当たるとも、当たると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとはいえぬ。しかし変だ。物足らぬとはさす指の短きにすぐる場合をいう。足り余るとはさす指の長きに失するときであろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るともいえぬ。足り余るとも評されぬ。
人にさす指の、細《ほつ》そりと爪《つま》先《さき》に肉を落とすとき、明らかなる感じはしだいに爪先に集まって焼点を構成《かたちづく》る。藤尾の指は爪先の紅《べに》を抜け出でて縫《ぬい》針《ばり》の尖《とが》れるに終わる。見るものの目は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得すぎたものは欄干を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらくお目にかかれませんね。よくいらしったこと」と藤尾は主人役に言う。
「父一人で忙しいものですから、ついご無《ぶ》沙《さ》汰《た》をして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「向《むこう》島《じま》は」
「まだどこへも行かないの」
宅《うち》にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の目《め》尻《じり》には答えるたびに笑いの影が翳《さ》す。
「そんなにご用がおありなの」
「なにたいした用じゃないんですけれども……」
糸子の答えはたいがい半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年《ことし》限《き》りじゃありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互いに、死という字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く路である。同時に日《に》本《ほん》橋《ばし》へ行く路である。藤尾は相手を墓の向こう側へ連れて行こうとした。相手は墓に向こう側のあることさえ知らなかった。
「今に兄がお嫁でも貰《もら》ったら、出てあるきますわ」と糸子が言う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生まれたと覚悟をしている女ほど憐《あわ》れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この目は、この袖《そで》は、この詩とこの歌は、鍋《なべ》、炭取りの類ではない。美しい世に動く、美しい影である。実用の二字を冠《かむ》らせられたとき、女は――美しい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
「一《はじめ》さんは、いつ奥さんをお貰いなさるおつもりなんでしょう」と話だけは上《うわ》滑《すべ》りをして前へ進む。糸子は返事をするまえに顔をあげて藤尾を見た。戦争はだんだん始まってくる。
「いつでも、来てくださるかたがあれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾のほうで、返事をするまえに糸子をじっと見る。針はまさかの用意に、なかなか瞳《ひとみ》のうちには出てこない。
「ホホホホどんなりっぱな奥さんでも、すぐできますわ」
「ほんとうにそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ絡《から》まってくる。藤尾はちょっと逃げておく必要がある。
「どなたか心当たりはないんですか。一さんが貰うと極《き》まれば本気に捜しますよ」
黐《もち》竿《ざお》は届いたか、届かないか、分からぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んでみる必要がある。
「ええ、どうぞ捜してちょうだい、私の姉《ねえ》さんのつもりで」
糸子は際《きわ》どいところを少し出すぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出すぎるとはたかれる。
「あなたのほうが姉さんよ」と藤尾は向こうで入れる捜索《さぐり》の綱を、ぷつりと切って、逆さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢の中《あた》らぬはこちらの不手ぎわである。中ったのに手答えもなく装わるるは不器量である。女は不手ぎわよりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下《した》唇《くちびる》を噛《か》んだ。ここまで推してきて停まるは、ただ勝つことを知る藤尾にはできない。
「あなたは私の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で言う。
「あらっ」と糸子の頬《ほお》に吾《われ》を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心のうちに冷笑《あざわら》って引き上げる。
甲野さんと宗近君と相談のうえ取り極めた格言に言う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人《ふたり》の妹は肝胆の外《そと》郭《ぐるわ》で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と言った。
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追いかけられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると回った。何度回っても逃げ延びられそうもないとき、過去の友達に逢《あ》って、過去と現在との調停を試みた。調停はできたような、できないようなわけで、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っかけてくるものを取《と》っ押《つかま》える勇気はむろんない。小野さんはやむをえず、未来を望んで馳け込んできた。袞《こん》竜《りよう》の袖《そで》に隠れる《*》という諺《ことわざ》がある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
小野さんは蹌《そう》々《そう》踉《ろう》々《ろう》として来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配のうえに被《き》せる従《しよう》容《よう》の紋付きを、まだ誂《あつら》えていない。二十世紀の人は皆この紋付きを二、三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べたことがある。
「たいへんお顔の色が悪いことね」と糸子が言った。便《たよ》る未来が戈《ほこ》を逆さまにして、過去をほじり出そうとするのは情けない。
「二、三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が言う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近ごろ論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でもお乗んなさいといわれれば、乗らずにはおられない。たいていの嘘《うそ》は渡《と》頭《とう*》の舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすってもお忙しいのね」
「卒業して銀時計をおいただきになったから、これから論文で金時計をお取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽《きん》吾《ご》さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑《のん》気《き》よ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでも家《うち》の兄よりいいでしょう」
「欽吾さんのほうがいくらいいか分かりゃしない」
と糸子さんは、半分無意識に言ってのけたが、急に気がついて、羽二重のハンケチを膝《ひざ》の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
唇《くちびる》の動く間から前歯の角《かど》を彩《いろ》どる金の筋がすっと外《げ》界《かい》に映る。敵は首尾よくわが術中に陥った。藤尾は第二の凱《がい》歌《か》を揚げる。
「まだ京都からお音信《たより》はないですか」と今度は小野さんが聞きだした。
「いいえ」
「だって端《は》書《がき》ぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だっていうじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、このあいだ、母がそういったでしょう。二人とも鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが? 御叔母《おば》さんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だからはやくお嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「はやく貰っておあげなさいよ。ねえ、小野さん。二人でいいのを見つけてあげようじゃありませんか」
藤尾は意味あり気に小野さんを見た。小野さんの目と、藤尾の目が行き当たってぶるぶると顫《ふる》える。
「ええいいのを一人周旋しましょう」と小野さんは、ハンケチを出して、薄い口《くち》髭《ひげ》をちょっと撫《な》でる。幽《かす》かな香《におい》がぷんとする。強いのは下品だという。
「京都にはだいぶお知り合いがあるでしょう。京都のかたを一さんにお世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
小野さんのハンケチはちょっと勢いを失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いてみると分かります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄はたいへん美人が多いと申しておりました」
「宗近君はまえにも京都へいらしったことがあるんですか」
「いいえ、今度がはじめてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊りの端書をよこして、そのはじに京都の女はみんなきれいだと書いてあるのよ」
「そう。そんなにきれいなの」
「なんだか白い顔がたくさん並んでてちっとも分からないわ。ただ見たらいいかもしれないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。きれいはきれいですけれども、表情がなくって、あまりおもしろくはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「無精に似合わないことね。なんと」
「隣家《となり》の琴はお前よりうまいって」
「ホホホ一さんに琴の批評はできそうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪いことをしますね」
「しかも、お前より別《べつ》嬪《ぴん》だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんはなんでも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに逢っちゃ叶わない」
「でも、あなたのことは褒めてありますよ」
「おや、なんと」
「お前より別嬪だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだこと」
藤尾は得意と軽侮の念を交えたる目を輝かして、すらりと首を後ろへ引く。鬣《たてがみ》に比すべきものの波を起こすばかりに見えたるなかに、玉虫貝の菫《すみれ》のみが星のごとく可《か》憐《れん》の光を放つ。
小野さんの目と藤尾の目はこの時ふたたび合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条に蔦《つた》屋《や》という宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き目のなかに我を忘れて、縋《すが》る未来にまったく吸い込まれたる人は、刹《せつ》那《な》の戸板返し《*》にずどんと過去へ落ちた。
追いかけてくる過去を逃《のが》るるは雲紫に立ち騰《のぼ》る袖《そで》香《こう》炉《ろ》の煙《けぶ》る影に、縹《ひよう》緲《びよう》の楽しみをこれぞと見きわむるひまもなく、貪《むさぼ》るという名さえ付けがたき、目と目のひたと行き逢いたる一拶《さつ》に、結ばぬ夢を醒《さ》めて、逆しまに、われは過去に向かって投げ返される。草《そう》間《かん》蛇《だ》あり、容易に青《せい》を踏むことを許さずとある。
「蔦屋がどうかしたの」と藤尾は糸子に向かう。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄《にい》さんが宿《とま》ってるんですって。だから、どんなとこかと思って、小野さんに伺ってみたんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、あったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋《はたごや》じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、いいじゃありませんか。裏座敷で琴が聴《き》こえて――もっとも兄と一さんじゃだめね。小野さんなら、きっとお気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家《おとなり》で美人が琴を弾《ひ》いてるのを、気楽に寝《ね》転《ころ》んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
小野さんはいつになく黙っている。目さえ、藤尾の方へは向けないで、床の山吹を無意味に眺めている。
「いいわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわね ぐらいの賛成を求めて満足するくらいならはじめから、春雨も、奥座敷も、琴の音《ね》も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像するとおもしろい画《え》ができますよ。どんなところとしたらいいでしょう」
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を解《げ》しかねる。要《い》らぬことと黙って控えているより仕方がない。小野さんはぜひとも口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんなところがいいと思います」
「私? 私はね、――そうね――裏二階がいいわ――回《まわ》り縁《えん》で、賀《か》茂《も》川《がわ》がすこし見えて――三条から加茂川が見えてもいいんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに煙《けむ》るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたねきれいな丸《まある》い山は――あの山が、青いお供えのように、こんもりと霞《かす》んでるんです。そうして霞《かすみ》のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名はなんと言いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を傾《かた》げる。
「あるんです、きっとあります」と藤尾が言う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
女《じよ》詩《し》人《じん》の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美しい世を打ち壊《こわ》しに生まれてきたも同様である。藤尾は少しく眉《まゆ》を寄せる。
「たいへんお急ぎだこと」
「なに、おもしろく伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもするわけはない。刺し身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺し身を食わなければ我慢のできぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「おもしろいんですよ。五重の塔がおもしろいのよ。ねえ小野さん」
ご機《き》嫌《げん》に逆らったときは、必ず人をもって詫《わ》びを入れるのが世間である。女王の逆《げき》鱗《りん》は鍋《なべ》、釜《かま》、味《み》噌《そ》漉《こし》のお供物では直せない。役にも立たぬ五重の塔を霞のうちに腫《は》れ物《もの》のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾の眉《まゆ》はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「お気に障《さわ》ったの――私が悪かったわ。ほんとうに五重の塔はおもしろいのよ。お世辞じゃないことよ」
針《はり》鼠《ねずみ》は撫《な》でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬまえにどうかしなければならぬ。
五重の塔を持ち出せばなお怒《おこ》られる。琴の音は自分にとって禁物である。小野さんはどうして調停したらよかろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽《けい》蔑《べつ》を招く。向こうの話題について回って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手ぎわではちとむずかしすぎるようだ。
「小野さん、あなたには分かるでしょう」と藤尾のほうから切って出る。糸子は分からず屋として取り除《の》けられた。女二人を調停するのは目の前に快からぬ言葉の果たし合いを見るのが厭《いや》だからである。文《あや》錦《にしき》やさしき眉に切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。取《と》り除《の》け者《もの》を仲間に入れてやる親切は、取り除け者のほうで、うるさく絡《から》まってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ調子《ばつ》を合わせていれば間違いはない。
「分かりますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそういうことが分からない人が世間にはだいぶありますね」と言った。小野さんは糸子を軽蔑する料《りよう》簡《けん》ではない、ただ藤尾のご機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答えは真理である。ただ弱いものにつらく当たる真理である。小野さんは詩のために愛のためにはそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いものの頭《かしら》に、耀《かがや》かず、糸子は心細い気がした。藤尾のほうはようやく胸が隙《す》く。
「それじゃ、その続きをあなたに話してみましょうか」
人を呪《のろ》わば穴二つという。小野さんはぜひともええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛び石が三つばかり筋《すじ》違《かい》に見えて、その先に井《い》桁《げた》があって、小《こ》米《ごめ》桜《ざくら》が擦《す》れ擦れに咲いていて、釣瓶《つるべ》が触《さわ》るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん擦《ず》り落ちてくる。重い雲がかさなり合って、弥生《やよい》をどんよりと抑《おさ》えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、袖《そで》垣《がき》のはずれに幣辛夷《してこぶし》の花が怪しい色を併《なら》べて立っている。木立ちに透かしてよく見ると、おりおりは二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れに映る。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ。地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
居は気を移す。藤尾の想像は空とともに濃《こま》やかになる。
「小米桜を二階の欄干《てすり》からご覧になったことがあって」と言う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降ってきたようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の後ろは建《けん》仁《にん》寺《じ》の垣《かき》根《ね》で、垣根の向こうで琴の音がするんです」琴はいよいよ出てきた。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干《てすり》から、見下ろすと隣家《となり》の庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸で辛夷の花をきらりと掠《かす》める。
「ホホホホお厭《いや》なの――なんだか暗くなってきたこと。花曇りが化け出しそうね」
そこまで近寄ってきた暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立ちを横ぎった、あとからすぐすいと追《お》いかけてくる。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁《しげ》くなる。
「おや本降りになりそうだこと」
「私失礼するわ、降ってきたから。お話ちゅうで失礼だけれども。たいへんおもしろかったわ」
糸子は立ち上がる。話は春雨とともに崩れた。
七
マッチを擦《す》ること一寸にして火は闇《やみ》に入る。幾段の彩《さい》錦《きん》を捲《めく》りおわれば無地の境《さかい》をなす。春興は二人の青年に尽きた。狐《きつね》の袖無《ちやんちやん》を着て天下を行くものは、日記を懐《ふところ》にして百年の憂《うれ》いを抱《いだ》くものとともに帰程に上る。
古き寺、古き社、神の森、仏の丘を掩《おお》うて、いそぐことを解《げ》せぬ京の日はようやく暮れた。倦怠《けた》るい夕べである。消えてゆくすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらもはきとは映らぬ。瞬《またた》くも嬾《ものう》き空の中にどろんと溶けてゆこうとする。過去はこの眠れる奥から動きだす。
一《いち》人《にん》の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥《なまぐさ》き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏《まと》めたる団《だん》子《し》と、他の清濁を混じたる団子と、層々相連なって千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果の交《こう》叉《さ》点《てん》に据《す》えて分相応の円周を右に画《かく》し左に画す。怒りの中心より画《えが》き去る円は飛ぶがごとくにすみやかに、恋の中心より振り来たる円周は炎の痕《あと》を空裏の焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸《かん》譎《けつ》の圜《かん*》をほのめかして回《めぐ》る。縦横に、前後に、上《しよう》下《か》四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦《しん》越《えつ》の客《*》ここに舟を同じゅうす。甲野さんと宗近君は、三春行楽の興尽きて東に帰る。孤堂先生と小《さ》夜《よ》子《こ》は、眠れる過去を振り起こして東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車ではしなくも喰い違った。
わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切ることがある。自滅することがある。わが世界と他《ひと》の世界と喰い違うとき二つながら崩《くず》れることがある。破《か》けて飛ぶことがある。あるいは発《はつ》矢《し》と熱を曳《ひ》いて無極のうちに物別れとなることがある。凄《すさ》まじき喰い違い方が生《しよう》涯《がい》に一度起こるならば、われは幕引く舞台に立つことなくしておのずからなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時はじめて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢うてただ別れる袖《そで》だけの縁《えにし》ならば、星深き春の夜を、名さえ寂《さ》びたる七条に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫《ちよう》琢《たく》する。自然そのものは小説にはならぬ。
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく幻のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようが、馬を乗せようが、いかなる人の運命をいかに東の方《かた》に搬《はこ》び去ろうが、さらに無《む》頓《とん》着《じやく》である。世を畏《おそ》れぬ鉄《てつ》輪《わ》をごとりと転《まわ》す。あとは驀地《ましぐら》に闇《やみ》を衝《つ》く。離れて合うを待ち侘《わ》び顔なるを、行《ゆ》いて帰るを快からぬを、旅に馴《な》れて徂《そ》徠《らい》を意とせざるを、一様に束《つか》ねて、ことごとく土《ど》偶《ぐう》のごとくにもてなそうとする。夜《よ》こそ見えね、さかんに黒《くろ》煙《けむり》を吐きつつある。
眠る夜を、生けるものは、提灯《ちようちん》の火に、皆七条に向かって動いてくる。梶《かじ》棒《ぼう》が下りるとき黒い影が急に明るくなって、待ち合いに入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で埋《うず》まってしまう。残る京都はさだめて静かだろうと思われる。
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十《じつ》把《ぱ》一《ひと》束《からげ》に夜明けまでに、あかるい東京へ推し出そうために、汽車はしきりと煙《けむり》を吐きつつある。黒い影はなだれはじめた。――一団の塊《かた》まりはばらばらに解《ほご》れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車両の戸をばたばたと締めてゆく。忽《こつ》然《ぜん》としてプラットホームは、ある人を掃いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から目につく。すると口笛がはるかの後ろで鳴った。車はごとりと動く。互いの世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ気に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可《か》憐《れん》なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと回転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜のなかに入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見回しながら言う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待ち合い所が黒山のようだった」
「京都は淋《さび》しいだろう。今ごろは」
「ハハハハほんとうに。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生まれるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝《ひざ》を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生まれて死ぬのが用事か。蔦《つた》屋《や》の隣家《となり》に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。ずいぶんひっそり暮らしてるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くというから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、家《うち》をたたんで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いてみなかった」
「あの娘もいずれ嫁に行くことだろうな」と甲野さんは独《ひと》り言《ごと》のように言う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭《ず》蛇《だ》袋《ぶくろ》を棚《たな》へ上げた腰をおろしながら笑う。相手は半分顔を背《そむ》けてガラス越《ご》しに窓の外を透かして見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突っ切って行く。轟《ごう》という音のみする。人間は無能力である。
「ずいぶん早いね。何マイルくらいの速力かしらん」と宗近君が席の上へ胡坐《あぐら》をかきながら言う。
「どのくらいはやいか外が真暗でちっとも分からん」
「外が暗くったって、はやいじゃないか」
「比較するものが見えないから分からないよ」
「見えなくったって、はやいさ」
「君には分かるのか」
「うん、ちゃんと分かる」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話はまた途切れる。汽車は速度を増してゆく。向こうの棚に載せた誰《たれ》やらの帽子が、傾いたまま、山高の頂を顫《ふる》わせている。給仕《ボーイ》がときどき室内を抜ける。たいていの乗客は向かい合わせに顔と顔を見守っている。
「どうしてもはやいよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分目を眠っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――はやいよ」
「そうか」
「うん。そうら――はやいだろう」
汽車は轟《ごう》と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違いだろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――あんまりだ。あれで布設したのは世界一《*》だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚すぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しないことも世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古跡だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしというのは賞《ほ》める時の言葉なんだがな」
「千里の江《こう》陵《りよう》一《いち》日《じつ》に還《かえ》る《*》なんという句もあるじゃないか」
「一百里程《てい》塁《るい》壁《へき》の間《あいだ*》さ」
「そりゃ西《さい》郷《ごう》隆《たか》盛《もり》だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合わせて口を緘《と》じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって轟と走る。二人の世界はしばらく闇のなかに揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い夜を糸のごとく照らして動く電燈の下《もと》にあらわれて来る。
色白く、傾く月の影に生まれて小夜という。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居《すまい》に、盂《う》蘭《ら》盆《ぼん》の燈《とう》籠《ろう》を掛けてより五遍になる。今年の秋は久しぶりで、亡き母の精《しよう》霊《りよう》を、東京の苧殻《おがら》で迎えることと、長《なが》袖《そで》の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐《あわ》れは小さき人の肩にあつまる。乗《の》しかかる怒りは、撫で下ろす絹しなやかに情の裾《すそ》に滑り込む。
紫に驕《おご》るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連なるを、願いの糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈《たけ》長《なが》を顫《ふる》わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ滴《したた》る絵筆の勢いに、うやむやを貫いて赫《かつ》と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透《とお》って、当時《そのかみ》を裏返すおりおりにさえあざやかににじんで見える。小夜子の夢は命よりも明らかである。小夜子はこの明らかなる夢を、春《はる》寒《さむ》の懐《ふところ》に暖めつつ、黒く動く一条の車に載せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落とすまじと、ひしと燃ゆるものを抱きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑を衝《つ》き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱《いだ》く人は、抱きながら、走りながら、明らかなる夢を暗《くら》闇《やみ》の遠きより切り放して、現実の前に抛《な》げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明らかなる夢と明らかなる現実がはたと行き違うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに顎《あご》の下に白くなる疎《そ》髯《ぜん》を握っては昔を思い出そうとする。昔は二十年の奥に引き籠《こも》って容易には出てこない。漠《ばく》々《ばく》たる紅《こう》塵《じん》のなかになにやら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになってはじめて真の過去となる。恋々たるわれを、つれなく見捨て去る当時《そのかみ》に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡《ご》麻《ま》塩《しお》交じりの髯《ひげ》をぐいと引いた。
「お前が京都へ来たのは幾歳《いくつ》の時だったかな」
「学校を廃《や》めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年でなんだね、……」
「五年めです」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこのあいだのように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来たときに嵐《あらし》山《やま》へ連れていっていただいたでしょう。お母さんといっしょに」
「そうそう、あのときは花がまだ早すぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変わったよ。名物の団《だん》子《ご》もまだできなかったようだ」
「いえお団子はありましたわ。そら三軒茶屋の傍《そば》でたべたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、お笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母《おつか》さんもじょうぶだったがな。ああ早く亡くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分からんものはない。小野もそれからだいぶ変わったろう。なにしろ五年も逢わないんだから……」
「でもごじょうぶだから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てからたいへんじょうぶになった。来たてはずいぶん蒼《あお》い顔をしてね、そうしてなんだか始終おどおどしていたようだが、馴《な》れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和《やさし》いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和すぎるよ。――でも卒業の成績が優秀で銀時計を頂《ちよう》戴《だい》して、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああいう性質《たち》の男でも、あのまま放っておけばそれぎり、どこへどうはいってしまうか分からない」
「ほんとうにね」
明らかなる夢は輪を描いて胸のうちに回《めぐ》りだす。死したる夢ではない。五年の底から浮《う》き彫《ぼ》りの深き記憶を離れて、咫尺《しせき*》に飛び上がってくる。女はただ眸《ひとみ》を凝らして眼前に逼《せま》る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の髯《ひげ》を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで迎えにくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢はふたたび躍《おど》る。躍るなと迎えたるまま、夜《よ》を込めて揺られながらに、暗きうちをかける。老人は髯から手を放す。やがて目を眠る。人も犬も草も木もはきと映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転《まわ》りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明らかである。小夜子はこの明らかなる世界を抱いて眠りについた。
長い車は包む夜を押し分けて、遣《や》らじと逆《さか》う風を打つ。追いかくる冥府《よみ》の神を、力ある尾に敲《たた》いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙《けぶ》る向こうが一面に競《せ》り上がってくる。茫《ぼう》々《ぼう》たる原野のおのずから尽きず、しだいに天に逼って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼《まなこ》を半天に走らすとき、日輪の世は明けた。
神の代を空に鳴く金鶏の、翼五百里なるを一時に搏《はばたき》して、漲《みなぎ》る雲を下界に披《ひら》く大虚の真ん中に、朗らかに浮き出す万古の雪は、末広になだれて、八州の野《や》を圧する勢いを、左右に展開しつつ、蒼《そう》茫《ぼう》の裡《うち》に、腰から下を埋めている。白きは空を見よがしに貫く。白きものの一段を尽くせば、紫の襞《ひだ》と藍《あい》の襞とを斜めにたたんで、白き地を不規則なる幾《いく》条《すじ》に裂いてゆく。見上ぐる人は這う雲の影を沿うて、蒼《あお》暗《ぐら》き裾《すそ》野《の》から、藍、紫の深きを稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、豁《かつ》然《ぜん》として目が醒《さ》める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘《いざな》う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑り下りながら、窓をはたりとおろす。広い裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱《らく》駝《だ》の毛布《ケツト》を頭から被《かむ》ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝《ね》なかったのか」
「少しは寝た」
「なんだ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝《ひざ》掛《かけ》の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食うまえに顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともなことばかりいう男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「叡《えい》山《ざん》よりいいよ」
「叡山? なんだ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「たいへん軽《けい》蔑《べつ》するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大なことは。人間もああこなくっちゃあだめだ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君はまったく動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退《の》けて動いた」と宗近君は頭《ず》陀《だ》袋《ぶくろ》を棚《たな》から取りおろす。室のなかはざわついてくる。明るい世界へ駆《か》け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎《そ》髯《ぜん》を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と言う。孤堂先生は右の手に若干《そこばく》の銀貨を握って、へぎ折《お》り《*》を取る左と引き換えに出す。お茶は部《へ》屋《や》のなかで娘が注《つ》いでいる。
「どうだね」と折《お》りの蓋《ふた》を取ると白い飯粒が裏へついてくる。なかには長芋の白茶に寝《ね》転《ころ》んでいる傍《かたわ》らに、一《ひと》片《きれ》の玉子焼きが黄色く圧《お》し潰《つぶ》されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ食べたくないの」と小夜子は箸《はし》を取らずに折りごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶《ちや》碗《わん》を娘から受け取って、膝の上の折りに突き立てた箸を眺めながら、ぐっと飲む。
「もうじきですね」
「ああ、もうわけはない」と長芋が髯の方へ動きだした。
「今日はいいお天気ですよ」
「ああ天気で仕合わせだ。富士がきれいに見えたね」と長芋が髯から折りのなかへはいる。
「小野さんは宿を捜しておいてくだすったでしょうか」
「うん。――捜――捜したに違いない」と先生の口が、喫飯《めし》と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米《よね》沢《ざわ》絣《がすり》の襟《えり》を掻き合わせる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手《て》提《さ》げ革鞄《かばん》を跨《また》いだとき、甲野さんは振り返って、
「おい、けつまずくと危ない」と注意した。
ガラス戸を押し開けて、隣りの車室へ足を踏ん込《ご》んだ甲野さんは、まっすぐに抜ける気で、中途まで来たとき、宗近君が後ろから、ぐいと背広の尻《しり》を引っ張った。
「ご飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬《こわ》すぎてね。――阿爺《おとつさん》のように年を取ると、どうも硬いのは胸につかえていけないよ」
「お茶でも上がったら……注ぎましょうか」
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、尽《じん》十《じつ》方《ぽう》に飛び交《か》わす小世界の、あまねく天《てん》涯《がい》を行き尽くして、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭《いと》わず植えつけし蚕の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半《よわ》を背中合わせの知らぬ顔に並べられた。星の世は掃き落とされて、大空の皮をきれいに剥《は》ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち上る窓のうちに、四人の小宇宙は偶を作って《*》、ここぞと互いに擦《す》れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布を挟《はさ》んでハムエクスを平らげつつある。
「おい、いたぜ」と宗近君が言う。
「うん、いた」と甲野さんは献立表《メヌー》を眺めながら答える。
「いよいよ東京へ行くとみえる。昨夕《ゆうべ》京都の停車場《ステーシヨン》では逢《あ》わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうもよく逢うね」
「少し逢いすぎるよ――このハムはまるで膏《あぶら》ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違いぐらいなところかな」と宗近君はフォークを逆しまにして大きな切り身を口へ突き込む。
「お互いに豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々情けなさそうに白い膏《あぶら》味《み》をほおばる。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「ユダヤ人は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たることを言う。
「ユダヤ人はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕《ボーイ》紅茶を持ってこい」
「僕はコーヒーを飲む。この豚はだめだ」と甲野さんはまた女を外《はず》してしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍となんでも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と言ったなり甲野さんはコーヒーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいからお互いに豚なんだろう。ハハハハ。――しかしなんとも言われない。君があの女に懸《け》想《そう》して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこのさき、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で顎《あご》を支《ささ》えながら、右に持ったコーヒー茶碗を鼻の先に据えたままぼんやり向こうを見ている。
「蜜《み》柑《かん》が食いたい」と宗近君が言う。甲野さんは黙っている。やがて、
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と毫《ごう》も心配にならない気《け》色《しき》で言う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨《あい》拶《さつ》も聞く料《りよう》簡《けん》はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いてみなけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙なことを真面目に聞きだした。
「糸公か。あいつは、から赤児《ねんね》だね。しかし兄思いだよ。狐《きつね》の袖無《ちやんちやん》を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手《じようず》なんだぜ。どうだ肱《ひじ》突《つ》きでも拵《こしらえ》てもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらんこともないが……」
肱突きは不得要領に終わって、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けたとき、先生は顔の前に朝日新聞を一面に拡《ひろ》げて、小夜子は小さい口に、玉子焼きをすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、ふたたび列車のなかに擦れ違ったまま、互いの運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日《あす》の世界を擁して新橋の停車場《ステーシヨン》に着く。
「さっき馳けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出るとき、宗近君が聞いてみる。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、停車場に突き当たって、しばらく、ばらばらとなる。
八
一本の浅葱《あさぎ》桜《ざくら》が夕暮れを庭に曇る。拭《ふ》き込んだ縁《えん》は、立てきった障子の外に静かである。うちは小形の長《なが》火《ひ》鉢《ばち》に手取り形の鉄《てつ》瓶《びん》を沸《たぎ》らして前には絞り羽二重の座《ざ》布《ぶ》団《とん》を敷く。布団の上には甲野の母が品よく坐《すわ》っている。きりりと釣り上げた目《め》尻《じり》の尽くるあたりに、疳《かん》の筋が裏を通って額へ突き抜けているらしい上《うわ》部《べ》を、浅黒く膚理《きめ》の細かい皮が包んで、外見だけはしごく穏やかである。――針を海綿に蔵《かく》して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏《こう》薬《やく》を貼って創《きず》口《ぐち》を快く慰めよ。でき得べくんば唇《くちびる》を血の出る局所に接《つ》けて他意なきを示せ。――二十世紀に生まれた人はこれだけのことを知らねばならぬ。骨をあらわすものは亡《ほろ》ぶと甲野さんがかつて日記に書いたことがある。
静かな縁《えん》に足音がする。今おろしたかと思われるほどの白《しろ》足袋《たび》を張り切るばかりに細長い足を見せて、変わり色の厚い〓《ふき》の縁に引きずるを軽く蹴《け》返《かえ》しながら、障子をすうと開ける。
居ずまいをそのままの母は、濃い眉《まゆ》を半分ほど入り口に傾けて、
「おや、おはいり」と言う。
藤尾は無言で後を締める。母の向こうに火鉢を隔ててすらりと坐ったとき、鉄瓶はしきりに鳴る。母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折りにたたんである新聞を俯《ふ》し目《め》に眺《なが》める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多きときに真《まこと》少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向かう親と子に、縁は静かである。浅葱桜は夕暮れを誘いつつある。春は逝《ゆ》きつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰ってきたのね」
親、子の目は、はたと行き合った。真《まこと》は一瞥《べつ》に籠《こも》る。熱に堪えざるときは骨をあらわす。
「ふん」
長《なが》煙管《ぎせる》に煙草《たばこ》の殻《から》をちょうとはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気が、あの人の料簡ばかりは御母《おつか》さんにも分からないね」
雲井《*》の煙《けむり》は会釈なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰ってきてもおんなじことですね」
「おんなじことさ。生《しよう》涯《がい》あれなんだよ」
御母さんの疳の筋は裏から表へ浮き上がってきた。
「家《うち》を襲《つ》ぐのがあんなに厭《いや》なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪《にく》いんだよ。あんなことを言って私たちに当てつけるつもりなんだから……ほんとうに財産もなにもいらないなら自分でなにかしたら、いいじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるに極《き》まっていらあね。煮えきらないっちゃありゃしない。あの人の顔を見るたんびに阿母《おつかさん》は癇《かん》癪《しやく》が起こってね。……」
「遠回しに言うことはちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知《しら》を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「ほんとうに。あの人がどうかしてくれないうちは、お前のほうをどうにもすることができない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕《はら》む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「お前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片づかないものがめったにあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、およしなさい、阿母《おつか》さんの世話は藤尾にさせたいからと言うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉じ籠って寝転んでるしさ。――そうして他人《ひと》には財産を藤尾にやって自分は流《る》浪《ろう》するつもりだなんて言うんだよ。さもこっちがじゃまにして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんなことを言ったんです」
「宗近の阿爺《おとつさん》のところへ行ったとき、そう言ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質《たち》ですね。それよりはやく糸子さんでも貰《もら》ってしまったらいいでしょうに」
「ぜんたい貰う気があるのかね」
「兄《にい》さんの料簡はとても分かりませんわ。しかし糸子さんは兄さんのところへ来たがってるんですよ」
母は鳴る鉄瓶をおろして、炭取りを取り上げた。隙《すき》間《ま》なく渋の洩《も》れた劈痕《ひび》焼《や》きに、二《ふた》筋《すじ》三《み》筋《すじ》藍《あい》を流す波を描いて、真白な桜を気《き》儘《まま》に散らした。薩《さつ》摩《ま》の急《きゆう》須《す》の中には、緑を細く綯《よ》り込んだ宇治の葉が、午《ひる》の湯に腐《ふ》やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「お茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾はとく抜け出した香《かお》りのなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかにたたみ込む。黄な流れの底を敲《たた》くほどは、さほどとも思えぬが、縁に近くようやく色を増して、濃き水は泡《あわ》を面《おもて》に片寄せて動かずなる。
母の掻《か》きならしたる灰の盛り上がりたるなかに、佐倉炭の白き残骸《なきがら》の完《まつた》きを毀《こぼ》ちて、心《しん》に潜む赤きものを片寄せる。温《ぬく》もる穴の崩《くず》れたる中には、黒く輪切りの正しきを択《えら》んで、ぴちぴちと活《い》ける。――室内の春光はあくまでも二人の母子に穏やかである。
この作者は趣なき会話を嫌《きら》う。猜《さい》疑《ぎ》不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴の春を司《つかさ》どる人の歌めく天《あめ》が下《した》に住まずして、半滴の気韻だに帯びざる野卑の言語を臚《ろ》列《れつ》するとき、毫《ごう》端《たん*》に泥《どろ》を含んで双手に筆を運《めぐ》らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須と、佐倉の切り炭を描くは瞬時の閑を偸《ぬす》んで、一弾指頭《*》に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔より回転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉《うれ》しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆はふたたび二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近といえば、一《はじめ》もよっぽど剽軽《ひようきん》者《もの》だね。学問もなんにもできないくせに大きなことばかり言って、――あれで当人はりっぱにえらい気なんだよ」
厩《うまや》と鳥《と》屋《や》といっしょにあった。牝鶏《めんどり》の馬を評する語に、――あれは鶏鳴《とき》をつくることも、鶏卵《たまご》を生むことも知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通《なみ》のものなら、もう少し奮発するわけですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思いきった評である。藤尾は滑《なめ》らかな頬《ほお》に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄《だ》菓《が》子《し》の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲《ほう》兵《へい》工《こう》廠《しよう*》の鉄砲玉は鉛を鎔かして鋳る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母はあくまでも真面目《まじめ》である。母には娘の笑った意味が分からない。
「お前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑いは、はしなくも母の疑問を起こす。子を知るは親に若《し》かずという。それは違っている。お互いに喰い違っておらぬ世界のことを親といえども唐《から》、天竺《てんじく》である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭き眉《まゆ》の下から、娘をきっと見た。意味は藤尾にちゃんと分かっている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払《はら》って母の切って出るのを待つ。掛け引きは親子のあいだにもある。
「お前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いてはじめて放つための下《した》拵《ごしら》えとみえる。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。筍《たけのこ》を輪切りにすると、こんなふうになる。張りのある眉に風を起こして、これぎりでたくさんだと締め切った口元になお籠る何物かがちょっと閃《はため》いてすぐ消えた。母は相《あい》槌《づち》を打つ。
「あんな見込みのない人は、私も好かない」
趣味のないのと見込みのないのとは別物である。鍛冶《かじ》の頭《かみ》はかんと打ち、相槌はとんと打つ。されども打たるるは同じ剣《つるぎ》である。
「いっそ、ここで、はっきり断ろう」
「断るって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺《おとつさん》が、あの金時計を一にやるとお言いなのだよ」
「それが、どうしたんです」
「お前が、あの時計を玩具《おもちや》にして、赤い珠《たま》ばかり、いじっていたことがあるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれをお前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾がほしがって繰《く》っついて行くかもしれないが、それでもいいって、冗談半分に皆《みんな》の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに謎だと思ってるんですか」
「宗近の阿爺《おとつさん》の口《くち》占《うら》ではどうもそうらしいよ」
「ばからしい」
藤尾は鋭い一句を長火鉢の角に敲きつけた。反響はすぐ起こる。
「ばからしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだお前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなにほしいのかい。だってお前には持てないじゃないか」
「いいからください」
鎖の先に燃える柘榴石《ガーネツト》は、蒔《まき》絵《え》の廬《ろ》雁《がん》を高く置いた手文庫の底から、怪しき光を放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。朧《おぼろ》とも化けぬ浅葱《あさぎ》桜《ざくら》が、暮れ近く消えて行くべき昼の命を、いましばしと護《まも》る縁《えん》に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠《やさ》面《おもて》の影になった半面を、障子のうちに傾けて、
「あの時計は小野さんに上げてもいいでしょうね」
と言う。障子のうちの返事は聞こえず。――春は母と子に暮れた。
同時に豊かな灯《ひ》が宗近家の座敷に点《とも》る。静かなる夜を陽に返すランプの笠《かさ》に白き光をゆかしく罩《こ》めて、唐《から》草《くさ》を一面に高く敲き出した白銅の油《あぶら》壺《つぼ》が晴れがましくも宵《よい》に曇らぬ色を誇る。燈火《ともしび》の照らすかぎりは顔ごとに賑《にぎ》やかである。
「アハハハハ」と言う声がまず起こる。この燈火の周囲《まわり》に起こるすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰《かつ》好《こう》と思う。
「それじゃ相《そう》輪《りん》〓《とう》も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色のいい頬の肉が双方から垂《た》れ余って、抑《おさ》えられた顎《あご》はやむをえず二《ふた》重《え》に折れている。頭はだいぶ禿《は》げかかった。これをときどき撫《な》でる。宗近の父は頭を撫で禿《は》がしてしまった。
「相輪〓た、なんですか」と宗近君は阿爺《おやじ》の前で変則の胡坐《あぐら》をかいている。
「アハハハハそれじゃ叡《えい》山《ざん》へなにしに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当たらなかったようだね、甲野さん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万《まん》筋《すじ》の前を合わして、黒い羽織の襟《えり》を正しく坐っている。甲野さんが問いかけられたとき、にこやかな糸子の顔は揺《うご》いた。
「相輪〓はなかったようだね」と甲野さんは手を膝《ひざ》の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったかしらないが――吉田かい」
「甲野さん、あれはなんという所かね。僕らの登ったのは」
「なんという所かしら」
「阿爺《おとつさん》なんでも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若《わか》狭《さ》の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう言ったじゃないか」
「それは冗談さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃたいへんだ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二《ふた》重《え》瞼《まぶた》の波を寄せた。
「いったいお前がたはただ歩行《ある》くばかりで飛脚同然だからいけない。――叡山には東《とう》塔《とう》、西《さい》塔《とう》、横川《よかわ》とあって、その三か所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じことじゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受け持ちです」と笑いながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。燈火《ともしび》は明らかに揺れる。糸子は袖《そで》を口へ当てて、崩しかかった笑《え》顔《がお》の収まりぎわに頭《つむり》を上げながら、眸《ひとみ》を豆の受け持ち手の方へ動かした。目を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働くの格である。家庭的の女にもこのくらいな作《さく》略《りやく》はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「御叔父《おじ》さん、東塔とか西塔とかいうのはなんの名ですか」
「やはり延《えん》暦《りやく》寺《じ》の区域だね。広い山の中に、あすこにひと塊《かた》まり、ここにひと塊まりと坊が集《かた》まっておるから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とかいうのだと思えば間違いはない」
「まあ、君、大学に法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合いから、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「東《とう》は修《しゆ》羅《ら》、西《さい》は都に近ければ横川の奥ぞ住みよかりけるという歌があるとおり、横川がいちばん淋《さび》しい、学問でもするにいい所となっている。――今話した相輪〓から五十丁もはいらなければ行かれない」
