目次
こころ
上 先生と私
中 両親と私
下 先生と遺書
漱石の文学(江藤淳)
『こころ』について(三好行雄)
年譜
注解(三好行雄)
こころ
上 先生と私
一
私《わたくし》はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所《ここ》でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚《はば》かる遠慮というよりも、その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々《よそよそ》しい頭《かしら》文字《もじ》などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合になったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達から是非来いという端《は》書《がき》を受取ったので、私は多少の金を工面して、出掛る事にした。私は金の工面に二《に》三日《さんち》を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親達に勧まない結婚を強《し》いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうして可《い》いか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固《もと》より帰るべき筈《はず》であった。それで彼はとうとう帰る事になった。折角来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ大《だい》分《ぶ》日《ひ》数《かず》があるので、鎌倉に居っても可《よ》し、帰っても可いという境遇にいた私は、当分元の宿に留《と》まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。従って一人坊《ぼ》っちになった私は別に恰好《かっこう》な宿を探す面倒も有《も》たなかったのである。
宿は鎌倉でも辺《へん》鄙《ぴ》な方角にあった。玉突だのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷《なわて》を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘は其所此所《そこここ》にいくつでも建てられていた。それに海へは極《ごく》近いので海水浴を遣《や》るには至極便利な地位を占めていた。
私は毎日海へ這入《はい》りに出掛けた。古い燻《くす》ぶり返った藁葺《わらぶき》の間を通り抜けて磯《いそ》へ下りると、この辺にこれ程の都会人種が住んでいるかと思う程、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯の様に黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人も有たない私も、こういう賑《にぎ》やかな景色の中に裹《つつ》まれて、砂の上に寐《ね》そべって見たり、膝頭《ひざがしら》を波に打たして其所いらを跳《は》ね廻るのは愉快であった。
私は実に先生をこの雑沓《ざっとう》の間《あいだ》に見付出したのである。その時海岸には掛茶屋が二軒あった。私は不図した機会《はずみ》からその一軒の方に行き慣れていた。長谷《はせ》辺に大きな別荘を構えている人と違って、各自《めいめい》に専有の着換場を拵《こしら》えていない此所いらの避暑客には、是非共こうした共同着換所といった風なものが必要なのであった。彼等は此所で茶を飲み、此所で休息する外に、此所で海水着を洗濯させたり、此所で鹹《しお》はゆい身体《からだ》を清めたり、此所へ帽子や傘を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へ這入る度《たび》にその茶屋へ一切を脱ぎ棄てる事にしていた。
二
私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生が丁度着物を脱いでこれから海へ入《はい》ろうとするところであった。私はその時反対に濡《ぬ》れた身体を風に吹かして水から上って来た。二人の間には目を遮《さえ》ぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私は遂に先生を見逃したかも知れなかった。それ程浜辺が混雑し、それ程私の頭が放漫であったにも拘《かか》わらず、私がすぐ先生を見付出したのは、先生が一人の西洋人を伴《つ》れていたからである。
その西洋人の優《すぐ》れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否や、すぐ私の注意を惹《ひ》いた。純粋の日本の浴衣《ゆかた》を着ていた彼は、それを床几《しょうぎ》の上にすぽりと放り出したまま、腕組をして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿《は》く猿股《さるまた》一つの外何物も肌《はだ》に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井《ゆい》が浜《はま》まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺めていた。私の尻を卸した所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍《わき》がホテルの裏口になっていたので、私の凝《じっ》としている間に、大分多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股《もも》は出していなかった。女は殊更《ことさら》肉を隠し勝であった。大抵は頭に護謨《ごむ》製の頭《ず》巾《きん》を被《かぶ》って、海《え》老《び》茶《ちゃ》や紺や藍《あい》の色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼には、猿股一つで済まして皆《みん》なの前に立っているこの西洋人が如何《いか》にも珍らしく見えた。
彼はやがて自分の傍《わき》を顧りみて、其所にこごんでいる日本人に、一言二言《ひとことふたこと》何か云った。その日本人は砂の上に落ちた手拭を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人が即《すなわ》ち先生であった。
私は単に好奇心の為《ため》に、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿を見守っていた。すると彼等は真直《まっすぐ》に波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅の磯近くにわいわい騒いでいる多《た》人《にん》数《ず》の間を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼等の頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返して又一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体を拭いて着物を着て、さっさと何処《どこ》へか行ってしまった。
彼等の出て行った後《あと》、私はやはり元の床几に腰を卸して烟草《たばこ》を吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうも何処かで見た事のある顔の様に思われてならなかった。然《しか》しどうしても何時《いつ》何処で会った人か想い出せずにしまった。
その時の私は屈託がないというより寧《むし》ろ無《ぶ》聊《りょう》に苦しんでいた。それで翌日《あくるひ》もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋まで出かけて見た。すると西洋人は来ないで先生一人麦藁帽《むぎわらぼう》を被って遣って来た。先生は眼《め》鏡《がね》をとって台の上に置いて、すぐ手拭で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日《きのう》の様に騒がしい浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後が追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで跳《はね》かして相当の深さの所まで来て、其所から先生を目標《めじるし》に抜手を切った。すると先生は昨日と違って、一種の弧線を描いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的は遂に達せられなかった。私が陸《おか》へ上って雫《しずく》の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入違《いれちがい》に外へ出て行った。
三
私は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物を云い掛ける機会も、挨拶をする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくら賑やかでも、それには殆《ほと》んど注意を払う様子が見えなかった。最初一所《いっしょ》に来た西洋人はその後まるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
或《ある》時先生が例の通りさっさと海から上って来て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂が一杯着いていた。先生はそれを落すために、後向《うしろむき》になって、浴衣を二三度振《ふる》った。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙《すき》間《ま》から下へ落ちた。先生は白絣《しろがすり》の上へ兵《へ》児《こ》帯《おび》を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難《ありがと》うと云って、それを私の手から受取った。
次の日私は先生の後につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生と一所の方角に泳いで行った。二丁程沖へ出ると、先生は後《うしろ》を振り返って私に話し掛けた。広い蒼《あお》い海の表面に浮いているものは、その近所に私等二人より外になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充《み》ちた筋肉を動かして海の中で躍《おど》り狂った。先生は又ぱたりと手足の運動を已《や》めて仰向《あおむけ》になったまま浪《なみ》の上に寐た。私もその真似をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
しばらくして海の中で起き上がる様に姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」と云って私を促がした。比較的強い体質を有った私は、もっと海の中で遊んでいたかった。然し先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快よく答えた。そうして二人で又元の路《みち》を浜辺へ引き返した。
私はこれから先生と懇意になった。然し先生が何処にいるかは未《ま》だ知らなかった。
それから中二日置いて丁度三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋で出会った時、先生は突然私に向って、「君はまだ大分長く此所に居る積りですか」と聞いた。考のない私はこういう問に答えるだけの用意を頭の中に蓄《たくわ》えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。然しにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極《きま》りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始りである。
私はその晩先生の宿を尋ねた。宿と云っても普通の旅館と違って、広い寺の境内にある別荘のような建物であった。其所に住んでいる人の先生の家族でない事も解った。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖だと云って弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いて見た。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際《つきあい》を有たないのに、そういう外国人と近付になったのは不思議だと云ったりした。私は最後に先生に向って、何処かで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないと云った。若い私はその時暗に相手も私と同じ様な感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚《みおぼえ》がありませんね。人違《ひとちがい》じゃないですか」と云ったので私は変に一種の失望を感じた。
四
私は月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は先生と別れる時に、「これから折々御宅へ伺っても宜《よ》ござんすか」と聞いた。先生は単簡《たんかん》にただ「ええいらっしゃい」と云っただけであった。その時分の私は先生と余程懇意になった積りでいたので、先生からもう少し濃《こまや》かな言葉を予期して掛ったのである。それでこの物足りない返事が少し私の自信を傷《いた》めた。
私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いている様でもあり、又全く気が付かない様でもあった。私は又軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。寧《むし》ろそれとは反対で、不安に揺《うご》かされる度に、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、何時《いつ》か眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれども凡《すべ》ての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私は何故《なぜ》先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。それが先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌《きら》っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素《そっ》気《け》ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠《とおざ》けようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のないものだから止《よ》せという警告を与えたのである。他《ひと》の懐かしみに応じない先生は、他《ひと》を軽蔑《けいべつ》する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。
私は無論先生を訪ねる積りで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日《ひ》数《かず》があるので、そのうちに一度行って置こうと思った。然し帰って二日三日と経つうちに、鎌倉に居た時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩《いろど》られる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い刺《し》戟《げき》と共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新らしい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、又一種の弛《たる》みが出来てきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室《へや》の中を見廻した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私は又先生に会いたくなった。
始めて先生の宅《うち》を訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。晴れた空が身に沁《し》み込むように感ぜられる好《い》い日和《ひより》であった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、何時でも大抵宅にいるという事を聞いた。寧ろ外出嫌いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由《わけ》もない不満を何処かに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女の顔を見て少し躊躇《ちゅうちょ》して其所に立っていた。この前名剌を取次いだ記憶のある下女は、私を待たして置いて又内へ這入った。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美くしい奥さんであった。
私はその人から鄭寧《ていねい》に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑《ぞう》司《し》ケ谷《や》の墓地にある或仏へ花を手向《たむ》けに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかで御座います」と奥さんは気の毒そうに云ってくれた。私は会釈して外へ出た。賑かな町の方へ一丁程歩くと、私も散歩がてら雑司ケ谷へ行って見る気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵《きびす》を回《めぐ》らした。
五
私は墓地の手前にある苗畠《なえばたけ》の左側から這入って、両方に楓《かえで》を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端《はず》れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡の縁が日に光るまで近く寄って行った。そうして出《だし》抜《ぬ》けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二遍繰り返した。その言葉は森閑とした昼の中《うち》に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何《なん》とも応《こた》えられなくなった。
「私の後《あと》を跟《つ》けて来たのですか。どうして……」
先生の態度は寧ろ落付いていた。声は寧ろ沈んでいた。けれどもその表情の中《うち》には判然《はっきり》云えない様な一種の曇があった。
私は私がどうして此所へ来たかを先生に話した。
「誰の墓へ参りに行ったか、妻《さい》がその人の名を云いましたか」
「いいえ、そんな事は何も仰《おっ》しゃいません」
「そうですか。――そう、それは云う筈がありませんね、始めて会った貴方《あなた》に。云う必要がないんだから」
先生は漸《ようや》く得心したらしい様子であった。然し私にはその意味がまるで解らなかった。
先生と私は通へ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉《イサベラ》何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのという傍《かたわら》に、一切衆生悉有仏生《いっさいしゅじょうしつうぶつしょう》と書いた塔《とう》婆《ば》などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませる積りでしょうね」と云って先生は苦笑した。
先生はこれ等の墓標が現わす人種々《さまざま》の様式に対して、私程に滑稽《こっけい》もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石だの細長い御《み》影《かげ》の碑《ひ》だのを指して、しきりに彼是《かれこれ》云いたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、仕舞に「貴方は死という事実をまだ真面目《まじめ》に考えた事がありませんね」と云った。私は黙った。先生もそれぎり何とも云わなくなった。
墓地の区切り目に、大きな銀杏《いちょう》が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢《こずえ》を見上げて、「もう少しすると、綺《き》麗《れい》ですよ。この木がすっかり黄葉《こうよう》して、ここいらの地面は金色の落《おち》葉《ば》で埋《うず》まるようになります」と云った。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
向うの方で凸凹《でこぼこ》の地面をならして新墓地を作っている男が、鍬《くわ》の手を休めて私達を見ていた。私達は其所から左へ切れてすぐ街道へ出た。
これから何処へ行くという目的《あて》のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生は何時もより口数を利かなかった。それでも私は左《さ》程《ほど》の窮屈を感じなかったので、ぶらぶら一所に歩いて行った。
「すぐ御宅へ御帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
二人は又黙って南の方へ坂を下りた。
「先生の御宅の墓地はあすこにあるんですか」と私が又口を利き出した。
「いいえ」
「何方《どなた》の御墓があるんですか。――御親類の御墓ですか」
「いいえ」
先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町程歩いた後で、先生が不意に其所へ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「御友達の御墓へ毎月《まいげつ》御参りをなさるんですか」
「そうです」
先生はその日これ以外を語らなかった。
六
私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数が重なるに伴《つ》れて、私は益繁《ますますしげ》く先生の玄関へ足を運んだ。
けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になったその後《のち》も、あまり変りはなかった。先生は何時《いつ》も静《しずか》であった。ある時は静過ぎて淋《さび》しい位であった。私は最初から先生には近づき難《がた》い不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、何処かに強く働らいた。こういう感じを先生に対して有《も》っていたものは、多くの人のうちで或《あるい》は私だけかも知れない。然しその私だけにはこの直感が後《のち》になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいと云われても、馬鹿気ていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしく又嬉しく思っている。人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐《ふところ》に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、――これが先生であった。
今云った通り先生は始終静かであった。落付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射《さ》すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の眉《み》間《けん》に認めたのは、雑司ケ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快よく流れていた心臓の潮流を一寸《ちょっと》鈍らせた。然しそれは単に一時の結滞に過ぎなかった。私の心は五分と経たないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春の尽きるに間《ま》のない或る晩の事であった。
先生と話していた私は、不図先生がわざわざ注意してくれた銀杏《いちょう》の大樹を眼の前に想い浮べた。勘定して見ると、先生が毎月例《まいげつれい》として墓参に行く日が、それから丁度三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午《ひる》で終《おえ》る楽な日であった。私は先生に向ってこう云った。
「先生雑司ケ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空《から》坊《ぼう》主《ず》にはならないでしょう」
先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうして其所からしばし眼を離さなかった。私はすぐ云った。
「今度御墓参りにいらっしゃる時に御伴をしても宜《よ》ござんすか。私は先生と一所に彼所《あすこ》いらが散歩して見たい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「然し序《つい》でに散歩をなすったら丁度好《い》いじゃありませんか」
先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」と云って、何処までも墓参と散歩を切り離そうとする風に見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、如何にも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
「じゃ御墓参りでも好いから一所に伴《つ》れて行って下さい。私も御墓参りをしますから」
実際私には墓参と散歩との区別が殆んど無意味のように思われたのである。すると先生の眉《まゆ》がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖《いふ》とも片付けられない微《かす》かな不安らしいものであった。私は忽《たちま》ち雑司ケ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生が云った。「私はあなたに話す事の出来ないある理由があって、他《ひと》と一所にあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻《さい》さえまだ伴れて行った事がないのです」
七
私は不思議に思った。然し私は先生を研究する気でその宅《うち》へ出入りをするのではなかった。私はただそのままにして打過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちで寧ろ尊《たっと》むべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際《つきあい》が出来たのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向って、研究的に働らき掛けたなら、二人の間を繋《つな》ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊《たっと》いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼《まなこ》で研究されるのを絶えず恐れていたのである。
私は月に二度若《もし》くは三度ずつ必ず先生の宅《うち》へ行くようになった。私の足が段々繁くなった時のある日、先生は突然私に向って聞いた。
「あなたは何でそう度々《たびたび》私のようなものの宅へ遣って来るのですか」
「何でと云って、そんな特別な意味はありません。――然し御邪魔なんですか」
「邪魔だとは云いません」
成程迷惑という様子は、先生の何処にも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極めて狭い事を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃東京に居るものは殆んど二人か三人しかないという事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼等のいずれもは皆《みん》な私程先生に親しみを有《も》っていないように見受けられた。
「私は淋《さび》しい人間です」と先生が云った。「だから貴方の来て下さる事を喜こんでいます。だから何故そう度々来るのかと云って聞いたのです」
「そりゃ又何故です」
私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳《いくつ》ですか」と云った。
この問答は私に取って頗《すこぶ》る不得要領のものであったが、私はその時底まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たないうちに又先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否や笑い出した。
「又来ましたね」と云った。
「ええ来ました」と云って自分も笑った。
私は外の人からこう云われたらきっと癪《しゃく》に触ったろうと思う。然し先生にこう云われた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなく却《かえ》って愉快だった。
「私は淋しい人間です」と先生はその晩又この間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによると貴方も淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打《ぶ》つかりたいのでしょう。……」
「私はちっとも淋《さむ》しくはありません」
「若いうち程淋《さむ》しいものはありません。それなら何故貴方はそう度々私の宅《うち》へ来るのですか」
此所でもこの間の言葉が又先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会っても恐らくまだ淋《さび》しい気が何処かでしているでしょう。私にはあなたの為にその淋しさを根《ね》元《もと》から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。貴方は外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生はこう云って淋しい笑い方をした。
八
幸《さいわい》にして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私は、この予言の中《うち》に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内いつの間にか先生の食卓で飯を食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利《き》かなければならないようになった。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私は殆んど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因かどうかは疑問だが、私の興味は往来《おうらい》で出合う知りもしない女に向って多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美くしいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。然しそれ以外に私はこれと云ってとくに奥さんに就《つ》いて語るべき何物も有たないような気がした。
これは奥さんに特色がないと云うよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。然し私はいつでも先生に付属した一部分の様な心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫《おっと》の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除《の》ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合になった時の奥さんに就いては、ただ美くしいという外に何の感じも残っていない。
ある時私は先生の宅で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍《そば》で酌をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「御《お》前《まえ》も一つ御上り」と云って、自分の呑み干した盃《さかずき》を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後《あと》、迷惑そうにそれを受取った。奥さんは綺麗な眉を寄せて、私の半分ばかり注《つ》いで上げた盃を、唇《くちびる》の先へ持って行った。奥さんと先生の間に下《しも》のような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めと仰《おっ》しゃった事は滅多にないのにね」
「御前は嫌《きらい》だからさ。然し稀《たま》には飲むといいよ。好《い》い心持になるよ」
「些《ちっ》ともならないわ。苦しいぎりで。でも貴《あな》夫《た》は大変御愉快そうね、少し御《ご》酒《しゅ》を召上ると」
「時によると大変愉快になる。然し何時でもという訳には行かない」
「今夜は如何《いかが》です」
「今夜は好《い》い心持だね」
「これから毎晩少しずつ召上ると宜《よ》ござんすよ」
「そうは行かない」
「召《めし》上《や》がって下さいよ。その方が淋《さむ》しくなくって好《い》いから」
先生の宅は夫婦と下女だけであった。行くたびに大抵はひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或時は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好《い》いんですがね」と奥さんは私の方を向いて云った。私は「そうですな」と答えた。然し私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅《うるさ》いものの様に考えていた。
「一人貰って遣ろうか」と先生が云った。
「貰《もらい》ッ子《こ》じゃ、ねえあなた」と奥さんは又私の方を向いた。
「子供は何時まで経ったって出来っこないよ」と先生が云った。
奥さんは黙っていた。「何故です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と云って高く笑った。
九
私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好《い》い夫婦の一対《つい》であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かの序《ついで》に、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静《しず》といった)先生は「おい静」と何時でも襖《ふすま》の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚《はなは》だ素直であった。ときたま御《ご》馳《ち》走《そう》になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出される様であった。
先生は時々奥さんを伴れて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二三度以上あった。私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている。日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私が何時もの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方で誰かの話し声がした。能《よ》く聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆《いさか》いらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子の前に立っていた私の耳にその言逆いの調子だけは略《ほぼ》分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低い音《おん》なので、誰だか判然《はっきり》しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いている様でもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑み込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開けた。先生は散歩しようと云って、下から私を誘った。先刻《さっき》帯の間へ包《くる》んだままの時計を出して見ると、もう八時過であった。私は帰ったなりまだ袴《はかま》を着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生と一所に麦酒《ビール》を飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んで見るという冒険の出来ない人であった。
「今日は駄目です」と云って先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中《なか》には始終先刻《さっき》の事が引っ懸っていた。肴《さかな》の骨が咽喉《のど》に刺さった時の様に、私は苦しんだ。打ち明けて見ようかと考えたり、止《よ》した方が好かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方から云い出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答もし得なかった。
「実は先刻《さっき》妻《さい》と少し喧《けん》嘩《か》をしてね。それで下らない神経を昂奮《こうふん》させてしまったんです」と先生が又云った。
「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻《さい》が私を誤解するのです。それを誤解だと云って聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問に答えようとはしなかった。
「妻《さい》が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
十
二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁も二丁もつづいた。その後で突然先生が口を利き出した。
「悪い事をした。怒って出たから妻《さい》はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀そうなものですね。私の妻などは私より外にまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉は一寸其所で途切れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そう云うと、夫《おっと》の方は如何にも心丈夫の様で少し滑稽だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中位《ちゅうぐらい》に見えます」と私は答えた。この答は先生に取って少し案外らしかった。先生は又口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の宅《うち》へ帰るには私の下宿のつい傍《そば》を通るのが順路であった。私は其所まで来て、曲り角で分れるのが先生に済まない様な気がした。「序に御《お》宅《たく》の前まで御伴しましょうか」と云った。先生は忽ち手で私を遮った。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰って遣るんだから、妻君の為《ため》に」
先生が最後に付け加えた「妻君の為に」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寐る事が出来た。私はその後も長い間この「妻君の為に」という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起った波《は》瀾《らん》が、大したものでない事はこれでも解った。それが又滅多に起る現象でなかった事も、その後《ご》絶えず出《で》入《いり》をして来た私には略《ほぼ》推察が出来た。それどころか先生はある時こんな感想すら私に洩《も》らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻《さい》以外の女は殆んど女として私に訴えないのです。妻《さい》の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味から云って、私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈《はず》です」
私は今前後の行き掛りを忘れてしまったから、先生が何の為にこんな自白を私に為《し》て聞かせたのか、判然《はっきり》云う事が出来ない。けれども先生の態度の真面目《まじめ》であったのと、調子の沈んでいたのとは、今だに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈です」という最後の一句であった。先生は何故《なぜ》幸福な人間と云い切らないで、あるべき筈であると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことに其所《そこ》へ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実果して幸福なのだろうか、又幸福であるべき筈でありながら、それ程幸福でないのだろうか。私は心の中《うち》で疑ぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一《いち》時《じ》限り何処かへ葬むられてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向いで話をする機会に出合った。先生はその日横浜を出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃の習慣であった。私はある書物に就いて先生に話して貰う必要があったので、予《あらか》じめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行は前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにと云い残して行った。それで私は座敷へ上って、先生を待つ間、奥さんと話をした。
十一
その時の私は既《すで》に大学生であった。始めて先生の宅《うち》へ来た頃から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分懇意になった後《のち》であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向いで色々の話をした。然しそれは特色のない唯の談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。然しそれを話す前に、一寸断って置きたい事がある。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。然し先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想に就ては、先生と密切の関係を有っている私より外に敬意を払うもののあるべき筈がなかった。それを私は常に惜《おし》い事だと云った。先生は又「私のようなものが世の中へ出て、口を利いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答が謙遜《けんそん》過ぎて却って世間を冷評する様にも聞こえた。実際先生は時々昔しの同級生で今著名になっている誰彼を捉《とら》えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云《うん》々《ぬん》して見た。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向って働らき掛ける資格のない男だから仕方がありません」と云った。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解らなかったけれども、何しろ二の句の継げない程に強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間《あいだ》に、問題が自然先生の事から其所へ落ちて来た。
「先生は何故ああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目ですよ。そういう事が嫌《きらい》なんですから」
「つまり下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何か遣《や》りたいのでしょう。それでいて出来ないんです。だから気の毒ですわ」
「然《しか》し先生は健康からいって、別に何処も悪いところはない様じゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それで何故活動が出来ないんでしょう」
「それが解らないのよ、あなた。それが解る位なら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側から云えば、私の方が寧《むし》ろ真面目だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出した様に又口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時って何時頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
十二
奥さんは東京の人であった。それは嘗《かつ》て先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと合《あい》の子なんですよ」と云った。奥さんの父親はたしか鳥取か何処かの出であるのに、御母さんの方はまだ江戸といった時分の市《いち》ケ谷《や》で生れた女なので、奥さんは冗談半分そう云ったのである。ところが先生は全く方角違《ちがい》の新潟県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。然し薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくない様だったので、私の方でも深くは聞かずに置いた。
先生と知合になってから先生の亡くなるまでに、私は随分色々の問題で先生の思想や情操に触れて見たが、結婚当時の状況に就いては、殆んど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈しても見た。年輩の先生の事だから、艶《なま》めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと慎《つつし》んでいるのだろうと思った。時によると、又それを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶《つや》っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。尤《もっと》も何方《どちら》も推測に過ぎなかった。そうして何方《どちら》の推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定は果して誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。先生は美くしい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生に取って見惨《みじめ》なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、先ず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇に就いて何事も語らない。その悲劇のために寧ろ生れ出たともいえる二人の恋愛に就いては、先刻《さっき》云った通りであった。二人とも私には殆んど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生は又それ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或時花時分に私は先生と一所に上野へ行った。そうして其所で美くしい一対《つい》の男女《なんにょ》を見た。彼等は睦《むつ》まじそうに寄添って花の下《した》を歩いていた。場所が場所なので、花よりも其方《そちら》を向いて眼を峙《そば》だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生が云った。
「仲が好さそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外《ほか》に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評《ひやか》しましたね。あの冷評《ひやかし》のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交《まじ》っていましょう」
「そんな風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。然し……然し君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
私は急に驚ろかされた。何とも返事をしなかった。
十三
我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉しそうな顔をしていた。其所を通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「何故ですか」
「何故だか今に解ります。今にじゃない、もう解っている筈です。あなたの心はとっくの昔から既に恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれども其所は案外に空虚であった。思い中《あた》るようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいない積りです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それ程動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。然しそれは恋とは違います」
「恋に上《のぼ》る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異《こと》にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、猶更《なおさら》あなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際御気の毒に思っています。あなたが私から余所《よそ》へ動いて行くのは仕方がない。私は寧ろそれを希望しているのです。然し……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くように御思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「然し気を付けないと不可《いけ》ない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。然し事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧《もうろう》としてよく解らなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然《はっきり》云って聞かして下さい。それでなければこの問題を此所《ここ》で切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実《まこと》を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦《じ》慮《ら》していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私とは博物館の裏から鶯渓《うぐいすだに》の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙《すき》間《ま》から広い庭の一部に茂る熊笹が幽邃《ゆうすい》に見えた。
「君は私が何故毎月《まいげつ》雑司ケ谷の墓地に埋《うま》っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問は全く突然であった。しかも先生は私がこの問に対して答えられないという事も能《よ》く承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこう云った。
「又悪い事を云った。焦慮《じら》せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明が又あなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止《や》めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話が益《ますます》解らなくなった。然し先生はそれぎり恋を口にしなかった。
十四
年の若い私《わたくし》は稍《やや》ともすると一図になり易かった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難《ありがた》いのであった。とどのつまりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりも只独《ひと》りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上《のぼせ》ちゃ不可《いけ》ません」と先生がいった。
「覚めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯《うけ》がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭《いや》になります。私は今のあなたからそれ程に思われるのを、苦しく感じています。然しこれから先の貴方に起るべき変化を予想して見ると、猶《なお》苦しくなります」
「私はそれ程軽薄に思われているんですか。それ程不信用なんですか」
「私は御気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないと仰《おっ》しゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿《つばき》の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時生垣《いけがき》の向うで金魚売らしい声がした。その外には何《なん》の聞こえるものもなかった。大通りから二丁も深く折れ込んだ小《こう》路《じ》は存外静かであった。家《うち》の中は何時もの通りひっそりしていた。私は次の間に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。然し私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答を避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪《のろ》うより外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。遣ったんです。遣った後で驚ろいたんです。そうして非常に怖くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を辿《たど》って行きたかった。すると襖《ふすま》の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「一寸」と先生を次の間へ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解らなかった。それを想像する余裕を与えない程早く先生は又座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺むかれた返報に、残酷な復讐《ふくしゅう》をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝の前に跪《ひざま》ずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥《しり》ぞけたいと思うのです。私は今より一層淋《さび》しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己《おの》れとに充《み》ちた現代に生れた我々は、その犠《ぎ》牲《せい》としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟を有《も》っている先生に対して、云うべき言葉を知らなかった。
十五
その後《ご》私は奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。若《も》しそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
奥さんの様子は満足とも不満足とも極《き》めようがなかった。私はそれ程近く奥さんに接触する機会がなかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生の居る席でなければ私と奥さんとは滅多に顔を合せなかったから。
私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟は何処から来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐って考える質《たち》の人であった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石造家屋の輪廓《りんかく》とは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏《まと》め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脉《みゃく》が止まったりする程の事実が、畳み込まれているらしかった。
これは私の胸で推測するがものはない。先生自身既にそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯のようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽《おお》い被《かぶ》せた。そうして何故それが恐ろしいか私にも解らなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震わせた。
私は先生のこの人生観の基点に、或強烈な恋愛事件を仮定して見た。(無論先生と奥さんとの間に起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛りにもなった。然し先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世《えんせい》に近い覚悟が出よう筈がなかった。「かつてはその人の前に跪ずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする」と云った先生の言葉は、現代一般の誰彼《たれかれ》に就いて用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
雑司ケ谷にある誰だか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事の出来ない私は、先生の頭の中にある生命《いのち》の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生《いの》命《ち》の扉を開ける鍵《かぎ》にはならなかった。寧ろ二人の間に立って、自由の往来を妨たげる魔物のようであった。
そうこうしているうちに、私は又奥さんと差向いで話しをしなければならない時機が来た。その頃は日の詰って行くせわしない秋に、誰も注意を惹《ひ》かれる肌寒《はださむ》の季節であった。先生の附近で盗難に罹《かか》ったものが三四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを持って行かれた家《うち》は殆《ほと》んどなかったけれども、這入《はい》られた所では必ず何か取られた。奥さんは気味をわるくした。そこへ先生がある晩家《うち》を空けなければならない事情が出来てきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外の二三名と共に、ある所でその友人に飯を食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間《あいだ》までの留守番を頼んだ。私はすぐ引受けた。
十六
私の行ったのはまだ灯《ひ》の点《つ》くか点かない暮方であったが、几帳面な先生はもう宅《うち》にいなかった。「時間に後《おく》れると悪いって、つい今しがた出掛けました」と云った奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
書斎には洋机《テーブル》と椅子の外に、沢山の書物が美くしい脊《せ》皮《がわ》を並べて、硝子《ガラス》越《ごし》に電燈の光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》の上へ私を坐らせて、「ちっと其所いらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私は丁度主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏《かし》こまったまま烟草《たばこ》を飲んでいた。奥さんが茶の間で何か下女に話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った角にあるので、棟《むね》の位置からいうと、座敷よりも却って掛け離れた静さを領していた。一しきりで奥さんの話声が已《や》むと、後はしんとした。私は泥棒を待ち受ける様な心持で、凝《じっ》としながら気を何処かに配った。
三十分程すると、奥さんが又書斎の入口へ顔を出した。「おや」と云って、軽く驚ろいた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪《しかつめ》らしく控えている私を可笑《おか》しそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
奥さんは手に紅茶茶碗を持ったまま、笑いながら其所に立っていた。
「此所は隅《すみ》っこだから番をするには好くありませんね」と私が云った。
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴。御退屈だろうと思って、御茶を入れて持って来たんですが、茶の間で宜《よろ》しければ彼方《あちら》で上げますから」
私は奥さんの後《あと》に尾《つ》いて書斎を出た。茶の間には綺麗な長火鉢に鉄瓶《てつびん》が鳴っていた。私は其処で茶と菓子の御馳走になった。奥さんは寐《ね》られないと不可《いけな》いといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へ御出掛になるんですか」
「いいえ滅多に出た事はありません。近頃は段々人の顔を見るのが嫌《きらい》になるようです」
こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風も見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私《わたくし》も嫌われている一人なんです」
「そりゃ嘘です」と私が云った。「奥さん自身嘘と知りながらそう仰《おっし》ゃるんでしょう」
「何故」
「私に云わせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする方だけあって、中々御上手ね。空《から》っぽな理《り》窟《くつ》を使いこなす事が。世の中が嫌《きらい》になったから、私までも嫌になったんだとも云われるじゃありませんか。それと同《おん》なじ理窟で」
「両方とも云われる事は云われますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬《けんしゅう》が出来ると思いますわ」
奥さんの言葉は少し手《て》痛《ひど》かった。然しその言葉の耳障《みみざわり》からいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出《いだ》す程に奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
十七
私はまだその後《あと》にいうべき事を有っていた。けれども奥さんから徒《いたず》らに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗の底を覗《のぞ》いて黙っている私を外《そ》らさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
妙なもので角砂糖を撮《つま》み上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数を聞いた。奥さんの態度は私に媚《こ》びるという程ではなかったけれども、先刻《さっき》の強い言葉を力《つと》めて打ち消そうとする愛嬌《あいきょう》に充ちていた。
私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんが云った。
