TITLE : 硝子戸の中
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目 次
思い出す事など
子規の画
ケーベル先生
変な音
手紙
三山居士
初秋の一日
ケーベル先生の告別
戦争からきた行き違い
硝子戸の中
日記
注釈
思い出す事など
一
ようやくのことでまた病院《*》まで帰ってきた。思い出すとここで暑い朝夕を送ったのももう三か月の昔になる。そのころは二階の廂《ひさし》から六尺に余るほどの長い葭《よし》簀《ず》を日よけに差し出して、ほてりの強い縁側をいくぶんか暗くしてあった。その縁側に是《ぜ》公《こう*》からもらった楓《かえで》の盆栽と、ときどき人の見舞いに持ってきてくれる草花などを置いて、退屈もしのぎ暑さも紛らしていた。向こうに見える高い宿屋の物干しにまっ裸の男が二人出て、日《ひ》盛《ざか》りを事ともせず、欄干の上をあぶなく渡ったり、また細長い横木の上にわざとあおむけに寝たりして、ふざけ回る様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんなたくましい体格になってみたいとうらやんだこともあった。今はすべてが過去に化してしまった。ふたたび目の前に現われぬというふたしかな点において、夢と同じくはかない過去である。
病院を出る時の余《よ》は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病にかかって、寝たまま東京へ戻ってこようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜《くぐ》らずに釣《つ》り台《だい》に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
帰る日は立つ修《しゆ》善《ぜん》寺《じ》も雨、着く東京も雨であった。たすけられて汽車をおりるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も目にはいらなかった。目礼をすることのできたのはそのうちの二、三にすぎなかった。思うほどの会釈もならないうちに余は早く釣り台の上に横たえられていた。黄《たそ》昏《がれ》の雨を防ぐために釣り台には桐《とう》油《ゆ》を掛けた。余は坑《あな》の底に寝かされたような心持ちで、ときどき暗いなかで目をあいた。鼻には桐油のにおいがした。耳には桐油をうつ雨の音と、釣り台に付き添うてくるらしい人の声がかすかながらとぎれとぎれに聞こえた。けれども目には何物も映らなかった。汽車の中で森《もり》成《なり》さん《*》が枕《まくら》元《もと》の信《しん》玄《げん》袋《ぶくろ》の口にさし込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
釣《つり》 台《だい》 に 野 菊 も 見 え ぬ 桐 油 か な
これはその時の光景をあとから十七字にちぢめたものである。余はこの釣り台に乗ったまま病院の二階へ舁《か》き上げられて、三か月前に親しんだ白いベッドの上に、安らかにやせた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある棟《むね》には患者が三、四名しかいないので、人声もしぜん絶えがちに、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。
この静かな宵《よい》を心《ここ》地《ち》よく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受け取った。一通をあけて見ると「無事ご帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差し出し人は満州にいる中村是公であった。他の一通を開けて見ると、やはり無事ご帰京を祝すという文句で、まえのと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの暗合をおもしろくながめつつ、誰《だれ》が打ってくれたのだろうと考えて差し出し人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトというのは、鈴《すず》木《き》禎《てい》次《じ*》と鈴木時《とき》子《こ》の頭文字を組み合わしたもので、妻《さい》の妹《いもと》とその夫のことであった。余は二ツの電報を折り重ねて、明《あ》朝《す》また来たるべき妻《さい》の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。
病室は畳も青かった。襖《ふすま》も張りかえてあった。壁も新たに塗ったばかりであった。よろず居心よく整っていた。杉本副院長《*》が再度修善寺へ診察に来た時、畳替えをして待っていますと妻に言いおかれた言葉をすぐに思い出したほどきれいである。その約束の日から指を折って勘定してみると、すでに十六、七日めになる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。
思 ひ け り す で に 幾 夜 の き り ぎ り す
その夜《よ》から余は当分またこの病院を第二の家とすることにした。
二
病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後《ご》藤《とう》さん《*》にこのごろ院長《*》のご病気はどうですかと聞いたら、ええ一《ひと》仕《し》切《きり》りはだいぶいいほうでしたが、近来また少し寒くなったものですから……という答えだったので、余《よ》はどうぞおあいの節はよろしくと挨《あい》拶《さつ》した。その晩はそれぎりなんの気もつかずに寝てしまった。するとあくる日の朝妻《さい》が来て枕《まくら》元《もと》にすわるやいなや、実は貴方《あなた》に隠しておりましたが長《なが》与《よ》さんは先月五日に亡《な》くなられました。葬式には東《ひがし》さん《*》に代理を頼みました。悪くなったのは、八月末ちょうど貴方の危篤だった時分ですと言う。余はこの時はじめて付き添いのものが、院長の訃《ふ》をことさらに秘して、余に告げなかったことと、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかく比較して、しばらくは茫《ぼう》然《ぜん》としたまま黙っていた。
院長は今《こ》年《とし》の春からぐあいが悪かったので、この前《ぜん》入院した時にも六週間のあいだついぞ顔を見合わせたことがなかった。余の病気のよしを聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力してあげるのにという言《こと》伝《づて》があった。その後も副院長を通じて、よろしくという言伝がときどきあった。
修善寺で病気がぶり返して、社《*》から見舞いのため森成さんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが病院の都合上とても長くはと言っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜を計らってくれた。その文句は寝ている余の目にはむろん触れなかった。けれども枕元にいる雪《せつ》鳥《ちよう》君《くん*》から聞いたその文句の音《おん》だけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地にとどまり、十分看護に心を尽くすべしとかいう、森成さんにとってはずいぶんおごそかに聞こえる命令的なものであった。
院長の容体が悪くなったのは余の危篤に陥ったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量に吐いて傍《ぼう》人《じん》からとうてい回復の見込みがないように思われた二、三日あと、森成さんが病院の用事だからと言って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほどたって、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。
当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつあるあいだに、余は不思議にも命の幅の縮まってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標でながく確かめられたとき、辛《しん》抱《ぼう》強く畳の上にからみついていてくれた余の命の根は、かろうじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営みはじめた。院長の墓の前に供えられる花が、いくたびか枯れ、いくたびか代わって、萩《はぎ》、桔《き》梗《きよう》、女郎花《おみなえし》から白《しら》菊《ぎく》と黄《き》菊《ぎく》に秋を進んできた一か月余ののち、余はまたその一か月余のあいだに盛り返しうるほどの血潮を皮下に盛りえて、ふたたび院長の建てたこの胃腸病院に帰ってきた。そうしてそのあいだいまだかつて院長の死んだということを知らなかった。帰るあくる朝妻が来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復のうえ病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたらあつく謝意でも述べようと思っていた。
逝《ゆ》 く 人 に と ど ま る 人 に 来 た る 雁《かり》
考えると余が無事に東京まで帰れたのは天《てん》幸《こう》である。こうなるのがあたりまえのように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸にすぎない。生き延びた自分を頭に置かずに、命の綱を踏みはずした人の有り様も思い浮かべて、幸福な自分と照らし合わせてみないと、わがありがたさもわからない、人の気の毒さもわからない。
た だ 一 羽 来 る 夜 あ り け り 月 の 雁
三
ジェームス教授《*》の訃《ふ》に接したのは長与院長の死を耳にした明《あくる》日《ひ》の朝である。新春の外国雑誌を手にして、五、六ページ繰って行くうちに、ふと教授の名前が目に留まったので、また新《あたら》しい著書でも公にしたのかしらんと思いながら読んでみると、意外にもそれが永眠の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝《ゆ》かるとあるから、指を折って勘定してみると、ちょうど院長の容体がしだいに悪いほうへ傾いて、はたのものが昼夜眉《まゆ》をひそめているころである。また余《よ》が多量の血を一度に失って、死生の境に彷《ほう》徨《こう》していたころである。思うに教授の呼《い》息《き》を引き取ったのは、おそらく余の命が、やせこけた手《て》頸《くび》に、あるともないともかたづかない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。
教授の最後の著書「多元的宇宙《*》」を読みだしたのは今《こ》年《とし》の夏のことである。修善寺へ立つとき、向こうへ持っていって読み残した分をかたづけようと思って、それを五、六巻の書物とともに鞄《カバン》の中に入れた。ところが着いた明《あくる》日《ひ》から心持ちが悪くて、出歩くこともならない始末になった。けれども宿の二階に寝ころびながら、一日二《ふつ》日《か》は少しずつでも前の続きを読むことができた。むろん病勢の募るにつれて読書はまったくよさなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書をふたたび手に取る機会はなかった。
病《びよう》牀《しよう》にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾《いく》日《か》目《め》になるだろう。今から顧みると当時の余はおそろしく衰弱していた。あおむけに寝て、両方の肘《ひじ》をふとんに支《ささ》えて、あのくらいの本を持ちこたえているのにずいぶんと骨が折れた。五分とたたないうちに、貧血の結果手がしびれるので、持ち直してみたり、甲をなでてみたりした。けれども頭は比較的疲れていなかったとみえて、書いてあることは苦もなく会得ができた。頭だけはもう使えるなという自信の出たのは大吐血以後この時がはじめてであった。うれしいので、妻《さい》を呼んで、からだの割りに頭はじょうぶなものだねと言って訳を話すと、妻《さい》がいったい貴方《あなた》の頭はじょうぶすぎます。あの危篤《あぶな》かった二、三日のあいだなどは取り扱いにくくてたいへん弱らせられましたと答えた。
多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三《みつ》日《か》ばかりでおもしろく読みおわった。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として類推《アナロジー》で哲学の領分に切り込んでゆくところをおもしろく読みおわった。余はあながちに弁証法《ダイアレクチツク》を嫌《きら》うものではない。またみだりに理 知 主 義《インテレクチユアリズム》 を厭《いと》いもしない。ただ自分の平生文学上にいだいている意見と、教授の哲学について主張するところの考えとが、親しい気脈を通じて彼《ひ》此《し》相よるような心持ちがしたのを愉快に思ったのである。ことに教授がフランスの学者ベルグソン《*》の説を紹介するあたりを、坂に車をころがすような勢いでかけ抜けたのは、まだ血液の十分に通いもせぬ余の頭にとって、どのくらいうれしかったかわからない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。
今でも覚えている。一《ひと》間《ま》置いて隣にいる東《ひがし》君《くん》をわざわざ枕《まくら》元《もと》へ呼んで、ジェームスは実に能文家だと教えるように言って聞かした。その時東君は別にこれという明《めい》瞭《りよう》な答えをしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは流《りゆう》暢《ちよう》だとか、あの人のは細《さい》緻《ち》だとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながらわかるかいと失敬なことを問いただした。
教授の兄弟にあたるヘンリー《*》は、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で言われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記をしらべてみると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読みおわる。よい本を読んだと思う」とおぼつかない文《もん》字《じ》でしたためてある。名前が標題にだまされてくだらない本を読んだ時ほど残念なことはない。この日記はまさにこの裏をいったものである。
余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長は、余の知らないまにいつか死んでいた。余の病中に、空《くう》漠《ばく》なる余の頭に陸離の光彩をなげ込んでくれたジェームス教授も余の知らないまにいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
菊 の 雨 わ れ に 閑 あ る 病 か な
菊 の 色 縁 に い ま だ し こ の 晨《あした》
(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どうおもしろいかここに詳説する余地がないのは余の遺憾とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題はTime and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場はむろん故教授と同じく反理知派である)
四
病の重かった時は、もとよりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変わっていった。自分にもわが心の水のように流れ去るさまがよくわかった。自白すれば雲と同じくかつ去りかつ来たるわが脳《のう》裡《り》の現象は、きわめて平凡なものであった。それも自覚していた。生《しよう》涯《がい》に一度か二度の大《たい》患《かん》に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥とも思わず無邪気に重ねつつ移ってゆくうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておくことができたならと思いだした。その時の余《よ》はむろん手が利《き》かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭をかすめて去る心の波紋は、したがって起こるかと思えばしたがって消えてしまった。余は薄ぼけてかすかに遠きにゆくわが記憶の影をながめては、寝ながらそれを呼び返したいような心持ちがした。ミュンステルベルグ《*》という学者の家に賊がはいった引き合いで、他日彼が法廷へ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違することばかりであったという話がある。正確を旨とする几《き》帳《ちよう》面《めん》な学者の記憶でも、記憶はこれほどにふたしかなものである。「思い出す事など」の中に思い出すことが、日を経《ふ》れば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
わが手の利かぬさきにわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより逸するものまた少なからずといっても嘘《うそ》にはならない。わが病気の経過と、病気の経過につれて起こる内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほどよくなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんなかるはずみをしてやりそこなわなければいいがと心配してくれたものもある。
そのなかでいちばん苦い顔をしたのは池《いけ》辺《べ》三《さん》山《ざん》君《くん*》であった。余が原稿を書いたと聞くやいなや、たちまちよけいなことだとしかりつけた。しかもその声はもっとも無愛想な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈しのぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさることだが、友人の許可を得なければいかんというのが三山君の挨《あい》拶《さつ》であった。それから二、三日して三山君が宮本博士《*》に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸がわく恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
その時余は三山君に、
遺 却 新 詩 無 処 尋。〓 然 隔 〓 対 遥 林。
斜 陽 満 径 照 僧 遠。黄 葉 一 村 蔵 寺 深。
懸 偈 壁 間 焚 仏 意。見 雲 天 上 抱 琴 心。
人 間 至 楽 江 湖 老。犬 吠 鶏 鳴 共 好 音。
という詩をおくった。巧拙は論外として、病院にいる余が窓から寺を望むわけもなし、また室内に琴を置く必要もないから、この詩はまったくの実況に反しているにはちがいないが、ただ当時の余の心持ちを詠じたものとしてはすこぶる恰《かつ》好《こう》である。宮本博士が退屈をすると酸がたまると言ったごとく、忙殺されて酸が出すぎることも、余は親しく経験している。詮《せん》ずるところ、人間は閑適の境《きよう》界《がい》に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりともむさぼりうる今の身のうれしさが、この五十六字に形を変じたのである。
もっとも趣からいえばまことにふるい趣である。なんの奇もなく、なんの新もないといってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代わりこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっしてあずからざる境地に存している。現今のわれらが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今のわれらが苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」にあおられて、三百六十五日のあいだ、わき目もふらず、しかく人世を観じたら、人世はさだめし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意をわれらの内面生活上に放射するかもしれない。余は病によってこの陳腐な幸福と爛《らん》熟《じゆく》なくつろぎを得て、はじめて洋行から帰って平凡な米の飯に向かった時のような心持ちがした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病によってわずかにうけえたこののどかな心持ちを早くも失わんとしつつある。まだ床を離れるほどに足腰がきかないうちに、三山君におくった詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら掛《け》念《ねん》しているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における述懐と叙事にすぎないが、そのうちにはこの陳腐ながら払底な趣《*》が、珍しくだいぶはいってくるつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新しい人々と今の苦しい人々とともに、この古い香りをなつかしみたいと思う。
五
修善寺にいるあいだはあおむけに寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記《つ》け込んだ。ときどきは面《めん》倒《どう》な平《ひよう》仄《そく》を合わして漢詩さえ作ってみた。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿として日記の中に書き付けた。
余《よ》は年来俳句にうとくなりまさったものである。漢詩に到っては、ほとんど当初からの門外漢といってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上がったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の目に整って(ことに現代的に整って)映るとはむろん思わない。
けれども余が病中に作りえた俳句と漢詩の価値は、余自身からいうと、まったくその出来不出来に関係しないのである。平生はいかに心持ちのよくない時でも、いやしくも塵《じん》事《じ》に堪《た》えうるだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜ともに生存競争裏に立つ悪戦の人である。仏語で形容すれば絶えず火宅《*》の苦を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められることもあり、たまにはみずから進むこともあって、ふと十七字を並べてみたりまたは起承転結の四句ぐらい組み合わせないとも限らないけれどもいつもどこかにすきがあるような心持ちがして、隈《くま》も残さず心を引きくるんで、詩と句の中に放り込むことができない。それは歓楽をねたむ実生活の鬼の影が風流にまつわるためかもしれず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に翻《ほん》弄《ろう》されて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かもしれないが、それではいくら佳句と好詩ができたにしても、贏《か》ちうる当人の愉快はただ二、三同好の評判だけで、その評判を差し引くと、あとに残るものは多量の不安と苦痛にすぎないことに帰着してしまう。
ところが病気をするとだいぶ趣が違ってくる。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他《ひと》も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくても済むという安心ができ、向こうにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めないのどかな春がそのあいだからわいて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、できばえのいかんはまずおいて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴《たつと》いかわからない。病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑にしいられた仕事ではない。実生活の圧迫をのがれたわが心が、本来の自由にはね返って、むっちりとした余裕を得た時、油《ゆう》然《ぜん》とみなぎり浮かんだ天来の彩《さい》紋《もん》である。われともなく興の起こるのがすでにうれしい、その興をとらえて横に咬《か》み竪《たて》に砕いて、これを句なり詩なりに仕立て上げる順序過程がまたうれしい。ようやく成ったあかつきには、形のない趣をはっきりと目の前に創造したような心持ちがしてさらにうれしい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みるいとまさえない。
病中には知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な見舞いを受けた。衰弱の今の身ではそのいちいちにいちいちの好意にそむかないほどに詳しい礼状を出して、自分がつい死にもせず今日に至った経過を報ずるわけにもゆかない。「思い出す事など」を牀《しよう》上《じよう》に書き始めたのは、これがためである。――めいめいに向けて言い送るべきはずのところを、略して文芸欄《*》の一隅《ぐう》にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。
したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句をはさむのは、単に詩人俳人としての余の立場を見てもらうつもりではない。実をいうとその善悪などはむしろどうでもいいとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一瞥《べつ》の迅《と》きうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
秋 の 江 に 打 ち 込 む 杭《くひ》 の 響 き か な
これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響き、この三つの事相に相応したような情調が当時絶えずわがかすかなる頭の中を徂《そ》徠《らい》したことはいまだに覚えている。
秋 の 空 浅《あさ》 黄《ぎ》 に 澄 め り 杉 に 斧《をの》
これも同じ心の耽《ふけ》りをほかの言《こと》葉《ば》で言い現わしたものである。
別 る る や 夢 一 筋 の 天 の 川
なんという意味かその時も知らず、今でもわからないが、あるいはほのかに東《とう》洋《よう》城《じよう》と別れるおり《*》の連想が夢のような頭の中にはい回って、恍《こう》惚《こつ》とでき上がったものではないかと思う。
当時の余は西洋の語にほとんど見当たらぬ風流という趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここにあげた句に現われるような一種の趣だけをとくに愛していた。
秋 風 や 唐《から》 紅《くれなゐ》 の 咽《の》 喉《ど》 仏《ぼとけ》
という句はむしろ実況であるが、なんだか殺気があって含蓄が足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持ちがした。
風 流 人 未 死。病 裡 領 清 閑。
日 々 山 中 事。朝 々 見 碧 山。
詩に圏点のないのは障子に紙がはってないようなさびしい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき平《ひよう》仄《そく》もよくわきまえず、韻脚もうろ覚えにしか覚えていないものがなにを苦しんで、支《し》那《な》人《じん》だけしかききめのない工夫をあえてしたかというと、実は自分にもわからない。けれども(平仄韻字はさて置いて)、詩の趣は王朝以後の伝習で久しく日本化されて今日に至ったものだから、われわれぐらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去ることができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となるとおっくうでなお手を下さない。ただかように現実界を遠くに見て、はるかな心にすこしのわだかまりのない時だけ、句もしぜんとわき、詩も興に乗じて種々の形のもとに浮んでくる。そうしてあとから顧みると、それが自分の生《しよう》涯《がい》のうちでいちばん幸福な時期なのである。風流を盛るべき器が、無作法な十七字と、佶《きつ》屈《くつ*》な漢字以外に日本で発明されたらいざしらず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を這《しや》裏《り*》に楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の恰《かつ》好《こう》な詩形のないのをうらみとはけっして思わないものである。
六
はじめて読書欲のきざしたころ、東京の玄《げん》耳《じ》君《くん*》から小包みで酔《すい》古《こ》堂《どう》剣《けん》掃《そう*》と列《れつ》仙《せん》伝《でん*》を送ってくれた。この列仙伝は帙《ちつ》入りの唐本で、少し手荒に取り扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いというよりもむしろきたない――本であった。余《よ》は寝ながらこのきたない本を取り上げて、そのなかにある仙人《*》の挿《さし》画《え》をいちいちていねいに見た。そうしてこれら仙人の〓《ひげ》の模様だの、頭の恰《かつ》好《こう》だのを互いに比較して楽しんだ。その時は画《え》工《かき》の筆癖からくる特色を忘れて、こういう頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこういうまばらな〓を風に吹かせなければ仙人の群れにはいることはおぼつかないのだろうと思ったりして、ひたすら彼らの容《よう》貌《ぼう》に表われてくる共通な骨相を飽かずながめた。本文もむろん読んでみた。平生気の短い時にはとても見いだすことのできない悠《ゆう》長《ちよう》な心をめでたく意識しながら読んでみた。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一《ひと》人《り》もあるまいと思う。年を取った余も実をいうとこの時はじめて列仙伝という書物をあけたのである。
けれどもおしいことに本文は挿《さし》画《え》ほど雅にゆかなかった。なかには欲のかたまりが羽化したような俗な仙人もあった。それでも読んでゆくうちには多少気に入ったのもできてきた。いちばん無雑作でかつおかしいと思ったのは、なんぞというと、手の垢《あか》や鼻《はな》糞《くそ》を丸めて丸薬を作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
しかし挿画よりも本文よりも余の注意をひいたのは巻末にある付録であった。これは手軽にいうと長寿法とか養生訓とか称するものを諸方から取り集めてきて、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際わかるともわからぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれがおもしろかったとみえて、その二、三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記をしらべてみると「静これを性となせば心そのうちにあり、動これを心となせば性そのうちにあり、心生ずれば性滅し、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに半ぺージばかりをうずめている。
その時の余はインキの切れた万年筆の端をつまんで、ペン先へ墨の通うように一、二度ふるのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫《かし》の六尺棒を振り回すよりもつらいくらいであった。それほど衰弱のはげしい時にですら、わざわざこんな道経めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えてもまことに愉快である。子供の時聖《せい》堂《どう*》の図書館へ通って、徂《そ》徠《らい》の〓《けん》園《えん》十《じつ》筆《ぴつ*》をむやみに写し取った昔を、生《しよう》涯《がい》にただ一度繰り返しえたような心持ちが起こってくる。昔の余の所作が単に写すという以外にはまったく無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見いだして喜んでいる。長生きの工夫のための列仙伝が、長生きもしかねまじきほど悠《ゆう》長《ちよう》な心のもとに、病後の余からかく気楽に取り扱われたのは、余にとってまったくの偶然であり、またふたたびきたるまじき奇縁である。
フランスの老画家アルピニー《*》はもう九十一、二の高齢である。それでも人並みの気力はあるとみえて、このあいだのスチュージオ《*》にはめざましい木炭画が十種ほどのっていた。国《こく》朝《ちよう》六《りく》家《か》詩《し》鈔《しよう*》のはじめにある沈《しん》徳《とく》潜《せん*》の序には、乾隆丁亥夏五《けんりゆうていがいかご*》長州《*》沈徳潜書《しよ》す時に年九十有五。とわざわざ断わってある。長生きの結構なことはいうまでもない。長生きをしてこの二《ふた》人《り》のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。不惑の齢《よわい》を越すとまもなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるかもとよりわからない。思うに一日生きれば一日の結構で、二《ふつ》日《か》生きれば二日の結構であろう。そのうえ頭が使えたらなおありがたいといわなければなるまい。ハイドン《*》は世間から二《に》返《へん》も死んだと評判された。一度は弔詩まで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返しうるほどに生き延びた。それだけでも弱い余にとっては非常な幸福である。そのころある知らない人から、先生死にたまうことなかれ、先生死にたまうことなかれと書いた見舞いを受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余をよろこぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余をよろこんだ。
七
ウォード《*》の著わした社会学《*》の標題には力学的《ダイナミツク》という形容詞をわざわざ冠してあるが、これは普通の社会学でない、力学的《ダイナミツク》に論じたのだということを特に断わったものと思われる。ところがこの本のかつてロシア語に翻訳された時、魯《ろ》国《こく》の当局者はただちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯の友人に聞き合わせた。すると友人から、自分にもよくはわからぬが、おそらく標題に力学的《ダイナミツク》という字と社会学《ソシオロジー》という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイトおよび社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事がきたそうである。
魯国の当局者ではないが、余《よ》もこの力学的《ダイナミツク》という言葉には少なからぬ注意を払った一《いち》人《にん》である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽き足らずながめていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊に陥りやすく、また陥りつつあるようにみえるのを遺憾と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学《ダイナミツクソシオロジー》なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁からしてがすでにスペンサー《*》の総合哲学《*》に類した古風なものである。けれどもまたおそろしく分厚に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百ページほどある大冊子だから、四、五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなすことはできにくい。それでやむを得ず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失したこのごろの読み物としては適当だろうとふと考えついたので、それをうちから取り寄せてとうとう力学的《ダイナミツク》に社会学《ソシオロジー》を病院で研究することにした。
ところが読みだしてみると、おそろしく玄関の広い前置きの長い本であった。そうして肝心の社会学《ソシオロジー》そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的《ダイナミツク》がはなはだ心細くなるほどに手荒に取り扱われていた。いまさらウォードの著述に批評を下すのは余の目的でない、ただついでにいうだけではあるが、いまにほんとうの力学的《ダイナミツク》が出るだろう、いまに高潮の力学的《ダイナミツク》が出るだろう、どこまでも著述を信用して、とうとう千五百ページの最後の一ページの最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出てこなかった時には、ちょうどハレー彗《すい》星《せい*》の尾で地球が包まれるべき当日を、なんの変化もなく無事に経過したほどあっけない心持ちがした。
けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様でおもしろかった。そのうちで宇宙《コスモ》創造論《ジエニー》といういかめしい標題を掲げたところへ来た時、余はおぼえず昔学校で先生から教わった星雲説の記憶を呼び起こして微笑せざるをえなかった。そうしてふと考えた。――
自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常なしあわせのように喜んでいる。そうして自分のなおりつつあるあいだに、容赦なく死んでゆく知名の人々や惜しい人々をいま少し生かしておきたいとのみこいねがっている。自分の介抱を受けた妻や医者や看護婦や若い人たちをありがたく思っている。世話をしてくれた朋《ほう》友《ゆう》やら、見舞いに来てくれた誰《たれ》彼《かれ》やらにはあつい感謝の念をいだいている。そうしてここに人間らしいあるものが潜んでいると信じている。その証拠にはここにはじめて生《い》き甲《が》斐《い》のあると思われるほど深い強い快い感じがみなぎっているからである。
しかしこれは人間相互の関係である。よしわれわれを宇宙の本位と見ないまでも、現在のわれわれ以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙《さ》汰《た》である。三世《ぜ》にわたる生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則によって無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、そのあいだにかすかな生を営む人間を考えてみると、われらごときものの一喜一憂は無意味といわんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
限りなき星霜を経《へ》て固まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨張してガスに変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日まで分離して運行した軌道と軌道の間がすきまなくみたされた時、今の秩序ある太陽系は日《じつ》月《げつ》星《せい》辰《しん》の区別を失って、爛《らん》たる一大火雲のごとくに盤《ばん》旋《せん》するだろう。さらに想像をさかさまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮するとともに回転し、回転しながら外部の一片を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ炎々たる一塊のガスにすぎないという結論になる。面目の髣《ほう》髴《ふつ》たる今日からさかのぼって、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引っ張れば、一糸も乱れぬ普通の理で、山は山となり、水は水となったものには違いなかろうが、この山とこの水とこの空気と太陽のおかげによって生息するわれら人間の運命は、われらが生くべき条件の備わるあいだの一瞬時――永《えい》劫《ごう》に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――をむさぼるにすぎないのだから、はかないといわんよりも、ほんの偶然の命と評したほうが当たっているかもしれない。
平生のわれらはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心づかいさえしたことがない。その心《こころ》根《ね》をただすと、われらが生まれる以上、空気はなければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生まれるのだから、実をいえば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起こるならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活《かつ》溌《ぱつ》なる酸素が地上の固形物と抱合してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球の表面にガスのかからぬごとくに、われらの世界もまた冷却し尽くすならば、われらはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝《ゆ》く他人を悲しみ、友をなつかしみ敵をにくんで、内輪だけの活《かつ》計《けい》に甘んじて得意にその日を渡るわけにはゆくまい。
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫き、それらを万里一条の鉄のごとくにすきまなく発展してきた進化の歴史と見なすとき、そうしてわれら人類がこの大歴史ちゅうの単なる一ページをうずむべき材料にすぎぬことを自覚するとき、百《ひやく》尺《せき》竿《かん》頭《とう》に上りつめたと自任する人間のうぬぼれはまた急に脱落しなければならない。支《し》那《な》人《じん》が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないということを発見した時よりも、無意味な黒船が来て日本だけが神国でないということをさとった時よりも、さらにさかのぼっては天動説が打ちこわされて、地球が宇宙の中心でなかったことをむりに合《が》点《てん》せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代のわれらはからきジスイリュージョン《*》をなめている。
種類保存のためには何々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一疋《ぴき》の大たらが毎年生む子の数は百万疋《びき》とか聞く。牡《か》蛎《き》になるとそれが二百万の倍数に上るという。そのうちで生長するのはわずか数《す》匹《ひき》にすぎないのだから、自然は経済的に非常に濫《らん》費《ぴ》者《しや》であり、徳義上には恐るべく残酷な父母である。人間の生死も人間を本位とするわれらからいえば大事件に相違ないが、しばらく立場をかえて、自己が自然になりすました気分で観察したら、ただ至当の成り行きで、そこに喜びそこに悲しむ理屈は毫《ごう》も存在していないだろう。
こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分をかえてこのあいだ大《おお》磯《いそ》で亡《な》くなった大塚夫人《*》のことを思い出しながら、夫人のためにたむけの句を作った。
あ る ほ ど の 菊 な げ 入 れ よ 棺《かん》 の 中
八
忘るべからざる八月二十四日《*》のきたる二週間ほどまえから余《よ》はすでに病んでいた。縁側を絶えず通る湯治客に、わが姿を見せるのが苦になって、蒸し暑い時ですら障子は常にたて切っていた。三度三度献立を持ってあつらえを聞きにくる婆《ばあ》さんに、二《ふた》品《しな》三《み》品《しな》口に合いそうなものを注文はしても、膳《ぜん》の上にそろった皿《さら》をながめるとともに、どこからともなく反感が起こって、箸《はし》を執る気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔《は》き気《け》がきた。
はじめは煎《せん》薬《やく》に似た黄黒い水をしたたかに吐いた。吐いたあとは多少気分がなおるので、いささかの物は咽《の》喉《ど》を越した。しかし越したうれしさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃にとどこおる重き苦しみにたえきれなくなってきた。そうしてまた吐いた。吐くものはたいがい水である。その色がだんだん変わって、しまいには緑《ろく》青《しよう》のような美しい液体になった。しかも一粒の飯さえあえて胃に送りえぬ恐怖と用心のもとに、卒然として容赦なく食道をさかさまに流れ出た。
青いものがまた色を変えた。はじめて熊《くま》の胆《い》を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金《かな》盥《だらい》になみなみともどした時、医者は眉《まゆ》を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰ったほうがよかろうと注告した。余は金盥の中を指さしていったいなにが出るのかと質問した。医者は興のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の目にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅を含んで、咽喉を出る時なまぐさいかおりがぷんと鼻をついたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと言った。玄《げん》耳《じ》君《くん》が驚《おどろ》いて森成さんに坂《さか》元《もと》君《くん》を添えてわざわざ修善寺までよこしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝わって、そこからまたすぐに社へ通じたからである。別館からかけてきた東洋城が枕《まくら》辺《べ》に立って、今日《きよう》東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時はまったく救われたような気がした。
この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をもいれえぬほどにはげしく活動する胸をいだいて朝夕悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあるとみえた余の頭脳は、ただこの截《せつ》然《ぜん》たる一苦痛を秒ごとに深く印しくるばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一《ひと》色《いろ》のもだえに塗《と》抹《まつ》されて、臍《さい》上《じよう》方《ほう》三寸のあたりを日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分のからだのうちで、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかるのち鷹《おう》揚《よう》な心持ちをゆたかにいだいて、さわやかな秋の日の光りに、両の目をさっとあけたかった。少なくとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室にはいって、そこにあおむけに倒れていたかった。
森成さんが来てもこの苦しみはちょっととれなかった。胸の中を棒でかき混ぜられるような、また胃の腑《ふ》が不規則な大波をその全面に向かって層々と描き出すような、異な心持ちに堪えかねて、床の上に起き返りながら、吐いてみましょうかと言って、なまぐさいものをまのあたり咽喉の奥から金盥の中に傾けたこともあった。森成さんのおかげでこの苦しみがだいぶひいた時ですら、動くたびになまぐさい噫《おくび》は常に鼻を貫いた。血は絶えず腸に向かって流れていたのである。
この煩《はん》悶《もん》に比べると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだかわからない。その静穏の日がすなわち余の一生《しよう》涯《がい》にあって最も恐るべき危険の日であったのだということをあとから知った時、余は下《しも》のような詩を作った。
円 覚 曾 参 棒 喝 禅 瞎 児 《*》 何 処 触 機 縁。
青 山 不 拒 庸 人 骨 回 首 九 原 月 在 天。
九
忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向かいかけると、なんだか急に気が進まなくなったのでまた記憶をさかさまに向け直して、あと戻りをした。
東京を立つときから余《よ》ははげしく咽《の》喉《ど》を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗りおくれた東洋城の電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに御《ご》殿《てん》場《ば》で一時間ほど待ち合わせていたまに、余は不用になった一枚の切符代を割り戻してもらうために、駅長室へはいっていった。するとそこに腰《よう》囲《い》何尺とでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅《い》子《す》に腰を掛けてしきりに絵はがきの表になにかしたためていた。余は駅長に向かって当用を弁ずるかたわら、思いがけないところに思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じえなかった。するとその大男が突然立ち上がって、貴方《あなた》は英語を話すかと聞くから、かれた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったらいいか教えてくれと言った。はなはだ簡単な用向きであるから平生ならばどうとも挨《あい》拶《さつ》ができるのだけれども、声量をまったく失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。もとより言うことはあるのだから、なにか言おうとするのだが、その言おうとする言葉が咽喉を通るとき千《ち》条《すじ》にすり切れでもするごとくに、口へ出てくる時分にはまったくつやを失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の助けをかりて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けたこととは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。
修善寺に着いてからも咽喉はいっこうよくならなかった。医者から薬をもらったり、東洋城のこしらえてくれた手製の含《がん》漱《そう》を用いたりなどして、からく日常の用を弁ずるだけの言葉を使って済ましていた。そのころ修善寺には北《きた》白《しら》川《かわの》宮《みや*》がおいでになっていた。東洋城は始終そちらのほうのつとめに追われて、つい一丁ほどしか隔たっていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来ることができない様子であった。すべてをかたづけてから、夜《よ》の十時過ぎになって、はじめて蚊《か》〓《や》の外まで来て、一《ひと》言《こと》見舞いを言うのが常であった。
そういう夜《よ》のことであったか、または昼の話であったかは今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたになにか講話をしてもらいたいというご注文があったと言いだした。この思いがけないご所望を耳にした余は少なからず驚いた。けれども自分でさえ聞かずに済めば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下にお話などをする勇気はとても出なかった。そのうえ羽織も袴《はかま》も持ち合わせなかった。そうして余のごとき位階のないものが、みだりに貴《たつと》い殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一わからなかった。実際は東洋城も独断で先例のないことをあえてするのをはばかって、しかとしたお受けはしなかったのだそうである。
余の苦痛が咽喉から胃に移るまもなく、東洋城はふるさとにある母の病を見舞うべく、去る人と入れ代わってひとまず東京に帰った。殿下もそれからほどなくお立ちになった。そうして忘るべからざる二十四日の来たころ、東洋城は余に関するなんの消息も知らずに、また東海道を汽車で西へ下って行った。その時彼は四、五分の停車時間をぬすんで、三《み》島《しま》から余にわざわざ一通の手紙を書いた。その手紙は途中で紛失してしまって、つい宿へ着かなかったけれども、東洋城がおいとまごいに上がった時、余の病気のことをお忘れにならなかった殿下から、もしあう機会があったなら、どうか大事にするようにというような篤《あつ》い意味のお言葉を承ったため、それをわざわざ病中の余に知らせたのだそうである。咽喉の病も癒《い》え、胃の苦しみも去った今の余は、謹《つつし》んで殿下にお礼を申し上げなければならない。また殿下の健康を祈らなければならない。
一〇
雨がしきりに降った。裏山の絶壁を真《ま》逆《さか》に下る筧《かけい》の竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、もの憂《う》くへやの中に呻《しん》吟《ぎん》しつつ暮らしていた。人が寝静《しず》まるとはじめて夢を襲う(欄干から六尺余りのところを流れる)水の音も、風と雨に打ち消されてまったく聞こえなくなった。そのうち水が出るとか出たとかいう声がどこからともなく耳に響いた。
お仙《せん》という下女が来て、昨夕《ゆうべ》桂《かつら》川《がわ*》の水が増したので門の前の小《こ》家《いえ》ではおおかたの荷をこしらえて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたという話もした。この下女は伊《い》東《とう》の生まれで、浜《はま》辺《べ》か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨にとざされた山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、嘘《うそ》か真《まこと》かわからないことを聞かされたときは、お伽《とぎ》噺《ばなし》でも読んだ子供の時のような気がして、なんとなく古めかしいにおいに包まれた。そのうえ家が流されたのがどこで、宝物を掘り出したのがどこか、まるで不明なのをいっこうかまわずに、それが当然であるごとくに話してゆく様子が、いかにも自分の今いる温泉《ゆ》の宿を、浮き世から遠くへ離隔して、どんな便《たよ》りも噂《うわさ》のほかにははいってこられない山里に変化してしまったところに一種のおもしろ味があった。
とかくするうちにこの楽しい空想が、不便な事実となって現われはじめた。東京から来る郵便も新聞もことごとくおくれだした。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょにぬれていた。湿ったページを破けないようにあけてみて、はじめて都には今洪水が出盛っているという報道《*》を、あざやかな活字の上にまのあたり見たのは、何《いつ》日《か》のことであったか、今たしかに覚えていないけれども、不安な未来を目先に控えて、その日その日のできばえを案じながら病む身には、けっしてうれしい便《たよ》りではなかった。夜中に胃の痛みでしぜんと目がさめて、からだの置き所がないほど苦しい時には、東京と自分とをつなぐ交通の縁が当分切れたそのころの状態を、多少心細いものに観じないわけにゆかなかった。余の病気は帰るにはあまりはげしすぎた。そうして東京の方から余のいるところまで来るには、道路があまり打ちこわれすぎた。のみならず東京そのものがすでに水につかっていた。余はほとんど崖《がけ》とともにくずれるわが家の光景と、茅《ち》が崎《さき》で海に押し流されつつあるわが子供ら《*》を、夢に見ようとした。雨のしたたか降るまえに余は妻《さい》にあてて手紙を出しておいた。それにはいいへやがないから四、五日したら帰ると書いた。また病気が再発して苦しんでいるということはわざと知らせずにおいた。そうしてその手紙も着いたか着かないかわからないくらいに考えて寝ていた。
そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力を費やして、やっとのこと無事に宛《あて》名《な》の人に通ずるやいなや、その宛名の人をして封を切らぬさきに少しはっと思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害でこちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞いと平信をかねたものにすぎなかった。出した局の名が本郷とあるのを見てこれは草平君をわずらわしたものと知った。
雨はますます降り続いた。余の病気はしだいに悪いほうへかたぶいていった。その時、余は夜《よ》の一二時ごろ長距離電話をかけられて、かたい胸を抑えながら受信器を耳に着けた。茅が崎の子供も無事、東京の家も無事ということだけがかすかにわかった。しかしその他はまったく不得要領で、ほとんど風と話をするごとくにまとまらない雑音がぼうぼうと鼓膜に響くのみであった。第一かけた当人がわが妻《さい》であるということさえさとらずにこちらから貴方《あなた》という敬語を何べんかくりかえしたくらいぼんやりした電話であった。東京のたよりが雨と風と洪水のなかに、悩んでいる余の目にはじめて瞭《りよう》然《ぜん》と映ったのは、すわる暇もないほど忙しい思いをした妻が、当時の事情をありのままにしたためた巨《こ》細《さい》の手紙がようやく余の手に落ちた時のことであった。余はその手紙を見て自分の病を忘れるほど驚いた。
病 ん で 夢 む 天 の 川 よ り 出《で》 水《みづ》 か な
一一
