『インディゴの夜』 加藤実秋
東京創元社 ミステリ・フロンティア
目次
第一話 インディゴの夜
第二話 原色の娘
第三話 センター街NPボーイズ
第四話 夜を駆る者
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第一話 インディゴの夜
新宿〈プチモンド〉には、どうして同業者が多いんだろう。
隣のテーブルではさっきから若い女が、作家か評論家らしい化粧の濃い中年女にインタビューをしている。
長い髪をポニーテールに結った彼女は、女が語る作品のコンセプト≠聞き逃すまいと、一心不乱にメモを取っていた。
向かいのソファでは、形の崩れたジャケットを着た中年男四人が機関銃のように煙草の煙を吐きつつ打ち合わせの真っ最中。
二卓つなげたテーブルの上には付箋がたくさんついた本やダブルクリップで留めた分厚いコピーの束が、ところ狭しと広げられている。
出版関係者が多い喫茶店は他にもいくつかある。
池袋東口の〈耕路〉、渋谷なら〈フランセ〉か今はなき〈ばら園〉。
どの店も雑然として、落ち着くようで落ち着かない。
でも場所のわかりやすさ、テーブルの広さ、長居できて煙草が吸い放題等々の条件で絞っていくと、残るのは自然とこの手の店になるのかもしれない。
「申し訳ない」
浅海《あさみ》さんは、右手を顔の前に立てて現れた。
ごま塩頭に台襟のシャツ、ぱんぱんに膨れたショルダーバッグと本がきっしり詰まった紙袋。
いつ会っても不変のコーディネートだ。
「今来たところですから」
わたしはそう言ってにっこり笑った。
「お忙しいですか?」
聞きながら荷物をソファにどさりと置いた。
「まあそこそこ」
「それは結構ですね」
お約束の挨拶を淡々と交わし、浅海さんはコーヒーを注文した。
「まずはお目通しいただいて……」
目の前にA4のコピー用紙が置かれた。
『翠林《すいりん》出版 ニコニコ元気ブックス【前立腺の病気がわかる本】企画書』
表紙に四倍角のワープロ文字でそう打たれている。
「今回は前立腺ですか」
「前立腺肥大症だと思っていたらガンだった、ってパターンが増えてるんですよ」
浅海さんは神妙な顔で言い、中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
私は頷《うなず》きながら企画書に目を通した。
『第一章 五十歳以上の四人に一人は前立腺肥大! 第二章 おしっこが近くなったら危険信号! 第三章 排尿と射精の仕組みを学ぼう……』
「著者は大学病院の教授になります。取材日が決まったら連絡しますので」
「私が原稿書いても問題ありませんかね?」
「といいますと?」
「私、前立腺ないんですよ。女なので」
大真面目だったが、浅海さんは、
「またまた、高原《たかはら》さん。何を今さら……」
と言って苦笑いした。
素人でもあるまいし、か。
私がこの仕事を始めて十年ちょっとになる。
某三流大学入学と同時に、編集プロダクションでアルバイトを始め、それがきっかけで卒業と同時にそのままフリーのライターになってしまった。
以来、雑誌をはじめ企業のPR誌、会社案内といろんな仕事をしたが、ここ二、三年は健康ものの実用書がほとんどだ。
健康本や「○○入門」「○○の飼い方」みたいなハウツー本は、著者はその道のプロということになっているが、本人が直接原稿を書くことはほとんどない。
私のようなライターが取材や資料を基に原稿を起こし、それをゲラの段階でチェックしてもらうのだ。
早い話がゴーストで、当然ライターの名前は一切表に出ない。
華やかさのかけらもない仕事だが、実用書は不況にあえぐ出版界を裏で支える屋台骨、仕事だけは切れめなくある。
「進行は、前倒し前倒しでよろしく」
浅海さんはそう念を押すと私に資料の書類と本をどっさり渡し、次の打ち合わせに消えていった。
腕時計を見ると、七時前だった。
エレベーターで地下一階まで下りると、すぐ隣が新宿駅の東口改札だ。
切符を買って山手線に乗った。
渋谷で降りると東口に出た。
首都高の下をくぐる歩道橋を渡り、明治通りを恵比寿方向に向かって歩く。
このあたりは渋谷でも一風変わったエリアだ。
前を明治通り、後ろを渋谷川と東横線の線路に挟まれた細長い土地に、大小のビルがびっしりと建っている。
居酒屋やファーストフードショップ、古い商店などが統一感なく並び、行き交う人々も若者からスーパーの袋を下げたいかにもロコスタイルのおばさん、加えて週末になると場外馬券場をめざす、濁った目の男たちであふれ返る。
さらに最近になってカフェや雑貨屋、ヘアサロンなどの小じゃれた店も次々とオープンし、通称・裏渋とか渋3とか呼ばれるおしゃれエリアになりつつあるらしい。
明治通りを右折すると路地に入り、渋谷川にかかる小さな橋を渡った。
川といっても名ばかりで、コンクリートで固められた川底を鉄錆色の水がちょろちょろと流れているだけだ。
それでも、このあたりは一年中じめじめと湿っぽく、ドブの臭いと小バエが絶えない。
〈club indigo〉は、橋のたもとに建つ古いビルに入っている。
エレベーターで二階に上がると重たい鉄のドアを押した。
とたんにむっとした空気と、大音量のヒップホップミュージックがぶつかってくる。
開店から一時間ほどだが、客席はほぼ埋まっていた。
広いフロアはいくつかのコーナーに仕切られ、それぞれにデザインもマテリアルも異なるソファとテーブルがセットされている。
ソファの中央に座っているのはもちろん女の子、両側と正面をホストたちが囲んでいる。
「それマジ超やばくない?」
長い髪をドレッドに編んだ男の子に何か囁《ささや》かれ、客の一人が甲高い声をあげると笑い転げた。
そり返った白い喉《のど》がキャンドルの明かりを受けてなまめかしく光る。
他のテーブルからも、ヒステリックな笑い声や手を叩く音が聞こえてきた。
客はほとんどが二十代、OL・学生・フリーターといったところだ。
スカートの下にさらにジーンズやスパッツをはくという組み合わせが目立つ。
一九六〇代生まれには理解不能なコーディネートだ。
狭い通路を進むと接客中の男の子たちが、目だけで挨拶をしてくれる。
私もそれにすばやく応え、事務所に向かった。
店内は吹き抜けになっていて、フロアの中央に狭い螺旋階段がある。
ここを登るとDJブースを備えたダンスフロアとカウンターバー、その奥が事務所になっている。
狭い廊下を歩いていくと、絶妙なタイミングでドアが開いた。
「高原オーナー、おはようございます」
憂夜《ゆうや》さんがドアノブをつかんだまま、うやうやしく頭を下げた。
石鹸をきつくしたような香水の香りが鼻を突く。
「おはようございます」
つられて頭を下げると、
「塩谷《しおのや》オーナーがお待ちです」
と言って口の端だけを上げて微笑んだ。
憂夜さんはこの店のマネージャーだ。
香港の映画スターをを思わせる濃厚な顔立ちにイタリアンブランドのソフトスーツ、日焼けした額には茶髪の前髪を常に一房垂らしている。
年輪不詳、本名すら誰も知らない。
私が入っていくと、塩谷さんはだらしなく椅子に座り、足をデスクの上に投げ出していた。
ラルフローレンのBDシャツにシワだらけのチノパン、典型的な編集者ファッションだ。
塩谷さんは文京区にある大きな出版社でパソコン雑誌を作っている。
「仕事は?」
「今朝校了した」
そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうにそう答えた。
四角い顔に小さな目。
本人は韓国の映画スター、ハン・ソッキュ似だと言い張るが、私にはチャゲ&飛鳥のチャゲにしか見えない。
「お疲れさま」
私は口先だけでそう言うと、ソファに座った。
事務所は中央に背の低いパーティションを置き、手前を憂夜さんのオフィス、奥をオーナールーム兼応接室として使っている。
塩谷さんは鼻を鳴らすと、キャスターのついた椅子を左右にゆらゆらと揺らし始めた。
今朝校了だったということは、その後、家でたっぷり十時間は寝ているはずだ。
これでも機嫌は悪くないのだろう。
塩谷さんと知り合ったのは、今から五年ほど前のことだ。
当時彼が編集していた軽薄かつ軟弱な青年誌で組まれたある企画を私がやることになったのだ。
第一印象は最悪。
この無愛想ぶりは何ごとかと思った。
後から人づてにスクープがらみのトラブルで週刊誌の編集部から飛ばされてきたばかり、と聞き納得がいった。
しかし、ガラの悪さなら私も筋金入りだ。
さらに上手《うわて》のグレっぷりで対抗したところ、いつの間にか妙な信頼関係が生まれていた。
以来数年間、二人でアダルトビデオの撮影現場から真夜中の心霊スポットまで取材に飛び回り、企画会議と称しては朝まで飲んだくれていた。
そんな時、一番盛り上がったのが「絶対成功するサイドビジネス」だった。
新興宗教を始めるとか、ロシアで三色ボールペンを売るとか、全く現実味のないプランを真剣に語り合うのがたまらなく楽しかった。
ことの起こりはある夏の真夜中、池袋の飲み屋だった。
その日取材した新宿歌舞伎町のホストクラブで、私はそこで感じたことを思いつくままにしゃべっていた。
「何でホストクラブって店も従業員もワンパターンなの? もっといろんなタイプがあってもいいじゃない」
みたいなことだったと思う。
加えて、当時私はクラブ〈アクセントはブ=j遊びにハマっていたので、
「クラブみたいなハコで、DJやダンサーみたいな男の子が接客してくれるホストクラブがあればいいのに。そしたら、行きたい女の子大勢いるよ」
とも話した。
すると、塩谷さんの小さい目が光った。
そして持っていた割り箸を放り投げると、
「お前、有り金かき集めていくらになる?」
と言って私をじろりと見たのだ。
それからひと月、姿が見えないなと思っていたら開店の段取りが調っていた。
「帳簿をお待ちしました」
ぎょっとして振り向くと憂夜さんが立っていた。
手に黒革の分厚い帳簿を持っている。
この人には足音を立てずに歩く特技もあるらしい。
憂夜さんは塩谷さんが連れてきた。
初めはあまりの王道ホスト≠ヤりに腰が抜けたが、お金の管理から男の子たちの仕切まで、完璧にこなしてくれている。
何かがあったか知らないが塩谷さんに深い忠義心を抱いているらしく、私にもとても丁寧に接してくれる。
三人で帳簿を見ながら話をした。
月に一度の経営会議だ。
売り上げは順調に伸びている。
店のプロデュースは全部私がやった。
内装と音響設備にたっぷりお金をかけ、有名クラブで回すDJを呼び、カクテル中心のドリンクを作るのも一流ホテルから引き抜いたバーテンダーだ。
男の子たちは憂夜さんと二人で集めた。
学生、フリーターの他、役者やモデル、ダンサーなどの卵も多い。
料金も従来のホストクラブよりも安く遊べるように工夫した。
初回は飲み放題で税金・チャージ料込みで三千円、二回目以降も一万円ちょっとあればおしゃれで面白い男の子と朝までバカ騒ぎできる。
噂は口コミで女の子たちの間に広がり、桜台町でホスト三名で始めた小さな店は、わずか二年でホスト三十名を抱える大バコに化けた。
来年には青山か麻布あたりに二号店を出す計画もある。
店を始めた時、私は別に儲からなくてもいいと思っていた。
出したお金がパアになっても借金さえできなきゃそれでいいや、そんな程度だった。
それより、大の大人、しかも男二人が私なんかの話を真剣に聞いてくれるのが嬉しかった。
しばらくすると、下から一気コールが聞こえてきた。
