目次
第一章 二人の主人公
第二章 現場証人たち
第三章 人みな、コンスタンティノープルへ
第四章 攻防はじまる
第五章 海戦の勝利
第六章 金角湾喪失
第七章 最後の努力
第八章 崩れゆく人々
第九章 コンスタンティノープル最後の日
第十章 エピローグ
解説(森本哲郎)
第一章 二人の主人公
コンスタンティノープルの都
一都市の陥落が一国家の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍らしいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与えつづけてきた一文明の終焉《しゅうえん》につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか。そして、それがしかも、年がはっきりしているだけでなく、何月何日と、いや時刻さえもはっきり示すことができるとしたら……。コンスタンティノープルは、滅亡の日が明らかであるだけでなく、誕生の日もはっきりしていることでも、珍らしい都なのであった。
西暦三三〇年の五月十一日をもって、それ以前はビザンチウムと呼ばれていた、ボスフォロス海峡にそうこの都は、創立者コンスタンティヌス大帝の名をとって、コンスタンティヌスの都という意味の、
「コンスタンティノポリス」
と呼ばれるようになったのである。これが、「東ローマ帝国」あるいは、「ビザンチン帝国」と呼ばれもする、ギリシア語を話すローマ帝国の、一千一百二十三年間にわたった首都になる。
ここでは、日本では最も普及した呼び名であるという理由で、英語式発音のコンスタンティノープルで通すことにするが、この都が健在であった一千年余りもの間も、コンスタンティノポリスというギリシア、ラテンの名称だけで通用していたのではない。この都となんらかの関係を持った民族は、それぞれ自国語式に発音していたのである。例えばこの都の晩年には緊密な関係にあったイタリアは、イタリア語式にコスタンティノーポリと呼んでいたし、現代では公式の都市名となっている「イスタンブル」も、コンスタンティノポリスのトルコ語式の呼び方が、長い歳月を経た結果、原語を想像するのが不可能なほどに変化した呼称にすぎない。
アドリアノポリスが現代トルコ語では「エディルネ」となっているのと同じである。しかし、もともとはハドリアヌス帝の都という意味のアドリアノポリスも、この文中では、すでに百年も昔からトルコの首都であるという理由で、このギリシア、ラテン式の呼び名を使うわけにはいかない。かといって、当時ではトルコ人さえもまだこのように呼んでいないので、史料では最も多く使われている呼び名である、イタリア式発音「アドリアーノポリ」で統一するしかなかった。
西のローマが衰退しつつあっただけに、「新ローマ」とも呼ばれたコンスタンティノープルの急速な発展は、当時の人々の注目を集めるに充分であったろう。ヨーロッパとアジアの要《かなめ》に位置するこの都は、誕生の時からすでに、地中海世界の首都となるようさだめられてもいたからである。
しかし、この「新ローマ」は、西のローマと、ある一点で完全にちがっていた。東のローマは、はじめから、キリスト教を主要な要素とする帝国として生れたことである。東ローマ帝国の皇帝が公式の場でまとう大マントの色は、紫でなく紅《くれない》であった。古代ローマ帝国皇帝の色であった紫を、キリスト教会は、死の色、つまり、喪の色にしてしまったからだった。
西暦四世紀の創立の頃《ころ》からすでに、東のローマは西のローマよりも活気があったと言われるが、地中海世界の首都としての地位を確立したのは、やはり、本家のほうのローマが滅亡した、五世紀末からであったろう。そして、それから一世紀も経ない六世紀半ば、東ローマ帝国の勢力圏は、最大に達したのである。全盛期の古代ローマには及ばなかったにしても、ユスティニアヌス帝の時代、ビザンチン帝国の領土は、西はジブラルタル海峡から東はペルシアとの境まで、北はイタリアのアルプスから南はナイルの上流まで広がっていたのである。(図1参照)
だが、十字軍のはじまる十一世紀ともなると、勢力圏はおおはばに縮小されてくる。西欧のキリスト教勢力とオリエントの回教勢がぶつかったこの時代、教理問題でカトリックと分離したギリシア正教の本拠となっていたビザンチン帝国は、この両新興勢力の間で、旗色の判然としない中間の国になっていた。東地中海の制海権が、ビザンチン人の手から、海洋都市国家のジェノヴァやヴェネツィアの手に移ったのもこの時代である。(図2参照)
そして、このままの状態で、一時期にしろ帝国が消滅した、一二〇四年の第四次十字軍による、ラテン帝国創建につながっていく。この時期に東ローマ帝国の血筋を伝えつづけたのは、コンスタンティノープルから亡命した人々によってつくられた、小アジアの一部を占めるニケーア帝国だけであった。
しかし、わずか六十年で「ラテン人」を追い出し、コンスタンティノープルに復帰したビザンチン人だったが、不幸にしてこの時代、東方には大敵が成長しつつあったのである。アナトリアの地で力を貯《たくわ》えていた、オスマン・トルコ民族がそれだった。その後の一世紀の、ビザンチン帝国の後退に次ぐ後退は、いかに盛者必衰《じょうしゃひっすい》は歴史の理《ことわり》とはいえ印象的である。(図3・4参照)
トルコは、ボスフォロス海峡を渡りヨーロッパの地を次々と征服していった結果、栄光をほしいままにしていたかつての大帝国の領土は、首都コンスタンティノープルの周辺を除けばあとはペロポネソス半島の一部を残すだけになってしまう。南にあるエーゲ海は、ヴェネツィアとジェノヴァという、たかだか二十万にも満たない人口しか持たない、イタリアの海洋国家ににぎられていた。
六世紀から十世紀にかけてのビザンチン帝国の全盛時代、コンスタンティノープルの人口は郊外もふくめて、百万と言われたものである。それが、十五世紀初めになると、十万あるかどうかと言われるほどに減少する。都市部の人口密度からすれば、ヴェネツィアやジェノヴァのほうが高いくらいだった。そして、冷徹で合理的な思考法をわがものとすることによって、ルネサンス文明の創造者となった当時のイタリア人から見れば、十五世紀のビザンチン人は、精神上の問題である宗教と、地上の問題である政治を分離しようとしない、中世的な非合理主義者の集まりであり、宗教談議にばかり熱中し、共同体を効率良く運営するに必要不可欠な積極性と協調の精神にまったく欠け、しかも迷信に動かされやすい、一言で言えばまことにだらしのない民族としか映らなかったのである。
この、領土的にはトルコに囲まれ、軍事的には無も同然、経済的には西欧の商人国家に支配されていた十五世紀のビザンチン帝国をひきいる皇帝が、偶然にも、創立者と同じ名のコンスタンティヌス十一世であった。東ローマ帝国最後の皇帝となるこの皇帝は、しかし、滅びゆく優雅な文明を体現するかのように、名誉を尊《たっと》びながらもおだやかな性質の、四十九歳の洗練された紳士であった。二回の結婚も、いずれも妃に先立たれている。子はなかった。
このコンスタンティヌス皇帝に、古代ギリシアとローマの文明から影響を受けながらもそれらとはちがい、またオリエントの影響からそれを充分に吸収しながらも独自性を保ちつづけた、ビザンチン文明の象徴、コンスタンティノープルを守る使命が課せられたのである。相手は、二十歳を越えたばかりの、一人のトルコの若者であった。
スルタン・マホメッド二世
西暦一三〇〇年の前後、小アジアの内陸部アナトリアの地に力を結集しはじめていたオスマン・トルコ民族に、当時、注目した人は一人もいなかったにちがいない。だが、それからわずか二十八年の後に、彼らは、マルモラ海に近いブルサの町を征服する。西に拡張の進路をとったのは、東のモンゴル帝国は手《て》強《ごわ》く、西のビザンチン帝国はその当時すでに弱体であったので、アナトリアの遊牧の民《たみ》にしてみれば自然な選択であった。トルコ人は、このブルサを首都に決める。これで小アジアは、トルコ一色に染まったようなものだった。
しかし、彼らはこれだけで満足しなかった。トルコ民族の西進はその後もつづき、一三五四年には、ガリーポリを占領する。ダーダネルス海峡にそう港町ガリーポリは、もはやアジアではない。端しにあるとはいえ、立派にヨーロッパに属した。ガリーポリ陥落は、この町が、エーゲ海からダーダネルス海峡を通ってマルモラ海に抜け、そのまま北上してコンスタンティノープルに通ずる要地を占めるだけに、奪い取られた側のビザンチン帝国だけでなく、そこを通ってコンスタンティノープルや黒海沿岸の諸都市との交易で繁栄していた西欧の海洋国家までをも、刺激せずにはすまなかった。当時では最も完備していた情報網を誇っていたヴェネツィア共和国の、新興国トルコの脅威を報じた第一報は、この年に発せられている。
そして、自力で巻き返す力はすでにないビザンチン帝国と、西欧での内紛に力をそがざるをえなかったヴェネツィア、ジェノヴァの二大海洋勢力が対処の機会を逸している間に、トルコのバルカン地方への進攻は、着実に進められていたのだった。
一三六二年、アドリアーノポリ陥落
一三六三年、フィリッポーポリ落城
トラキア地方は、完全にトルコの手に帰したわけだった。この二年後には、トルコは首都を、アジア側のブルサから、ヨーロッパの地のアドリアーノポリに移したのである。以後も西進をつづけるとの、これ以上の意志表示はなかった。たちまち、トラキアと境を接するブルガリア、マケドニア、そして、ビザンチン帝国までが動揺した。ブルガリアも、公式にはビザンチン領であるマケドニアも、属国になって年《ねん》貢《ぐ》金《きん》と軍勢提供を約束させられる。ビザンチン帝国皇帝も、毎年スルタンの宮廷に年貢金を送ることと、スルタンが遠征に出向く際は、皇帝か、でなければ皇族の一人が兵をひきいて従軍する義務まで負うことになった。
その後もトルコ軍は、負け戦《いく》さを知らないかのように、連戦連勝をつづける。一三八五年、ブルガリアの首都ソフィアが陥落。一三八七年、マケドニアのテッサロニケもトルコの手に落ちた。ビザンチン帝国の属国化も進む一方で、恒例の観さえあった皇族間の争いのために次期皇帝が決まらない時など、トルコのスルタンの決裁を待って、ようやく決着がつくというほどだった。十四世紀も末になると、ビザンチン帝国皇帝の力が及ぶ地域は、首都コンスタンティノープルの周辺に、ペロポネソス半島の内陸部が残されているだけになった。皇帝がわざわざ西欧にまで出向き、対トルコのための援軍派遣を乞《こ》うたのもこの時期である。東地中海世界の現実を知る者ならば、誰《だれ》の眼《め》にも、当時のビザンチン帝国の運命は、風前《ふうぜん》の灯《ともしび》のように見えたであろう。トルコによるコンスタンティノープル包囲網は、この時期、いかに楽観的な人の眼もあざむけない完璧《かんぺき》さで完成していたのだった。
ところが、トルコの大軍、コンスタンティノープルに向けて進軍中との報に、急ぎ祖国へ帰った皇帝マヌエルは、まったく意外にも、トルコの脅威が一朝にして消滅したのを知らされたのである。この年一四〇二年、スルタン・バヤゼットひきいるトルコの大軍は、小アジアのアンカラで、ティムールひきいるモンゴル軍と対戦し、完璧なまでの敗戦を喫したのだった。スルタンまで捕虜になる始末で、モンゴルに追いまわされたトルコ軍は、あの大軍がどこに消え失せたかと思われるほどに、消滅してしまったのだ。トルコ兵の残虐《ざんぎゃく》も有名だったが、モンゴル人のそれは、はるかにトルコを越えていた。モンゴル軍の通り過ぎた後は、犬の吠《ほ》える声も聴こえず、鳥の鳴き声もなく、子供の泣く声も聴こえない、と言われたものである。
スルタンを敵に取られ、はじめての完敗に動転したトルコの宮廷は、たちまち内部分裂を起す。この内紛状態は、その三年後にティムールが死に、モンゴル帝国が急激に崩壊した後も収まらなかった。ビザンチン帝国をはじめとして、それまではトルコの属国と同じだった各国は、これを、自由になる好機と判断する。しかし、トルコがこの打撃から立ち直るのに要した二十年という歳月を、これらの国々は、年貢金支払いと軍勢提供には知らぬ顔をきめこむことだけはしたが、自国内の防衛力を高めることには活用しなかったのである。実際、二十年経《た》って再び攻勢に転じてきたトルコの前に、これらの国々はなすすべを持たなかった。結局は失敗に終ったにしても、コンスタンティノープルは包囲され、ビザンチン帝国をはじめとするこれらの国々は、スルタン・ムラードの要求にたちまち屈して、二十年間途絶えていた年貢金支払いと軍勢提供を受け容れたのである。一四〇二年の当時に、再びもどったのであった。
だが、それからほぼ三十年の間、スルタン・ムラードは、再び支配下に収めた領域の確保に専念したほうが得策と信じたのか、大規模な侵略行動に出ようとしなかった。戦いはしたが、それもほとんどが防衛戦で、コンスタンティノープルにはふれようともしない。まったく当時のコンスタンティノープルは、ビザンチン帝国の首都とは言っても、一種の自由港のような立場にあった。ここを基地として、ジェノヴァやヴェネツィアを主とする西欧の通商国家や、アラブやアルメニア、ユダヤ人らの、オリエント地方の伝統的な商業民族が、互いに商いの技を競っていたのである。トルコ民族は、同じ回教徒のアラブ人とはちがい、本質的には遊牧の民で、商業に得意であったことはない。その不得手なことを他の民族が代わってやってくれて、その利益でトルコの首都アドリアーノポリもうるおうとなれば、単なる自由港の存在は黙認してもさしつかえない、という思いだったのかもしれない。ムラードの最も信任厚い宰相カリル・パシャは、親西欧親ビザンチン派で知られていた。ヴェネツィアもジェノヴァも、トルコとの間に公式の友好通商条約を結び、コンスタンティノープルを基地にした小アジアや、黒海沿岸地方との交易で巨利を得る。まったく、現実的な視野に立ち、共存共栄を目的とした妥協点を見つけるとすれば、コンスタンティノープルだけになったビザンチン帝国の温存が、それであるかのような感じが、十五世紀前半には支配的であったのである。
しかし、ビザンチン帝国も西欧勢も、その頃小アジアの地で、アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルの生涯《しょうがい》に異様な興味を持つ、一人の若者が生長しつつあるのを知らなかった。
マホメッド二世は、一四三二年、トルコの首都アドリアーノポリで、スルタン・ムラードの三男として生れた。母親は、生れの低いもとキリスト教徒の奴《ど》隷《れい》であったという。スルタン・ムラードは、子を与えたこの女奴隷を特別に寵愛《ちょうあい》しなかったのか、マホメッドは二歳の時に、長兄が総督をしていた小アジアのアマシアの町に、母親と乳母とともに送られた。だが、その三年後、長兄が死ぬ。五歳のマホメッドは、これまた特別のはからいというのではなく、アマシアの総督に任命された。スルタンの子として、アドリアーノポリで催される宴には、時には招かれることもあったらしい。次兄がアマシアに、彼がマニサの地に任地代えがあったのも、それからまもなくのことであった。
しかし、一四四三年、誰ともわからぬ者によって、次兄が暗殺されるという事件が起った。十一歳になっていたマホメッドは、これを機に、スルタンの世継ぎになったのである。たった一人の世継ぎとなれば、それまでは特別の待遇を与えなかった父スルタンも、首都に呼び寄せる気になったのであろう。母親から離されてアドリアーノポリの宮廷に移ったマホメッドは、まだ少年でありながら、戦いで首都をあけることの多かった父に代わって、父の不在中は、摂政《せっしょう》も勤めねばならなかった。
そのような際にマホメッドを補佐するのは、宰相《さいしょう》カリル・パシャだった。だが、この補佐役は、補佐役というよりも監視役で、しかも、主人の言動に納得いかないような場合は、堂堂と反対を唱えるだけでなく、さっさと前言を取り消させるようなこともまれではなかった。宰相カリルが思うように行動できたのは、もとキリスト教徒の奴隷出身の大臣が多かった中で、彼だけが宰相を勤めたほどの父を持つ純血トルコの名家の生れであったためばかりではない。スルタン・ムラードは、平衡感覚に優れたカリルの政務ぶりに、完全な信頼を寄せていたからである。この父親は息子に、臣下ではあってもカリル・パシャを、「ラーラ」、先生と呼ばせていた。
ところが、この翌年、ヴァルナの戦いでキリスト教軍に大勝したスルタン・ムラードは、これでトルコ領もしばらくは安泰と思ったのか、突如、引退を宣言する。まだ四十歳の働き盛りでのこの決意は、トルコ国民だけでなく、西欧の人々にまで、意外の感を与えずにはおかなかったが、宰相たちの嘆願にもかかわらず、ムラードの決心は変らなかった。十二歳の息子に位を譲り、さっさとマニサに隠居してしまったのである。だが、完全な権力譲渡を信じなかったヴェネツィアの諜報《ちょうほう》機関は、その後も、ヨーロッパのアドリアーノポリにいるマホメッドを「ヨーロッパのスルタン」、小アジアのマニサに隠居したムラードを「アジアのスルタン」と呼びつづけていた。
実際、マホメッドが権力をにぎっていられたのは、わずかに二年の間でしかなかった。突如首都に到着した父が、再びスルタンの座についたからだ。この一種のクーデターの仕掛人は、宰相のカリル・パシャであったということになっている。コンスタンティノープル攻略の意図を明らさまにしはじめた十四歳のマホメッドに不安をいだいたからだとか、マホメッドが、イエニチェリ軍団の信望を得られないのに絶望したからだとか言われている。しかし、ムラードにもどるよう頼んだのは宰相だが、他の二人の大臣、イザク・パシャとサルージア・パシャも、カリルに同調したのだった。残る一人の大臣サガノス・パシャだけは、マホメッド派であったようである。当のマホメッドは、父の首都到着の日は狩に行かされていてなにも知らず、宮殿にもどってきた時はすべてが終っていた。
その日以降、スルタン・ムラードは息子のマホメッドに、マニサでの蟄居《ちっきょ》を命じた。つい先日まで父親が隠居の地にしていたとはいえ、追放と同じことである。再び親政をはじめたムラードは、カリル、イザク、サルージアの三大臣の留任を宣言する。補佐役不充分の罪を問われてアジアに左《さ》遷《せん》されたのは、サガノス・パシャだけであった。
マホメッドの体面、丸つぶれというものである。十四歳といえば、もう大人あつかいされはじめてもおかしくない年齢だけに、そして、人一倍誇り高い気質のマホメッドだけに、耐えがたい屈辱であったろう。マニサでの日常も、以前のそれとは、まったくちがった気分に支配されるものであったにちがいない。父は戦いには時々同行を許したが、そこでのマホメッドの働きには、特筆さるべきことは一つもない。後にはこの面での才能を見事に示すことになるのだから、この時代の平凡な働きは、父のスルタンが、彼に活躍の場を与えなかったと思うしかない。それよりも、首都から遠く離れたマニサでのマホメッドは、女色男色を問わない乱行のほうで知られていた。
追放二年目に、男子バヤゼットを得ている。母親は、もとキリスト教徒のアルバニアの女で、彼の実母と同じく、身分の低い女奴隷だった。そして、この一年後、今度は姉がカイロのスルタンに嫁《とつ》いでいるほどの、トルコの名家の娘を正妻に迎える。だが、美しさでは姉以上と評判だったこの妻を、十六歳の夫は、愛しもしなかったらしい。子は生れなかった。同じ頃《ころ》、母を失った。
このような生活も五年目を迎えた一四五一年の二月、マホメッドは、マニサの地で父の死を知った。回教の教えに反して大酒飲みであったムラードは、突然倒れ、意識も回復しないまま、四日目に死んだのである。四十七歳になったばかりの死だった。宰相カリルは、このような場合の慣習に従ってスルタンの死をただちに公表せず、急使をマニサに送ったのだ。マホメッドがそれを知ったのは、父の死の三日後であったという。
十九歳にあと二カ月という若者は、新スルタンの首都入りにふさわしい準備がととのうのを待たなかった。
「わたしにつづきたい者は、来い!」
とだけ言い、黒のアラブ産の愛馬にまたがるや、騎首を北に向け駆け去った。大臣たちとイエニチェリ軍団が、これまでのマホメッドをどう評価したかはわかっている。しかも、首都には、トルコの名家の出でムラードの寵愛深かった女を母に持つ、マホメッドにとっては異母弟にあたる幼児がいた。夜も昼もなく馬を駆けに駆けさせた若者がはじめて身体《からだ》を休めたのは、ガリーポリに向けてダーダネルス海峡を渡る舟の上だった。
一四五一年二月十八日、マホメッド二世は正式にスルタンに即位した。大広間にはトルコの重だった人々がつめかけていたが、ハレムの長である宦官《かんがん》の他《ほか》は、誰も、若いスルタンの坐《すわ》る玉座に近づこうとしない。宰相カリル・パシャも、大臣のイザク・パシャ、サルージア・パシャも、遠く離れたところに立っているだけだった。広間にいる人々で、これまでの事情を知らない者はいない。張りつめた雰《ふん》囲気《いき》が、重苦しく広間をおおっている。その時、マホメッド二世の声が聴こえた。
「なぜ、わたしの大臣たちは遠くにいるのか?――そして、そばの宦官に向って言った。――カリルに、自分の席にもどるよう言うように」
重苦しかった空気が、一度に晴れたようであった。カリル以下の先のスルタンの大臣たちの留任は、これで決まったのである。玉座の右につらなった三人の重臣に向って、マホメッド二世はつづけた。
「イザク・パシャには、アナトリア軍団の長として、ブルサの墓所まで亡《な》き父上の遺体に同行してもらう」
玉座の前に進み出たイザク・パシャは、床にひたいをすりつけるトルコ式の礼をして、その命令を受けた。そして、この時あらわれた先のスルタンの寵妃が述べる即位を祝う言葉を、丁重な態度で受けたマホメッド二世は、この義母を、イザク・パシャに妻として与えた。しかし、広間でこの光景がくり広げられている間に、ハレムの浴室では、浴槽《よくそう》の中で幼児が殺されていた。トルコ帝国では慣習になるスルタン即位直後の弟殺しは、こうして、マホメッド二世によって先例がつくられたのである。
首を斬《き》られても不思議はないと思われていたカリル・パシャの留任も、安《あん》堵《ど》の胸をなでおろした人々の思うほどは、単純ではなかった。カリルの盟友でその政策の共鳴者として知られていたイザク・パシャは、先のスルタンの遺体を葬《ほうむ》った後もアナトリアの任地に留めおかれ、首都にもどることを許されなかった。盟友同士は、巧妙に引き離されたのである。そして、その代わりということで、先のスルタンによって左遷されていたサガノス・パシャが首都入りした。
しかし、ビザンチン帝国も西欧各国も、この一連の現象の持つ意味を深くは考えなかった。新スルタンは、ビザンチン帝国をはじめとするオリエントの国々との間に、スルタン・ムラード時代に結ばれた友好と不可侵の条約を再新するのに、なんの難題も持ちださなかったからである。ジェノヴァやヴェネツィアとの友好通商条約再新も、まったく問題はなかった。そして、若いスルタンは、セルビア王の妹でスルタンのハレムに献上されていた、子はいなかったが先のスルタンのもう一人の正妻であったマーラを、彼女がハレム入りの時に持ってきた持参金を返しただけでなく、数々の贈物に仕度金まで与えて、故国に帰してやったのである。マーラが、ハレムにいた間もキリスト教徒でありつづけたことは、西欧でさえも知られたことだったから、これは、新スルタンのキリスト教徒に対する態度の、穏健さの証拠と見る者が多かった。ヨーロッパ諸国は、十九歳の新スルタンを、偉大な武人で義に富む男であった父の後を継いで、その遺産を守るのだけに力いっぱいの器《うつわ》、と評価したのである。
だが、そう単純に楽観できなかった少数の者がいた。その一人が、ビザンチン帝国皇帝コンスタンティヌス十一世である。皇帝は、トルコとビザンチンの間の相互不可侵条約が再新されたにかかわらず、マホメッド二世の即位のわずか一カ月後に、西欧に向けて、援軍派遣要請の使節を送った。しかし、この問題は、ギリシア正教会とカトリック教会の再合同という難問とだきあわせになっているために、簡単な解決は、当の皇帝さえも期待できなかったのである。
第二章 現場証人たち
一四五二年・夏 ヴェネツィア
「病院というところはどこでも、なぜこうも騒々しいのだろう」
ニコロは、次から次へと眼《め》の前にあらわれる病室を通り抜けていきながら、答えならわかりきっている問いなのに、今さらのように頭の中でもてあそぶのだった。パドヴァ大学の医学部に入学した年から数えれば、すでに十年を越す歳月が経《た》っているのである。それなのに、病院の騒々しさに腹を立てるのだけは、教授の後についてはじめて病室入りしたあの頃《ころ》とまったく変らない。だが、ニコロはまた、医師としてでなく入院患者の親族として病院に来る時は、この騒々しさが少しも苦にならないのも思い出して、苦笑するしかなかった。
うるさいのは、患者ではないのだ。病室の壁ぞいに並ぶ寝台のまわりにたむろする家族や親族の、他人の迷惑も考えない勝手な高声が、石造りの弓型の天井に当った後、声とも音ともつかない騒音になって返ってくるからである。静かなのは、このヴェネツィアには一人の身寄りもいない、聖地巡礼帰りの病人のまわりだけだった。病床に臥《ふ》せりながら、眼だけは空《うつ》ろに壁に描かれたキリストの奇跡を眺《なが》めているのも彼らだけだったし、医師でも看護夫でも、白衣をつけた者が病室に入ってくるたびに、その後を不安そうに眼で追うのも、これらの孤独な病人たちだった。
ひときわ騒々しい病院の入口を足早に通り抜けたニコロは、外の広場の中央にある貯水《ちょすい》槽《そう》のかたわらに、さきほど守衛が伝えてきたように、一人の黒い長衣の男が立っているのをすぐに認めた。守衛は、ある人が話したいと、広場の井戸のそばで待っています、とだけ言ったので、患者の家族でもあろうかと思っていたのである。それが、顔見知りの仲でもある海軍省の役人とわかって、一瞬、意外の想《おも》いで足が止まった。近づいてきた男は、ニコロと肩を並べるようにしながら、静かでていねいな口調で言った。
「晩鐘の時刻に、内々に海軍省に来ていただきたいと、トレヴィザン提督が願っておられます」
行こう、とだけニコロは答えた。そして頭を軽くさげた男はそのままに、再び病院の入口に入って行った。
ニコロの勤務する病院のある聖ポーロ区から、海軍省のある聖マルコ区に行くには、大運河を渡らないで行くわけにはいかない。白衣を通常の黒い長衣と着換えたニコロが、リアルトの橋のたもとまで来た時、運悪く開閉式のリアルト橋は、船を通すために中央部が開きはじめていて、ニコロはそこでしばらく待つしかなかった。眼前を大樹のような帆柱が次々と通りすぎていくのを、見慣れているはずなのにまるではじめて見るような新鮮な想いで眺める彼の背後で、すぐ近くにある聖ジャコモ教会の鐘が、晩鐘を告げておだやかに鳴りはじめていた。それを聴きながら、ニコロは、午后《ごご》中彼の頭から離れなかった疑問に、またも捕われていた。コルフ島にいるはずのトレヴィザンが、なぜ今頃、それも秘《ひそ》かに本国に帰っているのだろう。
海軍省は、元首官邸《パラッツオ・ドュカーレ》の中にある。聖マルコの船着場に向った入口から入ったニコロは、勝手知った建物の中を、案内も乞《こ》わずにまっすぐに海軍省のある一画に向った。バルバロ家の一員であるニコロは、ヴェネツィア共和国の貴族の権利であるとともに義務である、共和国国会の議席を持っているので、日曜ごとに開かれる国会には、国を外にしていないかぎり出席していたからである。
他の時間なら人の出入りの絶えない海軍省だが、変事でもないかぎり晩鐘を合図に仕事を終えるヴェネツィアの役所の習慣で、入口の大きな扉《とびら》の前には、朝方訪ねてきた男が一人いるだけだった。ニコロを待っていたにちがいないその男は、無言で先導に立ち、部屋を五つ通りすぎたところで、眼の前に立ちふさがった扉を、ついている鉄輪で三度たたいた。待つ間もなく内側から開かれた扉の向うに、できた空間をふさぐような感じでトレヴィザンがいた。海軍提督は、旧知のニコロを、顔には微笑をたたえながらも身ぶりだけは丁重に、部屋の中に招じ入れた。二人の背後で、扉が静かに閉じられた。
ガブリエレ・トレヴィザンも、ニコロ・バルバロと同様貴族の出身である。だが、兄たちが通商の道に進んだのとは反対に医学を選んだニコロのほうが、どちらかといえば変った人生を歩んでいて、海運国ヴェネツィア共和国の貴族たちは、ニコロの兄たちやトレヴィザンのように、海に生きる男たちであるほうが普通だった。その中でもトレヴィザンの海将としての能力を認める人は多く、アドリア海域を担当するコルフ島駐在艦隊の副司令官に、二期つづけて選出されていたのだ。アドリア海の制海権維持が、自国の防衛の鍵《かぎ》と信じているヴェネツィア人からすれば、自らの身の安全をゆだねたようなものだった。
実際、ガブリエレ・トレヴィザンは、そこに彼がいるだけで周囲に安心感を与えるような肉体の持主であった。長年の海の上での生活が、もともと恵まれていた彼の肉体を鍛えぬいたのであろう。五十を幾つか越えたトレヴィザンの年齢をうかがわせるのは、白いものが多くなりはじめた頭髪と、顔の下半分を埋めるひげだけだった。
ニコロは、このトレヴィザンと、二度航海をともにしている。商船団の護衛艦隊を指揮していたトレヴィザンの船に、船医として乗船したのが彼だった。最初の時の行き先はエジプトのアレキサンドリアで、帰途はシリアをまわり、キプロス、クレタと立ち寄ってヴェネツィアへもどる航路だった。ヴェネツィアの医師は、大学や病院で働きはじめてからも船医として外に出る者が珍らしくはなかったから、ニコロの例が特別であったわけではない。ただその時のエジプト行きは、護衛艦隊をつけたほどだから安全でなく、結局ニコロは、行きと帰りに小規模にしても三度も海戦を経験させられ、本国帰港も、予定よりは二カ月も遅れてからだった。
二度目の航海は、ギリシアのネグロポンテまで行き、帰りはクレタをまわる航路だった。この時はヴェネツィアの制海権が完全に及ぶ海域を旅したためか、事故もなく、予定どおりに帰国することができた。だが、この二度の機会に、戦時平時のいずれの場合でも変らない、沈着冷静でいながら人間味も豊かな、トレヴィザンの人柄《ひとがら》を間近かに知ることができたのである。
「もうすでに、ここに来てもらった理由の幾分かはわかっていると思うが」
トレヴィザンは、ニコロが椅子《いす》にかけたのを見るや、例によって余計なあいさつなどは抜きにして話しだした。
「二日前に元老院で決議されたばかりで、国会にはまだ通告されていないから知らないと思うが、ヴェネツィア共和国はビザンチン帝国皇帝の援軍要請に応《こた》えて、コンスタンティノープルに艦隊を派遣することになった。指揮官に任命されたのは、このわたしだ。きみにも、ぜひとも医師として乗船してほしい。航海をともにした医師は多いが、若いがきみは、最もこの種の任務に向いている」
日頃から敬意を持っていたトレヴィザンからこう言われて、三十の半ばに達しようというニコロなのに、なぜか急に若い気分になって答えた。三十代の男は、相手次第で二十代にもどったり、四十代の男のような成熟さを示したりするものである。
「コンスタンティノープルにはまだ行ったことがありませんし、喜んで同行させていただきます」
「戦さになるかもしれない」
「コンスタンティノープルの陥落も時の問題だとは、私が少年であった頃から聴かされてきた話です。それが、いまだに持ちこたえている。まだしばらくは、この状態でつづくのではないでしょうか」
ニコロは、毎日曜出席する国会で耳にする同僚たちの意見を、あまり深く考えずに口にしたにすぎない。貴族ではあっても好きな道に進んだニコロは、もともと政治には関心がないのである。貴族に生れた義務から国会には出席するが、それは確たる理由もなくて欠席すると、彼の二年分の給料ぐらいの罰金を取られるからで、議席を得てからの十五年間、議場で発言したのはわずかに二回。それも、ペストへの対応策が審議された時だけだった。トレヴィザンは、この二十は年下の医師の意見には一瞬視線を止めただけで、再び言葉をつづけた。
「艦隊は、大型ガレー軍船二隻《せき》で編成される。出港は、十日後の九月半ば。国会で公表予定の軍船派遣の理由は、黒海から航行してくる商船団をコンスタンティノープルで待ちうけ、それをヴェネツィアまで護衛して帰るというものだ。
しかし、医療全体の責任者となるきみは、この旅に必要な医療品の選択と調達にかかわる以上、世間に公表される理由だけを知っていたのでは充分ではない。今夕、ここに来てもらったのは、それ以上のことを心得ておいてもらうためである」
緊張すると静かな顔つきになる癖のニコロは、無言のままでうなずいた。トレヴィザンはつづける。
「きみも承知しているように、ビザンチン帝国が命運危うしと言われてから久しい。皇帝がはじめて西欧に援軍派遣を要請した年から数えても、すでに半世紀が経っている。その間に情勢が明るく変った時期もあったが、現在のビザンチン帝国は、海以外はトルコ領に囲まれた、陸の孤島に過ぎない。ヴェネツィア共和国が、コンスタンティノープルへ赴任する大使に、着任時にコンスタンティノープルの主《あるじ》として、皇帝でなくスルタンを見《み》出《いだ》した時はかく対処せよ、という指令を与えて送り出さねばならないようになってからも、二十年が過ぎているのだ。ビザンチン帝国に関しては、非常事態が常態と化してしまったと言ってよい。
しかし、他人の身を預かる者の最も心しなければならないことは、慣れからくる判断の誤りである。常態と化した非常事態も、いつなんどき真の非常事態に変るかもしれないのだから、それへの対応策も考えておかねばならないということだ。トルコのスルタンが、ボスフォロス海峡ぞいに要塞《ようさい》を築きつつあるという、情報が入っている。きみも、船医でなく、軍医として行くのだと思ってもらいたい。医療物資の種類と量も、おのずから決まってくるはずだ」
ニコロは、やっと霧が晴れたという想いになっていた。だが、話を聴いている間にわいてきた疑問は、口に出さないではいられなかったのである。
「それにしても、提督、ガレー軍船二隻だけとは、あまりにも少ないではありませんか」
トレヴィザンは、これ以上の説明は彼のニコロに対する個人的な好感情のためとでもいうように、年長者の忍耐を示しながら答えた。
「きみでも知っているように、わが国とトルコとの間は、以前から不可侵条約で結ばれてきた間であり、ごく最近の再新は、一年前の秋になされたばかりなのだ。また、ビザンチン帝国との間にも、友好条約の長い歴史がある。つまり、攻勢に出ている側と守勢に立たされた側の双方に、政治的にも経済的にも友好関係を持っているというわけだ。それに、トルコは、わが国に宣戦布告をしたわけでもない。かといって、同じキリスト教国であるビザンチン帝国の援軍要請を断わっては、西欧でのわが国の立場が微妙なものになるのを避けられない。また、コンスタンティノープルは、わが国のオリエント貿易の重要な基地であることも、忘れるわけにはいかない。このような情況下では、たとえ五十隻送る余裕があっても、実際には送れない。平時での商船団護衛は、ガレー軍船二隻が通例なのだからね。
さらにこれ以上の数の援軍を送るかどうかは、政府が、政治上の配慮の末に決定をくだすであろう。わたしに課せられた任務は、公表されたことの他《ほか》に、ほんとうの非常事態に直面させられた場合は、本国に照会のための時間的余裕もないところから、わが国にとって最も利ありと判断した方向で、取るべき態度を決めよということだ。必要あれば死ね、ということでもある」
トレヴィザンの話しぶりがあまりにも淡々としていたので、聴いているニコロのほうも、ごく自然に受けとっていた。だが、たとえ強い口調で言われたとしても、ニコロの心は波立ちもしなかったであろう。政治には無関心とはいえ、ニコロ・バルバロもヴェネツィアの貴族階級の一員である。率先して第一線に立ってこそ支配階級に属す資格を持つとは、彼の祖父や父が、身をもって与えてきた教育であった。
その夜の食事の席で、トレヴィザンの船でコンスタンティノープルへ行くことになった、というニコロの報告に、長兄は、そうか、と言っただけだった。元老院議員である長兄は、すべてを知っているはずなのだ。それなのに、それについては一言もふれず、また、弟がどこまで事情に通じているかを探ろうともしなかった。通商にたずさわり、それによって兄弟たちの財産の運用役でもある次兄は、しばらくアレキサンドリアに行っていて、つい先日帰国したばかりのせいか、陽気に口数が多い。
「コンスタンティノープルへ行ったら、よく見てくることだね。栄光ある東ローマ帝国の首都が、今ではいかに哀れに落ちぶれているかを。それに、かの地では、冷静そのもののおまえも、ジェノヴァの奴《やつ》らの専横ぶりには、一日も経《た》たないで反ジェノヴァ派になるだろうよ。ヴェネツィアが、オリエント交易の本拠をアレキサンドリアに移したのは、まったく賢明だった」
ニコロが残していく妻とまだ幼ない息子については、話題にものぼらなかった。兄弟たちによる不在中の生活と、もしもの場合の保証は、ヴェネツィア貴族の家ではあまりにも自明のことだったからである。ニコロの頭を占めていたのも、医療品目の一覧表をつくることの他は、病院での後任の人選だけだった。
二日後、完成した一覧表を持って海軍省に行く途中、聖マルコの船着場のそばを通りかかったニコロは、船乗りたちの長い行列に出会った。いつもならば、ヴェネツィア人には見慣れたこの光景には立ち止まりもしないで行きすぎるのだが、もしかしたら自分の乗る船かと思ったニコロは、行列の先頭まで行ってみた。
案の定、そこにはトレヴィザンが立っていて、そのそばにある机の前に坐《すわ》った書記が、次次と眼《め》の前に立つ船乗りの名を、名簿に書きこんでいる。ヴェネツィア共和国では、商船でも軍船でも、船長が部下の船乗りを選ぶのではない。船乗りのほうが、船長を選び応募するのである。船と船長は決まっているのだから、船着場につながれたガレー船のそばに船長の名を書いた立札を立てでもしたら、船長自らそこにいなければならないという理由はなくなる。だが、ただ立っているだけにしても、船長は応募の間中、その場にいなければならないのが決まりだった。もしかしたら、この慣習は、名の記入の前にもう一度自分の運命を預ける男の顔を見、その後で最終的な決心をさせるためかもしれない。
船乗りの長い行列を後にしながら、ニコロは、船乗りたちとこの自分は、自ら納得してトレヴィザンを選んだ点で、まったく同じなのだと感じていた。
一四五二年・夏 ターナ
黒海の最も北、アゾフ湾の一番奥に位置するターナでは、秋も末になると湾に氷塊が漂うこともあって、秋中には南へ向けて出港しなければならない商船の準備で、夏は、誰《だれ》もが猫《ねこ》の手も借りたいほどの忙しさですごす。なにしろ、ヴェネツィア人を主体にするイタリアの商人にとって、最北東の商業基地であるターナは、ドン河にそって北上すれば行けるモスクワよりも、祖国のイタリアへ行くほうがはるかに遠いのである。だが、ここは、奴《ど》隷《れい》、毛皮、塩《しお》漬《づ》けの魚や小麦の大産地をひかえているために、西欧の商人にとっては、長い厳しい冬に耐えても充分に魅力のある拠点だった。
そのターナの、人や積荷でごったがえしている船着場を、一見して西欧の商人とわかる黒い長衣を潮風になびかせながら、一人の男が歩いてきた。フィレンツェ商人の、ヤコポ・テダルディである。歩き方はいつもの飄々《ひょうひょう》とした彼のものだったが、彼の頭の中は、いましがた立ち寄ったヴェネツィア商館で耳にした噂《うわさ》で占められていた。ボスフォロス海峡の西岸に、トルコが大規模な要塞を築きつつあるというのだ。ドン河の上流まで出向いて毛皮の買いつけに忙しかったテダルディは、夏のはじめからターナではもちきりだったこの噂を、今になるまで知らずにいたのだった。
しかし、コンスタンティノープルを拠点にして黒海沿岸の物産を商う仕事を、十年余りもつづけてきたテダルディである。ただ単に要塞を築いているという情報ならば、考えこむほどのことでもないのは知っている。全長が三十キロに及ぶボスフォロス海峡には、すでに、ジェノヴァ人の築いた、山の上から威圧するような城塞が二つあった。だが、これらは二つとも、周辺の海域を監視するためで、下を通る船の攻撃用に築かれたものではない。ところが、トルコ人が構築中の要塞は、海峡の岸辺に接してつくられているという。しかも、構築地点は、海峡の幅が最も狭くなる場所で、対岸のアジア側には、これも海峡に接して、小さいにしてもすでにトルコの要塞がある。テダルディも、彼にこの情報を知らせてくれたヴェネツィア商人のくだした推測に、同意するしかない気持になっていた。
「トルコは、海峡の航行そのものを支配下におくつもりなのだ。そして、コンスタンティノープルを攻撃してくるだろう」
防衛にはまことに適した地型に恵まれ、そのうえ、地中海世界では最も堅固な城壁を持つことでも知られたコンスタンティノープルが簡単に陥《お》ちるとは、ビザンチン帝国の実情を熟知しているテダルディでも、信じたくないことだった。しかし、たとえ首都が守りきれたとしても、黒海貿易がやりにくくなるのだけは、眼前の現実になりつつある。
「この辺で仕事をまとめて、故国《くに》へ帰るしおどきかもしれない」
妻子を残してきたフィレンツェには、すでに五年も帰っていなかった。決心がついた彼は、きびすを返して、今来た道をもどりはじめた。ヴェネツィア商館へ行き、荷と自分の乗る船を予約するためだった。
だが、商館の予約受附《うけつけ》係は、九月中の便《びん》は全船満席だという。やむをえず、テダルディは、十月はじめにターナを発《た》ち、トレビゾンドに寄港してからコンスタンティノープルへ向う船を予約するしかなかった。
「出港までの充分すぎる日数は、小麦の買いつけでつぶれるだろう。毛皮は西欧まで運ぶにしても、小麦はコンスタンティノープルですぐにも売れるから、オリエントでの商いも、その最後の日まで活用できるというものだ」
テダルディは、四十五歳を境にして陸《おか》へあがった後の日々を想像して、その、フィレンツェ人特有の、余計な肉はすべてそぎ落したような顔に、苦笑いとしか見えない微笑を浮べるのだった。
一四五二年・夏 セルビア
王宮を出たとたんに、ミハイロヴィッチは大きく息を吸いこんだ。見あげる彼の眼に、雲ひとつない夏の空がかぶさる。興奮するのも無理はない。ミハイロヴィッチは、二十二歳になったばかりなのだ。それなのに、いましがた王から、一千五百騎の指揮をまかせると言われたのである。この騎兵隊をひきいてアジアへ行け、が、王が彼に与えた命令であった。
セルビアは、まるでそこだけが真空地帯とでもいうようにコンスタンティノープルだけ残して、怖《おそろ》しい勢いで西進をつづけてきたトルコと、国境を接する羽目になったキリスト教国の一つである。それがために国を守る努力はいじらしいほどで、手痛い敗戦を喫した後は、王家の娘をスルタンのハレムに献上して、ようやく国の独立を保っているのが現状であった。これも、一年前にスルタン・ムラードが死んだ時は、王女マーラが子を与えなかったこともあって、新スルタンの出方が心配なあまり、王は夜も眠られないほどだったのである。ところが、若い新スルタンは、亡父の他の妻妾《さいしょう》たちには冷酷な処置を与えながら、マーラだけは、彼女の希望どおり故国へ帰したのだ。これを、狂信的な回教徒にしては珍らしいことと、人人は噂しあった。とくにセルビアでは、王女の徳と教養の高さに、若いスルタンが敬意を示さざるをえなかったのだと信じられていた。
これでひとまずトルコの脅威も遠のいたかと安《あん》堵《ど》していた王の許《もと》にとどいたのが、スルタンからの援軍派遣の要請だったのである。アナトリア地方を中心にスルタンに反旗をひるがえした、クアラマン・ベグを制圧するのに力を貸してくれという、文面だけは実に丁重な手紙だった。セルビアの王にとって、断わるなど論外である。また、異教徒のトルコを助けるといっても、たたく相手もトルコ人なのが、キリスト教国セルビアにとっては救いであった。王はスルタンの要請どおり、一千五百の騎兵を送ることに決める。指揮官は、若いが責任感が強いという理由で、ミハイロヴィッチと決まった。王は、ミハイロヴィッチを任命する時に、マホメッド二世にあてたマーラの手紙も与えた。それには、反乱トルコ軍の鎮圧が一日も早かれと祈る、と書かれ、そのために一千五百のセルビア騎兵が役に立つならこれ以上の喜びはない、と記されてあるとのことだった。
