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垣根涼介
ヒート アイランド
目 次
プロローグ
第一章  集積
第二章  放熱
エピローグ
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プロローグ
暮夜に雨は止んでいた。
半蔵門線を渋谷駅で降り、階段を上がって地上へと出る。Q−FRONT前の信号が青になり、スクランブル交差点を渡り始めた。
まだ湿気を含んでいる八月の夜風に、無数の靴音とクラクションが溶け込んでいる。
彼の背後、東急東横の白い建物のデジタル時計は、午後九時三十分を示していた。
前方から来る人の群れが、それとなく彼を避けながら通り過ぎてゆく。擦り切れたジーンズに、履き込んだワーキングブーツ。Tシャツの上に黒革のベストを羽織り、剥き出しの二の腕には、荒縄をねじったような筋肉が盛り上がっている。造作の大きな彫りの深い顔は、鋭角的な顎へと絞られている。無感動な光を浮かべた瞳が、前方を向いている。胸元には細い鎖にぶら下がった、小さな三日月形の彫り物が揺れている。
彼は行き交う人の流れの中を歩いていった。うつむいたまま黙々と足を進めるサラリーマンと、無気力にティッシュを配りつづけるアルバイトたち。クソのようなメイクを施した小娘の群れと、その携帯から垂れ流される、絶え間ないおしゃべり。
沈黙を恐れ、孤独を嫌悪する街並み。無意味だった昨日と刹那の今日は、絡み合いながら沈みゆく明日へとつながってゆく。
雨上がりの路上に、原色のネオンが光を落としていた。
舗道の上を、彼は井ノ頭通りへと進んでいった。
東急ハンズの角を右に折れた。ゆるい坂を登りきった路上で、七、八人のひとかたまりになった若者たちの背中が、目に止まった。一様に、頭部に青いバンダナを巻いている。青ギャングを気取ったストリートキッズ。近頃のこの街では珍しくもない風景。
若者たちの先、路肩に寄せて深緑のジャガーが停車しているのが、垣間見えた。どういうわけか彼らは、そのジャガーに向かって罵声を浴びせかけている。
若者の一人が、フェンダーを思い切り掌で叩いた。直後、他の連中がタイヤやバンパーを蹴り上げ始める。
彼は足を止め、その一団から少し離れたところでマルボロに火をつけた。
嫌がらせはなおも続いた。数人がかりで前後のフェンダーに手をかけると、今度はその車体を上下に揺さぶり始めた。次第に揺れの大きくなるボディ。たまらず運転席から男が飛び出してくる。白シャツに臙脂《えんじ》のネクタイ、制帽をかぶった中年男は、お抱えの運転手なのだろう、若者たちに向かって抗議を始めた。
前触れもなく、一人が運転手の制帽を思い切りはたいた。一瞬腰の引けた運転手の頭から、制帽が飛んだ。ジャガーのルーフを通り越して、車道へと転がった。運転手は胸倉を掴まれ、荒々しく相手に引き寄せられた。
直後、ジャガーの後部座席のドアが開いて、女が降り立った。ピンストライプのスーツに身を包んだ、四十代半ばとおぼしき女性だ。軽く脱色したショートの髪は、サイドをすっきりと刈り込んである。引き締まった口元をしていた。
「いい加減になさい、あなたたち」
リムレスの眼鏡の奥から覗く瞳が、若者たちを睨みつける。
「パーキングメーターの前にたむろしていたら、クラクションを鳴らされるのが当然でしょ。因縁つけるなんて逆恨みもいいところよ」
だが、その語気にも若者たちはどこ吹く風だった。
「だから、なんだってんだ」
「ババァが説教垂れてんぞ」
余裕たっぷりの口調で、逆にへらへらと笑いながら詰め寄ってゆく。
彼は吸い差しを手にしたまま、なおも静観を続けた。
女は後ずさりしながら、周囲の通行人に助けを求めるような視線を泳がせた。だが、無駄なあがき。野次馬たちから何の反応も得られないのを見てとると、彼女は手に持ったストラップ付きのハンドバッグを、彼らに向かって振りまわした。
「近寄らないで」
小振りだが、重そうなバッグだった。若者たちは薄笑いを浮かべたまま、おかまいなしに躙《にじ》り寄ってゆく。彼女はもう一度バッグを振り回した。
運悪く、一団の先頭に立っていた若者の頭に、その金具の角が当たった。
「イってぇー!」
若者はわめきながら額を押さえ、その場にしゃがみこんだ。
女は一瞬ハッとなった。おそらくそんなつもりではなかったのだろうが、すでに後の祭りだ。
若者たちは一斉に気色《けしき》ばんだ。
「ザケんじゃねぇ」
「ぶっ殺すぞ、コラッ」
拳を振り上げ、口々に唾を飛ばしながら罵声を上げた。
背後にいた長身の若者が女に掴みかかった。あらがう間も与えずジャガーの側面に女を押し付けると、二度、三度と頬を張った。二度目で女の眼鏡のフレームが歪み、三度目で地面に落ちた。運転手も似たような状況で、数人の男たちから殴る蹴るの暴行を受けている。
彼は苛立ちを感じた。知ったことではない。しょせんは他人の揉め事だ。間に割って入るような柄でもない。
しかし、不快な光景だった。くわえてこの場所は、彼の商売上のテリトリーでもある。これだけの騒ぎを起こされると、あとあと自分たちがやりにくくなるのも分かっている。
ため息をつき、マルボロを地面に落とした。
「もう、それくらいで充分だろが」
大きな声ではなかったが、それでも若者たちの耳にははっきりと届いたようだ。さらに女を打とうとしていた長身の若者の腕が、止まった。初めにそのノッポが、続いて他の若者たちも彼のほうを振り返った。興奮冷めやらぬ殺気立った視線が彼に集中した。
「ポリも来る。たいがいにして、さっさとフケちまえよ」
ノッポの若者は両腕を女の胸元から離すと、ズカズカと歩み寄ってきた。
「いま、なんか言ったか、あァ?」
そう言って、痘痕《あばた》だらけの馬面《うまづら》を突き出した。自らトラブルを抱え込む、典型的なノータリン。
「この、アホウが」彼は苦笑し、つい口を滑らした。「脳ミソのほうも馬並みときた」
激昂した相手が殴りかかってくる直前に、その右肩がわずかに下がったことに気づいていた。よほど場慣れしていない限り、体のどこかに必ず攻撃の前兆が現れる。はたして右の拳が飛んできた。自分の顔に迫ってくる右腕をかわしながら、相手の左半身に一歩踏み込むと同時に、充分に体重を乗せた拳を至近距離からこめかみに見舞った。
ミッ、と頬骨のひずむ音だけを残し、長身の相手は声もなくアスファルトに転がった。気を失った。
他の仲間たちはあっけにとられた様子で、倒れたリーダー格らしきノッポを見下ろしていた。
「こいつを背負って、早いとこ消えちまえ」
男の背中を軽く蹴りつけ、静かに若者たちを睨《ね》めつけた。
「──なんなら、おまえら一人一人、ノシてやってもいいんだぜ」
若者たちは気圧《けお》されながらも憎々しげな視線を彼にぶつけた。が、すぐに長身の男を数人がかりで担ぎ起こすと、悪態をつきつつ立ち去った。
女はジャガーに背をもたせかけたまま、一人残った若者を見つめていた。自分たちを救ってくれたその若者は、舗道に転がっていた彼女の眼鏡を拾い上げた。
運転手がよろけつつも駆け寄ってきた。
「社長、大丈夫ですか」
「私は、大丈夫」
若者は近づいてくると、眼鏡を彼女に差し出した。
「パーキングメーターは他にもあるんだ」若者は言った。「わざわざ連中の座り込んでいる場所を、選ぶこともなかったろう」
「急いでいたのよ」眼鏡をかけながら女は言った。「たまたま、そこしか空きがなかったし」
若者はかすかに肩をすくめてみせた。
「で、時間の節約には、なったのか」
彼女は思わず笑った。恰好のわりに、うまいことを言う。それがなんとなくおかしかった。
「たしかにね」彼女はうなずいた。「気をつけるわ、これから」
若者はうなずくと、次の瞬間には背を向けて歩き始めた。恩を着せるわけでもなく、さりとて、人助けを演じた自分への満足感に浸っているようにも見えない。気づいた時には、若者の背中に問いかけていた。
「あなた、名前は」
若者は一瞬立ち止まり、躊躇した。が、
「……アキ」
肩越しに一言答えて、再び歩き出し、暗い路地の向こうに消えた。
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第一章 集 積
道玄坂を登ってゆき、右半分が円山町のエリアに近づくと、道沿いに並んだビル群の質感が次第に落ち始める。アキは大通りから逸れ、ホテル街へと続く短い坂道を登ってゆく。
道はすぐに平地へと達する。薄暗い路地に、まだ人気はさほどない。道の両脇に、雪洞《ぼんぼり》のようにラブホテルの看板が連なっている。その光が彼の足元を照らし、影を四方に散らす。午後七時。この界隈をカップルが行き交うには、少し早い時間帯だ。
何度か角を曲がると、通りの半ばに立ちんぼうが佇《たたず》んでいた。辺りをうっすらと照らし出しているラブホテルのネオンの明かりも、彼女の周囲からは抜け落ちている。近づくにつれ、その女の輪郭があらわになってゆく。中年過ぎのくたびれきった立ちんぼうだった。艶のない髪、重く垂れた目蓋にはどぎついアイシャドーが貼り付き、真っ赤に塗りたくられた唇から、ところどころ紅がはみ出している。女は、明らかに自分の客ではないと分かるアキに対しても、ぎこちなく笑みを浮かべようとする。
アキは無表情のまま、横を通り過ぎてゆく。女はまたホテルの陰に戻ってゆく。
そのまま通りを突っ切り、T字路に出る。
目の前に、この界隈にはおよそ場違いな、十階建のオフィスビルが聳《そび》え立っていた。外観はまだ新しいものの、宵の口というのに、明かりの漏れているフロアはわずかしかない。各階の窓にテナント募集中の広告が目立つ。バブル末期に建てられた前時代の遺物。駅からの地の利の悪さも度外視して丼勘定で建てられた挙句、今や立ち枯れビルの一歩手前という有様だった。
そのビルの一階エントランスの右手に、地下へと続く階段の間口が大きく取られている。
薄暗い階段を降りて行くと、入り口の分厚い鉄製の扉にかかったプレートに、『本日貸切』とある。扉の上では、≪Cafe Bar, Red Cross≫のネオンが、かすかに電磁音を放っている。重い扉を開けて、中に入った。
まだ照明を落としたままだが、店内の広さは、およそ七十坪ほど。天井には、剥き出しの鉄の梁《はり》から無数の白熱灯が吊るされている。コンクリート打ちっ放しのフロア。雑然と並べられたテーブルと椅子が、非常灯の緑の光を受け、鈍い光を放っている。
扉を開けたすぐ右側に、バーカウンターがある。止まり木に座っていた男がスツールごと体を回転させ、入って来たアキを振り向いた。派手な赤いアロハを着こんだ髭面は、この店のオーナーだ。
「今夜の入りは、どんな按配だ」
「知ってんのは、今朝の数字だけだ」アキは顎を店の奥にしゃくった。「カオルに、聞けよ」
店内の一番奥まった場所に仮設舞台が設置されており、スポットライトがわずかな空間を照らしている。舞台のすぐ脇のテーブルに、痩せぎすの小柄な若者が腰かけていた。青いサーフショップのTシャツにネイビーのカーゴパンツを穿《は》き、黄色いバンダナを頭部に巻いたその若者は、ノートパソコンの画面を睨んだまま、キーボードを叩きつづけている。パソコンと携帯電話にメールで送られてきた申し込みを集計しているのだ。アキと同じく、その襟元に三日月形のペンダントがぶら下がっている。
「おれが七時前にきた時から、ずっとあの調子だ」髭面はため息をついた。「何を聞いても、ああ、とか、うん、とか、生返事しかしやがらねぇ」
「いつものこったろ」
髭面が顔をしかめた。
「つれない連中だ」
カウンターの中のバーテンが黙々とグラスを磨いている。アキが髭面にきく。
「そっちのスタッフは、今日は何人だ」
「五人」
アキは首をかしげた。
「百人を出ると、厳しいな」
「超えそうなのか」
「今朝は、八十に欠けるくらいだった。それからの申し込みと飛び入りの客を合わせると、超えるかもしれない」
「おまえのメンバーはいつもの通りだろ」
「来いとは、言ってある」
「すると、おれの店の人間と合わせて十一人だ。コントロールはなんとかなる」
アキは軽く笑った。
「騒動さえ、起きなけりゃな」
髭面は口を尖《とが》らせた。
「勘弁してくれよ。それを鎮めるのが、おまえら『雅《みやび》』の役割だろうが」
「備品代の保証はできねぇよ」
相手が不満げに鼻を鳴らすのを無視して、アキは奥へと歩き始めた。テーブルの間を縫ってゆき、相変わらずパソコンの画面を凝視している若者の、隣のテーブルに腰を下ろした。
カオルと呼ばれた若者は、ちらりとアキに目を遣り、再び視線を画面上に戻した。
「あと三十秒、待ってくれ」カオルは言った。「それで、全部終わる」
アキは黙ってうなずき、マルボロに火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出す間にも、カオルの両手はせわしなくキーボードの上を動きまわる。Tシャツから覗いた腕は、細く華奢だ。十九にもなった男のうなじに、後れ毛が生えている。最後にその指がエンターキーを叩き、カオルはようやくアキのほうに向き直った。
「おまたせ。結果、出たぜ」
そう言って、にっこり笑いかける。およそ邪気というものが感じられない、子供の表情に似ている。少なくとも見かけは、ということだが。
「どうだ?」
「トータル、百と八名」カオルは答えた。「六時半まで待って、それでしめてみた。ここからはプラマイ二、三の誤差だろう。ついでに、それをもとに簡単な収益検討一覧も作ってみた」
そう言って、得意げに画面をアキのほうに向ける。
「見てくれ、エクセルで組んでみたんだ。すると入場料が単価五千円で、この通り、収入の部が五十四万」指先が画面上の表組みの上段を指している。「賞金二十万と、メンバーに払う単価三万円のバイト料が四人で十二万。トータル三十二万。これが、この支出の欄に入っている。で、その下段が差し引きだ。つまり、今夜のおれたちの実入りは、二十二万ってとこだ」
「『雅』の実入りな」アキはカオルの言葉を訂正しながらも、画面最下段の空きスペースに目を止めた。「この最後の欄は?」
「それを聞きたかったんだ」カオルは逆に問いかける。「おまえ、オプション収益は、どれくらいで見る?」
少し考えてアキは答えた。
「二時間縛り付けのショータイムだ。一人平均アルコール三杯とジャンクが二皿。単価三千円ぐらいがいいとこだろ」
「すると、三千円が百八人で、三十二万四千円。掛けるのマージンが一〇パーセントで、三万二千円か……たいした収入じゃないな」
アキは笑った。
「それでもトータルすれば、二十五万ちょいにはなる。それが月に三回だ。遠征からの実入りもある。不満はない」
カオルも笑ってパソコンを閉じた。
「そりゃ、そうだ」
七時十五分をまわった。店の従業員が出勤してくるにつれ、『雅』の他のメンバーも姿を現しはじめた。
照明が徐々に明るさを増してゆき、アップテンポのリズム・アンド・ブルースが店内に流れ始める。レジの受け皿に小銭が注ぎ込まれ、ビールケースが移動するたびにガチャガチャと音をたてる。髭の赤シャツが止まり木に座ったまま、従業員に指示を出している。
雅のメンバーたちはぶらぶらと店内をうろつきながら、次第にアキとカオルのテーブルに集まってくる。思い思いに近くの椅子を引き寄せ、二人の前に座った。
金髪、ドレッドヘア、スキンヘッド、ロングヘアの上にとめたサングラス。二の腕にタトゥーが躍っている者がいるかと思えば、耳朶《みみたぶ》に五連のピアスが踊っている者もいる。
メンバーたちはそれとなくアキとカオルの動向に気を配りながらも、おしゃべりを続ける。
「この前の女よ、中出ししたらマジギレしやがってよ。だったらホイホイついてくんじゃねーつぅの」
「おいおい、キレたのは、おまえが早漏だったからじゃねぇのかあ」
「この前のあいつ、エルカミーノ・クラブでな、トイレに連れ込んでボコボコにしてやったのよ」
「へぇえ、おまえがされたんじゃなくて」
「ナメてんのか。財布出してきて、これで勘弁してくださいで、一発よ」
女とケンカと、金の話。めいめいが好き勝手なことを喋り、気に入った話だとゲラゲラ笑い合う。アキはそんな四人を黙って見ている。もともとはそれぞれが、この渋谷に根を張るストリートグループのヘッドだった連中だ。携帯電話の番号とファーストネームが、お互いの関係の全て。その希薄な関係も、この街に顔を出さなくなればすぐに消える。繋いでいるものは、アキとカオルがもたらす金と力だ。
案を出したのは、当時まだ知り合ったばかりのカオルだった。それに具体的に肉付けし、実行したのはアキだ。
渋谷のストリートギャングの中でも、特に勢力を持った武闘派をピックアップした。そのうえで、腕力だけが自慢の彼らを一人、また一人と、配下に加えていった。
因縁をつけるのは簡単だった。一人でいる時を狙った。ただでさえ暴れたくてウズウズしていた彼らは、アキとカオルがじっと見つめるだけで、ケンカを売られているものだと思い、カッとくる。アキの役割はここから始まる。相手も力の信奉者である以上、半端なやり方はしなかった。人目につかない路地裏に誘い込んだうえで、徹底的に殴り、蹴り、致命傷を負わせる寸前まで痛めつけた。相手が泣き叫び、命乞いをしても、失神の一歩手前まで攻撃しつづけた。
歴然とした力の差を見せつけ、復讐の気持ちも萎えるほどの恐怖心を植え付ける。しばらく間を置いたところで、カオルが相手を助け起こす。穏やかな声で、ゆっくりと相手の関心を自分たちに向けさせる。
「アキを相手に、あんた、なかなかのもんだね」カオルのやさしげな言葉は続く。「その力、一文にもならないケンカだけで浪費するのは、ちょっともったいないよな」
アキへの恐怖心はそのままに、ボロボロになった相手のプライドの、落とし場所を提示してやる。
「おれたち、しばらくしたら面白い仕事を始める。金にもなる。どうだ。一枚噛ませてやってもいいぜ」
怯えていただけの両眼にようやく思考力が戻り、疑念が渦巻く。若い負け犬はおずおずと口を開く。
「あんたら、ヤクザの舎弟か何かか」
「おれたちはスカンクじゃない」カオルは笑った。「あんなクサい連中と一緒にすんなよ」
力のアキと、口のカオル。知恵は、いつも互いに出し合ってきた。
そんなリクルーティングが一週間続き、四人のメンバーを集めた。それが、二年前のことだ。
七時二十分。それまでじっとメンバーのやりとりを見ていたアキが、立ち上がった。
「時間だ」
その一言で、メンバーのお喋りはぴたりと止んだ。
「ざっと、説明する」
自分に注目しているメンバー一人一人を見まわしながら、言葉を続ける。
「パーティ参加は、百八名。エントリー希望は、いつもの通り先着順の八名で切った。一回戦が四試合、二回戦が二試合、ファイナルが一つの計七試合。トーナメントの組み合わせは例によってクジで決める。賞金は二十万。これもいつもの通りだ」
そこでアキは、カオルにうなずいてみせる。カオルはパソコンの画面をメンバーのほうに向けた。
「ここに、来客名簿とエントリー者のリストが作成してある。エントリーから漏れた希望者のリストはその下段に表示されている。見てくれ、エントリー漏れの中に、それを不満にパーティの途中で暴れそうな、知った奴はいるか?」
四人のメンバーがじっと画面のリストに見入る。スキンヘッドのサトルが首をかしげた。
「この、斎藤秀雄って、たぶんヒデって呼ばれている奴だ。センター街で最近よく見かける。いつも十人ぐらいの仲間を引き連れてた。派手なケンカをやってるのも何度か見たぜ」
「ワケわかんなそうな奴か」
サトルはヘッと笑った。
「ポリの目もある場所だぜ。バカ丸出しだ」
金髪のタケシがすかさず茶々を入れる。
「言うねえ。どっこいのくせしやがってよ」
とたんにまわりの人間がドッと笑う。
それが収まるのを待って、アキが指示を出す。
「よし。じゃあ、サトル。おまえ、パーティの間それとなくこいつを監視しろ。ヤバそうになったら、動きを封じ込めろ。おまえ一人で荷が重そうなら、おれも他のメンバーもヘルプに行く」
「了解」
パソコンを閉じ、カオルが言った。
「幕はたぶん、十時ごろだ。客が退けてからみんなに今日の分と、先週の遠征分を支払う。今日の分が三万。遠征分が三万。一人計六万だ。飲み代にしてくれ」
喚声があがり、再び馬鹿笑いが飛び交う。カオルはロングヘアの男に向けてさらに言葉を続けた。
「ユーイチ。もちろんおまえの取り分には、ファイトマネーも追加だ。十五万の、上乗せだ」
ロンゲの顔がほころび、他の三人のメンバーがユーイチを見ながら騒ぎ立てる。
「この七日で、おまえ、二十万の儲けかよ。え、え?」
「たった三十分のファイトで十五万なら、時給三十万だぜ」
羨望と揶揄《やゆ》の言葉が行き交う中、ユーイチは自慢げに周囲に吼《ほ》えた。
「身を張った奴の、当然の報酬だろうが」そう言って、額の擦り傷をこれ見よがしに叩いてみせる。「ま、くやしかったらおまえらもいいカモを見つけてくるこったな。なんせ優先権はそいつにあるんだからよ」
先週の、大宮への遠征のことを言っていた。情報を持ってきたのはユーイチだった。週末の夜半過ぎ、大宮駅西口からそう遠くないところに、五十人規模のストリートギャングがいつも群れているという。さらに詳しく噂を聞き込み、週末にクルマ二台に分乗してそのエリアに赴いた。駅前の大通りから少し路地に入った、だだっ広い駐車スペースに彼らはいた。ローダウンしたインパラやアキュラ・アコードの周りに群れていた。全員が頭部に赤いバンダナを巻いている。大宮の「赤ギャング」といったところだった。ハイエースの後部から大音量で流れ出すラップの音に、意味もなく騒ぎ立てている。遠征に使った二台のクルマは、大宮インターを降りてすぐに、偽造ナンバーに付け替えておいた。アキの薄汚れた三菱・ジープと、金髪のタケシの黒いシェビィ・バンで、連中の前に乗りつけた。
交渉役はいつもの通り、口の上手いカオルがやってのけた。赤ギャングたちに、半ば挑発し、半ば誘う口調で、ストリートファイトの賭けを申し出た。
「掛け金は、三十万で、どうだ?」カオルは話をまとめる。「そっちは五十人ぐらいはいる。仲間で頭割りにすれば、六千円ぐらいなもんだろ」
ファイトを受けたのは、相手のリーダー格とおぼしき、百九十センチはあろうかという大男だった。男は倍返しするという触れ込みで仲間からカンパを募り、三十万に足りない分は自分の財布から充当した。カオルは差し出された三十万を自分たちの三十万と合わせて、計六十万の札束にし、ちょうど二つの集団の中間に止まっていたインパラのワイパーに、無造作に挟んだ。大男は首の骨を左右に鳴らしながら、集団から一歩前に進み出た。その所作をじっと見ていたアキは、隣のユーイチにささやいた。
「デカいだけじゃなく、そこそこ場慣れもしてそうだ」正面を向いたまま、口元だけで念を押した。「ユーイチ。負けたら全額おまえの負担だぞ」
こちらから出した掛け金は、ということだ。
「分かってる」ユーイチも相手を観察している。「だが、勝つのはおれだ」
それぞれのファイターに相手側からボディチェックが入り、用意ができた。大男とユーイチ──互いに睨み合っている二人を目の前に、カオルが口火を切った。
「じゃあ、始めよう」
そう、言い終わるか終わらないかだった。大男の攻撃は前触れもなく始まった。体を反り返らせる動きも見せず、いきなりユーイチに頭突きを見舞った。反射的にその攻撃を避けようと首をひねったユーイチだったが、一瞬遅かった。頭突きがユーイチの額右半分に、ヒットした。骨と骨が激突した鈍い音が響き、ユーイチの腰が一瞬引けた。赤ギャングはいっせいに歓声を上げ、アキは腹の中で舌打ちをし、カオルは小さく笑った。
機を逃さず大男の攻撃は続いた。脇腹、肩、首筋──ユーイチの上半身のあらゆるところに拳と蹴りを見舞ってゆく。早くも勝利を確信した赤ギャングたちは、口笛を鳴らして囃し立てる。それとは対照的に、いらだった雅のメンバーは腕を振り上げている。
「なにやってんだっ、ユーイチ」
「反撃しろよ、反撃!」
だが冷静に観察すれば、二人の立ち位置は、思ったほど移動していない。つまり、ユーイチは相手の攻撃を受けながらも、下がっていない。一見、圧倒的に攻撃を受けているようだが、致命傷となる頭部はしっかりと両腕でガードしたまま、ボディに見舞われる拳も、微妙に体をずらしながら急所から外している。
うまいな、とカオルが再び笑みを見せ、ああ、とアキもうなずいた。力業で無理やりねじ伏せようとするタケシやサトルと違い、そんな器用さがユーイチにはある。
一方的に攻撃されていても、それに耐えつづけていられる限り、やがては相手が打ち疲れる時間が来る。腕や足の筋肉がだるくなり、それとともに張り詰めていた集中力が途切れる。ユーイチはその機を逃さなかった。顔をガードしていた右腕が垂直に変化し、鋭角になった肘先が、一気に相手の顔に入った。体重の乗った肘打ちではなかったが、それでも相手を怯《ひる》ませるには充分な一撃だった。体勢を崩した男の鳩尾《みぞおち》に、すかさず力のこもった左拳がめり込む。鳩尾を強く突かれると、どんな相手でも一瞬、呼吸困難に陥る。
ゴホッという苦しげな声を漏らし、相手の動きが止まった。赤ギャングたちがどよめいた。
「タケシ、ナオ。準備はできているか」二人から目を離さぬまま、アキは金髪とドレッドヘアに指示を出した。「もうすぐフィニッシュだ」
ユーイチの拳が二度、三度と的確に相手の顔を捉える。四度目のストレートが鼻を潰し、次のフックが顎をとらえる。一瞬にして攻守が入れ替わった予想外の展開に、相手の若者たちは困惑と苛立ちを隠し切れない。ユーイチはなおも攻撃の手を休めない。続けざまに顔面に連打を加えつつ、脇腹を蹴りこみ、ボディを抉《えぐ》る。いつの間にか金髪のタケシが、後方のジープの荷台に身を乗り出している。
仕上げは右のテンプル打ちだった。よろめいた相手に、ユーイチは渾身の力を込めて右拳を繰り出した。拳は滑らかな弧を描いて相手のこめかみに吸い込まれ、鈍い音を立てた。相手はゆっくりと、膝から崩れ落ちた。
「準備オーケイだ」アキの背中にタケシが言った。「ひょっとして、幕引きはおれたちの役目か」
「頼めるか」アキは言った。タケシとナオはにやりと笑った。
アスファルトに横たわった大男を見下ろしながら、ユーイチが肩で大きく息をついている。男に再び立ち上がってくる気配はない。アキはカオルにうなずいてみせた。
カオルがインパラに近寄り、ワイパーに挟んだ六十万に手を伸ばしかけると、はたして赤ギャングたちは一斉に色めきたった。数を頼んだ彼らは罵り声を上げ、その中の数人がカオルに詰め寄ろうと一歩前に出た。直後だった。
空を切る一瞬の擦過音《さつかおん》が響き、インパラのタイヤに突き立ったものがあった。黒く細い鉄の矢筈《やはず》が震えながら乾いた音をたて、タイヤの空気が抜け始める。
驚いた赤ギャングたちが振り向いた先に、ボウ・ガンを両手に構えたタケシとナオが立っていた。
「ざけんじゃねぇぞ、てめえら」元々熱しやすいタケシは、周囲に吼えた。「約束を違えるからには、それなりの覚悟はできてんだろうな、あ!」
「安心しろ。別に殺しやしない」続いてナオが醒めた声を出す。「ただ、足か腕にこいつを撃ち込んでやる。言っとくが、逆鏃《さかやじり》だ。無理に引き抜こうとすると、腱がズタズタになる。病院に着くまでは、地獄の苦しみってわけだ」
すぐさまタケシがそのあとを引き取る。
「さあ、どいつだ。真っ先に撃ち込んでもらいたいクソッタレは、え?」
その駄目押しで終わりだった。ボウ・ガンの先に赤ギャングを釘付けにしたまま、アキたちは六十万を持って悠々と引き上げた。
六十万のうち、掛け金の三十万はカオルに戻し、残る三十万のうちの半分を、ファイト料としてユーイチが取る。さらに残った十五万を、他の五人で等分する。ただし負けた場合は、掛け金は全額ファイトした者の負担となる。負担分は、他の遠征や今夜のようなパーティの支払い分から、満額になるまで天引きとなる。
七時三十分になった。店内の照明が最大に上げられ、雅のメンバーはそれぞれの配置についた。それから数分も経たないうちに、大小のティーンエイジ・グループがぞろぞろと姿を現し始めた。当然その中には、今夜のファイトにエントリーしている者も含まれている。タケシとユーイチが入口で入場料を集め、パソコンの来客名簿と照らし合わせてチェックを行う。舞台の上でファイトを行う客には、七時四十五分までに来店するようにと事前に通知してある。それまでに来ない場合は棄権とみなし、エントリーリストの補欠に控えている希望者が、来客名簿の入場した順に繰り上がるという仕組みだった。
入場してくる客を、サトルとナオが舞台に近い場所からテーブル席につけてゆく。二人は、試合中に暴動が起こりそうな場合、兆候を察知してその場を押さえる役目を受け持つ。エントリーから漏れた希望者が暴れだす場合もしばしばある。それを監視することが、主な仕事になる。
七時五十分。テーブル席はほぼ満席になった。注文を取りに忙しく立ち動くウェイター。店内には辺りかまわぬ笑い声や嬌声が渦巻いている。その大半が、渋谷界隈のストリートギャングたちだった。十代とおぼしき女の姿も、回を重ねるにつれて多くなり、最近ではかなりの数になってきている。お決まりのセーラー服に、ムンクの絵画のようなメイクを施している者もいる。どこからか情報を聞きつけて女同士で来る者もいれば、男たちの尻に付いてやってくる娘もいる。男も女も同じだった。みな、判で押したように黒い顔を照明の下に晒し、これから始まるショーへの期待に、残忍な好奇心を剥き出しにしている。
エントリー客のグループは、舞台に近い席に案内されている。カオルがエントリー済みの八人を招集した。それぞれのテーブルから立ち上がって、カオルの立っている場所に集まってくる。参戦者の試合前の挙動は、いつでも似たりよったりだ。肩を捻り、首と拳の骨を鳴らし、無意識に二の腕の筋肉を浮き立たせている。己の力をこれからの対戦相手に誇示しようとしている。観客の面前での拳闘に名乗りを上げるだけに、自らの体格にも腕力にも相当な自信を持っている。暴力に飢え、自分の強さを証明して、あわよくば賞金の二十万を手に入れようと、このトーナメントに群がってくる。最終的な勝者になれば、仲間内にもいい顔で通る。観客の中にいる尻の軽い女が言い寄ってくることもある。見たところ、今夜のエントリー者の中にも、以前の勝者が二人混じっていた。おいしい思いをもう一度味わうために、参加した連中だ。
どの顔も自己顕示と即物的な欲望にギラつき、自分が負けることなど夢にも考えていない。
カオルが集合した八人にジャンケンをさせ、トーナメントの枠組みを決めた。舞台奥のボードに歩いてゆき、決定した組み合わせを書き込んでゆく。アキは腕時計を見た。八時五分。ボードに記入し終えたカオルは、店内の隅に立っているアキに視線を向けた。テーブルの観客たちは今や遅しとショーの開幕を待っている。
アキはかすかにうなずき、三本指を立てて見せた。あと三分待て、という合図だった。次いで、観客席に顔を向けた。サトルと目が合うと、入口を視線で示してみせた。サトルがテーブルの間を抜け、タケシとユーイチのいる受付へと向かう。彼らと二言三言言葉を交わすと、サトルはその場から離れ、テーブル席を迂回してアキの傍らに来て耳打ちする。
「受付は完了してる。最終的には百二人。減員分は、参加グループからそれぞれの自然減《フエードアウト》」
「未集金は?」
「なしだ。今、集金額を人数合計とチェックしてる」
「誰がチェックしている」
「タケシだ」
アキは少し考えるふうに間をおいた。
「よし、入口を閉めろ。ユーイチにはおまえらと一緒にすぐに観客の監視につくように、タケシにはチェックが終わったらおれのところに来るように、言ってくれ」
「わかった」
アキは再び時計を見た。
「あと一分足らずでショーが始まる。急げ」
サトルは足早に入口に戻った。入口脇のカウンターには、ウェイターが数人かたまって、両手を前で組んだまま店内の様子を見ている。各テーブルからオーダーされた飲み物やフードを出し終え、一息ついている様子だ。
ワイヤレスマイクを片手に、カオルがステージの上に姿を現した。ざわついていた観客の注意が、壇上に集まり始め、店内が静かになってゆく。
テーブル席の顔の大半が自分を向いたところで、カオルは軽く微笑み、初めてマイクを口元に寄せた。
「今日も、暑かったよねえ」
聴衆に向けて、そう軽く呼びかけると、呼応する喚声が瞬時に湧き上がった。
「暑いときには誰だってスカッとしたいもんだ。だからこれから二時間、大いに弾けて、盛り上がってくれよな」
嬌声と、拍手と、テーブルを打ち鳴らす音が店内全体に渦巻き、壇上のカオルはパソコンを睨んでいた時のしかめ面が嘘のように、陽気に振舞っている。
「いつものように、とびっきりのカードを用意させてもらった。エントリーファイターは八名。一回戦四試合、二回戦二試合、それからファイナルだ。勝者には二十万のプレゼント。運が良ければ、言い寄ってくる女の子のオマケ付き」そう言って、ははっと笑った。「そうなりゃ今晩、もう一戦だ」
その野卑な冗談に、男たちがどっと湧く。客を掴むタイミング、乗せる言葉、すべて心得ている。暴力沙汰以外は、なにをやっても器用な若者。笑みを湛えたまま、カオルは続ける。
「ルールはワンラウンド無制限。寝技、立ち技、ともにオーケイ。目潰しと睾丸打ち以外は、何でもありだ。相手が失神、またはギブアップした時点でその試合は終了する。これ以上ヤバいと思ったら、こちらが止めに入る。分かったかな?」
観客が口々に応じる。
「よし。じゃあ、ショーの始まりだ」
カオルが第一試合の二人に目で合図を送り、壇上に呼んだ。壇上を見ていたアキの視界の隅に、金髪のタケシの姿が入ってきた。タケシは隣の椅子に腰を下ろした。
「金は五十一万、きっちり集金した。カウンター裏の金庫の中だ」
「扉は?」
「サトルが閉めた」
壇上では対戦する二人がゆっくりと上着を脱ぎ始めている。
「おまえ、カオルのヘルプにまわってくれ。すぐに壇上に行って、ボディ・チェックを手伝うんだ」
「分かった」
タケシがステージに上がり、上半身を剥き出しにした二人の若者に、ズボンの上から触れてゆく。ポケットや脛に兇器の類を何も隠していないことを確認すると、カオルにうなずいてみせる。カオルもうなずき返し、観客席を見て軽く笑った。
「じゃあ、第一試合の始まりだ」
再び湧き上がった歓声を合図に、壇上の二人はファイティングポーズをとった。構えた瞬間に、その勝敗の行方が、アキには感じられた。小柄な若者のほうが勝つ。相手の長身の男は気合が入り過ぎているせいか、肩や首筋に無用な凝りが感じられる。バランスの取れた力の入れ方をしていない。ぎこちないのだ。対して小柄な男は、軽く拳を構えているだけで、どこにも不自然な力みがない。素早く行動に移れるよう、筋肉に|溜め《ヽヽ》を作っている。場慣れしているのか、かなりリラックスしている。素人レベルのケンカの場合、勝敗を分かつのは必ずしも腕力の差ではない。むろんパワーがあるに越したことはないが、どれだけ的確に拳や蹴りを入れられるか、どれだけその打撃に体重を乗せられるか、ほぼその二点で、勝敗は決まる。
小柄な男が小さなフェイントを入れると、弾かれたようにノッポは攻撃を始めた。フェイントは誘い水だった。踏み込んできたノッポの右腕をかわしながら、低い重心から滑るようにフックを繰り出し、相手のボディにめり込ませる。カハッといううめき声が、ノッポの口から漏れた。怒号と野次と歓声が渦巻き、店内全体が一気にヒートアップする。
小柄な若者は間髪《かんはつ》を入れず相手の体に連打を見舞う。顎、こめかみ、肝臓。ガードが緩くなったポイントを的確に突いてゆく。単に場慣れしているだけではなく、攻撃の組み立てができるようだった。フェイントをかけ、まるで将棋の指し手のように、相手の反応を先読みして攻撃していた。当然、拳が面白いように当たっていく。
ノッポがふらりときたところで、若者はその顔面に拳を見舞った。鼻骨が潰れる音が響き、ノッポは思わず仰《の》け反《ぞ》った。さらに腹部を数回攻撃すると、いきなり足払いを掛ける。ノッポはあっけなく倒れた。尻餅をつき、鼻血を流しながら呆然と相手を見上げている。観客席の若者たちは興奮のあまりテーブルを叩き、足を踏み鳴らした。
小柄な若者は、右手の甲を下にしたまま、二本指を突き立てた。早く立てよ──そう揶揄するように、その指が前後に動く。薄く笑って見下ろしている。
その所作に、アキは嫌なものを感じた。相手を引き込んでいる。力の差は明らかなのに、なおも相手を嬲《なぶ》って楽しもうとしている。
ノッポがなんとか立ち上がろうと、前のめりに半身を浮かしかけた瞬間だった。両手を前につきノーガードの突き出た顔に、若者の体重が乗った蹴りが飛んできた。足の甲がその下顎を捉え、きれいな弧を描いて振り抜かれた。ノッポは後方に吹っ飛んだ。舞台奥の壁に当たり、そのままズルズルと崩れ落ちた。
タケシが慌ててノッポに駆け寄る。
気を失っただけのように思えた。案の定、タケシに頬を数回張られたノッポは目を覚ました。
第二試合が始まった。ステージに上がった両者の身のこなしを観察すれば、ドングリの背比べだということはすぐに分かった。どちらが勝ったとしても、先ほどの小柄な男に、二回戦以降で必ず潰される。アキの関心は急速に壇上から引いていった。
第二試合と第三試合の幕間《まくあい》だった。突如、観客席の後方で悲鳴が湧いた。振り返ると、テーブル席の中で長身の男が二人、睨み合ったまま立っている。スキンヘッドのサトルと向き合っているのは、Gジャンのベストを着た男だ。アキは舌打ちしながら素早くテーブルを離れた。Gジャンの男はサトルに向かって何か喚いたかと思うと、突然殴りかかった。予想外のファイトに、周囲の観客は湧き立った。
「やっちまえ、ヒデ!」
Gジャンの連れなのだろう、口元に小さな黒子《ほくろ》のある少女の金切り声が響く。弾かれたようにGジャンは二度、三度と拳を繰り出す。そのうちの一発を胸に喰らい、一瞬顔をしかめながらもサトルは蹴りを返した。蹴りは相手の腹部にヒットし、|くの字《ヽヽヽ》になったGジャンの顔を続け様に数回殴った。最後のフックでGジャンは横に吹っ飛び、脇のテーブル席に頭から突っ込んだ。とばっちりを避けようと、慌てて席からとびのく野次馬たち。テーブルがひっくり返り、その上のグラスや皿やビール瓶が雪崩《なだれ》落ち、Gジャンの男とともに派手な音を立てて床に砕け散る。サトルは肩で荒い息をつきながらも横に並んだアキに詫びを言った。
「すまねぇな、アキ。押さえ込みきれなくて」
「こいつが、さっき言ってた奴か?」
サトルはうなずいた。
「二試合目の途中から騒ぎ出した。こんなヘボ試合、茶番だってな」
アキは思わず笑いかけた。第二試合に関する限り、それはそうだった。しかしサトルはそんなアキの表情には気づかず、興奮したまま言葉を続ける。
「さんざ悪態をついてた。しまいには横のテーブルに因縁をつけ始めやがった。で、おれが注意したら、このザマだ」
言い終わったとき、Gジャンの男がむくりと床から半身を起こした。顔は腫れ上がって醜く歪み、口元には血が滲んでいる。屈辱と憎悪にまみれた視線が泳ぎ、アキとサトルをとらえた。直後、脇にあった割れたビール瓶を鷲掴みにして飛び起き、狂ったように二人に突きかかってきた。鋭く尖ったビール瓶の先を辺りかまわず振りまわしてくる。周囲のテーブルから悲鳴があがる。アキは攻撃をかわしながら、その瓶を持った右腕が伸び切った瞬間に、素早く相手の懐に滑り込んだ。と同時にその右手首を掴むと相手の勢いを利用してバランスを崩させ、半身を左に捻りながら背後にある相手の顔面めがけて、バック・アンド・ブローを叩き込んだ。骨まで達した確かな手ごたえが左肘に伝わり、相手の右手からビール瓶が離れた。男はそのままアキの背中にもたれかかるように、再び床に倒れた。
フロアーに大の字に伸びた男は、ピクリとも動かない。完全に気を失った男に、仲間が駆け寄っていく。そばにしゃがみこんだ若者の一人が恐る恐る男の顔面を突付いた。その顔がぐらりと斜めに傾き、半開きになった口元から細かな泡が吹き出してきた。と同時に、その両腕がわななき始める。
「ひきつけを、おこしてる」そうつぶやき、咎めるような視線でアキを見上げた。「あんた、なにもここまで叩きのめすことはないだろ?」
無表情にアキは答えた。
「刃物持ちだぞ」手加減して反撃の力を残したら、取り返しのつかない傷を負うことにもなりかねない。「じゃなきゃ、こっちがやられてた」
その言葉に、相手の若者は黙り込んだ。だが、脇にしゃがみこんでいた少女は、キッと顔を上げた。口元の小さな黒子。瞳から滲む涙で、マスカラがグズグズになりかけている。先ほどのサトルとの打ち合いの時、嬌声を上げてけしかけた女だった。
「こんな仕打ちをしてタダですむと思ってんの」男の頭を抱きかかえたまま、女はアキに食ってかかった。「訴えてやるから!」
答えようと口を開きかけたアキのそばで、クスリという笑い声が聞こえた。いつの間にか、カオルが隣に立っていた。
「さんざ焚き付けておいて、訴えるもないもんだよ」呆れたようにカオルは言葉を続ける。「ビール瓶で先に突っかかってきたのは、あんたらだろう。しかも、丸腰のおれたちにさ。こりゃ、誰が見たって正当防衛だぜ。なぁ」
最後の台詞は、周囲の観客への呼びかけだった。
そうだ、そうだ! という怒号がテーブル席から湧き上がる。
少女とその仲間は一様に唇をかんだ。カオルは小さく笑った。周りの雰囲気を読んで、すぐにそれを味方につける。
「出るとこ出たって、こっちはぜんぜんかまわないんだぜ。非はあんたらにある。家裁で争った挙句、喧嘩両成敗。手間暇かけて、今夜ここにいた連中のいい笑いものになるってワケだ。二度とこの渋谷でデカいツラして歩けなくなる」
そう言って、入口のほうのサトルに顎をしゃくってみせた。すかさずサトルは、ドアを開け放った。
「さあ。四の五の言ってる暇があるなら、とっととそいつを病院にでも運んでやれよ」
若者たちは一瞬カオルの顔を睨んだ後、Gジャンの男を担ぎ上げて出ていった。それをじっと見送ったカオルの背中に、テーブル席から拍手と歓声が上がった。
カオルは観客に微笑みかけた。
「さ、とんだ飛び入りが消えたところで、次は第三試合だ」
たくみに場の雰囲気を切り替えて、何事もなかったようにステージに戻っていった。その後ろ姿を見ながら、アキはカウンターに近づいていった。
刃物持ちを相手に少し緊張したせいで、喉が渇いていた。
「水を、くれないか」
アキと同年代らしきバーテンがこくりとうなずき、冷蔵庫からペットボトルを出してグラスに注ぎ、彼の前に置いた。
口をつけようとしたアキの背中に、声がかかった。
「あんた、強いな」
振り向くと、第一試合で勝った小柄な若者が、グラスを手にしたまま口元で笑っていた。相手は近づいてくると、アキの隣のスツールに腰を下ろした。
「ふつう光物《ひかりもの》を手にされると、どうしたって身が竦《すく》んじまうもんだ」若者は得々と言葉を続ける。「ところがビビるどころか、逆に懐に潜り込んで、バック・アンド・ブロー一発で相手を床に沈めちまった」
「………」
無言のアキに、若者は再び薄笑いを浮かべた。
「あんたが、このパーティを仕切ってんのか?」
アキは相変わらず黙ったまま、二口、三口とグラスの水を飲んだ。暴力にまみれた、ろくでもない生活を送ってはいるが、アキ自身それを面白いと思ったことは一度もなかった。単に効率のいい仕事として、食うためにやっている。食うために、体を鍛えている。好きも嫌いもない。それだけのことだ。
相手を倒した直後に見せた、この若者の酷薄な笑い。明らかに実力の違う相手を嬲って、サディスティックな愉悦を楽しんでいた。
偉そうなことを言える立場でないのは、自分でも分かっていた。だが、そんな男にケンカが強いというだけで親近感を持たれたことが、疎《うと》ましかった。
返事をしないアキに、バーテンがちらりと視線を投げる。無視に等しい状況に、若者は少しいらついた。
「おまえよ、耳がないのか?」
「耳は、ある」アキは言って、店内奥のステージを見つめた。客の声援を浴びて、壇上でファイトが続けられている。第二試合と同じく低レベルの戦いだった。「だが、あんたとは話す気になれない」
一瞬にして暴力の気配が膨らみ、若者は刺すような一瞥《いちべつ》をアキに投げかけた。アキはその視線を平然と受け止めた。つかの間、睨み合いが続いたが、先に目を逸らしたのは若者のほうだった。若者は憤然と席を立った。
「そうかよ。邪魔して悪かったな」
吐き捨てると、荒々しく足音を立てながらテーブル席へと戻ってゆく。
アキの左手に握られたグラスは、空になっていた。バーテンが初めて口を開いた。
「アキ、もう一杯飲むかい」
「いや、いい」アキはスツールから腰を下ろした。「悪いな」
バーテンは笑って首を振った。
「あんたたちのおかげで、店も潤う」
アキは曖昧な笑みを浮かべるとカウンターを離れた。ステージでは第四試合が始まっていた。テーブル席を抜ける途中、サトルが寄ってきて、肩口でささやいた。
「……さっきはすまない」サトルは視線を合わせずに言った。「手間を取らせちまって」
Gジャンの男がビール瓶を手に立ち上がった時、サトルが一瞬棒立ちになったのを、アキは目の隅で捕えていた。その時のふがいなさを恥じている。そしてその事実を、アキがどう思っているか、気にしている。
「いいさ」そう言って、相手の立場をたてた。「たまたまおれのほうが近かった。だから対応した」
サトルはほっとしたようにうなずき、アキから離れていった。
ステージ脇のテーブルに腰を下ろしたアキは、壇上の試合を見物した。盛んに打ち合ってはいるが、どちらも隙だらけだった。最前列の席では、それぞれの若者たちを応援するグループが、拳を上げ、身を乗り出し、口から泡を飛ばしながら喚き立てている。その観客の向こうに、先ほどの小柄な若者が見えた。腕組みをし、小馬鹿にしたような笑いを浮かべたまま、壇上の戦いをじっと見ている。
試合中、カオルがステージ脇からアキのテーブルにやってきた。
「あいつ、強いな」アキの視線の先を追って、カオルが言った。「今日は、あいつで決まりだろ」
「たぶんな」アキはうなずいた。「だが、ヤな野郎だ」
カオルはにこりと笑った。
「それでも強けりゃ、客は喜ぶ」
双方ヘトヘトになりながらも、一方の拳が他方の顎をとらえ、相手は床に転がった。カオルが再び壇上に戻り、倒れた相手に続行の是非を問いかける。相手は首をかすかに振り、一回戦最後の試合が終わった。
二回戦第一試合。一回戦第一試合と第二試合の勝者が、壇上に上がった。結論から言うと、勝負にもならなかった。小柄な若者は先ほどのファイトと違い、いきなり攻撃に出た。相手に息をつくひまも与えず、三手目でこめかみに決定的な打撃を加え、開始十秒足らずで対戦相手をステージに沈めた。一回戦とは打って変わったあまりの速攻に、観客も息を呑んだ。
第二試合。だらだらと続いた打ち合いの後、最後まで気力を失わなかった一方が、なんとか勝ちを拾った。
二回戦が終わった後、十五分のインターバルをとった。再びカオルがアキのもとにやってくる。
「集金は、終わってるんだよな」
その問いかけに、アキはうなずいた。
「カウンター裏の金庫の中だ」アキは言った。「ファイナルの前に、賞金は出しておく」
「そのほうがいいな」観客席に見え隠れする二人のファイナリストを見比べながら、カオルもうなずく。「あの小さいやつの相手には気の毒だが、一瞬でケリがつくだろうから」
テーブルの間を、ウェイターが忙しく立ち動いている。パーティが始まるとステージ上のファイトに視線が釘付けになるせいで、ほとんどの観客はドリンクやフードをオーダーする余裕がない。だから毎回、このインターバルで一気に追加注文が殺到する。
横に座っているカオルが大きなあくびを漏らし、腕時計を覗き込んだ。
「今、九時半だ。十時前にはお開きだ」アキに話しかけてくる。「その後は、どうする? 久しぶりにあいつら連れて、飲みに行くか」
「おまえ、どっちがいいんだ」
カオルは軽く片眉を上げてみせた。
「べつに」カオルは言った。「おまえに任せるよ」
少し考えてアキは答えた。
「今夜は、やめとく」
「じゃあ、家に帰って野菜炒めでも食おうぜ」
アキは顔をしかめた。
「また、それか」
「作ってもらってるくせに、ゼイタク言うなよ」カオルは口を尖らした。「食物繊維は体にいいんだぞ」
休憩時間も半ばを過ぎた。まだ話をしたそうにしているカオルを置いて、アキは席を立った。テーブル席を抜けてカウンターに行き、バーテンに頼んで内側から金庫ボックスを取り出してもらった。カウンターの裏手にまわりこむ。そこに、小さな倉庫兼事務所がある。内部は四畳半ほどの正方形のスペースで、小さなテーブルと椅子が何脚かあり、周囲の壁には箱詰めにされたビールやスナック菓子、簡単な食材が積み上げられている。
金庫を片手に持ち直してドアを開けると、小さなテーブルを挟んだ部屋の奥に、赤いアロハの髭面が座っていた。片肘をついたまま、ぼんやりとピースをふかしている。
「スタッフの様子は見てなくていいのか」テーブルの上に金庫を置きながらアキは聞いた。「もうすぐファイナルだぞ」
「必要ないだろう」煙を吐き出しながら、店のオーナーは答えた。「休憩の前にオーダーの準備は整えた。後はあいつらがうまく捌《さば》くだけだ」
「そんなものなのか」
「疲れるんだよ」
「え?」
「人が殴り倒される。それを見て、小僧どもがギャンギャン吼え立てる」
整髪料で撫でつけたその髪に、ちらほらと白髪が見える。アキは言った。
「あんた、歳なんだよ」
髭面は苦笑した。
「言ってくれるな」
テーブルに座り、金庫の蓋を開けた。札の種類ごとに輪ゴムで止められ、さらにそれが十枚ずつ束ねられている。メンバーもやっと金の纏め方に気を使うようになった。それまではカオルが口を酸っぱくして何度も注意していたものだ。
札の種類ごとに数え直し、それを合計していった。タケシの言った通り、五十一万きっちりあった。その中からまず賞金の二十万を抜き取り、さらに残額からメンバーのバイト代十二万円を差し引いた。最終残額十九万を、尻の右ポケットに捻じ込む。これが今日の基本収入。
「今夜のキックバックは要らない」アキはオーナーに言った。「さっき壊したグラス代とテーブルの補修代に廻してくれ」
Gジャンと揉めた時にひっくり返したテーブルのことだ。髭面はうなずいた。
「おまえとカオル、この仕事でひと月にいくら稼いでいる」
「大体七十万から八十万の間だ」
「他のメンバーは?」
「バイト代として、月に十万弱を払っている」
「それで、不満が出ないのか?」
「あいつらにも別に、均《なら》せば月に二十万ぐらいの稼ぎは用意してある」遠征の仕事のことを言っていた。当事者になって勝った場合の十五万のファイト料。それに付き合う手間賃として一回に約三万。そんな遠征が月に三、四回。アキとカオルはこのファイトには加わらない。つまり、メンバーは平均月一回のファイターとなる。
「それをプラスすれば、月に約三十万。週に多くて二晩付き合うだけで、それだけの収入が転がり込んでくる」
「なるほど」
「おれとカオルは、その収入も合わせると月に九十万から百十万の間、つまり一人アタマ五十万弱の稼ぎにはなる。だが、それは、客を集めるための通信費、採算ベースの検討、利益が出なかったときの尻拭い。すべて二人でまかなっているからだ。リスクもある。時間もかかる。かたやあいつらは、ただここにやってきてヘルプするだけでそのバイト料がもらえる」
「つまり、その手間と責任を考えれば、おまえたちとメンバーの二十万の収入差は当然というわけか」
「そこまでは言ってない」アキは言葉を重ねる。「ただおれがメンバーなら、不満を覚える待遇じゃないね」
事実、その通りだった。設立当初の頃のメンバーは、ただアキの腕力に恐れ入って従っているだけだった。一年ほど前にユーイチとナオが傷害事件を起こした時、アキとカオルはその相手への示談金を払う代わりに、二人を雅から追放しようとした。後先のことを考えずに不用意に組織を危険に晒した二人にうんざりしたからだ。
ユーイチとナオはアキに泣きついた。いまさらおれたちに、時給八百円のバイトでも探せっていうのかよ、と。飴と鞭の、鞭の時期は去り、メンバーには飴の甘さが手放せないようになっていた。リーダーを核とした一枚岩の組織──あえて力を見せなくとも、アキとカオルの示す方針は、絶対的なものになっていた。
オーナーはアキをじっと見て、再び口を開いた。
「末恐ろしいガキどもだ」
「雅がか」
「いや」オーナーは首を振った。「おまえとカオルのことだ」
アキは鼻で笑った。
「マトモな仕事して、納得できる世の中かよ」
壁の向こう側から聞こえてくる観客の声援が、ひときわ大きくなった。
金庫の底にあった封筒を取り出し、賞金とメンバーへの支払いをそれぞれ中へ入れてゆく。封筒の束を片手にフロアーに出ると、すでにファイナルは始まっていた。
壇上で、二人の若者が戦っていた。充分に余力を残して勝ち上がってきた者と、なんとか僅差で勝ちを拾ってきた者の戦い。ファイナルに至るまでのプロセスの違いが、すなわち実力の違いだ。戦いというより、一方的な玩弄に近い。空を切る相手の拳。その間隙を突いて、小柄な若者の手足が的確に相手の急所をとらえてゆく。テーブルに腰を下ろしながらも、アキの視線は壇上から離れなかった。そのうちにある事実に気づいた。このファイナルのステージでは、小柄な若者はどんなに相手の顔がノーガードになろうとも、そこを攻めようとはしなかった。一発で沈められる顔面は狙わず、あえてボディばかりを攻撃している。ファイナルの後に控える試合はない。つまり、体力を温存するために早急に勝つ必要はない。太腿にローキックが飛び、脇腹を右拳が抉り、鳩尾に肘を突き込む。急所打ちにも、相手が倒れるような体重の乗せ方はしない。少しずつ相手を弱らせて勝敗の瞬間を先延ばしにし、その過程を楽しんでいる。
その顔に、ちらりと浮かんでは消える酷薄な笑み。アキはマルボロに火をつけ、長い煙を吐き出した。若者は、なおも単発的な攻撃に終始する。やがて、ついに耐性が切れたのか、相手は堪《たま》らず片膝をついた。
くる、とアキが思ったのと、小柄な若者の蹴りが相手の顔面に飛んだのは、ほぼ同時だった。一試合目と同じ仕上げ方だった。満を持した蹴りがこめかみをとらえた。対戦相手の首は衝撃に捩れ、体全体が横に吹っ飛んだ。それで終わりだった。湧き上がる歓呼と怒声。タケシが床に伸びた対戦相手の両腕を掴み、袖に引きずっていく。
壇上から降りた若者は、同じテーブルの取り巻きから騒ぎ立てられている。
アキは立ち上がり、舞台袖に立っていたカオルに、賞金の入った封筒を手渡した。
「ファイナルの試合は、おれも注意して見てた」
受け取りながら、カオルはアキに笑いかけた。
「確かに、ヤな野郎だ」
そう言い残すと壇の中央まで歩いてゆき、マイクを手に取った。小柄な若者を再び壇上に呼び、賞金を手渡した。拍手と歓声が起こり、幕となった。
「じゃあ、みんな、今度の開催予定は、来週の木曜」カオルは言った。「予約はいつもの通り、メールで受け付けてるから、よろしく」
もう一度拍手が鳴り、客が席を立ち、ぞろぞろと出口に向かってゆく。歩きながら、まだ興奮冷めやらぬ表情で口々に今日の対戦内容を蒸し返している。
客があらかた出払ったのを見届けた後、カオルが軽い足取りで壇上から降りてきた。
「九時五十分だ」カオルは時計を見ていった。「わりかし、早く終わったな」
アキはうなずいた。
「さっさと精算を終わらせちまおう」
「分かった」
カオルはアキの隣に座ると、テーブルの下からパソコンの入ったバッグを取り出した。中を開け、袖のポケットから四通の封筒を取り出した。現金が入っている。そのうちの一通だけ、少し分厚い。先週の遠征分の支払いだった。テーブルの上に置かれたその四通の上に、今度はアキが今日の支払い分の封筒をそれぞれ載せていく。
「商売繁盛だな」
顔を上げると、先ほどの小柄な若者が取り巻きを連れて二人の前に立っていた。口の端をゆがめた笑いを浮かべ、アキをじっと見下ろしている。
すかさずカオルが愛想よく対応する。
「まあ、なんとかやってるよ」そう言って笑いかけた。「今日は、お疲れサン」
「最後の試合、良かったろ」若者はカオルに構わず、なおも言葉を続ける。「一瞬で終わっちゃ、つまんねぇだろうと思って、おれなりに気をつかったつもりなんだぜ」
だがアキは黙ったまま、一人分ずつ封筒を輪ゴムで止め、重ねてゆく。それが終わった時点で、カオルに言った。
「あいつら、呼んできてくれよ」
あからさまな無視だった。カオルは苦笑いを浮かべ、若者の取り巻き連中は激昂した。
「おい、てめぇ、リュウイチに返事しろよ」
カオルが軽くアキの肩を叩き、席を立った。
「じゃあ、呼んでくる」
「頼む」
そう応じて、アキは若者たちに向き直った。
「パーティは終わったんだ。あんたらとケンカするつもりもないが、知り合いになる気もない。だから、帰ってくれ」
さらに言葉を発しようとした取り巻きを、リュウイチが手で制した。
「分かった」リュウイチは静かに言った。「つまり、何が何でも、おれとは話をしたくないってことだな」
「必要、ねぇだろ」
リュウイチは冷ややかな視線を向けたまま、また口元をゆがめた。
「嫌われたもんだ」
その態度に、ふと疑問がアキの口をついて出た。
「そっちこそ、何でおれにこだわる」
「そのうち、分かる」
言い残すと、仲間に顎をしゃくり、出口に向かった。途中、カオルが引き連れた雅のメンバーと行きちがう。互いのグループに一瞬緊張が走り、すぐに消えた。
雅の五人がアキのテーブルにやってきた。カオルが出口から出てゆくリュウイチたちを見やり、口を開いた。
「ずいぶんおまえにご執心みたいだったな」
「おれには、そうされる理由はない」
アキは四組の封筒をそれぞれに手渡した。
「アキ、久しぶりに飲みに行かねぇか」スキンヘッドのサトルが遠慮がちに誘う。「今日はおれのオゴリでもいいから」
まだ、さっきの件を気にかけていやがる。そう思ったが、アキは笑って首を振った。
「タケシに奢《おご》ってやれよ」雅の集会以外の場では、この二人がよくつるんでいることを知っていた。「タケシがステージの仕事をやってなかったら、おれも後ろの騒ぎには気づかなかった」
タケシが笑い、サトルの肩を叩いた。
「ま、そういうことだな」
まずタケシとサトルが、次いでユーイチとナオが軽く手を上げて店を出ていった。
音楽が切れ、照明の上がったガランとした店内に、アキとカオルが残った。ウェイターたちが、テーブルの片付けに忙しく立ちまわっている。
カオルが大あくびをした。アキは尻ポケットの札をテーブルの上に放り出した。
「十九万ある」アキは言った。「店のケービー分は、壊したグラス代とテーブルの補修費に当ててもらったぞ」
カオルはその金をバッグにしまった。そして天井を見上げ、指を折り始めた。
「モヤシと豚肉の賞味期限が、たしか今日までだった。キヌサヤもやばい」
「だから、野菜炒めは嫌だって言ってるだろうが」
二人はテーブルの間を抜けて、店外へ消えた。
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どんな状況下でも、用心するに越したことはない。それが三人の共通した認識だった。
一泊七万のスイート・ルームは、この日のために予約しておいた。窓のカーテンを全て閉め切り、ドアにはロックをかけ、チェーンまで施錠している。テーブルを挟んだリビングのソファに、三人の男が腰を下ろしていた。
テーブルの上には、空になったビール瓶と、飲み干したグラスが三つ。先ほど三人でささやかな祝杯をあげた。
「さて」
口火を切ったのは、三十代半ばの目つきの鋭い男だった。広い額からおりてくる面長の顔は、奥まった眼孔、高い鼻梁《びりよう》へとつながり、引き締まった薄い口元へと続いている。細身だが、半袖のシャツからのぞく長い腕には、よく鍛え込まれた筋肉の束が浮き立って見える。
「そろそろ、はじめようか」
テーブルの反対側に座っていた二人の男は無言でうなずいた。一人は、口火を切った男とほぼ同年輩の、大柄な男だった。単に大柄なだけではなく、サマージャケットの上からもその骨格と肉付きのよさは窺い知れる。太い眉に、すわりのいい大きな鼻が正面を向いている。
もう一人は、ややくたびれた感じの五十がらみの胡麻塩頭だった。眉間にも歳相応の皺が刻み込まれ、午前三時過ぎということを差し引いても、肉体的な疲労だけとは思えないほど、両目の下にげっそりとした隈が浮き出ている。
ビール瓶とグラスを片付け、テーブルの上をさらな状態に戻した。
大柄な男がかすかに喉を鳴らした。
この瞬間のために、三人は半年前から計画を練り、暇を見つけては何度も客のふりをして下見を行い、準備を重ねてきたのだ。
細身の男が、脇に置いていた重そうなボストンバッグをテーブルの上に載せた。中央部にありふれた英文字のロゴの入った、どこにでも売っていそうな黒いバッグだ。
男はファスナーを全開にし、おもむろにそのバッグの底を両手で掴むと、逆さにして持ち上げた。開口部からテーブルの上に、大量の札束が音を立てて落ちてきた。無造作に輪ゴムで纏められたものもあれば、きっちりと帯封された札束もある。
決して被害届が出されるはずのない札束の山──。
当然、その金の行方をめぐって、警察の捜査が開始される恐れもない。
大阪・ミナミに本拠をおく広域暴力団『松谷組』が経営する非合法のカジノバーが、六本木六丁目のアマンドにほど近い雑居ビルの地下にある。
以前から関東進出を狙っていた『松谷組』は、五年前、この地場の博徒系暴力団『麻布桜花会』を傘下に収め、六丁目にカジノを開いた。通常日の運営は飲食収入が主体で、ディーラーもお飾り程度の存在でしかない。時間を決め、チップを店が用意した景品と換えるという余興の範囲内で行われていたが、金曜の夜だけは「当日会員専用」の看板のもと、完全な非合法の営業に切り替えられる。通常日の営業で特に金回りの良さそうな客に目をつけ、金曜の催しをこっそり耳打ちするという形で、集客が行われていた。
彼ら三人は、そこに目をつけた。
まず胡麻塩頭が平日に何度か出向き、テーブルに金をばら撒いた。はたして三度目にスタッフが耳打ちしてきた。毎週金曜の夜に、特別の催しがあるという。当日は、入口のスタッフが予約の有無を確認する。「一週間前にブッキングしてある」と答えれば、それが共通の符牒となり、入室が可能となる、と。
事情が分からずに予約はしていないと答えた人間は、そのまま帰されるという仕組みだった。
初回の金曜は胡麻塩頭と細身の男で、一カ月置いて二回目は細身と大柄な男のペアで、三回目以降はそれぞれが一人ずつ、一カ月おきに内部の下見兼仕込みをした。五カ月間に、それぞれ一人ずつが二回しか顔を出していない計算だった。しかも、かなりの時間をおいて。金曜日のスタッフになるべく顔を覚えられないようにするためだ。
そして昨夜の午後九時。この部屋に集まった彼らは、図面を広げ、役割分担の最終確認を行った後、準備を整えてホテルを出た。午前一時半に、大柄な男の運転するインプレッサで、カジノバーから少し離れたパーキングメーターに駐車した。
ビルの裏手にまわった三人は、まず、外壁から地下に空気を送り込む空調設備のダクト内に細工を開始した。持ってきたバッグの中に、タイマーのキットを後付けした、無色無臭の|手榴弾型催眠ガス《スリーパーグレネード》が入っていた。
ガスの入手を担当したのは、細身の男だった。大まかなプランが決まった三カ月前、小樽でロシアン・マフィアに渡りをつけ、旧ソヴィエト軍の横流し品を、百二十万で仕入れた。
それに手製のタイマーとモーターを取り付け、ダクト内にセットしたのは胡麻塩頭だった。もともと弱電と空調関連施工業者の彼は、その装置をビル吸気ダクトのどの位置に取り付ければ効果的かを熟知していた。空調のファンを一時取り除き、ダクト内部を覗き込む。それから、きっちり一時間後にモーターがまわりだしてグレネードのピンが外れるようにタイマーをセットし、他の二人にうなずいてみせた。胡麻塩頭はタイマーをオンにした。オンにすると同時に、三人はそれぞれの腕時計のストップウォッチをスタートさせた。胡麻塩頭はそのグレネードを周辺装置ごとダクト内に設置し終えると、再び素早く空調のファンを取り付け始める。取り外した時間が長くなると、地下のエア・コンディショナーに異常が起こるためだ。
数分後、細身の男と大柄な男が雑居ビルの階段を下り、地下のカジノ・バーの入口に立った。金属の扉の前にいた用心棒が、二人に予約の有無を尋ねる。彼らは符牒でそれに答え、上着から足元までボディチェックを受けた。だが、周囲が暗いせいもあり、用心棒は二人の男の靴底が少し厚めなのには気づかなかった。
大柄な男は手ぶらだった。細身の男のセカンドバッグが調べられた。中には見せ金として三百万が入れてあった。用心棒は無言でうなずくと、扉のサイドに付いている電磁ロックの暗証番号を押した。用心棒の広い背中で、その指先は見て取れない。いつも、そうだった。カチリ、と乾いた音がして、分厚い鋼鉄のドアが開いた。
週末ということもあり、店内は客でごった返していた。カウンターバーあり、ルーレットあり、バカラやブラックジャックのテーブルありと、およそ六十坪の広さの中に、三十人以上の客がひしめいている。その多くが個人事業主や会社役員などだが、芸能関係の顔もちらほらと見える。ドラマで売り出し中の若手俳優や、ミリオンセラーを連発させているロックシンガーが、熱に浮かされたようにテーブルの上のゲームに興じていた。都内でもこれほどの上客を集められる非合法のカジノはない。しかも、今夜は予想以上の大入りだった。二人は視線を合わせ、互いにちらりと笑った。
カウンターで百万だけをチップに替え、それを二人で分けると、それぞれがバカラとルーレットのテーブルに着いた。ゲームに参加しながら、もう一度、店内のスタッフの配置を頭に叩き込んだ。用心棒が二人、部屋の奥の両隅に並んで立っている。二台のルーレットのディーラーが二人と、バカラとブラックジャックの胴元がそれぞれ二人。バーテンが二人。それに、フロア・マネージャーと換金・レジ係の計十人だった。
腕時計のストップウォッチが、スタートから四十五分を経過した。
まず細身の男が出口脇の男性用化粧室に入った。二つある洋式トイレの奥のブースに入ると扉を閉め、化粧室に誰も入って来ていないことを耳を澄まして確認してから、便器の蓋を下ろして上に乗り、天井の隅にある点検孔の蓋を持ち上げて、ずらした。穴の中に片手を突っ込み、手探りで目当てのものを取り出す。次いで素早く蓋を閉め、便器の上に座り直した。男の掌に、直径二センチ、長さ十センチほどの細い棒状の筒が二本、載っている。簡易式のエア・プロテクター。連続使用時間は、約十五分。その筒の中央には、口に咥《くわ》えられるようにマウスピースのような突起物がある。筒の両端の穴を通して吸い込まれた催眠ガスは、途中幾層ものイオン・フィルターを通過してその成分が濾過《ろか》・中和される仕組みになっていた。これもロシア人から催眠ガスとセットで手に入れたものだ。一つ二十万。厚底の靴のラバーに仕込んで、あらかじめ前回の下見の時に持ち込んでいた。
四十八分。相方の大柄な男がトイレに入ってきた。
「柿沢」大柄な男は他に誰もいないことを確認すると、ブースに向かって小さく問いかける。「アレは、大丈夫か?」
柿沢と呼ばれた細身の男は返事の代わりに、内側から扉を二度ノックした。大柄な男もその隣の個室に入り、扉を閉めた。
二人の男がそれぞれ個室の中で、靴底を剥がし始めた。ほぼ同時に、右の靴底から、まるでミニチュアのような小さな拳銃を取り出す。掌にもすっぽりと収まるほど小ぶりの、ずんぐりとした拳銃──レミントン・ダブルデリンジャー。ハンマーコックを引き上げ、その短い銃身を銃把から逆手に捻り、中折れのバレルを開ける。左の靴底から同じく豆粒のような弾丸を取り出し、上下の穴に一発ずつ装填し、バレルを閉じ、再びロックをかける。遊底からではなく、銃身に直接弾丸を装填するというのが、この銃の特徴だった。銃把があまりにも小さいため、通常の銃のようにマガジンを装備できないためだ。靴底から取り出した残りの弾丸二発は、予備としてポケットに忍ばせる。
一分後、それぞれ銃をポケットに入れた二人は、靴底を改めて取り付け、互いに隣の個室へ終わったという合図のノックを送った。
二人は同時に個室から出て、顔を見合わせた。
「五十一分経過」大柄な男は腕時計を見て、軽く笑った。「ここまでは、予定通りだ」
柿沢は黙ってエア・プロテクターの一つを相方に手渡した。
二人揃って、部屋に戻る。奥の壁にかかった時計が、午前二時四十分を指していた。カジノは三時に閉店になる。この時間帯から入店する客がいないことは、実地に調査済みだった。ましてや残り二十分になって出てゆく客もいない。全員が閉店まで粘るはずだった。奥の壁にかかった時計の横にある大型のエア・コンディショナーから大量の冷気が吹き出しつづけている。すぐ脇にあるバカラのテーブルのカードを飛ばさないように、風は吹き出し口から直下に出ていた。二人の用心棒は、そのエアコンの真下に突っ立っている。大柄な男はさりげなく腕時計を見た。タイマーオンから、五十五分経過。あと五分経てば、無色無臭のガスがダクトを通って流れ出てくる。そのガスを最初に吸い込むのは、彼らのはずだった。変事に備えて監視を続けている彼らが、最初に倒れてくれる。それも計算のうちだった。
腕時計が五十六分を指した。柿沢はバーカウンターに近づき、作り置きしてある水割りを二つ手に取った。相方を誘い、そのエアコンの奥の壁とは反対側の、出入り口脇のソファに腰を下ろす。
ガス噴出時にこの位置を選んだのには、二つの意味があった。まず一つは、ガスを吸い込むタイミングを、この会場の誰よりも遅くできる。結果、プロテクターを取り出して咥える動作を最大限まで遅らせることができ、倒れる前の人間たちに、筒を咥え込んだ自分たちの奇異な姿を見られる可能性が少なくなる。たとえ警察に届けられることがなくても、目撃証言は可能な限り抑えたかった。