indigoでは珍しいことなので、塩谷さんがブラインドを指で押し広げて覗き込んでいる。
オーナールームは壁の一面がガラス張りになっていて、客席を一望できる。
私も同じようにして様子を窺《うかが》った。
真下の席、つまりVIPルームに古川《ふるかわ》まどかと池下若菜《いけしたわかな》の姿があった。
このコンビはトップクラスの上客で、特にまどかはこのところ三日と空けず来店している。
二人とも茶髪の巻き髪に白シャツ襟立て、ケリーバッグの蓋のベルトをはずしっぱなしにしているところまでお揃《そろ》いだ。
両脇にはソフトモヒカンの|TKO《タケオ》と巨大アフロのジョン太が座り、ヘルプには新人のテツがついている。
姫たちのご指名を受けたのはテツのようだ。
ドンペリのボトルを鷲づかみにすると前に進み出た。
テーブルの上には、同じボトルがすでに二本空になっている。
だぶだぶのパーカーを着たテツは、声援に応えるように両手を高く上げると、そのままボトルに口をつけ、勢いよく傾けた。
手拍子のスピードが一気に速くなる。
まだ幼さの残る顔が、みるみる歪んでいくのがわかった。
まどかがそれを指して笑い、TKOの肩にしなだれかかった。
胸元を汚しながら、テツはなんとか飲みきった。
ヒステリックな歓声があがる。
テツは空になったボトルをまとめて抱えると、足早に部屋に出ていった。
恐らくトイレに直行して吐くのだろう。
「あいつのところは入稿真っ最中のはずだぞ。ちゃんと仕事してんのかよ」
塩谷さんが憮然《ぶぜん》とした顔で言った。
古川まどかは彼と同じ出版社のファッション雑誌『|Carat《カラット》』の編集部員だ。
半年ほど前、彼女がプロデュースして若菜が原稿を書いた一冊の本が出版された。
その名も『天使のごほうび』。
「ハーブティーの中に落とした角砂糖からたち上る世界一小さな陽炎」だの「自分のしっぽとワルツを踊る子犬」だの、暮らしの中のそりゃもうステキなシーンの数々が、ハートウォーミングな写真とポエティックな言葉で紹介されている。
「最後の癒しの本」と銘打ったこの本は、あっという間に五十万部突破の大ベストセラーになってしまった。
「今さら手を赤ペンまみれにする気になんてならないんじゃないの」
私が言った。
今や若菜は新進美人ライター、まどかもカリスマ編集部として雑誌だのテレビだのと引っ張りだこだ。
けっ。
塩谷さんはそうつぶやくとデスクに戻った。
「タヌキ顔というよりタヌキに似てる」「痩せてりゃいいってもんじゃねえんだよ」、これがまどかと若菜それぞれに下した彼の評価だ。
午前四時、店を閉めると男の子たちと飲みに出かけた。
朝八時までやっている南平台の中華ダイニングバー。
あえて天井を低くして、白い洞穴の中にいるような造りにしている。
インテリアはすべて上海で買いつけてきたアンティーク、左右の壁には鮮やかな赤で龍虎や金魚などチャイナモチーフの絵が描かれている。
私も塩谷さんも、表の仕事≠ェあるので、ふだん店は憂夜さんに任せきりだ。
だから毎月の会議の後には、ホストたちを連れてのみにいくことにしている。
むだ話をするだけだが出席できるのは売り上げトップの数名だけなので、彼らの間ではステイタス扱いされているらしい。
その日も油っぽい料理をつまみながら、ホストたちの他愛のないおしゃべりを聞いていた。
「晶《あきら》さん、たまには俺らの相手もしてくださいよ」
ジョン太が甘え声で言った。
ヅラのようなアフロヘアに無理矢理サンバイザーを載せている。
「今してるけど」
「じゃなくて、プライベートで遊んで欲しいんすよ」
「なんで?」
私が真顔で答えるとみんなが笑った。
ジョン太は、
「即答かよ!」
とアクションつきで突っ込みを入れ、ソファに倒れた。
その上に、歓声とともに男の子たちが飛び乗っていく。
埃《ほこり》が舞い上がり、グラスのビールがこぼれた。
憂夜さんが眉をひそめ、塩谷さんはなぜかへらへらと嬉しそうに眺めている。
これもいつもの風景だ。
「(美)男の中に(三十路《みそじ》)女が一人」、夢のような環境なのかも知れないが、私は男の子たちに個人的な関心は全く抱いていない。
みんな毛並みが良く頭も悪くない。
でも、私にはペットショップのショーウィンドウの中でじゃれ合う子犬にしか見えないのだ。
「おだまり!」
ドスの利いた声が響き、男の子たちの騒ぎがぴたりとやんだ。
なぎさママの登場だ。
きっちりセットされたロングの巻き髪に、ロエベのレザースーツ。
両手の指にはごつい宝石のついた指輪がメリケンサックのように並んで輝いている。
「今時猿山の猿だってもう少し行儀がいいわよ。そんなに騒ぎたきゃセンター街のマックへお行き」
そう言うと、完璧な曲線に書かれた眉をつり上げ、男の子たちの顔を見回した。
みんな体育教官室に呼び出された高校生のように、ばつの悪そうな顔で俯《うつむ》いている。
「いつも申し訳ありません。静かにさせますので」
憂夜さんが神妙な顔で頭を下げると、たちまちママの顔がゆるんだ。
「あら、いいのよ。わかってもらえれば」
言いながら憂夜さんの腕を取り、みっちり肉のついたお尻ですばやく塩谷さんを押しのけて隣に座った。
なぎさママは、この店の他に三軒のレストランとバーを経営をするやり手で、夜の渋谷ではちょっとした有名人だ。
ママと呼ばれているものの、戸籍上はれっきとした男性、しかもとうに五十をすぎている。
本人曰く、「ニューハーフなんて便利な言葉がなかった時代から、八センチヒールにミニスカで道玄坂《どうげんざか》を肩で風切って歩いてた」そうだ。
「ねえねえ晶ちゃん、肌荒れに効く薬の情報ない?」
私の三倍はある、ただし中身は生理食塩水パックの胸を憂夜さんの腕に押しつけながら耳元に囁いてきた。
見るとメイクとフェイスリフト、ヒアルロン酸、その他もろもろでマイケル・ジャクソン並みに作り込まれた美しい顔のところどころに、大小の吹き出物ができている。
「ママは注射を打ちすぎたのよ。最低でも二週間は間隔空けなきゃだめって言ったじゃない」
多くのニューハーフ系の男性同様、ママも美容整形外科でホルモン剤の注射打っている。
女性になりたい男性には女性ホルモン、その逆には男性ホルモンを打つことで欲してやまない肉体に近付くことができる訳だが、それには大きなリスクが伴う。
副作用だ。
その代表が肌荒れで、脂質代謝の異常が原因のニキビやシミなどが大量に発生する。
「わかってるけど……」
ママは少し悲しそうな顔をした。
「この前取材で、製菓用のゼラチンを飲み物に混ぜて飲むといいって聞いたけど」
少し気の毒になって私が言うと、
「ホント? ゼラチンね。ありがと。試してみる」
と目を輝かせた。
真偽ほど定かでないが、なぎさママはそのむかし、高校教師をしていたそうだ。
そこで教え子の男子生徒と恋に落ち、手に手を取って東京に逃げて来たという。
しかし、その生徒がどうなったのか、なぜママがスカートをはき、この街の顔役になったのかを知る人はいない。
誰かの携帯が鳴りだした。
着メロはオレンジレンジ、TKOのだ。
メールが届いたらしく、液晶画面を眺めながら鬱陶《うっとう》しそうに顔をしかめている。
さっきから彼の携帯は鳴りっぱなし、全部客からのラブコールだ。
TKOは店では指名・売り上げとともにナンバーワンのホストだ。
しょぼいクラブで踊っていることろをスカウトした。
どうってことのないルックスだが、若い子が好きそうな「あるある話」が得意で場を盛り上げるのが上手い。
今日もぱっと見はそのへんの大学生だが、ジーンズはD&G、スニーカーはプラダだ。
まさしく平成の成金スタイル。
「すみません。ちょっと面倒な客がいて、顔出してきたいんですけどいいすか?」
いかにもいやいやという顔でTKOが言った。
「ほどほどにしておけよ」
憂夜さんが言うと神妙に顔を下げ、店を出ていった。
初めのうち、憂夜さんと男の子たちのあまりのギャップに不安を抱いた。
しかし彼の頑《かたくな》なまでに一貫したスタイルは「リスペクトに値する」そうで、憂夜さんの言うことはみんな素直に聞いている。
三十分後、今度は憂夜さんの携帯が鳴った。
相手はTKOらしい。
話し始めてすぐ、彼の顔色が変わった。
「古川まどかが死んだそうです」
電話を切ると、はっきりそう言った。
慌てて三人でタクシーに飛び乗った。
まどかの家は、恵比寿公園の近くの小さなマンションだった。
エントランスの前で真っ青な顔のTKOが私たちを待っている。
蛍光灯が点る階段を四人で駆け上がった。
まどかの部屋は二階の角だ。
開けっ放しのドアから恐る恐る憂夜さん、(なぜか)私、塩谷さんの順で室内に入った。
TKOは通路に立ったまま入ろうとはしなかった。
広めの1LDK、フローリングの床にミッドセンチュリーの家具。
きっとご自慢の城だったに違いない。
まどかはリビングのまんなかに倒れていた。
青から紫に変わりかけた顔色、はげた口紅。
幸い目は閉じていた。
そしてシワだらけになった白シャツから覗く細い首には、今年の必須アイテム、フリンジの革ベルトが食い込んでいた。
憂夜さんはまどかを一瞥《いちべつ》すると、すばやく携帯電話を取り出し、警察を呼んだ。
「何これ」
私は手を触れないように気をつけながら、まどかの胸の上を覗き込んだ。
A4の白い紙が一枚載せられている。
「天注」、黒いサインペンでそう書かれていた。
テレビでよく見る定規を当てて書いたような文字だ。
「ひょっとして、天誅の間違い?」
「犯人は国語が苦手らしいな」
塩谷さんが言った。
「どういう意味かしら」
「言葉通りの意味だろ」
二人とも妙に落ち着いていた。
室内はひどく荒れていた。
スタンドは倒れ、花瓶は倒れ、棚の中の本やCDが床の上にぶちまけられている。
まどかは最後まで侵入者に抵抗を試みたらしい。
間もなくサイレンの音が近づいてきた。
憂夜さんが案内のために降りていき、私と塩谷さんも通路に出た。
TKOが壁にもたれ、虚ろな目で向かいの部屋のドアを見つめていた。
「まどかは誰かにうらまれてたってこと?」
私の質問にTKOが答えた。
「そうです。殺《や》ったのはストーカーです」
「ストーカー?」
のろのろと顔を上げ、こちらを見た。
「まどかはオレにストーカーに狙われてるって話してたんです。でも、気を引くためのネタだと思って本気にしてなかった。まさかこんなことになるなんて……」
「犯人について何か言ってなかった?」
TKOは首を大きく横に振った。
「でも俺見たんです。きっとあいつが犯人だ」
「あいつって?」
「女です。さっき来た時に、階段で上から降りてきた女とぶつかった。謝ろうとしたんだけど、逃げるようにして消えちまったんです」
どんな女? さらに聞こうとした時、あわただしい足音が聞こえてきた。
電話のベルで叩き起こされた。
出ると塩谷さんだった。
「テレビつけろ」
有無を言わせぬ口調だった。
這《は》うようにしてベッドを降り、テレビのリモコンを捜す。
あの後警察に行って話をして、家に帰ったのが朝の十時すぎだ。
スイッチを入れると昼のワイドショーをやっていた。
まどかのマンションの前で、厚化粧のレポーターが早口で話している。
「カリスマ美人編集者、謎の絞殺!」、画面の隅には刺激的な文字が躍っている。
ぼんやり眺めていると塩谷さんが言った。
「こっちも大騒ぎだぜ」
背後から鳴りっぱなしの電話のベルや、ざわざわとした気配が伝わってくる。
腐っても会社員、寝ないで出社したらしい。
チャンネルを変えると、見慣れたビルの前で黒いスーツを着た憂夜さんがマイクに囲まれていた。