「どうれで知らずに通ったわけだな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんはなんとも言わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船《ふな》弁《べん》慶《けい》にもあるだろう――かやうに候《さふらふ》ものは、西塔の傍《かたはら》に住居《すまひ》する武蔵《むさし》坊《ばう》弁《べん》慶《けい》にて候《さふらふ》――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺《おとつ》さん叡山の総長は誰《だれ》ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「開基かい。開基は伝《でん》教《ぎよう》大《だい》師《し》さ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ。不便で仕方がありゃしない。ぜんたい昔の男は酔狂だよ。ねえ甲野さん」
甲野さんはなんだか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師はお前《まい》、叡山の麓《ふもと》で生まれた人だ」
「なるほどそういえば分かった。甲野さん分かったろう」
「なにが」
「伝教大師御誕生地という棒《ぼう》杭《ぐい》が坂本に建っていましたよ」
「あすこで生まれたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気がついたろう」
「僕は気がつかなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔の人は想《そう》こそ無上なれと説いた。逝《ゆ》く水は日夜を捨てざる《*》を、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今載せて杳《よう》然《ぜん》と去るを思わぬが世の常である。堂に法華《ほつけ》といい、石に仏《ぶつ》足《そく》といい、〓 《とう》に相《そう》輪《りん》といい、院に浄土というも、ただ名と年と歴史を記《き》してわがこと畢《おわ》ると思うは屍《しかばね》を抱《いだ》いて活《い》ける人を髣《ほう》髴《ふつ》するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太《たい》上《じよう》は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山に登って叡山を知らぬはこのゆえである。
過去は死んでいる。大《だい》法《ほう》鼓《こ》を鳴らし、大《だい》法《ほう》螺《ら》を吹き、大《だい》法《ほう》幢《とう》を樹《た》てて王城の鬼門《*》を護《まも》りし昔は知らず、中《ちゆう》堂《どう》に仏眠りて天《てん》蓋《がい》に蜘蛛《くも》の糸引く古《ふる》伽《が》藍《らん》を、いまさらのように桓《かん》武《む》天《てん》皇《のう》の御宇から掘り起こして、無用の詮《せん》議《ぎ》に、千古の泥を洗い落とすは、一日に四十八時間の夜昼ある閑《かん》人《じん》の所作である。現在は刻をきざんでわれを待つ。有為の天下は眼前に落ち来たる。双の腕《かいな》は風を截《き》って乾《けん》坤《こん》に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながらなんにも知らぬ。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山一刹《さつ》の指揮によって、夜来、日来に面目を新たにするものじゃと思い籠《こ》めたように〓 《び》々《び*》として叡山を説く。説くはもとより青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああいう山を択《えら》んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅《ぜい》沢《たく》になっていかん。書生のくせに西洋菓子だの、ホイスキーだのといって……」
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外真面目《まじめ》である。
「阿爺《おとつさん》叡山の坊主は夜十一時ごろから坂本まで蕎麦《そば》を食いに行くそうですよ」
「アハハハまさか」
「なにほんとうですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「お前たちはのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「とてものらくらじゃできない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹を競《せ》り出して笑った。ランプの蓋《かさ》がびっくりするくらいな声である。
「あれでも昔は真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いてみる。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧《そう》侶《りよ》にも多くはないが――しかし今だってまったくないことはない。なにしろ古い寺だからね。あれははじめは一乗止観院といって、延暦寺となったのはだいぶ後のことだ。その時分から妙な行《ぎよう》があって、十二年間山へ籠《こも》りきりに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――なにしろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見かな」
と宗近君が今度は独《ひと》り語《ごと》のように言う。
「修業するのさ。お前たちもそうのらくらしないでちとそんな真《ま》似《ね》でもするがいい」
「そりゃだめですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕はできないこともないが、そうしたひにゃ、あなたの命令に背《そむ》くわけになりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰《もら》え貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ籠ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
一座はどっと噴《ふ》き出した。老人は首を少し上げて頭の禿《はげ》を逆《さか》に撫《な》でる。垂《た》れかかった頬の肉が顫《ふる》え落ちそうだ。糸子は俯《うつ》向《む》いて声を殺したため二《ふた》重《え》瞼《まぶた》が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。なにしろ二人だから億《おつ》劫《くう》だ。――欽《きん》吾《ご》さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
いかにも気のない返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも籠るほうがましであると心のうちに思う。すべてを見《み》逃《のが》さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母《おつか》さんが心配するだろう」
甲野さんはなんとも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇《びよう》然《ぜん*》として天地の間に懸《か》かっている。世界滅却の日をただ一人生き残った心持ちである。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年ごろをはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「一にも貰っておかんと、わしも年を取っているから、いつどんなことがあるかもしれないからね」
老人は自分の心で、わが母の心を推《すい》している。親という名が同じでも親という心には相違がある。しかし説明はできない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分だめですよ」
と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分からんだろう」
「ええ、まだ分からんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
今《こん》夕《せき》の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終わった。
九
真《ま》葛《くず》が原《はら*》に女郎花《おみなえし》が咲いた。すらすらと薄《すすき》を抜けて、悔いある高き身に、秋風を品よく避《よ》けて通す心細さを、秋は時雨《しぐれ》て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕に頼み少なく繋《つな》ぐ。冬は五年の長きを厭《いと》わず。淋《さび》しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧しさを知らぬ春の天《てん》下《が》に紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富《ふう》貴《き》に色づくを、ひそかなる黄を、一《ひと》本《もと》の細き末に頂いて、住むまじき世に肩身狭く憚《はばか》りの呼吸《いき》を吹くようである。
今までは珠《たま》よりも鮮《あざ》やかなる夢を抱《いだ》いていた。真《ま》黒《くら》闇《やみ》に据《す》えた金剛石にわが目を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左も気にかける暇《いとま》もなかった。懐《ふところ》に抱く珠の光を夜に抜いて、二百里の道をはるばると闇《やみ》の袋より取り出したとき、珠は現実の明海《あかるみ》にいくぶんか往昔《そのかみ》の輝きを失った。
小《さ》夜《よ》子《こ》は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔てて逢《あ》う瀬はない。たまたまに忍んでくれば犬が吠《ほ》える。みずからも、わが来る所ではないかしらんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風《ふ》呂《ろ》敷《しき》に蔵《かく》してなおさらに疑いを路上に受くるような気がする。
過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一《ひと》雫《しずく》の油は容易に油《あぶら》壺《つぼ》の中へ帰ることはできない。いやでも応でも水とともに流れねばならぬ、夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢のほうで飛びついてくる。
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自《てんで》に働き出すと苦しい矛盾が起こる。多くの小説はこの矛盾を得意に描く。小夜子の世界は新橋の停車場《ステーシヨン》へぶつかったとき、劈痕《ひび》が入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
小野さんも同じことである。打《う》ち遣《や》った過去は、夢の塵《ちり》をむくむくと掻《か》き分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜《ごみた》めから出す。おやと思うまに、ぬっくと立って歩いてくる。打ち遣ったときに、生息《いき》の根を留めておかなかったのが無念であるが、生息は断わりもなく向こうで吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気《き》紛《まぐ》れの時節を誤って、暖かき陽炎《かげろう》のちらつくなかに甦《よみがえ》るのは情けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれれば労《いたわ》らねば済まぬ。生まれてから済まぬことはただの一度もしたことはない。今後とてもする気はない。済まぬことをせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来の袖《そで》に隠れてみた。紫の匂《にお》いは強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を据えかけるとたんに小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕《ひび》が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
「阿父《おとつさん》は」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子はなんとなく臆《おく》している。引き越して新たに家をなす翌日《あした》より、親一人に、子一人に春忙しき世帯は、蒸れやすき髪に櫛《くし》の歯を入れる暇もない。ふだん着の綿《めん》入《い》りさえ見すぼらしく詩人の目に映る。――粧《よそお》いは鏡に向かって凝らす、玻《は》璃《り》瓶《へい》裏《り》に薔《ば》薇《ら*》の香《か》を浮かして、軽く雲《うん》鬟《かん*》を浸し去るとき、琥《こ》珀《はく》の櫛は条々の翠《みどり》を解く。――小野さんはすぐ藤尾のことを思い出した。これだから過去はだめだと心のうちに語るものがある。
「お忙しいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「お手伝いに出るつもりでしたが、昨日も一昨日《おととい》も会がありまして……」
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ己《おのれ》よりは高すぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯《うつ》向《む》いて、膝《ひざ》に載せた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾の指輪とはむろん比較にはならぬ。
小野さんは目を上げて部屋の中を見回した。低い天井の白《しら》茶《ちや》けた板の、二《ふた》所まで節穴のれっきと見えるうえ、雨漏りの染《し》みを侵して、ここかしこと蜘蛛《くも》の囲《い》を欺く煤《すす》がかたまって黒く釣《つ》りを懸《か》けている。左から四本めの桟《さん》の中ほどを、杉《すぎ》箸《はし》が一本横に貫いて、長いほうの端《はじ》が、思うほど下に曲がっているのは、立ち退《の》いた以前の借り主が通す縄《なわ》に胸を冷やす氷《ひよう》嚢《のう》でもぶら下げたものだろう。次の間を立て切る二枚の唐《から》紙《かみ》は、洋紙に箔《はく》を置いてイギリスめいた葵《あおい》の幾何模様を規則正しく数《す》十個《こ》並べている。屋敷らしい縁《ふち》の黒塗りがなおさら卑しい。庭は二《ふた》間を貫く縁《えん》に沿うて勝手に折れ曲がるという名のみで、幅は茶献上ほどもない。丈《じよう》に足らぬ檜《ひのき》が春に用なき、去年の葉を硬《かた》く尖《とが》らして、瘠《や》せこけて立つ後ろは、腰《こし》高《たか》塀《べい》に隣家《となり》の話が手に取るように聞こえる。
家は小野さんが孤堂先生のために周旋したに相違ない。しかしきわめて下《げ》卑《び》ている。小野さんは心のうちに厭《いや》な住居《すまい》だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖《そで》垣《がき》に辛夷《こぶし》を添わせて、松《まつ》苔《ごけ》を葉《は》蘭《らん》の影にたたむ上に、切り立ての手《て》拭《ぬぐ》いが春風に揺《ふ》らつくような所に住んでみたい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「おかげさまで、いい家《うち》が手に入りまして……」と誇ることを知らぬ小夜子は言う。ほんとうにいい家と心得ているなら情けない。ある人に奴《やつこ》 鰻《うなぎ*》 を 奢《おご》ったら、おかげさまではじめてうまい鰻を食べましてと礼を言った。奢った男はそれより以来この人を軽《けい》蔑《べつ》したそうである。
いじらしいのと見《み》縊《くび》るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を言った小夜子を見縊った。しかしそのうちにつゆいじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が祟《たた》ったからである。祟りがあると目玉が三角になる。
「もっといい家でないとお気に入るまいと思って、方々尋ねてみたんですが、あいにく恰《かつ》好《こう》なのがなくって……」
と言いかけると小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇《けち》なことを言うと思った。小夜子は知らぬ。
細い面《おもて》をちょっと奥へ引いて、上《うわ》目《め》に相手の様子を見る。どうしても五年まえとは変わっている。――眼鏡《めがね》は金に変わっている。久《く》留《る》米《め》絣《がすり》は背広に変わっている。五分刈りは光沢《つや》のある毛に変わっている。――髭《ひげ》は一躍して紳士の域に上る。小野さんは、いつのまにやら黒いものを蓄《たくわ》えている。もとの書生ではない。襟《えり》はおろしたてである。飾りには留針《ピン》さえ肩を動かすたびに光る。
鼠《ねずみ》の勝った品のいいチョッキの隠袋《かくし》には――恩賜の時計がはいっている。このうえに金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変わっている。
五年のあいだ一《ひと》日《ひ》一《ひと》夜《よ》も懐《ふところ》に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西《にし》東《ひがし》長《ちよう》短《たん》の袂《たもと》を分かって、離愁を鎖《とざ》す暮雲に相思の関《かん》を塞《せ》かれては、逢《あ》うことの疎《うと》くなりまさるこの年《とし》月《つき》を、変わらぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変わることと思い、雨降れば変わることと思い、月に花に変わることと思い暮らしていた。しかし、こうは変わるまいと念じてプラットホームへ下りた。
小野さんの変わりかたは過去を順当に延ばして、健気《けなげ》に生《お》い立った阿《あ》蒙《もう*》の変わりかたではない。色の褪《さ》めた過去を逆《さか》に捩《ね》じ伏せて、目《め》ざましき現在を、相手が新橋へ着くまえの晩に、性急に拵《こしら》え上げたような変わりかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変わりたくても変わられぬ自分が恨めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変わったと同然である。
新橋へは迎えに来てくれた。車を傭《やと》って宿へ案内してくれた。のみならず、忙しいうちをむりに算段して、蝸牛《かたつむり》親《おや》子《こ》して寝る庵《いおり》を借りてくれた。小野さんは昔のとおり親切である。父もさように言う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
プラットホームを下りるやいなやお荷物をと言った。小《ち》さい手《て》提《さ》げの荷にはならず、持ってもらうほどでもないのをむりに受け取って、膝《ひざ》掛《か》けといっしょに先へ行った、刻み足の後ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、はるばると来た二人を案内するためではなく、時候後《おく》れの親子を追い越して馳《か》け抜けるためのように見える。割《わ》り符《ふ》とは瓜《うり》二つを取ってつけて較《くら》べるための証拠《しるし》である。天に懸《か》かる日よりも貴《とうと》しと護《まも》るわが夢を、五年《いつとせ》の長き香洩《かも》る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違いはあるまいと見較べてみると、現在ははやくも遠くに立ち退《の》いている。握る割り符は通用しない。
はじめは穴を出でて眩《まばゆ》きゆえと思う。少し慣れたらばと、逝《ゆ》く日を杖《つえ》に、一度逢《あ》い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよていねいになる。ていねいになるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
やさしく咽喉《のど》を滑《すべ》り込む長い顎《あご》を奥へ引いて、上目に小野さんの姿を眺《なが》めた小夜子は、変わる眼鏡を見た。変わる髭を見た。変わる髪のふうと、変わる装いとを見た。すべての変わるものを見たとき、心の底でそっと嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅《おそ》いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけかけた記憶の綯《より》を逆に戻《もど》すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つまえにちょっと嵐《あらし》山《やま》へ参りましたがその時がちょうど八分どおりでした」
「そのくらいでしょう、嵐山は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
花を看《み》る人は星月夜のごとく夥《おびただ》しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父《おとつさん》とですか」
「ええ」
「おもしろかったでしょう」と口の先で言う。小夜子はなぜか情けない心持ちがする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣の温泉などはりっぱに普請ができて……」
「そうですか」
「小督《こごう》の局《つぼね*》の墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
「あすこいらは皆《みんな》掛け茶屋ばかりでたいへん賑《にぎ》やかになりました」
「毎《まい》年《とし》俗になるばかりですね。昔のほうがよほどいい」
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「ほんとうに昔のほうが……」と言いかけて、わざと庭を見る。庭にはなんにもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑《ざつ》沓《とう》しませんでしたね」
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた目は、ちらりと真向きに返る。金縁の眼鏡と薄黒い口《くち》髭《ひげ》がすぐ眸《ひとみ》に映る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子は床《ゆか》しい昔話の緒《いとくち》の、するすると抜け出しそうな咽喉《のど》を抑えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて角《かど》を曲がろうとする、どっこいと突き当たることがある。品のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終突き当たっている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変わっておりさえすればこんなに心配はしない。変わるのは歳《とし》ばかりで、いたずらに育った縞《しま》柄《がら》と、用い古した琴が恨めしい。琴は蔽《おい》のまま床の間に立てかけてある。
「私はだいぶ変わりましたろう」
「見違えるようにりっぱにおなりですこと」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変わるつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子はなんと答えていいか分からない。膝に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳《みみ》朶《たぶ》が、行儀よく鬢《びん》の末を潜《くぐ》り抜けて、頬と頸《くび》の続《つぎ》目《め》が、暈《ぼか》したように曲線を陰に曵《ひ》いて去る。みごとな画《え》である。惜しいことに真向きに坐《すわ》った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退《ひ》き具合、これほどの光線《ひ》に、これほどの色の付き具合はめったに見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵《かかと》を、地に滅《め》り込むほどに回《めぐ》らして、五年の流れを逆に過去に向かって飛びついたかもしれぬ。惜しいことに小野さんは真向きに坐っている。小野さんはただおもしろみのない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻る袖の香《か》が、濃き紫の眉《み》間《けん》を掠《かす》めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広の胸を合わせる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。お帰りになったら、どうぞよろしく」
「あの……」と口《くち》籠《ごも》っている。
相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ちかねる。はやくと急《せ》きたてられる気がする。近寄れぬものは、ますます離れて行く。情けない。
「あの……父が……」
小野さんは、なんとも知れず重い気分になる。女はますます切り出しにくくなる。
「また上がります」と立ち上がる。言おうと思うことを聞いてもくれない。離れるものは没義《もぎ》道《どう》に離れて行く。未練も会釈もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘《もう》然《ぜん*》として、縁に近く坐った。
降らんとして降り損《そこ》ねた空の奥から幽《かす》かな春の光が、淡き雲に遮《さえぎ》られながら一面に照り渡る。長閑《のど》かさを抑《おさ》えつけたる頭の上は、晴るるようでなんとなく鬱《うつ》陶《とう》しい。どこやらで琴の音《ね》がする。わが弾《ひ》くべきは塵《ちり》も払わず、更《さら》紗《さ》の小包みを二つ並べた間に、袋のままで淋《さび》しく壁にもたれている。いつ鬱《う》金《こん》の掩《おい》を除《の》けることやら。あの曲はだいぶ熟《な》れた手に違いない。片々に抑えて片《かた》々《かた》に弾《はじ》く爪《つめ》の、安らかに幾《いく》関《せき》の柱《じ》を往《ゆ》きつ戻《もど》りつして、春をかぎりと乱るる色は甲《か》斐《い》甲《が》斐《い》しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日のように思う。ちらちらに昼の蛍《ほたる》と竹《たけ》垣《がき》に滴《したた》る連《れん》〓《ぎよう》に、朝から降って退屈だと阿父《とう》様がおっしゃる。繻《しゆ》子《す》の袖《そで》口《くち》は手《て》頸《くび》に滑りやすい。絹糸を細長く目に貫《ぬ》いたまま、針差しの紅《くれない》をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古《ふる》桐《ぎり》の長い胴に、鮮《あざ》やかに目を醒《さ》ませと、への字に渡す糸の数々を、いくたびか抑えて、いくたびか撥《は》ねた。曲はたしか小《こ》督《ごう*》であった。狂う指の、憂き昼を、くちゃくちゃに揉《も》みこなしたと思うころ、阿父《とう》様はご苦労と手ずからお茶を入れてくださった。京は春の、雨の、琴の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好きな自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇《やみ》を破る烏《からす》の、飛び出してみて、そぞろ黒きに驚き、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんなことなら琴の代わりにピアノでも習っておけばよかった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父《とうさま》は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古したる人を便りに、小野さんには、追いつくこともできぬように後《おく》れてしまった。住み古した人の世はいずれ長いことはあるまい。古い人に先だたれ、新しい人に後れれば、今日を明日《あす》と、その日に数《はか》る命は、文《あや》も理《め》も危うい。
格子ががらりと開く。古《いにしえ》の人は帰った。
「今帰ったよ。どうも苛《ひど》い埃《ほこり》でね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京という所は厭な所だ。京都のほうがよっぽどいいね」
「だってはやく東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように言っていらしったじゃありませんか」
「言ってたことは、言ってたが、来てみるとそうでもないね」と縁《えん》側《がわ》で足袋《たび》をはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と言ったが、提げて来た大きな包みをからげた細《ほそ》縄《なわ》の十文字を、ていねいに一文字ずつほどきはじめる。
「今日はね。座《ざ》布《ぶ》団《とん》を買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替えを忘れて、ひどい目に逢った」
「おやおや」と気の毒そうに微笑《ほほえ》んだ娘は、
「でも布団はお買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買ってきたが、おかげでたいへん遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈まがいの黄な縞《しま》を取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いてごらん」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなたお敷きなさいよ」
「阿父《おとつさん》も敷くから、お前も敷いてごらん。そらなかなかいいだろう」
「少し綿が硬《かた》いようね」
「綿はどうせ――価《ね》が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗り損《そく》なってしまって……」
「乗り替えをなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗り替えを――車掌に頼んでおいたのに。忌《いま》々《いま》しいから帰りには歩いて来た」
「おくたびれなすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかしおかげで髯もなにも埃だらけになっちまった。こら」と右手《めて》の指を四本ならべて櫛《くし》の代わりに顎の下を梳《す》くと、はたして薄黒いものが股《また》についてきた。
「お湯におはいんなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試《ため》しに外へ出てごらん。どうも東京の埃にはたいていのものは驚くよ。お前がいた時分もこうかい」
「ええずいぶん苛《ひど》くってよ」
「年々烈《はげ》しくなるんじゃないかしら。今日なんぞはまったく風はないね」と廂《ひさし》の外を下から覗《のぞ》いて見る。空は曇る心持ちを透かして春の日があやふやに流れている。琴の音がまだ聴《き》こえる。
「おや琴を弾いているね。――なかなかうまい。ありゃなんだい」
「当ててごらんなさい」
「当ててみろ。ハハハハ阿父《おとつさん》には分からないよ。琴を聴くと京都のことを思い出すね。京都は静かでいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような烈しい所には向かない。東京はまあ小野だの、お前だののような若い人が住まう所だね」
時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に笑みを浮かべて見せる。老人は世に疎《うと》いわれを憐《あわ》れむ孝心と受け取った。
「アハハハハほんとうに帰ろうかね」
「ほんとうに帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談を……」
娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野はなにかね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それでなにかい。その、なにも言って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「なにもいわない? ――待ってればいいのに」
「急ぐからまた来るってお帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来たわけじゃないんだね。そうか」
「阿父《おとう》様」
「なんだね」
「小野さんはお変わりなさいましたね」
「変わった? ――ああたいへんりっぱになったね。新橋で逢ったときはまるで見違えるようだった。まあお互いに結構なことだ」
娘はまた下を向いた――単純な父には自分の言う意味が徹せぬとみえる。
「私は昔のとおりで、ちっとも変わっていないそうです。……変わっていないたって」
後の句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変わっていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声でつける。老人は首を傾けた。
「小野がなにか言ったかい」
同じ質問と同じ返事はまた繰り返される。水《みず》車《ぐるま》を踏めば回るばかりである。いつまで踏んでも踏みきれるものではない。
「ハハハハくだらぬことを気にしちゃいけない。春は気が鬱《ふさ》ぐものでね。今日なぞは阿父《おとつさん》などにもよくない天気だ」
気が鬱ぐのは秋である。餅《もち》と知って、酒の咎《とが》だという。慰められる人は、ばかにされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっと琴でも弾いちゃどうだい。気晴らしに」
娘は浮かぬ顔を、愛《あい》嬌《きよう》に傾けて、床の間を見る。軸は空しく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、竪《たて》に截《き》って、鬱金の蔽が春を隠さず明らかである。
「まあよしましょう」
「よす? よすならおよし。――あの、小野はね。近ごろ忙しいんだよ。近々博士論文を出すんだそうで……」
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の己には無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問に凝ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なにゆっくりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? なんだって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「お帰りに……」
「お帰りに――なった? ならないでも? よさそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日《いちんち》都合をしてもらって、いっしょに博覧会でも見ようって言ってるんじゃないか。お前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たというのになにをしていたんだ。いくら女だって、少しは口を利《き》かなくっちゃいけない」
口を利けぬように育てておいてなぜ口を利かぬと言う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。目の中が熱くなる。
「なにいいよ。阿父《おとつさん》が手紙で聞き合わせるから――悲しがることはない。叱《しか》ったんじゃない。――時に晩のご飯はあるかい」
「ご飯だけはあります」
「ご飯だけあればいい。なにお菜《さい》はいらないよ。――頼んでおいた婆《ばあ》さんは明日《あした》くるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じことだ」
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包みを解きはじめる。
一〇
謎《なぞ》の女は宗《むね》近《ちか》家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団《たどん》が水晶と光る。禅家では柳は緑花は紅《くれない》という。あるいは雀《すずめ》はちゅちゅで烏《からす》はかあかあともいう。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生まれてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を鍋《なべ》の中に入れて、方寸の杉《すぎ》箸《ばし》に交ぜ繰り返す。芋をもってみずからおる《*》ものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石《ダイヤモンド》のようなものである。いやに光る。そしてその光の出《で》所《どころ》が分からぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽《かぐら》の面には二十とおりほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
真《しん》率《そつ》なる快活なる宗近家の大《だい》和尚《おしよう》は、かく物騒な女が天《あめ》が下《した》に生を享《う》けて、しきりに鍋の底を攪《か》きまわしているとは思いも寄らぬ。唐《から》木《き》の机に唐刻の法《ほう》帖《じよう》を乗せて、厚い座《ざ》布《ぶ》団《とん》の上に、信濃《しなの》の国に立つ煙《けむり》、立つ煙と、大きな腹の中から鉢《はち》の木《き》を謡《うた》っている。謎の女はしだいに近づいてくる。
悲劇マクベスの妖《よう》婆《ば》は鍋の中に天下の雑《ぞう》物《もつ》を攫《さら》い込んだ。石の影に三十日《みそか》の毒を《*》人知れず吹く夜の蟇《ひき》と、燃ゆる腹を黒き背に蔵《かく》す蠑〓《いもり》の肝《きも》と、蛇《へび》の眼《まなこ》と蝙蝠《かわほり》の爪《つめ》と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を回る。枯れ果てて尖《とが》れる爪は、世を詛《のろ》う幾《いく》代《よ》の錆《さび》に瘠《や》せ尽くしたる鉄《くろがね》の火《ひ》箸《ばし》を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を泡《あわ》とともに起こす。――読む人は怖《おそ》ろしいという。
それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪いことはせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真っ昼間である。鍋の底からは愛《あい》嬌《きよう》が湧《わ》いて出る。漾《ただよ》うは笑いの波だという。攪《か》き淆《ま》ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが品よくでき上がっている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能《のう》掛《が》かりである。大和尚の怖《こわ》がらぬのも無理はない。
「いや、だいぶお暖《あつた》かになりました。さあどうぞ」と布団の方《かた》へ大きな掌《てのひら》を出す。女はわざと入り口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「その後《のち》は……」
「どうぞお敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無《ぶ》人《にん》だもので、出よう出ようと思いながら、とうとうご無《ぶ》沙《さ》汰《た》になりまして……」で少し句が切れたから大和尚がなにか言おうとすると、謎の女はすぐ後を付ける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どういたしまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が言う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が言う。あまりていねいにお辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が言う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出てくる。
「お宅でも皆様お変わりもなく……毎々欽《きん》吾《ご》や藤《ふじ》尾《お》が出まして、ごやっかいにばかりなりまして……先《せん》だってはまた結構なものを頂《ちよう》戴《だい》いたしまして、とうにお礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
頭はここでようやく上がる。阿父《おとつさん》はほっと気息《いき》をつく。
「いや、つまらんもので……到来物でな。アハハハハようやく暖《あつた》かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが、
「どうですお宅の桜は。今ごろはちょうど盛りでしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四、五日前がちょうど観《み》頃《ごろ》でございましたが、一昨日の風で、だいぶ傷《いた》められまして、もう……」
「だめですか。あの桜は珍しい。なんといいましたかね。え? 浅葱《あさぎ》桜《ざくら》。そうそう。あの色が珍しい」
「少し青味を帯びて、なんだか、こう、夕方などは凄《すご》いような心持ちがいたします」
「そうですか、アハハハハ。荒川には緋《ひ》桜《ざくら》というのがあるが、浅葱桜は珍しい」
「みなさんが、そうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのはめったにあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好《こう》事《ず》家《か》に言わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚いたように言う。
「アハハハ桜でもばかにはできない。このあいだも一《はじめ》が京都から帰ってきて嵐《あらし》山《やま》へ行ったと言うから、どんな花だと聞いてみたら、ただ一重だというだけでね、なんにも知らない。今時のものは呑《のん》気《き》なものでアハハハハ。――どうです粗菓だが一つお撮《つま》みなさい。岐阜の柿《かき》羊《よう》羹《かん》」
「いえどうぞ、もうお構いくださいますな……」
「あんまり、うまいものじゃない。ただ珍しいだけだ」と宗近老人は箸《はし》を上げて皿《さら》の中から剥《は》ぎ取った羊羹の一片《ひときれ》を手に受けて、独《ひと》りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山といえば」と甲野の母は切り出した。
「先だってじゅうは欽吾がまた、いろいろごやっかいになりまして、おかげさまで方々見物させていただいたと申してたいへん喜んでおります。まことにあのとおりのわがままものでございますから一さんもさぞご迷惑でございましたろう」
「いえ、一のほうでいろいろお世話になったそうで……」
「どういたしまして、人様のお世話などのできるような男ではございませんので。あの年になりまして朋《ほう》友《ゆう》と申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみにつきあいができにくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分かりませんが、なんだか鬱《ふさ》いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家《うち》にさえいるとあなた、妹《いもと》にばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ。まことに陽気で淡泊《さつぱり》してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少しおもしろくしてくれればいいと藤尾にもふだん申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人《あれ》の病気のせいだから、いまさら愚痴をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目に答えたが、ついでに灰吹きをぽんと敲《たた》いて、銀の延《の》べ打《う》ちの煙管《きせる》を畳の上にころりと落とす。雁《がん》首《くび》から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しはいいようじゃありませんか」
「おかげさまで……」
「先だって家《うち》へ見えたときなどは皆《みんな》とばか話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔《し》細《さい》らしく感心する。「まことに困りきります」これは困りきったように長々と引き延ばして言う。
「そりゃ、どうも」
「彼人《あれ》の病気では、今までどのくらい心配したか分かりません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変わっていいかもしれませんよ」
謎の女は自分の思うことを他《ひと》に言わせる。手を下しては落ち度になる。向こうで滑って転ぶのを大人《おとな》しく待っている。ただ滑るような泥海《ぬかるみ》を知らぬまに用意するばかりである。
「その結婚のことを朝《あけ》暮《く》れ申すのでございますが――どうあっても、うんと言って承知してくれません。私もごらんのとおり取る年でございますし、それに甲野もあんなふうに突然外国で亡くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一《いち》日《じつ》も早く彼人のために身の落ちつきをつけてやりたいと思いまして……ほんとうに、今まで嫁のことを持ち出したことは何度だか分かりません。が持ち出すたんびに頭から撥《は》ねつけられるのみで……」
「実はこのあいだ見えたときも、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母《おつかさん》だけで、かわいそうだから、今のうちに早く身を堅めて安心させたらよかろうってね」
「ご親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配はお互いで、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負《しよ》い込んでるものだから、アハハハハどうもなんですね。何歳《いくつ》になっても心配は絶えませんね」
「こちら様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人《あれ》がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰《もら》ってくれませんうちに、もしものことがあったら、草葉の陰で配偶《つれあい》に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。なにか言いだすと、阿母《おつかさん》私はこんな身体《からだ》で、とても家《うち》のめんどうは見てゆかれないから、藤尾に聟《むこ》を貰って、阿母《おつか》さんの世話をさせてください。私は財産なんか一銭もいらない。と、まあこうでござんすもの。私がほんとうの親なら、それじゃお前のかってにおしと申すこともできますが、ご存じのとおりなさぬ仲の間柄でございますから、そんな不義理なことは人様に対してもできかねますし、じつに途方に暮れます」
謎の女は和尚《おしよう》をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹きがぽんと鳴る。紫《し》檀《たん》の蓋《ふた》をていねいに被《かぶ》せる。煙管は転がった。
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して生みの母でない私が圧制《おしつけ》がましく、むやみに差し出た口を利《き》きますと、お聞かせ申したくないような紛紜《ごたごた》も起こりましょうし……」
「ふん。困るね」
和尚は手《て》提《さ》げの煙管盆の浅い抽《ひ》き出《だ》しから鬱《う》金《こん》木綿《もめん》の布《ふ》巾《きん》を取り出して、鯨の蔓《つる*》を鄭《てい》重《ちよう》に拭《ふ》きだした。
「いっそ、私からとくと談じてみましょうか。あなたが言いにくければ」
「いろいろご心配をかけまして……」
「そうしてみるかね」
「どんなものでございましょう。ああいう神経が妙になっているところへ、そんなことを聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に障《さわ》らないように言うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざお願い申したように取られると、それこそ後がたいへんな騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、疳《かん》が高くなってちゃあ」
「まるで腫《は》れ物《もの》へ障るようで……」
「ふうん」と和尚は腕組みを始めた。裄《ゆき》が短いので太い肘《ひじ》が不作法に見える。
謎の女は人を迷宮に導いて、なるほどといわせる。ふうんといわせる。灰吹きをぽんといわせる。しまいには腕組みをさせる。二十世紀の禁物は疾《しつ》言《げん》と遽《きよ》色《しよく*》である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねてみたら、紳士も淑女も口を揃えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重なのはもっとも法律に触れにくい。和尚は腕組みをしてふうんといった。
「もし彼人《あれ》が断然家《うち》を出ると言い張りますと――私がそれを見てむろん黙っているわけにはまいりませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
「聟かね。聟となると……」
「いえ、そうなってはたいへんでございますが――万一の場合も考えておかないと、いざというときに困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づけるわけにまいりません」
「さようさね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳《いくつ》ですい」
「もう、明けて四になります」
「はやいものですね。えっ。ついこのあいだまでこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた掌《てのひら》を下から覗《のぞ》き込むようにする。
「いえもう、身体《なり》ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になるわけだ。うちの糸が二だから」
話は放っておくとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、一さんやらで、ご心配のところを、こんなよけいな話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑《のん》気《き》な女だとおぼしめすでございましょうが……」
「いえ、どういたして、実は私のほうからそのことについてとくとご相談もしたいと思っていたところで――一も外交官になるとか、ならんとか言って騒いでいる最中だから、今日明日というわけにもいかないですが、晩《おそ》かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あのかたなら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一はむろん異存のあるわけはなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母《おつかさん》のお考えは」
「あのとおり行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃってくださるのはまことにありがたいわけでございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合わせ、私も安心で……」
「ご不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり叶《かな》ったりで、このうえもない結構なことでございますが、ただ彼人《あれ》に困りますので。一さんは宗近家をお襲《つ》ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾がお気にいるか、いらないかは分かりませんが、まず貰っていただいたといたしたところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いようなわけで……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出るわけだから、しぜんと考えもちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そういうものでございましょうかね」
「それにご承知のとおり、阿父《おとつさん》がいつぞやおっしゃったこともあるし。そうなれば亡くなった人も満足だろう」
「いろいろご親切にありがとう存じます。なに配偶《つれあい》さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配はいたさなくってもよろしい――のでございますが」
謎の女の言うことはしだいに湿気を帯びてくる。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌《きら》う。かろうじて謎の女の謎をここまで叙し来たったとき、筆は、一歩も前へ進むことが厭《いや》だと言う。日を作り夜《よ》を作り、海と陸《おか》とすべてを作りたる神は、七日めにいたって休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界へはいってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の兄《きよう》妹《だい》が活動する。六畳の中二階の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽《しがらき》の鉢《はち》に、蟠《わだかま》る根を盛りあげて、くの字の影を縁《えん》に伏せる。一間の唐《から》紙《かみ》は白地に秦《しん》漢《かん》瓦《が》鐺《とう》の譜《*》を散らしに張って、引き手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の床は、軸を嫌って、籠《かご》花《はな》活《い》けに軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の前に縫い物の五色《しき》を、彩《あや》と乱して、糸《いと》屑《くず》のこぼるるほどの抽き出しを二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うてゆく糸の行方《ゆくえ》は、一針ごとに春を刻む幽《かす》かな音に、聴《き》かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹《はら》這《ば》いは弥生《やよい》の姿、寝ながらにして天下の春を領す。物《もの》指《さ》しの先でしきりに敷居を敲《たた》いている。
「糸公。こりゃお前の座敷のほうが明るくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えてもらったところであんまり儲《もう》かりそうでもないが――しかしお前には上等すぎるよ」
「上等すぎたって誰も使わないんだからいいじゃありませんか」
「いいよ。いいことはいいが少し上等すぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「なにが?」
「なにがって、この松さ。こりゃたしか阿父《おとつさん》が苔《たい》盛《せい》園《えん》で二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。ひっくりかえしでもしようもんならたいへんよ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺《おとつさん》も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら担《かつ》ぎ上げるお前もお前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は争われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽどばかね」
「ばかだって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ私はむろんばかですわ。ばかですけれども、兄さんもばかよ」
「ばかよか。だからお互いにばかよでいいじゃないか」
「だって証拠があるんですもの」
「ばかの証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大《だい》嫌《きら》いよ」
「へええ、今《こん》度《だ》こっちの大発明だ。ハハハハ。嫌いなものを、なんでまた持ってきたんだ。重いだろうに」
「阿父《おとう》さまがご自分で持っていらしったのよ」
「なんだって」
「日があたって二階のほうが松のためにいいって」
「阿爺《おやじ》も親切だな。そうかそれで兄さんがばかになっちまったんだね。阿爺親切にして子はばかになりか」
「なに、そりゃ、ちょいと。発《ほつ》句《く》?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、ほんとうの発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりかお前今日はたいへんりっぱなものを縫ってるね。なんだいそれは」
「これ? これは伊《い》勢《せ》崎《ざき*》でしょう」
「いやにぴかつくじゃないか。兄さんのかい」
「阿爺《おとうさま》のよ」
「阿爺《おとつさん》のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐《きつね》の袖無《ちやんちやん》以後お見限りだね」
「あらいやだ。あんな嘘《うそ》ばかり。今着ていらっしゃるものも縫ってあげたんだわ」
「これかい。これはもうだめだ。こらこのとおり」
「おや、ひどい襟《えり》垢《あか》だこと、こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏《あぶら》が多すぎるんですよ」
「なにが多すぎても、もうだめだよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫ってあげましょう」
「新しいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父《おとつさん》の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議なことがあるね」
「なにが」
「阿爺《おとつさん》は年寄りのくせに新しいものばかり着て、年の若いおれにお古ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子でゆくとしまいには自分でパナマの帽子を被《かぶ》って、おれには物置きにある陣《じん》笠《がさ》をかぶれと言うかもしれない」
「ホホホホ兄さんはずいぶん口が達者ね」
「達者なのは口だけか。かわいそうに」
「まだ、あるのよ」
宗近君は返事をやめて、欄干の隙《すき》間《ま》から庭《にわ》前《さき》の植え込みを頬《ほお》杖《づえ》に見下ろしている。
「まだあるのよ。ちょいと」と針を離れぬ糸子の目は、左の手につんと撮《つま》んだ合わせ目を、見る間に括《く》けてきて、いざという指先を白くふっくらと放したとき、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「なんだい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔《めど》を障子へ向けて、かわいらしい二《ふた》重《え》瞼《まぶち》を細くする。宗近君は依然として長閑《のどか》な心を頬杖に託して庭を眺《なが》めている。
「言ってみましょうか」
「う。うん」
下《した》顎《あご》は頬杖で動かすことができない。返事は咽喉《のど》から鼻へ抜ける。
「あし。分かったでしょう」
「う。うん」
紺の糸を唇《くちびる》に湿して、指先に尖《とが》らすは、射《い》損《そこ》なった針孔を通す女の計《はかりごと》である。
「糸公、誰かお客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母《おつかさん》がお出でよ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶《かな》わない」
「でも品がいいわ。兄さんみたように悪《わる》口《くち》はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが嫌いじゃ、世話の仕《し》栄《ば》えがない」
「世話もしないくせに」
「ハハハハ実は狐の袖無のお礼に、近日お花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分お花見だなんて」
「いえ、上野や向島はだめだが荒川は今が盛りだよ。荒川から萱《かや》野《の》へ行って桜草を取って王子へ回って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館でお茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちがいい」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃいけないよ。こんな親切な兄さんは日本じゅうにたんとはないぜ」
「ホホホホへえ、大事にいたします。――ちょっとその物指しを貸してちょうだい」
「そうして裁《さい》縫《ほう》を勉強すると、今にお嫁に行くときに金剛石《ダイヤモンド》の指《ゆび》環《わ》を買ってやる」
「うまいのねえ、口だけは。そんなにお金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに鋏《はさみ》はなくって」
「その蒲《ふ》団《とん》の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿《さる》がついてるのは、どういうわけだ。洒落《しやれ》かい」
「これ? きれいでしょう。縮緬《ちりめん》のお申《さる》さん」
「お前がこしらえたのかい。感心にうまくできてる。お前はなんにもできないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようにはまいりません――あらそんな縁《えん》側《がわ》へ煙草の灰を捨てるのはおよしなさいよ。――これを貸してあげるから」
「なんだいこれは。へええ。板目紙の上へ千代紙を張り付けて。やっぱりお前がこしらえたのか。閑《ひま》人《じん》だなあ。いったいなんにするものだい。――糸を入れる? 糸の屑をかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのようなかたが好きなんでしょう」
「お前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
「嫌《いや》でもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしいこと」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母《おばさん》はしきりに密談をしているね」
「ことによると藤尾さんのことかもしれなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、およしなさいよ――わたし、火熨《ひのし*》がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分の家《うち》で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいからおよしなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも剣《けん》呑《のん》だね。それじゃこっちも気息《いき》を殺して寝転《ころ》んでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活《い》かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもういいかげんになさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによるとお前と同意見かもしれない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
裁縫《しごと》の手を休《や》めて、火熨にためらっていた糸子は、入《いり》子《こ》菱《びし》に縢《かが》った指抜きを抽《ぬ》いて、鴇《とき》色《いろ》に銀《しろがね》の雨を刺す針差しを裏に、如《じよ》鱗《りん》木《もく》の塗り美しき蓋《ふた》をはたと落とした。やがて日《ひ》永《なが》の窓に赤くなった耳《みみ》朶《たぶ》のあたりを、平手で支《ささ》えて、右の肘《ひじ》を針箱の上に、取り広げたる縫い物の下で、隠れた膝《ひざ》を斜めに崩《くず》した。襦《じゆ》袢《ばん》の袖《そで》に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく滑って、くっきりと普通よりは明らかなる肉の柱が、蝶《ちよう》と傾く絹紐《リボン》の下に鮮やかである。
「兄さん」