「何かいうと又議論を仕掛けるなんて、叱り付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再び云った。
二人はそれを緒口《いとくち》に又話を始めた。そうして又二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、先刻《さっき》の続きをもう少し云わせて下さいませんか。奥さんには空《から》な理窟と聞こえるかも知れませんが、私はそんな上の空で云ってる事じゃないんだから」
「じゃ仰《おっし》ゃい」
「今奥さんが急に居なくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目ですよ。だから逃げちゃ不可ません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直に云って私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどの位愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くより寧《むし》ろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いじゃありませんか」
「真面目腐って聞くがものはない。分り切ってると仰ゃるんですか」
「まあそうよ」
「その位先生に忠実なあなたが急に居なくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中の何方《どっち》を向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。或《あるい》は生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚《おのぼれ》になるようですが、私は今先生を人間として出来るだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私程先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心に好く映る筈だと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われていると仰ゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。然し先生は世間が嫌なんでしょう。世間というより近頃では人間が嫌になっているんでしょう。だからその人間の一人《いちにん》として、私も好かれる筈がないじゃありませんか」
奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑み込めた。
十八
私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺《し》戟《げき》を与えた。それで奥さんはその頃流行《はや》り始めた所謂《いわゆる》新らしい言葉などは殆んど使わなかった。
私は女というものに深い交際《つきあい》をした経験のない迂《う》濶《かつ》な青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、憧憬《どうけい》の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲を眺めるような心持で、ただ漠然と夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んで却って変な反撥力を感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。普通男女《なんにょ》の間に横《よこた》わる思想の不平均という考も殆んど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家及び同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私はこの前何故先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうと云って、あなたに聞いた時に、あなたは仰ゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええ云いました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、又私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間始終先生と一所にいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因がちゃんと解るべき筈ですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそう云われると実に辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何と仰しゃるんですか」
「何《なん》にも云う事はない、何《なん》にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからと云うだけで、取り合ってくれないんです」
私は黙っていた。奥さんも言葉を途切らした。下女部屋にいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずに云って下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんが又云った。「これでも私は先生のために出来るだけの事はしている積りなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。御安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰を掻《か》き馴らした。それから水注《みずさし》の水を鉄瓶に注《さ》した。鉄瓶は忽《たちま》ち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防《しんぼう》し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪いところがあるなら遠慮なく云って下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、御《お》前《まえ》に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだと云うんです。そう云われると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出て猶《なお》の事自分の悪いところが聞きたくなるんです」
奥さんは眼の中《うち》に涙を一杯溜《た》めた。
十九
始め私は理解のある女性《にょしょう》として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓《ハート》を動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠《わだか》まりもない、又ない筈であるのに、やはり何かある。それだのに眼を開けて見《み》極《きわ》めようとすると、やはり何もない。奥さんの苦にする要点は此所《ここ》にあった。
奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言して置きながら、ちっとも其所に落ち付いていられなかった。底を割ると、却ってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭《いや》になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事が出来なかった。先生の態度は何処までも良人《おっと》らしかった。親切で優しかった。疑いの塊りをその日その日の情合《じょうあい》で包んで、そっと胸の奥にしまって置いた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さず云って頂戴」
私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものが其所に存在しているとすれば、私の答が何であろうと、それが奥さんを満足させる筈がなかった。そうして私は其所に私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には解りません」
奥さんは予期の外《はず》れた時に見る憐《あわ》れな表情をその咄《とっ》嗟《さ》に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「然し先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘を吐《つ》かない方《かた》でしょう」
奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこう云った。
「実は私《わたくし》すこし思い中《あた》る事があるんですけれども……」
「先生がああ云う風になった源因に就いてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
奥さんは云い渋って膝《ひざ》の上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。云うから」
「私に出来る判断なら遣ります」
「みんなは云えないのよ。みんな云うと叱られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して唾液《つばき》を呑み込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好《い》い御友達が一人あったのよ。その方《かた》が丁度卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に私語《ささや》くような小さな声で、「実は変死したんです」と云った。それは「どうして」と聞き返さずにはいられない様な云い方であった。
「それっきりしか云えないのよ。けれどもその事があってから後《のち》なんです。先生の性質が段々変って来たのは。何故その方が死んだのか、私には解らないの。先生にも恐らく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ケ谷にあるのは」
「それも云わない事になってるから云いません。然し人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪《たま》らないんです。だから其所を一つ貴方に判断して頂きたいと思うの」
私の判断は寧《むし》ろ否定の方に傾いていた。
二十
私は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまた出来るだけ私によって慰さめられたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと事の大《おお》根《ね》を攫《つか》んでいなかった。奥さんの不安も実は其所に漂よう薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでもすっかりは私に話す事が出来なかった。従って慰さめる私も、慰さめられる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんは何処までも手を出して、覚束《おぼつか》ない私の判断に縋《すが》り付こうとした。
十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までの凡《すべ》てを忘れたように、前に坐っている私を其方《そっち》退《の》けにして立ち上った。そうして格子を開ける先生を殆んど出合頭《であいがしら》に迎えた。私は取り残されながら、後《あと》から奥さんに尾いて行った。下女だけは仮《うた》寐《たね》でもしていたと見えて、ついに出て来なかった。
先生は寧ろ機嫌がよかった。然し奥さんの調子は更によかった。今しがた奥さんの美くしい眼のうちに溜《たま》った涙の光と、それから黒い眉《まゆ》毛《げ》の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐《いつわ》りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷《センチメント》を玩《もてあそ》ぶためにとくに私を相手に拵《こしら》えた、徒《いたず》らな女性の遊戯と取れない事もなかった。尤《もっと》もその時の私には奥さんをそれ程批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝やいて来たのを見て、寧ろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
先生は笑いながら「どうも御苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで張合が抜けやしませんか」と云った。
帰る時、奥さんは「どうも御気の毒さま」と会釈した。その調子は忙がしい処を暇を潰《つぶ》させて気の毒だというよりも、折角来たのに泥棒が這入《はい》らなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそう云いながら、先刻《さっき》出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを袂《たもと》へ入れて、人通りの少ない夜《よ》寒《さむ》の小路を曲折して賑《にぎ》やかな町の方へ急いだ。
私はその晩の事を記憶のうちから抽《ひ》き抜いて此所へ詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰って帰るときの気分では、それ程当夜の会話を重く見ていなかった。私はその翌日午飯《ひるめし》を食いに学校から帰ってきて、昨夜《ゆうべ》机の上に載せて置いた菓子の包を見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色《とびいろ》のカステラを出して頬張った。そうしてそれを食う時に、必竟《ひっきょう》この菓子を私にくれた二人の男女《なんにょ》は、幸福な一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅へ出這りをする序《ついで》に、衣服の洗い張や仕立方などを奥さんに頼んだ。それまで繻絆《じゅばん》というものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟《えり》のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのが却って退屈凌《しの》ぎになって、結句身体《からだ》の薬だ位の事を云っていた。
「こりゃ手《て》織《おり》ね。こんな地の好《い》い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪《にく》いのよそりぁ。まるで針が立たないんですもの。御《お》蔭《かげ》で針を二本折りましたわ」
こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒臭いという顔をしなかった。
二十一
冬が来た時、私は偶然国へ帰えらなければならない事になった。私の母から受取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、出来るなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
父はかねてから腎臓《じんぞう》を病《や》んでいた。中年以後の人に屡《しばしば》見る通り、父のこの病《やまい》は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生の御蔭一つで、今日《こんにち》までどうかこうか凌いで来たように客が来ると吹《ふい》聴《ちょう》していた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機《はずみ》に突然眩暈《めまい》がして引ッ繰返った。家内のものは軽症の脳溢血《のういっけつ》と思い違えて、すぐその手当をした。後で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
冬休みが来るにはまだ少し間《ま》があった。私は学期の終りまで待っていても差支《さしつかえ》あるまいと思って一日二日そのままにして置いた。するとその一日二日の間《あいだ》に、父の寐ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗《な》めた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手《て》数《かず》と時間を省くため、私は暇乞《いとまごい》かたがた先生の所へ行って、要るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
先生は少し風邪の気味で、座敷へ出るのが臆劫《おっくう》だといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸から冬に入《いっ》て稀《まれ》に見るような懐かしい和《やわ》らかな日光が机掛の上に射していた。先生はこの日あたりの好《い》い室《へや》の中へ大きな火鉢を置いて、五徳の上に懸けた金盥《かなだらい》から立ち上《あが》る湯気で、呼吸《いき》の苦しくなるのを防いでいた。
「大病は好《い》いが、ちょっとした風邪などは却って厭なものですね」と云った先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪位なら我慢しますが、それ以上の病気は真平です。先生だって同じ事でしょう。試ろみに遣《や》って御覧になるとよく解ります」
「そうかね。私は病気になる位なら、死病に罹《かか》りたいと思ってる」
私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。その位なら今手元にある筈だから持って行きたまえ」
先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪《ちゃだん》笥《す》か何かの抽出《ひきだし》から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧《ていねい》に重ねて、「そりゃ御心配ですね」と云った。
「何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだと云う事が始めて私に解った。
「どうせむずかしいんでしょう」と私が云った。
「そうさね。私が代られれば代って上げても好いが。――嘔《はき》気《け》はあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方ないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんが云った。
私はその晩の汽車で東京を立った。
二十二
父の病気は思った程悪くはなかった。それでも着いた時は、床の上に胡坐《あぐら》をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう凝《じっ》としている。なにもう起きても好《い》いのさ」と云った。然しその翌日からは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性に太織《ふとおり》の蒲団を畳みながら「御父さんは御前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」と云った。私には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。
私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母《ちちはは》の顔を見る自由の利かない男であった。妹は他国へ嫁いだ。これも急場の間に合う様に、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹《きょうだい》三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母の云い付け通り学校の課業を放り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。御母さんがあまり仰山な手紙を書くものだから不可《いけ》ない」
父は口ではこう云った。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床を上げさせて、何時ものような元気を示した。
「あんまり軽はずみをして又逆回《ぶりかえ》すと不可ませんよ」
私のこの注意を父は愉快そうに然し極《きわ》めて軽く受けた。
「なに大丈夫、これで何時もの様に要心さえしていれば」
実際父は大丈夫らしかった。家《いえ》の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈も感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これは又今始まった症状でもないので、私達は格別それを気に留めなかった。
私は先生に手紙を書いて恩借の礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断った。そうして父の病状の思った程険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪《ふうじゃ》に就いても一言《いちごん》の見舞を付け加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂《うわさ》などをしながら、遙かに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸《しいたけ》でも持って行って御上げ」
「ええ、然し先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「旨《うま》くはないが、別に嫌《きらい》な人もないだろう」
私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
先生の返事が来た時、私は一寸《ちょっと》驚ろかされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚ろかされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。尤もこれは私が先生から受取った第一の手紙には相違なかったが。
第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事を一寸断って置きたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰っていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛で書いた大変長いものである。
父は病気の性質として、運動を慎《つつ》しまなければならないので、床を上げてからも、殆んど戸外《そと》へは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気《き》遣《づか》って、私が引き添うように傍《そば》に付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。
二十三
私は退屈な父の相手としてよく将碁盤《しょうぎばん》に向った。二人とも無精な性質《たち》なので、炬《こ》燵《たつ》にあたったまま、盤を櫓《やぐら》の上へ載せて、駒《こま》を動かすたびに、わざわざ手を掛蒲団の下から出すような事をした。時々持駒を失くして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付出して、火《ひ》箸《ばし》で挾み上げるという滑稽《こっけい》もあった。
「碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、其所へ来ると将碁盤は好いね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番遣ろう」
父は勝った時は必ずもう一番遣ろうと云った。その癖負けた時にも、もう一番遣ろうと云った。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍らしいので、この隠居じみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経つに伴《つ》れて、若い私の気力はその位な刺《し》戟《げき》で満足出来なくなった。私は金や香車《きょうしゃ》を握った拳《こぶし》を頭の上へ伸して、時々思い切ったあくびをした。
私は東京の事を考えた。そうして漲《みなぎ》る心臓の血潮の奥に、活動々々と打ちつづける鼓動を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らない程大人しい男であった。他《ひと》に認められるという点からいえば何方《どっち》も零《れい》であった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往《ゆき》来《き》をした覚《おぼえ》のない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、何時《いつ》か私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷《ひやや》か過ぎるから、私は胸と云い直したい。肉のなかに先生の力が喰い込んでいると云っても、血のなかに先生の命が流れていると云っても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生は又いうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな真理でも発見したかの如くに驚ろいた。
私がのっそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍らしかった私が段々陳腐になって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間位は下にも置かないように、ちやほや歓待《もてな》されるのに、その峠を定《てい》規《き》通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、仕舞には有っても無くっても構わないもののように粗末に取扱かわれ勝になるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者の家へ切《きり》支《し》丹《たん》の臭《におい》を持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、何時かそれが父や母の眼に留った。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察して貰ってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つと云い出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母が云った。
「まだ四五日居ても間に合うんだろう」と父が云った。
私は自分の極めた出立の日を動かさなかった。
二十四
東京へ帰って見ると、松飾はいつか取払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、何処を見てもこれという程の正月めいた景気はなかった。
私は早速先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸も序に持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。椎茸は新らしい菓子折に入れてあった。鄭寧に礼を述べた奥さんは、次の間へ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚ろかされたのか、「こりゃ何の御菓子」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところに極めて淡泊な小供らしい心を見せた。
二人とも父の病気について、色々掛《け》念《ねん》の問を繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。
「成程容体《ようだい》を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だから余程気をつけないと不可ません」
先生は腎臓の病に就《つ》いて私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気に罹《かか》っていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある士官は、とうとうそれで遣られたが、全く嘘のような死に方をしたんですよ。何しろ傍《そば》に寐ていた細君が看病をする暇もなんにもない位なんですからね。夜中に一寸苦しいと云って、細君を起したぎり、翌《あく》る朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寐ているとばかり思ってたんだって云うんだから」
今まで楽天的に傾むいていた私は急に不安になった。
「私の父《おやじ》もそんなになるでしょうか。ならんとも云えないですね」
「医者は何と云うのです」
「医者は到底《とても》治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それじゃ好《い》いでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれが随分乱暴な軍人なんだから」
私は稍《やや》安心した。私の変化を凝と見ていた先生は、それからこう付け足した。
「然し人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆《もろ》いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えて御《お》出《いで》ですか」
「いくら丈夫の私でも、満更考えない事もありません」
先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間《ま》に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。成程そういえばそうだ」
その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気の事はそれ程苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後は何等のこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度《いくたび》か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、愈《いよいよ》本式に書き始めなければならないと思い出した。
二十五
その年の六月に卒業する筈《はず》の私は、是非共この論文を成規通り四月一杯に書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑ぐった。他《ほか》のものは余程前から材料を蒐《あつめ》たり、ノートを溜《た》めたりして、余所目《よそめ》にも忙がしそうに見えるのに、私だけはまだ何《なん》にも手を着けずにいた。私にはただ年が改たまったら大いに遣ろうという決心だけがあった。私はその決心で遣り出した。そうして忽ち動けなくなった。今まで大きな問題を空《くう》に描いて、骨組だけは略《ほぼ》出来上っている位に考えていた私は、頭を抑えて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に纏《まと》める手《て》数《すう》を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論を一寸《ちょっと》付け加える事にした。
私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択に就いて先生の意見を尋ねた時、先生は好《い》いでしょうと云った。狼狽《ろうばい》した気味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快よく私に与えてくれた上に、必要の書物を二三冊貸そうと云った。然し先生はこの点について毫《ごう》も私を指導する任に当ろうとしなかった。
「近頃はあんまり書物を読まないから、新らしい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好《い》いでしょう」
先生は一時非常の読書家であったが、その後どういう訳か、前程この方面に興味が働らかなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時不図思い出した。私は論文を余所《よそ》にして、そぞろに口を開いた。
「先生は何故元のように書物に興味を有《も》ち得ないんですか」
「何故という訳もありませんが。……つまり幾何《いくら》本を読んでもそれ程えらくならないと思う所為《せい》でしょう。それから……」
「それから、未だあるんですか」
「まだあるという程の理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと耻《はじ》のように極《きまり》が悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それ程の耻でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んで見ようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早く云えば老い込んだのです」
先生の言葉は寧ろ平静であった。世間に脊中を向けた人の苦味《くみ》を帯びていなかっただけに、私にはそれ程の手応《てごたえ》もなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
それからの私は殆んど論文に祟《たた》られた精神病者の様に眼を赤くして苦しんだ。私は一年前に卒業した友達に就いて、色々様子を聞いて見たりした。そのうちの一人《いちにん》は締切の日に車で事務所へ馳《か》けつけて漸《ようや》く間に合わせたと云った。他の一人《いちにん》は五時を十五分程後《おく》らして持って行ったため、危《あや》うく跳《は》ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理して貰ったと云った。私は不安を感ずると共に度胸を据えた。毎日机の前で精根のつづく限り働らいた。でなければ、薄暗い書庫に這入って、高い本棚のあちらこちらを見廻した。私の眼は好《こう》事《ず》家《か》が骨董《こっとう》でも堀り出す時のように脊《せ》表紙《びょうし》の金文字をあさった。
梅が咲くにつけて寒い風は段々向を南へ更《か》えて行った。それが一《ひと》仕《し》切《きり》経つと、桜の噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭《むちう》たれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨《また》がなかった。
二十六
私の自由になったのは、八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞《かす》むように伸び始める初夏の季節であった。私は籠《かご》を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一《ひと》目《め》に見渡しながら、自由に羽《は》搏《ばた》きをした。私はすぐ先生の家《うち》へ行った。枳殻《からたち》の垣が黒ずんだ枝の上に、萌《もえ》るような芽を吹いていたり、柘榴《ざくろ》の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍らしさを覚えた。
先生は嬉しそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は、「御蔭で漸やく済みました。もう何《なん》にもする事はありません」と云った。
実際その時の私は、自分のなすべき凡《すべ》ての仕事が既《すで》に結了して、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足を有っていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々《ちょうちょう》した。先生は何時もの調子で、「成程」とか、「そうですか」とか云ってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足りないというよりも、聊《いささ》か拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みる程に生々《いきいき》していた。私は青く蘇生《よみがえ》ろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生何処かへ散歩しましょう。外へ出ると大変好《い》い心持です」
「何処へ」
私は何処でも構わなかった。ただ先生を伴れて郊外へ出たかった。
一時間の後《のち》、先生と私は目的通り市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛もなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉をソ《も》ぎ取って芝笛《しばぶえ》を鳴らした。ある鹿児島人を友達にもって、その人の真似をしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をして余所《よそ》を向いて歩いた。
やがて若葉に鎖《と》ざされたように蓊鬱《こんもり》した小高い一構《ひとかまえ》の下に細い路が開けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだら上《のぼ》りになっている入口を眺めて、「這入って見ようか」と云った。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。
植込の中を一うねりして奥へ上《のぼ》ると左側に家《うち》があった。明け放った障子の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断わらずに這入っても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
二人は又奥の方へ進んだ。然しそこにも人影は見えなかった。躑躅《つつじ》が燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで樺色《かばいろ》の丈《たけ》の高いのを指して、「これは霧島でしょう」と云った。
芍薬《しゃくやく》も十坪あまり一面に植付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬畠《しゃくやくばたけ》の傍《そば》にある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寐た。私はその余った端《はじ》の方に腰を卸して烟草《たばこ》を吹かした。先生は蒼《あお》い透き徹《とお》るような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺めると、一々違っていた。同じ楓《かえで》の樹でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の頂《いただき》に投げ被《かぶ》せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
二十七
私はすぐその帽子を取り上げた。所々に着いている赤土を爪で弾《はじ》きながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
身体《からだ》を半分起してそれを受取った先生は、起きるとも寐るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の家《うち》には財産が余程《よっぽど》あるんですか」
「あるという程ありゃしません」
「まあどの位あるのかね。失礼の様だが」
「どの位って、山と田地が少しあるぎりで、金なんかまるで無いんでしょう」
先生が私の家《いえ》の経済に就いて、問らしい問を掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ先生の暮し向に関して、何も聞いた事がなかった。先生と知合になった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかを疑ぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。然し私はそんな露骨《あらわ》な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思って何時でも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どの位の財産を有っていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
先生は平生から寧ろ質素な服装《なり》をしていた。それに家《か》内《ない》は小《こ》人《にん》数《ず》であった。従って住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊な事は、内輪に這入り込まない私の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢《ぜいたく》といえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私が云った。
「そりゃその位の金はあるさ。けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家《うち》でも造るさ」
この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐《あぐら》をかいていたが、こう云い終ると、竹の杖の先で地面の上へ円のようなものを描《か》き始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直に立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
先生の言葉は半分独言《ひとりごと》のようであった。それですぐ後《あと》に尾《つ》いて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」と云い直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。寧ろ不調法で答えられなかったのである。すると先生が又問題を他《よそ》へ移した。
「あなたの御父さんの病気はその後《ご》どうなりました」
私は父の病気について正月以後何《なん》にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替《かわせ》と共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟であったが、病気の訴えはそのうちに殆んど見当らなかった。その上書体も確《たしか》であった。この種の病人に見る顫《ふるえ》が少しも筆の運《はこび》を乱していなかった。
「何とも云って来ませんが、もう好《い》いんでしょう」
「好ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何《なん》とも云って来ませんよ」
「そうですか」
私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論其処《そこ》に気が付く筈がなかった。
二十八
「君のうちに財産があるなら、今のうちに能《よ》く始末をつけて貰って置かないと不可《いけな》いと思うがね、余計な御世話だけれども。君の御父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰って置くようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
私は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚ろかされた。然し其所は年長者に対する平《へい》生《ぜい》の敬意が私を無口にした。
「あなたの御父さんが亡くなられるのを、今から予想して掛るような言葉遣をするのが気に触ったら許してくれたまえ。然し人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、何時死ぬか分らないものだからね」
先生の口《こう》気《き》は珍らしく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄妹は何人でしたかね」と先生が聞いた。
先生はその上に私の家族の人数を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんな善《い》い人ですか」
「別に悪い人間という程のものもいないようです。大抵田舎者ですから」
「田舎者は何故悪くないんですか」
私はこの追窮に苦しんだ。然し先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、却って悪い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中《うち》に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳《い》型《かた》に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間《ま》際《ぎわ》に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」
先生のいう事は、此所《ここ》で切れる様子もなかった。私は又此所で何か云おうとした。すると後《うしろ》の方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚ろいて後を振り返った。
縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍《そば》に、熊笹《くまざさ》が三坪程地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と脊を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十《とお》位の小供が馳《か》けて来て犬を叱り付けた。小供は徽章《きしょう》の着いた黒い帽子を被ったまま先生の前へ廻って礼をした。
「叔父さん、這入って来る時、家《うち》に誰もいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方に居たのに」
「そうか、居たのかい」
「ああ。叔父さん、今《こん》日《ち》はって、断って這入って来ると好かったのに」
先生は苦笑した。懐中《ふところ》から蟇口《がまぐち》を出して、五銭の白銅を小供の手に握らせた。
「おっかさんにそう云っとくれ。少し此所で休まして下さいって」
小供は怜悧《りこう》そうな眼に笑を漲《みなぎ》らして、首肯《うなず》いて見せた。
「今斥候長《せっこうちょう》になってるところなんだよ」
小供はこう断って、躑躅《つつじ》の間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻《しっ》尾《ぽ》を高く巻いて小供の後《あと》を追い掛けた。しばらくすると同じ位の年格好の小供が二三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。
二十九
先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事が出来なくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々《うんぬん》の掛《け》念《ねん》はその時の私には全くなかった。私の性質として、又私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ない為でもあり、又実際その場に臨まない為《ため》でもあったろうが、とにかく若い私には何故か金の問題が遠くの方に見えた。
先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解らない事はなかった。然し私はこの句に就《つ》いてもっと知りたかった。
犬と小供が去ったあと、広い若葉の園は再び故《もと》の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖《と》ざされた人の様にしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失なって来た。眼の前にある樹は大概楓《かえで》であったが、その枝に滴《したた》るように吹いた軽い緑の若葉が、段段暗くなって行く様に思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響がごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想《めいそう》から呼息《いき》を吹き返した人のように立ち上った。
「もう、徐々《そろそろ》帰りましょう。大分日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、何時の間にか暮れて行くんだね」
先生の脊中には、さっき縁台の上に仰向《あおむき》に寐た痕《あと》が一杯着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。脂《やに》がこびり着いてやしませんか」
「綺麗に落ちました」
「この羽織はつい此間《こないだ》拵《こし》らえたばかりなんだよ。だから無暗に汚して帰ると、妻《さい》に叱られるからね。有難《ありがと》う」
二人は又だらだら坂の中途にある家《うち》の前へ来た。這入る時には誰もいる気色の見えなかった縁に、御《お》上《かみ》さんが、十五六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうも御邪魔をしました」と挨拶した。御上さんは「いいえ御構い申しも致しませんで」と礼を返した後《あと》、先刻《さっき》小供に遣《や》った白銅の礼を述べた。
門口を出て二三町来た時、私はついに先生に向って口を切った。
「さき程先生の云われた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理窟じゃないんだ」
「事実で差支《さしつかえ》ありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合がないと云った風に。
「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」
私には先生の返事があまりに平凡過ぎてつまらなかった。先生が調子に乗らない如く、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後《おく》れ勝になった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見給え」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
待ち合わせるために振り向いて立ち留まった私の顔を見て、先生はこう云った。
三十
その時の私《わたくし》は腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥《こだわ》る様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹《ごうはら》になった。何とかいって一つ先生を遣《や》っ付けて見たくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮《こうふん》なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多に見た事がないんですが、今日は珍らしいところを拝見した様な気がします」
先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応《てごたえ》のあったようにも思った。また的が外《はず》れたようにも感じた。仕方がないから後は云わない事にした。すると先生がいきなり道の端《はじ》へ寄って行った。そうして綺麗に刈り込んだ生垣《いけがき》の下で、裾《すそ》をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやり其所に立っていた。
「やあ失敬」
先生はこういって又歩き出した。私はとうとう先生を遣り込める事を断念した。私達の通る道は段々賑《にぎ》やかになった。今までちらほらと見えた広い畠の斜面や平《ひら》地《ち》が、全く眼に入《い》らないように左右の家並《いえなみ》が揃《そろ》ってきた。それでも所々宅地の隅《すみ》などに、豌豆《えんどう》の蔓《つる》を竹にからませたり、金網で鶏《にわとり》を囲い飼いにしたりするのが閑静に眺められた。市中から帰る駄馬が仕切りなく擦《す》れ違って行った。こんなものに始終気を奪《と》られがちな私は、さっきまで胸の中《なか》にあった問題を何処かへ振り落してしまった。先生が突然其処へ後戻りをした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻《さっき》そんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにと云う程でもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立っても二十年立っても忘れやしないんだから」
先生の言葉は元よりも猶《なお》昂奮していた。然し私の驚ろいたのは、決してその調子ではなかった。寧《むし》ろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力《しゅうじゃくりょく》を未《いま》だ嘗《かつ》て想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処に、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾を突いて見ようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこう云った。
「私は他《ひと》に欺むかれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼等は、父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日《きょう》まで脊負《しょ》わされている。恐らく死ぬまで脊負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事が出来ないんだから。然し私はまだ復讐《ふくしゅう》をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現に遣っているんだ。私は彼等を憎むばかりじゃない、彼等が代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
私は慰藉《いしゃ》の言葉さえ口へ出せなかった。
三十一
その日の談話も遂にこれぎりで発展せずにしまった。私は寧ろ先生の態度に畏縮《いしゅく》して、先へ進む気が起らなかったのである。
二人は市の外《はず》れから電車に乗ったが、車内では殆《ほと》んど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、又変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」と云った。私は笑って帽子を脱《と》った。その時私は先生の顔を見て、先生は果して心の何処で、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑《うたぐ》った。その眼、その口、何処にも厭世《えんせい》的の影は射していなかった。
私は思想上の問題に就いて、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。然し同じ問題に就いて、利益を受けようとしても、受けられない事が間々《まま》あったと云わなければならない。先生の談話は時として不得要領に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏《うち》に残った。
無遠慮な私は、ある時遂にそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこう云った。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解ってる癖に、はっきり云ってくれないのは困ります」
「私は何《なん》にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏《まと》め上げた考を無暗に人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉《ことごと》くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それは又別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私には殆んど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足は出来ないのです」
先生はあきれたと云った風に、私の顔を見た。巻烟草《まきたばこ》を持っていたその手が少し顫《ふる》えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目《まじめ》なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐《あば》いてもですか」
訐くという言葉が、突然恐ろしい響を以《もっ》て、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼《あお》かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑《うたぐ》りつけている。だから実はあなたも疑っている。然しどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るには余りに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他《ひと》を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
私の声は顫えた。
「よろしい」と先生が云った。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。然し私の過去はあなたに取ってそれ程有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増《まし》かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、その積りでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
三十二
私の論文は自分が評価していた程に、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は黴《かび》臭《くさ》くなった古い冬服を行李《こうり》の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚《あつ》羅《ら》紗《しゃ》の下に密封された自分の身体《からだ》を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
私は式が済むとすぐ帰って裸体《はだか》になった。下宿の二階の窓をあけて、遠《とお》眼鏡《めがね》のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室《へや》の真中に寐《ね》そべった。私は寐ながら自分の過去を顧みた。又自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切を付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、又意味のないような変な紙に思われた。
私はその晩先生の家へ御《ご》馳《ち》走《そう》に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐《ばんさん》は余所で喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
食卓は約束通り座敷の縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊《のり》の硬《こわ》い卓《テーブル》布《クロース》が美くしくかつ清らかに電燈の光を射返していた。先生のうちで飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸《はし》や茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白なものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いる位なら、一《いっ》層《そ》始から色の着いたものを使うが好い。白ければ純白でなくっちゃ」
こう云われて見ると、成程先生は潔癖であった。書斎なども実に整然《きちり》と片付いていた。無《む》頓着《とんじゃく》な私には、先生のそういう特色が折々著るしく眼に留まった。
「先生は癇性《かんしょう》ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それ程気にしないようですよ」と答えた事があった。それを傍《そば》に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿々々しい性分だ」と云って笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、又は倫理的に潔癖だという意味か、私には解らなかった。奥さんにも能《よ》く通じないらしかった。
その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓《たく》布《ふ》の前に坐った。奥さんは二人を左右に置いて、独《ひと》り庭の方を正面にして席を占めた。
「御目出とう」と云って、先生が私のために杯《さかずき》を上げてくれた。私はこの盃《さかずき》に対してそれ程嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさを有《も》っていなかったのが、一つの源因であった。けれども先生の云い方も決して私の嬉しさを唆《そそ》る浮々した調子を帯びていなかった。先生は笑って杯を上げた。私はその笑のうちに、些《ちっ》とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲《く》み取る事が出来なかった。先生の笑は、「世間はこんな場合によく御目出とうと云いたがるものですね」と私に物語っていた。
奥さんは私に「結構ね。さぞ御父さんや御母さんは御喜びでしょう」と云ってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せて遣ろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだ何処かにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってある筈ですが」
卒業証書の在処《ありどころ》は二人とも能く知らなかった。
三十三
飯になった時、奥さんは傍《そば》に坐っている下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕《し》来《きた》りらしかった。始めの一二回は私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「御茶? 御飯? 随分よく食べるのね」
奥さんの方でも思い切って遠慮のない事を云うことがあった。然しその日は、時候が時候なので、そんなに調戯《からか》われる程食慾《しょくよく》が進まなかった。
「もう御仕舞。あなた近頃大変小食になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後《あと》へ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせた。
「これは宅《うち》で拵えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯更《か》えて貰った。
「君も愈《いよいよ》卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷《しき》居《い》際《ぎわ》で脊中を障子に靠《も》たせていた。
私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的《あて》もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃ御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものに就いて、全く考えた事がない位なんですから。だいちどれが善《い》いか、どれが悪いか、自分が遣《や》って見た上でないと解らないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは必竟《ひっきょう》財産があるからそんな呑《のん》気《き》な事を云っていられるのよ。これが困る人で御覧なさい。中々あなたの様に落付いちゃいられないから」
私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。然しこう云った。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「碌《ろく》なかぶれ方をして下さらないのね」