「当分店は休みね」
「ああ、でもあいつらから話を聞いておいた方がいいな」
塩谷さんが言った。
あいつらとはもちろん男の子たちのことだ。
店側に責任はないが、第一発見者がホストとなればマスコミは一斉に騒ぎ立てるだろう。
TKOはまだ警察に残され、現場検証に立ち会わされている。
操作はTKOの証言をもとに、ストーカー犯人と階段でぶつかった女捜しを中心に行われるらしい。
電話を切ると分厚い遮光カーテンを開けた。
阿佐ヶ谷駅徒歩十分、築三十年の1DK。
学生時代からの住みかだ。
日当たりのよさが売りらしいが、夜型の生活を送る人間にはそこが辛い。
それから数日かけてホストたちから話を聞いた。
結論から言えば、TKOにとってまどかは業界用語で言う色恋の客≠セった。
つまり「好きだ、愛してる、つき合ってくれ」といって口説き、金を使わせていたのだ。
最も簡単で手っ取り早い接客術だが、その気になった相手にしつこくつきまとわれるというリスクが伴う。
まどかも同伴、アフター、貢ぎ物というパターンを辿《たど》り、最近では結婚などというぶっそうな言葉まで口にしていたらしい。
あの夜も「どうしても会いたい」とメールが何本も入り、仕方なく部屋を訪ねると変わり果てた姿で転がっていた、という流れだ。
おまけにTKOは他の客に対しても同様にふるまっていたため、渋谷|界隈《かいわい》には自称・TKOの彼女≠ェごろごろしている、という事態を招いていた。
「度々言って聞かせていたんですが」、憂夜さんはそう言ってひどく申し訳ながっていた。
他の世界同様、体で仕事を取っているうちは三流ということだ。
事件から二週間も経つとマスコミも騒がなくなった。
もうまどかのことなど誰も覚えていないようだった。
営業再開の夜、初めて豆柴《まめしば》が店に現れた。
「よお。久しぶりだな」
憂夜さんの顔を見るなり親しげにそう言った。
「ご無沙汰してます」
憂夜さんも低い声で応えると頭を下げた。
予想はしていたが、この人はいろんなところにたくさん知り合いがいるらしい。
「あんたらがオーナーか」
豆柴はそう言って私と塩谷さんをじろじろ見た。
表向きindigoの経営者は憂夜さんということになっている。
本当のオーナーを知っているのは店のスタッフの他、ほんのわずかな人間だけだ。
「小野武雄《おのたけお》を呼んでこい」
豆柴が言った。
|TKO《タケオ》の本名だ。
「生活安全課の刑事が何の用ですか? 殺人事件の担当は刑事課ですよね」
受け取った名刺を見て私が言った。
「警視庁渋谷警察署生活安全課課長」、肩書きはそうなっていた。
「やけに詳しいじゃねえか」
豆柴が鋭い目で私を見上げた。
髪はほとんど抜け落ちてるのに脂っぽい頭、サイズの合わない背広はフケだらけだ。
本名・柴田克一《しばたかついち》、チビだからあだ名は豆柴=B
誰が考えたか知らないが秀逸なネーミングだ。
「むかし仕事で調べたんです」
少しひるんで言い返すと、
「風俗営業に関わる事件、全部うちの管轄でもあるんだよ」
と言ってオーナールームを胡散《うさん》臭そうに見回した。
豆柴はこのあたりの風俗営業関係者の間では有名人だ。
彼の手によって何軒の店が営業停止に追い込まれたかわからない。
彼が夜の道玄坂を歩くと、十二時前でもヘルスやキャバクラが一斉にシャッターを下ろすという噂だ。
職務に燃えるというよりは、この手に個人的な恨みがあるんじゃないかと思う。
粗末なムスコをソープ嬢に笑われたとか。
すぐに憂夜さんに連れられたTKOが入ってきた。
「古川まどかが、お前にストーカーの話をしたのはいつだ?」
ソファに向かい合って座ると豆柴が言った。
「それならもう何度も話しましたよ」
うんざりしてTKOが答えた。
すっかりやつれ、ナンバーワンホストは今や見る影もない。
「俺は初めてなんだよ」
当然のように言い、胸ポケットからシワくちゃになった煙草の箱を取り出した。
「ここ禁煙なんですけど」
私が言うと横目で睨《にら》み返し、煙草を戻した。
「ひと月くらい前です。バカ騒ぎしたかと思ったら急におどおどしたりして、様子がおかしくなった。何でもないって言ってたけど、しつこく聞いたらストーカーに狙われてるって答えたんです。会社や家に脅迫状みたいな手紙がたくさん届くって」
TKOが答えた。
「しかし、お前がその手紙を見たことは一度もない」
「見せてくれなかったんです。だからネタだと思ったんだ」
「ネタはお前の方だったりしてな」
唐突に豆柴が言い、TKOはぽかんとした。
「ちょっと待ってよ。ストーカーはTKOの作り話だって言うんですか? なんでそんなことしなきゃならないんですか」
私を無視して豆柴が言った。
「お前、タレント事務所にスカウトされたんだって?」
TKOがぎょっとして私たちを見た。
そんな話は誰も聞いていない。
「なのにまどかにしつこくつきまとわれて、ずいぶん困ってたそうじゃねえか」
「そ、それどういう意味だよ。まさか俺のこと疑ってるんじゃないだろうな?」
狼狽《ろうばい》しながらも言い返した。
「さあな」
「冗談じゃねえよ。第一俺が階段で見た女はどうなるんだよ」
「ああそれな、いくら聞き込みしても目撃者がお前以外誰も見つからないんだよなあ」
TKOが立ちあがった。
「ふざけんなよ!」
続けて何かわめこうとして喉を詰まらせ、激しく咳《せ》き込んだ。
みるみる顔が赤くなり、皮膚の薄い額に血管が浮き上がる。
「誰もお前が殺ったとは言ってねえだろ」
と囁きかかけた。
いやなやつ。
豆柴がTKOを解放すると、入れ替わりに憂夜さんがソファに座った。
「で、どういうことなんですか?」
「何が?」
「ああいう言い方をするってことは、何か根拠があるんでしょう」
豆柴が鼻で笑った。
「バカ言うな。そんなことべらべらしゃべれるかよ」
「残念だな。せっかく捜査に協力させていただこうと思ったのに。もしかしたら意外なことでお役に立てるかもしれませんよ」
「……」
「私とあなたの仲じゃないですか」
いつものように優雅に微笑んでいたが、目が変な風に光っている。
塩谷さん、この人どこから連れてきたの?
視線でそう訴えたつもりだったが、あっさり無視された。
すると豆柴がため息をついた。
「わかったよ。その代わり、何かわかったら必ず話せよ。下手にかばい立てしたら、お前ら全員ぶち込んでやるからな」
そう言ってこっちをじろりと睨んだ。
「古川まどかがストーキングされてたことを知ってるのは、小野武雄だけなんだよ。おかしいと思わねえか? 警察はもちろん家族にも相談してない。すれば殺されずにすんだかもしれねえのに」
「確かにそうですね」
「おまけに証拠も見つからない。例の『天注』以外は、会社やマンションをいくら捜しても脅迫状なんか一通もでてこなかったぞ」
「どこかに隠してるとか?」
私が言った。
「なんのために?」
「う〜ん」
「つまりTKOがスカートを装ってまどかを殺し、階段の女をでっち上げたということですね」
憂夜さんがクールに言い、豆柴が訂正した。
「決まった訳じゃねえよ。そう考えると一番話がわかりやすいってことだ」
そしてもう一度ホントにぶち込むからな、とドスを利かせて帰っていった。
改めてTKOから話を聞こうということになり、捜すと事務所のトイレにいた。
さっきからずっと吐きまくっているらしい。
要領はいいがストレスには弱い。
これも今時の若者≠ゥ。
「いい加減にしなさいよ」
私はいらいらしながらドアを叩いた。
TKOが心配なのではない。
トイレに行きたかったからだ。
病気の本を書いていると、必ずその部分が具合が悪くなる。
痔の本の時はおしりがむずむずしたし、肝炎の時は白目が黄色っぽくなった気がした。
今回は肥大する前立腺はないはずなのに、やたらとトイレが近い。
おしっこの切れまで悪くなった気がする。
「どうしたんですか?」
振り向くとテツが立っていた。
坊主頭にニットキャップをかぶり、君はとび職か? と思うほど太いジーンズをはいている。
口を開こうとすると、ドアの奥でTKOが激しく咳き込んだ。
それで全てを察したらしく、軽くノックすると落ち着いた声で言った。
「TKOさん、テツです。入ってもいいすか?」
すぐにがちゃがちゃともがく音がしてロックが解除された。
TKOが便器を抱え、床にぐったりと座り込んでいた。
テツは隣にかがみ込むと言った。
「晶さんすみません、水持ってきてもらえますか」
言葉は丁寧だったが有無を言わせぬ強さがあった。
私は仕方なくカウンターバーに向かった。
テツは入店半年足らずの新人ながら、ナンバーワンホスト・TKOのヘルプをつとめている。
驚くほど真面目で一本気な性格で「なんでホストなんかやってんの?」と思うが、自分からこの店で働きたいとやってきた。
TKOも彼のそういうところを気にいっているらしいが、便利に使ってるだけと言えなくもない。
ファッションもindigoには珍しいBボーイ系で、日サロで真っ黒に焼いた肌に似合わない無精ヒゲを生やし、常にだぶだぶの服に小さな体を泳がせている。
まだ幼さの残るかわいい顔はニキビだらけで、気になるのかいつもいじくり回している。
接客はまだまだだが、指がべらぼうに美しいので人気が上がりつつある。
「髪に寝ぐせがついてても、ヒゲを剃り忘れてもいい。指だけは奇麗にしとけ」、憂夜さんのお言葉らしいが、さすがにツボをついている。
戻ってきて覗き込むと、TKOはテツに背中をさすられていた。
「大丈夫?」
エビアンのボトルを差し出すと、よろよろと青白い顔を向けた。
「俺、絶対殺ってないすよ。確かにまどかはウザかったけど、殺すなんて考えたこともなかった」
潤《うる》んだ捨て犬のような目で私を見つめている。
「女もホントに見たんです。嘘じゃない」
「だといいけどね」
「信じてくださいよ。スカウトの件だって、近いうちにちゃんと話すつもりだったんです。なあテツ?」
甘えるように言って腕をつかんだ。
「知ってたの?」
私が聞くと、テツは決まり悪そうに頷いて鼻の上のニキビを掻いた。
「スカウトしたのは俺の指名客なんです。でもTKOさんに口止めされてて……」
「あっそ」
冷たく言うと、TKOはもう訳わかんねえよ、とうめき、肩を震わせて泣き始めた。
私はうんざりしてため息をつくと、形のいい後頭部を思いきりひっぱたいてやった。
「ハンパやってんじゃないよ!」
二人ともぎょっとして顔を上げた。
「殺しも嘘も覚えはないんでしょ? だったら自分でカタつけなさいよ」
まくし立てる私を瞬きもせずに見つめている。
かばう気はさらさらないが、私もTKOがまどかを殺したと思えなかった。
確かにTKOは胡散臭い。
店での評価はナンバーワンからワーストワンに一気に転落した。
「天注」もいかにも彼がやらかしそうなミスだ。
でも、そこが怪しい。
できすぎだ。
そもそも、何でも誰かがなんとかしてくれると思っているTKOに偽装殺人なんて計画する脳みそはないだろう。
翌日、閉店後に男の子たちを集めた。
場所はなぎさママのダイニングバー。
TKOはもちろん、テツ、ジョン太、その他に主要ホスト十名ほどが顔を揃えた。
私は事件のいきさつとTKOにかかっている容疑を簡単に説明した。
「殺人犯を出したとなると営業できなくなるわ。言いたいことはあると思うけど、店のために力を貸してもらえない?」
返事はなかった。
みんなだらしなくカウンターやソファに腰かけ、何やら目配せし合っている。
カウンターの中から、なぎさママがみんなにビールとつまみを差し入れしてくれた。