ミハイロヴィッチは、騎兵の選抜もまかされていた。彼は、選抜の基準を、厳しい地形のアナトリアで馬を駆使できることにおこうと決めた。選ばれたのは、いずれも、二十代の若い騎士たちである。騎兵隊の出発が冬と指定されてきたのも、ミハイロヴィッチは不思議とも思わなかった。トルコの首都アドリアーノポリへ行くには、セルビアを出た後も東へ進み、ブルガリアを横断して行かねばならない。アドリアーノポリに集結した後、そこからさらに東進し、コンスタンティノープルの近くでボスフォロス海峡を渡り、戦場のアナトリアへ向う。厳しい気候のアナトリアで、冬を避けて夏に戦いたいと思えば、セルビアを出発するのは、まだ冬のうちでなければならなかった。
ミハイロヴィッチは、出陣までの余裕を、部下たちの訓練にあてることにした。スルタン・マホメッド二世は、精鋭を一千五百騎と言ってきたのである。祖国セルビアの安全を保証するためなら、その鍵《かぎ》をにぎるスルタンの要求どおり、文字どおりの精鋭でなければならなかった。
一四五二年・夏 ローマ
ここ数日、イシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》は、押さえても押さえても胸の底からわきあがってくる感慨を隠して、彼が占める地位にふさわしい威厳を保つのに苦労していた。もしも自然にまかせていたら、地位も、五十歳という年齢も忘れて、ローマの街に歓喜の叫びとともにとび出していたかもしれない。二十年来の確信、同朋《どうほう》の冷たい視線に耐えて持ちつづけてきた想《おも》いを、今はじめて現実に移すことができるのである。しかも、それを実行する当の本人に、彼自らが任命されたのだ。イシドロスは、このことの実現のみが、彼の祖国ビザンチン帝国を救う唯一《ゆいいつ》の道と信じて疑わなかった。ギリシア正教会とカトリック教会の再合同、そして、それをもとにした西欧諸国の援助によってのみ、トルコの脅威にさらされているコンスタンティノープルを救うことができるのだと、信じて疑わなかったのである。
しかし、東西両教会の合同にいたる道程も多難だったが、イシドロス自身のこれまでの半生も、神に捧《ささ》げた生涯《しょうがい》にしては皮肉なほど、波乱に満ちた半生であった。
コンスタンティノープルでもマルモラ海に近い聖デメトリオス僧院の院長を勤めていたイシドロスが、時の皇帝ヨハネスに招《よ》ばれ、バーゼルで開かれる公会議に出席するよう命じられたのは、一四三四年のことである。ギリシア正教会を代表して公会議に出席する聖職者の中では、三十を越えたばかりのイシドロスは、代表団の末席につらなるのが精いっぱいだったが、はじめて他国の高位聖職者たちと同席したこの機会は、若いイシドロスを刺激せずにはおかなかった。また、彼はこの機会に教理の理論家としての能力を示すのも忘れなかったから、それを買われ、コンスタンティノープルへもどるやキエフの大司教に任命されたのである。これは、全ロシア第一の司教職であったから、その四年後にイタリアのフェラーラとフィレンツェで開かれた公会議には、イシドロスは代表団には欠かせない一員になっていた。
だが、このイタリア訪問は、彼の考えを根底から変えることにもなったのである。イシドロスは、ヴェネツィアで、フェラーラで、また花の都と呼ばれたフィレンツェで、後にルネサンスと呼ばれることになる時代の新しい波を見、感じ、眼を洗われるような衝撃を受けたのであった。宗教が生活のすみずみまで支配し、それがために人間の活力の自由な発揮を阻害しがちなビザンチン文明は、そこには影もなかった。イタリア人はビザンチン文明を尊重し、競って受け容《い》れたが、それは彼らの欲求に合致するものだけで、合致しないものには、関心も示さなかったからである。それでいて、ギリシアを見捨てイタリアに住みついた学者たちは、彼らの学識に耳をかたむける多くの人に恵まれて、コンスタンティノープルでよりも生き生きと生活している。
イシドロスは、それまでは懐疑的であった、ビザンチンと西欧の結合を信じはじめていた。そして、今や新しい活力にあふれているのは、かつてはビザンチンの人々が野蛮と軽蔑《けいべつ》した西欧のほうであり、東西の教会の合同も、西側の要求するとおり、ローマ・カトリック教会の許《もと》での合同であってもいたしかたない、という結論に達したのである。彼と考えをともにしたギリシア正教会の有力者には、学識では並ぶ者なしといわれた、ベッサリオンがいた。五年後、カトリックの洗礼を受けたこの二人は、枢機卿に任命される。
しかし、イシドロスもベッサリオンも、カトリックの許での東西教会合同を、現実に可能と判断して提唱したのではない。祖国を救うのはこれしかないと信じていただけだったから、それに反対し彼らを裏切者あつかいするギリシア人は、彼らからしてみれば、過去の栄光にしがみつくしか能のない、頑迷《がんめい》な時代遅れとしか映らなかったのである。
だが、学者としてイタリアに住みついてしまったベッサリオンに代わって、同朋からの憎《ぞう》悪《お》を一身に受けることになったイシドロスの、その後の十年の忙しさは格別だった。ロシアに派遣され、その地のギリシア正教徒の説得に努力したが失敗し、牢獄《ろうごく》生活を体験したこともある。
結局は脱走に成功してローマへもどれたが、その後もコンスタンティノープルとローマの間を何度往復したか、数えてみてもわからないほどだった。それでも彼の確信がゆるがなかったのは、ビザンチン帝国の為政者と知識人階級に、彼の考えに賛同する者が少なくなかったからである。反対の主体は、修道士と民衆であった。だが、彼は、これらの人の感情的な反撥《はんぱつ》も、西欧の援助を具体的に示せば消えると信じていた。
それが今、イシドロスは、法王が提供した船と兵を従えて、コンスタンティノープルへ向けて出発しようとしている。その彼の眼には、もう今から、聖ソフィア大聖堂で厳かに行われるであろう、東西教会合同のミサが見えるようだった。そして、東西一丸となって異教徒トルコを追撃する、キリスト教軍の雄《お》叫《たけ》びの声も。
一四五二年・夏 コンスタンティノープル
カリシウス門から入って聖ソフィア大聖堂に向う大路を半ば来たところで北に折れ、ゆるやかに金角湾に向ってくだる途中に、聖救世主全能者教会に附属した僧院がある。この僧院の一室がゲオルギオスの住まいになってから、すでに二年がすぎようとしていた。
ゲオルギオスは、はじめから修道士であったのではない。古代ギリシア哲学と神学を学んだ後、私塾を開いて教えていたのだが、学識の深さは宮廷に知られるようになり、皇帝の秘書官を勤めたこともあった。イタリアでの公会議には、イシドロスやベッサリオンとともに出席している。しかし、イシドロスよりは幾つか年下であった彼は、イタリアからもどって以来、東西の合同には反対するように変っていた。
彼は、イタリアで、新しい時代の動きを見なかったのではない。また、東西の合同そのものには反対ではなかった。ただ、西側が要求し、イシドロスやベッサリオンが賛成する合同のしかたには、反対であったのだ。彼は、イタリアで、ビザンチン文明と西欧の文明が根本的なところでちがうのを、肝に銘じて感じたのである。そして、カトリック教会の許での東西合同は、ギリシア正教徒の魂と呼んでもよいものを捨てなければ実現せず、それでもなお強行すれば、ギリシア正教会は分裂をくり返したあげく、地上から姿を消すことになるだろう。ゲオルギオスには、自分たちの宗教から離れた後のギリシア正教徒が、単なるギリシア、スラブ、アルメニア人でしかなくなるのが眼《め》に見えるようだった。
もちろん、彼とて、トルコのスルタンがボスフォロス海峡に要塞《ようさい》を築かせていることを知らないわけではない。皇帝の側近たちが心配するように、これがコンスタンティノープル攻略の前ぶれかもしれないとは、彼もまた考えたことである。だが、もしコンスタンティノープルが陥落しビザンチン帝国が滅亡したとしても、ゲオルギオスからすれば、神が定めた運命なのである。神が、ビザンチン人にくだす神罰なのであった。ギリシア正教を捨ててまで国を守るのは、だから、神の意に反する冒涜《ぼうとく》的行為となる。信心深いキリスト教徒なら、誰《だれ》が、永遠の世界での救いを犠牲にしてまで、仮りの世でしかない現世を守る者がいようか。
ゲオルギオスは、すでにトルコの支配下に入っている国々に住むギリシア正教徒の信仰の強さが、彼の考えを実証していると信じていた。長い間の伝統を捨て、東西教会のにわか仕立ての合同が成ったとしても、その結果、これに反対する各地のギリシア正教徒が離反し、結局は消滅してしまうよりは、いっそのことトルコ人に征服されたほうが、信仰を守りつづけるのにはよいのではないだろうか。これが、ビザンチン帝国を愛することでは誰にも劣らないと自認している、ゲオルギオスの達した結論だったのである。
その彼にとって、形としての国が滅びることは、相対的な問題でしかなかった。彼の考えに賛同するギリシア人は多く、彼の住む僧院は、合同反対派の本拠のようになっていた。
一四五二年・夏 コンスタンティノープル
ゲオルギオスの僧房を訪れる人々の中に、一人のイタリアの若者がいた。ウベルティーノという名の、二十一歳になったばかりの学生である。ヴェネツィア共和国領になっている北イタリアのブレッシアの生れで、イタリアでギリシア哲学を学んだ後、どうしても本場でそれを深めたいと、憧《あこが》れの地コンスタンティノープルに来たのは二年前の春であった。ゲオルギオスに師事しはじめてからでも、一年はすぎている。
ギリシア哲学とギリシア語を学ぶのが目的なのだからと、コンスタンティノープルに住む西欧人のほとんどが、通称「ラテン区」と呼ばれる金角湾にそった一帯に住むのが普通なのに、彼だけはギリシア人の中に住んでいる。「ラテン区」に行くのは、そこにあるヴェネツィア商館内の銀行で家族からの送金を受け取るのと、ヴェネツィア大使館附《づ》けでとどく、手紙を取りに行くためだけだった。
カトリック教徒であるウベルティーノは、ゲオルギオスの僧房で熱っぽく語られる宗教論議に、正直言えば違和感を感じなかったわけではない。だが、コンスタンティノープルに住むようになって、ビザンチン的なるものに良きにつけ悪《あ》しきにつけ日夜馴染《なじ》んできたこの頃《ころ》、彼は、「ラテン区」の住民たちが合理的判断から非難して顧みない現象も、そうは簡単に一刀両断してすむものではないと感じはじめていたのである。哲学を語ることが少なくなったにもかかわらず、このイタリアの学生は、あいかわらずの熱心さで師の許《もと》に通うのをやめなかった。論議には加わらなかったが、ゲオルギオスを囲む輪の外にひかえめに坐《すわ》るラテン人の若者は、熱狂的なギリシア人から無視はされたが、排撃はされなかったからである。
ウベルティーノも、ラテン区では誰一人口にしない者はいない、ボスフォロス海峡ぞいに完成しつつある、要塞のことは知っていた。ヴェネツィア人が主体のラテン区では、大事をとって妻子だけでも避難させると決めた者は、日が経《た》つごとに増えていた。しかし、夏のコンスタンティノープルには、それに使える船は少ない。商船は、航海に有利な夏期を、できるかぎり活用するからである。ヴェネツィア領のネグロポンテやクレタ島に避難させようにも、黒海へ行っている船がもどってくる、秋の終りまで待たねばならなかった。
ウベルティーノが部屋を借りている地区のギリシア人たちは、彼らが呼ぶ「ラテン人」とはちがう反応を示していた。トルコ人が、ヨーロッパの城という意味で「ルメーリ・ヒサーリ」と名づけたこの要塞は、ボスフォロス海峡を通って黒海沿岸の諸都市との通商に従事する、「ラテン人」の行動を牽制《けんせい》するためだと信じられていた。ギリシア人の中には、自分たちの街を利用して巨利を得ているとして、西欧の商人に反感をいだく者が多かったから、黒海貿易が困難になろうと、秘《ひそ》かに満足は感じこそすれ、被害がわが身に及ぶとまで考える者は少ない。それに、これまでのトルコによる二度のコンスタンティノープル攻略の際も、結局トルコ軍は、包囲を解かざるをえなかった前例もある。首都陥落の可能性を、真剣に案じるビザンチン人は少なかった。もしも最悪の事態になったとしても、それはもう神の御意志なのだから、甘んじて受けるしかないのである。コンスタンティノープルのギリシア住民の間には、楽観的な予測と運命論的な考え方が、まさしくビザンチン式に同居していたのであった。
ある午后《ごご》、例によってゲオルギオスの僧房を訪れながら、哲学を語るわけでもなく、かといって宗教論議に加わるでもなく、ただ人々の熱弁に耳をかたむけるだけですごしたウベルティーノが、それでも師に帰りのあいさつをしようとした時、ゲオルギオスは珍らしく、別室に彼一人だけを招じ入れて話しだした。
「きみも、イタリアへもどってはどうかね。かの地では評判が悪いにちがいないわたしだから、紹介状は書かないが、きみほどの力の持主なら、良い師や勤め先を求めるにも苦労はないだろう。ギリシア哲学を学ぶには、今ではもしかしたら、ここよりもヴェネツィアやフィレンツェやローマのほうが適しているかもしれない。教師も書物も、イタリアのほうが豊富だからね」
ウベルティーノは、師の心づかいに感謝する言葉だけ述べて、僧院を出た。言われてみれば、当り前なのである。利権を守る必要のある商人とちがって、留学生の彼には、強《し》いてここに留《とど》まらねばならない理由はまったくない。しかし、ウベルティーノには、かといって帰国の決心もつきかねていた。なぜだか、彼にもわからなかった。ただ、すぐにもはっきりと決めることが、なんとなく自然に反しているように思えてしかたがないのである。どうやら自分も、細部に執着して大局を見失うとラテン人が悪口を言う、ビザンチン式考え方に染まったのかと思った時、少年の面影《おもかげ》がほの見えることもある若者の頬《ほお》には、久しぶりのほがらかな笑いが浮ぶのだった。
一四五二年・夏 ガラタ
ガラタの丘にそびえ立つ塔からは、眼下に横たわる金角湾の向うに、コンスタンティノープルの市街を一望のもとに見渡すことができる。商船の群らがる船着場が見え、そのすぐ向うには、数多くの塔で要所を押さえた、一重の城壁が連らなる。城壁のあちこちに口を開けた門も、積荷を運んで忙しく出入りする人々も、陽《ひ》を全面に受ける正午近くであったりすると、小さな玩具《おもちゃ》のようでも数えることができるくらいだ。城壁のすぐ裏側から広がるラテン区には、商品用の倉庫や商館や店があるので、その近くにある船着場は、いつも人と積荷と船でにぎわっているのだった。
市街でも最も高い場所に、それも一段と高くあたりを睥睨《へいげい》しているのは、聖ソフィア大聖堂の円屋根である。そこから西に眼を移せば、教会と僧院の多いことでも有名なコンスタンティノープルだけに、鐘楼を数えるだけでも疲れてしまう。そして、その最も西のはずれに、四角の高い皇宮が眺《なが》められ、皇宮を守って金角湾の岸までのびている、一重の城壁も認められるのであった。地中海世界最大の都コンスタンティノープルを掌中にする場所に立ちながら、いやこの場所に立つたびに、ロメリーノの胸はひどくふさいでしまうのである。
「この年になって、なぜまた選《よ》りによって自分だけが、こんな困難な立場に立つ羽目になったのだろう」
ロメリーノは、ついてもしかたのないため息を、周囲の者の手前もかまわず、もう一度深深とくり返すのだった。
アンジェロ・ロメリーノは、ガラタにあるジェノヴァ居留区の代官である。金角湾をはさんでコンスタンティノープルと向い合うガラタのこの居留区は、この辺りのジェノヴァ通商の重要な拠点だった。通称を「ジェノヴァ人の塔」と呼ばれるこの塔を中心に、金角湾とボスフォロス海峡に降りる形に築かれた城壁が囲む、二百年もつづいた、ジェノヴァ人だけの居留区なのである。エーゲ海のキオス島とこのガラタと、そして黒海沿岸のカッファを三大拠点とするジェノヴァ商人は、この地域では完全に、宿敵のヴェネツィア商人を圧倒してきたのだった。専用の船着場から倉庫の並ぶこのガラタは、ジェノヴァ人だけしか使えない商業基地で、対岸のコンスタンティノープルの「ラテン区」が、ヴェネツィア人が主体にしても、フィレンツェ商人もアンコーナの人も、また南仏プロヴァンスやスペインのカタロニアの商人も同居しているのとは、まったく対照的だ。これらライヴァルたちの仕事場を一望のもとにできるこのガラタの塔が、ビザンチン帝国でのジェノヴァ人の立場を象徴していた。
だが、これも、またボスフォロス海峡ぞいの山上に堅固な城塞を二つも築いたのも、黒海通商に全力を投じてきたジェノヴァにすれば、ごく当然の対策であった。一方ヴェネツィアは、オリエントでも南、エジプトのアレキサンドリアとシリア一帯との通商に主力を移して久しいので、コンスタンティノープルと黒海沿岸の市場は、多角経営をもっぱらとする彼らのやり方からすれば、拠点の一つにすぎないのである。
それだけに、ガラタの代官の地位は、ジェノヴァ経済にとって実に重要な役職だったが、律《りち》気《ぎ》ではあっても積極性に欠けるロメリーノには重すぎた。いや、彼自身が誰よりもそれをわかっていて、短い一時期の任期だからと言われなければ引受けなかったであろう。実際、彼の任命から三カ月後には、本国では新任の代官が任命されていた。ロメリーノは、この新任者が到着する日を、心待ちにしていたのである。どうか自分がこの地位にある間だけでも、無事にすぎればよいがと願いながら。
それでも、彼は、任務をおろそかにしたわけではなかった。春にはじまったトルコによる要塞建造も、ただちに本国ジェノヴァに通報し、これが、黒海貿易に主力をおくジェノヴァ経済にとって、重大な結果につながる可能性大だと進言したのは彼である。その後も、工事の急速な進行に驚きながら、これがコンスタンティノープル攻略の前兆とすれば、ガラタのジェノヴァ居留区はどう対処すべきかと問いつづけたのも彼である。だが、本国政府からは、ようやくこの頃になって、二隻《せき》の船と五百の兵を送るという通知がとどいただけだった。
居留地の住民の安全も、ロメリーノには頭の痛い問題だった。対岸にあるラテン区に住む西欧の商人の多くが、短期の単身赴任であるのとはちがうのだ。ガラタは、あまりにも長期にわたってあまりにも完全な独占体制を享受《きょうじゅ》してきたために、妻子をともなう者が大部分で、ガラタで生れ育った「ジェノヴァ市民」さえ少なくない。彼らはここに、すべてを投資してきたのである。一片の避難命令だけで、解決する問題ではなかった。
ロメリーノは、このうえさらに、この困難な情況下でこれ以上の難問もないと思うほどの課題も押しつけられていた。ジェノヴァのオリエント通商続行の可能性は、いちにガラタ保有にかかっていることを頭にたたきこんだうえで、ビザンチン帝国と西欧を刺激しないやり方で、トルコとの友好関係の維持に全力をつくせ、という難題である。自分たちの存在が相手に絶対に必要であるとはいえない状態での中立ほど、むずかしい課題はないのだ。それを本国政府は、ロメリーノに命じてきたのである。六十半ばといえば、地中海を縦横に活躍してきた交易商人でも、引退して故国での安らかな生活を愉《たの》しむ年である。ロメリーノも、妻を亡《な》くし子もないところから、手許に引き取って仕事をしこんできた甥《おい》にガラタで築いた全事業を残し、ジェノヴァへ帰り、そこに住む弟一家とともに静かな余生をおくる日を、眼の前にする想《おも》いだったのである。それが、帰るどころか大任を背負ってしまったのだから、彼がため息をもらすのも無理はない。
「もう一度、皇帝とスルタンの双方に、友好関係確認のための使節をおくらねばならないだろう」
ロメリーノは、塔のらせん状の急な階段を注意して降りながら、誰にともなくつぶやくのだった。
一四五二年・夏 コンスタンティノープル
皇帝の前に出るたびに、フランゼスは、暖かい想いで胸がいっぱいになるのを押さえることができない。コンスタンティヌスがまだモレアの君主であった時代に秘書官として勤めはじめたのは、フランゼス、二十七歳の年である。彼よりは三歳年下のコンスタンティヌスが、子のいなかった兄のヨハネスの後を継いで皇帝に即位した四年前から、フランゼスの地位もあがり、今では大蔵大臣になっているのに、気分だけはどうにも昔と変らず、秘書官であった頃と同じ敬愛の気持で接してしまうのだ。皇帝のほうも、フランゼスの二十四年に及ぶ親身な忠節を感じとっていて、今でも内密を要することは、なにかとフランゼスに頼るのが常だった。
「わが皇帝ほど、心身ともに高貴な方はおられない」
フランゼスは、わがことのように誇りに思うのである。実際、コンスタンティヌス十一世は、痩《や》せ型《がた》にしても均整がとれて背が高く、細面《ほそおも》ての彫りの深い顔は、暖かい眼《め》とあごひげで、威厳を保ちながらも人間味に欠けていない。このコンスタンティヌスが、紅《くれない》の大マントを風になびかせながら白馬を駆る様は、フランゼスならずとも、昔《いにしえ》のローマ皇帝もかくやと、ほれぼれするようだった。性格も、清廉《せいれん》潔白で誠実そのもの。自分と考えをともにしない者の意見でも忍耐づよく聴くので、東西教会の合同反対の急先鋒《きゅうせんぽう》であるゲオルギオスさえ、個人としての皇帝は、敬愛せずにはいられなかったのである。もちろん、国民の人気も上々だった。
だが、フランゼスにしてみれば、皇帝の家族運の悪さが気の毒でならない。コンスタンティヌスは、二十四歳の時にした最初の結婚の相手、エピロスの君主の息女に、わずか二年で先立たれていた。子はいない。その十三年後に、今度はレスボス島の領主の娘と再婚したのだが、これにも子に恵まれないままに先立たれ、その後は独身をつづけていた。しかし、皇帝に即位後は後継者の問題もあり、独身でいつづけるわけにはいかない。それで、二年前から、フランゼスが中心になっての、皇后探しが進められていたのである。
候補にあげられた中には、ヴェネツィア共和国の元首の娘やトレビゾンドの皇帝の息女もいたのだが、セルビアの王女マーラが、誰よりも適当であるように思われた。まず第一に、まだ子を産める若さだった。第二の理由は、先のスルタンのハレムにいた間も回教に改宗しなかったので、ギリシア正教徒同士で宗教上の問題もない。だが、最も重要と思われた理由は、マーラが、新スルタン・マホメッド二世から丁重な待遇を受けているということだった。トルコとの関係が最重要課題であるビザンチン帝国としては、これは、充分に魅力ある持参金≠ノ思えたのである。トルコのスルタンの未亡人との再婚も、ビザンチンの皇族の一人にすでに先例があったから、障害にはならなかった。
しかし、理想的と思えたこの話は、マーラの拒絶で実現しなかった。このキリスト教徒の王女は、祖国を救うためにハレムに入れられていた間、もし生きてハレムを出ることができれば一生結婚しない、という誓願をたてていたのである。これを言われては、皇帝とてなにもできない。結局、再婚の相手は、コーカサス地方の小さな国グルジアの王女におちついた。昨年の秋、フランゼスがグルジアへ行き、話をまとめてきたのである。だが、王女が婚礼のために黒海を渡り、コンスタンティノープルに到着する期日は、なるべく早くとだけで、正確な日取りは決まっていなかった。
とはいえ、皇帝のほうも、婚礼の日を指折り数えて待つほどの余裕もなかったであろう。前年の二月から、ビザンチン帝国の皇帝にとっては、気の休まる暇のない日々がつづいていたからである。
前年の二月に起った一連の事件が、皇帝の頭から離れたことはなかった。ビザンチン帝国の現状での温存を認めていたスルタン・ムラードの急死、そして、その後を襲った若いスルタン・マホメッド二世の真意を正確につかめないのが、皇帝を不安にしていたのである。もちろん、ムラードとともに気心の知れていたカリル・パシャ以下の三大臣の留任と、相互不可侵条約の簡単な再新は、皇帝をひとまず安《あん》堵《ど》させる役には立った。しかし、トルコは完全な専制君主国である。ビザンチン帝国は、そのトルコに三方を囲まれている。そして、今やトルコを動かすのは、成熟した年齢の皇帝からすればやはり不可解でしかない、二十歳の若者だった。皇帝は、改めて西欧に援助を乞《こ》う使節を派遣することにしたのである。一四五一年の春のことだった。
皇族の一人を主席にすえた使節団は、ただちにコンスタンティノープルを発《た》ち、四月にはフェラーラのエステ家に、その後はヴェネツィアへ行き、八月にはローマで、法王ニコロ五世に会うことになっていた。ローマの次はナポリへ向い、アラゴン王にも援軍を要請する予定になっている。コンスタンティノープルに持つ権益の大きさからすれば、当然ジェノヴァ共和国が第一に助けるべきなのだが、当時のジェノヴァは、国として行動を起すには弱体すぎた。結局、同じキリスト教世界に属す国々に向って、回教国トルコに対抗するために力を貸してほしいと頼むしかなかったのである。使節団は、東西教会の合同をカトリックの主導権を認めて行う、とした皇帝の決意を、ローマの法王に伝えるのが第一の任務であった。
その年の秋、法王ニコロ五世も、東西合同を条件にしたにしろ、援軍派遣を約束した手紙を皇帝に送ってきたのである。しかし、ヴェネツィアは、経済上の援助は承諾し、早々とコンスタンティノープルのヴェネツィア銀行を通して支払いを命じてきたが、イタリアでの内戦もあって、一国だけでの軍の派遣はできる状態にないことを述べ、ミラノやフィレンツェを巻きこんだこの内戦を一日も早く収拾し、西欧勢の共闘体制がなるよう努力する、と伝えてきただけだった。ナポリ王は、援軍派遣の条件にビザンチンの帝位を要求してきたので、コンスタンティヌスも受けるわけにはいかなかったのである。カトリック教界では俗界の最高位者であるはずのドイツの神聖ローマ帝国皇帝は、同じカトリックのハンガリア王国と争っていて、オリエントのことなどには無関心。フランス王も、対岸の火事と見るのでは、ドイツと変らない。スペインは、自国内の回教徒対策で、手いっぱいの状態にあった。
年が代わって一四五二年になっても、西欧の態度には、さしたる変化は見られなかった。東西教会の合同に対する皇帝の決意を知って一段と硬化した、反対派の明らさまな意志表示だけだった。コンスタンティノープルの中心と言ってもよい聖ソフィア大聖堂の前の広場が、隊を組んで大声で反対を唱えながら練り歩く修道士の群れと、その後にこれも険悪な顔つきで従う民衆で埋まった日は、一日ではすまなかった。そして、その中心にはいつも、ゲオルギオスの黒い僧衣姿があった。
皇帝の周囲でも、反対派は表面に出はじめていた。皇族であり宰相でもあったルカス・ノタラスは、
「法王の三重冠を見るよりは、トルコ人のターバンで埋まったのを見るほうがましだ」
とまで公言してはばからなかった。常にそば近く仕えているだけに、フランゼスには、皇帝の苦悩がわがことのようにつらく感じられるのだ。そして、皇帝の唯一《ゆいいつ》の希望が、西欧からの援軍を眼前にした反対派が、態度を軟化させることにあるのを、皇帝が口にしなくてもわかっていたのである。
しかし、同じ年の二月、援軍など影も見えないというのに、マホメッド二世が五千人の工夫を集めるよう命じたという情報が、コンスタンティノープルを驚かせた。はじめのうちは、アドリアーノポリに宮殿を建てるためであろうとの予想が支配的だったが、そう言った人々も、三月に入るや工夫の群れが、方向のちがうボスフォロス海峡ぞいに集結しはじめたのには、口をつぐむしかなかった。
そして、三月二十六日、三十隻の船とともに、スルタン自らが到着したのである。ガリーポリを発ちマルモラ海を北上し、コンスタンティノープルの前を通ってボスフォロス海峡に入るスルタンの船団を、海軍のないビザンチンは、ただ黙って見守るしかない。陸側も、三万を越える軍勢が、アドリアーノポリから東に向い、ボスフォロス海峡のヨーロッパ側の岸で、船で来た者と合流した。そして時をおかず、要塞《ようさい》構築の工事がはじまったのである。
カリル・パシャ、サガノス・パシャ、クアラジャ・パシャと三人の重臣が分担する工事は、競争のように早く進み、要塞は、見守るマホメッド二世の前で、驚くほどの速さで形をなしつつあった。マホメッド二世は、これに、ヨーロッパの城という意味で、「ルメーリ・ヒサーリ」と名づけた。対岸にある要塞が、アジアの城という意味で、「アナドール・ヒサーリ」と呼ばれていたのにちなんだのである。
皇帝は、もちろんすぐに抗議の使者を送った。構築地点は、立派にビザンチン領なのである。それに、「アナドール・ヒサーリ」を建てた当時のスルタンであったマホメッド二世の祖父は、皇帝に許可を乞うた後で建てたのに、マホメッド二世からは、事前になんの連絡もなかったのだ。
構築現場にあったギリシア正教の修道院が、これまたなんのあいさつもなく破壊され、石材は要塞を建てるのに転用されたことも、抗議の理由になった。しかし、皇帝の抗議に対し、マホメッド二世は、要塞は海峡の航行安全を期すために築かれるので、これで海賊の横行が阻止されれば、利益をこうむるのはビザンチン側も同じである、と答えてきた。だが、工事の従事者や軍隊を養うために、附近の村落が略奪されているという報に抗議して送った使節二人を、二十歳の若者は、一言もなく首を斬《き》らせたのである。
皇帝は、コンスタンティノープルの市内にいた六百人ほどのトルコ人を捕え、牢《ろう》に入れはしたが、海軍にとどまらず、軍と呼べるほどの陸軍も持たないビザンチン帝国にはなにもできない。結局、トルコ人は全員釈放され、村落の住民には危害を加えないでほしいとの願いとともに、葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》を贈ることまでしたのだった。
マホメッド二世はそれを聴きはしたが、彼の考えでは、危害を加えてはならない住民は無抵抗のそれに限るのであって、少しでも抵抗すれば、皇帝との協約のわく外になるということらしかった。実際、いっこうに立とうとしない首都に絶望して抵抗運動を起したある町は、住民全員が虐殺《ぎゃくさつ》された。これにはさすがに城外に打って出たビザンチンの騎兵隊も、ほとんど全滅に近い状態で、数騎が帰ってきただけだった。
要塞が完成したのは、八月の末である。海峡の岸辺から上にあがる地型にそって、逆三角型の形をした「ルメーリ・ヒサーリ」は、全長が二百五十メートルもある、高さ十五、幅三メートルの城壁で囲まれ、七十メートルはある三つの大塔と九つの小塔で、要所を押さえるのを忘れていない。完成後の要塞には一部隊が駐屯《ちゅうとん》し、海峡に接する大塔には、大砲もそなえられたという。これらはみな、スパイを潜入させていたヴェネツィア大使からの報告でわかったのである。ビザンチン帝国は、情報収集さえも、西欧人の助けを借りないことにはなにもできなかった。
しかし、皇帝の心胆を冷やした事件は、これで終りではなかった。「ルメーリ・ヒサーリ」完成後、来た時とは反対に陸上をアドリアーノポリに帰ることにしたらしいマホメッド二世が、全軍とともに、コンスタンティノープルの城壁の外に留《とど》まったのだ。すべての城門を閉じて息をひそめているコンスタンティノープルの三重の城壁を前にして、トルコ軍は、天幕を張ったままで動かない。これがなにを意味するのか、皇帝にはなんとも計りかねた。皇宮近くの城壁の上からは、そのはるか向うの平野を埋めたトルコ人の天幕の群れがよく見える。色とりどりの天幕の中でもひときわ目立つ赤い大天幕が、スルタンの天幕にちがいない。三日がすぎて、これらの天幕がたたまれ、トルコの人馬の群れが西に遠ざかるのを見て、ビザンチンの人々の胸は、ようやく息をつくことができたのであった。
一四五二年・秋 アドリアーノポリ
十二歳のトルサンをひとめ見た者は、誰《だれ》でも、このトルコの少年の美しさに眼を見張らずにはいられなかったであろう。白い陶器を思わせる肌《はだ》は、あくまでも冷たくなめらかで、細い三日月型の眉《まゆ》の下の切れ長の黒い眼は、いつも静かで押しつけがましくない色気を漂わせている。身体《からだ》つきも、細身でしなやかで、立居振舞は、控えめながら犯しがたい気品を保っていた。
トルサンは、二年前からマホメッドの小姓《こしょう》を勤めている。スルタンの宮廷に仕える小姓は多いが、純血のトルコ人は珍らしい。マホメッドの父のムラードの代から、支配下のキリスト教国から数年ごとに、十代のはじめの年の少年たちを強制的に集め、その中の頭脳も容姿も優れた者は、回教に改宗させられた後は小姓として宮廷にあがり、将来の官僚になるよう教育されるのが慣習になっていた。その他の少年たちは、改宗までは同じでも、その後は軍隊に預けられる。これが、スルタン親衛隊として勇猛の名高い、イエニチェリ軍団だった。このトルコ独特の慣習によって、スルタンの小姓のほとんど全員が、回教に改宗したとはいえ、もとキリスト教徒の奴《ど》隷《れい》なのである。純粋なトルコ人のトルサンが小姓になれたのは、マホメッドがスルタンになる以前から近習《きんじゅう》として仕えていたからであった。
トルサンが仕えはじめた頃《ころ》のマホメッドは、世継ぎでありながら首都に留ることも許されず、小アジアの総督という地位はあっても名ばかりで、実際はていのよい追放の身であった。父親の死で情況が一変するのを期待するにしても、ムラードはまだ、四十半ばの男盛り。その頃のマホメッドは、酒と女色男色を問わない性愛に狂う毎日で、実に仕えにくい主人であった。それでも、この時期の手負いの獣のようなマホメッドに、トルサンはよく仕えた。慣例に反してまでマホメッドが、スルタン即位後もトルサンを手《て》許《もと》におきつづけたのは、このトルコの少年のたぐいまれな美しさのためばかりではない。マホメッドの意を解するに彼ほど長じていた小姓は、他《ほか》にいなかったからである。
のどが乾いたと思えば、背後にはすでに、杯を捧《ささ》げたトルサンがひざまずいていた。杯に満たされた水の冷たさから、つい少し前に注《つ》がれたにちがいなかった。また、寒いと感じれば、主人の長衣を手にした少年が、背後に控えている。それでいて、他の小姓たちのように、気の立ったマホメッドが葡萄酒のいっぱい入った杯を投げつけたりする時でも、恐怖の色もあらわに、いじけきって詫《わ》びたりすることもなかった。少年には、主人の怒りの爆発が、飲もうとしてかたむけた杯の表面に、コンスタンティノープルの三重の城壁を見たためであることがわかっていたからである。そして、マホメッドの寵《ちょう》を争って、ことごとに反感をぶつけ合う他の小姓たちからも、彼だけは超然としていた。
トルサンとて、背筋をつらぬくような痛みのまじったあの快感に、敏感でなかったわけではない。ただ、主人のマホメッドは、あることを考えだすとそれまでに関心のあったすべてのこと、酒も性愛も狩さえも忘れて没頭する性質であるのがわかっており、主人が呼ばないかぎり、身のほどを忘れた想《おも》いを、彼のほうから持ったり示したりしてはならないと思っていただけである。いや、この十二歳の美少年は、愛する人と自分との関係をこうと決めたほうが性愛の喜びが増すのを、無意識にしても知っていたのかもしれない。小姓をしばしば代えたマホメッドも、トルサンだけは手離そうとはしなかった。
主人の意を察するに自分以上の者はいないと思うトルサンだが、彼でさえも、くみとれるのは日常の些《さ》細《さい》な事柄《ことがら》だけであるのを知っている。この想いは、マホメッドがスルタンに即位して以来、日が経《た》つにつれて強くなっていた。といって、眼の前のマホメッドの風《ふう》貌《ぼう》が、即位を境にして一変したのではない。弱々しい印象は与えないが、二十代のはじめの若さを見せてほっそりと伸びた身体つきも、色白で面長《おもなが》な顔も、また、切れ長の黒い眼で相手をくいいるように見つめる強い眼《まな》差《ざ》しも、少しばかり大きめの鷲鼻《わしばな》もその下の紅《あか》く薄い口唇《くちびる》も、トルサンが小姓にあがった頃と少しも変ってはいないのである。ただ、以前から家臣との間に距離をおきがちだった、若者には珍らしい重々しさが一段と増し、それが与える印象を変えたのは事実だった。
若い新スルタンをことごとに批判する声は、トルサンの耳にも入っていた。開放的な性格で兵の間に混じることを好み、大臣たちとの関係も信頼で結ばれ、それがために臣下の敬愛を一身に集めていた父親に比べて、マホメッド二世の態度は、彼らには高慢と映ったのである。そのうえ、質素な生活に終始したムラードに反し、その息子は華美な服装を好み、なにごとも華麗になされることを望んだ。そして、これも野武士的であった父とは反対に、マホメッド二世の言葉つきは、絶対の権力を手中にしている者とは思えないほど丁重だった。そば近く仕えるトルサンから見れば、これこそ、マホメッドの冷たく醒《さ》めた心のあらわれにすぎなかったのだが。そして、この誰にも心のうちをうかがい知ることを許さない若者は、次次と、大臣たちの意表を突く命令を発しはじめたのである。
その最初は、小アジアに送った鎮圧軍の引きあげ命令であった。反乱軍は、完全に鎮圧されたわけではない。だが、アナトリアの山岳地帯に立てこもるクアラマン・ベグとその軍を完全に鎮圧するのは簡単にはできないことであったから、ひとまず動けない状態に置き、それ以上の深入りを避けたのである。
そして、翌年の春、多量の工夫の徴集令が発せられた。大臣たちに告げられた理由は、ボスフォロス海峡渡航の安全を期すため、「アナドール・ヒサーリ」のある地点の対岸に、もう一つ要塞を築くということだけだった。ヨーロッパとアジアにまたがるトルコ領土だけに、ボスフォロス海峡を渡らないことには、東西の往来もできない。ところが、この海峡に、ここ数年スペイン人の海賊の横行が目立ち、そこを通るジェノヴァやヴェネツィアの商船も、だいぶ頭を痛めている問題だった。そのためもあって、マホメッド二世の告げた理由も、コンスタンティノープル攻略の下準備かと疑ったカリル・パシャ以外の者には、納得がいく理由だったのである。
「ルメーリ・ヒサーリ」の工事は、集めさせた西欧の要塞の見取図を参考に、マホメッド自ら考案したとおりに、この種の工事にしては異例の速さで進行した。全工事をただ一人の責任者にまかせず、三つの大塔とその周辺の城壁を、高官一人ずつに分担させることも、マホメッドの考えたことだった。工事は、三人の高官にとっては、スルタンの視線を背後に感じながらの競争でもあった。実際、このやり方の有効さは実証され、「ルメーリ・ヒサーリ」は、誰もが予想もしなかった短期間で完成したのである。マホメッド二世がアドリアーノポリにもどったのは、秋のはじまりを知らせる晴れきった一日だった。
ウルバンと名のる一人のハンガリア人が、アドリアーノポリに姿をあらわしたのは、秋もたけなわの十月の末である。宮廷を訪れ、自分はコンスタンティノープルの城壁を破壊できるほど強力な大砲をつくれる、と言ったこの男を、トルコの宮廷の人たちは笑って、はじめは誰も相手にしなかった。だが、なにを考えているかわからないスルタンのことだ。責任を取らされて首をはねられるのを怖《おそ》れた一人が、まずは耳にだけは入れておこうと、スルタンに告げたのである。マホメッド二世は、すぐに連れて来いと命じた。
赤茶けたちぢれ毛のひげで顔の下半分が埋まったハンガリア人を、スルタンの部屋に導いたのはトルサンである。巻物の束をかかえたハンガリア人は、言われるままに、敷物の上にトルコ風に坐《すわ》った。そして、眼の前の床《ゆか》に、巻物を次々と広げはじめた。トルサンには、複雑な線で埋まっているそれらの図面の意味もわからず、地中海世界で最も堅固と評判のコンスタンティノープルの城壁を破壊するなど、アラーの神にもできないことだと思っていたから、それができるという大砲の話に興味を持つはずがない。ここを訪れる前にコンスタンティノープルへ行ったこのハンガリア人が、ビザンチン帝国の宮廷では相手にされなかったという話のほうが、彼には納得がいくのだった。
ところが、トルサンがふと眼をやると、低い椅子《いす》の上にトルコ式に坐って、ハンガリア男の言葉に耳をかたむけている主人の様子が、いつもとちがっている。無言で聴きながら、若いスルタンの視線は、眼の前の床に広げられたいくつもの図面にそそがれたまま動かなかった。その日から、ウルバンという名のこのハンガリア人は、スルタンの許に留まることになった。マホメッド二世は、このヨーロッパ人に、彼がビザンチン皇帝に要求した額の三倍の報酬を約束する。スルタンに予告もなしに会えるのは、宰相のカリル・パシャでもなく息子のバヤゼットでもなく、この長髪でひげもじゃのキリスト教徒であった。
スルタンの様子が変ったのは、それからまもなくのことである。日中でさえなにかに取りつかれた感じで、そばに近づくのがはばかられるようだった。それ以前にも考えこむことはしばしばあったが、今度のようにそれが長くつづくのははじめてである。夜中も眠れないらしく、次の部屋に控えるトルサンの耳にも、寝床の上で寝返りをくり返す様子が伝わってくる。酒にも手を出さなくなり、性愛にもまったく関心を示さなくなった。それまではトルサンも、部屋を退出する時にさげたままの首すじに、主人の熱い眼ざしを感じる時があったのに、この頃は、美しい小姓の存在など眼中にないようだ。それどころか、身だしなみには人一倍気を使っていたのに、ひげをととのえるのまで忘れがちだった。線の美しかった切れ長の眼《め》も、くぼんだまぶたの奥にぎらぎらと光るだけ。小姓も奴《ど》隷《れい》も、怖れて近づかなくなった。トルサンだけが、いつもの控えめな態度を守りながら、あいかわらずマホメッドのそばから離れなかった。彼には、わかっていたのである。自分の若い主人が、長年の想いを具体化する道を、ようやく見つけたのだということがわかっていたのだった。
一兵卒に扮して街に出はじめたのも、ちょうどそれと同じ頃だった。供は、これも兵卒の服をつけたトルサンと、剛力で有名な黒人の奴隷で、スルタンはこの二人だけを供に、夜半のアドリアーノポリにしのび出る。行先は、兵士たちのたむろする場所と決まっていた。だが、出会った兵の中で誰かが彼を認め、スルタンにふさわしいあいさつでもしようものなら、黒人奴隷の大刀が一閃《いっせん》するのだった。
そんなある日の夜半すぎ、トルサンは寝室からの声で呼ばれ、今すぐ宰相《さいしょう》を召しだすよう言われた。迎えに立った黒人奴隷たちにともなわれてあらわれたカリル・パシャは、思わぬ時刻の呼びだしに、いよいよ来るべき時が来たかという想いであったのだろう。手にした銀盆に山と盛られた金貨が、マホメッドの寝室に入ったところで、バラバラと落ち、トルサンはそれを拾わねばならなかった。
マホメッド二世は、部屋着姿のまま、寝台の上に坐っていた。老宰相は、その前の床に頭をつけて深々と礼をした後、持ってきた銀盆を捧《ささ》げるように前に押しやった。若いスルタンは言った。
「これはどういう意味ですか、先生《ラーラ》」
十二歳の年に父親に位を譲られた時、ムラードは息子に、カリル・パシャを師と思って彼の忠告を聞くように、と言ったのである。それ以来、マホメッドは、父の死後文字《もじ》どおりの専制君主になってからも、公式の席以外ではカリルを、「ラーラ」、先生と呼ぶのをやめなかった。老宰相は答えた。
「御主人様、深夜に高位の家臣が主人の召しだしを受けた際、なにも持たずに御前に参じてはならないのは、慣習でございます。わたしもそれに従いましたが、ここに持参したのは、ほんとうを申せばあなた様のもの。わたしのものではございません」
若者は、言った。
「あなたの持つ富は、わたしにはもう必要ではない。いや、あなたの持っているよりもずっと多い富を、贈ることもできるのです。わたしがあなたから欲しいと思うものは、ただひとつ。あの街をください」
二人から離れて控えていたトルサンにも、その瞬間、老宰相の顔が蒼白《そうはく》に変り、そのままで硬直したのが見えた。反対にマホメッドの顔が、湖のように静かなのも。マホメッド二世が、コンスタンティノープルという言葉を口にせず、ただあっさりと、あの街、と言ったがために、かえってカリル・パシャには、若者の決意が並々でないのを悟るしかなかったのである。
宰相カリル・パシャは、あれほどの確信を持って進めてきた彼の共存共栄の政策が、音をたてて崩れていくのを感じていた。老宰相は、力なく頭をさげたまま、全力をつくしての奉仕を約束するしかなかったのである。退出するカリル・パシャを送りながら、トルサンには、この老宰相が、もはや宰相に見えないのが不思議だった。
第三章 人みな、コンスタンティノープルへ
