死刑台のロープウェイ
夏樹静子
文春文庫 昭和五十二年四月二十五日刊
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目 次
闇よ、やさしく
ダイイング・メッセージ
燃えがらの証
回転扉がうごく
死刑台のロープウェイ
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闇よ、やさしく
1
美知子が十六時一分のひかり号で博多駅に着いた時は、霧雨がいつか本降りに変っていて、まだコンクリートの白っぽい新しいフォームが、うす暗くガランとして感じられた。
すでに本格的な梅雨に入っている六月初めの週日の午後では、列車から出てくる人も数えるほどしかいない。
美知子は、流行遅れのファスナーのついた小型のスーツケースと、これは小柄な身体に少し大きすぎる横長なハンドバッグを両手にしっかりとさげて、フォームに降り立った。小郡《おごおり》での乗り換え時間も含めて三時間足らずの短い旅だったのに、身体の節々に凝り固まったような疲労を覚えている。旅慣れないための必要以上の緊張感は、目的地の駅へ着いた途端にかえって一層胸を締めつけてきて、心臓の鼓動《こどう》がひとしきり高まったみたいに感じられる。それは、ついさっきまでは、六年前高校の修学旅行で訪れた福岡市の、まだどこかのどかな家並のたたずまいを心に浮かべていたのだが、いよいよ駅付近の風景が車窓に入ってくると、一面に高層ビルが林立し、都会特有の灰色の膜に被《おお》われたようなその町の変貌ぶりに驚嘆してしまったからである。おまけに、一段と高い位置に新設された新幹線フォームには、レールのすぐわきまで鉄筋ビルの壁が迫り、反対側のいく本かのフォームの先も似たようなビルに遮《さえぎ》られてしまい、おぼろな記憶に残るうす青い山々のゆるやかな稜線など、垣間《かいま》見ることもできなかったのだ。
まったく未知の都会へ迷いこんだような戸惑いは、そのまま、これから覗《のぞ》き見ることになる一つの生活への胸騒ぎに似た不安をかきたてた。
秋江はこの冷え冷えとした大きな駅のある都市で、真実どんな暮しをしていたのだろうか──?
長いコンコースを歩いて、ようやく駅の正面に出ると、美知子はタクシー乗り場の行列に加わった。雨にかすんだ広場には、車が飛沫《ひまつ》をあげながらひっきりなしに循環している。新幹線はすいていたのに、どこから人が出てくるのかと思うほど、駅前は混雑している。
やっと順番が来て乗りこんだ美知子は、
「住吉一丁目へおねがいします」と告げた。運転手は返事の代りにメーターを倒して走り出した。
それで美知子は、バッグから例の手紙を取り出し、念のため裏書きを改めてみたが、ここ十カ月一度も変っていない秋江の住所をまちがえるわけはなかった。住所の横には「菊竹荘三号」と、痩せた女文字が記されている。
美知子はついでに封筒の中身も取り出しかけたが、やめにした。すでにいく度となく読み返して、文面もほとんど暗記しているからだ。
≪──私は今とっても幸せです。でも、一度美っちゃんに会いたい。このごろ昼間は大抵家にいるから、来れたら来てください。それもなるべく早く。もしかしたら、近々に遠くへ行くことになるかもしれませんから≫
三歳年上で今年二十七歳になる姉の秋江が、「都会で働きたい」とだけ書き残して家出したのは、昨年の四月だった。それまで二人は、山口県の中央部、|長門《ちようもん》 |峡《きよう》温泉に近い山間の町で、うすい縁続きになる養父母と四人で暮していた。秋江も美知子も地元の商業高校を出て、秋江は山口市の自動車教習所の事務に勤め、美知子は雑貨屋を営む家を手伝っていた。
秋江が家出した当初、両親はまず、そのひと月ほど前、秋江との情人関係が露顕して一|悶着《もんちやく》あった勤め先の上司に当る妻子ある男に問合せた。が、彼は、秋江との関係が周囲にばれて、上役から厳しい注意を受けて以来、秋江とは職場で顔を合せてもほとんど口もきいていなかったと答えたらしい。次には一応県警に家出人捜索願を出したが、一向に行方《ゆくえ》がつかめず、また例の男の話も嘘ではないようだとわかると、もともと勝気で派手好きな秋江が、田舎暮しにあきたらず、そこへ上司との不祥事で勤め先にもいたたまれなくなって都会へ出ていったらしいと解釈し、驚くほどあっさりと探索をあきらめてしまった。まだ六十まえの父母たちにしてみれば、美知子さえいれば店の人手は足りているわけだし、反抗的なばかりで恩知らずな養女を、これ以上金をかけて捜してもはじまらないと割りきったのであろう。
だが、ただ一人の妹の美知子には、もう少し細やかに、秋江の心情が理解できるような気がした。一見勝気な反面、秋江は人一倍の寂しがり屋だった。それだけに、親身の情愛を注いでくれることのない両親への不満が、彼女自身を深く傷つけ、何か強くて温いものを求めて、一廻りも年上の上司に身をまかせてしまったのではないだろうか。だがその相手も、いざとなれば世間体や自分の地位の方が大事で、両親もただ秋江を叱責するばかりの冷たさが、一層彼女をやりきれない空虚に落しこんだのにちがいない。
日頃からおとなしいが口の堅い美知子に、家を出る前の晩、秋江は打ちあけることもなく呟いたものだった。
「いいわね、美っちゃんは。でも私は……このままではまるで死んでいるみたい」
結局秋江は、美知子より何倍も、人生に対して求めるものが大きかったのかもしれない。
美知子宛にはじめて秋江の便りが届いたのは、家出して四カ月後の昨年八月で、封筒には福岡市内の住所と、恐らく両親の目をくらますためらしい偽名が記されていた。
福岡で喫茶店に勤めながらアパート暮しをしていること、元気でやっているから心配しないで、そして両親には隠しておいてほしいと書かれていた。
その後手紙は二カ月か三カ月に一度、今美知子が手にしている一昨日着いたものを除いては四通届いたが、いずれも似たような内容で、それから察する限りでは、秋江の生活に大した変化はないようであった。いつも、アパートの窓から見える風景や、夕食に買う魚の名、時たま外食する近所のスナックの様子など、細々したことが綴られていた。そしてまた、四通の手紙に共通した特徴は、≪元気≫とはあっても決して≪幸せ≫の文字は見当らず、美知子に訪ねてきてほしいとは一度も書いてないことであった。
美知子は姉の頼みを容《い》れて、両親には内緒にしておいた。さりげない文面の奥に、美知子は、本当は秋江は相当苦労しているのではないかと、漠然と、だが直感的に洞察していたが、とはいえ、あからさまにそう書かれていない限り、彼女の周囲にどのような生活を想像することも許されたわけだ。秋江ほど美しくもなく、勇気のない自分が実体験できない、現代的で刺激に満ちた都会生活を好みのままに思い描くことは、若い美知子にはあまりに単調な明け暮れの中でのひそかな愉悦《ゆえつ》であり、冷淡な養父母への精一杯の面当てでもあった。
しかし──一昨日の六月二日に届いた五通目の手紙だけは、明かにこれまでとちがっていた。秋江ははじめて、美知子に来てほしいと呼びかけていた。だが、出不精な美知子を、両親に嘘の口実を設けてまで旅立たせた理由は、むしろ≪幸せです≫の一行の方が強かったかもしれない。その文字に、美知子はなぜか裏腹の、暗く悲痛な響きを読みとっていたのだ。
重大な理由が、もう一つある──。
ふいに美知子の物思いは中断された。タクシーが荒っぽい急ブレーキで停ったからだ。「住吉ですよ」と運転手が前を向いたまま低い声でいった。ビルの間に喫茶店などの見えるビジネス街の景観で、広い三叉路にバスや車が流れている。
「すみません。──あの、菊竹荘というアパートをご存知ないでしょうか」
運転手は聞こえないみたいに黙っている。仕方なく美知子が料金を払いかけていると、
「私営のアパートなら、あっち側に多いかもしれんよ」
交差点近くにガソリンスタンドと小さなラーメン屋の暖簾《のれん》が並んでいる道の側を指さして、面倒臭そうにいった。
「すみません」
美知子は雨の中に降り、小走りに道路を横切って、ひとまずラーメン屋の軒下へ駆けこんだ。
思いついてその店で尋ねたことは、成功だった。出前の配達先ででもあるのか、若い男が簡単に教えてくれた。
菊竹荘はそこから歩いて五分ばかり、脇道へ入り、痩せた植木に囲まれた狭い公園を横切った先に建っていた。二階建の木造で、大分古びたモルタルの外壁が、雨を吸って陰気な色あいを帯びている。
外側に廊下と階段がついていて、合せて八室ほどある部屋は、どれも直接出入りできる仕組になっている。手紙には「三号」と書いてあったので、まず一階から戸口をのぞいていった。
右から三番目のドアの横の柱に、姉の、そして無論美知子自身の苗字でもある「加納」と記した貼り紙を見つけた時、美知子は安堵《あんど》とうれしさに喉がつまりそうになった。
少し喘《あえ》ぎながら、いきなりノブを廻した。
だが、鍵がかかっていた。呼鈴はついてないので、ノックしてみた。──やはり応答はなかった。うす手なベニヤのドアの隙間に耳を当ててみたが、物音も聞こえない。
反対側にまわった。
そちらは数階建のビルの裏手に当り、三号室の窓にはレモン色のカーテンがおりていた。秋江の好みの色──。
しかし、これでは留守と考えざるを得なかった。
このごろ昼間は家にいると、手紙には書いてあったが、今日は勤めに出ているのだろうか。だが、秋江の働いている喫茶店の名は知らされていない。
美知子はまたドアの側へ戻り、ちょっと考えてから、右隣の二号室をノックした。窓からテレビの音が流れていたのだ。
すぐ応答が聞こえて、ドアが開いた。金茶に染めた髪をネグリジェのような部屋着の肩にとき流した女が、柱に片手をついて美知子を見おろした。
「あの、私は隣の加納の妹なんですが……」
へえというふうに、女は剃《そ》った眉をあげた。
「今訪ねてきたんですけど、留守らしくて……勤めに行っているのでしょうか」
「まだでしょう。いつも五時半ごろ出ていかれるみたいだから」
「あら、そんなに遅くにですか」
「そうよ。お店は六時からですもの」
女は当り前だといった目つきである。
ふいに、美知子はあることを感じた。
「あの、姉はもしかしたら、喫茶店じゃなくて、バーか何かに勤めているのですか」
「キャバレーでしょう」と今度は少しおかしそうに答えた。
「いつから──?」
「いつからって……よく知らないけど、ずっと前からじゃない?」
では≪このごろ≫ではなく、秋江は「ずっと前から」昼間はアパートにいたわけなのだ。美知子はなんとなく冷んやりと心が沈むのを覚えた。
「でも今時分は大抵いるはずなんですけどねえ。──そういえば今日は一日見かけなかったから、どこか遠くへでも出かけたのかしら」
美知子はまたドキリとした。
「昨日はいたのでしょうか」
「ええ。昨日の晩は、遅くに荒っぽい声が聞こえてましたものね」
「荒っぽい声……?」
「旦那さんの声よ。しょっ中なんですよ」
女は軽い|蔑《さげす》みと|憤懣《ふんまん》を混ぜあわせたような笑いで、鼻に横皺を寄せて、美知子を見返した。
「あの、それでは姉は、その……主人といっしょに暮してたんですか」
「あら、ご存知なかったの? ──もっとも、正式のご主人じゃなかったらしいけど」
「その人もどこかに勤めているのでしょうか」
「決まった職なんかないみたいですよ。昼間からブラブラしてるところを、よく見かけるから。──あなた、|郷里《おさと》からでも出てきたわけ?」
「ええ。姉とは一年以上会っていなかったものですから……」
二号室の女が半年前に越してきた時、すでに秋江は、角刈りの見るからに無頼らしいその男と同棲していたという。
秋江が働いているキャバレー“麗泉”の名を聞いてから、美知子は戸口を離れた。
もう一度、三号室の前に立った。
四時四十分になっている。雨は小止みなく降り続いていて、公園の木立に面したアパートの廊下には、早くも夕闇の翳《かげ》りが漂いはじめている。
秋江はすでに≪遠くへ≫行ってしまったのだろうか? ──いや、そんなはずはない。あの手紙の封筒には「六月一日」と記されていて、一昨日の二日の午後美知子の家に届いた。なるべく早く来てほしいと書いた以上、秋江は、手紙が着くと思われる日から少くとも二、三日は、待つはずではないだろうか?
だがそう考えてくると、美知子は次第に得体の知れぬ恐怖にも近い不安が、腹の底から湧きあがってくるのを覚えた。
美知子が精一杯急いで駆けつけてきたもう一つの理由は──≪もしかしたら、近々に遠くへ行くことになるかもしれませんから≫という手紙の最後に、もう一行つけ加えられていて、それはインクで塗り消してあったのだが、美知子は丹念にその下の文字を読みとった。≪もしそれまでに殺されなかったら≫と、そこには書かれていたのである。
2
「昨日の晩までは、確かにいたんです。隣の部屋の人が、何か荒っぽい声を聞いたというんですから。それに、私に来てほしいという手紙をくれたばかりなんですから、それまでにどこかへ行ってしまうわけはないと思うんです」
美知子の小刻みな急ぎ足の後から、大股でついてくる私服の警察官を振返っては、美知子はしきりに同じような説明をくり返した。秋江がこの時刻──午後十一時近くまでアパートに戻らず、同居しているという男も帰った様子はなく、いつまでも部屋に人影のささない不審さを、刑事に納得させるためと、自分自身にも確認しているような感じだった。日頃住んでいる町では、近所の駐在所の老巡査と会えば挨拶する程度で、私服刑事などとは喋ったこともない美知子は、自分の訴えによっていざ彼が行動を起こすと、かえってなかば後悔に近い気後れを覚えはじめてもいた。
「あなたが映画を観たりしている間に、一度帰ってきてまた出かけたということはないんでしょうね」
野沢と名乗ったその若い長身の刑事は、急《せ》かない口調で、だが別に面倒臭そうにもなく尋ねた。
「いいえ、そんなことはないと思うんです。もしそれなら、勤めに出ているはずですもの。“麗泉”ってお店に電話かけたら、ふだん休む時には必ず連絡するようにといってあるのに、昨夜から無断欠勤だって、支配人みたいな人が少し怒ってましたから」
四時半すぎから六時半まで、ドアの前に佇《たたず》んでいたり、さっき道順を教えてもらったラーメン屋で時間を潰したりして、美知子は秋江の帰りを待っていたのだが、待ち呆けに終った。二号室の女性も夜の勤めにでも出たのか、いつか内部はひっそりとして、ドアに鍵がかかっていた。反対隣は空室らしく、ずっと人の気配はなく、訊《き》いてみるわけにもいかない。
秋江は出先から真直ぐ店に出たのかと、美知子はがっかりしたが、すぐに“麗泉”に問合せてみる才覚が湧かなかった。
勤めを終って帰ってくるまで待つしかないと考えた。それまでの退屈しのぎは、映画くらいしか思い浮かばなかった。車が頻繁に流れていく方向へ当てずっぽうに歩いていくと、やがて繁華街がひらけた。映画館も何軒かあったので、洋画の二本立てを選んで入った。二本立てといっても最初から全部観るつもりはなかったし、時計ばかり気になって、九時半には出てきてしまった。
再び菊竹荘へ戻ってきた時は、ちょうど十時だった。三号室には何の変化も見られなかった。
一体キャバレーなどは、夜何時ごろまで働かなければならないものなのか。美知子にはまるで知識がないが、精々十時くらいまでではないだろうか。それならあと少し辛抱すればいいはずなのだが、疲れも手伝って、もうジッと待つのが一刻も耐えられないような|苛立《いらだ》ちを覚えはじめていた。それからようやく、“麗泉”へ電話をかけることを思いついた。
もう店を閉めているラーメン屋の近くまで引き返し、電話ボックスへ入った。番号は電話帳で調べた。
警察に頼んで室内を調べてもらおうと決心したのは、ボックスを出た直後であった。おおかた雨が上り、灯火を映して異様な赤味に染っている夜空が、ふいになんともいえぬ冷やかな威圧となって美知子を押し包み、同時にインクで塗り消された手紙の文字が、閃影《せんえい》のように胸をよぎった。
ガソリンスタンドの事務所にまだ電灯がついていたので、尋ねると、幸い歩いて五分足らずの距離に博多警察署があるという。
ガランとした感じの警察署へ入って、近くにいた制服警官に、簡単にわけを話した。相手は少し考えてから、奥のデスクで何か調べごとをしていた若い私服のそばへ美知子を連れていった。それが野沢刑事で、彼は美知子から改めて直接話を聞くと、「ちょっと様子を見てみましょう」と気軽に腰をあげてくれた……。
水溜りが外灯の明りを鈍く反射している公園を横切りながら、木立の間をすかして見た。やはり秋江の部屋が暗いことが認められた。アパートは一、二階を合せて、半分ほどの窓に電灯が点《とも》っている。
「ここですね?」と野沢は美知子に確かめてから、三号室のドアの囲りをザッと見廻した。ノックをし、ノブをねじり、中へ声をかけた。反応がないとわかると、窓の方へ廻った。最初に美知子が試みたと同様の手順だった。
レモン色のカーテンは、もう美知子には見憶えのある同じ恰好《かつこう》のまま、ゆるく波状を描いてさがっていた。片開きのカーテンの隙間から野沢は室内をのぞきこんだが、隙間が細いのと暗いのとで、何も見えない様子である。前のビルに遮られて、道路を走る車の光芒も届かないのだ。
次に彼は、一階の左端の明りを点している部屋のドアを叩いて、家人と話を交した。しばらくして、三号室の前で待っていた美知子のそばへ戻ってきた。
「アパートの持主は、ここからは大分遠い東区の方に住んでいるそうですが、各部屋の合鍵などは備えてないらしいですね。いつかあそこの人が鍵を失くして尋ねた時にも、ないといわれたそうです」
話しながらも彼はまたノブをいじっていたが、少し考えこむ表情で、再び窓側へ廻った。
力をこめて、ガラス戸を押した。すると、錠が甘くなっていたのか、ガラス戸は二センチほど動いて、金具がきしんだ音をたてた。そこで彼は、上衣の内ポケットから細い銀色のボールペンを取り出し、戸の隙間にさしこんで、片方の手で戸を動かしながら、なおもガチャガチャいわせていたが、やがて錠が外れたようである。
「一応中を調べてみますから」と彼は美知子を顧みて、断った。
窓枠は小柄な美知子の胸ほどの高さまであったが、野沢は長い脚をかけて、難なくのぼった。少しの間黙って立っていたが、美知子を振返り、手を貸して引きあげてくれた。
カーテンを全開すると、外の光がそれでもわずかばかり流れこんで、室内のおよその輪郭は見分けられた。六畳ほどの座敷と、戸口の側にリビングキッチンと呼べるほど立派なものではないが、広めの台所がついている。箪笥、テーブルなど、二、三の家具……。
うす闇をすかして見廻した大まかな印象では、室内にはとくに異常はないようで、美知子は動悸が少しおさまってきた。それまでは、あるいは秋江の無惨な死体でも転がっていはしないかと、真剣に恐れていたのである。
野沢がキッチンとの境目の柱についていた電灯のスイッチを捜し当てた。最初に六畳の電球が点《とも》り、やや遅れて流しの上で螢光灯が瞬《またた》いた。
やはり、これという乱れは認められない。むしろ、きれいに片づいていた。テーブルの上には、週刊誌や洗った灰皿などが片隅に寄せて置かれ、傍らの衣類籠には、秋江のものらしいカーデガンやエプロンが、ザッと畳んで入れてある。その上の壁に、これは男物の、大分くたびれた黒いレザーのジャンパーが、ハンガーにかかっていた。
秋江はこの部屋で、男といっしょに暮していたのだ……。
すでに聞き知っていた事実でありながら、美知子は急に秋江が自分の踏みこむことのできない世界へ歩き去ってしまったような、深い寂しさに捉《とら》われた。
だが、そんな感情に浸っていたのは、束の間であった。奥にいる野沢の方に目を向けた美知子は、ここへ入ってからひと言も発していない彼が、柱のそばに佇んだままジッと足許を見下している、その視線を追って、思わずあっと立ちすくんだ。
赤黒い汚点《しみ》が──畳から戸口へ出る板敷にかけて、べっとりと落ちていた。畳の端に一カ所相当大きな濃い塊があり、布で拭いた後のように滲んで、四方へひろがっている。そこから点々と、上り|框《かまち》まで続き、螢光灯を浴びて、所々錆びかけた銅に似た重苦しい光沢を放っている!
「血痕ですね」
野沢が、息を吐いてから、呟いた。
「この様子では……誰かがここでかなりの傷を負ったはずだ」
3
翌日の午後三時すぎ、艶のない顔色で博多署に入ってきた美知子を、ちょうど玄関の見える場所にいた野沢が、素早く見つけて歩み寄った。まだ二十五、六で童顔の彼も、寝不足らしく、昨日は健康そうに光っていた目を充血させている。
「実はついさっき、立川の友だちだという男が出頭してきて、重大な届出があったものですから、あなたの旅館へ電話をかけようと考えていたところだったのです」
「立川って……アパートで姉と暮していたという男ですか」
「ええ。それで多分時間の問題で、彼の居場所が突きとめられるかもしれません」
「姉もいっしょにいるのでしょうか」
古い畳にひろがっていた陰惨な血痕が脳裡をかすめ、美知子の語尾がかすかに慄《ふる》えた。
野沢もすぐには答えず、目で促して、昨夜そこで美知子が事情聴取を受けた、廊下を曲った奥の小部屋へ連れていった。裏庭の銀杏の若い緑がうす陽を受けてガラス窓に反映し、「取調室」といった陰鬱なムードはない。
「お疲れになったでしょう」
野沢は煙草を取り出しながら、いつもどことなくおおらかに響く声で訊いた。
「ええ、少し。よく眠れなかったものですから」
昨夜──野沢と美知子が秋江の部屋へ踏みこんだのが、十一時少しすぎだった。
野沢の連絡で、間もなく、もう一人の中年の刑事と、鑑識係らしいグレーの作業服を着けた男が二人到着した。
彼らはその場に美知子を待たせたまま、座敷と台所は勿論、小さなトイレ、押入れから洋服箪笥の中まで、隈なく調べ、それから血痕の大きさを測ったり、写真を撮ったりしていたが、現場で導き出された推測は、野沢が最初口にし、美知子自身漠然と想像したことと大差なかった。
この部屋には、少くとも男と女の二人が暮していたらしいこと。
何者かがここで相当量の出血を伴う傷を負い、当人と、そしてその傷を負わせた者がほかにいたとしても、誰も当分ここへ帰る意志はなく──恐らくこの部屋を遺棄して出ていったであろうこと。それらがわかるのは、室内に二組の寝具と、男女両方の衣類や食器などが残されていたものの、現金や金目のものはまったく見出されないからのようであった。
一通りの現場検証が終ると、美知子は博多署へ伴われ、この小部屋で、刑事課長という五十がらみの人物に、細かく事情を尋ねられた。美知子は秋江の家出当初からありのままを伝え、持参していた五通目の手紙を見せ、インクで塗り消した部分についても話した。
最後に刑事課長が、秋江の血液型を訊いた。「A型です。いっしょに献血に行ったことがあったから、まちがいありません」と美知子は答えた。
美知子の宿泊先として、とりあえず野沢刑事が、署から歩いていける博多駅の近くに、小さな旅館を見つけてくれた。美知子はもともと秋江のアパートに泊めてもらうつもりで、両親には福岡へ嫁いだ友だちが近く主人の転勤で外国へ行くことになったので、一晩名残りを惜しみたいからと口実を設けて出てきたのだったが、秋江の部屋は現場検証ののち立入り禁止の綱が張られてしまったし、たとえそうでなくても、美知子にはとてもあの血痕のこびりついた畳の上で寝る勇気はなかっただろう。
今日の昼まえに、野沢が、聞込みに廻った帰りだといって、旅館に立ち寄った。
美知子は、玄関脇の応接室で、彼の話を聞いた。
「血痕の血液型は、A型とわかりましてね」
野沢は声をひそめ、ちょっと目をそらすようにして告げた。
「秋江さんと同居していたのは、立川という三十二、三の男で、以前はこちらの土建会社で働いていたらしいので、その方から血液型を調べた結果、彼はAでないことが判明しました」
立川と秋江について、これまで明かにされた様子では──秋江は家出してきた昨年春から半年ほどは、美知子への手紙に記されていた通り、喫茶店に勤め、そこで立川と知りあった。やがて菊竹荘で同棲するようになったが、昨年十一月に立川が会社の仲間と刃物を持ち出す喧嘩を起こして|馘《くび》になり、その直後から秋江はキャバレーに勤めを変えた。一方立川は、失業以来、次第に怠け者でいて凶暴な性格を暴露しはじめたらしい。秋江に働かせるばかりで自分は新しい職を捜すでもなく、昼間から酒を飲んだり、麻雀をして暮していたようだ。
「“麗泉”の同僚などの話を聞くと、秋江さんは何度も別れようとしたが、その都度ひどい乱暴を受けたらしい。一度などは、耐えかねて、仲間のホステスのアパートへ逃げこんで隠れていたが、立川が嗅ぎつけてきて、殴る蹴るの暴行の揚句、いやがる秋江さんを無理矢理連れて帰ったこともあったそうです……」
だが反面、秋江にしても、立川がただ|金蔓《かねづる》としてだけ自分を繋ぎとめているのだと理性ではわかっていながら、そこまで|執拗《しつよう》に求めてくる男を遮二無二《しやにむに》振り切れない心弱さもあったようだと、うがった意見を吐くホステスもいたという。──それを聞くと美知子は、勝気なようにみえて寂しがり屋で、何か強い力で自分を支え、空虚を埋めてくれる男の腕を待ちのぞんでいた秋江の心情が、痛いほど察しられた。立川は、家出当時のそんな秋江の気持を、たちまち捉えた男だったのかもしれない……。
「が、ともあれ、立川はやくざの組員などとも多少付合いがあって、どこかへ隠れても大抵見つけ出されてしまう。見つかったら最後何をされるかわからないからと、秋江さんは|怯《おび》えて話していたということでしたね」
「では姉は、やはり手紙に書いてあった通り、遠くへ逃げようとして、立川に勘づかれ、もしかしたら……?」
「率直にいって、その可能性も濃厚なのです。いや勿論、秋江さんがすでに殺されていると決めてしまうのは早計だと思いますが、といって、どこかの病院で傷の手当てを受けた形跡もない……。いずれにせよ、隣室の女性が、一昨夜の六月三日午後十一時ごろ、何か争うような声と物音を聞いたとのべているから、その時立川が秋江さんを刺し、そのまま連れ出したのではないか……」
「連れ出したというと……車でしょうか」
「ああ、その車の線も、一応調べがついているんです。立川が以前働いていた土建会社の仲間で、彼が辞めてからも付合っていた友だちが、ポンコツ同然の小型車を持っていて、三日の午後、立川にそれを貸してやったとのべている。雨ばかり降って、家にいてもクサクサするので遠出をしたいというから貸したが、それっきりまだ返しに来ないという。従って、三日の夜立川はその車を運転して菊竹荘へ帰っているはずで、秋江さんを乗せて姿をくらましたのも、その車を使っていると考えられるわけです」
「………」
「ナンバーなども全部わかっているので、すぐ県下に手配しました。近県の警察にも協力を要請していますから、きっと間もなく発見されますよ」
野沢は美知子を元気づけるように微笑してみせ、また新しい情報が入ったら知らせるからといって、署へ帰っていった。
だが、それきり午後になっても音沙汰がなく、美知子は旅館でジッと待っているのに耐えきれず、三時をすぎると自分から署へ出向いてきたのだった。
「立川の友だちって、車を貸したという人ですか」
煙草を点《つ》けたまま、灰が長くなるに任せて、腕時計を睨んでいる野沢に、美知子は尋ねた。
「いや、これは池見という男で、まあ同じような仲間ですが、最近別の地あげ業者の下に移っていたので、最初の調べでは浮かばなかったんですが……その池見が、さっき一時半ごろ出頭してきたので、すぐに話を聞き、今その方面に捜査員が出向いています」
「………」
「池見の話によれば、昨夜の十二時ごろ、家に帰ったところへ立川から電話がかかってきたという……」
池見には妻があるそうだが、今は身重で実家に帰っており、彼は小さな家で目下は一人暮しである。毎晩酒の切れたことのない男で、昨夜も妻の不在と雨で仕事のない気安さから、屋台で六合あまり飲み、いい気持で帰ってきた矢先の電話だった。
「池見が出たところ、立川からで、“自分は今八木山峠の近くにいる。昨夜喧嘩のはずみで秋江を刺し殺してしまった。とても逃げきれそうにないので自殺するつもりだ”といったことをのべたというのです。しかし池見は相当に酔っていて、意識も朦朧《もうろう》としていたので、嘘か冗談くらいに思って、そのまま寝てしまった。だが今日になって思い返してみると、どうも只事ではない気がしてきたので、届け出たというわけなのです」
「立川が、確かに姉を殺したと……」
美知子は喉がつまって、声が途切れた。
「ええ。そういったと思うと、池見はのべている。八木山峠というのもまちがいないらしいので、すぐ最寄りの派出所に手配し、こちらからも出向いて捜査を開始しています」
「八木山峠って……?」
「ああ、市内から車で二十分ほど東の、飯塚市の方へ抜ける国道の途中にある山です。高さは三百メートルくらいですが、|九十九折《つづらおり》の急坂で、近くには炭坑の跡やボタ山なんかもあって……」
ほの暗い山峡と、うら寂しい廃坑の風景が美知子の脳裡にうかび、茫漠とした恐怖をひろげた。
連絡が入ったのは、それから一時間もたたないころだった。
同じ部屋で一人で待っていた美知子の方に、野沢が勢いよくドアを開けて入ってきた。
「立川の死体が出ました」
「え……?」
「八木山峠を越えて少しくだった国道の脇に、例のポンコツ車が駐めてあった。その近辺を捜索したところ、百メートルほど下になる採石場の崖下に倒れているのが発見されたんです」
「では……姉の死体もあったのですか」
「いや、それはまだ見つかってないので、捜索を続行しています。ぼくもこれから現場へ向かいますが、いっしょに行っていただけますか。もし秋江さんも発見された場合、遺体の──」
遺体の確認をしてほしいとでも彼はいいかけたらしいが、途中でことばをのみこんだ。
やはり秋江は、凶暴な立川の許を逃れて、一人で遠くへ行こうとして、殺されてしまったのだろうか……?
全身の力が抜け、ほとんど上の空で立ちあがりながら、だがふいに一つの疑問が、閃光のように心をよぎった。
そんな孤独な決意を固めていた秋江が、なぜ、あの最後の手紙に≪今とっても幸せです≫などと書いたのであろうか──?
4
八木山峠中腹の採石場の崖下で発見された立川の死体には、頭や胸など数カ所に岩角や石の表面に当ってできたと思われる打撲傷が認められ、崖の上から転落死したものと断定された。死亡推定時刻は、六月五日午前一時前後。従って池見の家に自殺を予告する電話をかけた約一時間後と推測される。
また、国道脇に乗りすててあった古い小型車の助手席には、少量の血痕が付着しており、その血液型は、菊竹荘三号室に残っていた血痕、そして秋江の血液型と同じAであると確認された。
この結果、やはり立川は、六月三日夜半、菊竹荘で秋江を刺殺し、その死体を車の助手席に乗せて逃走した。その後まる一日はどこで過したか、足取りはまだ掴めていないが、四日の夜十二時ごろ、池見に電話をかけ、犯行を告白した上、自殺の意志を洩した。(同じころ、菊竹荘三号室では、野沢の連絡で博多署員が駆けつけ、現場検証を行っていたわけである)
電話から約一時間後の五日午前一時ごろ、立川は崖の上から投身自殺を遂げたものと判断された。
すると、遅くとも池見に電話をかけた前後までには、立川は秋江の死体をどこかへ捨てたと考えられ、彼の自殺現場近くの可能性が強いと見て、その後約三時間にわたって捜索が続行された。
しかし、死体はおろか、遺留品らしきものも、何一つ発見されなかった。
立川は秋江の死体をどこに隠してしまったのか?
あるいは秋江はまだどこかで生きているのではないか? ──博多署刑事課の中では、そんな意見を吐く者もいたが、アパートに残されていた血痕から推して、三日夜半相当な傷を負ったと想像される秋江が、それから約二日、もし生きているとすれば、どこかで手当てを受けたはずなのだ。だが市内から周辺郡部にかけて、病院や医院に軒並み問合せを行った結果も、秋江とおぼしき女性が傷の治療を受けた形跡は見当らないのである。
とすれば、やはり殺されて、どこかに埋められているとでも考えざるを得ないのではないか──?
立川の死体が発見された、その翌日の夕方まで、美知子は博多駅そばの旅館に留っていたが、その後少しも進展がないので、ひとまず山口県の家に帰ることにした。両親には一応事情を報《し》らせてあったが、美知子が嘘をついて福岡へ来たことを知った彼らは、感情をこじらせていて、ともかく一度帰ってくるようにと、やかましく電話をかけてきていた。一方博多署の側でも、犯人と考えられる立川がすでに死亡してしまっているせいか、秋江の死体捜索の熱意が、時間がたつにつれてうすれているようにも見受けられる。
野沢刑事だけが、小まめに立ち寄ってくれたり、何かと気を使ってくれたので、美知子はスーツケースをさげて旅館を出ると、駅を通り抜けて、博多署へ出向いた。お礼をいってから、六時ごろの新幹線に乗ろうと考えた。
だが、あいにく彼は不在であった。
代りに刑事課長に挨拶して、外に出た。
今日もジトジトした雨降りで、車の多い道路には煙った夕闇がたちこめはじめている。
タイヤが舗道の雨水をはじいて走りすぎる音を聞きながら、なんとなく佇んでいると、一昨日の夕方、この辺りの路上でタクシーを降りた時の気持が思い出された。それが何日も以前のように感じられ、かと思えば、この二日間が嘘みたいな気もする。これからはじめて菊竹荘を訪ねるような錯覚に捉われた。それは、秋江へのみやげをこまごまと詰めこんできたスーツケースが、少しも軽くなっていないせいもあるかもしれない。
こうしてまた郷里の田舎町へ帰り、いずれ秋江の死体発見の報を受取るまで、いやあるいはその後でさえも、自分はやはりまだ生きている秋江の上に、華やかな刺激に満ちた都会生活を思い描き続けるのではないだろうか……。
しかし、やがてそんな感慨からさめると、美知子は、この町を離れる前に、もう一度現実に秋江が暮していた跡を、はっきりとわが目に刻みつけておきたいと思った。
駅とは反対の、菊竹荘の方へ歩いていった。
三号室のドアには、相変らず、ゆるく綱が張られていた。事件がはっきりした形で落着するまで、立入り禁止にされるのかもしれない。
隣の二号室の窓には、オレンジがかった明りが点っている。それを見ながら歩いていくと、ふいとその電灯が消え、それから少しして、一昨日会った髪を金茶に染めた女がドアを開けて、外の廊下に現われた。ブルーのレインコートを羽織っているが、細い脚の先には、こんな雨というのに、ヒールの高い銀色のサンダルをつっかけている。彼女も秋江と同種の勤めに出るところなのではないだろうか。
「この間から、どうもお世話になりました」
目が合ったので、美知子は挨拶した。
「ああ……どうも」
相手はすぐに美知子を思い出した表情で、茶色く描いた眉をあげた。それから急にその眉をひそめて、
「今度は大変でしたねえ。まだわからないんですか」
秋江の行方──十中八九彼女の死体の行方について尋ねているのであろう。隣室だけに警察から何かと聞込みを受けたであろうし、事件の経過はニュースでも報道されている。
「ええ……。それで今日、ひとまず|郷里《くに》へ帰ることにしたんです。本当に、すっかりご迷惑をおかけしまして……」
美知子は頭をさげた。
「いえ、べつに迷惑だなんて……でもとんだことでしたねえ。いい人だったのに……」
彼女もしんみりした眼差を、ひっそりとした三号室の方へ注いだ。それで美知子はふと、「あの、姉はここではあなたのほかには、とくに親しくしていただいたような方はいなかったのでしょうか」
「さあ……あんまり付合いがなかったみたいですよ。旦那さんがあんなふうで、始終大きな声をたてていたから、囲りにも気がねされたんじゃないかしらね」
「では、勤めに行く以外は、ほとんど部屋にひきこもっていたのでしょうか」
「旦那さんがいない時は、夕方一人で食事に出かけてたみたいでしたけどね。ずっと前あたしも一度付合ったことがあるけど、この先のエルザというスナックにはちょくちょく行ってたようですよ」
「ああ……」
思わず溜息ともつかぬ声が、美知子の唇から洩れた。美知子は“エルザ”に記憶があった。秋江は買物や食物のことなどをよく手紙に書いてきたものだが、中にそのスナックの名も出てきたのだ。
「その店は、どこにあるんですか」
知らぬ間に、声が急きこんでいた。
教えられた場所は、菊竹荘から公園とは反対側に五分ほど歩いた、裏通りの四つ角であった。商店などはほとんどなく、路上駐車の車が並んで雨に濡れている暗い道で、ビルの一部がレンガで仕切りされ、“エルザ”とローマ字で記した銅板が貼りつけてあった。少しうら寂しいが、エキゾチックな構えの店だった。
ドアを押すと、上についた小さな鐘が音をたて、カウンターにいた中年の女と白衣のバーテンが同時に顔を向けた。
「いらっしゃいませ」と女が愛想のいい声で迎えた。
テーブルの席も三、四組ある。外装に比べて内部は平凡で、壁にメニューが貼り出してあるところなど、昼間近辺のサラリーマンの昼食に利用される店という感じだった。今はテーブルに二人連れが二組、スパゲティなどを食べている。
美知子は思いきって、店の人たちのいるすぐ前のスツールに腰をおろし、コーヒーを注文した。
ママらしいニットスーツの大柄な女が、お絞りをさし出してくれたので、
「私……実は加納秋江の妹なんです」と切り出してみた。相手はアイラインで縁取りした目を見張って、美知子を凝視した。
「いえあの、姉がよくこちらへお邪魔してたって聞いたものですから……加納秋江って、この先のアパートに住んでた者なんですけど」
なおもまじまじと見つめていた大きな|眸《め》の奥に、ふいに強い反応が動いた。
「ああ……ほんと、似ていらっしゃるわ。いえ、お名前ははっきり存じあげなかったんですけどね。いつも来ていただいて……でも、あの、もしかしたらあの方……」
彼女は急に声を落して、
「新聞見て、なんとなく気になってたんですけど……?」
確信がないまま、ニュースになった事件との関連を心配している目の色だった。
「ええ、そうなんです。まだ行方不明のまんまなんですけど……」
美知子はありのままの事情をかいつまんで話した。相手の女性には、サッパリした肌あいのうちにも、どこか素朴な温みが感じられたのだ。
「まあ……やっぱりそうだったんですか。いえね、私新聞読んで、べつに写真が出てたわけじゃないんだけど、住所もそのへんだし、ここ二、三日お見かけしないし、なんだか気にかかって仕方がなかったんですよ。──それであなたが郷里《おさと》から出ていらしたわけですか」
「四日に着いたんですけど、一足ちがいでこんなことになって……今日はこれから帰るところなんです。でもこのお店のことは、手紙にも書いてあったものですから、一度お寄りしたいと思って……」
「まあ、それはどうも。──半年くらい前からお|馴染《なじみ》になっていただいて、最近は週に二度くらい、必ず来てくださってたんですよ」
「土曜日の夕方は大抵見えたですね」
傍らで黙ってやりとりを聞いていた若いバーテンが、コーヒーをさし出しながら、穏かに口をそえた。
「そうね。土曜日はいつもより早目の四時半ごろ、決ってあそこで……」
ママは男の二人連れがいる隣の、一番奥のテーブルを指さし、
「あら、そういえば滝田さんもここんとこ現われないわね」とバーテンを振向いた。
「ほんとだ」
「お相手が見えなくて、張りあいが抜けたのかしら」
彼女はさほど深い意味をこめていったようでもなかったが、そのことばはふと美知子の意識にひっかかった。
「あの、滝田さんというのは、どういう方なのでしょうか」
「ああ、滝田さんは、一昨年うちの開店以来のお馴染さんなんですよ。やっぱりこの近所に住んでらっしゃるんですけど、独り者だから、外食が多いんですね。長崎県の五島列島の出身で、私たちも五島から出てきて商売はじめたもんですからね。──こっちは弟なんですが」とバーテンを目で指して、
「そんなことでお話が合って、友だちみたいにしていただいてるんですけど、その滝田さんが、お姉さんとも顔なじみになって……」
滝田と秋江は、カウンターで偶然隣合せになったりしているうちに、すっかり打ちとけた様子で、やがて土曜日にはまるで申し合せたように二人共四時半ごろ来ては、隅のテーブルで早目の夕食を共にする習慣ができていたという。遅くとも五時半には勤めに出ていかなければならない秋江を、いつも滝田が戸口まで見送る感じだった……。
滝田は秋江と同年配の二十七、八歳。自動車の販売会社に勤めているが、一度身体をこわしてから、セールスマンの苛烈な競争社会が重圧に感じられ、毎日が苦痛らしく見えたと、ママは洩した。
いつか美知子は、今は無人のほの暗い隅のテーブルを挟んでいる、秋江と、痩せ型の誠実だが気の弱そうな青年の姿とを、ありありと思い描いていた。田舎出の秋江も滝田も、それぞれの形で都会生活に敗れ、土曜日の夕方、互いにささやかな|労《いたわ》りを求めて、ここで夕食を共にしていたのではなかっただろうか……?
また自分の空想癖がはじまったと自制しながらも、美知子は次第にその幻影が、痛いほど心に食い入ってくるのを覚えた。なぜならその光景は、ごく自然に、最後の手紙に残された秋江のことばと重なるからだ。
≪私は今とっても幸せです≫……!
