[#表紙(表紙.jpg)]
夏樹静子
アリバイの彼方に
目 次
アリバイの彼方に
滑 走 路 灯
止まれメロス
彼女の死を待つ
遺書をもう一度
霜 月 心 中
便  り
特急夕月
[#改ページ]
アリバイの彼方に
「容疑者の身許がわかりました。喜多川豊彦、四十四歳。K鉄鋼開発部の次長だそうです。車も一致していますし、これが本ボシではないでしょうか」
若い榊《さかき》刑事の勢いこんだ報告を聞いた時、刑事課長の湯原は、一瞬頭の奥で小さな花火がはぜたような感覚を味わった。
「喜多川、豊彦……」と口の中で復誦した。
「ええ。住所は福岡県筑紫郡太宰府町……。ですから、香山美輪子が働いていた二日市の店から、車で十分程度のところに住んでいるわけです」
やはり、あの喜多川にまちがいない。彼が昨年、太宰府天満宮にほど近い閑静な住宅地に新居を構えたことは、友人から小耳に挾《はさ》んだ憶えがある。
「それで、喜多川は、紫苑《しおん》≠フお馴染《なじみ》だったのかね」
「そうなんです。太宰府に住むようになったここ一年ほど、週に一度は顔を見せてくれると、ママさんが話してました。というのは、彼は、福岡までの通勤には、主に西鉄線を利用している。たまには自分の車も使うようですが。西鉄だと、二日市で一度乗り換えですし、帰りにはよく二日市から自宅までタクシーに乗るらしい。その前に、駅前の紫苑≠ノ寄って、ちょっと一杯ということのようで……」
酒はかなり強そうな喜多川豊彦の血色のいい顔が、湯原の目に浮かんだ。鼻梁《びりよう》の通った大きめの鼻と、黒い一文字の眉。その眉根の先がピンと上を向いた感じが、顔全体を俊敏そうに引きしめている。いかにも周囲から抜きん出る者にふさわしいような彼のすがすがしい風貌は、高校時代からのものだった。事実、彼は豊かな家庭環境にも恵まれ、国立大学を卒業すると、地元では屈指の大企業に就職し、たちまち実力者の重役の目にとまって、エリートコースを歩み出した様子だった。そのころまでは、彼と湯原は、福岡市内の割に近所に住んでいた。高校の同級生で、在学中はさほど親友というわけではなかったが、卒業後ばったり道で出遇ったりすれば、ことのほか懐しさが湧くものだ。喜多川は率直な口調で近況を語りながら、高卒後警察官になった湯原の話にも、興味深げに耳を傾けていた。
その後、湯原が県内のあちこちの警察署に配属されては転勤するようになってから、つまりここ二十年くらいは──それでも四、五回は、偶然の機会に顔を合わせている。
一番最近会って、街路で立ち話を交したのは、約二年前の初秋の午後だったと湯原は記憶している。
その時喜多川は、磨き抜かれた黒塗りの中型車から降り立ち、車を待たせたまま、傍らのビルへ入りかけていた。長身で背筋の通った体躯《たいく》を軽やかなグレイのスーツに包み、大股に歩道を横切りながら、つと視線をめぐらせて、反対側から歩いてきて先に彼を認めていた湯原と目を合わせたのだ。それから、懐しそうな微笑で眸《ひとみ》を輝かせながら、ゆっくりと近づいてきた。
「しばらく! 今はどこの勤務ですか」
最初に声をかけたのは喜多川の方だった。湯原は、福岡西署刑事課の係長をしている自分の近況を告げる前に、相手のその後を尋ねた。この春から開発部の次長を勤めていると、彼はサラリと答えた。
「なるほど、一段と貫禄がついたみたいだなあ。その日灼《ひや》けは、ゴルフ灼けですか」と湯原が、艶やかな小麦色に光っている彼の頬に目を当てて尋ねると、
「ゴルフもやるけど、夏にアメリカへ視察旅行に出かけて、帰りにハワイで泳いできたものだから」と、喜多川はその頬をこすりながら笑った。
住居の話になって、喜多川が太宰府に宅地を買い、来年には新築するつもりだと、その時聞いた。湯原は巡査部長になって以来ずっと、任地の古い官舎に住み続け、今後もそれは変りそうになかった。家族は、喜多川の一人息子と湯原の長男が一つちがいのことは、以前から知っていた。喜多川の息子が高校二年、湯原の方が一年になっていた。湯原も息子は大学へ進学させるつもりなので、話が受験の問題に触れると、急に二人の間の微妙な硬さがほぐれたように感じられた。受験生を持つ親の悩みだけは、共通で公平なものだったからだ。
それで別れ際まで、息子たちの志望校や競争率などについて、知識や意見を交換しあっていた。だが、一人になって歩き出してから、湯原はふと、喜多川が湯原の複雑な心理を読んだ上で、強いてそんな話題を長く喋《しやべ》り続けていたような気もした。
その後も、喜多川に関する情報は、ほかの友人を通して折にふれ湯原の耳に入った。
彼は依然として、順調なコースを進んでいた。四十二歳で開発部次長というのは、彼の会社では抜擢《ばつてき》に類するらしい。それは、彼が重役の遠縁に当る娘を妻にしている好条件にもよっただろうが、実力的にも彼は十分期待に応え、斬新な閃《ひらめ》きや決断力の要求される開発部には欠かせない人材になっていると、K鉄鋼の下請け会社で働いている友人が教えてくれた。
そうした風聞に接するたびに、胸の奥に波立つ感情は、嫉妬とはちがうと、湯原は自分にいい聞かせている。単に、わが身とは比較にならぬ彼の出世の早さを羨《うらや》むつもりはない。ただ彼は、自分が心の中で想像している、いかにも男らしい理想の人生を、その通り具現している人物のように思われてならないのだ。そんな一種象徴的なイメージとして、いつも妙に念頭を離れない存在なのであった。
と同時に、彼について考える時、必ず続いて浮かんでくる別の記憶があった。仄白《ほのじろ》い外灯の降りそそぐ凍てついた路面。背後から腋《わき》の下をしめあげた猛々しい力と荒い息の匂い。被いかぶさるように接近した、揉上げの長い青年の歪《ゆが》んだ笑い……。
湯原は、報告を続けている部下の前で、実際に頭を左右に振り動かして、忌《いま》わしい記憶を払いのけた。
若い刑事は、湯原の仕種などには無関心な様子で、
「その上、喜多川は香山美輪子が気に入っていたらしいのです。彼が来れば大抵美輪子が相手になっていたそうですし。大体あの紫苑≠チて店は、福岡の中心部に出してもひけをとらないくらい、なかなか垢抜けしたバーで、若い娘《こ》も美輪子を入れて三人置いていたようですが……」
「車も一致していると、さっきいったね」
「はい。チャコールグレイのセドリックを、喜多川は持っているそうです」
「では、問題の三カ月前の晩については……?」
「それなんですが」と、榊は湯原のデスクに身をのり出した。
「店の者四人に、ある程度事情を打ちあけて訊いたところ、八月十三日夜、喜多川が美輪子を車で送ってやった可能性が濃厚になってきたんです。その日は早番で十時に帰るという美輪子を、カウンターで飲んでいた喜多川が、それなら自分の車で送ってやろうといい出した。八月ごろまでは、彼は車で通勤する日が今より多かったらしいのですが。喜多川の家は太宰府で、美輪子のマンションは、国道3号線を福岡の方へ少し戻る位置になるので、廻り道になって悪いと美輪子は遠慮していたが、どうせちょっとのことだし、ひどい雨だからと、喜多川が勧める恰好で、二人で出ていった……いや、ですから、こういうことは当時確かにあったわけですが、それが果たして八月十三日であったか否かは、四人とも断定できない。しかし、あのころ十時ごろに強い雨が降っていたというのは十三日の夜だけですから、まずまちがいないんじゃないでしょうか。何か糸口を見つけて、はっきり思い出しておいてほしいと、みなに頼んできたんですが」
「喜多川は、そのころまでは、よく車で通勤していたわけかね」
「ええ。秋口から急に電車通勤がふえた様子で、胃にストレスがかかるので、車は家内に譲ったなどといって笑っていたとか……」
喜多川がハンドルを握らなくなったのは、八月十三日の「事件」が影を落としていたからではなかっただろうか……?
榊の最後の話は、湯原の中で、喜多川への容疑を一段と濃密なものにした。
するとかえって、湯原は冷静になった。
喜多川の、自信を含んだ冴《さ》えた眼差がまた思い出されたが、次に目に浮かんだのは、今度ばかりは、まだ記憶に生々しい香山美輪子の無残な死体であった。
福岡県の内陸部、甘木《あまぎ》市の県道から百メートルほどの山沿いで、若い女の他殺死体が発見されたのは、十一月十一日火曜日の午前七時すぎである。犬を連れて散歩していた近所の老人が見つけた。
最寄りの派出所からの通報で、甘木署の署長をはじめ、刑事課長の湯原ら数人が、前後して現場へ急行した。無論、県警本部の捜査一課と鑑識へも連絡が届いている。
死体は、田圃《たんぼ》と雑木林の間の叢《くさむら》の中に、仰むけに横たわり、鬱血した頬が夜露に濡れていた。推定年齢二十五、六歳。身長は百六十センチ以上と思われ、引きしまった筋肉質の、いわゆるグラマータイプである。髪を茶に染め、アイシャドウが濃い。黒いニットのワンピースの襟元にローズ色のスカーフを巻き、手爪には同じ色のマニキュア。一目で水商売の女性と想像された。
死因は扼殺《やくさつ》。両手で首を絞め、拇指《おやゆび》で顎の下を強く圧迫した跡が、スカーフの下にはっきりと残っていた。
が、殺されるまでには、相当に抵抗したらしい。争いながら膝をついたのか、ストッキングの膝頭が裂けて泥が付着していたり、首のあたりには、被害者自身がもがいてつけたと思われる爪跡などが認められた。情交の形跡はない。
それにしても、体格のいい若い女性を正面から扼殺している点で、犯人は腕力の強い男性と考えられた。
女の身許は、そばに投げ捨てられていたハンドバッグの中から商売用の名刺が出てきたために、間もなく判明した。西鉄線二日市駅前のバー紫苑≠ノ勤めるホステス、香山美輪子、二十四歳であった。住所は、店から車で五分ほどのマンションで、一人暮しだった。
次に残る問題は、犯行現場と時刻である。
美輪子の死体が見つかった叢の周囲には、所々、草が押し伏せられたような箇所もあったが、そこが犯行現場と断定できるだけの、明らかな痕跡は見出せなかった。
犯行時刻の方は、嘱託医は、死後経過約十時間と見て、従って十一月十日の午後十時前後と推定した。
だが、この二点については、やがて周囲の調査が進むにつれて、明白に絞られてきた。
まず、美輪子の死亡推定時刻に当る十日夜十時ごろ、死体のあった野原の方に女の悲鳴を聞いたという届け出が、二カ所から得られた。
一つは県道沿いのガソリンスタンド、いま一つは雑木林の南側にあるモーテルでだった。甘木市は、周辺の農産物集散地の機能を果たす地味な町だが、日田《ひた》温泉から別府に通ずる県道沿いには、ドライブインやモーテルも少くないのである。
悲鳴は一度だけ、かん高く尾を曳いて、聞きとられたらしい。十時二、三分前、という時刻も、証人たちの話は一致していた。ガソリンスタンドでは、表を閉めてから帳簿の整理をしていた従業員二人が気づいている。モーテルでは、午後十時がちょうどフロントの交代時に当るため、時刻の記憶が確かなようであった。また、フロント係の一人は、悲鳴の直後に、同じ方向に車のエンジンの響きを耳にしたように思うとのべた。彼は窓を開けてのぞいてみたが、暗くて見通しがきかないのと、悲鳴は一度だけで、その後変った様子も認められなかったので、大して気にとめなかったという。
一方、十一月十日の夜、美輪子は九時すぎに紫苑≠出ている。風邪気味なので早退けさせてほしいと、その日あらかじめママに断っていた。だが、九時十五分ごろには、二日市の温泉街を抜けて、武蔵寺《ぶぞうじ》という九州最古のお寺のある寂しい方向へ一人で歩いていく美輪子を、温泉街の旅館の女中が目撃している。
これらの聞込みを総合した結果──美輪子は、十日夜九時半ごろ、武蔵寺近辺の暗い場所で犯人と逢い、相手の車に乗った。そこから甘木まで、車で約三十分。十時ちょっと前に、何らかの理由で、死体のあった地点で降ろされた美輪子は、恐怖の悲鳴をあげた直後、扼殺された。犯人はそのまま車で逃走した、と推測された。
死体発見の翌日には、重要参考人が出頭を求められている。福岡市内のスナックに勤めている二十一歳の青年で、美輪子と肉体関係があったと見られる石上弘夫だった。
石上の取調べには、県警本部の江藤警部と、甘木署の湯原警部補とが当った。その朝には甘木署に事件の捜査本部が設けられている。本部長は署長だが、実働面では、県警本部から派遣された特捜班の班長と、所轄署の刑事課長とが指揮をとるのが通例である。が、今度のように、特捜班長が警部で、刑事課長が警部補であった場合などは、当然警部がトップにすわる。ことに、江藤警部は、齢は湯原より若そうだが、見るからに気鋭な感じで、歯切れのいい口調で敏速な指示を与える。それとは対照的に、湯原は日頃から口が重く、太り気味の体躯にむっつりした顔つきは、いかにもコツコツと一人で歩き廻る古いタイプの刑事を連想させた。それでなおさら、捜査本部の空気は、県警の警部にリードされていた。
石上に対する聴取でもほとんど江藤が質問した。
相手は予想通り、あくまで犯行を否認した。事件当夜、勤め先のスナックを休んでいたために容疑者第一号に挙げられた恰好だったが、その夜は働く気がしなかったので、友だちのアパートで麻雀をしていた。調べてもらえばわかるといい張った。
「それに、彼女と付合っていたのは、ぼくだけじゃないと思います」と、石上は気の弱そうな細い目を伏せて呟《つぶや》き声でつけ加えた。美輪子より年下ではあり、恋人というよりヒモといった印象が強い。
「では、ほかに彼女と親密だった男の名を知っているかね」と江藤が訊いた。
「くわしくはわかりませんけど……とにかく中年にもてるタイプっていうのか、彼女の方でも、金のある相手と思えば、うまく合わせていたみたいだったし……」
「大分|貯《た》めていたようだね」
「いずれは、福岡市内のマンションを買って、一流の店に勤めるのが夢だといって……」
「彼女ほどのマスクなら、好みのところに勤められただろうに」
「ええ、この間も東中洲のクラブから誘われたらしいんですけど、今はこっちでいいお客を掴《つか》んでいるから……」
聞き流せばなんでもないことばだったかもしれないが、急にハッとしたふうに口をつぐみ、やや蒼ざめた面持でうつむいた石上の態度を、江藤は見逃さなかった。
「何かあるのかね、そのいいお客というのは──?」
続いて、畳みかけるように追及した結果、石上は、美輪子が寝物語に洩らしたといって、意外な話を告白したのである。
約三カ月前になる八月十三日夜、彼女はお客の車に乗せてもらって、店からマンションへ帰ったが、国道3号線へ出た直後に、その車が人を跳《は》ねた。相手は酔っぱらいのようで、いきなりフラフラと車の直前へ出てきたためによけきれなかったのだ。しかし、運転者も酒を飲んでいた。それと、十時すぎの国道には偶々《たまたま》車が途絶《とだ》え、ひとしきり激しさを増した雨のために、見通しのきかない状態だった。事故の目撃者がいたとは思われない。いや、その事故さえ、相手にどの程度の被害を与えたのか、案外大したことはなく、そのまま歩いていってしまったのか、車を止めて振向いても、雨の幕に遮《さえぎ》られて何も見えなかった。
「──それで……そのまま逃げて、お客は美輪子をマンションへ送ってから、家へ帰ったそうです。ところが、翌《あく》る朝、テレビニュースで、跳ねた相手が死んだとわかって……」
隣の筑紫野署管内で発生した轢《ひ》き逃げ事件である。湯原にも、その場で詳細な記憶が甦《よみがえ》った。確か、八月十四日午前零時ごろ、二日市駅より少し福岡寄りの国道3号線で、タクシーの運転手が道ばたに倒れている労務者風の男を発見して助けおこしたが、頭に傷を負い、すでに死亡していた。車に跳ねられたものと断定され、死亡は発見の約二時間前と推測された。直ちに緊急配備が敷かれたが、ついに未解決のまま、三カ月を経過していた。その理由としては、現場が国道で、多方面から車が流入していること、折からの豪雨のため、タイヤ痕はもとより、物的証拠がほとんど採取できなかったこと、などが挙げられている。
「被害者が死んだとわかって、それから美輪子はどうしたのだ?」
再び強い躊躇《ちゆうちよ》を示した石上は、やがてようやく、美輪子は轢き逃げした男を強請《ゆす》っていたらしいと、低い声で答えた。
「どこの誰だ?」
「知りません。ぼくも名前を聞いたんですが、喋るとあんたまで同じことをはじめると困るなどといって、話してくれなかったんです。ただ、相手は会社での地位もあるので、上手にやれば素直に金を出すと笑っていました」
「では、車の種類も聞かなかったか」
「それは多分、チャコールグレイの中型だと、最初にいっていたように思います。まだ新しくて、いい車なので、あたしを乗せて自慢したかったのだろうなんて……」
「その男と美輪子とは肉体関係があったのか」
「さあ……そこまではなかったんじゃないかと……」
その取調べの後で、石上のアリバイは証明された。それで、彼の話が信憑《しんぴよう》性を増した。轢き逃げの状況も、現実と符合していた。
彼の証言により、改めて容疑者が手配された。八月十三日夜十時ごろ、紫苑≠ゥら美輪子を車で送った男。チヤコールグレイの中型車を運転する会社員──。
紫苑≠フ聞込みで、喜多川豊彦の名が浮かんだのは、このような経緯《いきさつ》からであった。
その翌日の午前十時に、喜多川は甘木署へ任意出頭を求められた。
事情聴取には、湯原の希望で、彼一人が当った。
「もう三年くらい前になりますかなあ、×ビルの前で偶然会ったのは」
殺風景な小部屋で喜多川と対座した湯原は、努めてさりげない眼差を、署の裏庭が見えるくもった窓ガラスの方へ移したりしながら、話の口火を切った。実はそれが一昨年の九月だったと定かな記憶があるのだが、そのことを知られたくないような、奇妙な意地が働いていた。
「そんなものかもしれませんね」と、喜多川も気軽な口調ですぐに頷《うなず》いた。闊達《かつたつ》そうに光る眸、艶のある肌や根元が軽く上にそった眉などに、相変らず少しも若々しさが失われていないのに、湯原は内心で驚いたほどである。喜多川には、紫苑≠ノ出入りしていた客の一人として、事情を訊きたいと、簡単な理由しか告げていない。それで、自然にか意識的にか、彼の態度も表情も、余裕を保って落着いていた。
「あの時、太宰府に土地を買って、来年にも建てるつもりだといっていたが……?」
「去年の十月に引っ越したんですよ」
「すると一年余りだね。どうですか、住み心地は?」
「うむ……通勤にはちょっと時間がかかるが、やっぱりまだ静かな環境だからねえ」
「では、息子さんの勉強には向いているね」
「いや、それが浪人してるんですよ。どうしても工学部以外は入りたくないといってね。その点は父親譲りらしいから、文句もいえないんだが」
はじめて淡い愁いに似た影が、喜多川の眸をかすめたように見えた。
「うちも今年はいよいよ三年だが、本気で勉強しているのかどうか……」
一昨年出遇った時、喜多川がある種の気遣いから、受験の話題を長く喋っていたことも、湯原は思い出した。すると今はかえって、かすかな優越感が胸底にひろがった。今日も同じ話をもうしばらく続けてみたい衝動にかられた。
が、喜多川がチラリと腕時計をのぞいたのを見て、湯原は姿勢を改めた。
「あなたも忙しいだろうから、なるべく時間をとらせないようにしますが──紫苑へは最近もよく行ってたんですか」
「十日に一度くらいは寄ってましたかねえ」
「では常連ですね」
「どことなく寛げる雰囲気というのか、会議があった日の帰りなど、あそこでぼんやり飲んでいると、不思議と疲れがほぐれてくるんですよ」
喜多川は冷静な目に微笑を含んで答えた。
「被害者の香山美輪子さんも、無論憶えてますね」
「ええ。ちょっと可愛い娘《こ》だったが……可哀想にねえ」
「特別の関係があったんじゃないんですか」
「まさか……」
喜多川は皓《しろ》い歯をのぞかせたが、一瞬鋭く湯原を見返し、口をすぼめると、はじめて警戒的に表情を強張《こわば》らせた。
「それでは、ほかのお客で、美輪子が特に懇意にしていた人物などは知りませんか」
「いや、全然。大体そんな立入った話をするほど親しい間柄ではなかったのだから」
「しかし、車でマンションまで送ってやったことはあったでしょう?」
「ああ、……そういえば一度、そのつもりで店を出たんだが、飲酒運転になるので、ぼくの車は置いたままで、彼女もぼくも別々にタクシーを拾って帰ったのです」
やはり動揺を感じさせない答え方だった。
「なるほど。──いや実は、被害者は何人もの男と関係を持っていたという噂がありながら、なかなか特定の名が浮かばなくて弱っているのですよ。それでまあ、紫苑≠フ客を一応全部洗うしかないので、念のためにうかがうわけですが……あなたは、十一月十日の夜十時ごろ、どこにいましたか」
喜多川の口許に再び微笑が浮かんだ。が、今度はちょっと冷ややかな、だがまたどこか愉しむような笑いとも見受けられた。
「まさか湯原君にアリバイを調べられるとは思わなかったなあ。──しかし、わずか三、四日前のことでも、早速には思い出せないものでねえ……」
「月曜日の夜ですよ。季節外れに暖い晩だったが……?」
湯原の奥まった三角形の目は、独特の熱気を帯びて喜多川を見守っていた。彼が美輪子を殺害したのかどうか、八月の轢き逃げ事件から割り出すのは、非常に困難な状況なのである。紫苑≠フ店の者たちの証言は有力な傍証とはなるが、まちがいなく八月十三日の夜彼が美輪子を車で送ったと断定できる者はいなかった。いや、たとえそれが確定的であったとしても、即ち彼が轢き逃げをしたという証拠とはなりえない。事件発生直後でさえ、ほとんど手懸りが得られなかったものを、今となってはいっそう、決め手を掴むことは不可能であろう。美輪子か石上が出鱈目を喋ったのだといわれれば、切り返す根拠がない。
結局、美輪子殺害の容疑を固める第一歩は、当夜の彼のアリバイにかかっていた。
「ああ、月曜日ねえ。すると、昼前から北九州の工場へ出かけて……」
しばらく視線を宙にめぐらせて考えこんだ。やがて、
「うむ。月曜日は、ちょうど十時ごろ、太宰府の家に帰ったんじゃないかな」
「福岡の会社から、真直ぐにですか」
「いや……六時に会社を出て、そのあと同じ部の若い者と、天神町で食事をしましたね。結婚問題で相談を受けていたものだから。八時半ごろ別れて……西鉄線の福岡駅から、確か九時半の特急電車に乗ったと思いますよ」
「しかし、西鉄の福岡駅は、天神繁華街の真中にあるわけですから、それにしては、八時半に部下と別れて、九時半の特急に乗ったというのは……?」
「ああ、それはね、本屋を二、三軒のぞいていたんですよ。ひと月に一度はそんなふうにして、仕事以外の本でも、努めて目を通すようにしているものだから。それと……うむ、ぼくが九時十五分ごろ、確かに福岡駅にいたという証人がいる」
彼は徐々に記憶がひらけてくるといった、活気づいた声を発した。次には眉根を緊張させ、唇を意志的に引き締めた独特の表情で、いっとき息をつめて湯原を凝視した。指名されて黒板の前に出て、数学の難問を解いてみせた彼の姿が、あるいは何か真摯《しんし》な情熱をこめて発言した時の顔などが、湯原の意識の隅をかすめた。選ばれた者だけが持ち得るような、この力強い表情で、今は部下を魅了し、リードしているのかと、ふと想像した。
「西鉄電車の改札口からちょっと階段をくだったところに、売店があって、赤電話が備えてありますね。あの晩九時十五分から二十分くらいに、ぼくはそこから開発部の課長に電話をかけた。大事な連絡を忘れていたのに気がついたものですから。話が長くなって、途中で二度ほど十円玉を入れたんだが、コインの持ちあわせがなく、売店のおばさんに百円を両替えしてもらった。だから、そのおばさんに訊いてもらえば、思い出してくれるはずですよ。まだそう古いことではないのだから」
西鉄線福岡駅から、甘木の現場まで、車で最も急いでも一時間はかかる。福岡から二日市まで三十分、二日市から甘木まで三十分の勘定である。二日市まで特急電車を利用し、そこから車に乗り換えた方が時間は短縮されるが、それも福岡を九時半の特急に乗ったのでは、十時に甘木で犯行することは不可能である。従って、喜多川が九時二十分まで福岡駅の赤電話を使っていたのが事実であれば、彼の容疑は消滅する。
湯原はともかく、彼が電話をかけたという課長の氏名と電話番号、売店の位置などをくわしく聞いてメモした。
喜多川は、続いてあと二点のアリバイを提示した。
九時三十分福岡発大牟田行の特急電車は、十四分後に最初の停車駅二日市に着く。そこで下車し、太宰府線に乗り換えようとした被は、連絡通路で知人に声をかけられたという。会社の近くの理髪店の主《あるじ》で、喜多川は長年の馴染客である。彼は二日市の娘の家を訪ねた帰りで、九時五十分の福岡行に乗るといって急いでいたから、陸橋の上で話を交したのは、九時四十七、八分であろう……。
これも、その通りなら、喜多川のシロを裏付けるものである。二日市駅から甘木の現場まで、被害者を車に乗せる時間などを差し引いても、三十分はかかるのである。西鉄線は二日市の先で、甘木方面へ向かう県道と離れるから、車以外の足も考えられないのだ。
第三のアリバイは、その後、十時五分の太宰府行に乗り換え、五分後に太宰府駅着、歩いて十分で自宅に帰り着いた。従って十時二十分ごろ家の門前に達したわけで、そこで、ちょうど犬の鎖を引いて出てきた隣家の主人と出会って、挨拶したというのである。
「──私大の教授で、郷土史の本を出している国光という人ですよ。毎晩そのころ、秋田犬を散歩に連れていく習慣らしくてね。──何か、家族の証言では証拠能力が弱いとか聞いたことがあるが、お隣さんなら、証人として合格ではないのかな」
最後は唇を歪めるようにほころばせて、軽い皮肉をつけ足した。確かに、甘木の現場から車で四十分はかかる太宰府の自宅へ、彼が十時二十分に帰着したことを隣人が認めるならば、これも潔白の証拠となるだろう。
つまり、彼が示した三点のアリバイのうち、いずれが成立しても、彼の容疑は棄てなければならない。
しかし……ことばを切ってからこちらを覗《のぞ》きこむ、喜多川の一見平静な黒い眸の奥には、かすかに窺い惧《おそ》れているような、不安の翳りが認められる気もした。
捜査側の能力を試しているのか?──恐らく、見くびっているかもしれない。すると湯原は久しく忘れていた、カッと肚の底が煮え立つような闘志を意識した。
(喜多川のアリバイの一角が、早くも揺らぎかけている……!)
そう思い返すと、湯原はいく度目か、身体が内側から加熱されるのに似た、奇妙な興奮に捉えられた。
喜多川の事情聴取をした翌日の午後。西鉄電車は、二日市を出て、福岡へ向かって走り続けている。晩秋の寒々とした曇り空の下で、都府楼《とふろう》跡の芝生敷の平地が、家並の先に流れすぎた。今は、その一帯が区画され、礎石を残すだけだが、七世紀のころには、「遠《とお》の朝廷《みかど》」と呼ばれた太宰府政庁が置かれ、東大寺正倉院と同じ様式の役所の建物が、権勢を誇示していたはずなのだ。
喜多川の家の隣に住んでいた歴史の先生は、そこで花開いた万葉歌人たちの才気と望郷の哀切を、情感をこめて語ってくれた。もっともそれは、昼前に訪問した湯原が、まずそんな話題から相手の気分をときほぐし、やがては正確な記憶を甦らせるように、配慮したからでもあった。大学教授とか、郷上史家などと聞けば、よほど気難しい人種ではないかと、警戒してもいたのだ。
しかし、半白の髪をオールバックにして耳の下まで垂らし、ヒョロリとした痩身に黒いトックリのセーターを着こんだ国光は、思ったより気さくな雰囲気の人だった。
「十一月十日の夜? では例の、甘木でホステスが殺された晩のこと?」
そろそろ核心に近づいた湯原の問いを、国光は地声らしいよく通る太い声で訊き返した。
「ええ。実は、被害者が勤めていた店に出入りしていた客を虱《しらみ》つぶしに調べているものですから、喜多川さんもその対象になりまして……」
質問の性格上、ほぼありのままの事情を打ちあけた。
「喜多川さんのいわれるには、十時二十分ごろ家に帰ってきて、門を入りがけに、国光さんと挨拶したということなんですが……?」
「ああ、垣根ごしに話をすることはよくあるんですよ。ごらんの通り、お隣と家とは、門から玄関までの私道が並んでいますからね」
国光は、応接間とリビングを兼ねた部屋のテラスまで立っていって、前庭の方を指さした。なるほど、舗装された二本の私道の両側には、白い金網と、カイヅカイブキの紡錘《ぼうすい》形の植込みが連なっているが、どちらも低いし隙間があるので、互の姿を認めて話を交すことは十分できそうだった。
「それで、十一月十日の夜は、どんなふうだったのでしょうか」
「うむ……雨が降っていなければ、散歩に出かけたわけだが……」
「何か、毎晩十時すぎに、犬を散歩に連れていかれるとかうかがいましたが……?」
「そうなのです。わたしは二階の書斎で仕事をしておるんですが、十時すぎると階下《した》へおりて、身仕度をし、熱いお茶を一杯のんでから、裏に繋《つな》いである犬の鎖を外して出かけるわけだから……なるほど門の方へ来るのは十時十五分か二十分くらいになるかもしれませんな」
それで問題の晩は、と重ねて尋ねる前に、国光は丸く光る目をむいて、
「ああ、そういえば喜多川さんとお会いしましたよ。十日の晩は特別暖かったでしょう。そんなことを喋ったのを憶えていますから」
「ほかにも、何か話されましたか」
「いや……あちらも疲れておられるだろうし、こっちも犬が鎖を引きますから、出会い頭に、お帰りなさいといって、それから、今夜は暖いですなとかいったくらいで……」
「喜多川さんは何といわれたのですか」
「さあ、別に……ええ、とか、はいとか頷かれただけだったと思うが」
「つまり、彼の方は、積極的に何も喋らなかったのですね」
「そういうことになりますかな」
湯原は、局面の突破口が開ける時の常で、かえってこもったような低い声になりながら、
「妙なことをうかがいますが、夜分、あの私道は、かなり暗いのではありませんか。さっきちょっと拝見したのですが、お宅には門灯はついてないし、喜多川さんのもごく小さい。玄関先の外灯は点《とも》っていたとしても、私道の中ほどまでくれば……」
「ああ、暗いですねえ」と国光は頷きながら、ふと複雑な眼差になって湯原を凝視した。
「すると、垣根越しに二言三言交した程度で、相手がまちがいなく喜多川さん本人だったと、断定できるでしょうか」
「しかし……あれが人ちがいだったとすれば……」
「あちらのお宅には、今浪人中の息子さんがおられますね。背恰好も喜多川さんと似ているとか……」
背恰好については、近くの米屋に寄って聞き出してきた。そして、国光が喜多川と彼の長男とをとりちがえたのではないかという着想は、湯原自身の経験から発していた。彼の息子も最近急におとなびた声を出すようになって、たびたび電話で湯原とまちがえられているようだ。
「うーむ。なるほど」
しばらくたって、国光が低く唸るような呟きを洩らした。
「そういわれれば、わたしにも百パーセントの自信はありませんなあ。いや無論、わたしは喜多川さんを疑っているわけではないが、しかしこの種の問題は、冷静に判断しなければなりませんからな。──確かに、秀彦君は、背丈もお父さんと同じくらいだし、声もそっくりだ。そこであの晩、秀彦君がどこかから帰ってきたとして、一方わたしの方は、時刻から推してお父さんとばかり思いこんでいるから、それで人ちがいをしなかったとも限りませんねえ……」
あらかじめ、喜多川が偽アリバイをつくるために、息子を替え玉に使ったのか、あるいは犯行後、息子から、偶然国光に出会った話を聞いて、偽アリバイの補強に利用したのか、どちらの可能性も考えられる。
いずれにせよ、これで喜多川の提出した三点のアリバイのうちの一点が、早くもあやしくなってきたわけだ──。
御笠川の鉄橋を渡った電車は、福岡市の南部に入ってきた。家並の詰った平野の先は、なだらかな山系に囲われている。
近年福岡は南の方へ急速に発展して、ベッドタウンが形成されている。一昔前までは、都府楼跡と、菅原道真|由縁《ゆかり》の天満宮で知られる史跡の町だった太宰府も、今は代表的な新興住宅地に変りつつある。喜多川の家の近辺にも、新築の高級住宅が目立ってふえていた。
湯原は、先刻、国光に会ったあとで、喜多川の家を訪ねている。午前十一時すぎだったから、当人の不在は承知の上である。
水彩の風景画を飾り、床の木目が美しく光っている玄関へ現われた喜多川の妻は、一見三十四、五の、小柄で華奢《きやしや》な身体つきの上品な女だった。日本風の顔立ちがおっとりしていて、良家の出を感じさせる。若く見えるのはお嬢さんタイプのせいで、彼女の名が喜多川鶴代、齢は三十七になることも、湯原はすでに調べずみだった。
鶴代は、十一月十日夜、喜多川が十時二十分ごろ帰宅したと、おとなしいが緊張した口調で答えた。国光と外で挨拶を交していた声も、玄関の鍵を外しながら耳にしたとのべた。
息子の秀彦は、予備校の模擬テストを受けに行っていて、不在だということだった。
湯原は十分たらずで辞去した。
道路に出てから、改めて家を眺めた。鉄筋二階建で、明るい灰色の壁と、勾配《こうばい》のゆるいブルーの瓦屋根。芝生の庭と前の私道との境目に、グリーンのプラスチックで囲いしたガレージができている。豪壮と呼ぶほどの家ではなく、また瀟洒《しようしや》というほど凝った感じもしない。むしろ、飾り気の少い、開放的で男性的な住居であった。
喜多川らしい家だったと、湯原は口惜しいほど克明に眼底に焼きつけられたその家の外観を、車窓の空間に再現させた。もっと正確にいえば、湯原の意識の中に長年棲みついている喜多川の人物像に、彼の家はいかにもふさわしかった。男らしく、大股に、みみっちいことや、女々しい世界を振返ることなく前進していく……やはり湯原の目に映る喜多川は、湯原にとっての理想の人生のイメージをすっきりと身につけている……。
すると、決って、あの忌わしい記憶の一コマが、とって代るように浮かびあがってくるのだ。視界を粘っこく被い包んでいた夜霧。嘲るようにのぞきこんできた青年の尖《とが》った頬骨を、寒々と際立たせていた青白い外灯の斜光──。
もう十五年余りも昔になるのだから、あの青年たちも、今では三十を越しているわけだろう。
十二月はじめの、昼間は今日のようなしぐれ空で、底冷えのきびしい日だった。鹿児島本線吉塚駅近くのアパートで、水商売の女性の部屋に空巣が入った。最寄りの派出所勤務で巡査部長だった湯原は、被害の状況を調べた上、本署へ報告に行くために、筥崎《はこざき》神宮の裏手の路地を歩いていた。夜の十一時すぎで、一帯は下町の住宅街だが、広大な神社とその周辺だけは、人通りも途絶え、シンとした夜陰に沈んでいた。
早道をとるために、木立の間から境内に足を踏み入れかけた湯原は、突然、その黒々とした樹林の陰から人影が躍り出し、自分の方へ突進してくるのを感じた。ハッと身構えた直後、後から襲ってきた別の敵に両腕を羽交締めされ、前から走り寄った長身の青年が、のしかかるような姿勢で湯原の喉元にナイフを突きつけた。あっという間の襲撃であった。後の男の姿は見えなかった。ただ荒々しい息遣いと、恐ろしく強い力が闇雲に湯原の腋の下を締めあげた。外そうと動けば、登山ナイフの切っ先が、喉元すれすれに密着した。前に立った男は、揉上げの長い、青黒い頬に吹き出物のある若者だった。まだ二十歳前か。焦点のぼやけた奇妙に白っぽい眸が、至近距離からのぞきこんでいた。無気力さのゆえに、底知れず酷薄な笑い──。
何が狙《ねら》いなのか?
腰の拳銃か?
だが、抵抗すれば殺《や》る気だ、と直感した。
次の瞬間、湯原の眼前に、妻と長男の手をつないだ姿が浮かんだ。それはまるで、等身大のカラー写真を目の前に置かれたような、不思議なほど鮮やかな一瞬の幻影であった。長男は誕生を迎えたばかりで、伝い歩きしていた。死にたくない、と思った。確かに、ほんのいっとき、湯原の全身は恐怖に金縛りされた。
その後の経過は、定かに思い出せないが、あとは死物狂いで戦ったつもりである。だが、彼の必死の追跡を尻目に、彼の拳銃と、登山ナイフをジャンパーの懐に押しこんだ若者たちは、驚くほどの俊足で、神社の樹林の間へ走りこんでいた。
二人は約二十四時間後に、市の西部の山中にたてこもったところを、警官隊に包囲されて逮捕された。組織暴力とは直接関係のない工員と高校生の二人組で、日頃の鬱憤晴らしに、拳銃を手に入れて世間をあっといわせるようなことをやりたかったと自供した。だが、逮捕された時には、一発も発砲されていなかった。
しかしいずれにせよ、警察官にとって、拳銃を強奪されたのは、決定的な失点である。その上、状況として、全力で防戦すれば奪われずにすんだかもしれないという、批判の声も弱くはなかった。
その事件以来、湯原は巨大な県警組織の中で、陽の当らない道を歩きはじめた。元来、際立った行動力や閃きを示して目立つ存在というのではない。捜査畑にいても、地道に歩いて、調査を積み重ねていくタイプだった。そうした性格の上に、償いがたいミスを犯したという心の負担が、いっそう無口で、やや狷介《けんかい》とも見える人柄をつくり出したせいもあったかも知れない。警察学校の同期生の中には、すでに警視で、署長や県警本部の課長を勤めている者も少くないが、湯原は四十四歳でようやく、ABCと分けてC署に属する警察署の刑事課長になったばかりだった。
いや、昇進の遅いことで、必ずしも彼が絶望的になっているというわけではなかった。もともと彼は、人を押しのけてでものし上ろうといった欲望の強い男ではない。あの拳銃事件にしても──それはやはり、思い返すたびに、大声で叫び出したいような衝動に駆られはするが、とはいえ、捨身で抵抗すれば必ず拳銃を奪われずにすんだと決っているわけではない。やはり、殉職していなかったとも限らないのだ。妻子の幻影に襲われて、死にたくないと思った、その最初の恐怖心で遅れをとったのだとしても、あれはあれで仕方なかったのだと、開き直る気持が湧いていることもあった。
しかしまた、本当にそう割り切ってしまっていいのだろうか……?
湯原の心の奥底に描かれている、真に男らしい生き方とは、後を振返らず、何かもう一つ豪快な、決然とした意志に貫かれていなければならなかった。理想と自らの現実との隔りが、彼を鬱屈させた。そして、理想の側に、喜多川のイメージが立っていた。屈辱の記憶と喜多川の存在とは、湯原の内部で不思議に表裏一体となって交錯していたのだ。
だが、その喜多川に、今うす黒い影が忍び寄っている。
喜多川は轢き逃げとホステス殺害の犯人なのか?
淡い恐れと、一種奇妙な快感との混りあった不可解な興奮を噛《か》みしめながら、湯原はターミナルのフォームに降りた。
改札口を出て、売店の方へ階段をくだった。
「ああ、そんなことがありましたねえ……四、五日前になるかしら」
煙草、雑誌、チョコレートなどを並べた棚の内側にいたのは、えんじ色のスモックを羽織った三十前後の女性である。頬にソバカスが散って、目尻のすぼまった細い目が、たえず微笑を浮かべているように見える。彼女は、湯原の質問を聞くと、少しの間首を傾《かし》げただけで、すぐ視線を戻して頷いた。
「すると、男の人がここの赤電話を使い、途中で十円玉が足りなくなって、あなたに百円を両替えしてもらい、通話を続けた。そういう事実があったわけですね」
湯原は、棚の横に備えてある電話機を目で示して念を押した。
「ええ。憶えています」
「その男の年配や人相なども思い出せるだろうか」
「背が高くって……胸の厚い、体格のいい人だったような気がしますけど」
「年齢《とし》は?」
「さあ……刑事さんと同じか、もう少し若いくらい……」
彼女がちょっと笑った声で答えた時、傍らで週刊誌をめくっていた中年の男が、つと顔をあげて、怪訝《けげん》な眼差を湯原に注いだ。
その男が、買った雑誌を小脇にはさんで階段をのぼっていくと、湯原は内ポケットから三枚の写真を取り出した。中の一枚が喜多川の写真で、昨日署に出頭したさい、若い刑事にひそかに撮らせておいたものである。
「この中に、その時の客は混っていませんか」
それまではまだ軽い気持で応答していたらしい相手も、次第に緊張を覚えはじめたらしい。恐る恐るの手つきで写真を受取った。
「──この人だったと思います。多分、まちがいないです」
答えが出たのは、しばらく丹念に見較べたあとだった。彼女の指は喜多川の顔写真を選び出し、ほかの二枚は重ねて別の手に持っていた。
「なるほど。わかりました。では、何日の何時ごろの出来事だったかも、はっきり憶えていますか」
「今気がついたんですけど、月曜日だったと思うんです。だから十日ですね。というのが、その人のくるちょっと前に、別のお客さんに週刊××はないかって訊かれて、明日入りますと答えたんです。週刊××が届くのは火曜日ですから」
「うむ。時刻は?」
「ええっと……」
相手ははじめて眉をしかめて渋面をつくった。
「八時か……九時すぎてたかしら……」
「もう少し絞れないでしょうか」
喜多川は、九時十五分から二十分の間にダイアルして、十分ほど喋り、九時半発の特急にすべりこんだと証言している。
「まず、八時台だったか九時以後かはわかりませんか」
「さてと……」
「ここは何時まで開けてるんですか」
「大体十時ごろまで」
「では、店を閉める二時間前だったか、一時間前だったか……」
「割と遅い感じだったから、九時すぎてたのかもしれませんけど、でも……」
はっきり決められないと首をひねった。湯原は、なお二、三度尋ね方を変えて、相手の記憶のとっかかりをつかもうと試みたが、時刻まではどうしてもくわしく思い出せないようであった。
やがて、彼女の住所氏名を手帳に控え、礼をのべて離れた。
残りの階段をくだって、天神町の大通りへ出た。
一応の目的を達した満足感で、彼の足どりはしっかりとしていた。本当は、喜多川が十日夜|八時半ごろ《ヽヽヽヽヽ》にでも、あの赤電話を使い両替えをたのんだという証言をとれれば最も望ましかったのだが。しかし、実際それが八時半でなかったという反証もないわけだ。
彼が電話をかけた相手の藤田という課長には、すでに今朝自宅へ刑事を赴かせて、一応の調べをすませていた。彼は、確かに十日夜九時十五分前後に、喜多川の電話を受けたと認めている。喜多川が、西鉄福岡駅からかけているとのべ、仕事の用件だったため長話になって、途中で「今、両替えしてもらうから」といったあとでコインを入れ足した気配も憶えている。また、用件の一つに、九時半に別の社員に連絡するよう指示されたことも含まれていたので、通話の時刻もまちがいないと明言した。
これで、売店の売り子までが、喜多川とおぼしき男が同時刻に赤電話を使ったというのであれば、もう彼のアリバイは崩しようのない状況だが、彼女が時刻を絞りきれないところに、こちらの攻め入る可能性が残されているわけだ。
例えば喜多川は、八時半ごろあの売店の赤電話を使い、どこにも通じない出鱈目のダイアルを廻して、一人で喋る。途中、売り子に両替えをしてもらって印象づける。その後、彼は二日市まで西鉄線を利用したか、あるいは福岡から自分の車を使ったか、いずれにしても九時半に二日市の武蔵寺近くで美輪子を乗せ、十時に甘木の現場へ着くことは可能である。それ以前の九時十五分ごろ、彼は途中どこかの電話で藤田にかけ、福岡駅からだと偽った上、売り子に両替えをたのんでいるような一人芝居をしながら、十分も通話したのではないか。
つまり、彼が福岡駅売店の赤電話を使ったのと、藤田の自宅にかけた電話とは、時刻がずれていたのではないか。
この疑いが消えない限り、ここでも彼のアリバイが成立したとは認められないのだ。
湯原は天神町交差点からバスに乗った。
盛り湯から盛り湯へ、メインストリートを走り、やがてビジネス街の趣になる。彼が降り立ったバス停の斜め前に、喜多川の勤務する鉄鋼会社の本社ビルが聳《そび》え立っている。
そこから百メートルも離れていないビルの地下にバーバー・岩崎≠ェあった。書店と花屋にはさまれた、小ぎれいな店である。
十一月十日夜九時四十五分ごろ、二日市駅の連絡通路で、喜多川はこの理容店の店主に出会ったとのべている。
午後二時すぎという半端な時間のためか、店内はガランとしていた。湯原が入っていった時には、白い上っ張りの男が三人で立ち話をしていたが、その中の一番年配が岩崎だった。
彼は、湯原の身分と大体の用向きを知ると、奥のドアを開け、ロッカーや帳簿類が置かれているプライベートルームへ湯原を請じ入れた。
「──二日市のホステスが甘木で殺された事件ですね。あれを調べておられるわけですか」
三点セットで対座した岩崎は、デスクの引出しから煙草を取り出しながら、好奇心を含んだ眼差で湯原を眺めた。硬そうな髪をほとんど坊主刈に近く刈りこみ、鼻の下には髭を貯えている。五十歳前後か。浅黒い皮膚に被われたゴツゴツした顔は、一徹らしい印象を与える。が、湯原に対して特に身構えている様子は感じられなかった。
彼は、郷土史家の国光のさいと同様、ある程度事情を打ちあけた。殺された香山美輪子のいた店に出入りした客のアリバイをすべてチェックしており、喜多川もその一人に含まれている……。
「ところで、喜多川さんは、あの晩二日市であなたと出会ったといっているのですが……?」
岩崎は一瞬だけ息をのむようにしたが、次には大きく頷いた。
「ええ、階段をあがった通路の上でね。あの方が下りフォームからのぼってこられて、わたしは改札口を入ったところで、ちょうどお会いしましてね」
「ちょうどといわれますと、バッタリ顔を合わせた恰好ですか」
「というか、わたしが見つけて、声をおかけしたのです。喜多川さんには、新入社員の時代からご贔屓《ひいき》にしていただいて、あの方の頭は若い者に任せずに、いつもわたしがやらせてもらってるくらいですから、人混みの中でもすぐ目につくんですよ」
岩崎は微笑しながら、ライターの音をたてた。
「それで、あなたの方から声をかけて、立ち話をなさった……?」
「ええ。わたしは娘が二日市に嫁いでましてね。孫の顔を見にいった帰りがけで、急いでたもんですから、ちょっと挨拶しただけですが」
やはり別段屈託のない、しかし明白な回答である。湯原は、喜多川のアリバイを調べ出して以来はじめて、いやな予感に似た動揺を覚えていた。
「急いでいたとおっしゃるのは、何かまた予定でもあって──?」
「いや、家へ帰るだけなんですが、九時五十分の福岡行に乗りたかったものでね。遅くなると電車が少いし、わたしはせっかちなたちで、フォームの上でぼんやり待っていたりするのがいやなもんですから」
「間に合いましたか」
「ええ、勿論。喜多川さんとは、ほんの二言三言で、すぐに失礼しましたから」
「すると、その時刻は、九時五十分より少し前の……?」
「そうですね。九時四十五、六分といったところじゃなかったですか」
繰返し念を押しても、彼の答えは変らなかった。岩崎の方から声をかけたという点も、喜多川の供述と一致している。
やがて、湯原はまた大通りのバス停まで戻ってきたが、バスには乗らず、天神町の方向へ、ゆっくりと歩き続けた。曇り空が暗さを増し、市街地のすぐ先にある海から、雨気を孕《はら》んだ風が流れこんでいた。
喜多川の提示したアリバイ三点のうち、二点までは半ば崩れたかに思われたが、最後にきて、揺るがぬ壁に突き当ってしまった。しかも、時間の上で三点のうち中間に当る九時四十五分ごろ、彼が二日市駅にいたことが証明されてしまえば、手も足も出ない感じである。
勿論、岩崎と喜多川とが結託しているのではないか。あるいは、岩崎の当夜の足どりを確認して彼の証言の裏付けをとるなど、まだ調査の余地は残されているが、それでもし、彼の話の真実性が認められれば、喜多川はシロになる……。
来た時より急に、視界が黯《くろ》ずんで見え、街の風景が蒼茫《そうぼう》として感じられた。それは空模様のせいだろうと、湯原は漠然と思っていたが、そればかりではないのかもしれなかった。ただ彼は、時折自分の身体が舗道の中へ埋まりこんでいくような脱力感と戦っていた。
かえって覚えぬうちに、バス停二つほどの道のりを、黙々と歩いていた。
東中洲の繁華街をすぎ、那珂川の橋を渡っている途中で、突然足を止めた。満ち潮で海とは逆の方へひたひたと流れている川面を凝視していたが、急に、ちょっとギクシャクした動作で踵《きびす》を返した。
橋の袂《たもと》にあった電話ボックスへ入った。
手帳を出して、バーバー・岩崎のナンバーを廻した。岩崎が替ると、
「あの、さっき大事な点を確かめるのを忘れたような気がするのですが──」
「はあ」
「あなたが九時四十五、六分に二日市で喜多川さんに会ったといわれる、その日は、絶対に十一月十日月曜日だったのですか。九日や十一日の思いちがいではありませんか」
受話器の底から、呆《あき》れたような、うんざりしたような溜息が聞こえた。
「まちがいありませんよ。二日市のホステスが殺されたとテレビで聞いた時、自分も夕べは二日市へ行っていたと、すぐに思ったくらいですから」
岩崎が何らかの理由で喜多川のために偽証しているのではないか?──この疑いのもとに、慎重な内偵が行われたが、何一つ証拠はつかめなかった。岩崎の当夜の行動にも、不自然な点は見出されなかった。
となれば、喜多川の容疑は一応白紙に戻さなければならない。
喜多川の名が捜査線上に浮かんで以来、その追及は主に湯原の指揮で行われていただけに、彼は面目を失くしたような恰好になった。無論、捜査本部全体の失望も小さくなかった。
が、県警から出向いている江藤警部は、頭の切り換えの早いたちなのか、すぐに次の容疑者の追跡に没入した。被害者の職業がバーのホステスだけに、容疑者の数は少くなかったのである。
湯原は、一日休みをとり、家に引き籠《こも》っていたが、その翌朝、早目に家を出ると、署とは反対の、二日市の方へ向かうバスに乗った。
二日市駅前で太宰府行に乗り換えた。
天満宮の参道の途中から、喜多川の家のある方へ、ゆるやかな坂道をのぼっていくと、お宮のこんもりとした楠の森の背後に、頂上の平らな四王寺山がやさしい姿で横たわっている。右手の先には、宝満山がひときわ鋭く聳え立っている。万葉の歌にもたびたび詠みこまれたこれらの山々の懐に抱かれた扇形の台地に、太宰府は発達した。今は山裾を這いのぼるように開発が進み、湯原が歩いている昔ながらの不定形な坂道の両側にも、在来の農家に混って、新築家屋が目につく。新しい家は、大抵、真白な壁と明るい鼠色の瓦屋根、それに燻《いぶ》した黒い材木をあしらっている。白壁に、竹林の緑や熟した柿の実が冴え冴えと映えている。それほど、空気はまだ澄んでいる。初冬を感じさせる、シンと冷えた朝だった。
もう一度だけ、国光に念を押して確かめてみよう。その結果によって、今度こそ判断を決しよう──峰の上にひろがっているうす青い冬空に目を向けながら、湯原は自分の心にいい聞かせた。
岩崎の証言する九時四十五分のアリバイは、湯原にも当面どうすることもできない。しかし、それだけで喜多川の容疑を断念するふんぎりが、なんとしてもつかないのだ。彼が潔白なら、なぜ、その両側の九時十五分福岡駅売店と十時二十分帰宅との二点が、揃ってあやふやなのか。それを単なる偶然と割り切れるだろうか?
売店の売り子には、今さら何度尋ねても、当夜喜多川が電話を使った正確な時刻を思い出させることは、無理のようだった。だが、国光には、もう一度突っこんでみる余地があるのではないか。あの晩垣根ごしに挨拶した相手が、喜多川本人であったか、否か──?