二つ目は、ガスの効き目が予想より緩やかだった場合の対応だった。用心棒とテーブルの客が次々と倒れ始めれば、まだ正気を保っているスタッフがすぐに救急車を呼ぶか、外部に連絡をつけようとするだろう。外部に一人残っている胡麻塩頭が、ガスが噴出した直後に電信ケーブルを切断することになっている。会場の電話は不通になり、この密閉した地下空間では携帯電話もつながらない。当然、スタッフは外に出て、地上から何らかの連絡を取ろうとするだろう。外側からは電磁式だった入口の扉も、内側からはノブを廻すだけで簡単に開くようになっていた。それを阻止するために二人はポケットに銃をしのばせ、入口に陣取ったのである。
五十九分三十秒。プロテクターを取り出そうと、ポケットに手を突っ込んだ相棒の腕を、柿沢はさりげなく押さえた。
「まだだ」
低い声で、ささやく。
五十九分四十五秒。会場の客はみな、閉店間際の勝負に熱くなっており、出口の二人に注意を向ける者はいない。
五十九分五十秒。五十五秒………。
相棒はじりじりとしながらもう一度柿沢を見た。彼は再度、かすかに首を振った。
六十分、ジャスト。
予定通りなら、ガスがこの部屋のエアコンに向かって、ダクト内を流れ始めたはずだった。
三秒経過、五秒経過。ガスが噴出してきても、彼らには目視する術《すべ》がない。
十秒が過ぎた。それまでじっとタイミングを見計らっていた柿沢が、初めて相方にうなずいてみせた。ほぼ同時に二人はプロテクターを口に咥えた。
直後だった。エアコンの下にいた用心棒の一人がよろけたかと思うと、次の瞬間には声も出さずにフロアーに倒れこんだ。続いてもう一人もカクッと首を落としながら、腰砕けになって床に伸びる。その光景に気づいた客がテーブルから立ち上がろうとして果たせず、椅子の上に力が抜けたように崩れ落ちた。まるでそれが合図のように、客は奥のテーブルからドミノのように倒れ始めた。胴元が取り落としたカードがテーブルの上に散らばり、バーテンの手からすり抜けたグラスが派手な音を立てて床に砕け散る。
ただならぬ異変にいち早く反応したのは、レジ脇にいたまだ三十代前半とおぼしきフロア・マネージャーだった。あわてて受話器を取り上げると素早くプッシュボタンを押し始めたが、途中で不通になっているのに気づくと愕然として周囲を見まわした。一瞬、視線が柿沢たちをとらえる。が、そこまでだった。隣の会計係とほぼ同時にハイカウンターの上に半身を突っ伏すと、そのままずるずるとカウンターの内側に沈み込んでいった。
三十秒が経過。会場内は不気味なほどに静まり返り、ガスを噴出し終えた空調の音が静かに響いているだけだった。床には完全に意識をなくした人間がごろごろと転がっている。死人の山のようだった。
一部始終を見ていた二人は、それぞれ薄いゴム手袋を取り出すと素早く行動を開始した。柿沢は片手をついてハイカウンターを飛び越えると、その内側に伸びていた会計係を押しのけ、レジの真下の棚をさぐる。その一番下に大きな携帯用の金庫ボックスが置かれていた。
下見の時、会計係がレジが一杯になるたびに札束を取り出し、カウンターの内側のどこかに移し替えている姿を、彼は確認していた。その移し替えの時間があまりにも早いので、おそらくはこのような簡易式の金庫だろうことも予想のうちだった。
彼はカウンターから顔を上げると、入口に留まったままの相棒にうなずいてみせた。相棒も行動を起こした。息を詰め、プロテクターを外しながら扉のノブにそっと手をかけ、開けた扉の隙間に素早く身を滑り込ませる。ドアの外側には用心棒が彼に背を向けて地上から続く階段を睨んでいた。通りから聞こえてくる騒音で、背後のドアが静かに開けられたことには気づいていない。音を立てないよう、ドアの隙間にプロテクターを挟むと、わざと咳払いした。驚いた用心棒がこちらを振り向いた瞬間、彼は手に持っていた銃把でそのこめかみをしたたかに殴りつけた。用心棒は声も出さずに床に崩れ落ちた。彼は途中まで階段を上ると、地上に向かって低く叫んだ。
「オヤジさん」
時をおかず、先ほどの胡麻塩頭が階段の上に姿を現す。手には黒いボストンバッグと工具箱を持っている。彼は素早くその両方を受け取り、ドアに挟んでいたプロテクターを咥え直し、地下室へ取って返した。
室内では柿沢が大きな金庫ボックスを棚から引きずり出し、ハイカウンターの上になんとか持ち上げたところだった。その様子からして、かなり重そうな印象を受けた。自然と彼の頬は緩んだ。工具箱から太いマイナスドライバーとモリブデン製の大きなプライヤーを取り出し、柿沢に手渡す。柿沢は、その金庫の蓋と箱のわずかな隙間に強引にマイナスドライバーをねじ込み、取っ手を縦に捻った。大きくなった隙間の中央に、蓋の蝶番《ちようつがい》がかすかに見える。柿沢はその蝶番の両側にプライヤーの刃先をあてがうと、把手を持つ両腕に、渾身の力を込めた。
パチン、と鉄の切れる音がして、あっけなく金庫の蓋が開いた。
週末の掻き入れ時、しかも閉店間際のことである。案の定、中には札束がぎっしりと詰まっていた。二人はプロテクターを咥えたまま、互いに目元で笑った。
ビルの外壁では胡麻塩頭が再び空調のファンを取り外し、ダクト内部を覗き込んで、噴出の終わった|催眠ガス《グレネード》の撤去に取りかかっていた。噴出口にティッシュをふわりと載せて完全にガスが止まっているのを確認した後、周辺装置ごと外に引きずり出す。
催眠ガスからアシがつくとはまず考えられなかったが、それでも現場に残る特殊な証拠物件は極力消しておくに越したことはない。それが今回のプランナーである柿沢の考え方だった。彼はその考えを忠実に履行した。キットごと脇のバッグの中に放り込むと、室外機をダクトの吸入口に取り付けにかかる。慣れた手つきでファンの四隅にあるボルトを、外壁のねじ穴の中に埋め込んでいった。
わずか一分ほどで元通りに取り付けを完了した彼は、室外機の外枠を濡雑巾で丁寧にぬぐった。指紋を消すためである。
雑巾をポケットにしまうと、改めて腕時計を覗き込んだ。
一時間四分四十五秒。ガス噴出より約五分経過。予定では地下の作業も終了する頃合だった。
地下の会場では、柿沢が金庫の札束の大半をバッグに移し替えていた。相方は、床に横たわったままの客とカジノのスタッフ──とりわけ用心棒の二人を常に目の隅でとらえながら、自分たちが手にしたグラスや、触れたと思われるテーブルの縁をウェスで念入りに拭いていった。
金庫の札束を全て移し終えた柿沢は、最後にレジのボタンを押し、キャッシャーを開けた。そこに収納されていた残りのバラ札をもバッグの中に押し込んで、ファスナーを閉める。
一時間六分経過。それぞれの作業を完了した二人は素早く地下室を後にした。ドアを開け、まだ気を失っている用心棒を尻目に、地上への階段を駆け上がる。
路上で待機していた胡麻塩頭と合流し、五十メートルほど先に停めていたインプレッサに乗り込み、現場を後にした。
目の前の札束を眺めながら、無表情に柿沢が言った。
「数えよう」
三人で手分けしてまず札束の個数を数え始めた。テーブルの上に、百万の束を十個ずつ重ねて並べていく。一千万の札の山が八つと、端数の札束が七つできた。次に柿沢はキャッシャーの中にあったバラ札を纏め、数え始める。一度数え終わり、もう一度数えて二人を見上げた。
「このバラは、二百三十六万ある」
胡麻塩頭が素早く合算する。
「すると、全部で八千九百三十六万だな」
続いて三人は、それぞれの内ポケットからホッチキスでまとめた領収書とメモ書きを取り出した。
「一万以下の端数は切り上げでいこう」柿沢は言った。「おれの分は、小樽までの往復交通費・宿泊費が三回分と、ガスとプロテクターの仕入額、ここの一泊分。併せて百七十八万九千円。百七十九万だな。桃井、おまえは?」
桃井と呼ばれた大柄な男は自分のメモを読み上げた。
「おれは銃の仕入れに三十五万。実弾二ダースの料金も入っている。それとグアムまでの旅費が十六万八千円。しめて五十二万だ」そう言って、胡麻塩頭を振り返った。「折田のオヤジさん、あんたは?」
「おれは、そんなにかかっていない」折田と呼ばれた胡麻塩頭は答える。「おまえらが使ったゴム手袋に、タイマーの仕掛けを作るのに使った時計やピン、モーター、留め金類だけだ。一万もあれば釣りがくる」
「すると、まとめて二百三十二万の必要経費だ」柿沢は言った。「まずバラ札から、これを分けよう」
三人はそれぞれの必要経費を取り分けた。バラ札が、テーブルの上に四枚残った。その四枚と八十七個の札束を見比べて、桃井が口を開いた。
「差し引き、八千七百、飛んで四万の儲けか」
柿沢はうなずいた。
「これを、いつものパーセンテージで分ける。まず企画料として一〇パーセント、おれがもらい受ける。残りの九〇パーセントを三人で頭割りだ」
桃井が咥えタバコのまま、計算機を叩く。
「すると、おまえの取り分が、三千四百八十一万と六千円。おれとオヤジさんの取り分が、それぞれ二千六百十一万と二千……」つぶやいたあと、首をかしげた。「どうも、一万円未満がすっきりしないな」
柿沢は少し考えて、その四万円を折田のほうに差し出した。
「受け取ってくれ」
「おれが?」
「オヤジさんのさっきの必要経費に、タイマーを組み立ててもらった工賃は含まれていない。それにこうしたほうが、うまく万単位で割り切れる」そう言って、桃井を見た。「これで、どうだ?」
桃井は再び計算機を叩いた。
「割り切れた。おまえが三千四百八十万。おれとオヤジさんが二千六百十万だ」
その通りに札束を分け、三人はそれぞれ金をしまった。柿沢は銀色のアタッシェケースに、桃井は布製の小型の旅行用鞄に、そして折田は先ほどのボストンバッグに改めて金を入れた。
桃井が柿沢に顔を向けた。
「じゃあ、これで終わりだな?」
「そうなる」
桃井は満足げに旅行鞄を叩いた。
「税金のかからない金はいいもんだ。まるまる自分のものだ」
そう言って、折田を振り返る。
「オヤジさん、あんたもこれまでの稼ぎをあわせると、ずいぶんと貯まったろう。あんまり散財するタイプでもなさそうだしな」
折田はぐったりした顔に、曖昧な笑みを浮かべた。
「それなりにな」そう答えて、正面に座っている柿沢を見た。「あと十年も経てば、ありがたいことに年金ももらえる。こんなおれでもな。人《ひと》一人、死ぬまで暮らすには充分な額だ」
その口調にひっかかるものを桃井は感じた。
「なんだか、ずいぶん淋しげな言い方だな」
「そう思うか?」折田はまた桃井に視線を返して、疲れたように笑った。「おまえもおれの歳になれば分かる」
そして、躊躇《ためら》いがちに咳払いをする。
「……実を言うと、おまえらに相談したいことがある」
「相談?」桃井が気楽に応じる。「何の、相談だ」
折田はしばらくどう切り出すか考えていたようだが、やがて吹っ切れたように口を開いた。
「今回を限りに、おれはこの仕事から引退させてもらおうかと思っている……」
柿沢と桃井は思わず顔を見合わせた。二人にとっては、まさに青天の霹靂《へきれき》だった。だが、どちらも黙ったまま折田の次の言葉を待った。折田はカーペットを見つめたまま、ゆっくりと内心を吐露した。
「おれも今年、五十五だ。……正直言って、この仕事を続けるには限界に近づきつつある。おまえらにおれがどう映っているかは知らんが、自分の状態は自分が一番良く分かっているつもりだ。──今回も改めて感じたが、スタミナも集中力も、二年前の仕事の時より格段に落ちている。次回の仕事が半年後、一年後、いつになるかは分からんが、そのときのおれの状態は今よりももっと悪くなっている」
「………」
「そんな状態では、仮にこれから仕事を続けていっても、いつかとんでもないミスをしでかし、足手まといにならんとも限らん。さっきも言ったとおり、老後の預金も充分できた。電気屋からの細々とした収入もある。若い頃と違って女もそう欲しいとは思わないし、遊びに入れ込むつもりももうない。まとまった金が新たに入用になることもないだろう」
そこで言葉を区切ると、あらためて二人を見上げた。
「なんにでも、潮時はある。そろそろここらあたりで、終わりにしたい」
それっきり、折田は口をつぐんだ。
あまりに唐突な折田の引退宣言に、束の間、三人の間を沈黙が支配した。
桃井はなんと言っていいか分からず、ボリボリと頭を掻いた。しかし気持ちとしては、なんとか引き止めたかった。だから重い口を開いた。
「しかしよ、オヤジさん。おれたち三人は、ずっとチームでやってきたんだぜ。もう丸五年だ。計画を立てるときは、いつも無意識のうちに三人の役割分担を考える関係にまでなっている。そうだろ? それを急に言われてもなぁ……。おれと柿沢の二人だけになると、こなせる仕事の規模も限られてくるし」
折田は苦しげに、だがきっぱりと言った。
「むろん、それも充分に分かった上でのお願いなのだ」
桃井は途方に暮れた表情で振り返った。
柿沢はテーブルの上を見たまま、じっと腕組みをしている。
「おい、柿沢」桃井はせっついた。「なんとか言えよ」
桃井がうながすと、彼は顔を上げて折田を見た。
「話は分かった」静かに彼は言った。「残念だが、な」
「おいおい、柿沢よ」
慌てて腰を浮かしかけた桃井を、柿沢は視線で制した。
「気持ちが続かなくなったら、辞める。もともとこのチームを組んだときから、そういう約束だったはずだ」
ぴしゃりと言われ、桃井は思わず言葉に詰まった。
ほっとしたように、折田は頭を下げた。
「すまんな」
「べつに謝ることはない」柿沢は小さく笑った。「若い頃、あんたにはずいぶんと助けられた。そんなあんたが考えた末に、辞めたいと言ってる」
それからふと思いついたようにアタッシェケースの中から札束を三つ取り出すと、テーブルの上に差し出した。
「長い間、世話になった」
それを見ていた桃井も鞄から三百万を取り出し、黙って折田の前に置いた。
餞別代わりに差し出された併せて六百万の札束を、折田はじっと見つめた。
「すまんな。二人とも」
もう一度、彼は繰り返した。その語尾がわずかに震えたのに、桃井は気づいていた。
五分後、折田は静かに部屋を後にした。扉の前で二人を振り返り、かすかに目礼すると、そっとドアノブを回して出て行った。
五年にわたる付き合い。あっさりした別れだった。奥のソファには二人が取り残された。ライティング・テーブルの上の、飲み干された三つのグラスが妙に空しい。
「……いいのかよ」桃井は念押しした。「このまま本当に行かせちまって」
「気力が切れたら、この仕事は終わりだ」けだるそうに柿沢が答えた。「いつか必ず、取り返しのつかないポカをやる。同じチームを組んでいる以上、おれもおまえもそれに巻き込まれる──オヤジさんが足手まといになると言ったのは、そういう意味だ」
「………」
「今引き止めたところで、遅かれ早かれ破綻は来る。最悪の破綻がな。この仕事をやっていく以上、それは許されない」
再び二人は黙り込んだ。壁にかかった時計の音が、やけに大きく聞こえていた。三時半だった。カジノを襲撃してからまだ一時間も経っていないのに、それがずいぶん昔のことのように桃井には感じられた。
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人気のない、照明の落ちた大理石張りのロビーを抜け、折田はホテルの玄関を出た。ひんやりとした大気と、眠り込んだビル群。目の前を走っているアスファルトの大通りを、街灯が白々と照らし出していた。夜が明けるまでには、まだ少し間がある。
エントランス脇に、客待ちのタクシーがぽつんと停まっていた。赤くくすんだテールライト。ブルブルと小刻みに震えているマフラーから、路面に雫がたれる。
不意に折田はおかしくなった。この暗く塗り潰された夜の終わりに、ここにも一人でひっそりと息をしている人間がいる。
タクシーに乗り込み、三鷹市にある自宅の住所を告げた。運転手は黙ったまま、コラムシフトを上げた。タクシーがロータリーを出てゆくとき、彼はホテルを見上げた。
最上階に一つだけ、まだ明かりの灯った部屋があった。先ほどまで彼がいた部屋だった。
仕事の本番の夜は、三人は必ずホテルの一室、それもスイート・クラスの部屋を予約するのが慣例になっていた。近すぎず、遠すぎず、万が一にも警察沙汰になった場合を考えて、襲撃の場所と同じ所轄内にあるホテルは選ばなかった。例えば今回のように仕事を六本木六丁目、つまり麻布警察署の管内で行うのなら、隣接する三田警察署管内のホテルを選び、そこで直前の打ち合わせ事項を再確認し、それが脳裏に鮮明に残っているうちに現場に赴く。仕事が終われば直ちにホテルに戻り、金を分配し、それぞれ自宅へ戻ってゆく。そんなやりかたをしていた。
ホテルと自宅の行き帰りには、彼は前回の仕事の時から、必ずタクシーを使うようにしていた。理由があった。三年前の、徹夜明けの仕事帰りの時だった。いつものようにホテルで金を分配したあと、彼は当時乗っていたクラウンで帰路についた。
十二月の午前五時だった。まだ周囲は暗く、外気は凍てついていたが、暖房のきいた車内は心地よい温度だった。夜通し続いた極度の緊張から解放され、それまで張り詰めていた神経が弛緩すると同時に、抗しがたい睡魔が彼を包み込み始めた。前方を走るクルマのテールランプを見ていた意識が、一瞬途切れた。ハッと気が付いたときには信号待ちのテールランプが目前に迫っていた。慌てて急ブレーキを踏み、なんとか接触はまぬがれたものの、彼は心底肝を冷やした。助手席には現金の入ったバッグがおいてあった。もしこのまま前のクルマに追突していたら、あるいはビルや電柱に激突して、意識不明の状態のところへ警察や救急車がやってきたら──。当然彼らは身元確認のため、彼の所持品を調べるだろう。そう思っただけで、ゾッとした。
彼はその件を二人には黙っていた。老いた、と思われるのが嫌だった。
だが事実、彼は老い始めていた。四十代までは、たとえどんなにハードな徹夜明けでも、自宅の車庫にクルマをおさめきるまでは、意識に微塵のゆるみもなかったのだ。
さらにその一年後の、暴力団の裏金を強奪した仕事でも、彼はつらい現実を突きつけられた。しっかり頭に刻みつけておいたはずのダクト内の様子が、実際に潜り込んでみると自分の記憶とは微妙にずれていたのだ。幸いにも計画に差し障りのあるほどの違いではなかったので事なきを得たが、仕事から帰ってあらためて図面を広げてみると、明らかに彼の記憶違いだった。
ぼんやりと引退を考え出したのは、この時からだった。
タクシーの内部を次々と照らし出してゆく街灯を見ながら、彼は軽いため息をついた。
これでよかったのだと思う。確かに今も、あの二人と仕事を続けてゆきたいという未練はあった。だが一方で、老い始めたという事実が、彼の気力と自信を確実に蝕んでいた。そんな半端な気持ちのまま仕事を続けていれば、いつかとんでもないミスを犯し、他の二人まで巻き込んで取り返しのつかない事態に陥る。それだけは、二十年以上もこの仕事をやってきた彼の矜持《きようじ》が許さなかった。
タクシーは南麻布の二ノ橋交差点から裏通りをショートカットし、日赤病院下から外苑西通りを北上して西麻布の交差点に出た。東西に六本木通りが走っている。
この西麻布の交差点から東に一キロ弱も進めば今夜の現場は目と鼻の先だったが、タクシーは、六本木通りを西に進路を取った。それで折田は、この運転手が渋谷経由の井ノ頭通りを北上し、三鷹まで行くつもりなのを知った。
西麻布四丁目を過ぎ、南青山に入ってしばらくすると前方の信号に引っかかった。
交差点に佇《たたず》む若者の姿がちらほらと目につく。彼は時計を覗き込んだ。あと一時間もたてば、始発の電車が動き始める。
その信号の先、タクシーの斜め前方に、濃いブルーのネオンが目についた。
≪Bar Sinister≫と、その英文字は読めた。控え目ににじんで見えるネオンに、理由もなく心地よさを感じた。ふと、吸い込まれるような感覚を味わった。
家に帰ったところで、話す相手もいない。女房は五年前に他界し、娘二人もそれぞれの嫁ぎ先へと片付いていた。それはそれで気楽な時もあったが、今夜だけは、ひとり住まいの家に帰った瞬間の侘しさに耐えられそうもなかった。
ボストンバッグの中身を考え一瞬躊躇したが、次の瞬間には運転手に声をかけていた。
「すまんが、あのネオンの前で降ろしてくれ」
信号が青に変わり、運転手は黙ってクルマを路肩に寄せた。料金は千四百六十円だった。彼はシート越しに五千円札を渡した。
「釣りはいらんよ。ロングの仕事をキャンセルしたお詫びだ」
若い運転手は帽子の下でちらりと笑うと、札を受け取った。
「……気をつけたほうがいいですよ」運転手はボソッとつぶやいた。「この時間帯、狂ったガキどもが多いから」
彼はうなずいてクルマを降りた。
タクシーが去り、彼は人気のない路上に取り残された。
ビルの間の狭い路地を少し分け入った場所に、≪Bar Sinister≫の立て看板が見える。彼はボストンバッグを片手に持ち、ゆっくりと看板に近寄っていった。そのビルの地下に通じる階段が、バーの入口になっていた。不意に柿沢と桃井の顔が思い浮かんだ。束の間ためらったが、一杯だけだと自分に言い聞かせ、バーに続く階段を降り始めた。
孤独からは逃れようもないが、ならば静かな諦観に浸ることで与えられるしばしの癒しを、せめて味わいたい。
扉を開けると、店内は縦に長い造りになっていた。柔らかな間接照明を当てた店内は、一方の壁にカウンターがあり、そこに客が三人──一組の若者と、OL風の女が一人。テーブル席には誰もいない。天井の隅にあるBOSEから、耳障りでない程度にブルースが流れている。悪くない、と思いながら手前のスツールに座り、ジントニックを注文した。チェリーを取り出し、火をつける。吸い込んだ瞬間、クラリときた。昨日の零時から、一本のタバコも吸っていない。十年ほど前から、下見の時すら仕事の現場にはタバコを持っていかなくなった。吸殻の唾液からDNAを検出できる時代だ。そんなことを関連づけて思い出している自分に、内心苦笑した。もう必要のない記憶を思い出す。未練だった。前に出されたジントニックのグラスが、いつの間にか汗をかき始めていた。それを手にとり、ぼんやりと舐めた。
グラスの中身が半分ほどになった時、不意に店内にけたたましい笑い声が響いた。OLを挟んだカウンターの向こう側、そこに髪を金色に染めた若者と、丸坊主にした若者がいる。その無遠慮な笑い声は、金髪の若者が発したものだった。
いきなり神経を逆撫でされた気分だった。金髪の野卑な笑いはなおも続いている。たくし上げた二の腕から稚拙な刺青がのぞいている。彼は内心舌打ちした。もともと彼は、この年代の、特にこういった無躾な感じの若者が大嫌いだ。恥を知らず、礼儀を知らず、モノを知らない。自らを恃《たの》むものなど何もない。そしてそれを、なんとも思っていない。テレビでインタビューを受けている若者たちを見るたびに、彼はいつも軽い眩暈に襲われた。むろん世の中がそんな若者ばかりでないことは知っている。問題なのは、そんな馬鹿がまるで市民権を得たとばかりに大手《おおで》をふって歩いていることだった。あたかも自分が世代を代表しているかのように、大きな顔をしてのさばり、マスコミもそれをあおって、洟垂《はなた》れどもの勘違いに拍車をかける。小便臭いガキどもを図に乗らせる。そんな時、彼は思う。
いつからこんな時代になったのか、と。
若者たち二人の笑い声が途切れ途切れに聞こえてくる。声高に喋る二人の呂律が、しばしば怪しくなる。かなり前から呑みつづけているようだ。
金髪の若者が、時折こちらを見ている。そのうち、酒に赤くなったその目が、自分ではなく、あいだにいるOLの横顔をとらえていることに気づいた。女は年のころ二十四、五といったところか。特に人目を引くというわけではないが、その横顔には、どことなく男好きのする雰囲気が漂っていた。
やがて金髪の若者はふらりと立ち上がると、笑みを貼りつかせたまま女に近づいた。
「一人じゃつまんないだろ?」金髪は女の背中に声をかける。「なんなら、おれたちと少し飲まねぇか」
酒臭い息が、彼のところまで漂ってきそうだった。女はグラスを掴んだまま、それを傾けた。金髪への返事はなかった。
「………」
金髪は少しいらだったように、女の肩に手をかけた。途端に女は猫のような素早さで若者の手を払い、身を翻した。
「触らないで」女は刺すように金髪を見上げた。「さっきから辺りかまわずにぎゃあぎゃあ騒ぎ立てて。こっちはね、あんたたちのその下品な笑い声だけで、充分に迷惑してんの」
その剣幕に、一瞬若者は怯んだ。が、
「だったら、さっさと出てけばいいじゃねぇかよ」負けずに言葉を返す。「どうせ男に拾われるために一人でいたんだろうが」
「おあいにくさま」女は鼻で笑った。「あたしはね、始発待ちで仕方なくここにいるの。あんたみたいな青いガキにナンパされるためじゃないわ」
若者はぐっと言葉に詰まった。だが次の瞬間には、
「気取ってんじゃねぇぞ、この、腐れ女《あま》が!」
口汚く罵りながら、女の襟元を荒々しく掴み、スツールから引きずり上げようとした。女の目にかすかに怯えが走った。
「いい加減にしないか」発したあとに、折田は自分の声だと気がついた。
女を掴み上げたままの若者の視線が、彼に向いた。行き場のない怒りに目をギラつかせている。振り上げられた拳のはけ口に、自らが立候補しているようなものだった。
しかし、いったん口にした言葉は引っ込められない。
「彼女は迷惑している。恥を知れ」
「ァんだと? この──」女を放り出し、金髪の若者が近寄ってくる。「ジジィのくせして、カッコつけんじゃねぇよ」
彼は思わずため息をついた。相手の立ち姿を見るに、上背もあるし筋肉もよく発達している。それなりにケンカは強いのだろう。だが、あくまでも素人レベルでの話だ。
「やめとけ」折田は釘を刺した。「おまえが怪我するだけだ」
その言葉は逆に若者を激昂させた。地を蹴って折田に殴りかかってきた。彼は瞬時に身を捻りながら相手の懐に踏み込んだ。型どおりの攻めでよかった。行き場を失った相手の右手首を掴み、逆手に捻り上げると同時にその手首を押し戻し、不自然に角度のついた右肘に掌底を切り下げた。切り下げるに任せると腕の腱は筋肉の構造上、最後には千切れてしまう。
「てッ!」
一声喚きながら、たまらず若者はその激痛から逃れようと自ら半身を反転させ、背中から床に落ちた。直後、折田はその額を靴の裏で踏みつけた。若者の後頭部が床にぶつかり、鈍い音を立てる。一瞬朦朧としたようだが、若者はなんとか身を起こしかけた。折田は駄目押しを加えた。若者の側頭部に蹴りを放った。再び鈍い音が周囲に響き、若者の体は腰を中心に駒のように一回転して止まった。止まった時には気絶していた。
その苛烈なやり方に、連れの坊主頭が呆然と折田を見つめていた。くたびれかけた中年男相手に、ここまで瞬時に叩きのめされるとは思ってもみなかったのだろう。
「手加減はしてある」坊主頭を見やったまま、折田は静かに言った。「気を失っただけだ」
折田の言葉に、弾かれたように若者は立ち上がった。もどかしそうにポケットから一万円札を取り出しカウンターの上に投げると、足早に金髪の若者に駆け寄った。かがみこみ、金髪の若者がたしかに息をしているのを確認すると、ぐったりとしたままの相手を軽々と肩に担ぎ上げた。その筋力を見てとれば、こいつも金髪と同様、ずいぶんとストリートではならしているクチだろうと折田は思った。
坊主頭の若者は金髪を担ぎ上げたまま向きを変えると、折田に射抜くような一瞥《いちべつ》を投げた。だが口は開かず、黙ったまま出口のドアを開けて出ていった。
女がやってきて、おずおずと礼を言った。決して彼の顔を正面から見ようとはせず、金髪の若者に見せた先ほどの威勢の良さも、どこにも見当たらない。
無理もない、と折田は感じた。小柄な、どこにでもいそうな中年男。そんな冴えない親父《おやじ》が、筋肉隆々とした若者を無慈悲なまでに瞬時に叩きのめす。そんな状況を目の当たりにした人間──特に女性なら、感謝する前に、薄気味悪さを感じるのが普通だろう。
気がつくと、バーテンがカウンターを挟んで目の前に佇んでいた。
「店からも礼を言います」ためらいがちにその若いバーテンは口を開いた。そして、彼のグラスが空になりかけているのに気づき、問いかけてきた。「ウィスキーは、お好きですか?」
ああ、と彼はうなずいた。
持ち場に戻っていったバーテンに、女が何かささやいている。それを聞いたバーテンは、業務用冷蔵庫の中から数種類の食材を取り出した。
しばらくすると、彼の前にキューブの浮かんだ琥珀色のグラスが差し出された。目の前に置かれただけで、えも言われぬ深い香りが鼻腔をついた。
「バランタインの三十年ものです」バーテンは言った。そしてはにかむように笑った。「むろん、私からの奢りです。それとこれは──」
そう続けて、小皿の上に黒い粒々の盛られたサラダを差し出した。
「あちらの女性からです」
レタスとチーズ、アボカドの上に盛られている黒いものは、キャビアだった。ふと自分が空腹なことに気づいた。考えてみれば、昨日の夕方から何も食べていなかった。彼は彼女に軽く会釈した。ようやく彼女はぎこちない微笑みを見せ、会釈を返した。
バランタインに舌鼓を打ちながら、時折キャビアを口にする。
バーテンと女は、徐々にそれぞれの世界に戻っていった。
バーテンは、若者二人が残していったグラスを静かに洗っている。女は始発の電車がまだなのだろう、バッグの中から雑誌を取り出し、ペンを片手に、クロスワードパズルに取り組み始めた。女性にとっての、暇つぶしの定番。
そんな二人の様子を眺めるともなく眺めているうちに、ささくれだっていた神経が、少しずつ心のひだに撫でつけられていった。
柿沢と桃井の顔を思い出す。先ほどまでの寂しさは感じない。
グラスと皿が空になった時点で、気持ちにケリがついた。バーテンに最初の一杯分の精算を頼んだ。だが彼は首を振った。
「レシートは自分につけるようにと、彼女から言われています」
彼は女のほうを見た。女は笑うと、少しグラスをかざしてみせた。彼も笑みを返し、ボストンバッグを片手にドアを開け、踊り場から、地上へと続く階段を見上げた。
出口がぼんやりと明るい。夜が明けかかっているのだ。
一人で意味もなく微笑むと、ゆっくりと階段を上り始めた。三分の二ほど上った時、外の世界のどこからともなく聞こえてくる雀のさえずりを耳にした。
地上に出ると同時に、彼は空を仰いだ。
美しい朝焼けだった。ビルの谷間に見えるライトブルーの空に、うっすらと曙の光を受けた雲が流れていた。
突然、後頭部で鈍い音がして、その視界がガクリと揺れる。と同時に首筋にかけて焼けつくような痛みを感じた。雲が、ビルの谷間の空が、斜めに消えてゆき、彼はアスファルトにもんどりうって倒れ込んだ。
「ざまぁねぇぜ!」
全身が痺れたように動かない。その声の方向に、なんとか首だけ捻ることができた。出口のすぐ脇で、鉄パイプを持った金髪が勝ち誇ったように彼を見下ろしている。その隣には両腕を組んだままの坊主頭。金髪の若者が大股で歩み寄ってくる。いきなり蹴りを見舞われた。重いワーキングブーツで、腹を何度も蹴り上げられた。一瞬、攻撃が止んだ。苦痛に耐えかねて身を捩ろうとした。金髪の視線が交錯する。
「死ねよ」
金髪は笑った。直後、彼の側頭部にハンマーで殴られたような衝撃が走った。瞬間、右眼から左眼に火柱が走り、ブーツでこめかみを蹴られたと分かった時には視界は真っ暗になっていた。
朦朧とする意識の中、懐に手を入れられた感触──財布を抜き取られた。
「おい、やめとけ」遠くからたしなめる声が聞こえた。「アキに知れたら、ヤバイぜ」
「バレやしねぇよ」それに応じる声が、すぐ脇で聞こえる。「──しけたジジィだ。二万しか入ってねぇ」
パサリ、と何かが落ちた。財布。舌打ちとともに、踵を返す靴底の音が響いた。
「このバッグは、何だ?」
バッグのナイロン地が、アスファルトに擦れる音がした。その時だった。
「あんたたち、何やってんの!」
切りつけるような女の声が響いた。周囲のあわただしい靴音。
さっきの女──。バッグ。そう思った途端、彼の意識は闇の中へ落ちていった。
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なぜか、いつも目覚ましの鳴る前に覚醒してしまう。中学生の頃からそうだった。
アキは目を覚ますと、ベッド脇の時計を見た。五時五十七分。手を伸ばして、六時にセットしておいたタイマーをオフにする。
昨夜床についたのは、十二時前だった。六時間は寝た。ベッドの上に起き上がった。
十六畳のワンルームマンション。アキのベッドは、そのフローリングの窓際隅に寄せてある。反対側の窓際にパソコンデスクがあり、バイオノートとキヤノンのプリンター、デスク天蓋の両脇にティアックのスピーカーが設置してある。
広い部屋の中、およそAV機器と言えるものはそれだけだった。パソコン一台が、テレビとラジオ、CDプレイヤーまで兼ねている。その持ち主は、部屋の対角のクローゼットに近いもう一台のベッドの上で眠りこけていた。
静かに立ち上がると、部屋を横切り、廊下に出た。両脇にキッチンとバス、トイレが並んでいる。流しには、カオルが昨夜作った料理の食器が洗われないまま積まれている。一番奥の洗面所に入り、カオルを起こさないようにそっと扉を閉めた。歯ブラシとチューブを取り、歯を磨き始める。
アキがカオルと出会ったのは二年前の夏だった。まだ宵の口の芋洗い坂で、数人の若者に囲まれてボコボコにされていたカオルを、アキが助けたのだ。男たちを追い払いそのまま立ち去ろうとしたアキを、カオルが追いかけてきた。
「あんた、ケンカ強いんだな」腫れ上がった顔のまま、カオルは笑った。「なんで、おれを助けてくれたんだ」
アキは立ち止まった。
「理由が、いるのかよ」
「聞かせてもらえると、ありがたいな」
アキは軽く肩をすくめた。
「たぶん、おれがお人好しだからだろう」
カオルはもう一度ニヤリとした。それが始まりだった。
歯を磨き終え、顔を洗い、最後にタオルで顔を拭いていると、パタン、という音が聞こえた。玄関のポストから何かを取り出す音。洗面所を出てリビングに戻ると、カオルがベッドに腰かけて新聞を開いていた。
「起こしたか?」
「と言うより、目が覚めた」
日経新聞と、朝日新聞。なぜか、カオルは毎朝必ずこの二紙に目を通す。以前その理由《わけ》を聞いた時、カオルは笑って答えた。理由《わけ》なんかない、ガキの頃からの習慣だよ、と。アキもそれ以上深くは聞かなかった。
短パンに穿《は》き替えているアキを見て、カオルがキャスターに火をつけた。
「走ってくるのか?」
「一時間ぐらいで、戻る」
カオルは一呼吸置いて、煙を吐き出した。
「健康的なことだ」
アキは目元だけで笑った。二年間一緒に住んでいるが、運動で汗を流すカオルの姿など一度も見たことがない。
「たまにはおまえも付き合えよ」
ナイキのシューズを履き、階段を使って四階から一階まで駆け降り、地上に出た。富ヶ谷の住宅街を突っ切り、少しずつペースを上げながら代々木公園に向かう。
早朝の閑散とした街並みに、小田急線のものだろう──遠くから列車のレールを軋ませる音が聞こえてきた。真っ直ぐに伸びた車道の信号は、オール・ブルー。潰れた空き缶が転がっている舗道にも、まだ熱気はこもっていない。
アキはこの時間帯が気に入っていた。
ビルというビルから絶え間なく排出されるクーラーからの熱気。車道に溢れ返る車の排気ガス。そんな真昼に溜まった垢は、夜のうちに大気に洗い流されている。朝が動き出すまでの、ひんやりとした静かな空間があるだけだ。
代々木公園の外周に入り、そのまま一定のペースを守って走りつづける。一周、そして二周したところで、徐々に速度を落とし、公園の敷地内に入ってゆく。林の前に青々とした芝生がなだらかに広がっている場所がある。そのいつもの場所までたどりつく頃には、完全に歩きの状態に入っている。
しばらく呼吸を整え、軽く柔軟体操をやる。体は充分に温まっている。その後、芝生の上に両腕をつき、ゆっくりと腕立て伏せを始める。ただしゃにむにやるのではなく、一回一回、筋肉に充分な負荷をかけながらやるのだ。それを、百回。続けて腹筋を同じように、百回。背筋を、五十回。
ワンセットが終わる頃には、真冬でも鼻の頭から汗が滴り落ちる。この季節ではなおさらだった。手の甲にまでじんわりと玉の汗が浮き出し、Tシャツも水をかぶったようにぐっしょりと濡れてくる。それを、いつも通りツーセット繰り返す。
小学生の頃までは、どこにでもいるような子供だったように思う。父親は二部上場の電装メーカーに勤めるエンジニアで、母親は結婚してからずっと専業主婦だった。
アキが八歳の時、両親は浦和市の外れに二十五年ローンで建売住宅を購入した。めったに感情を表に出さない父親が、その時はちょっと誇らしげな顔をしたことを覚えている。母親も嬉しそうだった。バブル最盛期で、不動産価格がピークの時だった。不動産会社の営業マンが言っていた。
「住んで気に入らなければ、数年後に転売しても絶対に損はしませんよ」
両親は何の疑問ももたず、その言葉を信じていた。
十一歳になった頃から、少しずつおかしくなり始めた。学校から帰ってきたアキは、家計簿を広げたままため息をついている母親の姿をよく目にするようになった。その理由を五歳違いの兄に聞いた。
「父さんの会社、調子がよくないらしい」
高校一年になっていた兄は答えた。母さんには言うなよ、とも付け足された。
昇給がないどころか年々賃金がダウンし、ボーナスまで大幅にカットされる時代。家計に、バブル期に組んだ年利八パーセントの住宅ローンが重くのしかかってきていた。安い金利のものに借り替えるにしても、担保となる物件が大幅に目減りしているため不可能だった。売ったにしても大きく借金が残るだけで、身動きが取れなかった。アキは自分の少ない小遣いの中から、学校でかかる文房具代や給食代を黙って捻出したりするようになった。子供にできるのは、それくらいなものだった。
母親は時給八百円のパートに出はじめた。それでも、以前は五年ごとに買い換えていたクルマが、六年過ぎ、七年になって、やがて車庫からなくなった。
アキが中学二年の時だった。父親の勤めるメーカーが二度目の不渡りを出し、倒産した。バブル期の過剰な設備投資のため、銀行から金を借りていた。販売高の減少で、その借入金に持ちこたえることができなくなった。以前はあれほど貸し付けてくれた銀行側からの追加融資はなかった。
ツーセットが終わった。さすがにアキも芝生の上にへたり込んだまま、肩で大きく息をついていた。
幸いにもエンジニアだった父親の再就職先は、しばらくして見つかった。家族が路頭に迷うという最悪の結果は避けられたが、状況は好転しなかった。以前よりも低くなった給与に、ローンの負担は重みをました。新しい会社の社宅に空きがあった。家賃はただ同然だった。両親は協議の結果、家の売却を決めた。六年近くローンを払ってきたのに元金は十分の一しか減っておらず、あと二十年近くも同額のローンを払いつづけるのは困難だったのだ。資産価値の減った家は、不動産会社に安く買い叩かれた。ローンの残額を売却金で埋めても、二千万もの借金が残った。その借金を、再び定年までの十五年ローンに組みなおした。それら一連の流れを、都立大生になっていた兄が噛み砕いて説明してくれた。
どうしてなんだろう、とアキは思った。世間の親と比較しても、両親がこつこつと堅実に生きてきたことは、アキ自身が一番よく感じていた。そんな両親が結果的には家一軒さえ持てず、そのうえこれから十五年かけて、形のないものに二千万ものローンを払いつづけなければならない。支払いの終わった頃には、父親は定年退職。社宅を出ていかねばならず、侘しいアパート暮らしの老後を過ごすことになる。
そんな家の状況を黙って指を咥えて見ているしかない自分が、情けなかった。早く、一人前に金を稼げる大人になりたいと思った。
中学三年の夏だった。不良債権が焦げ付いて破綻寸前になった銀行のニュースが、テレビで流れていた。それを見ていた父親がつぶやいた。
「前の会社の、メインバンクだったところだ」
座り込んだまま、ぼんやりと通りの向こうを見つめていたアキの目に、早出のサラリーマンを乗せた小田急線が通り過ぎてゆくのが映る。
将来の明確な保証があるのなら、多少のことを我慢して生きるのも、一つの方法だろう。好きな仕事なら、なおさらのことだ。
だが、その保証もないまま、自分の行動に意味も見出せないまま、惰性で仕事を続けるような終着駅はごめんだった。
中学三年の夏から冬にかけて、アキは父親が読み終えた新聞に読みふけった。テレビの政治や経済ニュースを食い入るように見はじめた。やがて、自分の中でおぼろげながら分かってきたことがあった。
当時のアキに理屈を組み立てるほどの語彙はなかった。しかし細かい理屈を説明できなくても、感覚的に呑み込めることはある。
結局はシステムを信じ切っていたことがすべての原因なのだ、と思った。潰れたメーカーの社長も、破綻寸前の銀行の頭取も、年金や公共事業に国債を乱発する政治家も、そして住宅ローンを組んだアキの両親も、ほとんどの人間が、戦後何十年も続いてきた右肩上がりの社会を信じていた。バブル前夜にはとっくに破綻寸前だったそのシステムに、何の疑問も持たずに乗っかってきた。
そのこと自体が、罪なのだと感じた。知らなかったから仕方がないだろうと言う人もいる。しかし気づいていなかったことが、罪なのだ。そういう意味では、自分たちも含め、国民のほとんどがまるっきりの能無しだったのだ。無能な人間が揃いもそろって、この国を動かしている。
そう感じた。
結果として、今の両親の苦悩がある。切なかった。
中学三年の年の暮れだった。父親の潰れた会社のメインバンクだった銀行の救済に、税金が投入された。その時アキは、初めて怒りを感じた。父親の今の給料からも税金は自動的に天引きされる。勤めている会社からも法人税は納められている。その法人税には父親の仕事が貢献した分も入っている。なのに、父親の以前勤めていた会社は、何の救済もなく潰れた。両親は今も、形のないものに気の遠くなるようなローンを払いつづけている。そこには、なんら救済の手はさしのべられない。その国のやりように、不公平を感じた。
高校一年の秋には、滑り込みで受かった学校を中退した。壊れかけたシステムに乗るためのコースなど、しょせん無意味だと思えた。
しかし世の中が依然新しい価値観を持てないまま、ぐずぐずと煮詰まってゆくのと同様に、アキ自身も、それに変わる何かを見つけたわけではなかった。気がつけば、この街でダラダラと時を過ごしている自分を、どうすることもできずにいるだけだった。やりたいことも、やるべきことも何一つ見つからず、カオルと出会い、当座の金を稼ぐ方法を考え出しただけの話だ。
アキは立ち上がると、徐々にペースを上げながら代々木公園の敷地を出た。来た時と同じように外周を二まわりすると、再び同じ道を戻り始めた。
富ヶ谷の賃貸マンションに着き、汗を滴らせながら一気に四階までの階段を駆け上がる。六時五十八分。今ごろはカオルがトーストを焼き始めている頃だと思う。カオルはまめに料理を作る。同居人が料理好きというのは便利なものだ。
外廊下を通り、四階の一番奥のノブに手をかけた。
ドアを開けた途端、部屋の空気が白く濁っていることに気づいた。焦げたトーストの匂いが鼻につく。背筋に緊張が走る。何かなければ万事に細かいカオルがこんな不手際をするはずもなかった。充分に検討を重ねた上で慎重に運営している『雅』のシステムにも、決して外敵がいないわけではない。利権と見るや首を突っ込んでくる地回りのヤクザ、渋谷の風紀に目を光らせている少年課のオマワリ──そんな人種がやがて嘴《くちばし》を突っ込んでくることを、絶えず警戒していた。パーティの告知を個人のメールだけに限定しているのも、会場の拳闘で賭けを行わないのも、そのための予防策だった。
玄関に脱ぎ捨てられた靴を認め、思わず土足で上がり込もうとした瞬間、
「この、バカやろうっ」
奥のリビングからカオルの怒鳴り声が響いてきた。カオルが声を荒らげること自体珍しいが、それでもアキはほっとした。カオルに何かあったわけではない。
靴を脱ぎ、いつものように汗まみれになったシャツを洗濯籠に放り込み、上半身裸のまま居間に歩を進める。
「自分たちのやったことが、分かってんのか」
こちらに背中を向けたまま、カオルは再び罵声を発していた。両拳を握り締め、ベッドに腰かけた二人を睨んでいる。それまでうつむいていたタケシとサトルが、入ってきたアキをはっとしたように見上げた。
「どうした?」
アキが声をかけると、カオルがくるりと振り向いた。顔が紅潮し、頬が強張っている。
「どうした」
もう一度、問いかけた。カオルはあまりの怒りに状況の説明ができない様子だった。数回口を開きかけたが、あきらめて傍らに投げ出されているボストンバッグを指さした。
何の変哲もない、黒いボストンバッグ。中央のファスナーが開いている。
しゃがみこみ、その中身を確認した途端、さすがのアキも目が点になった。バッグには、札束がぎっしりと詰まっていた。思わず、突っ立ったままのカオルを見上げる。
「なんだ、これ?」
「三千二百万あるそうだ」ようやく吐き捨てるようにカオルが言った。「こいつらトーシロとトラブルを起こして、しまいにはこの金を持ち逃げしやがった」
カオルが手短にいきさつを語る間にも、タケシの視線は落ち着きなく床の上を泳いでいた。
「──で、そのオヤジの持ち物を物色していた時、バーから出てきた女が大声を出した。慌てたこいつらは、つい、手に取っていたバッグを持ったまま逃げ出してしまった。そういうわけだ」
耳を傾けながらもアキは、タケシとサトルの顔を交互に見やった。桁外れの現金を前にこの二人が感じたことなど、容易に想像できた。
この金がもし少額なら、二人は決してアキとカオルには報告しなかっただろう。これ幸いと飲み代の足しにでもしたにちがいない。だが、思いがけない大量の札束を前に、二人は怯んだ。必ず警察沙汰になると感じた。強盗傷害。ニュースになり、手配がまわる。そう思うと、どうしていいか分からず、ここに持ち込んできた。自分たちが引き起こした厄介ごとを、アキとカオルならなんとかしてくれるだろうとババを押し付けてきた。
よく考えもせずに行動し、自分の引き起こした結果からは逃げてゆくろくでなし。システムの上にふんぞり返っているだけのオヤジ連中と、なんら変わりがない。そのせいで後始末に追われる人間にいくら迷惑がかかろうと、知らぬ振りを決め込む。
腹の底がゆっくりと冷えていく。どちらがトラブルを主導したのかは、話の流れから分かっていた。
「不用意に揉め事を起こすんじゃないと、言ってあったよな」アキはタケシの前にしゃがみこみ、目を見つめた。「なんで、決まりを破った?」
タケシの瞳に怯えが走った。開きかけたその口元を、いきなり打ち据えた。タケシの上半身が一瞬浮き上がり、背後の壁に側頭部から叩きつけられる。
「何のために組織を作ったと思ってんだ?」アキは、壁に沿って崩れかけたタケシの襟元を掴み上げた。「小遣い欲しさに見境なくカツアゲをする、エスを売る。そこいらのチンピラと同じだ。おまえらがこのチームに入るまでやってきたことだ。おっつけポリ公の世話になる。クズで能無しの、なれの果てだ。だからおれとカオルが、どこからも被害届の出ない仕事を考えた。決まり事を作った」
一気にまくしたてると、同じ箇所をしたたかに殴りつけた。その首が激しく揺れ、口内に溜まっていた血が壁に四散した。
「だがおまえは、それを破った」アキは吐き捨てた。「挙句、おれたちに尻拭いさせようとは、調子が良すぎねぇか、え?」
再び胸倉を引き寄せ、じっと相手を覗き込んだ。
「──すまない」血まみれの口元を震わせながら、ようやくタケシは口を開いた。「すまない、ゆるしてくれ」
「………」
アキは襟首を掴んでいた手を離し、立ち上がった。タケシが力なくうなだれる。
サトルが血の気の引いた顔で自分を見上げていることに気づいた。
「──フリーザーの中にアイスノンがある」サトルに向かってつぶやくように言った。「冷やしてやれ」
サトルは弾かれたように立ち上がり、隅の冷蔵庫にあわてて駆け寄る。入れ違いに、カオルがキッチンから雑巾をぬらして持ってきた。タケシの脇からベッドの上に上がり、壁に付着した血痕を丁寧に拭き取っていく。戻ってきたサトルが、アイスノンを黙ってタケシに差し出す。タケシはうつむいたまま、それを手にとって口元に当てた。
壁を拭き終えたカオルは、ひと息ついてアキを振り返った。
「で、どうする。この金?」
アキはしばらく黙っていたが、逆に問いかけた。
「おまえは、どう思う」
「普通なら、警察に届けたほうがいいだろう。届出人不明でな」
アキは黙ってカオルを見ている。無言でその先をうながしている。
「金さえ無事に戻ってきたなら、警察もそれ以上の捜査には身を入れないはずだ」カオルは言葉を続けた。「もっとも、そのオヤジが、被害届を出してくれればの話だが」
それを聞いて、サトルは怪訝そうな表情を浮かべ、遠慮がちに口を開いた。
「だって、当然出すだろう? 二、三万ならともかく、三千二百万も盗まれたんだぜ」
「金額の大小は問題じゃない」カオルはサトルにちらりと視線を走らせた。「問題は、どういう種類の金か、ということだ」
アキは軽くうなずく。タケシが戸惑いがちにカオルを見上げた。横あいから再びサトルが口を出す。
「どういうことだ?」
「いいか、頭を冷やして、よく考えてみろ」カオルは言った。「夜中の四時に、持ち歩かなきゃいけない金──しかも三千二百万もの大金を、こんなボストンバッグに積めこんで。持ち主は丸腰の状態で、一人で六本木通りをうろついていた」
「………」
「おまけにそいつは、最後にはやられたとはいえ、タケシを一瞬でノシてしまうくらいのオヤジだ。そんな男が夜中に持っている金が、普通の金だと思うか?」
「……じゃあ、ヤバい金?」
「たぶんな」カオルはそう言って、アキを見やった。「いつから、気づいていた?」
「おまえに、金をどうするか聞かれたときだ」アキは答えた。「考えてみると、状況が普通じゃない」
タケシとサトルの胸に、三日月形のペンダントが見え隠れしている。この渋谷界隈で雅にちょっと詳しい若者なら、それがチームのマークだということは知っている。
「その三日月、当然その時もぶら下げていたよな」アキは言った。「確認されたかもしれないという記憶はあるか?」
二人は顔を見合わせた。タケシがおずおずと答える。
「……なんともいえない」
「その男を襲った時に、なにか喋らなかったか?」
タケシがうつむき、サトルがためらいがちに顔を上げた。
アキは、迷っている様子のサトルに顎をしゃくった。
「こいつが財布を抜き出した時──」サトルはようやく重い口を開いた。「おれが、アキに知れたらヤバいと言った……」
カオルが大きくため息をつく。アキはもう一度聞いた。
「それを、聞かれたのか?」
「分からない」サトルは答えた。「その時相手は倒れてて、意識も朦朧としていたみたいだ」
「聞かれた可能性は、五分《ごぶ》か」
それっきり、しばらく四人とも黙り込んだ。重苦しい雰囲気が漂った。
カオルが爪をかじりながら考えた後、切り出した。
「じゃあ、アキ、こうしないか?」そう、提案した。「もし、その男が被害届を出したら、遅かれ早かれ警察からプレス関係に情報が流れるはずだ。今日の朝刊は無理だが、夕刊か午後以降のニュースでは事件として流れると思う。遅くとも明日の朝刊には載るだろう。それまで情報を集めよう。載っていたら、本格的な捜査が伸びてくる前にこの金を返しにいく。そうすればサツが真剣に調べるとも思えないし、万が一捕まったところで暴行罪、下手しても傷害罪ぐらいのものだ。二人とも前科《マエ》のない未成年だし、現金もわざわざ戻しに行っているんだから情状酌量もある。家裁に呼ばれて保護観察処分で終わりだろう」
そこで、一度話を区切った。
「ただ、問題は、被害届が出なかった場合だ。これだけの額を届け出ないとなれば、おそらくブラックマネーだ。その男は独自に金を追ってくる。暴力団とか非合法組織のバックがついている可能性もある。相手がもしペンダントに気づいていて、こいつらの会話を覚えていたら、厄介なことになるぜ。なんせおれたちのことを知っている人間は、パーティの連中をはじめ、この街にはかなりの数いる」
アキはうなずいた。かと言って、相手の正体は見えていない。その現金をどこに返せばいいのかも見当がつかない。何らかの方法でその正体を知ることができ、相手に金を返したとしても、その相手が、すんなりと自分たちを帰してくれるとも思えない。どんな人種かにもよるが、最悪の場合は、金の存在を知った彼らの口を封じようとさえするかもしれない。
とは言え、このままじっとしていて探し出された時の報復にも、恐ろしいものがある。
「もしそうなら、運がよくて半殺しだな」
カオルもうなずいた。
「運が、よくてな」
午前七時半。窓の外では、早くも街路樹に止まった油蝉が鳴き始めていた。
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半日たった今も、右手の甲がまだ激しく痛んでいた。
後処理が一段落した後、店に乗り込んできた久間《きゆうま》に、やられたのだ。
荒々しく揺さぶられて目が覚めたときには、すでに後の祭りだった。
「支配人、支配人!」
その声が、頭の芯までがんがん響いてきた。目蓋を開けると、目の前に用心棒の青黒い顔があった。全身が、痺れたように重かった。ガスを吸い込んだせいだった。ふらつきながらも、なんとかカウンターの後ろから立ち上がった。
途端、視界に飛び込んできた光景に、彼はぞっとした。鈍痛が吹き飛んだ。
フロアにはまだ半数ほどの客が眠りこけたまま転がっており、覚醒して半身を起こしている客も、しきりに吐き気と頭痛を訴えていた。
時計を見た。午前六時三十分。気を失ってから、約四時間が経過していた。
慌てて横のキャッシャーを振り返った。レジスターの引き出しが開けっ放しになっており、中身がすっかり空になっていた。さらにその横のハイカウンターの上には、内側にしまってあったはずの金庫が、ぱっくりと蓋を開けていた。
瞬時に、それらが意味する事実を理解した。松谷組・関東支部代行の久間の顔が、脳裡をよぎった。
井草の両足は、ガクガクとわななき始めた。
「なんてこった──」思わず、声が出てしまった。「なんてこった」
だが、茫然としている場合ではなかった。その前にやるべきことがあった。
まず、まだ目覚めていない用心棒とスタッフ全員を叩き起こして召集し、客の手持ちの被害状況を確認するよう指示を出した。井草が見守る中、スタッフが客を助け起こしながら、その財布の有無を聞いてゆく。幸いにも、客の財布まで抜き取られた様子はなかった。
次に、それぞれの客を倒れる前のテーブルにつけ、ガスが噴き出した直前に持っていたチップ額の確認を急いだ。それぞれの金額を、客の名前とともにメモに書き込んでゆく。後日、その分を精算することを確約した。今後の営業を考えると、客に金銭面でしこりを残して、警察に密告されることだけは避けなければならなかった。
そのうえであらためて強盗に遭った事実を再度説明し、何度も謝罪の言葉を繰り返して、客を送り出した。
最後に、店自体の被害状況を確認した。レジ係によると、昨夜の売上げは二時の集計時点で九千万近くあったとのことだった。客から集計したチップの未精算額が、約一千五百万。
合計で、一億オーバーの被害だった。
その金額の大きさに、井草は眩暈を覚えた。
上層部への連絡が残っていた。震える手で受話器を取り上げ、途中で回線が切れていることに気づき、再び受話器を置く。まだ動転していた。いったん地上に出て、携帯で久間の自宅に電話を入れた。
一時間後、久間が数人の部下を連れて、店に乗り込んできた。
大阪・ミナミに本拠をおく広域暴力団『松谷組』が関東に本格進出を果たしたのは、五年前のことだ。
六本木通り沿いに、南青山七丁目から六本木六丁目までを仕切っている『麻布桜花会』という、元々は博徒系から出発した小所帯の暴力団がある。この戦前から続く名門は、隣接する渋谷区の二つの新興勢力──渋谷以南を押さえている『麻川組』と、反対に以北を根城にする『全関東青龍会』の存在に、以前から頭を悩ませていた。『麻川組』と『全関東青龍会』が渋谷のど真ん中を挟んで互いに牽制し合っている以上、組織拡大を狙っている彼らが勢力を伸ばしてくる矛先としては、港区方面しか考えられなかった。
以前から関東進出を狙っていた『松谷組』は、そこに目をつけた。地場の利権はそのまま温存してやるという条件で盃をかわし、『麻布桜花会』をその傘下に組み入れた。『麻布桜花会』としては、上納金を納めることなく関西の大勢力『松谷組』の代紋を後ろ盾にできるという話で、願ったりの条件だった。ただし、『松谷組』も黙って後ろ盾に付いたわけではなかった。上納金免除の替わりに、『麻布桜花会』のシマ内で『松谷組』直営の店舗を開かせることを認めさせた。大阪から豊富な資本が流れ込み、数年のうちに風俗店・飲食店併せて十数店舗が開設された。その目玉が、このカジノバーだった。
『松谷組』では関東進出の最重要拠点として、このエリアを本部──つまり組長直轄とした。その組長の代行として送り込まれてきたのが、『松谷組』幹部の久間だった。
部下を背後に引き連れてきた久間は、店内に入ってくるなり、ぎろりと井草を一瞥《いちべつ》した。歳は四十前後。中背だが、がっちりとした骨格をしている。頬の肉がそげ、強い光を放っている双眼に、井草はいつも猛禽類を連想させられた。その瞳に睨まれただけで、元来小心な彼は震え上がった。
井草は四年前まで、マカオのカジノ・ホテルでフロアー係を務めていた。日本人観光団体の客捌きが、主な仕事だった。その小心さゆえの気配りと人あしらいの上手さが、賭博旅行に来ていた松谷組幹部の目に留まり、破格の条件でスカウトされた。実際、彼はこの仕事で、月に二百万という途方もない報酬を久間からもらっていた。
だが、と恐怖に打ち震えながら井草は思った。その天国の暮らしも、これでジ・エンドだ。
久間はしばらく黙って突っ立っていた。フロアーの隅に固まっているスタッフをじっと見つめていた。スタッフたちは、ますます落ち着きをなくした。無言に耐えかねた井草が口を開こうとした瞬間、再び久間の視線が彼に戻ってきた。
「合切で、一億オーバーやと?」関西弁丸出しの、ドスの利いた声音でつぶやいた。「おぅ、井草。なに寝惚けたことぬかしとる」
「は……」背筋に悪寒が走った。井草はそれだけ答えるのが精一杯だった。「……まことに」
「まことに、なんや、あ?」
「まことに、面目ありません」
そう言って、両手をハイカウンターの上についたまま、深々と頭を下げた。咄嗟には、それしか思いつかなかった。
顔を上げた瞬間、いつの間にか久間が目の前に来ていた。一瞬、その口元がゆるんだ。かと思うと、目にも止まらぬ速さで脇にあったアイスピックを井草の右手に突き立てた。アイスピックは手の甲を貫き、カウンターのコート地の木目に深々と突き刺さった。直後、焼け付くような激痛が、全身を駆け巡った。
「うッ」
あまりの衝撃に、呻き声しか出なかった。ピックの周辺から血がにじみ始めた。
「う、うぅ」
頬がひくひくと痙攣し、額からどっと脂汗が浮き出てきた。小刻みに震えている井草の頤《おとがい》を、久間が指先で持ち上げた。
「痛いけ?」苦痛に歪む井草の顔を覗き込んで、久間は凄惨な笑みを浮かべた。「とりあえず、吼《ほ》たえなんだのは誉めといたるわ──けどな」
スタッフたちが真っ青な顔をして自分を見ているのが分かった。久間が連れてきた部下も、固唾《かたず》を飲んで事の成り行きを見守っている。
「月二本も払っとんは、セキュリティ管理も込みの銭《ゼニ》やぞ」突如、本性を剥き出しにした。「それをなんじゃ、この様《ザマ》は!」
吼えるなり、井草の後頭部を鷲掴みにして、カウンターの表面に顔面をしたたかに打ちつけた。額に鈍痛が走り、網膜に火花が散った。右手に突き刺さったままのアイスピックが再度の激痛とともに引き抜かれた感触があった。後ろ髪を掴まれたまま顔を持ち上げられ、そのピックを頬に突きつけられた。
「もっぺん言わんかい」ぴたぴたとその先端で頬を弄びながら、久間は言った。「その、腐れ外道の特徴を」
「ふ、二人とも上背は百八十センチくらいだったと思います。歳は三十半ば。一人が痩せ型で、もう一人ががっしりとしたレスラー体型。目は痩せ型のほうが一重の切れ長、がっちりした男がくっきりした二重でした。口元や顎の形は両方ともプロテクターを咥えていたので、なんとも言えません。手には銃──玩具みたいな小さな銃を持ってました」
「小茄子みたいな銃かい?」
「はい、ずんぐりとした感じのものでした」
「デリンジャーやな」久間は舌打ちして、壁際に並んで立っていた用心棒の一人に刺すような視線を投げた。「おい、榊《さかき》。こっち来い」
入口でのボディチェック担当の用心棒が、おずおずと一歩前に進み出た。久間が一喝した。
「なにモタモタしとる! さっさと来んか!」
用心棒は弾かれたようにスツールに半分腰を下ろしている久間の前に飛んできた。榊の真っ青になった顔を下から睨めまわした久間は、やがて口を開いた。
「なんでチェックを受けたはずのそいつらが、チャカやプロテクターみたいな大層なもんを持ち込んどんのや」
「そ、それは──」
「なんでや」
「た、たぶん、気づかれないところに、隠し持っていたんだと思います」
「気づかへんところやと?」言うなり、久間は用心棒の鳩尾に容赦ない拳を叩き込んだ。「ワレのチェックが甘かったんじゃろが! このボケナス」
榊は体をくの字に折り、苦しそうな呻き声をあげた。怒りに任せた久間の攻撃はなおも続いた。腹をしたたかに蹴り上げ、肋骨が折れるほど脇腹に何度も拳をめり込ませ、最後には逆手に持ったオールドの酒瓶を顔面にしたたかに叩きつけた。派手な音を立ててダルマが砕け散り、ウィスキーが周囲に飛散した。打ち所が悪かったのか、榊は声もあげずに倒れこんだ。
一時間後、井草と榊は残っていたスタッフの手により、病院に担ぎ込まれた。
診断の結果、井草が右手の裂傷で全治一カ月。榊はさらにひどかった。右頬骨の陥没と重度のむち打ち症。胸骨に罅《ひび》が入り、肋骨に二箇所の骨折、全治二カ月と告げられた。治療を終えた井草は、そのままベッドの上で身動きのとれない榊を残して病院を出た。タクシーに乗り込み、西麻布一丁目の組事務所へと、憂鬱な思いで戻った。
六本木通りに面した『麻布桜花会』の手持ち物件である「桜花ビル」の最上階に、松谷組関東支部の事務所があった。
現在『松谷組』の後ろ盾を得た『麻布桜花会』は、西の『麻川組』、『全関東青龍会』となんとか均衡を保っている。少なくとも表面的には区の境界を挟んで、友好関係を結んでいた。最上階の事務所は、松谷組が後ろ盾となる盃を交わした返礼として、桜花会から無償貸与されたものだった。階下の三階・二階には桜花会の事務所が入っており、その階層の上下がすなわち、この世界の力関係を表している。
井草が事務所に入ってゆくと、若い組員の一人が彼の右手を見やり、気の毒そうに告げた。
「代行が、社長室でお待ちです」
井草は内心ため息をつきながらうなずいた。部屋を横切り、社長室のドアをノックする。
中から応じる声を聞いた後、ドアを開けて室内に入った。久間は窓を背にした社長用デスクに腰かけ、両手を顎の下で組んだまま、ぼんやりとタバコを燻《くゆ》らしていた。
「代行──」そのデスクの前に歩みより、井草はもう一度詫びの言葉を口にした。「今回の件、確かに私の不手際です。まことに申し訳ありません」
「ん?」
井草を見上げたその物憂げな視線に、先ほどまでの狂気の光は宿っていない。
衆目の面前で垣間見せた獣性はすでに抜け落ち、それに代わって一個のビジネスマンとしての憂鬱が顔を覗かせていた。考えてみれば、組長直々の代行として関東に乗り込んでくるほどの男が、暴力だけが取り柄の単細胞であるはずがなかった。
井草の包帯を巻かれた右手に目を止め、久間は言った。
「井草、おのれ、分かっとるんやろうな。なんでそんな目に遭わされたんか」
「はい」消え入りそうな口調で、彼は答えた。「充分に、分かっています」
久間との付き合いも、足掛け四年が過ぎていた。
その間に、彼は久間という人物の|ものの《ヽヽヽ》考え方や感覚を、ある程度理解できるところまできていた。彼が先ほどあれだけの憤りを見せたのは、一億という金を強奪されたこと自体に激したのではない。その事実に付随して招来されるであろう諸々の状況を鑑みて、激怒したのだ。
現在、久間が運営している関東支部は、微妙な時期にさしかかっていた。桜花会との関係も安定期に入り、南青山七丁目から六本木六丁目にかけてのエリアはほぼ傘下に収めた。青山に触手を伸ばしかけていた渋谷の二大勢力も、一応松谷組の代紋に遠慮する形で、侵攻をひかえている。久間の計画では、今後三年の間に、六本木三丁目以北から赤坂までの弱小暴力団を、桜花会に対してとった手法と同様の計画で勢力下に収めるつもりだった。すでにその下交渉も開始していたのだ。
ところがここで、カジノバー現金強奪の噂が流れる。今のところ、犯人発見の有力な情報は皆無に等しい。これでもし犯人を捕まえることができなければ、傘下に収まるかどうかを思案している周辺の暴力団は、松谷組の金看板を甘く見はじめる。力関係を背後にした交渉事を、有利に進めにくくなるおそれがある。最悪の場合、関東支部を侮った渋谷の勢力が、再び攻勢に出てくる可能性さえあった。港区全体の制圧を狙って進出してきた松谷組にとって、それだけは絶対に許せない展開だった。
「──そうなりゃ、確実にワシの首は飛ぶで」久間が井草の目を覗き込んだまま、つぶやくように言った。「そん時は、おまえがどうなるかは、分かっとるな」
言われなくても充分に分かっていた。大阪の総本家が、そんな失態を到底許すはずがなかった。
井草はごくりと喉を鳴らして、うなずいた。
久間はラークを灰皿にもみ消した。
「さっき、階下《した》の桜花会の会長に会うてきた」
「──そうですか」
「この関東支部が笑いもんになりゃ、桜花会も一蓮托生や。昨日の深夜から今朝までのシマ内の情報は、どんな些細なことでも拾い出す言うとる。おのれも若手を見つくろって、応援に行け」
「分かりました」
「それとは別口で、ワシのほうでも界隈の組関係に触れを廻す。昨日のバー近辺で、不審な連中やクルマを見かけた人間を探したる。どのみち今回の強奪の一件は、すぐに筒抜けや。なら、それを逆手にこっちから仕掛けるんや。懸賞金をかけて派手にぶち上げる」
「はい」
「どうあってでもこの外道どもの首根っこを押さえ、嬲り殺しにせなあかん」歯噛みするような口調で、久間は断言した。「見せしめや」
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一発やった後の気分は砂を噛むような虚しさで、それは程度の差こそあれ、どんな女に対しても年々ひどくなってきている。
桃井はぼんやりとベッドの上に寝転がったまま、セブンスターの煙を天井に吹き上げた。行為が終わっても首筋から滲み出る汗が、不快さを助長する。横からきっちりとマニキュアを施した白い腕が伸びてきた。桃井の剥き出しの胸をまさぐりつつ、相手はシーツの上に半身を起こした。
「なに、ぼんやりしてるの?」
女が上目遣いに桃井の顔を覗き込んでくる。桃井は無理に笑顔を作った。
「──いや、なに」
そうつぶやいて、ごまかした。この女と会うのは今夜で五度目だった。会うごとに、事後の対応がわずらわしくなってきている。
女は桃井の背中に手を回して抱きつくと、彼の肩を軽く噛んできた。一瞬鳥肌が立ちそうになったが、我慢してやり過ごした。六本木のバーで拾ったのが、二カ月前。遠目にも小股の切れ上がったいい女だった。顔と服装のセンスも桃井の好みだった。口説いてその晩のうちにホテルにしけ込んだ。終わった後、少し後悔した。女が急に親近感丸出しで、下らない話を始めたからだ。肉の交わりができただけで、心安いそぶりに変わっている。
二度、三度と会ううちに、個人的な質問をされるようになった。
たいがいの女は、相手に慣れてくると自分をオープンにするのが当然だと思っている。そしてその見返りに、こちらの心の中も覗き込もうとする。踏み込めない部分もあるのだということを知らず、土足で上がりこもうとする。それを警戒している自分に、気づいていた。
とはいうものの、一、二週間後にはまたやりたくなって電話をかける。内心、そんな自分に呆れ返っていた。
桃井は枕元の時計を見た。ベッドのパネルに埋め込まれた時計は、午前一時を少しまわっていた。
「先にシャワー、浴びなよ」
「え、もう帰るの?」
女は意外そうな声を上げた。桃井は笑って弁解した。
「おれもトシでさ。一晩に二回は、持たない」
女も笑って、思わせぶりに髪をかきあげた。広尾にあるブティックの店員だと言っていた。道理で服装や化粧のセンスが良いわけだった。二十五歳だという。
桃井は内心苦笑した。冷静になって考えれば、十歳近くも年下の女と寝ること自体、犯罪に近い。昭和の終わり頃までならいざ知らず、今の時代に十歳の年齢差は決定的だった。感性が形作られる十代から二十代前半、その期間に見た社会の様相が、システムが、まるで違ってきている。内的な感覚を共有できるベースなど、あるはずもなかった。それに気づかないだけ女は若く、気づいた上で肉の交わりのみを持つ桃井はつまり、ろくでなしだ。
三十分後、桃井と女は西新宿のホテルを出た。地下の駐車場にあるインプレッサに乗り込み、新宿ランプから首都高速四号線に乗った。
高井戸ランプを降り、烏山にある彼女の自宅まで送った。似たりよったりの建売住宅の区画が、ヘッドライトの中、無数に浮かび上がる。
そのうちの一つ、彼女の家がある区画の前で、桃井はクルマを停めた。
「じゃあ、またね」
クルマから降り立った女が、サイドウィンドウから桃井を覗き込み、笑う。桃井もにこにこと笑顔を返した。女は小首をかしげた。
「今度、いつ会う?」