妻《さい》の手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであった。冒頭に東洋城から余《よ》の病気の報知を受けた由と、それがため少なからず心を悩ましている旨をしるして、看病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめて電話だけでもと思って、その日のうちには通じかねるところを、無理な至急報にしてもらって、夜半に山田の奥さん《*》のところからかけたという説明が書いてあった。茅が崎にいる子供の安否についてもひとかたならぬ心配をしたものらしかった。十《じつ》間《けん》坂《ざか》下《した》という所は水害の恐れがないけれども、もし万一のことがあれば、郵便局から電報でうちまで知らせてもらうはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断わってあった。そのほか市中たいていの平《ひら》地《ち》は水害を受けて、現に江《え》戸《ど》川《がわ》通《どお》りなどは矢《や》来《らい》の交番の少し下までつかったため、舟に乗ってゆききをしているという報知も書き込んであった。しかしそのころはおくれながらも新聞が着いたから、一般の模様は妻のたよりがなくてもほぼわかっていた。余の心を動かすべき現象は漠《ばく》然《ぜん》たる大社会の雨や水やと戦うありさまにあるというよりも、むしろおのれだけに密接の関係ある個人の消息にあった。そうしてその個人の二《ふた》人《り》までに、この雨と水が命のまぎわまでたたった顛《てん》末《まつ》を、余はこの書面のうちに見いだしたのである。
一つは横浜にとついだ妻の妹の運命に関した報知であった。手紙にはこう書いてある。――
「……梅《うめ》子《こ*》こと末の弟をつれて塔《たふ》の沢《さは》の福《ふく》住《ずみ*》へ参りをり候《さふらふ》ところ、水害のため福住は浪《なみ》に押し流され、浴《よく》客《かく》六十名のうち十五名行《ゆく》方《へ》不《ふ》明《めい》とのことにて、生死のほどもわからず、いかんとも致《いた》し方《かた》なく、横浜へは汽車不通にて参ることかなはず、電話は申し込み者多数にて一日を待たねば……通じ不申《まをさず》」
あとには、いろいろ込み入った工面をして電話をかけた手続きが書いてあって、その末に会社の小使いとかが徒歩で箱根までさがしに行ったあげく、幽霊のように哀れな姿をした彼女をつれて戻った模様が述べてあった。余はそこまで読んできて、つい二、三日まえ宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、その家の宝物がまたある所から掘り出されたという昔話のような物語を聞きながら、その裏には自分と利害の糸をからみ合わせなければならない恐ろしい事実が潜んでいるとも気がつかずに、尾《お》頭《かしら》もない夢とのみ打ち興じて済ましていた自分の無知に驚いた。またその無知を人間にしいる運命の威力を恐れた。
もう一つ余の心をおどらしたのは、草平君に関する報知であった。妻が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞いのつもりで柳《やなぎ》町《ちよう》の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥をのぞいてみると、かねて見覚えのある家がくしゃりとつぶれていたそうである。
「うちの人たちは無事ですか、どこへ行きましたかと聞いたら、薪《まき》屋《や》のおかみさんが、昨晩の十二時ごろに崖《がけ》がくずれましたが、さいわいにどなたもお怪《け》我《が》はございません。ひとまず柳町のこういう所へお引き移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来てみると、まだ水の引き切らない床下のぴたぴたにぬれた貸し家に畳建具もなにも入れずに、荷物だけ運んでありました。実になんといっていいかあわれな姿でお種《たね》さん《*》が、私《わたし》の顔を見るとかけ出してきました。……晩のご飯をこしらえることもできないだろうと思って、お寿《す》司《し》をあつらえてお夕飯の代わりに上げました……」
草平君はふだんから崖《がけ》崩《くず》れを恐れて、できるだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、うちのつぶれた時には、ほかのものがまるで無難であったにもかかわらず、自分だけは少し顔へ怪我をしたそうである。その怪我のことも手紙のうちに書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまずしあわせだと思った。
家を流し崖を崩すすさまじい雨と水のなかに都のものは幾万となく恐るべき叫び声をあげた。同じ雨と同じ水のうちに余と関係の深い二人は身をもって免れた。そうして余は毫《ごう》も二人の災難を知らずに、遠い温泉《でゆ》の村に雲と煙《けぶり》と、雨の糸をながめ暮らしていた。そうして二人の安全であるというしらせが着いたときは、余は病がしだいしだいに危険のほうへ進んでいった時であった。
風 に 聞 け い づ れ か さ き に 散 る 木《こ》 の 葉
一二
つづく雨のある宵《よい》に、すこし病のひまをぬすんで、下の風《ふ》呂《ろ》場《ば》へ降りてみると、半《はん》切《き》れを三尺ばかりの長さに切って、それを細長くたてにはり付けた壁の色が、暗く映る灯の陰に、ふと余《よ》の視線をひいた。余は湯《ゆ》壷《つぼ》のわきに立ちながら、からだをしめすまえに、まずこの異様の広告めいたものを読む気になった。まんなかに素人《しろうと》落語大会と書いて、その下に催主裸《はだか》連《れん》としるしてある。場所は「山荘にて」と断わって、催しのあるべき日取りをそのわきに書き添えた。余はすぐ裸連の何《なん》人《ぴと》なるかをさとりえた。裸連とは余の隣座敷にいる泊まり客の自《じ》撰《せん》にかかる異名である。昨日《きのう》の午《ひる》襖《ふすま》越《ご》しに聞いていると、太《た》郎《ろう》冠《か》者《じや》がどうのこうのと長い評議の末、そこんところでやるまいぞ、やるまいぞにしたらいいじゃねえかというような相談があった。その趣向は寝ている余とはもとより無関係だから、知ろうはずもなかったが、とにかくこの議決が山荘での催しに一異彩を加えたことはたしかに違いないと思った。余は風呂場のはり紙に注意してある日付けと、裸連の趣向をこらしていた時刻を照らし合わせつつ、この落語会なるものの、すでに滞りなく済んだ昨日の午後を顧みて、裸連――少なくとも裸連の首脳をかたちづくる隣座敷の泊まり客……の成功を祝せざるをえなかった。
この泊まり客は五人づれで一間にはいっていた。そのうちのいちばん年かさに見える三十代の男に、その妻君と娘を合わせるとすでに三人になる。妻君は品のいい静かな女であった。子供はなおさらおとなしかった。その代わり夫はすこぶる騒《そう》々《ぞう》しかった。あとの二人はいずれも二十代の青年で、その一《ひと》人《り》は一行のうちでもっともやかましくふるまっていた。
誰《だれ》でも中年以後になって、二十一、二時代の自分を目の前におもい浮かべてみると、いろいろ回想のむらがるなかに気恥ずかしくてひや汗の流れそうな一断面を見いだすものである。余は隣のへやに呻《しん》吟《ぎん》しながら、この若い男の言葉使いや起《たち》居《い》を注意すべく余儀なくされた結果として、二十年の昔に経過した、自分の生《しよう》涯《がい》のうちで、はなはだ不面目と思わざるをえない生意気さかげんをいまさらのように恐れた。
この男はなんの必要があってか知らないけれども、絶えず大道で講演でもするように大きな声を出して得意であった。そうして下女が来ると、必ず通《つう》客《かく》めいた粋《いき》がりを連発した。それを隣座敷で聞いていると、ウィットにもならなければヒューモーにもなっていないのだから、いかにもむりやりに(しかも大得意に)、半可もしくは四半可を殺風景にどなりつけているとしか思われなかった。ところが下女のほうでは、またそれを聞くたびに不必要にふんだんな笑い方をした。本気ともお世辞ともかたの付かない笑い方だけれども、声帯に異状のあるような恐ろしい笑い方をした。病気にのみ屈託する余も、これには少なからず悩まされた。
裸連の一部は下座敷にもいた。すべてで九人いるので、みずから九人組ともとなえていた。その九人組が丸裸になって幅六尺の縁側へ出ておどりをおどって一晩はね回った。便所へ行く必要があって、障子の外へ出たら、九人組はおどりくたびれて、素裸のまま縁側にあぐらをかいていた。余はじゃまになる尻《しり》や脛《すね》の間をまたいで用を足してきた。
長い雨がようやくやんで、東京への汽車がほぼ通ずるようになったころ、裸連は九人とも申し合わせたように、どっと東京へ引き上げた。それと入れ代わりに、森成さんと雪《せつ》鳥《ちよう》君《くん》と妻とが前後して東京から来てくれた。そうして裸連のいたへやを借り切った。その次のへやもまた借り切った。しまいには新築の二階座敷を四間ともにわが有とした。余は比較的閑寂な月日のもとに、吸《す》い飲みから午乳を飲んで生きていた。一度はさじで突き砕いた水《すい》瓜《か》の底からわいて出る赤い汁を飲ましてもらった。弘《こう》法《ぼう》様《さま*》で花火の揚がった宵は、縁近く寝床をずらして、横になったまま、初《はつ》秋《あき》の天を夜半近くまで見守っていた。そうして忘るべからざる二十四日のくるのを無意識に待っていた。
萩《はぎ》 に 置 く 露 の 重 き に 病 む 身 か な
一三
その日は東京から杉《すぎ》本《もと》さんが診察に来る手はずになっていた。雪鳥君が大《おお》仁《ひと》まで迎いに出たのは何時ごろか覚えていないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隠れない午《ひる》過ぎであったと思う。その山の中を照らす日を、床を離れることのできない、またへやを出ることのかなわない余《よ》は、朝から晩までほとんど仰ぎ見たためしがないのだから、こういうのも実は廂《ひさし》の先に余る空の端だけを目当てに想像した刻限である。――余は修善寺に二《ふた》月《つき》と五日ほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か、どれが伊《い》東《とう》へ越す山で、どれが下《しも》田《だ》へ出る街道か、まるで知らずに帰ったのである。
杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少しまえに、妻《さい》の手から吸い飲みを受け取って、細長いガラスの口からなまぬるい午乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、安静状態と流動食事とは固く守らなければならない掟《おきて》のようになっていたからである。そのうえできるだけ病人に栄養を与えて、体力の回復のほうから、潰《かい》瘍《よう》の出血を抑えつけるという療治法を受けつつあった際だから、いやおうなしに飲んだ。実をいうとこの日は朝から食欲がきざさなかったので、吸い飲みの中に、動くことのできぬほど濁《にご》った白い色のみなぎるさまを見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先にたまるしつこい乳の味を予想して、手に取らないまえからすでに反感を起こした。しいられた時、余はやむなく細長くそり返ったガラスの管を傾けて、湯とも水ともさばけない液《しる》を、舌の上にすべらせようと試みた。それが流れて咽《の》喉《ど》を下るあとには、潔《いさぎよ》からぬねばり強い香がみだりに残った。半分は口直しのつもりであとからアイスクリームをいっぱい取ってもらった。ところがいつものさわやかさに引きかえて、咽喉を越す時いったん溶けたものが、胃の中でふたたび固まったように妙に落ちつきが悪かった。それから二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。
診察の結果として意外にもさほど悪くないという報告を得た時、平生森成さんから病気のたちがおもしろくないと聞いていた雪鳥君は、喜びのあまりすぐ社へ向けていいという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐《と》血《けつ》は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮れ方に、突如として起こったのである。
かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮れ方の光景から、日のない真夜中を通して、あくる日の天明に至るありさまを巨《こ》細《さい》残らず記憶している気でいる。ほど経て妻《さい》の心覚えに付けた日記を読んでみて、そのなかに、ノウヒンケツ(狼《ろう》狽《ばい》した妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起こし人事不省に陥るとあるのに気がついた時、余は妻を枕《まくら》辺《べ》に呼んで、当時の模様をくわしく聞くことができた。徹頭徹尾明《めい》瞭《りよう》な意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長いあいだ死んでいたのであった。
夕暮れ間近く、にわかに胸苦しいあるもののために襲われた余は、もだえたさのあまりに、せっかく親切に床のわきにすわっていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへどいてくれと邪《じや》慳《けん》に命令した。それでもたえられなかったので、安静に身を横たうべき医師からの注意にそむいて、あおむけの位地から右を下に寝返ろうと試みた。余の記憶に上らない人事不省の状態は、寝ながら向きを換えにかかったこの努力に伴う脳貧血の結果だという。
余はその時さっとほとばしる血潮を、驚いて余に寄り添おうとした妻の浴衣《ゆかた》に、べっとり吐きかけたそうである。雪鳥君は声をふるわしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと言ったそうである。社へ電報をかけるのに、手がわなないて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六筒までは覚えていますと答えた。
淋 漓 絳 血 腹 中 文。嘔 照 黄 昏 漾 綺 紋。
入 夜 空 疑 身 是 骨。臥 牀 如 石 夢 寒 雲。
一四
目をあけて見ると、右向きになったまま、瀬《せ》戸《と》引《び》きの金《かな》盥《だらい》の中に、べっとり血を吐いていた。金盥が枕《まくら》に近く押しつけてあったので、血は鼻の先にあざやかに見えた。その色は今日までのように酸の作用をこうむった不《ふ》明《めい》瞭《りよう》なものではなかった。白い底に大きな動物の肝《きも》のごとくどろりと固まっていたように思う。その時枕《まくら》元《もと》でうがいを上げましょうという森成さんの声が聞こえた。
余《よ》は黙ってうがいをした。そうして、つい今しがたそばにいる妻《さい》に、少しそっちへどいてくれと言ったほどの煩《はん》悶《もん》が忽《こつ》然《ぜん》どこかへ消えてなくなったことを自覚した。余はなによりさきにまあよかったと思った。金盥に吐いたものが鮮血であろうとなんであろうと、そんなことはいっこう気にかからなかった。日ごろからの苦痛の塊《かたまり》を一度にどさりと打ちやり切ったという落ちつきをもって、枕元の人がざわざわする様子をほとんどよそ事のように見ていた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されてそれから多量の食塩水を注射された。その時、食塩を注射されるくらいだから、多少危険な容体にせまっているのだろうとは思ったが、それもほとんど心配にはならなかった。ただ管の先から水がもれて肩の方へ流れるのがいやであった。左右の腕にも注射を受けたような気がした。しかしそれははっきり覚えていない。
妻が杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳にはいった。さよう潰《かい》瘍《よう》ではこれまでずいぶん多量の血を止めたこともありますが……と言う杉本さんの返事が聞こえた。すると床の上に釣るした電気燈がぐらぐらと動いた。ガラスの中に湾曲した一本の光が、線香煙花《はなび》のようにとくきらめいた。余は生まれてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じたことがなかった。その咄《とつ》嗟《さ》の刹《せつ》那《な》にすら、稲妻を眸《ひとみ》に焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気燈が消えて気が遠くなった。
カンフル、カンフルと言う杉本さんの声が聞こえた。杉本さんは余の右の手《て》頸《くび》をしかと握っていた。カンフルは非常によくきくね、注射し切らないうちから、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに言った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気燈に紙のおおいをした。
はたがひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二《ふた》人《り》の医師に絶えず握られていた。その二人は目を閉じている余を中にはさんで下《しも》のような話をした(その単語はことごとくドイツ語であった)。
「弱い」
「ええ」
「だめだろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持ちでいたからである。医師が余を昏《こん》睡《すい》の状態にあるものと思い誤って、忌《き》憚《たん》なき話を続けているうちに、未練な余は、瞑《めい》目《もく》不《ふ》動《どう》の姿勢にありながら、半ば無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関するかように大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になってきた。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそういう料《りよう》簡《けん》ならこっちにも考えがあるという気になった。――人間が今死のうとしつつある間ぎわにも、まだこれほどに機略を弄《ろう》しうるものかと、回復期に向かった時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出してはほほえんでいる。――もっとも苦痛がまったく取れて、安《あん》臥《が》の地位を平静に保っていた余には、十分それだけの余裕があったのであろう。
余は今まで閉じていた目を急にあけた。そうしてできるだけ大きな声と明瞭な調子で、私《わたし》は子供などに会いたくはありませんと言った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済ましてくるとか言ってへやを出ていった。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。
冷 や や か な 脈 を 護《まも》 り ぬ 夜《よ》 明 け 方
一五
しいて寝返りを右に打とうとした余《よ》と、枕《まくら》元《もと》の金《かな》盥《だらい》に鮮血を認めた余とは、一分のすきもなく連続しているとのみ信じていた。そのあいだには一本の髪毛をはさむ余地のないまでに、自覚が働いてきたとのみ心得ていた。ほど経て妻《さい》から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いたおりはまったく驚いた。子供の時いたずらをして気絶をしたことは二、三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが半時間の長きあいだ、その経験を繰り返しながら、少しも気がつかずに一か月あまりを当然のごとくに過ごしたかと思うと、はなはだ不思議な心持ちがする。実をいうとこの経験――第一経験といいうるかが疑問である。普通の経験と経験のあいだにはさまって毫《ごう》もその連結を妨げえないほど内容にとぼしいこの――余はなんといってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠りからさめたという自覚さえなかった。陰から陽《ひ》に出たとも思わなかった。かすかな羽音、遠きに去る物の響き、逃げてゆく夢のにおい、古い記憶の影、消える印象の名ごり――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽くしてようやく髣《ほう》髴《ふつ》すべき霊妙な境《きよう》界《がい》を通過したとはむろん考えなかった。ただ胸苦しくなって枕《まくら》の上の頭を右に傾けようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。そのあいだにはいり込んだ三十分の死は、時間からいっても、空間からいっても経験の記憶としてまったく余にとって存在しなかったと一般である。妻《さい》の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然ときらめいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこのかけ隔《へだ》たった二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分が咄《とつ》嗟《さ》の際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫《ぼう》然《ぜん》として自失せざるを得なかった。
生死とは緩急、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束に使用される言葉である。よし輓《ばん》近《きん*》の心理学者のとなうるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かく掌《てのひら》をひるがえすと一般に、唐《とう》突《とつ》なるかけ離れた二象面《フエーゼス*》が前後してわれをとりこにするならば、われはこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係をあとづけることができよう。
人が余に一個の柿《かき》を与えて、今日《きよう》は半分くえ、明《あ》日《す》は残りの半分の半分をくえ、そのあくる日はまたその半分の半分をくえ、かくして毎日現に余れるものの半分ずつをくえというならば、余はくい出してから幾《いつ》日《か》目《め》かに、ついにこの命令にそむいて、残る全部をことごとくくい尽くすか、または半分に割る能力の極度に達したため、手をこまぬいてむなしくのこれる柿の一片を見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件のもとに与えられたる一個の柿《かき》は、生《しよう》涯《がい》くってもくい切れるわけがない。ギリシアの昔ゼノ《*》が足の疾《と》きアキリス《*》と歩みののろい亀との間に成立する競争にことばを託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつくことはできないと説いたのはとりも直さずこの消息である。わが生活の内容をかたちづくる個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、その半ばずつを失って、知らぬまにいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないという非事実な論理に愚《ぐ》弄《ろう》されるかもしれないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和を免れて、生から死に行く径路を、なんの不思議もなく最も自然に感じうるだろう。俄《が》然《ぜん》として死し、俄然としてわれにかえるものは、いな、われにかえったのだと、人から言い聞かさるるものは、ただ寒くなるばかりである。
縹 緲 玄 黄 外。 死 生 交 謝 時。
寄 託 冥 然 去。 我 心 何 所 之。
帰 来 覓 命 根。 杳 〓 竟 難 知
孤 愁 空 遶 夢。 宛 動 粛 瑟 悲。
江 山 秋 已 老。 粥 薬 〓 将 衰。
廓 寥 天 尚 在。 高 樹 独 余 枝。
晩 懐 如 此 澹。 風 露 入 詩 遅。
一六
安らかな夜《よ》はしだいに明けた。へやを包む影法師が床を離れて遠のくにしたがって、余《よ》はまた常のごとく枕《まく》辺《らべ》に寄る人々の顔を見ることができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。病のどこにあるかを知りえぬほどに落ちついた身を床の上に横たえて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近く徘《はい》徊《かい》していようとはまったく思い設けぬところであった。目をあけた時余は昨夜《ゆうべ》の騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くにながめた。そうした死は明け渡る夜《よ》とともに立ちのいたのだろうぐらいの度胸でもすわったものとみえて、なんらの掛《け》念《ねん》もない気分を、障子からさし込む朝日の光に、心《ここ》地《ち》よくさらしていた。実は無知な余をいつわりおおせた死は、いつのまにか余の血管にもぐり込んで、乏《とも》しい血を追い回しつつ流れていたのだそうである。「容体を聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかもしれぬという」とは、妻《さい》のこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明けまで生きようとは、誰《だれ》も期待していなかったのだとはあとから聞いてはじめて知った。
余は今でも白い金《かな》盥《だらい》の底に吐き出された血の色と恰《かつ》好《こう》とを、ありありとわが目の前に思い浮かべることができる。ましてその当分は寒天のように固まりかけたなまぐさいものが常に目先にちらついていた。そうしてわが想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こうはげしくからだにこたえるのだろうといつでも不審に堪《た》えなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うと昏《こん》睡《すい》するものだと聞いて、それにわれとも知らず妻の肩に吐きかけた生血の容積《かさ》を想像の天《てん》秤《びん》に盛って、命の向こう側におもりとしてつけ加えた時ですら、余はこれほど無理な工面をして生き延びたのだとは思えなかった。
杉本さんが東京へ帰るやいなや、――杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙しいから失礼します、その代わり手当ては十分するつもりでありますと言って、新しい襟《えり》と襟《えり》飾《かざ》りを着けかえて、余の枕辺にすわったとき、余は昨夕《ゆうべ》夜《よ》なかに、裄《ゆき》丈《たけ》の足りない宿の浴衣《ゆかた》を着たまま、そっと障子を開けながら、どうかあと一《ひと》言《こと》森成さんに余の様子を聞いていた、かの人の様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしか留まらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一ぺん吐血があれば、どうしても回復の見込みはないものとおあきらめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、あとになってその顛《てん》末《まつ》をつまびらかにした余にとって、まったく思いがけない報知であった。あれほど胸のうちは落ちついていたものをと言いたいくらいに、余は平《へい》生《ぜい》の心持ちで苦痛なくその夜《よ》を明かしたのである。――話がついそれてしまった。
杉本さんは東京へ帰るやいなや、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二《ふた》人《り》すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかもしれないからと電話口でせいたので、看護婦は汽車で走るみちみちも、もういけないころではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いをさしはさんでいた。せっかく行っても、行き着いてみたら、おそすぎて間に合わなかったというようなことがあってはつまらないと語り合ってきた。――これも回復期に向いたころ、病《びよう》牀《しよう》のつれづれに看護婦と世間話をしたついでに、彼らの口からじかに聞いたたよりである。
かくすべての人に十の九まで見放された真《ま》中《なか》に、何事も知らぬ余は、曠《こう》野《や》に捨てられた赤子のごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向かってなんらの煩《はん》悶《もん》をも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざる病のために、周囲の人の丁重な保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮き世の風の当たりにくい安全な地に移ってきたように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争のからい空気が、じかに通わない山の底に住んでいたのである。
露 け さ の 里 に て 静 か な る 病
一七
臆《おく》病《びよう》者《もの》の特権として、余《よ》はかねてより妖《よう》怪《かい》にあう資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭きむちのもとに萎《い》縮《しゆく》する時、余は常に幽霊を信じた。けれどもコレラをおそれてコレラにかからぬ人のごとく、神に祈って神にすてられた子のごとく、余は今日《きよう》までこれという不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起こるが、平生はまず出あわないのを当然と心得て済ましてきた。
自白すれば、八、九年前アンドリュ・ラング《*》の書いた「夢と幽霊《*》」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先のともしびを一時に寒くながめた。一年ほどまえにも「霊妙なる心力《*》」という標題にひかされてフランマリオン《*》という人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せたことがあった。さきごろはまたオリヴァー・ロッジ《*》の「死後の生《*》」を読んだ。
死後の生! 名からしてがすでに妙である。われわれの個性がわれわれの死んだのちまでも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉をかわす。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエル《*》は確かにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述をささげたロッジも同じ考えのように思われる。ついこのあいだ出たポドモア《*》の遺著もおそらくは同系統のものだろう。
ドイツのフェヒナー《*》は十九世紀の中ごろすでに地球そのものに意識の存すべきゆえんを説いた。石と土と鉱《あらがね》に霊があるというならば、あるとするを妨げる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とはいかなる性質のものであろうくらいの想像はあってしかるべきだと思う。
われわれの意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のようにみえるし、またわが経験に照らしても至極と思われるが、肉体とともに活動する心的現象にかようの作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受け取れない。
大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、おのれらの寄り集まってこしらえている全部に対しては風馬牛のごとく無《む》頓《とん》着《じやく》であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合わせたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識のうちに含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこの類推より下しきたるスピリチズムに都合よき仮定である。
仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずることができない。
物理学者は分子の容積を計算して蚕の卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数がはいると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に零《ゼロ》を二十一つけた莫《ばく》大《だい》のものである。想像をほしいままにするの権利を有するわれわれもこの一の下に二十一の零をつけた数を思い浮かべるのは容易ではない。
形《けい》而《じ》下《か》の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続きを経て発表した数字上の結果すら、われわれはただ数理的の頭脳にのみもっともとうなずくだけである。数量のあらましさえ応用のきかぬ心の現象に関してはいうまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明《めい》瞭《りよう》な知識が、吾人の内面生活を照らす機会がきたにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできないかぎり、どんな綿密な学説でもわれを支配する能力は持ちえまい。
余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像どおりに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越したことがなんの能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失ったことだけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥《めい》合《ごう》できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人《ひと》に待つばかりである。
迎 ひ 火 を 焚《た》 い て 誰《たれ》 待 つ 絽《ろ》 の 羽 織
一八
ただ驚かれたのはからだの変化である。騒動のあったあくる朝、なにかの必要にうながされて、肋《あばら》の左右に横たえた手を、顔のところまで持って来《き》ようとすると、急に持ち主でも変わったように、自分の腕ながらまるで動かなかった。人をわずらわす手数をいとって、むりに肘《ひじ》をつえとして、手《て》頸《くび》から起こしかけたはかけたが、わずか何寸かの距離を通して、宙に短い弧線を描く努力と時間とは容易のものでなかった。ようやく浮き上がった筋の力を利用して、高い方へ引くだけの精気に乏しいので、途中から断念して、ふたたび元の位置にわが腕を落とそうとすると、それがまた安くは落ちなかった。むろんそのままにして心を放せば、自然の重みでもとに倒れるだけのことではあるが、その倒れる時の激動が、いかに全身に響き渡るかと考えると、非常に恐ろしくなって、ついに思い切る勇気が出なかった。余《よ》はおろすことも上げることも、また半途にささえることもできない腕を意識しつつそのやり所に窮した。ようやくはたのものの気がついて、自分の手をわが手に添えて、無理のないように顔のところまで持ってきてくれて、帰りにもまた二つ腕をいっしょにしてやっと床の上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、われながらほとんど想像がつかなかった。あとから考えてみて、あれはまったくゴム風船に穴があいて、その穴から空気が一度に走り出したため、風船の皮がたちまちしゅっという音とともに収縮したと一般の吐血だから、それでああからだにこたえたのだろうと判断した。それにしても風船はただ縮まるだけである。不幸にして余の皮は血液のほかに大きな長い骨をたくさんに包んでいた。その骨が――
余は生まれてより以来この時ほどにわが骨の硬《かた》さを自覚したことがない。その朝目がさめた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。そうしてその痛みが、宵《よい》に、酒をこうぶった勢いで、多数を相手にはげしい喧《けん》嘩《か》をいどんだ末、さんざんに打ちすえられて、手も足もきかなくなった時のごとくにわれを鈍くたたきこなしていた。砧《きぬた》にうたれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられおわった状態を適当に形容するには、ぶちのめすという下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでもからだを動かそうとすると、関《ふし》節《ぶし》がみしみしと鳴った。
昨日《きのう》まで狭いふとんに画された余の天地は、急にまた狭くなった。そのふとんのうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、昨日まで狭く感ぜられたふとんがさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここにいたってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側にすぎなくなった。――頭はむろん枕《まくら》に着いていた。
これほどに切りつめられた世界に住むことすら、昨夕《ゆうべ》は許されそうにみえなかったのにと、はたのものは心のうちで余のために観じてくれたろう。何事もわきまえぬ余にさえそれがあわれであった。ただ身のふとんに触れるところのみがわが世界であるだけに、そうしてその触れるところが少しも変わらないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。まったくスタチック(静)であった。したがって安全であった。綿を敷いた棺《かん》の中に長く寝て、われ棺をいでず、人棺を襲わざる亡《もう》者《じや》の気分は――もし亡者に気分がありうるならば、――この時の余のそれとあまりかけ隔たってはいなかったろう。
しばらくすると、頭がしびれはじめた。腰の骨が骨だけになって板の上に載せられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余一人の狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛をのがれるべく余は一寸の外にさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうしてすわっているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬかたわらを占めた人々の姿は、余にとって神のそれと一般であった。
余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっとあおむけに寝たまま、身の及ばざるところにときどき目を走らした。
そうして天井から釣った長い氷《ひよう》嚢《のう》の糸をしばしば見つめた。その糸は冷たい袋とともに、胃の上でぴくりぴくりと鋭い脈を打っていた。
朝《あさ》 寒《さむ》 や 生 き た る 骨 を 動 か さ ず
一九
余《よ》はこの心持ちをどう形容すべきかに迷う。
力をあきないにする相《す》撲《もう》が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵のまん中に立つ彼らの姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分とたたないうちに、恐るべき波を上下に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球《たま》が幾《いく》条《すじ》となく背中を流れだす。
最も安全に見える彼らの姿勢は、この波とこの汗のかろうじてもたらす努力の結果である。静かなのは相《あい》剋《こく》する血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺の和という。二、三十秒の現状を維持するに、彼らがどれほどの気《き》魄《はく》を消《しよう》耗《もう》せねばならぬかを思う時、見る人ははじめて残酷の感を起こすだろう。
自活の計《はかりごと》に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。われらは平和なる家庭の主人として、少なくとも衣食の満足を、われらとわれらの妻子とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日《にち》々《にち》自己と世間との間に、互殺の平和を見いだそうとつとめつつある。戸《そ》外《と》に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いのうちに殺伐の気にみちたわれを見いだすならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回《え》向《こう》院《いん》のそれ《*》のように、一分足らずで引き分けを期する望みもなく、命のあらんかぎりは一生続かなければならないという苦しい事実に想《おも》い至るならば、われらは神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまでいいたくなる。
かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。
社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引き延ばすならば、朋《ほう》友《ゆう》もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、煢《けい》然《ぜん*》としてひとりそのあいだに老ゆるものは、みじめと評するよりほかに評しようがない。
古くさい愚《ぐ》痴《ち》をくりかえすなという声がしきりに聞こえた。今でも聞こえる。それを聞き捨てにして、古くさい愚痴をくりかえすのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持ちを、急に病気が来てくつがえしたからである。
血を吐いた余は土俵の上にたおれた相撲と同じことであった。自活のために戦う勇気はむろん、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただあおむけに寝て、わずかな呼《い》吸《き》をあえてしながら、こわい世間を遠くに見た。病気が床のぐるりを屏《びよう》風《ぶ》のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。
今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようとあせっても、ととのわないことが多かった。それが病気になると、がらりと変わった。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻《さい》が来た。しまいには看護婦が二《ふた》人《り》来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。
「安心して療養せよ」という電報《*》が満州から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己や、朋友がかわるがわる枕《まくら》元《もと》に来た。あるものは鹿《か》児《ご》島《しま》から来た。あるものは山《やま》形《がた》から来た《*》。またあるものは目の前にせまる結婚《*》を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼らは皆新聞で余の病気を知って来たと言った。あおむけに寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住みにくいとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
四十を越した男、自然に淘《とう》汰《た》せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待ち設《もう》けなかった余は、病に生きかえるとともに、心に生きかえった。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とをおしまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打ちこわすものを、永久の敵とすべく心に誓った。
馬 上 青 年 老。 鏡 中 白 髪 新。
幸 生 天 子 国。 願 作 大 平 民。
二〇
ツルゲニエフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイエフスキーには、人の知るごとく、子供の時分から癲《てん》癇《かん》の発作があった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白いあわを連想するにすぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾《やまい》ととなえていた。この神聖なる疾におかされる時、あるいはその少しまえに、ドストイエフスキーは普通の人が大音楽を聞いてはじめていたりうるような一種微妙の快感に支配されたそうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足をすべらして落ちるような心持ちだとか聞いた。
「神聖なる疾」にかかったことのない余《よ》は、不幸にしてこの年になるまで、そういう趣に一瞬間もとらわれた記憶をもたない。ただ大吐血後五、六日――たつかたたないうちに、ときどき一種の精神状態に陥った、それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬさきにそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイエフスキーのうけたという不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイ《*》の細かに書き残した驚くべき阿《あ》片《へん》の世界も余の連想に上った。けれども読者の心目を眩《げん》惑《わく》するに足る妖《よう》麗《れい》な彼の叙述が、鈍い色をした卑しむべき原料から人工的に生まれたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急にいやになった。
余は当時十分と続けて人と話をするわずらわしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心に伝わって、平らかな気分をことさらにざわつかせるように覚えた。口を閉じて黄《こ》金《がね》なりという古い言葉を思い出して、ただあおむけに寝ていた。ありがたいことにへやの廂《ひさし》と、向こうの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の露に洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾けてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹《ひよう》緲《びよう》とでも形容してよい気分であった。
そのうち穏やかな心のすみが、いつか薄くぼかされて、そこを照らす意識の色がかすかになった。すると、ベイルに似た靄《もや》が軽く全面に向かってまんべんなくのびてきた。そうして総体の意識がどこもかしこも希薄になった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間に横たわる重い影でもなかった。魂がからだを抜けるといってはすでに語弊がある。霊が細かい神経の末端にまで行きわたって、泥《どろ》でできた肉体の内部を、軽く清くするとともに、官能の実覚からはるかに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起こりつつあるかを自覚した。同時にその自覚が窈《よう》窕《ちよう》として地のにおいを帯びぬ一種特別のものであるということを知った。床の下に水が回って、しぜんと畳が浮き出すように、余の心はおのれの宿るからだとともに、ふとんから浮き上がった。より適当に言えば、腰と肩と頭に触れる堅いふとんがどこかへ行ってしまったのに、心とからだは元の位置に安く漂っていた。発《ほつ》作《さ》前《ぜん》に起こるドストイエフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭《と》してもしかるべき性質のものとか聞いている。余のそれはさように強烈のものではなかった。むしろ恍《こう》惚《こつ》としてかすかな趣を生活面の全部に軽くかつ深く印し去ったのみであった。したがって余にはドストイエフスキーの受けたような憂《ゆう》鬱《うつ》性《せい》の反動が来なかった。余は朝からしばしばこの状態に入《い》った。午《ひる》過ぎにもよくこの蕩《とう》漾《よう》を味わった。そうしてさめた時はいつでもその楽しい記憶をいだいて幸福の記念としたくらいであった。
ドストイエフスキーのうけた境《きよう》界《がい》は、生理上彼の病のまさに至らんとする予言である。生を半ばに薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。
仰 臥 人 如 唖。 黙 然 見 大 空。
大 空 雲 不 動。 終 日 杳 相 同。
二一
同じドストイエフスキーもまた死の門口まで引きずられながら《*》、かろうじてあと戻りをすることのできた幸福な人である。けれども彼の命をあやめにかかった災は、余《よ》の場合におけるがごときあくらつな病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法という器械の敵となって、どんと心臓を打ちぬかれようとしたのである。
彼は彼のクラブで時事を談じた。やむなくんばただ一《いつ》揆《き》あるのみと叫んだ。そうしてとらわれた。八か月の長いあいだ薄暗い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼《あお》空《ぞら》の下《もと》に引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜に、シャツ一枚の裸姿となって、申し渡しの終わるのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜に受けた。「ほんとうに殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、かたわらに立つ同囚に問うた言葉である。……白いハンケチを合い図に振った。兵士はねらいを定めた銃《つつ》口《ぐち》を下に伏せた。ドストイエフスキーはかくして法律の捏《こ》ね丸めた熱い鉛の丸《たま》をのまずに済んだのである。その代わり四年の月日をサイベリヤの野に暮らした。
彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間とたたぬうちに三《み》たび鋭い曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連絡された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないという時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命をひっさげて、まさに来たるべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当たると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三象面《フエーゼス》の一つにすら堪《た》ええまいと思う。現にドストイエフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、これがためにその場で気が狂ってしまった。
それにもかかわらず、回復期に向かった余は、病《びよう》牀《しよう》の上に寝ながら、しばしばドストイエフスキーのことを考えた。ことに彼が死の宣告からよみがえった最後の一幕を目に浮かべた。――寒い空、新しい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、シャツ一枚のままふるえている彼の姿、――ことごとくあざやかな想像の鏡に映った。ひとり彼が死刑を免れたと自覚しえた咄《とつ》嗟《さ》の表情が、どうしてもはっきり映らなかった。しかも余はただこの咄嗟の表情が見たいばかりに、すべての画面を組み立てていたのである。
余は自然の手にかかって死のうとした。現に少しのあいだ死んでいた。あとから当時の記憶を呼び起こしたうえ、なおところどころの穴へ、妻《さい》から聞いた顛《てん》末《まつ》をうずめて、はじめてまったくでき上がる構図を振り返ってみると、いわゆる慄《りつ》然《ぜん》という感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、九仞《じん》に失った命を一《いつ》簣《き》に取り留めるうれしさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさとうれしさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイエフスキーを思い出したのである。
「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張をさいわいに受けずと済んだ余には、彼の恐ろしさうれしさの程度をはかりえぬというほうがむしろ適当かもしれぬ。それであればこそ、画《が》竜《りよう》点《てん》睛《せい》ともいうべき肝心の刹《せつ》那《な》の表情が、どう想像しても漠として目の前に描き出せないのだろう。運命の擒《きん》縦《しよう》を感ずる点において、ドストイエフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
それにもかかわらず、余はしばしばドストイエフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新しい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、シャツ一枚でふるえている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来たってやまなかった。
今はこの想像の鏡もいつとなく曇ってきた。同時に、生き返ったわがうれしさが日に日にわれを遠ざかってゆく。あのうれしさが始終わがかたわらにあるならば、――ドストイエフスキーは自己の幸福に対して、生《しよう》涯《がい》感謝することを忘れぬ人であった。
二二
余《よ》はうとうとしながらいつのまにか夢にはいった。すると鯉《こい》のはねる音でたちまち目がさめた。
余が寝ている二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉がたくさんに飼ってあった。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしゃりと水を打つ。昼のうちでもおりおりは耳にはいった。夜はことにはなはだしい。隣のへやも、下の風《ふ》呂《ろ》場《ば》も、向こうの三階も、裏の山もことごとく静まり返った真《ま》中《なか》に、余は絶えずこの音で目をさました。
犬の眠りという英語《*》を知ったのはいつの昔か忘れてしまったが、犬の眠りという意味を実地に経験したのはこのころがはじめてであった。余は犬の眠りのために夜ごと悩まされた。ようやく寝ついてありがたいと思うまもなく、すぐ目があいて、まだ空は白まないだろうかと、いくたびも暁を待ちわびた。床に縛りつけられた人の、しんとした夜半《なか》に、ただひとり生きている長さは存外な長さである。――鯉が勢いよく水を切った。自分の描いた波の上をたたく尾の音で、余は目をさました。
へやの中は夕暮れよりもなお暗い光で照らされていた。天井から下がっている電気燈の珠《たま》は黒布ですきまなく掩《おい》がしてあった。弱い光はこの黒布の目をもれて、かすかに八畳の室を射た。そうしてこの薄暗い灯影に、まっ白な着物を着た人間が二《ふた》人《り》すわっていた。二人とも口をきかなかった。二人とも動かなかった。二人とも膝《ひざ》の上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじっとしていた。
黒い布で包んだ珠《たま》を見たとき、余は紗《しや》で金《きん》箔《ぱく》を巻いた弔旗の頭を思い出した。この喪章と関係のある球の中から出る光線によって、薄く照らされた白衣の看護婦は、静かなる点において、行儀のいい点において、幽霊の雛《ひな》のように見えた。そうしてその雛は必要のあるたびに無言のまま必ず動いた。
余は声も出さなかった。呼びもしなかった。それでも余の寝ている位置に、少しの変化さえあれば彼らはきっと動いた。手を毛布《ケツト》のうちで、もじつかせても、こころもち肩を右から左へゆすっても、頭を――頭は目がさめるたびに必ずしびれていた。あるいはしびれるので目がさめるのかもしれなかった。――その頭を枕《まくら》の上で一寸ずらしても、あるいは足――足はよく寝ざめの種となった。ふだんの癖でときどき、片《かた》方《かた》を片方の上へ重ねて、そのままとろとろとなると、下になったほうの骨が沢《たく》庵《わん》石でも載せられたように、みしみしと痛んで目がさめた。そうして余は必ず強い痛さと重たさとを忍んで足の位置を変えなければならなかった。――これらのあらゆる場合に、わが変化に応じて、白い着物の動かないことはけっしてなかった。時にはわが動作を予期して、向こうから動くと思われる場合もあった。時には手も足も頭も動かさないのに、眠りが尽きてふと目をあけさえすれば、白い着物はすぐ顔のそばへ来た。余には白い着物を着ている女の心持ちが少しもわからなかった。けれども白い着物を着ている女は余の心をよく悟った。そうして影の形にしたがうごとくに変化した。響きのものに応ずるごとくに働いた。黒い布の目からもれる薄暗い光のもとに、まっ白な着物を着た女が、わが肉体の先《せん》を越して、ひそひそと、しかも規則正しく、わが心のままに動くのは恐ろしいものであった。
余はこの気味の悪い心持ちをいだいて、目をあけるとともに、ぼんやり眸《ひとみ》に映るへやの天井をながめた。そうして黒い布で包んだ電気燈の珠《たま》と、その黒い布の織り目からもれてくる光に照らされた白い着物を着た女を見た。見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいてきた。
秋 風 鳴 万 木。 山 雨 撼 高 楼。
病 骨 稜 如 剣。 一 燈 青 欲 愁。
二三
余《よ》は好意の干からびた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。
人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのはむろんありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でもなんでもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果たした先方に向かって、感謝の念を起こしにくい。それが好意となると、相手の所作が一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、活《いき》物《もの》の自分にその一挙一動がことごとくこたえる。そこに互いをつなぐ暖かい糸があって、器械的な世をたのもしく思わせる。電車に乗って一区をまたたくまに走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越したほうが情が深い。