美知子はいきなり向き直り、奇妙に|強張《こわば》った声で訊いた。
「その滝田さんて方の住居を、ご存知ないでしょうか」
5
エルザから菊竹荘の方へ戻る途中を左へ曲って、似たようなビルの間を抜けていくと、新しいビルの建設予定地の立て札を立てた空地にぶつかる。それと細い道を隔てて、鉄筋四階建のアパートが二棟、うっそりと建っている。大分年代を経て、規模も小さいが、市営か公団アパートの感じである。
滝田がその西側二階の1DKに住んでいることは、エルザのバーテンが親切に地図を書いて教えてくれた。エルザでは出前はしないが、以前滝田が流感で寝込んだ時、店を終ってからスープを届けてやったことがあったそうである。
雨が降り続いている戸外は、もうほとんど夜陰に包まれている。一帯はビジネス街のムードなので、七時をすぎると急に人通りが少くなるようだ。近くの道路を走る車の音だけが絶えず響いてくる。アパートの裏庭にも四、五台の車が駐っていて、濡れた屋根を鈍く光らせている。
滝田の部屋と思われる窓には明りがついていなかったが、階段のある裏側から見ているので、確かなことはわからない。
美知子は冷んやりとした階段をのぼっていった。スーツケースはエルザに置かせてもらったので、手が軽くなっている。
二階の右側のドアに、表札が出ていた。
「滝田」とだけ、角張った文字でしるしてあった。
ブザーを押した。
何度押しても応答がなかった。鍵穴をのぞいてみたが、やはり内部は真暗のようだ。まだ勤めが終っていないのであろう。
しばらく待つか、もう彼に会うことは断念して帰りの列車に乗ってしまおうかと、迷いながら、ともかく階段をおりかけた時、反対側のドアが勢いよく開いた。美知子はいきなり目の前を塞がれた恰好で、身体を退いた。
出てきたのは、ベージュ色のポロシャツに木綿のズボンをはいた、がっしりした筋肉質の男である。前髪が大分うすく、広い額の下に間隔のあいた細い目がついている。
「ああ、失礼」と彼は太い声でいって、それからちょっと珍しそうに美知子を眺めた。
「あの……」
体格に似ず、その目がやさしい光をたたえて見えたので、美知子は自然に声が出た。
「滝田さんはまだ会社からお帰りになっていないのでしょうか」
「いや──彼はあれから会社を休んでるんじゃないかな」
「あれから……?」
男は美知子の問いかけより、踊り場から見える裏庭の方へ注意を向けている様子だったが、一台だけ少し離れて駐車している小型車を軽く指さし、
「あそこに車があるから……病院へ行ってるんじゃないですか」
「どこかお悪いんですか」
男は今度は少し顎を引き、うす闇をすかすようにして美知子の全身に注意を配った。
「失礼だけど、あんたは──?」
「ああ、いえあのう……親戚の者なんです。今日|郷里《くに》から出てきたんですけど」
秋江との連想で、|咄嗟《とつさ》にそんな嘘が口をついた。
「郷里から? ──それじゃあ知らないわけだね」
「何かあったんですか」
「滝田さんはちょっと怪我をされてね」
「怪我?」
「怪我っていうか……自殺未遂だったんですな」
「……それは、いつ……?」
「三日の晩──」
それなら、秋江が菊竹荘で立川に刺されたと同じ夜ではないか。
「何時ごろのことなんです?」
「夜中の十一時半くらいだったかなあ。わたしが仕事してたら……いや、わたしは絵描きで、夜はいつも起きてるんだが、このドアに何かドサッとぶつかるような音が聞こえたものだから……」
彼は自分のドアを顎でしゃくった。「高津」とグリーンの文字で横書きしたプラスチックのネームプレートがはめこんであった。
踊り場をのぞいてみた高津は、そのドアに凭《もた》れかかるようにしてうずくまっている滝田を発見した。足許のコンクリートに血が溢れ落ちていた。
「自殺するつもりだったが、死にきれなくて──」といったことを、滝田は訴えるともなく呟いた。
高津は滝田を抱えて、五百メートルほどの距離にある救急病院へ連れていった。滝田は動けないほどの状態ではなく、救急車を呼ぶよりその方が早いと咄嗟に判断した。
傷は右の太股と左手首の刺し傷だったが、幸い手首も動脈が切れてなかったので、命に別条はなかった。ただ、手当てを受けるまでにかなりの時間が経っていた模様で、失血が激しく、高津はついでのことに、輸血の血を提供してやった。滝田は一晩病院で泊って、翌日帰ってきたらしい。
「昨夜、少し落着いた様子なので、事情を聞いてみたら、自動車のセールスの仕事が性に合わなくて、毎日が辛い。でもこの不景気では、簡単にいい職も見つかりそうにないし、どうせ自分のような社交性のない人間は、何をやっても駄目なんじゃないかと思ったら、急に生きているのが厭になって、発作的にナイフを持ち出したというんですね。しかし、血を見たら段々恐ろしくなって、思わず助けを求めてしまったと話していた……」
「では、滝田さんは、自分の部屋で太股と手首を切ったわけなんですね」
なぜそんな問いが出たのか、この時は美知子自身はっきりとわかっていなかった。
「そうですよ」と相手は当然だという顔で頷いたが、ふと眸を凝らして、
「しかし、わたしの部屋のドアを叩く前に、彼はいったん外へとび出したらしいんですね。彼を抱えて階段をおりた時、すでにその階段に点々と血がしたたっていて、外まで続いていましたからね。雨の中を血まみれで、どこへ行く気だったのか知らないが、引き返してくれて本当によかったですよ。傷は浅いといっても、あまり出血がひどくなれば、取り返しのつかない結果になっていたでしょうからねえ」
高津は当夜の有様を思い出しているのか、雨の戸外に向かって目を細め、心からよかったというふうに溜息をついた。
「それは……ずいぶんお世話になったわけなんですね。輸血までしていただいて……」
美知子は「親戚」らしくことばを取り|繕《つくろ》ってから、
「あの人の血液型は何型だったでしょうか」
「Aですよ。わたしと同じだったんで、ちょうど役に立ちましてね。日本人はA型が一番多いそうですな」
「……あのう、つかぬことをうかがいますが、その出来事の後、滝田さんの部屋で若い女を見かけられたことはないでしょうか。いえあの、お見舞いに来たような……」
「いやあ、気がつきませんでしたよ。会社からは様子を見にきてくれる友だちもいないって、昨日も一人で寂しそうにしてましたからねえ」
毎日夜仕事をして、昼すぎまで眠り、これから|昼食《ヽヽ》に行くという高津が、やがてサンダルを響かせて階段をおりていったあと、美知子は一段々々、踏みしめるようにくだった。
六月三日夜十一時半ごろ、滝田が高津に助けを求めた時、すでにこの階段には血がしたたっていたという。それで、滝田がいったん外へとび出したのであろうと、高津は解釈している。
だが──その血は滝田が自分の部屋から外へ出た時に落ちたものではなく、彼が傷を負って外から帰ってきたことを意味しているのではあるまいか?
その疑念は、彼の血液型がAだったと聞いた瞬間から美知子の中に芽生え……やがて、人気のない階段をおりきった時、戦慄が一度、身内を走り抜けるのを覚えた。
菊竹荘三号室に残っていた血痕は、滝田のものではなかったか? 血まみれの彼が高津に救いを求めたのは、秋江の部屋で争いあう声が聞こえてから、約三十分後に当るのだ!
では、もしそうだとすれば、それはなお、どんなことを意味するのか?
六月三日夜半、滝田は秋江の部屋で傷を負った。恐らく、刺されたのであろう。が、とにかく、彼は自分のアパートまで帰り、手当てを受けた後は、また従来通り一人で生活している。
一方、立川も秋江も、その夜以来、誰にも生きた姿を見られていない。
もしかしたら、滝田が二人を殺したのではないだろうか?
菊竹荘三号室で、その夜三人の男女が争いあった。原因は多分、秋江をめぐる三角関係であろう。立川が滝田を刺した。だが代りに、滝田は立川を殴殺したのではないか。続いて秋江も。秋江が最後には立川に味方したとか、何か滝田を傷つけるような言動を示したとすれば、逆上した滝田が秋江にも襲いかかった場合が想像されるのだ。
二人を殺してから、血だらけの滝田は、自分のアパートへ逃げ帰った。高津に助けられて、病院で手当てを受けた。自殺未遂を装ったのは、そんなふうにでもいわなければ、どうして傷を受けたか追及され、やがては自分の凶行が明るみに出るのを、防ぐためであっただろう。太股は立川に刺されたとしても、左手首はきっと自らつけた傷にちがいない。
出血は多量でも、もともと傷の浅かった滝田は、翌日にはアパートへ帰ってきたと、高津は話していた。恐らくその後で、滝田はもう一度ひそかに菊竹荘へ出向き、二人の死体を立川が友だちに借りていた車にのせて、どこかへ隠したのではないだろうか。野沢刑事と美知子が踏みこんだのは、その夜だったのだ!
だがそれでは、あの電話はどうなるのか?
四日の夜十二時ごろ、池見の許へ立川から電話がかかり、「秋江を殺した。自分も自殺する」と告げたという一件は──?
美知子は凝然と立ちつくしたまま、思考に没入し、そして間もなく、その答えを発見した。
池見は毎晩大酒を飲む習慣で、四日の夜も酩酊状態にあったという。それでは、電話の声が確かに立川本人のものかどうか、判別できなかったはずである。現に彼は、重大な告白を聞きながら、その晩は寝てしまい、翌日の昼すぎになって警察に届け出たくらいなのだ。
滝田は、そうした池見について、秋江から聞いていたとも考えられる。
そこで彼はまず、秋江の死体をどこかへ運んで捨てた。次には四日夜、池見に立川だと名乗って電話をかけ、わざと八木山峠の居場所も告げた上で、立川の死体を崖に落した。そうやって間もなく立川の|自殺《ヽヽ》死体を警察に発見させ、彼が秋江を殺した上自殺したと解釈させて、事件を落着させてしまおうと謀《はか》ったのではないだろうか。
美知子は、傘をさすのも忘れて、雨の中を歩き出していた。夜に入って激しさを加えてきた大粒の雨が髪や頬に落ちかかるが、身体中がカッとのぼせたみたいで、冷たさも覚えない。
自分は早まっているのではないか。
どこかに矛盾や盲点がありはしないか。
気持を抑え、懸命に自問してみる。
するとまた、一つの疑点が浮かんできた。
滝田が三日夜半に菊竹荘で立川を殺し、四日夜その死体を八木山峠の崖に捨てたのだとすれば、どうして立川の死亡推定時刻が、池見への電話からちょうど一時間後の五日午前一時と認められたのであろうか?
その解答は、今度は容易に思いつかなかった。美知子はかすかにうろたえ、しかしいずれにせよ、滝田が立川と秋江の二人を殺したという直感は、揺るがなかった。もしほかの考え方があるのなら、秋江はどこにいるというのか?
そればかりか、エルザの店で漠然と心に浮かべた、か細い体躯の気弱そうな滝田のイメージが、いつの間にか、頑丈でふてぶてしい風貌に変っているのに気がついた。思えば自分は一度も、滝田の体格や人相を人に聞いてない。彼はきっと、立川と秋江を敵に廻し、二人共殺してしまえるほどの、屈強な男にちがいない!
視界が明るくなり、広いバス道路に出ていた。
歩道の先に青白い電光をはらんだ電話ボックスが目に入った。
美知子の足運びが、急な目的を持ったしっかりしたものに変った。野沢刑事が署に戻っていてくれることを念じた。彼がいなければほかの刑事にでもわけを話そう。そうだ。一刻も急がなければならない。滝田が帰ってきて、高津から美知子が訪ねてきたことを聞けば、彼はきっと秋江との関わりを嗅ぎつけられたと察し、ひいては犯行を見破られたと悟って、逃走するのではあるまいか?
6
美知子が再びアパートの階段が見える地点まで戻ってきた時──まさに恐れた通りの事態が発生しようとしていた。
二階の滝田の部屋のドアが開いて、一人の男が出てくるところだった。
男は階段の下をのぞき、人影のないことを確かめてから、靴音を抑えた急ぎ足でおりてくる。両手に大きな荷物をさげ、少し足をひきずっている。太股の傷のせいであろう。開衿シャツの左手首にも包帯が巻かれていて、遠見にも目を惹《ひ》く。だが、ほの白い外灯の光が流れこむ階段から、裏庭へ出てきた男のシルエットは、決して頑強そうではなく、どこかギクシャクとして侘《わ》びしげにさえ見えた。
大型のスーツケースと膨《ふく》らんだ風呂敷包みを両手にさげた滝田は、別の車の陰で見守っている美知子には気づく様子もなく、一台離れて駐車しているブルーの古い小型車へ走り寄った。トランクを開けて、荷物を積みこんだ。
だが、それで出発するのではなかった。彼はまた小走りで階段へ戻り、二階へのぼっていく。まだ荷物が残っているふうだ。
やはり滝田はどこかへ逃げる気でいる!
美知子は外の道路を振返った。空き地の立て札の前をチラホラ人が歩いているが、こちらへやってくる人影は見えない。さっき、野沢刑事は幸い博多署にいたが、電話ではくわしい説明がしにくく、気がせいてもいたので、とにかく滝田の存在とアパートの位置を伝え、すぐきてほしいと頼んだ。それで彼は、もっと簡単なことと受取ったかもしれないし、手が離せない用を抱えていたのかもわからない。
美知子は全身に汗が噴き出してきた。このまま逃がして、もしそれっきり滝田が捕まらなかったら──?
部屋にひっこんだ彼は、書類鞄と、さっきより小さな風呂敷包みをさげて出てきた。今度は鍵をかけている。いよいよ出発するのだ。と感じた瞬間、美知子の身体は意識より先に行動していた。
滝田の車に駆け寄り、後のドアに手をかけた。ロックはなかった。美知子は頭から転げこみ、シートの足許に小柄な身体をもぐりこませた。
滝田が近づいてくる気配は、水溜りを踏むかすかな足音で感じられた。
彼は運転席にすわった。それから携えてきた鞄を助手席に置き、風呂敷包みは手をのばして後部のシートの上に放り投げた。衣類でも入っているのか、丸い包みは軽くバウンドして、どうにかシートの端で止った。美知子は心臓が凍りそうだった。もし包みが落ちていたら、滝田はそれを拾いあげようとして、そこにうずくまっている美知子を発見したかもしれない。
二、三度試みて、ようやくエンジンがかかり、車が動き出した。
街なかの通りに出ると、明るい電光が車の中までさしこんでくる。交差点で停るたびに、美知子は生きた心地もしない。滝田が気づかなくても、通行人がふと目を止めて、何かいい出さないとも限らないのだ。
しかし何事もなく、車はやがて市街地を抜けたらしく、車内に流れこむ光が乏しくなった。どこをどう進んでいるのか、美知子には方角の見当もつかないが、細い裏道ではなく、国道か県道を走っているらしいことが規則的にすれちがっていく車の響きで察しられた。
途中から滝田がラジオをかけたことも、美知子には小さな救いだった。ニュースを捜してでもいるのか、彼はあちこちスイッチを動かしていたが、結局あきらめたらしく、軽音楽を低く流したまま運転を続けた。
どこまで走り続けるつもりだろうか。
停って彼が降りた時、どうやってその目を逃れ、どんな行動をとればいいのか。
夢中で乗りこんだものの、少しばかり思考に余裕ができてくると、今度はその心配が胸をしめつけてきた。野沢刑事は今時分、何と考えているだろうか……?
沿道が一段と暗くなり、エンジンの響きが重くなって、国道を外れたことが感じられた。上り勾配のデコボコ道を走り出したらしく、度々バウンドし、美知子は床の傾斜でシートの下に押しつけられる恰好になった。
次には下りにかかった。助手席の窓の隙間から流れこむ風が、冷たさを増している。かすかに波の音が聞こえるような気もするが、定かにはわからない。
再び上り坂を走りつめ、カーブを曲ったところで、車が停止した。
滝田が小さく溜息をつくのが聞こえた。一時間あまりは走り続けていただろう。エンジンを切り、ライトも消したようだ。それからカチリとドアを開けて、彼は外に出た。
美知子は顔を伏せたまま、息を殺し、耳に神経を集中している。辺《あた》りは静寂に包まれている。目的地に着いたのだろうか。それとも、ただちょっと休憩するだけなら……彼が少しでも車を離れた隙に、脱出しよう。もうこれ以上は耐えられない。でも、ここが目的地なら、やがて彼は荷物をおろすために後のドアを開けて……石のように強張った美知子の身体が、細かく慄え出した。
しかし……ドアの開く気配はなかった。そればかりか、ゆっくりとした足音が、確かに遠ざかっていく!
なおしばらく、美知子は身を縮めていたが、やがてそろそろと頭をあげ、思いきって窓から外をのぞいた。
灌木がまばらに繁るなだらかな草原……白い雨雲の反映で、風景がぼんやりと浮かびあがっている。斜面の先に山小屋風の家が見え、一つの窓にうっすらと明りがさしている。雨はほとんど上っているようだ。
滝田の姿が見えないのは、その家に入ったからだろうか。と思った瞬間、窓の横の扉が開き、人影がこちらへやってくる。滝田でないことは、丸みのある肩とスカートのシルエットでわかる。女が一人、歩いてくるのだ。
美知子は迷った。今外へ出たら、見つかるだろうか。でもそれにしても、あの胸の張った、割に大柄で引きしまった身体つきの女は……?
女は、先刻の滝田と同様、ボストンバッグと風呂敷包みを両手にさげていた。それらを後部座席に入れるために、美知子のいるドアへ手をのばしかけたが、その直前に、美知子は自分でドアを開け、濡れた草の上に降りた。
二人はいっとき、息をつめて顔を見合せた。
「美っちゃん……」
秋江の方が、先に声を発した。表情が定かにわかる明るさではないが、美知子より造作が大きく、肉感的な顔が、泣き笑いみたいに歪《ゆが》んだように見えた。
「ここは、どこなの」
最初にそんな問いが出たことに、美知子は自分で驚いた。でも、もしかしたら、滝田の車にとび乗った瞬間、その道の先で待っている秋江の姿を、無意識に予感していたのかもしれない。だからこそ、あんな大胆な行動がとれたのかもわからない……。
「ここは、糸島半島の西側の入江……」
「糸島半島──?」
「福岡の西の方にあるの。この辺は、別荘村だけど、梅雨時は誰も利用しないわ……」
秋江は、滝田が中にいるらしい丘の上のコテージを軽く振返った。秋江の動作や話し声は、疲れているように緩慢だったが、それでいて、これまで美知子が感じたことのない、何か不思議な静かさを含んでいた。
「それでお姉さんは……逃げてきて、隠れていたのね」
「ええ。三日の晩からずっと。三日にはもっと先まで行けるはずだったんだけど、とんだ手ちがいが起きてしまったものだから」
「手ちがい?」
「立川が夜になってひょっこり帰ってきたのよ。友だちの車を借りて、二、三日気晴らしにドライブしてくるなんていってたくせに、昼間麻雀に負けて、軍資金を失くしてしまったらしいわ。それで、見つかってしまったのよ」
「……?」
「あの晩、滝田さんと私は、福岡を離れて、どこか遠くへ行く計画だったの。私は……やはりどうしても、立川と別れなければいけないと決心していた。このままでは、自分が駄目になってしまう。滝田さんと知合って、ようやくはっきりと悟ったのよ。滝田さんも、もう都会の会社勤めが耐えられなくなっていたの。二人で力を合せれば、もう一度やり直せると思った……。美っちゃんには一目会って行きたかったけど、立川が二、三日も留守にするなんて、またとないチャンスだったの。あの人が気づかないうちに、大分遠くまで行けるわけですもの。──ところが、十一時ごろ、二人で荷物をまとめていたら、立川がぬっと入ってきて……」
「それで、彼を殺したのね」
はじめて鋭い苦痛が、秋江の表情を引きつらせた。
「殺さなければ、きっと私たちが殺《や》られていたわ。──滝田さんと私を一度見較べただけで、立川はいっさいを察した。無論お酒も飲んでいたし、たちまち異様な形相に変って大声で罵《ののし》り、次には内ポケットからナイフを取り出して、滝田さんに襲いかかった。腹を狙ったつもりが、最初は右股を刺し、ナイフを引き抜いた瞬間……私が後からビール壜で立川の頭を殴ったのよ。前屈みに倒れた上から、何度も何度も、夢中で……動かなくなるまで──」
秋江はうす闇に眸を凝らしたまま、小さくホッと息を吐いた。
「……気がついたら、私は血だらけの滝田さんに後ろから抱きとめられて、泣いていたわ。でも、いつまでもグズグズしてはいられない。立川の死体をどうにかしなければ……それに、滝田さんも早く手当てを受けなければ、怖いほどの血が、畳から床板に溢れ落ちていた……」
「立川の死体は、例のポンコツで運んだわけ?」
「滝田さんが咄嗟に考えたことだったのよ。立川の死体をとりあえず隠す場所は、この別荘村がいい。あのコテージは、滝田さんがこの春車を世話したお客さんのもので、五月の連休に一度|招《よ》ばれて遊びに行ったことがある。でもその人は、その後しばらく外国に行くといっていたし、梅雨に入るとほかの別荘の持主たちもほとんど姿を見せないと聞いたから、めったに人目につく気遣いはない。鍵はかかっているだろうが、ガラスを割って窓を開ければ入れるはずだから、今夜はそこに潜んでいるといい。自分はともかく傷の手当てを受けて、明日そちらへ行く。それから死体の処理を考えよう。──私はただ夢中で、いわれるまま、滝田さんといっしょにぐったりした立川の身体を、彼が借りてきて公園の隅に駐めてあったポンコツの後ろの座席に運び、滝田さんは助手席に乗って、出発したわ。彼をアパートの近くで降ろし、それから彼が書いてくれた地図を頼りに、ここまで運転してきたのよ。免許証は山口の自動車教習所に勤めていた時取っておいたものの、車をいじるのはずいぶん久しぶりだったから、とても心細かったけれど、どうにか事故も起こさずに辿《たど》り着けたわ。ガラスを割って窓の錠を外し……でも死体は車に積んだままにしておいた。通りがかりの人に見つかる危険はあるわけだけど、とてももう一度死体に触る勇気がなかった……」
「………」
「あくる朝、すぐに見にいったら……私はゾッとして、思わず声をあげてしまった。立川はまだ死んでいなかったの。昨夜座席に横たえたままの恰好だったから、意識は戻っていないらしいけど、かすかに息をしていた。──私はもう人目につくこともかまわず、丘を走りおりて、商店のあるバス停まで行って滝田さんに電話をかけた。彼は昨夜、自殺未遂と偽って、近くの病院で手当てを受けて、一晩入院して帰ってきたばかりだといっていた。──立川がまだ生きているといったら、彼もショックを受けた様子だったけど、でもそれで知恵が浮かんだのよ。彼と私の血液型が同じだったのは、天啓みたいな気がしたわ」
「………」
「池見という飲んだくれの友だちのことは、私、立川から聞いていたから、彼なら滝田さんの声を立川だと騙されるかもしれない。|自殺現場《ヽヽヽヽ》は、なるべくこのコテージから遠い、反対側の山を選ぶことにした。──四日の夜更けになってから、私はまたポンコツを運転して、福岡へ向かった。走っている間中、今にも後ろの立川が意識を取り戻して襲いかかってくるんじゃないかと、目がかすむほど怖かった。──アパートの近くで、約束通り滝田さんが待っていて、助手席に乗りこんだ。まだ少しフラフラするといってたけど、案外生気のある顔色で、本当にホッとした。でも運転は無理だと思って、私が続けたわ。彼が乗ってからは、もうほとんど、何も恐ろしいとは思わなかった。人間、土壇場になれば、自分でも信じられないようなことができるものなのね」
本当に、そうかもしれないと、美知子も滝田の車に忍びこんできた先刻の行動をふと思い返した。
「八木山峠の登り口の電話ボックスから、滝田さんが池見にかけた。番号は電話帳にのっていたし、幸い池見は例によって酔っぱらって帰ってきたところらしくて、|呂律《ろれつ》の回らない応答だったそうよ。そのあと九十九折の国道をのぼって、峠の先にあった採石場の崖縁まで、立川をひきずっていった。やっぱりまだ、かすかに心臓が動いていた。それを見たら、急にたまらなく哀れな気がしたけど、でもこれまで彼がしてきた酷い仕打ちを一生懸命思い起こして、目をつむって突き落したわ……」
ああ、だから彼の死亡は五日午前一時前後と推定され、傷の様相も崖からの転落死を裏付けていたのだと、美知子は今更ながら納得した。
「ポンコツは国道脇に乗り捨てて、雨の中を歩いて戻った。滝田さんはまだ長く歩くと傷が痛そうで、帰りの足を考えなかったのは失敗だった。でもそうしているうちに幸い通りがかりの乗用車が、手をあげたら停ってくれた。若いアベックの気ままなドライブ旅行らしくて、私たちのことも同じような仲間と考えてたみたいで、本当に助かった……」
「同じころ、私は、博多署の人たちが姉さんの部屋を調べるのに立会っていたんだわ……」
「すまなかったわね。心配させて、本当に、美っちゃんには一度会いたかったのよ」
「でも、またすぐに行ってしまうのでしょう?」
二人は少しの間、黙って見つめあった。互いの息づかいを、染みるように肌に感じながら。
秋江が再びコテージの方を振返った。一つだけ点っていた窓の明りが消え、それからさっき彼女が出てきた戸口に、滝田の痩せたシルエットが現われた。内部を点検して、「無断借用」の痕跡を消していたのにちがいない。
「すぐに出発した方がいいわ」と、美知子がいい添えた。できるだけ早く、闇がやさしく二人を包んでいるまに、誰も追いかけてこられない遙か遠くまで……!
野沢刑事の顔がふと脳裡をかすめたが、そのことは秋江には告げなかった。自分も考えないことにした。そうすれば、これから先も、自分はまた秋江の上に、さまざまなドラマを描き続けられるだろう……。
ダイイング・メッセージ
1
その朝|真沙子《まさこ》が、一人暮らしのアパートから勤め先の広告代理店へ出る前の時間に、姉の久藤多恵子が住むマンションへ足を向けたのは、最近多恵子の夫、つまり真沙子には義兄に当る久藤恒夫に頼まれていたことを、ふと思い出したからであった。
「真沙ちゃん、時折寄ってやってくれよ」
大手の建設会社の総務課次長である恰幅《かつぷく》のいい久藤は、日曜日の朝ちょっと用があってきた真沙子と廊下で行き|遇《あ》った時、ゴルフバッグを肩にかけ直しながらいったのだ。
「田舎でずっと大勢で暮らしてただろう? 急に都心のマンションへ移ってきて、何かと戸惑《とまど》うらしいんだな」
久藤の一家──夫婦と中学二年生の長男剛は、この春まで、田舎といっても市川市の外れにある久藤の実家で、彼の両親や末弟といっしょに生活していた。父親が山林を売った金を融通してもらい、国電目白駅にほど近いこの高層マンションの十六階を買ったのは、主に剛を都立の名門高校へ入れる準備のためであったらしい。多恵子にしてみれば、途中二年ほど支店勤務があったものの、結婚以来十年余りもの夫の両親との同居生活から解放されたわけで、新しいマンションで身も心も若返っているのではないかと、真沙子は想像していたのだったが。
「でもここももう半年になるんですから、お姉さんだって慣れたころじゃありません?」
久藤の表情に大した屈託もなかったので、真沙子は軽く問い返した。
「うむ、それもそうなんだが……近頃なんとなく様子がおかしいんだよ」
久藤も半ば笑いながら答え、
「まあ、とにかく頼むよ」と曖昧《あいまい》なことをいって、大股にエレベーターの方へ歩み去ったのだった……。
そのエレベーターで真沙子が十六階までのぼると、さすがに町の騒音が地鳴りのように遠のいて聞こえた。初秋の陽光がひろい窓ガラスを光らせている。廊下は掃除が行き届いて、ひっそりとしていた。
多恵子の部屋の方へ、角を曲った時、はじめて視界の先に人影が現われた。ブルーの開襟シャツを着た骨張った身体つきの男で、彼はちょうど多恵子の部屋のドアか、その向う側の窓のあたりから歩いてきたような感じだった。
少し近づいて顔を見た途端、真沙子はあっと思い、それから自分でもわけのわからない、生理的な不快感が胸底に湧いてくるのを覚えた。
逆三角形の浅黒い顔、紫がかった唇の間からいつも少し金歯をのぞかせている三十前のその男は、久藤の従弟《いとこ》の佐山光一であった。久藤の会社の下請けの土建会社で運転手をしているが、無口でやや人並より知能が劣るらしく、まだ独身と聞いている。真沙子は長く会ったことがなかったが、久藤たちがこちらへ移ってからは、引越しの時以来三度も顔を合わせたわけだった。
真沙子が会釈すると、佐山は微笑のように唇を|歪《ゆが》めた。そのままことばは交さずに行きすぎた。知能の低いものを軽蔑する気持などないつもりだが、真沙子はなぜか彼の顔を見るだけで、いつも陰湿な不快感が湧きあがるのをどうすることもできないのだ。
多恵子の部屋のブザーを押すと、「はーい」と間のびした彼女の返事が聞こえ、やがて、ムームーみたいな多彩な部屋着で肉づきのいい身体を包んだ多恵子がドアを開けてくれた。頭中セットの網カラーを巻きつけ、化粧のない素肌は三十五歳にしてはみずみずしく光っていた。
「光一さん、来てたの」
「いいえ、どうして?」
多恵子は細く剃《そ》った眉をあげた。その表情がまったく怪訝《けげん》そうだったので、真沙子はふと、佐山がここを訪れたのではなく、廊下から覗き見していたのではないかと想像した。それから、自分が彼を見るたびに不快を催すのは、彼の多恵子に注ぐ視線の中に卑猥《ひわい》な光を感じるからではないかと、今さらのように気がついた。
「今そこの廊下で見かけたのよ」
「あら、おかしいわね」
だが多恵子が大して気にもかけない様子で奥へ入ったので、真沙子もそれ以上口に出さなかった。想像だけで確証はないのだ。
3LDKの内部は、どの部屋にも新しいセンスの家具が配置され、いつもながら少しも乱れていないように見えた。久藤は毎朝八時ごろ大手町の会社へ出勤していき、夜は九時より早く帰ることはないという。一人息子の剛もほとんど毎日学校から塾へ直行で、七時すぎにしか帰ってこないらしいから、多恵子が特別働きものの主婦でなくても、部屋を汚す人などいない家庭なのである。
「今日はお休み?」
多恵子はアームチェアの方へ戻りながら尋ねた。
「いいえ。でもちょっと外廻りの用があったから、ついでに寄ったのよ」
真沙子は二十七歳の独身で、マンションからバス停二つ離れたアパートで暮らしているが、勤めがあるのでここへは十日に一度くらい、それも大抵夜しか顔を出さなかった。姉妹の実家は静岡県にあるが、両親はすでに亡くなっている。
「じゃあ、これから仕事なのね」
「そうなの」
「コーヒーでも淹《い》れましょうか」
「ううん、それほどの暇もないわ。もうじき十一時ですもの」
「ああ、もうそんな時間ね」
多恵子は電気時計を見上げながら、籠の中からレース編の道具をとりあげた。
「剛君、元気?」
「ええ。──このごろちっともいうこと聞かなくなったわ」
「そんな年頃でしょう」
「学校であったことなんかも、何も話してくれなくなったし……」
喋《しやべ》りながらも、多恵子はゆるやかな手つきでレース編を続けていた。ゴムの鉢植の反映でか、造作の大きな横顔が少し青く見えた。
真沙子はそれから三十分ばかり、姉と途切れ勝ちな会話を交してから腰をあげた。久藤のことばを念頭に置いて、多少観察的に彼女を眺めたつもりだが、結局どうという発見は得られなかった。やや物思わしげで元気がないといえばいえるが、元来多恵子は、そのグラマーで派手な感じの容姿とは逆に、性格はおとなしくて内向的だった。無口で、いいたいことも大抵のみこんでしまう方である。快活で行動派の真沙子とは肌合いがちがうし、八歳もの年齢差も禍《わざわい》して、二人は何でも打ちあけ、ざっくばらんに話しあうといった姉妹ではなかった。長年のそうした間柄は、一朝一夕に変えられるものでもない。
真沙子が靴をはいている間、多恵子は黙って後に立っていた。
「じゃあ、また寄ります。今抱えているテレビの企画がスタートしたら、かえって少し楽になるから」
振返った真沙子に、なぜか多恵子は少しぼんやりした眼差《まなざし》を注いだ。
「いいわねえ、いつも忙しそうで」
ポツリといった。この時真沙子は、やはり姉は少し沈んでいると感じた。同時に、さっきゴムの葉陰にいた時と同じに、多恵子の顔が蒼ざめて見えた。だが玄関のあたりにはそんな反映をつくり出すものはないのに、蒼いというより、真沙子は一瞬、多恵子の顔全体に、青黒い影がさしているのをはっきり認めたような気がした。
後になって思い返すたびに、真沙子にはそれが死相のように思われてならないのだった。
2
久藤多恵子の無残な他殺死体が、練馬区との境界に近い埼玉県N市の寂しい地域で発見されたのは、それから約半月後、十月十二日午前七時であった。その辺りには、森や畑の間に古い農家と新築住宅が混りあって散在しているが、電車の駅から遠いので、夜などは東京近郊とは信じられないような静寂に包まれる。死体が見つかったのは、古いお寺の背後に当る叢《くさむら》の中で、発見者は近所の老人であった。
老人は、今は退官して家にいるが、医大の助教授まで勤めた人なので、朝の散歩の途中、草の中にうつぶせに倒れている青い服の女の姿を見た時、即座に強姦殺人事件を考えたとのべている。ショートヘアの後頭部が傷口をあけ、どす黒い血痕が背中から周囲の草の上まで、広範囲にひろがっていたこと、その上女のスカートが二カ所ほど引き裂かれ、肉づきのいい太股がむき出しになっていたからである。
検屍《けんし》、解剖の結果も、発見者の印象を概《おおむ》ね支持したかたちになった。死体には、頭、肩、右膝など四カ所にわたり鈍器で殴られた傷があり、膝は骨折していた。死因は脳挫傷《のうざしよう》による脳内出血と考えられる。
凶器とおぼしきものは、死体のすぐ足許で発見された。直径十センチ、長さ八十センチほどの丸太で、その表面に死体と同じ型の血液と頭髪がこびりついていた。丸太はかなりしっかりしたものだが、汚れぐあいなどから、大分以前からそこに捨てられていたと推察された。指紋は拭き取られた模様で、一個も採取できなかった。
また、スカートが破られていたことで、やはり暴行が想像されたわけだが、死体に情交の形跡はなかった。犯人は騒がれるか何かして、目的を達せぬうちに殺害に及んだのかもしれない。
女は三十五、六歳、大柄でやや太り気味。ブルーのワンピースや黒のエナメルシューズなどが上質であったことから、中流以上の家庭の人妻と想像されたが、それ以上女の身許を示すようなものは、現場からは発見されなかった。ハンドバッグなどの持物は、犯人に持ち去られたと思われる。
その女が東京都豊島区目白のマンションに住む久藤多恵子三十五歳と間もなく判明したのは、前夜夫の久藤恒夫によって居住地の所轄署に提出されていた捜索願との照合の結果であった。多恵子はその夜家に帰らず、行方不明で、そんなことはかつて一度もなかったため、午前一時に久藤が捜索願を出していた。
解剖の結果、多恵子の死亡は、発見の前夜、十月十一日の午後八時から九時の間と推定された。
事件の所轄署であるN署の一室で、署の刑事課長重松警部が久藤恒夫と対座したのは、十二日の午後四時ごろだった。その朝には、県警の特捜班長をトップにする捜査本部が設置されている。
「このたびは本当にご愁傷さまでした」
重松が持前の低い穏やかな声で悔みをのべると、久藤は唇をかみしめた表情で頭を下げた。久藤は三十八歳、長身で肩幅が広く、ゴルフ灼《や》けした顔は精力的で、全体に陽性なタイプに見えるが、今は顔の肌が乾き、眸《め》は疲れきったように濁っていた。
「──当初の予測に反して、情交の形跡はなかったのです」
一通りの解剖所見を説明してから、重松はすぐにつけ加えたが、久藤はうつむいたまま小さく頷《うなず》いただけだった。
「ですから、犯人は、乱暴する目的で奥さんをあそこへ連れこんだものの、抵抗されてカッとなり、殺して逃げた、とまず考えられるわけです。ところが奇妙なことに、現場の叢には、それほど激しい抵抗の跡が見られないのですよ。勿論草が押し伏せられたような個所はありますが、死物狂いで争ったほどの形跡とは認めにくい。となると、多少こちらの見方も変ってくるのです」
「………」
「犯人は奥さんと顔見知りの人間で、騙《だま》してあの叢に連れこみ、殺害したあと、性犯罪を装うためにスカートを破っておいたか。この考え方を強めるもう一つの要素は、普通乱暴した上で殺害に及ぶケースでは、扼殺《やくさつ》か絞殺が大部分で、撲殺《ぼくさつ》は非常に稀だということですね。──しかしまた、単純な物盗りとか、暴行する以上に殺すことに快感を覚えるといった精神異常者もありますから、流しの線も捨てきれません。結局五分五分というところで、両方の可能性を考慮に入れて捜査するつもりですが」
重松はここでいったんことばを切り、うすい麦茶を口に運んだ。久藤の方は、大きな身体を硬くしたまま、湯呑みに手を出そうともしない。降って湧いたような事件に、打ちのめされ、弱りきっているビジネスマンの姿だった。
「そこで、まず奥さんの足取りですが、何時ごろマンションを出て、どんな理由であの近辺へ行かれたかなど、何かお心当りはありませんか」
現場は目白のマンションから西北に当り、車で直行しても四、五十分はかかる場所であった。
「それが、まったくわからないのです」
久藤は乾いた喉《のど》から苦しそうに声を出した。
「あの辺には親戚や友人もありませんし、多恵子は自分で車をやるわけではなし……大抵毎日家にいて、一人で遠出をするようなことはなかったはずなのです」
久藤はコロナを持っているが、それで通勤したり、マンションの駐車場に置いて地下鉄を利用したり、その日の都合でまちまちであるという。事件の日は車で出勤していた。
一方、多恵子が何時ごろマンションを出たのか、都会人が周囲に無関心であるという例にたがわず、近隣の部屋や管理人などに聞込みした結果も、何の収穫も得られていなかった。
「では……失礼ですが、奥さんに男友だちがあったような形跡はありませんか」
終始うつむきがちだった久藤が、はじめて顔をあげた。心持ち眉を寄せ、少し強い眼差になっていた。
「そんなことは絶対に考えられません。大体に内気で家庭的な女だったのです。半年前に現在のマンションへ移ったので、まだ不慣れなところもあって、そのせいか最近は少し元気がないような感じもしましたが、とにかく昼間はほとんど家にいたはずです。男友だちをつくるなんて、そんな機会があるわけはありません」
久藤の口調はほとんど断定的であった。それは、世間体を繕《つくろ》うというより、彼自身心からそう信じているような印象である。
しかし、彼の信念はさして根拠のあるものではあるまいと、重松は判断していた。いわば妻に対する無関心から生まれた単純な信頼ではなかったか。現に久藤は、事件の夜、取引先の人物を接待したあと十一時ごろ帰宅し、自分の鍵で家に入って一人で留守番していた長男から多恵子の不在を聞き、午前一時に所轄署へ捜索願を出したとのべているが、そのさい、洋服|箪笥《だんす》や妻の持物を点検しても、結局彼女がどんな身なりで外出したのか、見当もつけられなかったらしいのだ。
恐らく久藤は、昼間自分の留守中妻がどんなふうに時間を過しているかなど、想像したこともなかったのではないか。──だが重松は、ふと彼自身の妻について同じことを考えてみて、やはり何一つ答えられない自分に気がついて、かすかな動揺を覚えた。
「そうですか」と重松はひとまず納得した表情で頷いた。
「当面は目撃者を捜すことに力を注ぐつもりです。現場付近は無論ですが、あそこは川越街道から少し南へ入った地点ですからね。今夜は問題の午後八時から九時くらいに毎日あの近辺の道路を通る定時通行者にも、できる限り当ってみるつもりです」
「よろしくお願いします」
久藤はまたうつむいた姿勢になって、低い声でいった。
しばらくの沈黙のあと、重松は内ポケットを探り、手帖の間に挟《はさ》んであった紙片を取り出してテーブルの上に置いた。
「この文字に、見憶えありませんか」
久藤は覗きこみ、それから恐る恐る手にとって目を近づけた。その紙片は、手帖の一頁を破り取ったもので、鉛筆文字で「グレーの服、三十すぎ」と記されているのである。字はひどく乱れ、ようやく判読できる程度で、それだけ書いて手帖の一頁がいっぱいになっていた。
久藤は首を傾《かし》げている。
「先刻申しあげた通り、奥さんの持物などは全部持ち去られた模様なのですが、実はこの紙片れが、奥さんのブラジャーの中に挟まっていたのです」
「ブラジャー?」
「ええ。──その文字は奥さんのものではありませんか」
「さあ……」
「判りにくいかもしれませんね。大分乱れていますから。鑑識では、揺れる車の中で書いたような感じだといっていますが。いずれにせよ、地理的条件から推しても、奥さんが車で現場近くまで行った可能性は強い。あるいは奥さんは、車の中で犯人の目を盗んで書いたのではないか。紙片には奥さんの指紋しかついていませんでしたからね。犯人はなるべく手懸りをなくすために所持品を奪い去ったが、ブラジャーの中までは気がつかなかった……」
「すると、このグレーの服、三十すぎというのが犯人……?」
「まあそんな見方も出てくるわけですが、しかし犯人が顔見知りなら、直接名前を書いたはずだし、どちらにしても、奥さんはこれを書いた時すでに危険を感じていたことになるが、それにしては現場に抵抗の跡が少い。不明な点が多いのですが、このメモについて、何かお心当りはありませんか」