「また、そのうち」
子供の頃から愛想だけは一人前だった。
帰路の途中、喉の渇きを覚え、二十号沿いのコンビニに立ち寄った。
自販機の前の駐車場に乗り入れると、脇に黒のクーペが停まっていた。トヨタの|80《ハチマル》スープラ。十八インチのホイールを穿き、テールからは120|φ《パイ》のマフラーが突き出ている。ボンネットの上にはエアーダクト。ボンネットの光沢も、フェンダーとは若干異なる。素材にカーボンを使っているのだろう。フロントガラスの上部に、『J−SPEED』のステッカーが貼ってある。そのショップの名は桃井も知っていた。チューニング業界では、大手の一つだった。そのショップがこれだけ外観から手を入れている。察するに、エンジン本体のチューンも五百|PS(馬力)は下らないはずだった。
自販機からリプトンを取り出していると、Tシャツにジーンズ姿の若い男がコンビニから出てきた。手に下げたキーから持ち主だということが分かる。不意に桃井はおかしくなった。その服装のくたびれようからして、給料のほとんどをクルマに注ぎ込んで、何の疑問も感じていないタイプだ。十年前の、自分。
若者は桃井のインプレッサを見ると、一瞬怪訝そうな顔をして、もう一度まじまじとクルマに見入った。それから桃井を振り返った。桃井はその顔になんとなく笑いかけた。
「これ、STiヴァージョンですよね?」若者は素直に疑問を口にした。「なんでこんな、|ど《ヽ》ノーマルの格好をさせてるんです?」
「まじないさ」
目立たないための。その後半の言葉を呑み込んで、桃井はクルマに乗り込んだ。
若者が無言で見送る中、駐車場からゆっくりとリヴァースで後退し、国道に出た。再び高井戸ランプから首都高速四号新宿線に乗り、スピードを上げる。二速、三速、四速。五秒足らずでメーターの針は早くも百六十キロを指す。それでも三百二十キロ・フルスケールメーターの、ようやく半分だった。
スバル・インプレッサWRX/STi Ver・IV。それが、桃井が乗っているクルマの正式名称だった。世界各国の一般舗装道や林道を転戦する、WRC(世界ラリー選手権)というレースがある。やや乱暴な言い方だが、F1《フォーミュラ・ワン》の一般道ヴァージョンと言えば分かりやすいのかもしれない。このクルマは、スバルがそのレースに出るためだけに開発したマシンだった。ノーマルのインプレッサをベースに徹底的にチューンを施し、WRCのレギュレーションを満たすために、一般にもごく少数市販されている。二リッター、5ナンバーサイズのコンパクトなセダンながら、市販ベースの状態でも二百八十馬力を絞り出す。三菱のランサー・エボリューションとともに、現在でもWRCで総合優勝を競い合っているマシンだ。
桃井はこのベース車を購入後、さらに自身で手を加えた。一回り大きなタービンに交換し、ブーストアップに合わせてガスケット・ピストン・バルブ・クランクシャフト等を特注のものに総入れ替え。シリンダー内部の研磨による、フリクションの軽減。仮組みした後の、数回にわたるバランス取り。当然、エンジン本体に合わせて各部の変更も施した。エンジン本体に見合った吸排気系のアレンジ、そのパワーに耐えうる駆動系、しなやかで強度のあるボディ剛性と、粘る足回り。気の遠くなるような作業を経て、最終的には六百馬力の怪物《モンスター》に仕上げた。万が一、交機(交通機動隊)のGT−Rに追われても、それと対等に張れるような仕上がりだった。だが、それで終わりではなかった。仕事現場での目撃情報を曖昧にするための、エクステリアのカモフラージュも怠らなかった。ごくごく普通のセダンに見せかけるため、STiヴァージョン仕様のエンブレムやウィング、グリルまわりは全て取り外し、廉価版のインプレッサのそれと入れ替えた。
しかし、と桃井は思う。そこまで金と時間をかけておきながら、自分がこのクルマ自体を心底気に入っているかというと、そうでもなかった。単に機能として、仕事に必要な道具として好んでいるだけだ。インプレッサSTiというクルマをチューンナップのベース車として選んだのも、町で小回りのきく5ナンバーサイズだということ、興味のない一般人から見れば一見地味なクルマに見えやすいということ、全天候型の4WDであるということ。そして、緊急の場合に三人が一度に乗り込めるような四ドア・セダンであること。それ以外に理由はなかった。
彼自身が十年前に感じていたような、ちょうど先ほどの若者が今も感じているような、あの狂ったようなクルマに対する情熱は、もう彼の中にはない。
そして、いまだその喪失感を引きずっている自分に、我ながら滑稽だとは思いながらも、ある種の切なさを感じていた。
五年前の夏、彼はその情熱と引き換えに、悪魔と取引をしたのだから。
そしてその判断を下した時点で、彼はそれまでの自分を支えてきた情熱の芯棒が、ぽきりと音を立てて壊れるのを感じた。
文字通り、完全に壊れてしまったのだ。
子供の頃からクルマが好きで好きで、どうしようもなかった。
親にねだる玩具は、いつも自動車のプラモデルで、暇さえあれば家の二階の窓から環八を流れてゆくクルマを眺めていた。小学校高学年の時に、スーパーカー・ブームが来た。ランボルギーニ、デ・トマソ、アストンマーチン、マセラティ……。このときの印象が彼の将来を決定づけた。絶対にこういうクルマをいじる仕事に就こうと思った。中学を卒業すると、迷わず工業高校の機械科に進んだ。しかしそこでは、最終学年になっても、内燃機関の基礎的なことしか学ばないことを知った。そんな基礎知識は、中学生の頃にいろいろな雑誌や専門誌を濫読してほとんど了解済みだった。くだらなかった。三カ月で中退した。実践あるのみだと思った。中途採用の雑誌を見て、近所にある自動車修理工場に就職した。オイル交換からタペット調整、チリ合わせ、やることはいくらでもあった。最初の頃は実際にクルマに触れているのがただただ嬉しくて、夢中になって仕事をやっていた。
しかし、そんな仕事にも慣れてきて、やがて気づいた。
これは、おれにとっての仕事ではない、と。工場に入ってくるのは、車検か事故車の修理ばかりだった。当然仕事は、クルマのメンテナンスか、事故に伴う部品の交換、そして斡旋ばかりということになる。クルマの状態を維持するための整備と、元通りにするための作業さえやっていればよかった。基本的な技術と知識さえあれば、誰にでもできることだ。そこに、個人の特異な技術やモノ作りに対するこだわりが入りこむ余地はなかった。単なる作業《ルーテイン》だ。作業を仕事とは言わない。若年の故、たとえ明確な言葉にはならなくても、彼はぼんやりとそう感じていた。
二年が経ち、工場の社長に、ふとそれらしきことを漏らした。社長とは言っても、こういう町工場によくある叩き上げのオヤジだった。オヤジは怒りで真っ青になった。そんなに怒ったオーナーの顔は、今まで見たこともなかった。その顔を見て初めて、この工場で働いている同僚たちに対してとんでもなく失礼なことを言ったのだと悟った。そういう開けっぴろげで迂闊なところが、桃井にはあった。
だが、慌てて弁解しようと口を開きかけた桃井に、社長は不意に悲しそうに口元をゆがめた。
「そうか、ここでの仕事は、作業か……」社長は言った。「たとえネジ一本締めるにしても、丁寧にトルクをかけて締め上げてゆく。おれなんざ、その気持ちがあるかないかが、作業と仕事の分かれ目だと思っていたが、おまえには、違うか……」
桃井には言葉もなかった。
次の日、工場に出勤すると、社長に呼ばれた。社長は桃井に一通の封筒を手渡した。
「……おまえ、宮大工《みやだいく》って言葉、知ってるか?」
桃井が首をかしげると、社長は笑って、
「まあ、いい。宮大工ってのはだな、神社や寺を作る職人のことだ。たぶん、おまえはそういうメカになりたいんだろ」
そう言って、もう一度封筒を指さした。
「今日、おまえは半ドンでいい。午後、それを持って品川にある『ファクトリー雨森』に行ってこい」
その会社の名前は、車雑誌などでよく見かけて桃井も知っていた。規模・質ともに関東では押しも押されもせぬチューニング・ショップだった。ROMキット、マフラー、サスペンション──自社開発のパーツも多数あり、ショップというよりチューニング・メーカーに近い。
「夕べ、先方の社長に話は通しておいた。昔の知り合いでな。おまえはまだ二年しか勤めてない。退職金もほとんど出ない。だからその紹介状が、退職金がわりだ」
ふと、その封筒の文字が滲んで見えた。涙がこぼれ落ちそうになっている自分に気づいた。桃井はまだ十七歳だった。
「ありがとうございます」
かろうじてそう返すのが、精一杯だった。
面接は合格だった。
「まだクルマの免許も持っていないメカなんて、聞いたこともないけどな」
新しい社長は笑ったが、それでも翌月からの採用になった。月が変わり、初出勤すると、職場のメカたちも快く迎えてくれた。というより、社会的にはまだほんの子供だった桃井の面倒をよく見てくれた。以前の職場にも増して、仕事に精を出した。同時に、チューニングの世界が奥深いことも分かり始めた。
例えば二人のメカニックが、同じエンジンに同じタービンを後付けし、同じ様式で吸排気系をアレンジしたとする。しかし、組み上がったエンジンの性能は、レスポンス、トルク感、高回転までの吹けあがりなど、全ての面で微妙に違ってくる。全体としてとらえると、まったく違うフィーリングのエンジンとなる。信頼性に関しても同様のことが言えた。ある者が組んだエンジンは頻繁にトラブルを起こし、別の者が組んだエンジンは同じハイ・チューン仕様でも、一年近くもノーメンテナンスで平気な顔をして回り続ける。
エンジンに、クルマに、メカの個性が如実に顕われる。経験と、センスと、仕事に対するスタンスが滲み出る。それが桃井には面白かった。
すぐにその世界に呑み込まれ、夢中になった。寝ても醒めてもクルマ、クルマだった。女の子と会っているときより、車をいじっているほうが楽しかった。
十八になった。待ちに待った誕生日だった。速攻で免許を取りに行った。買うクルマは以前からこれしかないと決めていた。ブルーメタリックの、MAZDAのRX−|7《セブン》(FD)。職場の同僚が、記念にT−78タービンをプレゼントしてくれた。情熱の炎に、再び大量の油が注ぎ込まれた。昼間はショップの仕事をこなし、仕事が上がってからは工場の片隅を借りて、連日深夜まで自分のクルマのチューンナップを図る。週末の夜は、首都高、湾岸、常磐の各高速道路をぶっ飛ばした。寝る時間も惜しかった。とにかくクルマに触れて、乗っていたかった。二百七十、二百九十から、時速三百キロオーバーの世界へ。狂ったようにステージを上げてゆき、世界を変えていった。
四年が過ぎ、独立を考えるようになった。弱冠二十二歳とはいえ、十六から六年間、普通のメカの二倍は仕事をこなしてきた。その腕は、いつの間にか職場のベテランからも一目置かれるほどにまでなっていた。
「センスのいいエンジンを組むメカ」という評判が定着し、客からの個人的な引き合いも絶えずあった。その実力を、一人で試してみたくなった。
貯金を全額おろし、開業資金の足りない分は、社長の口利きで銀行から借りた。バブル末期で、どこの銀行もまだまだ金を貸したくてウズウズしていた。あっさりと融資の許可が下りた。
練馬区の大泉ジャンクションにほど近い場所に、ちっぽけな工場を立てた。人を雇うつもりはなかった。客から頼まれたクルマは、全部一人で面倒を見る覚悟だった。こだわりを持ってひとつひとつの仕事をするのであれば、人は雇うべきではないと考えていた。
堅実な仕事の中で、センスを磨いていった。最初の数年は、客足は順調に増えていった。
だがそれも、九〇年代前半までだった。こういう隙間業界も、価格競争の波を被るようになってきた。『J−SPEED』や『ファクトリー雨森』などといった大手チューニング・ショップは、その波に順応していった。以前のように一台のクルマをまるごと一人のメカが見るのではなく、エンジンはエンジン担当、サスはサス担当というように各メインの担当を決め、そのパーツが仕上がった順に、次の担当メカに車を引き渡してゆく。いわばマニュファクチュアの手法を採用した。これによって大幅に工程をスピードアップし、人件費の節減を図る。仕上がりのチェックも大まかなもので、以前の良心的なショップなら一度は実走チェックを行って細かい部分を煮詰めて納車となっていたところを、シャシダイナモの一発測定で終わりとする。
桃井にもそのほうがはるかに効率的だということは充分に分かっていた。しかし、彼に言わせればそれはチューンナップという名の、単なる作業だった。作業としての仕事は、全体としての責任を負えない。そんな仕事はいつか必ずミスを生むことを、実際の走り屋として体感で分かっていた。常軌を逸したクルマを作っている以上、そしてそのクルマに命を乗せて客が走る以上、それだけはできなかった。
コストを安全性と引き換えにしてまで商売として割り切るには、彼は生真面目すぎた。なにより、クルマという鉄のカタマリを愛しすぎていた。
一人でこつこつと預かったクルマを仕上げ、仮組みが終われば大泉インターから外環あるいは首都高に乗り、何度も実走チェックを行い、納得のいくまで調整をして、最終的にお客に引き渡す。そんな仕事のやり方を頑なに守った。
たしかに一台一台、素晴らしい仕上がりにはなる。だがその一台当たりにかかるコストも時間も、他社に比べれば格段に割高になる。当然それは、客に渡る請求書に反映される。高い金を払ってもそこまでの完成度を求める客は、いつの時代でもごく少数派だった。九〇年代半ばから、ゆっくりと客足は落ち始めた。
そんなある日だった。
彼の工場に一人の男がふらりとやってきた。人の気配に、桃井はエンジンルームから顔を上げた。
三十歳前後、長身の、引き締まった体つきの男だった。
「新規にチューンするんじゃない」前置きなしで、いきなり男はそう言った。「全体の調整をしてもらいたいんだが」
桃井はスパナを片手に持ったまま、聞き返した。
「どんな、調整だい?」
「停止状態から急加速した時に車体がふらつく。逆に急ブレーキしたときも同様だ。基本的な足回りの補強はしてあるが、そのトータル・バランスが悪い。エンジン本体のパワーに、フレームもついていっていない」
「ほかには?」
「レッドゾーンまでエンジンを回したとき、四千回転時と六千回転時に|加速時の息つき《フラツトスポツト》がある。ピーク・パワー自体には不満はないが、もっと滑らかにパワーが出るようにしたい。そういう意味では、一瞬ブーストが落ちた後のパワーのツキも悪い」
「フラットな特性ということかな?」
「そうだ」
「なるほど」
桃井は応答しながら、相手の目つきが鋭く、あまり瞬きしないことに気づいた。プロの格闘家やレーサーはよくこういう目つきをしている。一瞬の瞬きで状況が一変する仕事についている者に特有の、眼差しだった。
「……じゃあ、あんたのクルマ、見せてもらおう」
相手はうなずいて踵《きびす》を返すと工場を出た。桃井もその後に続く。
「──これだ」
相手はその工場の横に付けられたクルマを指さし、桃井を振り返った。
「ほう」
そのクルマを一目見るなり、桃井は軽く唸った。男の話しぶりからして、てっきりGT−RやNSXなどのヘヴィー・スポーツカーが出てくると思っていたのだが、その予想は見事に裏切られた。敷地の横の砂利に駐車されたそのクルマは、ぺったりとしたカタチの、5ナンバーサイズのセダンだった。ディープ・グリーンの、ユーノス500・20GT−i。一見、何の変哲もない普通のセダンだ。
とはいえ、桃井はわりあいこのクルマを気に入っていた。ちょっと見には地味で風変わりなフォルムながら、よく見ると実にいいラインの曲面が全体を構成している。CD値0・30という優れた空気抵抗に加え、KF−ZE形式の二リッターV6エンジンは絹のように滑らかに上限まで回ってくれる。フレームの作り込みもいい。コンパクトサイズながらボディの剛性感は3ナンバーサイズのスポーツカーをも凌駕する。このクルマをベースにチューンしたらどうだろうと思ったことも一度ではなかった。実際、欧州ツーリングカー選手権などでは、BMWやメルセデスに混じってヨーロッパ各国を転戦している車でもあった。そのベース車として開発されたのが、この20GT−iというグレードだった。
「いいクルマだ」思わず桃井は言った。「まあ、一般ウケはしねぇけどな」
その意味を感じて、相手も少し笑った。当時ユーノスの親会社だったマツダは、いつもマーケティングに失敗する。このクルマもそうだった。いくら作り込みのいいクルマとはいえ、5ナンバーセダンに車両価格だけで二百六十万も払う人間はそうザラにはいない。見栄っ張りの日本人ならなおさらのことだ。それだけ出せば、そこそこの3ナンバーやちょっとしたスポーツカーがいくらでも買えるのだ。それでも当時までのマツダは、いいものさえ作れば売れるのだと頑なに信じているようなところがあった。瀬戸内にある田舎メーカーのそんな青臭さが、桃井は嫌いではなかった。
「しかし、このクルマのシャシなら、少々のチューンには持ちこたえられるはずだぜ」桃井は言った。「いったい、どれくらいのパワーをかけている?」
「四百馬力前後だ」
桃井は軽く口笛を吹いた。前輪のみにそれだけの馬力をかけるとは、およそ常軌を逸している。
「|二基がけ《ツイン・ターボ》か?」
相手は首を振った。
「ギャレット社製TA45S。つまり、ビッグ・タービンのシングル仕様だ」
「ブーストが落ちた時のツキの悪さは、基本的に、それだ」桃井は指摘した。「確かにピーク・パワーは出るが、その分レスポンスがラフで、かつ、タイムラグが出やすい」
「なるほど」
「ボディ補強はどうなっている?」
「ブレーキと駆動系以外、特には」男は返す。「もともと車体の剛性は高いし、このヴァージョンには標準装備で前後とも強化サスにタワーバーが入っていたからな」
「ふむ?」と桃井は首をかしげた。「エンジン本体に手を入れてから、どれくらい走った?」
「七千キロちょっとだ」
「しかしそれだけのパワーをかけていれば、もうボディはガタガタだ。ヨレる原因は、それだ」
相手は桃井を振り返った。
「あんたなら、どう直す?」
「エンジンも、ボディもか?」
「ああ」
「かけられる金と、時間によるな」桃井は答えた。「その二つに余裕があれば、ベースから直すことは可能だ」
「ベースとは?」
「まずエンジンは、三気筒ずつに一回り小さなタービンの、二基がけに変更する。それで、基本的なレスポンスは良くなる。さらにこの仕様にして、フラットな特性もイチから出してゆく」
「しかし、ピーク・パワーが落ちるだろう?」
「そこは、おれの腕でなんとかする」
「ボディは?」
「車両全体に補強材を入れるテもあるが、それだと重くなる。うまくフレームにスポットを入れていけば、車重を増さずに剛性を高めることもできるだろう。もともとの剛性もいいし、強化サスとタワーバーも入っている。四百馬力なら、なんとかスポット追加だけでいけるはずだ。ちょっと面倒だがな」
「分かった」男はつぶやくと、改めて桃井を見た。「早いな。判断が」
「一応、これでおれは飯を食ってるんでね」
男は少し笑みを浮かべた。
「いくらぐらいかかりそうだ?」
「パーツ代が、約七十万はかかる」桃井は考えていた数字を口にした。「それとは別途に工賃が大体百二十万の、合計で百九十万だ」
「期間は」
「二週間は、見てもらいたい」
「つきっきりで、二週間か」
「つきっきりで、二週間だ」桃井は繰り返した。「エンジン一つ取っても、組んで客渡しするだけなら、パーツさえ揃えば一晩でできる。だが、そこからが本当の仕事になる。実走を積んで、吸排気系を含めたバランス取りを何度かやって、一番効率のいい状態にもってゆく。ボディもそれに合わせて仕上げてゆく必要がある」
その言葉に、男は納得した様子だった。クルマのドアを開けると、分厚い封筒を取り出してきた。ジャケットの内ポケットからペンを取り出すと、その上にさらさらと何かを書き付けた。
「ここに百万ある。前金として受け取ってくれ」
受け取ると、表に携帯の電話番号が書いてあった。
「納期や金額に変更があったら、電話をもらえればいい」
後で受注リストを書いている時、桃井は相手が最後まで名前を名乗らなかったのに気づいた。ダッシュボードを探してみたが、車検証もなかった。顧客欄氏名は空白のままだった。
発注しておいたパーツが届くとエンジンの仮組みを行い、シャシダイナモで四百馬力きっちり出るまでフリクションの軽減に努めた。次に実走に移り、レスポンス、ターボのツキなどを確かめながらバランス取りをしていった。
二週間が過ぎた。約束の十二時に、男はクルマを取りに来た。
工場に横付けされたタクシーから降りてきた男に、桃井は声をかけた。
「仕上がっているぜ」
男はその言葉に軽くうなずくと、クルマの前で立ち止まって、言った。
「少し、車高が落ちたかな?」
「二センチだ」内心、その観察力に舌を巻きながら桃井は答えた。「実走であれこれ試してみたが、それぐらいのバランスが一番よさそうだ」
男は少し微笑んだ。
「金を、払う」
「残額は八十三万九千円だ」桃井は請求書を手渡した。「若干、パーツ代が安く上がった」
男は胸ポケットから取り出した封筒から六枚の札を引き抜き、桃井に渡した。
「領収書は?」
「いらない」
釣りの千円を返そうとすると、男は首を振った。
「少ないが、タバコ代にしてくれ」
そう言い残して車に乗り込み、工場から出ていった。この時も、桃井は男の名前を聞きそびれた。
しかし、男はその三カ月後に再び桃井の工場を訪ねてきた。
点検をしてもらいたい、と男は言った。
「ただし、よくあるような型どおりの定期点検レヴェルなら、そこら辺りの町工場でも、おれでもできる。バルブの具合、エンジンのマウントやクラッチ盤のちょっとした滑りなども含めた、シビアチェックをしてもらいたい」
その言葉で、この男が自分の腕を信用していることを知った。そうでなければシビアチェックなど申し込んではこない。男はそれからも三カ月に一度ほどの割合で彼の工場を訪れるようになった。
その間にも、工場の経営状況はどんどん思わしくないほうへ傾いていった。原因は分かっていたが、あえて桃井はそのやり方を変えようとはしなかった。そうすることは、自分の仕事に対する冒涜だった。そして、二年が過ぎた。
その日の午後、桃井は工場の前に座り込み、ぽっかりとタバコをくゆらしていた。工場の内部には、数日前に点検で預かった500の20GT−iがポツンと一台あるだけだった。彼はデスクの横にある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、クリップを弾いた。自分で勤務時間と決めた九時から六時の間にビールを開けたのは初めてだったが、もうあまり気にはならなかった。ガランとした工場に、午後にやる仕事は何もなかった。
三時ちょうどに、道の向こうからタクシーがやってきた。タクシーはコンクリートの地べたに座り込んでいる桃井の少し手前で停まり、中から例の男が降りてきた。
男は脇に置いた缶ビールをちらりと見やったが、何も言わなかった。
不意に桃井はおかしくなった。桃井はこの無口な男がわりと気に入っていた。相手も自分の仕事ぶりに好感を抱いている様子だ。
丸二年も付き合って、おれはこの男の携帯の番号しか知らない。それなのに、そのこと自体に何の問題もないと思っている。自分の腕を分かってくれる人間なら、たとえそれが名無しの権兵衛でも構わないと思っている自分がいる。それがおかしかった。
「クルマは、上がってる」立ち上がりながら、桃井は男に笑いかけた。「次からは、ほかのいいショップを見つけてくれ」
「どうしてだ?」
「ショップは廃業する」桃井は素直に言った。「今なら借金も工場を売り払ってトントンだ。潮時だと思っている」
男は桃井の顔をじっと見た。
「それで、あんた、満足なのか?」
「意にそわない仕事のやり方をするよりゃ、マシだ」
男は、薄く笑った。
「だろうな」と、うなずいた。「あんたみたいな人間には、生きにくい時代だ」
その言葉が、心のどこかに触れた。桃井は問い返した。
「おれみたいな人間とは?」
「効率よりも、仕事の完成度を求める人種のことだ」男は言った。「クルマの出来を見れば分かる。完成度と、それにかかる手間と時間を秤にかけて、そこそこで妥協するということを知らない。腕に自信があるし、事実いい腕だから、技術料の値引きもない。当然コストは跳ね上がってくる」
「あんたは?」思わず桃井は聞いた。「あんたも、おれの請求が高いと思っていたクチかい?」
男は首を振った。
「値段が適切かどうかは、あくまでその内容との兼ね合いだ。五の請求でも三の仕事内容しかないなら、それは法外だ。だが、十の請求でも十二の仕事内容なら、それは高くはない」
桃井は黙ったまま男を見ていた。
「最近は、そんな簡単なことさえ分からない奴が多い。だが、おれはあんたの工賃が高いと思ったことは、一度もない。仕事とは、そういうものだ」
ふと、涙腺が緩みかけている自分に気づいた。その感情をごまかそうと、桃井は慌てて笑い顔を作った。
ぎこちなく笑みを貼り付けたまま、請求書を手渡した。
「最後にそんなセリフを聞けただけでも、おれは幸せ者《もん》だ」
男は金額を見て取ると、内ポケットから財布を出した。中から札を取り出して、数え始めた。
「で、これからどうするんだ?」
「さあな」投げやりに桃井は答えた。「後のことは、工場を潰してから考えるさ」
「また、クルマ業界か?」
「いや」桃井は、内心淋しさを感じながらも断言した。「それは、ないだろう」
「──ふむ」
男は札を一度数え終わったが、間をおいて、もう一度札をめくり始めた。が、それに集中しているようには見えず、何か決め兼ねていることへの時間稼ぎのように、桃井には感じられた。
二度目が終わると、男は金を桃井に渡した。そして妙なことを口にした。
「あんた、クルマの運転はうまいのか?」
桃井は少し考えて、工場脇に停まっている自分の|FD《セブン》を指さした。
「このクルマ、湾岸では実速で|320キロ(200マイル)は出る」
「つまり、それくらいを扱える腕ではあると?」
「まあ、そうだ」
「──なるほど」
男はもう一度うなずいた。また黙り込み、しばらくしてから口を開いた。
「三カ月して、もし身の振り方が決まっていないようなら、おれに電話をくれてもいい」
「あんたに?」
男はうなずいた。
「いい仕事を紹介できるかもしれない」そして、付け足した。「あんたのメカの技術と、運転の腕を生かせる仕事だ。報酬も、保証する」
名前を名乗らない男。車検証を乗せていないクルマ、そして仕事の報酬……。なんとなく、予感が働いた。
「……その仕事というのは、合法なのか?」
「法律の網は、届かない仕事だ」その視線は桃井をとらえたまま、動かない。「だから、法に照らして犯罪者になるような仕事ではない。警察に追われるようなことも、ない」
「───」
「ついでに言うと、良心の呵責もあまり感じずにすむ」
「つまり、弱い者イジメみたいにはならないってことか?」
男はにやりと笑った。
「ニュアンスは少し違うが、そう取ってもらって差し支えない」
われしらず、札束を握り締めていた。こだわりを捨ててまでこの仕事を続ける気はなかった。しかし一方で、自分からクルマを取りあげたら何も残らないことも知っていた。
「三カ月後、だな」
短い沈黙の後、桃井は答えた。
男はうなずくと、ユーノス500のドアを開けた。
「断りの電話なら、してもらう必要はない」シートに乗り込みながら男は言った。「その時は、おれの電話番号を捨て、今話したことも永久に忘れてくれ」
そのままドアを閉めようとした男に、桃井は慌てて聞いた。
「あんた、名前は?」
一瞬の迷いが見えた。が、男は名前を告げた。ドアを閉めエンジンをかけると、桃井に軽く片手を上げて工場を出ていった。
それが五年前のことだった。
四号新宿線の初台ランプを過ぎたところで、不意に現実へと引き戻された。クーラーの吹き出し口に取り付けたトレイの中で、携帯が鳴っていた。ダッシュボードの時計にチラリと目をやりながら、携帯電話に片手を伸ばした。午前二時半。ろくな電話ではなさそうだった。軽いため息をつきながら片手運転のままスイッチを押し、電話に出た。
「はい、桃井ですが」
聞き覚えのある声が受話口から聞こえてきた。
「なんだ、オヤジさんかよ」細切れに続くカーブをクリアしながら、気安く答えた。「どうしたんだ、こんな時間に?」
二言、三言、相手が言葉を返す。
「え?」桃井の笑顔が曇った。「ちょ、ちょっと、もう一度言ってくれよ」
さらに相手が言葉を重ねたとたん、桃井はステアリングを切り損ね、危うくフェンスに激突しそうになった。
「なんだって──!」
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年に数度は、みる夢がある。毎回、判で押したように同じ内容だった。
その夢の中で、アキはいつも同じ大地に立っている。
どこまでも広がる剥き出しの赤い大地。地表も、その地表の上にごくわずかに散らばる草も、地平線の彼方から吹いてくる風に渇ききっている。深い群青《ぐんじよう》色の天空には、いつも焼けつくような太陽がかかっている。
アキは周囲を見まわす。どこに行っても、歩いても駆けてもいい。むろん、留まっていてもいい。だが、留まりつづければやがては干からび、死ぬだけなのは分かっていた。
どちらを向いても平坦な大地が、視界のきく限り続いている。
容赦ない空間の広がりに、ふと眩暈を覚える。自分は何も持っていない。何をすればいいのか、どこを目指せばいいのか。答えを聞く相手もいない。
彼の影が足元にうずくまっている。影は片方の足先にやや傾き、その反対の踵のほうから風は流れてくる。それで自分なりの方角が分かる。なんとなくその風が吹いてくる地平が進むべき道ではないかと思い、反対側を振り返る。
その方角へ向かい、彼はてくてくと歩き始める。ただ、歩きつづけるのだ。景色はどこまで進んでもいっこうに変わらない。だが、歩みつづける以外に術はない。
夢の中では、大地の上を歩んでいくアキと、天空のアキの二人がいる。神の視点にいる彼には、その大地のからくりが分かっている。
一見揺るぎなく見える地表の世界は、岩盤一枚を隔てて、地下空間の闇の世界と表裏一体となっている。その境界となる地殻を支えているのは、巨大な闇の地下空間に張り巡らされた無数の支柱だ。その支柱の立っている闇の底は、あまりに深すぎて見えない。はるか深淵からてんでバラバラな方向に上へ上へと斜めに伸びてきた無数の支柱は、それぞれが行き場を失い、最後には地殻の下にべっとりと癒着し、固まる。結果的にそれが岩盤を支えているだけなのだ。
揺るぎなく見える地表の世界は、実は砂上の楼閣に等しい。
危うい、と天空の彼は思う。それを大地の上にいる自分に早く伝えてやらなければと思う。しかしいくら喚こうが、地上の彼にその声は届かない。
大地を歩きつづける彼は、そんな天空の彼の存在など露ほども知らない。ただひたすら風の吹いてくる方向に向かって、歩を進めてゆく。じりじりと照りつける太陽の下、背中から滲む汗と心臓の鼓動が、彼が感じるものの全てだ。どれくらいそうして進んだのだろうか、彼方の地平線からごくわずかに浮いた空間の果てに、キラリと光るものが一瞬見えた。
蜃気楼か、と彼は思った。事実いたるところで陽炎《かげろう》が揺らめいていた。心なしかピッチがあがった。たとえそれが幻覚であったとしても、目指すべきものも何もない空間をただ進んでゆくより、はるかによかった。
再び同じ場所で、何かが光った。依然として正体は分からないが、光源のようなものはたしかに存在するようだった。胸が激しく高鳴るのが分かった。自分の進んできた方向は間違っていなかったのだと思った。そして、そこにたどりつけば、新しい世界が拓けるのだ。今日とは違う明日が、始まるのだ。そう感じた。
その時だった。地表が一瞬|ぐらり《ヽヽヽ》と揺れた。と同時に彼のすぐ先の大地が轟音《ごうおん》とともに隆起し、泥や小石や乾ききった草の根を弾き飛ばしながら、土の中から巨大な石垣が現れ始めた。地響きとともに、石垣は彼の目の前を頂点として左右に盛り上がってゆき、ついには長い城壁のように圧倒的な高さの壁となり、のしかかってくる。太陽と空の世界を、全て遮って──。
そこでアキは目覚めてしまう。その夢の後は、いつも寝汗をびっしょりとかいている。
午前六時二十七分。昨日と同じように、決まって目覚まし時計の鳴る三分前。
アキは手を伸ばしてタイマーをオフにすると、ベッドの上に起き上がった。サイドテーブルの上のタバコを取り、火をつけた。自分でもその夢の原因をたまに考えるのだが、分からない。何かに焦るような絶望的な気持ちが、いつもつきまとっている。
六時半を少しまわった。部屋の反対側のベッドまでゆき、カオルを見下ろした。枕を抱いた格好で、両目が薄く半開きになったまま、気持ちよさそうに寝息を立てている。アキは不意におかしくなった。いつも何かに追い立てられるように目が醒める奴もいれば、あんなことがあった翌日でも、幸せそうに眠りこけていられる奴もいる。
アキはその体を揺さぶった。二度目で、寝ぼけまなこの相手はようやくアキの顔を見上げた。
「起きろ」アキは言った。「七時には、あいつらが来る」
「……うん」
アキが顔を洗って洗面所から戻ると、早くもカオルが新聞を広げていた。日経と朝日、両紙の社会面と地域面にざっと目を通すと、アキを見上げた。
「やっぱり、載ってねぇな……」
そうつぶやいたカオルの足元に、昨日の夕刊各紙とタブロイド紙が散らばっている。タケシとサトルがキオスクや近くの新聞販売店から掻き集めてきたものだった。それらのいずれにも、昨日の早朝の事件は載っていなかった。テレビも同様だった。昨日の昼から午前零時までNHKと民放各社のニュース番組を見つづけたが、どこにもそんなニュースは取り上げられていなかった。午前一時になっても、カバーしきれない民放枠の視聴を頼んでおいたユーイチとナオからも、連絡は入らなかった。
やっぱり届け出られてはいないようだな、とカオルが言い、アキもうなずいた。
午前二時に、次の行動に移った。アキは、タケシから聞いていたバーの名前とおおまかな住所を思い出し、104番に掛けた。電話番号を聞き出し、受話器を置いた。
「バー・シニスターの番号は、分かった」カオルを見て念押しした。「警察に連絡が入っていないのは、ほぼ確実だ。昨日の現場に探りを入れてみるが、いいな?」
タケシが加えた暴行の様子からして、相手が病院に行ったのは間違いないと思われた。救急車が呼ばれた可能性もある。そのラインから相手の居場所と正体を突き止めるつもりだった。
本来であれば、現地に出向いて聞き出すのが最も効果的なのは分かっていた。だが、警察に通報が入っていれば警察が、入っていなくてもその相手の仲間が網を張っている可能性があった。
カオルがうなずくのを見て、|184《いやよ》の後に番号を押し、ツーコール待った。
バー・シニスターです、という若い男の声が出た。バーテンが若かったということは、サトルから聞いていた。
「夕べいた、バーテンさん?」
いきなりアキは聞いた。それで受話器口の相手は、ピンときた様子だった。
「そうです……あなたは?」
「昨夜そこで騒ぎを起こした若いほうの、友達だ。代わりに電話している」相手に言葉を挟ませないよう、アキは早口で言った。「被害に遭った人間に謝りたいと思っている。だから、その人が向かった病院か本人の名前とか住所を、知っていたら教えてほしい」
「あいにくだけど」明らかにこちらに反感を持っている声で、相手は答える。「あの人はおれたちに介抱された後、タクシーを呼んでくれと言っただけだ。何も知らない」
「………」
「なんとか自力で病院に向かうと言っていた。警察も呼ぼうとしたが、あの人が止めた。そんなたいした物を盗られたわけじゃないからってな。事件にならずに、感謝するんだな」
そこまで言ったバーテンは、あらためて怒りが込み上げてきたのか、
「てめえに非があるのに逆恨みしやがって、一歩間違えば殺してるところだったんだぞ! あの大バカ野郎のダチなら、こう伝えておいてくれ。二度とこの店に来るなってな!」
吐き捨てるなり、ガチャーンという音がアキの鼓膜に響き、電話は切れた。
七時ちょっと前に、その大バカ野郎の二人組が姿を現した。タケシとサトルは、毎日、読売、産経、東京の各朝刊を小脇に抱えていた。
「どうだ」アキはきいた。「載ってたか?」
二人は同時に首を振った。日頃新聞を手に取ったこともない彼らに、再度念を押した。
「社会面と、地域面だぞ」
もう一度二人は首を振った。
午前中の、しかもこんな早い時間帯に召集をかけたのは初めてのことだった。しかし事情が事情なだけに、七時きっかりにユーイチとナオも現れ、全員が揃った。
「事件はどこにも出てない」開口一番アキは言った。それからタケシとサトルを見た。「昨夜の店に電話を入れて、バーテンに確認した。相手は、その場ではポリを呼んじゃあいない。バーテンの話だとひどくダメージを受けてたらしいが、救急車も呼ばずに自力で病院に向かってる」
タケシとサトルがアキの視線にうつむく。ユーイチとナオは、黙って次の言葉を待っていた。
「そこまでして、事が公になるのを避けたんだ。これでもう、どういう金だかはっきり分かったろう」アキは四人を見まわした。「奪ったのは大金だ。タケシとやりあったその男の感じからして、泣き寝入りはまず考えられない。どんな手を使っても必ず回収しようとするだろう。しかも、こっちを探す手がかりも持っている。だが、おれたちには依然として相手の情報はない」
つまり、正体不明の相手から、不意打ちをくらう可能性がより大きくなったということだった。その意味をそれぞれ呑み込んだ四人が、強張《こわば》った表情を見せ始めた。
アキはカオルを見た。カオルが後を引き継いだ。
「そこでアキとおれが、ちょっと策を考えた。ペンダントは見られた可能性がある。この場で外してくれ」
全員がその言葉に従った。
「よし、じゃあ次だ。相手がもしおれたちのことを人に聞いて探ってくる場合、なんて言ってくるか。金髪と坊主頭の二人組。三日月形のペンダント。アキって名前も、聞かれているかもしれない。渋谷にちょっと詳しいチームなら、それがおれたちだと分かる連中は多い。だから、通達を出す」
そう言って最初にタケシを見た。
「おまえのチームは、いま何人いる?」
「二十三、四はいる」
「サトル、おまえは?」
「同じくらいだと思う」
「ユーイチ」
「二十ジャスト」
「ナオは?」
「二十三」
全部で九十人ほどの数だった。今度はカオルがアキにうなずいてみせた。アキは口を開いた。
「メンバーに、今言った手がかりからおれたちのことをきいてくる人間がいたら、すぐ知らせるように言うんだ。むろん、おまえらにな。一回の情報につき、五万出す。もし相手を尾行できたとして、その住処を突き止められるようなら、五十万出すと伝えろ。ただし、その時は充分慎重にな。危険な相手だ。下手を打つと、返り討ちに遭う可能性もある。捕まった挙句、おれたちの情報をべらべらと喋られたらコトだ。それと、メンバーにはこの捜索の本当の理由は絶対に言うな。雅を恨みに思ってつけ狙っている奴がいるぐらいに伝えておけ」
四人全員がうなずく。
「網はできるだけ大きいほうがいい。おまえらのグループから、他の付き合いのあるチームへこの話を流してくれ」
「しかし、よう」と、ユーイチが言った。「その相手の居場所を突き止めるのに成功したら、それからどうするつもりなんだ?」
「相手の正体による。危険度によっては、無条件でその相手に金を届けることもある。むろん、おれたちが届けたとは分からないようにな。そうすれば、目的を達した相手は忌々しいとは思いながらも、それ以上は深追いしてこないはずだ。おれたちの正体が見えない以上はな」
ユーイチが再び尋ねた。
「だが、もしおれたちが正体を掴むより先に、相手がおれたちの居所を掴んで襲ってきたら、どうするんだ?」
アキはユーイチを見つめ、言った。
「そうなれば、おれたちとそいつらの全面戦争になる。どんな相手かは分からないが、万が一飛び道具でも出されたら、最悪の場合、死人が出るかもしれない」
「いっそのこと、最初から現金を警察に落とし人不明で提出してしまったら、どうだ?」ナオが提案する。「おれたちもない袖は振れないだろ? それが分かれば、やつらも諦めるかも知れないぜ」
「ダメだ」アキは否定した。「襲われるのを怖れてわざと警察に届け出たと知ったら、おれが相手なら怒り狂う。たとえ戦争になったとして、最後の交渉の余地を残すためにも、現金はこっちで握っているしかない。だいいち、今の時点じゃ、それを相手に知らせる方法がない」
カオルが大げさにため息をついた。
「結局は、相手がどんな種類の人間なのか、まずはその情報を早急に集めるしかない」アキは結論づけた。「その上で、今言った方法を含めて、もう一度検討する」
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面会開始時間の十時ちょうどに、桃井は折田から連絡があった総合病院にインプレッサで乗り付けた。ドアをロックするのももどかしく、足早に玄関前のロータリーを横切り、受付で必要事項を記入した。部屋番号を聞いた後、エレベーターに乗り、五階で降りる。急ぎ足でリノリウム敷きの無機的な廊下を通り、病棟の一番奥にあたる個室に向かった。
ドアの横にある表札を確認し、ノックもせずにノブを回した。部屋の奥にあるベッドに、折田が横たわっていた。頭部に包帯を巻かれ、首にはギブスが嵌《はま》っている。
「オヤジさん」
思わず声を上げて桃井が駆け寄ると、折田はかすかに顔をしかめた。
「大声を出すな」折田は天井を見上げたまま、小さな声でつぶやいた。「頭に響く」
桃井は脇のパイプ椅子をベッド横まで引きずると、逆向きに腰かけた。そしてもう一度折田の様子をしげしげと覗き込んだ。少なくとも目につくような外傷はなさそうだった。
「首、回せないのか」
「ああ」折田は口を開くのも大儀そうだった。「ちょっとでも体を捻ろうとすると、延髄から腰まで背骨がびりびり痛む」
重度のむち打ち症だった。一晩明けて、さらに痛みが増していた。診察医から、数日間は絶対に安静にしているようにと釘を刺された。日中は患者や看護婦がうろうろしている。病棟が寝静まったのを見計らい、激痛に耐えながらじりじりと身体を起こした。折田は携帯電話が大嫌いだった。電車でも雑踏の中でものべつまくなしに鳴り響くあの妙な電子音が我慢ならずに今に至ったのだが、この時ほど自分の不明を呪った時はなかった。廊下の奥にある公衆電話まで痛みをこらえながら寸刻みで進んでゆき、ようやく受話器を掴み上げたのが昨夜の二時半だった。
こんな事態ながら、桃井はその光景を想像し、思わず破顔した。
「そりゃ、大変だったな」
「笑い事じゃねぇぞ」折田は弱々しく抗議の声を上げた。「今こうして話すのだって、背骨に響いてくる。地獄の苦しみだ」
「しかしよ──」桃井は笑みを引っ込め、真顔に戻った。「本当に警察には届けは出てないんだろうな?」
「まず大丈夫だ」折田は答えた。「助け起こしてくれた女にも言っておいた。体も、バッグの中身もたいしたことないから、とな」
「たいしたこと、ないねぇ……」
折田の貧相なボストンバッグを思い出した。たしかに誰も、その中にまさか三千二百万もの現ナマがぶち込まれていたとは思いもしないだろう。しかし──。
そう桃井が首を捻ろうとした瞬間だった。唐突に病室のドアが開いたかと思うと、柿沢が姿を現した。後ろ手でノブを閉めるや否や、つかつかと桃井と折田に近づいてきた。その一連の動作は、明らかに怒気をはらんでいた。両肩が張り、ベッド上の折田を見る視線は錐《きり》のように尖っている。
「おい、ちょっと柿沢──」
慌てて口を開きかけた桃井に見向きもせず、冷え切った表情でベッドの脇で立ち止まると、折田をじっと見下ろした。
ややあって、柿沢は口を開いた。
「分かってるよな、|あんた《ヽヽヽ》」怒りを押し殺した声で、一語一語、切りつけるように吐き捨てた。「なんで、こんなことになってしまったのか?」
瞬きもしない青白い目が、なおも彼を見下ろしている。
折田は目を逸らし、かすかな吐息をついた。
現金を持ったままバーに立ち寄った。柿沢はその意志の弱さを責めている。そればかりか事もあろうに、他人の揉め事に首を突っ込んでしまった。現金を奪われた事実より、それら暗黙の決まりを破った折田の気のゆるみを怒っている。
折田は、恥辱に消え入りそうな表情を浮かべている。
「軽率だった。──本当に、すまない」
弱々しい返事に、桃井は柿沢の反応を見た。
その背中からゆっくりと力が抜けるのが分かった。柿沢は大きく息をつくと、サイドデスクに立てかけてあったパイプ椅子を開き、忌々しげに腰を下ろした。
そのまましばらく、じっとリノリウム敷きの床を見つめていたが、やがて顔を上げて折田を見た。
「聞いた限りでのガキどもの様子じゃ、万に一つも警察に届け出ることはない」いきなり結論づけた。「これ幸いと、湯水のように金を使いまくるだろう。だったら早いに越したことはない」
つまり、と桃井は思った。折田に金を回収する気があるなら、ということだ。
退職金がわりの報酬を毟《むし》り取られたのだ。しかし折田にその気があっても彼自身は動けない。当然その役目は自分と柿沢にかかってくる。そして柿沢の考え方からして、たとえ相手が仲間だろうとこんな軽はずみが原因で起こった事態の尻拭いを、ボランティアとしては決してやらない。
「ビジネスとして考えてくれ」柿沢らしいけじめのつけ方だった。「回収したら、いくら出す」
しばらく考えて折田は答えた。
「一千万で、どうだ?」
その言葉に、柿沢は桃井を見た。桃井は軽く肩をすくめてみせた。
「一人、五百万──」どれくらいの手間がかかるか分からないが、それ以上折田に出させるのは酷なような気がした。「おれに不満はないけどな」
柿沢はうなずき、再び折田を見やった。
「やる以上、無駄足は踏みたくない。回収できなければおれと桃井はタダ働きになり、当然あんたに金は戻ってこない」柿沢はクールに話を進める。「大柄な、金髪とスキンヘッドの二人組。これは昨日の電話で聞いた。それ以外の特徴は、どうだ?」
それは桃井も昨日の電話で聞いていた。最近流行の、ストリートギャングまがいの連中だろうとは考えていた。しかし柿沢の言うとおり、それだけの情報では徒労に終わる可能性が高い。仮に見つけ出したとしても、そこにたどりつくまでにはずいぶん手間取るように思えた。
折田は虚空を見つめたまま、じっと考え込んでいる。
「どうだ」うながすように、再度柿沢が聞いた。
「……ペンダント」折田は一言つぶやいた。そのあと急に早口になった。「そう、やつら二人とも揃いのペンダントを首からぶら下げていた。細い銀色の鎖に、象牙色の小さな三日月形ペンダントだ」
「確かか」柿沢が確認した。
「間違いない」折田は言った。「それともう一つ。そいつらがおれの財布を抜き取った時だ。一方が片割れに向かって、『アキ』って、言ったように思えた」
「あき?」
つぶやいた桃井に、折田は視線でうなずいた。
「相手に対して呼びかけたんじゃない。『アキに知られたらヤバイぜ』とかなんとか言っていた」
柿沢は少し首をかしげた。
「つまり、一方はそれを止めようとして、言ったわけだな?」
「ああ。で、言われたほうが答えた」
「なんて?」
「『バレやしねぇよ』ってな」
桃井は苦笑した。いかにも|ごろつき《ヽヽヽヽ》どもが言いそうなセリフだった。柿沢は桃井をちらりと見たが、何も言わなかった。
加害者の二人は、おそらくその界隈のストリートチームに属している。そしてアキと呼ばれる若者が、リーダー格にいる。財布を抜き取るようなことを嫌がる男で、それが法律という外的要因からくるにせよ、モラルという内的要因からくるにせよ、そういう意味ではまともな男なのかも知れない。二人がその存在を気にしていることからして、メンバーにも同様の規範を求めていることが感じられる。しかし──。
「オヤジさんよ」桃井はきいた。「そいつら、けっこうケンカ馴れしてそうな感じだったか」
「だろうな」それから不意に、顔をしかめた。「おれの頭を蹴り上げる時なんざ、ためらいも見せなかった」
「そこそこは、強そうか?」
「酔ってさえいなければ、かなりやれるタイプだ」
「なるほどな」
そこに桃井は疑問を感じた。そんな強面《こわもて》の若者を束ねて規律を強いる集団が、そこいらによくあるような、単なる仲良しクラブの延長のようなストリートチームとはちょっと考えられなかった。
再び柿沢と目が合った。
「少し、やっかいなやつらかも知れない」
柿沢も同様のことを感じていたらしく、黙ってうなずいた。桃井は言葉を続けた。
「だが、しょせんはガキの集まりだとは思うが」
「まあ、そうだろうな」柿沢もかすかに笑った。「とっとと見つけ出して、金を使われないうちに首根っこを押さえてしまおう。それなりの仕置きをしてな」
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摂氏三十三度。メンバーを送り出した早朝にはまだ耐えられた外気温も、九時、十時となるにつれ天井知らずに上がりつづけ、十一時を過ぎる頃には体温に近い温度まで迫ってきていた。
ベッドの上にごろりと横たわっているアキは、全身にじんわりと汗をかいている。一方、パソコンに向かって一心不乱にキーボードを叩いているカオルは、首筋から滝の汗を流している。
室内に冷房は入れていない。窓を開け放ち、床の上で扇風機がカラカラと音を立てている。
ぼんやりと天井を見上げているアキの耳に、住宅地のビルをいくつも挟み込んだ向こうから、クラクションや電車の音が流れてくる。
室内では依然カチャカチャとキーボードを叩きつづける音が響いている。時折それが止まったかと思うと、決まってカオルの大げさなため息が聞こえてくる。
アキは天井を見上げたまま一人で笑った。暑くてたまらないのだろう。むくりと半身を起こし、仔犬のように口で息をしているカオルを見た。
「そんなため息つくぐらいなら、エアコン入れりゃいいだろうが」
「だから、嫌いなんだって」画面を睨んだまま、いらいらしているカオルはかみついた。「前にも言ったろ」
冷房は体がだるくなる、と前々からカオルは言っていた。ついでにふくらはぎや肩もむくんでくる、と。女のようなことを言う奴だった。
定期的に大量の汗を流している人間とそれをしない人間では、暑さに対する汗腺の働きも当然違ってくる。ほぼ毎日トレーニングを欠かさないアキと違って、カオルは運動が大嫌いだった。
「ま、勝手にしろよ」意地悪くアキは言った。「へばってんのは、おまえだからな」
「言われなくても、そうしてる」
「で、できたのか?」
カオルは頭を二、三度掻いた。
「もう、少しだ」
アキは立ち上がり、カオルの傍らに来て画面を覗き込んだ。パソコンには、ファイトパーティ開催通知用のメールアドレスが、すでに三百件以上ストックされている。その受信者の周辺の人間も含めると、おそらく千人ほどへの通知機能があるだろうというのがカオルの考えだった。
パーティを主催するごとに参加した客からアドレスを集め、それを顧客データとして蓄積してきたのだ。四人に頼んだ口伝えの人海戦術とは別に、今回はそれを、包囲網として活用するつもりだった。
「ただ、書き方がけっこう難しくてな」カオルはため息をつく。「ほとんどの連中が携帯のメールだろ? あんまり文章が長くても読みにくいし、第一あのパーティに来る連中がそんな長い文章をちゃんと読むとも思えない。面倒臭がって、削除してポイだ」
「なるほど」
「おまけに、相手のことは何も分かってない。それをどう書くかが大変で、さっきからやり直してばっかりだ」
そうこぼしながらタタッとキーボードに追加の文章を打ち込み、画面をアキに向けた。
「こんなもんで、どうだ?」
アキは再び画面を覗き込んだ。
[#ここから3字下げ]
☆★探し人あり。情報料五万円[#「探し人あり。情報料五万円」に傍線]☆
ただし人相・年齢は不明。複数の場合あり。相手も同じく、こちら[雅]を探している。
相手が[雅]の手がかりとして聞いてくる内容は、以下の三点。
(スキンヘッドと金髪の二人組。三日月のペンダントをしている。アキという名前)
この点を聞いてくる者がいたら、連絡を乞う。
[#ここで字下げ終わり]
アキは内心苦笑した。フロムエーの求人広告を見ているようだった。
「しかも、出来の悪い求人情報だ」アキは言った。「簡潔にしたいのは分かるが、カタすぎる。だいたいパーティの連中で、この『乞う』なんて文字、読めるやつがいるのかよ?」
カオルはすかさず『乞う』を『求む』に変えた。
「悪い話じゃない」カオルは返した。「みんな、これぐらいなら理解しようとするさ」
「尾行した場合の報奨金は、書かないのか?」
「尾行の留意点も書かなくちゃならないだろ? 相手が危険人物だという説明も要る。それだとうんと長くなる。とりあえずこれで送る」
「半端だな」
「全然やらないより、マシだ」
「だと、いいがな」
カオルは顔をしかめた。
「だったらおまえ、書いてみるか?」
「いや」アキはニヤニヤして答えた。「遠慮しとく」
「なら、横からゴチャゴチャ言うな」
カオルは荒々しく送信をクリックした。三百名分のアドレスにメールが送信され始めた。
いつの間にか十二時を過ぎていた。カオルはデスクから立ち上がって部屋を横切り、冷蔵庫のドアを開けた。
「昼飯、なに食うよ? と言っても、昨日からのゴタゴタで買い物行くヒマもなかったから、食材はほとんど残ってないけどな」
「だったら、近くのファミレスやバーガーショップでどうだ?」
「早死にしたけりゃ、そうしろよ」冷蔵庫の中に首を突っ込んだまま、カオルは返した。「あんな添加物とコレステロールまみれのものを、よく食いに行こうって気になれるな」
外食に誘うたびに、カオルはいい顔をしない。この二年で、雅として飲んだ場合を除けば、カオルと外で昼食を食べたのは三回きりだった。そのたびに、やれ衛生面が心配だの加工品は味気ないなどと、田園調布の奥様みたいなことを言う。
「じゃあ、簡単に素麺《そうめん》でいいよな」
アキの答えも待たず、カオルは両手鍋に湯を沸かし始め、葱と茗荷《みようが》を手早く刻み始めた。つづいて生姜を擂《す》り下ろし、胡麻を用意して、湯が沸騰するとオクラをさっと湯掻き、これも手早く刻む。
「薬味は五種類もあれば、充分だろ?」
「ああ」
カオルは鍋の中に麺を七把ぶち込んだ。
カオルが過去を一切語らない以上、アキもあえて立ち入ろうとはしなかったが、こと食べ物の嗜好に関する限り、かなり厳格な家の生い立ちではないかと感じてはいた。この部屋も、アキが転がり込むまではカオルが一人で住んでいたのだ。雅からの定期収入がなかった以前は、どこからその家賃の工面をしてきたのかと、常々疑問には思っていた。
壁に小さな折り畳み式のテーブルが立てかけてある。アキはその脚を広げ、部屋の中央に置いた。飯作りの手伝いでいつもアキがやることといえば、およそこれだけだった。カオルがほどなくその上に麺と薬味を持ってくる。
「テレビ、つけていいか?」
返事も待たず、カオルはパソコンを立ち上げた。チューナーをいじり、番組を選ぶ。十四インチの画面に、放射線状の半すり鉢状になった議事堂内が映し出される。とたんにアキは顔をしかめた。
「また、国会中継かよ」
カオルは笑った。
「チンケなバラエティや奥様劇場《ソープ・ドラマ》よりよっぽどマシだろ」
実際カオルと一緒にテレビを見るようになってから、アキもそうは思う。それどころか、カオルの合いの手を聞きながらの中継は、けっこう面白かったりもする。
カオルの言葉は容赦がない。
「こいつ、自分がナニ言ってんのか分かってんのかよ」
「恥を知らねぇよな」
「このウスノロ、問題を先送りしやがって」
さんざん悪態をつきながら、「まあ、しょせんは茶番だよな。議事の前からシナリオなんて決まってるんだからよ」などとしたり顔に言う。
そして最後にため息とともに漏れる言葉は、いつも決まっている。
「ナメてるよなあ。ホント、とことんこいつらは」
中継は長い。そんなこんなで午後はおおかた潰れる。面白いには面白いが、ひっきりなしにカオルがふりまく毒舌に、時折疲れてしまう。
ある日、ウンザリして聞いたことがある。
「おまえが悪口言うのも分かるがよ、じゃあ、いったいこいつら、どうすりゃいいんだ?」
「簡単なことさ」カオルは答えた。「考えることに、責任を負うことだよ。利害を抜きにしてじっくり考えれば、ある程度物事の先行きなんて見えてくる。イマジネーションの問題さ。ちゃんと先を読んで、物事を決める。そして実行する。それだけだ」
思わぬ真面目な答えに黙っていると、カオルはさらに言葉を継ぐ。
「だいたいそんなマトモな大人がほとんどいないのが、今の世の中じゃんか。自分の行動に責任を負わない。他人のことなんてどうでもいい。今日び満員電車にでも乗ってりゃ、誰にでも分かることだ」そう言って、すり鉢状の画面の中を指さした。「こいつらも同類だよ。すし詰めの車両で、股をおっ広げたままスポニチを読んでいるオヤジとなんにも違わない。だから、こんなクソみたいな国になる」
そんな言葉に、アキはつい、カオルの生い立ちにあれこれ思いを馳せてしまうことがある。
午後六時過ぎ、アキはマンションを出た。
辺りはすっかり夕暮れの景色に変わっていた。エントランスから路上に出た時、ふと大気の波動のようなものを感じた。
遠雷だった。空を仰ぎ見ると、東の方角──ちょうど渋谷の中心街の上空に、巨大な積乱雲が湧きあがっていた。純白の頂から下部へと膨らむにつれてどす黒い腹部をさらけ出したその暗雲は、西日を受けてところどころ鈍い朱色を放ちながら大小のビル群の上に重たくのしかかっていた。
最近、夕方になると突如バケツをひっくり返したような豪雨がひとしきり都内を襲う。
夕立と言えるような生易しい代物ではない。それは決まって、今日のような蒸し暑い晴れた日の夕刻に来る。大粒の雨は路上にあふれ返り、滝のように坂道を流れ落ち、電車を止め、ガード下の窪みに池を作る。
何故だろう、と思う。思いながらも、中心街へと向かう足取りが自然と早くなった。
十五分ほど歩いて、なんとか雨が降りだす前に目的の場所に着いた。立ち枯れビルの地下へと続く階段を降り、『準備中』の看板を無視して≪Cafe Bar, Red Cross≫の金属の扉を開ける。がらんとした店内にはまだアルバイトのウェイターの姿も見えない。七時の開店には、まだ間がある。無人のテーブル席の奥に、髭面のマスターがポツンと座っていた。黄色いアロハを着て奥のテーブルに腰かけ、伝票に目を通していた。アキが近づいていくと、その気配に顔を上げた。
「今日は、パーティの日じゃなかったと思うが」
マスターの言葉を聞き流し、アキはテーブルの反対側の椅子に腰を下ろした。
「少し、時間あるか」
マスターはちょっと迷ったようだったが、結局テーブルの上にペンを置いた。
「で、何だ。用件は?」
「……去年の冬のこと、覚えているか?」
マスターには別れた女との間に一人息子がいた。妻のほうが引き取って暮らしていた。歳はアキよりも二つ下だった。その息子があるストリートチームを抜ける際に、口を利いてやったことがあった。
「そのときの貸しを、ちょっとした情報で返してもらいたい」
「どんな?」
少し考えて、アキは口を継いだ。ところどころぼかして言う必要があった。
「数日前に、数千万単位の現金が奪われた事件があった。おそらくこの渋谷区周辺でだ」
マスターは驚いたようだった。
「初耳だな」
「警察沙汰にはなっていないからさ。どうも奪われたほうが被害届を出していないらしい」
「らしい?」
「奪われた奴の正体を知らないんだ。当然マトモな金じゃないんだろうが、その奪われた相手がどんな人間なのか、その情報を知りたいと思っている」
「どんな人間とは?」
「例えば、極道関係の奴だとか。そういう可能性もあるということだ。むろん、そうじゃない場合もある。その時は、この件が暴力団がらみじゃないことだけでも分かればいい」
マスターは少し首をかしげた。
「おまえは、その件にどういうふうに絡んでいるんだ」
「それは言えないし、知らないほうがあんたのためだ。あんたなら、昔のツテをたどって何か聞きだせるかと思ってね」
マスターは顔を歪めた。
「誰から、聞いた?」
「息子からだ」アキは答えた。「あんた、昔は麻川組の人間だったんだってな」
麻川組とは、恵比寿から山手線沿いに渋谷の文化村通り以南までを押さえている地元の中堅暴力団だった。アキも時折、街中でその地回りのヤクザを目にしたことがあった。そしてレッド・クロスは、そのシマの中にあった。
押し黙るマスターに、そこから先は推測をぶつけた。
「で、たぶん今もその絡みは細々と続いている。商売の売上げから、月々のみかじめ料を麻川組、あるいはその傘下組織に支払っている。ここのオシボリや乾き物、ドライフラワーの納入代という形で。違うかい?」
図星のようだった。
「あからさまに聞いてもらう必要はない。集金に来る下っ端を捕まえて、それとなく探ってもらえればいい。この業界も狭いんだろ? なら、そんな事件があれば噂は流れているはずだ。だとしたら、その横の繋がりを利用して、金を回収しようと躍起になっていることも考えられる」
言い切り、アキは口をつぐむ。相手をじっと見つめた。
マスターはため息をつき、それから時計の日付を覗き込んだ。
「情報は、早いほうがいいのか?」
アキはうなずいた。
マスターは脇に置いてあった金庫ボックスを開けると残金を確認し、それからコードレスの受話器を取り上げた。プッシュボタンを押し、アキの顔に視線を据えたまま、相手が電話口に出るのを待つ。
「──あ、レッド・クロスの相川です。いつもお世話様です──ええ、それでね、ちょっと事情がありまして、八月分の集金をできれば今日、お願いしたいんですけど、どうですか?──ちょっと早めだとは思うんですが、できれば──ええ、まあ今日もなるべく開店前のほうがいいんですが──あ、はい。ではよろしく」
通話をオフにすると、再びアキを見た。
「十五分後に、光栄商事という組織から使いの者が来る。脇の事務所でそれとなく聞き出すから、おまえは裏に身を潜めているんだ。ブースの壁は薄いから、会話は逐一聞こえる」
「分かった」
アキがうなずくと、マスターはじっとアキを見た。
「先週、おまえのパーティで優勝した奴がいたろう?」
思い出した。たしかリュウイチとか言った。いけ好かない奴だった。
「それが?」
「たぶん、使いは、そのガキだよ」
アキは少なからず驚いた。
「あいつ、組の人間だったのか」
「といっても、入ってから日が浅い。まだまだ使い走りだ」
「なぜ、あの時教えてくれなかった」
「おまえも、息子《あいつ》から聞いたことを今まで黙っていた」マスターは言った。「言う必要のない事は、言わない。お互い様だろう」
アキは言葉に詰まった。
「しかし、そんな奴がなんでパーティにエントリーしてきたんだ?」
マスターは鼻先で笑った。
「下っ端のヤクザなんて、しょせんはそんなものさ」
「そんなものとは?」
「つまり、若頭クラスぐらいにまでならないと、よほどの才覚がない限りは小遣い銭にさえ不自由するということだ。風呂なし六畳一間、アシはママチャリ。それでも食えない。挙句の果ては自分の女を風俗で働かせ、それで食わせてもらっている。人前ではハッタリをかませて格好つけてはいるが、実態はそんな惨めなものだ。アシを洗ったおれが言うのもなんだがな」
「………」
「たぶん、あのリュウイチという奴もそうだろう。集金に来るうちにここでのパーティのことを知り、遊ぶ金じゃなく、生活費としての二十万が欲しくてエントリーした。ついでに相手を小突きまわして、組の中では犬コロ同然の自分をなんとか忘れようとしている。そんなところだろう」
アキはマスターを見た。
「あんたも、そうだったのか?」
その答えは、一瞬遅れた。
「そうさ」彼は無表情に言った。「産後すぐの女房をまたソープに沈めて、その金で服を買い、クルマに乗っていた。泣き叫ぶ生まれたばかりの赤ん坊はすぐに女房の実家行きだ。それでなんとも感じなかった。いい気なもんさ。当然、女房は逃げ出した」
マスターは、伝票の上に転がしていた受話器を、卓上ホルダーにセットした。
「腐った世界の空気を吸いつづけると、そのうちに神経が擦り切れ、感覚の完全に麻痺した人間が出来上がっちまう。それがヤクザってもんだ。どういう事情かあえて聞かないが、もしヤクザが絡んでいたとしたら、関わりにならないほうがいい。ロクなことにはならない。分かるな」
アキはジリッと身体を動かした。だが黙っていた。
その様子にマスターはため息をつき、もう一度時計を覗き込んだ。
「……もうすぐ時間だ。早く身を隠せ」
数分が過ぎた。事務所の裏に隠れたアキの耳に、ドアを閉める金属音が響いてきた。リュウイチがやってきたのだ。
「雨が降ってきたのか?」マスターの驚いた声が聞こえる。「ずぶ濡れじゃないか」
「急に、降りだしてきたんで」リュウイチとおぼしき、若い男の声が返事する。
「悪いね。こんな時に急《せ》かしちまって」
「いいッスよ」
お互いに言葉を交わしながら足音が近づいてくる。アキは息を潜めた。事務所のドアを開く音に続いて、足音は薄い壁一枚を隔てた室内に入った。
二人の間で集金のやりとりが続いた。やがて、その会話の内容からそれが終わったことが分かった。
「──さて、と。これで今月分も無事済んだ」マスターが口調を変えた。「外はまだ雨だろ? 少し休んでいけばいい。無理して来てもらったんだ、飲み物ぐらいは出すよ」
「はあ」
冷蔵庫を開ける音が聞こえる。飲料缶のようなものをテーブルに置いた金属音が続く。
「この頃は、どうなんだい? シマ内の様子は」
「て、言うと?」
「最近じゃ、素人でも物騒なやつがいるからな」探りの前置きだった。「強盗まがいのことを、平気でやる。この街に限らず、そんな連中がうようよしている。睨みを利かせるのも、けっこう大変だろうと思ってさ」
プシュッという、缶のタブを開ける音が響く。
「まあ、大変みたいですね」相手が元ヤクザだということを知っているのか、リュウイチは敬語を崩さない。「それを防ぐための、みかじめ料ですから」
すかさずマスターは鎌を掛けた。
「間違えて、ヤクザが襲われたなんていう事件もあったらしいな」
「詳しいですね」リュウイチが驚いた声を上げる。
「昨日、客から小耳に挟んだんでね」マスターはさらりとかわす。「で、そうなのか?」
「……間違えたかどうかは知らないですけど、ありましたよ」一呼吸置いたあと、リュウイチの声が続く。「関西資本の松谷組って知ってます?」
「噂だけは聞いている」
「六本木交差点──アマンドの近くでカジノバーをやっているみたいなんですけど、そこがつい先日、強盗に襲われたらしいんです」
壁に耳を寄せたまま、アキはいっそう息を詰めた。
「ほう」マスターの声が心持ち鋭くなった。「で、いくら取られたんだ?」
「確かなことはやつらも口を濁しているんですが、たぶん億近い額だろうってウチのカシラは言ってました。もともと流行っていたうえに、金曜深夜の掻き入れ時に襲われたらしいですから」
「金曜って、先週のか?」
「そうですね」
「じゃあ、つい二日前のことじゃないか」
アキは自分の心臓の鼓動が聞こえてくるのを感じた。あの二人が問題を起こしたのも、金曜の深夜から土曜の朝にかけてだった。
「しかし、よくそんなところを襲う奴もいたもんだ」マスターは呆れたように言った。「警戒も厳重だろうし、店には強面《こわもて》の従業員もいただろう」
「ですね」
「ごり押しの、銃撃戦か?」
「と、最初聞いたときにはおれもそう思ったんですが、どうやらそうじゃないらしいです。死人はおろか、ケガ人も一人も出ていないっていう話だし」
「──どういうことだ?」
続くリュウイチの話は、こうだった。カジノを仕切っていた支配人によると、閉店間際になって突如フロアーにいた人間がバタバタと倒れ始めたという。何がなんだか分からないながらも、その思わぬ事態に、すぐに受話器を手にとって近くの組事務所に連絡を入れようとした。電話に通電音はなかった。慌てて出口を見た支配人の目に、出口すぐ脇の奇妙な二人組の姿が映った。見たのは一瞬だったが、二人とも歳の頃は三十代の半ばに感じられた。揃って黒い筒のようなものを口にくわえ、拳銃を片手にじっとこちらを見ていたのだという。だが、確認できたのもそこまでだった。その支配人も他の客と同様急激な眠気に襲われ、瞬く間に気を失った──。
「催眠ガス、か」そこまで聞いて、マスターが口をはさんだ。「で、その筒のようなものは、ガスに対するプロテクターだろう」
「どうやら、そうらしいです」
支配人が意識を取り戻したのは、朝になってからだった。ボディガードに揺り起こされて意識を取り戻すと、真っ先に金庫とレジの中身を確認した。両方とも中身は見事に空になっていた。ただし、客個人の財布には一切手がつけられていなかったという。駆けつけてきた組員とカジノのスタッフは、犯人の痕跡を必死になって探した。フロアーに手がかりとなるようなものがなかったのは当然としても、催眠ガスを埋め込んだと思われるダクト内部にも、何も残っていなかった。犯人たちが手にしたとおぼしきいくつかのグラスの指紋も、拭き取られていた。手がかりは何もなかった。犯人を確認した実質的な目撃者も支配人一人。それも一瞬でしかない。完璧なプロの仕事だった。
感心したようなマスターの唸り声が、壁越しに聞こえてきた。リュウイチの言葉がそのあとを追う。
「犯人たちが入店したのが、午前二時ちょっと前、それから金を奪って引き上げたのが三時前後。だから、そのおよそ一時間の間、必ずその周辺にはクルマが留め置きしてあっただろう、と。その時間帯に付近のパーキングメーターや有料駐車場に停まっていたクルマの情報を、逐一集めているみたいです。有力な目撃情報には、松谷組が謝礼を出すということです」
「有力な情報とは?」