ふいに一人が立ち上がった。
アレックスだ。
最初の店からいる古株ホストで日米ハーフ、キックボクシングのプロライセンスも持っている。
男の子たちの間でも一目置かれている存在だ。
隅の方で小さくなっているTKOの前に立つと、じっと見下ろした。
身長は二メートル、体重は百キロ近くある。
「お前、本当に殺ってないんだな?」
私のふくらはぎほどもある腕を組み、太い声で言った。
TKOは無言で、それでもまっすぐに彼を見て頷いた。
よし、アレックスがつぶやいた。
そして振り返ると、一人一人確認するように男の子たちの顔を見回した。
そして最後に私に向かい、
「何でも言ってください。俺ら動きますから」
と言った。
それから作戦会議に移った。
「ささいなことでもいいから、何か思い出せない?」
私が聞くと、TKOが首を横に振った。
「まどかは何を聞いても知らない、言いたくないの一点張りでした。ストーカーの犯人にも心当たりはないって言ってました」
「なんでだろう。話せない訳でもあったのかな」
私が言うとみんなが首を傾《かし》げた。
「階段の女がストーカーだとすると、まどかを狙った理由は何だと思う?」
つまみのピスタチオの殻を剥きながら、ジョン太が言った。
「男を盗られたとか。あいつなら可能性があるぜ」
アレックスが言い、今度はみんなで頷いた。故人に対してあんまりな言葉だと思うが、事実は事実なんだから仕方がない。
そこでまず最近のまどかの行動を調べ、恨みを抱くような人物がいないか探ることにした。
もちろん階段の女捜しも同時進行だ。
特徴を聞くとTKOは次のように答えた。
「二十から三十くらいで、小柄だったな。黒っぽい服着て髪は茶髪のレイヤー、長さは肩ぐらいのセミロング」
そしてこうつけ加えた。
「ぶつかった時に思ったんだけど、すげえ貧乳だった」
「ヒンニュウ?」
「晶さんのことですよ」
ジョン太が明るく答えた。
怪訝《けげん》な顔をしている私に、アレックスが笑いをこらえながら説明してくれた。
「胸の小さい女のことです」
「……」
相手はガキ。
そう自分に言い聞かせ話を続けた。
「顔は? 芸能人で言うとだれ?」
「サングラスをかけてました」
TKOが申し訳なさそうに答えた。
「でも、そいつかなりヤバめですよね」
頬のニキビを潰しながらテツが言った。
「ヤバめ?」
「だって明け方の五時にサングラスかけて、一人で階段駆け下りてくる女ですよ? まともじゃないすよ」
「なるほど」
私が感心すると自慢げに小さな鼻の穴を膨らませた。
今日はベースボールキャップを斜めにかぶり、ナイロンのハーフパンツをはいている。
「さすがあたしのテッちゃん」
ふいになぎさママが言い、カウンターの中からテツの背中に抱きついた。
テツは短い悲鳴をあげて手を振り払うと、転げ落ちるようにスツールから降りた。
待っていたように男の子たちが笑う。
「そういうのをやめてくれって言ってるだろ。寿命が縮まる」
心底いやそうに、それでも親しみのこもった声でテツが言った。
「失礼ね。あたしは恐怖新聞かっての」
ママも口を尖らせながら、嬉しそうに言い返す。
男の子たちがさらに沸き、テツも顔をほころばせた。
両頬に大きなえくぼが浮かぶ。
テツがこの街で動くきっかけを作ったのはなぎさママだ。一年ほど前に、夜明けの新宿をふらついていた彼を「天啓を受けて」ナンパしたそうだ。
ところがテツは筋金入りのノンケ、なりゆきでダイニングバーのバイトとして雇われたものの、「貞操の危機を感じて」indigoに移ってきたらしい。
しかしママはいまだ諦《あきら》めきれないらしく、「おかしいわねえ。絶対うちの組合の子だと思ったんだけど。今まで一度もはずれたことないのよ」と、ことあるごとにこぼしている。
その夜から、探偵ごっこが始まった。
ホストたちはそれぞれが持つネットワークや遊び場などを駆使して情報を集めた。
その結果、古川まどかの華麗なるナイトライフが明らかになった。
もともと麻布・青山あたりのクラブの常連だったが、三ヶ月ほど前から急に遊び方が派手になった。
貸し切りでパーティを開いたり、気に入った男の子たちを連れて飲み歩くことも度々だったらしい。
さらに、表参道のアンティーク家具店で五十万円以上するテーブルをキャッシュで買ったのも目撃されている。
一方塩谷さんも動いてくれていた。
社内を中心に編集者としてのまどかの仕事ぶり、人間関係なんかを洗ったらしい。
予想はついていたが、まどかはよくあるコネ入社でやる気ゼロ、借りた写真をなくしたり、取材先の名前や電話番号を間違って載せたりの掟破り≠燗常茶飯事だったらしい。
その上思いつきで出した本が大ヒット、もともとゆるい頭のネジが一気に吹き飛んでしまったようだ。
「自分で自分に潰される典型的なパターン」、塩谷さんはコメントした。
「でも、まどかはどこでそんな大金手に入れてたんだろう。本が売れたことと関係があるのかな」
私が言った。
いくらベストセラーの本を作ろうがしょせんは一会社員、もらえる給料はたかが知れている。
「池下若菜に印税からバックさせてたとか?」
テツが言った。
今日の作戦会議の会場は店のオーナールームだ。
「あ、それはないない」
ジョン太が言った。
私兼塩谷さんのデスクにふんぞり返って座り、革張りの椅子をくるくると回転させている。
「一度やってみたかったんだよな〜」そう言っていた。
「若菜は印税にはビタ一文手をつけてないです。遊ぶ金は全部雑誌やテレビのギャラで、口座も別。結構がっちりしてんすね」
「なんで知ってるの?」
驚いて聞くと背中を丸めて声をひそめ、
「でかい声じゃ言えないんすけど、アレックスの連れの後輩が、若菜のメインバンクのATMシステムを作ってる会社でシステムエンジニアをやってるんですよ。頼み込んで、適当な口実作って照会してもらいました」
と答えた。
「やるじゃん」
私が言うと、アレックスは照れ臭そうに、
「インター時代の連れなんです」
とつけ加え、太い首を突き出すようにして頭を下げた。
つまり、インターナショナルスクール時代の友人ということだ。
正直なところ、彼らがここまで動けるとは思っていなかった。
排他的で他人に無関心だとばかり思っていたが、驚くほど熱心でフットワークも軽い。
面識のない相手でも○○の連れ≠フ一言で、臆《おく》することなくコミュニケーションを取ってしまう。
「みんなどっかで楽しんでるんですよ」
ジョン太が言った。
「仲間うちでイベントとか作ってちょこちょこ盛り上がれるけど、マジに熱くなれることなんてそうないじゃないですか。感動はしたいんすよ。でも、カッコよくなきゃ。ベタはダサいでしょ?」
そう言ってニカッと笑った。
目がなくなり、代わりに大きなえくぼができる。
クールに感動したいってことか。
屈折しているように見えるけど、彼らなりの必死のポーズなのかもしれない。
しかし、わかったのはそこまでだった。
金払いのいいまどかには、おこぼれに与《あずか》ろうというやつは大勢いても、殺してやりたいと思うほど恨んでいる人間はいなかった。
さらに例の女捜しも手詰まりになっていた。
それらしい人物が見あたらない訳ではない。
該当する人間が多すぎるのだ。
町を歩く若い女の三人に一人は小柄で茶髪のセミロングだ。
突然、池下若菜がコンタクトを取ってきた。
TKOに電話をかけてきて、「まどかからストーカーについて何か聞いてないか」としつこく尋ねたという。
まどかがストーカー被害に遭っていたことは、今のところ警察とindigoの探偵メンバー、そして犯人しか知らないはずだ。
早速TKOに若菜と会う約束を取りつけさせた。
ヘルプでテツも同行してくれた。
つくづくいいやつ。
若菜の仕事場は松濤《しょうとう》のマンションだった。
こういう交通の便の悪い高級住宅街に仕事場を構えて許されるのも、ベストセラー作家の特権だろう。
私なら編集者に総スカンだ。
若菜は警戒心丸出しの目で私を見た。
「まどかの親戚で事件について調べてる」、打ち合わせ通りにTKOが紹介すると、しぶしぶながら招き入れてくれた。
広々とした2LDKで天井も高い。
ガラスブロックがあちこちに使われているのがいかにも今風だ。
リビングの打ち合わせ用らしいテーブルに四人で座った。
「ホントにストーカーのこと何も聞いてない?」
若菜はそう言ってすがるような目でTKOを見た。
今日はノースリーブのニットにピンクのパシュミナをはおっている。
「本当だよ。それよりなんで若菜ちゃんが知ってるの?」
「まどかから聞いてたから」
「なんて?」
すると若菜は急に不機嫌になり顔を背けた。
「なんでもいいじゃん」
TKOは突然テーブルに両手をつくと頭を下げた。
「若菜ちゃん、頼む。一緒に警察に行って、そのことを話してくれよ」
「え〜っ、なんでえ? 絶対いや!」
逃げるように体をそらした。
「どうして?」
「どうしても」
この女、何か隠してる。
そう確信した瞬間、電話が鳴った。
若菜はびくりと肩を震わせ、テーブルの上の子機を見つめている。
「出ないの?」
リズミカルなベルの音を聞きながら私が尋ねた。
「出るわよ」
気丈《きじょう》に言い返すと子機を取り上げた。
「もしもし?」
沈黙。
「だれ? なんとか言いなさいよ」
沈黙。
「いい加減にしてよ!」
若菜は叫ぶと乱暴に電話を切った。
顔から血の気が引いている。
「若菜ちゃんもストーキングされてるんじゃない?」
思っていたことをテツが言った。
若菜が何か言い返そうとするのを制し、さらにこう続けた。
「大丈夫、俺が守るよ」
若菜の動きが止まった。
テツはすかさず手を伸ばすと、ネイルアートの施された指先に優しく重ねた。
大きな手のひらはあくまでも薄く、長い指はさらりとしてほとんど節がない。
若菜の目にぶわっと涙が浮かんだ。
慌てて引き抜いたティッシュが涙とどろどろになったマスカラを吸い取っていく。
「警察に言わないって約束する?」
上目づかいで媚《こ》びるように見ながら言った。
私は目でTKOを黙らせると、テツに向かってすばやく頷いた。
「もちろん。だから話してくれる?」
テツは笑顔で言った。
白い八重歯が覗く。若菜は涙を拭うと、こくりと頷いた。
お見事。
私はテーブルの下でガッツポーズを決めた。
さすが指で殺す£j。
「同じくらいの時期から、まどかと私に脅迫状が届き始めたの。まどかが殺されてからも続いて、最近は無言電話までかかってくるようになった。それに、ゆうべはこれがポストに……」
立ち上がると、仕事机の引き出しから本を一冊取り出した。
『天使のごほうび』だ。
表紙はもちろん、どのページにも汚い字でいたずら書きがされている。
「卑怯者」「死ね」「今度はお前の番だ」etc……。
後ろからの見返しを開くと、カバーのそでに、白シャツ襟立て姿の若菜の写真がレイアウトされていた。
「著者近影」ってやつだ。
しかしその顔は無残にもカッターナイフで繰り返し切りつけられ、特に両目には大きな×印が刻まれていた。
「これどういう意味?」
写真の下には「泥棒」とひときわ大きな字で殴り書きされている。
「……」
また若菜が口をつぐんだ。
「ひょっとして、この本パクリなんじゃない?」
私が聞くと、目を丸くした。
「どうしてわかるの?」
「あんたがルーズソックスはいてた頃からこの仕事やってんのよ」そう言ってやりたかったが適当にごまかした。
「まどかが編集部の大掃除で、この本の企画書が入ったファイルを拾ったの。たぶんライターの誰かが持ち込んだんだと思う。私はヤバいって言ったんだけど、古いファイルだし、絶対大丈夫だって……」