「いえ、全然」
久藤はキッパリ答えて二度首を振った。が、強く凝らした眸《ひとみ》が、これまでとは異質なかすかな狼狽《ろうばい》を帯びはじめているように、重松には感じられた。
「まあ、この種の死ぬ間際の書き置き、洒落《しやれ》ていえばダイイング・メッセージというんでしょうが、われわれには正直いってちょっと厄介な代物《しろもの》なのですよ。書いた本人は当然異常な状況にあったわけですから、思いちがい、書きちがいも多い。それでも捜査官はついそれにこだわって、先入観を植えつけられる……」
重松はメモをしまいながら、なお久藤の反応を観察した。
「ダイイング・メッセージですか……」
久藤はまるでそのことばにショックを受けたように、乾いた唇で呟《つぶや》き続けていた。
3
人が死の前に書き残すことばがダイイング・メッセージと呼ばれるなら、死者の遺品のいっさいも婉曲《えんきよく》ながら同じ意味を含んでいるのではあるまいか──。
N署から出向いてきた二人の刑事が、久藤と真沙子の立会いのもとで、多恵子の持物──洋服箪笥や紙箱にしまいこまれていた服、ロッカーの中のバッグや小物、ノート類などを一通り調べて帰ったあと、真沙子が改めて抱いた感想であった。多恵子の私物を目にして、姉がそれまで真沙子が考えていたとは異質な生活の場を持っていたのではないかと、漠然と気づきはじめたからでもある。
多恵子は意外に派手な服を沢山持っていた。大部分が春物や夏物でまだ新しいから、三月にこのマンションへ移って以後|拵《こしら》えたと思われる。それも際立ってスポーティな服が多い。とくに高価なものはないが、ちょっとセンスのいいニットブラウスなどがいく枚もあり、その色に合わせたパンタロンも三枚出てきた。真沙子のイメージにある多恵子は、大抵はホームドレス風の服を着た、ごく家庭的な主婦だった。
真沙子はふと、最近、駅などのコインロッカーの利用者は圧倒的に女性が多いと聞いたことを思い出した。預け入れるものはほとんど衣類で、それによって制服の女子高校生が派手な遊び着に変ったり、時には平凡な主婦がコールガールに変身するのだという。すると同時に、今朝久藤を通して聞いた、事件の目撃者に関するある情報が頭をかすめ、続いて湧きあがったいやな想像をあわてて払いのけた。
刑事は多恵子の持物について久藤にいろいろ質問していたが、彼はほとんど満足に答えられなかったようである。真沙子も義兄への遠慮もあり、自分から発言はしなかった。それで刑事たちは、結局大した収穫もなく引き揚げた様子だった。
「お姉さん、車の運転でも習いはじめてたんじゃないんですか」
真沙子は、ラバー底のスポーツスタイルの靴が二足も出てきた下駄箱を片づけながら、久藤を振返った。マンションの中は刑事が帰ったあと急に静かになっている。剛は事件以後、市川の祖父母に預けられていた。
「さあ……そんなことは聞いてなかったが……」
久藤は困惑した表情で首を傾げるばかりである。
「あら……」
戸を閉めかけた真沙子は、下駄箱の横の壁に密着するようにして立てかけてある何かのラケットを見つけて、思わず声を洩らした。中が暗いせいで、刑事たちも見落としていたようだ。手にとってみると、バドミントンのラケットに似ているが、それよりやや小型で、フレームのしっかりしたものである。
「これ、剛君の?」
「いや、ちがうと思うけど……」
久藤も近寄ってきて視線を注いだが、やはり曖昧な返事である。今の彼は、妻の遺品より、今朝N署の重松警部の口から聞いた「ある目撃者の話」に意識を占められているのだ。それは、彼のどこかぼんやりとした目の色で、真沙子にも察しられた。
ダイニングキッチンの電話が鳴ったのは、久藤が市川で行う葬儀の手筈をするために出ていってから間もなくだった。
「もしもし、久藤さまでいらっしゃいますか」
低い落着いた女の声が、礼儀正しい口調で訊いた。
「さようでございます」
「亡くなった久藤多恵子さまのご家族の方でしょうか」
「私は、妹でございますが──」
「ああ……」と先方は痛ましそうな声を洩らし、続いて簡単だが丁重に悔みをのべた。
「実は、私は永原良美と申しまして、R省に勤務しているもので、直接お姉さまを存じあげていたわけではないのですが、今日突然お電話申しあげましたのは、お姉さまについてちょっと心当りのことがございまして、念のためご家族の方まででもお耳に入れた方がよいのではないかと存じまして……」
「まあ、それはどうも。──で、どんなことでございましょう?」
「はい、あの……お姉さまが池袋のスカッシュクラブにいらしてたこと、ご存知でしたかしら」
「スカッシュクラブ?」
真沙子が怪訝な声で訊き返すと、相手はそれを予期していたのか、声に微笑が絡《から》んだ。
「やはりお気づきではなかったのですね。私も、新聞記事など読みますと、お姉さまの日常生活があまりはっきりしない様子ですので、あるいはご参考になるかと思ったのですけれど。──スカッシュボールといって、室内でやるちょっとテニスに似たスポーツがありましてね。まだとてもボウリングほど普及していませんが、若い人や普段運動不足の主婦などの間で流行《はや》りはじめているんです。この辺では池袋にボウリング場と付属してクラブがありまして、私も勤め帰りに時折寄って汗を流すんですが……そこで先月一度お姉さまをお見かけしたことがありますの」
テニスに似たスポーツと聞いて、真沙子はさっきのラケットを頭に浮かべた。それにしても、多恵子がそのクラブに出入りしていたという意外さに変りはなかった。
「それで──」
真沙子はくわしく聞こうとして、
「あの、失礼ですが、永原さんは今どちらにいらっしゃるのでしょうか」
「目白駅の近くですわ。私、この辺が通勤コースに当るものですから」
「もしご迷惑でなかったら、お目にかかってお話をうかがえませんでしょうか」
会っても今話しただけのことだといいながらも、相手は承諾してくれた。真沙子は、駅の辺りから看板が見えるフルーツパーラーを提案した。
十分ほど後、真沙子はガラス越しに目白通りを眺める席で、永原良美と向かいあっていた。
良美は目の丸い愛敬のある顔立ちの女性で、小麦色の肌にごく短いカットの髪型が似合っていた。ベージュのスーツを、勤めを持つ人らしく引締った感じで着こなし、一見三十二、三くらいだが、目尻に小皺が寄るのを見れば、三十五はすぎているのかもしれない。真沙子が受取った名刺には、R省の国民福祉局といった部署が印刷されていた。
「久藤多恵子さんとは、私一度もお話ししたことはなかったのですが、何かしらご縁がありましたみたいでね」
土曜日の午後で、勤め帰りだそうだが、良美はすぐ本題に入った。礼儀正しい口調は電話の時と同じだが、向かいあってみると、唇の端を引締めるような喋り方が一段と知的な印象を与えた。
「私は朝霞《あさか》の方に住んでいるものですから、毎日役所の行き帰りに川越街道を通りますの。それで今朝もN署の刑事さんに、一昨日の夜八時から九時ごろ現場近くで何か変ったことはなかったかと尋ねられましてね」
「ああ……」
真沙子は、警察が現場付近の定時通行者に聞込みすると聞いていたのを思い出した。
「残念ながら私はその日は別の方向から帰ったんですが、そんなことであの事件は最初から普通以上に注意して新聞記事など読んでましたの。それでお姉さまの写真を見ているうちに、九月のはじめごろ一度、池袋のスカッシュクラブのロビーでお見かけして、その時確か久藤さんと呼ばれてらしたことを思い出したものですから、何かのご参考になればと考えてお耳に入れたわけなのです」
電話で断っていた通り、良美の話はそれ以上特に付け加えることはないようであった。今からひと月余り前の九月初旬の夕方、良美はそのクラブのロビーで、花模様のブラウスに白いパンタロン姿の三十五、六の女性を見かけた。良美は勤め帰りに一汗流すつもりで寄ったのだが、その女性はすでにプレイを終え、シャワーも浴びて帰るところだったらしい。そのさいフロントの係員に『久藤さん』と呼ばれていたのも、なんとなく記憶に残っていたのだという。
だが、その女性の服装、良美の印象などを聞くと、彼女は確かに多恵子にちがいないように思われた。真沙子は礼をのべ、そのクラブの所在を尋ねてメモした。
「それで、捜査は進展しているのですか」
少しの沈黙のあとで、良美は遠慮がちに真沙子の顔を覗きこんだ。
「新聞では、何か犯人に関するメモがお姉さまの身辺から出てきて、それが重大な鍵になりそうだと匂わせてありましたけど……?」
「ええ……でも、年配と洋服の色が書いてあっただけですから」
「犯人のですか」
「いえ、それもはっきりしないのです。男か女かさえわからないんですから」
「ああ……でもやはり手懸りにはちがいありませんわね。目撃者は見つからないのでしょうか」
良美は次第に他人事《ひとごと》ではないといった真剣な表情で眸を凝らしている。
「現場付近ではあまり収穫はなかったようです。昼間でも人通りの少い場所ですから。ただ、実は、現場より五キロくらい東になる、やはり川越街道から少し入った場所に“ムーラン”というモーテルがあるのですが……」
今朝義兄を通して聞き、自分の胸にもずっとわだかまっていたことを、初対面の相手に向かって口に出してしまってから、真沙子はふと反省に迫られた。多恵子のメモの内容にせよ、そうした捜査上の詳細は、報道関係にも伏せられているのだ。──だが、良美の知的な眼差にあうと、この人なら冷静な第三者として信頼を置いてもよさそうな気がした。
「事件の夜八時半ごろ、その“ムーラン”の入口近くに姉らしい女が立っているのを見かけたという目撃者の届出があったのだそうです。それ以上のことはまだ聞いていませんが」
「モーテルですか……」
良美はちょっと瞬《まばた》きして目を伏せた。が、やがて顔をあげた時、大きな眸の中に、戸惑いとは別の表情が浮かんでいた。
「モーテルとうかがっていうわけではないのですが……実は九月にスカッシュクラブでお見かけした時、お姉さまは若い男の人と親しそうに話しながら出ていかれたようでした。その男のことは、ほとんど憶えていませんけれど」
4
“パレススカッシュクラブ”は、池袋駅からほど近く、デパートの裏手に当る繁華な場所にあった。良美がいっていた通り、ボウリング場といっしょになっているので、間口はデパートに匹敵するほどの広さである。土曜日の午後で、多彩な身なりの若い人たちが、絶え間なく正面の階段を上り下りしている。真沙子は良美と別れたあと、その足で出かけてきた。事件以来、勤めは休んでいた。
中二階のロビーとティールームにも、華やかな活気があふれていた。奥がボウリング場で、右手にスカッシュクラブがあるらしい。
その方へ廊下を入っていくと、少し静かな雰囲気になった。そこにもサロンのような広い部屋があり、四、五組のグループが談笑しているが、ボウリング場よりやや年齢層が高いように見えた。
真沙子は、ホテルのボーイみたいな感じの男性がいるフロントへ歩み寄った。
「あの、ちょっとお尋ねいたしますが」
「はい」と彼は微笑した目を向けた。
「あの、久藤多恵子というものが、こちらへ時折うかがっていたのでしょうか。私は、妹なのですが……」
「ああ、久藤さんでしたらうちの会員ですけど、最近はあまりお見えになりませんね」
フロント係は、多恵子の事件には気づいていない表情であった。
「会員になったのは、いつごろからなのでしょうか」
今度は彼は少しの間真沙子の顔を眺めていた。が、真沙子の真剣な眼差から、何か事情があると察したらしく、また好意的な微笑を浮かべた。
「六月末くらいだったと思いますが……」
それから帳簿を調べてくれたが、やはり彼の記憶に誤りはないようだった。多恵子は六月半ばから顔を見せはじめ、二十日に会員の申込みをしている。スカッシュは、二人が並んで壁に向かい、交互にボールを打ち返す簡単なスポーツなので、誰でもすぐできるようになるらしい。会員になった当初は週に二、三度来ていたが、あきてしまったのか、九月に入ってからはあまり見かけなくなったと説明してくれた。
「会員になると、待たずにやれるといった特典があるわけですか」
真沙子は段々混みはじめているサロンの方へ目をやりながら訊いた。
「いえ、その点は、会員でもビジターでも、混んでいる時は待っていただかなければならないんです。うちはまだ二コートしかないところへ、愛好者がどんどん増えているものですから、夕方なんかいっぱいになるんですよ。ただ会員には、会員証のほか、ラケットを差しあげていますが」
「なるほど。──実はちょっとわけがあって、もう少し詳しいことをお聞きしたいのですが、姉がこちらでとくに親しくしていた方をご存知ないでしょうか」
「そうですねえ……スカッシュは二人でプレイするものですから、一人でお見えになれば知らない相手と組むことになり、それでお友だちは沢山できますね。そんなところが主婦層なんかに人気がある原因だと思うんですが。──久藤さんはねえ……土屋さんとよく組んでらしたかなあ……」
土屋というのはテレビのシナリオやコマーシャルなどを書いている男だそうで、運動不足解消のために一日おきにやってくる常連だという。フロント係は土屋と親しいような口ぶりであった。
「大抵一時の開場に合わせていらっしゃいますから、今日ももう見えるころなんですが……しかし彼がどの程度久藤さんと親密かはわかりませんけどね」
フロント係はようやく警戒的な口調になってつけ加えた。
「──久藤多恵子のことで、少しお話しさせていただきたいのですが」
真沙子が自己紹介のあとでやや唐突に切り出したのに対し、土屋圭介の表情にさほどの反応が認められなかったのは、真沙子にはむしろ意外だった。サロンの入口の絨毯《じゆうたん》に足をかけた土屋は、睫毛《まつげ》の長い眩《まぶ》しそうな目で真沙子を見つめ、
「ああ……お姉さんは大変でしたね」と鼻にかかった声で答えた。三十歳前後、色白の繊細な感じの男だった。クリーム色のシャツとうす茶のズボンに包まれた猫背な長身も、むしろ思索型の青年といった印象で、真沙子が漠然と想像していた軽薄なムードは認められない。彼は二時半ごろ姿を現わし、フロント係が、それが土屋圭介だと教えてくれたのだった。
土屋が事件を知っているらしいので、真沙子は話しやすくなった。
「姉がここでお親しくしていただいたようにうかがったものですから……」
土屋はそれには答えず目を伏せた。が、やはり特に身構えているふうにも見えなかった。
サロンの席はほとんどいっぱいになっていたので、真沙子は外の喫茶店に彼を誘った。彼はフロントに三時半の予約を入れてから、真沙子について階段をおりた。
「──久藤さんとは、彼女がまだ来はじめのころ、偶然たて続けに組みましてね。まあぼくの方が少しはやれるので、ハンディをつけてお相手したわけなんですが」
翳《かげ》った裏道の先にあったすいた喫茶店で向かいあうと、土屋は真沙子の問いに答えて、気軽な姿勢で話しはじめた。
「彼女の方が大分年上だし、気が合うっていうのも変だけど、よく話をしたんですよ。彼女はすごく孤独で、話相手を求めてたんじゃないのかなあ」
アイスコーヒーのストローを廻しながら、ちょっと気障《きざ》な、インテリっぽい喋り方をした。それは真沙子が仕事で付合う、テレビ局などに出入りする人種に共通した感じでもあった。
「ご主人にはこれという欠点はないが、興味の対象は仕事とゴルフばかりで、彼女にはまるで無関心。住居と金をあてがっておけばそれで役目はすんだとでも考えているみたいだ。息子さんも、もう母親の立ち入ることのできない、自分の世界を持つ年齢に達している。以前は大勢の家族の中で気を使って生活していたのでかえって紛《まぎ》れていたのかもしれないが、今では、何もかも設備の整ったマンションの中に一人でいると、孤独で気が狂いそうになるといっていた。夜は二人とも帰ってくるが、それは食事や寝るために帰るだけで、彼女と話すためではない。つまり彼女は、昼間一日彼らを待っていたって、それは待つという意味さえなしてないというわけなんでしょう」
真沙子は、いつ訪ねても少しも汚れていない部屋で、一人でレース編をしていた多恵子の姿を思い浮かべた。
「それでは、姉は孤独を紛らせるために、スカッシュクラブへ通ったのでしょうか」
「まあ、最初はそんな動機だったのでしょう。スポーツそのものが目的だったとは思えませんね。だから、いつも一時か二時ごろきて、混んでいればいつまででもロビーで待っていたらしい。いつかぼくが夕方行った時なんか、窓に向かって彫像のように一人で腰かけていた……」
「………」
「──実はねえ、あれは八月末ごろだったか、ぼくは一度彼女を誘ったことがあったんですよ」
ふいに土屋が複雑な笑いのからんだ声でいったので、真沙子は思わず強く見返した。彼は照れているのか、睫毛を伏せたままだった。
「それで、ぼくの車で大塚の方の旅館へ行ったんですよ。二人で部屋まで入ったんだけど……直前になって急に帰るといい出して、引きとめる間もなくとび出していってしまった。結局キスもさせてくれなかったな。彼女は、心では何かに飢えていても、生理的に遊べない人じゃなかったかと思うんですよ」
土屋が嘘をついているとは、真沙子には感じられなかった。それに作り話にしては、あまり恰好のいい話ではない。しかしそれだけでも、真沙子には相当のショックだった。多恵子が、五、六歳も年下に見えるこの青年と旅館へ──?
ところが、土屋の話は奇妙な方向へ進んだ。
「──しかし、そのことがあってから、彼女は急に変りましたね。一人で何をやっていても、孤独は満たされないと考え詰めたらしい。二週間ほどたって、クラブで久しぶりに顔を合わせた時、これからは時間が許す限り、ご主人に密着してみるんだというようなことを洩らしていました」
「主人に密着?」
「ええ、つまり尾行することらしいんです。ご主人は総務課で、午前中は大体デスクワークをして、午後から外出することが多かったそうですね。それで、会社の玄関近くで見張っていて、ご主人が出てくると跡をつける。車に乗ればタクシーで追う。どこかへ入ったら、出てくるまで待って、また次の出先までひそかについていく。そうしているうちに、不思議に自分も夫の仕事に参加しているような充実感を覚えはじめて、孤独や不安なんか消えてしまったともいってました。それからもたまにクラブへ来てたけど、彼女は以前より安定した顔をしていましたよ。ぼくも、彼女がそれで満足しているなら、誰の迷惑になることでもなしと思って、黙っていた。もともと他人《ひと》に忠告するようなガラでもありませんしね」
「義兄は、それに気づいていなかったのでしょうか」
「ええ。彼女の口ぶりでは、そんなことはないようでしたよ。しかし……ひと月ほど前から、また彼女の表情にどこか影がさしたようで、そのころからクラブへもほとんど姿を見せなくなって、ぼくも長らく会っていなかったのです。だから、あるいは彼女自身にまた変化が起きたのか、それともご主人の側に何かあったのかなどと想像していたんですが。──事件を知ってびっくりしましたが、ぼくとのことは、特にどうってわけでもなかったし、元来ぼくは警察って奴が虫が好かないのでね。わざわざ届け出ることはしなかったんですよ」
土屋は真沙子の凝視を眩しそうに受けとめながら、鼻声の、あまり抑揚のない話し方を変えていなかった。
彼女自身にまた変化が起きたのか、それとも主人の側に何かあったのか……土屋のことばを反芻《はんすう》すると、真沙子の脳裡には、やはりモーテル・ムーランが浮かんだ。
5
事件現場より約五キロ東、川越街道から数百メートル南へ入った地点にあるモーテル・ムーランの前で、事件当夜多恵子らしい女を見かけたという通行人の届出により、捜査本部ではそのモーテルをくわしく調査した。が、結果は、その夜多恵子と思われる女が出入りした形跡はないという結論におさまった。ムーランはいわゆるワンガレージ・ワンルームシステムのモーテルで、客室と車庫が一組ずつになって切り離されており、車でフロントの前を出入りするさいも、客は係員とほとんど顔を合わせなくてもすむ仕組になっている。
だがそれは営業上の建前で、実はフロント係が、客の車が窓のそばを通る時、客の人数と年恰好などを素早く観察し、次いで車のナンバーを控えておくことを、条例で指示されている。係の話では、事件の夜は八時二十分ごろアベックが一組入ったが、多恵子が路上で目撃された八時半以後は約一時間客の出入りはなく、また客の中に多恵子に似た女性は見かけなかったと明言した。
念のため、百メートルほどの間隔を置いて建っているほかの二軒のモーテルにも聞込みをかけたが、回答は同様であった。
一方、被害者の妹の通報により、池袋のスカッシュクラブで多恵子と親しくしていたという三十歳のシナリオライター土屋圭介に事情聴取が行われたが、結局彼にはアリバイが成立した。彼が多恵子についてのべていることがすべて真実かどうかは疑わしいが、ともあれ、事件当夜は六時から十時すぎまで、麻布のテレビ局近くの小料理屋でディレクターら四人と打合わせをしていたことがはっきりしたので、容疑を解かれた。
こうなると、やはり多恵子はモーテルを利用したのではないらしい。するとムーラン近くで彼女を見かけたという通行人の証言自体あやふやなものに思われてきた。
ところが、その証言は別な方向から確認された。新宿からムーランの前まで多恵子を運んだというタクシーが見つかったのである。タクシー会社にいっせいに問合わせした結果であった。
運転手の話によれば、七時すぎに多恵子はタクシーを停めて乗りこむなり、道路の十メートルほど先でエンジンをかけていた灰色のコロナを尾行してくれと頼んだという。コロナには一組の男女が乗っており、男が運転して、女は助手席にすわっていた。車は目白通り、オリンピック道路を経て、川越街道に入った。
尾行は相当な難事だったが、どうにか成功した。コロナが滑りこんだ先は、街道から南へ折れたやや寂しい道路沿いにあったモーテル・ムーランであった。
コロナが急傾斜の私道をのぼり、モーテルのシャッターの内部に消えるのを、下の道路から確認すると、多恵子はタクシーを降りた。タクシーはターンして引き返した。この時、時計を見たら八時二十分であったという。川越街道は交通量が多いが、少し外れると、畑や木立の深い地域である。暗い道路に佇《たたず》んでジッとモーテルを見上げている人妻らしい女の後姿をバックミラーの中に見た瞬間、なにかしら陰惨な気持に襲われたと彼は述懐している。
八時二十分にムーランに入った灰色のコロナのナンバーが直ちに問合わされた。その車の持主が、多恵子の夫久藤恒夫であることが判明するまでには、さほどの時間はかからなかった。
久藤がN署の取調室で、再度刑事課長の重松と向かいあったのは、事件発生から三日目の午後であった。
この時には、当初久藤が申し立てていたアリバイも崩れていた。彼は、当夜は取引先の人物二人と新宿で食事したあと、二軒ほど飲み歩いて十一時すぎに目白のマンションへ帰ったと主張していたのだが、彼が連れと行動を共にしていたのは、料理屋を出る七時ごろまでだったことがその後の調べで判明したのである。
久藤に注がれる重松の視線は以前より鋭さを増していたが、久藤は事件発生直後の狼狽しきった様子より、むしろやや落着いていた。蒼ざめた顔は、肚《はら》を決めているようにも見えた。
「──ムーランの近くで多恵子を見たという届出があったとうかがった時、すぐにお話しすべきだったのです。しかし、いざとなるとやはりいいにくくて……申しわけありません」
久藤は逞《たくま》しい肩をすぼめるようにして頭をさげた。
「相手はどういう女性です?」
「取引先の建材メーカーに勤めている二十九歳のOLで、柳内幸江という女です」
「関係はいつごろからですか」
「まだ半年くらいです。それに、会ったのもせいぜい週に一度くらいで……幸江は独身ですが、性格的にも淡泊な方で、私に妻子のあることも承知の上で、結婚を期待するような気持はなかったのです。勿論私も幸江のために多恵子をどうこうしようなどとは考えたこともありませんでした」
久藤は次第に説得めいた口調になっていた。重松は無表情に受け流し、
「しかし奥さんはあなた方のことを知っていたわけですね」
「それも知らないとばかり思っていたのです。まして尾行されていたなどとは。──昨夜実家の方に預けている息子にくわしく尋ねてみましたら、最近、私の帰宅が遅い夜、多恵子も九時すぎになって帰ってきたりすることがしばしばあったというのですが、普段何もいわない子なので、私も聞きもせずにいて、不注意でした」
久藤はまるで、自分が浮気したことより、妻の行動に気づかなかったことを恥じているような口吻《くちぶり》であった。
「──ですが、家内もそれほどまでのことをしなくてもよかったと思うのです。便利なマンションも買ったし、子供ももう手が離れて、自分の生活を適当に楽しんでいればいいはずなのです。何度も申しますが、私は幸江とは正直いって、ほんの遊び程度の気持だったのですから」
久藤の話を聞いていると、重松はなんともいえない苛立ちを覚えた。
「とにかくあなたは、十月十一日午後八時二十分ごろ、柳内幸江といっしょにムーランへ入った。そこに何時までいたのですか」
「十時すぎには出たと思います」
重松は黙って頷いた。その時刻は、すでにムーランで調べずみなのである。
「その間はずっと部屋にいたのですか」
「勿論です。あそこは入口から出口まで一方通行で、キャッシャーの窓口で支払いをすませなければ、出口のシャッターを開けてくれませんからね。勝手に出入りすることなんか不可能ですよ」
「車ではそうでしょう。しかし、私も今朝モーテルの内部を見てきましたがね。ガレージは開けずに窓から庭に降り、植込みの間を抜けて外部へ出ることはしごく簡単ですね。一方あの種のモーテルは、最初フロントからルームへ電話して予定など尋ねたあとは、客の方から連絡しない限り、様子を見にくるような心配は絶対にない」
「それじゃあ、私がいったんモーテルへ入ったあと、車はそのままにしてひそかに外へ出たとでもおっしゃるんですか。何のためにそんな真似をするんです?」
久藤は目をむいて、興奮した声をはりあげた。重松はそれには答えず、
「ところで、あの晩柳内幸江さんはどんな服装をしていましたか」
「グレーのワンピースに、パールのネックレスをかけていたように思います」
「二十九歳にしては地味ですね」
「ええ、普段から地味好みで、それで多少年齢より老《ふ》けて見えるような……」
何気なく答えながら、それらの条件が多恵子が書き残したメモと一致することに改めて気がついたのか、久藤はふいに唇をかんで横を向いた。
6
「──多恵子は自分の孤独を紛らせるために夫を追い廻しているうち、浮気に気がついた。事件の夜はモーテルまで尾行し、相手の女の年齢、服装などを手帖にメモした……」
ひとまず久藤を帰したあと、重松課長のデスクの周囲には、三、四人のN署員が自然に集まるかたちになった。七時からは今日も県警の捜査班を混えて捜査会議が開かれる。
中堅刑事の独り言を受けるかたちで、仕事熱心な若い刑事が口を開いた。
「一方久藤は、妻が自分を尾《つ》けまわしていることに、実は気づいていた。幸江とはただの浮気だったとかいってるそうですが、これも信用できませんね。あるいは多恵子と離婚して、幸江を入れたかったのかもしれない。その上多恵子がしつこく尾行したりするので、ますます煩《わずら》わしくなった。しかしこれではとても離婚は受けつけそうにない。それならいっそ消してしまおうと考える。生命保険も多少はかけていたようですしね」
「とすれば、ムーランに入った直後、久藤だけひそかに外へ出て、まだ入口近くに佇んでいた多恵子を現場まで連れていって殺害したということかね」と重松が訊き返した。
「そうですね。幸江を調べればはっきりすることですが、彼女をモーテルに残し、久藤一人が出たと考えるのが自然でしょう。それと現場まではタクシーか、何にせよ車を使ったと思われます。人目もあるし、歩くには遠すぎますから。犯行後は性犯罪のような擬装《ぎそう》をし、なるべく身許の割れるのが遅れるよう所持品を持ち去ったのではないでしょうか」
「これまでのところ、事件当夜問題の時間帯に現場近くへ行ったというタクシーは見つかっていないわけだが、車の件はもう一度洗い直す必要があるだろうね。しかし、今の意見にも二、三問題があるように思うんだが」
重松は刑事たちに視線を配った。
「第一は、久藤の犯行にしては不用意すぎる感じだ。多恵子が尾行に使ったタクシーや目撃者などによってムーランの名が出れば、たちまち久藤と幸江が浮かぶんだからね。現にそういう経過で二人の関係が明るみに出たわけだし」
「いや、ムーランが出ても、多恵子を消してしまえば自分たちのことはわからないと踏んでたんじゃないですか」
最初に意見を洩らした中堅刑事が応酬した。
「モーテルのフロントで車のナンバーをメモされているとは知らなかったのかもしれない」
「うむ。ではその点は一応置くとしても、もう一つ重大な矛盾は、例の多恵子のブラジャーの中に入っていたメモだね。メモの内容が当夜の柳内幸江の服装などと一致することから、幸江のことを書いたという可能性は大いに考えられる。しかしそれではいつ多恵子はあれを書いたのか。字体の乱れ方から推して、走行中の車の中で書いたとも想像できると鑑識ではいっているが、では夫のコロナを追跡中のタクシーの中で、助手席の女を観察しながら書きつけたのか。その場合なぜわざわざブラジャーに押しこんだりしたのか。また、誰かの車で現場へ運ばれる途中に書いたのだとすれば──その誰かが夫であった場合、なぜ今さら相手の女の年恰好などメモする必要があったのか」
これに対する回答は、居並んだ刑事たちの口からもさっそくには出てこなかった。
柳内幸江からの聴取の結果も、新しい収穫は得られなかった。彼女の話は久藤の申立てとほぼ一致し、八時二十分から十時まで、二人は一歩もムーランを出ていないと主張した。
その夜の会議で、捜査方針は二手に分れた。久藤と幸江の追及を続け、彼らの犯行と仮定した場合多恵子を現場近くまで運んだ車の割出しを急ぐこと。もう一方は、流しの犯行説である。夫がよその女とモーテルへ入るのを目のあたりにした多恵子は、怒りと絶望のためにやや異常な精神状態に陥っていたと思われる。そんな矢先、通りがかりの男に誘われ、フラフラとその車に乗りこんだ。犯人は現場の叢へ多恵子を連れこみ、乱暴しようとしたが声を出されるか何かで逆上し、近くにあった丸太で殴り殺した……。
「もっとほかの可能性は考えられないだろうか」
一わたり意見が出尽くし、約二時間の捜査会議終了を予期させる沈黙が流れたあと、県警の警部がもう一度室内に視線を廻らせた。
重松が軽く手をあげ、先刻から考え続けていたことを、ゆっくりと口に出した。
「流しの犯行といっても、乱暴するつもりで車に誘いこんだのではなく、交通事故の結果がああいう現場をつくり出したとは考えられないでしょうか」
「交通事故の結果、というと?」
やや意外そうな反問と共に、室内の視線が集中した。
「──暴行の末殺害に及ぶケースでは、扼殺か絞殺が圧倒的で、撲殺は稀ですね。しかるに今度のヤマでは、被害者は丸太で殴り殺されている。そのことから出てきた考えなんですが……仮りに被害者がどこかの路上で車にはねられ、出血を伴わない骨折のような怪我をした上、意識不明になったとする。加害者側は正確な状況が自分でもわからないから、これは死ぬかもしれないし、眠り続けて植物人間になるかもしれないと、最悪の場合を想像する。といって、そのまま逃げれば、轢《ひ》き逃げの検挙率は非常に高い。そこで被害者を車に乗せて、死体発見現場の叢まで運び、新たに丸太で頭を殴って致命傷を与えた上、事故のさい負傷させた個所にも打撃を加えて紛らせ、おまけにスカートを破って暴行殺人の形跡を擬装して逃走したとは考えられないか……」
「しかしその場合、最初の鑑識の段階で見破れなかっただろうか」
「ええ、その点は実はさっき、県警の刑事調査官に電話で問合わせたのですが、確かに、同じ打撲傷でも、車のボディやバンパーにぶつかってできた傷と、棍棒などの鈍体でつくられた傷とは、皮下出血の様相などからほぼ見分けがつくのだそうです。ところが、稀なケースで、例えば、車が直接身体にぶつかったのではなく、着衣や女性のバッグなどをひっかけてそのショックで被害者が転倒し、路面でどこかを打って怪我をする。その個所に、短時間のうちに新たな打撃を加えたりした場合には、これはほとんど鑑別不可能になるという話でした」
「うむ……」
県警の警部は小さくいく度も頷きながら、考えこむように眉を寄せた。
室内には再び沈黙がたちこめた。しかしそれは、先程の疲労のこもった重苦しい沈黙ではなく、刑事部長が求めた「もっとほかの可能性」について、それぞれが模索しはじめたからにちがいなかった。
7
もっと別の考え方はないか、と思った時から、この計画が生まれたのだった……。
地下鉄を出て、R省の方向へ歩き出しながら、真沙子はここ二日ほどの自分の思考と行動を反芻していた。
官庁街の広い舗道には、初秋の昼下りの澄んだ陽光が降り注いでいる。R省を訪ねる目的は、先日多恵子について情報を提供してくれた永原良美に会うためである。そして彼女に会うのは、今真沙子が胸に抱いているある計画を実行に移すについて、彼女の力を借りる決心をしたからだった。先方にはすでに電話でアポイントメントをとってある。
多恵子の死体が発見されてから、五日がすぎている。
久藤は一時は相当に容疑が濃く、二日続けてN署へ任意出頭を求められたが、結局逮捕には至らなかった。その最大の理由は、彼が現場まで多恵子を連れていったという確かな足が取れなかったからのようである。二人を運んだタクシーも浮かばないし、久藤が自分のコロナのほかに車を用意した形跡もなかったのだ。
それで本部は彼を逮捕に踏みきれない、というより、ここに及んで久藤への容疑が弱まってきた感じだった。
久藤が後退すると、流しの線が浮きあがった。多恵子は通りがかりの男に誘われ、あの叢に連れこまれたのではなかったか?
そうした経過が耳に入るたびに、真沙子にはなぜか土屋圭介のことばが暗示的に思い出された。──(多恵子は心では何かに飢えていても、生理的に遊べない人だった……)
あの設備の完備した高層マンションの中で、姉はどんなにか孤独だったのだと、真沙子は今さらのように胸を締めつけられた。
わずかでもそれを紛らすために、彼女はスカッシュクラブへ通いはじめた。土屋と親しくなり、いっそ遊んでやろうといった自棄的な気持も生まれた。それが彼に誘われるまま旅館までついていくという行動をとらせたのであろう。
しかし、結局唇も許さずに逃げ帰ったらしい。それを思うと、真沙子はいつも涙が滲んだ。多恵子の持物の中に派手な遊び着を発見して戸惑っていた心が、ようやくまた本来の姉を見出したような気がした。多恵子はやはり生来おとなしい、内向的な人だったのだ。
そのはけ口のない孤独が、昼間から夫を尾行し続けるという、やや常軌を逸した、しかも隠微な行為に走らせたのにちがいない。
そんな多恵子が、通りがかりの男の誘いに乗ったりするだろうか。
確かに、夫の浮気を目撃して、多恵子の心は揺れ動いていただろう。だが、あのモーテルの前の寂しい道路で、見知らぬ男の車に乗りこむほど分別を失っていたとは思えないのだ。というのは、土屋の話から推して、多恵子が久藤の浮気に気づいたのはひと月ほど前からで、事件の夜が最初ではなかったらしいからである。
では、多少でも顔見知りの人間が偶然車で通りかかったとしたら──?
それはあるいは乗ったかもしれない。
久藤たちをモーテルまで追ってきたものの、彼らが今度はいつ出てくるやらわからない。うっかりタクシーも帰してしまった。夜陰に包まれた道路に一人で佇んでいるのは心細い。
そんな矢先、偶然顔見知りの人間が車で通りかかり、送ってやろうといわれたら、素直に乗りこんだのではあるまいか。そしてその人間が、ふと劣情を抱き……?
ここで真沙子はドキリとした。そのような人物が通りかかったのは、果して偶然だったのだろうか? 偶然にしては場所がやや辺鄙《へんぴ》な気がする。もしその人物が、あらかじめ多恵子に殺意を抱き、機会を狙っていたとしたら?
次の瞬間、真沙子は「あっ」と小さな声を洩らしたものだった。
これまでの思考から生まれた様々の条件を満たす人物の名が、突然ポッカリと浮かびあがったからである。久藤の従弟、佐山光一であった。
彼は土建会社の運転手で、知能は劣るらしいが無口な男である。しかも彼がかねがね多恵子に欲望を抱いていたことは目の色で察しられたし、いつかはマンションの廊下から覗き見していた気配だった。
事件以後、光一も刑事の聴取を受けている。が、彼は当夜勤め先の主任と酒を飲んでいたということで、アリバイが成立した。しかしその土建会社は久藤の勤める建設会社の下請けだから、久藤はその主任に適当な事情を設けて光一の偽アリバイを証言させることも可能だったのではあるまいか。
久藤と光一を結びつけた途端、真沙子は直感に似た衝撃に襲われた。
久藤にはやはり多恵子が我慢できない重荷になっていたのだ。そこで光一に多恵子殺害を頼む。この時当然久藤は、自分のアリバイがはっきりする時間に犯行するよう指示したであろうが、光一は車で機会を狙ううち、ムーランの前に佇んでいる多恵子を見て自分の欲望を抑えきれなくなった。それで、偶然通りかかったから送ってやるとでもいって車に乗せ、現場まで連れていった。そこで乱暴しかけたが騒がれるかして、そのまま近くにあった丸太で撲殺した……。
この場合、多恵子のブラジャーの中にあったメモがどのような意味を持つかはまだわからない。第一、何一つ証拠があるわけではない。これはあくまで真沙子の想像である。しかしいったん生まれた疑惑は、自分でも抑えようのない強さでひろがった。多恵子の死後、光一がほとんどマンションに姿を見せないことも、ますます疑いを濃いものにする。
だが、それではどうやってその想像を実証することができるだろうか。警察でも一応光一を取調べたわけだが、アリバイが認められて容疑を免れたのだ。
真沙子が最後に考えついたのは、罠《わな》をかける方法だった。光一を罠に追いこんで、告白させるしか手はないのではないか。
しかし彼の話を証拠にして告発するには、真沙子一人では弱い。もっと強力な第三者の証人が必要なのではあるまいか。
これがまた難しい問題だった。久藤が義兄に当るだけに、身近な人には話しにくい。いっそ警察に自分の想像をありのままに話してみたらとも思ったが、何一つ確証がないだけに、さすがに躊躇が働いた。もしまちがっていたら、罪のないものに取返しのつかない屈辱を与えることになる。
やはり白紙の第三者の方が、証人としても望ましい。直接事件や人間関係には無縁で、しかもいざという時、はっきり証言してもらえるだけの知性を備えた人──なぜかごく自然に永原良美の顔が脳裡に浮かんだのだった。彼女とは一度しか会ったことはないのだが、職業や年齢からも、信頼できると思う。一方スカッシュクラブの件をわざわざ知らせてくれるほど事件について最初から関心を抱き、先日も他人事でないような真剣な面持でその後の進展を尋ねていた。
良美の理知的な眸の動きを思い出すと、彼女なら冷静に相談に乗ってくれそうな気がした。
先日もらった名刺を見て、R省の国民福祉局へ電話をかけてみた。彼女は「物価問題対策室」という部署に属しているらしい。
折よく良美はデスクにいた。目白の喫茶店で会ったきりなので、真沙子からの電話は相当に意外らしかったが、折入って相談があるというと昼すぎに会おうと快い返事をしてくれた。
R省の玄関は頻繁な人の出入りでざわついていたが、昼休みのせいか、人々の足運びはどこかくつろいだ感じに見えた。
受付で面会を申しこむと、初老の係員が内線電話をかけてくれた。やがて、
「今来客中なので、十分ほどお待ち願いたいそうです」と彼は謹厳そうな表情で真沙子に告げた。
冷静な気持を保つために、真沙子はロビーの隅のソファに腰をおろし、普段来つけない役所の内部を観察した。ガラスを敷いたテーブルの上には、省内で発行されているらしい「R省便り」という新聞の綴じこみが置いてあったので、パラパラとめくってみた。
ふと真沙子の手が止ったのは、中の一頁に偶然永原良美の写真を見つけた時だった。
それは省内の人物紹介のようなコラムで、良美の笑ったプロフィールの下に、簡単な記事がついている。まず現在彼女が所属している物価問題対策室に関する説明があり、これは物価上昇に消費者サイドから取組み、総需要を抑制して需給のバランスをとる方法を具体的に研究する目的で設けられた局長直属のプロジェクトチームで、良美は紅一点ながらサブチーフ的立場にあると記されていた。
次に、私生活に関する一問一答がある。彼女が三十六歳の今日まで仕事一筋の独身で、朝霞市の自宅から毎日車で通勤していることなどがそれでわかった。
──趣味は?