義務さえ素直には尽くしてくれる人のない世の中に、また自分の義務さえろくに尽くしもしない世の中に、こんなぜいたくを並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意の干からびた社会に存在する自分をせつにぎごちなく感じた。――ある人の書いたものの中に、あまりせちがらい世間だから、自用車を節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのはもとより一時の融通を計る便宜にすぎない。今の大多数は質に置くべき好意さえてんで持っているものが少なそうにみえた。いかにくめんがついても受け出そうとは思えなかった。とは悟りながらやはり好意の干からびた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。
今の青年は、筆を執っても、口をあいても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小僧らしい申し分が多い。けれども彼らをしてこの「自我の主張」をあえてしてはばかるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首をくくったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩《はん》悶《もん》が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。
こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干からびた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向かってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、みずからをぎごちなく感じた。そうして病にかかった。そうして病の重いあいだ、このぎごちなさをどこへか忘れた。
看護婦は五十グラムのかゆをコップの中に入れて、それを鯛《たい》味《み》噌《そ》と混ぜ合わして、ひとさじずつ自分の口に運んでくれた。余は雀《すずめ》の子か烏《からす》の子のような心持ちがした。医師は病の遠ざかるにつれて、ほとんど五日めぐらいごとに、余のために食事の献立表を作った。ある時は三《み》とおりも四《よ》とおりも作って、それを比較していちばん病人によさそうなものをえらんで、あとはそれぎり反《ほ》故《ご》にした。
医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていないことはもちろんである。彼らをもって、単に金銭を得るがゆえに、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実もふたもない話である。けれども彼らの義務のうちに、半分の好意を溶き込んで、それを病人の目から透かしてみたら、彼らの所作がどれほど尊くなるかわからない。病人は彼らのもたらす一点の好意によって、急に生きてくるからである。余は当時そう解釈してひとりでうれしかった。そう解釈された医師や看護婦もうれしかろうと思う。
子供と違って大《たい》人《じん》は、なまじい一つのものを十《と》筋《すじ》二十筋の文《あや》からできたように見きわめる力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情をほしいままに吸収する場合がきわめて少ない。ほんとうにうれしかった、ほんとうにありがたかった、ほんとうに尊かったと、生《しよう》涯《がい》に何度思えるか、勘定すればいくばくもない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓のまん中に保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に一片の記憶と変化してしまいそうなのをせつに恐れている。――好意の干からびた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。
天 下 自 多 事。 被 吹 天 下 風。
高 秋 悲 鬢 白。 衰 病 夢 顔 紅。
送 鳥 天 無 尽。 看 雲 道 不 窮。
残 存 吾 骨 貴。 慎 勿 妄 磨 〓。
二四
子供の時うちに五、六十幅の画《え》があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干しのおりに、余《よ》はかわるがわるそれを見た。そうして掛け物の前にひとりうずくまって、黙念と時を過ごすのを楽しみとした。今でもおもちゃ箱をひっくり返したように色彩の乱調な芝《しば》居《い》を見るよりも、自分の気に入った画に対しているほうがはるかに心持ちがいい。
画のうちでは彩《さい》色《しき》を使った南画がいちばんおもしろかった。惜しいことに余の家の蔵幅にはその南画が少なかった。子供のことだから画の巧拙などはむろんわかろうはずはなかった。好ききらいといったところで、構図のうえに自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれでうれしかったのである。
鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後べつだん新しい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊はあったろうが、名前によって画を論ずるのそしりも犯さずに済んだ。ちょうど画と前後して余の嗜《し》好《こう》に上った詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛するとともに、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきかにくむべきかいずれとも意見を有していない)。
ある時、青くて丸い山を向こうに控えた、また的《てき》〓《れき》と春に照る梅を庭に植えた、また柴《さい》門《もん》のまん前を流れる小《お》河《がわ》を、垣《かき》に沿うてゆるくめぐらした。家を見て――むろん画《え》絹《ぎぬ》の上に――どうか生《しよう》涯《がい》に一《いつ》ぺんでいいからこんな所に住んでみたいと、そばにいる友人に語った。友人は余のまじねな顔をしげしげながめて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに言った。この友人は岩《いわ》手《て》のものであった。余はなるほどとはじめて自分の迂《う》闊《かつ》をはずるとともに、余の風流心に泥《どろ》を塗った友人の実際的なのをにくんだ。
それは二十四、五年もまえのことであった。その二十四、五年のあいだに、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖《がけ》を降りて渓《たに》川《がわ》へ水をくみに行くよりも、台所へ水道を引くほうがよくなった。けれども南画に似た心持ちはときどき夢を襲った。ことに病気になってあおむけに寝てからは、絶えず美しい雲と空が胸に描かれた。
すると小宮君が歌《うた》麿《まろ》の錦《にしき》絵《え》をはがきに刷ったのを送ってくれた。余はその色合いの長いあいだにおのずとさびたくすみ方にみとれて、目を放さずそれをながめていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生まれたいとかなんとか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬことが書いてあったので、こんなやにっこい色男は大きらいだ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香が好きだと答えてくれとはたのものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕《まくら》元《もと》へすわって、自然もいいが人間の背景にある自然でなくっちゃとかなんとか病人に向かって古くさい説を吐きかけるので、余は小宮君をつらまえてお前は青二才だとののしった。――それくらい病中の余は自然をなつかしく思っていた。
空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼《あお》い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返しの大地にあまねきうちにしんとしてひとりぬくもった。そうして目の前に群らがる無数の赤とんぼを見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、語よりも黙。……肩に来て人なつかしや赤とんぼ」
これは東京へ帰った以後の景色である。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美しい自然の画が、子供の時と同じように、世を支配していたのである。
秋 露 下 南 〓。 黄 花 粲 照 顔。
欲 行 沿 澗 遠。 却 得 与 雲 還。
二五
子供が来た《*》から見てやれと妻《さい》が耳のそばへ口をつけて言う。からだを動かす力がないので余《よ》は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕《まくら》を去る六尺ほどの所にすわっていた。
余の寝ている八畳についた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切る襖《ふすま》で半ばふさいであった。余は左右に開かれた襖のあいだから敷居越しに余の子供を見たのである。
頭の上の方にいるものをへやを隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこにすわっている子供の姿は存外遠方に見えた。無理な一《いち》瞥《べつ》のもとに余の眸《ひとみ》に映った顔は、逢《お》うたとしるすよりもむしろながめたと書くほうが適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
子供は三人《*》いた。一二から十、十から八つと順に一列になって隣座敷のまん中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼らは未来の健康のため、一夏を茅《ち》が崎《さき》に過ごすべく、父母から命ぜられて、兄弟五人《*》で昨日《きのう》まで海《うみ》辺《べ》を駆け回っていたのである。父が危篤の報知によって、親《しん》戚《せき》のものにつれられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修善寺まで見舞いに来たのである。
けれども危篤のなにを意味しているかを知るには彼らはあまり小さすぎた。彼らは死という名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさとこわさとは、彼らの若い額の奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に捕えられた父のからだが、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らにはむろん考えられなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。
彼らの顔にはこの会見が最後かもしれぬという愁《うれ》いの表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいるなかに三人特別な席に並んですわらせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。
余はただ一瞥の努力に彼らを見ただけであった。そうして病を解しえぬ可《か》憐《れん》な小《ち》さいものを、わざわざ遠くまで引っ張り出して、殊《しゆ》勝《しよう》に枕元にすわらせておくのをかえって残酷に思った。妻を呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余にあるいはこれが親子の見納めになるかもしれないという掛念があったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかもしれなかった。しかし余は医師やはたのものが余に対していだいていたような危険を余の病のうえにみずから感じていなかったのである。
子供はじきに東京へ帰った。一週間ほどしてから、彼らはめいめいに見舞い状を書いて、それを一つの封に入れて、余の宿に届けた。十二になる筆《ふで》子《こ》のは、四角な字を入れた整わない候《そうろう》文《ぶん》で、「お祖《ば》母《ば》様《*》が雨がふつても風がふいても毎日毎日一日もかかさずおしやか様へお詣《まゐ》りをあそばすお百《ひやく》度《ど》をなされお父《とう》様のご病気一日も早くご全快を祈りあそばされまた高田の御《おん》伯《を》母《ば》様《*》どこかのお宮へかお詣《まゐ》りあそばすとのことにござ候《さふらふ》、ふさ、きよみ《*》、むめ《*》の三人の連中は毎日猫《ねこ》の墓へ水をとりかへ花を差し上げて早くお父様の全快をお祈りをり候」とあった。十になる恒《つね》子《こ》のは尋常であった。八つになるえい子のはまったく片仮名だけで書いてあった。字を埋めて読みやすくすると、「お父様のご病気はいかがでございますか、私は無事に暮らしておりますからご安心なさいませ。お父様も私のことを思わずにご病気を早く直して早くお帰りなさいませ。私は毎日休まずに学校へ行っております。またお母《かあ》様によろしく」というのである。
余は日記の一ページを寝ながらさいて、それに、るすのうちはおとなしくお祖母様のいうことを聞かなくてはいけない、いまについでのあった時修善寺のお土産《みやげ》を届けてやるからと書いて、すぐ郵便で妻に出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺の土産はもうこわしてしまったろう。彼らが大きくなった時父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼らははたしてどんな感じがするだろう。
傷 心 秋 已 到。 嘔 血 骨 猶 存。
病 起 期 何 日。 夕 陽 還 一 村。
二六
五十グラムというと日本の二《に》勺《しやく》半《はん》にしか当たらない。ただそれだけの飲料で、このからだを終日持ちこたえていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、かわいらしくもある。またばからしくもある。
余《よ》は五十グラムの葛《くず》湯《ゆ》をうやうやしく飲んだ。そうして左右の腕に朝夕二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針のあとで埋まっていた。医師は余に今日《きよう》はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿《さら》に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針をていねいにぬぐったり、針の先に泡《あわ》のように細かい薬を吹かしてながめたりする注射の準備ははなはだ物《もの》綺《ぎ》麗《れい》で心持ちがいいけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへむりに薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師にぜんたいその鳶《とび》色《いろ》の液はなんだと聞いた。森成さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくするとやめになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増してきた。同時に口の中が執《しゆう》拗《ね》くねばりはじめた。さわやかな飲料で絶えず舌と顋《あご》と咽《の》喉《ど》を洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師はかたいかけらがすべって胃の腑《ふ》に落ち込む危険を恐れた。余は天井をながめながら、腹膜炎をわずらった二十歳《はたち》の昔を思い出した。その時は病気にさわるとかで、すべての飲み物を禁ぜられていた。ただ冷水でうがいをするだけの自由を医師から得たので、余は一時間のうちに、何度となくうがいをさせてもらった。そうしてそのつど人に知れないように、そっとうがいの水をいくぶんかずつ胃の中に飲み下して、やっといりつくような渇《かわ》きを紛らしていた。
昔のはかりごとをくりかえす勇気のなかった余は、口中を潤すための氷を歯でかみ砕いては、正直に残らず吐き出した。その代わり日に数回平《ひら》野《の》水《すい*》を一口ずつ飲ましてもらうことにした。平野水がくんくんと音を立てるような勢いで、食道から胃へ落ちてゆく時の心持ちは痛快であった。けれども咽喉を通り越すやいなやすぐとまた飲みたくなった。余は夜《よ》半《なか》にしばしば看護婦から平野水をコップについでもらって、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。
渇《かつ》はしだいにやんだ。そうして渇よりも恐ろしいひもじさが腹の中を荒らして歩くようになった。余は寝ながら美しい食《しよく》膳《ぜん》をなんとおりとなく想像でこしらえて、それを目の前に並べて楽しんでいた。そればかりではない、同じ献立を何人まえもととのえておいて、多数の朋《ほう》友《ゆう》にそれを想像で食わして喜んだ。今考えると普通のもののうれしがるような食い物はちっともなかった。こういう自分にすらあまりありがたくはない御《ご》膳《ぜん》ばかりを目の前に浮かべていたのである。
森成さんがもう葛湯はあきたろうと言って、わざわざ東京から米を取り寄せて重《おも》湯《ゆ》を作ってくれた時は、重湯を生まれてはじめてすする余には大いな期待があった。けれども一口飲んではじめてそのまずいのに驚いた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代わりカジノビスケットをひときれもらったおりのうれしさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師のへやまでやって、特に礼を述べたくらいである。
やがて粥《かゆ》を許された。そのうまさはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんなうまいものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいということを日課のようにくりかえして森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東《ひがし》君《くん》はわざわざ妻《さい》のところへ行って、先生はあんなもっともな顔をしているくせに、子供のように始終食い物の話ばかりしていておかしいと告げた。
腸《はらわた》 に 春 滴《したた》 る や 粥 の 味
二七
オイッケン《*》は精神生活ということを真向きに主張する学者である。学者の習慣として、自己の説を唱うるまえには、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものとみえて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義もたたかれる。すべての主義が彼の目から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼ははじめて精神生活の四字を拈《ねん》出《しゆつ》した。そうして精神生活の特色は自由である、自由であると連呼した。
試みに彼に向かって自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、端的にこんなものだとはけっして答えない。ただりっぱな言葉を秩序よく並べたてる。むずかしそうな理屈を蜿《えん》蜒《えん》といくえにも重ねてゆく。そこに学者らしい手ぎわはあるかもしれないが、とぐろの中に巻き込まれる素人《しろうと》はぼんやりしてしまうだけである。
しばらく哲学者の言葉を平民にわかるように翻訳してみると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。――われわれは普通衣食のために働いている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好悪撰《せん》択《たく》を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そういうふうにほかからおしつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向かってみずから進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、おのれ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。
こう解釈した時、誰《たれ》も彼の精神生活を評してつまらないとはいうまい。コムト《*》は倦怠《アンニユイ》をもって社会の進歩を促す原因と見たくらいである。倦怠《アンニユイ》の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内に抑えがたきあるものがわだかまって、じっと持ちこたえられない活力を、自然の勢いから生命の波動として描出し来たるほうが実際実の入った生きかたといわなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌でも、すべて芸術の価値はここに存していると評してもさしつかえない。
けれども学者オイッケンの頭の中でまとめ上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在しうるやいなやに至ってはおのずから別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送りうるやいなやを想像してみても分《ぶん》明《みよう》な話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとするまえに、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
豆《とう》腐《ふ》屋《や》が気に向いた朝だけ石《いし》臼《うす》を回して、心のはずまない時はけっして豆をひかなかったなら商売にはならない。さらに進んで、おのれの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおのこと商売にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯《ともし》をつけなければならない。公平という美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的という醜い本体を有しているにすぎない。一分の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、まさに両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分とか六分四分とかにまぜ合わして自己に便宜なようにまた世間に都合のいいように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚されてしまうのは当然である。芸術家としての彼はおのれに篤《あつ》き作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売れ高の多いものを公にしなくてはならぬからである。
すでに個人の性格および教育しだいで融通のきかなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織のうえから見ても、これほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般に行きわたって実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病にかかったのだと酷評を加えてもいいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸を忌んでいる余のごときものの注意を呼び起こして、その批評心を刺激する力は十分ある。大患にかかった余は、親のやっかいになった子供の時以来久しぶりではじめてこの精神生活の光に浴した。けれども、それはわずか一、二か月のうちであった。病がなおるにつれ、自己がしだいに実世間に押し出されるにつれ、こういう議論を公にして得意なオイッケンをうらやまずにはいられなくなってきた。
二八
学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていたことがある。そこの和《お》尚《しよう》は内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、算木と筮《ぜい》竹《ちく》を見るのが常であった。もとより看板をかけてのおもてむきな商売ではなかったせいか、占いを頼みに来るものは多くて日に四、五人、少ない時はまるで筮竹をもむ音さえ聞こえない夜《よ》もあった。易断に重きを置かない余《よ》は、もとよりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただおりおり襖《ふすま》越《ご》しに、和尚の、そりゃ当人の望みどおりにしたほうがようがすななどという縁談に関する助《じよ》言《ごん》を耳にさしはさむくらいなもので、面と向き合っては互いになにも語らずに久しく過ぎた。
ある時なにかのついでに、話がつい人相とか方位とかいう和尚の縄《なわ》張《ば》り内にずり込んだので、冗談半分私《わたし》の未来はどうでしょうと聞いてみたら、和尚は目をすえて余の顔をじっとながめたあとで、たいして悪いこともありませんなと答えた。たいして悪いこともないというのは、たいしていいこともないといったも同然で、すなわちお前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、貴方《あなた》は親の死にめにはあえませんねと言った。余はそうですかと答えた。すると今度は貴方は西へ西へと行く相があると言った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早く顋《あご》の下へ〓《ひげ》をはやして地面を買って居宅《うち》をお建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建てうる身分ならなにも君のところにやっかいになっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の〓と、地面居宅《やしき》とはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返してみた。すると和尚はまじめな顔をして、貴方の顔を半分に割ると上のほうが長くって、下のほうが短すぎる。したがって落ちつかない。だから早く顎《あご》〓《ひげ》を生やして上《うえ》下《した》の釣り合いを取るようにすれば、顔のいすわりがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔の雑作に向かって加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。
一年ならずして余は松山に行った《*》。それからまた熊《くま》本《もと》に移った《*》。熊本からまたロンドンに向かった《*》。和尚の言ったとおり西へ西へとおもむいたのである。余の母は余の十三、四の時に死んだ《*》。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席には侍《はんべ》らなかった。父の死んだ《*》電報を東京から受け取ったのは、熊本にいるころのことであった。これで見ると、親の死にめにあえないと言った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただ顋の〓にいたってはその時から今日に至るまで、寧《ねい》日《じつ》なくそり続けにそっているから、地面と居宅《やしき》がはたして〓とともにわが手にはいるかどうかいまだに判然せずにいた。
ところが修善寺で病気をして寝つくやいなや頬《ほお》がざらざらしはじめた。それが五、六日すると一本一本につまめるようになった。またしばらくすると、頬から顋がすきまなく隠れるようになった。和尚の助《じよ》言《ごん》は十七、八年ぶりではじめて役に立ちそうな気色に〓は延びてきた。妻《さい》はいっそおはやしなすったらいいでしょうと言った。余も半分その気になって、しきりにその辺をなで回していた。ところが幾《いつ》日《か》となく洗いもくしけずりもしない髪が、膏《あぶら》と垢《あか》で余の頭をうずめ尽くそうとするむさくるしさに堪《た》えられなくなって、ある日床屋を呼んで、不十分ながら寝たまま頭に手を入れて顔にかみそりを当てた。その時地面と居宅の持ち主たるべき資格をまたきれいに失ってしまった。はたのものは若くなったなったと言ってしきりにはやしたてた。ひとり妻だけはおやすっかりそっておしまいになったんですかと言って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復したうえにも、なお地面と居宅がほしかったのである。余といえども、〓を落とさなければ地面と居宅がきっと手にはいると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。
その後〓は始終そった。朝早く床の上に起き直って、向こうの三階の屋根とわがへやの障子の間にわずかばかり見える山の頂をながめるたびに、わが頬の潔くそり落としてあるなめらかさをなで回してはうれしがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったとみえる。
客 夢 回 時 一 鳥 鳴。 夜 来 山 雨 暁 来 晴。
孤 峯 頂 上 孤 松 色。 早 映 紅 暾 鬱 々 明。
二九
修善寺が村の名でかねて寺の名であるということは、行かぬまえから迅《と》くに承知していた。しかしその寺で鐘の代わりに太鼓をたたこうとはかつて想い至らなかった。それをはじめて聞いたのはいつのころであったかまったく忘れてしまった。ただ今でも余《よ》が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんとときどき響くことがある。すると余は必ず去年の病気を憶《おも》い出す。
余は去年の病気とともに、新しい天井と、新しい床の間にかけた大《おお》島《しま》将《しよう》軍《ぐん*》の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何べんとなく読み返した当時をあからさまに憶い出す。新しい天井と、新しい床の間と、新しい柱と、新しすぎてあけたての不自由な障子は、今でも目の前にありありと浮かべることができるが、朝から晩までに何べんとなく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今では白壁のように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、尾《お》頭《かしら》ともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけである。句にいたっては、はじめの剣《けん》戟《げき》という二字よりほか憶い出せない。
余は余の鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのもののなかに、じっとあおむいて、尻《しり》の痛さを紛らしつつ、のつそつ夜明けを待ちわびたその当時を回顧すると、修善寺の太鼓の音《ね》は、一種いうべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てたうえ、中間だけを、やけに夜陰に向かってたたきつけるように、ぶっきらぼうな鳴り方をした。そうして、一つどんとそっけなく鳴るとともにぱたりととまった。余は耳をそばだてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。ややしばらくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直すころに、また一つどんと鳴った。そうして愛《あい》想《そ》のない音は、水に落ちた石のように、急に夜のなかに消えたぎり、しんとした表になんの活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の音の至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じくきわめて乾《から》び切った響きが――響きとはいいにくい。黒い空気のなかに、突然無遠慮な点をどっと打ってすぐ筆を隠したような音が、余の耳《じ》朶《だ》をたたいて去るあとで、余はつくづくと夜《よ》を長いものに観じた。
もっとも夜《よ》は長くなるころであった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝から袷《あわせ》を着るかしなければ、肌《はだ》寒《さむ》を防ぐ便《たよ》りとならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短い日よりもなおのこと短く昼を端折って、灯《ひ》は容易についた。そうして夜《よ》はなかなか明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。目があくときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜《よ》のなかに生きながらうずもっていることかと思うと、われながらわが病気に堪《た》えられなかった。新しい天井と、新しい柱と、新しい障子を見つめるに堪《た》えなかった。まっ白な絹に書いた大きな字の掛け物には最も堪えなかった。ああ早く夜《よ》が明けてくれればいいのにと思った。
修善寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとくまばらな間隔を取って、暗い夜《よ》をぽつりぽつりと縫いはじめる。それが五分とたち七分とたつうちに、しだいに調《ちよう》子《し》づいて、ついに夕立の雨《あま》滴《だれ》よりもしげくせまってくる変化は、余からいうともう日の出に間もないという報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくの後に、看護婦がやっと起きてへやの廊下の所だけ雨戸をあけてくれるのはなによりもうれしかった。外はいつでも薄暗く見えた。
修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でもときどきどんという余音のないぶっ切ったような響きを余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種いうべからざる心持ちをくりかえしている。
夢 繞 星 〓 〓 露 幽。 夜 分 形 影 暗 燈 愁。
旗 亭 病 近 修 禅 寺。 一 〓 疎 鐘 已 九 秋。
三〇
山を分けて谷一面の百《ゆ》合《り》をあくまでながめようと心にきめたあくる日から床の上にたおれた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を碁石のように点々と見た。それを小《お》暗《ぐら》く包もうとする緑の奥には、重い香が沈んで、風に揺られるおりおりを待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。――このあいだ宿の客が山から取ってきて瓶《へい》にさした一輪の白さと大きさと香りから推《お》して、余はあるまじき広々とした画《え》を頭の中に描いた。
聖書にある野の百合《*》とは今いう唐《から》菖《しよう》蒲《ぶ》のことだと、その唐菖蒲を床にいけておいた時、はじめて芥《かい》舟《しゆう》君《*》から教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った一《ひと》月《つき》まえも思い出された。聖書と関係の薄い余《よ》にさえ、檜《ひ》扇《おうぎ》を熱帯的にはでに仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだ趣を表わすにはあまり強すぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもいい。余が想像に描いたかすかな花は一輪も見る機会のないうちに立秋に入った。百合は露とともにくだけた。
人は病むもののために裏の山にはいって、ここかしこから手の届く幾茎の草花を折ってきた。裏の山は余のへやから廊下伝いにすぐ上る便《たよ》りのあるくらい近かった。障子さえあけておけば、寝ながら縁側と欄間の間をうずめる一部分を鼻の先にながめることもできた。その一部分は岩と草と、岩のすそを縫うて迂《う》回《かい》して上る小《こ》径《みち》とから成り立っていた。余は余のために山に上るものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一ぺん影を隠して、また反対の地位から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくながめた。そうして同じ彼らの姿がふたたび欄間の上から曲折して下ってくるのをうとい目でながめた。彼らは必ず粗《あら》い縞《しま》の貸《か》し浴衣《ゆかた》を着て、日の照る時は手《て》拭《ぬぐ》いで頬《ほお》冠《かむ》りをしていた。岨《そば》道《みち》を行くべきものとも思われないその姿が、花をかかえて岩のそばにぬっと現われると、一種芝《しば》居《い》にでもありそうな感じを病人に与えるくらい釣り合いがおかしかった。
彼らの採ってきてくれるものは色彩のきわめて乏しい野生の秋草であった。
ある日しんとした真昼に、長い薄《すすき》が畳に伏さるようにいけてあったら、いつどこから来たともしれないきりぎりすがたった一つ、おとなしく中ほどにとまっていた。その時薄は虫の重みでしないそうに見えた。そうして袋戸に張った新しい銀の上に映るいくぶんかの緑が、ぼかしたように淡くかつ不《ふ》分《ぶん》明《みよう》に、眸《ひとみ》を誘うので、なおさら運動の感覚を刺激した。
薄はたいがいすぐ縮れた。比較的長くもつ女郎花《おみなえし》さえながめるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草のさみしさを物憂く思い出した時、はじめて蜀《しよく》紅《こう》葵《あおい》とかいう燃えるような赤い花びらを見た。留《る》守《す》居《い》の婆《ばあ》さんに銭をやって、もっと折らせろと言ったら、銭はいりません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんなところに花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵の花びらは燃えながら、あくる日散ってしまった。
桂《かつら》川《がわ》の岸伝いに行くといくらでも咲いているというコスモスもときどき病室を照らした。コスモスはすべてのうちで最も単簡でかつ長くもった。余はその薄くて規則正しい花びらと、空《くう》に浮かんだように超然と取り合わぬ咲きぐあいとを見て、コスモスは干《ひ》菓《が》子《し》に似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。範《のり》頼《より*》の墓《はか》守《も》りの作ったという菊を分けてもらってきたのはそれからよほどのちのことである。墓守りは鉢《はち》に植えた菊を貸してあげようかと言ったそうである。この墓守りの顔も見たかった。しまいには畠《はたけ》山《やま》の城《しろ》址《あと*》からあけびというものを取ってきて瓶にはさんだ。それは色のさめた茄《な》子《す》の色をしていた。そうしてその一つを鳥がつついて空洞《うつろ》にしていた。――瓶にさす草と花がしだいに変わるうちに気節はようやく深い秋にはいった。
日 似 三 春 永。 心 随 野 水 空。
牀 頭 花 一 片。 閑 落 小 眠 中。
三一
若い時兄を二《ふた》人《り》失った《*》。二人とも長いあいだ床についていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いた病の影を肉の上に刻んでいた。けれどもその長いあいだに延びた髪と〓《ひげ》は、死んだあとまでも漆《うるし》のように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、そることのできないで不本意らしく爺《じ》々《じ》むさそうにはえた〓にいたっては、見るからあわれであった。余《よ》は一《ひと》人《り》の兄の太くたくましい〓の色をいまだに記憶している。死ぬころの彼の顔がいかにも気の毒なくらいやせ衰えて小さく見えるのに引きかえて、〓だけは健康な壮者をいしのぐ勢いで延びてきた一種の対照を、気味悪くまた情けなく感じたためでもあろう。
大《たい》患《かん》にかかって生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死ともかたづかぬ空裏にすぎた。存亡の領域がやや明らかになったころ、まずわが存在を確かめたいという願いから、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らしてみた。すると何年かまえに世を去った兄の面《おも》影《かげ》が、卒然としてひややかな鏡の裏をかすめて去った。骨ばかり意地悪く残った頬《ほお》、人間らしい暖か味を失った蒼《あお》く黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない目、それから無遠慮に延びた髪と〓、――どう見ても兄の記念であった。
ただ兄の髪と〓が死ぬまで漆のように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつのまにか銀の筋がまばらにまじっていた。考えてみると兄は白《しら》髪《が》のはえるまえに死んだのである。死ぬとすればそのほうがいさぎよいかもしれない。白髪に鬢《びん》や頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びるくふうに余念のない余は、今を盛りの年ごろに容赦なく世を捨てて逝《ゆ》く壮者に比べると、なんだかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、むろんはかないという心持ちもあったが、死にそくなったという恥も少しはまじっていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク《*》」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどとうなずいて読んだ当時を憶《おも》い出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。
「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情を終《しゆう》焉《えん》まで持ち続けたから、嘘《うそ》は言わない男である。けれども惜しいことに髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは言い切れなかったろうと思えば、思われないこともない。自分が二十の時、三十の人を見ればたいへんに懸《けん》隔《かく》があるように思いながら、いつか三十がくると、二十の昔と同じ気分なことがわかったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活《い》きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、今日《きよう》まで世を経たようなものの、外部からきざしてくる老《ろう》頽《たい》の徴候を、幾《いく》茎《けい》かの白髪に認めて、健康の常時とは心意の趣を異にする病《びよう》裡《り》の鏡に臨んだ刹《せつ》那《な》の感情には、若い影はさらにささなかったからである。
白髪にしいられて、思い切りよく老いの敷居をまたいでしまおうか、白髪を隠して、なお若い街巷《ちまた》に徘《はい》徊《かい》しようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気にかかるまえある友人と会食したら、その友人が短く刈った余のもみあげをながめて、そこから白髪に冒されるのを苦にしてだんだん上の方へすり上げるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は十分あった。けれども病にかかった余は、白髪を看板にして事をしたいくらいまでにあきらめよく落ちついていた。
病のいえた今日の余は、病中の余を引き延ばした心に活《い》きているのだろうか、または友人と食卓についた病気前の若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの言ったとおりを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人物のあいだに迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違いない。けれども彼ら若い人たちにもやがて墓と浮き世のあいだに立って去就を決しかねる時期がくるだろう。
桃 花 馬 上 少 年 時。 笑 拠 銀 鞍 払 柳 枝。
緑 水 至 今 迢 逓 去。 月 明 来 照 鬢 如 糸。
三二
初めはただ漠《ばく》然《ぜん》と空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思いだした。ある時はすぐにも帰りたいような心持ちがした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くに堪《た》ええようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなりばかげて見えた。したがってはたのものに自分はいつ帰れるかと問いただしたこともなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ蒼《あお》くわが上をおおいはじめた。 もう動かしても大事なかろうというころになって、東京から別に二《ふた》人《り》の医者を迎えてその意見を確かめたら、いま二週間ののちにという挨《あい》拶《さつ》であった。挨拶があったあくる日から余《よ》は自分の寝ている地と、寝ているへやを見捨てるのが急に惜しくなった。せいいっぱい英国をにくんだことがある。それはハイネ《*》が英国をにくんだごとく因《いん》業《ごう》に英国をにくんだのである。けれども立つ間ぎわになって、知らぬ人間の渦《うず》を巻いて流れているロンドンの海を見渡したら、彼らを包む鳶《とび》色《いろ》の空気の奥に、余の呼吸に適する一種のガスが含まれているような気がしだした。余は空を仰いで町の真《ま》中《なか》にたたずんだ。二週間ののちこの地を去るべき今の余も、病むからだを横たえて、床の上にひとりたたずまざるをえなかった。余は特に余のために造ってもらった高さ一尺五寸ほどの偉大な藁《わら》ぶとんにたたずんだ。静かな庭の寂《せき》寞《ばく》を破る鯉《こい》の水を切る音にたたずんだ。朝露にぬれた屋《や》根《ね》瓦《がわら》の上をおちこちと尾をうごかし歩く鶺《せき》鴒《れい》にたたずんだ。枕《まくら》元《もと》の花《か》瓶《へい》にもたたずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水の音《ね》にもたたずんだ。かくわが身をめぐる多くのものに低《てい》徊《かい》しつつ、予定のとおり二週間の過ぎ去るのを待った。
その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくにきて、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨の濛《もう》々《もう》と降る暁を最後の記念として与えた。暗い空を透かして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。
人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものをこしらえて、それを座敷のうちに舁《か》き入れた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上にそり返るようにくふうしてあった。そうして全部を白い布でまいた、余はいだかれて、この高くそった前方に背を託して、平たいほうに足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式という言葉は穏当でないが、この白い布で包んだ寝《ね》台《だい》とも寝《ね》棺《かん》ともかたのつかないものの上に横になった人は、生きながら葬《とむら》われるとしか余には受け取れなかった。余は口のうちで、第二の葬式ということばをしきりにくりかえした。人の一度は必ずやってもらう葬式を、余だけはどうしても二へん執行しなければ済まないと思ったからである。
舁《か》かれてへやを出るときは平らであったが、階《はし》子《ご》段《だん》を降りるきわには、台が傾いて、急に輿《こし》から落ちそうになった。玄関に来ると同宿の浴《よつ》客《かく》がおおぜい並んで、左右から白い輿を目送していた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降る庇《ひさし》の外にかつぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿を竪《たて》に馬車の中に渡して、前後相対する席と席とでささえた。あらかじめ寸法を取ってこしらえたので、輿はきっしりとうまく馬車の中に納まった。馬は降るなかを動きだした。余は寝ながら幌《ほろ》を打つ雨の音を聞いた。そうして、御者台と幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。竹《たけ》藪《やぶ》の色、柿《かき》紅葉《もみじ》、芋《いも》の葉、槿《むくげ》垣《がき》、熟した稲の香、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなもののあるべき季節であると、生まれ返ったように憶《おも》い出してはうれしがった。さらに進んでわが帰るべきところには、いかなる新しい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像してひとり楽しんだ。同時に昨日《きのう》まで低《てい》徊《かい》した藁ぶとんも鶺鴒も秋草も鯉も小《お》河《がわ》もことごとく消えてしまった。
万 事 休 時 一 息 回。 余 生 豈 忍 比 残 灰。
風 過 古 澗 秋 声 起。 日 落 幽 篁 瞑 色 来。
漫 道 山 中 三 月 滞。 〓 知 門 外 一 天 開。
帰 期 勿 後 黄 花 節。 恐 有 羇 魂 夢 旧 苔。
(明治四三・一〇・二九−四四・二・二〇)
三三
正月を病院でした経験は生《しよう》涯《がい》にたった一ぺんしかない。
松飾りの影が目先に散らつくほど暮れが押しつまったころ、余《よ》ははじめてこの珍しい経験を目前に控えた自分を異様に考えだした。同時にその考えが単に頭だけに働いて、毫《ごう》も心臓の鼓動に響きを伝えなかったのを不思議に思った。
余は白いベッドの上に寝ては、自分と病院ときたるべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の酔狂さかげんをねんごろに商量した。けれども起き直って机に向かったり、膳《ぜん》についたりするおりは、もうここがわが家だという気に心を任して少しも怪しまなかった。それで歳《とし》は暮れても春はせまっても別に感慨というほどのものは浮かばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。
いよいよ大《おお》晦《みそ》日《か》が来た、余は小《ち》さい松を二本買ってそれを自分の病室の入り口に立てようかと思った。しかし松をささえるために釘《くぎ》を打ち込んで美しい柱にきずをつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買ってまいりましょうと言うから買ってもらうことにした。
この看護婦は修善寺以来余が病院を出るまで半年のあいだ始終余のそばにつき切りについていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで町《まち》井《い》石《いし》子《こ》嬢《じよう》町井石子嬢と言っていた。ときどきはまちがえて苗《みよう》字《じ》と名前を顛《てん》倒《どう》して、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首をかしげながらそう改めたほうがいいようでございますねと言った。しまいには遠慮がなくなって、とうとう鼬《いたち》という渾《あだ》名《な》をつけてやった。ある時なにかのついでに、時にお前の顔はなにかに似ているよと言ったら、どうせろくなものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間としてなにかに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られるわけのものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃたいへんですと絶叫して以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。
鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝さげて帰ってきた。白いほうを蔵《ぞう》沢《たく*》の竹の画《え》の前にさして、あかいほうは太い竹《たけ》筒《づつ》の中に投げ込んだなり、袋戸の上に置いた。このあいだ人からもらった支《し》那《な》水《ずい》仙《せん》もくるくる曲がって延びた葉の間から、白い香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶ病気がよくおなりだから、明日《あした》はきっとお雑《ぞう》煮《に》が祝えるに違いないと言って余を慰めた。
除夜の夢は例年のとおり枕《まくら》の上に落ちた。こういう大《たい》患《かん》にかかったあげく、病院の人となっていくつの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーというローマ字が明らかにつづられてみえる。それにもかかわらず、感に堪《た》えぬ趣は少しも胸を刺さずに、四十四年の春はおのずから南向きの縁から明け放たれた。そうして町井さんの予言のとおり形《かた》ばかりとはいいながら、小《ち》さい一切れの餅《もち》が元日らしく病人の眸《ひとみ》に映じた。余はこの一《ひと》椀《わん》の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかもなんらの詩味をも感ぜずに、小《ち》さな餅の片《きれ》を平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。
二月の末になって、病室まえの梅がちらほら咲きだすころ、余は医師の許しを得て、ふたたび広い世界の人となった。ふり返ってみると、入院ちゅうに、余と運命の一角を同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで亡《な》くなった人は少なくない。ある北国の患者は入院以後病勢がしだいに募るので、付き添いの息《むす》子《こ》が心配して、大晦日の夜《よ》になって、むりに郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。一間置いて隣の人は自分で死期を自覚して、あきらめてしまえば死ぬということはなんでもないものだと言って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向こうのはずれにいた潰《かい》瘍《よう》患《かん》者《じや》の高いせきが日ごとに薄らいでゆくので、おおかた落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねてみると、衰弱の結果いつのまにか死んでいた。そうかと思うと、癌《がん》で見込みのない病人のくせに、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るやいなや、すぐ起き直って尻《しり》をまくるというのがあった。付き添いの女《によう》房《ぼう》をけったりぶったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が見かねて慰めていましたと町井さんが話したことも覚えている。ある食《しよく》道《どう》狭《きよう》窄《さく》の患者は病院にははいっているようなものの迷いに迷い抜いて、灸《きゆう》点《てん》師《し》を連れてきて灸をすえたり、海草を採ってきてせんじて飲んだりして、ひたすら不治の癌《がん》症《しよう》をなおそうとしていた。……
余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ賄《まかない》の給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一か月余の今日になって、過去をひとつかみにして、目の前に並べてみると、アイロニーの一語はますますあざやかに頭の中に拈《ねん》出《しゆつ》される。そうしていつのまにかこのアイロニーに一種の実感が伴って、ふたつのものが互いに纏《てん》綿《めん》してきた。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮も、――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。
子規の画
余《よ》は子《し》規《き》のかいた画《え》をたった一枚持っている。亡友の記念《かたみ》だと思って長いあいだそれを袋の中に入れてしまっておいた。年数のたつにつれて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近ごろふとおもい出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかもしれないから、今のうちに表具屋へやって掛け物にでも仕立てさせようという気が起こった。渋紙の袋を引き出して塵《ちり》をはたいて中をしらべると、画は元のまま湿っぽく四《よつ》折《お》りにたたんであった。画のほかに、ないと思った子規の手紙も幾通か出てきた。余はそのうちから子規が余にあててよこした最後のものと、それから年月のわからない短いものとを選び出して、その中間に例の画をはさんで、三つをひとまとめに表装させた。
画は一輪ざしにさした東《あずま》菊《ぎく》で、図柄としてはきわめて簡単なものである。わきに「これはしぼみかけたところと思いたまえ。まずいのは病気のせいだと思いたまえ。嘘《うそ》だと思わば肱《ひじ》を突いてかいてみたまえ」という注釈がくわえてあるところをもってみると、自分でもそううまいとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東《あずま》菊《ぎく》いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがね《*》という一首の歌を添えて、熊本まで送ってきたのである。