湯原は、自分自身の気持をふっ切るきっかけがほしかったのかもしれなかった。
幸い国光はまだガウン姿で在宅していた。
先日と同じ絨毯《じゆうたん》を敷いた日本間に通されると、湯原はすぐ用向きを切り出した。
国光は小さく光る目を据えて耳を傾けたが、
「ああ、そのことですか。あれはやっぱりお父さんの方でしたよ。息子さんとまちがっていたのではありませんね」
持ち前の太いはっきりした声で、即座に答えた。
「それは、何か理由でも……?」
「あなたが帰られたあとで思い出したんですがね。あの晩は、いったん裏庭から犬を連れて出てから、二階の机の上に煙草を忘れてきたのに気がついて、取りに戻った。その時、お隣の二階の部屋で、秀彦君が勉強机に向かっている姿が見えたんです。それから、わたしはすぐまた玄関におりて、鎖を引いて出ようとした矢先に、外から帰ってきた喜多川さんと会ったんですからね。それが秀彦君であるはずはないんですよ」
湯原は、しばらくの間押し黙っていた。一度、深く息を吐いた。ようやく顔をあげて、
「国光さんの二階の書斎からは、隣の二階が見えるわけですか」
「ええ。ちょうど秀彦君の勉強部屋と、窓が向かいあっている恰好でね。どちらも大抵カーテンを開けたままにしているので、彼が机についていると、横顔が見えるんですよ」
「………」
「それにしても、受験生を見ていると大変ですねえ。昼間少し眠るだけで、夕方から夜明けまで勉強しているらしいですからね。家族もずいぶん気を使っている。毎晩十時には、お母さんが夜食を作って、下から呼ぶ声が聞こえてますよ。それでわたしも、犬の散歩時間だなと気がついたりするんですが……」
「すると、十日の晩は、夜食が遅れていたわけでしょうか」
「ああ、そうだったんでしょうな。いつも、秀彦君が留守の時以外は、めったに遅れることはないみたいなんだが……」
国光は、それがふだんとちがってひどく怪訝だというふうに、しばらくこだわった目を庭に向けていた。
間もなく湯原は、国光の家を辞去した。
紡錘形の植込みに縁取りされた私道から振返ると、なるほど二軒の家はかなり近接して建っている。国光の家は総二階ではないので、喜多川家に面しては一つだけある二階の窓が、先刻の話に出た書斎の窓であろう。それと向かいあう位置が、秀彦の勉強部屋か。その階下《した》は、プリント柄のカーテンの感じから、リビングキッチンのようだ。そこで母親が夜食をつくり、毎晩十時に、二階の息子を呼ぶ。
その習慣が、十一月十日の夜だけは遅れていたという……。
湯原は、どれほどか、自分でも覚えぬ時間、その場に石のように立ちつくしていた。小柄で細《ほ》っそりとした、喜多川の妻鶴代の姿が目に浮かんだ。先日玄関で彼の問合わせに対し、夫の帰宅時間を答えた時の、おとなしいがどこかひたむきな表情が……。
それから徐々に、だがふいにまったく新しい視野が展開するように、一つの洞察が湯原の中に体をなしてきたのである。
あの夜、秀彦の夜食が遅れたのは、実はそのころ母親が不在だったからではあるまいか? 午後十時──それはまさしく、甘木の県道沿いで女の悲鳴があがった時刻である。その悲鳴によって、凶行の現場も、死体の発見されたあの野原と断定された。
とはいえ、鶴代が手を下して香山美輪子を殺害したとは考えられない。美輪子は鶴代より一廻りも若い上、体格もはるかに優っている。その美輪子が、正面から強い力で扼殺されていたのだ。
しかし……「喜多川は、車は家内に譲ったなどと笑っていた」と紫苑≠フ聞込みを報告した若い刑事のことばが、湯原の耳底に甦った。
鶴代は車の運転ができたのだ……。
この時、喜多川の家の、チーク材のドアが開いた。紺のブレザーの小脇にノートを挟んだ長身の青年が、玄関の内側で何か喋ってから、ドアを閉めて歩いてくる。その何気ない視線と出会った瞬間、湯原は、まるで、まだ喜多川に食いさがっている自分を喜多川本人に見つけられたような錯覚を抱いた。
それほど、青年の身体つきも顔立ちの印象も、喜多川と似ていた。少しばかり青年の方が痩せているのと、髪が長めだというくらいで。長男の秀彦にちがいないと、一目で察しられた。
秀彦は、隣家の私道の途中に佇《たたず》んでいる湯原には、別段気にもとめぬ様子で、表の道路へ出た。
二、三歩遅れて、湯原が続いた。下り坂にかかる小さな四つ角で、後から声をかけた。
「ちょっとお尋ねしますが」
秀彦は、スウェードのスポーツシューズの踵を回転させるようにして振返った。黒い真直ぐな眉の下で、睫毛《まつげ》の長い澄んだ目が、若者特有のちょっと眩《まぶ》しそうな光をたたえていた。
「わたしは甘木警察署の者なんですが、最近、自家用車に悪質ないたずらをやっていた人間が捕まりましてね。その被害状況を調べているんですが……」
甘木署と名乗っても、相手の表情に変化は現われなかった。
「自家用車のいたずら?」と軽く訊き返した。
「ええ。この近所でもタイヤの空気を抜かれたり、ボンネットに傷をつけられたりした人がいるんですよ。それで今、犯人の自供に基づいて、確認をとっているわけなんですが……しかしお宅では、確かあの晩は車が置いてなかったみたいですね」
「あの晩というと?」
「ああ、十一月十日の晩です。月曜日に当りますが」
秀彦は湯原を見返したまま、二、三度瞬きした。それから、
「ああ、そうでしょうね。母が出かけてましたから」
質問の反応を読み取ろうと、息をつめていた湯原には、拍子抜けするような、淡々とした答えが返ってきた。
「それは……何時から何時くらいの間だったですか」
「ええっと……九時すぎくらいに出たかなあ。福岡の実家に急用ができたらしいんですが」
福岡ではあるまい。九時すぎに車を運転して家を出た鶴代は、甘木へ直行したのだ。美輪子の死体が発見された地点まで、約四十分。十時二、三分前になると、彼女は、無人の野原で、一度悲鳴を発した。その時刻を近隣の証人に記憶させるために、モーテルの従業員の交代時に当る十時を選んだのかもしれない。
次に鶴代は、二日市へ戻った。
一方、喜多川は、二日市駅から走れば三、四分の武蔵寺近くに九時半という指定で、美輪子を待たせたのではないか。望みの金を渡すとでも約束したのであろう。美輪子はそのころ武蔵寺へ向かっている。しかし、喜多川が現われたのは、九時五十分前後だっただろう。彼は確かに、九時十五分ごろ福岡駅の赤電話で藤田と通話し、九時半の特急に乗り、九時四十五分ごろには、二日市の連絡通路で岩崎と出会ったのだから。そして、美輪子に会うなり、首を絞めた。だから、検屍による死亡推定時刻は、悲鳴が挙った時と符合して十時前後と見られた。それでなおさら、捜査側は眩惑されたのだ。
死体を暗がりに隠し、喜多川はすぐ二日市駅へとって返して、太宰府行の電車に乗った。これなら、十時二十分に家へ帰れる道理である。
鶴代の方は、十時半ごろ二日市まで戻ってくる。喜多川と打合せしておいた場所に死体を発見する。非力な彼女でも、無抵抗な被害者を車の中へ引きずりこむくらいはできただろう。
美輪子の死体を積んで、再び甘木へ向かう。先程の県道脇へ着くのが十一時すぎ。野原に死体を横たえ、周囲の草を踏み倒したりして、その場で凶行が演じられた痕跡を擬装してから、帰宅したのだ……。
「お母さんが帰ってこられたのは、何時ごろでしたか」
「十一時半……いや、十二時近くなっていたかもしれませんね」
「なるほど。車のいたずらをした犯人は、ちょうどその間くらいに、この辺を通りかかって、手当り次第にやったようなことをいってましたから、お宅はうまく被害を免れたわけですね。しかし……それでは十日の晩、あなたの夜食は抜きになったわけですか」
秀彦は驚いたように軽く口を開けた。が、湯原がさっき国光の家の前に立っていたから、国光にでも聞いたのだろうと察しをつけたかもしれない。光った歯並びを見せて苦笑し、
「いや、代りにあの日は父が十時すぎに帰ってきて、何か拵《こしら》えてくれましたよ。うちの父は、そんな点、わりに小まめなんですよ」
いってしまってから、彼は贅肉《ぜいにく》のない頬を少し赧《あか》らめて、照れたような笑い声を洩らした。
白い坂道の上を、秀彦のすらりと伸びた後姿が遠ざかっていくのを見守りながら、湯原は、それよりもずっとゆるやかな歩調でくだっていった。
彼は、今では頭の中にはっきりと組みあげられた推理を、もはや疑いの余地ないものと信じていた。何よりも、それはいかにもあの切れ者の喜多川にふさわしい巧緻な計算であったと思われるからだ。
香山美輪子が殺されれば、いずれ自分に容疑が及ぶ可能性を、喜多川はある程度覚悟していたのだろう。有力容疑者に、最初から一分の隙もないアリバイが用意されていれば、捜査側はかえって、共犯者の存在を疑い、死体移動や犯行現場の擬装へ、思考を転換させたかもしれない。
ところが、彼が提示した三点のアリバイのうち、二点まで微妙に崩れかけたため、こちらはひたすら、残された壁を打ち破ることばかりに努力を集中した。しかし最後の一点が揺るがぬものとわかった時、喜多川シロの印象が、効果的に浮かびあがってきたのだ。
あるいは彼は、事件を担当する署の刑事課長湯原の性格をも見抜いた上で、この計画を練ったのかもしれないとさえ、湯原には感じられた。一度食いついた対象はコツコツと丹念に調べ抜くが、柔軟な閃きに乏しいこちらの弱点まで計算した上で。二日市駅九時四十五分のアリバイは、たまたま岩崎に声をかけられたものだが、そんな好都合な偶然に恵まれなくても、彼はどこかに一点、不動のアリバイを用意するつもりだったのにちがいない。
それにしても、喜多川も鶴代も、一人息子の秀彦には、何も事情を打ちあけていなかったらしい……。
やがて坂の下の築地塀《ついじべい》の角を曲って姿を消した秀彦を見送ってから、湯原ははじめて、複雑な感慨が胸に湧きあがってくるのを覚えた。濁りのない青年の雰囲気が、まだ身近に漂っているような気がする。すると、清潔な眸に意志的な光をたたえていた高校時代の喜多川が甦った。
もし、秀彦や鶴代の存在がなければ、喜多川は轢き逃げなどしなかったのではないだろうか──?
彼もまた、背後の小さな温い世界を振返り、そのために逃げたのであろうか。逃げたために、罪を重ねた。それにしても、十五年前暴漢のナイフの前で立ちすくんだ湯原と、結局はどれほどのちがいがあったというのか……?
湯原は、先程から全身を熱っぽく満たしていた勝利の興奮がさめていき、代りに、一種奇妙な安堵《あんど》感に包みこまれる自分を意識した。
それでいて、彼の心の奥底では、何か割り切れない鬱屈が、重苦しさを増したようにも感じられた。
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滑 走 路 灯
羽織と着物とお揃いの小紋のおしゃれ着に装った志保子が、日頃は着つけない和服の裾を気にしながら街路へ出ると、うす闇の空気の中に、沈丁花《じんちようげ》の香りが漂っていた。
今出てきたばかりの、聳え立つような高層マンションは、ほとんどの窓に明りを点《とも》しているが、背景の西の空にはまだ輝きを含んだ茜《あかね》色の黄昏《たそがれ》がひろがっている。上野公園の森と、それが切れた先には寛永寺の屋根が、夕焼けをバックにしてひときわ黒々とした影絵を描いている。
微風が耳元をかすめると、また沈丁花が匂った。風の底にも、もう陽春の温もりがこもっている。
「ああ、いい夕方……」と、志保子は思わず声に出して呟いた。あの十階のベランダのそばに腰をおろして、一つ一つ電光が数を増し、光度を加えていく大都会のパノラマを楽しむには、これからが一番いい時刻なのに。
まだ五時半すぎに、夕食もいっしょにせずに辞去してこなければならないなんて、本当に口惜しいけれど、今夜は六時に部下の若い人が、何か相談事を抱えて訪ねてくるというのだから、仕方がない。まさか、「風邪」を口実に社内旅行に参加しなかった志保子が、その当日の祝日に、専務の新しいマンションで、同じ会社の社員と顔を合わすわけにはいかないのだ。
十階の窓のほうへ、ひそかなほほえみを送ってから、志保子はもうしっかりした足どりで、静かな道を歩き出した。寂しい中にも、気持が生き生きとして感じられるのは、さっきまで彼と二人きりですごした時間、インテリアも真新しい白い寝室での忘我のいっときも含めた半日の充実感が、身体中に息づいているからにちがいない。それと、右手にさげている小さなボストンバッグの重み……引越し以来調子がおかしくなった目醒し時計や、まだ新品なのにファスナーの具合が悪いゴルフズホンなどが詰めこまれていて、志保子が適当に修繕に出したり、自分で直すつもりで預かってきたものだが、彼にそんなことまで頼まれる立場になったという実感が、なんともいえぬ女らしいうれしさで、胸内をポッと暖めてくれるみたいだ。
次第に夕闇が昏《くら》さを増してくる道路は、やがてゆるい下り坂になって、国電の鶯谷のほうへ通じている。上野公園の北側に当り、徳川家の墓地が広い区域を占めているこの界隈は、たとえば彼が入居した新築マンションのような建物も点在してはいるが、一帯に樹本の多い、古くからの閑静な住宅地であった。
それで、人影もごく少い。休日のため、通勤帰りの人と行きあうこともないわけだ。が、志保子は別に心細いとも怖いとも感じていなかった。彼女の意識は、まだ彼と話をしているつもりになったり、書棚やキャビネットを整理していた彼の姿を思い浮かべたりすることでいっぱいだったのだ。
それだけに──外灯の点っている小さな四つ角にさしかかった途端、左手の細い道から足早に出てきた人と出会い頭にぶつかった時には、吃驚《びつくり》した拍子に、やや常識外れな、悲鳴に近い声を発してしまった。それで相手もとびのくように身を退《ひ》いた。目を見合わせた瞬間、もう一度強い驚きが、二人の顔面にひろがった。
相手の男は、黒っぽいダスターコートの襟で顎の細い顔を隠すようにして、うすい色のサングラスの奥から、ほとんど呆然と志保子を見下ろしていた。
「碧川《あおかわ》さん……」
最初に声を出したのは、志保子だった。同じ驚きでも、志保子のほうは、思いがけない相手に突然出くわした意外さの単純な反応が先に立っていたが、相手は──外灯の光をまともに浴びた碧川公介の表情は、なぜか一時の激しい狼狽を隠しようもなく、そのまま硬直してしまったかに見えた。
「まあ、しばらく……でも、あなた今旭川にいらっしゃるんでしょう? 今時分またどうして……」
どうして東京のこんな場所に……と尋ねかけて、志保子は自分の迂闊さに気がついた。今碧川が出てきたひっそりとした道の先には、昨年の秋まで彼が跡見|一江《かずえ》と結婚生活を営んでいた一江の持家があるのだ。つい半月ほど前、専務に新しく買ったマンションの位置を教えられた時、志保子はすぐにそのことを考えたものだが、偶々《たまたま》場所が近いというだけで、今さら何もひっかかるほどのことではなく、現に今もすっかり失念していたのだった。
でもそれにしても、やっぱり少し妙な話だと、志保子は相変らず強張《こわば》った顔で立ちつくしている碧川を見守りながら思い返した。彼と一江の結婚がわずか二年で破綻をきたし、昨年の九月にはきっぱり離婚して籍も抜いたとは、一江の妹の二美《ふみ》から確かに聞いている。すると半年も前に離婚した女の家を、今夜碧川は訪れていたわけだろうか。それも、この一月に北海道の旭川営業所へ転勤になっている彼が……?
碧川は志保子の問いに答える代りに、腕時計をのぞき、それから考えこむような緩い仕種で身体を半回転させて、無言のまま歩き出した。がそれは、志保子を振り切って立ち去るというより、志保子も鶯谷の方向へ歩いていたので、当然いっしょに従《つ》いてくるだろうと意識した上の動作のように受取られた。
並んで歩き出すと、彼の足運びは次第に大股でせわしげになった。時間を気にして急いでいるふうだ。両手をコートのポケットにつっこみ、顎を襟に埋めるうつむきかげんで……なんだか彼らしくない様子だと感じた時、志保子は彼の頭に、それこそかつて一度も見たことのないグレーのハンチングがのっているのに気がついた。すると、何か得体の知れぬ胸騒ぎがかすめた。
「──元気そうだね」
ようやく彼が口をきいた。うつむいたままなので、声は押し殺したように聞こえた。
「ええ、どうにかやっているわ」
「………」
「あなたのことは、二美さんから聞いていたわ。離婚なさったんですってね」
「うむ……」
「でも今夜はまた、一江さんと再会なさったわけ?」
特に皮肉というほどでもなく、むしろ単純な好奇心で訊いた。チラリと見あげた碧川の横顔が奇妙な表情に歪んだかに感じられた。が、答えは無言だった。
国電の駅へ近づくにつれて、商店の電灯が路上を明るく照らし、人通りも多くなってくる。碧川はいよいよ、足許にばかり目を落とし、人とすれちがう時には、顔をそむけるようにしていた。急ぎ足だけは変らず、何度も腕時計を光にかざす。
「これから旭川へお帰りになるの」
「うむ……いや……」
口の中で、あいまいな答えをした。
ほんとにおかしいと、志保子はまた感じた。志保子が付合っていたころの碧川は、大抵どんな時でも、明敏そうな口調で、歯切れよく話した。男としては、寡黙なほうでもなかった。むしろしばしば饒舌で、相手の目を真直ぐ見つめて喋る時の表情には、自信家らしい性格がのぞいていたものだった。
約二年半前まで、碧川と志保子は同じ航空会社に勤め、東京空港の旅客課で働いていた。碧川が入社して二年目、高卒の志保子も二年目の春ごろから、二人はひそかに結ばれた。無論将来を誓いあっての関係だった。
ところが、そんな状態が一年あまりも続いたあと、碧川は、たまたま志保子が紹介した跡見一江に、すっかり心を奪われてしまった。跡見一江と二美の姉妹は、貿易会社の重役の娘で、当時は一江が私立大学四年、二美が三年だった。二美と志保子が高校の同級生だったが、一歳上の一江とも、高校卒業後も付合いが続いていた。碧川と一江を引き合わせたのは、一江が大学生活の思い出に友だちグループと気ままなヨーロッパ旅行を計画したが、旅先で何かと便宜を計ってくれる人はいないだろうかと、航空会社に勤める志保子に相談してきたのがキッカケだった。志保子は気軽く碧川を一江に紹介し、彼はロンドン支社勤務の友人に、一江たちの世話を頼んだ。
だが、事はそれだけでは終らなかった。男と女のめぐりあいには、どんな危険な可能性もひそんでいたのだと、志保子は後になって、臍《ほぞ》をかむ気持で思い返したものだが。
一江と結婚すると、碧川の口から直接聞かされたのは、一江が旅行から帰ったわずか三カ月後だった。結婚と同時に、碧川は航空会社も辞めた。一江の父が重役をしている貿易会社へ入社したのだ。夫婦は碧川の姓を名乗っていたが、一江名義の瀟洒《しようしや》な洋館に住み、実質上彼は資産家の娘の婿養子におさまった形であった。
間もなく志保子も勤めを変えて、現在の、主に書籍を扱う中規模の商社へ移った。碧川のいなくなった職場で、とり残されたように働いているのが耐えられなかったからだ。碧川の結婚以後、彼とは今日まで一度も顔を合わせていなかったが、彼らの消息は二美を通して志保子の耳に届いた。二美は大学卒業後、まだ結婚もせず、彫金やアクセサリー作りなどをしながら、マンションで一人暮ししていた。
姉妹の父親が病死して、肉親は姉妹の二人きりになったこと、それから、碧川と一江の離婚、碧川の旭川転勤も、志保子は二美から聞いて知っていた。今、思いがけず碧川と再会して……決して幸運だったとは思えない人生の変転が、碧川を変えた、という以上に、何か今夜の彼には奇異な影がからみついていると、志保子は直感的に感じていた。
碧川の急ぎ足にひきずられる恰好で歩いてきたので、十分ほどで鶯谷駅の前に出ていた。構内の時計が五時四十五分を指している。昼間は静かな駅だが、夕暮れ時には人々の流れがあわただしく感じられる。
切符の自動販売機の前で、二人は自然に足を止めた。はじめて正面から志保子を眺めている碧川に向かって、
「では、私ここで。バスに乗りますから……」
それでも彼は無言のまま、思考を凝集したような眼差で見返していた。志保子が身体の向きを変え、歩き出そうとした直前、
「ちょっと待って。──話があるんだ」
志保子がなかば予感していたことばが、碧川の唇をついた。
振向くと、彼は性急な手つきで、自動販売機から二枚の切符をはじき出していた。
「今夜東京でぼくと出遇ったことを、絶対に誰にも喋らないでおいてもらえないだろうか」
それもまた、志保子にはなぜかすでに予期されていたことのような気がした。
二人は、山手線外廻りの電車の連結器のジャバラに肩を寄せて、向かいあって立っていた。車内はかなり混雑していたが、すし詰めというほどではなく、二人の横には四、五人の高校生と見えるグループが剣道の竹刀《しない》らしいものを携えて乗りこんでいて、声高に試合の話をしていたから、二人の低い私語がほかの乗客の耳に入る心配はなさそうだった。ガラス窓の外は暮れなずみ、下町の密集した家々の灯火が、春特有のうるんだような光を帯びて流れすぎた。
「ぼくは今日一日、旭川の社宅にいたことになっているんだ。実は東京に来ていたなんて人に知られたら……困ったことになる」
喉元で押えつけた声が、心なしか慄えている。が、うす青いサングラスの奥の眸は、さっきまでとは反対に、一瞬でも志保子の視線をはなすまいとするかのように、異様な熱気をこめてのぞきこんでいた。
「それは……あなたがよほどお困りになるのなら、秘密にしてあげてもいいけど、一応事情をうかがっておかないと……」
「うむ……」
碧川は唇をかむような表情でいっとき沈黙していたが、
「──一江との結婚は、惨めな失敗だった。君にはどんなふうに伝わっていたか知らないが……あいつが少しでもよい妻になろうと努力していたのは、せいぜい半年くらいの間で、その後はたちまち本性をあらわした。派手好きで、傲慢で、淫乱とさえいえるほど……それでいて、ぼくの行動には、恐ろしく猜疑心が強くて……」
「そんなことは、結婚する前からわかってらしたでしょうに……」
志保子ははじめて皮肉にいい返した。確かに、一江のそうした一連の性格は、ちょっと付合っただけで、その冷たいほど端整で西欧風な容貌の下に、容易に想像されるものだったはずだ。ただ一人の妹の二美でさえ、一江とは必ずしもしっくりいっていなかったようだ。もっとも、彼女たちは二人きりの姉妹といっても、腹ちがいだった。母親はどちらも亡くなっていたが、一江の亡母は代々の資産家の娘で、その財産は生前からそっくり一江の名義になって受け継がれているらしい。それでいて、二人は戸籍上はふつうの姉妹と同じように入籍されていて、どちらも父親似なのか、容姿や声まで腹ちがいなどと外見には想像もつかないほど似通っていた。が、どちらかといえば、一江のほうが顔立ちも文句なく整い、プロポーションにも隙がなかった。性格的にも派手で勝気そうな一江は、どこにいてもすぐに一座の女王格になる存在だった。そんな、さまざまの点で微妙に差のある一歳上の異母姉と身近に育てられた二美は、逆にやや内向的な翳りを身につけてしまったのかもしれなかったが。
「うむ……結婚する前、君にも一度忠告されたことがあったね。でも当時のぼくは、やっぱり一江の独特な魅力の虜《とりこ》になってしまっていたのだろう。いや、たとえ一江が欠点の多い女でも、押えつけてやっていけるという自信もあった。それと、父親にもすっかり見込まれて、最後は口説き落とされた恰好だったから……」
「………」
「一江のお父さんには心臓の持病があって、先が長くないという予感でもあったのか、自分の目の黒いうちに、せめて一江の夫だけは、見定めておきたいと思っていたらしくて……」
だが、懇請されただけが結婚の理由ではなかっただろう。碧川にしても、豊かな個人財産を持つ娘を妻とし、その父が重役を務める会社に抜擢される誘惑には抗《あらが》いきれなかったのにちがいない。
「でも、そのお父さまも亡くなり、一江さんとも離婚なさったのだから、もうすんでしまったことじゃありませんか」
自分自身にとっても、それらはもう無縁の過去になったのだと、今の志保子は醒めた心で思い返せる。だが、碧川は重い溜息と共に、疲れきった仕種で首を振った。
「とんでもないよ。一江のために、ぼくは人生を狂わせられたんだからね。それは、現在でも続いているんだ」
「……?」
「あいつは、ぼくをないがしろにして、外で好き勝手に遊んでおきながら、ぼくの行動は私立探偵に見張らせるという、陰険な女だった。そりゃあぼくだって、女房がそんなふうなら、行きずりの浮気くらいはしたさ。するとあいつはそれを理由にして、離婚を持ち出した。そうなれば、結局ぼくのほうが弱い。その上一江は、離婚したあとまでも、追いうちをかけるように、亡くなった父親の腹心だった会社の幹部に、ぼくの悪質な中傷を吹きこんだんだ。それでぼくは、体《てい》よく旭川へとばされた。実際、サラリーマン重役だった義父が死に、その娘とも離婚してしまえば、途中入社のぼくなんか、社内では浮き上った存在だからね」
「でも……一江さんは、どうしてそんなにまで、あなたを憎んだのかしら」
すると碧川は、ふいに視線を逸《そら》して、乗客の肩ごしに窓の外を眺めやった。
しばらくして、再び志保子を見返した時、彼はかすかに眉をひそめ、眸には妙にうるんだような光をたたえていた。
「それはきっと、ぼくが心の底で、君を忘れきれずにいることを、見抜いていたからかもしれないね。女の直感で、ぼくの本心を読んでいたんだ。事実ぼくだって、君を思い出すたびに、なおさら一江を憎まずにはいられなかった。あの女の誘惑にだまされさえしなければ、ぼくは君と結婚して、きっと素晴らしい家庭を築いていただろう。いや、もしかしたら、将来にもう一度その望みを託すことも、夢とばかりはいえないかもしれないと真剣に考えたりもしていたのだから」
白々しい、見えすいたことを!………と反発しながらも、志保子は満足ともつかぬ快感に思わず胸が疼《うず》くのを覚えずにはいられなかった。
「それにしても……一江さんとのそんないざこざと、今日あなたが東京へ来たのを秘密にすることとは、どんな関係があるんです?」
電車がどこかの駅へ着いて、乗降客の動きがあり、それがおさまってまた走り出してから、志保子は冷静な声で尋ねた。
「重大な関係がある……」
碧川はひときわ志保子のほうへ密着し、押し出すような声で呟いた。記憶の底になじみのある、男性化粧品の混じった碧川の体臭が志保子の鼻先に漂った。
「ぼくはこの電車で浜松町まで行き、モノレールに乗り換えて、東京空港へ行く。鶯谷から浜松町まで、山手線で十五分。モノレールがまた十五分。乗り換え時間を含めても、六時半には空港に着けるはずだ。今ごろの時間帯では、タクシーなどよりそのほうが確実だからね」
彼は、まるでそれが志保子の問いに対する答えの一部ででもあるかのように、ジッと志保子の目に見入りながら呟き統けた。
「東京空港から、七時十五分札幌行の全日空トライスターに乗る。千歳空港着が八時四十分。千歳空港からはタクシーで、札幌駅へ。すると、午後十時十五分札幌発の急行大雪5号には楽に間にあう。旭川着が、夜中の十二時四十七分。これが、ほぼ今夜中に旭川へ帰り着ける最終列車だ。またその大雪5号に間にあうには、七時十五分東京発が最後の飛行機なんだ。──無論、なるべくならこんな乗り換えをせずに、東京から旭川へ直行する飛行機を選びたかったのだが、東亜国内航空の旭川行は昼間の十二時五十分でお終《しま》いだし、飛行機が小さいから乗っていたことが目立ちやすい。その上旭川の空港には顔見知りもいるのでね」
これが彼の答えの一部というより、彼は答えの核心を先へのばしているのだと、志保子は漠然と感じた。真実で、重大な、何か恐ろしい回答を……?
「十二時四十七分に旭川へ着いたら、駅前の行きつけのスナックへ寄る。午前二時まで営業しているからね。馴染みの女の子たちに、それとなく、ぼくが店へ入ってきた時刻を確認させ、それからまた何気ない会話に紛らして、今日ぼくが一日中旭川の会社の独身寮で帳簿の整理をしていたことを匂わせる。これで今日のぼくのアリバイは完璧なはずだった。あんなところでばったり君と出くわしさえしなければ。まったく、アリバイを準備した者にとって、ただ一つ怖いのは、現場付近の目撃者だからね」
アリバイ……目撃者……電車の騒音にだぶって、それらのことばが志保子の頭の中で渦のように回転しはじめた。
「それでは、まさか、あなた……」
志保子は凝視したまま碧川の眸がスッと細まり、彼が息を引いたのが感じられた。と、どこかのフォームにすべりこんでいた電車が、急制動をかけた。オーバーランしたのかもしれない。軽い衝撃が足許からせりあげ、碧川の長身が志保子の肩に被いかぶさった。
「そうだ……ぼくは今夜、一江を殺してきた」
傾いた身体を立て直す直前、碧川の声が志保子の耳許で囁《ささや》いた。
「ぼくはどうしても、一江が許せなかった。あいつは、ぼくの浮気を楯にとって、自分はほとんど傷つかない恰好でぼくをお払い箱にし、一時の気まぐれな情熱を清算したつもりだったかもしれないが、ぼくは大事な人生の出発点を踏みにじられたようなものだ。離婚して割り切れる問題ではなかった。復讐せずにはおさまらなかったんだ……」
浜松町の山手線フォームからモノレールの乗り場まで、連絡通路を人波に混じって進みながら、碧川はようやく少しは以前の歯切れのいい口調を取り戻して語り続けた。彼も志保子も、正面を向いて歩いていたから、すれちがう人々の目には、二人がなんでもない世間話でも交しているように映っているにちがいない。
「今日ぼくは昼すぎの飛行機で札幌を発って、ひそかに東京へ舞い戻った。四時ごろ一江の家に着き、前から持っていた合鍵で忍びこんだ。あの広い洋館に、今は一江が一人で寝起きしている。ウイークデーには通いの家政婦が来るが、日曜祭日は休みなんだ。今日一江は、先日から風邪をひいたのがまだ本調子でなくて、一日家に引きこもっているらしいと、ほかのほうから調べてわかっていた。──ぼくが入っていった時、あいつは、ぼくの分のベッドを取り払った広い寝室で、鏡台に向かって顔のマッサージをしていた。ドアの開く音を聞いて振向いた一江に、ぼくは無言でゆっくりと歩み寄り、両手で一気に首を絞めた。何も説明する必要はない。突然現われたぼくを一目見た瞬間に、あいつはぼくの行動の理由を悟ったはずなのだ……」
二人は前後して改札口を抜け、再び肩を並べて、モノレールのフォームへ通ずる階段をのぼりはじめた。三年あまり前、同じ職場で、碧川と愛し合い、デートを重ねていた日々の実感がふっと甦り、志保子は場ちがいな懐しさに胸をしめつけられた。その彼から、恐ろしい犯罪を打ちあけられたのは、まだほんの十分か二十分前なのに、人間の感覚が何かに麻痺してしまう素早さが、不可思議にも思われる。
「一江が息をしなくなったのを見届けると、今度はあいつのガウンの裾を乱し、スリッパを遠くへとばしたりして、抵抗の跡をつくった。引出しや金庫を開けて手当り次第に物色し、家中かき乱してから、台所のガラスを破って抜け出した。勿論玄関のドアには、元通り鍵をかけておいた。そうしておけば、一見して強盗の仕業だと考えられるだろう。盗み出した金品は、帰りがけに全部、隣の家のマンホールの中へ捨ててしまったけどね」
「………」
「現場の状況が流しの犯行を物語り、一方ぼくは、たとえ少し疑われたとしても、離婚して籍を抜いた後なのだから、今さら一江を殺しても一円の得にもならないことが認められる。その上アリバイが成立すれば、まず百パーセント安全だと計算したんだ」
二人はモノレールのフォームにあがった。まだ次の車輛は入線しておらず、人々が疎《まばら》な行列をつくって待っていた。二人はその後尾に、先の人とは少し間隔を置いて立ち、碧川は一段と声をひそめた。
「これが、ありのままの経緯《いきさつ》なんだ。ぼくの復讐が成功するかどうかは、今では君の心一つにかかっている。洗いざらい打ちあけたのは、黙って別れてしまえば、事件が明るみに出た後で、君が今日ぼくと出遇ったことを、あっさり警察に届けてしまうかもしれないと恐れたからでもあるけど、それ以上に、君にぼくの気持をわかってもらいたかったからだ。本当に、今では心底悔んでいるんだ。君とあんなふうに別れてしまったことを。今さらどんなに詫びても許してもらえるとは思わないが、ぼくが真実愛した女性は、後にも先にも君一人だし、ぼくを本当に愛してくれたのも、やっぱり君一人だったと信じているよ」
からの赤い車体がゆっくりとすべりこんできて、ドアが開いた時、二人はどちらからともなく顔を振向けた。切迫した視線が空中で絡みあった。
「頼む。今夜ぼくと会ったことは、二人だけの秘密にしてくれないか」
見逃してやってもいい……。
窓の隙間から、東京湾沿いのひんやりとした夜風が吹きこんで、碧川の胸のネクタイをはためかせている。その動きを見守りながら、志保子はぼんやりと考えはじめた。
二人は、モノレールの、窓ぎわで一人ずつ腰かけて向かいあう席を占めた。車内は八割がたの利用率だが、全体に静かなので、会話が周囲の耳にとまる危険性がこれまででは一番強い状況だった。それで二人は、発車以後、ほとんど口をきいていなかった。
碧川にしても、もう話すべきことは全部話してしまったという感じなのか、虚脱したような眼差を窓の外に投げている。
六時をすぎて、戸外はおおよそ夜の色に塗り包まれている。
最初から会わなかったと思えばいいのだ。実際、あとほんの一、二分、あの四つ角を通りかかるのが早いか遅いかしていれば、彼と出遇うことはなかったのだから。たとえばもし、わずか二、三メートル先を彼が歩いていたとしても、見たこともないハンチングをかぶり、コートの襟を立てた男を、碧川公介だと認めることはできなかっただろうし。
それにしても、彼はさすがに疲れきった顔をしている。もともと痩せぎすだった頬がまたひと廻りも殺《そ》げ落ちて、うすい瞼が黒ずんで落ちくぼんでいる。可哀そうに、今日に至るまでに、もういやというほど苦しみ、傷ついたのにちがいない……。
過去のことは、もう水に流してもいいのだと、志保子はどこかかすかに甘く、物悲しい心情に浸されながら、考え続けた。彼が志保子をすてて一江に走った裏切りは、結果的に彼が受けた苦痛と損失との罰によって、帳消しにしてもいいかもしれない。しかも、彼と別れたあと、志保子はむしろ幸せを見つけた。新しい勤め先の商社で、秘書課に配属された志保子は、直接の上司に当る専務と、ひそかな、だがかけがえのない愛をはぐくんだ……。
そうだ。碧川はもう十分に罰を受けたのだ。正式に離婚して、社会的には無縁となったかつての妻を殺す……彼のいった通り一円の利益にもならず、危険のみ多い犯罪に突き進んだ彼の行為が、彼が一江に負わされた傷の深さをおのずから物語るものではないか。まったく、彼の犯行に打算はなかったのだ。犯行の結果は、驕慢な一江の自業自得と解釈するほうが、むしろ公平かもしれない。
別にわざわざ警察に嘘をつく必要もないのだ。黙ってさえいれば。素知らぬ顔でいれば、刑事が志保子にわざわざ何かを尋ねにくるはずもないだろう……。
志保子も急にぐったりとなる疲れを覚えながら、シートの背に頭をあずけ、風に吹かれ続けている碧川のネクタイに目を当てていた。窓の隙間から絶えず流れこんでいる風に翻りかける横縞のネクタイは、燻《いぶ》し銀の太めのタイピンでワイシャツの縁に固定されている。線描きのアブストラクトのようなタイピンの模様は、よく見れば、ローマ字をデフォルメして重ねあわせてあるみたいだ。Kと、もう一字は……何気なく目をこらしかけた時、モノレールは、途中の流通センター前に停った。
フォームの時計が、六時二十分を指している。東京空港に着くのが六時半として……七時十五分の飛行機には確実に間にあうだろう。八時四十分に千歳へ着き、次には札幌駅から急行大雪5号に乗り換えて……さっき山手線の中で聞いた碧川のコースを反芻した志保子は、ふとある疑点を発見して、思わずドキリとした。
彼は、夜中の十二時四十七分に旭川へ帰り着き、駅前のスナックに顔を出すといった。それで今夜のアリバイは完壁なのだと。
しかし、やがて一江の死体が発見され、検屍によって死亡時刻が推定されれば、碧川が今日往復した通りのコースを辿れば彼にも犯行は可能だったと見破られてしまうのではないだろうか。事実彼にはそれができたのだから。
「アリバイのことだけど……」
志保子は咄嗟に尋ねかけ、場所柄に気がついて口をつぐんだ。
「え?」と碧川が身をのり出してきた。それで志保子も顔を寄せ、窓ガラスに密着して話した。
「一江さんが被害に遇った時刻、あなたが絶対に現場にはいられなかったという証明は、どんなふうにするの。旭川の独身寮に、あなたの替え玉でも置いておいて……?」
「いや、その逆だよ」
志保子がつい高い声を出しかけるのをあわてて抑えるように、彼は早口に答えた。
「逆?」
「いや……つまりその、ぼくのアリバイを擬装するんじゃなくて、事件発生時刻のほうを誤認させるように……」
「どういうこと、それ?」
碧川はちょっと戸惑ったみたいな、複雑な面持で見返していたが、志保子の凝視に押された様子で、ためらいがちにまた口を開いた。周囲に素早く目を配ってから、
「だから、事件発生時刻がありのままに割り出されれば、確かにぼくのアリバイはないも同然だよ。夜中にスナックに現われて、今日一日会社の寮にいたといったところで、何も証拠はないんだからね。かといって、そう都合よく、ぼくの替え玉を頼める男なんて見つからなかった」
「ええ……」
「それで、一江の死亡が、実際より遅く推定される工作を施した。そうすれば自然に、ぼくにはアリバイが立つことになる」
「ではつまり、一江さんの替え玉を使ったわけ?」
「いや、替え玉というほどではないんだが……」
なぜか再び、警戒ともつかぬ強い躊躇の気配が、彼の口調を重く鈍らせた。一方志保子は、ある種の直感的な疑惑に捉えられていた。
「どんなふうにしたの」と、鋭く男の目をのぞきこんだ。
「──一江は、休日の夕方には、決って家政婦のおばさんに電話をかけて、翌日来る前に買ってくる食料品などを指示する。日曜祭日は家政婦が休みだからね。あいつは食べ物などにとても神経質で贅沢だし……その習慣は結婚前から続いていたらしい。そこで、一江によく似た声の女性に頼んで、夕方六時半に、一江を装って家政婦に電話をかけてもらう。もう一つ、あの家に夕配の牛乳が配達されるのはいつも六時半すぎなんだが、同じ女性に、その牛乳を受け箱から取り込み、あらかじめ渡してある合鍵で家の中に入って、台所のテーブルの上においておくように頼んであるんだ。こうしておけば、一江が殺されたのは、今日の午後六時半以後と見られるだろう。実際より約一時間遅いわけだが、検屍解剖による死亡椎定時制も、前後約一時間の幅を持たせて考慮されるということだからね」
「………」
「一方、もしぼくが疑われたとしても、もし六時半以後にあの家で犯行したとすれば、東京空港を七時十五分発の札幌行飛行機に乗ることは不可能なのだ。七時十五分の飛行機に乗らない限り、札幌発急行大雪5号に間に合わない。そして大雪5号を逃せば、今夜中に旭川へ着く列車はない。従って、大雪5号から降りたぼくが、旭川駅前のスナックに顔を出せば、遡《さかのぼ》って、ぼくが六時半以後まで東京の現場にいたはずはないことになり、結局ぼくのアリバイは成立するという計算なんだ」
やはり、一江の替え玉を使うわけだと、志保子は思った。牛乳を取り込む作業は替え玉というほどではないとしても、一江を装って家政婦に電話をかける行為は、まさしく一江の代役ではないか。
しかし、今しがた碧川自身が洩らした通り、替え玉がそう筒単に見つかるはずはない。まして、長年の家政婦の耳をごまかせるほど一江によく似た声の持主といえば……一人の女が、ぽっかりと志保子の脳裡に浮かびあがった。二美だ。二美にならやれただろう。異母姉妹といっても、一江と二美は容姿も声もそっくりで、志保子でさえ電話でよく錯覚をおこしそうになったほどなのだから。
突然、ハッとした緊張が胸を走り、志保子の目は空間から碧川の胸のタイピンへ、焦点を戻した。燻し銀の線描き模様は、よく見ればやはり二つのイニシアルを重ねたものである。Kと……あと一字は確かにFのようだ。碧川公介のKと二美のF!
二美はまだ独身で、彫金やアクセサリー製作を、趣味も兼ねた仕事にしている。このタイピンは二美の手づくりで、二人の隠微な結びつきの証《あかし》として、彼に贈られたものにちがいない!
志保子がほとんど呆然と息をのんでいる間に、モノレールは東京空港の駅へすべりこんでいた。
今こそ、碧川の犯罪の全貌が読めたのだ。真の動機も、背景も、何もかも。
それなのに、志保子を忘れきれずにいっそう一江を憎んだとか、将来にまだ望みを託しているなどと、何という厚顔な! ただただ志保子の機嫌をとり結び、今日の邂逅を口止めするための心にもない追従《ついしよう》だったのだ!
国内線出発ロビーへ、大股に通路を歩いていく男の後を、一歩遅れて進みながら、志保子は刺すような視線を、彼の背中に据えていた。
碧川と二美を黒い線で繋いでみれば、さっき彼が語ったことばの裏が、たちまち透けて見えるようだ。
彼は、一江が私立探偵を雇って、彼の「行きずりの浮気」を探知し、それを離婚の理由にして彼を裸で追い出したような口ぶりだったけれど、実は彼は、二美との密通を一江に知られたのではなかっただろうか。それなら一江が彼を異常に憎む心理も頷ける。当然離婚は彼にとって不利な条件で成立し、社内でも彼は浮き上った存在になった。
いや、富裕な生活から追われ、旭川にとばされたと見えた彼は、実は何一つ失うつもりはなかったのだ。二美と手を組んでひそかに一江を抹殺すれば……確かに、一江の財産がかつての夫に継承されることはありえない。だが、一江の両親はすでに亡く、肉親といえば戸籍上はふつうの妹である二美一人しかいないのだから、一江の遺産はすべて二美に相続されるはずである。そして、ほとぼりがさめたころ、碧川が二美と結婚したら、結局一江の財産はそっくり彼の自由になるのだ!
こんな狡猾な犯罪を見過しにできるものか。
今夜あのうす暗い四つ角で彼とぶつかったのは、天が志保子に比類ない復讐のチャンスを与えてくれたのにちがいない!
国内線のカウンターでは、七時十五分札幌行の搭乗手続きがすでに開始されていた。
碧川は志保子のほうをちょっと顧みてから、その窓口へ歩み寄った。いつもながら、細長いフロアは人波で混雑している。三月の休日なので、新婚旅行や行楽帰りの人出も少くないようだ。札幌行のほかに、日本航空の福岡行なども、手続きを受付けているから、カウンターの前にも人垣ができている。その雰囲気は、以前この空港を職場にしていた日々を志保子の内に甦らせ、感慨が胸をかすめたが、それは一瞬のことである。志保子は、人の肩越しに手をのばして航空券をさし出している碧川の後姿へ、鋭い視線を戻した。あとで警察へ出頭して、今夜一江の家の近くで軽く変装した碧川公介と出遇い、彼が全日空の最終便で北海道へとんぼ返りしたところまで見届けたと通報するとしても、もう一人くらい、第三者の証人を拵えておいたほうが、彼を告発する武器として強力にちがいない。だがそれも、簡単なことで足りるのだ。たとえば、航空会社の係員の前で、突然碧川に喧嘩をしかけて、彼の顔と氏名を係員に記憶させるとか、売店の商品をひっくり返して、売り子に印象づけるとか……。
適当な場所を物色しながら、素早く周囲を見廻した志保子は、突然ドキリとして身を退いた。
出発ロビーに通ずるエスカレーターのあるほうから、ゆっくりとこちらへ歩いてくる中年の男性は、志保子の勤め先の課長ではないか。部がちがうので、彼は今日の社内旅行には無関係だったはずで、個人的に人を見送りにきた帰りという感じであった。
ジャンパーのポケットに両手をつっこんだ彼は、息子らしい中学生くらいの少年と笑顔で喋りながら、志保子の立っている少し先を歩きすぎていった。
見つからなくてよかった……。
志保子は安堵の吐息を洩らし、だが、次の瞬間、再び冷水を浴びたように身を強張らせた。
自分は今日、鶯谷の近くを歩いていたなどと人に知られては絶対に困る立場なのだ!
これまでは碧川のことに夢中で、自分自身の事情など、まるで意識からとんでいた。今、同じ社内の人を見かけた一瞬の心の反応が、今さらのように自らの足許に注意を向けさせたのだ。
現在の勤め先の専務と、ひそかに愛を交すようになったのは、秘書課に配属されてから間もなくだった。人知れぬ関係は半年あまり続いている。
四十歳の専務には、病身の妻がある。戦時中家族が恩義を受けた人の娘だと聞いている。もともと彼は小金井にある古い屋敷で妻と二人暮ししていたが、二カ月前妻が都内の病院に入院して、闘病が長びきそうだとわかると、小金井の家を閉めて、会社にも病院にも近い鶯谷にマンションを購入したのだった。
新しいマンションは別に彼の隠れ家というわけではないから、社内にも知れ渡っている。
それだけに「風邪」という口実で社内旅行に参加しなかった志保子が、その当日の夕方、彼のマンションの近くを歩いていたなどと社内に知れれば、たちまち彼と志保子の特別な間柄を洞察されてしまうだろう。そうでなくても、傍目《はため》にも息の合った専務と女秘書の関係が、とかく取り沙汰されがちな昨今なのだから。
しかしながら、今日碧川を目撃したことを警察に届け出るとしたら、こちら側の秘密まで暴露される結果も免れないのではないか。直接犯人を指し示す重大な届け出だけに、警察では志保子の証言の裏付けを取るために、その前後の行動まで厳密に洗い出すにちがいない。
専務と志保子の関係が社内にひろまれば、それは早晩入院中の彼の妻の耳にも届くと覚悟しなければならない。同じ社内に、彼女の甥《おい》も勤務していることだし。だが、その事態だけは、なんとしても避けなければならないのだ。
専務が妻をも愛していることを、志保子は知っている。少くとも、病弱な妻に対して深いいたわりの情を抱いている。現に彼は、志保子と結ばれた当初に、二人の関係を決して妻に感知されぬよう配慮してほしいと率直に頼み、彼女の存在がある限り、表立っては何も志保子に報いることはできないだろうと詫びたのだ。
志保子はそんな彼のことばに傷つきはしなかった。むしろ、彼の人間性をいっそう信じられる充実感を覚えたほどだ。そして、二人の密通を、まさに密かなまま守り抜こうと心に誓った。その努力はまた、志保子の無償な愛の証ともなるはずだった……。
硬直したように立ちつくしている志保子の前に、チェックインを終えた碧川が戻ってきた。航空券を搭乗券に換えたほかの乗客たちは、もう次々に第二出発ロビーのほうへ急いでいる。
碧川は素早く周囲を見廻し、次には至近距離から志保子の目を捉えた。
「じゃあ、今夜のこと、君を信じているから」
念を押す力をこめて囁いた。志保子はなかば無意識で、一度ゆっくりと頷いた。
「ありがとう。いずれ騒ぎがおさまったら、改めて連絡するから」
碧川は唇の端にうすい笑いを浮かべ、指先でちょっと志保子の頬に触れると、くるりと身体の向きを変えた。
やはりコートの襟を立て、うつむきがちな彼の後姿が、エスカレーターの上方に消えてからも、志保子は同じ場所に釘づけになっていた。
カウンターの上の時計が、六時四十分をすぎようとしている。彼の乗るトライスターの出発まで、あと三十五分……。
憤りと焦燥の混じりあったような、カッと上気した感情が、志保子の内部を駆けめぐっていた。このままむざむざと彼を旭川へ帰し、口をつぐんでしまっていいのか。自分にそれができるというのか?
行動を起こすなら、今夜しかないという気もする。今を逃したら、自分はいよいよ心が鈍り、逆に状況は碧川に有利となるだろう。
しかし、このまま警察に駆けこんだが最後、自分もまたがけがえのない人生を失うも同然なのだ。碧川のような男と刺しちがえるなど真っ平……!
とはいえ、みすみす凶悪な犯罪の真相を掴みながら……?
一江や二美や、さまざまの男女の顔が、志保子の脳裡で揺らいだ。
そうするうちにも、刻々と時が流れた。六時四十三分……四十六分……受付カウンターの背後の壁に取りつけられた時計の針が移動するたびに、セコンドの響きが鼓膜に伝わるように感じられる。そんなはずはないのだ。四メートル以上は離れている時計の秒刻がはっきり耳に入るなんて……でも本当に聞こえるのだ。カチ、カチと、規則的に、まるで志保子の決断を迫るかのように──!
やがて、志保子はその音の真の発生源に気がついた。
彼女が一つの決意のもとに、ジッと静止していた足を踏み出したのは、それからまたしばらくの後だった。
時計はすでに六時五十分を廻っていた。
アナウンスが、七時十五分札幌行の搭乗手続きを促している。
いったん動き出すと、志保子は素早く行動した。「発券」の窓口へ走り寄る。
「札幌行の座席はまだ残ってますかしら」
「はい。空席はございますけれど、お急ぎください。間もなく搭乗手続きを締切りますから」
志保子は頷いて、航空券を一枚求めた。飛行機は三百席以上もあるトライスターなので、空席はまだ大分残っているようだ。念のため尋ねてみると、今夜は六十パーセント程度の利用率だと女子職員が答えた。
氏名と年齢を問われると、志保子は、
「山田薫、二十八歳」と答えた。性別不詳の偽名で、齢は五歳も多くサバをよんだわけだ。
買い求めたばかりの航空券を、隣の窓口にさし出して、搭乗手続きをする。
「お荷物はありませんか」と男子職員が尋ねる。そこで志保子は、さっき鶯谷のマンションを出た時から右手にさげていた黒革の小さなボストンバッグを台にのせた。中身は──専務のゴルフズボン、瀬戸物の犬の置物、金張りの目醒し時計、それにペーパーバックスの本が二、三冊……。修繕に出すために預かったり、志保子がもらってきたものなどである。その品々をもう一度素早く思いめぐらしてから、志保子は思いきって、バッグの手を握っていた指をはなした。もしこのバッグを、志保子がどこかに置き忘れ、そのまま紛失してしまったとしても、さほど彼が困るほどの物は入っていないと思う。目醒し時計は高級品のようだったが、特に何かの記念品というわけでもなく、調子が直ったら志保子にあげてもいいと彼がいっていたくらいだし。
それに、最初この思いつきが浮かんだキッカケが、目醒し時計のセコンドの音だったのだから。いつか、それを彼に打ちあける日もあるだろう。カチカチと、鼓膜に響く秒刻が、受付カウンターの上の時計ではなく、自分が右手にさげているボストンバッグの中から伝わってくるものだと気がついた時、以前航空会社に勤めていた当時のある出来事が、ふと暗示的に甦ってきたのだった……。
ボストンバッグを預け、その引換証を添えた搭乗券を受取ると、志保子はハンドバッグ一つの身軽さで、第二出発ロビーへ急いだ。
エスカレーターで二階にのぼり、そこでボディチェックを受ける。
次にはまた階段をくだって、バスロビーまで歩いていく。
売店やコーヒースタンドが設けられた広いバスロビーもかなり混雑していた。今は七時十五分札幌行と、七時半の福岡行に乗る人たちが、バスの出発を待っているのだ。
碧川に見つからないようにと、志保子は目に神経を集中していたが、その心配は不要のようだった。
志保子が入っていった時、ちょうど札幌行のバスの案内が開始されたところで、その改札口に向かって長い列ができていた。先のほうはもうゲートを通過して、すぐ外に駐《と》まっているバスに乗りはじめている。ザッと見廻して、碧川の姿が見えないのは、すでにバスに入っているのにちがいない。
志保子は列に加わった。
改札口までくると、職員に搭乗券を渡す。職員はそれを二つにもぎり、一枚を返してよこす。こちらへ返された半|片《き》れには座席ナンバーが打ちこまれている。
志保子はそれを受取って外へ出た。
目の前に二台のバスが並んでいる。それに乗ると、滑走路の先に駐まっている飛行機まで運んでくれるのだ。前を行く人々が、順々に乗りこんでいく。
だが──志保子はバスに乗らなかった。二、三歩進んでから、ふいに踵《きびす》を返し、バスロビーの外側を足早に戻っていった。一瞬だけ、キュッと心臓が収縮するような感覚を味わったが、誰も見咎めた者がいないとわかると、度胸がすわってきた。こんなふうに、ふつうの乗客が通るべきでない場所を歩く時には、かえってコソコソした様子を見せてはならない。むしろ堂々と、落着いた足どりで歩くのだ。すると、たとえ職員の目に止まっても、何か当然の理由があってそこを歩いていると解釈するものだ。それは、以前勤めていたころの経験で割り出した心理だった。
バスロビーに沿って、うす暗いコンクリートの上を廻りこむと、フィンガーと呼ばれる廊下にぶつかった。バスを使わずに飛行機まで歩いていく場合の通路だが、今はガランとしている。
ところどころに戸外への出入口が開放されているので、志保子は難なくフィンガーへ入ることができた。これを伝っていけば、やがて到着ビルに繋がっているから、そこで到着便から降りてきた乗客たちと混じって出ればいいのだ。
志保子は相変らず、何でもないふうに顔をあげて歩き続けた。時折制服の職員とすれちがったが、彼らはチラッとこちらを見るだけで、無関心に行きすぎていった。志保子のおとなしい和服姿も、有利な効果を果たしているかもしれない。ガラス張りの外を、一台のバスがゆっくりと方向を変えながら走り去るのが見えた。
札幌行の飛行機へ乗客を運ぶバスにちがいない。あの中に碧川も乗っているのだと思った時、はじめて満足の快感が湧きあがってきた。
ああして乗客全員が機内へ運ばれたと見ると、スチュワーデスが改めて乗客の人数を数え、改札口の職員と照合する。
ところが一人足りない。彼らは何度もカウンティングをやり直すだろう。それでもどうしても合わない。改札口でチケットをもぎった数より、機内の乗客数のほうが一人|少い《シヨート》とわかる。
するとたちまち、職員たちの間に緊張が漲る。そんな場合、その乗らなかった客が、機内に爆発物を仕組んだ可能性が考えられるからである。
関係者が集まって、協議をはじめる。
どの座席番号の客が、チケットをもぎらせただけで、消えてしまったか、やがて判明する。
その客は荷物を預けているか?──預けてあった場合には、いよいよ厄介な事態になる。
ほかの乗客たちは、いったん降ろされ、多分バスロビーまで戻ってくるだろう。搭載されていた彼らの荷物も全部引き出され、そこで一つ一つ、持主が確認される。三百席の六割を占める乗客が相手なら、これは相当に時間を要する作業である。
ようやく持主のない荷物が見つかり──最後に残ったあの黒い小さなボストンバッグに、警戒が集中する。
しかもその中から、カチカチと時計のセコンドが洩れてきたら、周囲の緊張は極度に連する。
時限爆弾か──?