九月のはじめにヴェネツィアを出港した、トレヴィザンひきいる二隻《せき》のガレー軍船は、水と生鮮食糧を積みこむためにパレンツォに寄港した後は、アドリア海の出口を固めるコルフ島までどこにも寄港しないですんだほどの、順調そのものの航海をつづけていた。風と天候に恵まれたというだけでなく、細身で船高も低いだけに水と風の抵抗も少なく、別名「快速ガレー船」と呼ばれる理由が、船にはくわしいとはいえない医者のニコロにも、今度ばかりは納得がいったのである。だが、夕食の席で、このことをいかにも新発見でもあるかのように得意気に口にしたニコロに、航海ではベテランのトレヴィザンは、笑いながらもう一つの理由を説明してくれた。
「われわれの船団は、二隻だけで、それも同じ型の船で編成されている。それが、商船団ともなると、大型のガレー商船数隻に帆船まで加わる場合が多い。地中海では順風にめぐまれつづけることはまれだから、細身でトン数の少ないガレー軍船でも、船団全体の船足の調節のために、帆の種類を始終変えでもしなければならないのが普通だ。今回は、ああいうやっかい者がいなくて身軽なのが、まことに快適でよろしい」
まったく、コルフに寄港した後もさらに南下し、ペロポネソス半島の南端のモドーネに着くまでは、これまたベテランぞろいの漕《こ》ぎ手《て》たちも暇をもてあまし、船上では博打《ばくち》が開帳される始末だった。だが、モドーネを後にしエーゲ海に入るや、漕ぎ手たちも暇をもてあそぶどころではなくなった。黒海からの風に逆って、北東に進む航路をとったからだ。それでも、ギリシアのネグロポンテまでは、ヴェネツィア共和国が制海権をにぎっている海域である。忙しくなったのは、櫂《かい》をあやつる漕ぎ手たちと帆と舵《かじ》の操作をする船乗りだけで、戦闘要員である石弓兵たちは、まだ警戒をする必要もなかった。五日間、ネグロポンテの基地に停泊する。トレヴィザンが、ここに駐屯《ちゅうとん》しているエーゲ海域担当のヴェネツィア艦隊司令官ヤコポ・ロレダンとの軍事上の討議で忙しくしている間、ニコロは、トロイ攻めに出向くギリシア軍の船が集結したといわれる湾などを見物してまわった。
ネグロポンテを発《た》った二隻のガレー軍船は、アドリア海を一路南下していた時とは比べようもない緊張感に満たされていた。漕ぎ手たちまで胸甲をつけ、石弓兵も、いつ戦闘が開始されてもよい状態で持場につく。ここからコンスタンティノープルまでは、まずはじめにジェノヴァの勢力の強い島々の近くを通り、次いでダーダネルス海峡に入るや、今度はトルコの支配圏を突っ切って行くからであった。それでも、トロイの古戦場を右にしながらダーダネルス海峡に入り、トルコ唯一《ゆいいつ》の海港ガリーポリの沖も無事に通過することができた。このままマルモラ海を北上すれば、コンスタンティノープルである。順調な航海つづきであったにせよ一カ月を要したのは、ヴェネツィアの海軍基地のあるコルフとモドーネとネグロポンテに、軍事上の理由で数日ずつ寄港したからであった。
病人は一人も出ず、それこそ船乗り以上に退屈していたニコロも、ネグロポンテを発ってからの船旅は、次々とあらわれる島影を眺《なが》めているだけでも愉《たの》しく、毎日が早く過ぎるほどだった。この辺りの海は、彼にははじめてだったからである。コンスタンティノープルに着いたのは、十月のはじめだった。
秋の陽光を全面に浴びて、この地中海世界最大の都が視界に入ってきた時は、歴史には特別な関心を持ったこともなかったニコロでも、さすがに胸がさわぐのを押さえることができなかった。数えることもできないほど多くの塔をつないだ高い城壁が、陸上は左に、マルモラ海側は右にのびている。城壁は、ぐんぐんと眼前に迫ってきた。昨夜中漕いで疲れているはずの漕ぎ手たちも、目的地を間近かにして元気づいたのであろう。ニコロの船には、帆柱の上高くひるがえるヴェネツィア共和国旗のすぐ下に、艦隊の司令官の乗船を示す旗がかかげられた。
二隻のガレー軍船は、海側の城壁にそって北上をつづける。ニコロには、つきないのではないかと思われたほど、コンスタンティノープルの城壁は長かった。途中に二つほど船着場があったが、ヴェネツィア船は通りすぎる。水夫長の話では、マルモラ海側の船着場は小さくて、ヴェネツィアやジェノヴァの持つ大型の船には適さないとのことだった。
高くそびえる聖ソフィア大聖堂の円屋根を左に見ながらまわったところが、ニコロでも知っている、有名な金角湾の入口だった。その右手には、ボスフォロス海峡が口を開けている。トレヴィザンのガレー船は、金角湾を入ってすぐの船着場に入っていった。城壁の上から司令官旗を認めた者が、通報したのであろう。船着場には、コンスタンティノープル駐在ヴェネツィア大使ミノットが出迎えていた。
*
クリミヤ地方の港ターナを発ち、黒海沿岸のトレビゾンドやシノペをまわった後で、ボスフォロス海峡がはじまる地点までくると、テダルディのようにここを何度行き来したかわからない者でも、わが家にたどり着いたと同じ想《おも》いで、全身が自然にくつろいでくる。それが、今度だけはちがった。黒海沿岸の西欧商人の基地では、ヴェネツィア商人の本拠ターナでも、ジェノヴァ商人が独占するカッファでも、また独立国トレビゾンドでさえも、寄るとさわると、ボスフォロス海峡ぞいにトルコが築いた要塞《ようさい》の話でもちきりだった。
トルコは、「ルメーリ・ヒサーリ」と名づけたこのヨーロッパ側の要塞と、前からあったアジア側の「アナドール・ヒサーリ」の両方に大砲をそなえつけ、間を通る船を停船命令で止め、通行料という名目で莫大《ばくだい》な額の金銭を支払わせているというのである。停船命令に従わない船には、両岸の要塞から大砲が火を吹くという。ボスフォロス海峡の通行税など、そこを領内に持つビザンチン帝国さえ要求したことがない。仮りに一歩ゆずって払うとしても、そのようなことは、ジェノヴァもヴェネツィアもトルコとの間に通商条約を結んでいるのだから、その条約の再新の際に、条件の一つとして検討さるべきことなのだ。それなのに、まだ先の条約の発効期間中に、一方的に要求してくるのは理不尽もはなはだしい。これが、ジェノヴァとヴェネツィアの商人たちの言い分だった。いつもは仲の悪いライヴァル同士だが、今度だけは彼らも意見をともにしたのである。
この両国ほどこの一帯での通商に伝統も実績もない、フィレンツェやアンコーナや、またフランスのプロヴァンスやスペインのカタロニアの商人たちも、トルコの出方を、法に反した野蛮な行為と思う点ではまったく同じだった。彼らは、停船命令には従わず、トルコの要求する通行税など払わないことで一致したのである。
しかし、彼らのように、長年ボスフォロス海峡を通ってコンスタンティノープルと黒海沿岸の諸都市との間の通商に従事している者ならば、わずか三十キロの長さにしても、ボスフォロス海峡の航行には意外と高度な技術を要することは知っている。黒海から吹きつける北風でもマルモラ海から吹く南風でも、両岸に山の迫る狭い海峡に入ったとたんに、一段と強さを増すのだ。それに、この海峡は、黒海とマルモラ海の間を、まっすぐに通っているのではない。まるで蛇《だ》行《こう》する川のように、曲がりくねって流れているのである。そのうえ、黒海のほうが水位が高いので、潮流は常に、風がなくても黒海からマルモラ海に向って、ボスフォロス海峡を南下する。このようなところでは、航行の速度をあげようと思えば、曲がりくねっている箇所、つまり風の死角になる箇所は避けて、なるべく風と潮流が障害なく通う地点を選んで航行する必要がある。
しかし、この程度の航行技術は、その面では他の追随を許さないジェノヴァやヴェネツィアの船乗りにしてみれば、それほどむずかしい技《わざ》ではない。彼らが、ボスフォロスの入口に達するや、すでにコンスタンティノープルの船着場を眼の前にしたような安《あん》堵《ど》を覚えたのもそのためである。だが、これからはちがう。ボスフォロス海峡が最も狭くなる地点、わずか六百メートルしかないその地点を、両岸からの砲火をかいくぐって行かねばならないのだ。これは、異教徒との交易に身体《からだ》を張ってきた思いの彼らでも、あまり愉快な想像ではなかった。ジェノヴァ商人の一人が、笑いながら言った。
「黄色い旗でも、かかげていくかね。それならまさか、停《と》まれとは言わないだろう」
テダルディも加わったその場にいた人々は大笑いしたが、彼らの笑いはすぐにやんだ。黄色旗とは、その船に伝染性の病気を持つ病人がいるということを示すために帆柱高くかかげる旗で、万国共通の決まりになっている。一隻ぐらいならばごまかせるかもしれないが、船という船すべてがかかげていくわけにはいかない。西欧の商人たちの達した結論は、従来のように船団を組まず、砲火を避けやすいように船同士の間隔を相当において全速力で通過するということだった。
テダルディの乗ったヴェネツィアのガレー商船は、いよいよボスフォロス海峡に入った。三本マストの大型ガレー船全体に張りつめた緊張感が、船橋の陰に立つテダルディにも感じられる。ヴェネツィアの船乗りの気概を示すように、中央の帆柱の上高く、緋《ひ》色《いろ》に金糸で聖マルコの獅子《しし》を刺繍《ししゅう》したヴェネツィア共和国旗が風にひるがえる。三角帆は三つとも、北風を大きくはらんで動かないのは、舵の操作を練達の船乗りがしている証拠だ。漕ぎ手たちも、風に恵まれた時の漕ぎ方で、大きくゆっくりと漕ぐ。彼らも緊張しているのであろう、櫂をあやつるリズムを一定に保つために水夫長が吹く笛の音が風で消されてしまっているのに、二百人を越える漕ぎ手の動きには、少しの狂いも見られなかった。
海峡を三分の一ばかり来た地点に、山上高くジェノヴァの城塞がある。そこを通りすぎ、大きくアジア側に曲がりまたも同距離をすぎた時、右手に、高くそびえる円型の塔が眼に入ってきた。塔の上には、赤地に白の半月のトルコ国旗がひるがえっている。「ルメーリ・ヒサーリ」にちがいない。
近づくにつれて、塔から岸に向っておりている城壁も見えてくる。次いで、城壁のつきる岸近くにそびえ立つ、もう一つの大塔も視界に入ってきた。要塞から空砲が鳴ったのは、その時だった。船を岸につけよという命令だ。もちろん、ヴェネツィア船は方角さえも変えない。そのままで船が海峡にそって曲がったところで、「ルメーリ・ヒサーリ」の全貌《ぜんぼう》がいやでも眼に入ってきた。
岸近く立つ大塔から左右に、地型にそってのびる城壁がつきるところに、それぞれ一つずつ大塔を持つ、西欧方式の逆三角形の要塞である。想像していたよりも大きい。いや、要塞が海峡の岸からそそり立っているために、圧倒されるような威圧感を与える。しかも、それを避けて、アジア側の岸に近寄ることもできないのだ。そちらには「アナドール・ヒサーリ」が、ずっと小型であっても存在した。
そのうちに、岸に近い大塔から発射される砲丸が、水柱を高くあげはじめた。こちらの船は、大砲を積んでいない。積んでいたとしても、走る船から地上に向けて、誰《だれ》が照準を決められよう。商船にも必ず乗っている石弓兵たちも、働きようがないのであった。塔の下で大砲を操作するトルコ兵の姿はよく見えても、石弓の的《まと》にするには遠すぎる。ここはもう、逃げることしかできない。船長コッコの怒声が飛ぶ。全船一体となった感じで、船は、ただただ南を指して進む。要塞の立つ地点を曲がった時、はじめて全員が息をついた感じだった。まだトルコの要塞は背後に見えていたが、大砲の的からははずれたわけである。しかし、テダルディの乗った船とは少し距離をおいて進んでいた友船が、船べり近くであがった水柱のために、大きく反対側にかしいだのが眼に入った時、全員の胸の鼓動は、またも一瞬止まったのだった。だが、この船も、舵取りの見事な腕のおかげで均衡をとりもどした。そして、南の水平線上に、秋の朝にしては珍らしい霧のために、まるで蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように海の上に浮んだコンスタンティノープルを眼にした時、ベテランぞろいのヴェネツィアの船乗りたちも、かつて経験したことのない安堵感にひたったのである。漕ぎ手たちも、死んだように櫂の上に上半身を投げだしていた。
テダルディの心中に、不意に胸許《むなもと》をつかまれた時のような、肉体的な不快感がこみあげてきたのはその時である。今では赤い一点になったトルコの旗を、彼は、それが消えるまで見すえていた。
*
同じ西欧からコンスタンティノープルまでの旅でも、イシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》のそれは、ニコロやトレヴィザンのように、一カ月ではすまなかった。五月の二十日に法王領の港チヴィタヴェッキアを発ったのに、コンスタンティノープルに着いたのは、それから五カ月がすぎた十月二十六日である。この差は、風に左右されることの比較的少ないガレー船と、風がないと動けもしない帆船のちがいもあったが、イシドロスにはさらに、兵を集める仕事があったからである。
法王ニコロ五世は、イシドロスに軍資金を与え、ジェノヴァ船一隻《せき》と兵を傭《やと》うよう命じた。船は西欧で傭うほうが有利だったが、兵は近くで集めるほうがなにかにつけ便利であるのは決まっている。それで、船乗りだけの乗った船でオリエントに向うことになったが、その前にナポリに寄り、ナポリ王にも援軍を送るよう説得する仕事もあった。だが、これは失敗に終る。
ナポリ港を後にし、南イタリアにそってシチリアのメッシーナに向い、そこの海峡を通ってからは航路を東にとったイシドロスの船は、それでも順調な航海に恵まれ、エーゲ海にあるジェノヴァ領のキオス島に着いた時は、まだ夏の盛りだった。ところが、東西教会の合同という大任を帯び、早くコンスタンティノープルでそれを実現したいとあせるイシドロスの意向に反して、キオスでの兵集めが、意外と手間どってしまったのである。オリエントでのジェノヴァ通商の三大拠点といえば、黒海のカッファ、コンスタンティノープルのガラタ、エーゲ海のキオスとされるだけに、ここキオスでは、最新の情報に不足しない。戦争になるかもしれないところに行くのである。安く傭えた原住のギリシア人は、同じギリシア人を助けに行くのだと説得しても無駄《むだ》だった。結局、キオス島に何代もつづけて住み、コンスタンティノープルの運命がキオスのそれに密接につながっていることを知っている、ジェノヴァ人を傭うしかなかったのである。しかし、彼らは戦闘を職とするだけに、質は高いが傭兵《ようへい》料も高い。イシドロスが私財をすべて投入しても、法王が彼に与えた資金では、二百を傭うのがせいぜいであった。これらを船に乗せ、カッファへ直行するもう一隻のジェノヴァ船とともにキオスを発ったのは、日差しに秋がはっきりと感じられる季節になっていた。
この日のために東西を何度往復しただろうかと思いながら、イシドロスは、これで最後と信じる喜びを押さえかねていた。彼の晴れやかな胸中を映すように、コンスタンティノープルの空も澄みきっている。船着場には、皇帝のおくった宮廷の重臣たちが、いずれもオリエント風の豪華な長衣をつらねて出迎えていた。枢機卿は、用意された馬に乗る。重臣たちも馬で、城門を入るイシドロスの後につづいた。二百の兵も、甲冑《かっちゅう》姿も勇ましくつづく。一行は、ゆるい坂道を、聖ソフィア大聖堂に向った。ラテン区を通った時は、道端に立つ人々から拍手が起ったが、そこを通り抜けてギリシア人の住む地帯に入るや、行列は、人々の沈黙に迎えられただけだった。それでも、頭から足の先まで鋼鉄の甲冑で固めた兵の行列は、二百という数字以上の迫力を感じさせる。道端のギリシア人たちは、それには心が動かされたらしかった。
聖ソフィア大聖堂の前の広場には、一面に敷かれた緋色のじゅうたんの上に、絹張りの椅子《いす》が二つ用意されていた。一つは高く、もう一つは少しばかり低い。到着したイシドロスは、待っていた皇帝に迎えられた。そして、高い椅子には皇帝コンスタンティヌス十一世、低い椅子には、法王代理の資格でイシドロスが坐《すわ》る。短く歓迎の言葉を述べた皇帝の後で、枢機卿が法王の名で、平和の到来を祈ることと、ローマ教会はビザンチン帝国の危機を救うために、東西の教会の合同に同意し、援軍を派遣する決意をしたと述べたのである。東西教会の合同を記念する儀式は、十二月の十二日に聖ソフィア大聖堂で行われるとも告げられた。
ヴェネツィアの大使やジェノヴァの代官、それにカタロニアの領事など西欧側の住民代表が並んだ席では、人々は恭順を示すためにいっせいにひざまずいたが、ビザンチンの高官の居並ぶ席では、華麗な官服の列は、ただ軽く頭をさげただけだった。そして、その後方にかたまっていたギリシア人は、押しだまったままだったのである。ウベルティーノは、ラテン人の席ではなく、ギリシア人の群れに混じってこの光景を眺めていた。
*
聖ソフィア大聖堂からゲオルギオスの僧房のある僧院へ行くには、広いコンスタンティノープルを半ば横断するつもりでないと行けない。だが、ウベルティーノは考えこみながら歩いていたためか、その距離に気がつかないほどだった。僧院に着いてみると、いつもは静かなその場所が、あふれそうな熱気で騒然としている。ゲオルギオスの僧房だけでなく、今日ばかりは、糸杉《いとすぎ》が濃い影をおとす中庭もそのまわりの回廊も、あちこちに群らがって声高に議論を交わす修道士でいっぱいだった。ゲオルギオスの高貴な姿も、その中に見える。修道士たちは、イシドロスを裏切者とののしり、皇帝の気の弱さを嘆いているのである。誰もが、この機に決定的な意志表示をすべきであると言い合っていた。ウベルティーノは、これでまた一年前と同じように、修道士たちは街に出、大声で合同反対を唱えて練り歩くことになりそうだ、と思った。その後には、一般庶民の群れがつづくのである。ビザンチン帝国では、修道士の影響力は、西欧とは比べようもないほどに強かった。
昼食時を告げる鐘が鳴るや、それでも修道士たちは、食堂に向って去って行った。ウベルティーノも、師にせめてはあいさつだけでもしたいと、頭だけ人よりは高いゲオルギオスのほうに近づいた。ゲオルギオスもすぐに彼を認め、まだコンスタンティノープルにいたのか、と声をかけてきた。若い弟子は、今朝は聖ソフィア大聖堂に行ってきました、と言い、もう一度確かめておきたいとでもいうように、なぜギリシア人は合同にこれほども反対なのかという、大聖堂前の儀式を見てから考えつづけてきた疑問を、師に向けたのである。ゲオルギオスは、昼食をじゃまされた無礼にも怒らず、ゆっくりとした静かな口調で話しだした。まわりには、誰もいない。
「ビザンチン文明とは、滅んだ古代ギリシア文明とローマ文明から吸収したすべての要素と、オリエントから受けた影響との総和を、さらに上まわるなにものかなのだ。それはそれ自身でひとつの完全体なのであって、単にさまざまな文明の要素の、色とりどりな混合からできた合成体ではない。東ローマ帝国とは、ある意味で誤った名称だ。なぜなら、三三〇年にコンスタンティヌス大帝がローマ世界の首都を、ローマからビザンチウムに移した時、彼がそこに創建したものは、さまざまな難問と取りくむやり方と、それが引き起す反響において、また、建築や法律や文学において、まったく独自なひとつの精神的な帝国だったからである。
古代ギリシアの影響を受け、古代ローマ世界を母胎とする西欧の人々が、ビザンチン帝国とそこに住む人々を、不可解と思い、無意識にしても嫌《きら》うのも、理由がないわけではない。われわれビザンチンのギリシア人は、純粋には西欧人ではないのだからね。
ビザンチン帝国の宿命的な創建から今日までの千百年の間、ギリシアは、アジアとヨーロッパとアフリカにまたがった巨大な蛸《たこ》の一部分だった。そして、西ローマ帝国の滅亡後、西欧が暗黒の時代を通過しつつあった頃《ころ》、コンスタンティノープルはその異国風の花を咲きほこらせ、彼らの思考方式に合った、新しい文明を築きあげていたのだ。地中海世界の長子としてのその気質は、実際的なことよりも、宗教と芸術の精神にとくにいちじるしく発揮された。そして、その政治上の特色も、けっして分離することのない、また事実上分離しえない、教会と国家、宗教と政治との統一態を守る信念にあったのだ。これが、ギリシア正教会の基本的な制度と指導理念に結実する。
一方、西欧は、しばらく前から、それはおそらく長い混迷の時期をすごしたからだろうが、教会と国家を、分離可能なかぎりに分離する考えに達したようである。イタリアの各都市国家の繁栄は、その果実だ。だが、ビザンチンの人間にとっては、西欧では実現したかもしれないが、またそれによって、さまざまな利益がもたらされたかもしれないが、教会と国家の分離など、とうてい受けいれられることではない。ビザンチンの人々にすれば、宗教と政治の完全な一体化を当然の前提条件としない政治理念など、考えられもしないことなのだから」
若い弟子は、師の顔をあおぎ見ながら、一言も聴きもらすまいと、耳をかたむけていた。師は、つづける。
「この偉大で真に高潔な文明の基本をなす社会単位が、信者の団体という形をとっていることはきみも知っているだろう。その団体を構成するものは、地理上の区画でもなければ、民族上の区別でもない。なぜなら、ビザンチン帝国の人間は、たいていどの民族ともつながりがあるのだからね。では、なにかと言えば、それは、ただひたすら、キリスト教徒としての意見の一致という至高の条件だけなのだ。
カトリック教会の許における東西教会の合同は、ミサのやり方を統一するなどという単純なことではない。それは、異質な二つの文明を無理に一緒にしようとする、許しようもない、また実現の可能性など少しもない暴挙なのである」
ゲオルギオスは、年若い弟子をやさしく眺《なが》めながら、最後に言った。
「故国《くに》へ帰りたまえ。きみは、西欧の人なのだから」
*
次の日から一週間以上も、コンスタンティノープルの街は、合同反対を叫ぶ修道士と庶民の群れで埋まった。そして、その中心にはいつも、全身を黒い僧衣につつんだゲオルギオスの姿があったのである。十二月十二日に聖ソフィア大聖堂で行われた東西教会の合同成立を祝うミサに、出席を乞《こ》われた高位聖職者に名をつらねながら、ゲオルギオスは姿を見せなかった。また、彼の他《ほか》に、七人のギリシア正教会の代表も、合同を記した文書に署名を拒否したのである。そして、一般の人々も、彼らにとっては最も重要な教会であるのに、合同のミサを挙行したという理由だけで、その日から聖ソフィア大聖堂には足を向けなくなったのであった。
*
黒海からの北風が一段と厳しく感じられる十二月ともなると、「ラテン人」と総称されるコンスタンティノープル在住の西欧人たちも、黒いいつもの長衣の下に、毛織りの厚手の下着を重ね着するだけでなく、長衣の上を幅広のベルトでしめて寒さを防ぐのを忘れるわけにはいかなくなる。久しぶりにヴェネツィア商館に立ち寄ったウベルティーノも、冬衣装に身をかためた男たちがあわただしく行き交う光景を見て、あらためて冬の到来を感じるのだった。
この季節のラテン区は、一年のうちでも最も活気にあふれた時期にあたる。黒海から次々と到着する商船で、船着場が満席になるのもこの季節だし、追い風を利用して南へ、そして西欧へ出て行く船が、これまた次々とコンスタンティノープルを後にするのもこの季節だからだ。だが、その年、一四五二年の十二月だけは、いつもとはやはりちがっていた。ヴェネツィア人にかぎらず、コンスタンティノープル在住の西欧商人を震駭《しんがい》させた事件が起った直後だったからである。
十一月二十六日、黒海から来てボスフォロス海峡を南下中の小麦を多量に積んだヴェネツィアの帆船一隻が、「ルメーリ・ヒサーリ」からの砲火を浴びて、撃沈されたという事故だった。少し離れて航行していた僚船は逃げきるのに成功したが、エリッツォが船長のその船だけは、船尾の船橋に砲丸が命中したために助からなかったのだ。船長と三十人の乗組員は泳いで岸にたどりついたのだが、アジア側に泳ぎついた者もヨーロッパ側の岸にはいのぼった者もただちに捕われた。僚船の報告で事故を知ったヴェネツィア大使ミノットは、ただちにスルタンの許《もと》へ使者をおくり、難破船の乗組員は無事に相手国に引き渡すというヴェネツィア、トルコ間の条約を盾に抗議したが、無駄《むだ》だった。問答無用とだけ答えたスルタンの命で、十二月八日、船長は杭《くい》刺《ざ》しの刑、三十人の船乗りは全員、胴体を真二つに斬《き》られて殺されたのである。
コンスタンティノープルのヴェネツィア租界は、先のスルタンの時代から長年つづいてきたトルコとの良好な関係が、終ったことを認めるしかなかった。中には、宣戦布告だといきまく者もいる。条約を公式に交わしている国の市民でも、この待遇だ。そうでない国、フィレンツェやアンコーナやフランス、スペインの商人たちの不安は、深刻だった。ヴェネツィア商館が常よりもにぎわっていたのは、仕事をたたんで引き揚げると決めた、これらの商人によってであった。
テダルディも、今しがた商館内の銀行に寄って、小麦を売って得た金《かね》を、彼名義の口座に振りこんできたところである。ヴェネツィアにある本店の口座に移すことも頼んできたから、金のほうが一足先に西欧へ帰るわけだった。毛皮をヴェネツィアに運ぶ手配のほうは、数日前に終えていた。こういうことは信用のおけるヴェネツィア人にまかせておけば、彼の荷も、彼が受けとりにいくまでは心配なく、ヴェネツィアの倉庫に収まっているはずだ。テダルディに残されたことは、自分が乗る船を決め、予約をすることだけだった。こう季節も押しつまってくると、ヴェネツィアまで直行する便をつかまえることはむずかしくなるが、追い風に乗って南下するだけでよいクレタ行きは、まだいくらでもある。それなのにどういうわけか、テダルディには、この最後の決心がつきかねているのだった。
まだターナにいた時に、あれほど故郷にもどった後の生活を想像するのが愉《たの》しみであったのに、いざそれが現実になろうという今になって迷うのが、彼自身にもわからない。だが、彼の頭に浮ぶのは、アルノ河の岸に美しい女の坐るように在るフィレンツェではなく、威圧するようにそそり立つ「ルメーリ・ヒサーリ」であり、そこから悪魔でも飛んでくるかのように迫る砲丸であり、それをかわすのに懸命に左右に舵《かじ》をとる船であり、逃げおおせた時に見えた、海上に浮ぶコンスタンティノープルの遠景だったのである。
同じように迷っていたのが、このフィレンツェ商人の他にもう一人いた。ウベルティーノである。彼もついさっき銀行に行き、父からの送金を引きだしてきたところだった。師ゲオルギオスの勧めに従って西欧へ帰るとすれば、この金で充分ヴェネツィアまでの船賃がまかなえる。買い集めた書籍も、持って帰れる。ヴェネツィア商館内の別の一画へ行き、船の予約をすればすべてが終るのだ。それなのに、彼も決心がつかない。だが、商人のテダルディとちがって、彼の頭の中を占めて離れないのは、彼が愛しはじめたビザンチンの文明であった。いや、それが凝結している、コンスタンティノープルの都だった。
迷う暇も理由も持てなかったのは、ニコロ・バルバロである。トルコの砲火をかいくぐって到着する黒海からの船は、乗組員の中に必ず、軽傷にしても手当てを必要とする者がいたからだった。
そのニコロが、商館の一階にある診療所から出ようとしたところで、今しもそこに入ろうとしたトレヴィザンと出《で》交《くわ》した。トレヴィザンとは、もう二カ月も顔を合わせていなかった。コンスタンティノープル到着後のトレヴィザンが、ヴェネツィア大使や皇帝との話し合いで忙しく、その間にも黒海へ出かけ、そこから南下してくる商船団の護衛かたがた、「ルメーリ・ヒサーリ」を海上から偵察《ていさつ》するなどで、席のあたたまる暇もなかったからである。トレヴィザンは、仕事ぶりがうかがえるニコロを満足気に見やった後で、回廊のわきに彼をともない、言った。
「今、居留区の重だった者との会談を終えてきたところだ。コンスタンティノープルのヴェネツィア租界は一致して、皇帝の要請に応《こた》え、皇帝に協力してこの街を守ることになった」
ニコロの残留も、これで自動的に決まったことになる。トレヴィザンの性格から、ニコロにも、提督が一時的な熱狂でこの決定に同意したのではないことは察しがついた。本国政府が彼に与えた任務は、商船団の護衛である。だが、緊急時の決定は、トレヴィザンにまかされていた。おもてむきの任務はすでに果したのだから、それだけを行うとすれば、トレヴィザンには、コンスタンティノープルから発《た》つ今年最後の商船団を護衛して、ネグロポンテへ向えばすむのである。これなら、彼だけでなく、彼の直接の指揮下にあるガレー軍船二隻《せき》の乗組員五百を救うこともできる。
しかし、それをすると、提督の地位にある者はここでは彼一人である以上、コンスタンティノープルのヴェネツィア居留区は、協定を一方的に破られ、同国人を惨殺《ざんさつ》されても、軍事的には旗を巻いて退散したということになってしまう。これが、はじめのうちは残留には消極的だった、トレヴィザンがかかえていた問題だった。だが、会談も三度目の今日、決定はついにくだされたのである。明日からは、ヴェネツィア国籍の船は、軍船商船を問わず、トレヴィザンの管轄《かんかつ》下《か》に入ることになった。
ヴェネツィア勢留《とど》まるの報は、またたくまに商館のすみずみにまで伝わった。去るとも留まるとも決めかねていたテダルディがそれを知ったのは、商館の中にある床屋でだった。床屋の中もたちまちこの話でもちきりになったが、一人話に加わらなかったフィレンツェの商人は、調髪が終るや店を出た。テダルディの足どりはしっかりしていた。彼は、船の予約を受《うけ》附《つ》けている一画には眼《め》も向けず、商館を出た。ラテン区の中に借りている家にもどり、一度はまとめた荷物をもう一度解くよう、身のまわりの世話をさせているロシア人の奴《ど》隷《れい》に命ずるためだった。
ウベルティーノが知ったのも、商館の中である。同時に発表されたトレヴィザン提督の、南下予定の商船の出港は、トレヴィザンの許可さえあれば自由、との布告も知らされていたから、彼にはまだ、出発の自由が完全にあったことになる。それでも、ウベルティーノは、予約に行こうとはしなかった。彼もまた、残留組に加わることに決めたのである。師の顔が浮んだが、自分の決心を今すぐ師に告げに行くのは、なぜだか彼にはためらわれた。機会があればその時でよい、と若者は思った。
*
ヴェネツィア居留区のくだした決定を報告に訪れた大使ミノットと提督トレヴィザンを、皇帝の許に案内したのはフランゼスである。大使の話を聴き終った皇帝は、その温和な性格をあらわにして、心からの感謝を述べた。そして、つい数時間前に会ったガラタの代官ロメリーノから、五百の兵を満載したジェノヴァ船が近々コンスタンティノープルに到着するという報告を受けたことも伝えた。ジェノヴァとヴェネツィアは、同じイタリアの海洋都市国家でありながら、オリエント市場を争っての三百年来のライヴァルなのである。それがために、コンスタンティノープルの西欧人社会を二分する勢力なのに仲が悪く、両居留区の間では、公式な連絡関係はないのだった。ヴェネツィア大使の訪問は、それに探りをいれる目的もあったのだ。
「ガラタのジェノヴァ居留区は、あいかわらずの中立維持でいくのでしょうか。それとも?」
皇帝は、苦しそうな表情でうなずいた。だが、弁護でもするように、すぐつづけて言う。
「代官ロメリーノは、できるかぎりのことはやると言ってくれた。誠実な男だから、それは信用してもよいと思う」
ミノットもトレヴィザンも、コンスタンティノープルの居留区にかぎれば、態度を明確にしたヴェネツィアはそうでないジェノヴァを非難することもできるが、本国政府となると両国とも似たようなものであるのは、言われないでもわかっている。それでも、大使は皇帝に、ヴェネツィア本国に居留区の態度決定を報告するためにおくる使者に、コンスタンティノープルへの援軍派遣をあらためて要請させることを約束した。皇帝は、それにも礼を述べ、ヴェネツィアが送ってきた食糧満載の十四隻の船が無事到着した礼も、つけ加えてくれるよう頼んだのである。フランゼスは、皇帝の胸中が次々ともたらされる暗い情報で張りさけんばかりであるのを知っていたので、ほんの些《さ》細《さい》な援助に対してこれほどに感謝する皇帝が、哀れに見えてしかたがなかった。
皇帝があきらめもせずに各国へ送った援軍要請の使いは、一人として朗報を持って帰国した者はいなかった。ジェノヴァもヴェネツィアも、資金と食糧は送ってきても、戦闘員を満載した大艦隊派遣となると、イタリア国内での戦争状態で一国だけでは不可能という返事をくり返すばかりである。ローマの法王は、教会合同の同意と二百の兵を送りつけた後は、これで良心の呵責《かしゃく》はないとでも思っているらしい。ナポリ王国も、態度を明確にしない点では同じだった。東欧では、最も信頼できると信じていたハンガリア王国の摂政《せっしょう》フニヤディは、マホメッド二世が早くも有利な条件をだしての同盟関係を結んでしまったので、動く意志などないようである。ギリシアのペロポネソス半島を統治する皇帝の二人の弟も、マホメッドが軍を送ってたたき、動けない状態にしてしまっている。皇帝は、外堀《そとぼり》が埋められたのを悟るしかなかった。
今にもトルコの軍勢が地平線の彼方《かなた》からあらわれるのを見る想《おも》いの中で、皇帝にやれたことは、できるかぎりの食糧の確保と城壁の補強だけである。マルモラ海側と金角湾側は、一重にしても、海に守られているから心配ない。しかし、三重とはいえ、陸側の城壁の補強は必要だった。トルコが、常に大軍を投入する陸軍国であるのは知られている。また、攻撃が陸側に集中するであろうことも、誰《だれ》にでも予想できることだった。補強工事を、皇帝はフランゼスに一任した。フランゼスにとって意外な喜びであったのは、工事に集められたギリシア人が、思いのほか従順によく働いたことである。皇帝自らしばしば工事現場を訪れたのが、効果があったにちがいなかった。東西の教会の合同には反対のギリシアの庶民も、皇帝個人を嫌う者はいなかったからである。
*
一四五二年も明日一日で終るという日、ニコロは、診療所の仕事も一段落したのを利用して、城壁見物に出かけることにした。コンスタンティノープルの三重の城壁といえば、地中海世界の住人で知らない者はいない。この有名な城壁を、彼も一度はゆっくりと見てまわりたいと思っていたのである。金角湾の渡しに話をつけ、金角湾の奥、陸側の城壁がはじまる地点まで行き、そこで舟を捨てた。
丘の上に建つ皇宮を守るように、このあたりの城壁は湾の岸から上にのびている。そこから皇宮をまわりきるまでは、一重の城壁だ。だが、幅は五メートルは優にあるようで、直立する城壁を外側から眺めると、堅固で威圧的な感じを与えた。皇宮をまわったところから、城壁は三重になる。南へのびるそれを少し行ったところに、人の往来が最もはげしいカリシウス門があった。この門は、アドリアーノポリに通ずる道に開かれた門で、ここからコンスタンティノープルに入ると、道はほぼ直線に大競技場までつづいている。これが、コンスタンティノープルの中央通りと言ってよかった。
ニコロもその門をくぐり、城壁を内側から見ることにした。まず、高さは十七メートル、幅も五メートルはあると思われる内城壁が眼前にそそり立つ。その内城壁には、ほぼ四十メートルの間隔をおいて、高さは二十メートルを越え、幅も十メートルはあると思える四角形の塔が林立している。この内城壁を突破することはほとんど不可能に近いと、ニコロも讃嘆《さんたん》の声をあげずにはいられなかった。
内城壁の外側には、五メートルほどの幅を持つ通路が通っている。それを越えると、今度は外城壁がはじまるのだ。この外城壁でさえも、外側からの高さとなると十メートル、幅三メートルもあり、これにも四十メートル間隔で、内城壁を押さえる塔と比べれば小型にしても高さ十五メートル、幅も六メートルはありそうな塔が並んでいる。内城壁の塔と外城壁を押さえる塔は、互いちがいになるよう配置されている。
そして、この外城壁、他の都市ならばこれだけで守っているほど堅固な外城壁の外側には、またも幅十メートルはある広い通路が走っていて、それをまたいだ外側にまた、低い壁の上に木製の柵《さく》で補強した第三の壁があるのだった。しかも、その柵の外には、幅二十メートルは優にある堀が横たわる。海水を引き入れるよう設計されているのだが、もう長年それは乾いた堀になっていた。この外堀がつきてようやく、城壁外の地表がはじまるのだ。つまり、城壁の外から内城壁までの距離は、優に六十メートルはあるということだった。(図5参照)
この距離をいっきょにちぢめるのは、この三重の城壁の各所に口を開けた、城門のところだけである。だが、その城門はいずれも、一面に鋲打《びょうう》ちした頑丈《がんじょう》なつくりになっていた。
土地に高低のあるコンスタンティノープルは、それをめぐる城壁にも、自然に高低ができる。皇宮からカリシウス門までが最も高く、そこからリュコス峡谷に向って低くなりはじめ、聖ロマノス軍門のあたりが最も低くなる地点だ。そこから再び土地が高くなるので城壁も登り坂になり、レギウム門のあたりでもとの高さにもどる。それをさらに南へ向えば、ペガエ門、黄金門とつづくのである。黄金門は、皇帝が凱旋《がいせん》の際に通るためにこの名で呼ばれてきたのは、ニコロでも知っていた。これらの他にもいくつもの市民用の門や軍隊用の門があるのだが、戦略的な観点に立って重要と思われるのは、この五つの門に、皇宮に面してあるカリガリア門を加えた六つと見てよかった。
この、金角湾からはじまってマルモラ海に至る陸側の城壁は、全長にして六キロ半は越える長さである。城外に立って眺《なが》めると、三重に重なってそびえ立つ城壁は陽《ひ》をさえぎるように高く、さすがに地中海世界で最も堅固な城壁と言われるのもうなずけた。だが、ニコロには、陸側だけで六キロ半、金角湾側が五キロ半、マルモラ海側が九キロ近く、合計で二十一キロにもなる全城壁を守るには、コンスタンティノープルの住民があまりにも少なすぎるのが気になってしかたがなかった。大使ミノットの推測では、この都の現人口は、三万五千は越えないだろうという。この数ならば、半分の長さであるコンスタンティヌス大帝時代の城壁まで後退して、そこで守ったほうが適当なくらいなのだ。とは言っても、大帝時代の城壁は、今では使いものにならないくらいに破損がはげしい。だが、それにしても、ビザンチン帝国の勢威の衰えを示すように人口も減少した現在の状態で、帝国の勢威が最も高かった時代につくられた、テオドシウス城壁で戦おうとしているのである。これは、戦いにはくわしくないニコロにさえ、この難攻不落といわれる城壁を活用できないのではないかという、怖《おそ》れをいだかせずにはおかなかった。
*
トルサンには、若い主人の振舞が一変したように感じられた。それは、宰相カリル・パシャとの深夜の密談を期にしてであろうと思われた。あの夜以来、マホメッド二世は、それ以前のなにかにつかれたようだった毎日から、静かな、ほとんどおだやかと見える日常に変っていた。もう、夜《よ》毎《ごと》のおしのびにも出なくなった。差しだした杯が、突然投げとばされることもなくなった。ハレムにはあいかわらず足を向けないが、狩には出かけるようになった。そして、十二歳の少年に、部屋に残るよう命ずる度合も増したのである。だが、二十歳の主人の愛しかただけは、いつもの、鷹《たか》が爪《つめ》にかけた獲物をもてあそぶに似たものであったが。
スルタンの寝室には、しばらく前から、特別につくらせた低い大きな机卓がおかれている。その上には、昼も夜も、数枚の図面が広げられたままだった。そのうちの最も大きな一枚は、コンスタンティノープルの地図である。市街だけでなく、城壁もそこに開けられた数々の門も、そして、金角湾もその対岸にあるガラタのジェノヴァ居留区も、ボスフォロス海峡の出口までも明記されている。マホメッド二世は、暇さえあればそこに来て、長い時間卓の前に立ちつくすのだった。まだ官能の波にもの憂《う》く身をゆだねていたトルサンが、ふと気がつくと、マホメッドの姿が横にない。立ったまま地図に眼をやる主人に、もう一度官能の技という技をつくしてみたいという想いを、少年は、意に反したことをした時の主人の怒りの冷たさを思いだすことで、やっとうち消すのだった。
マホメッド二世が平静さをとりもどしたのは、カリル・パシャにわが意を認めさせたからだけではない。ハンガリア人のウルバンの大砲製作が、着々と進んでいるからだけでもなかった。これらが起る一年も前に西欧に放《はな》っておいたスパイたちが、ようやくこの時期になって、次々と朗報をもたらしはじめたからでもある。西欧はビザンチン帝国救援には動かない、これが、スパイたちの持ち帰った情報をもとにして達した結論だった。陸上から援軍を送れる唯一《ゆいいつ》のキリスト教国ハンガリアは、すでに同盟条約によって動きを封じてある。皇帝の弟二人も、対トルコの防戦におおわらわで、首都救援など夢だろう。また、トルコにとっては唯一の弱みである海上戦力で、はるかにトルコに優るヴェネツィアやジェノヴァが動くのを渋っており、その他の西欧勢も動かないとなれば、コンスタンティノープルの孤立は確定したことになる。二十歳にしかならない若者は、大事業をはじめるにあたって、ただ単に力だけで攻める愚を犯さなかった。
年も代わった一四五三年一月、スルタン・マホメッド二世は、トルコ領全土に公式の動員令を発した。各属国にはすでに、小アジアの反乱軍鎮圧ということで、援軍派遣の要請が送られている。だが、一四五三年一月に発せられた動員令には、そのようなことはどこにも記されていなかった。それどころか、目標はコンスタンティノープルにあることは、聖戦という文字が使われていることからも推測できたのである。大砲の実験が行われたのは、それからまもなくのことであった。
ウルバンの巨砲と呼ばれるこの大砲は、これまでに誰一人として見た者はいないほどの怪物だった。砲身の長さは八メートル以上もあり、石弾の重さは六百キロを越えるかと思うほどだ。大砲を乗せて動かす砲台も、三十頭の牛が左右に並んで引っぱらないと動かない。七百人もの兵が附《つ》きそってスルタンの宮殿の前に運ばれてきたこの巨砲は、撃ち初めも、アドリアーノポリの住民に、怖《おそろ》しい音がしても驚かぬよう布告をだした後で行われた。
まったく、ウルバンの大言には嘘《うそ》はなかった。第一弾が発射された瞬間の響音は、二十キロ四方にひびきわたり、大石丸は、風を切る怖しい音を後に残して一キロ半も飛んだ後、大音響をたてて地表から二メートルもめりこんで止まった。スルタンは大変に満足し、早速、第二第三の大砲製作の命令を出すとともに、これらの大砲を支障なく運ぶために、アドリアーノポリからコンスタンティノープルまでの道路を整備するよう命じた。古代ローマ時代につくられた街道があるのだが、何百年もの間放置されていたので、軍団の行軍には支障はなくても、重い砲台を引いていくのには不安があったからである。首都周辺の街道さえ不整備のままで放置されているこの事実は、ビザンチン帝国の衰えの深刻さを、なによりもよく示していた。
*
巨砲の轟音《ごうおん》こそ伝わってはこなかったが、皇帝コンスタンティヌスには、的《まと》が自分の胸にぴたりと定められたと感じるしかなかった。その少し前、トルコの宰相カリルからの密使によって、スルタンの確固たる意志を知らされた際、皇帝も、密使をスルタンの許《もと》に送ったのである。コンスタンティノープル攻略の意志をひるがえしてもらう代わりに、多額の年《ねん》貢《ぐ》金《きん》を支払うと申し入れたのだった。しかし、マホメッド二世は、全面降伏を求めただけである。降伏して皇帝さえ首都を去れば、ビザンチン帝国の臣民の命は保証する、というものだった。コンスタンティヌスには、それまでして命を永らえる気になれなかった。交渉は決裂する。その後に送った使者は、年貢金の増額を申し入れたのだが、スルタンの答えは変らなかった。
皇帝の髪に一段と白いものが増したその頃《ころ》、数日だけにしても皇帝の憂《うれ》いを晴らす朗報がもたらされた。ジェノヴァ船二隻《せき》が、五百の兵を乗せて到着したのである。ひきいるのは、キオス島を本拠にするジェノヴァの武将ジュスティニアーニ、配下の兵たちも、傭兵《ようへい》隊長の彼の下で戦いに慣れたキオス島出身の男たちだ。彼らの傭兵料は、ジェノヴァが出すのではない。皇帝が支払わねばならなかった。それでも皇帝の喜びようは大変で、ジュスティニアーニには、傭兵料としてレムノスの島を与えると約束する。そして、この戦争の専門家を、陸上軍の総指揮官に任命した。海軍の総指揮は、すでに、ヴェネツィア人のトレヴィザンに決まっている。そして、この頃から、皇帝に宰相のノタラス、フランゼス等のビザンチン側の首脳に、法王代理、コンスタンティノープル総主教の格でイシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》、陸軍総指揮のジュスティニアーニ、ヴェネツィア側からは大使ミノットにトレヴィザン提督が加わった、防衛の策を練るための作戦会議が、ほとんど連日開かれるようになったのである。