壁にかけてながめてみるといかにもさびしい感じがする。色は花と茎と葉とガラスのびんとを合わせてわずかに三《み》色《いろ》しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾《つぼみ》が二つだけである。葉の数を勘定してみたら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍《あい》なので、どうながめても冷たい心持ちが襲ってきてならない。
子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力をおしまなかったようにみえる。わずか三《み》茎《くき》の花に、少なくとも五、六時間の手間をかけて、どこからどこまでたんねんに塗り上げている。これほどの骨折りは、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにもむぞうさに俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明らかな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は当時絵画における写生の必要を不《ふ》折《せつ*》などから聞いて、それを一草一花のうえにも実行しようと企てながら、彼が俳句のうえですでに悟入した同一方法を、この方面に向かって適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。
東菊によって代表された子規の画は、まずくてかつまじめである。才を呵《か》してただちに章をなす彼の文筆が、絵《え》の具《ぐ》皿《ざら》に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとりすくんでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じえないのである。虚《きよ》子《し》が来てこの幅を見た時、正《まさ》岡《おか》の絵はうまいじゃありませんかと言ったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費やさなければならなかったかと思うと、なんだか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙があふれていると思うと答えた。ばか律《りち》気《ぎ》なものに厭《いや》味《み》もきいたふうもありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直もののうまさである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、咄《とつ》嗟《さ》に弁ずる手ぎわがないために、やむをえず省略の捷《しよう》径《けい》をすてて、几《き》帳《ちよう》面《めん》な塗《と》抹《まつ》主《しゆ》義《ぎ》を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。
子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、その日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑いうるの機会をとらええたためしがない。また彼の拙にほれ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の没後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとって多大の興味がある。ただ画がいかにもさびしい。できうるならば、子規にこの拙なところをもう少し雄大に発揮させて、さびしさの償いとしたかった。
ケーベル先生
木の葉の間から高い窓が見えて、その窓のすみからケーベル先生《*》の頭が見えた。わきから濃い藍《あい》色《いろ》の煙が立った。先生は煙草《たばこ》をのんでいるなと余《よ》は安《あ》倍《べ》君《*》に言った。
このまえここを通ったのはいつだか忘れてしまったが、今日《きよう》見るとわずかのまにもうだいぶ様子が違っている。甲武線《*》の崖《がけ》上《うえ》は角《かど》並《な》み新しいりっぱな家に建てかえられて、いずれも現代的日本の産み出した富の威力と切り放すことのできない門構えばかりである。そのなかに先生の住《すま》居《い*》だけが過去の記念《かたみ》のごとくたった一軒古ぼけたなりで残っている。先生はこのくすぶり返った家の書斎にはいったなりめったに外へ出たことがない。その書斎はとりも直さず先生の頭が見えた木の葉の間の高い所であった。
余と安倍君とは先生に導かれて、敷き物もなにも足に触れない素裸のままの高い階《はし》子《ご》段《だん》を薄暗がりにがたがたいわせながら上って、階上の右手にある書斎にはいった。そうして先生の今まで腰をおろして窓から頭だけを出していたいちばん光に近い椅《い》子《す》に余はすわった。そこで外《そ》面《と》からさす夕暮れに近い明かりを受けてはじめて先生の顔を熟視した。先生の顔は昔とさまで違っていなかった。先生は自分で六十三だと言われた。余が先生の美学の講義をききに出たのは、余が大学院にはいった年《*》で、たしか先生が日本へ来てはじめての講義だと思っているが、先生はその時からすでにこういう顔であった。先生に日本へ来てもう二十年になりますかと聞いたら、そうはならない、たしか十八年めだと答えられた。先生の髪も〓《ひげ》も英語でいうオーバーン《*》とか形容すべき、ごく薄い麻のような色をしているうえに、普通の西洋人のとおり非常に細くって柔らかいから、少しの白《しら》髪《が》がはえてもまるで目立たないのだろう。それにしても血色が元のとおりである。十八年を日本で住み古した人とは思えない。
先生の容《よう》貌《ぼう》が永久にみずみずしているように見えるのに引きかえて、先生の書斎は耄《ぼ》け切った色で包まれていた。洋書というものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に学問と芸術のはでやかさをしのばせるのが常であるのに、このへやは余の目を射る何物をも蔵していなかった。ただ大きな机があった。色のさめた椅子が四脚あった。マッチとエジプト煙草と灰《はい》皿《ざら》があった。余はエジプト煙草を吹かしながら先生と話をした。けれどもへやを出て、下の食堂へ案内されるまで、余はついに先生の書斎にどんな書物がどんなに並んでいたかを知らずに過ぎた。
はなやかな金文字や赤や青の背表紙が余の目を刺激しなかったばかりではない。純潔な白色でさえついに余の目には触れずにすんだ。先生の食卓には常の欧州人が必要品とまで認めている白布がかかっていなかった。その代わりにくすんだ更《さら》紗《さ》形《がた》を置いた布《きれ》がいっぱいにかぶさっていた。そうしてその布《きれ》はこのあいだまで余の家《うち》に預かっていた娘の子《*》を嫁《かた》づける時に新調してやったふとんの表と同じものであった。この卓を前にしてすわった先生は、襟《えり》も襟《えり》飾《かざ》りも着けてはいない。千《せん》筋《すじ》の縮みのシャツを着た上に、玉子色の薄い背広を一枚むぞうさに引っかけただけでる。はじめから儀式ばらぬようにとの注意ではあったが、あまり失礼に当たってはと思って、余は白いシャツと白い襟と紺《こん》の着物を着ていた。君が正装をしているのにわたしはこんななりでと先生がさいぜん言われた時、正装の二字に痛み入るばかりであったが、なるほど洗い立ての白いものが手と首に着いているのが正装なら、余のほうが先生よりもよほど正装であった。
余は先生に一《ひと》人《り》でさびしくはありませんかと聞いたら、先生は少しもさびしくはないと答えられた。西洋へ帰りたくはありませんかと尋ねたら、それほど西洋がいいとも思わない、そかし日本には演奏会と芝《しば》居《い》と図書館と画館がないのが困る、それだけが不便だと言われた。一年ぐらい暇をもらって遊んできてはどうですと促してみたら、そりゃむろんやってもらえる、けれどもそれは好まない。私がもし日本を離れることがあるとすれば、永久に離れる。けっして二度とは帰ってこないと言われた。
先生はこういうふうにそれほど故郷を慕う様子もなく、あながち日本をきらう気色もなく、自分の性格とはいれにくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時代の世態が、周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮き上がって、自分をその中心に陥落せしめねばやまぬ勢いを得つつ進むのを、日ごと眼前に目撃しながら、それを別世界に起こる風馬牛の現象のごとくよそに見て、きわめて落ちついた十八年をわがくにで過ごされた。先生の生活はそっと煤《ばい》煙《えん》の巷《ちまた》にすてられたギリシアの彫刻に血が通いだしたようなものである。雑《ざつ》閙《とう》のなかにおのれを動かしていかにも静かである。先生の踏む靴《くつ》の底には敷き石をかむ鋲《びよう》の響きがない。先生は紀元前の半島の人《*》のごとくに、しなやかな革《かわ》で作ったサンダルをはいておとなしく電車のそばを歩いている。
先生は昔烏《からす》を飼っておられた。どこから来たかわからないのを餌《え》をやって放し飼いにしたのである。先生と烏とは妙な因縁に聞こえる。この二つを頭の中で結びつけると一種の気持ちが起こる。先生が大学の図書館で書架の中からポーの全集を引きおろしたのを見たのは昔のことである。先生はポーもホフマン《*》も好きなのだと言う。この夕《ゆうべ》その烏のことを思い出して、あの烏はどうなりましたと聞いたら、あれは死にました、凍えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留まったまんま、あくる日になると死んでいましたと答えられた。
烏のついでに蝙《こう》蝠《もり》の話が出た。安倍君が蝙蝠は懐疑《スケブチツク》な鳥だと言うから、なぜと反問したら、でも薄暗がりにはたはた飛んでいるからと謎《なぞ》のような答えをした。余は蝙蝠の翼《はね》が好きだと言った。先生はあれは悪魔の翼だと言った。なるほど画《え》にある悪魔はいつでも蝙蝠の羽根をしょっている。
その時夕暮れの窓ぎわに近くひぐらしが来てほがらに鋭い声を立てたので、卓を囲んだ四《よつ》人《たり*》はしばらくそれに耳を傾けた。あの鳴き声にもイタリアの連想があるでしょうと余は先生に尋ねた。これは先生が少しまえに蜥蜴《とかげ》が美しいと言ったので、青く澄んだイタリアの空を思い出させやしませんかと聞いたら、そうだと答えられたからである。しかしひぐらしの時には、先生は少し首を傾けて、いやあれはイタリアじゃない、どうもイタリアでは聞いたことがないように思うと言われた。
余らは熱い都の中心に誤って点ぜられたとも見える古い家の中で、静かにこんな話をした。それから菊の話と椿《つばき》の話と鈴《すず》蘭《らん》の話をした。果《くだ》物《もの》の話もした。その果物のうちでもっとも香りの高い遠い国から来たレモンの露をしぼって水にしたたらして飲んだ。コーヒーも飲んだ。すべての飲料のうちでコーヒーがいちばんうまいという先生の嗜《し》好《こう》も聞いた。それから静かな夜《よ》のなかに安倍君と二《ふた》人《り》で出た。
先生の顔がはなやかな演奏会に見えなくなってから、もうよほどになる。先生はピヤノに手を触れることすら日本に来ては口外せぬつもりであったと言う。先生はそれほど浮いたことがきらいなのである。すべての演奏会を謝絶した先生は、ただ自分のへやで自分の気に向いた時だけ楽器の前にすわる、そうして自分の音楽を自分だけで聞いている。そのほかにはただ書物を読んでいる。
文科大学へ行って、ここでいちばん人格の高い教授は誰《だれ》だと聞いたら、百人の学生が九十人までは、数ある日本の教授の名を口にするまえに、まずフォン・ケーベルと答えるだろう。かほどに多くの学生から尊敬される先生は、日本の学生に対して終始かわらざる興味をいだいて、十八年の長い間哲学の講義を続けている。先生がとくに索《さく》漠《ばく》たる日本を去るべくして、いまだに去らないのは、実にこの愛すべき学生あるがためである。
京都の深《ふか》田《だ》教授《*》が先生の家にいるころ、いつでもひまな時に晩《ばん》餐《さん》を食べに来いと言われてから、行かずに経過した月日を数えるともう四年以上になる。ようやくその約を果たして安倍君といっしょに大きな暗い夜のなかに出た時、余は先生はこれからさき、もう何年ぐらい日本にいるつもりだろうと考えた。そうして一度日本を離れればもう帰らないと言われた時、先生の引用した“no more, never more.”(ノーモアーネバーモアー《*》)というポーの句を思い出した。
変な音
上
うとうとしたと思ううちに目がさめた。すると、隣のへやで妙な音がする。はじめはなんの音ともまたどこからくるともはっきりした見当がつかなかったが、聞いているうちに、だんだん耳の中へまとまった観念ができてきた。なんでも山葵《わさび》卸《おろ》しで大《だい》根《こ》かなにかをごそごそすっているに違いない。自分は確かにそうだと思った。それにしても今ごろなんの必要があって、隣のへやで大《だい》根《こ》卸《おろ》しをこしらえているのだか想像がつかない。
いい忘れたがここは病院《*》である。賄《まかない》ははるか半町も離れた二階下の台所に行かなければ一《ひと》人《り》もいない。病室では炊事割《かつ》烹《ぽう》はむろん菓子さえ禁じられている。まして時ならぬ今時分なにしに大根卸しをこしらえよう。これはきっと別の音が大根卸しのように自分に聞こえるのにきまっていると、すぐ心のうちでさとったようなものの、さてそれならはたしてどこからどうして出るのだろうと考えるとやっぱりわからない。
自分はわからないなりにして、もう少し意味のあることに自分の頭を使おうと試みた。けれども一度耳についたこの不可思議な音は、それが続いて自分の鼓膜に訴えるかぎり、妙に神経にたたって、どうしても忘れるわけにいかなかった。あたりはしんとして静かである。この棟《むね》に不自由な身を託した患者は申し合わせたように黙っている。寝ているのか、考えているのか話をするものは一人もない。廊下を歩く看護婦の上《うわ》草《ぞう》履《り》の音さえ聞こえない。そのなかにこのごしごしと物をすり減らすような異な響きだけが気になった。
自分のへやはもと特等として二間つづきに作られたのを病院の都合で一つずつに分けたものだから、火《ひ》鉢《ばち》などの置いてある副室のほうは、普通の壁が隣の境になっているが、寝床の敷いてある六畳のほうになると、東側に六尺の袋《ふくろ》戸《と》棚《だな》があって、そのわきが芭《ば》蕉《しよう》布《ふ》の襖《ふすま》ですぐ隣へ行きかよいができるようになっている。この一枚の仕切りをがらりとあけさえすれば、隣室でなにをしているかはたやすくわかるけれども、他人に対してそれほどの無礼をあえてするほど大事な音でないのはむろんである。おりから暑さに向かう時節であったから縁側は常にあけ放したままであった。縁側はもとより棟いっぱい細長く続いている。けれども患者が縁《えん》端《ばた》へ出て互いを見とおす不都合を避けるため、わざと二《ふた》へやごとに開き戸を設けてお互いの関とした。それは板の上へ細い桟《さん》を十文字に渡したしゃれたもので、小使が毎朝ふきそうじをする時には、下からかぎを持ってきて、いちいちこの戸を開けてゆくのが例になっていた。自分は立って敷居の上に立った。かの音はこの妻《つま》戸《ど》の後ろから出るようである。戸の下は二寸ほどすいていたがそこにはなにも見えなかった。
この音はその後もよくくりかえされた。ある時は五、六分続いて自分の聴神経を刺激することもあったし、またある時はその半ばにも至らないでぱたりとやんでしまうおりもあった。けれどもそのなんであるかは、ついに知る機会なく過ぎた。病人は静かな男であったが、おりおり夜半に看護婦を小さい声で起こしていた。看護婦がまた殊《しゆ》勝《しよう》な女で小さい声で一度か二度呼ばれると快い優しい「はい」という受け答えをして、すぐ起きた。そうして患者のためになにかしている様子であった。
ある日回診の番が隣へ回ってきたとき、いつもよりはだいぶ手間がかかると思っていると、やがて低い話し声が聞こえだした。それが二、三人で持ち合ってなかなかはかどらないような湿りけを帯びていた。やがて医者の声で、どうせ、そう急にはおなおりにはなりますまいからと言った言葉だけがはっきり聞こえた。それから二、三日して、かの患者のへやにこそこそ出はいりする人の気色がしたが、いずれもおのれの活動する立ち居を病人に遠慮するように、ひそかにふるまっていたと思ったら、病人自身も影のごとくいつのまにかどこかへ行ってしまった。そうしてそのあとへはすぐあくる日から新しい患者がはいって、入り口の柱に白く名前を書いた黒塗りの札がかけかえられた。例のごしごしという妙な音はとうとう見きわめることができないうちに病人は退院してしまったのである。そのうち自分も退院した。そうして、かの音に対する好奇の念はそれぎり消えてしまった。
下
三か月ばかりして自分はまた同じ病院にはいった。へやはまえのと番号が一《ひと》つ違うだけで、つまりその西隣であった。壁一《ひと》重《え》隔てた昔の住《すま》居《い》には誰《だれ》がいるのだろうと思って注意してみると、終日かたりという音もしない。あいていたのである。もう一つ先がすなわち例の異様の音の出たところであるが、ここには今誰《だれ》がいるのだかわからなかった。自分はその後受けたからだの変化のあまりはげしいのと、そのはげしさが頭に映って、このあいだからの過去の影に与えられた動揺が、絶えず現在に向かって波紋を伝えるのとで、山葵《わさび》卸《おろ》しのことなどはとんと思い出す暇もなかった。それよりはむしろ自分に近い運命を持った在院の患者の経過のほうが気にかかった。看護婦に一等の病人は何人いるのかと聞くと、三人だけだと答えた。重いのかと聞くと重そうですと言う。それから一日二《ふつ》日《か》して自分はその三人の病症を看護婦から確かめた。一《ひと》人《り》は食《しよく》道《どう》癌《がん》であった。一人は胃《い》癌《がん》であった。残る一人は胃《い》潰《かい》瘍《よう》であった。みんな長くはもたない人ばかりだそうですと看護婦は彼らの運命をひとまとめに予言した。
自分は縁側に置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。実は菊を買うはずのところを、植木屋が十六貫《*》だと言うので、五貫に負けろと値切っても相談にならなかったので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと言ってもやっぱり負けなかった、今《こ》年《とし》は水で菊が高いのだと説明した。ベゴニアを持ってきた人の話を思い出して、にぎやかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどしてみた。
やがて食道癌の男が退院した。胃癌の人は死ぬのはあきらめさえすればなんでもないと言って美しく死んだ。潰瘍の人はだんだん悪くなった。夜《よ》半《なか》に目をさますと、ときどき東のはずれで、付き添いのものが氷をくだく音がした。その音がやむと同時に病人は死んだ。自分は日記に書き込んだ。――「三人のうち二《ふた》人《り》死んで自分だけ残ったから、死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。あの病人は嘔《は》きけがあって、向こうの端からこっちの果てまで響くような声を出して始終げえげえ吐いていたが、この二、三日それがぴたりと聞こえなくなったので、だいぶ落ちついてまあ結構だと思ったら、実は疲労の極声を出す元気を失ったのだと知れた」
そののち患者は入れ代わり立ち代わり出たりはいったりした。自分の病気は日を積むにしたがってしだいに快方に向かった。しまいには上《うわ》草《ぞう》履《り》をはいて広い廊下をあちこち散歩しはじめた。その時ふとしたことから、偶然ある付き添いの看護婦と口をきくようになった。暖かい日の午《ひる》過ぎ食後の運動がてら水《すい》仙《せん》の水をかえてやろうと思って洗面所へ出て、水道のせんをねじっていると、その看護婦が受け持ちのへやの茶器を洗いに来て、例のとおり挨《あい》拶《さつ》をしながら、しばらく自分の手にした朱《しゆ》泥《でい》の鉢《はち》と、その中に盛り上げられたようにふくれて見える球《たま》根《ね》をながめていたが、やがてその目を自分の横顔に移して、このまえご入院の時よりもうずっとお顔色がよくなりましたねと、三か月まえの自分と今の自分を比較したような批評をした。
「この前って、あの時分君もやっぱり付き添いでここに来ていたのかい」
「ええついお隣でした。しばらく○○さんのところにおりましたが、ご存じはなかったかもしれません」
○○さんというと例の変な音をさせたほうの東隣である。自分は看護婦を見て、これがあの時夜《よ》半《なか》に呼ばれると、「はい」という優しい返事をして起き上がった女かと思うと、少し驚かずにはいられなかった。けれども、そのころ自分の神経をあのくらい刺激した音の原因については別に聞く気も起こらなかった。で、ああそうかといったなり朱泥の鉢をふいていた。すると女が突然少し改まった調子でこんなことを言った。
「あのころ貴方《あなた》のおへやでときどき変な音がいたしましたが……」
自分は不意に逆襲を受けた人のように、看護婦を見た。看護婦は続けて言った。
「毎朝六時ごろになるときっとするように思いましたが」
「うん、あれか」と自分は思い出したようについ大きな声を出した。「あれはね、自動革砥《オートストロツプ》の音だ。毎朝髭《ひげ》をそるんでね、安全かみそりを革《かわ》砥《ど》へかけてとぐのだよ。今でもやってる。嘘《うそ》だと思うなら来てごらん」
看護婦はただへええと言った。だんだん聞いてみると、○○さんという患者は、ひどくその革砥の音を気にして、あれはなんの音だなんの音だと看護婦に質問したのだそうである。看護婦がどうもわからないと答えると、隣の人はだいぶんいいので朝起きるとすぐ、運動をする、その器械の音なんじゃないかうらやましいなとなんべんもくりかえしたという話である。
「そりゃいいがお前のほうの音はなんだい」
「お前のほうの音って?」
「そらよく大《だい》根《こ》を卸すような音がしたじゃないか」
「ええあれですか。あれは胡《きゆ》瓜《うり》をすったんです。患者さんが足がほてって仕方がない、胡瓜のつゆで冷やしてくれとおっしゃるもんですから私《わたし》が始終すってあげました」
「じゃやっぱり大《だい》根《こ》卸《おろ》しの音なんだね」
「ええ」
「そうかそれでようやくわかった。――いったい○○さんの病気はなんだい」
「直《ちよく》腸《ちよう》癌《がん》です」
「じゃとてもむずかしいんだね」
「ええもうとうに。ここを退院なさるとじきでした、お亡《な》くなりになったのは」 自分は黙然としてわがへやに帰った。そうして胡瓜の音でひとをじらして死んだ男と、革砥の音をうらやましがらせてよくなった人との相違を心の中で思い比べた。
手紙
一
モーパサン《*》の書いた「二十五日間」と題する小品には、ある温泉場の宿屋へ落ちついて、着物や白シャツを衣《い》装《しよう》棚《だな》へしまおうとする時に、そのひきだしをあけてみたら、中から巻いた紙が出たので、何気なく引き延ばして読むと「私の《メ》二十五《ヴアサン》日《ジユール》」という標題が目に触れたという冒頭が置いてあって、その次にこの無名氏のいわゆる二十五日間が一字も変えぬ元の姿で転載された体になっている。
プレヴォー《*》の「不在」という端《は》物《もの》の書き出しには、パリーのある雑誌に寄稿の安受け合いをしたため、ドイツのさる避暑地へ下りて、そこの宿屋の机かなにかの上で、しきりに構想に悩みながら、なにか種はないかというふうに、机のひきだしをいちいちあけてみると、最終の底から思いがけなく手紙が出てきたとあって、これにもその手紙がそっくりそのまま出してある。
二つともよく似た趣向なので、あるいは新しいほうが古い人のやったあとを踏襲したのではなかろうかという疑いさえさしはさめるくらいだが、それは自分にはどうでもよろしい。ただ自分もつい近ごろ、これと同様の経験をしたことがある。そのせいか今まではなるほど小説家だけあってうまくこしらえるなとばかり感心していたのが、それ以後実際世の中にはずいぶん似たことがたくさんあるものだという気になって、むしろ偶然の重複に詠《えい》嘆《たん》するような心持ちがいくぶんかあるので、つい二《ふた》人《り》の作をここに並べてあげたくなったのである。
もっともモーパサンのは標題の示すごとく、逗《とう》留《りゆう》二十五日間の印象記という種類に属すべきもので、プレヴォーのは滞在ちゅうの女《おんな》客《きやく》にあてたなまめかしい男の文《ふみ》だから、双方とも無名氏の文字それ自身が興味の眼目である。自分の経験もやはりふとした場所で意外な手紙の発見をしたということにはなるが、それが導火線になって、思いがけなくある実際上の効果を収めえたのであるから、手紙そのものにはそれほど興味がない。少なくとも、小説的な情調のもとに、それを読みえなかった自分にはそういう興味はなかった。そこが前にあげたフランスの二作家と違うところで、そこがまた彼らよりも散文的な自分をして、彼らの例にならって、その手紙をこの話の中心として、一字残らず写さしめなかった原因になる。
手紙は疑いもなく宿屋で発見されたのである。場所もほとんどフランスの作家の筆にしたところとほとんど変わりはない。けれどもどうしてかどんな手紙をとかいう問いに答えるためには、それを発見した当時から約一週間ほどまえにさかのぼって説明する必要がある。
いよいよK市へ立つという前の晩になって、妻《さい》がちょうどいいついでだから、帰りに重《じゆう》吉《きち》さんのところへ寄っていらっしゃい、そうして重吉さんに会って、あのことをもっとはっきりきめていらっしゃい。なんだか紙鳶《たこ》が木の枝へ引っかかっていながら、途中で揚がってるような気がしていけませんからと言った。重吉のことは自分も同感であった。それにしても妻によくこんな気のきいた言葉が使えると思って、お前誰かに教わったのかいと、なにも答えないさきに、まず冗談半分の疑いをほのめかしてみた。すると妻は存外まじめきった顔つきで、なにをですと問い返した。開き直ったというほどでもないが、こっちの意味が通じなかったことだけはたしかなようにみえたから、自分は紙鳶の話はそれぎりにして、直接重吉のことを談合した。
重吉というのは自分の身内ともやっかいものともかたのつかない一種の青年であった。一時は自分の家《うち》に寝起きをしてまで学校へ通ったくらい関係は深いのであるが、大学へはいって以来下宿をしたぎり、四年の課程を終わるまで、とうとう家へは帰らなかった。もっとも別に疎遠になったというわけではない、日曜や土曜もしくは平日でさえ気に向いた時はやって来て長く遊んでいった。元来が鷹《おう》揚《よう》なたちで、素直に男らしく打ちくつろいでいるようにみえるのが、持って生まれたこの人の得であった。それで自分も妻もはなはだ重吉を好いていた。重吉のほうでも自分らを叔《お》父《じ》さん叔《お》母《ば》さんと呼んでいた。
二
重吉は学校を出たばかりである。そうして出るやいなやすぐいなかへ行ってしまった。なぜそんな所へ行くのかと聞いたら別にたいした意味もないが、ただ口を頼んでおいた先輩が、行ったらどうだと勧めるからその気になったのだと答えた。それにしてもHはあんまりじゃないか、せめて大阪とか名古屋とかなら地方でも仕方がないけれどもと、自分は当人がすでにきめたというにもかかわらず一応彼のH行《ゆき》に反対してみた。その時重吉はただにやにや笑っていた。そうして今急にあすこに欠員ができて困ってるというから、当分の約束で行くのです、じきまた帰ってきますと、あたかも未来が自分のかってになるようなものの言い方をした。自分はその場で重吉の「また帰ってきます」を「帰ってくるつもりです」に訂正してやりたかったけれどもそう思い込んでいるものの心を、無益にざわつかせる必要もないからそれはそれなりにしておいて、じゃあのことはどうするつもりだと尋ねた。「あのこと」は今までの行きがかり上、重吉の立つまえにぜひとも聞いておかなければならない問題だったからである。すると重吉は別に気にかける様子もなく、万事貴方《あなた》にお任せするからよろしく願いますと言ったなり、平気でいた。刺激に対して急劇な反応を示さないのはこの男の天分であるが、それにしても彼の年齢と、この問題の性質から一般的に見たところで、重吉の態度はあまり冷静すぎて、定量未満の興味《*》しかもちえないというふうに思われた。自分は少し不審をいだいた。
元来自分と妻《さい》と重吉の間にただ「あのこと」として一種の符《ふ》牒《ちよう》のように通用しているのは、実をいうと、彼の縁談に関する件であった。卒業の少し前から話が続いているので、自分たちだけには単なる「あのこと」でいっさいの経過が明らかに頭に浮かむせいか、べつだん改まって相手の名前などは口へ出さないで済ますことが多かったのである。
女は妻の遠縁に当たるものの次女であった。その関係でときどき自分の家に出はいるところからしぜん重吉とも知り合いになって、会えば互いに挨《あい》拶《さつ》するくらいの交際が成立した。けれども二《ふた》人《り》の関係はそれ以上に接近する機会も企てもなく、ほとんど同じ距離で進行するのみにみえた。そうして二人ともそれ以上に何物をも求むる気色がなかった。要するに二人の間は、年長者の監督のもとに立つある少女と、まだ修業ちゅうの身分を自覚するある青年とが一種の社会的な事情から、互いと顔を見合わせて、礼儀にもとらないだけの応対をするにすぎなかった。
だから自分は驚いたのである。重吉があがらずせまらず、常と少しも違わない平面な調子で、あの人を妻《さい》にもらいたい、話してくれませんかと言った時には、君ほんとうかと実際聞き返したくらいであった。自分はすぐ重吉の挙止動作がふだんにたいていはまじめであるごとく、この問題に対してもまたまじめであるのを発見した。そうして過渡期の日本の社会道徳にそむいて、私の歩を相互に進めることなしに、意志の重みをはじめから監督者たる父母に寄せかけた彼の行ないぶりを快く感じた。そこで彼の依頼を引き受けた。
さっそく妻をやって先方へ話をさせてみると、妻は女の母の挨拶だといって、妙な返事をもたらした。金はなくってもかまわないから道楽をしない保証のついた人でなければやらないというのである。そうしてなぜそんな注文を出すのか、いわれが説明としてその返事に伴っていた。
女には一人の姉があって、その姉は二、三年まえすでにある資産家のところへ嫁に行った。今でも行っている。世間並みの夫婦として別にひとの注意をひくほどの波《は》瀾《らん》もなく、まず平穏に納まっているから、人目にはそれでさしつかえないようにみえるけれども、姉娘の父母はこの二、三年のあいだに、苦々しい思いをたえず陰でなめさせられたのである。そのすべては娘のかたづいた先の夫の不身持ちから起こったのだといえばそれまでであるが、父母だって、娘の亭主を、業務上必要のつきあいから追い出してまで、娘の権利と幸福を庇《ひ》護《ご》しようと試みるほどさばけない人たちではなかった。
三
実をいうと、父母ははじめからそれを承知のうえで娘を嫁にやったのである。それのみか、腕ききの腕を最も敏活に働かすという意味に解釈した酒と女は、仕事のうえに欠くべからざる交際社会の必要条件とまで認めていた。それだのに彼らはやがて眉《まゆ》をひそめなければならなくなってきた。かねてじょうぶであった娘の健康が、嫁にいってしばらくすると、目につくように衰えだした時に、彼らはもう相応に胸を傷めた。娘に会うたびに母親はどこか悪くはないかと聞いた。娘はただ微笑して、べつだんなんともないとばかり答えていた。けれどもその血色はしだいにあおくなるだけであった。そうしてしまいにはとうとう病気だということがわかった。しかもその病気があまりたちのよいものでないということがわかった。なおよく探究すると、公に言いにくい夫の疾《やまい》がいつのまにか妻に感染したのだということまでわかった。父母の懸念が道徳上の着色を帯びて、好悪の意味で、娘の夫に反射するようになったのはこの時からである。彼らは気の毒な長女を見るにつけて、これから嫁にやる次女の夫として、姉のそれと同型の道楽ものを想像するにたえなくなった。それで金はなくてもかまわないから、どうしても道楽をしない保険付きの堅い人にもらってもらおうと、夫婦の間に相談がまとまったのである。
自分の妻《さい》は先方から聞いてきたとおりをこういうふうに詳しくくりかえして自分に話したのち、重吉さんならまちがいはなかろうと思うんですが、どうでしょうと言った。自分はただそうさと答えたまま、畳の上を見つめていた。すると妻はやや疑ぐったような調子で、重吉さんでも道楽をするんでしょうかと聞いた。
「まあだいじょうぶだろうよ」
「まあじゃ困るわ。ほんとうにだいじょうぶでなくっちゃ。だってもしか、嘘《うそ》でもついたら、私すまないんですもの。私ばかしじゃない、貴方《あなた》だって責任がおありじゃありませんか」
こう言われてみるとなるほど先方へいいかげんな返事をするのもいかがなものである。といって、あの重吉が遊ぶとは、どうしても考えられない。むろん彼のようすにはじじむさいとか無骨すぎるとか、すべて粋《いき》の裏へ回るものは一つもなかった。けれども全面が平たく尋常にでき上がっているせいか、どことさして、ここが道楽くさいという点もまたまるで見当たらなかった。自分は妻といろいろ話した末、こう言った。
「まあたいていよかろうじゃないか。道楽のほうは受け合いますと言っといでよ」
「道楽のほうって――。しないほうをでしょう」
「あたりまえさ。するほうを受け合っちゃたいへんだ」
妻はまた先方へ行って、けっして道楽をするような男じゃございませんと受け合った。話はそれから発展しはじめたのである。重吉が地方へ行くと言いだした時には、それがずっと進行して、もう十の九まではまとまっていた。自分は重吉のHへ立つまえに、わざわざ先方へ出かけて行って、父母の同意を求めたうえで重吉を立たせた。
重吉とお静《しず》さんとの関係はそこまで行って、ぴたりととまったなり今日に至ってまだ動かずにいる。もっとも自分はそれほど気にもかからない。今にどっちからか動きだすだろう、万事はその時のことと覚悟をきめていたが、妻は女だけに心配して、このあいだも長い手紙を重吉にやって、いったいあのことはどうなさるつもりですかと尋ねたら、重吉は万事よろしく願いますと例のとおりの返事をよこした。そのまえ聞き合わせた時には、私はまだ道楽を始めませんから、だいじょうぶですというはがきが来た。妻はそのはがきを自分のところへ持ってきて、重吉さんもずいぶんのんきね、まだ始めませんって、いまに始められたひにゃ、だいじょうぶでもなんでもないじゃありませんか、冗談じゃあるまいし、と少しおこったような語気をもらした。自分にも重吉の用いたこのまだという字がいかにもおかしく思われた。妻に、当人本気なのかなと言ったくらいである。
妻が評したごとく、こういうふうに、いつまでも、紙鳶《たこ》が木の枝に引っかかって中途から揚がっているようなありさまでおしてゆかれては間へはいった自分たちの責任としても、しまいには放っておかれなくなるのは明らかだから、今度の旅行を幸い、帰りにHへ寄って、いわゆる「あのこと」をもっとはっきりかたづけてきたらよかろうという妻の意見に従うことにきめて家を出た。
四
汽車中では重吉の地方生活をいろいろに想像する暇もあったが、目的地へ下りるやいなや、すぐ当用のために忙《ぼう》殺《さつ》されて、「あのこと」などはほとんど考えもしなかった。ようよう四、五日かかって、一段落がついた時、自分はまた汽車に揺られながら、まだ見ないHの町や、その町の中にある重吉の下宿している旅館などを、頭の奥に漂う画《え》のようにながめた。もとよりものずきのさせるわざだから、煙草《たばこ》の煙《けぶり》に似て、取り留めることのできないうちに、また煙草の煙に似た淡い愉快があった。とかくするうちに汽車はとうとうHへ着いた。
自分はすぐ俥《くるま》を雇って、重吉のいる宿屋の玄関へ乗りつけた。番頭にここに佐野という人が下宿しているはずだがと聞くと番頭はおじぎを二つばかりして、佐野さんは先だってまでおいでになりましたが、ついこのあいだお引き移りになりましたと言う。けしからんことだと思いながらも、なお引っ越し先の模様を尋ねてみると、とうてい自分などの行って、一晩でも二晩でもやっかいになれそうな所ではないらしい。いっそここへ泊まるほうが楽だろうと思って、じゃあいたへやへ案内してくれと言うと、番頭はまたおじぎを一つして、まことにお気の毒さまでございますが、招魂祭《*》でどのへやもふさがっておりますのでとていねいに断わった。自分は傘《かさ》を突いたまましばらく玄関の前に立っていた。正式にいうと、あらかじめ重吉に通知をしたうえ、なおH着の時間を電報で言ってやるべきであるが、なるべくお互いの面《めん》倒《どう》を省いて簡略に事を済ますのが当世だと思って、わざと前触れなしに重吉を襲ったのであるが、いよいよ来てみると、自分のやり口はただの不注意から、出る不都合な結果を、自分のうえに投げかけたと同じことになってしまった。
自分はHにどんな宿屋が何軒あるかまるで知らなかったが、この旅館がそのうちでいちばんよいのだということだけは、かねて受け取った重吉の手紙によって心得ていた。なるほど奥をのぞいてみると、廊下が折れ曲がったり、中庭の先に新しい棟《むね》が見えたりして、さも広そうでかつ物《もの》綺《ぎ》麗《れい》であった。自分は番頭にどこか都合ができるだろうと言った。番頭は当惑したような顔をして、しばらく考えていたが、はなはだ見苦しい所で、一《いち》夜《や》泊《どま》りのお客様にはお気の毒でございますが、佐野さんのいらしったお座敷なら、どうかいたしましょうと答えた。その口ぶりから察すると、なんでもよほどきたない所らしいので、また少し躊《ちゆう》躇《ちよ》しかけたが、もとよりこの地へ来て体裁を顧みる必要もない身だから、一晩や二晩はどんなへやで明かしたってかまわないという気になって、このあいだまで重吉のいたというそのへやへ案内してもらった。
へやは第一の廊下を右へ折れて、そこの縁側から庭《にわ》下《げ》駄《た》をはいて、二足三足たたきの上を渡らなければはいれない代わりにどことも続いていないところが、まるで一軒立ちの観を与えた。天井の低いのや柱の細いのが、さも茶がかった空気を作るとともに、いかにも湿っぽい陰気な感じがした。そうして畳といわず襖《ふすま》といわずはなはだしく古びていた。向こうの藤《ふじ》棚《だな》の陰に見える少し出《で》張《ば》った新築の中二階などとくらべると、まるで比較にならないほど趣が違っていた。
「こんな所にはいっていたのか」と思いながら、自分は茶をのんでしばらく座敷を見回していたが、やがて硯《すずり》を借りて、重吉の所へやる手紙を書いた。ただ簡単にK市へ用があって来たついでにここへ寄ったから、すぐ来いというだけにとどめた。それから湯にはいって出ると、もう食事の時間になった。自分はなるべく重吉といっしょに晩飯を食おうと思って、煙草を何本も吹かしながら、彼の来るのを心待ちに待っているうちに、向こうの中二階に電気燈がついて、にぎやかな人声が聞こえだした。自分はとうとう待ち切れず一《ひと》人《り》膳《ぜん》に向かった。給仕に出た女が、招魂祭でどこの宿屋でもこみ合っているとか、町ではいろいろの催しがあるとか、佐野さんも今晩はきっとどこかへお呼ばれなすったんでしょうとか言うのを聞きながら、ビールを一、二はいのんだ。下女は重吉のことをおとなしいよいかただと言った。女にほれられるかと聞いたら、えへへと笑っていた。道楽をするだろうと聞いたら、下を向いて小さな声をしていいえと答えた。
五
食事が済んで下女が膳《ぜん》をさげたのは、もう九時近くであった。それでも重吉はまだ顔を見せなかった。自分はひとりで縁鼻へ座ぶとんを運んで、手《て》摺《す》りにもたれながら向こう座敷の明るい電気燈やはでな笑い声を湿っぽい空気の中から遠くうかがってつまらない心持ちをつまらないなりに引きずるような態度で、煙草《たばこ》ばかり吹かしていた。そこへさっきの下女が襖《ふすま》をあけて、やっといらっしゃいましたと案内をした。そのあとから重吉が赤い顔をしてはいってきた。自分は重吉の赤い顔をこの時はじめて見た。けれども席に着いて挨《あい》拶《さつ》をする彼の様子といい、言葉数といい、抑《あげ》揚《さげ》の調子といい、すべてが平生の重吉そのままであった。自分は彼の言語動作のいずれの点にも、酒気に駆られて動くのだと評してしかるべききわだった何物をも認めなかったので、異常な彼の顔色については、別にいうところもなく済ました。しばらくして彼は茶器を代えに来た下女の名を呼んで、コップに水を一ぱいくれと頼んだ。そうして自分の方を見ながら、どうも咽《の》喉《ど》がかわいてと間接な弁解をした。
「だいぶ飲んだんだね」
「ええお祭りで、少し飲まされました」
赤い顔のことは簡単にこれで済んでしまった。それからどこをどう話が通ったか覚えていないが、三十分ばかりたつうちに、自分も重吉もいつのまにか、いわゆる「あのこと」の圏内で受け答えをするようになった。
「いったいどうする気なんだい」
「どうする気だって、――むろんもらいたいんですがね」
「真剣のところを白状しなくっちゃいけないよ。いいかげんなことを言って引っ張るくらいなら、いっそきっぱり今のうちに断わるほうが得策だから」
「いまさら断わるなんて、ぼくはごめんだなあ。実際叔《お》父《じ》さん、僕はあの人が好きなんだから」
重吉の様子にどこといって嘘《うそ》らしいところは見えなかった。
「じゃ、もっと早くどしどしかたづけるが好いじゃないか、いつまでたってもぐずぐずで、はたから見ると、いかにも煮え切らないよ」
重吉は小さな声でそうかなと言って、しばらく休んでいたが、やがて元の調子に戻って、こう聞いた。
「だってもらってこんないなかへ連れてくるんですか」
自分はいなかでもなんでもかまわないはずだと答えた。重吉は先方がそれを承知なのかと聞き返した。自分はその時ちょっと困った。実はそんな細かなことまで先方の意見を確かめたうえで、談判に来たわけではなかったのだからである。けれども行きがかり上やむをえないので、
「そう話したら、承知するだろうじゃないか」と勢いよく言ってのけた。
すると、重吉は問題の方向を変えて、目下の経済事情が、とうてい暖かい家庭を物質的に形づくるほどの余裕をもっていないから、しばらくのあいだひとりでしんぼうするつもりでいたのだという弁解をしたうえ、最初の約束によれば、ことしの暮れには月給が上がって東京へ帰れるはずだから、その時は先さえ承知なら、どんな小さな家でも構えて、お静さんを迎える考えだと話した。もし事が約束どおりに運ばないため、月給も上がらず、東京へも帰れなかったあかつきには、その時こそ、先方さえ異存がなければ、自分の言ったようにする気だから、なにぶんよろしく頼むということもつけ加えた。自分は一応もっともだと思った。
「そうお前の腹がきまってるなら、それでいい。叔《お》母《ば》さんも安心するだろう。お静さんのほうへも、よくそう話しておこう」
「ええどうぞ――。しかし僕の腹はたいてい貴方《あなた》がたにはわかってるはずですがねえ」
「そんなら、あんな返事をよこさないがいいよ。ただよろしく願いますだけじゃなんだかいっこうわからないじゃないか。そうして、あのはがきはなんだい、私はまだ道楽を始めませんから、だいじょうぶですって。本気だか冗談だかまるで見当がつかない」
「どうもすみません。――しかしまったく本気なんです」と言いながら、重吉は苦笑して頭をかいた。
「あのこと」はそれで切り上げて、あとはまとまらない四《よ》方《も》山《やま》の話に夜《よ》をふかした。せっかくだから二、三日逗《とう》留《りゆう》してゆっくりしていらっしゃいと勧めてくれるのを断わって、やはりあくる日立つことにしたので、重吉はそんならお疲れでしょう、早くお休みなさいと挨拶して帰っていった。
六
あくる朝顔を洗ってへやへ帰ると、棚《たな》の上の鏡台が麗々と障子の前にすえ直してある。自分は何気なくその前にすわるととともに鏡の下の櫛《くし》を取り上げた。そしてその櫛をふくつもりかなにかで、鏡台のひきだしを力任せにあけてみた。すると浅い桐《きり》の底に、奥の方で、なにかひっかかるような手ごたえがしたのが、たちまち軽くなって、するすると、抜けてきたとたんに、まき納めてねじれたような手紙の端がすじかいに見えた。自分はひったくるようにその手紙を取って、すぐ五、六寸破いて櫛をふこうとして見ると、細かい女の字で白紙の闇《やみ》をたどるといったように、細長くひょろひょろとなにか書いてあるのに気がついた。自分はちょっと一、二行読んでみる気になった。しかしこのひょろひょろした文字が言文一致でつづられているのを発見した時、自分の好奇心は最初の一、二行では満足することができなくなった。自分は知らず知らず、先に裂き破った五、六寸を一《ひと》息《いき》に読み尽くした。そうして裂き残しの分へまでもどんどん進んでいった。こう進んでゆくうちにも、自分は絶えず微笑を禁じえなかった。実をいうと手紙はある女から男にあてた艶《えん》書《しよ》なのである。
艶書だけに一方からいうとはなはだ陳腐には相違ないが、それがまた形式のきまらない言文一致でかってに書き流してあるので、ずいぶん奇抜だと思う文句がひょいひょいと出てきた。ことに字違いや仮名違いが目についた。それから感情の現わし方がいかにも露骨でありながら一種の型にはいっているという意味で誠がかえって出ていないようにもみえた。最も恐るべくへたな恋の都《ど》々《ど》一《いつ》なども遠慮なく引用してあった。すべてを総合して、書き手のくろうとであることが、誰《だれ》の目にもなにより先にまず映る手紙であった。どうせ無関係な第三者がひとの艶書のぬすみ読みをするときにこっけいの興味が加わらないはずはないわけであるが、書き手が節操上の徳義を負担しないで済むくろうとのような場合には、この興味が他の厳粛な社会的観念に妨げられるおそれがないだけに、読み手ははなはだ気楽なものである。
そういう訳で、自分は多大の興味をもってこの長い手紙をくすくす笑いながら読んだ。そうして読みながら、こんなに女から思われている色男は、いったい何者だろうかとの好奇心を、最後の一行が尽きて、名あての名が自分の目の前に現われるまで引きずっていった。ところがこの好奇心が遺憾なく満足されべき画《が》竜《りよう》点《てん》睛《せい》の名前までいよいよ読み進んだ時、自分は突然驚いた。名あてには重吉の姓と名がはっきり書いてあった。
自分は少しのあいだぼんやり庭の方を見ていた。それから手に持った手紙をさらさらと巻いて浴衣《ゆかた》のふところへ入れた。そうして鏡の前で髪を分けた。時計を見ると、まだ七時である。しかし自分は十時何分かの汽車で立つはずになっていた。手をたたいて下女を呼んで、すぐ重吉を車で迎えにやるように命じた。そのあいだに飯を食うことにした。
なんだかおかしいという気分もいくぶんかまじっていた。けれども総体に「あの野郎」という心持ちのほうが勝っていた。そのあの野郎として重吉をながめると、宿をかえていつまでも知らせなかったり、さんざん人を待たせて、気の毒そうな顔もしなかったり、やっとはいってきたかと思うと、一面アルコールにいろどられていたり、すべて不都合だらけである。が、平生どの角度に見ても尋常一式なあの男が、いつのまに女から手紙などをもらってすまし返っているのだろうと考えると、あたりまえすぎるふだんの重吉と、色男として別に通用する特製の重吉との矛盾がすこぶるこっけいに見えた。したがって自分はどっちの感じで重吉に対してよいかわからなかった。けれどもどっちかにきめて、これを根本調として会見しなければならないということに気がついた。自分は食後の茶を飲んで楊《よう》枝《じ》を使いながら、ここへ重吉が来たらどう取り扱ったものだろうと考えた。
七
そこへ宿から迎えにやった車に乗って、彼はすぐかけつけてきた。彼に対する態度をまだよく定めていない自分には、彼の来かたがむしろ早すぎるくらい、現われようが今度は迅《じん》速《そく》であった。彼は簡単に、早いじゃありませんか、今《け》朝《さ》起きたらすぐ上がるつもりでいたところをお迎えで――と言ったまま、そこへすわって、自分の顔を正視した。この時はたから二《ふた》人《り》の様子を虚心に観察したら、重吉のほうが自分よりはるかに無邪気に見えたに違いない。自分は黙っていた。彼は白《しろ》足《た》袋《び》に角帯で単《ひと》衣《え》の下から鼠《ねずみ》色《いろ》の羽《は》二《ぶた》重《え》を掛けた襦《じゆ》袢《ばん》の襟《えり》を出していた。
「今日《きよう》はだいぶしゃれてるじゃないか」
「昨夕《ゆうべ》もこの服装《なり》ですよ。夜だからわからなかったんでしょう」
自分はまた黙った。それからまたこんな会話を二、三度取りかわしたが、いつでもそのあいだに妙な穴ができた。自分はこの穴を故意にこしらえているような感じがした。けれども重吉にはそんなわだかまりがないから、いくら口数を減らしてもその態度がおのずから天然であった。しまいに自分はまじめになって、こう言った。
「実は昨夕もあんなに話した、あのことだがね。どうだ、いっそのこときっぱり断わってしまっちゃ」
重吉はちょっと腑《ふ》に落ちないという顔つきをしたが、それでもいつものようなおっとりした調子で、なぜですかと聞き返した。
「なぜって、君のような道楽ものは向こうの夫になる資格がないからさ」
今度は重吉が黙った。自分は重ねて言った。
「おれはちゃんと知ってるよ。お前の遊ぶことは天下に隠れもない事実だ」
こう言った自分は、急に自分の言葉がおかしくなった。けれども重吉が苦笑いさえせずに控えていてくれたので、こっちもまじめに進行することができた。
「元来男らしくないぜ。人をごまかして自分の得ばかり考えるなんて。まるで詐欺だ」
「だって叔《お》父《じ》さん、僕は病気なんかに、まだかかりゃしませんよ」と重吉が割り込むように弁解したので、自分はまたおかしくなった。
「そんなことがひとにわかるもんか」
「いえ、まったくです」
「とにかく遊ぶのがすでに条件違反だ。お前はとてもお静さんをもらうわけにゆかないよ」
「困るなあ」
重吉はほんとうに困ったような顔をして、いろいろ泣きついた。自分は頑《がん》として破談を主張したが、最後に、それならば、彼が女を迎えるまでの間、謹慎と後悔を表する証拠として、月々俸給のうちから十円ずつ自分の手もとへ送って、それを結婚費用の一端とするなら、この事件は内済にして勘弁してやろうと言いだした。重吉は十円を五円に負けてくれと言ったが、自分は聞き入れないで、とうとうこっちの言い条どおり十円ずつ送らせることに取りきめた。
まもなく時間が来たので、自分はさっそくたって着物を着かえた。そうして俥《くるま》を命じて停車場《ステーシヨン》へ急がした。重吉はむろんついて来た。けれども鞄《カバン》膝《ひざ》掛《か》けその他いっさいの手荷物はすでに宿屋の番頭が始末をして、ちゃんと列車内に運び込んであったので、彼はただ手《て》持《も》ち無《ぶ》沙《さ》汰《た》にプラットフォームの上に立っていた。自分は窓から首を出して、重吉の羽二重の襟と角帯と白足袋を、得意げにながめていた。いよいよ発車の時刻になって、車の輪が回りはじめたと思うきわどい瞬間をわざと見はからって、自分は隠袋《かくし》の中から今《け》朝《さ》読んだ手紙を出して、おいお土産《みやげ》をやろうと言いながら、できるだけ長く手を重吉の方に伸ばした。重吉がそれを受け取る時分には、汽車がもう動きだしていた。自分はそれぎり首を列車内に引っ込めたまま、停車場《ステーシヨン》をはずれるまでけっしてプラットフォームを見返らなかった。
うちへ帰っても、手紙のことは妻《さい》には話さなかった。旅行後一か月めに重吉から十円届いた時、妻はでも感心ねと言った。二か月めに十円届いた時には、まったく感心だわと言った。三か月めには七円しかこなかった。すると妻は重吉さんも苦しいんでしょうと言った。自分から見ると、重吉のお静さんに対する敬意は、この過去三か月間において、すでに三円がた欠乏しているといわなければならない。将来の敬意に至ってはむろん疑問である。
三山居士
二月二十八日には生《なま》暖《あたた》かい風が朝から吹いた。その風が土の上を渡る時、地面は一度にぬれ尽くした。外を歩くと自分の踏む足の下から、熱に冒された病人の呼息《いき》のようなものが、下《げ》駄《た》の歯に蹴《け》返《かえ》されるごとに、行く人の目鼻口を悩ますべく、風のために吹き上げられる気色にみえた。家へ帰ってゴム合《がつ》羽《ぱ》を脱ぐと、肩《かた》当《あ》ての裏側がいつのまにかぬれて、電燈の光に露のような光を投げ返した。不思議だからまた羽織りを脱ぐと、同じ場所が大きく二か所ほど汗で染め抜かれていた。余《よ》はその下に綿《わた》入《い》れを重ねたうえ、フラネルの襦《じゆ》袢《ばん》と毛織りのシャツを着ていたのだから、いくら不愉快な夕暮れでも、肌《はだ》ににじんだ汗の珠《たま》がここまでしみ出そうとは思えなかった。試みに綿入れの背中をなで回してもらうと、はたしてどこも湿っていなかった。余はどうしていちばん上に着たゴム合羽と羽織りだけが、これほどはげしくぬれたのだろうかと考えて、ひそかに不審をいだいた。
池《いけ》辺《べ》君《くん》の容体が突然変わったのは、その日の十時半ごろからで、一時は注射のききめがみえるくらい、落ちつきかけたのだそうである。それが午《ひる》過ぎになってまただんだん険悪に陥ったあげく、とうとう絶望の状態まで進んできた時は、余が毎日の日課として筆を執りつつある「彼《ひ》岸《がん》過《すぎ》迄《まで》」をようやく書き上げたと同じ刻限である。池辺君が胸部に末《まつ》期《ご》の苦痛を感じて膏《あぶら》汗《あせ》を流しながらもがいているあいだ、余は池辺君に対してなんらの顧慮も心配も払うことができなかったのは、君の朋《ほう》友《ゆう》として、朋友にあるまじき無《む》頓《とん》着《じやく》な心持ちをいだいていたという点において、いかにも残念な気がする。余が修《しゆ》善《ぜん》寺《じ》で生死の間に迷うほどの心細い病み方をしていた時、池辺君はいつものとおりの長大なからだを東京から運んできて、余の枕《まくら》辺《べ》にすわった。そうして苦い顔をしながら、医者にだまされて来てみたと言った。医者にだまされたという彼は、もとより余をだますつもりでこういう言葉を発したのである。彼の死ぬ時には、こういう言葉を考える余地すら余に与えられなかった。枕辺にすわって目礼をする一《いつ》分《ぷん》時《じ》さえ許されなかった。余はただその晩の夜《や》半《はん》に彼の死に顔を一目見ただけである。
その夜は吹きすさむ生《なま》温《ぬる》い風の中に、夜着の数を減らして、常よりは早く床についたが、容易に寝つかれない晩であった。しまりをした門《かど》を揺り動かして、使いのものが、余を驚かすべく池辺君の訃《ふ》をもたらしたのは十一時過ぎであった。余はすぐに白い毛布《けつと》の中から出て服を改めた。車に乗るときどんよりした不愉快な空を仰いで、風の吹く中へ車夫をかけさした。路は歯の回らないほどぬかっているので、車夫のはあはあいう息づかいが、風にさらわれて行く途中で、おりおり余の耳をかすめた。ふだんなら月のさすべき夜《よ》と見えつ、空をおおう気味の悪い灰色の雲が、あからさまに東から西へ大きな幅の広い帯を二筋ばかり渡していた。そのあいだが白く曇って左右の鼠《ねずみ》をかえって浮き出すようにいろどったぐあいがことさらにすごかった。余が池辺邸に着くまで空の雲は死んだようにまるで動かなかった。
二階へ上がって、しばらく社のものと話したあと、余は口のきけない池辺君に最後の挨《あい》拶《さつ》をするために、階下のへやへおりて行った。そこには一《ひと》人《り》の僧が経を読んでいた。女が三、四人次の間に黙って控えていた。遺《い》骸《がい》は白い布で包んでその上に池辺君のふだん着たらしい黒《くろ》紋《もん》付きが掛けてあった。顔も白い晒《さらし》で隠してあった。余が枕辺近く寄って、その晒を取りのけた時、僧は読《ど》経《きよう》の声をぴたりと止めた。夜半の灯に透かして見た池辺君の顔は、常となんの変わることもなかった。刈り込んだ〓《ひげ》に交じる白《しら》髪《が》が、忘るべからざる彼の特徴のごとくに余の目を射た。ただ血のみなぎらない両《りよう》頬《ほお》のあおざめた色が、冷たそうな無常の感じを余の胸に刻んだだけである。
余が最後に生きた池辺君を見たのは、その母堂の葬儀の日であった。柩《ひつぎ》の門を出ようとする間ぎわにかけつけた余が、門側にたたずんで、葬列の通過を待つべく余儀なくされた時、余と池辺君とははしなく目礼を取りかわしたのである。その時池辺君が帽をかぶらずに、草《ぞう》履《り》のまま質素な服装《なり》をして柩のあとに続いた姿を今見るように覚えている。余は生きた池辺君の最後の記念としてその姿を永久に深く頭の奥にしまっておかなければならなくなったと思うと、その時言葉をかわさなかったのが、はなはだ名《な》残《ごり》惜しく思われてならない。池辺君はその時からすでに血色がたいへん悪かった。けれどもその時なら口をきくことが十分できたのである。
初秋の一日《*》
汽車の窓から怪しい空をのぞいていると降りだしてきた。それが細かい糠《ぬか》雨《あめ》なので、雨としてよりはむしろ草木をぬらすさびしい色として自分の目に映った。三人はこのごろの天気を恐れてみんなゴム合《がつ》羽《ぱ》を用意していた。けれどもそれがいざ役にたつとなるとけっしてうれしい顔はしなかった。彼らはその日のわびしさから推《お》して、二《ふつ》日《か》後《ご*》に来る暗い夜の景色を想像したのである。
「十三日に降ったらたいへんだなあ」とOがひとりごとのように言った。
「天気の時より病人がふえるだろう」と自分も気のなさそうに返事をした。
Yは停車場前《ステーシヨンまえ》で買った新聞に読みふけったまま一口もものを言わなかった。雨はいつのまにか強くなって、窓ガラスに、砕けた露の球《たま》のようなものが見えはじめた。自分は閑静な車両のなかで、先年英国のエドワード帝《*》を葬《ほうぶ》った時、五千人の卒倒者をいだしたことなどを思い出したりした。
汽車を下りて車に乗った時から、秋の感じはなお強くなった。幌《ほろ》の間から見ると車の前にある山が青くぬれ切っている。その青いなかの切り通《どお》しへ三人の車が静かにかかってゆく。車夫は草鞋《わらじ》も足《た》袋《び》もはかずに素足を柔かそうな土の上に踏みつけて、腰の力で車を爪《つま》先《さき》上りに引き上げる。すると左右をとざす一面の芒《すすき》の根からさわやかな虫の音《ね》が聞こえだした。それが幌を打つ雨の音に打ち勝つように高く自分の耳に響いた時、自分はこの果てしもない虫の音につれて、果てしもない芒のむらがりを目も及ばない遠くに想像した。そうしてそれを自分が今取り巻かれている秋の代表者のごとくに感じた。
この青い秋のなかに、三人はまたまっ赤な鶏《けい》頭《とう》を見つけた。そのあざやかな色のそばには掛け茶屋めいた家があって、縁台の上に枝豆の殻《から》を干したまま積んであった。木槿《むくげ》かと思われるまっ白な花もここかしこに見られた。
やがて車夫が梶《かじ》棒《ぼう》をおろした。暗い幌の中を出ると、高い石段の上に萱《かや》葺《ぶ》きの山門が見えた。Oは石段を上るまえに、門前の稲田の縁《ふち》に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼のそばへ行って、顰《ひそみ》に倣《なら》った。それから三人前後してぬれた石を踏みながら典《てん》座《ざり》寮《よう*》と書いた掛け札の目につく庫《く》裡《り》から案内をこうて座敷へ上がった。
老師に会うのは約二十年ぶりである。東京からわざわざ会いに来た自分には、老師の顔を見るやいなや、席に着かぬまえから、すぐそれとわかったが先方では自分をまったく忘れていた。私はと言って挨《あい》拶《さつ》をした時老師はいやまるでおみそれ申しましたと、あらためて久《きゆう》闊《かつ》を叙したあとで、久しいことになりますな、もうかれこれ二十年になりますからなどと言った。けれどもその二十年後の今、自分の目の前に現われた小作りな老師は、二十年まえとたいして変わってはいなかった。ただこころもち色が白くなったのと、年のせいか顔にどこか愛《あい》嬌《きよう》がついたのが自分の予期と少し異なるだけで、他は昔のままのS禅師であった。
「私ももうじき五十二になります」
自分は老師のこの言葉を聞いた時、なるほど若く見えるはずだと合《が》点《てん》がいった。実をいうと今まで腹の中では老師のとしを六十ぐらいに勘定していた。しかし今ようやく五十一、二とすると、昔自分が相《しよう》見《けん》の礼を執ったころはまだ三十をこえたばかりの壮年だったのである。それでも老師は知識であった。知識であったから、自分の目には比較的ふけて見えたのだろう。
いっしょに連れて行った二人を老師に引き合わせて、巡《じゆん》錫《しやく*》の打ち合わせなどを済ましたあと、しばらく雑談をしているうちに、老師から縁《えん》切《き》り寺《でら*》の由来やら、時《とき》頼《より》夫人《*》の開基のことやら、どうしてそんな尼寺へ住むようになったわけやら、いろいろ聞いた。帰る時には玄関まで送ってきて、「今日は二百二十日だそうで……」と言われた。三人はその二百二十日の雨の中を、また切り通し越えに町の方へくだった。
あくる朝は高い二階の上から降るでもなく晴れるでもなく、ただ夢のように煙《けむ》るKの町を目の下に見た。三人が車を並べて停車場《ステーシヨン》に着いた時、プラットフォームの上には雨合羽を着た五、六の西洋人と日本人が七時二十分の上り列車を待つべく無言のまま徘《はい》徊《かい》していた。
ご大葬と乃木大将《*》の記事で、都下で発行するあらゆる新聞の紙面がうずまったのは、それから一日置いて次の朝の出来事である。