先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間云った通り、御父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けて貰って御置きなさい。それでないと決して油断はならない」
私は先生と一所に、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅《つつじ》の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り途《みち》に、先生が昂奮した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、寧ろ凄《すご》い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、御宅の財産は余ッ程あるんですか」
「何だってそんな事を御聞になるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げる程ないからでしょう」
「でもどの位あったら先生のようにしていられるか、宅《うち》へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
先生は庭の方を向いて、澄まして烟草を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どの位って程ありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮して行かれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも宜《い》いとして、あなたはこれから何か為《な》さらなくっちゃ本当に不《いけ》可《ま》せんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
三十四
私はその夜十時過に先生の家を辞した。二三日うちに帰国する筈になっていたので、座を立つ前に私は一寸暇乞《いとまごい》の言葉を述べた。
「又当分御目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。然し暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃になるでしょう」
「じゃ随分御機嫌よう。私達もこの夏はことによると何処かへ行くかも知れないのよ。随分暑そうだから。行ったら又絵《え》端《は》書《がき》でも送って上げましょう」
「どちらの見当です。若しいらっしゃるとすれば」
先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも極《き》めていやしないんです」
席を立とうとした時に、先生は急に私をつらまえて、「時に御父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康に就《つ》いて殆んど知るところがなかった。何とも云って来ない以上、悪くはないのだろう位に考えていた。
「そんなに容易《たやす》く考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症が出ると、もう駄目なんだから」
尿毒症という言葉も意味も私には解らなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にして御上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
奥さんは昔同じ病気で死んだという自分の御母さんの事でも憶《おも》い出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「静《しず》、御前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「何故」
「何故でもない、ただ聞いて見るのさ。それとも己《おれ》の方が御前より前《まえ》に片付くかな。大抵世間じゃ旦那が先で、細君が後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう極った訳でもないわ。けれども男の方《ほう》はどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理窟なのかね。すると己も御前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。殆んど煩《わずら》った例《ためし》がないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
「ええ、きっと先よ」
先生は私の顔を見た。私は笑った。
「然しもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたら御前どうする」
「どうするって……」
奥さんは其所で口籠《くちごも》った。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更えていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定《ふじょう》っていう位だから」
奥さんはことさらに私の方を見て笑談《じょうだん》らしくこう云った。
三十五
私は立て掛けた腰を又卸して、話の区切の付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固《もと》より私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆んど同《おん》なじよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同《おん》なじじゃないけれども。でもまあ同《おん》なじよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
この知識は私にとって新らしいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
奥さんは私の問に答えようとした。先生はそれを遮《さえぎ》った。
「そんな話は御止《よ》しよ。つまらないから」
先生は手に持った団扇《うちわ》をわざとばたばた云わせた。そうして又奥さんを顧みた。
「静、おれが死んだらこの家《うち》を御前に遣ろう」
奥さんは笑い出した。
「序《ついで》に地面も下さいよ」
「地面は他《ひと》のものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆《みん》な御前に遣るよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰っても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくら位になって」
先生はいくらとも云わなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それが何時の間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍仰《おっ》しゃるの。後生だからもう好《い》い加減にして、おれが死んだらは止して頂戴。縁喜《えんぎ》でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。然しそれぎり奥さんの厭《いや》がる事を云わなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「御病人を御大事に」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀《もくせい》の一株が、私の行手を塞《ふさ》ぐように、夜陰のうちに枝を張っていた。私は二三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被《おお》われているその梢《こずえ》を見て、来《きた》るべき秋の花と香《か》を想い浮べた。私は先生の宅《うち》とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事の出来ないもののように、一所に記憶していた。私が偶然その樹の前に立って、再びこの宅の玄関を跨《また》ぐべき次の秋に思を馳《は》せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へ這入《はいっ》たらしかった。私は一人暗い表へ出た。
私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調のえる買物もあったし、御馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女《なんにょ》がぞろぞろ動く中に、私は今日私と一所に卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場《バー》へ連れ込んだ。私は其所で麦酒《ビール》の泡のような彼の気《き》タ《えん》を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過であった。
三十六
私はその翌日も暑さを冒《おか》して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫《おっくう》に感ぜられた。私は電車の中で汗を拭きながら、他《ひと》の時間と手数に気の毒という観念をまるで有っていない田舎者を憎らしく思った。
私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものを予《あらかじ》め作って置いたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善の二階で潰《つぶ》す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅《すみ》から隅まで一冊ずつ点検して行った。
買物のうちで一番私を困らせたのは女の半《はん》襟《えり》であった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、只迷うだけであった。その上価《あたい》が極《きわ》めて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、却《かえ》って大変安かったりした。或はいくら比べて見ても、何処から価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、何故先生の奥さんを煩わさなかったかを悔いた。
私は鞄《かばん》を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇《おど》かすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新らしい鞄を買って、そのなかに一切の土産ものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡《りょうけん》が解らないというよりも、その言葉が一種の滑稽《こっけい》として訴えたのである。
私は暇乞をする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気に就いて先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私は寧ろ父が居なくなったあとの母を想像して気の毒に思った。その位だから私は心の何処かで、父は既《すで》に亡くなるべきものと覚悟していたに違なかった。九州にいる兄へ遣った手紙のなかにも、私は父の到底《とても》故《もと》の様な健康体になる見込のない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、出来るなら繰り合せてこの夏位一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定めて心細いだろう、我々も子として遺《い》憾《かん》の至《いたり》であるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私は又先生夫婦の事を想い浮べた。ことに二三日前晩食《ばんめし》に呼ばれた時の会話を憶い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返して見た。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事が出来ないのだと思った。然し何方《どっち》が先へ死ぬと判然《はっきり》分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事も出来ないように)。私は人間をはかないものに観じた。人間のどうする事も出来ない持って生れた軽薄を、はかないものに観じた。
中 両親と私
一
宅《うち》へ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業が出来てまあ結構だった。一寸《ちょっと》御待ち、今顔を洗って来るから」
父は庭へ出て何か為《し》ていたところであった。古い麦藁帽《むぎわらぼう》の後へ、日《ひ》除《よけ》のために括《くく》り付けた薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻って行った。
学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私は、それを予期以上に喜こんでくれる父の前に恐縮した。
「卒業が出来てまあ結構だ」
父はこの言葉を何遍も繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の家《うち》の食卓で、「御目出とう」と云われた時の先生の顔付とを比較した。私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それ程にもないものを珍らしそうに嬉しがる父よりも、却《かえ》って高尚に見えた。私は仕舞に父の無知から出る田舎臭《くさ》いところに不快を感じ出した。
「大学位卒業したって、それ程結構でもありません。卒業するものは毎年《まいとし》何百人だってあります」
私は遂にこんな口の利きようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかり云うんじゃない。そりゃ卒業は結構に違ないが、おれの云うのはもう少し意味があるんだ。それが御前に解っていてくれさえすれば、……」
私は父からその後《あと》を聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこう云った。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれは御前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬御前に会った時、ことによるともう三《み》月《つき》か四《よ》月《つき》位なものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合せか、今日《きょう》までこうしている。起《たち》居《い》に不自由なくこうしている。そこへ御前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。折角丹精した息子が、自分の居なくなった後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。大きな考を有《も》っている御前から見たら、高が大学を卒業した位で、結構だ結構だと云われるのは余り面白くもないだろう。然しおれの方から見て御覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業は御前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
私は一言《いちごん》もなかった。詫《あや》まる以上に恐縮して俯《うつ》向《む》いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものと見える。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたと見える。その卒業が父の心にどの位《くらい》響くかも考えずにいた私は全く愚《おろか》ものであった。私は鞄《かばん》の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧し潰されて、元の形を失っていた。父はそれを鄭《てい》寧《ねい》に伸《の》した。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心《しん》でも入れると好かったのに」と母も傍《かたわら》から注意した。
父はしばらくそれを眺めた後《あと》、起って床の間の所へ行って、誰の目にもすぐ這入《はい》るような正面へ証書を置いた。何時《いつ》もの私ならすぐ何とかいう筈《はず》であったが、その時の私はまるで平生と違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為《な》すがままに任せて置いた。一旦癖のついた鳥の子紙《がみ》の証書は、中々父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるや否や、すぐ己《おの》れに自然な勢を得て倒れようとした。
二
私は母を蔭へ呼んで父の病状を尋ねた。
「御父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれで可《い》いんですか」
「もう何ともないようだよ。大方好く御なりなんだろう」
母は案外平気であった。都会から懸け隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれ程驚ろいて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独り異《い》な感じを抱《いだ》いた。
「でも医者はあの時到底《とても》むずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体《からだ》ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれ程御医者が手重く云ったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。御母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情でねえ。自分が好《い》いと思い込んだら、中々私のいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
私はこの前帰った時、無理に床を上げさして、髭《ひげ》を剃《そ》った父の様子と態度とを思い出した。「もう大丈夫、御母さんがあんまり仰山過ぎるから不可《いけ》ないんだ」といったその時の言葉を考えて見ると、満更母ばかり責める気にもなれなかった。「然《しか》し傍《はた》でも少しは注意しなくっちゃ」と云おうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病《やまい》の性質に就いて、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。然しその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同《おん》なじ病気でね。御気の毒だね。いくつで御亡くなりかえ、その方は」などと聞いた。
私は仕方がないから、母をそのままにして置いて直接父に向った。父は私の注意を母よりは真面目《まじめ》に聞いてくれた。「尤《もっと》もだ。御前のいう通りだ。けれども、己《おれ》の身体は必竟《ひっきょう》己の身体で、その己の身体に就いての養生法は、多年の経験上、己が一番能《よ》く心得ている筈だからね」と云った。それを聞いた母は苦笑した。「それ御覧な」と云った。
「でも、あれで御父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜こんでいるのも、全くその為《ため》なんです。生きてるうちに卒業は出来まいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉しいんだって、御父さんは自分でそう云っていましたぜ」
「そりゃ、御前、口でこそそう御云いだけれどもね。御《お》腹《なか》のなかではまだ大丈夫だと思って御《お》出《いで》のだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気で御出のだよ。尤も時々はわたしにも心細いような事を御云いだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、御前はどうする、一人でこの家《うち》に居る気かなんて」
私は急に父が居なくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家を想像して見た。この家から父一人を引き去った後《あと》は、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私は又此所《ここ》の土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬって云う人に死んだ試《ためし》はないんだから安心だよ。御父さんなんぞも、死ぬ死ぬって云いながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が劒呑《けんのん》さ」
私は理窟から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐なような母の言葉を黙然《もくねん》と聞いていた。
三
私のために赤い飯《めし》を炊《た》いて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、或《あるい》はこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗にそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり仰山な事は止して下さい」
私は田舎の客が嫌《きらい》だった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的として遣《や》って来る彼等は、何か事があれば好《い》いといった風の人ばかり揃《そろ》っていた。私は子供の時から彼等の席に侍するのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼等が来るとなると、私の苦痛は一層甚《はなはだ》しいように想像された。然し私は父や母の手前、あんな野鄙《やひ》な人を集めて騒ぐのは止せとも云いかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山々々と御云いだが、些《ちっ》とも仰山じゃないよ。生涯《しょうがい》に二度とある事じゃないんだからね、御客位するのは当り前だよ。そう遠慮を御為《おし》でない」
母は私が大学を卒業したのを、丁度嫁でも貰ったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても好《い》いが、呼ばないと又何とか云うから」
これは父の言葉であった。父は彼等の陰口を気にしていた。実際彼等はこんな場合に、自分達の予期通りにならないと、すぐ何とか云いたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅《うるさ》いからね」
父はこうも云った。
「御父さんの顔もあるんだから」と母が又付け加えた。
私は我を張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好《い》いようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、止して下さいと云うだけなんです。陰で何か云われるのが厭《いや》だからという御主意なら、そりゃ又別です。あなたがたに不利益な事を私が強《し》いて主張したって仕方がありません」
「そう理窟を云われると困る」
父は苦い顔をした。
「何も御前の為にするんじゃないと御父さんが仰《おっ》しゃるんじゃないけれども、御前だって世間への義理位は知っているだろう」
母はこうなると女だけにしどろもどろな事を云った。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても中々敵《かな》うどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理窟っぽくなって不可ない」
父はただこれだけしか云わなかった。然し私はこの簡単な一句のうちに、父が平生から私に対して有っている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張ったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理の様に思った。
父はその夜また気を更《か》えて、客を呼ぶなら何日《いつ》にするかと私の都合を聞いた。都合の好《い》いも悪いもなしに只ぶらぶら古い家の中に寐《ね》起《おき》している私に、こんな問を掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥《こだわ》らない頭を下げた。私は父と相談の上招待《しょうだい》の日取を極めた。
その日取のまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇の御病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家のうちに多少の曲折を経て漸《ようや》く纏《まと》まろうとした私の卒業祝を、塵《ちり》の如くに吹き払った。
「まあ御遠慮申した方が可かろう」
眼鏡《めがね》を掛けて新聞を見ていた父はこう云った。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下を憶《おも》い出したりした。
四
小《こ》勢《ぜい》な人《にん》数《ず》には広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私は行《こう》李《り》を解いて書物を繙《ひもと》き始めた。何故《なぜ》か私は気が落ち付かなかった。あの目眩《めまぐ》るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁《ページ》を一枚々々にまくって行く方が、気に張があって心持よく勉強が出来た。
私は稍《やや》ともすると机にもたれて仮寐《うたたね》をした。時にはわざわざ枕さえ出して本式に昼寐を貪《むさ》ぼる事もあった。眼が覚めると、蝉《せみ》の声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、急にやかましく耳の底を掻《か》き乱した。私は凝《じっ》とそれを聞きながら、時に悲しい思を胸に抱《いだ》いた。
私は筆を執って友達のだれかれに短かい端書又は長い手紙を書いた。その友達のあるものは東京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信《たより》の届かないのもあった。私は固《もと》より先生を忘れなかった。原稿紙へ細字で三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分というようなものを題目にして書き綴《つづ》ったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生は果してまだ東京にいるだろうかと疑ぐった。先生が奥さんと一所に宅《うち》を空ける場合には、五十恰好《がっこう》の切下《きりさげ》の女の人が何処からか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違えていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向音信《おんしん》の取り遣りをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚であった。私は先生に郵便を出す時、不図幅の細い帯を楽に後で結んでいるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦が何処かへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下の御婆さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。その癖その手紙のうちにはこれという程の必要の事も書いてないのを、私は能く承知していた。ただ私は淋《さび》しかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。然しその返事は遂に来なかった。
父はこの前の冬に帰って来た時程将棋を差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜《たま》ったまま、床の間の隅《すみ》に片寄せられてあった。ことに陛下の御病気以後父は凝と考え込んでいるように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読《よみ》がらをわざわざ私の居る所へ持って来てくれた。
「おい御覧、今日も天子様の事が詳しく出ている」
父は陛下のことを、つねに天子さまと云っていた。
「勿体ない話だが、天子さまの御病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
こういう父の顔には深い掛《け》念《ねん》の曇がかかっていた。こう云われる私の胸には又父が何時《いつ》斃《たお》れるか分らないという心配がひらめいた。
「然し大丈夫だろう。おれの様な下らないものでも、まだこうしていられる位だから」
父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己《おの》れに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「御父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。御母さんの仰しゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちっと又将棋でも差すように勧めて御覧な」
私は床の間から将棋盤を取り卸して、ほこりを拭いた。
五
父の元気は次第に衰ろえて行った。私を驚ろかせたハンケチ付の古い麦藁《むぎわら》帽子が自然と閑却されるようになった。私は黒い煤《すす》けた棚の上に載っているその帽子を眺めるたびに、父に対して気の毒な思をした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎《つつし》んでくれたらと心配した。父が凝と坐り込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。私は父の健康に就いてよく母と話し合った。
「全たく気の所為《せい》だよ」と母が云った。母の頭は陛下の病と父の病とを結び付けて考えていた。私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない、本当に身体が悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
私はこう云って、心のうちで又遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏は御前もつまらなかろう。折角卒業したのに、御祝もして上げる事が出来ず、御父さんの身体もあの通りだし。それに天子様の御病気で。――いっその事、帰るすぐに御客でも呼ぶ方が好かったんだよ」
私が帰ったのは七月の五六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうと云いだしたのは、それから一週間後《ご》であった。そうして愈《いよいよ》と極めた日はそれから又一週間の余《よ》も先になっていた。時間に束縛を許さない悠長《ゆうちょう》な田舎に帰った私は、御《お》蔭《かげ》で好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しも其所《そこ》に気が付いていないらしかった。
崩御の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」と云った。
「ああ、ああ、天子様もとうとう御かくれになる。己《おれ》も……」
父はその後《あと》を云わなかった。
私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿《はたざお》の球《たま》を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひらひらを付けて、門の扉の横から斜《なな》めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下った。私の宅の古い門の屋根は藁《わら》で葺《ふ》いてあった。雨や風に打たれたり又吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々の凸凹《でこぼこ》さえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構《かまえ》はどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家《いえ》を、先生に見せたくもあった。又先生に見せるのが耻《は》ずかしくもあった。
私は又一人家《いえ》のなかへ這入った。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火の如くに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦の中に、自然と捲《ま》き込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯《ひ》もまたふっと消えてしまうべき運命を、眼の前に控えているのだとは固より気が付かなかった。
私は今度の事件に就《つ》いて先生に手紙を書こうかと思って、筆を執りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已《や》めた。書いた所は寸々《すんずん》に引き裂いて屑籠《くずかご》へ投げ込んだ。(先生に宛ててそう云う事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴《ちょう》して見ると、とても返事をくれそうになかったから)。私は淋しかった。それで手紙を書《かく》のであった。そうして返事が来れば好《い》いと思うのであった。
六
八月の半《なかば》ごろになって、私はある朋友から手紙を受け取った。その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻る男であった。この口も始めは自分のところへかかって来たのだが、もっと好《い》い地方へ相談が出来たので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。知り合いの中には、随分骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻して遣ったら好かろうと書いた。
私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ好《い》い口があるだろう」
こういってくれる裏に、私は二人が私に対して有っている過分な希望を読んだ。迂《う》濶《かつ》な父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、近頃じゃそんな旨《うま》い口は中々あるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「然し卒業した以上は、少くとも独立して遣って行ってくれなくっちゃ此方《こっち》も困る。人からあなたのところの御二男は、大学を卒業なすって何をして御出ですかと聞かれた時に返事が出来ない様じゃ、おれも肩身が狭いから」
父は渋面《しゅうめん》をつくった。父の考えは古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。その郷里の誰彼から、大学を卒業すればいくら位月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円位なものだろうかと云われたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体な人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚しい父と母の前に黙然としていた。
「御前のよく先生々々という方にでも御願したら好《い》いじゃないか。こんな時こそ」
母はこうより外に先生を解釈する事が出来なかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をして遣ろうという人ではなかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何《なん》にもしていないんです」と私が答えた。
私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げた積りでいた。そうして父はたしかにそれを記憶している筈であった。
「何もしていないと云うのは、またどういう訳かね。御前がそれ程尊敬する位な人なら何か遣っていそうなものだがね」
父はこう云って、私を諷《ふう》した。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働らいている。必竟《ひっきょう》やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれの様な人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
父はこうも云った。私はそれでもまだ黙っていた。
「御前のいう様な偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んで御覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。何故頼まないんだい。手紙でも好《い》いから御出しな」
「ええ」
私は生返《なまへん》事《じ》をして席を立った。
七
父は明らかに自分の病気を恐れていた。然し医者の来るたびに蒼蠅《うるさ》い質問を掛けて相手を困らす質《たち》でもなかった。医者の方でもまた遠慮して何とも云わなかった。
父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分が居なくなった後《あと》のわが家《いえ》を想像して見るらしかった。
「小供に学問をさせるのも、好《よ》し悪《あし》だね。折角修業をさせると、その小供は決して宅《うち》へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
学問をした結果兄は今遠国にいた。教育を受けた因果で、私は又東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てた父の愚痴《ぐち》はもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家の中に、たった一人取り残されそうな母を描き出す父の想像はもとより淋しいに違いなかった。
わが家《いえ》は動かす事の出来ないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動かす事の出来ないものと信じていた。自分が死んだ後《あと》、この孤独な母を、たった一人伽《が》藍堂《らんどう》のわが家に取り残すのもまた甚しい不安であった。それだのに、東京で好《い》い地位を求めろと云って、私を強《し》いたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾を可笑《おか》しく思ったと同時に、その御蔭で又東京へ出られるのを喜こんだ。
私は父や母の手前、この地位を出来るだけの努力で求めつつある如くに装おわなくてはならなかった。私は先生に手紙を書いて、家《いえ》の事情を精《くわ》しく述べた。もし自分の力で出来る事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。又取り合う積りでも、世間の狭い先生としてはどうする事も出来まいと思いながらこの手紙を書いた。然し私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
私はそれを封じて出す前に母に向って云った。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたの仰しゃった通り。一寸読んで御覧なさい」
母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早く御出し。そんな事は他《ひと》が気を付けないでも、自分で早く遣るものだよ」
母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「然し手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、又ひょっとして、どんな好《い》い口がないとも限らないんだから、早く頼んで置くに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極ってますから、そうしたら又御話ししましょう」
私はこんな事に掛けて几帳面な先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待に待った。けれども私の予期はついに外《はず》れた。先生からは一週間経っても何の音信《たより》もなかった。
「大方どこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
私は母に向って云訳《いいわけ》らしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対する言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強いても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。
私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父に云い出す機会を得ずに過ぎた。
八
九月始めになって、私は愈又東京へ出ようとした。私は父に向って当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「此所にこうしていたって、あなたの仰しゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
私は父の希望する地位を得るために東京へ行くような事を云った。
「無論口の見付かるまでで好《い》いですから」とも云った。
私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はまた飽くまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅《わずか》の間《あいだ》の事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くは不可《いけな》いよ。相当の地位を得次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他《ひと》の世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」
父はこの外にもまだ色々の小言を云った。その中には、「昔の親は子に食わせて貰ったのに、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それ等を私はただ黙って聞いていた。
小言が一通《ひととおり》済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父は何時行くかと私に尋ねた。私には早いだけが好かった。
「御母さんに日を見て貰いなさい」
「そう為《し》ましょう」
その時の私は父の前に存外大人しかった。私はなるべく父の機嫌に逆わずに、田舎を出ようとした。父は又私を引き留めた。
「御前が東京へ行くと宅は又淋《さみ》しくなる。何しろ己と御母さんだけなんだからね。そのおれも身体さえ達者なら好《い》いが、この様子じゃ何時急にどんな事がないとも云えないよ」
私は出来るだけ父を慰さめて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐って、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度か繰り返し眺めた。私はその時又蝉《せみ》の声を聞いた。その声はこの間中聞いたのと違って、つくつく法《ぼう》師《し》の声であった。私は夏郷里に帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝と坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった。私の哀愁はいつもこの虫の烈《はげ》しい音《ね》と共に、心の底に沁《し》み込むように感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変る如くに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪《りん》廻《ね》のうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋しそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶い浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点に於て、比較の上にも、連想の上にも、一所に私の頭に上り易かった。
私は殆《ほと》んど父の凡《すべ》ても知り尽していた。もし父を離れるとすれば、情合《じょうあい》の上に親子の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解っていなかった。話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私は是非とも其所を通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。私は母に日を見て貰って、東京へ立つ日取を極めた。
九
私《わたくし》が愈《いよいよ》立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父は又突然引っ繰返った。私はその時書物や衣類を詰めた行李をからげていた。父は風呂へ入ったところであった。父の脊中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体《はだか》のまま母に後から抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴《つ》れて戻った時、父はもう大丈夫だと云った。念の為《ため》に枕元に坐って、濡《ぬれ》手拭《てぬぐい》で父の頭を冷《ひや》していた私は、九時頃になって漸く形《かた》ばかりの夜食を済ました。
翌日になると父は思ったより元気が好かった。留めるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。
「もう大丈夫」
父は去年の暮倒れた時に私に向って云ったと同じ言葉を又繰り返した。その時は果して口で云った通りまあ大丈夫であった。私は今度も或はそうなるかも知れないと思った。然し医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然《はっきり》した事を話してくれなかった。私は不安のために、出立の日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
「そうして御くれ」と母が頼んだ。
母は父が庭へ出たり脊戸《せど》へ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいる癖に、こんな事が起るとまた必要以上に心配したり気を揉《も》んだりした。
「御前は今日東京へ行く筈じゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれの為にかい」と父が聞き返した。
私は一寸躊躇《ちゅうちょ》した。そうだと云えば、父の病気の重いのを裏書するようなものであった。私は父の神経を過敏にしたくなかった。然し父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」と云って、庭の方を向いた。
私は自分の部屋に這入《はい》って、其所に放り出された行李を眺めた。行李は何時持ち出しても差支《さしつかえ》ないように、堅く括《くく》られたままであった。私はぼんやりその前に立って、又縄を解こうかと考えた。
私は坐ったまま腰を浮かした時の落付かない気分で、又三四日を過ごした。すると父が又卒倒した。医者は絶対に安《あん》臥《が》を命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私に云った。母の顔は如何《いか》にも心細そうであった。私は兄と妹に電報を打つ用意をした。けれども寐ている父には、殆んど何の苦《く》悶《もん》もなかった。話をするところなどを見ると、風邪《かぜ》でも引いた時と全く同じ事であった。その上食慾《しょくよく》は不断よりも進んだ。傍《はた》のものが、注意しても容易に云う事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくっちゃ」
私には旨いものという父の言葉が滑稽《こっけい》にも悲酸にも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。夜《よ》に入《い》ってかき餅《もち》などを焼いて貰ってぼりぼり噛《か》んだ。
「どうしてこう渇《かわ》くのかね。やっぱり心《しん》に丈夫のところがあるのかも知れないよ」
母は失望していいところに却って頼みを置いた。その癖病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
伯父が見舞に来たとき、父は何時までも引き留めて帰さなかった。淋《さむ》しいからもっと居てくれというのが重な理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴たえるのも、その目的の一つであったらしい。
十
父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私はその間に長い手紙を九州にいる兄宛《あて》で出した。妹《いもと》へは母から出させた。私は腹の中で、恐らくこれが父の健康に関して二人へ遣る最後の音信《たより》だろうと思った。それで両方へ愈という場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。
兄は忙がしい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼《せま》らないうちに呼び寄せる自由は利かなかった。と云って、折角都合して来たには来たが、間に合わなかったと云われるのも辛かった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然《はっき》りした事になると私にも分りません。然し危険は何時来るか分らないという事だけは承知していて下さい」
停車場《ステーション》のある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元へ来て挨拶する白い服を着た女を見て変な顔をした。
父は死病に罹《かか》っている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に癒《なお》ったらもう一返《いっぺん》東京へ遊びに行って見よう。人間は何時死ぬか分らないからな。何でも遣りたい事は、生きてるうちに遣って置くに限る」
母は仕方なしに「その時は私も一所に伴れて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
時とすると又非常に淋《さみ》しがった。
「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣ってくれ」
私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶を有《も》っていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向って何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑を帯びた先生の顔と、縁《えん》喜《ぎ》でもないと耳を塞《ふさ》いだ奥さんの様子とを憶《おも》い出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのは何時起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事が出来なかった。然し口の先では何とか父を紛《まぎ》らさなければならなかった。
「そんな弱い事を仰しゃっちゃ不可《いけま》せんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃる筈じゃありませんか。御母さんと一所に。今度いらっしゃるときっと吃驚《びっくり》しますよ、変っているんで。電車の新らしい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないと云って可《い》い位です」
私は仕方がないから云わないで可《い》い事まで喋舌《しゃべ》った。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
病人があるので自然家《いえ》の出《で》入《いり》も多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人位の割で代る代る見舞に来た。中には比較的遠くに居て平生《へいぜい》疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠《や》せていないじゃないか」などと云って帰るものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎる程静であった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父と相談して、とうとう兄と妹に電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも立つという報知《しらせ》があった。妹はこの前懐妊した時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせる積りだと、かねて云い越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。
十一
こうした落付のない間にも、私はまだ静かに坐る余裕を有っていた。偶《たま》には書物を開けて十頁もつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦堅く括《くく》られた私の行李は、何時の間にか解かれてしまった。私は要《い》るに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極めた、この夏中の日課を顧みた。私の遣った事はこの日課の三《さん》ガ一《いち》にも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。然しこの夏程思った通り仕事の運ばない例《ためし》も少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭な気持に抑え付けられた。
私はこの不快の裏《うち》に坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後《あと》の事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端《りょうたん》に地位、教育、性格の全然異《こと》なった二人の面影を眺めた。
私が父の枕元を離れて、独り取り乱した書物の中に腕組をしているところへ母が顔を出した。
「少し午《ひる》眠《ね》でもおしよ。御前もさぞ草臥《くたび》れるだろう」
母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期する程の子供でもなかった。私は単簡《たんかん》に礼を述べた。母はまだ室《へや》の入口に立っていた。
「御父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寐《ね》て御《お》出《いで》だよ」と母が答えた。
母は突然這入って来て私の傍《そば》に坐った。
「先生からまだ何とも云って来ないかい」と聞いた。
母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。然《しか》し父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺むいたと同じ結果に陥った。
「もう一遍手紙を出して御覧な」と母が云った。
役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手《て》数《すう》を厭《いと》うような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遙《はる》かに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰えないのも、或はそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒《らち》は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻らなくっちゃ」
「だって御父さんがあの様子じゃ、御前、何時東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒《なお》るとも癒らないとも片付ないうちは、ちゃんとこうしている積りです」
「そりゃ解り切った話だね。今にもむずかしいという大病人《たいびょうにん》を放《ほう》ちらかして置いて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
私は始め心のなかで、何も知らない母を憐《あわ》れんだ。然し母が何故こんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解出来なかった。私が父の病気を余所《よそ》に、静かに坐ったり書見したりする余裕のある如くに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考えるだけ、胸に空地《すきま》があるのかしらと疑《うたぐ》った。その時「実はね」と母が云い出した。
「実は御父さんの生きて御《お》出《いで》のうちに、御前の口が極ったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああ遣って口も慥《たしか》なら気も慥なんだから、ああして御出のうちに喜こばして上げるように親孝行をおしな」
憐《あわ》れな私は親孝行の出来ない境遇にいた。私は遂に一行の手紙も先生に出さなかった。
十二
兄が帰って来た時、父は寐ながら新聞を読んでいた。父は平生から何を措《お》いても新聞だけには眼を通す習慣であったが、床についてからは、退屈のため猶更《なおさら》それを読みたがった。母も私も強いては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせて置いた。
「そういう元気なら結構なものだ。余程《よっぽど》悪いかと思って来たら、大変好《い》いようじゃありませんか」
兄はこんな事を云いながら父と話をした。その賑《にぎ》やか過ぎる調子が私には却《かえ》って不調和に聞こえた。それでも父の前を外《はず》して私と差し向いになった時は、寧《むし》ろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃ不可《いけ》なかないか」
「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「能《よ》く解るのかな」と云った。兄は父の理解力が病気のために、平生よりは余程《よっぽど》鈍っているように観察したらしい。
「そりゃ慥です。私はさっき二十分ばかり枕元に坐って色々話して見たが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによると未《ま》だ中々持つかも知れませんよ」
兄と前後して着いた妹の夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向って妹の事をあれこれと尋ねていた。「身体《からだ》が身体だから無暗に汽車になんぞ乗って揺れない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、却って此方《こっち》が心配だから」と云っていた。「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久し振に此方《こっち》から出掛るから差支ない」とも云っていた。
乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」と云った。
何事も知らない私達はこの突然な言葉に驚ろかされた。
「あの時は愈頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私に云った。「私も実は驚ろきました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
その頃の新聞は実際田舎ものには日毎に待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧《ていねい》にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装《なり》をしたその夫人の姿を忘れる事が出来なかった。
悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹や草を震わせている最中に、突然私は一通の電報を先生から受取った。洋服を着た人を見ると犬が吠えるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受取った母は、果して驚ろいたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」と云って、私の封を開くのを傍《そば》に立って待っていた。
電報には一寸会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっと御《お》頼《たの》もうして置いた口の事だよ」と母が推断してくれた。
私も或はそうかも知れないと思った。然しそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打《うち》遣《や》って、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。出来るだけ簡略な言葉で父の病気の危篤に陥いりつつある旨も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細手紙として、細かい事情をその日のうちに認《した》ためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」と云って残念そうな顔をした。
十三
私の書いた手紙は可なり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とか云って来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方手紙で何とか云ってきて下さる積りだろうよ」
母は何処《どこ》までも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私も或はそうかとも考えたが、先生の平生から推して見ると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これは有り得べからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向《むこう》へ着いていない筈だから、この電報はその前に出したものに違ないですね」
私は母に向ってこんな分り切った事を云った。母は又尤《もっと》もらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上に於て、何の役にも立たないのは知れているのに。
その日は丁度主治医が町から院長を連れて来る筈《はず》になっていたので、母と私はそれぎりこの事件に就いて話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合の上、病人に浣腸《かんちょう》などをして帰って行った。
父は医者から安《あん》臥《が》を命ぜられて以来、両便とも寐たまま他《ひと》の手で始末して貰っていた。潔癖な父は、最初の間こそ甚《はなはだ》しくそれを忌み嫌ったが、身体《からだ》が利かないので、已《やむ》を得ずいやいや床の上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経《ふ》るに従って、無精な排泄《はいせつ》を意としないようになった。たまには蒲《ふ》団《とん》や敷布を汚して、傍《はた》のものが眉《まゆ》を寄せるのに、当人は却って平気でいたりした。尤も尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食慾も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉《のど》から下へは極僅《ごくわずか》しか通らなかった。好《すき》な新聞も手に取る気力がなくなった。枕の傍《そば》にある老眼鏡は、何時までも黒い鞘《さや》に納められたままであった。子供の時分から仲の好かった作さんという今では一里ばかり隔った所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」と云って、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨《うらや》ましいね。己《おれ》はもう駄目だ」