しかし、守勢に立たされた側の作戦会議が、常に意気盛んというわけにはいかない。二月二十七日に開かれたそれが、連日の会議を支配していた空気を如実に示していた。
その日、発言を求めたトレヴィザンが、昨夜、ヴェネツィア船一隻とクレタ船六隻が、夜陰に乗じて逃亡したと報告したのである。前年の十二月にヴェネツィア居留区が残留を決定した折りに、ヴェネツィア国籍を持つすべての船は、トレヴィザンと皇帝の許可がないかぎり出港できないと決めてあったから、これは、誓約に反した行為であり、敵前逃亡と同じと見なされねばならなかった。
だが、その席にいたフランゼスには、冷静なトレヴィザンの報告ぶりから、このヴェネツィアの海将は知っていて逃がしたのではないかと思えてしかたがなかった。クレタはヴェネツィアの植民地だから、クレタ船もトレヴィザンの監督下にある。そして、計七隻のこれらヴェネツィア船が、一隻につき五百人以上もの人間を乗せて逃亡したというのだ。何代もつづいて根をおろしたジェノヴァ居留区とちがって、ヴェネツィア人が主な「ラテン区」の住人には、妻子を同伴している者は少ない。現に残ったラテン区の住人の数からして、逃亡した四千人の大半は、ビザンチン帝国のギリシア人で占められていたにちがいなかった。周辺をトルコ領にかこまれ、陸の孤島と化したコンスタンティノープルから逃げだすには、海しか道は残されていなかったのである。沈没直前の船から逃げだすねずみは、ここでも例外ではなかった。
有利な条件で招聘《しょうへい》され、イタリアへ行ったままそこに落ちついてしまった聖職者を主とする知識人階級の亡命は、すでに五十年も前からつづいている。それほど昔からでなくても、ヴェネツィアやローマへ、財産避難を目的に家族の誰かを避難させていないビザンチンの有力者は、見つけるほうがむずかしいくらいだった。皇族であり宰相でもあるノタラスも、財産を持たせた娘をすでにヴェネツィアに逃がしている。ビザンチン帝国の宮廷人の中で、このような策を講じなかったのは、皇帝コンスタンティヌスと、皇帝を心から敬愛し彼に殉じようと決めていた、フランゼスだけであったかもしれない。
この現象が示すように、ビザンチン帝国は、挙国一致して防衛に立ちあがったわけではなかった。作戦会議に列席している人々の間でさえ、精神的統一など夢であったのだ。ギリシア人同士でも、西欧派のイシドロスと、教会合同に反対で署名さえ拒否した宰相ノタラスは、同席していながら、彼らの間では言葉も交わそうとしなかった。西欧派ではなかったが、フランゼスもノタラスを好いてはいなかった。ヴェネツィア人は、ギリシア人を軽《けい》蔑《べつ》していた。万事合理的なヴェネツィア人からすれば、国の存亡が決する時というのに教理論争にあけくれているビザンチンの人間が、我慢ならなかったのである。大使ミノットは、自ら範を示そうとしてか、妻子も避難させていなかった。
ギリシア人も、ヴェネツィア人を嫌《きら》っていた。自分の国でもない国の防衛のために力をつくしているとことごとに言うが、なんのことはない、自分たちの商業利権を守りたいからではないか、と心中では思っていたからである。このギリシア人とヴェネツィア人が一致していたのはただ一つ、金角湾の対岸ガラタの城壁の中にこもり、中立を表明しているジェノヴァ人への憎《ぞう》悪《お》だった。しかし、ジェノヴァ人も、彼らを代表するロメリーノを作戦会議に送るわけにはいかなかったが、同じジェノヴァ人であるジュスティニアーニを通じて、中立はおもて向きの態度であって、彼らもできるかぎりのことをしているのだと弁明するのを忘れなかった。中立固持を非難するヴェネツィア人には、ガラタのジェノヴァ人は妻子をかかえ、本国よりもガラタになじみの深いのが現実では、そうそう身軽な態度は取れぬ、と言い返すのだった。
このように一致団結とはほど遠い集団が決裂を避けられたのは、ギリシア人も西欧人も認めざるをえなかった、皇帝の公正な性格のおかげというしかなかった。そして、陸軍の総指揮をまかされたジュスティニアーニも、また海軍の総司令官を勤めるトレヴィザンも、戦場できたえあげた男たちだけに、ジェノヴァ人でありヴェネツィア人であるよりも、まず武人であったのだ。
逃亡船を告げた時と少しも変らない冷静な言葉つきで、トレヴィザンは、海軍の現勢力についても報告した。船長だけでなく、漕《こ》ぎ手《て》に至るまで残留の意志を確認しての数字ということだった。それによると、
ジェノヴァの大型帆船、五隻
ヴェネツィアの軍用とより大型の商用ガレー船、五隻
クレタの商用ガレー船、三隻
イタリアの海港都市アンコーナ、スペインのカタロニア、フランスのプロヴァンスの帆船が一隻ずつで、三隻
それに、ビザンチン国籍の船十隻を加えて、計二十六隻になる。しかし、船の大きさと操縦技術からして、この艦隊の主力は、五隻のジェノヴァ船と同数のヴェネツィア船とするのが現実的だった。
トレヴィザンはつづけて、トルコ領のガリーポリで二百隻もの船が建造中という、ヴェネツィアのスパイのもたらした情報を披《ひ》露《ろう》した。イタリアの海洋都市国家の船乗りの航行技術は、他の追従を許さないほどに優れており、商船の伝統のないトルコの船乗りとは比較にならなかったが、トルコは、領有地域のギリシア人を使っている。ヴェネツィアやジェノヴァの船乗り一人に対抗するに、五人のギリシアの船乗りが必要と言われるが、数だけからすれば十倍になる敵の戦力は、軽く見るわけにはいかない。ヴェネツィア本国で編成中という、本格的な艦隊の一日も早い到着が待たれるのだった。
ジュスティニアーニのほうも、陸戦力の把《は》握《あく》に時を無駄《むだ》にしなかった。数日して、彼もまた、コンスタンティノープル防衛に使える西欧側の戦力を報告したのである。それによれば、中立を表明したガラタ地区の住人は除いて、ラテン区と外来の傭兵を加え、二千人になるとのことだった。ギリシア人はビザンチン帝国の臣民であるから、その戦力を調べるのは帝国側にまかされた。皇帝は、信頼厚いフランゼスを呼び、彼に調査を命じたのである。皇帝は、言った。
「この仕事は、他《ほか》の者でなくおまえに頼みたい。なぜなら、おまえは計算が得意だし、そのうえ、秘密にしておいたほうが得策と思われることは、黙っていることも知っている。この仕事がすむまでは、皇宮での従来の仕事をする必要はない。家にいて、戦闘に使える人間と武具と槍《やり》と盾と弓矢の正確な数を調べてほしい」
フランゼスは、腹心の部下を使って、夜も眠れないほどの困難な仕事を、短時日の間に、しかも秘密裡《り》に完成した。そして、その一覧表を持って皇宮へ行き、皇帝に提出したのである。皇帝は、ひととおり読み終った後、深い苦悩と悲哀に満ちた眼《まな》差《ざ》しをフランゼスに向けたまま、しばらくは言葉もないようだった。栄光に輝やく東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで、戦闘可能な体力と戦闘に必要な武具と武器を持つ成年男子の数が、なんと四千七百七十三人とあったからである。カトリック教徒とともに戦線に参加してくれるなど期待できないギリシア正教の修道士たちは、この数字にはふくまれていなかった。
西欧人の二千と合わせても、七千にしかならない。皇帝は、暗く沈んだ声で、フランゼスに言った。
「この数字は、誰《だれ》にも知らせないことにしよう。知っているのは、このわたしとおまえの二人だけだ」
しかし、皇帝とその忠臣の配慮は、あまり効果はなかった。ヴェネツィア居留区の重だった人々の間では、この程度の戦力であろうと察しはついていたからである。だが、大使ミノットもトレヴィザンも、そして、黒海貿易の商船の船長ながらトレヴィザンの副官に登用されたアルヴィーゼ・ディエドも、皇帝を追求しようとはしなかった。それどころか、金角湾側でも最も皇宮に近い一帯の城壁を補強する際、ヴェネツィア勢でそれを担当してほしいとの皇帝の願いも、快諾したのである。
工事の指揮も、トレヴィザンとディエドが受けもった。そして、はじめのうちは土木工事に動員されたのが不満で、ギリシア人はなにをしているのかとぶつぶつ言っていたヴェネツィアの船乗りたちも、工事現場に来て親しく言葉をかける皇帝には、誰もなにも言わなくなったのである。ギリシア人を嫌う者は多くても、皇帝を悪く言う者は一人もいなかった。
*
はるばるセルビアから来たというのに、ミハイロヴィッチと彼が指揮をまかされた千五百の騎兵は、アドリアーノポリの城壁内に入ることも許されず、一カ月以上も城外に天幕を張って待たねばならなかった。ミハイロヴィッチも、到着後すぐにスルタンに会見を申しこんだのだが、返ってきたのは、呼び出すまで待つようにとの返事だけである。一千五百騎といっても、それは騎士の数だけなのだ。騎士にはそれぞれ一人は歩兵が附いており、他に馬《ば》丁《てい》と従僕《じゅうぼく》を兼ねる一人を従えるのが普通だったから、ミハイロヴィッチのひきいてきたのは、四千五百の男たちということになる。これを秋から冬にかけての気候の悪い時期に、東ヨーロッパからの遠路をひきいてくるだけでも簡単な仕事ではない。そのうえ、到着後も長期間、無事故でいたずらに日々を過ごさせるのも気を使う任務だった。
さらに、ミハイロヴィッチの耳には、怖しい噂《うわさ》も入っていた。彼と同じように城外で待機中の、セルビアと同じようにトルコの属国となった国々からの兵たちの間に、目標は小アジアの反乱軍ではなく、コンスタンティノープルなのだという噂が広まっていたのである。セルビア人もそうだが他の属国の兵たちも、ギリシア正教徒なのである。彼らもまた、スルタン・マホメッド二世から、小アジアのクアラマン・ベグ制圧のために援軍を請《こ》われ、そうとばかり信じてここまで来たのだった。それなのに、トルコ兵たちはみな、異教徒を攻める聖戦だと言っているという。
ミハイロヴィッチにスルタンとの会見が許されたのは、それからさらに十日が経《た》ってからであった。若い指揮官は自分よりは年長の副官二人を従え、はじめて城門を抜け、スルタンの宮殿に入った。裕福な国とはいえないセルビアから来た彼の眼にさえ、マホメッドの宮殿は、広大な領国の主《あるじ》の住まいとは思えないほど質素に映った。いや、質素というのではない。豪華な品はあちこちに置かれているのに、その置き方に配慮が感じられず、なにか仮りの住まいとでもいうふうな、投げやりな雰《ふん》囲気《いき》に満ちていただけである。ただ、静かさだけは印象的だった。宮殿に出入りする多勢の人は、みな、少しの音をたてるのさえ怖れているようだった。
居室と思われる一室に通されたミハイロヴィッチと二人の副官は、まるで天幕の内部のようにつくられたその部屋の中央に、低目の広い椅子《いす》に坐《すわ》った若い男がいるのに気がついた。彼らを招じ入れた怖しいほど美しい小姓のうやうやしい態度から、その若者が、スルタン・マホメッド二世にちがいなかった。
セルビアの若い騎士は、実質的には属国でも形式上は友好国であるセルビアを代表する者にふさわしく、床にはいつくばって礼をするトルコ式ではなく、片ひざを折っただけのヨーロッパ式のあいさつをした。そして、セルビア王からの贈物を差しだし、王妹マーラからの手紙も手渡したのである。マホメッド二世は、贈物には丁重に礼を言った後、義母からの手紙を読みはじめた。それを読み終えてから、マーラの様子について少しばかり質問した。その親身な口ぶりを王が知ったら、セルビアの将来もまずは心配ないと安《あん》堵《ど》するだろうと、ミハイロヴィッチは思ったものである。だが、彼の安心はすぐに冷水を浴びせられた。なにげない口調で、スルタンは言ったのだ。
「コンスタンティノープル攻略に向う軍に、加わってもらう」
セルビアの騎士は、眼をつむる想《おも》いの中で、それでも口をはさんだ。
「クアラマン・ベグを攻めるためと、聴いて参りましたが」
マホメッド二世は、またもこともなげに答えた。
「順序が変更しただけだ」
ミハイロヴィッチには、自分よりは二つか三つ若いのではないかと見えるスルタンの顔が、悪魔のように思えた。ここで拒絶したら、自分だけでなく城外で待つ配下の兵全員も、トルコ兵によって皆殺しにされるであろう。逃げるとしても、四千五百の集団では無理だった。それに、そんなことをした後のセルビアの運命は、言われないでもわかっている。ミハイロヴィッチには、受けるしかなかった。絶望で蒼白《そうはく》になっているミハイロヴィッチに、マホメッド二世はそのうえ、本隊に先行してコンスタンティノープル近郊の村落を襲撃することまで命じたのである。ミハイロヴィッチには、それが、軍事上の必要からというよりも、セルビア騎兵の忠誠度を試すためであるのがわかっていた。
陣営にもどってからも、若いセルビアの騎士には、つらい仕事が待っていた。しかし、指揮官からすべてを告げられたセルビアの兵たちは、抗議さえもしなかった。重い沈黙を破るのは、胸をかきむしり固く結んだ口からもれる、彼らのうめき声だけだった。
*
一四五三年三月二十六日、アドリアーノポリの城外に集結したトルコ全軍は、黒光りする純血アラブ馬の馬上高く、白の大マントに白のターバンの若いスルタンが見守る前を、隊列も乱さずに次々と出陣していった。
先頭は、アジアから総督イザク・パシャにひきいられて参加した、アナトリア軍団。正規の軍だけに五万を越える兵の全員が、赤いトルコ帽も装備も統一されている。その後には、不正規兵を集めた混成部隊がつづく。装備も武器も不統一なこの軍団は、強制的に集められたか、セルビア騎兵のように騙《だま》されたか、でなければ略奪に眼《め》がくらんで志願した男たちで成っていた。彼らの多くは、ギリシア正教下のキリスト教徒である。数も、五万には達するかと思えた。
行軍の三番目は、クアラジャ・パシャひきいる、ヨーロッパ軍団だった。すでにコンスタンティノープル近郊の町々の焼打ちで調子の整っているこの軍団は、行軍の足どりだけを見ても士気があがっていることがわかる。正規軍であるアナトリア軍団とヨーロッパ軍団に、信頼のおけない混成部隊を前後からはさむように行軍させるのは、もちろん、マホメッド二世の意図したことだった。
行軍のしんがりは、スルタン親衛隊のイエニチェリ軍団が勤める。かつてはマホメッドに反目していた彼らも、給料の倍増を示されてすっかり態度が変っていた。そして、スルタンの気の入れようを示すかのように、イエニチェリ軍団の兵たちの装備はいわずもがな、隊列の組み方からくるのか、背丈まで統一されているような印象を与える。白いフェルト帽に緑色の上着、それに白のトルコ式のズボンをしめるベルトには半月刀がさされ、それと手に持つ弓が彼らの主な武器だった。一万五千を数えるこのイエニチェリ軍団は、もとキリスト教徒の奴《ど》隷《れい》で構成されている。しかし、少年時代に親から引き離され、成長後も妻帯を禁じられた中での集団生活は、これらのもとキリスト教徒を、対キリスト教国との戦いをもっぱらとするイスラム軍の精鋭に仕立てあげるのに成功していた。
左手に持つ弓の先までが一線を引いたようにそろったまま行軍するイエニチェリ軍団のほぼ中央を、スルタンが馬を進める。白の大マントが風にあおられるたびに、その下につけている緑色の絹地の上着が光った。彼もまた、子飼いのイエニチェリ軍団兵と同じ、回教徒にとっては聖なる色である白と緑で身を固めている。イエニチェリ軍団の兵士たちの意気があがるのも当然だった。軍歌も、彼らの間からまずわきあがったのである。そして、それはたちまち、平原を吹きすぎる風のように全軍に広まった。
ラッパの流すオリエント風な哀調と、太鼓のつくる行進曲風の勇ましいリズムが奇妙に入り混じったそれは、兵士たちの張りあげる歌声とあわさって、行軍する兵の一人一人の胸を、高ぶった感情で満たしていった。
槍を持つ一隊が進む様は、まるで林が動くようだった。弓を持つ一隊は、見事に穂先のそろった麦畑が前進していくようだ。それを、街道からまき起る土煙が時折り隠す。マホメッド二世は、行軍を急がせなかった。アドリアーノポリからコンスタンティノープルまでは、三百キロに満たない距離しかない。急がせる必要はないのだ。それよりも、全軍をゆっくりと行軍させることで、兵士一人一人の意気と力を少しずつ引き出し、大きく一つに固めることのほうが重要だった。
軍歌は、同じものがくり返し歌われているのに、それを不満に思う者もいない。隊列のあちこちにひるがえる赤地に白の半月を染めたトルコ国旗も、舞いあがる土煙を見くだすかのように高くかかげられたままだ。士気は高まるばかり、軍規もまったく乱れないのが、若い主人の後に馬で従うトルサンには、眼を見張るばかりの驚きだった。あの無《ぶ》頼《らい》の群れが、見事な軍勢に一変している。この奇跡は、彼が誰よりも愛する人によって成しとげられたのだ。少年には、誇らしい想いなしには眺《なが》めることのできない光景だった。
トルサンは、地平線の彼方《かなた》に消えようとしているアドリアーノポリを、もう一度振り返って見た。しかし、その彼の前を行く二十一歳の若者は、背筋さえも動かさなかった。まるで、トルコの首都のアドリアーノポリが、捨てたばかりの女でもあるかのようだった。
第四章 攻防はじまる
四月のコンスタンティノープルでは、朝靄《あさもや》の立ちこめる日が多い。前の日が晴れで気温も高かったりすると、靄は陽《ひ》の高くなる時刻まで居《い》坐《すわ》って動かないこともある。ニコロは、早朝ヴェネツィアの家を出て、パドヴァの大学に通っていた頃《ころ》を思いだしていた。ブレンタ河をさかのぼって行く舟は、まるで雲の中を突き進むように、乳色の朝靄の中を進んだものだ。一四五三年四月二日のコンスタンティノープルの朝も、一面に立ちこめる靄で、金角湾の対岸ですら見えないほどだった。
ニコロは、その朝トレヴィザンとともに、金角湾のコンスタンティノープル側の岸壁に立ち、今しも岸を離れた二隻《せき》の小舟が、ゆっくりとした動きで対岸に向うのを眺《なが》めていた。櫂《かい》の動きもリズミカルに並行して進む二隻の小舟の船尾には、一本の丸太がわたされている。その丸太には、大の男の二の腕ほどもある太さの鉄の棒で編《あ》まれた鎖が結ばれているのだ。巨大な鉄鎖のもう一方の端しは、すでに、コンスタンティノープル側の城壁の塔の一つに附《つ》いている鉄輪に、丈夫な皮ひもを幾重にも編んだ綱で固定されていた。二隻の小舟の引く鉄鎖が対岸のガラタに立つ塔に結びつけられれば、金角湾の封鎖が完成するのである。船の操縦能力では問題にすることもないほど劣っていても、数では優に十倍のトルコ海軍に対抗する策として、トレヴィザンが提案し皇帝も賛同した作戦だった。これだと、敵の侵入も困難になるが、味方にとっても逃げ道が断たれたことになる。だが、ギリシア人にも「ラテン人」の中にも、反対した者はいなかった。
引かれていく重い鉄鎖は、海中に沈んでいるので岸からは見えない。見えるのは、二隻の小舟が進むにしたがって伸びる、木製のいかだの列である。このいかだは、鉄鎖に結びつけられていて、鉄鎖が両岸の塔に固定された後も、それを海中深く沈めない役目をもっていた。船の通過を阻止するのが目的なのだから、巨大な防鎖は、海面すれすれに張られていなければ用をなさない。この、思うよりは熟練を要する作業は、ジェノヴァ人ソリーゴの指揮で行われていた。
しばらくすると、先ほどの二隻の小舟がもどってくるのが見えた。木のいかだの列は、波にゆられながらも海面に漂っている。強情なコンスタンティノープルの朝靄も、さすがにこの時刻ともなると急速に薄れはじめていた。ニコロは、確かな報告をソリーゴから受けるために待つトレヴィザンを残して、ヴェネツィア商館にもどることにした。トルコ軍の先鋒《せんぽう》が近づきつつあるという、情報も入っていた。
代官の官邸にもどりながら、ロメリーノの心は沈む一方だった。今しがた彼は、金角湾封鎖の作業に立ち合ってきたところである。ガラタのジェノヴァ居留区を囲む城壁の最東端の塔に、鉄鎖の一方が固定されたのだ。皇帝から協力を乞《こ》われた時、ロメリーノにはどうしても拒絶できなかった。気が弱いからではない。コンスタンティノープルは、三十年前のトルコの包囲戦にも耐えぬいた実績がある。本国ジェノヴァの指令どおりに中立を貫こうにも、ジェノヴァ居留区の責任者としては、コンスタンティノープルが今度も耐えぬくかもしれない可能性も、頭に入れておかねばならなかった。
とはいえ、防鎖の一方がジェノヴァ居留区の塔に固定されたという事実を、スルタンから隠しとおすことは不可能だ。居留区の住民の中には、自分たちがビザンチン側に深くかかわりすぎているとして、不満に思う者も少なくなかったのである。ロメリーノには、置かれた情況がちがうとはいえ、全員一致してビザンチン側に附いたヴェネツィア人をひきいる、大使ミノットやトレヴィザンがうらやましくてならなかった。しかし、うらやましがっていてもしかたがない。ロメリーノは、スルタンの天幕が張られた時期を見はからって、歓迎の使節を送らねばなるまい、と考えていた。
コンスタンティノープルの西北に位置する皇宮では、金角湾封鎖作業を終えて駆けつけてきたトレヴィザンも加えて、作戦会議が開かれていた。前年の末からはじまって何度開かれたかわからない会議だったが、今日のそれは、戦闘に入る前の最後になるであろうとは、出席者全員が無言のうちに感じている。すでに決められていた防衛分担の確認が、一人の反対もなくすみやかに終った。
コンスタンティノープルの都は、やや丸味をおびた側辺をもつ、三角形の半島に創《つく》られている。三角形の下方の一辺、マルモラ海に面する一辺は、海に面しているというだけでなく、ボスフォロス海峡からくだってくる激しい潮流と北風を真正面から受けるため、一千一百年を越えるビザンチン帝国の長い歴史でも、一度も敵の攻撃を受けた例はない。今回もここだけは、一重の城壁に少数の守備兵の配置だけで充分と思われた。この地区の防衛を担当するのは、枢《すう》機《き》卿《けい》イシドロスと彼が連れてきた二百の兵士。ただし、この二百の兵の半数は、必要あれば陸側の城壁の防衛にまわされる、いわば予備軍とされていた。その南には、スペインの領事ペレ・フリアのひきいるカタロニア人の一団が防衛につき、トルコの亡命王子ウルカンとその部下のトルコ人は、さらに南にくだった地帯の城壁を受けもつ。
金角湾側の一辺は、海に面し城壁も一重という点ではマルモラ海側と同じだが、こちらのほうは、ボスフォロス海峡から流れこむ潮流からは死角にあたっており、北風からも、マルモラ海側とは比較にならないほど守られている。これまでにコンスタンティノープルが征服された唯一《ゆいいつ》の例、一二〇四年の第四次十字軍の時も、ここからの攻撃の成功が原因だった。
しかし、金角湾側からの攻略は、一にも二にも、金角湾の制《せい》覇《は》に成功するか否《いな》かにかかっている。入口に渡された鉄鎖は、それをさせないためになされた策なのだ。金角湾の防衛がヴェネツィア人にまかされた以上、この辺りの城壁の防衛も、彼らが主体になるのは当然だった。船着場を中心にした一帯の城壁の防衛は、だから、ヴェネツィア人が担当する。
この重要地域の防衛を「ラテン人」にだけまかした場合のギリシア人の反撥《はんぱつ》を心配した皇帝の配慮を示して、ビザンチン帝国では皇帝に次ぐ地位にある宰相ノタラスも、貴族たちをひきいて、そこから皇宮にいたるまでの城壁を守ることになった。金角湾内のキリスト教艦隊の総指揮は、ヴェネツィアの海将ガブリエレ・トレヴィザンに、すでに決まっている。
しかし、誰《だれ》の眼《め》にも、残る一辺、ただ一つ陸に面した一辺が、攻撃の主力を浴びるであろうことは明らかだった。トルコは、三十年前にも陸から攻めてきたのだ。皇宮周辺が一重であるのを除けば三重の城壁とはいえ、当然そこには、防衛陸軍の主力が配置されねばならなかった。
皇宮をめぐる、そこだけ一重の城壁を守るのは、大使ミノット指揮下のヴェネツィア人。フィレンツェ共和国の市民ではあっても、これまでヴェネツィア商人たちと関係の深かったテダルディが志願したのも、この隊である。そこから南に、傭兵《ようへい》隊長ジュスティニアーニがひきいる五百のジェノヴァ兵の守備地域がつづく。リュコス峡谷があるために一段と低くなる地点、メソティキオン城壁と呼ばれる一帯は、はじめは皇宮防衛のつもりだった皇帝が、ギリシアの精鋭をひきいて守ることになった。そこからさらに南に向って、再び地型が高くなる一帯は、ギリシア人、ヴェネツィア人、ジェノヴァ人の各隊が、それぞれ一つずつの城門を中心に防衛を受けもつ。学生のウベルティーノは、ペガエ門を守る、グリッティ指揮下のヴェネツィア隊に加わっていた。
異なる民族からなる防衛軍を、一つの民族に一地域の防衛のみをまかせず、小隊に分離したそれらを混ぜ合わせた防衛体制を提唱したのは皇帝だが、これは、各民族間の反目をやわらげながら、それでいて個々の民族の持つ力を最大限に活《い》かそうと考えたからであった。陸海全軍の総司令官は皇帝、海軍はヴェネツィア人のトレヴィザン、陸軍の総指揮はジェノヴァ人のジュスティニアーニとしたのも、この意図のあらわれだった。だが、皇帝の深謀遠慮も無用であったかと思われるほど、この混成軍は今のところ、総指揮官が他国人であっても、一致団結して防衛にあたる気概にあふれているように見えた。
皇宮に接する城壁を守るヴェネツィア隊に属していたテダルディは、そこに立つ塔の一つに、二人の騎士とともに登ってきたところだった。この、コンスタンティノープルでは最も西北に位置する塔の上に、ビザンチン帝国旗とヴェネツィア共和国旗をかかげる仕事に呼ばれたのである。空色の地に銀の双頭の鷲《わし》のビザンチン帝国旗と、赤地に金の聖マルコの獅子《しし》のヴェネツィア共和国旗は、ギリシアとヴェネツィアの騎士二人の慣れた作業で、たちまち塔の上高くひるがえった。
ここならば、コンスタンティノープルの市中からも陸側の城壁を守る防衛兵からも、金角湾に浮ぶ船からもガラタのジェノヴァ居留区からも、並んで大きく風をはらむ二つの大国旗を見ることができる。もちろん、陸側の城壁前に布陣するにちがいないトルコ軍からは、いやでも眼に入る位置にあった。ともにかかげたい、という皇帝の希望を、大使ミノットは快諾したのである。コンスタンティノープルのヴェネツィア居留区は、これで、ビザンチン側について戦うという意志を、スルタンにも公然と宣告したことになった。
ペガエ門近くの城壁の守りについていたウベルティーノは、昨夜は一晩中、眼を閉じることができなかった。歩哨《ほしょう》に駆りだされたからではない。休むように言われて、他の人々とともに内城壁の塔のすみに横になってはみたのだが、どうしても眠ることができなかったのだ。二十歳《はたち》の若者には、これが、自ら参加する最初の戦闘だった。
四月四日の朝の光が、ほの白くあたりに流れはじめようという時刻だった。もう我慢できなくなった彼は起きあがり、足音をひそめて外に出た。内城壁の上に登る。さらに、内城壁の要所を押さえる、塔の一つにも登ってみた。地表からでは、二十五メートルを越える高さなのだ。彼の眼の下には、外城壁が延々と連なり、その向うには、外柵《そとさく》がさらにめぐっている。外城壁の塔の上には、昨夜からの寝ずの番の歩哨の姿がまだ見えた。
その時だった。朝靄につつまれてぼんやりとかすんでいたはるか彼方《かなた》の地平線が、ゆらりと動いたのだ。いや、地平線そのものが、大きく盛りあがった感じだった。そして、それは、靄が薄れるにつれてはっきりした線になり、地平線全域に伸びたまま、波でも寄せてくるかのようにゆっくりと近づいてくる。ウベルティーノは、これほどの数の軍隊を見たのははじめてだった。ふと気がつくと、それまでは誰もいなかった彼の背後が、いつのまにか人でいっぱいになっている。だが、この人々も、ウベルティーノと同じように、息を殺して迫ってくる波を見つめたままだ。十日前にアドリアーノポリを発《た》ったと情報の入っていた、トルコの本隊にちがいなかった。
十三歳といえば、小姓としては若すぎる年ではない。しかし、若い主人を持ったトルサンには、これが本格的な戦闘に参加する最初の機会だった。それだけに、コンスタンティノープルの城壁、地中海世界では最も堅固で難攻不落と評判の高い三重の城壁が、はるか彼方に延々と連なるのをはじめて眼にした時、少年の胸は、ほとんど讃嘆《さんたん》といってもよい想《おも》いでいっぱいになったのである。
「これほどの城壁が、陥《お》ちるなんてことがあってよいものだろうか」
呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていたトルサンをわれに引きもどしたのは、珍らしく降ってきた主人の怒声だった。
「サガノス・パシャは、なにをしている!」
呼びに行けという言葉も待たずに、少年は馬にとび乗っていた。
同じく、生れてはじめてコンスタンティノープルの城壁を眼にしながら、そして、その威容には同じように眼を見張りながら、トルコの少年とは反対に気が滅入《めい》る一方だったのは、ミハイロヴィッチであった。彼と、彼の配下のセルビア騎兵たちは、つい今しがたとどいたスルタンの命令によって、騎士の誇りをたたきのめされたからである。
「もはや騎兵はいらぬ。歩兵として隊を組むように」
マホメッド二世は、馬を殺せとも命じてきたのだ。殺された馬は肉のかたまりになって、羊しか食しないトルコ兵用ではなく、キリスト教国からの参加兵用として、羊の皮袋に入れられて金角湾の奥の水中に貯《たくわ》えられることになった。セルビアの精鋭一千五百騎は、こうして、戦線では後方に置かれながら、戦闘開始とともに最前線に押しだされるにちがいない不正規軍団に属す、四千五百の歩兵集団と化したのである。
トルサンは、サガノス・パシャが布陣しているガラタの背後の丘まで、金角湾の奥を迂《う》回《かい》して馬を駆ることもなかった。馬腹を二度ばかり蹴《け》った時、布陣中とて兵でごったがえしている中を、それらを蹴散らすかのような勢いで向うからくる、サガノス・パシャを認めたからである。スルタンの命を伝えようと馬を近づけた小姓を、この、マホメッド二世の信頼する唯一の重臣は自分だと思っている男は、一べつを与えただけで手《た》綱《づな》をゆるめもしない。トルサンは、駆け去る大臣の後を、あわてて追うしかなかった。
ひときわ大きく、赤地に金糸の縫取りもまぶしいスルタンの天幕の中では、中央の玉座に坐るマホメッド二世の右側に、大臣たちが居並ぶ。宰相のカリル・パシャ、アナトリア軍団をひきいるイザク・パシャ、ヨーロッパ軍団の長クアラジャ・パシャ、遅れて到着したサガノス・パシャも、深く一礼した後で席についた。スルタンの左側には、将軍や海将、それに回教の高僧たちが座を占める。トルコの首脳陣が、一堂に会したわけだった。
これらの父の代からの重臣たちを前にして、二十一歳の若者は、意見や助言など求めようとも思わないらしかった。簡潔な命令が、一人一人に発せられただけで、作戦会議は終ったのである。
コンスタンティノープルの陸側の城壁前を、南から北にリュコス峡谷までの間は、イザク・パシャひきいるアナトリア軍団が布陣する。そして、そこから北に峡谷をさがりまたあがる間の地帯、聖ロマノス軍門を中心とする一帯には、スルタンの本陣が置かれ、カリル・パシャ指揮下のトルコ騎兵と、それにイエニチェリ軍団の布陣が告げられた。これより北、カリシウス門から皇宮をめぐって金角湾までさがる城壁に対するは、クアラジャ・パシャ指揮のヨーロッパ軍団。不正規軍団には、これら二軍団の背後に陣を布《し》くよう命令がおりる。金角湾の北からボスフォロス海峡までのガラタの丘、つまりジェノヴァ居留区の外側になる地域には、各軍団から集めた兵で構成された、サガノス・パシャの軍団が布陣する。
ここまでは、行軍中にすでに与えられていた命令の最終的な確認であったので、重臣たちもただ、承知したというように頭をさげただけだったが、彼らの眼が不審の光をおびて若い主人に集中したのは、マホメッド二世の口から次の言葉が発せられた時だった。
「明朝、全軍は、城壁より一・六キロの線まで前進する」
今日、トルコ全軍は、スルタンの命令どおり、城壁より四キロの地点に布陣を終ったばかりなのである。それを明日、一・六キロまで進めよというのだ。だが、カリル・パシャをはじめとする重臣たちの誰一人、ひげもまだ薄い年頃《としごろ》の主人に理由をただす者はいなかった。そして、翌日、再度のめんどうな天幕張りの作業も一段落して、ほっとしていた重臣たちは、スルタンからの二度目の命令を受けたのである。
「明朝、城壁より四百メートルの距離まで、全軍を進めよ」
宰相にさえこの理由は明かされなかったが、マホメッド二世のそばを片時も離れずに仕えるトルサンにはわかっていたのである。
一回目の布陣の日、スルタンの天幕だけは張ったが他《ほか》はまだ終らないという頃に、ジェノヴァ居留区の代表数人が、代官ロメリーノを先頭にあいさつに訪れた。彼らを引見したマホメッド二世は、なぜか代表団の中の一人に眼をとめ、その男だけに後に残るよう願った。このジェノヴァ人は、絶対君主の思いもかけない丁重さに心がゆるんだのか、それとも、自分たちの居留区の存亡を案ずるあまりか、スルタンの問いに、自分のほうから進んで正直に答えたのだった。これによって、マホメッド二世は、ビザンチン軍にも大砲はいくつかあるが、それらは石弾をこめて点火しても、石弾が発射するよりも大砲自体が爆発し、設置した城壁のほうが破壊されるということを知ったのである。ギリシア人の大砲がまったく用をなさないというこの情報は、コンスタンティノープルの事情にくわしい、その当時はスルタンの客人あつかいだった一人のイタリア人、古代学者のチリアコ・ダンコーナの話とも一致した。この直後に開かれた作戦会議の席上、陣営移動の命がくだされたのである。
しかし、敵からの砲撃を心配することはないとわかっての移動なのだから、一挙に四百メートルの距離まで前進させていれば、大軍布陣の苦労も一度ですんだはずなのだ。それなのにマホメッド二世は、まずはじめは一・六キロの線まで、次いで翌日は四百メートルの地点までと、段階をつけて移動させたのである。この理由となると、トルサンにも想像がつかなかった。だが、トルコの宮廷を支配する空気が、先のスルタンの時代とはまったくちがうものであるのは明らかだった。自分の主人は、家臣から、愛されるよりも怖《おそ》れられる君主であろうとしている、とトルサンは思った。それでいて不思議なほど、重臣たちから兵士の端しにいたるまで、マホメッドの手足のごとく動くのだ。十五万を越える大軍の移動とは信じられないほど、三度にわたった布陣は支障なく終った。
四百メートルの距離に近づくと、城壁の威容はさすがに、見る者を肉体的な圧迫感で押さえつけてくる。四月七日の朝、最後の布陣を終った全軍を視察するスルタンに従っていたトルサンは、聖ロマノス軍門近くの外城壁の上から、一群の武将たちがこちらを見ているのに気がついた。群れの中頃には、皇帝であろうか、白馬にまたがって、紅《くれない》の大マントを風になびかせる人がいる。マホメッド二世も、気づいたらしかった。大胆不敵に黒馬の向きを変えたスルタンに、小姓もあわてて手綱を引いた。
しかし、マホメッド二世は、若者らしく大胆ではあっても、細心な注意まで忘れる男ではない。銃弾や矢のとどく距離内には、近づかなかった。そして、そこで少しの間、外城壁上の人を見やってから、再び馬を返した。だが、またも馬首をめぐらす羽目になったトルサンは、その時、つぶやくように言った若い主人の言葉を聴きのがさなかったのである。
「帝国の皇帝ともなると、常に白馬を駆るものか」
敵の全軍が到着し終ってからも、コンスタンティノープルの住民や防衛の兵たちの間に、最初に敵の姿を認めた瞬間から支配していた重くるしい静寂は、長いこと破られなかった。教会の鐘も、ミサの時刻が来ても鳴らない。道を行く人も、足音さえしのんでいるかのようだ。聴こえてくるのは、城壁の外で陣を進める敵の大軍が起す、風の音にも似た、区別のしようもない音の集合だけだった。
ニコロも、カリシウス門近くの城壁の胸間城壁の間から、眼下の広野を洪水《こうずい》のように満たしていく敵兵を、息をひそめて眺めていた一人だった。だが、彼も防衛軍の首脳たちと同様に、二度にわたった不可思議な前進のくり返しを、理解できないでいた。それにしても、トルコ兵をはじめて見たわけではない彼でも、敵の隊長たちの武装の貧弱さには、驚かずにはいられなかった。甲冑《かっちゅう》などつけている者は、一人もいない。指揮官でこれなのだから、一兵卒の装備などないも同様だった。
それに比べて、防衛軍の兵士たちの武装は、西欧の甲冑製作技術の展示会を思わせる。銀かと思うほどに光り輝やく鋼鉄製の甲冑が、城壁上にずらりと居並ぶ様《さま》は壮観で、これらのミラノ製とひと目でわかる見事な甲冑をつけているのは、ヴェネツィアやジェノヴァの男よりも、ビザンチンの騎士たちのほうが多かった。この帝国には西欧第一の甲冑製造地として知られるミラノから、ヴェネツィアやジェノヴァの商人の手で輸入されていたのである。
しかし、医者であるだけにニコロは、装備の見事さに眼がくらむことはない。貧弱な武装で蟻《あり》のように眼下に群らがるトルコ兵のほうが、数では圧倒的に優勢なのだ。そして、それがどの程度の数なのかを、正確に知りたいと思った。彼は、最も近距離に布陣した一隊の構成員を数え、それで全軍を推測する方法をとった。この結果、ここからは見えないがガラタ地区に四分の一の軍勢が配置されているとして、トルコの全軍勢は、固く踏んで十六万、と判断したのである。
だが、このヴェネツィア人の医者の推測に同意したのは、大使ミノットとトレヴィザンのヴェネツィア勢だけで、そんなはずはないというのが、他の人々の意見だった。フィレンツェの商人テダルディは、二十万と言い、皇帝側近のフランゼスも、それと同じ数字を主張していた。総じてギリシア人のあげる数字は大きく、イシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》は、三十万はくだるまいと言い、四十万とする者もいたほどである。ニコロは、現実蔑《べっ》視《し》のビザンチン人の傾向がこういう時にも示されるのかと、苦笑する想いでそれ以上自説を主張しなかった。
だが、防衛側の首脳たちは、敵の布陣を見てはじめて気づいたことへの、早急な対策に迫られていた。スルタンの天幕の張られた位置からして、敵は攻撃の主力を、リュコス峡谷が最も低くなる地点、すなわち聖ロマノス軍門を中心にした一帯に向けてくるであろうことは、誰にも予測がついたからである。陸軍の総指揮をまかされていたジュスティニアーニは、配下の五百の兵とともに、彼の担当と決められていた地点から南下し、皇帝指揮のギリシア精鋭と合流して、この最も問題の多い地帯の防衛にあたることになった。ジェノヴァ隊の移動で開いた穴は、ヴェネツィア隊が埋める。そのための移動をしながら、テダルディは、もともと少ない数の防衛兵がさらにまばらになる、と思っていた。
翌四月八日は、朝からしとしとと雨が降っていた。雨では攻撃してこないだろうと思った防衛側は、それでも指定の守備地域に指定の守備隊を配置して待つ。だが、彼らを驚かせたのは、銃弾でも矢でもなかった。ぬかるみの中をうごめくたくさんの人と牛によって設置作業のはじまった、大砲だった。人にささえられ牛に引かれる大砲のすえつけ作業は、はるか離れた城壁の上から眺めるニコロにも、ひどく困難な作業であることがよくわかる。大きな石でまず土台を固め、それに厚い板をわたした上にすえつけるのだが、重い大砲は、ややもすると雨ですべってころがり落ちる。そのたびに悲鳴が聴こえ、動かない人間は乱暴にわきに取りのぞかれ、再び設置作業が再開されるのである。人よりも牛、牛よりも大砲が大切にあつかわれるのは、ニコロにはやはり衝撃だった。
守備側とて、その日から三日にわたってつづけられたこの作業を、ただ傍観していたわけではない。大砲による攻撃に対する対策は考えられ、それはただちに実行された。外城壁の十メートル外をめぐっている、防柵《ぼうさく》の補強である。木造の防柵の外側に、皮革と羊毛をつめた袋を並べる。砲弾が当った時の衝撃を、少しでも弱めるためだった。防柵の上には、土をつめた樽《たる》を並べる。これは、柵を少しでも高くするためだ。この作業には、戦闘員だけでなく、女たちまでが手を貸した。
だが、陸側の防衛の補強にばかり、注意を払っていることは許されなかった。トルコ海軍、マルモラ海北上中、という情報がもたらされたからである。キリスト教側の海軍も、ただちに警戒体制に入った。
四月九日、金角湾の入口に張りわたされた鉄鎖の内側に、ジェノヴァの大型帆船五隻《せき》、クレタ船三隻、アンコーナの一隻、ビザンチンの船一隻の、計十隻が守りにつく。他に、金角湾内のコンスタンティノープル側の船着場には、遊軍として、ヴェネツィアのガレー軍船二隻、同じくヴェネツィアの商用大型ガレー船三隻、ビザンチンのガレー船五隻、他六隻の船が待機する。この他に独立しては戦力にならない小型船も、湾内待機に加えられる。ガレー船が遊軍の主力とされたのは、帆船よりも動きが自由なためだった。
反対に、防鎖にそって配置された戦力の主力が、ジェノヴァの大型帆船五隻であるのにも、立派な理由があった。一五〇〇トン級が二隻、七〇〇、四〇〇、三〇〇がそれぞれ一隻ずつの大帆船は、ジェノヴァの船が本国の港の深さからも大型帆船が支配的である伝統を反映していたが、船着場から見る人には、海面高くそびえる城塞《じょうさい》のように見える。二〇〇トン級のヴェネツィアのガレー軍船と並ぶと、防衛にはいかにジェノヴァ型の船が適しているかは、素人《しろうと》にもわかるのだった。だが、これは、正確さと協調性と連続性をモットーとするヴェネツィア商法と、反対に個人主義的で、一発勝負を好むジェノヴァ商法のちがいをも示していた。
四月十一日、その日コンスタンティノープルの住民たちは、昨日までの大砲設置作業の見物から、反対側のマルモラ海側の城壁にのぼっての、トルコ艦隊見物に関心の的を変えたかのようであった。人々が驚嘆の想いで見守る前を、海将バルトグルにひきいられたトルコ艦隊は、全船の通過に半日も要したほどの大艦隊だった。ニコロの数えたところでは、ガレー船十二隻、大型船が七十から八十、輸送船が二十から二十五隻、残りは小型船で、計百四十五隻になる。テダルディの言う数はいくぶんか少なかったが、この時もビザンチン人のあげた数字は、西欧人に比べて格段に多かった。フランゼスは、四百隻と言い、これほどでなくても、三百隻とする者が多数を占めた。
「ギリシア人の言うことを信じていては、戦いもできない」
作戦会議を終えてもどってくるトレヴィザンの、これが口ぐせになっていた。
到着したトルコ艦隊は、ボスフォロス海峡の出口を少し入ったところにある、そこだけが都合良く潮流からも北風からも守られた、ギリシア人が「二円柱」と呼んでいる海域に停泊する。そこを前進基地にして、早々に防鎖突破の行動に出てくることは、覚悟しなければならなかった。
海側の戦線に緊張感がみなぎりはじめたのと時を同じくして、陸上も、すべての準備が終って戦闘開始を待つ前の静けさだけが、支配していた。大砲も、黄金門の前に二門、ペガエ門の前に三門、聖ロマノス軍門前にはぴたりと照準をつけた四門、皇宮前のカリガリア門に向けては三門、計十二門の設置が完了している。淡い月の光が、夜霧にぬれた砲身をにぶく浮びあがらせていた。ここ連日の北風で、夜更《よふ》けともなると、四月半ばとは思えないほどに冷えてくる。歩哨《ほしょう》の番にあたっていたウベルティーノは、外城壁上の自分の担当区域を行ったり来たりすることで寒さをまぎらせていたが、彼方に見える三つの大砲が、彼の歩みにつれて向きを変え、いつも彼にばかり黒い砲口を向けてくるような想いから、逃れられないでいた。敵の陣営は、不気味なほどに静まりかえっている。
*
四月十二日、朝の陽光が暖かさをふり撒《ま》きはじめるのを合図にしたかのように、トルコ軍の砲口が次々と火を吹きはじめた。轟音《ごうおん》はすさまじく、巨大な石丸が風を切って迫る。守備兵は、それを逃げるだけで精いっぱいだった。敵とて、照準をつけた的に必ず命中させるほどの技能は持っていない。だが、延々とつづく高い城壁が的なのだ。どこかには当る。石丸が防柵や外城壁に命中するたびに、あたりは一面の土煙に包まれた。土煙の去った後には、崩壊した柵や中身をむきだしにした城壁が、無《む》惨《ざん》な姿をさらす。皮革や羊毛をつめた袋など、衝撃を弱める役にはまるで立たなかった。