ケーベル先生の告別
ケーベル先生は今日《きよう》(八月十二日)日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚偽虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招《しよう》聘《へい》に応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一《ひと》人《り》も停車場《ステーシヨン》へ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。
静かな先生は東京で三度居を移した。先生の知っている所はおそらくこの三軒の家と、そこから学校へ通う道路くらいなものだろう。かつて先生に散歩をするかと聞いたら、先生は散歩をするところがないから、しないと答えた。先生の意見によると、町は散歩すべきものでないのである。
こういう先生が日本という国についてなにも知ろうはずがない。また知ろうとする好奇心をもっている道理もない。私《わたし》が早《わ》稲《せ》田《だ》にいると言ってさえ、先生には早稲田の方角がわからないくらいである。深《ふか》田《だ》君《くん》に大《おお》隈《くま》伯《はく*》のうちへ呼ばれた昔を注意されても、先生はすでに忘れている。先生には大隈伯の名さえはじめてであったかもしれない。
私が先月十五日の夜《よ》晩《ばん》餐《さん》の招待を受けた時、先生に国へ帰っても朋《ほう》友《ゆう》がありますかと尋ねたら、先生は南極と北極とは別だが、ほかのところならどこへ行っても朋友はいると答えた。これはもとより冗談であるが、先生の頭の奥に、区々たる場所を超越した世界的の観念が潜んでいればこそ、こんな挨《あい》拶《さつ》もできるのだろう。またこんな挨拶ができればこそ、たいした興味もない日本に二十年もながくいて、不平らしい顔を見せる必要もなかったのだろう。
場所ばかりではない、時間のうえでも先生の態度はまったく普通の人と違っている。郵船会社の汽船は半分荷《に》物《もつ》船《ぶね》だから船足がおそいのに、なぜそれをえらんだのかと私が聞いたら、先生はいくら長く海の中に浮いていても苦にはならない、それよりも日本からベルリンまで十五日で行けるとか十四日で着けるとかいって、旅行が一日でも早くできるのを、非常の便利らしく考えている人の心持ちがわからないと言った。
先生の金銭上の考えも、まったく西洋人とは思われないくらい無《む》頓《とん》着《じやく》である。先生の宅《うち》に厄《やつ》介《かい》になっていたものなどは、ずいぶん経済の点にかけて、普通の家には見るべからざる自由を与えられているらしく思われた。このまえ会った時、ある蓄財家の話が出たら、いったいあんなに金をためてどうするりょうけんだろうと言って苦笑していた。先生はこれからさき、日本政府からもらう恩給と、今までの月給の余りとで、暮らしてゆくのだが、その月給の余りというのは、天然自然にできたほんとうの余りで、用意の結果でもなんでもないのである。
すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた学生に、「さようならごきげんよう」という一句を残して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生はそのほかの事をいうのはいやだというのである。また言う必要がないというのである。同時に広告欄にその文句を出すのも好まないというのである。私はやむをえないから、ここに先生の許諾を得て、「さようならごきげんよう」のほかに、私自身の言葉を蛇《だ》足《そく》ながらつけ加えて、先生の告別の辞が、先生の希望どおり、先生の薫《くん》陶《とう》を受けた多くの人々の目に留まるように取り計らうのである。そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである。
戦争からきた行き違い
十一日の夜床に着いてからまもなく電話口へ呼び出されて、ケーベル先生が出発を見合わすようになったという報知を受けた。しかしその時はもう「告別の辞」を社へ送ってしまったあとなので私《わたし》はどうするわけにもいかなかった。先生がまだ横浜のロシアの総領事のもとに泊まっていて、日本を去ることのできないのは、まったく今度の戦争《*》のためと思われる。したがって私にこの正誤を書かせるのもその戦争である。つまり戦争が正直な二《ふた》人《り》を嘘《うそ》吐《つ》きにしたのだといわなければならない。
しかし先生の告別の辞は十二日に立つと立たないとで変わるわけもなし、私のそれにつけ加えた蛇《だ》足《そく》な文句も、先生の去留によってその価値に狂いが出てくるはずもないのだから、われわれは書いたこと言ったことについて取り消しをだす必要は、もとより認めていないのである。ただ「自分の指導を受けた学生によろしく」とあるべきのを、「自分の指導を受けた先生によろしく」と校正が誤っているのだけはぜひ取り消しておきたい。こんなまちがいの起こるのもまた校正掛りを忙《ぼう》殺《さつ》する今度の戦争の罪かもしれない。
硝子戸の中
一
ガラス戸の中《うち》から外を見渡すと、霜よけをした芭《ば》蕉《しよう》だの、赤い実のなった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ目につくが、そのほかにこれといって数えたてるほどのものはほとんど視線にはいってこない。書斎にいる私の眼界はきわめて単調でそうしてまたきわめて狭いのである。
そのうえ私は去年の暮れから風《か》邪《ぜ》を引いてほとんど表へ出ずに、毎日このガラス戸の中《うち》にばかりすわっているので、世間の様子はちっともわからない。心持ちが悪いから読書もあまりしない。私はただすわったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。
しかし私の頭はときどき動く。気分も多少は変わる。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起こってくる。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこのガラス戸の中へ、ときどき人がはいってくる。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけないことを言ったりする。私は興味にみちた目をもってそれらの人を迎えたり送ったりしたことさえある。
私はそんなものを少し書きつづけてみようかと思う。私はそうした種類の文《もん》字《じ》が、忙しい人の目に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念している。私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに目を注いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字をならべて紙面をうずめてみせるのを恥ずかしいものの一つに考える。これらの人々は火事や、どろぼうや、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺激しうる辛《しん》辣《らつ》な記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。――彼らは停留所で電車を待ち合わせるあいだに、新聞を買って、電車に乗っているあいだに、昨日《きのう》起こった社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙のことはまるで忘れてしまわなければならないほど忙しいのだから。
私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人たちの軽《けい》蔑《べつ》を冒して書くのである。
去年から欧州では大きな戦争《*》が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むとも見当がつかない模様である。日本でもその戦争の一少部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散《*》になった。きたるべき総選挙は政治界の人々にとってのたいせつな問題になっている。米が安くなりすぎた結果農家に金がはいらないので、どこでも不景気だ不景気だとこぼしている《* 》。年《ねん》中《ちゆう》行《ぎよう》事《じ》でいえば、春の相《す》撲《もう》が近くに始まろうとしている。要するに世の中はたいへん多事である。ガラス戸の中にじっとすわっている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂を押しのけて書くことになる。私だけではとてもそれほどの胆力が出てこない。ただ春になにか書いてみろと言われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬことを書くのである。それがいつまでつづくかは、私の筆の都合と、紙面の編集の都合とできまるのだから、はっきりした見当は今つきかねる。
二
電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事をきいてみると、ある雑誌社の男が、私の写真をもらいたいのだが、いつ撮《と》りに行っていいか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。
私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三、四年のあいだにその一、二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさん載せるのがその特色だと思ったほかに、今はなんにも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私は断わろうとしたのである。
雑誌の男は、卯《う》年《どし》の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいうとおり卯年の生まれに相違なかった。それで私はこう言った。――
「あなたの雑誌へ出すために撮《と》る写真は笑わなくってはいけないのでしょう」
「いえそんなことはありません」と相手はすぐ答えた。あたかも私が今までその雑誌の特色を誤解していたごとくに。
「あたりまえの顔でかまいませんなら載せていただいてもよろしゅうございます」
「いえそれで結構でございますから、どうぞ」
私は相手と期日の約束をしたうえ、電話を切った。
中一日置いて打ち合わせをした時間に、電話をかけた男が、きれいな洋服を着て写真機を携えて私の書斎にはいってきた。私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚撮《と》ってもらった。一枚は机の前にすわっている平生の姿、一枚は寒い庭さきの霜の上に立っている普通の態度であった。書斎は光線がよくとおらないので、機械をすえつけてからマグネシアを燃した。その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「お約束ではございますが、すこしどうか笑っていただけますまいか」と言った。私はその時突然かすかな滑《こつ》稽《けい》を感じた。しかし同時にばかなことを言う男だという気もした。私は「これでいいでしょう」と言ったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭の木立ちの前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じようなていねいな調子で、「お約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉をくりかえした。私は前よりもなお笑う気になれなかった。
それから四《よつ》日《か》ばかり経つと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。しかしその写真はまさしく彼の注文どおりに笑っていたのである。その時私はあてがはずれた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。私にはそれがどうしても手を入れて笑っているようにこしらえたものとしか見えなかったからである。
私は念のためうちへ来る四、五人のものにその写真を出して見せた。彼らはみんな私と同様に、どうも作って笑わせたものらしいという鑑定を下した。
私は生まれてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑ってみせた経験が何度となくある。その偽りが今この写真師のために復《ふく》讐《しゆう》を受けたのかもしれない。
彼は気味のよくない苦笑をもらしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると言った雑誌はついに届けなかった。
三
私がHさん《*》からヘクトーをもらった時のことを考えると、もういつのまにか三、四年の昔になっている。なんだか夢のような心持ちもする。
その時彼はまだ乳《ち》離《ばな》れのしたばかりの子供であった。Hさんのお弟《で》子《し》は彼を風《ふ》呂《ろ》敷《しき》に包んで電車に載せて宅《うち》まで連れてきてくれた。私はその夜《よ》彼を裏の物置きのすみに寝かした。寒くないように藁《わら》を敷いて、できるだけ居《い》心《ごこ》地《ち》のいい寝床をこしらえてやったあと、私は物置きの戸をしめた。すると彼は宵《よい》の口から泣きだした。夜中には物置の戸を爪《つめ》でかき破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたったひとり寝るのがさびしかったのだろう、あくる朝までまんじりともしない様子であった。
この不安は次の晩もつづいた。その次の晩もつづいた。私は一週間あまりかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼のことが夜になると必ず気にかかった。
私の子供は彼を珍しがって、間《ま》がな隙《すき》がなおもちゃにした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶことができなかった。ところが生きたものを相手にする彼らには、ぜひとも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。それで彼らは私に向かって犬に名をつけてくれとせがみだした。私はとうとうヘクトーという偉い名を、この子供たちの朋《ほう》友《ゆう》に与えた。
それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイとギリシアと戦争した時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友だちのかたきを取ったのである。アキリスが怒ってギリシア方からおどり出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一《ひと》人《り》であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒《ほこ》先《さき》を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってそのあとを追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーを槍《やり》で突き殺した。それから彼の死《し》骸《がい》を自分の軍車《チヤリオツト》に縛り付けてまたトロイの城壁を三度引《ひ》き摺《ず》り回した。……
私はこの偉大な名を、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みにして持ってきた小さい犬に与えたのである。なんにも知らないはずの宅《うち》の子供も、はじめは変な名だなあと言っていた。しかしじきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれるたびに、うれしそうに尾を振った。しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡な耶《ヤ》蘇《ソ》教《きよう》信者の名前と一様に、毫《ごう》も古典的《クラシカル》な響きを私に与えなくなった。同時に彼はしだいに宅《うち》のものから元《もと》ほど珍重されないようになった。
ヘクトーは多くの犬がたいていかかるジステンパーという病気のために一時入院したことがある。その時は子供がよく見舞いに行った。私も見舞いに行った。私の行った時、彼はさもうれしそうに尾を振って、なつかしい目を私の上に向けた。私はしゃがんで私の顔を彼のそばへ持っていって、右の手で彼の頭をなでてやった。彼はその返礼に私の顔をところきらわずなめようとしてやまなかった。その時彼は私の見ている前で、はじめて医者の勧める小量の牛乳をのんだ。それまで首をかしげていた医者も、この分ならあるいはなおるかもしれないと言った。ヘクトーははたしてなおった。そうして宅《うち》へ帰ってきて、元気に飛び回った。
四
日ならずして、彼は二、三の友だちをこしらえた。そのうちで最も親しかったのはすぐ前の医者の宅《うち》にいる彼と同年輩ぐらいのいたずらものであった。これはキリスト教徒にふさわしいジョンという名前を持っていたが、その性質は異端者のヘクトーよりもはるかに劣っていたようである。むやみに人にかみつく癖があるので、しまいにはとうとう打ち殺されてしまった。
彼はこの悪友を自分の庭に引き入れてかってな狼《ろう》藉《ぜき》を働いて私を困らせた。彼らはしきりに樹《き》の根を掘って用もないのに大きな穴をあけて喜んだ。きれいな草花の上にわざとねころんで、花も茎も容赦なく散らしたり、倒したりした。
ジョンが殺されてから、無《ぶ》聊《りよう》な彼は夜遊び昼遊びを覚えるようになった。散歩などに出かける時、私はよく交番のそばにひなたぼっこをしている彼を見ることがあった。それでも宅《うち》にさえいれば、よくうさん臭いものにほえついてみせた。そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本《ほん》所《じよ》へんから来る十歳《とお》ばかりになる角《かく》兵《べ》衛《え》獅《じ》子《し》の子であった。この子はいつでも「こんちはお祝い」と言ってはいってくる。そうして家《うち》の者から、パンの皮と一銭銅貨をもらわないうちは帰らないことに一《ひと》人《り》できめていた。だからヘクトーがいくらほえても逃げ出さなかった。かえってヘクトーのほうが、ほえながらしっぽを股《また》の間にはさんで物置きの方へ退却するのが例になっていた。要するにヘクトーは弱虫であった。そうして、操行からいうと、ほとんど野《の》良《ら》犬《いぬ》とえらぶところのないほどに堕落していた。それでも彼らに共通な人なつっこい愛情はいつまでも失わずにいた。ときどき顔を見合わせると、彼は必ず尾をふって私に飛びついてきた。あるいは彼の背を遠慮なく私のからだにすりつけた。私は彼の泥《どろ》足《あし》のために、衣服や外《がい》套《とう》をよごしたことが何度あるかわからない。
去年の夏から秋へかけて病気をした《*》私は、一か月ばかりのあいだついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。病がようやく怠って、床の外へ出られるようになってから、私ははじめて茶の間の縁に立って彼の姿を宵《よい》闇《やみ》のうちに認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。しかし生《いけ》垣《がき》の根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私の情けに応じなかった。彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白いかたまりのままかきねにこびりついてるだけであった。私は一か月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、かすかな哀愁を感ぜずにはいられなかった。
まだ秋のはじめなので、どこの間の雨戸もしめられずに、星の光が明け放たれた家の中からよく見られる晩であった。私の立っていた茶の間の縁には、家のものが二、三人いた。けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼らはふり向きもしなかった。私がヘクトーに忘れられたごとくに、彼らもまたヘクトーのことをまるで念頭に置いていないように思われた。
私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてあるふとんの上に横になった。病後の私は季節に不相当な黒八丈の襟《えり》のかかった銘《めい》仙《せん》のどてらを着ていた。私はそれを脱ぐのが面《めん》倒《どう》だから、そのままあおむけに寝て、手を胸の上で組み合わせたなり黙って天井を見つめていた。
五
あくる朝書斎の縁に立って、初《はつ》秋《あき》の庭のおもてを見渡した時、私は偶然また彼の白い姿を苔《こけ》の上に認めた。私は昨夕《ゆうべ》の失望をくりかえすのがいやさに、わざと彼の名を呼ばなかった。けれども立ったなりじっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。彼は立ち木の根方にすえつけた石の手《ちよう》水《ず》鉢《ばち》の中に首を突き込んで、そこにたまっている雨水をぴちゃぴちゃ飲んでいた。
この手水鉢はいつだれが持ってきたとも知れず、裏庭のすみにころがっていたのを、引っ越した当時植木屋に命じて今の位置に移させた六《ろつ》角《かく》形《がた》のもので、そのころは苔が一面にはえて、側面に刻み付けた文字もまったく読めないようになっていた。しかし私には移すまえ一度はっきりとそれを読んだ記憶があった。そうしてその記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常のにおいが漂っていた。
ヘクトーは元気なさそうにしっぽをたれて、私の方へ背を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れるよだれを見た。
「どうかしてやらないといけない。病気だから」と言って、私は看護婦を顧みた。私はその時まだ看護婦を使っていたのである。
私は次の日も木賊《とくさ》の中に寝ている彼を一目見た。そうして同じ言葉を看護婦にくりかえした。しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎりふたたび宅《うち》へ帰ってこなかった。
「医者へ連れてゆこうと思って、さがしたけれどもどこにもおりません」
うちのものはこう言って私の顔を見た。私は黙っていた。しかし腹の中では彼をもらい受けた当時のことさえ思い起こされた。届け書を出す時、種類という下へ混血児《あいのこ》と書いたり、色という字の下へ赤《あか》斑《まだら》と書いた滑《こつ》稽《けい》もかすかに胸に浮かんだ。
彼がいなくなって約一週間もたったと思うころ、一、二丁隔たったある人の家から下女が使いに来た。その人の庭にある池の中に犬の死《し》骸《がい》が浮いているから引き上げて頸《くび》輪《わ》を改めてみると、私の家の名前が彫り付けてあったので、知らせにきたというのである。下女は「こちらで埋めておきましょうか」と尋ねた。私はすぐ車《くるま》夫《や》をやって彼を引き取らせた。
私は下女をわざわざよこしてくれた宅《うち》がどこにあるか知らなかった。ただ私の子供の時分から覚えている古い寺のそばだろうとばかり考えていた。それは山《やま》鹿《が》素《そ》行《こう*》の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎《えのき》が一本立っているのが、私の書斎の北の縁からあまたの屋根を越してよく見えた。
車夫は筵《むしろ》の中にヘクトーの死骸をくるんで帰ってきた。私はわざとそれに近づかなかった。白《しら》木《き》の小さい墓標を買ってこさして、それへ「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。彼の墓は猫《ねこ》の墓《*》から東《ひがし》北《きた》に当たって、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、ガラス戸のうちから、霜に荒らされた裏庭をのぞくと、二つともよく見える。もう薄黒く朽ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだなまなましく光っている。しかしまもなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の目につかなくなるだろう。
六
私はその女に前後四、五回会った。
はじめてたずねられた時私はるすであった。取り次ぎのものが紹介状を持ってくるように注意したら、彼女は別にそんなものをもらうところがないといって帰っていったそうである。
それから一日ほどたって、女は手紙でじかに私の都合を聞き合わせにきた。その手紙の封筒から、私は女がつい目と鼻のあいだに住んでいることを知った。私はすぐ返事を書いて面会日を指定してやった。
女は約束の時間をたがえず来た。三《み》つ柏《がしわ》の紋のついたはでな色の縮《ちり》緬《めん》の羽織りを着ているのが、いちばんさきに私の目に映った。女は私の書いたものをたいてい読んでいるらしかった。それで話は多くそちらの方面へばかり延びていった。しかし自分の著作について初見の人から賛辞ばかり受けているのは、ありがたいようではなはだこそばゆいものである。実をいうと私は辟《へき》易《えき》した。
一週間置いて女はふたたび来た。そうして私の作物をまたほめてくれた。けれども私の心はむしろそういう話題を避けたがっていた。三度めに来た時、女はなにかに感激したものとみえて、袂《たもと》からハンケチを出して、しきりに涙をぬぐった。そうして私に自分のこれまで経過してきた悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。しかしその話をきかない私にはなんという返事も与えられなかった。私は女に向かって、よし書くにしたところで迷惑を感ずる人が出てきはしないかときいてみた。女は存外はっきりした口調で、実名さえ出さなければかまわないと答えた。それで私はとにかく彼女の経歴をきくために、とくに時間をこしらえた。
するとその日になって、女は私に会いたいという別の女の人を連れてきて、例の話はこの次に延ばしてもらいたいと言った。私にはもとより彼女の違約を責める気はなかった。二《ふた》人《り》を相手に世間話をして別れた。
彼女が最後に私の書斎にすわったのはその次の日の晩であった。彼女は自分の前に置かれた桐《きり》の手《て》焙《あぶ》りの灰を、真《しん》鍮《ちゆう》の火《ひ》箸《ばし》で突ッつきながら、悲しい身の上話を始めるまえ、黙っている私にこう言った。
「このあいだは昴《こう》奮《ふん》して私のことを書いていただきたいように申し上げましたが、それはやめにいたします。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」
私はそれに対してこう答えた。
「あなたの許諾を得ない以上は、たといどんなに書きたい事柄が出てきてもけっして書く気づかいはありませんからご安心なさい」
私が十分な保証を女に与えたので、女はそれではと言って、彼女の七、八年まえからの経歴を話しはじめた。私は黙《もく》念《ねん》として女の顔を見守っていた。しかし女は多く目を伏せて火《ひ》鉢《ばち》の中ばかりながめていた。そうしてきれいな指で、真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。
ときどき腑《ふ》に落ちないところが出てくると、私は女に向かって短い質問をかけた。女は単簡にまた私の納得できるように答えをした。しかしたいていは自分一《ひと》人《り》で口をきいていたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。
やがて女の頬《ほお》はほてって赤くなった。おしろいをつけていないせいか、そのほてった頬の色が著しく私の目についた。うつむきになっているので、たくさんある黒い髪の毛もしぜん私の注意をひく種になった。
七
女の告白はきいている私を息苦しくしたくらいに悲痛をきわめたものであった。彼女は私に向かってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説をお書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬほうがいいとお思いになりますか。それとも生きているようにお書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、暗に女の気色をうかがった。女はもっとはっきりした挨《あい》拶《さつ》を私から要求するようにみえた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるということを人間の中心点として考えれば、そのままにしていてさしつかえないでしょう。しかし美しいものや気高いものを一義に置いて人間を評価すれば、問題が違ってくるかもしれません」
「先生はどちらをおえらびになりますか」
私はまた躊《ちゆう》躇《ちよ》した。黙って女のいうことを聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持ちが、時間というもののためにだんだん薄れてゆくのがこわくってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂のぬけがらのように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世《せ》間《かい》の中にたった一《ひと》人《り》立って、一寸も身動きのできない位置にいることを知っていた。そうしてそれが私の力でどうするわけにもいかないほどに、せっぱつまった境遇であることも知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前もはばからず常に袂《たもと》時《ど》計《けい》を座ぶとんのわきに置く癖をもっていた。
「もう十一時だからお帰りなさい」と私はしまいに女に言った。女はいやな顔もせずに立ち上がった。私はまた「夜《よ》がふけたから送っていってあげましょう」と言って、女とともに沓《くつ》脱ぎにおりた。
その時美しい月が静かな夜を残るくまなく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下《げ》駄《た》の音はまるで聞こえなかった。私は懐《ふところ》手《で》をしたまま帽子もかぶらずに、女のあとについていった。曲がりかどの所で女はちょっと会釈して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と言った。「もったいないわけがありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲がりかどへ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた言った。私は「ほんとうに光栄と思いますか」とまじめに尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と言った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅《うち》の方へ引き返したのである。
むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしいいい心持ちを久しぶりに経験した。そうしてそれが尊い文芸上の作物を読んだあとの気分と同じものだということに気がついた。有《ゆう》楽《らく》座《ざ》や帝《てい》劇《げき》へ行って得意になっていた自分の過去の影法師がなんとなくあさましく感ぜられた。
八
不愉快にみちた人生をとぼとぼたどりつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時それを人間として達しうる最上至高の状態だと思うこともある。
「死は生よりも尊い」
こういう言葉が近ごろでは絶えず私の胸を往来するようになった。
しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次にさかのぼって、百年、二百年、ないし千年万年のあいだに馴《じゆん》致《ち》された習慣を、私一代で解《げ》脱《だつ》することができないので、私は依然としてこの生に執《しゆう》着《じやく》しているのである。
だから私の他《ひと》に与える助《じよ》言《ごん》はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういうふうに生きてゆくかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一《いち》人《にん》として他の人類の一人に向かわなければならないと思う。すでに生のなかに活動する自分を認め、またその生のなかに呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのがあたりまえであるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだらいいでしょう」
こうした言葉は、どんなに情けなく世を感ずる人の口からも聞きえないだろう。医者などは安らかな眠りにおもむこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばすくふうをこらしている。こんな拷《ごう》問《もん》に近い所作が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強くわれわれが生の一字に執着しているかがわかる。私はついにその人に死をすすめることができなかった。
その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷つけられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美しい思い出の種となってその人の面を輝かしていた。
彼女はその美しいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱き締めていたがった。不幸にして、その美しいものはとりもなおさず彼女を死以上に苦しめる手傷そのものであった。二つのものは紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
私は彼女に向かって、すべてをいやす「時」の流れに従って下れと言った。彼女はもしそうしたらこのたいせつな記憶がしだいにはげてゆくだろうと嘆いた。
公平な「時」は大事な宝物を彼女の手から奪うかわりに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。はげしい生の歓喜を夢のようにぼかしてしまうと同時に、今の歓喜に伴うなまなましい苦痛も取りのける手段を怠らないのである。
私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創《きず》口《ぐち》からしたたる血潮を「時」にぬぐわしめようとした。いくら平凡でも生きてゆくほうが死ぬよりも私から見た彼女に適当だったからである。
かくして常に生よりも死を尊いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快にみちた生というものを超越することができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸な自然主義者として証拠だてたようにみえてならなかった。私は今でも半信半疑の目でじっと自分の心をながめている。
九
私が高等学校《*》にいたころ、比較的親しくつきあった友だちの中にOという人《*》がいた。その時分からあまり多くの朋《ほう》友《ゆう》を持たなかった私には、しぜんOとゆききをしげくするような傾向があった。私はたいてい一週に一度くらいの割で彼をたずねた。ある年の暑中休暇などには、毎日欠かさず真《ま》砂《さご》町《ちよう》に下宿している彼を誘って、大《おお》川《かわ》の水泳場《*》まで行った。
Oは東北の人だから、口のきき方に私などと違った鈍でゆったりした調子があった。そうしてその調子がいかにもよく彼の性質を代表しているように思われた。何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼のおこったり激したりする顔を見ることができずにしまった。私はそれだけでも十分彼を敬愛に価する長《ちよう》者《しや》として認めていた。
彼の性質が鷹《おう》揚《よう》であるごとく、彼の頭脳も私よりははるかに大きかった。彼は常に当時の私には、考えの及ばないような問題を一《ひと》人《り》で考えていた。彼は最初から理科へはいる目的をもっていながら、好んで哲学の書物などをひもといた。私はある時彼からスペンサーの第一原理《*》という本を借りたことをいまだに忘れずにいる。
空の澄み切った秋《あき》日《び》和《より》などには、よく二《ふた》人《り》連れ立って、足の向く方へかってな話をしながら歩いていった。そうした場合には、往来へ塀《へい》越《ご》しに差し出た樹《き》の枝から、黄色に染まった小さい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色をよく見た。それが偶然彼の目に触れた時、彼は「あッ悟った」と低い声で叫んだことがあった。ただ秋の色の空《くう》に動くのを美しいと観ずるよりほかに能のない私には、彼の言葉が封じ込められたある秘密の符徴として怪しい響きを耳に伝えるばかりであった。「悟りというものは妙なものだな」と彼はそのあとから平生のゆったりした調子でひとりごとのように説明した時も、私には一口の挨《あい》拶《さつ》もできなかった。
彼は貧生であった。大《おお》観《かん》音《のん*》のそばに間借りをして自炊していたころには、よく干《から》鮭《ざけ》を焼いてわびしい食卓に私をつかせた。ある時は餅《もち》菓《が》子《し》の代わりに煮豆を買ってきて、竹の皮のまま双方から突っつき合った。
大学を卒業するとまもなく彼は地方の中学に赴任した。私は彼のためにそれを残念に思った。しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然とみえたかもしれない。彼自身はむろん平気であった。それから何年かののちに、たしか三年の契約で、支《し》那《な》のある学校の教師に雇われて行ったが、任期がみちて帰るとすぐまた内地の中学校長になった。それも秋田から横手にうつされて、今では樺《から》太《ふと》の校長をしているのである。
去年上京したついでに久しぶりで私をたずねてくれた時、取り次ぎのものから名刺を受け取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつものとおり客より先に席に着いていた。すると廊下伝いにへやの入り口まで来た彼は、座ぶとんの上にきちんとすわっている私の姿を見るやいなや、「いやにすましているな」と言った。
その時向こうの言葉が終わるか終わらないうちに「うん」という返事がいつか私の口をすべって出てしまった。どうして私の悪口を自分で肯定するようなこの挨《あい》拶《さつ》が、それほどしぜんに、それほど雑作なく、それほどこだわらずに、するすると私の咽《の》喉《ど》をすべり越したものだろうか。私はその時透明ないい心持ちがした。
一〇
向かい合って座を占めたOと私とは、なによりさきに互いの顔を見返して、そこにまだ昔のままのおもかげが、なつかしい夢の記念のように残っているのを認めた。しかしそれはあたかも古い心が新しい気分のなかにぼんやり織り込まれていると同じことで、薄暗く一面にかすんでいた。恐ろしい「時」の威力に抵抗して、ふたたびもとの姿に返ることは、二《ふた》人《り》にとってもう不可能であった。二人は別れてから今会うまでのあいだにはさまっている過去という不思議なものを顧みないわけにいかなかった。
Oは昔りんごのように赤い頬《ほお》と、人一倍大きな丸い目と、それから女に適したほどふっくりした輪郭に包まれた顔をもっていた。今見てもやはり赤い頬と丸い目と、同じく骨張らない輪郭の持ち主ではあるが、それが昔とはどこか違っている。
私は彼に私の口《くち》髭《ひげ》ともみ上げを見せた。彼はまた私のために自分の頭をなでて見せた。私のは白くなって、彼のは薄くはげかかっているのである。
「人間も樺太まで行けば、もう行く先はなかろうな」と私がからかうと、彼は「まあそんなものだ」と答えて、私のまだ見たことのない樺太の話をいろいろして聞かせた。しかし私は今それをみんな忘れてしまった。夏はたいへんいい所だということを覚えているだけである。
私は幾年ぶりかで、彼といっしょに表へ出た。彼はフロックの上へ、とんびのような外《がい》套《とう*》をぶわぶわに着ていた。そうして電車の中で釣《つ》り革《かわ》にぶら下がりながら、隠袋《かくし》からハンケチに包んだものを出して私に見せた。私は「なんだ」ときいた。彼は「栗《くり》饅《まん》頭《じゆう》だ」と答えた。栗饅頭はさっき彼が私のうちにいた時に出した菓子であった。彼がいつのまに、それをハンケチに包んだろうかと考えた時、私はちょっと驚かされた。
「あの栗饅頭を取ってきたのか」
「そうかもしれない」
彼は私の驚いた様子をばかにするような調子でこう言ったなり、そのハンケチの包みをまた隠袋に収めてしまった。
われわれはその晩帝劇へ行った。私の手に入れた二枚の切符に北側からはいれという注意が書いてあったのを、ついまちがえて、南側へ回ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」と私に注意した。私はちょっと立ち留まって考えたうえ、「なるほど方角は樺太のほうが確かなようだ」と言いながら、また指定された入り口の方へ引き返した。
彼ははじめから帝劇を知っていると言っていた。しかし晩《ばん》餐《さん》を済ましたあとで、自分の席へ帰ろうとするとき、誰《だれ》でもやるとおり、二階と一階のドアーをまちがえて、私から笑われた。
おりおり隠袋から金縁の眼《め》鏡《がね》を出して、手に持った摺《す》り物を読んで見る彼は、その眼鏡をはずさずに遠い舞台を平気でながめていた。
「それは老眼鏡じゃないか。よくそれで遠い所が見えるね」
「なにチャブドーだ」
私にはこのチャブドーという意味がまったくわからなかった。彼はそれを大差なしという支《し》那《な》語《ご》だと言って説明してくれた。
その夜《よ》の帰りに電車の中で私と別れたぎり、彼はまた遠い寒い日本の領地の北のはずれに行ってしまった。
私は彼をおもいだすたびに、達人という彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持ちになる。そうしてその達人が雪と氷にとざされた北の果てに、まだ中学校長をしているのだなと思う。
一一
ある奥さんがある女の人を私に紹介した。
「なにか書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」
私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろのことを考えさせられた。今まで私のところへ自分の書いたものを読んでくれと言ってきた者は何人となくある。そのなかには原稿紙の厚さで一寸、または二寸ぐらいのかさになる大部のものも交じっていた。それを私は時間の都合の許すかぎりなるべく読んだ。そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務を果たしたものと心得て満足していた。ところが先方ではあとから新聞に出してくれと言ったり、雑誌へ載せてもらいたいと頼んだりするのが常であった。なかには他《ひと》に読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのがだんだんいやになってきた。
もっとも私の時間に教師をしていたころから見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなか埒《らち》のあかない場合もないとは限らなかった。
私は私の頭で考えたとおりのことをそのまま奥さんに話した。奥さんはよく私のいう意味を了解して帰っていった。約束の女が私の座敷へ来て、座ぶとんの上に座ったのはそれからまもなくであった。わびしい雨が今にも降りだしそうな暗い空を、ガラス戸越しにながめながら、私は女にこんな話をした。――
「これは社交ではありません。お互いに体裁のいいことばかり言っていては、いつまでたったって、啓発されるはずも、利益を受けるわけもないのです。貴女《あなた》は思い切って正直にならなければだめですよ。自分さえ十分に開放して見せれば、今貴女がどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えてくるのです。そうした時、私ははじめて貴方《あなた》を指導する資格を、貴方から与えられたものと自覚してもよろしいのです。だから私がなにか言ったら、腹に答えべきあるものを持っている以上、けっして黙っていてはいけません。こんなことを言ったら笑われはしまいか、恥をかきはしまいか、または失礼だといっておこられはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗りつぶしたところばかり示すくふうをするならば、私がいくら貴方に利益を与えようとあせっても、私の射る矢はことごとく空《あだ》矢《や》になってしまうだけです。
「これは私の貴方に対する注文ですが、そのかわり私のほうでもこの私というものを隠しはいたしません。ありのままをさらけ出すよりほかに、あなたを教えるみちはないのです。だから私の考えのどこかにすきがあって、そのすきをもし貴方から見破られたら、私は貴方に私の弱点を握られたという意味で敗北の結果に陥るのです。教えを受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのはまちがっています。教える人もおのれを貴方の前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて看《かん》破《ぱ》し合うのです。
「そういう訳で私はこれから貴方の書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどいことを思い切って言うかもしれませんが、しかしおこってはいけません。貴方の感情を害するために言うのではないのですから。そのかわりに貴方のほうでも腑《ふ》に落ちないところがあったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。貴方が私の主意を了解している以上、私はけっしておこるはずはありませんから。
「要するにこれはただ現状維持を目的として、上すべりな円滑を主位に置く社交とはまったく別物なのです。わかりましたか」
女はわかったと言って帰っていった。
一二
私に短《たん》冊《ざく》を書けの、詩を書けのと言ってくる人がある。そうしてその短冊やら絖《ぬめ*》やらをまだ承諾もしないうちに送ってくる。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考えから、まずい字とは思いながら、先方のいうなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものとみえて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなってきた。
私はすべての人間を、毎日毎日恥をかくために生まれてきたものだとさえ考えることもあるのだから、変な字を他《ひと》に送ってやるくらいの所作は、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。しかし自分が病気の時、仕事の忙しい時、またはそんなまねのしたくない時に、そういう注文が引き続いて起こってくると、実際弱らせられる。彼らの多くはまったく私の知らない人で、そうして自分たちの送った短冊をふたたび送り返すこちらの手数さえ、まるで眼中に置いていないようにみえるのだから。
そのうちでいちばん私を不愉快にしたのは播《ばん》州《しゆう》の坂《さ》越《ごし》にいる岩崎という人であった。この人は数年前《ぜん》よくはがきで私に俳句を書いてくれと頼んできたから、そのつど向こうのいうとおり書いて送った記憶のある男である。その後のことであるが、彼はまた四角な薄い小包みを私に送った。私はそれをあけるのさえ面《めん》倒《どう》だったから、ついそのままにして書斎へ放り出しておいたら、下女が掃除をする時、つい書物と書物の間へはさみ込んで、まず体《てい》よくしまいなくした姿にしてしまった。
この小包みと前後して、名古屋から茶の罐《かん》が私あてで届いた。しかし誰《たれ》がなんのために送ったものかその意味はまったくわからなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山の画《え》を返してくれと言ってきた。彼からそんなものをもらった覚えのない私は、打ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑いだした。「おおかた気違いだろう」私は心の中でこうきめたなり向こうの催促にはいっさい取り合わないことにした。
それから二、三か月たった。たしか夏の初めのころと記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中にすわっているのがうっとうしくなったので、一《ひと》人《り》でぽつぽつそこいらをかたづけはじめた。その時書物の整理をするため、いいかげんに積み重ねてある字引きや参考書を、一冊ずつ改めてゆくと、思いがけなく坂越の男がよこした例の小包みが出てきた。私は今まで忘れていたものを、まのあたり見て驚いた。さっそく封を解いて中をしらべたら、小さくたたんだ画が一枚はいっていた。それが富士登山の図だったので、私はまたびっくりした。
包みのなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、お礼に茶を送るという文包が書いてあった。私はいよいよ驚いた。
しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんなこととははるかかけ離れたところにあったので、その画に調和するような俳句を考えているひまがなかったのである。けれども私は恐縮した。私はていねいな手紙《*》を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶のお礼を言った。最後に富士登山の図を小包みにして返した。
一三
私はこれで一段落ついたものと思って、例の坂越の男のことを、それぎり念頭に置かなかった。するとその男がまた短《たん》冊《ざく》を封じてよこした。そうして今度は義士に関係のある句を書いてくれというのである。私はそのうち書こうと言ってやった。しかしなかなか書く機会が来なかったので、ついそのままになってしまった。けれどもしつこいこの男のほうではけっしてそのままに済ます気はなかったものとみえて、むやみに催促を始めだした。その催促は一週に一ぺんか、二週に一ぺんの割できっと来た。それが必ずはがきに限っていて、その書きだしには必ず「拝啓失敬申し候《さふら》へども」とあるにきまっていた。私はその人のはがきを見るのがだんだん不愉快になってきた。
同時に向こうの催促も、今まで私の予期していなかった変な特色を帯びるようになった。最初には茶をやったではないかという言葉が見えた。私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改まった。私は返すことはたやすいが、その手《て》数《かず》が面《めん》倒《どう》だから、東京まで取りに来れば返してやると言ってやりたくなった。けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格にかかわるような気がしてあえてし切れなかった。返事を受け取らない先方はなおのこと催促をした。茶を返さないならそれでもよいから金一円をその代価として送ってよこせというのである。私の感情はこの男に対してしだいにすさんできた。しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった。短冊をなくしてしまった。以後はがきをよこすことはいっさい無用であると書いてやった。そうして心のうちで、非常に苦々しい気分を経験した。こんな非紳士的な挨《あい》拶《さつ》をしなければならないような穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、いくぶんの堕落を忍ばなければならないのかと考えると情けなかったからである。
しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊はなくしてしまうとは、あまりと申せば……とまたはがきに書いてきた。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申し候へどもという文句が規則どおりくりかえされていた。
その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対してなんの効果のあるはずはなかった。彼は相変わらず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと言ってきた。それからこといやしくも義士に関するのだから、句を作ってもいいだろうと言ってきた。
しばらくはがきが中絶したと思うと、今度はそれが封書に変わった。もっともその封筒は区役所などで使うきわめて安い鼠《ねずみ》色《いろ》のものであったが、彼はわざとそれに切手をはらないのである。そのかわり裏に自分の姓名も書かずに投《とう》函《かん》していた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送してもらった。彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。
ところが二か月ばかりたって、年が改まるとともに、彼は私に普通の年始状をよこした。それが私をちょっと感心させたので、私はつい短《たん》冊《ざく》へ句を書いて送る気になった。しかしその贈り物は彼を満足させるに足りなかった。彼は短冊が折れたとか、よごれたとかいって、しきりに書き直しを請求してやまない。現に今《こ》年《とし》の正月にも、「失敬申し候へども……」という依頼状が七《なな》、八《よう》日《か》ごろに届いた。
私がこんな人に出会ったのは生まれてはじめてである。
一四
ついこのあいだ昔私の家《うち》へどろぼうのはいった時の話を比較的詳しく聞いた。
姉がまだ二《ふた》人《り》とも《*》嫁《かた》づかずにいた時分のことだというから、年代にすると、たぶん私の生まれる前後に当たるのだろう、なにしろ勤《きん》王《のう》とか佐《さ》幕《ばく》とかいう荒々しい言葉のはやったやかましいころなのである。
ある夜一番めの姉が、夜中に小用に起きたあと、手を洗うために、「潜《くぐ》り戸」をあけると、狭い中庭のすみに、壁をおしつけるような勢いで立っている梅の古木の根《ね》方《がた》が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらすいとまもないうちに、すぐ潜り戸をしめてしまったが、しめたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起こそうとすれば、いつでも目の前に浮かぶくらいあざやかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出すことはちょっと困難である。
広い額、浅黒い皮膚、小さいけれどもはっきりした輪郭をそなえている鼻、人並みより大きい二《ふた》重《え》瞼《まぶた》の目、それからお沢《さわ》という優しい名、――私はただこれらを総合して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念が起こった。それで彼女は思い切ってまた切り戸を開けて外をのぞこうとするとたんに、一本の光る抜き身が、闇《やみ》の中から、四角に切った潜り戸の中へすうと出た。姉は驚いて身をあとへひいた。そのひまに、覆面をした、龕《がん》燈《どう》提《ぢよう》灯《ちん》をさげた男が、抜刀のまま、小《ち》さい潜り戸からおおぜい家《うち》の中へはいってきたのだそうである。どろぼうの人《にん》数《ず》はたしか八人とか聞いた。
彼らは、ひとを殺《あや》めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、そのかわり軍用金を貸せと言って、父に迫った。父はないと断わった。しかしどろぼうはなかなか承知しなかった。今角《かど》の小《こ》倉《くら》屋《や》という酒屋へはいって、そこで教えられて来たのだから、隠してもだめだと言って動かなかった。父はふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少なすぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「貴方《あなた》の紙入れにはいっているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入れの中には五十両ばかりあったとかいう話である。どろぼうが出ていったあとで、「よけいなことをいう女だ」と言って、父は母をしかりつけたそうである。
そのことがあって以来、私の家では柱を切り組みにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束を着けたどろぼうも、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切り組みにしてある柱かまるでわからなくなっていた。
どろぼうが出てゆく時、「このうちはたいへん締まりのいい宅《うち》だ」と言ってほめたそうだが、その締まりの好い家をどろぼうに教えた小倉屋の半《はん》兵《べ》衛《え》さんの頭には、あくる日からかすり傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、どろぼうがそんなはずがあるものかと言っては、抜き身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張りとおして、とうとう金は一文もとられずにしまった。
私はこの話を妻《さい》から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受け話に聞いたのである。
一五
私が去年の十一月学習院で講演《*》をしたら、薄謝と書いた紙包みをあとから届けてくれた。りっぱな水引きがかかっているので、それをはずして中を改めると、五円札が二枚はいっていた。私はその金を平生から気の毒に思っていた、ある懇意な芸術家に贈ろうかしらと思って、暗に彼の来るのを待ち受けていた。ところがその芸術家がまだ見えないさきに、なにか寄付の必要ができてきたりして、つい二枚とも消費してしまった。
一口でいうと、この金は私にとってけっして無用なものではなかったのである。世間の通り相場で、りっぱに私のために消費されたというよりほかに仕方がないのである。けれどもそれを他《ひと》にやろうとまで思った私の主観から見れば、そんなにありがたみの付着していない金には相違なかったのである。打ち明けた私の心持ちをいうと、こうしたお礼を受けるより受けない時のほうがよほどさっぱりしていた。
畔 《くろ》柳 《やなぎ》芥 《かい》舟 《しゆう》君《くん》が樗 《ちよ》牛 《ぎゆう》会《かい*》の講演のことで見えた時、私は話のついでとしてひととおりその理由を述べた。
「この場合私は労力を売りに行ったのではない。好意ずくで依頼に応じたのだから、向こうでも好意だけで私にむくいたらよかろうと思う。もし報酬問題とする気なら、最初からお礼はいくらするが、来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう」
その時K君《*》は納得できないといったような顔をした。そうしてこう答えた。