「なんだい。――仕事はもうおやめか。なんだかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんはだめよ」
「だめだ? だめとは」
「だって来る気はないんですもの」
「お前聞いてきたのか」
「そんなことがまさか無《ぶ》躾《しつけ》に聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで巫女《いちこ》だね。――お前がそう頬杖を突いて針箱へもたれているところは天下の絶景だよ。妹ながれあっぱれな姿勢だハハハハ」
「たんとお冷やかしなさい。人がせっかく親切で言ってあげるのに」
言いながら糸子は首を支えた白い腕をぱたりと倒した。揃《そろ》った指が針箱の角を抑えるように、前へ垂《た》れる。障子に近い片《かた》頬《ほお》は、圧《お》しつけられた手の痕《あと》を耳朶ともにぽうと赤く染めている。きれいに囲う二重の瞼《まぶた》は、涼しい眸《ひとみ》を、長い睫《まつげ》に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を肘に撥《は》ねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落とすと「だって……」と言うやいなや、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派《は》手《で》な色の絹紐《リボン》がちらりと前の方へ顔を出す。
「だいじょうぶだ。京都でも甲野に話しておいた」
「そう」と俯《ふ》し目《め》になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑いが顔とともに浮いてくる。
「兄さんが今に外国へ行ったら、お前になにか買って送ってやるよ」
「今《こん》度《だ》の試験の結果はまだ分からないの」
「もうじきだろう」
「今度はぜひ及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあいいや」
「よかないわ。――藤尾さんはね。学問がよくできて、信用のあるかたが好きなんですよ」
「兄さんは学問ができなくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例えにいうと、あの小野さんというかたがあるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計を頂いたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああいうかたが好きなのよ」
「そうか。おやおや」
「なにがおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計も頂けず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉のいたりだ」
「あら不名誉だと誰も言やしないわ。ただあんまり気楽すぎるのよ」
「あんまり気楽すぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。なんだかちっとも苦にならないようね」
「糸公、兄さんは学問もできず落第もするが――まあよそう、どうでもいい。とにかくお前兄さんをいい兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちがいい」
「そりゃ兄さんのほうがいいわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子を透《とお》して糸子の頬を暖かに射る。俯《うつ》向《む》いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と翻る襦《じゆ》袢《ばん》の袖のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えないところでも、うまく手が届くね。盲目《めくら》にすると疳《かん》のいい目按《あん》摩《ま》さんができるよ」
「だって慣れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公おもしろい話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿の隣に琴をひく別《べつ》嬪《ぴん》がいてね」
「端《は》書《がき》に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議なことがあるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐《あらし》山《やま》へお花見に行ったら、その女に逢《あ》ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚《みと》れて茶碗を落としてしまってね」
「あら、ほんとう? まあ」
「驚いたろう。それから急行の夜汽車で帰るときに、またその女と乗り合わせてね」
「嘘《うそ》よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へ来るわけがないじゃありませんか」
「それがなにかの因縁だよ」
「人を……」
「まあお聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんならよそう」
「その女のかたはなんとおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだっていうじゃないか」
「教えたっていいじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目にならなくってもいい。実は嘘だ。まったく兄さんの作り事さ」
「悪《にく》らしい」
糸子はめでたく笑った。
一一
蟻《あり》は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生《せい》存《そん》のうちに無《ぶ》聊《りよう》をかこつ。立ちながら三度の食に就くの忙しきに堪えて、路上に昏《こん》睡《すい》の病を憂う。生を縦横に託して、縦横に死を貪《むさぼ》るは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪《かみ》剃《そり》に削って、人の精神を擂木《すりこぎ》と鈍くする。刺激に麻《ま》痺《ひ》して、しかも刺激に渇《かわ》くものは数《すう》を尽くして新しき博覧会に集まる。
狗《いぬ》は香《か》を恋《した》い、人は色に趁《はし》る。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。紫《し》衣《い*》といい、黄《こう》袍《ほう*》といい、青《せい》衿《きん*》という。皆人を呼び寄せるの道具にすぎぬ。土堤《どて》を走る弥《や》次《じ》馬《うま》は《*》必ずいろいろの旗を担《かつ》ぐ。担がれて懸命に櫂《かい》を操《あやつ》るものは色に担がれるのである。天下、天《てん》狗《ぐ》の鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古《いにしえ》より赫《かく》奕《えき》として赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
蛾《が》は燈《とう》に集まり、人は電光に集まる。輝くものは天下を牽《ひ》く。金銀、〓〓《しやこ》、瑪瑙《めのう》、琉璃《るり》、閻《えん》浮《ぶ》檀《だ》金《ごん*》の属を挙《あ》げて、ことごとく退屈の眸《ひとみ》を見晴らして、疲れたる頭をがばと跳《は》ね起こさせるために光るのである。昼を短しとする文明の民の夜会には、あらわなる肌《はだ》に鏤《ちりば》めたる宝石が独《ひと》り幅を利《き》かす。金剛石《ダイヤモンド》は人の心を奪うがゆえに人の心よりも高価である。泥海《ぬかるみ》に落つる星の影は、影ながら瓦《かわら》よりも鮮やかに、見るものの胸に閃《きらめ》く。閃く影に躍《おど》る善《ぜん》男《なん》子《し》、善《ぜん》女《によ》子《し》は家を空しゅうしてイルミネーションに集まる。
文明を刺激の袋の底に篩《ふる》い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉《こ》せば燦《さん》たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻《ま》痺《ひ》したる文明の民は、あっと驚くとき、はじめて生きているなと気がつく。
花電車が風を截《き》って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山《やま》下《した》雁《がん》鍋《なべ*》の辺《あたり》でおろす。雁鍋はとくの昔に亡くなった。おろされた荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方《かた》にぞろぞろ行く。
岡《おか》は夜を掠《かす》めて本郷から起こる。高き台を朧《おぼろ》に浮かして幅十町を東へなだれる下り口は、根津に、弥生《やよい》に、切り通しに、驚かんとするものを枡《ます》で料《はか》って下谷へ通す。踏み合う黒い影はことごとく池の端にあつまる。――文明の人ほど驚きたがるものはない。
松高くして花を隠さず、枝の隙《すき》間《ま》に夜を照らす宵《よい》重なりて、雨も降り風も吹く。はじめは一《ひと》片《ひら》と落ち、次には二《ふた》片《ひら》と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。このあいだじゅうは見るからに、万《ばん》紅《こう》を大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、梢《こずえ》から後を追うて落ちてきた。忙しい吹雪《ふぶき》はいつかつきて、今は残る樹頭の嵐《あらし》もようやく収まった。星ならずして夜《よ》を護《も》る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは点《つ》いた。
「あら」と糸子が言う。
「夜の世界は昼の世界より美しいこと」と藤尾が言う。
薄《すすき》の穂を丸く曲げて、左右から重なる金の閃《きらめ》く中に織り出した半月の数は分からず。幅広に腰を蔽《おお》う藤尾の帯を一尺隔てて宗近君と甲野さんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜《りゆう》宮《ぐう》だね」と宗近君が言う。
「糸子さん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子を眉《まゆ》深く被《かぶ》って立つ。
糸子は振り返る。夜の笑いは水の中で詩を吟ずるようなものである。思うところへは届かぬかもしれぬ。振り返る人の衣《きぬ》の色は黄に似て夜を欺くを、黒いものが幾筋も竪《たて》に刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「貴方《あなた》がたは」と糸子を差し置いて藤尾が振り返る。黒い髪の陰からさっと白い顔が映《さ》す。頬《ほお》の端は遠い火光《ひかり》を受けてほの赤い。
「僕は三遍めだから驚かない」と宗近君は顔一面を明るい方へ向けて言う。
「驚くうちは楽しみがあるもんだ。女は楽しみが多くて仕合わせだね」と甲野さんは長い体躯《からだ》をますぐに立てたまま藤尾を見下ろした。
黒い目が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点《さ》す。
「あのいちばん右の前へ出ているのがそうだ。あれがいちばんよくできている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」と甲野さんがすぐ但《ただ》し書きを付け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「ほんとうに竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「なにが、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だというご意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容はうまくあたると俗になるのが通例だ」
「あたると俗なら、あたらなければなんになるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合いから答えた。
「だから、詩は実際に外《はず》れる」と甲野さんが言う。
「実際より高いから」と藤尾が注釈する。
「するとうまくあたった形容が俗で、うまくあたらなかった形容が詩なんだね。藤尾さんまずくってあたらない形容を言ってごらん」
「言ってみましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。聴いてごらんなさい」と藤尾は鋭い目の角から欽《きん》吾《ご》を見た。目の角は言う。――まずくってあたらない形容は哲学である。
「あの横にあるのはなに」と糸子が無邪気に聞く。
炎の線を闇《やみ》に渡して空を横に切るは屋根である。竪《たて》に切るは柱である。斜めに切るは甍《いらか》である。朧《おぼろ》の奥に星を埋《うず》めて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、稲妻の穂は一を引いて虚《こ》空《くう》を走った。二を引いて上から落ちて来た。卍《まんじ》を描いて花火のごとく地に近く回転した。最後に穂先を逆に返して帝座の真中を貫けとばかり抛《な》げ上げた。かくして塔は棟《むね》に入り、棟は床に連なって、不忍《しのばず》の池《いけ》の、こなたから見渡す向こうを、右から左へ隙間なく埋めて、大いなる火の絵図面ができた。
藍《あい》を含む黒塗りに、金を惜しまぬ高《たか》蒔《まき》絵《え》は堂を描き、桜を描き、回廊を描き、曲欄を描き、円塔方柱の数々を描き尽くして、なお余りあるをぜひに用いきらんために、描ける上を往《ゆ》きつ戻《もど》りつする。縦横に空《くう》を走る炎の線は一点一画を乱すことなく整然として一点一画のうちに活きている。動いている。しかも明らかに動いて、動くかぎりは形を崩す気《け》色《しき》が見えぬ。
「あの横に見えるのはなに」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのがいちばんきれいだ。あの左にある高い丸い屋根が三《みつ》菱《びし》館《かん》。――あの恰《かつ》好《こう》がいい。なんと形容するかな」と宗近君はちょっと躊《ちゆう》躇《ちよ》した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が言う。
「冠に紅玉《ルビー》を嵌《は》めたようだこと」と藤尾が言う。
「なるほど、天賞堂《*》の広告みたようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向いた。
空は低い。薄黒く大地に逼《せま》る夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷ってぶらさがっている。柱と連なり、甍と積む万点の炎は逆しまに天を浸して、寝とぼけた星の眼《まなこ》を射る。星の眼は熱い。
「空が焦げるようだ。――ローマ法王の冠かもしれない」と甲野さんの視野は谷《や》中《なか》から上野の森へかけて大いなる圜《かん》を画《えが》いた。
「ローマ法王の冠か。藤尾さん、ローマ法王の冠はどうだい。天賞堂の広告のほうがよさそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでもさしつかえなしか。とにかく女王《クイーン》の冠じゃない。ねえ甲野さん」
「なんとも言えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうしてご存じなの」と藤尾は鋭く聞いた。
「お前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空よりも水のほうがきれいよ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に圧《お》しつけられて、見渡すかぎり平らかである。動かぬはいつのことからか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以上動かぬとのみ思われる水《みな》底《そこ》から、腐った蓮《はす》の根がそろそろ青い芽を吹きかけている。泥《どろ》から生まれた鯉《こい》と鮒《ふな》が、闇を忍んで緩《ゆる》やかに顎《あぎと》を動かしている。イルミネーションは高い影を逆しまにして、二丁余の岸を、尺も残さず真赤になってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色をなす。泥に潜む魚の鰭《ひれ》は燃える。
湿《うるお》える炎は、一抹《まつ》に岸を伸《の》して、明らかに向こう側へ渡る。行く道に横たわるすべてのものを染め尽くしてやまざるを、ぷつりと截《き》って長い橋を西から東へ懸《か》ける。白い石に野《ぬ》羽《ば》玉《たま》を波を跨《また》ぐアーチの数は二十、欄に盛る擬《ぎ》宝《ぼ》珠《しゆ》はことごとく夜を照らす白光の珠《たま》である。
「空より水のほうがきれいよ」と注意した糸子の声につれて、残る三人の目はことごとく水と橋とに聚《あつま》った。一間ごとに高く石《せき》欄《らん》干《かん》を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列に空《くう》に懸かって見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人で埋《う》まっている」
と宗近君が大きな声を出した。
小野さんは孤堂先生と小夜子を連れて今この橋を通りつつある。驚かんとあせる群集は弁天の祠《やしろ*》を抜けて圧《お》してくる。向《むこう》が岡を下りて圧してくる。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲《まわり》を捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真ん中に弓張りを高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただ揉《も》まれて通る。足を地に落とす暇はない。楽に踏む余地を尺《せき》寸《すん》に見出だして、安々と踵《かかと》を着ける心持ちがやっとあったなと思ううち、もう後ろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとはむろんいえぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧し潰《つぶ》すために皆《みんな》が揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢の間に立って、多数より優《すぐ》れたりとの自覚あるものは、身動きができぬときですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚かんとしてここに集まる者は皆当世的の男と女である。ただあっといって、当世的に生存の自覚を強くするためである。お互いにお互いの顔を見て、お互いの世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したる後家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰《たれ》が目にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れのお荷物をていねいに二人まで背負《しよ》って、幅の利《き》かぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない。見《み》咎《とが》められるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋の大きさが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは片身が狭い。人の波の許すかぎりはやく歩く。
「阿爺《おとうさん》、だいじょうぶ?」と後ろから呼ぶ。
「ああだいじょうぶだよ」と知らぬ人を間に挟《はさ》んだまま一軒置いて返事がある。
「なんだか危なくって……」
「なに自《じ》然《ねん》に押して行けば世話はない」と挟まった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片《かた》頬《ほ》に笑みを見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と言ううち二人は前へ出る。巡査の提灯《ちようちん》が孤堂先生の黒い帽子を掠《かす》めて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と目元でさす。手を出せば人の肩で遮《さえぎ》られる。
「どこに」と孤堂先生は足を揃《そろ》える暇もなく、そのまま日和《ひより》下《げ》駄《た》の前歯を傾けて背《せい》延《の》びをする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民が押《の》しかかる。先生はのめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代わりに、背中で人を援《たす》けることを拒まぬ親切な人間である。
文明の波はおのずから動いて頼《たよ》りのない親と子を弁天の堂近く押し出してくる。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くやいなや波は急に左右に散って、黒い頭がかってな方へ崩れだす。二人はようやく胸が広くなったような心持ちになる。
暗い底に藍《あい》を含む逝《ゆ》く春の夜を透かして見ると、花が見える。雨に風に散り後れて、八重に咲く遅《おそ》き香《か》を、夜に懸けん花の願いを、人の世の灯《ともしび》が下から朗らかに照らしている。朧《おぼろ》に薄《うす》紅《くれない》の螺《ら》鈿《でん》を鐫《え》る。鐫るというと硬《かた》すぎる。浮くといえば空を離れる。この宵《よい》とこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合わせている。
「どうも怖《おそ》ろしい人だね」と追いついた孤堂先生が言う。怖ろしいとは、ほんとうに怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「ずいぶん出ます」
「はやく家《うち》へ帰りたくなった。どうも怖ろしい人だ。どこからこんなに出てくるのかね」
小野さんはにやにやと笑った。蜘《く》蛛《も》の子のように暗い森を蔽《おお》うて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃなかろうと思っていた。怖ろしい所だ」
数《すう》は勢いである。勢を生む所は怖ろしい。一坪に足らぬ腐れた水でもお玉《たま》杓《じやく》子《し》のうじょうじょ湧《わ》く所は怖ろしい。いわんや高等なる文明のお玉杓子を苦もなくひり出す東京が怖ろしいのはむろんのことである。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しで紛《はぐ》れるところだった。京都じゃこんなことはないね」
「あの橋を通るときは……どうしようかと思いましたわ。だって怖《こわ》くって……」
「もうだいじょうぶだ。なんだか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持ちが……」
「悪い? 歩きつけないのをむりに歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持ちがよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池を回《めぐ》るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸いである。人の海の湧き返る薄黒いロンドンで、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲《か》斐《い》もなく、目を皿《さら》に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重の壁に遮《さえぎ》られて隣りの家に煤《すす》けた空を眺《なが》めている。それでも逢《あ》えぬ、一生逢えぬ、骨が舎利になって、墓に草が生えるまで逢うことができぬかもしれぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古に隔てるとともに、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互いに池の周囲《まわり》を回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇《やみ》の夜をさえ縫う。
「どうだい女連はだいぶ疲れたろう。ここでお茶でも飲むかね」と宗近君が言う。
「女連はとにかく僕のほうが疲れた」
「君より糸公のほうがじょうぶだぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃお茶はよしにするかね」
「でも欽吾さんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなかうまいことを言う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑いをしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子で付け加える。
「お頼みなら」と簡明な答えがある。
「どうせ女には敵《かな》わない」と甲野さんは断案を下した。
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた仮り普請の入り口を跨《また》ぐと、小さい卓に椅《い》子《す》を添えてここ、かしこにならべた大広間に、三人四人ずつの群れがおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四、五十人の一座をずっと見回した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんの袂《たもと》をぐいと引いた。後ろの藤尾はすぐおやと思う。しかしぎょうさんに何事かと聞くのは不見識である。甲野さんはべつだん相図を返した様子もなく、
「あすこが空《あ》いている」とずんずん奥へはいって行く。あとを跟《つ》けながら藤尾の目は大きな部屋の隅《すみ》から隅までを残りなく腹の中へたたみ込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と言う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。後ろを見てごらん」と宗近君がまた言う。
「知っています」と言ったなり首は少しも動かなかった。黒い目が怪しい輝きを帯びて、頬の色は電気燈のもとでは少し熱すぎる。
「どこに」と何気なき糸子は、優しい肩を斜めに捩《ね》じ向けた。
入り口を左へ行き尽くして、二列めの卓を壁ぎわに近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰をおろした三人は突き当たりの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の目は、広い部屋に所択《えら》ばず散らついている群集を端から端へ貫いて、はるかへだたった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は真向きに見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋《さび》しく交じる白い糸を、顎《あご》の下に抜くも嬾《ものう》く、世のままに、人のままに、また取る年の積もるままに捨てて吹かるる憂き髯《ひげ》は小夜子の方に向いている。
「あらお連れがあるのね」と糸子は頸をもとへ返す。返すとき前に坐《すわ》っている甲野さんと目を見合わせた。甲野さんはなんにも言わない。灰《はい》皿《ざら》の上に竪《たて》に挟《はさ》んだマッチ箱の横側をしゅっと擦《す》った。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合わせのままでわかれるつもりかもしれない。
「どうだい、別《べつ》嬪《ぴん》だろう」と宗近君は糸子にからかいかける。
俯《ふ》し目《め》に卓布を眺《なが》めていた藤尾の目は見えぬ、濃い眉《まゆ》だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしいかたね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は目を上げない。
「ええ」と素《そつけ》気なく言い放つ。きわめて低い声である。答を与うるに価せぬことを聞かれたときに、――相手に合《あい》槌《づち》を打つことを屑《いさぎよし》とせざるときに――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓《ぐう》する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と巻《ま》き煙草《たばこ》の灰を皿の中にはたき落とす。
「だから僕が言ったのだ」
「なんと言ったのだい」
「なんと言ったって、忘れたかい」と宗近君も下向きになってマッチを擦《す》る。刹《せつ》那《な》に藤尾の眸《ひとみ》は宗近君の額を射た。宗近君は知らない。啣《くわ》えた巻き煙草に火を移して顔を真向きに起こしたとき、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……なにを言っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハおもしろいことがあるんだよ。糸公……」と言いかけたとき紅茶と西洋菓子がくる。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とはなんだい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒《いわれ》を」と言いながら角砂糖を茶碗の中へ抛《ほう》り込む。蟹《かに》の目のような泡《あわ》が幽《かす》かな音を立てて浮き上がる。
「そんなこと知らないわ」と糸子は匙《さじ》でぐるぐる攪《か》き回している。
「そら阿爺《おとつさん》が言ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本もだめだって」
「ホホホホそんなことおっしゃるもんですか」
「言わない? お前よっぽど物覚えがわるいね。そらこのあいだ甲野さんやなにかと晩飯を食ったとき、そう言ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生のくせに西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺《おとつさん》は西洋菓子が嫌《きら》いだよ。柿《かき》羊《よう》羹《かん》か味《み》噌《そ》松《まつ》風《かぜ》、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラの傍《そば》へ持っていくとすぐ軽《けい》蔑《べつ》されてしまう」
「そう阿爺《おとうさま》の悪《わる》口《くち》をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたってだいじょうぶですよ」
「もう叱《しか》られる気《き》遣《づか》いはないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つお上がり。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺《おとつさん》のような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗ったカステラを口いっぱいにほおばる。
「ホホホホ一人でしゃべって……」と藤尾のほうを見る。藤尾は応じない。
「藤尾はなにも食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と言ったぎりである。
甲野さんは静かに茶碗をおろして、首をこころもち藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、瞬《またた》きもせず窓を通して映る、イルミネーションの片割れを専念に見ている。兄の首はしだいに故《もと》の位地に帰る。
四人が席を立ったとき、藤尾は傍《わき》目《め》もふらず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく昂《こう》然《ぜん》として入り口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は洒《しや》落《らく》に女の肩を敲《たた》く。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚くうちは楽しみがある。女は仕合わせなものだ」とふたたび人込みへ出たとき、なにを思ったか甲野さんはまた前言を繰り返した。
驚くうちは楽しみがある! 女は仕合わせなものだ! 家《うち》へ帰って寝床へはいるまで藤尾の耳にこの二句が嘲《あざけ》りの鈴《れい》のごとく鳴った。
一二
貧乏を十七字に標《ひよう》榜《ぼう》して、馬の糞《くそ*》、馬の尿《いばり*》を得意げに咏《えい》ずる発《ほつ》句《く》というがある。芭《ば》蕉《しよう》が古池に蛙《かわず》を飛び込ますと、蕪《ぶ》村《そん》が傘《からかさ》を担《かつ》いで紅葉《もみじ》を見に行く《*》。明治になっては子規という男が脊《せき》髄《ずい》病《びよう》を煩らって糸瓜《へちま》の水を取った。貧に誇る風流は今日に至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれを卑しとする。
仙《せん》人《にん》は流《りゆう》霞《か》を餐《さん》し、朝《ちよう》〓《こう*》を吸う。詩人の食物は想像である。美しき想像に耽《ふけ》るためには余裕がなくてはならぬ。美しき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元《げん》禄《ろく》の風流とは別物である。
文明の詩は金剛石《ダイヤモンド》より成る。紫より成る。薔薇《ばら》の香《か》と、葡《ぶ》萄《どう》の酒と、琥《こ》珀《はく》の盃《さかずき》より成る。冬は斑《ふ》入《い》りの大理石を四角に組んで、漆に似たる石炭に絹《きぬ》足袋《たび》の底を煖《あたた》めるところにある。夏は氷盤に苺《いちご》を盛って、旨《あま》き血を、クリームの白きなかに溶かし込むところにある。あるときは熱帯の奇《き》蘭《らん》を見よがしに匂《にお》わする温室にある。野路や空《*》、月のなかなる花野を惜しげもなく織り込んだ綴《つづれ》の丸帯にある。唐《から》錦《にしき》小《こ》袖《そで》振《ふり》袖《そで》の擦《す》れ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本文を完《まつと》うするために金を得ねばならぬ。
詩を作るより田を作れという。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人の行ないを愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴の実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
詩人ほど金にならん商売はない。同時に詩人ほど金のいる商売もない。文明の詩人はぜひとも他《ひと》の金で詩を作り、他《ひと》の金で美的生活を送らねばならぬこととなる。小野さんがわが本領を解する藤尾に頼りたくなるのは自然の数《すう》である。あすこには中以上の恒産があると聞く。腹違いの妹を片づけるにただの箪《たん》笥《す》と長持ちで承知するような母親ではない。ことに欽吾は多病である。実の娘に婿《むこ》を取って、かかる気がないとも限らぬ。おりおりに、解いてみろと、わざとらしく結ぶ辻《つじ》占《うら》があたればいつも吉《きち》である。急《せ》いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、おのずから開くべき優《う》曇《どん》華《げ*》の未来に待ち暮らしていた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲《すもう》をとらぬ。またとれぬ男である。
天地はこの有望の青年に対して悠《ゆう》久《きゆう》であった。春は九十日の東風を限りなく得意の額に吹くように思われた。小野さんは優しい、物に逆らわぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せてきた。二十七年の長い夢と背《そびら》を向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴《てき》の墨《ぼく》汁《じゆう》にも較《くら》ぶべきほどの暗い小《ち》さい点が、明らかなる都まで押し寄せてきた。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長に極《き》めた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりと留《とど》まっている。仰ぐとぐるぐる旋転しそうに見える。ぱっと散れば白雨《ゆうだち》が一度にくる。小野さんは首を縮めて駆《か》けだしたくなる。
四、五日は孤堂先生の世話やら用事やらで甲野のほうへ足を向けることもできなかった。昨夜《ゆうべ》はできぬくふうをむりにして、旧師への義理立てに、先生と小夜子を博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一《いつ》飯《ぱん》漂《ひよう》母《ぼ》を徳とす《*》という故事を孤堂先生から教わったことさえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美しい詩人の義務である。この義務を果たして、濃《こま》やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思い出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰《かつ》好《こう》な優しい振る舞いである。ただ何事も金がなくてはできぬ。金は藤尾と結婚せねばできぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うようにできる。――小野さんは机の前でこういう論理を発明した。
小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話ができるために、はやく藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の考えに間違いはないはずだと思う。人が聞けばりっぱに弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明《めい》瞭《りよう》な男である。
ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を開けた。中からヌーボー式《*》に青い柳を染めて赤《あか》瓦《がわら》の屋根が少し見える栞《しおり》があらわれる。小野さんは左の手に栞を滑《すべ》らして、細かい活字を金縁の眼鏡《めがね》の奥から読みはじめる。五分ばかりは無事であったが、しばらくすると、いつのまにやら、黒い目はページを離れて、筋《すじ》違《かい》に日《ひ》脚《あし》の伸びた障子の桟《さん》を見つめている。――四、五日藤尾に逢《あ》わぬ、きっとなんとか思っているに違いない。ただの時なら四、五日が十日でもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身には梳《くしけず》るまも千金である。逢えば逢うたびに願いの的は近くなる。逢わねば元の君とわれにたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まる縁《えにし》はない。のみならず、魔は節穴の隙《すき》にも射《さ》す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、籠《こも》る一《ひと》夜《よ》に月は入る。等閑《なおざり》のこの四、五日に藤尾の眉《まゆ》にいかな稲妻が差しているかはゆめ測りがたい。論文を書くための勉強はむろんたいせつである。しかし藤尾は論文よりもたいせつである。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
芭《ば》蕉《しよう》布《ふ》の襖《ふすま》を開けると、押し入れの上段は夜具、下には柳《やなぎ》行《ごう》李《り》が見える。小野さんは行李の上にたたんである背広を出して手早く着換えおわる。帽子は壁に主《ぬし》を待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻《はな》緒《お》の上《うわ》草《ぞう》履《り》に、カシミヤの靴《くつ》足袋《たび》をむりに突き込んだとき、下女が来る。
「おやお出かけ。少しお待ちなさいよ」
「なんだ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「なにか用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「なんだ。冗談か」と行こうとすると、おろしたての草履が片《かた》方《かた》足を離れて、拭《ふ》き込んだ廊下をランプ部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホあんまり周章《あわて》るもんだから。お客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってたくせに空っとぼけて……」
「待ってた? なにを」
「ホホホホたいへん真《ま》面《じ》目《め》ですね」と笑いながら、返事も待たず、入り口へ引き返す。小野さんは気がかりな顔をして障子の傍《そば》に上草履を揃《そろ》えたまま廊下の突き当たりを眺めている。なにが出てくるかと思う。焦げ茶の中折れが鴨《かも》居《い》を越すほどの高い背を伸《の》して、薄暗い廊下のはずれに折り目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸《むな》開《あき》の狭いチョッキから白いシャツと白い襟《えり》がいちじるしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣装を、見栄えのせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんと落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当たりを眺めている。なにが出てくるのかと思いながら眺めている。両手をズボンの隠袋《かくし》に挿《さ》し込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこを曲がるとまっすぐです」と言う下女の声が聞こえたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下の端《はじ》にあらわれた。
海老《えび》茶《ちや》色《いろ》の緞《どん》子《す》の片側が竜《りよう》紋《もん》のところだけ異様に光線を射返して見える。在りきたりの銘《めい》仙《せん》の袷《あわせ》を、白足袋の甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲がったとき、長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》らしいものがちらと色めいた。同時に遮《さえぎ》るものもない中《なか》廊《ろう》下《か》に七歩の間隔を置いて、男《なん》女《によ》の視線はお互いの顔の上に落ちる。
男はおやと思う。姿勢だけは崩さない。女ははっとためらう。やがて頬に差す紅《くれない》を一度にかくして、乱るる笑顔を肩ともに落とす。油を注《さ》さぬ黒髪に、漣《さざなみ》の琥《こ》珀《はく》に寄る幅広の絹の色が鮮やかな翼を片《かた》鬢《びん》に張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨《あい》拶《さつ》をする。
「どちらかへお出かけで……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落とした肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえなに……まあおはいんなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ行く。
「ご免」と言いながら、手を重ねたまま擦《す》り足《あし》に廊下を滑ってくる。
男はまったく部屋の中へ引き込んだ。女もつづいてはいる。明らかなる日《ひ》永《なが》の窓は若き二人に若き対話を促す。
「昨夜はお忙しいところを……」と女は入り口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞお疲れでしたろう。どうです、ご気分は。もうすっかりいいですか」
「はあ、おかげさまで」と言う顔はなんとなく窶《やつ》れている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込みへはめったに出つけたことがないもんですから」
文明の民は驚いて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚いて怖《こわ》がるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
小夜子は返事を控えて淋《さび》しく笑った。
「先生も雑《ざつ》沓《とう》する所が嫌いでしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から目を外《はず》して、畳の上に置いてある埋もれ木の茶《ちや》托《たく》を眺める。京焼きの染《そ》め付《つ》け茶《ぢや》碗《わん》はさっきから膝《ひざ》頭《がしら》に載っている。
「ご迷惑でしたろう」と小野さんはポッケットから煙草《たばこ》入《い》れを取り出す。闇《やみ》を照らす月の色に富士と三《み》保《ほ》の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持ち物としては少しく俗である。派《は》出《で》を好む藤尾の贈り物かもしれない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願っておいて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入れを開く。裏は一面の鍍《と》金《きん》に、銀《しろかね》の冴《さ》えたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女はみごとだと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内したほうがよかったかもしれませんね」
忙しがる小野をむりに都合させて、好かぬ人込みへわざわざ出かけるのも皆《みんな》自分がかわいいからである。済まぬことには人込みは自分も嫌いである。せっかくの思いに、袖《そで》振《ふ》り交《か》わして、長閑《のどか》な歩みを、春の宵《よい》にならんで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子はなんと返事をしていいかためらった。相手の親切に気兼ねをして、先方の心持ちを悪くさせまいという世態じみた料《りよう》簡《けん》からではない。小夜子のためらったのには、もう少し切ない意味が籠《こも》っている。
「先生にはやはり京都のほうがよくはないですか」と女のためらった気《け》色《しき》をどう解釈したか、小野さんはふたたび問いかけた。
「東京へ来るまえは、しきりに早く移りたいように言ってたんですけれども、来てみるとやはり住み馴《な》れた所がいいそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心のうちではそれほど性に合わない所へなぜ出てきたのかと、自分の都合を考えて多少ばからしい気もする。
「あなたは」と聞いてみる。
小夜子はまた口《くち》籠《ごも》る。東京がいいか悪いかは、目のまえに、西洋の臭《にお》いのする煙草を燻《くゆ》らしている青年の心がけ一つで極《き》まる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いたとき、好きも嫌いもお前の舵《かじ》の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問をかけられるほど腹の立つことはないように、自分の好《こう》悪《お》を支配する人間から、素知らぬ顔ですきかきらいかと尋ねられるのは恨めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこうはきはきせぬのかと思う。
チョッキの隠袋《かくし》から時計を出して見る。
「どちらへかお出かけで」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」とうまい具合に渡し込む。
女はまた口籠る。男は少しじれったくなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思いで口を切った。
「はあ、なにかご用ですか」
「いろいろ買い物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、お閑《ひま》ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧《かん》工《こう》場《ば》ででも買ってこいともうしましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念なことで。ちょうど今から急いで出なければならないところがあるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いておいて、私が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それではお気の毒で……」
「なに構いません」
父の好意はふたたび水《すい》泡《ほう》に帰した。小夜子は悄《しよう》然《ぜん》として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ載せて手早く表へ出る。――同時に逝《ゆ》く春の舞台は回る。
紫を辛夷《こぶし》の弁《はなびら》に洗う雨重なりて、花はようやく茶に朽ちかかる縁《えん》に、干す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎《かげろう》が立つ。黒きを外に、風が嬲《なぶ》り、日が嬲り、つい今しがたは黄な蝶《ちよう》がひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締まった横顔は、後ろからさす日の影に、耳を蔽《おお》うて肩に流す鬢《びん》の影に、しっとりとして仄《ほの》かである。千《ち》筋《すじ》にぎらついて深き菫《すみれ》を一面に浴びせる肩を通り越して、向こう側はと覗《のぞ》き込むとき、眩《まばゆ》き目はしんと静まる。夕暮れにそれかと思う蓼《たで》の花の、白きを人は潜むといった。髪多く余る光を縁にこぼすこなたの影に、あるかなきかの細《ほつそ》りした顔のなかを、濃く引き残したる眉《まゆ》の尾のみがたしかである。眉の下なる切れ長の黒い目はなにを語るか分からない。藤尾は寄せ木の小机に肘《ひじ》を持たせて俯《うつ》向《む》いている。
心臓の扉《とびら》を黄金《こがね》の槌《つち》に敲《たた》いて、青春の盃《さかずき》に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背《そむ》けるものは片《かた》輪《わ》である。月傾いて山を慕い、人老いてみだりに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地《つち》には花《はな》吹雪《ふぶき》、一年を重ねて二十に至って愛の神は今が盛りである。緑濃き黒髪を婆《ば》娑《さ》とさばいて春風に織る羅《うすもの》を蜘蛛《くも》の囲《い》と五彩の軒に懸《か》けて、みずからと引きかかる男を待つ。引きかかった男は夜光の璧《たま》を迷宮に尋ねて、紫に輝く糸の十字万字に、魂を逆しまにして、後の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶《ヤ》蘇《ソ》教の牧師は救われよという。臨《りん》済《ざい》、黄《おう》檗《ばく》は悟れという。この女は迷えとのみ黒い眸《ひとみ》を動かす。迷わぬものはすべてこの女の敵《かたき》である。迷うて、苦しんで、狂うて、躍《おど》るとき、はじめて女の御意はめでたい。欄干に繊《ほそ》い手を出してわんといえという。わんといえばまたわんといえという。犬は続け様にわんという。女は片《かた》頬《ほ》に笑みを含む。犬はわんといい、わんといいながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾を逆しまにして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
石仏に愛なし、色はできぬものとはじめから覚悟を極めているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基づいて起こる。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標《ひよう》榜《ぼう》して憚《はばか》らぬものは、いかなる犠牲をも相手に逼《せま》る。相手を愛するの資格を具《そな》えざるがためである。〓《へん》たる美《び》目《もく*》に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは危ない。倩《せん》たる巧笑《*》にわが命を託するものは必ず人を殺す。藤尾は丙《ひのえ》午《うま》である。藤尾は己《おのれ》のためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在しうるやと考えたこともない。詩趣はある。道義はない。
愛の対象は玩具《おもちや》である。神聖なる玩具である。普通の玩具は弄《もてあそ》ばるるだけが能である。愛の玩具は互いに弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫《ごう》も男から弄ばるることを許さぬ。藤尾は愛の女王である。成り立つものは原則を外《はず》れた恋でなければならぬ。愛せらるることを専門にするものと、愛することのみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨《うま》い潮の満《み》ち干《ひ》きで、はたりと天地の前に行き逢《あ》ったとき、この変則の愛は成就する。
我《が》を立てて恋をするのは、火《か》事《じ》頭《ず》巾《きん》を被《かぶ》って、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてを溶かす。角《かど》張《ば》った絵《え》紙鳶《えだこ》も飴《あめ》細《ざい》工《く》であるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して三日三晩の長きに渉《わた》ってもふやける気《け》色《しき》を見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
シェイクスピアは女を評して脆《もろ》きは汝《なんじ》が名なり《*》と言った。脆きがなかに我《が》を通す昂《あが》れる恋は、炊《かし》ぎたる飯の柔らかきに御《み》影《かげ》の砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。噛《か》み締めるものにゴムの弾力がなくては無事にはゆかぬ。我《が》の強い藤尾は恋をするために我《が》のない小野さんを択《えら》んだ。蜘蛛《くも》の囲《い》にかかる油《あぶら》蝉《ぜみ》はかかっても暴《あば》れていかぬ。時によると網を破って逃げることがある。宗近君を捕るは容易である。宗近君を馴らすは藤尾といえども、困難である。我《が》の女は顎《あご》で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌《しいか》の璧《たま》を懐《ふところ》に抱《いだ》いて来る。夢にだもわれを弄ぶの意思なくして、満《まん》腔《こう》の誠を捧《ささ》げてわが玩具となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むることはつゆ知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが目に、わが眉に、わが唇《くちびる》に、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
唯《い》々《い》として来るべきはずの小野さんが四、五日見えぬ。藤尾は薄き粧《よそお》いを日ごとにして我《が》の角《かど》を鏡の裡に隠していた。その五日めの昨夕《ゆうべ》! 驚くうちは楽しみがある! 女は仕合わせなものだ! 嘲《あざけ》りの鈴《れい》はいまだに耳の底に鳴っている。小机に肘《ひじ》を持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動きもせぬ。背を縁《えん》に、顔を影なる居ずまいは、考え事に明海《あかるみ》を忌む、昔からの掟《おきて》である。
縄《なわ》なくて十《と》重《え》に括《くく》る虜《とりこ》は、捕われたるを誇り顔に、麾《さしまね》けば来たり、指《ゆびさ》せば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、きれいな葉を裏返せば毛虫がいる。思う人とならんで姿見に向かったとき、だいじょうぶ写るは君とわれのみと、神懸けて疑わぬを、見れば間違った。男はそのままの男に、寄り添うは見たこともない他人である。驚くうちは楽しみがある! 女は仕合わせなものだ!
冴《さ》えぬ白さに青味を含む憂い顔を、三五の卓を隔てて電燈の下《もと》に眺めたときは、――わが傍《かたえ》ならでは、若き美しき女に近づくまじきはずの男が、気《き》遣《づかわ》しげに、また親しげに、この人と半々にテーブルの角を回って向き合っていたときは、――撞《しゆ》木《もく》で心臓をすぽりと敲《たた》かれたような気がした。拍子に胸の血はことごとく頬に潮《さ》す。紅《くれない》はいう、赫《かつ》としてここに躍り上がると。
我《が》は猛然として立つ。その儀ならばという。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。あれどもなきがごとくに装え。昂《こう》然《ぜん》として水準以下に取り扱え。――気がついた男は面目を失うに違いない。これが復《ふく》讐《しゆう》である。
我《が》の女はいざという間ぎわまで心細い顔をせぬ。恨むというは頼る人に見替えられたときにいう。侮りに対する適当な言葉は怒りである。無念と嫉《しつ》妬《と》を交ぜ合わせた怒りである。文明の淑女は人をばかにするを第一義とする。人にばかにされるのを死に優《まさ》る不面目と思う。小野さんはたしかに淑女を辱《はずか》しめた。
愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、帰《き》依《え》の頭《こうべ》を下げながら、二《ふた》心《ごころ》の背を軽薄の街《ちまた》に向けて、なんの社の鈴を鳴らす。牛《ご》頭《ず*》、馬《ば》骨《こつ》、祭るは人のかってである。ただ小野さんはかってな神に恋のお賽《さい》銭《せん》を投げて、波か字かの辻《つじ》占《うら*》を見てはならぬ。小野さんは、この黒い目から早《さ》速《そく》に放つ、見えぬ光に、空かけて織りなした無紋の網に引きかかった餌《え》食《じき》である。外《ほか》へはやられぬ。神聖なる玩具《おもちや》として生《しよう》涯《がい》大事にせねばならぬ。
神聖とは自分一人が玩具にして、外の人には指もささせぬという意味である。昨夕《ゆうべ》から小野さんは神聖でなくなった。それのみか向こうでこっちを玩具にしているかもしれぬ。――肘《ひじ》を持たして、俯《うつむ》くままの藤尾の眉が活きてくる。
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。我《が》が愛を八つ裂きにする。面《つら》当《あ》てはいくらもある。貧乏は恋を乾《ひ》干《ぼ》しにする。富《ふう》貴《き》は恋を贅《ぜい》沢《たく》にする。功名は恋を犠牲にする。我《が》は未練な恋を踏みつける。尖《とが》る錐《きり》に自分の股《もも》を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我《が》である。自己がもっとも価ありと思うものを捨てて得意なものは我《が》である。我《が》が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠《ほふ》る。逆しまに天国を辞して奈《な》落《らく》の暗きに落つるセータン《*》の耳を切る地獄の風は我《プライド》! 我《プライド》! と叫ぶ。――藤尾は俯向きながら下唇を噛んだ。
逢わぬ四、五日は手紙でも出そうかと思っていた。昨夕《ゆうべ》帰ってからすぐ書きかけてみたが、五、六行かいたあとでなにをとずたずたに引き裂いた。決して書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば謝罪《あやまら》せる。出てこなければ? 我《が》はちょっと困った。手の届かぬところに我《が》を立てようがない。――なに来る、きっと来る、と藤尾は口のうちで言う。知らぬ小野さんははたして我《が》に引かれつつある。来つつある。
よし来ても昨夜《ゆうべ》の女のことは聞くまい。聞けばあの女を眼中に置くことになる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合い言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞こえよがしに、自分を焦《じ》らす料《りよう》簡《けん》だろう。頭を下げて聞き出しては我《が》が折れる。二人で寄ってたかって人をばかにするつもりならそれでよい。二人が仄《ほのめ》かした事実の反証を挙《あ》げて鼻をあかしてやる。
小野はどうしても詫《あやまら》せなければならぬ。つらく当たって詫せなければならぬ。同時に兄と宗近も詫せなければならぬ。小野は全然わがもので、からかい面《づら》にあてつけた二人の悪戯《いたずら》はなんの役にも立たなかった、見ろこのとおりと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫せなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字で貫こうと、洗い髪の後ろに顔を埋めて考えている。
静かな縁《えん》に足音がする。背《せい》の高い影がのっと現われた。絣《かすり》の袷《あわせ》の前が開いて、肌《はだ》につけた鼠《ねずみ》色《いろ》の毛織りのシャツが、長い三角を逆《さか》さまにして胸に映る上に、長い頸《くび》がある、長い顔がある。顔の色は蒼《あお》い。髪は渦《うず》を捲《ま》いて、二、三か月は刈らぬと見える。四、五日は櫛《くし》を入れないとも思われる。美しいのは濃い眉《まゆ》と口《くち》髭《ひげ》である。髭の質《たち》はきわめて黒く、きわめて細い。手を入れぬままに自然の趣を具《そな》えてなんとなく人柄に見える。腰は汚《よご》れた白《しろ》縮緬《ちりめん》を二重に周《まわ》して、長すぎる端《はじ》を、だらりと、猫じゃらしに、右の袂《たもと》の下で結んでいる。裾《すそ》はもとより合わない。引きかけた法衣《ころも》のようにふわついた下から黒《くろ》足袋《たび》が見える。足袋だけは新しい。嗅《か》げば紺の匂《にお》いがしそうである。古い頭に新しい足の欽吾は、世を逆さまに歩いて、ふらりと縁《えん》側《がわ》へ出た。
拭《ふ》き込んだ細かい柾《まさ》目《め》の板が、雲《うん》斎《さい》底《ぞこ*》の影を写すほどに、軽く足音を受けたときに、藤尾の背中に背負った黒い髪はさらりと動いた。とたんに縁に落ちた紺足袋が女の目にはいる。足袋の主は見なくても知れている。
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声は後ろでする。雨戸の溝《みぞ》をすっくと仕切った栂《つが》の柱を背に、欽吾は留まったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗い髪を見下ろした。
「なんです」と言いなり女は、顔を向け直した。赤棟蛇《やまかがし》の首を擡《もた》げた時のようである。黒い髪に陽炎《かげろう》を砕く。
男は、目さえ動かさない。蒼《あお》い顔で見下ろしている。向き直った女の額をじっと見下ろしている。
「昨夜《ゆうべ》はおもしろかったかい」
女は答えるまえに熱い団《だん》子《ご》をぐいと嚥《の》み下した。
「ええ」ときわめて冷淡な挨《あい》拶《さつ》をする。
「それはよかった」と落ちつき払って言う。
女は急《せ》いてくる。勝ち気な女は受け太刀だなと気がつけば、すぐ急いてくる。相手が落ちついていればなお急いてくる。汗を流して斬《き》り込むならまだしも、斬り込んでおきながら悠《ゆう》々《ゆう》として柱に倚《よ》って人を見下ろしているのは、酒を飲みつつ胡坐《あぐら》をかいて追《お》い剥《は》ぎをすると同様、ちと虫がよすぎる。
「驚くうちは楽しみがあるんでしょう」
女は逆《さか》に寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下ろしている。意味が通じた気《け》色《しき》さえ見えぬ。欽吾の日記にいう。――ある人は十銭をもって一円の十分《じうぶ》一《いち》と解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人によって高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾のあいだにはこれだけの差がある。段が違うものが喧《けん》嘩《か》をすると妙な現象が起こる。
姿勢を変えるさえ嬾《ものう》く見えた男はただ、
「そうさ」と言ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚けないから楽しみがないでしょう」
「楽しみ?」と聞いた。楽しみの意味が分かってるのかと言わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて言う。
「楽しみはそうないさ。その代わり安心だ」
「なぜ」
「楽しみのないものは自殺する気《き》遣《づか》いがない」
藤尾には兄のいうことがまるで分からない。蒼い顔は依然として見下ろしている。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「お前のように楽しみの多いものは危ないよ」
藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分かったかとやはり見下ろしている。何事とも知らず「エジプトの御《み》代《よ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」という句を明らかに思い出す。
「小野は相変わらず来るかい」
藤尾の目は火打ち石を金《かな》槌《づち》の先で敲《たた》いたような火花を射る。構わぬ兄は
「来ないかい」と言う。
藤尾はぎりぎりと歯を噛《か》んだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱に倚《よ》っている。
「兄さん」
「なんだい」とまた見下ろす。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分私が預かっておきます」
「当分お前が預かる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げるときには私から上げます」
「お前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ目を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と寄せ木の机に凭《もた》せた肘《ひじ》を跳《は》ねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、木賊《とくさ*》と海老《えび》茶《ちや》の棒《ぼう》縞《じま》が、棒のごとく揃《そろ》って立ち上がる。裾だけが四《よ》色《いろ》の波のうねりを打って白足袋の鞐《こはぜ》を隠す。
「そうか」
と兄は雲斎底の踵《かかと》を見せて、向こうへ行ってしまった。
甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消えるあいだに、小野さんは近づいてくる。いくたびの降る雨に、土に籠《こも》る青味を蒸し返して、湿りながらに暖かき大地を踏んで近づいてくる。磨《みが》き上げた山羊《やぎ》の皮に被《かむ》る埃《ほこり》さえ目につかぬほどのきれいな靴《くつ》を、刻み足に運ばして甲野家の門に近づいてくる。
世を投げ遣《や》りのだらりとした姿の上に、義理に着る羽織の紐《ひも》を丸打ちに結んで、細い杖《つえ》に本《ほん》来《らい》空《くう》の手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》を紛らす甲野さんと、近づいてくる小野さんは塀《へい》の側《そば》でぱたりと逢った。自然は対象を好む。
「どこへ」と小野さんは帽を手に懸《か》けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受け応えがあった。そのままステッキは動かなくなる。本来はステッキさえ手持ち無沙汰なものである。
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんはすなおに相手を通す気である。小野さんは躊《ちゆう》躇《ちよ》する。
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないという態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分からない。僕がこの杖を引っ張り回すように、なにかが僕を引っ張り回すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね――散歩?」と下から覗《のぞ》き込んだ。
「ええ、まあ……いい天気だね」
「いい天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――昨夕《ゆうべ》見た」
「昨夕行ったって?」と小野さんの目は一時に坐《すわ》る。
「ああ」
小野さんはああの後からなにか出て来るだろうと思って、控えている。時鳥《ほととぎす》は一声で雲にはいったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いてみる。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたして連れがあった。小野さんはもう少し進んでみなければ済まないようになる。
「そうかい、きれいだったろう」とまず繋《つな》ぎに出しておいて、そのうちに次の問いを考えることにする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答えをしてしまう。こっちは考えのまとまらないうち、すぐなんとか付けなければならぬ。はじめは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬまえにいや「何時ごろ?」のほうが便宜ではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようかしら、そうしたら先方の答え次第で万事が明《めい》瞭《りよう》になる。しかしそれもいらぬことだ。――小野さんは胸の上、咽喉《のど》の奥でしばらく押し問答をする。そのあいだに甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。その相《あい》図《ず》をちらりと見て取った甲野さんはもうだめだ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪《つめ》の垢《あか》ほど先《せん》を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では翻すことのできぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが言う。催促されるような気持がする。運命が左へと指《さし》図《ず》をしたらしく感じたとき、後ろから押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから遠《とお》退《の》いた。一歩門へ近寄った小野さんの靴《くつ》は同時に一歩杖に牽《ひ》かれて故《もと》へ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。われらの魂は時あって靴の踵に宿り、時あって杖の先に潜む。魂を描くことを知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
一歩の空間を行き尽くした靴は、光る頭《こうべ》を回《めぐ》らして、棄《す》て身《み》に細い体《からだ》を大地に託した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夜《ゆうべ》いっしょに行ったのかい」
棒のごとくまっすぐに立ち上がった杖は答える。
「ああ藤尾も行った。――ことによると今日は下読みができていないかもしれない」
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾き、傾くと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥《どろ》を心持ちわるく被《かぶ》ったまま、遠慮がちに門内の砂利を踏んで玄関にかかる。
小野さんが玄関にかかると同時に、藤尾は縁《えん》の柱に倚《よ》りながら、席に返らぬ爪《つま》先《さき》を、雨戸引く溝《みぞ》の上に翳《かざ》して、手広く囲い込んだ庭の面《おもて》を眺《なが》めている。藤尾が縁の柱に倚りかかるよほどまえから、謎《なぞ》の女は立て切った一間のうちで、鳴る鉄《てつ》瓶《びん》を相手に、行く春の行き尽くさぬまを、根《こん》限り考えている。
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の考えは、すべてこの一句から出立する。この一句を布《ふ》衍《えん》すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観ができる。謎の女は毎日鉄瓶の音《ね》を聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは閑《ひま》のある人に限る。謎の女は絹《きぬ》布《ぶ》団《とん》の上でその日その日を送る果報な身分である。
居ずまいは心を正す。端《たん》然《ねん》と恋に焦がれたもう雛《ひいな*》は、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
老いて夫なきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細いうえに忌まわしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬ掟《おきて》は忌まわしいのみか情けない。謎の女はみずから情けない不幸の人と信じている。
他人でも合わぬとは限らぬ。醤《しよう》油《ゆ》と味《み》淋《りん》は昔から交じっている。しかし酒と煙草《たばこ》をいっしょに呑《の》めば咳《せき》が出る。親の器《うつわ》の方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日を経《ふ》れば日を重ねて隔たりの関ができる。このごろは江戸の敵《かたき》に長崎で巡《めぐ》り逢ったような心持ちがする。学問は立身出世の道具である。親の機《き》嫌《げん》に逆らって、師走《しわす》正月の拍子をはずすための修業ではあるまい。金をかけてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。嗣子としては不都合と思う。こんなものに死に水を取ってもらう気もないし、また取るほどの働きのあるはずがない。
さいわいと藤尾がいる。冬を凌《しの》ぐ女《め》竹《だけ》の、吹き寄せて夜を積もる粉雪をぴんと撥《は》ねる力もある。十《じゆう》目《もく》を街頭に集むる春の姿に、蝶《ちよう》を縫い花を浮かした派《は》手《で》な衣装も着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、焦《じ》らしてこそ、育て上げた母の面目は揚がる。海鼠《なまこ》の氷ったような《*》他人にかかるよりは、羨《うらやま》しがられて華麗《はなやか》に暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。
蘭《らん》は幽谷に生じ、剣は烈士に帰す。美しき娘には、名ある婿を取らねばならぬ。申し込みはたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰《もら》っても捨てるばかりである。大きすぎても小さすぎても婿にはできぬ。したがって婿は今日までできずにいた。燦《さん》として群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんはたいへん学問のできる人だという。恩賜の時計を頂いたという。もう少したつと博士になるという。のみならず愛《あい》嬌《きよう》があって親切である。上品で調子がいい。藤尾の婿として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持ちがよかろう。
小野さんは申し分のない婿である。ただ財産がないのが欠点である。しかし婿の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が利《き》かぬ。無一文の其《それがし》を入れて、おとなしく嫁《よめ》姑《しゆうとめ》を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困ることはその財産である。夫が外国で死んだ四か月後の今日は当然欽吾の所有に帰してしまった。魂胆はここから始まる。
欽吾は一文の財産もいらぬという。家も藤尾に遣るという。義理の着物を脱いで便利の赤裸《はだか》になれるものなら、降って湧《わ》いた温泉へ得たり賢しと飛び込む気にもなる。しかし体《てい》裁《さい》に着る衣装はそう無《む》雑《ぞう》作《さ》に剥《は》ぎ取れるものではない。降りそうだから傘《かさ》をやろうと投げ出したとき、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、みすみすくれる人が濡《ぬ》れるのを構わずにわがままな手を出すのは人の思わくもある。そこに謎ができる。くれるというのは本気でいう嘘《うそ》で、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申し訳にすぎない。欽吾の財産を欽吾のほうからむりに藤尾に譲るのを、いやいやながら受け取った顔つきに、文明の手前を繕わねばならぬ。そこで謎が解ける。くれるというのを、くれたくない意味と解いて、貰う料簡で貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものをあくまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見のできぬ方法である。謎の女が苦し紛れの屈託顔に六畳敷を出たのは、じれったいが高じて、布《ふ》団《とん》の上に坐《い》たたまれないからである。出て見ると春の日は存外長閑《のどか》で、平気に鬢《びん》を嬲《なぶ》る温風はいやに人をばかにする。謎の女はいよいよ気色が悪くなった。
縁《えん》を左に突き当たれば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右は鍵《かぎ》の手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
菱《ひし》餅《もち》の底を渡る気でまっすぐな向こう角を見ると藤尾が立っている。濡《ぬ》れ色《いろ》に捌《さば》いた濃き鬢のあたりを、栂《つが》の柱に圧《お》しつけて、斜めにもたした艶な姿の中ほどに、帯深く差し込んだ手《て》頸《くび》だけが白く見える。萩《はぎ》に伏し薄《すすき》に靡《なび》く故《ふる》里《さと*》を流離《さすらい》人《びと》はこんなふうに眺めることがある。故里を離れぬ藤尾はなにを眺めているのか分からない。母は縁を曲がって近寄った。
「なにを考えているの」
「おや、御母《おつか》さん」と斜めな身体《からだ》を柱から離す。振り返った目つきには愁《うれ》いの影さえもない。我《が》の女と謎の女は互いに顔を見合わした。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が言う。
「なぜ」と我《が》が聞き返す。
「だって、なんだか考え込んでいるからさ」
「なんにも考えていやしません。庭の景《け》色《しき》を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の緋《ひ》鯉《ごい》が跳《は》ねますよ」と我《が》はあくまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりという音がした。
「おやおや。――御母さんの部屋では少しも聞こえないよ」
聞こえないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我《が》のほうで意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう蓮《はす》の葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今はじめて」と謎が言う。謎ばかり考えているものは迂《う》闊《かつ》である。欽吾と藤尾のことを引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳《かや》をたたんで蔵へ入れる。それから蟋蟀《こおろぎ》が鳴く。時雨《しぐれ》れる。木枯らしが吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変わってしまう。それでも謎の女は一つ所に坐って謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂闊だなどとは夢にも考えない。
緋鯉がぽちゃりとまた跳ねる。薄濁りのする水に、泥は沈んで、上《うわ》皮《かわ》だけは軽く温《ぬる》む底から、朦《もう》朧《ろう》と朱《あか》い影が静かな土を動かして、浮いてくる。滑《なめ》らかな波にきらりと射《さ》す日影を崩《くず》さぬほどに、尾を揺《ゆ》っているかと思うと、思い切ってぽんと水を敲《たた》いて飛びあがる。一面に揚がる泥の濃きうちに、幽《かす》かなる朱いものが影を潜めて行く。温《ぬる》い水を背に押し分けて去る痕《あと》は、一筋のうねりを見せて、去年の蘆《あし》を風なきに嬲《なぶ》る。甲野さんの日記には鳥入雲無迹《とりいつてくもにあとなく》、魚行水有紋《うおゆいてみずにもんあり》という一聯《れん》が律にも絶句にもならず、そのまま楷《かい》書《しよ》でかいてある。春光は天地を蔽《おお》わず、任意に人の心を悦《よろこ》ばしむ。ただ謎の女には幸いせぬ。
「なんだって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂といえば双方とも酔狂である。藤尾はなんとも答えなかった。
浮き立ての蓮の葉を称して支《し》那《な》の詩人は青《せい》銭《せん》を畳《たた》む《*》といった。銭のような重い感じはむろんない。しかし水ぎわにはじめて昨日、今日の嫩《わか》い命を託して、娑《しや》婆《ば》の風に薄い顔を曝《さら》すうちは銭のごとく細かである。色もまったく青いとはいえぬ。美《み》濃《の》紙《がみ》の薄きにすぎて、重苦しと碧《みどり》を厭《いと》う柔らかき茶に、日ごとに冒す緑《ろく》青《しよう》を交ぜた葉の上には、鯉の躍《おど》った、春の名残りが、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ珠《たま》となって転がっている。――答えをせぬ藤尾はただ眼前の景色を眺める。鯉はまた躍った。
母は無意味に池の上を〓《みつめ》ていたが、やがて気を換えて
「近ごろ、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いてみる。
藤尾はきっと向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見たうえで、澄ましてまた庭の方へ眸《ひとみ》を反《そ》らす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮き葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、なんとかいってきそうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は疳《かん》走《ばし》るほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
清《きよ》水《みず》の舞台から飛び降りたような語勢は鼻の先でふふんと留まった。母はまたおやと思う。
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」と余所《よそ》事《ごと》のように言う。
「お前《まい》――あの人と喧《けん》嘩《か》でもしたのかい」
「小野さんに喧嘩ができるもんですか」
「そうさ、ただ教えてもらやしまいし、相当の礼をしているんだから」
謎の女にはこれより以上の解釈はできないのである。藤尾は返事を見合わせた。
昨夕《ゆうべ》のことを打ち明けてこれこれであったと話してしまえばそれまでである。母はむろん躍起になって、こっちに同情するに違いない。打ち明けて都合が悪いとはつゆ思わぬが、進んで同情を求めるのは、餓《う》えに逼《せま》って、知らぬ人の門口に、一銭二銭の憐れみを乞《こ》うのと大した相違はない。同情は我《が》の敵である。昨日まで舞台に躍る操《あやつ》り人《にん》形《ぎよう》のように、物言うも嬾《ものう》きわが小指の先で、意のごとく立たしたり、寝《ね》かしたり、はては笑わしたり、焦《じ》らしたり、どぎまぎさして、おもしろく興じていた手柄顔を、母もあっぱれと、うごめかす鼻の先に、得意の見栄をぴくつかせていたものを、――あれは、ほんの表向きで、内実の昨夕を見たら、招く薄《すすき》は向こうへ靡《なび》く。知らぬ顔の美しい人と、睦《むつま》じくお茶を飲んでいたと、心外な蓋《ふた》をとれば、母の手前で器量が下がる。我《が》が承知ができぬという。外《そ》れた鷹《たか》なら見《み》限《き》りをつけてもういらぬと話す。あとを跟《つ》けて鼻を鳴らさぬような犬ならば打ち遣った後で、捨ててきたと公言する。小野さんの不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰るかもしれない。いや帰るに違いないと、小夜子と自分を比較した我《が》が証言してくれる。帰って来たときに辛《から》い目《め》に逢《あ》わせる。辛い目に逢わせた後で、立たしたり、寝かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさしたりする。そうして、おもしろそうな手柄顔を、母に見せれば母への面目は立つ。兄と一《はじめ》に見せれば、両人《ふたり》への意趣返しになる。――それまでは話すまい。藤尾は返事を見合わせた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に失った。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問をかける。鯉は躍る、蓮は芽を吹く、芝《しば》生《ふ》はしだいに青くなる、辛夷《こぶし》は朽ちた。謎の女はそんなことに頓《とん》着《じやく》はない。日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書斎におればなにをしているかと思い、考えておればなにを考えているかと思い、藤尾のところへ来れば、どんな話をしに来たのかと思う。欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断はできぬ。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見するとともに謎の女は神経衰弱に罹《かか》った。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を濫《らん》用《よう》すると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困りきりますという。感染したものこそいい迷惑である。困りきるのはどっちの言い分か分からない。ただ謎の女のほうでは、あくまでも欽吾に困りきっている。
「さっき欽吾が来やしないか」と言う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変わらずですわ」
「あれにも、ほんとうに……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切ったとき、八の字は見る見る深くなった。
「なんでも奥歯に物の挟《はさ》まったような皮肉ばかりいうんですよ」
「皮肉ならいいけれども、ときどき気の知れない囈語《ねごと》をいうにゃ困るじゃないか。なんでもこのごろは様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だかなんだか知らないけれども。――さっきなにかいったかい」
「ええまた時計のことを……」
「返せっていうのかい。一に遣《や》ろうが遣るまいがよけいなお世話じゃないか」
「今どっかへ出かけたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
対話がここまで進んだとき、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
縁《えん》側《がわ》を曲がって母の影が障子のうちに消えたとき、小野さんは内《ない》玄《げん》関《かん》の方から、茶の間の横を通って、次の六畳を、廊下へ回らず抜けて来る。
磬《けい*》を打って入《にゆう》室《しつ》相《しよう》見《けん*》のとき、足音を聞いただけで、公案のくふうができたか、できないか、手に取るようにわかるものじゃといった和尚《おしよう》がある。気の引けるときは歩き方にも現われる。獣にさえ屠《と》所《しよ》のあゆみという諺《ことわざ》がある。参禅の衲《のう》子《し*》に限った現象とは認められぬ。応用は才人小野さんのうえにも利く。小野さんは常から世の中に気がねをしすぎる。今日はひとしお変である。落人《おちうど》は戦《そよ》ぐ芒《すすき》に安からず、小野さんは軽く踏む青畳に、そと落とす靴《くつ》足袋《たび》の黒き爪《つま》先《さき》に憚《はばか》りの気を置いてはいってきた。
一睛を暗所に点ぜず《*》、藤尾は目を上げなかった。ただ畳に落とす靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬさきから、もう舐《な》められている。
「今日は……」と坐りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真《ま》面《じ》目《め》な顔をして、はじめて相手をまともに見る。見られた小野さんの眸《ひとみ》はぐらついた。
「ご無《ぶ》沙《さ》汰《た》をしました」とすぐ言い訳を添える。
「いいえ」と女は遮《さえぎ》った。ただしそれぎりである。
男は出鼻を挫《くじ》かれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静かである。
「だいぶ暖《あつた》かになりました」
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、後は故《もと》のごとく静かになる。ところへ鯉がぽちゃりとまた跳ねる。池は東側で、小野さんの背中に当たる。小野さんはちょっと振り向いて鯉がといおうとして、女の方を見ると、相手の目は南側の辛夷《こぶし》に注《つ》いている。――壺《つぼ》のごとく長い弁《はなびら》から、濃い紫が春を追うて抜け出した後は、残骸《なきがら》の空《むな》しき茶の汚染《しみ》を皺《しわ》立《だ》てて、あるものはぽきりと絶えた萼《うてな》のみあらわである。
鯉がといおうとした小野さんはまたやめた。女の顔はまえよりも寄りつけない。――女はご無沙汰をした男から、ご無沙汰をした訳をいわせる気で、ただいいえと受けた。男はしまったと心得て、だいぶ暖かになりましたと気を換えてみたが、それでも験《げん》が見えぬので、鯉がのほうへ移ろうとしたのである。男は踏み留まれるところまで滑《すべ》って行く気で、気を揉《も》んでいるのに、女は依然として故《もと》の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
四、五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。昨夕《ゆうべ》博覧会で見つかったなら少しめんどうである。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶え間なく入れ代わるうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌《はだ》を脱いで汚《むさ》い腫《しゆ》物《もつ》を知らぬ人の鼻の前《さき》に臭《にお》わせると同じことになる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵《きず》とはいわせぬ。今《こ》宵《よい》かぎりの朧《おぼろ》だものと、即興にそそのかされて、他《た》生《しよう》の縁の袖《そで》と袂《たもと》を、今宵かぎり擦《す》り合わせて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を埋《うず》めて、あかの他人と化けてしまう。それならばさしつかえない。進んでこうと話もする。残念なことには、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなくならべられた二つの石の引っつくような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年《とし》月《つき》を、向こうでは離れじと、日の間《ま》とも夜《よ》の間《ま》ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き縁《えにし》の色に《*》、細くともこれまで繋《つな》ぎ留められた仲である。
ただの女と言い切れば済まぬこともない。その代わり、人も嫌《きら》い自分も好かぬ嘘《うそ》となる。嘘は河豚《ふぐ》汁《じる》である。その場かぎりで祟《たた》りがなければこれほどうまいものはない。しかし中毒《あたつ》たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。そのうえ嘘は実を手繰り寄せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便りもあるに、隠そうとする身繕い、名繕い、さては素性繕いに、疑いの眸《ひとみ》が征《そ》矢《や》はてっきり的と集まりやすい。繕いは綻《ほころ》びるを持ち前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見たことかと、現われた時こそ、身の〓《さび》は生《しよう》涯《がい》洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者である。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思いの糸に括《くく》られているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新しい血に通うこのごろの恋の脈が、調子を合わせて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手《て》頸《くび》に暖かく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と不知《しら》を切る当座の嘘は吐《つ》きたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子のことは名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
「昨夕《ゆうべ》博覧会へお出でに……」とまで思い切った小野さんは、お出でになりましたかにしようか、お出でになったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
迷っている男の鼻《はな》面《づら》を掠《かす》めて、黒い影がさっと横切って過ぎた。男はあっと思うまに先《せん》を越されてしまう。仕方がないから、
「きれいでしたろう」とつける。きれいでしたろうは詩人としてあまりに平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「きれいでした」と女はきっぱり受け留める。後から
「人間もだいぶきれいでした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当がつきかねるので
「そうでしたか」と言った。当たり障《さわ》りのない答えはたいていの場合において愚な答えである。弱身のあるときは、いかなる詩人も愚をもってみずから甘んじる。
「きれいな人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭く繰り返した。なんとなく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を緘《つぐ》んだ。女も留まったまま動かない。まだ白状しない気かという目つきをして小野さんを見ている。宗《むね》盛《もり》という人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったという。利害を重んずる文明の民が、そう軽率に自分の損になることを陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静を審《つまび》らかにする必要がある。
「だれかお伴《つれ》がありましたか」と何気なく聴《き》いてみる。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門のところで甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃるくせに、なんでお尋ねになるの」と女はつんと拗《す》ねた。
「いえ、別にお伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄のほかにですか」
「ええ」
「兄に聞いてごらんになればいいのに」
機《き》嫌《げん》は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか渦《うず》の中を漕《こ》ぎ抜けられそうだ。向こうの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつのまにやら平《ひら》地《ち》へ出ることがある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、はやく上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その隙《すき》に
「そんなに忙しいものが、なんで四、五日無届け欠席をしたんです」と飛んできた。
「いえ、四、五日たいへん忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も?」と女は肩を後ろへ引く。長い髪が一筋ごとに活《い》きているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分からないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに疳《かん》高《だか》く笑う。女は自由自在に笑うことができる。男は茫《ぼう》然《ぜん》としている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」
と言って、両手をおとなしく膝《ひざ》の上に重ねた。燦《さん》たる金剛石《ダイヤモンド》がぎらりと痛く、小野さんの目に飛び込んでくる。小野さんは竹篦《しつぺい》でぴしゃりと頬辺《ほつぺた》を叩《たた》かれた。同時に頭の底で見られたという音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄ました顔でたたみかける。男の陣立ては総《そう》崩《くず》れとなる。
「実は一週間前に京都から故《もと》の先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃお忙しいわけね。そうですか。そうとも知らずに、とんだ失礼を申しまして」と嘯《うそぶ》きながら頭を低《た》れた。緑の髪がまた動く。
「京都におったとき、たいへん世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にしてあげたら。――私はね。昨夕《ゆうべ》兄と一さんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の辺《ふち》に亀《かめ》屋《や*》の出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで皆《みんな》してお茶を飲んだんです」
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついたふうを、あくまでも粧《よそお》う。
「たいへんおいしいお茶でしたこと。あなた、まだおはいりになったことはないの」
小野さんは黙っている。
「まだおはいりにならないなら、今《こん》度《だ》ぜひその京都の先生をご案内なさい。私もまた一さんに連れていってもらうつもりですから」
藤尾は一さんという名前を妙に響かした。
春の影は傾《かたぶ》く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカ《*》の置き時計が絶えざる対話をこの一句にちんと切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その夜の夢に藤尾は、驚くうちは楽しみがある! 女は仕合わせなものだ! という嘲《あざけ》りの鈴《れい》を聴かなかった。
一三
太い角柱を二本立てて門という。扉《とびら》はあるかないか分からない。夜中郵便と書いて板《いた》塀《べい》に穴があいているところを見ると夜は締まりをするらしい。正面に芝《しば》生《ふ》を土《ど》饅《まん》頭《じゆう》に盛り上げて市《いち》を遮《さえぎ》る翠《みどり》を傘《からかさ》と張る松の格《かた》のごとく植える。松を回れば、弧線を描いて、頭の上に合う玄関の廂《ひさし》に、浮き彫りの波が見える。障子はあけ放ったままである。呑《のん》気《き》な白《しろ》襖《ぶすま》に舞楽の面《めん》ほどな草体を、大《たい》雅《が》堂《どう*》流《りゆう》の筆勢で、無残に書き散らして、座敷との仕切りとする。
甲野さんは玄関を右に切れて、下《げ》駄《た》箱《ばこ》の透いて見える格子をそろりと明けた。細い杖《つえ》の先で合土《たたき》の上をこちこち叩《たた》いて立っている。頼むともなんとも言わぬ。むろん応ずるものはない。屋敷のなかは人の住む気《け》合《わ》いも見えぬほどにしんとしている。門前を通る車のほうがかえって賑《にぎ》やかに聞こえる。細い杖の先がこちこち鳴る。
やがて静かなうちで、すうと唐《から》紙《かみ》があく音がする。清《きよ》や清やと下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は勝手の方に近づいて来た。杖の先はこちこちという。足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。糸子と甲野さんは顔を見合わせて立った。
下女もおり書生も置く身は、気軽く構えてもめったに取り次ぎに出ることはない。出ようと思うまに、立てかけた膝《ひざ》をおろして、一針でも二針でも縫い糸が先へ出るが常である。重たき琵《び》琶《わ》の抱き心地《*》という永い昼が、永きに堪えず崩れんとするを、鳴く〓《あぶ》にうっとりと夢を支《ささ》えて、清を呼べば、清は裏へでも行ったらしい。からりとした勝手には茶《ちや》釜《がま》ばかりが静かに光っている。黒田さんは例のごとく、書生部屋で、坊主頭を腕の中に埋めて、机の上に猫《ねこ》のように寝《ね》ているだろう。立ち退《の》いた空《あき》屋《や》敷《しき》とも思わるるなかに、内玄関でこちこち音がする。はてなと何気なく障子をあけると――広い世界にたった一人の甲野さんが立っている。格子から差す戸外《そと》の日影を背に受けて、薄暗く高い身を、合土の真ん中に動かしもせず、しきりに杖を鳴らしている。
「あら」
同時に杖の音《ね》はとまる。甲野さんは帽の廂《ひさし》の下から女の顔を久しぶりのように見た。女は急に目をはずして、細い杖の先を眺める。杖の先から熱いものが上って、顔がぽうとほてる。油を抜いて、なすがままにふくらました髪を、落とすがごとく前に、糸子は腰を折った。
「お出で?」と甲野さんは言葉の尻《しり》を上げて簡単に聞く。
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない二《ふた》重《え》瞼《まぶち》に愛《あい》嬌《きよう》の波が寄った。
「おるすですか。――阿爺《おとつ》さんは」
「父は謡《うたい》の会で朝から出ました」
「そう」と男は長い体躯《からだ》を、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、おはいり、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁にものを言う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を後へ引いた。着物はあらい縞《しま》の銘《めい》仙《せん》である。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。後ろから掠《かす》めてくる日影に、蒼《あお》い頬《ほお》が、気のせいか、昨日より少し瘠《こ》けたようだ。
「散歩でしょう」と女は頸を傾けて言う。
「私も今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは粗《あら》柾《まさ》の俎《まないた》下《げ》駄《た》を脱いで座敷へ上がる。
長押作《なげしづく》りの重い釘《くぎ》隠《かく》しを打って、動かぬ春の床には、常《つね》信《のぶ*》の雲《うん》竜《りゆう》の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角《かく》に取り巻く紋《もん》緞《どん》子《す》の藍《あい》に、寂《さ》びたる時代は、象《ぞう》牙《げ》の軸さえも落ちついてくる。唐《から》獅《じ》子《し》を青磁に鋳る、口ばかりなる香炉を、どっかと据えた尺余の卓は、木理《はだ》に光沢《つや》ある膏《あぶら》を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡《ご》麻《ま》濃《こま》やかな紫《し》檀《たん》である。
縁《えん》に遅日多し、世をひたすらに寒がる人は、端近く絣《かすり》の前を合わせる。乱菊に襟《えり》晴れがましきを豊かなる顎《あご》に圧しつけて、面と向かう障子の明らかなるを眩《まばゆ》く思う女は入り口に控える。八畳の座敷は眇《びよう》たる二人を離れ離れに容《い》れて広すぎる。間は六尺もある。
忽《こつ》然《ぜん》として黒田さんが現われた。小《こ》倉《くら》の襞《ひだ》をあくまで潰《つぶ》した袴《はかま》の裾《すそ》から赭《あか》黒《ぐろ》い足をにょきにょきと運ばして、茶を持ってくる。煙草《たばこ》盆《ぼん》を持ってくる。菓《か》子《し》鉢《ばち》を持ってくる。六尺の距離は格《かた》のごとく埋められて、主客の位地はかろうじて、接待の道具で繋《つな》がれる。忽然として午睡の夢から起きた黒田さんは器械的に縁《えにし》の糸を二人の間に渡したまま、朦《もう》朧《ろう》たる精神を毬《いが》栗《ぐり》頭《あたま》の中に封じ込めて、ふたたび書生部屋へ引き下がる。あとは故《もと》の空屋敷となる。
「昨夕《ゆうべ》は、どうでした。疲れましたろう」
「いいえ」
「疲れない? 私よりじょうぶだね」と甲野さんは少し笑いかけた。
「だって、往《ゆき》復《かえり》とも電車ですもの」
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでもないですか」
糸子は丸い頬に片《かた》靨《えくぼ》を見せたばかりである。返事はしなかった。
「おもしろかったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「なにがおもしろかったですか。イルミネーションですか」
「ええ、イルミネーションもおもしろかったけれども……」
「イルミネーションのほかになにかおもしろいものがあったんですか」
「ええ」
「なにが」
「でもおかしいわ」と首を傾《かた》げて愛らしく笑っている。要領を得ぬ甲野さんもなんとなく笑いたくなる。
「なんですかそのおもしろかったものは」
「言ってみましょうか」
「言ってごらんなさい」
「あの、皆《みんな》してお茶を飲んだでしょう」
「ええ、あのお茶がおもしろかったんですか」
「お茶じゃないんです。お茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」
「あの時小野さんがいらしったでしょう」
「ええ、いました」
「美しいかたを連れていらしったでしょう」
「美しい? そう。若い人といっしょのようでしたね」
「あのかたをご存じでしょう」
「いいえ、知らない」
「あら。だって兄がそう言いましたわ」
「そりゃ顔を知ってるという意味なんでしょう。話をしたことは一遍もありません」
「でも知っていらっしゃるでしょう」
「ハハハハ。どうしても知ってなければならないんですか。実は逢《あ》ったことは何遍もあります」
「だから、そう言ったんですわ」
「だからなんと」
「おもしろかったって」
「なぜ」
「なぜでも」
二《ふた》重《え》瞼《まぶた》に寄る波は、寄りては崩れ、崩れては寄り、黒い眸《ひとみ》を、見よがしに弄《もてあそ》ぶ。繁《しげ》き若葉を洩《も》る日影の、錯落と大地に舗《し》くを、風は枝頭を揺《うご》かして、ちらつく苔《こけ》のさだかならぬようである。甲野さんは糸子の顔を見たまま、なぜの説明を求めなかった。糸子も進んでなぜの訳を話さなかった。なぜは愛嬌のうちに溺《おぼ》れて、要領を得《う》るまえに、行方《ゆくえ》を隠してしまった。
塗り立てて瓢《ひよう》箪《たん》形《なり》の池浅く、焙《ほう》烙《ろく》に熬《い》る玉子の黄味に、朝夕を楽しく暮らす金魚の世は、尾を振り立てて藻《も》に潜《もぐ》るとも、起《た》つ波に身を攫《さらわ》るる憂いはない。鳴《なる》戸《と》を抜ける鯛《たい》の骨は潮に揉《も》まれて年々に硬《かた》くなる。荒海の下は地獄へ底抜けの、行くも帰るも徒《いたづら》事《ごと》では通れない。ただ広《ひろ》海《うみ》の荒《あら》魚《うお》も、三つ尾の丸っ子《*》も、同じ箱に入れられれば、水族館に隣り合わせの友となる。隔たりの関は見えぬが、仕切るガラスは透き通りながら、突き抜けようとすれば鼻《はな》頭《づら》を痛めるばかりである。海を知らぬ糸子に、海の話はできぬ。甲野さんはしばらく瓢箪形に応対をしている。
「あの女はそんなに美人でしょうかね」
「私は美しいと思いますわ」
「そうかな」と甲野さんは縁《えん》側《がわ》の方を見た。野《の》面《づら》の御《み》影《かげ》に、乾かぬ露が降りて、いつまでもしっとりと眺められる径《わたし》二尺の、縁《ふち》を択《えら》んで、鷺《さぎ》草《そう》とも菫《すみれ》とも片づかぬ花が、数を乏しく、行く春を偸《ぬす》んで、ひそかに咲いている。
「美しい花が咲いている」
「どこに」
糸子の目には正面の赤松と根方にあしらった熊《くま》笹《ざさ》が見えるのみである。
「どこに」と暖かい顎《あご》を延ばして向こうを眺める。
「あすこに。――そこからは見えない」
糸子は少し腰を上げた。長い袖《そで》をふらつかせながら、二、三歩膝《ひざ》頭《がしら》で縁に近く擦《す》り寄ってくる。二人の距離が鼻の先と逼《せま》るとともに微《かす》かな花は見えた。
「あら」と女は留まる。
「きれいでしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分からない」
「やっぱり桃や桜のほうがきれいでいいのね」
甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐《あわ》れな花だ」と言った。糸子は黙っている。
「昨夜《ゆうべ》の女のような花だ」と甲野さんは重ねた。
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い目を翻してじっと女の顔を見ていたが、やがて、
「あなたは気楽でいい」と真《ま》面《じ》目《め》に言う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
賞《ほ》められたのか、腐されたのか分からない。気楽か気楽でないか知らない。気楽がいいものか、わるいものか解しにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が真面目に言うから真面目にそうでしょうかと言うよりほかに道はない。
文《あや》は人の目を奪う。巧は人の目を掠《かす》める。質は人の目を明らかにする。そうでしょうかを聞いたとき、甲野さんはなんとなくありがたい心持ちがした。直《じき》下《げ》に人の魂を見るとき、哲学者は理《り》解《げ》の頭《かしら》を下げて、無念ともなんとも思わぬ。
「いいですよ。それでいい。それでなくっちゃだめだ。いつまでもそれでなくっちゃだめだ」
糸子は美しい歯をあらわにした。
「どうせこうですわ。いつまでたったって、こうですわ」
「そうはいかない」
「だって、これが生まれつきなんだから、いつまでたったって、変わりようがないわ」
「変わります。――阿爺《おとつさん》と兄さんの傍《そば》を離れると変わります」
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利《り》口《こう》に変わります」
「私もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変われば変わるほうがいいんでしょう。どうかして藤尾さんのようになりたいと思うんですけれども、こんなばかだものだから……」
甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなに羨《うらや》ましいんですか」
「ええ、ほんとうに羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有りすぎて困るんですよ。気をつけないと危ない」
女は依然として、肉余る瞼《まぶた》を二重に、愛嬌の露を大きな眸の上に滴《したた》らしているのみである。危ないという気《け》色《しき》は影さえ見えぬ。
「藤尾が一人出ると昨夕《ゆうべ》のような女を五人殺します」
鮮《あざ》やかな眸に滴るものはぱっと散った。表情は咄《とつ》嗟《さ》に変わる。殺すという言葉はさほどに怖《おそ》ろしい。――その他の意味はむろん分からぬ。
「あなたはそれで結構だ。動くと変わります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変わります」
女は咽喉《のど》から飛び出しそうなものを、ぐっと嚥《の》み下した。顔は真赤になる。
「嫁に行くと変わります」
女は俯《うつ》向《む》いた。
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
かわいらしい二重瞼がつづけさまに二、三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨《あま》竜《りよう》の影が渡る。鷺《さぎ》草《そう》とも菫《すみれ》とも片づかぬ花は依然として春を乏《とも》しく咲いている。
一四
電車が赤い札をおろして、ぶうと鳴ってくる。入れ代わって後ろから町内の風をレールの上に追い捲《ま》くって去る。按《あん》摩《ま》が隙《すき》を見計らって恐る恐る向こう側へ渡る。茶屋の小僧が臼《うす》を挽《ひ》きながら笑う。旗振りの着るヘル地の織り目は、埃《ほこり》がいっぱい溜まって、黄色にぼけている。古本屋から洋服が出てくる。鳥打ち帽が寄席《よせ》の前に立っている。今晩の語り物が塗り板に白くかいてある。空は針《はり》線《がね》だらけである。一羽の鳶も見えぬ。上の静かなるだけに下はすこぶる雑《ざつ》駁《ぱく》な世界である。
「おいおい」と大きな声で後ろから呼ぶ。
二十四、五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
今度は印《しるし》絆《ばん》天《てん》が向いた。
呼ばれた本人は、知らぬげに、来る人を避《よ》けて早足に行く。抜《ぬ》き競《くら》をして飛んで来た二両の人力に遮《さえぎ》られて、間はますます遠くなる。宗近君は胸を出して馳《か》けだした。寛《ゆる》く着た袷《あわせ》と羽織が、足を下ろすたんびに躍《おど》りを踴《おど》る。
「おい」と後ろから手をかける。肩がぴたりと留まるとともに、小野さんの細面が斜めに見えた。両手は塞がっている。
「おい」と手をかけたまま肩をゆすぶる。小野さんはゆすぶられながら向き直った。
「誰《だれ》かと思ったら……失敬」
小野さんは帽子のままていねいに会釈した。両手は塞《ふさ》がっている。
「なにを考えてるんだ。いくら呼んでも聴《き》こえない」
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「なにが」
「君の歩行方《あるきかた》がさ」
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方《あるきかた》か。なんだか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こういうものを提《さ》げていると歩行《あるき》にくいから……」
小野さんは両手を前の方へ出して、このとおりといわぬばかりに、自分から下の方へ目をつけて見せる。宗近君もしぜんと腰から下へ視線を移す。
「なんだい、それは」
「こっちが紙《かみ》屑《くず》籠《かご》で、こっちがランプの台」
「そんなハイカラな形姿《なり》をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ」
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を提げて往来を歩くだけの義《ぎ》侠《きよう》心《しん》があるとは思わなかった」
小野さんは黙って笑いながらお辞儀をした。
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買っていってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を歩行ていないようだと、宗近君が言ったのは、まさに現下の状態によくあてはまった小野評である。靴《くつ》に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかしなんとなく踏み心地が確かでない。にもかかわらず急ぎたい。気楽な宗近君などに逢っては立ち話をするのさえ難儀である。いっしょにあるこうと言われるとなおさら困る。
常でさえ宗近君に捕《つら》まるとなんとなく不安である。宗近君と藤尾の関係を知るような知らぬようなまに、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向き人の許嫁《いいなずけ》を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立《たち》居《い》振る舞いのおりおりにも、気のあるところはそれと推測ができる。それを裏から壊《こわ》しにかかったとまではゆかぬにしても、事実は宗近君の望みを、われゆえに、永久に鎖《とざ》したわけになる。人情としては気の毒である。
気の毒はこれだけで気の毒であるうえに、宗近君が気楽に構えて、毫《ごう》も自分と藤尾の仲を苦にしていないのがなおさらの気の毒になる。逢えば隔意なく話をする。冗談を言う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経《けい》綸《りん》を論ずる。もっとも恋のことはあまり語らぬ。語らぬといわんよりむしろ語れぬのかもしれぬ。宗近君はおそらく恋の真相を解《げ》せぬ男だろう。藤尾の夫には不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる己《おのれ》を含んでいる。悪戯《いたずら》をして親の前へ出るときの心持ちを考えてみるとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる了見よりはなんとなく物騒だという感じがおもである。わが悪戯が、己と掛け離れた別人の頭の上に落とした迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。雷《らい》の嫌《きら》いなものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡《しゆん》巡《じゆん》するのと一般である。ただの気の毒とはよほど趣が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒といっている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。
「散歩ですか」と小野さんはていねいに聞いた。
「うん。今、その角《かど》で電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」
この答は少々論理に叶《かな》わないと、小野さんは思った。しかし論理はどうでも構わない。
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いでさしつかえない。少し君の歩く方角へ急いでいっしょに行こう。――その紙屑籠を出せ。持ってやるから」
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど嵩《かさ》張《ば》る割に軽いもんだね。見っともないというのは小野さんのことだ」と宗近君は屑籠を揺《ふ》りながら歩きだす。
「そういうふうに提げるとさも軽そうだ」
「物は提げようひとつさ。ハハハハ。こりゃ勧《かん》工《こう》場《ば》で買ったのかい。だいぶ精巧なものだね。紙屑を入れるのはもったいない」
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。ほんとうの紙屑がはいっていちゃ……」
「なに持って歩けるよ。電車は人《ひと》屑《くず》をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手ということになる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。めったな屑は入れられない」
「歌《うた》反古《ほご》とか、五車反古《*》というようなものを入れちゃ、どうです」
「そんなものは要《い》らない。紙幣の反古をたくさん入れてもらいたい」
「ただの反古を入れておいて、催眠術をかけてもらうほうがはやそうだ」
「まず人間のほうでさきに反古になるわけだな。乞《こ》う隗《かい》より始めよ《*》か。人間の反古なら催眠術をかけなくてもたくさんいる。なぜこう隗より始めたがるのかな」
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反古が自分で屑籠の中へはいってくれると都合がいいんだけれども」
「自動屑籠を発明したらよかろう。そうしたら人間の反古がみんな自分で飛び込むだろう」
「ひとつ専売でも取るか」
「アハハハハよかろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかもしれません」と小野は切り抜けた。
「時に君は昨夕《ゆうべ》妙な伴《つれ》とイルミネーションを見に行ったね」
見物に行ったことはさっき露《ろ》見《けん》してしまった。今さら隠す必要はない。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。甲野さんは見つけても知らぬ顔をしている。藤尾は知らぬ顔をして、しかもぜひともこちらから白状させようとする。宗近君は向こうから正面に質問してくる。小野さんは何気なく答えながら、心のうちになるほどと思った。
「あれは君のなんだい」
「少し猛烈ですね。――故《もと》の先生です」
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄《きよう》妹《だい》と見えますか」
「夫婦さ。いい夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ目を外《そ》らした。向こう側のガラス戸のなかに金文字入りの洋書が燦《さん》爛《らん》と詩人の注意を促《うなが》している。
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。なにか買うのかい」
「おもしろいものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
宗近君は返事をするまえに、屑籠を提げたまま、電車の間を向こう側へ馳《か》け抜けた。小野さんも小走りに跟《つ》いてくる。
「はあだいぶきれいな本が陳列している。どうだいほしいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈《かが》めながら金縁の眼鏡をガラス窓に擦《す》り寄せて余念なく見とれている。
小羊《ラム》の皮を柔らかに鞣《なめ》して、木賊《とくさ》色《いろ》の濃き真ん中に、水《すい》蓮《れん》を細く金に描いて、弁《はなびら》の尽くる萼《うてな》のあたりから、直《すぐ》なる線を底まで通して、ぐるりと表紙の周囲を回らしたのがある。背を平らに截《た》って、深き紅《くれない》に金髪を一面に這《は》わせたような模様がある。堅き真《しん》鍮《ちゆう》版《ばん》に、どっかと布《クロース》の目を潰《つぶ》して、重たき箔《はく》を楯《たて》形《がた》に置いたのがある。素《す》気《げ》なきカーフ《*》の背を鈍《にび》色《いろ》に緑に上下に区切って、双方に文字だけを鏤《ちりば》めたのがある。ざら目の紙に、品よく朱の書名を配置した扉も見える。
「みんなほしそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な装釘《バインデイング》だ。どうも」
「表紙だけきれいにして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなたがたのほうと違って文学書だから」
「文学書だから上《うわ》部《べ》をきれいにする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起こるんだね」
「どうも、きびしい。しかしある意味でいえば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは情けない」
「とかく眼鏡が祟《たた》るようだ。――宗近君は近視眼じゃないんですか」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「冗談を言っちゃいけない。――さあいいかげんに歩こう」
二人は肩を比《くら》べてまた歩きだした。
「君、鵜《う》という鳥を知ってるだろう」と宗近君が歩きながら言う。
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は漁夫《りようし》の魚籃《びく》の中にはいるから、いいじゃないですか」
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ屑籠のなかへ入れてしまう。学者というものは本を吐いて暮らしている。なんにも自分の滋養にゃならない。得のいくのは屑籠ばかりだ」
「そう言われると学者も気の毒だ。なにをしたらいいか分からなくなる」
「行為《アクシヨン》さ。本を読むばかりでなんにもできないのは、皿《さら》に盛った牡丹《ぼた》餅《もち》を画《え》にかいた牡丹餅と間違えておとなしく眺めているのと同様だ。ことに文学者なんてものはきれいなことを吐く割りに、きれいなことをしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか」
「さよう」と小野さんは間を延ばして答えたが、
「たとえば」と聞き返した。
「名前なんか忘れたが、なんでも女を胡《ご》魔《ま》化《か》したり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと昨夜《ゆうべ》の女ね」
小野さんの腋《わき》の下がなんだかじめじめする。
「あれは僕よく知ってるぜ」
琴の事件なら糸子から聞いた。そのほかになにも知るはずがない。
「蔦《つた》屋《や》の裏にいたでしょう」と一躍して先へ出てしまった。
「琴を弾《ひ》いていた」
「なかなかうまいでしょう」と小野さんは容易に悄然《しよげ》ない。藤尾に逢った時とは少々様子が違う。
「うまいんだろう、なんなく眠《ねむ》気《け》を催したから」
「ハハハハそれこそアイロニーだ」と小野さんは笑った。小野さんの笑い声はいかなる場合でも静の一字を離れない。そのうえ色彩《つや》がある。
「冷やかすんじゃない。真面目なところだ。かりそめにも君の恩師の令嬢をばかにしちゃ済まない」
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催すところがいいんだ。人間でもそうだ。眠気を催すような人間はどこか尊いところがある」
「古くって尊いんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊くない」
「ばかりじゃない。ことによると、尊い人間を時候後《おく》れだなどとけなしたがる」
「今日はなんだか攻撃ばかりされている。ここいらでお分かれにしましょうか」と小野さんは少し苦しいところを、わざと笑って、立ち留まる。同時に右の手を出す。紙屑籠を受け取ろうという謎《なぞ》である。
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
二人はまた歩きだす。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩きだす。双方で双方を軽《けい》蔑《べつ》している。
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙しいことがありそうには見えませんよ」
「そう忙しがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構にできるあいだは結構にしておかんと、いざという時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変わらず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙しいだろう」
「甲野のほうは四、五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつのことやら」
「急いで出すがいい。いつのことやらじゃせっかく忙しがる甲《か》斐《い》がない」
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽどおもしろい話があるがね」
小野さんは急にどきんとした。なんの話かわからない。眼鏡の縁から、斜めに宗近君を見ると、相変わらず、紙屑籠を揺《ふ》って、揚々と正面を向いて歩いている。
「どんな……」と聞き返したときはなんとなく勢《せい》がなかった。
「どんなって、よっぽど深い因縁とみえる」
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
小野さんは少し安心した。しかしなんだか引っかかっている。浅かれ深かれ宗近君と孤堂先生との関係をぷすりと切って棄《す》てたい。しかし自然が結んだものは、いくら能才でも天才でも、どうするわけにもゆかない。京の宿屋は何百軒とあるに、なんで蔦《つた》屋《や》へ泊まり込んだものだろうと思う。泊まらんでも済むだろうにと思う。わざわざ三条へ梶《かじ》棒《ぼう》をおろして、わざわざ蔦屋へ泊まるのはいらざることだと思う。酔狂だと思う。よけいな悪戯《いたずら》だと思う。先方に益もないのに好んで人を苦しめる泊まり方だと思う。しかしいくら、どう思っても仕方がないと思う。小野さんは返事をする元気も出なかった。
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
もの字が少し気になる。春雨《はるさめ》の欄に出て、連《れん》〓《ぎよう》の花もろともに古い庭を見下されたことは、とくの昔に知っている。今さら引き合いに出されても驚きはしない。しかし二階からもとなると剣《けん》呑《のん》だ。そのほかにまだ見られたことがあるにきまっている。ふだんなら進んで聞くところだが、なんとなく空《から》景《けい》気《き》をつけるような心持ちがして、どこでと押しを強く出《で》損《そく》なったまま、二、三歩あるく。