なるほど、いかにもな話だ。
単行本や雑誌記者の企画書は、フリーライターにとって欠かせない営業ツールの一つだ。
編集者は持ち込まれた企画書を読むことで、相手の企画力はもちろん文章力や構成力、持ってるコネなどさまざまな要素をチェックできる。
しかしその企画が採用されることはめったになく、ほとんどがボツだ。
それでも他の仕事をもらうきっかけになるので、私たちは常に企画のネタを探し続けている。
しかし、中にはボツったはずの企画書が知らないうちに本になり出版されているという事態も起こる。
つまりはパクられたということだ。
「それじゃ誰にも話せないよな」
放心したようにTKOが言い、若菜はまためそめそと泣きだした。
テツは呆然として黙り込んでいる。
確かにその通りだ。
話せばパクリがばれてしまう。
ばれたところで罪に問われることはまずないが、マスコミには猛烈に叩かれるだろう。
持ち上げ方が大きければ大きいほど、引きずり下ろそうとする時のやり方も壮絶だ。
まどかがストーカーよりそっちに脅威を感じたとしても不思議じゃない。
脅迫状が見つからないのも、届くそばから処分してしまっていたからだろう。
「晶さん、マジで警察に言わない気じゃないでしょうね?」
マンションを出るなりTKOが言った。
「仕方ないでしょ。約束したんだから」
「そんなぁ」
また泣きそうな顔をした。
「いいじゃない。とりあえず君の容疑は晴れた訳だし。それにいまいち腑《ふ》に落ちないことがあるのよね」
「なんですか?」
テツが聞いた。
「私も経験あるけど、パクられれば確かに腹は立つわよ。いやがらせくらいはしたくなるかもしれない。でも無言電話と殺人じゃ次元が違いすぎるわ」
「確かに」
「それにパクられる度に殺してたら、編集者なんかとっくに絶滅してるわよ」
「晶さんはなんでライターの仕事を続けてるんですか?」
テツが言った。
店の男の子が誰でも一度はする質問だ。
店が成功した結果、私の銀行口座には毎月すごい大金が振り込まれるようになった。
前立腺肥大症の原稿なんか書かなくても、かなりゴージャスな暮らしができるだろう。
でも、この仕事をやめるつもりはない。
私は答えた。
「好きだから」
「文章を書くのが?」
「それもあるけど、もっとささいなことかな。書き上げた原稿の束を机の上で揃える時の音とか、刷り上がってきたばかりの本を開く時の感触とか。そういう瞬間の一つ一つが好きだから続けてるんだと思う。たぶん塩谷さんも同じよ」
「パーッと贅沢とかしたくならないんですか?」
私はユニクロのスリムジーンズに、無印良品のボーダーシャツという格好だった。
「してるつもりなんだけど、ホントに欲しいもの買って気に入った場所に住むと、なぜか全部安物なんだよね。塩谷さんには人間が安い証拠だってバカにされるけど」
そう言って私とTKOは笑った。
しかしテツはひどく真面目な顔で、
「スジ通ってますね」
と言って顎のニキビをなでた。
その夜から、企画書の作者捜しを始めた。
私は知り合いのライター、カメラマン、スタイリストなどに電話をかけまくり、ここ数年の間に『Carat』編集部に出入りしているライター、もしくは企画を売り込みにいきそうな人物を当たった。
同様に塩谷さんは会社の内部から探ってくれた。
広いようで狭い業界なので、翌日の深夜にはリストができ上がった。
女二十二名、男七名。
私たちはオーナールームにこもると、絞り込みを始めた。
ジョン太とテツが店を休み、手伝いを志願してくれた。
最初に容疑者からはずしたのは男七名だ。
『天使のごほうび』の内容から考えて、企画者が男性である可能性は低い。
次に専門のジャンルを持っている人たちも対象外とした。
ライターの世界には仕事を一つの分野に絞っている人もいる。
ファッションやコスメ、料理やマネーなどさまざまで、名前が売れると○○ジャーナリストとか名乗ってテレビに登場することもある。
さらに年齢的に企画とは縁が薄そうな人もはずした。
私たちは作者を二十代後半から三十代前半まで、と推測していた。
最終リストが完成したのは、店を閉める直前だった。
疲れきった私たちに憂夜さんがハーブティーを淹《い》れてくれた。
リストに残ったのは六名。
専門分野が恋愛や生き方などメンタル系の人と、ノンジャンルで何でも書きますという人たちだ。
朝になると私たちはもう一度仕事仲間に連絡して、六名の最近の仕事ぶりなど動向を探った。
そして適当な理由を作り、直接本人に会いにいった。
しかし、結果は惨敗だった。
六名のうち四名は企画の作者としてはぴったりだが、みんな第一線で仕事をしているプロだけであって、復讐なんてケチなことを企てそうな女性はいなかった。
残ったのは会えなかった二名、篠原聡子《しのはらさとこ》と西田香奈恵《にしだかなえ》だ。
篠原聡子は結婚して福岡に行き、西田香奈恵は数年前に仕事をやめて行方不明だった。
そしてその間も若菜へのいやがらせは続いていた。
無言電話と脅迫状はもちろん、最近では後をつけられたり、マンションのポストにまでいたずら書きされるようになった。
それでも「警察には言いたくない」と頑なので、仕方なく店の男の子を交代でボディーガードにつけた。
本人はいろんな意味で大喜びらしい。
また豆柴が来た。
私の顔を見るなり満面の笑顔で、
「あんた、昔は相当やんちゃしてたらしいな」
と言った。
「地元の少年課の刑事が懐かしがってたよ。代わりに大出世して元気にやってるって伝えておいてやったぞ」
そう言うと断りもせずに箱からティッシュを引き抜き、豪快に痰を吐いた。
私は黙って豆柴を睨みつけた。
塩谷さんがわざとらしく咳払いをした。
憂夜さんは驚いたような顔でこっちを見ている。
八十年代初頭の一時期、確かに私はつっぱり(ヤンキーなんてしゃれた言葉はなかった)と呼ばれるタイプの人間だった。
オキシフルで脱色した聖子カットで袴のような制服のスカートを引きずり、誰かれとなくガンを飛ばしながら北関東の田舎町を闊歩《かっぽ》していた。
族車の後ろで旗を振り、よその家の壁にスプレーで天上天下唯我独尊≠ネんてグラフィティアートを残した記憶もある。
でも、何かにいら立ったり、社会に歯向かってやろうなんて気はさらさらなかった。
仲間うちで流行のアイテムでおしゃれして、人気のスポットで楽しく遊んでいたらいつの間にかそういうことになっていた。
典型的な田舎者、井の中の何とかだ。
「ご用はそれだけでしょうか?」
「従業員名簿を見せろ」
「今度は誰を犯人にするつもりですか?」
嫌味たっぷりに言うとむっとして私を睨んだ。
手詰まりになっているのは警察も同じらしい。
あれから何度かTKOを呼び出し、まどかの周辺も調べているらしいが、逮捕に結びつくほどの証拠はつかめていない様子だ。
「持ち出すのはお断りしますよ」
そう前置きして憂夜さんが名簿のファイルを渡した。
「なんだこりゃ」
ファイルをめくり始めてすぐ、豆柴が声をあげた。
ホストたちの源氏名に呆れているらしい。
TKOやジョン太なんてのはまだいい方で、サム平だサド男だ犬マンだとやる気あんのか? というネーミングセンスのオンパレードだ。
DJやラッパーの真似もあるが、時代は「笑わしたもん勝ち」ってことらしい。
「なんでこいつだけ保険証なんだ」
また豆柴が言った。
開いているのはテツのページだ。
左に履歴書、右手のページには健康保険証と住民票のコピーがファイルされている。
「運転免許もパスポートも取ってないと言うので」
憂夜さんが答えた。
「今時そんなやつがいるのか?」
「車にも海外旅行にも全く興味がないそうです。気にはなりましたが、勤務態度も非常にいいし、今のところ特に問題はないと思います」
風俗営業店の常識として、従業員を雇い際には必ず写真付きの身分証明書を掲示させ、身元確認をする。
持ち合わせがない場合は健康保険証か印鑑証明書で代用するが、その際には住民票の写しか数ヶ月以内の公共料金の領収書を添付《てんぷ》させる。
未成年者をチェックする意味もあるが、本当はホストの足抜け≠防ぐためだ。
ホストが店に借金をしたまま行方をくらますのは珍しい話ではない。
もちろんそういう場合にはその道のプロの方にお願いして、地球の果てまで追いかけていただく。
豆柴はふん、と鼻を鳴らし何か考えるような顔をした。
テツの本名は柳井哲《やないさとし》=B
山梨県出身の二十一歳で、高校卒業後上京して以後フリーターというごく平凡な経歴だ。
ちなみに趣味は音楽鑑賞(ブラックミュージック)と映画鑑賞(好きな監督はスパイク・リーと北野武)だそうだ。
履歴書の写真から、いつもの上目づかいに挑むような目がこちらを見つめている。
豆柴はその後もたっぷりと居座り、男の子たちの経歴や人間関係などについて憂夜さんにしつこく質問していった。
若菜のボディーガードをすることになった。
パクリの件を言い当てて以来、なぜか私は彼女になつかれ、携帯にしょっちゅう電話がかかってくる。
あげく、マネージャーのふりをしてマスコミの取材に同行して欲しい、と言い出したのだ。
理由を聞くと「indigoの男の子と二人だけだと、いろいろ誤解する人もいるでしょ?」と甘ったれた声で応えた。
「世の中のナメんのも大概にしろよ」そう怒鳴りつけて電話を叩き切ろうかとも思ったが、確かに危険だ。
雑誌の取材には必ずライターが来る。
その中にストーカー犯人が紛れ込む可能性もなくない。
結果、私は若菜の後ろについてあっちのカフェからこっちの撮影スタジオへと飛び回るはめになった。
「なんてカッコしてんですか」
ジョン太がすっとんきょうな声をあげた。
店に戻ってきた私の格好を見て驚いているのだ。
胸元のぱっくり開いたデカ花柄のタイトワンピースにエールバッグ。
一生無縁だと思っていたタイプのファッションだ。
「仕方ないでしょ。若菜が自分と釣り合いが取れないって騒ぐんだから」
そう言い返し、華奢《きゃしゃ》なミュールを蹴り飛ばすようにして脱いだ。
全部若菜からの借り物だ。
「いや、でも意外とイケてますよ。晶さん、これからはお姉さま系でいったらどうすか」
「誰がお姉だよ。こいつの歳でやったら立派な若作りだって」
ジョン太が持ち上げ、塩谷さんが落とした。
言いたい放題だ。
塩谷さんは厨房からくすねてきたワインを飲んでいる。
「明日のボディーガード当番はだれ?」
スケジュール帳を開きながら私が言った。
手を挙げたのはテツだった。
「どこで取材ですか?」
「青山で午後二時。おじさん向けの週刊誌で、若菜が母校のキャンパスで思い出を語るんだってさ」
「危険度は?」
「野崎さんていう中年の男性ライターと、nishikaって、女性カメラマン。まず心配ないわね」
私のアイデアで取材に来るのがどんな人物か、事前にさり気なくチェックを入れるようにしている。
「nishika? 変な名前ですね。外人ですか?」
「アーティストネームってやつでしょ。いかにも今時のカメラマン、て感じじゃない」
「ふうん……」
テツは感心したようにそうつぶやいた。
「くれぐれも注意してください。高原オーナーが巻き込まれる可能性だってあるんですから」
憂夜さんが釘をさした。
しかし、今のところこれといって怪しい人物には出会っていない。
もしかしてストーカー犯人はライターではないのかも……私はそんな風に考え始めていた。
翌日待ち合わせの場所に現れた野崎さんは、熊のようなルックスでいかにも人がよさそうだった。
一気に警戒心をゆるめた私に、nishikaが名刺を差し出した。