「しかしどうでしょう。その十円は貴方《あなた》の労力を買ったという意味でなくって、貴方に対する感謝の意を表する一つの手段とみたら。そうみるわけにはゆかないのですか」
「品物ならはっきりそう解釈もできるのですが、不幸にもお礼が普通営業的の売買に使用する金なのですから、どっちとも取れるのです」
「どっちとも取れるなら、この際善意のほうに解釈したほうがよくはないでしょうか」 私はもっともだとも思った。しかしまたこう答えた。
「私はご存じのとおり原稿料で衣食しているくらいですから、むろん富裕とはいえません。しかしどうかこうか、それだけで今日を過ごしてゆかれるのです。だから自分の職業以外のことにかけては、なるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては、なによりも尊い報酬なのです。したがって金などを受けると、私が人のために働いてやるという余地、――今の私にはこの余地がまたきわめて狭いのです。――その貴重な余地を腐《ふ》蝕《しよく》させられたような心持ちになります」
K君はまだ私の言うことをうけがわない様子であった。私も強情であった。
「もし岩崎とか三井とか大富豪に講演を頼むとした場合に、あとから十円のお礼を持ってゆくでしょうか、あるいは失礼だからといって、ただ挨《あい》拶《さつ》だけにとどめておくでしょうか、私の考えではおそらく金銭は持ってゆくまいと思うのですが」
「さあ」といっただけでK君ははっきりした返事を与えなかった。私にはまだ言うことが少し残っていた。
「己《おの》惚《ぼ》れかは知りませんが、私の頭は三井岩崎に比べるほど富んでいないにしても、一般学生よりはずっと金持ちに違いないと信じています」
「そうですとも」とK君はうなずいた。
「もし岩崎や三井に十円のお礼を持ってゆくことが失礼ならば、私のところへ十円のお礼を持ってくるのも失礼でしょう。それもその十円が物質上私の生活に非常なうるおいを与えるなら、またほかの意味からこの問題をながめることもできるでしょうが、現に私はそれを他《ひと》にやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目にたつほどの影響をこうむらないのだから」
「よく考えてみましょう」と言ったK君はにやにや笑いながら帰って行った。
一六
うちの前のだらだら坂をおりると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向こうのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈ってもらったことがある。
平生は白い金《かな》巾《きん》の幕で、ガラス戸の奥が、従来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
亭主は私のはいってくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうり出してすぐ挨《あい》拶《さつ》をした。その時私はどうもどこかで会ったことのある男に違いないという気がしてならなかった。それで彼が私の後ろへ回って、はさみをちょきちょき鳴らしだしたころを見計らって、こっちから話を持ちかけてみた。すると私の推察どおり、彼は昔寺町の郵便局のそばに店を持って、今と同じように、散発を渡世としていたことがわかった。
「高田の旦《だん》那《な*》などにもだいぶお世話になりました」
その高田というのは私の従兄《いとこ》なのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知ってるどころじゃございません。始終徳《とく》、徳、ってひいきにしてくだすったもんです」
彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろていねいなほうであった。
「高田も死んだよ」と私が言うと、彼はびっくりした調子で「へッ」と声をあげた。
「いい旦那でしたがね、惜しいことに。いつごろお亡《な》くなりになりました」
「なに、ついこのあいださ。今日《きよう》で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
彼はそれからこの死んだ従兄について、いろいろ覚えていることを私に語ったすえ、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日《きのう》のこととしっきゃ思われないのに、もう三十年近《ぢか》くにもなるんですから」と言った。
「あのそら求《きゆう》友《ゆう》亭《てい*》の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継ぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「ええお二階がありましたっけ。あすこへお移りになった時なんか、方々様からお祝い物なんかあって、たいへん御《ご》盛《さかん》でしたがね。それからあとでしたっけか、行《ぎよう》願《がん》寺《じ*》の寺《じ》内《ない》へお引っ越しなすったのは」
この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古いことなので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃたいへん変わったようだね。用がないので、それからついはいってみたこともないが」
「変わったの変わらないのって貴方《あなた》、今じゃまるで待ち合いばかりでさあ」
私は肴《さかな》町《まち*》を通るたびに、その寺内へはいる足《た》袋《び》屋《や》のかどの細い小《こう》路《じ》の入り口に、ごたごた掲げられた四角な軒燈の多いのを知っていた。しかしその数を勘定してみるほどの道楽気も起こらなかったので、つい亭主の言うことには気がつかずにいた。
「なるほどそういえば誰《た》が袖《そで》なんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変わるはずですね、考えてみると。もうやがて三十年にもなろうというんですから。旦那もご承知のとおり、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃなかったもんでさあ。東《あずま》家《や*》ってね。ちょうどそら高田の旦那のまん向こうでしたろう、東家の御《ご》神《じん》燈《とう*》のぶらさがっていたのは」
一七
私はその東家をよく覚えていた。従兄《いとこ》のうちのつい向こうなので、両方のものが出はいりのたびに、顔を合わせさえすれば挨《あい》拶《さつ》をし合うぐらいの間柄であったから。
そのころ従兄の家には、私の二番めの兄《*》がごろごろしていた。この兄は大の放《ほう》蕩《とう》もので、よく宅《うち》の掛け物や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い癖があった。彼がなんで従兄の家にころがり込んでいたのか、その時の私にはわからなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働いた結果、しばらく家《うち》を追い出されていたかもしれないと思う。その兄のほかに、まだ庄《しよう》さんという、これも私の母方の従兄に当たる男が、そこいらにぶらぶらしていた。
こういう連《れん》中《じゆう》がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、縁側へ腰を掛けたりして、かってな出放題を並べていると、ときどき向こうの芸者屋の竹《たけ》格《ごう》子《し》の窓から、「こんちは」などと声を掛けられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、いいものあるから」となんとか言って、女を呼び寄せようとする。芸者のほうでも昼間は暇だから、三度に一度はご愛《あい》嬌《きよう》に遊びに来る。といったふうの調子であった。
私はそのころまだ十七、八だったろう、そのうえたいへんなはにかみやで通っていたので、そんなところに居合わしても、なんにも言わずに黙ってすみの方に引っ込んでばかりいた。それでも私はなにかの拍子で、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをしたことがある。負けたものはなにかおごらなければならないので、私は人の買った寿《す》司《し》や菓子をだいぶ食った。
一週間ほどたってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅《うち》へ遊びに行ったら、例の庄さんと席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時咲《さき》松《まつ》という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と言った。私は小《こ》倉《くら》の袴《はかま》をはいて四角張っていたが、懐中には一銭の小《こ》遣《づか》いさえなかった。
「僕は銭がないからいやだ」
「いいわ、私が持ってるから」
この女はその時目を病んででもいたのだろう、こう言い言い、きれいな襦《じゆ》袢《ばん》の袖《そで》でしきりに薄赤くなった二《ふた》重《え》瞼《まぶた》をこすっていた。
その後私は「お作《さく》がいいお客に引かされた」という噂《うわさ》を、従兄の家《うち》で聞いた。従兄の家では、この女のことを咲松と言わないで、常にお作お作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心のうちでもうお作に会う機会も来ないだろうと考えた。
ところがそれからだいぶたって、私が例の達人といっしょに、芝《しば》の山《さん》内《ない》の勧《かん》工《こう》場《ば*》へ行ったら、そこでまたぱったりお作に出会った。こちらの書生姿に引きかえて、彼女はもう品のいい奥様に変わっていた。旦《だん》那《な》というのも彼女のそばについていた。……
私は床屋の亭主の口から出た東家という芸者屋の名前の奥に潜んでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいたお作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありゃ私の姪《めい》でさあ」
「そうかい」
私は驚いた。
「それで、今どこにいるのかね」
「お作は亡くなりましたよ、旦那」
私はまた驚いた。
「いつ」
「いつって、もう昔のことになりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかもウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それからまもなくでした。死んだのは」
私は帰ってガラス戸の中にすわって、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。
一八
私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分のまわりがきちんとかたづかないで困りますが、どうしたらよろしいものでしょう」と聞いた。
この女はある親《しん》戚《せき》の宅《うち》に寄《き》寓《ぐう》しているので、そこが手狭なうえに、子供などがうるさいのだろうと思った私の答えは、すこぶる簡単であった。
「どこかさっぱりした家《うち》をさがして下宿でもしたらいいでしょう」
「いえへやのことではないので、頭の中がきちんとかたづかないで困るのです」
私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまたわからなくなった。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。
「外からはなんでも頭の中にはいってきますが、それが心の中心と折り合いがつかないのです」
「貴方《あなた》のいう心の中心とはいったいどんなものですか」
「どんなものといって、まっすぐな直線なのです」
私はこの女の数学に熱心なことを知っていた。けれども心の中心が直線だという意味はむろん私に通じなかった。そのうえ中心とははたしてなにを意味するのか、それもほとんど不可解であった。女はこう言った。
「物にはなんでも中心がございましょう」
「それは目で見ることができ、ものさしで計ることのできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出してごらんなさい」
女は出せるとも出せないとも言わずに、庭の方を見たり、膝《ひざ》の上で両手をすったりしていた。
「貴方の直線というのはたとえじゃありませんか。もしたとえなら、円といっても四角といっても、つまり同じことになるのでしょう」
「そうかもしれませんが、形や色が始終変わっているうちに、少しも変わらないものが、どうしてもあるのです」
「その変わるものと変わらないものが、別々だとすると、要するに心が二つあるわけになりますが、それでいいのですか。変わるものはすなわち変わらないものでなければならないはずじゃありませんか」
こう言った私はまた問題を元に返して女に向かった。
「すべて外界のものが頭のなかにはいって、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながら貴方の年齢《とし》や教育や学問で、そうきちんとかたづけられるわけがありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなもののところへ来てもだめです。坊さんのところへでもいらっしゃい」
すると女が私の顔を見た。
「私ははじめて先生をお見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上に整っていらっしゃるように思いました」
「そんなはずがありません」
「でも私にはそう見えました。内臓の位置までがととのっていらっしゃるとしか考えられませんでした」
「もし内臓がそれほどぐあいよく調節されているなら、こんなに始終病気などはしません」
「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分のことを言った。
「それは貴方が私より偉《えら》い証拠です」と私も答えた。
女はふとんをすべり下りた。そうして、「どうぞおからだをごたいせつに」と帰っていった。
一九
私の旧宅《*》は今私の住んでいるところから、四、五町奥の馬《ば》場《ば》下《した》という町にあった。男とはいい条、その実小さな宿場としか思われないくらい、子供の時の私には、さびれ切ってかつ淋《さむ》しく見えた。もともと馬場下とは高《たか》田《だ》の馬《ば》場《ば》の下にあるという意味なのだから、江《え》戸《ど》絵《え》図《ず》で見ても、朱《しゆ》引《びき》内《うち》か朱《しゆ》引《びき》外《そと*》かわからない辺《へん》鄙《ぴ》なすみの方にあったに違いないのである。
それでも内蔵《くら》造《づく》りの家《うち》が狭い町内に三、四軒はあったろう。坂を上がると、右側に見える近《おう》江《み》屋《や》伝《でん》兵《べ》衛《え》という薬《やく》種《しゆ》屋《や》などはその一つであった。それから坂をおり切ったところに、間口の広い小《こ》倉《くら》屋《や》という酒屋もあった。もっともこのほうは倉造りではなかったけれども、堀《ほり》部《べ》安《やす》兵《べ》衛《え》が高田の馬場で敵《かたき》を討つ時に、ここへ立ち寄って、枡《ます》酒《ざけ》を飲んでいったという履歴のある家柄であった。私はその話を子供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂《うわさ》の安兵衛が口をつけた枡を見たことがなかった。そのかわり娘のお北《きた》さんの長《なが》唄《うた》は何度となく聞いた。私は子供だから上《じよう》手《ず》だか下《へ》手《た》だかまるでわからなかったけれでも、私の宅《うち》の玄関から表へ出る敷き石の上に立って、通りへでも行こうとすると、お北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午《ひる》過ぎなどに、私はよくうっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、お北さんのおさらいをきくでもなくきかぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をもたせて、たたずんでいたことがある。そのおかげで私はとうとう「旅の衣《ころも》は鈴《すず》懸《か》けの」などという文句をいつのまにか覚えてしまった。
このほかには棒《ぼう》屋《や*》が一軒あった。それから鍛《か》冶《じ》屋《や》も一軒あった。少し八《はち》幡《まん》坂《ざか*》の方へ寄ったところには、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ場《*》もあった。私の家《うち》のものは、そこの主人を、問屋の仙《せん》太《た》郎《ろう》さんと呼んでいた。仙太郎さんはなんでも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、つきあいからいうと、まるで疎《そ》闊《かつ》であった。往来で行き会う時だけ、「いいお天気で」などと声をかけるくらいの間柄にすぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一《ひと》人《り》娘《むすめ》が講釈師の貞《てい》水《すい》といい仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあったことも人聞きに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。子供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰を掛けて、矢立てと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢のいい声で下にいるおおぜいの顔を見渡す光景のほうがよっぽどおもしろかった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にあげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじだのがれんだのという符徴を、ののしるように呼び上げるうちに、薑《しようが》や茄《な》子《す》や唐《とう》茄《な》子《す》の籠《かご》が、それらの節《ふし》太《ぶと》の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。
どんないなかへ行ってもありがちな豆腐屋はむろんあった。その豆腐屋には油のにおいのしみ込んだ縄《なわ》暖《の》簾《れん》がかかっていて門《かど》口《ぐち》を流れる下水の水が京都へでも行ったようにきれいだった。その豆腐屋について曲がると半町ほど先に西《せい》閑《かん》寺《じ*》という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後ろは、深い竹《たけ》藪《やぶ》で一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからはまったく見えなかったが、その奥でする朝晩のお勤めの鉦《かね》の音《ね》は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木《こ》枯《がらし》の吹く冬にかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音《おと》は、いつでも私の心に悲しくて冷たいあるものをたたき込むように小さい私の気分を寒くした。
二〇
この豆腐屋の隣に寄《よ》席《せ》が一軒あったのを、私は夢うつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄せ場のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞《かすみ》をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな目をみはって、遠い私の過去をふり返るのが常である。
その席亭の主人《あるじ》というのは、町内の鳶《とび》頭《がしら》で、ときどき目《め》暗《くら》縞《じま》の腹掛けに赤い筋のはいった印《しるし》袢《ばん》纏《てん》を着て、突っ掛け草《ぞう》履《り》かなにかでよく表を歩いていた。そこにまたお藤《ふじ》さんという娘があって、その人のきりょうがよく家《うち》のものの口に上ったことも、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子をもらったが、それが口《くち》髭《ひげ》をはやしたりっぱな男だったので、私はちょっと驚かされた。お藤さんのほうでも自慢の養子だという評判が高かったが、あとから聞いてみると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
この養子が来る時分には、もう寄席もやめて、仕《し》舞《も》うた屋になっていたようであるが、私はそこの宅《うち》の軒先にまだ薄暗い看板が淋《さむ》しそうにかかっていたころ、よく母から小《こ》遣《づか》いをもらってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南《なん》麟《りん》とかいった。不思議なことに、この客席へは南麟よりほかに誰《だれ》も出なかったようである。この男の家はどこにあったか知らないが、どの見当から歩いてくるにしても、道《みち》普《ぶ》請《しん》ができて、家並みのそろった今から見れば大事業に相違なかった。そのうえ客の頭数はいつでも十五か二十ぐらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花《おい》魁《らん》へ、と言われて八《や》ツ橋《はし》なんざますえとふり返る、とたんに切り込む刃《やいば》の光《*》」という変な文句は、私がその時分南麟から教《おす》わったのか、それともあとになって落語《はなし》家《か》のやる講釈師のまねから覚えたのか、今では混雑してよくわからない。
当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶《ちや》畠《ばたけ》とか、竹《たけ》藪《やぶ》とかまたは長いたんぼ路《みち》とかを通り抜けなければならなかった。買い物らしい買い物はたいてい神《かぐ》楽《ら》坂《ざか》まで出る例になっていたので、そうした必要にならされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢《や》来《らい》の坂を上がって酒《さか》井《い》様《さま》の火《ひ》の見《み》櫓《やぐら》を通り越して寺《てら》町《まち》へ出ようという、あの五、六町の一筋道などになると、昼でも陰《いん》森《しん》として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
あの土手の上に二《ふた》かかえも三《み》かかえもあろうという大木が、何本となく並んで、そのすきますきまをまた大きな竹藪がふさいでいたのだから、日の目を拝む時間といったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日《ひ》和《より》下《げ》駄《た》などをはいて出ようものなら、きっとひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜どけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にしみ込んでいる。
そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものとみえて、やっぱり町の曲がり角《かど》に高いはしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一《いち》膳《ぜん》飯《めし》屋《や》もおのずと目先に浮かんでくる。縄《なわ》暖《の》簾《れん》のすきまからあたたかそうな煮《に》しめのにおいが煙《けぶり》とともに往来へ流れ出して、それが夕暮れの靄《もや》にとけ込んでゆく趣なども忘れることができない。私が子《し》規《き》のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かな」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。
二一
私の家に関する私の記憶は、総じてこういうふうにひなびている。そうしてどこかに薄ら寒いあわれな影を宿している。だから今生き残っている兄から、ついこないだ、うちの姉たちが芝《しば》居《い》に行った当時の様子をきいた時には驚いたのである。そんなはでな暮らしをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持ちになるよりほかはない。
そのころの芝居小屋はみんな猿《さる》若《わか》町《ちよう*》にあった。電車も俥《くるま》もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観《かん》音《のん》様《さま》の先まで朝早く行き着こうというのだから、たいていのことではなかったらしい。姉たちはみんな夜《よ》半《なか》に起きてしたくをした。途中がぶっそうだというので、用心のため、下男がきっと供をしていったそうである。
彼らは筑《つく》土《ど*》をおりて、柿《かき》の木《き》横《よこ》町《ちよう》へ出て、揚《あげ》場《ば*》へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期にみちた心をもって、のろのろ砲《ほう》兵《へい》工《こう》廠《しよう*》の前から御《お》茶《ちや》の水《みず》を通り越して柳《やなぎ》橋《ばし》まで漕《こ》がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終わりを告げるわけにゆかないのだから、時間に制限を置かなかったその昔がなおさら回顧の種になる。
大川へ出た船は、流れをさかのぼって吾《あ》妻《ずま》橋《ばし》を通り抜けて、今《いま》戸《ど*》の有《ゆう》明《めい》楼《ろう》のそばにつけたものだという。姉たちはそこから上がって芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席に着くべく、小屋へ送られてゆく。設けの席というのは必ず高《たか》土《ど》間《ま》に限られていた。これは彼らの服装《なり》なり顔なり、髪飾りなりが、一般の目によくつく便利のいい場所なので、はでを好む人たちが、争って手に入れたがるからであった。
幕のあいだには役者についている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと言って案内に来る。すると姉たちはこの縮《ちり》面《めん》の模様のある着物の上に袴《はかま》をはいた男のあとについて、田《た》之《の》助《すけ》とか訥《とつ》升《しよう》とかいうひいきの役者のへやへ行って、扇《せん》子《す》に画などをかいてもらって帰ってくる。これが彼らの見《み》栄《え》だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
帰りには元来た路《みち》を同じ船で揚場まで漕ぎ戻す。無用心だからといって、下男がまた提《ちよう》灯《ちん》をつけて迎えに行く。宅《うち》へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半までかかって彼らはようやく芝居を見ることができたのである。……
こんなはなやかな話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅《うち》に起こったことかしらんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする
もっとも私の家も侍《さむらい》分《ぶん》ではなかった。はでなつきあいをしなければならない名《な》主《ぬし》という町人であった。私の知っている父は、禿《はげ》頭《あたま》の爺《じい》さんであったが、若い時分には、一《いつ》中《ちゆう》節《ぶし》を習ったり、なじみの女に縮緬の積み夜具《*》をしてやったりしたのだそうである。青《あお》山《やま》に田地があって、そこから上がってくる米だけでも、家のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番めの兄《*》などは、その米をつく音をしじゅう聞いたと言っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄《げん》関《か》玄《げん》関《か*》ととなえていた。その時分の私には、どういう意味かわからなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付きの家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上がったところに、突《つく》棒《ぼう》や、袖《そで》搦《がらみ》や刺《さつ》股《また*》や、また古ぼけた馬《ば》上《じよう》提《ぢよう》灯《ちん》などが、並んでかけてあった昔なら、私でもまだ覚えている。
二二
この二、三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病気をする。そうして床についてから床を上げるまでにほぼ一月の日《ひ》数《かず》をつぶしてしまう。
私の病気といえば、いつもきまった胃の故障なので、いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがなくなる。医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。だから病みはじめより回復期に向かった時のほうが、よけいやせこけてふらふらする。一か月以上かかるのもおもにこの衰弱がたたるからのように思われる。
私の立ち居が自由になると、黒《くろ》枠《わく》のついた摺《す》り物がときどき私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、シルクハットなどをかぶって、葬式の供に立つ、俥《くるま》を駆って斎場へかけつける。死んだ人のうちには、お爺《じい》さんもお婆《ばあ》さんもあるが、時には私よりもとしが若くって、平生からその健康を誇っていた人も交じっている。
私は宅《うち》へ帰って机の前にすわって、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑ってみる。あの人はどういう訳で私よりさきに死んだのだろうかと思う。
私としてこういう黙想にふけるのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地や、からだや、才能や――すべておのれというものの居《お》り所《どころ》を忘れがちな人間の一《いち》人《にん》として、私は死なないのがあたりまえだと思いながら暮らしている場合が多い。読《ど》経《きよう》のあいだですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形《けい》骸《がい》を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましていることが常である。
ある人が私に告げて、「他《ひと》の死ぬのはあたりまえのようにみえますが、自分が死ぬということだけはとても考えられません」と言ったことがある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々たおれるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話をきかされた時に、こんな問答をした覚えもある。
「ああして始終落ちたり死んだりしたら、あとから乗るものはこわいだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」
「ところがそうでないとみえます」
「なぜ」
「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれはだいじょうぶだという気になるとみえますね」
私もおそらくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰《だれ》しも生きているのだから。
不思議なことに私の寝ているあいだには、黒枠の通知がほとんど来ない。去年の秋にも病気がなおったあとで、三、四人の葬儀に列したのである。その三、四人の中に社の佐《さ》藤《とう》君《くん*》もはいっていた。私は佐藤君がある宴会の席で、社からもらった銀盃を持ってきて、私に酒を勧めてくれたことを思い出した。その時彼の踊った変な踊りもまだ覚えている。この元気な崛《くつ》強《きよう》な人の葬式《とむらい》に行った私は、彼が死んで私が生き残っているのを、べつだんの不思議とも思わずにいる時のほうが多い。しかしおりおり考えると、自分の生きているほうが不自然のような心持ちにもなる。そうして運命がわざと私を愚《ぐ》弄《ろう》するのではないかしらと疑いたくなる。
二三
今私の住んでいる近所に喜《き》久《く》井《い》町《ちよう》という町がある。これは私の生まれた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪して帰ってきた時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつのまにか根《ね》来《ごろ*》の方まで延びていた。
私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出すなつかしい響きを私に与えてくれない。しかし書斎にひとりすわって、頬《ほお》杖《づえ》を突いたまま、流れを下る船のように、心を自由に遊ばせておくと、ときどき私の連想が、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく低《てい》徊《かい》しはじめることがある。
この町は江戸といった昔には、たぶん存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかにわからないが、なんでも私の父がこしらえたものに相違ないのである。
私の家の定紋が井《い》桁《げた》に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口からきいたのか、またはほかのものから教《おす》わったのか、なにしろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由もきいたかもしれないが、それを誇りにした彼の虚栄心を、今になって考えてみると、いやな心持ちは疾《と》くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。
父はまたそのうえに自宅の前から南へ行く時にぜひとも登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならず、ただの坂として残っている。しかしこのあいだ、ある人が来て、地図でこのへんの名前を調べたら、夏目坂というのがあったと言って話したから、ことによると父のつけた名が今でも役に立っているのかもしれない。
私が早《わ》稲《せ》田《だ》に帰ってきた《*》のは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住《す》居《まい》に移るまえ、家《うち》をさがす目的であったか、また遠足の帰りみちであったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古《ふる》瓦《がわら》が少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通りすぎてしまった。
早稲田に移ってから、私はまたその門前を通ってみた。表からのぞくと、なんだかもとと変わらないような気もしたが、門には思いもよらない下宿屋の看板がかかっていた。私は昔の早稲田たんぼが見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来の茶《ちや》畠《ばたけ》と竹《たけ》藪《やぶ》を一目ながめたかった。しかしその痕《こん》迹《せき》はどこにも発見することができなかった。たぶんこのへんだろうと推測した私の見当は当たっているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。
私は茫《ぼう》然《ぜん》として佇《ちよ》立《りつ》した。なぜ私の家だけが過去の残《ざん》骸《がい》のごとくに存在しているのだろう。私の心のうちで、早くそれがくずれてしまえばいいのにと思った。
「時」は力であった。去年私が高田《*》の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家はきれいに取りこわされて、そのあとに新しい下宿屋が建てられつつあった。そのそばには質屋もできていた。質屋の前にまばらな囲いをして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸《き》形《けい》児《じ》のようになっていたが、どこか見覚えのあるような心持ちを私に起こさせた。昔「影《かげ》参《しん》差《し》松三本の月夜かな」とうたったのは、あるいはこの松のことではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
二四
「そんな所におい立って、よく今日まで無事に済んだものですね」
「まあどうかこうか無事にやってきました」
私たちの使った無事という言葉は、男《なん》女《によ》のあいだに起こる恋の波《は》瀾《らん》がないという意味で、いわば情事の反対をさしたようなものであるが、私の追窮心は簡単なこの一句の答えで満足できなかった。
「よく人が言いますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものの好きな男でも、菓子がいやになるって。お彼岸にお萩《はぎ》などをこしらえているところを宅《うち》で見ていてもわかるじゃありませんか。こしらえるものは、ただお萩をお重に詰めるだけで、もうげんなりした顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」
「そういう訳でもないようです。とにかく二十歳《はたち》少し過ぎまでは平気でいたのですから」
その人はある意味において好男子であった。
「たとい貴方《あなた》が平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたって誘われがちになるのがあたりまえでしょう」
「今からふり返ってみると、なるほどこういう意味でああいうことをしたのだとか、あんなことを言ったのだとか、いろいろ思い当たることがないでもありません」
「じゃまったく気がつかずにいたのですね」
「まあそうです。それからこちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心はどうしても、その相手にひきつけられることができなかったのです」
私はそれが話の終わりかと思った。二《ふた》人《り》の前には正月の膳《ぜん》がすえてあった。客は少しも酒を飲まないし、私もほとんど盃《さかずき》に手を触れなかったから、献酬というものはまったくなかった。
「それだけで今日まで経過してこられたのですか」と私は吸い物をすすりながら念のためにきいてみた。すると客は突然こんな話を私にして聞かせた。
「まだ使用人であったころに、ある女と二年ばかり会っていたことがあります。相手はむろん素《しろう》人《と》ではないのでした。しかしその女はもういないのです。首をくくって死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦《だん》那《な》が二人あって、双方が意地ずくで、身受けの金をせり上げにかかったのです。それに双方とも老《ろう》妓《ぎ》を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理責めにもしたらしいのです。……」
「貴方《あなた》はそれを救ってやるわけにゆかなかったのですか」
「当時の私は丁《でつ》稚《ち》の少し毛のはえたようなもので、とてもどうもできないのです」
「しかしその芸《げい》妓《しや》は貴方のために死んだのじゃありませんか」
「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てるわけにいかなかったからかもしれませんが……。しかし私ら二人のあいだに、どこへも行かないという約束はあったに違いないのです」
「すると貴方が間接にその女を殺したことになるのかもしれませんね」
「あるいはそうかもしれません」
「貴方は寝ざめが悪かありませんか」
「どうもよくないのです」
元日に込み合った私の座敷は、二《ふつ》日《か》になってさびしくいくらい静かであった。私はそのさびしい春の松の内に、こういうあわれな物語を、その年賀の客から聞いたのである。客はまじめな正直な人だったから、それを話すにも、ほとんどつやっぽい言葉を使わなかった。
二五
私がまだ千《せん》駄《だ》木《ぎ*》にいたころの話だから、年数にすると、もうだいぶ古いことになる。
ある日私は切《きり》通《どお》しの方へ散歩した帰りに、本《ほん》郷《ごう》四《よん》丁《ちよう》目《め》のかどへ出るかわりに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲がった。その曲がり角《かど》にはそのころあった牛《ぎゆう》屋《や》のそばに、寄《よ》席《せ》の看板がいつでもかかっていた。
雨の降る日だったので、私はむろん傘《かさ》をさしていた。それが鉄《てつ》御《お》納《なん》戸《ど》の八《はつ》間《けん》の深張り《*》で、上からもってくる雫《しずく》が、自《じ》然《ねん》木《ぼく》の柄を伝わって、私の手をぬらしはじめた。人通りの少ないこの小《こう》路《じ》は、すべての泥《どろ》を雨で洗い流したように、足《あし》駄《だ》の歯に引っかかるきたないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見ればわびしかった。始終通りつけているせいでもあろうが、私の周囲にはなに一つ私の目をひくものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐《ふ》蝕《しよく》するような不愉快な塊《かたまり》が常にあった。私は陰《いん》鬱《うつ》な顔をしながら、ぼんやり雨の降るなかを歩いていた。
日《ひ》蔭《かげ》町《ちよう》の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌《ほろ》俥《ぐるま》に出合った。私と俥の間にはなんの隔たりもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だということに気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
私の目にはその白い顔がたいへん美しく映った。私は雨のなかを歩きながらじっとその人の姿に見とれていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働きかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、ていねいな会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴うその挨《あい》拶《さつ》とともに、相手が、大《おお》塚《つか》楠《くす》緒《お》さんであったことに、はじめて気がついた。
次に会ったのはそれから幾《いく》日《か》めだったろうか、楠緒さんが私に、「このあいだは失礼しました」と言ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美しいかたかと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
その時楠緒さんがなんと答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔をあからめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
それからずっとたって、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へたずねてきてくれたことがある。しかるにあいにく私は妻《さい》と喧《けん》嘩《か》をしていた。私はいやな顔をしたまま、書斎にじっとすわっていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰っていた。
その日はそれで済んだが、ほどなく私は西《にし》片《かた》町《まち》へあやまりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻もさだめて無愛想でしたろう。私はまた苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引っ込んでいたのです」
これに対する楠緒さんの挨《あい》拶《さつ》も、今では遠い過去になって、もう呼び出すことのできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいるころであった。死去の広告ちゅうに、私の名前を使ってさしつかえないかと電話で問い合わされたことなどもまだ覚えている。私は病院で「あるほどの菊投げ入れよ棺《かん》の中」というたむけの句を楠緒さんのためによんだ。それを俳句の好きなある男がうれしがって、わざわざ私に頼んで、短《たん》冊《ざく》に書かせて持っていったのも、もう昔になってしまった。
二六
益《ます》さんがどうしてそんなにおちぶれたものか私にはわからない。なにしろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。益さんの弟の庄《しよう》さんも、家《うち》をつぶして私のところへころがり込んで食客《いそうろう》になっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。子供の時分本《ほん》町《ちよう》の鰯《いわし》屋《や》へ奉公に行っていた時、浜《はま》の西洋人がかわいがって、外国へ連れてゆくと言ったのを断わったのが、今考えると残念だなどと始終話していた。
二《ふた》人《り》とも私の母方の従兄《いとこ》に当たる男だったから、その縁故で、益さんは弟《おとと》に会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一ぺんぐらいは牛《うし》込《ごめ》の奥まで煎《せん》餅《べい》の袋などを手《て》土産《みやげ》に持って、よくたずねてきた。
益さんはその時なんでも芝《しば》のはずれか、または品川近くに世《しよ》帯《たい》を持って、一《ひと》人《り》暮《ぐ》らしののんきな生活を営んでいたらしいので、うちへ来るとよく泊まっていった。たまに帰ろうとすると、兄たちが寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」などとおどかしたものである。
当時二番めと三番めの兄は、まだ南《なん》校《こう*》へ通っていた。南校というのは今の高等商業学校《*》の位置にあって、そこを卒業すると、開《かい》成《せい》学《がつ》校《こう》すなわち今日の大学へはいる組《そ》織《しよく*》になっていたものらしかった。彼らは夜になると、玄関に桐《きり》の机を並べて、明日《あした》の下読みをする。下読みといったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。グードリッチ《*》の英国史といったような本を一節ぐらいずつ読んで、それからそれを机の上へ伏せて、口のうちで今読んだとおりを暗唱するのである。
その下読みが済むと、だんだん益さんが必要になってくる。庄さんもいつのまにかそこへ顔を出す。一番めの兄《*》も、機《き》嫌《げん》のいい時は、わざわざ奥から玄関まで出《で》張《ば》ってくる。そうしてみんないっしょになって、益さんにからかいはじめる。
「益さん、西洋人のところへ手紙を配達することもあるだろう」
「そりゃ商売だからいやだって仕方がありません、持ってゆきますよ」
「益さんは英語ができるのかね」
「英語ができるくらいならこんなまねをしちゃいません」
「しかし郵便ッとかなんとか大きな声を出さなくっちゃならないだろう」
「そりゃ日本語で間に合いますよ。異人だって、近ごろは日本語がわかりますもの」
「へええ、向こうでもなんとか言うのかね」
「言いますとも、ペロリの奥さんなんか、貴方《あなた》よろしいありがとうと、ちゃんと日本語で挨《あい》拶《さつ》をするくらいです」
みんなは益さんをここまでおびき出しておいて、どっと笑うのである。それからまた「益さんなんていうんだって、その奥さんは」と何べんも一つことをきいては、いつまでも笑いの種にしようとたくらんでかかる。益さんもしまいには苦笑いをして、とうとう「貴方よろしい」をやめにしてしまう。すると今度は「じゃ益さん、野《の》中《なか》の一《いつ》本《ぽん》杉《すぎ》をやってごらんよ」と誰《だれ》かが言いだす。
「やれったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」
「まあいいから、おやりよ。いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと……」
益さんはそれでもにやにやして応じない。私はとうとう益さんの野中の一本杉というものをきかずにしまった。今考えると、それはなんでも講釈か人《にん》情《じよう》噺《ばなし》の一節じゃないかしらと思う。
私の成人するころには益さんももううちへ来なくなった。おおかた死んだのだろう。生きていればなにかたよりのあるはずである。しかし死んだにしても、いつ死んだのか私は知らない。
二七
私は芝《しば》居《い》というものにあまり親しみがない。ことに旧劇はわからない。これは古来からその方面で発達してきた演芸上の約束を知らないので、舞台の上に開展される特別の世界に、同化する能力が私に欠けているためだとも思う。しかしそればかりではない。私が旧劇を見て、最も異様に感ずるのは、役者が自然と不自然のあいだを、どっちつかずにぶらぶら歩いていることである。それが私に、中腰といったような落ちつけない心持ちを引き起こさせるのもおそらく理の当然なのだろう。
しかし舞台の上に子供などが出てきて、甲《かん》の高い声で、あわれっぽいことなどを言う時には、いかな私でも知らず知らず目に涙がにじみ出る。そうしてすぐ、ああだまされたなと後悔する。なぜあんなに安っぽい涙をこぼしたのだろうと思う。
「どう考えてもだまされて泣くのはいやだ」と私はある人に告げた。芝居好きのその相手は、「それが先生の常態なのでしょう。平生涙を控えめにしているのは、かえって貴方《あなた》のよそゆきじゃありませんか」と注意した。
私はその説に不服だったので、いろいろの方面からむこうを納得させようとしているうちに、話題がいつか絵画のほうにすべっていった。その男はこのあいだ参考品として美術協会《*》に出た若冲 《じやくちゆう*》の御《ぎよ》物《ぶつ》をたいへんにうれしがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂《うわさ》であった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二《ふた》人《り》のあいだに起こった。
「いったい君に画《え》を論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼を罵《ば》倒《とう》した。するとこの一言が本《もと》になって、彼は芸術一元論を主張しだした。彼の主意をかいつまんでいうと、すべての芸術は同じ源からわいて出るのだから、そのうちの一つさえうんと腹に入れておけば、他はおのずから解しえられる理屈だというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。
「じゃ小説を作れば、しぜん柔道もうまくなるかい」と私が笑《じよう》談《だん》半分に言った。
「柔道は芸術じゃありませんよ」 と相手も笑いながら答えた。
芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観にはいってはじめて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章もすっかり無に帰してしまう。そこになんで共通のものがあろう。たといあったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。
こういうのがその時の論旨であった。そうしてその論旨はけっして十分なものではなかった。もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈を下してやる余地はいくらでもあったのである。
しかしその時座にいた一《いち》人《にん》が、突然私の議論を引き受けて相手に向かいだしたので、私も面《めん》倒《どう》だからついそのままにしておいた。けれども私の代わりになったその男というのはだいぶ酔っていた。それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得たことは言わなかった。言葉づかいさえ少しへべれけであった。初めのうちはおもしろがって笑っていた人たちも、ついには黙ってしまった。
「じゃ絶交しよう」などと酔った男がしまいに言いだした。私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」と注意した。
「じゃ外へ出て絶交しようか」と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。
これは今《こ》年《とし》の元日の出来事である。酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧《けん》嘩《か》については一口も言わない。
二八
ある人が私の家《うち》の猫《ねこ》を見て、「これは何代めの猫ですか」ときいた時、私は何気なく「二代めです」と答えたが、あとで考えると、二代めはもう通り越して、その実三代めになっていた。
初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、それに引きかえて、二代めの生《しよう》涯《がい》は、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。私は誰《だれ》がそれをどこからもらってきたかよく知らない。しかし手のひらに載せれば載せられるような小さい恰《かつ》好《こう》をして、彼がそこいらじゅうはい回っていた当時を、私はまだ記憶している。このかれんな動物は、ある朝うちのものが床をあげる時、誤って上から踏み殺してしまった。ぐうという声がしたので、ふとんの下にもぐり込んでいる彼をすぐ引き出して、相当の手当てをしたが、もう間に合わなかった。彼はそれから、一日《いちんち》二《ふつ》日《か》してついに死んでしまった。そのあとへ来たのがすなわちまっ黒な今の猫である。
私はこの黒猫をかわいがっても憎がってもいない。猫のほうでもうちじゅうのそのそ歩き回るだけで、別に私のそばへ寄りつこうという好意を現わしたことがない。
ある時彼は台所の戸《と》棚《だな》へはいって、鍋《なべ》の中へ落ちた。その鍋の中には胡《ご》麻《ま》の油がいっぱいあったので、彼のからだはコスメチックでも塗りつけたように光りはじめた。彼はその光る身体で私の原稿紙の上に寝たものだから、油がずっと下までしみ通って、私をずいぶんなめにあわせた。
去年私の病気をする少しまえに、彼は突然皮膚病にかかった。顔から額へかけて、毛がだんだん抜けてくる。それをしきりに爪《つめ》でかくものだから、かさぶたがぼろぼろ落ちて、痕《あと》が赤裸になる。私はある日食事ちゅうこの見苦しい様子をながめていやな顔をした。
「ああかさぶたをこぼして、もし子供にでも伝染するといけないから、病院へ連れていって早く療治をしてやるがいい」
私は家のものにこういったが、腹の中では、ことによると病気が病気だから全治しまいとも思った。昔私の知っている西洋人が、ある伯爵からいい犬をもらってかわいがっていたところ、いつかこんな皮膚病に悩まされだしたので、気の毒だからといって医者に頼んで殺してもらったことを、私はよく覚えていたのである。
「クロロフォームかなにかで殺してやったほうが、かえって苦痛がなくってしあわせだろう」
私は三《さん》、四《よ》度《たび》同じ言葉をくりかえしてみたが、猫がまだ私の思うとおりにならないうちに、自分のほうが病気でどっと寝てしまった。そのあいだ私はついに彼を見る機会をもたなかった。自分の苦痛が直接自分を支配するせいか、彼の病気を考える余裕さえ出なかった。
十月にはいって、私はようやく起きた。そうして例のごとく黒い彼を見た。すると不思議なことに、彼の醜い赤裸の皮膚にもとのような黒い毛がはえかかっていた。
「おやなおるのかしら」
私はたいくつな病後の目を絶えず彼の上に注いでいた。すると私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなってきた。それが平生のとおりになると、今度は以前より肥えはじめた。
私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較してみて、ときどきそこになにかの因縁があるような暗示を受ける。そうしてすぐそのあとからばからしいと思って微笑する。猫のほうではただにゃにゃ鳴くばかりだから、どんな心持ちでいるのか私にはまるでわからない。
二九
私は両親の晩年になってできたいわゆる末ッ子である。私を生んだ時、母はこんなとしをして懐《かい》妊《にん》するのは面《めん》目《ぼく》ないと言ったとかいう話が、今でもおりおりはくりかえされている。
単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生まれ落ちるとまもなく、私を里にやってしまった。その里というのは、むろん私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いてみると、なんでも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
私はその道具屋のがらくたといっしょに、小さい笊《ざる》の中に入れられて、毎晩四《よつ》谷《や》の大通りの夜店にさらされていたのである。それをある晩私の姉がなにかのついでにそこを通りかかった時見つけて、かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れて宅《うち》へ連れてきたが、私はその夜《よ》どうしても寝つかずに、とうとう一晩じゅう泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。
私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子《*》にやられた。それはたしか私の四つの歳《とし》であったように思う。私は物心のつく八、九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起こったため、ふたたび実家へ戻るような仕儀となった。
浅草から牛込へうつされた私は、生れた家《うち》へ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもとどおり祖父母とのみ思っていた。そうして相変わらず彼らをお爺《じい》さん、お婆《ばあ》さんと呼んで毫《ごう》も怪しまなかった。向こうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
私は普通の末ッ子のようにけっして両親からかわいがられなかった。これは私の性質が素直でなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因からきていた。とくに父からはむしろ苛《か》酷《こく》に取り扱われたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。そうしてそのうれしさが誰《だれ》の目にもつくくらいにいちじるしく外へ現われた。