──あまりないですね。お休みの日は家で本を読んでいます。
──スポーツはなさいませんか。
──それも駄目ですねえ。車の運転だけ……。
──ボウリングなんかどうですか。省内の若い人たちが同好会をつくったようですが。 ──私、室内競技には興味ないんです。もし時間ができたら、山登りなんかしたいとは思いますけど……。
真沙子は新聞の日付を見た。今年の八月二十日になっていた。約ふた月前──と思った時、エレベーターから出てくる良美の姿を認めて、反射的に綴じこみを閉じた。
8
三日後の夕方──。
「佐山光一には、あの日のうちに書留速達を送りましたから、もう確実に届いていますわ」
R省の前で永原良美を助手席に乗せ、池袋の方向へ走り出しながら、真沙子は説明した。真沙子が運転している小型車は会社の友人から借りたものである。良美は自分の車で真沙子についていくことを希望したのだが、ラッシュではぐれる心配があるし、車中で打合わせする必要があるなどの理由をあげて、真沙子は強《し》いて良美に乗ってもらったのだった。
「午後六時に、指定した場所へきっと来るはずです。今から行けば、ちょうどいい時間ですわ」
それで良美は腕時計に目を落としたが、返事はしなかった。緊張のためか、しぶしぶ引っぱり出されたからか、これまで会ったいつよりも、良美は寡黙のようだった。
「その佐山という人を誘い出す手紙は──」
そのまま真沙子も黙ってしまうと、しばらくして、ようやく良美の方から口を開いた。車は高速道路に入り、割合にスムーズに流れていた。
「やはり先日おっしゃっていたような内容ですか」
「はい。義兄の浮気相手の名を使って出しました。久藤があなたに対してどうも穏やかならぬ計画を抱きはじめている様子だ。自分も多恵子の変死以来久藤たちの犯行にはうすうす気づいていたが、あなたがありのままをくわしく打ちあけてくれるなら、力になってもいい。自分もこれ以上久藤に罪を重ねさせたくないからだと書いたのです。これなら佐山は必ず出てくると思います。義兄のいいなりになるような気の弱い男ですから、義兄に頼まれてやったこととはいえ、自分の犯行を知っている義兄が一番怖いはずなのです。その義兄が何か企《たくら》んでいると匂わせたのですから、恐怖にかられて何もかも告白するにちがいありません」
本当は、光一が顔を知らない良美に、柳内幸江を装って彼に会ってもらい、告白を引き出してほしいと、先日訪ねたさい真沙子は良美に頼んでみたのだが、それほどまでのことはと、彼女は重い表情で首を傾げたのだ。
「ですから今日は、柳内幸江に会うつもりでやってきた佐山の前に、いきなり私が姿を現わし、その動揺につけこんで口を割らせる計画です。それで永原さんには、先日お願いしたような段取りで、近くからひそかに彼の話を聞いて、証人になっていただきたいのです」
「でも、どうしても喋らない時は、どうなさるおつもり?」
「佐山の様子をよく観察して、やはりあやしいと思ったら、私の考えを警察に訴えます。でも今はまだ五分五分なので、もしまちがっていた場合を考えますと……ですから今夜一回きりの試みなのです。ご迷惑ですけど、お力を貸してください」
良美は黙ってちょっと溜息をついた。
「あら──」
次に良美が声を洩らしたのは、十五分ばかりカーラジオの音楽を聞きながら走ったあと、車が予定のコースをそれて、目白通りを西に向かいはじめたのに気がついた時だった。
「池袋じゃなかったんですか、その指定した店というのは……?」
「ああ、申し遅れましたわ」
真沙子は努めて何でもない口調で答えた。
「そのお店、座敷の予約がとれなかったんです。それでちょっと場所を変えましたの。何分永原さんにひそんでいただけるような、スペースに余裕のあるところでないとまずいものですから……」
それから一段と速度をあげた。広いオリンピック道路を走って、川越街道へ左折した時、良美は急に不安そうな顔で真沙子を見つめた。
「もう少しですわ」
路上はまだ明るいが、道路ぞいに目立ちはじめた木立の間には、夕闇が忍びこんでいた。
ムーランのある道路の曲り角もすぎ、やがて車は小さな四つ角で左折した。土道で、片側は高い生垣、もう一方には森が続いて、急に田舎へ来たような感じになった。夕闇がにわかに濃度を増した。
生垣はお寺の境内を囲っているものだった。それが切れたところに、繁みの深い空地があり、奥の方の叢の中に多恵子が倒れていたのだ。
良美はもう一言も発せず、眦《まなじり》を緊張させて前方を見据えていた。息遣いが少し荒くなっているように、真沙子には感じられた。
真沙子は空地に寄せて車を停めた。エンジンを切ってから、良美の横顔に向かった。
「実は、佐山はこの現場へ呼んであるのです。その方がもっと口がほぐれやすいと思ったものですから。──ちょっと降りてくださいませんか」
真沙子は良美を覗きこむようにした。良美の顔は青白くなっていて、こめかみのあたりにうっすらと汗が滲んでいた。普段はよく動く眸をジッと見張っているが、その白目までが青くなっているように見えた。やはり熱があるものみたいに息遣いが激しい。
「すみませんが、降りてください」
重ねて促されると、良美はどこかぎごちない仕種《しぐさ》で車を出た。
ロックして、真沙子は先に立った。空地はもううす暗いが、足許が見にくいというほどではなかった。真沙子は自分自身の恐怖を振りはらうように、ずんずん奥へ進んだ。良美は考えこんだ姿勢で、ゆっくりと近づいてきた。
真沙子は立ち止り、右手に持ってきた懐中電灯をかざした。うすい光の輪が、叢の一部を照らし出した。
「ここに、姉がうつぶせに倒れていたのです。この辺り一帯、血の海になっていたそうです」
いいながら、真沙子も身体が慄《ふる》えた。良美は衝動的な動作で顔をそむけた。
「もうじき六時になります。佐山が現われるはずですわ。ですから永原さんは、そこの木陰に隠れて、私たちの話を聞いてくださいませんか」
良美は真沙子が示した方へ、のろのろと顔を向けたが、次にはいきなり真沙子を見返った。
「私、帰らせていただくわ」
声が別人のように強張っていた。
「あら、でももう少しですから、お願いしますわ」
「いいえ、こんな場所では……」
「なぜですの?」
去りかける良美に、真沙子ははじめて声を高めた。良美の異常な狼狽、それでいて真沙子の強引さを責めるより終始逃げ腰の気弱さを見て、真沙子は確信を固めていた。
「あなたは、池袋の料理屋でなら、証人として話を聞いてもいいと承諾してくださった。私が一方的にお願いしたかたちではありましたけど、でもここではいやだとおっしゃるのはなぜです? この殺人現場が怖いからですか」
「いえ、別に私は……」
表情を読み取られるのをさけるふうに、良美はまた顔をそむけた。
「そうかしら。本当に怖くないんですか。怪我をさせた姉を車で運んできて、丸太で殴り殺したこの現場が。ここにはまだ、姉の魂が留っているかもしれないわ」
「何をいうの! それでは……まるでこの私が──」
「その通りですわ。あなたが、ここで姉を殺したのです。──先日R省へお訪ねした時、私は偶然新聞の綴じこみの中にあなたの載っているコラムを見つけた。そこで、あなたが屋内スポーツにはまったく興味がないことを知りました。あなたと会って話している間にも、そのことが私の頭から離れなかった。それで、あの帰りに、池袋のスカッシュクラブへ行って、尋ねてみたのです。案の定、フロント係は、永原の名にもあなたの顔にも憶えがない様子でした」
「………」
「結局、あなたが嘘をついて私に接近したらしいと私は気がつきました。ではなぜそんなことをしたのか。また、スカッシュなどやったこともないあなたが、どうしてクラブで姉を見かけたなどという嘘がつけたのか。──後の方の回答が、先に思い当った。もしあなたが姉を殺した犯人と仮定すれば、あなたは奪い去った姉の所持品の中から、パレススカッシュクラブの会員証を発見したのかもしれない。先の方の疑問も、それで間もなく想像がつきました。犯人であるあなたは、姉の書き残したメモの内容と、事件の目撃者について知りたかった。それらの詳細は、新聞にも報道されていません。それであなたは、そうした手懸りがどの程度真犯人を示唆《しさ》しているか、不安でたまらなかったし、もしモンタージュでも作られるようなら、自分の容姿を適当に変化させる必要があると考えたのかもしれない。一方被害者の家族には、捜査経過がある程度くわしく知らされるはずだ。そこであなたは、スカッシュクラブの情報を提供するようなふりをして私に近づき、探りを入れたのです。目白の喫茶店で、あなたはメモの内容や目撃者について、しきりに尋ねていらっしゃいましたものね」
「いえ、あの時……」
良美は抗弁を試みたふうだが、唇が動くだけで、よくことばにならなかった。
「最後に残った根本的な疑問は、なぜあなたが、見ず知らずのはずの姉を残酷なやり方で殺したかということだった。それで、私はあなたについて調べたのです」
これには、R省のクラブ詰めをしている知り合いの放送記者に頼み、彼自身の調査と、彼が若い女子職員を懐柔して探り出させた結果、手応えのある情報を得たのだった。
「信頼できる人の調査によれば、あなたは今局長直属のプロジェクトチームの重要なスタッフで、現在のチーフが来春課長になって転出すると、あなたがその後を引継ぐ公算が強い。そしてそのポストは、プロジェクトチームが解散したあと課長昇進を約束されているもので、つまりあなたは今エリートコースに乗った大事な時期にあった。また、私が依頼した人は、事件の翌日の十月十二日だけ、あなたは常になく電車で出勤し、車は友だちに貸したようなことをいっていたらしいが、実は自宅近くの工場へバンパーの修理に出していたことまで調べあげてくれました……」
「あれは──」
良美の唇から、再び声が洩れた。今度は意識より先にことばがすべり出たという感じだった。
「あの疵《きず》は、家の車庫に入れる時、角にぶつけたのです」
真沙子は無視して続けた。
「もう一つ、十月十一日にはあなたはグレーのスーツを着て出勤したそうですね。夕方同僚の送別会にちょっと顔を出し、ビールを一杯のんで自分の車で帰ったという。──これらのことから、私は一つの推理を組立てました。あなたはモーテル・ムーランの近くで、過って姉をはねた。姉は死んだように横たわっている。もしそのまま届ければ、あなたは飲酒運転で人身事故を起こしたことになり、あなたの将来はもう無いも同然です。といって逃げたら、……最近は科学捜査の進歩で、轢き逃げはほとんど成功しない。そこであなたは、もっと残酷で自分には安全な方法で逃れようとした。事故の目撃者がなく、路面に血も流れなかったのを幸いに、姉を車に乗せ、この現場まで運んだ。そして近くにあった丸太で頭や身体を滅茶苦茶に殴りつけて交通事故の痕跡が残らないようにし、おまけにスカートを破って暴行殺人を擬装した上、所持品を奪って逃げたのです」
良美は、いつか放心したような眼差を真沙子に向けていた。
「でも、姉はあなたの車で運ばれる途中で、いったん意識を取戻し、本能的に危険を感じてあなたの年恰好をメモし、ブラジャーの間へ押しこんだ。あなたはあの日グレーのスーツを着ていて、それに実際の年齢より若く、三十すぎくらいに見えますからね。ハンドバッグを持ち去ったあなたも、ブラジャーの中までは気がつかなかったのでしょう」
「いいえ……」
良美はかすれた声を出し、痴呆を思わせる仕種でいく度も首をふり続けた。
「いいえ、私は何も知りません。メモに書いてあったのも、別人に決っています。何の証拠があってそんな失礼な……」
「証拠はあります」
真沙子は乾ききった唇をしめしてから、また懸命に声を張った。
「姉の右手の爪の中には、ベージュ色の化学繊維がくいこんでいたのです。私は昨日R省の駐車場へ行って、あなたの車を人に聞いて捜し出し、折よく後のドアがロックされてなかったので、バックシートのベージュ色のカバーの端をほんの少し切り取ってきたのです。すぐ警察に届けましたから、それが姉の爪にはさまっていた繊維と同一かどうか、もう検査の結果がわかるはずですわ」
これは真沙子のハッタリだった。確かに昨日良美の車のそばまで行ったが、バックドアがロックされていないことと、ベージュ色のシートカバーを見届けてきただけである。しかし、このことばを聞いた瞬間、良美は電流を受けたように身じろぎした。真沙子を見つめる眸の奥に、異様な熱気が盛りあがった。良美は自分を襲うのではないかと、真沙子はふと感じた。だが、今の時刻では、お寺の横の道には、まだ時折車や人の往来がある。乱暴なことはできないはずだ。と思った途端ふいに良美は身を|翻《ひるがえ》した。叢《くさむら》を抜け、道路へ出ると、その小柄な身体はみるみる夕闇の奥に走り去った。
永原良美は、自宅へ帰った直後、N署員の訪問を受け、その場で案外素直に犯行を自供した。ただし車のバンパーの疵は、多恵子をはねたさいではなく、犯行後現場から逃げ帰った時、気持が動揺していたために自宅の車庫のコンクリートにぶつけてできたものだとのべた。
しかし捜査本部としては、交通事故を隠蔽するための殺人ではなかったかという重松課長の着眼により、現場付近の道路の延長上にある自動車修理工場をいっせいに調べた結果、良美の車が浮かんだものである。実際の犯行では、目撃者がなく、事故現場に血痕も残らなかったこと、車体で直接多恵子を傷つけていなかったなど、いくつかの好運な偶然に助けられて逃れようとした良美も、別の場所で不運なミスを犯したことになる。
とはいえ、本部では一応良美をマークしたものの、バンパーの疵は翌日には修理されてしまっていたし、彼女の犯行を裏付ける証拠は何もなかった。それだけに、良美が訪れた刑事の前で平静を失い、ほとんど自ら白状したことは、本部を内心ホッとさせたかたちだった。
これらの経緯《いきさつ》をのちに重松警部から聞いた時、真沙子はふと、多恵子のメモに記されていた相手は、本当に良美だっただろうかと考えた。あの夜久藤といっしょにモーテルへ入った柳内幸江も、三十すぎに見え、グレーのワンピースを着ていたのだ。この一致も、案外良美には不運な偶然だったのではあるまいか。
いや、多恵子の意識の中で、良美と幸江は一つになっていたのかもわからない。自分を暗い疎外された世界へ落としこむ敵として、二人の女の残像がダブっていたのかもしれない。
しかし、ともあれ多恵子が最後の力をふりしぼってメモを書いたために、良美は不安に駆られて真沙子に接近し、それが、逆に真沙子が良美を追及しついには自供に陥れる結果を生んだのだ。
多恵子のダイイング・メッセージは、決して無駄ではなかった。それだけが、最後まで孤独だった姉へのせめてもの慰めのように、真沙子には思われた。
燃えがらの証
1
向かいあって雑談している滝子の視線が、つと脇へそれては、コーヒーブラウンのカーテンの色あいに淡く染った喫茶店の片隅へ吸い寄せられるのを、軽い不審の眼差で見守っていた和泉《いずみ》が、
「何かあるんですか」と、前を向いたまま、やや声をひそめて訊いた。
「ああ……いいえ、別に」
滝子はあわてて顔を戻し、もう氷しか残っていないジュースのタンブラーを口に運んだりした。
和泉はまだ少し怪訝《けげん》そうにしていたが、やがて煙草をくわえ、マッチの火を近づけながら、わずかに身体を回転させて、滝子が気を奪われていた方へ、チラリと目を投げた。さすがに放送記者らしい、身についた動作だった。
「人形作家の篠沢《しのさわ》さんが来てますね」
それが滝子の注意を惹《ひ》いた対象と気づいたにせよ、それ以上深読みする気配もなく、彼は鼻から煙を吐きながら軽く呟いた。滝子の勤める同じテレビ局に入社して以来、報道部ばかりで五年目になる和泉だが、二度ほどワイド番組に登場したことのある若い博多人形師篠沢芳春の名前と顔は知っていたのだろう。
「そうね」と滝子はことさら素気なく答え、自分も和泉の煙草を一本抜きとって火を点《つ》けた。滝子は和泉より三年先輩で、今は企画室にいるが、彼の入社当時は制作部で、いっしょにドキュメンタリーを作ったこともあり、彼の仕事熱心な割に淡泊な人柄が好もしく、いつか気の置けない友だちになっていた。
「連れの女性は、なかなか美人ですねえ」
彼はまたちょっと振返って見てから、
「堅気の奥さんて感じだけど……前にもいっぺん篠沢さんといっしょに歩いてるのを見たような気がするなあ」
「あら、それじゃあ案外お安くないのかもね」
滝子は思わずまた顔が強張《こわば》ってくるのをまぎらすために、わざと|蓮《はす》っ|葉《ぱ》な笑いを浮かべて、和泉の目をのぞきこんだ。探りを入れる気持も働いている。さっきから、滝子を上の空にしていたのは、無論最初は篠沢の後姿を見つけたからだが、その後では、彼の正面にこちらへ身体を向けてすわっていた和服の女の、ひときわ目にたつ色白な細面に、意識を捉《とら》えられてしまったからだった。渋い蘇芳《すおう》色の紬《つむぎ》に、草木染の羽織。三十四、五くらいだろうか。小ぢんまりしたアップの黒い髪が、やや古風で上品な顔立ちを、かえって引き立てている。良家の奥様風と、滝子にも感じられた。だが何よりも、滝子の胸に次第に息苦しいまでの猜疑《さいぎ》を湧きおこすのは、時折相槌を打つ程度しか口を開かないその女の白い顔全体を被っている、苦悩とも陶酔ともつかぬ、一種不可解な炎に似た輝きなのであった。どこか人目を憚《はばか》るように肩をすぼめながら、黒い眸が熱心に篠沢を見守っている。
篠沢にしても、ふだんは寡黙な彼が、何をあんなに語りかけているのだろうか?
その二人の雰囲気に、ある独特の昂《たかま》りを読みとったのは、滝子が篠沢に対してだけ備えられる直感だったかもしれない。
「篠沢さんはこれからというホープだし、職業柄、女性のファンも多いでしょうからねえ」
和泉がまた滝子の胸を刺すようなことばを、他人事の口調で呟いた時、篠沢たちのテーブルへ、小柄な男が遠慮がちに歩み寄った。滝子にも見憶えのある、博多人形の卸《おろし》業者らしい。
彼に気がついて、篠沢が痩せた顔を斜めにあげたのと同時に、女は佐賀錦のバッグを指先で引き寄せながら椅子をずらした。
彼女がにわかに取繕《とりつくろ》った硬い表情で篠沢に挨拶し、男にも軽く会釈してからこちらへ歩いてくるのを、滝子は思わず食い入るように見つめていた。
女は軽く唇を引きしめ、深くうつむいて、滝子の脇を歩きすぎた。すんなりと鼻筋が通り、眸は意外に意志的な強さを帯びているが、頬から顎にかかる線が優しくまろやかで、まるで篠沢が製作する人形に血の温《ぬく》もりを与えたような……それに、思ったより若い。まだ三十そこそこかもしれない。むらのないファンデーションを施した艶やかな肌が、それを物語っている。
着物の裾がすれあうかすかな音が遠のいた時、滝子は咄嗟《とつさ》に立ちあがっていた。
「私、三時に局へ電話がかかる約束を忘れてたわ」
そんな口実が口をついたのは、和泉がこの店で仕事の電話を待っていたことが、脳裡をかすめたからだった。
「お先に失礼するわね」
ちょっと呆《あき》れたような和泉の視線を、曖昧な微笑で受け流し、伝票をつまんで通路へ出た。もう一度振向くと、篠沢は、骨細な背中を丸めて、女のあとに腰かけた業者の話の聞き役に廻っている。滝子に気づいた様子はなかった。
滝子が勘定をすませ、ビルの二階にある喫茶店を出た時、女は外国製の家具や焼き物などを陳列しているコーナーに目を配りながら歩いていた。そのゆるやかな足運びからも、やはり仕事を持たぬ家庭の女という印象を受ける。
人妻だろうか──?
独身には見えないが……?
「──私は別に、あなたの奥さんになりたいなんて夢を持ってるわけじゃないわ。あなたにふさわしい若い娘さんと結婚したいという時には、心から祝福してあげるわよ」
つい三日前の夜更け、篠沢のアトリエの奥の、ベッドルームで、なんのきっかけでか冗談混りに呟いた自分のことばが、皮肉な響きで滝子の胸に|蘇《よみがえ》った。その時彼は、眉と目の迫った彫りの深い横顔をどこか苦しそうに歪《ゆが》め、何かいいかけたが、そのまま暗い窓の方に顔をそむけて、かすかな溜息を洩らしたものだった。
そういえばあの晩、まだ二十八歳の彼の行為にも、以前の抑えつけた情熱が一気に|迸《ほとばし》るような迫力が失せていたし、いつも決って遅くとも午前二時には、やはり一人暮しのマンションへ帰る滝子を、寂しがり屋の常で十分刻みに引きとめていた彼の癖も、妙にことばがおざなりであったような気がする。
いや、先夜に限らず、そう思い返してみれば、もうどれほどか以前から、篠沢はどこか滝子に淡泊になっている……。
先を歩く和服の後姿に、つい接近しすぎる気持の逸《はや》りを抑え、滝子は女がベルトに手をかけた下りのエスカレーターの背後で立ち止った。
でも、あの夜、自分が洩らしたことばに、偽りはなかったのだ──。
大学卒業後地元のテレビ局に入社し、半年もせずに同期のアナウンス課の男と恋に落ちて結婚し、そしてまた半年もたたずに惨《みじ》めな破綻《はたん》を味わった滝子は、それ以来、結婚に対して素直な夢を描くことができなくなっていた。文字通り仕事に打ちこんで、仲間うちからはちょっとした名物女みたいにからかわれながらも、誰に気兼ねもない一人暮しに概《おおむ》ね満足していた。篠沢の方でも、まだ人形師として独立して日が浅く、結婚など話題にのせたこともなかった。
それに滝子はもう三十で、篠沢より二つも年上なのだ。
では、彼にとって、自分は一体何なのだろう……?
──先の女はエスカレーターを降り、ブティックや書店のたてこんだ通路を抜け、スウィングドアを押してビルの前の舗道に出た。三月初旬のうららかな陽光が、繁華な大通りにふり注いでいる。
女はタクシー乗り場の、二、三人の列についた。そこで滝子は、いつも持ち歩いている大型のショルダーバッグから読みかけの印刷物を取り出し、それをひろげながら、半ば背を向けて女に密着した。
目は一応活字を追っているが、意識は心の内部を流れていた。
篠沢にとって、自分は……無論愛人にはちがいないのだが、強いて世間的な分類に当てはめるなら、いやなことばだけれど、パトロンと呼ぶ方が近いのかもしれない。精神的、そして多少ながら、金銭的な意味も含めて。
ちょうど二年前、軽い付合いはもう長らく続いていた篠沢から、八年間修業しながら働いてきた師匠の許を離れて独立したい意向を洩らして意見を求められた時、滝子はなぜかふと心|弾《はず》む予感を覚えながら、率直に賛成した。全国規模の工芸展で二度の入選歴を持ち、最近では若手の人形師グループに加わって、従来の芸者や歌舞伎ものにとらわれず、近代文学にも素材を求める大胆さが、この世界では支配力の強い卸業者たちにも注目されはじめている篠沢なら、一人立ちしても十分やっていけるだろうと思われた。
彼が最初から滝子一人を相談相手に選んでいたわけでもないだろうが、これが縁とでもいうのか、話はたちまち具体化して、二人で適当なアトリエを捜すことになった。手ごろなマンションが見つかると、滝子はその購入費用を半分立て替えてやった。マンションの代金が予想外に高く、それは彼が準備資金として蓄えていた金額の大部分を占めてしまいそうだったからだ。滝子はといえば、女の一人暮しには十分な給料を得ていたし、両親が遺《のこ》してくれた少しまとまった預金もあった。
こんなふうにして度々会ううちに、二人はどちらからともなく求めあい、結ばれた。だがこれは決して、篠沢に妙な計算があっての結果ではないことは、滝子にも冷静に判断できる。彼はむしろ人生の損得勘定などまるで無頓着で、自分の情熱や欲求に、一途に忠実すぎるところがかえって危うく感じられるタイプの青年だった。そんな、稚《おさな》いまでの純粋さが、滝子を捉えたともいえた。
彼が独立したあとも、滝子は地元のマスコミに顔の広いのを利用して、何かと引き立ててきた。彼の真摯《しんし》な仕事ぶりも受け入れられて、ようやくアトリエ維持の見通しがついてきたこのごろである。
仕事が軌道にのれば、いずれ彼も結婚を考えて当然なのだ。
ふさわしい人が現われれば、友だちとして祝福してやれるつもりだ。
滝子は彼に、何の|見返り《ヽヽヽ》も期待していないつもりである。滝子は時折「献身」ということばを思い浮かべ、とても口に出すには面映ゆいけれど、やはり自分の気持はそれに近いと、ひそかな自己満足を覚えたりもする。
しかし、自分が納得して彼を譲り渡せる相手は、いかにも彼にふさわしい、だから当然彼より若く、気立てのいい娘でなければならない。彼を理解し、その危うさを補い、伴侶《はんりよ》として幸せを 築きあげられるような……。
だが、この女はちがう!
印刷物を開いている手許にふっと流れこんできた香水の匂いを、思わず払いのけるように首を振った時、運良く続いて二台の空車が歩道のふちに滑りこんだ。
後の車は、幸い滝子のテレビ局やほかの新聞社などとも契約している大手のタクシー会社のものだった。滝子は乗りこむなり、
「その先の車を追いかけて。仕事なのよ」
中年の運転手は「了解」と威勢のいい声で答えた。
先のタクシーは、まだラッシュには間のある盛り場をゆるやかに走り抜け、やがて福岡城趾の堀端から左折して、閑静な住宅街へ入りこんだ。
あの女は、篠沢にはふさわしくない。
滝子は、尾行に気づく気配もなく、前方のリアウインドウの中で揺れている女の白い|項《うなじ》に射るような視線を据え、もう一度はっきりと思った。
最初見た感じより若そうだとはいっても、やはり三十は越しているだろう。それなら篠沢より年上ではないか。それにどう見ても人妻風の──?
車に乗っていた時間は、五分足らずだっただろうか。
ブロック塀をめぐらせた家の門前でタクシーが停り、女がバッグを開く仕種《しぐさ》が見えた。
滝子の車は、二十メートルほど手前で停止した。滝子も料金を払い、礼をいって路上に降りた。
滝子は、それほどの必要もないのに、自然と靴音を忍ばせるようにして、女が消えた門の方へ歩いていった。
街路樹の続く白いアスファルト道路が清潔な感じの、高級住宅街だった。さまざまに趣向をこらした家々が建ち並び、近くにテニスコートでもあるのか、若い声とボールを打ちあう鈍い音が、人通りの少い路面にのどかに響いていた。
その家は、豪壮というほどではないが、まだ新しく、贅沢なムードをたたえた和洋折衷《せつちゆう》の二階屋であった。ラワン材の色鮮かな板壁に、きれいな紡錘《ぼうすい》形に刈りこまれたカイズカイブキの緑が映えている。鉄平石の門柱の横にコンクリートの車庫が設けられていて、今は鎧戸《よろいど》が閉っている。並んでもう一つ、同じようなシャッターをつけた車庫があるので、この家には二台車があるのかと滝子は思ったりしたが、よく見れば一つは隣家に属するもののようだった。
門標には「菊野」と記されていた。
その文字に見入っていた滝子は、ふいに、門のすぐ内側で、何かきれいな色彩が動いたように感じ、次にはハッと息をつめた。草木染の羽織……先ほどの女が、郵便物の束を手にして敷石の上に姿を見せ、少し怪訝そうに眉をあげて滝子を見つめた。彼女は真直ぐ家に入ったのではなく、門柱の裏の郵便受けを開け、その場で目を通していたのかもしれない。封筒を持つ左手の薬指に、見事なオパールが光っている。──滝子はあわてて身体の向きを変え、隣家の表札をのぞきこむふりをして、ちょっと首を傾げてみたりした。
それで、女は会釈ともつかぬ軽い身振りを示してから背を向けて、静かな足どりで玄関に近づいた。バッグから鍵を取り出して開け、再びそっとドアが閉った。
滝子はしばらくそのドアを見つめたまま、立ちつくしていた。優しい撫で肩の後姿と、それに重なるように、薬指の朱味を含んだオパールが、瞼の奥で光っていた。その色を、滝子はふと、自分の内部に点《とも》された、どこか陰湿な、暗い火のように感じた。
しかし──滝子がその女を見たのは、これが最初で、最後であったのだ。
2
異変に気がついたのは、受話器を戻して、所在なく朝刊をひろげた直後だった。
今朝も篠沢のアトリエは応答がない。喫茶店で女と話しこんでいる彼を見かけた日から、もう五日目というのに……大抵は三日に一度くらいにどちらかから連絡をとりあっていたのだが、あれ以後は彼から音沙汰はなく、滝子も四月スタートの新番組の準備などに追われて、彼のアトリエにしばしば電話をかけはじめたのは、昨夜からのことだったが。
空しく鳴り続けていたコールサインがまだ耳底で響いていて、うつろな目を落した社会面の中ほどで、一つの写真がふと滝子の注意を惹いた。不鮮明な女の顔写真だが、どこか似ている……。
それから、写真の横の大きな見出しが、ますます意識を捉えた。
≪人妻刺殺される≫──。
記事の内容は──三月十四日(昨日)午後十一時ごろ、S電鉄常務菊野守が福岡市中央区城内町の自宅に帰ったところ、居間で妻の佳江三十二歳が血まみれで倒れているのを発見し、すぐ救急車を呼んだが、病院に収容される前に死亡した。佳江の左脇腹に刺し傷があり、自宅の果物ナイフがそばに落ちていたが、傷はさほど深いものではなく、死因は出血多量と見られる。菊野の話では、佳江には自殺の理由が考えられず、傷が服の上からであること、その位置や角度も、自分で刺したにしては不自然な状態で、その上現場のテーブルの上の灰皿の中に紙を燃やした跡があるなど、不審な点が多いため、他殺の可能性が強いと見て捜査をはじめている……。
見出しの大きさに比べて、記事が割に簡単なのは、まだ事件発生後間もない一報の段階で報道されたからだと思われた。
それにしても、被害者の写真といい、住所や「菊野」の姓からも、もはや疑いなかった。
あの女が殺された。しかも、恐らく他殺……?
滝子は自分の心臓の音を聞きながら無意識に立ちあがり、外出の仕度をはじめた。ふだんの出勤時刻にはまだ大分間があるが、局へ行って報道部をのぞけば、もう少しくわしい事情が聞けるのではないか。
部屋を出る前、滝子はもう一度篠沢に電話しかけたが、結局思い留まった。やはり出ないに決っている。それでいて、彼の不在を確認することが、今はもうなぜか怖いような気がした。
和泉が県警記者クラブから局へ戻ってきたのは、午後三時をすぎるころだった。
それまでにも、滝子は報道部のデスクをつかまえて、それとなく探りを入れてみたが、さしたる進展はつかめなかった。ただ、事件の背景となるいくつかの知識──菊野佳江は以前国立病院の看護婦をしていて、菊野の後妻になったこと。菊野は五十歳で、先妻は五、六年前に病死し、佳江とは三年前に再婚した。当時は先妻との一粒種で十四、五歳の娘がいたそうだが、その娘も間もなく病気で亡くなり、佳江との間には子供はなく、夫婦の二人暮しが続いていた。近所の評判では、円満だったらしい、などの事情を聞きだすことができた。
和泉がいったん報道部の部屋へ入り、デスクと打合わせをすませた頃合いを見計らって、滝子は廊下から目顔で彼を呼んだ。
彼も滝子を認めるなり、何か話があるような、ちょっと考えこむ表情を浮かべて、すぐに出てきた。
「忙しいんでしょう?」
「ええ、今日は例の人妻殺しで……」
和泉は丸い目を若々しく光らせている。
「それなんだけど……ちょっと気になることがあって……」
自然に並んで廊下を歩き出しながら、滝子は声を落した。
「被害者の菊野佳江って人、この間……いえ、仕事か何かで会ったことがあるような気がするものだから……」
この間喫茶店で篠沢といっしょのところを……といいかけて、滝子はことばを濁した。もし和泉がそれに気づいていなければ、わざわざ彼に篠沢の存在を示唆《しさ》することになりかねない。
だが、和泉はそれで一段と熱のこもった口吻になって、
「ぼくも被害者の顔写真を見た時、すぐにピンときたんですよ。この前の喫茶店で、人形作家の篠沢芳春の向かいに腰かけていた女性でしょう?」
他意のない眼差でのぞきこまれると、滝子は思わず頷いた。
「実はそれだけじゃないんですよ。今さっき、一課長から聞き出したばかりなんですが」
「え?」
「まだ公式発表じゃないんで、オフレコにしてほしいんですが、篠沢さんがかなり有力な容疑者に挙っているらしいんです」
「………」
滝子は大きな動悸の波が、一度ゆっくりと胸を横切るのを覚えた。それでいて、いずれこんな事態にぶつかることは、今朝家を出る時から、すでに予測されていたような気もする。
「それは……どうしてなの?」
「篠沢芳春と菊野佳江とは、やっぱりただの仲じゃなかったらしいんですね。あの時ぼくも、チラッとそんな感じがしたんだけど」
「どうしてそのことがわかったの」
「最初はご亭主が捜査員に洩らしたようですね」
佳江の異性関係について、心当りを問われた菊野は、昨年暮、何かのパーティに佳江を同伴したさい、彼女が知人に紹介されたらしい篠沢芳春と、ことのほか楽しそうに喋っていたこと。その後、自宅の彼女のキャビネットの奥に、小さな博多人形がしまってあるのを偶然見つけ、その箱書きに篠沢の名が記されていた。尋ねると、気に入ったので買ってきたと答えたが、それならなぜもっとよく見える場所に飾っておかないのかと、軽い不審を覚えたこと。さらに何日かたって、菊野は、篠沢と佳江が大通りに面したホテルのカフェテリアから前後して出てくるところを、走る車の中から見かけた、などのことを、多少躊躇を示しながらも語ったという。
「二人の関係を暗示する証人は、ほかにもいるんですよ。隣家の園井さんという奥さんが、これはほんの十日ほど前、偶々《たまたま》菊野家に遊びにいって居間にいたら、電話が鳴った。佳江さんは何かの用で庭に出ていたので、代りに受話器をとって“菊野でございます”といったところ、相手は男の声で“ぼくです。篠沢です”と、なにかせきこんだ口調で呼びかけてきた。それで吃驚《びつくり》して、すぐに佳江さんに替ったというのです。先方は、昼間菊野家にいる女性は佳江さんだけだと思いこんでまちがえたのかもしれないが、親密らしい感じと、篠沢と名乗ったのははっきり憶えていると……」
滝子は、菊野家と同じような鎧戸の車庫を並べていた隣家のやや古い洋館を、ぼんやりと思い浮かべた。
「まあこんな事情で、篠沢と佳江がある程度懇意だったことは、まちがいないと思われています。しかしそれだけではまだ容疑には至らないんですが、今日の午後になって、重大な手懸りが認められた」
廊下を歩き続けていた滝子の足が、知らぬ間に止っていた。
「現場の、テーブルの灰皿の中に、紙の燃えがらが残っていたと、ニュースにも出ていたでしょう? 完全に燃えきっていなかった上、紙の原形を留めていたので、県警の鑑識で調べた結果、青彫会の展示会の案内状だと判明したんですよ」
「ああ……」
青彫会とは、篠沢も所属している若手人形師の研修会の名称で、毎年春に展示会を開く。今年は四月一日からの予定で、関係者に送る封書の案内状がそろそろ刷り上るころだとは、滝子も聞いていた。
「篠沢さんと密接な関係のある案内状が燃やされていたということで、彼の容疑が急速に固まってきた模様なんですね。つまり、痴情のもつれから、彼が女を刺し、自分が来ていた痕跡を消すために、案内状を燃やして逃げた……」
「でも、それならなぜ、彼はそれを持って帰らなかったのかしら。わざわざその場で燃やすより、その方がずっと簡単で確実な──」
「ええ。そういう意見も出ている。しかし、発作的な犯行の場合、犯人は動転しているから、後で考えれば馬鹿々々しいような行動をとることも珍しくないともいえる……」
「でも、それにしたって……第一、容疑者は篠沢さん一人なの? もっとほかにも、例えばご主人との間には、問題はなかったのかしら」
「今のところ、夫婦仲は円満だったということなんですがね。篠沢との一件にしても、菊野氏は、こんな事件が発生してはじめて思い出した程度で、別段深刻に気にしていたわけじゃないとのべている。勿論これは額面通り信用できないとしても、しかし菊野氏には一応アリバイが認められているんですよ。佳江さんが刺されたのは昨夜十時ごろと推定されているんですが、その時刻、彼は西区室見の弟の家に行っていて、十時半ごろそこを出て、自分の車を運転して十一時に帰宅し、事件を発見したと申し立てている。菊野氏の弟は、S電鉄と同系の観光会社の重役だそうですが、何か今年は父親の十三回忌で、法事の打合わせがあったということです。その弟夫婦とお手伝いの三人が、確かに十時半まで菊野氏がいたと証言したので、一応アリバイは成立した恰好なんですよ」
しかし、弟夫婦とそのお手伝いでは、必ずしも公正な証人とはいえないのではないかと滝子は考えたが、その辺は当然警察でも考慮に入れているはずだし、あまりこだわると和泉の不審を買いそうなので、触れずにおいた。
それよりも、もっと聞きたいことがある。一刻も早く確かめたいのだが、それでいて、その問いを口にするのが怖くて、無意識に引き延ばしていたような……。
「それで……篠沢さんは何といっているの」
滝子は腕時計をのぞき、話を切りあげる前のような、わざと気忙《きぜわ》しい口調で尋ねた。
「本人が行方不明なんですよ」
「え──?」
「事件の発見が昨夜で、今朝にはそんなわけで菊野氏や隣の奥さんの話から彼の名が浮かんだので、その時点で捜査員が彼のアトリエ兼住居を訪ねたが、鍵がかかっていて、応答がない。市街地のマンションだけに、隣近所に尋ねてもあまり要領を得ないらしいんですが、とにかく一昨夜までは姿を見かけたという人がいる。が、昨夜は帰ったかどうかわからない。それから、彼の仕事関係や、長崎県の実家などにも問合わせたが、全然連絡がないという状況で……」
滝子は、立ち止ったまま、断続的に軽いめまいに襲われていた。菊野佳江に向かって、何か熱心に語りかけていた篠沢の細っそりした後姿が瞼に浮かび、すると、ふともう二度と彼に会えないのではないかと、絶望的な悲しみが喉元をしめつけた。
「昼すぎには、マンションの持主の立会いで捜査員が合鍵でドアを開け、室内を改めたそうですが、やはりもぬけのからだった。捜査本部では今日中にも重要参考人として手配する方針を決め、それでわれわれにも事情を洩らしてくれたようでしたね」
篠沢は佳江を殺して逃げているのか?
まさか……!
急に嘔吐がこみあげるような胸苦しさを覚え、和泉と別れると、滝子は洗面所へかけこんだ。鏡の中の、蒼ざめた自分の顔に向かって、胸内で叫び続けた。
まさか、そんなはずはない。篠沢の、一途で、時には見境もなく直線的な行動に走りかける気性は、理解しているつもりだ。それにしても、彼が滝子を措《お》いて、やはり年上の人妻のために殺人という、いわば自らをも破壊する所業を犯すはずはない。
決してそんなことがあってはならないと、滝子はまるで実体のない敵に向かって挑むように思った。
3
「私もそれほどくわしくは存じませんのよ。お隣といっても、別に始終行き来してたってわけでもないんですから」
園井夫人は、手入れのいい肌のすべすべした頬にかかる茶色い髪を癖のように耳へ寄せながら、苦笑混りの案外気さくな声で答えた。造作の大きなバタ臭い顔立ちは、とりたてて美人というほどでもないが、花柄のブラウスとニットスカートの普段着姿がどことなく垢抜けしていて、裕福な中流家庭の主婦に時折見かける、現代的でさっぱりしたタイプと感じられた。
滝子が通されたひろやかなリビングキッチンの外には、四角い芝生の庭がひろがり、粗い生垣の向うに、菊野家のラワンの板壁がすけて見える。芝生の中ほどにブランコが置いてあるから、こちらは子供のある家庭のようだ。
「それに、菊野さんがそのお家を建てて越してらしてから、まだ三年くらいですもの」
「すると、お宅の方がお古いわけですね」
「ええ、それは勿論。この家はもう十年になるんですよ」
彼女は昼間から螢光灯を点した天井を見あげて、なんということもなく笑った。重苦しい雲のたれこめている戸外では、表の道路で頻繁に車の音が響き、時々隣家の門前で停る気配である。午後一時から、菊野佳江の密葬が行われているのだ。
事件から四日目になっていた。
依然として、篠沢の消息は不明である。滝子の許へも、何の音沙汰もない。捜査にもその後目新しい進展は見られないようで、捜査本部が重要参考人として篠沢を手配しているらしい様子だが、新聞には彼の名がイニシャルで報道されている。こうして一日々々たつほどに、彼の容疑は抜きさしならぬものになっていくのではあるまいか。
滝子がふと佳江の葬儀に顔を出してみようと考えたのは、万一にも篠沢がふらりと姿を見せないかと思ったからだった。内々の密葬といっても、菊野の会社関係や佳江の友だちなど何人かの弔問客は来るはずで、滝子も生前佳江と親交があったとでもいえば、咎《とが》められるはずもないだろう。
それと、今一つの理由は、佳江の夫菊野守の顔を、一目見届けておきたかったからでもある。
滝子は、篠沢の潔白を信じている。たとえ彼が臈《ろう》たけた佳江に心|魅《ひ》かれていたとしても、彼女を殺さなければならないほど、それほど|深入り《ヽヽヽ》していたとは考えられない。いや、絶対にそんなことがあってはならないと決めつけるような気持が、逆に否定の信念を支えているのかもしれないのだが。
しかしそれならば、現場に残されていた青彫会展の案内状の燃えがらは、何を意味するのか。──この事実も、篠沢の無実を補強する要素のように、滝子には解釈される。もし彼が犯人で、自分の痕跡を消そうとしたのなら、いかに動転していたとしても、その場で火をつけるより、持ち去ったはずだと、どうしても思われるのだ。
とすれば……佳江と篠沢の間柄を知った者が、彼に容疑を着せるために仕組んだのではあるまいか? 案内状をそのまま置いておくのでは、あまりに不用意で、かえって手懸りとして重視されないかもしれない。犯人は、燃えがらでも紙の原形を留めていれば、そこに書かれていた文字を判読できるという知識を弁《わきま》えた上で、わざと意味ありげに燃やしておいたのではないだろうか。
誰が?
菊野しか考えられなかった。その後佳江の身辺から新たに深い関わりを持つ存在が浮かんだ形跡はない。すると菊野は、篠沢と佳江との関係を見抜いていた唯一の人物ではなかったか──?