「よろしくお願いします」
長い髪をヘアクリップでまとめた彼女は、そう言ってにっこり笑った。
小さな顔に猫のような大きく切れ長の目、長くて細い首。
バレリーナみたいな子だ。
まずはロケハンをすることになり、三人が大学の構内に向かった。
私は校門の前で荷物番をしていた。
「晶さん」
振り返ると、国道246に停めたスクーターからジョン太が手を振っていた。
後ろにはTKOを乗せている。
「何やってんの? テツは?」
驚いて近づいていくと二人はスクーターから降りた。
「さっき電話があって、急に腹が痛くなったそうです。俺らはピンチヒッター」
ヘルメットを脱ぎながらジョン太がニカッと笑った。
「大丈夫かしら」
私は心配になり、携帯を聞くとテツに電話をかけた。
呼び出し音の後、すぐに留守番電話に切り替わった。
何度かけても同じだ。
店の男の子の大半がそうであるように、テツも携帯だけで部屋に電話を引いていない。
「帰りに様子を見にいこうかな。テツのアパートって祐天寺だったわね?」
私が言うと、二人は首を傾げた。
「行ったことないの?」
「店の仲間とプライベートでも友達づき合いするやつと、一切しないやつがいるんです。あいつは一切しないタイプ。家に行くどころか二人でメシ食ったこともないですよ」
少しくやしそうにTKOが言った。
「ふうん」
まあいかにもな話だ。
それに、私だってTKOと二人きりで食事するなんてごめんだ。
えんえん女自慢とブランドものとワイドショーの話を聞かされるに決まってる。
「でも、いいんじゃないすか。硬派っていうか自分の世界大事にしてるっていうか、それはそれでスジが通ってるし」
ジョン太が言った。
「まあね」
「晶さんこそ人の心配してる場合じゃないでしょ。ニコニコ元気ブックスは大丈夫なんですか? 原稿書いてます?」
あっけらかんと言われ、思わず頭を抱え込んだ。
「それは言わないで〜」
浅海さんからは毎日のように催促の電話がかかってくるが、留守番にして逃げ回っていた。
「俺が代わりに書ければいいんですけど。前立腺もあるし」
申し訳なさそうにTKOが言った。
こう見えても実は結構気をつかうやつらしい。
「気にすんなって。実は結構楽しんでるのよ。コスプレもできるし」
私がポーズを取ると二人が爆笑した。
その日はヒョウ柄のカットソーに、ミニタイトのスカートというほとんどやけっぱちのコーディネートだった。
間もなく撮影が始まったが、私はすぐに違和感を覚えた。
カメラマンの動きが妙にたどたどしいのだ。
レフ番の光を当てられなかったり、ポーズの指示を上手く出せなかったりと、まるで素人だ。
「要領が悪くてすみません」
ヒゲ面の野崎さんはそう言って何度も頭を下げた。
私が尋ねた。
何とか最初の1カットを終え、撮影場所は246にかかる大きな歩道橋の上に移っていた。
若菜は歩道橋のまんなかで青山の街をバックに微笑んでいる。
通行の邪魔になるので、私と野崎さんは校門前に残った。
野崎さんは汗を拭き拭き答えた。
「ええ。内の表紙を撮ってるカメラマンの助手をしてた子で、最近独立してフリーになったそうです。グラビアページの仕事はまだ早いと思ったんですが、今回の企画は彼女が考えたものですから」
「彼女が?」
「若菜さんの大ファンらしいですよ。どうしても会いたい、自分が撮影したいってそりゃもう熱心で」
胸の中で何かがざわめいた。
「彼女の本名をご存じですか?」
私が聞くと野崎さんは怪訝そうな顔をした。
「いえ。nishikaとしか……」
TKO=武雄と同じような言葉遊びなのだろうか。
そう思った瞬間、頭に塩谷さんと作ったリストが浮かんだ。
数年前に仕事をやめ、行方不明になっているライターの名前は西田香奈恵、つまりnishikaだ!
私は荷物を投げ捨てると走り出した。
ジョン太たちが驚いて振り返った。
若菜は撮影を終え、階段を降りようとしている。
「若菜!」
そう叫ぶとぎょっとして足を止め、こちらを見た。
その肩越しに香奈恵の顔が見えた。
真っ白で表情のない、心霊写真の地縛霊みたいな顔だった。
私が階段を二段抜かしで駆け上がるのと、香奈恵が若菜の背中を押すのが同時だった。
キャッチする自信はあった。
悪いのはいまいましいミュールだ。
私はバランスを崩し、若菜を抱きとめたまま後ろ向きに倒れた。
運よく真後ろにジョン太がいて、さらに運のいいことにその後ろはTKOがいた。
一番下で合計四名の下敷きになったのは野崎さんだった。
しかし後日聞いた話では、彼は腰をしたたか打っただけで他に大きなケガはなかったそうだ。
「次は探偵事務所でも始めるか」
大真面目に塩谷さんが言った。
「勘弁してよ」
私は顔しかめて腰をさすった。
店に戻って緊張が解けると、急に体のあちこちが痛み出した。
若菜にケガはなかったものの、西田香奈恵には逃げられた。
さらに騒ぎで警官が駆けつけ、探偵ごっこをしていたことがばれてしまった。
私は二十年ぶりで警察に引っ張られ、刑事課の刑事と豆柴から事情聴取と説教で夜までたっぷり絞り上げられた。
もちろん若菜も一緒だ。
若菜はずっと泣き通しだった。
これからもっと辛い思いをすることになるが、自業自得だ。
それにその分間違いなく本の売り上げも伸びる。
テツがオーナールームに駆け込んできた。
強《こわ》ばった青い顔をしている。
まっすぐ私の前に来ると、
「すみません!」
と言って頭を下げた。
「俺が休んだりしたせいです。西田香奈恵を逃がした上に、晶さんにケガまでさせて……」
「テツのせいじゃないわ。それにケガっていってもこの程度よ」
私はそう言って自分の足を指した。
膝小僧に大きな絆創膏が一枚、さっき憂夜さんに貼ってもらった。
「テツこそ大丈夫なの? 顔色悪いわよ。何度電話してもつかまらないし、みんなで心配してたんだから」
「すみません、電源切って爆睡してました。でも、おかげでよくなりました。もう大丈夫です」
そう言ってパーカーの上からお腹を叩いてみせた。
「それにしても、香奈恵はどこに逃げ込んだんでしょうね」
「警察が動き出したから、遠くへは行けないだろうな。捕まるのも時間の問題だろ」
塩谷さんが答えた。
やはりストーカーは西田香奈恵だった。
彼女のアパートからは、まどかや若菜の記事が載った大量の雑誌や、書きかけの脅迫状が押収された。
警察は香奈恵を若菜への暴行とまどか殺し、二つの容疑で追っている。
香奈恵は地味で目立たないタイプのライターだった。
文章はそこそこ巧かったが、営業力がなかった。
『Carat』をはじめあちこちの編集部に企画を持ち込んだものの仕事がこず、二年ほどでライターをやめた。
次に彼女がめざしたのはカメラマンだった。
修行してようやく一本立ちして間もなく、かつて自分の企画に『天使のごほうび』なんてタイトルがつけられ、見たこともない女たちが作者としてちやほやされていることを知ったのだ。
香奈恵は親しい人間にはパクられたことを話し、マスコミに訴えることも考えていたそうだ。
しかし、唯一の証拠である企画書の原本はすでに処分してしまい、手元にはなかった。
「でも、首を突っ込むのはここまでですよ。後は警察の仕事です」
憂夜さんが重々しく言った。
「よくわかりました。豆柴にもさんざん搾《しぼ》られたもの。男勝りは名前だけにしとけ、だって」
塩谷さんがひひひ、と笑った。
「人のこと笑える名前か?」
言い返すと憮然として黙り込んだ。
塩谷さんの名前は馨《かおる》≠ニいう。
アキラとカオル。
いろんな意味で名コンビだ。
「晶っていい名前ですよ」
テツが言った。
「そう? 男みたいじゃない。もっとかわいい名前が良かったな」
「例えば?」
「桃子とか。モモちゃん、なんて呼ばれたりしてさ」
「上手《うま》くいかないっすね」
テツがぽつりとつぶやき、塩谷さんがまたいやらしい声を立てて笑った。
そして翌朝、香奈恵は見つかった。
横浜のビジネスホテルの一室に隠れていたのだ。
しかし警察は彼女を逮捕できなかった。
なぜなら香奈恵は死んでいたから。
エアコンの通風口に浴衣の紐を通し、首をつっていたそうだ。
そしてテーブルの上にはホテルの便箋に書かれた遺書が残されていた。
まどかは自分が殺した、若菜も殺すつもりでいた、もう逃げられないので死ぬ、そんな内容だった。
その夜、indigoは開店以来のどんちゃ騒ぎとなった。
私の手柄とTKOの容疑が晴れたお祝いだ。
でも私は参加する気になれず、一人でオーナールームにこもっていた。
ドアが開いてジョン太とアレックスが入ってきた。
二人ともすっかりでき上がり、赤い顔をしている。
「晶さん、下に来てくださいよ。主役の一人なんですから」
アレックスは大声でそう言うと、私の肩をばしばしと叩いた。
「人が二人も死んでるのよ。良く喜べるわね」
痛みをこらえながら言った。
「なに言ってんすか。まどかはともかく香奈恵は自業自得ですよ」
ジョン太がろれつの回らない口で言った。
「香奈恵が犯人だって決まった訳じゃないわ」
私が言うと二人が非難の声をあげた。
「香奈恵は若菜を脅かしたかっただけなんじゃないかしら。本気で殺す気があるなら、階段から突き落としたりしないわ。ナイフでも使って心臓をひと突きするんじゃない? その隙はいくらでもあったはずよ」
「だって、殺すつもりだったってはっきり遺書に書いてるんじゃないすか。それが何よりの証拠ですよ」
ジョン太が口を尖らせた。
「まどか殺しだっておかしいわ。やめたとはいえ、香奈恵はプロのライターだったのよ。犯行声明文に『天注』なんてとんまな誤字を残すとは思えない」
「じゃあ誰が犯人なんですか?」
アレックスが聞いた。
「階段の女」
「だからそれが香奈恵なんでしょ? やつのルックスはTKOが言った条件にどんぴしゃですよ」
「でも証拠はないわ。それに、まどかのお金の出どころがまだわかってないじゃない。絶対事件と関係してるはずよ」
「その件なんですが……」
ぎょっとして振り返るとまた憂夜さんだ。
「知人から聞いた話では、古川まどかは空也《くうや》の指名客だったようです」
「空也ってだれ?」
「歌舞伎町のホストです。向こうではナンバーワンの」
タフな女。
私はつくづくそう思った。
「まどかは自分には金づるがいると話していたそうです。もちろん名前は言いませんが、ヒントになりそうなことを空也が聞いています」
「ヒントって?」
食い入るように答えを待ったが、憂夜さんは口ごもってなかなか言おうとしなかった。
彼にしてい珍しいことだ。
「教える条件として、高原オーナーが一人で店に来いと言ってます」
開店前の店で空也と会うことになった。
とはいっても午後十一時すぎだ。
indigoと歌舞伎町・六本木の王道′nホストクラブの違いの一つに営業時間がある。
indigoのように午後七時開店なんて店はごく一部で、午前一時が基本だ。
これは客の大半が同業者、つまり風俗店で働く女の子だからだ。
彼女たちの終業時間に合わせて店を開けるという訳だ。
地下道から上がるとセントラル通りをコマ劇場方面に進んだ。
この街の中で間違いなく一番臭くて騒々しい通りだ。
広い道路の両脇にゲーセンやパチンコ屋、飲食店が並び、その間でキャバクラやテレクラ、アダルトショップが刺激的な看板を光らせている。
終電が近いのでテンションが上がったままの学生や、スーツのよれたサラリーマンと大勢すれ違った。
彼らをなんとか引き戻そうと、ミニスカのキャバクラ嬢がハートのない笑顔で割引券を配っている。