だが、大砲を操作する側も、すべてがうまくいっていたわけではない。土台のつくりが充分でないのか、砲丸を発射するたびに、大砲は左右にひどくゆれ動く。土台からころがり落ちるものもあった。とくに、巨砲は、操作がいっそう困難なためか、注意に注意して操作しても、一日に七発しか発射することができなかった。とはいえ、その七発の砲丸の与えた損傷にいたっては、他のすべてをしのぐほど大きかったのである。これが、自分たちが笑って追いだしたハンガリア男のつくった大砲とは、ビザンチン宮廷の誰一人知らなかった。そして、心臓がちぢんでしまうようなこの轟音が、これから七週間もつづくことになるとも、誰一人、思ってもみなかったのである。かといって、防衛側には、心配をもてあそぶゆとりさえ持てなかったであろう。この日を境にして、日中に破壊された箇所の修復が、毎夜の仕事になった。
しかし、海側の戦線では、優勢を見せつけたのはキリスト教徒のほうである。陸側での砲撃開始と同じ日、トルコ艦隊は防鎖突破を期して基地を出、金角湾の入口に向って押し寄せてきた。防衛側も、トレヴィザンの指揮下、防鎖ぞいに船の壁をつくって待ちかまえる。トルコ船上の射手たちは、それに向って矢を雨と降らせてくる。ガラタのジェノヴァ居留区の東側城壁ぎりぎりの地点にそなえつけたトルコ側の大砲も、轟音をたてはじめた。トルコ船は、キリスト教徒の船団に接近するや、燃える木を投げつけてくる。また、綱のついた鉤《かぎ》を投げ、それで船を引きつけておいて乗り移ろうとする者もいる。しかし、それらすべては失敗に終った。砲丸は距離がのびず、海中に落ちて水煙をあげるか、でなければ味方の船に命中して撃沈させるかしか、役に立たなかった。燃え木で起きた火災は、船乗りの手慣れた防火作業ですぐに消しとめられ、矢も、ほとんど効果はなかった。西欧勢の大型の船はトルコ船よりもずっと高く、その高い帆柱の上の見張台から射《う》つ矢のほうが、命中率では断然すぐれていたからである。海戦となると、ジェノヴァやヴェネツィアの海洋国家勢が、経験からしても能力からしても、トルコなど問題にならないほどすぐれていた。実際、攻勢に出ようと、防鎖をはずしたところから外海に出てきたキリスト教海軍に対し、トルコ艦隊は、包囲されたあげくの全滅を避けたいと思えば、あわてて基地に逃げもどるしかなかったのである。
この海戦の結果は、マホメッド二世の誇りをひどく傷つけた。だが、いくら海将バルトグルを叱《しか》りつけてみたところで、船乗りの能力があがるわけでもないことは知っている。若いスルタンは、大砲の改良を命じた。弾道距離を目標に合わせて計算しなおすのは、ウルバンの役目である。数日経《た》つと、目的に適《かな》った大砲が完成した。前と同じ場所に設置されたそれは、第二弾目に、防鎖の外の海上を回航中の一隻に命中した。それ以後、キリスト教艦隊は、以前のように自由に防鎖の外を行き来することはできなくなってしまった。
しかし、誰《だれ》から見ても、コンスタンティノープル攻防戦を決するのは、陸側からの攻撃の結果にかかっていることは明らかだった。包囲が始まった四月四日から数えて十五日目の四月十八日、マホメッド二世は、最初の総攻撃を命じる。準備は完了していた。
一週間におよんだ砲撃で、守備軍による夜《よ》毎《ごと》の修復作業にもかかわらず、外城壁はあちこちで素《す》肌《はだ》を見せ、防柵は、かろうじて、土をつめた樽で形をととのえているだけだった。とくに、メソティキオン城壁一帯の損傷はひどかった。しかも、兵を休ませることを嫌ったマホメッド二世の命令で、砲撃に関係のない多くの兵たちも、砲弾の飛ぶ下での作業に連日駆り出され、おかげで、幅二十メートルの堀《ほり》も、多くの地点で、ほとんど地表と平行になるまで埋められていた。
総攻撃は、日没二時間後に開始された。主力は、やはり予想どおり、メソティキオン城壁に集中する。たいまつの火で赤く浮びあがったスルタンの天幕の近くから、まだ薄く明りを残す夜空に火《か》焔《えん》が高くあがったのが合図だった。太鼓の音が草原を吹く風のように広まり、ラッパがけたたましく空を駆ける。十万を越える敵兵のあげる鬨《とき》の声は、大地もゆれ動くかと思うばかり。城壁の内側でも、警鐘が、カンカンカンカンと悲鳴のように鳴らされる。しかし、防衛軍の総指揮をとるジュスティニアーニは、顔色ひとつ変えなかった。彼の適確な指示によって、数では劣る防衛兵も無駄《むだ》なく配置されたので、彼らも存分に働くことができる。
防衛側の幸運は、スルタンの思いちがいにも助けられた。攻撃に、あまりにも多い兵を一度に投入してしまったのだ。トルコ兵は、このために動きの自由を失った。味方同士でもみ合っている敵兵を、装備も士気も充分な防衛兵は、狙《ねら》いをつけて着実に倒していった。四時間におよんだ戦闘の後、兵を呼びもどしたのはトルコのほうだった。トルコ側の戦死者は、味方に踏みつぶされた者も入れて、二百を越えた。一方の防衛側は、軍医長格のニコロが、軽傷者の治療に専念すればよい状態だった。死者は、一人もいない。
城壁の上の通路に死んだように休んでいるキリスト教側の兵士たちは、疲れきってはいたが、顔つきはみな晴れ晴れしていた。絶望かと思った総攻撃も、見事にはね返したのである。海側での成功と合わせて、彼らの心中には、守りきれるかもしれないという想《おも》いが固まりはじめていた。ほどなく、朝の一番ミサを告げる鐘が、いつものようにおおらかな音を聴かせてくれるはずでもあった。そして、彼らの希望をますます高めた出来事は、それからわずか、一日を置いて起ったのである。
第五章 海戦の勝利
攻防戦がはじまってから二週間というもの、コンスタンティノープルを中心とする一帯は、強い北風に吹きさらされていた。そのために、ローマ法王が資金を出して調達させた武器や弾薬を満載した三隻《せき》のジェノヴァ船は、エーゲ海にあるキオス島の港に釘《くぎ》づけになったままだった。三隻とも、大型の帆船である。逆風をついての北上は無理なのだ。それが、トルコ軍の第一回の総攻撃を境にして、今度は逆に、南風に変ったのである。待ちうけていたジェノヴァ船三隻は、早速ダーダネルス海峡に向って北上を開始する。海峡に入ろうとするところで、これも北上中のギリシア船と出会った。ジェノヴァ船よりもさらに大型のこの船は、皇帝があらかじめ籠城《ろうじょう》にそなえてシチリアへ送り、食糧を調達させていた船だった。そのために海運力がゼロにひとしいビザンチン帝国では最も大きく、また装備もととのった船で、船員も、より抜きが選ばれて乗っている。四隻の船は合流して、ダーダネルス海峡に入った。
コンスタンティノープルの海上封鎖に全船力を投入しているのか、海峡にはトルコ船の影もない。船団は、風に恵まれ誰《だれ》の邪魔もなく、海峡を通過することができた。海峡の出口にあるトルコの唯一《ゆいいつ》の海港ガリーポリの前も、支障なく通りすぎる。一団となって進む大型船団に怖《おそ》れをなしたのか、港から出てくる船もなかった。
マルモラ海も順調に抜け、コンスタンティノープルがはるか彼方《かなた》に見えるところまで来たのは、四月二十日の朝である。城壁上の見張りが、いち早く船団を認めた。同時に、トルコ側の監視兵も、ジェノヴァ共和国とビザンチン帝国の国旗をはためかせて近づく、船団に気づいたようだった。四隻の帆船は、順風をより以上に活用するために帆の操作に注意しながら、一路北上をつづける。
朝の身仕度をしていたトルサンは、乱暴に開けられた幕から入ってきたトルコ兵を見ても、驚きもしなかった。ただ、言われるままに主人の寝室に向う幕を静かに開け、眼覚めてはいたらしいがまだ寝床に横たわったままだったマホメッド二世に、至急の知らせがあるという兵の来訪を告げた。
兵の短い報告を受けたスルタンは、なにも言わず、背後をふり返った。すでにそこには、身仕度に必要な一切を捧《ささ》げ持った、トルサンが控えていた。
報告を受けてから天幕を出るまで、十分とはかからなかった。その間に、マホメッド二世は、幾人かの伝令に、今日一日の砲撃の指示まで与えていた。そして、天幕の前に引かれてきた愛馬にとび乗った。彼につづいたのは、トルサン一人である。
金角湾の奥にわたした簡単なつくりの橋を渡る時だけは、さすがにゆっくりと慎重に渡ったが、あとは鞭《むち》の入れっぱなしだった。サガノス・パシャの陣屋で馬をとめたのは、なるべく多数の勇敢な兵をなるべく早く、「二円柱」まで連れてくるよう命じるためである。そして、トルコ艦隊が停泊している「二円柱」に向って、またも鞭を入れつづけた。純白の大マントが、風のように走る黒馬の背に平行してなびく。それが馬の背におちついたのは、船着場に着いてからだった。
迎えた海将バルトグルに、マホメッド二世は、低いが斬《き》りつけるような口調で命じた。
「キリスト教徒どもの船が近づいている。できれば、四隻とも捕獲せよ。できなければ、撃沈だ。いかなることがあっても、一隻たりとも通してはならぬ」
海軍の伝統もないトルコで、急ごしらえの艦隊編成をスルタンから命じられ、自らもにわか仕立ての海将であるバルトグルだが、艦隊編成中にギリシア人から聴いて、一応の海戦術はわかっている。風に左右されやすい帆船が、海戦には不適であるのも知っていた。それで、帆でしか動かない船は使わないことにし、それ以外の全船をひきいて出陣したのである。サガノス・パシャ配下の精鋭も、大型輸送船に乗船する。大砲もいくつか積んではいたが、結局は接近戦になるにちがいないので、そのような場合、戦果を決定するのは、戦闘員の数であることが多かったからだ。準備完了まで、三時間とはかからなかった。出陣していく艦隊を、その頃《ころ》は後から追いついていた宰相《さいしょう》カリル・パシャ以下の重臣を従えたマホメッド二世が、ジェノヴァ居留区の東端の城壁近くの海岸で見送る。そこから海戦を、観戦するつもりだった。
胸の鼓動がそばにいる人にも伝わるかと思うほどの緊張で、北上してくる四隻の船を見まもっていたのは、コンスタンティノープルを守る人々も同じだった。見張りの第一報はたちまち市中に広まり、砲撃がつづけられている陸側の城壁の守りにつかなくてもよい人々は、海に面した城壁の上や教会の高い鐘楼の上に群らがって、海上を見つめる。皇帝も、防鎖の一方をつないでいる塔の上から離れない。囲りには、常にそば近く控えるフランゼスだけでなく、宰相ノタラスにイシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》の顔も見える。トレヴィザンは、防鎖の内側に錨《いかり》をおろしたジェノヴァ船の高い見張台の上にいた。そばには、援護の出撃が必要となれば、提督の命令をすぐさま他の船に伝えられるように、旗印を手にした船乗りが立つ。ニコロは、防鎖の最もコンスタンティノープル寄りに錨をおろした、ヴェネツィアのガレー船上に待機していた。海上での攻撃には、ガレー軍船に優るものはない。そして、船医の乗船を法で義務づけていないジェノヴァやビザンチンの船には、負傷者が出ても、応急処置をとれる医者が、必ず乗っているとはかぎらなかった。
太陽が中天をまわったかと思う時刻、むかでの大群のように南下していったトルコ艦隊が、北上中の四隻の船の前に立ちふさがった。トルコの海将は、早速、帆をおろすよう命ずる。キリスト教徒の船団は、それを無視して北上をつづける。北から流れてくるボスフォロス海峡の潮流が、南から吹いてくる風にあおられて、海上は一面に波立ち、トルコ船は操縦に苦労しているようだった。キリスト教側の船は、それをわきに見ながら、なおも北上をつづける。近づこうと狙《ねら》うトルコ船、すり抜けながら進む四隻の船。ようやく接近に成功すれば、待っていたとばかりに、高いジェノヴァ船の見張台から石が投げられ、ひるむトルコ兵を、船べりに並んだ石弓の放つ矢が、適確に倒していった。追いつ追われつしながらの北上が、一時間もつづいたであろうか。四隻の帆船が岬《みさき》の先端に近づき、そこを左にまわれば金角湾に入れるという時だった。突如、風が凪《な》いだのだ。大型帆船四隻の帆は、だらりとたれさがったままになった。しかも、ボスフォロス海峡を南に向って流れる潮流の一支流が、岬にぶつかって北に回流するのに、四隻とも乗ってしまったのである。この現象は、南風が強く吹いた後ではとくにいちじるしかった。
コンスタンティノープルから見守る人々は、心臓がとまる思いだった。四隻の船は、なすすべもなく北に流されていく。観戦中のスルタンのいる海岸に向って、ただただ流されていくだけだった。そして、これまた北に回流する潮流に乗ったトルコ艦隊が、四隻の船に迫った。
しかし、なすすべもなくと思ったのは、事情に通じていない観戦者であって、同じ観戦者でもトレヴィザンやその他の、このあたりの海域を熟知している者は、そうは見ていなかった。四隻の船の乗組員たちも、錨をおろす時期を待っていただけなのである。海深が二十メートルを切ったとたんに、四隻の大型船から鉄鎖のすべり落ちる音が、あたりを圧してひびいた。時を置かず、歴戦の船乗りたちが、無駄《むだ》のない動きで戦闘位置につく。迎え撃つ態勢がととのったのである。
たちまち、トルコ船の群れが四隻に接近した。こちらのほうは櫂《かい》を動かし、行動の自由があるために錨はあげたままだ。キリスト教側の帆船は、いずれも、おろした錨を中心に潮の流れにつれて船が移動する海域だけは残すが、あとはなるべく固まろうとする。それを許してはならないと、トルコ艦隊も戦力を四分した。ジェノヴァの一隻には、五隻のガレー船が向う。もう一隻のジェノヴァ船には、三十もの帆と櫂両用の船が集中した。三隻目のジェノヴァ船を囲んだのは、戦闘員を満載した四十隻の輸送船。中央に守られるような感じで錨をおろしたギリシアの大船にも、小船大船合わせて、二十隻以上が群らがる。回教徒対キリスト教徒の海戦は、スルタン・マホメッド二世の眼前ではじまった。
トルコ兵たちは、死にものぐるいで向ってきた。とがっている船首を、敵の船腹に突き立てようとし、少しでも接近すれば、鉤《かぎ》のついた綱を投げて船べりに引っかけ、船を引き寄せようとする。燃える火のついた矢が、無数に射られる。櫂を伝わって敵船に突入しようとする者も、跡を断たない。しかし、ジェノヴァの船乗りたちの勇気は、熟練にささえられているだけに、効率良く発揮された。鉤のついた綱が船べりに引っかかっても、それはすばやく切られ、火災も、彼らの訓練のゆきとどいた動きで消しとめられた。しかも、櫂を使うトルコ船は、長く伸びた櫂の列のためにかえって動きがはばまれ、しばしば味方の船同士の櫂が、船の操縦技術の未熟から互いにかみ合ってしまう事態まで起る。こうなった船の群れは、ジェノヴァ船の格好の攻撃目標にされてしまった。動きのとれない敵船に向って、船高の高いジェノヴァ船上からは、この時とばかり、石弓の矢が、にぶい音とともに次々と放たれ、そのたびに、トルコ兵の悲鳴がひびきわたる。
乗組員の操縦と戦闘の技術ではジェノヴァ船よりは劣るギリシア船も、はじめのうちは善戦した。「ギリシア火薬」の名で知られた、燃える液体を満たした樽《たる》を武器としていたので、それが破壊的な効果をもたらしていたからである。これが船上で爆発すると、一瞬もおかぬ間に、船は巨大な炎と化すのだった。
しかし、トルコ側は数で優《まさ》っていた。倒しても倒しても、新たな敵兵が向ってくる。船も、焼き払ってもすぐに次が迫ってきた。若いスルタンは、床几《しょうぎ》になど坐《すわ》ってはいなかった。自らも戦っているかのように、馬を浅瀬に乗り入れた。馬が海水を浴びて黒光りし、白の大マントがぬれて馬腹にへばりついているのも気にせず、右に左に海中を駆けまわる。大声で兵を叱《しか》りつけ、叱りつけたと思ったら、同じ大声で激励する。それを、気が狂ったように何度もくり返すのだった。
海将バルトグルには、主人の怒声はとどかなかったにしても、岸辺近くの海中を狂ったように馬を乗りまわす姿は見えたであろう。彼は、完璧《かんぺき》な防御態勢を崩そうとしないジェノヴァ船三隻は放置して、苦戦をあらわに示しはじめたギリシア船を、まず血祭りにあげようと決める。ただちに、四カ所に散っていた全船に合図が送られた。だが、敵船の動きで、この作戦変更は、たちまちジェノヴァ船に気づかれてしまった。
錨をいかに早くあげるかで、航海技術の優劣が評価できるのだが、その時も、地中海世界第一とヴェネツィア人さえもが認めるジェノヴァの船乗りの能力を、まざまざと見せつける結果になった。
あれほどの大型船にしては驚くばかりの早さで錨をあげた三隻の船は、トルコ船がまだ隊形をととのえないうちに、ギリシア船の左右と船尾を、船べりが接するくらいにぴたりと固めてしまったのである。離れたコンスタンティノープルの城壁から見守っていた人々さえ、一瞬、にわかに海上高く、四つの塔までそなえた城塞《じょうさい》が出現したかと思ったほどだった。まわりを囲んだトルコ船からでは、眼前に突然、鉄の大壁が立ちふさがったかのように思えたであろう。これ以後の海上の戦闘は、自ら防壁となったジェノヴァ船三隻と、それにあいかわらずの執拗《しつよう》さでくいさがってゆく、トルコ艦隊との戦いになる。激闘は、夕《ゆう》陽《ひ》を浴びてつづけられた。
ところが、陽がまさに落ちようとした瞬間、凪いでいた海面が、にわかに波立ちはじめたのである。風が吹いてきたのだ。キリスト教徒にとっては、幸運にも北風だった。
だらりとたれさがったままだった帆が、見るまに風を大きくはらむ。キリスト教側の船は、好機とばかり、四隻が固まったまま、トルコ船をはねのける勢いで、金角湾の防鎖に向って進みはじめた。陽が落ちるのと、金角湾の入口をふさぐ防鎖の、コンスタンティノープル寄りのささえ綱が解かれるのが同時だった。開かれた口から、トレヴィザンの指揮するヴェネツィアのガレー船三隻が、ラッパを高らかに鳴らしながら出てきたのである。ラッパの勇ましい音は、金角湾内にいる船がすべて出陣してきたと、敵に思わせるためだった。
夜のとばりが都合良く、この大胆な企てを隠してくれた。スルタンの怒声はまだ聴こえていたが、トルコの海将は、味方の船に撤退を命じた。夜の闇《やみ》の中での海戦に比べれば、スルタンの怒りのほうが、まだしも耐えやすいと思ったのだ。トレヴィザンの指示に従って、半日におよんだ激戦から解放された四隻の船は帆をたたみ、ガレー船に引かれて、城壁の上に鈴《すず》生《な》りになった人々のあげる大歓声の中を、安全な金角湾の中に入っていった。
コンスタンティノープルの住人が、これほどまでも喜びで狂わんばかりになったのは、ここ何年もなかったことだった。皇帝も、停泊し終えたばかりの船に乗り移り、激戦を終えたばかりの人々に、一人ずつ賞讃《しょうさん》と感謝の言葉をかけてまわった。住民は誰も、喜びのあまり、トルコ人の死者は一万を越えたのに、キリスト教徒からは一人の死者も出なかった、と言いふらしていた。だが、直接に治療にあたったニコロにしてみれば、苦笑するしかない話だった。トルコ側の死者はおそらく百人程度であり、負傷者を加えても五百人には達しなかったのだ。一方のキリスト教側では、二十三人の戦死者に加え、船乗りのほぼ半数がどこかに傷を負っていたのである。激戦であったということをなによりも示す治療所の中で、ニコロは、しばらくは夜も眠る暇もないだろう、と思うのだった。外からは、四隻の船が満載してきた武器や弾薬や食糧を荷あげする作業が、夜遅くまで、にぎやかにつづいていた。
マホメッド二世は、蒼白《そうはく》になったまま、一言も発しなかった。怒りより、屈辱が彼をさいなんでいた。商船の伝統も海軍の歴史もないということなど、言いわけにはならなかった。戦いでは、結果だけがものを言う。それに、いかに大型とはいえわずか四隻の船に、百隻を越える船が向っての敗戦である。その百隻も、小船の群れであったのではない。敵の四隻に比べれば小型にしても、相当に大型の船が、四十隻は加わっていたのである。明らかに、操縦技術と海上での戦闘能力の敗北だった。
二十一歳のなめらかな肌《はだ》に、いつもはそこはかとなく血の色を匂《にお》わせているのに、その夜のマホメッド二世は、食事にも手をつけず、ただ酒をあおりつづけながら、顔色はいつまで経《た》っても蒼《あお》ざめたままだった。そして、鋭い眼光で一点を見すえる若い主人に、本陣の天幕にもどるよう勧めたカリル・パシャは無視され、せめては近くのサガノス・パシャの陣屋で休んでは、という勧めにも答えはなかった。やむなくその場所に急ごしらえで張られた天幕の中で、酒をつぐトルサン以外の者は誰一人近づけないまま、沈黙の一夜がすぎていった。
その夜の若者の頭の中には、引きあげてきた海将バルトグルを殺せと命じ、配下の兵たちの必死の嘆願で一命だけは助けた出来事も、バルトグルの財産を没収して、イエニチェリ軍団の兵士たちに分配せよと命じたことも、もはや毛ほども残ってはいなかった。それどころか、こういう時にはすぐさましたり顔で忠告したがる、回教の高僧の一人が送りつけてきた手紙も、一読しただけで、後は見向きもしなかった。その手紙には、敗戦の責任はスルタン自らにあると書いてあり、兵の多くは真の回教徒ではなく欲に眼《め》のくらんでの参戦だから、彼らを戦わせるには戦利品で釣《つ》るしかない、と説いてあった。そのうえ、コンスタンティノープルはわれわれの預言どおり陥落するから心配しないよう、大切なのは、スルタン自らが信仰を深め、回教の教えと預言を心から信ずることである、ともあったのである。
しかし、二十一歳の野望に燃える若者は、僧侶《そうりょ》の言葉を聴くよりも、やらねばならないことが別にあるのを知っていた。若者の心を占めていたのは、そのことだけだった。海軍力の劣勢を挽回《ばんかい》するだけでなく、優勢に一変させる方策はないだろうか、という、一事だけであった。
第六章 金角湾喪失
四月二十一日の早朝、それまでは総攻撃をのぞいて、堀《ほり》の埋め立て作業にばかり駆りだされていた不正規軍団は、その日はガラタに集合せよという命令を受けた。ミハイロヴィッチは、ふと不審の念が頭をかすめたが、深くは考えなかった。昨日一日中人々の注意を引きつけた海戦の模様は、陸側で埋め立て作業をさせられていたセルビアの兵たちの耳にも入っている。彼らにとっては、あからさまに口にすることはできなかったが、久々に心を晴らせてくれた知らせだった。ガラタに集まれとだけで、例によって理由は説明されなかったが、破損した船の修理にでも使われるのであろう、と思ったからである。ミハイロヴィッチは、配下の兵たちを整列させ、顔ぶれを確かめてから、金角湾の奥を迂《う》回《かい》し、ガラタへ向った。
ジェノヴァ居留区をめぐる城壁にそいながら、その外側をまわってボスフォロス海峡の岸に着いたミハイロヴィッチには、本陣からは遠く離れたその場所に、スルタンと重臣たちがそろっているのが異様に感じられた。だが、不審をいだいている暇もなかった。次々と呼ばれる不正規軍団の各隊長に、今日一日の作業が告げられ、ただちに担当地域に行き、工事にかかるよう命ぜられたからである。ミハイロヴィッチのセルビア隊は、海峡の岸から斜面になってあがる、坂の一部を担当させられた。
作業は、ジェノヴァ居留区をめぐる城壁に少し離れて沿いながら通っている、道を整備することからはじまった。この道は以前からあり、包囲後もトルコ兵の往来に使われていたのだが、なんのためか、特別な地ならしが必要らしかった。人馬の通るだけならば必要もないと思われる地固めが終ると、他の隊の兵たちが運んでくる木材を、軌道をつくるように、二列に並べて敷く作業がはじまる。それを監督しながら、ミハイロヴィッチは、大砲でも移動するのだろうと思っていた。
軌道敷設が終ったところで、重臣たちを従えたスルタンが、点検作業の視察にあらわれた。点検作業は、木製の軌道に金属製の車輪のついた荷台をすべらせて、軌道の下の地盤に欠陥がないかどうかを調べるのである。ミハイロヴィッチは、スルタンを間近かに見たのは、アドリアーノポリでの会見以来だった。自分を見覚えているかと思ったが、マホメッド二世は、軌道のわきに立つセルビアの若者には眼《め》もとめない。彼の関心は、軌道の出来具合だけにあるようだった。点検の報告が終るや、ふり向きもせず、次の場所に移るために坂道を登っていった。
翌二十二日も、まだ夜も明けぬうちに呼びだされた不正規軍団の兵たちは、前日と同じ場所に集まるよう命じられた。だが、その日は、まったくちがう作業が待っていた。ボスフォロス海峡の岸に着き、その場の情景を眼にしたミハイロヴィッチは、さすがに、自分たちを待っていた仕事がなんであるかを察したのである。彼よりはいくつか年下であるあのトルコの若者は、大砲などではなく、艦隊の陸越えをしようとしているのだ。セルビアの騎士は、驚きよりも、恐怖で身がふるえそうだった。
人にも物にも不足しなかったマホメッド二世は、それらをまったく惜しみなくつぎこんだ。木製の軌道には、動物の脂《あぶら》がまんべんなく塗られる。車輪つきの荷台は、一対《つい》で組みにされ、その上には、海中から引きずりあげた船がのせられた。帆柱には、帆も張られる。ちょうど都合良くも、海から丘に向って風が吹いていた。そして、重量がどれくらいかわからないほど重いこれらの船をしばりつけた台は、左右に並んだ牛の群れに引かれ、船腹と船尾を多数の人間に押されて、坂になった軌道を、丘に向って移動し始めた。ガラタの丘の最も高い地点は、海抜六十メートルは充分にある。頂きに向って押しあげた船は、そこで漕《こ》ぎ手《て》を乗せ、上り坂と同じようにつくられた下り坂の軌道を伝って、金角湾の中にすべりこむ仕かけになっていた。
最初の軽い小型の船が登りの軌道を進みだした時、ジェノヴァ居留区の東端に設置されていた大砲から、次々と轟音《ごうおん》がひびきはじめた。この砲撃によって、金角湾内にいる船の注意を、防鎖側に引き寄せておくためである。同時に、奏楽隊も、けたたましく太鼓やラッパの音をあげはじめる。このほうは、船隊の移動を、居留区内のジェノヴァ人に気づかせないためだった。
一番手の船を丘の上に引きあげるのに成功した時、トルコ兵だけでなく、ギリシア正教徒である東ヨーロッパの兵たちの間からも、拍手までまじえた歓声が起った。戦争をしているというよりも、なにか愉快な遊びがうまくいった時に似た、雰《ふん》囲気《いき》が支配していたのだ。七十隻《せき》におよぶ船が、次々とそれにつづいた。
四月二十二日の、正午にはまだ間があるという時刻だった。金角湾側の城壁の上にいた監視兵の一人が、突然、胸許《むなもと》をつかまれた時のような叫び声をあげた。同僚たちがなにごとかと声をかけたが、その男は説明の言葉が見つからないとでもいうように、ただ手で前方を指してわめくだけだ。兵たちがその方に眼をやったのと、金角湾内に停泊していた船の見張りが、気づいたのが同時だった。声もなく立ちつくす人々の視線の向うに、赤地に白の半月の旗をかかげた船が、次々とすべりこんできたのである。まるで、滑り台をおりてくる玩具《おもちゃ》の船のようだった。だが、金角湾にすべりおりた船は、ただちに櫂《かい》をあやつり、後からおりてくる友船を保護するように、船の防柵《ぼうさく》までつくったのだ。すべての船が進水を終るまでに要した時間は、ほんのわずかであったように思われた。少なくとも、ただ唖《あ》然《ぜん》として眺《なが》めていた人々には、一瞬の出来事としか思えなかった。しかし、白昼夢を見る想《おも》いであった人々の眼の前で一団となって金角湾の奥に向うトルコ艦隊は、まぎれもない現実だったのである。
二日前の海戦の勝利で、かつてなかったほど団結していた人々も、たちまち、眼前の不幸の責任を互いに他になすりつけるようになってしまった。ジェノヴァ人は、言う。
「スルタンは、トルコの陣営にいるヴェネツィア人の誰《だれ》かから、十五年前にヴェネツィア共和国が北イタリアで行なった、ポー河からガルダ湖までの艦隊の陸上輸送を聴いて、それを参考にしたにちがいない」
ヴェネツィア人も、負けてはいなかった。
「われわれはきみたちとちがって、スルタンに対しての態度を明確にしている。スルタンとて、敵国人をそば近くおくこともなかろう。それどころか、マホメッド二世は、ガラタのジェノヴァ人の中に、通報者を持っているというではないか。一四三八年のあの戦術をスルタンが知っていたとしたら、それは、トルコ陣営にいるあの古代学者か、主治医のヤコポ・ダ・ガエタの二人のイタリア人のどちらかから聴いたか、そうでなければ、ジェノヴァ人の誰かが忠義づらして、耳に入れたのにちがいない。
それに、自分たちの居留区の城壁のすぐ外で行われた工事に、居留区の住民が一人も気づかなかったというのも解せないではないか。これは、気づいていながら、われわれに知らせなかったと思うしかない」
ギリシア人たちは、口許にわいてくる笑いを押さえながら、傍観していた。彼らビザンチンの人々には、海に強いことを笠《かさ》にきて、金角湾防衛は自分たちしかできないと高言してきたラテン人の、自信がゆらぐのを見るのが、悪い気分ではなかったからである。
しかし、トレヴィザン提督は、船上を飛び交うこの騒音にはかまわなかった。彼は、まだ、すべてのトルコ船の金角湾内進水が終らない前に、いち早く事態の重大さを悟った。ただちに、伝令が大使ミノットの許に走る。ミノットも、同感だった。皇帝に、緊急の作戦会議召集を乞《こ》う使いを送る。だが、すべてはビザンチン式にゆったりと行うのが習性になっている宮廷の返事は、明朝開催する、というものだった。
防衛海軍の総司令官であるトレヴィザンは、翌朝の会議を待たずに、総司令官の権限でやれることは、やっておこうと決めた。ひとまず、金角湾の奥近く錨《いかり》をおろしたトルコ艦隊の動きを知るために、一隻の小型の快速ガレー船を見張りとして、トルコ艦隊の近くを航行させる。同時に、防鎖ぞいに陣形を張っていた船にも、これまでのような前方からだけではなく、以後は後方からの攻撃も予想するよう指示を与えた。金角湾内にいるからといって、安全と思うことはもはや許されなかった。
見張りの船からは、トルコ軍がこれまでのようにジェノヴァ居留区の東端だけでなく、湾内のトルコ船隊が停泊している近くの岸辺にも、大砲を設置したという情報がもたらされていた。これは、停泊中のトルコ艦隊に安易に近づきでもすれば、たちどころに岸辺の大砲が火を吹くということでもある。また、城壁をめぐらせているとはいえ、その外側の東と西をトルコの大砲ではさまれた今、ガラタのジェノヴァ居留区も、安心してはいられなくなった。ジェノヴァ居留区の船着場に停泊中の船も、以後は、四六時中見張りを欠かせなくなったのである。その夜、対策を練るためのヴェネツィア人だけの会合が、遅くまでつづけられた。
翌二十三日、聖母マリア教会で開かれた作戦会議には、皇帝にフランゼス、それに宰相ノタラス以下のビザンチン重臣たちに対し、大使ミノット、トレヴィザン、ディエド、コッコに他の四人の船長と、問題が問題だけに、ヴェネツィア側の列席者は、大使以外は海の男たちでかためられた。他《ほか》には、ローマ法王の代理の格で会議には常に出席していたイシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》。ジェノヴァ人で招《よ》ばれたのは、陸軍の総司令官であるジュスティニアーニ一人である。
さまざまな提案が、列席者からだされた。ビザンチン側の一人が、ガラタのジェノヴァ人を仲間に入れ、共同してトルコに当れば勝てるだろう、と言った。だが、列席者の多くは、ジェノヴァ居留区がこれまでの中立を、一朝一夕に変えるとはどうしても思えなかった。この提案は、急を要する事態解決にふさわしくない、としてしりぞけられた。
次にだされた意見は、ガラタ地区に軍を上陸させ、設置してある大砲を破壊し、金角湾内のトルコ艦隊を焼き払う、というものだった。だが、これも、現実的ではないという理由で、多くの賛同を得られなかった。ガラタには、サガノス・パシャの軍団が布陣しているのである。これに対抗できるだけの数の戦闘員を、市内の防衛軍から裂かねばならない。七千人しかいない全軍で、そんなことができるわけがなかった。
第三の提案は、黒海航路では知らぬ者なしといわれた、ヴェネツィア人の船長コッコが言いだした案だった。彼は、少数の精鋭による夜襲しかない、と主張した。夜、少数の船だけでトルコ艦隊に近づき、焼打ちするという案である。コッコは、この決死隊の指揮は自分にやらせてほしい、とも申し出た。ビザンチン側も、これなら異存はない。隠密に、しかも敏速にことをはこぶ必要から、ヴェネツィア人だけで決行したいと言ったトレヴィザン提督の申し出も、もっともに思われた。ジェノヴァ人には、知らせないことで一致する。決行は、翌二十四日の夜半と決まった。
ところが、どこからもれたのか、ジェノヴァ人が知ってしまったのだ。二十四日の朝、ヴェネツィア商館に押しかけた彼らは、トレヴィザンに向って、自分たちがのけ者にされるとは心外だ、参加させるべきだと迫った。トルコとの海戦に勝って、彼らの自信はいやがうえにも高まっていたのである。皇帝も常々、二大海洋民族であるジェノヴァとヴェネツィアが協力してトルコに当れば、これ以上の力強い援軍はないと思っているので、トレヴィザンに、ジェノヴァ人の希望をかなえてはと勧める。トレヴィザンには、皇帝の願いまでしりぞける権力はない。ジェノヴァ人も、船一隻とともに参加すると決まった。
だが、その日の午后《ごご》になって、ジェノヴァの船乗りたちは、適当な船が日没までに準備できない、と言ってきた。彼らは、四日後の二十八日まで、決行を延期するよう主張する。ヴェネツィア側は、それを飲むしかない。怒気をあらわにしたコッコが、一刻の無駄《むだ》も致命的な時、ヴェネツィア船だけでも予定どおりの決行をすべきだと主張したが、ここまできては、それも無理だった。ジェノヴァ人は、黙って見送る気質ではなかったからだ。
しかし、陰謀は、それを知る人の数が増えれば増えるほど、また、決行の時が延びれば延びるほど、露見の危険度も高まるものである。この四日の間に、ガラタの居留区に住む、スルタンと通じている一ジェノヴァ人が、この計画を知ってしまった。
四月二十八日の夜半すぎ、金角湾内のコンスタンティノープル側の船着場から、一群の船が秘《ひそ》かに出港した。風は微風、月は雲に隠れたままだ。先頭に、計画どおり、ヴェネツィアとジェノヴァの二隻の大型船が進む。二船とも両舷《りょうげん》を、敵の砲撃にそなえて、綿と羊毛をつめた袋を並べて守る。このすぐ後に、二隻のヴェネツィアのガレー軍船がつづいた。右側のガレー船には、トレヴィザンが乗りこんでいる。この四隻の大型船に隠れるようにして、櫂をリズミカルに動かしながら、三隻の小型の快速船が、静かな海面をすべっていった。夜襲の主役をつとめるこの船には、コッコが乗っている。この快速船の両わきと背後には、松やにや硫黄や油などの可燃物を満載した小舟が、何隻もつづいた。闇《やみ》の中での目印しは、各船の船尾に張られた白い布に頼るしかない。
先頭の大船二隻は、ゆっくりと静かに進む。その後につづくガレー船二隻も、四十人の漕ぎ手の一糸乱れぬ櫂の動きが、なめらかな海面に波さえ立てないほどだ。出港の直後に、ガラタのジェノヴァ居留区の塔の一つに、なにか閃光《せんこう》に似た光がきらめいたのを見て、トルコ軍への信号かと疑ったが、闇の向うに一団となって停泊しているトルコ艦隊には、少しも変った様子は見えなかった。船団は、前進をつづける。秘かに敵艦隊に近づき、可燃物を敵船に投げこみ、それに火を点《つ》けた後、敵船の錨を切って逃げる。これが、夜襲の段取りだった。仮りに戦闘になっても、四隻の大型船が、充分にその力を発揮してくれるはずである。
ところが、目標にあと一息という距離に近づいた時だった。七十二人の漕ぎ手をかかえて船足の早いコッコの快速船が、ゆっくりと前を進む四隻に我慢がならなくなったのか、にわかに速度を増し、追い越しをはじめたのだ。快速船は四隻を追い越し、船団の先頭に立ったまま、速度もゆるめずに敵中に突入した。
その時、突如、岸からの大砲が火を吹いた。轟音は、間もおかずに次々と起る。三発目が、コッコの船に命中した。小型の船は、見るまに火だるまと化し、沈没した。他の二隻の快速船も、焼打ちどころではない。大型船の陰に避難しようと、引き返しはじめる。
大型船とても、無傷ではいられなかった。二隻の大船は何発も砲丸を受け、船乗りたちは火災を消すのに必死だったが、船べりに並べてあった防御袋のおかげで、致命的な痛手は受けないですんだ。しかし、ガレー船は、船高も低いだけにそういう準備をしていない。とくに敵側の砲撃は、海軍総司令官の乗船を知ってでもいるかのように、トレヴィザンの乗った船に集中する。ついに、二発の砲丸が命中し、帆柱は飛ばされ、船は大きく左に傾いた。海水が浸入しはじめていた。トレヴィザンは、乗組員に、小舟をおろすよう命ずる。小舟に分乗した船乗りたちは、まもなく、トレヴィザンもともに、僚船に助けあげられた。明け方近くのわずかな光をたよりに、追撃してきたトルコ艦隊との間に、一時間余りもの海戦が戦われたが、陽《ひ》の出《で》とともに、両軍ともそれぞれの停泊地にもどっていった。
撃沈したコッコの船の乗組員のうち四十人が、トルコ兵の待ちかまえる岸に泳ぎついたのだが、マホメッド二世は、その全員を、陸側の城壁から見えるところまで引きずり出し、残虐《ざんぎゃく》なやり方で殺させた。キリスト教徒側も、市内に捕われていた二百六十人のトルコ人を城壁の上に並べ、端しから次々に全員の首を斬《き》っていった。
だが、夜襲の失敗は深刻だった。ヴェネツィア人は、ガレー軍船一隻と小型の快速船一隻を失い、熟練の船乗りのうち、九十人近くを失ったのである。コッコは、海中に消えたと思うしかなかった。
しかし、なによりも防衛側の心を暗くしたのは、トルコ艦隊が金角湾内に居《い》坐《すわ》りつづける可能性が、以前よりはずっと大きくなった事実だった。二百五十年前とはいえ、コンスタンティノープルがただ一度攻略されたのは、第四次十字軍が金角湾を手中に収め、湾に面した城壁からの突入に成功したからである。金角湾制《せい》覇《は》は、コンスタンティノープル攻略の鍵《かぎ》といってよかった。
しかし、金角湾の制海権が、完全に敵の手にわたったわけではない。海戦力では優れるジェノヴァやヴェネツィアの船に対して、いかに数では有利でも、トルコ船はそう簡単には攻撃をしかけてはこれなかった。だが、夜襲の失敗はジェノヴァ人の裏切りのためだとするヴェネツィア人と、内心ではそうではないかと怖《おそ》れながらも、失敗の真の原因は、コッコの功名心のせいだと反撥《はんぱつ》するジェノヴァ人との間は、前にもまして険悪化したのである。
そして、四月も最後という日、湾内のトルコ艦隊は、所詮《しょせん》はいるだけなのだと、われとわが身に言いきかせていた人々の夢を追い払うようなことを、マホメッド二世は決行したのだった。トルコ艦隊が防壁のように立ちふさがる内側、コンスタンティノープルの陸側の城壁と金角湾側の城壁が出会う地点の前の湾上に、浮橋を建設させたのである。それは、百個以上もの空樽《あきだる》を二つずつ結びつけ、それを両側に一定の距離をおいて並べ、その上に頑丈《がんじょう》な厚板をわたしたものだった。長さは、奥とはいえ金角湾を横切るのだから五百メートルはあり、幅も、五人の兵が横に並んで通れるほどある。そのうえ、浮橋のところどころには、横に大きく突きだした台もあり、この台には一門ずつ、大砲がそなえつけられた。
ニコロのようなしろうとにも、この浮橋建設の意図は明らかだった。ガラタ地区のサガノス・パシャの軍や、「二円柱」に停泊するトルコ海軍の本隊との連絡が、以前よりは断じて容易になっただけではない。浮橋上から金角湾側の城壁に砲撃するのも、可能になったということのほうが重大だった。湾側の城壁は、一重しかない。防衛側は、それまでは金角湾の制海権を手中にしていたことで安心し、監視兵程度の守備兵しかおいていなかったこの一帯を、このまま放置するわけにはいかなくなった。ただでさえ、少ない兵しか持たない防衛軍なのだ。どこからしぼりだしてくるか、指揮官たちには、頭の痛い課題だった。ただ、不幸中の幸いは、まだこの頃《ころ》のトルコ兵は浮橋上での大砲の操作に未熟で、早急に対策を立てねばならないほどの被害をもたらさなかったことだった。
それでも、ヴェネツィア人もジェノヴァ人も、海の民《たみ》であるだけに、海側の守りが完璧《かんぺき》でなくなった場合の防衛の困難は、知りすぎるほどよく知っている。夜の闇にまぎれて、ガラタの居留区から救援物資を運んでくる小舟や、自らも戦うつもりで防衛軍に志願してくる「ガラタの住人」の数が、一段と増したのであった。居留区の許可がないと船もつけられないガラタの船着場に、ヴェネツィアの船が砲撃を避けて逃げこんでも、以前のように気まずい空気になることもなくなった。ヴェネツィア人も、ジェノヴァ非難の口を閉ざすようになる。幸福も人々の心を開くのに役立つが、不幸もまた、同じ役目をすることがあるものだ。
第七章 最後の努力
五月が訪れていた。ペガエ門近くの城壁を守っていたウベルティーノは、ふと、師のゲオルギオスに会いにいこうと思いたった。すでに、二十日の間もつづいている連日の砲撃が、その日だけなかったわけではない。巨砲を中心に、左右に二門か三門ずつおかれた大砲からは、ほとんど一本調子に聴こえるほど、飽きもせず、一日にして百発近くの石丸が放たれていたのである。だが、敵との白兵戦は総攻撃以後なかったので、守備兵の仕事は、破壊された外城壁や防柵《ぼうさく》の修復が主だった。すでに二十日におよぶ体験で、守備兵たちも、砲撃のリズムがわかっている。来たと思うと安全な内城壁に避難するので、死者は一人もなく、時たま、飛び散る瓦《が》礫《れき》が当って怪我《けが》をする者が、幾人か出た程度だった。守備兵たちの間では、眼前の大砲を大砲と呼ばず、「熊《くま》」と呼んでいた。巨砲は親熊で、その左右の小型の大砲は子熊なのだ。
「親熊が精根つきたらしく、新しいのに代わったよ」
とか、
「子熊が増えて、四匹にもなった」
とか言い合うのである。金角湾での戦闘は彼らも知っており、実際に自分の眼《め》で見た者も少なくなかったが、人は、緊張状態ばかりを生きることはできない。五月と聴いたとたんに、故郷のブレッシアの麦畑の空高くさえずるひばりの声を思いだした北イタリア生れの若者が、少しの暇を願いでたのを、ヴェネツィア人の隊長も同僚たちも、嫌《いや》な顔もせずに許してくれた。
コンスタンティノープルの南西の端しにあるペガエ門から、ゲオルギオスの住む僧院へ行くには、門前から東へのびている大路を行き、その道の中ほどで、北西のカリシウス門からくだってくるもう一つの大路とぶつかるところから、今度は金角湾に向って、北への道を相当な距離行かねばならない。だが、この街には通じているウベルティーノは、まっすぐ北東に、近道を通っていく間道を選んでいた。家と家の間に、ささやかな菜園があったりする道だ。ひばりの歌は聴こえないが、菜園の葡《ぶ》萄《どう》の樹《き》は、すでに緑色の房をつつましくつけている。近道といっても、距離はだいぶある。ウベルティーノは、このビザンチン帝国の首都の広さを、改ためて感じるのだった。
僧院の中庭に入った若者は、そこがひどく静かなのが意外だった。修道士たちがいないのではない。ただ、包囲のはじまる前には支配していた熱気が、まったく感じられないのである。僧たちは、ウベルティーノに一瞬イタリアの修道院を思いださせたほど、内庭を囲む回廊を静かに行き来していたり、菜園の土に、おだやかにくわを入れていたりする。
ゲオルギオスの僧房の扉《とびら》を開けたウベルティーノを見て、師はやはり驚いたようだった。だが、まだ居たのか、という問いは言葉にせず、それまで向っていた書見台をわきに押しやり、弟子に木の椅子《いす》をすすめた。そして、しばらく会わなかった間に、若いとばかり思っていたこのイタリアの若者が、五歳は年とって見えるのが、哀れに思えたのかそれとも喜んだのか、少しの間、ウベルティーノをじっと眺《なが》めていた。ウベルティーノのほうは、師が少しも変っていないのが、また、まわりに狂信的に話すギリシア人が一人もいないのが、心から嬉《うれ》しかった。
「どこにいる」
若者は、ペガエ門の守りについていると答えた。師は、ゆっくりと低い声で話しだした。
「包囲網がせばまる一方なのは、きみも知っているだろう。市中では、食糧が不足しはじめてきた。ガラタの居留区から運ばれてくるのが頼みの綱だが、居留区の全員が、この援助に同意しているわけではない」