「おれもまとまって拝んだことないですけど、億近い金を実際に持ち運ぶとなると、そうとう嵩張《かさば》って重いものらしいです。たとえバッグやアタッシェケースに入れて運んだとしても、深夜の六本木で、そんな嵩張る荷物を重そうに持ち運んでいた人間はそうはいないだろう、と。しかも朝三時前後のカジノ周辺という限定付きです」
「なるほど」
「だから、それらしき人間が乗り込んでいたクルマの車種情報には、百万出すそうです。ボディカラーも込みでです。そのうえで、もしそのナンバーを少しでも覚えていたら、地域区分にプラス百万。ひらがなに五十万。番号一桁につき、十万出すみたいです」
「ほう」マスターの声がする。「ずいぶんと大盤振舞いだな。ガセネタと、どう区別するんだ」
リュウイチのかすかな笑い声が聞こえた。
「ガセネタをヤクザにつかませる馬鹿はいませんよ。あとでバレたら、どんな目に遭わされるか分かりませんからね」
数分後、リュウイチは店を出ていった。アキはマスターの残っている事務所に入った。
「おまえの言っていたのは、この件か?」
「違うな。聞いていた金額とは、えらく額が違う」事実だった。そして付け加えた。「違うが、関係はあるかも知れない」
内心、タケシとサトルが奪った金の出所が、そのカジノの強奪金であることにほぼ確信を抱いていた。
タケシたちが騒ぎを起こしたバーの住所は、南青山七丁目だった。六本木交差点とは、一キロちょっとしか離れていない目と鼻の先だ。おまけにこの二点は、主要幹線の六本木通りで直結する。
さらに時間のつながり。バーでの一件は、カジノでの事件の約一時間後に起きている。
これが偶然とは考えにくかった。おまけに、表沙汰にできない金であることの説明もつく。
カジノ内部にいた三十代の男二人と、タケシが襲った五十がらみの男──泥棒たちはおそらく三人以上の集団だったのだ。まんまとカジノから金をせしめ、別の場所で山分けしてそれぞれに散ったうちの一人を、それと知らずにあの二人が襲った。おおかたは、そういう筋書きだろうと思った。
推測に沈んでいるアキを、マスターはじっと見ていた。そして、忠告した。
「……ま、どういう事情か知らんが、気をつけることだ。ヤクザの上に、プロの強盗も絡んでいるんだ。できれば関わりにならないほうがいい」
アキは思わず口元を歪めた。関わりにならないどころか、もうどっぷりと首まで浸かっている。いまさら引き返せるはずもなかった。
そんなアキの表情を、マスターは不遜と読み違えた。
「今までも、そういうやつらを見たことがある」
「そういうやつらとは?」
「自分の実力を過信し、挙句、殺されてしまった連中のことだ」彼は言った。「下手をすれば、コンクリ詰めにされて東京湾の海底行きだ。分かっているのか」
「分かっているさ。充分」答えて、アキは席を立った。「今日はどうも、ありがとう」
なおも何か言いかねているマスターを置いて、事務所を出た。フロアーを横切り、カウンター脇の扉を押す。地上に出ると、通りのアスファルトが一面水を打ったように濡れそぼっていた。日は暮れ、その表面に看板の電飾がチカチカと反射している。つい最近も、こんな風景を見た覚えがあった。いつのことだろう、と歩きながら考えた。
思い出したのは、ホテル街を抜け出してからだった。あのジャガーの女を助けた時だ。
たしかに物騒な奴は、この街にも大勢いる。
一人で微笑みながら、信号待ちで停まったままのクルマの間をすり抜け、大通りを渡った。
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10
都内中心部には、今も三、四十坪ほどの更地が虫食い状態のように存在する。地上げをした不動産会社が潰れ、他の会社に引き取られた敷地、土地買収の途中で景気が冷え込み、そのままほったらかしにしてある用地だ。そんな半端な土地のかなりの部分が、百円パーキングに姿を変えている。せいぜい二台か三台分の駐車スペースで、日々の実入りは買収時の金利分にもならないが、タダよりマシ、ということなのだろう。
渋谷警察署に近いそんな駐車場の一つに、桃井はインプレッサを乗り入れた。
クルマを降り、テールエンドに身をもたせかけてセブンスターに火をつけた。約束の時間より五分ほど早かった。
待ち合わせの五時きっかりに柿沢は現れた。桃井の予想を裏切り、クルマではなかった。明治通りから桃井の佇む裏通りに、一台の重量級の単車が切り込んできた。ヤマハのV−VMX(Max)1200。
腹部に響いてくる重い排気音を路上に撒き散らしながら、ゆっくりとスロウダウンし、路肩に乗り上げ、桃井の前で停まった。
相手がエンジンを切るのを待って、桃井は言った。
「よく、そんな単車に乗るもんだ」
北米仕様の初期型モデルで、リッターオーバーのエンジンから百四十五馬力を絞り出す。純粋な市販車ベースの性能で、これなのだ。アクセルを軽く捻るだけで、アスファルト上に太い後輪のブラックマークを焼き付けながら狂ったように加速を始め、ゼロヨンも十秒そこそこで駆け抜ける。ヤマハもとんでもないバイクを作るものだ、と桃井は発売当時に呆れた記憶がある。
「ヒトの扱えるパワーを超えている」
シールドを開け、柿沢はかすかに笑った。
「そのパワーが、もしもの場合、保険にはなる」柿沢は言った。「おまえのインプレッサと似たようなものだ」
桃井は苦笑した。
「おい、おい。四つ輪と二輪じゃ、危険度がぜんぜん違うだろう?」
「しかし都内をうごきまわるんなら、こいつのほうが速い」柿沢は、バックシートに括り付けてあるヘルメットに顎をしゃくった。「乗れよ」
「野郎同士で二ケツとは、洒落にもならんな」
そう言いつつも、ヘルメットを手に取った。たしかに単車のほうが動きまわるには都合がよい。思いついた時にどこにでも停められるし、渋滞も関係ない。
「飛ばすなよ」
バックシートに跨がりながら桃井が言うと、柿沢は鼻で笑った。
「この東京のどこに、そんな場所がある?」
そのまま路地から滑り出し、明治通りへと出た。二人は、折田が襲われた店での聞き込みから始めるつもりだった。はるか前方まで、信号がブルーにもかかわらず延々と車両が数珠つなぎになっている。その間を柿沢は器用にすり抜けながら、目的地へと単車を走らせた。舗道で信号待ちに溢れ返る人の群れ。一様にくたびれた能面のような表情が、シールド越しの桃井の目に飛び込んでくる。そんな光景を見るたびに、桃井は軽い眩暈のようなものを感じる。
通り沿いにある≪Bar Sinister≫の看板は、すぐに目についた。最初に柿沢が気づき、遅れて桃井もそれと気づいた。
分離帯を迂回して反対車線に廻り込んだ。看板の突き出た路地に単車を乗り入れ、二十メートルほど進み、その店の前で停車した。地上からの階段を下り、準備中の掛け看板を無視してバーの扉を開ける。
キャビネットの中のグラスを揃えていたバーテンが、こちらを見た。年の頃二十七、八歳くらい。まだ若い。準備中にもかかわらず入ってきた見知らぬ二人組に、怪訝そうな表情を浮かべる。
「きみ、大下クンかい?」
桃井は近づきながら、折田から聞いていた名前を口にした。さらに不審の度を強めて相手はうなずく。
「先週の金曜深夜に、中年男がここに来たよね」
桃井の一言で、相手は何か感じたようだった。
「それが、なにか?」
桃井は軽く笑ってみせた。懐にはあらかじめ寸志を用意してある。演技のしどころだった。
「実を言うと、きみが介抱してくれた男は、おれたちにとってちょっと恩義のある人でね」まんざら嘘でもなかった。身振りで自分と柿沢を示しながら桃井は言葉を続けた。「で、お礼にちょっと立ち寄らせてもらったんだ」
言い終わると同時に、寸志をカウンター越しに差し出した。瞬時の呼吸のようなものだ。バーテンはついその封筒を受け取った。
受け取って、改めてそれが謝礼だと気づいたようだ。
「これはどうも、ご丁寧に」若いバーテンは慌てて口上を返す。「しかし災難でしたね、あの人も。人助けであんな目に遭っちゃったんですから」
桃井も相槌を打つ。
「最近は、ぶっそうな奴がいるからね」
「ストリートチームの連中ですよ。ここらでも、ずいぶん見るようになりました」
すかさず桃井は突っ込んだ。
「知り合いかい」
バーテンは首を振った。
「かすかに、見知った他人という程度ですね。数度ここに来たことがありますが、また来ればそれと分かるくらいの関係です。いつもは渋谷にでもたむろしているんでしょう」
「どうして、渋谷だと思うんだい」
「事件のあった夜も、センター街とか道玄坂とか言っていましたからね。あいつら」
明らかにバーテンは、その二人組のことを快く思っていない。
桃井はなにくわぬ顔でそれにつけこむ。
「あのオヤジさんは電設屋なんだが、どうもそのときに奪われたバッグの中に仕事に必要な図面が入っていたらしいんだ。後で思い出したそうだ。それでまあ、何か手がかりでもあればと思って、こうして来てみたんだがね」
「そうですか……」
バーテンは桃井の言葉をすんなりと受け入れた様子だった。それからふと思い出したように、桃井を見た。
「そういえば、昨夜遅くに、そいつらの友達だと名乗る奴から電話がありましたよ」
桃井はちらりと柿沢を見た。黙ったまま腕組みをしていた柿沢は、視線だけでうなずいてみせた。
「どんな電話だった?」桃井は聞いた。
「怪我を負わせたと思うので、謝りたいと言っていました」バーテンは答えた。「だから、あの人の名前か住所を知っていたら、教えてくれないかって」
「なるほど」
「でも、考えてみれば失礼な話ですよ。本人からじゃなく、そのダチからだって言うんですからね。しかも、番号は非通知。こっちだっていろいろと大変だったんだ。電話なんかじゃなく、まず出向いてくるべきです」
「たしかにね」桃井は、相槌を打つ。「その友達も、礼儀を知らないな」
そろそろ潮時だった。あまりしつこく聞きだそうとすれば、かえって相手の警戒を生む。
「じゃあ、どうもありがとう。悪かったね、開店前に」
そう言って立ち上がり、柿沢と一緒に店を出た。
階段を上り、地上に出た。柿沢が単車のサイドから二つのヘルメットを取り外し始める。
桃井は言った。
「捜索は、渋谷に絞って良さそうだな」
「ああ」
「おまえ、さっきの電話の話、どう思った」
「探りだな」メットの一つを桃井に渡しながら、柿沢は断言した。「少なくともおれたちに謝るために電話を入れてきたんじゃない。やつらはバッグの中身を見て、薄々感づいたんだ。オヤジさんが堅気の人間じゃないだろうってことにな。で、そう判断を下したのは、その友達とか名乗った奴だ。だから本人たちじゃなく、そいつが電話してきた」
「アキって、奴かな」
「おそらくな」柿沢は答えた。そして皮肉げに唇を歪めた。「用心深い若造だ」
「え?」
「普通、詳しい情報を取ろうとすれば、必ず直にやってきて話を聞こうとするはずだ。それを、非通知の電話一本でなんとかしようとした」
「……それが?」
「つまり、おれたちがやってくるということを予想していたということだ」柿沢は遠くを見る目つきで言った。「バーテンと面と向かって話せば、そいつの特徴は、いずれおれたちに筒抜けになる。おれたちがここを張っていることすら、考えていたかもな」
「なるほど」
柿沢はメットを被り、それからふと思い出したように、シールドを上げた。
「いくら包んだ?」
「三万」
柿沢が目元だけで笑った。
「口を軽くさせるためだ。高くはない」
「確かにな」柿沢は答えた。「経費に、付けとけよ」
ビルの間から垣間見える東の上空に、暗雲が大きく育っていた。夕陽を受け、ところどころオレンジ色に照り返している。
「夕立がきそうだな」柿沢がつぶやいた。「ちょっと早いが腹ごしらえしておこう。その間に雨をやり過ごす」
メットを被りながら、桃井は聞いた。
「どこで、飯だ」
「マークシティの、エクセル東急」単車に跨がり、桃井をうながす。「あそこの二十五階なら、そんなに混んでいない。ゆっくりと飯が食える」
そして、人に聞かれたくない話もできる──そう桃井は思った。二人で飯を食うとき、柿沢は決まってそういう場所を選ぶ。
単車のセルが回り、ゆっくりと車体が滑り出した。
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11
六畳一間。風呂なし、共同便所。夜になっても蒸し風呂のように熱気の籠った部屋の中で、カタカタと扇風機がむなしくまわりつづけている。逃れようのない暑さだ。リュウイチは全身にじっとりと汗をかきながら、ぼんやりと天井を見上げていた。屋根からの雨漏りの跡が、木目のところどころにどす黒い染みを残している。油汚れでドロドロになった狭い台所にはゴキブリが這いまわり、四六時中|饐《す》えた匂いが漂っている。渋谷区で家賃一万六千円では贅沢も言えなかったが、これでは恥ずかしくて女を連れ込むこともできない。
学歴も何もない自分がイチから成り上がるためには、ヤクザの世界しかないと勇んで飛び込んではみたものの、現実はこんなものだ。日々使い走りと集金に追いまわされ、気まぐれな兄貴分に顎で使われる。組から支給される手当ては雀の涙。それでもいつか幹部になれば、思い切り贅沢ができる。外車を乗りまわし、いい女も選び放題。そう思ってこの半年は我慢してきた。
だがリュウイチは、妙に苛立っている自分を、どうにも押さえることができなかった。そんな状態が、ここ数週間続いていた。不良仲間に当たり散らし、一人で部屋に帰ってきても時折猛烈な暴力の衝動が起こり、意味もなく部屋の壁や柱を殴りつけてしまう。どうしようもなく、今の自分が惨めに感じられる。
くそっ!──黴《かび》臭い畳に寝転がったまま、思わず両拳でその表面を叩いた。
原因はわかっていた。あの二人だ、とリュウイチは思った。あの二人を、街で偶然見かけたときからだった。
一カ月ほど前の、昼下がりだった。珍しく大気の乾いた午後で、その日は仕事が非番だった。リュウイチはいつもの取り巻きとともに道玄坂を練り歩いていた。歩きながら、多少誇張の入った組関係のエピソードを披露していた。取り巻きは、感心して聞き入っていた。
ふと、ゆっくりと通りを下ってきているクルマの中、一台のカーキ色のジープが目に止まった。
三菱製J62型の、ファットなホイールとタイヤを履いた、ごつい改造型ジープだった。幌は思い切りよく車体から取り外し、フロントガラスはボンネットの上に倒して、乗り手の若者二人は心地良さそうに七月の風を受けていた。
運転しているのは丸目のサングラスをかけた大柄な若者で、ステアリングを握っている剥き出しの二の腕には筋肉が盛り上がっている。その横で、ダッシュボードの上に両足を投げ出したまま、笑いながらドライバーに話しかけている細身の若者がいた。頭部に派手なバンダナを巻き、両腕をヘッドレストの後ろで気楽そうに組んでいる。お互いに白い歯を見せて、楽しげに話を続けていた。むろんリュウイチに二人の会話は聞こえてこない。
街路樹が揺れ、明るい原色の陽射しがその二人の上に降り注いでいる。カーステレオからかすかに聞こえてくるレゲエのリズム。
その屈託のない様子が、とても眩しく感じられた。
通りを流れてきたジープはすぐにリュウイチの一団の前を通り過ぎ、109の角を左折して見えなくなった。それまで彼の話に聞き入っていた仲間は、会話が途中なのも忘れて、遠い目をしてジープの影を見送った。
「あれが、雅のヘッドだぜ」
仲間の一人が、羨望混じりにつぶやいた。リュウイチは自分の自慢話が、急に色褪せてゆくのを感じた。
初めてアキとカオルを見かけた瞬間だった。
それまでも噂だけはちょくちょく耳にしていたが、素人のケンカ集団だとタカをくくっていた。ヤクザに比べりゃ、しょせんはガキのお遊びさ、と。しかし、自分の話にもうわのそらでその二人を見送る仲間を目の当たりにしたとき、リュウイチは自分の中に、言いようのないどす黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。
それから少しずつ雅の情報を集め始めた。さまざまな噂を集めていくうちに、意外な事実が分かってきた。最初に驚いたのは、このストリートギャングの規模だった。下部組織まで含めると、実に百人近くのメンバーを擁していた。しかもその中心となる六人のメンバーは、営利目的のイベントをやっている。円山町で開催されているファイトパーティが、月に三、四回。参加人員と入場料、そこからファイトの賞金を差し引いた金額で大体の粗利は分かった。学生パーティの延長のようなものだといえば、警察に目をつけられることもない。その絡みで、トーナメント形式のファイトも、パーティの余興だといってしまえばそれまでだ。よく考えられた、巧妙なやり方だった。
加えるに、これもまた月数回の、遠征と称する仕事をやっている。池袋、錦糸町、川崎、船橋……いたるところに姿を現し、平均して三十万の掛け金を積んでストリートファイトを行っている。噂では、約八十戦して無敗とのことだった。おそらくいささかの尾ひれが付いてはいるが、ファイトを仕掛ける前に入念に相手の下調べをして、勝てると踏んでから話を持ちかけているのだろうと、リュウイチは思った。そうでなければ、いくらこの集団が強くても、そこまでの噂が広まるわけがなかった。
つまり、この遠征も彼らにとっては、そこいらのストリートギャングのようなお遊びではなく、れっきとした商売なのだ。
この二つの商売から上がってくる儲けを、簡単に計算してみた。月平均で、二百万近くの粗利。驚いたことに、雅は年に二千四百万近くを荒稼ぎしている計算だった。設立されて二年ちょっとの間に、四千万以上の金を手にしているのだ。ヤクザも顔負けの稼ぎ方だった。
その事実を知った時、リュウイチは愕然とした。
くそっ!──天井の染みを見つめたまま、もう一度拳で力任せに湿った畳を打った。
あいつらだって、元々はおれと同じようなものだったのだ。リュウイチは思う。どうせ高校からも落ちこぼれて、行き場もなくこの街でぶらぶらしていた連中なのだ。なのに、自分は未だにこんな六畳一間の黴臭いアパートでダラダラと汗をかいているしかなく、やつらは陽光の中、ドレスアップにふんだんに金をかけたクルマを、笑いながら乗りまわしている。
嫉妬と、それに伴う自分への焦りだった。
パーティ会場は、意外にも集金業務でよく訪れる店だった。仲間と連れ立って、円山町のファイトパーティに行ってみた。
どんなパーティを開催しているか興味もあったし、ついでにエントリーして、賞金の二十万もいただくつもりだった。ケンカには昔から自信があった。というより、それしか取り柄はなかった。ケンカをしている時だけが、今の自分の境遇を忘れることができた。強い自分を錯覚させてくれた。暴力の興奮に、愉悦さえ覚えた。だから、ファイトにもエントリーした。
その時点では、まだリュウイチの中で、雅をどうこうしてやろうという気持ちはなかった。単に、羨望混じりの興味があっただけだ。
気が変わったのは、話しかけた時の相手の態度を見てからだった。あの時の、奴の態度を思い出しただけで、今でも臓腑がカッと熱くなる。
清掃業者に忘れられて腐乱した生ゴミを、この街ではよくみかける。ビニールから汁が染み出し、辺りに悪臭を放っている。置いてけぼりにされ、腐ってゆく中身。あの雅のヘッドは、ちょうどそんな汚物を見るような視線で彼を見返したのだ。そして、口もききたくないと、吐き捨てるように告げられた。
泥まみれの屈辱感だった。自分でも抑えようのない怒りに、指がピクピク震えていた。その場を離れながら、彼らに対する敵愾心《てきがいしん》が膨らんでいった。
テーブルに戻り、コロナビールを一口含んだ。次の試合まで、まだ考える時間は充分あった。二度、三度と口に含むうちに、熱くなった気持ちがゆっくりと冷え込み、変わって残忍な復讐心が頭をもたげてきた。ステージ上では、一回戦の第三試合が行われていた。見るもウンザリの、低レベルの戦いだった。野次を飛ばし、拳を振り上げるテーブル席の若者たち。
そんな光景を醒めた気分で見やっているうちに、ふと、ある奸策《かんさく》を思いついた。その仕掛けをしばらく心の中であれこれといじくりまわし、いけそうだと思った。にんまりと笑った。これなら、あの雅のヘッドに吠え面をかかせてやれると同時に、自分のメリットにもなる。そんな思いつきだった。
二回戦とファイナルの試合を余裕で勝ち、賞金を手にして、帰り際に再びアキに言葉をかけた。当然相手は無視してきたが、リュウイチは腹も立たなかった。
嫌うだけ、おれを嫌っとけよ。腹の中で笑った。今のうちだけさ。
取り巻きと別れ、その足で道玄坂二丁目の裏通りにある組事務所に戻った。
彼の所属する『光栄商事』のシノギの基盤は、この二丁目から円山町にかけての飲み屋・ラブホテルからのみかじめ料と、その界隈にあるピンサロ・ヘルスなど風俗店の経営で成り立っている。
渋谷から恵比寿にかけての沿線沿いに、主に飲食店関連の利権を持つ、都内では中堅クラスの暴力団『麻川組』。光栄商事は、その麻川組の若頭・黒木が仕切っている法人組織だった。
リュウイチは薄汚れた雑居ビルの階段を上り、四階にある事務所の扉を開けた。午後十一時少し前。夕方からこの時間帯にかけて、ほとんどの組員は事務所にいない。風俗店の切り盛りと飲み屋街の見まわりに出払っているのだ。事務所の中では、角刈りの兄貴分がガランとしたデスクで一人電話番をしていた。
奥のソファに、女が数人腰かけているのに気づいた。日本人ではない。金髪や栗毛の女が、いずれもその彫りの深い顔に不安そうな表情を抱えたまま、安っぽいビニール製のソファに肩を寄せ合って座っている。
全部で四人だった。リュウイチは兄貴分の鈴木に話しかけた。
「また、仕入れたんですか?」
「コロンビアからだ」鈴木は言った。「六人。ロス経由で、今日の午後、成田についた」
「六人?」
鈴木はにやりと下卑た笑いを浮かべ、奥の部屋を顎で示した。
「二人は、あっちだ」
「そうですか」
なるほどあらためて耳をすませてみると、奥の社長室からスプリングの軋む音とともに、かすかにくぐもったような女の喘《あえ》ぎ声が聞こえてくる。
光栄商事は風俗店経営の副業として、以前から外国人売春婦の仕入れを行っていた。最近ではバンコクや福建省のルートに変わって、中南米──特にコロンビアからのルートが主力だった。コスタリカ、コロンビア、チリと、中南米の「C」の頭文字のつく国は、昔から美人の産地だというのが通説になっている。特にインディオの血がごく僅かに混じったスペイン系メスティーソの場合、はっとするようないい女が国中にいる。体つきはやや小振りながらもきりっと締まり、その顔立ちにも欧米人特有の大味な感じがなく、独特のくっきりとした彫りの深さを持っている。おまけに混血種のせいかタフでもある。一晩に何人もの客を取らせても、ちょっとやそっとではへこたれない。
黒木は、そこに目をつけた。数年前にコロンビアのカリ・カルテル絡みの売春ブローカーに渡りをつけ、日本サイドでのブローカー業に手を染め始めた。一月に一度、現地のブローカーから成田に女が送られてくる。現地からの仕入れ金額は、平均して一人頭二百万。パスポートを取り上げた上で、ワンボックスで都内まで運び、しばらくタコ部屋にぶち込む。事前に麻川組傘下のいくつもの風俗店に声をかけておき、深夜過ぎに営業の終わった光栄商事直営のピンサロに招集をかける。仕入れた女は舞台の上にずらりと立たせられ、セリにかけられる。セリの下限値は三百万から。商品によっては、四百万、五百万の値がつくこともあるが、その差額が光栄商事の儲けとなる。むろんそれら風俗店が支払う落とし値は、すべて彼女たちの借金としてそれぞれの肩に重くのしかかってくる。つまり、上玉になればなるほど、その借金から抜け出しにくくなるという地獄絵の構図だ。おまけに今回のように、黒木が出荷前の商品を味見することも、しばしばあった。
リュウイチは兄貴分にうかがいをたてる。
「今、話しかけたらマズいですよね」
「と言っても、いつ終わるか分かんねぇぞ」鈴木は言った。「いい話なら、カシラは聞くさ」
リュウイチはうなずいて、ゆっくりと奥のドアに近づいていった。生々しい女の喘ぎ声が薄い扉一枚隔てて、部屋の中から聞こえてくる。
「リュウイチです」その扉の前に立ち、声を張り上げた。「ちょっと小耳に挟んだいい話があるのですが、よろしいでしょうか?」
女の喘ぎ声とスプリングの軋みが一瞬途絶え、
「──入れ」
野太い声が、一言答えた。
「失礼します!」
ドアを開けた途端、むせ返るような雌の匂いが鼻をついた。正面の壁にでかでかと掲げられた神棚と『仁義礼智』の額縁の下、女の服がカーペット一面に散らばり、奥にある革張りのソファの上で、三つの姿体が絡み合っている。下半身剥き出しの大柄な男の上に、ブラ以外は一糸まとわぬ金髪の女が馬乗りになっていた。そのむっちりとした尻を鷲掴みにしたまま、荒々しく下から突き上げる男の姿。その動きに合わせて、女の白い肌がのたうち、うめき声をあげ、髪を振り乱している。そのたびに見え隠れする真っ赤に爛《ただ》れた陰部から、肉汁が滲み出している。真珠入りのでこぼこの陰茎を滴り落ち、男の太腿までぬらぬらと光らせている。その金髪の横では、ブルネットの女が寄り添うように、シャツをはだけた男の胸に顔をうずめていた。こちらの女も全裸に近い状態で、男に後頭部を押さえつけられたまま、その剛毛の群れた胸に舌を這わせている。自分たちがさらに借金漬けにされることも知らずに、玩具にされつづける女たち──。
最初に同じような光景を見た時、そのあまりの無残さに、リュウイチは思わず目をそむけた。途端、テーブルの上から大理石の灰皿が飛んできて、避け損ねたリュウイチの肩に鈍痛が走った。
「上品ぶってんじゃねぇぞ。このクソガキが」
汗みどろの女の背中から覗いたてらてらと脂ぎった顔に、せせら笑いが浮かんでいた。三白眼の細い目が、リュウイチを睨《ね》めつけていた。
バブル華やかなりし頃に恵比寿から渋谷にかけての再開発に絡んで頭角を現し、崩壊後も企業の整理屋として名を馳せ、対暴法で何度もムショと娑婆を往復した叩き上げ。九〇年代末からは組の執行部からその実績を買われ、シマ内でも最も実入りの多いこの地区を任された。北と東でエリアを接する、青龍会と桜花会への押さえの意味合いもあった。この男はここでもその豪腕をいかんなく発揮した。直営の風俗店を作り、みかじめ料を出し渋る飲食店は容赦なく廃業に追い込み、その後に組織の息のかかった新しい資本を注入する。今やこの界隈で、その名を知らぬ者はない平成ヤクザの典型──それが黒木だった。
「てめぇもヤクザもんの端くれなら、目ぇ開いてちゃんと見とけや!」
そう吼えて、黒木はさらにリュウイチに行為を見せつけた。
それ以来、リュウイチは黒木のいかなる行為にも、心の動揺を覗かせることはなかった。それがヤクザものだと、黒木に叩き込まれた。リュウイチはぼんやりとその様子を眺めていた。黒木の腰の上下が激しくなるにつれ、女のうめき声も高くなってゆく。陰部からとめどもなく流れ出る粘液が、黒木の睾丸を伝わって、革張りのソファの上まで滴り落ちている。
やがて黒木は一声うめくと、両手で女の尻を鷲掴みにし、深く押さえつけた。その膣の中にどくどくと放出された精液。自らの臀部と黒木の腰部を重ね合わせたままの状態で、金髪女の背中がピクピクと痙攣《けいれん》を起こしている。黒木はその女を無造作に押しのけると、精液と肉汁にまみれ、まだてらてらとそそり立っている男根を、もう一人のブルネットの頭部を押さえつけるようにして強引にしゃぶらせた。ふらふらと立ち上がった金髪の女が、初めてリュウイチのほうを正面から見た。蛍光灯の下に浮き出た、くっきりとした鼻梁と、滑らかに弧を描く顎のライン。五百万の大台に乗りそうな、美人だった。だがその奥まったブラウンの瞳からは、およそ表情というものが消え失せていた。女の内股を伝って、白い精液が床に滴り落ちる。片やブルネットの女はその頬をくぼませ、黒木の男根に付いた液汁を懸命に吸い取っている。
それら一切を、リュウイチは無感動に眺めていた。
黒木にとって、女は性欲の処理対象でしかない。ブルネットの女がきれいに黒木の男根の残滓を吸い取った後、
「|出てけ《ゴー・アウエイ》」
女の顔も見ずに、そう言い捨てた。
金髪とブルネットの女は無表情のまま床に落ちた衣類をまとめ、そそくさと部屋から出ていった。黒木はのっそりと立ち上がり、リュウイチの目の前で平然とズボンを上げ、ベルトを締め始めた。
「──で」次にシャツのボタンをとめながら、小柄なリュウイチを見下ろした。「聞こうか。そのいい話とやらを」
リュウイチは話し始めた。話しながらも、四階の窓から狭い通りを隔てて建つ、似たような雑居ビルを眺めていた。窓ガラスに貼り出された光栄商事の看板越しに、同じ階にあるこの事務所と同じような殺風景な室内が見てとれる。サラ金屋のオフィス。客がひけた後のガランとしたデスクに、男が一人背中を見せて座っていた。それが、いつもこの事務所の窓から見える世界のすべてだった。
十分ほどかけて、リュウイチは一通り話し終えた。そして、目の前に座っている男の反応を、黙って待った。
やがて黒木はニヤリと笑った。
「なるほどな。たしかに、いい話だ」
「ありがとうございます」
黒木はパラメントに火をつけた。しばらく煙をくゆらせた後、再び口を開いた。
「最初の仕切りは、おれがやる。うまくいけば、そこからの上がりの半分は、今後おまえにまわしてやる」
「もし、不調に終わった場合は?」
「そのときは、叩き潰すまでだ。そしておまえに、そのシステムの後釜に座ってもらう」
「分かりました」
「どちらにしても、損はない」そしてもう一度相好を崩した。「枯れ尽くすまで、せいぜいうまい汁を吸わせてもらうさ」
その打ち合わせから、三日経った。雅──アキの住所は依然として知れないが、それでも今度のパーティでは確実に会える。その終演で、黒木に引き合わせればいい。光栄商事はさらに実入りが増え、リュウイチ自身の株も上がる。手当ても格段にアップする。
なにも都合の悪いことはなかった。自分自身、もっと喜んで当然のはずだった。
リュウイチはささくれた畳の表面を、じっと見つめる。スカスカになった蚊の死骸が目についた。もうすぐこんな部屋ともおさらばできる──それなのに、少しも喜びが感じられない。あるのはただ、砂を噛むような虚しさと、行き場のない苛立ちだけだった。
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12
その話を終えた時、カオルはデスクに座ったままアキを見上げた。そして大げさにため息をついた。
「──なるほどね」カオルは言った。「つまり相手は、筋金入りのプロフェッショナルってわけか」
「そういうことだ」
カオルは、デスクの下のボストンバッグを足で軽く蹴った。その中には大量の札束が、依然手付かずで入っている。
「で、その相手にどう立ちまわるつもりだ」
「分からん」正直にアキは答えた。「なんせ、今まで出会ったこともない人種だ。どう出てくるか見当もつかない。分かっているのは、やがて間違いなくおれたちを追い込んでくるってことだけだ」
「銃器に催眠ガスに、プロテクター」つぶやきつつ、カオルは冗談めかした。「まるで軍の、特殊部隊だな」
アキも苦笑した。
「昔さ、学校で習ったよな。爆撃機でやってくる米兵に、竹槍を突き出す日本兵……ちょうどおれたちは、その日本兵みたいなもんだ」
「はは」
お互いの笑い声が、力なくフローリングに響いた。それからしばらく二人は黙り込んだ。
やがてカオルが口を開いた。
「幸いにも、まだ目撃情報は来ていない。おいおい考えていこう」割り切った口調でそう言い、くるりとチェアを回転させた。「しかし、あのリュウイチって奴が、ヤクザの舎弟だったとは驚きだな」
「ああ」
「光栄商事って、どこにあるか知ってるか?」
「いや」
「道玄坂から下りてきて、センタービル脇を入る一方通行の道がある。その左手沿いのビルの四階だ。ワンフロアーに一社しか入れないような、チンケな雑居ビルだ」
「詳しいな」
「その階の窓ガラスに、でかでかとペイントされている。しかも一つ一つの窓枠ごとに、青いナール体で『光・栄・商・事』ってな。あの前を二、三度通りかかったことがある奴なら、結構気づいてると思うぜ」
「おまえも、それで知ったのか」
「とも言えるし、そうでないとも言える」
アキは呆れた。
「なんだ、それ」
するとカオルは奇妙な笑いを浮かべた。
「去年の冬だ。あの前を通りかかったら、一台のバンが停まっていた。ドアが開いて、ぞろぞろと出てきたのは、白人の女だ。混血っぽいのもいたな。辺りを見まわして、キョロキョロしてた。バンの運転手の男が、女たちをビルの入口に急き立てた──これ、どういうことか、分かるか?」
「つまり、女衒《ぜげん》か」
カオルはうなずいた。
「で、ちょっと気になってその雑居ビルを見上げた。そしたら、青い看板が目についた。開いた窓から、親分らしいでっかい奴が、おれを睨んでいた」
「それが?」
「麻川組若頭の黒木だ」カオルは言った。「名前ぐらい聞いたことがあるだろう?」
アキはため息をついた。
「あいつも、えげつない組に入ったもんだ」
しかもマスターの話では、リュウイチはいいように顎で使われているようだ。ケンカで憂さを晴らしたくなる気分も、少しは理解できた。だがそんなアキの心を見透かしたように、
「おい、おい」と、カオルはからかった。「人の心配より、まずおれたちのことだろ?」
アキも思わず苦笑した。その通りだった。受話器を取り、まずタケシから電話をかけ始めた。夕方に判明した相手の正体を、伝えるためだ。
「おれはタケシとサトルだ」コール待ちで、アキは言った。「ユーイチとナオを頼む」
カオルも自分の携帯を取り出し、電話番号を呼び出し始めた。
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13
とにかく疲れきっていた。
一日中足を棒にして歩きまわることがこんなにもつらいものだということを、井草はあらためて実感した。高架下に籠った茹だるような熱気に加え、大通りを行き交うクルマの排気ガスにまみれて背中にべっとりと貼り付いたシャツ。たまらなく不快に感じた。右手の傷も、相変わらずずきずきと脈打っている。
昨日の午前中に久間から指示を受けてから、丸二日間聞き込みを続けていた。桜花会の若衆は六本木通りの北側を、井草と連れの聞き込み役は、その南を担当した。六本木三丁目から始め、五丁目、六丁目までの店という店をしらみつぶしにまわったのが昨日。明けて今日は、西麻布三丁目から四丁目と進み、午後十時には、七丁目もあとワンブロックを残すのみというところまできていた。そこから先の渋谷区は、『全関東青龍会』と『麻川組』が南北に勢力を分け合っているエリアとなる。
それなのに、今のところ有力な手がかりは皆無。苛立ちが募ってくる。今日も、何の情報も得られないまま久間の顔を見るかと思うと、とてつもなく気が重かった。
もしこのまま強盗たちの手がかりが何も得られず、結果として彼らを捕まえることができなければ、自分にどんな処置が待っているかと思うと、そら恐ろしくさえあった。
そんなことをぼんやり考えながら歩を進めていると、背後からクラクションが響いた。
驚いて後方を振り返ると、ダークブルーのBMWが、ゆっくりと井草と連れの横に滑り込んできたところだった。
そのBMW750iLの後部座席がゆっくりと開き、久間が降り立った。
「按配は、どや?」薄いピンストライプのダブルに身を包んでいる久間は、井草に向き直るなり問いかけてきた。「情報は、なんぞ取れたんか」
「は……今のところ、なしです」
「ふぅん」
つぶやいた久間は、井草とその連れをまじまじと見た。街灯に浮かび上がった二つの顔が汗埃にまみれているのを見てとり、ため息をついた。
「しゃあないやつらやのぅ……」
「すみません。今日も一日中歩きまわってみたのですが」
「おまえらの顔見りゃ分かっとるがな」
「はァ」
その久間の三十メートルほど先の交差点に、渋谷四丁目の信号が見えていた。
「あそこで、シマも終わりやな」
そのわずか手前、ビルの外壁から張り出した看板に、青いネオンが灯っていた。
「おぅ」久間はそのネオンに向けて顎をしゃくった。「あの店は、まだやろ?」
「はい。あの場所で、一応ラストということになります」
「最後ぐらいワシも付き合うたるわ」
青いネオンのその看板は、≪Bar Sinister≫と読めた。外国暮らしの長かった井草は、その英文字の意味を理解し、思わず苦笑した。シニスター──つまり、不吉な、とか、災いとなる、ということだ。このままゆくと、自分の近い結末を実感させるには、ぴったりの店だ。
久間に続いて階段を降り、ドアを開けた。入口から奥へと細長い店内は十坪もあるだろうか、カウンターがあり、その反対側の壁にテーブルが三つほど並んでいるだけの、こぢんまりとした室内だった。客はまだ一人もいなかった。井草たち三人は手前のテーブルに腰を下ろし、若いバーテンにビールを注文した。
「にいちゃんえらいなぁ、一人で切り盛りして」
バーテンがビールを三つ運んできた時、気安く久間が話しかけた。
関西弁は便利なものだと、時に井草は思う。久間のような人種でも、こういう問いかけが違和感なくできるのだ。
「にいちゃんが、オーナーか?」
「まさか」と、そのバーテンは笑った。「ぼくはただの雇われ店長ですよ。といってもオーナーは滅多に来ませんけどね」
「じゃあ、あれか。毎日にいちゃんが店をやっとるんか」
「週イチの定休以外は、ほとんど出ずっぱりって感じです」
「仕入れ関係もか?」
「まあ、そうですね」
「えらいなァ」
そこで一度会話は途切れ、バーテンはカウンターの内側へ戻っていった。とは言っても、幅の狭い店内なので、久間たちとの距離は三メートルも離れていない。
「ワシらな、松谷組のもんやねん」久間は再び口を開いた。「知っとるよな?」
「ええ、むろんです」少し驚いた表情で、バーテンは久間を見返した。桜花会と松谷組が組んでいるという話は、この界隈では知らぬ者はない。「そうですか──確か、桜花会さんのバックに付かれたんですよね」
「ま、相方さんのシマ内の様子も、参考までにざっと見とこうかと思うてな」久間は軽く笑った。「挨拶と言うてはなんやけど、ちょっと聞きたいことがあるんや」
そう言って、井草にかすかにうなずいてみせた。さっそく井草は調子を合わせた。
「一昨日の深夜、何か変わったことは、なかったかい?」
おや、というバーテンのその顔を、井草は見逃さなかった。
「何か、あったのかい?」すかさず問いかけた。
「──いや、あったと言うほどのことでもないんですが、まあちょっとした騒ぎが起こりまして」
「どんな?」
「若造二人が、このカウンターにいた女性のお客さんに言い寄ったんです。で、それを止めようとした五十がらみのお客さんと騒動になって、その場はそのお客さんが若造をねじ伏せてくれたおかげで、事なきを得たんですがね」
「そうか……」いたのは、あの二人組ではない──井草は直前までの期待が急速に萎《しぼ》んでゆくのを感じた。「それで?」
「ところが、そのお客さんをバーの出口で待ち構えていた二人が滅多打ちしちまったんです。そりゃもう気の毒なほどの惨状でした」
「なるほどね」消え入りそうな声で、かろうじて相槌を打った。「そりゃその人も、大変だった」
「まったくですよ。散々に打ちのめされてバッグも奪い取られた挙句、路上に転がってたんですからね」
頼んだビールがまだ残っていた。久間も苦笑を浮かべたまま、仕方なしに転がり始めた話の間を埋めた。
「ポリ公が来て、大変やったやろ?」
「いえ」
「呼ばんかったんか?」
「ええ……そのお客さんがいいというんで」
「中身がたいしたことなかったんやな」
「いえ」バーテンは首を振った。「電設関係の、図面かなにかだって言ってました」
「ほう?」久間の声音が変わった。「じゃあ、大事な仕事道具やないか」
「それは、そうですが」
「何時頃や?」
「え?」
「そやから、その事件があった時間や」
「確か……朝の五時ぐらいじゃなかったかと思います」
「バッグはそれなりの大きさやったんやろ」
「……まあ、大き目の黒いボストンバッグでしたよ」
「嵩張ってた感じか?」
「そうでしたね」
「ふうん」久間の目が、ちらりと井草を見た。しかし、続く口調は相変わらずのんびりとしたものだった。「それで被害届もなしか。奇特な奴もおるもんやで」
バーテンは何故か、困ったような顔をした。
「中身が仕事道具だと知ったのは、今日になってからなんです」そう、言い訳した。「その時はぼくも、ただバッグを取られただけだと思ったもんですから」
井草はその言葉の意味を、心の中で反芻した。考えてみれば不思議な話だ。堅気の電設関係の人間が、朝の五時に、膨らんだバッグを持って六本木の外れをうろついている──しかもさんざんに殴られ、大事な仕事道具を取られて、被害届も出していない。
その時、ふとあることに気づいた。
「いま、中身を知ったのは今日だったって言ったよね」と、口を開いた。「その中身のこと、二日も経ってわざわざお客が連絡してきたのかい」
バーテンは首を振った。
「そのお客さんの知り合いっていう男の人が来て、事情を聞いたんです」
「知り合いって、そのお客さんの仕事仲間かなにかかな」
「どうでしょうね……二人とも、何か個人的なつながりのようでしたけど」
「二人?」思わず急き込んで井草は問い返した。「その男、二人組だったのか」
「ええ」井草の語気に戸惑いながらも、バーテンは言葉を返す。「その図面を、取り返したいようでしたよ」
思わず久間と顔を見合わせた。
「ひょっとして、二人とも上背は百八十ぐらいで、痩せ型とガッチリ型じゃなかったかい? で、痩せ型のほうが切れ長の一重、ガッチリのほうがギョロ目の」
今度はバーテンが驚いた。
「知り合いなんですか?」
脳内のアドレナリンが急激に沸騰してきた。
間違いない──二人組がカジノバーに潜入した時、裏方を務めていたのが、この被害者だ。エアダクトに細工し、電信ケーブルを切断した。電設関係に詳しい人間なら、それぐらいお手の物だろう。被害者と二人組はチームだったのだ。金を山分けして別れたその裏方は、途中ここに立ち寄り、その金を奪われた。しかもさんざんに殴られたうえで。そこで身動きのままならない被害者に代わって、仲間の二人が回収《サルベージ》に乗り出した。そういう筋立てだと確信した。
久間が逆に問いかけた。
「その二人、ほかにどんな話をしとった?」
「特には……若者の人相を聞いたらすぐに帰りましたよ」
「何時や?」
「夕方の、五時過ぎです」
「そいつら、連絡先かなんか、残しよったやろ」
「いえ……そのまま帰っちゃいましたけど」
それらの質問に答えるバーテンの声が、急に小さくなった。どうやら井草たちとその二人組が顔見知りのようだと察して、余計なことを言い過ぎたと後悔しているのだろう。だが、その返事の内容自体には嘘はなさそうだった。
質問の方向を変えてみることにした。
「襲ったやつらの風体は、どんな感じだった?」
バーテンはシンクから顔を上げた。
「それなら覚えていますよ」矛先がかわったその問いには、勢いづいて答えた。「金髪とスキンヘッドの二人組でした。二人ともペンダントを首からぶら下げてました」
「どんなペンダントだった?」
「白っぽい三日月形のペンダントでした。たぶん渋谷のチーマーかなんかだと思いますよ」
「渋谷?」
「センター街とか道玄坂とか、会話に出てきてましたから。たぶん、そのエリアのガキどもなんでしょう」
支払いを終えて路上に出てくるなり、久間は井草を振り返った。
「間違いない。中身は山分けした直後の現ナマやで」
泥棒たちの手がかりはない。だから、まずはそのガキどもを追う、と久間は言った。
「なんとしてもやつらより先に見つけて、身柄《ガラ》ァ押さえたる。おとりには使えるやろ」
「でも、どうやってそのガキたちを見つけるんです? あの街にたむろするガキなんて、それこそ無数にいますよ」
「エリアや」久間は答えた。「さっきバーテンが言うてたエリアを徹底的に探す。白っぽい三日月のペンダントをかけた、金髪と坊主の二人組や。どこぞのチームに入っとるやろ」
「早速、そっちに向かいますか?」
途端に久間は視線を尖らせ、井草の肩をどついた。
「このどアホ」舌打ちしながら、喚いた。「あそこらへんは、麻川ンとこのシマ内や。迂闊にうろついたら、間違いのう一悶着起きるがな」
「じゃあ、どうやって?」
「まずは、麻川本家にスジを通す。傘下組織でそのエリアを押さえとる奴を調べ、話《ナシ》をつける。松谷組の看板をバックに、そいつらに情報収集を要請する。むろん、それ相当の謝礼を匂わせてや。土地カンのないワシらが動くより、なんぼか効率的やろが」
「でも、それこそ麻川組の息のかかったやつらですよ。すんなり言うことを聞いてくれるでしょうか?」
「そん時はそん時や、こっちにも考えがある」久間はにやりとした。「うまい具合に、逆手に取ったるで」
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14
タケシたち四人による口伝えも、メールによる告知も、今のところ効果はさっぱりだった。
昨日カオルは終日部屋にいて、その情報が来るのを待っていた。しかし夜になっても連絡は入らず、午前零時前には早々と寝てしまった。
今日の午前中も相変わらず連絡を待ちながら、アキと漫然と時間を潰した。
そいつらは金の行方を追うつもりはないのだろうか、という疑念が頭をもたげたが、それだけの仕事をやってのける相手が泣き寝入りするとはとうてい思えなかった。準備だけはしておこうと思った。アキにパソコンと電話の留守番を頼み、通帳をセカンドバッグに入れると部屋を出た。
富ヶ谷から西原三丁目まで歩いてゆき、代々木上原駅前の東京三菱銀行に入った。キャッシュディスペンサー前に並んでいる人の列の、最後尾についた。
告知した情報料の準備金として、八十万ほど下ろしておくつもりだった。ボストンバッグの金には手をつけないほうがいいと思った。万が一前触れもなしに襲われた場合、あの金は全額揃っていたほうが、身が安全のような気がした。
三分も経たないうちにカオルの順番になった。預金引出しのボタンを押し、カードと通帳を機械に突っ込んだ。パネルが変わると、暗証番号を押した。0319。カオルの誕生日に、プラス1。十六の時、母親がカオルに手渡した通帳だった。
父親は霞ヶ関に通勤する、大蔵省(現・財務省)主計局の官僚だった。隣町の北沢に昔から続く旧家の家系で、今も両親はそこに住んでいる。同じ町内に、マンションを三棟持っていた。少なくとも金銭的には何不自由ない少年時代を送った。母親は専業主婦だった。とはいっても、日常の家事はすべてお手伝いさんがやってくれた。母親の毎日はといえば、お茶や生け花という稽古事に趣味のサークルと、絵に描いたような有閑マダムの生活だった。少年時代のカオルはほとんど両親にかまわれた記憶がなかった。父親は激務で、母親は外のお付き合いで忙しく、ただでさえ次男のカオルは放っておかれることが多かった。実質的な母親代わりを果たしてくれたのは、トキエさんという祖父母の代から家にいる、住み込みのお手伝いさんだった。暇な時は絵本を読んでくれたり、玩具で一緒に遊んでくれたりもした。
戦前生まれのトキエさんは、良くも悪くも古い人間だった。幼いカオルが買い食いをすると、決していい顔をしなかった。また、カオル自身も幼少の頃は胃腸が弱かったため、慣れないものを口にするとすぐに嘔吐した。
「だめだぁ、薫坊ちゃん」
会津生まれのトキエさんは、死ぬまで方言丸出しだった。会津弁でさとしながら、カオルを介抱することもしばしばだった。
朝食と昼食と、三時のおやつ。それに晩御飯。トキエさんは料理がうまかった。自然カオルの口は、外食から遠ざかっていった。
ディスペンサーのパネルが変わり、金額の欄が出てきた。八十万、と数字を押し、機械の内部でバラバラと紙幣が数えられる音を聞いていた。その音が終わるとパネル横の蓋が開き、札束が出てきた。カオルはそれを備え付けの封筒に入れ、引き続き機械から聞こえてくる記帳の音を、ぼんやりと聞いていた。
五歳から母親の言いつけで家庭教師をつけられた。
あいうえお、かきくけこ。一足す三は? 五引く二は? 神経質な中年のトリがら女だった。二度同じ間違いをすると、明らかに苛立っている様子が分かった。
勉強が終わると、すぐに台所に逃げ込んだ。そこにはいつもトキエさんがいた。
小学校に上がるまで、カオルには友達がいなかった。近所の子供と知り合いになっても、カオルの家の門構えを見ただけで、気後れしている様子が分かった。一緒に遊んでいても子供たちは皆、カオルに対してだけは遠慮がちだった。
兄と同じ私立の小学校に進んだ。勉強はできた。小学校低学年の問題を五歳の頃から解かされていたのだ。当たり前だった。
父親とじっくり顔を合わせるのは、通信簿をもらってきた時だけだった。体育以外オール5の成績をチェックすると、いつも言うことは決まっていた。
「まあ、この調子でいけ」
父親の言葉で今でも記憶に残っているのは、それだけだった。いつもは父親に口を利かない母親も、そういうときだけ同調した。愛情ではなかった。我が子への興味でもなかった。世間体や形だけの義務感、そんなものが絡み合い、夫婦の、そして親としての形式に乗っかっているに過ぎなかった。
中学に進み、そんな両親を疎ましく思うようになった。同時に、自分自身の存在にも虚しさを覚えた。次第に哲学書や心理学の本を読みかじるようになった。フロイト、ユングの定番から、文学ではトーマス・マン、ガルシア・マルケスなど、分からないながらも懸命に読んでみた。だが、本は何も教えてくれなかった。
「あれー、なんでそんな難しいもの、読むの?」
トキエさんは、そう言ってカオルのことを笑った。
記帳が終わり、出てきた通帳をカオルは手に取った。末尾の残高にチラリと目を通した。
一千五百八十九万。雅から上がってきたアキとカオルの儲けはすべてここに入れてあった。月々に百万近い実入りがあるにもかかわらず、アキもカオルも金遣いの荒いほうではなかった。食事はほとんど自炊していたし、趣味もなかった。カオルは新聞代と、たまに使う本代。本も読み終われば古本屋に持っていって処分する。アキはせいぜい、ジープの維持費。家賃と光熱費を含んでも月々三十万あれば、十分間に合った。残り七十万は、毎月この定期預金行きだった。それが約二年で、いつのまにかこの数字になっていた。
きっかけになったのは、トキエさんの死だった。中学三年になっていたカオルは、昔ほど彼女に依存することがなくなっていた。とはいえ、家の中で彼が唯一気楽に話のできる存在には違いなかった。五月の朝だった、台所で倒れているところをカオルが発見した。脳溢血だった。慌てて駆け寄った時には冷たくなっていた。六十五歳だった。
五十年近くもこの家に住み込んでいたので、地元福島の身寄りとはほとんど縁が切れた状態だった。カオルの家で、簡単な葬儀を行った。参列者もいない、淋しい式だった。
母親はお寺に頼んで、その亡骸を無縁仏として処理させた。一階奥のトキエさんの部屋にあった家具も、これも母親の指示で、すべて回収業者が引き取っていった。遺品を片付けている時、彼女の通帳が出てきた。長年勤めた割には預金額は少なく、百万円ほどしか入っていなかったが、両親はそれを疑問にも思わないようだった。元来、二人とも人への興味が薄いタイプで、そういう意味ではお似合いの夫婦だった。母親はそれを葬儀代に充当した。
「まったく、手間がかかるものね」
彼女の死について、母親が漏らした感想といえば、それだけだった。母親がこの家に嫁いで来た時から、トキエさんは家事の一切を切り盛りしていた。それが気に食わなく感じた時期もあったのだろうとは思えても、その言い草はあんまりだった。
その時、カオルは自分の母親をはっきりと憎悪した。
なるだけ早く、家を出ていこう。そう思い始めたのは、この頃だった。
ふと、トキエさんの言葉が思い出された。
「困ったことあったら、よぅく仏さんを掃除して、拝んでみなぁ」
正月明けに、風邪をこじらせて肺炎寸前にまでなった彼女が、そう言ってカオルをじっと見ていたことを思い出した。その憐れむような視線には、何か含むものがあった。
両親のいない日中に、薄暗い仏間に行き、仏壇をじっと見た。位牌の奥に観音開きの厨子《ずし》があり、その中に小さな仏像が安置されていた。位牌をどかし、慎重に厨子を持ち上げて畳の上に置き、空になった仏壇を覗き込んだ。板間の中央に、そこだけ埃の積もっていない、四角い枠ができていた。その真中に、通帳が置いてあった。渋澤《しぶさわ》薫、と名前があった。夢中でそれを手に取り、通帳を開けた。途端、カードがその間から滑り落ちた。カードには付箋が貼り付けてあり、0318という番号だけが書き込んであった。なおも信じられぬ思いで通帳をめくってゆくと、その末尾のページは、一千二百七十五万、となっていた。
ふと、その数字がぼやけて見えた。カオルは初めて、他人のために嗚咽を漏らした。その暗証番号を見ても、決して多いとはいえない給金の中から、彼女がカオルのために貯めてくれていたお金なのは、明らかだった。
自分のような子供にこんな大金を渡すことが、必ずしもためにはならないことを、彼女は分かっていたはずだった。それを知ったうえで、あえてカオルの先々のことを考え、この金を残した彼女の心境を思うと、畳の上に涙がこぼれ落ちた。
彼女の金を、無駄にはしない。そう誓った。
自分の将来を考えた。社会の中に自分の居場所を見つけるため、新聞をむさぼり読むようになった。護送船団方式の崩壊で、大蔵省が叩きに叩かれていた時代だった。父親が働いている組織──日本で一番優秀な人材がいると言われている省庁でさえ、この体たらくだと思った。何が原因なのか、カオルは自分なりに懸命に考えた。そこに、これからの自分を占ってくれる答があるような気がした。
やがて、自分なりに結論を得た。世間の言う優秀という定義は、単に作業が早い、要領がいいというだけだ。そこに、自分の頭で考え、自分なりの考えを持つという要素ははいっていない。何の疑問も抱かずに決められた社会の制度に乗っかり、技量を磨いてゆく。そういう人間が、優秀だと言われているに過ぎない。
だが、そんな人生はこちらから願い下げだった。
じゃあ、自分はどうするんだ? 今度はそれを考えた。数カ月間、死ぬほど頭を絞って考えたが、結論は出なかった。だが、それを見つけられるかも知れない方法なら、思いついていた。思いついたときから、パソコンで資料は取り寄せていた。
計画をじっくりと練り、それから行動に移した。期間は、約一年あった。必要な科目の、高校の教科書と参考書を一揃い買い求めた。狂ったように勉強を始めた。飯と風呂、四時間の睡眠以外は、ぶっ通しで机に向かった。中学三年の内容は要点だけを掻い摘んですっ飛ばし、九月の終わりには、高校の勉強に入った。
中学三年の終わりだった。その時点では、必ずしも成果の自信はなかったが、駄目で元々だった。
突如親に反旗を翻した。高校には行かないと、宣言した。思わぬカオルの発言に母親は慌てふためき、父親は激怒した。どんなに責めたてられても、カオルは高校には行かないの一点張りで押し通した。
「大学も出ないで、今の時代どうするんだ!」
父親はそう喚き立てたが、その結果があんたかよ、とカオルは内心鼻で笑っていた。ついに両親は根負けし、泣き落としの手を使い始めた。世間体がある。なんとしても大学までは出てくれ、と言う。それをカオルは待っていた。
「大学には行くさ」カオルは言った。「でも、そのための高校になんか、いかないよ」
唖然としている両親を前に、大学入学検定試験の募集要項をちらつかせた。
「このやり方で、ぼくは行く」
両親はしぶしぶ同意した。単に高校にも進まないと言われるより、はるかにましだと判断したのだ。
受ける科目はすでに絞っていた。必須科目が、国語、世界史A、地理A、現代社会、数学I、総合理科と生物IA、家庭科、選択科目が古典、地理Bと英語だった。このうち国語、古典、現代社会、英語、家庭科は、ほとんど勉強の必要はなかった。主だった古典はすべて現代訳のものを子供の頃に児童文学書で読んで記憶に残っていたし、現代国語はなおさらだった。現代社会は中学の基礎知識を新聞やニュースで肉付けするだけだった。英語はすでに小学生の頃から勉強させられていた。世界史・地理・総合理科と生物は単なる丸暗記の問題で、数学にだけじっくりと時間をかける。六月に願書を出し、本試験の八月まで、そんな要領でほぼ一年を過ごした。
検定試験になんとかパスすると同時に、次の行動に移った。
ここからが本当にカオルのやりたいことだった。大学には行くつもりだったが、偏差値だけで学校を決めるのはごめんだった。興味を持てることを見つけたうえで、それができる大学に行こうと考えた。本当に好きなことを見つけるまで、二十歳ぐらいまではぶらぶらしてみようと考えていた。そういう意味では、とことん生真面目な性分だった。
カオルが小・中・高一貫教育の私立学校を中退した時から、両親との関係は最悪になっていった。孤独の中で培われてきた気性が、今までの鬱積とともについに噴き出し始めていた。親に対して荒らげた声を出すこともしばしばだった。言葉遣いはむろん、その行動も、放埒になった。
連日連夜渋谷の映画館に通ったかと思えば、ある日は国会図書館に行き、さまざまな業界の仕事を調べたりもした。親に断りもなく、一週間も二週間も家をあけた。フレームザックを背負い、鈍行列車とバスと徒歩。ユースホステルに泊まり野宿を繰り返しながら、いろんな地方に出かけた。とにかくいろんなものを、今、見ておきたかった。時間が惜しいような気がした。
いつの間にか小遣いは打ち切られていた。カオルもそれを要求しなかった。トキエさんの通帳から、入用になる最小限の金を引き出して使った。自分への先行投資のつもりだった。それならトキエさんも許してくれるだろうと、自分を納得させた。両親は理解不能な動物でも見るような視線を、カオルに向けるようになった。おまえらなんかにゃ、分かりっこねぇよ。そう心の中で毒づいた。その反面、依然として衣食住を親にもたれかかっている自分に嫌悪感を抱いていた。まだ十五歳のカオルが、一人で部屋を借りることは不可能だった。支払いはなんとかなるにしても、保証人の問題があった。
しかしその機会は、偶然にも向こうからやってきた。カオルが大検をパスした翌年の春、二つ違いの兄が東大受験に失敗した。
兄の不合格を知った一カ月後、母親に呼ばれた。なんでも形から入る母親は、応接間にかしこまって座っていた。
さすがに切り出しにくかったのか、母親の歯切れは悪かった。
「もし良ければ、しばらく一人で暮らしてみない?」そう言って、カオル名義の通帳とマンションの地図を出してきた。「達也が心配なのよ」
母親の考えていることなど、すぐにピンと来た。放蕩息子の雰囲気が、これから浪人生として一年を過ごす長男に感染してはたまらない。加えて、昼間から学校にも行かずぶらぶらしているカオルの、近所での風評も気にしていることを知っていた。
体のいい厄介払いだった。
「オヤジは?」何の期待もできないのは分かっていたはずなのに、思わずそう聞き返した自分が情けなかった。「……オヤジも、賛成しているの?」
母親は無表情のままうなずいた。
「家賃や光熱費はこちらからの引き落としにしておくし、生活費も不自由ないように毎月入れてあげるから、いいでしょ?」
まるで、モノを移動させるような言い方だった。疎ましく思われているのは分かっていた。だが、実の両親からこんな扱いを受けるとは思ってもいなかった。
不覚にも、涙がこぼれそうになった。
新しい住まいで始まった日々は、たまに訪れる寂しさを除けば、意外にも快適そのものだった。毎日街をぶらついてはいろんなものを見る。区立図書館に通ってはさまざまな分野の本に目を通す。しかし、心の奥底には依然として鬱屈するものがあった。
あれだけ軽蔑している両親から、依然として仕送りをもらって生活している自分。追い出された以上、当然の権利だとは思いつつも、その境遇に甘んじている自分が惨めだった。
とはいえ、親の仕送りを断ってまで、トキエさんの預金に本格的に手をつける気はさらさらなかった。それは、もっと大事な時に手をつける金だと思っていた。
何か自分で金を稼げる仕事を見つけなくては。そう思った。フロムエーを買ってはみたものの、このマンションで仕送りを断って生活を続けるには、家賃込みで最低でも月二十万はかかる。十六のカオルにそんな金を与えてくれる仕事は、どこにも載っていなかった。数カ月が過ぎた、ある初夏の晩だった。
センター街でストリートギャング同士の大立ち回りに遭遇し、それを見ていた若い野次馬の言葉が、ふと耳に止まった。
「ナマのケンカをこんな間近で見れるんだったら、金払ってもいいよな」
閃くものがあった。素人参加のケンカをショーとして見せてはどうだろう? しかし、カオル一人でその企画を実行するのは、ちょっと無理な気がした。
カオルは自分の外見を良く知っていた。子供っぽい、痩せっぽちの小僧。そんな人間が一人でやれることは知れている。もっと強面のきく、複数の人間と組んで立ち上げる仕事だと思った。
連夜、繁華街に足を運び、これはと思った集団にそれとなく当たりをつけてみる日々が始まった。だが、結果は失望の連続だった。この街に始終たむろしているような連中は、そのほとんどが理屈の通じる人種ではなかった。だいいち、仕事の相手として組むには、あまりにも無思慮で、短絡的すぎた。話を途中で切り上げて帰ろうとすると、逆に金をせびられたり、ボコボコに殴られる始末だった。
八月のその夜も、そんな状態になっていた。追いかけてきた数人の集団につかまり、芋洗い坂で殴る蹴るのリンチを加えられていた。顔と腹を両手で庇ったまま、路上にうずくまっていた。
その攻撃が、不意にやんだ。肉を打つような鈍い音と、怒声、軽い悲鳴が連続して聞こえた。
人の倒れこんだ音──恐る恐る顔を上げたカオルの目に、路上に転がりうめいている先ほどの集団が映り、さらにその先に、一人の大柄な若者が突っ立っていた。歳の割にはひどく落ち着き払った瞳が、カオルを見下ろしていた。
しかしそれも束の間だった。大柄な若者はくるりと踵を返すと、次の瞬間には何事もなかったかのように立ち去ろうとした。
何故そうしたのか自分でも分からないまま、カオルは弾かれたように立ち上がり、そのあとを追った。大通りに出たところでその若者に追いつき、息を切らしながら声をかけた。
振り向いたその顔に、何故助けてくれたんだと聞いた。
すると相手は変な顔をしたまま、軽く肩をすくめてみせた。
わけなんかない。たぶんおれがお人好しだからだろう。
カオルはその答えが気に入った。少なくとも、こいつは馬鹿じゃない。そう思った。
これからどこへ行くんだ? 腹は減っていないか?
まあ、そうだな、と気のない返事。
どっちでもよさそうだった相手を、半ば強引に遅い夕食に誘った。
相変わらず外食は好きでなかったが、ここぞとばかりにカオルは奮発した。通りに並んだ店の中から、一番高そうな和食の店を選んだ。その店の前に立った時、相手が戸惑ったようにつぶやいた。
「言っとくが、持ち合わせは、あんまりないぞ」
カオルはますます相手が気に入った。信用できそうだと思い、笑って財布の中身を見せた。幸いにも一万円札が五、六枚入っていた。
一瞬、若者は驚いたようだったが、それでも次の瞬間にはわずかに顔をほころばせた。
「じゃあ、遠慮なくゴチになる」
卑しさのない、さらりとした口調だった。カオルと同年代の若者にしては珍しく、肩から力が抜けた佇《たたず》まいだった。
まだ五分ほどしか話していないのに、すっかりその若者に入れ込み始めている自分に気づいていた。歳を聞いた。十七だという。五月生まれ。十六歳のカオルと同じ学年の生まれだった。それが、アキとの出会いだった。
そろそろ家に帰るというアキを説き伏せ、富ヶ谷のマンションに連れて帰った。他人を家に上げたのは、初めてだった。アキはその室内を見まわし、怪訝そうな表情でカオルを見たが、なにも言わなかった。
考えていたプランを口にし、自分と組まないかとアキを誘った。警察やヤクザへの対応も含めた、そのやり方を説明した。最初は渋っていたアキも、カオルのあまりのしつこさに根負けした。ついにはため息をついて、承諾した。
「ただ、やる以上は成功させたい」アキは指摘した。「アイデアはいいと思う。でも、その方法にはちょっとヤバいところがある」
「どんな?」
「集団をそっくりそのまま引き入れるのには反対だ。うまくいったときは、そいつらに仕事を横取りされるかも知れない」
「じゃあ、どうする?」
「グループのヘッドだけを、何人かハントするんだ。それをおれたちが纏める。最初の頃の客集めは、そいつらの部下を通じて告知する。軌道に乗ったら、さっきおまえが言った通りの方法でいいと思う」
この街をうろつく若者たちの気性については、アキのほうがはるかに分かっていた。茫洋とした外見とは裏腹に、頭も切れるようだった。
次の日、アキはいったん家に帰ってくると言った。親に、家にしばらく戻らない許可を得るのだと、少し照れた笑いを浮かべた。イベント屋のフルタイムのバイトで雇われたとでも言っておけば、親も安心するだろう、と。
意外な一面に驚きもしたが、そんな相手の家庭が、ちょっぴりカオルには羨ましかった。
トキエさんの通帳から、とりあえず百万引き出した。親から独立するための準備金として、一時拝借する。うまく軌道に乗ったら、必ず充填するつもりだった。
プランを実行に移すための前段階は、アキが出かけると同時に組み始めた。タウンページで手当たり次第に若者の群れていそうなクラブやカフェバーをピックアップし、そこにまず電話を入れ、会場の大きさや、どれくらいの集客で貸切りにできるかどうかを聞きこんだ。細かい計画を立てるのは得意だった。アキが再びやってきたときには、候補は五店まで絞られていた。
二人で実際にその候補店をまわってみた。円山町のレッド・クロスという店が、適当だと思った。そこのマスターと交渉を重ねるうちに、アキの弱い部分らしきものも見えてきた。相手に馴染むまでは、異様に口が重いのだ。いったん話し始めても、その骨柄《こつがら》も影響しているのか、軽快な話し方ができない。相手との会話が、どうも歯切れ良く進んでいかない。自然、交渉の窓口はカオルの役割となった。
海のものとも山のものとも知れぬ若者二人に、最初マスターは難色を示したが、それでもカオルが保証金を積む話をすると、最終的には納得した。初回からの一カ月分は、三十万でけりがついた。
店を出たとき、アキが言った。おれはそんな大金、持ってねぇぞ。カオルは答えた。大丈夫、金の手配ならおれに任せとけと。アキは怪訝そうな顔をしてカオルを見たが、やはりその時もなにも言わなかった。
アキには悪いなと思いつつも、事情を打ち明けるつもりはなかった。自分の過去など、振り返りたくもなかった。心の奥底に負ったままの傷は、まだジクジクと血を滲ませていた。
次に、メンバーのハンティングだった。その前にカオルは、アキをパルコ内のショップに引っ張っていった。大柄なアキの押し出しを、さらに強化するつもりだった。これ見よがしの、いかにも柄が悪そうに見える革のベストと、ビンテージジーンズ、ワーキングブーツを一揃い、アキに押し付けた。そんなこけ威《おど》しの恰好は嫌だという相手に、カオルは口を尖らせた。
「これを着るのも、仕事のうち」そう、釘を刺した。「作業着だと思えばいい」
アキはしぶしぶそれに同意した。
ハンティングになった。その際のアキの印象を、カオルは一生忘れないだろう。見てはいけない相手の一面を、見せつけられたような気がした。
最初に助けられた時は顔を伏せていたせいで、実際にアキがどういう動きをするのかは分かっていなかった。
四人のヘッドとの立ちまわりになったとき、アキは一切手加減をしなかった。さすがにテンプル打ちだけはやらなかったものの、その攻撃にはおよそ容赦が感じられなかった。楽しんでいるわけではないことは傍目《はため》にも分かった。ただ、いつもは体の中に眠っている獣性が突如目覚め、その噴出を押さえつけられずにいるような、そんな感じだった。
その暴力的な雰囲気に、鳥肌さえ立った。
躍動する全身から、鬱屈した怒りが伝わってきた。
こいつも、どこかに傷を負っているんだ──そう思った。
ファイトパーティは初回こそ五十名程度の入りだったが、その内容は観客に大受けだった。初回が終わった時点で、カオルはパーティの参加者にメールアドレスを書いてもらった。そのアドレス宛てに、次の開催予定のメールを打った。
参加者から口コミで噂が伝わり、客足は順調に伸びていった。三回目の開催以降から、パーティはコンスタントに黒字を弾き出すようになった。十月以降からは、一回平均二十万以上の黒字。
メンバーとの結びつきをさらに強くするため、アキが遠征の仕事を思いついた。メインのファイターはおれ以外にしたほうがいいだろう、とアキは言った。うまくいけば、それでやつらの収入も月三十万ぐらいにはなるはずだ、と。カオルにも異存はなかった。
百万が貯まった時点で、トキエさんの通帳に金を戻した。将来、いつか訪れる大事のため、大切に取っておくつもりだった。
不動産屋に電話を入れ、家賃の引き落としを自分の口座に変えてもらった。電気・ガス・水道も、同じ口座からの引き落としに切り替えた。
一回だけ、母親から電話がかかってきた。あなた、一体どういうつもりなの?
カオルは答えた。悪いけど、自分の生活の面倒は自分で見ることにしたから。
自由だ!
そう思ってはしゃいだのも、束の間だった。あれだけ渇望していた立場を手に入れたのに、数日もするとその興奮は過ぎ去り、単に寂しさと虚しさを感じるだけだった。
しかし寂しさのほうは、新しい同居人のおかげで、紛らわすことができた。
カオルの目から見ても、この同居人は相当な変わり者だった。まずは、気が狂ったように体を鍛える人間だということが分かった。雨が降らない限りは、毎朝みっちりと一時間、トレーニングに出かけてゆく。どんなに遅く寝た翌朝もだった。
ある日、カオルは聞いた。どうしてそんなに体を鍛えるんだ?