佳江の死因が死因だけに、花輪も少く、葬儀はひっそりとした雰囲気で行われていた。滝子が訪れた二時すぎには、それでも切れ目なく、焼香の客が出入りしていた。
喪主の座にすわっていた菊野守は、恰幅のいい体格で、まだ豊かな黒い髪をオールバックに撫でつけた、意外に磊落《らいらく》そうなムードをたたえた男だった。滝子にも、彼は耳ざわりのいい声で、親しみをこめた挨拶を返した。だが、その如才ないビジネスマンの仮面の下にはどんな心が隠されているのか? ──滝子は一瞬、陽性でいて鋭い光のこもる男の眸を、挑むように凝視したものだ。
篠沢の姿は、やはり見られなかった。
菊野家を辞去したあと、隣家に立ち寄ってみようと、急に心を決めた。警察では、夫婦仲は円満で、菊野が佳江を殺すほどの動機は認められないという見解を取っている。しかし、もっと奥深くに、何かの秘密がひそんでいたとしたら? ……それを隣家の主婦が知っているとは期待できないが、少くとも、表面に報道されているよりはくわしい内情が探り出せるかもしれない。
園井家の玄関口で滝子はテレビ局の名を刷りこんだ自分の名刺を出し、最近この種の人妻殺しが増加しているので、その社会的背景を調べたいなどと、おざなりな理由を告げたが、相手は案外気軽く、リビングキッチンへ招じ入れてくれた。彼女自身はもう昼前に焼香をすませてきたと話していた。
「菊野さんがこちらへ移られたのが三年前とおっしゃいますと、勿論もう前の奥さんはお亡くなりになって、佳江さんがいらしてからですわね」
「ええ、ええ。再婚なさってすぐ、以前の古いお宅を処分して、こちらに新築することになさったそうですから、菊野さんもよほど佳江さんに惚れこんでらしたんですわね」
微笑から、ちょっとしんみりした口調になった。
「以前の奥さまは、病気でお亡くなりになったのでしょう?」
「ええ。心不全とうかがってましたわ。もともと心臓の持病がおありだったそうですけど……お嬢ちゃんもその体質を受け継がれたんでしょうねえ」
何気なくつけ加えた彼女のことばが、なぜか滝子をドキリとさせた。今まで、重大なことを見落していたような気がした。
「菊野さんと、以前の奥さまの間には、お嬢さんが一人おありになったのでしたね。でもその方も病気で亡くなったとうかがいましたけれど……それは、そこの家に移られてからのことなのですか」
「一年くらいたってからだったと思いますよ」
「お嬢さんも心臓病か何かで──?」
「ええ、結局は心臓麻痺だったんでしょうけど、ふだんからよく喘息《ぜんそく》の発作を起こされたりして、お弱かったんですよ。祥子ちゃんといって、ミッション系の高校の一年生だったかしら。きれいなお嬢ちゃんでしたけど、佳江さんも何かと苦労してらしたみたいでしたね」
最後のひとことには、心なしか微妙な含みがこもっているようにも聞こえた。
「佳江さんは、国立病院の看護婦をしてらしたそうですね」
「ええ。菊野さんが以前人間ドックへお入りになった時が、そもなれそめだったとか……」
妻を亡くした菊野は、恐らく病弱な娘のためにも、看護婦の佳江を後妻に選んだのではなかっただろうか。しかし、その娘は、一年後に死んだ……。
滝子は、まだしかとは得体の知れぬ予感に似た緊張が、胸底に膨《ふく》らんでくるのを覚えながら、
「それでその……祥子さんが亡くなった時は、どんなふうだったのですか」
「いえ、私もくわしいことはわかりませんけどね」
園井夫人は困惑したふうに、眉墨で描いた細い眉根をひそめたが、他人の死についての話題は、必ずしも不快ばかりではないようである。
「ちょうど今時分の、季節の変り目でしたね。夜から発作が起きて、佳江さんやお手伝いさんがバタバタしてらしたわ。私は偶然、|実家《さと》から送ってきた笹飴を少しばかりお届けしにいってわかったんですけれど」
「ええ」
「それから私、あれが虫の知らせっていうのかしら、なんとなく気がかりで遅くまで起きてたんですよ。十二時すぎになって、休もうとした時、車が停った様子なので、窓からのぞいてみると、北山病院の車が着いて、大分年配の貫禄のあるお医者さまが降りてらっしゃるでしょう。これはよほどお悪いのかと心配してましたら、翌朝になって、昨夜亡くなられたって。ひどい発作の最中に心臓麻痺を起こされたんだそうです。お可哀想にねえ……」
痛々しそうに睫毛《まつげ》を伏せたが、当夜の様子を鮮かに思い出したらしく、かすかな興奮の色が頬に漂っていた。
「北山病院といえば、東区の名島の方でしょう?」
滝子はちょっと目を凝らした。北山病院は私立の内科だが、規模も大きく、信頼できる病院として名が通っている。院長は地元医師会の役員を勤めているはずだ。そんなことから、滝子も病院の所在を知っていた。
「ずいぶん遠くから先生を呼ばれたわけなんですね」
「そうですねえ。でも、黒い外車の後に銀文字で北山病院と書いてあったのが、なんとなく印象に残っているわ」
「ふだんからそちらで診てもらってらしたんでしょうか」
「いいえ、いつもはそこの角の横手医院がかかりつけだったんです。それが北山病院から見えてるようなんで、よほど容態がむずかしいのかと私も思ったんですよ」
「祥子さんは、その晩何時ごろ亡くなられたのですか」
「確か十一時ごろとうかがったように思いますけど」
「あら、それでは、お医者さまは間に合わなかったのですね」
「ええ、翌朝聞いたら、そんなお話でした。心臓麻痺って、あっという間なんでしょう?」
「そうなんでしょうねえ……」
かかりつけの医師が留守であったとして、しかも病人が急を要する場合、遠方でもコネのある医者に往診をたのむことはあるだろう。
しかし、東区名島からここまで、夜中に車をとばせば、四十分程度と思われる。
北山病院へは、祥子が死亡してから連絡されたのではないか?
とするなら、なおのこと、なぜわざわざ遠方から医者をたのんだのか──?
滝子は、先刻から胸の奥に生れかけていた漠然とした緊張感が、次第に痼《しこり》のように形をなしてくるのを覚えた。
この時、表のドアが動く音がして、「ただいま」というかん高い声が聞こえた。園井夫人が立っていく間に、アコーデオンシャッターが勢いよく開き、若草色のスモックを着た幼稚園児らしい少女がかけこんできた。
「下の娘ですの」と夫人は滝子の方に軽くいって、あとはショルダーバッグを外しながら気忙しく話しかけてくる娘に相槌を打っている。
それで滝子も立ちあがり、礼をのべた。母子の様子を見守りながら玄関の方へ出かけたが、つと足を止めた。
「あの、つかぬことをうかがいますが、祥子さんと佳江さんとの間は、うまくいってらしたのでしょうか。高校一年といえば、むずかしい年頃だと思いますけど……?」
「さあ、その辺はどうだったんでしょうねえ……」
幼い娘の前を意識してか、夫人は横を向いたまま口をすぼめて語尾を濁した。
局へ戻ってから、滝子は、高校の同級生で国立病院の産婦人科の医局に勤めている女医に電話をかけた。
菊野の娘が死亡した夜、なぜ北山病院の医師が呼ばれたのか?
その疑惑が、無視できない黒い翳《かげ》になって、いよいよ濃く胸にひろがってくるのである。
結婚してからの姓をようやく思い出して電話を入れると、折よく相手は医局にいた。
S電鉄常務菊野守の家庭と、北山病院との関係を調べられないものかと相談した。あるいは、以前国立病院の内科の看護婦をしていて、後妻となった菊野佳江と北山病院との間に、何らかの繋がりがあったのではないか──。
返事の電話は、案外早く、一時間ほどしてかかってきた。
「今の内科の婦長が、北山さん──菊野佳江さんの旧姓なんだけど、彼女が働いていたころは主任看護婦で、彼女と親しくしていたそうなの。結婚式にも招《よ》ばれたっていうものだから──」
女医は持前の歯切れのいい早口で話してくれた。
「菊野佳江の旧姓は北山といったの?」
「ええ。北山病院の院長の姪で、佳江さんの両親は早くに亡くなり、その後院長の家に引き取られた……表向きはそうなんだけど、実は、昔院長が世話した患者さんの忘れ形見で、みなし子になったものだから院長が引き取って育てたというのが本当らしいと、婦長が洩らしてくれたんだけど。つまり、養女ね」
深夜、北山病院の黒い外車から降り立ち、あわただしく菊野家の門内へ消える「年配の貫禄のある医者」の姿が、なぜかありありと滝子の目に浮かんだ。鈍い衝撃の波がゆっくりと身内を通過するのが感じられた。
通話が終ってからも、滝子はデスクの上の直通電話機のフックを指で押えたまま、しばらく考えに沈んでいた。
やがてまたフックを外し、その手で手帖を開いた。さっきそれとなく聞いてメモしてきた園井家の番号を捜し出して、ダイアルした。
院長と佳江とが、それほど密接な間柄であったのなら、院長を直接追求したところで、何一つ口を割るはずもないだろう。だが、可能性をたぐる細い糸が、もう一つ残されていたことに気がついたのである。
「さっきのお話で……祥子さんが亡くなった当時は、菊野家にはお手伝いさんがいたように、ちょっとうかがったと思うんですが、その方はその後お辞めになったわけですか」
園井夫人は滝子の執拗《しつよう》さにいささか呆れたような溜息を洩らしながらも、
「ええ。とてもいい方でしたけどね。祥子ちゃんが赤ちゃんのころから住みこんでらしたそうで、すっかり気落ちしてらっしゃいましたものね。祥子ちゃんが亡くなってしまえばもうお手伝いも要らないだろうし、自分も齢だからって……」
「今どこにおられるか、わかりませんでしょうか」
「筑紫郡の方の、息子さんの家に帰られたはずですよ。うちでお手伝いを頼もうかと思ったりして、一応連絡先は聞いておいたんですけど……」
そのメモを捜してもらえないかと、滝子は懇願した。
相手が電話口を離れ、代りに「エリーゼのために」が鳴り出すのを聞いていると、何の連想でか、事件以来はじめて真直ぐにこちらを見つめている篠沢の顔が眼前に浮かび、滝子は祈りに似た切なさに胸をしめつけられた。
4
一枚ガラスの外の、滝と築山の人工庭園に施された照明が青白くさしこんでいるそのクラブの入口に、約束の九時を五分もすぎぬころ、菊野守がダークスーツの身についた押し出しのいい姿を現わした時、滝子はかえって信じられぬことに出くわしたような戸惑いで、息が乱れるのを覚えた。無意識にワンピースの衿《えり》もとを整え、それから傍らのバッグをテーブルの端に置き直した。
菊野は広い内部をザッと見渡し、すぐに、庭とは反対側の、壁際のほの暗い席に一人で腰かけている滝子に気がつくと、大股に歩み寄ってきた。今夜は少し油気の少い無造作なオールバックで、うす茶のサングラスが精力的な顔に野性味を加え、五十歳とも思われない若々しい壮年の雰囲気を漂わせている。
彼はテーブルのそばで足を止め、落着いた眼差を滝子に注いだ。
「先日は、ごていねいにありがとうございました」と、例の艶のある声で弔問の礼をのべてから、向かいあった椅子に腰をおろした。もう一度静かな室内を見廻して、
「いい店ですね。こんなところがあるとは知りませんでした」
これもくつろいだ感じで呟いた。
ここは、市の中心部の盛り場からは大分離れた丘陵地帯にある中規模なホテルの地下で、開店から日が浅くてあまり人に知られていないクラブだった。クラブといってもホステスは置かず、代りに黒い制服のウェイターが接待する。日によってはバンドも入るが、大抵はピアニストがフォークやポピュラーなクラシックを流していて、今はそれも休憩時間なので、内部はほとんどガランとしている。十一時をすぎるころから、キャバレー帰りの客などで騒がしくなるようだが、この時刻ではいつも精々二、三組しかいないことを滝子は知っていて、菊野を呼び出す場所に選んだのだ。
「昼間のお電話では、佳江のことで、何か折入ってお話があるとかいわれましたね」
ウェイターがオーダーを聞いて離れると、菊野は正面に向き直り、多少改まった声でいった。すると、眸からくつろいだ表情が消え、年齢相応の隙のない光を帯びたように感じられた。
「はい。奥さまの今度の事件につきまして、お話というより、実は菊野さんにぜひうかがいたいことがございまして……」
滝子は内心で何度も反復していたことばを口に出した。最初はちょっと声が慄《ふる》えそうな気がしたが、話しはじめると、少しずつ心がすわってきた。
「家内の事件についてぼくに? しかし──」
機先を制して予防線を張る感じを、滝子は遮《さえぎ》って、
「いえ、もっと正確に申せば、二年前お嬢さまが亡くなった事件についてですわ」
さすがに菊野は一瞬目をむき、唇を尖《とが》らすような表情で不快を示した。やがて、
「あれは別に、事件ではありませんよ」と、あいているテーブルの方へ視線をそらして答えた。
「確かに、事件にはならずに、二年たったわけです。でも……私は昨日、当時まで十五年もお宅のお手伝いをしていて、現在は筑紫郡那珂川町の息子さんの許に身を寄せている咲口トシさんに会ってまいりましたの」
菊野の目が素早く滝子の顔面に戻り、すっと凝視した。
「咲口さんは、以前の奥さまの時代からの住込みで、祥子さんがまだ赤ちゃんのころからお世話していらしただけに、どうしても佳江さんには好意を持てなかったようですね。そのせいか、私の問いには、思いのほか素直に打ちあけてくれましたわ。あの人もそろそろ七十に手が届くとかで、人間その齢《とし》になると、重大な秘密を胸一つに押しこめておくことが、負担に感じられるのかもしれません」
「あなたは……一体佳江とどういう間柄なのです?」
菊野は、何か生理的な苦痛に耐える時のように眉をしかめて、抑えた声で訊いた。
「それも率直に申しあげますわ。私自身は、本当は、直接佳江さんとお付合いがあったわけではありませんの。実は、私は、篠沢芳春と……関係がありました。私の方が少し齢上ですが、結婚の約束までしていました」
自分が口にした嘘に、思いがけず鮮烈に心を惹かれ、滝子は一瞬たじろいだ。
「──ご承知の通り、篠沢は事件以来行方不明になっています。私にも、音沙汰はありません。それで私は、彼のためというより、私自身のために、真相を知らなければならないと思って、調べた結果、咲口トシさんに行き着いたわけです」
ジッと滝子に注がれている菊野の眸からは、先刻の狼狽ともつかぬ動揺の影は消え、早くも態勢を立て直して、身構えるかのように強く見開かれていた。
「咲口と今度の事件の真相と、どんな関係があるとおっしゃるのですか」
訊き返す声も、冷やかに突き放す口調だった。
できるなら、巧みに誘導して、菊野の口から喋らせたい──滝子はそう目論んでいたのだが、やはり相手はそれほど甘くはなさそうだ……。
ウェイターがワゴン車を押してきて、菊野の前にウイスキーのダブルを置き、また静かに離れていってから、滝子はそのグラスの底に視線を据えて切り出した。
「あなたはもう先刻ご承知のはずですけれど、ご自分でおっしゃりにくいのなら、私が申しますわ。──一昨年の春、祥子さんが亡くなった夜、あなたは十一時半ごろ帰宅なさった。その時、祥子さんはすでに息をひきとられていましたね。亡くなってから、ごく間もない時だったはずです。──佳江さんがあなたに、祥子さんの死の状況をどんなふうに説明したか、咲口さんは聞いていない。でも代りに、彼女は事実を見ていました」
「───」
「その晩、九時半ごろから、祥子さんはいつもの喘息の発作を起こした。たやすくおさまりそうにないので、佳江さんは十時にかかりつけの横手医院に電話をかけたが、折悪しく、先生は鹿児島の学会に出かけていて留守だった。そのうちにも、容態はどんどんひどくなり、祥子さんは息も絶え絶えに喘《あえ》いでいる。──佳江さんは看護婦上りです。またお宅には、応急処置のためのネオフィリンなどの薬剤も常備してあった。そこで彼女は、自分で注射を打つことにした。ところが、あわてて薬の量を誤ったのか、それとも……それとも過失ではなかったのか、静脈注射の直後から祥子さんは激しい呼吸困難に陥り、やがてぐったりとなった。今度は佳江さんは急いで心臓マッサージを試みたが、そのまま祥子さんは|蘇《よみがえ》らなかった。あなたが帰っていらしたのは、その直後だったそうですね」
菊野はかすかに眉をひそめた硬い表情で、無意識のような手つきでグラスを口に運んだ。
「つまり、祥子さんの死は単なる喘息発作による心臓麻痺ではなく、あきらかに、佳江さんの打った注射に起因していたのです。──あなたが帰宅なさると、咲口さんは部屋から遠ざけられ、間もなく、佳江さんが北山病院へ電話をかける声を聞いたそうです。十二時すぎには院長が車をのりつけ、祥子さんが心臓麻痺で死亡した旨の診断書を書いたことは、ご承知の通りですわ」
「………」
「佳江さんが後妻として家に入られた当初からずっと、祥子さんは相当に反抗的だったようですね。十四、五歳といえばむずかしい年頃の上、病弱で多感なお嬢さんだったらしいから、無理もないかもしれませんが、佳江さんにとってはうっとうしい存在だったでしょう。いつか、あなたのお留守の昼間に、祥子さんが佳江さんに向かって“あなたが出ていかなければ私が家出する”などと開き直るのを聞いたこともあったと、咲口さんは話してましたわ」
再びウイスキーを含んだ菊野の唇から「ふん」といった低い声が洩れた。怒りとも|嘲《あざけ》りともつかぬ響きがこもっていた。
「そんな事情だけに、あなたは疑ったにちがいない。もしかしたら、佳江さんが故意に薬の量を増やして……ネオフィリンをあまり急激に投与すれば呼吸困難を起こす危険のあることは、あなたも知っていらしたはずですから。──佳江さんは自分の行為を告白したかもしれないし、過失もなかったといい張ったかもしれない。でもとにかく、あなたはすっぱりと決断なさった。出来てしまったことは致し方ない。これ以上妻の不始末を追及し、表沙汰になれば、自分の世間体が傷つくだけだ。それで、北山病院に電話することに同意なさったのでしょう。院長は佳江さんの養父だけに、穏便に処理してもらえるとわかっていたからですね」
滝子がいったんことばを切ってからも、菊野は眉をひそめた拒絶的な表情のまま、黙然と酒を啜《すす》り続けていた。それはまるで、感情の放出を止めて、自分の示すべき態度を摸索しているようでもあり、あるいは、滝子の話自体を吟味《ぎんみ》している時間とも受取られた。
滝子は再び、不安の動悸が高まってくるのを、懸命に抑えていた。自分の今の話の中に、何か重大なミスがあったのではあるまいか? ……咲口トシに聞いたと告げた話は、半分以上滝子の想像だったのだから。
昨夜、園井夫人に調べてもらった筑紫郡那珂川町の住所を訪ね当て、心も肉体もすでになかば老衰に侵された小柄な老婆からようやく聞き出せたことは──佳江と祥子が不仲であったこと。祥子の発作が起これば、しばしば佳江が静脈注射を打っていたこと。そして問題の夜も、注射をしたらしい佳江が祥子の病室から出てきて、「静かに眠っている」とトシに告げたところへ菊野が帰ってきた。その直後に大声で娘の名を呼んでいる彼の声をドア越しに聞き、またわずかの後、取り乱した様子の佳江が電話口で北山院長を呼んでいた、などまでだった……。
ふいと菊野が顔をあげた。軽く顎を突き出し、急に白けた目で滝子を眺めた。
「あなたの話というのは、それだけですか」
酒の作用でか、心持ち声が濁っていた。
「私があなたにお尋ねしたいことがあると、申しあげましたわ」
滝子はもう一度、必死に気持を張った。
「正直に話していただきたいのです──。あなたは、ご自分の世間体と、勿論佳江さんに対する愛情もあってでしょうが、祥子さんの死を、曖昧なまま闇に葬った。でも、その時から、あなたの内部には、佳江さんに対する憎しみが芽生えたはずです。憎しみはいつか復讐心に変り……佳江さんと篠沢との間柄に気付いた瞬間、決定的な意志を固めた。三月十四日夜、あなたは弟さんの家でアリバイ工作を整えてからひそかに帰宅し、佳江さんを刺し殺した。次には用意しておいた青彫会展の案内状を灰皿の中で燃やし、篠沢に容疑を向けるさりげない擬装を施した上で、救急車を呼んだのですね!」
二人の息遣いが、ほの暗い空間で絡《から》みあった。
「ありのままを打ちあけてくださるだけでいいのです。別に私、あなたを告発しようというのではありませんわ」
滝子は押えつけた声で続けた。
「私は……いずれにせよ、もう篠沢を許すことはできません。私を裏切って、人妻である佳江さんと……ですから、真実を知りたいのは、彼のためではなく、私自身のためだと申しましたの。彼は今行方をくらましていますけれど、いずれ時間の問題で見つけ出されるでしょう。そして、冤罪《えんざい》に追いつめられる。でも私は、素知らぬ顔でそんな彼を遠くから眺めている。それが私の精一杯の復讐なのですから」
勿論これは、菊野の告白を引き出すための罠である。テーブルの端に置いたバッグの中では、彼が腰をおろす直前から、性能のいい小型の録音器が作動していた。しかし、自分のことばが描き出す想像は、なぜか鋭い哀しみと、同時に不可解な自虐の快感に似た疼《うず》きで、滝子の胸の内を複雑に波立たせた。
「でも、もしあなたが、私の話を黙殺しようとなさるのなら……」
その場合は、ありのままの事情を警察に届け出るかもしれないといいかけた時、菊野の唇から、再び怒りとも嘲笑ともつかぬ奇妙な声が洩れた。
「黙殺もなにも、答えは一つしかありませんよ」
やはりかすかな嘲りの感じられる野太い声で、彼は投げ出すように答えた。
「ぼくはやってないんだから。──確かに、祥子の死因は、あなたの推察通りですよ。咲口の婆さんが喋ったのなら、致し方がない。祥子は、佳江の打った注射のショックで死んだのです。そのことは佳江も正直に報告したし、静脈注射の跡を見れば一目で想像できた。無論佳江は、発作を緩和するために打ったもので、量もいつもと同じだったといっていた。しかし、ぼくの咄嗟の気持に、疑惑がなかったとはいえない。が、ともかく、北山病院に電話をかけさせ、院長に心臓麻痺の死亡診断書を書いてもらったことも、お見通しのままだ。しかしね、その瞬間から、佳江はもう絶対にぼくから離れられなくなったのですよ」
「え……?」
「もしぼくの意に逆うようなことをすれば、ぼくが祥子の死の真相を警察や世間に暴露すると、あれは怖れていた。そうなれば、自分が殺人容疑を受けるかもしれぬばかりか、偽の死亡診断書を書いた廉《かど》で北山院長も取調べを受け、彼の名誉は失墜する。育ての親という大恩があるだけに、佳江にはそんな事態は絶対に耐えられなかった。つまりあれは、決してぼくに背《そむ》いたり、離婚を望むような真似はできなかったのだ。自分から離れるはずのない妻を、ぼくがどうして殺す必要があるんです? それに、ぼくはまだ十分、あれを愛していましたからね」
「でも……」
「いや、それは佳江も女盛りだから、一廻り以上も年上の夫より、若い男に心を移すこともあったかもしれない。しかし、あれがぼくの妻である以外どんな生き方も選べない限り、結局はまたぼくの許《もと》に戻ってくるしかないのだ。肉体と心が別々にあるという異常な苦痛に、そう長く耐えられるわけはないのだから」
「………」
「ぼくの答えは、精々こんなところですよ。しかし、これでも不満なら、警察にぶちまけるなり、好きなようになさるのですね。代りに、あなたは篠沢から、一生涯憎しみを受けるかもしれない……」
「それは……なぜ?」
「彼はどうやら命がけで佳江に惚れていたらしい。だからこそ、意に添わぬ佳江を殺してしまったのだろう。その佳江の恥部にも似た秘密をさらけ出せば、彼こそあなたを断じて許さないのではないかな」
思わず考えこむような滝子を、彼は一度だけ鋭く見据え、あとは、厚い唇の端に複雑な微笑をのぼらせながら立ちあがった。
菊野がレジで勘定をすませ、入れちがいに入ってきた三、四人の若者たちをよけてから、ゆっくりと歩き去っていく、その長身の後姿を、滝子はテープを止めることも忘れたまま、ぼんやりと見送っていた。
頭がカッとのぼせていて、だが胸には冷んやりとした敗北感がひろがっていた。菊野から期待通りの告白を得られなかったからか。それ以上に、彼が残していったいくつかのことばが、どれも皮肉な真実の響きで滝子を圧倒したからかもしれない。
でも、それならば……あれが菊野の擬装でないとしたら、一体誰が、何のために、青彫会の案内状を燃やしたのだろうか?
乱れた思考の中に、その疑問が一つ、ぽっかりと浮かびあがった。
5
滝子が疲れきった足どりでマンションの階段をのぼり、自分の部屋のドアの前に立った時、内部で電話が鳴っているのが聞こえた。
もう十一時を廻っているが、テレビ局に勤めていれば、夜中の電話もめずらしくはない。
滝子はのろい動作で鍵を取り出し、無人の部屋に入った。電灯を点してから、まだ鳴り続けている受話器を取りあげた。
「もしもし」
先方は沈黙している。が──次の瞬間、ある直感が脳裡をかすめ、途端に全身の皮膚がサッと引き締るような気がした。
「もしもし?」
「篠沢です」
果して、やや鼻にかかる柔らかい、そして沈んだ声が答えた。理屈抜きの懐しさが、滝子の胸を押し包んだ。
「篠沢さん! あなた……今、どこにいるの!」
「割に、近くなんだけれど」
「近くって、どこなの? 私──」
「いや、電話でいいんだ」
沈痛な声が、ふいにきっぱりといった。
「ただ、どうしてもあなたにひとこと謝っておかなければならないと思ったものだから」
「それじゃあ……やっぱり佳江さんを──?」
「いや、殺してはいない。しかし……結果的に殺したといわれても致し方ないのかもしれない」
「……?」
「ぼくは……正直いって、彼女に夢中だった。ほかのことは、上の空で、何も考えられないくらいに。彼女も、ぼくを愛しているといった。すべてを許した。だから、ぼくは彼女に結婚を申しこんだ。子供もいないことだし、菊野さんとは離婚できるはずだと思ったからね。ところが、それについてだけは、彼女はいつも頑《かたく》なに首を振るばかりだった」
やはり彼はそこまで佳江に打ちこんでいたのか? ──一瞬、熱い怒りの塊が、肚《はら》の底からつきあげるのを覚えた。
「あの晩も、ぼくは刷り上ったばかりの青彫会展の案内状を届けるという口実で、彼女の家を訪ねて、結局はその問題に流れた。でもあの時は、ぼくは少し酒が入っていたせいもあって、いつになく強引に結婚を迫り、それでも拒絶の返事を聞くと、思わず彼女を|罵《ののし》った。やっぱりあなたは、菊野氏の財産や、重役夫人の地位に未練があるのだ。火遊びはしても、将来に何の保証もない人形師などを、本気に愛してはいなかったのだと。すると彼女は、真実愛しているのはあなただけだと、きっぱりと答えた。では、あなたがいい出しにくければ、ぼくが直接菊野氏と話しあって、離婚を承諾してもらう……ぼくが本気でそういった直後、彼女の顔が異様に歪んだかと思うと、彼女はキッチンへ走りこみ、いきなり果物ナイフで自分の首を突こうとした。ぼくは吃驚して彼女の手をつかみ、もみあった拍子に刃先が彼女の脇腹を刺してしまった」
「………」
「信じてもらえないかもしれないけれど、これが真相なんだ。──でも、傷は浅いようだった。ぼくが応急処置をしようとした時、表で車庫のシャッターが開く音が聞こえた。菊野さんが帰ってきたのか、と思った瞬間、彼女は再び顔をひきつらせて、ぼくにすぐ帰ってほしいと口走るようにいった。傷の手当ては主人がしてくれる。主人にはなんとでも取り|繕《つくろ》って説明しておくから、あなたは彼に見つからぬうちに、裏口から帰ってほしい……」
「それであなたは、青彫会展の案内状をその場に残したまま立ち去ったのね」
「そんなことは意識にものぼらなかった。ただその時は、彼女には、夫にぼくと二人でいる現場を発見されることが何にも増して耐えられないのだと察しられ、いわれた通り、夢中で裏木戸から忍び出た。表通りに出てから振返ってみると、菊野家の車庫は閉まっていて、隣の、同じような車庫の鎧戸を、その家の主人らしい小柄な男が降ろしている姿が見えた。ぼくはその時、迂闊《うかつ》にも、菊野氏はもう車を納めて家に入り、たまたますぐあとで帰宅した隣家の主人が、やはり車をしまったところなのだと思いこんで、そのまま離れてきてしまった……」
「………」
「真直ぐアトリエに帰る気になれず、通りがかりのバーへ入りこんで、あけ方まで飲んでいた。朝になってようやくアトリエに戻って、その直後にラジオのニュースで、佳江さんが死んだことを知ったんだ。菊野氏が、意識不明で血の海の中に倒れている彼女を発見したのは十一時で、ぼくがあの家を出てきてから約一時間後になる。それを聞いてはじめて、ハッと思い当った。佳江さんは隣の家の車庫の音を自宅のものと聞きちがえ、夫が帰ってきたと勘ちがいしたんじゃないか。ぼくが去ってからも菊野氏は戻ってこなかった。そして彼女は、自分で血を止めることができず、出血多量で死んだのではないか。──それから……それからの気持は、よく説明できない。逃げたといわれても仕方がない。いや勿論、何度か警察に出頭しようか、時にはいっそぼくも……と思い惑《まど》いながら、田舎の古い知合いや、湯治場の旅館を泊り歩いていた。ただ、ぼくがどうしてもはっきりした行動に踏みきれなかったのは、一つの謎が胸にわだかまっていたからなんだ」
「謎──?」
「佳江さんはどうしてぼくにすべてを許しながら、あくまで結婚を拒み、二人の間を夫に知られることを、あれほど怖れたのか。ただ単にぼくよりご主人の方が大事だったというのなら、何も自殺を図るまでしなくてもよかったはずなのに……」
「ああ……」
その謎の答えは、滝子にはすでに推察できた。佳江は、もし菊野に篠沢との関係を知られれば、彼が祥子の死に関わる秘密を表沙汰にすると信じこんでいたのにちがいない。そうなれば、育ての親である北山院長の名に泥を塗り、その上、あるいは篠沢にさえ、佳江がかつて祥子を殺したのではなかったかと疑うかもしれないと危惧《きぐ》したのではなかっただろうか。
その屈辱と怖れのために、彼女は篠沢にも事情を打ちあけられなかった。代りに死を選ぼうとした。その結果、傷を負った佳江は、結局一人で部屋に残された後も、もしこのまま死ねば篠沢に殺人の罪がかかると思い、うすれていく意識の中で最後の力をふり絞って、灰皿の上で案内状を燃やしたのではなかったか。
いわば佳江は篠沢への愛のために、命をすてたのだ……。
滝子は、さっき菊野を見送った時とは別種の、深い哀《かな》しみを伴った痛切な敗北感が、全身を締めつけてくるような気がした。これまで滝子は、自分の篠沢に対する姿勢は、無償で献身的だと、かすかな満足すら覚えることがあった。だが実は、彼のために、何一つかけがえのないものを失ったことはなかったのではあるまいか──?
その思いが、いつか滝子の内部から、怒りの塊を溶かしはじめていた。
「でも、もういいんだ」
聞き慣れた声が、受話器の底で囁くようにいった。
「いくら一人で考えてみても、謎が解けるわけはないんだ。もう疲れてしまった……」
「これから、どうするつもりなの?」
ある恐怖に衝《つ》き動かされながら、滝子は訊いた。
「まだ、はっきり決めてない。でも、多分……」
低い呟きが消え、それからややはっきりした声で、
「あなたに謝れば、少しは楽になると思ったんだ。やっぱり……許してください。それから、あなたに借りた金のことだけれど、ぼくのアトリエを──」
咄嗟に滝子は受話器をかけた。一層明確な恐れがつきあげてきたからだった。電話が途中で切れれば、彼はまたかけ直すなどして、同じ場所に留っているのではないか。その間に捜し出さなければ。一刻も早く。割に近くにいると、彼は最初にいった。背後が少しざわついていたから、時折いっしょに夜食をした、あのスナックだろうか。それとも……?
めまぐるしく想像を走らせながら、滝子はマンションの階段を駆けおりた。
彼を見つけ出して、どうするつもりなのか?
耳の奥でふとそんな声が聞こえた。彼に佳江の「秘密」を告げ、それを公表して彼女が自殺を図った事情を立証しようと勧めても、恐らく彼は承知しないだろう。佳江が命がけで守ろうとしたものを、滝子が無理にあからさまにすれば、あるいは菊野の警告通り、彼は一生滝子を許さないかもしれない。
しかし、その事情を伏せたままで、事件の真相を警察に納得させることができるだろうか?
もし彼が殺人犯として起訴されても、なお寄り添っていく決意があるのか──?
階段を降りきったところで、滝子はまるで自分を勇気づけるように、冷えきった夜気を胸の奥まで吸いこんだ。
それから、心当りのスナックの方向へ、夜更けの道を走り出した。
回転扉がうごく
1
渡された写真を一目見た瞬間から、帯谷《おびや》摂子の視線は、そこに吸いつけられたように離れなくなった。同時に、いつも少しヘの字の恰好でキリッと結ばれているうすい唇の間から、思わずホッと溜息が洩れた。
「奥様の、ご存知の女性でございますか」
運転手の山川が、なけなしの髪を等間隔に並べた頭をつき出して、そっと尋ねた。帯谷家のベンツを動かして十年になる男だが、それ以前は摂子の実家の父の運転手だっただけに、彼は、直接の主人である摂子の夫帯谷徳兵衛に対してより、わずかながら、摂子の方に忠実だといえる。
「いいえ」と摂子は素気なく答えたが、自分の動揺を見透かされたように感じると、
「存じません。知っているわけがないじゃありませんか」と激しい口調でいい足した。
「それで、これはどういう素性の女です?」
「はい……名前は石村あずさといって、海岸沿いのマンションに住んでおります。以前は絵や写真のモデルなどしていたらしいのですが、現在はとくに働いていないようでございます」
山川は、まるで頭の中の報告書を読むように、淀みなく答えた。
「|年齢《とし》は? ──まだ若いようだけれど」
「一見した感じでは、二十二、三かと思われます」
「そう……」
二十三としても、自分よりひと廻りも若いことになる。摂子は、すべすべして節くれ立つこともないまま、細かな皺をつくり始めた自分の指に目を落とした。が、すぐ顔をあげ、一層冷やかに訊《き》いた。
「帯谷とは、長いのですか」
「昨年の暮からですから、そろそろ五カ月になります」
続いて山川が報告したところでは、帯谷は週に二、三回、あずさの許に通っている。マンションは彼女の名義で契約されているが、家賃や生活費も帯谷が出している様子で、つまり女は帯谷に囲われているのだ。
帯谷がどんな機会にあずさに目をつけたのかは不明だが、彼女を自分の女にするまでには、ちょっとしたトラブルがあった模様である。当時彼女には、志島《ししま》武美という恋人があったからだ。志島はあずさと同年輩で、有力な画商が経営する市内の画廊に勤めていた。
しかし、前例もあるが、帯谷は女に惚れたとなると、熱病にかかったようになる。金にものをいわせてあずさの心を惹《ひ》く一方、志島の雇主の画商を通して、彼に因果を含めた。その画商は、先代のころから帯谷家に出入りしていて、摂子も会ったことのある男であった。
ところが、志島とあずさの結びつきは、そう簡単には解けなかった。二人は愛しあっていたようである。それでますますあずさへの炎を煽《あお》られた帯谷は、ついには画商に働きかけて、理由もなく志島を馘首《かくしゆ》させてしまった。帯谷があずさをマンションに住まわせたのは、それから約ひと月後のことだった。その間に、志島とあずさ、あるいはあずさと帯谷との間にどんな展開があったのかは、山川にはわからないという。だが多分、あずさが生活力のない志島に見切りをつけ、帯谷に鞍替えしたのではあるまいか……。
「──それにしても、社長は相当なご執心のようでございますね。それはもう、以前の比ではございません」
秘書に近いこともやっているので、山川は帯谷を「社長」と呼ぶ。相変らず淀みなく話していたのが、口を閉じたところを見ると、知っているのはそれで全部らしい。
「お世話さまでした。また何か変ったことがあったら、教えてください」
摂子は、違い棚の手文庫の中から、用意しておいた封筒を取り出して、山川の方へさし出した。
「何かと物いりでしょうから」
「恐れいります」
山川は辞退するそぶりもなく、が、十分に恐縮した物腰でそれを受取ると、静かに摂子の部屋を出ていった。
いっさいがかなり要領よく行われたのは、山川が帯谷の「女」に関して、摂子に報告するのは、これで二度目だったからである。といって、山川は自分からそうしたことを摂子の耳に入れて、彼女の歓心を買おうとしたりはしない。代りに、摂子の方で勘づいて尋ねた時には、過去に遡《さかのぼ》っても、知っていることは洗い浚《ざら》い報告した。そんなかたちで、彼は自分なりの筋を通しているつもりのようであった。
山川の足音が廊下に消えるまで、摂子は縁先に目を注いでいた。手入れの行き届いた日本風の庭には、穏やかな春の夕闇がたちこめ、お手伝いが点《とも》したらしい丸い水銀灯が、真青な光から次第に白っぽい輝きに変って、周囲の植木を浮きあがらせている。
一息吸いこんでから、摂子はもう一度テーブルの上の写真を取り上げた。盗み撮りではなく、帯谷が撮って山川にフィルムを預けたのを山川が密かに現像に出したということだから写真は良い条件ではっきりと写されている。海の見える窓を背にして立った、女の上半身であった。
石村あずさは、一言でいえば、摂子の想像の枠外に棲《す》む女のように見えた。とき流しの黒い髪が痩せた首筋にまといつき、乳房の間あたりまで切りこんだよれよれした服も、だらしなく、品の悪い感じがする。それでいて、骨張って彫りの深い造作と、どこか虚《うつ》ろでもの悲しげな光をたたえた大きな眸とが、顔全体に奇妙に神秘的な味わいをかもし出していた。摂子には、こんな種類の女が、どんな考えを持って生きているのか、まるで想像がつかなかった。ただ、ふと連想したのは、昔読んだ英国のサスペンス小説に登場した悪女イヴのイメージだった。妖《あや》しい魅力で男を惹きつけ、破滅させる、不思議に冒《おか》しがたい女……。
確かに、以前の女とは、大分ちがう……。
摂子は、二年前、やはりこんなふうに山川に写真を見せられた「露口光江」の、子供じみた媚《こび》をふくんだ笑顔を思い出した。光江はこの町では二流のキャバレーのホステスで、知性とか教養とかいったものとは根から縁のない女だったが、当時四十歳であった帯谷は、彼女に魂を奪われたようになった。三日にあげず彼女の店に通い、平然と腕を組んで街を歩いたり、市内のホテルに泊ったりした。摂子がたしなめると、帯谷は逆上して摂子を罵り、いつでも離婚して光江を家に入れる心づもりだとまでいい放った。
摂子は理性を失った夫の前では、平静を装っていた。彼女のプライドが、光江のような女に対して嫉妬を燃やすことなど、自分に許せなかったからである。だが、放っておけない理由がほかにあった。それは何よりも、帯谷家と摂子自身の名誉のためであり、中学一年と小学五年生になった二人の息子のためでもあった。
帯谷家は、東海地方の明るい海に面した人口五十万のこのH市では、明治の初めから続いた材木商として、屈指の名門で通っていた。現在は一応株式会社の形態をとり、帯谷は社長になっているが、代々家主に受け継がれた「徳兵衛」の世襲名は変わらない。もっとも帯谷はそれを嫌って、勝手に現代風の名を考え出して名乗っていたが。
そんなわけだから、帯谷の|女狂い《ヽヽヽ》はいっぺんに町の噂になった。それは勿論帯谷家の名誉を汚すスキャンダルだが、何より摂子が耐えられなかったのは、自分が「夫にないがしろにされた女」として、世間に恥を晒《さら》していることであった。摂子はH市よりやや西のT市の、これも昔は爵位のある家柄の出である。
しかし、摂子が具体的な方策を講じる以前に、露口光江は、タクシーの衝突事故であっけなく死んだ。同時に帯谷も憑き物が落ちたように、女のことを忘れ去った。
もしあのまま光江が生きていたらどうなっていたかと思うと、摂子は今でも悪寒《おかん》を覚える。同時に、他人の死が痛切なよろこびにもなりうることを、摂子は実感として知ったのだ。
この女もあんなふうに死んでくれないだろうか──?