「嵐《らん》山《ざん》へ行くところも見た」
「見ただけですか」
「知らない人に話はできない。見ただけさ」
「話してみればよかったのに」
小野さんは突然冗談を言う。にわかに景気がよくなった。
「団《だん》子《ご》を食っているところも見た」
「どこで」
「やっぱり嵐山だ」
「それっきりですか」
「まだある。京都から東京までいっしょに来た」
「なるほど勘定してみると同《おんな》じ汽車でしたね」
「君が停車場《ステーシヨン》へ迎えに行ったところも見た」
「そうでしたか」と小野さんは苦笑した。
「あの人は東京ものだそうだね」
「誰が……」と言いかけて、小野さんは、眼鏡の珠《たま》のはずれから、変に相手の横顔を覗《のぞ》き込んだ。
「誰が? 誰がとは」
「誰が話したんです」
小野さんの調子は存外落ちついている。
「宿屋の下女が話した」
「宿屋の下女が? 蔦屋の?」
念を押したような、後が聞きたいような、後がないのを確かめたいような様子である。
「うん」と宗近君は行った。
「蔦屋の下女は……」
「そっちへ曲がるのかい」
「もう少し、どうです、散歩は」
「もういいかげんに引き返そう。さあ大事の紙屑籠。落とさないように持って行くがいい」
小野さんは恭《うやうや》しく屑籠を受け取った。宗近君は飄《ひよう》然《ぜん》として去る。
一人になると急ぎたくなる。急げば早く孤堂先生の家《うち》へ着く。着くのはありがたくない。孤堂先生の家へ急ぎたいのではない。小野さんはなんだか急ぎたいのである。両手は塞《ふさ》がっている。足は動いている。恩賜の時計はチョッキのなかで鳴っている。往来は賑《にぎ》やかである。――すべてのものを忘れて、小野さんの頭は急いでいる。はやくしなければならん。しかしどうしてはやくしていいか分からない。ただ一昼夜が十二時間に縮まって、運命の車が思う方角へ全速力で回転してくれるよりほかに致し方はない。進んで自然の法則を破るほどな不《ふ》料《りよう》簡《けん》は起こさぬつもりである。しかし自然のほうで、少しは事情を斟《しん》酌《しやく》して、自分の味方になって働いてくれてもよさそうなものだ。そうなることは受け合いだと保証がつけば、観《かん》音《のん》様《さま》へお百度を踏んでも構わない。不動様へ護摩を上げてもよろしい。耶《ヤ》蘇《ソ》教の信者にはむろんなる。小野さんは歩きながら神の必要を感じた。
宗近という男は学問もできない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来なんになる気かと不思議に思うことがある。なにができるものかと軽蔑《さげす》むこともある。露骨でいやになることもある。しかしいまさらのように考えてみると、あの態度は自分にはとうていできない態度である。できないからこちらが劣っていると結論はせん。世の中にはできもせぬが、またしたくもないことがある。箸《はし》の先で皿《さら》を回す芸当はできるよりできないほうが上品だと思う。宗近の言語動作はむろん自分にはできにくい。しかしできにくいから、かえって自分の名誉だと今までは心得ていた。あの男の前へ出るとなんだか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与えるが専一と思う。宗近は社交の第一要義にも通じておらん。あんな男はただの世の中では成功はできん。外交官の試験に落第するのはあたりまえである。
しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖してみようと企てたことはないがとにかく妙である。故意に自分を圧《お》しつけようとしている景《け》色《しき》が寸《すん》毫《ごう》も先方に見えないのにこちらはなんとなく感じてくる。ただ会釈もなく思うままを随意に振る舞っている自然のなかから、どうだといわぬばかりに圧迫が顔を出す。自分はなんだか気が引ける。あの男に対しては済まぬ裏面の義理もあるから、それが祟《たた》って、徳義が制裁を加えるとのみ思い通してきたがそればかりでは決してない。たとえば天を憚《はばか》らず地を憚らぬ山の、無《む》頓《とん》着《じやく》に聳《そび》えて、おもしろからぬといわんよりは、美しく思えぬ感じである。星から墜《お》つる露を、蕊《ずい》に受けて、可《か》憐《れん》の弁《はなびら》を、折り折りは、風の音信《たより》と小川へ流す。自分はこんな景色でなければ楽しいとは思えぬ。要するに宗近と自分とは檜《ひのき》山《やま》と花《はな》圃《ばたけ》の差《ちが》いで、本来から性が合わぬから妙な感じがするに違いない。
性が合わぬ人を、合わねばそれまでと澄ましていたこともある。気の毒だと考えたこともある。情けないと軽蔑《さげすん》だこともある。しかし今日ほど羨《うらや》ましく感じたことはない。高尚だから、上品だから、自分の理想に近いから、羨ましいとは夢にも思わぬ。ただあんな気分になれたらさぞよかろうと、今の苦しみに引き較《くら》べて、急に羨ましくなった。
藤尾には小夜子と自分の関係を言い切ってしまった。あるとは言い切らない。世話になった昔の人に、心細く付き添う小《ち》さき影を、逢《あ》わぬ五年を霞《かすみ》と隔てて、ふたたび逢うたばかりの朦朧《ぼんやり》した間柄と言い切ってしまった。恩を着るは情の肌《はだ》、師に渥《あつ》きは弟《てい》子《し》の分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと言い切ってしまった。できるならばと辛《しん》防《ぼう》してきた嘘《うそ》はとうとう吐《つ》いてしまった。ようやくの思いで吐いた嘘は、嘘でも立てなければならぬ。嘘を実《まこと》と偽る料簡はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある、責任が出る。あからさまにいえば嘘に対して一生の利害が伴ってくる。もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は神も嫌《きら》いだと聞く。今日からはぜひとも嘘を実《まこと》と通用させなければならぬ。
それがなんとなく苦しい。これから先生のところへ行けばきっと二重の嘘を吐かねばならぬような話を持ちかけられるに違いない。切り抜ける手はいくらもあるが、手詰めに出られると跳《は》ねつける勇気はない。もう少し冷刻に生まれていればなんの雑《ぞう》作《さ》もない。法律上の問題になるような不都合はしておらんつもりだから、はっきり断わってしまえばそれまでである。しかしそれでは恩人に済まぬ。恩人から逼《せま》られぬうちに、自分の嘘が発覚せぬうちに、自然がはやく回転して、自分と藤尾が公然結婚するように運ばなければならん。――後は? 後は後から考える。事実はなによりも有効である。結婚という事実が成立すれば、万事はこの新事実を土台にして考え直さなければならん。この新事実を一般から認められれば、あとはどんな不都合な犠牲でもする。どんなにつらい考え直し方でもする。
ただ機一髪という間ぎわで、煩《はん》悶《もん》する。どうすることもできぬ心が急《せ》く。進むのが怖《こわ》い。退くのが厭《いや》だ。はやく事件が発展すればと念じながら、発展するのが不安心である。したがって気楽な宗近が羨ましい。万事を商量するものは一本調子の人を羨ましがる。
春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき浅《あさ》黄《ぎ》の幕はふわりふわりと幾枚も空を離れて地の上に被《かぶさ》ってくる。払い退《の》ける風も見えぬ往来は、夕暮れのなすがままに静まり返って、蒼《そう》然《ぜん》たる大地の色は刻々に蔓《はびこ》ってくる。西の果てに用もなく薄焼けていた雲はようやく紫に変わった。
蕎麦《そば》屋《や》の看板におかめの顔が薄暗く膨《ふく》れて、後ろから点《つ》ける灯《ひ》を今やと赤い頬《ほお》に待つ向こう横《よこ》町《ちよう》は、二間足らずの狭い往来になる。黄昏《たそがれ》は細長く家と家の間に落ちて、鎖《とざ》さぬ門を戸《こ》ごとにくぐる。部屋のなかはなおさら暗いだろう。
曲がって左側の三軒めまで来た。門構えという名は付けられない。往来をわずかに仕切る格子戸をそろりと明けると、なかは、ほのくらく近づく宵《よい》を、一段と刻んで下へ降りたような心持ちがする。
「ご免」と言う。
静かな声は落ちついた春の調子を乱さぬほどに穏やかである。幅一尺の揚げ板に、菱《ひし》形《がた》の黒い穴が、縁《えん》の下へ抜けているのを眺めながら取り次ぎをおとなしく待つ。返事はやがてした。うんというのか、ああというのかはいというのか、さらに要領を得ぬ声である。小野さんはやはり菱形の黒い穴を覗《のぞ》きながら取り次ぎを待っている。やがて障子の向こうでずしんと誰か跳《は》ね起きた様子である。怪しい普請とみえて根太の鳴る音が手に取るように聞こえる。例の壁紙模様の襖《ふすま》が開く。二畳の玄関へ出てきたなと思うまもなく、薄暗い障子の影に、肉の落ちた孤堂先生の顔が髯《ひげ》もろともに現われた。
平生からあまりじょうぶには見えない。骨が細く、躯《からだ》が細く、顔はことさら細くでき上がったうえに、取る年は争われぬ雨と風と苦労とを吹きつけて、辛《から》い浮き世に、からくもとり留めた心さえ細くなるばかりである。今日はひとしお顔色が悪い。得意の髯さえも尋常には見えぬ。黒い隙《すき》間《ま》を白いのが埋《うず》めて、白い隙間を風が通る。
古《いにしえ》の人は顎《あご》の下まで影が薄い。一本ずつ吟味してみると先生の髯は一本ごとにひょろひょろしている。小野さんはていねいに帽を脱いで、無言のまま挨《あい》拶《さつ》をする。イギリス刈りの新式な頭は、眇《びよう》然《ぜん》たる「過去」の前に落ちた。
径《さしわたし》何十尺の円を描いて、周囲に鉄の格子を嵌《は》めた箱をいくつとなくさげる。運命の玩《がん》弄《ろう》児《じ》はわれ先にとこの箱へはいる。円は回りだす。この箱にいるものが青空へ近く昇るとき、あの箱にいるものは、すべてを吸い付くす大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。
イギリス式の頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細い髯に、世を侘《わ》び古《ふ》りた記念のためと、大事に胡《ご》麻《ま》塩《しお》を振りかけている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。片《かた》々《かた》が一尺昇れば片々は一尺下がるように運命はでき上がっている。
昇るものは、昇りつつある自覚を抱《いだ》いて、降《くだ》りつつ夜に行くものの前にていねいな頭《こうべ》を惜しげもなく下げた。これを神の作れるアイロニーという。
「やあ、これは」と先生は機《き》嫌《げん》がいい。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うとしぜんに機嫌がよくなる。
「さあお上がり」とたちまち座敷へ取って返す。小野さんは靴《くつ》の紐《ひも》を解く。解きおわらぬさきに先生はまた出てくる。
「さあお上がり」
座敷の真ん中に、昼を厭《いと》わず延べた床を、壁ぎわへ押しやったあとに、新調の座《ざ》布《ぶ》団《とん》が敷いてある。
「どうか、なさいましたか」
「なんだか、今朝から心持ちが悪くってね。それでも朝のうちは我慢していたが、午《ひる》からとうとう寝《ね》てしまった。今ちょうどうとうとしていたところへ君が来たので、待たしてお気の毒だった」
「いえ、今格子を開けたばかりです」
「そうかい。なんでも誰か来たようだから驚いて出てみた」
「そうですか、それはおじゃまをしました。寝ていらっしゃればよかったですね」
「なにたいしたことはないから。――それに小夜も婆《ばあ》さんもいないものだから」
「どこかへ……」
「ちょっと風《ふ》呂《ろ》に行った。買い物かたがた」
床の抜け殻《がら》は、こんもり高く、這《は》い出した穴を障子に向けている。影になったほうが、薄暗く夜着の模様を暈《ぼか》すうえに、投げかけた羽織の裏が、乏しき光線《ひかり》をきらきらと聚《あつ》める。裏は鼠《ねずみ》の甲《か》斐《い》絹《き》である。
「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう」と先生は立ち上がる。
「寝ていらしったらいいでしょう」
「いや少し起きてみよう」
「なんですかね」
「風邪《かぜ》でもないようだが、――なにたいしたこともあるまい」
「昨夕《ゆうべ》おでになったのが悪かったですかね」
「いえ、なに。――時に昨夕は大きにごやっかい」
「いいえ」
「小夜もたいへん喜んで。おかげでいい保養をした」
「もう少し閑《ひま》だと、方々へお供をすることができるんですが……」
「忙しいだろうからね。いや忙しいのは結構だ」
「どうもお気の毒で……」
「いや、そんな心配はちっともいらない。君の忙しいのは、つまりわれわれの幸福《しあわせ》なんだから」
小野さんは黙った。部屋はしだいに暗くなる。
「時に飯は食ったかね」と先生が聞く。
「ええ」
「食った?――食わなければお上がり。なんにもないが茶《ちや》漬《づ》けならあるだろう」とふらふらと立ちかける。締め切った障子に黒い長い影ができる。
「先生、もういいんです。飯は済ましてきたんです」
「ほんとうかい。遠慮しちゃいかん」
「遠慮しやしません」
黒い影は折れて故《もと》のごとく低くなる。えがらっぽい咳《せき》が二つ三つ出る。
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と言いかけるとたんにまた二つ三つ込み上げる。小野さんは憮《ぶ》然《ぜん》として咳の終わるのを待つ。
「横になって温《あつた》まっていらしったらいいでしょう。冷えると毒です」
「いえ、もうだいじょうぶ。出だすと一時いけないんだがね。――年を取ると意《い》気《く》地《じ》がなくなって――なんでも若いうちのことだよ」
若いうちのことだとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今がはじめてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、疎《まば》らな髯を風《ふう》塵《じん》に託して、残《ざん》喘《せん》に一《ひと》昔《むかし》と二《ふた》昔《むかし》を、互い違いに呼吸する口から聞いたのは、少なくとも今がはじめてである。子《ね》の鐘《かね》は陰《いん》に響いてぼうんと鳴る。薄暗い部屋のなかで、薄暗い人からこの言葉を聞いた小野さんは、つくづく若いうちのことだと思った。若いうちは二度とないと思った。若いうちうまくやらないと生《しよう》涯《がい》の損だと思った。
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持ちはさだめて淋《さび》しかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで寝《ね》醒《ざ》めが悪いのは、損をした昔を思い出すより鬱《うつ》陶《とう》しいかもしれぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちに極《き》めたことは生涯極まってしまう。生涯極まってしまうことを、自分は今どっちかに極めなければならぬ。今日藤尾に逢《あ》うまえに先生のところへ来たら、あの嘘を当分見合わせたかもしれぬ。しかし嘘を吐いてしまった今となってみると致し方はない。将来の運命は藤尾に任せたといってさしつかえない。――小野さんは心中でこういう言い訳をした。
「東京は変わったね」と先生が言う。
「烈《はげ》しい所で、毎日変わっています」
「恐ろしいくらいだ。昨夜《ゆうべ》もだいぶ驚いたよ」
「ずいぶん人が出ましたから」
「出たねえ。あれでも知った人にはめったに逢わないだろうね」
「そうですね」と曖《あい》昧《まい》に受ける。
「逢うかね」
小野さんは「まあ……」と濁しかけたが「まあ、逢わないほうですね」と思い切ってしまった。
「逢わない。なるほど広い所に違いない」と先生は大いに感心している。なんだか田舎《いなか》染《じ》みて見える。小野さんは光沢《つや》の悪い先生の顔から目を放して、自分の膝《ひざ》元《もと》を眺《なが》めた。カフスは真っ白である。七宝の夫婦《めおと》釦《ぼたん》は滑《なめ》らかな淡紅色《ときいろ》を緑の上に浮かして、華《きや》奢《しや》な金縁のなかに暖かく包まれている。背広の地は品のいいイギリス織りである。自己をまのあたりに物色したとき、小野さんは自己の住むべき世界を卒然と自覚した。先生に釣《つ》り込まれそうなきわどいところで急に忘れ物を思い出したような気分になる。先生にはむろん分からぬ。
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年めになるかい」とさもなつかしげに話しかける。
「ええ五年めです」
「五年めでも、十年めでも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から継ぎ足したように一句を付け添えた。小野さんは早《さ》速《そく》の返事を忘れて、暗い部屋のなかに竦《すく》まるような気がした。
「さっきお嬢さんがお出ででした」と仕方がないから渡し込む。
「ああ、――なに急ぐことでもなかったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買い物をしてもらおうと思ってね」
「あいにく出がけだったものですから」
「そうだってね。とんだおじゃまをしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い淀《よど》む。先生は追窮しない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と漠《ばく》々《ばく》たる挨拶をした。挨拶が漠々たるとともに、部屋のなかも朦《もう》朧《ろう》と取り締まりがなくなってくる。今宵は月だ。月だが、まだまがある。のに日は落ちた。床は一間を申し訳のために濃い藍《あい》の砂壁に塗り立てた奥には、先生が秘蔵の義《ぎ》董《とう*》の幅が掛かっていた。唐代の衣冠に蹣《まん》跚《さん*》の履《くつ》を危うく踏んで、だらしなく腕に巻きつけた長い袖《そで》を、童子の肩に凭《もた》した酔態は、この家の淋《さび》しさに似ず、春《はる》王《おう》の四月《*》に叶《かな》う楽天家である。仰せのごとく額をかくす冠の、黒い色がいちじるしく目についたのは今先のことであったに、ふと見ると纓《ひも》か飾りか、紋切り形に左右に流す幅広の絹さえ、ぼんやりと近づく宵を迎えて、来る夜に紛れ込もうとする。先生も自分もぐずぐずすると一つ穴へはまって、影のように消えてゆきそうだ。
「先生、お頼みのランプの台を買ってきました」
「それはありがたい。どれ」
小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と屑籠を持ってくる。
「はあ――なんだか暗くってよく見えない。燈火《あかり》を点《つ》けてからゆっくり拝見しよう」
「私が点けましょう。ランプはどこにありますか」
「気の毒だね。もう帰ってくる時分だが。じゃ縁《えん》側《がわ》へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
薄暗い影が一つ立って、障子をすうと明ける。残る影はひそかに手を拱《こまぬ》いて動かぬほどを、夜は襲ってくる。六畳の座敷は淋《さみ》しい人を陰気に封じ込めた。ごほんごほんと咳をせく。
やがて縁の片《かた》隅《すみ》で擦《す》るマッチの音とともに、咳はやんだ。明るいものは室《へや》のなかに動いてくる。小野さんはズボンの膝《ひざ》を折って、五分心を新しい台の上に載せる。
「ちょうどよく合うね。据《すわ》りがいい。紫《し》檀《たん》かい」
「模擬《まがい》でしょう」
「模擬でもりっぱなものだ。代は?」
「なにようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやってゆくには京都のほうがはるかにいいようだ」
二、三年まえと違って、先生は些《さ》額《がく》の恩給とわずかな貯蓄から上がる利子とで生活してゆかねばならぬ。小野さんの世話をした時とはだいぶ違う。事によれば小野さんのほうからいくぶんか貢《みつ》いでもらいたいようにもみえる。小野さんは畏《かしこ》まって控えている。
「なに小夜さえなければ、京都にいてもさしつかえないんだが、若い娘を持つとなかなか心配なもので……」と途中でちょっと休んでみせる。小野さんは畏まったまま応じなかった。
「私などはどこの果てで死のうが同じことだが、後に残った小夜がたった一人でかわいそうだからこの年になって、わざわざ東京まで出かけて来たのさ。――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。知り合いも交際《つきあい》もない。まるで他国と同様だ。それに来てみると、砂が立つ、埃《ほこり》が立つ。雑《ざつ》沓《とう》はする、物価《もの》は貴《たか》し、けっして住みいいとは思わない。……」
「住みいい所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二、三軒はあったんだが、長いあいだ音《いん》信《しん》不通にしていたものだから、今では居《い》所《どころ》も分からない。ふだんはさほどにも思わないが、こうやって、半日でも寝ると考えるね。なんとなく心細い」
「なるほど」
「まあお前が傍《そば》にいてくれるのがなによりの依頼《たより》だ」
「お役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。忙しいところを……」
「論文のほうがないと、まだ閑《ひま》なんですが」
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
いつ出すのか分からなかった。はやく出さなければならないと思う。こんな引っかかりがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と言う。
先生は襦《じゆ》袢《ばん》の袖から手を抜いて、素《す》肌《はだ》の懐《ふところ》に肘《ひじ》まで収めたまま、二、三度肩をゆすって、
「どうも、ぞくぞくする」と細長い髯を襟《えり》のなかに埋めた。
「お寝《やす》みなさい。起きていらっしゃると毒ですから。私はもうお暇《いとま》をします」
「なに、まあお話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ私のほうでご免こうむって寝る。それにまだ話も残っているから」
先生は急に胸の中から、手を出して膝の上へ乗せて、双方を一度に打った。
「まあゆっくりするがいい。今暮れたばかりだ」
迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年のなつかしみや、一夕《せき》の無《ぶ》聊《りよう》ではない。よくよく行く先が案じられて、亡き後の安心を片《へん》時《じ》も早く、脈の打つ手に握りたいからであろう。
実は夕食《めし》もまだ食わない。いれば耳を傾けたくない話が出る。腰だけはとうから宙に浮いている。しかし先生の様子を見るとむりにズボンの膝を伸ばすわけにもゆかない。老人は病を力《つと》めて、わがためにしいて元気をつけている。親しみやすき蒲団は片寄せられて、穴ばかりになった。温気《ぬくもり》は昔のことである。
「時に小夜のことだがね」と先生はランプの灯《ひ》を見ながら言う。五分心を蒲《かま》鉾《ぼこ》形《なり》に点《とも》る火《ほ》屋《や》のなかは、壺《つぼ》に充《み》つる油を、物言わず吸い上げて、穏やかな炎の舌が、暮れたばかりの春を、動かずに守る。人侘《わび》て淋《さみ》しき宵を、ただ一点の明《あか》きに償う。燈灯《ともしび》は希望《のぞみ》の影を招く。
「時に小夜のことだがね。知ってのとおりああいう内気な性質《たち》ではあるし、今の女学生のようにハイカラな教育もないからとうてい気にもいるまいが、……」まで来て先生はランプから目を放した。目は小野さんの方に向かう。なんとか取り合わなければならない。
「いいえ――どうして」――と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔から眸《ひとみ》を動かさない。そのうえ口を開《き》かずになんだか待っている。
「気にいらんなんて――そんなことが――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに納得した先生は先へ進む。
「あれも不《ふ》憫《びん》だからね」
小野さんは、そうだとも、そうでないとも言わなかった。手は膝の上にある。目は手の上にある。
「私がこうして、どうかこうかしているうちはいい。いいがこのとおりの身体《からだ》だから、いつ何時どんなことがないとも限らない。その時が困る。かねての約束はあるし、お前も約束を反故《ほご》にするような軽薄な男ではないから、小夜のことは私がいない後でも世話はしてくれるだろうが……」
「そりゃもちろんです」と言わなければならない。
「そこは私も安心している。しかし女の気は狭いものでね。アハハハハ困るよ」
なんだかむりに笑ったように聞こえる。先生の顔は笑ったためにいよいよ淋《さみ》しくなった。
「そんなにご心配なさることもいらんでしょう」とおぼつかなく言う。言葉の腰がふらふらしている。
「私はいいが、小夜がさ」
小野さんは右の手で洋服の膝を摩《こす》りはじめた。しばらくは二人とも無言である。心なき燈火《ともしび》が双方を半分ずつ照らす。
「お前のほうにもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくらたったって片づくものじゃない」
「そうでもないです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しのあいだは……」
「少しって、いつまでのことかい。そこがはっきりしていれば待ってもいいさ。小夜にも私からよく話しておく。しかしただ少しでは困る。いくら親でも子に対していくぶんか責任があるから。――少しっていうのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい」
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。おおよそ」
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。なにぶん問題が大きいものですから」
「しかしおおよその見当はつくだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「来々月《さらいげつ》はどうだね」
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたらよかろう、結婚をしたから論文が書けなくなったという理由も出てきそうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今までどおりに働いてさえいれば。当分のあいだ、われわれは経済上、君の世話にならんでもいいから」
小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「僅《わず》かです」
「僅かとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃばかげている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮らせる」
小野さんはまた返事のしようがなかった。
東京は物価《もの》が高いといいながら、東京と京都の区別を知らない。鳴海《なるみ》絞《しぼ》りの兵児《へこ》帯《おび》を締めて芋《いも》粥《がゆ》に寒さを凌《しの》いだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を衣帽の末に払わねばならぬ今の境遇とを比較することを知らない。書物は学者にとって命から二代めである。按《あん》摩《ま》の杖《つえ》と同じく、なくっては世渡りができぬほどにたいせつな道具である。その書物は机の上へ湧《わ》いてでも出ることか、なかには人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空《くう》である。したがって、おいそれと簡単な返事ができない。
小野さんはなにを思ったか、左手を畳へつかえると、右を伸ばしてランプの心をぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ回転したように、一度に明るくなる。先生の世界観が瞬《またた》きとともに変わるように明るくなる。小野さんはまだ螺旋《ねじ》から手を放さない。
「もういい。そのくらいでいい。あんまり出すと危ない」と先生が言う。
小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで覗《のぞ》いて見る。やがて背広の表《おもて》隠袋《かくし》から、真っ白なハンケチを撮《つま》み出してていねいに指《ゆび》頭《さき》の油を拭《ふ》き取った。
「少し灯《ひ》が曲がっているから……」と小野さんは拭き取った指頭を鼻の先へ持ってきてふんふんと二、三度嗅《か》いだ。
「あの婆さんが切るといつでも曲がる」と先生は股《また》の開いた灯を見ながら言う。
「時にあの婆さんはどうです、お間に合いますか」
「そう、まだ礼も言わなかったね。だんだんお手数をかけて……」
「いいえ。実は年を取ってるから働けるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん慣れてくる様子だから」
「そうですか、そりゃいい按《あん》排《ばい》でした。実はどうかと思って心配していたんですが。その代わり人間はたしかだそうです。浅井が受け合っていったんですから」
「そうかい。時に浅井といえば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことによると今日くらいの汽車で帰って来るかもしれません」
「一昨《おととい》かの手紙には、二、三日中に帰るとあったよ」
「はあ、そうでしたか」と言ったぎり、小野さんは捩《ね》じ上げた五分心の頭を無心に眺めている。浅井の帰京と五分心の関係を見《み》極《きわ》めんと思索するごとくに眸《ぼう》子《し》は一点に集まった。
「先生」と言う。顔は先生の方へ向け易《か》えた。例になく口の角《かど》にいささかの決心を齎《もたら》している。
「なんだい」
「今のお話ですね」
「うん」
「もう二、三日待ってくださいませんか」
「もう二、三日」
「つまり要領を得たご返事をするまえにいろいろ考えてみたいですから」
「そりゃいいとも。三日でも四日でも、――一週間でもいい。事がはっきりさえすれば安心して待っている。じゃ小夜にもそう話しておこう」
「ええ、どうか」と言いながら恩賜の時計を出す。夏に向かう永い日影が落ちてから、夜の針はとく回るらしい。
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあいいじゃないか。もう帰ってくる」
「また、すぐ来ますから」
「それでは――お疎《そう》怱《そう》であった」
小野さんはすっきりと立つ。先生はランプをとる。
「もう、どうぞ。分かります」と言いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」とランプを肩の高さに支《ささ》えた先生がいう。
「ええ穏やかな晩です」と小野さんは靴《くつ》の紐《ひも》を締めつつ格子から往来を見る。
「京都はなお穏やかだよ」
屈《かが》んでいた小野さんはようやく沓《くつ》脱《ぬぎ》に立った。格子が明く。華《きや》奢《しや》な体躯《かだら》が半分ばかり往来へ出る。
「清《せい》三《ぞう》」と先生はランプの影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なにべつだん用じゃない。――こうして東京へ出かけてきたのは小夜のことを早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分かったろうな」と言う。
小野さんは恭《うやうや》しく帽子を脱ぐ。先生の影はランプとともに消えた。
外は朧《おぼろ》である。半ば世を照らし、半ば世を鎖《とざ》す光が空に懸《か》かる。空は高きがごとく低きがごとく据《すわ》らぬ腰を、更《ふ》けぬ宵に浮かしている。懸かるものはなおさらふわふわする。丸い縁に黄を帯びた輪をぼんやり膨らまして輪郭も確かでない。黄な帯は外《そと》囲《い》に近く色を失って、黒ずんだ藍《あい》のなかににじみだす。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地に紛れやすい晩である。
小野さんの靴は、湿っぽい光を憚《はばか》るごとく、地に落とす踵《かかと》をズボンの裾《すそ》に隠して、小路《こうじ》を蕎麦《そば》屋《や》の行燈《あんどん》まで抜け出して左へ折れた。往来は人の香《にお》いがする。地に〓 《し》く影は長くはない。丸まって動いてくる。こんもりと揺れて去る。下《げ》駄《た》の音は朧に包まれて、霜のようには冴《さ》えぬ。撫《な》でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかす眸《ひとみ》を不審と据えると白墨の相《あい》合《あい》傘《がさ》が映る。それほどの浅い夜を、昼から引っ越してきた霞《かすみ》が立て籠《こ》める。行く人も来る人もなんとなく要領を得ぬ。逃《にげ》れば靄《もや》のなか、出ずれば月の世界である。小野さんは夢のように歩を移して来た。〓《く》々《く》として独《ひと》り行く《*》という句に似ている。
実は夕《ゆう》食《めし》もまだ食わない。いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む料《りよう》簡《けん》で、得意な襞《ひだ》の正しいズボンを、誇り顔に運ぶはずである。今宵はいつまでたっても腹も減らない。牛乳《ミルク》さえ飲む気にならん。陽気は暖かすぎる。胃は重い。引く足は千鳥にはならんが、しかと踏み答えがないような心持ちである。そとおろすせいかもしれぬ。さればとて、こつりと大地へ当てる気にはならん。巡査のようにあるけたなら世に朧はいらぬ。次に心配はいらぬ。巡査だから、ああも歩ける。小野さんには――ことに今夜の小野さんには――巡査の真《ま》似《ね》はできない。
なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から衣服《きもの》の着こなし方にいたって、ことごとく枠を尽くしていると自信している。ただ気が弱い。気が弱いために損をする。損をするだけならいいがのっぴきならぬはめに陥ちる。水に溺《おぼ》れるものは水を蹴《け》るとなにかの本にあった。背に腹は替えられぬ今の場合、と諦《あきら》めて蹴ってしまえばそれまでである。が……
女の話し声がする。人影は二つ、路の向こう側をこちらへ近づいてくる。吾妻《あずま》下《げ》駄《た》と駒《こま》下《げ》駄《た》の音が調子を揃《そろ》えて、生《なま》温《ぬ》く宵を刻んで寛《ゆたか》なるなかに、話し声は聞こえる。
「ランプの台を買ってきてくださったでしょうか」と一人が言う。「そうさね」と一人が応《こた》える。「今ごろは来ていらっしゃるかもしれませんよ」とまえの声がまた言う。「どうだか」と後の声がまた応える。「でも買ってゆくとおっしゃったんでしょう」と押す。「ああ。――なんだか暖《あつた》かすぎる晩だこと」と逃げる。「お湯のせいでござんすよ。薬《くすり》湯《ゆ》は温《あつた》まりますから」と説明する。
二人の話はここで小野さんの向こう側を通り越した。見送ると並ぶ軒下から頭の影だけが斜《はす》に出て、蕎麦屋の方へ動いて行く。しばらく首を捩《ね》じ向けて、立ち留まっていた小野さんは、また歩きだした。
浅井のように気の毒けの少ないものなら、すぐ片づけることもできる。宗近のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野なら超然として板《いた》挟《ばさ》みになっているかもしれぬ。しかし自分にはできない。向こうへ行って一歩深く陥《はま》り、こっちへ来て一歩深く陥《はま》る。双方へ気がねをして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡《から》んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、後から被《かぶ》せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったらまったくなくっても、自分はやはり同様の結果に陥るだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
いかに人情でも、こんなに優柔ではいけない。手を拱《こまね》いて、自然のなすがままにしておいたら、事件はどう発展するか分からない。想像すると怖《おそ》ろしくなる。人情に屈託していればいるほど、怖ろしい発展を、眼《ま》のあたりに見るようになるかもしれぬ。ぜひここで、どうかせねばならん。しかし、まだ二、三日の余裕はある。二、三日よく考えたうえで決断しても遅《おそ》くはない。二、三日たっていい知恵が出なければ、その時こそ仕方がない。浅井を捕《つらま》えて、孤堂先生への談判を頼んでしまう。実はさっきもその考えで、浅井の帰りを勘定に入れて、二、三日の猶予をと言った。こんなことは人情に拘《こう》泥《でい》しない浅井に限る。自分のような情に篤《あつ》いものはとうてい断わりきれない。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
月はまだ天《そら》のなかにいる。流れんとして流るる気《け》色《しき》も見えぬ。地に落つる光は、冴《さ》ゆる暇なきを、重たき温気に封じ込められて、限りなき大《たい》夢《む》を半空に曵《ひ》く。乏しい星は雲を潜《くぐ》って向こう側へ抜けそうに見える。綿のなかに砲弾を打ち込んだのがかろうじて輝くようだ。静かに重い宵である。小野さんはこのなかを考えながら歩いて行く。今夜は半鐘も鳴るまい。
一五
部《へ》屋《や》は南を向く。フランス式の窓《*》は床《ゆか》を去ること五寸にして、すぐガラスとなる。明け放てば日がはいる。温かい風がはいる。日は椅《い》子《す》の足で留まる。風は留まることを知らぬゆえ、容赦なく天井まで吹く。窓掛けの裏まで渡る。からりとして朗らかな書斎になる。
フランス窓を右に避けて一脚の机を据《す》える。蒲《かま》鉾《ぼこ》形《なり》に引き戸をおろせば、上から錠がかかる。明ければ、緑のラシャを張りつめた真ん中を、斜めに低く手元へ削って、背を平らかに、書を開くべき便宜《たより》とする。下は左右を銀金具の抽《ひ》き出《だ》しにたたみおろしてその四つめが床に着く。床は樟《くす》の木の寄せ木に仮漆《パーニツシ》をかけて、礼に叶《かな》わぬ靴《くつ》の裏を、ともすれば危うからしめんと、てらてらする。
そのほかにテーブルがある。チッペンデール《*》とヌーボーを取り合わせたような組み方に、思い切った今様を華《きや》奢《しや》な昔に忍ばして、室《へや》の真ん中を占領している。周囲《まわり》に並ぶ四脚の椅子はむろん同式の構造《つくり》である。繻《しゆ》子《す》の模様も対《つい》とは思うが、日《ひ》除《よ》けの白《しろ》蔽《おい》に、おろす腰も、凭《もた》れる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。
書《しよ》棚《だな》は壁に片寄せて、間《けん》の高さを九尺列《つら》ねて戸口まで続く。組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋《むこう》から取り寄せたものである。いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘《たたか》わすなかに花文字の、角文字の金は、縦にも横にもきれいである。
小野さんは欽《きん》吾《ご》の書斎を見るたびに羨《うらや》ましいと思わぬことはない。欽吾もむろん嫌《きら》ってはおらぬ。もとは父の居間であった。仕切りの戸を一つ明けるとすぐ応接間へ抜ける。残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。洋風の二間は、父が手《て》狭《ぜま》な住居《すまい》を、二十世紀に取り拡《ひろ》げた便利の結果である。趣味に叶《かな》うといわんよりは、むしろ実用に逼《せま》られて、時好の程度に己《おのれ》を委却した建築である。さほどに嬉《うれ》しい部屋ではない。けれども小野さんは非常に羨ましがっている。
こういう書斎にはいって、好きな書物を、好きな時に呼んで、厭《あ》きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽だろうと思う。博士論文はすぐ書いてみせる。博士論文を書いたあとは後代を驚かすような大著述をしてみせる。さだめて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を攪《か》き回されるようではとうていだめである。今のように過去に追窮されて、義理や人情の紛紜《ごたごた》に、日夜とも心を使っていてはとうていだめである。自慢ではないが自分はりっぱな頭脳を持っている。りっぱな頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽くすためには、尽くしうるだけの条件がいる。こういう書斎はその条件の一つである。――小野さんはこういう書斎にはいりたくてたまらない。
高等学校こそ違え、大学では甲野さんも小野さんも同年であった。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。ただ「哲学界と実世界」という論文を出して卒業したと聞くばかりである。「哲学界と実世界」の価値は、読まぬ身に分かるはずがないが、とにかく甲野さんは時計を頂《ちよう》戴《だい》しておらん。自分は頂戴しておる。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善《よし》悪《あし》をも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典に洩《も》れた甲野さんはたいした人間ではないに極《き》まっている。そのうえ卒業してからこれという研究もしないようだ。深い考えを内に蓄《たくわ》えているかもしれぬが、蓄えているならもう出すはずである。出さぬは蓄えがない証拠と見てさしつかえない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。その有益な材を抱《いだ》いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手を拱《こまね》いて、徒然の日を退屈そうに暮らしている。この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。自分が甲野の身分でこの部屋の主人《あるじ》となることができるなら、この二年のあいだに相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、驥《き》も櫪《れき》に伏す《*》天の不公平を、やむをえず、今日まで忍んできた。一陽は幸なき人の上にも来たり復《かえ》ると聞く。願わくは願わくはと小野さんは日ごろに念じていた。――知らぬ甲野さんはぽつ然として机に向かっている。
正面の窓を明けたらば、石一級の歩にすぎずして、広い芝《しば》生《ふ》を一目に見渡すのみか、朗らかな気が地つづきを、すぐ部屋のなかにはいるものを、甲野さんは締めきったまま、ひそりとたて籠《こも》っている。
右手の小窓は、ガラスを下ろしたうえに、左右から垂《た》れかかる窓に半ば蔽《おお》われている。通う光線《ひかり》はかすかに床の上に落つる。窓掛けは、海老《えび》茶《ちや》の毛織りに浮き出しの花模様を埃《ほこり》のままに、二十日《はつか》ほどは動いたことがないようである。色もだいぶ褪《さ》めた。部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然としてりっぱに通用する。窓掛けの隙《すき》間《ま》からガラスへ顔を圧《お》しつけて、外を覗《のぞ》くと扇骨木《かなめ》の植え込みを通して池が見える。棒《ぼう》縞《じま》の間から横へ抜けた波模様のように、とぎれとぎれに見える。池の筋向こうが藤尾の座敷になる。甲野さんは植え込みも見ず、池も見ず、芝生も見ず、机に凭《よ》ってじっとしている。焚《た》き残された去年の石炭が、暖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずる体《てい》である。
やがて、かたりと書物を置き易《か》える音がする。甲野さんは手《て》垢《あか》のついた、例の日記帳を取り出して、誌《つ》けはじめる。
「多くの人はわれに対して悪を施さんと欲《ほつ》す。同時にわれの、彼らを目して兇徒となすを許さず。またその兇暴に抗するを許さず。いわく。命に服さざれば汝《なんじ》を嫉《にく》まんと」
細字に書きおわった甲野さんは、その後に片仮名でレオパルディ《*》と入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物をふたたび故《もと》の座に直して、静かに読みはじめる。細い青貝の軸をつけたペンがころころと机を滑《すべ》って床に落ちた。ぽたりと黒いものが足の下にできる。甲野さんは両手を机の角に突っ張って、こころもち腰を後ろへ浮かしたが、目を落としてまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。手《て》捜《さぐ》りに取り上げたペン軸は父が西洋から買ってきてくれた昔《むかし》土産《みやげ》である。
甲野さんは、指先に軸を撮《つま》んだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らして掌《てのひら》のなかに落とし込む。掌の向きを上下に易えると、長い軸は、ころころと前へ行き後ろへ戻《もど》る。動くたびにきらきら光る。小さい記念《かたみ》である。
ペン軸を転《ころ》がしながら、書物の続きを読む。ページをはぐるとこんなことが、かいてある。
「剣《けん》客《かく》の剣を舞はすに、力相《あひ》若《し》くときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌《ちう*》の末に制すること能《あた》はざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等《ひと》しければなり。人を欺くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様に譎《きつ》詐《さ*》に富むとき、二人の位地は、誠実をもつて相対すると毫《がう》も異なるところなきに至る。このゆゑに偽と悪とは優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽、不足悪に出会するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むること難《かた》しとす。第三の場合はもとより稀《まれ》なり。第二もまた多からず。兇漢は敗徳において匹敵するをもつて常態とすればなり。人相《あひ》賊《ぞく》してつひに達する能はず、あるひは千辛万苦してはじめて達しうべきものも、ただ互に善を行ひ徳を施して容易に到《いた》りうべきを思へば、悲しむべし」
甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝のペン軸を、ぽとりと墨《すみ》壺《つぼ》の底に落とす。落としたまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。レオパルディは開いたまま、黄な表紙の日記をページの上に載せる。両足を踏《ふ》ん張《ば》って、組み合わせた手を、頸《くび》根《ね》にうんと椅子の背に凭《もた》れかかる。仰向くとたんに父の半身画と顔を見合わした。
あまり大きくはない。半身とはいえチョッキの釦《ぼたん》が二つ見えるだけである。服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかに洩《も》るる白シャツの色と、額の広い顔だけである。
名ある人の筆になるという。三年前帰朝の節、父はこの一面を携えて、はるかなる海を横浜の埠《ふ》頭《とう》に上った。それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間に懸かっている。仰がぬ時も壁間から欽吾を見下ろしている。筆をとるときも、頬《ほお》杖《づえ》を突くときも、仮寝《うたたね》の頭を机に支《ささ》うるときも――たえず見下ろしている。欽吾がいない時ですら、画布《カンバス》の人は、常に書斎を見下ろしている。
見下ろすだけあって活《い》きている。目玉に締まりがある。それもたんねんに塗りたくって、根気任せに錬《ね》り上げた目玉ではない。一《ひと》刷毛《はけ》に輪郭を描いて、眉《まゆ》と睫《まつげ》の間に自然の影ができる。下《した》瞼《まぶた》の垂《た》る味《み》が見える。取る年が集まって目《め》尻《じり》を引っ張る波足が浮く。そのなかに瞳《ひとみ》が活きている。動かないでしかも活きている刹《せつ》那《な》の表情を、そのまま画布に落とした手腕は、会心の機を早《さ》速《そく》に捕えた非凡の技といわねばならぬ。甲野さんはこの目を見るたびに活きてるなと思う。
想界に一瀾《らん*》を点ずれば、千瀾追うて至る。瀾《らん》々《らん》相擁して思索の郷《くに》に、吾《われ》を忘るるとき、懊《おう》悩《のう》の頭《こうべ》を上げて、この目にはたりと逢《あ》えば、あっ、あったなと思う。ある時はおやいたかと驚くことさえある。――甲野さんがレオパルディから目を放して、万事を椅子の背に託したときは、常よりも烈《はげ》しくおやいたなと驚いた。
思い出の種に、亡き人を忍ぶ片身とは、思い出す便りを与えながら、亡き人を故《もと》に返さぬむざんなものである。肌《はだ》に離さぬ数糸の髪を、懐《いだ》いては、泣いては、月日はただ先へと回《めぐ》るのみの浮き世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、なんとなくこの画《え》を見るのが厭《いや》になった。離れても別状がないと落ちつきの根《ね》城《じろ》を据えて、咫《し》尺《せき》に慈顔を髣《ほう》髴《ふつ》するは、離れたる親を、記憶の紙に炙《あぶ》り出すのみか、逢える日を春に待てとの占《うら》にもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ目玉だけである。それすら活きているのみで毫《ごう》も動かない。――甲野さんは茫《ぼう》然《ぜん》として、目玉を眺めながら考えている。
親父《おやじ》も気の毒なことをした。もう少し生きれば生きられる年だのに。髭《ひげ》もまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気はむろんなかったろう。気の毒なことをした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれればいいのに。言い置いて行きたいこともさだめてあったろう。聞きたいこと、話したいこともたくさんあった。惜しいことをした。いい年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に罹《かか》って頓《とん》死《し》してしまった。……
活きている目は、壁の上から甲野さんを見つめている。甲野さんは椅子に倚《よ》りかかったまま、壁の上を見つめている。二人の目は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向こうの眸《ひとみ》がなんとなく働いてきた。睛《せい》を閑所に転ずる気紛れの働きではない。打ち守る光がしだいに強くなって、目を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんに逼《せま》ってくる。甲野さんはおやと、首を動かした。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出たとき、もう魂はいなくなった。いつのまにやら、目のなかへ引き返したとみえる。一枚の額は依然として一枚の額にすぎない。甲野さんはふたたび黒い頭を椅子の背に投げかけた。
ばかばかしい。が近ごろときどきこんなことがある。身体《からだ》が衰弱したせいか、頭脳《あたま》の具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい親父に似ているだけがなお気《き》掛《が》かりである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突きつけて、さあ腹を切れと逼《せび》られるようなものだ。うるさいのみか不快になる。
それもただの場合ならともかくである。親父のことを思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを貪《むさぼ》るだけで、頭はほかの国に、母も妹《いもと》も忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、踵《かかと》を上げることを解《げ》しえぬ利害の人の目に見たら、さだめしばかの骨頂だろう。自分は自分にすべてを棄《す》てる覚悟があるにもせよ、この体《てい》たらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭《かげ》で親父が見ていたら、さだめて不肖の子と思うだろう。不肖の子は親父のことを思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折りがあったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……
十人は十人の因果を持つ。羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹くは、株《しゆ》を守って兎《うさぎ》を待つ《*》と、等しく一様の大《たい》律《りつ》に支配せらる。白《はく》日《じつ》天に中して万《ばん》戸《こ》に午砲の飯《いい》を炊《かし》ぐとき、蹠《しよ》下《か》の民《*》は褥《じよく》裏《り》に夜《や》半《はん》太平の計《はかりごと》熟す《*》。甲野さんがただ一人書斎で考えているあいだに、母と藤尾は日本間の方で小声に話している。
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が言う。茶の勝った節糸の袷《あわせ》は存外地味な代わりに、長く明けた袖《そで》の後ろから紅絹《もみ》の裏が婀娜《あだ》な色を一筋なまめかす。帯に代《たい》赭《しや》の古代模様が見える。織り物の名は分からぬ。
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ縞《しま》物《もの》を、年相応に着こなして、腹合わせの《*》黒だけが目につくほどに締めている。
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と言ったぎり、母は落ちついている。座《ざ》布《ぶ》団《とん》の縁を捲《まく》って、
「おや、煙管《きせる》はどうしたろう」と言う。
煙管は火《ひ》鉢《ばち》の向こう側にある。長い羅《ら》宇《お》を、逆に、親指の股《また》に挟《はさ》んで、
「はい」と手取り形の鉄《てつ》瓶《びん》の上から渡す。
「話したらなんとか言うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「言えばおよしかい」と母は皮肉に言い切ったまま、下を向いて、雁《がん》首《くび》へ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄《おう》金《ごん》である。
五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙《けむり》とともに口を開《あ》いた。
「話はいつでもできるよ。話すのがよければ私が話してあげる。なに相談するがものはない。こういうふうにするつもりだからと言えば、それぎりのことだよ」
「そりゃ私だって、自分の考えが極《き》まった以上は、兄さんがいくらなんと言ったって承知しやしませんけれども……」
「なんにも言える人じゃないよ。相談相手にできるくらいなら、初手からこうしないでもほかにいくらもやり口《くち》はあらあね」
「でも兄さんの心持ち一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話もなにもいりゃしないんだが。どうも表向き家《うち》の相続人だから、あの人がうんと言ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」
「そのくせ、なにか話すたんびに、財産はみんなお前にやるから、そのつもりでいるがいいって言うんですがね」
「言うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促するわけにもいかないでしょう」
「なにくれるものなら、催促して貰《もら》ったって、構わないんだが――ただ世《せ》間《けん》体《てい》がわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出しにくいよ」
「だから、話したらいいじゃありませんか」
「なにを」
「なにをって、あのことを」
「小野さんのことかい」
「ええ」と藤尾は明《めい》瞭《りよう》に答えた。
「話してもいいよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。いくらか分けてくれる気なら、分けるでしょうし。家《うち》が厭《いや》ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、御母《おつか》さんの口から、お前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも言いにくいからね」
「だって向こうで世話をするのが厭だっていうんじゃありませんか。世話はできない、財産はやらない。それじゃ御母さんをどうするつもりなんです」
「どうするつもりもなにもありゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分かりそうなもんですがね」
母は黙っている。
「このあいだ金時計を宗近にやれって言ったときでも……」
「小野さんに上げるとお言いのかい」
「小野さんにとは言わないけれども、一《はじめ》さんに上げるとは言わなかったわ」
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、めんどうを見ておもらいなさいと言うかと思うと、やっぱりお前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子《むすこ》じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の方《かた》を見る。夕暮れを促すとのみ眺《なが》められた浅《あさ》葱《ぎ》桜《ざくら》は、ことごとく梢《こずえ》を辞して、光る茶色の嫩《わか》葉《ば》さえ吹き出している。左に茂る三、四本の扇骨木《かなめ》の丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝を伸《の》した桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
静かな庭を一目見回した藤尾はふたたび横顔を返して、母を真向きに見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり目を放さない。二人が顔を合わせたとき、なにを思ったか、藤尾は美しい片《かた》頬《ほ》をむずつかせた。笑いとまで片づかぬのもは、明らかに浮かばぬさきに自《じ》然《ねん》と消える。
「宗近のほうはだいじょうぶなんでしょうね」
「だいじょうぶでなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断わってくだすったんでしょう」
「断わったんだとも。このあいだ行ったときに、宗近の阿爺《おとつさん》に逢って、よく理由《わけ》は話してきたのさ。――帰ってからお前にも話したとおり」
「それは覚えていますけれども、なんだかはっきりしないようだったから」
「はっきりしないのは向こうのことさ。阿爺があのとおり気の長い人だもんだから」
「こっちでもはっきりとは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使いのように、藤尾が厭だと申しますから、ひらにお断わり申しますとは言えないからね」
「なに厭なものは、どうしたってよくなりっこないんだから、いっそひらったく言ったほうがいいんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。お前はまだ年が若いから露骨《むきだし》でも構わないとお思いかもしれないが、世の中はそうはゆかないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり蓋《ふた》も味《み》もあるように言わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「なんとか言って断わったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を貰《もら》うと言ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に下ろしてくる。ちょっとお茶を呑《の》む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、欽吾《あれ》があのまま押し通す料《りよう》簡《けん》なら、藤尾に養子でもして掛《か》かるよりほかにいたし方がございません。すると一さんは大事な宗近家のご相続人だから私どもへいらしっていただくわけにもゆかず、また藤尾を差し上げるわけにもまいらなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしやお嫁を貰うと言いだしたら困るでしょう」
「なにだいじょうぶだよ」と母は浅黒い額へ癇《かん》癪《しやく》の八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて言う。
「貰うなら、貰うで、糸子でもなんでもかってな人を貰うがいいやね。こっちはこっちではやく小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近のほうは」
「いいよ。そう心配しないでも」とじれったそうに言い切った後で、
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐなにか言うでしょう」
「だって、あの男に及第ができますものかね。考えてごらんな。――もし及第なすったら藤尾を差し上げましょうと約束したってだいじょうぶだよ」
「そう言ったの」
「そうは言わないさ。そうは言わないが、言ってもだいじょうぶ。及第できっこない男だあね」
藤尾は笑いながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら言う。
「じゃ宗近の御叔父《おじさん》はたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変わったかい」
「やっぱり同《おんな》じですからさ。このあいだ博覧会へ行ったときも相変わらずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「一昨日《おととい》、一昨々日《さきおととい》の晩です」
と言う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父《おじさん》がああいう人だから、ことによると謎《なぞ》が通じなかったかもしれないね」――とさも歯《は》痒《がゆ》そうである。
「それとも一さんのことだから、御叔父から聞いても平気でいるのかもしれないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも言えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまでたっても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
母は立ち上がった。縁《えん》側《がわ》へ出た足を一歩《ひとあし》後へ返して、小声に
「お前、一に逢うだろう」と屈《かが》みながら言う。
「逢うかもしれません」
「逢ったら少し匂《にお》わしておくほうがいいよ。小野さんと大森へ行くとか言っていたじゃないか。明日《あした》だったかねえ」
「ええ、明日の約束です」
「なんなら二人で遊んで歩くところでも見せてやるといい」
「ホホホホ」
母は書斎へ向かう。
からりとした縁を通り越して、きれいな木理《もくめ》を一面に研《と》ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕《ノツブ》を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄せ木の床に落としたとき、釘舌《ボールト》のかちゃりと跳《は》ね返る音がする。窓掛けに春を遮《さえぎ》る書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗いこと」と言いながら、母は真ん中のテーブルまで来て立ち留まる。椅《い》子《す》の背の上に首だけ見えた欽吾の後ろ姿が、声のした方へ、じいっと回り込むと、なぞえに引いた眉《まゆ》の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片《かた》髭《ひげ》が上《うわ》唇《くちびる》を沿うて、自《じ》然《ねん》と下りてきて、尽きんとする角から、急に捲き返す。口は結んでいる。同時に黒い眸《ひとみ》は目《め》尻《じり》まで擦《ず》ってきた。母と子はこの姿勢のうちに互いを認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上がる。上《うわ》靴《ぐつ》を二、三度床に鳴らして、テーブルの角まで足を運ばしたとき、はじめて
「窓を明けましょうか」とゆっくり聞いた。
「どうでも――母《おつか》さんはどうでも構わないが、ただお前が鬱《うつ》陶《とう》しいだろうと思ってさ」
無言の人はふたたび右の手の平を、テーブル越しに前へ出した。促されたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰をおろした。
「どうだね、ぐあいは」
「ありがとう」
「ちっとはいいほうかね」
「ええ――まあ――」と生返事をしたとき、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時にテーブルの下で、右足の甲の上へ左の外《そと》踝《くろぶし》を乗せる。母の目からは、ただ裄《ゆき》の縮んだ卵色のシャツの袖が正面に見える。
「身体《からだ》をじょうぶにしてくれないとね、母《おつか》さんも心配だから……」
句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎《あご》を咽喉《のど》へ押しつけて、テーブルの下を覗《のぞ》き込んだ。黒い足袋《たび》が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで鬱《うつ》陶《とう》しくなって、自分もおもしろくないし……」