そのころには警視庁へ連絡がとび、科学捜査班が駆けつけてくるだろう。
彼らの手で、恐る恐るバッグが開かれ、中から出てきたのは………ゴルフズボンと、瀬戸物の犬とそれから、ただちょっと調子の狂った目醒し時計にすぎなかったとわかるころには、飛行機出発の定刻より、少くとも一時間以上は経過しているにちがいない。志保子にその確信があるのは、以前勤めていたころに同様の出来事があったからである。
定刻七時十五分発の札現行が、一時間遅れたとしても、千歳空港着は九時四十分。これでは十時十五分札幌始発の急行大雪5号には絶対に間に合わない。千歳空港から札幌駅まで、フルスピードで車をとばしたとしても、車が走る正味の時間だけで四十分はかかるのだ。
たとえ碧川が、バスロビーで足止めを食っている間に、急遽、あと一本残っている日本航空八時十分発札幌行に乗り換えたとしても、これも大雪5号には間に合わない。
また仮に、彼が今夜中に旭川まで戻ることを断念し、千歳空港でアリバイ作りを試みると考えてみても、それは無意味なのだ。二美の共犯によって、一江殺害は六時半以後に行われたと見なされ、それでも犯人は、一時間遅れた全日空最終便か、八時十分発の日本航空最終便には間に合う勘定なのだから。
千歳空港から旭川までタクシーをとばせば、長距離だけに運転手に記憶されて、かえって逆効果であろう。
つまり、碧川は、今夜札幌駅から急行大雪5号に乗れない限り、アリバイが立証できない。彼の狡猾な犯行計画は、根底から崩れるのだ。
一方、性別も判然としない偽名で購入した航空券から、志保子が割り出される恐れはまずないだろう。
志保子は今夜の自分の行動のいっさいを闇に包んだままで、碧川を告発できるはずであった。
ひっそりとしたフィンガーは、やがて到着ビルに達した。
志保子が足を止めた時、広大な暗い平地に散らばっている無数の滑走路灯が、冴々《さえざえ》とした青い光を放って見えた。
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止まれメロス
福岡市の大濠公園に近い閑静な住宅街の一画に事務所を構える弁護士の重藤朗が、その青年の訪問を受けたのは、二月初めの、かすかに春の気配の感じられるほの暖かい夜であった。
青年は二木陽一と名乗り、重藤が長年友だち付合いをしている画家の甥《おい》に当る。その画家から昼間に電話がかかり、火急の相談事があるらしいので力になってやってほしいと頼まれた。それで重藤は、夜八時に、事務所の裏にある自宅のほうへ訪ねてくるようにと答えたのだった。
「お願いというのは、二月三日の夜、空港のそばで起きた事件のことなんです」
長身|痩《や》せ型の二木は、少し猫背の姿勢で両膝をそろえて応接室のソファに腰かけ、睫毛《まつげ》の長い目を真直ぐに重藤に向けていった。建設会社の技術部に勤めていて、二十九歳で独身など、時には重藤の質問に応《こた》えて簡単に自己紹介したあと、単刀直入に用件を切り出した感じだった。
「空港のそばの事件といえば、あの、大昭産業の副社長が刺し殺された──?」
「そうです。その事件で逮捕された小野山潤子のことで、ご相談にのっていただきたくてうかがいました」
重藤はちょっと目をむいて、二十九歳にしては若々しいとも青臭いとも感じられる青年の、彫りの深い顔を眺めやった。思わず目をむいたわけは、大かた女の問題だろうとタカをくくっていた相手が、意外な大事件を待ち出したからであった。
空港のそばの事件というのは──三日前に当る二月三日夜九時ごろ、福岡空港前の駐車場の裏側に当る暗い路上で、一人の男が血まみれになって倒れているのを通行人が発見した。男は左脇腹をステンレス包丁で一突きされており、虫の息だったが、救急車で運ばれる途中で死亡した。身許《みもと》は所持品により、福岡市の大昭産業副社長大城昭次四十六歳と判明した。
大昭産業とは、金融、不動産、最近では喫茶店やホテルの経営にまで手を拡げている会社だが、もともとは市中金融業者からのし上ったものである。背後では暴力団と手を結んでいるといわれ、いわゆる暴力金融の疑いで、度々警察の手入れを受けている。兄の昭一が社長、昭次が副社長を勤めていた。
そうした背景を持つ被害者だけに、事件発生直後には捜査の困難が予想されたが、間もなく有力容疑者が浮かび、その夜のうちに小野山潤子二十八歳が逮捕された。
逮捕のキッカケとなったのは、タクシー運転手の届け出であった。当夜八時四十分ごろ、空港の駐車場の横から市街地のマンションまで若い女を運んだが、女のコートにはまるで返り血を浴びたようなどす黒い汚点《しみ》がとび散っており、動転しているような態度も不審だったと、九時半ごろ、女のマンション近くの派出所へ届け出た。すぐに本署で女の身許を調べたところ、それが大昭産業に長年勤めていて、昭次と内縁関係にあった女とわかり、マンションの名義も昭次になっていた。
捜査員が急襲した時、小野山潤子は、火の気のない部屋に、一人でぼんやりとすわりこんでいたという……。
「──実は、彼女が緊急逮捕される少し前の九時二十分ごろ、ぼくは彼女に会っているのです」
「それは、どこで?」
「彼女のマンションの階段でです」
二木は、やはり正面から重藤の視線を捉《とら》えたままだが、口調は淡々としていた。
「そのころ、ぼくは彼女の部屋の真向いの部屋に来ていて、彼女が帰ってくるのを待っていたんです。真向いには、ぼくの大学の先輩で、親しい男が住んでいるものですから。九時二十分ごろ、下で車の停《とま》る音が聞こえたので、出てみたら、彼女が一人で階段をのぼってきました。でも、とても蒼《あお》い顔をしていて……確かに、新聞にも書かれていた通り、バーバリのダブルのコートの胸や腹に、血がとび散っていました。踊り場に立っていたぼくを認めると、まるでぼくの口を封じるように『今夜は疲れているから……ごめんなさい』といって、自分のドアの鍵《かぎ》を外して、中へ入ってしまったのです」
「ちょっと待って。あなたと彼女との間柄を、ぼくはまだ聞いてないんだが……」
「ああ……」と彼は口の中で呟《つぶや》き、はじめて睫毛を伏せた。少しの間考えこんでいたが、再び目をあげると、悪びれない語調で続けた。
「最初に口をきいたのは去年の夏で、ぼくが彼女の部屋の向いに住んでいる先輩……茂田というんですが、彼のところへ、頼まれていた本を届けに行ったら留守で、どうしようかと迷っていた時、ちょうど出てきた彼女が、本を預かってくれたわけです。その後も、茂田の家へ遊びに行った折、偶然会ったりして、勤め先を訊《き》いたら、一週間に三日は土居町のルフラン≠ニいう喫茶店に出ているというので、それからぼくもよくルフラン≠ヨ寄って、彼女と話をする機会を作っていました」
小野山潤子は大城昭次のマンションに囲われていたが、時々大昭産業経営の喫茶店を手伝っていたと、新聞にのっていたのを重藤も憶《おぼ》えている。
「すると、つまりあなた方の間には、恋愛感情があって……?」
「さあ、そこまでいえるかどうか……いえ、ぼくとしては、正直にいって彼女に魅《ひ》かれていましたし、もっと深く理解したいと考えていたのです。しかし彼女は、ぼくを嫌っているわけではないと思うんですが、私などと付合っていたら碌《ろく》なことはないとか、どうにもならない立場だから、などと匂わせて、ある程度以上は踏みこませてくれなかったというのか……」
「なるほど。──大城昭次のことは知っていたのですか」
「いえ、今度の事件で色々報道されて、はじめてわかったのです。ただ、誰か男がいるらしいとは感じていました。でも、彼女の暮しぶりからも、正式の奥さんでないのは目に見えていましたから、それなら、今まで誰と付合っていても、そんなことは問題じゃないと考えていたのです。ですから、今度でも、彼女が大城の囲われ者だったという事実には、ぼくはそれほどショックを受けてないつもりなんですが……」
二木は、黒い眉《まゆ》と奥まった瞼《まぶた》のあたりに、はじめて苦悩の色を漂わせてうつむいた。
「彼女は、昨夜送検されたようですね」
少し間を置いてから、重藤が夕刊の続報を思い出しながらいった。
「ええ……」
「彼女ははっきり犯行を認めているの」
「いえ……県警詰めの新聞記者に聞いた様子では、自白したわけではなく、肝腎《かんじん》の話になると黙りこんでしまうらしい。かといって、あくまで否認するわけでもないし、状況から推しても、まず彼女の犯行にまちがいないだろうと……」
「では、わたしに相談というのは?」
それで二木は上半身を起こし、一度深く息を吸いこんだ。かすかに眉をひそめ、澄んだ強い目で重藤を凝視《ぎようし》した。
「先生に、彼女を救《たす》けていただきたいのです。彼女が大城を殺したとは、どうしても考えられません。彼女はこれまでかなり苦労してきたようなので、性格的に陰があるし、それに、心の中に固い核みたいなものを持っているというのか、とても片意地に見える時があって、警察の心証でも損をしてると思うんですが、でも、絶対に人殺しをやるような女性じゃないんです」
「彼女がやったのではないという、何か証拠でもお持ちなんですか」
「いえ、それは残念ながら、特にはありません。だからこそ、先生にお縋《すが》りするわけです。先生のお力で、真相を糾明《きゆうめい》していただけないでしょうか。勿論ぼくも、できる限りお手伝いいたします。それから費用のほうも、責任持って……もしいっぺんに払えない場合には、一部分割にさせていただけるとありがたいんですが……」
重藤は、何か苦笑めいた感情が湧きあがってくるのを覚えた。他人の妾《めかけ》だった、しかも多分に片思いの相手のために、勝ち目のうすい事件を強引に頼みこんでくる二木自身が、相当に片意地な男らしいと思われたからだった。が、それはまた、最近の軟弱な青年たちの中にはもうめったに見られなくなった、純粋でがむしゃらな若さを感じさせもする。
「まあ、ちょっとお茶でも飲みませんか」
彼は冷めかけた紅茶を二木にすすめ、自分もカップにレモンを浮かせた。四十八歳で、開業後十五年の重藤は、ふだん非常に忙しいため、来客との用談中、めったに自分はお茶を飲まない。少しでも時間を節約しようとする意識から知らぬ間に身についた習慣だった。が、今夜は──彼はふと奇妙にくつろいだ姿勢で、このやや風変りな青年から、もう少しくわしい事情を聞いてみる気になっていた。
博多警察署の接見室で、重藤が小野山潤子に面会したのは、それから三日後の午後である。
二木が重藤を訪れた翌日には、潤子が取調べの刑事に対して、犯行を自供したという報《しら》せが、二木から電話で伝えられた。事件はすでに検察庁へ送致されていたが、潤子の身柄はまだ「代用監獄」と呼ばれる署の留置場に置かれていて、担当刑事が補充捜査を行なっている段階だった。自供したとはいっても、犯行の模様をくわしく語ったわけではなく、ただ「自分がやりました」と、彼女自身の口から認めたらしい。二木はそれを懇意の新聞記者から聞いて、きっと拷問《ごうもん》に近い追及を受けて、無理矢理認めさせられたのだろうと憤慨していた。だが、一般に犯人は、最初は全面的に否認し、次には犯行の事実だけを認め、最後は洗いざらい白状するというコースを辿《たど》る場合が多い。潤子もそんな犯罪者の傾斜を転がりはじめたという印象が、重藤には強かった。
またその翌日には、二木が事件後はじめて潤子に面会して、「偽りの自供を翻《ひるがえ》して真実を告白するように」と説得を試みたが、大した手応えは得られなかったようだ。そのさい彼は、重藤弁護士に事件を依頼したからと告げて、本人の了解をとってきたという。
重藤が、事実認定ではまず見込みのなさそうなこの事件を、結局引き受けたのは、友人の画家に対する義理もあるが、二木に好感を抱いたのと、彼の話す小野山潤子と今度の事件全体に、自分でも判然と説明できない、いわば直感的な興味をそそられたためであった。
とはいえ、すっかり引き受ける前に、彼は念のため、二木陽一自身に関して、簡単な調査を行なっている。その結果、二木の話には別段嘘はないと判断された。特に、二月三日夜八時十分から二十分ごろ、大城昭次が刺されたと考えられている時刻、彼はまちがいなく、潤子の部屋の真向いに当る茂田という友だちの家にいたらしい。七時ごろに来て、潤子の帰ってきた九時二十分ごろまで一度も外へ出なかったと、茂田の家族四人がはっきり認めた。
それを確認した上で、重藤は潤子に接見するために、所轄署《しよかつしよ》へ赴いたのだ。
疵《きず》だらけのテーブルを挾《はさ》んで、重藤と一対一で向かいあった小野山潤子は、落着いた表情でおとなしく目を伏せていた。うす茶のスーツをきちんと着た身体つきは、太っているようではないが、胸が豊かで、上背もかなりありそうだ。色白の細面《ほそおもて》で、すんなりした眉と額の生えぎわが、ことのほかみずみずしさを感じさせる。二木がいっていた通り、どことなく翳《かげ》りが漂い、寂しそうなタイプだが、それなりに女らしい魅力をたたえてみえた。
重藤が、二木に事件を依頼されて引き受けた経緯だけを簡単に話すと、潤子はうつむいたまま「お世話になります」と素直に頭をさげた。
「あなたには、近くに身寄りはないようですね」
「鹿児島に叔母が一人おりますけど、長らく会っていません。今度のことも、別に連絡しておりませんし……」
問いに答える時だけ、潤子は時々目をあげて重藤を見返した。切れ長のはっきりした目で、話す声も、低音だが安定している。
「ご両親なんかは?」
「私が小学校五年の時父が病死しまして、中学一年で母も亡《な》くなりました。私は一人っ子で、叔母の家に引き取られましたが、高校を卒業する年に、叔父が勤めを替えて一家が福岡へ移り、間もなくまた鹿児島へ行くことになりまして、私だけ福岡に残ったのです」
「生れは熊本県の阿蘇の近くだそうですね」
「はい。ですから高校までそちらに……」
「卒業後福岡に出てきて、大昭産業に就職なさったわけですね」
「はい……」
大昭産業の名が出ると、潤子はかすかに唇を引きしめるようにした。
「それで、大城昭次とは、いつごろからの関係ですか」
正直に答えないかもしれないと危惧《きぐ》しながらも、重藤はわざとサラリと訊いた。が、潤子はいっとき息をつめていただけで、口を開くと意外なほど平静に語り出した。
「入社してしばらくは、私、本社の総務で働いてたんですが、三年目に秘書課に移されて、主に副社長の世話をするようになりました。それから間もなく……最初は、ホテルへ書類を届けるようにいわれて、でもそれはまったくの口実で、つまり騙《だま》されたわけです」
最後はかすかに頬《ほお》を紅潮させて、唇をまた両端へ引きしめた。
「現在のマンションへ移ったのは?」
「大城とそんなふうになって、一年ほどたってからです。会社がルフラン≠フ経営を始めて、私はそちらを手伝うようにいわれまして、その時自分のアパートから今のマンションへ移ったのです。そのころには、副社長と私の関係は、本社の中では公然の秘密みたいに知れ渡っていましたから、彼もさすがに示しがつかないと考えたのかもしれません」
「うむ。──つまり、あなたは二十一歳から現在の二十八歳まで七年間、大城の愛人ですごしたわけだが、いずれは正式に結婚するという約束でもあったのですか」
すると潤子は、一重瞼の目を見張って二、三度強く首を横に振った。
「そんな話は出たこともありませんでした。大城には奥さんも子供もありますし、その上女は私一人ではなかったし、それに私、彼の妻になりたいなんて、一度だって思いもしませんでした」
「しかしそれなら、彼と別れて、まともな結婚をしたいとは考えなかったの」
「それは、何度か……私だって人並みの夢は持っていましたから」
潤子は窓のほうへ顔をそむけて、小さく溜息をついた。はじめて怨《うら》みとも哀しみともつかぬ目色で、しぐれ模様の窓外を見つめた。
「──本社勤務のころ好意を寄せてくれた人がありましたし、ルフラン≠ノ移ってからも、そんな機会はあったのですが、でも、大城がそばにいる限り、絶対に望めないことだったんです。あの人は、私にある程度以上接近する男があれば、子分を使ってさまざまな嫌がらせをしたり、脅《おど》しをかけたりして、遠ざけてしまうのです。私が今のような生活に耐えられなくなって、身を隠したこともいく度かありましたけれど、結局は見つけ出されて、否応なく連れ戻されました。自分は好き勝手に女をつくりながら、相手に対しては、偏執《へんしゆう》的なほど支配欲や独占欲の強い男だったんですわ」
低く押えつけた声の底に、かえって深い怨念《おんねん》が凝縮されているかに感じられる。だがまた、重藤のほうへ戻した眸には、もうどこか醒《さ》めたような、妙に冴々《さえざえ》とした光が漂い出ていた。自分はどうにもならない立場だからと匂わせて、二木を踏みこませなかったという彼の話を、重藤は思い出した。
小野山潤子が女の人生にとって決定的な青春の七年間を、大城のために日陰の身として実りなくすごさせられ、彼に怨みと憎しみの感情を抱いていたことは、紛《まぎ》れもないようだ。
しかしながら、最近では大分あきらめの心理も働いていたのではないか。
とすると、今度の事件は、どのような経過で発生したのであろうか……?
「二月三日の事件についてですがね」
重藤は固い椅子の背にもたれ、距離を置いて彼女を眺めるような姿勢をとった。
「あの晩、大城昭次は八時半の飛行機で東京へ行く予定だったらしいね。そこで、空港の駐車場の裏手にある情婦《おんな》の家に自分の車を置き、八時十分ごろ一人でその家を出て、空港へ歩いていった。その途中、だから八時十分から二十分の間くらいに、駐車場の手前の暗い道で何者かに剌された……」
重藤は、担当の刑事から聞き出した事件の詳細を、ことばに出して反芻《はんすう》した。潤子は、感情を抑えた表情に戻って、目を伏せている。
「凶器はどこにでもあるステンレスの包丁で、指紋を拭《ぬぐ》ってその場に捨てられていた。傷の角度や位置からは、ふいをつけば女にも可能だったと推測された。──これだけなら、被害者の職業柄、容疑者の範囲は相当に広いと考えてもいいわけだが、しかし、彼が飛行機に乗る前には、決って空港そばの女の家に車を置いていく習慣を知って待ち伏せたと見れば、かなり絞られてくる。被害者の私生活をある程度心得ていた者という可能性が強まり、当の空港のそばの家に住んでいた女には完全なアリバイが成立したので、次にはあなたが怪しまれても仕方のない立場でしょうね」
「………」
「おまけにあなたは、あの晩返り血を浴びたコートを着たままマンションへ帰ってきた。駐車場の横でタクシーを拾ったのが八時四十分ごろというのだから、時間的にも符合する。犯行後凶器の指紋を拭うなどして、それから正規のタクシー乗り場でない場所に停ってくれる車を待って乗ったのだろうと考えられる。しかも、あなたのコートに付着していた血痕の血液型は、被害者のものと一致した。これではもう、あなたの犯行と断定されても、手も足も出ない状況ですね」
潤子は身を硬くしてジッと聞き入っている。
「ところが、それでも二木君は、あなたの潔白を信じて疑わない様子だし、わたしとしても、できればあなたが無実だという信念に基づいて、今後の方針を立てていきたいのだが……ありのままの事実を、正直に話してくれませんか」
重藤は、潤子がすでに取調官に対して一応犯行を認めたという事実を無視したような訊き方をした。最初はそんなつもりではなかったのだが、潤子と間近に対座しているうちに、ふと今にも彼女の口から「私は本当はやっていません」という告白がこぼれ出そうな気がしてきたのである。
が、相手は依然として、肩を立て、顔だけややうつむいた硬い姿勢のまま沈黙している。
「どうなんですか。やはりあなたが殺したんですか」
なおしばらく、重苦しい静寂が流れたあとで、潤子はチラリと目をあげて、すぐまた視線を膝の上に落とした。それから、感情を抜き去ったような低い声で答えた。
「はい。私が殺しました」
「どんなふうにやったんですか」
「駐車場の裏の道で待ち伏せしていて、彼が一人で歩いてきたところを、いきなり……」
「しかし、なぜ今になって急に彼を殺したのです? 何か、差し迫った動機でもあったのですか」
「それは……前々からチャンスを狙っていたんですわ。あの男のために、私は人生を狂わせられたのですから」
それだけの理由では、重藤は納得できない気がしたが、重ねて訊いても、それ以上の答えは返ってこなかった。実際の犯行経過についても、潤子は急に口を重くして、くわしく説明しようとはしなかった。
なるほど相当に片意地な娘のようだと、重藤はまた二木のことばを思い返しながら、博多署を出た。が、そう感じていることは、彼の内部に、潤子シロの印象が次第に濃くなってきている証拠かもしれない。潤子には、自分の人生や幸福について、もうなかば投げてしまったような、醒めた部分が窺われる。それと、唐突粗暴に男を殺す行為とが、どうも結びつかないのである。
しかし、客観的な状況としては、検事|勾留《こうりゆう》十日以内で、まず問題なく起訴されるだろう。
こちらはそのつもりで弁護の方針を決めておかなければならないと、重藤はやや混乱した気持を抱えて歩き出した。
重藤の予想に反して、潤子が逮捕されて十三日目に、なお十日間勾留が延長された。
というのは、その三日前に、潤子が突然それまでの自供を翻し、自分は犯人ではないといい出したからである。
では、当夜返り血を浴びて帰ってきたのはどういうわけか、また事件当時のアリバイを立証できるかという検事の追及に対しては、アリバイはあるが、それを証明してくれる人の名前を思い出せない、コートの血痕は、事件とは無関係な理由でついたものだが、それを喋《しやべ》ると友だちに迷惑がかかるので明かせないと、あいまいな供述を繰返している。
もとより、被疑者が罪状否認のまま起訴されるケースはいくらもある。ことに今度の場合、別段新しいシロの証拠が出てきたわけでもないのだが、最初から重藤と同様、潤子が急に大城を殺した動機について疑問を抱いていた検事は、慎重を期して、勾留延長を請求し、起訴か不起訴かの決断を先へ延ばしたようであった。
重藤が、思いがけない人物の来訪を受けたのは、その勾留延長期間もすでに四日をすぎた、二月二十日の夕方である。
福岡市西区にある小学校の教諭で、林正五と名乗るその人物は、昼すぎに突然電話をかけてきて、小野山潤子の件でぜひ話したいことがあると申し入れてきた。重藤は午後四時すぎに少し身体があいていたので、その時刻に事務所へ来てもらうことになった。
応接室で向かいあった林は、三十五、六くらい、血色のいい童顔がエネルギッシュな感じの男だった。
「──例の事件は、勿論わたしも知っていたのですが、ふつう新聞を読んでいても、犯人の名前や顔まではそう気をつけていませんからね。昨夜までうっかり見すごしていたのです」
勤め帰りらしい林は、足許に置いた革鞄から小冊子のようなものを取り出しながら、早口で話しはじめた。
「昨夜は偶然別のことでスクラップを作るために、保存しておいた古い新聞を繰っていましたら、ふと小野山潤子の写真が目に止まって、よく見ると非常に似ている。それから急いでこれをひっくり返して改めたら、名前も同じだったものですから……」
彼は小冊子の裏表紙を開いて見せた。そこには、ボールペンの女文字で、小野山潤子の名とマンションの住所がしたためられている。
林が順序立てて説明したところでは──
事件が起きた二月三日、彼は組合の仕事で東京へ出張しており、定刻午後六時三十五分東京発の飛行機で福岡へ帰ってきた。そのさい、東京空港のバスロビーで、空港ビルから飛行機までのバスの案内を待つ間、今持参してきた小冊子を読んでいた。それは彼が仲間といっしょに出版している小説の同人雑誌で、一月末に出たばかりの号であった。
すると、隣に腰かけていた若い女性に話しかけられた。自分も文学を嗜《たしな》み、二、三の同人雑誌に投稿した経験がある。今あなたが開いている雑誌も、何度か拝見したというのである。それでしばらく話し相手になったが、彼女のことばは嘘のようでもなく、芥川龍之介や太宰治など、好きな作家についての意見も、林と共通するところがあった。最後に彼女が、実は今短篇小説を書き進めていて、出来上ったら読んでもらえないだろうかと熱心に頼むので、林は余分に持ち歩いていた同じ雑誌の一冊を彼女に与えた。奥付に林の住所が印刷されていたからである。すると彼女も、自分の名前も念のため憶えておいてほしいといって、林が手にしていた雑誌の裏表紙に、住所も添えて書き記したのだった……。
「バスの乗車が始まると、バラバラになりまして、とくに注意していたわけでもないが、彼女も同じバスに乗ったように思います。大体その待合室は、すでに搭乗手続きをすませた人だけが来るところですし」
「午後六時三十五分発の飛行機といわれましたね」
「ええ、それで定刻通りなら八時十五分に福岡へ着くはずなんですが……大抵いつもそうですが、あの晩もなかなか管制塔の離陸許可がおりなくて、結局福岡へ着いた時には十五分ほど遅れて、八時半ごろになっていたと思いますね。ところが事件は、八時十分から二十分の間に発生したのでしょう?」
「そうです。被害者のほうは八時半発の東京行に乗る予定で、八時十分に女の家を出ている。出発ビルまで、ふつうに歩いて七、八分の距離でした。本来は出発二十分前までに搭乗手続きをしなければならないわけですが、福岡空港では、よほど混んででもいない限り、五分前くらいまで受付けてくれますからね。大城が八時十分に女の家を出たことは、女がその後、庭で隣の主婦と立ち話しながら見送っていたため、二人の証人がいるわけで、まちがいないのです」
「それではやはり、小野山潤子には犯行は不可能だったことになりますね。あの飛行機が福岡空港へ着いて、乗客が降りはじめたのは八時半をすぎていたと思いますから」
「あなたが話をされた相手が小野山潤子本人であり、彼女がまちがいなくあなたと同じ飛行機に乗った場合にはですね」
いや……たとえ彼女が林と同じ便に乗らなかったとしても、それが出発する直前の、正確にはバスの乗車が開始される六時十五分ごろに東京空港のロビーにいたのが事実とすれば、すでに彼女のアリバイは成立しているのではあるまいか……?
重藤は事務員の女の子に、東京・福岡の直行便が飛んでいる二つの航空会社の時刻表を持ってこさせた。
問題の飛行機は、JALの373便、定刻午後六時三十五分東京発・八時十五分福岡着だという。
その近くで、それより早い便といえば、ANAに六時発のトライスターがあり、これは福岡着が七時四十分となる。
だが、重藤が念のために尋ねると、林は、潤子とおぼしき女性と話を交したのは、やはり六時十五分ごろで、トライスターはすでに出発した後だったと明言した。
すると次は問題の373便しかなく、その福岡着が八時半だったとすれば、つまり彼女は、その便に乗っても乗らなくても、事件発生時までに現場へ着けなかったことになる。
これが鉄道か何かの話なら、ほかの乗り物を利用した可能性も考えられるわけだが、現在のところ、ジェット機は最も迅速な交通機関である。
複雑な面持で時刻表を睨《にら》んでいる重藤に、林がやや皮肉な微笑をからませていい添えた。
「最初はすぐ警察に届け出ようかと思ったんですがね。わたしはどうも警察ってやつが虫が好かなくて、それで電話をかけて、弁護士さんの名前だけ教えてもらったんですよ」
その夜重藤は二木に連絡して、潤子の顔写真を手に入れてもらった。
翌朝それが事務所に届けられると、ほか数枚の無関係な女性の写真と混ぜて、重藤は昼休みの時間に林の勤務先の小学校へ赴いた。電話もせずに、こちらから出向いたのは、林の身許を確認する意味もあったからだ。が、このほうは、彼の自己紹介に偽りはなかったようである。
職員室の横の簡素な応接室で、重藤に写真を手渡された林は、ほとんど迷わずに潤子の顔を選び出した。必要ならいつでも証言していいと、童顔に軽い興奮を浮かべてつけ加えた。
重藤はその足で福岡空港へ車をとばした。
N航空福岡空港支店長の太田孝とは、二年ほど前重藤が扱った事件の関係で面識があった。重藤と同年配で、髪を短く刈りこんだ若々しい風貌の、闊達《かつたつ》な人物だった。
重藤が事情を話し、被疑者の黒白を決する重要な証拠になるからと説明すると、太田は納得して、航務課からフライト・ロッグとクルー・スケジュールの書類を取り寄せてくれた。二月三日のフライトの状況や乗務員のリストなども、そこに記録されているようだ。
「──うむ。373便は、定刻より十五分遅れて、八時半に到着していますね」と、彼はフライト・ロッグを改めてから、歯切れのいい口調で答えた。
「到着といわれますと、つまり……?」
「飛行機がボーディング・ブリッジの前で停止して、ドアを開ける直前の時刻ですね」
「すると、例えば真先に飛行機をとび出した乗客が、大急ぎで走ったとして、ターミナルビルを出られるのは……」
「二分あれば足りるでしょう」
到着ビルから、駐車場の裏の犯行現場まで、五分と見て、合計七分。つまり、あの夜潤子は、どんなに急いでも、八時三十七分にしか現場に到達できなかったわけだ。一方、八時半の東京行に乗る予定の大城が、幅を持たせても八時十分から二十分の間には現場を通りかかって被害に遇ったことは、ほぼまちがいないと認められている。
いや、例えば、彼が八時半の飛行機に乗るといっていたのが嘘で、実はあの暗い道の途中で潤子と待ち合せしていて、従って犯行は八時三十七分以後だったという仮定も、理屈の上では成り立つかもしれない。しかし、やはりいかにも不自然な状況だと思われるし、それに、八時四十分には、彼女は駐車場の横でタクシーを拾っているのだ。現場からそこまで戻る時間や、凶器の指紋を拭い消す暇などを差し引けば、正味の犯行時間はゼロに近くなってしまう。
これで、あの夜東京空港の待合室で林と話を交し、373便に乗ったと思われる女性が、確かに小野山潤子本人であったという証人を、林のほかもう一人くらい求められれば、潤子のアリバイはほぼ完全といえるのではないか。
乗客名簿について支店長に尋ねてみると、これはもう保存してないという返事だった。乗客の氏名が記入されたチケットの半切れは、フライトの翌朝には精算部門へ廻されて、バラバラになってしまうのだという。もっとも、たとえそれが保存されていたとしても、潤子が本名で乗ったかどうかさえ疑問である。
代りに、クルー・スケジュールを眺めていた太田が、ふと思いついた様子で、東京のオペレーション・センターへ問合せの電話を入れてくれた。
受話器を置いてから、よく光る目を重藤に当てて、
「この、二月三日の373便に乗務したスチュワーデスのうち二人が、偶々《たまたま》今日の同じ便でこちらへ来る予定なんですがね」
それで重藤は、念のため彼女たちに会わせてもらいたいと頼みこんだ。373便はボーイング747で、五百席近いジャンボ機だけに、彼女たちが乗客の一人を記憶しているとは期待しにくいが、万一の偶然ということもあると考えた。
その夜も373便は八時半すぎに到着して、乗務から解放された二人のスチュワーデスは、空港の来客用の小部屋で重藤に紹介された。彼はいったん事務所に戻ってから、また出直してきていた。
重藤は二人に、林に見せたと同じ数枚の写真を手渡した。この中に、二月三日の373便に乗っていた女性が見つかったら、選び出してほしいと頼んだ。
すると、佐々木と名乗った先輩のほうのスチュワーデスが、潤子の写真を手にした途端、明らかな反応を示したのだ。
「この方ですわ」と、彼女は自らに確認するような口調で呟いた。
「憶えがありますか」
「はい……。あの日は座席が半分くらいしかふさがっていませんでしたから、よけいによく憶えているんですけど、お飲物のサービスの時、紅茶の中に髪の毛が入っていたといわれましたの。恐縮してお取りかえしましたら、私の名前を訊かれました。お答えしますと、次には何年の入社かと……」
佐々木が渋々その年を答えると、相手は急に笑顔になって、同じ年に自分の友だちも入社したはずだが知らないかと、その友だちの名前を告げた。佐々木は心当りないと答えたが、もしあとでわかったらぜひ自分に連絡するように伝えてもらいたいといい、自分の住所氏名をどこかにメモさせてほしいと頼んだ。
「それで、私の手帖に書いていただきました……」と、佐々木はスチュワーデスが揃《そろ》いで持っているエナメルのバッグを開け、手帖を取り出した。
「──これですわ」
彼女が開いて見せた頁《ページ》には、林の同人雑誌の裏表紙に記されていたと同じ女文字で、小野山潤子の住所氏名が走り書きしてあった。
「あちらも私の名前をメモしていらっしゃいましたけど、でも、どの課に問合せても、その方のお友だちは見当らないんですが……」
二月三日夜、小野山潤子はまちがいなく373便に乗ったのだと、ここに至って重藤は確信した。ただ乗ったばかりでなく、彼女は要所要所で自分の存在を他人に印象づけている。自分の住所氏名を相手の持ち物に記録し、相手の名前や職場を確かめて、いつでも彼らを証人として呼び出せるよう、密《ひそ》かに手筈を整えていたとさえ感じられるのだ。
しかし、ではそこまで明確なアリバイを用意しながら、彼女はなぜそれを持ち出さないのか。自供を翻して、無実を主張し始めた今となっても──?
最初二木の話を聞いた時、漠然と抱いた興味が、急速に脹《ふく》らんでくるのを重藤は覚えた。同時に、「潤子以外の犯人」の存在を、はじめてはっきりと心に浮かべた。
「──大城が副社長をしていた大昭産業は、いわゆる暴力金融のレッテルを貼《は》られて、何度か警察の手入れを受けているくらいですから、随分あくどいこともやってきているようです。またそうでもしなければ、まともな金融業では十年やそこらでとてもあれだけ会社を大きくすることはできなかったでしょうからね。最初は兄弟二人でアパートの一室を借りて、サラリーマン金融をやっていたんですから」
S興信所の次長の山上が、まだ正式の報告書になっていないメモをめくりながら説明した。潤子の勾留期限まであと三日を残す、二月二十三日の昼下りである。
S興信所は、重藤が顧問弁護士をしている会社がいつも企業調査を依頼している先で、規模は小さいが、仕事には信頼が置けた。重藤も何度か調査を頼んだことがある。今度は、殺された大城昭次の人間関係を洗ってほしいと頼み、ある程度調べが進んだら、その都度報告してくれるようにと急いでいたので、二日目に次長の山上が重藤の事務所へ出向いてきたのだった。
「兄の昭一が社長、昭次が副社長で、会社はほとんど彼らの個人資本のようですね」と重藤が自分の知識を確かめた。
「そうです。昭一が五十歳、昭次は四十六でしたが、二人でがっちり会社を握っていた。二人共よく似た、見るからにあくの強そうなタイプですよ。兄のほうが齢《とし》が上だけに、いっそう老獪《ろうかい》だという噂ですが」
山上は、一見大企業の中堅社員といった謹厳そうな風貌だが、日灼《ひや》けした顔と敏捷《びんしよう》に動く眸が、仕事の性格を物語っていた。
「すると、大城兄弟を怨んでいた人も少くなかったでしょうね」
「それはもう、昔のことまで考えたら、数えきれないほどじゃないですか。それだけに、二人共身辺にはかなり用心深かったらしいんですがねえ。──まあ、まだ全部調べはついてないんですが、例えば、現在大昭産業の経営になっている喫茶店のルフラン≠焉Aホテル・玄洋閣も、貸金の高利で締めつけた揚句、取りあげたようなものですよ」
「玄洋閣の経営が変ったのは、まだ半年ほど前のことじゃないですか」
「そうですね。もともとは四、五年前、阿蘇のほうで旅館を経営していた人が、そちらを引き払って、福岡で開業したのです。手堅くやっているように見えたのですが、近年大規模なホテルが次々にできたのと、不況の煽《あお》りで金繰りに詰り、大昭産業から借りたのがまちがいだったんですね。あいつらのやり口は、最初は銀行の実効金利にちょっと上のせした程度の低利で貸す。それでつい、とびつくと、次には相手に手形が廻ってきたところを見透かして、急に返済を迫る。今返せないと泣きつくと、それならと金利を釣り上げる。そういうことを繰返していれば、たちまち雪だるま式に利子がかさんで、これは噂ですが、最後はやくざまがいの人間が毎日のように押しかけては嫌がらせをした末に乗っ取ったということです」
「阿蘇の人だといわれましたね。最初の経営者は──?」
重藤の声がかすかに鋭さを帯びた。小野山潤子の出身地も熊本県の阿蘇の近くと聞いていたのを思い出したからである。山上は敏感に、緊張した眼差で受けとめながら、
「そうです。向坂《こうさか》といって、わたしも会ったことがありますが、五十五、六の、小柄で、穏やかな感じの人でしたが。聞くところでは、倒産のショックで奥さんが入院して、間もなく亡くなってしまい、今は彼一人で、どこかに逼塞《ひつそく》しているという話ですが」
重藤は、今後も大城昭次の身辺で彼に怨みを持つ人間を洗い出してもらうことと、とくにその向坂について、追って詳しい調査を依頼した。
山上が辞去し、午後三時になると、約束通り二木が事務所を訪ねてきた。二木には、小野山潤子の生いたちから現在に至るまで、わかる限りの人間関係を調べてほしいと頼んであった。事件の真犯人は潤子以外にいるとしても、その犯人と潤子との間には、何らかの連繋《れんけい》があるはずなのだ。それが明らかにされなければ、潤子の不可解な言動は説明がつかない。潤子は依然として、犯行を否認しながら、アリバイについては沈黙を守っているのだ。
それと、潤子のこれまでの日常生活を知るために、重藤は彼女のマンションの部屋を見たいと思った。潤子も承諾したので、二木が、マンションの所有者から鍵を借りてきて、案内することになっていた。事件後、警察が捜索を行なって以来、部屋の鍵は所有者が保管していた。
「小野山さんの調べでは、何か目ぼしいことが見つかりましたか」
重藤は二木を助手席に乗せて、車をスタートさせながら、軽く促した。その報告は、マンションへ行くまでの車中で聞くつもりだったからだ。
「目ぼしいといえるほどかどうか……昨日は阿蘇の、彼女の郷里まで行ってきたんですが」
二木はいつもの淡々とした、だが真剣な口調で話し出した。潤子が生れて、高校卒業まで暮していた土地は、熊本と阿蘇の間だが、もう外輪山の麓《ふもと》に近く、その沿道ではかなり大きな集落だそうであった。
「最初は小学校を訪ねてみたんですが、彼女を教えた先生などはもう一人もおられないようで……でも幸いそのあとで、とてもよく彼女のことを憶えている奥さんに会えたもんですから……」
二木は、中学校の所在地を訊くために、道路を掃いていた初老の婦人に声をかけた。親切に応答してくれたので、念のため潤子の名を出して尋ねてみたら、相手は感慨深い面持でいく度も頷《うなず》いたのだ。彼女はその道路に面した古い小児科医院の奥さんで、昔は近所の子供たちにピアノを教えていたこともあり、それで潤子は中学生のころ、仲良しの「瓔子《ようこ》ちゃん」という少女が稽古にくるたびについてきて、二人で長いこと遊んで帰るのが習慣だったという。
「潤子さんは中学一年でみなし子になって、叔母さんの家に引きとられたのですが……別に虐待《ぎやくたい》されてたってわけでもないが、やはり辛《つら》いこともあったようで、瓔子ちゃんの家に始終遊びに行っては泊ったりしていたらしいんですね。瓔子ちゃんの家は、村では指折りの、いわば上流家庭で、両親も教養のある優しい人たちだったそうで……」
「どんな少女だったんだろうか」
重藤は、潤子のマンションのあるほうへ、交差点を右折しながら訊いた。重藤の事務所とそのマンションとは、偶然、バス道路を隔てて車なら十分足らずの距離にあった。
「とってもいい子だったと、病院の奥さんは目を細めていました。勉強もよくできたし、とにかく瓔子ちゃんとは大の仲良しで、二人共文学少女だったそうです。中学二年くらいから、藤村や龍之介などを耽読《たんどく》して、みんなで感想を話しあうこともあった。昔の中学生は、最近のようにませてなくて、文学や人生に対する考え方も本当に純粋で、今思い出してもほほえましいなんていってましたね。事件のことは新聞で知ったが、信じられないと涙ぐんでいました……」
潤子が東京空港の待合室で林に語ったことは、彼と接触するための口実ばかりでもなかったのだと、重藤はなぜか淡い満足感を覚えた。
マンションは、クリーム色の外壁に唐草みたいな模様を浮彫りにした四階建のビルで、潤子の部屋は二階の西端だった。
二木が先に立って階段をのぼり、ポケットから鍵を取り出してドアを開けた。
レモン色のカーテンが閉ざされた室内には西陽の光がたちこめ、生温かい空気の底に、高級石鹸のような匂いがほのかにこもっていた。
広めの台所と、仕切りなしで続いている洋風の居間。奥にもう一部屋あって、ダブルベッドとキャビネットが据《す》えられている。
どこも整頓されており、調度の選び方や配置もすっきりとして、垢《あか》抜けしたセンスが感じられる。が、若い娘の部屋らしい甘さや華やぎにはうすかった。それは、人形や壁掛けなどといった装飾品がほとんど見られないことと、絨毯《じゆうたん》や家具に、グレーやうすいブルーなどのクールで寂しい色あいが選ばれているせいかもしれない。
室内の雰囲気は、そのまま部屋の主《あるじ》の印象に繋がるようでもある。
寝室のキャビネットは、半分以上本で占められていた。その横の作りつけの棚にも、ひとかたまりの書籍が並んでいる。古い文学全集が不揃いで数冊立ててあったり、最近の翻訳小説や文庫本もある。「羅生門」「或る女」「斜陽」「走れメロス」……と、文庫本の肩に視線を流しながら、彼女の蔵書もこれまで聞いた話を裏付けていると、重藤は感じた。
「それでは、その瓔子ちゃんという女性にも会ってきたわけですか」と、重藤は黙って後に従っている二木を顧みて、報告の続きを促した。
「いえ、それが、彼女の一家ももう村を引き払っていたのです……」
二木はどこか沈痛な表情になって、軽く額に指を当てた。
「熊本の高校まではいっしょに通学して、卒業後、瓔子さんは長崎の女子大に入学し、潤子さんは叔母さんたちと福岡へ移って就職したわけですが、瓔子さんは大学二年の夏休みに、交換留学生みたいな形でしばらくアメリカの家庭に滞在し、その帰り途《みち》で、事故にでもあったのか、行方不明になって、それっきり、いまだに見つかったという話を聞いてないと、病院の奥さんはいってました。大事な一人娘だっただけに、ご両親の心配は傍目《はため》にも痛ましいほどだったが、そのまま三年もたつと、娘の思い出が残る土地で暮しているのがかえって辛いといって、由緒ある旅館を人手に渡して、福岡へ……」
「旅館?──瓔子さんの家は、旅館経営者だったのですか」
「ええ。向坂さんといって、今は福岡でホテルを開業しておられるそうだから、調べればすぐにわかるだろうと……」
重藤は、二木の顔から、視線を静かに本棚のほうへ戻した。ここでもう一度「向坂」の名に出会うことを、なぜか自分はさっきから予感していたような錯覚をおぼえた。
「K小学校の林先生も、スチュワーデスの佐々木さんも、ぼくがそれを求めればいつでも、検察庁へ出向いて証言するといってくれている。いやあなたにしたって、いずれ証人になってもらう心算《つもり》で、彼らと接触したのでしょう」
重藤は博多署の接見室に再び潤子を呼び出して、二月三日夜の彼女のアリバイが明らかにされた経緯《いきさつ》を、簡単に話して聞かせた。
潤子は、最初に会った時と同様、あまり感情を露《あらわ》にしない白い顔をうつむけて、ジッと聞いていた。
「あなたの生いたちや、中学時代のことなどは、一昨日二木さんがあなたの郷里まで出向いて調べてくれた。それで、ぼくにもある程度の事情は想像できるような気がするのだが、しかし、想像ではないありのままの真相を、あなたの口から聞かせてもらえませんか。あなたは、最初は犯行を認め、送検されると、自供を翻した。が、いずれの場合にも、くわしい事情を打ちあけず、追及されると黙秘したり、およそあいまいな供述をくり返していた。そんなふうにして、いつまで持ちこたえるつもりだったのか知らないが、あと二日で勾留期限が切れる。このままならまず起訴にまちがいないでしょうが、それでもあなたが強情を張り通すなら、ぼくから直接検事に、あなたのアリバイを明かすしかしようがありませんね。みすみす誤りを犯させるわけにはいかないからね。しかし、そんな形になれば、捜査側に恥をかかせるようなものだから、いずれ真犯人が逮捕された場合、心証的に非常に不利になると覚悟しなければなりませんよ」
重藤の口から「真犯人」ということばが出た時、潤子のうすい肩がかすかに揺らいだかに感じられた。彼女はゆっくりと顔をあげて、重藤を見返した。困惑し、逡巡《しゆんじゆん》し、やがてはまるで救いを求めるように、睫毛が慄えた。それから、フッと息を洩《も》らし、急に疲れた目になって、彼の背後の仄暗い空間をすかすように見つめた。
「ほんと……あと二日ですものね。約束より二日早いわけだけど、きっともう、彼も思い残すことはないはずですわ……」
力を抜いた声で、独り言のように呟いた。
「彼というのは、玄洋閣の元社長、向坂寛さんのことだね」と、重藤がやや厳しく念を押した。
「そうです」
「あと二日、つまり勾留期間のギリギリまで、あなたはいかにも犯人くさい態度をとり続け、捜査側の関心をよそへ外《そ》らさぬ囮《おとり》の役目をつとめる約束だった。その間に、向坂は何をやるつもりだったのです?」
最後の抵抗が、潤子の伏せた顔を強張《こわば》らせた。ようやくそれも徐々にゆるんで、彼女はまた重藤を見返したが、黒い眸はどこか遠くへ注がれているように、焦点を失っていた。
「アメリカのデンバーという町まで行って、瓔子ちゃんに会ってくると……」
「瓔子さんの居所がわかったんですか」
「はい。つい最近……一月の半ばに、突然向坂さんのところへ、瓔子ちゃんから電話がかかってきたのだそうです」
「向坂家とは、ずっと交流が続いていたのですか」と、重藤は注意深く潤子を見守りながら尋ねる。
「いいえ。──瓔子ちゃんが長崎の女子大にいたころまでは、彼女のお休みに合わせて、私も郷里《くに》へ帰って……といっても、私にはもう家がありませんでしたから、向坂さんのお宅で家族同様にしていただいて、何日かとても楽しくすごしたものですが、彼女がアメリカで行方不明になってしまうと……勿論私もとても心配で、何度も電話をかけたりしていましたが、いつか、段々に疎遠になってしまいました。私も、大城とこんなふうになってからは、瓔子ちゃんのご両親に顔が合わせられないみたいな気もしましたし……それで、向坂さんがあちらを引き払って、福岡でホテルを開業してらしたなんて、お会いするまで少しも知らなかったのです……」
潤子は、いっとき感慨に沈むように唇をかみしめていた。
「彼と、最近はいつ会われたのですか」と、重藤が静かに促した。
「一月末の夜更け、突然私のマンションを訪ねて見えたのです。ずいぶんお変りになって……白髪が増えて、ふくよかだったお顔もすっかりやつれていらっしゃいましたけれど、向坂のおじさまにまちがいないとわかると、ただもうお懐かしくて……」
はじめて語尾が乱れ、涙の膜が切れ長な目を被《おお》い包んだ。
「その時、彼に犯行の計画を打ちあけられ、協力を求められたわけですか」
「はい……瓔子ちゃんの思い出から逃れるために、心機一転して福岡に進出したこと。ようやくホテルも軌道に乗り、もともと少しお弱かった奥さまも、心身共に健康を取り戻されて、やれやれと思った矢先にこの不況で、金繰りに窮していたところを大城たちにつけ入られた経緯を、こもごも話されました。大城たちのやり方は、いったん獲物になると睨んだら、最初から乗っ取る計画で接近するのですわ。それは、長年昭次の身近にいた私には、痛いほどわかりました」
「やはり、動機は復讐《ふくしゆう》だったのですね」
「倒産のショックで奥さまが倒れられ、向坂さん自身も身体をこわして、年末まで入院していらしたそうです。奥さまに先立たれてしまうと、もう何の希望《のぞみ》もなくなって、するといっそう、大城への憎しみが燃えさかってきた、それに、あんな奴らをこのまま生かしておいたら、今後も弱い者が泣かされ、自分のような犠牲者が後を断たないだろう。せめて自分が死ぬ前に大城を殺せば、復讐を遂げられると同時に、自分の人生も何がしか価値はあったわけだと……」
「すると彼は、犯行を終えたら自殺するつもりだったのですか」
潤子は少しの間、こみあげるものを必死に抑えるように、かたく目をつぶっていたが、
「自殺というより……向坂さんは暮まで入院していらしたわけですが、退院の時、主治医の態度からピンとくるものがあって、問い詰めたところ、不治の癌《がん》に冒《おか》されていると打ちあけられたそうです。長くても三カ月、早ければあと一カ月の余命と……それを聞いて、犯行の決意がきっぱりと定まったといっておられました」
潤子は目尻に滲《にじ》み出した涙を、指先でそっと拭った。
「それからは、大城兄弟の身辺を調べ抜いて、チャンスを窺《うかが》った。私が昭次の情婦になっていると知った時にはびっくりしたが、私が何度か彼の許を逃げ出しては連れ戻されているという噂も聞いて、彼を殺せば私も救う結果になると信じ、まず昭次から狙いをつけた。ところがその矢先に、瓔子ちゃんから八年ぶりの電話がかかってきたのです」
「アメリカから?」
「はい。大学二年の夏、留学の帰り、ギャングに誘拐《ゆうかい》されて、麻薬を打たれて一時は記憶喪失に陥ったり、それはもうことばに尽せぬほど悲惨な目にあわされて、身も心も汚れきってしまったけれど、今はようやく彼らの手を逃れて、中西部のデンバーという高原の町に落着いた。ここの教会で二月十日に、地元の青年と結婚式を挙げる。もうお父さんたちと会うことはあきらめかけていたが、もし結婚式に出てもらえたらと思ったら、矢も楯《たて》もたまらなくなり、あちこち転居先に問合わせた揚句にようやくナンバーを調べ出したと……夢にも忘れない瓔子ちゃんの声にまちがいなかったそうです」
さすがに重藤も、意外な話の展開に、しばらく絶句していた。
「──それで、瓔子さんの結婚式をすませて帰ってくるまで、警察の手がのびないように、あなたに囮の役をつとめてもらいたいと……?」
「はい。普通なら、アメリカから帰ってから犯行に着手すればいいわけだが、それまで自分の身体が保《も》つかどうか、長旅の疲れで病状が進み、どこで斃《たお》れぬとも限らない。しかしこのままでは、どうにも気持がおさまらない。せめて昭次だけでも仕留めていきたい。といって、いったん犯行すれば、自分などは真先に容疑を受けやすい立場だけに、たちまち手配されて、出国は覚束《おぼつか》ないだろう。万一幸運に出発できたとしても、すぐに追手がかかって連れ戻されるのは目に見えている。それで、私にいっとき濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をかぶってもらえないかと……勿論最後には私の無実が証明されなければならないから、まちがいなくアリバイを用意しておくようにと、念を押されました」
「具体的には、どんな手順だったわけですか」
「二月三日の昼間、私は密かに上京して、夕方六時三十五分東京発の373便で福岡へ帰ってきました。東京空港の待合室と、飛行機の中で、林さんと佐々木さんを選んで、私のことを記憶してもらうように仕組んだのは、お調べの通りですわ。一方向坂さんは、私の飛行機が福岡へ着く直前の時刻に、大城を殺しました。もともと、大城が二月三日の夜八時半に福岡を発《た》つ飛行機で上京する予定で、そんな時には決って、空港のそばの女の家に自分の車を置いて、そこから空港まで一人で歩いていく習慣があるなどのことを突きとめた上で、決行の日を定めたのです。──私の飛行機は八時半ごろ福岡に着いて、私はすぐ申し合わせた駐車場の裏手へ走りました。向坂さんはすでに犯行を終っていて、返り血を浴びた私のコートを私に渡しました。彼は小柄ですし、私が最近着ていたコートは、バーバリのダブルで、男女兼用のデザインでしたから、彼はそれを身につけて犯行したわけです。私はその血だらけのコートを羽織って、八時四十分にタクシーを拾い、マンションへ帰りました。そんなことをすれば、たちまち警察の手が廻るのは、無論計算の上でした」
「向坂はその後どうしたのです?」
「事件の三日後、私が逮捕されて一応犯行を認めたころ、アメリカへ旅立たれたはずです。翌日すぐに出発したりすれば、怪しまれぬとも限らないという用心でした。私が、自供を翻したり、あいまいな供述をくり返していれば、恐らく勾留延長になって、起訴が決るのは、逮捕後二十三日目になるだろう。その二十三日間に、瓔子ちゃんの結婚式を無事にすませ、必ず帰ってきて自首すると向坂さんは誓われました。もう今日明日は、帰国なさるころかもしれません。きっと、瓔子ちゃんと長い物語を語りあい、それとなく永久《とわ》の別れを告げて、私の祝福のことばも、伝えてくださったにちがいないわ……」
潤子の眸は涙に濡れていたが、何か冴々としてほの明るい光すらたたえ、接見室の小さな窓から、遠い空の彼方へ注がれていた。
ふと重藤は、唐突に、潤子の部屋の本棚を眼前に浮かべた。そこに並べられた本の肩にあった「走れメロス」の文字が甦った。それは、今潤子に、向坂が娘の結婚式をすませて帰ってくると誓ったと聞いたからかもしれない。メロスは、妹の結婚式を挙げてやるために、親友を自分の身代りに獄舎につなぎ、処刑まで三日間の日限を与えられて、遠い山野をひた走る……ギリシャの古伝説に材をとった太宰治の小説を思い出したのである。
(……ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。……急げ、メロス。おくれてはならぬ。……最後の死力を尽して、メロスは走った。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」……
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」……)
(ちがう!)