アキは笑って答えた。おまえが毎朝新聞を読むのと同じようなもんだ。
ごくまれに、アキが暗い眼をして、ぼんやりと窓の外を見ていることがあった。そのたびに、カオルは胸を衝《つ》かれるような思いに駆られた。
他人には窺い知れない不安と苛立ちを、密かに抱えている。そんな体内の毒素から一瞬でも逃れるかのように、体を動かしつづける。
同年代の若者のようにはしゃぐことも、およそなかった。まだ十七なのに、ひどく老成して見えた。苦労して発足させた雅でさえ、そこから上がってくる実入りに関しては、ほとんど無関心に近かった。
最初の頃は、家賃と光熱費を払い終えて残ったお金は、すべて二人で折半していた。月に一人当たり四十万ほどあった。だがアキはその輪ゴムで留めた札束をもらっても、クロゼットの奥に投げ入れておくだけだった。投げ入れた金は、数カ月たってもほとんど減っていなかった。すでに百万以上はあるはずだった。
そんなある日だった。珍しくそわそわしている同居人の様子が目にとまった。それまでも、アキがちょくちょく実家に帰っていることは、なんとなく感づいていた。
実を言うと、と、困ったような顔をして、カオルに打ち明けてきた。
「オフクロがな、一度だけでもここの住まいを見たいって、どうしても聞かない」
カオルは首をかしげた。
「親には、なんて言ってあるんだ?」
アキは頭を掻いた。
「イベント屋で知り合った学生と、一緒に暮らしている。今はそいつと、学生パーティを仕切っている、と」
カオルはその役割を演じることにした。
当日、カオルは一番まともそうな服を選び、彼の母親の到着を待った。
駅から息子に伴われてやってきた中年の女は、やや生活に疲れているような印象は受けたものの、穏やかな顔つきをした婦人だった。女性にしてはかなり大柄で、顔の造作もアキそっくりだった。思わず笑い出しそうになりながらも、カオルは与えられた役割をそつなくこなした。
一時間後、安心した母親は、もう一度部屋の中を見まわすと、最後にカオルに向かって丁寧にお辞儀をしてくれた。アキはクロゼットの中から小さな紙袋を取り出すと、それを手に持ったまま、母親とともに部屋を出ていった。
一人残されたカオルは、ふとその紙袋の中身が気になった。気づくと、開けっ放しの棚の中に、昨日まで投げ込んだままになっていた札束が見当たらなかった。
最初に出会った晩、アキに言った言葉を思い出した。
うまくいきゃ、大儲けできるぜ──そう言った時、アキの眉がわずかに動いたことを記憶していた。その割には、実際に金を受け取る時の対応があまりにも素っ気なかった。その落差が、ずっと気になってはいた。
いけないことだとは思いつつも、気づいた時にはドアを開け、外廊下に出ていた。
四階の手摺りから、駐車場のある地上を見下ろした。アキと彼の母親が、ちょうどマンションの玄関から出てきたところだった。
二人は並んで駐車場を横切ると、道路に面した敷地の出口で立ち止まった。母親は、そこでアキと別れるつもりのようだった。
アキは紙袋を差し出しながら、母親に何かを言った。
何気なくそれを手に取り、中身を覗き込んだ母親の背中が、一瞬固まったように、カオルには見えた。
暗くなりかけた夕暮れの空に、遠くの大通りからクラクションが一つ、うっすらと響いてきた。
部屋にいた時の彼女のカーディガンに、ところどころ毛玉が浮いていたことを思い出した。カオルの母親なら、家の中でも絶対にそんなものは身につけなかった。
やがて母親は顔を上げると、紙袋をアキに押し返した。
カオルは慌てて部屋の中に駆け戻った。それ以上は見るべきではなかった。
数分後、アキが戻ってきた時、カオルはパソコンに向かって夢中でキーボードを打っているふりをした。だが、全神経は背中に集中していた。
背後で、何かをクロゼットの中に投げ込んだ音がした。それから、アキのかすかな吐息が、聞こえた。
翌日、その紙袋を手渡された。
「めんどくさいから、この金も、おまえが管理してくれないか」
カオルは素知らぬふりでうなずいた。
それ以来、雅から上がってきたお金はすべて、カオルの通帳に突っ込むようになった。アキが個人的に入用になる金は、そのつどカオルが手渡していた。
カオルは、再び富ヶ谷への道を戻り始めていた。
何でも話せるというわけではない。そんな人間は、世の中には存在しないことを知っている。それでも、アキは唯一、信用できる相手だった。
たとえ口にすることはなくても、少なくともカオルのほうではそう思っていた。二年経った今では、兄弟や親にも感じなかった、肉親のような感情を抱くようになっていた。
二人を繋いでいるものは、雅という組織だ。そこからの利益が、今の共同生活を支えている。その組織を脅かす者は、なにがなんでも排除すべきだった。
そう思いつつ、上原から富ヶ谷へと入る大通りの交差点を渡った。
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道玄坂から一方通行の路地を入ってきたダークブルーのBMWは、その雑居ビルの前、路肩に乗り上げたまま停まっているメルセデスの真後ろに、ノーズをつけて停車した。
後部座席から中背の引き締まった体つきの男と、続いて反対側から右手に包帯を巻いているひょろりとした男が降り立った。
久間は咥えタバコのまま、まず古びた雑居ビルをまじまじと見上げ、ついで、午後の陽射しを浴びて黒光りしているメルセデスS600に視線を戻した。
「景気良さそうやのう」顎をなでながら久間は苦笑した。
「ラブホテル、ファッションヘルス、ソープ──」と、井草もなんとなく調子を合わせた。「飲み屋からの上がりに加え、地場が潤ってるんでしょう」
久間はますます苦い顔をした。
「こりゃ、桜花会が押されるのも無理あらへんな。その黒木っちゅう若頭も、ええシマ切り取ったもんやで」
「ですね」
「ま、今のうちだけや」ラークを路上に投げ捨てて言った。「そのうち、散々にいてこましたる」
「はい」
「セットしたか?」
「もちろんです」と、井草はスラックスのポケットを叩いてみせた。「すでに、サイレントのバイブモードに設定してあります」
懐に、プリペイド形式の携帯を忍ばせていた。連続通話時間は約二時間。昨夜の今日のことで、小型の盗聴器を仕入れる時間がなく、その代替として用意したものだ。むろん、事務所の組員に偽名で買わせてきたものだった。
「裏に、両面テープ、貼っつけてきたやろな?」
もう一度うなずいた。
「すぐに、はがせるようになっています」
久間は満足そうだった。昨夜、彼は言っていた。何か動きがあるとしたら、自分たちが引き払う直後だろうから、それでとりあえずは間に合うだろう、と。
「ほな、行くで」
昨夜の時点で、挨拶は通してあった。
雑居ビル横手の階段を四階まで上り、『光栄商事』のプレートの付いたドアをノックした。ふと気づくと、その鉄製のドアの脇に、セコムのシステムが付いていた。
アロハを来た小柄な若者が扉を開けた。二人を見ると、どうも、と丁寧に頭を下げた。
小さな事務所内を横切って、奥の社長室へ案内された。
中に入ると、ソファから巨漢がのっそりと立ち上がった。所作に、独特のあくの強さを感じる。言われなくともその男が黒木だということは明らかだった。紫紺色のダブルに、濃いグレーのシャツと鳶色のタイを合わせ、手首には金無垢のロレックス、足元はクロコの革靴を奢っている。
かたや久間も、上背こそ相手にかなわないものの、負けず劣らずの押し出しだった。黒地の、ごく微かな焦げ茶のストライプの入ったダブルに、芥子色のシャツと黄色と黒の細かな格子柄のタイを配し、リストには金黒のパティック・フィリップ。チャコールの薄いヌバックを履いている。
ただし、井草の見るところ、両者のセンスは、身びいきを差し引いても久間のほうが一枚上手だ。
もともと久間は、関西ヤクザにしては珍しく、身だしなみには非常に神経を使う男だった。押し出しを前提としたスタイルの中にも、常に粋な雰囲気が漂っている。アイスピックで手の甲を貫くような狂的な側面もあるとは言え、それは部下が取り返しのつかないミスを犯した時に限られる。例えば昨日のバー訪問に付き合ってくれたように、日頃の部下あしらいには意外に神経のこまやかさを感じる時があった。
実を言うと井草は、そんな久間が嫌いではなかった。
両者は名刺交換を済ませ、テーブルを挟んでどっかりとソファに腰を下ろした。
その間にも、井草の視線は目まぐるしく室内を探っていた。瞬時に隠せるところでなくてはならない。奥のデスクから遠すぎず、かといってすぐに人目につくような場所では話にならない。
おもむろに久間が口を開いた。
「ここにお邪魔させてもろうたんは、ちょっとお願いしたいことがありまして」
「ほう? それはご丁寧に」見てくれの迫力と違い、意外に改まった口調だった。相手が松谷組・組長直々の代行だと知って、ぞんざいな口は利かないのだろうと、井草は思った。「一体、どんなお話ですかな」
「お恥ずかしい限りですが、ウチの盆中から金が奪われた話、懸賞金の件とともにすでに聞き及んではるとは思いますが──」
そう前置きをしたうえで、久間は要点を掻い摘んで話し始めた。まずは、カジノ・バー襲撃の同日深夜の二時間後に、同じ六本木通りのバーで妙な事件が起こったこと。若者二人に襲われた男が、そのとき持ち物を奪われたにもかかわらず、被害届を出していないこと。取られたのは、大きな黒いバッグだったこと。それから二日後、二人組の男がそのバッグの行方を探してバーを訪れてきたこと。
「──で、やってきた二人組の人相というのが、ウチのカジノバーを襲った連中と、ぴったりと符合しとるんですわ」
そう言って、久間がさらに言葉を継ごうとした時、社長室のドアが開いた。先ほどの小柄な若者が、お盆の上にお絞りとアイスコーヒーを載せて入ってきた。時間のあきぐあいから、近隣の喫茶店から配達してもらったのだろう、と井草は思った。
接客業一筋の彼の目から見て、その若者がこういうことにあまり慣れていないのは一目瞭然だった。まず、お盆ごと応接セット横のサイドデスクの上に慎重に置いた。そこからグラスとストローとお絞りのワンセットを、ぎこちない手つきで一人分ずつ、テーブルの上に置いてゆく。
それを横目で見ながら、黒木が口を開いた。
「つまり、こういうことですかな。そのバッグの中身は強盗どもの持ち物に違いない。しかも、それはおそらくおたくのカジノから盗られた現ナマの可能性がある、と」
「お察しのとおりで」久間はうなずいた。「で、ワシらは今、そのバッグを奪って逃げたほうの小僧二人を探しとるわけです」
若者が井草の前にアイスコーヒーのワンセットを置き、サイドデスクに身を返す。
「それが、ウチとどう関わりが?」
「やつらの会話を耳にした目撃者の話やと、どうやらそいつらは、この近辺によく出没する連中らしいんです。ここは黒木はん、あんたとこのエリアですやろ? あんじょう、協力ねがえまへんやろか」
「しかし、ガキどもといっても、シマ内にはそれこそウジャウジャいますぜ。そんな連中の中から、どうやって見つけるつもりです?」
若者がアイスコーヒーを持って、久間のほうにソファの外側をまわり込んでいった。
「少しばかり、手がかりはあります。大柄な金髪とスキンヘッドの二人組。胸には、白っぽい三日月形のペンダントを下げとるらしいんですわ」
その瞬間、グラスを久間の前に置こうとしていた若者の動きが不意に止まった。チラリと久間の顔を窺ったのを、井草は見た。
だが直後には、若者は何事もなかったかのようにグラスを久間の前に置き、テーブルから身を引いた。
「そんなわけで、お手数ですがちょっと地場の情報だけ探ってもらえんでしょうか」
話している久間の横顔からは、若者の一瞬の変化に気づいたかどうか窺い知ることはできなかった。黒木も無表情のまま、久間の話に耳を傾けている。若者は空いた盆を小脇に、井草の背後にあるドアに向かった。
「むろん、それなりの謝礼はさせてもらうつもりです」久間は言った。「それらしき若造の情報には一本、ワシらが問い詰めて、図星やった場合の報酬には、さらに二本の上乗せ。これで、どうでっしゃろ?」
パタン、とドアの締まる音が聞こえ、黒木は初めて口元を吊り上げた。
「奪われた金は億近いと聞いてますが」と、鷹揚に口を開いた。「その一本というのは、千万単位ですかな?」
思わず井草はかっときた。この黒木という男、そんなはずがないのを充分わきまえたうえで、自分たちを嬲《なぶ》っているのだ。惚《とぼ》けたふりをして、久間の骨柄を値踏みしようとしている。
久間は乾いた笑い声を上げた。
「てんご言うてもろたら、困りますがな」そう軽くいなし、不意にぎょろりと目を剥いた。「単なる情報料でっせ。一本言うたら、|あんた《ヽヽヽ》、百ですがな」
「それは、失礼」にたりとして、黒木はさらに愚弄する。「どうも、勘違いをしてしまったようで」
「勘違い、でっか?」久間も犬歯を剥き出した。「てっきり本家相手にケンカ売られとんのかと思いましたわ」
「いや、なかなか」
互いに笑みを貼りつかせたまま、譲り合おうとはしない二つの視線が絡みつき、粘りあう。焦げ付く暴力の気配が、膨らみ始める。
と、スラックスの中で携帯が震え始めた。運転手に事務所に入ってからきっかり二十分後に鳴らすように言ってあったのだ。
井草はなにげない素振りでポケットに左手を突っ込み、手探りで、記憶の中の位置にある通話ボタンを押した。二人の話が進んでいる間に、すでに貼り付ける場所の見当はつけていた。
咳払いをした。相方への合図──果たして久間がちらりとこちらを見た。それとともに黒木の視線も井草の顔に移った。
テーブル越しに張り詰めていた緊張の糸が、途切れた。井草は時計を覗き込む振りをして口を開いた。
「社長、そろそろ……」
久間は軽く吐息を漏らすと、両膝をぱん、と打った。
「ま、とにかく、そんなわけで黒木はん、お手数かとは存じますが、これも何かの縁でしょう。どうか、ひとつよろしゅう頼みますわ」
再び改まった口調に戻り、立ち上がりざまに駄目押しを加える。
「貸しを作っておくんも、そう悪い話やないと思いますけど」
「なるほど」立ち上がりながら、黒木も調子を合わせる。「それも、一つの考えですな」
三人は立ち上がり、久間、井草、黒木の順に部屋を出た。
大部屋を横切り、事務所の扉前まで来た時、不意に久間が言った。
「あかん」ごく自然な素振りで顔をしかめ、井草を振り向いた。「バッグ忘れてもうた。おまえ、取ってこいや」
「分かりました」
黒木が口を開く前に素早く答え、奥の部屋に踵を返す。井草の背中で、久間が黒木に話しかけ始めた。
「しかし、この事務所、いい立地ですな──」
黒木が応じる声を聞きながらドアを開け、室内に滑り込みざま、後ろ手でドアを半ば押し返す。仕込みは一瞬で終わらせなくてはならなかった。奥の社長用デスクに早足で近づきながら、ポケットから携帯を取り出し、通話状態になっているのを確認すると、裏面に付けた両面テープのシールをはがす。デスクをまわりこみ、中腰になって素早く革張りのチェアの基底部を覗き込んだ。予想したとおり、裏面までみっちりと革で覆われていた。その裏面にぺたりと携帯を押し付け、部屋中央の応接セットまで引き返した。ソファ脇においてあった久間のセカンドバッグを拾い上げ、部屋を出た。
十秒とかかっていない自信はあった。
黒木がこちらに背中を見せたまま、久間と何か話している。
「社長」
二人の傍らまで戻ってくると、井草はバッグを差し出した。
「お、すまなんだな」
さりげない口調で答えると、久間はそれを小脇に抱えた。ついで目の前の黒木に、軽く会釈をした。
「ほな、これで失礼させていただきますわ」
事務所を出て、鉄製の扉を閉めた。
途端、思わず井草は吐息を漏らした。
大丈夫か、と唇の動きだけで久間が聞いてきた。井草は無言でうなずいた。
廊下を戻ってゆき、階段の踊り場まできても、二人は無言だった。
三階から二階にさしかかったとき、ようやく久間が口を開いた。
「どこに、セットしたんや?」
「奥のデスクの、革張りのチェアの座面の裏に」
「ようやった」久間は満足そうな視線を井草に送った。「なんとか聞き取れるやろ」
二階の踊り場をまわりこみ、一階へと続く階段を降り始めた。
「さっきの、あの若者の反応、見ました?」
久間はうなずいた。
「なんや、引っ掛かりがあるような面しとったな」
「何かしら、繋がっているといいんですが」
「そうなりゃ、こっちのもんやで」つぶやくと、不意に歯軋《はぎし》りしかねない勢いで吐き捨てた。「あの黒木のガキゃあ、今に吠え面かかしたるわい」
階段を下り終え、外に出た。
井草はBMWに急ぎ足で近寄り、久間のために後部座席を開けた。久間が無言で乗り込む。続いて彼もシートに半身を預けた。左足を路上に残したまま、運転席を見る。
若衆の運転手が後部座席を振り向きざま、携帯を差し出してきた。その送話口を、厚めのガムテープがしっかりと塞いでいる。
事務所内のどこに設置しようとも、万が一にもこちらの音が漏れないようにとの配慮だった。
それを確認して、初めて井草は後部座席のドアを閉めた。
「途中から社長と相手の声、なんとか聞こえてましたぜ」それでも運転手は声を潜めがちだった。「今のところ、まだ静かなままです」
久間は携帯を耳に当てながら、手振りでクルマを出すよう命じた。
客人を送り出した黒木は、そのまま奥の部屋へと戻った。
応接セットの上のパラメントを拾い上げ、火をつけた。咥えタバコのまま奥のデスクまでまわりこみ、窓から路上を見下ろした。
路上のBMWでは、ちょうど先ほどの連れが、久間のために後部ドアを開けたところだった。久間が乗り込み、ついでその連れもルーフ越しに姿が見えなくなった。
黒木はゆっくりと煙を吐き出した。
ダークブルーのBMWは路肩から滑り出し、車道にはみ出ている通行人を避けながら路地の先へと進み、ワンブロック先のビルの陰に見えなくなった。
「田舎モンが」
薄笑いを浮かべながら、黒木はつぶやいた。
久間の話を半ばまで聞いた頃には、黒木の腹は決まっていた。決めたうえで、内心ではほくそ笑んでいた。
元々麻川組は、終戦直後には恵比寿界隈を根城にしていた愚連隊系の暴力団だった。その勢力が爆発的に伸びたのは、バブル全盛の八〇年代。渋谷にかけての沿線伝いに地上げの仕事を手広く請け負うようになり、地上げに成功したエリアに、次々と組織の息のかかった店舗を開設し、渋谷南部まで勢力を伸ばしてきた。ところがその中心部で、北の勢力・全関東青龍会のシマとぶつかり、身動きが取れなくなった。
九〇年代に入った。旨みのあるシノギは、地上げから、次々と潰れ始めた企業の整理屋業務──不渡手形の回収《サルベージ》などだが──へと変化していき、やがてそのシノギも九〇年代後半には次第に終息に向かった。倒産する企業の規模が次第に小さくなってゆき、債権回収にかかる手間が、回収金額を上まわり始めたのだ。収入の基盤は、昔のようにシマ内からの雑多なアガリに依存せざるを得なくなった。
とはいえ、バブル期に急激に膨らんだ組織の運営には、それ以上の資金を必要とした。シノギの範囲を拡大するためには、東の港区に向かうしかなかった。その旗頭として前線地区を任されたのが黒木だった。
触手を伸ばしかけたところで、麻布桜花会の後ろ盾に関西の大勢力・松谷組がついた。麻川組は、再び身動きが取れなくなった。五年前のことだ。
つまり、黒木にとって久間の存在は、目の上のたんこぶ以外の何物でもなかった。
昨夜遅く、麻川組の本部を通して、松谷組の関東支部から会合の申し入れがあった。執行部からの指示は、とりあえず穏便に事を運ぶようにとのものだった。指示を電話で受けながら、黒木は内心毒づいていた。桜花会のバックに松谷組が付いて以来、執行部の長老たちはなにかと弱腰になっていた。忌々しく思いながらも電話を切った。
バブル全盛の頃から、黒木は時折自嘲気味になることがあった。
時代の波に乗り遅れた経済音痴の年寄りたち──そんな上層部を今も食わせているのは、実質的には黒木をはじめとする中堅クラスの実動部隊だ。古臭い任侠道にしがみついている過去の遺物に、相も変わらず偉そうな顔をされて顎の下で使われつづけている。
やがては折をみて、役立たずどもの鼻を明かし、組織から一掃してやるつもりだった。
そのためにも、久間の申し入れに協力するつもりは、微塵もなかった。
もし彼らがカジノバーから強奪された金をこのまま取り戻せなかったら、それこそ松谷組の面子は丸潰れになる。今のところは松谷組の動向をじっと窺っている周辺の独立系組織も、その代紋を侮り、排斥の動きに出始める。松谷組を後ろ盾とする麻布桜花会としても、屋台骨がぐらつき始める。
もしそうなれば、再び少しずつ港区に食い込んでいける目も生まれる。穏健路線を敷いている上層部の鼻を明かすことも可能かも知れなかった。
黒木は、また一人でほくそ笑んだ。
ノックの音がした。応じると、ドアが開き、リュウイチが姿を現した。リュウイチは一歩室内に入ると少し躊躇《ためら》ったような素振りを見せたが、やがて黒木のいる窓際のほうに近づいてきた。
最近、このリュウイチを見るだけで苛立つ時がある。この世界に入って半年近くにもなるのに、相変わらず素人臭さが抜けきらない小僧だった。
「カシラ、ちょっとよろしいですか」
「なんだ?」
「……さっきの話で、ちょっと気になったことがあるんですけど」
「もったいぶらずに、早く言え」
リュウイチはデスク越しに少しモジモジしていたが、ややあって口を開いた。
「あの、さっきの松谷組の話なんですけど、おれ、ひょっとしたら、そいつらを知っているかもしれないんです」
「ほう?」
「この前、パーティやっている連中の話をしましたよね。たぶんそいつらじゃないかと思うんですけど」
「なんで、そう思う?」
「特徴です」リュウイチは答えた。「そいつらも、変な白っぽいペンダントをしてるんです。形も三日月形みたいな感じでした。パーティの時に、金髪とスキンヘッドのメンバーも見かけました」
「確かか?」
「ええ」
「ふん──」
黒木はチェアに腰を下ろし、腕組みをした。単に金髪とスキンヘッドのガキというだけなら、この界隈でもそれこそ無数に見かける。だが、そいつらが似たようなペンダントをつけているとなると、話はまた別だった。
「木曜だったな?」黒木は言った。「そいつらに確実に会えるのは?」
「はい」
「よし。じゃあその時におれも出向く。この前の件を話した後に、カマをかけて怪しそうなら、とことんまで追及して本当のところをゲロさせる」
リュウイチはデスクの前に突っ立ったまま、怪訝そうな顔をした。
「松谷組には、知らせないんですか?」
間の抜けた問いかけ。急激に腹の底が冷えるのを感じた。だからこの小僧には、いつまでたっても使い走りしか任せられないのだ。
「なんで知らせる必要があるんだ、え?」
怒りを押し殺した黒木の切り返しに、リュウイチは戸惑った表情を浮かべた。
「……だって、そういう約束なんですよね?」リュウイチは言葉を重ねた。「本部からもそういう指示が来てるって聞きましたし、スジを通すという意味では──」
何も考えてない阿呆《あほう》に限って、もっともらしい理屈をこねたがる──かっときた。
黒木はいきなり半身を起こした。起こした時には、きょとんとしたままのリュウイチの後頭部を鷲掴みにし、力任せにその顔面をデスクに叩きつけていた。天板が一瞬|撓《たわ》み、鈍い音が室内に響いた。二度、三度と同じ動作を繰り返した。
「約束?」鼻血に塗《まみ》れたリュウイチの顔を引き上げた。「たかだか何百万かのはした金で、なにが悲しくて松谷組の顔を立ててやる手助けをしなくちゃならねえんだ?」
そう毒づいて、もう一度その顔をしたたかに叩きつけた。リュウイチの口元からくぐもった悲鳴が漏れた。
「あいつらの顔を立てれば、おれたちはいつまでたっても渋谷から出られねぇんだよ。それでも本部のジジィどもの指示なら従うってのか!」こいつは、正真正銘のノータリンだ。数百万の金と麻川組の未来を引き換えにすることに、何の疑問も感じていない。救いようがない。「前から何べんも言ってるだろうが。いいか、おれら極道はな、リーマンじゃねぇんだ! てめぇの稼ぎはてめぇの才覚で膨らませねぇと、お飯《まんま》の食い上げになっちまうんだよ。スジがどうのと恰好つける前に、ちったぁその空っぽのアタマで考えてみろ!」
再び後頭部を引き上げ、血塗れになったリュウイチの顔を引き寄せた。
「もしそいつらが犯人なら、その金はおれたちがいただく。本部にも松谷組にも黙っていろ。しばらくはおれとおまえだけの秘密だ。使い道は後で考える。分かったか?」
「はい……」喘ぎながら、リュウイチは答えた。「充分に」
黒木はようやくその手を離した。
「木曜といわず、その前に見つかるようなら、ここに引っ立てて来い」
もう一度、リュウイチはうなずいた。
BMWは道玄坂二丁目の路地を出て、渋谷駅南口のロータリーをまわりこんだ。
ウィンドウ越しにかすかに聞こえてくる雑音以外、車内は静かなままだ。
久間は相変わらず黙ったまま、携帯を耳に押し当てている。運転手も井草も気を遣い、ずっと息を潜めている。
クルマは玉川通りから山手線の下を潜り、六本木通りへと入った。
と、久間が不意に顔を動かし、井草を見た。無言のまま左手を上げると、親指と残る四本の指で開閉を繰り返し、ぱくぱくとやってみせる。
井草はそれで、あの部屋での会話が始まったことを知った。
しばらくすると、久間の顔から笑みがこぼれた。薄笑いを浮かべた目元で、意味ありげに井草を見やった。
なにか、有益な情報が聞き取れているようだった。
しかしやがてその表情は曇り、次いで眉間に皺が寄り始めた。次第に二本の縦皺がくっきりと浮き出し、視線が怒気を孕《はら》み始めた。
挙句、低く口走った。
「あのガキゃ──」
その途端、久間の耳元から微かにノイズが弾けた。送話口の向こうで、誰かが喚き散らしている。
その音量に、久間は思わず携帯を耳元から少し離し、顔をしかめた。
「偉そうに」またつぶやいた。「御託並べくさって──」
しかし喚き声が収まると、久間は再び受話口を耳元に押し当てた。すぐに、にんまりと笑った。
盗聴に一喜一憂する──忙しい男だった。
港区に入った。青山を過ぎ、西麻布の交差点を過ぎたところで、関東支部の入っているビルが見えてきた。
久間は携帯を耳元から離し、井草にそれを投げて返した。
「話、終わったわ」
井草も念のため、それを耳に押し当ててみた。確かに送話口からは何も聞こえてこない。
「またなんか始まったら、ワシに渡せ」
井草は携帯を持ったままうなずいた。
関東支部から渋谷駅前までの実質距離は、二キロちょっと。昼間でもクルマで十分少々、深夜なら、光栄商事の事務所までは三分とかからない距離だった。
桜花会のビル脇の路地に入った。その裏手の奥にある駐車場へと、運転手がBMWをゆっくりと進めてゆく。
久間は何やら考えているふうだったが、やがて口を開いた。
「若い茶坊主がおったろ? そいつ、金を奪った連中とは知り合いかもしれん。特徴が似てるとか言うとったわ。それを確かめに、黒木が木曜にそいつらに会う。様子からすると、元々その日には会うつもりやったようやな。ただし、黒木のクソガキはその金を横取りする腹や。横取りして、こっちの面子を潰そうと考えとる。素知らぬ振りを決め込み、ワシらと桜花会に揺さぶりをかける気や」
今日は月曜日だ。木曜まで、まだあと三日もある。
「なんでわざわざ木曜まで待つんでしょう?」
「黒木は茶坊主にこうも言うとった、その前に見つかるようなら、事務所に連れて来い──」言いながら、久間は結論づけた。「つまり、木曜以外のそいつらの居所は、知らんのとちゃうか?」
「なるほど」
「だから、ワシらはこうする。これからあの光栄商事の事務所前に、終日見張りを付ける。昼夜二交代でやる。水曜までにあの茶坊主がそのガキどもを連れて来るようなら、現場を押さえる。それまでに何も起こらず木曜になったら、その日は黒木と茶坊主が連れ立ったところを尾行する──こんな感じや」
運転手が駐車スペースにクルマをとめた。
「顔が割れとるおまえやと、明るいうちは目立つ。昼間は別のやつに見張らせる。朝から夕方──そうやな、午後六時頃までや。六時から事務所が閉まるまでは、毎晩おのれが見張る。これで、どや?」
依然携帯を耳に当てたまま、井草はうなずいてみせた。久間は僅かに笑みを浮かべ、後部座席のドアを開け放った。
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第二章 放 熱
あれからほぼ一週間も経つというのに、彼は時折、無意識に頬をさすっている。癖になっていた。あの晩の痛みが、失神した屈辱とともに思い出されるのだ。
象牙色の三日月のペンダントだった。彼を小馬鹿にしたように笑った。相手の胸元に光っていたことを覚えている。
脳ミソも、馬並みだな。
そう笑われた時の怒りが、思い出すたびにぶり返す。
マークシティと玉川通りに挟まれた、道玄坂一丁目の路地に彼らはいた。エクセル東急から見下ろされるように密集しているその路地の溜まりに、青ギャングたちはたむろしていた。夜も九時を過ぎたばかりで、道玄坂を下ってきた路上には、軽く飲んだ帰りのサラリーマンやOLたちが行き交っている。その表情に浮かぶ、間延びした能天気な表情。何も感じていない極楽トンボ。少なくとも彼の目にはそう見える。
くそ、くそ、くそ、クソッ。馬面《うまづら》の若者は、口の中で意味もなく毒づいた。目に映るもの全てを、思い切り罵倒したい気分だった。抜け道のない明日に、たまらなくいらいらする。無性に女が欲しくなる。暴れたくなる。そうでもしないと、一瞬でもこの焦燥から逃れる術はないように感じられる。
舗道沿いに出ていた仲間の一人が彼に近寄ってきて、声をかける。
「どうしたんだよ、マサ」馬面の若者に呼びかける。「今にも噛みつきそうな顔してさ」
「むかつくんだよ」
「誰に?」
「おまえら、みんなにだ」
相手の若者はへつらうように笑った。
「八つ当たりは、やめてくれよな」
舗道沿いにいた仲間は、また性懲りもなくパーキングメーターの前に座り込んでいる。その背中をじっと見つめたまま、彼は聞いた。
「あの野郎、まだ見つからないのか?」
若者はうなずいた。
「相変わらず、さっぱりだ」
マサは舌打ちした。Tシャツに革のベストを羽織り、擦り切れたジーンズにワーキングブーツの大柄な若者だった。だが、服装は変わる可能性があった。殴り倒される前に、相手の胸元のペンダントに気づいていた。以前から、その三日月形のペンダントを下げた集団を仲間の何人かが見かけていた。手分けすれば、見つけ出すのは時間の問題のように思えた。それなのに今週に入ってから、まるで目撃情報がない。何故か煙のように忽然《こつぜん》と、この街から痕跡を消しているのだ。
「とにかく、探しつづけろ」いらいらしながらマサは続けた。「なんとしても、やり返してやるんだ」
その言葉にうなずいた若者は、彼の脇を離れ、仲間のところに帰っていった。そんな彼らの背中に視線をやっていた時だった。夜の湿った大気に、腹部に響いてくる野太い排気音がどこからともなく聞こえてきた。
振り向くと、井の頭線の駅前から路地を上ってくる単車があった。夜目にもはっきりと見てとれるほどの重量級の二輪だった。男が二人乗っている。停車中のクルマと人の間を抜けながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。近づくにつれ、そのタンクとホイールが無数の街灯を浴びて、てらてらと光を放っているのが見てとれた。
やがてその排気音が周囲のコンクリートの外壁に反響するほどの距離になり、単車は停まった。
「………」
マサをはじめとした青ギャングたちは、無言のまま、互いに顔を見合わせた。わざわざ自分たちの目の前を選んで単車を停めた、その男たちの意図を測りかねていた。
最初に後部座席の男が窮屈そうにヘルメットを脱ぎながら路上に降り立った。次に運転してきた男が手馴れた手つきでメットを外し、こちらもまたアスファルトの上に降り立った。二人とも背が高い。マサと同じく百八十センチはありそうだった。最初に降りた男は胸板も厚く骨太の骨格をしており、その隣の男はやや細身ながらも、単車から降り立った軽い身のこなしに、バネのきいた筋力を感じさせられた。二人は顔を見合わせると、彼らに向き直った。マサたちは再び身構えた。
最初に口を開いたのは、先に単車を降りた男のほうだった。
「ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいかな?」
意外に友好的な口調だった。なおも警戒を解かずに、仲間の一人が答える。
「……なんだよ?」
「人を探している」骨太の男が続けた。「きみらと同じような若者だ。顔見知りかもしれない」
「なんで顔見知りだって、あんたに分かるんだよ」うるさそうに別の若者が口を出す。
「そりゃそうだ、勝手に決めるんじゃねえよ」もう一人も調子を合わせる。
挑発的な態度に、突っ立ったままの大柄な男は、うんざりした表情を浮かべた。
「なんでかって?」男はがらりと口調を変えた。「そいつもこの街にたむろする、おまえらと似たような人種だからさ」
その言葉に含まれた棘に、若者たちはカッときた。
「なんだと、こらぁ!」
「オヤジ風情が、ケンカ売ってんのか!」
探り合いの雰囲気は、一気に消し飛んだ。喚きたて、二人に詰め寄っていく。だが、男は平然と言葉を続ける。
「名前はアキ。金髪と坊主頭の部下がいる。ほかにもいるかも知れない。おまえらと同じストリートのガキどもだ。三日月形のペンダントをしている」
最後の言葉に、マサは反応した。再び罵声を口にしかけた仲間を手で制し、一歩前に出て二人と向かい合った。
「あんたら、そいつとはどういう関係だ?」
大柄な男は軽く笑った。
「おい、おい。聞いているのはこっちのほうだぞ」
「関係ねぇ。まずこっちの質問に答えろよ」こいつはあの野郎を知っている──歯軋りしたい思いで、ためらいもなく体が動いていた。尻ポケットからバタフライ・ナイフを抜き出した。「怪我しねぇうちにな」
しかし大柄な男は動じる気配もなく、横の男を振り向いた。マサはナイフの先端をもう一人の男に向けた。
細身の男はその先端を無感動に見やり、次いで周囲の人通りを見まわして、ため息をついた。
「いいところ、三分だな」
いきなりだった。マサの顔面に衝撃が走り、視界に火花が散った。大柄な男が横を向いたままの体勢で、いきなり彼の顔に拳を叩き込んだのだ。気づいた時には右手に持ったナイフを蹴りで弾き飛ばされていた。腹部を抉られ、再び顔面をしたたかに殴りつけられ、脚払いをかけられて反動でアスファルトの上に背中からもんどりうって倒れた。大柄な男は目にも止まらぬ速さで地面のナイフを掬《すく》い上げ、彼の首筋に突きつけた。
「飯粒《めしつぶ》どもが──」予想外の展開に仰天している若者たちを睨めまわし、男はマサの首筋をナイフで僅かに突いた。「のぼせ上がるのも、たいがいにしろよ」
形勢は一瞬にして逆転していた。
「ゆ、許してくれ」マサは完全に腰が抜けていた。「本気じゃなかったんだ……」
大柄な男は鼻で笑った。
「こんなぶっそうなもんちらつかせて、本気じゃないもないもんだ」男は言った。「さあ、言え。そのアキって奴の、何を知っている?」
「何にも──」
そう言いかけた途端、ナイフの先端にさらに圧力がかかるのを感じた。プチリと肌が弾けたのが、感覚で分かった。マサは半泣きの状態で必死に訴えた。
「本当なんだよ!」
悲痛な叫びに周囲の若者もはっと我に返り、口々に叫びだす。
「勘弁してやってくれよっ。本当におれたちは知らないんだ」
「ただ単に、ケンカになっただけなんだよ」
路地の通行人が異変に気づいて立ち止まり、ざわざわと遠巻きに集まり始めている。大柄な男はちらりと野次馬に目をやると、もう一度ナイフでマサの首筋を突っついた。
「いつ、どこで?」
「先週の火曜、オルガン坂、ハンズの裏手だ!」怯えきったマサはさらに大声を張り上げる。「そいつもペンダントをしていたんだよ」
「ほかに特徴は?」
「ワーキングブーツに、擦り切れたジーンズ。革の黒いベストを着ていた。ゴツゴツした筋肉の大柄な野郎だった。たぶん二十歳前後、髪は染めてない」口から泡を飛ばしながら、早口にぶちまけた。「それ以外は本当に知らないんだ。どこに住んでるかも、どんなやつらかも。だいいちアキって名前も今聞いたばかりなんだ!」
「二分三十秒」腕時計を見たまま、細身の男がつぶやいた。「そろそろ潮時だ」
大柄な男はうなずき、ナイフを胸ポケットにしまうと立ち上がった。細身の男は何事もなかったようにヘルメットを被ると、単車に跨がりセルをまわした。
尻餅をついたままの若者はむろんのこと、周囲に立ち尽くしている野次馬たちも完全に毒気を抜かれ、茫然と佇んだままその様子を見ていた。
二人組の行動は素早かった。大柄な男がリアシートに跨がりヘルメットを被るや否や、単車は発進した。瞬く間に通行人の間をすり抜け、逆方向の道玄坂上へと上ってゆき、やがて坂の向こうに見えなくなった。
若者たちはあっけに取られて単車の消えていった方角を見送っていた。しばらくして、野次馬の中から声が上がった。
「警察だ」
その言葉に、若者の一人が咄嗟に坂の下を振り返った。足早にやってくる制服姿の警官を認め、大声で叫んだ。
「逃げろ!」
通行人の誰かが通報したのだ。マサは、両脇から抱え起こされながら思い至った。考えてみれば、渋谷警察署までは駅前を挟んで目と鼻の先だった。慌てて仲間と裏通りに駆け込みながら、なぜ細身の男がしきりに時間を気にしていたのか、ようやく納得がいった。
桃井と柿沢の乗ったV−Maxは、いったん道玄坂を南下すると109の三叉路を左に折れ、今度は文化村通りを上っていった。東急百貨店本店を横目に見ながら、その反対側、サイトービルの路地へと切れ込んだ。人込みをかわしながらゆっくりと進んでゆくと、BEAMの裏手で停車した。
「オルガン坂まで、歩いて一、二分だ」ヘルメットをサイドに括りつけながら柿沢は言った。「念のため、行ってみよう」
柿沢の考えていることは桃井にも見当がついた。捜索二日目にして、やっと出てきた僅かな手がかりだった。希望が薄いとは言え、現場近辺に赴いて、さらに詳しい目撃情報を集めるしかない。
「その前に、ちょっと一服させてくれ」
桃井はそう言うと返事も待たず、セブンスターを取り出して火をつけた。思い切り煙を吸い込む。ニコチンに飢えたその様子に、柿沢は頬を緩めた。
「緊張していたのか?」
「多少な」うっとりと煙を吐き出しながら桃井は答えた。「なんせ暴力沙汰なんざ、何年かぶりだ」
「その割には、堂に入っていた」
「訓練は、欠かしていない。今も週二回は、道場に通っている」
この世界に飛び込んだ当初、柿沢と手合わせしたことがあった。もともと大柄な上に骨太な桃井は、昔から腕力だけには自信があった。子供の頃の喧嘩から走り屋時代の乱闘まで、一度も負けたことがなかった。だが、気軽に立ち合ってみたものの、結果は惨敗だった。柿沢の一発を顔面に喰らい、見事に床に沈んだ。そのまましばらく立ち上がれなかった。腰が砕けるという状態を、桃井は初めて経験した。意識はしっかりあるのだが、立ち上がろうとしてもガクガクと膝が笑い、腰部にまったく力が入らないのだ。段違いの実力だった。柿沢が、学生時代からボクシングをやっていることを知った。
『だから、負けたのは恥じゃない』その時、柿沢は言った。『ただ、この世界でやっていく以上、ある程度のたしなみはあったほうがいい』
折田も、合気道を三十年以上やっていた。桃井は迷った挙句、空手を選んだ。二十代後半からの手習いで、最初の頃は相当にきつかったが、元来筋力もあり反射神経も良かった桃井の上達は早かった。一年後には黒帯と渡り合ってもまずまずの腕前になった。
桃井が煙草を吸い終わると、柿沢が促した。
「じゃあ、行くぞ」
ふと疑問がきざして、桃井は口を開いた。
「今みたいなことになったら、ひょっとして、次もおれが|やる《ヽヽ》のか?」
柿沢は笑ってうなずいた。
「骨は、おれが拾ってやる」
桃井は口をへの字に曲げた。
「悪い冗談だ」
オルガン坂を上り、東急ハンズの裏手にまわった。反対側のパルコの壁が、人通りの中、くっきりとライトアップされていた。光の中に、大きくペイントされた現在売り出し中のミュージシャンの横顔が、いくつも並んでいる。近づいて見ると、ゴーギャンも顔負けの大胆な色使いだった。桃井は辟易しながら目を逸らし、周囲の雑踏をきょろきょろと見まわした。
「どうやら、らしきガキどもは、いないな」
柿沢も無言でうなずいた。念のため、二人してパルコ・パート1とパート3の外周をぐるりと一まわりした。結果は同じだった。再びオルガン坂に出た時、柿沢が坂の下方に顎をしゃくった。
「信号まで下って、それからNHKセンターの方角へ歩いてみよう」
渋谷清掃事務所の角を右に曲がり、宇田川町に入る。通りを挟んだ右手の歩道、細い急勾配の階段に軒を連ねたレコードショップから、大音量のラップミュージックが聞こえてくる。息苦しい夏の暑熱のなか、ねばりつくような音楽が、桃井の耳にまとわりついてくる。首に滲んできた汗を拭った。
イシバシ楽器ビルを通り過ぎようとした時、渋谷ビデオスタジオビルの間の暗い路地に、五、六人の若者が座り込んでいるのが目についた。桃井と柿沢はお互いに視線を合わせ、路地に足を踏み入れた。
両側を塀に囲まれた奥へと進んでゆく。澱んだ空気に、シンナーのような揮発油の臭いが漂っていた。アスファルトの上に、数本のスプレー缶が転がっている。気配に気づいた若者たちは、一斉に二人を見上げた。ビルの壁面に描きかけの稚拙なイラスト。薄暗い路地に、警戒心剥き出しの彼らの表情が浮かび上がる。
二人は、集団の前で立ち止まった。
「なんだよ、あんたら」慌ててスプレー缶をまとめながら若者の一人が食ってかかる。「なんか、用かよ?」
いきなりの喧嘩腰に、桃井はため息をついた。まったくこいつらときたら、どいつもこいつも口の利き方を知らない。低脳ぞろいだ。
「なにも取って食おうというんじゃない」今回は最初からぞんざいな口調にした。取り繕うだけ無駄のような気がした。「おれたちは刑事でも何でもないんだからな。おまえらがどこに落書きしようが、知ったこっちゃない」
「じゃあ、なんだよ?」
「人を探している。おまえらと同じような年恰好の若者だ」
若者たちは顔を見合わせた。一瞬押し黙った雰囲気に、桃井は妙なものを感じた。
ビルの陰に、いくつもの白い目が瞬きもせずに光っている。最初に口を開いた若者がちろりと舌を出し、唇を舐めた。
「で、どんな奴だ?」
依然としてしゃがんだままだが、意外にもそうきいてきた。
「ペンダントを下げている。三日月形のペンダントだ」なんとなく警戒しながらも桃井は言った。「リーダーはおそらくアキという大柄の若者だ。金髪とスキンヘッドの連れがいる。この三人を探している」
暗闇の中、手前にいる若者の頬がかすかに緩んだのを桃井は見逃さなかった。
「知っているのか?」
「いや──」その隣の若者がのんびりと反応した。「知らねぇなあ」
嘘だ。直感で分かった。思わず口を開きかけた桃井の腕を、柿沢がそっと押さえる。見ると、柿沢がわずかにうなずいてみせた。
「無駄だ」柿沢がつぶやいた。「行こう」
それだけ言うと、柿沢は奇妙な行動を取った。そのまま少年たちに向かって近づいてゆくと、一瞬身構えた彼らを尻目にその横を素通りし、さらに路地の奥へと歩を進めてゆく。一呼吸遅れて、慌てて桃井もあとを追う。
「おい──」少年たちから数十メートル離れた場所で、改めて柿沢に呼びかけた。「なんで、大通りに戻らないんだ?」
「餌だ」こういう状況での柿沢の答えは、常に簡潔だ。「人目もある」
十字路まで来た時、柿沢はさらに暗い路地を選んで右に曲がった。狭い道路の両側に雑居ビルが立ち並び、その先の行き止まりになった路地奥まで、しんと静まり返っている。午後十時を少しまわっていた。不景気のせいで、界隈の勤め人も大多数がひけている時間帯だった。
柿沢は不意に、奥まったビルの一つに身を寄せた。街灯の陰になったビル脇の非常階段に、ゆっくりと腰を下ろす。桃井も脇の壁に、並ぶようにして身をもたせかけた。
二十秒も待っただろうか、先ほど曲がった十字路のほうから軽い足音が聞こえてきた。ラバーソウル特有のかすかな靴音が、いくつも折り重なって近づいてくる。
複数の影が、目の前の路地を通り過ぎた。二人は静かに立ち上がり、再び路上に出た。
背後の気配に気づいて振り返った少年たちは、自然、行き止まりになったコンクリートの壁に互いが寄り添うような恰好になった。
「なるほどな」思わず桃井は笑った。「労せずして、袋の鼠だ」
先ほどと違い、確かにこちらのほうがやりやすかった。そんな桃井に、柿沢も目元だけで笑いかける。途端に、少年のうちの一人が憤然と吼えた。
「なに寝ぼけてんだ、コラ!」少年は喚きつつ、カーゴパンツの懐からアーミー・ナイフを抜き出す。「そっちはたった二人だ。かなうわけがねぇだろうが!」
その言葉に勇気づけられたのか、最初は不意を突かれて動揺していた他の若者も、次々に身構え始めた。口火を切った少年と同じくナイフを取り出した者が、そのうちの半数。
彼らの決死の形相に、桃井は苦笑した。
「やる気マンマンだなぁ」のんびりと言いつつ、ふと胸ポケットのナイフを思い出した。なんとなくそれを取り出し、柿沢にかざしてみせる。「これ、使うか?」
「いや──」柿沢は相手の構えを一通り値踏みして、首を振った。「素手で、充分だ」
「なら、おれもやめておく」
放り出したナイフが、乾いた音を立てて路上に落ちた。まるでそれが合図ででもあったかのように、少年たちが一斉に襲いかかってきた。
「右手の三人を頼む」
素早く柿沢に耳打ちし、桃井は左手の三人に向かっていった。先頭の少年がナイフの先端を突き出したまま桃井に突進してくる。刃物を扱い慣れていない者に特有のしぐさ。こういう場合、ナイフを突き出すのは相手に接触する直前でいい。腕を伸ばしたままの体勢で突進すると、どうしても動きがぎこちなくなり、兇器の軌道も相手に読まれやすい。桃井は相手が自分の間合いに入ってくる直前を見計らって、伸び切った右肘めがけて掬い上げるように蹴りを放った。硬い革靴の先端が見事に関節にヒットし、若者は一瞬悲鳴を上げてナイフを取り落とした。肘の外側はヒトの弱点のひとつだ。そこを強打されれば、電流を流されたように痺れ、しばらくその腕は使い物にならない。まして桃井は渾身の力で蹴りを放った。なおさらだった。右手を押さえようと無防備になった少年の顔が目前に迫り、桃井はこめかみに容赦なく拳を打ち込んだ。少年が声もなく崩れ落ちるのを視界の隅でとらえながら、ナイフを振り上げて襲いかかってくる次の若者に対応した。その胴がガラ空きなのを瞬時に目視すると、一足飛びに相手の懐に飛び込み鳩尾《みぞおち》めがけて拳を突く。突くと同時に、ナイフを振りかぶった相手の腕を掴み、容赦なくその手首と肘を逆|拉《ひし》ぎに絡み上げた。メリメリと関節が砕ける音が響き、若者は絶叫を発した。そのまま呆然と立ちすくむ小柄な三人目に突進してゆき、ためらいもなく顔の正面に拳を叩き込む。鼻の潰れた感触が腕に伝わり、最後の若者はあっけなく尻餅をついて両手で鼻を押さえた。指の隙間から鮮血が溢れ出し、もともとあまり戦意の感じられなかった小柄な若者は、泣き声を上げ始めた。
自分の担当分を始末した桃井は、一息ついて柿沢のほうを見た。柿沢の足元に、すでに若者が三人、気を失って転がっていた。しかも息を少し切らしている桃井と違って、柿沢の両肩は微動だにしていない。自分の分担を片付けたあと、黙って桃井の様子を見ていたのだ。
こいつには、かなわないな──こんな時、正直そう思う。
路上に、桃井が二番目に仕留めた若者がへし折れた右腕を押さえ、獣のような喚き声をあげながらのた打ちまわっている。桃井はその若者に歩み寄ると、いきなり髪の毛を鷲掴みにして顔を自分のほうに向けさせた。
「そいつらのこと、知っているんだな?」桃井は顔を近づけた。「言え。なんでおれたちを襲った。え?」
「勘弁してくれよ」半泣きになりながら若者は答える。「賞金が欲しかっただけなんだ」
「賞金?」髪の毛を掴んだ指にさらに力を加え、若者を揺さぶる。「何のことだ?」
「居所を掴んだ時の賞金さ」若者は必死に弁解を始める。「あんたらの居所の。五十万出すって言われたんだ。目撃料は五万ぽっち。だからあとを尾けたんだ」
桃井は思わず柿沢を見上げた。さっぱりわけが分からなかった。若者の顎を掴み、再度自分のほうに向けさせる。
「なんで、おれたちのことだと分かった?」
「情報が回ってきたんだよ。雅≠探している連中がいる。人相は分からないが、アキって名前と三日月形のペンダント、それに金髪とスキンヘッドのことを聞いてくる奴がいたら、そいつらに間違いないからって」
「そのみやび≠チてのは、何なんだ?」
「だから、あんたらが探しているグループだよ!」
「なに?」
「アキっていうのは、雅のリーダーだ。スキンヘッドと金髪はその手下で、やつらはみんな三日月のペンダントをしている」
「どこに行けば、そいつらに会える?」
「知らない」
桃井はとっさに若者の折れた関節を掴み、力を入れた。若者は堪らず悲鳴を上げた。
「本当だ! 住んでいる場所もテリトリーも知らないんだ! 信じてくれよ!」
「ほかに、そいつらを見つけ出す手がかりは?」
「雅の連中は、月に数回パーティをやっている。ファイトパーティだ」若者は早口にまくし立てる。「円山町と道玄坂二丁目の境界にある、レッド・クロスっていうバーだ。今度いつやるかは知らないが、その時に行けば、必ずやつらに会える」
「そのファイトパーティってのは、何だ?」
「ケンカパーティのことだよ。入場料を払って店内に入る。希望者が舞台に立ってトーナメント形式のファイトをやる。優勝者には賞金が出る」
「それを、その連中が仕切っているのか?」
「そうだ」
聞き出しながら桃井は呆れた。たかがストリートギャングが、一種の興行を行っているのだ。今回の桃井たちへの網の張り方と言い、そのやり口はヤクザ並みだ。
さらに雅≠フ情報を聞き出すにつれ、暗然とした気持ちになった。二年前、アキとカオルという二人の若者がこの渋谷に忽然と姿を現した。当時この街には、ティーンエイジャー主体の四つの武闘派グループが抗争を繰り返しつつも、基本的には均衡状態にあった。二人はそのリーダー格を次々に半殺しにしてゆき、それら四つのストリートギャングたちを傘下に収めていった。さらに、これらのグループを取りまとめる上部組織として、アキとカオル、それと四人のリーダー格のみで、新しくチームを構成した。それが雅≠セと、若者は喋った。
「その雅の構成員は何人いる?」
「中核はたった六人だ。でもムチャクチャ強い」あえぎながら若者は答えた。「おまけに、その下の準構成員を含めると、百人近くになる。ケンカにかけては猛者《もさ》ばかりだ。恐ろしくて誰も楯突けない」
桃井は内心憂鬱さを感じながら、若者を掴んでいた腕を離した。所詮はガキの集まりと甘く見ていると、火傷する可能性がありそうだ。
柿沢が腕組みをしたまま桃井にうなずいてみせる。情報を聞き出した以上、長居は無用だった。まだ苦しそうにうめき声を上げている若者たちに背を向け、足早にその路地を後にした。
二人はBEAMの裏手に単車を残したまま、歩いて円山町に向かった。確かにクルマより機動力はあったが、二日続けてこの狭いエリアをぐるぐるとまわり、おまけに人やクルマを避けるための加減速の連続で、いい加減腰が痛くなっていた。
神山町東の交差点を渡り、松濤一丁目に入った。次の目的地の円山町までは、一丁目の界隈を突っ切って行ったほうが早い。観世能楽堂が敷地内のスポットライトを受け、闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。その光景を右手に見ながら、ポツリと桃井はつぶやいた。
「どう思う?」
「なにが?」
「だから、雅っていう連中のことさ」桃井は言った。「聞いた限りじゃ、まるで獣《けだもの》だ」
柿沢は歩を進めながらちらりと相方を見たが、何も言わなかった。
「それに、アタマも切れそうだ」
「だからって、おれたちの立場は決まっている。これから取る行動にも変化はない」
「そりゃ、そうなんだが……」
「心配か?」
「だってよ、ガキとはいえ百人の構成員だぜ。こっちはたった二人だ」
柿沢はうっすらと笑った。
「なにも百人全部を、相手にするわけじゃない。そのアキとカオルとやらがうまいことをやったように、ヘッドだけ潰せば、あとは烏合の衆だろう。雅の六人──特にその二人を攻めれば、やりようによってはうまくいく」
桃井はため息をついた。
「だと、いいがね」
スイス大使館公邸を横目にさらに数百メートル南下し、松濤郵便局前の交差点に出た。通りを渡り、円山町と道玄坂二丁目の端境の路地に入る。
路地を五十メートルほど歩いたときに、その看板が目についた。ラブホテルが軒を連ねた通りの先に、一棟だけ場違いな感じで建っているオフィス・ビルがあった。その一階の隅に≪Cafe Bar, Red Cross≫の看板が申し訳程度に見えた。
地下へと続く階段を下り、扉の前に立った。
「ついてねぇな……」扉に吊り下げられた看板を見て、桃井は言った。「本日定休日、か」
その文字の下に、午後七時から午前二時と書かれている。
鍵穴は、ありふれた横型シリンダー形式のようだった。保安システムが付いている様子もない。
「開錠《ピツキング》は問題なさそうだが、どうする?」
いや、と柿沢は首を振った。
「止めとこう。中に入ったところで、話を聞く相手もいない」
「出直しか?」
「明日の夕方、開店前だ」
地上へと引き返した二人は、再び文化村通りへと戻り始めた。ネオンにぎらつくラブホテル街を歩きながら、桃井はふとあることに思いいたった。
「やつら、おれたちに襲われたことを報告するんじゃないのか?」
「それはない」
「何故? 五万でも目撃料がもらえるだろ」
「おれたちは明日、もう一度ここに来る。店のスタッフに聞き込みをする。雅はやがてそのことを知る。誰が、情報を漏らしたのかを探る。あの怪我の姿のまま情報料をもらえば、一番最初に嫌疑がかかるのはやつらだ。五万ぽっちのために、自分たちの立場を危うくする馬鹿はいない」
「なるほどね」
ホテル街を抜けて信号を渡り、東急百貨店本店前に出た。
ぽつりと桃井がつぶやいた。
「腹が、減ったな」
「そうか?」
「晩飯を、まだ食っていない」思いついて、さらに言葉を続ける。「そういえば、この近くに旨いベトナム料理を食わせる店があるぜ」
「ほう?」
「チャージさえ追加すれば、二人でも個室を用意してくれる。明日以降の打ち合わせもできる。わりあい小綺麗なレストランだし、料金もこなれている」
柿沢の足が止まりかけ、桃井を見る。
「詳しいな。なんでそんな店を知っている」
「うん……」桃井は口籠もった。「最近、連れていってもらったんでな」
「誰に?」
「──二カ月ほど前に、知り合った女」
「勘は、良さそうか?」
桃井は首を振った。
「大丈夫だと思う」そして付け足した。「まあ、おれも人のことは言えないが」
柿沢は横目で笑った。
「つきあいは、そこそこにしとけよ」と、念を押した。「分かっているとは思うが、人には言えない仕事なんだ」
桃井は黙ってうなずいた。
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十時少し前に電話が鳴った。アキとカオルは部屋にいた。親機のメモリーにはメンバーの携帯の番号を登録してある。見ると、本体の液晶ディスプレイは、ユーイチからの電話を示していた。アキが受話器を取った。
「アキだ」
「おれ、おれ」いきなりの早口だった。「今、ちょっと気になる情報が入った」
「どんな?」
「それらしい男の二人組を見たって奴がいる」
「ちょっと、待て」
アキは素早く本体のスピーカーホンボタンを押し、受話器を置いた。そして背後のカオルを振り返り、手招きした。
カオルが隣までやってきてから、親機のマイクに向かって再び声をかける。
「今、ハンズフリーに切り替えた。カオルも聞いてる」アキは言った。「で、どこで見かけたんだ?」
「エクセル東急の裏手、道玄坂一丁目だ」
「確かか?」
「その前に、アキさ」ユーイチは言った。「おまえ、つい最近、青いバンダナをアタマに巻いた連中を殴ったか?」
一週間前の、あの馬面の顔が脳裡をよぎった。
「あるな」
「どこで?」
「ハンズの裏手だ」
スピーカーから、ユーイチの満足そうな吐息が漏れてきた。
「じゃあ、やっぱり聞き違いじゃねぇな」
ユーイチの話は、こうだった。カオルがメールを出した若者の一人が、一丁目の坂道を通りかかった。大番ビルの手前で、歩道に集まった人だかりを目にとめた。近づいてみると、野次馬たちの肩越しに、尻餅をついた若者にナイフを突きつけている男の、大きな背中が見えた。その男の横にはもう一人、細身の男が同様に背中を見せて立っていたという。ナイフを突きつけられた若者の後ろには、一様に頭部に青いバンダナを巻いた連中が立ちすくんでいた。大柄な男がさらにナイフを突きつけると、その座り込んでいた若者は大声で喚いた。
先週の火曜、オルガン坂──そこまではその若者も漫然とその言葉を聞いていた。だが、次のペンダントという単語が、一瞬耳をとらえた。そいつもペンダントをしていたんだよ、と。大柄な男はくぐもった声で、さらに何かを尋ねた。長い顔の若者は再び声を張り上げた。話題になっているとおぼしき人物の人相を、口にした。最後にアキという言葉が聞こえた。アキって名前も今聞いたばかりなんだと、依然腰を抜かしている若者は半泣きで訴えた。アキ、アキ──。聞いていた若者は、もしや、と思った。
直後、それまで黙って様子を見ていた細身の男が腕時計を覗き込んだ。二分三十秒、そろそろ潮時だ、とその男は言った。二人の男は横に停めていた重量級の単車に乗り込み、現場を後にした。茫然としている野次馬を尻目に、瞬く間に道玄坂上の方向へ消えていった。
すぐに警官がやってきて、群衆も青いバンダナの若者たちも、蜘蛛の子を散らすように慌てふためいて逃げ出した。
「手馴れているもんだ」カオルがアキを見て、つぶやいた。「サツの到着時間まで、アタマに入ってやがる」
アキもうなずいた。話の内容からして、問題の連中に間違いなさそうだった。
「現場を見かけたそいつは、どうしてる?」
「一応、チームの連中に押さえさせてある」ユーイチに、抜かりはなかった。「おまえが、なんか追加で聞きたいことがあるかも知れないと思ってな」
アキはその対応に満足した。金庫番のカオルが口を開く。
「ユーイチ、おまえ、今、五万持っているか」
「立替えか?」
「謝礼だ。そいつに払ってやってくれ」カオルが指示を出す。「それと、おまえたち、今どこにいる?」
「センター街だ」
「じゃあ、そいつを連れて、すぐにハンズに向かうんだ。オルガン坂周辺だ。その二人組、ひょっとしたら、そこでおれたちを探しているかもしれないだろ? ハンズとパルコのまわりをうろついて、二人組がいるかどうかを、そいつに確認させてくれ。もし見つかったら、すぐにそのあとを尾けるんだ」
「分かった」
「今一緒にいる人間も動員してくれ。手分けして探し、それらしい二人組を見つけたら、目撃した奴を呼んで、面通しさせる。そっちのほうが、効率がいい」そこまで言って、カオルはアキを見た。「いいよな? こんなところで」
「ああ」アキはうなずいた。同意を確認したカオルは、さらにユーイチに向かって口を開いた。「おれたちもすぐに、そっちに向かう。他のメンバーにも連絡して、ハンズの反対側、昭和ビル裏手の路地に、集合をかける。着いたら、電話する。そっちも、もしそれらしい人間を発見したら、すぐに連絡をくれ」
一分後には部屋を出て、ジープに乗り込んでいた。宇田川町に向かうクルマの中で、助手席のカオルは次々とメンバーを呼び出した。ナオとサトルは、渋谷にいた。十分以内に、それぞれ手持ちのメンバーを引き連れて、集合場所に来るように言った。タケシには連絡がつかなかった。カオルは留守電に簡単に用件を吹き込み、集合場所を告げると電話を切った。
十時二十分過ぎにオルガン坂に着いた。ナオとサトルはそれぞれが四、五人のメンバーを連れて、昭和ビル脇の崩れかけたコンクリート塀の路上で待っていた。カオルが集まったメンバーに道玄坂での出来事を詳しく話している間に、アキはユーイチの携帯を鳴らした。すぐにユーイチは電話に出た。
「どうだ?」アキは尋ねた。
「駄目みたいだ」やや疲れた声音でユーイチが答える。「ここら辺の界隈を一周してみた。今、パルコ3の北側にいるが、らしい男の二人組はいない」
「連れも、同意見か?」
「何度か、めぼしそうな男の二人組に面通しさせたが、全部様子が違うと言ってる。もうここにはいないんじゃないのか?」
「分かった……ひとまずこっちに来てくれ」
数分後、ユーイチが仲間六、七人を引き連れて昭和ビル脇までやってきた。その中に、目撃者の若者も混じっていた。さっそくカオルが二人組の人相を詳しく聞き出そうとした。しかし、カオルの質問に、若者は肩をすくめてみせた。
道玄坂の一件で、若者がはっきりと認識していたのは、二人組の服装だけだった。大柄な男がインディゴのジーンズに薄いグリーンの開襟シャツ。その傍らに立っていた細身の男が黒い革のパンツに、紺のダンガリーシャツという出立《いでた》ちだった。二人とも青ギャングを問い詰めている時は彼にずっと背中を見せていたので、顔を拝んだのは二人組が単車に乗り込む一瞬だけだったという。それも暗がりの中で横顔だけ、野次馬の肩越しに垣間見たに過ぎない。
「だから、おれは服装を目当てに、その二人を探してたんだ」若者は言った。「締め上げてる時間も、三分足らずだったからな」
「でも、一瞬の横顔だけでもなんか印象は受けただろう?」カオルはなおも食い下がる。「その印象は、どうだ」
若者は首をかしげた。
「二人とも、わりと短めの直毛っぽかった。細い男は、鼻が高くて、顎が尖っていたように思う。大柄なほうの鼻は、太かった。唇もけっこう厚めだったような気がする」
「目は?」アキはきいた。「目つきは、どうだった?」
若者は困ったように頭を掻いた。
「暗かったしな……横顔だけじゃ、なんとも言えない」
「その単車のナンバーは、確認できたか?」
「……いや」と、これも否定した。「フロントがこっち向きに停まってたんだ。乗り込むまで、あいつらの単車だとは思っていなかったんでね。あとは一瞬で、確認する間もなかった」
アキとカオルは、同時にため息をついた。
気持ちを切り替え、総勢十五名ほどになったメンバーを前に、アキは口を開いた。ここに来るまでのジープの中で、こうなった場合の次の対策は、カオルと打ち合わせ済みだった。
「肝心の二人組は、見つからなかった」アキは言った。「だが思うに、やつら、道玄坂の時と同じように、誰かに聞き込みをしているはずだ。ここら辺りにたむろしている、おれらと同じようなグループの連中にな。だから今度は、その聞き込みをされた人間を探し出す」
アキは腕時計を見た。
「これから一時間後の十一時半まで、手分けして探してくれ」
捜索の範囲を宇田川町全体に広げ、ユーイチとナオとサトルを、三つのエリアを指定して、送り出した。
アキとカオルは坂道に停車させたままのジープに戻った。シートに座り、携帯をダッシュボードに放り出したまま、連絡が来るのを待つことにした。
アキはイグニッションキーをスターターの一歩手前までまわすと、ラジオのスイッチを入れた。チューナーを少しいじると、在京のFM局から、ボサ・ノヴァのスタンダードが流れてきた。『イパネマの娘』。周波数をそのままにして運転席に座りなおす。ヘッドレストに頭をもたせかけ、音楽に耳を傾けながら、ぼんやりと歩道を行き交う人々を眺めていた。
しばらくして、カオルが話しかけてきた。
「見つかると思うか」
「どうかな」アキは自分に言いきかせるように答えた。「だが、やれるだけのことはやったほうがいい」
十一時を五分ほど過ぎた。依然メンバーからの連絡はなかったが、黒いバンがアキたちのジープを追い越しざま、派手なブレーキ音を響かせて前方の駐車スペースへ滑り込んできた。88ナンバーを付けた、黒いシェビィ・バン。タケシのクルマだった。一瞬リヴァースランプが灯ると赤いライトが消え、左側のドアからタケシが降りて、二人に駆け寄ってくる。どこで作ったのか、その頬に大きな青痣が出来ていた。
「すまん、電話に出れなかった」開口一番タケシは言った。「間違いなさそうなのか?」
アキはカオルとともにうなずき、カオルが道玄坂での一件を詳しく説明する。
「──で、おれたちは、その行方を追って、ここに来た。二人組は見つからなかったが、そいつらが聞き込みしたかも知れない連中を見つけるため、ユーイチたちに手分けして探させている」
一連の流れを理解したタケシは、ポケットから携帯を取り出しながらアキを見た。
「そういうことなら、おれも仲間を呼んで参加したほうがいいだろ?」
アキは首を振った。
「十一時半には聞き込みは終える。悪いが、おまえのメンバーに今から来てもらったところで、捜索を打ち切る時間に集合できるかできないかが、関の山だ」
「そうか……」
「大丈夫だ。なんとか手は足りている」言いつつ、アキはタケシの頬に目をとめた。「どこでそんな痣なんかもらってきた?」
「六本木だ」
「六本木?」
「ああ」と、タケシはうなずいて、答えた。「例のカジノバーに、ちょっとな」
「なんで、また?」
カオルの驚いた声に、タケシは照れ臭そうに頭を掻いた。
「……泥棒連中の情報を、ちょっとでも集められたほうがいいだろ?」
タケシはタケシなりに事の起こりに責任を感じていた。
カジノバーのスタッフたちなら、現時点での泥棒の新しい情報を持っているかも知れないと考えた。十時ちょうどにその雑居ビルの階段を下った。松谷組の懸賞金欲しさに、二人の人相を聞き出しにきた若造を装うつもりだったという。
だが、その思いつきは甘かったことを思い知らされた。
いきなりの門前払いだった。入口の、ゴツゴツとした体つきの用心棒は、タケシのなりを一目見るなり、有無を言わさずに追い返そうとした。ここはおまえらイヌコロなんぞの来る場所じゃねぇんだ、とっとと失せろ、と。そう言って、床に唾を吐き捨てられた。
いつもの悪い癖で、思わずカッとなったタケシは殴りかかろうとした。だが、相手は暴力のプロだ。逆に、一発であっさりと殴り倒された。
「結果、このザマだ」
憮然とした表情で、タケシは自分の頬を指さした。アキとカオルは笑った。
「災難だったな」カオルが言った。
「まったくだ」タケシが顔をしかめた。
用心棒は床に倒れたタケシの腹部を踏みつけると、再度憎々しげに罵った。なにが悲しくて、おまえら街のクソガキどもに頼らなくちゃならねぇんだ──そう毒づいて、腹部を数回蹴り上げたという。
「おかげで、何も聞き出せずじまいだ」
タケシの舌打ちが、カオルの苦笑をさそった。
ダッシュボードの携帯が鳴った。アキは素早く耳元に当てた。
ナオからだった。様子の変な若者を捕まえたが、どうしようか、ということだった。
「変?」アキは聞き返した。「どう、変なんだ」
「ラット・ペイントっていう、グループの一人だ」ナオは答えた。「おれが懸賞金の話を流した連中だ。口の周りに血を付けて歩いていた。声をかけようとしたら、慌てて逃げ出しやがった。追いかけて、とっ捕まえたんだが、どうもそいつの言うことがおかしい」
「どんな風に?」
「なんで逃げたんだと聞くと、いや、勘違いだと答えるし、顔はどうしたと問い詰めても、転んだなんてふざけた答えだ。だが、どうみても殴りつけられた傷だ。間違いねぇと思う」
「何か、しらばくれている感じか?」
「まあ、そうだ」ナオが答える。「におうぜ」
アキは少し考えて、尋ねた。
「おまえ、今、どこにいる?」
「ビデオスタジオの脇だから、歩いて一、二分だ」
「連れてきてくれ」
電話を切り、カオルとタケシに事情を簡単に説明した。
「そのラット・ペイントってやつらなら、おれも知っている」カオルが言った。「この界隈のスプレー小僧だ。ずいぶん前のパーティで、ナオに紹介されたことがある」
「しかし、顔見知りなら、なんで逃げ出したりしたんだ?」タケシが疑問を口にする。
「その必要があったんだろう」アキは答えながら、ついさっきの青ギャングの出来事を反芻していた。
ルームミラーに、交差点のビルの陰から姿を現したナオの一団が映った。先頭のドレッドヘアが、小柄な若者の襟首を掴んだまま、引っ立ててくる。
「来た」
アキの言葉に、タケシは後ろを振り返り、カオルはルームミラーを覗き込んだ。
「おう、おう」タケシが鼻先で笑う。「哀れな子羊の登場ってわけだ」
アキは腕時計を見た。十一時二十三分を示していた。
「カオル、今いくら持ってきてる?」
「二十万はある」
「そろそろタイムアウトだ。とりあえず四万くれ。手間賃としてナオの配下に渡す。ここで、ナオ以外には解散してもらう。おれとタケシ、ナオは、あいつを路地に連れ込んで、怪我の理由を問い詰める。おまえはここに残っておっつけ集まってくる連中に、謝礼を払ってくれ」
雅の下部組織を動かす時、アキは決してタダ働きをさせない。どんな少ない労働にも、必ずそれなりの対価を払う。そうやってことあるごとに、その結びつきを強化してゆく。配下との関係になあなあの貸借を作らず、一定の線引きをすることにもなる。
「後の分配は?」
「サトルの部下に四万、ユーイチの部下には六万だ。人数が六、七人いたし、道玄坂から手間をかけてる。それとユーイチの立て替えている目撃料が五万。これで、二十万弱になるはずだ。解散させたら、ユーイチとサトルを連れて、路地裏に来てくれ」
「分かった」
言いつつ、カオルはアキに一万円札を四枚渡した。
ナオたちがジープの脇に到着した。タケシがナオに代わって、問題の若者を押さえた。アキは手の空いたナオにその四万を握らせた。
「少ないが、仲間への手間賃だ。解散してもらっていい。おまえは、残ってくれ」
ナオはうなずくと、金を受け取り、少し離れた場所に立っている仲間に向かって差し出した。
「これで、先に酒でも飲みにいってくれ。おれはもう少し用事があるから」
一人が進み出て、金を受け取った。
ナオの連れてきた若者たちが軽く手を振っていなくなると、ナオはアキに言った。
「悪いな、アキ。いつも」
ナオは、アキがナオ自身の仲間に対する立場を考えて金を支払っている部分もあることを理解している。そのことに恩義を感じている。
ナオは雅の中核メンバーの中で、もっとも口数が少ないが、そういう機微を感じ取る若者だった。アキも、曖昧にうなずき返した。
「早いとこ、こいつに口を割らせようや」
タケシが小柄な若者の首根っこを掴んだまま、陽気な声を上げる。
取り押さえられたままの小柄な若者は、不安そうな瞳を左右に動かしている。なるほど、口元には乾いた血痕がこびりついている。だが、その血痕は口から出たものではない。鼻腔から人中《じんちゆう》にかけて血の流れた跡がはっきりと見てとれる。つまり、鼻を殴られたのだ。
昭和ビル脇の崩れたコンクリート塀の暗がりに若者を連れ込んだ。
タケシに両肩をコンクリートに押し付けられた若者は、追い詰められた小動物のような眼差しで、アキと、次いでその後ろのナオを見つめた。
「ナオ、ナオ」若者は初めて口を開いた。そして懸命に訴えた。「な、おれたちはダチじゃないか。頼むから手荒なことは勘弁してくれよ」
懇願されたナオは、一瞬若者から視線を逸らし、苦しそうな表情でアキを見やった。
「少しは、手加減してやってくれないか」
「なら、早く口を割ることだ」アキは返して、その若者に近寄った。「言え、その顔の血はどうした?」
「………」
若者はうつむいた。アキはますます確信を深めた。タケシにうなずいてみせた。
意を受けて拳を振り上げかけたタケシに、釘を刺す。
「顔は狙うな。たぶん鼻が潰れかけてる」
タケシはいったん振り上げた拳を脇に付け、そこからフック気味に若者の腹を抉った。一発、二発──。うつむいた若者の口元から、くぐもった呻き声が漏れてくる。さらにタケシは渾身の三発目を、鳩尾に叩き込んだ。
「カハッ!」
若者は堪えきれずアスファルトに両手をついて四つんばいになった。胃の中のものを戻し始めた。目尻に涙を浮かべたまま、苦しそうな嗚咽を漏らす。アキは、しばらくその様子を見下ろしていたが、ややあって口を開いた。
「言えよ。それともこのまま殴りつづけられるか?」
「どうしようもなかったんだ……」ひと通り戻し終えると、なおも苦しげな様子でアキを見上げた。「肋骨や鎖骨、それに肘を砕かれた奴もいた。下手すりゃ、ホントに殺されてた」
その言葉に、アキとナオ、それにタケシの三人は顔を見合わせた。
「二人組の男か?」アキは確認した。「そいつらに、やられたのか?」
「イシバシ楽器の裏手でだ」弱々しく相手はうなずいた。「あんたらのことを聞かれたんで、いったんは惚け、そのままやり過ごしてあとを尾けようとした。さらに裏手の路地のほうへ、その二人組を追いかけていった。罠だった。袋小路になった路地の背後に、やつら、突然現れやがった──」
「それで?」ナオが、その先を急かした。「それで、どうなったんだ?」
「いきなりのことに、思わずおれたちはナイフを抜いた。だが、やつら、余裕|綽々《しやくしやく》だった。そんなおれらを見て、笑ってやがった……。大きい男が一度ナイフを抜いて、わざわざそれを投げ捨ててみせた。細身の男も、素手で充分だとぬかしやがった。実際、その通りだった」
「………」
「まるで話にならなかった。素手の二人組に、ナイフを持ったおれたちはアッというまに叩きのめされた」
「それから?」アキはさらに問い詰めた。「まさかそれで終わりと言うわけじゃないだろうが」
若者は再び黙り込み、視線を地面に戻した。躊躇《ためら》いが感じられた。
「言うんだ」
「……大柄な男が、シュン──肘を折られた一人に近づいて、締め上げた。シュンは堪らず、知ってることを洗いざらい喋った。あんたたちのこと。あんたらが懸賞金をかけたこと、それを知っていたおれたちが、二人組を襲ったこと。レッド・クロスに行けば、パーティをやっているあんたらと会えること。パーティのこと。全部だ」
その最後の言葉に、アキは軽い眩暈を覚えた。まさかパーティやレッド・クロスの件まで喋っているとは思わなかった。
「なんてこった……」
そうつぶやいたナオの顔は、引き攣《つ》っていた。タケシが両拳を握り締めたまま、一歩若者に近寄る。怒りにこめかみの血管が浮き立っていた。
「仕方なかったんだ!」若者は必死の声音を上げた。「じゃなきゃ、ホントに嬲り殺しにされるとこだったんだよっ」
「なにが仕方なかっただ、この野郎っ」激したタケシが、若者の脇腹を思い切り蹴り上げた。「てめえらさえ助かりゃ、おれらはどうなってもいいってのか? ええっ!」
なおも怒りにまかせて渾身の蹴りを放つ。三度、四度と腹部から鈍い音が漏れ、そのたびに若者は悲鳴を上げた。
タケシはこの事件の発端が、自分にあることをよく分かっている。そうでなければ単身六本木のバーになど乗り込んではいかない。なんとかして二人組を雅に近づけまいと自分なりに懸命になっている。だから余計に激するのだと、アキは感じた。しかし、今さらそんなことをしてもどうしようもない。
「いい加減にしろ」
そう言って、タケシの肩を掴んだ。
「なんでだ?」振り返りつつ、タケシは喚いた。その瞳に浮かんだ狂気。「こいつらさえヘマしなきゃ、ここまでバレることもなかったんだぞ。当然の仕打ちだろうが」
なおも蹴り上げようとしたタケシの肩に、アキは力を込めた。
「まだ聞き出すことがある。そう蹴りつけていたら、話もできない」
タケシはしぶしぶ攻撃を止めた。
アキは若者の目の前にしゃがみこむと、問い質《ただ》した。
「二人組の人相を詳しく話せ」
「………」
「時間がない。もし詳しく話せたら、すぐにでも解放してやる」
「おい、おいアキよ」タケシが呆れたような声を出す。「甘すぎるんじゃねぇのか」
「仕返しより、今後のための情報が先だ」アキは隣のタケシを見上げて言った。「それに、こいつら全員、もう充分に仕打ちは受けている。そいつらから半殺しの目に遭わされている。おれたちまで真似をすることはない」
これにはタケシも言葉に詰まった。
ナオは黙ったまま、アキとタケシの様子を黙って見ている。
アキは再び若者に尋ねた。
「どんなやつらなんだ?」
「……細いほうの男は、錐みたいだった」
「キリ?」
若者はうなずいた。
「尖ってる感じだ。顔も、鼻も顎も眼つきも、ぜんぶ鋭く尖った感じ。たぶん、三十代の半ばぐらい」
「それじゃ、分からない」アキは苛立った。「もっと具体的に、体つきや顔の形、目鼻の特徴が分かるように言え」
「顔は細かった。目は一重で、細長い。白目が多かった。鼻が高い。唇は薄かった」若者は思い出しながら、必死に説明した。「ボクサーみたいに締まった体つきだった。肩幅は広い。タッパも百八十ぐらいありそうだった──」
「もう一人は?」
「その細い男に、一回り肉を巻きつけたような感じだ。骨太の、大柄な男だった。顔も大きかった。ギョロ目で、眉が太かった。鼻も、でんと顔の真中に座っているような、そんな感じだった。歳はもう一人と同じくらいだ」
「ほかには?」
若者は首を振った。
「これで、精一杯だ」
「そいつらの乗り物は、どうだった」アキは質問を変えた。「現れた時、でかい単車に乗ってなかったか?」
「……いや。少なくとも路地に現れた時には歩きだった。バイクは見てない」
アキはため息をついた。立ち上がりながら腕時計を覗き込んだ。
十一時二十九分。素早くナオに耳打ちした。
「もうすぐユーイチとサトルがやってくる。早く、こいつを逃がしてやれ」そして若者に顎をしゃくった。「事情を話すと、あいつらのことだ。こいつに向かって激怒する。また面倒が起きかねない」
ナオは微かにうなずくと、若者を助け起こした。
「念のため、仲間の携帯の番号を聞いておけ」
ナオはもう一度うなずくと、若者をうながして路地奥の暗がりへと消えた。その後ろ姿を見送りながら、タケシがつぶやいた。
「やっぱり甘いんじゃねぇか、アキ」
「馬鹿を言え。揉める時間が惜しいだけだ」アキは舌打ちした。「それに、こうなった元々の元凶は、いったい誰なんだ?」
「すまん」タケシはバツの悪そうな顔をした。「言い過ぎた」
「分かりゃ、いい」
今夜が月曜なのは、不幸中の幸いだった。アキがそのことを口にすると、
「レッド・クロスは定休日だな」と、タケシもうなずいた。「確かに、助かった」
「だが、店が閉まってるからって、やつらが何もしないとは限らない。鍵をこじ開けて、内部を荒らしてるかも知れない。もしそうなら、まだゴソゴソやっている可能性はある」
「向かうか? さっそく」
「念のためな」