甲野さんはふと目を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しはいいようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、他人《ひと》のことのように。――なんだか顔色がじょうぶじょうぶしてきたじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかもしれない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛けの深い襞《ひだ》が左右に切れる間から、扇骨木《かなめ》の若葉が燃えるようにガラスに映る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来てごらん。あっちは、からっとして、書斎より心持ちがいいから。たまには、一のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変わっておもしろいものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話はできないけれども――それでもばかはばかなりにね。――」
甲野さんは眩《まぶ》しそうな目を扇骨木から放した。
「扇骨木がたいへんきれいに芽を吹きましたね」
「みごとだね。かえってなまじいな花よりも、よござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。向こうへ回ると刈り込んだのが丸《まある》く揃《そろ》って、そりゃきれい」
「あなたの部屋からがいちばんよく見えるようですね」
「ああ、ご覧かい」
甲野さんは見たとも見ないとも言わなかった。母は言う。――
「それにね。近ごろは陽気のせいか池の緋《ひ》鯉《ごい》が、まことによく跳《は》ねるんで……ここから聞こえますかい」
「鯉の跳ねる音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞こえない。聞こえないだろうねこう立て切ってあっちゃあ。母《おつか》さんの部屋からでも聞こえないくらいだから。このあいだ藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなっていい年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て稽《けい》古《こ》をする時分だろう。――なにか用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞお前さんの気に障《さわ》ることもあろうが、まあ我慢して、ほんとうの妹だと思って、めんどうを見てやってください」
甲野さんは腕組みのまま、じっと、深い瞳《ひとみ》を母の上に据《す》えた。母の目はなぜかテーブルの上に落ちている。
「世話はする気です」と徐《しず》かに言う。
「お前がそう言ってくれると私もまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶことだろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は後を待つ。欽吾は腕組みを解いて、椅子に倚《よ》る背を前に、胸をテーブルの角へつけるほど母に近づいた。
「ですが、母《おつか》さん。藤尾のほうでは世話になる気がありません」
「そんなことが」と今度は母のほうが身体を椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かに繋《つな》げてゆく。
「世話をするというのは、世話になるほうでこっちを信仰――信仰というのは神さまのようでおかしい」
甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回ってこないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になってもいいと思うくらいに信用する人物でなくっちゃだめです」
「そりゃお前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまではなんの苦もなく出したが、急に調子を逼《せま》らして、
「藤尾《あれ》も実はかわいそうだからね。そう言わずに、どうかしてやってください」と言う。甲野さんは肘《ひじ》を立てて、手の平で顔を抑《おさ》えた。
「だって見《み》縊《くび》られているんだから、世話を焼けば喧《けん》嘩《か》になるばかりです」
「藤尾がお前さんを見縊るなんて……」と打ち消しはしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんなことがあっては第一私が済まない」と次に添えたときはもう常に復していた。
甲野さんは黙って肘を立てている。
「なにか藤尾が不都合なことでもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺めている。
「もし不都合があったら、私からとくと言って聞かせるから、遠慮しないで、なんでも話しておくれ。お互いのなかで気まずいことがあっちゃあおもしろくないから」
額に加えた五本の指は、節《ふし》長《なが》に細《ほつそ》りして、爪《つめ》の形さえ女のように華《きや》奢《しや》にできている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明《あ》けて四になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも聟《むこ》とも判然した答えをしない。母は言う。
「藤尾のことも、実は相談したいと思っているんだが、そのまえにね」
「なんですか」
右の眉はやはり手の下に隠れている。目の光《いろ》は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれるといいがね」
「なにをですか」
「お前のことをさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、お前のほうを先に極《き》めないと、母《おつか》さんが困るからね」
甲野さんは手の甲の影で片《かた》頬《ほ》に笑った。淋《さみ》しい笑いである。
「身体が悪いとお言いだけれども、お前ぐらいの身体でお嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、あるでしょう」
「だからさ。お前も、もう一遍考え直してごらんな。なかにはお嫁を貰ってたいへんじょうぶになった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時はじめて額を離れた。テーブルの上には一枚の罫《けい》紙《し》に鉛筆が添えて載せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返してみると三、四行の英語が書いてある。読みかけて気がついた。昨日《きのう》読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てておいた紙《かみ》片《きれ》である。甲野さんは罫紙をテーブルの上に伏せた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆をとって紙の上へ烏《からす》という字を書いた。
「どうだろうね」
烏という字が鳥になった。
「そうしてくれるといいがね」
鳥という字が鴃《げき*》の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。言う。
「まあ藤尾のほうから極めたらいいでしょう」
「お前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
言いおわった母は悄《しよう》然《ぜん》として下を向いた。同時に忰《せがれ》の紙の上に三角ができた。三角が三つ重なって鱗《うろこ》の紋になる。
「母さん。家《うち》は藤尾にやりますよ」
「それじゃお前……」と打ち消しにかかる。
「財産も藤尾にやります。私はなんにもいらない」
「それじゃ私たちが困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて言った。母子《おやこ》はちょっと目を見合わせる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父《おとつ》さんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすればいいんです」と飴《あめ》色《いろ》に塗った鉛筆をテーブルの上にはたりと放り出した。
「どうすればいいか、どうせ母《おつか》さんのような無学なものには分からないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
「厭《いや》なんですか」
「厭だなんて、そんなもったいないことを今まで言ったことがあったかね」
「ありません」
「私もないつもりだ。お前がそう言ってくれるたんびに、お礼はしょっちゅういってるじゃないか」
「お礼はしょっちゅう聞いています」
母は転がった鉛筆を取り上げて、尖った先を見た。丸いゴムの尻《しり》を見た。心のうちで手の付けようのない人だと思った。ややあってゴムの尻をきゅうっとテーブルの上に引っ張りながら言う。
「じゃ、どうあっても家《うち》を襲《つ》ぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、母《おつ》かさんの世話はしてくれないんだね」
甲野さんは返事をするまえに、眸《ひとみ》を長い目の真ん中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやるというんです」と慇《いん》懃《ぎん》に言う。
「それほどにお言いなら、仕方がない」
母は溜《ため》息《いき》とともに、この一句をテーブルの上に打ちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、お前のことはお前の思いどおりにするとして、――藤尾のほうだがね」
「ええ」
「実はあの小野さんがよかろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と言ったぎり、黙った。
「いけませんか」
「いけないこともないでしょう」とゆっくり言う。
「よければ、そう極めようと思うが……」
「いいでしょう」
「いいかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと目を凝らして正面に何物かを見つめている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――お前どうかおしかい」
「母《おつ》かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「むろん知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて瞬《またた》きを一つするとともに、目は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一かい。本来なら一がいちばんいいんだけれども。――父《おとつ》さんと宗近とは、ああいう間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束というほどのことはなかったよ」
「なんだか父《おとつ》さんが時計をやるとか言ったことがあるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を傾《かた》げた。
「父さんの金時計です。柘榴石《ガーネツト》がついている」
「ああ、そうそう。そんなことがあったようだね」と母は思いだしたごとくに言う。
「一はまだ当てにしているようです」
「そうかい」と言ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が預かっているから、私から、よく、そう言っておこう」
「時計もだが、藤尾のことをおもに言ってるんです」
「だって藤尾をやろうという約束はまるでないんだよ」
「そうですか。――それじゃ、いいでしょう」
「そういうと私がなんだかお前の気に逆らうようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚えがないんだもの」
「はああ。じゃないんでしょう」
「そりゃね。約束があってもなくっても、一ならやってもいいんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強ちゅうに嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を襲がなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりですか」
「したくはないが、お前が母《おつ》かさんの言うことを聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――お前私の料簡を間違えて取っておくれだと困るが――母《おつか》さんの腹の中には財産のことなんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいにきれいなつもりだがね。そうは見えないかしら」
「見えます」と甲野さんが言った。きわめて真《ま》面《じ》目《め》な調子である。母にさえ嘲《ちよう》弄《ろう》の意味には受け取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、後が困るんでね」
「なるほど」
「でなければ一がいいんだがね。お前とも仲がよし……」
「母《おつ》かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。ていねいで、親切で、学問がよくできてりっぱな人じゃないか。――なぜ」
「そんならいいです」
「そう素気《そつけ》なく言わずと、なにか考えがあるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」
しばらく罫紙の上に楽書きを見つめていた甲野さんは目を上げるとともに穏やかに言い切った。
「宗近のほうが小野より母《おつか》さんを大事にします」
「そりゃ」とたちまち出る。後から静かに言う。
「そうかもしれない――お前の見た目に間違いはあるまいが、ほかのことと違って、こればかりは親や兄の自由にはいかないもんだからね」
「藤尾がぜひにと言うんですか」
「え、まあ――ぜひとも言うまいが」
「そりゃ私も知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」
「呼びましょう」
母は立った。薄紅《とき》色《いろ》に深く唐《から》草《くさ》を散らした壁紙に、立ちながら、手ごろに届く電鈴《ベル》を、白きただなかに押すと、座に返るほどなきに応《こた》えがある。入り口の戸が五寸ばかりそっと明く、ところを振り返った母が、
「藤尾に用があるからちょいと」と言う。そっと明いた戸はそっと締まる。
母と子はテーブルを隔てて差し向かう。互いに無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。三《み》つ鱗《うろこ》の周囲《まわり》に擦《す》れ擦れの大きさに円《まる》を描《か》く。円《まる》と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本ていねいに並行させてゆく。母は所在なさに、伜《せがれ》の図案を慇《いん》懃《ぎん》に眺めている。
二人の心はむろんわからぬ。ただ上《うわ》部《べ》だけはいかにも静かである。もし手《しゆ》足《そく》の挙止が、内面の消息を形《けい》而《じ》下《か》に運び来たる記号となりうるならば、この二人ほどに長閑《のどか》な母子《おやこ》は容易に見出だしえまい。退屈の刻を、数《す》十の線に画して、行儀よく三つ鱗の外部《そとがわ》を塗り潰《つぷ》す子と、尋常に手を膝《ひざ》の上に重ねて、一画ごとに黒くなる円の中を、端《たん》然《ねん》と打ち守る母とは、咸《かん》雍《よう*》の母子である。和《わ》怡《い*》の母子である。挟むテーブルに、遮《さえぎ》らるる胸と胸を対《むか》い合わせて、春鎖《とざ》す窓掛けのうちに、世を、人を、争いを、忘れたる姿である。亡き人の肖像は例によって、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
丹念に引く線はようやく繁《しげ》くなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当たる弓《ゆみ》形《なり》の一か所となったとき、がちゃりと釘舌《ボールト》を捩《ねじ》る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入り口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線の半ばでぴたりと留まった。同時に藤尾の顔は背景を抜け出してくる。
「炙《あぶ》り出《だ》しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合いから腰をおろす。おろしおわったとき、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこのあいだに四本増した。
「兄さんがお前になにかご用があるとお言いだから」
「そう」と言ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりにできつつある。
「兄さん、なにかご用」
「うん」と言った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなりなんとも言わない。
藤尾はふたたび母の方を見た。見るとともに薄笑いの影がきれいな頬《ほお》にさす。兄はやっと口を切る。
「藤尾、この家《うち》と、私が父《おとつ》さんから受け襲いだ財産はみんなお前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代わり、母《おつか》さんの世話はお前がしなければいけない」
「ありがとう」と言いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「お前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても厭《いや》か」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野がいいのか」
藤尾はきっとなる。
「それを聞いてなんになさる」と椅子の上に背を伸《の》して言う。
「なんにもしない。私のためにはなんにもならないことだ。ただお前のために言ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げておいて、
「そう」とさも軽《けい》蔑《べつ》したように落とす。母ははじめて口を出す。
「兄さんの考えでは、小野さんより一のほうがよかろうという話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一のほうが、母《おつか》さんを大事にしてくれるとお言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向かった。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と閑《かん》静《せい》に言う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分からない人格です。あなたには一さんは分かるでしょう。しかし小野さんの価値《ねうち》は分かりません。けっして分かりません。一さんを賞《ほ》める人に小野さんの価値《ねうち》が分かるわけがありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「むろんします」
言い棄《す》てて紫の絹《リボン》は戸口の方へ揺《うご》いた。繊《ほそ》い手に円鈕《ノツブ》をぐるりと回すやいなや藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。
一六
叙述の筆は甲野の書斎を去って、宗近の家庭に入る。同日である。また同刻である。
相変わらずの唐《とう》机《づくえ》を控えて、宗近の父さんが鬼《おに》更紗《ざらさ》の座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》の上に坐《すわ》っている。シャツを嫌《きら》った、黒八丈の襦《じゆ》袢《ばん》の襟《えり》が崩《くず》れて、素《す》肌《はだ》に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。忌部《いんべ》焼《や》きの布袋《ほてい》の置き物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の煙草《たばこ》盆《ぼん》を置く。呉《ご》祥《しよん》瑞《ずい*》の銘のある染め付けには山がある、柳がある、人物がいる。人物と山と同じくらいな大きさに描かれている間を、一筋の金《きん》泥《でい》が蜿《えん》蜒《えん》と縁まで這い上がる。形は甕《かめ》のごとく、鉢《はち》が開いて、開いた頂が、がっくりと縮まると、丸い縁になる。向かい合わせの耳を潜る蔓《つる》には、ぎりぎりと渋を帯びた籐《とう》を巻き付けて手《て》提《さ》げの便を計る。
宗近の父《おとつ》さんは昨日どこの古道具屋からか、継ぎのあるこの煙草盆を掘り出してきて、今朝から祥端だ、祥端だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
ところへ入り口の唐紙をさらりと開けて、宗近君が例のごとく活発にはいってくる。父は煙草盆から目を離した。見ると伜《せがれ》は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴《くつ》足袋《たび》だけに、大なる通を極《き》めている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「家《うち》にいると、そうでもない。お前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「十分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥端は」
「なんだか酒《さか》甕《がめ》のようですね」
「なに煙草盆さ。お前たちがなんだかだって笑うが、こうやって灰を入れてみるとやっぱり煙草盆らしいだろう」
老人は蔓を持って、ぐっと祥端を宙に釣《つ》るし上げた。
「どうだ」
「ええ。いいですね」
「いいだろう。祥端は贋《にせ》の多いもんで容易には買えない」
「ぜんたいいくらなんですか」
「いくらだか当ててごらん」
「見当がつきませんね。めったなことを言うとまたこのあいだの松みたように頭ごなしに叱《しか》られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「まったく掘り出しだ」
「へええ――おや縁《えん》側《がわ》にもまた新しい植木ができましたね」
「さっき万両と植え替えた。それは薩《さつ》摩《ま》の鉢で古いものだ」
「十六世紀ごろのポルトガル人が被《かぶ》った帽子のような恰《かつ》好《こう》ですね。――この薔薇《ばら》はまたたいへん赤いもんだな、こりあ」
「それは仏《ぶつ》見《けん》笑《しよう》と言ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
「華《け》厳《ごん》経《きよう》に外《げ》面《めん》如《によ》菩《ぼ》薩《さつ》、内《ない》心《しん》如《によ》夜《や》叉《しや》という句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑というんだそうだ。花はきれいだが、たいへん刺《とげ》がある。触《さわ》ってごらん」
「なに触らなくても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と言いながら、老人は雁《がん》首《くび》の先で祥端の中を穿《ほじく》り回す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑をながめている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「一《はじめ》あの花を見たことがあるかい。あの床に挿《さ》してある」
老人はいながら、顔の向きを後ろへ変える。捩《ねじ》れた頸《くび》に、行き所を失った肉が、三筋ほど括《くび》られて肩の方へ競《せ》り出してくる。
茶がかった平《ひら》床《どこ》には、釣り竿《ざお》を担《かつ》いだ蜆《けん》子《す》和尚《おしよう*》を一《ひと》筆《ふで》に描いた軸を閑静に掛けて、前に青銅の古《こ》瓶《へい》を据える。鶴《つる》ほどに長い頸の中から、すいと出る二《ふた》茎《くき》に、十字と四方に囲う葉を境に、数《じゆ》珠《ず》に貫《ぬ》く露の株が二《ふた》穂《ほ》ずつ偶を作って咲いている。
「たいへん細い花ですね。――見たことがない。なんというんですか」
「これが例の二人《ふたり》静《しずか》だ」
「例の二人静? 例にもなんにも今まで聞いたことがないですね」
「覚えておくがいい。おもしろい花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静《しずか》の霊が二人して舞うということがある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハおもしろい花だ」
「なんだか因果のある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。お前、梅にいくとおりあるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また煙《きせる》の雁首で灰の中を掻《か》き回す。宗近君はこの機に乗じて話頭を転換した。
「阿父《おとつ》さん。今日ね、久しぶりに髪結《かみい》床《どこ》へ行って、頭を刈ってきました」と右の手で黒いところを撫《な》で回す。
「頭を」と言いながら羅盂《らお》の中ほどを祥端の縁でとんと叩《たた》いて灰を落とす。
「あんまりきれいにもならんじゃないか」と真向きに帰ってから言う。
「きれいにもならんじゃないかって、阿爺さん、こりゃ五分刈りじゃないですぜ」
「じゃ何刈りだい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真ん中が少し長いでしょう」
「そういえばこころもち長いかな。よせばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向きは熱苦しくって……」
「ところがいくら暑苦しくっても、こうしておかないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴《やつ》だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんならはやくそう言えばいいのに」
「まあ頭でも拵《こしら》えてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでもいいさ」
「ところが五分刈りで外国へ行くと懲役人と間違えられるって言いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一か月ぐらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一か月あるならまあ安心だ。立つまえにゆっくり相談もできるから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間のほうはいくらでもありますが、この洋服は今日かぎりご返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃよすがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそおよしなさい」
「よしてもいい。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、身体《からだ》に合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験のことですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――ぜんたいいつ分かったんだ」
「通知のあったのは二、三日まえですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「お前は呑《のん》気《き》すぎていかんよ」
「なに忘れやしません。だいじょうぶ」
「ハハハハ忘れちゃたいへんだ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭はいいが――ぜんたいどこへ行くことになったのかい。イギリスか、フランスか」
「その辺はまだ分からないです。なんでも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くがいい」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあかってな所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、故《もと》のとおりの五分刈りで、このだぶだぶの洋服を着て出かけるですがね」
「西洋はやかましい。お前のような不作法ものにはいい修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を二たとおり拵《こしら》えて持っていないと不都合ですからね」
「二たとおりとは」
「不作法な裏と、きれいな表と。やっかいでさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈《はげ》しいから上《うわ》部《べ》をきれいにしないと社会に住めなくなる」
「その代わり生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達するわけになるな。これからの人間は生きながら八つ裂きの刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸《きんたま》をつけたような奴ばかりできて、それで落ちつきがとれるかもしれない。いやだな、そんな修業に出かけるのは」
「いっそやめにするか。うちにいて親父《おやじ》の古洋服でも着て太平楽を並べているほうがいいかもしれない。ハハハハ」
「ことにイギリス人は気に喰わない。一から十まで英語が模範であるといわんばかりの顔をして、なんでもかでも我流で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士といって近ごろだいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟《*》だって、なにもあんなに賞《ほ》めるにも当たらないわけだ。弥《や》次《じ》馬《うま》どもが英国へ行ったこともないくせに、旗ばかり押し立てて、まるで日本がなくなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国のほうで日本の真《ま》似《ね》でもするようでなくっちゃだめだ」
「お前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
宗近君は日本をえらくするとも、しないとも言わなかった。ふと手を伸ばすと更紗《さらさ》のネクタイが白襟《カラ》の真ん中まで浮き出して結び目は横に捩《ねじ》れている。
「どうも、この襟《えり》飾《かざ》りは滑《すべ》っていけない」と手探りに位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあお待ち、少し相談がある」
「なんですか」立ちかけた尻《しり》をおろす機会《しお》に、準《じゆん》胡坐《あぐら》の姿勢を取る。
「実は今までは、お前の位地もまだ極《き》まっていなかったから、さほどにも言わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行くまえに極めるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでもいい。ちゃんと片をつけて、そうしておいて行くなら。留守ちゅうは私《わし》が大事に預かってやる」
「私《わたし》もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰《もら》うつもりなんですがね。どうでしょう」
「藤尾かい。うん」
「だめですかね」
「なにだめじゃない」
「外交官の女《によう》房《ぼう》にゃ、ああいうんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父《おやじ》が生きているうち、私《わし》と親父のあいだに、少しはその話もあったんだがな。お前は知らんかもしらんが」
「叔父《おじ》さんは時計をやるといいました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄《おもちや》にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心の本人のことだが――このあいだ甲野の母《おつか》さんが来たとき、ついでだから話してみたんだがね」
「はあ、なんとか言いましたか」
「まことにいいご縁だが、まだご身分が極まっておいででないから残念だけれども……」
「身分が極まらないというのは外交官の試験に及第しないという意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚いたな」
「いや、あの女のいうことは、非常に能弁な代わりによく意味が通じないで困る。滔《とう》々《とう》と述べることは述べるが、ついに要点が分からない。要するに不経済な女だ」
多少苦々しい気《け》色《しき》に、煙管でとんと膝《ひざ》頭《がしら》を敲《たた》いた父《おとつ》さんは、視線さえ縁側の方へ移した。さいぜん植え易《か》えた仏見笑が鮮《あざ》やかな紅《くれない》を春と夏の境に今ぞと誇っている。
「だけれども断わったんだか、断わらないんだか分からないのはやっかいですね」
「やっかいだよ。あの女にかかると今までもずいぶんやっかいなことがだいぶあった。猫《ねこ》撫《な》で声《ごえ》で長ったらしくって――私《わし》ゃ嫌《きら》いだ」
「ハハハハそりゃいいが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方のいうところでは、お前が外交官の試験に及第したらやってもいいというんだ」
「じゃわけない。このとおり及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。めんどうなことが。まことにどうも」と言いながら父《おとつ》さんは、手の平を二つ内側へ揃《そろ》えて目の球《たま》をぐりぐり擦《こす》る。目の珠は赤くなる。
「及第してもだめなんですか」
「だめじゃあるまいが――欽吾がうちを出るというそうだ」
「ばかな」
「もし出られてしまうと、年寄りの世話の仕《し》手《て》がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやるわけにはゆかなくなると、まあこういうんだな」
「くだらないことをいうもんですね。第一甲野が家《うち》を出るなんて、そんなわけがないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料《りよう》簡《けん》でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あのお袋の世話をするのが厭《いや》だというんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんなばかげたことをいうんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母《おば》さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなってはたいへんだといって心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやってもよさそうなものじゃありませんか」
「いい。いいが、万一のことを考えると私も心細くってたまらないというのさ」
「なにがなんだか分かりゃしない。まるで八幡《やわた》の藪《やぶ》不知《しらず》へはいったようなものだ」
「ほんとうに――要領を得ないにも困りきる」
父《おとつ》さんは額に皺《しわ》を寄せて上《うわ》目《め 》を使いながら、頭を撫で回す。
「元来そりゃいつのことです」
「このあいだだ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ私の及第報告は二、三日後《おく》れただけだが、父《おとつ》さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。さっそく要領を得るようにしてきます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないかはっきり談判してくるつもりです」
「お前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してからなんにもしないから、せめてこんなことでもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分のことを自分で片づけるのは結構なことだ。ひとつやってみるがいい」
「それでね。もし甲野が妻《さい》を貰うと言ったら糸をやるつもりですがいいでしょうね」
「それはいい。構わない」
「ひとまず本人の意志を聞いてみて……」
「聞かんでもよかろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかのこととは違うから」
「そんなら聞いてみるがいい。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いてみます。で当人がいいと言ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
宗近君はずんど切りのズボンを二本ぬっと立てた。仏見笑と二人静と蜆《けん》子《す》和尚《おしよう》と活《い》きた布袋《ほてい》の置き物を残して廊下つづきを中二階へ上がる。
とんとんと二段踏むと妹のお太鼓がきれいに見える。三段めに水色の絹《リボン》が、横に傾いて、ふっくらした片《かた》頬《ほお》が入り口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍しい。なんだい」といきなり机の横へ坐《すわ》り込む。糸子ははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉の付いた丸い手を置く。
「なんでもありませんよ」
「なんでもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したっていいじゃないか。まるで散らし《*》でも取ったようだ」
「散らしでもなんでもよくってよ。御生だからあっちへ行ってちょうだい」
「たいへんじゃまにするね。糸公、父《おと》っさんが、そう言ってたぜ」
「なんて」
「糸はちっと女大学《*》でも読めばいいのに、近ごろは恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら嘘《うそ》ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父《おとつ》さんがそう言うんだから」
「嘘よ、阿父様がそんなことをおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読みかけた本を伏せて、枡《ます》落《お》とし《*》みたように一生懸命に抑えているところをもって見ると、阿父さんの言うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だっていうのに、あなたもよっぽど卑劣なかたね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴じゃないかハハハハ」
「だって人の言うことを信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せてあげましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を袖《そで》で隠さんばかりに、机から手《て》本《もと》へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏《す》り替えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の目を掠《かす》めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
両手でていねいに抑えたページの、残る一寸角の真ん中に朱印が見える。
「見《み》留《とめ》じゃないか。なんだ――甲野」
「分かったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上はなんとも言えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公お前今年幾歳《いくつ》になるね」
「当ててごらんなさい」
「当ててみないだって区役所へ行きゃ、すぐ分かることだが、ちょいと参考のために聞いてみるんだよ。隠さずに言うほうがお前の利益だ」
「隠さずに言うほうがだって――なんだか悪いことでもしたようね。私厭《いや》だわ、そんなに強迫されていうのは」
「ハハハハさすが哲学者のお弟子《でし》だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取ってお幾歳《いくつ》ですか」
「そんな茶化したって、誰が言うもんですか」
「困ったな。ていねいにいえばいうで怒《おこ》るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「よけいなお世話じゃありませんか。人の年齢《とし》なんぞ聞いて。――それを聞いてなんになさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公をお嫁にやろうと思ってさ」
冗談半分に相手になって、からかわれていた妹の様子は突然と変わった。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷《さ》めてくる。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な目を陰に俯《ふ》せて、畳の目を勘定しだした。
「どうだい、お嫁は。厭でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で言う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、お前が行くんだ」
「行くって言いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
糸子は頭《かぶり》を竪《たて》に振った。
「行かない? ほんとうに」
答えはなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。たいへんだ」
俯《うつ》向《む》いた目の色は見えぬ。ただ豊かなる頬《ほお》を掠《かす》めて笑いの影が飛び去った。
「笑いごとじゃない。ほんとうに腹を切るよ。いいかね」
「かってにお切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのはいいが、あんまり深刻だからね。なろうことならこのまんまで生きているほうが、お互いに便利じゃないか。お前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると言やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんとお言い」
「だって訳も話さないで、藪《やぶ》から棒《ぼう》にそんな無理を言ったって」
「訳は聞きさえすれば、いくらでも話すさ」
「よくってよ、訳なんか聞かなくっても、私お嫁なんかに行かないんだから」
「糸公お前の返事は鼠《ねずみ》花《はな》火《び》のようにくるくる回っているよ。錯乱体だ」
「なんですって」
「なに、なんでもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても埒《らち》が明かないから、一と思いに打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いてもお嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか――なかなか狡《こう》猾《かつ》だね。――実は兄さんが藤尾さんをお嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今《こん》度《だ》がはじめてだね」
「だけれど、藤尾さんはおよしなさいよ。藤尾さんのほうで来たがっていないんだから」
「お前このあいだもそんなことを言ったね」
「ええ、だって厭がってるものを貰わなくってもいいじゃありませんか。ほかに女がいくらでもあるのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請《ねだ》るなんて卑《ひ》怯《きよう》な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭とことが極まればほかに捜すよ」
「いっそそうなすったほうがいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように目を机の上に転じた。
「このあいだ甲野の御叔母《おば》さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母《おば》さんがいうには、今はまだいけないが、一さんが外交官の試験に及第して、身分が極まったら、どうでもご相談をいたしましょうって阿爺《おとつさん》に話したそうだ」
「それで」
「だからいいじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、ほんとうなの、驚いた」
「兄が及第して驚く奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんならはやくそうおっしゃればいいのに。これでもだいぶ心配してあげたんだわ」
「まったくお前のおかげだよ。大いに感泣しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
兄《きよう》妹《だい》は隔てなき目と目を見合わせた。そうして同時に笑った。
笑い切ったとき、兄が言う。
「そこで兄さんもこのとおり頭を刈って、近々洋行するはずになったんだが、阿父《おとつ》さんの言うには、立つまえに嫁を貰って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の細君にはああいうハイカラでないと将来困るからと言ったのさ」
「それほどお気にいったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女のほうが上《じよう》手《ず》ね」
「そりゃ才《さい》媛《えん》糸公の意見に間違いはなかろうから、十分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判を極めてこなくっちゃいけない。向こうだって厭なら厭と言うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変わって参りましょうなんて軽薄なことは言うまい」
糸子は微《かす》かな笑いを、二、三段に切って鼻から洩《も》らした。
「言うかね」
「どうですか。聞いてごらんなさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんにお聞きなさいよ。恥を掻《か》くといけないから」
「ハハハハ厭なら断わるのが天下の定法だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞くことは甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「ばかをおっしゃい。縁《えん》喜《ぎ》でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、大いに慶すべき現象だ」
「苛《ひど》いことを……だって坊さんになるのは、酔狂になるんじゃないでしょう」
「なんとも言えない。近ごろのように煩《はん》悶《もん》が流行したひにゃ」
「じゃ、兄さんからなってごらんなさいよ」
「酔狂にかい」
「酔狂でもなんでもいいから」
「だって五分刈りでさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違いとしきゃ思われないもの。ほかのことなら一人の妹のことだからなんでも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁してもらいたい。坊主と油揚《あぶらげ》は子供の時から嫌いなんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだっていいじゃありませんか」
「そうさ、なんだか論理《ロジツク》が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃることはどこまでが真面目でどこまでが冗談だか分からないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こういうんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。ほんとうのところ」
「ほんとうのところ、甲野がね。家《うち》と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと言うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母《おば》さんの世話ができないからだそうだ」
「そう、お気の毒ね。ああいうかたはお金も家もいらないでしょう。そうなさるほうがいいかもしれないわ」
「そうお前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だってお金が山のようにあったって、欽吾さんにはなんにもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げるほうがよござんすよ」
「お前は女に似合わず気前がいいね。もっとも人のものだけれども」
「私だってお金なんかいりませんわ。じゃまになるばかりですもの」
「じゃまにするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心がけは感心だ。尼になれるよ」
「おお厭だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄《す》ててわが家を出るなんてばかげている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一さんへは上げられませんと、こう御叔母《おば》さんが言うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんのほうが破談になるという始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようというんですね」
「まあ一面からいえばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんのほうがわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的《ロジカル》にきたね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭なら仕方がないわ」
「厭だなんていうのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違いないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断《だん》々《だん》乎《こ》としているね」
「だって欽吾さんは、ああいうかたなんですもの。それを皆《みんな》が病気にするのは、皆のほうが間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「いらないから棄てるんでしょう」
「いらないって……」
「ほんとうにいらないんですよ、甲野さんのは。負け惜しみや面《つら》当《あ》てじゃありません」
「糸公、お前は甲野の知己だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、ほんとうのところを言うんです。正しいことを言うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと言うんなら、叔母さんや藤尾さんのほうが間違ってるんです。私は嘘《うそ》を吐《つ》くのは大嫌いです」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家《うち》を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、お前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今言ったのはただ正直なところを言っただけですもの。欽吾さんにお気の毒だから言ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分かっている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭かい」
「厭だって……」と言いかけて糸子は急に俯《うつ》向《む》いた。しばらくは半《はん》襟《えり》の模様を見つめているように見えた。やがて瞬《しばたた》く睫《まつげ》を絡《から》んで一《ひと》雫《しずく》の涙がぽたりと膝《ひざ》の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変で兄さんに面《めん》喰《くら》わしてばかりいるね」
答えのない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二《ふた》雫《しずく》落ちた。宗近君は親譲りの背広の隠袋《かくし》から、くちゃくちゃのハンケチをするりと出した。
「さあ、お拭《ふ》き」と言いながら糸子の胸の先へ押しつける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手にハンケチを差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗《のぞ》き込む。
「糸公厭なのかい」
糸子は無言のまま首を掉《ふ》った。
「じゃ、行く気だね」
今度は首が動かない。
宗近君はハンケチを妹の膝の上に落としたまま、身体《からだ》だけを故《もと》へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と言って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方とも言葉が途切れた。
糸子はようやくハンケチを取り上げる。粗《あら》い銘《めい》仙《せん》の膝が少し染《し》みになった。その上へ、ハンケチの皺《しわ》をていねいに延《の》して四つ折りに敷いた。角をしっかり抑《おさ》えている。それから目を上げた。目は海のようである。
「私はお嫁には行きません」と言う。
「お嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢いをつけて、
「冗談いっちゃいけない。今厭じゃないと言ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんはお嫁をお貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いてみなけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのはよしてちょうだい」
「なぜ」
「なぜでもよしてちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくってもいいからよしてちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これでいいんです。お嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつのまに、そう硬《かた》くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、お前を甲野にやろうなんて利己主義でいってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただお前のことばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分かっていますわ」
「そこが分かりさえすれば、後が話がしいい。それでと、お前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。いいかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと言うんだね。兄さんにはその理屈がさらに解《げ》せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと言いさえすれば行ってもいいんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文なしの甲野のところへ行こうと言やあ、かえってお前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父《おとつ》さんも故障を言やしない。……」
「お嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛《あい》想《そ》をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様と兄さんの傍《そば》にいたほうがいいと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでもお前といっしょにいたいことはいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。お嫁に行ってますます人間が上等になって、そうしてご亭《てい》主《しゆ》にかわいがられればいいじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受け合ったらいいだろう」
「なにを」
「甲野に聞くのは厭だと、といって甲野のほうからお前を貰いに来るのはいつのことだか分からずと……」
「いつまで待ったって、そんなことがあるものですか。私には欽吾さんの胸のなかがちゃんと分かっています」
「だからさ、兄さんが受け合うんだよ。ぜひ甲野にうんと言わせるんだよ」
「だって……」
「なに言わせてみせる。兄さんが責任をもって受け合うよ。なあにだいじょうぶだよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも逢えないから、平生親切にしてくれたお礼に、やってやるよ。――狐《きつね》の袖無《ちやんちやん》のお礼に。ねえいいだろう」
糸子はなんとも答えなかった。下で阿父さんが謡《うたい》をうたいだす。
「そら始まった。――じゃ行ってくるよ」と宗近君は中二階を下りる。
一七
小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底をレールが通る。高い土手は春に籠《こも》る緑を今やと吹き返しつつ、みごとなる切り岸を立て回して、丸い屏《びよう》風《ぶ》のごとく孤形に折れてはるかに去る。断橋はレールを高きに隔つること丈を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に倚《よ》って俯《ふ》すとき広き両岸の青《せい》を極《きわ》めつくして、はじめて石《いし》垣《がき》に至る。石垣を底に見下ろしてはじめて茶色の路が細く横たわる。レールは細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て留まった。
「いい景《け》色《しき》だね」
「うん、ええ景色じゃ」
二人は欄に倚って立った。立って見るまに、限りなき麦は一分ずつ延びてゆく。暖かいといわんよりむしろ暑い日である。
青《あお》蓆《むしろ》をのべつに敷いた一枚の果ては、がたりと調子の変わった地味な森になる。黒ずんだ常盤《ときわ》木《ぎ》の中に、けばけばしくも黄を含む緑の、粉となって空に吹き散るかと思われるのは、樟《くす》の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来ていい心持ちだ」
「たまには、こういう所もええな。僕はしかし田舎《いなか》から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れてきたのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ遊《あす》んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようではだめじゃな、君。ちっとなんぞ金《かね》儲《もう》けの口はないかい」
「金儲けは僕のほうにゃないが、君のほうにゃたくさんあるだろう」
「いや近ごろは法科もつまらん。文科と同《おんな》じこっちゃ。銀時計でなくちゃ通用せん」
小野さんは橋の手擦りに背を靠《も》たせたまま、内《うち》隠袋《がくし》から例のとおり銀製の煙草《たばこ》入れを出してぱちりと開けた。箔《はく》を置いたエジプト煙草の吸い口がきれいに並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。たいへんりっぱなものを持っとるの」
「貰《もら》い物《もの》だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えないところへ投げ込んだ。
二人の煙《けむり》は恙《つつが》なく立ち騰《のぼ》って、事なき空に入る。
「君は始終こんな上等な煙草を呑《の》んどるのか。よほど余裕があるとみえるの。少し貸《か》さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんなことがあるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんでたいへん銭がいって困っとるところじゃ」
本気に言っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらいいるのかね」
「三十円でも二十円でもええ」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でもええ。五円でもええ」
浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両《りよう》肘《ひじ》を鉄の手擦りに後ろからもたして、山羊仔《キツド》の靴をこころもち前へ出した。煙草を啣《くわ》えたまま、眼鏡《めがね》越しに爪《つま》先《さき》の飾りを眺めている。遅日影長くして光を惜しまず。拭《ふ》き込んだ皮の濃《こま》やかに照る上に、目に入らぬほどの埃《ほこり》が一面に積んでいる。小野さんは携えた細手のステッキで靴の横腹をぽんぽんと鞭《むち》うった。埃は靴を離れて一寸ほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけは斑《まだら》に黒くなった。並んで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ無細工である。
「十円ぐらいなら都合ができないこともないが――いつごろまで」
「今月末にはきっと返す。それでよかろう」と浅井君は顔を寄せてくる。小野さんは口から煙草を離した。指の股《また》に挟んだまま、一振りはたくと三分《ぶ》の灰は靴の甲に落ちた。
体をそのままに白い襟《えり》の上から首だけを横に捩《ねじ》ると、欄干に頬《ほお》杖《づえ》をついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでもいい。――その代わり少しお願いがある。聞いてくれるかい」
「うん、話してみい」
浅井君は容易に受け合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれにきた。
「実は井上先生のことだがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる閑《ひま》がないから、行かんが。君先生に逢《お》うたらよろしく言うてくれ。ついでにお嬢さんにも」
浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、涎《よだれ》のごとき唾《つば》をはるかの下に吐いた。
「そのお嬢さんのことなんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ言っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸《す》い殻《がら》を向こうへ投げた。白いカフスが七宝の夫婦《めおと》釦《ぼたん》とともにかしゃと鳴る。一寸に余る金が空を掠《かす》めて橋の袂《たもと》に落ちた。落ちた煙《けむり》は逆《さか》さまに地から這《は》い揚がる。
「もったいなことをするのう」と浅井君が言った。
「君ほんとうに僕の言うことを聞いてくれるのかい」
「ほんとうに聞いとる。それから」
「それからって、まだなんにも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折りいってお願いがあるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。なんでもしてやるぞ」
調子はだいぶ熱心である。小野さんは片《かた》肘《ひじ》を放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、ええ時に帰ってきた。なにか談判でもするのか。結婚の条件か。近ごろは無財産の細君を貰《もら》うのは不便だからのう」
「そんなことじゃない」
「しかし、そういう条件をつけておくほうが君の将来のためにええぞ。そうせい。僕が懸け合うてやる」
「そりゃ貰うとなれば、そういう談判にしてもいいが……」
「貰うことは貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、われわれが」
「そりゃ困る。僕が井上のお嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が言った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込むことができるんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話ができない」と故《もと》のようなおとなしい調子で言う。