胸の奥で炸裂《さくれつ》した自分の声で、重藤は浅い眠りを破られた。
うす闇の中で思わず頭をもたげ、それからサイドテーブルに手をのばしてデシタル時計をこちらに向けると、青白く光る数字が午前三時すぎを示していた。
(ちがう。
何かがまちがっている。
どこかで欺《あざ》むかれているのだ……)
頭を枕に戻してから、彼はもう一度ゆっくりと思い返した。
昨日の午後、接見室で潤子の告白を聞き終ると、重藤は同じ署内の刑事課へ赴いて、ありのままを伝えた。
直ちに、向坂寛の許へ捜査員がとんだが、彼は事件発生から三日後の二月六日に一人住まいのマンションを出たまま、消息不明であった。そこまでは潤子の話と合致するようだが、しかし、警察の捜査では、その後彼が国外へ出た形跡のないことが判明した。
向坂はアメリカへは行っていない!
さらに引き統きの調査で、ホテル・玄洋閣が大昭産業の経営に渡って以後、向坂の妻は間もなく病死しているが、向坂自身はどこにも入院したり治療を受けた事実のないことが明らかになったのだ。すると、彼が不治の病を宣告されていたというのも、ひいては瓔子の行方がわかってァメリカで結婚式を挙げるなども、いっさいが作り話であった可能性が濃厚ではないか。
しかし、二月三日夜の潤子のアリバイは不動である。大城昭次殺害は、やはり向坂の手によったと考えるべきであろう。もとより重藤には、昨日の潤子の告白が嘘や演技だったとは信じられないのだ。
では、向坂は潤子を騙《だま》して「人質」にし、時を稼《かせ》いでどこへ消えたのか。何を目論《もくろ》んでいるのか──?
暗がりの中でジッと仰臥《ぎようが》しながら、重藤は全身にうっすらと汗の滲み出すのを覚えた。そうだ……向坂がまだ何をしようとしているのか、重藤には次第に判然と読めてきたのだ。
(走る必要はない。むしろその場に止まれ。昭次一人《ヽヽヽヽ》でも、復讐は十分ではないか!)
いつか重藤は、会ったことのない、小柄で温和な顔だちの向坂寛の幻に向かって叫んでいた。
(もうこれ以上潤子を裏切ってはいけない。思い留《とど》まれ。止まれ、メロス!)
朝七時半に、重藤は博多署刑事課からの電話で、再び胸苦しい眠りから醒まされた。
今朝七時すぎ、大昭産業社長大城昭一が、自宅の庭園内を散歩中に刺し殺され、犯人向坂寛はその足で最寄《もよ》りの派出所へ自首したことを、潤子の取調べに当っていた刑事が報せてくれた。向坂は本署へ連行されてから、二月三日夜の大城昭次殺害も自分の犯行であり、容疑者として逮捕されている小野山潤子は事件とまったく無関係であると供述したという。
昼すぎに、二木が事務所を訪れてきた。
「──向坂は、昨日すでに潤子さんが彼との約束などを吐《は》いてしまったことを知らなかったわけで、それで、彼女は事件とはまったく無関係な誤認逮捕だといって押し通すつもりだったらしいですね。しかし、取調官に、潤子を騙した経緯はもう露顕《ろけん》しているぞといわれて、ようやく本当のところを自白したようです」
二木は友人の県警詰め記者からその後の進展を聞き、それから短時間潤子にも面会してきたそうだ。奥まった瞼を時折瞬かせながら、感慨深い面持で話した。
「大城兄弟二人共に復讐したかった。どちらを生かしておいても、会社は存続し、次々に弱い者が食いものにされるだろうと、向坂は語ったそうです。しかし、先にどちらを殺っても、自分はたちまち警察に手配されるにちがいない。たとえ運よく逃げのびても、大城たちは平生から相当に用心深いだけに、残ったほうはいよいよ身辺の警戒を厳重にして、到底二人まで目的を遂げることは望めない。それでぜひとも、一時期捜査側の注意をひきつけ、敵を油断させる偽《にせ》の犯人が必要だった。潤子さんに嘘をついたのは心苦しいが、娘の話でも持ち出さなければ、彼女が協力してくれるとは思えなかったと……」
しばらくして、重藤が、
「彼女はもう真相を知っているの」
「ええ。刑事から聞いたそうです。でも、案外サバサバした顔をしてましたね」
二木は涼しい目許に、はじめてどこかさわやかな笑みを浮かべた。
「彼女も、瓔子から電話がかかってきたという話は、もしかしたらと、疑わぬでもなかったそうです。でも、いずれにしても、自分は心の中の瓔子のためにそれをするのだと考えたら、嘘でもかまわないと思った。昔、少女のころ、いつまでも純粋な友情を失うまいと、二人で誓いあったそうです。それから、こんなふうに別れ別れになって、自分は夢とは裏腹の生き方を選んでしまったけれど、いやそれだけに、向坂の頼みを引き受けることで、少しでも、遠い日の自分を取り戻せそうな気がした。だから、やっぱり騙されたとわかった今でも、不思議に怨みも憤りも湧いてこないんですと、微笑していました」
「しかし……彼女は犯人蔵匿の容疑で、改めて起訴されるかもしれませんよ」
すると二木は、そんなことはとうに覚悟の上だとでもいうような、たじろがない眼差で見返してきた。
「ですから、今後とも先生のお力をお借りしたいと、お願いにあがったのです」
やはり潤子も二木も、近ごろの若者にはめったに見られないほど、一種片意地な若さを内包していると、重藤は再び感じた。彼もまた、奇妙に満足な微笑が湧きあがるのを覚えながら、もう一度潤子に接見に行くために、椅子を立った。
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彼女の死を待つ
足かけ四日間の出張から戻った日は土曜日でもあったので、真田は日本橋の本社へ寄ってから、二時すぎに世田谷の自宅へ帰ってきた。
「京ちゃんから留守中何か連絡なかったか」
彼は新聞に目を泳がせながら、台所にいる妻に尋ねた。小学四年生の長女は体育祭の練習で遅くなるとかで、狭い家の中はひっそりしている。
「いいえ、別に」
妻の答えが二呼吸ほど遅れて返ってきたのは、彼女の不機嫌な反応を物語っている。
真田は黙ってまた、活字に目を落としたが、やはりなんとなく京子のことが気にかかって、出張前に電話で話した日から、無意識に日数を数えていた。
あれは確か九月の最初の土曜日だったから、もう一週間になるわけだ……。
いや、無論、京子が一週間や十日くらい何も連絡をよこさなくても、別段不審というほどではないし、むしろ、ちょっと家をあけて、帰った途端に京子のことを尋ねる真田に、妻がふくれた顔をするほうが、もっともかもしれない。
三谷京子は、二十五、六歳で、あまり売れていない女性週刊誌のルポライターをしている。フリーのライターだから、ほかの社の仕事もやっていいわけだが、実際にはほとんど依頼がなく、平均隔週くらいにその女性週刊誌の記事を受持っているようであった。
そして彼女は、約二年前、交通事故で不慮の死を遂げた真田の同僚三谷の、姪に当る。担ぎこまれた病院で三日後に死亡する直前、彼は真田に、京子のことをこもごも頼んだ。
「両親は早くに亡くなっているし、ぼくのほかには釧路に遠縁の親戚がいるだけなんだ。自分の生活くらいは、両親の多少の遺産でどうにかやれているらしいけど、まだまだ世間知らずの小娘だからね。──本来なら家内に頼むところだろうが、うちのも病気勝ちだし、ぼくにもしものことがあれば、自分と子供の世話で精一杯だろう。京子のこと、それとなく監督してやってくれないか。無事にちゃんとした結婚をするまで、ぼくも心残りなんだが……」
三谷が真田にそんな頼みを持ちこんだのは、社内では一番気心の知れた親友であったのと、何か偶然の機会に、京子を真田に紹介したことがあったからでもあろう。
三谷の死後、真田は約束を守って、少くとも月に一度は自宅や外で夕食をご馳走してやり、京子のほうでも一週間か十日おきくらいに、近況報告ともつかぬ電話をかけてきていた。
京子は小柄な童顔に似ず、芯の強そうな娘だったが、真田には素直で、なんでも打ちあけた。いや少くとも、真田にはそのように感じられた。すると次第に、ひと廻り近くも齢のちがう京子に、まるで自分の本当の姪と錯覚するような可愛さを、真田は抱きはじめた。そんな微妙な感情に、最近では妻が警戒的になりはじめていることも、わかってはいたが。
一週間程度の無音は、さして珍しくはないと、彼は多少努力して新聞記事を読み進みながら考えた。
だが、旅行していた日々はふだんより長く感じられ、その間にどんなことも起こりうるような気がするものだ。真田の勤め先の薬品メーカーは、全国的な販売網を持ち、営業部の彼は出張が多い。
それに、京子に|どんなこと《ヽヽヽヽヽ》が訪れているかわからないと危惧する理由も、確かにあった。
真田はついに新聞を畳んで立ちあがった。
「床屋へ行ってくる。それから……散歩がてら洋子の体育祭の練習でものぞいてやろうかな。最近の小学校は、運動会でもとくに親を招《よ》ばないらしいから」
彼は黙っている妻を横目に見ながら、玄関へ出た。
京子が一人住まいしているアパートは、彼の家からバス停三つほど西の、多摩川に近い割に静かな環境にある。
バスを降りた真田が、小ぢんまりとした住宅の建ち並ぶ町筋を抜けていくと、目印の古いお寺が見えてくる。その先の、空地の手前を曲った奥にアパートは建っているのだが……別段仕切りもないお寺の前庭のあたりまで来た時、真田はなんとなく周囲の気配があわただしいように感じられた。
うす曇りの初秋の午後で、お寺の庭では数人の子供たちが遊んでいる。が、そのほかに大人の姿がふだんより多い。主婦らしい女が三人で立ち話しているのと、その背後を黒っぽい背広を着た男が二人、アパートの方向へ急ぎ足で入っていくのが目についた。
それだけのことなのだが、真田はなぜか軽い胸騒ぎを覚えながら、彼も歩調を早めた。
キリン草の生い繁った空地全体が見渡せる位置まで来た時、はじめて一つの衝撃が彼の胸を襲った。空地の奥に、独特の屋根をつけた黒い車が駐《と》まっていた。霊柩車である。
ハッとして振り向いた彼の目に、今しがたの黒っぽい背広の二人連れが、京子のアパートの内部へ、軽く腰を屈めた姿勢で入っていくのが見えた。
真田は二十メートルほどの路地を小走りになった。その道は、小型の車ならギリギリ通れるかもしれないが、霊柩車の入れる幅はないのだ。
やはり……男たちの消えた先は、京子の部屋であった。モルタル二階建の質素なアパートで、京子の部屋は一階の右側である。そのドアが開いていて、男たちのほか、二、三人の男女が立ったりすわったりしている姿が、路上から認められた。線香の匂いが漂い、戸口の周囲には、子供の手などひいた近所の主婦たちが、好奇心を抑えた眉をひそめる表情でのぞきこんでいる。
真田は大股に上りこみ、挨拶より先に、うす暗い六畳間の壁寄りに置かれた新しい棺に視線を奪われた。葬儀社の者らしい二人の男が、今しもその棺を運び出そうとしていたようだ。
棺の蓋はすでに釘づけにされ、覗き窓から内部が見えた。
白と黄の菊で縁取りされた小さな丸い、蒼白な顔──。目は閉じているが、左目の目尻に大きめのソバカスがあり、少し上を向いた鼻先、しっかり者らしく引き締った唇、一番そこが可憐に見えた短くすぼまった顎……一つ一つ確かめるまでもなく、まちがいなく三谷京子の物いわぬ顔であった。眩暈《めまい》に似たショックが、真田の後頭部から脳天を突き抜けていった。
中腰になっていた年配の女性に、訝しげに顔をのぞきこまれて、真田はようやく我に返った。室内には、その五十がらみの和服の女と、彼女の夫かと思われる背広の男、それにもう一人は京子と同世代の都会的な感じの女性が集まっていたのだ。
年配の男女は、どちらも日灼けした顔で、がっしりした体躯や骨張った手の形などから、一目で田舎の人のように見うけられた。
「どうも、失礼しました。ぼくは真田と申しまして……」
相手がなおも無言で凝視しているので、彼は少しあわてた声で自己紹介した。京子の叔父の三谷に生前頼まれて、それとなく京子の生活に気を配っていたつもりだが、四日ほど東京を留守にしたあと訪ねてみたら、この有様で吃驚《びつくり》していると、ほぼありのまま説明した。
「真田さんのお名前は、京ちゃんからうかがったことがありましたわ」
若い女性が最初に口をそえてくれた。彼女は京子が仕事をしていた週刊誌の編集者だそうで、昨日外出のついでにここへ立ち寄って、変事を知ったのだとのべた。京子の部屋には電話はなく、急ぎの連絡は近所の家に呼出しを頼んでいたという。
「それはどうも、京子がお世話になりましたようで……」
和服の婦人がようやくことばを発した。口が重いのでとっつきが悪いが、話し出せば素朴で善良そうな印象になった。
「こちらから連絡せにゃいかんのだったんでしょうが、何分わたしらも、京子がどなたとお付合いして、どんな暮しをしとったのやら、長年葉書一本よこさなかったもんですから……」
彼女は山口と名乗り、京子の亡くなった母の従妹に当り、釧路に住んでいるとのべた。男はやはり彼女の「つれあい」だそうだったが、彼は一層寡黙なたちなのか、細い目におとなしい微笑を浮かべて会釈しただけだった。
「釧路から出ていらしたわけですか」
「ええ、昨日のお昼に着きました」
「すると、京子さんはもっと前に──」
「はい。十日の晩に亡くなったそうです」
十日といえば三日前で、真田が出張に発った日である。
「しかし……どうして亡くなったことをお知りになったのですか」
「十一日に電報を受取りまして……」
「誰から?」
「八十川さんという方で、電報をもらった時にはどなたかわからなかったのですが、こちらでお会いしまして、まあいろいろ、事情をうかがったのですけど……」
「新人作家の八十川邦雄ですね」と真田は思わず念を押すように呟きながら、ふた月ほど前、偶然有楽町で見かけた痩せぎすの長身な男の姿が、閃影のように脳裡をよぎった。その時、その男と京子は、霧雨の降り出した街路を、赤い女持ちの一つ傘の下に肩を寄せるようにして歩いていた。真田の内部に、京子の身にどんな変化が起こるかもわからないという予感に似た危惧が生れたのは、その日からだったかもしれない……。
「それで、八十川は──八十川さんは、どんな経緯《いきさつ》で京子さんの死に立ち会ったのでしょうか」
「いえ、立ち会ったというか、八十川さんがいらした時には、もう冷たくなりかけていたとかで……」
山口夫人の説明はやや要領が悪く、横から編集部の女性がすでに聞いた事情を補足して話したところでは──
八十川邦雄は九月十日の夜十時すぎに、このアパートへ京子を訪ねてきた。ノックに返事はなかったが、電灯がついていたので、ドアを開けたところ、畳の真中に倒れている京子を発見した。苦悶を残した蒼白な顔で、肌には淡い温もりしか感じられず、息遣いも聞こえなかった。腹部が異様に膨満し、股間に出血が認められたことから、何か婦人科系の急病ではないかと直感した八十川は、アパートから約三百メートルの距離にあった「松村産婦人科」へ走ったという。また、そこ以外近くの医者といえば、数軒先に耳鼻科医院があるだけだった。
松村院長が急行し、間もなく、子宮外妊娠の破裂による急死と診断した。死亡は、八十川が発見する四、五時間前の、午後五時から六時の間くらいではなかったかと判断したという。
「その、死因は確かにまちがいないのでしょうね」
真田は思わず鋭く、二人の女の顔を見較べた。
「ええ。私も昨日区役所に出す前の死亡診断書をちょっと見せていただきましたし──」
編集部の女性が慎重ながらも不安のない口調で答えた。
「山口さんは昨夜念のため、松村院長に事情を聞きにいらしたそうです……」
院長の話も、八十川から聞いたところと矛盾しなかったそうである。子宮外妊娠、いわゆる外妊による卵管破裂は、専門医が見ればほとんど一目でそれと推察できる。それでも念のため、院長は京子のふくらんだ腹壁から腰椎麻酔用の長い穿刺を入れて、注射器の中にたちまち血が吸い上げられるのを認めた。つまり腹腔内の出血を確認してから、死亡診断書を書いたという。
その後八十川は、京子の住所録の中から山口のアドレスを見つけ出して電報を打った。釧路に遠縁がいると、京子に聞いたことがあったからだそうである。
山口夫婦が十二日の昼ごろ到着すると、八十川は事情を話し、遺体を引き渡して帰ったという。
「それでも、昨夜のお通夜には、また顔を出してくださいましたけれど」
山口夫人は、八十川に対して、別段|胡散《うさん》臭い印象は抱いていないようであった。しかし、それはまた、遠縁で長らく顔も見なかった娘の死を、彼女らが淡泊にしか受取っていない証拠でもあろう。
真田の出現で、出棺を遠慮していた葬儀社の男が、
「よろしいでしょうか」と声をかけた。
山口夫婦が頷くと、二人の男はまるで家具でも運ぶようなサラリとした表情で、棺を持ちあげた。
待ってくれ──と、真田の喉元まで、声がのぼった。このまま火葬場へ運ばれ、荼毘《だび》に付されてしまえば、証拠《ヽヽ》が消滅してしまう。
といって……何の証拠かと反問されれば、真田は返事ができない。専門医が確信をもって診断した死因に、何の根拠もなく異議を称えるわけにはいかないし、第一、京子の遺体の処理について意見を吐くには、真田の立場は京子に対してあまりに遠い。世間的に見れば、ここに来合わせた四人のうちで一番遠い存在かもしれなかった。
彼は声をのみ下し、代りにある決意をこめて棺を見送った。
約二カ月前の七月はじめ、まだ梅雨の明けない夕方、有楽町の路上で、真田の知らぬ男と相合傘の京子を見かけたあと、真田は京子を新宿に誘って、それとなく事情を尋ねた。
いや「それとなく」と気を使っていたのは彼のほうで、ちょっと尋ねると、京子は意外なほど素直に、しかしその底に何か決然とした意志を秘めた口調で告白した。
相手の男は、八十川邦雄、三十六歳。横浜市神奈川区に住んでいて、職業は、以前は市役所に勤めていたが、現在は予備校で国語の教師をしながら、小説を書いているという。
「去年の春、M社の小説雑誌の新人賞を受賞して、それ以来、ほかの雑誌にもボツボツ作品を発表しているわ」
M社は、京子が仕事をしている女性週刊誌の出版社でもあった。そういわれると、真田にも八十川の名にうろ憶えがあった。真田は出張の車中などで、割に小説雑誌を読むほうだ。
「君はいつから知合いになったの」
「彼が受賞したあと、うちの週刊誌でインタビューを頼まれたんです。彼の作品が、若い女性の好みそうな、繊細な作風だったものだから」
「では、一年以上の付合いなんだね」
「ええ、まあ……」
京子は真田に打ちあけなかったことが、さすがに少し気が咎めるふうに、下唇を噛む表情でうつむいた。だがそれで、二人の間柄が決して浅くないことを、真田は直感した。
「それで、彼とはどんなふうなの」と、思わず詰問調になった。京子はことばを選ぶように、いっとき沈黙していたが、
「彼には、奥さんがあるんです。子供さんはなくて、二人暮しだそうですけど。奥さんは、身体が弱くて、神経質で、彼が小説を書くことをよろこばないらしいんです……」
元来作家志望の彼が、執筆の時間を浮かせるために、将来の保証された職場を棄てたことを、妻はいまだに恨んでいる。いよいよ彼が好きな道に熱中し、不安定な生活に傾斜していくことを心配している。一つには、子供もいない彼女は、自分の踏みこむことのできない世界へ夫が耽溺することに嫉妬を抱いているのかもしれないと、八十川は洩らしているという。
「彼が、作品の量も少く、もうひとつ飛躍できないのは、奥さんへの労りもあって、セーブしているからだと思うんです。でも、彼はすばらしい資質を持っているわ。それだけに、私……彼を支えて、力になってあげたいんです」
京子の若い眸が、次第に熱っぽく潤んでいた。
もう肉体関係まであるのかと、真田は訊きかけて、ことばを抑えた。京子も子供ではない。そこまで訊き糺《ただ》す資格が自分にあるだろうか?──それに、八十川に対する嫉妬に似た感情が、後めたい気遅れを生んでいたのかもしれない。
「まさか……彼と結婚したいなんて考えてるんじゃないだろうね」と、彼は努めてやわらかく、京子をのぞきこんだ。強く首を振って否定すると思った京子が、空間に目を据えた。
「病弱な奥さんがいらっしゃる限り、それは望めません……」
自らにいい聞かせるような呟きを吐いた。
京子は八十川の妻の死を内心で待ちのぞんでいる──一瞬それが感じられて、真田は冷んやりとした思いを味わった……。
そんな話合いがあったあとも、京子は相変らず定期的に彼に電話をかけてきて、家へ遊びにくることもあった。それで真田はやや安堵し、同時に、京子の八十川に対する感情がもはや動かしがたいもののように思われた。
その後彼は、たまに雑誌に八十川の名を見つけると、気をつけて目を通した。風俗小説の一種に属するのだろうが、夢幻的な雰囲気を帯び、文章も繊細流麗で、女性的な印象さえ受ける作品であった。なるほどこれなら若い女性ファンを獲得しうるかもしれないが、真田には八十川の人柄の陰湿さが連想されるようで、一層心が重くなった。
──京子の死の状況は、すでに二人の特別な関係を物語るものではないか?
日曜日のすいた京浜東北線に揺られながら、真田は、怒りの塊が次第に熱く膨れあがってくるのを覚えていた。昨日は火葬場まで付合い、骨壺に納った京子が山口夫人の胸に抱かれて再びアパートへ帰るのを、タクシーで送り届けた。山口夫婦はお骨を釧路へ持ち帰って、京子の母親の実家の墓へ納めると話していた。
八十川はついに姿を見せなかった。
彼の住所は、京子の手帳から見つけ出した。
一晩考えた末、真田はやはり一度、八十川に会わねばおさまらないものを感じた。
彼は十日の夜十時すぎに京子のアパートへ来て死体を発見したというが、横浜に住んでいる彼がそんな時刻に女の一人住まいを訪ねること自体、常識的な行動とはいえない。しかも、京子の死因は子宮外妊娠という。それならば、妊娠させた相手がいるはずだ。そして、八十川についての話を聞いた折、真田は念のため、ほかにも親密な男友だちがいるのではないかと尋ねたが、彼一人だと、京子はきっぱりと答えている。
八十川は山口夫婦に対して、ちょっと仕事の用があってアパートに立ち寄っただけだと説明したらしい。彼は京子に身近な肉親のいないのをいいことにして、口を拭っていっさいの責任を逃れようと考えているのではあるまいか。
横浜に着くころから、細かい雨が降りはじめた。
真田はタクシーに乗って、「三ツ沢」と告げた。八十川の住所地である。電話もあるが、急襲するほうが効果的と思われる。
代りに、家を見つけるのに少々手間取った。
ようやく、古びた木の門柱に目当ての表札を発見した時は、午後一時すぎになっていた。
一帯は三ツ沢公園の東北に当る小高い丘陵地で、高級住宅が多い。が、八十川の家は、そこだけ古い家々が数軒も寄り集まった一画にあり、艶のない灰色の瓦をのせた木造の平屋であった。
手入れの悪い植込みが雨に濡れて、家全体を一層陰気な暗さで包んでいる。
ブザーを押すと、内部でスリッパの音が近づいてきた。
「どちらさまでしょうか」と、低い女の声が訊いた。
「真田と申しますが」
また少しの後、ドアが内側からうすく開いた。
採光の悪い玄関の三和土《たたき》に立っていたのは、黒っぽいワンピースを着た三十前後の女性だった。パーマ気のない髪を無造作に後で束ね、化粧もほとんどなく、いかにも暗い家に閉じこもっている女という感じである。が、何よりも、最初に真田の視線を捉えたのは、女の右頬から耳の下までくいこんでいる、火傷か何かの傷痕《きずあと》と思われる、異様な筋肉のひきつりであった。その傷のせいか、奥まった右目の形が左目とびっこで、眸の焦点も不自然である。
(奥さんは、身体が弱くて、神経質で……彼は奥さんへの労りもあってセーブしているから……)
京子のことばが、真田の脳裡をかすめた。
「突然上りまして……こういう者ですが」
彼は相手の顔から目をそらし、名刺をさし出した。彼女は会釈して受取り、名刺を眺めてから、再び真田を見あげた。正常な焦点を持った左目は、割に物静かな光をたたえている。彼女は京子の存在を知らなかったのか。それとも、京子と真田の繋がりに思い及ばないのかもしれない。
「八十川さんはご在宅でしょうか」
「はい」
「ちょっとお目にかかりたいのですが」
「はい……少しお待ちくださいませ」
彼女は会釈して、廊下を戻っていく。この家の内部にも、古い線香のような匂いが漂っているみたいに感じられる。まったく、抹香臭い家の中で、せめてもう少し明るい色の服でも着たらいいのにと、真田は猫背な女の後姿を見守りながら思ったりした。
五分ほどして、彼女は再び出てきた。
「どうぞ、お上りくださいませ」
玄関脇の応接室へ請じ入れてくれた。
黄ばんだカバーをかけたセットが置かれ、窓の外に、なだらかな斜面を埋める家並がのぞまれた。小雨にけむった、穏やかな日曜日の住宅街である。
京子もこの椅子に腰かけたことがあったのだろうか……?
真田はふと感傷に迫られた。
きっと一度くらいは、この家を訪れた時があったにちがいない。そして、窓の風景を眺めながら、いつか八十川と家庭を持つ日を夢見たのではないだろうか。
すると、不思議なほど、それが確信された。
やはり京子は、八十川の妻の死を心待ちにしていたのだ。ところが皮肉にも、京子は彼女より先に、突然の死に見舞われた……。
いや、京子は真実、外妊の破裂で死んだのであろうか?
遺体を火葬させてしまったことは、やはり取返しのつかぬ失策だったのではあるまいか?
昨日から何度目か、発作に似た焦燥が噴きあげてきた時、ドアが開いた。
細長い顔の八十川邦雄が、身構えるように立っていた。
焦りと敗北感の混じりあったやりきれない苛立《いらだ》ちを抑えながら、真田は植込みの間を抜けて、外の道路へ出た。
もう一度八十川の家の玄関を振返ると、ドアの磨《すり》ガラスの内側で、八十川がこちらの様子を窺っていたのか、細い影がさしたように感じられたが、それもすぐに退いて、暗い家が拒絶的に静まり返っている。
霧雨が降り続いている。
このまますごすごと帰るのはいかにも忌々《いまいま》しいが、といって雨に濡れて佇んでいるのも一層屈辱的な気がする。
八十川との話合いからは、結局は何一つ収穫を得られなかった。
彼は、細面の顔立ちの彫りが深く、高い鼻梁の奥に沈んだ目はうす青い光沢を帯びて、ちょっとバタ臭い、意外なハンサムであった。軽く鼻にかかったやわらかい声で話す感じも、いかにも知的で、時には神秘的な雰囲気すら漂わす。こんなタイプの男が、小説を書いて、多少でも名を知られる新人作家になってくれば、京子くらいの娘が、すべてを捧げても惜しくないと打ちこんでしまうのも無理ないかもしれないと、真田の気持は最初から嫉妬混じりに昂ぶっていた。
が、八十川の話す声はソフトだが、態度は終始冷ややかで、隙を見せなかった。
「──確かに、京子さんとは時々二人きりでお会いすることもありましたが、それは、ぼくの小説の批評を聞きたかったからです。彼女は若いが、なかなかしっかりした小説眼を持っていましたからね。自分でもいつか書きたいという気持があったようだ。だからこそ、大して仕事もないのに、ルポライター一筋で頑張っていたんじゃないですか」
「しかし、あなたとの間は、それだけではなかったでしょう?」
「とおっしゃいますと?」
「つまり、男と女の関係が──」
「とんでもありませんよ」と、八十川は細長い鼻の脇に小皺を刻んで苦笑してみせた。
「わたしは妻を持つ身でしたし、手を握ったこともありませんでしたよ」
「でも、十日の晩は十時すぎに京子さんのアパートへ出かけたんじゃありませんか」
「今度またわたしの作品が一つ雑誌に載ったものですからね。彼女の感想が聞きたかったのです。力を入れて書いたものだけに、そう思うと待ちきれない気持で、出かけていったのですよ。第一、午後十時という時刻は、別段深夜ってほどじゃない。まあ、堅気のサラリーマンの方には、どうか知りませんが」
うすい笑いを漂わせた彼の口吻《くちぶり》には、見下すような響きもこもっていた。真田は思わずカッとして、
「しかし、あなたがどう言い逃れしようと、ぼくは彼女からはっきり聞いたんだ。あなたとはもう他人じゃない。お腹の子供の父親も──」
真田は一瞬躊躇したが、自分の語勢に押されるように続けた。
「父親はあなた以外にありえないと」
「冗談じゃない」と、相手はあくまで一笑に付そうという姿勢を崩さなかった。
「もし彼女がそんなことをいったとすれば、それは願望をそのまま口に出したまでのことでしょう。そういえば……彼女がわたしに対してある特殊な感情を抱いていたらしいことは、目つきやことばの端々から感じられましたからね」
八十川は自分の魅力に自信のある男の表情でいってのけた。
「しかし、何度もいうように、わたしは彼女に指一本触れていない。彼女の空想を真に受けて、妙な言い掛りをつけられては迷惑ですね。十日の晩に彼女のアパートを訪れて変事を発見した時にも、例えば知らぬ顔で帰ってしまうことだってできたんですよ。それでも、わたしとしては、できる限りの処置をとったつもりだ。というのに……これじゃあ、逆恨みもいいところですよ」
彼は最後まで、怒気を露わにするようなことはせず、皮肉で冷淡な口調を押し通した。代りに、真田に一歩も踏みこませなかった。
それは一層、真田の確信にも近い疑惑を固めさせた。京子の相手は、あの男のほかには考えられない。無論胎児の父親もだ!
とはいえ、彼に徹底的にシラを切られてしまえば、こちらには何一つ証拠はないのだ。言い掛りといわれても、切り返すことばがない。
まして、もう一歩突っこんだ疑い──京子の死因が実は外妊の破裂ではなく、何らかの方法で八十川に殺されたのではないか?………という点に至っては、今さら到底立証は不可能のような気がする。いや、こればかりは、いささか勘ぐりすぎかもしれない……。
ともあれ、今日はひとまず帰るしかないだろう。
もう一度冷静に考えてみれば、何か方策が浮かぶかもわからない。
真田はようやく気持に区切りをつけた。
それにしても、来る時はタクシーを利用したが、帰りの足をどうしたものか。
冷たい雨の中を歩き出しながら、また腹立たしい思いが湧き出してきた。濡れた路上には人影もほとんど見えず、ずっと先の坂の下には車の往来が認められるが、こちらまでのぼってくる空車など望めそうにない。
ところが、お誂え向きとはこんなものか、真田が歩調を早めかけた時、オレンジ色の一目でタクシーとわかる車が、タイヤで水をはじく音を響かせながら、真直ぐに坂をのぼってくるのである。
接近してから、バックシートに二人の乗客の影を認め、真田はがっかりしたが、いずれこの車が戻ってくるまで、軒下で待っていてもいいと思い直した。
車は近づくにつれて速度を落とした。
やりすごして見守ったすぐ先で停った。八十川の家の門前である。
料金を払って降り立った二人は、黒の背広を着た初老の男と、同年輩の女性である。女は挽茶色の無地の着物に黒の帯。二人は急ぎ足で植込みの奥に消えた。
真田はふいに得体の知れぬ緊張に縛られて、見知らぬ男女を見送っていた。彼らの姿が、何かを思い出させたのだ。
空車になったタクシーが、ゆっくりとターンし、真田の注意を促すようにクラクションを鳴らしたが、彼は身動《みじろ》ぎもしなかった。
そうだ。あの黒っぽい装いの男女は、京子の遺体を引き取りにきた山口夫婦を連想させたのだ。
日常、男が黒の上下を着る場合はほかにもあろうが、女が無地の着物に黒の帯といういでたちは、仏事以外考えられないのではないか?
そういえば、八十川の妻も、黒のワンピースを着ていて、一層陰気なムードを濃くしていた。
それに、あの家にたちこめていた、線香に似た匂い……!
これはいったい、何を意味するのか?
ようやく視線をめぐらせた真田は、ちょうど、斜め向かいの家から買物に行くらしい主婦が出てくるのを認めた。
「あの、つかぬことをうかがいますが」
彼は大股に歩み寄って声をかけた。
「八十川さんのお宅では、何かご不幸でもあったのでしょうか。いや、ぼくは久しぶりに訪ねてきたのですが、今黒っぽい服の人たちが入っていったものだから……」
中年の主婦は痛ましげに眉をひそめた。
「奥さんが急にお亡くなりになったんですよ」
一瞬真田は相手のことばが飲みこめなかった。
「十日に亡くなって、お葬式が一昨日《おととい》でした。まだお若いのにねえ……」
「奥さんが……十日に……」
十日なら、京子が死んだと同じ日ではないか。
「し、しかし、それではさっきの女は──?」
「え?」
「いや、あの……八十川さんのとこには、頬に傷のある女の人が……」
「ああ、奥さんの妹さんでしょう」と、優しい面差しの主婦は、目をむいた真田をちょっとおかしそうに見つめた。
「妹さんだったんですか」
「和枝さんといわれて、おとなしいけど頭のよさそうな娘さんですよ。あの傷は、まだ小学生のころ、交通事故に遇われたんだそうですねえ」
「すると、妹も──和枝さんも、いっしょに暮らしていたわけですか」
「去年の春くらいまではね。それからどうしてか、和枝さんだけアパートに移られたみたいですね。わりと近くらしいけど」
「それは、何かわけがあったのでしょうか」
「さあ、私もくわしいことはわかりませんけど……」
さすがに重い口調になりながら、
「でも、ちょくちょく手伝いに見えてましたし、とても仲のいいご姉妹でしたよ。お姉さんが亡くなって、和枝さんもずいぶん気落ちしてるんじゃないでしょうかねえ」
「奥さんは、病気で?」
「ええ。日ごろから丈夫なかたじゃなかったけど、今度は急なことだったようですね」
「お医者はどちらにかかっておられたか、ご存知でしょうか」
「その下の、藤井産婦人科だったと聞きましたけどね」
主婦は坂の下方を指さし、それからようやく怪訝な眼差で見返すのを、真田は簡単に礼をのべて離れた。
「子宮外妊娠でした。くわしくいえば、外妊のため卵管が破裂し、腹腔内に多量に出血した結果の、失血死ですな」
額の禿げ上った恰幅のいい院長は、多少憤然とした声で、だがきっぱりと答えた。真田がほぼ予期した通りの回答であった。
さっき、主婦にその所在を教えてもらった彼は、歩いて十分ほどの藤井産婦人科医院へ直行した。日曜日だが、入院患者の回診に当っていた院長は、手がすいてから、待っていた真田を診察室へ呼び入れてくれた。その相手に、真田は、八十川の妻の親戚と名乗り、死因が釈然としないので、くわしく聞きにきたと、わざと挑発的な問いを発したのだ。
「まちがいありませんよ」と、院長は、何かいいかける真田を押し返す口調で、
「亡くなる二日前、偶然道で遇いましてね。ご近所だし、以前一度診察したこともあって、顔見知りだったからね。その時奥さんが、二週間ほど生理が遅れていて、ちょっと不整出血があるといわれたので、それはすぐ診せに来なさいといった矢先だったのですから」
「十日は、正確には何時ごろ死亡したのですか」
「五時すぎでしたね。五時少し前にわたしが呼ばれて駆けつけた時には、まだかすかに脈があったが、もう手の施しようがなかった。外妊の破裂というのは、場合によっては寸刻を争うのですよ。昔、女優さんが撮影中にそれで急死したケースもあったが」
真田の次第に納得した表情を認めると、院長も語気を柔らげて、煙草に火を点《つ》けた。
十日午後五時少し前、八十川から、家内が急に倒れたという電話を受けて藤井が急行した時、妻の佐知子は、腹部の膨満した身体を布団に横たえて、意識不明に陥っていた。八十川の話によれば、その三十分ほど前、佐知子が突然腹痛を訴えたので、とりあえず床に寝かせた。妙にお腹が膨らんできたと思ううちに、呼吸困難となり、あわてて藤井を呼んだという。
「八十川さんも、奥さんの生理が遅れているとチラと聞いていたので、咄嗟に流産かと思ってわたしに電話をかけたといってましたが。外妊による死亡は、症状が歴然としていますからね。腹が膨れてくるのは、腹腔内にひどい出血をきたすからで、その血は凝固しにくいので、注射器で吸いあげてみれば、すぐにわかる……」
藤井の説明は、山口夫人が京子の遺体を診断した世田谷の松村医院で聞いてきたという話と、ほぼ一致していた。いや、それが確かに|京子の《ヽヽヽ》遺体だったとしての話だが……真田は鋭く思考を集中していた。
少くとも、八十川佐知子が十日の午後五時すぎに、卵管破裂による急死を遂げたことは、不動の事実のようである。しかし、京子も同じ日の、それも松村院長は京子が午後五時から六時の間くらいに死亡したと判断したと聞いたから、佐知子とほとんど同時刻に、同一の原因で死亡するなどという偶然が信じられるだろうか?
「先生は、その以前から、八十川夫人に妊娠らしい徴候を訴えられておられたし、まだ息のある状態から看取られたわけですから、死因には疑いの余地もなかったでしょうが……」
真田は医師の目に慎重な視線を凝らしながら、
「例えばですね、それまで一度も診察したことのない見ず知らずの女性が急死した場合、遺体を見ただけで、外妊の破裂などという診断が下せるものでしょうか」
藤井は煙草をふかしながら、しげしげと真田を見廻した。出張った大きな目玉に、少し面白そうな光が浮かび出ている。頑固だが根はさっぱりした気性を感じさせる。
「これが内科だとね、多分遺体を見ただけで診断を下すには不安があるでしょうな」と彼はゆっくりと答えた。
「だからそんな場合には、死亡診断書を書く前に、警察に変死の届けを出すのが普通でしょうね。軽々しく処置して、あとで問題が起きれば、医師の責任を問われますからな。しかし、子宮外妊娠というのは、さっきもいった通り、非常に特徴的ですからね。穿刺を入れて、腹腔内の出血が認められれば、まずまちがいないといえる」
「それでは、はじめての患者でも、その場で死亡診断書をお書きになりますか」
「うむ……ほかに不審がなければ、書くかもしれませんね」
だから、松村院長も躊躇《ためら》わず「三谷京子」の死亡診断書を作成したのだと、真田は、ショックと満足のない混ぜされた興奮を抑えながら、無言で頷いた。
世田谷区の京子のアパートから約三百メートルほど離れた松村産婦人科医院では、日曜日で院長が外出しており、真田は夜七時すぎまで、彼の帰宅を待たなければならなかった。松村医院は藤井医院より、建物は新しいがずっと小ぢんまりしていて、入院患者も少いようであった。
ようやく帰ってきて、住居の応接室で真田と対座した松村は、予想外に若く、真田と同年配の四十まえにみえた。医院が新しいのを見ても、開業後日が浅いのではあるまいか。
「──釧路からいらした親戚の方にも申しあげたんですが、外妊は怖いんですよ。本人がまだ妊娠を自覚してもいないうちに破裂して、急に容態が変る場合もありますからね。この間のケースなどは、その典型的な例でしょうが」
生真面目な学究肌といったタイプの松村は、京子の遠縁で、先日のお礼にきたとのべた真田をあやしむふうもなく、礼儀正しい態度で応接した。十日の夜、八十川の請《もと》めでアパートへ出向いた時には、京子はすでに死後四、五時間経過しており、診察の結果外妊以外の死因は考えられず、八十川も京子が最近妊娠の不安を洩らしていたとのべたことなどから、彼が机の抽出しから取り出した京子の健康保険証などを見て死亡診断書を作成し、縁者への連絡をまかせたという。
「よくわかりました。本当に、大変お世話になりまして……」
真田はもう平静な表情で頭をさげた。
「ところで、これはまた、まったく別の、ちょっとお尋ねなのですが……最近この女性がこちらで診察を受けたことはなかったでしょうか」
真田が内ポケットから取り出して示したのは、三谷京子の手札大の上半身写真である。真田には多少カメラの趣味もあって、この夏に写したものだが、正面から鮮明に撮れている。
「いや、実はぼくの友人が今この女《ひと》と縁談が持ちあがっているんですが、彼女もこの近くに住んでいて、最近この医院に出入りするところを見たという人の噂を聞いて、友人が気にしているものですから、ついでといっては変だが、先生に尋ねてやろうと請合ってきたわけなんですが……」
松村は写真を返しながら、屈託のない微笑を浮かべた。
「それならご心配には及びませんよ。わたしは一度もこの方にお会いしたことはありませんから」
八十川が京子を殺害し、死体を一時的に妻佐知子の遺体とすり変えて病死の死亡診断書を取得し、火葬にとり運んだ犯行は、もはや疑いの余地はない……。
真田は寝静まった住宅街の坂道に歩を進めながら、憤怒を噛みしめるように反芻していた。
今残された疑問は、八十川がなぜ、妻の死と同時点で京子を殺さなければならなかったかという点だ。
やはりまず思い浮かぶのは、佐知子の妹和枝の存在である。
八十川は、実は和枝とも、理《わり》ない仲にあった。病弱な佐知子が死んだら、妻として迎え入れる約束をしていた。一方彼は、京子にも同様の期待を抱かせていた。そして、いよいよ現実に佐知子が退場した時、彼は京子より和枝を選んだのか……?
だが、この推理には、どうしても違和感が残る。なにも京子を殺すまでの必要はなかったのではないか。京子が八十川の小説の評価を左右する強力な編集者ででもあったならいざ知らず。
いや、それ以前に、八十川が京子より和枝を好んだという仮定にひっかかるのだ。男として客観的に考えてみても、京子は和枝より若いし、みずみずしい魅力に優っていたと思われる。
では逆に、八十川が和枝と結婚しなければならない、何か重大な|借り《ヽヽ》があったとか、弱みを握られていたと想像してみたらどうか。
この辺りに疑問の突破口があるのではないか?
真田はふと、今日の午後八十川の家の筋向かいの主婦に聞いた話を思い出した。和枝はずっと八十川夫婦と同居していたが、昨年の春、近所のアパートへ引越したという。昨年の春──これは八十川が雑誌の新人賞を受賞した時期と一致する……。
その和枝のアパートの灯火が、坂道の角を曲った先に認められた。アパートは、八十川の住居の裏手に当るこんもりとした樹林の陰の窪地に建っている。京子の住んでいたところと同程度の古い木造だが、世帯数はずっと多いようだ。和枝の部屋は二階の西隅である。
──これらのことは、午後藤井医院を辞したあとで、調べ出した。その上彼は、同じアパートの暇そうな主婦二人を捉えて、和枝と姉の佐知子について情報収集に成功した。松村医院でも使った「結婚調査」の名目を匂わせたのだ。
和枝は見かけより若く二十七歳、佐知子は二十九歳だったそうである。京子ももう二十六にはなっていたはずだから、二十九歳の佐知子の遺体を京子だと称して医師に見せても、さほどの無理はなかったはずだと、この時すでに真田は犯行を洞察した。
和枝には結婚経験はなく、顔の傷を気にしてか、就職もせず、洋裁を身につけて、近所の頼まれものなどを縫っていたという。真田が尋ねた主婦たちは、和枝がまだ八十川の家に同居していたころワンピースなどを頼んでいたそうだが、彼女がアパートに引越してきてからは、どういうわけか、仕上りまでひどく日数がかかるようになって、やめてしまったという。和枝と割に近い二階に住んでいる女は、最近では彼女の部屋からめったにミシンの音も聞こえなくなったと、首をかしげていた……。
午前零時をすぎて、一帯は雨上りのひっそりとした夜陰に包まれ、アパートの窓はほとんど明りを消している。だが、西隅の和枝の部屋からは、螢光灯の青白い光が洩れている。
洋裁も滞りがちで、ミシンもめったに踏まないという和枝が、夜更けまで何をしているのか……?
次第に、ある臆測が、真田の内部に頭をもたげはじめた。
静まり返った階段をきしませてのぼり、和枝の部屋の前に立った。ドアの隙間からも明りが洩れているが、内部に物音は聞こえない。
ノック──。
やがて「どなた?」と、聞き憶えのある低い声が訊いた。訝るような、囁き声だった。
「お義兄さん?」
それに答えるように、真田がもう一度叩くと、カチリと掛け金が外された。
ドアがうすく開く。次の瞬間、真田はそのドアを強く押し開けて内側へすべりこみ、後手に閉めた。
「あなたは……昼間いらした──?」
思わず後退りした和枝が、咎める眼差で真田を睨んだ。顔が蒼ざめている。
「そうです。三谷京子の知合いの真田です」
答えながら、彼の目は素早く室内を見廻した。出入口の正面には厚手のカーテンが吊されていたが、今は半ば開いて、螢光灯の点った六畳間がのぞかれた。壁寄りにミシンが見えるが、カバーがかかっている。代りに──その横に大きめのデスクが据えられ、その上には、数冊の書籍と原稿用紙がひろげられている。キャップを外したまま置かれたペンが、つい今しがたまで、彼女がそれを原稿用紙に走らせていたことを物語っている!