摂子はふと思った。するとその想像は、まるでもうそれが現実化したような、息苦しいまでのよろこびを摂子の身内にほとばしらせたのである。
2
志島武美について知るまでは、摂子にもはっきりした決意があったわけではなかった。
一度だけ、摂子は夫の説得を試みた。山川に迷惑をかけないために、あずさとの噂を街で小耳に挟んだとだけいい、一日も早く手を切るように、責めるというより、帯谷家の家柄を思い出させて、懇請したのだった。
だが、結果は摂子が危惧《きぐ》した以上にひどいものだった。帯谷は、やや神経質な感じながら小造りに整った色白の顔を、怒りと苛立《いらだ》ちに上気させ、細い目に嫌悪を露わにして摂子を見据えた。
「俺はお前の、その|したり《ヽヽヽ》顔が何より好かんのだ!」
摂子は、夫がまたもや熱病に冒されたことを悟った。
思い悩んでいる矢先、山川が志島武美に関する調査結果を報告してきた。彼には、志島の口から帯谷とあずさの関係がいいふらされては困るし、また志島が帯谷の指金《さしがね》で不当な解雇にあい、気の毒な生活をしているとしたら放っておけないからといって、消息を調べさせていた。
山川の報告は、ほぼ摂子の想像と合致した。志島は画廊を追い出されたあと、急速に生活を持ち崩していた。二十五、六歳で家族もなく、もともと自分も絵を描いたり、時たま放浪の旅に出るといった芸術家肌で、破滅的な性向があったらしい。現在定職はなく、ただ毎晩のように、繁華街の外れにある“フィフティ”というバーに現われるという。そこはヒッピーの溜り場で、志島がその店に通う目的は、どうやらヒッピーの仲間に混って、マリファナを喫うためのようであった。
これらのことを、山川は、以前画廊で志島と一緒に働いていた男から聞き出してきたが、最後につけ加えた一つの情報が、摂子の心にふと小さな黒い汚点《しみ》を落とし、次第にふくれあがって、彼女の意識を捉えたのだ。
「──念のために私はその“フィフティ”とか申す酒場へ行ってみましたのですが、志島には会えませんでした。それでバーテンに鼻薬を効《き》かせて探りを入れてみましたところが、志島は自分でマリファナをやるばかりか、近ごろでは、仲間うちで薬を運ぶ役目らしいというのです。それが先日、預かったマリファナを失くすか何かして、背後の暴力団から責められている様子で、一昨日も、今週中に百万円なんとかしなければ、手足をへし折られるか、消されるかもしれないと、蒼い顔でマスターに訴えていたのを小耳に挾んだと申しておりました……」
週末までには、あと五日あった。
翌日の夜、九時、摂子は“フィフティ”があると思われる繁華街の外れから、ほんの数百メートル離れた、古ぼけたホテルの地下のバーにいた。一昔前まではこの町随一のホテルといわれ、その当時は摂子も時折出入りしたが、もっと近代的なものが中心部にできたために、すっかりさびれてしまっている。それでも、二階のグリルと地下のバーだけは、馴染みの客が離れないのか、不思議にいつも繁盛していた。
今夜も、奥行きの深いバーの止り木は、八割がた客で埋まり、濃霧のようにたちこめている煙草の煙のために、カウンターの上のほの暗い橙色の照明が、一層効力を弱めている。
摂子が腰をおろしているのは、一番ドア寄りの、ひときわ暗いボックス席であった。入ってすぐ左手のひっこんだ席で盲点になっていて人目につきにくい。摂子は、バーテンのほか、一人だけいるボーイが置いていったジンフィズに形ばかり口をつけると、あとはうす闇の中で身体を硬くして、すぐ目の先のスウィングドアを見守っていた。
その十分ほど前、摂子はドアの外側の赤電話から“フィフティ”にかけ、折よく来合わせていた志島を呼び出した。「野口」と出鱈目《でたらめ》な名を名乗り、折入って話があるから、このバーまで来てほしいといったのだ。鼻にかかった細い声で答えていた志島は、戸惑う気配だったが「石村あずさに関して、重大な相談が──」とつけ加えると、一瞬息を吸いこんだのが感じられた。生返事のまま電話を切ったが、摂子には、志島は来るという勘があった。
カマキリを連想させる痩せぎすな身体にうす汚れた粗編《あらあみ》のベージュ色のセーターを着た男が、ドアを押して入ってきたのは、電話をかけてから二十分ほどたった時であった。大きいが妙に無気力な目を見開き、ひょろ長い首をつき出すようにして、店の奥を透かし見ている。志島だと、摂子は直感した。
男が二、三歩歩いてテーブルの脇へ来た時、
「志島さんでしょう?」
摂子の声を聞くと、彼はビクリとしたように振返った。一層目を見開いて摂子を眺めた。白目が濁り、目つきがどこかトロリとしている。
摂子に促されて、志島はのろい動作で彼女の正面に腰をおろした。すると、甘酸っぱいような、馴染みのない体臭が、摂子の鼻腔に漂ってきた。マリファナの匂いかもしれないと、摂子はふと思った。
「あなた、誰です?」
志島は浅く腰かけたまま、不安そうに摂子を覗きこんだ。摂子は黒いレースのストールですっぽりと顔を包み、濃いサングラスをかけていた。
「野口といったでしょう。名前などどうでもいいわ」
ボーイが注文を訊きにきた。志島は水割りを頼んだ。カウンターの周囲は賑わっている。バーテンは客の応接に忙しそうである。
ボーイも足早やに離れていくと、摂子は声をひそめた。
「あずさとは、最近会っているの」
「いや」と志島は目立つほど眉を寄せ、俄かに視線を落とした。
「あなた、彼女をどう思っているの?」
志島はまたハッとしたように顔をあげて、摂子を見つめた。大きな濁った目の中に、怒りか苛立ちか、何か得体の知れない猛々しい光が盛り上るのを摂子は認めた。動作や表情の変化のめまぐるしさが、ふと摂子を不安にした。だが、次に彼の紫がかった唇から出たことばは、まさに摂子の期待通りであった。
「あんな女は、この世からいなくなってしまえばいいんだ……」
うす暗い空間に向かって、志島は押し出すような声で呟いた。
「つまり、殺したいほど憎んでいるというわけね」
返事はなかった。だが相手の険しい横顔が、そのことばを肯定しているように、摂子には感じられた。
「──でも、あなたはどうして、あずさのことをそんなに訊くんですか」
やがて志島は顔をめぐらすと、摂子の左手のダイヤに目を注いだ。今さらのように摂子を見廻した。彼女は志島の観察をさけるためにうつむいた。
「それはね、あの女については、いわば私はあなたと同じ側に立つ人間だからよ。私はあずさのために家庭をメチャメチャにされた女だと考えてくださればいいわ。しかも私には、家庭しか生きる場所がない……私はあの女を殺したいほど憎んでいるわ。あなたと同じに」
「………」
志島の表情に不安が漂いはじめた。摂子が何か重大な意図を抱いていることに、そろそろ気がつき始めたらしい。
ふいに摂子は語調を変え、乾いた声でいった。
「あなた、今週中に百万円作らないと、大変なことになるんじゃなくて?」
志島はまたギクリとしたように視線を動揺させた。摂子は素早くバッグから白い封筒を取り出してテーブルの上に置いた。
「もしあなたが決心してくだされば、今すぐ五十万円さし上げるわ。そのつもりで、こうして用意してきたの。そして事が終ったら、残りの五十万──」
「決心って……あずさを、殺すんですか」
志島はかすかな声で訊いた。
摂子は黙っていた。こちらから決定的なことばを吐きたくはない。
彼はしばらくジッと封筒を見つめていたが、やがてその唇から、重い溜息が洩れた。
「しかし……そんなことをすれば、ぼくはすぐ疑われるだろう……」
「そうかしら。もう五カ月も会ってないんでしょう? それにあずさには、これまで何人も男があったでしょうし」
「でも、ぼくの友だちなんかは、みんなぼくがあずさを恨んでいると思っている……」
「それなら物盗りの犯行に見せかけるという手もあるわ。あなたの履《は》いたこともないような靴を履いて、土足の足跡をいっぱい残しておけばいいのよ。──とにかく、証拠を残さない限りたとえ少しくらい疑われたって、あなたが否認し続ければ、警察はあなたを逮捕することなどできはしないわ」
「………」
「でも、無理にとはいわないのよ。もともと私は、半分はあなたに同情してこんな申し出をしたのだから。あなたが来週の月曜日に、ひどいリンチを受けたり、残酷な殺され方をしないですむようにと……」
志島のうすい肩が、硬直したように見えた。それでもしばらく、彼は唇をかみしめて沈黙していた。だが摂子には、彼の心が次第に傾いていることが、ザラザラした頬が異常な緊張で白っぽく変ってくるので察しられた。
3
それから三日後の金曜日、午後八時近く、摂子は志島と会ったとは対照的に明るくひろやかな、市の中心部にあるホテルのロビーにいた。今夜はサングラスもストールもつけていない。結城の着物を上品に着こなした、本来の帯谷摂子の姿である。
ホテルは市街地からさほど離れてはいないが、小高い丘の上にあるので、ブロンズ色のガラスを通して、なだらかな斜面から海岸線に達する町の夜景がのぞまれる。ロビーにも、一段フロアを高くした奥の食堂にも、賑やかな人の動きがあった。
摂子はすでに三十分、ロビーの一番端の椅子に、一人で腰をおろし、人待ち顔に時々正面のドアを眺めたりしていた。長居することが最初からわかっているから、目立たない席を選んだのだが、それでもフロントマネージャーの菊地がすぐに見つけて、挨拶に来た。このホテルには、帯谷もいくらか出資しているはずだし、オープンのパーティには、摂子も帯谷と共に出席した。
しばらくして、菊地がまたそばを通りかかった時、摂子は所在なげに壁の時計を見上げた。
「学生時代のお友だちが東京から来ているものだから、ここで待合わせしたんだけど……遅いわ」
菊地は腰を屈めて、ふくよかな顔を近づけてきた。
「そのお客様は、何人様ですか」
摂子は、女一人だと答えて、適当な名を告げた。すると彼は、電話でもあればすぐに知らせるからと、愛想よく答えて離れていった。
摂子は、また、小雨混りの中ににじんで見える町の灯を、辛抱強く眺めていた。いや、彼女の目の中には、その中のたまたま一つの灯だけがジッと点っていて、それを見つめながら、意識は同じ思考をたえず反芻《はんすう》していた。
三日前の夜──志島は結局摂子の提案を承諾した。何よりも、週末までに百万円作らなければどんな目にあうかわからないという切迫した恐怖が、彼の決断を促したようであった。
摂子は、五十万円入りの封筒を、彼の手に握らせた。事がすんだら、必ず残りの半金を“フィフティ”に預けると約束した。志島は、それで一切の片をつけてこの町を出ていく、二度と帰らないつもりだと、ふいにうるんだような目になって、呟いていたものである。
決行は三日後、つまり今日の夜八時と、摂子は指定した。今夜は七時から、帯谷が会社の重役会に出席する予定なのを、摂子は知っていた。それで彼にもアリバイが確保される。あずさの死に関して、摂子自身はもとより、帯谷に嫌疑がかかるような事態も、絶対に避けなければならない。ただあずさに一人で、ひっそりと消えてもらいたいのだ。ちょうどかつて露口光江が、自動車事故で頓死したように。
勿論摂子は、志島が五十万円を持って、逃げてしまう場合も考えなくはなかった。だが、その可能性を低くするために、自分の身分を明らかにしたり、彼に一札入れさせるといったことは避けるべきだった。もし志島が捕まった場合、彼の口から摂子の名が出るようなことがあってはならない。そのために、摂子は人目につきにくい場所を選んで志島と会った。念のため、あの晩は、家人には風邪気味と断って早くから寝室にこもり、庭の木戸を通って誰にも知られずに外出した。志島にしても、ストールとサングラスに遮られて、摂子の顔をはっきりと見定めることはできなかったはずである。これなら、たとえ志島が逮捕され、「人に頼まれてやった」と主張しても恐らくその事実は明確に証明されず、結局志島が出鱈目をいっていると解釈されるのではないか。金についても、すぐマリファナの穴埋めに使われるはずだから、闇から闇に葬られると考えていい。
今夜八時、志島はマンションを訪れて、あずさを殺害するはずである。今摂子がいるホテルから、海沿いのあずさのマンションまでは、車で約三十分の道のりである。そこで摂子は、八時の前後三十分、つまり七時半から八時半まで、このホテルでアリバイを作るつもりである。志島には、一応念のため、自分がここにいることだけは教えてあった。だが犯行後も、連絡の必要はない。事件が明るみに出た時点で、すぐ“フィフティ”に五十万円届けることにしよう……。
ロビーの壁にかけられた金張りの時計の大きな針が、八時をさした。長針が12に重なると同時に、ボーンと一度低く鳴った。やわらかな音であったが、一瞬、摂子はまるでその鋭い長針で、心臓を刺し貫かれたような気がした。
志島は首尾よくやっただろうか?
俄かに動悸が高まってきた。
八時以前の三十分より、八時をすぎてからの方が、針の進みが遅くなったように感じられた。友だちを待ちあぐねた顔でジッと腰をおろしていることが、恐ろしい苦痛だった。一刻も早く、家へ帰り、寝室の暗闇の中に身を横たえたい!──
「野口様、野口様、フロントにお電話がはいっております」
ロビーから食堂にかけて、耳ざわりのいい男の声でアナウンスが流れたのは、ようやく後二、三分で八時半になるという時であった。
摂子はその声につられて、ぼんやりとロビーを見廻した。相変らず低い談笑とゆるやかな人の歩みに満たされているが、すぐに反応する動きは見えなかった。
「野口様、お電話が──」
繰返された時、摂子はその名が、自分が志島に告げた名であったことに、突然気がついた。その途端、ドキリとまた不快な鼓動が心臓を貫いた。
摂子はもう一度、素早く周囲に目を配った。まだフロントに近づく人はいない。すると電話はやはり摂子にかけられたものであろうか。
食堂の奥で、外人客と話をしている菊地の姿が見えた。彼に「野口」の電話に出る自分を見られるのはまずい。だが、ほかには、はっきり摂子の名や素性を知っていそうなものは、周囲に見当らなかった。
摂子は立ち上り、フロントへ走り寄った。奥でマイクに向かっていたボーイが、諦め顔で、カウンターの端にある電話機に近づいたところだった。
「あの、野口ですが──」
ああ、という表情で、彼は取り上げた受話器を摂子の方へさし出した。
摂子は可能な限りコードを延ばして、カウンターから遠ざかった。受話器を掌で囲いながら、
「もしもし……」
「もしもし?」と待ちかねたような声は、やはり志島であった。
「奥さんですね」と性急に確かめた。
「ええ」
「ちょっと事情が変ったんです。大急ぎで出てきてくれませんか」
何かよほど興奮している様子で、鼻にかかった声がかすかに慄えている。
「出てくるって、どこへ?」
「そうですね、マリンタワーの下まで来てくれませんか。あそこならもう人通りがない」
マリンタワーとは、沿岸の小島に向かう渡船や遊覧船の発着所の傍に立っている小さな塔で、昼間は展望台や遊技施設が開いている。
「でも……」
事は完了したのかと、摂子は何よりも訊きたいところだが、周囲の耳がある。菊地も食室から戻ってきて、それとなく摂子の様子を見守るふうだ。
「予定は……予定はすんだの」と摂子は訊いた。
「ですから、それがちょっと狂ってしまったんです。それで、大急ぎで相談しなけりゃならないんです」
「だって……」
「待ってますからね。──じゃあ」
摂子の返事を待たずに志島はガチャリと電話を切ってしまった。その乱暴な受話器の置き方が、彼の焦りを物語るようでもある。
摂子の手も無意識に受話器を戻したが、身体は棒立ちになっていた。頭がカッとのぼせている。予定が狂ったとは、つまりどうなったのか。事態がのみこめず、それでどうするのがいいのか、まるで判断が下せない……。
「お客さまのご予定がお変りになったのでございますか」
菊地が遠慮がちに摂子の顔を覗きこんだ。
「ええ……ちょっと……」
摂子はどうにか微笑を浮かべた。
「よそで会うことになりましたの」
「そうでございますか。──で、奥様は今夜はお宅の車で……?」
「いいえ」
「それではすぐタクシーを用意いたしますから」
菊地は敏捷《びんしよう》に玄関の回転扉の中へすべりこんだ。客が乗ってくるタクシーを玄関前で捕まえてくれるつもりらしい。
仕方なく、摂子も回転扉の中へ入った。まだ心が定まらない。だが──折しも外から入ってきた男の手によって、回転扉は勢いよく廻され、厚いガラスが彼女の背中を外へ向かって押し出した。
4
もうどれほど待たされただろうか……。
摂子は、ガランとした渡船場の方から流れてくる淡い光に腕時計をさらした。九時十分──。焦りと不安がまた強く噴きあげてきて、摂子は険しい視線をあたりに走らせた。
もう船の発着がない渡船場の待合室にも、マリンタワーの朱い鉄骨の下にも、人っ子一人見えない。普段アベックの一組や二組はいるのかもしれないが、霧雨が降ったり止んだりしている肌寒い夜なので、人足も絶えているのであろう。摂子は倉庫らしい建物の浅い庇《ひさし》の下に佇《たたず》んでいたが、時折港特有の臭気を孕《はら》んだ風が吹きつけてきて、そのたびに顔を歪めた。靴音もなく、コンクリートの突堤に当る波の音だけが、規則的に聞こえた。
だが、場所はここにまちがいないはずだ。「マリンタワーの下に、すぐ」と志島は確かにいった。マリンタワーといえばこれしかないし、さほど入り組んだ場所ではなし、互いの姿に気がつかないということも考えられない。
九時十五分をすぎた時、摂子は、志島はもう来ないと、はっきりと感じた。摂子のタクシーがここへ着いたのは、九時少し前であった。一方志島はどこから電話をかけてきたにせよ、もっと早くこの場所へ来られたはずだと思われる。あずさのマンションは、この渡船場から海岸沿いに、ゆっくり歩いても十分程度の距離にある。摂子は山川からその場所を聞き出して、自分の足で確かめてあった。
もう来るはずはない。そう思うと、摂子は俄かに得体の知れない恐怖に襲われ、身体中が細かく慄《ふる》え出すのを覚えた。
志島は予定通りやったのだろうか?
まずやってはいないだろう。多分彼自身予測もつかなかったような事態が発生したのだ。あの電話の声には、偽りでない激しい動揺がうかがわれた。
彼は摂子の指示を仰ごうとした。だがあの電話の後で、再び何か変化が起きたのではあるまいか。志島がもう怖くなって逃げてしまったのか。あるいは、どうしても来られないような理由が、彼の上に発生したのか。
ともかくあのマンションへ行けば、何かがわかるのではないか。
その考えは、ふいに抗し難い誘惑になって摂子を捉えた。行ってはならないという自制も、意識の底で動いている。だがこのままでは、目隠しされて崖ぷちに立たされているような気持だ。
いつか摂子の足は、吸いよせられるように、あずさのマンションの方へ向かっていた。
渡船場を出て、海沿いに繁華街とは反対の方へ進むと、中級の住宅地帯へ入る。家並が疎《まばら》になり、土道に砂が混りこむあたりから、道路沿いに松並木が姿を見せはじめる。
あずさの住むマンションは、海岸線が切れこんで小さな岬に繋がる、そのつけ根のあたりに、松林の中に埋もれるようにして建っている。白壁の四階建は、避暑地の別荘といった趣であった。
建物全体が見える場所まで来て、摂子は足を停めた。三階の海側、あずさの部屋には、明るい電灯が点っていた。ほかの窓にも大抵明りが点り、一階からテレビの声が洩れてくる。
あの部屋の中には、今誰がいるのであろうか。あずさが、あの長い髪を肩に絡ませて、何事もなくソファに寝そべってでもいるのだろうか。それとも、何か……?
どうしたら内部の様子が見定められるか。
摂子は電話をかけてみることを考えた。だが、あずさの部屋には電話はなかったはずだと思い返した。
すぐにもう一つの方法を思いついた。あずさはまだ摂子の顔を知らないはずである。部屋をまちがえたようなふりで、ドアを開けてみたらどうか。
心を決めると、摂子は螢光灯が白壁に寒々と反射しているマンションの玄関に入った。細い階段を、草履の足音をひそませて上っていった。
幸い、三階まで誰にも会わなかった。
あずさの部屋のドアには、ネームプレートが入っていなかった。部屋をまちがえたという口実には好都合である。一フロアに二世帯の構成らしいが、隣室の扉からは、騒々しいステレオの音が洩れている。これも少し、摂子の気持を楽にした。
摂子は心を鎮《しず》めて、ブザーを押した。二回……三回……応答はなかった。ノックをしてみたが、これにも反応がない。
レースの手袋をはめた手で、ノブを廻してみた。ドアは軽く内側へ動いた。摂子はうすく開け、内部が静かなことを確かめると、もう少し広く開けた。
部屋の中は電灯で明るく、生温い空気がこもっている。ソファ、鏡台、ワゴン車など、どれも贅沢だがチグハグな色彩の家具が見える。ワゴン車やテーブルの上は、吸殻のあふれた灰皿、ファッション雑誌、マニキュア、カラになったタンブラー……といった具合に散らかり、絨毯《じゆうたん》の上に脱ぎ散らされた女物の室内履きが、ほんの今しがた、その持主が出ていったばかりのような気配を感じさせた。
だが、出ていったのではなかった。ソファの一本の脚のそばに、ひとかたまり、どろりとした液体がしたたり落ちていて、それが摂子の視線を、ソファの背後へと導いた。
窓ぎわの床にうずくまるようにして、レモン色の部屋着を着た女が、俯伏せに倒れていた。真黒な髪が、血の気のない頬にこぼれている。胸のあたりから血があふれ出し、緑の絨毯を異様な光沢の紫色に染めて、ソファの脚もとまで繋がっていた。
頭のそばに、男物のスカーフが落ちていた。焦茶を基調にした見事なアラビヤ模様で、摂子には一目で帯谷の持物とわかった。ふた月ほど前、彼がヨーロッパへ旅行したさい、自分で買ってきたものである。
この時、摂子の心は、ほとんど麻痺したようになっていた。彼女は、死者と同じほどに硬直した指先で、何度か失敗したあとようやくそのスカーフを拾い取ると、来た時のように足音を忍ばせて、あずさの部屋を出ていった。
5
事件は、翌日の朝刊で報道された。
それ以前にも、石村あずさの死体が昨夜十一時に、昼間預かった届け物を渡しにいったマンションの管理人によって発見されたというニュースは、テレビで報じられていたが、朝刊の記事は、はじめてかなり詳細に事件の模様を伝えていた。それによると──
あずさは右胸の下を細身のナイフで刺されており、傷の位置、深さなどから、直接死因は出血多量と考えられる。凶器は現場から発見されていない。
室内は相当散らかった状態であったが、とくに物色された形跡はなく、従って物盗りより怨恨《えんこん》の線が濃い。あずさは以前ヌードモデルなどをしており、異性関係も多かったと考えられ、一層その見方を強めている。
次に犯行時刻だが、検屍の結果は、午後八時から十時の間と推定された。
ところが、昨夜八時半ごろ、隣室の住人久米春子が、廊下を通りかかったさい、あずさの声を聞いていることが判明した。宝石商に勤めている春子は、日ごろからあずさと割に親しかったらしい。
煙草を買いに行くために廊下に出た春子は、あずさに部屋の中から声をかけられた。ドアも磨ガラスの小窓も閉っていて、内部は見えなかったという。
「春子さん──?」
「そうよ」
「今、何時かしら……」
「ちょうど八時半だわ」
「そう……」
やりとりはこれだけであった。その時、部屋の中は静かで、あずさの声はやや眠そうに聞こえたと、春子はのべている。
しかしこの証言によって、犯行は八時半から十時まで、ことに八時四十五分以後の疑いが強いという結論が出された。八時四十五分ごろ、春子が煙草を買って戻ってきたときも、あずさの部屋はひっそりとしていたというからである。それ以後は春子は自室へ入って、ステレオを大きくかけていたため、隣室の物音には気がつかなかったという。
警察では、まずあずさの異性関係を綿密に洗う方針で、捜査を開始している……。
この記事を、摂子は自分の部屋で読んだ。昨夜の霧雨は夜半に上り、うららかな陽光が庭木の新芽にふり注いでいる。それで広い庭が、明るい若草色の光に包まれていた。
しかし──二度読み返したあと、摂子の顔が蒼ざめていたのは、若葉の反映のせいではなかった。
あずさの異性関係ということばは、いやでも摂子に、昨夜死体のそばに落ちていたアラビヤ模様のスカーフを思い出させる。
自宅に持ち帰ってから確かめてみたが、やはりそれはまちがいなく、夫の持物であった。ふた月前に海外で買ってきて以来、彼はそれがお気に入りで、くつろいだ服装の折には、しばしばその細い首に巻きつけていたのを、摂子は憶えている。
あずさは帯谷の女だったのだから、彼女の部屋に彼の持物があったとしても、不自然とはいえないだろう。しかし、それが死体のそばに落ちていた事実は重大である。
帯谷が殺したのであろうか。
室内には、物色の形跡はなかったという。
それは、警察に対しては、事件が痴情や怨恨から発したことを意味し、一方摂子に対しては、志島の犯行ではないらしいことを暗示している。志島なら、摂子が示唆《しさ》したように、物盗りの仕業と見せかける努力をしているはずなのだ。
八時半に、摂子のいるホテルへ電話して、「事情が変った」といった志島は、あるいはその前に、あずさの部屋にいる帯谷の姿を見たのではなかったか。帯谷はあずさと何かの理由で喧嘩となり、逆上した帯谷があずさを殺してしまったのではあるまいか?
しかし、昨夜、帯谷は七時から会社の重役会議に出ていたはずではないか。だからこそ、摂子は昨夜を選んで志島にあずさを襲わせたのだ!
摂子は、隣の夫の書斎に入り、机の上に引いてある電話機を取り上げた。とにかく彼の昨夜の行動を確かめたい。彼はいつもの通り、朝八時半に山川の迎えで会社に出ていた。
社長室を繋がせると、山川の声が出た。
「──実は、これは社内には極秘にしてありますのですが……」
摂子と判ると、山川は急に声をひそめた。
「社長は今、警察に行っておられますのです」
「えっ?」
「いえ、決してご心配なさるほどのことはないと思うのですが……昨夜の事件に関して、事情を訊きたいとか申して、刑事が参ったものですから……」
山川は持前のていねいで感情を殺した喋り方をしているが、摂子にはそれがいつになく重苦しく聞こえた。
「でも……でも主人は無関係なのでしょう? 昨夜は重役会に出ていたのでしょう?」
摂子は我にもなく、山川に向かって縋《すが》るような声を出した。
「はい、七時から十時すぎまで、出席なさっていたはずでございます」
今度はどこか含みのある口調で答えた。途端に摂子は、苛立ちをむき出しにした。
「|はず《ヽヽ》とはどういうことです? 出席していたのですね」
「はい……出席なさっておられました」
だが、やはりその声からは、どこか重苦しい響きが拭われていなかった。
受話器を置くのと前後して、背後にノックが聞こえた。応えると、若いお手伝いの道子が、荒っぽくドアを開けた。まだ二十歳前の勝気らしい顔立ちの娘で、この家に来て三カ月になるが、摂子と相性が悪いのか、いつもその大きな眸の中に、かすかに反撥的な光を浮かべている。
「お玄関にこういう方が見えております」
道子は、名刺を持った手を、摂子の方へつき出した。そうしながら、今はなぜかちょっと小気味よさそうな眼差で摂子を見守っている。
その理由はすぐにわかった。名刺には、見憶えのない人名の横に「H署刑事課警部補」という肩書が刷りこまれていたからであった。
6
「事情聴取」は、摂子が想像していたより、はるかに苛烈であった。警察署の、風通しの悪い小部屋に通された摂子は、そこで数人の刑事に、入れ替り立ち替り、同じような質問に答えさせられた。ことば遣いは一応ていねいであったが、口調は鋭く、そしてどの顔にも一様に、冷やかな反感が漂っていた。
何よりも摂子に衝撃を与えたのは、彼らがすでに、摂子が帯谷の情婦石村あずさの存在に気づいていた事実を、知っていたことであった。勿論摂子は最初、懸命に平静を装って答えた。
「石村あずさ? そんな女、私、名前を聞いたこともありませんわ」
すると、正面に陣取っていた、顎のしゃくれた中年の刑事が、同じように冷やかな口調で切り返した。
「奥さん、ここではありのままおっしゃるしかありませんよ。あずさを知らなかったといわれるが、それでは、彼女の写真があなたの部屋の机の抽出しに入っていた事実は、どう説明なさるつもりです?」
「えっ?」と摂子は顔色を変えた。さすがにうろたえを隠せなかった。なぜ警察はそんなことまで知っているのか。事件発生以後、家宅捜索を受けた憶えもなし……?
だがそのわけは簡単であった。彼らは摂子を召喚する以前に、密かに帯谷家の使用人に聞込みをかけていたのだ。写真の件は、お手伝いの道子の口から洩れたらしい。道子は、摂子の外出中に、摂子の部屋へ忍びこむ癖があったようである。
摂子の動揺を見てとると、刑事たちの尋問は一段と鋭さを加えた。あずさが八時半に隣室の住人と話を交した事実によって、襲われたのはそれ以後とわかり、そのために摂子のアリバイは成立しなかった。同じ八時半ごろホテルを出てから、海辺を散歩したくなったので、渡船場までタクシーを走らせ、そこで一時間ほどすごして帰宅したとでも答える以外、摂子には説明のすべがなかった。
犯行の動機は強く、アリバイもあいまいである。──しかし、警察としても、それだけで摂子を逮捕に踏切ることはできなかった。何一つ彼女の犯行を裏づけるような証拠がなかったからだ。昨夜摂子がマンションへ出入りした事実には、目撃者がいなかった。これは彼女にとって、唯一の幸運であった。
摂子が帰宅を許されたのは、取調室のうす汚れた窓ガラスに、夕暮れの色が漂いはじめるころであった。
摂子は電話をかりて自宅にかけ、長く住込んでいる年配の家政婦に、山川に迎えに来てくれるよう、連絡をたのんだ。自分でタクシーを拾う気力もなかったのだ。それと、刑事に向かってどうしても口に出せなかった問いを、山川に尋ねたかったからでもある。
べンツのシートに身体をあずけると、摂子は疲れきった声で、だが真先に訊いた。
「主人はどうしていますか、もう取調べはすんだのでしょうか」
「はい、先程お宅までお送りしたばかりでございます」
山川は落着いた声で答えた。だが、その口調には、今朝帯谷が召喚されたと告げた時と同じ、かすかに沈鬱な響きがこもっていた。
「アリバイは証明されたのですね」
「はい……昨日は午後七時から十時まで、会社の会議室で開かれた重役会に出席されていたということで、ほかの三人の重役方もそれを認められたのですが……」
「それなら問題ないじゃありませんか」
「はあ……しかし」
山川はいっとき口ごもっていたが、ゆっくりとハンドルを切りながら、
「これは私が社長からうかがったことでございますが、昨日の会議はごく内輪のもので、出席者は社長と三人の重役方だけでしたそうで……」
「それで?」
「ご承知のように、重役方は皆さん先代から会社にお世話になっておられた方々ですので、警察では、その方たちの証言を百パーセント信用してはいないらしいのでございます」
「そんな……でも山川さん、あなたはどうなの。あなたは知っているのでしょう?」
「はあ……いえ、実は私も、取引先から社長をお送りして、七時ちょうどに会社の玄関でお降ろししたのですが、今日はもういいといわれたので、そのまま家へ帰ってしまったようなわけで……」
摂子はようやく事情がのみこめてきた。七時に会社の前ですてた帯谷がもし、ちょっと会議に顔を出しただけであずさのマンションへ向かったとすれば、徒歩ででも、八時前には着ける。一方、子飼いの重役たちには十時すぎまで会議に出ていたと証言させることもできる。──警察はこのように判断したのではないか。
だが、多分、彼らは帯谷に対しても、犯行の決め手が掴めなかったのにちがいない。それでひとまず、彼を放したのであろう……。
いつか、ベンツは帯谷家の車寄せに滑りこんでいた。クラクションを聞きつけて、家政婦の老婆が、玄関の重い引き戸を内側から開けた。
広大な木造の屋敷内は、冷んやりとして暗く、摂子には馴染みのある、かすかに黴《かび》臭い匂いがこもっている。
帯谷は居間にいた。もう和服に着替え、紫檀《したん》のテーブルの上に新聞をひろげていた。だがほとんど活字を読んでいないことが、陰鬱に傾けた顔の表情から、摂子には察しられた。
襖《ふすま》の側に立った摂子の気配を感じ、数秒あってから、彼はゆっくりと顔をあげた。高い鼻梁《びりよう》の陰に奥まった細い目が、射るように摂子を見据えた。
一瞬、摂子は身内に悪寒が走るのを覚えた。それは恐怖の戦慄に近かった。昨夜、この目があずさを見据え、今新聞をつまんでいる骨張った白い指がナイフを握りしめてあの女を襲ったのであろうか? 警察では決め手を掴んでいない。しかし摂子だけは知っている。彼のスカーフがあずさの頭のそばに落ちていた事実を。
やがて、帯谷は無言のまま妻の顔から目を離すと、次には、摂子のうすい胸、濃紫のスーツに包まれた起伏に乏しい全身へと視線を移していった。その目は、最初の射るような鋭さを失い、代りにいいようもなく冷たく、白々とした光をたたえていた。
突然、べつのことが、摂子の胸を衝いた。
夫は自分を疑っている! ──確かに、もし彼が犯人でなかったら、あのスカーフは何かの偶然であり、彼が本当に重役会に出席していたのだとしたら、彼は摂子を疑うかもしれない。恐らく一生、摂子が帯谷を疑い続けるように、彼は摂子を疑いながら生きていくかもしれない。互いに決してあずさの死を話題に出すことはせずに。
先程の悪寒より、もっと寒々としたものが、すっと身体の奥を下っていくのを摂子は感じた。だが、しばらくして摂子の唇をついたのは、自分でも驚くほど平静で無感動な声だった。
「お食事はおすみになったのですか」
「いや、まだだ」と帯谷は新聞に目を落としながら、やはりこれも普段と同じ声で答えた。
「ではすぐに仕度させますから」
摂子が廊下に出た時、ほの暗い庭の隅で、水銀灯が濃密な青い色から次第に白っぽい光に変っていくのが見えた。
7
視界がゆるやかに揺れ出し、徐々に白っぽい濁りに包まれていくのを、志島は“フィフティ”のカウンターに上半身をあずけた恰好で見守っていた。それはマリファナを喫ったあと、五分もすると決って現われてくる、快い幻想的な感覚であった。──いや、あの夜以来、それまで奇妙に楽天的な昂揚を誘ってくれた感覚の底に、逃れようもない絶望的な疼《うず》きが混りこんでいる。
多分この先、その疼きを消すことは、決してできないだろう。だがまた、それから逃れるために自殺する勇気も自分にないことを、志島は知っている。恐らくあずさにも、そのことがわかっていたにちがいない……。
あの夜、志島は摂子との打合わせ通り、八時にあずさのマンションを訪れた。約五カ月ぶりに、目近に彼を見たあずさの眸には、一瞬パッと輝きがあふれた。それは意地や装いの暇もない、素直な歓喜だったことが、今の志島には痛いほどわかる。──確かに、五カ月前、あずさが志島をすてたのではなかった。彼の方からあずさをつき放したといった方が正しい。帯谷があずさに熱をあげ、やがて志島は、よく理由がのみこめぬまま、勤め先の画廊を追い出された。その後は、何か抗《あらが》い難い力に引きずられるように、泥沼のような懶惰《らんだ》に落ちこんでいった。自分自身さえ持てあましていた志島には、あずさとの愛を支える気力もなかった。ひたむきに追いすがるあずさを、志島はつき放すようにして別れた。それであずさは、投げ遣りな気持で、帯谷の女になったのであろう。
だが、志島には、そうした事実すら、直視する勇気がなかった。裏切ったのはあずさなのだ。自分はあずさを憎んでいるのだといい聞かせることで、自分の弱さに目をつぶろうとした。いつか彼は、本当に、自分があずさを憎んでいると信じかけていた。
だから──怪しむ風もなく部屋に招じ入れてくれたあずさと、二言三言交したあと、まるで昔の空気が戻ってくるのを恐れるように、志島はポケットに隠し持っていた果物ナイフであずさの胸を襲った。だが次の瞬間、彼は恐怖に全身が慄え出すのを覚えた。それは突然、自分が取り返しのつかぬ誤りを犯したことに気がついたからだった。
志島は、絨毯の上にうずくまったあずさの肩を支えながら、一切を告白した。見知らぬ中年の女に頼まれたこと、自分は週末までに百万円用意しなければ、殺されるかもしれなかったこと。そして今の今まで、自分はあずさを憎んでいると|信じていた《ヽヽヽヽヽ》こと……。
あずさは蒼白な顔をあげ、遠くを見るような眼差を志島に注いだ。それから、かすれた声で呟いた。
「私だって……帯谷なんか愛したことはないわ。そればかりか……いつも憎んでいたわ。あの男のために、私たちは……」
だが、それよりもと、あずさはうすれてくる意識を必死でとりとめようとする声で続けた。志島に、サイドテーブルの小抽出しに四十万円近く入っているはずだから、それを持ってすぐ逃げるようにと告げた。外へ出たら、摂子に電話して、彼女のアリバイを消す工作をすること。志島にあずさ殺害を委嘱したのは、帯谷摂子にちがいないといった。
志島が出ていったあとで、恐らくあずさは平常の声を装って隣室の女に話しかけ、犯行が八時半以後に行われたという偽の証拠を作ったのだ。そのために志島は救われた。五カ月前に別れた彼のことなど怪しみはしないといった摂子は判断は甘く、事件発生直後、志島はアパートへ刑事の訪問を受けたが、八時四十分には馴染みのバーへ行っていた彼には、明確なアリバイが立証されたのだ。
あずさは何を企んでいたのだろうか?