「そんな事はないよ。御前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少し位病気になったって、申し分はないんだ。おれを御覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
浣腸をしたのは作さんが来てから二三日あとの事であった。父は医者の御蔭で大変楽になったといって喜こんだ。少し自分の寿命に対する度胸が出来たという風に機嫌が直った。傍《そば》にいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍にいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮《さえぎ》る訳にも行かないので、黙って聞いていた。病人は嬉しそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹の夫も云った。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧《あいまい》な返事をして、わざと席を立った。
十四
父の病気は最後の一撃を待つ間《ま》際《ぎわ》まで進んで来て、其所でしばらく躊躇《ちゅうちょ》するように見えた。家《いえ》のものは運命の宣告が、今日下《くだ》るか、今日下るかと思って、毎夜床に這入《はい》った。
父は傍《はた》のものを辛くする程の苦痛を何処にも感じていなかった。その点になると看病は寧ろ楽であった。要心のために、誰か一人位ずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自《めいめい》の寐床へ引き取って差支なかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸《うな》るような声を微《かす》かに聞いたと思い誤まった私は、一遍半夜《よなか》に床を抜け出して、念のため父の枕元まで行って見た事があった。その夜は母が起きている番に当っていた。然しその母は父の横に肱《ひじ》を曲げて枕としたなり寐入っていた。父も深い眠りの裏《うち》にそっと置かれた人のように静にしていた。私は忍び足で又自分の寐床へ帰った。
私は兄と一所の蚊帳《かや》の中に寐た。妹の夫だけは、客扱いを受けている所為《せい》か、独《ひと》り離れた座敷に入《い》って休んだ。
「関さんも気の毒だね。ああ幾日《いくにち》も引っ張られて帰れなくっちあ」
関というのはその人の苗字《みょうじ》であった。
「然しそんな忙がしい身体でもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。外の事と違うからな」
兄と床を並べて寐る私は、こんな寐物語りをした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考があった。どうせ助からないものならばという考もあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。然し子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚《はば》かった。そうして御互に御互がどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「御父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私に云った。
実際兄の云う通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うと云って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事が出来なかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「御前の卒業祝いは已《や》めになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールに煽《あお》られたその時の乱雑な有様を想い出して苦笑した。飲むものや食うものを強いて廻る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
私達はそれ程仲の好い兄弟ではなかった。小《ち》さいうちは好く喧《けん》嘩《か》をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へ這入《はいっ》てからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思っていた。私は長く兄に会わなかったので、又懸け隔った遠くに居たので、時から云っても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久し振にこう落ち合ってみると、兄弟の優しい心持が何処からか自然に湧《わ》いて出た。場合が場合なのもその大きな源因になっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元で、兄と私は握手したのであった。
「御前これからどうする」と兄は聞いた。私は又全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家《うち》の財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。御父さんはまだ何とも云わないから。然し財産って云ったところで金としては高の知れたものだろう」
母は又母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。
十五
「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私は答えた。私は自分で質問して置きながら、すぐ他《ひと》の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
兄は必竟《ひっきょう》聞いても解らないと云うのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。けれども腹は立った。又例の兄らしいところが出て来たと思った。
先生々々と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授位だろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それが何処に価値を有っているだろう。兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものであった。けれども父が何も出来ないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何か遣《や》れる能力があるのに、ぶらぶらしているのはつまらん人間に限ると云った風の口吻《こうふん》を洩《も》らした。
「イゴイストは不可《いけな》いね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡《りょうけん》だからね。人は自分の有っている才能を出来るだけ働らかせなくっちゃ嘘だ」
私は兄に向って、自分の使っているイゴイストという言葉の意味が能く解るかと聞き返して遣りたかった。
「それでもその人の御《お》蔭《かげ》で地位が出来ればまあ結構だ。御父さんも喜こんでるようじゃないか」
兄は後からこんな事を云った。先生から明《めい》瞭《りょう》な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事も出来ず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑込でみんなにそう吹聴してしまった今となって見ると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあれば可《い》いがと念じた。私は死に瀕《ひん》している父の手前、その父に幾分でも安心させて遣りたいと祈りつつある母の手前、働らかなければ人間でないようにいう兄の手前、その他妹の夫だの伯父だの叔母だのの手前、私のちっとも頓着《とんじゃく》していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
父が変な黄色いものを嘔《は》いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寐ているんだから胃も悪くなる筈だね」と云った母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」と云った。それは医者が帰り際に兄に向って云った事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味が能く解っていた。
「御前此所へ帰って来て、宅《うち》の事を監理する気はないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
「御母さん一人じゃ、どうする事も出来ないだろう」と兄が又云った。兄は私を土の臭《におい》を嗅《か》いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎でも充分出来るし、それに働らく必要もなくなるし、丁度好いだろう」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私が云った。
「おれにそんな事が出来るものか」と兄は一口に斥《しりぞ》けた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充《み》ち満ちていた。
「御前が厭なら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしても御母さんは何方《どっち》かで引き取らなくっちゃなるまい」
「御母さんが此所を動くか動かないかが既《すで》に大きな疑問ですよ」
兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後《あと》に就《つ》いて、こんな風に語り合った。
十六
父は時々囈語《うわごと》を云う様になった。
「乃木大将に済まない。実に面目《めんぼく》次第がない。いえ私もすぐ御《お》後《あと》から」
こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元へ集めて置きたがった。気のたしかな時は頻《しき》りに淋《さび》しがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室《へや》の中《うち》を見廻して母の影が見えないと、父は必ず「御《お》光《みつ》は」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語っていた。私はよく起《た》って母を呼びに行った。「何か御用ですか」と、母が仕掛た用をそのままにして置いて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何も云わない事があった。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「御光御《お》前《まえ》にも色々世話になったね」などと優しい言葉を出す時もあった。母はそう云う言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後では又きっと丈夫であった昔の父をその対照として想い出すらしかった。
「あんな憐れっぽい事を御言いだがね、あれでもとは随分酷《ひど》かったんだよ」
母は父のために箒《ほうき》で脊《せ》中《なか》をどやされた時の事などを話した。今まで何遍もそれを聞かされた私と兄は、何時もとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念《かたみ》のように耳へ受け入れた。
父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかった。
「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好《よ》し悪《あし》しだと考えていた。二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「云いたい事があるのに、云わないで死ぬのも残念だろうし、と云って、此方《こっち》から催促するのも悪いかも知れず」
話はとうとう愚図々々になってしまった。そのうちに昏睡《こんすい》が来た。例の通り何も知らない母はそれをただの眠《ねむり》と思い違えて反《かえ》って喜こんだ。「まあああして楽に寐られれば、傍《はた》にいるものも助かります」と云った。
父は時々眼を開けて、誰はどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻《さっき》までそこに坐っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所と出来て、その明るい所だけが、闇を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するように見えた。母が昏睡状態を普通の眠と取り違えたのも無理はなかった。
そのうち舌が段々縺《もつ》れて来た。何か云い出しても尻が不明瞭に了《おわ》るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。その癖話し始める時は、危篤の病人とは思われない程、強い声を出した。我々は固《もと》より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
「頭を冷やすと好《い》い心持ですか」
「うん」
私は看護婦を相手に、父の水枕を取り更《か》えて、それから新らしい氷を入れた氷嚢《ひょうのう》を頭の上へ載せた。がさがさに割られて尖《とが》り切った氷の破片が、嚢《ふくろ》の中で落ちつく間、私は父の禿げ上った額の外《はずれ》でそれを柔らかに抑えていた。その時兄が廊下伝《づたい》這入て来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べると余程目方の重いものであった。並の状袋にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧《ていねい》に糊《のり》で貼《は》り付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見ると其所に先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、一寸それを懐《ふところ》に差し込んだ。
十七
その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私が厠《かわや》へ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「何処へ行く」と番兵のような口調で誰《すい》何《か》した。
「どうも様子が少し変だからなるべく傍《そば》にいるようにしなくっちゃ不可ないよ」と注意した。
私もそう思っていた。懐中した手紙はそのままにして又病室へ帰った。父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明して遣ると、父はその度《たび》に首肯《うなず》いた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「どうも色々御世話になります」
父はこういった。そうして又昏睡状態に陥った。枕辺を取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてその中《うち》の一人が立って次の間へ出た。すると又一人立った。私も三人目にとうとう席を外《はず》して、自分の室《へや》へ来た。私には先刻《さっき》懐へ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易に出来る所作には違《ちがい》なかった。然し書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで読み通す訳には行《い》かなかった。私は特別の時間を偸《ぬす》んでそれに充《あ》てた。
私は繊維の強い包み紙を引き掻《か》くように裂《さ》き破った。中から出たものは、縦横に引いた罫《けい》の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。そうして封じる便宜のために、四つ折に畳まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読み易いように平たくした。
私の心はこの多量の紙と印《いん》気《き》が、私に何事を語るのだろうかと思って驚ろいた。私は同時に病室の事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか、呼ばれるに極っているという予覚があった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最初の一頁《ページ》を読んだ。その頁は下《しも》のように綴《つづ》られていた。
「あなたから過去を問いただされた時、答える事の出来なかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然しその自由はあなたの上京を待っているうちには又失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。従って、それを利用出来る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸するようになります。そうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉がまるで嘘になります。私は已《やむ》を得ず、口で云うべきところを、筆で申し上げる事にしました」
私は其所まで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事が出来た。私の衣食の口、そんなものに就いて先生が手紙を寄こす気遣《きづかい》はないと、私は初《しょ》手《て》から信じていた。然し筆を執ることの嫌《きらい》な先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。先生は何故私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。然しその自由はまた永久に失われなければならない」
私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづいて後《あと》を読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私は又驚ろいて立ち上った。廊下を馳《か》け抜けるようにしてみんなの居る方へ行った。私は愈《いよいよ》父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。
十八
病室には何時の間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意から又浣腸を試みるところであった。看護婦は昨夜《ゆうべ》の疲れを休める為《ため》に別室で寐ていた。慣れない兄は起ってまごまごしていた。私の顔を見ると、「一寸手を御貸し」と云ったまま、自分は席に着いた。私は兄に代って、油紙《あぶらかみ》を父の尻の下に宛《あ》てがったりした。
父の様子は少しくつろいで来た。三十分程枕元に坐っていた医者は、浣腸の結果を認めた上、また来ると云って、帰って行った。帰り際に、若《も》しもの事があったら何時でも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
私は今にも変がありそうな病室を退《しりぞ》いて又先生の手紙を読もうとした。然し私はすこしも寛《ゆっ》くりした気分になれなかった。机の前に坐るや否や、又兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖《いふ》が私の手を顫《ふる》わした。私は先生の手紙をただ無意味に頁だけ剥繰《はぐ》って行った。私の眼は几帳面に枠《わく》の中に嵌《は》められた字画を見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束《おぼつか》なかった。私は一番仕舞の頁まで順々に開けて見て、又それを元の通りに畳んで机の上に置こうとした。その時不図結末に近い一句が私の眼に這入った。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結したように感じた。私は又逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句位ずつの割で倒《さかさ》に読んで行った。私は咄嗟《とっさ》の間に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文《もん》字《じ》を、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒《さかさ》まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自《じ》烈《れっ》たそうに畳んだ。
私は又父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺は存外静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をして其所に坐っている母を手招ぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯いた。父ははっきり「有難《ありがと》う」と云った。父の精神は存外朦朧《もうろう》としていなかった。
私は又病室を退ぞいて自分の部屋に帰った。其所で時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、袂《たもと》の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ馳け込んだ。私は医者から父がもう二《に》三《さん》日《ち》保《も》つだろうか、其所のところを判然《はっきり》聞こうとした。注射でも何でもして、保《も》たしてくれと頼もうとした。医者は生憎《あいにく》留守であった。私には凝《じっ》として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落付もなかった。私はすぐ俥《くるま》を停車場《ステーション》へ急がせた。
私は停車場の壁へ紙片《かみぎれ》を宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅《うち》へ届けるように車夫に頼んだ。そうして思い切った勢で東京行の汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、又袂から先生の手紙を出して、漸《ようや》く始から仕舞まで眼を通した。
下 先生と遺書
一
「……私はこの夏あなたから二三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜《よろ》しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入《い》ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。然《しか》し自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。御承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切な位の私には、そういう努力を敢《あえ》てする余地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば好《い》いのかと思い煩《わず》らっていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラの様に存在して行こうか、それとも……その時分の私は『それとも』という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足《かけあし》で絶壁の端《はじ》まで来て、急に底の見えない谷を覗《のぞ》き込んだ人のように。私は卑怯《ひきょう》でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶《はんもん》したのです。遺《い》憾《かん》ながら、その時の私には、あなたというものが殆《ほと》んど存在していなかったと云っても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊《こ》口《こう》の資《し》、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差へ貴方《あなた》の手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅《うち》に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といって藻《も》掻《が》き廻るのか。私は寧《むし》ろ苦々しい気分で、遠くにいる貴方にこんな一瞥《べつ》を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まない貴方に対して、言訳のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾《ぶしつけ》な言葉を弄《ろう》するのではありません。私の本意は後《あと》を御覧になれば能《よ》く解る事と信じます。とにかく私は何とか挨拶すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
その後《ご》私はあなたに電報を打ちました。有《あり》体《てい》に云えば、あの時私は一寸《ちょっと》貴方に会いたかったのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかったのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めていました。あなたも電報だけでは気が済まなかったと見えて、又後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの出京出来ない事情が能く解りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。貴方の大事な御父さんの病気を其方《そっち》退《の》けにして、何であなたが宅《うち》を空けられるものですか。その御父さんの生死《しょうし》を忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れていたのです。その癖あなたが東京にいる頃には、難症だからよく注意しなくっては不可《いけな》いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私はこういう矛盾な人間なのです。或《あるい》は私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点に於ても充分私の我《が》を認めています。あなたに許して貰わなくてはなりません。
あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已《や》めました。どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それが為です。
二
「私はそれからこの手紙を書き出しました。平生《へいぜい》筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に対する私のこの義務を放擲《ほうてき》するところでした。然しいくら止そうと思って筆を擱《お》いても、何にもなりませんでした。私は一時間経たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、これが義務の遂行を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否《いな》みません。私は貴方の知っている通り、殆んど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務という程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれを出来るだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。寧《むし》ろ鋭敏過ぎて刺《し》戟《げき》に堪えるだけの精力がないから、御覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大変厭《いや》な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱《お》いた筆を又取り上げなければならないのです。
その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有と云っても差支《さしつかえ》ないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜《おし》いとも云われるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事の出来ない人に与える位なら、私はむしろ私の経験を私の生命《いのち》と共に葬った方が好《い》いと思います。実際ここに貴方という一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目《まじめ》だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云ったから。
私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上ます。然し恐れては不可《いけま》せん。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御《お》攫《つか》みなさい。私の暗いというのは、固《もと》より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。又倫理的に育てられた男です。その倫理上の考は、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。然しどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着《そんりょうぎ》ではありません。だからこれから発達しようという貴方には幾分か参考になるだろうと思うのです。
貴方は現代の思想問題に就《つ》いて、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく解っているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑《けいべつ》までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何等の背景もなかったし、あなたは自分の過去を有つには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足《ものたり》なそうな顔をちょいちょい私に見せた。その極《きょく》あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼《せま》った。私はその時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中《なか》から、或生きたものを捕《つら》まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血《ち》潮《しお》を啜《すす》ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥《しり》ぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停《とま》った時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。
三
「私が両親を亡《な》くしたのは、まだ私の二十歳《はたち》にならない時分でした。何時《いつ》か妻《さい》があなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻《さい》が貴方に不審を起させた通り、殆んど同時といって可《い》い位に、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき腸《ちょう》窒扶斯《チフス》でした。それが傍《そば》にいて看護をした母に伝染したのです。
私は二人の間に出来たたった一人の男の子でした。宅《うち》には相当の財産があったので、寧ろ鷹揚《おうよう》に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母か何方《どっち》か、片方で好《い》いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事が出来たろうにと思います。
私は二人の後《あと》に茫然《ぼうぜん》として取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分《ふん》別《べつ》もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍《そば》に居る事が出来ませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを覚《さと》っていたか、又は傍《はた》のものの云う如く、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ叔父に万事を頼んでいました。其所《そこ》に居合せた私を指さすようにして、『この子をどうぞ何分』と云いました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出る筈《はず》になっていましたので、母はそれも序《ついで》に云う積りらしかったのです。それで『東京へ』とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後《あと》を引き取って、『よろしい決して心配しないがいい』と答えました。母は強い熱に堪え得る体質の女なんでしたろうか、叔父は『確《しっ》かりしたものだ』と云って、私に向って母の事を褒《ほ》めていました。然しこれが果して母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の罹《かか》った病気の恐るべき名前を知っていたのです。そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、其所《そこ》になると疑う余地はまだ幾何《いくら》でもあるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明かなものにせよ、一向記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……然しそんな事は問題ではありません。ただこういう風に物を解きほどいて見たり、又ぐるぐる廻して眺めたりする癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それは貴方にも始めから御断りして置かなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、却《かえ》って役に立ちはしないかと考えます。貴方の方でもまあその積りで読んで下さい。この性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来益他《こうらいますますひと》の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶《はんもん》や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥《たしか》ですから覚えていて下さい。
話が本筋をはずれると、分り悪《にく》くなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他《ほか》の人と比べたら、或《あるい》は多少落ち付いていやしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響ももう途絶えました。雨戸の外にはいつの間にか憐《あわ》れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微《かす》かに鳴いています。何も知らない妻《さい》は次の室《へや》で無邪気にすやすや寐入《ねい》っています。私が筆を執ると、一字一劃《かく》が出来上りつつペンの先で鳴っています。私は寧ろ落付いた気分で紙に向っているのです。不《ふ》馴《なれ》のためにペンが横へ外《そ》れるかも知れませんが、頭が悩乱して筆がしどろに走るのではないように思います。
四
「とにかくたった一人取り残された私は、母の云い付け通り、この叔父を頼るより外に途《みち》はなかったのです。叔父は又一切を引き受けて凡《すべ》ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計ってくれました。
私は東京へ来て高等学校へ這入《はい》りました。その時の高等学校の生徒は今よりも余程殺伐《さつばつ》で粗野でした。私の知ったものに、夜中《よる》職人と喧《けん》嘩《か》をして、相手の頭へ下駄で傷を負わせたのがありました。それが酒を飲んだ揚句の事なので、夢中に擲《なぐ》り合《あい》をしている間に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、菱形《ひしがた》の白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。然し友達が色々と骨を折って、ついに表《おもて》沙汰《ざた》にせずに済むようにして遣《や》りました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿々々しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿々々しく思います。然し彼等は今の学生にない一種質朴な点をその代りに有《も》っていたのです。当時私の月々叔父から貰っていた金は、あなたが今、御父さんから送ってもらう学資に比べると遙かに少ないものでした。(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を羨《うらや》ましがる憐れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、寧ろ人に羨やましがられる方だったのでしょう。と云うのは、私は月々極った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好でした)、及び臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思う様に消費する事が出来たのですから。
何も知らない私は、叔父を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達した様にも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方の男でした。楽みには、茶だの花だのを遣りました。それから詩集などを読む事も好きでした。書画骨董《こっとう》といった風のものにも、多くの趣味を有っている様子でした。家《いえ》は田舎にありましたけれども、二里ばかり隔った市、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物《かけもの》だの、香《こう》炉《ろ》だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は一口にいうと、まあマンオフミーンズとでも評したら好《い》いのでしょう。比較的上品な嗜《し》好《こう》を有った田舎紳士だったのです。だから気性からいうと、濶達《かったつ》な叔父とは余程の懸隔がありました。それでいて二人は又妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも遙かに働きのある頼もしい人のように云っていました。自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹《さいかん》が鈍る、つまり世の中と闘う必要がないから不可《いけな》いのだとも云っていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父は寧ろ私の心得になる積りで、それを云ったらしく思われます。『御前もよく覚えているが好い』と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。この位私の父から信用されたり、褒められたりしていた叔父を、私がどうして疑がう事が出来るでしょう。私にはただでさえ誇《ほこり》になるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇ではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。
五
「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居《すまい》には、新らしい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより外に仕方がなかったのです。
叔父はその頃市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合から云えば、今までの居宅に寐《ね》起《おき》する方が、二里も隔った私の家に移るより遙かに便利だと云って笑いました。これは私の父母が亡くなった後《あと》、どう邸《やしき》を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を洩《も》れた言葉であります。私の家《いえ》は旧《ふる》い歴史を有っているので、少しはその界隈《かいわい》で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒のある家を、相続人があるのに壊したり売ったりするのは大事件です。今の私ならその位の事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家《うち》はそのままにして置かなければならず、甚《はなは》だ処置に苦しんだのです。
叔父は仕方なしに私の空家へ這入る事を承諾してくれました。然し市の方にある住居《すまい》もそのままにして置いて、両方の間を往ったり来たりする便宜を与えて貰わなければ困るといいました。私に固《もと》より異議のありよう筈がありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば好《い》い位に考えていたのです。
子供らしい私は、故郷《ふるさと》を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固より其所にはまだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で望んでいたのです。休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後《あと》、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、叔父はどんな風に両方の間を往《ゆき》来《き》していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一つ家《いえ》の内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生《へいぜい》恐らく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎へ遊び半分といった格で引き取られていました。
みんな私の顔を見て喜こびました。私は又父や母の居た時より、却って賑《にぎ》やかで陽気になった家の様子を見て嬉しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間を占領している一番目の男の子を追い出して、私を其所へ入れました。座敷の数も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父は御前の宅《うち》だからと云って、聞きませんでした。
私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外に、何の不愉快もなく、その一夏を叔父の家族と共に過ごして、又東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃《そろ》えて、まだ高等学校へ入《はい》ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚ろいただけでした。二度目には判然《はっきり》断りました。三度目には此方《こっち》からとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼等の主意は単簡《たんかん》でした。早く嫁を貰って此所《ここ》の家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろと云うだけなのです。家《いえ》は休暇《やすみ》になって帰りさえすれば、それで可《い》いものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰う、両方とも理窟としては一通り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、能く解ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。然し東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠《とお》眼鏡《めがね》で物を見るように、遙か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついに又私の家を去りました。
六
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲《ぐるり》を取り捲《ま》いている青年の顔を見ると、世帯《しょたい》染《じ》みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉《ことごと》く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中にも、裏面に這入り込んだら、或は家庭の事情に余儀なくされて、既に妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私は其所に気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺《あたり》に気兼をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話は為《し》ないように慎《つつ》しんでいたのでしょう。後から考えると、私自身が既にその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行《い》きました。
学年の終りに、私は又行《こう》李《り》を絡《から》げて、親の墓のある田舎へ帰って来ました。そうして去年と同じように、父母《ちちはは》のいたわが家《いえ》の中《なか》で、又叔父夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再び其所で故郷《ふるさと》の匂を嗅《か》ぎました。その匂は私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難《ありがた》いものに違なかったのです。
然しこの自分を育て上たと同じ様な匂の中で、私は又突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父の云うところは、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前勧められた時には、何等の目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心の当人を捕《つら》まえていたので、私は猶《なお》困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘即《すなわ》ち私の従妹《いとこ》に当る女でした。その女を貰ってくれれば、御互のために便宜である、父も存生中《ぞんしょうちゅう》そんな事を話していた、と叔父が云うのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう風な話をしたというのも有り得べき事と考えました。然しそれは私が叔父に云われて、始めて気が付いたので、云われない前から、覚っていた事柄ではないのです。だから私は驚ろきました。驚ろいたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがために能く解りました。私は迂濶《うかつ》なのでしょうか。或《あるい》はそうなのかも知れませんが、恐らくその従妹に無頓着《むとんじゃく》であったのが、重な源因になっているのでしょう。私は小供のうちから市にいる叔父の家《うち》へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、能く其所に泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたも御承知でしょう、兄妹《きょうだい》の間に恋の成立した例《ためし》のないのを。私はこの公認された事実を勝手に布《ふ》衍《えん》しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女《なんにょ》の間には、恋に必要な刺戟の起る清新な感じが失なわれてしまうように考えています。香《こう》をかぎ得るのは、香を焚《た》き出した瞬間に限る如く、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹《せつ》那《な》にある如く、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気で其所を通り抜けたら、馴れれば馴れる程、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻《ま》痺《ひ》して来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹を妻《つま》にする気にはなれませんでした。
叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしても可《い》いと云いました。けれども善は急げという諺《ことわざ》もあるから、出来るなら今のうちに祝言の盃《さかずき》だけは済ませて置きたいとも云いました。当人に望のない私には何《どっ》方《ち》にしたって同じ事です。私は又断りました。叔父は厭な顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絶されたのが、女として辛かったからです。私が従妹を愛していない如く、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
七
「私が三度目に帰国したのは、それから又一年経った夏の取付《とっつき》でした。私は何時でも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷がそれ程懐かしかったからです。貴方にも覚《おぼえ》があるでしょう、生れた所は空気の色が違います。土地の匂も格別です、父や母の記憶も濃《こまや》かに漂っています。一年のうちで、七八の二月《ふたつき》をその中に包《くる》まれて、穴に入《はい》った蛇の様に凝としているのは、私に取って何よりも温かい好《い》い心持だったのです。
単純な私は従妹との結婚問題に就いて、左程頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにも関《かかわ》らず、私は寧ろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈託した覚もなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好い顔をして私を自分の懐《ふところ》に抱《だ》こうとしません。それでも鷹揚に育った私は、帰って四五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会に不図変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へ這入《はい》る積りだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
私の性分として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然《はっきり》見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世に居なくなった後でも、居た時と同じように私を愛してくれるものと、何処か心の奥で信じていたのです。尤《もっと》もその頃でも私は決して理に暗い質《たち》ではありませんでした。然し先祖から譲られた迷信の塊も、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
私はたった一人山へ行って、父母《ふぼ》の墓の前に跪《ひざま》ずきました。半《なかば》は哀悼《あいとう》の意味、半《なかば》は感謝の心持で跪《ひざまず》いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横《よこた》わる彼等の手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼等に祈りました。貴方は笑うかも知れない。私も笑われても仕方がないと思います。然し私はそうした人間だったのです。
私の世界は掌《たなごころ》を翻えすように変りました。尤もこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六七の時でしたろう、始めて世の中に美くしいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑《うたぐ》って、何遍も自分の眼を擦《こす》りました。そうして心の中《うち》でああ美しいと叫びました。十六七と云えば、男でも女でも、俗にいう色気の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事が出来たのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目《めくら》の眼が忽《たちま》ち開《あ》いたのです。それ以来私の天地は全く新らしいものとなりました。
私が叔父の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄《が》然《ぜん》として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚ろきました。そうしてこのままにして置いては、自分の行先がどうなるか分らないという気になりました。
八
「私は今まで叔父任せにして置いた家《いえ》の財産に就いて、詳しい知識を得なければ、死んだ父母《ちちはは》に対して済まないと云う気を起したのです。叔父は忙がしい身体だと自称する如く、毎晩同じ所に寐泊《ねとまり》はしていませんでした。二日家《うち》へ帰ると三日は市の方で暮らすといった風に、両方の間を往《ゆき》来《き》して、その日その日を落付のない顔で過ごしていました。そうして忙がしいという言葉を口癖のように使いました。何の疑も起らない時は、私も実際に忙がしいのだろうと思っていたのです。それから、忙がしがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事に就いて、時間の掛る話をしようという目的が出来た眼で、この忙がしがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕《つら》まえる機会を得ませんでした。
私は叔父が市の方に妾《めかけ》を有っているという噂《うわさ》を聞きました。私はその噂を昔し中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置く位の事は、この叔父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚のない私は驚ろきました。友達はその外にも色々叔父に就いての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他《ひと》から思われていたのに、この二三年来又急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染め付けたものの一つでした。
私はとうとう叔父と談判を開きました。談判というのは少し不穏当かも知れませんが、話の成行からいうと、そんな言葉で形容するより外に途《みち》のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父は何処までも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜《さい》疑《ぎ》の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつく筈はなかったのです。
遺憾ながら私は今その談判の顛末《てんまつ》を詳しく此所に書く事の出来ない程先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くから其所へ辿《たど》りつきたがっているのを、漸《やっ》との事で抑え付けている位です。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執る術《すべ》に慣れないばかりでなく、貴《たっと》い時間を惜むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
あなたは未《ま》だ覚えているでしょう、私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にいるものではないと云った事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。あの時あなたは私に昂奮《こうふん》していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ一口《ひとくち》金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎《ぞう》悪《お》と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答は、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答でした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷かな頭で新らしい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体《たい》が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事が出来るからです。
九
「一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化《ごまか》したのです。事は私が東京へ出ている三年間の間に容易《たやす》く行なわれたのです。凡てを叔父任せにして平気でいた私は、世間的に云えば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊《たっと》い男とでも云えましょうか。私はその時の己《おの》れを顧みて、何故もっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜《くや》しくって堪《たま》りません。然しまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵《ちり》に汚《よご》れた後《あと》の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でしょう。
若《も》し私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えて見ると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化されるのは何方《どっち》にしても同じでしょうけれども、載せられ方《かた》からいえば、従妹を貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我《が》が通った事になるのですから。然しそれは殆んど問題とするに足りない些《さ》細《さい》な事柄です。ことに関係のない貴方に云わせたら、さぞ馬鹿気た意地に見えるでしょう。
私と叔父の間に他の親戚のものが這入りました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、寧《むし》ろ敵視していました。私は叔父が私を欺むいたと覚《さと》ると共に、他《ほか》のものも必ず自分を欺くに違ないと思い詰めました。父があれだけ賞《ほ》め抜いていた叔父ですらこうだから、他《ほか》のものはというのが私の論理《ロジック》でした。
それでも彼等は私のために、私の所有にかかる一切のものを纏《まと》めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遙かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公け沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤りました。又迷いました。訴訟にすると落着《らくちゃく》までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、市に居《お》る中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、凡て金の形に変えようとしました。旧友は止《よ》した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、又父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
私の旧友は私の言葉通りに取計らってくれました。尤もそれは私が東京へ着いてから余程経った後《のち》の事です。田舎で畠《はた》地《ち》などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べると余程少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐にして家《いえ》を出た若干の公債と、後からこの友人に送って貰った金だけなのです。親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生々活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。
十
「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新らしく一戸を構えて見ようかという気になったのです。然《しか》しそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆さんの必要も起りますし、その婆さんが又正直でなければ困るし、宅《うち》を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、と云った訳で、ちょくら一寸《ちょいと》実行する事は覚束《おぼつか》なく見えたのです。ある日私はまあ宅だけでも探して見ようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院《でんづういん》の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の土《ど》塀《べい》で、右は原とも丘ともつかない空《くう》地《ち》に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向《むこう》の崖《がけ》を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃は又ずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私は不図ここいらに適当な宅はないだろうかと思いました。それで直ぐ草原《くさはら》を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好《い》い町になり切れないで、がたぴししているあの辺の家並《いえなみ》は、その時分の事ですから随分汚ならしいものでした。私は露次を抜けたり、横丁を曲ったり、ぐるぐる歩き廻りました。仕舞に駄菓子屋の上《かみ》さんに、ここいらに小ぢんまりした貸家はないかと尋ねて見ました。上さんは『そうですね』と云って、少時《しばらく》首をかしげていましたが、『かし家《や》はちょいと……』と全く思い当らない風でした。私は望のないものと諦《あき》らめて帰り掛けました。すると上さんが又、『素人《しろうと》下宿じゃ不可ませんか』と聞くのです。私は一寸気が変りました。静かな素人屋に一人で下宿しているのは、却って家《うち》を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