繊細だがどこか陰湿で女性的な「八十川邦雄」の小説の文章が、断片的に真田の脳裡を横切った。
「やはり、あなただったのですね、本当の筆者は」
立ちつくしている和枝に、彼は視線を戻した。
「あなたは八十川のゴーストライターだった。彼が新人賞を受賞した直後に、あなたがこのアパートへ引越したのは、少しでも世間の疑いを抱かぬための用心だったのだろう。代りに彼は、佐知子さんにもしものことがあった暁には、あなたと結婚する約束をしていた」
和枝は顔をそむけるように座敷の奥へ入り、窓のカーテンを少し開けて外の闇を見つめた。
「一方八十川は、三谷京子のみずみずしい魅力にも抗しきれず、関係を結んでしまった。彼女にも将来結婚を誓った。しかし、佐知子さんが死んだあと、京子との約束を守れば、あなたは怒ってもう原稿を書いてくれないだろう。といって、あなたと結婚すれば、裏切られた京子は八十川を憎み、ひいては、実はあなたが代筆している事実を見抜いて、世間に暴露するにちがいない。──結局彼は、虚偽で拵えたむなしい新人作家の名にしがみついて、京子を抹殺したのだ。いや、京子殺害には、あなたも関与していたにちがいない!」
重苦しい沈黙が流れた。
どこかの部屋で時計が一時を打つ音が鈍く聞こえ、その後で和枝がふっと息を吐いたようだった。
次に口を開いた時、彼女の声は意外なほど静かで乾いていた。
「今あなたがいわれたことは、半分くらい当っているわ」
それから彼女はゆっくりと振返り、焦点の確かな左目に、奇妙に物悲しい光をたたえて彼を見あげた。
「確かに、義兄の名で発表される小説を書いていたのは、私です。私はこんなふうで、人前に顔を晒すのはいやだったし……作家になりたい希望を執念みたいに持ち続けていた義兄が、私が気まぐれに書いた小説を読んで、ぜひこれを新人賞に応募したらといい出した時には、むしろ私のほうから、義兄さんの名で出してみたら、なんて冗談にすすめたほどだったわ……」
「ところが、それが入選した──?」
「ええ。そうなればもう後に退けない。義兄に頼みこまれて、私はまた書いた。時たま家に出入りする雑誌社の人の目につかないために引越したことも、お見通しのとおりです。でも……私は自分の立場が、それほど不満ってわけでもなかった」
「……?」
「私はもともと自分自身の満足のために書いていたのだし、病弱な姉をよろこばす結果になれば、本望だと思っていた。義兄は、妻が自分が小説を書くのをいやがるのでセーブしているなんて人に話して、作品の少いことをとり繕っていたようですけど、本当は、姉は八十川が芽を出しはじめたのを、とても楽しみにしていたんです。無論、私が代筆しているなんて、気づいていなかったし」
和枝の話しぶりはやはり静かに沈んでいて、真実の響きが感じられた。
「それでは……三谷京子のことは──?」
「義兄にそんな恋人のいたことは、今日の午後、あなたがいらっしゃるまで、私も知らなかったのです。でも、あなたと義兄の話を廊下で立ち聴きして……即座に思い当ることがあったわ」
和枝ははじめて目を伏せ、暗鬱に声をひそめた。
「姉が急死した日の晩、まだ葬儀社の手配にも気が廻らず、私がぼんやりしていた時、藤井先生がその後の様子を心配して、もう一度顔を見せてくださったんです。すると義兄は、いきなり先生に、和枝がショックで参りかけているから、鎮静剤を打ってしばらく眠らせてやってくださいと頼みこみ、私には何もいう暇を与えずに注射を打たせてしまった。それで私は、明け方まで眠った。考えてみれば、その間に義兄は姉の遺体をその京子さんという方のアパートまで運んだのではないかしら。姉の遺体をのせた車を近くに駐めておいて、アパートへ入るなり、京子さんを殺す。例えば掌で鼻と口を被って窒息死させるとか、外見では病死と区別のつかないやり方で──京子さんの死体を押入れに隠すかして、次には姉の遺体を運びこんでお医者を呼んだ。医者は外妊による死亡と診断し、義兄のことばを信じて『三谷京子』の死亡診断書を書く……」
さすがに和枝は回転が早く、八十川の犯行を推理していった。だが、その間にも真田の目に浮かんだ微妙な光を見て取ると、
「私も共犯だとお疑いになるのは自由ですけど、私があの晩八時ごろからずっと眠っていたことは、注射を打った藤井先生が証明してくださるでしょう。──義兄が遺体を運んだ車も想像がつくわ。ご近所に、義兄が市役所に勤めていたころのお友だちがいて、ふだんから時々車を借りていたんです。だから、あの晩もそれを使ったのにちがいない。横浜と東京といっても、八十川の家から世田谷区の西の京子さんのアパートまで、第三京浜をとばせば三十分くらいではないかしら。死亡診断書を書いた医者が帰ると、義兄は京子さんの死体を布団に寝かせ、姉をまた車に積んで家に戻った。翌日は何食わぬ顔で京子さんの親戚に連絡し、夜は姉のお通夜をしたんだわ……」
「しかし……すると八十川は、奥さんが病死したと見るや、ごく短時間で京子殺害を決意したことになる……」
「今になって、私にも段々わかってきたわ。──義兄は以前市役所で、戸籍係にいたんです。だから、医師の死亡診断書さえ手に入れば、あとは簡単に火葬の手筈が整うことを知っていた。それで、病弱な姉にもしものことがあれば、その遺体を利用して京子さんまで抹殺してしまう計画は、もう以前から──」
「ではやはり、最初ぼくがいったことと、ほとんど同じじゃないか、八十川はあなたとも京子とも、将来結婚する約束をしていた。そしていよいよ奥さんが死んだ時には、京子のほうを殺して……」
「いいえ、そこがちがうんです」
和枝の傷痕の走る頬に、皮肉な笑いがうかんだ。皮肉だが、どこか寂しげな翳りを漂わせた微笑であった。
「私、一度だって義兄に、将来結婚してほしいなんていったことはないわ。そんな感情は全然抱いてなかったんですもの。でも、義兄はきっと、ひとりよがりしていたのね。自分の容貌と魅力には相当な自信家だったから、私が彼を求めていると思いこんでいたんだわ。たとえそれほどでなくても、姉の死後、すぐに別の女と結婚したりすれば、私が怒ってもう代作を断ると考えた。といって、京子さんを裏切れば、いずれ彼女に事実をすっぱ抜かれる。だから……姉が死ねば、同時に京子さんをも葬らなければならなかった……」
「………」
「でも、どちらにしても、私はもう書かないわ。もともと半分は、姉のためにやっていたことですもの」
和枝はつと机に歩み寄ると、書きかけの原稿用紙の束を無造作に手で丸めた。
流しへ持っていって、マッチを擦った。
「これで、義兄の虚像も消えるんだわ……」
紙の燃えるゆるやかな炎が、真田には、京子のひそかな情念が葬られる姿のようにも感じられた。
京子はやはり、心の奥底で、八十川の妻の死ぬ日を待ちのぞんでいたにちがいない。だが、実はその時には、彼女自身の死も待ちうけていたのだ……。
残酷な皮肉が、やがて何か冷え冷えとした哀しみに変わり、真田は思わず瞼を閉じた。
[#改ページ]
遺書をもう一度
真沙子が寺井と連れだって、大学の正門の並びにある喫茶店を出た時、ノートを抱えて一人で歩いてきた栄子と顔を合わせた。
栄子はさっきの三時限の国文学史には姿を見せていなかったので、
「あら、来てたの。今日はさぼりかと思ってたのに」
真沙子は軽く笑って声をかけた。すると栄子は、
「今出てきたところよ」とどこか不機嫌な声で答え、カールした長い上下の睫毛《まつげ》を寄せるようにして、真沙子と長身の寺井を見較べた。寺井は、喫茶店の前の歩道をふさいでいた自転車に真沙子がぶつからないように、彼女の脇腹にそえていた手を、はなしたところだった。それを認めると、栄子はかすかに咎《とが》めるふうに一層目を細め、唇の両端を引きしめた。彼女は時折そんな神経質な表情の動きを見せ、それが華奢《きやしや》な西洋人形を思わせる容貌に奇妙に似合ってもいる。
「真《ま》っ子たちは、これから帰るの」
「ええ。私、四時間目の心理学、とってないから。栄子は出るんでしょう?」
「まだ決めてないわ」
栄子はやはりちょっと突き放すような、我儘《わがまま》な答え方をした。
なんとなく気拙《きまず》い沈黙のあとで、
「じゃあね」と真沙子はつとめて微笑を浮かべ、寺井も同じような挨拶をして、二人は栄子とすれちがって歩き出した。
初秋の午後の曇り空からうす陽が落ちている交差点を渡り、学生たちがだらだらした感じで行き来している裏道を、国電の駅の方へ歩いていった。
「栄子、まだ寺井さんが好きなんじゃないかしら」
角を曲る時、何気なく振返った交差点の先に、さっきと同じ場所に佇《たたず》んでいる栄子を認めた真沙子は、寺井の横顔に視線を戻して呟いた。白い上質なブラウスの上に、えんじ系のきれいなチェックのスカーフを肩から胸にゆるく結んで垂らしていた栄子のか細い立ち姿は、真沙子が振向いた直後に、喫茶店のスウィングドアの内部へ吸いこまれた。
「まさか」と、寺井は路上に目を落としたままで、唇をすぼめて苦笑した。
「でも、最近彼女少しおかしいわ。それに……高二の時は、確かに寺井さんが好きだったのよ。私、聞かされてたもの」
「どっちにしても、三年の春には、新任の体育の先生にすごい熱をあげてるって評判だったじゃないか」
「でもあれは一過性だったのよ。奥さんも子供もある先生が相手じゃあ、どうしようもないし。それでやっぱり今では……私たちがよくこんなふうに一緒にいるのを見て、少し嫉妬してるんじゃないのかなあ」
寺井は黙ってまた苦笑しながら、規則的に足を運んでいる。受験時代と比べてさえ、また少し痩せて、その分だけ彫りが深く、鋭さを帯びた横顔には、淡い憂鬱の影が定着してしまったみたいに見える。
大学に入ってまだ五カ月あまりというのに、彼はずいぶん変った。急におとなびた代りに口が重くなり、思索的なタイプになったとでもいうのか。
抑圧的な受験生生活から、事実上おとなの仲間入りという感じの大学生になる一、二年が、男も女も現代の若者たちが最も大きく変る時期だとは、何かの雑誌にも書いてあったけれど、彼などはその標本みたいなものかもしれない……。
真白なトレパンとダークグリーンのランニングの下から、小麦色に輝く肩と腕をむき出しにして、グラウンドを走っていた高二のころの寺井の姿がふと瞼《まぶた》に甦《よみがえ》り、それはふいに切ないほどの懐しさを伴って、真沙子に当時の日々を甦らせた。
寺井も真沙子も栄子も、同じ都立高校の出身だった。陸上の選手で、成績も上位だった寺井は、女生徒たちの人気の的で、勿論真沙子も彼に好感を抱いてはいたが、栄子はもっと積極的で、手紙を出したり、何かと二人だけになるチャンスを作ろうとしていたのではなかっただろうか。
二年のころと比べると、高三の一年間には大して思い出らしいものも浮かんでこないのは、大部分の生徒が否応なく受験勉強にほとんどのエネルギーを集中せざるをえなかったからだろう。
寡黙《かもく》なたちはもともとにしても、どこかヌーボーとした雰囲気を身につけていた寺井が、大学に入ってから全体に沈んで見えるのは、彼がかなり自信を持って受験した国立大学に失敗して、私立のS大に甘んじなければならなかった挫折感も大きな原因にちがいない。真沙子と栄子は揃ってS大の英文科に入学し、彼は経済学部に入った。私立でもS大は三流というほど落ちるものではないし、共稼ぎの両親の希望を容れて、彼は浪人を断念したらしい。
学部はちがうが、教養科目が大分重なったのと、同じ新聞研究会に入ったりしたことから、寺井と真沙子は高校時代よりかえって、一緒にいる時間が多くなった。
勿論、理由はほかにもあったが……。
二人はしばらく黙って歩き続け、やがてひろいバス道路へ出た。
「真直ぐ帰る?」と寺井が立ち停って真沙子を顧みた。
「そうね……」
家に帰るとすれば、真沙子は道路を横断した先にある駅から国電に乗るわけだった。
「寺井さんは?」
「ぼくは、これからバイトと……」
彼は腕時計に目を落として、語尾をのみこむようにした。
彼が週に二回、家庭教師に通っていることは知っている。でもそれがすんだあと、彼は今日も|あのひと《ヽヽヽヽ》と逢うつもりではないだろうか……?
まだ大学へ通い出して間もない四月末の夕方、代々木の旅館など建ち並ぶ静かな道路で偶然出くわした、寺井と、装いは若妻風の肉感的な女性の連れだった姿が、真沙子の脳裡をかすめた。
が、真沙子はさりげない表情で、
「じゃあね。──明日は部会だったわね」
「ああ」
それで二人は軽く頷きあって別れた。
バスストップの標識の方へゆっくり歩いていく寺井の後姿をチラと見送ってから、真沙子は青に変った信号を渡った。
国電のフォームは、いつもながら混雑していた。四時前で、ラッシュには間のある時間なのだが、近辺には盛り場や自動車学校などもあるので、午後のフォームにはさまざまの人が流動している。背広の小脇に本を挾んだ学生たち、セールスマン風の男やテパート帰りの主婦などが、ドアの位置ごとに粗《あら》い列をつくっていた。
真沙子はふだんの習慣で、前の方へ歩いていき、数人の学生たちの並んでいる後についた。家に帰っても特に予定はないから、二歳の姪《めい》の誕生日に間にあわせるつもりのキリンの縫いぐるみを仕上げてしまおうか。真沙子は陽性で行動派の娘だといわれ、自分もまあ認めてはいるけれど、案外手芸なども好きだった。
栄子や寺井のことなどとりとめなく考えはじめていた時、前に立っていた学生の一団が、急に列を崩して歩き出した。どこか別のところへ行く相談がまとまったという感じだった。
前があいたので、真沙子はフォームのきわ近くまで進んだ。
周囲が一段とざわついてきたのは、反対側に逆方向の電車が入ったからだった。ドアから吐き出された乗客たちと、フォームを歩いていた人の流れが、ぶつかりあい、ゆるい渦ができている。真沙子の後にも、もう三、四人が並んでいた。
真沙子が顔を戻して、レールの向うの広告板に目を当てた時だった。
わっといった人々の声が後で聞こえ、同時に誰かが強い勢いで背中にぶつかってきた。真沙子は押されて前へのめり、もう一歩で線路に落ちかけるのを、爪先に力をこめてどうにか踏み留った。
片手をついたまま、後を振返った。背後に並んでいた人たちも、よろめいた姿勢を立て直しながら、憮然とした面持で見返っている。誰かが列の最後の人を突きとばし、そのショックが玉つき式に伝わって、真沙子をフォームから弾き出そうとしたようであった。
が、もうその場に犯人《ヽヽ》が立っているわけはない。
人々はやがて「危いなあ」などと口々に呟きながら視線を戻したが、真沙子は人混みの中に目を走らせ続けた。
反対側の電車のドアが閉まりかける直前、二、三輛後の方で、一人の女があやうくとび乗る姿が見えた。白いブラウスの上に結んだ赤っぽいスカーフがゆるんで、肩から外れかかっている。ゆるくカールした長い髪が、そのほっそりした肩に乱れている。
ドアが閉まり、埃っぽいガラスが女の全身に幕をかけて、やがてゆっくりと運び去った。
栄子ではなかっただろうか──?
確信はないまま、激しい衝撃が真沙子の胸をゆるがせた。真沙子たちを見送っていた栄子が、その直後に別の早道を急げば、今フォームにいることも決して無理ではない。そしてもし、彼女が授業をさぼって戻ってきただけだとしたら、あんなにあわてて、自宅とは別方向の電車にとび乗った行為が不自然に感じられる……。
真沙子の待つ電車が進入するレールの響きが伝わってきた時、改めて身体の底から恐怖が湧き出して、動悸が高まってきた。
日曜日の午後の静かな家の中に、電話のベルが鳴り響いている。
二回……三回……。
真沙子は自分の部屋のデスクの前に腰をおろしたまま、ジッと耳を澄ましている。
四回……。
両親は親戚の結婚式に出かけ、就職している兄も昼前に外出してしまったので、今家には真沙子しかいない。いずれにしても、真沙子の部屋は廊下の角にある電話に一番近いので、真沙子がいる限り、最初に受話器をとるのは大抵彼女だった。
七回目のベルで彼女は立ち上り、廊下へ出た。
執拗に鳴り続けている電話をとりあげ、そっと耳に当てた。
「もしもし」
受話器の中は沈黙している。かすかな息遣いが聞こえるような気もするが、定かにはわからない。
「もしもし?」
やはり返事はない。そのまま……やがてカチリと先方が受話器を置く音が響いた。
真沙子も、またゆっくりと部屋へ戻った。
思った通りだった。
昨夜と同じだ。零時半ごろ、これと同じことが二回もあったのだ。二回とも、真沙子が出ると、先方は一言も発せずに切ってしまった。
昨夜はそのあとで、真沙子はしばらく考えた末、思いきって栄子の家をダイアルしてみた。不可解な沈黙の電話が、栄子の仕業ではないかと思われてならなかったからだ。
だが、真沙子のコールには誰も応えなかった。もう午前一時近かったので、真沙子も五回ほど鳴らしただけであきらめてしまったのだが。
真沙子は椅子に腰をおろした。デスクの上には、読みかけのコリン・ウイルソンの小説が伏せてあるが、彼女の目はうす曇りの窓の外にぼんやりと漂っていた。秋特有のはっきりしない天気が続いていて、今日も白っぽい空の下に、新興住宅地の家並が続いている。郊外電車の響きが、時々けだるそうに伝わってくる。
昨夜来の電話の主を栄子ではないかと疑うのには、無論それなりの理由があった。
大学のある国電の駅のフォームで、線路に突き落とされそうになってから、八日がすぎている。あの時は、栄子に似た女の影を認めてハッとなったが、彼女の仕業と断定するまでの確信はなかった。その女の背恰好と服装が似ていたというだけで、顔までは確認しきれなかったし、まして行動の現場を目撃したわけでもない。
ところが、その五日後の夕方、真沙子はまたしても身体が冷たくなるような目にあった。
真沙子の家の周囲は、まだ随所に畑や緑を残した環境で、それで私鉄の駅から家までの歩いて十五分ほどの道のりの途中にも、民家が跡切《とぎ》れて寂しい区域がいくらもある。
四時限まで授業に出て、その後クラブの集まりがあり、終ったあと寺井と二人でピザを食べて帰ってきた真沙子が、その日家に向かって歩いていたのは六時前後だった。ブルーブラックのインクを流したような夕闇が、人通りの少ない路面にたちこめていた。切り通しの間を歩いていた真沙子は、さほど高くない右手の土手の上に、草を踏みしめる足音ともつかぬ何かひそやかな気配を感じた。顔をあげかけた直後、おとなの頭より一廻りは大きいかと思われるゴツゴツした石が、すぐ後の路上に落下したのである。息を引いて立ちすくんだ真沙子の目の先を、ピンクの服を着た痩せ型の女の後姿が、土手の叢《くさむら》の間を、あとも見ずに走り去るのが認められた。
ウェーブのついた髪が肩で揺れていた感じも、先日の国電フォームで見かけた女と共通していた。そして今度もはっきり顔を見極められたわけではないが、栄子だという直感は、以前以上に強烈だったといわねばならない。ピンクは栄子が好んで身につけるカラーだし、その日学校で姿を見かけた時にも、栄子はそんな色のシャツスタイルのワンピースを着ていたように思う。
それに、寺井とお茶をのんだり、何か彼と二人で時間をすごした後に限って、こんなことが起こるなんて……?
(栄子は今でも寺井さんが好きなんじゃないかしら。私たちが一緒にいるのを見て、嫉妬しているのかも……)
寺井に向かって、その時はまださほど重い意味もなく口に出した自分のことばが、空恐ろしい暗示に変って心に甦ってくる。
でもまさか、私を殺すまでのことを──?
相手の所業に確証がなく、しかも疑いの内容があまりに重大なだけに、真沙子は学校で栄子を見かけても、筒単に切り出すことができなかった。またここ一週間ばかり、栄子はさぼり勝ちのようだったし、たまに出てきても、偶然かどうか、大抵ほかのグループに混っていて、ゆっくり話すチャンスもなかったのだ。真沙子と栄子は高校の最初からまず親友と呼べる間柄だが、大学へ入れば、それぞれにまた新しい友達ができるのも当然だった。
栄子は本当に、二度にわたって私を殺そうとしたのだろうか?
昨夜来の奇妙な電話は、今後への警告とでもいうわけか?
それとも、何か別の意図が──?
真沙子はゆるい動作で立ち上り、窓ガラスを閉めて錠をかけた。それまではまだふんぎりがつかなかったが、戸締まりをしたことで、心が決った。
栄子と会って、率直に話しあってみよう。
まさか恐ろしい計画の失敗をあっさり告白するとは思えないが、目近に話しあえば、ある程度相手の本心が読み取れるのではないか。
栄子が誤解して思いつめているのだったら、寺井との事情を打ちあけても、やむをえないだろう。
そうだ。きっとわかりあえるはずだ。三年あまりの付合いの上、何よりも同じ十八歳なのだから!
いったん決心すると、真沙子は迷わず行動に移すたちだった。
玄関の鍵を、ゴムの鉢植の陰に置いて、家を出た。
栄子の住居も郊外にあるが、ちがう電車の沿線なので、いったん私鉄のターミナルまで戻り、国電に乗りかえ、もう一度別の私鉄を利用しなければならない。
約一時間半かかる。
それで栄子の家の近くに着いた時には、五時まえになっていた。
そこは都内でも屈指の高級住宅街で、商店などある下町とちがって、夕暮れ時でも一帯は怖いほど静まりかえっている。白い舗装道路の両側に、石塀や高い生垣がはりめぐらされ、さまざまに趣向を凝らした建物の一部が隠見される。
栄子の家は、沈んだクリーム色の壁に石をあしらった洋館で、黒ずんだ石造りの太い煙突と、急勾配な瓦屋根が、独特の重量感と、やや陰鬱でエキゾティックな雰囲気をかもし出している。
真沙子は、ヒマラヤ杉の植込みに囲まれた砂利敷の私道を入っていった。高校時代から何度も遊びにきたことのある家なので、淡い懐しさすら覚える。高三になってからは、受験勉強の息抜きにという栄子の父の配慮で、ほかの友だち何人かとここへ夕食に招《よ》ばれたり、一度など、都心のホテルのグリルで、栄子と真沙子とが栄子の父にお昼をご馳走してもらったこともあった。あの時は、こちらは模擬テストの帰りで、栄子の父の部下というハンサムな男性もたまたま同席したものだった……。
記憶が次々と、昨日のことのように浮かんできた。
栄子の父は、名の通った商社の重役で、外国生活の経験も豊かな人らしかった。確か今は、メルボルンに新設された支社が軌道に乗るまで、社員指導のために現地へ出張しており、秋の終りまでには帰る予定だと栄子から聞いた憶えがあった。家族はほかに、高校一年の弟と、まだ四十をすぎたばかりの、栄子たち姉弟には義母に当るひとがいる。栄子たちの生みの母親は栄子が中学のころ病死し、約三年後の栄子が高二の春、父が後妻を迎えたのである。真沙子はこの家で二、三度彼女にも会っている。大柄で肌のきれいな、ちょっとバタ臭いが垢抜けした女性だった。が、そんなタイプにも似ず、彼女が義理の娘の感情に、ずいぶん気を使っている様子が、真沙子の目にさえ見てとれたものである。
彫刻のあるマホガニーのドアの前で、真沙子はチャイムを鳴らした。不思議なほど、さほどの緊張も警戒も、まして恐怖めいた気持は湧いていなかった。それは真沙子の、あまり物事にこだわらない性格にもよるだろうが、壊しさすら覚える友達の家に来てみれば、それまで自分が想像していたことや、実際に体験した事実までが、現実離れした空想にすぎなかったようにさえ感じられてくるのだ。
チャイムは家の中で鳴っているが、三度押しても、人声は聞こえなかった。
留守なら仕方がない。
真沙子は念のためにノブを廻してみた。すると施錠はなく、重いドアがすっと手前へ動いた。
しかし、内部はシンとしている。
「ごめんくださーい」と呼んでみたが、やはり返事はなかった。
真沙子はいったんドアを閉めて、あたりを見廻した。右手のヒマラヤ杉の並木が切れたところが、庭の入口である。芝生の庭の外れには、粗い植込みを配して、つやのある石で拵《こしら》えた洋風の東屋《あずまや》が建っているのが、半分ほど見える。
真沙子は入口までいって、庭の中を覗いてみた。やや繁り気味の高麗芝が、夕風を受けてかすかな波状を描いている。もううす暗い東屋の方にも、人影はなかった。
栄子の家には、ふだんお手伝いは置いてなかったはずだ。玄関があいていて、チャイムに応答のない状態は──なんとなく栄子が一人いる場合が想像された。すっかり無人なら鍵がかかっているはずだし、義母がいればすぐ出てくるのではないだろうか。
栄子の部屋は二階の奥にある。レコードをかけるか、昼寝でもしていて、チャイムに気がつかないのかもしれない。
真沙子は五分ほどその場に佇《たたず》んでいたが、やはり誰も帰ってこないので、玄関の中へ入った。隅に靴を脱いで、そっとあがった。せっかく一時間半もかかって来たのに、無駄足になるのは残念だという気持も働いていた。
版画と壺の飾ってある上り口、寄木細工の廊下に沿って、いくつものドアがひっそりと閉まり、こうした広い高級住宅に特有の、真沙子にはなんとなく神秘的に感じられる匂いが漂っている。
真直ぐな廊下を奥へ進み、最初の階段を上りながら「栄子ォー」と呼んでみた。
栄子の部屋の白塗りのドアの前まで来た時、はじめて真沙子の胸に、他人の家に無断であがりこんだ後めたさのようなものがかすめた。ドアも二階の廊下も、あまりに静まり返っていたせいかもしれない。
真沙子は、かえって勢いよくドアをノックした。
「栄子。真沙子よ。──いないの? それともお昼寝かしら……?」
強いて朗かな自分の声につられたように、サッとドアを開けた。
案の定──栄子はベッドの上に横たわっていた。軽い布団を胸までかけて、目を閉じて仰臥《ぎようが》していた。だが、ただ昼寝しているのではないと、一瞬のうちに感じとったのは、真沙子の本能に近い感覚でだっただろう。
真沙子はジッと動かない友達のそばへ走り寄った。西洋人形を思わせる小造りな顔の異様な蒼白さと、ローズ色の敷物をかけたサイドテーブルの上に置かれた角封筒と、二つの白いものが、真沙子の網膜に押しひろがった。封筒の真中には「遺書」と、見憶えのあるくねくねした文字が記されている。
「栄子っ!」
真沙子は異様な叫びをあげながら、布団の上から栄子を揺すった。か細い身体は、無抵抗な軟体動物みたいな反応しか示さなかった。
その時になって、真沙子はなんともいえず生臭い匂いと、続いて足許の絨毯に染み出ている夥《おびただ》しい血に気がついたのだ。血は、ベッドの側面に貼られた刺繍のついた布と、アラビア模様の深々とした絨毯に吸いとられていたため、目につきにくかったのだ。
真沙子は咄嗟に掛布団をはぐった。シーツの上に栄子の左手が投げ出され、その周囲から、部屋着を着た身体の下まで、すさまじい鮮血の溜りができていた。
「睡眠薬を少し飲んだあとで、剃刀で左手首の静脈を切ったのね。傷の上にタオルが巻いてあったけど、それでもすごい血の海だったわ。血管を一本切っただけで、あんなに血の出るものかと思ったくらい……」
話しながら、真沙子は自分も貧血を起こしそうな、軽いめまいに襲われていた。
大学の裏手にあるコーヒースタンドはめずらしくすいている。二時限が始まったばかりの十一時すぎという時間なのと、週末と彼岸の祭日など続いたあとで、学生たちはまだあまり学校に出てきていないのかもしれない。
「結局、決行したのは何時だったの」
カウンターで真沙子と並んで腰をおろしている寺井が、少し眩しそうな目を向けて訊いた。カーテンのない高い窓ガラスから、久しぶりに乾いた陽光が、彼の顔にふり注いでいる。栄子が死んでから、二日経っていた。
「午後三時前後と考えられるって。現場の所見と解剖の結果はほとんどくいちがわなかったらしいわ。睡眠薬を飲んでいたことだけは、解剖してはじめてわかったらしいけど」
栄子の遺体は、死の翌日に当る昨日の午後、最寄りの大学病院で解剖に付されている。その結果を、真沙子は夕方所轄署に電話をかけて確かめた。事件の発見者であり、参考人として散々事情を訊かれたのだから、こちらからもそれくらいは許されると思ったのだ。参考人といえば、寺井も自宅へ刑事が訪ねてきて、簡単な聴取を受けたらしい。
「三時なら、君の家に無言の電話がかかってきたという直後くらいのわけだね」
「ええ。──本当に、栄子は死ぬ前に私に何かいおうとしたのかしら……」
「それにしても……お父さんは海外出張中としても、家にはほかに誰もいなかったのだろうか」
「高一の弟さんが、あの前の日に近所の医院で蓄膿の手術を受けて、お母さんが付添って泊りこんでいらしたんですって。だから前日からあの家には栄子一人だったのね」
そんなわけで、真沙子が一一〇番に連絡し、パトカーが急行した時にも、家人は誰も戻っていなかった。栄子の義母池谷隆江が、何も知らぬまま家の様子を見に帰ってきたのは、現場検証が一通り終りかけた七時まえだった。
「お蔭で私は、あの家を訪ねて死体を発見した経緯なんか、根掘り葉掘り訊かれて……」
栄子が、真沙子と寺井との間を嫉妬していたような素振りが感じられたこと。それと関係があるのかどうか、真沙子が二度にわたって恐ろしい目にあったこと。前夜来の不可解な電話。それで思いきって、栄子と話しあってみようと心を決めて出かけてきたなど……今思えば、臆測の要素も混った話をすっかり刑事に喋ってしまったのは軽率だったかと反省されるのだが、当時は生々しい死体を見たショックと、無断であの家に入っていたという気後れも微妙に作用して、すっかりうろたえてしまっていたのだ。寺井も事情聴取を受けたのは、真沙子の話の結果によるわけだろう。
「ぼくも、訊かれたことはありのまま話したつもりだけれど……正直いって、彼女がぼくを好きで、そのために君を狙ったり、自殺したなんて、考えられないなあ」
寺井は、少しコーヒーの残ったカップをゆるく回転させながら呟いた。その溜息混りの声には、率直な実感がこもって聞こえた。
「でも、高二のころ、栄子はあなたが好きだっていっていたし、その後受験やなんかで紛れていたけど、やっぱりまた……」
「たとえそんな感情があったとしても、彼女は、君を殺すとか、自殺するとか、本当にそんな荒々しい行動のとれる人だったろうか」
寺井は次第に、思考集中の生真面目な顔つきになり、澄んだ目を強く見張って真沙子を凝視した。するとかえって、高校時代の、いつもどこか茫洋《ぼうよう》としておおらかな一面をのぞかせていた彼の雰囲気が甦ってくるような気がした。
「ええ。その点は私も首を傾《かし》げるんだけど……」
栄子は裕福な家庭に生まれ、とくに父親の溺愛を受けて育ったようだ。それだけに、我儘でいて脆《もろ》い面もある性格で、またいったん思いつめたらたちまち周囲が見えなくなってしまうような危うさを孕《はら》んでいたともいえるだろう。一方、多感な時期に実母と死別し、やがて義母を迎えていただけに、その寂しさや抵抗感が、屈折した影を投じていたとも考えられる。
それにしても、真沙子が三年余り身近に付合っていた栄子は、寺井の指摘する通り、他人や自らを殺すなどと、それほどの度胸がないというより、何かもっと本質的な優しさを奥に秘めた少女だったような気がする。
「でも……事情は遺書の内容と符合していたし、剃刀や睡眠薬の瓶が残されていた現場の状況からも、自殺にはまちがいないと判断されたみたいよ」
「その遺書は、確かに栄子の筆跡だった?」
「その点は確実ね。私一目見てわかったし、念のため警察でも筆跡鑑定したらしいけど、栄子の文字と断定されたそうよ」
「内容も、まちがいなく遺書とわかるの?」
「封筒の表にそう書いてあって、中身は便箋二枚。その最初にも遺書≠ニ記してあったのだし……」
遺体を発見し、一一〇番したあと、警察が到着するまでの間に、真沙子は糊付けしてなかった封筒を開けて読んだ。二枚の便箋に細かい文字が並び、内容はかなりとりとめない調子で、自己嫌悪めいた告白が書き綴《つづ》られていた。真沙子も動転していたので、正確に思い出すことはできないのだが。
「自分は甘ったれで、意志が弱くて、生きていく値打ちもない人間だとか、孤独に耐えられないとか、恋しい人は遠い存在で、このままでは狂いそう、とも書いてあったわ」
「………」
「それから出血多量で死ぬのが一番きれいな死顔になるそうですから、せめて美しく死にたい≠ニも。最後は栄子の我儘をおゆるしください。さようなら≠ニ結んであったのだから……やっぱり遺書としか考えようがないわね」
「宛名や日付は?」
「それはとくになかったけど、家族に宛てたという感じだったわ。私は夢中で読んでしまったんだけれど」
「うむ……では、やはり自殺なのかなあ」
しばらくの沈黙のあとで、寺井は押し出すような声でいって、頬杖をついた。
「私たちのこと、嫉妬して、そんなに思いつめたのだったら……やっぱり悪いことしたわ」
真沙子が呟くと、彼はかすかに眉根を寄せて、唇をかみしめた。痩せた横顔が急に大人びて、複雑な影に包まれた。
真沙子と寺井とは、本当は恋人同士といえるものではなかった。ただ、今年の四月末、真沙子が代々木の道路で、人妻風の女性と連れだって歩いていた寺井と出くわしたことから、やがて彼に、その女性との関係を打ちあけられた。相手は、家庭教師に通いはじめた家の主婦で、彼女にはまだ子供はなく、来年高校を受験する親戚の娘を預かっていたそうである。寺井は、相手のむき出しの誘いに、つい衝動を抑えきれず、関係を結んでしまったというのが真相らしかった。
その後彼は、その家の家庭教師は辞め、人妻とはまだ時折密会しながらも、清算しなければいけないと悩んでいるのだ。一度真沙子に打ちあけてしまうと、もうめったにその話題を持ち出すわけではなくても、真沙子と一緒にいる時だけは心がくつろいでいるようにも見えた。二人でいれば、周囲に対して自分の秘密をカムフラージュできるような、漠然とした安心感も抱けたのかもしれない。
一方真沙子はといえば、無論寺井にはずっと好意を持ち続けてはいるが、彼の情事を、さほど嫉妬の乱れもなく聞いてやることができた。一つには、それで寺井に対する一種の|借り《ヽヽ》が返せれば、といった心理もあったのだ。
借りというのは……高三の春、真沙子が腎盂炎《じんうえん》で一週間ほど入院した時、学校で、妊娠中絶したのではないかという噂を立てられたことがあった。入院先の病院が産婦人科も兼ねていたせいだったかもしれない。ともあれ、そのデマのために、退院後自宅で静養していた間にも、女友達は多少見舞いに来てくれたものの、男子生徒はほとんど姿を見せなかった。妊娠させた相手と誤解されるのを恐れたからにちがいない。いよいよ受験まで残り一年になって、自分の勉強に手一杯の状態だったからでもあるだろう。そんな時、見舞いに訪れて、ノートを貸してくれた唯一人の男の子が寺井だった。成績もいいし、女生徒間の人気も高かった彼が示してくれた意外な親切は、忘れられないほど真沙子の心に染みた。
今、寺井が苦しんでいるなら、わずかでも力になってあげる時ではないかしら……。
真沙子の彼に対する気持は、その程度に淡かったのだが……しかし、傍目には、二人は公認の間柄と映っていたかもしれない。
「それにしても、どうも違和感があるなあ。本当に自殺したというのは」
別の学生グループがドアを押して入ってくると、寺井はカウンターにもたれていた上体を起こし、息を吐きながら呟いた。「本当に」ということばに、妙なニュアンスがあった。
しばらくして、やや声をひそめ、
「狂言自殺の経験のある人間は、本物の自殺もしやすいのだろうか。それとも、絶対に本気ではやらないものだろうか……」
「狂言自殺?」
真沙子が怪訝《けげん》に見返すと、
「真っ子、聞かなかった?」
「何を──?」
「いや……家族の人から伝わっているかと思って、ぼくは刑事にも話さなかったんだけど、彼女は以前、手首を切って狂言自殺を図ったことがあったらしい。だから最初に刑事が来て似たようなことを喋った時、一瞬またかと思った」
「それは、いつのことなの」
「高校三年の五月くらいだった」
「まあ……」
高三の五月なら真沙子も入院したり病欠が多く、栄子とあまり話をしなかった時期だ。だがそういえば、ひところ栄子が手首に包帯を巻いて通学していたような憶えがある……。
「でも、寺井さんはどうしてそれを──?」
「衛生室で、担任と養護の先生の話を小耳に挾んでしまったんだ……」
大抵の中学や高校には、一人ずつ女性の養護教諭と呼ばれる人がいて、この先生は教科は教えない。衛生室にいて、怪我をしたり気分が悪くなったりした生徒の世話をするのと、保健所と予防注射などの連絡業務に当る。授業を持たないので、当然生徒を採点する立場ではなく、それで生徒たちは、担任教師よりむしろ養護の先生に心を許して悩みを打ちあけたりする傾向もあった。
「ぼくが昼休みに鼻血を出して、なかなか止まらないので衛生室に行ったら、その時はちょうど校医が来ていて、処置してくれてから、しばらく奥のベッドに横になっているようにいい置いて帰っていった。そのあとで、養護の先生が担任と一緒に入ってきて、ぼくが休んでいるのを知らずに話しはじめた……」
養護の先生は、その二、三日前、栄子に頭痛の手当てをしてやった折、左手首の切り傷を見つけて尋ねたところ、一昨夜自殺を図ったと打ちあけられた。でも間もなく義母に発見され、傷も浅かったので医者を呼ぶまでのこともなく、その上義母があまりオロオロするので、狂言だったと、その場で本当のところを洩らしてしまった。狂言では恰好が悪いから友だちにもほかの家族にも内緒にしてあるが、養護の先生に優しく問われたのでつい話したと、栄子はのべたという。
「理由はあまりいいたがらなかったが、父親の愛情を半ば義母に奪われたような寂しさも心の底にあって、自分にもっと注意を払ってもらいたくてそんな行動をとったのではないかと、養護の先生は意見を洩らしていた。ともかく、打ちあけられたものの、事が重大なので、一応担任の耳に入れておいたらしい……」
「それを偶々《たまたま》、寺井さんが聞いてしまったのね」
「うむ。──栄子のお母さんは、そのことを刑事に話してなかった?」
「いいえ……」
刑事は現場で、栄子がこれまでにも自殺を企てたり、そんな傾向はなかったかと隆江に尋ねていたが、彼女はただ呆然とした表情で首を振るばかりだった。
だが、いくら動転していたとはいえ、忘れるような種類のことではない。
彼女はなぜ黙っていたのだろう?
「狂言自殺」の前歴は、栄子の自殺を|よりすんなりと《ヽヽヽヽヽヽヽ》納得させる効果をはたしたような気がするのだが……。
そんなふうに考えが走ったことに、真沙子は自分でハッとした。理屈抜きで、自分が栄子の「自殺」を受け容れていないことに気がついたからだった。そして……これまで隆江には好印象を抱いていたつもりなのに、やはり義母という意識がつきまとうためか、真沙子は直感的に隆江を疑っていた。
約ひと月がすぎた。
栄子の死は、結局取り立てて詮議もないまま、自殺として処理された。十八歳のいわゆるむずかしい年代であり、自筆の遺書が残されていたのだから、警察がほとんど疑惑を抱かなかったのが、むしろ当然かもしれない。
真沙子も、当初は反撥し、漠然と義母をあやしんだものの、その後、栄子が手首を切ったと考えられる午後三時前後、隆江には栄子の弟が蓄膿の手術で入院していた病院で明確なアリバイが成立していることを聞いて、疑いを解消せざるをえない気持になった。
栄子の父は、事件の報らせを受けて一時帰国していたが、三七日《みなぬか》を済ませたあと、また任地のメルボルンへ戻ったらしい。
だから──真沙子が思いがけず、街で隆江と、見憶えのある三十前後の男性の姿を見かけることがなかったら、いっさいは闇に包まれたまま、過去に葬りさられていたかもしれない。
二期制の期末試験が終った十月下旬の夕方だった。真沙子は友だち三人と映画を観て、お茶を喫んだあと、家の方向のちがう彼女らと別れて、地下鉄の駅の方へ一人で歩いていった。途中で、ビルの中の、時たま立ち寄る書店をのぞいてみようと考えた。試験がすんだ解放感が、足どりを軽くしていた。
目に見えて日が短くなる時期で、六時すぎの街路には冷んやりとした宵闇が漂い、もう鎧戸を閉めているオフィスもあるが、ビルの中の書店など数軒の店は明るい電光を輝かせて、勤め帰りの人々で賑わいはじめていた。
書店の斜め向かいにあった喫茶店のガラス張りの内側に、池谷隆江と背広姿の男性を見つけたのは、それ以前に、ふと奇妙なことに気がついたからであった。
新刊書を並べて積みあげた低い棚を挾んで真沙子と向かいあった位置に、一人の女性が立っていて、やはり本を手にとってはパラパラと頁を繰ったりしていたのだが、彼女は本気で本を選んでいるのではなく、どうも筋向かいの喫茶店の内部を窺っている様子なのだ。面長で血色のうすい扁平な顔だちの、二十七、八歳くらいの女性で、くすんだ花模様のワンピースにカーディガンを羽織っている姿は、一見会社勤めというより主婦の印象が強い。無論、真沙子の見ず知らずの人だった。
彼女は適当に本を取りあげながら、首をめぐらせて喫茶店の方をすかし見る。いっとき凝視してから、顔を戻し、ほとんど目も落としてない本を棚に置いて、また別の本を手にとる。それから再び喫茶店の中に注意を向ける……。
そんな繰返しに気がついた真沙子は、何気なくその女性の視線を追い、その先に、池谷隆江と若い男の対座している姿を発見したのである。
喫茶店のガラスには淡いブロンズ色がかかっていたが、ビルの通路の電光が上からふり注ぐ位置にいたために、二人の顔は十分に認められた。店内が混みあっているので、彼らはそんな席しか選べなかったのだろう……なぜか咄嗟《とつさ》に真沙子は感じた。いや、そんなふうに感じさせるほど、向かいあった男女の様子は、重苦しく、深刻なムードを帯びていた。
隆江は、鼻筋の通った彫りの深い顔をうつむけ勝ちにして、唇をかむような表情をつくっている。時折ハンカチを口許に当てるのは、何か激しい感情を抑えようとしているのかもしれない。
それに対して、相手の男性は、上体を前に傾けて話しかけている。嘆願しているようにも、説得しているようにも、あるいは口説いているのかとも見受けられる。こちらも眉の濃い、なんとなく外国の俳優を連想させる端整な横顔に、真沙子は見憶えがあった。
もう一年あまり前になるが、栄子の父が、受験勉強の気晴らしにと、栄子と真沙子をホテルのグリルへ招《よ》んで昼食をご馳走してくれたことがあった。二人が約束の一時に入っていくと、栄子の父はテーブルで若い男と話をしていて、娘たちに「会社の竹内君だ」といって紹介した。彼はしばらく会話に加わっていたが、コーヒーを飲み終ると、挨拶して席を立っていった。ふだん周囲にやぼったい男子生徒ばかり見ている真沙子は、いかにも洗練された商社マンといった竹内の背広姿に、ちょっと胸をときめかせたものだった。栄子の父が、彼は若いが優秀な青年で、目をかけているといったことを、竹内の後姿を見送りながら軽く洩らしたのもおぼろな記憶に残っている。
竹内のことは、その名前も、いつのまにか忘れ去っていたが、先日栄子の葬式の日、ほかの社員たちと焼香に来ている姿を見かけ、名を呼ばれているのを聞いて、真沙子は、あの時の竹内と、思い出したのだった。
葬儀の折も、そして今離れて見る彼も、約一年前はじめて紹介された時と比べて、どこかやつれているように、真沙子には感じられた。
栄子の母と、竹内が、今時分なぜ喫茶店などで──?
が、それだけでは、特に不審な光景とまではいえないだろう。真沙子の胸を次第にただならぬ動悸で騒がせるのは、彼らを密かに見守っている女性がいるという事実である。
と、店内の二人は席を立った。
竹内がレジで勘定を払い、先に店の外へ出た。真沙子の前にいる女は、彼の視線を避けるように、一歩身を退いて死角に入った。
後から出てきた池谷隆江は、一度だけチラリと竹内と視線を交し、軽い会釈ともつかぬ仕種のあとで、ビルの正面出口の方へ歩いていく。その、ほとんど素気ない別れかたが、かえって二人の間柄を暗示するようにも受取られる。
わずかの間隆江を見送っていた竹内は、踵《きびす》を返して反対方向へ歩き出した。
真沙子の予期した通り、書棚の陰に佇んでいた女は、竹内のあとを追う恰好で店を出た。細い目と引きしめた唇のあたりに、何かエキセントリックな、鋭い光がこもっている。竹内らの動きに意識を占められていて、真沙子の存在には少しも気づいていないようだ。
ビルの裏道を、竹内は考えこむようなうつむきかげんで歩き、やがて広い道路へ出た。左へ曲り、百メートルほど先にある地下鉄の入口を目ざす感じで歩き続ける。
書店を出た女は、表通りの角で立ち停り、竹内の後姿を見守っていたが、彼がやはり地下鉄の階段へ入るらしいとわかると、にわかに性急な動作で左右を見廻した。
ちょうど、右手の先でタクシーが停り、客が降りる気配である。
女はその方へ走り出した。路上には、ほかにところどころでタクシーを待つ人影が見えるから、女はその空車を逃すまいとするように、急いで走り寄る。カーディガンの裾が翻《ひるがえ》り、ほっそりした肩の上でゆるくとき流した髪が散らばる。
女は横とびの恰好で、客が降りてまだ開いたままのタクシーのドアの中へ駆けこんだ。
一瞬、真沙子はなぜかドキリとした。さっき書店で間近に見た時は、知らない女だった。今、真沙子は彼女の全身を、はじめて距離をとって眺めた。そして、やはり未知の女ではあったけれど……ふと、彼女をどこかで見たような気がしたのだ。次の瞬間、真沙子の胸に得体の知れぬ恐怖の感覚がひろがった。
タクシーはUターンして走り去った。
竹内の姿も、すでに地下鉄の穴に吸いこまれていた。
やがて、真沙子はその方向へゆっくりと歩き出した。都心部の割に人通りの少ない舗道に、自分の靴音が小さく響くのを聞きながら、少しずつ何かを形づくりかけている思考を追っていた。秋の夜風が急に肌に冷たく感じられる。胸の中の恐怖感は、消えようとしなかった。
家に帰るなら真沙子も地下鉄に乗るわけだが、彼女の足は階段のそばを通りすぎて、少し先に見える電話ボックスへ向かった。
コインを入れて、暗記している寺井の自宅のナンバーを廻した。彼とは、試験の前に顔を合わせたきりだった。
「ああ、真っ子か」
直接電話口に出た寺井は、すぐに真沙子の声を認めた。
「試験、どうだった?」
「さあ……危いものだわ」
「今日で全部すんだんだろう?」
「ええ。寺井さんたちは明日までだったかしら」
「明日の数学が難物でね」
寺井が軽く笑い、それでちょっと会話が跡切れた。真沙子は、なぜ寺井に電話をかけたのか、ふと戸惑うような気がした。真沙子の内部で膨らみはじめている思考は、まだことばに出していえるほど筋道が立っていなかった。とにかく今しがた目にした光景を伝えようと思い、息を吸いこんだ時、寺井の方が先に声を発した。
「ねえ、真っ子……さっき調べごとがあって高校のころの参考書を引っぱり出して見てたら、前に友達にもらった手紙がはさんであって、それをなんとなく読んでいるうちに気がついたんだけれど……」
寺井は考えこみながら話している口調だった。
「……?」
「三年の五月ごろ、栄子が狂言自殺したらしいって話は、いつかいっただろう?」
「ええ」
「その時、遺書は書かなかったのだろうか」
「というと……?」
「狂言ならなおのこと、自殺を強調するために、大袈裟な遺書を作るものではないかなあ」
「ああ……」
「あの時は、すぐお母さんに発見され、狂言だったことも打ちあけて、ほかの誰にも内緒にしたというのだから、そのさいの遺書は、二人以外の目には触れず、どこかに保管されていたとは考えられないだろうか」
真沙子ははっと息をのんだ。寺井のいわんとする意味が理解できたからだ。同時に、さっきタクシーにとび乗った女を、自分はやはりどこかで見たと、確かに思った。
翌日の夜九時近く──。
真沙子が栄子の家のある駅に降りた時には、都心部より一段と冷えこんだ夜の空気が、噴水のある駅前ロータリーと、先に続くずっしりとした家並を包みこんでいた。
ラッシュも一段落ちついた感じで、改札口を通過する人々の流れが緩やかに見える。
街路樹の続く静かな舗道を、真沙子は一人で、気持を引き締めて歩き出した。
栄子の家まで、約十分。九時なら、隆江は大抵在宅しているだろう。昨日の今日に、ふいを衝いて告白させることが、真沙子の狙いだった。
隆江と竹内の、どこか密会めいた現場を目撃し、そのあとで、寺井から思いがけぬ意見を聞いた真沙子は、一日熟考した末に、一つの強い推測を抱いた。
もし、隆江と竹内とが、栄子の父の海外出張中に深い関係に陥ってしまったとしたら?
そして、その秘密を栄子に知られていたとしたら──?
隆江と竹内の密通を想像するのは、あながち飛躍とは思われない。二人は明らかに、別の女性に監視され、尾行されていた。あの女が何者であるにせよ、二人の行動には、それなりの何か暗い要素が含まれていたはずなのだ。
隆江と竹内が、その関係を栄子に気づかれたとすれば、たちまち栄子は彼らにとって危険な敵になったはずである。栄子は父親の溺愛を受けて育ち、母の死後家に入ってきた義母に対しては、多かれ少なかれ、どうしても反抗的な感情を拭いきれなかったにちがいない。隆江にしてみれば、当然、二人の所業を夫に告げ口されると覚悟せねばならない。
そんなことになれば、竹内は池谷に目をかけられていただけに、恩を仇で返した怒りを浴び、社内での将来は絶望的であろう。隆江も離婚されるかもしれない。
二人は、池谷が帰国する前に、栄子を抹殺しようと謀《はか》る。あるいは彼らをそんな決断に追いこむような言動を、栄子が示したのかもわからない。
そこで思いついたのが、約一年半前の栄子自筆の遺書を利用する方法である。
高校三年の五月に狂言自殺を図ったさい、栄子はそれらしい遺書を書いた。もともとその行為は、周囲の関心を自分に引きつけるだけの目的であったにせよ、遺書の文面はある程度正直に彼女の心中をさらけ出していたのではあるまいか。
当時栄子は、新学期から赴任してきた体育の先生に熱をあげていた。恋しい人は遠い存在で、このままでは狂いそう≠セったのだ。そして出血多量で死ぬのが一番きれいな死顔になる≠ニ聞いて、手首を切って自殺の真似事を試みた。
その時の遺書を、隆江は密かに保存していた。
一年四カ月位の間なら、ていねいにしまってあれば、紙が黄ばんだり、インクがうすれるようなこともなく、一見して古いものだとは誰も看破できないのではないか。栄子の傍らに置かれていた遺書には、宛名も日付も記されてなかったのだ!
栄子の死亡時、隆江にはアリバイが認められたという。直接手を下したのは、竹内であろう。
当日、竹内は栄子一人いる家を訪れ、隙を見て栄子の飲み物に睡眠薬を投入する。眠りこんだ彼女をベッドに寝かせ、剃刀で左手首を切ったのではないか。そのあとで、隆江から渡されていた古い遺書を、サイドテーブルの上に置いた。
その前夜と当日、真沙子の家に意味ありげな無言の電話をかけたのも、恐らく竹内にちがいない。そんなふうにして、できれば真沙子に栄子の遺体を発見させ、栄子の性格や最近の行動などを警察の係官に喋らせることが望ましかった。そして真沙子は、彼らの思惑通りに動いてしまった!
だが、それだと一つだけ、納得できない点が残る。自殺の意志などなかった栄子が、つまりそれほど|狂って《ヽヽヽ》はいなかった彼女が、なぜ二度も、真沙子に対して恐ろしい行動をとったのか?
いや、この点についても、真沙子にはある想像が生まれていた。ただそれだと、隆江たちの人間関係が、かえってわからなくなってしまう……。
駅から離れるにつれて、人影の跡絶えてきた道路の先に、池谷家の煉瓦塀が赤味をはらんだ暗い色で続いている。高い星空の下で、生垣とヒマラヤ杉が遠い山稜のようなシルエットを描き、外灯の点っている門柱の近辺だけがほの白く照らし出されている。
真沙子はさすがに緊張で手足が強張《こわば》ってくるのを覚えながら、ひっそりとした門内に足を踏み入れた。
昨日電話で寺井は、試験がすんだら高校の養護教諭を訪ねて、例の狂言自殺を打ちあけたさい、栄子は遺書について何か洩らさなかったか、確かめてみようといった。本来慎重な性格で、時には少し悠長な寺井らしいと感じながら同意したのだが、今日になって思い立つと、真沙子は一刻も早く真相を糾《ただ》したい衝動を抑えきれなくなった。かえって女同士の方が、隆江は素直に告白する気持になるかもしれない。
それと──真沙子は何か予感に似た胸騒ぎに襲われていた。昨夜隆江と竹内の密会を見届けたのは、真沙子一人ではないのだ。あの女にとっても昨日の今日に、彼女は何らかの行動を起こすのではないか……?
真沙子は、重量感のある木のドアの前に立った。一階と二階の窓から明りが洩れていて、家人の在宅を物語っている。
チャイムを鳴らす前に、なんとなく周囲を見廻した。自分の気持を落着かせるための、無意識の動作だったかもしれない。
広い芝生の表面には淡い光が行き届いているが、庭を囲っている植込みや、外れにある東屋の辺りは、うす黒い闇に沈んでいる。
視線を戻しかけた時、ふとその東屋の方に、何か白いものが動いたような気がした。思わずもう一度目を凝らした。
洋風の東屋も白っぽい石で縁取りされているが、その輪郭とは別に、もう少し丈のあるほの白い影が、手前の粗い木立を通して、確かに認められる。それがまたわずかに動いた。
人影らしい──と感じた瞬間、なんともいえぬ恐怖が、膝から背筋を走り抜けた。同時に、反射的にドアから身を退いた。その白い影に、自分の姿を見つけられるのが怖かったからだ。
真沙子は懸命に動悸を抑えながら、ヒマラヤ杉の並木に沿って戻り、植込みの背後から、そろそろと東屋の方へ近づいていった。幸い紺色のセーターを着てきたので、闇に紛れやすい。
ネムやさるすべりなどの、枝の細い木立に涼やかに囲まれた東屋の枠組が目の中に入った時、今度は胸を刺し貫く鋭い恐怖に襲われて、真沙子はもう少しで声をたてそうになった。
栄子! ──白いブラウスの胸元にえんじのスカーフを結んだ栄子が、細っそりとした姿で横向きに立っている!
真沙子は一瞬、はっきりとそう感じた。
しかし、無論その女が栄子ではありえないという理性が、どうにか心を鎮めた。
気を落ちつけてみれば……わずかに流れこむ星明りで見分けられるその女の扁平な横顔は、少しも栄子に似ていない。細い目を据えるようにして建物の方を見守っている異様につきつめた表情は、昨日の夕方、本屋の店先から喫茶店の内部を監視していた顔と同じだった。
だがまた、ウェーブのある髪をうすい肩にとき流し、華奢な胴から腰の感じも、確かに栄子と共通している。しかも女は、意識的に栄子に似せた服装を選んでいるようだ。真沙子はもう疑わなかった。この姿で、女は国電のフォームから真沙子を突き落とそうとし、数日後にはピンクの服に変って、真沙子の足許に重い石を落としたのだ!