ウベルティーノは、ヴェネツィア隊にいる。この種の情報には通じていた。黙ってうなずく彼に、師はつづける。
「今日の早朝、スルタンの使者が訪れた。マルモラ海側の船着場から秘《ひそ》かに上陸したから、ほとんどの人は知らない。使者は、ギリシア人で回教に改宗したイスマイル・ベグだ。スルタンの出した降伏の条件は、十万ビザンチン金貨の支払いと、皇帝の退去だった。皇帝は断わったが」
これは、ウベルティーノは知らなかった。だが、彼には、守備兵の労をねぎらいにしばしば彼の守る城壁にも姿を見せた、自分の父親の年頃《としごろ》と思われる皇帝の、高貴な風貌《ふうぼう》と暖かい言葉を思いだしながら、断わった皇帝を非難する気にはどうしてもなれなかった。
この後は、師も弟子も、攻防戦の話題にはふれなかった。二人とも、互いにこれからも、それまでと同じ立場をつづけるであろうことはわかっていたからである。話題は、哲学についてだった。ウベルティーノには、コンスタンティノープルに住みはじめた当時にもどったような気分を、心ゆくまで味わえたひとときだった。僧院を後にする時、晩鐘が鳴りはじめていた。師は、いつものとおりの短いあいさつをした若い弟子に、眼にやさしい微笑をたたえたまま、なにも言わなかった。
フランゼスは、またも皇帝から、難問題の解決をまかされていた。住民からの声が高まりはじめた食糧の欠乏を、どうにかしなければならないのだ。三万五千に外国勢を三千として、四万近くもの口を満足させるのは、簡単な問題ではない。四月二十日の四隻の船による補給以後、外の世界からの援助はまったく途絶えていた。ガラタのジェノヴァ人が運んでくれても、ただというわけにはいかない。また、これも、居留区の外のガラタ地区へのトルコ支配網が固まって以後は、ジェノヴァ人にも、外からの補充が困難になっていた。コンスタンティノープル市内で飼われている、羊や牛の数はしれている。菜園も、この季節では、役に立つほどの量は産しなかった。
フランゼスは、皇帝に向い、国費では充分でないので、金持の個人や教会、修道院に寄附をつのり、それでできるかぎり多量の小麦粉を買い求め、一家族ごとに必要最小限の量を配給するしかない、と言った。皇帝も賛成で、この案はただちに実行に移された。寄附の総額は予想をはるかに下まわり、皇帝をまたも憂《うれ》いに沈ませたが、住民たちの不満は聴かれなくなったのである。
その間も、砲撃はつづいていた。「親熊」は時々、故障か破裂かで沈黙することはあったが、「子熊」のほうは補充も簡単なためか、うなり声をあげない日はなかった。それでも敵兵の攻撃はないので死者は出ず、城壁の外からの轟音《ごうおん》と、城壁内の教会の鐘がときを告げる音との奇妙な合唱が、人々の頭から、ややもすると大軍の敵に囲まれている恐怖を忘れさせた。だが、籠城《ろうじょう》は、すでに一カ月におよんでいたのである。
五月三日。その日の朝、ヴェネツィア大使ミノットとトレヴィザン提督は皇帝に招《よ》ばれた。皇帝のかたわらには、フランゼスしかいない。四十九歳のコンスタンティヌス十一世は、一段と白さを増した、しかし手入れだけはゆきとどいているあごひげに時折り手をやりながら、いつもの真《しん》摯《し》で暖かい口調で話しだした。
大使ミノットが皇帝の要請を受けて、本国に援軍派遣を乞《こ》う使者を送ったのは一月の二十六日である。ミノットが言うには、遅くても二月中にはヴェネツィアに着いているはずだった。だが、包囲のはじまった四月はじめまでに、ヴェネツィア政府からの回答はとどいていない。しかし、ヴェネツィア本国では艦隊編成がはじまったという情報は入っていた。
それでだが、と、皇帝は二人のヴェネツィア人に向い、近くまで来ているにちがいない艦隊に情勢の急なることを知らせ、なるべく早くコンスタンティノープルへ向ってくれるよう頼む、使いを出してくれないだろうか、と言ったのである。ミノットもトレヴィザンも、快諾した。
その日の夜半近く、志願者だけの十二人の船乗りを乗せた船が、秘かに開かれた防鎖から外にすべり出た。二本の帆柱を持ち、いざとなれば櫂《かい》も使える小型の快速船で、敵に見つかった場合にそなえてトルコ旗をなびかせ、乗員も、皮でできたトルコ風の上着に、頭もターバンで隠している。全員が、ヴェネツィア人だった。トルコ兵の眼をかすめての脱出は、成功したようだった。快速船は、折りからの強い北風を帆に受けて、風のように南下し、たちまち視界から消えた。
だが、コンスタンティノープルに閉じこめられていた人々は、ヴェネツィアでのことの成りゆきを知らなかったのである。
まず、大使ミノットの送った使者は、出発後一カ月も経ない二月十八日に本国に着いていた。翌十九日、元老院が召集される。ヴェネツィア共和国では、外交問題は元老院で審議し、決議するのが決まりになっていた。その日、元老院は、次のことを決議した。
十五隻のガレー軍船指揮のために、司令官と副官を選出する。そして、二十五日には、ヴェネツィアがビザンチン皇帝の要請に応《こた》えて援軍を送ることに決定したむねを、ローマ法王、ドイツの神聖ローマ皇帝、ナポリ王、ハンガリア王に通告した。もちろん、これらの関係諸国がいっときも早く、対トルコに立つよう勧めることも忘れない。
三月、ヴェネツィアの造船所では、コンスタンティノープルへ向う艦隊の整備が、戦時体制下と同じ空気の下で進行していた。三千ドュカートの臨時支出が、それにつぎこまれる。
四月十三日、ヴェネツィア元老院は、司令官に選出されたアルヴィーゼ・ロンゴに与える指令を可決する。それによると、彼は十五隻からなる艦隊をひきい、四日後の十七日にヴェネツィアを出港する。まず、アドリア海を南下してペロポネソス半島の南端のモドーネに行き、そこで物資を補充し、まっすぐにダーダネルス海峡入口にあるテネドス島に向う。テネドスでは五月二十日まで、ネグロポンテの基地から来るヤコポ・ロレダン提督指揮の艦隊を待ち、艦隊到着後はロレダンの指揮下に入る。ロレダンは、ネグロポンテからひきいて来た艦隊にロンゴ指揮の本国からの艦隊、それにクレタからの艦隊すべてをひきいて、コンスタンティノープルへ向う手はずになっていた。
だが、仮りに二十日までにロレダンが到着しない場合は、敵状を充分に視察して可能となれば、ロンゴの艦隊だけでもコンスタンティノープルへ向うこと。ビザンチン帝国の首都に到着後は、大使ミノットとトレヴィザン提督の指揮下に入り、皇帝の海軍として防衛戦に参加する。しかし、五月二十日以前は、いかに条件がととのおうとも、コンスタンティノープルへ向ってはならない。これが、元老院がロンゴに与えた指令だった。
もしもこのとおりにすべてが運んでいたならば、ガレー軍船だけで三十隻を越える艦隊は、陥落以前に首都に到着し、防鎖の外を回航するトルコ艦隊を壊滅させ、金角湾内のトルコ船も、友軍と協力して一掃することもできたであろう。こうなれば、金角湾の制海権は再びキリスト教側に帰すことになり、海側の包囲も崩すことができて、コンスタンティノープルは、孤立状態から脱することも可能だったのだ。五月三日の事態での皇帝の推測は、だから、道理に適《かな》ったものだった。
しかし、四月十七日と決められていたロンゴひきいる十五隻の出港が、まず二日延期された。そのうえ、五月二十日までにテネドスへ行っていなければならない、ネグロポンテから発《た》つ艦隊への出港命令をロレダンが受けたのは、五月の七日になってからである。しかも、彼は、ただちに艦隊をひきいてテネドスへ直行することができなかった。元老院からの指令は、彼に、まずペロポネソス半島をまわってコルフ島へ行き、その地の総督を乗船させてネグロポンテに引き返し、そこでクレタからの艦隊の到着を待って、その後ではじめてテネドスへ向え、と命じてきたからである。慎重なヴェネツィア共和国らしく、その翌日にも重ねて、皇帝との交渉役として特使を同行するよう、指令が送られた。特使マルチェッロのヴェネツィア出発はこの後だから、ロレダン総司令官にしてみれば、いかに艦隊の出港準備がととのおうと、特使が到着しないかぎり、出港することはできないことになる。五月二十日までにテネドスに着くなど、これではもはや夢だった。そして、モドーネを出た後はネグロポンテにも寄らずにテネドスに直行したロンゴの艦隊も、テネドス到着は、予定日よりも三日後だった。そこにロレダン艦隊を見《み》出《いだ》さなかったロンゴは、自分たちが遅れたことからすぐに所定の行動を取ることが躊躇《ちゅうちょ》され、しばらくそこで、友軍到着を待つことに決めたのである。
トルコ軍による陸と海からの完璧《かんぺき》な包囲は、コンスタンティノープルにいる人々に外の情報をもたらさなかったが、外にいる人々にも、ビザンチン帝国の首都の情勢急なる現状を、知ることを不可能にしていたのだった。
コンスタンティノープルでは、人々の動揺が目立ってきていた。敵の砲撃は、いっこうにやまない。そのうえ、ガラタ地区にそなえつけられた大砲は、防鎖にそって錨《いかり》をおろすキリスト教徒の船に、警戒をゆるめる暇を与えず、浮橋上の大砲は、金角湾側の城壁の損傷を、日に日に大きくしていた。砲撃が集中している陸側では、被害は比較にならない。皇宮にそう城壁を守るテダルディは、一つの塔の上半分が、砲丸の直撃を受けて消えてしまったのを目撃した。陸側の城壁の損傷は、メソティキオン城壁と、一重しかない皇宮ぎわの城壁が最もひどかった。ビザンチン帝国の輝やかしい歴史を体現するコンスタンティノープルは、アナトリアの山地の民による、三方からの砲撃にさらされていたのである。
この情況の中で、ヴェネツィア人とジェノヴァ人の反目が再び爆発した。ヴェネツィア人は、もともとガラタの居留区の中立固持に腹を立てているうえに、夜襲失敗の恨みが忘れられない。ああいう連中だから、遅かれ早かれ自分たちを見捨てて逃亡するという疑いを、捨てきることができないのである。それで、ヴェネツィアの商船と同じようにジェノヴァ商船も、錨と帆をはずし、皇帝に預けてはどうかと提案した。ジェノヴァ人は、侮辱された思いをあらわにして言い返す。
「どうしたら、そんな馬鹿気《ばかげ》た考えがもてるのだろう。逃げるとは、ガラタを捨てることではないか。二百年もの間に築きあげたわれわれの富、われわれの町、われわれの息子たちを捨てることなど、絶対にできない。居留区はわれわれにとって、生れ育った場所なのだ。それを捨てるくらいなら、最後の血の一滴まで戦いぬくだろう」
こうまで言われると、互いに通商国家同士、ヴェネツィア人も黙るしかない。だが、居留区とスルタンの間に連絡が途絶えない事実に、ヴェネツィア人は、一言もなしではすまされない気持だった。だが、これにもジェノヴァ側は、われわれの代官がやっていることは、皇帝も先刻承知で、皇帝のためにも役立っているのだ、と言い返した。
実際、ビザンチン側は、トルコとの交渉を断ち切ってしまったわけではなかった。代官ロメリーノも、居留区の運命もかかっているだけに、懸命に努力したのである。だが、マホメッド二世の出す条件は、いつも同じだった。賠償金の支払いと皇帝の退去である。これさえ受け容れれば、住民の生命と私有財産は保証するという。重臣たちの多くは、受諾のほうに傾いていた。皇帝に向い、受けてはどうかと勧める者までいた。陸軍の総指揮官でもあるジェノヴァ人ジュスティニアーニは、もっと率直だった。
「陛下、この不幸な都を助けにくる軍勢は、待っても無駄《むだ》のようです。敵の様子では、どうやら総攻撃も間近かと思われます。もしも、陛下も、重臣方と同じように、ペロポネソス半島にでもひとまず逃げられ、そこで改ためて軍を整えての首都奪回をお考えでしたら、わたしも自分のガレー船をお役に立てたいと思いますが」
皇帝は、はらはらと涙を流しながら答えた。
「あなたの忠告に、心からの感謝で礼を言いましょう。あなた方西欧人は、自分の国でもないこの都を守るために、日夜心をくだいてくれている。しかし、わたしに、この民を見捨てていくなどということが、どうしたらできるだろうか。いや、皆さん、わたしにはできません。彼らとともにこの都とともに、死ぬほうを選びます」
この頃の皇帝は、まだ、ヴェネツィア艦隊の到着に望みをつないでいたのである。旧知の間柄《あいだがら》でもある総司令官ロレダンの人柄と能力が、皇帝には、ガレー船十隻よりも力強い味方に思えたのであった。
ジュスティニアーニの予想は適中した。五月七日の日没後四時間、トルコ軍の二度目の総攻撃が、火ぶたを切っておとされたからである。
スルタンは、一度目の総攻撃の誤りを、二度とくり返さなかった。今回の総攻撃は、メソティキオン城壁だけに集中され、二キロに満たない、連日の砲撃で最も痛手を受けていたその一帯に、三万余りの兵が投入された。迎えるは、ジュスティニアーニ直属のジェノヴァ兵に、皇帝配下のギリシア精鋭が一千。イシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》下の兵の応援を受けても、二千にも達しない。トルコ兵は、例によって、城壁にとりつくための鉤《かぎ》つきの綱と、長い攻城ばしごと、それに槍《やり》か弓を手にして、すでに埋め立て箇所の目立つ外堀《そとぼり》を渡ってなだれこんできた。
砲音はしないが、城壁の内からは、急を告げる警鐘が鳴りひびく。攻める側は、太鼓とラッパと笛で、狂ったようにわめき立てる。その中で、ただ眼前の防柵《ぼうさく》に取りすがることしか頭にない攻撃兵の中に、ミハイロヴィッチもいた。二度目の総攻撃の主力は、守る側と同じキリスト教徒の多い、不正規軍団であったからである。スルタン親衛隊のイエニチェリ軍団の兵は、堀の端しに抜刀姿で立ち、恐怖に駆られて引き返してくる兵を脅し、それも効かなければ、迷うことなく斬《き》り殺した。ミハイロヴィッチは、自分より幾つか年下のあの若者は、配下の兵たちが、敵よりも味方に恐怖をいだくようにしている、と感じた。
防衛兵たちは死にものぐるいで闘ったが、攻撃する兵も、それに少しも劣らなかった。彼らには、前に進むしかないのだ。矢で射られ、小銃の的にされた者は、そのまま打ち捨てられ、後から来る兵の踏み台にされた。防柵に取りついた者は槍で突きおとされ、外城壁の破れ目からよじ登ろうとした者も、戦い慣れた防衛兵の適確な一閃《いっせん》で、声も立てずに殺される。
しかし、敢闘する防衛側の兵士たちも、殺しても殺してもなだれこんでくる新たな敵兵には、疲労がつみ重なるのをどうしようもなかった。防衛側には、交代の余裕がないのである。他の守備地域から、人をまわすことはできなかった。南のペガエ門のあたりも、北の皇宮周辺の一帯も、いつ攻撃の的にされるかわからない。攻撃は仕かけてこなくても、その一帯のトルコ軍は、いつ開始ののろしがあがってもよいように、城壁前にずらりと陣形を布《し》いている。防鎖の外のトルコ艦隊も、金角湾内のトルコ船団も、攻めてはこなくても船を動かすことはやめない。味方はここでも、動くことはできないのだった。
激闘は、三時間つづいた。トルコ軍は、多数の死者を出しながらも、外城壁から中には侵入することができなかった。マホメッド二世は、撤退の青いのろしをあげさせる。死者は、その場に捨てられた。
ほっと一息ついた防衛軍は、幸いにも多くはなかった戦死者と傷を負った兵が市内に運ばれた後も、疲れきった身体《からだ》を一休みさせるのを、朝まで延ばさねばならなかった。引き倒された防柵をもとどおりにし、外城壁の崩れた箇所を土俵で補強する作業が、明け方までつづいたからである。
翌日から十一日までの四日間、トルコ軍の砲撃は、いっそう激しさを増した。砲撃はとくに、メソティキオン城壁の中頃《なかごろ》にある聖ロマノス軍門一帯と、皇宮をめぐる城壁と金角湾側の城壁が合致する一帯に集中した。その頃ではすでに、浮橋上の大砲の与える損害も、早急に対策を立てねばならないほどになっていた。
聖母マリア教会で開かれた作戦会議の席上、陸上の防衛軍補強の可能性が討議された。ないものをしぼりだすしかなく、結局、海軍の総指揮をまかされていたトレヴィザンが、陸《おか》にあがることになった。トレヴィザンとこれまで行動をともにしてきたヴェネツィアの船乗りたちは、船を捨て陸にあがるのが不満だったが、ボス《・・》が受けたと聴けば反対する者はいない。トレヴィザンは、後任に、副官にしていたアルヴィーゼ・ディエドを推し、これも反対者なく決まった。
ディエドには海軍専門の経歴はなかったが、黒海航路の船長を長く勤め、このあたりの海域は、海図など必要としないくらいに知りつくしている。それに、冷静で船乗りたちの人望も高いのが、トレヴィザンの推薦の理由だった。船医ニコロの直属の上官も、これで、トレヴィザンからディエドに代わったわけである。左腕を首からまわした布でつった甲冑《かっちゅう》姿のヴェネツィアの海将は、剣と槍だけを持って船をおり、決められた守備地域である皇宮ぞいの城壁に向った。夜襲の時、倒れてきた帆柱でくだかれた提督の左腕の傷は、ニコロをまだ安心させなかった。治療所での仕事の合い間にでも、一日に一度は出向いて治療しなければなるまい、とニコロは思った。
まったく、防衛軍補強は、間一髪のところで遅れをとるところだった。その日の夜半、トルコ軍による三度目の総攻撃がはじまったからである。今回の攻撃は、皇宮周辺の城壁に集中した。五万の兵がつぎこまれる。それも、元気いっぱいの新鮮な戦力を投入してきた。アナトリア軍団とヨーロッパ軍団、それにサガノス・パシャひきいる軍団から選抜した兵たちだ。全員、生れた土地はちがっても、トルコ人である。彼らの中でもとくに、トルコ民族発生の地アナトリアからきた兵は、勇敢を越えて獰猛《どうもう》だった。
対するは、大使ミノット、トレヴィザン指揮下の、ヴェネツィア兵を主力にした二千に満たないラテン人部隊。一重ではあっても、高さと厚さは内城壁並みのこのあたりの城壁も、四日間の連続砲撃を浴びて痛みが激しく、一つの門などは砲撃で完全に破壊され、応急の柵しかなかったが、敵も、そうそう簡単には取りつくことができない。城壁に近づくまでは容易でも、城壁の上に待ちかまえる守備兵に近づけた者は少なかった。激闘がくり広げられたのは、やはり、柵でささえただけの城門の近くである。ここでは、倒れた味方の兵を運びだすのと押し寄せてくる敵を殺すのとで、防衛兵たちの顔は、鬼のような形相《ぎょうそう》に変っていた。
必死だったのは、トルコ兵も同じだった。彼らとて、後に退くことはできないのだ。背後には、抜刀したイエニチェリ軍団の兵士が待ちうけている。マホメッド二世は、敵への恐怖よりも味方に恐怖をいだくことで戦力をたかめるやり方を、同じ血の流れるトルコ兵に対しても使った。
しかし、この三度目の総攻撃も、キリスト教徒側の守りを破ることはできなかった。四時間後に、トルコ兵は潮の引くように退却しはじめたのだ。だが、今回は、防衛側の受けた被害は大きかった。死者の数は、前回の二倍に達していた。そして、スルタン・マホメッド二世が、メソティキオン城壁と皇宮周辺の城壁の二点に、攻撃の主力を投じつづけるであろうことが、誰《だれ》の眼《め》にも明らかになったのである。だが、防衛側には、それに対して打てる、決定的な手がなかった。それどころか、二日後の朝、皇宮をめぐる城門の一つ、カリガリア門を守っていた兵の一人が、肌《はだ》が総毛立つような事実を発見したのである。
マホメッド二世が、地下に坑道を掘らせ、城壁の真下までそれをのばしたところに火薬をつめ、爆発させる戦法にでることは、防衛側でも予測しなかったことではない。とくに、トレヴィザンとジュスティニアーニの二人が、包囲戦がはじまってすぐ、その心配を作戦会議で述べたことがある。だが、その時は、トルコ軍は数ではいつも多いが、坑道を掘るような技術を持っている兵はいないという、ビザンチン側の主張がいかにも確信を持って述べられたので、二人の西欧人は、それ以上押すことをしなかったのである。
しかし、従来のトルコ軍の戦法を一新したマホメッド二世の頭の中には、火薬を仕かけての城壁爆破も、もちろんすでに入っている。ただ、この作戦は、はじめのうちはなかなかうまくいかなかった。トルコ兵は、地上に石をつみあげるのには、「ルメーリ・ヒサーリ」の工事で経験ずみだったが、地下に長い坑道を掘るには、技術も経験もまだなかった。掘らせてみたが、坑道は、予定した地点に向うどころか、とんでもない方角にばかり進んで、まったく用をなさない。それで、スルタンは、坑夫の経験のある者を探すよう、部下の将軍たちに命じた。まもなく、サガノス・パシャが、自分のひきいる軍団に、セルビアの銀鉱で坑夫をしていたことがあるという、数人の男がいると伝えてきた。その翌日から、坑道掘りの作業は、これらの専門家たちにまかされたのである。
マホメッド二世は、彼らに、カリシウス門の真下に達するように、一本の坑道を掘るよう命じた。坑夫たちは、城壁の上の守備兵に気づかれないように、はるか後方から掘りはじめたが、しばらく掘り進んだ時、なにか堅固な石の層にでも突き当ったらしく、これ以上掘り進めることは不可能だと告げてきた。スルタンは、それならばカリガリア門近くの城壁に向けて掘れ、と命ずる。そのあたりは皇宮をめぐる城壁だから、一重しかない。
坑夫たちは、そこにもまた、気づかれないようにはるか後方から掘りはじめた。ところが、城壁上の見張りに、掘った穴から土を外に出す作業中を怪しまれたのである。だが、坑夫たちは、気づかれたとはまだ知らない。防衛側とて、報告を受けて蒼《あお》くなった首脳たちも、すぐさま打てる対策などない。彼らにできたのは、敵にこちらが気づいたことを知らせないようにして、自分たちも坑道掘りの専門家を探すことだった。
幸運にも、専門家はすぐに見つかった。ジュスティニアーニの従えてきた傭兵《ようへい》の中にいたドイツ人で、それまでは一介の兵として闘っていた、グラントという名の男だった。早速、技術者にもどったこの男によって、反地雷作戦は動きだした。宰相ノタラスも、一団のギリシア兵を、配下としてグラントに提供した。
グラントに課せられた任務は、敵の作戦を未然に防ぎながら、あわよくば、敵にそれをつづける気を失わせることだった。ドイツ男は、まず、城壁外の地表を慎重に調査することからはじめる。とはいっても外に出ることはできないのだから、城壁の上から眼で調べるしかない。しかし、不審なことが眼に入れば、ただちに、その地点から掘られると予測される坑道の位置を推測し、城壁内からそこへ向って坑道を掘る作業にとりかかる。
五月十六日、発見からわずか一日後、グラントの技術は確かであることが実証された。見事にトルコ側の坑道を掘りあてたギリシア兵は、坑道をささえていた支柱を焼き払ったので、崩れ落ちた支柱の下敷きになって、何人もの敵方の坑夫が死んだ。火薬はまだ、仕かけられていなかった。
しかし、あのスルタンが、一度でこりて中止させるとは思えなかった。グラントには、これ以後も工兵隊の指揮がまかされることになり、城壁を守る兵たちにも、少しでも敵方に不審な行動が見えたら、ただちに報告するよう告げられた。五日後の二十一日、二度目の成功が、防衛側を力づけた。今度は、トルコ側の坑道に侵入したギリシア兵たちは、その中で煙がひどく出るやり方で火を燃やし、敵方の坑夫たちをいぶし出す戦法をとった。もちろん、成功後は、城壁の内側からそこまで掘った坑道を、埋めなおす作業を忘れるわけにはいかなかったが。
とはいえ、成功は労苦を忘れさせる。二度目の成功で気を良くしたグラントとその配下の工兵たちは、夜の闇《やみ》さえ自分たちの視力をじゃましないとまでの自信を持った。次の日からつづけて四日、一日に一つずつ、トルコ軍の坑道は破壊されていった。失敗を六回つづけて味わされたマホメッド二世は、さすがにこの作戦をあきらめたようであった。なぜなら、それ以後もなお、前と変らず監視の眼をゆるめなかったグラントは、技術者としては失業してしまったからである。
しかし、二十一歳のトルコの若者の頭の中は、あらゆる可能性を探って、四六時中機械のように動いてでもいるかのようだった。グラントが最初の坑道破壊に成功した日から、まだ二日も経《た》っていない十八日の朝、陸側の城壁の守りについたキリスト教徒たちは、眼の前にそびえ立つ怪物を見て、われとわが眼を疑った。
ウベルティーノが見たのは、黄金門とペガエ門の中間の城壁前に立つそれである。どこか後方でつくり、夜のうちに堀のふちにまで押してきたのにちがいなかった。高さは、外城壁の各所を押さえる塔よりも高く、木の骨組みでできたこの巨大な塔は、まわりを牛や羊の皮でおおわれているので内部は見えない。だが、中には階段があるにちがいなかった。この塔の上層にあたるところから、矢が、防柵を守る守備兵に向って降りつづいたからだ。
防衛側は、火矢を放って、巨大な怪物を燃やそうと試みた。だが、なかなかうまくいかない。その日一日中、この木塔からの援護射撃に守られて、トルコ兵たちは、堀の中に幅広い通路を築く作業をつづけることができた。幅二十メートル、深さは一メートルから一メートル半、長さとなると五キロに近い陸側の外堀すべてを埋め立てるのは、いかに人海作戦をとるマホメッド二世でも、不可能に近い事業である。それで、兵や木塔をより早くより確実に城壁に近づけるために、外堀の各所に、地表面と同一線になる通路を通そうとしたのだった。これは、前からはじめられていたが、巨大な木塔に守られることで、作業はより早く進むことが実証されたのである。
スルタンの意図がはっきりしているだけに、防衛軍も、絶対にその完成を許してはならなかった。その日の夜半すぎ、秘《ひそ》かに外城壁からしのび出た決死隊は、外堀の中にほとんど完成していた通路に穴を掘り、中に爆薬を仕かけて火を点《つ》けたのである。あらかじめ堀の端し近くを選んで仕かけたので、大音響とともに爆破されたのは通路にとどまらず、堀のすぐ外の地表に立っていた木塔まで倒し、炎上させることにも成功したのだった。
大音響と火の柱は、メソティキオン城壁のあたりでも、また、皇宮近くのカリガリア門のあたりからも、時をおかずに次々とあがった。不意を打たれて逃げまどうトルコ兵の姿が、炎に照らされて闇の中に浮びあがるのを、守備兵たちは、疲れも忘れて見守るのだった。翌朝、一つだけ炎上をのがれて残っていた木塔は、守備兵たちの歓呼の声に送られながら、後方に引かれていった。
だが、これと、グラントの坑道爆破の成功をのぞいては、明るい事実は一つもなかった。防衛側の戦死者の数は、陸と海でくり返される激戦と間断ない砲撃を考えれば、不思議なほどに少なかったが、負傷者の数は、日が経つにつれて加速度的に増えていた。弾薬の貯《たくわ》えは、底が見えるほどになり、食糧の欠乏も、どのような方策を講じても、人々の眼をごまかすことはもはや不可能だった。外からの援軍到着だけが望みの綱だと、女たちまでが口にするようになっていた。
五月二十三日の午后《ごご》のことである。マルモラ海側の城壁の上にいた見張りの一人が、首都に向って北上してくる小型の船を見つけた。海上封鎖中のトルコ艦隊も、その船に気がつき、待つ間もなく数隻《せき》のトルコ船が、行手をはばんで立ちふさがる。小型船は、巧みにそれをかわしながら北上をつづける。風はないので、櫂《かい》だけの勝負だ。追うトルコ船も懸命に漕《こ》ぐが、小型船の舵《かじ》さばきと櫂の動きはさらに優れ、トルコ船を寄せつけない。小型船があなどりがたいと見て、停泊地から応援のトルコ船がくり出した時は、すでに遅かった。待っていたとばかりに開けられた防鎖のすき間から、金角湾にすべりこむのに成功したのである。この船が、二十日前にヴェネツィア艦隊を探す使命をおびて包囲を脱出していった船であることは、たちまち船着場から、市のすみずみにまで広まった。人々は、陸側の城壁を守る兵たちまで、艦隊の接近を一刻も早く報告するために、この船だけが一足先に到着したのだと思い、希望で胸をふくらませながら第二の知らせを待った。
しかし、汚れた衣服を改める間も与えられず、トレヴィザンとミノットに連れられてただちに皇帝の前に参上した船長の報告は、皇帝だけでなく、列席の防衛軍首脳まで蒼ざめさせるものだった。
ヴェネツィアの小型快速船は、無事に脱出した後も、マルモラ海をダーダネルス海峡を、味方の船影を求めて南下をつづけた。海峡を出てからも、そのあたりの島々を一つずつ、根気よく探しまわったのである。だが、ヴェネツィア艦隊の姿はどこにも見えず、そのあたりの島の住民で、艦隊接近を匂《にお》わせるごく小さな情報でさえも持っている者はいなかった。この探索が、二週間に及んだ頃である。これ以上の努力は無駄と認めるしかなかった船長は、残りの十一人の船乗りを集め、彼らに自分の考えを告げ、これからどうするかを彼らの判断にまかせると言った。一人の船乗りが、口を開いた。
「兄弟たち、われわれが後にした頃のコンスタンティノープルは、いつ来るかわからない敵の総攻撃に、毎日毎日をおびえてすごす状態だった。われわれは口には出さなかったが、ビザンチン帝国の首都は、結局、あの非道なスルタンに滅ぼされると感じていたのだ。それも、所詮《しょせん》はギリシア人の無能が招いた結果なのだが。
それでだが、兄弟たち、われわれは任務を充分に果したのだから、この後は、キリスト教徒の国に帰るべきだと思う。それに、今この時刻にも、すでにあの都は、トルコの手におちているかもしれないのだ」
だが、別の一人の船乗りが発言を求め、言った。
「兄弟、皇帝はわれわれに、艦隊を探しに行くよう頼んだ。われわれは、結果は良くなかったにしても、それはやった。だが、われわれの任務は、これで終ったわけではない。結果を皇帝に報告する任務が、まだ残っている。コンスタンティノープルへもどるべきだと、わたしは思う。あの都がトルコの手におちたか、それともまだキリスト教徒のものであるかに関係なく、もどるべきだと思う。生が待つか死が待つか知らないが、まずは、北に舵をとるのが先決だ」
船長もふくめて、他の十人の船乗りはこれに賛成した。反対を表明していた一人も、結論が出た後はなにも言わなかった。こうして、小型のヴェネツィア船は、コンスタンティノープルへもどってきたのである。だが、この十二人の船乗りたちも、あと六日経てば、ロンゴひきいる艦隊だけでもテネドスに到着するのを知らなかった。
十二人の船乗りの一人一人に感謝の言葉をかけてまわる皇帝の頬《ほお》には、涙が光っていた。沈痛な雰《ふん》囲気《いき》につつまれたその場にいた人々は、誰も、外の世界からの救援を、これ以上期待しつづけることはできないと悟ったのである。
その間も、敵の砲撃は、あいも変らずの激しさでつづいていた。とくに聖ロマノス軍門を中心とした一帯は、集中砲撃を浴びつづけた結果、防衛側の必死の修復作業にもかかわらず、外城壁の破損は、もはや打つ手もないほどに絶望的だった。「子《こ》熊《ぐま》」の砲撃で破壊された箇所を懸命に修復しても、「親熊」の放つ五百キロもの重さの石弾の直撃を受ければ、労苦も水の泡《あわ》と化すのである。いまだ威圧するようにそびえ立っているのは、内城壁だけだった。だが、そこまで後退して守り抜くには、防衛側の戦力が充分でない。また、背水の陣でのぞむにしては、守る人々の神経が、それに耐えられないほどに弱ってもいた。その日の晩鐘が、コンスタンティノープルの人々には、まるで弔鐘でもあるかのように聴こえたのである。
籠城《ろうじょう》の、五十日が過ぎようとしていた。
第八章 崩れゆく人々
庶民たちは、もはや神にすがるしか道はないと感じていた。だが、超現実的なことにすがりつく者は、他の超現実的なことに心を乱されずにはすまなくなる。それまでは人々の口の端《は》にものぼらなかった昔からの言い伝えが、まことしやかにささやかれるようになった。
ビザンチン帝国は、最初の皇帝コンスタンティヌス大帝と同じ名の皇帝の治世に滅亡するという預言を、あらためて人々は思いだしていた。また、大帝の立像は片手が東方を指していたが、それは、東方からくる者によって帝国は滅びるという意味なのだ、という者もいた。昔からの言い伝えの一つに、帝国は月が満ちつつある間は絶対に滅びない、というのがあり、これまで人々を元気づけていたのだが、二十四日は満月だった。この後は、月は欠けるしかない。これが、人々をおびえさせた。しかも、その満月の夜に、月蝕《げっしょく》が起ったのである。三時間つづいた暗黒の闇《やみ》は、もともと迷信深いビザンチンの人々にとって、これ以上の不吉な前兆はないと思えた。月は、ビザンチン帝国の象徴でもあったのだ。神が帝国を見捨てられたのだという想《おも》いは、彼らの胸に、重くのしかかって動かなくなった。
翌日、人々は、コンスタンティノープルの市内を、聖母マリアの画像《イコン》を捧《ささ》げて練り歩いた。この行列には、守りについていなければならない者以外はみな加わった。ところが、その行列が市の中央にさしかかった時、イコンが、安置されていた台からころげ落ちたのである。人々は、あわてて行列をとめ、地上に落ちたイコンを拾いあげようとした。だが、木の板に描かれているだけの画像なのに鉛ででもあるかのように重く、一人ではとうてい持ちあがらない。数人が力を合わせて、ようやくもとの場所にもどしたのだった。この出来事が、人々の心をさらに暗くした。
しかし、凶兆は、これで終りではなかった。行列が再び進みはじめた時、突然、雷雨が襲ってきたのだ。あられを混じえた雨は、まるで無限の水の柱が天から落ちてくるかと思うほど激しく、たちまち、道路は川に変った。行列をつづけるどころではなかった。人々は、われ先に逃げ場を探して走りまわった。敵の砲音も聴こえない中に、雨の音だけがいつまでもやまなかった。
次の日は、朝から濃い霧が立ちこめた。五月の末にこのようなことが起るのは、まったくなかったことだった。主キリストと聖母マリアがこの都から離れていくのを、隠すための季節はずれの濃霧なのだ、と人々はささやきあった。
帝国の重臣たちは、再び皇帝に、首都を捨てるよう推《すす》めた。スルタンからも、開城を選ぶよう使節が送られていた。だが、皇帝は、この都とそこの住民と運命をともにしたい、と答えただけだった。
しかし、その同じ日、トルコの陣営でも動揺はあったのである。包囲は五十日をすぎているのに、コンスタンティノープルはまだ持ちこたえている。砲撃もあれほど間断なく浴びせているのに、外城壁を越えられた兵は一人もいなかった。ヴェネツィアの艦隊が、出港したという知らせも入っている。もしかしたら、明日にでも、艦隊が到着するかもしれないのだ。そうなった時に起る海戦に、楽観的な予想を立てられる者は、これまでのトルコ艦隊の無力を見せつけられては一人もいなかった。また、ハンガリア軍が救援に来るという噂《うわさ》も流れていた。もしも、ハンガリアがトルコとの間に交わした協約を破り、勇将フニヤディにひきいられた軍がドナウ河を越え、海からもヴェネツィア艦隊が救援に馳《は》せつけてきたとしたら、十六万のトルコ軍も、コンスタンティノープルにばかりかかずらってはいられなくなる。二十六日に開かれた作戦会議は、このような空気を反映してはじまったのであった。
宰相《さいしょう》のカリル・パシャは、この機をのがしてはとばかり、力をこめて話しはじめた。
「攻略は断念し、包囲は解くべきである。亡《な》きスルタンも経験したことなのだから、撤退はけっして恥ではない。無謀こそ、大国をひきいる者の、してはならないことである。西欧の国々も、ビザンチン帝国の救援に、いつまでも知らぬ顔をつづけることはできないであろう。すでにヴェネツィア共和国は、艦隊を派遣した。ジェノヴァも、早晩、キリスト教国であることを思いださないではいられないはずである。トルコは、名誉ある撤退の可能な間に、それを決意する勇気を持つべきである」
国政の経験量では列席者の誰《だれ》一人およばない老宰相の言葉は、やはり、並いる重臣たちの胸に、強く訴えたようだった。人々は、今はじめて自分たちの主《あるじ》が、わずか二十一歳にしかならない若者だと気づいたとでもいうふうに、あらためてスルタンの顔を見やった。マホメッド二世の背後に控えていたトルサンは、冷静を装っていても、主人の手が怒りをこめてきつくにぎられたのに気がついた。
二十一歳の若者の冷たい怒りに気づいたのは、小姓だけではなかった。大臣の一人サガノス・パシャが席を立ち、激しい口調で反論をはじめた。
「ヨーロッパの君侯たちは互いに争う仲であり、共同してビザンチンの救援に駆けつける余裕など、まずないと見るほうが妥当であろう。ヴェネツィア艦隊が到着しても、陸上の兵まで蹴散《けち》らすことは、彼らにはできない。われわれには、十六万の勇猛な戦力が健在だ。これよりはるかに少ない数の兵をひきいて、世界の半ばを征服したアレクサンドロス大王を思い起すべきである。この期《ご》におよんで、撤退など論外である。攻撃あるのみだ」
勢いのよいサガノス・パシャの演説に、若い武将たちが次々と立って、賛同の意を述べはじめた。一座の空気は、これで一変したのである。最後にマホメッド二世が、三日後に総攻撃を決行すると告げた時、反対を口にする者は一人もいなかった。
スルタン・マホメッド二世は、完全にとりもどした冷静さで、武将たちに次々と指令を与えていった。艦隊は、金角湾の外と内両方から、キリスト教艦隊に攻撃をかける。サガノス・パシャの軍団は、金角湾側の城壁を攻め、その他の全軍団は、スルタン自らの指揮の許《もと》、陸側の城壁全域に大攻撃をかけることが決まった。
この決定を、城壁の中の人々はただちに知った。誰ともしれぬ者が、文《ふみ》を巻いた矢を何本も射こんできたからである。防衛側は、眼をつむる想いでそれを読むのだった。
その夜、トルコ軍の陣営は、真昼のような明るさで輝やき、天幕の一つ一つが、いやそのあたりに群らがるトルコ兵の一人一人が、城壁の上にいる人々からも見分けられるほどだった。たいまつをあちこちに燃やすだけでなく、黒い油を地面に流し、それに火を点《つ》けたので、炎の壁に、赤地に金のスルタンの天幕が浮びあがる。炎の壁は、太鼓をたたき笛を吹き、地面にひれ伏してアラーに祈るトルコ人の群れも、鬼の踊りのように浮びあがらせていた。この騒ぎは、夜半を期にして静寂に沈むまでつづけられた。
翌二十七日、断食に大砲はふくまれないのか、一日中砲撃がつづいた。大砲についていなくてもよいトルコ兵たちは、その背後で悠《ゆう》然《ぜん》と、攻城ばしごや鉤《かぎ》つきの綱などの整備にいそしんでいる。その間を、全軍の視察でもしているのか、黒馬に白い大マントをなびかせたスルタンを中心にした一団の武将たちが、風のように駆けすぎるのが見えた。
キリスト教側も、直接の守りについている人々は、近づく総攻撃を前にしても、士気は少しも衰えていなかった。砲丸で破壊された石塊《いしくれ》が当って負傷したジュスティニアーニも、手当ては自分の船にもどって受けたが、その後はすぐさま自分の担当地域にもどっていた。最も破壊のひどいメソティキオン城壁に、皇帝かジュスティニアーニの二人のうち、一人の姿も見えない時はなかった。
その日の夜も、トルコ陣営は夜半まで、前夜と同じ騒ぎと明りですごした。だが、これも、夜半すぎには静かな眠りの中に沈む。防衛側の兵たちも、防柵《ぼうさく》か城壁の修理を終ってもその場を離れず、塔の片すみで仮眠をむさぼるのが、彼らに許された唯一《ゆいいつ》の休息だった。
翌二十八日、マホメッド二世は、全軍があらかじめ決めてあった戦闘位置に布陣を終えたのを見て、一日の休息を許した。大砲さえも、その日は鳴りをひそめている。そして、スルタンだけは重臣を従え、兵の群れを一つずつまわって、激励をはじめた。ただ、自ら大声を張りあげて直接兵士を鼓舞した父と同じ趣向を持たなかったマホメッド二世は、太鼓を鳴らして兵を集めるまでは同じでも、大声を張りあげるのは、部下の武将の一人にまかせたのである。武将は、集まった兵に向って言った。
「スルタン閣下の情け深い思《おぼ》し召《め》しで、落城後三日間の略奪が許される。アラーと預言者マホメッドの他《ほか》には神はなく、明日の戦いは、預言者のなされた預言を実現する聖戦なのだ。明日こそ多くのキリスト教徒を捕え、一人ずつ二ドュカートで奴《ど》隷《れい》に売ってやろうではないか。あの都にある黄金は、すべてわれわれのものである。大金持になるのも間近かなのだ。ギリシア人のひげをつないで、トルコの犬の首輪をつくろう。
アラーの他に神なし、死ぬも生きるもアラーへの愛のため!」
兵たちは、槍《やり》と剣をふりまわして大歓声をあげてそれに応《こた》えた。コンスタンティノープルにある財宝は、すべて兵たちに分配されるというスルタンの宣言は、眼の前の都が地中海世界で最も豊かと信じこんでいる彼らには、はなはだ魅力的にひびいたのだった。しかもそれが、まもなく現実になるのだ。三日間の断食で冴《さ》えかえっていた彼らの頭も、その夜は早く、安眠におちるにちがいなかった。
同じ時刻、ヴェネツィア商館でも、大使ミノットが、ヴェネツィア人全員を集めて話していた。自ら範を示そうと妻も息子も避難させなかったこの男は、言葉少なく、次のことを述べただけだった。
「われわれの行為は、それが死に至ろうとも生に恵まれようとも、キリスト教徒としての義務をまっとうすることに発していた。また、祖国のためにとのわれわれの想いも、裏切られないと信じている。祖国は、われわれのくだした決断を理解してくれ、尊んでくれるはずである。戦闘開始後は、定めの位置をいたずらに離れるよりは、いっそのこと死を選ばれよ」
その後、故郷の葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》が、全員にふるまわれた。ニコロは、トレヴィザンの左腕の傷の手当てをしながら、それが確実に快方に向っているのに、わずかに心が晴れる想いだった。
コンスタンティノープルの市内では、その日一日中、教会の鐘が鳴りやまなかった。カンカンと神経質にひびく、警鐘ではない。かといって、ゴオーン、ゴオーンと尾を引いて鳴る、弔鐘でもなかった。平時にミサを告げる時と同じ鐘の音なのだが、それが間断なく鳴らされるのは、西欧では、ローマ法王が死んだ時にだけ使われる鳴らし方なのである。だが、五月二十八日の夕暮、コンスタンティノープルの住民たちは、その鐘の音の中を、無言で聖ソフィア大聖堂に向っていた。
前年の十二月十二日に東西教会合同を宣するミサがあげられて以来、五カ月余りというもの、合同に反対の人々は、一度も、首都第一のこの教会に足を向けようとはしなかった。それが、最後のミサと感じたのであろうか。誰言うともなく、庶民の端しにいたるまで、晩鐘を背に聖ソフィア大聖堂の広大な内陣を満たしはじめていた。ミサには、重臣たちを従えた皇帝も列席する。「ラテン区」からも、ヴェネツィア大使以下、重だった人々が顔をつらねた。儀式は、コンスタンティノープルの総主教であり法王代理でもあるイシドロスを中心に、合同反対派の僧たちも加わって行われる。だが、ゲオルギオスの姿だけはなかった。
東のギリシア正教と西のカトリック教の、半世紀を費やし、何回もの公会議での高度な宗論から庶民の明らさまな憎《ぞう》悪《お》の投げ合いにいたるまで、ヨーロッパ世界の心に深い傷をつけた合同問題は、今この瞬間、実現したのであった。人々は、イシドロスの、兄弟たちに祝福をとの声に、隣りにひざまずくのがギリシア正教徒であろうとローマ・カトリックであろうと、心からの宗教心にあふれて互いに抱擁しあったのである。そして、ミサ終了後、それぞれの家に、またはそれぞれの守備位置にもどっていった。
若いウベルティーノは、感動に涙があふれそうになりながら、ペガエ門に向った。冷徹な商人であるテダルディも、胸にこみあげてくるなにかを持てあましながら、皇宮ぞいの城壁に向う。ニコロだけは、治療所を商館から船の一隻《せき》に移す仕事で、聖ソフィア大聖堂には行く暇がなかった。
フランゼスは、皇帝が招いた、防衛軍の重だった人々の集まりに列席していた。皇帝は、一座の全員に向い、これまでの彼らの敢闘と努力に対して礼を述べ、とくにヴェネツィアとジェノヴァの両イタリア人たちには、彼らのこれまでの尽力に感謝し、まもなくはじまるにちがいない最後の戦いにも、彼らに全幅の信頼をおきつづけるであろうと言った。そして、再び全員に向い、言葉をつづけた。
「人は常に、自らの信仰か自らの祖国か、それとも自らの家族か自らの主君のためかに、死を甘んじて受ける覚悟がなければならない。ところが、今やわれわれは、これらすべてのために、死を覚悟しなければならない事態を迎えている。わたしも、民《たみ》と運命をともにする覚悟だ」
つづいて皇帝は、一座の一人一人の前に順に立ち、もしもこれまでに自分が、なにか怒りを買うようなことをしていたら許してほしい、と言ってまわった。やつれは見せてはいても生来の高貴さは隠せない皇帝の頬《ほお》からは、涙が流れてやまず、人々も泣きながら、皇帝のためならば自分の生命《いのち》も犠牲にすると誓うのだった。その後で、聖ソフィア大聖堂で人々がやったように、ここでも、互いに心からの信頼を示して抱擁しあったのである。そして、西欧人は、それぞれ指定の守備位置に散っていった。ビザンチンの重臣たちの中には、イコンを捧げて市中をいく行列に加わった者もいた。