志島は、次第に振幅をひろげはじめた視界の奥を見きわめようとするかのように、濁った眸をこらした。彼は、あずさが倒れたまま手をのばして、ソファのふちにかかっていた男ものの高級なスカーフをたぐり寄せていたのを憶えている。
あずさは、帯谷に殺人の罪を着せようとしていたのであろうか。それとも、摂子のアリバイを消し、摂子があずさを殺した上、スカーフによって夫に罪を着せようとしたと思わせることを計ったのか。あるいは──可能な限りの擬装を試み、事がどう転ぶにせよ、帯谷夫婦を永久に猜疑《さいぎ》の地獄につき落とそうとしたのか。そんなかたちで、あずさは彼らに復讐したのかもしれない。
その想像は、あの女のイメージに一番ピッタリするようにも思われる。
確かにあずさは、志島に対しても、結局は見事な復讐を果していったのだ。この先、彼は、自殺するふんぎりもつかぬまま、毎夜、虚しい陶酔と絶望の疼《うず》きとの間を漂いながら生き続けることになるだろう……。
志島は、白濁した視界の奥に、石村あずさの謎めいた笑いを見たような気がした。
死刑台のロープウェイ
1
その日箱根は昼前から小雨になり、標高千メートルを越す早雲山、神山《かみやま》から湖尻にかけてのカルデラ南部の斜面は、夕暮れが近づくにつれてすっぽりと濃霧に包まれた。
九月十八日水曜日午後四時──。
夏休みのレジャー客の波が退《ひ》き、次は十月の旅行シーズンまで、箱根はその中休みといった、ちょっと静かな時期に入っている。それでも週末は大抵のホテルが満室になる盛況だが、冷雨の降りしきるウィークデイの午後とあっては、どこもうら寂しいほど人影が疎《まばら》だった。
早雲山から大涌谷、姥子《うばこ》の二駅を経て湖尻桃源台まで下る箱根ロープウェイの利用率も、時刻が遅くなるにつれて落ちてきて、午前中は九十秒間隔で循環させていた搬器を、午後からは二分間隔にひろげた。それでようやく空《から》の搬器はめったに出なくなり、たまには数人が乗り合わせることもあった。
姥子駅の職員大原和利は、うす暗い地下壕のような構内の下りフォームに立っていて、搬器が駅の引き込み線に入ってくるたびに、ドアにとりついて外側から掛け金を外し、乗客を出入りさせる係をつとめていた。搬器のドアは、危険防止のため、内側からは開けられない仕組になっている。
ドアを開けると、「降りる方ありますかあ」と、内部へ声をかける。これは普通静かな場所で聞いたら吃驚《びつくり》するような、高い声を張りあげなければならない。ロープウェイの駅の構内には、絶えずすさまじい機械音が反響しているからだ。
彼の声に促されて、時折は客が降りた。姥子駅はドライブウェイに近接しているし、温泉場があって旅館も少くない。出てくる客たちは、みな寒そうに肩をすくめていた。
次には、背後の柵の外側に待たせてある乗客を迎え入れるわけだが、その時刻、乗る者はほとんどなかった。昨夜姥子温泉に投宿した人たちは、すでに大抵引きあげてしまっているのだ。
ともかく客の乗降が終ると、またドアに外側から掛け金をかけ、機関室の方へ「オーライ」と声を送ってから、勢いよく本線の方へ押し出してやる。すると搬器は再びユラユラと動きはじめて、短いフォームを出たあたりで霧の中に姿を没してしまうのだった。
「136」の搬器をそうやって送り出したあと、大原は腕時計を見た。四時三十五分になっていた。五時の運転終了まで、あと少しだと、ちょっとホッとした気持になった。好天の日なら、彼が立っている場所からでも、檜《ひのき》の樹林に被われたスロープの先に芦の湖の碧《あお》い水面を隠見できるのだが、今は視界ゼロという感じで、時たま強い風に煽《あお》られて部分的に霧がうすれ、暗緑色の木立がぼんやりと浮かび出る程度である。小雨混りの肌を刺す風は、フォームの上にも容赦なく吹きこんでいた。
「137」の搬器が下ってきた。大原は習慣的な動作を繰り返し、ドアを開けた。
彼の大ごえに応じて、二人ほどの客が降りてきた。大原は後を振返った。柵の外側は無人であった。それで彼はまたドアを閉めた。
この時、搬器の中には、左手向う側の窓に凭《もた》れて、女が一人、ぼんやりとした顔をこちらに向けて立っていた。ブルーのコートの衿《えり》を立てて白い細い顔をその中に埋め、顔と衿との囲りには、光沢のある茶に染めた髪が、濡れたような重いウェーブを描いてとき流されていた。ほんの短い時間、若い大原の目にその女は、何かとても神秘的なムードをたたえて映った。「137」の搬器の中には、その女一人だけ残ったのだと感じた。
フォームを出て下降を開始する搬器を見送った彼は、視線をそらしかけた瞬間、ふとその中にもう一人客がいるような気がした。女とは反対の、ドア側の右手、大原の位置からは死角になりやすい場所に、一人の男が腰かけていて、搬器が駅を離れる直前、ふとこちらへ顔を捩《ねじ》ったように思われたのである。
彼は確かめるともなく、目を凝らした。が、ほとんど同時に、風に押された一群の濃霧に視野を遮られた。白い幕の向うを、オレンジとグレーに塗り分けた四角い函が、ゆっくりと下っていくのが認められただけである。
だから彼は、その時の情景に確信が持てない。女のほかにもう一人男が乗っていたこと自体、目の錯覚だったようにも思われて、断定する自信がないのだ。
後でその|人物《ヽヽ》に関して繰り返し問われた彼は、人間の記憶の不可解さについて、彼なりに一つの経験をし、感慨を抱いたともいえるだろう。
「137」の搬器は、十一分後に、終点の湖尻桃源台に到着した。ここまで下ると、霧はややうすれ、視界もほの明るくなっていた。
桃源台の駅は姥子より大分大きく、駅前には、元箱根や仙石原に向かうバスや、ハイヤーが並んでいる。構内が大音響に包まれているのだけは変りなかった。
最初に異変に気づいたのは、フォームにいて大原と同種の仕事を受持っていた中年の駅員であった。
彼は、まず、うす緑の芝に被われた斜面すれすれに揺れながら近づいてくる搬器のドアが、その振動のたびに不安定に動いているのを発見した。重いドアは、時には今にも外へ開きそうになり、また風圧に押されてガタンと閉まる。
姥子の駅員が掛け金を外したまま発車させてしまったのであろうか。とんでもないことだと、憤慨しかけた彼は、次には、いよいよ構内に入ってきた搬器の、ドアの左横の窓ガラスが一枚割れているのを認めた。光った破片が窓枠に残っていたためにすぐ目についたのである。
搬器は彼の斜め後でほぼ停止した。やはりドアの掛け金が外れていた。それでドアが開いたり閉まったりしていたのである。
誰か、内側からガラスを割り、手を出してドアを開けた者がいるのではないか。近頃箱根へ遊びにくる若者たちなら、そんな悪戯《いたずら》もやりかねないだろう。
彼は別の憤慨を覚え、勢いよくドアを開けた。
次の瞬間、彼の網膜にひろがったのは、全体に灰色の函の内部にあふれ出た、鮮烈な血の色である。
左手向う側のシートからずり落ちたような恰好で、女が横向きに倒れていた。不自然に身をよじり両手を脇腹にあてがっている。
血はそのあたりから、白い服とボタンを外したブルーのコートを染め、リノリウムの床にあふれ出ていた。
彼は異様な叫びをあげながら、一種の保身本能で、素早く搬器の中を見廻した。
倒れている女以外、誰もいなかった。代りに、割れた窓の下に当るシートがガラスの破片を浴び、その中に、柄も金属製の大型のドライバーが置きすてられていた。
2
約一時間後の六時には、女の死体は、ひとまず箱根神社そばの私立外科医院の手術室に横たえられていた。女は、連絡を受けた箱根町派出所員が駆けつけた時にはまだかすかに呼吸していたが、救急車に運びこまれた直後に死亡したのである。折り畳み式の大型果物ナイフで左下腹部を刺され、ナイフは白いスーツの上から突き立ったままになっていた。
小田原警察署刑事課長の吉富警部は、手術室を出ながら、検屍の所見を促すように、鑑識の穂積警部補の横顔へ強い視線を注いだ。
「解剖の結果を見ないと断定はできませんが、院長もいっていた通り、刺創による出血多量が死因だと思います。外見的には薬物反応も出ていませんし」
「致命傷のほかには、外傷もなかったようだね」
「見つかりませんでしたね」
二人は、とりあえず病院が提供してくれた空いた病室へ入った。
「傷の様相から、犯人の特徴なんかは推測できないか」
「そうですね。立ったままやられた場合には、凶器の角度によっておよその身長が割り出せることもありますが……あれは腰かけていた時に刺された感じですねえ」
穂積は慎重な口調で、小造りな顔を傾けた。
「まさか、自分でやったのではないだろうね」
それは今ふと、吉富の脳裡をかすめた考えだった。
「まあ、傷の位置からだけいえば、必ずしも自傷と思われぬこともないのですが……普通自傷のケースでは、ご承知のように、めったに着衣の上からは刺しません。直接肌に刃物を当てる。その上、決定的な傷をつける前に、二、三、ためらい傷と称する軽い傷を拵《こしら》えるのが常なんですが、今度はそのどちらにも当てはまりませんね。しかしまた、場所も屋外に近いし、桃源台に着くまでに決行しなければならないわけだから、急いでいたと考えれば、着衣の上から一撃で目的を達したとしても、頷けなくもないんだが……」
「うむ」
「でも、傷の流れは相当な勢いですよ。女の手でひと思いにあれだけはなかなかやれないと思うんですが」
「するとやはり自殺の線はうすいな」
「そうですねえ」
穂積は同意したが、断定するだけの自信はなさそうである。
「これもナイフの指紋が出ればはっきりするんじゃないですか」とつけ加えた。
自殺の可能性がうすいとなれば、やはり、被害者の女性といっしょに乗っていた犯人が、彼女を刺したあと、搬器の中にあったドライバーでガラスを叩き割り、そこから手を出してドアを開け、とびおりて逃走したというケースであろうか。
ガラスを割るのに使われたらしいドライバーは、会社の備品であることが確認されている。シートの下に常備してあるバケツが少し引き出されていた点から、誰かが器内の修理に使ったドライバーをバケツの中に置き忘れ、それを犯人が利用したものと想像された。また、問題のロープウェイは、時速約八キロの低速の上、姥子から桃源台には、地上まで二、三メートルの区間もいくつかあり、おまけに一帯は檜の林だが、索道の下だけは帯状に伐採されていて芝や雑草が繁っているので、とびおりてもほとんど危険のないことは、吉富自身の記憶でも推察できる。この濃霧では、人目につく心配も要らなかっただろう。
派出所からの電話で、事件発生の状況だけをかいつまんで聞いた直後、彼の頭に自然に浮かんだ想像もこれであった。
そこで彼は、すぐ、仙石原、強羅などの派出所に緊急連絡して、血痕を付着させたり、その他挙動不審の人間をチェックするよう指示した。バス、タクシー、電車など交通機関の要所にも同様の依頼をした。とはいえ、逃走経路に当る区域は広い上、犯人は乗用車で逃げることも考えられるから、この配備網にひっかかる期待はうすいのだ。県警にも勿論連絡ずみだが、応援の到着は夜に入ってからだろう。
吉富は、逸《はや》りがちな気持を自制して、若い刑事が張り番のように立っているテーブルのそばへ歩み寄った。その上に、死者の所持品が置かれてある。一目で高級品とわかる茶の皮のハンドバッグ、同じ色のやや大型のバッグ、スターサファイアの指輪、金時計──。
吉富はまずそれらをザッと眺めた。女の服装を見た時にも感じたことだが、彼女が裕福な家庭の、多分人妻らしいという印象を強めた。推定年齢は、三十二、三歳くらいか。
彼は自分のハンカチをあてがって、ハンドバッグを開けた。香水の芳香がかすかに漂う。中身は──紙入れ、手帖、コンパクト、ハンカチ、マルボローの赤い箱と小型のライターなど。
紙入れの中には、およその見当で十数枚の一万円札が納まっていた。指輪や時計が残されている点といい、これで物盗りが目的の事件でないことは明らかなようだ。
次に手帖を手にとった。スエードの表紙に銀行のマークが印刷されている。
パラパラとめくった感じでは、あまり書き込みがなく、持主の名も記入されていない。
後の方の、アドレスの頁には、数人の人名と、住所や電話番号がメモされていた。住所はいずれも東京都内である。
ハンドバッグの中には、ほかに女の身許を示すものは見当らなかった。
吉富は、緊張して見守っている署の水木刑事に視線を向けた。
「このメモにある人物に片っ端から電話をかけて、仏さんの身許を洗ってくれ」
「わかりました」
水木が電話のある受付の方へ出ていくと、吉富は、大きい方のバッグのファスナーを開けた。この中は主に衣類で、羊色のカーデガン、花模様のブラウス、白っぽいパンタロン、それにすでに着用したと思われるスリップとパンティの一組がビニール袋につめこまれていた。
この所持品から推測する限り、女はせいぜい一、二泊の予定で、多分東京から来て、すでにどこかで一泊はしているものと考えられる。
吉富の目が、再びビニール袋の上に止まった。ラベンダー色のパンティの上で、袋に印刷されたグリーンの文字が、小涌谷のYホテルと、その電話番号を明示していた。
そこへ、水木が意外に早く戻ってきた。
「|被害者《ガイシヤ》の身許がわかりました」と丸味のある頬を紅潮させた。
「一番上に書いてあった女が、東京の六本木のスナックのママで、電話番号はその店のものだったんです。彼女のいうには、仏さんは、室伏ナオミではないかと。親友だそうで、一昨夜電話で喋った時、明日から一泊で箱根へ遊びに行くといっていたんだそうです」
「室伏ナオミ……すると彼女も水商売か」
「いえ、未亡人だそうです。一年ほど前に、軽金属関係の販売会社の社長をしていた主人が死んで、子供はなく、青山のマンションで贅沢《ぜいたく》な一人暮らしだったとか……」
「後家さんか。まだ若いのに。──で、旅行の連れについては、何か聞かなかったのだろうか」
「はっきりとはいいませんでした。聞いていたのかもしれませんが」
「うむ」
「それでとにかく、室伏ナオミのマンションの番号を聞いてかけてみたら、折りよく通いの家政婦が来ていて、彼女の話からもナオミにまちがいないようですね。昨日の夕方五時ごろ、一晩箱根へ行くといって出かけたのを見送ったそうですから。服装も一致しています」
「連れのことは何といっている?」
「名前は聞かなかったが、友だちの誰かと行くような口ぶりだったと……」
「そうか」
ひとまず身許が判明しただけで、吉富は大分気が軽くなった。あとは東京で聞込みすれば、連れも間もなく浮かぶだろう。また、小涌谷のYホテルでも、ある程度の情報は期待できる。
県警鑑識班の到着を待っている穂積らを残して、吉富は桃源台へ向かう車に乗った。
すでに深い夜陰に包まれ、小雨が降り続いている桃源台では、署の係長が指揮をとって、現場検証をはじめていた。
電話で指示しておいた通り、事務室の奥で、箱根ロープウェイの四人の職員が待機していた。早雲山、大涌谷、姥子、桃源台の各駅の下りフォームで、問題の「137」搬器のドアを開閉し、客の乗降に立ち会った駅員である。
吉富は、索道の下の斜面を検《しら》べている係長と少し話を交してから、事務室に入って彼らの前に腰をおろした。
まず、起点の早雲山の話を聞いた。
「──すると、死亡した女性は、早雲山から乗ったわけですね」
「そうなんです。青いコートを羽織って、髪を染めたきれいな女がいたのを憶えていますから」
「連れがあったでしょう」
「あったのかもしれませんが、よくわかりませんでした」
律義そうな中年の駅員は、瞬きしながら首を傾げた。
「『137』搬器には、早雲山から何人乗ったのですか」
「五人くらいでした。これもはっきりとはいえないんですが、多分その女性以外は全部男じゃなかったかと……」
しかしその中に女の連れがいたか否かは、わからないというのである。
次に大涌谷の駅員は、そこで二人ほど降り、代りに一人乗ったように思うと答えた。その性別は定かでないが、客が大部分男だったことは確かである。そして、搬器の後方の席に腰かけていたナオミらしい女の姿を、やはり記憶に留めていた。
ここまでの二人の話を一応信用すれば、搬器が姥子に向かった時には、乗客は四人で、中に室伏ナオミが含まれ、残り三人は男であった可能性が強い。
吉富は姥子の駅員に、一段と緊張を帯びた視線を当てた。搬器はいよいよ事件現場に近づいてきたわけだ。
駅員は大原和利と名乗り、齢《とし》を訊くと二十二歳だと答えた。
「姥子では、何人降りたのですか」
「二、三人だったと思います」
大原も、まだどこか稚《おさな》さの残る丸い目に真剣な光をたたえて刑事を見返した。
「乗ったのは?」
「いえ、誰も」
はっきり首を振った。吉富はちょっと沈黙した。姥子で乗ったものがいないのは確からしいから、すると何人降りたかは、ますます重大になってくる。三人降りたのなら、搬器にはナオミ一人が残った勘定になり、降りたのが二人なら、残りはナオミと、恐らくその連れであったと思われるからである。
吉富は、相手の気持をくつろがせるために、努めてやわらかな口調で尋ねた。
「降りた人数がはっきりわからなくても、姥子をスタートした時、搬器には何人乗っていたでしょうか」
大原はかすかに眉を寄せ、少したってから、
「あの女性一人……」
口の中で呟いたが、すぐ顔をうつむけて、長い溜息をついた。
「実は、さっきから一生懸命思い出そうとしているんですが……一人だと思ったのが、フォームを出ていく時、もう一人男の顔が見えたような気もするので……」
「すると、被害者の女性と、あと一人男が乗っていた?」
「ええ……でもとにかく霧が深かったし、その時は大して気にもかけなかったものですから……」
大原は困惑しきった声で、色白な若い頬が少し蒼《あお》ざめてさえいる。
「どんな男でした?」と吉富が訊いた。
「どんなといわれても……別に普通の……」
「齢はいくつくらい?」
「さあ──まだ割に若かったかなあ……」
「女とその男は、連れという感じでしたか」
「いえ、そんなことは全然わかりません」
結局大原の記憶は根本からあやふやなのである。今度は吉富が思わず苛立《いらだ》ちをこめた短い吐息を洩らし、ひとまず話を変えた。
「搬器が姥子を出る時には、窓ガラスに異常はなかったのですね」
「ええ」とこれには明確な答えが返ってきた。
「『137』の搬器が下っていったあと、ガラスの割れるような音は聞こえませんでしたか」
「いえ。二分間隔で次のが来ていますし、それにロープウェイの駅はすごくやかましいですから」
「うむ……」
吉富はなおしばらく、迷うように大原の顔を見つめていたが、結局後でもう一度聴取することにして、搬器を桃源台へすすめた。
死体発見の状況を一通り聞き終った時、捜査課員の一人が近づいてきて、低声《こごえ》で報告した。
小涌谷Yホテルへ赴いていた刑事から、電話が入ったという。
「室伏ナオミらしい女が、昨夜七時半ごろ着いて一泊したそうです。連れは、三十五、六歳で痩せ型の好男子。今日は雨のために、二人は午後までホテルにいて、三時ごろタクシーを呼んで早雲山へ向かった……」
ホテルには一週間前に男の電話で、和室が予約されていた。その時告げられた名や、宿泊カードの記入は当てにならないとしても、ルームメイドが、一度女が連れに「タツオさん」と呼びかけるのを耳にしたと答えたそうである。
3
東行金属KK資材部次長・不二木達生三十七歳が、世田谷区太子堂の自宅に刑事の訪問を受けたのは、箱根ロープウェイで室伏ナオミが変死をとげた翌日、九月十九日午後三時すぎであった。
この時不二木はすでに一時ごろ日本橋の会社を早退して帰宅し、寝室で休んでいた。早退の理由は、風邪気味で頭痛が激しかったためである。実際、二時ごろ帰ってきた彼は、ふだんはやや蒼白い細面《ほそおもて》をうっすらと上気させていて、床に入った時体温計を当てると、三十七度八分を示していた。
それで、刑事が鳴らしたブザーには、当然妻の律子が応えた。家は全部で四部屋の小ぢんまりした平屋で、家族は夫婦と、小学一年生の長女|杏子《きようこ》の三人だが、この時杏子は習字塾へ出かけていた。
ドアを開けた律子の前に、背の高い男が二人、西陽のさす住宅街の道路を背にして立っていた。
前にいた三十代に見える男が、一歩踏みこんで、
「不二木達生さんのお宅ですか」
「はい」
「失礼ですが、奥さんですか」
律子は頷いた。男たちの風貌や尋ねる口調から、彼女は早くも何か不穏な圧迫感を胸に覚えていた。後の男も入ってドアを閉めると、狭い三和土《たたき》は長身の男たちに占められた恰好になった。
「ご主人は帰っておられますか」
「はい……」
「そうですか。いや会社で、今日は早退をされたとうかがったものですから」
「あの、主人に何か──?」
それで、男はおもむろに、背広の内ポケットから名刺を抜き出した。
≪神奈川県警察本部捜査一課警部補・東田豊≫と印刷されていた。続いて後の男も名刺を出したが、これは警視庁地方課の肩書きが読み取られた。
「ご主人にちょっとお目にかかりたいのですが」と東田が、穏かだがどこか冷たく響く声でいった。
「はい……風邪で休んでおりますが……少しお待ちくださいませ」
律子が寝室へ走りこんだ時、不二木はすでに床の上に起きあがっていた。襖《ふすま》一枚で玄関の声は筒抜けなのである。
「あなた、刑事さんが──」
律子は受取った名刺を夫に示した。彼はうつむいてそれを眺めていたが、
「会ってみよう」と割に落着いた声で答えた。
「では……上ってもらいますか」
「そうだな」
それで律子は夫の肩にガウンを着せかけてから、玄関に戻った。
数分後、玄関脇の応接室で交されはじめた夫と刑事たちとの問答に、律子はドアの陰で耳をそばだてていた。そのために、さっき二人を招じ入れたあと、ドアをうすく開けておいたから、低い声でも聞きとれるはずだった。
「あなたは、室伏ナオミという女性を知っておられますか」
簡単な自己紹介のあとで、東田が切り出した。
「室伏といえば、うちの会社の前の社長ですが……ナオミさんは、奥さんですか」
不二木が慎重な口調で訊き返した。
「その通りです。──ナオミさんを、個人的にもご存知でしたか」
「いえ、そう深くは……」
「昨日の夕方、亡くなりましてね」
「えっ?」と不二木は息をのんだ気配である。
「それはまた……どうしてですか」
尋ねる声は、激しいショックを隠しようもない。
「実は、昨日の午後五時少し前、箱根ロープウェイの中で、腹を刺されて死んでいたのです」
あっと、今度は律子があやうく声を立てそうになった。室伏ナオミが、昨日箱根で殺された? ──反射的に瞼に甦《よみがえ》ったのは、昨夜八時すぎ、ダークグレーの背広を雨に湿らせて、疲れきった顔色で帰宅した夫の姿である。
彼は一昨日会社が終ってから、取引先のメーカーの幹部二人と箱根へゴルフに出かけ、仙石原で一泊して帰ってきた。風邪をひいたのは、霧雨を押して一日コースを廻ったのが悪かったらしい。──彼が律子に告げた経過はこうだった。
不二木は呆然としているのか、応接室はいっとき沈黙に支配されている。
東田が、ナオミの死体が発見された時の状況などを、なお少し説明してから、
「何か今度の事件について、お心当りはありませんか」
「いいえ、別に……」
ようやく聞こえた夫の声は、重苦しそうにかすれていた。
「失礼ですが、あなたは昨日どこかへお出かけになりましたか。会社は昨日は創立記念日でお休みだったそうですが」
再び静寂が流れた。律子には自分の心臓の音が聞こえるような気がする。
「はあ……いえ、私は、ずっと家におりました」
やがて、夫がゆっくりと答えるのが聞こえた。律子は一瞬軽い眩暈《めまい》に襲われ、それでいて、夫の口からそのような返事が出ることは、実際に聞く前から予知されていたようにも思われた。
「来客でもあって──?」
「いえ……昨日から風邪気味だったものですから、ひきこもって寝ていたんです」
「ああ」と相手は頷いたふうだ。だが、次にはやや語調を改めて、
「いずれくわしくご説明しますが、一応殺人事件と見て、小田原警察署に捜査本部が設置されています。つきましては、色々お尋ねしたいこともありますので、本部までご一緒願えませんでしょうか」
「これからですか」
「ええ。──いや勿論、任意出頭ですから、無理にとは申しませんが、ご協力くださるとありがたいんですがね」
東田の口調はあくまで丁重だが、やはりどこかに冷たい響きがあって、それがことばに一種の圧力を添えていた。
不二木は答えない。
ふいに律子は頬に血がのぼるほどの焦燥を覚えた。行かせてはならないと、直感が叫んでいる。夫が殺人を犯したとは決して思わないが、今彼らに連れていかれたら、そのまま帰れないような恐怖が噴きあげてきた。それに今日は風邪で熱があるという、正当な理由もある!
律子は応接室へ走りこんで、それを自分の口からでもいおうと思った。いざという時、夫にはどこかもう一つ気の弱いところがあるのだ。
律子の指がドアのノブに触れた時、
「わかりました。お伴しましょう」
夫の、重い溜息まじりの声が聞こえた。続いて、男たちが席を立つざわめき──。
律子はあわててその場を離れた。
夫が最初に、後から二人の刑事が玄関へ出てくると、律子は台所から、努めて屈託のない表情をつくって歩み寄った。
「これからちょっと小田原まで出掛けてくる」
不二木が低い声で告げた。律子は、夫には精一杯の抗議の目を向けた。
「そのお身体でですか」
「いや、大したことはない。行った方が、早くはっきりするんだ」
不二木はすでに何かを観念したような口吻《くちぶり》である。
「奥さん、ご心配になるほどのことはありませんよ。事情さえわかれば、今夜中に帰ってこられますよ。小田原まで、新幹線で一時間もかからないんですからね」
警視庁地方課の、やや年配の刑事がことばをそえた。律子はそれでも反対意見を吐こうとしたが、その時ドアを開けて入ってきた娘の姿を見ると、刑事たちに、
「お茶もさしあげませんで」と世間的な挨拶を口に出していた。
4
夫はまだ室伏ナオミと付合っていたのか……?
先刻夫が休んでいた寝室から、杏子の安らかな寝息が洩れ、時折遠い電車の響きが窓ガラスに伝わるほどあたりが静かさに包まれてくると、律子の想念はいっそう狂おしく、事件の上に集中した。
置時計の針は間もなく十時を指そうとしている。刑事は気休めをいっていたが、もしかしたら、今夜夫は警察に泊められるのではないだろうか……。
一昨日の夕方から昨日まで、夫が室伏ナオミと共に箱根へ出かけていたのは、ほぼまちがいない事実と考えなければならないだろう。もし彼が律子に話していた通りなら、彼は刑事にも同様に答えたはずである。それを、家で寝ていたなどと、アリバイとしてはおよそ弱い嘘を申し立てたのは、彼がナオミと二人きりで旅行していたという最悪の事態を暗示するものではあるまいか。
夫はまだナオミと|切れて《ヽヽヽ》いなかったのか?
またしても、平然と自分を裏切ったのか!
室伏ナオミの、どこか白磁の人形を連想させる冷やかな横顔が眼前をかすめると同時に、嫉妬と憎しみの混りあった火矢のようなものが、律子の身内を鋭く貫いた。
だが……ナオミの幻と入れ替って浮かびあがったのは、さっき二人の刑事に挾まれてこの家を出ていった夫の、肩を落とした後姿だった。
では、あの人がナオミを? ──まさか!
反射的な否定は、無論律子の願望でもあるが、客観的な推測といえぬこともなかった。不二木達生は、その都会的で怜悧《れいり》そうな容貌通り、優秀なビジネスマンにはちがいないが、あまり人に知られていない反面には、怯懦《きようだ》とさえいえるほど気の弱いところもある男だった。それだけに、たとえどんな状況に置かれたとしても、逆上して人を刺し殺すなどという行動に走るとは考えにくいのだ。
落着かなければいけない、と、律子は、たぎり立つ心を懸命に抑えた。落着いて、夫を救い出す手だてを見つけなければいけない。これまでにも自分は、そんな夫を精神的に支え、時には大胆な行動によって救ってきたではないか。
それが、肉体的にはごく小柄で貧弱な、人並より美しいともいえぬ律子の、愛情のかたちだった。異性の魅力には乏しくても、頼りになる妻として、夫を家庭に繋ぎとめてきたのだ。それはとりもなおさず、律子自身、かけがえのない自分の住処《すみか》を守ってきたことになるのだが。
ナオミは死んだという。今は感情を抜き去った女になって、一番大切なものを守らなければ。と、律子はようやく己の胸に刻みつけた。
律子は、八年前結婚するまで、東行金属の秘書課に勤務していた。だから前社長の室伏陽造も、妻のナオミも知っている。知っているどころか、室伏は、有能な律子に目をかけて、可愛がってくれた。当時は営業部にいて女子社員たちの人気の的だった幹部候補生の不二木を、彼女らのことばを借りれば|射止める《ヽヽヽヽ》ことができたのも、仲人好きな社長の肝煎《きもいり》といわねばならない。律子は以前から不二木に憧れに似た好意を抱いていたが、彼の方では別段彼女を意識していたようではないから。だが、社長に奨められ、また不二木も他人には見せない自分の性格的な弱さを心得ていて、恋愛の相手ならいざしらず、結婚の対象には律子みたいな女性が適当だと判断したらしい。
結婚式には社長自ら媒酌人を勤めてくれて、律子は退社して家庭に入った。
翌年には杏子が生まれ、間もなく不二木は課長に昇進した。律子には平穏で満ち足りた日々が続いた。
だが──夫とナオミの関係に気づいたのは、昨年の初秋である。
ナオミは室伏の後妻で、二人は二十歳余りも齢が開いていた。室伏は最初の妻に病死され、今から約十年前に、四十代で、取引先の社長の娘である二十三歳のナオミと再婚している。ナオミは初婚だが、何かのパーティで知合った室伏の男盛りの魅力に捉えられ、自分から父親に働きかけて後妻に納まったという評判である。
裕福な家庭に育ち、ノーブルな美貌にも恵まれたナオミは、時折会社へ姿を見せても、人目を惹く大胆な装いで、態度にも驕慢さをちらつかせていたから、陰では女子社員たちの槍玉にあげられていた。先妻には二人の娘があり、すでに縁づいている。ほかにも室伏には隠し子があるなどという噂が流れたこともあったが、ともあれ、ナオミとの間には子供はいない。
昨年の九月初め、律子は着物の展示会を見に都心部のホテルへ出かけ、入れちがいにロビーを横切っていく夫とナオミの姿を見かけた。ナオミは濃いサングラスをかけ、不二木は心なしかうつむき勝ちに歩いていたが、律子は一目で二人を見極め、ある直感で彼らの間柄を洞察した。
その疑いを持って思い返してみれば、当時の不二木には帰宅が深夜に及ぶ日が頻繁だった。脱ぎすてられたワイシャツに、高級化粧品の香が漂う夜もあったが、律子はそこから生まれる疑惑を、自ら封じるように努めていた。帰宅は遅くとも、家に入れば特に横暴でも気難しくもなく、子供にも優しい父親なのだ。なまじ妻が騒ぎ立てたために、行きずりの浮気が本物になってしまったといった、世間の轍《てつ》は踏みたくない。──いわばそんな「分別」で、いったん燃えさかれば止めようもない嫉妬と怨嗟《えんさ》の焔《ほむら》を、胸の奥底に封じこめていたのかもわからない。
それをさせたのは、律子の自尊心であり、保身本能でもあったにちがいない。
だが、こともあろうに、夫が社長夫人のナオミと──?
この確信的な推察は、それまでのギリギリの平衡を一挙に覆《くつがえ》した。二人の関係が室伏に発覚すれば? ──もはや律子の気持などお構いなしに、彼の怒りと処断が二人の上に炸裂するだろう。それは律子の自尊心と、かけがえのない住処との両方を、同時に粉々に圧し潰してしまうのではあるまいか。
今後は細心に夫を観察し、場合によっては室伏に直訴すると脅しても、キッパリ別れさせなければと、律子は決心した。
だが、彼女が行動を起こす前に、いきなり最悪の事態が訪れた。
突然室伏から律子に電話がかかり、夜自宅へ呼ばれた。彼女がホテルで夫とナオミの姿を見かけた一週間後のことで、夫は関西へ出張していた。
室伏の家は高輪の屋敷町にあり、夫婦と室伏の母の三人暮らしに、家政婦が通ってきていた。
律子が訪れた時には、室伏が自ら玄関に現われて、広い応接室へ上らせた。邸内はシンと静まり、ナオミは実家へ帰してあると、彼は最初に宣言する口調でいった。
それによって一層強められた律子の暗い予感は的中した。
「率直に話す。最近ナオミの素振りが不審なことや、妙な噂が耳に入ったりもしたので、信用できる私立探偵社に、あれの素行を調査させていた。その報告が一昨日届いたのだが、それによれば、ナオミは不二木君と不倫な関係に陥っていた」
半白の髪をオールバックにし、その豊かなうねりが端整な顔立ちに風格を添えている五十五歳の社長は、感情を押し殺した明確な声で律子に告げた。
「昨日、二人に対して、別々に追及したところ、どちらも事実を認めた。証拠をつきつけられて、観念したのだろう。それから今日、私は別の必要から、経理担当重役に帳簿を監査させた。ところがその結果、不二木君は今年になってから二回、合計約百万円の金を仮払金の名目で引き出し、流用していたことが判明した」
「主人が、会社のお金を──?」
この時だけ、律子は思わず鋭い声で問い返した。
「そうだ。私が推察するに、彼はナオミと密会するたびに、その費用をいつもあれに負担させるのが心苦しくて、会社の金をごまかして小遣に充《あ》てていたのではないか」
いえ、ほかのことはいざしらず、金の問題に限って、主人は決して……と声を張りあげたい気持を、律子は懸命にこらえた。
律子は約三年間の秘書課勤務の経験で、室伏の人柄を知り抜いていた。彼には愛妻家で親孝行の定評があり、会社の内外で概ね、度量が広く、人情味のあつい人物として通っていた。だがそれはあくまで彼に忠実な相手にのみ顕わす美点で、ひとたび敵に廻ったり、裏切り行為を働いた者に対しては、驚くほどの冷酷さと執拗さで報復せずにはおさまらないのだ。
「そういうわけだから、私はナオミと離別し、不二木君を解雇する決心をした。無論こんなことをわざわざ君に断わる必要はないのだが、君は在社当時よく私に尽してくれたし、君がもし何も事情を知らず、突然の処置にうろたえては可哀想だと思って、一応耳に入れておくつもりで呼んだのだ」
室伏は、律子の手首に巻かれた、自分が結婚祝いに贈ったオメガの金時計に目を注ぎながら、わずかばかり語気を緩めた。
結局律子は、ひと言も抗弁を口にしなかった。今それは、一層彼を激昂させ、事態を悪化させるだけだと判断して、唇をかみしめて耐え抜いたのだ。
ともかくも穏便な処置をと、哀願するように頭をさげた時、惨めさが律子の頬を濡らした。
もとはといえば自分を裏切った夫のために、こんな思いまでしなければならないのか。
こんなにまでしなければ、自分もまた生きるすべはないのか。
いく重もの屈辱に、律子は心が真赤に染まるような気がした。
翌日、出張帰りの夫を難詰した。
彼は、なるほどすでに社長の糾問を受けた様子で、ナオミとのことは、最初は向うから誘われて、断われなかった、すまなかったと首をうなだれた。しかし、これは社長にも釈明したが、使い込みの疑いだけは、言い掛りにひとしい。あの金は取引先のリベートに使ったもので、リベートには領収書が取れないから証拠を示せないが、営業部の人間がその種の金を仮払金の名目で引き出すことは、これまでにも珍しい例ではない。社長もそんなことは百も承知の上で、言い掛りをつけて、表向きの解雇の理由をつくろうとしているのだ、とのべた。
金の一件については、律子も九分通り夫の方を信じた。たとえ主に逢引きの費用に充てられたとしても、もし夫が急に不自然な大金を持つようになれば、なんとなくその気配が家庭でも感じられたはずである。
「たとえ馘《くび》にされても、これだけは白黒つけさせる。それまではテコでも会社を動かないつもりだ」
不二木は語勢荒くいい切ったが、その顔は色を失い、内心は困惑と心配に生きた空もないほどなのを、律子は見抜いていた。
しかし、間もなく、第二の展開が発生した。
まだ表面的には事態が何の進展も見せていなかった三日後の土曜日の夜、室伏は静養先の北鎌倉のマンション形式の別荘で、殺害されたのである。
読書家の彼は、月のうち二、三回、週末をそこですごす習慣で、その日は一人で出かけていた。
死体は日曜日の午後、同じマンションの一室を所有している友人の実業家に発見された。室伏の部屋のドアは鍵がかかってなく、彼は居間で、側頭部をガラスの灰皿で殴られた上、ガウンの紐《ひも》で首を絞められていた。死亡は土曜日の夜十時前後と推定され、室内には物色の形跡が認められた。
ナオミと不二木との関係はまだ外部に洩れていなかったが、ナオミは妻として、また不二木も最近の会計監査でちょっと問題が生じていたことが重役の口から伝わったため、相当に峻烈な取調べを受けた模様である。だが、結局二人共一応アリバイが成立して、最終的には容疑を免れた。不二木は当夜、学生時代の友人宅を訪問していたことがその友人の証言で認められ、ナオミは実家にいたと主張し続けた。ナオミの場合は証人が肉親だけだから弱いわけだが、かといって、彼女が密かに北鎌倉へ出かけて犯行したという裏付けも、捜査側は掴めなかったようである。
結局、事件は流しの物盗りの犯行であろうという推測のうちに、事実上捜査本部は解散した。
会社は室伏の女婿《じよせい》が後を継いで社長に就任し、不二木の仮払金の一件については、やはり彼の言い分が正当であったのか、その後問題にもならず、彼は間もなく資材部に異動しただけで、順調な勤務を続けた。
ナオミは相当の遺産を相続して、青山のマンションへ移ったと聞いたが、事件以後、夫の身辺にナオミの匂いを感じたことはなかった。火遊びがもう少しで命取りになる危機を味わって、彼も懲《こ》りたのにちがいないと、律子は安堵していた。
ところが、二人はまたヨリを戻していたのだろうか──?
しかしまた、夫がナオミを殺す理由はないはずである。室伏のいない今ではなおのこと。
いや、理由という以前に、あの人に殺人を犯せるわけがない!