それはある軍人の家族、というよりも寧ろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんが云いました。一年ばかり前までは、市《いち》ケ谷《や》の士官学校の傍《そば》とかに住んでいたのだが、廐《うまや》などがあって、邸《やしき》が広過ぎるので、其所《そこ》を売り払って、此所へ引っ越して来たけれども、無《ぶ》人《にん》で淋《さむ》しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家《いえ》には未《び》亡人《ぼうじん》と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中《うち》に思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行った処で、素性の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛《け》念《ねん》もありました。私は止そうかとも考えました。然し私は書生としてそんなに見苦しい服装《なり》はしていませんでした。それから大学の制帽を被《かぶ》っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだと云って。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出した位です。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家を訪ねました。
私は未《び》亡人《ぼうじん》に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらに就いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところを何所《どこ》かに握ったのでしょう、何時でも引っ越して来て差支ないという挨拶を即座に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、又判然《はっきり》した人でした。私は軍人の妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。この気性で何処が淋《さむ》しいのだろうと疑いもしました。
十一
「私は早速その家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。其所は宅中《うちじゅう》で一番好《い》い室《へや》でした。本郷辺に高等下宿といった風の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好《い》い間《ま》の様子を心得ていました。私の新らしく主人となった室は、それ等よりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎる位に思われたのです。
室《へや》の広さは八畳でした。床の横に違い棚があって、縁と反対の側には一間《けん》の押入が付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向の縁に明るい日が能《よ》く差しました。
私は移った日に、その室の床に活けられた花と、その横に立て懸けられた琴を見ました。何方《どっち》も私の気に入りませんでした、私は詩や書や煎茶《せんちゃ》を嗜《たし》なむ父の傍《そば》で育ったので、唐《から》めいた趣味を小供のうちから有っていました。その為《ため》でもありましょうか、こういう艶《なま》めかしい装飾を何時の間にか軽蔑《けいべつ》する癖が付いていたのです。
私の父が存生中《ぞんしょうちゅう》にあつめた道具類は、例の叔父のために滅茶々々にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かって貰いました。それからその中《うち》で面白そうなものを四五幅《ふく》裸にして行《こう》李《り》の底へ入れて来ました。私は移るや否や、それを取り出して床へ懸けて楽しむ積りでいたのです。ところが今いった琴と活花《いけばな》を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後から聞いて始めてこの花が私に対する御《ご》馳《ち》走《そう》に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。尤も琴は前から其所にあったのですから、これは置き所がないため、已《やむ》を得ずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠《かす》めて通るでしょう。移った私にも、移らない初からそういう好奇心が既に動いていたのです。こうした邪気が予備的に私の自然を損なったためか、又は私がまだ人慣れなかったためか、私は始めて其所の御嬢さんに会った時、へどもどした挨拶をしました。その代り御嬢さんの方でも赤い顔をしました。
私はそれまで未亡人の風采《ふうさい》や態度から推して、この御嬢さんの凡てを想像していたのです。然しその想像は御嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうと云った順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、御嬢さんの顔を見た瞬間に、悉《ことごと》く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂が新らしく入《はい》って来ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭《いや》でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
その花は又規則正しく凋《しお》れる頃になると活《い》け更《か》えられるのです。琴も度々《たびたび》鍵《かぎ》の手に折れ曲がった筋違《すじかい》の室に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖を突きながら、その琴の音《ね》を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手《へた》なのか能く解らないのです。けれども余り込み入った手を弾《ひ》かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度位なものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、御嬢さんは決して旨《うま》い方ではなかったのです。
それでも臆面《おくめん》なく色々の花が私の床を飾ってくれました。尤も活方《いけかた》は何時見ても同じ事でした。それから花《か》瓶《へい》もついぞ変った例《ためし》がありませんでした。然し片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向肉声を聞かせないのです。唄《うた》わないのではありませんが、まるで内所話でもするように小さな声しか出さないのです。しかも叱られると全く出なくなるのです。
私は喜んでこの下手な活花を眺めては、まずそうな琴の音《ね》に耳を傾むけました。
十二
「私の気分は国を立つ時既《すで》に厭世《えんせい》的になっていました。他《ひと》は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染《し》み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父だの叔母だの、その他の親戚だのを、あたかも人類の代表者の如く考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向《むこう》から話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱《ちんうつ》でした。鉛を呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今云った如くに鋭どく尖《とが》ってしまったのです。
私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因になっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えて見る気にもなったのだと云えばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中《ふところ》に余裕が出来ても、好んでそんな面倒な真似はしなかったでしょう。
私は小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛《くつろ》ぎを与える事が出来ませんでした。私は自分で自分が耻《は》ずかしい程、きょときょと周囲を見廻していました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家《うち》のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐っていました。時々は彼等に対して気の毒だと思う程、私は油断のない注意を彼等の上に注いでいたのです。おれは物を偸《ぬす》まない巾着切《きんちゃくきり》みたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭になる事さえあったのです。
貴方《あなた》は定めて変に思うでしょう。その私が其所の御嬢さんをどうして好《す》く余裕を有《も》っているか。その御嬢さんの下手な活花を、どうして嬉しがって眺める余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜こんで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実として貴方に教えて上げるというより外に仕方がないのです。解釈は頭のある貴方に任せるとして、私はただ一言《いちごん》付け足して置きましょう。私は金に対して人類を疑ぐったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他《ひと》から見ると変なものでも、また自分で考えて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
私は未《び》亡人《ぼうじん》の事を常に奥さんと云っていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんと云います。奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解りませんが、何しろ其所にはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚《おうよう》な方《かた》だと云って、さも尊敬したらしい口の利《き》き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは『あなたは自分で気が付かないから、そう御《おっ》仰《しゃ》るんです』と真面目《まじめ》に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅《うち》へ置く積りではなかったらしいのです。何処かの役所へ勤める人か何かに坐敷を貸す料簡《りょうけん》で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊でなくって、已《やむ》を得ず素人屋に下宿する位の人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭の何処かに這入っていたのでしょう。奥さんは自分の胸に描いたその想像の御客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だと云って褒めるのです。成程そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。然しそれは気性の問題ではありませんから、私の内生活に取って殆んど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推し広げて、同じ言葉を応用しようと力《つと》めるのです。
十三
「奥さんのこの態度が自然私《わたくし》の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもと程きょろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐っている所に、ちゃんと落付いているような気にもなれました。要するに奥さん始め家《うち》のものが、僻《ひが》んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風に取り扱ってくれたものとも思われますし、又自分で公言する如く、実際私を鷹揚だと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかったようにも考えられますから、或は奥さんの方で胡魔化《ごまか》されていたのかも解りません。
私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんとも御嬢さんとも笑談《じょうだん》を云うようになりました。茶を入れたからと云って向うの室《へや》へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人を此方《こっち》へ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が殖えたように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰《つぶ》される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人《ひまじん》でした。御嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙がしかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕を有っているように見えました。それで三人は顔さえ見ると一所に集まって、世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに来るのは、大抵御嬢さんでした。御嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖《ふすま》の影から姿を見せる事もありました。御嬢さんは、其所へ来て一寸《ちょっと》留まります。それからきっと私の名を呼んで、『御勉強?』と聞きます。私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍《はた》で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。然し実際を云うと、それ程熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁《ページ》の上に眼は着けていながら、御嬢さんの呼びに来るのを待っている位なものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上るのです。そうして向うの室の前へ行って、此方《こっち》から『御勉強ですか』と聞くのです。
御嬢さんの部屋は茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、又御嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切があっても、ないと同じ事で、親子二人が往ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、『御這入《おはいん》なさい』と答えるのはきっと奥さんでした。御嬢さんは其所にいても滅多に返事をした事がありませんでした。
時たま御嬢さん一人で、用があって私の室へ這入った序《ついで》に、其所に坐って話し込むような場合もその内に出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に冒されて来るのです。そうして若い女とただ差向いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却って平気でした。これが琴を浚《さら》うのに声さえ碌《ろく》に出せなかったあの女かしらと疑がわれる位、耻《は》ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、『はい』と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいて御嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼には能くそれが解っていました。能く解るように振舞って見せる痕迹《こんせき》さえ明らかでした。
十四
「私は御嬢さんの立ったあとで、ほっと一息するのです。それと同時に、物足りないような又済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年の貴方がたから見たら猶《なお》そう見えるでしょう。然しその頃の私達は大抵そんなものだったのです。
奥さんは滅多に外出した事がありませんでした。たまに宅を留守にする時でも、御嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或場合には、私に対して暗に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
私は奥さんの態度を何方《どっち》かに片付《かたづけ》て貰いたかったのです。頭の働きから云えば、それが明らかな矛盾に違いなかったからです。然し叔父に欺むかれた記憶のまだ新らしい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを挾《さしは》さまずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度の何《どっ》方《ち》かが本当で、何方かが偽《いつわり》だろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑み込めなかったのです。理由《わけ》を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に塗《なす》り付けて我慢した事もありました。必竟《ひっきょう》女だからああなのだ、女というものはどうせ愚《ぐ》なものだ。私の考は行き詰れば何時でも此所へ落ちて来ました。
それ程女を見《み》縊《くび》っていた私が、またどうしても御嬢さんを見《み》縊《くび》る事が出来なかったのです。私の理窟はその人の前に全く用を為《な》さない程動きませんでした。私はその人に対して、殆んど信仰に近い愛を有っていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私は御嬢さんの顔を見るたびに、自分が美くしくなるような心持がしました。御嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端《りょうはじ》があって、その高い端《はじ》には神聖な感じが働いて、低い端には性慾《せいよく》が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕《つら》まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出来ない身体《からだ》でした。けれども御嬢さんを見る私の眼や、御嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭《におい》を帯びていませんでした。
私は母に対して反感を抱《いだ》くと共に、子に対して恋愛の度を増して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。尤もその変化は殆んど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが互違《たがいちがい》に奥さんの心を支配するのでなくって、何時でも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんが出来るだけ御嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾の様だけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻えすのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釈したのです。御嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌《きざ》さなかった私は、その時入らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれから無くなりました。
十五
「私は奥さんの態度を色々綜合《そうごう》して見て、私が此所の家《うち》で充分信用されている事を確めました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他《ひと》を疑ぐり始めた私の胸には、この発見が少し奇異な位に響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺《だ》まされるのも此所《ここ》にあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、御嬢さんに対して同じような直覚を強く働らかせていたのだから、今考えると可笑《おか》しいのです。私は他《ひと》を信じないと心に誓いながら、絶対に御嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
私は郷里の事に就《つ》いて余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件に就いては何《なん》にも云わなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえ既に一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと力《つと》めました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何《なん》にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。御嬢さんは泣きました。私は話して好《い》い事をしたと思いました。私は嬉しかったのです。
私の凡《すべ》てを聞いた奥さんは、果して自分の直覚が的中したと云わないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚《みより》に当る若いものか何かを取扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。寧ろ愉快に感じた位です。ところがそのうちに私の猜《さい》疑《ぎ》心《しん》が又起って来ました。
私が奥さんを疑ぐり始めたのは、極《ごく》些細な事からでした。然しその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子か不図奥さんが、叔父と同じような意味で、御嬢さんを私に接近させようと力《つと》めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾《こうかつ》な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々しい唇《くちびる》を噛《か》みました。
奥さんは最初から、無《ぶ》人《にん》で淋《さむ》しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを嘘とは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた後《あと》でも、其所に間違はなかったように思われます。然し一般の経済状態は大して豊だと云う程ではありませんでした。利害問題から考えて見て、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
私は又警戒を加えました。けれども娘に対して前云った位の強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑《ちょうしょう》しました。馬鹿だなといって、自分を罵《ののし》った事もあります。然しそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶《はんもん》は、奥さんと同じように御嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背《はい》後《ご》で打ち合せをした上、万事を遣《や》っているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪《たま》らなくなるのです。不愉快なのではありません、絶体絶命のような行き詰《つま》った心持になるのです。それでいて私は、一方に御嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事が出来なくなってしまいました。私には何方《どっち》も想像であり、又何方も真実であったのです。
十六
「私は相変らず学校へ出席していました。然し教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へ這入《はい》る活字は心の底まで浸み渡らないうちに烟《けむ》の如く消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二三の友達が誤解して、冥想《めいそう》に耽《ふけ》ってでもいるかのように、他の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の好《い》い仮面を人が貸してくれたのを、却って仕合せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥《はしゃ》ぎ廻って彼等を驚ろかした事もあります。
私の宿は人《ひと》出《で》入《いり》の少ない家《うち》でした。親類も多くはないようでした。御嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、極《きわ》めて小さな声で、居るのだか居ないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、如《い》何《か》な私にも気が付きませんでした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、宅《うち》の人に気兼をする程な男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は主人《あるじ》のようなもので、肝心の御嬢さんが却って食客《いそうろう》の位地にいたと同じ事です。
然しこれはただ思い出した序《ついで》に書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただ其所にどうでも可《よ》くない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければ御嬢さんの室で、突然男の声が聞こえるのです。その声が又私の客と違って、頗《すこ》ぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らない程、私の神経に一種の昂奮《こうふん》を与えるのです。私は坐っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それとも唯の知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案して見るのです。坐っていてそんな事の知れよう筈《はず》がありません。そうかと云って、起って行って障子を開けて見る訳には猶行きません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。御嬢さんや奥さんの返事は、又極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮する勇気を有《も》っていなかったのです。権利は無論有っていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切している物欲しそうな顔付とを同時に彼等の前に示すのです。彼等は笑いました。それが嘲笑の意味でなくって、好意から来たものか、又好意らしく見せる積りなのか、私は即坐に解釈の余地を見《み》出《いだ》し得ない程落付を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです。
私は自由な身体でした。たとい学校を中途で已《や》めようが、又何処へ行ってどう暮らそうが、或は何処の何者と結婚しようが、誰とも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切って奥さんに御嬢さんを貰い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。けれどもその度毎《たびごと》に私は躊躇《ちゅうちょ》して、口へはとうとう出さずにしまったのです。断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、その位の勇気は出せば出せたのです。然し私は誘《おび》き寄せられるのが厭でした。他《ひと》の手に乗るのは何よりも業腹《ごうはら》でした。叔父に欺《だ》まされた私は、これから先どんな事があっても、人には欺まされまいと決心したのです。
十七
「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵《こしら》えろと云いました。私は実際田舎で織った木綿ものしか有っていなかったのです。その頃の学生は絹《いと》の入《はい》った着物を肌《はだ》に着けませんでした。私の友達に横浜の商人《あきんど》か何かで、宅は中々派出《はで》に暮しているものがありましたが、其所へある時羽《は》二《ぶた》重《え》の胴《どう》着《ぎ》が配達で届いた事があります。すると皆《みん》ながそれを見て笑いました。その男は耻《はず》かしがって色々弁解しましたが、折角の胴着を行李の底へ放り込んで利用しないのです。それを又大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に蝨《しらみ》がたかりました。友達は丁度幸いとでも思ったのでしょう。評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出た序に、根津の大きな泥溝《どぶ》の中へ棄ててしまいました。その時一所に歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作を眺めていましたが、私の胸の何処にも勿体《もったい》ないという気は少しも起りませんでした。
その頃から見ると私も大分大人になっていました。けれども未だ自分で余《よ》所《そ》行《ゆき》の着物を拵えるという程の分別は出なかったのです。私は卒業して髯《ひげ》を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考を有っていたのです。それで奥さんに書物は要るが着物は要らないと云いました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの中《うち》には字引もありますが、当然眼を通すべき筈でありながら、頁さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要《い》らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の下に、御嬢さんの気に入るような帯か反物を買って遣りたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
奥さんは自分一人で行くとは云いません。私にも一所に来いと命令するのです。御嬢さんも行かなくてはいけないと云うのです。今と違った空気の中に育てられた私共は、学生の身分として、あまり若い女などと一所に歩き廻る習慣を有っていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇しましたが、思い切って出掛けました。
御嬢さんは大層着飾っていました。地《じ》体《たい》が色の白い癖に、白粉《おしろい》を豊富に塗ったものだから猶目立ちます。往来の人がじろじろ見て行くのです。そうして御嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物を御嬢さんの肩から胸へ竪《たて》に宛てて置いて、私に二三歩遠《とお》退《の》いて見てくれろというのです。私はその度ごとに、それは駄目だとか、それは能《よ》く似合うとか、とにかく一人前《いちにんまえ》の口を聞きました。
こんな事で時間が掛って帰りは夕飯《ゆうめし》の時刻になりました。奥さんは私に対する御礼に何か御馳走すると云って、木《き》原店《はらだな》という寄席《よせ》のある狭い横丁へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家《うち》も狭いものでした。この辺の地理を一向心得ない私は、奥さんの知識に驚ろいた位です。
我々は夜《よ》に入《い》って家《うち》へ帰りました。その翌《あくる》日《ひ》は日曜でしたから、私は終日室《へや》の中《うち》に閉じ籠《こも》っていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調《から》戯《か》われました。何時妻《さい》を迎えたのかと云ってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君は非常に美人だといって賞めるのです。私は三人連で日本橋へ出掛けたところを、その男に何処かで見られたものと見えます。
十八
「私は宅《うち》へ帰って奥さんと御嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。然し定めて迷惑だろうと言って私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風にして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味を有っていたのです。私はその時自分の考えている通りを直截《ちょくせつ》に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。然し私にはもう狐疑《こぎ》というさっぱりしない塊《かたまり》がこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと留《と》まりました。そうして話の角度を故意に少し外《そ》らしました。
私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうして御嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。然しまだ学校へ出ている位で年が若いから、此方《こちら》では左程急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、御嬢さんの容色に大分重きを置いているらしく見えました。極《き》めようと思えば何時でも極められるんだからというような事さえ口外しました。それから御嬢さんより外に子供がないのも、容易に手離したがらない源因になっていました。嫁に遣《や》るか、聟《むこ》を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。然しそれがために、私は機会を逸したと同様の結果に陥いってしまいました。私は自分に就いて、ついに一言《いちごん》も口を開く事が出来ませんでした。私は好い加減なところで話を切り上げて、自分の室へ帰ろうとしました。
さっきまで傍《そば》にいて、あんまりだわとか何とか云って笑った御嬢さんは、何時の間にか向うの隅《すみ》に行って、脊中を此方《こっち》へ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読める筈はありません。御嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。御嬢さんは戸棚を前にして坐っていました。その戸棚の一尺ばかり開《あ》いている隙《すき》間《ま》から、御嬢さんは何か引き出して膝《ひざ》の上へ置いて眺めているらしかったのです。私の眼はその隙間の端《はじ》に、一昨日《おととい》買った反物を見付け出しました。私の着物も御嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何とも云わずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改たまった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解らない程不意でした。それが御嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然《はっきり》した時、私はなるべく緩《ゆっ》くらな方が可《い》いだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うと言いました。
奥さんと御嬢さんと私の関係がこうなっているところへ、もう一人男が入《い》り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来《きた》しています。もしその男が私の生活の行《こう》路《ろ》を横切らなかったならば、恐らくこういう長いものを貴方に書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅《うち》へ引張って来たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは止せと云いました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理窟はまるでなかったのです。だから私は私の善《い》いと思うところを強《し》いて断行してしまいました。
十九
「私はその友達の名を此所にKと呼んで置きます。私はこのKと小供の時からの仲好《なかよし》でした。小供の時からと云えば断らないでも解っているでしょう。二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗《しんしゅう》の坊さんの子でした。尤も長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子に遣られたのです。私の生れた地方は大変本願寺派の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他《ほか》のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃になったとすると、檀《だん》家《か》のものが相談して、何処《どこ》か適当な処へ嫁に遣ってくれます。無論費用は坊さんの懐《ふところ》から出るのではありません。そんな訳で真宗寺《しんしゅうでら》は大抵有《ゆう》福《ふく》でした。
Kの生れた家《いえ》も相応に暮らしていたのです。然し次男を東京へ修業に出す程の余力があったかどうか知りません。又修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏《まと》まったものかどうか、其所も私には分りません。とにかくKは医者の家《うち》へ養子に行ったのです。それは私達がまだ中学にいる時の事でした。私は教場で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚ろいたのを今でも記憶しています。
Kの養子先も可なりな財産家でした。Kは其所から学資を貰って東京へ出て来たのです。出て来たのは私と一所でなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入《はい》りました。その時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間にいました。山で生《いけ》捕《ど》られた動物が、檻《おり》の中で抱き合いながら、外を睨《にら》めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏《おそ》れました。それでいて六畳の間の中《なか》では、天下を睥睨《へいげい》するような事を云っていたのです。
然し我々は真面目でした。我々は実際偉くなる積りでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に精進《しょうじん》という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉《ことごと》くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏《い》敬《けい》していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、又は自分の生れた家、即《すなわ》ち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遙かに坊さんらしい性格を有っていたように見受けられます。元来Kの養家では彼を医者にする積りで東京へ出したのです。然るに頑《がん》固《こ》な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺むくと同じ事ではないかと詰《なじ》りました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、その位の事をしても構わないと云うのです。その時彼の用いた道という言葉は、恐らく彼にも能《よ》く解っていなかったでしょう。私は無論解ったとは云えません。然し年の若い私達には、この漠然とした言葉が尊《たっ》とく響いたのです。よし解らないにしても気高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組に卑しいところの見える筈はありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKに取ってどの位有力であったか、それは私も知りません。一図な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫ぬいたに違なかろうとは察せられます。然し万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任が出来てくる位の事は、子供ながら私はよく承知していた積りです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当になる位な語気で私は賛成したのです。
二十
「Kと私は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好な道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込《こまごめ》のある寺の一間を借りて勉強するのだと云っていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼は果して大観音《おおがんのん》の傍《そば》の汚ない寺の中に閉じ籠っていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍《そば》の狭い室でしたが、彼は其所で自分の思う通りに勉強が出来たのを喜こんでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。彼は手《て》頸《くび》に珠《じゅ》数《ず》を懸けていました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似をして見せました。彼はこうして日に何遍も珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私には解りません。円い輪になっているものを一粒ずつ数えて行けば、何処まで数えて行っても終局はありません。Kはどんな所でどんな心持がして、爪《つま》繰《ぐ》る手を留《と》めたでしょう。つまらない事ですが、私はよくそれを思うのです。
私は又彼の室に聖書を見ました。私はそれまでに御経の名を度々彼の口から聞いた覚がありますが、基督《キリスト》教に就いては、問われた事も答えられた例《ためし》もなかったのですから、一寸驚ろきました。私はその理由《わけ》を訊《たず》ねずにはいられませんでした。Kは理由《わけ》はないと云いました。これ程人の有難《ありがた》がる書物なら読んで見るのが当り前だろうとも云いました。その上彼は機会があったら、コーランも読んで見る積りだと云いました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味を有っているようでした。
二年目の夏に彼は国から催促を受けて漸《ようや》く帰りました。帰っても専門の事は何にも云わなかったものと見えます。家《うち》でもまた其所に気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息を能く解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚ろくべく無知なものです。我々に何でもない事が一向外部へは通じていません。我々は又比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大共に世の中に知れ渡っている筈だと思い過ぎる癖があります。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔で又戻って来ました。国を立つ時は私も一所でしたから、汽車へ乗るや否やすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。
三度目の夏は丁度私が永久に父母《ふぼ》の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。そう毎年《まいとし》家《うち》へ帰って何をするのだと云うのです。彼はまた踏み留《とど》まって勉強する積りらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、如何《いか》に波《は》瀾《らん》に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽鬱《ゆううつ》と孤独の淋《さび》しさとを一つ胸に抱《いだ》いて、九月に入《い》って又Kに逢いました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、此方《こっち》から自分の詐《いつわり》を白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。今更仕方がないから、御前の好きなものを遣るより外に途《みち》はあるまいと、向うに云わせる積りもあったのでしょうか。とにかく大学へ入《はい》ってまでも養父母を欺むき通す気はなかったらしいのです。又欺むこうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。
二十一
「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙《だま》すような不《ふ》埒《らち》なものに学資を送る事は出来ないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kは又それと前後して実家から受取った書翰《しょかん》も見せました。これにも前に劣らない程厳しい詰責《きっせき》の言葉がありました。養家先へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、此方《こっち》でも一切構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも他に妥協の道を講じて、依然養家に留《とど》まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
私はその点に就いてKに何か考があるのかと尋ねました。Kは夜学校の教師でもする積りだと答えました。その時分は今に比べると、存外世の中が寛《くつ》ろいでいましたから、内職の口は貴方が考える程払底でもなかったのです。私はKがそれで充分遣って行けるだろうと考えました。然し私には私の責任があります。Kが養家の希望に背《そむ》いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかと云って手を拱《こまぬ》いでいる訳に行きません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳《は》ね付けました。彼の性格から云って、自活の方が友達の保護の下《もと》に立つより遙かに快よく思われたのでしょう。彼は大学へ這入った以上、自分一人位どうか出来なければ男でないような事を云いました。私は私の責任を完《まっと》うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
Kは自分の望むような口を程なく探し出しました。然し時間を惜《おし》む彼にとって、この仕事がどの位辛かったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩《ゆる》めずに、新らしい荷を脊負《しょ》って猛進したのです。私は彼の健康を気遣いました。然し剛気な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取合いませんでした。
同時に彼と養家との関係は、段々こん絡《がら》がって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末《てんまつ》を詳《くわ》しく聞かずにしまいましたが、解決の益《ますます》困難になって行く事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を促がしたのですが、Kは到底駄目だと云って、応じませんでした。この剛情なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないと云いましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。そこが事態を益険悪にした様にも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の怒も買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果《ききめ》もありませんでした。私の手紙は一言《ひとこと》の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今までも行掛り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出して貰った学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉で云えば、まあ勘当なのでしょう。或はそれ程強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継《けい》母《ぼ》に育てられた結果とも見る事が出来るようです。もし彼の実の母が生きていたら、或は彼と実家との関係に、こうまで隔りが出来ずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父は云うまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い点に於て、寧《むし》ろ武士《さむらい》に似たところがありはしないかと疑われます。
二十二
「Kの事件が一段落ついた後《あと》で、私《わたくし》は彼の姉の夫から長い封書を受取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙にはその後《ご》Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を貰いたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を嗣《つ》いだ兄よりも、他家へ縁づいたこの姉を好いていました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉《きょう》弟《だい》ですけれども、この姉とKの間には大分年《と》歯《し》の差があったのです。それでKの小供の時分には、継母《ままはは》よりもこの姉の方が、却《かえ》って本当の母らしく見えたのでしょう。
私はKに手紙を見せました。Kは何とも云いませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二三度来たという事を打ち明けました。Kはその度に心配するに及ばないと答えて遣ったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家《いえ》に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうして遣る訳にも行かなかったのです。
私はKと同じような返事を彼の義《ぎ》兄宛《けいあて》で出しました。その中に、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは固《もと》より私の一存でした。Kの行先《ゆくさき》を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を軽蔑《けいべつ》したとより外に取りようのない彼の実家や養家に対する意地もあったのです。
Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃になるまで、約一年半の間、彼は独力で己《おの》れを支えて行ったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅《うるさ》い問題も手伝っていたでしょう。彼は段々感傷的《センチメンタル》になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で脊負《しょ》って立っているような事を云います。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横《よこた》わる光明が、次第に彼の眼を遠《とお》退《の》いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有って、新らしい旅に上《のぼ》るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍《のろ》いのに気が付いて、過半は其所で失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮《あせ》り方は又普通に比べると遙かに甚《はなはだ》しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一《せんいち》だと考えました。
私は彼に向って、余計な仕事をするのは止せと云いました。そうして当分身体《からだ》を楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。剛情なKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際云い出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考だと云うのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼は寧ろ神経衰弱に罹《かか》っている位なのです。私は仕方がないから、彼に向って至極同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進む積りだったと遂には明言しました。(尤《もっと》もこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣《つ》り込まれて来る位、彼には力があったのですから)。最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿《たど》って行《ゆ》きたいと発《ほつ》議《ぎ》しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪《ひざ》まずく事を敢《あえ》てしたのです。そうして漸《やっ》との事で彼を私の家《いえ》に連れて来ました。
二十三
「私の座敷には控えの間というような四畳が付属していました。玄関を上って私のいる所へ通ろうとするには、是非この四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極不便な室でした。私は此所へKを入れたのです。尤《もっと》も最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人で居る方が好《い》いと云って、自分で其方《そっち》のほうを択《えら》んだのです。
前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら止した方が好《い》いというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人は厭だと答えるのです。それでは今厄介になっている私だって同じ事ではないかと詰《なじ》ると、私の気心は初めから能く分っていると弁解して已《や》まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんは又理窟の方向を更《か》えます。そんな人を連れて来るのは、私の為に悪いから止せと云い直します。何故私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
実をいうと私だって強いてKと一所にいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受取る時に躊躇《ちゅうちょ》するだろうと思ったのです。彼はそれ程独立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅へ置いて、二人《ふたり》前《まえ》の食料を彼の知らない間《ま》にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。然し私はKの経済問題について、一言《いちごん》も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
私はただKの健康に就いて云々《うんぬん》しました。一人で置くと益人間が偏窟《へんくつ》になるばかりだからと云いました。それに付け足して、Kが養家と折合の悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は溺《おぼ》れかかった人を抱《だ》いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。その積りであたたかい面倒を見て遣ってくれと、奥さんにも御嬢さんにも頼みました。私はここまで来て漸々《ようよう》奥さんを説き伏せたのです。然し私から何にも聞かないKは、この顛末をまるで知らずにいました。私も却ってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
奥さんと御嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何かをしてくれました。凡《すべ》てそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子をしているにも拘《かか》わらず。
私がKに向って新らしい住居《すまい》の心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言《いちげん》悪くないと云っただけでした。私から云わせれば悪くないどころではないのです。彼の今まで居た所は北向の湿っぽい臭《におい》のする汚ない室《へや》でした。食《くい》物《もの》も室相応に粗末でした。私の家《いえ》へ引き移った彼は、幽谷から喬木に移った趣があった位です。それを左程に思う気《け》色《しき》を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢《ぜいたく》をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか聖徒《セーント》とかの伝を読んだ彼には、動《やや》ともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻《べんたつ》すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私はなるべく彼に逆わない方針を取りました。私は氷を日向《ひなた》へ出して溶かす工夫をしたのです。今に融けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違ないと思ったのです。
二十四
「私は奥さんからそう云う風に取扱かわれた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上に於て、大分相違のある事は、長く交《つき》際《あ》って来た私に能《よ》く解っていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少角《かど》が取れた如く、Kの心も此所に置けば何時か沈まる事があるだろうと考えたのです。
Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍位はしたでしょう。その上持って生れた頭の質《たち》が私よりもずっと可《よ》かったのです。後では専門が違《ちがい》ましたから何とも云えませんが、同じ級にいる間は、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生《へいぜい》から何をしてもKに及ばないという自覚があった位です。けれども私が強いてKを私の宅へ引張って来た時には、私の方が能く事理を弁《わきま》えていると信じていました。私に云わせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺《し》戟《げき》で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、何方《どっち》にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍《はた》のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋程横着なものはないそうです。粥《かゆ》ばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化《こな》す力が何時《いつ》の間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う稽《けい》古《こ》をして置けと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像して見ればすぐ解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此所に気が付いていなかったのです。ただ困難に慣れてしまえば、仕舞にその困難は何でもなくなるものだと極めていたらしいのです。艱《かん》苦《く》を繰り返せば、繰り返すというだけの功《く》徳《どく》で、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅《めぐりあ》えるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを説くときに、是非其所を明らかにして遣《や》りたかったのです。然し云えばきっと反抗されるに極っていました。また昔の人の例などを、引合に持って来るに違ないと思いました。そうなれば私だって、その人達とKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを首肯《うけが》ってくれるようなKなら可《い》いのですけれども、彼の性質として、議論が其所まで行くと容易に後《あと》へは返りません。猶《なお》先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに掛ります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味に於て、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の気性をよく知った私はついに何とも云う事が出来なかったのです。その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に罹《かか》っていたように思われたのです。よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違ないのです。私は彼と喧《けん》嘩《か》をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのは猶《なお》厭でした。それで私は彼が宅へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏かに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
二十五
「私は蔭へ廻って、奥さんと御嬢さんに、なるべくKと話しをする様に頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟《たた》っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には錆《さび》が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