その隣には、二人一組で女の子のグループに声をかけるホストの姿もあった。
いわゆるキャッチ≠セ。
高校時代はよくこの街で遊んだ。
黄色い私鉄電車の中で化粧をすませ、東亜会館内のディスコ〈GBラビッツ〉でガサ入れに怯《おび》えながら躍りまくった。
今ではたまに映画を見にくるぐらいだ。
空也が働く店〈エルドラド〉はホストクラブのメッカ、歌舞伎町二丁目にあった。
このあたりにはなぜかバッティングセンターも多い。
地下への階段を降りきると同時に、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ。お待ちしてました」
金髪シャギーの若い男の子が微笑んだ。
想像はしていたが、店内に入って驚いた。
金、金、ガラス、ブロンズ像、また金……そんな感じだ。
大理石の通路にホストたちがずらりと並んで立っていた。
ダークスーツに茶髪のロンゲ(なぜか根元は黒い)細い眉。
さすがに業界最大手、六店舗ホスト三百名を抱える老舗だ。
「いらっしゃいませ」
一斉に頭を下げた。
まさしく体育会系。
ならばindigoは、ゆるゆるお気楽の文化系同好会だ。
一番奥の卓に通された。
おそらくVIP席なのだろう。
真上にはデコレーションケーキみたいなシャンデリアがあったが、天井が低いので見ていると目がちかちかしてくる。
角度の浅いソファはベルベット地にペイズリー柄だった。
「ようこそおいでくださいました。空也です」
淡いグレイのダブルスーツを着た男が名刺を差し出し、頭を下げた。
歳は二十四、五。
目は整形臭いが確かに美形だ。
細長くてまっすぐに通った鼻筋が、体がぺらぺらの西洋犬を彷彿《ほうふつ》させた。
空也は私の向かい、黒革の丸ソファに座った。
すかさずテーブルにお約束のヘネシーのボトルが並ぶ。
「この度はご協力ありがとうございます。つまらないものですが、みなさんでどうぞ」
私は先制攻撃のつもりで、頭を下げた。
和菓子の箱を突き出した。
ホストクラブとしては新参者かつ邪道であるindigoは、王道♀ヨ係者の皆様にはウケがよくない。
できるだけ失礼のないように気をつかってきたつもりだがしょせんは商売、こっちだって覚悟の上だ。
「憂夜さんには、むかしとてもお世話になったんですよ」
空也が言った。
どこでどうお世話になったのか。
今度こそ憂夜さんの謎に迫る絶好のチャンスだったが、間が悪すぎる。
またの機会だ。
「古川まどかのことなんだけど」
「そう焦らないで。少しお話ししましょう」
背は高いくせに上目づかいでそう言った。
オーラが出まくりなのはさすがだ。
色気はあるが、人に媚びてる感じはしない。
きっと努力してるんだろう。
「お噂はあちこちから伺っていましたが、こんなにかわいい人だとは思ってもみなかったなあ。それにいろいろと大活躍なさってるみたいですね。二号店の計画もお持ちだとか」
なぜ知っているのか驚いたが、素知らぬふりでヘネシーをなめた。
「でもあんまり調子に乗らない方がいいな。女に仕切れるほど甘い世界じゃない。足元すくわれますよ」
声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
私はヘネシーを飲み干すと言った。
「こっちのナンバーワンだって聞いてたから期待してきたけど、大したことないのね」
空也の笑顔が凍りついた。
「あんた、女を喜ばすのは巧いんだろうけど、脅すのは下手ね。そんなベタな台詞じゃビビリもしないよ。夜中にゴキブリを見付けた時の方が百倍怖い」
目を真正面から見据えて言った。
ケンカ上等。
ふいに空也が吹き出した。
「何よ」
「あんた、面白いな」
「何が」
「憂夜さんが言ってた通りだよ。そっちこそベタもいいとこ」
そう言うと肩を震わせて笑った。
「悪かったわね」
本当はかなりビビっていたのでそう言い返すのが精一杯だった。
憂夜さん、私のことを一体何て話したの?
ますます謎と興味が深まった。
「古川まどかは、三ヶ月くらい前からうちの常連になった。そしたら自分で私は金づるを握ってるって話した。どんなやつって聞いたら……」
「聞いたら?」
ふいに空也が身を乗りだし、私の耳に顔を寄せた。
それがあまりに自然だったので、全く体が動かなかった。
憂夜さんと同じ香水の匂いで息が詰まりそうになる。
空也は温かい吐息で私の顔をなで上げるようにしてこう囁いた。
「彼女はトランス系なの、そう言ったよ」
通りに出るとジョン太とアレックス、ついでに塩谷さんが立っていた。
心配して迎えにきてくれたらしい。
私は親指を突き立てて、笑顔で三人に近づいていった。
空也はドアまで送ってくれた。
お金は取られなかったけど、なぜか私の名前でボトルが入っていた。
靖国通りに向かって歩きながら、みんなに空也から聞いた話をした。
「まどかの交遊関係にトランス系のDJかミュージシャンっていたっけ?」
私が聞いた。
トランスとはテクノのダンスミュージックの一つで、クラブでも人気が高い。
「いたと思いますけど、みんな男ですよ」
ジョン太が答えた。
「ドラッグ絡みってことはないか? 恍惚とか催眠状態とかの意味もあるだろ」
塩谷さんの質問にはアレックスが首を横に振った。
「それはないすね。一応そっち方面にも当たってみましたけど、まどかとヤクは無関係です」
そして沈黙。
みんなが必死に考えていた。
すると突然私の携帯が鳴った。
着メロは「ハイティーン・ブギ」。
一気に場の緊張がほぐれた。
「もしもし」
「俺だ。柴田だ。よく聞けよ」
豆柴はものすごい早口でそう言った。
「西田香奈恵は自殺じゃない。検死で首を絞められた後でつるされたことがわかったんだ。それにやつは古川まどかも殺していない。事件当日は、通販カタログの撮影でスタジオに徹夜で缶詰になってたんだ。証人も大勢いる」
「じゃあ……」
言いかけると怒鳴られた。
「黙って聞け。犯人はやっぱりTKOが階段で見た女だ。そっくりな女がゆうべ香奈恵が殺されたホテルでも目撃されている。それから、これは今裏を取ってるところなんだが……」
ふいに声のトーンが落ちた。
「この間ホストの名簿を見た時、柳井哲の保険証が引っかかったんで調べてみたんだ。確かに柳井哲って男は実在してる。生年月日や住所にも間違いない。だがテツとは似ても似つかない別人だった」
「どういうこと?」
「あの保険証は盗品だよ。恐らくテツが自分でかっぱらい、載ってた住所で住民票も取ったんだろう。今回の事件とどう関わってるかはわからないが、あいつは柳井哲じゃない。全く別人なんだ。いいか、絶対目を離すなよ」
言いたいことだけ言って電話は勝手に切れた。
話の内容を理解する前に、今度は後ろから声をかけられた。
「お揃いで何やってんのよ」
忘れたくても忘れられない、なぎさのママの声だ。
振り向くと同時に、凄まじい香水の香りが鼻を突いた。
腰の下からスリットの入ったモーブピンクのロングドレスに、十二センチはあろうかというピンヒール、髪はお約束の夜会捲きだ。
ゴージャス、というかゴージャスとド派手の境界線すれすれという感じだった。
「ママこそ何やってんですか」
塩谷さんが言った。
「知り合いがこの先で店を始めたのよ。そのお祝いに駆けつけたってわけ」
「今日はまた一段とお綺麗で」
ホストとは思えないわざとらしさでジョン太が言った。
しかしママは余裕たっぷりに、
「ありがと」
と返し、妖艶に微笑んだ。
そして私の肩を引き寄せるとこう囁いた。
「晶ちゃんのおかげ。ゼラチン効果はばっちりよ」
見ると確かに吹き出物の数はぐっと減り、心なしか肌艶もよくなっている。
「今度お礼になんかおごるわ」
ママはそう言ってウインクした。
でも注射は続けて打っちゃだめよ、そう言いかけた時、なぜか私の頭の中に一つの風景が浮かんだ。
〈club indigo〉だった。
今この瞬間にもフロアには最高の音楽が流れ、落とした照明の中でキャンドルの明かりが揺れているはずだ。
VIPルームでは、だぶだぶのベースボールシャツを着たテツがTKOと肩を組み、おどけて客を笑わせている。
そして、伸びてきた指先が額のニキビを引っ掻く。
節の少ない、繊細で美しい指だ。
大きなフラッシュが起き、目の前が真っ白になった。
街の雑踏も、みんなの声も聞こえない。
やがて、三つのカードが並ぶ。
階段の女、トランス≠フ意味、テツではない誰か……。
閉店後、テツをフロアに呼び出した。
私は一番気に入っているソファに座って彼を待った。
テツが螺旋階段を降りてきた。
暗い天井にワークブーツの靴音と、腰に下げたチェーンの揺れる音が響く。
隣に座るのを待って、私は口を開いた。
「やっと一つにつながったわ」
「何の話ですか?」
黒いニットキャップを目の上ぎりぎりまで下げてかぶっている。
「明け方の五時に階段を駆け下りてくるヤバめの女、あなたは自分のことをそう言ったのね」
「晶さん、大丈夫ですか? 言ってることがむちゃくちゃですよ。やっぱどっか打ったんじゃないすか」
「あなたは女性よ。本名は知らないけど、柳井哲じゃない」
すっとテツの笑顔が消えた。
「トランスジェンダー、別名性同一性障害。つまり、身体的な性別と、自覚する性別が一致しない人たちのこと。女装や男装をすれば満足できる人もいるけど、中には性転換手術を受けなければ自分を保つことができない人もいる。あなたもその一人、女性の肉体を持って生まれてきた男性なのね」
返事はなかった。
長い沈黙。
私は、キャンドルの明かりが揺れるのをじっと見つめていた。
「すげえな」
俯いたまま、静かな声で言った。
「やっぱり晶さんはすげえや。どうして俺のことわかったんですか?」
「ニキビ。あなたもなぎさママみたいにホルモン注射を打ってるんでしょう? もっとも、あなたの場合は男性ホルモンだけど。あとはその服。胸を隠すためよね? 注射でヒゲも生えるし声も変えられるけど、胸だけは手術しない限り完全にはなくならない。むかし仕事で書いたことがあるの」
「ニコニコ元気ブックですか?」
テツはいたずらっぽく言ったが、私は無視して質問を続けた。
「保険証はどうやって手に入れたの?」
「簡単ですよ。病院行って待合室で若い男探して、帰り道でカバンごと引ったくるんです。病院に行くやつはたいてい保険証持ってますからね。それに大体具合悪くてぼ〜っとしてるから抵抗なんてしないし、こっちの顔もろくに覚えちゃいない」
「もし盗難届を出されても、病院で使わない限り足はつかない。警察も、まさかホストクラブの身元確認に使うために保険証を盗むとは思わないものね。それに、みんなとプライベートなつき合いをしなければ、住民票の住所に住んでいないことも店にばれない。ねえ、本当はどこに住んでるの?」
無意識に皮肉めいた口調になっていた。
でもテツは落ち着いた声で、
「今度招待しますよ。晶さんだけに特別に」
と答えて微笑んだ。
「でも、必死に隠してた秘密をよりによってまどかに知られ、ゆすられることになった。一体どうして?」
「TKOさんのせいなんすよ。まどかの部屋に行く約束してたくせに、俺に押しつけて他の女とアフターに行ったんです。仕方なく相手したら酔わされて、慰めてとかほざいていきなり押し倒されたんです。あの時のあいつのツラ、晶さんに見せたかったですよ。そりゃそうだよな、パンツに手を突っ込んだのにチンポの影も形もないんだから」
自虐的に笑い転げた。
でも、キャップに隠れて目は見えない。