電話のベルが、律子の思考を破った。
最初女の声が事務的にこちらの番号を確かめ、続いて不二木に替った。
「──ああ、今ひとまず解放されたんだけど、疲労|困憊《こんぱい》でね。小田原の旅館に部屋をとったんだよ。……今夜こちらにこられないだろうか。杏子は母に頼んで……いや、あっちにはまだ何もいわないようにね……」
夫の声は、別人のように老けこんで聞こえた。
5
「一昨日と昨日は、確かにナオミといっしょに箱根へ旅行していた。小涌谷のYホテルで一泊した。これについては、一言もない」
小田原城址に近いしもた屋風の旅館の一室で二人きりになるなり、不二木は浴衣の膝に手を置いて、律子に向かって頭を垂れた。わずかの時間に、頬が殺《そ》げ落ちたようにやつれ、それでいて皮膚は不自然な赤みを帯びている。また熱が出はじめているのかもしれないと、律子は一層胸が重くなった。背後に敷かれている布団に、今までは横になっていたのであろう。
「社長があんなことになって以来、キッパリ別れたつもりだったが、夏ごろまたナオミが誘いをかけてきたんだ。しかし、遠出したのは一昨日が最初だ。別に前より深入りしていたつもりはない。ましてぼくがナオミを……そんなことは絶対にしていない!」
叫ぶようにいってから、不二木は苦しげに咳きこんだ。
「警察ではあなたを疑っているんですか」
「もうぼくを犯人と決めてかかっているみたいだ。さすがに今夜はまだ逮捕状がとれなかったらしく、参考人を一晩でも泊めるわけにはいかないから、一応帰してくれたんだが、しかし明日もう一度出頭しろという。また東京からではたまらないから、ここに泊ることにした……」
彼は咳のあとのうるんだ目で、粗末な六畳間を見廻した。
「でも、どうしてあなたがそんなに疑われるのかしら」
律子は努めて静かな声で訊いた。奇妙なことに、夫が取り乱し、性格的な弱さをさらけ出すのを見ると、いつも律子は逆に肚《はら》がすわってくるのだった。
「とにかく、ナオミとずっと行動を共にしていたのだから……。昨日三時半ごろYホテルを出て、タクシーで早雲山まで行き、ロープウェイに乗った。天気が悪いので、湖尻から湯本におりて、そのまま小田急で帰るつもりだった……」
二人が早雲山から乗りこんだ時、同じ搬器に合計数人が乗り合せていたように思うという。二人は、後方の、ドアとは反対側の窓寄りに並んで立っていたのだが、早雲山から大涌谷を経て、姥子駅に入るまでの約二十五分間に、急に二人の間の空気が険悪になってしまった。いや、よく思い返してみれば、早雲山に来るタクシーの中から、多少その兆はあった。ナオミが、実家の方で良い縁談が持ちあがっているとほのめかしたのに対し、不二木がショックを示すどころか、婉曲《えんきよく》に再婚を勧めるような意見を吐いたことが、彼女のプライドを傷つけたらしい。
「ナオミは、内心では大いにその縁談に傾斜しているくせに、ぼくには行かないでくれと哀願させたいのだ。あいつはそんな女だ。大体ふだんから、ちょっとしたことで急に不機嫌になったり、怒り出すと聞くに耐えないようなことまで口走る女だったが、あの時もぼくは思わずムッとなって、姥子に着いた時≪今日はここで別れよう≫といって、咄嗟《とつさ》に一人で降りてしまったのだ。いっしょに二、三人が降りた。函の中に残ったのは、ナオミ一人か、ほかにも誰かいたのか、全然憶えがない。後もふりむかずに、階段をかけおりてしまったからね。今思えば、そうした偶然が全部、ぼくを窮地に陥れている……」
彼が降りたあとの搬器が終着の桃源台へ着いた時、ナオミは腹を刺されて倒れていた。函の中はナオミ一人で、ガラスが叩き割られ、ドアの掛け金が外れていたなどの状況を、律子ははじめてくわしく聞いた。
「ところが、姥子の駅員は、ぼくが降りたことを記憶していない。フォームはうす暗かったし、降りたのはぼく一人じゃなかったのだから、それは致し方ないとしても……その駅員は、函が動き出した時、中にはナオミのほかにもう一人男がいたように思うと証言し、おまけにそいつがぼんやり憶えているというその男の年恰好が、なんとなくぼくに似ていたらしいんだ」
「………」
「もう一つ、不利な証拠がある。ぼくにはまったく解せないんだが……姥子と桃源台の間で、17番鉄塔の下の、ケーブルから地上まで三メートル余りしかない斜面の上に、窓ガラスの破片といっしょに、ぼくのライターが落ちていたというんだ。いや、さっき見せられた時には、咄嗟に見憶えがないと答えてしまったんだが、確かにぼくのロンソンのガスライターだった。いずれ警察はそれを調べ出すだろう。しかし、ぼくは一昨日の晩、そのライターをYホテルの食堂に置き忘れたんだ。朝発つ前に気がついて、メイドに調べてもらったが、見当らなかった……」
「………」
「とにかくそんなことで、警察では、姥子を出たあと問題の函の中は、ナオミとぼくと二人きりで、ぼくがナオミを刺し、ガラスを叩き割ってドアを開けて逃走したと睨んでいる。とび降りた拍子にライターを落とした……」
「でも、ナオミさんのお腹に突き刺さっていたナイフは? まさかそれまであなたのものではないんでしょう?」
「折り畳み式の大型果物ナイフでね。柄には一個も指紋が付いていなかったそうだ。ぼくも見せられたけど、本当に全然見憶えのない品だった。誰のものか、まだはっきりしてないらしいが、たとえぼくのでないことが判明しても、ナオミが持ち歩いていて、それをぼくが奪って刺したと考えられれば……」
「では、あなたが確かに姥子で降りたことを証明する方法はないの。フォームの係が忘れていても、ほかにも駅員がいるはずだし……」
「それがだめなんだ」
不二木はうなだれた頭を、重い振子のように左右に動かした。
「警察でもその辺は念を押して調べたらしいんだが、誰もぼくの顔を記憶していなかった。あんな天気で、駅全体が穴ぐらみたいに暗くて、霧も流れこんでいたからねえ。──ぼくは姥子で降りたあと、バスで湯本まで下り、小田急で帰ってきたから、その間を丹念に聞込みしてもらえば、あるいはどこかでぼくを見憶えている人があるかもしれないが、しかし、その帰り途が証明されても何にもならないんだ。ぼくがロープウェイからとび降りたあと、話の辻褄《つじつま》を合わすために、姥子まで歩いて戻り、バスに乗ったと、奴らは邪推するかもしれない」
「それでは、どうすればいいの」
さすがに律子も溜息を洩らした。
「一体真相はどうなっているのかしら」
「ぼくはやってないんだ!」
不二木は律子まで自分を疑っていると解釈したのか、ふいに熱で充血したような目を凝らして妻を見据えた。
「いや、ぼくにはおよその見当はついているんだ。──ぼくが姥子で降りたあと、残ったのはナオミ一人だったのだ。駅員が、あと一人男が乗っていたなどと答えたのは、刑事に誘導されたのか、それとも目の錯覚だったにちがいない。それでナオミは、面当てに自殺した上、ぼくに罪を着せようと謀《はか》った。ナイフはバックの中にでも持ち歩いていたのだろう。柄から指紋が検出されなかったことで、警察では他殺の見方を固めたらしいが、たとえばコートの裾《すそ》を当てがって握れば、指紋は残らない。勿論その前に、あいつはドライバーでガラスを割り、ドアの掛け金を外した上、ぼくのライターを斜面に落とした。ライターはきっと前夜から隠していたんだ。──そうだ。もしかしたらあいつは、ぼくの情熱がもうさめかけているのを見抜いて、ぼくを陥れるチャンスを狙っていたのかもしれない。だから、ライターもそのために盗み取ったのだ。ああ、ぼくはまんまと、あいつの罠にはめられてしまった……」
不二木の乾ききった唇から、次第にうわずった声が迸《ほとばし》り続けた。
発作的な行動ならいざ知らず、ナオミが、以前から計画して、不二木に罪を着せるために自殺したとは、正直なところ律子には考えにくい。あのナオミが、それほど命がけで夫に打ちこんでいただろうか? ──いや、もし彼の情熱がさめたと知れば、さっさと再婚するか、もっと新鮮な情人を見つけるのではないか。三十三歳のナオミは、まだ十分に若くて魅力的だし、不二木が考えているより遙かに自己愛の強い享楽的な女だったはずだと、律子は同性の直感で見抜いている。
しかしまた、それは夫も指摘する通り、ナオミは人一倍プライドが高くて、激しやすい性格だったようだ。ロープウェイの途中で、もし彼が何かひどく侮辱的なことばを吐いたとしたら、あるいは激昂のあまり、発作的に自殺して彼に殺人の罪を着せようとしなかったとも限らない。
また、夫の無実を信じる限り、そんなふうにでも解釈しなければ、説明がつかないのではないか。
律子はともかく夫を横にならせ、布団をかけながら、そっとのぞきこんだ。
「ナオミさんの自殺を立証する方法はあるかしら」
彼は形のよい眉をひそめて、宙を凝視していたが、
「つまり……箱根を旅行中、ナオミとぼくは険悪な状態に陥っていた。しかしぼくにはナオミを殺すほどの動機はない。一方ナオミはぼくが冷たくなったのをひどく恨み、絶望的になっていた。──こういう事情を、一つ一つ順序立てて証明し、納得させるしかないのじゃないだろうか……」
それが実際にどれほど困難でも、夫に逮捕状が執行される前に、やり遂げなければならないと、律子は冷たい決意を固めた。逮捕されてしまえば、当然会社に聞こえ、新聞にも名前が出る。たとえ後で不起訴になっても、夫の社会的将来はもはや絶望的であろう。そしてそれは、律子自身の世界が暗黒の色に塗りつぶされることにひとしかった。
6
小涌谷のYホテルは、急傾斜な山腹の濃い緑の間に、クリーム色の瀟洒《しようしや》な洋館をのぞかせていた。
強羅、早雲山、元箱根へと、ドライブウェイが岐《わか》れる三つ角から、桜並木の私道をのぼるにつれて、樹林に被われた広大なスロープの先に、駒ヶ岳らしいうすい紺青の山容が望まれた。空はうす曇だが霧は少く、視界は明るい。代りに、温暖な小田原とは比較にならないほど、空気が冷え冷えと引きしまっていた。
律子が着いた翌日も、不二木は前日指定された朝十時に、小田原警察に出頭していった。不眠らしく腫《は》れぼったい目をして、朝食も進まぬ様子だったが、熱はひとまず下っていた。でも夜になると、また出てくるかもしれない。そんなことを繰り返した揚句に高熱を発した経験があるだけに、律子にはその方も気がかりである。
が、ともかく彼女の夫の指示通り、東京の会社へ電話を入れ、風邪が悪化したので欠勤すると届けておいた。次には杏子を預けてきた夫の実家に、出張先で熱を出した彼の具合が思わしくないので、しばらく杏子を実家から通学させてほしいと頼んだ。
夫が一人で出頭したあと、律子は念のためYホテルへ出向いてみることにした。一晩思い悩んでも、「ナオミの自殺」を立証するこれという方策が浮かんだわけではなく、事件の前夜二人が投宿したホテルで様子を尋ねてみるくらいしか考えつかなかったのだ。
ガラス張りのロビーは、空間に張り出したようになっていて、一段と眺望がひろやかだった。チェックアウトタイムもすぎた昼まえの時間帯で、全体に静かな雰囲気である。
律子は客のいないフロントのカウンターへ歩み寄った。
「あの、ルームメイドの川合美恵子さんはおられますかしら」
「はあ……失礼ですが、どちらさまでしょうか」
「不二木と申します。前にとてもお世話になったものですから」
それで、係は律子が以前宿泊した客と思いこんだらしく、愛想のいい微笑を浮かべて、内側へひっこんだ。少しして戻ってきて、「今呼んでおりますから、あちらでお待ちください」とロビーの奥を示した。
不二木とナオミがここに投宿したさいのルームメイドの名は、不二木から昨夜教えられていた。四十すぎの感じのいい女《ひと》だったそうで、彼はチップをはずみ、ナオミがバスを使っている間箱根の話などして、名前も聞いていたのである。
ともかく彼女がいるというので、律子はホッとした。
鉢植の陰になるセットを選んで腰をおろしていると、十分ほどして、ホテルのお仕着せらしい紫の矢絣《やがすり》を着た大柄な女性が訝《いぶか》るような眼差を向けながら近づいてきた。
「あの、川合ですが……」
小腰を屈めて、やわらかな低音の声で訊いた。扁平な顔立ちで、受け唇《くち》で銀歯が光った。律子も立ちあがって、
「どうもお呼び立てしてすみません。実はちょっと……折入ってお願いがありまして」
「私に……?」
相手は一段と不審そうに目を細めたが、律子がすわると、向かいあった椅子に浅く腰かけた。
「──実は、私は、十七日の晩こちらに泊って、あなたのお世話になった不二木の家内ですの」
「……?」
「不二木といってもおわかりにならないかもしれませんね。主人たちは偽名を使っていたようですから。でも、十八日の事件はご存知でしょう、箱根ロープウェイで……」
あっという表情が、美恵子の顔面を横切った。
「あの時のお客さまの、奥さん……?」
「聞いていらっしゃるのですね」
「はい。警察からも度々問合せを受けましたから……」
まじまじと律子を眺めていた視線を、急に膝に落とした。
今度は律子がそっと相手を観察した。なるほど四十年配で、結婚の経験もありそうに見える。どんな事情でここで働いているのか。──率直に打ちあければ、律子の妻としての苦衷も、察してもらえるかもしれない。
「警察からはどんなふうに伝わっているか存じませんけれど……実はあの事件で、主人も容疑者の一人にされているらしいのです。連れのナオミさんと喧嘩して、刺し殺して逃げたのではないかと。でも、私には到底信じられませんの。主人は、根は気の優しい人で、人を殺すなんて、できるはずがないんです」
話すうちに、律子は自然に涙が滲《にじ》んできた。
美恵子は痛々しそうに眉をひそめて、ゆっくり頷いた。
「そうでしょうねえ。──私も警察から、お二人が泊られた時の様子なんかを色々尋ねられたんですけど……あの方がそんなことをなさるなんて、どうしても納得できなくて……」
考え深い喋り方は、単なる社交辞令とは感じられなかった。不二木が彼女を讃めたと同じに、彼女も彼に好印象を抱いているのかもしれない。
「でも警察では、二人は内心では憎みあっていて、些細《ささい》な口論からそれが爆発したと解釈しているみたいなんです。──ここでもそんな気配があったのでしょうか」
「いいえ」と美恵子は真剣な顔で首を振った。
「それは私、刑事さんにも話したんですが……」
それから少し気まずい表情で唇をすぼめながら、
「奥さまにこんなことを申したらなんですけど、とても睦《むつ》まじそうになさってらしたんですよ。ここでは和室のお客さまでもお食事は食堂まで出てきていただくんですが、その時にも肩を並べて……」
律子の顔色を見て、美恵子はことば半分で口をつぐんだ。
思わず固く閉じ合せた瞼の裏で、何か青黒い炎の渦みたいなものが巻きあがるのを、律子はジッと耐えていた。それは、光に向けていた目で、いきなり暗い樹間をのぞいた時の感覚にも似ていた。
「ここに、着いてから──」
律子は話し続けることで、どうにか自分を支えようとした。
「発つまで、ずっとそんなふうだったのでしょうか」
「そうですわね。私がお見うけした限りでは、とてもそんな憎みあっていたなんて、想像もつきません……」
遠慮がちだが、真実味のこもった口吻だった。すると、夫がいってたように、ナオミが彼の冷却を恨み、自棄的になっていたという自殺の|素地《ヽヽ》をここで立証するのは無理なのではないか……。
それに、ライターの一件も切り離せない。
「主人は食堂でライターを置き忘れたとか……?」
「ああ、そうおっしゃってましたね」
これも自然な感じで頷いた。
「朝ロビーまでお送りした時思い出されたものですから、私がフロントに尋ねたり、食堂まで捜しに行ったりもしたんですが、結局見当らず終《じま》いで……それで、もし後で出てきたらあんたにあげるよなんて冗談をおっしゃられてお発ちになったんですけど……」
「ロビーで? ──では、その時そばにナオミさんもいたのですね」
「はい。見当らないとわかると、お二人でちょっと顔を見合せたりなさっていました」
律子は次第に心が萎《な》える気がした。美恵子の話を信じる限り、少くともこのホテルを出るまでは、二人は円満なムードだったらしい。それならば、ナオミが後で不二木を冤罪《えんざい》に落とす証拠品として、彼のライターをひそかに取りあげていたなどとは考えにくい。彼がライターを捜していることをナオミが知らずに保管していたというのなら別なのだが。
やはりナオミの自殺という夫の主張は、強引すぎるのではあるまいか。
では、彼が殺《や》ったのか? ──ちがう! と今も律子の本能が叫ぶのだ。
第一、不二木には、ナオミを殺すほどの理由はなかったはずである。仲よくホテルを出た二人が、ロープウェイの函の中で突発的に喧嘩をはじめたとしても、それだけで彼がナオミを殺害するほど、二人は複雑な立場で絡《から》みあっていただろうか? 例えば、かつて二人が共謀して室伏を殺したとでもいうのならいざ知らず……いや、どんな場合にも、不二木は殺人のできる男ではない!
律子は、頭の中が揺らぐような、急激な眩暈《めまい》に襲われた。
その波が過ぎた時、彼女の脳裡に、これまで考えもしなかった一つの想像が、突然ポッカリと浮かびあがった。
この事件には、もう一人、陰の人物が動いていたのではないだろうか。その男は、ひそかに二人につきまとい、食堂のテーブルに不二木が置き忘れたライターを盗んだ。次に彼は、ロープウェイの中でナオミを刺し、ガラスを割って脱出するさい、不二木の犯行と見せかけるために、そのライターを叢《くさむら》に落としていった……?
姥子駅の職員は、問題の搬器が下っていく時、ナオミのほかにもう一人男の顔を見たような気がすると証言している!
「妙なことをうかがいますが」
律子はかすかに慄《ふる》える声を押えて、
「主人たちは、誰かに尾《つ》けられていたような気配はなかったでしょうか」
美恵子は一瞬戸惑った表情で一重瞼を見張り、それから記憶をたぐる眼差になった。
律子にはずいぶん長く感じられる沈黙が流れた。やがて、
「これは関係のないことかもしれませんが……私がお茶を運んでお部屋を出ました時に、ドアの前に男の人が一人立っていたんです。それまではドアの番号を眺めていたみたいな感じでしたが、私が出ていったら、何気ないふうに廊下を歩いていってしまったのですが。でも、よくご自分のルームがわからなくなって、ウロウロなさっている団体のお客さまなどもあるものですから、今まで気にもせずに忘れていたんですけれど……」
「それは……その人はどんな人でした?」
「そうおっしゃられても、あまり注意して見なかったものですから……紺か黒の背広を着て、痩せ型の、割に若い男……」
美恵子は、まだそれが事件と直接関係があるとは信じられない顔つきである。
だが、黒っぽい背広の痩せた男といえば、あの日の不二木と似ているのだ。姥子の駅員が霧の中で見誤ってもやむを得ない程度に!
律子は短い挨拶に感謝をこめて立ちあがった。
7
タクシーで早雲山から姥子へ下るあたりから、樹林の表面にうっすらとした霧の幕がたちこめてきた。曇った日は、午後から霧が出やすいのかもしれない。
箱根ロープウェイ姥子駅の古びた三角屋根の建物も、白濁した空気に包まれ、その底には温泉場特有の硫黄の匂いがかすかに漂っていた。
少い乗客が、それでもさほど途切れずに通過している改札口の横に、九十秒間隔運転中の札がさがっている。
冷たい風の吹き流れる待合室の隅で律子と向かいあった大原和利は、なぜか怯《おび》えたような硬い眼差で、しばらくは口を開こうとしなかった。突然訪ねてきた不二木の妻が、「事件のことで」と断わった上、ちょうど切符売り場にいた彼を呼び出すなり、性急な質問を浴びせてきたので、うす気味悪くなったのかもしれない。職場のせいか日|灼《や》けしてない色白の童顔で、小さな丸い目が生真面目な性格を感じさせる。
「──いえ、確かにご主人が搬器の中に残っていらしたと、いったわけではないのです」
律子の凝視に促されて、大原はようやく、喉につかえたような声で答えた。
「あの女性のほかに、本当にもう一人乗っていたかどうか……そんな感じがするといっただけなんですが、警察で遠くからご主人を見せられましてね。あの男ではなかったかとしつこく訊かれたもんで……似ているような気がすると……」
「それは正直な答えなのですか。──あなたが事件の日に霧の中で見た男は、本当に主人に似ていたのですか」
大原は、いつか律子の背後の、かすんだ空間に目を凝らしていた。まるでふと彼女の存在を忘れ、自分の内部の何かを見極めているような、複雑な翳りを漂わせた眸……。
それがようやく、のろのろと律子に注がれた。
「今朝、ぼくは夢を見たんですよ」
その声も、これまでの言訳めいた口調とはちがって、奇妙な当惑を含んでいた。
「夢……?」
「何度もいうように、ぼくには、確かな自信がなかったんです。一度だけその男がこっちに顔を向けて、目を見合せたような気もするんですが、全部が錯覚だったみたいでもあるし……ところが、今朝その男が夢に現われたんです」
「………」
「あの日とそっくりの状態で、ぼくが搬器を押し出した時、ドアの右側に腰かけていた男が、ふとこちらを向いた。夢の中でも霧が流れていて……ただあの日とちがうのは、ぼくははっきりとその男の顔を見たんです」
「その顔は……主人だったのですか」
大原は一度ゆっくりと首を横に振った。
「もう少し髪が長くて、ずっと若い男だった。眩しそうな目つきで、右目の下に、黒子《ほくろ》か傷か、小さな黒い汚点《しみ》みたいなものがついていた」
「それは、あなたの知っている人……?」
「いいえ、全然知らない男なんです。だから不思議なんですね。もしかしたら、自分でははっきり憶えていないつもりの顔が、無意識のうちに瞼に焼きついていて、それが夢に現われたのだろうか。──実は、今朝起きた時には、すぐにそのことを警察にいいに行こうと思ったんですが、時間がたつにつれて、なんだか笑われそうな気もするし……」
大原は心から不可解らしく、紺のユニフォームの袖をこすりながら溜息をついた。
「右目の下に黒子か傷痕のある若い男……」
律子は縋《すが》るような気持で、そのイメージを反復した。
小田原の旅館へ帰り着いた時は、三時近くになっていた。
不二木はすでに戻っていて、床についていた。顔色が赤黒く、肌は粉をふいたように乾いている。部屋には消毒薬の匂いがたちこめていた。
「今医者が帰ったところだ」
不二木は目だけで律子を迎えて、低い声でいった。
「昼すぎからまた熱が出てね。警察から帰ってすぐ往診を頼んだ。肺炎の初期だそうで、入院が望ましいが、それが無理でも絶対安静といわれたよ」
「ええ……」
「家内と相談してからと答えておいたけど……この際入院した方が何かと安全なんじゃないかと思ってねえ……」
安全、ということばにこめられた複雑な響きが、律子の胸を強張らせた。
「警察では、何か変ったことでも──?」
「ケーブルの下に落ちていたライターは、やはりぼくのものだと判明してしまった。ぼくの指紋が採れた上、東京で会社の人間に確かめたらしい。そうなると、最初にぼくが否定したために、一層心証が不利になった。──恐らく奴らは、ぼくがこんな状態なので今日は帰したが、身体の回復を待って逮捕状を……」
最後は喉がつかえ、眉をしかめて横を向いた。
「そのライターのことですけど」
律子はYホテルのメイドに聞いた通りを彼に伝えた。
「本当いって、あなた方の間が旅行前から冷たくなっていたというのは嘘でしょう? もしナオミさんが自殺してあなたに罪を着せようとしたとしても、それは喧嘩後の発作的な行動だわね?」
答えはなかったが、壁に向かったままの横顔は、妻のことばを認めていた。
「それなら、彼女がホテルでひそかにライターを盗み取っていたとは考えられないわね。本当は、あなたが食堂のテーブルに置き忘れたあと、誰かに盗まれたんじゃないかしら」
「誰か……?」
不二木はゆっくりと首を戻した。
「ねえ、あの旅行中、誰かに尾行されているような感じはしなかった?」
「さあ……しかし、今さら誰が何のためにぼくらの後を尾けるのだ?」
「多分、犯人は、ナオミさんに──もしかしたら彼女とあなたの両方に、怨みを抱いていた。ナオミさんを殺してあなたに罪を着せるチャンスを狙って、つけ廻していた。だからあなた方の部屋を窺ったり、ライターを盗んだりしたのだわ」
「………」
「ロープウェイの途中で喧嘩になって、あなたが姥子で降りてしまい、ナオミさんとその男が二人だけ残った時、彼は絶好のチャンスだと思った。矢庭にナオミさんを刺し、ドアを開けてとび降りた。逃げる時、|証拠品《ヽヽヽ》のライターを、叢に落としていった……」
「………」
「あなた方を深く怨んでいた若い男に心当りない? 警察の捜査にもひっかからない陰の存在。それに多分あなた方二人共、そいつの顔を知らなかったのよ。ロープウェイの同じ函に乗り合せても、気がつかなかったのだから」
「しかし、どうしてぼくらが、それほど怨まれるのだろう。それは、社長が生きていれば、ぼくらを殺したいほど憎むかもしれないが──」
「犯人は、たとえばあなた方二人が社長を謀殺したと思いこんでいるとしたら、その復讐として……」
「馬鹿な。ぼくもナオミもちゃんとアリバイが成立している」
「でも敵はそれを偽アリバイだと思って、警察は見逃しても、自分の手で復讐しようと考えたのかもしれないわ。つまり、犯人はそれほど室伏さんを、多分愛していた……」
ふと、不二木の視線が止り、いっとき荒い呼吸だけをくり返していたが、
「いつか……ずいぶん昔、社長がこんな話をしていたことがあったなあ。まだ君とは婚約時代で、社長に媒酌をたのんだ直後だ。取引先の接待の帰り、社長と専務とぼくと、銀座のバーで飲んでいて、社長は上機嫌だった……」
室伏は、まだ先妻が長い闘病生活を送っていたころ、だから今から数えて二十年近くも前、情を交した女があった。二人は激しく燃えたが、相手は人妻で、勤め人の夫との間に幼い娘もあり、室伏も病妻を抱えていては、どうすることもできなかった。やがて室伏の妻は何も知らずに死んだが、相手の立場は変らず、夫が誠実で欠点のない人だけに、離婚が切り出せなかった。二人の関係はその後もひそかに続いたが、室伏に古い取引先の社長の懇望でナオミとの縁談が持ち上り、再婚と同時に、女とはキッパリ別れた。だが、今でもどうしているかと、その女の面影が念頭を離れたことはないと、室伏は酒に赤らんだ目に、めずらしく潤んだ光をたたえて語ったという。
「それから間もなく、社長には二号があるとか、隠し子がいるなんて噂が社内に流れたことがあったが、それは専務が今の話に尾鰭《おひれ》をつけて喋ったんだろう。──それはともかく、もしその女が、何らかの事情で、ぼくとナオミが社長を殺したと思いこんだとしたら──?」
「でも、相手は女なのね」
「ああ。社長の話しぶりでは、そんなに齢がちがわないみたいだったから、若くても今では五十を越しているはずだ……」
律子はなかば失望したものの、意外な話だけに、気持が拘泥《こだわ》った。それに、ほかに幻のような男を捜す手立てもない。
「その女の消息は、どうしたら掴めるかしら」
「うむ……ぼくらは名前も聞かなかったが、……もしかしたら、社長のお袋さんが知っているかもしれないな。もう八十に手が届くだろうが、女子大出の賢婦人だったらしくてね、社長はお袋さんには何でも打ちあけて相談するという話を聞いたことがある……」
8
室伏陽造の死後、高輪の屋敷は処分され、老母は白金台の姪の家に身を寄せていた。室伏は一人息子だったから、本来なら老母はナオミといっしょに暮らすべきところかもしれないが、二人はソリが合わなかったようである。
小田原の私立病院で夫の入院の手続きをすませ、翌日ひとまず帰京した律子は、昼すぎにはその老母を訪ねて、室伏と問題の人妻との経緯《いきさつ》を聞き出すのに成功した。彼女が息子から打ちあけられていたとしても、こちらがそれを尋ねる口実を、律子は道すがらあれこれ思い迷っていたが、いざ会ってみると、老婦人の口からは留《とど》まるところもなく昔話がすべり出た。財産はあっても、姪の婚家で孤独な明け暮れを送っている彼女は、息子の思い出を語る相手に飢えていたのかもしれない。
人妻の名は、網野八重子。室伏より四、五歳年下だったというから、今ではやはり五十一、二歳となっているはずだ。二人が知合った端緒は、八重子が、室伏が懇意にしていた料理屋の女将と女学校時代の親友で、八重子がその店に何かの用できていた折、偶然室伏と顔を合わせて、紹介されたのだという。
室伏がナオミと再婚して、二人の関係は解消したかに見えた。ところが数年して、八重子の夫が病死し、彼女がまだ高校に通っている二人の子供を抱えて苦労していると人づてに聞いた室伏は、それ以後は経済的な援助の手をさしのべていたらしい。それが彼が死ぬまで続いていたのかどうかは、老母も知らないというが、いずれにせよ八重子は正面きって室伏家を訪ねてこられる立場ではなく、それらしい女は彼の葬儀でも見かけなかったと、老母はのべた。
品川区西中延──。
これが、手文庫に保管してある息子のメモ類の中から、彼女が捜し出してくれた、網野八重子の古い住所だった。
律子はその足で、住所を訪ねた。これという成算があるわけではないが、もし八重子に会えれば、そこからまた新しい手懸りが生まれるかもしれない。
途中で買い求めた地図で見当をつけ、最寄りと思われる目蒲線の駅で下車してから、派出所で尋ねた。
その住所に網野という家は今も存在していた。
モルタルの多い中小の家々が密集した下町風の住宅街で、西陽が落ちている路地を入っていくと──やがて、細い丸木の黒ずんだ門柱に「網野」の表札を見出した。
かすかな戦慄《せんりつ》が律子の身内を走り抜けた。
家は小ぢんまりした木造の二階屋で、門柱と同じに、板壁も瓦屋根も老朽している。門から玄関までの狭い敷地には、低い植込みがあり、地味な勤め人の家庭を想像させる。
律子は格子戸の前で呼吸を整えてから、呼鈴を押した。
澄んだ女の声で応答があった。続いて「どうぞ」という声を聞いて、重い戸を開けると、うす暗い玄関に、律子よりまだ四、五歳若く見えるエプロン掛けの女が立っていた。
色白の頬がふっくらしている。
律子は三和土へ入って格子戸を閉め、ていねいに頭をさげた。
「突然上りまして……私は、網野八重子さんの女学校の同級生の娘に当るものですが……長野に住んでおります母から、網野さんに言付けを頼まれまして……」
女は優しい目許にどこか翳のある微笑をたたえた。
「網野八重子でしたら、私の母ですけど……母はもう亡くなりましたの」
「え?」
「今日でちょうど一年三カ月になります。それまではこの家で弟と暮らしていたんですけど」
「………」
「母が亡くなってから、私が主人や子供といっしょに、こちらへ移ってまいりましたの」
「網野さんは、亡くなった……」
大した期待は持っていないつもりだったが、にわかに脚の力が抜けた。一年三カ月前というなら、室伏よりも先に死んだのではないか。
「それはちっとも存じませんで……お母さまはご病気で……?」
「ええ。丈夫な人だったのですが、急性肝炎で、半月も患わずに亡くなってしまいました」
八重子の娘は、白い指先に目を落とした。が、すぐにその目をあげたのは、律子の背後に人影がさしたからである。
戸を開けて入ってきたのは、カッターシャツの肩に粗編みのセーターをひっかけた痩せた青年だった。丸めたノートを小脇に挾んでいるから、学生かもしれない。
振り向いた律子に、青年はチラリと視線を投げた。睫毛の長い、眩しそうに光った茶色い眸《め》──。強いていえば、全体に上品に整った容貌の中で、そこだけが、彼の若さと危うさを物語るようでもある……。
「弟ですの」と、上り框《がまち》に立った女が微笑を戻していった。青年は、もう無関心な浅黒い横顔を見せて、廊下を入っていった。
律子は呆然とその後姿を見送っていた。女がまた何かいったが、耳に入らなかった。青年の姿が奥に消えると、瞼に焼きついた彼の残像を見つめていた。その、鼻梁《びりよう》が張り、眉の迫ったやや陰鬱な顔は、目の前の姉の丸顔とはあまり似ていなかった。代りに、即座に重なるもう一つの面差しがあった。室伏陽造の、ひとまわり肉づきのいい、端整な顔である。
その上、律子に横顔を向けて靴を脱いだ時、青年の右頬の上部には、傷か吹き出ものを押えてあるらしい茶色いテープが認められたのである。
9
「前略……私は、室伏ナオミの縁談に関係して、彼女の素行調査を依頼されていた私立探偵社の者です。それで、去る九月十七日、十八日にナオミがある男性と共に箱根へ旅行したさいにも最初から尾行し、箱根ロープウェイでは後続の搬器に一人で乗っていました。その結果、ナオミの連れが姥子で降りた後、先の搬器で起きた異常な出来事を目撃しました。窓ガラスを叩き割ってドアを開けた若い男がスロープへとび降りるのを、霧の切れ目にはっきりと見たのです。その男があなたであることは、前日からあなたがナオミたちに密着していたコースを逆にたぐった結果、突きとめました。──しかしながら、私はまだこの事実を警察にも依頼者にも報告していません。個人的にあなたと話合いをする意思があるからです。ついては、九月二十五日水曜日午後四時、箱根ロープウェイ早雲山駅まで……もしお出にならない場合には……」
九月二十五日午後四時十分──。
律子は、一昨日自分の手で網野家の郵便受けに投げこんできた手紙の文面を、呪文のように反芻《はんすう》しながら、全身を硬くして待ちうけていた。
あの青年、網野成治は、果たして現われるだろうか──?
ロープウェイの頂点、標高一一三九メートルの早雲山の北麓に位置する駅は、今日はまた濃密な霧に包まれている。律子が佇《たたず》んでいる場所からは、駅前の砂利敷の地面がどうにか見える程度で、乳白色に閉ざされた視界の先に、時折思い出したように二人、三人と連れ立った人影が現われては、寒そうに肩を寄せあって屋根の下へ入っていく。
足許から小雨混りの底冷えした風が吹きあげてきて、律子は思わず身慄いした。
この時、また一つ黒っぽい人影が浮かびあがって、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。黒のレインコートの衿を立てた若い男で、こんな霧の中でもサングラスをかけている。が、その右目の下に視線を当てた途端、たちまち鋭い緊張が律子を捉えた。そこにはもうテープは貼られてなく、代りに吹出物が化膿して治ったあとのような、赤黒いカサブタがむき出しになっていたからである。
一度足を停めて、ガランとした待合室の内部をすかし見た男は、次にはかすかに訝《いぶか》るふうに律子に歩み寄った。人待顔で佇んでいるのは律子一人だし、とはいえ相手が女なのが意外な様子だ。
彼は律子の前に立って、サングラスを外した。網野成治の、長い睫毛に囲まれたやや焦点のぼやけた眸の奥に、驚きの色がかすめた。あの手紙の主が三日前自宅の玄関でチラと顔を合わせた女であったことに、気がついたのであろう。
「乗りましょうか。話合いはロープウェイの中の方がいいわ。切符はもう用意してあるのよ」
律子は冷えて強張っている指を開いてみせた。すると、
「ぼくは、話合いをするつもりなんか、ない」
成治が鼻にかかった不安定な声で呟いた。だがそれは、無気力とも投遣りともつかぬ口調で、律子が歩き出すと、渋々従う気配を見せた。
連休あけの悪天候で、二人きりで一台の搬器を占領するには好都合な日である。
二人は左右の席に向かいあって腰をおろした。
「さあ、ここで話してください。ちょうど一週間前の犯行の有様を。取引はそれからにしましょう」
搬器がユラユラと下降を開始すると、律子は余裕をみせた声で切り出した。ここまで追いつめれば、焦る必要はないのだ。姥子駅では、大原がドアの開閉の間に成治の顔を確認してくれる手筈になっている。そして成治が確かにナオミといっしょに乗っていた男だと認められれば、それを証拠に彼を告発するのだ。それが、わざわざ彼をここまで呼び出した最大の理由だった。
しかし、それ以前に、この案外気弱げな青年の口から、直接告白が聞ければ、それにまさる証拠はないだろう。そして告白を引き出すには、犯行当時と同じ濃霧の現場は、絶好の条件にちがいない。
「その前に一つ断わっておきますけど、私まで消してしまおうなんて考えても無駄よ。私が今日ここへきたことも、その理由も、細かく記した手紙を、探偵社の部長にあずけてあるの。私が今日中に戻らなければ、彼はそれを警察に届けるわ」
成治は両手をコートのポケットに突っこんだまま、うすい肩をすぼめた。
「あんたをどうこうしようなんて、考えてやしないよ」
やはり無気力な、そしてなぜかハッとするほど寂しそうな声だった。
「それに、今さら聞かなくたっていいじゃないか。あんた、見てたんだろう」
「やっぱりナオミを殺したのはあなたね」
いっときの沈黙のあと、
「ああ……」と成治は深い溜息を吐き出すように答えて、首を垂れた。
「なぜ殺したの」
「あいつらが、室伏さんを殺したからさ」
「あいつら?──でも、ナオミにも、主人、いえ、相手の男にも、アリバイが成立したはずよ」
「そんなもの、嘘っ八に決まってるさ」
成治はやや語気を強めて律子を見返した。
「どうしてそんなにはっきりいえるの」
「俺は、室伏さんが殺された夜、あの北鎌倉のマンションへ行ったんだ。そして、犯人の証拠品を見つけた。犯人はナオミと、多分あの男もグルだったにちがいない」
「マンションで、証拠品を……?」
律子の内部で、何かがグラリと揺れた。
「あなたは──以前から室伏さんと付合いがあったの」
「いいや、あの晩行ったのがはじめてさ」
「………」
成治は、白色の濃淡だけが音もなく流れている窓の外に視線を移した。また少し黙っていたが、虚ろな口調で話し出した。
「あの三月ほど前に、お袋が死んだ。死ぬ二日前、俺をそばへ呼んで打ちあけたんだ。俺の本当の父親は、室伏さんだ。生まれた当初から疑っていたが、成長するにつれて面差しが似てきて、思いきって血液型を調べてはっきりしたという。しかしその時には、室伏さんはナオミとの再婚が決まっていたし、親父の立場も考えて、黙っていた。親父が死んでからも、室伏さんの家庭のために、秘密を守ってきた。だけど、死ぬ間際になって、やっぱり本当のことを俺にだけはいい残したくなったのだろう」
「………」
「俺も、聞いた時はピンとこなくて、別に今さらどうってこともないと思っていたんだが……日がたつにつれて、無性に自分の本当の親父って奴に会ってみたくなった。あの事件の夜は、友だちと酒を飲んでいて、急に思い立って、高輪の家へ電話した。家政婦らしい女が出たので、会社の者だといったら、社長は一人で北鎌倉の別荘へ行っていると答えた。マンションの名もいってくれたから、場所は電話帳で調べた」
「………」
「俺が着いたのは十時半ごろで、室伏さんの部屋には明りがついていて、ドアも鍵がかかってなかった。そして……室伏さんは居間で、頭を血まみれにして、ガウンの紐で首を絞められて死んでいた」
その光景が、生々しく律子の眼前に浮かびあがった。律子は思わず目をつぶって、首を痙攣《けいれん》させた。
「俺は……逃げたんだ。咄嗟に自分が疑われるにちがいないと思って……俺が室伏さんの本当の息子だなんて、証明しようもないし、それに俺は警察って奴が虫が好かなかった。──そのまままたドアを閉め、誰にも会わずにマンションを出た……」
「でも、証拠品があるといったのは?」
この時、搬器は大涌谷に到着した。駅員がドアを開けると、成治は反射的に立ち上り、背を向けて窓を眺めた。だが、乗る客はなく、またドアが閉められて、搬器は動き出した。
「証拠品は女物の腕時計さ」
成治は背中を見せたまま答えた。
「俺は最初それを、室伏さんの部屋の靴脱ぎ場で拾った。ブザーを押して、応答がないので思いきってドアを開けた途端、目に入ったんだ。渡すつもりで拾い、その直後に死体を発見した。──帰りの横須賀線に乗ってから、無意識にポケットに入れたままになっていたのに気がついて、出して見ると、オメガの高級品で、金鎖が古びてもいないのに、ちぎれていた。それで俺は、これは犯人の持ち物だ。首を絞めた時、室伏さんの手でひきちぎられ、気づかずにあそこに落としていったのにちがいないと……」
律子は咄嗟に何かいおうとしたが、喉が硬直して声にならなかった。
成治は、乾いた口調で話し続けた。
「それから俺は、室伏さんの身辺の女を探りはじめた。ナオミ以外見当らなかった。ナオミの行動を窺っているうち、葬儀が一段落して間もなく、あの男不二木と密会するのを、運よく突きとめた。その時二人はバーの止り木で“室伏は絶好のタイミングで死んでくれた。もう数日も遅かったら、不二木は使い込みの廉《かど》で懲戒免職の処分を受けた”といったことを話しあっていた。これで二人の共犯は確定的だった。“死んでくれた”などと表現したのは、あくまで冗談の口調にせよ、周囲の耳を気にしたからだろう。直接手をくだしたのは、いくらでも室伏さんの身近に接近できたナオミ、そして不二木は背後でナオミを操ったのだと確信した」
「………」
「それ以後は、俺は何度か二人の逢引きを尾けた。そのうちに、心が決まってきた。室伏さんの死体を発見しながら、そのまま逃げ帰った俺だが、犯人たちを目の前に見て、肚の底から憎しみが湧いてきたんだ。といって、今さら警察に訴えても、取りあげてもらえるかどうか、証拠の腕時計にしても、後で俺がナオミから盗んだと思われて俺が真犯人にされてしまうかもわからない──俺は自分の手で二人に復讐する機会を狙っていたんだ」
「この間の箱根旅行で、目的を遂げたわけね」
「ああ。旅行中はチャンスだと睨んでいた。不倫の男女の一方が旅先で殺されれば、まず連れに容疑がかかる。その上うまく不二木のライターも手に入った。──ロープウェイでは、同じ函に乗っても、向うは俺を知らないから、接近しやすかった。そのうち、お誂《あつら》え向きに、二人は口喧嘩をはじめた。不二木は姥子で降りてしまい、函の中は、ナオミと俺の二人きりになった。俺は隠し持っていた果物ナイフでゆっくりとナオミを刺し、ガラスを割って、ドアを開けてとび降りた。その地点に不二木のライターを落として、逃げた……」
搬器は姥子の構内に入った。暗いフォームの奥から、大原の色白な顔が走り寄ってくるのを認めると、律子はつと席を立ち、成治と並んでドアに背を向けた。大原との打合せでは、律子が成治を誘って搬器に乗せ、姥子に着いたらそれとなく彼をドアのそばまで連れていくから、その時顔を確かめるという手筈になっていた。
「降りる方ありませんかあ」
大原が習慣的な口調で大声を張りあげた。律子はいっそう成治に寄り添い、レインコートの背中に軽く手を廻した。こうして黙っていれば、大原は別のアベックと思うだろう。
姥子でも、乗る者はいなかった。
四角な洞穴のようなプラットフォームが、霧の幕に閉ざされて見えなくなると、律子は成治に向き直った。
「よく話してくれたわね。そこで、私の取引だけれど──」
「そんな気持はないといっただろう」
成治は眉間《みけん》に皺を刻み、苛立ったようにいく度も首を振った。
「俺は……復讐を終ったと思った途端に、重大な誤りに気がついたんだ。あんなふうに手取り早くナオミを殺し、不二木に罪を着せたところで、二人はそれが室伏さんを謀殺したことに対する復讐とは気がつかないかもしれない。つまり復讐になってないんだ。室伏さんもそれでは少しも浮かばれないんじゃないか……」
「でも……」
「第一、死んだお袋だって、俺にあんなことをさせるために真実を打ちあけたわけじゃないだろう。一体俺は何をやっていたのか……そう思い出したら、急に何もかも馬鹿々々しくなったんだ」
「………」
「俺はあんたといっしょに警察へ行くよ。そして室伏さんの事件もはっきりさせる。証拠の腕時計はとってあるし、現場の状況もくわしく話せるんだから、警察でもまるきり俺が嘘をついているとも思わないだろう。──そうだ、その方がいい。一人でこんなやり場のない気持を抱えて、気が狂いそうな思いで生きるより、その方がずっとましなんだ」
投遣りな口調の底に、もう一途に思い詰めた頑固な響きがこもっていた。
律子は、成治の顔から離した目を、素早く両側の窓に配った。この辺までくだってくると、霧はややうすれ、樹林がすけて見えるが、まだ|目撃者《ヽヽヽ》を恐れるほどの視界ではない。
搬器は13と標示された鉄塔をすぎたところだった。この先で自動車道路の上を横切り、ナオミが殺された17番鉄塔のあたりから、地上まで二、三メートルの区域を通過して、終着の桃源台へ入るはずだ。時間がない、という意識が、律子の決断を早めた。
「警察へ行って、あなたは気がすむかもしれないけれど……それでは……」
喋りながら、律子の右手はショルダーバッグの中のナイフを掴みとっていた。
「それでは迷惑する人間もいるわ」
ことばが終ると同時に、律子は指先で皮のキャップを外したナイフを、ひと思いに成治の心臓めがけて突き立てた。迷惑するのは、誰よりも彼女自身であったからだ。一年前のあの夜、律子は一人で再度室伏を、北鎌倉のマンションに訪ね、夫の使いこみについて誤解を解き、ナオミとの問題も穏便に納めてくれるように懇願した。もし室伏が最初の決意通り、ナオミと離婚し、不二木を馘首《かくしゆ》したら……不二木の家庭は破れ、彼はもはや泥沼のようにナオミと結ばれていくのではあるまいか。逆にもし、律子の力で室伏を慰留することに成功すれば、夫は頭を垂れて律子の許に帰ってくるだろう。律子自身の安住の住処と、妻の自尊心と、その両方を守るためには、いっときの屈辱を忍んでもう一度室伏に縋ってみる以外にすべはなかったからだ。
だがその結果は──気がついた時、律子はテーブルにあった部厚いガラスの灰皿で相手の頭部に一撃を加えた上、ソファの背にかけてあったガウンの紐で首を絞めていたのだ。成治が玄関で拾った腕時計は、室伏が結婚祝いに律子に贈ってくれたオメガである。皮肉にも、室伏は絨毯《じゆうたん》の上に頽《くずお》れる直前まで、その金鎖がちぎれるほど強く、律子の手首を握っていたのだろう。
成治もまた──彼女の目前で、身をよじって床に崩れた。濡れたリノリウムの上に、みる間に血があふれ出し、代りに成治の横顔が急速に色を失っていくのを、律子は数秒間、確かめるように見守っていた。もし彼が警察にあの腕時計を提出して真実を告白すれば、夫の無実は証明される代り、律子の犯行が暴《あば》かれる。それでは結局、これまで身を張って守り続けてきた世界は、彼女から奪われるのだ。そしてもし、どちらかが犠牲にならなければならないのなら、それはやはり夫であるべきだ。いっさいの不幸が、彼の裏切りから派生したのだから。
自分はいったい何をやっていたのか……。
成治の身体が痙攣を止めた時、さっき彼が呟いたことばが一瞬律子の耳底に響いた。
しかし……もしかしたら、室伏の首を絞めた瞬間から、自分にはいつかこんなふうに彼の息子をも殺さなければならない運命が約束されていたのかもわからない……。
律子は視線を離し、座席の下のバケツを引き出した。だがその中に、ドライバーは入っていなかった。
あわてて周囲を見廻した彼女は、最後に成治の靴を片方もぎとった。
ドアの外側の掛け金に一番近いと思われる窓ガラスに向けて、力一杯靴底を打ちつけた。二回……三回……踵《かかと》の釘が刺激的な金属音をたてる。が、ガラスは亀裂の泡をつくるだけで、一向に割れない。低い窓には細かな桟がはまっていて、それがガラスを補強しているのだ。
搬器は17番鉄塔を通過した。
律子は座席に足をかけて、上部の窓を狙った。上は一枚ガラスなのだ。腕をふるうたびに、全身の血が頭に逆流する。
ようやく、ガラスが砕けた。律子は座席にのぼり、手早く破片を取り除いた。さしのぞくと、斜面の芝生が二メートルほどの眼下で移動している。律子は腕を出し、ドアの掛け金に手をのばした。
数秒ののち──小さな悲鳴が律子の唇をついた。手が届かない。あとわずかのところで、指先が掛け金に触れないのだ。窓には肩を出せるほどの広さはなく、それで腋の下を裂けるまで窓枠にくい込ませ、力の限りのばしても……小柄な律子の短い腕は、どうしても掛け金に達しない。あと、ほんの二、三センチ──。
律子の指先がうす白い空間を掻いた。搬器は終着駅直前の一段となだらかなスロープの上を、ユラユラと下降していた。
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初出誌
闇よ、やさしく(「闇の果てまで」改題) 小説現代昭和五十年九月号
ダイイング・メッセージ オール讀物昭和四十八年十一月号
燃えがらの証 小説現代昭和五十年六月号
回転扉がうごく 別冊小説現代昭和四十七年初夏号
死刑台のロープウェイ オール讀物昭和五十年九月号
文春ウェブ文庫版
死刑台のロープウェイ
二〇〇一年五月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第二版