ばかな私は、ほんとうの両親を爺《じい》婆《ばば》とのみ思い込んで、どのくらいの月日を空《くう》に暮らしたものだろう、それを聞かれるとまるでわからないが、なんでもある夜《よ》こんなことがあった。
私がひとり座敷に寝ていると、枕《まくら》元《もと》のところで小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚いて目をさましたが、あたりがまっ暗なので、誰がそこにうずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は子供だからただじっとして先方の言うことだけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声であることに気がついた。下女は暗いなかで私にみみこすりをするようにこう言うのである。――
「貴君《あなた》がお爺さんお婆さんだと思っていらっしゃるかたは、ほんとうはあなたのお父《とつ》さんと御母《おつか》さんなのですよ。さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちの宅《うち》が好きなんだろう、妙なものだな、と言って二《ふた》人《り》で話していらしったのを私が聞いたから、そっと貴君《あなた》に教えてあげるんですよ。だれにも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
私はその時ただ「誰にも言わないよ」と言ったぎりだったが、心のうちではたいへんうれしかった。そうしてそのうれしさは事実を教えてくれたからのうれしさではなくって、単に下女が私に親切だったからのうれしさであった。不思議にも私はそれほどうれしく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。
三〇
私がこうして書斎にすわっていると、来る人の多くが「もうご病気はすっかりおなおりですか」と尋ねてくれる。私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答に躊《ちゆう》躇《ちよ》した。そうしてその極いつでも同じ言葉をくりかえすようになった。それは「ええまあどうかこうか生きています」という変な挨《あい》拶《さつ》に異ならなかった。
どうかこうか生きている。――私はこの一句を久しいあいだ使用した。しかし使用するごとに、なんだか不穏当な心持ちがするので、自分でも実はやめられるならばと思って考えてみたが、私の健康状態を思い現わすべき適当な言葉は、他にどうしても見つからなかった。
ある日T君《*》が来たから、この話をして、なおったとも言えず、なおらないとも言えず、なんと答えていいかわからないと語ったら、T君はすぐ私にこんな返事をした。
「そりゃなおったとは言われませんね。そうときどき再発するようじゃ。まあもとの病気の継続なんでしょう」
この継続という言葉を聞いた時、私はいいことを教えられたような気がした。それから以後は、「どうかこうか生きています」という挨拶をやめて、「病気はまだ継続ちゅうです」と改めた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧州の大乱を引き合いに出した。
「私はちょうどドイツが連合軍と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやって貴方《あなた》と対座していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹《ざん》壕《ごう》のうちにはいって、病気とにらめっくらをしているからです。私のからだは乱世です。いつどんな変が起こらないとも限りません」
ある人は私の説明を聞いて、おもしろそうにははと笑った。ある人は黙っていた。またある人は気の毒らしい顔をした。
客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続ちゅうのものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑《じよう》談《だん》だと思って笑う人、わからないで黙っている人、同情の念にかられて気の毒らしい顔をする人、――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分たちさえ気のつかない、継続ちゅうのものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。彼らの記憶はその時もはや彼らに向かって何者をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔とまたその昔のあいだになんらの因果を認めることのできない彼らは、そういう結果に陥った時、なんと自分を解釈してみる気だろう。しょせんわれわれは自分で夢のまに製造した爆裂弾を、思い思いにいだきながら、一《ひと》人《り》残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いてゆくのではなかろうか。ただどんなものをいだいているのか、ひとも知らず自分も知らないので、しあわせなんだろう。
私は私の病気が継続であるということに気がついた時、欧州の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折してゆくかの問題になるとまったく無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえってうらやましく思っている。
三一
私がまだ小学校に行っていた時分に、喜いちゃん《*》という仲のいい友だちがあった。喜いちゃんは当時中《なかち》町《よう*》の叔《お》父《じ》さんの宅《うち》にいたので、そう道のりの近くない私のところからは、毎日会いにゆくことができにくかった。私はおもに自分のほうから出かけないで、喜いちゃんの来るのをうちで待っていた。喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向こうから来るにきまっていた。そうしてその来るところは、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松《まつ》さんのもとであった。
喜いちゃんには父《ちち》母《はは》がないようだったが、子供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった。おそらくきいてみたこともなかったろう。したがって喜いちゃんがなぜ松さんのところへ来るのか、その訳さえも知らずにいた。これはずっとあとで聞いた話であるが、この喜いちゃんのお父《と》っさんというのは、昔銀座《*》の役人かなにかをしていた時、贋《にせ》金《がね》を作ったとかいう嫌《けん》疑《ぎ》を受けて、入《じゆ》牢《ろう》したまま死んでしまったのだという。それであとに取り残された細君が、喜いちゃんを先夫の家へ置いたなり、松さんのところへ再縁したのだから、喜いちゃんがときどき生みの母に会いにくるのはあたりまえの話であった。
なんにも知らない私は、この事情を聞いた時ですら、べつだん変な感じも起こさなかったくらいだから、喜いちゃんとふざけ回って遊ぶころに、彼の境遇などを考えたことはただの一度もなかった。
喜いちゃんも私も漢学が好きだったので、わかりもしないくせに、よく文章の議論などをしておもしろがった。彼はどこからきいてくるのか、調べてくるのか、よくむずかしい漢籍の名前などをあげて、私を驚かすことが多かった。
彼はある日私のへや同様になっている玄関に上がり込んで、ふところから二冊つづきの書物を出して見せた。それはたしかに写本であった。しかも漢文でつづってあったように思う。私は喜いちゃんから、その書物を受け取って、無意味にそこここを引っくりかえして見ていた。実はなにがなんだが私にはさっぱりわからなかったのである。しかし喜いちゃんは、それを知ってるかなどと露骨なことをいうたちではなかった。
「これは大《おお》田《た》南《なん》畝《ぼ*》の自筆なんだがね。僕の友だちがそれを売りたいというので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」
私は大田南畝という人を知らなかった。
「大田南畝っていったいなんだい」
「蜀《しよく》山《さん》人《じん》のことさ。有名な蜀山人さ」
無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそう言われてみると、なんだか貴重の書物らしい気がした。
「いくらなら売るのかい」ときいてみた。
「五十銭に売りたいと言うんだがね。どうだろう」
私は考えた。そうしてなにしろ値切ってみるのが上策だと思いついた。
「二十五銭なら買ってもいい」
「それじゃ二十五銭でもかまわないから、買ってやりたまえ」
喜いちゃんはこう言いつつ私から二十五銭受け取っておいて、またしきりにその本の効能を述べたてた。私にはむろんその書物がわからないのだから、それほどうれしくもなかったけれども、なにしろ損はしないのだろうというだけの満足はあった。私はその夜《よ》南《なん》畝《ぼ》莠《しゆう》言《げん》――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。
三二
あくる日になると、喜いちゃんがまたぶらりとやってきた。
「君昨日《きのう》買ってもらった本のことだがね」
喜いちゃんはそれだけ言って、私の顔を見ながらぐずぐずしている。私は机の上に載せてあった書物に目を注いだ。
「あの本かい。あの本がどうかしたのかい」
「実はあすこのうちのおやじに知れたものだから、おやじがたいへんおこってね。どうか返してもらってきてくれって僕に頼むんだよ。僕も一ぺん君に渡したもんだからいやだったけれども仕方がないからまた来たのさ」
「本を取りにかい」
「取りにってわけでもないけれども、もし君のほうでさしつかえがないなら、返してやってくれないか。なにしろ二十五銭じゃ安すぎるっていうんだから」
この最後の一言で、私は今まで安く買いえたという満足の裏に、ぼんやり潜んでいた不快、――不善の行為から起こる不快――をはっきり自覚しはじめた。そうして一方ではずるい私を怒るとともに、一方では二十五銭で売った先方を怒った。どうしてこの二つの怒りを同時に和らげたものだろう。私は苦い顔をしてしばらく黙っていた。
私のこの心理状態は、今の私が子供の時の自分を回顧して解剖するのだから、比較的明《めい》瞭《りよう》に描き出されるようなものの、その場合の私にはほとんどわからなかった。私さえただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚しえなかったのだから、相手の喜いちゃんにはむろんそれ以上わかるはずがなかった。括《かつ》弧《こ》の中でいうべきことかもしれないが、年齢《とし》を取った今日でも、私にはよくこんな現象が起こってくる。それでよく他《ひと》から誤解される。
喜いちゃんは私の顔を見て、「二十五銭ではほんとうに安すぎるんだとさ」と言った。
私はいきなり机の上に載せておいた書物を取って、喜いちゃんの前に突き出した。
「じゃ返そう」
「どうも失敬した。なにしろ安公の持ってるものでないんだから仕方がない。おやじの宅《うち》に昔からあったやつを、そっと売って小遣いにしようっていうんだからね」
私はぷりぷりしてなんとも答えなかった。喜いちゃんは袂《たもと》から二十五銭出して私の前へ置きかけたが、私はそれに手を触れようともしなかった。
「その金なら取らないよ」
「なぜ」
「なぜでも取らない」
「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本だけ返すのは。本を返すくらいなら二十五銭も取りたまいな」
私はたまらなくなった。
「本は僕のものだよ。いったん買った以上は僕のものにきまってるじゃないか」
「そりゃそうに違いない。違いないが向こうの宅でも困ってるんだから」
「だから返すと言ってるじゃないか。だけど僕は金をとる訳がないんだ」
「そんなわからないことを言わずに、まあ取っておきたまいな」
「僕はやるんだよ。僕の本だけども、ほしければやろうというんだよ。やるんだから本だけ持ってったらいいじゃないか」
「そうかそんなら、そうしよう」
喜いちゃんは、とうとう本だけ持って帰った。そうして私はなんの意味なしに二十五銭の小遣いを取られてしまったのである。
三三
世の中に住む人間の一人として、私はまったく孤立して生存するわけにはゆかない。しぜん他《ひと》と交渉の必要がどこからか起こってくる。時候の挨《あい》拶《さつ》、用談、それからもっと込み入った懸け合い――これから脱却することは、いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。
私はなんでも他のいうことを真《ま》に受けて、すべて正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろうか。もし私が持って生まれたこの単純な性情に自己を託して顧みないとすると、ときどきとんでもない人からだまされることがあるだろう。その結果かげでばかにされたり、ひやかされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。
それでは他《ひと》はみなすれからしの嘘《うそ》つきばかりと思って、はじめから相手の言葉に耳も貸さず、心も傾けず、ある時はその裏面に潜んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで賢い人だと自分を批評し、またそこに安住の地を見いだしうるだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。そのうえ恐るべき過失を犯す覚悟を、初手から仮定して、かからなければならない。ある時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、事が困難になる。
もし私の態度をこの両面のどっちかにかたづけようとすると、私の心にまた一種の苦悶が起こる。私は悪い人を信じたくない。それからまたいい人を少しでも傷つけたくない。そうして私の前に現われてくる人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると私の態度も相手しだいでいろいろに変わってゆかなければならないのである。
この変化は誰《だれ》にでも必要で、また誰でも実行していることだろうと思うが、それがはたして相手にぴたりと合って寸《すん》分《ぶん》まちがいのない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。私の大いなる疑問は常にそこにわだかまっている。
私のひがみを別にして、私は過去において、多くの人からばかにされたという苦い記憶をもっている。同時に、先方の言うことやすることを、わざとひらたく取らずに、暗にその人の品性に恥をかかしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。
他に対する私の態度はまず今までの私の経験からくる。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、曖《あい》昧《まい》な言葉であるが、私が天から授かった直覚が何《なに》分《ぶん》か働く。そうして、相手にばかにされたり、また相手をばかにしたり、まれには相手に彼相当な待遇を与えたりしている。
しかし今までの経験というものは、広いようで、その実はなはだ狭い。ある社会の一部分で何度となくくりかえされた経験を、他の一部分へ持ってゆくと、まるで通用しないことが多い。前後の関係とか四囲の状況とかいったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮をめぐらさなければ役に立たなくなる。しかもそれをめぐらす時間も、材料も十分給与されていない場合が多い。
それで私はともすると事実あるのだか、またないのだかわからない、きわめてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚がはたして当たったか当たらないか、要するに客《かく》観《かん》的《てき》事《じ》実《じつ》によって、それを確かめる機会をもたないことが多い。そこにまた私の疑いが始終靄《もや》のようにかかって、私の心を苦しめている。
もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前にひざまずいて、私に毫《ごう》髪《はつ》の疑いをさしはさむ余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦《く》悶《もん》から解脱せしめんことを祈る。でなければ、この不明な私の前に出てくるすべての人を、玲《れい》瓏《ろう》透徹な正直者に変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわんことを祈る。今の私はばかで人にだまされるか、あるいは疑い深くて人をいれることができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快にみちている。もしそれが生《しよう》涯《がい》つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。
三四
私が大学にいるころ《*》教えたある文学士が来て、「先生はこのあいだ高等工業で講演《*》をなすったそうですね」と言うから、「ああやった」と答えると、その男が「なんでもわからなかったようですよ」と教えてくれた。
それまで自分の言ったことについて、その方面の掛《け》念《ねん》をまるでもっていなかった私は、彼の言葉を聞くとひとしく、意外の感に打たれた。
「君はどうしてそんなことを知ってるの」
この疑問に対する彼の説明は簡単であった。親《しん》戚《せき》だか知人だか知らないが、なにしろ彼に関係のあるある家《うち》の青年が、その学校に通っていて、当日私の講演をきいた結果を、なんだかわからないという言葉で彼に告げたのである。
「いったいどんなことを講演なすったのですか」
私は席上で、彼のためにまたその講演の梗《こう》概《がい》をくりかえした。
「別にむずかしいとも思えないことだろう君。どうしてそれがわからないかしら」
「わからないでしょう。どうせわかりゃしません」
私には断《だん》乎《こ》たるこの返事がいかにも不思議に聞こえた。しかしそれよりもなお強く私の胸を打ったのは、よせばよかったという後悔の念であった。自白すると、私はこの学校から何度となく講演を依頼されて、何度となく断わったのである。だからそれを最後に引き受けた時の私の腹には、どうかしてそこに集まる聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった。その希望が、「どうせわかりゃしません」という簡単な彼の一言で、みごとに粉砕されてしまってみると、私はわざわざ浅草まで行く必要がなかったのだと、自分を考えないわけにいかなかった。
これはもう一、二年まえの古い話であるが去年の秋またある学校で、どうしても講演《*》をやらなければ義理が悪いことになって、ついにそこへ行った時、私はふと私を後悔させた前年を思い出した。それに私の論じたその時の題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇をおりる間ぎわにこう言った。
「たぶん誤解はないつもりですが、もし私の今お話したうちに、はっきりしないところがあるなら、どうぞ私宅まで来てください。できるだけ貴方《あなた》がたにご納得のいくように説明してあげるつもりですから」
私のこの言葉が、どんなふうに反響をもたらすだろうかという予期は、当時の私にはほとんどなかったように思う。しかしそれから四、五日たって、三人の青年が私の書斎にはいってきたのは事実である。そのうちの二《ふた》人《り》は電話で私の都合を聞き合わせた。一《ひと》人《り》はていねいな手紙を書いて、面会の時間をこしらえてくれと注文してきた。
私は快くそれらの青年に接した。そうして彼らの来意を確かめた。一人のほうは私の予想どおり、私の講演についての筋道の質問であったが、残る二人のほうは、案外にも彼らの友人がその家庭に対して採るべき方針についての疑義を私にきこうとした。したがってこれは私の講演を、どう実社会に応用していいかという彼らの目前にせまった問題を持ってきたのである。
私はこれら三人のために、私の言うべきことを言い、説明すべきことを説明したつもりである。それが彼らにどれほどの利益を与えたか、結果からいうとこの私にもわからない。しかしそれだけにしたところで私には満足なのである。「貴方の講演はわからなかったそうです」と言われた時よりもはるかに満足なのである。
〔この稿が新聞に出た二、三日あとで、私は高等工業の学生から四、五通の手紙を受け取った。その人々はみんな私の講演をきいたものばかりで、いずれも私がここで述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いてきてくれたのである。だからその手紙はみな好意にみちていた。なぜ一学生の言ったことを、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。それで私はここに一言を付加して、私の不明を謝し、あわせて私の誤解を正してくれた人々の親切をありがたく思うむねを公にするのである。〕
三五
私は子供の時分よく日《に》本《ほん》橋《ばし》の瀬《せ》戸《と》物《もの》町《ちよう》にある伊《い》勢《せ》本《もと》という寄《よ》席《せ》へ講釈をききに行った。今の三《みつ》越《こし》の向こう側にいつでも昼席の看板が掛かっていて、そのかどを曲がると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。
この席は夜になると、色物《*》だけしか掛けないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだことがなかったけれども、席数からいうといちばん多く通ったところのように思われる。当時私のいた家はむろん高田の馬場の下ではなかった。しかしいくら地理の便がよかったからといって、どうしてあんなに講釈をききに行く時間が私にあったものか、今考えるとむしろ不思議なくらいである。
これも今からふり帰って遠い過去をながめるせいでもあろうが、そこは寄席としてはむしろ上品な気分を客に起こさせるようにできていた。高座の右側には帳《ちよう》場《ば》格《ごう》子《し》のような仕切りを二方に立て回して、その中に定連の席が設けてあった。それから高座の後ろが縁側で、その先がまた庭になっていた。庭には梅の古木が斜めに井《い》桁《げた》の上に突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が、縁から仰がれるくらいに余分の地面を取り込んでいた。その庭を東に受けて離れ座敷のような建物も見えた。
帳場格子のうちにいる連《れん》中《じゆう》は、時間が余って使い切れない裕福な人たちなのだから、みんな相応な服装《なり》をして、ときどきのんきそうに袂《たもと》から毛抜きなどを出して根気よく鼻毛を抜いていた。そんなのどかな日には、庭の梅の樹《き》に鶯《うぐいす》が来てなくような気持ちもした。
中入りになると、菓子を箱入りのまま茶を売る男が客のあいだへ配って歩くのがこの席の習慣になっていた。箱は浅い長方形のもので、まず誰《だれ》でもほしいと思う人の手の届くところに一つといったふうに都合よく置かれるのである。菓子の数は一箱に十ぐらいの割だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、あとからその代価を箱の中に入れるのが無言の規約になっていた。私はそのころこの習慣を珍しいもののように興がってながめていたが、今となってみると、こうした鷹《おう》揚《よう》でのんきな気分は、どこの人《ひと》寄《よ》せ場《ば》へ行っても、もう味わうことができまいと思うと、それがまたなんとなくなつかしい。
私はそんなおっとりとものさびた空気のなかで、古めかしい講釈というものをいろいろの人からきいたのである。そのなかには、すととこ、のんのん、ずいずい、などという妙な言葉を使う男もいた。これは田《たな》辺《べ》南《なん》龍《りゆう》といって、もとはどこかの下足番であったとかいう話である。そのすととこ、のんのん、ずいずいははなはだ有名なものであったが、その意味を理解するものは一《ひと》人《り》もなかった。彼はただそれを軍勢の押し寄せる形容詞として用いていたらしいのである。
この南龍はとっくの昔に死んでしまった。そのほかのものもたいていは死んでしまった。その後の様子をまるで知らない私には、その時分私を喜ばせてくれた人のうちで生きているものがはたして何人あるのだかまったくわからなかった。
ところがいつか美音会《*》の忘年会のあった時、その番組を見たら、吉《よし》原《わら》の幇《たいこ》間《もち》の茶番だのなんだのがならべて書いてあるうちに、私はたった一人の当時の旧友を見いだした。私は新《しん》富《とみ》座《ざ*》へ行って、その人を見た。またその声を聞いた。そうして彼の顔も咽《の》喉《ど》も昔とちっとも変わっていないのに驚いた。彼の講釈もまったく昔のとおりであった。進歩もしないかわりに、退歩もしていなかった。二十世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前にすわりながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想にふけっていた。
彼というのは馬《ば》琴《きん》のことで、昔伊勢本で南龍の中入り前をつとめていたころには、琴《きん》凌《りよう》と呼ばれた若手だったのである。
三六
私の長兄はまだ大学とならないまえの開成校にいたのだが、肺をわずらって中途で退学してしまった。私とはだいぶとしが違うので、兄弟としての親しみよりも、大人《おとな》対子供としての関係のほうが、深く私の頭にしみ込んでいる。ことにおこられた時はそうした感じが強く私を刺激したように思う。
兄は色の白い鼻筋の通った美しい男であった。しかし顔だちからいっても、表情から見ても、どこかにけわしい相をそなえていて、むやみに近寄れないといったふうのせまった心持ちを他《ひと》に与えた。
兄の在学ちゅうには、まだ地方から出てきた貢《こう》進《しん》生《せい*》などのいるころだったので、今の青年には想像のできないような気風が校内のそこここに残っていたらしい。兄はある上級生に艶《ふ》書《み》をつけられたと言って、私に話したことがある。その上級生というのは、兄などよりもずっととし上の男であったらしい。こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、はたしてその文《ふみ》をどう始末したものだろう。兄はそれ以後学校の風《ふ》呂《ろ》でその男と顔を見合わせるたびに、きまりの悪い思いをして困ったと言っていた。
学校を出たころの彼は、非常に四角四面で、始終かた苦しく構えていたから、父や母も多少彼に気を置く様子が見えた。そのうえ病気のせいでもあろうが、常に陰気くさい顔をして、宅《うち》にばかり引っ込んでいた。
それがいつとなく融《と》けてきて、人柄がおのずと柔らかになったと思うと、彼はよく古《こ》渡《わたり》唐《とう》桟《ざん》の着物に角帯などを締めて、夕方から宅を外にしはじめた。ときどきは紫色で亀《きつ》甲《こう》型《がた》を一面にすった亀《かめ》清《せい*》のうちわなどが茶の間に放り出されるようになった。それだけならまだいいが、彼は長《なが》火《ひ》鉢《ばち》の前へすわったまま、しきりに仮《こわ》声《いろ》をつかいだした。しかし宅のものはべつだんそれに頓《とん》着《じやく》する様子も見えなかった。私はむろん平気であった。仮声と同時に藤《とう》八《はち》拳《けん》も始まった。しかしこのほうは相手がいるので、そう毎晩はくりかえされなかったが、なにしろ変に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。相手はおもに三番めの兄が勤めていたようである。私はまじめな顔をして、ただ傍観しているにすぎなかった。
この兄はとうとう肺病で死んでしまった。死んだのはたしか明治二十年だと覚えている。すると葬式も済み、待《たい》夜《や》も済んで、まずひとかたづきというところへ一《ひと》人《り》の女が尋ねてきた。三番めの兄が出て応接してみると、その女は彼にこんなことをきいた。
「兄《にい》さんは死ぬまで、奥さんをお持ちになりゃしますまいね」
兄は病気のため、生《しよう》涯《がい》妻帯しなかった。
「いいえしまいまで独身で暮らしていました」
「それを聞いてやっと安心しました。妾《わたくし》のようなものは、どうせ旦《だん》那《な》がなくっちゃ生きていかれないから、仕方がありませんけれども、……」
兄の遺骨の埋められた寺の名を教《おす》わって帰っていったこの女は、わざわざ甲州から出てきたのであるが、元《もと》柳《やなぎ》橋《ばし》の芸者をしているころ、兄と関係があったのだという話を、私はその時はじめて聞いた。
私はときどきこの女に会って兄のことなどを物語ってみたい気がしないでもない。しかし会ったらさだめしお婆《ばあ》さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様に皺《しわ》が寄って、からからにかわいていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、かの女が今になって兄の弟の私に会うのは、かの女にとってかえってつらい悲しいことかもしれない。
三七
私は母の記念のためにここでなにか書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭にたいした材料をのこしていってくれなかった。
母の名は千《ち》枝《え》といった。私は今でもこの千枝という言葉をなつかしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。さいわいに私はまだ母以外の千枝という女に出会ったことがない。
母は私の十三、四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起こす彼女の幻像は、記憶の糸をいくらたどっていっても、お婆《ばあ》さんに見える。晩年に生まれた私には、母のみずみずしい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。
私の知っている母は、常に大きな眼《め》鏡《がね》を掛けて裁縫《しごと》をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、たまの大きさがさしわたし二寸以上もあったように思われる。母はそれを掛けたまま、すこし顋《あご》を襟《えり》元《もと》へ引きつけながら、私をじっと見ることがしばしばあったが、老眼の性質を知らないそのころの私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡とともに、いつでも母の背景になっていた一間の襖《ふすま》をおもい出す。古びた張り交ぜのうちに、生《しよう》死《じ》事《じ》大《だい》無《む》常《じよう》迅《じん》速《そく》云《うん》々《ぬん》 と書いた石《いし》摺《ず》りなどもあざやかに目に浮かんでくる。
夏になると母は始終紺《こん》無地の絽《ろ》の帷子《かたびら》を着て、幅の狭い黒《くろ》繻《じゆ》子《す》の帯を締めていた。不思議なことに、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の服装《なり》で頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、あとに残るものはただ彼女の顔ばかりになる。母がかつて縁鼻へ出て、兄と碁《ご》を打っていた様子などは、彼ら二《ふた》人《り》を組み合わせた図柄として、私の胸に収めてある唯一の記念《かたみ》なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子を着て、同じ帯を締めてすわっているのである。
私はついぞ母の里へつれてゆかれた覚えがないので、長いあいだ母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。自分から求めてききたがるような好奇心はさらになかった。それでその点もやはりぼんやりかすんで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が四《よ》ツ谷《や》大《おお》番《ばん》町で生まれたという話だけは確かに聞いていた。宅《うち》は質屋であったらしい。蔵が幾《いく》戸《と》前《まえ》とかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、なにしろその大番町という所を、この年になるまで今だに通ったことのない私のことだから、そんなこまかな点はまるで忘れてしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われてこないのである。おおかたそのころにはもうつぶれてしまったのだろう。
母が父のところへ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話もおぼろげに覚えているが、どこの大名の屋敷へ上がって、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよくわきまえない今の私には、ただ淡いかおりを残して消えた香のようなもので、ほとんど取り留めようのない事実である。
しかしそういえば、私は錦絵にかいた御殿女中の羽織っているようなはでな総模様の着物を宅《うち》の蔵の中で見たことがある。紅《も》絹《み》裏《うら》をつけたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍《ぬい》も交じっていた。これはおそらく当時の裲《かい》襠《どり》とかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで目に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡を掛けたお婆さんであったから。それのみか私はこの美しい裲襠がその後小《こ》掻《がい》巻《ま》きに立て直されて、そのころうちにできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。
三八
私が大学で教《おす》わったある西洋人《*》が日本を去る時、私はなにか餞《せん》別《べつ》を贈ろうと思って、宅《うち》の蔵から高《たか》蒔《まき》絵《え》に緋《ひ》の房《ふさ》のついた美しい文《ふ》箱《ばこ》を取り出してきたことも、もう古い昔である。それを父の前へ持っていってもらい受けた時の私は、まったくなんの気もつかなかったが、今こうして筆を執ってみると、その文箱も小《こ》掻《がい》巻《ま》きに仕立て直された紅《も》絹《み》裏《うら》の裲《かい》襠《どり》同様に、若い時分の母の面《おも》影《かげ》をこまやかに宿しているように思われてならない。母は生《しよう》涯《がい》父から着物をこしらえてもらったことがないという話だが、はたしてこしらえてもらわないでも済むくらいなしたくをして来たものだろうか。私の心に映るあの紺無地の絽《ろ》の帷子《かたびら》も、幅の狭い黒《くろ》繻《じゆ》子《す》の帯も、やはり嫁に来た時からすでにたんすの中にあったものなのだろうか。私はふたたび母に会って、万事をことごとく口ずからきいてみたい。
いたずらで強情な私は、けっして世間の末ッ子のように母から甘く取りあつかわれなかった。それでもうちじゅうでいちばん私をかわいがってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶のうちには、いつでもこもっている。愛憎を別にして考えてみても、母はたしかに品位のあるゆかしい婦人に違いなかった。そうして父よりも賢そうに誰《だれ》の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏《い》敬《けい》の念をいだいていた。
「御母《おつか》さんはなんにも言わないけれども、どこかにこわいところがある」
私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引っ張り出してくることが今でもできる。しかしそれは水にとけて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したようにきわどい私の記憶の断片にすぎない。そのほかのことになると、私の母はすべて私にとって夢である。とぎれとぎれに残っている彼女のおもかげをいくらたんねんに拾い集めても、母の全体はとても髣《ほう》髴《ふつ》するわけにゆかない。そのとぎれとぎれに残っている昔さえ、半ば以上はもう薄れすぎて、しっかりとはつかめない。
ある時私は二階へ上がって、たった一《ひと》人《り》で、昼寝をしたことがある。そのころの私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見るまに大きくなって、いつまでたってもとまらなかったり、あるいはあおむきにながめている天井がだんだん上からおりてきて、私の胸を抑えつけたり、または目をあいてふだんと変わらない周囲を現に見ているのに、からだだけが睡魔のとりことなって、いくらもがいても、手足を動かすことができなかったり、あとで考えてさえ、夢だか正気だか訳のわからない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。
私はいつどこで犯した罪か知らないが、なにしろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それをなんの目的でなんにつかったのか、その辺も明《めい》瞭《りよう》でないけれども、子供の私にはとても償うわけにゆかないので、気の狭い私は寝ながらたいへん苦しみだした。そうしてしまいに大きな声をあげて下にいる母を呼んだのである。
二階の梯《はし》子《ご》段《だん》は、母の大《おお》眼《め》鏡《がね》と離すことのできない、生《しよう》死《じ》事《じ》大《だい》無《む》常《じよう》迅《じん》速《そく》云《うん》々《ぬん》 と書いた石《いし》摺《ず》りび張《は》り交《ま》ぜにしてある襖《ふすま》の、すぐ後ろについているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上がってきてくれた。私はそこに立って私をながめている母に、私の苦しみを話して、どうかしてくださいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでもいいよ。御母《おつか》さんがいくらでもお金を出してあげるから」と言ってくれた。私はたいへんうれしかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。
私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけほんとうなのか、今でも疑っている。しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救いを求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰謝の言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母の服装《なり》は、いつも私の目に映るとおり、やはり紺無地の絽の帷子に幅の狭い黒繻子帯だったのである。
三九
今日《きよう》は日曜なので、子供が学校へ行かないから、下女も気を許したものとみえて、いつもよりおそく起きたようである。それでも私の床を離れたのは七時十五分過ぎであった。顔を洗ってから、例のとおりトーストと牛乳と半熟の鶏卵《たまご》を食べて、厠《かわや》に上ろうとすると、あいにく肥《こい》取《と》りが来ているので、私はしばらく出たことのない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置きの中でなにかかたづけものをしていた。不要の炭俵を重ねた下から威勢のいい火が燃えあがる周囲に、女の子が三人ばかり心持ちよさそうに煖《だん》を取っている様子が私の注意をひいた。
「そんなに焚《た》き火《び》に当たると顔がまっ黒になるよ」と言ったら、末の子《*》が、「いやあーだ」と答えた。私は石《いし》垣《がき》の上から遠くに見える屋《や》根《ね》瓦《がわら》のとけつくした霜にぬれて、朝日にきらつく色をながめたあと、また家《うち》の中へ引き返した。
親類の子が来てそうじをしている書斎の整《せい》頓《とん》するのを待って、私は机を縁側に持ち出した。そこで日当たりのいい欄干に身をもたせたり、頬《ほお》杖《づえ》を突いて考えたり、またしばらくはじっと動かずにただ魂を自由に遊ばせておいてみたりした。
軽い風がときどき鉢《はち》植《う》えの九《きゆう》花《か》蘭《らん》の長い葉を動かしにきた。庭木の中で鶯《うぐいす》がおりおりへたなさえずりをきかせた。毎日ガラス戸の中にすわっていた私は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、春はいつしか私の心を蕩《とう》揺《よう》しはじめたのである。
私の冥《めい》想《そう》はいつまですわっていても結晶しなかった。筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持ちもするし、あれにしようか、これにしようかと迷いだすと、もうなにを書いてもつまらないのだというのんきな考えも起こってきた。しばらくそこでたたずんでいるうちに、今度は今まで書いたことがまったく無意味のように思われだした。なぜあんなものを書いたのだろうという矛盾が私を嘲《ちよう》弄《ろう》しはじめた。ありがたいことに私の神経は静まっていた。この嘲弄の上に乗ってふわふわと高い冥想の領分に上ってゆくのが自分にはたいへん愉快になった。
自分のばかな性質を、雲の上から見下して笑いたくなった私は、自分で自分を軽《けい》蔑《べつ》する気分に揺られながら、揺《よう》籃《らん》の中で眠る子供にすぎなかった。
私は今まで他《ひと》のことと私のことをごちゃごちゃに書いた。他のことを書く時には、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気のなかに呼吸することができた。それでも私はまだ私に対してまったく色気を取り除きうる程度に達していなかった。嘘《うそ》をついて世間を欺くほどの衒《げん》気《き》がないにしても、もっと卑しいところ、もっと悪いところ、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。聖オーガスチンの懺《ざん》悔《げ*》、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくらたどっていっても、ほんとうの事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰《だれ》かが言ったことがある。まして私の書いたものは懺悔ではない。私の罪は、――もしそれを罪といいうるならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。そこにある人は一種の不快を感ずるかもしれない。しかし私自身は今その不快の上にまたがって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらないことを書いた自分をも、同じ目で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感をいだきつつ、やはり微笑しているのである。
まだ鶯が庭でときどき鳴く。春風がおりおり思い出したように九花蘭の葉をうごかしにくる。猫《ねこ》がどこかで痛くかまれたこめかみを日にさらして、あたたかそうに眠っている。さっきまで庭でゴム風船を揚げて騒いでいた子供たちは、みんなつれ立って活動写真へ行ってしまった。家も心もひっそりとしたうちに、私はガラス戸をあけ放って、静かな春の光に包まれながら、うっとりとこの稿を書きおわるのである。そうしたあとで、私はちょっと肱《ひじ》を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。
日記
明治四十三年八月六日(土)
十一時の汽車で修善寺に向かう。東《とう》洋《よう》城《じよう》来《きた》らず、白切符二枚を懐中して乗る。しまったことをしたと思う。途中車掌が電報を持って来て、松《まつ》根《ね》は一汽車後《おく》れたるゆえ国《こ》府《う》津《づ》か御《ご》殿《てん》場《ば》で待ち合《あ》わせろという。
○品《しな》川《がわ》から白服の軍人らしき人乗る。絽《ろ》の小紋のように細かい縞《しま》の着物をきた人、下女と向《むか》い側《がわ》にいる。紗《しや》の羽織に紫の紐《ひも》をさげてダイヤの指《ゆび》環《わ》をはめた男、壮士の親方か弁護士か。義《ぎ》太《だ》夫《ゆう》を語る。
○白切符の買い余しの割《わり》戻《もど》しの件をボイに聞き合わしてもらう。御殿場で三円九十六銭を受《う》け取《と》る。角《かど》の茶屋でいこう。三時〇九分。五時二十九分まで待つ。御殿場は五月焼けたり。家皆新《あたらし》けれども皆粗末なり。目に入るは富士講のみ、西洋人の出入ちょくちょく見ゆ。
○三《み》島《しま》で四十分待つ。大《おお》仁《ひと》へ着いたら車が一《いつ》挺《ちよう》もいない。ようやく三台を駆《か》り出す。荷物は荷車で運ぶ。途中雨来《きた》る。車夫の脛《すね》だけ見ゆ。車に提《ちよう》灯《ちん》の光映る。それがぐるぐる回る。道《みち》端《ばた》の草に灯《ひ》うつる。そのほかは暗《やみ》。川かと思う。ほろの中から仰《あお》向《む》く。暗いと思ったものがかすかに薄くなって空につづいている。黒いのは山か森か近いのか遠いのかわからない。雨ざっと至る。車夫幌《ほろ》をつぐ。蛙《かわず》の声夥《おびただ》し。
○菊屋別館着。座敷なし。関子爵のいたという部《へ》屋《や》に入る。新しい座敷なり。西村家貸し切りと書いてある。今夜だけの都合なり。入浴。喫飯。強雨の声をきく。
八月八日(月)
雨。五時起、上《じよう》厠《し》便通なし。入浴。浴後胃《い》痙《けい》攣《れん》を起こす。不快堪《た》えがたし。
○十二時ごろまた入浴またケイレン。ようやく一杯の飯を食う。
○隣の客どこかへ行く。雨《う》月《げつ》半分と藤渡半分を謡《うた》う。四時過《す》ぎ松根より迎《むか》え、足《あし》駄《だ》をかりて行く。七時ごろ晩《ばん》餐《さん》。誂《あつら》えものをわざわざ本店から取り寄せる。午《ひる》よりは食欲あり。松根に含漱《うがい》剤《ざい》を作ってもらってうがいをする。かんの声が潰《つぶ》れたので咽《の》喉《ど》と鼻の間を湿《しめ》すと少しは好《い》い心持ちなり。鼻洟《はな》を拭《ぬぐ》う。
○殿下が余《よ》に話をしてくれと松根まで言われるよし。袴《はかま》も羽織もなし、かつこの声では聞く人も話す人も苦痛ゆえ断《こと》わる。松根のほうでも慣例なきことゆえ御《ご》用《よう》掛《がか》りの責任を考えてまだ殿下へは受《う》け合《あ》わぬよし。
○八時すぎ帰りて服薬。隣は謡《うたい》、向《む》こう座《ざ》敷《しき》は義《ぎ》太《だ》夫《ゆう》、弁《べん》慶《けい》上《じよう》使《し》の半《なかば》ごろなり。一時間半過ぎ入浴帰りてまた服薬。たちまち胃ケイレンに罹《かか》る。どうしても湯がわるいように思う。
○半夜夢醒《さ》む、いったいに胸苦しくて堪えがたし。
○余にとっては湯治よりも胃腸病院のほうはるかによし。身体《からだ》が毫《ごう》も苦痛の訴《うつた》えがなかった。万事整頓して心持ちがよかった。便通が規則正しくあった。
八月九日(火)
○雨。伊《い》豆《ず》鉄《てつ》道《どう》がとまるかもしれぬという。
八月十二日(金)
○夢のごとく生死の中ほどに日を送る。胆《たん》汁《じゆう》と酸液を一升ほど吐いてからようやく人《ひと》心《ごこ》地《ち》なり。氷と牛乳のみにて命を養う。あれの報知諸所より至る。東京より水害の聞き合《あ》わせ来《きた》る。湯《ゆ》河《が》原《わら》の旅屋流れてその宝物がどことかへ上がったという。松根が余《よ》の病状を報知していつでも来られる支《し》度《たく》をせよと妻にいってやった。それを後《あと》から電報で取り消す。
○半夜一息ずつ胃の苦痛を句切ってせいせいと生きている心《ここ》地《ち》は苦しい。誰《だれ》もそれを知るものはない。あってもどうしてくれることもできない。膏《あぶら》汗《あせ》が顔から背中へ出る。
八月十四日(日)
○終夜強雨の音を聞く。山声、樹声、雨声、耳を撼《おどろ》かす。三時ごろまで眠られず。天明眠《ねむ》り覚《さ》む。胃部不安。上《じよう》厠《し》排便。入浴、酸出、苦痛。牛乳、チリ玉、重湯にて朝飯。食後うとうとする。謡《うたい》の声耳に入る。
十六日(火)
苦痛一字を書くあたわず。
○十七日吐血、熊《くま》の胆《い》のごときもの。医者見て苦い顔す。
○十九日また吐血。それから氷で冷《ひ》やす。安静療法。硝《しよう》酸《さん》銀《ぎん》。
八月二十一日(日)
○十九日の吐血以後滋養浣《かん》腸《ちよう》、食物は流動物だけ。
○昨日森《もり》成《なり》氏帰京のはずのところ見《けん》当《とう》たたぬため滞在。
○ただし院長よりは着以後ただちに当分その地にとまり看護に手を尽くすべしと好意の電報あり。
○昨夜終列車にて玄《げん》耳《じ》来る。池《いけ》辺《べ》と相談どんな医者でもどんな器械でも送ることにしたよし。来てみればそれほどにもなしという。医者のいうことをきかぬためなりという。
○はじめ東洋城が宅へ手紙を出して妻に来る用意をうながす。それから電報にて見《み》合《みあ》わせろという。宅からは忙《いそ》がしいところ長距離電話をかける。細君と知らず丁寧に問答せり。後《あと》にて聞けば山《やま》田《だ》三《さぶ》良《ろう》の家の電話のよし。
○五時半硝《しよう》酸《さん》銀《ぎん》を呑《の》む。
○昨夕渋《しぶ》川《かわ》一五〇持参。意味不明 妻にきくとこれは坂《さか》元《もと》のはからいのよし。相談のうえ今月の月給の一分として貰《もら》うことにする。
○朝食牛乳一合。半熟鶏卵一個、水《みず》飴《あめ》三《み》匙《さじ》。
○昨朝は氷《ひよう》嚢《のう》の重みに堪《た》えず。今日《きよう》はなんの苦なし。
○渋川十時四十分の汽車で帰る。
○弘法様のお祭りで四時ごろから花火が揚《あ》がる。目録を活版にしてある。電鳴、軍旗、露《つゆ》牡《ぼ》丹《たん》、秋の七草いろいろなり。
八月二十四日(水)〔以下九月七日マデ夏目鏡子記〕
朝より顔色悪シ。杉本副院長午後四時大仁着ニテ来ル。診察ノ後夜八時急ニ吐血五百ガラムトイウ。ノウヒンケツヲオコシ一時人事不省。カンフル注射十五、食エン注射ニテヤヤ生気ツク。皆朝マデモタヌモノト思ウ。
社ニ電報ヲカケル。夜中ネムラズ。
八月二十五日(木)
朝容態聞ケバキケンナレドゴク安静ニシテイレバモチナオスカモシレヌトイウ。杉本氏帰ル。
東京ノ家ノ東カラ電話ガカカリ今《ケ》朝《サ》一番デ夏目兄上高田姉上御夫婦小《コ》供《ドモ》三人高浜さん野上さん森田さん中根倫さんお立ちになりましたという。大塚さん大《おお》磯《いそ》から来《コ》ラル。安部さんも来てクレル。一汽車オクレテ野村さんも来ル。
池辺氏モ来ラル。
九月八日(木)
○別 る る や 夢 一 筋 の 天《あま》 の 川《がわ》
○秋 の 江 に 打 ち 込 む 杭《くひ》 の 響《ひゞき》 か な
○秋 風 や 唐《から》 紅《くれなゐ》 の 咽《の》 喉《ど》 仏《ぼとけ》
○ 赤《あか》蜻蛉《とんぼ》、燕《つばめ》
○languid stillness. weak state. painless. passivity
○庇《ひ》護《ご》。被《ひ》庇《ひ》護《ご》。
○氷
○Intellectuality ニ indifference. Self-assertion ニ indifference. 人事ノ葛《カツ》藤《トウ》ニ indifference.
○goodness, peace, calmness. Out of struggle for existence. material prosperity.
○nature
○Essen 住宅。西洋と日本ノ懸隔。
○自然淘汰に逆《さか》らう療治。小児の撫《ぶ》育《いく》より手がかかる。半白の人はたしてこの看護をうくる価値ありや。
○吾《われ》よりいえば死にたくなし。ただ勿《もつ》体《たい》なし。
十日(土)
○昨夜森成氏と禁《きん》烟《えん》の約をなす。今朝臥《が》して思う。さのみ旨《うま》くなければそれほど害にならぬものを禁ずる必要なし。食後一本ずつにす。
○森成氏初診の時の胃の乱調の働《はたら》きをかたる。
○最後の吐血の時、二回の注射。ブンメルン
○紫《し》苑《おん》 みそはぎ
○万年筆をふる力なし。
○ひかん白《しろ》萩《はぎ》梅林より来る。
○病院で一か月半、修善寺で一か月、これから何月かかるかわからない惜《お》しい時間なり。小宮言う牢《ろう》へはいったと思え。
○時間を惜しいと思うほど人間に精力が出たのだろう。
○森成氏また帰京。
九月十二日(月)
秋晴れ 寝《ね》ながら空を見る。ひげをそる。
秋《あき》 晴《ばれ》 に 病 間 あ る や 髭《ひげ》 を 剃《そ》 る
秋 の 空 浅《あさ》 黄《ぎ》 に 澄 め り 杉 に 斧《をの》
昨夕大和堂来《きた》りいう。仰《ぎよう》臥《が》不動の忍耐感心なり。これでよくならなければ医師の責任。
○羽《は》根《ね》布《ぶ》団《とん》を買わぬ理由
九月十四日(木)
○よすがらの雨
○衰《をとろへ》 に 夜 寒 逼《せま》 る や 雨 の 音
○旅 に や む 夜 寒 心 や 世 は 情《なさけ》
○一 夜 眠《ねむり》 さ め て 枕《ちん》 頭《とう》 に 二 三 子 を 見 る
蕭《せう》 々《せう》 の 雨 と 聞 く ら ん 宵《よひ》 の 伽《とぎ》
○秋 風 や ひ び の 入 り た る 胃 の 袋
○芸術の議論や人生上の理屈が一時は厭《いや》になった。
一《いつ》竿《かん》風《ふう》月《げつ》、明《めい》窓《そう》浄《じよう》几《き》
そういう趣味が募った。
微雨当窓冷、一燈洩竹青 という句を得た。
風 流 の 昔 恋 し き 紙《かみ》 衣《こ》 か な
○体力日に加わる。床の上にて身体《からだ》を動かす力、頭を枕《まくら》にずらす力にて自分によくわかる。
○十一時真のソーダビスケットを半分くれる。東京より送るものという。塩気ありていささかの甘味なし。
○二兄皆早く死す。死する時一本の白髪なし。余《よ》の両《りよう》鬢《びん》ようやく白からんとしてまた一《いち》縷《る》の命をつなぐ。
生 残 る 吾《われ》 耻《はづ》 か し や 鬢《びん》 の 霜
○四時に灌《かん》腸《ちよう》をやるよし。最後の吐血後一週間にして第一灌腸。今日《きよう》は二週間にして第二灌腸なり。宿便出《い》ずるやいなや。
九月十五日(木)
○秋雨山村を鎖《と》ざす。
○昨日灌《かん》腸《ちよう》、脱便好成績
○昨夜東来。洪《こう》水《ずい》の写《しや》真《しん》帖《ちよう》。ロヤルアカデミー 土産《みやげ》。
○朝飯ソップ百グラム。ソーダビスケット半《はん》片《きれ》
○立 秋 の 紺 落 ち 付《つ》 く や 伊《い》 予《よ》 絣《がすり》
○骨 立 を 吹 け ば 疾《や》 む 身 に 野《の》 分《わき》 か な
○今朝髪をけずる。
稍《やや》 寒《さむ》 の 鏡 も な く に 櫛《くしけづ》 る
○昨夜より白毛布をかく清《せい》楚《そ》佳意
九月十六日(金)
○暗雨将《まさ》に至る
○昨夜重《おも》湯《ゆ》を呑《の》むまずきこと甚《はなはだ》し。
ビスケットに更《か》えることを談判、なかなか聞いてくれず。
○今朝よりようやく氷を取り除く。
○耕《こう》香《こう》館《かん》画《が》《しよう》を見る。蘇《そ》氏《し》印《いん》譜《ぷ》が見たくなる。
○重湯葛《くず》湯《ゆ》水《みず》飴《あめ》の力を借りて仰《ぎよう》臥《が》静かに衰弱の回復を待つはまだるこき退《たい》屈《くつ》なり。あわせて長閑《のどか》なる美《うる》わしき心なり。年四十にしてはじめて赤子の心を得たり、この丹精をあえてする諸人に謝す。
○健全なる人の胃《い》潰《かい》瘍《よう》は三週間で全治するよし。余《よ》は最後の出血より計算して今三週間目なり。
ようやく日に半《はん》片《きれ》のビスケットを許さるるにすぎず。
九月十九日(月)
○晴
○昨夜はお月見をするとて妻が宿から栗《くり》などを取り寄せていた。栗《くり》がもう出ているかと思って驚いた。
病 ん で よ り 白《しら》 萩《はぎ》 に 露 の 繁《しげ》 く 降 る こ と よ
○花が凋《しぼ》むと裏の山から誰《だれ》かが取ってきてくれる。その時は、森成さんがたいていいっしょである。女郎花《おみなえし》、薄《すすき》、野菊、あざみに似たものが多い。
○昨日臼《きゆう》川《せん》の送った宇《う》治《じ》拾《しゆう》遺《い》を少し読む。少し読むとばかばかしくなる。
○瓶《かめ》に挿《さ》した薄の葉の上にいつのまにか蟋蟀《きりぎりす》が一匹留《と》まっている。風が揺れるたびに揺れている。
○昼のうち恍《こう》惚《こつ》として神遠き思いあり。生まれてよりかくのごとき遐《かつ》懐 《かい》を 恣 《ほしいまま》にせることなし。衰弱の結果にや。夜はかえって寝《ね》られずしばしば目《め》覚《ざ》む。昨夜は修禅寺の太鼓の鳴るを待ちたり。
蜻《かげ》 蛉《ろふ》 の 夢 や い く た び 杭《くひ》 の 先
蜻 蛉 や 留《とま》 り 損《そこ》 ね て 羽《は》 の 光
○取 り 留《と》 む る 命 も 細 き 薄 か な
九月二十日
夜来の雨。しばしば目覚む。
大 風 鳴 万 木。 山 雨 揺 高 楼。
病 骨 稜 如 剣。 一 燈 青 欲 愁。
○東いふ先生は蒼《あお》い高《こう》々《ごう》しい顔をしていながら食物のことばかり考えているからおかしいと。昨日はソップをやめてオートミールか粥《かゆ》を増すことをねだりて拒絶さる。
間食にミルクとカジノビスケットを食うはまるで赤子なり。
粥《かゆ》を口へ運んでもらうところは赤子なり。
仏 よ り 痩《や》 せ て 哀 れ や 曼《まん》 珠《じゆ》 沙《さ》 華《げ》
○昨夜看護婦に二度時を聞く。始《はじめ》四時十分前。後《あと》は五時十五分前。修禅寺の太鼓は五時ごろより鳴るものと知れり。
○昨日より病前に読みかけたむずかしい本を寝《ね》ながら少々読むに頭の工合は病前とさして異ならず。そのくせ起き直りて便器にかかることは一世の大事業のごとく困難である。かほど衰弱したものがどうして哲学的の書物などを読むことができるかと思うと不思議である。妻にそのことを話すと、あなたは悪かった、二、三日頭が判然《はつきり》しすぎてみんな困りました。
○蘇《そ》氏《し》印《いん》略《りやく》が来る。おもしろいけれども読めるのはきわめて少ない。
○雨中床屋が来て髭《ひげ》を剃《そ》る。
○胸も肩も背も触《さわ》るとぼろぼろする。
○南画宗((ママ))を買おうと思ったが贅《ぜい》沢《たく》すぎるので躊《ちゆう》躇《ちよ》す。妻に話すとお買いなさいという。
九月二十一日(水)
○昨夜はじめて普通の人のごとく眠りたる感あり。節節の痛柔らぎたるためか。体力回復のためか。
○ 虫 遠《をち》 近《こち》 病 む 夜 ぞ 静《しづか》 な る 心
○ 余《よ》 所《そ》 心《ごころ》 三《しや》 味《み》 聞 き ゐ れ ば そ ぞ ろ 寒《さむ》
○ 月 を 亘《わた》 る わ が い た つ き や 旅 に 菊
○ 起 き も な ら ぬ わ が 枕《まくら》 辺《べ》 や 菊 を 待 つ
○朝オートミール百グラムになる。ソーダビスケット一枚ソップ前に同じ。
○昨日宮本博士来診の報あり。日《ひ》取《ど》りいまだ定まらず。博士は一度余《よ》に逢《あ》いたきよし過日いわれたるよし。額《ぬか》田《だ》さんは漱石という人はどんな顔か見ておきたいと思って来たと。
○玄耳より酔《すい》古《こ》堂《どう》剣《けん》掃《そう》と列《れつ》仙《せん》伝《でん》を送り来る(蘇氏印略の一巻を看《み》通《とお》した時なり)。
○爽《そう》颯《さつ》の秋風椽《えん》より入る。
○嬉《うれ》しい。生を九《きゆう》仞《じん》に失って命を一《いつ》簣《き》につなぎ得たるは嬉しい。
生 き 返 る わ れ 嬉 し さ よ 菊 の 秋
遠くにて瓦《かわら》をたたく音す。
○夜半魚池中に躍《おど》る。水時あって池に注ぐ。いまだその状《さま》を見たることなし。
○養其無象象故常存守其無体也故全真相済可以長生天得其真故長地得其真故久人得其真故寿
(長生詮)洞古経よりか?
○(大通経より?)