「ハハハハ。そう真面目にならんでもいい。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少し面《つら》の皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業ちゅうなんだから」
「ちと稽《けい》古《こ》のためにどっかへ連れていってやろうか」
「なにぶんよろしく……」
「などと言って、裏ではさかんに修業しとるかもしれんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近ごろだいぶ修飾《しやれ》るところをもって見ると。ことにさっきの巻《ま》き煙草《たばこ》入れの出《で》所《どころ》などははなはだ疑わしい。そう言えばこの煙草もなんとなく妙な臭いがするわい」
浅井君はここにいたって指の股に焦げてついてきそうな煙草を、鼻の先へ持ってきてふんふんと二、三度嗅《か》いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる洒落《じやれ》だと思った。
「まあ歩きながら話そう」
悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の真ん中へ踏み出した。浅井君の肘は欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄ってくる。暖かき緑は穂を掠《かす》めて畦《あぜ》を騰《のぼ》る。野を蔽《おお》う一面の陽炎《かげろう》は逆上《のぼせ》るほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君は後から跟《つ》いてくる。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだとき、歩きだす。歩きだしながら真面目な問題にはいる。
「さっきの話だが――実は二、三日まえ井上先生のところへ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまたなにか言いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生がずいぶん烈《はげ》しくきたので、僕もそう世話になった先生の感情を害するわけにもいかないから、熟考するために二、三日の余裕を与えてもらって帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとでゆっくり聞くから。――それで僕も、君の知っているとおり、先生の世話にはたいへんなったんだから、先生の言うことはなんでも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかのことと違って結婚問題は生《しよう》涯《がい》の幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従するわけにはいかない」
「そりゃいかない」
小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいはお嬢さんに対して済まん関係でも拵《こしら》えたという大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでも方《かた》をつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気がつかない。話はまた進行する。――
「ところが先生のほうでは、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見なしてしまって、そうして万事をそれから演《えん》繹《えき》してくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたのお考えは出立点が間違っていますと誤《ご》謬《びゆう》を指摘するわけにもいかず……」
「そりゃ、あまり君が人がよすぎるからじゃ。もう少し世の中に擦《す》れんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう露骨《むき》に人に反対することができないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕のほうから言うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれるとよけい困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらいこともない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とてもできん」
「そりゃどうでもいいが、――それでね、今言うとおりの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に逢うと気の毒で、そんな強いことが言えそうもないから、それで君に頼みたいというわけだが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、わけない。僕が先生に逢うてよく話してやろう」
浅井君は茶《ちや》漬《づ》けを掻《か》き込むようにたやすく引き受けた。注文どおりにいった小野さんは中休みに一、二歩前へ移す。そうして言う。――
「その代わり先生の世話は生涯する考えだ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを言うと先生も故《もと》のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚という単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振りも見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。あくまでも先生のために尽くすつもりだ。だが結婚したから尽くす、結婚せんから尽くさないなんて、そんな軽薄な料《りよう》簡《けん》は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからね」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように言ってくれたまえ。誤解ができるとまた後が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう言うてやる。その代わり十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑いながら答えた。
錐《きり》は穴を穿《うが》つ道具である。縄《なわ》は物を括《くく》る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松坂を潜《くぐ》り抜けようと企てるものはない。縄でなくては栄螺《さざえ》を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にしてはじめてこの談判を、風《ふ》呂《ろ》に行く気で、引き受けることができる。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後をきれいに片づけるのとは別才である。落ち葉をふるうものは必ずしも庭を掃く人とは限らない。浅井君はたとい内《だい》裏《り》拝観の際でも落ち葉をふるいおとすことをあえてする無遠慮な男である。とともに、たとい内裏拝観の際でも一塵《じん》を掃《はら》うことを解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮かぶ術を心得ずして、水に潜《もぐ》る度胸者である。いな潜るときに、浮かぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引き受ける。やってみようという気で、なんでも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重、結果を度外に置いて事物を考えうるならば、浅井君は他意なき善人である。
それほどのことを知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見《み》限《き》りをつけたからである。先方で苦状をいえば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向こうから泣《な》き寝《ね》入《い》りにせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日《あした》藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならばたいていなことが露見しても、藤尾と関係を絶つわけには行かぬだろう。そこで井上へは約束どおり物質的の補助をする。
こう思い定めている小野さんは、浅井君が快く依頼に応じたとき、まず片荷だけおろしたなと思った。
「こう日が照ると、麦の香《にお》いが鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「香いがするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんといわしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの家《うち》へ行くのか」と聞く。
「甲野の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく言う。
「このあいだ京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香いでも嗅《か》いできたかしらんて。――つまらんのう、あんな人間は。なんだか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああいう人間ははやく死んでくれるほうがええ。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校でときどき顔を見たが」
「宗近かい」
「そうそう。あの男のところへ二、三日うちに行こうと思っとる」
小野さんは突然留まった。
「なにしに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動しておかんとだめだからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行ってみる」
小野さんは目を地面の上へおろして、二、三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日《あした》の朝行ってやる」
「そうか」
麦畑を折れると、杉の木陰のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交わすほどの遑《いとま》もない。下り切って疎《まば》らな杉《すぎ》垣《がき》を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは言った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生のことは話さずにおいてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、ほんとうに」
「ハハハハたいへん恥《はに》かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困ることがあるんだから、ぜひ……」
「よし、話しゃせん」
小野さんははなはだ心もとなく思った。半分ほどは今頼んだことを取り返したく思った。
四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の邸《やしき》まで来る。藤尾の部《へ》屋《や》へはいって十五分ほど過ぎたころ、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
甲野さんは故《もと》の椅子《いす》に、故のとおりに腰を掛けて、故のごとくに幾何模様を図案している。丸い三《み》つ鱗《うろこ》はとくにでき上がった。
おいと呼ばれたとき、首を上げる。驚いたといわんよりは、激したといわんよりは、臆《おく》したといわんよりは、様子ぶったといわんよりはむしろはるかに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と言う。
宗近君はつかつかとテーブルの角まで進んできたが、いきなり太い眉《まゆ》に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ少し開けよう」と上《うえ》下《した》の栓釘《ボールト》を抜き放って、真ん中の円鈕《ノツブ》を握るやいなや、正面のフランス窓を、床を掃《はら》うごとく、一文字に開いた。室《へや》の中には、庭前に芽ぐむ芝《しば》生《ふ》の緑とともに、広い春が吹き込んでくる。
「こうするとたいへん陽気になる。ああいい心持ちだ。庭の芝がだいぶ色づいてきた」
宗近君はふたたびテーブルまで戻《もど》って、はじめて腰をおろした。今《いま》先《さき》方《がた》謎《なぞ》の女が坐《すわ》っていた椅子の上である。
「なにをしているね」
「うん?」と言って鉛筆の進行を留めた甲野さんは、
「どうだ。なかなかうまいだろう」と模様でいっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、テーブルの上を滑《すべ》らせる。
「なんだこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
甲野さんはなんとも言わなかった。
「これが哲学となにか関係でもあるのかい」
「あってもいい」
「万有世界の哲学的象徴とでもいうんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。紺屋の上《うわ》絵《え》師《し》と哲学者という論文でも書く気じゃないか」
甲野さんは今度もなんとも言わなかった。
「なんだか、どうも相変わらずぐずぐずしているね。いつ見ても煮えきらない」
「今日は特別煮えきらない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮えきってぴんぴんしているものはたんとないようだ。お互いも、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
「いつまでも浮き世の鍋《なべ》の中で、煮えきれずにいるのさ」
甲野さんはここにいたってはじめて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい来ようだ」
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うんヨーロッパへ行くのさ」
「行くのはいいが、親父《おやじ》みたように、煮えきっちゃいけない」
「なんとも言えないが、インド洋さえ越せばたいていだいじょうぶだろう」
甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機《*》において外交官の試験に及第したんだから、このとおりさっそく頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出かけなくっちゃならない。塵《じん》事《じ》多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と言った甲野さんはテーブル越しに相手の頭をつらつら観察した。しかしべつだん批評も加えなかった。質問も起こさなかった。宗近君のほうでも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と言う。
「うちの母に逢《あ》ったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上がったから、日本間の方はまるで通らない」
なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは椅子の背に倚りかかって、この楽天家の頭と、更紗《さらさ》模《も》様《よう》の襟《えり》飾《かざ》りと――襟飾りは例によって襟の途中まで浮き出している。――それから親譲りの背広とをじっと眺めている。
「なにを見ているんだ」
「いや」と言ったままやっぱり眺めている。
「御叔母《おば》さんに話してこようか」
今度はいやともなんとも言わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「よすがいい」
テーブルの向こう側から一句を明《めい》瞭《りよう》に言い切った。
おもむろに椅子を離れた長髪の人は右の手で額を掻《か》き上げながら、左の手に椅子の肩を抑えたまま、亡き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
親譲りの背広を着た男は、丸い目を据えて、室《へや》の中に聳《そび》える、漆のような髪の主《あるじ》を見守った。次に丸い目を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較べた。見較べてしまったとき、聳えたる人は瘠《や》せた肩を動かして、宗近君の頭の上から言う。――
「父は死んでいる。しかし活《い》きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
椅子に倚る人の顔は、この言葉とともに、おのずからまた画像の方に向かった。向かったなりしばらくは動かない。活きた目は上から見下ろしている。
しばらくして、椅子に倚る人が言う。――
「御叔父《おじ》さんも気の毒なことをしたなあ」
立つ人は答えた。――
「あの目は活きている。まだ活きている」
言いおわって、部屋の中を歩きだした。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るやいなや、明け放ったフランス窓を抜けて二段の石階を芝《しば》生《ふ》へ下る。足が柔らかい地に着いたとき、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
芝生は南に走ること十間余にして、高《たか》樫《がし》の生《いけ》垣《がき》に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁《しげ》き植え込みに遮《さえぎ》られた奥は、五坪ほどの池を隔てて、張り出しの新座敷には藤尾の机が据えてある。
二人は緩《ゆる》き歩調に、芝生を突き当たった。帰りには二、三間迂回《うねつ》て、植え込みの陰を書斎の方《かた》へ戻《もど》ってきた。双方とも無言である。足並みは偶然にも揃《そろ》っている。植え込みが真ん中で開いて、二、三の敷き石に、池の方《かた》へ人を誘う曲がり角まで来たとき、突然新座敷で、雉子《きじ》の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合わせたごとくぴたりと留まる。目は一時に同じ方角へ走る。
四尺の空《くう》地《ち》を池の縁まで細長く余して、まっすぐに水に落つる池の向こう側に、横から伸《の》す浅《あさ》葱《ぎ》桜《ざくら》の長い枝を軒のあたりに翳《かざ》して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら縁《えん》鼻《ばな》に立っている。
不規則なる春の雑《ぞう》樹《き》を左右に、桜の枝を上に、温《ぬる》む水に根を抽《ぬき》んでて這《は》い上がる蓮《はす》の浮き葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切る枠《わく》が自然の景物の枠をあつめて成るがために、――枠の形が趣を損《そこ》なわぬほどに正しくて、また目を乱さぬほどに不規則なるがために――飛び石に、水に、緑に、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きにすぎざる恰《かつ》好《こう》の地位にあるために――最後に、一息の短きに、吐く幻影《まぼろし》と、忽《こつ》然《ぜん》に現われたるために――二人の視線は水の向こうの二人にあつまった。とともに、水の向こうの二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合わす四人は、互いに互いを釘《くぎ》付《づ》けにして立つ。きわどい瞬間である。はっと思う刹《せつ》那《な》をいちばんはやく飛び超《こ》えたものが勝ちになる。
女はちらりと白《しろ》足袋《たび》の片方を後ろへ引いた。代《たい》赭《しや》に染めた古代模様の鮮やかに春を寂《さ》びたる帯の間から、するすると蜿蜒《うね》るものを、引きちぎれとばかり鋭く抜き出した。繊《ほそ》き蛇《だ》の膨《ふく》れたる頭《かしら》を掌《たなごころ》に握って、黄金《こがね》の色を細長く空に振れば、深《しん》紅《く》の光ははっしと尾より迸《ほとばし》る。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦《さん》爛《らん》たる金鎖が動かぬ稲妻のごとく懸《か》かっていた。
「ホホホホいちばんあなたによく似合うこと」
藤尾の癇《かん》声《ごえ》は鈍い水を敲《たた》いて、鋭く二人の耳に跳《は》ね返ってきた。
「藤……」と動きだそうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の目から活人画が消える。追いかぶさるように、後ろから乗《の》し懸《か》かってきた甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に言いながら、煙《けむ》に巻かれた人を植え込みの影へ引いて行く。
肩に手を掛けて押すように石段を上がって、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉《とびら》に似たるフランス窓を左右からどたりと立てきった。上《うえ》下《した》の栓釘《ボールト》を式《かた》のごとく鎖《さ》す。次に入り口の戸に向かう。かねて差し込んである鍵《かぎ》をかちゃりと回すと、錠は苦もなくおりた。
「なにをするんだ」
「部屋を立てきった。人がはいって来ないように」
「なぜ」
「なぜでもいい」
「ぜんたいどうしたんだ。たいへん顔色が悪い」
「なにだいじょうぶ。まあ掛けたまえ」とさいぜんの椅子を机に近く引きずってくる。宗近君は子供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた後、静かに、用い慣れた安《あん》楽《らく》椅子《いす》に腰をおろす。体《からだ》は机に向かったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾はだめだよ」と言う。落ちついた調子のうちに、なんとなく温《ぬる》い暖《あたた》かみがあった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂《さ》びたるなかを人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう言った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹のほうが目がある。藤尾はだめだ。飛び上がりものだ」
かちゃりと入り口の円鈕《ノツブ》を捩《ねじ》ったものがある。戸は開かない。今度はとんとんと外から敲《たた》く。宗近君は振り向いた。甲野さんは目さえ動かさない。
「打《う》ちやっておけ」と冷やかに言う。
入り口の扉に口をつけたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ馳けながら遠《とお》退《の》いて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが言う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
あとは静かになる。机の上の置き時計がきちきちと鳴る。
「金時計もよせ」
「うん。よそう」
甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を拱《こまぬ》いたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と欽吾はまた首を向け直した。「藤尾に嫌《きら》われたよ。黙ってるほうがいい」
「うん黙ってる」
「藤尾には君のような人格は解《わか》らない。あさはかな跳《は》ね返《かえ》りものだ。小野にやってしまえ」
「このとおり頭ができた」
宗近君は節《ふし》太《ぶと》の手を胸から抜いて、刈りたての頭の天辺《てつぺん》をとんと敲いた。
甲野さんは目《め》尻《じり》に笑いの波を、あるか、なきかに寄せて重々しくうなずいた。あとから言う。
「頭ができれば、藤尾なんぞはいらないだろう」
宗近君は軽くうふんと言ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝《ひざ》頭《がしら》の上へ載せる。宗近君は巻き煙草《たばこ》を燻《くゆ》らしはじめた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独《ひと》り語《ごと》のように言う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独り語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙《けむ》を押し開いて、元気づいた顔を近寄せた。
「本来の無一文から出直すんだからこれからさ」
指の股《また》に敷《しき》島《しま》を挟《はさ》んだまま、持って行く口のあることさえ忘れて、呆気《あつけ》に取られた宗近君は、
「本来の無一文から出直すとは」とみずからみずからの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答えをする。――
「僕はこの家《うち》も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽くしを書いているときだ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三《み》つ鱗《うろこ》を描いてるときだ。――その模様がいちばんよくできている」
「やってしまうってそうたやすく……」
「なにいるものか。あればあるほど累《わずら》いだ」
「御叔母《おば》さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母《おば》さんが困るだろう」
「やらないほうが困るんだ」
「だって御叔母《おば》さんは始終君がむやみなことをしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽《にせ》物《もの》だよ。君らがみんな欺かれているんだ。母じゃない謎《なぞ》だ。澆《ぎよう》季《き*》の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君はほんとうの母でないから僕が僻《ひが》んでいると思っているんだろう。それならそれでいいさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「むろん信用するさ」
「僕のほうが母より高いよ。賢いよ。理由《わけ》が分かっているよ。そうして僕のほうが母より善人だよ」
宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家《うち》を出てくれるなというのは、出てくれという意味なんだ。財産を取れというのは寄こせという意味なんだ。世話をしてもらいたいというのは、世話になるのが厭だという意味なんだ。――だから僕は表向き母の意志に忤《さから》って、内実は母の希望どおりにしてやるのさ。――見たまえ、僕が家を出たあとは、母が僕がわるくって出たように言うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
宗近君は突然椅子を立って、机の角まで来ると片《かた》肘《ひじ》を上に突いて、甲野さんの顔を掩《お》いかぶすように覗《のぞ》き込みながら、
「貴様、気が狂ったか」と言った。
「気違いは頭から承知のうえだ。――今まででも蔭《かげ》じゃ、ばかの気違いのと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
この時宗近君の大きな丸い目から涙がぽたぽたと机の上のレオパルディに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向こうを出してしまえばいいのに……」
「向こうを出したって、向こうの性格は堕落するばかりだ」
「向こうを出さないまでも、こっちが出るには当たるまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「いらないもの」
「ちょっと僕に相談してくれればよかったのに」
「いらないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
宗近君はふうんと言った。
「僕にいらない金のために、義理のある母や妹《いもと》を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分からない」
宗近君は机の上にあるレオパルディを無意味に取って、背皮を竪《たて》に、勾《こう》配《ばい》のついた欅《けやき》の角でとんとんと軽く敲《たた》きながら、少し沈吟の体《てい》であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と言う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「厭かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父《おやじ》のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母《おば》さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見《み》損《そこ》なっても、日本じゅうがことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値《ねうち》を解している。君の胸のなかを知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気《き》遣《づか》いのない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家を出ていい。山の中へはいってもいい。どこへ行ってもどう流浪しても構わない。なんでもいいから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受け合ってきたんだ。君がいうことを聞いてくれないと妹に合わす顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためならなんでもするよ。殺すのはもったいない」
宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。
一八
小夜子は婆《ばあ》さんから菓子の袋を受け取った。底を立てて出雲《いずも》焼《や》きの皿《さら》に移すと、真中にある青い鳳《ほう》凰《おう》の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁はだいぶ残っている。揃《そろ》えて渡す二本の竹《たけ》箸《ばし》を、落とさぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと縁《えん》に逼《せま》ってくる。
「お嬢さんは、東京をご存じでしたな」と問いかけた。
菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後ろへ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ちかねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――たいへん大きくなりましたな」
と突然別問題に飛び移った。
小夜子は淋《さび》しい笑《え》顔《がお》を俯《うつ》向《む》けて、今度は答えさえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺めている。これからこの女の結婚問題を壊《こわ》すんだなと思いながら平気で眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生《しよう》涯《がい》の幸福についてはあまり同情を表しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べばいいものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思ったことのない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害せらるるものと信じている。想像力を待って、はじめて、全《まつた》き人性に戻《もと》らざる好処置が、知恵分別の純作用以外に活《い》きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いたことがない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫《ふう》子《し》の一言《ごん》でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考ええざる問題である。
浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂先生は変な咳《せき》を二つ三つ塞《せ》いた。小夜子は心もとなく父の方《かた》を向く。
「お薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「お寒いことはござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
先生は右の手《て》頸《くび》へ左の指を三本かけた。小夜子は浅井のいることも忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見つめている。先生の顔は髯《ひげ》とともに日ごとに細長く瘠《や》せこけてくる。
「どうですか」と気《き》遣《づか》わしげに聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱がとれない」と額に少し皺《しわ》が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立ちを野中に避けて、頼りと思う一《いつ》本《ぽん》杉《すぎ》をありがたしと梢《こずえ》を見れば稲妻がさす。怖《こわ》いというよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳《かん》癪《しやく》なら、機《き》嫌《げん》の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽くしようがない。かりそめの風邪《かぜ》と、当人も思い、自分も苦にしなかった昨日今日の咳を、蔭《かげ》へ回って聞いてみると、医者は性質《たち》がよくないと言う。二、三日で熱が退《ひ》かないといって焦慮《じれ》るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。言わねば気で通す。そのうえ疳《かん》を起こす。この調子で進んでゆくと、一年の後には神経が赤裸になって、空気に触れても飛び上がるかもしれない。――昨夜《ゆうべ》小夜子は目を合わせなかった。
「羽織でも召していらしったらいいでしょう」
孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。ひとつ計ってみよう」と言う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無《む》造《ぞう》作《さ》に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪をひいてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と言った。先生の病気に対してはまるで同情も頓《とん》着《じやく》もなかった。病気の源因と、経過と、容体をくわしく聞いてもらおうと思っていた先生は当てが外《はず》れた。
「おい、ないかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただいま」と小《ち》さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて、
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
浅井君はつまらなくなる。はやく用を片づけて帰ろうと思う。
「先生は小野はいっこうだめですな。ハイカラにばかりなって。お嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
孤堂先生の窪《くぼ》んだ眼《まなこ》は一度に鋭くなった。やがて鋭いものが一面に広がって顔じゅう苦《にが》々《にが》しくなる。
「よしたほうがええですな」
置き失《な》くした験温器を捜していた、次の間の小夜子は、長《なが》火《ひ》鉢《ばち》の二番めの抽《ひ》き出《だ》しを二寸ほど抜いたままはたりと引く手を留めた。
先生の苦々しい顔はいっそうこまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想しえない。
「小野は近ごろ非常なハイカラになりました。あんなところへ行くのはお嬢さんの損です」
苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪《わる》口《くち》を言いに来たのかね」
「ハハハハ先生ほんとうですよ」
浅井君は妙なといころで高笑いをした。
「よけいなお世話だ。軽薄な」と鋭く跳《は》ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君ははじめて驚いた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。なにをぐずぐずしている」
次の間の返事は聞こえなかった。ことりともいわぬうちに、片寄せた障子に影がさす。腰板の外《はず》れから細い白木の筒がそっと出る。畳の上で受け取った先生はぽんといわして筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳《かざ》して二、三度やけに振りながら、
「なんだって、そんなよけいなことを言うんだ」と度盛りを透かして見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこのあいだに元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
先生は腋《わき》の下へ験温器を持ってゆくことを忘れた。茫《ぼう》然《ぜん》としている。
「ああいう男だものだから、自分で先生のところへ来て断わりきれないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっとくわしく話すがいい」
「二、三日ちゅうにぜひこちらへご返事をしなければならないからと言いますから、僕が代理にやってきたんです」
「だから、どういう理由で断わるんだか、それをくわしく話したらいいじゃないか」
襖《ふすま》の蔭《かげ》で小夜子が洟《はな》をかんだ。つつましき音ではあるが、一《ひと》重《え》隔ててすぐ向こうにいる人のそれと受け取れる。鴨《かも》居《い》に近く聞こえたのは、襖《ふすま》越《ご》しに立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたかしらぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないというんです」
「じゃ博士の称号のほうが、小夜より大事だというんだね」
「そういうわけでもないでしょうが、博士になっておかんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分かった。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のないことだからというんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりのことだね」
「証文でもないですが――その代わり長いあいだお世話になったから、そのお礼としては物質的の補助をしたいというんです」
「月々金でもくれるというのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっとお出で。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
小夜は襖の蔭にうずくまったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君には妻君があるかい」
「ないです。貰《もら》いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いておくがいい。――人の娘は玩具《おもちや》じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替えにされてたまるものか。考えてみるがいい。いかな貧乏人の娘でも活《い》き物《もの》だよ。私《わたし》から言えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう言ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢《みつ》いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついてきてかわいそうだから、好意ずくでしたことだ。なんだ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出ておいで、おい、いないのか」
小夜子は襖の蔭で啜《すす》り泣きをしている。先生はしきりに咳《せ》く。浅井君は面《めん》喰《くら》った。
こう怒《おこ》られようとは思わなかった。またこう怒られるわけがない。自分のいうことは事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号はたいせつである。曖《あい》昧《まい》な約束をやめてくれというのもさほど不義理とは受け取れない。世話をしてもらいっ放《ぱな》しでは不都合かもしれないが、してもらっただけのことを物質的に返すと言い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒りだす。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢って話してみますから」と言った。これは本気の沙《さ》汰《た》である。
しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚をきわめてたやすいことのように考えているが、そんなものじゃない」と口《くち》惜《お》しそうに言う。
先生の言う主意は分からんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけでさしつかえないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使いに来たんだろう」
浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんなことを言うんだろう。小野のほうが破談になれば小夜は明日《あした》からどこへでも行けるだろうと思って、言うんだろう。五年以来夫だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家《わき》へ嫁に行くような女があるものか。あるかもしれないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽率に破談の取り次ぎをして、小夜の生涯を誤《あやま》らして、それでいい心持ちなのか」
先生の窪《くぼ》んだ目がにじんできた。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあお待ちなさい、先生。もう一遍小野に話してみますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんなくわしい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでもいい。厭だというものにむりに貰ってもらいたくはない。しかし本人が来てじかに訳を話すがいい」
「しかしお嬢さんが、そういうお考えだと……」
「小夜の考えぐらい小野には分かっているはずださ」と先生は平手で頬《ほお》を打つように、ぴしゃりと言った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう言ってくれ。井上孤堂はいくら娘がかわいくっても、厭だという人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
襖の向こう側で、袖《そで》らしいものが唐《から》紙《かみ》の裾《すそ》にあたる音がした。
「そう返事をしてさしつかえないだろうね」
答えはさらになかった。ややあって、わっという顔を袖の中に埋めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでもいい。じかに来て断われと言ってくれ」
「とにかく……そう小野に言いましょう」
浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を上げたとき、先生は、
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と言った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験したことはない。横町を出て蕎麦《そば》屋《や》の行燈《あんどん》を右に通りへ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
突然電車に乗った浅井君は約一時間余の後、ぶらりと宗近家の門からあらわれた。つづいて車が二梃《ちよう》出る。一梃は小野の下宿へ向かう。一梃は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後《おく》れて、玄関の松の根ぎわに梶《かじ》棒《ぼう》を上げた一梃は、黒い幌《ほろ》をおろしたまま、甲野の屋敷をさして馳《か》ける。小説はこの三梃の使命を順次に述べなければならぬ。
宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪《わ》の音を留めたとき、小野さんはちょうど午《ひる》飯《めし》を済ましたばかりである。膳が出ている。飯《めし》櫃《びつ》も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙《けむり》を眺《なが》めながら考えている。今日は藤尾と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかしぜひ行かねばならぬとなると、なんとなく気が咎《とが》める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかもしれぬ。賽《さい》はもとより自分で投げた。一《いち》六《ろく*》の目は明《あき》らかに出た。ルビコン《*》は渡らねばならぬ。しかし事もなげに河《かわ》を横切ったシーザーは英雄である。通例の人はいざという間ぎわになってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ずよせばよかったと後悔する。乗りかけた船に片足を入れたとき、船頭が出ますよと棹《さお》を取り直すと、待ってくれと言いたくなる。誰か陸《おか》から来て引っ張ってくれればいいと思う。乗りかけたばかりならまだ陸へ戻《もど》る機会があるからである。約束も履行せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命という場合ではない。メレディス《*》の小説にこんな話がある。――ある男とある女が謀《しめ》し合わせて、停車場《ステーシヨン》で落ち合う手《て》筈《はず》をする。手筈が順にいって、汽笛がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざという間ぎわまで逼《せま》ったとき女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄《ぼけ》の顔を箱馬車の中に入れて、空《むな》しく家《うち》へ帰ってきた。あとで聞くと朋《ほう》友《ゆう》の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤《あやま》らしたのだと言う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんなふうに約束を破ることができたら、かえって仕合わせかもしれぬと思いつつ煙草《たばこ》の煙《けむり》を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。諾といえばどっちへ転《ころ》んでも幸いである。否と聞くならば、退《の》っ引《ぴ》きならぬ瀬戸ぎわまであらかじめ押しておいて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けてゆくつもりの計画だから、一刻もはやく大森へ行ってしまえば済む。否という返事を待つ必要はむろんない。ないが、決行する間ぎわになると草気《き》がかりになる。頭で拵《こしら》え上げた計画を人情が崩《くず》しにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部《へ》屋《や》の模様と、暮らしのありさまとを眼《ま》のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長《ひきのば》して想像の鏡に思い浮かべて眺めると二たとおりになる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である。豊かである。ことごとく幸福である。鏡の面《おもて》から自分の影を拭《ふ》き消すと闇《やみ》になる、暮れになる。すべてが悲惨《みじめ》になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小《ち》さき竈《かまど》に立つべき煙を予想しながら薪《たきぎ》を奪うと一般である。忍びない。人は目を閉《つむ》って苦い物を呑《の》む。こんな絡《から》んだ縁をふつりと切るのに想像の目を開《あ》いていてはできぬ。そこで小野さんは目の閉《つぶ》れた浅井君を頼んだ。頼んだ後は、想像を殺してしまえば済む。とおぼつかないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易なことではない。持って生まれた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋《ろう》策《さく》である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
瘠《や》せた頬を描く。落ち込んだ目を描く。縺《もつ》れた髪を描く。虫のような気息《いき》を描く。――そうして想像は一転する。
血を描く。物《もの》凄《すご》き夜と風と雨とを描く。寒き灯《ともし》火《び》を描く。白《しら》張《は》りの提灯《ちようちん》を描く。――ぞっとして想像はとまる。
想像のとまったとき、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々の波《は》瀾《らん》を起こす。――良心を質に取られる。生涯受け出すことができぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲がる。寝《ね》覚《ざ》めがわるい。社会が後ろ指をさす。
惘《もう》然《ぜん》として煙草《たばこ》の煙《けむり》を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促す。橇《そり》の上に力なき身を託したようなものである。手を拱《こまぬ》いていればしぜんと約束の淵《ふち》へ滑《すべ》り込む。「時」の橇ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行くことにするか。後ろ暗い行ないさえなければ行ってもさしつかえないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子のほうは浅井の返事しだいで、どうにかしよう」
煙草の煙が、未来の影を朦《もう》朧《ろう》と罩《こ》め尽くすまで濃くたなびいたとき、宗近君の頑《がん》丈《じよう》な姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。
いつのまにどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっとはいった。
「だいぶ狼《ろう》藉《ぜき》だね」と言いながら紅《べに》溜《だ》めの膳《ぜん》を廊下へ出す。黒塗りの飯《めし》櫃《びつ》を出す。土《ど》瓶《びん》まで運び出しておいて、
「どうだい」と部屋の真ん中に腰をおろした。
「どうも失敬です」と主人は恐縮の体《てい》で向き直る。おりよく下女が来て湯沸かしとともに膳《ぜん》椀《わん》を引いて行く。
心を二《に》六《ろく》時《じ》に委《ゆだ》ねて、隻《せき》手《しゆ*》を動かすことをあえてせざるものは、おのずから約束を践《ふ》まねばならぬ運命をもつ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりと怖《こわ》い所へ行く。突然と横合いから飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途に遮《さえぎ》った。遮られた人はじゃまに逢《あ》うと同時に、一刻の安きを故《もと》の位地に貪《むさぼ》ることができる。
約束は履行すべきものと極《き》まっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、じゃまが降ってきて、守ることができなかったのとは心持ちが違う。約束が剣《けん》呑《のん》になってきたとき、自分に責任がないように、人が履行を妨げてくれるのは嬉《うれ》しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君にじゃまをされたから仕方がないと答える。
小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にしておもしろからぬ感情のために四方から深く鎖《とざ》されている。
宗近君と藤尾とは遠い縁続きである。自分が藤尾を陥《おとしい》れるにしても、藤尾が自分を陥れるにしても、二人のあいだに取り返しのつかぬ関係ができそうなきわどい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうというやさきに、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気が咎《とが》める。無関係のものならそれでもいい。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。
ただの親類ならまだしもである。かねてから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日まで二人の関係を知らずに、昔の望みをそのままに繋《つな》いでいた宗近君である。偸《ぬす》まれた金の行く先も知らずに、空《から》金《きん》庫《こ》を護《まも》っていた宗近君である。
秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、なかば劈《つんざか》れた。眠っていた目を醒《さま》しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上のことでもしゃべったら――困る。気の毒とはただ先方へ対していう言葉である。気が咎めるとは、そのうえにこちらから済まぬことをした場合に用いる。困るとなると、もういっそう上《うわ》手《て》に出て、利害が直接にわが身の上に跳ね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。
宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪で尻《しり》こそばゆく取り巻かれている。そのうえには気が咎める輪が気味わるそうに重なっている。いちばん外には困る輪が黒墨を流したように際限なく未来に連なっている。そうして宗近君はこの未来を司《つかさど》る主人公のように見えた。
「昨日は失敬した」と宗近君が言う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心もとなく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気《け》色《しき》も見えぬ。
「小野さん、さっき浅井が来てね。そのことでわざわざやってきた」とすばりと言う。
小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこししてから、煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、敵《かたき》が来たと思っちゃいけない」
「いえけっして……」と言ったときに小野さんはまたぎくりとした。
「僕は当てっ擦《こす》りなど言って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。このとおり頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に背《そむ》く……」
宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分からなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな卑しい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲《か》斐《い》がない。君だって教育のある事理《わけ》の分かった男だ。僕をそういう男と見て取ったが最後、僕の言うことは君に対して全然無効になるわけだ」
小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら閑《ひま》人《じん》だって、君に軽《けい》蔑《べつ》されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の言うとおりなんだろうね」
「浅井がどういいましたか」
「小野さん、真《ま》面《じ》目《め》だよ。いいかね。人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上《うわ》皮《かわ》ばかりで生きていちゃ、相手にする張り合いがない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。いいかね、分かったかい」
「ええ、分かりました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分かったら君を対等の人間と見ていうがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――しれないです」と小野さんは術なげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく言うと、はなはだお気の毒だが、まったく事実だろう」
「ええ」
「他人《ひと》が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮ばかりで生きている軽薄な社会では構ったことじゃない。他人どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連《れん》中《じゆう》もたくさんある。僕もその一人かもしれない。しれないどころじゃない。たしかにその一人だろう」
小野さんはこの時はじめて積極的に相手を遮《さえぎ》った。
「貴所《あなた》は羨《うらや》ましいです。実は貴所のようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違いないです」
愛《あい》嬌《きよう》に調子を合わせるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本《ほん》音《ね》が出る。悄《しよう》然《ぜん》として誠を帯びた声である。
「小野さん、そこに気がついているのかね」
宗近君の言葉にはなんだか暖かみがあった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と言った。
「どうして」
「生まれつきだから仕方がないです」
これも下を向いたまま言う。
宗近君はなおと顔を寄せる。片《かた》膝《ひざ》を立てる。膝の上に肱《ひじ》を乗せる。肱で前へ出した顔を支《ささ》える。そうして言う。
「君は学問も僕よりできる。頭も僕よりいい。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げたとき、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして言う。――
「こういう危ういときに、生まれつきを敲《たた》き直しておかないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけでできている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後は心持ちがいいものだよ。君にそういう経験があるかい」
小野さんは首を垂《た》れた。
「なければ、ひとつなってみたまえ、今だ。こんなことは生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もうだめだ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほどでき上がってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺《ほら》じゃない。自分で経験してみないうちは分からない。僕はこのとおり学問もない。勉強もしない、落第もする。ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳《か》けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
宗近はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、なんでもない。ときどき真面目になるからさ。なるからというより、なれるからといったほうが適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出ることはない。真面目になれるほど、腰が据《すわ》ることはない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚することはない。天地の前に自分が儼《げん》存《そん》しているという観念は、真面目になってはじめて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけてはじめて真面目になった気持ちになる。安心する。実をいうと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の言うことは分からないかね」
「いえ、分かったです」
「真面目だよ」
「真面目に分かったです」
「そんならいい」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井という男は、まるで人間として通用しない男だから、あれのいうことをいちいち真《ま》に受けちゃたいへんだが――本来を言うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話したとおりを君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君のいうところと照らし合わせたうえで事実を判断するのが順当かもしれない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいなことは知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、滑ったの転んだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで子供みたようなことは、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければいいのかね。そこが君のやるところだ。じゃまでなければ相談になろう。奔走してもいい」
悄《しよう》然《ぜん》としてうなだれていた小野さんは、この時居ずまいを正した。顔を上げて宗近君を真向きに見る。眸《ひとみ》は例になくしっかと坐《すわ》っていた。
「真面目な処置は、できるだけはやく、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのはまったく僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃいい、後で分かることだから」
「まったく済まんです。――断わらなければよかったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだとおり断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われというそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪《あやま》ってきます」
「だがね、今僕の阿父《おやじ》を井上さんのところへやっておいたから」
「阿父《おとつ》さんを?」
「うん、浅井の話によると、なんでもたいへん怒《おこ》ってるそうだ。それからお嬢さんはひどく泣いてるというからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、なにか事でも起こると困るから慰問《なぐさめ》かたがたつなぎにやっておいた」