と、女の横顔に痙攣《けいれん》に似た緊張が走り、身構えるように一歩退いた。芝生を踏んでくるもう一人の足音が、真沙子の耳にも届いた。真沙子は生垣と煉瓦塀の間の闇に身をひそませた。
花柄のホームドレスでまろやかな身体を包んだ池谷隆江が、東屋の下まできて、そこで瞬時息を引いて立ちすくんだのが感じられた。彼女の目にも、女の姿は栄子の幻と見えたのではないだろうか。
「竹内さん……あなたは……」
かすれた声が洩れたのは、何秒かの後だった。が、隆江のことばで、東屋に佇んでいる女が、ほぼ想像通り竹内の妻らしいと、真沙子には察せられた。
「あなたは、そんなふうに私を脅かすために、こんな場所へ呼び出したのですね」
「とんでもない。これくらいのことにあなたが驚くなんて、思ってもいませんでしたわ」
真沙子は女の声をはじめて聞いた。よく通るやや金属的な声で、歯切れがよすぎるほどの喋り方は、切口上《きりこうじよう》に響いた。
「私はただ、息子さんにあやしまれでもしたらあなたがお困りになるだろうと思って、あなたのために、ここでお話しましょうと申し出たまでですわ」
隆江は力ない吐息を洩らした。それから数段の石段をのぼって、女と向かいあう位置に立った。一度チラリと家の方を窺い見た。いわれた通り、彼女は高校生の息子の目を恐れているのにちがいない。
「昨日は久しぶりにお楽しみのようでしたわね。私、ずっと拝見していましたの。主人がわざわざ会社から離れたビルの店であなたと会い、あなた方がまたさりげなく左右に別れるところまで」
真沙子に背を向けた隆江のアップに結った項《うなじ》が、ビクリと硬直したように見えた。やがてまた、重い溜息と共にうなだれた。いいようもない苦悩の色が、肩を落とした後姿全体を被い包んでいるようだ。
「楽しみなんて……どうしてもお話があったものですから、お目にかかっただけですわ」
「それはそうかもしれませんわね。首尾よく自殺でおさまったものの、あんな大胆なことをやってのけたあとでは、よほど行動に注意を払っていらっしゃるはずですもの。でも、昨日の一度だけでも、私には証拠として十分でしたわ。あなた方の様子を一目見ただけで、私には二人の間柄が痛いほどわかった。妻の直感というものかしら。主人の後を尾《つ》け廻した甲斐があったわけだわ」
語尾が自嘲ともつかぬ笑いで慄《ふる》えた。
「ご主人の後を尾けていらした……?」
「栄子さんの死後、池谷さんがまたメルボルンへお発ちになってからね。主人も商社マンですから、ビジネスの約束は丹念に手帖にメモしていますわ。私はその手帖を覗いては、何も予定を書きこんでない日には、できる限り監視していましたの」
「まあ……」
「よくそんな、蔑《さげす》んだ目で私を見られるわね!」
ふいに女の声が甲走った。
「あなた方こそ、私を騙《だま》して利用したくせに! ──本当に、私はすっかり主人の話を真に受けて……栄子さんが自分に熱をあげて、毎日のように電話をかけてきたり、待ち伏せしていたりする。身を投げ出すような素振りまで見せるが、自分には到底そんな気持はなく、先日はとうとうきびしいことばではねつけた。すると彼女は逆恨みする目色になって、父が帰ってきたらきっと後悔させてやるからなどと口走った。あの様子では、池谷さんが帰国したら彼女は根も葉もない告げ口をするかもわからない。一方池谷さんは、仕事ではやり手でも、一人娘の栄子さんには目がないから、彼女の中傷を鵜呑みにして、自分に対してひどい制裁を加えるだろう。それを防ぐためには、このさい、栄子さんがノイローゼ気味で、彼女の話は信用できないということを、外部から池谷さんに納得させるしかない。その手始めに、私が栄子さんを装って、彼女の友だちを殺そうとするような奇態な振舞いを示してもらいたい>氛沁рヘ、少しはおかしな話だとも感じたけれど、ともかく主人の将来を守るためなら、どんなことでもやらなければならないと決心した。でも実はそんな筋立ても、みんなあなた方二人が相談して企んだことだったのね」
「いいえ……それはちがいますわ」
隆江が絞り出すような声で抗議したが、竹内の妻はなおも昂ぶった語気で続けた。
「栄子さんが自殺したと聞いた時、私は自分のかすかな不審が当っていたことに気がついた。栄子さんがノイローゼでもなんでもなかったのを、私は誰よりも知っていたんですから。そして、竹内が殺したのにちがいないと思った。私に奇妙な行動をとらせたのは、栄子さんの自殺《ヽヽ》を周囲に納得させるための布石だったのだと。──でも、父親に無実の告げ口をされる、それを防ぐためだけに、娘さんを殺してしまうなんて、いくらなんでも無謀すぎるんじゃないか。実は、彼女を生かしておけないもっと深刻な動機がひそんでいたのではないか……そう考えて、私ははじめてあなたの存在に気がついた。いつかのお正月に、この家へ主人と一緒に年始にうかがった折、主人があなたに注いでいた熱っぽい眼差が印象に残っていましたから。主人を尾行しはじめたのはそれからですわ」
「………」
「栄子さんに直接手を下したのは竹内でしょうけど、遺書の細工をしたのはあなたね。栄子さんの自筆の遺書を、どうやって手に入れたかは知らないけれど、あなた方が謀って私にとらせた行動は、|栄子さんの《ヽヽヽヽヽ》素振りを遺書の内容と符合させるためだったのね」
「それはちがうのです!」
隆江の声に必死な響きがこもった。
「確かに……竹内さんと私は、主人の留守中会社との連絡などの用件で度々家に来ていただくうちに、道ならぬ関係に陥ってしまいました。それを栄子に見つけられたことも……栄子は、帰宅が遅くなるといって出た日の昼下りに、そっと家に戻ってきて、突然私の寝室のベランダに立ったのですわ。忘れものをしたからといっていましたけれど、本当は、あの子特有の過敏な直感で、私をあやしんでいて、確かめに帰ったのだろうと思います」
隆江は、悲痛だが、次第にどこか淡々とした口調になって語り続けた。
「栄子に秘密を知られてしまったことを、竹内さんはとても悩んでおられましたが、私は、正直いって、いたし方ないと諦めていました。自分の罪の償いがわが身にふりかかってくるのは、考えてみれば当然ですもの。帰国した主人が栄子の話を聞き、激怒して離婚するといっても、従うほかないと覚悟していたのです。その後栄子は、直接何もいいませんでしたけれど、やはり私を見る目がはっきりちがったように感じられましたから。──ところが、栄子は竹内さんに対しては、別の反応を示したのですわ。栄子は、会社に電話をかけて竹内さんを呼び出しては、栄子です、と名乗っただけで切ってしまう。そのうちには、名前もいわず、彼が出ると無言で切る。そんなことが繰返されるにつれて、彼の方が私より切迫した気持に陥ったのは、無理なかったのかもしれませんが」
「まるで何もかも主人の犯行で、あなたは潔白というおっしゃり方ね」
「私は本当に知らなかったのです。栄子のそばに置かれていた遺書を見るまでは。──いえ、無論、私も軽率でしたわ。竹内さんには、私よく、栄子のことを相談したりしていました。私は池谷と栄子との間で、やはり何かとむずかしい思いをしていたものですから。栄子のお友達やボーイフレンドの噂話もしましたし、高校三年の時狂言自殺を図ったことまで打ちあけてしまいました。彼は興味をそそられた様子で、私が保管していた遺書を見たがったので、引出しの奥から取り出して見せてあげたこともありました。それで彼は、遺書のありかも知っていたのです」
「………」
「それだけに、栄子の自殺を聞き、枕元に一年半前の遺書を見た時には、すぐにあっと気がついたのです。竹内さんが殺して、あの遺書を出してきて置いておいたのだと。──ありのままを警察にいわなければと、何度も思いながら、どうしても勇気が出ませんでした。正直に話せば、竹内さんとの関係が明るみに出てしまうばかりか、私も共犯だったと疑われないとも限りません。彼に直接確かめてみてからと、私は自分に言訳《いいわけ》しながら、口をつぐんでいたのですわ。主人もまた海外へ発ち、ようやく昨日思いきってお会いして、やはり想像通りだったことがわかりましたけれど……」
隆江は急に虚脱したように、石のスツールに腰を落とした。
不気味な沈黙が流れた。やがて、冷然とした声がそれを破った。
「あなたのお話は、一応うかがいました。もっとも私は、そんな身勝手な説明を信じませんけれど。でも、いずれにしても、大したちがいはないわ。私は自分の夫を訴えるような、愚かな女ではないつもりですから。ただし、約束していただきます。今後二度と、竹内とはお会いにならないでください。私はこれからも注意深く見張っていますからね。もしこの約束を破れば、私は即刻、あなたと主人とを、栄子さん殺しの犯人として告発します」
彼女は、いっとき刺すような眼差で隆江を見下ろしていた。それからつと身を翻した。向う側の石段をくだって東屋を出ると、木立の闇に吸いこまれた。
通用門のドアが開閉する、ひそやかな金属音が聞こえた。
隆江はスツールに腰かけたまま、顎《あご》を胸に埋めるようにうつむいて、低い啜《すす》り泣きを洩らしていた。首筋と肩が慄え、それがいっそう激しく波打ってくるのを、真沙子は立ちつくして見守っていた。
やがて、真沙子も足音を忍ばせて、表門の方へ、植込みの間を抜けていった。
もう何も、真沙子の口から尋ねることは残っていなかった。
少くとも、竹内が手を下して栄子を殺した事実がはっきりした以上、警察に訴えなければならない。
でもひとまず寺井に報告して、彼といっしょに行こうと、真沙子は一段と静寂を増した高級住宅街の道路を歩き出しながら考えた。
寺井は、あのどこか煽情《せんじよう》的に見えた人妻と、本当に別れる決心がついただろうか……?
隆江と竹内との関係を聞き、興奮しているせいか、唐突に思いがそこへとんだ。
いずれにしても、彼が苦しみ、傷ついている間は、自分が黙ってそばにいるだけで、多少でも彼を勇気づけることができるかもしれない。そしてその先、自分たち二人がどんなふうになるかはわからないけれど。
寺井に対して、何かとても温い気持があふれてくることに、真沙子自身が心を支えられていた。
角を曲る時、栄子の家の方を振返った。
エキゾチックな急傾斜の屋根が夜空につき出し、二階の栄子が使っていた部屋の隣の窓に、オレンジを帯びた明りが点っていた。
栄子は、心の底で義母を許そうとしていたのではなかっただろうか。
二人を許した上で、隠微な関係を解消してほしくて、竹内に無言の電話をかけ続けていたのではなかったのだろうか。
ふいに真沙子は、強くそれを感じた。
真底彼らを憎み、父親に告げ口するつもりだったのなら、もっときびしく隆江を責め、父に手紙を書くことだってできたはずだ。
栄子は我儘で自己中心なところもあったけれど、奥深くにはそんな優しさを秘めた少女だったと、やはり真沙子には信じられるのだ。
そういえば、高校の時狂言自殺を図りながら、取り乱す義母を見て、すぐに真相を打ちあけてしまったことも、栄子の人柄を物語っているのではないだろうか。
そう思った時、ふいに、隆江も竹内も、彼の妻たちもみんなが、別世界の人間のように感じられた。
どうして彼らには、栄子の優しさが理解できなかったのだろう!
真沙子は立ちどまらずに歩き続けながら、栄子の死後はじめて、熱い涙がとめどなく湧きあふれるのを覚えた。
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霜 月 心 中
「今日は明け方からこの雨でしてねえ。──東京も降っているようですね」
遺体の仮置場にされていた奥の一室から帰ってきた星谷と淳子が、もとの椅子に腰をおろすと、刑事課長は低く呟きながら、窓のそばを離れた。
それから急に、気の重い仕事は早く片づけてしまおうとでもいうふうにキュッと唇を引きしめて、大股にデスクへ戻った。
「やはり、奥さんにまちがいないですか」
二人を見較べてから、まず星谷に尋ねた。
「ええ……」と星谷が溜息といっしょに頷いた。
「三重子でした」
背筋のすらりとした身体をいつもやや派手好みの背広で包み、洗練された壮年ビジネスマンのムードを身につけている星谷だが、さすがに今は別人のように憔悴した横顔を見せている。
俊敏そうなタイプの刑事課長は、念を押す眼差を淳子に移した。
ええ、姉にまちがいありません──と答えようとしながら、淳子は喉がつまって声にならず、凝然と目をむいたままどうにか頷いた。今見てきたばかりの二つの遺体、とりわけ姉の小造りな顔から首筋にかけて浮き出していた斑点の陰惨な赤紫が、網膜に貼りついているような感じだった。悲しみとも恐怖とも名状しがたい、それらを突き抜けた異常なショックが、淳子を捉えこんでいる。
刑事はひとまず確認をすませた安堵の表情で頷き返し、簡単に悔みをのべた。
眉をあげ、少し事務的な口調で、
「連れの女性も、ご存知でしたか」
「何度か、家に遊びにきていた人だと思います。確か、家内の高校の同級生で、まだ独身とか……」
「妹さんも、お会いになったことがありましたか」
「はい。杉山吉美さん……」
姉夫婦とは別に一人暮ししている淳子も、星谷家で吉美と出くわしたことはあった。三重子と吉美は清水の高校の同級生で、だから清水に住んでいたころも吉美はよく家にきていたし、姉と二歳しかちがわない淳子も二人のお喋りに加わったものだ。高校三年のはじめに、吉美は父親の転勤で東京へ越していき、卒業後都内の銀行に就職している。三重子も間もなく星谷と結婚して東京へ出てきたので、二人は旧交を温め、主に独身の吉美がちょくちょく三重子を訪ねてきていたらしいのだが、まさか二人が、女同士でこんな死に方をするなんて……!
しばしの沈黙ののち、刑事はデスクの一端に目を当てたまま、
「それでまあ、三重子さんが自殺をなさるような原因について、何かお心当りはありますか」と、最後は星谷の視線をすくいあげた。
星谷はしばらくジッとうつむいていたが、
「さし迫った原因といっては思い当りませんが、ただ、三重子はふだんから病弱で、それと、結婚後八年にもなるのに子供ができないのをひどく気に病んでまして、そのことで最近は少々ノイローゼ気味だったとでもいうのか……」
星谷は唇の端に強張《こわば》った苦笑を滲ませて意見を求めるように淳子を顧みた。
「そうですわね。世間に対して肩身が狭いとか、そのことばかり思いつめて、うつうつとしていたようなところはありました。もともと内向的な性格でしたし……」
淳子は同意しながらも、何か無性な苛立ちを覚え、
「でも、吉美さんまでいっしょなんて……彼女は確か婚約が決って、近く銀行も退職なさると聞いてましたけど」
「ええ」と刑事課長はまた唇を引きしめたが、やや複雑な面持ちになっていた。
「実は、杉山さんのお母さんと婚約者の方が、少し先にこちらへ着かれまして、一応事情をうかがったのです。吉美さんは来年三月に結婚の予定で、今年一杯で退職することも決っていて、ふつうなら幸福の絶頂という時期のはずなんだが……お母さんの話では、最近時折ふさぎこんでいたり、かと思えば急に投遣《なげや》りな表情で、いっそひと思いに死んだらサバサバするなどと口走ったこともあったというのですね」
「すると、結婚が気乗りしなかったのでしょうか」と星谷が遠慮がちに問い返した。
「うむ。婚約者の手前、お母さんもむき出しにはいわないが、当然そういうことも考えられますなあ。一方三重子さんは、子供ができないなどで思い悩み、お互に同情して……死に場所に熱海を選んだ点には、何か理由が考えられますか」
「いえ、全然。──大体、昨夜はいつごろ着いて、何時に決行したのでしょうか」
わずかながら落着きを取り戻してきたらしい星谷が、うつむいていた上体を起こすようにして訊いた。出張帰りで直接丸の内の商社へ出勤していた星谷へ、住所地の所轄署経由で熱海署からの連絡が届いたのは、今日の午後三時すぎだったらしい。彼が、割に近所にある淳子の勤め先の出版社へ電話で知らせ、二人は東京駅で落ちあって、熱海へ駆けつけたばかりである。
「何時ごろ現場に着いたのかはまだわかっていませんが、車の中へホースで排気ガスを引きこみ、二人が死亡したのが、午前零時から一時の間と見られています」
「発見されたのは……?」
「午後二時まえに通報が入りましてね。現場は、錦ヶ浦を通りこして一キロほど行った山裾です。県道から二十メートルくらいしか離れてないんだが、木の陰に車がつっこんであったのと、ウイークデーのこんな天気で散歩する人もなくて、発見が遅れたようですね」
今朝八時ごろ、近くの県道を通りかかったハイヤーの運転手が、木立の奥に駐《とま》っている白っぽい小型車をチラリと目にとめた。それがなんとなく印象に残っていたのは、錦ヶ浦を通過したばかりで、客と自殺者の話などしていた時だったかららしい。その運転手が、下田まで客を送り、午後一時半ごろ再びそこを通りかかって、同じ車が依然として駐っているのを見て軽い不審を覚えた。念のため近づいてみたところ、後部のエキゾーストパイプにホースがつながれて車内へ引きこまれており、前の座席で二人の女が肩を抱きあうようにして死んでいるのを発見したという。
「三重子さんが運転席に、吉美さんが助手席にいて、互の肩に腕をまわしていた。二人共運転免許証を持っていたので、すぐ身許がわかり、ご家族に連絡したわけです。今のところ、旅館などからの届け出もありませんから、夜中に東京を出て、真直ぐ現場へ来た可能性が強いと思われますね。──現場をごらんになりますか。車はまだそのまま置いてありますが」
刑事課長は、やはりつとめてテキパキと事を処理したいようであった。
星谷と淳子は、黒塗りの警察車の後部に乗った。刑事課長が助手席に入り、制服警官が運転した。
連休も終った十一月初旬の、肌寒い午後である。坂が多くて道幅の狭い熱海の街なかは、雨に濡れ閑散としている。車だけがエンジンとクラクションを気ぜわしく響かせてすれちがっていくが、人影は疎《まば》らだった。
旅館の建ち並ぶ海岸通りは、入江に沿ってカーブし、岬の山裾をのぼっていく。海は黒ずんだ灰色を帯び、湾の中ほどから霧に閉ざされて、島影ものぞめない。
真直ぐな暗いトンネルを抜けた先が錦ヶ浦である。淳子は会社の慰安旅行などで二度ほど来たことがあるから、大体わかっている。
岬の尖端部の高い位置にある道路から海面までが、急な崖で、この辺一帯が投身自殺の名所といわれるらしい。
崖の中腹からとびこめば、大抵どこかの岩角で頭を打ち、真直ぐ海面に達したとしても、下は渦を巻いていて、遺体の出ない場合もあるようだ。道路沿いの土止めのコンクリートに、「一寸待て、考え直せ」などと、大書してある。
もっとも、最近では、観光用のお城や海に張り出したホテルなどが建って、結構賑やかになっている。
その辺りを通り抜けると、道路はゆるく蛇行しながら、崖縁を這っていく。反対側には、かなり高い山の斜面が迫っている。それで時々、左手の海側にだけ窓を開けた眼鏡トンネルをくぐった。
前方にパトカーらしい車体が見えたところで、こちらの車は速度を落とした。
山肌が後退して、道路脇にちょっとした野原ができていた。車はそこへ曲りこんで停った。
野原の奥行は意外に深く、先の木立の陰にアイボリーの小型車が後を向けて駐っているのが見えた。そのそばに二人の男が佇んでいる。
淳子たちは、小雨の降り続いている戸外へおり立った。どんよりとした夕闇が漂いはじめ、冷たい海風が足許をかすめていく。
刑事課長が先に立って、奥の車の方へ近づいた時、そちらにいた男たちが歩いてきた。一人はすらりとした若い男で、少し遅れて、四十前後くらいの眼鏡をかけた小柄な男が従《つ》いてくる。
彼らは、木立の手前で、淳子たちと行きあう恰好になった。
刑事課長が、ちょっと迷うような沈黙のあとで、チラリと星谷に視線を走らせ、
「杉山吉美さんの婚約者の、多湖さんです」といった。向うには、三重子の家族だと二人を紹介した。
淳子は最初、若い長身の方が多湖なのだと考えたが、無言で頭をさげたのは、小柄な中年男だった。眼鏡の奥のおとなしそうな目のふちに、浅い皺が刻まれている。特徴のないくすんだ紺の背広が、雨を吸って重そうにまといついている。吉美は特に美人というほどではなかったが、お洒落で社交的なOLだった。意外な相手──と、一瞬淳子は感じた。
星谷がどんな表情で多湖と挨拶を交したか、淳子には見えなかった。
多湖の視線がゆるく移行して、淳子に注がれた。よく見れば、黒々として、澄んだ眸ともいえる。それがかすかに問いかけるように、あるいはやり場のない気持をわずかながらも共有しあおうとでもするかのように、物悲しい光をたたえて凝視してきた時、淳子はなぜかはじめて、大きく感情が乱れかけるのを覚えた。
多湖と、おそらく付添いの刑事は、一応現場を見終ったのか、道路ぎわのパトカーの方へ戻っていった。
木立の奥に駐っていたのは、星谷の乗用車のコロナにちがいなかった。ふだん大抵星谷は、上大崎の自宅から丸の内の会社までこれで通勤しているらしいが、昨夜は出張で車が置いてあったので、三重子たちが乗ってきたわけだろうか。病弱な三重子は、車を乗りまわすようなタイプではなかったが、子供もなく昼間の時間をもてあましていたのと、二年ほど前吉美が習い始める時に誘われて、免許を取っていた。
あのころから、二人は目に見えない運命の糸に引き寄せられていたのだろうか……?
一通り検証のすんだ車の中には、特に目につくようなものは残されていなかった。排気ガスを車内に送りこんだホースも取り去られている。
淳子の目は、ダッシュボードの下の物入れの隅に丸めてある、紫色の水玉のタオルハンカチに注がれた。
二週間ほど前、一番最近淳子が乗せてもらった時、三重子がバッグから取り出して、フロントガラスの汚れを拭いていた。そのハンカチを、そのまま物入れに置いていたのも憶えている。
色白の痩せた手をのばして、のびあがるようにしてガラスを拭っていた姉の姿が、無人の運転席の上にありありと浮かびあがった。と、ふいにそれが、同じ場所で杉山吉美と肩を抱きあい、身をからませた生々しい幻影に変った。
「この夏にも、東の伊豆山の方で、若い娘さんの同性心中があったばかりなんですよ」
刑事課長の話し声が、背後で聞こえた。
同性心中──無意識に胸の奥に封じこめていたことばが、おぞましい響きで淳子の耳朶を衝《う》った。女二人の姿態が、瞼の裏で渦を巻いた。
淳子は悲鳴に似た声を洩らしながら、顔を被《おお》ってその場にうずくまった。
星谷三重子と杉山吉美の遺体は、熱海の国立病院で解剖に付された。
その結果、二人とも少量の睡眠薬を飲んでいたことが判明した。死因はやはり排気ガスによる中毒死。死亡推定時刻も十一月七日午前零時前後と、当初の所見と大差なかった。そこで、二人の女性は、東京から星谷の車で真直ぐ現場へ赴き、そこで睡眠薬の錠剤を飲み下した上、車の排気ガスをホースで引き込み、心中を遂げたものと推察された。遺書は発見されなかった。
いや、もっと正確にいえば、二人の死が自殺であると、最終的な結論が下されるまでには半月近くかかり、その間には意外な事実も明るみに出たのである。新事実の露顕によって、事件の判断が手間どったといった方が正しいかもしれない。それらのくわしい経緯《いきさつ》は、マスコミの報道のほかに、淳子は勤め先の出版社が発行している週刊誌の記者から、直接耳に入れることができた。
三重子も吉美も、同年の三十歳であった。
吉美の家は高田馬場にあり、父親は食品会社の管理職についている。吉美はしっかり者の、どちらかといえば派手な性格で、地方銀行の東京支店に勤務していた。半年ほど前に知りあった楽器メーカーのセールスマン多湖と九月に婚約しており、それで今年一杯で銀行を退職して、来年三月に挙式の予定であった。
この辺までは、事件の前から淳子も三重子を通して洩れ聞いていたのだが、意外な事実というのは、吉美の死後、預金係だった彼女が銀行の金を使い込みしていたことが発覚したのである。
横領の一端が明らかになった当初、銀行側では、近年ほかの銀行で続いて発生した女子行員による何億円もの多額横領事件を連想して、ひいては、背後で吉美を操っていた男が、最後に彼女を抹殺したのではないかと、緊張したらしいが、くわしく調査した結果、吉美が使い込みしていた額は、全部で五百万円前後とわかった。
手口は比較的単純なもので、客の定期預金証書を偽造して、満期前にそれを担保にして銀行から金を借りる手続きをし、同額の金を引き出す。満期になって客が払い戻しにくる前に、同様の方法で別の定期預金口座を使って金をつくり、先の金は返済された形で埋めておく。それを四、五口にわたって行う、いわば自転車操業であった。
そのうちの一つの、三百万円の定期預金の満期が十二月一日に近づいていた。つまり吉美は、それまでに三百万円の補填に迫られていたわけで、いずれにせよ、年末に退職するまでに流用した金を元に戻しておかなければ不正は時間の問題で発覚することになる。
死後、吉美の身辺には、百万円足らずの預金しか残されていなかった。
そこで、横領金の使途、および背後で吉美を唆《そそのか》していた男がいたのではないかとの点が追及されたが、いずれもはっきりした線は浮かんでこなかった。というのは、使い込みが過去約三年間にわたって行われ、少しずつ増えた結果五百万円に達した模様で、もともと吉美は服装や生活ぶりの派手な方だったから、それらの金が少しずつ費消されたとすれば、確たる使途がつかみにくいのである。男の存在についても、多湖と婚約するまでの吉美は、異性との付合いも相当だったという評判で、銀行の内部にもかなり親密だった男性が三、四人も浮かび、それでかえって、誰かが彼女を操って金を引き出させていたのかなどの点も、判断しにくいようであった。
当然ながら、多湖もかなりつっこんだ取調べを受けている。
多湖は、淳子が熱海の現場ではじめて会った時には老けて見えたが、実際は三十七歳だという。楽器メーカーの社員で、この夏まで販売部でエレクトーンのセールスに当っていたが、九月に係長に昇進して、内勤が主になっている。吉美とは、今年の四月、仕事の出先で偶然知り合ったという話だった。
多湖は真面目で穏やかな人柄で、それだけに社内では目立たぬ存在となり、昇進も遅い方だったらしい。
結局警察では、彼が吉美に使い込みを示唆した、あるいは、使い込みの事実を知っていたという証拠すら掴めなかった上、吉美の死の当夜、家族の証言ながら一応のアリバイが成立したため、追及を断念したようであった。
三重子については、新事実というほどの背景は浮かんでいない。
事件の三日前から、夫の星谷は神戸、大阪支店へ出張しており、六日夜は帰途静岡市の実家に寄って泊っている。高齢の父親の加減が悪いので、長男が跡を取って農業を営んでいる家に見舞いに立ち寄った。朝早い新幹線で帰京して、真直ぐ出社したから、事件は留守中の出来事だった、という。
一つだけ、その後三重子に関してわかった事実といえば、六日夜九時ごろ、星谷の家からアイボリーのコロナが出てくるのを見かけたという目撃者が現われた。近所に住むサラリーマンで、当夜はタクシーで帰宅する途中、星谷家の車庫から出てくる車とすれちがった。運転者は女性で、ブルーのカーディガンを羽織っていたのを憶えているが、はっきり顔を確かめたわけではなく、ほかに誰か乗っていたかどうかも、定かな記憶はないとのべている。
しかし、熱海では、三重子がブルーのカーディガンを羽織り、吉美は黄色いワンピースを着ていたから、星谷家を出発したさい運転していたのは、やはり三重子であろうと推測された。
吉美の方は、その夜八時ごろ自宅を出たところまでしか足がとれていないので、三重子が家を出た時すでに吉美も乗っていたのか、あるいは途中で落合ったのかは、五分五分であった。
それから、二人はレスビアンの関係にあったのか?──この点は、どちらの側からも、それを暗示するような形跡は、まったく見出されなかった。
こうして、単純な同情心中の判断に落着いたのである。吉美は、婚約したものの、退職までに横領金を補填する目処《めど》が立たず、それで、いっそひと思いに死ねばサバサバするなどと口走っていたのであろう。不妊でうつうつとしていた三重子が、事情を聞いて同情し、いっしょに死ぬ決心をした。場所は、比較的近くて自殺の多い、熱海の錦ヶ浦を選んだ。──このように解釈すれば、二人の心中は、必ずしも不自然でなく、納得できそうだった。
しかし、淳子は、警察もマスコミも見すごしている事実を知っていた。
星谷には女があったのだ。
相手がどこの誰か、一人か複数かまでは、くわしくわからないが、いずれにせよ、彼が妻以外の女性と関係を持ち、恐らく三重子を邪魔者と感じはじめていたことである。
三十五歳の男盛りで、容姿も整い、外向的な彼が、病身でともすれば陰気くさい妻に嫌気がさすことは、十分想像される。週に一度くらい彼らの家を訪ね、二人と接していた淳子には、それが痛いほど感じられた。両親とは早く死別し、二人きりの姉妹の上、三重子が内気な人柄だけに、淳子は姉思いの妹だった。
星谷が浮気していると、淳子が知ったのは、二度も女連れの彼を見かけたからである。一度は日曜日の新宿で、いま一度は、今年の四月末の夕方、千駄ヶ谷の旅館や連れこみホテルの建ち並ぶ道筋を、赤い服を着た女と連れだって歩いていく星谷を遠目に見た。黄昏も消えかける時刻だったのに、見慣れぬサングラスをかけていた星谷と、向う側で寄り添うようにしていた女のシルエットを見送りながら、淳子は直感的に二人の間柄を洞察した……。
警察は、吉美の使い込みに注意を奪われて、三重子側の調査は手薄になったのかもしれないが、星谷が三重子の死を望んでいたことも、考えられるのだ。
三重子一人を殺せば、星谷は真先に疑われるだろうが、もしうまく騙して友だちを巻きぞえにし、同性心中を装わせれば、より安全と踏んだのではあるまいか。
一人の人間の自他殺は、厳密に追及されるが、心中は驚くほど簡単に処理される。そんな盲点を衝いた推理小説を、淳子は読んだ憶えがあった。
十一月下旬の週日、淳子は一日勤めを休み、昼前の新幹線で静岡へ向かった。
両親の死後淳子たち姉妹が叔母に育てられた家は、清水市の市街地にあるが、星谷の実家は清水と静岡の中間あたりになる。お茶や野菜を栽培する中程度の農家で、星谷の父と三重子の叔父が懇意だったことから、二人の縁談がまとまった。
事件の夜、星谷は大阪から夕方の新幹線で着き、実家に一泊して、翌朝帰京したという。警察がどの程度調べたかわからないが、彼のアリバイが特に問題にされた様子はない。
叔母の家に顔を出してから、三時ごろ星谷の実家を訪れた。久能山の西山麓に当る広い盆地の中にある。刈入れがすんで、乾いた土の肌をみせた田圃がのびやかにひろがり、ところどころに、大根や白菜畑の緑がはさまって、遙かな山裾まで続いている。
静岡市の東端部に入るわけだが、東名高速には清水インターの方が近いだろう。夜なら熱海まで一時間半で行けるのではないかと、淳子は遠くで田圃を横切る高速道路の白い橋脚に目をとめながら考えた。
農家を継いでいる星谷の長兄は、容貌は星谷と共通して彫りが深いが、全体におっとりしたムードで、口数が少い。無論淳子は何度も顔を合わせたことがある。
初冬の日がさしこんでいる縁側で、淳子は彼と話をした。三重子の遺品のことで叔母を訪ねた帰りに寄ったと断ってある。三重子が異常な死に方をして、ふつうならちょっと気拙《きまず》い雰囲気になるところかもしれないが、彼はそうした微妙な感情があまり表に出ない人のようで、その点気が楽だった。
「──お義兄《にい》さんは、あの晩よほど真直ぐ東京へ帰ろうかと迷いながら、お父さまのお加減も気になったので、やはりこちらへ寄ったといってらっしゃいましたわ。虫が知らせたのかもしれませんわね」
「ああ。七時すぎのこだまで帰って、会社からは何度か家に電話したが、出ないので、気にしていた矢先に警察から連絡があったといっていたからねえ」
彼は、雀が群をなしている畑の先に目をやりながら、独特の静岡訛で話した。
「でもまさか、あんなことになるなんて……私はいっしょに暮らしてなかったので、寝耳に水だったんですけど、姉には以前から自殺するような素振りでもあったのでしょうか。こちらに泊った折、お義兄さんは何か話されませんでした?」
「さあ……出張の後で疲れていたようだし、翌朝すぐ帰るというので、あの晩は親父に会っただけで、早くに休んだからねえ」
「早くに……?」
「十時まえには床についたでしょうよ」
「まあ。東京の家では、十二時より早く寝ることなんかないみたいなのに」
「田舎は夜が早いんでねえ。九時すぎれば、この辺はもうシンとしてしまうからね」
長兄は厚い唇の端に、かすかに笑いを浮かべた。
「久しぶりにぐっすり眠れたといって、朝は家内が起こす前から自分で起きてきたが」
抑揚の少いゆったりとした口調から、特別の感情を読みとることはできなかった。
少くとも、警察が星谷のアリバイを調べにきていたとしても、彼はこのように答え、彼の家族もそれに同意したのにちがいない。
十時まえに床についた星谷が、夜中にひそかに外出した形跡はなかったかと、淳子は尋ねたいところだが、さすがに口に出せなかった。また尋ねたところで、答えの真偽を見極めるすべがあるだろうか。
内心で気負っていたものが、少しずつ醒めていくような思いがした。
夕方の新幹線で帰る淳子のために、長兄の妻が早目の夕食を仕度してくれた。
一人分の食膳を並べて、彼女がまた台所へ立ったのと入れちがいに、六歳になる長男の公一が部屋に入ってきた。丸顔の頬がポチャポチャしていて、いつまでも幼い可愛さの抜けない子供である。会った回数はさほど多くないのに、子供好きの淳子にとてもなついていた。
「公ちゃんも来年は学校ねえ」
幼稚園で行った芋掘り遠足の様子をしきりに話している公一に、淳子は箸を置いて相手になった。
「うん。もう机買ってもらった」
「そう。よかったわねえ。──でも、いくらお机を持ってても、おネショする子は小学校に入れてくれないかもしれないわよ」
淳子はわざと心配そうな顔をして公一をからかった。ひところ公一が毎晩おネショをするので、夜中に母親が起こして手洗いへ連れていくといっていた話を思い出したからである。
「大丈夫だよ。もうしないもん。だってぼく、このごろは一人で起きるんだもん」
「お母さんに起こしてもらわなくても、一人で起きてお手洗いへいくの」
「そうだよ」
「わあ、えらいなあ。こわくない?」
「こわくなんかないよ」
お茶を運んできた長兄の妻が笑いながら、
「毎晩私が起こしてたら、習慣になって、このごろでは一時か二時ごろに自分で目をさまして、ちゃんと用を足してきて、また寝るのよ。ちょっと可哀相みたいだけど」
「そうですね。ここは広いから、廊下も長いし……」
淳子も何気なく答えながら、ふとある種の緊張が心の隅をかすめた。
食事が終ると、淳子は公一の手をとって、庭へ出た。
農家らしく、灰色の瓦をのせたがっしりした母屋を中心にして、コの字形の家が、植木のない中庭を囲っている。右手の棟の外れに厠があり、左手の棟は用具置場と車庫になっている。車庫には今、割に新しいライトバンが一台納まっている。
「ねえ公ちゃん、夜中に一人でお手洗いへ行くのは、必ず毎晩? それとも、時々なの」
「大抵毎晩いくよ」
「じゃあ、芋掘り遠足の日の晩も、起きられたのかな」
三重子が死んだ夜の前日に当る十一月六日に公一が遠足に行ったことを、さっきの話で聞いていた。公一は丸い目を見張り、唇を尖らせてちょっと考えこんだが、
「起きたよ」
「そう。──あそこの廊下を通る時、庭や車庫の方が見えるでしょう?」
手洗いへ行く途中の廊下には、簡単なガラス戸がはまっているだけだ。二、三年前までは、それもないむき出しの渡り廊下だったが、不用心と考えてか、最近ガラス戸をつけたようである。
「見えるよ。あそこに電気がついてるから、廊下が明るいんだ」
公一は、母屋の玄関先に取りつけてある外灯を指さした。
「それじゃあね、遠足に行った日の晩、公ちゃんが夜中におトイレへいった時、あの車はちゃんと車庫の中に入っていたかどうか、憶えてないかなあ」
「うーん、うーん」と、公一はしばらく体操のように身体を折り曲げたりしながら思案していたが、ふいに眸の動きを止めて淳子を見あげた。
「車はあったよ。電気がついてたんだ」
何かを思い出した、勢いこんだ声だった。
「え?」
「ぼくがあそこを通った時、車庫の中の、車の前の電気がついてたんだ。あれっと思ったら、すぐに消えちゃったけど。おかしいなあと思いながら……帰りにもやっぱり消えてて暗かった。でも、最初は絶対ついてたんだけどなあ」
淳子は思わず息をのんで公一を凝視した。車庫に入っていた車の前照灯が消えた瞬間を、彼は目撃したわけだろうか。その時刻は、恐らく、彼が毎晩手洗いに起きる、午前一時から二時の間くらいであろう。そのころ、誰かがあの車で帰ってきて、車庫に納め、ライトを消したのか?
もし、午前零時ごろ星谷が熱海の錦ヶ浦で何らかの犯行と擬装を行い、東名高速をとばしてくれば、午前二時までにはこの家に帰りついたのではあるまいか?
「車のライトが消えた時、そばに人の姿は見えなかった?」
「ううん」と公一は少しうす気味悪そうに口をすぼめて首を振った。淳子は強いて笑いながら、
「そのこと、お父さんかお母さんに話した?」
「朝起きてから、お父さんにいった。でも、寝呆けてたんだろうなんて、本当にしてくれないんだ」
静岡の実家に泊った星谷が、十時まえにいったん床についてから、ひそかに抜け出し、兄のライトバンを使って熱海を往復してきたという可能性の一端を、淳子は掴んだと思った。その一方星谷は、何らかの口実で三重子を騙し、吉美を誘わせて錦ヶ浦まで来させる。二人に、ジュースにでも混ぜた睡眠薬を飲ませて眠らせた上、排気ガスのホースを引きこんで心中を擬装した……?
三重子はおとなしい性格だけに夫には従順であったから、大抵のことなら彼のことばに従って行動したとも考えられる。
しかし、では具体的に星谷はどのような口実を設けて二人の女を深夜熱海までドライブさせたのであろうか?
もっと根本的に、星谷が三重子を抹殺するために、友だちの吉美まで巻きぞえにして、犯行を隠したという推測は成り立っても、何一つ証拠がなかった。公一は、ライトバンのライトが消えるところは見たが、その時星谷の姿を目撃したわけではないのだ。
東京に帰ってから、淳子は苛立たしい気持で日々を送った。証拠もなしに義兄を告発することはできない。だがそうなると、かえって、三重子が淳子に置手紙の一つも残さずに自殺したはずはないという、理屈以前の拒絶反応みたいな感情が、日増しに膨らんでくるのである。
三重子は、二十八歳になった妹の結婚問題を心配していた。「人生は出会いだ」というのが、三重子の口癖だった。星谷との、幸せとはいえなかった結婚も、人を通して二人が|出会った《ヽヽヽヽ》のを運命と考えることで、自分を抑え、無理にも満足させようとしているかのようにも受取られた。「淳ちゃんも、早く、素敵な人と出会えるといいのに」とよくいっていた。そんな、まずは平凡な個性の持主だった三重子と、「同性心中」という何かおどろおどろしい行動とが、密着しない。
疑惑を裏付ける証拠が見出せぬまま、間もなく淳子は、むしろ星谷の犯行の可能性を弱めるような新しい情報を耳に入れた。
十一月六日夜九時十五分ごろ、首都高速目黒インターに入る手前の道路に面したスナックの中から例のコロナを運転している杉山吉美を見かけたという人物が現われたのだ。吉美と新宿のボウリング場で知り合って以来、時々いっしょに遊んでいたというOLで、その後ヨーロッパツアーに出かけたりして長らく事件に気づかなかったが、事情を聞いて思い返せば、それがちょうど心中事件の直前に当るので、念のため警察へ届け出たという。
当夜九時に大崎の自宅を出た三重子の車が、九時十五分に目黒インターにさしかかっていたなら、コースも時間的にも矛盾はない。車名も色もまちがいなかった。
ただ、ハンドルを握っていたのは、確かに吉美だったというのである。吉美はブルーのカーディガンを羽織っていて、ちょうどその女性のいたスナックの前で一時停車した時には、ドライブマップらしいものをひろげて見入っていたという。店の外へ出て声をかけようかと迷っているうちに、車はまた走り出して、高速道路へ吸いこまれていった。
車内にもう一人女性が乗っていなかったかという質問に対しては、断定はできないが、助手席にはいなかったと思う。後部座席で横になって眠ってでもいたのなら、気がつかなかっただろうが、と答えている。
この届け出によって、吉美が三重子のカーディガンを借りて羽織り、コロナを運転して首都高速へ入ったことは、ほぼまちがいないと認められた。この新事実に、淳子は少なからぬショックを受けた。
それまで淳子は、最初の聞込み通り、熱海まで三重子が運転していったものとばかり考えていた。つまり、これを星谷の犯行とすれば、彼に騙された三重子が、吉美を誘って熱海まで連れていったのだと。
ところが、吉美がハンドルを握り、ドライブマップを見ていたというのであれば、ガラリと印象がちがう。吉美が自分の意志で、主体性を持って動いていたように感じられる。三重子が後で眠っていたとすれば、なおさらである。
これは案外、三重子が吉美を連れ出したのではなく、その逆ではありえないか?
とすれば、星谷が二人を殺したという可能性は、ぐっとうすれると、淳子には思われた。吉美がしばしば星谷家に遊びにきていたとしても、帰宅の遅い星谷と顔を合わせる機会は、まれであっただろう。その程度の知り合いである吉美を、星谷が意のままに動かせたとは、考えにくいのだ。
淳子は、ふいに目から鱗が落ちたように、視点を変えた。
三重子を殺したい人間が、吉美を巻きぞえにして心中を擬装したのではなく、実は、吉美を殺そうとする者が、犯行をカムフラージュするために三重子をも道連れにしたのではなかっただろうか?
すると、淳子の脳裡には、多湖の顔が浮かんだ。霧雨の降りしきる錦ヶ浦の現場で無言の挨拶を交した、目尻に皺を刻んだ物悲しい眸……。
多湖ならば、婚約者の吉美を唆して三重子を誘わせ、熱海まで来させることもできたはずだ。吉美を操れた唯一の人間だったのではないだろうか。とすれば、あるいは三重子は、大崎の家を出た時、すでに吉美に睡眠薬を飲まされて、バックシートに横たえられていたのかもわからない。そして吉美は、もし人に見られた場合、運転していたのが一見三重子だったと思われるように、三重子のカーディガンを羽織っていたのではあるまいか?
しかしながら、もし多湖の犯行と仮定するなら、なぜ彼は吉美を殺したのであろう?
吉美の横領と関係があるのか?──この点は警察でも相当に追及したらしいが、証拠は挙らなかったと聞く。
多湖には、もっとほかに、吉美と結婚したくない理由があったのではないか。それなら婚約を解消すればよかったのではないか。
それができなかったとしたら?──吉美とどうしても結婚しなければならず、しかも彼がそれを望んでいなかったとしたらどうか?
いったい彼はどんなきっかけで吉美と知りあい、どのような経過で婚約の運びになったのかと、淳子は想像をめぐらせた。
淳子が高田馬場の吉美の家を訪れたのは、師走に入ったばかりの、乾いた風の吹く土曜日の午後だった。国電の駅から歩いて十五分ほどかかる、道幅の細い住宅街にあり、|※[#「木+令」、unicode67c3]《ひさかき》の生垣をめぐらせた中流家庭の趣である。
淳子は吉美の葬式の折、星谷と共に出向いているので、吉美の母親とは初対面ではない。顎の張ったしっかり者らしい顔立ちが、吉美と共通している。
「昨日は多湖さんも訪ねてくださったんですよ。あの方には申しわけなくて……」
吉美の母親は仏壇に供物をそなえて焼香した淳子にていねいに礼をのべてから、目を落として呟いた。娘が同性心中を遂げた上、銀行の金を横領していたことまでわかったのでは、母親として婚約者に対して面目ない気持なのであろう。そんな感情が働く程度に、彼女は多湖に好感を抱いていたとも察しられる。
自然に多湖の話が出たので、淳子は切り出しやすくなった。
「あの、お二人はどんないきさつで親しくおなりになったのですか。何か、最初は多湖さんのセールスの出先で知り合われたとかうかがいましたけれど」
「いえ、もともとは、家がお近くで、通勤の途中に駅や道でよく顔を合わせて、お互にどのへんに住んでいる人かくらいのことはわかっていたらしいんですけど……お付合いの馴れそめになったのは、本当にヒョンなことで……」
苦笑ともつかず眉を寄せた複雑な表情を見て、淳子は一種予感に似た緊張を覚えた。
「──今年の四月の末でしたか、土曜日の夕方、吉美が男のお友達といっしょに千駄ヶ谷の辺を歩いていた時、偶然道路の反対側を一人で歩いていらっしゃる多湖さんと出会ったそうです。目だけで挨拶して行きすぎたらしいんですけど、それが後でちょっと問題になりましてね……」
その同じころ、多湖の勤め先の会社内で火災が発生した。土曜日で休みだったため、怪我人はなかったが、重要書類などが灰になった。放火の疑いが持たれ、社内の勝手を知った者の、嫌がらせの犯行ではないかと見られた。
無口で人付合いがうまくないために昇進の遅れていた多湖も容疑者に含まれ、アリバイを求められた。
多湖はセールス先を訪ねた帰りだったというが、火災発生当時は千駄ヶ谷を歩いており、路上で行きあった吉美のことを告げた。名前も住所もはっきりわからなかったが、多湖の話を聞いた刑事が吉美を捜し当て、吉美は多湖のアリバイを証言してやったという。
「吉美にしてみれば当り前のことをしたまでなんでしょうけど、苦しい立場を助けてもらったと、多湖さんにはとても感謝されまして、それから急に親しくお付合いするようになったんですわ。アリバイがはっきりすれば、あちらの会社としても、無実の人に疑いをかけたわけですから、償いの意味もあって、多湖さんを係長に抜擢したみたいでしたね。それで多湖さんにも、吉美とは何か幸先のいいご縁のように感じられたんじゃないでしょうか」
淳子は息をつめて聞いていた。その確かに|ヒョン《ヽヽヽ》なきっかけが、今度の心中事件と無関係ではありえないという直感が働いていた。
「多湖さんは二十七、八で一度結婚なさったそうですけど、間もなく交通事故で奥さんを失くされ、それからはずっと独身ですごされてたようです。ですから初婚ではないんですが、吉美ももう贅沢のいえる齢ではありませんし、ちょうどいいお話だと、私も喜んでいたんですよ。吉美もあの方の誠実なお人柄にすっかり惚れこんだ様子で、それまでは夜遊びも少くなかった娘が、多湖さんと婚約が決ってからは、時たま思い悩んでいるふうもあったけれど、ともかくいい奥さんになる準備に励んでいたように見えたんですけどねえ。──私たちも迂闊だったのですが、でも何もあんな思いつめたことまでやらなくても……」
使い込みの件まではことばに出さなかったが、やはり痛恨はそこに行きつくようである。吉美の母は唇をかみしめ、指先で目尻を押えた。
「あの……最初の機縁になった多湖さんの会社の放火事件は……」
少し間をおいて淳子は遠慮がちに尋ねた。
「その後、犯人は挙ったのでしょうか」
「いいえ。結局わからず終いだったようですねえ」
彼女は悲しみの発作をジッと抑えるように畳の一点に目を据え、ぼんやりとした声で答えた。
もし、多湖が放火の真犯人で、顔見知りの吉美に偽アリバイの証言を頼んだとしたら──?
それがきっかけで二人は親密になり、やがて吉美に結婚を求められれば、多湖は断れなかっただろう。しかし、内心ではいやでたまらなかった。もともと愛情に結ばれた間柄ではないし、結婚すれば多湖は一生妻に弱みを握られることになる。
一方、彼は吉美から、三重子との付合いを聞いていた。そこで、例えば彼も偶然三重子を知っており、しかもどうしても三重子を抹殺しなければならないというような偽りの事情をでっちあげて吉美に話し、吉美を唆して三重子を熱海まで連れてこさせた。恐らく、十一月六日夜、星谷の出張中を選んで吉美が三重子を訪ね、隙を見て飲物に睡眠薬を投入して眠らせてから、車に運びこんだのではないか。吉美が三重子のカーディガンを羽織って運転したのは、それが人目に触れた場合、|三重子が一人で《ヽヽヽヽヽヽヽ》熱海へ行って自殺した、と後で解釈させるためであっただろう。そのような計画を、多湖が吉美に吹きこんだのにちがいない。
ところが、いわれた通り錦ヶ浦まで三重子を運んできた吉美に、今度は多湖が飲物に混ぜた睡眠薬を飲ませた。三重子を運転席に、吉美を助手席にすわらせ、二人の腕をからませて心中の姿態をとらせ、排気ガスのホースを引きこんで多湖は逃走した──?
事件当夜の多湖のアリバイは、星谷と同様、家族の証言に支えられたものである。
吉美の家を辞去した淳子は、頭の中がカッとほてるような感覚で、ほとんど上の空で歩みを運んでいた。それでも自然に足は、多湖の家の方に向かっている。帰りぎわ、吉美の母に道順を教わったのだ。
今すぐ多湖と会って、どうするというほどの肚《はら》は決っていなかった。それに、彼の犯行としても、これも星谷の場合と同じく、つきつける証拠はまだ何もないのである。
ともかく、相手の住居を見届けておきたい気持が、無意識に働いていた。
と、ふいに淳子はギクリとして足を止めた。目印の小さな神社の角を曲って、四軒目……そこと思われる家の格子が開いて、多湖その人が出てきたからである。
髪をオールバックにし、逆三角形の顔に黒縁眼鏡をかけている。小柄な身体にテーラードカラーの茶色いオーバーを着こんでいる姿は、熱海で会った時のおとなしい平凡な印象と変らなかった。
ちがっていたのは、彼が物悲しい眸を淳子に注ぐことはせず、細い道の脇に立ちつくしている淳子のすぐ前を、まるで気づかずに通りすぎたことだった。
淳子は後について歩き出した。
多湖は、ややうつむいた姿勢のまま、規則的な足どりで、静かな住宅街を抜けていく。何か強い考えに心を占められ、それに支配されて行動しているように見える。左手をポケットにつっこみ、右手は出しているが何も持っていない。その手のそばのオーバーのポケットから、丸めた週刊誌がのぞいている。
彼は国電の駅に出た。
自動販売機で切符を買った。行先はわからないが、淳子も適当に買って、彼のあとから改札口を通った。
まだラッシュの時間帯ではないが、土曜日のせいか、山手線フォームはかなり混雑していた。すぐに内廻りの電車が着いて、多湖はそれに乗りこんだ。
数人の乗客をはさんだ位置から、淳子が見守っていると、多湖は吊革につかまって、しばらく窓外を眺めていたが、やがてオーバーのポケットから、週刊誌を取り出した。開いて目を落とす。記事を読んでいるというより、頁《ページ》のどこかにジッと見入っている感じなのである。その表紙がチラリと見えた時、淳子はまた奇妙な驚きに捉われた。それは淳子の勤め先の出版社で発行しているもので、一週古い号だった。三重子と吉美の心中事件が見開きの記事で抜われていて、吉美の父と星谷の、写真と談話も載っていた。表紙の一部が見えただけでその号とわかったのは、淳子も一部保存していたからである。
多湖はあの記事を見ているのにちがいないと思った。
彼は代々木で降り、中央線に乗りかえた。
次の千駄ヶ谷で下車した。
千駄ヶ谷は比較的乗降客が少い。それに前の道路は道幅が広く、人通りが乏しいので、見通しがきく代り、多湖に気づかれる恐れも強い。
だが、彼は後を振返る気配もなく、やはり規則的に足を運んでいく。その歩調が、先刻より心持ち早くなり、後姿全体に何か緊張が漲りはじめたようにも感じられる。
そろそろ夕暮れが近づいて、冬の弱い西日が路面に落ちている。落葉した街路樹の続く歩道の先で、腕を組んだアベックが多湖とすれちがった。一帯には旅館やホテルの看板が重なりはじめている。
淳子はふと、こんな風景をいつか見たと感じ、すぐに思い当った。今年の四月末の夕方、サングラスをかけた星谷と赤い服を着た女が腕を絡ませるようにしながら歩いていくのを見た。
多湖は今、ちょうどその辺りの道筋へ曲りこんでいく。妙に凝りすぎた門構えの和風旅館や間口の狭いホテルなどが建ち並ぶひっそりとした道路……四月末の夕方、千駄ヶ谷で……淳子はもう一度ハッとなった。これとまったく同じことを、ついさっき耳にした!
淳子が思わず立ち停った時、多湖は十メートルほど先で、一軒の旅館の玄関へ入っていった。入りがけに、オーバーの内ポケットから、何か白い紙切れみたいなものを取り出すのが見えた。
そうだ……と、淳子は思い出した。先刻、吉美の母が語ったのだ。四月末の夕方千駄ヶ谷の道路で、男友だちと二人連れだった吉美が、偶然多湖と行きあった……。
この不思議な符合は、何を意味するのか?
淳子は知らぬ間に、多湖の入った旅館の方へ歩き出していた。
と、多湖が出てきて、二人は正面から顔を合わせてしまった。いや、多湖が旅館の玄関先から道路へ戻ってきた足どりはゆっくりとしていて、手の中の紙片に目を落として思案するふうだったから、淳子が身を隠そうと思えば、その暇はあった。だが、淳子は瞬時、自分の思考と決断を見失っていた。
眼鏡の奥の穏やかな目が、しげしげと淳子を見つめた。黒い丸い小さな眸は、熱海で会った時と似た、かすかに問いかけるような、澄んだ光をたたえていた。
「あなたも……調べていらしたのですか」
多湖の唇から低い呟きが洩れたのは、いっときの後だった。
「いえ、私は……」
淳子は一瞬うろたえ、混乱の中から、しかしふいに一筋の洞察が浮かびあがった。
「あなたが、今持っていらっしゃる、それは写真ではないんですか。義兄《あに》と吉美さんの──」
「そうです」と、多湖は手にしていた二枚の紙片と見えたものを淳子の方に示した。星谷と吉美の顔写真にちがいなかった。
「ぼくは、吉美さんが自殺したとは、どうしても信じられなかったのです。確かに、時々は屈託ありげに見えたが、ぼくとの結婚を心から喜んでくれていた気持に嘘はなかったと思う。だから、死ぬほど思いつめる前には、ひとことぼくに打ちあけてくれたはずではないかと……」
多湖は考えこむような、素朴な口調で喋り出した。
「それでぼくは、吉美さんがぼくと知り合う前に付合っていた男性について、一人一人、ひそかに調べていたのです。中でも、なぜか心にひっかかったのは、今年の四月末の夕方、この近くの道路でぼくが偶然彼女と出遇った時……それが親しくなるきっかけになったのですが、その時、赤い服を着た彼女は、サングラスをかけたすらりとした男と並んで歩いていた……」
その相手が星谷だったのだ。淳子が二人を見かけたと同じ日、多湖もまたそれと前後して、偶然彼らとすれちがっていたのだ!