コンクリート塀の向こうから、カオルがユーイチとサトルを連れてやってきた。ほぼ同時に、路地の逆方向からナオが戻ってきた。アキはカオルたち三人に向かって、ラット・ペイントの一人から聞き出した話を伝えた。
案の定、ユーイチとサトルが騒ぎ出した。
「野郎、ふざけやがって」と、ユーイチが歯噛みすると、
「タケシ、おまえ気がきかねぇぞ。なんでそいつを取り押さえてなかったんだ」と、サトルも地団太を踏む。
ムッとしたタケシが口を開く前に、アキは素早くかぶせた。
「今は仕返しなんぞやってるヒマはない。レッド・クロスに向かうほうが先だ」
カオルはアキの助手席に、ユーイチたち三人はタケシのシェビィに乗って、円山町に向かった。午前零時少し前で、道は空いていた。宇田川町の裏道を迂回して、東急百貨店本店前に出た。大通りの交差点を渡り、円山町の路地に入って数十メートル進み、あともう少しでレッド・クロスが見えるというところで、アキはジープを止めた。通りに人影はまばらだった。
「カオル」アキは言った。「店の電話、一応鳴らしてみろ」
カオルが電話を呼び出す間に、後ろに停車したままのシェビィに近づき、運転席の窓を叩いた。
「ここからは歩きで行く」アキはウィンドウを降ろした車内に告げた。「念のため、ボウ・ガンを用意しろ」
まず、タケシとサトルが、続いてユーイチとナオが二挺のボウ・ガンを携えて降りてきた。
「誰も出ない」カオルが携帯を耳元に当てたまま、アキを振り返った。「少なくとも、スタッフ連中がいないのは確かだな」
アキはうなずいた。六人は、ボウ・ガンを手にしたユーイチとナオを先頭に、レッド・クロスに近づいていった。それぞれに四方を見まわしながら進んでゆき、立ち枯れビルの前に立った。そこからはユーイチを先頭に、ナオを最後尾にしてエントランスから地下へと続く階段を下っていった。
レッド・クロスのドアは開けられた気配がなかった。ロックは施錠されたままになっている。アキはほっと一息つき、他のメンバーを見まわした。
「どうやら、引き上げたな」
「近くから見張っているかも知れないぜ」ナオが言った。「そして、安心して出てきたところをふんじばるつもりかも」
「それはないだろ」カオルが指摘する。「やつら、おれたちがラット・ペイントから今日の一件を聞き出したことは知らない。ましてやここにきたとしたら定休日だと気づいたはずだ。今日に限って、おれたちが現れるとは考えないはずだ」
「カオルの言うとおりだ」アキは言った。「まず、引き上げている」
「助かったな──」ユーイチがボウ・ガンを下げながら、額の汗を拭う。それを見て、アキも自分が背中にひんやりと汗をかいていたことにあらためて気づいた。暑さと、緊張のせいだ。
「少なくとも、今夜は大丈夫だ」アキは扉の吊り看板に顎をしゃくった。「だが、おそらくやつら、明日の開店前には、もう一度ここに乗り込んでくるはずだ。マスターをとっちめ、おれたちの居場所を突き止めようとするだろう」
アキの言葉に、他の五人は黙り込んだ。
「しかし、よう」ややあって、サトルが口を開いた。「おまえの話だと、マスターも昔はその筋の人間だったわけだろう? 脅されたからといって、そうおいそれとはおれたちのことは吐かないんじゃないのか?」
「マスターに義理はない」アキは断言した。「わけも知らされずに体に危害を加えられ、店を荒らされたら誰だって口を割る。おまけにリュウイチからあの話を引き出したことで、昔の貸しはチャラになっている。無理だな」
再び五人は、黙り込んだ。
「じゃあ、こういうのはどうだ?」かわってユーイチが考えを口にした。「マスターに洗いざらいぶちまけて、協力を得る。それでしばらくの間、店を閉めてもらう。それならあいつらも寄り付けないだろ?」
しかし、これにもアキは首を振った。
「しばらくって、いつまでだ? おれたちがいい案を思いつくまでか? 休業補償の問題もある。日に最低十万は積まなくちゃならない。それに、この店が開かなくたって、やつら、いずれマスターの自宅を、突き止める」
その言葉に、カオルがうなずいた。
「商工会議所から会員名簿を手に入れる。その気になれば自宅の住所を突き止めることぐらい、造作もない」
「それに、この一件を部外者に打ち明けるつもりはない」と、アキも憂鬱げにうなずき返した。「そいつも巻き込むことになる。これはおれたち自身の問題だ」
扉の上のネオンが、かすかに耳障りな電磁音を放っていた。今度の沈黙はさらに長く、重かった。
今まで黙っていたタケシが、あっと叫んだ。
「今思いついたんだが」タケシは興奮した口調でまくし立てた。「松谷組の連中も、やつらを探している。だから、組の連中に匿名の電話でその二人組がレッド・クロスにやってくるってタレ込む。きっと連中は、大人数で網を張り、やつらを待ち受ける。ノコノコやってきたやつらは、連中に捕まる。捕まらないまでも、やつら、当分レッド・クロスには近づけない。そうすりゃ、しばらくは大丈夫だ!」
その口調に乗せられ、一瞬、アキもその案に飛びつきそうになった。だが、すぐに考え直し、苦笑して首を振った。
「駄目だな、やっぱり」アキは言った。「その二人組を捕まえれば、松谷組のやつらは、必ず現金のありかを吐かせようとする。そうすればおれたちのことを喋ることになる。結果、おれたちが松谷組から追われる。こっちから金を返して松谷組のほうは事なきを得たとしても、その二人組はおれたちのことを恨みに思う。松谷組の連中がやつらを殺してでもくれない限り、また、おれたちは狙われるハメになる」
「しかしよ」とタケシはなおも食い下がる。「その二人組がうまく逃げ出したとしたら、どうだ?」
「状況は、一層悪くなる」アキは答えた。「二人組は、隙を狙ってマスターの自宅に押しかけるだけだ。おれたちのことを吐かせようとする。松谷組の連中も、レッド・クロスに目をつける。マスターが何か知っているかも知れないと思う。そのうち、タレ込みの噂は、横のつながりから光栄商事の知るところとなる。リュウイチがマスターに話した一件を思い出し、怪しむかも知れない。そうなると、マスターはおれに依頼されたことを連中に喋らざるを得ない。おれたちはダブルで追われることになる」
「駄目か……」タケシはそうつぶやいて、軽く舌打ちした。「畜生。いい案だと、思ったんだがなあ」
結局は、またもとの袋小路に戻った。
アキはため息をつきつつ、時計を覗き込んだ。
午前零時三十分。もうすでに、火曜日になっていた。あと十八時間ほどで、この店にマスターが現れる。そして二人組も。それまでに、有効な手立てを考えるしかなかった。しかし今のところ、思いついた限りのプランは全滅だった。
六人の思惑とは関係なく、秒針は細切れに時を刻んでゆく。
長い一日に、なりそうだった。
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午前十時。アキは、高架下の玉川通りを渋谷駅方面に向かって、J62型ジープを運転していた。フロントウィンドウをボンネットの上に倒し、丸目のサングラスをかけていた。その奥に隠れた両眼は血走っていた。
昨夜は完全な睡眠不足だった。
レッド・クロス前で解散し、カオルとマンションに戻った。ナオからメモはもらっていた。昨夜締め上げた若者から聞き出した、仲間の携帯の番号だった。三件ほど番号が走り書きしてあった。早速かけてみた。その二人組のさらに詳しい人相を聞きだすつもりだった。二件目で相手は出た。大橋にある東邦大病院に担ぎ込まれていたことが分かった。面会時間は九時からだと言う。明朝会う約束を取り付け、電話を切った。カオルと顔を付き合わせ、もう一度今後の対策を考えてみた。二人組の注意をなんとかレッド・クロスからそらす方法を検討してみた。だが、夜明け近くになっても、いい考えはまったく思いつかなかった。
ついに、カオルが言った。
「とりあえず、道玄坂一丁目には行ってみる。現場近くにファーストフード店みたいなのがあれば、そこの従業員で、現場を見ていた奴がいるかも知れないからな。ひょっとしたら、単車の情報もなんか取れるかもしれない」そう言って、ため息をついた。「まあ、それにしたって、ほんの僅かな可能性だがな」
アキもうなずいた。
そして今朝、アキはジープでその病院へ、カオルは道玄坂一丁目へと出向いていった。
結果として、アキのほうは無駄足だった。昨夜締め上げた若者から、痛めつけられたとの連絡が入ったのだろう。雅の報復を恐れた彼らは、早朝こっそりと病院を抜け出していた。
前方にクルマが詰まっていた。アキはいらいらした。それでなくても、この高架下の玉川通りを通るたび、うんざりする。天蓋のクルマで走れるような環境ではなかった。
通りの両側にはびっしりとビルが連なり、そのビルの間に浮かぶ僅かな空は、三号渋谷線の巨大な梁が覆っている。時折ビルの隙間から差し込む陽光が、高架を支える太い梁を斜めに照らし出しているだけだ。信号がブルーになるたびに、トラックや単車から捲き起こる排気音が逃げ場を失ってこだまし、黒いガスが路上に撒き散らされる。少なくとも寝不足の人間が吸う空気ではない。
やがて道玄坂上の三叉路にさしかかった。
アキがその交差点を道玄坂方面に折れると、YTビルの少し先に立っていたカオルが目に入った。
だぶだぶの黄色いTシャツに、くたびれかけたインディゴのジーンズを穿いている。同じように腫れぼったい目をしていた。
「どうだった?」
助手席にカオルが乗り込んでくるなり、アキは尋ねた。
「収穫はゼロだ」カオルは疲れ切った様子で、ダッシュボードの上に両足を投げ出した。「近くに、プロントが一軒、他は全部オフィスビルだ。プロントのスタッフも、夕べの人間とは変わってて、何も知らなかった。通りの角に、ちっちゃなタバコ屋があった。最後の望みだったが、ボケかけた婆さんが座っていて、何を聞いても、はぁ、はぁ、の生返事だ」
タバコ屋の婆さん相手に必死に食い下がるカオルを想像して、アキは笑った。
「そりゃ、ご苦労だったな」
「おまえは?」
「おれも似たようなもんだ。やつら、朝方には逃げ出してた」
「なんで?」
「さあな。殴られるとでも思ったんだろう」
「やれやれ……」
鉄製のダッシュボードは、カオルがいつも投げ出している靴の裏で、引っかき傷だらけになっている。
ジープは、道玄坂上から百メートルほど進んだところで、はるか駅前のスクランブル交差点から続く渋滞の末尾にくっついた。
朝から駆けずりまわった挙句、二人揃って情報は何も取れていないという現実。おそらくあと八時間もすれば、二人組がレッド・クロスにやってくる。カオルが気持ちを切り替えるようにつぶやいた。
「とにかく、早く家に帰って、また考えるしかない」
それっきり、二人はむっつりと黙り込んだ。
渋滞の列は、少しずつ坂を下ってゆく。
車道脇、欅《けやき》並木の木陰では、ラフな恰好の白人男性が舗道で簡易式のテーブルを広げていた。露天商だ。テーブルの上に広げられた黒い布の上には、安物の時計が陽射しを受けてキラキラと輝いている。その時計にチラリと目を止めながらも、談笑を続けて通り過ぎてゆく若者たちがいる。
数珠つなぎになったテールランプの群れは、ゆるやかに右にカーブしながら世界堂ビルの向こう側に吸い込まれていた。それまで憂鬱そうに黙り込んでいたカオルが、前方に視線を固定した。
「見ろよ」
アキをちらりと見やり、顎をしゃくる。
三十メートルほど先の路肩に、黒塗りのメルセデスS600が停まっていた。二人が見ている間に、その後部座席のドアが開いた。ダブルのダークスーツに身を固めた、いかにもスジ者らしき輩が二人、降り立った。
「いまどき、ベンツかよ」小馬鹿にしたように、カオルは笑った。「ったく、ヤー公ってのは、いつになってもつくづくセンスねぇな」
「どうして?」カオルの嘲笑につられながらも、アキが言葉を返す。「よく出来たクルマだと思うぜ」
「たしかに出来たクルマだ」カオルは笑いながら返す。「だが、一千六百万もするクルマをハッタリでしか乗れないやつらは、やっぱ芋《イモ》だぜ」
「詳しいな。なんで値段まで知っている?」
すると、吐き捨てるようにカオルは言った。
「ウチのクソ親父も、乗ってた」
アキは笑った。カオルは依然ダッシュボードの上に両足を投げ出したまま、言葉を続ける。
「スジ者はスジ者らしく、キャデかリンカーンに乗ってくれたほうが、可愛げがあるってもんだ」
その声が聞こえたわけではないのだろうが、カオルの言う芋の一人が、不意に二人のほうを振り返った。体の大きい男だった。アキと同じか、それ以上の上背があるように見えた。短い髪、いかつい顔の中にある三白眼が、じっとこちらを見ている。
「ん?」カオルがその顔を見て、怪訝そうな面持ちになる。「……あいつ、なんか見覚えあんな」
「冗談だろ?」
「いや」カオルはなおも言い募る。「確かに、どこかで見た記憶がある」
やりとりする間にも、二人の乗ったジープは、じりじりとメルセデスに近づいていく。大柄な三白眼がアキとカオルの方角を見たまま、もう一人のスーツ姿に何か声をかけた。すかさずその男が再び後部ドアを開け、車内に首を突っ込む。
「……おれたちを知っているみたいだな」
カオルがつぶやく。と、運転席のドアが開き、中から紫色のアロハを着た小柄な人影が転がり出た。慌てた様子で二人を振り向く。リュウイチだった。
その瞬間、アキは巨漢の正体がわかった。
「あれが、麻川組の黒木か?」
カオルが無言でうなずいた。リュウイチが二人に向かって小走りに近づいてくる。周囲をクルマに取り囲まれている状況に、カオルが憂鬱そうにつぶやいた。
「この渋滞じゃ、やり過ごすことも無理だな」
リュウイチは、何故か鼻柱に大きな絆創膏を貼り付けている。
ゆるゆると動きつづけていたジープと前のグロリアの間に、リュウイチはいきなり体を割り込ませてきた。アキは軽く舌打ちし、フットブレーキを踏んだ。途端に後続車両からけたたましいクラクションが捲き起こった。
「この馬鹿が。轢《ひ》かれたいのか」
素通しのボンネット越しに、アキは声を荒らげた。
「クルマを、あのベンツの後ろに付けろ」アキの言葉を無視して、リュウイチは一方的に喋った。「話がある」
「前にも言ったろが。おれたちにはない」
前方の信号が青に変わった。リュウイチはせせら笑って、ボンネット上に両手をついた。
「言うとおりにしたほうが、おまえらのためだぜ」
ゆっくりと前のグロリアが動き出し、車間が十メートルほど開いた。リュウイチはボンネットの上に両手をふんばったまま、動こうとしない。
二度目のクラクションが、後方から響く。
「わっかんねぇ奴だな」いらいらしたカオルがついに大声をあげた。「ヤー公と話してるヒマなんかねぇんだ。どけよ!」
「それは、無理だな」と、突然別方向から声が湧いた。黒木がいつの間にかすぐ脇の歩道に立っていた。近くで見ると、一層その巨躯が際立って見えた。肉の削げ落ちた頬、瞬きをしない双眼がじっと二人を見つめている。
「話は、聞いてもらう」
結局、メルセデスの後ろにクルマをつけさせられた二人は、黒木とリュウイチに言われるままに、歩道脇のビルの二階にある喫茶店に入った。もう一人のスーツの男はついて来ず、メルセデスの中に居座ったままだ。
四人は、表通りに面した奥のテーブルに腰を据えた。
ウェイターが注文を取って引き下がるなり、アキは口を開いた。
「話があるなら、手短かにしてくれないか」アキの目に、テーブルの下で貧乏ゆすりを始めたカオルの片足が見えた。「長話に付き合えるほど、今日は本当にヒマじゃないんだ」
アキの態度に何か言い出そうとしたリュウイチを押さえて、黒木が言った。
「おれのことを、知っているようだな?」
「あんただって、おれたちのことを知っていたふうじゃないか」
黒木はパラメントに火をつけ、おもむろに長い煙を吐き出した。
「ガキのくせに、興行の真似事をやっているらしいのがいてな」アキの横で苛立っているカオルの様子を楽しむように、ゆっくりと黒木は続けた。「どうやら、ずいぶんと羽振りがいいようで、意気がって幌なしのジープなんぞ乗りまわしているそうだ」
「………」
「で、もしやと思ってこいつに聞いてみると」と、リュウイチを顎で示した。「案の定おまえらだったというわけだ」
アキはリュウイチを睨んだ。リュウイチはその視線を受けようとはせず、素知らぬ顔で外の様子を窺っている。黒木がのんびりと釘を刺す。
「レッド・クロスはおれが仕切っているシマのど真ン中だ。勝手なことをやられると、いろいろと差し障りがあるんだよ」
その言い方に、カチンときた。
「どう、差し障りがあるって言うんだ? おれたちはただ単にパーティを主催しているだけだ。そこいらの高校生だってやっていることだ」
「ほう?」黒木はわざとらしく驚いてみせる。「今時の高校生は、殴り合いの余興まで用意するのか?」
「余興だからな」アキは譲らない。「昔流行ったダンパみたいなもんさ。ダンスのうまかった奴には、賞金を出す。合意の上の拳闘だし、勝ち負けを予想する賭け事もやってない」
「だから万が一警察に知れたとしても、せいぜい風紀上の厳重注意ぐらいが関の山か?」すかさず黒木は後を引き継ぎ、薄笑いを浮かべた。「──頭がいいよなあ、おまえらは」
「そうだ」相手のペースになっていることに苛立ちながらも、アキは答えた。「その程度じゃあ、店舗が営業停止をくらうことも考えられない。パーティを開くたびに、店にはカネが落ちる。カネの一部は、まわりまわってみかじめ料という名目で、あんたらの懐に入る。感謝されこそすれ、言いがかりをつけられるような筋合いじゃないと思うがね」
「なるほど」黒木は小馬鹿にしたような笑みを崩さないまま、言葉を弄ぶ。「最初から、すべて答えは用意済みというわけだ。え?」
「この街じゃ、立場にふんぞり返っているだけで、餌を漁りたがる恥知らずがいてな」アキは黒木の顔を見たまま言ってのけた。「そんな禿鷹に食われないための用心さ」
黒木はゲラゲラと笑い出した。その下品な胴間声は人影の少ない店全体に響き渡り、近づいてきていたウェイターが、ぎょっとして四人の顔を見た。
テーブルの上にアイスコーヒーが置かれ、ウェイターが下がると、黒木は再び口を開いた。
「──先週、そのパーティとやらで、光物を手に暴れた客がいたそうだな」
アキはもう一度リュウイチを睨んだ。お喋り野郎のこのカケスのサミーを、目で殺せるものなら、殺してしまいたかった。
「その時は、おまえが──」黒木はパラメントを持ったままアキを指さした。「うまく立ちまわって、事なきを得た。違うか?」
「………」
「大変だな。そんなわけの分からない客を相手にするのも。一つ間違えば、命とりにもなりかねない」
最初からいらいらしっ放しのカオルが、ついに口を挟んだ。
「だからあんた、何を言いたいんだ?」
「なに、そんな危険からおまえらを守ってやろうと思ってな」黒木はこともなげに言い、表情を引き締め、身を乗り出した。「パーティのある夜だけ、リュウイチともう一人若いもんを会場に貼り付けてやる。いわばボディガードだ。揉め事は一切、そいつらが請け負う。ただし、おれたちもそこまでやってやる以上、タダというわけにはいかん。月に四十万のガード料を、もらう」
実質的な粗利の、約四割を持っていかれる計算だった。
そう切り出した相手を、アキはじっと見た。相手の立場から見れば、月に数回、それも夜の数時間レッド・クロスに足を運ぶだけで、年間五百万近い収入が確保できる。しかし雅からしてみれば、現場での揉め事にはこれまで通り彼らの力で充分対応できる。そのためにアキとカオルは、ストリートの猛者ばかりを集めた雅という組織を作ったのだ。雅にとっては、手間暇は以前と変わらず実入りだけが激減するという、何ら得るところのない取引だった。
ようは、とアキは思った。自分たちからカネを毟《むし》り取るための、体のいい口実なのだ。
「断るといったら?」
アキの言葉に、黒木は初めて本性を剥き出した。ギロリとした視線をアキに据え、低い声で言い放った。
「パーティもおまえらも、潰す方法なんざいくらでもある。それを忘れるなよ」
その恫喝にむっとしたアキが言い返そうとした瞬間だった。
いきなり隣で、バン! という衝撃音が響いた。カオルが両手をテーブルについたまま、黒木を睨みつけていた。顔が怒りで真っ赤になっている。
「寝ぼけんなよ、オッサン」いきなり、噛みついた。「黙って聞いてりゃ、チョーシこきやがって──いいか、アキとおれはな、ずっと誰の手も借りずにやってきたんだよ。これからだってそうだ。何が悲しくて、今さらあんたらの世話にならなけりゃならないんだ、え?」
黒木は一瞬黙り込んだ。しかし、すぐに頬がびくびくと引き攣り始めた。
「なんだと?」
「だから、世話を受ける必要もないし義理もない。なんべんも言わせんなよ」
押し殺した怒りの波動が、黒木の巨体から伝わってきた。
「そんな口利いて、タダですむと思ってんのか」黒木は吼えた。「おまえら小僧どもを捻り殺すぐらい、わけはねぇんだぞ!」
「へえぇ?」売り言葉に買い言葉だった。カオルの口調も激しさを増した。「上等だ。だったら、やってもらおうじゃねぇか! 言っとくがな、そうなったらこっちだってただ黙って指をくわえて見ちゃいねぇぞ。メンバーを総動員してやる。あんたらに、そいつら個人の情報まではない。どこに住んでいるか? 何をしている奴か? 名前は? 焚きつけようによっては、喜んであんたらにケンカを売ってくるぜ。たかが十人程度の光栄商事とやらが、百人からの匿名の人間を相手にどう立ちまわるか、見せてもらおうじゃねぇか!」
「いきがりやがってこのクソガキが!」黒木もついに大声を上げた。「こっちも、麻川組っていう看板しょってるのを忘れるんじゃねぇ! しまいには鉛玉ぶち込むぞコラ!」
カオルは鼻で笑った。
「だったら、そうしろよ。たかがガキとのケンカに、親から兵隊を借りるのか、おい? そうなったらあんた、麻川組のいい笑いもんだぜ。おまけにそこまでの戦争になりゃあ、当然サツが乗り出してくる。極悪ヤクザもんとか弱き未成年のケンカだ。ことが公になった場合、果たして法律はどっちに有利に働くか、よぅくその空っぽのアタマを絞って考えてみるんだな」
一瞬言葉を失った黒木に、カオルはさらに追い討ちをかける。
「それからあんた、裏では女衒もやってるだろ?」と、いかにも軽蔑したように笑った。「外国人売春婦の、ブローカーさ。飲食店からのみかじめ料ぐらいならともかく、この人買い業をサツが知ったら、どうなるかな? 最悪ブタ箱行きは免れたとしてもだ、サツが目を光らせている以上、もうそっち方面の仕事はできない。おそらくおれたちから巻き上げようと思っている以上の実入りを、失うはずだ」
そこまで積み上げたうえで、カオルは駄目押しをする。
「どうだ? あんたが上納金を納めている麻川組は、それで、納得するかな?」
直後だった。リュウイチがいきなり立ち上がったかと思うと、テーブル越しにカオルに掴みかかろうとした。とっさにアキは動いた。伸びてきた手首を掴むと、逆手に捻り上げた。
「つゥッ!」
リュウイチは苦痛に思わず身を捩らせる。手首を押さえつけたまま、アキは黒木を見下ろした。
「あんたのいうボディガードってのは、この程度かよ?」そう言って、力任せに突き返した。後方にバランスを崩したリュウイチは、あっさりと元のソファに尻餅をついた。「これで金を取ろうとは、ちょっとあつかまし過ぎないか」
束の間、両者の間に睨み合いが続いた。
しかし、その視線から先に力を抜いたのは黒木のほうだった。平静に戻り、何を思ったのか不意に口元に笑みを取り戻した。
「そんなパーティを仕切るぐらいあって、さすがに喧嘩はお手のものってわけか」黒木は反撃に転じてきた。「しかし腕力自慢もたいがいにしとけよ。厄介な問題を抱え込まんとも限らんからな」
「……どういうことだ?」
アキの問いかけに、黒木は唇を舐めた。
「先週の金曜深夜、六本木のカジノで金が奪われたそうだ」
「………」
「強奪した連中の一人から、さらに金を奪った奴がいる」
「何の話をしている?」
「いいから、聞け」黒木はにやりとして、その先を続けた。「あるバーで、その強盗の一人と若造の二人組がつまらんことから諍《いさか》いになり、挙句、その強盗のバッグを奪って逃げた。カジノを経営していた松谷組ってのが今も血眼になって探しているが、こいつらは見つかっていない」
「だから、なんなんだよ」堪らずカオルも口を挟んだ。「それがおれたちと何の関係がある?」
黒木は笑った。
「ガキどもは金髪とスキンヘッドの二人組だったそうだ。揃って首からペンダントをぶら下げていた。三日月形の白いペンダントだ」
「だから?」
カオルの声音が心なしか上ずっていた。
「惚けるな」黒木は横のリュウイチを顎で示した。「こいつから聞いたぜ。その形のペンダントは、おまえらのチームのトレードマークだ。おまけにおまえらには、金髪と坊主頭の部下がいるって話じゃないか。え?」
「似たようなペンダントなんていくらでもある。金髪と坊主頭の奴だってそうだ。濡れ衣もいいところだ」
「そうかな」
一瞬だが、探るような眼差しを黒木はした。アキはその仕草に、まだ黒木が確信にいたっていないことを悟った。
知らぬ間に口が動いていた。
「金曜の深夜だとか言ったな?」
「ああ」
「その晩は、ファイトパーティだった。幕引きの後、朝方まで全員で飲んでいた」でまかせを言った。「メンバーのやつらに、そんなことできるわけがない」
「誰がそれを証明する?」
「おれたち全員だ」
黒木は鼻を鳴らした。
「なら、松谷組におまえらのことを教えてやろうか?」揺さぶりをかけてきた。「そうなりゃ現場を目撃したバーテンが、面通しにやってくるぞ」
「勝手にしろ」アキは強気で押した。事実はどうあれ、この場で弱みを見せればつけいられる。「無駄足になるだけだ」
「金を、半分よこせ」アキの言葉を無視し、さらにカマをかけてきた。「そうすりゃ、松谷組には黙っといてやる」
「あんたもしつこいな」あえてうんざりした顔をしてみせた。「そんな話は知らないと言ってるだろうが」
再び無言のまま黒木と睨み合う恰好となった。その射るような視線を、なんとか受け止めることができた。
どれくらいそうしていただろうか──黒木はついと、テーブルの上の伝票に視線を移した。「水曜まで猶予をやる」伝票を手に取り、立ち上がりざま言った。「ガード料の件、結論を出して事務所まで連絡しろ。今の話も、その時にもう一度聞く。二つの結論のどちらも気に入らなかったら、木曜のパーティには松谷組と一緒に乗り込む。分かったな」
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「──なあ、アキ」
道玄坂を下っていったジープは、109の交差点をぐるりと迂回し、文化村通りを上り始めていた。
「なあ、アキさ」両足を投げ出したまま、カオルはぼんやりと繰り返した。「一体、どうするよ?」
「どうするって──」大きく息をつきながらアキはきいた。「どっちのことだ?」
「黒木と泥棒、どっちもだ」カオルは答えた。「両方とも、思いっきりテンパってきてる」
「うん──」
前方の信号が赤に変わった。アキはギアを抜いて、フットブレーキを踏んだ。再びカオルが口を開いた。
「松谷組にチクるって話、本当だと思うか」
「本当かって?」アキは問い返した。「言うからには、そうするんだろう」
カオルは首を振った。
「おれは、単なる脅しだと思う」
「どうして?」
「チクる気だったら、おれたちを怪しいって睨んだ時点ですぐに連絡してるはず」カオルは言った。「たぶんやつら、松谷組から金を横取りする気でいる」
信号が青になった。ギアを入れ、クルマを発進させる。
「あいつ、おれたちが犯人だって確信を、まだ持っちゃいない」カオルはなおも言い募る。「だから、まずその確信を得てから、おれたちを問い詰めようとしてくる」
「どうやって?」
「方法は分からない。分からないが、木曜のパーティにはやってくる。松谷組抜きでだ。例えば、タケシとサトルを拉致し、力ずくでゲロさせる。あるいは拉致しないまでも、なんとかあの場を目撃したバーテンを見つけ出して、パーティでタケシとサトルに面通しさせる──いろいろ方法はある」そう言って、また息をついた。「どっちにしても、パーティには乗り込んでくるつもりだと思う」
「なら、木曜のパーティは中止するしかない」アキは言った。「黒木たちに、タケシとサトルを会わせるわけにはいかない」
「おれは反対だな」カオルは首を振った。「そんなことすりゃ、黒木はますます怪しむだけだ」
「あいつらを会わせてもいいってのか」
「そうは言ってない」カオルは少し苛立った。「根本的な解決にはならないって言ってるだけだ。おまえだって昨日言ったろ? 永久にパーティをやらないわけにもいかないって」
「じゃあ、どうする?」
「黒木の疑いを完璧に消すようなアリバイを、でっち上げるしかない」
「無駄だな」アキは首を振った。「今さらどんなアリバイをこしらえたところで、やつは疑ってかかる。仮に万が一うまく騙せたにしても、ガード料の問題は残ったままだ。変わらずに因縁をつけてくる」
不意にカオルが笑った。
「いっそのこと、殺しちまうか、黒木を?」ぶっそうな軽口を叩く。「なら、金輪際あいつらに悩まされることもなくなる」
思わずアキも苦笑した。
「そうできりゃ、何の苦労もねぇよ」
「あーあ」カオルは助手席の中で、うんざりしたように大きく伸びをした。「誰かあいつをぶっ殺してくれないかなぁ」
アキは腕時計を覗き込んだ。十一時少し前だった。黒木の件もあるが、今はまず、例の二人組への対策だった。レッド・クロスにかかる迷惑を考えると、より早急に対策を練らなければならない問題だった。
タイムリミットは、今日の午後六時。
二日後の災いと、今そこにある問題。二段構えの憂鬱に、アキは何度目かのため息をついた。今の状況は雅にとって、ただ煮詰まってゆくだけだ。
クルマは東急百貨店本店前の三叉路まで上ると、塚田ビルの角を曲がった。人込みでごった返す小路を東に抜けて、東急ハンズ前を井ノ頭通りへと出るつもりだった。右手にBEAMが見えてくる。昨夜、柿沢と桃井が単車を置いた場所だったが、むろんそのことはアキもカオルも知る由がない。しかし、カオルがふとつぶやいた。
「ひょっとしたら、例の二人組も、夕べこの路地を通ったかもな」
「なんでだ?」
「考えてもみろよ。青ギャングが襲われたのは、道玄坂上に近い一丁目だ。そいつら、単車に乗っていた。となると、今おまえが運転してきたように、宇田川町に行くにはこの路地を抜けるのが一番時間の節約になるだろ? そうやって、ビデオスタジオの裏手まで行ったんじゃないのか?」
「なるほど」
明るい陽光のもと、ボンネットの両側の道路脇を、ユニクロの上下を着た若者や、スーツ姿のサラリーマンが、額の汗をぬぐいながら行き交っている。
夜になればこの通りもネオンがぎらつき、チーマーがたむろし、若い女たちが流行の店に群がる空間へと、その様相を変える。そんな空間に、明らかに場違いな二人が紛れ込んでいる。ノッポと大柄な男が乗った単車が、人込みを避けながらゆっくりと通り過ぎてゆく。
そこまで考えて、ふとアキは苦笑した。見も知らぬ彼らに対して、勝手な想像をめぐらしている。しかし、不思議とそのイメージが心の中から離れない。
奇妙な感情が湧いてきた。意外なことに、それは親近感に近いものだった。
「どうせ帰り道のすぐ脇だ」思いもよらぬ言葉が出ていた。「ビデオスタジオの裏に寄ってみよう」
「なぜ?」驚いてカオルがアキの顔を見る。「今日はそんな時間、ねぇぞ。レッド・クロスの一件はどうする? 早く家に帰って対策を考えようぜ」
「おれがその二人組だったら次にどういう行動をとるか、ちょっと考えてみたい。現場を見れば、そのときにやつらが考えた行動が少し感じられるかも知れない」
カオルは時計を覗き込んだ。
「もう、あと七時間しかないんだぞ」
「時間は取らないさ。道玄坂一丁目のついでだ」
アキは答え、井ノ頭通りに出たところで、ステアリングを左に切った。
東急ハンズ前の交差点を過ぎたジープは、次第にスピードを落としながら通りを北上し、渋谷ビデオスタジオ脇の舗道で、その片輪をゆっくりと乗り上げた。
「たしか、あの脇の路地だよな?」
アキはそう言って、ビデオスタジオとイシバシ楽器の間の小路を振り返った。カオルがうなずき、二人はクルマを降りた。
ビルの表をまわりこみ、裏通りへと入った。狭い道の片側を、ビデオスタジオの白い外壁がすっぽりと覆っている。その一面に、グリーンやレッドの極彩色の文字がのたうちまわっている。英文字をレタリングしたものだろうが、ぱっと見にはアラビア語と見まがうばかりの、意味不明な文字の羅列だ。
反対側のやや低いコンクリート塀も、似たような惨状だった。おそらく清掃局の作業なのだろう、一度ケミカルで消された表面に、さらに新しい落書きがスプレーされている。
「やれやれ」カオルがつぶやいた。「渋谷区も大変だよな。いろいろと税金がかかって」
アキは黙って路地奥へと進んでいった。同じような狭さの道と交差する十字路で、左右を見た。
「こっちだろう」
後から来たカオルが、右手を見た。その小路は、五十メートルほど奥で行き止まりになっている。両側を雑居ビルの連なりに埋められた袋小路には、昼間だというのにあまり人の気配が感じられなかった。照りつける直射日光を浴び、アスファルトの上に籠ったような熱気が漂っているだけだ。
二人は行き止まりのコンクリート塀に向かって、ゆっくりと歩いていった。
途中、アキは片側の側溝脇でキラリと光るものに気づいた。十センチほどの刃渡りが開かれたままになっている、折りたたみナイフだった。近づいて、それを拾い上げた。
その刃先を指の腹で弄びながら、アキは路地の反対側を見た。ちょうど真横のビルの脇、奥まったところに、非常階段が見えた。ラット・ペイントの連中をいったんやり過ごして返り討ちにするには、身を潜めるのに一番適した場所のように思えた。
「よっぽど、腕に覚えがあるんだろうな」カオルが言った。「わざわざ、捨ててみせるなんてさ」
「だろうな」
「いっそのこと、返しちまわないか? 金を今日、レッド・クロス前で」
アキは首を振った。
「黒木たちがこの件に絡んできた以上、その手はもう使えない」アキは言った。「一方を立てれば、もう一方が立たずだ。黒木をなんとかする目処《めど》がつくまで、やつらに金は渡せない」
二人は肩を並べたまま、ぶらぶらと道の奥へと歩いていった。
すぐに行き止まりのコンクリート塀に突き当たり、カオルはその上の縁《へり》を見上げた。
「この高さじゃ、乗り越えるのはちょっと容易じゃねぇよな」そうつぶやいて、アキを振り返った。「おれさ、昔、ラット・ペイントがパーティにきた時、ちょっとだけ話をしたことがある」
「そうか」
「ところかまわず落書きすることを除けば、この渋谷にどこにでもいるような、ありふれたチームだ。そりゃケンカもたまにはするだろうが、タケシやユーイチたちのグループみたいに、特に血の気が多いわけでもない」
「ふん?」
「そんなやつらがだ、なんでいきなりナイフなんか抜いたんだろうって、ちょっと疑問に思っていた。……だけど、実際こうしてここに立ってみると、まるで追い詰められたネズミの気分だ。思わずナイフを抜きたくなる衝動も、分からなくはない」
アキは笑った。
「不意を突かれた挙句、追い詰められたんだ」何気なく言葉にした。「切羽詰まれば、誰だってそうなるさ」
瞬間だった。ある閃きが、稲妻のように脳裡をよぎった。
衝撃に、一瞬眩暈さえ覚えた。その光を取り逃がすまいと、アキは思わず手に持っていたナイフを握り締めた。
暗闇の中で、チカチカと灯火が揺れている。行き詰まり、追い詰められた場所と、黒木とリュウイチ、それに、例の二人組──。三つの要素に、訪れたイメージが溶け込み、じわじわとその輪郭を整えてゆく。密室と、そこに集まる必然性──。
「おい、どうした」カオルが怪訝そうに問いかける。「顔が、こわばってるぞ」
「待て」こめかみを押さえ、アキがうわのそらに返す。「今、いいところなんだ」
結論に向けてはやる心を、アキは無理やり押さえつけた。もっとクールに、もっとニュートラルに。自分たちに都合のいいように、安易に筋書きを展開させてはいけない。
「いったい、どうしたんだよ?」
「だから、ちょっと待てって」
言いながら、アキはもう一度考えに集中した。足元の熱を持ったアスファルトの上を、一匹の蟻がもそもそと横切っていく。
穴はないようだった。今度はその最終的な落としどころに向けて、慎重に必然の条件を吟味することから始めた。頭の中でゆっくりとディテールを積み重ね、外堀から埋めていった。
「うん──」
思わず、つぶやいた。過程は、なんとかなりそうだった。あとは時間と、タイミングの問題だ。タイミングを計るための人員配置と、それに要する時間、それに次のステップへ移ってゆくための事柄の入れ替え──。アキは足元のアスファルトをじっと見つめたまま、考えを整理していった。
「うん、いけそうだ」
もう一度、つぶやいた。そしてカオルを振り返った。
「できたぜ。やつらにケリをつける方法の、大枠が」
「やつらって、どっちだ?」
「両方だ。黒木もその二人組も、一気にカタをつける」アキは言った。「うまくいけば、すべてがクリアになる」
「それは、よかった」
ひとしきりアキの顔を覗き込んだ後、まるで他人事のようにカオルが言った。
「でもおまえ、そのわりには全然嬉しくなさそうだな」
路地の奥、行き止まりになった場所に腰を下ろし、コンクリートの塀に背中をもたせかけたまま、二人は話し込んでいた。やがて、そのコンクリートの表面に当たっていた太陽の光が翳り、彼らの足元に、塀の影を少しずつ伸ばし始めた。
アキが一通り話し終えると、カオルはもう一度しげしげと相手の顔を覗き込んだ。それからおもむろに口を開いた。
「なるほどな」唇を舐め、カオルは言った。「おまえの浮かない顔のわけが、それで分かった」
「そうか」
「へたすりゃ、死人がゴロゴロ出るぜ」
「分かってる」
カオルは長い吐息を漏らした。
「一方だけ──例えば黒木だけが勝ったら、どうするんだ?」
「どんな状況になるにせよ、争いの途中で二人組が自分たちのことを自ら進んで喋るとは思えない。つまり、おれたちのこともだ。それに死んだら、口も利けない。誤解したままの黒木たちは、すぐに相手への仕返しを考える。しばらくはこっちにかまう余裕はなくなる。その間におれたちはもう一度対策を考えられる」
「逆に、二人組が残ったら?」
「黒木から金を搾取される可能性は、まず永久になくなる」アキは言った。「おれたちの商売は続けられることにもなる。だから、プラン実行の途中で二人組の居所なりが掴めるようなら、金は後でこっそり戻してもいい。元々のおれたちが失うものは、何もない。むろん、うまい具合に両方ともお陀仏になる可能性だってある」
「そりゃ、そうだが……」カオルも思わず言葉に詰まる。「──困ったな」
それっきり、黙り込んでしまった。
静まり返った路地に、ジッ、ジッという油蝉の鳴き声が、どこからか聞こえてきていた。
カオルは物思いにふけったまま、ナイキの爪先部分の毛羽立ちを毟っている。額に、汗がじんわりと浮き出してきている。
アキは、穏やかに問いかけた。
「踏ん切りが、つかないか」
「意気地のない奴だと、思うか?」
「おれだって、そうだ」アキは答えた。「正直言って、逃げ出したい気分だ」
ようやくカオルは顔を上げた。
顔を見合わせ、お互いに少し微笑んだ。
塀の根元から伸び始めた影はゆっくりと成長を続け、ほどなく、二人の顔を覆った。
「よし──」
意を決したようにカオルは言った。それから腰を上げ、アキの顔を見た。
「やろう」
アキも立ち上がり、無造作に両手で臀部をはたいた。
「いいんだな?」視線を据えて、念押しした。「やりだしたら、後戻りはきかないぞ」
「仕方、ないだろ」ちらりと時計を見やって、カオルは答えた。「今、十一時半だ。計画通りに行くかどうかの下見もある。これ以上悩んでいる時間はない」
クルマに戻った二人は、急いで道玄坂二丁目に逆戻りし始めた。光栄商事の場所は分かっていた。井の頭通りをいったん北上し、宇田川町を迂回して松濤一丁目を経由した。そのまま東急百貨店本店脇の郵便局前の交差点まで下り、文化村通りを渡って、二丁目のホテル街へとジープを乗り入れる。狭い路地をゆっくりと進み、何度か右折と左折を繰り返して、目的地に着いた。光栄商事のある路地から一本入った裏通りで、ジープを停車させた。クルマから降り、ビルに挟まれた裏通りを少し進んで、ビルの陰から通りを覗き込んだ。
通りの三十メートルほど先の路肩に、黒塗りのメルセデスが停車していた。付近に組員らしき人影は見えない。アキは通りに一歩踏み出し、メルセデス脇のビルを仰ぎ見た。
先日カオルから聞いていた通り、貧相な雑居ビルの四階に、窓ガラスにでかでかとペイントされた光栄商事の四文字が見えた。その四階が最上階で、これもカオルから聞いていたとおり、ワンフロアーにつき、一社しか入っていないようだった。目を転じると、通りを挟んだ反対側にも、似たような建物が連なっている。そのうちのひとつ、光栄商事の入った建物とほぼ同じ高さの、四階建のビルの屋上が、アキの目にとまった。横に立っているカオルに聞いた。
「おまえ、あのビルの屋上まで行けるか?」
「なんとかやってみる」
その場所から、別々に行動を開始した。アキはそのまま歩道を足早に光栄商事に近寄ってゆき、カオルは通りを渡ってアキが示したビルへと向かう。
メルセデスの傍らで立ち止まったアキは、もう一度その四階建のビルを仰ぎ見た。一階脇の狭い入口と反対側のビルの壁面に、剥き出しの非常階段があった。アキはそれを確認した後、ビルの入口へと進み、扉を開けて階段を上り始めた。
黒木とリュウイチに鉢合わせした時の言い訳は考えてあった。計画がうまくいきそうなら、どのみちその内容を、今日の午後遅くには黒木に伝えなくてはならなかった。
まず四階の踊り場まで一気に上ると、一瞬だけそのフロアーの廊下を覗き込んだ。左側の壁に事務所の扉が一つ、右側の壁にトイレと、その奥の給湯室が見てとれた。さらに奥の行き止まりは、非常階段のドアになっている。
言い訳は考えてあるとはいえ、後々のことを考えると見つからないに越したことはなかった。素早く四階の踊り場から身を翻し、階段を下って三階のフロアーを覗き込んだ。思ったとおり、四階と同じ廊下の間取りになっていた。
三階に人影はなく、今度はじっくりとチェックを開始した。
奥まで進んでゆき、まず非常扉の鍵を確認した。内側から簡単にロックを外せる通常のタイプだった。次に、脇の給湯室を覗き込んだ。一方に流しのある狭いスペースは、カーテンレールで簡単に仕切れるようになっている。廊下を戻りつつ、最後に事務所側の扉を確認した。何の変哲もない、鉄製の扉だった。表に、『レオン化粧品販売』とプレートがかかっている。ドアと壁の隙間を、注意して観察した。扉の上下にある蝶番の可動部が、廊下側に突き出ていた。つまり、この扉は外開きということだ。
階段に引き返しながら、廊下の大体の幅を目測した。二メートルほどだった。詳しい採寸は、後でメンバーの誰かにやらせればいい。一階まで階段を素早く駆け下り、表に出て、カオルに指示していたビルの屋上を見上げた。ちょうどいいタイミングで、カオルが屋上から顔をのぞかせた。ジープの場所に戻りかけていた路上のアキを確認すると、一瞬手を振ってみせた。アキがかすかにうなずき返すと、カオルはすぐに頭を引っ込めた。
裏通りに入り、ジープの運転席に座って、カオルを待った。アキは時計を覗き込んだ。午後零時五分過ぎ。三十秒もしないうちにカオルが姿をみせた。
「悪いな、待たせちまって」助手席に乗り込むなり、カオルは言った。「屋上の入口までたどりついたのは良かったんだが、ピッキングに時間を食った」
「で、どうだった?」
「まずまずだ」カオルは答えた。「多少目線の位置が高かったが、それでも事務所内の半分くらいは窓から見通せた。そっちは?」
「大体は、オーケイだ」アキも返した。「ドアが外開きなのが、助かった」
カオルは笑った。
「なんとか、やれそうか?」
「ああ」
「あいつらへの説明は、おまえがやれよ」
「おれがか?」アキは驚いた。「弁はおまえのほうが、立つ」
カオルは首を振った。
「計画を立てた者が、説明する。当然だろ」そして、からかうように言った。「口下手でも、懸命にやれよ。おれたちの命がかかってるんだ」
アキは顔をしかめながら、ジープのセルをまわした。
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十六畳のフローリングに、五人の若者が車座になっていた。タケシ、サトル、ユーイチ、ナオ。その中心にアキが座り、他のメンバーに向かって話を続けている。カオルは一人、隅のテーブルに腰かけたまま、一万円札とB4の紙を見比べながら、耳を傾けていた。テーブルの上には、大量のB4用紙が積まれていた。戻ってくる途中、文具屋に立ち寄って購入したものだった。それからマンションに到着するまで、助手席のカオルの携帯はフル回転を続けた。一人ずつメンバーを呼び出し、一時半に緊急の召集をかけた。なにがなんでもきっかり一時間以内にやってくるように、厳命した。そして最後に、必ずこう付け加えた。
「象牙のペンダントは、今日は絶対に持ってこいよ」
センター街をうろついていたユーイチとナオは、一時前にやってきた。一方、タケシとサトルも黒いシェビィに乗り合わせて駆けつけ、午後一時二十分過ぎにはすべてのメンバーが揃った。
四人のメンバーの視線が集中する中、アキは淡々と話を続けている。夕べの事件から今日午前中の出来事まで簡潔に説明した後、プランを解説していった。思いもかけない雅としての対策に、四人は身動きもせず、聞き入っている。
カオルは一万円札とB4の紙をテーブルの上に放り出すと、時計に目をやった。二時ちょっと前だった。車座になっている五人のメンバーに視線を向けた。タイムリミットまで、あと四時間。三十分近く続いていたアキの説明も、終わりに近づきつつあった。
「──以上が、計画のあらましだ」最後を締めくくり、アキは四人を眺めまわした。「なにか、意見のある奴はいるか?」
メンバーは無言でお互いに顔を見合わせた。傍らで見ていたカオルには、彼らの気持ちが手にとるように分かった。自分も、ついさっきはそうだったのだ。意見もなにも、ただ呆気にとられて、しばらくは声も出ないのが実情だろう。
「ないのか、意見は?」
かまわず、アキが念押しする。と、一人の喉が大きく上下した。アキはそれを見逃さなかった。
「ナオ、なんかあるのか」
「……って言うか、それで本当にうまくいくのか?」
ナオはそう言って、同意を求めるように隣のユーイチを見た。自然、アキと他のメンバーの視線も、彼に移動した。ユーイチは少し考えた後、口を開いた。
「正直、かなりヤバいんじゃないかと、おれも思う」彼は慎重に言葉を選んだ。「もしどこかでしくじってネタが割れるようなことにでもなったら、ダブルで相当な仕返しを喰らう。下手したら殺されるぜ」
アキはいったんユーイチにうなずいてみせ、次にタケシとサトルに視線を返した。
「おれは、試す価値はあると思うぜ」サトルが反論した。「確かに危険なのは分かる。ただ、指をくわえて見ててもよ、最悪、金も奪われ商売も上がったりの状況になるよりは、どちらか一方でも確実に残るようにしといたほうがいいんじゃないか? もしうまくいけば両方とも残るんだしよ」
「おれもサトルに賛成だ」遠慮がちにタケシも口を挟む。「二人組が絡んでくる原因を作ったのはこのおれだから、あまり偉そうなことはいえないが、ただ黙って見ているだけじゃ後手後手にまわっていくだけだ。計画を実行する時は、おれが一番危険な役目を引き受ける」
メンバーの意見は、消極派と積極派に割れた。もともとの考え方がそうであるというよりは、立場がそうさせるのだろうと、アキは感じた。
そもそもの発端に責任を感じているのが、タケシとサトルだった。騒ぎに引き摺られているだけのユーイチやナオと違い、現状を打開しようという気持ちが、少なからずある。
アキはちらりとカオルを見た。カオルはかすかにうなずいてみせる。
「危険なのは、十分おれも分かっているつもりだ」アキはユーイチとナオを見ながら言った。「だから、無理にとは言わない」
途端にユーイチが慌て出した。
「おいおい、おれはただ冷静に状況を分析しただけだ。なにも、参加しないとは言ってないぜ」そう、口を尖らせる。「ビビってるわけじゃねぇんだ。なあ、ナオ」
ナオも不満を口にする。
「そうだぜ。だからって仲間外れってのは、ねえだろうよ」
結局は、自分たちからアキの罠に飛び込んできた。二人はそれが、あらかじめ落としどころを考えていたアキの手だとは気づかない。
「じゃあ、いいんだな?」
アキは念を押す。
「ああ」
「もちろん」
二人はむっとしながらも、そう答えざるを得ない。
笑いを堪えているカオルを目でおさえ、アキは時計を覗き込んだ。午後二時だった。
「もうあまり時間がない。前段の役割を決めてゆく。まずおれとカオルだが、例のボストンバッグの中に詰める、大量の書類を用意する。今までのファイトパーティの収支結果《バランスシート》だ。一回ごとに作ってあるものを全部打ち出し、それにダミーの顧客名簿を付ける作業をやってゆく。それだけで、B4判数百枚にはなるはずだ。ガサも重さも、ボストンバッグに入れて歩けば、ちょうどいい感じに見えるはずだ。黒木たちへの時間稼ぎにもなる。書類の上に、百万の金の束を載せておく。作業の間に、おれが黒木に電話を入れる」
判で押したように、全員がうなずく。
「次にタケシとサトル。麻川組に敵対する暴力団の、情報を取ってこい。道玄坂二丁目と円山町があいつらのシマだ。だからその地区に隣接する、道玄坂一丁目、センター街。ここを仕切っている暴力団を調べるんだ。足を棒にして飲食店をまわれば、名前ぐらいは聞き出せるはずだ。ただし、それとなくだぞ。名前が分かり次第、連絡を入れろ。で、ここに戻って来い」
「分かった」
「ユーイチ、ナオ。おまえらは、まずハンズでメジャーと角材、それと鋸を揃えて光栄商事のビルへ持っていくんだ。角材はなるべく太くて、二メートル以上のものだ。四階と三階の廊下の間取りは同一規格だった。だから採寸するのは、三階の廊下でいい。角材を加工して仕込みの準備ができたら、それを四階給湯室のカーテンレールの陰に隠し、ここに戻って来い。四階の連中には見つからないよう、一方が実行役、片方が見張り役につけ。それとユーイチは、並行して単車の手配をしろ」
二人は首を縦に振った。だが、タケシが口を挟んできた。
「なあ、アキ、今の話だと、どっちかって言うとユーイチたちのほうが危険な下仕事だ。おれとサトルの仕事と、入れ替えたほうがいいんじゃないか?」
アキは首を振った。
「万が一黒木とリュウイチがおまえらを見つければ、黙って帰してはくれない。これ幸いとその場で縛り上げ、金曜日の件を吐かせようとする。そうなると、例の二人組への芝居が組めない。おまえら自身が囮《おとり》だからな。その点、ユーイチとナオなら、金曜の件に直接の関係はない。見つかった時には、おれからの伝言を頼まれたと言い、金曜の件は知らないと突っぱねれば、切り抜けられる可能性が高い」
そこまで一気に話して、アキはユーイチとナオを見た。
「すまないが、本番でおれとタケシ、サトルが重要な役割を負うためだ。分かってくれ」
この場合の重要な、とは、危険な、と同義だ。ユーイチとナオはうなずいた。
アキはあらためて全員に向き直った。
「分かっているだろうが、レッド・クロスの開店は午後七時だ。二人組は、おそらく開店前の、人気のない時間帯を狙ってやってくる。たぶん一時間前までにはスタンバイして、マスターが店を開けるのをどこからか確認した後、店内に乗り込んでくるに違いない。だからおれたちのほうは、遅くとも五時半までには、レッド・クロスの周辺に網を張る。各五人ずつ、メンバーのピックアップだ。配置図と本番の打ち合わせは、もう一度ここに集まってからするつもりだ。そうなると、再集合の時間は遅くても五時。あと三時間が正味だ。キツいが、それまでに今言った仕事を終わらせてくれ。以上だ」
四人がうなずいた。アキはあらかじめ用意しておいた封筒を、タケシとサトル、ナオとユーイチにそれぞれ手渡した。
「中に、十万ずつ入れてある。タケシとサトルはそれを聞き込みの鼻薬《はなぐすり》に使え。ユーイチとナオは、資材代だ」
四人はその封筒を手渡されると、あわただしく部屋を出ていった。
ガランとした部屋の中、アキはカオルを振り返った。立ち上げたパソコンを見つめたまま、カオルは口を開いた。
「今までのパーティ回数は七十二回だ」カオルは言った。「それぞれに収支結果の明細が二枚ずつある。だから、これで百五十枚近くだ。この書類に、さらに各回三枚の顧客名簿を付ける。むろんダミーだが、併せてこれで三百六十枚だ。B4判だと、スペース的には一万円札が八枚と半分。計算すると、三千六十万の現金のカサになる。これに、見せ金の百万を上に載せれば、大体三千二百万。少なくともバッグの外見はバッチリだ」
それで、ようやくカオルが一万円札とB4の紙を見比べていたわけが分かった。
「ご苦労なことだ」
「物事は、正確なほうがいい」カオルは笑って言った。「収支結果はすでにあるから打ち出すだけだ。今からそれに添付する顧客名簿のダミーを作る。万が一の可能性でも、パーティの参加者に迷惑はかけられないからな。正規の名簿から携帯の電話番号とメールアドレスの一桁だけをランダムに変えていく。それを九枚作り、三回おきに使いまわしする」
「しかし、バレないか?」
「やつらが熱心に見るのは、収支表だけだ。名簿まで目を通し、見比べることはしない」そしてまたニコリとした。「それに計画だと、収支表もそんなに長く眺める時間はないんじゃないか?」
「まあ、そうだ」
「このプリンターの排出速度は、モノクロで毎分二十枚だ。単純計算だと、十五分で三百枚はいけるが、収支表と名簿に応じてプリントアウトのセッティングを数回変え、その都度《つど》の紙の補充もあるから、多少時間はかかる。それでも打ち出す段階までいけば、五十分もあれば充分だろう」
アキは時計を見た。二時二十分。
「ダミーは、どれくらいであがる?」
「三時だな」少し考えてカオルは返す。「プリントアウトして三時五十分。それから書類をそれぞれ七十二回分にわけ、ホッチキス止めし終わるまで、小一時間。五時前には、確実に終わるはずだ」
「分かった」
アキはテーブルの上から紙を一枚取った。そのまま床に置くと、サインペンでレッド・クロス前の簡単な見取り図を書き始めた。
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午後三時に電話が鳴った時、桃井は身支度を整えているところだった。歯を磨き、洗面所の鏡を睨みながら髭を剃っていた桃井は、ぶつぶつ言いながらリビングへと戻った。まだ剃っていない顔の右半分には、塗りたくったシェービングクリームが、べったりと付いている。左手で受話器を持ち上げ、剃り跡も鮮やかな左半分の顎に押し付ける。
「はい、もしもし」
「おれだ」柿沢の声だった。「打ち合わせの内容に、ちょっと変更があって電話した」
「今、髭を剃っている途中なんだ」
「すぐに、終わる」
桃井はため息をついた。
「で、なんだよ?」
「おれは今日、電車で行く。だから原宿の駅前で拾ってくれ」
「それは別にかまわないが、でも、どうしてだ」
「今日の予定を考えると、クルマ一台に乗り合わせていたほうが、都合がいい」
その言葉の意味を、桃井はちょっと考えた。
「つまり、拉致もありうるということか?」
「そうだ」桃井は答えた。「もし、店の人間から居所を聞き出せれば、その足でそいつらのアジトに乗り込む。すぐに金が手に入らなかった場合、メンバーの一人をクルマに押し込み、あとで取引の道具にすることもできる。大勢で固まっていることも考えられる。その時は夕べのように拳だけというわけにもいくまい。脅しのためにも、銃を持ってゆく」
「実弾入りでか?」
「万が一ということもある」
桃井は再び息をついた。
「気が、進まねぇなあ」
「気が進まないのはおまえの勝手だ」柿沢はにべもない。「去年のベレッタが、二挺とも手付かずで残っているはずだ。それを使う。いつもどおり、インプレッサ後部ドアの内張りの中に、仕込んでおいてくれ」
「やっておく」桃井は答えた。「で、何時に原宿だ?」
「五時四十分。そうすれば六時前にはあの店に着ける。ちょうど開店準備の頃だろう」
「分かった」
桃井は受話器を置くと、洗面所に戻った。浮かぬ顔のまま、残り半分の髭を剃り始めた。剃り終えると顔を洗い、タオルで雫を拭き取った。
「………」
隣のバスルームのドアを開けた。浴槽の縁に足をかけ、その上に立ち上がると、天井隅の点検孔に両手を伸ばし、その蓋を横にずらす。片手を穴の中に突っ込み、奥からビニール袋に入った二挺のベレッタを引き摺り出した。ビニールを洗面所のゴミ箱に捨て、両手に銃を掴んでリビングに引き返す。
桃井は生来きれい好きだった。メカ時代の整理癖が、それに輪をかけた。1LDKで広さ四十平米のマンション。十畳のリビングも、その隣の六畳の寝室も、いつもきちんと整頓されている。もともと物欲はあまりないほうなので、家具類もほとんどない。リビングにはAVセットと、中央に丸テーブル、隣に革張りのソファ。寝室には押入れに入っている布団と、枕元のライト。水まわり部分を除くと、およそ家具と言えるものは、それだけだ。持ち主の目から室内を眺めても、すっきりと見える。不用意なものを置き忘れる心配がない。仕事絡みのビルの見取り図や、計画段階で組んだタイムスケジュールが広げっぱなしになっていると、この部屋の中では異様に目立つのだ。
ただ、部屋を人が訪れることはほとんどなかった。この仕事を始めてからは、学生時代やメカニック時代の友人とも、次第に疎遠になっていった。会えば必ず仕事の話が出る。心底腹を割って話せないせいだった。その時々に付き合っている女でさえ、自宅に呼んだことは一度もない。すべては、万が一の用心のためだ。
桃井は都市銀行に七つ、近隣の第一地銀に五つ、口座を持っている。それぞれに約一千万ずつ、定期預金として積んである。年に一、二回、数千万単位の金が仕事で転がり込んでくる。工場をやっていた頃と違い、金の心配は全くなかった。
それらの金はすべて、この孤独に馴染むことによって手にしたのだ。そう思うことで、自分を納得させていた。
今まで玄関に靴を脱いだことがある人間は、柿沢と折田のみ。それもこの五年間で、二回きりだった。
丸テーブルの前にコトリと拳銃を置き、じっと見つめた。ブローバック・システムの、ベレッタM8045・クーガーF。この拳銃の、正式名称。全長は、百八十二ミリ。アメリカ治安当局にも正式採用されているベレッタ92FSというハンドガンがある。このM8045は、その名作と謳《うた》われたFS型の流れを継承したコンパクトモデルであり、殺傷力・命中精度ともにFSと互角の性能を持つ。
念のため、銃把からマガジンを|引き出《ポツプアツプ》し、実弾の装填状態を確認する。M8045のマガジン容量は、四五口径の実弾が八発だった。つまり、二挺で十六発がその発砲限界となる。いつもはそんなことを考えない桃井も、今日はなんとなくそう思った。二挺のマガジンを確認し終え、再び遊底にガシャリとセットした。
次に、クローゼットの奥からA4サイズの小さなアタッシェケースを取り出すと、拳銃をその中にしまった。再びテーブルから立ち上がり、カーテンを閉めに窓際に寄っていった。その袖を掴みかけ、ふと手を止めて、ベランダから見える眼下の景色を見下ろした。
桃井はよくこのベランダから、町の風景を見渡す。風呂上がりにビールを飲むときや、寝起きにタバコを吸うときなどだ。
時折、特に夕陽の照りつけるベランダから地上を眺めていると、胸が締め付けられるようになる瞬間がある。
買い物籠をぶら下げて子供の手を引く主婦や、道を行き交うサラリーマンの姿をぼんやりと眺めている時、自分が宇宙の涯てから、彼らの日常を眺めているような錯覚に陥る。自分ひとりだけが全世界から取り残されたような、切なさを感じる。
あちら側とこちら側の世界。その境界線《ボーダー》を未ださまよっている自分を感じていた。根本的な解決にならないのは百も承知で、女と遊びまわる。本気になれないクルマとの付き合いが次々と代わってゆくように、決して本音で付き合うことのない擬似恋愛に、ひと時でもその寂しさを紛らわそうとしている自分がいる。未練だった。
仲間に加わった年、柿沢に伴われてオアフ島に行った。ホノルル市内にホテルを取り、次の日から郊外の射撃場で毎日練習をさせられた。受付で柿沢からあてがわれたのは、いきなり四五口径のコルト・ガバメントだった。火力の強さもあり、最初の頃は発砲するたびに銃身が跳ね上がり、ろくに的にも当たらなかった。
「力をこめるのは、引き金を引く一瞬だけでいい」柿沢は言った。「それまでは肩の力を抜いておく。柔らかく全身を保て。反動に対するバランスを考え、立ち方に遊びを持たせておけ。野球やテニスで球を打ち返す時と、同じ要領だ」
言われた通りにすると、弾痕が次第に的に近づいてきた。
「そう。その、要領だ」
必死に銃を撃ちながら、桃井はふと思った。この男にも野球をして遊んだ時代があったのだろうか、と。
実弾二百発を打つと、一日の練習は終わりとなった。時間にして、一時間半ちょっと。柿沢はそれ以上やらせようとしなかった。初心者があまり撃ちすぎると、軽い腱鞘炎《けんしようえん》を起こすからだ。午後は、柿沢と二人でマスタングのコンバーティブルを借りて島内をドライブし、ホテルのプールでのんびりする。夜はバーで酒を飲んだ。桃井は二十九歳にして、初めて海外旅行というものを経験した。それを、旅行と言えるならだが。
三日目の終わりには、銃の扱いにも完全に慣れ、ほとんどの弾が的の中央を射抜くようになった。四日目。柿沢は桃井に片手撃ちを命じた。銃把を両手で支えていた時とは勝手が違い、再び桃井は的を外し始めた。柿沢が言った。
「銃身と、手首から肘のラインを、上下にも左右にも一直線に保つんだ。肘を曲げて撃つ時は肘で、曲げないで撃つ時は肩で、反動を逃がすようにしろ」
その指示に従った。練習が終わる頃には、的の中央をとらえ始めた。五日目には、両手撃ちと片手撃ちを、十発ずつ交互に繰り返した。いずれの場合も、弾痕は的の中央近くに集中していた。まずまずの結果に、柿沢はかすかな笑みを浮かべた。
それで、桃井の海外研修は終わりだった。
それからの五年間というもの、桃井と柿沢と折田の三人は、毎年狩猟解禁の季節になると、茨城や栃木の山中奥深くに雉《きじ》撃ちに行くのが恒例となっていた。むろん猟銃で野鳥も撃つのだが、それと同時に、人里離れた森の奥でこっそりと拳銃の練習も積むのだ。勘を鈍らせないためだった。
桃井はジーンズを穿き、黒いTシャツの上に、麻のジャケットを羽織った。
幸いにも、桃井はまだ人を殺したことはない。拳銃を人に向けて発砲したことすら、なかった。過去を振り返っても、万が一の場合も考え合わせたうえで、プランを入念に練り上げてから実行に移るので、実際に銃を使用するような機会はなかったのだ。
だから、つい先日のカジノ襲撃の時も、桃井はわりと気楽に拳銃を忍ばせていた。いつの間にか、銃は一種の保険に近い存在になっていた。
だが、と桃井は思う。今回はどうも嫌な予感がしている。予測がつかない現場に銃を持っていくのは、あまり気が進まない。実際に使うことになりはしないかという懸念が、頭をもたげるのだ。
最悪の場合は殺人を犯してしまう。後戻りできない一線を、越えてしまう。向こう側の世界には永久に戻れない境界線を、越えてしまうのだ。
おそらく、それからの自分の目に映る世界は、今までと違ってくる。
例えば、今の柿沢から受ける印象のように。例えば以前の折田に見られた視線のように。
そうなってしまう自分が怖かった。
桃井はアタッシェケースを手に取ると、ジャケットに財布を入れ、玄関に向かった。靴箱の上のキーを取り、玄関を出るときに腕時計を見た。四時少し前。山手通りがどんなに混んでいたとしても、五時半過ぎに原宿なら、充分に間に合う時間だった。
いまさら、後戻りできるはずもない。
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午後四時十五分。レッド・クロス前の配置図は、すでに隅のデスク上に置いてある。プリントアウトを予定通りの時間に済ませたカオルは、分類に追われていた。床一杯にダミーの名簿を日付順に並べてゆき、それぞれの上に収支表を重ねてゆく。そのカオルの作業のため、アキはベッドの上に座っていた。
シーツの上に渋谷区のタウンページを広げ、光栄商事直営の風俗店の名前を探している。メンバーから仕入れた情報によると、ピンク・ワールドという、主に中南米からの金髪を揃えた店だった。しかし業種別での引き方が分からず、手間取っていた。個室付浴場の項目で引いたが、記載されていない。次にソープランドで引く。個室付浴場へ、となっている。当たり前だった。時間との戦いに焦っている自分に気づき、思わず苦笑する。
ふと思いつき、個室マッサージで引いた。ビンゴ。住所を確認し、電話番号だけ素早く書き留める。
電話が鳴った。アキはベッド脇の子機を掴み取ると、通話ボタンを押した。
「もしもし」
タケシだった。道玄坂一丁目とセンター街界隈を仕切っている、それぞれの暴力団が分かったという連絡だった。
「道玄坂一丁目は、タカ・エンタープライズとかいう、光栄商事と同じ麻川組傘下の組織だったぜ。だから、これはちょっと使えない。センター街のほうは、足立興産という組織がその大半のエリアを仕切ってるって話だ。こっちは、全関東青龍会の配下。青龍会は明治通り周辺をメインに神宮前・原宿界隈にまで勢力を張っている。恵比寿からテリトリーがひろがる麻川組とは、渋谷のど真ん中──ちょうど文化村通りを挟んで接していることになるみたいだ。使うなら、こっちのほうだろ」
「分かった」アキは答えた。「メンバーのピックアップは終わったのか」
「おれのほうは、五時にレッド・クロス前で集合をかけてある」
「サトルは?」
「間に合わせると言っていた」
一つ目の問題はクリアできた。アキは戻り時間を聞き、電話を切った。
「タケシたち、どうだった?」
資料をホッチキスで留めながらカオルがきいてくる。
「うまく、聞き出した」アキが答える。「すぐに戻ってくる」
再び電話が鳴った。アキはちらりと時計に目をやりながら、ベッドの上に転がした子機を耳に当てる。四時二十分。今度はユーイチからだった。
「仕込みは、終わった」開口一番、ユーイチはそう言った。「なんとか四階のやつらにも見咎められずに済んだ。今からそっちに向かおうと思っている」
「採寸した二箇所の長さは?」
「廊下の幅は、百九十五センチ。それと事務所のドアの下は、ええと何て言うんだっけ?」
「靴擦《くつず》り」
「そう、その靴擦りの高さは、三ミリだった」
「角材の長さと、太さは?」
「長さは、百九十五センチプラス五ミリで切断した。アソビが出る時のことを思って、五ミリ長くした。ちょっと力さえ加えれば、きっちりと嵌め込めるはずだ。断面の大きさは、一辺が七センチ四方。売っている中では一番太いやつだった」
アキはその角材のイメージを頭の中で描いた。大丈夫そうだったが、念のため確認した。
「鋸《のこぎり》で切っている時、しなったりしなかったか?」
「頑丈なもんだ。裏道でこっそり加工したんだが、足で押さえたまま鋸を引いても、ビクともしなかった」
「角材はどこに隠してきた?」
「言われたとおり、給湯室だ。入口の脇のカーテンレールの陰に立てかけてきた」
「上出来だ」
アキは思わずつぶやいた。ユーイチに戻り時間を確認し、電話を切った。
「二つ目も、クリアか?」
床の書類から顔を上げて聞いたカオルに、アキは受話器を持ったままうなずいてみせた。
「あとは、仕上げだ」
「だな」
「じゃあ、やるぞ」
「何を、いまさら」アキの念押しに、カオルはあっさりと笑った。「この方法しかないと言ったのは、おまえだろう?」
アキも曖昧に笑った。軽く深呼吸すると、光栄商事の電話番号をプッシュし始めた。束の間、カオルも手を休め、アキをじっと見つめた。受話口でコール音が響く。カオルを黙って見返したまま、コール音を聞いていた。
スリーコールで先方が出た。
「はい、光栄商事」
聞き覚えのある若い声だった。
「リュウイチか」アキは言った。「昼前は世話になったな。アキだ」
一瞬言葉に詰まった相手の様子が、手にとるように分かった。
「てめぇ、この野郎!」直後、リュウイチはまくし立て始めた。「よくもさっきはおれに赤っ恥かかせてくれたな! え、おい!」
「ギャンギャン吼えるな」アキは言った。「耳が、痛い」
「耳ぐらいなんだ、コラッ。落とし前は必ずつけてやるからな、タダで済むと思うなよ!」
アキは笑った。
「それはこっちのセリフだ」平静に返した。「あることないこと、黒木に吹き込みやがって」
「偉そうに、呼び捨てかよ」
「ガード料の件で、電話した」リュウイチの言葉を無視して、アキは誘導を開始した。「考えてみたが、おまえらと関係を持つのも他のストリートチームへのハッタリ上、そんなに悪いことじゃない」
「……なに?」
案の定、戸惑ったような相手の声が聞こえた。だが、あまりにも性急になびき過ぎると、かえって疑念を抱かれるおそれもある。
「ただし、月四十万のガード料は、いくらなんでも法外だ。金額がもう少しなんとかなるのなら、こっちとしては考えてもいい」
「………」
「金額の掛け合いだ。おまえじゃ話にならんだろ? 代われよ、黒木に」
「黒木さん、だ」しぶしぶリュウイチは態度を軟化させる。「言葉に、気をつけろ」
もう一度、鼻で笑った。
「早く、代われよ」
舌打ちが聞こえたあと、受話口から保留音が流れ始めた。聞き覚えのあるメロディ──思い出した。『恋は水色』だった。ヤクザらしからぬ保留音に、思わず苦笑する。
「あの馬鹿、まだ鶏冠《とさか》にきてたか?」
カオルの言葉に、アキはニヤリとうなずいた。メロディの向こうで会話のやりとりが続いていたのだろう、しばらく待たされた後、黒木が出た。
「ずいぶんと早い対応だな、え?」そう切り出した黒木の含み笑いが目に浮かんだ。「殊勝な心がけだ」
「何も全面的にあんたの提案を受け入れるとは言っていない」アキは答えた。「リュウイチから、聞かなかったか?」
「簡単にはな」そう言って、黒木は微かに恫喝の気配を漂わせる。「だがな、こっちも商売だ。あんまり値切ると、あとあとおまえらのためにはならんぜ」
アキは腹の中で笑った。なにを言いやがる、と思った。喰らい付いたら骨までしゃぶるくせしやがって──。だがそんな気持ちはおくびにも出さず、話を進めた。
「だから、そのために交渉したい。お互いの妥協できるポイントを話し合いたい」
「なるほどな」黒木は余裕のポーズを崩さない。「で、おまえらの妥協点とやらを聞かせてもらおうか」
「電話じゃ話しにくいな」アキはかわした。「カジノバーの誤解もある。その件も含め、あらためて膝を突き合わせて相談したい」
一瞬、電話口の向こうに間があった。
「──図に乗るなよ、小僧」太く割れた声音が、再びその本性を剥き出しにする。「さっきも言ったが、その気になればおまえらを捻り潰すぐらい、わけはねぇんだぞ。忘れるな」
「だからお互い、満足いくまで話したいと言っている」今度はわざと懇願するような声を出した。「今、これまでのファイトパーティの実績を打ち出している。一回ごとに収支の内訳と名簿が付いているやつが、計七十二回分。全部で三百枚以上の資料だ。それを見れば、売上げから粗利から全部分かるようになっている。一度それを見てもらってから、妥協点を決めたほうがいいんじゃないのか」
「うむ……」
「取引をする以上、おれたちはそこまで腹を割るつもりだ。だったらあんたも、もう一度おれたちに付き合うぐらい、無駄骨じゃないと思うけどね」
「口の、減らねぇガキだ」そうつぶやいた時には、黒木の声音は平静に戻っていた。「で、その資料はいつ出来上がる?」
ここからが、一番重要なポイントだった。アキは慎重に言葉を選んだ。
「今日の夕方までには出来上がる。その時点で、あんたと会いたい」
「だいたい、何時ごろだ?」
「おそらく五時から六時の間だ。出来上がったら、そっちにあらためて電話を入れる。今、おれのジープが出せない。かさばる荷物もある。レッド・クロスの前で落ち合ってもらえたら一緒にあんたのところに行って、検討する。これでどうだ?」
「こっちとしては、二度手間だな……」迎えに行くのが、ということだ。「だが、おまえの言うところの取引だ。それくらいは都合を聞いてやる」
一度はこじれそうになった儲け話が、再び相手から転がり込んできたのだ。断るはずはないと思ってはいたが、それでもアキは内心ほっとした。この、落ち合う場所だけは譲れなかった。
「準備ができ次第、こっちから電話する。六時前後を予定しておいてくれ」
「予定は、空けておく」
電話を切り、カオルを見た。
「仕込みは、うまくいったか?」
カオルの言葉にアキはうなずき、時計を見た。四時半を回っていた。床の上に散らばっていた書類は、いつの間にか一つに積み重ねられていた。
「準備は、完了だな」
数分後、タケシとサトルが帰ってきた。やや遅れ、ユーイチとナオも玄関に姿を現す。今度はカオルも含めた全員が車座になった。アキは車座の中央に、先ほどの簡単な配置図を置いた。
「よく見てくれ。これがレッド・クロスで、その前のT字路が、これだ。このT字路のレッド・クロス側、北側半分を、タケシのメンバーで見てもらう。南側の左半分は、ナオの担当だ。その反対側の右半分は、サトルに頼む。界隈の飲食店──特にレッド・クロスの表を見通せる店に入りこんで、客を徹底的にマークするんだ。ユーイチ、おまえのメンバーは、路上担当だ。メンバーに三叉路を行きつ戻りつさせ、通行人と乗り物をチェックするんだ。その間、ユーイチとナオはそれぞれのメンバーに、タケシとサトルはおれに付いていろ。カオルだけは、別行動だ。おれたちより先まわりして、二丁目通りの向かい側にあるビルから、組事務所の監視にあたる」
アキを除いた全員がうなずく。
「もう一度言うが、ターゲットは必ず現れるはずだ。きっちりとした恰好じゃ立ちまわりはできないから、たぶん二人ともラフな服装をしている。二人は必ずどこからかレッド・クロスを監視して、マスターらしき人物が開店準備に来るのをじっと待ち構えているはずだ。そんな奇妙な行動をしている野郎がいれば、かなり目立つし、そいつらから店が見える以上、その店周辺に待機しているおれたちに発見できないはずはない。
だから、手分けして見つける。それらしき人間を発見したメンバーがいたら、まずおまえたちがその配下から連絡をもらう。おれの携帯に連絡を入れてくれ。で、おれが他のリーダー格に連絡をまわす。例えば、ナオの配下が発見したとしたら、ナオはその連絡を受けて、おれに電話を入れる。おれが一度そいつらの目撃情報を確認する。間違いなさそうだと思えば、おれがカオルを除いたおまえら三人に連絡を入れる。連絡を受けたら、配下の人間をレッド・クロスの前に集合させろ。ナオとユーイチはそのメンバーと、おれとタケシとサトルは少し遅れて合流する」
ここまで続けて、ようやくアキは一息ついた。
「そこまでが、同一行動だ。後は、その二人組の動き出しに合わせて、各自が分担どおり動いてもらえば、それでいい」
サトルがちらりとアキを見上げた。
「あとは状況がどう転ぶか、だな?」
「やつらは間違いなく餌に喰いついてくる。おれを尾行して組事務所まで来る。その後の判断はやつら次第だ。すぐに襲ってこないようなら、おれはそのまま黒木との話を引き伸ばし、結論を後日に持ち越す。その場合は、やつらが再び現れるまで、おれたちは昼夜交代で見張りを続ける。それだけの話だ」
五分後、ミーティングは終わり、六人は現地へと向かった。
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午後五時三十分を少しまわった。アキたちは道玄坂に面したマクドナルドの二階席にいた。マクドナルドの脇にある坂道に入り、ホテル街の路地に沿って進んでいけば、百メートルほどでレッド・クロスのあるT字路に着く。歩いても二分とかからない場所で、メンバーから連絡が入るのを待っていた。
ファーストフード店特有の小さなテーブルの下には、書類と百万を詰めたボストンバッグが転がっている。中央に小さなロゴの入った、何の変哲もない黒いボストンバッグだが、先週、タケシとサトルが持ってきた時には、その中に三千二百万の現金が納まっていたものだ。
アキは今日初めての食事であるダブルバーガーの最後の一片を、コークとともに口に押し込んだ。ファーストフードを口にしたのはほぼ一年振りだった。カオルの顔を思い出した。ハンバーガーに限らずこの手の食べ物が大嫌いなカオルは、外食するにしてもいちいち時間がかかる。おそらく今晩遅く、この件にけりがつくまで、飯を食う機会はまずないだろう。そう思うと、おかしくなった。
ふと気づくと、目の前の二人──タケシとサトルはハンバーガーにほとんど手をつけていなかった。
「詰め込んでおいたほうが、いいぞ」アキは言った。「長引くと、腹が減る」
サトルがアキを見上げ、珍しく気弱な笑みを見せた。
「ちょっと緊張してるみたいだ。あまり、食欲がない」
それはタケシにしても同様らしく、テーブルの上で冷えてゆくポテトをぼんやりと見つめている。
「さっきユーイチも言っていたよな? もし最悪のパターンになったら、おれたちは殺されかねないって。そう思うと、なんだか切なくてさ」
そう言って、再びサトルは口籠ってしまう。タケシも黙り込んだままだ。実行を目前に控えて、明らかに腰が引けている。
「考えても仕方がないことは考えるな」アキは言った。「ためらいが出る。動きが鈍くなるぞ」
「そりゃ、そうだけど……」
なおも辛気臭い二人の様子に、不意にアキは笑った。
「おい、おい。何をいまさら。どうせおれたちは死ぬんだぜ」
その言葉に、二人は仰天する。
「勘違いするな。今すぐってことじゃない」
サトルは、なにを言い出すんだという顔で、アキを見つめている。
「後生大事に長生きしたところで、どうせ五十年後か六十年後にはヨボヨボになって死ぬ。確実に分かっているのは、それだけだってことだ」
無機質な室内に、女子高生たちの嬌声が響き渡っている。紙とプラスチックの集合体に包まれた食物を、喋りつづけながら絶えず口元に運んでいる。
「生まれてきたことに、もともと意味なんかない。自分を自分だと意識する心が、勘違いさせるだけだ。死ねば、そんな自意識も消える。やがては今おれたちの目を通して見えているこの世界も、灰になり、土に戻る」
そう言って、また少し笑った。
「着地点は誰でも同じだ。ただ早いか遅いかだけだ。自分を必要以上に特別だと、思わないことだ。そうすりゃ、少しは気楽にいける」