奥さんは取り付き把《は》のない人だと云って笑っていました。御嬢さんは又わざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。火《ひ》鉢《ばち》に火があるかと尋ねると、Kは無いと答えるそうです。では持って来《き》ようと云うと、要らないと断わるそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだと云ったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にも行きません。気の毒だから、何とか云ってその場を取り繕ろって置かなければ済まなくなります。尤もそれは春の事ですから、強いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないと云われるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかる様に力《つと》めました。Kと私が話している所へ家《うち》の人を呼ぶとか、又は家の人と私が一つ室に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、何方《どっち》でもその場合に応じた方法をとって、彼等を接近させようとしたのです。勿論Kはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起って室の外へ出ました。又ある時はいくら呼んでも中々出て来ませんでした。Kはあんな無駄話をして何処が面白いと云うのです。私はただ笑っていました。然し心の中《うち》では、Kがそのために私を軽蔑している事が能く解りました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価《あたい》していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遙かに高いところにあったとも云われるでしょう。私もそれを否《いな》みはしません。然し眼だけ高くって、外《ほか》が釣り合わないのは手もなく不具《かたわ》です。私は何を措《お》いても、この際彼を人間らしくするのが専一《せんいち》だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像《イメジ》で埋《うず》まっていても、彼自身が偉くなって行かない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍《そば》に彼を坐らせる方法を講じたのです。そうして其所から出る空気に彼を曝《さら》した上、錆び付きかかった彼の血液を新らしくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。初のうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏まって来出しました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟って行くようでした。彼はある日私に向って、女はそう軽蔑すべきものでないと云うような事を云いました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線で凡ての男《なん》女《にょ》を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我等二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうと云いました。彼は尤もだと答えました。私はその時御嬢さんの事で、多少夢中になっている頃でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。然し裏面の消息は彼には一口も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事を遣り出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人に云わない代りに、奥さんと御嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
二十六
「Kと私《わたくし》は同じ科に居りながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室《くうしつ》を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶をして自分の部屋へ這入るのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖《ふすま》を開ける私を一寸見ます。そうしてきっと今帰ったのかと云います。私は何も答えないで点頭《うなず》く事もありますし、或《あるい》はただ『うん』と答えて行き過ぎる場合もありました。
ある日私は神田に用があって、帰りが何時もよりずっと後《おく》れました。私は急ぎ足に門前まで来て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御嬢さんの声を聞いたのです。声は慥《たしか》にKの室から出たと思いました。玄関から真直に行けば、茶の間、御嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取なのですから、何処で誰の声がした位《ぐらい》は、久しく厄介になっている私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御嬢さんの声もすぐ已《や》みました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手《て》数《かず》のかかる編上を穿《は》いていたのですが、――私がこごんでその靴紐《くつひも》を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の疳違《かんちがい》かも知れないと考えたのです。然し私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、其所に二人はちゃんと坐っていました。Kは例の通り今帰ったかと云いました。御嬢さんも『御帰り』と坐ったままで挨拶しました。私には気の所為《せい》かその簡単な挨拶が少し硬いように聞こえました。何処かで自然を踏み外しているような調子として、私の鼓膜に響いたのです。私は御嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家《いえ》のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
奥さんは果して留守でした。下女も奥さんと一所に出たのでした。だから家《うち》に残っているのは、Kと御嬢さんだけだったのです。私は一寸首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんが御嬢さんと私だけを置き去りにして、宅《うち》を空けた例《ためし》はまだなかったのですから。私は何か急用でも出来たのかと御嬢さんに聞き返しました。御嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌《きらい》でした。若い女に共通な点だと云えばそれまでかも知れませんが、御嬢さんも下らない事に能く笑いたがる女でした。然し御嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断の表情に帰りました。急用ではないが、一寸用があって出たのだと真面目に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食《ばんめし》の食卓でみんなが顔を合せる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が膳《ぜん》を運んで来てくれたのですが、それが何時の間にか崩《くず》れて、飯時《めしどき》には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。Kが新らしく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取扱わせる事に極めました。その代り私は薄い板で造った足の畳み込める華奢《きゃしゃ》な食卓を奥さんに寄附しました。今では何処の宅でも使っているようですが、その頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族は殆《ほと》んどなかったのです。私はわざわざ御茶の水の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り上させたのです。
私はその卓上で奥さんからその日何時もの時刻に肴屋《さかなや》が来なかったので、私達に食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。成程客を置いている以上、それも尤もな事だと私が考えた時、御嬢さんは私の顔を見て又笑い出しました。然し今度は奥さんに叱られてすぐ已《や》めました。
二十七
「一週間ばかりして私は又Kと御嬢さんが一所に話している室を通り抜けました。その時御嬢さんは私の顔を見るや否や笑い出しました。私はすぐ何が可笑《おか》しいのかと聞けば可かったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKも何時ものように、今帰ったかと声を掛ける事が出来なくなりました。御嬢さんはすぐ障子を開けて茶の間へ入ったようでした。
夕飯《ゆうめし》の時、御嬢さんは私を変な人だと云いました。私はその時も何故変なのか聞かずにしまいました。ただ奥さんが睨《にら》めるような眼を御嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院《でんづういん》の裏手から植物園の通りをぐるりと廻って又富坂《とみざか》の下へ出ました。散歩としては短かい方ではありませんでしたが、その間に話した事は極めて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な方ではなかったのです。然し私は歩きながら、出来るだけ話を彼に仕掛て見ました。私の問題は重《おも》に二人の下宿している家族に就いてでした。私は奥さんや御嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。ところが彼は海のものとも山のものとも見《み》分《わけ》の付かないような返事ばかりするのです。しかもその返事は要領を得ない癖に、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っている様に見えました。尤もそれは二学年目の試験が目の前に逼《せま》っている頃でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとか云って、無学な私を驚ろかせました。
我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後一年だと云って奥さんは喜こんでくれました。そう云う奥さんの唯一《ゆいいつ》の誇《ほこり》とも見られる御嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだと云いました。Kは御嬢さんが学問以外に稽古している縫針《ぬいはり》だの琴だの活花だのを、まるで眼中に置いていないようでした。私は彼の迂《う》濶《かつ》を笑ってやりました。そうして女の価値はそんなところにあるものでないという昔の議論を又彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁《はんばく》もしませんでした。その代り成程という様子も見せませんでした。私には其所が愉快でした。彼のふんと云った様な調子が、依然として女を軽蔑しているように見えたからです。女の代表者として私の知っている御嬢さんを、物の数とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉《しっ》妬《と》は、その時にもう充分萌《きざ》していたのです。
私は夏休みに何処かへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような口振《くちぶり》を見せました。無論彼は自分の自由意志で何処へも行ける身体《からだ》ではありませんが、私が誘いさえすれば、また何処へ行っても差支《さしつか》えない身体だったのです。私は何故行きたくないのかと彼に尋ねて見ました。彼は理由も何《なん》にもないと云うのです。宅で書物を読んだ方が自分の勝手だと云うのです。私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体の為《ため》だと主張すると、それなら私一人行ったら可かろうと云うのです。然し私はK一人を此所に残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好《い》い心持ではなかったのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかと云われればそれまでです。私は馬鹿に違ないのです。果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとう一所に房州《ぼうしゅう》へ行く事になりました。
二十八
「Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は始てでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田《ほた》とか云いました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その頃は非道《ひど》い漁村でした。第一《だいち》何処も彼処《かしこ》も腥《なまぐ》さいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦《す》り剥《む》くのです。拳《こぶし》のような大きな石が打ち寄せる波に揉《も》まれて、始終ごろごろしているのです。
私はすぐ厭になりました。然しKは好いとも悪いとも云いません。少なくとも顔付だけは平気なものでした。その癖彼は海へ入るたんびに何処かに怪我をしない事はなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、其所から富浦《とみうら》に行きました。富浦から又那古《なこ》に移りました。総てこの沿岸はその時分から重に学生の集まる所でしたから、何処でも我々には丁度手頃の海水浴場だったのです。Kと私は能く海岸の岩の上に坐って、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下す水は、又特別に綺麗なものでした。赤い色だの藍《あい》の色だの、普通市場《しじょう》に上《のぼ》らないような色をした小《こ》魚《うお》が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮《あざ》やかに指さされました。
私は其所に坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに耽《ふけ》っているのか、景色に見惚《みと》れているのか、若《も》しくは好きな想像を描いているのか、全く解らなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと一口答えるだけでした。私は自分の傍《そば》にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、御嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事が能くありました。それだけならまだ可《い》いのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱《いだ》いて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然《こつぜん》疑い出すのです。すると落ち付いて其所に書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち上ります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。纏まった詩だの歌だのを面白そうに吟ずるような手《て》緩《ぬる》い事は出来ないのです。只野蛮人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸《えりくび》を後《うしろ》からぐいと攫《つか》みました。こうして海の中へ突き落したらどうすると云ってKに聞きました。Kは動きませんでした。後向《うしろむき》のまま、丁度好《い》い、遣ってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。
Kの神経衰弱はこの時もう大分可くなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。私は自分より落付いているKを見て、羨《うらや》ましがりました。又憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う気《け》色《しき》を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信の如く映りました。然しその自信を彼に認めたところで、私は決して満足出来なかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は学問なり事業なりに就いて、これから自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私は却って世話のし甲《が》斐《い》があったのを嬉しく思う位なものです。けれども彼の安心がもし御嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出来なくなるのです。不思議にも彼は私の御嬢さんを愛している素《そ》振《ぶり》に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ宅へ連れて来たのです。
二十九
「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。尤もこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹が出来ていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の手《て》際《ぎわ》では旨《うま》く行かなかったのです。今から思うと、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種を有たないのも大《だい》分《ぶ》いたでしょうが、たとい有っていても黙っているのが普通の様でした。比較的自由な空気を呼吸している今の貴方がたから見たら、定めし変に思われるでしょう。それが道学の余習なのか、又は一種のはにかみなのか、判断は貴方の理解に任せて置きます。
Kと私は何でも話し合える中でした。偶《たま》には愛とか恋とかいう問題も、口に上《のぼ》らないではありませんでしたが、何時でも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。それも滅多には話題にならなかったのです。大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話位で持ち切っていたのです。いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を崩せるものではありません。二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。私は御嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、何遍歯掻《はが》ゆい不快に悩まされたか知れません。私はKの頭の何処か一カ所を突き破って、其所から柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
貴方がたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だったのです。私は旅先でも宅にいた時と同じように卑怯《ひきょう》でした。私は始終機会を捕《とら》える気でKを観察していながら、変に高踏《こうとう》的な彼の態度をどうする事も出来なかったのです。私に云わせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重《あつ》く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎ懸けようとする血《ち》潮《しお》は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉《ことごと》く弾《はじ》き返されてしまうのです。
或時はあまりにKの様子が強くて高いので、私は却って安心した事もあります。そうして自分の疑を腹の中《なか》で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫《わ》びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急に厭な心持になるのです。然し少時《しばらく》すると、以前の疑が又逆戻りをして、強く打ち返して来ます。凡てが疑いから割り出されるのですから、凡てが私には不利益でした。容貌《ようぼう》もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。何処か間が抜けていて、それで何処かに確《しっ》かりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。学力になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。――凡て向うの好《い》いところだけがこう一度に眼先へ散らつき出すと、一寸安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
Kは落ち付かない私の様子を見て、厭なら一先《ひとまず》東京へ帰っても可《い》いと云ったのですが、そう云われると、私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。二人は房州の鼻を廻って向う側へ出ました。我々は暑い日に射られながら、苦しい思いをして、上総《かずさ》の其所《そこ》一里に騙《だま》されながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている意味がまるで解らなかった位です。私は冗談半分Kにそう云いました。するとKは足があるから歩くのだと答えました。そうして暑くなると、海に入って行こうと云って、何処でも構わず潮《しお》へ漬《つか》りました。その後《あと》を又強い日で照り付けられるのですから、身体が倦怠《だる》くてぐたぐたになりました。
三十
「こんな風にして歩いていると、暑さと疲労とで自然身体の調子が狂って来るものです。尤も病気とは違います。急に他《ひと》の身体の中へ、自分の霊魂が宿替《やどがえ》をしたような気分になるのです。私は平生の通りKと口を利きながら、何処かで平生の心持と離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、旅中《りょちゅう》限りという特別な性質を帯びる風になったのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又歩行のため、在来と異なった新らしい関係に入《い》る事が出来たのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった行商のようなものでした。いくら話をしても何時もと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
我々はこの調子でとうとう銚子《ちょうし》まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事が出来ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊《こみなと》という所で、鯛《たい》の浦《うら》を見物しました。もう年数も余程経っていますし、それに私にはそれ程興味のない事ですから、判然とは覚えていませんが、何でも其所は日蓮《にちれん》の生れた村だとか云う話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二尾《び》磯《いそ》に打ち上げられていたとかいう言伝えになっているのです。それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。我々は小舟を傭《やと》って、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
その時私はただ一図に波を見ていました。そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかったものと見えます。彼は鯛よりも却って日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。丁度其所に誕生寺《たんじょうじ》という寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう。立派な伽《が》藍《らん》でした。Kはその寺に行って住持に会って見るといい出しました。実をいうと、我々は随分変な服装《なり》をしていたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠《すげがさ》を買って被《かぶ》っていました。着物は固《もと》より双方とも垢《あか》じみた上に汗で臭くなっていました。私は坊さんなどに会うのは止そうと云いました。Kは強情だから聞きません。厭なら私だけ外に待っていろというのです。私は仕方がないから一所に玄関にかかりましたが、心のうちではきっと断られるに違ないと思っていました。ところが坊さんというものは案外丁寧なもので、広い立派な座敷へ私達を通して、すぐ会ってくれました。その時分の私はKと大分考が違っていましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。日蓮は草日蓮《そうにちれん》と云われる位で、草書が大変上手であったと坊さんが云った時、字の拙《まず》いKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向って日蓮の事を云々《うんぬん》し出しました。私は暑くて草臥《くたび》れて、それどころではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしていました。それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。
たしかその翌《あく》る晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて飯を食って、もう寐《ね》ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは昨日《きのう》自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合わなかったのを、快よく思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云って、何だか私をさも軽薄もののように遣《や》り込めるのです。ところが私の胸には御嬢さんの事が蟠《わだか》まっていますから、彼の侮蔑《ぶべつ》に近い言葉をただ笑って受け取る訳に行きません。私は私で弁解を始めたのです。
三十一
「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点の凡てを隠していると云うのです。成程後から考えれば、Kのいう通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点が既に反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私は猶の事自説を主張しました。するとKが彼の何処をつらまえて人間らしくないと云うのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事を云うのだ。又人間らしくないように振舞おうとするのだ。
私がこう云った時、彼はただ自分の修養が足りないから、他《ひと》にはそう見えるかも知れないと答えただけで、一向私を反駁《はんばく》しようとしませんでした。私は張合が抜けたというよりも、却って気の毒になりました。私はすぐ議論を其所で切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました。もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうと云って悵然《ちょうぜん》としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を虐《しいた》げたり、道のために体《たい》を鞭《むちう》ったりした所謂《いわゆる》難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位そのために苦しんでいるか解らないのが、如何《いか》にも残念だと明言しました。
Kと私はそれぎり寐てしまいました。そうしてその翌る日から又普通の行商の態度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。然し私は路々《みちみち》その晩の事をひょいひょいと思い出しました。私にはこの上もない好《い》い機会が与えられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代りに、もっと直截《ちょくせつ》で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実を云うと、私がそんな言葉を創造したのも、御嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を蒸溜《じょうりゅう》して拵《こし》らえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原《もと》の形そのままを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。私にそれが出来なかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自《おのず》から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟《たた》ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時は私の気分が又変っていました。人間らしいとか、人間らしくないとかいう小理窟は殆んど頭の中に残っていませんでした。Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時宿っていなかったでしょう。二人は異人種のような顔をして、忙がしそうに見える東京をぐるぐる眺めました。それから両国へ来て、暑いのに軍鶏《しゃも》を食いました。Kはその勢で小石川まで歩いて帰ろうと云うのです。体力から云えばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。
宅《うち》へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はただ色が黒くなったばかりでなく、無暗に歩いていたうちに大変瘠《や》せてしまったのです。奥さんはそれでも丈夫そうになったと云って賞めてくれるのです。御嬢さんは奥さんの矛盾が可笑《おか》しいと云って又笑い出しました。旅行前《まえ》時々腹の立った私も、その時だけは愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久し振に聞いた所為《せい》でしょう。
三十二
「それのみならず私は御嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久し振で旅から帰った私達が平生の通り落付くまでには、万事に就《つ》いて女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる奥さんはとにかく、御嬢さんが凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです。それを露骨に遣られては、私も迷惑したかも知れません。場合によっては却って不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、御嬢さんの所作はその点で甚だ要領を得ていたから、私は嬉しかったのです。つまり御嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。だからKは別に厭な顔もせずに平気でいました。私は心の中《うち》でひそかに彼に対する╂《がい》歌《か》を奏しました。
やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自《てんでん》の時間の都合で、出《で》入《いり》の刻限にまた遅速が出来てきました。私がKより後れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、何時帰っても御嬢さんの影をKの室に認める事はないようになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、『今帰ったのか』を規則の如く繰り返しました。私の会釈も殆んど器械の如く簡単でかつ無意味でした。
たしか十月の中頃と思います、私は寐坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。穿物《はきもの》も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰る筈になっていました。私は戻って来ると、その積りで玄関の格子をがらりと開けたのです。すると居ないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時に御嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私は何時ものように手《て》数《かず》のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切の襖《ふすま》を開けました。私は例の通り机の前に坐っているKを見ました。然し御嬢さんはもう其所にはいなかったのです。私はあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室に這入《はい》ってそのまま坐っていると、間もなく御嬢さんが茶を持って来てくれました。その時御嬢さんは始めて御帰りといって私に挨拶をしました。私は笑いながらさっきは何故逃げたんですと聞けるような捌《さば》けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。御嬢さんはすぐ座を立って縁側伝いに向うへ行ってしまいました。然しKの室の前に立ち留まって、二言《ふたこと》三《み》言《こと》内と外とで話しをしていました。それは先刻《さっき》の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。
そのうち御嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kと私が一所に宅にいる時でも、よくKの室の縁側へ来て彼の名を呼びました。そうして其所へ入って、ゆっくりしていました。無論郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるのですから、その位の交通は同じ宅にいる二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、是非御嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。ある時は御嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあった位です。それなら何故Kに宅を出て貰わないのかと貴方は聞くでしょう。然しそうすれば私がKを無理に引張って来た主意が立たなくなるだけです。私にはそれが出来ないのです。
三十三
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套《がいとう》を濡《ぬ》らして例の通り蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》を抜けて細い坂路を上《あが》って宅へ帰りました。Kの室は空《がら》虚《んど》うでしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳《かざ》そうと思って、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、火種さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢を持って来てくれました。私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰って又出たと答えました。その日もKは私より後《おく》れて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。奥さんは大方用事でも出来たのだろうと云っていました。
私はしばらく其所に坐ったまま書見をしました。宅の中がしんと静まって、誰の話し声も聞こえないうちに、初冬《はつふゆ》の寒さと侘《わ》びしさとが、私の身体に食い込むような感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不図賑《にぎ》やかな所へ行きたくなったのです。雨はやっと歇《あが》ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に担《かつ》いで、砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の裏手の土《ど》塀《べい》について東へ坂を下《お》りました。その時分はまだ道路の改正が出来ない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞《ふさ》がっているのと、放水《みずはき》がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町《やなぎちょう》の通りへ出る間が非道《ひど》かったのです。足駄でも長靴でも無暗に歩く訳には行きません。誰でも路の真中に自然と細長く泥が掻《か》き分けられた所を、後生大事に辿って行かなければならないのです。その幅は僅《わず》か一二尺しかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。私は不意に自分の前が塞がったので偶然眼を上げた時、始めて其所に立っているKを認めたのです。私はKに何処へ行ったのかと聞きました。Kは一寸其所までと云ったぎりでした。彼の答えは何時もの通りふんという調子でした。Kと私は細い帯の上で身体を替《かわ》せました。するとKのすぐ後《うしろ》に一人の若い女が立っているのが見えました。近眼の私には、今までそれが能く分らなかったのですが、Kを遣《や》り越した後で、その女の顔を見ると、それが宅の御嬢さんだったので、私は少からず驚ろきました。御嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶をしました。その時分の束髪は今と違って廂《ひさし》が出ていないのです、そうして頭の真中に蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。私はぼんやり御嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、何方《どっち》か路を譲らなければならないのだという事に気が付きました。私は思い切ってどろどろの中へ片足踏ん込《ご》みました。そうして比較的通り易い所を空けて、御嬢さんを渡して遣りました。
それから柳町の通りへ出た私は何処へ行って好《い》いか自分にも分らなくなりました。何処へ行っても面白くないような心持がするのです。私は飛泥《はね》の上がるのも構わずに、糠《ぬか》る海《み》の中を自棄《やけ》にどしどし歩きました。それから直ぐ宅へ帰って来ました。
三十四
「私はKに向って御嬢さんと一所に出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真《ま》砂町《さごちょう》で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。然し食事の時、又御嬢さんに向って、同じ問を掛けたくなりました。すると御嬢さんは私の嫌《きらい》な例の笑い方をするのです。そうして何処へ行ったか中《あ》てて見ろと仕舞に云うのです。その頃の私はまだ癇癪持《かんしゃくもち》でしたから、そう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところが其所に気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。Kは寧《むし》ろ平気でした。御嬢さんの態度になると、知ってわざと遣るのか、知らないで無邪気に遣るのか、其所の区別が一寸判然しない点がありました。若い女として御嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌《きらい》なところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌なところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬《しっと》に帰して可いものか、又は私に対する御嬢さんの技巧と見傚《みな》して然るべきものか、一寸分別《ふんべつ》に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍《はた》のものから見ると、殆んど取るに足りない瑣事《さじ》に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事ですが、こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。
私はそれまで躊躇《ちゅうちょ》していた自分の心を、一思いに相手の胸へ擲《たた》き付けようかと考え出しました。私の相手というのは御嬢さんではありません。奥さんの事です。奥さんに御嬢さんをくれろと明白な談判を開こうかと考えたのです。然しそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。そういうと私はいかにも優柔な男のように見えます、又見えても構いませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があった為ではありません。Kの来ないうちは、他《ひと》の手に乗るのが厭だという我慢が私を抑え付けて、一歩も動けないようにしていました。Kの来た後《のち》は、もしかすると御嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。果して御嬢さんが私よりもKに心を傾むけているならば、この恋は口へ云い出す価値のないものと私は決心していたのです。耻《はじ》を掻かせられるのが辛いなどと云うのとは少し訳が違ます。此方《こっち》でいくら思っても、向うが内心他《ほか》の人に愛の眼《まなこ》を注いでいるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否応《いやおう》なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますが、それは私達より余っ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだ位の哲理では、承知する事が出来ない位私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時に尤《もっと》も迂《う》遠《えん》な愛の実際家だったのです。
肝心の御嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長く一所にいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。然し決してそればかりが私を束縛したとは云えません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
三十五
「こんな訳で私はどちらの方面へ向っても進む事が出来ずに立ち竦《すく》んでいました。身体の悪い時に午《ひる》睡《ね》などをすると、眼だけ覚めて周囲のものが判然《はっきり》見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
その内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多《かるた》を遣るから誰か友達を連れて来ないかと云った事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚ろいてしまいました。成程Kに友達という程の友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶をする位のものは多少ありましたが、それ等だって決して歌留多などを取る柄ではなかったのです。奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかと云い直しましたが、私も生憎《あいにく》そんな陽気な遊びをする心持になれないので、好い加減な生返《なまへん》事《じ》をしたなり、打ち遣って置きました。ところが晩になってKと私はとうとう御嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客も誰も来ないのに、内々《うちうち》の小《こ》人《にん》数《ず》だけで取ろうという歌留多ですから頗《すこぶ》る静なものでした。その上こういう遊技を遣り付けないKは、まるで懐手《ふところで》をしている人と同様でした。私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kは能く知らないと答えました。私の言葉を聞いた御嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆んど組になって私に当るという有様になって来ました。私は相手次第では喧《けん》嘩《か》を始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。彼の何処にも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事が出来ました。
それから二三日経った後《のち》の事でしたろう、奥さんと御嬢さんは朝から市ケ谷にいる親類の所へ行くと云って宅を出ました。Kも私もまだ学校の始まらない頃でしたから、留守居同様あとに残っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁《ふち》に肱《ひじ》を載せて凝《じっ》と顋《あご》を支えたなり考えていました。隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位静でした。尤もこういう事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。
十時頃になって、Kは不意に仕切の襖《ふすま》を開けて私と顔を見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えていたとすれば、何時もの通り御嬢さんが問題だったかも知れません。その御嬢さんには無論奥さんも食っ付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる回《めぐ》って、この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合せた私は、今まで朧気《おぼろげ》に彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら、明らかにそうと答える訳に行かなかったのです。私は依然として彼の顔を見て黙っていました。するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、私のあたっている火鉢の前に坐りました。私はすぐ両肱を火鉢の縁から取り除《の》けて、心持それをKの方へ押し遣るようにしました。
Kは何時もに似合わない話を始めました。奥さんと御嬢さんは市ケ谷の何処へ行ったのだろうと云うのです。私は大方叔母さんの所だろうと答えました。Kはその叔母さんは何だと又聞きます。私はやはり軍人の細君だと教えて遣りました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだろうと質問するのです。私は何故だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。
三十六
「Kは中々奥さんと御嬢さんの話を已《や》めませんでした。仕舞には私も答えられないような立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。私はとうとう何故《なぜ》今日に限ってそんな事ばかり云うのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫《ふる》えるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。平生から何か云おうとすると、云う前に能く口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易《たやす》く開《あ》かないところに、彼の言葉の重みも籠《こも》っていたのでしょう。一旦声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳《かん》付《づ》いたのですが、それが果して何の準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働さえ、私にはなくなってしまったのです。
その時の私は恐ろしさの塊りと云いましょうか、又は苦しさの塊りと云いましょうか、何しろ一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失われた位に堅くなったのです。幸いな事にその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の後《のち》に、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐ失《し》策《ま》ったと思いました。先《せん》を越されたなと思いました。
然しその先をどうしようという分別はまるで起りません。恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。私は腋《わき》の下から出る気味のわるい汗が襯衣《シャツ》に滲《し》み透るのを凝《じっ》と我慢して動かずにいました。Kはその間《あいだ》何時もの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくって堪《たま》りませんでした。恐らくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に判然《はっき》りした字で貼《は》り付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでも其所に気の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫ぬいていました。重くて鈍《のろ》い代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず掻き乱されていましたから、細かい点になると殆んど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌《きざ》し始めたのです。
Kの話が一通り済んだ時、私は何とも云う事が出来ませんでした。此方《こっち》も彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も云えなかったのです。又云う気にもならなかったのです。
午食《ひるめし》の時、Kと私は向い合せに席を占めました。下女に給仕をして貰って、私はいつにない不味《まず》い飯を済ませました。二人は食事中も殆んど口を利きませんでした。奥さんと御嬢さんは何時帰るのだか分りませんでした。
三十七
「二人は各自《めいめい》の室《へや》に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでした。私も凝と考え込んでいました。
私は当然自分の心をKに打ち明けるべき筈だと思いました。然《しか》しそれにはもう時機が後《おく》れてしまったという気も起りました。何故先《さっ》刻《き》Kの言葉を遮《さえ》ぎって、此方《こっち》から逆襲しなかったのか、其所が非常な手《て》落《ぬか》りのように見えて来ました。責めてKの後《あと》に続いて、自分は自分の思う通りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。Kの自白に一段落が付いた今となって、此方《こっち》から又同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。私の頭は悔恨に揺られてぐらぐらしました。
私はKが再び仕切の襖を開けて向うから突進してきてくれれば好《い》いと思いました。私に云わせれば、先刻《さっき》はまるで不意《ふい》撃《うち》に会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失なったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々眼を上げて、襖を眺めました。然しその襖は何時まで経っても開きません。そうしてKは永久に静なのです。
その内私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。Kは今襖の向で何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。不断もこんな風に御互が仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静であればある程、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私は余程調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私は此方《こっち》から進んで襖を開ける事が出来なかったのです。一旦云いそびれた私は、また向うから働らき掛けられる時機を待つより外に仕方がなかったのです。
仕舞に私は凝としておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私は仕方なしに立って縁側へ出ました。其所《そこ》から茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶《てつびん》の湯を湯呑に注《つ》いで一杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出したのです。私には無論何処へ行くという的《あて》もありません。ただ凝としていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、無暗に歩き廻ったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事で一杯になっていました。私もKを振い落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。寧ろ自分から進んで彼の姿を咀嚼《そしゃく》しながらうろついていたのです。
私には第一に彼が解しがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又どうして打ち明けなければいられない程に、彼の恋が募って来たのか、そうして平生の彼は何処に吹き飛ばされてしまったのか、凡《すべ》て私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていました。又彼の真面目な事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有《も》っていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝と坐っている彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底出来ないのだという声が何処かで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。
私が疲れて宅へ帰った時、彼の室は依然として人気のないように静でした。
三十八
「私が家へ這入《はい》ると間もなく俥《くるま》の音が聞こえました。今のように護謨輪《ごむわ》のない時分でしたから、がらがらいう厭《いや》な響が可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
私が夕飯《ゆうめし》に呼び出されたのは、それから三十分ばかり経った後《あと》の事でしたが、まだ奥さんと御嬢さんの晴着が脱ぎ棄てられたまま、次の室を乱雑に彩《いろ》どっていました。二人は遅くなると私達に済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。然し奥さんの親切はKと私とに取って殆んど無効も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のように、素気ない挨拶ばかりしていました。Kは私よりも猶《なお》寡《か》言《げん》でした。たまに親子連で外出した女二人の気分が、また平生よりは勝《すぐ》れて晴やかだったので、我々の態度は猶の事眼に付きます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持が悪いと答えました。実際私は心持が悪かったのです。すると今度は御嬢さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のように心持が悪いとは答えません。ただ口が利《き》きたくないからだと云いました。御嬢さんは何故口が利きたくないのかと追窮しました。私はその時ふと重たい瞼《まぶた》を上げてKの顔を見ました。私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し顫《ふる》えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。御嬢さんは笑いながら又何かむずかしい事を考えているのだろうと云いました。Kの顔は心持薄赤くなりました。
その晩私は何時もより早く床へ入りました。私が食事の時気分が悪いと云ったのを気にして、奥さんは十時頃蕎麦湯《そばゆ》を持って来てくれました。然し私の室はもう真暗でした。奥さんはおやおやと云って、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈《ランプ》の光がKの机から斜《ななめ》にぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものと見えます。奥さんは枕元に坐って、大方風邪を引いたのだろうから身体を暖《あっ》ためるが可《い》いと云って、湯呑を顔の傍《そば》へ突き付けるのです。私は已《やむ》を得ず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。
私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転させるだけで、外に何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寐ないのかと襖ごしに聞きました。もう寐るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答がありません。その代り五六分経ったと思う頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るように聞こえました。私はもう何時かと又尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて洋燈をふっと吹き消す音がして、家中《うちじゅう》が真暗なうちに、しんと静まりました。
然し私の眼はその暗いなかで愈冴《いよいよさ》えて来るばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝彼から聞いた事に就いて、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとう此《こっ》方《ち》から切り出しました。私は無論襖越《ふすまごし》にそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。私は又はっと思わせられました。
三十九
「Kの生返事は翌日になっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気《け》色《しき》を決して見せませんでした。尤《もっと》も機会もなかったのです。奥さんと御嬢さんが揃《そろ》って一日宅を空《あ》けでもしなければ、二人はゆっくり落付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。私はそれを能《よ》く心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つ積りで、暗に用意をしていた私が、折があったら此方《こっち》で口を切ろうと決心するようになったのです。
同時に私は黙って家《うち》のものの様子を観察して見ました。然し奥さんの態度にも御嬢さんの素《そ》振《ぶり》にも、別に平生《へいぜい》と変った点はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼等の挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心の本人にも、又その監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥《たしか》でした。そう考えた時私は少し安心しました。それで無理に機会を拵《こしら》えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとして置く事にしました。
こう云ってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮《しお》の満《みち》干《ひ》と同じように、色々の高低《たかびく》があったのです。私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。奥さんと御嬢さんの言語動作を観察して、二人の心が果して其所に現われている通なのだろうかと疑っても見ました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭《めいりょう》に偽りなく、盤上の数字を指し得るものだろうかと考えました。要するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句、漸《ようや》く此処に落ち付いたものと思って下さい。更にむずかしく云えば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。
その内学校がまた始まりました。私達は時間の同じ日には連れ立って宅を出ます。都合が可《よ》ければ帰る時にもやはり一所に帰りました。外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。けれども腹の中《なか》では、各自《てんでん》に各自《てんでん》の事を勝手に考えていたに違ありません。ある日私は突然往来でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、又は奥さんや御嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取るべき態度は、この問に対する彼の答次第で極めなければならないと、私は思ったのです。すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだったので、内心嬉しがりました。私はKの私より横着なのを能く知っていました。彼の度胸にも敵《かな》わないという自覚があったのです。けれども一方では又妙に彼を信じていました。学資の事で養家を三年も欺むいていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損《そこな》われていなかったのです。私はそれがために却《かえ》って彼を信じ出した位です。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。
私は又彼に向って、彼の恋をどう取り扱かう積りかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、又はその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。然るに彼は其所になると、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠し出てをしてくれるな、凡て思った通りを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必要はないと判然《はっきり》断言しました。然し私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。私も往来だからわざわざ立ち留まって底まで突き留める訳に行《い》きません。ついそれなりに為《し》てしまいました。
四十