フランゼスは、陸側の城壁の守りを見てまわる、皇帝に従っていた。それを終えた皇帝は、馬を再び北に向け、皇宮をめぐる城壁の最も北の端しにある塔へ登った。
二人の頭上には、空色の地に銀の双頭の鷲《わし》のビザンチン帝国旗と、赤地に金の聖マルコの獅子《しし》のヴェネツィア共和国旗が、夜風を受けて、大きくはためいている。陸側の城壁の外には、トルコ軍の天幕の一つ一つの前におかれたたいまつが、光の海をつくっていた。この光の海は、ガラタのジェノヴァ居留区の背後まで広がっている。金角湾の外の海には、動きはじめたトルコ船の灯火が、遠くちらちらと眺《なが》められる。
四十九歳のコンスタンティヌス十一世は、しばらくの間、無言でそれを眺めていた。二十年以上もそば近く仕えたフランゼスも、言葉もなく背後に立つ。ふと振りかえった皇帝は、この忠実な家臣の肩に手をおき、市内の予備軍の様子を見てきてくれ、と言った。フランゼスは、この期《ご》におよんで一刻も皇帝のそばを離れたくなかったのだが、そんな私心をあらわにするのははばかられた。頭をさげて承知の意を示した後、フランゼスは、塔の階段をおりていった。早くこの任務をすませて、聖ロマノス軍門を守る皇帝の許に行こうと心に決めながら。だが、これが、忠臣フランゼスが主君を見た最後になった。
第九章 コンスタンティノープル最後の日
夜半を、一時間ばかりまわった時刻だった。闇《やみ》の中に長く赤い尾を引いて、のろしが三発あがったのが合図だった。十六万の全軍を投入しての総攻撃がはじまったのである。
鬨《とき》の声は、戦線すべてに広がった。だが、攻撃の主力は、やはり、聖ロマノス軍門を中心にしたメソティキオン城壁に向う。市内の教会から、警鐘がけたたましく鳴りはじめた。
総攻撃は、まず、不正規軍団の兵たちによって、火ぶたが切っておとされた。五万の兵が、城壁全域にわたって殺到する。装備も不統一、武器も、槍《やり》か剣の他《ほか》は綱ばしごを持っただけだ。必死に柵《さく》に壁に取りつこうとするが、防衛側の善戦ぶりもすさまじく、トルコ兵はばたばたと倒れていく。砲撃は、この間もやまなかった。砲弾は、トルコの兵たちまで吹きとばす。太鼓にラッパの音が、その間をぬってわめきつづける。市内からは、神に慈悲を乞《こ》う女たちのあげるかん高い祈りの声が、それに対抗するかのようにわきあがった。
しかし、城壁では、祈る暇などはなかった。不正規軍団の五万は、戦闘能力では劣っていても、抜刀して待ちかまえる背後のイエニチェリ軍団の兵が怖《おそろ》しく、簡単に退却することができないからである。それでも、この攻撃の第一波は、二時間後、トルコ側に多大な被害を与えて、ひとまず収まったかのようだった。
だが、マホメッド二世は、不正規軍団の兵の欠点を知りつくしたうえでの作戦を立てていた。不統一で戦闘能力の劣る軍団でも、守備兵を疲れさせることはできる。不正規軍団が撤退したのとほとんど同時に、防衛側に一息いれる間も与えず、スルタンは、第二波攻撃を命じた。
赤いトルコ帽に白い軍服も統一した、五万を越える正規の軍団兵は、戦いぶりもよほど慣れたもので、隊列も乱さずに向ってくる。しかも、彼らの半ばは、城壁全域に攻撃をかけると見せかけ、それによって守備兵を釘くぎづけにしておきながら、メソティキオン城壁に戦いをいどんできた。
マホメッド二世は、同じトルコ人、同じ回教徒の彼らが戦闘中でも、砲撃をつづけさせた。聖ロマノス軍門近くの防柵が吹きとび、それによじのぼろうとしていたトルコ兵の一団を、空中高く吹きとばした。あたりは、もうもうたる土煙とひどい煙でなにも見えなくなる。その中を、二百ほどの兵が、外城壁の破壊された箇所からの侵入に成功した。しかし、機をのがさず駆けつけた防衛兵によって、その多くは殺され、残りは堀《ほり》に投げとばされた。砲撃による土煙が舞いあがるたびに、それが薄れた後にトルコ兵を見つけ、殺し、撃退するくり返しだった。だが、それがまだ決着を見ないうちに、攻撃の第三波が、静かに押し寄せていたのである。
月がたえず雲間にかくれる薄明りの中を、白服に緑の帯、白い帽子という統一された軍服で、スルタンが最も信頼するイエニチェリ軍団の一万五千が、足並みも乱れず、堀をわたって城壁に近づいていた。彼らは、前の二軍団のように、やみくもに突入していくようなことはしなかった。歩兵団式の四角な隊形は、守備兵からの銃火にも怖れる気配はなく、倒れた兵は、予定のことであるかのごとくわきに押しやられるだけで、隊形はまったく崩れない。右手に高くかかげた半月刀の切っ先までが、一線を引いたようにそろっていた。
マホメッド二世は、もう後方の本陣で観戦などしてはいなかった。堀のふちまで出た彼は、そこに立ったまま、眼前を通過していく子飼いの軍団の兵たちに向って、声を張りあげての叱《しっ》咤《た》激励をはじめたのだ。トルサンは、仰天した。スルタンの立つ場所は、城壁からの銃火や矢が、完全にとどく距離にある。いつもは背後に片ひざをついた姿で控える彼も、そんなことにはかまっていられなくなった。堀のふちに立つ主君を城壁から守るように、彼もまた、両手を広げて仁《に》王《おう》立《だ》ちになったのだ。そのままの姿で立ちつづけるトルサンの頭に、自分自身を襲うかもしれない危険はまったく浮んでこなかった。
イエニチェリ軍団の兵士たちは、スルタンの激励に応《こた》えて、勇猛果敢な戦いを展開していた。二キロ足らずのメソティキオン城壁に、一万五千の精鋭が投入されたのだ。数隊に分かれ、一隊が突撃したと思ったら、次の隊がすでに近づきつつあった。この波状攻撃は、規則正しく何度もくり返され、そのたびに、城壁に取りつく兵の数が増していった。
防衛軍とて、いつも同じ兵でいつも新たな敵を迎えながら、激闘によく耐えていた。とくに、攻撃が集中しているメソティキオン城壁を守る兵たちは、総指揮官のジュスティニアーニの提言で、外城壁から内城壁にぬける通路の扉《とびら》をすべて閉めさせ、鍵《かぎ》を皇帝に預けていた。外城壁の線で、守りきる覚悟だったのである。まったく、その一帯では、ギリシア人もジェノヴァ人もヴェネツィア人もなかった。彼らは、一丸となって闘っていた。ジュスティニアーニの指揮ぶりも、その若さと、また傭兵《ようへい》隊長という戦争を職業にしている者には珍らしく、果断で勇敢そのものだった。皇帝も、自ら剣を抜いて、外城壁に取りつこうとするトルコ兵に向っていた。
すさまじい白兵戦は、一時間もつづいた。勇猛で知られ、トルコ陸軍の背骨と評判の高いイエニチェリ軍団も、さすがにその間、新しい戦果をあげることはできなかった。敵も味方も入り混じって闘うかたまりが、メソティキオン城壁一帯に、渦巻《うずまき》のようにいくつかできてはまた散った。それを、陽《ひ》の出直前の朝の光が、はじめのうちはぼんやりと、やがて少しずつはっきりと浮びあがらせる。激闘は、すでに五時間におよぼうとしていた。
その時、至近距離から射《う》たれた矢の一本が、ジュスティニアーニの左首下に命中したのである。一瞬立ちすくんだ彼の右のふとももに、第二の矢が突きささった。倒れた若い武将の銀色の甲冑《かっちゅう》のつぎ目から、おびただしい血が流れだした。ジュスティニアーニは、激痛に耐えかねて悲鳴をあげ、駆けつけた部下の一人に、自分の船に運ぶよう頼んだ。部下も、内城壁へ、そして市内に通ずる出入口は、すべて鍵で閉ざされているのを知っている。彼は、皇帝の許《もと》へ走り、鍵をくれるよう願った。
外城壁と防柵の間の通路を駆けつけてきた皇帝は、倒れているジュスティニアーニのそばにひざをつき、その手をとって、ここから離れるなど思いなおしてほしい、と頼んだ。だが、あれほど勇敢だった武将は、あふれでる自分の血を見て、にわかに自らの年齢を思いだしたようだった。戦線離脱を求めて、皇帝の懇願にも耳をかそうとしない。やむなく鍵が、ジュスティニアーニの部下にわたされ、彼らの手で、ジェノヴァ人の武将は運びだされていった。
だが、この事故は、ジュスティニアーニ直属の配下の五百のジェノヴァ兵を、動揺させないではすまなかった。彼らは、傭兵と呼ばれる戦争屋である。それだけに、勝ち戦さでは勇敢でも、敗戦と感ずれば逃げ足も早い。彼らは、運びだされる自分たちの大将を見て、戦いもこれまでだと思いこんだのである。ジェノヴァ兵は、ジュスティニアーニを運びだした後まだ閉めていなかった出口に向って殺到した。それを、皇帝をはじめとするギリシア兵が、必死にとどめようとする。この、城壁内で起ったときならぬ騒ぎを、堀のふちにいたスルタンが気づいた。二十一歳の若者は、これまでついぞだしたことのない大声をあげた。
「街は、もはやわれわれのものだ!」
イエニチェリ軍団の兵たちは一変した。全員が一丸となって、城壁に突撃する。彼らは、もう撃退されはしなかった。防柵を越えた者は、休む間もなく外城壁に取りつく。防衛側は、ついに押されはじめた。内城壁に立てこもろうと、外城壁の内側の通路になだれこむ。通路にあふれた防衛兵を、外城壁を占領したトルコ兵が、矢で次々と倒していった。
皇宮側の守りも、無傷ではなかった。破壊された箇所から侵入してくるトルコ兵は、もはや押しもどすには不可能な勢いになっていた。城門の一つが崩壊し、そこから多量のトルコ兵がなだれこんでからは、形勢は、完全に絶望的だった。それでも闘っていたヴェネツィア人は、塔の上にひるがえっていた帝国旗とヴェネツィア旗が落下し、代わって、赤地に白の半月の旗がひるがえったのを見た時、すべてが終ったと思うしかなかった。トレヴィザンは、大声で兵たちに、金角湾への撤退を命じた。
塔の上にひるがえるトルコの旗を、皇帝も認めた。彼は、白馬を駆って聖ロマノス軍門まで行き、そこでなお、味方の兵たちに抵抗をあきらめないよう説くつもりだった。だが、ギリシア兵たちも、赤い旗を見ていた。総崩れだった。誰《だれ》もが逃げ口を探して、狂ったように走りまわっていた。それを、すでに外城壁は完全に占拠したトルコ兵が、羊に群らがる狼《おおかみ》のように殺しまくった。
皇帝は、打つ手がつきたのを悟るしかなかった。その彼につづいたのはわずかに三騎、ギリシアの騎士一人とダルマツィア生れの男に、スペインの貴族の三人だった。四人は、馬を捨てた。下馬してでも、闘いつづけようとしたのである。だが、周囲の混乱は、彼らに、闘うことすらあきらめさせた。皇帝の従《い》兄弟《とこ》でもあったギリシアの騎士は、捕われるよりは死を選ぶ、と叫び、敵味方の入りまじる中に斬《き》りこんでいった。
皇帝も、紅《くれない》の大マントを捨てた。帝位を示す服の飾りも、はぎ取って捨てた。そして、
「わたしの胸に剣を突き立ててくれる、一人のキリスト教徒もいないのか」
とつぶやいたのを、誰かが耳にしたという。東ローマ帝国最後の皇帝は、剣を抜き、なだれをうって迫ってくる敵兵のまっただ中に姿を消した。他の二人の騎士も、それにつづいた。
城壁突破を告げるのろしが、トルコ陣営全域であがった。すでに完全に朝になっていた光の中で、それは夜ののろしほど目立たなかったが、トルコ兵は眼《め》ざとかった。全軍が、大歓声をあげて城壁に押し寄せる。これまで守りぬいてきたペガエ門一帯でも、こののろしの意味をまちがえてとる者はいなかった。ここも、総崩れがはじまったのだ。逃げ先は、金角湾に浮ぶ友船しかない。だが、このあたりは、金角湾へはどこよりも遠いのだ。人々はあせり、撃退できたかもしれない敵にも、もう眼もくれなかった。恐怖だけが、支配していた。城壁を越えたトルコ兵が、城門を内から開ける。そこからまた、多量の兵がなだれこむ。かつて帝国が盛んであった時代の皇帝たちが、戦勝のたびに凱旋《がいせん》してきた黄金門も、ほとんど無傷で放置され、そこからもトルコ兵が、誰にも邪魔されずになだれこんでいた。
攻防戦の間中、敵と相対することのなかったマルモラ海側の城壁も、この五月二十九日の朝は無縁ではいられなかった。陸側の城壁突破を告げるのろしを認めたトルコ海軍が、遅れてはならじと南下し、マルモラ海側に臨む二つの小さな船着場から上陸したのである。船着場に面する城門附近の住民は、抵抗は無《む》駄《だ》と悟ったのか、いち早く城門を開けて降伏した。そのすぐ南を守っていたトルコの亡命王子ウルカンとその部下のトルコ人は、たちまち、なだれこんできたトルコ兵に囲まれた。王子もその部下も、捕われてスルタンの前に引き出された後の運命は知っている。彼らは、何倍もの敵と果敢に闘った後、王子は馬上から、味方の一人が突き出す剣の上に身を投げて死んだ。
スペインの領事ペレ・フリアとその配下のカタロニア兵の抵抗もしぶとかった。彼らは、全員が討死するか捕われるまで、抵抗をやめなかった。そのすぐ北を守っていたイシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》には、問題はそう単純ではなかった。すでに攻防戦のはじめの頃《ころ》から、この地域が敵に狙《ねら》われることは少ないとみて、兵たちの多くを陸の城壁の守りに送っていたので、枢機卿を守って闘う兵はほとんどいない。しかも、イシドロスは、コンスタンティノープルの総主教であるだけでなく、ローマ法王の代理という格を持つ。スルタンは、皇帝の次に、彼の行方を探すにちがいなかった。もしも捕われでもして身分が明らかになった時は、地上の神の代理人、全カトリック教徒の代表者ローマ法王が、回教徒の王スルタンの捕囚にされたということになる。枢機卿イシドロスの視線は、ちょうどその時そばを通りかかった、一人の乞《こ》食《じき》の上にとまった。
防衛軍の総崩れを、広い市内だけに、コンスタンティノープルの住民すべてがただちに知ったわけではない。だが、逃走してくる味方の兵たちを見、それを追って迫るトルコ兵を見たとき、絶望した人々の中で、金角湾に向って逃げた者は少なかった。ギリシア人たちは、市の東の端し近くにある、聖ソフィア大聖堂に向って逃げはじめたのだ。昔からの言い伝えでは、コンスタンティノープルが陥《お》ち、敵が聖ソフィア大聖堂まで迫ってきても、その時大聖堂の円屋根の上に大天使ミカエルが降臨し、敵をボスフォロス海峡の東に追い払ってくれる、と言われてきたからであった。広大な聖ソフィアの内部も、逃げこんできた人々でいっぱいになった。彼らは、青銅の大扉を内側から閉め、そこにひざまずいて祈りはじめた。
金角湾内のキリスト教艦隊も、皇宮の塔高くトルコ旗があがったのを見、のろしが数発打ちあげられたのを聴いて、陸側の城壁が突破されたのを知った。ただちに、艦隊は、予想される、防鎖外の敵艦隊と金角湾奥の敵船団のいっせい襲撃にそなえて、対決の陣形をとった。ところが、トルコ船の乗員たちにとっては、キリスト教艦隊を攻めるよりも、陸側の城壁から侵入した友軍が、自分たちよりも早く戦利品を手にする怖れのほうが、頭を占めていたのである。防鎖外のトルコ艦隊は、マルモラ海側の船着場から市内に少しでも早く入ろうと、キリスト教艦隊には眼もくれずに通りすぎる。金角湾内のトルコ船も、皇宮近くの城門から侵入しはじめていたサガノス・パシャの軍に遅れてはならじと、手《て》強《ごわ》い敵は放置したまま、手っとり早い獲物をめざして城門に殺到した。
これは、金角湾内のキリスト教艦隊にとっては、天がめぐんでくれたにひとしい幸運だった。トレヴィザンに代わって艦隊総指揮の任にあったディエドは、配下の船すべてに、いつでも出港できるよう船首を外にして船着場に停泊するよう、そして、できるだけ多数の逃げてくる者を救出するよう命じた。それが実行されつつあるのを見ながら、もう一人の船長と医者のニコロを伴ない、小舟を駆って金角湾を渡り、ガラタのジェノヴァ居留区へ向ったのである。
迎えた居留区の代官ロメリーノに、ディエドは言った。
「この先、あなた方がどうするつもりか、うかがいたい。とどまって戦うつもりか、それとも、ここを捨て、逃げるつもりか。もしもジェノヴァ人が一致して戦うのならば、われわれヴェネツィア勢も、行動をともにすると約束しよう」
代官ロメリーノは、まったく、なんと答えてよいかわからない風《ふ》情《ぜい》だった。最後の大攻撃の直前にスルタンの使者が来て、居留区の中立を再確認させられていたのである。だが、そんなことを言っても、なんの役にも立ちそうもなかった。ロメリーノは、困りきった顔を隠しもせず、言った。
「ひとまず、時間をいただけないであろうか。使節をスルタンの許に送って、スルタンが、ジェノヴァ居留区の中立を認めるだけでなく、ヴェネツィア居留区とも講和する気持があるかどうか、ただしてみるためだが」
ディエドは、このようなことがこの期《ご》におよんでまったく不可能であることを感じていたが、軽蔑《けいべつ》したような表情をしただけで、なにも言わなかった。
ところが、会見を終えて再び小舟に乗ろうとした三人は、居留区の城門がすべて閉じられているのを発見したのだ。しかし、居留区のジェノヴァ人の中にも、眼前のコンスタンティノープルで起っている不幸に、無神経でいられる者は多くなかった。その人たちが開けてくれたので、三人のヴェネツィア人は、再び小舟に乗ることができたのである。居留区の船着場でも、スルタンの約束を信じないで逃げると決めたジェノヴァ人やその家族が、次々と船に乗りこんでいた。
三人がコンスタンティノープル側の船着場にもどってみると、そこでは今まさに、救出作業が最高潮に達していた。後から後から逃げこんでくる人で、さして広くはない船着場はたちまち人であふれ、中には押されて海中に落ちる者もいる。その中でも船乗りたちは冷静さを失わず、一人ずつ、船上に引きずりあげていた。
太陽が、真上に近づきつつあった。船着場にあふれていた人々は船に乗りこみ、船着場に向って逃げこんでくる者も、その頃では数が減っていた。だが、ニコロは、負傷者の治療に当るべきなのに、それがなぜか手につかず、船尾に立ちつくしたままだった。トレヴィザンが、いないのである。大使ミノットもその他のヴェネツィア居留区の有力者たちの何人かも、救出された人々の中には見えなかったが、この人たちとともにトレヴィザンの姿も、どの船にも見えなかった。
指揮をとっていたディエドは、これ以上救出作業のために湾内に居つづけることは危険だと、判断した。彼は、自分の乗ったガレー船に錨《いかり》をあげるよう命じ、他の船にも、この船につづけと、信号を送った。
しかし、逃げこんでくる者はまだいた。その者たちは、船が離れていくのを見て、海中にとびこんで泳ぎはじめた。これらの人々も、心を残すように常よりはゆっくりと岸壁を離れつつあった船のどれかに、全員が救いあげられた。ニコロの乗った船も、とびこんだものの泳ぎを知らないらしく海面で苦闘していた一人を救いあげた。フィレンツェ商人のテダルディだった。だが、ヴェネツィア商館でも時折り見かけた、まだひげも薄いブレッシア生れの学生の姿は、船上に死んだように横たわっている人々の中にもなかった。そして、その時になっても、あの、そこにいるだけで周囲を安心させるような肉体の持主、トレヴィザン提督は、ついに船着場に姿をあらわさなかったのである。
金角湾内の友船すべてに、われにつづけと信号を発しながら、ディエドのガレー船は、まだ張られたままの防鎖に近づいていた。防鎖とすれすれになった時、二人の船乗りが小舟をおろし、コンスタンティノープル側の塔の一つに結ばれていた、皮ひもを断ち切った。切れた防鎖はたちまち波に乗り、ささえていたいかだの列が、海面に漂う。
ガレー船は、そのすき間をぬって外海にすべり出た。そのすぐ後に、居留区からのも加えて、七隻《せき》のジェノヴァ船がつづく。そして、モロシーニ指揮のヴェネツィアのガレー船一隻、次いで、もう一隻のヴェネツィアのガレー商船も脱出した。しかし、この船の航行ぶりは、他の船から見てもやっとという感じだった。陸上防衛にまわされた乗組員のうち、この船では百五十人以上がもどってこなかったのだ。ようやく金角湾を脱け出したこの船の後に、トレヴィザンのガレー軍船がつづいた。この船の乗組員不足は、前の船ほどはひどくなかったが、艦長が欠けている。次いで、ジェノヴァの船二隻がすべり出る。最後に、クレタの四隻が脱出した。この四船には、ギリシア人の難民が多く救出されていた。
金角湾の中には、まだ少なくとも、ビザンチンの船が十隻、ジェノヴァ船が二、三隻、それに貨物専用のヴェネツィアの帆船も加えて二十隻ほどが、残っているはずだった。ディエドは、これらの船が遅れてきた人々を救出し、金角湾を脱出してくるのを期待して、あと一時間は、ボスフォロス海峡の出口近くの海上で待つことに決めたのである。だが、それ以後逃げ出してきた船は、一隻もなかった。
ディエドには、本来の任務を思いだしたトルコ艦隊が、海上で待つ自分たちの船に、襲いかかってくる危険を忘れることは許されなかった。今なら、強い北北東からの風が吹いている。だが、この風も、いつ変るかわからない。彼は、この風があるうちに、最終的な脱出の決断を下さなければならなかった。それをジェノヴァ船に告げると、ジェノヴァの船乗りたちはこう答えてきた。
「自分たちの船は大型帆船だから、風に恵まれさえすれば船足はずっと早い。だから、まだしばらくは待ってみる。せめて、陽の落ちる頃までは待ってみたい」
防御に強いジェノヴァの大型船が七隻では、ディエドも、心配する必要はないのを知っている。彼は、ヴェネツィア船団だけで出発することに決めた。
午后《ごご》二時を、少しまわった時刻だった。ヴェネツィアの四隻とクレタの四隻のガレー船は、三本の帆柱に張った三角帆いっぱいに強い北風を受けながら、マルモラ海を南下しはじめた。ひとまず行き先は、コンスタンティノープルを失った今、対トルコの最前線基地となった、ネグロポンテに決まっていた。
去り行く船の上では、なにかの想《おも》いなしに、遠去かるコンスタンティノープルを見やらない者はいなかった。戦いには慣れているはずの軍用ガレー船の乗組員でさえ、言葉もなく、水平線の彼方《かなた》に消えていく、「キリスト教を信ずるローマ人の都」から、眼を離そうとしなかったのである。
コンスタンティノープルの市内では、なだれこんできた十六万のトルコ軍が、軍規もなにもなく、ただ略奪だけに酔っていた。許された三日の間に奪ったものは、すべて自分のものになるのだ。その中では、抵抗さえしなければ命は助かるのを、ギリシア人はいち早く気づいていた。
実際、殺された者は、四千に達したかどうか、という程度だった。四万近い人間がいたことを考えれば、大都市の陥落としては、当時ではそれほど眼をむく数ではなかった。それに、殺された人の多くは、敵の突入直後に殺されたのである。トルコ人たちは、市内の戦闘員が八千に満たない数とはとうてい信じられず、まだ中に大隊がいるにちがいないと思っていたので、突入直後眼にした人々を、ほとんど恐怖の念で殺しまくったのである。城壁の守備兵たちに死者が多かったのも、そのためだった。殺された人々の血が、大雨の直後の道のように流れたというのも、だから、城壁に近い地域で見られた光景だった。
なにしろトルコ人は、実の親を殺した者さえ、奴《ど》隷《れい》に売って金《かね》をもうけるほうを選ぶ、といわれている。抵抗しないとわかれば、捕虜にするのに躊躇《ちゅうちょ》しなかった。こうして、逃げきれなかったほとんどすべての住民が、捕虜になった。聖ソフィア大聖堂に逃げこんだ人々も、抵抗もせず、半月刀を手にしたトルコ兵の言うままに、綱につながれた。市内に数多くあった修道院や尼僧院も、トルコ兵は容赦しなかった。尼僧の中には、異教徒の手におちるよりは死を選んで、中庭の井戸に身を投げた者も幾人かいたが、聖職者たちのほとんどは、恭順の美徳に忠実に、僧院長の命ずるまま、抵抗もせずに捕えられた。無抵抗であったのに殺されたのは、奴隷としては売れ先もないと思われた老人か、まだほんの乳《ち》飲《の》み児《ご》だけだった。
捕えられた人々は、身分も男女の区別もなく、いちように二列に並ばせられて、互いにありきたりの綱か、女たちのかぶっていた薄絹でつながれた。悲鳴が起るのは、姿の美しい若者や女を奪おうとするトルコ兵が、列から引き離そうとする時だった。それ以外は、捕囚たちはまるでおとなしい羊の群れのように、絶望の眼でなにを見るというでもなく、ただつながれ、引いて行かれるにまかせていた。
皇宮や教会はもちろんのこと、庶民の家でさえも略奪をまぬがれなかった。トルコ兵は争って品物を運びだし、関心のないものは、その場で破壊され、焼かれた。多くのイコンが割られ、燃やされた。十字架も、飾りの宝石だけがえぐり取られて捨てられた。
正午をまわる時刻まで、マホメッド二世は自分の天幕の中で、訪れたガラタのジェノヴァ居留区の代表や、捕われたビザンチン帝国の重臣たちを引見して過ごした。彼がなによりも知りたがったのは、皇帝の行方だった。
帝国の重臣たちは誰も、皇帝が戦いのまっただ中に消えたとしか聴いていない、と答えた。だが、まもなく、皇帝の首を斬り取ったという、二人のトルコ兵が連れられてきた。彼らがかかえてきた首を重臣たちに見せると、重臣たちは一人の例外もなく、それが皇帝の頭部だと答えた。マホメッド二世はその首を、聖ソフィア大聖堂近くに立つ円柱の上にさらすよう命じた。二人のトルコ兵は、その首を斬りとった死体は、鷲《わし》の紋章が縫いとりされた靴下《くつした》をつけていた、と言った。マホメッド二世には、皇帝が死んだということがわかれば、それで充分だったのである。
それが終ってからしばらくの間、若い勝利者は奥に入り、入城のための身仕度をした。白いどんすの大マントの下は、白い服に緑色の帯をしめ、頭上の白いターバンには、緑色のエメラルドが大きく輝やく。帯にさした半月刀は、眼もまばゆいばかりの黄金でつくられていた。
身仕度が終ったマホメッド二世は、トルサンに、天幕の外に白馬を引くよう命じた。五十六日の間常に身を預けてきた黒馬を、勝利の入城にも騎乗すると思いこんでいたトルサンは、一瞬耳を疑ったが、すぐにも主人の心が彼にはわかった。小姓は、ていねいな礼をした後、馬丁頭《ばていがしら》に白馬を用意させるために退出した。
二十一歳の若者は、午后の二時を少しまわった時刻に、大臣や将軍、回教の高僧たちまで従え、イエニチェリ軍団の精鋭に守られて、カリシウス門から、コンスタンティノープルに入城した。彼は、今や自分のものになったこの街を、じっくりと味わいたいとでもいうように、ゆっくりと大路に馬を進める。兵の略奪に忙がしい姿にも、捕囚たちの沈黙の列にも、若者はいちべつも与えなかった。
聖ソフィア大聖堂の前まで来た時、マホメッド二世は馬をおりた。そして、身をかがめて一にぎりの土をとり、自らのターバンの上からそれをふりかけた。トルサンにも、いつもは高慢な主人が、アラーの神に謙遜《けんそん》の意を表したことがわかった。
スルタンは、それから徒歩で、大聖堂の内部に入って行った。あれほどいたギリシア人はすべて連れ去られていて、数人の老いた僧が、片すみにちぢこまっているだけだった。一人のトルコ兵が、教会の大理石の敷石をはがそうとしているのを見たスルタンは、はじめて怒りの声をあげた。物品や人間の略奪の許可は与えたが、街とそこにある建物は、スルタンの戦利品と決まっていたからである。トルコ兵は、すぐに追い払われた。しかし、勝利者の怒声に前よりはちぢこまっていた老僧たちには、マホメッド二世は、僧院に帰るよう言っただけだった。
それからさらに中に入ったマホメッド二世は、壁面を埋める見事なモザイクの色彩の洪《こう》水《ずい》を、愛《め》でるかのようにしばらく眺《なが》めていたが、その後で大臣たちをふり返り、この教会をただちにモスクに改造するように、と言った。モスクになれば、まず第一にモザイクは消されるのだった。
そのうち、回教の高僧の一人が説教壇にのぼり、アラーの他《ほか》に神なし、と唱えはじめた。マホメッド二世も祭壇にあがり、ひたいを床につけて、勝利をもたらしてくれた神に感謝の祈りを捧《ささ》げた。
それが終って聖ソフィア大聖堂を出たスルタンは、近くにある荒れはてた旧皇宮に立ち寄った後、これも放置されて長い、古代式の大競技場も見てまわった。そして、その後別の大路を通り、ペガエ門を出て、再び自分の天幕にもどった。この間、抵抗を示す銃の音も聴こえなければ、征服された人々の誰かが、馬前に立ちふさがることもなかった。コンスタンティノープルは、スルタン・マホメッド二世の前に、完全に屈したのである。
ビザンチン帝国は地上から消滅し、代わって、トルコ帝国が出現したのだった。
第十章 エピローグ
早く皇帝の許《もと》にもどらねばと思いつつ、市内の予備兵をまとめるのに手間取っていたフランゼスは、陥落時、押し寄せてくる敵兵に囲まれて、まわりのギリシア兵ともども捕虜になった。実直で地味な性格どおりに、人目に立たない肉体の持主でもあった彼は、占める地位にふさわしい武装もしていなかったこともあって、トルコ兵たちは、捕えたばかりのこの男が、ビザンチン帝国の大蔵大臣であるだけでなく、皇帝の一の側近であったことに、まったく気がつかなかったようである。
一介の兵士並みにあつかわれたフランゼスは、他の捕虜たち同様に二列縦隊につながれ、城外のトルコの陣営まで引かれ、兵たちの間で分配がすんだ後も、主《あるじ》となったトルコ兵の天幕の外に、家畜の群れのようにかたまって過ごす一カ月を送ったのである。そして、マホメッド二世が、征服したばかりの都の管理をひとまず重臣の一人にゆだね、アドリアーノポリにもどるためコンスタンティノープルを後にした六月二十二日、フランゼスもまた、勝利者に従ってアドリアーノポリへ向う長い捕囚たちの行列に加わっていた。捕囚があまりに多かったので、スルタンの白馬が西の地平線に消えた後も、捕虜たちの行列の最後のほうにいた人々は、まだコンスタンティノープルの城門の中にいたという。
その間フランゼスの頭を占めていた最大のことは、皇帝の遺体の行方だった。皇帝が雄々しく戦った末に討死したということは、捕囚たちの間にも風のように伝わっていて誰《だれ》もが疑わなかったが、遺体の行方については、誰一人、確かなことを言える者はいなかった。フランゼスには、スルタンの許に持ってこられ、ギリシアの重臣たちに首実検もされたという頭部が、皇帝のものであるとはどうしても信じられなかった。だが、つながれている身の彼は、円柱の上にさらされているというそれを、見にいくことはできない。フランゼスは、自分があれほど心から仕えた皇帝が、自身秘《ひそ》かに望んでいた死を、ビザンチン帝国最後の皇帝にふさわしいやり方で迎えたという事実だけで、充分であったと思うことにしたのである。
もう一つの心配事、妻と息子と娘の行方を探ることも、簡単にはいかなかった。だが、これは、トルコの捕囚になったギリシア人のほぼ全員の関心事であったから、情報は注意していれば欠けることはない。まもなく、妻が別のトルコ人の所有になっているのがわかった。そして、アドリアーノポリに着いてしばらくしてから、息子も娘も、スルタン自らが選んだ宮廷用奴《ど》隷《れい》の若い男女の中にふくまれていることが、判明したのである。
スルタンの馬丁頭の奴隷になったフランゼスは、まずはじめに、自らの自由を買いとる仕事にとりかかった。まだギリシア人の支配していたペロポネソス半島に住む人々も、またすでにトルコの支配下に入っている地方のギリシア人も、コンスタンティノープルの陥落で奴隷となった同朋《どうほう》の救済にいちように力をつくしていたから、彼らの一人から借りた金《かね》で、奴隷生活十八カ月目にわが身の自由を買いもどすことができたのである。次は、妻を買いもどすことだったが、これも、フランゼスの長年の献身的な仕事ぶりを知っている人々が、協力を惜しまなかったので実現した。
だが、息子と娘については、父親は、悲しい知らせしか得ることはできなかった。スルタンのハレムに入れられた娘は、そこでまもなく死んだということだった。また十四歳になっていた息子も、スルタンの欲望を拒絶したために、殺されたのだと知らされた。
もはやこれ以上トルコ人の国にとどまる意味も必要もなくなったフランゼスは、妻を伴ない、ペロポネソス半島の一部を領する皇弟トマス・パレオロガスを頼って行った。そこで官職を与えられて住んでいたのだが、一四六〇年、マホメッド二世がこの地をも征服した時に、トマスに従い、ヴェネツィア領のコルフ島に亡命する。その後数年の間、パレオロガスの亡命政権の一員として、ローマやヴェネツィアをはじめとするイタリア諸国への使節を勤めたが、一四六八年、妻の死が契機か修道院に入った。そして、一四七七年に死ぬまで、修道士として生きながら、『回想録』を書きつづったのであった。フランゼスの享《きょう》受《じゅ》していた立場からも、この記録は、ビザンチン帝国最後の日々を知るに、ギリシア側第一の史料とされている。
*
このフランゼスが、敬愛してやまなかった皇帝の立場を困難にした張本人として秘かに嫌《きら》っていたビザンチン帝国宰相ノタラスのその後は、別の意味で劇的だった。
重臣たちを従えて捕虜になったノタラスの身分は、はじめから誰の眼にも明らかだった。人々の伝えるには、宰相は征服者の前に、金貨と財宝を捧げてあらわれたという。それが事実かどうかは別にしても、マホメッド二世は当初、ノタラスと重臣たちを厚遇し、病身のノタラス夫人を見舞ったりしたので、身分の高い捕囚たちは、自分たちの運命に明るい希望をいだいたのだった。ところが、スルタンの耳に、ノタラスの息子が世にもまれなる美少年だとささやいた者がいたらしく、まもなくスルタンから、息子をよこすよう命じた使いが送られてきたのである。
ここに至って、皇族でもある宰相ノタラスの、ビザンチン帝国貴族の血が目覚めた。宰相は、勝利者の命令を断固拒絶した。反応は、ただちに返ってきた。全員の斬首《ざんしゅ》刑である。ノタラスは、刑を執行するためにあらわれたトルコ兵に向い、まだ少年の息子が父の死を眼前にして動揺してはいけないから、まず息子を殺すよう願い、息子とその同年輩の従兄《いと》弟《こ》の少年の首が斬《き》られるのを見た後で、彼もまた、首をさしのべたのである。これを契機に、他の重臣たちもことごとく殺された。だが、マホメッド二世の頭の中では、帝国の支配階級を根絶する考えがすでにあり、この結末を迎えるのは、ただ単に、時間の問題であったようである。
また、皇帝が独り身であったビザンチンの宮廷で、母后死後は第一夫人としての地位を誇っていたノタラスの妻も、アドリアーノポリへ引かれていく途中、病死する。ノタラスの家族で生きのびたのは、包囲のはじまるずっと前に財産を持たせてヴェネツィアへ逃がしてあった、娘一人だけだった。
*
作戦会議で同席しても、ノタラスから言葉もかけてもらえないほど合同反対派から憎まれていたイシドロス枢《すう》機《き》卿《けい》も、陥落の際にトルコ兵に捕われた一人だった。ただ、頭に受けた傷をいたわるために眼《ま》深《ぶか》く包帯していたのと、自分の華麗な武装を乞《こ》食《じき》の衣と交換していたのとで、敵の誰一人、これが、スルタンが皇帝の次に行方を知りたがっている、ローマ法王代理とは気づかなかったのである。伝えられるところでは、不幸な乞食は、ただちに斬首されたとのことだった。
イシドロスの運は、その後も強いことを証明する。早々に現金を手にしたがったトルコ兵たちが、イシドロスも加わった捕虜の一群を、ガラタのジェノヴァ居留区へ売りに行ったので、アドリアーノポリまで引かれていかなくてすんだのであった。イシドロスたちを買い取り、ただちに自由にしたジェノヴァ人は、その中の一人が枢機卿とは知らなかったようである。その後八日間、イシドロスは居留区内の家を転々としながら隠れていたが、スルタンがジェノヴァ居留区にも降伏を要求し、居留区がトルコの支配下に入ってからは、それさえも危険な情況になった。
下層のギリシア人に身をやつした枢機卿は、小アジアへ向うトルコ船に乗って脱出する。小アジアの港に着いた後は、苦労な旅の末にようやく、ジェノヴァの植民地のフォチェアにたどり着くことができた。ところが、ここで、住民の何人かが、彼のほんとうの身分に気づいたのである。これは、この地がジェノヴァ領とはいえトルコ領内に浮ぶ陸の孤島だけに、イシドロスに恐怖をいだかせるに充分だった。ここも逃げ出す決心をした彼は、ようやく傭《やと》えた小舟で、まず、ジェノヴァ領のキオス島への脱出に成功する。しかし、ここでは顔が知られているだけに安心もできない枢機卿は、出帆まぎわのヴェネツィア船に助けを求め、この船がクレタ島に着いてはじめて、心から安《あん》堵《ど》することができたのだった。クレタはトルコに遠く、また、反トルコの旗印を明確にしたヴェネツィアの植民地でもあった。
クレタには、少なくとも六月の末まではとどまっていたようである。この地で、ローマ法王にあてた二通、盟友のベッサリオン枢機卿にあてた一通、ヴェネツィア共和国元首にあてた一通、そして、全カトリック教徒にあてられたと思われる一通と、計五通の、コンスタンティノープル陥落の模様をくわしく報じた、手紙を書いた。
ヴェネツィア経由でローマへもどったのは、同じ年の十一月の末であったと思われる。ローマで、対トルコの十字軍実現のために奔走しながら、しかしそれもかなわずに死んだのが、一四六三年。コンスタンティノープル陥落の、十年後であった。
*
宰相ノタラスのような消極的反対でなく、明らかに、また積極的に合同に反対していたゲオルギオスも、コンスタンティノープル落城に際して捕虜になった一人だった。教会や修道院が豊かであることはトルコの一兵卒まで知っていたから、彼のいた僧院も、徹底的な略奪をのがれられなかった。そして、僧たちも、抵抗してはならないというゲオルギオスの命に忠実に、おとなしくトルコ兵の戦利品になったのである。
アドリアーノポリへ引かれていく道中、ゲオルギオスは、捕囚の身の同朋たちをはげまし、この不幸な人々を力づけることに専念した。トルコ兵たちも、粗末な僧衣はまとっていても、高貴な風格を漂わせる堂々とした体格のゲオルギオスに、なんとなく気押されるものを感じたのか、途中で動けなくなった者やついに死を迎える人々のために、最後のなぐさめを与えてやりたいという彼の願いまで聴きいれ、ゲオルギオスの手首からは、綱をはずしてやったほどだった。
だが、この僧がどのような立場にあった者かまでは知らなかったので、彼の行方を八方手をつくして探させていたマホメッド二世も、長い間ゲオルギオスの居どころを知ることはできなかった。それでも、ついに、アドリアーノポリの富裕な一トルコ人の家に奴隷となっている一人が彼とわかり、早速、スルタンの前に召しだされたのである。
マホメッド二世は、若さにまかせてただやみくもに、父親さえ成しとげられなかったという理由だけで、コンスタンティノープルを欲しがったのではない。二十一歳のトルコの若者は、ビザンチン帝国の旧領土、つまり全東地中海世界をわがものにしようと思えば、第一の交通要所であり首都である、コンスタンティノープルを手中にすることなしには実現不可能とみたから、なににもまして、「あの街」が欲しかったのである。
若いスルタンは、自分が築く大帝国の首都を、アドリアーノポリでなく、コンスタンティノープルにおこうと決めていた。このためには、大都市の運営に不慣れな、トルコ人だけを移住させるのでは不充分である。ギリシア人が、東地中海世界では経験豊富なギリシア人が、ぜひとも必要だった。
しかし、ギリシア人を入れるにしても、彼らはあくまでもスルタンの臣下でなければならない。ギリシア正教の信仰を認め、彼らの身の安全と自由は認めても、あくまでもそれは、トルコ人の支配を彼らが認めたうえでの、代償でなければならなかった。マホメッド二世は、この彼の考えの実現に適した協力者は、ゲオルギオスをおいては他《ほか》にないと確信したのである。
スルタンに召しだされたゲオルギオスは、マホメッド二世から、コンスタンティノープルの総主教になるよう、命ぜられたというよりも懇願された。コンスタンティノープルの総主教ともなれば、全ギリシア人世界第一の精神上の指導者ということになる。ゲオルギオスは、はじめのうちは相当にためらっていたらしい。だが、結局、彼は、この困難な任務を受けることに決めた。スルタンと彼の間には、すでにトルコの支配下に入っている国々のギリシア正教徒が受けているのと同じ権利、トルコの支配を認め、幼年の少年たちが定期的に徴集されてイエニチェリ軍団の兵にされる慣習も認めながら、宗教儀式上の自治もふくめた信教の自由と身の安全は保証されるという、協定が成立したのである。
ゲオルギオスは、総主教の地位に、一四五四年一月から五六年の春までとどまった。この間、教会が次々とモスクに改造され、総主教の座所教会でさえ転々と移転をつづけなければならなかった中で、彼は、コンスタンティノープルに強制的に移住させられてきたギリシア人の立場の擁護に心をくだいただけでなく、トルコの支配下にあってもなおギリシア正教を信じつづける人々に向って、数々の助言と訴えの文を書きつづけたのである。彼の学識の深さに敬意をいだいたマホメッド二世は、しばしばゲオルギオスを訪れたが、その際に総主教がスルタンに説いたキリスト教の信仰原理は、まもなくトルコ語にも訳されたという。
このゲオルギオスも、一四五六年の夏から五七年まで、総主教を辞して、アトス山の僧院に入った。だが、六〇年から六四年までの間に、マホメッド二世の要請を断わりきれず、二度も総主教の地位にもどっている。彼が、その間もずっと望みつづけた僧院生活を心おきなく送れるようになったのは、六五年になってからだった。一四七二年、一介の修道僧として死んだ。トルコ帝国の首都となったコンスタンティノープルは、鐘楼の代わりに、ミナレットが林立する街になっていた。
『コンスタンティノープル攻略について、信仰を持つ者への手紙』も書き残している。
しかし、十九世紀に至って、それまでの四百年にわたるトルコの支配を脱して独立した、ギリシア人をはじめとするギリシア正教徒の根強さは、国を救うためならば宗教上の妥協はいたしかたないとしたイシドロスの考えよりも、信仰の純粋と統一を保つためには、国が滅びることさえ甘受するとしたゲオルギオスの考えのほうが、正しかったことを証明してはいないであろうか。狂信を排する立場からすれば暗澹《あんたん》たる気持にならざるをえないが、理《ことわり》よりも、それを排した狂信のほうが、信仰の強さを保ちつづけるには有効である例が、あまりにも多いのも事実なのである。
ただ、トルコ支配下のギリシア正教徒は、殉教の喜びをより重視して猛獣の餌《え》食《じき》になった初期キリスト教徒や、踏み絵をこばんで死んでいった日本のクリスチャンとはちがって、信仰にとって重要でないことは妥協し、他はただただ耐えつづけることで、彼らの信仰を守りぬいたのであった。回教徒ではあっても、宗教上のことでは、トルコ民族は寛容であり、ゲオルギオスはそれを、鋭くも見ぬいていたのであろう。
*
このゲオルギオスを敬愛しながら、しかし結局は西欧人として行動した彼の弟子、ブレッシア生れのウベルティーノも、陥落時に捕虜になった一人だった。彼が守っていたペガエ門から金角湾までは遠く、そこに待つヴェネツィア船までたどりつけば救われると知りながら、途中でトルコ兵の一団に囲まれてしまったのだ。だが、彼を捕えたトルコ兵たちも、早々と金《かね》を手にしたい一心の者たちだったので、ジェノヴァ居留区に売りにだされたウベルティーノは、一人のフィレンツェの商人に買い取られた。代金は後で、ウベルティーノの両親が返済するということになっていた。
再び自由の身にもどったウベルティーノは、船に乗り、イタリアへ帰る途中、またも運悪く回教徒の海賊に襲われ、またも奴《ど》隷《れい》として売られるか、それとも一生を鎖つきのガレー船の漕《こ》ぎ手《て》として送るかというところを、海賊船を襲った聖ヨハネ騎士団に救われる。騎士団の本拠地ロードス島で少し過ごした後、クレタ経由でヴェネツィアへもどった彼は、故郷のブレッシアには文字どおり立ち寄っただけで、ローマへ行った。枢機卿カブラニカが、秘書として招《よ》んだからだ。
ローマには、三年はとどまったようである。この時期に、『コンスタンティノポリス』と題した、長編叙事詩をつくった。自らの眼で見た一帝国、一文明の滅亡は、古典文明の学徒であったウベルティーノにとって、なにかの形に残さずにはいられないほど、強烈な印象を与えたのであろう。その後、故郷にもどった彼は、ギリシア哲学を教え飜訳し、また詩をつくる静かな生活を送る。没年は、一四七〇年と思われる。
*