「どうもいろいろご親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、お役にさえに立てば喜んでなんでもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調《ととの》えば、車でお嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、お嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」
「やります。こっちから行ってもいいです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
小野さんは少しくひるんで見えた。宗近君はすぐつける。
「なに、僕が君の細君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そういう必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前できれいに藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
「連れて行ってもいいですが、あんまり面《つら》当《あ》てになるから――なるべくなら穏便にしたほうが……」
「面当ては僕も嫌《きら》いだが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
「しかし……」
「君が面《めん》目《ぼく》ないというのかね。こういうはめになって、面目ないの、極《き》まりが悪いのと言ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上《うわ》皮《かわ》の活動だ。君は今真面目になると言ったばかりじゃないか。真面目というのはね、僕に言わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君という一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃなんにもならない……」
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
「よろしい」
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。何時に」
「三時に停車場《ステーシヨン》で出合うはずになっているんですが」
「三時と――今何時かしらん」
ぱちりと宗近君のチョッキの中ほどで音がした。
「もう二時だ。君はどうせ行くまい」
「よすです」
「藤尾さん一人で大森へ行くことはだいじょうぶないね。打ちやっておいたら帰ってくるだろう。三時すぎになれば」
「一分でも後《おく》れたら、待ち合わす気《き》遣《づか》いありません。すぐ帰るでしょう」
「ちょうどいい。――なんだか、降ってきたな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなか歇《や》みそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父《おやじ》が待ちかねて心配しているに違いない」
春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千《ち》筋《すじ》を引いて落ちてくる。火《ひ》鉢《ばち》がほしいくらいの寒さである。
手紙は点滴の響きの裡《うち》に認められた。使いが幌《ほろ》の色を、打つ雨に揺《うご》かして、いっさんに去ったとき、叙述は移る。さいぜん宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑《きよう》居《きよ*》にあって、応分の使命をつくしつつある。
孤堂先生は熱が出て寝《ね》た。秘蔵の義《ぎ》董《とう》の幅に背《そむ》いて横たえた額《ひたい》ぎわを、小夜子が氷《ひよう》嚢《のう》で冷やしている。うずくまる枕《まくら》元《もと》に、泣き腫《は》らした目を赤くして、氷嚢の括《くく》り目《め》に寄る皺《しわ》を勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父《おとつ》さんは、鉄線模様の臥被《かいまき》を二尺ばかり離れて、どっしりと尻《しり》を据《す》えている。厚い膝《ひざ》頭《がしら》が座布団から喰《は》み出して軽く畳を抑《おさ》えたところは、血が退《ひ》いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。
宗近老人の声は相変わらず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人のあいだに進行しつつある。
「実はそういう次第で突然参上いたしたので、ご不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐことと、どうか悪《あ》しからず」
「いや、はなはだ失礼の体《てい》たらくで、私こそ恐縮で。起きてご挨《あい》拶《さつ》を申し上げなければならんのだが……」
「どういたして、そのままのほうがお話がしやすくて結句私の都合になります。ハハハハ」
「まことにご親切にわざわざお尋ねくだすってありがたい」
「なに、昔なら武士は相《あい》見《み》互《たが》いというところで。ハハハハ私などもいつ何《なん》時《どき》お世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へお移りではさぞご不自由でお困りだろう」
「二十年めになります」
「二十年め。そりゃあそりゃあ。二た昔ですな。ご親類は」
「ないと同然で。久しいあいだ、音《いん》信《しん》不通にしておったものですからな」
「なるほど。それじゃ、まったく小野氏《うじ》だけがお力ですな。そりゃ、どうも、怪《け》しからんことになったもので」
「ばかをみました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そうご心配なさらずとも」
「心配はいたしません。ただばかをみただけで。先刻よく娘にも因果を含めて申し聞かしておきました」
「しかしせっかくこれまでご丹精になったものを、そう思いきりよくお断念《あきらめ》になるのも惜しいから、どうかここはひとまず私どもにお任せください。忰《せがれ》もできるだけ骨を折ってみたいと申しておりましたから」
「ご好意は実に辱《かたじけ》ない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」
小夜子は氷嚢をそっと上げて、額の露をていねいに手《て》拭《ぬぐい》でふいた。
「冷やすのは少し休《や》めてみよう。――なあ小夜行かんでもいいな」
小夜子は氷嚢を盆へ載せた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へ蔽《お》いかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂《た》れる。孤堂先生は枕につけた胡《ご》麻《ま》塩《しお》頭《あたま》を
「いいな」と言いながら半分ほど後ろへ捩《ね》じ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は故《もと》の位地に復した。潤《うる》んだ目をひらかしてじっと老人を見守っている。やがて
「しかしそれがために小野が藤尾さんとかいう婦人と結婚でもしたら、ご子息にはお気の毒ですな」と言った。
「いや――そりゃ――ご心配には及ばんです。忰《せがれ》は貰わんことにしました。たぶん――いや貰わんです。貰うと言っても私が不承知です。忰を嫌うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」
「小夜や、宗近さんの阿父《おとつ》さんも、ああおっしゃる。同《おんな》じことだろう」
「私は――参らんでも――よろしゅうございます」と小夜子が枕の後ろで切れ切れに言った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲《か》斐《い》がない。小野氏にもだんだん事情のあることだろうから、まあ忰の通知しだいで、どうか、先刻お話を申したようにお聞き済みを願いたい。――自分の忰のことをかれこれ申すのは異なものだが、忰は事理《わけ》の分かった奴《やつ》で、けっして後でご迷惑になるような取り計らいはいたしますまい。ご破談になったほうがおためだと思えばそのほうをお勧めしてくるでしょう。――はじめてお目にかかったのだがどうか私をご信用ください。――もうなんとか言ってくる時分だが、あいにくの雨で……」
雨を衝《つ》く一両の車は輪を鳴らして、格子の前で留まった。がらりと明くとたんに、ぐちゃりと濡《ぬ》れた草鞋《わらじ》を沓《くつ》脱《ぬ》ぎへ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。
第三の車が糸子を載せたまま、甲野の門に〓《りん》々《りん》の響きを送りつつ馳《か》けて来るあいだに、甲野さんは書斎を片づけはじめた。机の抽《ひ》き出《だ》しを一つずつ抜いて、いつとなく溜《た》まった往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨てる。床の上はちぎれた半切れで膝《ひざ》のところだけが堆《うすたか》くなった。甲野さんは乱るる反故《ほご》屑《くず》を踏みつけて立った。今度は抽き出しから一枚、二枚と細字に認《したた》めた控えを取り出す。なかには五、六ページ纏《まと》めて綴《と》じ込んだのもある。たいていは西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。なかには半行も読まずに置き易《か》えるのもある。しばらくすると、重なるものは小一尺の高さまできた。抽き出しはたいてい空《から》になる。甲野さんは上下へ手をかけて、総体を暖炉の傍まで持ってきたが、やがて、無言のまま抛《な》げ込んだ。重なるものは主人公の手を離るるとともに一面に崩れた。
葡《ぶ》萄《どう》の葉を青銅に鋳た灰《はい》皿《ざら》がテーブルの上にある。灰皿の上にマッチがある。甲野さんは手を延ばしてマッチの箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五、六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルディの隣にあった黄表紙の日記を持って暖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒いインキと鼠《ねずみ》の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まできて留まった。なにを書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕《ゆうべ》寝《ね》るまえに書き込んだ、
入レ道無言客《みちにいるむごんのかく》。出レ家有髪僧《いえをいずうはつのそう》。
の一《いち》聨《れん》が、最後のページの最後の句であることだけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。しゃがんだ。暖炉敷《ハースラツグ》の前でしゅっという音がする。乱れた紙は、静かなるうちに、惓怠《けつたる》い伸びをしながら、下から暖められてくる。きな臭い煙《けむり》が、紙と紙の隙《すき》間《ま》を這い上がって出た。すると紙は下層《したがわ》の方から動きだした。
「うん、まだ書くことがあった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変わる。ぼうと音がすると暖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
戸口に立った母は不審そうに暖炉の中を見つめている。甲野さんは声に応じて体を斜めに開く。袂《たもと》の先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋を暖めます」と言ったなり、上から暖炉の中を見下ろした。火は薄い水《みず》飴《あめ》の色に燃える。藍と紫が折り折りは思い出したように交じって煙《えん》突《とつ》の裏へ上って行く。
「まあおあたんなさい」
おりから風に誘われた雨が四、五筋、窓ガラスに当たって砕けた。
「降りだしましたね」
母は返事をせずに三《み》足《あし》ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽《きん》吾《ご》を見て、
「寒ければ、石炭を焼《た》かせようか」と言った。
めらめらと燃えた火は、揺らぐ紫の舌の立ち騰《のぼ》る後から、ぱっと一度に消えた。暖炉の中は真っ黒である。
「もうたくさんです。もう消えました」
言いおわった欽吾は、暖炉に背中を向けた。時に亡父《おやじ》の目玉が壁の上からぴかりと落ちてきた。雨の音がざあっとする。
「おやおや手紙がたいへん散らばって――みんないらないのかい」
欽吾は床の上を眺めた。裂き棄てた書面はみごとに乱れている。あるいは二、三行、あるいは五、六行、はなはだしいのは一行の半分で引きちぎったのがある。
「みんないりません」
「それじゃ、ちっと片づけよう。紙《かみ》屑《くず》籠《かご》はどこにあるの」
欽吾は答えなかった。母は机の下を覗《のぞ》き込む。西洋流の籃《かご》製《せい》の屑籠が、足掛けの向こうに仄《ほの》かに見える。母は屈《こご》んで手を伸ばした。紺《こん》緞《どん》子《す》の帯が、窓からさす明かりをまともに受けた。
欽吾は腕を右へまっすぐに、日《ひ》蔽《おい》のかかった椅子の背《せ》頸《くび》を握った。瘠《や》せた肩を斜めにして、ずるずると机の傍まで引いて来た。
母は机の奥から屑籠を引きずり出した。手紙の断片《きれ》を一つ一つ床から拾って籠の中へ入れる。捩《ね》じ曲げたのをたんねんに引き延ばして見る。「いづれ拝《はい》眉《び》のうへ……」というのを投げ込む。「……御免蒙《かうむ》りたく候《そろ》。もつとも事情の許す場合には御……」というのを投げ込む。「……はたうてい辛《しん》抱《ばう》致《いた》しかね……」というのを裏返して見る。
欽吾は尻《しり》目《め》に母をじろりと眺めた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと紺《こん》足袋《たび》が白い日蔽の上に揃《そろ》った。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上がる。
「おや、なにをするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から仰向いた。目と目の間に怖《おそ》れの色が明らかに読まれた。
「額をおろします」と上から落ちついて言う。
「額を?」
怖れは愕《おどろ》きと変じた。欽吾は鍍《と》金《きん》の枠《わく》に右の手を懸《か》けた。
「ちょいとお待ち」
「なんですか」と右の手はやはり枠に懸かっている。
「額を外《はず》してなんにする気だい」
「持って行くんです」
「どこへ」
「家を出るから、額だけ持って行くんです」
「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっとゆっくり外したらよさそうなもんじゃないか」
「悪いですか」
「悪くはないよ。お前がほしければ持って行くが、いいけれども。なにもそんなに急がなくってもいいんだろう」
「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」
母は変な顔をして呆《ぼう》然《ぜん》として立った。欽吾は両手を額に掛ける。
「出るって、お前ほんとうに出る気なのかい」
「出る気です」
欽吾は後ろ向きに答えた。
「いつ」
「これから、出るんです」
欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、折《お》れ釘《くぎ》から外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手で恭《うやうや》しく捧《ささ》げたままである。母は下から言う。
「こんな雨が降るのに」
「雨が降っても構わないです」
「せめて藤尾に暇《いとま》乞《ご》いでもしていってやっておくれな」
「藤尾はいないでしょう」
「だから待っておくれというのだあね。藪《やぶ》から棒《ぼう》に出るなんて、御母《おつか》さんを困らせるようなもんじゃないか」
「困らせるつもりじゃありません」
「お前がその気でなくっても、世間というものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母《おつか》さんが恥を掻《か》きます」
「世間が……」と言いかけて額を持ちながら、首だけ後ろへ向けたとき、細長く切れた欽吾の目はひとたびは母に落ちた。やがて母から遠《とお》退《の》いて戸口に至ってはたと動かなくなった。――母は気味悪そうに振り返る。
「おや」
天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかに頭《つむり》を下げた。おうように膨《ふくら》ました廂《ひさし》髪《がみ》が故《もと》に帰ると、糸子は机の傍まで歩を移してくる。白足袋が両方揃ったとき、
「お迎えに参りました」とまっすぐに欽吾を見上げた。
「鋏《はさみ》を取ってください」と欽吾は上から頼む。顎《あご》で差し図をした。レオパルディの傍に、鋏がある。――ぷつりという音とともに額は壁を離れた。鋏はかちゃりと床の上に落ちた。両手に額を捧げた欽吾は、机の上でくるりと正面に向き直った。
「兄が欽吾さんを連れてこいと申しましたから参りました」
欽吾は捧げた額を目八分《ぶん》から、そろりそろりと下の方へ移す。
「受け取ってください」
糸子はしかと受け取った。欽吾は机から飛び下りる。
「行きましょう。――車で来たんですか」
「ええ」
「この額が乗りますか」
「乗ります」
「じゃあ」とふたたび額を受け取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。
「少しお待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。なにが気に入らないで、親の家《うち》を出るんだか知らないが、少しは私の心持ちにもなってみてくれないと、私が世間へ対して面《めん》目《ぼく》がないじゃないか」
「世間はどうでも構わないです」
「そんな聞きわけのないことを言って、――頑《がん》是《ぜ》ない子供みたように」
「子供なら結構です。子供になれれば結構です」
「またそんな。――せっかく、子供から大人《おとな》になったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一ととおりや二たとおりのことじゃないよ。お前。少しは考えてごらんな」
「考えたから出るんです」
「どうして、まあ、そんな無理を言うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行き届きから起こったことだから、いまさら泣いたって、口《く》説《ど》いたって仕方がないけれども、――私は――亡くなった阿父《おとう》さんに――」
「阿父さんはだいじょうぶです。なんとも言やしません」
「言やしませんたって――なにも、そう、意地にかかって私を苛《いじ》めなくってもよさそうなもんじゃないか」
甲野さんは額を提《さ》げたまま、なんとも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍についている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せてくる。遠い所から風が音を輳《あつ》めてくる。ざあっという高い響きである。また広い響きである。響きの裡《うち》に甲野さんは黙《もく》然《ねん》として立っている。糸子も黙然として立っている。
「少しは分かったかい」と母が聞いた。
甲野さんは依然として黙している。
「これほど言っても、まだ分からないのかね」
甲野さんはやはり口を開かない。
「糸子さん、こういう体《てい》たらくなんですから。どうぞお宅へお帰りになったら、阿父さんや兄さんにご覧のとおりをお話してください。――まことに、こんなところをあなたがたにお見せ申すのは、なんともかとも面目次第もございません」
「御叔母《おば》さん。欽吾さんは出たいのですから、すなおに出しておあげなすったらいいでしょう。むりに引っ張ってもなんにもならないと思います」
「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだお若いから、そういう奥底のないお考えも出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」
「なぜ」
「だって人の口はうるさいじゃありませんか」
「人がなんと言ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だってお互いに世間に顔出しができればこそ、こうやって今日を送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理のほうが大事でさあね」
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。おかわいそうじゃありませんか」
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより御叔母《おば》さんのためになるんじゃないの」
「世の中への義理ですよ」
「分からないわ、私には。――出たいものは世間がなんと言ったって出たいんですもの。それが御叔母さんの迷惑になるはずはないわ」
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんは濡《ぬ》れないんだから構わないじゃありませんか」
汽車のない時のことであった。山の男と海の男が喧《けん》嘩《か》をした。山の男が魚は塩辛いものだと言う。海の男が魚に塩気があるものかと言う。喧嘩はいつまでたっても鎮《しず》まらなかった。教育と名づくる汽車がかかって、理性の階段を自由に上下する方便が開けないと、お互いの考えはお互いに分からない。ある時は俗社会の塩《しお》漬《づ》けになりすぎて、ただ見てさえも冥《めい》眩《げん*》しそうな人間でないと、人間として通用しないことがある。それは嘘《うそ》だ偽りだと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬け趣味を主張する。――謎《なぞ》の女と糸子の応対は、どこまでいっても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念を異にするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して冒頭《あたま》から考えが違う。
海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を見下ろしている。糸子の言うところは弁護のできぬほど簡単である。母の主張は愛《あい》想《そ》のつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは阿爺《おやじ》の額を抱《いだ》いたまま立っている。べつだん退屈した気《け》色《しき》も見えない。じれったそうな様子もない。困ったという風《ふ》情《ぜい》もない。二人の問答が、日暮れまで続けば、日暮れまで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。
ところへ、雨の中の掛け声がした。車が玄関で留まった。玄関から足音が近づいてきた。真っ先に宗近君があらわれた。
「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。
「うん」と答えたぎりである。
「御叔母《おば》さんもここか。ちょうどいい」と腰を掛ける。後から小野さんがはいって来る。小野さんの影を一寸も出ないように小夜子がついてくる。
「御叔母さん、雨の降るのに大入りですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」
活躍の児《じ》は一句にして挨《あい》拶《さつ》と紹介を兼ねる。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支《ささ》えて立ったままである。小野さんも手持ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》に席につかぬ。小夜子と糸子はいたずらにていねいな頭《つむり》を下げた。打ち解けた言葉はむろん交わす機会がない。
「雨の降るのに、まあよく……」
母はこれだけの愛《あい》嬌《きよう》を一面に振り蒔《ま》いた。
「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。
「小野さんは……」と母が言いかけたとき、宗近君がまた遮《さえぎ》った。
「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないんですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と独《ひと》り語《ごと》のように言ったが、ちょっと振り返って、
「みんな掛けないか。立ってるとくたびれるぜ。もうじき藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。
「さあ、どうぞ」と母が言う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さんなんだい、それは……」
「父の肖像をおろしまして、あなた。持って出るとか申して」
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で言う。
「なに……」と甲野さんは提《さ》げていた額を床の上へおろして壁へ立てかけた。小夜子は俯《うつ》向《む》きながら、そっと額の方を見る。
「なんぞ藤尾に、ご用でもおあんなさるんですか」
これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
これは宗近の答えであった。
あとは――雨が降る。誰もなんとも言わない。この時一両の車はクレオパトラの怒りを乗せて韋《い》駄《だ》天《てん》のごとく新橋から馳《か》けて来る。
宗近君がチョッキの上で、ぱちりといわした。
「三時二十分」
なんとも応《こた》えるものがない。車は千《ち》筋《すじ》の雨を、黒い幌《ほろ》に弾《はじ》いていっさんに飛んで来る。クレオパトラの怒りは布《ふ》団《とん》の上で躍《おど》り上がる。
「御叔母さん、京都の話でも、しましょうかね」
降る雨の地に落ちぬまを追い越せと、乗る怒りは車夫の背を鞭《むち》うって馳けつける。横に煽《あお》る風を真向きに切って、歯を逆に捩《ねじ》ると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けてきた。
濃い紫の絹紐《リボン》に、怒りをあつめて、幌を潜《くぐ》るときにさっとふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。
「二十五分」
と宗近君が言い切らぬうちに、怒りの権《ごん》化《げ》は、辱《はずか》しめられたる女王のごとく、書斎の真ん中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐《リボン》にあつまる。
「やあ、お帰り」と宗近君が煙草《たばこ》を啣《くわ》えながら言う。藤尾は一言《ごん》の挨拶すら返すことを屑《いさぎよし》とせぬ。高い背を高く反《そ》らして、きっと部屋のなかを見回した。見回した目は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は背広の肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑《の》みかけの煙草を、青《あお》葡《ぶ》萄《どう》の灰《はい》皿《ざら》に放り込む。
「藤尾さん。小野は新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まんことになりました」
小野さんの句切りは例になく明《めい》瞭《りよう》であった。稲妻ははたはたとクレオパトラの眸《ひとみ》から飛ぶ。なにを猪口《ちよこ》才《ざい》なと小野さんの額を射た。
「約束を守らなければ、説明がいります」
「約束を守るとたいへんなことになるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が言う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
宗近君は二、三歩大《おお》股《また》に歩いてきた。
「僕が紹介してやろう」と一《ひと》足《あし》小野さんを横へ押し退《の》けると、後ろから小さい小夜子が出た。
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
藤尾の表情は忽《こつ》然《ぜん》として憎《ぞう》悪《お》となった。憎悪はしだいに嫉《しつ》妬《と》となった。嫉妬の最も深く刻み込まれたとき、ぴたりと化石した。
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年まえからの約束だそうだ」
小夜子は泣き腫《は》らした目を俯《ふ》せたまま、細い首を下げる。藤尾は白い拳《こぶし》を握ったまま、動かない。
「嘘《うそ》です。嘘です」と二遍言った。「小野さんは私の夫です。私の未来の夫です。あなたはなにを言うんです。失礼な」と言った。
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒りを満面に注ぐ。
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――
「宗近君の言うところはいちいちほんとうです。これは私の未来の妻に違いありません。――藤尾さん、今日までの私はまったく軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真《ま》面《じ》目《め》な人間になります。どうか許してください。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許してください」
藤尾の表情は三たび変わった。破裂した血管の血は真っ白に吸収されて、侮《ぶ》蔑《べつ》の色のみが深刻に残った。仮《か》面《めん》の形は急に崩れる。
「ホホホホ」
ヒステリ性の笑いは窓外の雨を衝《つ》いて高く迸《ほとば》った。同時に握る拳を厚板の奥に差し込むとたんにぬらぬらと長い鎖を引き出した。深《しん》紅《く》の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ揺《うご》く。
「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭《あか》黒《ぐろ》い宗近君の掌《てのひら》にしっかと落ちた。宗近君は一歩を暖炉に近く大股に開いた。やっという掛け声とともに赭黒い拳が空に躍《おど》る。時計は大理石の角で砕けた。
「藤尾さん、僕は時計がほしいために、こんな酔狂なじゃまをしたんじゃない。小野さん、僕は人の思いをかけた女がほしいから、こんな悪戯《いたずら》をしたんじゃない。こう壊《こわ》してしまえば僕の精神は君らに分かるだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
呆《ぼう》然《ぜん》として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬《かた》くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子《いす》を蹴《け》返《かえ》して、床の上に倒れた。
一九
凝る雲の底を抜いて、小一日空を傾けた雨は、大地の随に浸《し》み込むまで降ってやんだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李《すもも》に、かつ散り、かつ散って、残る紅《くれない》もまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとく亡ぶ。我《が》の女は虚栄の毒を仰いで斃《たお》れた。花に相手を失った風は、いたずらに亡き人の部屋に薫《かお》り初《そ》める。
藤尾は北を枕《まくら》に寝《ね》る。薄く掛けた友禅の小《こ》夜《よ》着《ぎ》には片《かた》輪《わ》車《ぐるま*》を、浮き世らしからぬ恰《かつ》好《こう》に、染め抜いた。上には半分ほど色づいた蔦《つた》が一面に這《は》いかかる。淋《さび》しき模様である。動く気《け》色《しき》もない。敷《しき》布《ぶ》団《とん》は厚い郡内を二枚重ねたらしい。塵《ちり》さえ立たぬ敷布《シート》を滑《なめ》らかに敷きつめた下から、粗《あら》い格子の黄と焦げ茶が一本ずつ見える。
変わらぬものは黒髪である。紫の絹紐《リボン》は取って捨てた。ある丈《たけ》は、あるに任せて枕に乱した。今日までの浮き世と思う母は、櫛《くし》の歯もいれてやらぬと見える。乱るる髪は、純白《まつしろ》な敷布《シート》にこぼれて、小夜着の襟《えり》の天鵞絨《びろうど》に連なる。その中に仰向けた顔がある。昨日の肉をそのままに、ただ色が違う。眉《まゆ》は依然として濃い。目はさっき母が眠らした。眠るまで母はたんねんに撫《さす》ったのである。――顔よりほかは見えぬ。
敷布《シート》の上に時計がある。濃《こま》やかに刻んだ七《なな》子《こ》はむざんに潰《つぶ》れてしまった。鎖だけはたしかである。ぐるぐると両《りよう》蓋《ぶた》の縁を巻いて、黄金《こがね》の光を五分《ぶ》ごとに曲折する真ん中に、柘榴《ざくろ》珠《だま》が、へしゃげた蓋《ふた》の眼《まなこ》のごとく乗っている。
逆《さか》に立てたのは二枚折りの銀《ぎん》屏《びよう》である。一面に冴《さ》え返る月の色の方六尺のなかに、会釈もなく緑《ろく》青《しよう》を使って、柔婉《なよやか》なる茎を乱るるばかりに描《か》いた。不規則にぎざぎざをたたむ鋸《のこぎり》葉《ば》を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁《はなびら》を掌《てのひら》ほどの大きさに描いた。茎を弾《はじ》けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞《ひだ》を、絞りにたたみ込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが銀《しろかね》の中から生《は》える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞《ぐ》美《び》人《じん》草《そう》である。落《らつ》款《かん》は抱《ほう》一《いつ*》である。
屏《びよう》風《ぶ》の陰に用い慣れた寄せ木の小《こ》机《づくえ》を置く。高《たか》岡《おか》塗《ぬ》りの蒔《まき》絵《え》の硯《すずり》筥《ばこ》は書物とともに違《ちが》い棚《だな》に移した。机の上には油を注《さ》した瓦器《かわらけ》を供えて、昼ながらの燈火《ともしび》を一本の燈心に点《つ》ける。燈心は新しい。瓦器の丈を余りて、三寸を尾に引く先は、油さえ含まず白くすらりと延びている。
ほかには白磁の香《こう》炉《ろ》がある。線香の袋が蒼《あお》ざめた赤い色を机の角に出している。灰の中に立てた五、六本は、一点の紅《くれない》から煙《けむり》となって消えてゆく。香《にお》いは仏に似ている。色は流るる藍《あい》である。根本から濃く立ち騰《のぼ》るうちに右に揺《うご》き左へ揺く。揺くたびに幅が広くなる。幅が広くなるうちに色が薄くなる。薄くなる帯のなかに濃い筋がゆるやかに流れて、しまいには広い幅も、帯も、濃い筋も行《ゆ》き方《かた》知れずになる。時に燃え尽くした灰がぱたりと、棒のまま倒れる。
違い棚の高岡塗りは沈んだ小豆《あずき》色《いろ》に古木の幹を青く盛り上げて、寒紅梅の数点を螺《ら》鈿《でん》擬《まが》いに錬《ね》り出した。裏は黒地に鶯《うぐいす》が一羽飛んでいる。並ぶ廬《ろ》雁《がん》の高《たか》蒔《まき》絵《え》の中には昨日まで、深き光を暗き底に放つ柘榴珠が収めてあった。両《りよう》蓋《ぶた》に隙《すき》間《ま》なく七子を盛る金側時計が収めてあった。高蒔絵の上には一巻の書物が載せてある。四《よ》隅《すみ》を金に立ち切った箔《はく》の小口だけが鮮《あざ》やかに見える。間から紫の栞《しおり》の房《ふさ》が長く垂《た》れている。栞を差し込んだページの上から七行めに「エジプトの御《み》代《よ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」の一句がある。色鉛筆で細い筋を入れてある。
すべてが美しい。美しいもののなかに横たわる人の顔も美しい。驕《おご》る目は長《とこしな》えに閉じた。驕る目を眠った藤尾の眉《まゆ》は、額は、黒髪は、天《てん》女《によ》のごとく美しい。
「お線香が切れやしないかしら」と母は次の間から立ちかかる。
「今上げて来ました」と欽吾が言う。膝《ひざ》を正しく組み合わして、手を拱《こまぬ》いている。
「一《はじめ》さんも上げてやってください」
「私も今上げてきた」
線香の香《にお》いは藤尾の部屋から、思い出したように吹いてくる。燃え切った灰は、棒のままで、はたりはたりと香炉の中に倒れつつある。銀《ぎん》屏《びよう》は知らぬまに薫《くゆ》る。
「小野さんは、まだ来ないんですか」と母が言う。
「もう来るでしょう。今呼びにやりました」と欽吾が言う。
部屋はわざと立て切った。隔《へだ》ての襖《ふすま》だけは明けてある。片《かた》輪《わ》車《ぐるま》の友禅の裾《すそ》だけが見える。あとは芭《ば》蕉《しよう》布《ふ》の唐《から》紙《かみ》で万事を隠す。幽《ゆう》冥《めい》を仕切る縁は黒である。一寸幅に鴨《かも》居《い》から敷居までまっすぐに貫いている。母は襖のこちらに坐《すわ》りながら、折り折りは、見えぬところを覗《のぞ》き込むように、首を傾けて背を反《そ》らす。冷やかな足よりも冷やかな顔のほうが気にかかる。覗くたびに黒い縁は、すっきりと友禅の小夜着を斜《はす》に断ち切っている。写せばそのままの模様画になる。
「御叔母《おば》さん、とんだことになって、お気の毒だが、仕方がない。お諦《あきら》めなさい」
「こんなことになろうとは……」
「泣いたって、いまさらしようがない。因果だ」
「ほんとうに残念なことをしました」と目を拭《ぬぐ》う。
「あんまり泣くとかえって供《く》養《よう》にならない。それより後の始末が大事ですよ。こうなっちゃ、ぜひ甲野さんにいてもらうより仕方がないんだから、その気になってやらないと、あなたが困るばかりだ」
母はわっと泣きだした。過去を顧みる涙は抑《おさ》えやすい。卒然として未来におけるわが運命を自覚した時の涙は発作的に来る。
「どうしたらいいか――それを思うと――一《はじめ》さん」
切れ切れの言葉が、涙と洟《はな》の間から出た。
「御叔母さん、失礼ながら、ちっと平生の考え方が悪かった」
「私の不行き届きから、藤尾はこんなことになる。欽吾には見放される……」
「だからね。そう泣いたってしようがないから……」
「まことに……面《めん》目《ぼく》次第もございません」
「だからこれから少し考え直すさ。ねえ、甲野さん、そうしたらいいだろう」
「みんな私が悪いんでしょうね」と母ははじめて欽吾に向かった。腕組みをしていた人はようやく口を開く。――
「偽《うそ》の子だとか、ほんとうの子だとか区別しなければいいんです。ひらたくあたりまえにしてくださればいいんです。遠慮なんぞなさらなければいいんです。なんでもないことをむずかしく考えなければいいんです」
甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。あるいは理解できないからかと思う。甲野さんはふたたび口を開《あ》いた。――
「あなたは藤尾に家《うち》も財産もやりたかったのでしょう。だからやろうと私が言うのに、いつまでも私を疑《うたぐ》って信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家にいるのをおもしろく思っておいででなかったでしょう。だから私が家を出ると言うのに、面《つら》当《あ》てのためだとか、なんとか悪く考えるのがいけないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を言うだろうと思って、私を京都へ遊びにやって、そのるすちゅうに小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そういう策略がいけないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒《なお》すためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そういう嘘《うそ》が悪いんです。――そういうところさえ考え直してくだされば別に家を出る必要はないのです。いつまでもお世話をしてもいいのです」
甲野さんはこれだけでやめる。母は俯《うつ》向《む》いたまま、しばらく考えていたが、ついに低い声で答えた。――
「そう言われてみると、まったく私が悪かったよ。――これからお前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪いところは直すつもりだから……」
「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも御母《おつか》さんだ。家にいてめんどうを見てあげるがいい。糸公にもよく話しておくから」
「うん」と甲野さんは答えたぎりである。
隣室の線香が絶えんとするとき、小野さんは蒼《あお》白《じろ》い額を抑《おさ》えて来た。藍《あい》色《いろ》の煙《けむり》はふたたび銀屏を掠《かす》めて立ち騰《のぼ》った。
二日して葬式は済んだ。葬式の済んだ夜、甲野さんは日記を書き込んだ。――
「悲劇はついに来た。来たるべき悲劇はとうから予想していた。予想した悲劇を、なすがままの発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業《ごう》深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るがゆえである。悲劇の偉大なるを知るがゆえである。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三《さん》世《ぜ*》に跨《また》がる業《ごう》を根底から洗わんがためである。不親切なためではない。隻手を挙《あ》ぐれば隻手を失い、一目《もく》を揺《うご》かせば一目を眇《びよう》す《*》。手と目とを害《そこの》うて、しかも第二者の業は依然として変わらぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖《そで》に、目を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一《いつ》拶《さつ》に《*》本来の面目に逢《ほう》着《ちやく》せしむるの微意にほかならぬ。
悲劇は喜劇より偉大である。これを説明して死は万障を封ずるがゆえに偉大だというものがある。取り返しがつかぬ運命の底に陥って、出て来ぬから偉大だというのは、流るる水が逝《ゆ》いて帰らぬゆえに偉大だというと一般である。運命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。忽《こつ》然《ぜん》として生を変じて死となすがゆえに偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。ふざけたるものが急に襟を正すから偉大なのである。襟《えり》を正して道義の必要をいまさらのごとく感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立するがゆえに偉大なのである。道義の運行は悲劇に際会してはじめて渋滞せざるがゆえに偉大なのである。道義の実践はこれを人に望むこと切なるにもかかわらず、われのもっとも難しとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。道義の実践は他人にもっとも便宜にして、自己にもっとも不利益である。人《にん》々《にん》力をここにいたすとき、一般の幸福を促して、社会を真正の文明に導くがゆえに、悲劇は偉大である。
問題は無数にある。粟《あわ》か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴《つづれ》織《お》りか繻《しゆ》〓《ちん》か、これも喜劇である。英語がドイツ語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か、これが悲劇である。
十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩《はん》悶《もん》して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙しきがゆえに生と死との最大問題を閑却する。
死を忘るるものは贅《ぜい》沢《たく》になる。一《いつ》浮《ぷ》も生中である。一《いつ》沈《ちん》も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるがゆえに、いかに踴《おど》るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、だいじょうぶ生中を出ずる気《き》遣《づか》いなしと思う。贅沢は高《こう》じて大胆となる。大胆は道義を蹂《じゆう》躙《りん》して大自在に跳《ちよう》梁《りよう》する。
万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てるという。生を好むという。ここにおいて万人は生に向かって進んだ。ただ死を捨てるというにおいて、万人は一致するがゆえに、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向かって進むがゆえに、日に日に死に背《そむ》いて遠ざかるがゆえに、大自在に跳梁して毫《ごう》も生中を脱するの虞《おそ》れなしと自信するがゆえに、――道義は不必要となる。
道義に重きを置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。欺く。嘲《ちよう》弄《ろう》する。ばかにする。踏む。蹴《け》る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向かって進むにしたがって分化発展するがゆえに――この快楽は道義を犠牲にしてはじめて享受しうるがゆえに――喜劇の進歩は底止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下る。
道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたきとき、悲劇は突然として起こる。ここにおいて万人の目はことごとく自己の出立点に向かう。はじめて生の隣に死が住むことを知る。みだりに踊り狂うとき、人をして生の境《さかい》を踏み外《はず》して、死の圜《かん》内《ない》に入らしむることを知る。人もわれももっとも忌み嫌《きら》える死は、ついに忘るべからざる永《えい》劫《ごう》の陥《かん》穽《せい》なることを知る。陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄《なわ》はみだりに飛び超《こ》ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なることを知る。しかしてはじめて悲劇の偉大なるを悟る。……」
二か月後甲野さんはこの一節を抄録してロンドンの宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
「ここでは喜劇ばかり流行《はや》る」
注 釈
*山端の平八茶屋 京都市左京区山端川岸町にある川魚料理で有名な茶屋。漱石は叡山にのばった翌日に高浜虚子と訪れている。
*春はものの句になり易き京の町 漱石の俳句に「春はものの句になり易し京の町」(明治四十二年作)がある。
*潺湲 水の流れるさま、またその音。
*牛の尿 長いもののたとえとされる。
*天武天皇 第四十代天皇。壬《じん》申《しん》の乱で大友皇子を倒し、六七三年即位した。乱の際、八瀬へ逃げこみ背なかに敵の矢を受けて負傷したので、「やせ(矢背)」という地名ができたという俗説がある。
*万有神教 万有は神であると説く汎神教(pantheims)のこと。
*〓然 早くゆくさま。早くとぶさま。
*千羊の皮は一狐の腋にしかず 『史記』商鞅伝にあることばで、愚人がいくらいても一人の賢人におよばないことのたとえ。「腋」は、腋《わき》の下の皮。
*俗界万斛の反吐皆動の一字より来たる 「万斛」は、非常に量が多いこと。じっとしていられたら世間に不満も起こらない、という発想は、「草枕」の冒頭「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。……」の発想と同じである。
*寂定裏 仏教のことばで、煩《ぼん》悩《のう》を解《げ》脱《だつ》した境地。ふつう「寂《じやく》静《しよう》」と書く。
*依希たる活気 かすかな活気。
*雲の岫を出で 陶《とう》淵《えん》明《めい》(中国六朝時代の詩人)の「帰去来辞」に「雲 《ハ》無 《クシテ》レ心出 《デ》レ岫」とあるによる。「岫」は、山のほら穴。
*三藐三菩提 「阿《あ》耨《のく》多《た》羅《ら》三藐三菩提」の略称。仏たちに対する称号で、すべての真理を知得している知者の意味。
*蝙蝠傘 傘を開いた形が、コウモリの羽をひろげた姿に似ているところからいう。
*瀲〓 水のあふれるさま。さざなみの動くさま。
*将門 平将門。平安中期の武将。藤原政権に反旗をひるがえして、天《てん》慶《ぎよう》二年(九三九)、下総《しもうさの》国《くに》に宮殿を建て新皇と自称、関東に君臨したが、翌年平貞盛らに討たれた(天慶の乱)。四明が岳の頂上に今も 将門岩と名づけられた有名な岩があり、将門が藤原純友(承平の乱の主謀者)とともにこの岩に立って京都を見下し、天下取りの野望を抱いたと伝えられる。
*紫 この小説のモチーフ・カラー(主題色)で、女主人公のおごりたかぶった性格を象徴する色彩として、こののちしばしばあらわれる。
*桃源 陶淵明の説話「桃《とう》花《か》源《げん》記《き》」に描かれている不老不死の楽園。
*塵寰 塵によごれた所。俗世間。
*墓の前に跪《ひざま》づいて…… 『プルターク英雄伝』のなかの「アントニウス編」第八十四節の後半部分。オクタヴィアヌスとの戦闘に敗れて自殺したアントニウスの墓前で、虜となってローマに連れられようとする愛人クレオパトラが嘆き悲しむせりふ。
*莫耶 古代中国の刀工干《かん》将《しよう》が自分の妻莫《ばく》耶《や》の髪を溶鉱炉に入れて名剣二つを鋳造し、それらを“干将”および“莫耶”と名づけたという故事により、一般に名剣のことをいう。
*烏鷺を争う 白か黒かを議論することをたとえていう。
*風励鼓行 太鼓を打ち鳴らし、はげんで進軍すること。
*拈華の一拶 仏教語「枯《ねん》華《げ》微《み》笑《しよう》」のこと。説法をしていた釈迦が、華《はな》を拈《ひね》って大衆に微笑をおくった際、摩《ま》呵《か》迦葉《かしよう》という弟子のみがその意を悟って微笑したので、彼を賛えたという説話をさす。
*容斎 菊池容斎(天明八年―明治十一年〈一七八八―一八七八〉)。江戸末期の画家。名は武保。歴史画・山水画にすぐれ、明治天皇から日本画士の称号をたまわった。
*シェイクスピアの書いたもの シェイクスピア作の悲劇「アントニイとクレオパトラ」("Antony and Cleopatra")をさす。
*長河の鰐魚 ナイル川のワニ。
*〓〓 羽うちわ。
*駟 四頭だての馬車。
*九寸五分 長さによる俗称で、短刀のこと。
*虚無党 Nihilists(英)。ロシアの作家ツルゲーネフの小説「父と子」のなかに初めてあらわれた語で、既成の権威・制度を否認する主義者の集まり。暗殺などを決行した一八○○年代の革命家をもさしている。
*羃然 雲・煙などがおおいかぶさるさま。
*七子 金属の表面に粒《つぶ》々《つぶ》を彫りおこしたもの。
*闥を排して 門扉をあけて。「闥」は、宮中の小さな門。
*廂髪 明治三十七年(一九〇四)ごろから若い女のあいだに流行した西洋風のヘア・スタイルの一種で、前髪と鬢《びん》とを前方へ出して結《ゆ》った束髪。
*観世 「観世水」の略。能楽観世流の定式模様で、水が渦巻いている形のもの。
*〓雨〓風 「〓〓」は、にくみののしること、悪罵の意味。
*緞帳芝居 引き幕を使わず、垂れ幕を使う下等な芝居。
*ゴーディアン・ノット Gordian knot(英)。『プルターク英雄伝』の「アレクサンドロス編」第十八節にでている話。
*「松虫」も「鈴虫」も ともに後鳥羽上皇(治承四年―延応元年〈一一八〇―一二三九〉)につかえた女官。東山の安楽寺にその墓がある。
*白頭に〓〓し 白髪になっても、なお解脱できずにとまどっていること。
*御室の御所 右京区御室大内町にある仁和《にんな》寺のこと。仁和年間(八八五―八八九)に宇多天皇が創建、譲位後この寺に住まったので、以後、各法親王が居住し「御室の御所」と称されるようになった。
*銘を給わる琵琶 謡曲「経《つね》政《まさ》」による。平経政は幼時から御室の御所で守覚法親王の寵愛を受け、青山の銘ある琵琶をたまわっていたが、源平合戦で戦死したため、ここで追善法要をいとなみ、彼の霊にその琵琶をたむけて回《え》向《こう》すると、霊があらわれて琵琶をひきだす、という物語である。
*南部 南部地方(岩手県)から産出する良質の桐材で作った琴の胴。
*菖蒲形 琴の大きさによる名称。ふつうの琴より小形のものを「あやめ琴」といっている。
*駒 琴の胴の上に立てて弦を張る琴《こと》柱《じ》のこと。
*本郷座 本郷区(現在文京区)春木町にあった劇場。おもに新派の大衆劇を上演した。
*馬簾 纏《まとい》の飾りとして垂れさげるもの。ここは、それを膝掛けにとりつけたものをさしていっている。
*天機 重大な秘密。
*色相世界 仏教語。肉眼で認識することができる、形や色で構成された現実世界。
*空華 仏教語。煩《ぼん》悩《のう》が描きだす華やかな妄想。
*鏡花 鏡のなかに映っている花。華やかな形や色だけがあって実質のないもの。
*真如 仏教語。宇宙現象の実体とされる絶対不変の真理。
*黒甜郷裏 仏教語。昼寝の世界のなか。
*子昂流 中国元代の書家趙《ちよう》子《す》昂《ごう》(一二五四―一三二二)を祖とする書道の流派。
*ロゼッチ Dante Gabresl Rossetti 一八二八年―一八八二年。イギリスの画家・詩人。
*博覧会 明治四十年(一九〇七)三月二十日から七月三十一日まで上野公園で開催された東京勧業博覧会。
*カシミヤ cashmere(英)。「カシミヤ織り」の略。カシミヤ山《や》羊《ぎ》の毛から作った糸で織った毛織り物。小野さんの書斎や服装には西洋から輸入されたいわゆる舶来品がめだつが、これもその一例である。
*半切れ 「半切紙」の略。手紙用の横に長い和紙用箋。
*ジェーナス Janus ヤヌスの英語読み。古代ローマの両面神で、門戸の守護神。前後両面に顔があり、過去・未来・前後・終始を同時に見ることができたという。
*理形《フオーム》 form(英)。ふつう「形相」と訳される。
*舟板塀趣味 和船に使用された古い板を用いて塀を作る江戸下町風の趣味。
*御神燈趣味 職人や芸人・芸者などが縁起をかついで、家の軒先などに「御神燈」と書いた提灯をつるすような趣味。
*峩山 嘉永六年―明治三十三年(一八五三―一九〇〇)。臨済宗の高僧。天竜寺を継承し、法堂・本殿などを再建した。
*言うものは知らず 『老子』第五十六章に「知 《ル》者 《ハ》不レ言 《ハ》、言 《フ》者 《ハ》不レ知 《ラ》」とあるのによる。真の知者はことば少なく、ことばの多いものは知の少ないものである、 の意味。
*大悲閣 西京区嵐山中尾下町にある千光寺境内の観音堂。
*袞竜の袖に隠れる 天子の威徳の下にかくれて自分勝手なことをすること。「袞竜の袖」は、天子の御衣の袖、転じて、天下の威徳の下。
*渡頭 渡し場。
*戸板返し 歌舞伎「東海道四谷怪談」隠《おん》亡《ぼう》堀《ぼり》の場で、戸板の両面に出るお岩と小平の幽霊を、板を裏返すことによって一人二役の早変わりで演じることから、急に場面の変わるさまをいう。
*奸譎の圜 いつわりの輪。
*秦越の客 「秦」「越」ともに中国春秋時代の国名。前者は西北部、後者は東南部にあって、両国は遠く離れていたことから、直接的つながりのないものが同一の場所に会することのたとえ。
*布設したのは世界一 明治二十八年(一八九五)一月、日本で最初の市街電車が京都七条―伏見油掛の間に開通したことをさしていったもの。
*千里の江陵一日に還る 李白(唐代の詩人、七〇一―七六二)の七言絶句「早 《ニ》発 《ス》二白帝城 《ヲ》一」のなかの詩句。本来は川の流れのきわめて早いさまにいう。
*一百里程塁壁の間 西郷隆盛が城山で死の直前に作ったといわれる七言絶句「逸題」のなかの詩句。
*咫尺 近い距離。
*へぎ折り 杉または檜《ひのき》の木材をうすくけずった板で作った折り詰弁当。
*偶を作って 二つずつわかれて。
*雲井 タバコの商品名。
*毫端 毛筆の末端。
*一弾指頭 仏教語。瞬間。
*砲兵工廠 文京区後楽にあった陸軍省公営の工場。兵器・弾薬・器材などを製造・修理した。
*逝く水は日夜を捨てざる 「子 在 《リテ》二川 上 《ニ》一日 《ク》、逝 《ク》者 《ハ》如 《キカ》レ 斯《かく》夫 《ノ》。不レ舎《すて》二昼 夜 《ヲ》一」(『論語』子罕編)による。
*王城の鬼門 平安京の東北、すなわち、北叡山をさす。
*〓々 飽きないさま。
*眇然 小さいさま。
*真葛が原 現在京都円山公園の一部。
*薔薇 薔薇水。バラの花からとるバラ油と蒸溜水を混合濾過した透明な液。
*雲鬟 ふさふさした美しい髪のこと。
*奴鰻 台東区浅草田原町にあった鰻料理店の屋号。一流店ではなかったのであろう。
*阿蒙 子ども。
*小督の局 高倉天皇(応保元年−治承五年〈一一六一―一一八一〉)の愛人・渡月橋の近くの人家の一郭にその墓がある。
*惘然 「茫然」と同じ。われを忘れて気ぬけしたさま。
*小督 山田流筝曲の「小督」。
*芋をもってみずからおる 自分を鈍重な人間と自覚している、の意味。
*石の影に三十日の毒を…… 「マクベス」第四幕第一場にある「第一の妖婆」のセリフで "Joad, that under cold stone/Days and nights has thirty one/swelter'd venom sleeping got,……"と続くもの。
*鯨の蔓 たばこ盆の手にさげる部分を鯨のひげで半円形に作ったもの。
*疾言と遽色 思っていることをそのまま言ったり顔にあらわしたりすること。
*秦漢瓦鐺の譜 中国秦(前二二一―前二〇六)・漢(前二〇二―後二二〇)時代に軒先に用いた瓦にあった模様や文字の拓本。
*伊勢崎 「伊勢崎銘仙」の略。群馬県伊勢崎地方で作られる絹織り物。
*火熨 ふつう「火熨斗」と書く。現在の電気アイロンにあたるもので、なかに炭火を入れて使用した。
*紫衣 天皇の許可を得て着用した紫色の僧服。
*黄袍 天子が着用する束帯用の黄色の上衣。
*青衿 青色の衿《えり》の衣服。古代中国の学生服。
*土堤を走る弥次馬は…… このころ、隅田川でおこなわれた東京帝国大学のボートレースを見物する弥次馬をさしていったもの。
*閻浮檀金 仏教語で、閻《えん》浮《ぶ》提《だい》(仏典にでてくる須《しゆ》弥《み》山《せん》南方の地名)の大森林を流れるという川からとれる砂金。
*山下雁鍋 上野公園山下にあった鳥料理屋。
*天賞堂 当時、銀座二丁目にあり、四丁目の服部時計店とともに二大時計店であった。
*弁天の祠 東《とう》叡《えい》山《ざん》寛永寺の弁天堂。不忍池のまんなかの小島にある。
*馬の糞 「紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞」(蕪村)をさす。
*馬の尿 「蚤《のみ》虱《しらみ》馬の尿《しと》する枕もと」(芭蕉)をさす。
*傘を担いで紅葉を見に行く 「紅葉見や用意かしこき傘二本」(蕪村)による。
*朝〓 朝の霞《かすみ》。
*野路や空…… 「野路や空月の中なる女郎花《をみなへし》、其《き》一《いち》」。其一は、江戸末期の画家鈴木其一(寛政八年―安政五年〈一七九六―一八五八〉)。
*優曇華 三千年に一度花をひらくというインドの想像上の植物。また、芭蕉の花の異称。
*一飯漂母を徳とす 『史記』(司馬遷著の中国上代の史書)淮陰侯伝の、韓信が漂母(洗濯女)に食物をめぐまれて、かならずその恩に報いるごとを約束したという故事。
*ヌーボー式 nouveau 式。二十世紀初頭にフランスに起こった図案様式。同じ太さの線を多くもちいるのを特徴とし、単調で情味に乏しいが反面素朴で落ち着きがある。
*〓たる美目 美しい目。「〓」は、目もとの美しいこと。
*倩たる巧笑 美しい笑い。「倩」は、口もとに愛嬌のあるさま。
*脆きは汝が名なり "Frailty thy name in woman!" 「ハムレット」第一幕第二場で、王(父)の死後まもなく別の男(叔父)と結婚した妃(母)の行為をなじっていうハムレットのせりふ。
*牛頭 仏教語。牛頭人身の地獄の獄卒。
*波か字かの辻占 投げた賽《さい》銭《せん》の表(文字が書かれている)が出るか裏(波棋様の絵がある)が出るかによって吉凶を占《うらな》うこと。
*セータン Satan(英)。魔王。サタン。
*雲斎底 雲斎織り(厚い綿織り物)で作った足袋の底。
*木賊 染色の名称。黒みがたった緑色。
*端然と恋に焦がれたもう雛 漱石の俳句に「端然と恋をしてゐる雛かな」(明治二十九年作)がある。
*海鼠の氷ったような たよりにならない冷たいさまをいう。有名な句に「生きながら一つに氷る海鼠かな」(芭蕉)、「尾頭の心許なき海鼠かな」(去来)がある。
*萩に伏し薄に靡く故里 漱石の俳句に「萩に伏し薄にみだれ故里は」(明治三十年作)がある。
*青銭を畳む 「青銭」は、青銅貨。杜甫(唐の詩人、七一二―七七〇)の詩「絶句漫興九首」第七首のなかに「渓 《ニ》 点 《ズル》荷 葉 畳 《ム》二青 銭 《ヲ》一」とある。
*磬 仏教で勤行のさい鳴らす銅板。
*入室相見 住持の室へはいって対面すること。
*衲子 衲《のう》衣《い》(人が捨ててかえりみないような布で作った粗末な法衣)を着ている僧。禅僧。
*一睛を暗所に点ぜず 暗い方を見ようとしない、の意味。「睛」は、ひとみ。
*誠は赤き縁の色に…… 「赤誠」ともいう本心からの真情による結びつき。夫婦となるべきものが赤い縄で足をつながれると離れられなくなるという中国の故事によったもの。
*亀屋 当時、新橋竹川町(現在銀座八丁目付近)にあった西洋食料品店。
*マジョリカ majolica(英)。マジョリカ焼きのこと。十五世紀ごろイタリアで作りだされた装飾的陶器。または、これを棋造した陶器。
*大雅堂 池《いけの》大《たい》雅《が》。
*重たき琵琶の抱き心地 「行く春や重たき琵琶の抱き心」(蕪村)による。
*常信 狩野常信(寛永十三年―正徳三年〈一六三六―一七一三〉)。狩野派の画家。
*三つ尾の丸っ子 ランチュウ。金魚の一種。
*五車反古 五台の車に積まれるほどの、たくさんな紙くず。
*乞う隗より始めよ 『戦国策』(中国戦国時代の軍略家が諸侯にのべた策略を国別に分類した書。秦・漢時代の作)燕策にある「先《マズ》従《ヨリ》レ隗 始 《メヨ》」(郭隗という説客が燕の昭王に向かって、すぐれた人物を得ようとするならば、まずそれほどでもない自分を優遇することから始めよ、といったという故事)により、 何ごともまず自分自身から始めよ、の意味。
*カーフ kerf(英)。截断面。本の小口。
*義董 柴田義董(安永九年―文政二年〈一七八〇―一八一九〉)。京都に住み、松村月渓に師事した四条派の画家。なお、この絵の題名未詳。
*蹣跚 足もとのよろめくこと。
*春王の四月 『春秋左氏伝』(中国上代の史書『春秋』の解釈書)隠公元年の条に「元年春王正月……」 とあり、「元年、春、王の正月」と読解されるが、ここは、春たけなわの四月を「春の王」とみなして、四月の枕詞のように用いたものであろう。
*〓々として独り行く 『詩経』(孔子の編とされる中国上代の詩集)唐風の詩「埜土」の中に「独行〓〓」とある句による。親しむ人もなく一人行く、心細いさま。
*フランス式の窓 床近くまで両びらきになっている窓。
*チッペンデール 十八世紀イギリスの家具師 Thomas Chippendale が案出した家具の様式。
*驥も櫪に伏す 駿馬も馬小屋につながれてはどうしようもない、の意味。志がありながら発揮できない不満をいう。
*レオパルディ Giacomo Leopardi 一七九八年―一八三七年。イタリアの詩人・思想家。
*一籌 ひとつの策謀。
*譎詐 いつわり。
*一瀾 波ひとつ。
*株を守って兎を待つ 『韓非子』(中国戦国時代の韓非が、国政における法律・刑罰の重要さを説いた書)五蠹にある故事。ある農夫が、切り株に突きあたって死んだ兎を見て、また兎を得ようと、仕事をやすんで切株の番をしたというもので、道理に暗く、いたずらに旧来の風習を守ることのたとえ。
*蹠下の民 足の裏すなわち地球の裏側の民族。
*褥裏に夜半太平の計熟す ねどこのなかでぐっすりねむりこむ、の意味。
*腹合わせの黒 腹合わせ帯の片側の黒繻《しゆ》子《ず》。
*鴃 モズ。この下に「舌」をつけた「鴃《げき》舌《ぜつ》」は、『孟子』文公にある語で、モズのさえずり、という意味から、話の通じない外国人のことばをいやしめていうことば。
*咸雍 平和でむつまじいこと。
*和怡 平和でたのしいこと。
*呉祥瑞 伊勢の国の人で室町時代明《みん》国《こく》にわたり、磁器の製法を学んで帰った陶工とも、彼に教えた明国の陶工ともいわれる。
*蜆子和尚 中国五代(九〇七―九五九)ごろの禅僧。奇行をもって知られ、つねに網や釣竿で、えび・蜆《しじみ》をとってくらしたので、人々から蜆子和尚と呼ばれたという。
*日英同盟 明治三十五年(一九〇二)ロシアに備えて、日本とイギリスとの間に結ばれた同盟条約。
*散らし まき散らしたカルタ。
*女大学 江戸時代に女子の修身書として広く用いられた書物の題名。貝原益軒(江戸前期の儒者。寛永七年―正徳四年〈一六三〇―一七一四〉)の著と伝えられる。
*枡落とし 枡を押えつけて捕える、鼠取りの装置の一種。
*最近の好機 日露戦争に勝ち、日英同盟を結んで、日本の海外での評価がいちじるしく高まっていたことをさす。
*澆季 道徳・人情の衰退した末世。
*一六 「一六勝負」の略。サイコロの目の一が出るか六が出るかを賭ける勝負。ばくちのこと。運まかせに冒険を決行すること。
*ルビコン Rubicon 古代のガリアとイタリアとの境をなした川の名。北イタリアを流れアドリア海に注ぐ。西暦前四九年、カエサル(シーザー)が元老院の命令を無視し、「さいは投げられた」といってこれを渡り、ポンペイウスを討つべくローマに進撃した。
*メレディス George Meredith 一八二八年―一九〇九年。イギリスの小説家・詩人。漱石は早くからこの人のものを愛読した。
*隻手 片手。
*僑居 寓居。かりずまい。
*冥眩 ふつう「瞑眩」と書く。人の目をくらませてまよわせること。
*片輪車 車の輪が水に流れるさまを描いた模様。
*抱一 酒井抱一。宝暦十一年―文政十一年(一七六一―一八二八)。画家。尾形光琳の画風を学んで抱一派を確立した。
*三世 前世(過去)・現世(現在)・来世(未来)のこと。
*眇す すがめまたはかためにする。
*石火の一拶に…… 瞬間の暗示によって真実の姿を示して悟らせる。
虞《ぐ》美《び》人《じん》草《そう》
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
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平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『虞美人草』昭和30年8月10日初版刊行
平成10年5月30日改訂39版