「ある日私は久し振に学校の図書館に入《はい》りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちら此方《こちら》と引繰り返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。然し私に必要な事柄が中々見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私は不図眼を上げて其所に立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲るようにして、彼の顔を私に近付けました。御承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳に行かないのですから、Kのこの所作は誰でも遣る普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。
Kは低い声で勉強かと聞きました。私は一寸調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔を私から放しません。同じ低い調子で一所に散歩をしないかというのです。私は少し待っていれば為《し》ても可《い》いと答えました。彼は待っていると云ったまま、すぐ私の前の空席に腰を卸しました。すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に一物《いちもつ》があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。私は已を得ず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。Kは落付き払ってもう済んだのかと聞きます。私はどうでも可《い》いのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。
二人は別に行く所もなかったので、龍岡町《たつおかちょう》から池《いけ》の端《はた》へ出て、上野の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合《そうごう》して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張出したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うと云うのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵《ふち》に陥いった彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。一言《いちごん》でいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたい様なのです。其所に私は彼の平生と異なる点を確かに認める事が出来たと思いました。度々《たびたび》繰り返すようですが、彼の天性は他《ひと》の思わくを憚《はば》かる程弱く出来上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家事件でその特色を強く胸の裏《うち》に彫り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
私がKに向って、この際何んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼は何時もにも似ない悄然《しょうぜん》とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際耻《は》ずかしいと云いました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がないと云いました。私は隙《す》かさず迷うという意味を聞き糺《ただ》しました。彼は進んで可《い》いか退《しり》ぞいて可いか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退ぞこうと思えば退ぞけるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉が其所で不意に行き詰りました。彼はただ苦しいと云っただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手が御嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合の好《い》い返事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いで遣ったか分りません。私はその位の美くしい同情を有って生れて来た人間と自分ながら信じています。然しその時の私は違っていました。
四十一
「私は丁度他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体《からだ》、すべて私という名の付くものを五分《ぶ》の隙《すき》間《ま》もないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというより寧ろ明け放しと評するのが適当な位に無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞《ようさい》の地図を受取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事が出来たも同じでした。
Kが理想と現実の間に彷徨《ほうこう》してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打《ひとうち》で彼を倒す事が出来るだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。私は彼に向って急に厳粛な改たまった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応する位な緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽《こっけい》だの羞耻《しゅうち》だのを感ずる余裕はありませんでした。私は先ず『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』と云い放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讐《ふくしゅう》ではありません。私は復讐以上に残酷な意味を有《も》っていたという事を自白します。私はその一言《いちごん》でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。
Kは真宗寺に生れた男でした。然し彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女《なんにょ》に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔しから精進という言葉が好《すき》でした。私はその言葉の中に、禁慾という意味も籠っているのだろうと解釈していました。然し後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚ろきました。道のためには凡てを犠牲にすべきものだと云うのが彼の第一信条なのですから、摂慾《せつよく》や禁慾は無論、たとい慾を離れた恋そのものでも道の妨害《さまたげ》になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃から御嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼は何時でも気の毒そうな顔をしました。其所には同情よりも侮《ぶ》蔑《べつ》の方が余計に現われていました。
こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。然し前にも云った通り、私はこの一言《いちごん》で、彼が折角積み上げた過去を蹴散《けち》らした積りではありません。却ってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ』
私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
『馬鹿だ』とやがてKが答えました。『僕は馬鹿だ』
Kはぴたりと其所へ立ち留ったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹《せつ》那《な》に居直り強盗の如く感ぜられたのです。然しそれにしては彼の声が如何にも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の眼遣《めづかい》を参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、徐々《そろそろ》と又歩き出しました。
四十二
「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。或《あるい》は待ち伏せと云った方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKを騙《だま》し打ちにしても構わない位に思っていたのです。然し私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の傍《そば》へ来て、御《お》前《まえ》は卑怯《ひきょう》だと一言《ひとこと》私語《ささや》いてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私は恐らく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私を窘《たしな》めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、其所に敬意を払う事を忘れて、却って其所に付け込んだのです。其所を利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私はその時やっとKの眼を真《ま》向《むき》に見る事が出来たのです。Kは私より脊《せい》の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼《おおかみ》の如き心を罪のない羊に向けたのです。
『もうその話は止めよう』と彼が云いました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私は一寸挨拶が出来なかったのです。するとKは、『止《や》めてくれ』と今度は頼むように云い直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼が隙《すき》を見て羊の咽喉《のど》笛《ぶえ》へ食《くら》い付くように。
『止《や》めてくれって、僕が云い出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。然し君が止めたければ、止めても可《い》いが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうする積りなのか』
私がこう云った時、脊の高い彼は自然と私の前に萎《い》縮《しゅく》して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話す通り頗《すこぶ》る強情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質《たち》だったのです。私は彼の様子を見て漸《ようや》く安心しました。すると彼は卒然『覚悟?』と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に『覚悟、――覚悟ならない事もない』と付け加えました。彼の調子は独言《ひとりごと》のようでした。又夢の中の言葉のようでした。
二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖たかな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋《さび》しいものでした。ことに霜に打たれて蒼《あお》味《み》を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢《こずえ》を並べて聳《そび》えているのを振り返って見た時は、寒さが脊中へ噛《かじ》り付いたような心持がしました。我々は夕暮の本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、又向うの岡へ上《のぼ》るべく小石川の谷へ下りたのです。私はその頃になって、漸やく外套の下に体《たい》の温味を感じ出した位です。
急いだためでもありましょうが、我々は帰り路には殆んど口を聞きませんでした。宅へ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにと云って驚ろいた様子を見せました。御嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけして置きました。平生から無口なKは、いつもより猶《なお》黙っていました。奥さんが話しかけても、御嬢さんが笑っても、碌《ろく》な挨拶はしませんでした。それから飯を呑み込むように掻き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室へ引き取りました。
四十三
「その頃は覚醒《かくせい》とか新らしい生活とかいう文《もん》字《じ》のまだない時分でした。然しKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新らしい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事の出来ない程尊《たっ》とい過去があったからです。彼はそのために今日《こんにち》まで生きて来たと云っても可《い》い位なのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないと云って、決してその愛の生温《なまぬる》い事を証拠立てる訳には行きません。いくら熾《し》烈《れつ》な感情が燃えていても、彼は無暗に動けないのです。前後を忘れる程の衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしても一寸踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人の有たない強情と我慢がありました。私はこの双方の点に於て能く彼の心を見抜いていた積りなのです。
上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜《よ》でした。私はKが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍《そば》に坐り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響があったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳《かざ》した後《あと》、自分の室に帰りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対して有っていたのです。
私は程なく穏やかな眠に落ちました。然し突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間《あいだ》の襖《ふすま》が二尺ばかり開《あ》いて、其所にKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵の通りまだ燈火《あかり》が点《つ》いているのです。急に世界の変った私は、少しの間《あいだ》口を利く事も出来ずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。
その時Kはもう寐《ね》たのかと聞きました。Kは何時でも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寐たか、まだ起きているかと思って、便所へ行った序《ついで》に聞いて見ただけだと答えました。Kは洋燈《ランプ》の灯《ひ》を脊中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりも却って落ち付いていた位でした。
Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇《くらやみ》に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべく又眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。然し翌朝《よくあさ》になって、昨夕《ゆうべ》の事を考えて見ると、何だか不思議でした。私はことによると、凡てが夢ではないかと思いました。それで飯を食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと云います。何故そんな事をしたのかと尋ねると、別に判然《はっきり》した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡が出来るのかと却って向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。
その日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがて一所に宅《うち》を出ました。今朝から昨夕の事が気に掛っている私は、途中でまたKを追窮しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答をしません。私はあの事件に付いて何か話す積りではなかったのかと念を押して見ました。Kはそうではないと強い調子で云い切りました。昨日《きのう》上野で『その話はもう止めよう』と云ったではないかと注意する如くにも聞こえました。Kはそういう点に掛けて鋭どい自尊心を有った男なのです。不図其所に気のついた私は突然彼の用いた『覚悟』という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を抑え始めたのです。
四十四
「Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件に就《つ》いてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫《つら》まえた積りで得意だったのです。ところが『覚悟』という彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼《そしゃく》しているうちに、私の得意はだんだん色を失なって、仕舞にはぐらぐら揺《うご》き始めるようになりました。私はこの場合も或は彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。凡ての疑惑、煩悶《はんもん》、懊悩《おうのう》、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳み込んでいるのではなかろうかと疑ぐり始めたのです。そうした新らしい光で覚悟の二字を眺め返して見た私は、はっと驚ろきました。その時の私が若《も》しこの驚きを以て、もう一返彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かったかも知れません。悲しい事に私は片眼《めっかち》でした。私はただKが御嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのが即《すなわ》ち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。
私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間《ま》に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。私は黙って機会を覘《ねら》っていました。しかし二日経っても三日経っても、私はそれを捕《つら》まえる事が出来ません。私はKのいない時、又御嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。然し片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風の日ばかり続いて、どうしても『今だ』と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。
一週間の後《のち》私はとうとう堪《た》え切れなくなって仮病を遣《つか》いました。奥さんからも御嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事をしただけで、十時頃まで蒲《ふ》団《とん》を被《かぶ》って寐ていました。私はKも御嬢さんもいなくなって、家《いえ》の内《なか》がひっそり静まった頃を見計って寐床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐ何処が悪いかと尋ねました。食物《たべもの》は枕元へ運んでやるから、もっと寐ていたら可かろうと忠告してもくれました。身体に異状のない私は、とても寐る気にはなれません。顔を洗って何時もの通り茶の間で飯を食いました。その時奥さんは長火鉢の向側から給仕をしてくれたのです。私は朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片付かない茶椀を手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈託していたから、外観からは実際気分の好くない病人らしく見えただろうと思います。
私は飯を終《しま》って烟草《たばこ》を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍《そば》を離れる訳に行きません。下女を呼んで膳《ぜん》を下げさせた上、鉄瓶に水を注《さ》したり、火鉢の縁《ふち》を拭いたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うで何故ですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい事があるのだと云いました。奥さんは何ですかと云って、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分に這入り込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
私は仕方なしに言葉の上で、好《い》い加減にうろつき廻った末、Kが近頃何か云いはしなかったかと奥さんに聞いて見ました。奥さんは思いも寄らないという風をして、『何を?』とまた反問して来ました。そうして私の答える前に、『貴方には何か仰《おっし》ゃったんですか』と却って向《むこう》で聞くのです。
四十五
「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私《わたくし》は、『いいえ』といってしまった後で、すぐ自分の嘘を快からず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚《おぼえ》はないのだから、Kに関する用件ではないのだと云い直しました。奥さんは『そうですか』と云って、後を待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然『奥さん、御嬢さんを私に下さい』と云いました。奥さんは私の予期してかかった程驚ろいた様子も見せませんでしたが、それでも少時《しばらく》返事が出来なかったものと見えて、黙って私の顔を眺めていました。一度云い出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着《とんじゃく》などはしていられません。『下さい、是非下さい』と云いました。『私の妻《つま》として是非下さい』と云いました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落付いていました。『上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか』と聞くのです。私が『急に貰いたいのだ』とすぐ答えたら笑い出しました。そうして『よく考えたのですか』と念を押すのです。私は云い出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
それから未だ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のように判然《はきはき》したところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。『宜《よ》ござんす、差し上げましょう』と云いました。『差し上げるなんて威張った口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。御存じの通り父親のない憐《あわ》れな子です』と後では向うから頼みました。
話は簡単でかつ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞までに恐らく十五分とは掛らなかったでしょう。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だと云いました。本人の意《い》嚮《こう》さえたしかめるに及ばないと明言しました。そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥《こうでい》する位に思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは『大丈夫です。本人が不承知のところへ、私があの子を遣る筈がありませんから』と云いました。
自分の室《へや》へ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、却って変な気持になりました。果して大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に這《は》い込んで来た位です。けれども大体の上に於て、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私の凡てを新たにしました。
私は午頃《ひるごろ》又茶の間へ出掛けて行って、奥さんに、今朝の話を御嬢さんに何時通じてくれる積りかと尋ねました。奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話しても構わなかろうというような事を云うのです。こうなると何だか私よりも相手の方が男みたようなので、私はそれぎり引き込もうとしました。すると奥さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可《い》い、稽《けい》古《こ》から帰って来たら、すぐ話そうと云うのです。私はそうして貰う方が都合が好《い》いと答えて又自分の室に帰りました。然し黙って自分の机の前に坐って、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像して見ると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。私はとうとう帽子を被って表へ出ました。そうして又坂の下で御嬢さんに行き合いました。何にも知らない御嬢さんは私を見て驚ろいたらしかったのです。私が帽子を脱《と》って『今御帰り』と尋ねると、向うではもう病気は癒《なお》ったのかと不思議そうに聞くのです。私は『ええ癒りました、癒りました』と答えて、ずんずん水道橋の方へ曲ってしまいました。
四十六
「私は猿楽町《さるがくちょう》から神保町《じんぼうちょう》の通りへ出て、小《お》川《がわ》町《まち》の方へ曲りました。私がこの界隈《かいわい》を歩くのは、何時も古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手《て》摺《ずれ》のした書物などを眺める気が、どうしても起らないのです。私は歩きながら絶えず宅の事を考えていました。私には先刻《さっき》の奥さんの記憶がありました。それから御嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていた様なものです。その上私は時々往来の真中で我知らず不図立ち留まりました。そうして今頃は奥さんが御嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。また或時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。
私はとうとう万世橋《まんせいばし》を渡って、明神《みょうじん》の坂を上《あが》って、本郷台へ来て、それから又菊坂《きくざか》を下りて、仕舞に小石川の谷へ下りたのです。私の歩いた距離はこの三区に跨《また》がって、いびつな円を描いたとも云われるでしょうが、私はこの長い散歩の間殆んどKの事を考えなかったのです。今その時の私を回顧して、何故《なぜ》だと自分に聞いて見ても一向分りません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ得る位、一方に緊張していたと見ればそれまでですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかったのですから。
Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、即ち例のごとく彼の室を抜けようとした瞬間でした。彼は何時もの通り机に向って書見をしていました。彼は何時もの通り書物から眼を放して、私を見ました。然し彼は何時もの通り今帰ったのかとは云いませんでした。彼は『病気はもう癒《い》いのか、医者へでも行ったのか』と聞きました。私はその刹那に、彼の前に手を突いて、詫《あや》まりたくなったのです。しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人曠《こう》野《や》の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。然し奥には人がいます。私の自然はすぐ其所で食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。
夕飯《ゆうめし》の時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんは何時もより嬉しそうでした。私だけが凡てを知っていたのです。私は鉛のような飯を食いました。その時御嬢さんは何時ものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。奥さんが催促すると、次の室で只今と答えるだけでした。それをKは不思議そうに聞いていました。仕舞にどうしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんは大方極りが悪いのだろうと云って、一寸私の顔を見ました。Kは猶《なお》不思議そうに、なんで極《きまり》が悪いのかと追窮しに掛りました。奥さんは微笑しながら又私の顔を見るのです。
私は食卓に着いた初から、奥さんの顔付で、事の成行を略《ほぼ》推察していました。然しKに説明を与えるために、私のいる前で、それを悉《ことごと》く話されては堪らないと考えました。奥さんはまたその位の事を平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。幸《さいわい》にKは又元の沈黙に帰りました。平生より多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れを抱《いだ》いている点までは話を進めずにしまいました。私はほっと一息して室へ帰りました。然し私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。私は色々の弁護を自分の胸で拵《こし》らえて見ました。けれども何《ど》の弁護もKに対して面と向うには足りませんでした。卑怯な私は終《つい》に自分で自分をKに説明するのが厭《いや》になったのです。
四十七
「私はそのまま二三日過ごしました。その二三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのは云うまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、御嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺《し》戟《げき》するのですから、私は猶辛かったのです。何処か男らしい気性を具えた奥さんは、何時私の事を食卓でKに素《すっ》ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対する御嬢さんの挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言出来ません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新らしい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。然し倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。
私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改ためてそう云って貰おうかと考えました。無論私のいない時にです。然しありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目《めんぼく》のないのに変りはありません。と云って、拵え事を話して貰おうとすれば、奥さんからその理由を詰問されるに極っています。もし奥さんに総ての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝《さら》け出さなければなりません。真面目《まじめ》な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾《こうかつ》な男でした。そうして其所に気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。然し立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事を是非とも周囲の人に知られなければならない窮境に陥いったのです。私は飽くまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟《はさ》まってまた立ち竦《すく》みました。
五六日経った後《のち》、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。すると何故話さないのかと、奥さんが私を詰《なじ》るのです。私はこの問の前に固くなりました。その時奥さんが私を驚ろかした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
『道理で妾《わたし》が話したら変な顔をしていましたよ。貴方《あなた》もよくないじゃありませんか、平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは』
私はKがその時何か云いはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にも云わないと答えました。然し私は進んでもっと細かい事を尋ねずにはいられませんでした。奥さんは固《もと》より何も隠す訳がありません。大した話もないがと云いながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。
奥さんの云うところを綜合して考えて見ると、Kはこの最後の打撃を、最も落付いた驚《おどろき》をもって迎えたらしいのです。Kは御嬢さんと私との間に結ばれた新らしい関係に就いて、最初はそうですかとただ一口云っただけだったそうです。然し奥さんが、『あなたも喜こんで下さい』と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩《も》らしながら、『御目出とう御座います』と云ったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、『結婚は何時ですか』と聞いたそうです。それから『何か御祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事が出来ません』と云ったそうです。奥さんの前に坐っていた私は、その話を聞いて胸が塞《ふさが》るような苦しさを覚えました。
四十八
「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異《こと》なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値《あたい》すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遙かに立派に見えました。『おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ』という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧《あか》らめました。然し今更Kの前に出て、耻《はじ》を掻かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
私が進もうか止《よ》そうかと考えて、ともかくも翌日《あくるひ》まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと慄然《ぞっ》とします。何時も東枕で寐る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風で不図眼を覚したのです。見ると、何時も立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じ位開《あ》いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿は其所には立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に肱《ひじ》を突いて起き上りながら、きっとKの室を覗《のぞ》きました。洋燈《ランプ》が暗く点《とも》っているのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲団は跳返されたように裾《すそ》の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突ッ伏しているのです。
私はおいと云って声を掛けました。然し何の答もありません。おいどうかしたのかと私は又Kを呼びました。それでもKの身体は些《ちっ》とも動きません。私はすぐ起き上って、敷《しき》居《い》際《ぎわ》まで行きました。其所から彼の室の様子を、暗い洋燈の光で見廻して見ました。
その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれと略《ほぼ》同じでした。私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子《ガラス》で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立に立竦《たちすく》みました。それが疾風の如く私を通過したあとで、私は又ああ失策《しま》ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横《よこた》わる全生涯を物凄《ものすご》く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。
それでも私はついに私を忘れる事が出来ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通り私の名宛になっていました。私は夢中で封を切りました。然し中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛い文句がその中に書き列《つら》ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんや御嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私は一寸眼を通しただけで、まず助かったと思いました。(固より世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
手紙の内容は簡単でした。そうして寧《むし》ろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、極《ごく》あっさりした文句でその後《あと》に付け加えてありました。世話序《ついで》に死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜《よろ》しく詫《わび》をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせて貰いたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ずつ書いてある中に御嬢さんの名前だけは何処にも見えません。私は仕舞まで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。然し私の尤《もっと》も痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私は顫える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆《みん》なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、襖に迸《ほと》ばしっている血潮を始めて見たのです。
四十九
「私は突然Kの頭を抱《かか》えるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔が一目見たかったのです。然し俯伏《うつぶし》になっている彼の顔を、こうして下から覗き込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。慄《ぞっ》としたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今触った冷たい耳と、平生に変らない五分刈の濃い髪の毛を少時《しばらく》眺めていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺戟して起る単調な恐ろしさばかりではありません。私は忽然《こつぜん》と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。
私は何の分別《ふんべつ》もなくまた私の室に帰りました。そうして八畳の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。私はどうかしなければならないと思いました。同時にもうどうする事も出来ないのだと思いました。座敷の中をぐるぐる廻らなければいられなくなったのです。檻《おり》の中へ入れられた熊の様な態度で。
私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私を遮《さえぎ》ります。奥さんはとにかく、御嬢さんを驚ろかす事は、とても出来ないという強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。
私はその間《あいだ》に自分の室の洋燈を点けました。それから時計を折々見ました。その時の時計程埒《らち》の明かない遅いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかった事だけは明らかです。ぐるぐる廻りながら、その夜明を待ち焦《こが》れた私は、永久に暗い夜《よる》が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。
我々は七時前に起きる習慣でした。学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。下女はその関係で六時頃に起きる訳になっていました。然しその日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云って注意してくれました。奥さんは私の足音で眼を覚したのです。私は奥さんに眼が覚めているなら、一寸私の室まで来てくれと頼みました。奥さんは寐巻の上へ不断着の羽織を引掛て、私の後《あと》に跟《つ》いて来ました。私は室へ這入るや否や、今まで開《あ》いていた仕切の襖をすぐ立て切りました。そうして奥さんに飛んだ事が出来たと小声で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋《あご》で隣の室を指すようにして、『驚ろいちゃ不可《いけ》ません』と云いました。奥さんは蒼《あお》い顔をしました。『奥さん、Kは自殺しました』と私がまた云いました。奥さんは其所に居《い》竦《すく》まったように、私の顔を見て黙っていました。その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。『済みません。私が悪かったのです。あなたにも御嬢さんにも済まない事になりました』と詫《あや》まりました。私は奥さんと向い合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。然し奥さんの顔を見た時不意に我とも知らずそう云ってしまったのです。Kに詫まる事の出来ない私は、こうして奥さんと御嬢さんに詫《わ》びなければいられなくなったのだと思って下さい。つまり私の自然が平生《へいぜい》の私を出し抜いてふらふらと懺《ざん》悔《げ》の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釈しなかったのは私にとって幸《さいわい》でした。蒼い顔をしながら、『不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか』と慰さめるように云ってくれました。然しその顔には驚ろきと怖れとが、彫り付けられたように、硬く筋肉を攫《つか》んでいました。
五十
「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙《からかみ》を開けました。その時Kの洋燈《ランプ》に油が尽きたと見えて、室の中は殆んど真暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って奥さんを顧みました。奥さんは私の後《うしろ》から隠れるようにして、四畳の中を覗き込みました。然し這入ろうとはしません。其所はそのままにして置いて、雨戸を開けてくれと私に云いました。
それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未《び》亡人《ぼうじん》だけあって要領を得ていました。私は医者の所へも行きました。又警察へも行きました。然しみんな奥さんに命令されて行ったのです。奥さんはそうした手続の済むまで、誰もKの部屋へは入れませんでした。
Kは小さなナイフで頸動脈《けいどうみゃく》を切って一息に死んでしまったのです。外に創《きず》らしいものは何にもありませんでした。私が夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋《くびすじ》から一度に迸《ほと》ばしったものと知れました。私は日中の光で明らかにその迹《あと》を再び眺めました。そうして人間の血の勢というものの劇《はげ》しいのに驚ろきました。
奥さんと私は出来るだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれ程汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。二人は彼の死《し》骸《がい》を私の室に入れて、不断の通り寐ている体《てい》に横にしました。私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。
私が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へ這入るとすぐ仏臭い烟《けむり》で鼻を撲《う》たれた私は、その烟の中に坐っている女二人を認めました。私が御嬢さんの顔を見たのは、昨《さく》夜《や》来《らい》この時が始めてでした。御嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時漸《よう》やく悲しい気分に誘われる事が出来たのです。私の胸はその悲しさのために、どの位寛《くつ》ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤《うるおい》を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
私は黙って二人の傍《そば》に坐っていました。奥さんは私にも線香を上げてやれと云います。私は線香を上げて又黙って坐っていました。御嬢さんは私には何とも云いません。たまに奥さんと一口二口言葉を換《か》わす事がありましたが、それは当座の用事に即《つ》いてのみでした。御嬢さんにはKの生前に就いて語る程の余裕がまだ出て来なかったのです。私はそれでも昨夜《ゆうべ》の物凄い有様を見せずに済んでまだ可かったと心のうちで思いました。若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、その為に破壊されてしまいそうで私は怖《こわ》かったのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出来ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄《みだ》りに鞭《むち》うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。
国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨を何処へ埋めるかに就いて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雑《ぞう》司《し》ケ谷《や》近辺をよく一所に散歩した事があります。Kには其所が大変気に入っていたのです。それで私は笑談《じょうだん》半分に、そんなに好《すき》なら死んだら此所へ埋めて遣《や》ろうと約束した覚《おぼえ》があるのです。私も今その約束通りKを雑司ケ谷へ葬ったところで、どの位の功徳になるものかとは思いました。けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前に跪《ひざ》まずいて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私の云う事を聞いてくれました。
五十一
「Kの葬式の帰り路に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんも御嬢さんも、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はその度《たび》にちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早く御前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
私の答は誰に対しても同じでした。私は唯彼の私宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、外に一口も附加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問を掛けて、同じ答を得たKの友人は、懐《ふところ》から一枚の新聞を出して私に見せました。私は歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。それにはKが父兄から勘当された結果厭世《えんせい》的な考を起して自殺したと書いてあるのです。私は何にも云わずに、その新聞を畳んで友人の手に帰しました。友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた新聞があると云って教えてくれました。忙がしいので、殆んど新聞を読む暇がなかった私は、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。私は何よりも宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。ことに名前だけにせよ御嬢さんが引合に出たら堪らないと思っていたのです。私はその友人に外に何《なん》とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。
私が今居《お》る家《いえ》へ引越したのはそれから間もなくでした。奥さんも御嬢さんも前の所にいるのを厭がりますし、私もその夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に極めたのです。
移って二カ月程してから私は無事に大学を卒業しました。卒業して半年も経たないうちに、私はとうとう御嬢さんと結婚しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出たいと云わなければなりません。奥さんも御嬢さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影が随《つ》いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
結婚した時御嬢さんが、――もう御嬢さんではありませんから、妻《さい》と云います。――妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参《はかまいり》をしようと云い出しました。私は意味もなく唯ぎょっとしました。どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。妻は二人揃《そろ》って御参りをしたら、Kがさぞ喜こぶだろうと云うのです。私は何事も知らない妻の顔をしけじけ眺めていましたが、妻から何故そんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。
私は妻の望通り二人連れ立って雑司ケ谷へ行きました。私は新らしいKの墓へ水をかけて洗って遣りました。妻はその前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。妻は定めて私と一所になった顛末《てんまつ》を述べてKに喜こんで貰う積りでしたろう。私は腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。
その時妻はKの墓を撫《な》でて見て立派だと評していました。その墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行って見《み》立《たて》たりした因縁があるので、妻はとくにそう云いたかったのでしょう。私はその新らしい墓と、新らしい私の妻と、それから地面の下に埋《うず》められたKの新らしい白骨とを思い比べて、運命の冷《れい》罵《ば》を感ぜずにはいられなかったのです。私はそれ以後決して妻と一所にKの墓参りをしない事にしました。
五十二
「私の亡友に対するこうした感じは何時までも続きました。実は私も初からそれを恐れていたのです。年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたと云えば云えない事もないでしょう。然《しか》し自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによると或はこれが私の心持を一転して新らしい生涯に入る端緒《いとくち》になるかも知れないとも思ったのです。ところが愈《いよいよ》夫として朝夕妻《さい》と顔を合せて見ると、私のはかない希望は手厳しい現実のために脆《もろ》くも破壊されてしまいました。私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私を何処までも結び付けて離さないようにするのです。妻の何処にも不足を感じない私は、ただこの一点に於て彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、理由は解らないのです。私は時々妻から何故そんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支《さしつかえ》ないのですが、時によると、妻の癇《かん》も高じて来ます。しまいには『あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう』とか、『何でも私に隠していらっしゃる事があるに違ない』とかいう怨言《えんげん》も聞かなくてはなりません。私はその度に苦しみました。
私は一《いっ》層《そ》思い切って、有のままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。然しいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑え付けるのです。私を理解してくれる貴方の事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話して置きます。その時分の私は妻《さい》に対して己《おのれ》を飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢《あえ》てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印《いん》するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫《ひとしずく》の印気《いんき》でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
一年経ってもKを忘れる事の出来なかった私の心は常に不安でした。私はこの不安を駆逐するために書物に溺《おぼ》れようと力《つと》めました。私は猛烈な勢をもって勉強し始めたのです。そうしてその結果を世の中に公けにする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を拵《こしら》えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。私はどうしても書物のなかに心を埋《うず》めていられなくなりました。私は又腕組をして世の中を眺めだしたのです。
妻はそれを今日《こんにち》に困らないから心に弛《たる》みが出るのだと観察していたようでした。妻の家《いえ》にも親子二人位は坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差支のない境遇にいたのですから、そう思われるのも尤もです。私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。然し私の動かなくなった原因の主なものは、全く其所にはなかったのです。叔父に欺むかれた当時の私は、他《ひと》の頼みにならない事をつくづく感じたには相違ありませんが、他《ひと》を悪く取るだけあって、自分はまだ確《たしか》な気がしていました。世間はどうあろうともこの己《おれ》は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他《ひと》に愛《あい》想《そ》を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
五十三
「書物の中に自分を生埋《いきうめ》にする事の出来なかった私は、酒に魂を浸して、己《おの》れを忘れようと試みた時期もあります。私は酒が好きだとは云いません。けれども飲めば飲める質《たち》でしたから、ただ量を頼みに心を盛り潰《つぶ》そうと力めたのです。この浅薄な方便はしばらくするうちに私を猶厭世的にしました。私は爛酔《らんすい》の真最中に不図自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振いと共に眼も心も醒《さ》めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入《はい》り込めないで無暗に沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った後《あと》には、きっと沈鬱な反動があるのです。私は自分の最も愛している妻とその母親に、何時でも其所を見せなければならなかったのです。しかも彼等は彼等に自然な立場から私を解釈して掛ります。
妻の母は時々気《き》拙《まず》い事を妻に云うようでした。それを妻は私に隠していました。然し自分は自分で、単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めると云っても、決して強い言葉ではありません。妻から何か云われた為に、私が激した例《ためし》は殆んどなかった位ですから。妻は度々何処が気に入らないのか遠慮なく云ってくれと頼みました。それから私の未来のために酒を止《や》めろと忠告しました。ある時は泣いて『貴方はこの頃人間が違った』と云いました。それだけなら未《まだ》可《い》いのですけれども、『Kさんが生きていたら、貴方もそんなにはならなかったでしょう』と云うのです。私はそうかも知れないと答えた事がありましたが、私の答えた意味と、妻の了解した意味とは全く違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。それでも私は妻に何事も説明する気にはなれませんでした。
私は時々妻に詫《あや》まりました。それは多く酒に酔って遅く帰った翌日《あくるひ》の朝でした。妻は笑いました。或は黙っていました。たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。私は何方《どっち》にしても自分が不愉快で堪らなかったのです。だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。私はしまいに酒を止めました。妻の忠告で止めたというより、自分で厭になったから止めたと云った方が適当でしょう。
酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。然し読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。私は妻から何の為《ため》に勉強するのかという質問を度々受けました。私はただ苦笑していました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うと益《ますます》悲しかったのです。私は寂寞《せきばく》でした。何処からも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事も能《よ》くありました。
同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為《せい》でもありましょうが、私の観察は寧《むし》ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向って見ると、そう容易《たやす》くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋《さむ》しくって仕方がなくなった結果、急に所決《しょけつ》したのではなかろうかと疑がい出しました。そうして又慄《ぞっ》としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿《たど》っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横《よこ》過《ぎ》り始めたからです。
五十四
「その内妻《さい》の母が病気になりました。医者に見せると到底癒らないという診断でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身の為でもありますし、又愛する妻の為でもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間の為でした。私はそれまでにも何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もする事が出来ないので已《やむ》を得ず懐手《ふところで》をしていたに違ありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
母は死にました。私と妻はたった二人ぎりになりました。妻は私に向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったと云いました。自分自身さえ頼りにする事の出来ない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。又不幸な女だと口へ出しても云いました。妻は何故だと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事が出来ないのです。妻は泣きました。私が不断からひねくれた考で彼女を観察しているために、そんな事も云うようになるのだと恨みました。
母の亡くなった後《あと》、私は出来るだけ妻を親切に取り扱かって遣りました。ただ当人を愛していたからばかりではありません。私の親切には箇《こ》人《じん》を離れてもっと広い背景があったようです。丁度妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は満足らしく見えました。けれどもその満足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀《き》薄《はく》な点が何処かに含まれているようでした。然し妻が私を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣《きづかい》はなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。
妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかと云いました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧《あいまい》な返事をして置きました。妻は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微《かす》かな溜息《ためいき》を洩らしました。