「でも、義兄はサングラスをかけていたので、熱海で顔を合わせた時には、あの時の男とお気づきにならなかったのですね」
「ええ……何か、感じるものはあったのですが、ピンとこなかったのです。ところが、先週の週刊誌の記事に、サングラスをかけた星谷さんの写真がのっていた。同性心中した女性の夫として世間に顔を晒すのが面映ゆくて、サングラスをかけたのでしょうが、その写真を見て、ぼくはあっと思った」
「それで、二人の関係を確かめるために、旅館に問合わせを……?」
「そうなのです。星谷さんの顔写真を手に入れるのは、ちょっと苦労したのですが……」
「義兄は、いつごろから吉美さんと親密になっていたのでしょうか」
「さあ……まだそこまでははっきりわかりませんが、いずれにせよ、彼女が三重子さんを訪ねた折に星谷さんとも顔を合わせ、その後二人だけで外で逢うようになったのでしょうね。そして多分、吉美さんが銀行から横領した金は、一部にせよ、星谷さんにも流れていたのではないだろうか。彼女が退職するについて、その金の補填を彼に請求した。しかし彼は、たとえ今無理して金を埋めても、いずれ厳密な監査があれば、彼女が退職した後だけに、不正は簡単に露顕してしまうだろうと考えた。金額の多寡にかかわらず、横領を唆したことが判明すれば、自分も破滅だ。それならばいっそ、今彼女に自殺の理由がある時を利用して、殺してしまおうと決心した……」
そうか、星谷と吉美が特別の間柄にあったのなら、星谷は吉美をも意のままに動かすことができたわけだ。例えば、吉美に、三重子の生命保険金で銀行の穴を埋めるとでも偽って、睡眠薬で眠らせた三重子を錦ヶ浦まで連れてこさせることも。吉美も必死だったにちがいないのだから。
淳子は二人の心中に最初から疑惑を抱きながら、どちらか一方を殺したい人間が、もう一人を巻きぞえにして犯行を隠そうとしたと思いこみ、その考えにこだわりすぎていた。だが、星谷は、二人とも抹殺したかったのだ!
淳子は多湖に、多分四月の同じ日に、自分も星谷と吉美の二人連れを見かけたことを話した。
「──奇妙な偶然だったんですねえ。しかし、あなたは、星谷さんの方に気づいて、相手が吉美さんだとはわからなかったのですね」
多湖が目尻に苦笑の皺を刻んだ。
「しかし、それでは、これ以上の裏付けは警察に任せてもよさそうですね。大体ぼくは、物を尋ねて歩くなどは、苦手なものですから」
多湖は二枚の写真を内ポケットにしまうと、もと来た道を歩き出した。
淳子もそれに従った。
黄昏が濃くなって、冷えこんだ風が乾いた落葉を路上に吹き流していた。
「駅の方へ戻って、お茶でも飲みましょうか」
多湖が振返り、ちょっとぎごちない口調でいった。目尻にまた皺が寄って、澄んだやさしい眸が、一瞬だけ淳子の視線を受けとめた。
淳子はなんとなく頷き返しながら、こんなふうにして人と知り合うことも、出会いだろうかと、ふと考えた。
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便  り
踏み出した右足がすべって、桃恵があやうく水溜りの中に尻餅をつきそうになったのは、無論、雨上りの道がぬかるんでいたせいもあるが、もともと桃恵の足運びはもうすっかり疲れきって、危っかしくなっていたのだった。
それも無理ないかもしれない。駐在所を通してあの報らせを受けたのが、今朝の十時半。それからはまるで上の空で、とるものもとりあえず、昼まえのバスにとび乗って駅へかけつけた。上越線の上り急行で約二時間半。上野駅から羽田の飛行場までが、また一時間以上もかかった。右も左もわからない大都会の渦の中で、いよいよ頭がカッとのぼせたみたいになって、前橋から週に二回村へ診療に来る若い医者に書いてもらってきた道中の注意書きを何度も取り出して見なければならなかった。
どうにか四時二十分の飛行機に間に合ったものの、それからはいよいよ恐怖と緊張の連続だった。
生まれてはじめて乗った飛行機が福岡空港へ無事着陸した時には、小さな窓の外にはすでに濃い夕闇がたちこめていた。
だが彼女にとっては、それはまだ旅の終りではなかった。誰一人、空港へ出迎えてくれるわけでもない。もしこれが、|こんなさい《ヽヽヽヽヽ》ではなかったら、懐しい兄の耕作が出口の先で手を振ってくれるはずなのに……そう思った時だけ、桃恵はふいに喉元がしめつけられ、涙の膜で視線がぼやけた。
でもすぐに、ほとんど本能的に気持を引きしめた。長い一人旅で、大抵何もかもはじめての経験にあいながら、遠い見知らぬ土地の兄の住居へ、無事辿り着けるかどうか、その心配のために、かえってほかのいっさいの情感が麻痺してしまっていたのかもしれない。
U町まで、バスで約二十分かかった。本数の少いバスが来るまでにずいぶん待たされたので、桃恵がバス停に降りた時にはそろそろ八時に近く、雨があがったばかりの路上には、早春のほの暖かい夜気がひっそりとたちこめていた。
桃恵はまた少しホッとした。覚悟していた以上に蜒々たる道程《みちのり》だったけれど、ようやくにして、兄の住所地「福岡県粕屋郡U町」と名のつく土地に足を踏み入れることができたのだから。
その下の住所──「20番3号、椿荘」は、以前耕作が、桃恵に自分の暮らしぶりを少しでも具体的に想像させるために、バス停からの道の様子をこまごまと手紙に書いてくれたのを、思い出せばよかった。(もしかしたら、兄さんは、いつかこんな日のくることを予感して、私に道順を教えておいたのかしら……)
目印の煙草屋は容易に見つかったし、その横の道は一本きりだったので、人に尋ねる必要もなさそうだ。代りに桃恵は、煙草屋のガラスケースの向うから、中年の主婦がどこか好奇の眼差でこちらを見守っているのに気がついた。
桃恵は最後の気力と体力をふり絞る思いで、スーツケースを持ち直し、暗い道路を歩き出した。
だが、チラと視線を交した煙草屋の主婦の妙な目色がキッカケになって、今自分が立たされている現実が、にわかに四方から押しかぶさってくるのが感じられた。慣れない旅の緊張が、かえって意識から遠ざけてくれていた、恐ろしい現実が──
(ああ、あの報らせは、本当に、まちがいではなかったのだろうか?)
バス停からアパートまでは、約三分と書いてあったと思う。するといずれにせよ、あと三分足らずで、「事実」に直面しなければならないのだ……。
桃恵はしっかりと足を踏みしめて歩いているつもりだった。しかし──ふいに小さな叫びが彼女の唇から洩れ、右足の踵をすべらせて重心を失った身体が、足許で鈍く光る水溜りのほうへよろめいた。
「あっ」と、小さな声を発したのは、桃恵一人ではなかった。偶々《たまたま》すれちがいかけていた女が、咄嗟に手をのばして、空《くう》を泳いだ桃恵の二の腕を掴まえてくれた。それで辛うじて、桃恵は水溜りの上に転ぶのを免れたものの、すべったあとの右足が勢いよく水に踏みこみ、泥水が相手の脚からスカートにまではねあがってしまった。
「すみません……ほんとに、ごめんなさい」
桃恵は謝罪を口走りながら、あわててハンカチをとり出して、服の汚れを拭おうとした。よく見れば、黒っぽいスカートよりも、彼女がすぼめて手に持っていた白地に紫のカトレアの花模様を散らした雨傘の上に、沢山の泥がとんでいる。
が、相手はその傘をひっこめるようにしながら、
「いいんですよ。洗えばすぐ落ちるわ」
桃恵は、それでもう一度ていねいに謝った。近くの主婦という感じで、桃恵のことばを軽く受け流したが、しかし、桃恵はふと、彼女の眸が、さっきの煙草屋の主婦と共通した独特の光を帯びて、自分を眺めているのを感じた。
「あの、ちょっとお尋ねしますけど──」
桃恵は相手の視線をはね返すような気持になって訊いた。
「椿荘というのは、どの辺でしょうか」
「ああ、それなら、そこの角を曲った突き当りですよ」
相手はまるで、桃恵の質問を予期していたみたいに、なめらかに答えた。
(やはりあれは、紛れのない現実だったのだ)
教えられた角を曲って、一人で歩き続けながら、桃恵は深いめまいと共に実感した。今朝の報らせでは、死体が発見されたのが午前七時半ごろだったというから、まだこの近所には、騒ぎの余韻がたちこめているのにちがいない。そんな矢先に、ふだん見かけたことのない娘が、スーツケースをさげてバスから降りたり、椿荘の位置を尋ねたりすれば、身内《ヽヽ》が駆けつけてきたのだと、察しをつけるに決っている。
その椿荘が、私道の奥に建っていた。平べったい三角屋根の木造二階屋。板壁の上にアパートの名が大きく書いてあるのが、ほの暗い外灯の反映で認められる。建物の周囲には、何本かの椿の木が植わっていて、白っぽい花をつけていた。
いくつかの窓には──二階の左端にも、明りが点っていた。そこが兄の部屋であることは、すでに手紙で教えられていた。
桃恵はミシミシいう階段をのぼった。二階の踊り場で見廻すと、隅のドアの上に、案の定、「仁田耕作」のネームプレートを見つけた。
厚紙にマジックで記されたその文字は、右下りの、紛れもなく兄耕作の懐しい筆蹟だった。それを見た途端、桃恵は、ドアの内側では今も耕作が彼女の想像通りの暮らしをしていて、ノックをすればやさしい笑顔で迎え入れてくれそうな気がした。無理にも瞬時その錯覚に浸ろうとして、その場に佇んでいた。
だが、中では桃恵の足音を聞きつけたのか、内側からドアが開かれた。
見知らぬ若い男が、どこか愛敬のある丸い目をむいて、しげしげと桃恵を見つめた。
「妹さんですね」と、彼が精一杯|労《いたわ》りをこめた声を発したのと、桃恵が突然悲鳴に近い嗚咽をあげてしゃがみこんだのとは同時だった。
「──警察を通じてあらましの事情は伝わったと思いますが、今朝七時半にここを訪ねて、お兄さんの遺体を見つけたのは、この植村君なのです」
耕作が所属していた業務部部長の久保井と名乗った男が、さっきドアを開けてくれた小柄な男を目で示しながら、桃恵に説明した。
六畳間に小さな台所とトイレがついているだけのアパートの室内で、桃恵を待っていたのは、彼らの二人だった。今朝群馬県の桃恵の家へ駐在所経由の連絡が入った直後に、久保井も会社から電話をかけてきて、桃恵が到着するおよその時間に合わせて、耕作のアパートまで出向いてくれていたのだった。
「大体仁田君は、六日前になる二月二十七日の午後に、風邪で会社を早退けして以来、ずっと休んでいたのですよ。このところ、たちの悪い風邪が流行《はや》ってましたからね」
久保井はあまり感情を混えない口調で、むしろ事務的に説明した。四十前後で、痩せ型。細い目が鋭く、鼻が尖っている。小太りで丸顔の、二十五、六の植村とは、対照的なタイプだった。
「三月一日にわたしが電話をかけた時には、大分熱も下って、明日か明後日には出勤できるだろうとの話だった。しかし、二日も三日も休みで、三日の晩にはもう一度電話してみたんですが、今度は誰も出ない。それで四日の朝、つまり今朝の出勤前に、比較的家の近い植村君に、様子を見に寄ってくれるようにたのんだわけなのです……」
久保井の口から「電話」ということばが出ると、桃恵はぼんやりとした視線を室内にめぐらせた。壁に寄せて、人のいない寝床が敷かれている。枕上に低い文机《ふづくえ》があり、端に黒い電話機がのっている。つまり、電話機は、耕作が寝ていても手をのばせば届く位置に置かれていた。
ほかには、箪笥と石油ストーブがあるだけの、質素な部屋だった。壁に、山口百恵のブロマイドがピンで止めてあった。そのことも、桃恵は見る前から知っていた。名前の音《おん》が同じなのと、面差しもどこか似ているので、壁に貼ってあると、兄が手紙で教えてくれたからだ。『勿論桃恵の本当の写真は、いつも定期入れにはさんであるけれど』……。
「ぼくが今朝七時半にお尋ねした時には、ドアには鍵もかかってなくて、それで中をのぞいたところが……」
ひとしきり涙にくれたあとでは、放心したように坐りこみ、満足に受け答えもしない桃恵を、心配そうに眉をひそめて見守りながら、植村がことばを継いだ。久保井とは逆に桃恵のショックを気遣い、恐る恐る話すといった感じだった。
「寝巻姿で洗面所に倒れている仁田君を、すぐに発見したのです。びっくりして、身体を揺すったのですが、もうすっかり冷たくなっておられて……それから夢中で、派出所へ報らせに走りまして……派出所の電話で久保井部長にも連絡したわけです」
間もなく本署から刑事や嘱託医などが到着し、そのころには福岡市内に住んでいる久保井も駆けつけた。一応の検屍がすむと、刑事が久保井から耕作の身寄りを聞いて、群馬県の三国山脈の麓に住む伯父一家と妹の許へ、連絡が届いたわけだった。
「今遺体は解剖に廻ってまして……」
久保井が、細い目をさすがにそむけるようにしながら、
「それがすめばはっきりした結論が出るはずですが、現場検証の段階では、仁田君は、洗面所に敷いたマットがすべって仰向けに転倒し、トイレと洗面所の境に並べてあったコンクリートブロックの角で後頭部を強く打ったための脳内出血が原因で亡くなったと見られるそうです。合成繊維のすべりやすいマットが足の先にとんでいたのや、仁田君の倒れ方などから推測されるらしい。風邪の熱でフラフラしていたのだろうし、それと、問題のブロックは、トイレの足許がジメジメしないように、仁田君が入居する以前から置いてあったと、アパートの持主はいってるんですが……不幸な偶然が重なったんでしょうなあ。死亡されたのは、二日の午後五時から七時くらいの間だろうということです」
「二日の……では、一昨日の夕方……?」と桃恵は呟いた。
「そうなりますね」
するとはじめて、一つの明確な反応が桃恵の胸中に動いたが、まだそれを口に出すほどの気力は戻っていなかった。
「お兄さんとは、いつ会われたのが最後でしたか」
なんとかして桃恵の気持を慰めようとするのか、植村が彼女の目をのぞきこんで、重苦しい沈黙を破った。
「去年の、お正月……」
「ああ、そういえば、あのころ彼が、妹に会いに帰るってうれしそうにいってたのを憶えているなあ。ほんとに妹さん思いで、あなたのことばかり話してましたからねえ。ぼくなんか一人っ子だからピンとこないんですが、二人きりの兄妹ってこんなに仲のいいものなのかと、聞いて羨しいくらいでしたよ」
「私たちは、両親と早くに死に別れましたから……」
「ああ……それは、いつごろなんですか?」
「もう五年になります。それまでは、大分県宇佐市の四日市という町に、親子四人で暮らしていたんです。もともと父も群馬県の生まれなんですけど、若いころ九州へ出稼ぎに来て、地元の母と結婚して居ついてしまったとかで……」
桃恵の口から、自分でも驚くほど跡切《とぎ》れなく、ことばがすべり出ていた。今は何か喋ってでもいたほうが、まだ救われるという、無意識の心理かもしれなかった。
「──でも、五年前の冬、両親が交通事故で死んで……父は製材所で働いてたんですけど、オートバイの後に、パートでスーパーに勤めていた母を乗せて家へ帰る途中、トラックにぶつかって、二人とも……」
「五年前といわれると、あなたはまだ中学くらい──?」
「中学一年でした。兄が高校卒業の年で、確かもう今の会社に就職が決っていて……」
突然両親を失った兄妹は、ただ一人の身寄りである群馬県の伯父を頼るしかなかった。まだ中学生の桃恵は、伯父の家に引きとられることになり、一方耕作のほうは、父が昔恩義を受けた人の紹介で就職先が決っていたことなどから、一人で九州に留まり、福岡市内の印刷工場へ通勤するという、別れ別れの生活がはじまったのだった。
「しかし、仁田君は一年に一度はどんなに無理しても、あなたに会いに帰っていたようですね。やはり、伯父さんの家であなたが苦労してやしないかと、心配だったんでしょうねえ」
「伯父たちも、根はいい人なんですけど、貧乏な農家ですし、子供も多いから、やっぱり色々……ですから、日頃の私には兄の手紙と|便り《ヽヽ》が、何よりの支えだったんです」
「手紙と便り」と、桃恵はまるで当然のように重ねていった。が、誰もそれを聞き咎めるふうもなかった。
「でも、私もこの春には高校卒業ですから、兄に福岡で勤め口を捜してくれるように、頼んでいたんです。うまく見つかったら、私もこちらへ移って、兄がお嫁さんをもらうまで、世話をしてあげようと思っていたのに……」
桃恵が再び両手で顔を被ってしまうと、植村も肩を落として、深い溜息をついた。
桃恵の感情が少しおさまるのを待って、次に口を開いたのは、久保井部長だった。彼はそれまで、桃恵と植村の会話もあまり耳に入らぬ様子で、考えこんだ視線を畳に落としていた。
「お兄さんから、あなたには始終手紙が届いていたようだが……」とこもった声で呟きながら、桃恵を顧みた。
「そんなに始終ってほどでもなかったんです。もともと兄は、字を書くのが苦手なほうでしたから」
「それにしても……最近の彼の手紙で、何か変ったことは書いてなかったでしょうか」
「変ったこと……?」
「いや、たとえば、何か困っているとか、悩んでいるとか……そこまではっきり書いてなかったにせよ、何らかの問題を抱えているんじゃないかと察しられるようなことが……」
植村がちょっと眉をひそめて、久保井を見守った。その、男にしては頬のふっくらした親しみやすい横顔には、こんな悲しみのさなかに奇妙な質問を発する上司を、かすかに咎めるような表情が浮かび出ていた。
が、久保井の目は、植村の反応にも気付かないふうで、桃恵の斜め後くらいのどこかを凝視している。
桃恵は思わず彼の視線を追って、その方を振返った。
流し台と、わずかばかりの炊事道具を並べた棚──。
水道からポタポタと水滴がしたたっている。
やがて桃恵は、久保井の注意を捉えているものを発見した。水道の蛇口の角に裂け目ができて、そこから水が少しずつ洩れ出しているらしいのだが、その箇所に、女物のハンカチが巻きつけてあった。オレンジとグリーンの鮮やかな花柄が、味気ない男の部屋の中では、いやでも目につく色点をつくっていたのだ。
「別に……私は何も気がついてなかったんですけど」と、桃恵は顔を戻してから、ありのままに答えた。
「うむ……」
久保井は指の腹で顎をこすりながら、なおも考えこんでいたが、
「実は、現場検証のさいに、刑事から尋ねられて、わたし自身不審に思ったことなんだが……」
桃恵は、彼が女のハンカチについて触れるのかと思ったが、次には意外なことばを聞いた。
「この室内には、現金がほとんど見当らないというんですね。彼が通勤に着用していた背広のポケットにほんの小銭が入っていた程度で。といって、物色されたような形跡はまったく認められないし……」
「それは……兄は私の学資を毎月仕送りしてくれていましたから、もしかしたら、ずいぶん無理していたのかも……」
「それにしても、うちは二十五日が給料日ですからね。二十七日には風邪で早退けして、それ以後ずっと医者にもかからずに休んでいたようだし……月末の二十九日にアパートの持主が集金に廻って、その時部屋代は払ったそうですが、ほかには酒場のツケを溜めるような男じゃなかったし……」
耕作がほとんど酒を飲めないたちなことは、無論桃恵も承知していた。それに、毎月の仕送りは、二月の給料日以後まだ桃恵の家へ届いていなかった。すると、部屋代を差し引いた彼の給料は、どこへ消えたのだろうか……?
それは桃恵にも見当がつかなかったけれど、久保井がそんな疑問を持ち出したことが、わずかながら彼女に、冷静な思考力を取り戻させた。
「あのう、さっき、兄が亡くなったのは一昨日の夕方っておっしゃいましたね」と、思いきって久保井に尋ねた。
「遺体を見た嘱託医はそういってましたが」
「あの……そんなはずはないんですけど」
「といわれると?」
今度は二人の男の強い視線が、桃恵の顔面に集中した。
「昨夜も一昨夜も、兄から便りがあったんです」
「便り……?」と久保井が呟き、植村は桃恵の目が机の上の電話機に注がれているのに気がついて、
「仁田君と電話で喋ったわけですか」
「いいえ、そうじゃないんですけど……昨夜も一昨夜も、十時に便りが届いたのです」
怪訝な面持ちの二人に向かって、桃恵はもう一度キッパリと答えた。
福岡県粕屋郡U町は、桃恵が暮らしている群馬県の三国山脈と赤城山の懐に抱かれた山村と同じくらい寂しい田舎かと、最初桃恵は感じていたが、一夜あけて、時間がたつにつれて、大分ちがっていることに気がついた。
確かに、ローカル線の線路と県道にはさまれた平地には、随所に田圃や畑が横たわり、昔ながらの土塀や藁ぶきの屋根の農家も目につくが、その間には、カラフルな瓦をのせた新築住宅や、鉄筋アパートも少くないのだ。むしろそれが、次第に町の雰囲気を変えていると見たほうが正しいのかもしれない。
つまり、U町は、福岡のベッドタウンと化しつつあるようだ。聞けば、ディーゼルカーやバスで博多駅まで三十分あまりというし、現に耕作も、福岡市の東部へ国鉄で通勤していたのである。
そんなわけで、駅前や、由緒ある八幡宮の近辺には、スナックや旅館なども何軒かかたまっていた。
桃恵は、八幡さまの並びにあった、「旅籠《はたご》」という呼び名にふさわしいような鄙びた旅館の一室で、孤独な朝を迎えた。
昨夜、耕作が長く暮らした末に無残な死を遂げたアパートの部屋で、桃恵は泊りたいと思ったが、それは久保井たちがどうしても承知しなかった。一人になった桃恵が何をしでかすかわからないと、心配したのかもしれない。
結局植村がその旅館を見つけて、桃恵を送り届けてくれた。彼は、二駅ほど福岡寄りの町で、両親といっしょに生活しているということだった。
昼まえに、彼がまた旅館を訪ねてくれた。昨日の雨はすっかり上って、澄んだ空に春らしい陽光があふれていたが、空気の底冷えがかえって少し増しているようだ。
黒ずんだ板張りの玄関には応接セットもないので、桃恵は自分の部屋へ彼を通した。少し恥かしいみたいな気後れを意識したが、久保井が来るよりは気が楽だともふと思った。どちらかといえば口が重くて、細い目の光が鋭い久保井には、何を考えているのかわからないような怖さを覚えることもあるが、その点植村は耕作と齢もそんなにちがわないし、桃意に向ける眼差やことばの端々にも、こまやかな思いやりが感じられた。彼は耕作とは部署のちがう経理課に勤めているが、個人的にはとても親しかったらしい。
「仁田君の解剖は今朝早く福岡の大学で行われたそうで、さっきその結果が会社のほうへ連絡されたものですから、お知らせしにきたんですが──」
植村は固い姿勢で畳の端にすわって話しはじめた。
「仁田君の死因は、やはりブロックの角で後頭部を打ったための脳内出血で、頭の傷もその状態を裏付けているそうです。ほかには外傷や、争ったような跡もないし、無論毒物なども検出されなかった。ですから、今のところ警察の見方は、最初の過失死に落着きそうな形勢ですね」
「………」
「それから、死亡された時刻なんですが、これも現場検証の所見と同じで、三月二日の夕方と考えられるという。つまり、遺体は解剖に付された時、死後六十時間前後経過していると見られたそうで……」
桃恵はなおしばらく、ジッと押し黙っていた。心臓が不快な動悸を早めてくる。(ちがう。そんなんじゃない!)という鋭い囁きが鼓動の向うから聞こえ、急にそれが耕作の声に変って耳底で響いた。
「あの、死後何時間とかいうのは、どうしてわかるんですか」
「それはまあ、死体の腐敗の進み具合やなんかから、推し測るらしいですよ」
「でも、それにしても……兄は二日の夕方に死んだんじゃありません。三日の夜十時までは、絶対に生きていたんです」
桃恵はふいに怒りともつかぬ新たな悲しみに襲われて、唇をかんでうつむいた。昨夜もこの点は三人の間で問題になりかけたのだが、桃恵の説明が舌足らずだったのと、いずれにせよ警察も解剖の結果を聞くまでは結論を出さないというので、話は中途半端に終っていたのだ。
「何か、仁田君から便りが届いたと、昨日いわれましたね」
「ええ」
「でも電話で喋ったわけではないとか──?」
「話はしてません」
「すると、どういうことなんです?」
桃恵は一度深く息を吸いこんでから、植村を見返した。
「電話のベルが四回鳴ったんです。それで私も、四回鳴らし返したわ」
「……?」
「去年のお正月に兄が訪ねてくれた時に二人で決めたことだったんです。その時は、私たちが離れ離れになってちょうど四年目でしたし、それに、私たち兄妹にとっては、人の嫌う4の数が、幸せのシンボルっていうのかしら……四日市の町で親子四人で暮らしてたころが、一番幸福だったから……」
植村は痛ましそうに目を細めた。
「それで、毎晩十時ごろ、床につく前に、まず兄が四回うちの電話を鳴らしてくれる。ずいぶん離れた田舎ですけど、ダイアルですぐ繋がるんです。四回鳴らして切れば『ぼくは元気だよ。桃恵は?』という合図。それで今度は私が、兄のダイアルを廻して、四回鳴らして切ると『私も元気よ。お兄さん、頑張ってね』という返事になるんです。四回以上ベルが鳴れば、特に用事があるという意味だから、その時は受話器をとること。勿論毎晩でも話がしたかったけど、ここからうちまででは、夜間に三分喋るだけでも六百円以上かかるんです。それでも兄は、よく無理をして声を聞かせてくれたわ。おかげで毎月電話料がガス代や電気代よりずっと高いなんてぼやいていましたけど。でもそういう兄だって、電話の便りが何よりの楽しみだったみたい。兄の部屋についていた電話は、アパートの家主さんのものだそうですけど、家主さんは自宅にも引いてあって、あんな安アパートで電話つきなんてめったにないので、すぐに決めたんだなんて、いつか話していたわ……」
「すると、つまり……二日の晩も三日の晩も、十時にベルが鳴ったというわけですか」
「そうなんです。ちゃんと四回。それで私も、兄の番号を四回鳴らして返したわ。きっと兄は、私に心配かけないために、風邪で休んでいるなんていわずに、いつもの通り四回鳴らして切ったんでしょう。電話機は寝ていても手の届く机の上に置いてあったし、それに兄は、この|便り《ヽヽ》のことは誰にも内緒だっていってました。だから、三日の夜十時までは絶対兄が生きていて、私に合図を送ってくれたのにちがいないんです」
「しかし、そうなると……どういうことなのかなあ……」
植村は意味もなく首を振り動かした。
「検屍によれば二日の夕方死亡したと判断され、一方三日の夜まで彼が生きていた証拠があるとすれば……」
呟きながら、彼はまたまじまじと桃恵を眺めたが、その丸い眸の奥には、戸惑い、あやしむような光すら漂い出ていた。
「とにかく、これは重大な問題だから、ぼくから警察に伝えておきましょう」とつけ加えて、彼は落着かなげに腰をあげた。
それから二時間あまりたった昼下りに、本署に当る福岡の警察署から、斎藤と名乗る初老の刑事が訪ねてきた。背の低い猫背の身体に、濃い鼠色の真冬のオーバーを着こみ、縁なし眼鏡をかけた斎藤は、桃恵が住んでいる町の駐在所の老巡査と、印象が似通っていた。
彼も桃恵の部屋にあがって、事情聴取というより、彼女の身の上を尋ねては、熱心に耳を傾けた。
「今度のことでは、いずれ伯父さんたちも出向いてくるとでしょう?」と、彼は一通り聞き終ってから、九州弁で訊いた。
「さあ……ちょうど伯父が肝臓を悪くして入院しているものですから」
「するとこっちはあんたに任せきりかもしれんねえ。あんたも苦労するねえ……」と、奥まった瞼を瞬かせて、二、三度頷いた。
「──いや、解剖の結果は会社の人から聞いたと思うけど……それでまあ、特に不審な点も見当らないので、過失の判断に傾いていたわけなんだが、たださっき、派出所の巡査が、ちょっと気になる話を耳にしたといって知らせてきたものだからね」
「……?」
「お兄さんには親しい女友だちがあったようなことを、聞いた憶えはないですか」
耕作の部屋の水道の蛇口に巻きつけてあった花模様のハンカチが桃恵の脳裡をかすめたが、刑事の問いには正直に首を横に振るしかなかった。
「うむ。──いや、外勤の巡査が椿荘に住んでいる二人ほどに聞いた話では、去年の暮くらいから、お兄さんの部屋に時たま若い女が出入りするのを見たというんですな。特別注意していたわけではないので、どこの誰か、あるいはどんな女だったかなどもほとんど思い出せないらしいんだが、しかしそういえば、死体の発見される前夜になる三日の夜九時すぎ、私道の途中の木陰に身をひそめて仁田さんの部屋のほうを窺っている女を、窓からチラと見かけたといい出す人もいるという……」
先刻植村と話しあった「三日の夜」が話題にのぼったので、桃恵は緊張で身体を固くした。が、斎藤は、髯の濃い浅黒い頬を軽く掌でこすりながら、
「もっとも、仁田さんの死亡は二日の夕方と推定されたのだから、三日の夜では直接関係ないことかもしれないんだが……」
おやっと、桃恵は目を見張った。彼女への|便り《ヽヽ》が、耕作が三日夜十時まで生きていた証拠だという話は、植村が警察に伝えてくれるといっていたのに……あれから二時間もたつのに、まだ斎藤刑事の耳には届いていなかったのだろうか──?
仕方なく、桃恵は斎藤にも、昨年の正月耕作に会った時二人で電話のベルを利用する約束を決めたことから打ちあけた。
斎藤は穏やかに相槌をうちながらすっかり聞いてくれたが、さてそれをどこまで判断の根拠にしていいのか、困惑したような表情を浮かべたのは、植村と似ていた。
「三日の晩まで確かに生きていた兄が、死体の様子だけでは二日に死んだみたいだなんて……どうしてなんでしょうか」
さっきは植村が独り言に呟いた疑問を、桃恵は斎藤に尋ねた。
「それは……例えばこういうケースも想像できなくはないとですがね……」
しばらくして、初老の刑事は、彼自身あまり現実感の湧いてない口調で、
「仮に、お兄さんは事故ではなく、殺されたとする。犯人は力ずくで、彼の頭をブロックに打ちつけて殺したと考えてみる。しかも、犯行は三日の夜十時より後になされた。従ってお兄さんは、十時にはいつも通りあなたの家の電話を四回鳴らすことができたわけですね」
「………」
「ところが犯人は、そのまま事件が発見されれば、自分が疑われ、アリバイが証明できないと考えたのではないか。アリバイを偽装するには、犯行時刻を誤認させるのも一つの方法だ。そこで、仁田さんを殺した直後から、あの狭い室内でストーブをたき続けたとする」
「ストーブを……?」
「死後経過時間を測定するには、死体の状態と、それが置かれていた環境とを配慮に入れるわけですね。だから、今度の場合でも、死体の腐敗度と、あの部屋の室温などを照らし合わせて、この環境でこれだけ腐敗が進行しているのなら、死後経過何時間という具合に推し測っている。ところが、犯人がひそかにストーブをたいて、室温を上げたとすれば、実際には前夜殺された死体が、あたかも前々日の夕方殺されたと誤認されるほど、腐敗が促進されたかもわからない」
話しながらも、斎藤のくぼんだ目許からは、苦笑の影が消えなかった。
「まあしかし、こんな手のこんだ犯罪は、現実にはねえ……推理小説でなら、似たような話を読んだ憶えがあるが」と、実際に低い笑い声を洩らした。
でもそういえば、兄の部屋の石油ストーブは、灯油が0の状態で、久保井と植村が火の気のない部屋で自分を待っていてくれたのを桃恵は思い出した。台所の隅に一つだけ置いてあった灯油のポリケースも、ほとんどカラだったではないか。
兄を殺した犯人が、ストーブを燃やし続けたからか?
あの部屋に出入りしていた若い女……三日夜、つまり|犯行の晩《ヽヽヽヽ》に、二階の窓を窺っていた女……影絵のように眼前に浮かび上った幻に対して、桃恵は突然全身が慄え出すほどの怒りと憎しみを覚えた。とりわけその幻が女であったから、いっそう心が煮えたのかもしれないが、十八歳の桃恵はそこまで気づいてはいなかった。
解剖のすんだ遺体は、その日のうちに荼毘に付された。
桃恵は久保井部長に付添われて、遺骨を火葬場からひとまず旅館へ持ち帰った。
翌日の昼まえまで、桃恵は旅館にジッとしていたが、その後警察からも会社からも、事件に関する音沙汰は聞かれなかった。
桃恵は、兄の死について、警察がなんとなく冷淡なような、力を入れて調べてくれていないみたいな気がしてならなかった。ようやく捜査員が会いにきたと思えば、斎藤のような、人は好さそうだがあまり腕ききとも見えない初老の刑事をよこしたり……。しかし、その理由は、間もなく、旅館の女中の話を聞いて、およそ推察されてきた。耕作の死体が発見される前日と前々日に当る三月二日と三日に、この近辺ではめったに起こらないような事件が、偶々続いて発生したらしい。
まず二日の夜十時半ごろ、福岡へ遊びにいって帰りの遅くなった女子高校生が暗い道で若い男に襲われ、乱暴されかかった。別の通行人が騒ぎに気づいたため、危うく難をのがれたが、犯人は逃げ去った。
三日は午後三時ごろ、新興住宅地の中の、家人が出払っていた家で火災が発生した。消火が早く、全焼は免れたが、出火の原因に不審が持たれ、その上あやしい男の影を見たという届け出もあって、放火の疑いが濃厚になっている。
どちらの事件も、最初は最寄りのU町派出所へ通報され、それから本署へ連絡されている。本署では派出所の巡査も動員して捜査しているらしいが、まだ犯人は挙っていない。それで今は刑事たちが大忙しで、耕作の「過失死」までは手が廻らないのではないかというのが、親しくなった若い女中の意見であった。
桃恵にしても、昨日斎藤刑事から、耕作の身辺をうろついていた女の存在を聞かされた時には、まるで兄がその女に殺されたにちがいないような怒りと憎しみに身を慄わせたものだったが、少し冷静に返ってみれば、女の手で犯行できただろうかという疑問も湧いてくる。もし耕作が殺されたのだとすれば、腕ずくで後頭部をブロックの角に打ちつけられたと考えるしかないらしいが、兄は男として特に小柄でも非力でもなかったはずなのだ。
ともあれ、桃恵は群馬県の伯母に電話をかけて、今後のことを相談した。やはり伯父はまだしばらく入院が必要なので、すぐにはそちらへ行けないとの返事だった。耕作のアパートを簡単に始末し、大きな荷物の発送などは会社の人に頼んで、ひとまず遺骨を持って帰ってくるようにという。
それで桃恵は、今度は久保井たちに相談しに会社へ行くために、午後から旅館を出た。
福岡市の周辺部から、東区を迂回して博多駅に入るローカル線の沿線には、同じようなベッドタウンの集落が点在していた。無論、農家も多い。見はるかす筑紫平野の先には、なだらかな山々が、緑の上にうす桃色のほのかな新芽の色あいを漂わせて横たわっている。
毎日、この風景を眺めながら兄は通勤していたのだと、桃恵は車窓の一コマ一コマを、眼底に刻みつける気持だった。
勤務先だったK印刷の会社と工場は、博多駅の一つ手前でおりて、海の方向へしばらく歩いた先にあった。ガスタンクやほかの工場も集った埋立地の中のようだ。道順は、昨日植村に地図を描いてもらってあった。
ようやく会社の看板を見つけ、柵もない前庭を横切って、想像していたよりずっと小ぢんまりした、古い鉄筋二階建の社屋のほうへ歩いていった。背後にあるモルタルの建物が工場らしく、そちらから機械の響きが伝わってくる。
スウィングドアを押して、一歩足を踏み入れた時──桃恵はなんとなく、社内の空気があわただしいような気がした。といって、高い声が聞こえるとか、人が集まっているというわけではなく、むしろ、受付もいない玄関のあたりにはほとんど人影は見えなかったのだが。ただ、紺色のスモックを羽織った女子社員が、どこか興奮した表情で足早に廊下を横切ったことが、桃恵の六感に何かを訴えたのかもしれなかった。
桃恵は次に通りかかった若い男性に、久保井か植村を呼んでほしいとたのんだ。植村の名を出した時、相手の表情が微妙に強張《こわば》ったようにも見受けられた。
十分近く待たされて、やっと久保井が現われた。鋭い感じの細い目が、佇んでいる桃恵を認めても、まだ何か別のことに思考を奪われているみたいに無反応だったが、つと眉をあげるなり、「ちょっと話があるから、こちらへ入ってくれませんか」と急に心を決めたような声でいった。
殺風景な応接室で、デコラのテーブルを挾んで久保井と一対一で向かいあうと、桃恵は緊張で息苦しくなった。ほどなく、女子社員がお茶を運んできて、ていねいに一礼して退ったが、それで桃恵はいっそう固くなってしまった。
「──実は、この話は社外に聞こえるとみっともないので、誰にも喋らないでもらいたいんですけどね……」
久保井部長は、一口お茶を飲んでから、今度はむしろ桃恵がはじめて見るような沈鬱な眼差をこちらに注いだ。噛んで含める口調で話し出した。
「今朝、植村君が会社の金を使い込みしていたことが、発覚したのですよ。いや、その金はすでに埋めてあったのだが、年度末の会計監査の前に、使い込み分を補填するために、人に金を借りて、そのほうはまだ返してない。そのイザコザから、事実が明るみに出たわけなんだが……」
ひと月も前に植村に頼みこまれて金を貸したが、二月の給料日をすぎても一向に返す気配がないと、業を煮やした女子社員が上役に直訴したことから、騒ぎがひろがった。やがてもう一人、自分も貸したままになっているといい出す社員が現われ、そこで植村の直接の上司に当る経理課長が帳簿を調べたところ、不審な金の動きを発見した。植村を糺問すると、もともとオートレースに凝っていた彼は、ちょっとのつもりで会社の金に手をつけたのが失敗し、穴が大きくなるばかりで、年度末も間近いのであわてて友だちに泣きついて、借金で使い込みを埋めたと白状したという。
「ところが、植村が流用したと見られる金は、彼が二人の社員に借りていた額より、まだ大分上廻るのですよ。その点を突っこむと、あとは自分の金を工面したのだといい張るんだが、いっしょに暮らしているご両親も全然知らなかった様子だし……ほかにも、植村に金を貸していた者がいると見たほうが自然なんですね」
「………」
久保井はまた茶碗を口に運び、考えをまとめるように、少しの間沈黙していた。
「──それでまあ、あなたに打ちあけたのは、いうまでもなく、仁田君の問題があるからです。知っての通り、彼が亡くなったあと、アパートの部屋には、ほとんど金が見当らなかった。背広のポケットに小銭が残っていただけです。その点を刑事に指摘された時、わたしはなんとなく、この種の不祥事を予感したんだが……」
桃恵が駆けつけた夜、むずかしい顔で考えこんでいて、いきなりその点の心当りを尋ねた久保井の様子を、桃恵は思い出した。咎めるようにそれを見守っていた植村の横顔も。
「こうなってくると、植村が仁田君からも金を借りていた疑いが出てくる。いや、多分そうだったにちがいないと、わたしは睨んでいるのです。日頃は真面目で、給料日の二日後から風邪で寝込んでいた仁田君が、部屋代を払っただけで、あんなに|すっからかん《ヽヽヽヽヽヽ》になってしまうとは考えられない。恐らく植村は、二十五日に給料が支給された直後を狙って、どんな泣きごとを並べたのか知らないが、ともかくすぐ返すからと仁田君をくどき落として、給料のあらましを借り出したのではなかっただろうか」
愛敬のある丸い目に労《いたわ》りをたたえて、何かと世話を焼いてくれた植村の姿が、桃恵の胸を去来した。
「いや、それだけならまだしも……わたしが最も恐れているのは──」
久保井は、深く息を吸いこみ、その息を詰めたまま、しばらく絶句していた。
しかし、桃恵には、聞かなくてもおよその察しがついた。耕作に借金を催促された植村が、窮した揚句、彼を殺したのではないかと、久保井は恐れているのだろう。
もう大分ショックには慣れてしまったような桃恵の心に、冷え冷えと物悲しい思いがひろがった。旅館を見つけてくれたり、小まめに様子を尋ねてくれた彼の親切は、実は、自分の悪事が見すかされないかと、桃恵を見張る心理から生まれたものだったのだろうか──?
「ともかく、こうなれば、とことん真相を糾明しなければなりません」と、久保井はやや決然とした顔をあげた。
「といって、洗いざらい警察に打ちあけて、調査を依頼して、もしこちらの疑いがまちがっていた場合には、個人の名誉を傷つけるばかりか、会社の恥をさらすようなものです。そこで、折入ってあなたに頼みがあるのだが……」
桃恵は、ふと思いついて、久保井に別のことを尋ねた。検屍の結果はどうであれ、三日夜までずっと十時に送られてきた四回のコールサインによって、耕作がそれまでは生きていたと考えられること。それが植村から久保井にも伝わっていたかどうか──?
彼は、すぐには意味がのみこめないといった面持ちで、首を横に振った。
やはり、植村は伝えていなかったのだ。久保井にも、警察にも。桃恵のその主張によって、耕作の死が二日夕方ではなく、三日夜十時以後と訂正され、そのころの突っこんだ調査をされては困ると恐れたからではなかっただろうか……?
桃恵はようやく心を決めて、久保井の「頼み」に耳を傾けた。
指定した午後七時きっかりに、ドアの外の階段がミシ、ミシと、かすかな軋みをたて、人がのぼってくる気配を感じると、桃恵は白布に包まれて机の上に置いてある兄の骨壺へ、思わず救いを求めるような目を投げた。
耕作の部屋は、今はあらまし片づいて、六畳間にだけ電灯が点《とも》っている。K印刷の会社から戻った桃恵が、旅館を引き払ってきて、部屋の整理をしたからである。一昨夜着いて以来、部屋の鍵は桃恵にあずけられていたが、そこに泊ることは久保井たちが反対したし、警察からの連絡を待ったりで、旅館を動けなかったのだ。
が、もう気持も大分落着いたし、経済的な事情もほのめかすと、久保井は納得してくれた。それに、今夕の「計画」もある……。
足音が短い階段をあがってくる時間が、ひどく長く感じられた。そして……案の定、それは桃恵のいる部屋の前で止まった。
ひそやかなノック。
桃恵は畳にすわっていた膝に力をこめて、立ちあがった.
彼女がドアのほうへ出ていくと、外側でその気配を察したのか、
「植村ですが」と彼の声が囁いた。一瞬、桃恵は緊張のあまり眩量《めまい》に襲われた。彼はやはりやってきたのだ。桃恵と「話合う」ために──。
今日の夕方四時ごろ、K印刷からひとまず旅館に帰った桃恵は、再び会社へ電話をかけた。が、久保井にではない。植村を呼んでもらった。
『──さっきから兄の部屋を整理していたら、変なものが出てきたんです』と、桃恵はわざと怒ったような声を出した。
『変なもの……?』
『兄のメモです。金額と日付と植村さんの名前と、それにまだいろいろ書いてあって、つまりあなたにお金を貸したという……』
受話器の向うで息をのむ気配が感じられた。
『このこと、警察に届けてもかまいませんか』
『いや、それは……』
『それなら、ちゃんと説明してください。私はずっとアパートにいますから、会社が退けてから、七時ごろでもかまいません』
『行きますよ。話合えばわかることなんだから』
『では待っています。もし来てくださらなかったら、ほんとうに警察へ──』
いや必ず行くと、植村はかぶせるように答えて受話器をかけてしまった……。
一昨夜は彼がそうしてくれたように、桃恵は内側からドアを開けた。コートの襟に顎を埋めるようにして立っていた植村は、軽く目顔で挨拶し、すぐに視線を伏せて入ってきた。
桃恵は無言のまま踵を返し、今しがたまですわっていた畳の上に、きちんとすわり直した。
「仁田君のメモってのを、見せてくれませんか」
向かいあって膝を折るなり、植村はせきこんだ声でいった。人懐こい、とこれまでは感じられた丸い目が、今はちょっと三角形に見開かれて、桃恵を睨んでいた。
「それは、別の場所にしまってあるんです。大切な証拠だから。それより、植村さんのほうこそ、ちゃんと説明してください。どうして兄からお金を借りたのか。そして……三日の晩、兄にどんなことをしたのか……?」
最後のことばを、桃恵は低く押えつけて呟いた。声が慄えるのを防ぐためだった。
植村はいっそう強く目を見張り、紫がかった唇は無意識のようにうすく開いていた。息遣いが荒くなっている。
「ぼくは……あの晩は何も……」
「でも、もし兄のメモを私が警察へ持っていったら、警察では、あなたが借金を返せなくて困った揚句、兄を殺したんじゃないかと疑うに決ってますね。すぐにそうしようかと思ったんですけど、兄も友だちを密告するのなんて喜ばないかもしれないし、あなたの言い分を聞いてからでも遅くないと思って……だから、兄のお骨の前で本当のことを白状してください。そして、心から謝ってくれたら、私も考え直してもいいんです」
植村の荒い呼吸が、また少しずつ静かになった。開いていた唇をひき結び、見張っていた目を細めて、ジッとすかすように桃恵を凝視している。狭いアパートの中が不気味な静寂に包まれた。流しの蛇口から洩れる水音だけが、ポタ、ポタと耳についた。
はじめて、現実的な恐怖が桃恵を鷲掴みにした。植村は何と答えるだろう? いや、どんな行動に出るか?
今この場で桃恵の口を封じてしまえば、自分の犯行も、金を借りていた事実も、いっさいが闇に埋もれると考えたとしたら──?
桃恵は今にも大声で叫び出しそうな衝動と戦いながら、耕作が倒れていたという洗面所のうす闇の奥へ、怯えきった視線を移した。
植村が大きく息を吸いこんだ。行動に移る直前のように。桃恵は反射的に肩を退いた。
──が、次の瞬間、彼が膝の上で祈るように両手の指を組んだかと思うと、深い溜息といっしょに頭をうなだれた。
「白状しますよ。確かに金を借りました。でも、ぼくは絶対に仁田君を殺してなんかいない」
「………」
「先月の二十五日、給料が配られたあとで、頼みこんだのです。本当の理由《わけ》は、会社の金に穴をあけてしまい、三月の会計監査までに埋めておかないと取返しがつかないからだったんですが、仁田君には、父が交通事故を起こして、相手方に多額の賠償金を支払わなければならないところへ、母がそのショックで入院してしまい……などと泣きごとを並べ、必ず今月中に返すから、ちょっとの間だけ助けてほしいと頭をさげた。気持のやさしい仁田君は、それを真に受けて、月末に払う部屋代を差し引いた残りのほとんどを、貸してくれたんです。それだけに、二十七日の午後彼が風邪で早退けし、三月に入っても出てこないと、ぼくは正直いってホッとする反面で、とても気がとがめてもいた。というのが、彼が妹さんに仕送りしていることはうすうす聞いていたし、貯金なんかできる余裕のないこともわかってましたから、給料のほとんどをぼくに貸してしまえば、その日の生活も不自由しているかもしれない。それで、三日の夜になって、借りた分全部はつくれなかったが、当面の生活費になるくらいの金を家から持ち出して、仁田君のアパートを訪ねたんです」
「………」
「九時ちょっとすぎだったと思う。三階の窓は電灯が消えていて、ノックしても返事がなかった。でもドアには鍵がかかってなくて、すぐ開いたので、念のため中に入ってみた。入った途端に……踊り場の明りで死体を発見したのです。洗面所の前に仰向けに倒れていて、揺すっても、もう手も足も石みたいに冷たく強張っていた……」
植村は、心なしか耕作の骨壺に向かって頭を垂れる姿勢で語り続けた。
「すぐに警察に知らせればよかったんですが……そのまま夢中で家に逃げ帰ってしまった。もしぼくが届け出れば、なぜ今時分仁田君を訪ねたのかと追及され、ひいては借金や使い込みの件まで明るみに出て、ぼくが殺したんじゃないかと疑われるのが怖かった。後から思い返せば、もっと別の考え方もあったと反省したんですが、その時はただもう恐怖に駆られて逃げたのです。ところが翌朝には皮肉にも、久保井部長から、出勤前に仁田君の様子を見てきてくれと電話でたのまれ、それで四日の朝七時半ごろには、はじめて死体を発見したような顔をして、派出所へ駆けこんだわけです」
「私がこちらへ着いてから、旅館を見つけてくださったりしたのは……」
うつむいたまま、いっとき口をつぐんでいる植村に、桃恵は戸惑った声で訊いた。彼の話を信じていいのかどうか、さっそくには判断がつかなかったのだ。
「私がこの部屋に寝起きして、もし何かあなたに都合が悪いメモみたいなものを見つけては困ると用心したからだったのね……」
「いや、それはちがいます」
植村は眉根をひそめ、懸命な声でいい返した。
「ぼくはただ、妹思いだった仁田君への、せめてもの罪滅ぼしと考えて……それだけは信じてください」
真直ぐにのぞきこんでくる眸には、うっすらと涙の膜さえかかっていた。
「でも、たとえ私があなたの話を信用したとしても、ほかの人は……たとえばあなたが三日の晩兄を訪ねた時に殺したんじゃないかと……」
「いや、そんなことは絶対にないんだ!」
植村はいかにも歯痒そうに、拳を固めて膝を叩いたりしていたが、やがてふとその手を止めた。
「もしかしたら証人になってくれる人が、一人いるんだが……」
「……?」
「三日の晩、ぼくがここへ来た時、その前からずっとぼくの先を歩いていた女の人が、私道の脇の木陰に立ち停って、アパートの方を眺めていた。ぼくはその女性の前を通って、玄関を入り、二階で仁田君の死体を発見すると、すぐに駆け戻ってきた。外に出た時、またその女と顔を合わせた。だから彼女は、ぼくが椿荘の中にいたのがほんの二、三分だったことを、知っているはずなんです」
三日夜九時すぎに、女が木陰にひそんで耕作の部屋のほうを窺っていたと、斎藤刑事から聞いた話を桃恵は思い出した。
「彼女がもしその事実を証言してくれれば、ぼくが仁田君を殺したんじゃないという証拠になるはずですね。二、三分であんな犯行は不可能だし、逆にもし犯人なら、そんなふうにまた現場へ出入りする理由がないわけだから」
植村の理屈は正しいのかどうか?……それ以前に、証言とか証拠とかいい出されると、桃恵はいよいよ頭が混乱し、思わずまた洗面所のほうへ、救いを求める目を投げてしまった。
小さな明りが点いて、久保井が痩せた長身を現わした。
「とにかくそこまで案内してもらおうか」
久保井のことばで、三人は立ちあがった。
電灯を消し、部屋を出てドアに鍵をかけると、黙々と階段をくだった。
アパートの私道には、玄関先の外灯の光が漂い、場所によっては人の顔を見極めることも無理ではなさそうだ。椿の植込みが少し盛りをすぎた白い花をつけている。
「駅の方から来たわけですから」と植村がいって、まだ少しぬかるんでいる道を先に立って左へ曲がった。一昨夜ここへ着いた時、水溜りの上で転びそうになったことを、桃恵はふと思い出した。
「そのスナックというのも、駅前にあるわけだね」と久保井が念を押した。
「駅より少しこっち寄りですが。ともかく、ぼくが駅から歩いてきた時、先のスナックから出てきた女が、偶然ずっと同じ道を歩いて、椿荘の前まで来たわけなんです」
植村は先刻久保井と桃恵に説明した話を繰返した。
久保井がひそかに洗面所の暗がりに隠れていたのは、万一植村が乱暴な行動に出た場合の用心だった。それはそのまま、彼が耕作殺害の犯人だったことを物語るわけだし、もしまた彼がおとなしく犯行を白状した場合には、久保井もそれを聞いた証人となりうるわけだ。もともとこの「計画」は久保井の発案で、植村の借金に関するメモが見つかったなどというのも作り話だった。
しかし、植村は三日夜耕作の部屋を訪れたことを認めただけで、犯行はあくまで否定した。その証人として、見知らぬ女を持ち出した。見知らぬといっても、一度は正面から顔を合わせたので、また会えばわかるかもしれない。それと女がサンダルばきで、彼女が出てきたスナックの店も記憶しているという……。
「ここなんですが」と植村が足を停めて、後の久保井を顧みた。バス道路を横切り、暗い道がまた別の少し広い道路へ出る角に「ビレッジ」と文字を浮かせたドアが、赤味の強い明りを孕《はら》んでいた。道路の先が国鉄の駅で、その前には何軒かの商店が開いているが、「ビレッジ」はもう少し住宅地のほうへ入りこんだ場所に孤立している感じだった。
久保井がドアを押した。
カウンターとテーブルが三組ほどある変哲《へんてつ》もない設計だが、壁に燻した丸木をあしらったり、蝋燭を模した電灯を置いたりして、山小屋風の雰囲気を狙っているようだ。
客は男ばかり三人ほど。カウンターの内側では、若夫婦のように見える男女が立ち働いていた。
桃恵たち三人はカウンターに向かって腰をおろし、水割りやコーヒーなどをそれぞれ注文した。
久保井は飲み物が作られる間ももどかしそうに、煙草を取り出しながら、マスターに質問を開始した。
二十五、六くらいの、耳障りのいい声で話すマスターは、久保井の問いに対して、耕作が亡くなった事件は知っているが、彼がこの店を利用したことがあったかどうかははっきりわからないと答えた。いちいち客の名前を尋ねるわけではないし、来たことがあったとしても、回数は多くないという。
酒も嗜まず、自炊していた耕作は、めったに外食などしなかっただろうと、桃恵にも想像された。
次に久保井は、肝腎のポイントに進んだ。三日夜九時ごろ、一人でこの店を出た女客に憶えはないか──?