静為之性心在其中矣動為之心性在其中矣心生性滅心滅性生現如空無象湛然円満
九月二十三日(金)
○昨日より咽《いん》喉《こう》わろし。湿布
○妻が桑《くわ》の莨《たばこ》盆《ぼん》を買ってくる。二円五十銭という。桑は陳腐である。もう一つあった樟《くすのき》のを見てよければ代えたいと思う。松の盆(角)六円ほどという。きれいなり。ただ全体透明ならず。かつ丸盆が好ましいと思う。妻もしかいう。頼んでほかをさがしてみることにする。
○粥《かゆ》も旨《うま》い。ビスケットも旨い。オートミールも旨い。人間食事の旨いのは幸福である。そのうえ大事にされて、顔まで人が洗ってくれる。糞《くそ》小便の世話はむろんのこと。これを難有《ありがた》いといわずんばなにをか難有いといわんや。医師一《ひと》人《り》、看護婦二《ふた》人《り》、妻とほかに男一人付き添うて転地先にあるは華族様の贅沢なり。
○昨日は雨終日。午前にジェームスの講義をよむ。おもしろい。蘇氏印略をくりかえし見る。おもしろい。会話の本を読む。おもしろい。
○咋《さく》雨《う》を聞く。夜もやまず。
範《のり》 頼《より》 の 墓 濡《ぬ》 る る ら ん 秋 の 雨
○ 菊 作 り 門 札 見 れ ば 左 京 か な
○午前ジェームスを読みおわる。好《よ》き本を読んだ心地す。
○昨夜熱度三十七度一分。軽微の気管支にて右のほうが犯されているよし。手を出して本を読むことを禁ぜられる。
○(病後対鏡) 洪 水 の あ と に 色 な き 茄《なす》 子《び》 か な
○家を出る時植木屋の苗《なえ》から植えて庭に下ろした鶏《けい》頭《とう》が三、四寸になっていた。どのくらいに延びたかと思う。そのころは芭《ば》蕉《しよう》の影に花《はな》隠《いん》元《げん》というものも咲いていた。
植木屋がこの鶏頭を万《まん》代《だい》紅《こう》という。雁《がん》来《らい》紅《こう》のまちがいかと思ったらそうじゃない。雁来紅は斑《ふ》入《いり》でこれはまっかになるのだと言った。
○ 菜 の 花 の 中 の 小《こ》 家《いへ》 や 桃 一 木
○四時過《すぎ》便通、はじめて尋常に近き色なり。起きるとき横になってちょっと休んで、起き上がって足をベッドから下ろして休んでようやく便器にかかる。手は少し力あれど、足はまったく萎《なえ》てまるで腰の抜けた人のごとし。甚《はなはだ》しき衰弱なり。
九月二十四日(土)
○ 秋 浅 き 楼 に 一 人 や 小 雨 が ち
○ 生 き て 仰 ぐ 空 の 高 さ よ 赤《あか》 蜻《とん》 蛉《ぼ》
○今日は新鮮のさしみ(もしあれば)を少し食わせてくれるはず。さしみはそれほどでもなし。
○昨夜右の足の骨が痛むので眠りが覚めた。肉がなくて骨ばかりの上へ片々の足を載せたためなり。そのほか尻《しり》が痛み手が麻《ま》痺《ひ》して眠りの覚むること多し。
○昨夜痰《たん》がつかえて三、四度せく。そのたびに看護婦が起きてくれた。
○今夜は特別列車で観光団が修善寺へ押しかけるよし。そのうえ宮本叔氏と杉本氏もくるよし。
○ 鶴《つる》 の 影《かげ》 穂《ほ》 蓼《たで》 に 長 き 入《いり》 日《ひ》 か な
○午飯後髭《ひげ》をそり、髪を梳《くしけず》り、脱《だつ》糞《ぷん》、衣服を着換え、坂元の持ってきた新しい毛布を懸《か》ける。天気清澄(坂元は昨夜沼津まできたり今朝一番でくる。大祭日と日曜と重なるためなり)。
○朝 Croce の美学を読む。
○ 一 山 や 秋 い ろ い ろ の 竹 の 色
○四時ごろ楚《そ》人《じん》冠《かん》至る。観光団といっしょなり。汽車が一円いくら、とまりが八十五銭、馬車が十銭という。安いものなり。
○腹へる。森成氏へ訴える。拒絶
九月二十五日(日)
○曇り。昨日観光団のため終夜擾《じよう》々《じよう》。相変わらず眠らず。夜通し風《ふ》呂《ろ》場《ば》に人《ひと》気《け》あり。朝は暗いうちから顔を洗う。夜半に下女の笑う声す。黎《れい》明《めい》にまた下女の声す。思うに下女は床にはいらざりしなるべし。
○昨夜宮本杉本二氏来診。十時ごろ喫《きつ》飯《ぱん》。医師も規律ある生活は送りがたし。そのうえ観光団にておそらく眠りえざりしならん。
○風 流 人 未 死。 病 裡 領 清 閑。
日 々 山 中 事。 朝 々 見 碧 山。
○宮本氏言う。いま二週間にて帰京しうべし。まず二十日とみれば可《よ》からんと。診断の結果なり。同氏は杉本氏と午《ひる》ごろ帰る。坂元も同時に帰る。
○ 古《ふる》 里《さと》 に 帰 る は 嬉《うれ》 し 菊 の こ ろ
○午飯に鯛《たい》の刺身四切れを食わせらる。平常さしみに嗜《し》好《こう》なきもやはり旨《うま》し。ソーダビスケットに水を塗り食塩をつけて烙《あぶ》りたるを食う。これまた旨し。
○昨日観光団に加わって見舞に来てくれた畔《くろ》柳《やなぎ》岡田二人去るとて十一時ごろ来る。
○ 静 な る 病 に 秋 の 空 晴 れ た り
○ 菊 の 宴 に 心 利《き》き た る 下 部 か な
○午後一時楚人冠去る。
た い せ つ に 秋 を 守 れ と 去 り に け り
○二時ごろより蒸し暑く、蝉《せみ》なく。
○クローチェを読んで疲労。
○無言の玄境、放《ほう》恣《し》なる安静、努力なき想像、雲の岫《しゆう》を出《いず》るがごとく。起こりて自然に消ゆ。無抵抗の放任、目的なき静《せい》臥《が》。消極に安んずる倦怠。悠々たる精神、〓《かい》碍《がい》なき活動。苦を感ぜざるほどの想像。義務なき脳の作用。
九月二十六日(月)
○昨夜はじめて起き直って食事。横に見る世界と竪《たて》に見る天地と異なることを知る。食事うまし。夜に入って元気あり。妻から失心ちゅうのことをきく。失心ちゅうにも血を吐いて妻の肩へ送れるよし。その時間は三十分くらい注射十六筒という。坂元がふるえてときどき奥さんしっかりなさいといった。電報をかけるのに手がふるえて字が書けなかったよし。余《よ》の見たる吐血はわずかに一部分なりしなり。なるほどそれでは危険なはずである。世は今日《きよう》まであれほどの吐血で死ぬのは不思議と思うていた。
人間の血の三分一を吐けば昏《こん》睡《すい》し、三分二を吐けば死するよし。
○昨夜は薬のせいか比較的安眠(四時ごろまで)しかし夢は始終見たり。友人の坊主が叡《えい》山《ざん》の麓《ふもと》までうどんを食うたといって一時間ばかりのあいだに帰ってきた。そうしてうどんほど天下に旨《うま》いものはないといっていた。
○朝はじめて起き直って顔を洗い髪を梳《くしけず》る。心地よし。
○はじめて床の上に起き上がりて坐《すわ》りたる時、今まで横にのみ見たる世界が竪に見えて新しき心地なり。
竪 に 見 て 事 珍《めづ》 ら し や 秋 の 山
坐 し て 見 る 天 下 の 秋 も 二 た 月 目
○その時松《まつ》陰《かげ》に百日紅《さるすべり》の残紅を見る。久しき花なり。どっと床に伏したる前すでに咲けるものなり。
○病まさに軽快に移らんとして、いまさら病を慕うの情に堪えず。本復ののちはかかる寛容ある、stress なき生《しよう》涯《がい》、自己の好むままの心の働きを尽くして朝より夕に至る時間、朝夕余の周囲に奉侍してすべて世話と親切を尽くす社会の人、知人朋《ほう》友《ゆう》もしくは余を雇う人のインダルジェンス。――これらはことごとく一朝の夢と消え去りて、残るものは鉄のごとき堅き世界と、磨《みが》き澄《す》まさねばならぬ意志と、戦わねばならぬ社会だけならん。余は一日も今日の幸福を棄《す》つるを欲せず。
せつに考うれば希望三分二は物質的状況にあり。金を欲するや切《せつ》なり。
○床に就《つ》きたる人の天地は床の上に限られることむろんなり。されどもわが病甚《はなはだ》しき時の天地は狭き布《ふ》団《とん》の一部分に限られたり。足の付《つ》く背の触るるところ腰の据《す》わるところだけにてその他はわが領分にあらぬ心なり。衰弱甚《はなはだ》しければ容易に動きもならぬゆえなり。小《ちさ》き枕にてもわが領分と領分でなきところありき。頭を動かすはたいへんな事業なり。
○病床のつれづれに妻より吐血の時の模様をきく。慄《りつ》然《ぜん》たるものあり。危篤の電報方々へかけたるよし。妻は五、六日なにも食わなかったよし。森成さんも四、五日ほとんど飯も食わずに休息せざりしよし。顧みれば細き糸の上を歩みて深い谷を渡ったようなものである。
○看護婦を呼ぶとき杉本さんが早く行かないとまにあわないといったよし。吐血後一週間は危険なりしよし。杉本氏帰る時もう一度吐血すれば助からぬよしを妻にいえるよし。
九月二十七日(火)
○曇り。床の上に起きて顔洗、食事。
○昨夜もよく寝ず。寝れば必ず夢を見る。しかし寝ていることがたいへん楽になった。
○寝られぬ夜
と も し 置 い て 室《へや》 明《あか》 き 夜 の 長《ながさ》 か な
○午《ひる》腹減りてほとんど起き直ること能《あた》わず。食後疲れて熟睡三十分、薬の時間に看護婦に起こさる。
○妻君と森成さんと東と朝《あさ》日《ひ》滝《だき》へ行ったらしい。午院閑寂
○反物屋が雁《がん》皮《び》紙《し》織《おり》と、真《ま》綿《わた》織《おり》を持ってくる。真綿織は伊《い》豆《ず》の大島の産なり。雅な質で雅な色なり。
○三人観音様より帰る。堂守りから菊を乞《こ》うてくる(金をやって)。
堂 守 に 菊 乞 ひ 得 た る 小 銭 か な
○ 力 な や 痩《や》 せ た る 吾《われ》 に 秋 の 粥《かゆ》
○ 佳《よ》 き 竹 に わ が 名 を 刻 む 日 長 か な
○ 見 も て 行 く 蘇《そ》 氏《し》 の 印 譜 や 竹 の 露
○範《のり》頼《より》の墓守りも花を作るから今度はあすこでもらってくるという。
秋 草 を 仕 立 て つ 墓 を 守《も》 る 身 か な
九月二十八日(水)
○曇り。昨夜も不眠。されども目が冴《さ》えるにあらずうとうととして天明に至るなり。
秋 の 蚊《か》 の 螫《さ》 さ ん と す な り 夜《よ》 明《あけ》 方《がた》
や 我 を 螫 さ ん と
○ 頼 家 の 昔 も さ ぞ や 栗《くり》 の 味
○ 鮎《あゆ》 の 丈《たけ》 日 に 延 び つ ら ん 病 ん で よ り
○ 肌《はだ》 寒《さむ》 を か こ つ も 君 の 情 か な
十月二日(日)
○夜寝られず。看護婦に小便をさしてもらう。三時半。寝れば夢を見る。夢を見ればすぐ覚《さ》める。
○明《あけ》方《がた》戸を明《あ》ける時の心持ち
天《あま》 の 河《がは》 消 ゆ る か 夢 の 覚《おぼ》 束《つか》 な
○ 夢 擁 銀 河 白 露 流。
夜 分 形 影 一 燈 愁。
旗 亭 病 近 修 禅 寺。
聴 到 晨 鐘 早 上 秋。
○初めて百《も》舌《ず》をきく。
裏 座 敷 林 に 近 き 百 舌 の 声
○ 帰 る は 嬉《うれ》 し 梧《あを》 桐《ぎり》 の ま だ 青 き う ち
○雨なお歇《や》まず。細雨なり。
○午前雲《くも》晴《はれ》日出《い》づ。ミンミンなお鳴く、
○細君、東、森成どこかへ行ったとみえて音なし。奥の院(二十一日の絶食)。
○ 帰 る べ く て 帰 ら ぬ 吾 に 月 今《こ》 宵《よひ》
十月四日(火)
○陰《くもり》 雨を帯ぶ。昨夜雨滴千万点を聞き尽くす。睡眠状態ようやく平生に近づく。
○昨日花を更《か》ゆ。コスモス、菊、菊と野菊の中間にて黄なるもの。東君の取ってきてくれたもの。
○気管支ようやく治まる。
○昨日妻髪を洗う。
○残《ざん》骸《がい》なお春を盛るに堪えたりと前書きして
甦《よみが》 へ る 我 は 夜 長 に 少 し づ つ
骨 の 上 に 春 滴《したた》 る や 粥 の 味
米は東京より取り寄せたるものなり。
○鶺《せき》鴒《れい》多き所なり。
鶺 鴒 や 小 松 の 枝 に 白 き 糞《ふん》
松 濡《ぬ》 る る。濡 る る は 女《め》 松《まつ》。降 る は 秋 雨
○ 寝《ね》 て ゐ れ ば 粟《あは》 に 鶉《うづら》 の 興 も な く
○気管支にて体《からだ》を拭《ふ》くことを禁ぜられたれば触《さわ》るとざらざらして人間の肌《はだ》とは覚えず。鶏の羽を引きたるごとし。
粟 の ご と き 肌《はだへ》 を 切 に 守《も》 る 身 か な
○午《ひる》 障子を開けば晴空澄徹久しぶりなり。体を拭く。垢《あか》出《い》でてぼろぼろす。寝《ね》巻《まき》を着更《か》う。よき心《ここ》地《ち》なり。やがて腹減りて汗出づ。
○夜は朝食を思い、朝は昼飯を思い、昼は夕飯を思う。命は食にありと、この諺《ことわざ》の適切なる余《よ》のうえに若《し》くなし。自然はよく人間を作れり。余はいま食事のことをのみ考えて生きている。
○万 事 休 時 一 息 回。
余 生 豈 忍 比 残 灰。
風 過 梧 葉 動 秋 去。
露 滴 竹 根 沈 翠 来。
漫 道 山 中 三 月 滞。
〓 知 門 外 一 蹊 開。
帰 期 勿 後 黄 花 節。
恐 有 雁 声 落 旧 苔。
十月六日(木)
○快晴心地よし。昨夜眠り穏《おだやか》。
冷《ひやや》 か や 人 寝 静 ま り 水 の 音
○昨日森成さん畠《はたけ》山《やま》入《にゆう》道《どう》とかいう城《しろ》跡《あと》へ行って帰りにあけびというものを取ってくる。ぼけ茄《な》子《す》の小さいのが葡《ぶ》萄《どう》のつるになっているようなり、うまいよし。女郎花《おみなえし》と野菊をたくさん取ってくる。茎黄に花青く普通にあらず。野菊が砂《すな》壁《かべ》に映りて暗きところに星のごとくに簇《むら》がる。
的《てき》 〓《れき》 と 壁 に 野 菊 を 照《てら》 し 見 る
鳥 つ つ い て 半《なかば》 う つ ろ の あ け び か な
○昨日ベアリングの露文学を読みだす。一昨日にて現今哲学読了。
○天 下 自 多 事。 被 吹 天 下 風。
高 秋 知 鬢 白。 衰 病 夢 顔 紅。
懐 友 讎 無 到。 読 書 道 不 窮。
瘠 躯 猶 裹 骨。 慎 勿 妾 磨 〓。
十月十日(月)
○陰《くもり》。
○昨夜、寄《よせ》木《ぎ》細《さい》工《く》を取り寄せていろいろ見る。箱を三つ買う。皆婦人趣味なり。あけびの箱を買う。また誂《あつら》えた樟《くすのき》の煙草《たばこ》盆《ぼん》と煙草《たばこ》箱《ばこ》が一昨日でき上《あ》がる。
○いよいよ明日東京へ帰れると思うと嬉《うれ》しい。
○客 夢 回 時 一 鳥 鳴。
夜 来 山 雨 暁 来 晴。
孤 峰 頂 上 孤 松 色。
早 映 紅 暾 鬱 々 明。
○ 足 腰 の 立 た ぬ 案《か》 山《か》 子《し》 を 車 か な
○昨夜みやげものなどを買うことを相談する。やるとなるとどこもかしこもやらなければならぬのでたいへんになる。細君がなるたけ葉書入れと修《しゆ》善《ぜん》寺《じ》飴《あめ》と柚《ゆず》羊《よう》羹《かん》でまにあわせておこうという。それもよかろうという。
○神《じん》代《だい》杉《すぎ》の文庫とあけびの籃《かご》を買って池辺渋川両氏にやさ((ママ))らに桑《くわ》の硯《すずり》箱《ばこ》を坂元に縮《ちり》緬《めん》の兵《へ》児《ご》帯《おび》を添えてやることにする。
○ 骨 ば か り に な り て 案 山 子 の 浮 世 か な
○ 扶《たす》 け 起 す 案 山 子 の 足((ママ))
十月十一日(火)
いよいよ帰る日なり。雨濛《もう》々《もう》。人々天を仰ぐ。荷《に》拵《ごしらえ》 出来。九時出立のはず。
○甘《あま》鯛《だい》の頭《かしら》付《つき》にて粥《かゆ》二《に》椀《わん》、オートミール一椀をしたたむ。
○雨の中を馬車にのる。人の考案にて橇《そり》のごときものにて二階を下《お》る。それを馬車の中へ入れる。浴客皆出《いで》見る。橇は白布で蔽《おお》わる。わが第一の葬式のごとし。
○雨の中を大《おお》仁《ひと》に至る。二月めにてはじめて戸外の景《け》色《しき》を見る。雨ながら楽し。目に入るもの皆新なり。稲の色もっとも目を惹《ひ》く。竹、松山、岩、木槿《むくげ》、蕎《そ》麦《ば》、柿《かき》、薄《すすき》、曼《まん》珠《じゆ》沙《さ》華《げ》、射干《ひおうぎ》、ことごとく愉快なり。山々わずかに紅葉す。秋になってまた来たしと願う。
○大仁にて菊屋の主人、番頭まつあり。番頭は人足四人をつれて三島まで来る。ようやく汽車を乗りかゆ。人足なかりせば必ず後《おく》れたらん。一等室借し切りなり。九人のを六人前出す二十二円某《なにがし》なり。神奈川にて東洋城乗る。大森にて楚人冠乗る。新橋にて人々出迎わる。少々驚く。ただちに担架にのる。たいていの人には目礼したつもりなり。あとで聞けば知らぬ人多し。釣《つり》台《だい》で病院に行く。暗いなかで四辺さらに分からず。
○入院故郷に帰るがごとし。修善寺より静かなり。面会謝絶、医局の札をかかげたるよし。壁を塗り交《か》え畳をかえて待っているといわれた杉本氏のことばはまことなり。落《おち》付《つ》いて寝《ね》る。電車の音もさまでならず。
○終夜雨
注 釈
思い出す事など
*病院 千代田区内幸町に現在もある胃腸病院。漱石は胃潰瘍のため明治四十三年(一九一〇)六月十八日この病院に入院、七月三十一日退院、転地療養のため八月六日から修善寺温泉菊屋旅館に滞在したが、病状悪化、八月二十四日には大吐血により一時人事不省の危篤状態に陥った。その後やや小康を得て、十月十一日帰京、新橋駅から直接この病院に再入院し、翌四十四年二月二十六日退院した。「思い出す事など」は、この再入院ちゅうに執筆されたものである。
*是公 中村是公。慶応三年―昭和二年(一八六七―一九二七)。官吏。明治二十六年(一八九三)、東京帝国大学法科卒業。大蔵省にはいる。満鉄総裁、のち貴族院議員、鉄道院総裁、東京市長などを勤めた。
*森成さん 森成麟造。胃腸病院医員。朝日新聞社の依頼で病院から修善寺に派遣され、漱石に付き添って治療・看護にあたった。
*鈴木禎次 漱石の妻の妹時子の夫。明治二十九年(一八九六)東京帝国大学造家科を卒業、同三十二年から四十年まで英仏伊米に留学、帰国後大正十年(一九二一)まで名古屋高等工業学校教授を勤めた。
*杉本副院長 医学博士杉本東造。明治三十五年(一九〇二)東京帝国大学内科卒業。のち、胃腸病院に勤務、当時副院長であった。
*後藤さん 後藤瞭平。
*院長 医学博士長与称吉。慶応二年―明治四十三年(一八六六―一九一〇)。長崎県の生まれ。明治十七年(一八八四)ドイツに留学して同二十六年帰国、日本橋本町に開業、同二十九年内幸町に胃腸病院を創設した。日本における胃腸病の権威で、死後男爵に叙された。東京帝大教授・医学博士長与又郎の兄にあたる。
*東さん 東新。長崎県の生まれ。明治四十二年(一九〇九)東京帝国大学哲学科卒業。のち、内務省にはいり、さらに法政大学教授となった。漱石の五高時代の教え子と思われ、この時、漱石の看護や家事の手伝いにあたっていた。
*社 東京朝日新聞社。
*雪鳥君 坂元(当時白仁)三郎。明治十二年―昭和十三年(一八七九―一九三八)。明治四十年(一九〇七)東京帝国大学国文科卒業後社会部記者として朝日新聞社に入社、おもに同紙の能評を担当し、能評の権威とされた。漱石の朝日新聞入社の斡《あつ》旋《せん》に努力、この時社から出張して漱石のめんどうをみた。
*ジェームス教授 William James 一八四二年―一九一〇年。アメリカの心理学者、哲学者、プラグマティズムの創始者。第二章「文学的内容の基本成分」に「心理学原理」からの引用があるほかしばしば漱石は関心を示しており、影響が著しい。十月十三日の日記に「ジェームスの死を雑誌で見る。八月末のこと、六十九歳」とある。
*「多元的宇宙」 “A Pluralistic Universe”(一九〇八)。
*ベルグソン Henri Bergson 一八五九年―一九四一年。フランスの哲学者。機械的唯物論に反対して、生命の内的自発性を強調した。
*ヘンリー Henry James 一八四三年―一九一六年。イギリスの小説家。前出ジェームスの弟。内容・文章ともに難解な心理主義的作品が多い。作品に“The Portrait of a Lady”(一八八一)、“Daisy Miller”(一八七九)などがある。
*ミュンステルベルグ Hugo Mnsterberg 一八六三年―一九一六年。ドイツ生まれのアメリカの心理学者。哲学を専攻し、精神治療、裁判心理の方面で先駆的業績を残した。著書に “Grundzge der Psychologie”(一九〇九)などがある。
*池辺三山君 元治元年―明治四十五年(一八六四―一九一二)。本名、吉太郎。熊本県の生まれ。慶応義塾に学び、のち、大阪で『経世評論』の記者となる。明治二十六年(一八九三)旧熊本藩主細川氏に従いフランスに留学、同二十九年『大阪朝日新聞』主筆、翌三十年以後『東京朝日新聞』主筆を勤めた。十月二十六日同氏あて書簡に「病気療養中執筆無用のお叱り敬承いたし候《そろ》。しかし医者の許諾を得て時々の寄稿は退屈凌《しの》ぎの一種、平生の娯楽ぐらいのところとお認めのうえご勘弁にあずかりたく候」とある。
*宮本博士 医学博士宮本叔。慶応三年―大正八年(一逗八六七―一九一九)。東京帝国大学医科大学卒業。明治三十年(一八九七)同教授となって駒込病院長を兼任、俳句を子規に学び鼠禅と号した。三十二年から四年間ドイツに留学、同四十二年永楽病院長となった。
*この陳腐ながら払底な趣 非常に古風ではあるが、ために現代にはほとんど残っていない趣。漢詩・俳句などの東洋的な趣味をいっている。
*火宅 仏教語で、「現《しや》世《ば》」のこと。
*文芸欄 明治四十二年(一九〇九)十一月二十五日から四十四年十月まで、『朝日新聞』紙上に続けられた漱石主宰担当の文芸欄。新聞の文芸欄としては最初のもので、文芸を主に、美術・音楽などに関する随筆・評論を掲載した。
*東洋城と別れるおり 漱石が修善寺へ転地療養に出かけた日、同じ菊屋旅館に逗留していた北白川の宮に付き添うために同行し、その後もしばしば見舞って別れたことをさすと思われる。
*佶屈 文字が難解なこと。
*這裏 このうち。
*玄耳君 渋川柳次郎。明治五年―大正十五年(一八七二―一九二六)。当時東京朝日新聞社の社会部長のような仕事をしていた。藪野椋十のペンネームで活躍した。
*酔古堂剣掃 陸紹〓(中国明代の文人。字は湘客)の編者。一六二四年刊。『史記』『漢書』などから嘉言・格論・麗詞・醒語を選出したもの。
*列仙伝 王世貞(明代の文人)編の『列仙全伝』のことで四百九十七人の仙人の伝記を絵入りで叙述したもの。
*仙人 『列仙全伝』巻七に書かれている李鼻涕のこと。
*聖堂 孔子およびその門下の聖賢を祭った、文京区湯島の湯島聖堂のこと。
*〓園十筆 十巻からなる江戸中期の儒者徂徠の随筆。経学・道義など十項目について漢文でつづったもの。「〓園」は徂徠の雅号で、ほかに『〓園雑話』『〓園随筆』などの著がある。
*アルピニー Henri Harpignies 一八一九年―一九一六年。フランスの風景画家。コローの影響を受け、フランスのいなかや地中海沿岸の風景を豊かな色彩で描いた。
*スチュージオ “Studio”ロンドンで発行されていた図版入りの美術雑誌。一八九三年創刊。
*国朝六家詩鈔 中国清代の詩集。劉執玉が、当代の有名な六人の詩人の詩を選んで編集したもの。
*沈徳潜 中国清代の詩人。字は確士、号は帰愚。科挙(官吏登用試験)に十九回落第の末六十七歳で進士となり、のち、乾隆帝の寵愛を受けて宮廷詩人となり詩壇の第一人者となった。九十七歳で没。
*乾隆丁亥夏五 西暦一七六七年夏五月。「乾隆」は清代の高宗の時期の年号。
*長州 江蘇省蘇州府にあった県名。沈徳潜の本籍地。
*ハイドン Franz Joseph Haydn 一七三二年―一八〇九年。オーストリアの作曲家。
*ウォード Lester Frank Ward 一八四一年―一九二二年。アメリカの社会学者。ブラウン大学教授。コント、スペンサーの影響を受け、心理学的社会学の基礎を築いた。
*社会学 “Dynamic Sociology”(一八八三)をさす。ウォードの代表的著作。
*スペンサー Herbert Spencer 一八二〇年−一九〇三年。イギリスの哲学者。すべての現象を進化の概念に基づいて説いた彼の哲学は、当時の社会思潮に大きな影響を与えた。
*総合哲学 スペンサーの哲学の根本を述べた論文で、一八六〇年に発表され、のち、「第一原理」「生物学原理」「心理学原理」「社会学原理」「倫理学原理」の各論を発表し、一八九六年に完成した。
*ハレー彗星 イギリスの天文学者Edmund Halleyが一六八二年にその軌道を決定した大彗星で、長い尾を引いているので有名。周期は約七十六年。明治四十二年(一九〇九)十月二十五、二十六日の『東京朝日新聞』に「ハレー彗星出現」の記事がある。
*ジスイリュージョン disillusion(英)。幻滅。
*大塚夫人 美学者大塚保治夫人、楠緒子。明治八年(一八七五)生まれ。小説家・詩人・歌人。四十三年十一月九日神奈川県大磯の療養先で死んだ。
*忘るべからざる八月二十四日 大吐血により危篤状態に陥った日である。
*瞎児 片目の子。物事の一面だけを見て他面を見ない思慮の浅い人。ここは、愚かな自分のことをさす。
*北白川宮 もと皇族の一家。明治三年(一八七〇)創設、初代能久親王のあと成久王・永久王と続いたが、ここは二代目成久王。昭和二十二年(一九四七)皇族を離れて北白川家となった。
*桂川 狩野川の支流。修善寺温泉の旅館は西方の達磨山から発するこの川の渓谷の両側に立ち並んでいる。
*都には今洪水が…… この時は全国的に大水害があり、八月十四日に隅田川が氾濫し、東京でも明治年間最大の水害に見舞われた。
*茅が崎で…… この時漱石の子どもたちは、六月下旬から神奈川県の茅が崎海岸へ避暑に出かけていた。
*山田の奥さん 法学博士山田三《さぶ》良《ろう》の妻繁子。三良は、明治二十九年(一八九六)東京帝国大学法科大学英法科卒業、翌年ヨーロッパへ留学して三十四年帰国、昭和五年(一九三〇)まで東京帝国大学教授を勤めた。なお、「山田の奥さんのところからかけた」というのは、早稲田南町の漱石の家にまだ電話がなかったので、隣町の弁天町にあった山田氏の家の電話を借りたものである。
*梅子 漱石の妻の二番めの妹。
*塔の沢の福住 箱根の塔の沢温泉にある旅館福住楼。
*お種さん 草平の妻か。
*弘法様 「修禅寺」の俗称。温泉町の中央にあり、空海(弘法大師)が修業した霊跡に建てられたので「弘法様のお寺」ともいわれる。弘法忌は四月二十一日であるが、修禅寺では八月二十一日をも弘法忌として、観光行事をも兼ね前後三日間花火をあげてお祭りをする。
*輓近 最近。
*象面《フエーゼス》 phases(英。複数形)。局面。位相。
*ゼノ Zenon《ゼノン》 の英語読み。紀元前五世紀ごろのギリシアの哲学者。エレア学派に属し、運動の矛盾を証明した「飛ぶ矢は飛ばず」や「アキレウスと亀」の論法で有名。
*アキリス Achilleus《アキレウス》 の英語読み。伝説上の人物で、ホメロスの叙事詩「イリアス」の中心人物。トロヤ戦争におけるギリシアの英雄。
*アンドリュ・ラング Andrew Lang 一八四四年―一九一二年。イギリス(スコットランド)の歴史・古典・民俗学者。『スコットランドの歴史』(四巻)、神話・民間伝承の研究、ホメロスの「イリアス」英訳などで知られる。
*「夢と幽霊」 “The Book of Dreams and Ghosts”(一八九九)。
*「霊妙なる心力」 “Les Force Naturelles Inconnues”(一九〇七)。
*フランマリオン Camille Flammarion 一八四二年―一九二五年。フランスの天文学者。平易な解説書で天文学を普及させ、同時に、心霊的現象の探究にも関心を示した。
*オリヴァー・ロッジ Sir Oliver Joseph Lodge 一八五一年―一九四〇年。イギリスの物理学者。バーミンガム大学教授。電磁気学を研究、電磁誘導無線電信を発明した。一九一〇年以後、心霊学にこって科学と宗教とを結びつけようと試み、また、死者との通信の可能性を信じた。
*「死後の生」 第一次大戦で死んだ彼の息子レイモンドの霊媒を通じてかわした通信に関する“Raymond,or Life and Death”(一九一六)か。
*マイエル Frederic William Henry Myers 一八四三年―一九〇一年。イギリスの詩人。ケンブリッジ大学古典学教授。一八八二年心霊研究会を設立した。その著、“Human Personality and its Survival of Bodily Death”(一九〇三)は、ウイリアム・ジェームズによれば、幻覚・催眠状態・自動現象・二重人格・霊媒などの現象を関連的に考察した最初のものである。
*ポドモア Frank Podomore 一八○九年―一八四九年。心霊現象の研究に従事、その著に“Affections and Thought-transference”(一八九四)、“Modern Spiritualism”(一九〇二)などがある。
*フェヒナー Gustav Theodor Fechner 一八〇一年―一八八七年。ドイツの哲学者。ライプチヒ大学物理学教授。実験心理学の祖とされ、その著に『精神物理学要義』(一八六〇)などがある。また、万有に心霊を認める神秘主義者でもあった。
*回向院のそれ 回向院の大相撲。回向院は東京市本所区(現在、墨田区)東両国にある浄土宗の寺院。その境内で江戸時代から勧進相撲が興行されていたが、明治になってからは、大相撲回向院本場所として開催され、明治四十二年(一九〇九)ここに国技館が建てられた。
*煢然 孤独でたよりないさま。
*「安心して療養せよ」という電報が…… 満鉄総中村是公からの電報をさす。
*あるものは山形から来た 阿部次郎をさす。
*あるものは目の前にせまる結婚を…… 小宮豊隆をさす。
*ドクインセイ Thomas De Quincey 一七八五年―一八五九年。イギリスの随筆家。オクスフォード大学中退。在学ちゅうに陥ったアヘン服用の習慣に生涯苦しみ続け、その体験をもとに「アヘン常用者の告白」“Confessions of an English Opium Eater”(一八二二)を書いた。
*同じドストイエフスキーもまた…… ドストエフスキイは一八四六年処女作『貧しき人々』を発表、一躍にして文壇的名声をかち得たが、その後ペトラシェフスキーの組織する空想社会主義の研究サークルに加わったため一八四九年四月他の会員とともに逮捕、十二月死刑の宣告を受けたが、処刑直前に特赦、シベリアに流刑された。
*犬の眠りという英語 dogsleep すぐに目ざめてしまう眠りのこと。仮眠。
*子供が来た 大吐血のあった翌日八月二十五日に来て同二十七日に帰った。
*三人 長女筆子(十二歳)、次女恒子(十歳)、三女栄子(八歳)。
*兄弟五人 前項にあげた三人と四女愛子(六歳)、長男純一 (四歳)。なお次男伸六(三歳)、五女雛子(一歳)は東京の家に残っていた。
*お祖母様 漱石の妻の母。
*高田の御伯母様 漱石の二番めの姉。漱石より十五ほど年上で、高田庄吉に嫁いだ。名はふさ。
*きよみ 女中か。
*むめ 西村濤蔭の妹で、漱石の家に手伝いに来ていた人。名はしんであったが梅《うめ》と呼ばれていた。
*平野水 「炭酸水」の旧通称。兵庫県川西市(もと川辺郡多田村)の平野温泉に湧出するものを商品名としたものによる。
*オイッケン Rudolf Eucken 一八四六年―一九二六年。ドイツの哲学者。いっさいの文化を生の根源から説く。主著は「人間の行動意識における精神生活の統一」。このころの「断片」にオイッケンの説についてのメモがある。
*コムト August Comte 一七九八年―一八五七年。フランスの哲学者。実証主義哲学を確立した。晩年は神秘的傾向に陥り、人道教を唱えた。
*松山に行った 愛媛県松山市にあった中学校の英語教師として明治二十八年(一八九五)四月から約一年間この地に滞在した。
*熊本に移った 明治二十九年(一八九六)四月から洋行期間を含め、約六年間、熊本の第五高等学校で、英語教師を勤めた。
*ロンドンに向かった 五高教授に在籍したまま、文部省留学生として渡英、明治三十三年(一九〇〇)十月から三十五年十二月まで約二年間主としてロンドンに滞在して英文学を研究した。
*余の母は…… 実母夏目千枝は明治十四年(一八八一)漱石十四歳の時に死んだ。
*父の死んだ電報を…… 実父夏目直克は明治三十年(一八九七)卒中のため死んだ。
*大島将軍 大島義昌。嘉永三年―大正十五年(一八五〇―一九二六)。陸軍大将。子爵。日露戦争後、関東州都督府の長官。
*聖書にある野の百合 『新約聖書』 マタイ伝第六章第二十八節などに出てくる。
*芥舟君 畔柳都太郎。明治二十九年(一八九六)東京帝国大学英文科卒業。のち、第一高等学校教授。
*範頼 平安末期の武将。源義朝の六男。義経追討を兄頼朝に拒絶したため修禅寺信功院に幽閉され、自殺した。その墓は、温泉街の西北のはずれにある。
*畠山の城址 畠山氏によった修善寺城の旧跡で、菊屋旅館のすぐ近くの裏山にあった。現在は、「城山」という呼称だけになごりをとどめている。
*兄を二人失った 長兄、次兄ともに明治二十年(一八八七)に肺病で死んでいる。
*「ヴァージニバス・ピュエリスク」 “Virginibus Puerisque”「若き人々のために(ラテン語)」(一八八一)。イギリスの小説家スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson 一八五〇―一八九四)の随筆。なお、スティーヴンソンは幼時から病弱で肺結核を病み、健康すぐれず、しばしば各地を旅行、晩年は南洋のサモア島に住み、その地で早逝した。
*ハイネ Heinrich Heine 一七九七年―一八五六年。ドイツの詩人。一八二七年、イギリスに旅行し、数か月ロンドンに滞在した。イギリスの国家や国民の美点・長所には好感をいだきつつも、ロンドンの貧民の状態などに注目する「イギリス断章」がある。
*蔵沢 享保七年―享和二年(一七二二―一八〇二)吉田良香の雅号。松山藩士。画家。とくに竹を描いた墨絵は神品とまで称されている。
子規の画
*東菊いけて置きけり火の国に…… 明治四十二年(一九〇九)の作で「寄漱石」と前書きがある。
*不折 画家中村不折。子規と漱石にとって共通の友人であった。
ケーベル先生
*ケーベル先生 Raphael Koeber 一八四八年―一九二三年。ロシア生まれの哲学者。ドイツ系ロシア人を父としてノヴゴロドに生まれ、モスクワ音楽院でピアノを学び、一八七三年ドイツのイェーナおよびハイデルベルク大学で哲学を修めた。明治二十六年(一八九三)から大正三年(一九一四)まで東京帝国大学で西洋哲学を講義、その人格と博識は多くの学生に影響を与え、かたわら東京音楽学校でピアノも教えたが大正十二年に横浜で没した。著書には『ケーベル小品集』(“Kleine Schriften”)三巻ほかがある。
*安倍君 安倍能《よし》成《しげ》。
*甲武線 当時飯田町と八王子の間を走っていた甲武線(甲武鉄道株式会社経営の私鉄)の汽車。電車運転は三十八年(一九〇五)はじめて飯田町―中野間で行なわれた。
*先生の住居 先生は東京で三度居を移した。日本へ来て最初は神田区(現在、千代田区)駿河台鈴木町十九番地(現在日仏会館のあるところ)に住んだが、まもなく小石川区(現在、文京区)白山御殿町へ移り、のちにまた最初の駿河台の家に移った。
*余が大学院にはいった年 明治二十六年(一八九三)。漱石はその時二十六歳。
*オーバーン auburn(英)。金褐色の。とび色の。
*余の家に預かっていた娘の子 漱石は明治四十四年(一九一一)四、五月ごろ、家に手助けに来ていた夫人の従妹房と西村濤蔭の妹しん(梅と呼び慣らしていた)とを引き続いて嫁がせているが、いずれをさすのか不明。
*紀元前の半島の人 ギリシア人をさしている。
*ホフマン Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 一七七六年―一八二二年。ドイツの作曲家・小説家。小説は、夢幻的・怪奇的な要素が多く、ポーに影響を与えた。「黄金宝壷」「夜曲集」「牡猫ムルの人生観」などの作品がある。
*卓を囲んだ四人 ケーベル博士・漱石・安倍能成・久保勉の四人。
*深田教授 深田康《やす》算《かず》。明治十一年―昭和三年(一八七八―一九二八)。美学者。文学博士。会津藩士の家に生まれた。明治三十五年(一九〇二)東京文科大学哲学科卒業後、一高教授となり独仏に留学、明治四十三年(一九一〇)帰国して京都帝大教授となった。一時ケーベル先生の家にいたことがある。
*“no more, never more” ポーの作品「大鴉」(The Raven)各連の結句。
変な音
*病院 「思い出す事など」冒頭の病院に同じ。
*十六貫 「貫」は金銭の単位。一貫は一千文で、明治以後十銭にあたるとした。
手 紙
*モーパサン Guy de Maupassant 一八五〇年―一八九三年。フランスの小説家。短編小説「二十五日間」の原名は“Mes 25 Jours”
*プレヴォー Marcel Prvost 一八六二年―一九四一年。フランスの小説家。「半処女」(“Les Demivierges”一八九四)で文名をなした。
*定量未満の興味 ふつうの男性が縁談に示す程度以下の関心をいったもの。
*招魂祭 招魂社(明治以後国家のために殉死した人々を祭る神社として各地にあった。昭和十四年以後は「護国神社」と改称)の祭。
初秋の一日
*初秋の一日 大正元年(一九一二)九月十一日、鎌倉の円覚寺管長釈宗演の満州旅行の件につき打ち合わせをするため、満鉄総裁中村是公および同理事犬塚武夫の両人を案内して、鎌倉へ出かけた日のことと思われる。したがって、本文ちゅうの「O」は犬塚氏、「Y」は中村氏、「老師」「S禅師」は釈宗演、「K」は鎌倉、をさすことになろう。
*二日後 大正元年(一九一二)九月十三日。明治天皇の御大葬が行なわれた。
*エドワード帝 Edward VII 一八四一年―一九一〇年。イギリスの国王。ヴィクトリア女王の子で一九○一年即位、一九一〇年(明治四十三年)五月六日死去。
*典座寮 禅寺で僧の夜具・食事などの雑役をする僧の住居。
*巡錫 僧が各地を回って教化を行なうこと。僧の持つ杖《つえ》のことを「錫《しやく》杖《じよう》」という。
*縁切り寺 鎌倉の「東慶寺」の俗称。北条時宗の妻覚山尼が創建した男子禁制の尼寺。離縁の自由がきかなかった封建時代の女性保護のため女性の側から離縁ができる寺法を制定したので、ここに駆け込んで来る女性が多く、そのため、「縁切り寺」または「駆けこみ寺」と呼ばれた。明治維新後、この離縁の特権はなくなり、寺はさびれたが、釈宗演がここに住みこみ、大いに復興に努力した。
*時頼夫人 北条時頼(時宗の父)の妻。前注のごとく、覚山尼は時宗の妻であるから、漱石の思い違いであろう。
*乃木大将 明治天皇に殉死した乃木希典。
ケーベル先生の告別
*大隈伯 大《おお》隈《くま》重《しげ》信《のぶ》。天保九年―大正十一年(一八三八―一九二二)。明治十五年(一八八二)に現、早稲田大学の前身東京専門学校を創立した。
戦争からきた行き違い
*今度の戦争 大正三年(一九一四)七月に勃発した第一次世界大戦。オーストリア、ドイツ、トルコ、ブルガリアの同盟軍とセルビア、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、日本、アメリカ、中国、ルーマニアの連合軍とが戦い、大正七年(一九一八)十一月同盟軍が敗れた。
硝子戸の中
*大きな戦争 第一次世界大戦をさす。
*議会が解散 大正三年(一九一四)十二月二十五日、陸軍師団増設案否決によって衆議院が解散、翌年三月に総選挙が行なわれた。
*米が安くなりすぎた結果…… 当時は米価が騰貴したり暴落したりして不安定な不況・好況が続いて米価調節に関する勅令が公布(大正四年一月)されたりした。
*Hさん 宝生新 明治三年―昭和十九年(一八七〇―一九四四)。能楽師。明治三十八年(一九〇五)父の死後第十代目を継ぎ、昭和十二年(一九三七)能楽界初の芸術院会員となった。
*病気をした 漱石は大正三年(一九一四)九月、四度めの胃潰瘍にかかり約一か月病床に臥した。
*山鹿素行 元和八年―貞享二年(一六二二―一六八五)。江戸時代の儒者。儒学を林羅山に学び、兵学を北条氏長に学ぶ。新宿区の宗参寺にその墓がある。
*猫の墓 早稲田南町の漱石の家の庭に作られていた「吾輩は猫である」の猫の墓。
*高等学校 当時の第一高等学校をさす。漱石が在学中のころは第一高等中学校と称されていた。
*Oという人 太田達人。岩手県に生まれ、第一高等中学を経て明治二十六年(一八九三)東京帝国大学物理科卒業。のち、秋田中学校長などになり、大正二年(一九一三)以後樺太中学校長をしていた。
*大川の水泳場 東京帝大およびその予備門の学生のための厚生施設として、当時、大川(隅田川の通称)の両国付近の川岸にあった水泳場。
*スペンサーの第一原理 イギリスの哲学者スペンサーの主著“First Principles”(一八六二)をさす。
*大観音 文京区駒込蓬莱町にある光源寺の俗称。大きな観音像があったが戦災で焼失した。
*とんびのような外套 インバネス(男子用の外套の一種)をさす。その袖の形がトンビ(鳶)の羽に似ているので、俗に「とんび」とも称した。
*絖 繻《しゆ》子《す》織《お》りの絹布の一種。絵絹としても用いる。
*ていねいな手紙 大正元年(一九一二)十二月三十日に岩崎太郎次にあてて次のように書いた手紙をさす。「拝啓 この間中より富士登山の画につき度々お申《もう》し聞き相《あい》成り候《そうろう》ところ一向覚《おぼえ》これなき故《ゆえ》その儘《まま》にいたし置き候ところ右小包今日にいたり発見いたしはからず絹地の画を拝見いたし候《そろ》。これは右着の折多忙にてそれなりになりたる後忘れて今日にいたり候もなんとも申《もうし》訳《わけ》なく候。早《さつ》速《そく》小包にてお返し候《そうろう》間《あいだ》御《ご》落《らく》掌《しよう》くだされたく候。名古屋より参り候茶も右小包中の貴《き》翰?《かん》に御通知ありしを開封せざりしため今日まで御《おん》礼《れい》も差し出《いだ》さざる次第これまたあしからず御容《よう》赦《しや》願い上げ候。早《そう》々《そう》」
*姉がまだ二人とも 異母姉の佐和(漱石より二十二歳年上)とふさ(漱石より十七歳年上)をさす。
*学習院で講演 大正三年(一九一四)十一月二十五日、学習院で「私の個人主義」と題して講演した。
*樗牛会 高山樗牛の死後、明治三十六年(一九〇三)十月、畔柳都太郎・姉崎正治らが発起人となり、設立した団体で、しばしば学術講演会などを開催した。
*K君 畔柳都太郎をさすと思われる。
*高田の旦那 高田庄吉。漱石の異母姉ふさの夫。
*求友亭 新宿区通寺町にあった料亭。
*行願寺 新宿区神楽坂(もと牛込区肴町)にあった天台宗の寺。
*肴町 現在の新宿区神楽坂の一部の旧町名。
*東屋 肴町にあった「吾妻屋」をさすか。
*御神燈 芸者屋で玄関の軒につるす提《ちよう》灯《ちん》のことで、「御神燈」という文字が書かれているもの。
*二番めの兄 夏目栄之助。漱石より十歳年上。漱石は末子で、上に大一、栄之助、和三郎、久吉、ちか、そして、異母姉の佐和、ふさがあった。
*勧工場 百貨店の前身ともいうべき協同商店の旧称。
*旧宅 漱石の生家。江戸牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)。江戸町奉行支配下の名主の家柄で、父夏目小兵衛直克、母千枝。
*朱引内か朱引外か 江戸時代の江戸の地図には、御府内(江戸市内)と御府外(郡部)との境界線が朱で記入されており、品川、四谷、板橋、千住、本所、深川以内が朱引内の地であった。
*棒屋 才《さい》槌《づち》槌や鍬《くわ》の柄《え》や荷車などの木工品を製造販売した商店の旧称。
*八幡坂 新宿区高田町にある坂。近くに高田八幡神社がある。
*やっちゃ場 「青物市場」の旧俗称。
*西閑寺 新宿区喜久井町にあり正しくは、誓閑寺(浄土宗)。
*もうしもうし花魁へ…… 歌舞伎の「籠《かご》釣《つる》瓶《べ》花《さ》街《との》酔《えい》醒《ざめ》」などに劇化された、元禄年間に佐野(栃木県佐野市)の百姓次郎左衛門が吉原の遊女八つ橋を殺害した事件。
*猿若町 台東区(もと浅草区)の町名。天保の改革のさい、江戸市内の芝居小屋がここに移し集められ、有名な三座(一丁目の中村座、二丁目の市村座、三丁目の守田座)もここにあった。守田座だけは明治五年(一八七二)に新富町へ移った。
*筑土 新宿区筑土八幡町付近の旧通称。
*揚場 新宿区揚場町。神田川の船着き場で船の荷揚げ場であった。
*砲兵工廠 現在の後楽園球場の地にあった軍需工場。
*今戸 台東区今戸。現在隅田公園になっている地域に有明楼があった。
*積み夜具 吉原などの遊里で、客が遊女となじみになったしるしに、新調の夜具を贈って、それを店先に積み重ねたこと。
*三番めの兄 和三郎。漱石より九歳年上。
*玄関玄関 江戸時代、町人階級では名主だけが事務執行所として玄関を作ることを許されていた。
*突棒や、袖搦や刺股 江戸時代に罪人を捕えるのに用いた三つ道具。
*佐藤君 佐藤真一。『東京朝日新聞』創刊以来、記者として才腕をふるい、のち、編集長として信望があつかったが、大正三年(一九一四)十月三十日病死した。
*根来 新宿区弁天町の一部の旧称。江戸時代に根来組(幕府の鉄砲隊の一種)の屋敷があった。
*早稲田に帰ってきた 漱石は明治四十年(一九〇七)九月に牛込区早稲田南町(現在、新宿区内)に転居、十数年ぶりで出生地の隣町に住みついた。
*高田 新宿区高田町。早稲田南町の西。
*千駄木 文京区千駄木町。
*八間の深張り 八本の骨を深く曲げて布を張ったこうもり傘。
*南校 江戸末期に創設された洋書調所の発展したもので、文久三年(一八六三)に開成所、明治二年(一八六九)に大学南校、同四年(一八七一)に南校、同五年(一八七二)に開成学校、同十年(一八七七)に東京帝国大学と改称。
*高等商業学校 当時、神田区一橋通町(現在の千代田区神田一つ橋)にあった「(東京)高等商業学校」の略称。のち、「東京商科大学」、と改称、昭和二十四年(一九四九)以後、一橋大学となり、昭和六年東京都北多摩郡国立町に移転した。
*組織 ふつう「そしき」と読む。
*グードリッチ Samuel Griswold Goodrich 一七九三年―一八六〇年。アメリカの著述家。Peter Parleyというペン・ネームで地理・伝記・歴史・科学などにわたって少年向きの読み物を書いた。
*一番めの兄 大一。漱石より十七歳年上。
*美術協会 明治十一年(一八七八)に創設の美術品評会が発展した団体で、同二十年(一八八七)日本美術協会と改称、年三回上野公園竹の台陳列館で展覧会を開催した。現在も財団法人に改められて存続している。
*若冲 伊藤若冲。享保元年―寛政十二年(一七一六―一八○○)。江戸中期の画家。京都の人。動物画・山水画・花鳥画いずれも独特の筆法で描いたが、とくに鶏の絵が得意であった。後年黄檗宗の伯〓和尚に従って禅門にはいった。ここにいう御物とは「群鶏図」をさす。
*養子 明治二年十一月、四つ谷の名主塩原昌之肋の養子として引き取られたが、九年、養母やすが塩原家と離縁したさい、生家に戻った。
*T君 寺田寅彦をさすと思われる。
*喜いちゃん 牛込区(現在、新宿区)市が谷山伏町市が谷小学校での友だち桑原喜市。
*中町 新宿区中町。
*銀座 江戸幕府の銀貨鋳造発行所。駿府(静岡市)にあったが、慶長十七年(一六一二)江戸尾張町に移転、享和元年(一八〇一)蠣殻町に移転、明治二年(一八六九)造幣局設置とともに廃止された。
*大田南畝 江戸後期の狂歌人・小説家・随筆家。通称は直次郎、号は南畝・蜀山人・四《よ》方《もの》赤《あか》良《ら》など。『南畝莠言』はその随筆集。
*大学にいるころ 漱石は明治三十六年(一九〇三)四月から四年間東京帝国大学英文科の講師であった。
*高等工業で講演 大正三年(一九一四)一月十七日、浅草蔵前の東京高等工業学校で「無題」と題して講演したのをさすのであろう。
*講演 学習院で行なった講演。二八七ページの注参照。
*色物 講談などに対して、落語・踊り・奇術などをいう。
*美音会 田中正平(音響物理学者、理学博士)の主唱で、古典邦楽に西洋音楽を取り入れて演奏した会。第一回公演を明治四十年(一九〇七)新橋倶楽部で開催し、漱石はしばしば聞きに行っている。
*新富座 関東大震災(大正十二年〈一九二三〉)まで京橋区(現在、中央区)新富町にあった劇場。
*貢進生 地方の諸藩から選抜されて大学南校に入学した学生。
*亀清 台東区柳橋の料亭。
*ある西洋人 ケーベル先生をさすと思われる。
*末の子 次男伸六。この時八歳。
*聖オーガスチンの懺悔 The Confessions of Saint Augustine アウグスチヌス(Augustinus三五四―四三〇)は初期キリスト教最大の教父。その思想は中世教会の教えの基礎となったばかりでなく、近代思想にも多くの影響を及ぼした。この“Confessions”(告白録)は彼の前半生の自伝で、プラトン的神秘主義の信仰に基づいている。
硝子《ガラス》戸《ど》の中《なか》
夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》
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平成12年9月1日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『硝子戸の中』昭和29年6月10日初版刊行・平成10年5月30日改版23版刊行