古典文明などにはまったく関心がなく、また、カトリックとギリシア正教が合同しようがしまいが、これに対しても特別な関心を持ったこともなかった商人のテダルディも、コンスタンティノープルの陥落という大事件に自ら参加し、それを誰かに伝えたいという想《おも》いでは、他の「現場証人たち」と変りはなかったようである。
陥落時、泳ぎのできないことも忘れて海にとびこんだおかげで助かったこのフィレンツェ人は、六日後、ヴェネツィア海軍基地のあるネグロポンテに入港した船に乗っていた。ここに、ヴェネツィア人たちが今後の対策を協議している間待たされていた彼は、ちょうどそこに滞在していた一人のフランス人に、コンスタンティノープルの攻防戦について物語ったのである。
このフランス人は、テダルディの物語を早速フランス語に訳し、アヴィニョンの大司教におくったのであった。たちまち、この一文はフランス人の間に広まり、もともと十字軍精神の盛んなフランスを中心に、十字軍結成の呼びかけの宣伝文として、法王ニコロ五世の推薦まで受けて活用されたのである。フィレンツェ商人テダルディは、生国イタリアでよりも、フランスで名を知られるようになる。そして、それから十五年後の一四六八年には、簡潔だが文学味にとぼしかったテダルディの物語は、より文章的に練られた末、コンスタンティノープルの陥落については、フランスで最も権威ある史料といわれるようになったのである。
六月四日のヴェネツィア到着から、そこを七月五日に発《た》ちフィレンツェへ向うまでのテダルディの消息はたどれるが、その後の彼について知らせてくれる史料はない。おそらく、余生は故郷で、フランスの地で有名人になったのに苦笑いでもしながら、過ごしたのではなかろうか。
*
もはやビザンチン帝国の首都ではなくなったコンスタンティノープルを後に、折りからの北風を帆に受けて全速力で南下したヴェネツィアとクレタの船団が、トルコ艦隊の追撃の恐怖から完全にのがれたと思えたのは、六日目の朝、ネグロポンテに入港した時だった。総指揮官ディエドの判断で、最も前線の基地だが守りが充分とはいえないテネドス島に寄らず、安全では不安のないネグロポンテに直行したのである。ロンゴ指揮の十五隻《せき》がテネドスにいるとは、ディエドも知らなかったのだ。
ネグロポンテは、ヴェネツィア共和国が東地中海域の制海権保持のために、最も重要な海軍基地と見ているコルフ島、モドーネ、クレタ島と同列に並ぶ基地だが、対トルコとなれば、ここが最前線基地なのである。港には、出港命令を待つばかりというふうに、コンスタンティノープルの救援に向うはずだったヴェネツィア艦隊が錨《いかり》をおろしていた。
そこに、首都陥落、の報である。ネグロポンテ駐屯《ちゅうとん》艦隊の総司令官ロレダンは、ディエドたち生き残り組から詳細な報告を受けるや、ただちに本国政府にそれを通報するため、快速船を出港させた。
逃げのびてきた船は、数日後、ここネグロポンテに重傷者だけを残し、クレタ船はそのまま南下をつづけてクレタへ、ヴェネツィア船は、これから少くとも二十日は要する本国までの航海に耐えられる二隻だけ、本国へ向けて発つ。指揮はディエドがとり、ニコロも、ディエドの船に乗船する。もう一隻には、テダルディが乗っていた。
二隻のヴェネツィアのガレー船は、ペロポネソス半島の南端の基地モドーネに一日寄港した折り、ブランデンベルグからパレスティーナへ向う巡礼たちを乗せた船と出合った。この人々によって、聖地にも、回教徒の海の中の最後のキリスト教徒の砦《とりで》でもあった、ビザンチン帝国の滅亡が知らされるはずだった。
ロレダンが送った快速船がヴェネツィアに入港したのは、六月の二十九日である。西欧は、まさに陥落の一カ月後、この重大な知らせをはじめて受けたことになる。ヴェネツィア政府は、ただちにこの「特別ニュース」を、ローマの法王、ナポリ王、ジェノヴァ、フィレンツェ、フランス王、ドイツの神聖ローマ帝国皇帝、ハンガリア王等に知らせるため、各国へ急使を派遣した。商業権益を守る必要のあるジェノヴァもヴェネツィアも、また宗教上の理由からローマ法王も、コンスタンティノープル救援のための本格的な財政支出を決定した直後の知らせだっただけに、陥落は、青天の霹靂《へきれき》と受けとられたのである。これほど早く、あの最堅固の城壁が破られるとは、誰も思っていなかったのだ。
ディエドやニコロ、それにテダルディ等の現場証人たちがヴェネツィアに着いたのは、ロレダンの送った快速船の到着の五日後だった。ただちに閣議に招びだされたディエドは、そこで詳細な報告をさせられる。その後すぐに召集された元老院でも、同じ報告をくり返し、議員たちの質問にも答えねばならなかった。ただし、この段階ではまだ、人的被害については、攻防戦中の戦死者だけがはっきりしていただけである。そして、ヴェネツィアではこのような場合、たとえ商船の一船長であろうとも、帰国後報告を求められればそれに応ずる義務があったから、ディエドも、二十日におよぶ船旅の間に、これにそなえてあらかじめ、くわしい報告書を作成していたにちがいない。ヴェネツィア政府も、彼の報告を受けてはじめて、本格的な対策を講ずることができたのであった。
ヴェネツィアは、この時も、硬柔二面を駆使する対策を選ぶ。硬は、ただちにネグロポンテに急使を送り、ロレダン提督に、指揮下の全艦隊を常時戦時体制におくよう命ずる。そして、テネドスにいるロンゴ指揮下の十五隻も加えて、エーゲ海の回航も命じた。これは、トルコが南下でもするような気配が見えた場合、ヴェネツィアは、エーゲ海の制海権保持のためならば戦いも辞さぬという、固い決意を示すためである。コルフ、モドーネ、クレタの各海軍基地にも、臨戦体制をとるよう指令がとんだ。本国の造船所では、十七隻のガレー軍船を建造中だったが、それでは不充分と、新たに五十隻の建造が、元老院で決議される。それらの費用として、五万二千五百ドュカートの臨時支出も可決された。
しかし、通商国家ヴェネツィアは、他国との交易で生きている。強硬な態度だけとることは許されなかった。政府は、すでにロレダンの許《もと》に送っていた特使マルチェッロの交渉相手を、ビザンチン帝国でなく、トルコに切り換えたのである。マルチェッロには、ただちにアドリアーノポリにいるスルタンの許に急行せよ、との指令に加えて、スルタンへの贈物代として、一千二百ドュカートを費《つか》う権限も与えた。そして、スルタンには、コンスタンティノープル攻防戦に参加したヴェネツィア市民は、個人として参加したのであって、国としてはトルコとの友好関係を破るなど考えたこともなく、政府は、彼らの行為をはなはだ遺憾に思っている、と言うよう指令も与えたのである。
ヴェネツィアの急務は、特使を通じてスルタンとの間に、以前と同じ友好的な通商関係を復活することだった。ために政府は、攻防戦で死んだ人間はもちろん、居留区内の倉庫や商館、金角湾内に残って捕獲された商船の積荷など、コンスタンティノープル陥落でヴェネツィアが受けた損害、総額四十万ドュカートとされる莫大《ばくだい》な額の損害でさえ、通商関係が再開できるならば、強《し》いて口にしなくてもよい、とまで、特使マルチェッロに命じたのだった。
だが、国を外にするヴェネツィア市民一人一人が、たとえ自分たちの犠牲が国益のために闇《やみ》に葬《ほうむ》られようと、本国の人々は自分たちを忘れないと確信できたように、この時もヴェネツィアは、国益を優先させながらも、彼らの犠牲に報いることもおろそかにしなかった。
スルタンへの贈物代の支出が決議された五日後、元老院は、コンスタンティノープル駐在ヴェネツィア大使ミノットの息子に、近々出港予定のアリモンダ号に乗ってコンスタンティノープルへ行き、捕われの身と思われる大使の消息を探り、捕われていたら買いもどす便を与えている。七月十七日までは確実に、ヴェネツィア政府もミノットの消息を確認していなかった証拠でもある。
その翌日、同じく元老院は、夜襲の突撃隊長として戦死のはっきりしていた船長コッコの息子たちには年金を、娘には嫁入りの際の持参金を、国庫から支出すると決議した。
そして、八月二十八日の元老院決議事項の中には、大使ミノットの娘が結婚する場合は一千ドュカートの持参金、もしも嫁《とつ》がずに尼僧院へ入るならば、三百ドュカートの仕度金を支出するとの決議が見られる。陥落の際にヴェネツィア船で脱出した妻ともう一人の息子にも、それぞれ年に二十五ドュカートの年金を与えるとも決まった。
これは、陥落後二カ月して、ようやくヴェネツィア政府は、息子の一人とともに斬首《ざんしゅ》された、大使ミノットの消息を確認したことを示している。同時に、ヴェネツィア居留区の有力者七人も斬首されていた。堂々と国旗をかかげて挑戦《ちょうせん》したヴェネツィア居留区を、マホメッド二世は許さなかったのである。
ただ、ミノット以外の七人の犠牲者の遺族には、元老院は終身年金の支出を決議していない。それは、貴族ではあっても富裕階級には属していなかったミノットと、貴族であると同時に金持としても知られていた他の七人を、区別したのである。ヴェネツィア共和国では、国政を担当する階級に属す人々は貴族《ノーヴィレ》と呼ばれたが、その権利にともなう義務は、常に第一線に立ち、自らの犠牲も顧みずに国のために戦うことだった。
こういう体制になっていれば当然の帰結だが、貴族でもなく金持でもない、船乗りたちの遺族の生活を保証することも、元老院は忘れていない。陥落を知ってからその年の末までの元老院決議事項だけ見ても、消息が確認されるたびに支出を決定した年金や、捕虜にされた者たちを受け出す身代金の支出で埋まっている。そして、十二月十日の元老院決議事項ではじめて、ガブリエレ・トレヴィザン提督の消息が明らかになったことを、後世のわれわれも知ることができるのだ。
その日、元老院は、陥落時に捕われ、要求されていた身代金のうち、家族が支払不可能な三百五十ドュカートを、国庫から援助すると決めたのである。
トレヴィザンがいつ、本国にもどってきたかを示す史料はない。だが、翌年の秋からは再び、対トルコ最前線に立つ海将の中に名が見えるから、従来の勤務にもどったのであろう。ただ、ガブリエレという名はトレヴィザン家の男たちに多い名なので、もしかしたら、別人かもしれない。
*
ディエドの船でいち早く本国へ帰り着いた医者のニコロだが、その後の彼について示してくれる史料はない。おそらく、以前の医業にもどったのであろう。ヴェネツィアでは商船でも、遠距離を航行する船は船医の乗船が義務づけられていたが、上級船員名簿の中に、ニコロ・バルバロという名が、そう少なくない度合で見られる。だが、これも、バルバロ家の男にはニコロという名が多く、別人であった可能性も、充分に考えねばならない。また、船医でなかった場合も考えられる。ただ、トレヴィザンとともにコンスタンティノープルへ行ったニコロ・バルバロは、『コンスタンティノープル攻防戦の日々の記録』という一文を書き残した。
これは、攻防戦に入る前の事情から書き起し、攻防戦中もほとんど連日の出来事や観察を記したもので、彼がヴェネツィアに帰国した後にはじめて判明した事実も記されているところから、日々の覚え書をもとにして、帰国後一年ほどの間にまとめられたものと思われる。この『日々の記録』があってはじめて、われわれ後世の者でも、コンスタンティノープル攻防中の一日一日の進展を知ることができるのだ。ニコロ以外の「現場証人たち」の記録を読んだだけでは、攻防戦中に起った多くの出来事はわかっても、それらがいったい何日に起ったのかまでは、現場にいなかった者は同時代人でさえも、知ることができなかったのである。
そのうえ、ニコロの記録が、史的重要性という点でも、他のものに比べて格段に優れているのは、彼の記述の正確さにあった。後世の研究では、たとえばトルコ軍の戦力にしても、陸側の城壁の守りに直接ついたわけでもないこのヴェネツィア人の医者の記した数字が、最も現実に近いものであったということが証明されている。
しかし、コンスタンティノープル攻防戦についての最も正確で最も冷静なこの記録は、ローマ法王庁を震駭《しんがい》させたイシドロスの手紙よりも、ローマの知識階級の間で評判になったウベルティーノの長編詩よりも、また、フランスの地で十字軍精神鼓舞のための宣伝に活用されたテダルディの物語よりも、当時では、普及度はよほど低かったようである。一八三七年に重要史料としてヴェネツィアのマルチャーナ図書館入りするまで、バルバロ家の史料室に眠ったままであったからだ。それゆえに、一七八三年に『ローマ帝国衰亡史』を書きあげ、その最後をコンスタンティノープルの陥落でしめくくった歴史家ギボンも、ギリシア側の史料は活用しながら、ニコロの『日々の記録』は知らなかった。
ディエドがしたという、元老院での報告は現存していない。だが、陥落時にはガラタのジェノヴァ居留区へ同行しており、また、ヴェネツィア船での船医の地位が高かったことからも、ネグロポンテからヴェネツィアまでの二十日間の航海中に準備されたにちがいないディエドの「報告文」作成に、同船のニコロが重要な役割を果したと考えることは、充分に可能であろう。となれば、ニコロの冷静で正確な観察も、少なくともヴェネツィアの国政担当者たちには、知られていたと考えられる。二、三の思いちがいと考えられる箇所のまちがいと、時に反ジェノヴァ感情が爆発した箇所をのぞけば、ヴェネツィアの一船医の書き残した『コンスタンティノープル攻防戦の日々の記録』は、ビザンチン帝国最後の日々を報ずる、最も信頼度の高い史料となったのであった。それに、攻防戦中のジェノヴァ人の行動の不鮮明さを思い起せば、ニコロの憤慨も、この種の記録に要求される許容範囲を越えるものではなかったのである。いやそれどころか、かえって生き生きした感情を伝える役に立ったということもできる。
*
攻防戦中防衛の第一線に立ちつづけ、若いのに、また金《かね》で傭《やと》われて働く傭兵《ようへい》隊長なのにと、ジェノヴァ人にはなにかにつけ煮えきらない感情を持っていたギリシア人からもヴェネツィア人からも、掛値なしの敬意を払われていた唯一《ゆいいつ》のジェノヴァ人ジュスティニアーニも、最後になっての一瞬の迷いで、それをすべて帳消しにしてしまったのであった。
戦線を放棄した彼は、自分の船に運びこまれてそこで手当てを受けていたが、その船も金角湾の外に脱出した後、まだ遅れてくるかもしれない避難民のために、湾外で待つことに決めた他のジェノヴァ船と夕暮時まで行動をともにしたのだが、その間も、コンスタンティノープルの市内から伝わってくる陥落時の異様な雰《ふん》囲気《いき》や、脱出の機会を逃した湾内の友船が、次々とトルコ兵に襲われ略奪されていく様子から、耳と眼《め》をふさぐことはできなかった。
ジュスティニアーニの許で働いてきた部下の傭兵たちは、それでも最後まで大将への敬愛の心を失わなかったが、他の船乗りたちはジェノヴァ人なのに、この高名な同朋《どうほう》の最後の行為に困惑を隠さない。これが、多量の出血よりも、自信満々だった若い武将を傷つけた。コンスタンティノープルを後に帆をあげて三日後、ジュスティニアーニは船内で死んだ。
*
同じジェノヴァ人でも、ガラタのジェノヴァ居留区の代官ロメリーノにとっての陥落後の日々は、不安と無力感が交互に彼を苦しめる、まさに地獄の日々になった。
五月二十九日、城壁トルコ軍によって突破、の報を受けるやただちに、スルタンの陣営に使節を派遣し、ジェノヴァ居留区が中立を維持しつづけた事実を訴えさせた。その日はマホメッド二世は、使節とは会ったがなにも言わなかった。ところが、その二日後、スルタンからの招び出しで出向いた居留区の代表に、マホメッド二世は、居留区の降伏を命じたのである。形式上では、居留区はサガノス・パシャとの間に講和を結び、以後の居留区の行政は、住民の選んだ長老たちが行うとあったが、すべてはトルコの許可なしでは行えず、これはもう、事実上の降伏と言うしかないものだった。その翌日、ロメリーノ自ら出向いて、サガノス・パシャとの間の講和≠フ調印が終った。そして、その次の日、居留区の人々は、押しかけてきたトルコ兵の一隊によって、居留区をめぐる城壁が破壊されていくのを、ただ黙って眺めるしかなかったのである。二百年もの間、コンスタンティノープルを基地に通商する他の西欧人とは格段に有利な立場を享受《きょうじゅ》してきた、ガラタのジェノヴァ居留区の繁栄を象徴する城壁は、最も高い場所にある塔一つを残して、跡かたもなく消えてしまったのだった。
コンスタンティノープルの陥落によるヴェネツィア居留区の被害総額は、四十万ドュカートと言われたが、ジェノヴァのそれは、少なく見つもっても五十万、不動産までふくめれば、軽く百万ドュカートは越えると言われた。東地中海交易の主力を、ライヴァル・ジェノヴァとの抗争を避けてエジプトのアレキサンドリアに移していたヴェネツィアとちがって、コンスタンティノープルと黒海に全力を投入してきたジェノヴァ通商は、ビザンチン帝国の滅亡によって、致命的な痛手を受けたのである。
そして、同じマホメッド二世による、一四七五年のカッファ攻略成功と、一五六六年になって為《な》されたキオス島占領は、ジェノヴァ商人を東地中海交易から完全に追放してしまうことになった。だが、航海技術では他を圧して優れていたジェノヴァの船乗りたちの眼が、以後は西地中海、そしてさらに大西洋に向けられるようになるのも、トルコの若者の並はずれた征服欲のおかげであったと、言えないこともない。
決断力に恵まれていたとは言えなくても、実直ではあった代官ロメリーノのその後は、私生活でも明るいことは少しもなかった。子のなかった彼が後継者にと思って眼をかけてきた甥《おい》が、トルコの捕虜になった後、回教に改宗したのである。居留区のジェノヴァ人の中には、商人として生き残るために改宗した者が少なくなかったのも事実だ。だが、居留区の心ある同朋とともに、捕われ奴隷にされたキリスト教徒たちに、一日も早く自由を回復させようと身代金の算段に頭を悩ませていたロメリーノは、人もあろうに自分の甥が、改宗して自由になってもどってきた姿に直面させられることになった。六十をはるかに越えていたロメリーノには、ここガラタに、彼を引きとめるものはなに一つなくなった。
攻防戦開始の前に着任しているはずであった新任の代官が、ようやくキオス島まで来たとの知らせに、彼もガラタを後にする。キオスへ行き、新任者への諸事説明が終ったのは、九月の末であった。その後まもなく、ロメリーノは本国へ向う船に乗った。本国到着後の彼の消息を示す、確実な史料はない。だが、まだキオスにいる頃《ころ》、本国に住む弟に向けて書いた、長文の手紙が残っている。攻防戦を居留区側の視点で報じながら、いかにガラタのジェノヴァ居留区が困難な立場にあり、それでいて、いかに居留区の多くのジェノヴァ人が、包囲中のコンスタンティノープルを助けるために、可能なかぎりの援助を惜しまなかったかを述べた内容である。しかし、結果としては、ロメリーノも他の居留区のジェノヴァ人も、西欧の国々と同じく、マホメッド二世を過小評価した誤りをつぐなわされたことになったのであった。
*
コンスタンティノープルの攻略に、ギリシア正教徒ながらトルコ軍に加わって戦わざるをえなかったセルビアの騎兵たちの犠牲も、結局無駄《むだ》であったのがわかるまでに、二年の歳月しか要しなかった。セルビアが、スルタンの要求どおり一千五百の騎兵を提供した代償が、一四五五年の、マホメッド二世によるセルビア攻略である。その年、セルビア南部のノーヴォ・ブロードに派遣されていたミハイロヴィッチは、攻めこんできたトルコ軍の捕虜になり、二人の弟ともども、小アジアのトルコ軍団に送られた。そこで、生きのびるためであろうが、回教に改宗し、イエニチェリ軍団に編入される。まだ二十五歳の若さであったから、軍務向きの奴《ど》隷《れい》と見られたのであろう。イエニチェリ軍団の兵士としての生活が、その後八年の間つづいた。ビザンチン帝国を滅亡させた余勢をかって、マホメッド二世の領土拡張政策が、向うところ敵なしの観で進行中の時期である。ミハイロヴィッチにも、トルコの戦線が進むに従って、各地を戦って歩く日々だった。
ところが、一四六三年になって、彼が軍団とともにボスニアにいた時期のことである。当時、キリスト教国の陸軍では対トルコ戦唯《ただ》一人の勇将として名高かった、ハンガリア王マティア・コルヴィーノの軍と対戦したトルコ軍は、劣勢におちいり、ミハイロヴィッチの隊はハンガリア兵に囲まれた。ミハイロヴィッチは、これを自由を回復する好機と判断し、ハンガリア軍に降伏する。彼がキリスト教徒にもどったのも、この年だった。
それから後も、兵士としての彼の生活は変らなかった。だが、セルビア人である彼には、帰る祖国はすでにない。それで、勧めに従って、ハンガリア軍に加わって戦うことにしたのである。ハンガリア軍の行く先々、ハンガリア、ボスニア、モラヴィア、ポーランドと、転戦して歩いた。『回想録』は、ポーランドにいた時期に書かれたものらしい。一四九〇年から九八年にかけて、書かれたということになっている。その頃では、かつてのセルビアの若い騎士も、六十を越える年齢になっていた。ミハイロヴィッチの『回想録』は、著者の特異な経歴から、別名『イエニチェリ軍団の兵士であった男の回想録』とも呼ばれている。
*
しばしば、人は、あることを契機として、その人物に対するこれまでの評価を、百八十度転換させることがあるものだ。コンスタンティノープルの陥落は、未熟で野放図な野心に酔うばかりの、うまくいっても父スルタンの遺した領土を維持するのが限度だと言われていたマホメッド二世を、一代の英雄に変えてしまった。
陥落直後に、この若い勝利者との関係改善のために送られた、ヴェネツィア共和国特使マルチェッロに随行した副官ラングスキは、八カ月におよんだ交渉期間中に得た印象を、次のように記している。
「スルタン・マホメッドは二十二歳、均整のとれた身体《からだ》つきで、身の丈は、並よりは高いほうに属する。武術に長じ、親しみよりは威圧感を与える。ほとんど笑わず、慎重でいながら、いかなる偏見にも捕われていない。一度決めたことは必ず実行し、それをする時は、実に大胆に行う。
アレクサンドロス大王と同じ栄光を望み、毎日、ローマ史を、チリアコ・ダンコーナともう一人のイタリア人に読ませて聴く。ヘロドトス、リヴィウス、クルティウス等の歴史書や、法王たちの伝記、皇帝の評伝、フランス王の話、ロンゴバルド王たちの話を好む。トルコ語、アラビア語、ギリシア語、スラブ語を話し、イタリアの地理についてくわしい。アエネーアスが住んだ土地から、法王の住む都、皇帝の宮廷がある町、全ヨーロッパの国々などが、それぞれ色分けされ印しをつけられた地図を持っている。
支配することに特別の欲望を感じており、地理と軍事技術に最も強い関心を示す。われわれ西欧人に対する、誘導尋問が実に巧みだ。
このような手《て》強《ごわ》い人物を、われわれキリスト教徒は相手にしなければならないのである」
才能に富むこの若者は、そのうえ、常時十万を越える軍勢を従えることもできた。これだけの数の兵を集めることのできる国は、当時のヨーロッパには、一国もなかったのである。
そして、大砲の威力も、西欧の君主たちの眼を開かせずにはおかなかった。大砲が、西欧になかったのではない。この百五十年以上も昔に、ヴェネツィアはすでにそれを、船にそなえつけて使っている。しかし、大砲の真の威力に着眼し、それを活用したのは、マホメッド二世が最初だった。しかも、当時では最強の城壁とされていたコンスタンティノープルの三重の城壁を破壊したのだから、デモンストレーションとしてはこれ以上の効果はない。実際は守備兵の不足から、防柵《ぼうさく》と外城壁だけの防衛にしか手がまわらず、最も堅固な内城壁はほとんど無傷で残されたのだが、当時でも、そこまでの事情に通じていた人はかぎられている。大砲という兵器が、コンスタンティノープルの三重の城壁を破壊したということだけが、ヨーロッパのすみずみにまで伝わったのであった。翌年、ただちに大砲の多量な製作のための予算を元老院で可決したヴェネツィアをはじめとして、各国は競って、この新兵器の開発に乗りだす。そして、当然のことながら、同時に築城技術にも革命が起った。
東西を問わずヨーロッパ、そして中近東を旅していて出会う城壁や城塞《じょうさい》は、大きく分けて二つに分類される。大砲使用が活溌《かっぱつ》になる時期の、前に建てられたものか、それとも後に建てられたものかである。そのちがいは、一見するだけでわかる。比較的薄手の城壁が地上から高く直立してそびえているのが前者で、厚い城壁が、高さはそれほどないが、地上にしっかりと根をすえた感じでつくられ、下半分が地上に向ってゆるい斜線を描いているものが、後者に属す城壁である。半ばからのゆるい斜面は、砲弾の直撃時における衝撃を、少しでもやわらげるために考えだされた。この型の城壁づくりを最も早くとりいれたのは、トルコの攻勢の矢面《やおもて》に立たされた想《おも》いだった、ロードス島の聖ヨハネ騎士団と、ヴェネツィア共和国であったのは言うまでもない。
そして、大砲という新兵器の出現は、頭から足の先まで鋼鉄製の甲冑《かっちゅう》で身を固め、戦いのプロとしての誇りに生きていた中世の騎士階級を、完璧《かんぺき》に役立たずの地位におとすことにもなった。大砲の操作ならば、教えこめば誰にでもできる。馬を御す能力も槍《やり》を突き立てる能力も、つまり、長年の修業や生れながらの特権を得てはじめてわがものとなる類《たぐい》の能力は、ことさら必要とはされない。中世の戦場での花であった騎士たちも、隊形を組んで数で向ってくる歩兵と、大砲をあやつる砲兵たちの、この二種のアマチュア集団の前に、衰退せざるをえなかったのである。
中世と近世を分けたのは、兵器の世界だけではなかった。マホメッド二世と宰相カリル・パシャは、コンスタンティノープルの攻略か温存かで対立したが、以後のトルコにとっては、マホメッド二世の選択のほうが、政治的には正しかったことが証明された。
ビザンチン帝国の首都を手中にしたことは、かつての帝国領土全域に対し、領有権を主張できることを意味する。これは、征服者にとっては格好の大義名分を手中にしたことと同じだった。また、戦略的にも、交通の要所であり軸であるコンスタンティノープルの獲得は、バルカンとアジアにまたがったトルコを、国家として結びつけかつ動かせる、基盤を完成したことでもあったのである。
先のスルタンの右腕、トルコの名家中の名家の出でもあったカリル・パシャは、コンスタンティノープル陥落の三日後、突然捕われて牢《ろう》に入れられる。そして、ギリシア人の捕囚たちとともにアドリアーノポリへ引かれ、そこでも二十日間の牢生活を強《し》いられた後、斬首《ざんしゅ》刑に処された。罪名は、ビザンチン側に内通した罪、ということだった。
コンスタンティノープル攻略によって、陸海両面での大進攻の鍵《かぎ》を獲得したマホメッド二世は、それを使う時間を無駄《むだ》にしなかった。コンスタンティノープルにあった教会を次々とモスクに改造させ、トプカピ宮殿の建造を命じ、トルコ人だけでなくギリシア人もユダヤ人も強制的に移住させ、トルコ帝国の首都を、アドリアーノポリから、イスタンブルと公式には名の変ったコンスタンティノープルへ移す準備を着実に進めながら、軍事行動でも、敵に衝撃から立ち直る時間を与えなかったのである。
コンスタンティノープルの陥落の二年後、セルビア攻略に成功。翌一四五六年、ボスニアもトルコの支配下に入った。これによって、ポーランドとハンガリアは、対トルコの最前線に立たされたことになる。
一四六〇年、ペロポネソス半島にパレオロガス家の皇弟たちがかろうじて保っていた地域も、トルコの大軍の前に屈する。皇弟の一人トマスは、ローマの法王の許《もと》に亡命した。
翌一四六一年、これもビザンチン帝国の皇統を伝える国、トレビゾンドが陥落する。これによって、黒海南岸は、トルコの完全な支配下に入ったことになった。
一四六三年、それまで陸戦ばかりだったトルコ軍が、海に進出する。的にされたのは、エーゲ海に浮ぶレスボス島だ。大軍を上陸させての陸側からの攻撃に、二百年以上もジェノヴァ領であったこの島も、たちまち陥落した。
そして、一四七〇年、さらにエーゲ海の南下をつづけるトルコは、ヴェネツィアの海軍基地ネグロポンテに挑戦《ちょうせん》した。この戦いは、初年のトルコによるネグロポンテ占領からはじまって、以後十年余りもつづくことになる、トルコ、ヴェネツィア戦争の端緒となった。
一四七三年、ペルシアの地に遠征したトルコ軍は、ペルシア軍を敗走させて凱旋《がいせん》する。これで、西と東からトルコをはさみ打ちにしようとしたヴェネツィアの策謀も、失敗に終ったのだった。
一四七五年、トルコは大軍を黒海に送り、カッファを攻略する。この攻略により、黒海はトルコの内海と化したのであった。カッファを根拠地にしていたジェノヴァ通商は、これで、再び立ち直るなど不可能な打撃を受けたことになる。反対にトルコは、クリミヤ地方への道を開いたことになった。
一四七九年、今度は西南に兵を向けたマホメッド二世は、それまで山岳地帯でのゲリラ戦で手こずらされてきたアルバニアを、ついに手中にすることに成功する。バルカンは、ギリシアの海岸ぞいに点在するヴェネツィアの基地をのぞいて、完全にトルコの支配に屈したのであった。
そして、一四八〇年、はじめてイタリアが、トルコの攻撃にさらされたのである。南イタリアのオートラントに上陸したトルコ軍に、ローマの法王は、聖ピエトロ広場がいまにも回教徒で埋まる様を想像して、眠れぬ夜を過ごさねばならなかった。だが、これも、翌年のスルタンの急死で兵が引きあげたので、悪夢ですんだのである。
マホメッド二世は、一四八一年五月三日、大軍をひきいてアジア側に渡った直後に死んだ。四十九歳だった。シリアとアラビア半島のメッカ、それにエジプト攻略を目しての遠征であったと言われる。ヨーロッパは、この「キリスト教徒の敵」の死を、たいまつを焚《た》き花火を打ちあげて祝い、教会は、神への感謝を捧《ささ》げる人々で埋まった。
「征服王」と形容されたマホメッド二世の戦績が、すべて成功で色どられていたわけではない。ベルグラード攻略は失敗し、ロードス島も陥《お》ちなかった。しかし、これらに加えて、シリア、エジプト攻略も、マホメッド二世の築いた基盤をもとにして、孫のセリム、そしてその次のスレイマン大帝の時代には実現する。また、トルコは、「征服王」の死後も、急激に崩壊しはしなかった。アレクサンドロス大王よりは二十年近く長生きしたマホメッド二世は、征服だけでなく、征服した地域を確実に支配下に組み入れる、社会機構を整備する時間的余裕も持つことができたのである。トルコ帝国は、十六世紀半ばのスレイマン大帝の時代に最盛期を迎え、二十世紀の初頭までつづくのである。これも、コンスタンティノープルの攻略がなければ、不可能な事業であったろう。
小姓のトルサンは、一四六〇年までマホメッド二世に仕えていたが、その年、大臣たちの閣議と言ってもよい「ディヴァン」の、書記官に任命される。それ以後、トルコ帝国のアジア地区の財務長官を勤め、転じてヨーロッパ地区の同じ役職も勤めた後、平穏な引退生活に入ったようである。没年は明らかではないが、一四九九年前後ということになっている。マホメッド二世は十八年前に死んでおり、トルコは、その子バヤゼットの代になっていた。
ベグと尊称をつけて呼ばれたかつての小姓は、おそらく引退生活に入ってからと思われるが、一冊の歴史書を書き残した。『征服王スルタン・マホメッドの歴史』という。記述は、一四八七年で終っている。トルコ人の手になる歴史的記述では、最も古いものの一つということになっている。
***
コンスタンティノープルの陥落は、ヨーロッパ人にとって、とくに古代ローマを母胎と感じていた西欧の人々にとって、言葉にならないほどの衝撃であった。ビザンチン帝国と直接の関係があったイタリアの海洋都市国家やローマ法王庁、それにハンガリア等の東欧諸国の人々は、末期の帝国の実情に通じていたが、それ以外の国の人々でも、東のローマ帝国が、数百年の間にゆるやかに衰えつつあったことを知らなかったわけではない。十字軍時代からすでに、回教徒の進出に対して守勢に立つしかなかった帝国は、十字軍遠征から幸運にも帰還できた人々の口を通じて、ヨーロッパの端しまで知られた事実だった。しかも、ここ半世紀というもの、帝国を見捨てて西欧に住みつく学者や、公会議のたびに西欧の君主たちに援軍要請に訪れる皇帝たちは、西欧の人々には見なれた光景にさえなっていたのである。
だが、ビザンチン帝国がついに地上から姿を消したという事実は、これらの人々の胸さえも、説明のつかない暗い想いで満たさずにはおかなかった。
西欧でも、古代のローマ皇帝がいなくなって以来、皇帝を名のる君主にはこと欠かなかったが、彼らのある者は、古代ローマ人がガリア人と呼んだフランク人であり、その他の者も、ガリアよりももっと野蛮の地とされていた、ゲルマニアの出身者だった。彼らは、神聖ローマ帝国皇帝という名称は持っていても、黒い双頭の鷲《わし》を紋章にしていても、かつてのローマ帝国皇帝の権威もなく、権力も持たなかったのである。西欧の人々は、それを知っていた。知っていたからこそ、やむをえぬ時だけ従い、機会が訪れれば、迷うことなく反対の立場をとった。このように感じていた人々にとって、古代のローマ人が創設した帝国を伝えるのは、いかに中身がギリシアであっても、ビザンチン帝国だけしかなかったのである。それに、ビザンチンの皇帝は、古代ローマの皇帝にはなかった、キリスト教徒という共通性も備えていた。その東ローマ帝国の皇帝だけが、西欧人からすれば、完全な意味での皇帝の名に値したのである。
それが、今、消え失せてしまったのだ。パレオロガス家の一皇女がモスクワ大公に嫁《とつ》ぎ、それ以後ロシアは、「第三のローマ」と自称するが、ギリシア正教の本山の移転というならわかっても、フランス人やドイツ人の皇帝にさえ権威を認めなかった西欧人が、なぜ、皇女と結婚したという理由だけで、双頭の白い鷲を紋章と決めたという理由だけで、ロシア人に皇帝の権威を認める気になれるであろう。西欧の人々は、ビザンチン帝国の滅亡によってはじめて、古代ローマという母胎から切り離された痛みを感じたのであった。
コンスタンティノープルの陥落については、冷静で正確な記録よりも、感情的な詩や報告が、当時の多くの人からより受け容れられたのは、彼らが、それによって起る変革を案ずるよりも、失ったものへの哀惜の念にひたるほうを選んだからにちがいない。双頭の白鷲は、回教徒の半月刀によって斬《き》り殺されたのである。
西欧の人々にとって、ローマ帝国最後の皇帝は、紅《くれない》の大マントを風になびかせながら、白馬を駆って、天空の彼方《かなた》に永遠に去ってしまったのであろう。
解説
森本哲郎
紀元一四五三年五月二十九日、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルはトルコ軍の猛攻によって陥落した。最後の皇帝コンスタンティヌス十一世(コンスタンティヌス・パレオロガス)は、自ら陣頭に立って、殺到するトルコ軍を迎え討つべく白兵戦のまっただ中へ突入した。しかし、皇帝の行方をつきとめた者は誰《だれ》もいなかった。こうして、千百年にわたったビザンチン帝国は崩壊し、かわって赤地に新月と星をあしらったトルコの国旗が金角湾の潮風にはためくことになったのである。トルコの大軍を率いていたのは、弱冠二十一歳のマホメッド(メフメト)二世であった。
*
私にとって、忘れがたい町々は数多くあるが、なかでもイスタンブールは、その独特の雰《ふん》囲気《いき》によって心に深く刻まれている。何度、私はこの町を訪ねたことだろう。私は行くたびに、金角湾にかかるガラタ橋に立った。そこから眺《なが》める夕日が世界でいちばん美しいような気がする。それは、荘厳《そうごん》な、というより愁《うれ》いに満ちた落日である。おそらく、ビザンチン帝国の滅亡という歴史の記憶が、その橋に佇《たたず》む者をして、そうした感傷をいだかせるのであろう。
「あの街をください」とトルコの若き王は言った。著者はそのくだりを、本書でこう書いている。
――マホメッド二世は部屋着姿のまま、寝台の上に坐っていた。老宰相は、その前の床に頭をつけて深々と礼をした後、持ってきた銀盆を捧《ささ》げるように前に押しやった。
若いスルタンは言った。
「これはどういう意味ですか、先生《ラーラ》」……
(宰相のカリルは、この若い王の師として仕えていたので、王はカリルを先生と呼んで一目置いていたのである。その老宰相が銀盆に金貨を山のように盛って進み出たのだ。それを見て、王はこう宣言したのである。=引用者)
――「あなたの持つ富は、わたしにはもう必要ではない。いや、あなたの持っているよりもずっと多い富を、贈ることもできるのです。わたしがあなたから欲しいと思うものは、ただひとつ。
あの街をください」
この一言でコンスタンティノープルの運命は決まったのだった。
*
イスタンブールのヨーロッパ側、金角湾に臨んでエユップ・スルタン・モスクがそびえている。コンスタンティノープルが陥落して六年後に建てられたというそのモスクの後ろの丘に、一軒のちいさなチャイハナ(茶店)がある。ここはかつてフランスの作家ピエール・ロティがよく立ち寄った店というので、「ロティの茶店」と呼ばれている。私はイスタンブールを訪ねるたびに、かならずこの店に行ってお茶を飲んだ。ロティがここに遊んだのは、考えてみるともう百年前になる。そのころ、アジアとヨーロッパをつなぐこの町はどんな相貌《そうぼう》を見せていたのだろう。
店の外、並木の下にもベンチがしつらえてあり、いつも水タバコ屋が、のんびり腰をすえている。そこから金角湾を見下ろすことができる。おそらく、この高台から眺めた景色がいちばん素晴らしいのではなかろうか。アタチュルク橋、ガラタ橋が夕《ゆう》陽《ひ》にかすみ、彼方《かなた》のボスポラス海峡までが一望のもとに収められるのだ。私は周りが暗くなるまで、この不思議な都市のざわめきに耳をとられていた。
*
イスタンブール、かつてのコンスタンティノープルは、さらにその昔、ビザンチウムと呼ばれ、ギリシアの植民都市だった。ここで建築技師として生活していたというフィロンの生涯《しょうがい》はほとんどわかっていないが、彼は当時のギリシア世界をひろく旅し、驚異の建造物を七つ数えあげることにより、なんと、現代までその名を知られることになった。だれもが知っているあの「世界の七不思議」である。
紀元三三〇年、ローマ帝国のコンスタンティヌス一世はヨーロッパとアジア両大陸を結ぶボスポラス海峡の西岸に位置していたそのビザンチウムを「新しいローマ」として、ここに遷《せん》都《と》した。町の中央には宮殿、競技場とならんで、ハギヤ・ソフィア寺院が偉容を誇ることになった。イスタンブール随一の見ものとされているこの聖堂は、二百年後に火事で焼失するが、ユスティニアヌス一世により豪華に再建され、その見事な寺院をまえにして、ユスティニアヌスは、こう叫んだといわれている。
「ソロモンよ、朕《ちん》は汝《なんじ》をしのいだ!」
三三〇年から一四五三年まで、じつに千百二十三年間、コンスタンティヌス帝の都、コンスタンティノープルはビザンチン帝国の首都であり続けたのである。むろん、ここがトルコのものになってからも、町は生き続け、いや、人々をいっそう集めて現代に及んでいるのだ。
が、東方キリスト教の総本山であったハギヤ・ソフィアはイスラムの聖堂に変貌し、イギリスの歴史家トインビーが歴史の根底に据《す》えた文明の構図、「挑戦《ちょうせん》と応戦」をそのまま黙示している。すなわち、東方キリスト教文明とイスラム文明の遭遇・激戦である。この意味で、『コンスタンティノープルの陥落』こそ、世界史上もっとも興味深い、幾多の間題をはらんだ運命のドラマといえる。千年以上も続いたビザンチン帝国が、どのように生命を終えたのか、その断末魔はどのような情景だったのか。この興亡の歴史劇の主役はだれで、どのような脇役《わきやく》がその筋書きを作りあげたのか、私はイスタンブールを訪ね「ロティの茶店」から金角湾を見下ろすたびに、いつもありし日の情景を思い描くのである。
しかし、通常の歴史書はふたつの文明の遭遇戦を、ただ簡略に記すだけである。むろん、その間の経緯を詳しく記した文献がないわけではない。が、ことの始まりから、ビザンチン帝国の最後までを鮮やかに描出した書物はほとんど目にすることができない。私は塩野七生さんの本書によって、十五世紀半ばの世界に連れ戻され、この千年王国の最後の日々を、あたかも昨日のように追体験することができた。そして、歴史とはこうした作品によってこそ、はじめて生々しく実感されるものだということを、あらためて思い知った。
*
塩野さんは本書を書くために、じつに多くの外国の文献を渉猟している。いや、たんに文献を読むだけではなく、じっさいに現地を訪ね、道路の幅まで自分で測るほどの熱意で、丹念に調査している。とうぜん、この世界史的事件は、さまざまな角度から活写され、読者をしてその場に居合わせたかのような思いに誘いこむ。本書に限らず、塩野作品の魅力は、そこにあるといってもいいだろう。『海の都の物語』しかり、『ロードス島攻防記』しかり、『レパントの海戦』しかり。
本書も文献を忠実に追いながら、あるときは悲劇の皇帝コンスタンティヌス十一世の立場から、あるときは攻める側のマホメッド二世の陣営から、あるときにはヴェネツィアの若い医師ニコロの目を通して、またあるときはヴェネツィアの海将トレヴィザンの胸中に踏み込んで、この運命劇の綾《あや》を織り出してくれるのだ。
それだけではない。ジェノヴァ商人の不安、皇帝財務官の苦悩、ギリシア正教とカトリックとの再合同をめざす枢《すう》機《き》卿《けい》イシドロスの心の葛藤《かっとう》、合同に反対する修道士ゲオルギオスの傷心……。ビザンチン最後の日までの人間模様が心憎いまでの筆であざやかに描きだされている。私はしばしば、本を置いて思いに沈んだ。
人間の歴史のなかで、ひとつの文明、ひとつの国家、ひとつの都市がその運命を閉じるとき、私たちは名状しがたい気分に襲われる。それだけにバビロンの崩壊、トロイアの滅亡にも比されるコンスタンティノープルの陥落は、作家塩野七生の想像力をいたく引きつけたに違いない。
*
もう十年も前になろうか。初めて塩野さんにお目にかかり、いろいろ雑談をした折、彼女はトルコについて熱っぽく語った。そのときは気づかなかったが、今にして思うと、塩野さんは『コンスタンティノープルの陥落』の構想を胸に描いていたのである。本書にはビザンチン帝国の版図を示した地図やコンスタンティノープルの三重の城壁図などとともに、歴史の舞台装置≠ノついての詳しい説明がなされている。『海の都の物語』でも、中世の地中海に活躍したさまざまな船の型が、図入りで詳説されているが、こうした具体的な調査をもとに執筆されていることが、塩野さんの作品の魅力となっている。文字通り、歴史が生きているのだ。
千年に及んだ帝国でありながら、ビザンチンは日本人にとって、けっして親しいものではない。私たちの世界史像は、西ローマを中心とした西欧にかたよっており、もうひとつのキリスト教文明圏である東欧や、かつてそうであった小アジアについては、古代史はともかく、中世史、近現代史はほとんど知られていないといっても過言ではない。
けれども、現代の世界を理解するためには、この東の世界がつづった歴史をあらためてたどってみる必要がある。たとえば、ビザンチン帝国史である。あるいはトルコがヨーロッパ世界に与えた衝撃である。その理解なくしては、今日の東欧やソ連、さらにはバルカン半島、中近東の文化や宗教や価値観を読み解くことはできない。
読者は本書を通じて、たんに五世紀前の世界史的な事件を追体験するだけではなく、それをそのまま現代の世界に移して、人間の世界がどれほどさまざまな情念、信仰、利害、痛恨などによって歴史を刻んできたか、そしていまなお刻みつづけているかを読み取ることができるであろう。ここに描かれているオスマン・トルコとビザンチン帝国の対決に、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの通商都市国家や、フランス、ドイツなど西欧の国々がどのようなおもわくで、どんな行動に出たのか、またローマのカトリック文明と東方キリスト教会とがどのような確執を演じたか、そうした実情を知ることによって、読者は現代を別の目で眺めることができるのではなかろうか。歴史の面白さはそこにあり、本書の魅力も、まさにその点にある。トルコとビザンチン帝国。東と西。キリスト教とイスラム教。このふたつの文明圏は、今日においても、形を変えつつ新たなドラマを展開しようとしているのだから。
そして、その起点は、まさにコンスタンティノープルにあるのだ。
(一九九一年三月、評論家)