タケシが顔を上げた。不思議そうな目をしていた。
「……アキ、おまえってさ、やっぱり、おれなんかとは見ているところがぜんぜん違うんだよな」
「馬鹿言うな」アキは返した。「事実を言っているだけだ。その事実に対処する方法を言っている。それだけだ」
「いや」タケシはぼりぼりと金髪を掻いた。「事実かも知れない。でもおれには、そんなふうに思えたことは、生まれてこのかた一度もねぇよ。たぶんアタマが悪いんだろう。だから目に映るものしか感じられない。だから、ケンカとか、クルマとか、女にしか興味がない」
アキはただ肩をすくめただけだった。
五時四十分に原宿駅で落ち合った柿沢と桃井は、神宮橋を代々木方面に渡ると、すぐの交差点を左折し、代々木室内競技場を右手に見ながら宇田川町方面へと南下していった。明治通りをそのまま下って、ラッシュアワーでごった返す渋谷駅周辺のスクランブル交差点を迂回するためだ。どちらのルートを通っても、距離はほぼ同じだった。
神南の三叉路を左へ折れ、区役所方面へと進む。
渋谷区役所の交差点でクルマはスピードを緩めた。信号は赤。
それまで無言だった柿沢が言った。
「マガジンの確認は、してきたか?」
「ああ」
桃井は一言答え、信号が青になるとクルマを発進させた。
交差点を左折し百メートルほど進むと、道路はゆっくりと下り坂になる。右手の植え込みの並木を貫いて、アスファルトの上に夕陽がこぼれ出している。NHK放送センター下の交差点まで、下り坂は黒と金色の縞模様に映し出されている。
センター下の交差点を右に曲がると、途端に強烈な西日が車内に差し込んできた。桃井は思わず目を細め、つぶやいた。
「まぶしいな」
「ああ」
再び会話は途切れた。
井ノ頭通りを二百メートルほど北西に進み、NHK放送センター西門前の信号を左手の路地にまわりこみ、さらにニューワシントンホテルの角を右折して、神山町の交差点に出る。そのまま通りを南下し、神山町東の交差点を観世能楽堂方面へと右折する。一方通行連続のため、NHK放送センター下から神山町東の交差点までをぐるりとまわりこんだのだ。
「しかし、一方通行の多い街だ」
観世能楽堂へと続く長い坂道を上りながら、桃井は再び口を開いた。が、柿沢は黙っていた。
能楽堂をピークに、路地は次第に下り坂になる。昨夜も通った道だ。松濤の高級住宅街の中を下りてゆき、大通りに突き当たったところが、郵便局前の交差点だった。
信号待ちで、桃井はダッシュボードの時計を見た。五時五十分。視線を上げると、車の行き交う大通りの向こうに、道玄坂二丁目と円山町の境界を抜ける路地が見え隠れしている。レッド・クロスは、その路地の奥にある。
「どうする?」桃井は尋ねた。「夕べの店の前まであと二百メートルもないが、このまま行っちまって、いいんだよな?」
拳銃を入れているケースをあらかじめ出しておかなくてもいいのか? ということだった。
柿沢はかすかにうなずいた。
「まだ、早い」
信号が青になり、交差点を渡った。両側にラブホテルの看板が連なる小路に、ゆっくりとインプレッサを乗り入れる。ところどころに水を打った道路に、手をつないだ若いカップルの姿がちらほらと見える。
時々桃井は思う。手をつないでラブホテル街をうろつくカップルが、どうしようもなくみっともなく見えるのは、何故なのだろうと。別に彼らは悪いことをしているわけではない。なのに、その姿を見るだけで無性に腹が立つ瞬間がある。
一つ目の十字路を過ぎたあたりから、次第に通行量が増えてきた。ゲームセンターと、その斜め向かいのコンビニにたむろしている若者たちが、無関心に通りを見やっている。さらにインプレッサをスロウダウンさせ、五十メートルほど進んだところで、路肩に寄せた。フロントガラスから目と鼻の先に、この界隈には場違いなオフィスビルが一棟建っており、その一階の脇に、昨夜の店の看板が見えている。助手席の柿沢は、シートベルトの金具を外した。
「すぐに、戻る」そう言ってドアを開けた。「様子を見てくる」
柿沢はクルマを降り立ち、店に向かって歩き始めた。桃井はセブンスターに火をつけ、煙を吐き出しながらその様子を眺めていた。
六時五分前に、井草はその路地に着いた。
光栄商事の入ったビルと通りを挟んだ斜め向かい、似たような雑居ビルの一階に、喫茶店が入っている。
井草は店のドアを開け、店内に入った。窓際奥に座って、通りをじっと眺めている男に、歩み寄っていった。
テーブルの上には、握りつぶされたマイルドセブンの空き箱が数個、転がっている。吸殻の溜まった灰皿と、空になったアイスコーヒーのグラスが二つ、食い散らしたスパゲッティの皿が置かれたままだ。
まだ二十代前半のその若衆は、井草がやってきたのに気づくと、うんざりしたように笑いかけてきた。朝からぶっ続けの見張りで、相当神経が参っているようだ。
「どうだった、昼間は?」井草は男の向かいに腰を下ろしながら、口を開いた。「何か、動きはあったか?」
「特には」疲れきった様子で、言葉少なに若衆は答えた。「九時半に、黒木と例の小僧がメルセデスで出かけましたが、十一時前には戻ってきました。連れてきた人間も、嵩張ってそうな荷物もありませんでした。黒木たちは、それっきり外出してません」
なるほどその言葉の通り、光栄商事のビルの前には、黒いS600が停車したままになっている。
「ほかに、気になる出入りは?」
若衆は懐から手帳を取り出した。頁をめくり、書き付けを確認する。
「ええと……組員とおぼしき連中と、その階下の事務員風の人間以外は、まあ、パラ、パラですね。昼前に大柄な若造が一人、あのビルに入ったと思ったらしばらくしてすぐ出てきました。黒髪に、Tシャツの上から革ベストを着た若者です。ただ、そいつも、例のペンダントらしきものは付けてませんでした。昼に蕎麦屋の出前持ちが一人。三時過ぎに、若造二人組が現れてビルの中に入り、しばらくしてまた出てきました。十五分ぐらいしてそのうちの一人がまた現れました。長い角材を一本持って、再びビルに入るとすぐに出てきました。この二人組もペンダントはしてないし、金髪でも坊主頭でもなかったですから、まず関係ないでしょう」
「──そうか」井草はうなずいた。「ご苦労だったね。どうもありがとう」
六時ちょうどに、若衆は店を去った。
昨日、黒木の部屋に仕掛けた携帯は、事務所を出てからきっかり二時間後に不通になった。電池が切れたのだ。念のため、盗聴器を秋葉原まで行って購入してきた。自分が夜中に忍び込んで盗聴器を追加することも考えたが、その案は久間に却下された。
「あの型のセコムやと、変にいじるとすぐに警報が鳴る」久間は言った。「今、ミナミ本部からセキュリティ解除のプロを呼んどる最中や。そいつが明日には着く。水曜深夜の取り付けで、問題の木曜には間違いなく間に合う。いちいち監視せんでもようなる。用済みの携帯も外させる。それまでの辛抱や」
井草はアイスティーを注文すると、ソファに深く腰かけ、ポケットから三箱のフィリップ・モリスと、傷の痛み止めの錠剤を二粒、取り出した。
昨夜に続く、長期戦のための準備だった。
テーブルの上の携帯が鳴ったのは、午後六時を二分ほどまわった時だった。素早く通話ボタンを押し、受話口を耳に当てるアキの動作を、タケシとサトルの視線が追う。
「ユーイチだ」やや緊張気味に、声音が響く。「オン・エアー・イーストの脇にクルマが停まっている。男の二人組が乗っている。たぶん間違いない」
「どうして、そうだと思う?」
「停まってすぐに、助手席の男がクルマを降りて、こっちにやってきた。背の高い、すらりとした三十代半ばくらいの男だ。人相も、昨日聞いたのによく似ている。そいつ、レッド・クロスの階段を下ったかと思ったら、またすぐ地上に出てきてクルマに戻った。運転席の男はクルマの中に座ったままだからなんともいえないが、その長身の男に関する限り、マスターが来ているかどうか確かめに行ったとしか思えない」
「なるほど」
「それにな、どうもそのクルマ自体も、おかしい」
「どういうふうに?」
「スバルの白いインプレッサなんだが、ちょっと見には、ごく普通のセダンにしか見えない。フロントまわりもすっきりしたもんだし、エンブレムもリアウィングも取っ払ってある。クルマに関心がない奴には分からないかも知れないが、ありゃ間違いなくSTiヴァージョンだぜ」
「なぜ、分かった」
携帯の向こうで、かすかに笑う声が聞こえた。
「音だよ、音。アイドリングしたまま停まっているが、その排気音がな、ゴロゴロいってやがる。カッリカリにチューンしたエンジンに特有のノイズ音だ。おまけにホイールには|40《ヨンマル》の扁平タイヤを噛ませている。そんなクルマをわざわざノーマル仕様のエクステリアに戻して乗る奴なんか、そうそういるもんか」
そうする必要が、あるということだ。
「目立たないための、カモフラージュか」
「だろうな」
「分かった。まず、そのクルマのナンバーを控えろ。それからおまえのメンバーに、レッド・クロス前に集合をかけるんだ。単車は、すぐに出せるようにしてあるな?」
「大丈夫だ」
「三分で、そっちに行く」
電話を切ったアキは、ターゲットが現れたことをタケシとサトルに伝え、それぞれ配下のメンバーに再集合をかけるように指示した。慌てて携帯のボタンをプッシュし始める二人を横目に、ナオの登録番号を押す。
ツーコールで相手が出た。
「ナオか?」アキは言った。「ターゲットが現れた。オン・エアー・イーストの脇の、インプレッサの中の二人組だ。再集合をかけろ。そこまで終わったら、すぐにカオルのところへ向かえ」
「分かった」
電話を切り、再びボタンをプッシュし始める。今度はスリーコールかかった。
「はい、光栄商事」
再びリュウイチの声だった。こんな場合だったが、アキはおかしくなった。
「おまえは、電話番専門か?」思わず、そうおちょくった。「よほど、仕事がないらしいな」
一瞬相手は黙り込んだあと、
「うるせぇ!」声音で分かったのか、そう吼えた。「で、できたのかよ、資料は?」
「おまえに話すことじゃない。代われよ、黒木に」
受話器を叩きつける音が、アキの鼓膜まで響いてきた。聞き覚えのある保留音が流れたかと思うと、メロディは一瞬で途絶えた。
「黒木だ。準備はできたのか」
「できた。あと数分でレッド・クロスだ」
「待ってろ。今から出る」
それで電話は切れた。
タケシとサトルに向き直る。二人はすでにメンバーへの連絡を終え、アキの動き出しを今かと待っていた。
「行くぞ」
アキは携帯を尻ポケットに捻りこむと、テーブルの下のボストンバッグを掴み上げた。
次いで、革ベストのポケットから取り出したペンダントを首に下げた。
「おまえらも首からぶら下げろ」アキは言った。「宴《うたげ》の幕開きだ」
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ダッシュボード上のデジタルが六時を五分ほど過ぎた。その前から、徐々に変化は起こりはじめていた。それまでヘッドレストに後頭部を預けたまま漫然と通りを見やっていた桃井が、まず異変に気づいた。
「おい、柿沢よ」助手席を振り向いていった。「なんか、おかしいぞ」
「なにが」
「店の前だ。開店まで一時間近くあるのに、ガキがうようよしている」
その言葉に、今までルームミラー越しに後方を窺っていた柿沢は、視線を前方に戻した。確かに桃井の言葉通り、レッド・クロスの前にはいつの間にか十人を超す若者が姿を現していた。数分前に柿沢が目を向けた時には、通行人がその前を通り過ぎるだけで、人っ子一人立っていなかったのだ。
二人が見ている間にも、三人、また四人と、次第にその人数は増してゆき、六時七分過ぎには、ざっと目視できるだけでも店の前に群がっている若者の数は二十人を超しているようだった。その全員に共通して漂っている雰囲気がある。迷彩色のワークパンツに、赤毛、鼻ピアス──ファッションセンスも、およそマトモという感覚からはほど遠い。タンクトップから剥き出しの肩に鉤十字の入れ墨を入れている者もいれば、グリーンのサングラスを斜めにずらしたまま意味もなく通行人を睨んでいる者もいる。リストにこれ見よがしに巻き付けられたデルタ・ダーツ。拳に嵌め込まれた金属製のナックル。その場に突っ立ったまま、サンドジャックやダガー・ナイフの刃先を弄んでいる若者たち。いずれも、これでもかと言わんばかりの風体だった。
「ストリートギャングか?」
「だろうな」無感動に柿沢が答えた。「ロクなシロモノじゃない」
夕陽がビルの陰に隠れ、通りをほの暗い闇が覆いはじめている。路地に軒を連ねたファーストフード店やブティックに、次々と明かりが灯っていく。集団はレッド・クロスの前に居座ったまま、依然として動き出す気配がない。そんな彼らを、通行人が迂回するように通り過ぎてゆく。
「なんで、たむろっているんだ?」
そう桃井がつぶやいた時だった。
インプレッサの左前方の薄暗い路地から、のっそりと人影が湧き出てきた。三人とも上背があり、骨格の良く発達した若者だった。先頭を切って歩く革のベストを着た若者と、その両側に半歩遅れて付いている二人組の頭部──金髪とスキンヘッドに目を奪われた。そして、三人の胸元に揺れている三日月形のペンダント──。
「おい、柿沢──」
そこまで言いかけて、桃井の視線はさらに釘付けになった。前方へ進んでゆく先頭の若者の背中に、見覚えのある黒いボストンバッグが揺れている。肩に担がれた、補強材の入っていないナイロン地の、見るからに重そうなバッグ。その表面に、記憶に残っているロゴマークが貼り付いている。
思わず腰を浮かし、ドアロックを外しかけた桃井の腕を、素早く柿沢が押さえた。
「待て」
桃井は目を剥き、柿沢の手を振り解こうとした。
「なに言ってんだ」彼は声を張り上げた。「早いとこ捕まえなきゃ、どんどん先に行っちまうだろうが!」
「落ち着け」柿沢も珍しく声を荒らげた。「あの三人、おそらくたむろしている連中の仲間だ。ここでおれたちが飛び出てやつらを押さえれば、間違いなくあいつらが襲いかかってくる」
桃井があらためて前方を見やると、柿沢の言った通り、レッド・クロス前の集団から三人に歩み寄っていくロンゲの男が目についた。
柿沢は早口で言葉を続ける。
「むろん乱闘になったところで、おれたちが負けるとは思わん。大所帯とはいえ所詮はガキの群れだ。だがな、騒動にまぎれてあのバッグを持った奴を取り逃がしたら、元の木阿弥だ」
一瞬、桃井の脳裡を、後部ドアにしまってある拳銃がよぎった。
「だったら、銃でやつらを全員動けないように威嚇して、取り上げてやるまでだ」
柿沢は薄く笑った。
「こんな人目につくところでか?」柿沢は言った。「すぐに道沿いのショップが警察《サツ》に連絡をとる。クルマのナンバーも当然控えられるだろう。おれたちは面倒なことになる」
「………」
「それにだ、仮にうまく取り上げて逃げたところで、あのバッグの中に今も現金が入っているという確証はまだない」
「しかしよ、あの嵩張りようといい、あの野郎が担いでいる時の見た感じといい、ほかにどんなものが入っているっていうんだ?」
「分からん」吐き捨てるように柿沢も言う。「だから、少なくとも中身に確信が持てるまでは、動けない」
桃井はいまいましげに吐息を漏らした。
「なら、どうするんだ?」
「確信が持てるまで、待つさ」柿沢は言った。「それがかなわないなら、奴が一人に戻る瞬間まで、待つ」
オン・エアー・イーストの角から足を踏み出して、レッド・クロスまであと五メートルというところまで、アキの全神経は背後のインプレッサに向けられていた。たとえ目には見えなくても、クルマのドアの開閉音やこちらに向かって駆け出してくる足音は、聞こえるはずだった。だが、ユーイチが集団の中から駆け寄ってくるまで、そうした気配は感じられなかった。相手がボストンバッグに気づいていないということは、まず考えられない。アイキャッチの役目として、タケシとサトルを両脇に揃えたうえに、ボストンバッグまでこれ見よがしに背中にぶら下げてきたのだ。
「どんな、按配だ?」
目の前で歩みを止めたユーイチに、後ろを振り返らないままアキは聞いた。
「引っかかったようだ」ユーイチも後方に視線を向けないまま答えた。こういうユーイチのクールな部分が、アキは好きだ。「一瞬、運転席の男が飛び出しそうになったのを、助手席の男が慌てて押さえたみたいだった」
「さっき、店を下見にきたのも、助手席の奴だったよな?」
ユーイチはうなずいた。
「同じだ。細身の男のほうだ」
アキもうなずき返し、その行動の意味するところを相手の立場になって考えた。
ここで自分たち三人を取り押さえようとした場合、当然乱闘が予想される。騒ぎにまぎれてバッグを持ったアキを、取り逃がすおそれがある。よしんば取り押さえバッグを手に入れたとしても、冷静になって考えてみれば、今も中に現金が入っているとは限らない。銃を持っていたとしても、人目につくこの通りではそれは抜きにくい。そこまで計算して、静観を決めたのだろうと思った。そう考えれば、慌ててクルマから飛び出しそうになった運転席の男に比べ、それを押しとどめた助手席の男が、はるかに冷静だと感じた。
しかし、結果的には静観に落ち着くことも、計算のうちだった。そこまで読んで、アキ自身、計画を練り上げていた。そのために、わざわざ二十人もの頭数を用意したのだ。しかし、彼らはここに集合をかけられた本当の理由を知らない。当然、タケシたち二人が、三千二百万もの金を奪ってきたことも知らない。わけも知らされずに、それぞれのリーダーにここに集まるように言われてきただけだ。
携帯が鳴った。カオルからだった。組事務所から、今、黒木を乗せたメルセデスが出たという報告だった。
「分かった」
「で、そっちはどんな具合だ?」
「ターゲットは、クルマだ」アキは答えた。「オン・エアー・イースト脇の、白いインプレッサの中だ」
「うまく、やれよ」
「むろんだ」
電話を切ったアキは、行動を次の段階へと移した。レッド・クロス前の集団に向かって、口を開いた。
「よし。じゃあ、耳を貸してくれ」その呼びかけに、てんでんバラバラに談笑していた取り巻きたちの視線が、一斉にアキに集中した。「今日ここに集まってもらったのは、ほかでもない。これから麻川組の幹部と、ちょっと込み入った話がある。この街でのあいつらとおれたちとの立場を、はっきりさせるための話し合いだ」
恵比寿からここ渋谷にかけての沿線を押さえている麻川組の名前を知らぬ者はない。突然の告知にざわめき立つ集団に、アキはさらに声を大きくした。ここが演技のしどころだった。
「麻川組に、光栄商事の黒木って奴がいる。そいつとここで落ち合うことになっている。おまえらに集まってもらったのは、その黒木へ事前にハッタリをかましておくためだ。だからそれぞれのリーダーに、グループの中でも選りすぐりの猛者をピックアップしてもらった。少なくとも、見かけはな」
最後のセリフはカオルがよく使う落とし方を拝借させてもらった。果たして集団の中に失笑と、馬鹿笑いが湧き起こった。
騒ぎが一段落するのを待って、アキは言葉を続けた。
「ただ、おまえらに何をしてもらおうってワケじゃない。その黒木って野郎が来た時、無言の圧力をかけてもらえれば、それでいい。力添えを頼む」
そこまで話すと、アキは中腰になり、ボストンバッグの中から用意してきた百万の束を取り出した。インプレッサの視線を背後に意識したまま、その束から目分量で五分の一を抜き取り、タケシとサトルとユーイチに三等分して渡した。
「一枚ずつ、取っておいてくれ。ここまでのアシ代というか、手間賃だ」
若者たちは再び喚声を上げ、三人に向かってわれ先に腕を伸ばし始めた。
レッド・クロスに歩み寄っていった三人のうち、中央の若者が集団に向かって一歩進み出た直後、桃井はサイドウィンドウを少し降ろした。その革ベストの若者がボストンバッグを地面に下ろし、集団に向かって何か呼びかけた。途端に、それまで雑然とした雰囲気を漂わせていた集団に、緊張の色が走るのが感じられた。
「……あの何か言っている奴が、たぶんアキって野郎だな」
その桃井の言葉に、柿沢がうなずいた。
「確かに、頭《カシラ》のようではある」
そのリーダーとおぼしき若者がなおも二、三言話すと、集団が急にざわめき立つのが見て取れた。若者たちが互いに顔を見合わせながら、口々に何かを言っている。多少でも聞き取れないかと思い、桃井はさらにサイドウィンドウを下げた。騒ぎ立てる集団を前に、若者がさらに声を張り上げたのは好都合だった。最初のナントカ組という単語だけ、聞き取れた。ナントカのクロキ? 桃井はさらに耳をそばだてた。もう一度、クロキという単語が聞き取れた。桃井がその単語に気を取られているうちに若者の話は終わり、集団がわっと囃し立てるような笑い声を上げた。
「おまえ、なんか聞き取れたか?」
桃井は助手席の柿沢に向かって尋ねた。
「いや」柿沢は首を振った。「おまえは?」
「ナントカ組」
「ナントカ組?」
桃井はうなずいた。
「それと、ナントカのクロキだ」
さすがの柿沢も失笑した。
「それじゃ、よく分からんな」
再び静まった集団を前に、若者が何か話している。しかし先ほどの声のボリュームはなく、今度は何を話しているのかさっぱり聞き取れなかった。桃井は諦めて、サイドウィンドウを引き上げた。
やがて話を終えた若者は、足元に置いていたバッグの上にしゃがみこんだ。ファスナーを少しあけ、その中から若者が取り出したものに、桃井の視線は再び釘付けになった。若者は取り出した札束から無造作に札を抜き取ると、それを直の手下と思われる金髪とスキンヘッドとロンゲの三人に分配した。さらにそのリーダー格の若者が何か声を発すると、集団はわれ先にとその三人に群がってゆく。
「あの野郎!」桃井は思わず呪詛の声を上げ、ステアリングを掌で打った。「好き放題やりやがって!」
「カッカくるな。静観するんだ」
そうたしなめた柿沢に、桃井は食ってかかった。
「だってよ、あれは折田のオヤジの金だぜ! おれたちが危険を冒して手に入れた金なんだ! それをああいうふうに気安くばら撒かれてよ、これが冷静に見られることか、え?」
「だからと言って、今のおれたちに何ができる?」
柿沢の言うことは、道理だった。桃井はいまいましげに、拳で自分の太腿を叩いた。そして、再び柿沢を見上げた。
「だが、これで、あの中に金が入っているということは、はっきりしたんじゃないか?」
「かも知れん」柿沢もそれは認めた。「一部かも知れないがな」
そう言い終わった直後だった。
路肩に寄せたインプレッサの後方から、けたたましいクラクションが鳴り響いた。ホーンをいじっているのだろう、周囲を圧するような、下品極まりない音色だった。
二人が背後を振り返ると、道路の真中を歩いていた若いカップルが、慌てて端に身を寄せている。その後ろから、黒塗りのメルセデスがのっそりと姿を現し、こちらに向かって進んでくる。
窓ガラスに濃いスモークを貼ったそのS600は、ゆるゆるとインプレッサの横を通り過ぎ、若者たちで溢れ返ったレッド・クロスの前で、赤いテールランプを点灯させた。
メルセデスがスロウダウンして店の前に滑り込んできた時、傍らにいたユーイチがアキの耳にささやいた。
「いよいよ、だな」
「ああ」メルセデスの見えない車内に目をやったまま、アキは言葉少なに答えた。「これで役者は、出揃った」
後部座席のドアが開き、中からダークスーツに身を包んだ巨漢が、ゆっくりと身を起こした。黒木だ。彼は路上に降り立つと、アキの背後に群がり、無言のまま敵愾心を剥き出しにしている若者たちに、チラリと視線を走らせた。
「どういうつもりだ、え?」アキに向き直り、そう吐き捨てる。「クソガキどもを、ウジャウジャと侍らせやがって」
おそらく百九十センチ近いタッパなのだろう──相手の乾いた双眼の位置が自分のそれより若干高いことに、アキはあらためて気づいた。
「おれたちの一部でも、あんたに披露しておこうと思ってな」アキは答えた。「話し合いの時、少しはこいつらのことを思い出すだろう?」
黒木は鼻先で笑った。
「資料は?」
アキは黙ってバッグを持ち上げ、両手で大きくその開口部を開いて見せた。黒木はその中に詰まった資料を覗き込み、ニヤリと笑った。
「上等だ」黒木は言った。「クルマに、乗れ」
若者たちの目の前で、最初にバッグを抱えたアキが、続いて黒木が後部座席に乗り込んだ。ドアが閉まり、ゆっくりと銀色のホイールが転がり始める。
ユーイチは、メルセデスが路地を進んでゆき、道玄坂に面する手前で一時停止するまで見送っていた。さりげなく後方に目をやると、オン・エアー・イーストの路肩に停まっていたインプレッサが動き出している。ゆっくりとこちらに向かって進んできている。ユーイチはタケシとサトルを振り返り、同じようにインプレッサをチラチラと見ていた二人にうなずいてみせた。二人がうなずき返したのを確認し、店の脇に停めてあった単車に駆け寄っていく。タケシはあえて集団の前に立ったまま、そのインプレッサがこちらに近寄ってくるのを見るともなく見ていた。二人組が黒木たちの後を追わずに、先におまえとサトルを問い詰めてくる場合もありうる、とアキが言ったからだ。「その時、そいつらに言うセリフは分かっているな?」
タケシは、アキから教わったセリフを、素早く心の中で反芻していた。
しかし、インプレッサは目の前を通り過ぎ、道玄坂方面へ路地を抜けていった。メルセデスと同じように、大通りの交差点を左折していく。と、同時に店の脇からユーイチの乗った単車が飛び出し、インプレッサのあとを追った。
作戦はプランAのまま進み始めた。
タケシは携帯を取り出すと、アキの登録番号を呼び出しながらサトルを見た。サトルはうなずくと、背後の若者たちを振り返り、片手を上げながら大声で言った。
「解散だ! お疲れサン!」
S600の広い後部座席に、アキは黒木と距離を置いて座っていた。濃いグリーンのスモークを貼った車窓から、道玄坂の欅並木が黒ずんで見えていた。運転席のリュウイチは、アキが乗り込んだ時、ルームミラー越しに一瞥をくれただけで、その後も無言でメルセデスを運転しつづけていた。黒木も黙ったままだ。アームレストに片腕をもたせかけたまま、じっと前方を睨んでいる。
少し座り位置を変えようと、アキが身を捩らせた時だった。ポケットの中の携帯が鳴った。黒木がチラリとアキを見る。携帯を取り出し、通話ボタンを押す。
「はい」
「タケシだ」打ち合わせどおり、押し殺した声で相手は言った。「プランAだ。ユーイチがあとを尾けている。おれたちも今から向かう」
「分かった」アキは答えた。「マスターに、ツケを払っといてくれ」
むろん後半の言葉は、黒木に対するカモフラージュだ。アキは、例のインプレッサがタケシたちを問い詰めることなく、真っ直ぐにこのメルセデスのあとを尾けてきていることを知った。携帯をサイレントのバイブモードに切り替えると、再びポケットにしまった。
黒木と例の若者がメルセデスに乗り込んで、どこかに出かけたのを確認したのは、六時過ぎのことだった。井草は念のため、手帳を取り出してその事実を記入しておいた。後で久間に報告するためだ。
通りが次第に薄暗くなり始めている。定食屋や飲み屋の看板に明かりが灯り、通りに通行人が溢れ始める。勤め人たちのアフターファイブ──。
基本的には事務所前の動きを目の隅でとらえながらも、その雑踏の様子を、時折ぼんやりと眺めていた。
井草には、いわゆる九時五時の勤め人としての経験がなかった。大学を出てからは、すぐにワーキングホリデイでオーストラリアへ行った。ゴールドコーストで、日本人相手のホテルマンの契約社員になった。一年後にビジネスビザを取得し、二年、三年と延長しながら仕事を続けるうちに、そのホテルの支配人からマカオでの仕事の話を持ち込まれた。日頃の客あしらいの良さを見込まれたのだ。
同じチェーンのマカオにあるホテルで、カジノのフロアー係として働いてみないかと言われた。むろん正社員採用のオマケ付きだった。日々の暮らしを楽しみながらも将来に漠然とした不安を抱いていた井草は、一も二もなくその話に飛びついた。それから三年後に、さらに破格の条件で久間に引き抜かれた。日本に帰ることができ、しかも年収二千四百万──たとえ非合法の仕事とはいえ、思わずその待遇に目が眩んだ。
それが、まさか自分にこんな結果をもたらそうとは……。
ふとため息をついたとき、駅方面へ向かう人込みを掻き分けるようにして、逆方向から小走りにやってくる人影に気づいた。
そのドレッドヘアの若者は、井草が見ている間にも、通りを挟んだ反対側の歩道を急ぎ足に駆け抜けてゆき、先にある光栄商事の事務所へと近づいていく。緊張を漂わせたその足運びを、井草は思わず目で追った。
しかし、若者はそのまま事務所の前を通り過ぎ、その少し先で通りをこちら側へ渡り始めた。井草のいる窓際からは死角となる位置へと消えた。
若者への興味は消えうせた。井草は再び、その雑居ビルに視線を戻した。
カオルがそのビルの屋上に着いてから、もうかれこれ一時間以上経っていた。
マークシティ西側のカーテンウォールを照らしていた夕陽が、ビル群の向こうに完全に沈みきり、辺りを急速に闇が覆い始めている。それとともに、見渡せる限りのビルの屋上に掲げられた看板やネオンに、原色の照明が灯ってゆく。駅前からかすかに響いてくるクラクションや、バスの発進音、横断歩道のメロディ。地上には、いくつもの店から流れ出てくるBGMが溢れている。人工的な下界の、光と音の洪水。
カオルが腰を下ろしている屋上の縁から、通りを挟んで古びた雑居ビルが見てとれる。その一番上の四階のフロアーが、光栄商事の事務所だった。窓から、蛍光灯の明かりとともに、電話番が一人いるのが見てとれる。
六時少し過ぎに、ビルから黒木とリュウイチが出てきた。ビルの前に停めてあったメルセデスに乗り込むと、すぐに文化村通りへと出ていった。
アキが行動を開始したのだ、とカオルは思い、すぐに電話を入れた。それから時折事務所のほうを眺めているうちに、十分近くが経過していた。腹が鳴った。ここに着いてから、三度目だった。考えてみれば、朝から何も食べてなかった。ふと、アキがタケシたちと道玄坂のマックで待機していたことを思い出した。
ファーストフードは今でも大嫌いだが、それでも思わず口に出してしまった。
「食ったんだろうな、あいつら」
ため息をついた途端、携帯が鳴った。サトルからだった。
「プランAで、進んでいる」サトルはあわただしく話した。「ベンツの後ろを、例の二人組が追った。練馬ナンバーの白いインプレッサだ。さらにその後を、ユーイチが尾けている」
「で、おまえらは?」
「クルマでそっちに向かっている。おれたちは、いつものシェビィだ」
「分かった」それからふと気づいて、念のために付け足した。「ペンダントはもう用済みだ。首から外しとけよ。それと髪な」
「ああ」
背後でドアの閉まる音がした。携帯を切って振り返ると、ナオが屋上のコンクリート敷きの上を、小走りにやってくるところだった。
「早かったな」目の前で立ち止まったナオに言った。「プランA。三台揃い組みで、来てる」
「分かった」多少息を切らしながら、ナオが答える。屋上までの階段をめいっぱい駆け上がってきたのだ。「一気に上ると、さすがに疲れるな」
「運動不足だろ」
「みんな、アキみたいには、いかないもんさ」
カオルは笑い、屋上の縁の陰にかがみ込んだ。ナオもそれに倣う。道玄坂方面から路地に入ってくるクルマを観察しつづける。円山町のレッド・クロス前の小路は、文化村通りから道玄坂方面へと抜ける一方通行の道になっている。だからこの事務所に戻ってくる時には、必ず道玄坂方面から姿を見せると分かっていた。
果たして座り込んでから数分も経たないうちに、メルセデスが姿を現した。
ローダウンしたスモーク貼りのメルセデスは、カオルとナオの見下ろす通りをゆっくりと通り過ぎ、その先の事務所前で停車した。
カオルは再び道玄坂方面を振り返った。白い国産のセダンが、ゆるいカーブの向こうから姿を現した。
「あれだ」ナオがカオルにささやいた。「あの、インプレッサだ」
カオルは黙ってうなずいた。インプレッサは、光栄商事のビルの五十メートルほど後方で路肩に寄せて停車しながら、スモールライトを消した。
雑居ビルの前では、メルセデスの中からリュウイチ、続いて黒木とアキが降り立ったところだった。リュウイチを先頭にした三人が、ビルの狭い入口に吸い込まれてゆく。
インプレッサは停車したまま、車内から人が出てくる様子はない。
そのインプレッサの背後、通りに並んだビルを二つ隔てた舗道に、単車が滑り込んできた。ライダーはエンジンを停め、単車を降りると一呼吸置き、ゆっくりとした動作で縁石に腰を下ろした。ヘルメットを被ったままシールドを上げ、ゴソゴソと胸ポケットから煙草を取り出した。
カオルは思わず微笑んだ。いかにも人待ちの、手持ち無沙汰なライダーという印象だ。
煙草の先にホタルのような火がついた時、単車のやや後方に黒いシェビィ・バンが停車した。ユーイチは素知らぬ顔で煙草を吸いつづける。バンも停まったまま、ドアが開く気配はない。
カオルはまたにんまり笑うと、光栄商事の窓に視線を戻した。
事務所前をじっと監視していた井草の視界に、道玄坂方面からヘッドライトをつけて進んでくるメルセデスが飛び込んできた。
井草は椅子をさらに窓際に寄せ、メルセデスが事務所前でスロウダウンするのを、注意深く見つめていた。
まず、運転席のドアが開き、久間の言うところの茶坊主が姿を現した。続いて後部座席のドアが開いた。ただし、井草の予想を裏切り、ほぼ同時に左右のドアが開いた。出ていった時は、後ろには黒木以外乗っていなかった──すうっと背筋に緊張が走るのを覚えた。
最初に黒木が事務所側のドアから降り立った。
次いで、通り側に開いたドアから、一人の大柄な若者が降り立った。重そうな黒いボストンバッグを、片手に下げている。
若者は、白いTシャツの上に黒革のベストを羽織っていた。──Tシャツに黒革のベスト?──不意に先ほどの若衆の言葉を思い出した。
と、こちらにその胸元が覗いた。途端、思わず井草は目を剥いた。薄暗い通りを挟んで、三日月形のペンダントが白っぽく浮かび上がって見えていた。
その瞬間、井草は若者が持っているバッグの意味を理解した。バーテンが言っていた、黒いナイロン地のボストンバッグ──。
慌てて携帯を取り出し、交代した若衆の番号を呼び出した。そうする間にも、黒木と若者は茶坊主を先頭にビルの中に入ってゆく。
すぐに通話になった。
「井草だ」相手の返事もそこそこに、早口で喋り始めた。「昼前に事務所に入っていった若造がいたって言ってたろ? 黒髪のやつで、黒革のベストにTシャツの」
「ええ」と、戸惑いながらも相手は答えた。
「そいつ、そのベストの下のTシャツは白で、ネイビーのカーゴパンツ、足元はワーキングブーツ風のものを穿いてなかったか?」
「……ええと、確かそんな感じでした」なおも不思議そうに若衆は答えた。「それが、どうかしたんですか?」
返事を待たず、電話を切った。急いで久間の携帯の番号を呼び出し始める。通話状態になるまでの間に井草の頭は目まぐるしく回転を続けた。
まだ確信はない。確信はないが、限りなくクロに近い──あの若者は、おそらく金髪とスキンヘッドが所属するグループのリーダーだ。そして、そのリーダーが代表として昼前に黒木たちに呼び出され、脅迫を受けた。脅迫に屈した彼らは、黒木たちの案内で、金を事務所まで運んできた。そういう筋書きだと感じた。
電話が、繋がった。
メルセデスのあとを追って道玄坂から路地に切れ込んだ桃井は、ワンブロック先のビルの前で、赤いテールランプが点灯するのを見た。ゆっくりとスピードを落とし、そのビルのワンブロック手前で、クルマを路肩に寄せた。
S600の運転席から、小柄な若者が降り立った。いかにもチンピラ風の、悪趣味な紫色のアロハを羽織っていた。つづいて後部座席が左右に開き、ダークスーツの巨漢とボストンバッグを下げた大柄な若者が、クルマから降り立つ。小柄な若者を先頭に、三人は古びたビルの階段入口に消えた。メルセデスは舗道に半ば乗り上げたまま、置き去りになった。
桃井はサイドブレーキを引くと、首をかがめてフロントガラス越しにビルを見上げた。四階建の、かなり老朽化した雑居ビルのようだった。一階はシャッターが閉まり、二階と三階の窓の張り出しには化粧品訪問販売の会社の看板が見える。四階のガラス窓一面に、社名入りの透かしのペイントが施されている。
ふと気づいて横を見ると、柿沢も同じようにビルを見上げていた。
「どう思う?」
「おそらく、四階だろうな」柿沢は答え、前方に顎をしゃくった。「あのベンツ、どう見ても化粧品の訪販って柄じゃない」
最初にその下品なメルセデスを見た時から、桃井の中になんとなく予感はあった。
『光栄商事』という得体の知れぬ社名に、後部座席から降り立ったダークスーツの巨漢と、運転手のアロハの若者。おまけにストリートギャングのリーダー格──ここから連想できる商売は、一つしかなかった。
「ヤクザか?」
「だろうな」
それから二人は黙り込んだ。桃井は頭の中で、今までの自分たちの行動と、それに対する『雅』の動きを懸命に照らし合わせてみた。
ゆっくりと考えがまとまり、柿沢のほうを向いた。
「さっき、スーツの男がボストンバッグの中を覗き込んでニヤリと笑ったよな?」
「ああ」
「ヤクザもんが笑う時は、金か金目のものを見た時しかない。となると今までの経緯から考えても、中身は現金に間違いない。それもあの嵩張りようからして、相当のだ。──ここまでは、いいよな?」
「ふむ」
「だが、そう考えると腑に落ちないのは、なんでアキとかいう奴が、わざわざヤクザなんぞにそんな大量の現金を見せたのかってことだ」
そう言って、柿沢の顔をじっと見た。ややあって、柿沢は口を開いた。
「つまり、あの若造たちは、もともとヤクザ連中とつながりがあった。興行の絡みでな。懸賞金の話をまわしているぐらいだ。やがておれたちに襲われることを危惧したやつらは、ヤクザに自分たちの保護を持ちかけた。ヤクザは当然それなりの取り分を要求し、それがあのバッグの中に入っている──そんな筋書きか?」
「それしかないだろう」
「たしかに、それしかない」言いつつも、柿沢は首をかしげた。「だが……どうも、気に入らん」
「なにがだ?」
「それが、分からない。分からないが、どこか妙な気がする」
桃井は柿沢の顔を見つめた。
「……どうする?」柿沢に判断をゆだねた。「ここは様子を見るか?」
「いや」これには即座に首を振った。「それは、できない。まごまごしていたら、そのうちあのアキって若造が現金を手渡してビルから出てくる。おれたちは若造を追うか、このままここに残って現金を奪い返す機会を窺うかの、二つに一つしかなくなる。どちらをとっても問題が残る。若造を追えば、その間にヤクザが現金を持ち出すかもしれない。かといってここに残れば、若造の足跡は分からなくなる。残金があるとしたら、その行方がつかめなくなる」
「なら、手分けするっていうのは、どうだ?」
「尾行の役はともかく、単身であの事務所に乗り込むのは、危険すぎる。おれたち二人でやつらを同時に取り押さえたほうが、バッグも手に入るし、若造にも、残金のありかを吐かせることができる。一番効率的で、より確実な方法だ」
再び嫌な予感が脳裡を掠める。
「しかし今すぐ乗り込むとなると、かなり荒っぽい仕事になるぜ」
「幸いにも、銃はある」
「ヤクザが相手だ。やつらだって持っているだろう」
「だからやつらが取り出す前に、おれたちは銃を突きつける」
「しかし事務所には、あの三人以外にも何人いるか分からないんだぞ。乗り込んで一瞬に周囲を把握するのは、かなり難しい」
「そうならないためにも、簡単な下見をする」
「どうやって?」
問いかける桃井に、柿沢はドアに手を伸ばした。
「数分、待っていてくれ」と、降り立ちながら言った。「すぐに終わる」
井草の懸命の説明にも、久間はやや懐疑的だった。
「とりあえず、今すぐそっちに向かう」言いながらもすでに行動を起こし始めているのか、久間の声は時折遠くなる。「しかし、や。ペンダントも遠目から一瞬見ただけやろし、聞けばその黒いバッグも、ありきたりのモノのようやないか。持ってきたのが金髪と坊主の二人組ならまだしも、それだけやと、万が一には違う目もあるで」
「ええ、それはそうですが……」
「ワシら、そんな現場に銃を持って踏み込もうとしとる。もし間違えたなら、麻川組とは確実に事を構えんならん。もうちょっと確実な物証は見つからんのか?」
「でも、おそらく間違いな──」
そう言いつつ、再び事務所のほうに目を転じた時だった。人込みにまぎれ、事務所の向こうから歩いてくる長身の男に、井草の視線は釘付けになった。それっきり、井草の言葉は途切れた。
「おい、どうかしたんか?」
怪訝そうな久間の声が響く。それでも井草は呆気に取られたまま、事務所に近づいてゆく人物を見つめつづけていた。ほっそりとした体つきに、細面の顔。長い両手足が、歩行に合わせて無駄なく前後に振れている。と、その顔が街灯に照らし出された。一重の切れ長の目蓋──間違いない、あの時の男だ!
「おい、井草!」
再び久間が喚く。はっと我に返った井草は慌てて携帯を口元に寄せた。
「やっぱり、間違いないです!」興奮した口調で井草はまくし立てた。「奴が現れました! 事務所に向かってます、あぁ、クソっ!」
「奴って誰や?」
「だから、カジノを襲った片割れですよ! ノッポのほう!」
「なっ、なんやと!」
久間の大声が耳元に響いた時、井草は、長身の男の姿がビルの入口に吸い込まれてゆくのを、歯軋りせんばかりに見つめていた。
黒木とリュウイチに続いて階段を上がったアキは、四階の組事務所に足を踏み入れた。
窓際のデスクにいた角刈りの中年男が、すっくと立ち上がった。
「カシラ、お疲れさんです」
「おう」黒木は鷹揚にうなずき、部屋の中を見まわした。「ほかの連中は、店に出ばってんのか」
「あと、料金の回収と、です」
黒木は無言のまま、部屋奥のソファに向かってアキに顎をしゃくった。アキは黒木の後に続いて部屋の中を横切った。横切りながら部屋の中に視線を泳がせ、壁の隅に金庫があるのを確認した。
低いテーブルを両側から挟んだソファの奥のほうに、黒木がどっかりと腰を下ろした。アキもテーブル脇にボストンバッグを下ろしながら、手前のソファに腰を下ろす。ふと、ソファ隅に落ちている巻き毛の金髪が一本、目についた。改めて、黒木に対する不快感が頭をもたげた。
カーゴパンツの前ポケットに入れた携帯が、太腿の上に意識される。バイブのサイレントモード。ワンコール分だけの震動が、やつらがやってくるという合図だった。
「資料を、出してもらおうか」早速、黒木は切り出した。「金額の交渉はそれからだ」
「最初に念押ししておくが、電話でも言った通り、四十万は法外だ」バッグのファスナーを横に開けながらアキは返した。「これを見れば、よく分かるはずだ」
「御託はいいから、早く出せ」
アキは一番上の資料だけを取り出し、テーブルの上に置いた。
「五枚綴りになっている。一枚目が入場料、飲食代からのキックバックの売上げと、賞金その他雑費とメンバーへの手間賃の支出の明細。二枚目がそれを受けてのバランスシートになっている。三枚目以降は、その週のパーティに出席した顧客名簿だ。バッグの中のほかの資料も、二年間の各週ごとに同様になっている」
黒木はテーブルの上に出された資料を、指先で手元に手繰り寄せた。一枚目の明細を手に取り、じっと見つめた。続いて二枚目をめくり、十秒ほどそれに見入った。それからアキを見上げ、にやりと笑った。
「つくづく始末におえねぇガキどもだな、え?」懐からパラメントを取り出し、それを口に咥えたまま続ける。「十代の洟垂《はなた》れどもが、おれのシマでやりたい放題ときた。挙句にこんなもんまでガッチリ付けてやがる」
「おかげで助かるだろ? あんたも」
黒木はデュポンのライターを取り出し、パラメントに火をつけた。
「口の利きかたを、知らんらしいな」煙を吐き出しながら、アキを見据えた。「すんなりと、話を進めたいんだろうが」
アキが口を開こうとした途端、カーゴパンツの中で携帯が揺れ始めた。
ワンコール。アキは無表情を崩さず、心の漣《さざなみ》を押さえ込んだ。しかし、ツーコール目が揺れ、静止したあと、スリーコール目へと繋がった。予想外の事態が起こったということだった。アキは立ち上がりながら、黒木を見た。
「すまないが、携帯が鳴っている」
そう言って、ソファから離れながら携帯を取り出した。
「はい」
「カオルだ」早口の、低い声音が聞こえる。「二人組のうちの一人だけ、ビルに向かった。今、ちょうど階段口に入るところだ」
やってくる時は当然二人組で来るものだと思っていた。脳裡を素早く思考が駆け巡る。背後の黒木の耳を意識しながら、アキは言葉を選んだ。
「どっちだ?」
「ノッポのほうだ」
「様子は?」
その一言で、カオルはアキの聞きたいことを呑み込んだらしい。
「丸腰みたいだ。半袖シャツに細身のジーンズ。少なくとも銃を忍ばせる余地はない」
それが意味することを一瞬考え込み、答えた。
「わかった。とりあえずじっとしてろ」
「……ひょっとして、偵察か?」
「おそらくな」
これぐらいの返事なら、怪しまれるおそれはないと思った。カオルの返事も待たず、電話を切った。黒木のほうに向き直りかけた時だった。
事務所のドアを二度ノックする音が、室内に響いた。アキは思わずギクリとして、その動きを止めた。
「はい、どうぞ!」
デスクに座ったままのリュウイチが大声で応じると、ドアがゆっくりと開き、すらりとした細身の男が姿を現した。
短髪の頭部に、鋭いまなざし。半袖から覗く二の腕は、鞭のように筋肉が引き締まっている。クールな役割を演じた、助手席の男だと直感した。全体として刃物のような鋭利さを感じさせる。
同じような印象をもったのか、リュウイチも怪訝そうに男を見ている。
「なんか、用ですか?」
リュウイチに目をとめた男は、口を開いた。
「私、下の階の者です」よく通る、低く錆びた声だった。「ちょっと機材の置き場に困っていまして、できれば一階と二階の踊り場の隅に一時保管させていただきたいんですが、邪魔にならないようなら、いいですかね?」
そこまで一気に言い切ると、リュウイチを見つめたまま黙り込んだ。リュウイチは男の外観と言葉遣いのギャップに、戸惑ったように中年の角刈りと顔を見合わせ、それから黒木のほうを向いた。
黒木もしばらく男を見ていたが、ややあってぞんざいに口を利いた。
「一時保管って、どれくらいだ?」
「事務所の中に入れるスペースを作るまでですから、三十分ぐらいで済みます」
「じゃあ、とっととやってくれ」
「どうも、ご迷惑をかけます」
頭を下げた男の顔が再び上がってゆく時、一瞬ソファ脇のボストンバッグで視線が止まったのを、アキは見逃さなかった。間違いない。下見だ。
男はもう一度ドアの前で頭を下げると、ドアを閉めて出ていった。
アキ以外の三人は、自分の関心ごとに戻っていった。黒木は資料に再び目を落とし、リュウイチはラークの吸いさしに手を伸ばし、角刈りの男は週刊実話のページを開いた。
同業者を除けば、ヤクザを襲おうとするような酔狂な人種が世間にいるとは夢にも思っていない。彼らの立場からすれば、当然のことだった。
だが、この間にアキにはやることがあった。バッグの中から残りの資料をごっそり抜き取ると、自分が座っているソファの背もたれの奥に置いた。この位置だと、入口からは背もたれの陰になって資料は見えないはずだった。そこからさらに数回分の資料を手に取り、テーブルに差し出す。
「売上げ的にはどの回も、ほとんど変わらない。あとは、ざっと目を通してもらうだけでいいと思う」
黒木がふと顔を上げ、訝しげな表情を浮かべた。
「やけに、協力的だな」
動かない視線をなんとか受け止め、アキは言った。
「その分、割り引いてもらおうと思っている」
「なるほど」
黒木は視線を新しい資料に戻し、集中し始めた。
金庫──。それを見たときから、思いついていたアイデアがあった。ちょっとした小細工。アキは何気ない素振りで空のボストンバッグを手に取り、立ち上がった。もう一度、他の二人を確認する。角刈りは相変わらず週刊誌に首を突っ込んだままで、リュウイチはデスクの上の伝票と睨み合いをしていた。
ぶらぶらと金庫に近づいてゆき、素早くそのノブにバッグの持ち手をひっかけた。
「妙な真似、するんじゃねぇ!」
思わず振り返ると、いつの間にか黒木が顔を上げ、アキと、空のバッグのぶら下がった金庫を交互に睨んでいる。
油断のならない男だった。他の二人も驚いたようにアキを振り返る。
「ためにならんぞ」
その警告に、アキはふと思いついたことをきいてみた。
「銃でも、入っているのか」
一瞬間があり、黒木は返した。
「それが、おまえに何の関係がある?」
アキは肩をすくめ、バッグを金庫にぶら下げたまま、ソファに戻った。やれるだけのことは、やった。あとは相手が動き出すのを待つだけだった。
井草と久間の携帯は、黒木たちが帰ってきた時点から繋がりっ放しだった。
男が事務所内に消えた直後に、久間は事務所を出発したと言った。いま、BMWに火器と男衆を満載した状態で、南青山に入ったところだという。
「とにかく、なるべく早くお願いします」
井草は訴えた。西麻布の事務所からここまでだと、ほぼ直線距離で二キロほどだ。だが、ラッシュに巻き込まれると十五分やそこらはかかってしまうだろう。その間に、全てにけりがついてしまうかもしれない。男が現れた今となっては、井草自身、あのバッグの中身が現金であることに疑いを持っていなかった。最初、あの男はどこからか黒木と若者たちの取引を嗅ぎ付け、乗り込んでいったのだと想像した。
しかしよく考えてみると、男が単身、しかも手ぶらで事務所に乗り込んでいったその様子からして、力ずくで現金を強奪に行ったとも考えられなかった。現れたタイミングも、今にして思えば、あまりにもよすぎる──そのことを久間に話すと、
「あるいは」と、彼は推論を口にした。「小僧どもはすでに例の盗人に急所を握られて、そのことを昼時に若造に会ったとき、黒木が聞きだした。ほんで、あの馬糞野郎はワシらにその金を返してやるより、むしろ、その盗人とガキどもの仲介役を買って出た。当然、それなりの仲裁料をふんだくってな。これならワシらの顔も潰れたままにしておけると踏んだ──そういう筋書きとちゃうか?」
やや強引だが、一応筋は通っている。となれば、もう少し事務所内での話は長引いてくれるはずだった。その分だけ、久間たちが渋谷に到着して乗り込むまでの時間は稼げる──そう思い、再び視線を事務所前に転じた時だった。
目に飛び込んできた予想外の展開に、井草の口は半開きになった。
あろうことか、入って数分にもならない間に、あの長身の男が出口から出てくるではないか。しかも手ぶらで!
呆気に取られている間にも、男は一瞬事務所を見上げた後、先ほどやってきた方向へとどんどん戻ってゆく。
何がどうなっているのか分からぬまま、思わず井草は立ち上がっていた。気がついたときには携帯片手に店内を出口に向けて走り出していた。
「ちょっと、お客さん!」
店員の咎めだてするような声が背後に響き、携帯の受話口からは井草の名を喚いている久間の怒鳴り声が聞こえていた。かまわず表通りへと飛び出した。
組事務所ビルのワンブロックほど先で、男が白いセダンに乗り込もうとしていた。だが、暗くなった周囲と、通りを絶え間なく行き交う通行人の陰で、そのナンバーが読み取れない。
さらに小走りに近づこうとした瞬間、肩を背後から掴まれた。振り向くと、店員が彼の肩に腕を伸ばしたまま、怖い顔をして立っていた。
「困りますね、お客さん」その若い店員は顔をしかめた。「ちゃんと精算してから、店を出てくれないと」
「離してくれ!」
そう喚きつつも、左手は携帯で塞がったまま、右手は怪我のせいで、その肩にかかった若者の腕を力ずくで振り解く術がない。
「金はすぐに払う。頼むから離してくれ!」
人込みに見え隠れするセダンのヘッドライトに、明かりが灯った。
「頼む!」
「できません」
そろそろと動き出した白いセダンが、左手の路地にウィンカーを出し始めた。井草は思わず泣き出しそうになった。
「あ、あ……行っちまう」
そう情けない声でつぶやいた時には、クルマは路地に切れ込み、見えなくなった。左手の携帯からは久間の怒鳴り声が反響しつづけていた。
インプレッサに足早に戻った柿沢は、助手席に乗り込むなり桃井に言った。
「事務所内に、あの若造を含めて男が四人。部屋中央にデスクのかたまりがある。そこに、さっきの運転手と男がもう一人。入口から見て左奥の窓際のソファに、後部座席の男と若造が二人だ。奥の部屋もあったようだが、出たときに四階の窓を見上げたら、東側三分の一には、明かりがついてなかった。おそらく無人だ」
「で、バッグは?」
「ソファの脇に転がしてあった。あの膨らみようだと、まだ中身は出していない。だが、金庫が目についた。入れられた後だと、時間がかかる。早いに越したことはない」
柿沢の言葉に、桃井は前方の路上左右に視線を走らせた。
「あとは、万が一の、退路の確保か?」
「なるべく人目につかない路地裏の、大通りにすぐに出られる場所だ」柿沢もうなずく。「ケースから銃を取り出すにも、都合がいい」
十メールほど先の左手に、裏通りに続くとおぼしき切れ込みが見えた。
桃井はエンジンに火を入れ、ゆるゆるとインプレッサを転がし始めた。目をつけた路地に、クルマを進入させた。
狭い裏通りを二十メートルほど進んだところで、十字路にさしかかった。左右を見た桃井は、右の路地にステアリングを切った。
路地の両側は、ビルの裏面同士のようだった。歩道脇のところどころから、ビルを抉るようにコンクリートの窪みが確認できる。日中は、ここからトラックが荷物の搬入をするようだ。
薄暗い路地の先に、車が頻繁に行き交っている大通りが見えた。
「文化村通りだ」桃井は前方を見たまま言った。「あのとっつきを左に曲がれば、駅から見て下りだ。上りのようには混まないと思う。逃げる時にも好都合だ」
「適当に路肩に停めてくれ」柿沢はうなずいた。「銃を取り出したら、すぐに行動開始だ」
屋上の二人は、インプレッサが動き出して通りの反対側の路地に切れ込むのを見届けると、すぐにユーイチの単車に視線を戻した。
ヘッドライトを消したまま、ユーイチが単車を発進させ、インプレッサのあとを追う。その単車のテールライトも、路地を取り囲むビルの陰に隠れて見えなくなった。
「気づかれないと、いいがな」
ぽつりと、ナオがつぶやいた。
「見つけても、通り過ぎるようには言い含めてある」
そう言って、カオルは駅方面に視線を移した。
口にこそ出さなかったが、ちょっと前から気になっていることがあった。ノッポの男がクルマに戻ってくる途中、こちら側の駅前に近い歩道から飛び出してきた人影があった。右手に白い包帯のようなものを巻いた、ひょろりとした男だった。男は小走りに通りを渡りかけ、いったん立ち止まったかと思うと、組事務所の先に停まっているインプレッサの方角を凝視した──少なくともカオルの目には、インプレッサに乗り込んでいた男を凝視したように見えた。再び包帯の男が歩き出そうとした時、男の肩を後方から飲食店の従業員らしき若者が掴んだ。通りの騒音にかき消され、声までは届いてこなかったが、二人の間で押し問答が始まった様子だった。言い合いの間にも、包帯の男はちらちらとインプレッサの方角を振り返っていた。カオルの中に、なんとなく嫌な予感が芽生えた。
やがてインプレッサが動き出し、すぐ先の路地に切れ込むと、男は言い合いを中断して、束の間その方角をじっと見つめていた。ユーイチの単車が動き出した時には、すでに従業員に腕を取られてやってきた方角へ引き返し始めていた。
その事実が何を意味するのか、カオルには見当がつかなかった。
再び光栄商事の窓に目を向けた。何故かいったん奥に消えていたアキが、窓際の黒木の前に座りかけるところだった。一瞬、このことを連絡しようかとも思ったが、思いとどまった。アキにはすでに一度連絡を入れている。あまり何度も電話に出させると、黒木が怪しむかも知れない。まだ単なる予感でしかないのだ。カオルは、今の出来事が、自分の杞憂に終わってくれることを願った。
インプレッサを降りた桃井は、後部ドアを開けると、その内張りを剥がし素早くケースを取り出した。ドアを閉め、もう一度運転席に乗り込む。
アタッシェケースを開け、二挺のベレッタM8045を取り出した。一挺を柿沢に手渡しながら、ふと思いついて聞いた。
「やつらが銃を持っているとしたら、なんだと思う?」
「十中八九、中国製の黒星《トカレフ》だ。それもT−33モデル辺りが妥当なラインだろう」
「なんでそう思う?」
「市場に流通している数が違う。今のヤクザはほとんどがそれだ」
桃井が手にしたことがあるのは、このベレッタやコルト、デリンジャーなどの欧米系の銃ばかりだった。
「そんなに、いいのか?」
「違う」柿沢は拳銃を綿パンツとシャツの間に捻りこむと、その上から見えないようにジャケットを羽織った。「単に、福建省辺りから安く大量に仕入れられるだけだ。この型のベレッタに比べ、銃身が長い。持ち歩くには向かないし、どうしても手に持って標的に向けるまでのアクションに時間がかかってしまう。据えモノを狙い撃ちするのならともかく、今夜みたいな状況には不向きの銃だ。そういう意味では、安心していい」
そして準備を終えると、あらためて桃井を見た。
「気後れしているのか?」
桃井はちょっとためらったが、
「少し」と、正直に答えた。「初めて、人を殺すかも知れない。そう思うとな」
桃井は少し笑った。
「そんなことだろうと、思っていた」
「……おまえは?」今まで一度も聞いたことのなかった質問を、桃井はした。「おまえは、あるんだろう?」
一瞬、柿沢は桃井を見た。
「じゃなきゃ、おれが殺されていた」
そう言って、ドアを開けた。
数分ほど前から、カオルは携帯にじっと耳をそばだてていた。離れた場所からインプレッサを見張っているユーイチは、何か変化があるたびに沈黙を破り、カオルに報告してくる。カオルはその途切れ途切れの報告を、ナオに伝え、ナオはシェビィの中のサトルへ、同じく繋がりっぱなしの携帯で報告を入れてゆく。
大柄な男が後部ドアの中から金属製のケースを取り出し、運転席に再度乗り込んだところまでは報告がきていた。おそらく銃を取り出しているのでは、というユーイチの意見だった。
それをナオに伝え、ナオが同じ内容をサトルに伝えてゆく。
また一分ほどの沈黙のあと、ユーイチの声が聞こえた。
「今、クルマから二人が出てきた」
「銃は?」カオルは聞いた。「銃は持っているのか?」
「暗くて遠いから、そこまでは見えないが、たぶん持っていると思う」
「どうしてそう思う?」
「二人とも、ジャケットを着ている。動きまわるにはさっきの細身の男みたいに、半袖のほうが有利だ。たぶん、何かを懐に隠すためだろう。そっちに向かっている」
ユーイチは、タケシやサトルに比べるとやや線が細い。ただ、ケンカの場合にはそれを補う機敏さがある。頭の回転も速い。そのことに感謝しながらカオルは言った。
「分かった。あとはバレないよう、こっちに戻ってきてくれ」
電話を切り、ナオにその内容を伝えながら、アキの携帯にワンコールだけ合図を送った。
ナオがサトルに連絡をする。通りのシェビィのドアが開き、つば広の帽子を被ったタケシが運転席から転がり出て、十メートルほど後方の電話ボックスに向かって走り始めた。
ピンク・ワールドへのタレコミの電話だった。騒ぎが大きくなって警察沙汰になったとき、あとあとNTT経由で発信記録を調べられる可能性があった。それを防ぐための公衆電話だった。むろんタレコミの内容は、ダミーだ。青龍会のヒットマンが今から光栄商事の事務所を襲うという、架空のものだ。それだけ伝えたら、すぐに電話を切るように言ってあった。信じる信じないは相手の事情によるが、それでも間違いなく報告だけはピンク・ワールドから組事務所に入るはずだった。
問題は、その電話を入れるタイミングだった。カオルは四階の窓に目を転じ、黒木と向かい合わせに座っているアキが立ち上がるのを、じりじりとしながら待っていた。
カーゴパンツの中で、一回だけ、携帯が震動した。
窓の外、通りを挟んだビルの屋上は、室内灯の反射でよく見えない。心臓が、早鐘を打ち始める。
目の前の黒木は、週ごとの資料に次々と目を通していた。アキはその横の黒木が見終わった資料を手にとると、一つにまとめ、テーブルの下の棚に置いた。
「気がきくな」
チラリと視線を動かし、黒木が言う。実は、その資料がバッグの中に入っていたことを二人組に悟らせないための作業だった。アキは口を開いた。
「どうせまだ、時間がかかるだろう?」
「それがどうした?」
「ちょっと、煙草を買ってきてもいいか?」
心臓の鼓動が、さらに大きくなる。
黒木は視線を下に戻しながら、軽く顎をしゃくった。行け、ということだ。アキは内心ほっとし、それと悟られないよう、わざとゆっくり立ち上がった。
金庫の脇を抜け、ドアに向かった。
「待て」
背後から聞こえてきた黒木の声に、ギクリとして立ち止まった。ドクドクと脈打つ、自分のこめかみの音が聞こえそうだった。
ゆっくりと後ろを振り向いたアキの目に、ソファに座ったままの黒木が映った。こちらを見たまま、その指がテーブル上のパラメントの空箱を指さしている。
「おれのも、買ってこい」
足元から力が抜けるような感覚を味わいながら、かろうじてアキは返した。
「分かった」
ノブに手を伸ばし、ドアを開けて廊下に出た。
ドアを閉め、一息ついたとき、再びズボンの中で携帯が震動し始めた。取り出しながら急ぎ足で通路奥まで進み、電気が消えたままの給湯室に入った。入口のすぐ脇に角材が立てかけてあるのが、廊下の蛍光灯の反射でかすかに確かめられた。
カーテンレールを閉め、ようやく携帯の通話ボタンを押した。
「何やってんだ!」耳に押し当てるなり、カオルの押し殺したような声が響く。「遅いぞ!」
「すまん」アキも小さく答える。「相手は今、どこだ?」
「もうすぐ、通りに出てくるはずだ」
「ピンク・ワールドへの連絡は?」
確認のためか、一瞬の間があき、カオルは答えた。
「今、タケシが電話を切った」そう言った直後、また少し遠くなったカオルの声が響く。「見えた! 路地奥からやってくる!」
「銃は?」
「おそらく持っている──今、前の通りに出てきた。ビルに向かって、こっちに曲がった。……入口まであと三十メートルぐらいだ……」
再びの沈黙。アキは次の報告を待つ自分の手が汗ばんでいるのを感じた。
従業員に引き立てられて泣く泣く店に戻った井草は、あわただしく精算を済ませると再び軒下へと出てきた。携帯を耳に当て、途中から電話に出られなかった事情を、早口で説明していた。
「もっぺん抜かしてみい」久間の声は怒りに震えていた。「その店員に押さえられて、ナンバーも確認できんかったちゅうんか?」
「は、申し訳あり──」
「この、アホンダラぁ!」その怒鳴り声は、井草の鼓膜を突き破りかねないほどの音量で響きわたった。「ええ加減にさらせよ! おどりゃ一体、どないな見張りしとんじゃい、ボケっ、こら、カス!」
「すみません! すいません!」
久間はなおも悪鬼のごとく罵詈雑言を並べ立てる。井草は見えもしない相手にペコペコと頭を下げながらも、視線は絶えず事務所前を窺っていた。
と、事務所の向こうからやってくる二つの人影を認めるや、一瞬呆然とし、直後には送話口に向かってつい馬鹿なことを口走ってしまった。
「代行! 喜んでください!」
「なんじゃっ!」
「やつら、また舞い戻ってきました!」
「はぁ?」
闇の中で十秒ほど沈黙が流れた後、再びカオルの声が聞こえた。
「……あと、十メートルぐらい。あ、革の手袋を取り出した」
カーテンレールの廊下を挟んだ壁の向こうから電話の鳴っている音が、かすかにアキの耳に聞こえてきた。音は、スリーコールで途切れた。
角刈りの男かリュウイチが、電話に出たのだ。
「今、入口にはいった!」
アキは暗闇の中、じっと耳をそばだてた。電話口の向こうのカオルも黙ったままだ。
廊下の先、階段の奥のほうから、微かに靴音が聞こえてくる。急がず、ゆっくりと足音は大きくなってくる。突然、事務所の壁を通してリュウイチの大声が聞こえた。次いで、椅子か何かの倒れたような音が連続して響く。ピンク・ワールドからの電話だと確信した。
アキはうっすらと見える入口脇の角材に右腕を伸ばし、暗闇の中、それをしっかりと掴んだ。
デスクの上の電話が鳴り出した時、リュウイチはタオルや弁当業者から上がってきた伝票の整理に追われていた。顔を上げ、黒木のほうを見た。黒木は振り返りもせず、資料のページをめくっていた。次いで目の前の角刈りの兄貴分を見た。男は週刊誌越しにリュウイチを見て、顎をしゃくった。
アキに、おまえは電話番専門かとおちょくられたことが、ふと脳裡をよぎった。確かにその通りだ。内心ウンザリしながら受話器に手を伸ばした。
「はい、光栄商事」
「リュウイチか? エイジだ」ピンク・ワールドに出張っている兄貴分だった。かなり焦った早口の口調だった。「出入りだ。確かなことは分からないが、今青龍会のヒットマンがそっちに向かっているらしい」
リュウイチは仰天した。
「な──!」思わず動転して蹴上がるようにして立ったため、椅子が床の上に派手な音をたてて横倒しになった。「なんだって!」
黒木と兄貴分が怪訝そうにリュウイチのほうを見た。先ほど訪れてきた胡乱《うろん》な男の残像が、一瞬にしてはっきりと思い出された。確信した。
リュウイチは大声で喚いた。
「殴り込みです──青龍会!」思いつくままに言葉を続けた。「さっきの男! 下見!」
途端に黒木と兄貴分はあわただしく立ち上がった。黒木はソファから一足飛びに金庫に走りより、兄貴分は窓際の椅子を二つ三つとなぎ倒しながら、壁の書類棚に飛びついた。リュウイチはただ呆然としてその様子を見ていた。黒木が金庫のダイヤルを合わせている。角刈りは棚の引き戸を開け、書類を床の上に投げ出し始めた。
その時だった。
入口のドアが大きく開いたかと思うと、銃を構えた二人の男が滑り込んできた。最初に入ってきた細身の男の銃口が一瞬丸腰のリュウイチをとらえ、書類棚の陰から銃把の部分まで抜き出しかけていた角刈りに向かい、静止した。その背後に立った大柄な男の銃は、金庫の前にしゃがみこんだ黒木に突きつけられている。
一瞬にして、リュウイチたち三人は同じ姿勢のまま、凍ったように身動きがとれなくなった。
大柄な男が銃口を向けたまま、革の手袋をした後ろ手で、ゆっくりとドアを閉める。カシャリ、という乾いた金属音が、静まり返った部屋の中に死刑宣告のように響いた。
細身の男が銃身をわずかに上げ、角刈りに向かって口を開いた。
「戸棚から、ゆっくりと手を出せ」男は言った。「握っているものも、含めてだ」
言われた通りに、リュウイチの兄貴分が静かに戸棚から腕を引き抜いた。その先に握られたトカレフの銃身が、ゆっくりと引き戸から出てきて、蛍光灯の下、長めの銃身が鈍い光を放った。
大柄な男の口元に、一瞬だけわずかな笑みが浮かび、それから何故か怪訝そうな表情が湧いたのを、リュウイチは見た。
細身の男は無表情に言葉を続けた。
「それを、デスクに置け」
角刈りの男は、トカレフをデスクの端に置いた。
「手を頭の後ろで組み合わせて、窓際に寄れ」
そんな二人組の様子を、黒木は中腰になったまま睨んでいた。次いで、歯軋りせんばかりに口走った。
「てめぇら、こんなことしでかして、タダで済むと思うなよ」
大柄な男は無言のまま、反応を見せない。再び細身の男が口を開いた。
「あの若造は、どうした?」
とっさに黒木は出まかせを口にした。
「帰った」
金庫の中には二丁、トカレフが仕舞ってあった。目盛りは、あと一コマ合わせるだけだった。あの小僧が帰ってきた瞬間を狙えば、なんとかなるかも知れない──内心そうひらめいた。
すると、銃を構えたままの二人の男は、何故か互いにチラリと視線を合わせた。
金庫のドアノブにかかった、しぼんだボストンバッグに、細身の男の目がとまった。大柄な男も同じ物を見て、再び相方と視線を合わせる。
リュウイチはその動作を黙ったまま見つめていた。妙な雰囲気だった。ヒットマンにしては、銃を取り上げただけで、いっこうに彼らを撃ち殺す気配がない。入ってきた瞬間と違って、殴り込みという感じでも、ない。奇異に映った。
やがて細身の男が命じた。
「よし。金庫を、開けろ」
暗闇にうずくまるアキの耳に、カーテンレールの向こうから廊下を進む二人組の足音が聞こえ、続いて素早くドアを開けた擦過音と、ドアを開けた時の、カーテンを揺らす空気の微妙な震動が伝わってきた。数秒後、ドアの閉まるカシャリという微かな音がした。
同時にアキは行動を開始した。カーテンを開け、角材を片手にドアのところまで忍び足で近寄った。
角材の端を床に接したドアの靴擦りに当て込み、もう一方の端を反対側の壁面と直角になるように、静かに、だが素早く、落とし込んだ。
コンクリートの壁面に沿って落とし込んでいった角材は、床まであと数センチというところで止まった。ユーイチの言う、五ミリ分だった。ぐっと腕に力をこめ、床までぴたりと押し付けた。即席つっかい棒の完成だ。
試しに角材の中央部に手を触れ、左右に力を入れてみたが、ビクともしなかった。
立ち上がると、次の行動に移った。
奥の非常階段用のドアまで進み、鍵を開けると、外部へ剥き出しになっている踊り場に駆け寄った。手摺りにつかまり、四階下の地上を見下ろす。
隣のビルの隙間に、頭部に黒いバンダナを巻いたサトルがこちらを見上げて立っていた。その顔がアキをとらえ、手を上げてみせる。視線を真横に転じ、通り向こうのビルの屋上を見る。繋がりっ放しの携帯をポケットから取り出し、口元に当てる。
「おれだ」
四階の『光栄商事』とペイントされた文字の隙間から見える窓際に、両手を後頭部で組んだ男の背中が見える。黒木は部屋の奥にいるのか、ここからは死角に入っている。デスクの向こうに立ち上がったままのリュウイチの腰の辺りが見えていた。
携帯を顔に押し付けたまま、その様子をじりじりとしながら見ていたカオルは、アキの声に飛びついた。
「どうだ、うまくいったか?」
「つっかいは、嵌まった」低い声が返ってくる。「どうだ、按配は?」
「膠着状態だ」カオルは答えた。「窓際の男が銃を置いて、両手を上げている。黒木は奥に見えなくなったままだし、リュウイチはどうやら立ったままだ。おれのほうからは見えないが、たぶん入口近くで、二人組が銃を突きつけているんだと思う。撃ち合いになるには、若干二人組の滑り込みが早かった。惜しかったな」
一瞬、間があき、吐息とともにアキが言った。
「……よし、じゃあ、駄目押しだ。|あれ《ヽヽ》をナオに渡し、すぐにアクションを起こしてくれ」
「分かった」
カオルは屋上の縁に携帯を置き、ポケットから長さ五センチ、太さ三センチほどの楕円形の鉄の塊を取り出した。文鎮だった。文具店でコピー用紙と同時に仕入れたものだった。
ごろりと重いその文鎮を、ナオに手渡す。ナオは掌で二、三回その重みを確かめて、カオルを見返した。
「頼むぞ」カオルは言った。「部屋の奥に向けて、一発勝負だ」
「大丈夫だ。ストライクゾーンは死ぬほど広い」
ナオは軽く笑うと、縁のところまで進み、投擲の構えをとった。中学まで、野球部のピッチャー。高校に進んですぐに傷害事件を起こした。野球の特待生だったこの若者には、何も残っていなかった。退部、そして中退。あとはお決まりのコースをたどった。
カオルは、そのナオの右腕がゆっくりと振りかぶるのを、息を止めて見ていた。
変化は突然やってきた。それまで金庫の男だけを見ていた桃井には、一瞬何が起こったのか分からなかった。
「伏せろ!」
いきなり柿沢の声が聞こえたかと思うと、ガラス瓶が破裂したような大音が室内に響いた。どこからか飛んできた黒い塊が目の前のデスク上でバウンドし、目と鼻の先のドアに跳ね返る。桃井はとっさに身を伏せた。床に砕け散るガラスの音に、鉄製のドアの表面が共鳴し、すさまじい残響が鳴りわたる。しゃがみこんだ桃井の目に、金庫のダイヤルをまわしている男の姿が映る。危険信号。背後で轟音が聞こえ、振り返ると、トカレフを握った角刈りの男がデスクに倒れ込むのが見えた。柿沢が撃ったのだ。トカレフは男の手を離れ、デスクの上を滑る。それに飛びつこうとするアロハの若者と、金庫のノブに手をかけた男の姿。それが同時に飛び込んできて、桃井の視界を引き裂く。銃口がさまよう。踏ん切りがつかない。
「金庫!」
柿沢が桃井に叫びつつ、銃を手に振り向きかけた若者に向けて発砲する。二度目の轟音とともに若者の首筋に小さな穴が穿たれた。次の瞬間、桃井は正面に向き直った。金庫の中から腕を抜き出した男の腕に、同種のトカレフが光っていた。そこから先はまるでスローモーションのように、桃井には感じられた。トカレフを取り出した巨漢の腕がゆっくりとこちらに向き直る。その銃口が自分の顔に向けられてくる──。
気がついたときには立て続けにトリガーを引いていた。一発、二発、三発──手首に衝撃が連続して起こり、相手の頬に、額に、黒い穴があき、最後の弾は顎にめり込んだ。顔面に三発喰らった相手は、銃を手にしたまま後方にもんどりうった。
最後の一人が倒れたのを確認した柿沢は、間髪を入れず行動を開始した。銃を片手に、腰を折ったまま窓際まで進む。床に、楕円形の鉄の塊が落ちていた。窓ガラスを突き破り、デスクの上で跳ね、入口のドアに弾き返されて転がったものの正体が、これだった。見た瞬間、狙撃される可能性はないと踏んだ。それなら最初から弾丸が飛んでくるはずだった。すぐに身を起こし、砕け散った窓ガラス越しにベレッタを構える。通りの反対側に、同じようなビルが見える。一瞬だったが、屋上で、さっと身を隠した人影をとらえた。銃を下ろした柿沢の目に、その下の四階が映った。柿沢と同じ目線の位置にある窓ガラスがいくつも開いており、大勢の人間がこちらを見て騒いでいる。
窓ガラスが割れた音と、砕け散った窓枠から外部に撒き散らされた発砲音に、気づいたのだ。気づくと、その下の三階の窓からも、身を乗り出している人間がいる。路上にも、無数の通行人が立ち止まっている。柿沢がいる窓を見上げ、指さして口々に騒いでいる。晒《さら》し者になっている。
チリチリと、破滅の予感が胸をよぎる。
柿沢は思わず舌打ちし、素早く後ろを振り返った。桃井は銃を見つめたまま、茫然と扉の脇に突っ立っている。
「桃井!」柿沢は低く叱咤した。「隣のビルから見られている。警察を呼ばれる前に、早く! 金庫!」
その声に、桃井は我に返った。柿沢の横、砕け散った窓枠の穴から、外の景色が見えた。柿沢の言葉通り、窓に身を乗り出してきた野次馬の顔が見え隠れしている。
物思いに沈んでいる場合ではなかった。反射的に金庫まで駆け寄った。前に倒れているスーツの男を蹴飛ばし、扉が開いたままの金庫の中を覗き込んだ。
その瞬間、桃井は自分の目を疑った。
三層に分かれたその内部には、一段目の棚に伝票の束、二段目にもう一丁のトカレフ。そして最後の三段目に、百万の札束が一つ──それだけだった。ノブにかかったボストンバッグを毟り取り、無駄だと知りつつもその中を覗き込む。当然、しおれたバッグの中は空っぽだった。
大量に膨れ上がっていたあの中身は、煙のように消えていた。
「ない!」桃井は半泣きの表情で、柿沢を見上げた。「金が、ない!」
窓ガラスの割れる音が聞こえてきた時、アキは非常ドアを開けっ放しにしたまま、踊り場の外部との敷居の上に立っていた。派手なガラスの割れる音につづいて、廊下の事務所の扉が銅鑼の鳴ったような大音響を轟かせた。続いて一発、二発と発砲音が響き、一瞬遅れて、三発立て続けに連射音が聞こえた。それっきり、音はやんだ。
アキは携帯を再び耳に当て、低く声を発した。
「どうだ?」
「なんとも言えない」ややうわずった、カオルの声が聞こえる。「ガラスが割れた途端、一瞬にして銃撃戦が始まった。目まぐるしく人影が動いたんで、よくは分から──やべ──!」
最後にそう叫んだカオルの声が、途切れた。アキは思わず携帯を握り締めている手に力をこめた。
「ふーっ」再びカオルの声が聞こえる。「危ねぇ、危ねぇ。おい、あの細い男は、生きてるぜ。今、窓際までやってきて、こっちに銃を向けやがった」
「となると、黒木たちは三人とも死んだのか?」
「……たぶんな」
電話口でおちょくったリュウイチのことを、思い出した。わずか二時間前のことなのに、ずいぶんと遠い昔のことに感じられる。
それを選んだのは、リュウイチ自身だ。しかし、ヤクザとしては何らいい思いを味わえずじまいのその若すぎる死に、チクリと心の痛みを感じた。
とはいえ、斃《たお》れたのがヤクザ側だけなのなら、角材はまだ取り外せない。まだ進めなくてはならない先の段階があった。感傷は禁物だ。気を取り直し、アキは再び口を開いた。
「問題は、その二人組が、ともに生きてるかどうかってことだな」
その直後、壁を通して、短い喚き声が二度、聞こえてきた。後に続く発砲音はない。一人が、仲間の一人に喚いたのだ。そのどちらかが、当然、細身の男になる。
「今、確認できた。二人とも、生きている」アキは言った。
時計を見た。タケシがピンク・ワールドに電話を入れてから、もうかれこれ三分近くが経過していた。道玄坂からの入口に、ユーイチが見張りとして移動しているはずだった。
「やつら、まだ来ないのか?」
「ユーイチからの連絡はない」カオルの声が心なしか苛立っている。「あの騒ぎだ。おそらく今ごろは誰か通報しているはずだ。あまり遅れそうだと、警察のほうが先かも知れないぞ。それでなくても変な男が事務所前をうろついていたし」
「変な男?」初めて聞く情報だった。「なんだ、それ?」
カオルの説明によると、右手に包帯を巻いた変な男が、例の二人組をじっと監視している様子だったという。
「でも、今のところ、どこかの店員風の男に引き立てられて駅方面に消えたままだから、思い過ごしだったのかも知れないけどな」
「だと、いいが」
計画が転がり始めた今となっては、そう願うしかなかった。言いながらアキはため息をついた。
柿沢は愕然として桃井を振り返った。
「なんだと?」
「だから、ない!」桃井が繰り返す。「拳銃と伝票、それと百万ぽっちしか、入ってない!」
柿沢は素早く部屋の中を見まわした。デスクの上にもそれらしきものはない。壁に寄せた戸棚の上にも、ない。デスクに駆け寄り、引出しという引出しを次々と開けていった。
最後には、六つのデスクの引出しを全部開け切った。
───ない。どこにも、ない。
呆然として身を起こしかけた柿沢の視界に、窓際の一対のソファと、低いテーブルが飛び込んできた。
ソファの奥に置いてある大量の書類のようなものに視線が釘付けになった──彼が下見に来た時、アキとかいう若造はそのソファの横に立っていた。