「よく一人で見えてくださる常連の女の方は、三、四人はいらっしゃるんですがねえ。何か特徴は……?」
特徴といわれても、植村には、まだ若い主婦の感じだったというくらいの印象しか残っていないらしい。
「サンダルばきだったらしいから、割と近くに住んでいる人だったと思うんですがね」
「そうすると……」
女客の面々を思い描くように視線を漂わせたマスターは、久保井の隣に腰かけている桃恵が、店の片隅を身動《みじろ》ぎもせずに見つめているのに気がついた。
そこには傘立てが置かれていて、女物の雨傘が一本、忘れられたように立ててある。その白地に紫のカトレアの花模様を、さっきから桃恵はジッと見守っていたのだった。
次にはつと立っていった。きれいな傘だが、あちこちに泥水のはねたしみがこびりついている。やっぱりそうだ。これは一昨夜、つまり四日の夜八時ごろ、桃恵が椿荘の角で足をすべらせた時、咄嗟に腕を支えてくれた女がすぼめて手に持っていた傘にちがいない!
「あら、梶さん傘忘れてるわ」
カウンターの中にいた女性が独り言のように呟いた。桃恵の動作につられて、そこに居合わせた者の視線が傘立てのほうへ集っていたのだ。
「多分、一昨日の晩に寄られた時に置いていったのね。傘持ってきたのに、雨が上ってしまったなんていっていたから」と、今度はマスターのほうにしっかり者らしい横顔を向けていった。
「そういえば、梶さんもよく一人で夕飯を食いに来てくれるなあ。──駅の向う側にあるマンションに住んでいる奥さんなんですけどね」と、彼が最後は久保井に目を当てた。
駅の向う側なら、椿荘とは反対の位置になる。とすれば、その女は|四日の夜も《ヽヽヽヽヽ》、椿荘の様子を窺いに来ていたのではないだろうか?──そんな想像が桃恵の脳裡に閃いた。
「三日の九時ごろこちらへ来ていたのも、その梶さんって女《ひと》ではないでしょうか」と桃恵が女性のほうに尋ねた。
「ええ……多分そうですよ。三日の晩は割に混んでたんですけど、梶さんは二度いらしたんです」
彼女は唇を両端に引きしめるような、キッパリした口調で答えた。
「九時ごろいったん出ていって、十時まえにまた入ってらして……損はかけないから、そのピンクの電話でなしに、うちのを貸してほしいといわれて……」
カウンターの角にピンクの電話と、その内側には自家用の黒い電話機が置かれている。
「どうぞといったら、手帖を取り出して、なんだか長い番号を廻してらしたけど、相手も出ないうちに受話器を置いてしまって、もうそれですんだんですって。あとは水割りを飲みながら考えこんでらしたみたい……」
最初はマスターよりどこか警戒的に見えた彼女が、そこまで話してくれたのは、桃恵の必死な目色に、何か重大な事情のあることを察したからかもしれない。
梶奈々子は三十歳前後。サラリーマンの奥さんだが、夫が仕事の関係で長期出張が多く、その間は子供もいない一人暮らしの無聊をまぎらすためか、よくこの店へやってくるという。酒もかなり強いし、一見遊び好きな感じもするが、気性はさっぱりしていて根はいい人なのだと、マスターがつけ加えた。
「仁田さんとはじめて口をきいたのは、去年の十一月だったと思いますね。ビレッジのカウンターで隣合わせになって……でもあの人はこの店へ入ったのはまだ二回目くらいだといっていたし、その後もほとんど顔を見せなかったらしいけど……」
梶奈々子は、大きめの爪に真珠色のマニキュアをつけたすんなりとした指で、煙草の灰を落としながら、睫毛を伏せたままで話し出した。が、低い声の調子は落着いていて、むしろもうありのまま告白するしかないとあきらめて、開き直ったような感じもした。
広めの洋室に六畳の日本間がついているマンションの内部は、小ざっぱり整頓され、贅沢というほどではないが、洒落た壁掛けやドライフラワーなどで飾られていた。マンションの位置と彼女の名前を聞いたので、三人はほとんど迷わずに彼女の住居を見つけ出すことができた。さほど高級でもないが、まだ新しい三階建だった。
午後十時をすぎて、シンとしている廊下に立ち、久保井がブザーを押すと、女の声で応答があった。久保井はK会社と自分の名を告げて、「仁田君のことで折入って話したい」と、やや強引な語気でいった。少しの後、チェーンが外されてドアが開いた時、桃恵は思わず身を引いた。傍らの植村にも、同種の反応が認められた。大輪のバラを描いた模様のガウンを羽織ってそこに立っていた大柄な女は、三日と四日の夜椿荘の近辺に現われて、植村と桃恵に出遇った女性にやはりまちがいないようだった。美人というほどではないが、造作のはっきりした顔立ちで、剃った眉や小麦色の肌あいに、桃恵は眩しいような「おとなの女」を感じた。
三人は洋室の居間へ通された。奈々子の夫は今夜も不在なのか、ほかに人気は感じられない。
久保井が、植村と桃恵が椿荘の前で奈々子を認めた日時、それにビレッジで聞いてきた彼女の不可解な電話の件などを、例のあまり感情を混えない早口で突きつけるように話す間、奈々子はちょっと焦点のぼやけた茶色い大きな目を見張って聞き入っていた。
久保井がことばを切ると、奈々子は卓上にあったハイライトの袋から一本抜きとって火をつけ、ゆっくりと煙を吐きながら、意外なほどあっさりと、耕作と知合いだったことを認めたのだ。
「ビレッジで話をしたあとで、今度は偶然道で出遇って……去年の暮ごろから、時々あの人のアパートへ遊びに行くようになったわ。別に仁田さんに誘惑されたってわけじゃなくて、ただ私は主人が留守勝ちで退屈してたし、それに、私ってこれでも割に母性的な面があって、あんなふうに一人で暮らしている若い男《ひと》を見ると、何かと面倒をみてあげたくなっちゃうんですね。それだけのことだったんです」
本当にそれだけの間柄だったのかと、桃恵は思わず猜疑の目で相手を睨んだが、その点については、誰もそれ以上難詰しようとはしなかった。まだ高校生の桃恵の気持を配慮したのかもしれない。
「しかし、三日と四日の晩、あなたは──」
「ええ、そのことなんですけど」と、奈々子は久保井の強い視線を受けとめて、考えを凝らすような複雑な表情になった。
「私が最後に仁田さんと会ったのは、二日の昼前でした。一日の晩久しぶりに電話をかけてみたら、風邪で休んでいるというので、お見舞いに行ったんです。枕許で少し話をしてたら、電話が鳴って、仁田さんが手をのばして取ったわ。短い電話で、すぐ切ったけど、その後で、彼に妙なことを頼まれたんです」
「……?」
「今日から、自分が風邪が治って出勤できるようになるまで、毎晩十時に、ある番号にダイアルして、四回ベルを鳴らして切ってもらいたい。先方が出なくても、決して五回以上鳴らしてはいけない。──妙な話だと思ったけど、あまり真剣なので、引きうけて、二日の晩はいわれた通りにしたわ。でも、三日の夕方くらいから、私は不思議なことに気がついたんです」
「不思議なこと?」
「私が電話をかけはじめてから──まず二日の夜更けに、女子高校生が若い男に襲われた。三日の午後には、放火事件……続けざまに近所で嫌な事件が起こりはじめたんです。これはもしかしたら、彼が悪い仲間と付合っていて、彼が私に頼んだ電話は、何かの暗号なんじゃないか……そう考えたら気味が悪くなって、三日の晩は思いきって彼に訊き糾してみようと決心して、椿荘の前まで行ったんですけど、窓の明りが消えているし、しばらく下の道から様子を見ていただけで、戻ってきてしまった。そのあともう一度ビレッジへ寄って、十時にはあそこの電話を借りて、ともかく約束通りまた同じ番号を四回鳴らしたんです……」
「………」
「四日の朝には、仁田さんの死体が発見されたと聞いて……その晩はあれこれと考えているうちに、知らぬ間にまた足が椿荘へ向いてしまって、帰りがけにあなたとすれちがったわけですよ」
奈々子は案外悪びれない眼差を桃恵に注いだ。
「あれから、何度か警察にありのままを届け出ようかと思ったんですけど、私も主人に仁田さんとのことを誤解されては困るし、それに、もし彼が何か悪事に加担していたのだったら、後が怖いし、また亡くなった彼のためにも伏せておいたほうがいいかと考えたりもして……毎日迷っていたんです」
「あの……兄があなたにお願いしたという電話の番号は……?」
しばらくの沈黙のあとで、桃恵が訊いた。
「それが、聞いたこともない長い番号で、どこへ掛っているのか見当もつかなくて……」
奈々子がバッグから手帖を取り出して示してくれた数字は──02786254××……それはまちがいなく、群馬県T局管内の桃恵の家のナンバーであった。
桃恵はバラバラになりそうに疲れた身体をひきずって、一人椿荘へ戻ってきた。
梶奈々子のマンションを辞去したあと、久保井は、やはりすべての事情を隠さず警察に届け出るべきだろうと、結論をくだした。植村も観念したみたいに、おとなしく頷いていた。
だから、警察の手でいずれ真相が解明されるであろうけれど、今では桃恵には、植村も奈々子も事実を語ったような気がする。それは理屈をとび超えた、若い桃恵の直感であったかもしれない。
兄は解剖による推測通り、やはり二日の夕方に、誤って自ら転倒し、頭を打って死んだのではなかっただろうか。それを知らない奈々子は、二日と三日の夜十時に、頼まれた通り桃恵の番号にダイアルして四回鳴らした。それでこちらは、三日まで兄が生きていたと信じこんでしまったのだ。二日の夕方死亡した彼が、その後に発生した二つの未解決事件と無関係なことは、いうまでもないだろう。
結局耕作の周囲には、真からの悪人などいなかったのだとも感じられてくる。最初はとっつきにくかった久保井部長も、責任感の強い誠実な人柄だったと、今では理解できるのだ。「今後はできる限り力になる」と、別れぎわには朴訥な口調でいい添えてくれたし。兄が他人の悪意によって殺されたより、事故死のほうが、せめてまだ救われると、桃恵は自分の心を慰めた。
ただ、一つだけ、まだどうしても不可解な点が残っていた。
耕作はなぜ、桃恵への電話を奈々子に頼んだのか?
寝床にいても、手をのばせばダイアルは廻せたはずだ。電話が故障していたとも考えられない。兄からの四回のサインを聞いた後で、桃恵が兄の番号にかけた時には、その都度ちゃんとコールサインが鳴っていたのだから。
まさか耕作が、その夕方には自分が急死することを予感して、昼まえにきた奈々子に頼んだわけでもあるまいに……?
耕作の部屋で、桃恵は深い眠りに落ちた。さすがに身も心も疲れきって、一夜ぐっすりと眠った。
目が醒めた時には、縮れたカーテンの隙間から眩しい光がさしこんでいた。時計は九時すぎを指している。
あわてて身体を起こした時、枕許の机の上で電話が鳴った。三日前にここへ未て以来、桃恵がこの電話の受話器を取るのは、これがはじめてだった。
若い男の声が、事務的な口調で、こちらのナンバーと電話の所有者の氏名を確かめた。所有者はこのアパートの持主だが、桃恵は名前を聞いていたので「そうです」と答えると、「こちらはU電話局ですが、お宅は一月分の電話料がまだ未納ですので、今日から受信も切りますから」
「え?──受信も切るって、どういう意味ですか」
相手は少し沈黙した。ちょっと面倒臭そうに息をついてから、
「電話料の払い込みは、翌月の十日が期限なんです。その期限からなお二十日間滞納されると、こちらではまず発信の機能を停止させます。つまり、よそから掛ってくる電話は繋がるが、自分のほうからは掛けられなくなる。主に大都市では、人手の都合や機械の構造上、発信も受信も同時に止めてしまうところが多いんですが、一部の局では、まだ利用者の立場を考慮して、二段階で切ってるわけですよ。発信を停止してから、四、五日待って、まだ未納なら、受信も切ります。そうなると全然電話が使えなくなりますね。勿論、電話料を納入していただければ、約二時間後には元通り通じますが……」
受話器を戻しながら、桃恵は今こそすべてを納得した。たぶん、毎月の電話料は翌月の給料で支払う習慣だったのだろう。ところが給料の大半を植村に貸し、部屋代を払ってしまった耕作は、納入期限の二十日後の月末までに、先月分の電話料を納められなかったのだ。勿論風邪で寝込んだりしなければ、植村の約束通り「二月中に」返してもらって、すぐに納入するつもりだったのだろうが。
二日の昼まえに見舞いにきた奈々子は、耕作に短い電話が掛ったとのべていたが、もしかしたらそれが、電話局からの発信を切る旨の予告だったのではないだろうか。だからそのあとで、彼は奈々子に頼んだ。「ぼくが風邪が治って出勤できるまで」──出勤して、貸し金を取り立て、電話料を払い込むまで、毎夜十時のサインを……。
一方、桃恵が耕作にダイアルした時には、まだ受信は繋がっていたのだから、ベルは正常に鳴ったわけだ。
兄は最後まで、桃恵を気遣ってくれた。心配をかけないために、自分の代りに奈々子にベルを鳴らしてもらった。だから、彼が不慮の死を遂げたあとまでも、彼の便り≠ヘ桃恵の許に届いたのだ……。
そう思うと、兄の心がいつまでも胸の奥に息づいているような気がして、桃恵ははじめて、冴え冴えとした眸を朝の光に向けた。
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特急夕月
列車が揺れるたびに、開けたばかりの罐ビールの飲み口から泡があふれそうになるので、羽島《はじま》は中腰のまま、唇をその方へ持っていって、一口音をたてて啜りこんだ。罐についていた金具を、あいている前の座席の下へ放りこんで、自分の席にすわり直した。
改めてまたビールを喉に流しこんでから、両手を肘掛にのせ、上体をシートの背にあずけた。すると、食道を通過した液体が、部厚い脂肪の奥にある胃の腑に達し、冷んやりとしみわたるのが感じられた。
ちょっと手持無沙汰だが、まずまず快適な気分だ。岡山で乗車する時買いこんだ罐ビールを、あと一、二本も飲むうちに、自然に睡気《ねむけ》がさして、そこでシートの背を倒せば、明朝延岡に着くまで気持よくひと眠りできるだろう。
これが飛行機だと、乗ってから降りるまでベルトをつけたりはずしたりさせられるうえ、周囲の乗客が行儀よく雑誌などを読んでいる手前、あまり飲み食いもはばかられるのだが、やはり、万やむをえぬ場合以外は、ずっと特急列車の旅が好ましい。幸い今夜は、隣があいているので、鼾《いびき》の気がねもいらないし。
もうどの辺まで来たのかと、羽島はピーナッツを頬ばり、左手を窓のカーテンにのばしたが、ガラスの外には闇が流れているばかりである。腕時計は十時十分を少しすぎているから、そろそろ柳井《やない》くらいか。この下り特急夕月≠ヘ、始発の岡山を午後七時に出て、小倉で鹿児島本線から日豊本線に入り、翌朝の六時ごろ終点の宮崎に着くはずだ。夏期と年末だけ走る季節列車で、八月も九日、十一日、十三日……といったぐあいの飛び石運転である。夜行特急でありながら全車座席で、寝台がないのはいささかこたえるが、それでも今度のように岡山から延岡へ行く羽島には、乗り換えのいらないもってこいの列車だった。窓外の闇の中に、時折人家の灯が流れすぎる。遠い空に星がきらめいている。
明日はまた雲一つない晴天かもしれない。南国の日照りはひとしおきびしいだろう。この暑いさなかではゴルフもよしあしだが、羽島が二代目社長を勤めるP化学工業株式会社では、近く延岡に新工場を設置する計画で、明日は宮崎で地元の有力者などを集めた招待ゴルフなのである。社長直々に出向かぬわけにはいかない。昨今のように社会全体が公害問題に鋭敏な風潮になると、化学会社の経営者などは、まったく神経の休まる時がない。大牟田《おおむた》と明石の工場でも、悪臭がひどいの、廃液処理が悪いのと談じこまれては、絶えず補償問題でごたついている。
が、それにしては贅肉《ぜいにく》がつき、血色のいい顔をくつろがせて、羽島はまたビールを口に運んだ。どうせどこにいても煩《わずら》わしいことに変りがないのなら、まあゴルフも悪くはあるまい。今夜はせいぜい熟睡して、明日は40を切りたいものだ。
それに、岡山の本社にいて、秘書課長の恩田の、あの陰気くさい馬面《うまづら》を見ないですむだけでも、気が晴れる。
まったく、なんと胸くその悪い男なのか。見ただけでこちらの気分まで滅入ってしまいそうな、青黒い痩《や》せた顔をしていて、鼻から空気が洩れるような歯切れの悪い声で、ウジウジと喋る。いいつけた仕事もグズなら、自分の方から何か気をきかすということが、一度でもあったろうか。こちらが怒ればいよいよ卑屈に猫背の肩をすぼめ、言訳にもならぬ愚痴めいた繰り言を、いつまでもブツブツ口の中で呟《つぶや》いている。そうなると羽島はますます無性に苛々《いらいら》してきて、一層頭ごなしに怒鳴りつける。すると最後には、恩田は落ちくぼんだ眼窩《がんか》の奥から、なんともいえず怨みがましく物悲しい光をたたえた細い目で、ジーッと見つめてくる。その目つきがまた羽島にはやりきれない。
ふつうならとっくに馘にしてやるところなのだが、妻の亡父である先代社長が、若いころ恩田の父親に何か恩義を受けたとかで、死ぬ前には彼を秘書課長に据えて、先々まで頼みこまれてしまったのだ。妻の手前もあり、それであっさりお払い箱にするわけにもいかず、羽島は以来五年も、毎日不愉快な思いをさせられている。
恩田を切れないもう一つの理由もあった。彼の長女|冴子《さえこ》は、昨年短大を卒業して、本社総務部に入ったのだが、これが鳶が鷹を生んだような娘である。細っそりした輪郭だけは恩田と共通だが、色白の美貌で、顔に似ず肉づきのいい身体の線も、羽島の好みにピッタリだった。おまけに、それとなくモーションをかけてみると、これがまんざらでもない反応を示した。
そうだ、冴子をすっかり手中におさめたら、恩田などは工場の庶務にでもとばしてやるぞ。もう五年も我慢したのだから、先代への義理も十分果たしたというものだろう。
羽島が、会社のユニフォームをすっきりと身につけた冴子を、心の中で裸にし、恥じらう姿を思い描いてつい陶然と目を泳がせた時、列車は速度を落として、どこかの駅に着いたようだった。
やはり柳井であった。駅名をしるした柱がゆっくり後へ移動して、「やない」と読まれた。十時二十三分になっている。列車は少し遅れ気味ではあるまいか。
グリーン車の中はひっそりしている。通路をはさんで二列ずつ、座席指定のロマンスシートが並んでいて、六割がたの混み方なのだが、中ほど左側の羽島の周囲は、隣も前後も、通路を隔てた二席まで、気持よくあいている。十時頃までは、通路に乗客の動きも見られたが、もうたいていの人が眠りかけてでもいるのか、ほとんど話し声も聞こえない。
柳井は一分停車で、すぐ動き出した。
羽島は、罐に残っていたビールを飲み干すと、そろそろ自分も寝ようかと考えた。延岡には明朝五時前の到着になるから、早めに眠っておいた方がいいにちがいない。
彼は空罐を足許に置いて、リクライニングシートの背を倒すレバーをまさぐりながらうつむいた。と、その手許がふいに陰《かげ》ったような気がして、思わず顎《あご》をあげた。
通路に立ってこちらを見おろしている男の細長い顔を認めた時、羽島は一瞬わが目を疑い、それからいよいよけげんに眉をひそめた。
「君は……なんだ、恩田君じゃないか?」
つい今しがたまで心の中で毒づいていた相手が、まったく思いもかけず、突然目の前に現われた驚きは、次にはたちまち怒りの原動力に変っていた。いかに短気な羽島でも、ふつうあまりに予想外の事態が発生すれば、まず一通りの説明を聞くくらいの度量は持ちあわせているのだが、この恩田に対した時だけは、どういうものか、ほとんど生理的ともいえる苛立ちの感情が、抑えようもなく噴出してくるのである。
「いったいどういうことだ。君は、昨日専務に従《つ》いて大牟田工場へ出張し、今日はまた専務と共に、夜行の急行で明朝までに明石工場へ行く予定ではなかったのか。いや予定もなにも、わしが君に命令したはずだ。明石工場では、明朝九時より地域住民代表との折衝が行われ、専務が出席する。そこでまあ、君みたいな者でも、従いていけば雑用くらいは……」
通常なら、羽島の罵声がこのへんまで迸《ほとばし》ったところで、奥まった目に狼狽と怯《おび》えを浮かべ、無力な言訳を呟きはじめる恩田なのだが……今ふいに羽島の前に姿を見せた彼は、どこかしらふだんと様子がちがう。といっても、羽島の声が聞こえないといった感じでもなく、三角形の灰色の眸は、ある種の、ちょっと理解しがたい緊張を帯びて、瞬《まばた》きもせずにこちらを見返しているのだ。
次には彼は、断りもなく、羽島の隣の席に腰をおろした。
「おいっ、なんとかいったらどうだ。今時分こんなところでグズクズと……第一、君がここへ乗ってくるというのが……一体──」
爆発寸前といった羽島の方が、声がもつれそうになっているほどだ。
恩田は、周囲の空席や、寝静まっている前後の乗客たちに一度目を配ってから、ゆっくりとまた羽島の方を振返った。不愉快な顔が目近にきたので、羽島は思わず顎を退《ひ》いた。
「明石工場の会議は、明朝九時からでございましたね。ご心配には及びませんよ」
声までが、いつもの鼻に抜けるような気弱な感じではなく、喉奥にこもった、妙に押しつけがましい喋り方をする。おまけに語尾には、不可解な笑いすらからんでいる。
「なんという言い草だ! 今時下りの特急に乗っていて、どうやって明日までに明石へ行く気だ。大体、君はどういう了見でわしの命令に背き、こんなところへフラフラやって来たのだ?」
「いえ、それはですね。少々急用ができましたもんですから。つまりこの下り夕月≠ノ、私の知合いが乗りまして、ぜひとも会って話しておきたい用件がありましたわけで……」
少しばかり、持ち前の悠長な喋り方に戻ったが、それがオドオドした気持のせいではなく、むしろどこかで開き直った響きを感じさせる。しかも、これまでならほとんど伏目勝ちで、時たまチラチラと上目遣いしながら言訳するところを、恩田は至近距離から、まるで観察するように羽島を眺めている。ビールでやや上気した顔から、太い首、手に持ったままのピーナッツの袋へ……。
羽島は、いよいよ怒り心頭に発しはじめた。
「き、貴様は、何をたわけたことをいっておるのか。誰に何の用か知らんが、そういう私用は仕事以外の時間に片づけておくのが当然ではないか。君という男は、五十にもなって、まだそんな常識も弁《わきま》えていなかったのか。まったくもう、話にもならん。そもそも、一緒に明石へ向かうはずの専務には、断ってきたのか」
「いえ、別に」
恩田はまたも、奇妙にさえた目で羽島を見返す。
「専務とは、予定通り今日の夕方ご一緒に、大牟田から六時八分の上り急行阿蘇≠ノ乗車いたしまして、間もなく専務は一日のお疲れが出ましたか、すやすや眠ってしまわれたものですから、わざわざお起こしするのもナニと思いまして、黙ってちょっと失礼してまいりましたのです」
「なに、今日の夕方予定通り上りに乗った? いいかげんにしないか。上り急行に乗った者が、どうして今時分下りの特急に──」
「いえ、それはできないこともないのでして……現にこうやって私は今、社長の隣にすわっておりますからな。もっとも、広島駅では大奮闘せにゃなりませんでした。あれは、そうですな、百五十メートルはあろうかという距離を、一分で走らなければならなかったのですから。この齢であれはこたえましたな。まあ、この夕月≠ェ四、五分遅れてくれたので、運がよかった、といいますか、いやむしろ、運命の神に弄ばれているのかも……」
この男は気がおかしくなったのではあるまいか?──羽島は一瞬薄気味悪さを覚えたが、しかし精神異常となれば、ひと思いに解雇の理由もできるというものだ。その解放感は、一層羽島を居丈高にした。
「君の話は、さっぱりわけがわからん。ともかく、こういう身勝手というか、不始末というか、これがただですむと思ったら大まちがいだぞ。明日から別の勤めの心当りでも捜しておくことだな。──しかしそれにしても、専務が目をさまして、君がいなければ、事故でもあったのかと心配するかもしれん。あの男は君とちがって、若いがよく気のつくほうだからな」
「いえ、それならばお気遣いはいりません。専務は当分、目をさますご様子ではありませんでしたから」
当分、と変に力をこめ、それから恩田は紫がかった唇から黄色い歯をのぞかせて、ひとり満足げな笑いを洩らしたのだ。
怒鳴り続けだった羽島は、ひどく喉が乾いてきた。今夜はもう眠るつもりだったのだが、やはりあと一本飲むことにした。ムシャムシャした気持で、窓枠の上に並べてある新しいビールの罐をつかみとった。金具に指を入れて、グイと開ける。その手許を、恩田がジッと見守っているが、無論まだ余分にあるやつをすすめてやる気など、毫《ごう》もない。
飲み口を近づけながら、彼はふと、さっきとどこかちがっているのを感じた。さっき罐を開けた時には、中身のビールが列車の震動に揺られて、こぼれそうになったのだが……今は泡がおさまると、ピタリと静止している。
それでも彼はせっかちな手つきで一口飲み、唇を拭いながら周囲を見回した。そしてようやく気がついた。
列車が停《とま》っているのだ。──確かに、まったく動いていない。恩田をどやしつけるのに夢中になっていて、まるで気づかなかったのだが、今停ったばかりという感じでもない。どうも大分前から停車していたらしい。
羽島はカーテンを分けて、外をのぞいた。
ガランとしたプラットフォームが、ほの暗い外灯を鈍く反射させている。
どこかの駅に停っているのだ。が、停車駅に着いたのではなく、本来は停るはずでない駅に臨時停車したという様子である。それは、フォームに人の動きが見られず、静まり返っていることから察しられるのだ。それに、柳井から徳山まではノンストップのはずだが、まだ徳山に着くには少し早いだろう。
腕時計をのぞくと、十時四十分をすぎている。
ちょっと首を傾げて、何気なく恩田の方を向いた羽島は、その青黒い横顔を一目見るなり、またも眉をひそめた。
恩田は、瞼《まぶた》のうすい三角形の目をむいて、反対側の窓を凝視している。やや受け口の艶《つや》のない唇が無意識のように開いて、呼吸が次第に荒くなってくる感じなのだ。──と、急にハッとした仕種で腕時計を見、再び顔をふりあげて、両側の静止した窓の外を気ぜわしく見較べた。
「停っていますね。いつごろから停っていたのでしょうか」
まるで譫言《うわごと》を口走るみたいに呟いて、動転したように羽島を顧みる。
そんなこと知るかというふうに、羽島は小鼻をうごめかし、ことさら喉を鳴らしてビールを飲みこんだ。
恩田はなおも二、三度両側を見返り、また腕時計を睨んだりしていたが、やおら立ちあがり、反対側の空席に入って、半ば開いていたカーテンを全開した。はめ殺しの窓ガラスに額をこすりつけて、外をのぞきはじめた。しばらく前や後を見ていたが、いよいよ狼狽した顔つきで戻ってきた。浅く腰かけただけで、膝に置いた手がいかにも落着かなげに、腕時計のベルトをこすっている。
「どこかね」
羽島は気のない声で訊いた。
「光です」
「ああ?」
「光という駅に停っております。徳山の三つほど手前で、大体停るはずではないのですが……いつごろから停っていたんでしょうか」
さっきと同じ問いを、かすかに慄《ふる》える口調で尋ねた。
「わからんね。だが今停ったばかりでもなさそうだ。もう五分や十分は停車しているんじゃないかね。大体君が寝言みたいなことばかりいっておるから、列車まで調子が狂ってしまったようだ」
「五分か、十分……いったい、何があったんでしょうか」
ほとんど悲痛な声である。
羽島は蔑《さげす》みを露《あら》わにして、秘書の顔を眺めやった。いよいよこの男は気がふれたんじゃあるまいか──?
それにしても、確か徳山が十時四十六、七分のはずだから、もともとこの列車が四、五分遅れていたとしても、もうとっくに光を通過していなければならないはずだ。やはり十分くらいは臨時停車しているのかもしれない。どうしたことなのか。
別に急ぐ旅でもないが、羽島も少しじれったい気持になりかけたころ、ピーッと車内のマイクが鼓膜を刺激する音を発した。
続いて、睡《ねむ》そうな男の声が、悠長に喋りはじめた。
「ご迷惑をおかけしております。徳山と周防富田《すおうとんだ》の間で踏切事故が発生しておりますので、しばらくお待ちください……」
そのアナウンスを聞きとった瞬間、恩田の痩せた身体がグラリと前へ傾いたような感じがした。
羽島は、またなんともいえぬ苛々した腹立たしさが、鳩尾《みぞおち》の底から噴き上ってくるのを覚えた。自分はもとより寸刻を争う急用を抱えているわけではなし、今十分遅れようが二十分停っていようが、大した問題ではないのだ。むしろ今夜は久しぶりに好きな列車の旅を堪能し、明日は良好なコンディションで招待ゴルフに臨もうと考えていたのに。それを恩田が命令に背いたばかりか、なんだか知らぬが突然隣に乗りこんできて、奇態な言動を示すので、すっかり神経を乱されてしまった。
恩田が深く首をうなだれ、途方に暮れたような溜息を洩らした時、羽島は再び怒りを爆発させた。
「おい、とにかくどこか別の席へ移り給え。君に隣でゴソゴソされていては、眠るにも眠られん。いやその辛気《しんき》くさい顔を見ているだけで、ビールまでまずくなってくる。今夜の不始末については、さっきもいった通りだ。これ以上君のような男をわが社で働かせておくわけにはいかん。処分は追って沙汰するから、とにかく今夜はとっととどこへでも──」
「社長!」
ふいに恩田が鼻に抜ける悲鳴のような声を発した。前を向いていた彼は、急に横ざまにすわり直し、羽島の方へ上体を向けた。両手をつくみたいな恰好で細長い指をのばして肘掛に置き、猫背をいよいよ丸めて頭をたれた。上目遣いに見あげた眸には、五年間羽島の見慣れた、卑屈に哀願する光が漂い出ている。
「いや、今夜の件は、まことに私の心得ちがいでございました。……いえ、私も出張中の時ではあり、いろいろ迷わぬでもなかったのですが、やはり今夜の方がよろしいかと考えまして……この不始末の埋め合わせは、必ず、今後一層非力のわが身を鞭打ちまして……」
長く羽島と視線を合わせている意気地もなく、不得要領な言訳を口の中でブツブツ繰返している声も、次第にか細く跡切れていく。恩田は、突如ふだんの彼に戻っていた。
しかし、そんな彼を見れば、羽島はまた習慣的な苛立ちと、いよいよ無性に苛《いじ》め抜いてやりたいような衝動を抑えきれず、
「埋め合わせだと? フン、それならこの五年間の分を全部やってほしいものだ。まったく先代社長はどんなお考えだったのか知らないが、君みたいな能なしを秘書に持ったおかげで、こっちは精神的実際的に、どれほど損害をこうむっているか、言葉ではいい尽せぬほどだ。とにかく、もうなんといおうとも、今後の処分は──」
「いえ、それだけは……どうか何卒《なにとぞ》ご寛容をいただきまして……この齢になりましてから、ほかに勤めを捜すと申しましても、ご承知の通り、昨今は不景気な時節でもございますし……」
恩田はますます肘掛に額をすりつけんばかりにして謝り続ける。
彼は──まったくこの齢で会社を馘になりでもしたら、拾ってくれるところなどどこにもあるまいと自分にいい聞かせながら、今はひたすら社長の激昂を鎮めることに、気力をふり絞っていた。
それにしても、自分はなんと運のない男だろう。
そもそもあの温厚篤実であられた先代社長が、まだ六十代のお若さで亡くなられたことが、自分の人生の不運の始まりであったのだ。お人柄そのままだった白皙端整なお顔と比べ、今目の前にある羽島の赭ら顔の、なんという不潔さ、醜悪さ! 大きくとび出しているくせに眸の小さな白っぽい目は、内面の酷薄を物語っているし、胡座《あぐら》をかいた小鼻から顎の下までたるんでいる脂ぎった贅肉は、品性の貪欲と好色の顕れにほかならない!
ああ、まったくどこまで自分はついていない人間なのか、選《え》りに選ってこんな際、列車がストップしてしまうとは。それも五、六分程度ならまだ可能性が残されていたものを、本来なら十時三十四分に通過するはずの光駅で、もともと四、五分の遅れと合わせて、十六分もロスしている勘定だ。しかもまだ一向に動く気配もない。十九分がこちらのギリギリの猶予なのだから……もう絶望だと、恩田は全身の力が抜け、その身体が果てしなく沈んでいくような失意に襲われた。
今夜を逸したら、もう二度とこんなチャンスはめぐってこないだろう。千載一遇の好機と思えばこそ、われながらやや優柔不断を認めざるをえない自分が、敢然として踏み切ったというのに!
そしてこの機を逃せば、これほどの勇気も二度と湧かないような気がする。とすれば、自分は一生、この横暴なサディストの社長に、罵られ、イビられ、顎で使われて、耐えがたい侮辱に結局ジッと耐えていくしかないにちがいない。そのわが身の姿が、目に見えるようだ……。
しかし……ああ、今ついに十時五十三分。猶予の十九分はこれで失われたのだ。もう|戻れない《ヽヽヽヽ》。戻れない限り、謝るしかないではないか。ひたすら頭をすりつけて、馘首《くび》だけは思い留まってもらわなければ。
「本当に、どうかそればかりは。なにぶん家にはまだ中学と高校の伜《せがれ》が二人おりまして……」
恩田は泣くような声で呟き続けた。
ピーッと再びマイクが鳴り、耳元の御詠歌みたいな陰気な声を遮《さえぎ》ったので、羽島はついでに肘掛にしがみついている恩田の両手を押しのけるように腕をのばした。
先刻と同じ男の声で、アナウンスが流れた。
「大変ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません。徳山、周防富田間の踏切事故は、下り臨時電車に乗用車が衝突したもので、乗用車の運転手さんは重傷を負われました。また大破した車体が上り線路にもかかっておりますので、上下線とも不通になっております。復旧まで、今しばらくお待ちくださいますようおねがいいたします。──大変ご迷惑を……」
マイクが同じ文句を繰返し、「上下線とも不通……」の箇所にきた時、息をつめて聞き入っていた恩田が、むっくりと頭を起こした。それから──最初にここに現われて、羽島の隣に腰かけた時に見せた、奇妙に居直ったような瞬きしない目で、無遠慮に彼を眺めはじめた。もう肘掛に手をかけようとはしない。代りにその手は、膝より少し浮きあがった空間で、まるで攻撃に移る前の拳闘選手のように、握り拳《こぶし》をつき合わせている。
「それにしても、さっき社長は、この五年間の埋め合わせをしろなどといわれましたが、その台詞《せりふ》は私の方で申しあげたいことですな。まったく、あなたみたいな欠陥社長の下でたとえ五年でも働いたことに、私は取返しのつかないような後悔を覚えておりますよ」
喉奥で押し殺した声。次第に異様な興奮に熱して、こちらを見据えてくる小さな灰色の眸。
さすがの羽島も、この豹変ぶりには瞬時|呆気《あつけ》にとられ、咄嗟《とつさ》に言葉も出なかった。列車が停ったり、アナウンスが流れたり、なにか外部に変化が起きるたびに、恩田はガラリと態度を変える。それも、ひどくふてぶてしく居直るかと思えば、途端に日ごろの卑屈さに戻って平身低頭する。その変り方が、とても尋常のものとは思われない。
やはりまちがいなく、精神に異常をきたしたのだ。こんなふうに、言動がまるでチグハグに分裂してしまうのが、もしかしたら精神分裂病の症状なのではあるまいか。勤続中はろくな働きもしなかったくせに、このうえまた休職して給料をただ取りしようと思っても、そうはさせないぞ。就業規則など糞くらえだ。組合がなんといおうと、即刻馘にしてやる。いや今夜の社長に対する暴言だけでも、処分の理由は十分すぎるくらいだ。
羽島は一度肩で息を吸いこむと、相手の敵意を数倍にしてはね返す勢いで、あらん限りの面罵を浴びせはじめた。
いくらでもいうがいい。ほかに聞いている者はいないし、自分もこれで聞きおさめと思えば、奇妙な感慨すら湧いてくるというものだ。──恩田はいよいよ決行の決意に、痩せぎすな顔面を硬直させて、ビールの泡をつけた部厚い唇から飛んでくる唾液を受けとめていた。
さっき、踏切事故のために停車とだけ聞いた時には、ほとんどあきらめかけたのだが、やはり運命の神は最後には公平だった。自分ほど不運な男から、一生に一度のチャンスまで奪い取るようなことはしなかった!
今聞けば、下りで衝突した乗用車の車体が上りにもひっかかっていて、上下線とも不通という。それならば、臨時停車はこの下り夕月≠ホかりでなく、上り急行阿蘇≠熬竄チているわけなのだ。事故は少くとも夕月≠ェ光駅を通過する予定の十時三十四分以前に発生している以上、阿蘇≠ヘ小郡《おごおり》を出て防府《ほうふ》にかかる手前あたりで、事故地点より西で足止めをくっていることはまちがいない。時刻表を改めるまでもなく、この辺の列車ダイヤは、彼はもう細部まで暗記してしまっていた。
上りも下りも同じ事故のために停っているなら、条件は本来と少しも変りないではないか。徳山での十九分の余裕は、依然残されているのだ。つまり、|戻れる《ヽヽヽ》のだ。
このチャンスを逃がすなという、天啓かもしれない。憎むべき羽島を抹殺し、しかも恩田は堂々とアリバイを立証できる稀有なるチャンス! ──いや、もともと自分は、耐え忍ぶ覚悟だったのだ。日々の屈辱に耐え、涙をのんでひたすら忍従し、つらい毎日をやりすごしていけば、ともかくも子供たちを大学にやることもできるのだからと。
だが、どうにも腹に据えかねたのは、羽島の冴子に対する下劣きわまる行動である。冴子には恋人があった。地元の大学を出て保険会社に勤める真面目な青年で、恩田も賛成していた。ところが、羽島が冴子に妙な色目を使い出してから、冴子の心が変ってしまった。同じ社内で父親の苦労を毎日目のあたりに見ている冴子は、自分がもし社長の意に逆らえば、ますます父親が辛い目にあうと思いこみ、犠牲になる決心らしい。恩田は折にふれ、そんな気遣いは不要だと忠告するのだが、冴子はもうすっかり人身御供《ひとみごくう》の覚悟を決めて、最近では恋人の青年をもつとめて避ける素振りである。
羽島のために人生を踏みにじられるのは、自分一人でたくさんだ。将来ある冴子まで、あんな男の毒牙にかかってたまるものか。
恩田にひそかな殺意が芽生えると、まるでそれを待っていたように、機会が訪れた。社長が宮崎で接待ゴルフ。その出発の前日に、恩田は専務に従いて大牟田工場へ赴き、翌朝までに明石工場へトンボ返りせよとの出張命令。
そこで恩田は、この季節特急夕月≠フグリーン車座席指定券を、羽島の分以外にも、いろいろなルートから買えるかぎり買い占めた。車内が満員では、犯行は不可能だからだ。ことに羽島が腰かける席の隣と前後、通路を挾んだ反対側の二席くらいは、なんとしても確保しなければならなかった。
一方、同じ今日の十八時八分に大牟田から専務と共に、上り急行阿蘇≠ノ乗車した恩田は、間もなく睡眠薬入りジュースをすすめて、専務を眠らせてしまった。十九時二十一分に一人博多で下車。新幹線のフォームへ急いだ。十九時二十四分発の上りひかり52号≠ノ乗り換えるためである。ここでは三分の余裕があるから、楽に間にあう。
ひかり52号≠ナ広島まで行く。広島着が二十一時二十分。次の広島駅の乗り換えだけは、賭けだった。この下り夕月≠ヘ二十一時十六分に広島へ入り、五分停車で二十一分に発車する。つまり乗り換え時間がたった一分しかなかったからだ。
恩田はひかりの十一号車からとびおりると、目の前の下りエスカレーターに走りこみ、その上を駆けおりた。連絡通路の陸橋を全力疾走。山陽本線下りフォームまで、途中二本のフォームの上を横切るかたちだ。もっとも、もしここで夕月≠ノ間に合わなければ、計画を放棄して、やがてやってくる阿蘇≠ヨ戻ればいい。退路はあるのだ。賭けといっても、負けてもともとという心の逃げ道が、かえって彼の足を機敏に屈伸させていたかもしれない。
おまけに夕月≠ヘ定刻より四、五分も遅れて着いたので、結果的にはじゅうぶん間にあった。息せき切ってフォームへ駆けおりた彼の眼前へ、明星型電車の尖端部が、ちょうど入線してくるところだった。その煌《きらめ》く二つの眼光を浴びながら、ついに賽《さい》は投げられたと、彼は感じた。その一瞬彼の体内をよぎった感情は、この五十年の人生でかつて味わったこともない目くるめく充足感であり、同時に恐れとかすかな後悔のからみつく、複雑な興奮の渦だった……。
夕月≠ノ乗りこんで、羽島に接近する時を計った。乗り換えの問題と、もう一つ大きな気懸りだったのは、この列車の混み具合である。夕月≠ヘ夏期と年末だけ運行するいわゆる帰省列車の性格を持ち、ローカル線の夜行特急というイメージよりも利用率が高いと聞いていた。583系明星型電車の十二輌編成で、本来普通車は全部寝台車なのだが、人手をはぶくために、すべて座席にして乗客をつめこんでいる。
案の定、普通車は主に若い人たちで、八割以上の座席がふさがっているようだった。
だが、五号車のグリーン車は、一見したところ六割の利用率。恩田がけんめいに指定券を買い集めたことも功を奏しているはずだし、中ほど左側窓寄りに腰かけている羽島の隣と前後、通路の反対側二席も、当然ながら無人であった。
恩田は後の出入口に近い席に腰をおろし、車内が寝静まるのを待った。十時ごろまでは何かと通路に動きが見られたが、岩国をすぎ、間もなく柳井のあたりから、大抵の人が二段式のリクライニングシートを倒して目をつぶりだした。羽島から一番近くになる斜め前方の席にいた初老の二人連れが、顔にハンカチをかけて眠りはじめたのを見届けてから、恩田は羽島の前に姿を現わした。柳井を出た直後、十時二十五、六分になっていた。
予定通りなら、徳山直前で決行し、徳山下車が二十二時四十六分。すると十五分の待ち合わせで、上り急行阿蘇≠ェやってきて、四分停車で二十三時五分に発車。つまり犯行後、本来恩田がいるべき上り阿蘇≠ノ戻るには、十九分の、ほぼ安全を保証する余裕があるという計算であった。
夕月≠ェ臨時停車した時には狼狽したが、上下線とも停っているなら、条件は最初と少しも変っていないわけだ。
これで下り夕月≠フ車内で羽島の死体が発見された暁に、もし恩田が疑われたとしても、自分はずっと上り阿蘇≠ノ乗っていたと主張し、現に徳山から明石までは、また何事もない顔で専務の横にすわっているのだから、まさか警察では、こんなきわどい乗り換えを繰返して犯行車を往復してきたとは、想像もつかないだろう。
いや、たとえそこまで追及された場合にも、恩田は頑として否認し、一方その証人となるべき同行の専務はといえば、彼自身も次期社長のポストや微妙な派閥をめぐって多少の動機関係はあるわけで、自らのアリバイを立証しなければならない立場である。となれば、ただ眠りこけていたでは弱いから、勢い連れの恩田の証言を求める恰好になり、その専務のアリバイを支持してやることは、必然的に恩田自身のアリバイをも裏付ける結果をもたらすわけだ。博多から徳山の間でも、時たま目をさまして話をしたではありませんかなどと持ちかけてやれば、回転の早い専務は渡りに舟と同調するにちがいない。
恩田の腕時計が十一時を大分廻っている。車内はすっかり寝静まっているようだ。
さあ、決行の刻《とき》だ。
恩田が上衣のポケットに右手を入れて、用意してきた薬の包みを指先につまみ取った時、再度マイクが機械音を発した。
「長らくご迷惑をおかけしております。徳山、周防富田間の踏切事故は、ただ今上りが開通いたしました。下りは乗用車の車体を取りのぞくため、もうしばらく停ります。発車まであと二十分程度かかる見込みですので、ご了承ください。どうか皆さまも、踏切事故にはじゅうぶんお気をつけてください。──繰返します。……」
ポケットの中で、恩田の指から薬包紙がすべり落ちた。顔からスッと血が退くのが、自分でも意識された。
なんということだ! 最後の土壇場で、賽は裏目に出てしまった。ただ今上りが開通……下りはもうしばらく……!
今上り阿蘇≠ェ動き出したのだ。何も知らずに眠り続ける専務を乗せて。間もなく徳山。そして少しでも遅れを取り戻すために、四分も停らずに発車するかもしれない。一方下り夕月≠ヘ、まだあと二十分もこの光駅で足止めを食うという!
阿蘇≠ヨ戻れない限り、ここで羽島を殺すわけにはいかない。アリバイの成算もなしに、こんな男と心中するなど真っ平だ。
ああ、チャンスは潰《つい》えた。羽島はなんと命|冥加《みようが》な男なのか。いや、運が強いというべきだろうか。そうだ。つまるところ自分より運が強いのだ。そして、運の弱い者は、結局強い者に忍従していくしか道はないのだろう。弱肉強食は古来人の世の習いなのだから。
恩田は、ポケットから右手を抜き出し、左手といっしょに、おずおずと肘掛の方へのばした。つい今しがた、「欠陥社長」などと口走ってしまった手前、今度はよほど根気よく謝罪しなければ、「処分」を翻してくれないかもしれない。
だが、恩田の指が肘掛に達し、両手をついて平身低頭の姿勢をとる前に、羽島が立ちあがった。ビールを流しこんでは恩田を罵倒していたので、小用に迫られたのかもしれない。恩田に脚をひっこめろと顎をしゃくり、通路に出た。手洗いのある後方へゆっくりと歩いていく。
恩田は打ちのめされた目で、太い鰐皮のベルトを巻いた、自分より倍も幅のありそうな社長の胴のあたりを見送っていた。
彼が戻ってきたら、とにかく遮二無二《しやにむに》頭をさげよう。謝るのは早いに越したことはない。
しかし、それで自分の首は繋がったとしても、冴子の行く末はどうなるのだろうか……?
清純無垢な娘の面差しを瞼に浮かべると、恩田は思わず涙ぐんだ。──が、ともあれ冴子も、父親が殺人犯で捕まるよりは、ましというものだろう。自分たちのように不幸な親子にも、いつかまた好運が開けないとも限らない。たとえば羽島が、脳溢血でポックリいくとか……いやいや、あいつはとてもそう筒単には死にそうもない。「憎まれっ子世にはばかる」の標本みたいな奴なのだから。
恩田は暗澹《あんたん》とした眼差を窓へ注いだ。外のフォームには相変らず人影もなく、線路を隔てた先のガランとしたフォームに吊された駅名の標示板が、オレンジがかった明りを孕《はら》んでいる。
「光」……。
列車は光駅で停ったまま、依然として微動もしていないのだ。
しかし──虚脱したように遠くを見やっていた恩田の眸の底に、徐々に、精神集中の異様な熱気がこもりはじめた。
待てよ。この光駅は、本来夕月≠フ停車駅ではなかった。だから、夕月≠ゥら阿蘇≠ヨ戻るための乗り換え駅を物色したさいにも、最初からこちらの念頭になかった。しかし今夜は突発事故のために、臨時停車したわけだ。一方、阿蘇≠ヘどうか。確か……いや、まちがいなく、この光に停車するのだ。西から、徳山を出て、櫛《くし》ヶ浜《はま》は通過、それから下松《くだまつ》、光と停車して、次は柳井──。
とすれば、たとえ夕月≠ェストップしたままでも、この光で待っていれば、阿蘇≠ェ停ってくれるのだ。
どうして今までそんなことに気がつかなかったのだろう! なにも徳山まで行かなくても、ここで阿蘇≠ノ乗り換えることができるのだ。やはり運命の神は、自分に味方していた。今までは、ちょっとした試練を与えていただけかもしれない。臨時停車するにも、都合よく阿蘇≠フ停車駅を選んでくれたことが、最初から天が恩田に微笑んでいた証拠ではないか。さあ、そうと決まればクズグズしている場合ではない。やがて阿蘇≠ェやってくるのだ。
恩田はポケットから、さっき手にしかけた小さな紙の包みを取り出した。羽島が窓枠の上に置いていった、飲みかけの罐ビールの中へ、うす青い光沢を帯びた粉末を注ぎこんだ。かすかに指が震えたが、どうにか罐の縁にこぼさずにやれた。
恩田がカラの薬包紙をポケットにねじこんだのと、羽島が自動扉を開閉させて戻ってきたのとは、同時だった。恩田はいったん席を立ち、社長の通り道をあけた。彼はもう恩田の存在などまったく無視するように、目もくれず、窓際の席へ入った。すっかり腰かける前に、窓枠に置いた罐ビールに視線を止め、左手でとりあげた。まだ中身が残っているのを音で確かめてから、深くシートにもたれた。
動かない窓外に白っぽい目を向けながら、ゆっくりと罐を唇に近づける。
それを見届けると、恩田はすっと立ちあがった。靴音を殺した大股で通路を進み、少し近い前方出入口のドアへ急いだ。ついに終ったのだ。今羽島が口に運びつつあるビールに含まれた毒薬は数秒で全身を痺《しび》れさせ、二分以内に意識と生命を同時に奪うだろう。こちらはこの列車を降りるだけだ。まだ阿蘇≠ェ着くにはじゅうぶん間がある。落着いて上りフォームへ移り、乗り換えればいいのだ。それで完了だ。自分もとうとう大事を成し遂げたのだ!
上りは開通したといっていたが、下りはいつまで停るつもりなのか。腹立たしく外を睨んでいた羽島は、ふいに恩田が唐突な動作で通路を歩き出したので、ビールを持っていた手をとめて、思わず見守った。
手洗いなら後方の方が近いのに、しかもいやにあわてた、それでいて奇妙にギクシャクした身振りである。見る間に彼は自動扉を出て、次にはデッキのフォームに面したドアに駆けよる姿が認められた。
何をやっているのか、気違いめ。外に出て頭を冷やそうとでもいう気か。よくよく馬鹿な奴だ。羽島はもう恩田のことなどすっかり意識から追い払うつもりで、残っていたビールを一息に喉へ流しこんだ。
しかし、実際こう長く停ったままでいると、恩田でなくても、ちょっとフォームにおりて、外の空気を吸いたくなる。だがそんな点、最近の特急は不便にできている。窓もはめ殺しなら、ドアも自在に開けることができないのだから。光駅は夕月≠フ停車駅ではないので、ドアが開いているわけはないのだ。
恩田は、今度は反対側のドアにとりついている。彼がデッキでウロウロするたびに、通路の自動扉が開いたり、閉まりかけたりする。
まったくあの男は、いよいよ精神が破壊されてしまったらしい。手だけで開くはずのないドアを開けようとして、あの血相変えた死物狂いのありさまはどうだ。まるで火事場から逃げる時とか、あるいは殺人犯が一刻も早く現場から脱出しようとするかのような……それにしても今飲みこんだ、ビールの……異常な苦《にが》みは……?
ウッと低い呻《うめ》きを洩らして、羽島は喉元をつかんだ。その一瞬、羽島と恩田の目が、空間でぶつかった。そして二人はなぜか、最初にして最後の、わけもない笑いを交しあったのである。
初出誌一覧
「アリバイの彼方に」オール讀物昭和五十一年七月号
「滑走路灯」(「ある邂逅」改題)小説宝石昭和五十一年六月号
「止まれメロス」別冊小説新潮昭和五十一年春季号
「彼女の死を待つ」別冊小説 club 昭和五十年十一月号
「遺書をもう一度」小説現代昭和五十一年一月号
「霜月心中」小説宝石昭和五十一年二月号
「便り」問題小説昭和五十一年五月号
「特急夕月=v別冊小説宝石昭和五十年爽秋特別号
単行本 昭和五十一年八月、文藝春秋より刊行
〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年七月二十五日刊