私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃《ひら》めきました。初めはそれが偶然外《そと》から襲って来るのです。私は驚ろきました。私はぞっとしました。然ししばらくしている中《うち》に、私の心がその物凄い閃めきに応ずるようになりました。しまいには外《そと》から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるものの如くに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑《うたぐ》って見ました。けれども私は医者にも誰にも診て貰う気にはなりませんでした。
私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月《まいげつ》行かせます。その感じが私に妻《さい》の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭《むちう》たれたいとまで思った事もあります。こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだという気になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだという考が起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
私がそう決心してから今日《こんにち》まで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。然し私の有っている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。
五十五
「死んだ積りで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍《おど》り上がりました。然し私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御《お》前《まえ》は何をする資格もない男だと抑え付けるように云って聞かせます。すると私はその一言《いちげん》で直《すぐ》ぐたりと萎《しお》れてしまいます。しばらくして又立ち上がろうとすると、又締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他《ひと》の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷《ひやや》かな声で笑います。自分で能《よ》く知っている癖にと云います。私は又ぐたりとなります。
波《は》瀾《らん》も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。妻《さい》が見て歯《は》痒《がゆ》がる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れない位です。私がこの牢《ろう》屋《や》の中《うち》に凝《じっ》としている事がどうしても出来なくなった時、又その牢屋をどうしても突き破る事が出来なくなった時、必竟《ひっきょう》私にとって一番楽な努力で遂行出来るものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。貴方は何故と云って眼をチ《みは》るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けて置くのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
私は今日《こんにち》に至るまで既に二三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹《ひ》かされました。そうしてその妻を一所に連れて行く勇気は無論ないのです。妻に凡《すべ》てを打ち明ける事の出来ない位な私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります。二人を一束《ひとたば》にして火に燻《く》べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
同時に私だけが居なくなった後《あと》の妻を想像して見ると如何にも不《ふ》憫《びん》でした。母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったと云った彼女の述懐を、私は腸《はらわた》に沁《し》み込むように記憶させられていたのです。私はいつも躊躇《ちゅうちょ》しました。妻の顔を見て、止して可かったと思う事もありました。そうして又凝と竦《すく》んでしまいます。そうして妻から時々物足りなそうな眼で眺められるのです。
記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。始めて貴方《あなた》に鎌倉で会った時も、貴方と一所に郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。私の後《うしろ》には何時でも黒い影が括《く》ッ付いていました。私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。貴方が卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまた貴方に会おうと約束した私は、嘘を吐《つ》いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会う積りでいたのです。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御《ほうぎょ》になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後《あと》に生き残っているのは必竟《ひっきょう》時勢遅れだという感じが烈《はげ》しく私の胸を打ちました。私は明白《あから》さまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたら可《よ》かろうと調戯《からか》いました。
五十六
「私は殉死という言葉を殆んど忘れていました。平生《へいぜい》使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談《じょうだん》を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たような心持がしたのです。
それから約一カ月程経ちました。御《ご》大葬《たいそう》の夜《よる》私は何時もの通り書斎に坐って、相《あい》図《ず》の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと云いました。
私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪《と》られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日《こんにち》まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月《としつき》を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那《いっせつな》が苦しいか、何方《どっち》が苦しいだろうと考えました。
それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有《も》って生れた性格の相違と云った方が確かも知れません。私は私の出来る限りこの不可思議な私というものを、貴方に解らせるように、今までの叙述で己れを尽した積りです。
私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積りです。妻の知らない間《ま》に、こっそりこの世から居なくなるようにします。私は死んだ後《あと》で、妻から頓《とん》死《し》したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方にこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めは貴方に会って話をする気でいたのですが、書いて見ると、却ってその方が自分を判然《はっきり》描き出す事が出来たような心持がして嬉しいのです。私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上に於《おい》て、貴方にとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺崋《か》山《ざん》は邯鄲《かんたん》という画を描《か》くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達《せんだっ》て聞きました。他《ひと》から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中《うち》にあるのだから已むを得ないとも云われるでしょう。私の努力も単に貴方に対する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
然し私は今その要求を果しました。もう何《なん》にもする事はありません。この手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めて遣《や》ったのです。私は妻の留守の間《あいだ》に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。
私は私の過去を善悪ともに他《ひと》の参考に供する積りです。然し妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後《あと》でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡《すべ》てを腹の中にしまって置いて下さい」
漱石の文学
江藤 淳
漱石夏目金之助が生れたのは、慶応三年(一八六七)一月五日である。江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井《きくい》町)の名主夏目小兵衛直克の五男で、五男三女の末ッ子であった。当時父の直克は五十歳、母千枝は四十一歳である。
二歳のとき四谷大宗寺門前(現在の新宿二丁目)の名主塩原昌之助・やすの養子となり、七歳で塩原夫婦の離縁とともに生家夏目家に戻ったが、明治二十一年(一八八八)一月正式に復籍するまでは塩原金之助を名乗っていた。明治二十三年(一八九〇)、大学予備門、第一高等中学校を経て東京帝国大学文科大学に学び、英文学を専攻して特待生となり、明治二十六年(一八九三)卒業、一時大学院に在籍したが、高等師範学校英語教師、松山の愛媛県尋常中学校教諭を経て、明治二十九年(一八九六)第五高等学校(熊本)教授となった。同年貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚した。
明治三十三年(一九〇〇)九月、漱石は文部省派遣留学生に選ばれ、満二カ年の英国留学を命ぜられてロンドンに赴いた。明治三十六年(一九〇三)一月下旬、「夏目狂せり」との風説乱れ飛ぶなかに帰朝、一高と東大で英語英文学を講じたが、留学中からの神経症に悩まされ、一時は妻子と別居するまでになった。友人高浜虚子のすすめで、いわば神経症の自己治療のために書いたのが、「ホトトギス」明治三十八年(一九〇五)一月号に掲載された『吾輩は猫である』(一)である。これ以後大いに文名があがり、明治四十年(一九〇七)四月、ついに一切の教職を辞して東京朝日新聞社に入社し、専属の小説記者となった。したがって『虞美《ぐび》人草《じんそう》』以後『道草』、『明暗』にいたる小説は、すべて東京・大阪の両朝日新聞紙上に発表された。
漱石が没したのは大正五年(一九一六)十二月九日、享年五十であった。彼の死を悼む人人の数は、同じ日に薨《こう》じた日露戦争の名将元帥大山巌《いわお》を悼む人々の数をはるかに凌《しの》いだと伝えられる。同月十二日、青山斎場で葬儀がとりおこなわれた。導師は鎌倉円覚寺管長釈宗演、戒名は文献院古道漱石居士である。同月十四日にいたって、朝日新聞連載中の『明暗』の稿が絶えた。夏目家累代の墓は小石川小《こ》日向《びなた》水道端の本法寺にあったが、遺骨は同月二十八日雑司ヶ谷墓地に埋葬された。
このように五十年の生涯を振り返ってみると、漱石の一生がちょうど明治時代をそのなかに含んでいることに気づかせられる。実際、彼は明治改元に先立つこと僅か一年九カ月の慶応三年正月に生れ、明治五年(一八七二)の学制によって設置された小学校で教育された最初の生徒の一人であった。同じ年に生れた文学者には、彼のほかに正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴の三人がいる。しかし、これらの人物がいずれも文学史上の存在であり、その文学が過去の文学となっているのにくらべて、漱石の文学は依然として今日に生きつづけているといわなければならない。毎年秋の読書週間におこなわれる中高校生の読書調査を見ると、『坊っちゃん』『こころ』『三四郎』などの作品が、現代の流行作家の作品と肩を並べて、決って上位に位置づけられている。漱石研究も年を追って盛んになり、おびただしい数の論文が発表されて、漱石の人と文学を究めようとしている。
つまり、漱石は、われわれの所有する数少ない国民的作家の一人である。いや、その文業の奥行きを考えれば、彼こそ近代日本の持ち得た唯一の国民的作家の感があるといってもよい。しかし、なぜ漱石のみが他の作家をしのいで、かくも多くの読者を獲得し、現代に生きつづけ得ているのか。この問いに答えることは、おそらく漱石の文学の本質を語ることになるものと思われる。
第一の理由として考えられることは、漱石の文学が、他の近代作家たちが切り落そうとした過去に、深く根ざしているという事実である。たとえば『硝子《ガラス》戸《ど》の中《うち》』に、次のような回想が記されている。
……それから坂を下《お》り切った所《ところ》に、間口の広い小《こ》倉《くら》屋《や》という酒《さか》屋《や》もあった。尤《もっと》もこの方は倉造りではなかったけれども、堀《ほり》部《べ》安《やす》兵衛《べえ》が高田の馬場で敵《かたき》を打つ時に、此処《ここ》へ立ち寄って、枡酒《ますざけ》を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私《わたくし》はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞ其所《そこ》に仕舞《しま》ってあるという噂《うわさ》の安兵衛が口を着けた枡《ます》を見たことがなかった。その代り娘の御《お》北《きた》さんの長唄《ながうた》は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解《わか》らなかったけれども、私の宅《うち》の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行《ゆ》こうとすると、御北さんの声が其所《そこ》から能《よ》く聞こえたのである。春の日の午過《ひるすぎ》などに、私はよく恍惚《うっとり》とした魂を、麗《うらら》かな光に包みながら、御北さんの御《お》浚《さら》いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠《も》たせて、佇立《たたず》んでいた事がある。その御蔭で私はとうとう「旅の衣《ころも》は篠懸《すずかけ》の」などという文句を何時《いつ》の間《ま》にか覚えてしまった。
あるいは、
……この豆腐屋の隣に寄席《よせ》が一軒あったのを、私は夢幻《ゆめうつつ》のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄《ひとよせ》場《ば》のあろう筈《はず》がないというのが、私の記憶に霞《かすみ》を掛ける所為《せい》だろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼《め》を見張って、遠い私の過去を振り返るのが常である。……私は其所《そこ》の宅《うち》の軒先にまだ薄暗い看板が淋《さむ》しそうに懸《かか》っていた頃、よく母から小遣《こづかい》を貰って其所《そこ》へ講釈を聞きに出掛けたものである。講釈師の名前はたしか、南麟《なんりん》とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟より外《ほか》に誰も出なかった様である。……「もうしもうし花魁《おいらん》え、と云われて八ツ橋なんざますえと振り返る、途《と》端《たん》に切り込む刃《やいば》の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教《おす》わったのか、それとも後《あと》になって落語《はなし》家《か》の遣《や》る講釈師の真似《まね》から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。
漱石文学の核に潜んでいるのは、おそらくこの寄席趣味に象徴される江戸的な感受性である。それは感性的なあらわれかたをすれば長唄に「恍惚《うっとり》」するような感覚になるが、倫理的に表現されれば儒教的な正邪曲直の観念となる。そしてこの美意識と倫理観は、実はわかちがたくまざりあっていて、彼の文学を特徴づけているのである。
このことに関連して、私は漱石の生家と養家がいずれも名主の家柄だったという事実を看《み》過《すご》すことができない。町方名主は町人ではあるが苗字帯刀を許され、町奉行所の配下にあってそれぞれの地区の行政・警察権を掌握していた。この地位は世襲である。つまり名主とは、町人のなかにあってはもっとも武家に近く、町方役人のなかではもっとも深く町人文化に根ざした特別な階層であった。
つまり名主は、管理することにおいて武家に通じ、消費においては武家の自己抑制にかならずしも制約されない。漱石の父小兵衛直克は、青山あたりに相当の地所を持つ地主だったらしいが、吉原の花魁に積《つみ》夜具《やぐ》をして贈るというような華美な消費生活をしたことがあったと伝えられている。養父塩原昌之助もまた、スケールこそ小さいけれども同じ階層に属する高級町人の出身であったことはいうまでもない。
漱石はこのようにして、いわば江戸の武家文化と町人文化との接点を形成する階層に生れ育ち、その感受性と倫理観を血肉のなかに継承していた。どちらかといえば倫理家の趣きが強いのは、ひとつには御一新以後生家と養家がともに没落して消費生活の基盤が崩れ、禁欲的な育ち方を余儀なくされたからだとも思われるが、同時に彼が明治維新のもたらした四民平等によって、四民がことごとく「士」になったと理解していたためとも考えられる。
「……死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」(鈴木三重吉宛書簡)という烈しさは、終生漱石の心を去ることがなかった。
ところで、漱石以外の近代作家は、その多くが漱石が自らの血肉に継承していた江戸的な感受性と倫理観を否定するところから出発していた。それは、とりも直さず坪内逍遙《しょうよう》が『小説神髄』(明治十八年・一八八五)で唱導したいわゆる近代小説の路線である。逍遙は説いている。
小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。……稗官者流《はいかんしゃりゅう》は心理学者のごとし。宜《よろ》しく心理学の道理に基づき、其《その》人物をば仮作《つく》るべきなり。……
試みに一例をあげていはむ歟《か》、彼《か》の曲亭の傑作なりける『八犬伝』中の八《はっ》士《し》の如きは、仁義八行《はっこう》の化物にて、決して人間とはいひ難かり。作者の本意も、もとよりして、彼の八行を人に擬して小説をなすべき心得なるから、あくまで八士の行《おこなひ》をば完全無欠の者となして、勧懲の意を寓せしなり。されば勧懲を主眼として『八犬伝』を評するときには、東西古今に其類なき好稗《こうはい》史《し》なりといふべけれど、他の人情を主脳として此《この》物語を論《あげつろ》ひなば、瑕《きず》なき玉とは称《たた》へがたし。
これはいうまでもなく、逍遙自身の内部に現存していた江戸的な過去への絶縁状ともいうべきものである。もともと逍遙は、少年のころ「大惣《おおそう》」という名古屋の貸本屋で借りた江戸末期の戯作文学によって文学の醍《だい》醐《ご》味《み》を知った人であった。しかし、大学で英文学を学ぶことによって形成されるにいたった逍遙の近代小説観は、このような内なる感受性の源泉を自己否定し、「宜しく心理学の道理に基」づいて小説を「仮作《つく》」ることを求めていた。つまり彼は、自己の文学の源流をせき止めることによって新文学の創造をめざす、という倒錯から出発していたのである。
この新文学とは、一言にしていえば「真」の文学である。つまり、十九世紀のリアリズム文学観を支える「真」の原理によって貫かれた文学である。しかし、漱石の文学、特に初期の『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などに一貫している原理は、決して「真」の原理ではない。『坊っちゃん』は、「真」の原理からいえばかつて正宗白鳥が評したように、「型の如き人間」ばかりが登場する「通俗小説」で「卑近な正義観」を振りまわしているだけだということになるが、これを逆転させてみれば、「型の如き人間」とは現実には存在し得ない人間であり、「卑近な正義観」とは決して実生活では実現できぬ正義観だということになる。したがって“坊っちゃん”とは、あたかも人語を語る猫と同様に、現実には存在し得ない原理によって生きている人物にほかならず、その原理とは「善」と「美」の原理以外のなにものでもないということになるのである。
漱石の文学が今日に生きつづけている一つの理由は、まさにそのなかにこの「善」と「美」の原理が切り捨てられることなく脈々と生きているからにほかならない。かりに十九世紀を支配したリアリズム文学観が、作家に「心理学者」であることを要求し、文学に科学に類推できるような「真実」の追求を求めたとしても、なおそこには「善」と「美」を、あるいは「風雅」や「諧謔《かいぎゃく》」を求めようとする読者一般の欲求が存在することを否定することはできない。この欲求は、逍遙・二葉亭から白鳥にいたる近代文学の主流によっては到底充たされず、今日にいたるまで依然として充たされぬままだといってもよい。だからこそ漱石の文学は、彼のいわゆる「教育ある且尋常なる士人」の「善」と「美」に対する渇を癒《いや》し、文壇文学にあき足りない多くの読者を惹《ひ》きつけて来たのだということができる。
このことは、逆にいえば、漱石がいつも冷静な科学者のようにではなく、「尋常なる」生活者のように生きかつ書いたということを意味している。彼は文学者の営為が、世間の道徳や禁忌をア・プリオリに超越しているとは少しも考えなかった。彼は文壇という別世界にではなく、いつも世間の習俗の只中に身を置いて仕事をしていた。武者小路実篤の言葉を借りれば、彼は「国民の教師」とさえ看做《みな》されかけていた。このような人間がなおかつ作家であり得たというところに、漱石という人間のユニークさが潜んでいるといってもよい。彼はこの二律背反を、虚構と象徴を用いて語ることによって解決しようとした。
作家である以上、彼はその眼に映じる人間の真の姿を描かずには済まされない。しかし、それは彼の内部に存在する「善」と「美」に対する感受性と必然的に相剋《そうこく》せざるを得ない。いわば告白しないことによって告白し、虚構や象徴によってのみ自己の秘密を語るという、漱石独特の手法が生れたのはここからである。それは、換言すれば、いわば非存在によって存在を語ることであり、事実には直ちに還元し得ぬ真実を語ることであった。
ところで、それなら漱石を現代に生かしているもう一つの要素とはいったいなんだろうか? それはおそらく、彼が「近代」の影の部分を最初に洞察した作家だったという事実である。しかもこの洞察は、彼が「近代」の落《らく》伍《ご》者《しゃ》であるどころか、官命によって英国に留学したエリートであったということのために、却って無限の重味をもってわれわれに迫って来る。彼は十九世紀の最後の年の秋にロンドンに渡り、ほどなくヴィクトリア女皇の葬列がハイド・パーク・コーナーを通り過ぎるのをその眼で見た。このロンドン留学の体験が、漱石の文学の新しさを支えている。しかしそれは、いわば彼の存在を根柢《こんてい》から錯乱させるような体験であった。
明治三十三年(一九〇〇)秋には、ロンドンにはすでにテムズ河の河底を横断する地下鉄道があった。漱石ははじめてこの地下鉄に乗ったとき、震動のために嘔《おう》吐《と》をもよおしたと記している。しかし彼以外の英国人乗客たちは、その震動のなかで平然とビスケットを齧《かじ》ったり絵入雑誌を読んだりしていた。地上には乗合馬車と乗合自動車がともに往来していた。自転車は流行の尖端《せんたん》を行く乗物とされ、ロンドンのスモッグは年毎に濃さを増し、英国にはある爛熟の気風が立ちこめていた。それもそのはずで、当時すでに英国の農業は壊滅状態におちいり、七つの海に日の没することのない帝国を支配していた英本国は完全に都市化していた。つまり、英国人は自然と接触のある生活を失い、アングロ・サクソン文学以来彼らの心と想像力を育《はぐく》んでいた自然から全く断絶されるにいたっていた。英国はその頃、すでに歴史の最大の曲り角のひとつを曲ってしまっていたのである。
文学や芸術に、この変化が反映しなかったはずはない。漱石が出逢ったロンドンは、オスカー・ワイルドとビアズレイとラファエル前派が基調を設定したロンドンであった。そういう世界最大の都市に、彼は東洋の島帝国から派遣された一学究として、「近代」の実態を骨に徹するまで味わうべく投入された。しかし、国家有為の人材として官費留学した漱石は、やがて英文学研究に生き甲斐《がい》を見《み》出《いだ》し得なくなった「無用の人」としてロンドンを去るにいたる。「近代」を獲得するために派遣された彼は、間もなく「近代」が限りなく奪うことを知ってしまったからである。人間相互の信頼感を、安息を、日光を、田園と緑の樹木を。この状態を漱石は一九〇〇年から一九〇二年にいたるロンドン留学のあいだに直接体験し、それが遠からず日本人をとらえるであろうことを予見せざるを得なかった。
これは冷静かつ「科学的」な観察の結果によってではなく、彼が「狂せり」といわれたほどの深い錯乱によって贖《あがな》った体験である。彼は心を絶望によって閉じ、心身ともに衰亡の極にいたって故国に戻って来た。彼はすでに「近代」を獲得して来た有為な人材ではなく、学問の世界に自らを容《い》れる場所を見出し得なくなった「無用の人」にすぎなかった。彼は「近代」から落伍したのだろうか? 否、「近代」の向う側に突き抜けてしまっていたのである。
漱石の文学が現代に生きている一つの理由は、ここに存在するものと思われる。過去の感受性を倫理観を保持しながら、漱石は「近代」の裏側にまで突き抜けている。ここには観念的なものはなにもない。なぜなら生きている人間はみなこのように過去を含み、現在を突き抜けるような構造の内面をかかえて生きているからである。たとえば『坊っちゃん』は、このような人間をユーモラスに拡大している。坊っちゃんはまさに過去の倫理と感受性をそのままに維持しつつ、山嵐をしたがえて「近代」の彼方《かなた》に疾走して行く。これは諧謔の奔流のなかで語られた漱石の、「近代」に対する呪《じゅ》詛《そ》である。
しかし、やがて彼は、このような同時代への嫌悪感をユーモラスな語り口に包んでやや饒舌《じょうぜつ》に語るという作風から、「近代」に生存を余儀なくされている人間の孤独な影を描くという作風への転換を示した。『それから』はこの意味で劃《かっ》期《き》的な作品といえる。エゴイズムと不信に悩む孤独な個人。彼はこのような日本人を発見し、その姿を描きつづけた。いや、彼はつねにそのような自己の姿を見つめ、そのことに耐え、ときには胃《い》潰瘍《かいよう》で死にかけ、ときには『行人』執筆中のように激しい神経症に苦しんだ。最晩年の漱石が、「則天去私」ということをつぶやいたとき、彼がこのような近代人の生き地獄からの脱出を夢見ていただろうことは疑いを容れない。しかし、実際には彼は、「天」というよりはむしろ「地」の生命力に、孤独とエゴイズムを超える契機を見出しかけていたように思われる。たとえば『道草』のお住《すみ》が出産する場面に、この認識は明瞭にあらわれている。
健三は生れたばかりの赤ん坊に、顔をそむけたくなるような嫌悪を感じるが、同時に彼はこの「ぷりぷりした寒天のようなもの」に包まれた、「強く抑《おさ》えたり持ったりすれば、全体がきっと崩《くず》れてしまうに違ない」ものの上に、脱脂綿をむやみにちぎって置く。これは人間の原形質であるが故に我執=エゴイズムの原形質であるが、同時に生命そのものでもある。人間はこのような薄気味悪いものの力で生きている。だとすれば、その持続を畏《い》怖《ふ》せずに人はなにを認識したことになるか。漱石はこう問わんとしているかに見える。『道草』で「地」を描いた彼が、未完の大作『明暗』でどんな「天」を描こうとしていたのかは知れない。しかし、「近代」の彼方に突き抜けた彼が、人間の生命の源泉にある深い洞察をおこないつつあったことは疑い得ないものと思われる。
(昭和五十四年九月、文芸評論家)
『こころ』について
三好行雄
明治四十三年八月、修善寺温泉で胃《い》潰瘍《かいよう》の予後静養中だった漱石は病状が悪化して、〈三十分間の死〉とみずから呼ぶ人事不省の危篤状態を体験した。いわゆる〈修善寺の大患〉である。この体験を機として、人間の生と死をめぐる認識はいっそう透徹したものとなり、大患後に書かれた『彼岸過迄』(明治四十五年)と『行人』(大正元年〜二年)では、死すべきもの《・・・・・・》 = 人間の運命をみつめながら、エゴイズムゆえの愛の不毛や知識人の孤独などを描いてきた。
『こころ』は『行人』に続く長編小説で、大正三年四月二十日から八月十一日まで、東京と大阪の両朝日新聞に連載されたが、エゴイズムの追求と批判がより徹底した形でなされている。漱石は自筆の広告文で、人間の心を研究する者はこの小説を読めと書いた。確かに、自負にふさわしく、金銭と恋愛をめぐる我執(エゴ)の相の洞察はするどい。そして、高度な自己否定に到達した人間像を創出し、同時代文明への批判をあわせつらぬいたのである。
新聞の連載にさきだつ予告によれば、数種の短編を書きつぎ、それをあわせて総題を『心』とする予定だったという。しかし、〈其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので〉(初版序)、『先生の遺書』だけで連載を打切り、『こころ』と改題して、大正三年の九月二十日に岩波書店から刊行された。その際、全体を三つに区分して、上「先生と私」(初出稿の一章から三十六章まで)、中「両親と私」(三十七章から五十四章まで)、下「先生と遺書」(五十五章から百十章まで)の三部に再構成したのである。
〈予想通り早く片が付かない事を発見した〉と漱石はいうのだが、では、もともとどのように片をつける《・・・・・》予定だったのだろうか。「先生と遺書」のずしりと重い質感で結構を閉じる現行の形が、それなりの完結性をそなえていることは確かである。しかし、作品の細部にたちいれば、私《・》と両親の関係をはじめ、小説として片をつけるべくして、収束を放棄した部分も多い。〈私〉を列車に乗せたままにしておくのが不都合だとしたら、小説の時間がやがて、遺書を読んだあとの私《・》――思い出を語っている私《・》の現在に回帰する構想があったのではないか、つまり、つぎの短編は私《・》をめぐる物語として予定されていたのではないか、という推測もなりたとう。
〈私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴《あび》せかけようとしているのです〉(下―二)と先生はいう。血をあびた私《・》がどう変ったか、あるいは変らなかったかを判断する手がかりは、私《・》の語りくちのなかから慎重に消されている。あなたはいまに私のほうへは足がむかなくなる、という先生の予言を聞いて、私《・》はつぎのようにいう――〈幸《さいわい》にして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私は、この予言の中《うち》に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった〉(上―八)。この文脈は明らかに、〈当時の私〉に対して、経験《・・》を積んだいまの私の存在を暗示している。しかし、それはまだ暗示にとどまって、すでに明白に了解しているはずの〈意義〉については一語半句も説かないのである。事件の総体が明瞭に見えているにもかかわらず、私《・》は謎《なぞ》が謎としてしか見えない立場に自己を限定して過去を語る。謎を伏線といいかえれば、それは作者の立場でもある。
奥さんとふたりだけの夜、私《・》は奥さんから、先生の大学時代に親友が〈変死〉して、それから〈先生の性質が段々変って来た〉という事実の一端をうちあけられる。Kの自殺が作品の世界におぼろな影を投じた最初だが、私《・》はその一夜を語ったあと、つぎのようにいう。
〈私はその晩の事を記憶のうちから抽《ひ》き抜いて此所へ詳しく書いた。これは書くだけの必《・・・・・・》要がある《・・・・》から書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰って帰るときの気分では、それ程当夜の会話を重く見ていなかった〉(上―二十、傍点引用者)
先生の死を経過して、はじめて見えてきたことの片鱗が語られているわけだが、それにしても、〈書くだけの必要がある〉という判断が作中人物としての私《・》の立場からではなく、謎を伏線として読者に提示しようとする作者の立場からひきだされているのは見やすいだろう。話者としての私《・》は作者と一体不可分な代弁者であり、傀儡《かいらい》でしかない。小説の構造から見て、遺書が青年の心象を通過してからの、いわば成熟の時間が話者の私にはたらきかける余地はない。
しかし、父の臨終をみとる私《・》のまえに遺書が届いたとき、かれは神速な行為者に変る。父の安否を医者に確認することもなく、みじかい走り書きをのこしただけで、汽車にとび乗るのである。かすかな予調として現われていた父か、先生かの二者択一を迫られたとき、私《・》は躊躇なく先生を選択した。主体を賭けたこの選択によって、かれは機能としての話者から小説的人物へ変貌したのである。それは、私《・》ひとりに宛てて遺書を書いた先生の選択の正しさを証明すると同時に、もっとも捨てがたい瞬間に父を捨てた選択が、父や父の家族と私《・》との関係にあたらしいドラマの可能性を胎動させることにもなった。しかし、以後、私《・》は読者の前に姿を見せない。小説として、あまりにも不自然な収束である。
私《・》を汽車にとび乗らせるまで、漱石の構想に狂いはなかったはずである。〈予想通り早く片が付かない〉と作者に思わせた最大の(おそらく唯一の)理由は、長すぎる「先生と遺書」の章にある。遺書が届いたとき、確かに〈普通の手紙に比べると余程目方の重いもので……並の状袋に入れられべき分量でもなかった〉。しかし、〈縦横に引いた罫《けい》の中へ行儀よく書いた原稿様〉のそれは、〈封じる便宜のために、四つ折に畳まれて〉いた。私《・》は〈一寸それを懐に差し込〉む。四百字詰の原稿用紙に換算して二百枚あまりの、現に書かれている形の遺書を漱石は想定していなかったようである。
先生の遺書によって、それまでの伏線(謎)が説明され、同時に小説の主題が提示される。そのバランスが失われて、主題の提示、つまり、先生の生きざまを描く部分が異常に重くなるという形で、遺書は厖大化している。そこには明らかに漱石の肉声がひびき、放《ほう》恣《し》なまでの自己移入が見られるのである。
恋愛は神聖だけれども罪悪だという先生は、同時に〈自由と独立と己れとに充ちた現代〉を生きる代償として、ひとは孤独と寂寞《せきばく》に耐えねばならぬことを見抜いている。お嬢さんを専有しようとして、先生はKを裏切った。この個人的な体験に発する罪の認識(しかも、先生はそれを妻と共有することさえみずからに許さない)と、現代人の寂寞という、より普遍的な主題に架橋して漱石の倫理が存在する。先生は遺書のなかで、〈自由と独立と己れとに充ちた現代〉についていちども語らない。確かに、〈私は寂寞でした。何処からも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事も能《よ》くありました〉(下―五十三)という一行はある。しかし、それは〈妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかった〉という固有の感情(自己の罪は自己の手で罰しなければならないという倫理感の裏返しである)に発した寂寞であって、近代の批判にたやすくは転じない。死んだように生きる自己呵責《かしゃく》を選んだ先生にとって、自己の倫理に普遍的な根拠を与える必要はない。彼はひたすら自分の罪の内部に降りたつことで、〈人間の罪〉の〈恐ろしい影〉〈物凄《ものすご》い閃《ひら》めき〉を発見する。先生の犯した裏切りは、いわば原罪ふうな存在悪の認識にまで彼を連れだそうとしている。『こころ』の主題は(一体化していた先生と作者は、といいかえてもよい)、このとき二極へ分化してゆく可能性をはらんだはずである。
漱石は、〈明治の精神〉に先生を殉死させることで主題を統一した。〈自由と独立と己れとに充ちた現代〉を肯定しながら、あるいはそれを運命としてひきうけながら、なお、そのかなたに人間の耐えねばならぬ孤独と寂寞を見てしまう精神。〈明治の精神〉をそのような形で、いわば近代の獅子身中の虫として理解すれば、肉体の侮《ぶ》蔑《べつ》によって精神の高貴を手に入れようとするKも、Kの無謀を危ぶみながら、結局は罪の鎮めを〈自分で自分を殺す〉自己処罰にゆだねた先生も、ともに〈明治の精神〉の体現者にほかならない。先生は、自分の罪がすくなくとも奥さんからは許されることを予感しながら、語《ことば》を変えていえば、自分と妻との愛の共有が成りたつことを知りながら、愛ゆえの裏切りは罪かという問いをいちども意識しないのである。
殉死という行為は、他者の死を自分の死の唯一の理由とする無償性、没我性において、〈自由と独立と己れとに充ちた現代〉とはるかに対《たい》峙《じ》する。と同時に、乃木の殉死は連隊旗を敵に奪われてから、死に場所を求めつづけた三十五年の果ての、自己処断の死であった。女への愛によって生の形式が瓦解した孤独のなかで、Kはみずからの信条によって自己を罰する形の死を選ぶ。先生は〈明治の精神〉が天皇の死とともに終ったと信じたとき、去ってゆくものへ、それと密接につながれた者が跡追いするという形の殉死を選んだ。Kの遺書のことばを借りていえば、それはいずれも〈もっと早く死ぬべきだのに何故《なぜ》今まで生きていたのだろう〉(下―四十八)という思いをともなう死であった。〈明治の精神〉に殉死することで、先生は固有の倫理をつらぬいて〈自由と独立と己れとに充ちた現代〉への批評を獲得したのである。
漱石が森鴎外とおなじく、乃木の殉死に感動に似た衝撃を受けたのは確かだろう。しかし漱石の反応は、五日後に「興津弥五右衛門の遺書」を書いた鴎外のように素早くはなかった。事件の衝撃を作品化するのにほぼまる二年の時間が必要だったし、事件当時の日記や書簡を見ても、乃木の死に触発されたなまな感想はなにひとつ語られていない。漱石にとって、乃木の殉死は大正という新しい時代の推移とともに、しだいに重い意味をもちはじめるという性質のものだったようである。
明治天皇の死に一時代の精神の死をかさねた先生は、〈最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後《あと》に生き残っているのは必竟《ひっきょう》時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました〉という。後続する大正の世代が明治の精神の冷淡な批判者として現われることを、漱石は知っていた。身ぢかにいた阿部次郎は『三太郎の日記』(大正三年)の思想の彷徨《ほうこう》を通じて人格主義の根拠を築こうとしていたし、五年後に、武者小路実篤が書くはずの『友情』の主人公は、愛のために友人を裏切ることをすこしも恐れない。かれらの前で、乃木の殉死を近代人への批判とみる倫理が〈時勢遅れ〉であることを、漱石は知っていたのである。先生の殉死は、漱石にとって、新しい時代を生きて、小説家としてなお状況にかかわりつづけるために、乃木の死に感動する自己の〈内なるもの〉をみずから殺すことにほかならなかった。
作品にもどっていえば、先生の殉死は固有の倫理をつらぬいた、自己処罰の帰結としてある。だから、〈半ば以上は自分自身の要求に動かされ〉て書いた遺書を、つぎのようなことばで閉じなければならぬ――〈私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい〉。ここから『こころ』という小説のひとつの矛盾があらわれる。
〈私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない〉(上―一)と私《・》が語りはじめたとき、明らかに、打ち明けるべき聞き手としての他者が想定されている。先生の秘密を、〈奥さんは今でもそれを知らずにいる〉(上―十二)状態をかたわらにおいて、私《・》はその秘密について語っているのである。先生に対する重大な背信行為ではないか、と問うのはむろん無意味である。この矛盾は、みずからの古さを葬らねばならぬとしながら、そうした己れをなおかつ一箇の倫理的存在として、可能性を後代に托《たく》そうとする漱石の矛盾を彷《ほう》彿《ふつ》する。漱石が『こころ』の続稿を断念したのは賢明な処置であった。
(昭和五十六年二月、文芸評論家)
(一) 長谷 鎌倉市の南部、海岸に近く、別荘地として有名で、長谷大仏、長谷観音などがある。
(二) 由井が浜 普通〈由比が浜〉と書く。鎌倉市の南方相模《さがみ》湾に面し、東は飯島崎から西は稲村ヶ崎に至る約二キロの砂浜。江ノ島の片瀬海岸などとともに湘南《しょうなん》地方の代表的海水浴場で、夏季は雑沓《ざっとう》をきわめる。
(三) ホテル 鎌倉海浜院をさす。明治二十年(1887)七月、虚弱児童の体質改善、肺結核その他の療養所として建てられ、のちホテルとして名士や外人の家族などに利用された。
(四) 雑司ケ谷の墓地 雑司ケ谷は今の東京都文京区と豊島区にまたがる地名で、音羽護国寺の西および西南、目白台の一部および北方の低地からなる。広い面積が墓地として利用され名士の墓も多く、青山や谷中の墓地と並んで、東京の有名な墓地の一つである。
(五) 依撒伯拉〔Isabella(英) Isabelle(仏)〕 Isabel(スペイン語)の英語読みで、女性に多い人名。
(六) 神僕ロギン 神僕は男子のキリスト教信徒の卑称。
(七) 一切衆生悉有仏生〈一切衆生〉とは地獄、餓鬼、畜生、修《しゅ》羅《ら》、人間、天上の六道にあるすべての生命あるもの。〈仏生〉は〈仏性〉が正しく、本来の仏となることができる性質。すべての生命あるものはみな、仏となるべき性質を心にもっているという仏教の根本精神。
(八) 塔婆 卒塔婆の略。梵語 Stupa から出た語。塔、とくに追善供養の時に建てる塔。細長い角柱または平板に地・水・火・風・空の五輪を刻み、梵《ぼん》字《じ》、仏名・戒名・施主などをしるす。
(九) 安得烈〔Andre(仏) Andree(独)〕英語では Andrew で男子の人名。
(一〇)アイロニー〔irony(英)〕反語。皮肉。
(一一)御影の碑 御影石の碑。神戸市東灘《ひがしなだ》区御影地方では背後の六甲山地から花《か》崗岩《こうがん》を多量に産するので、御影石が花崗岩の俗称となった。
(一二)結滞 心臓疾患のため、脈搏《みゃくはく》が不規則となり、また、ときどき脱落すること。
(一三)小春 陰暦十月の別称。暖かで春のような日があるのでいう。
(一四)新橋 新橋停車場。明治五年(1872)、わが国最初の鉄道が開通した時にできた始発駅で、大正三年(1914)まで存続したが、現在は貨物専用の汐留《しおどめ》駅と改称されている。現在の新橋駅は大正三年までは烏森駅と称した。
(一五)大学出身 ここでは東京帝国大学の卒業生であることを意味する。
(一六)合の子 普通は異った人種(または生物)間に生れた子をさすが、ここでは生粋《きっすい》の江戸っ子に対して、地方人の血が混っているのを、異人種になぞらえて冗談にいったもの。
(一七)博物館 上野公園内にある国立博物館の前身。もと山下門内にあったが、明治十四年(1881)、現在の地に移り、昭和二十二年(1947)までは帝室博物館と称した。
(一八)鶯渓 普通〈鶯谷〉と書く。山手線鶯谷駅から上野博物館裏あたりの地名。江戸期には現在の台東区谷中一帯を指した。
(一九)空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来る「献酬」は酒席で盃のやりとりをすること。中味のない議論を熱心にやりとりしているありさまを、空の盃をむだにやりとりすることにたとえたもの。
(二〇)結句 結局。ここではかえっての意。
(二一)五徳 炉や火鉢の中にすえて、鉄瓶《てつびん》などをかける道具。
(二二)太織 縦に玉糸、横に熨斗(ノシ)糸を使って平織にした太地の絹織物で、伊勢崎、秩父《ちちぶ》、渋川などが産地として有名。「ふとり」「ふとりぎぬ」ともいう。
(二三)のっそつ 「伸《の》っつ反《そ》っつ」の促音のはぶかれた形。体を前後に伸ばしたりそったりすること。転じて、たいくつで、手もちぶさたなありさま。
(二四)成規通り 成規は普通〈正規〉と書く。規則通り、規定通りの意。
(二五)不調法 人とのつきあいなどで融通のきかないこと。
(二六)持ち合ってる 病状などがそれ以上悪くならないで、一定の状態を保っていること。
(二七)尿毒症 賢臓《じんぞう》の機能障害のため尿中の窒素成分が十分に排《はい》泄《せつ》されないで起る中毒症状。
(二八)老少不定 人の命数は定まりなく、年齢とは関係なく予知できないこと。
(二九)鳥の子紙 和紙の一種。雁《がん》皮《び》と楮《こうぞ》をまぜてすいた淡黄色のなめらかでつやのある上質の紙。
(三〇)明治天皇の御病気の報知 明治四十五年(1912)七月二十日、宮内省から明治天皇が〈去る十四日より胃腸に御故障あらせられ、十八日より御重態〉との発表があり、同日の漱石の日記にも〈晩天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏《こん》睡《すい》状態の旨報ぜらる〉とある。
(三一)切下 切下げ髪。切髪《きりかみ》。首または頬《ほお》のあたりまでで短く切った、女の髪型。とくに未亡人が出家の意味で、まげの部分を切ってたらした髪型。
(三二)崩御の報知 明治四十五年(1912)七月三十日の漱石の日記に〈午前零時四十分 陛下崩御の旨公示〉とある。
(三三)百円位 明治四十五年(1912)三月、米一升の小売価格は一等米二十五銭二厘、二等米二十四銭、三等米二十三銭二厘、四等米二十二銭四厘。ちなみに明治四十年に中学教師になった森田草平の月給が二十円、石川啄木が明治四十二年(1909)二月朝日新聞入社の月給が二十五円であった。
(三四)輪廻〔梵語 samsara の訳語〕生きかわり死にかわること。あらゆる生あるものは車輪が回転してきわまりがないように、霊魂が転々と他の生を受けて、始めも終りもなく迷いの世界をめぐるという仏教の根本思想。
(三五)二六時中 昔の時刻の制で一昼夜を十二時(刻)にわけ、その明け六つと暮れ六つ(朝夕の六時)を合せての意味で、一日中、一昼夜の意。
(三六)乃木大将(1849 - 1912)名は希典《まれすけ》。伯爵陸軍大将。山口県人。幼時は父の厳格な武士教育を受け、西南、日清《にっしん》の両役に出征、日露戦争には第三軍司令官として旅順攻略、奉天会戦に武功があった。旅順攻囲には二子を失い、多くの将兵を戦死させたことに深く責任を感じ、明治天皇に死を乞うたが許されず、戦後学習院院長になり、大正元年(1912)九月十三日、明治天皇の大葬当日静子夫人とともに殉死した。
(三七)印気〔ink(英)〕インキの当て字。
(三八)損料着 貸衣《かしい》裳《しょう》。損料着物の略。借り賃を払って借りる着物。
(三九)マンオフミーンズ〔man of means(英)〕資産家。財産家。
(四〇)伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。足利時代初期に了誉上人が建立し、無量山寿経寺という。のち家康の母を葬ったので徳川氏の菩《ぼ》提《だい》所《しょ》として栄えた。
(四一)砲兵工廠 明治三年(1870)水戸徳川の屋敷跡に置かれた造兵司の発展したもので、のち陸軍造兵廠と改称された兵器の製造所。今の後楽園球場はその一部にあたる。
(四二)士官学校 第二次世界大戦まで市ヶ谷にあった陸軍士官学校。憲兵を除く陸軍各兵科の士官教育を施した学校。戦後東京裁判の法廷に用いられ、のちにG・H・Qに接収された。
(四三)木原店という寄席 木原店は日本橋通り一丁目東新道(今の日本橋東急デパートの北側にあたる)の通称。当時ここに木原亭という寄席があった。
(四四)真宗 浄土真宗。親鸞《しんらん》(1173 - 1262)を祖とし、阿弥陀《あみだ》仏《ぶつ》の本願を信じ、念仏による往生成仏を期する浄土教の一派。
(四五)大観音 奈良県長谷《はせ》寺《でら》の本尊を模した十一面観音の立像で、文京区向丘二丁目の光源寺にある。
(四六)コーラン〔Koran(英)Quran(アラビア語)〕読誦《どくしょう》するものの意で、回教の聖典。マホメット(モハメッド)の天啓を記録したもので、信者の道徳、法律の根本などを散文詩体で述べ、百十四章からなる。
(四七)モハメッド〔Mohammed(570? - 632)〕マホメット。アラビア語で〈讃《たた》うべき者〉の意。アラビアのメッカに生れた予言者で、イスラム教(回教)の開祖。アラビア民族の宗教思想と社会制度を懐疑し、アラーの神の啓示を受け、偶像崇拝の排斥とアラビア民族の覚醒《かくせい》とを説く新宗教を首唱した。布教に際し、コーラン(聖典)と剣を両手にたずさえて、〈コーランか剣か〉の武断策をとったといわれる。
(四八)幽谷から喬木に移った趣『詩経』の小雅編に〈幽谷より出でて喬木に遷《うつ》る〉という句があるのによったもので、鳥が深い谷間から高い木の上に場所を変えるように、環境が一変すること。つまり逆境から順境に転ずるの意。
(四九)取り付き把のない人 把は端の当て字で、いとぐちなどの意。普通はとりつくしまのない人などという。とっつきにくい人。
(五〇)植物園 小石川植物園の略称。もとは幕府の薬園だったが、維新後に東京帝国大学理学部の付属施設となった。
(五一)シュエデンボルグ〔Emanuel Swedenborg,1688 - 1772〕スウェーデンの哲学者、神秘主義者。晩年は心霊研究に専念し、聖書を神の直接の声として理解し、また精霊と人間界との交通の可能を説き、新エルサレム教会という一派をひらいた。
(五二)保田 千葉県安房郡の西北端にあり、鋸《のこぎり》山の南麓《なんろく》にあたる。のちに出る富浦、那古などとともに房州の海水浴場として知られる。
(五三)道学の余習 道学は狭義には宋《そう》代の儒学(程朱学)、あるいは心学、あるいは道教などをさす。転じて、形式道徳を重んじる学問一般を意味し、ここではそうした学問の名《な》残《ご》り、影響の意。
(五四)上総の其所一里 上総で道をたずねると土地の者がすぐそこと答えるが、そこといっても一里あるという意味のことわざ。
(五五)鯛の浦 「妙《たえ》の浦」ともいう。千葉県小湊町付近の海岸で、殺生禁断のため鯛が群をなして泳ぐ名勝地。
(五六)誕生寺 千葉県小湊町にある。日蓮上人誕生の地に、弟子の寂日房日家らが建治二年(1276)に創建した寺。
(五七)軍鶏 本所回《え》向院《こういん》(墨田区東両国)の近くには昔から食物屋が多く集まっていたが、ここに坊主軍鶏という有名な鳥屋がある(現存)。
(五八)蒟蒻閻魔 文京区初音町(今の小石川二丁目)の源覚寺境内にまつられている閻魔。蒟蒻を断って祈った老婆に奇《き》瑞《ずい》(めでたいことの不思議な前兆)があったという伝説があり、参詣《さんけい》人がこんにゃくを供えるのでこの名がある。
(五九)糠る海〈泥濘〉の当て字。
(六〇)護謨輪 人力車につけたゴムの車輪。人力車にゴムの車輪が使用されたのは明治三十六年(1903)頃から自家用車に始まり、四十年(1907)以降営業用車にも普及した。それ以前は鉄の車輪だった。
(六一)男女に関係した点について 浄土真宗では僧侶にも妻帯が許されていることをさす。
(六二)神保町の通り 九段下から駿《する》河《が》台下《だいした》にかけての神田の有名な古本屋街。
(六三)明神の坂 神田祭で有名な神田明神へのぼる坂。
(六四)この三区に跨《また》がって 旧本郷区、小石川区、神田区をさす。現在は本郷、小石川両区が合して文京区となり、神田区は千代田区と改称されている。
(六五)しけじけ つくづく。よくよく。
(六六)スポイル〔spoil(英)〕だめ(な人間)にする。台無しにすること。
(六七)所決 処決。覚悟を決めること。
(六八)西南戦争 西南の役。明治十年(1877)二月征韓論の分裂後中央政界を去り、郷里に帰って私学校を中心に士族子弟を養成していた西郷隆盛を擁した鹿児島士族の反政府暴動。九月二十四日には隆盛以下の指導者は戦死または自刃して乱は平定された。
(六九)敵に旗を奪られ 西南戦争当時、少佐だった乃木は小倉第十四連隊長として熊本に出兵し、三月二十三日植木で薩軍と交戦した。連隊旗手の河原林少尉が軍旗を背に負ったまま敵中に斬込んで戦死をしたので、軍旗は敵に奪われ、乃木は責《せめ》を引いて自決しようとしたが部下にいさめられて思いとどまった。
(七〇)渡辺崋山(1793 - 1841)名は登《のぼる》。江戸末期の洋学者、南画家。三河の人。田原藩士。洋学者の立場から幕府の保守的な政策を批判して罪を得、自殺した。絵は西洋画の技法を取入れ、肖像画などの写生画を得意とした。
(七一)邯鄲という画 邯鄲炊夢図のこと。中国の故事「邯鄲夢《かんたんのゆめ》」に材を得た絵で、崋山が自刃の直前に描いたものとされる。〈邯鄲夢〉は盧生という青年が邯鄲の里で、道士呂《りょ》公《こう》の枕を借りて眠ると、人生の富貴をきわめた一生を夢みたが、さめてみると、宿の主人のたいていた黄粱《こうりょう》がまだ煮えあがっていないほど短い間のことで、功名や栄華のむなしさをさとるという故事。崋山の絵は呂公の枕を借りた盧生がまさに眠ろうとしているところを描いている。
三好行雄
年譜
慶応三年(一八六七年)二月九日(旧暦一月五日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井《きくい》町)で、父夏目小兵衛直克、母千枝の五男として生れる。本名金之助。夏目家は町方名主で、かなりの勢力をもっていたが、当時家運は傾きかけていた。生後すぐ四谷の古道具屋(一説に八百屋)へ里子に出されたが、まもなく生家に戻される。
慶応四年・明治元年(一八六八年)一歳 夏目家の書生をしたことのある四谷の名主塩原昌之助の養子となる。以後、養父の仕事の都合で、たびたび転居。
明治七年(一八七四年)七歳 春、養父の女性問題から家庭不和が生じ、養母とともに一時生家に引き取られる。十二月、開校された公立戸田学校下等小学第八級に入学。在学中の成績は優秀であった。
明治九年(一八七六年)九歳 養母が離縁されたため、塩原家在籍のまま生家に戻る。公立市谷学校下等小学第四級に転校。
明治十一年(一八七八年)十一歳 二月、漢文調の論文『正成《まさしげ》論』を友人との回覧雑誌に発表。四月、市谷学校上等小学第八級を卒業。十月、錦華学校小学尋常科二級後期卒業。
明治十二年(一八七九年)十二歳 三月、東京府第一中学校に入学。
明治十四年(一八八一年)十四歳 一月、実母千枝死去。第一中学校を退学。私立二松《にしょう》学舎に入学し、漢学を学ぶ。
明治十六年(一八八三年)十六歳 大学予備門受験のため、神田駿河台の成立学舎に入学し英語を学ぶ。
明治十七年(一八八四年)十七歳 九月、大学予備門予科入学。同級に中村是公がいた。
明治十八年(一八八五年)十八歳 中村是公ら約十人で書生風の下宿生活を送る。
明治十九年(一八八六年)十九歳 四月、大学予備門が第一高等中学校と改称された。七月、成績が下っていたところへ、腹膜炎に罹《かか》り、進級試験が受けられず、原級に留《とど》まる。この落第によって心機一転し、以後卒業まで首席を通す。自活しようと思い、本所の江東義塾の教師となる。
明治二十一年(一八八八年)二十一歳 一月、塩原家より夏目家に復籍。七月、第一高等中学校予科を卒業。英文学専攻を決意し、九月、本科第一部(文科)に入学。
明治二十二年(一八八九年)二十二歳 一月、正岡子規を知る。子規の詩文集『七艸《ななくさ》集』を漢文で批評し七言絶句九編を添え、これに初めて漱石の号を用いる。八月、学友と房総を旅行し、九月、その紀行漢詩文『木屑《ぼくせつ》録』を書いて松山の子規に批評を求める。
明治二十三年(一八九〇年)二十三歳 七月、第一高等中学校本科を卒業。九月、帝国大学文科大学英文科に入学。この年より翌年にかけ、厭世《えんせい》主義に陥る。
明治二十四年(一八九一年)二十四歳 七月、敬愛していた嫂登世《あによめとせ》(季兄直矩の妻)死去。十二月、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』を英訳。
明治二十五年(一八九二年)二十五歳 四月、徴兵を免れるため分家し、北海道に移籍、北海道平民となる(大正二年に東京府平民に戻る)。五月、東京専門学校講師に就任。七月、「哲学雑誌」編集委員となる。夏、退学した子規と共に京都、堺に遊び、松山の子規の生家を訪ねて、高浜虚子を知る。
六月、東洋哲学科目論文『老子の哲学』十月、評論『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト・ホイットマン」 Walt Whitmanの詩について』(哲学雑誌)十二月、教育学科目論文『中学改良策』
明治二十六年(一八九三年)二十六歳 一月、帝国大学文学談話会で『英国詩人の天地山川に対する観念』と題して講演をし、三月、「哲学雑誌」(六月完結)に連載される。七月、文科大学英文科第二回卒業、引続き大学院に入学。十月、学長外山正一の推薦で東京高等師範学校の英語教師に就任。
明治二十七年(一八九四年)二十七歳 二月、血痰《けったん》を出し、初期の肺結核と診断された。十二月から翌年一月にかけ、鎌倉円覚寺の釈宗演の下で参禅。
明治二十八年(一八九五年)二十八歳 横浜の「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終る。四月、友人、菅虎雄の斡旋《あっせん》で、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。八月、日清戦争従軍中の子規が喀血《かっけつ》して帰国し、漱石の下宿に二カ月余り住む。十二月、帰京し、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合いをし、婚約を交わす。
明治二十九年(一八九六年)二十九歳 四月、菅虎雄の斡旋で第五高等学校講師に就任し、熊本に赴く。六月、熊本市光琳《こうりん》寺《じ》町に家を借り、その家で中根鏡子と結婚式を挙げる。七月、教授に昇任。
明治三十年(一八九七年)三十歳 この頃から俳壇に名声が上った。六月、実父直克死去。七月、鏡子を伴い帰京。滞在中に鏡子が流産する。また、在京中、病床の子規を根岸庵に見舞う。暮より漢詩の詩作に没頭。
三月、評論『トリストラム・シャンデー』(江湖文学)
明治三十一年(一八九八年)三十一歳 この頃、鏡子はヒステリー症が激しく、井川淵に投身を企てる。九月、寺田寅彦ら五高生に俳句を教える。
十一月、エッセイ『不言之言』(ホトトギス)
明治三十二年(一八九九年)三十二歳 五月、長女筆子誕生。六月、英語主任となる。
四月、エッセイ『英国の文人と新聞雑誌』(ホトトギス)八月、評論『小説「エイルヰン」の批評』(同)
明治三十三年(一九〇〇年)三十三歳 五月、文部省より、現職のまま、英語研究のため満二カ年の英国留学を命ぜられる。七月、帰京して、妻子を実家中根家に預け、九月、ドイツの汽船で横浜から出帆。十月、途中パリで万国博覧会を見物し、ロンドンに到着。十一月より翌月にかけて、シェークスピア研究家の Craig 博士の個人教授を受けるため、翌年十月頃までその私宅に通う。
明治三十四年(一九〇一年)三十四歳 一月、留守宅で次女恒子誕生。この頃より帰国まで、『文学論』の執筆に専念したが、留学費の不足、孤独感などから神経衰弱に陥る。この年、英詩を作り始める。
明治三十五年(一九〇二年)三十五歳 九月、強度の神経衰弱に陥り、発狂の噂《うわさ》が日本に伝わった。気分転換をはかって自転車の練習を始める。十二月、ロンドンを発ち、帰国の途につく。
明治三十六年(一九〇三年)三十六歳 一月、帰国。三月、第五高等学校を辞し、四月、第一高等学校講師に就任。同時に小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師を兼任し「英文学形式論」と「サイラス・マーナー」の講読を担当。学生による八雲留任運動の直後のせいもあり、八雲の詩的な講義と異なる漱石の分析的な講義は、学生には不評であった。七月、神経衰弱が昂《こう》じ、妻子と約二カ月別居。十月、三女栄子誕生。十一月、再び神経衰弱が昂じ、約半年深刻な状態が続く。この年、水彩画を始める。
六月、エッセイ『自転車日記』(ホトトギス)
明治三十七年(一九〇四年)三十七歳 四月、明治大学講師を兼任。十二月、虚子の勧めで初めて書いた創作『吾輩は猫である』が子規門下の文章会“山会《やまかい》”で虚子の朗読により発表され、好評を博す。
一月、評論『マクベスの幽霊について』(帝国文学)
七・八月、談話筆記『英国現今の劇況』(歌舞伎)
明治三十八年(一九〇五年)三十八歳 一月、『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に発表。好評で、一回読み切りのところ求められるままに連載し、翌年八月に完結。九月、東大で「十八世紀英文学」(出版の際『文学評論』と題す)を開講。この頃から教師を辞して創作家になることを熱望した。十二月、四女愛子誕生。この年、大学の講義は満員の聴講者を集め、雑誌記者が続々と談話を取りに来た。鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆等が出入りし始める。
一月、『倫敦《ロンドン》塔』(帝国文学)『カーライル博物館』(学鐙《がくとう》) 四月、『幻影の盾』(ホトトギス)講演『倫敦のアミューズメント』(明治学報、五月完結) 五月、『琴のそら音《ね》』(七人) 九月、『一夜』(中央公論) 十一月、『薤《かい》露《ろ》行《こう》』(中央公論)
『吾輩は猫である』上篇(十月、服部書店、大倉書店刊)
明治三十九年(一九〇六年)三十九歳 四月、『坊っちゃん』を「ホトトギス」に発表。この頃、胃カタルのために苦しむ。九月、『草枕』を「新小説」に発表。十月、鈴木三重吉の提案で面会日を毎週木曜と定めた。いわゆる“木曜会”の起りである。
一月、『趣味の遺伝』(帝国文学) 十月、『二百十日』(中央公論)
『漾虚《ようぎょ》集』処女短編集(五月、大倉書店刊)
『吾輩は猫である 中篇』(十一月、大倉書店刊)
明治四十年(一九〇七年)四十歳 二月、朝日新聞社より招聘《しょうへい》の話があり、四月、一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。六月より、『虞美《ぐび》人草《じんそう》』を「朝日新聞」に連載(十月完結)。長男純一誕生。九月、神経衰弱はおさまったが、胃病に悩み始める。
一月、『野分』(ホトトギス) 五月、エッセイ『入社の辞』(朝日新聞)評論『文芸の哲学的基礎』(東京朝日、六月完結)
『鶉籠《うずらかご》』中編集(一月、春陽堂刊)
『文学論』評論(五月、大倉書店刊)
『吾輩は猫である 下篇』(五月、大倉書店刊)
明治四十一年(一九〇八年)四十一歳 一月、春陽堂より刊行の虚子著『鶏頭』の序に余裕派文学の立場を述べる。九月より、『三四郎』を「朝日新聞」に連載(十二月完結)。十二月、次男伸六誕生。
一月、『坑夫』(朝日新聞、四月完結) 六月、エッセイ『文鳥』(大阪朝日) 七・八月、『夢十夜』(朝日新聞)
『虞美人草』(一月、春陽堂刊)
『草合《くさあわせ》』中編集(九月、春陽堂刊)
明治四十二年(一九〇九年)四十二歳 三月頃から十一月頃まで、養父塩原昌之助に金の無心をされる。六月、「太陽」の第二回二十五名家投票に文芸家の最高点で当選したが、受賞を辞退。『それから』を「朝日新聞」に連載(十月完結)。九月から十月、満鉄総裁中村是公の招待で満州、朝鮮を旅行。十一月、「朝日新聞」に文芸欄を設ける。
一月、エッセイ『永日小品』(三月完結) 八月、エッセイ『長谷川君と余』(朝日新聞)十月、紀行『満韓ところどころ』(朝日新聞、十二月完結)
『文学評論』評論(三月、春陽堂刊)
『三四郎』(五月、春陽堂刊)
明治四十三年(一九一〇年)四十三歳 三月より、『門』を「朝日新聞」に連載(六月完結)。五女ひな子誕生。六月より翌月にかけ、胃《い》潰瘍《かいよう》で長与胃腸病院に入院。八月、転地療養に出かけた静岡県修善寺温泉で病状悪化し、多量の吐血をして人事不省に陥る。友人、弟子が呼び寄せられたが、ようやくこの状態を脱し、十月、帰京して長与胃腸病院に再入院する。
六月、評論『長塚節氏の小説「土」』(朝日新聞)十月、エッセイ『思い出す事など』(朝日新聞、四十四年四月完結)
『それから』(一月、春陽堂刊)
『四篇』作品集(五月、春陽堂刊)
明治四十四年(一九一一年)四十四歳 二月、文学博士号を贈られたが、固辞する。八月、関西で講演を続けた直後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。九月、帰京したが、痔《じ》に罹《かか》り翌年春まで通院。十月、「朝日新聞」の文芸欄が廃止になったため辞表を出したが、再考を求められ撤回。十一月、五女ひな子死去。
二月、談話『博士問題』(東京朝日) 七月、エッセイ『ケーベル先生』(朝日新聞)
『門』(一月、春陽堂刊)
『切抜帖より』エッセイ集(八月、春陽堂刊)
『朝日講演集』(十一月、朝日新聞社刊)
明治四十五年・大正元年(一九一二年)四十五歳 一月より、『彼《ひ》岸過迄《がんすぎまで》』を「朝日新聞」に連載(四月完結)。九月、痔の再手術を受ける。この頃から好んで書を書き、南画風の水彩画を描いた。十二月より、『行人』を「朝日新聞」に連載(病気で中絶し、二年十一月完結)
『彼岸過迄』(九月、春陽堂刊)
大正二年(一九一三年)四十六歳 一月、強度の神経衰弱となり、六月頃まで悩まされる。三月、胃潰瘍が再発し、五月まで病臥《びょうが》。
『社会と自分』講演集(二月、実業之日本社刊)
大正三年(一九一四年)四十七歳 四月より、『こころ』を「朝日新聞」に連載(八月完結)。九月、四たび胃潰瘍で病臥。十一月、学習院で「私の個人主義」と題する講演を行う。
一月、評論『素人《しろうと》と黒人《くろうと》』(朝日新聞)
『行人』(一月、大倉書店刊)
『こころ』(十月、岩波書店刊)
大正四年(一九一五年)四十八歳 一月より、エッセイ『硝子《ガラス》戸《ど》の中《うち》』を「朝日新聞」に連載(二月完結)。三月、京都に遊んだが、途中五度目の胃潰瘍で倒れる。六月より、『道草』を「朝日新聞」に連載(九月完結)。十二月、芥川龍之介、久米正雄等が木曜会に参加。
三月、評論『私の個人主義』(輔仁会雑誌)
『硝子戸の中』エッセイ(四月、岩波書店刊)
『道草』(十月、岩波書店刊)
『金剛草』エッセイ集(十一月、至誠堂刊)
大正五年(一九一六年)四十九歳 一月、前年末よりリューマチに悩まされ、湯河原温泉に転地療養。二月、芥川龍之介宛の手紙で『鼻』を賞讃。四月、リューマチではなく糖尿病による痛みと診断される。五月より、『明暗』を「朝日新聞」に連載(十二月、死により中絶)八月頃から多くの漢詩を作る。十一月、胃潰瘍で病臥。十二月初旬、大内出血を起した後、九日死去。
一月、評論『点頭録』(朝日新聞)
大正六年(一九一七年)
『明暗』(一月、岩波書店刊)
(本年譜は、諸種のものを参照して編集部で作成した。)