テーブルの上にもいくつかの書類が散らばっている──頭《カシラ》と思われるスーツの男は、連れてきた若者をほっといたまま、熱心にそれに見入っていた。
何故だ?──柿沢は必死に考えた。
閃いた。
バッグに入っていたのは、この書類だ。雅と死んだヤクザ連中の間の利権に絡む、なんらかの書類だ。
そう思い、桃井のほうを振り返った。口を開こうとして、桃井の横に転がっているしぼんだボストンバッグが目についた。再び思考が目まぐるしく回転し始める。
折田のボストンバッグ──それをこれ見よがしに肩に担いでいた、あの若造。
集団の前で、わざわざその中から取り出された、百万の束。
襲撃を直前に知っていたかのような、ヤクザの動き。
突然、窓ガラスを突き抜けてきた、鉄の礫《つぶて》。
さっと屋上に身を潜めた、人影。
そこまで思い出した時、一瞬にしてすべての要素が|ひとつ《ヽヽヽ》に絡まり、まるで線香花火の残り火のように、ぼとりと落ちた。火種をつけたのは、あの若造だ。
柿沢はドアに向かって走り寄った。ドアノブを握り、素早く押した。
動かない。
今度は引いてみた。やはり動かない。
再びドアノブをガチャガチャ言わせ、渾身の力を込めて押してみるが、鉄製の扉はビクともしない。
「やられた!」桃井を振り返り、初めて絶望的な声を上げた。「罠だ!」
桃井はわけが分からぬように、柿沢を見た。柿沢は激しく舌打ちし、壁際に飛んで行って、鉄の礫を拾い上げ、桃井に向かって放り投げた。器用な手つきで桃井がそれをキャッチする。
「文鎮だ」掌の塊に見入る桃井に、柿沢が言った。「通りの向こうの屋上から、それを投げてきた奴がいる。おれが銃を構えた途端、頭を引っ込めた」
「え?」
桃井の不審げな視線には答えず、柿沢はずかずかとソファに近づいて、大量の資料を小脇に抱え込み、桃井のそばまでやってきた。床に転がっている空のボストンバッグにドサリと詰め込み、片手に下げる。
「これが、おれたちの見た現金の正体だ」
「なっ!」
「あの百万は見せ金だ。おれたちはまんまとそれに乗せられた。あのガキどもは最初からおれたちが尾行していることに気づいていた。それを知ったうえで、ここに誘い込んだんだ。こいつらと──」そう言って、顔に三発喰らい血塗れになって死んでいる大男を蹴った。「潰し合いをさせるためだ。そしておれたちが襲う直前に、事務所に連絡を入れた。だから慌てて銃を取り出しかけているところに、おれたちが踏み込んだ」
「しかし、どうやって?」桃井はきいた。「どうやって、おれたちがレッド・クロスにいることを突き止めた?」
「それは分からん。だが、まごまごしていると警察がやってくる。おれたちは、袋の鼠だ」
そう吐き捨てた柿沢の顔も、焦りに引き攣《つ》りはじめていた。
桃井は動き出した。ドアノブに飛びつき、それをガチャガチャ言わせて、扉の隙間からシリンダーの開閉の具合を確認する。
「本ロックはかかっていない!」柿沢に向かって叫ぶ。「たぶん、外からつっかえ棒がしてあるだけだ!」
「だが、どうやってそれを外す?」絶望的な面持ちで柿沢が返す。「いくら押しても、ビクともしなかったんだぞ」
「なら、開くまで何度も体当たりするまでだ」
「無駄だ」
そう言い切った柿沢に、桃井は乾いた笑い声をたてた。
「じゃあ、どうするってんだ? 警察がやってくれば、どうせおれらはお陀仏だ。銃撃戦になり、やつらの応援が駆けつけ、やがておれたちは弾切れになる。だったら、体が壊れるまで体当たりしてみたところで、死んで元々だろうが」
無茶苦茶な理屈だった。が、思わず柿沢もにやりとした。このままでも、やがて自分たちを待ち構えているのは破滅でしかない。
なら、桃井の言う通り駄目で元々だった。
「おれがノブを開いた状態にしておく」柿沢は素早くドアに駆け寄り、ノブを掴む。「言った通り、死ぬ気でぶつかってくれ」
「やれやれ」桃井はため息をついた。柿沢が言った昨夜の軽口を、ふと思い出した。「骨は、おまえが拾えよ」
柿沢は笑った。桃井も笑った。いい歳をした大人二人が、声を出して互いに笑い転げた。
からりと晴れた気持ち。死ぬ前の狂気──。
それで充分、報われた気になった。
ひとしきり笑った後、桃井は言った。
「じゃあ、行くぞ」
柿沢も軽く、顎をしゃくる。
「やってくれ」
桃井は、部屋中央のデスクの間を力を込めて押し広げた。電話コードがブチブチとちぎれ、助走路の空間ができた。ドアまで約五メートル。桃井の身長は百八十二センチ。体重が八十五キロ。その巨体がドアに突進してゆき、ありったけの勢いで肩口から激突した。扉の反響する音が、室内に谺《こだま》する。
再び最初の場所に戻り、今度は逆の肩口から全体重を乗せて激突する。二度目で、ドアの中央部にそれと分かる窪みができた。思ったより、ドアの厚みはなさそうだ。
三度目。桃井は、また逆の肩口から全力でぶつかってゆく。反響音に混じって、ミシッ、とドア全体が歪む音が聞こえる。一瞬、ドアの上部が僅かにブレたような気がした。
四度目の激突。反響音に混じって、ひずむ音。
ドア上部が、衝撃にブレる。今度ははっきりと目視できた。
何故、上部だけがブレる?──そう思った柿沢は、ハッとした。
つっかえ棒はどこにある? 空中に浮いているわけではない。当然、廊下側のドアの靴擦り付近にセッティングしてあるはずだ。それも蝶番とは反対側の、開口部付近にあてがってあるはず。梃子の原理を考えれば、当然その位置だ。そして、ドアの鉄板は予想以上に薄い──。
そこまで閃いた時、五度目の激突に身構えた桃井を、慌てて手で制した。
「待て」
「なんだ?」さすがに息を切らしながら桃井が問いかける。「おれの心配なら、無用だぞ」
「ちょっと、待て」柿沢は繰り返した。「おまえが即席のつっかい棒を作るとしたら、材質はなんで作る?」
「なんだ、それ?」
「いいから、答えろ。なんで作る?」
「当然、木材だろうよ」明らかにいらいらしながら桃井が答える。「鉄じゃ、その見合った長さにはすぐに加工できない」
「それ以外には、ないよな」
「それがどうした?」思わず声を荒立てる。「時間がないんだ! 禅問答をしてる場合じゃないぞ!」
そんな桃井に、柿沢は微笑んだ。
「まあ、見てな」
そう言い捨てて、デスクの上と床に転がっている二挺のトカレフを拾い上げた。金庫まで歩いてゆき、その中に腕を突っ込んで三挺目を手に持ち、桃井の元に戻ってくる。M8045と同じ、四五口径。火力からいけば、充分いけるはずだった。
「せっかくだから、やつらの銃から使ってやろう」柿沢は再び笑った。「マガジンに装填されている弾を全部合わせれば、おそらく三、四十発にはなる」
受話口に、しばらく黙り込んでいたカオルの声が聞こえた。
「おまえの言う通りだ。もう一人のデカ男も生きていた」カオルがいう。「……だが、そいつの動きが、なんだか変だぞ。中央にあるデスクの真中に、空間を空けている。デスクとデスクの間を押し広げている──あれっ、ダッシュした!」
その直後だった。廊下中に、ドーン! という大音響が轟いた。
アキは携帯を耳に当てたまま、事務所のドア前まで駆け出した。反対側の壁沿いに立ち、目の前のドアを見る。異常はない。そう思った途端だった。
再びドーン! という大音がドア全体に響き、ドアを突っ張っている角材が、一瞬ビクッとしなるのが分かった。ようやく何の音か分かったアキは、理屈を度外視したその暴挙に呆れる思いだった。ドアに向かって、なりふり構わず体当たりしているのだ。
三度目の衝撃。鉄板の鳴る轟音に混じって、ミシッという何かの亀裂音が走ったのをアキは聞き逃さなかった。同時に足元で、太さ七センチもの角材が、またもビクン、としなった。すさまじい力だった。鉄製のドアを力業で押し破ろうとする彼らが、そら恐ろしくさえ思えた。
四度目の衝撃で、亀裂音はさらに大きくなり、角材は一瞬、たわむまでの変化を見せる。それを目の当たりにした刹那、こんな常軌を逸した連中を相手にしている自分に、心底うんざりした。
しかしその後、部屋の内部からやりとりする声のようなものが聞こえたかと思うと、それっきり静かになった。
体当たりを、中断したのだ。
思わずほっとしたアキの携帯に、突然カオルの声が響いた。
「今、ナオにユーイチから電話が入った」カオルは言った。「それらしきクルマが道玄坂から曲がってきた。柄の悪そうな男を満載したBMWだそうだ」
アキはドアから少し離れてしゃがみこみ、低く言った。
「屋上から、見えるか?」
「ちょっと待て」しばらくの沈黙のあと、カオルが再び口を開いた。「──見えた。確かにBMWがやってきている」
と、その時、開け放ったままの非常扉の向こうから、パ、パーンというクラクションが響いてきた。
「聞こえたか?」カオルが言った。「道路の通行人を蹴散らしながら進んでくる。やつらに間違いない。撤収だ」
アキはチラリと角材に目を走らせた。体当たりを諦めたのか、室内は依然静かなままだった。あの連中がビルの前にクルマを付け、ここに乗り込んでくるまで、おそらくあと一分もかからない。
潮時だった。アキは携帯を持ったまま、ゆっくりとその腕を角材に伸ばし始めた。
扉の前に中腰になった柿沢は、ドアの下部にトカレフを向け、至近距離からいきなり発砲した。一発、二発、三発、四発──靴擦りのすぐ上の鉄板に、ほぼ真横に三センチ間隔で穴を穿っていく。
「弾丸は廊下まで抜けているはずだ」柿沢は言った。「穴を覗いてみろ」
言われるままにその穴に目を寄せ、覗き込む。一発目の弾痕──廊下側の鉄板の穴の先に、コンクリート製の床が弾丸で抉れているのが分かる。二発目の弾痕──これも同様に床の表面が破損している。そして、三発目の弾痕を覗き込んでみた。
「え?」
思わず桃井は声を発した。その穴の先に、木材の表面が破損しているのが僅かに見えた。角材──それが今まで散々彼らを悩ませていた、つっかい棒の正体だった。
「ここだ!」柿沢を振り返り、歓喜の声を上げた。「ここに角材の表面が見えている! ここを狙え!」
屋上のカオルは、道玄坂からやってきたBMWが、事務所前のメルセデスS600の真後ろに突っ込むようにして急停車するのを見た。
四枚のドアが一斉に開き、男たちがばらばらと降り立つ。今ごろ四階ではアキがこっそりと角材を取り外しているはずだった。男たちの乗り込みに時間がかかると、室内の二人に角材を取り外したことを気づかれるおそれがある。
早く行け! とカオルは心の中でその男たちを叱咤した。
ところがここで、予想もしなかったことが起こった。
こちら側のビルの死角から、そのBMWに小走りに駆け寄ってゆく人影が見えた。先ほどの、あの右手に包帯を巻いた男だった。男は後部座席を下りたスーツ姿の男に走り寄り、早口で何かまくし立てている様子だ。指揮官とおぼしきスーツ姿の男は、包帯男の言葉に何度かうなずき返している。
カオルはその展開を呆気に取られて見つめていた。
何なんだ、あの包帯男は? 光栄商事の組員か?──違う、それなら最初の銃声が聞こえた時点で迷わず乗り込んでいるはずだ。そうすると、あのクルマの連中は、麻川組のやつらじゃないのか? しかし、それはありえない。タケシは間違いなくピンク・ワールドに電話を入れている。だから駆けつけてくる連中は、それ以外には考えられない──カオルの頭は混乱した。
その時、隣のナオがカオルの脇腹を突ついてきた。
我に返って振り返ると、ナオは誰かの喚き声が漏れ聞こえている携帯を片手に、戸惑いの表情を浮かべている。
「タケシが、わけの分からんことを喚いている」ナオは言った。「あのクルマの連中、麻川組の連中じゃないとか、何とか……」
カオルは口をきく間も惜しく、ナオの手から携帯をもぎ取った。もぎ取りながら、チラリと向かいのビルの非常階段に視線を走らせた。開け放した扉から、まだアキは出てこない。なにまごついてんだ!──苛立ちを感じながらも、送話口に口元を当てた。
「カオルだ」タケシに問いかけた。「どういうことだ?」
「だから、違うって!」いきなりタケシは怒鳴り返した。「あいつら、麻川組の連中じゃない!」
「なに?」
「見たんだ! カジノの入口でおれを蹴りつけた奴が混じってる!」
その時、また向かいのビルから銃声が響いてきた。非常口に目を走らせる。アキはまだ出てきていない! ナオの携帯を放り出し、自分のそれを耳に当てた。二発目の銃声──。
「おい、アキ!」
三発目、四発目──なおも続く銃声が、携帯の送話口から至近距離で響いてくる。アキの反応はない。
ぞっとした。
「おい! アキ、アキ!」
銃声が響き始めた時、久間は意を決したように懐から小振りの拳銃を取り出し、素早く井草の左手に握らせた。
「なんですか、これ?」
十五センチほどの長さだが、ずっしりとした感触。生まれて初めて銃というものを手にした井草の声は、思わず震えた。
「ワルサーPPK/S。左手一本でもなんとかなるやろ」言いながら、反対側の腰元をチラリと開いてみせる。「ワシは、これや」
ベルトに挟み込んだ黒く長い銃身が、街灯の光を受けて鈍く光った。グリップに見える丸枠の星──素人の井草にでも、それがかの悪名高いトカレフであることは分かった。再びビルの四階から連射音が鳴り響いてきた。周囲の男たちがあわただしく動き始める。
「行くで」
久間がうながす。
「待ってください!」井草は、思わぬ展開に戸惑っていた。銃撃戦が繰り広げられている修羅場になぞとても乗り込む度胸はない。「ぼくはとても銃なんか──」
そう言いかけた井草の胸倉を、久間はいきなり力ずくで引き寄せた。
「よう聞け、青瓢箪」久間は気迫のこもった眼差しで、井草を見据えた。「おまえなんぞ、誰もアテにはしとらん。行くんはおまえ自身のためや」
「………」
「カジノから金を奪われ、見張りではナンバーを見逃し、組のいい笑いモンや。ここで踏ん張らんとワレ、一生ワシらに頭が上がらんぞ。それでもええんか?」
その言葉に嘘はない。やはり、この男を嫌いにはなれなかった。
「──行こか」
「はい」
気づいた時には思わず返事を返していた。井草はワルサーを握り締めると、男たちのあとを追って駆け出した久間に続いた。
桃井が顔をずらしたドアの表面に、素早く柿沢が目を寄せ、廊下の対象物をとらえた。すぐに目を引き離し、その弾痕と同じ角度の延長線上から、三番目の穴をめがけてトカレフを連射した。一発、二発、三発、四発、五発……立て続けに轟音が鳴り響き、見る間にその穴が大きくなってゆく。
一挺目の銃のマガジンが切れると、すぐに柿沢は二挺目の銃を手にし、再び連続してその穴に弾丸を叩き込んでゆく。室内に速射音が反響し、火薬と鉄の焼けるにおいがツンと鼻をつく。柿沢とドアの間から硝煙が立ち昇り、目に沁みる。
二挺目の拳銃を撃ち尽くしたところで、穴は直径五センチほどにまで大きくなっていた。わざわざ顔を寄せなくても、その穴の先に砕け散った角材の断面が見えた。
柿沢はドアノブを回しながら扉を蹴飛ばした。あっさりと扉は廊下側に開き、床の表面に四散した木片と、真っ二つに割れた角材が転がっていた。二人は思わず顔を見合わせ、無言で笑った。
柿沢は素早く金庫のそばに駆け寄り、ボストンバッグを拾い上げた。先ほど書類を詰め込んだ時、中に名簿らしきものがチラリと見えた。後日、雅を探すための参考になるかもしれなかった。
「出るぞ!」
先頭を切って廊下に半身を乗り出した桃井は、その先の光景にギョッとなった。
廊下の先、階段の降り口近くに、無数の男たちが銃を構えている。さらにあろうことか中央には、及び腰ながらも片手に銃を構えている見覚えのある顔があった。カジノの下見で何度か見かけたその顔が、恐怖に引き攣っている。瞬間、首を引っ込めた。直後、すさまじい数の発砲音が響き、開きっぱなしのドアは瞬く間に蜂の巣状態になった。
「畜生っ」室内に転がり込みながら、桃井は低く毒づいた。「なんでこうなるんだよ!」
「警察か」
「違う。カジノの連中──松谷組だ」
数を頼んだやつらは、すぐに入口に押し寄せてくる──そう直感すると、柿沢はとっさにボストンバッグをデスクの向こう側に放り投げた。バッグがデスクと窓際の壁の間にストンと落ちる。それを確認すると同時に、床に置いていた二挺の拳銃──右手に未使用のトカレフ、左手にベレッタを拾い上げた。
「来い」中腰になった桃井に言った。「デスクの後ろだ」
弾かれたように桃井が右手から、柿沢が左手から、デスクの後ろにまわり込む。そんな彼らの背中に、廊下を走り出した無数の足音が響いてきた。二人がまわり込んだとほぼ同時に、最初の男が入口に姿を現した。間髪を入れず柿沢は発砲した。銃を構えたままの男が廊下の壁にすっ飛んだ。二人目の頭と銃を持った腕が壁際から覗く。柿沢と同時に桃井も発砲した。額と頬に二つの穴があき、男は入口に倒れこむ。
「なんでやつらが?」桃井が喚く。
「そんなこと、知るか」柿沢が答える。
男の倒れこんだ背後に、三人が同時に現れた。堪らず柿沢と桃井は身を伏せた。無数の射撃音が響き、背後の窓ガラスが砕け散り、二人の背中に降り注いだ。柿沢はすぐさま、デスクの下から見える男たちの足──白いエナメル靴を狙い撃ちした。エナメルに穴があくと同時に、悲鳴があがる。隣で桃井の発射音が響いた。再び叫び声が聞こえ、別の男の向こう脛が跳ね上がるのが見えた。慌てきった六本の足は、再び壁に隠れた。そのまま五秒ほどが過ぎた。相手にしてみれば、不用意に踏み込んだところで、二人が正確にどの場所にいるかは分かっていない。狙い撃ちされるのが関の山だということに、ようやく気づいたのだろう。
「桃井」正面を見たまま、小さく呼びかけた。「見たとき相手は何人いた?」
「たぶん、五、六人だ」
二人消え、三人から四人の間。うち二人は足に被弾しているが、それでもまだ相手が優位な立場を確保していることには違いない。前後に進退が可能な入口を押さえ、必要なら援軍を頼むこともできる。
かたや、こちらはいつまで経っても二人だけの、袋の鼠だった。背後は四階の窓、前方の入口は彼らに押さえられ、身動きが取れない。グリップを握る掌が汗ばんでいることに気づく。消耗戦の予感が、柿沢の脳裡で渦巻いた。
屋上のカオルが心配していた通り、アキはその時点で、角材の取り外しに予想外に手間取っていた。
考えてみれば、廊下幅より五ミリ長くしたものを無理やり両側に捻じ込んだのだ。その強固な突っ張りが利いていたおかげで二人組の体当たりにもなんとか持ちこたえられたのだが、いざ取り外す段になると、今度はそれが仇となっていた。角材全体に指をまわして引き上げられるようなら話は簡単だったが、その底部は床にべったりと張り付いていて、裏側までは指をまわせない。となると、両手の指で角材を摘み上げるような形で持ち上げるしかない。だが、アキの握力をもってしても、到底それだけの力では持ち上がらない。何度試してみても無理なことに気づいて、愕然とした。
一瞬、横から思い切り蹴飛ばせば、とも思ったが、それだと派手な音がして室内の二人組に気づかれる心配がある。
あわただしい計画段階での思慮不足──思わず、自分の迂闊さを呪った。
こうしている間にも、刻々と時間は過ぎてゆく。援軍が乗り込んでくるのに予想外に時間がかかっていることに気づいてはいたが、いつ何時廊下の先の階段からその足音が聞こえてきてもおかしくない状況だった。焦った。腋の下が粘つく汗で濡れている。
ふと思いついた。蹴飛ばすのが駄目なら、横から両腕で思い切り押し切ってみるのはどうだ! これならそんな派手な音を立てずに取り外せるかも知れない! 普通ならすぐにでも思いつきそうなことだった。なのに、肝心な時はなかなかそのちょっとした思いつきが出てこない。
思わず苦笑し、再び角材に手を伸ばそうとした瞬間だった。
いきなり至近距離で発砲音がした。目の前の床に跳弾の煙が立ち、仰天してドアを見た。途端、再び連続する発砲音とともに、ボツ、ボツ、ボツとドアに穴があいた。二発目が床を抉り、三発目が角材の表面を少し破損させる。直後、鋭い痛みを二の腕に感じた。四発目の発射音。見ると、剥き出しの肌が少し抉れ、そこから鮮血が滲み始めていた。跳弾がかすったのだ。痛みを堪えながら角材に手を伸ばそうとした瞬間、ドアに開いた四つの穴から、男の声がはっきりと漏れてきた。
「ここだ。ここに角材の表面が見えている──ここを狙え!」
とっさに腕を引っ込めると同時に、すさまじい連射音が廊下中に響きわたり、角材の中央部が見る間に砕け散ってゆく。ドアに大きく穴が開き、室内の明かりが漏れてくる。
その意図を察知したアキは反射的に立ち上がり、非常口に向かって走り始めた。
束の間、銃声が途絶えた廊下に、階段を駆け上ってくる無数の足音が聞こえてくる。
非常階段の踊り場に飛び出ると同時に、振り向きざまドアを閉めた。その直後、再び外部まで銃声が響いてきた。アキは連続する発砲音を、階段を駆け下りながら耳にした。今度はさらにすさまじく、十発以上の連射音だった。
一階と二階の踊り場にはサトルが身を潜めていた。坊主頭の頭部に、黒いバンダナを巻きつけている。サトルが息をつめた声で問いかけてきた。
「角材は?」
「撤収できなかった」最後の階段を下り、サトルに向き合って言葉を続けた。「やつら、ドア越しに角材めがけて銃弾を連射してきやがった」
サトルがアキの二の腕に目をとめ、驚いた声を上げた。
「撃たれたのか! 血が出てるぞ!」
「かすっただけだ」アキは顔をしかめ、右腕を見た。抉れた部分から流れ出た鮮血が、肘を伝って指先から滴り落ちていた。「バンダナを貸してくれ」
サトルが素早く頭部のバンダナを毟り取り、アキに渡した。それで傷口を押さえた直後だった。またビルのどこかから、一斉射撃のような無数の銃声が、数秒の間轟いた。アキは二の腕をバンダナで縛ると、サトルとともに一足跳びに表の通りへと出た。
通りはすでに黒山の人だかりだった。ワンブロック先まで溢れ返った野次馬たちは、全員が雑居ビルの最上階を見上げていた。次々と足を止める通行人、定食屋から駆け出して来る店員──アキがビルの様子を窺っている間にも、群衆はみるみる膨らんでゆく。
再び一発、続いて二発と単発の銃声が聞こえたかと思うと、また無数の銃声が一斉に夜空に響きわたった。一瞬にして四階の窓ガラスのほとんどが砕け散り、その破片が地上に雨霰と降り注いでくる。それを避けようと、逃げ惑う人波が大きくうねる。足をとられて転げるハイヒールの女、だれかれ構わず他人の背中を突き飛ばすサラリーマン風の中年男。なおも連続する銃声に、女の悲鳴、男の怒声、子供の泣き声が交錯する。押し戻された人垣の中で、さまざまな言葉が飛び交っている。
「ヤクザの出入りだぜ。ありゃ」
「まるで戦争じゃんか」
「あの階、死人の山じゃねぇのか」
アキは、自分が仕組んだ筋書きながら、そこで繰り広げられている修羅場を想い、背筋が寒くなるのを感じた。
「麻川組の援軍は、何人いた?」
サトルは驚いたようにアキを振り返った。
「カオルから聞いてないのか?」サトルは言った。「全然違う。あいつら、松谷組の連中だぞ!」
アキは仰天した。
「何だと!」
「タケシが確認してる。男たちの中に、カジノであいつを足蹴にした奴が混じっていたそうだ」
「なんでそいつらがあんなところにいやがるんだ!」
思わず大声を上げ、荒々しくサトルの腕を掴む。負けずにサトルも喚き返す。
「そんなことおれに聞かれたって分からねえよ!」
携帯──ポケットの携帯。カオルに繋がりっ放しのはず──ドア越しに発砲されて気が動転し、すっかりその存在を忘れていた。気づくと、今もサイドのポケットの中から、微かに人の喚き声らしきものが漏れている。慌てて取り出そうとしたその瞬間、背後からすさまじいクラクションの連呼が響いてきた。
「どけっ、どけ、どけぇ!」
振り返ると、通りの群衆を弾き飛ばすかのような勢いで二台のクルマがこちらに向かって突っ込んできた。一台目のセドリックから顔を突き出した男が、鬼瓦の形相さながら、さかんに腕を振りまわしている。パニックに陥った群衆が津波のようにアキとサトルの背中に押し寄せ、逃げ場所を求めてわれ先に前方のスペースを潰し合う。二人はなす術もないまま揉みくちゃにされた。
野次馬たちが逃げ惑ったあとの空間に、セドリックとマークIIが派手なスキッド音を響かせて停車した。二台のドアが開き、十人近くの男が路上に降り立った。周囲も憚らず拳銃を手にした者、日本刀を抜き放った者たちが、我先へとビルの入口に駆け込んでゆく。麻川組の援軍だった。
茫然と佇む井草の前に、地獄絵が広がっていた。
硝煙の匂い。蜂の巣状態になった半開きの扉。扉の前に、頭から血を流したまま重なり合って転がっている二つの死体。廊下の床には、足を撃たれた組員が銃を握り締めたまま呻き声を上げていた。
すぐ横に、久間がいる。トカレフを構えたまま、壁際に背中を寄せて事務所内の気配を窺っている。
こちらの次の出方を見ているのか、室内はひっそりと静まり返っている。
「あかんな──」久間が、きりっと歯軋りした。「あかん。時間かかりすぎやで」
「ど、どうしましょう?」
おろおろと口を開くと、久間はちらりと井草を見やった。
「どうもこうも、あるか」そう吐き捨て、ふと苦笑いを浮かべた。薄闇に白い歯が見えた。「もたもたしとると警察《サツ》が来よる。ほかは使いモンにならん。ワシとおどれで、なんとかするしかないやろ」
「そんな……」
泣きそうな気持ちでつぶやいた。彼自身、まだ最初の一発しか弾を撃っていない。初めの決意はどこへやら、その後の惨劇に、すっかり腰砕けになっていた。
不意に、階下から無数の足音が聞こえてきた。微かに伝わってくる、衣擦れの音と男たちの息遣い──。警察ではない。日本の警察なら、まず初めに投降の呼びかけがある。
久間と井草は目を合わせた。
直後、久間は目にも停まらぬ速さで行動を開始した。呻き転がりつづけている二人の組員の首根っこを両手で掴むと、階段の踊り場まで力ずくで引きずり出し、自らも隣に伏せてトカレフを構えた。その意図を察して近づこうとした時、久間は一瞬井草を見て、事務所の扉のほうに視線を移した。
「後方を援護せい!」
そう叱咤された瞬間、四階と三階の踊り場に先陣が現れた。久間のトカレフが火を吹いた。先頭の銃を持った男が吹っ飛ぶ。後に続いていた男たちに間髪を入れずトリガーを引き続け、引きながら左右に喚き散らす。
「ボケっ、おまえらも撃たんかい!」
弾かれたように両脇の二人もなんとか銃を連射し始めた。それに対して、階下からも手摺り越しに、無数の銃が入れ替わり立ち代り応戦してくる。井草は、チラチラと横目で奥の扉のほうを窺いながらも、ついその銃撃戦に目が惹きつけられてしまう。
予想外の人数の多さだった。階段にはすでに三つの死体が折り重なっている。しかし、その横の手摺り越しに代わる代わる覗く姿だけでも、まだ五人はいる。踊り場と廊下の境目にいる井草の周りにも跳弾が雨霰と降り注ぎ、思わず後ずさりする。階上という有利な場所を占めているせいで、今のところほぼ互角の撃ち合いだったが、井草から見ても火力の差は明らかだった。
果たして階下からの銃弾が途絶えたかと思うと、すぐさま手摺り越しに無数の頭部と拳銃を持った腕が現れ、一斉に射撃を開始してきた。不用意に顔をのぞかせていた組員の頭部が一瞬ビクリと揺れ、その身体がぐったりと床に伸びた。
悲鳴とともに残る組員も床の上をのた打ちまわり始めた。鎖骨を押さえた指の間から鮮血が迸《ほとばし》る。一瞬静まり返った空間に、虚しく空撃ちの音が響いた。久間のトカレフが弾切れを起こしたのだ。直後だった。それを察した階下の男たちが怒号を上げ、一斉に踊り場に姿を現した。横の死体から拳銃を毟り取ろうとした久間の額に、大きな弾痕が穿たれるのが見えた。
気づいた時には、廊下奥の非常階段に向かって走り出していた。半開きになった扉の横を通り過ぎようと僅かに速度を落とした瞬間、背後で四、五発の銃声が響き、一瞬遅れて胸と腹部に焼け付くような痛みが走った。まだ勢いを残していた四肢はよろけながらも非常階段の扉にぶつかった。カシラ! と誰かの叫ぶ声が、はるか遠くに聞こえる。
寒い、寒い──。
「う、うう……」
震える手で、ノブをまわすのが精一杯だった。
踏ん張れない──力なく寄りかかった体の重みで、扉が開いてゆく──崩れかかった斜めの視界一面に、ビル群の無数のネオンと、その先のマークシティの輝きが飛び込んでくる。何故かその光が淡いブルーを感じさせた。どこかで見たことのある風景──。
思い出した。
二月のゴールドコースト、同じような夏の終わり。ツアーガイドに土産品屋の店員、ワーホリ仲間と三分割《シエア》して住んでいた海岸通りのコンドミニアム。眼下に広がるブルーの街灯と、極彩色のネオン。開け放った窓に、|カ ジ ノ《コンラツド・ジユピター》に繰り出す観光客の笑い声に混じって、潮風が波の音を運んでくる。サンセット・パーティとは名ばかりで、いつも明け方まで騒いでいた。束の間の夜と一瞬の朝焼け。楽しかった夏のなごり。
うっすらと微笑んだ途端、記憶が途切れた。
永遠の闇が訪れた。
静まり返っていた廊下から、ぼそぼそと話し声が聞こえた。かと思うと、不意にあわただしく動きまわる気配が起こり、デスクの下の柿沢と桃井は想わず顔を見合わせた。
後方を援護せい、という喚き声が聞こえた。連続して三発の発砲音が響いた。再び罵り声が聞こえた直後、すさまじい数の銃声が建物全体に鳴り響いた。柿沢は素早くデスク下から身を起こし、壁際から通りを見下ろした。人だかりは、今や黒山のようになっていた。メルセデスの後ろに、先ほど見たときにはなかったBMWが停まっている。さらにそこからやや離れて、ドアが開けっ放しのセドリックとマークIIが放置されている。それで、全てを理解した。再びデスク脇にしゃがみこみ、桃井にきく。
「あと、何発残っている?」
一瞬の沈黙のあと、桃井は口を開いた。
「分からない……」
柿沢は思わず顔をしかめた。廊下から悲鳴が起こった。事態は切迫してきている。援軍──それも二台に分乗してくるほどの頭数だった。満足に動けるのは数人しかいない松谷組の連中は、すぐに押し切られる。となると、今度は自分たちが標的となる。
一瞬、ドアの前を誰かが通り抜け、そのあとを二発の銃声が追う。
「カシラ!」
喚きながら飛び込んできた男の頭を撃ち抜いた。これでトカレフの分で、四発使った。続けて現れた一人は、桃井が始末する。さらに一人が壁際から顔を覗かせた。瞬時に引き金を引き、額を撃った。五発目。
再び入口付近が静まり返った。相手は、飛び込みざまに撃たれるのを警戒している。
左手のベレッタにはあと六発弾が残っている。だが、おそらく桃井のベレッタは、あと二、三発しかない。銃撃戦が長びけば、こちら側が必ず先に弾を撃ち尽くしてしまう。
どうする?──このままでは自滅だった。必死に頭を回転させた。どうする。トランポリン? スプリング? 車のサスとルーフのクッション──
「桃井」閃いた時には勝手に口が動いていた。「先に地上に飛び降りろ。おれも続く」
「なっ」桃井は絶句した。「なにを言う、ここは四階だぞ! 間違いなく骨が折れちまう。下手したら死ぬぜ」
「ここにこのままいても、いずれ死ぬ!」柿沢は押し殺した声で返した。「ビルの前に、やつらのベンツが停まっている。屋根めがけて飛び降りれば、なんとかなるかも知れない。援護する。バッグを持って尻から着地しろ」
「しかし──」
言い返そうとした桃井が、ふと、耳をそばだてた。
遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえてきた。柿沢もその音に気がついた。
ちらりと窓に目をやり、再び柿沢は桃井を見た。これでは万が一銃撃戦に勝ったとしても、永久に刑務所送りだ。
「分かった」バッグを掴み、桃井は言った。「援護してくれ」
二人は同時にうなずき、同時に立ち上がった。素早く両腕を構えた柿沢の前方に、幸いにも人影はなかった。不用意に姿を見せるのを、まだためらっているのだ。しかしコンクリートの壁の向こう側からは、男達が息を潜めている気配が濃厚に伝わってくる。
桃井はギザギザにささくれだった窓枠を開けた。その桟に片足を掛け、窓枠を掴んだ両手で体を引き上げた。野次馬のたむろする道路を見下ろし、一瞬|躊躇《ためら》ったようだった。
しかし、サイレンの音は容赦なく近づいてくる。
そんな桃井と入口の様子を、銃を構えたままの柿沢はいらいらしながら交互に見ていた。迫りくるサイレン、いつ踏み込まれてもおかしくない入口、ぐずぐずと跳び出さない桃井の背中──。
ついに叫んだ。
「何してる!」思わず、そう怒鳴った。「早く、跳べ!」
その罵声が双方への呼び水になった。背後で空気の揺れた気配に続いて、壁の陰から三人が一斉に姿を現した。三つの銃口が柿沢に向けられた瞬間、デスクの陰に腰を落としながらベレッタとトカレフを撃った。二挺では正確に狙うことは不可能だ。三人の塊をめがけて、両手で一気に撃ちまくった。硝煙の向こうで三人が崩れ落ちるのを確認すると同時に、柿沢は身を翻した。窓枠に飛び乗り、眼下へと目をやった。はるか下界に、見事に屋根の潰れたメルセデスと、その後ろのBMW、周囲に群がる人垣の中を銃を振りまわしながら駆け抜けていく桃井──。
それらすべてを一瞬にしてとらえた柿沢は、空中へと身を躍らせた。
アキも、その音を耳にした。道玄坂の方面から、サイレンの音が響いてきていた。
「警察だ!」
誰かが大声で叫んだ。どよめく群衆とは別の方面から、また男の声が上がった。
「おい、あそこ!」
その指の先に、四階の窓から身を乗り出した男の姿が見えた。
肩に見覚えのある黒いボストンバッグをかけたその大柄な男は、桟の上に両足を乗せたまま、中腰に構えている。両腕が、窓枠を掴んでいた。
その意図を悟ったアキは、一瞬ぞわっと鳥肌が立った。
「まさか──」隣のサトルが絶句した。そして思わず喚いた。「いくらなんでも、ムチャだ!」
瞬間、男が、ふわりとダイブした。全身が、夜空に浮かんだ。
「キャアーッ!」
地上から湧き起こった女性の絶叫と同時に、再びビルの四階から速射音が連続して轟いた。男はやや斜め前方のメルセデスの屋根に、臀部から激突した。瞬間、S600のルーフが大きく潰れ、サイドウィンドウが砕け散り、サスが深く沈みこんだ。反動で男の体がバウンドした。一瞬よろけながらも男は見事に立ち上がり、リアトランクの上を蹴って路上に着地すると、そのまま舗道の人垣に突っ込んでいった。
恐れおののいた群衆が次々とその進路を開けてゆく。あまりに予想外な行動に、アキとサトルは茫然として後ろ姿を見送るしかなかった。
「まただ!」
誰かが叫び、アキは反射的にビルの四階に視線を戻した。再び別の男が跳び出す瞬間だった。細身の男が両手に銃を持ったまま、四階から落ちてきた。大破したメルセデスの横に、BMWが停まっていた。そのルーフに、これもまた臀部から激突した。同じようにルーフが潰れ、サイドウィンドウが砕け散る。沈み込むサスの反動を利用して、男はBMWの真横に飛び、降り立った。しかし最初の男のように駆け出そうとはせず、いきなり銃口をビルの四階に向けた。そこから数人の男が身を乗り出すと、右手に持った銃口が連続して火を吹いた。一発、二発──窓に身を乗り出していた右端の男がぐったりとその窓枠にもたれかかり、隣の男は仰け反るようにして室内に崩れ落ちた。残りの一人は慌てて室内に首を引っ込めた。そこで、はじめて男は走り始めた。
人垣に向かって走りながら、右手の拳銃を投げ出し、左手にあったもう一つの拳銃を右手に持ち替えた。男が迫ってきた場所の人垣は一瞬パニックに陥った。悲鳴を上げながら、われ先に走って、行く手をあけた。
逃げ惑う群衆の波に揉まれ、アキたちには今度もなす術がなかった。男は野次馬の中を抜け出すと、素早く路地へと切れ込み、その姿を隠した。
気がつくと、パトロールカーのサイレン音が至近距離で聞こえていた。後ろを振り返ると、路上をまだ右往左往している人だかりの向こうに、赤い回転灯がゆらゆらと回っている。ガシッというノイズ音が響き、屋根の拡声器から警官の声が聞こえる。
「はい、車両通ります。退いてください」
まだ興奮冷めやらぬ人々は、なかなか言うことを聞こうとしない。ついに荒らげた声がスピーカーから響いた。
「退《ひ》いてください──退きなさい!」
アキの斜め後ろで、微かに舌打ちする音が聞こえた。
「今ごろノコノコ出てきやがって、偉そうに」
職人風の五十男がウンザリした表情を浮かべていた。
「まったく、最近の警察はどうしちまったのかね……」
回転灯に照らし出された雑居ビルの入口に、男が二人、現れた。拳銃を持って出てきた男たちは、茫然とした表情で群衆の前に出てきたが、人々の向こうに赤い灯光を認めると、途端に、反対方向に向けてわれ先に走り出した。ビルの入口からそれに続く人影は出てこない。
「つまり、五体満足なのは、あいつら二人だけってことか……」隣にいたサトルがアキを見た。「BMWにセドリックに、マークII……乗り込んでいった連中、全部で十五人もいたんだぜ」
アキはうなずき、黒木らを思い出した。
「それにプラス三、計十八人だ」
それら敵の大半を殲滅し、あの二人組はまんまと姿をくらました。しかし、無事逃げおおせた彼らに、何故かほっとしていた。
ふと思い出して、ポケットの携帯を取り出して耳に当てた。
「アキだ」
いきなりカオルの罵声が響いた。
「今ごろになって電話に出るな!」
思わず顔をしかめ、携帯を耳から離した。受話口から、まだ何かガミガミ噛みついている声がする。漏れ聞こえるその声が、周囲の雑音にかき消されてゆく。
サトルが苦笑した。
ようやく静かになった携帯を再び耳に当てて、アキは言った。
「悪かった。これで全員、撤収だ」
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10
テレビのニュース番組はNHKも民放各社も、午後九時頃から渋谷の銃撃戦の事件で持ち切りだった。
富ヶ谷のマンションに再集合した六人は、カオルが頼んだ出前寿司をパクつき、合間にビールを流し込みながら、深夜までそのニュースを見つづけた。
事件が報道されるたびに、ガラスの砕け散った雑居ビルの四階と、見事にルーフの潰れたメルセデスとBMW、そして、それらを取り囲むキープアウトの黄色いテーピング、パトロールカーと救急車の赤い回転灯が大写しになった。
具体的な被害状況が報じられたのは、午後十一時過ぎだった。顔写真が間に合わないのか、ブルースクリーンの上に、死亡者の氏名と年齢だけが映し出された。
まず、麻川組系列・光栄商事として、黒木政則(39)、満田康之(32)、山下広行(28)………十名に及ぶリストの末尾に、リュウイチの名前を発見した。
小倉隆一(19)。アキはそのとき初めて、リュウイチの正確な氏名と年齢を知った。同い年だった。またも心がチクリと痛んだ。
次に松谷組組織員として、六名の名前と年齢が映し出される。久間武(40)、原田博(34)、井草保明(31)……。つまり、あの場にいた一人と駆けつけてきた五人は全滅だった。
両方の組織員を併せて、計十六名の死亡者。ほかに、現場から逃走した不明者が四名。
三十分後に、警察の正式なプレス発表が行われた。現場から金目のものが持ち出された形跡はなく、麻川組と松谷組、敵対する暴力団同士の抗争という図式が、その見解だった。
松谷組のほうは、BMWのナンバーからその所在を突き止めたのだろうと、アキは感じた。
テレビ局は総じてどこも似たりよったりの報道内容で、具体的な事実は何も把握していないまま、憶測だけが一人歩きしていた。
リポーターが深刻ぶった口調で惨状をまくしたて、キャスターがふやけた感想を口にし、コメンテーターが、まるで見当違いの事件背景をもっともらしく分析してみせる。かろうじてNHKだけが、客観的事実の報道のみに踏みとどまった。
「ったくよ、マスコミの連中はこれだから嫌になっちゃうよな」上機嫌でカオルがはしゃいだ。「仕掛け人のおれたちとしてみりゃ、笑っちゃう意見のオンパレードだぜ」
アキも笑った。
「機嫌が、よさそうだな」
「当たり前だ」カオルが得意げに続ける。「おかげさんで光栄商事は壊滅状態、松谷組も全滅だ。二度とおれたちに嘴《くちばし》を挟めない。なにしろ死人なんだからな。そりゃ、あの二人組は取り逃がしちまったけど、あれだけの目撃者が出たんだ。人相書が出まわれば、そうおいそれとこの街には近寄れないさ。おまけに、唯一おれたちの証拠になりそうなあのバッグも、やつら後生大事に持ち去ってくれた。これが笑わずにいられるかってんだ。なあ、みんな!」
カオルの呼びかけに、他の四人はアルコールの余勢もあって、どっと沸き立った。
翌朝──目覚めたアキは、いつものように首を捻り枕元の時計を見た。午前八時四十分。二の腕に厚く巻いた包帯の中で、まだ銃痕がずきずきと疼いている。心臓の鼓動にあわせて脈打つ痛みで、目覚めたのだ。むくりとベッドの上に起き、周囲を見まわした。反対側のベッドの上で、カオルがうっすらと口を開けたまま熟睡している。フローリングの上では、昨夜酔いつぶれた四人がてんでんバラバラにその身を横たえていた。その間を用心して玄関まで進み、ポストから日経と朝日の朝刊を取り出した。そのまま廊下に座り込み、パラパラと紙面をめくる。二紙とも、社会面にでかでかとその記事が出ていた。まず朝日の記事を、次に日経の記事を追い、警察のプレス発表に変更がないことを確かめた。
そのまま足を忍ばせてリビングに引き返した。四人の隙間を縫ってベッドに戻った時、ユーイチがゆっくりと身体を起こし、こちらを見た。
アキは無言でユーイチに手招きをした。怪訝そうな顔をしながらも、ユーイチがアキの隣に座る。
「悪いな、起き抜けに」そう小さな声で前置きして、きいた。「おまえ、昨日のナンバーの控え、持ってるか?」
「え、ああ」
うなずいてユーイチはジーンズの尻ポケットに指を突っ込んだ。取り出したスターバックスのナプキンの上に、殴り書きが見えた。≪練馬55、ね、61─78≫。
アキは満足げにそのナプキンを眺め、ユーイチに向き直った。
「ちょっと、品川の陸運局まで頼まれてくれ」アキは言った。「クルマの持ち主と住所を調べてきて欲しい」
ユーイチはちょっと意外そうな顔をした。
「でも、おれなんかが行って、すんなり教えてくれるものなのか?」
「大丈夫だ」アキは断言した。「受付に行けば申請用紙がある。登録ナンバーを書き込み、申請理由に、このナンバーのクルマに当て逃げされたとでも書けばいい。最後に申請者欄におまえの名前と住所を書き込み、それで終わりだ。適当な住所を書き込んでもいい。身分証の提示は必要ない。事務員に渡せば、あとはコンピューターが自動的に処理してくれる。混んでいなければ五分かそこらで、おまえはその打ち出された書類を手に入れることができる」
「マジかよ?」
「嘘じゃない」
「おっかねー」ユーイチは声を上げた。「だったらよ、ストーカーまがいの奴が、好きな女のクルマなんか見かけたら、一発じゃねーかよ」
「役所仕事なんて、そんなもんさ」アキは笑った。「おれも昔、被害にあったことがある。家を出た途端、鉄パイプを持ったやつらから、全身をメッタ打ちにされた。やつら、何故かおれの住所を知っていた。反撃して一人を取り押さえ、泥を吐かせて、この方法を知った」
「……ひでぇもんだな」
「戸籍や住民票だって、似たようなもんだ」アキはうなずいた。「セキュリティに関しては、想像力の欠片《かけら》もない。それがこの国の役所だ。おまえも気をつけろよ」
ユーイチは下を見たまま、強張った顔でうなずいた。
「分かったら、早速だが行ってきてくれ」
そう言ってアキはユーイチの背中を叩いた。
目が醒めた時、遮光カーテンの隙間から一筋の光の線が漏れていた。カーペットを伝わり、テーブルの上を這い、ソファに横たわっていた自分の腹部までたどりついている。それで柿沢は、ようやく朝の訪れを知った。
身体を起こそうと肩肘を突いた時、臀部に激痛が走り、彼は思わず顔をしかめた。臀部に負荷をかけないよう、そろそろと用心して立ち上がった。
BMWの屋根に落ちて素早く立ち上がった時から、骨折だけは免れたことに気づいていた。ただ、罅《ひび》が入ったぐらいだと、昨夜のように極度の興奮状態にあった体が感知していない場合があった。
一歩、二歩と、慎重に進み出てみる。
股関節を動かした時も、思ったほどの痛みはない。罅が入っている様子はなかった。強度の打ち身に過ぎない。振り返って、隣の六畳の和室を見た。
布団も敷かないまま、桃井がうつぶせになって寝ていた。畳の上で首が真横に捻じ曲がり、半ば開いたその口元から、涎が垂れんばかりだった。
不意に柿沢はおかしくなった。こいつもケツが痛くて、仰向けには寝られなかったのだ。一人で、にやりとした。
喉が、渇いていた。左右を見て、冷蔵庫を探した。間取りの記憶があやふやだった。桃井の部屋にやってきたのは、ほぼ二年ぶりだった。
昨夜、BMWから立ち上がってすぐに雑居ビルの四階を掃射した柿沢は、弾切れを起こしたトカレフを捨て、人込みを掻き分けて路地へと切れ込んだ。全力で小路を走り抜け、最初の十字路を右に折れ、暗がりのインプレッサに駆け寄った。桃井は既に乗り込み、エンジンをアイドリングさせていた。柿沢が乗り込むや否や、桃井はインプレッサを急発進させた。一瞬、車内にタイヤのスキッド音が響き、桃井は柿沢を振り返った。
「ひとまずおれの家に行こう」桃井は言いながら、文化村通りを左折した。「おまえのマンションより、近い」
二十分後、桃井のマンションにクルマを乗り入れた二人は、午後七時半には部屋の中に入りこんだ。ドアに鍵をかけ、銃ケースと黒いバッグをテーブルの上に投げ出し、そのまま暗い部屋の中に倒れ込んだ。全身がだるく、臀部が軋み、それ以上何をするのも億劫だった。
しばらくそのままの状態で、床に転がっていた。
薄闇の中、置時計の音だけが規則的に響いていた。
「……なあ、柿沢」
和室に転がっている桃井の声が聞こえた。
「ん?」
「ヒトなんて、あっけなく死んじまうもんだな」
「動物だからな」柿沢は答えた。「弾があたれば、死ぬさ。雉と同じだ」
「そんな、もんか」
「そんなもんさ」
しばしの沈黙が訪れたあと、桃井のかすかなため息が聞こえてきた。
「これでおれも、正真正銘、こっち側の人間になっちまった」
「後悔しているのか」
「いや──」一呼吸遅れて、桃井は答えた。「いつかはこうなる。それは分かっていた。覚悟はできてたさ」
「そうか」
「吹っ切れただけだ。確かにおまえの言った通り、殺《や》らなきゃ、こっちが殺られてた」
ふと、ベトナム料理に誘った桃井の姿が、思い出された。
「女遊びも、おさまるか?」
自嘲気味の笑い声が聞こえた。
「言ってくれるよ」
緊張が緩んだ。気がつくと、朝だった。
柿沢は冷蔵庫までそろそろと歩いてゆき、ドアを開けた。
ミネラルウォーターを取り出し、冷蔵庫の上のグラスを手に取って注いだ。二杯目の水を飲み干した時、玄関の新聞受けが目に入った。
グラスを置いて、ボックスから朝刊を抜き取った。読売新聞。いかにも下町っ子らしい桃井のチョイス。新聞を片手にリビングに引き返し、カーペットに突っ立ったままパラパラと紙面をめくった。
あった。社会面にデカデカと記事が出ていた。
「起きたのか?」
振り返ると、桃井がうつぶせのままこちらを見ていた。
「ああ」柿沢は再び記事に目を戻した。「出てるぜ。『暮夜の銃撃戦。死亡者十六名』。これがキャッチだ。リードは、『半壊した事務所。深まる暴力団同士の抗争?』。そういうとらえられ方だ。……ふむ」
「──しかし、なんで松谷組のやつらがいたんだ?」
そう言って、両腕をついて立ち上がろうとした桃井は、一瞬悲鳴を上げた。
「どうした?」また畳の上に転がり込んだ桃井に、問いかける。「ケツか?」
「違う!」桃井は苦痛に喚いた。「肩だ。昨日ドアに思い切りぶつけた、両肩だ!」
柿沢は笑った。
「むしろ、それくらいでよく済んだと思え。運が悪けりゃ死んでいた。感謝することだ」
ぶつぶつ言いながらも、ゆっくりと桃井は立ち上がった。
柿沢の隣まで来て、新聞を覗き込んだ。
「おぅ、おぅ、派手に載ってら」それからふと思い出したように、舌打ちした。「こいつらも、おれたちも、まんまとあのガキどもに嵌められたってことか?」
「松谷組まではどうだか分からないがな」
「どうして?」桃井は聞いた。「あのガキどもが、おびき寄せたんじゃないのか」
「それは違うと思う」
「なぜ?」
「やつらにとって、危険すぎるからだ」柿沢は言った。「カジノバーでのおれたちの目撃者もいた。面が割れている松谷組の連中に捕まるようなことになれば、自分たちに金を取られたことをゲロるかも知れない、それぐらいは考えたはずだ。第一、奪った金の出所をやつら、どうやって知ったというんだ?」
「じゃあ松谷組は、なんであの場所に踏み込んできたんだ」
「分からん」柿沢は小さく息をついた。「記事によると、あの場に乗り込んできた松谷組は全滅ということになっている。真相は永久に薮の中だ」
「やれやれ」桃井は大げさにため息をついた。「金は手に入らず、理由もわからず、とんだ無駄骨だったな」
「だが、まるっきりじゃない」
柿沢はそう言って、テーブルの上のボストンバッグに顎をしゃくった。
「あいつらが事務所に持ち込んだ何かの資料だ。おそらく現金のダミーとしてバッグに詰めたんだろうが、その中に名簿らしきものが見えた。ガキどものヒントになる手がかりがあるかも知れない」
桃井は少し驚いた顔をした。
「まだ、追うのか?」
「当たり前だ」柿沢は言った。「金を手に入れたわけじゃない」
「しかし、昨日あれだけの野次馬に顔を晒している。おれたちはしばらく渋谷にも、あの店にも近づきにくい」そう言って、顔をしかめた。「おまけに、今おまえが言った通り危うく殺されるところだったんだぞ」
「それはおれたちの都合だ」柿沢はにべもない。「折田のオヤジとの約束には関係ない。いったん結んだ約束を反故にするつもりはない。再びできることからやっていく」
そう言い切った。
「言うねぇ」
柿沢のこういうところが、桃井は気に入っていた。
二人してバッグの中身を、カーペットの上にぶちまけた。次々とその書類を手にとっていくうちに、柿沢はすぐにその名簿が同じものの焼き直しであることに気づいた。試しに部屋の隅のコードレスフォンを手に取り、名簿の一番上の携帯番号をプッシュした。ツーコールで相手は出た。
「はい?」
若い男の声だった。
「もしもし、田中さんですか?」
「違うよ」
言うなり相手は電話を切った。
柿沢は二番目の番号に電話をかけた。今度は、≪現在使われておりません……≫のアナウンスが流れた。三番目も、同様だった。
「やはりな」柿沢はため息をつきつつ、桃井に向き直った。「名簿はデタラメだ」
「とことん、喰えないガキどもだな」
桃井が苦笑いを浮かべ、資料の一つを指先で弾いた。
「しかし、最初の、この収支表みたいなやつは、いったい何なんだ?」
問いかけられ、柿沢もあらためて一、二ページ目に視線を戻した。
入場料、バイト料、飲食代のキックバック代、賞金、通信費……。ふと、宇田川町の路地で締め上げた若者たちの言葉を思い出した。
「こいつは、やつらがやっているファイトパーティとやらの、帳簿だ……」
思い出すにつれ、頭の中で、昨夜から感じていたぼんやりとしたさまざまな疑問が、繋がり始めた。
「懸賞金の中には、目撃情報の報酬もあった」柿沢は桃井を見た。「道玄坂で襲ったところを、もし目撃されていたとしたら、どうだ? 野次馬の中にいた目撃者からの情報で、おれたちが宇田川町に向かったことをすぐにあいつらは嗅ぎつけた。ハンズの周りでもおれたちが聞き込みをしたと察したはずだ。やつらはすぐにおれたちのあとを追い、おれたちが誰から何を聞きだしたのかを探った。そして、おれたちがのした若者たちを捕まえて締め上げ、何を喋ったのかを引き出した。そう考えれば、すべては納得がいく」
「確かに」
「一昨日、あの店は休みだった。だから昨日、店が開店する頃におれたちが乗り込んでくるとやつらは踏んだ。その上で網を張った。この資料を餌に、光栄商事のヤクザどもに話を持ちかけた。みかじめ料でも納めると言ったんだろう。待ち合わせの場所と時刻はやつらが指定した。儲け話の前だ。ヤクザはのこのこやってくる。事前に店の周辺にメンバーを配置し、おれたちが現れるのを待った。メンバーの一人がクルマの中に入るおれたちを見つけ、あのアキってリーダーに連絡を入れた。アキはヤクザにすぐ迎えに来るように連絡を入れ、散らばっていたメンバーを店の前に集合させた。これ見よがしにバッグをぶら下げて現れても、おれたちにすぐに襲わせないようにするためだ。
ヤクザを待っている間、おれたちが指をくわえて見ている前で、ご丁寧にも札束をバッグから取り出し、仲間にばら撒き始めた。ヤクザが来てからはわざとバッグを開いてみせ、ヤクザが笑うのをおれたちに見せつけた。これで種蒔きは完了した。おれたちはまんまとその手に乗り、メルセデスを追いかけた。事務所の反対側のビルの屋上には、別のメンバーを伏せてあった。おれたちの車の後ろには、尾行もついていたかも知れない。まずおれが下見に行った時、そいつらがあのアキって野郎に携帯で連絡を入れた。アキはやってくるのがおれ一人で、しかも丸腰だと知り、かろうじて事務所から退散するのを我慢した。だからおれが部屋に入った時、やっこさん、携帯を片手に突っ立っていた。おれは引き返し、今度はおまえと、銃を持って再び事務所に向かった。アキはすぐに部屋を出て、四階のどこか陰に隠れ、息を潜めた。おれたちがビルに入って行くのを見届けたメンバーは、ヤクザの事務所かその出先に、殴り込みがあると通報を入れた。だからおれたちが入った時、やつらは銃を取り出す寸前だった。おれたちが入るタイミングがもう少し遅れていたら、すぐに銃撃戦になるところだったが、そうはならずに膠着状態になった」
「………」
「ドアに角材を仕込んだアキは、外部からの連絡でそのことを知り、きっかけを作るように指示を出した。それが、あの礫だ。果たして撃ち合いになった。ヤクザたちが生き残れば、アキは角材を外し、何食わぬ顔をしてまた事務所に戻る。そうなるともうヤクザにとってはみかじめ料どころの騒ぎじゃない。出先からの援軍も駆けつけ、すぐに報復の準備が始まる。戦争になる。おれたちに金を取り戻される心配はなくなり、持ちかけたみかじめ料の件も、当分の間お預けになる。その結果、光栄商事側が倒れることにでもなれば、あいつらは願ったりだ。永久に因縁をつけられることはなくなる。むろん、おれたちが生き残った場合も、そうだ」
「なるほどな……」
「そして結果、おれたちが生き残った。一方の敵は潰れた。アキは角材を外さず、おれたちを閉じ込めたままにした。出先からの援軍が来るのを待った。計算では、おれたちがドアを開けるのを諦めると考えていた。そして援軍が四階まで上ってくる直前に再び角材を外し、身を隠す。おれたちにしてみれば、死んだ奴らの援軍が現れるとは夢にも思っていない。ドアがいきなり開いて、仰天しているおれたちに銃弾の雨が降り注ぐ」
「──ふむ」
「ところが、ここら辺りから筋書きが狂い始める。おれたちは諦めず、ついにドアを開けてしまった。やつらにとって幸いだったのは、直前に松谷組が乗り込んできたことだ。おれたちを妨害する人間が現れてなかったら、おれたちはそのまま逃げ出せたわけだからな。
そうこうしているうちに、やつらがおびき寄せた援軍が到着し、三者入り乱れての銃撃戦になった。それでも、最終的にはおれたちが殺されるものだと踏んでいた。どっちのヤクザが生き残るにせよ、おれたちとはもともとの火器の数と頭数が違う。互いに潰し合って人数が減っても、生き残った連中がさらに援軍を呼ぶこともあり得る。援軍が来るまで、おれたちをあの事務所の中に閉じ込めておくだけなら簡単だ。まさか、あの四階から飛び降りるとは夢にも思ってなかったからだ」
桃井がその後を受けた。
「だが、おれたちはあえて危険を犯し、無事に逃げ延びることができた──そういう意味では、見事やつらの期待は裏切られてしまったわけだな?」
柿沢はうなずいた。
「しかし、だ。おまえも言った通り、おれたちはしばらくあの街に姿は見せにくい。警察とヤクザの両方が、おれたちを探し始める。松谷組のやつらが全滅した以上、正体まで知られているとは思えないが、顔をばっちり拝んだ野次馬はいくらでもいる。モンタージュだって出まわるかもしれない。ほとぼりが冷めるまで一年か、それとも二年か、いつまでかかるかは分からないが、その間にあいつらが解散する可能性もある。散りぢりになった行き先を一つ一つ潰していくのは、かなり困難だ。そういう意味では、あいつらはほぼ当初の目的を達成したことになる……まあ、おれたちがしてやられたということに変わりはない」
「そう、なるか……やっぱり」
沈んだ声で桃井が同意すると、柿沢はにやりとした。
「ただし──これは今思いついたことなんだが──一つだけ、付け入る隙があるかも知れない」
「え?」
「この罠を仕組んだ若造の、性格さ」
「性格?」
柿沢はうなずいた。
「これだけ綿密に、しかも状況がどっちに転んでもいいように、常に先を読んで計画を練り上げている。おれたちを渋谷から追い払ったまではいいが、今もさらに先を考えているはずだ。おれたちが死んだわけじゃないことを、奴は知っている。ほとぼりが冷めたら再びおれたちに追われることになるのを、ようく分かっている。グループの名前や自分のニックネームまで知られている。そんな状況の中で、今までどおりファイトパーティを開けるほど、奴は能天気じゃないはずだ。しかし、今のところおれたちの情報は皆無に近い。有効な手を打てずに、不安を覚えている。もし、おまえが奴なら、どうする?」
桃井は一瞬考えた。
「まずは、こちらの出方を知ろうとするだろうな。そのためにも、何とかしておれたちの身辺情報を掴みたいと思う」
「その通りだ」柿沢は言った。「そしておそらく、奴はその情報を、一つは握っている」
「……どういうことだ?」
「おまえ、あの店の前でおれたちのクルマを監視していた連中が、ただぼんやりと見ていただけだと思うか?」
一瞬怪訝そうな顔をした桃井だったが、
「ナンバープレートか」
柿沢はうなずいた。
「これだけの計画を立てる小僧だ。当然、それを控えさせるぐらいの指示は出している」
「だな」
「そして、奴は必ずやってくる。奴本人じゃなくとも、おれたちの住所を探りに来る人間がいる。そこをおれたちが、叩く。殺さないまでも、金との交換に使う」
「待ち伏せだな?」
「そういうことだ」柿沢は言った。「わざわざ渋谷まで探しに行かなくても、労せずして相手から飛び込んでくる。あいつらがやってくれたように、今度は逆にやつらをそこで身動きできなくしてやる」
二人は顔を見合わせ、うっすらと笑った。
しかし、そのあとに柿沢の漏らした言葉を、桃井は聞き逃さなかった。
「ただ、そこまでする必要は、ないかもしれないがな」
そのつぶやきの意味が、分からなかった。
いくら理由を聞いても、柿沢は笑うだけだった。
「言えば、おまえは期待する」
そう言って、それっきり口をつぐんだ。
「おれは、納得いかないな」
アキとカオルは顔を強張らせたまま、向かい合って座っていた。他の四人は、黙ってその様子を窺っている。
「だって、そうだろ。せっかく苦労して守った金だぜ。それをみすみすあいつらに返してやるのかよ」
「なにも、タダで返すとは言っていない」アキは、興奮気味のカオルを制して言った。「いきなりやつらを襲ったうえで、今後一切おれたちを追わないことを確約させる。金さえ手に入れれば、やつらも基本的には満足する。多少のしこりは残ってもな。それで、今までどおり心置きなく、ファイトパーティも遠征も続けられる」
「だからって、当分この渋谷には近寄れない連中に、わざわざこっちから届けてやることはないだろ」
「じゃあ、どうする? このままいつか、やつらがやってくるのを待つのか。忘れんなよ。あれだけの数のヤクザを敵にまわして生き残った連中だぞ。向こうからやってきたら、今度は本当にタダじゃすまない。そんなやつらを相手に、五分を張る自信があるのか」
カオルはぐっと言葉に詰まった。アキはさらに言葉をかぶせた。
「やつらは結果的にではあるが、黒木たちを始末してくれた。光栄商事を壊滅状態にした。それでチャラだ。元々おれたちが持っていたもので、失うものは何もない」
そう言って他の四人を振り返り、駄目押しをした。
「あの二人が生き残ったんだ。その時には金を返すというのが、元々の計画だったはずだ」
その意見に、異を唱える者はいなかった。
ユーイチの調べてきた住所は、練馬区向山の豊島園にほど近い住宅街だった。午後三時。カーナビを付けたシェビィ・バンが先導し、アキとカオルの乗ったジープは目的地にたどりついた。シェビィはその建物の前を少し通り過ぎ、死角になるブロック塀の脇に寄せ、ハザードを出した。ジープはその後ろに停車した。
アキはシート後部に置いた革のバッグを手に取り、ジープを降りた。カオルもそれに続く。バッグの中には現金が詰まっていた。
シェビィのドアが開き、タケシとサトルが姿を現した。それぞれ手にボウ・ガンを携えている。万が一のためだった。限界まで弓の張りを強め、速射力を格段に増してある。至近距離に限れば、銃弾に近い殺傷能力のはずだった。
ユーイチとナオは、富ヶ谷のマンションで待機していた。
「じゃあ、行くぞ」
アキがそう声をかけると、三人は黙って続いた。市道を三十メートルほど戻り、問題の集合住宅を見上げた。古くもなく、かといって新しくもない、軽量鉄骨三階建のありふれた建物だった。先ほど前を通り過ぎたとき、意外な気がしたものだ。インプレッサの乗り手の印象と建物の外観が、不釣合いに感じられた。
集合住宅の前に専用の駐車場があった。白いインプレッサの影はどこにもなかった。
「いないみたいだな」
最後尾のカオルがつぶやいた。
「なら、ピッキングして置いてくるまでだ」アキは答えた。「おまえは唯一面が割れていない。連中が戻ってきた場合に備えて、ここで通りを見張ってくれ」
「分かった」
三階まで階段を上がり、外廊下一番奥の部屋の前で止まった。301号室。それが、住所欄に印刷されていた末尾だった。アキはインターホンを押した。ドアの魚眼レンズからは死角になる位置で、タケシとサトルがボウ・ガンを構え直した。狙いはドアの開口部に、ぴたりと絞られていた。
再度インターホンを押したが、室内からの反応はなかった。魚眼レンズから覗き込んでくる様子もない。アキは中腰になり、ドアノブ脇の隙間に目を凝らした。
通常の、横型シリンダー形式。鍵はかかっていなかった。
無人の、ロックされていない部屋──危険信号が、心の中で点滅した。
しかし、ここまで来た以上、やることは決まっていた。
意を決してノブをまわすと、ドアは、あっさりと開いた。
室内の暗い廊下が見えた。奥の部屋のカーテンは閉まっており、やはり人がいる気配は感じられない。
アキはなおも用心する姿勢を崩さなかった。前後をタケシとサトルに挟まれて、土足で室内に踏み込んだ。タケシは前方のリビングにボウ・ガンを向けたまま、サトルは後ろ向きに進みながら廊下のバスやトイレのドアを次々と開け、真中のアキを守るようにして、じりじりとリビングへと進んでゆく。
奥のリビングも無人だった。ほかに部屋はない。押入れもない。典型的なワンルームの作り。思わずほっとしたアキは、壁のスイッチを押した。
天井の蛍光灯がつき、室内を鮮明に照らし出した。シングルベッドが窓の隅に寄せて置いてある。その脇のサイドデスクの上に、電話機が一台。それで終わりだった。部屋からは、およそ一切の生活臭というものが感じられなかった。テレビもステレオも、本棚もない。
その全体の様子をとらえた瞬間、アキの中で直感的に閃くものがあった。
罠だ!
突然、部屋の中の電話がけたたましく鳴り始めた。他の二人が顔を見合わせるのを横目に、アキはその電話に飛びついた。
「はい」
相手の返事には、間があった。
「──おまえが、アキか?」
よく通る、低く錆びた声だった。その声音には聞き覚えがあった。
「昨日の、化粧品屋か」
思わず、そう問い返した。われながら間が抜けていたが、ほかの適当な呼び方が思いつかなかった。
相手のかすかに笑った吐息が、受話器から聞こえてきた。
「外に出て、通りを見ろ」
受話器を投げ捨て、玄関まで駆け戻り、ドアを開けた。駐車場の向こうに、長身の男の姿があった。耳元に携帯を当て、こちらを見ている。その隣のカオルの背後に、大柄な男が立っていた。両側を男に挟まれたまま、カオルはじっと身動きをしない。おそらく、背後の男に銃を突きつけられている。
男は携帯を耳元に当てたまま、アキに向けて顎をしゃくってみせた。意図を察知したアキは部屋の中に駆け込み、再び受話器にかじりついた。
「それで?」
「今から、そっちに向かう」男は言った。「その前に、さっき構えていた物騒なモノは、下げさせておくんだ」
電話は切れた。アキは受話器を置き、わけが分からないでいる二人に手早く状況を説明した。
「だから、ボウ・ガンを床に置け」
咄嗟にタケシが難色を示す。
「しかし、丸腰になっちまうぜ!」
「最初からおれたちは見られてたんだ。殺す気なら、とうにやられている」
サトルが唇を舐めた。
「金をせしめてから殺す気だったら、どうする?」
「そうならないように、おれがうまくやる」アキは早口でまくしたてた。「いいから、置け!」
ようやく二人は、ボウ・ガンを捨てた。
振り返ったアキの視線の先、廊下の向こうの開いたドアに、人影が差した。小柄なカオルを先頭に押し立て、二人の男の影が現れる。土足のまま玄関を上がり、廊下をやってくる。アキは無意識のうちに呼吸を整え、平静な様子を装った。
ゆっくりと廊下を進んできた三人は、部屋の奥にいたアキたちと向かい合った。
長身の男と視線が合った。アキは口を開いた。
「見てのとおり、武器はそこだ」
アキの視線の先に、ボウ・ガンが、二挺転がっていた。長身の男はそれに目をとめると、相方に視線を送った。大柄な男は同じく視線で返し、カオルの背中を軽く押した。思わずつんのめりそうになりながら、カオルがアキに駆け寄った。
「すまない。油断してた」
そう小さく漏らしたカオルの顔は、しょげ返っていた。アキはかすかにうなずくと、再び男たちを見た。カオルを押し出した大柄な男の懐に、銃が光っていた。昨夜、群衆の間から見えた銃と同じもののようだった。
長身の男が、アキの足元にあるバッグに目を向けた。そして、うっすらと笑った。
「つまり、そういうことか?」
その一言で、アキは男の考えていることが分かった。同じく言葉を返した。
「そういうことだ」
大柄な男が怪訝そうな表情を垣間見せ、ちらりと相方を見た。だが、銃口はブレなかった。
「一応、中身を出してみろ」長身の男は言った。「ダミーには、こりごりしているんでな」
アキはバッグのファスナーを開き、カーペットの上に中身をぶちまけた。ドサドサと音を立てて大量の札束がこぼれ出した。アキは、銃を構えているほうの男が一瞬呆気に取られたのを見逃さなかった。
長身の男が、札束から目を上げた。
「これで、全部か」
「全部だ」
「条件は、なんだ?」
「今後、一切おれたちに手を出さないこと。それだけだ」
「だろうな」
男はうなずいた。アキは問い返した。
「で、どうなんだ?」
「その前に、聞きたいことがある」男は言った。「おまえら、あのビルのヤクザから因縁でもつけられていたのか?」
一瞬迷ったが、アキは正直に答えた。
「そうだ」
男はそれを見て、再び口を開いた。
「うまく事が運べば、あのヤクザともども、おれたちも共倒れになるはずだった。ヤクザからの脅しも消える。金もそっくりおまえらの懐に残る。そういうシナリオだった。違うか?」
「……そうだ」
「仮にどちらかが生き残っても、金か、利権は残る」男はさらに言い募った。「おまえたちはそこまで計算したうえで、高みから見物しているだけでよかった」
「だから?」
「その計算のうえでおれたちは踊らされ、殺されかけた。ムシのいい話だ」
「じゃあ、どうする?」アキは皮肉った。「わざわざ金を持ってきたおれたちを、腹いせに殺すか? なら、こっちにもまだ考えはあるぞ」
男は鼻で笑った。
「一定の時間以内にどこかに連絡をいれなければ、誰かがここの住所を警察にタレこむ。そんなところだろう」
「最初はそう考えた。だが、それはやらない」
「何故?」
「やっても、無駄だからだ。警察がここに踏み込んでも、得る物は何もない」
男は、口元で微笑んだ。
「お見通しのようだな」
「このアパートは、あのクルマのナンバーを維持するための、ダミーだ。実際には誰も住んでいない。ただし、借り主の山本三郎は実在する。西新宿かどこかのおそらく浮浪者だ。その戸籍をブローカーが買い取り、さらにそれをあんたたちが仕入れた。まず本人に成り済まし、住民票を取る。印鑑を作り、銀行に家賃の振込口座を作る。その上で免許を取り直す。同じくその名義で、クルマを買う。仕事現場でナンバーを目撃された時の、万が一の用心のためだ」
「そこまで分かっていて、なんでわざわざ乗り込んできた」
そのことに気づいたのは、つい先ほどのことだったが、アキはとぼけた。
「だから言ったろ。ほかにも考えがある」
はったりだった。だがそれを確かめる術は、相手にはない。果たして相手はきいてきた。
「何だ、それは?」
「教える義理はない」アキは相手を見て言った。「おれたちのことを忘れてくれれば、おれもその方法は、忘れる」
「ブラフだ」
「なら、試してみるか?」
「──いや」
柿沢は笑って首を振った。
いまさら彼らを痛めつけたところで、何も得る物はなかった。正直なところ、彼らが金を取り出した時から結論は決まっていた。
無用な殺生は趣味ではなかったし、わざわざもう一つ、警察沙汰をこしらえるつもりもなかった。話をわざと引き延ばしたのは、その後、ある考えがうっすらと柿沢の脳裡に芽生えたからだ。
計画を立て、実行するに当たって見せた抜け目のなさ。それが半分頓挫したと見るや、すぐに金を返しに来る思い切りのよさ。自分たちを殺そうとさえしたこの小僧を、気に入り始めている自分がいた。
柿沢は中腰になるとボウ・ガンを拾い上げ、矢を二つとも抜き取り、部屋の隅に放り投げた。
「金を、バッグに戻すんだ」
柿沢は言った。
「それで、手打ちだ」
数分後、一同は、アパートを出た。先頭のアキたち四人が階段を下り、午後の熱気の籠っている駐車場を横切った。二人組は少し離れてその後を歩いてくる。アキは途中から、後方の二人組が、何かぼそぼそと話をしていることに気づいていた。
市道に出た。アキは後ろを振り返った。
二人組は道路の一歩手前で立ち止まっていた。話はまだ続いていた。バッグを足元に置いたまま、こちらを振り返りもしなかった。
かまわずアキたちはクルマに戻り始めた。金を渡し、身の安全も保証された以上、長居は無用だ。だが、クルマまであと数歩というところまで来た時だった。
「おい──ちょっと、待て」
その言葉に、アキたち四人は振り返った。アキは、二人組の視線が自分一人をとらえていることに気づいた。黙ったまま、自分に親指を立ててみせた。
「そう、おまえだ」長身の男はうなずいた。「ちょっと、こっちに来てくれ」
カオルたちがあらためて警戒の色を浮かべるのを横目で制し、アキは男に向かって言った。
「何だよ?」
「たいした話じゃない」男は繰り返した。「すぐ終わる。いいから、こっちに来い」
いまさら二人の男に拉致されるとは思えなかった。カオルたち三人にため息をついてみせ、引き返した。
「来たぜ」男二人の目の前で足をとめ、無愛想にアキは言った。「何だよ?」
ややあって、長身の男は口を開いた。
「おまえ、今、何歳だ?」
意外な質問に、アキは戸惑った。
「……十九だが、それがどうかしたのか?」
男はアキをじっと見た。そしていきなり切り出した。
「おまえ、いつまで今みたいな商売を続けられると思う?」
今度は肩をすくめるよりなかった。
「さあ……いつまでかね」
「おそらく、よくてあと数年だ」そう、結論づけた。「チームは解散し、いずれおまえは一人になる」
「だから?」
「やがては食うためだけに、ろくでもない仕事を探すようになる」
その見透かしたような視線に耐えられず、アキはぶっきらぼうに言った。
「何が、言いたい?」
「おまえは頭がいい。腕っぷしも強そうだ。だから、今の世界では威張っていられる。だが、世間はそんなおまえを認めてはくれない」男は言った。「とどのつまりは、認められるまで頭を下げつづけることになる。システムに乗っかっているだけが能の、ふやけた連中にな。挙句、一生報われないこともある。報われたにしても、そんな連中の仲間入りが待ってるだけの話だ」
依然として自分の中に居坐っている、灰色の未来。言われなくても、ぼんやりと分かっていることだった。
「それが、あんたらになんの関係がある?」
苛立って、思わずそう口走った。男はそれを受けた。
「仕事仲間が一人減った。おまえの仲間に襲われた、あのオヤジだ」男は言った。「その穴を埋める人間を、今探している。頭が切れ、活きのいい奴を」
予想外の展開だった。呆気にとられるアキに、男は素早く続けた。
「おれたちが狙うのは、ヤクザや政治家なんぞの裏金ばかりだ。そう良心も痛まないし、警察に追われることもない」そして、言葉を切ってにやりと笑った。「もっとも、今回はおまえらのおかげで、そうもうまくいかなかったがな」
「………」
「一年だ。その間に、自分の身の振り方を考えてみることだ。もし決心がついたら、一年後の今日のこの時刻に、ここに来い。おれたちが待っている」
そこまで話すと、男は足元のバッグを持ち上げた。
「話は終わりだ。さあ、もう戻っていいぞ」
二人組は、踵を返した。そのまま十メートルほど先のセダンまで歩いていった。ディープ・グリーンのユーノス500だった。
途中、終始無言だった大柄な男のほうが、一度だけアキを振り返った。そして肩越しに邪気のない笑いを覗かせた。
男たちはクルマに乗り込むと、すぐにエンジンをスタートさせた。前方に、住宅街のゆるやかな下り坂が広がっていた。
クルマは、人気のない坂を滑るように降りていった。
その先の平坦になった十字路で、一度だけブレーキランプを点灯させた。クルマはそのまま右に折れ、グリーンのボディは見えなくなった。
アキはただ突っ立ったまま、ぼんやりとその光景を見送っていた。
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エピローグ
アキとカオルの乗ったジープは、環七を真っ直ぐに南下していた。午後四時になっていた。
シェビィ・バンとはアパートの前で別れていた。タケシとサトルは、そのまま自宅に戻ったのだ。
目黒方面に向かうクルマの列が、視界の限り続いている。ディーゼルの排気ガスと、アスファルトからトラックの隙間を縫ってゆらゆらと立ち昇る熱気。傾きかけた午後の遅い太陽が、車内に剥き出しの彼らを、斜めから焦がしつづけていた。
杉並区、妙法寺近辺だった。五十メートルおきに連なった信号が次々と青に変わり、再びクルマはジリジリと進み始める。
やがてクルマが方南通りにさしかかったとき、不意に陽射しが翳った。カオルは顔を上げた。頭上の空が急激に暗くなり始めていた。
その前から、ステアリングを握りながらぼんやりと物思いにふけっているアキの様子に、気づいてはいた。
「やつら、おまえになにを言ったんだ?」
「いや──」アキは言葉を濁した。「まあ、進路指導みたいなもんだ」
大気が、急速に湿気を帯び始めた。
しばらくして、カオルがまた口を開いた。
「誘われたか、仲間に?」
アキは驚いて助手席を見た。カオルは口元で笑った。
「それぐらい、分かる」
ビルの向こうの空一面に積乱雲が盛り上がり、その底部に、見るからに陰鬱な翳りが垂れ込めている。
近頃、夕方になると急速に天気が崩れ始める。それも決まって、今日と同じような焼け焦げた夏の日の終わりだった。
何故だろう、とぼんやりアキは考えた。
「なんて答えたんだ?」カオルがアキの物思いをさえぎってきた。
「今すぐじゃないんだ。一年後に返事をくれと言われただけだ」
甲州街道を渡り、京王線を越えた時点で、ボンネットの上に、ぽつ、ぽつと、雫が落ち始めた。
あの男の言う通りだ。物事には、必ず終わりがやってくる。カオルもタケシもユーイチも、やがては歳をとる。ずっとこれまで通りの付き合いを続けられるわけではない。成長に応じてその服が入れ替わっていくように、やがては付き合いも擦り切れ、綻びが目立つようになり、いつかは本当に、自分の身の丈に合わなくなる。
しかし、この世界に、彼自身が次に着る服は未だ見つかっていない。
ボツ、と大粒の水滴が、ダッシュボードにぶつかった。
大原二丁目の交差点を左折し、井ノ頭通りを渋谷方面に向かった。少し進んだところで、再び渋滞の末尾に付いた。そのまま一寸刻みの前進を続け、前方に信号が見えてきた時だった。
ついに耐えきれなくなった雨雲が、立て続けに大粒の水滴をぶちまけ始めた。
空が割れ、サイドステップに、ミラーに、音を立てて雨粒が砕け散り、やがては激しい連続音に変わった。
天蓋のないジープに乗ったアキとカオルを、見る間にズブ濡れに変えていく。
「どうするんだ?」カオルは声を上げた。
「分からない」アキは答えた。「それを含めて、考えてみようと思う」
「何を?」
ボンネットの上から、湯煙が上がっていた。それを見つめたまま、アキは笑った。
「その先に、あるものだ」つぶやくように、言った。「今だって、よくは分からないが」
カオルも濡れ鼠になったまま、目を細め、その湯煙を見つめていた。
「終わりに、するか?」
アキも目を細めながらカオルを見やった。カオルもこちらを向いた。同じように叩きつけている大量の雨粒が、カオルの髪をべったりと額に貼り付けている。流れ落ちる水滴が、顎から滴っている。
「おまえは、どうしたい?」
顔に叩きつける雨が痛いほどだった。
滝のように降り注ぐ雨を巻き込むように突風が吹き、迅雷が轟き、アスファルトの上に水煙が立ち始める。周囲の街並みもクルマも雨霞に包まれ、急速にその陰影を失っていった。
カオルは小さな息をついた。
「後釜は、ユーイチが適当だろう──」カオルは言った。「通帳に、おれとおまえの今までの取り分が入っている。一千六百万ほどある。半分は、おまえのものだ」
アキは黙ってうなずいた。カオルは言葉を続けた。
「この先に、おれの実家がある」アキにとって初耳の話だった。「二つ目の信号が見えたら、降ろしてくれ。それだけのカネを下ろすとなると、証明印が必要だ」
バケツをひっくり返したような雨が、まだまだ二人を叩き続けていた。
だが、この夏の雨は、すぐに終わる。
熱の集積。
行き場を失った欲望と焦燥が、都市で熱を持ち、次々と空に舞い上がってゆく。
その上空に籠った熱気をひとしきり洗い流すと消えてゆく、ヒートアイランドだった。
単行本 二〇〇一年七月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年六月十日刊