「それが三ヶ月くらい前です。その後はもう地獄。ばらされたくなきゃ金よこせって、必死に貯めた手術費用全部とられました。その上最近じゃ注射を打つ金まで持っていかれるようになった。しかもその金はTKOさんに貢がれて、目の前でクソみたいなブランド品に化けちまうんですよ。しゃれになんねえよ」
吐き捨てるように言った。
「だから罪を着せることにしたのね」
私が言うと頷いた。
「まどかは俺にもストーカーに狙われていることを洩《も》らしてたんです。でも、俺もTKOさんと同じようにネタだと思い込んでた。だからばればれの偽装殺人をやってやろうと考えたんです。ちょうどその頃、スカウトの話も聞いていたしね」
「あの晩まどかを殺した後、彼女の携帯でTKOにメールを送り、部屋に来るようにしむけた。そして待ち伏せしてわざとぶつかったんだわ。女を見たと証言させて、彼を追い込むためにね、『天注』もあなたが考えたんでしょう?」
「いいとこ突いてたでしょう?」
そう言って誇らしげに小鼻を膨らませた。
私は黙って頷いてやった。
突きすぎだ。
だから墓穴を掘ったのだ。
「俺、あの時始めて自分から女装したんすよ。化粧して、スカートはいて、ズラまでかぶって。ガキの頃から脅かされようが殴られようが絶対女のカッコなんかしなかったのに。皮肉なもんすよね」
「ところがストーカーは本当にいた」
「めちゃめちゃ焦りましたよ。絶対晶さんより先に見つけてやろうって思った」
そう言って笑った。
小さなえくぼが浮かぶ。
「で、見つけたのね。nishikaが西田香奈恵だって取材の前日に気づいたんでしょ? だから仮病でボディーガードを休み、実は女装してロケ現場を見張ってた。そして逃げる香奈恵の後をつけた……違う?」
「晶さん、刑事になった方がいいすよ。あ、やっぱ探偵の方がカッコいいか」
その無邪気さが私をいら立たせた。
「どうやってホテルの部屋に押し入ったの? 映画みたいにルームサービスでも装った? 遺書は脅して書かせたのね。香奈恵を殺すのは簡単だったでしょ? 人の首を絞めるのは二度めだものね」
再びテツが黙り込み、私はさらに責め続けた。
「ねえ、どうしてこんなことしたの? なんでもっと早く話してくれなかったの? そしたら誰も死なずにすんだのよ。そんなにみんなに知られるのが怖かったの?」
「みんななんか関係ねえよ!」
ふいに語気をあらげた。
拳を握った手をもう片方の手できつく包み込んでいる。
「あんたに知られたくなかったんだ」
「私に?」
「俺は生まれてからずっと趣味もサイズも合わない服を無理矢理着せられて、檻の中に閉じこめられてるみたいだった。窮屈で苦しくて何度も気が狂いそうになった。でも、あんたは違う。全然矛盾がないんだ。だから憧れていた。あんたみたいに生きたかった。ずっとあんたのそばにいたかった。本当のことを知っても、あんたは受け入れてくれたかもしれない。でも……」
「でもなに?」
「それはもう俺じゃないんだ」
喉の奥から絞り出すようにしてそう言った。
「テツ……」
「晶さん、俺はどうしたらいいんですか。晶さんの言う通りにします」
私は手を伸ばすとテツのキャップを押し上げた。
黒目がちの大きな澄んだ目が、まっすぐこちらを見ている。
「わからない」
私は答えた。
「でもテツ。矛盾のない人間なんていないわ。私だってそう。毎日もがいている。だから少しでも潔く生きようと思う。それだけよ」
テツは黙って私の目を見つめ続けた。
テツが欲しかった答えはこんなものじゃないのかもしれない。
じゃあどうすればいいのか、どうしたら彼を守ってやれるのか、私には分からなかった。
目をそらすとテツがゆっくりと立ち上がった。
「迷惑をかけてすみませんでした。みんなにもそう伝えてください」
そして一度も振り向かずに店を出ていった。
それがテツを見た最後だ。
私はキャンドルが燃えつきてしまった後も、ずっとそこに座っていた。
「だからぁ、オモサンのファーキで待っててってば」
エレベーターのドアが開いたとたん、大声で暗号を投げかけられた。
チューブトップの肩からブラの肩ひもを見せるというこれもまた理解不能ないで立ちの女の子が、耳を押さえながら携帯で話している。
私は横をそっとすり抜けると、店のドアを開けた。
「おはようございます」
キャッシャーの男の子が控えめに声をかけてくる。
「おはよ」
私も短く答えて奥に進んだ。
二度目の営業再開日とあって、待ちかねていたお客さんで満席状態だ。
事件の全てが明るみに出ると、店は大パニックに陥った。
一時は店じまいかと塩谷さんともども覚悟したが、客たちは全然気にしてないらしい。
お気に入りのホストたちに早く店を開けろと毎日のように電話をかけてきた。
通路を足早に進むと男の子たちが目で合図してくる。
ジョン太が親指を突き立ててふざけた顔をしたので、あっかんべで応えてやった。
ジョン太は今やindigoのナンバーワンだ。
明るくていい奴だが、客の顔と名前を覚えられないという致命的な欠点を抱えている。
かつてのナンバーワンTKOは店を辞め、念願のタレントになった。
この前出ていたテレビのバラエティー番組では自慢のブランドグッズをオークションで換金し、めぐまれない国の子どもたちに寄付していた。
もちろん全部まどかに貢がせたものだ。
きっと、彼なりの罪滅ぼしのつもりなんだろう。
なぎさママは、私をなじった。
「どうして見逃してやらなかったの? 気づかないふりをしてやれなかったの」と。
それから寝込んだ。
私の推理のせいとはいえ、自分がテツの犯した罪を暴くきっかけとなってしまったのだ。
それでも、私たちは仲直りした。
この前バーに行くとママはこう言った。
「深く考えると頭痛くなるんだけど、結局あたしの天啓≠ノ間違いはなかったってことよねえ?」
テツはあのまままっすぐに豆柴の所へ行き、自首した。
今は、女囚≠ニしての拘置所にいる。
彼女はまだ十七歳だった。
三年前に故郷から家出してきたテツは、歌舞伎町のおなべバーなどで働いていた。
しかし、どうしても男≠ニして存在したかった彼女は他人の身分証を手に入れ、indigoのホストになったという訳だ。
そして、豆柴が私だけに教えてくれたテツの本名は河村桃子=B
テツ、ホントだね。
ホントに上手くいかないね。
いつになるかはわからないけれど、自由の身になったらきっとまたどこかの街で働き、せっせと手術費用を貯めるのだろう。
テツを持つ未来がどんなものであろうと、ぴったりの服、くつろげる家を見つけて欲しい。
心からそう思う。
そして、私だけが変わらない。
相変わらず健康実用書の原稿書きに追われる日々。
今度のテーマは痛風≠セ。
早くも足の親指の根元がうずき始めている。
唯一変わったことといえば、たまにだけど店の男の子と遊びに行くようになった。
もちろん、彼らの好きなクラブなんかには行かない。
もっぱらカラオケだ。
一人で八十年代アイドル歌謡を歌いまくり、顰蹙《ひんしゅく》を買っているが知ったこっちゃない。
階段を登りながら見上げると、事務所に明かりが点っていた。
憂夜さんはもうドアノブを握ってスタンバイしているに違いない。
そして塩谷さんは訳もなく不思議だ。
〈club indigo〉、その名のように、暗く深く蒼い夜がまたこの街にやってくる。
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第二話 原色の娘
その日、見知らぬ少女がVIPルームのソファに座っていた。
歳は十歳前後。
軽く茶色に染めた長い髪を、アニメのキャラクターのように頭の両脇で結んでいる。
売れっ子ホストたちに囲まれた彼女は、向かいのテーブルに並んだ品々を眺めながらはちきれそうな笑顔を浮かべていた。
ブルガリのキーホルダーにディオールのコインケース、エルメスの鉛筆、グッチのペンケース……どれもホストたちからもらったものらしい。
さらにその隣には、スナック菓子やアイスクリーム、菓子パンも山盛りになっている。
少女がグラスを取ってかかげると、ホストたちも一斉にならった。
吹き抜けの天井に薄いクリスタルガラスを合わせる澄んだ音が響く。
一脚一万六千円のフルートグラスを並々と満たしているのは、果汁一〇〇パーセントのオレンジジュースだ。
あまりに非現実的な光景に呆然と立ちつくしていると、背後から声をかけられた。
「高原オーナー、お仕事中にお呼びたてして申し訳ありません」
振り返ると優夜さんが立っていた。
濃厚な香水の香りに、ダークパープルのマオカラースーツ、櫛目も鮮やかにセットされた茶髪。
今日も完璧な王道ホスト≠ヤりだ。
「あの子なに? なんで子どもがここにいるの?」
私は塩谷さんに向かってそう質問した。
塩谷さんは、別のボックス席のソファにあぐらをかいて座っていた。
ポロシャツは下ろしたてだったが、靴下に穴が開いている。
しかし彼は、黙って肩をすくめただけでそっぽを向いてしまった。
自分で呼びつけておいてこの態度だ。
携帯電話が鳴った時、私は神保町《じんぼうちょう》の出版社で新しい仕事、【ニコニコ元気ブックス てっぺんツルツル、スケスケ薄毛でも生えてきた! 最新育毛技術がわかる本】の打ち合わせをしていた。
電話に出ると一言、「店に顔出せ」とだけ言って切れた。
「今、本人に説明させます」
代わりに優夜さんがそう答えて、VIPルームに入っていった。
どうやらこの少女は、従業員の関係者らしい。
私はソファの上にバッグを下ろし、塩谷さんの向かいに座った。
開店を三十分後に控え、店内はすでに客を迎える準備が整っていた。
薄暗いフロアにはアロマキャンドルの明かりが揺れ、DJが選曲したクラブミュージックが響いている。
そして私の背後では、出勤してきたホストたちがだらしなく客席のソファに腰かけ、むだ話をしながら煙草を吸ったり、手鏡を覗いてヘアスタイルを整えたりしている。
オーバーサイズのジーンズやハーフパンツに、Tシャツかポロシャツというファッションが目立つ。
ヘアスタイルは流行のソフトモヒカンを中心に、ドレッド、アフロ、金髪五分刈りとバリエーションに富んでいる。
〈club indigo〉、それがこの店の名前だ。
渋谷駅から徒歩五分、渋谷川という小汚い川のほとりに建つビルの二階に入っている。
「クラブみたいなハコで、DJやダンサーみたいな男の子が接客してくれるホストクラブがあればいいのに」という私の思いつきの一言に塩谷さんが乗り気になり、二人で貯金をはたいて始めた店だ。
結果は大成功。
少し前に、ちょっとした事件に巻き込まれはしたものの、私と塩谷さんはそれぞれフリーライターと出版社社員という表の仕事≠持ちつつ、この一風変わったホストクラブを経営している。
優夜さんはマネージャー兼表向きのオーナーという訳だ。
現れたのはジョン太だった。
「言っておきますけど、絶対俺の子どもじゃないすよ」
さんざんホスト仲間たちにからかわれたらしい。
真剣な顔でそう前置きしてからソファに座った。
巨大なアフロヘアに古着のベースボールシャツ、裾絞りのナイロンパンツは、なぜか右側だけをすねの途中までたくし上げている。
流行の着こなしらしいが、どこがいいのかさっぱりわからない。
「じゃあだれ?」
私が聞くとVIPルームで歓声が上がり、フラッシュの閃光が瞬いた。
見ると、少女が携帯電話でホストたちと記念撮影をしていた。
水平に倒したVサインを目の脇にかざすというポーズが、なんとも小憎らしい。
するとふいにジョン太が声を落とし、私の耳元に囁くようにしてこう答えた。
「知り合いの娘なんですけど、夫婦ゲンカして奥さんが家出しちゃったらしいんですよ。で、捜しに行くから三日間だけ預かってくれって頼み込まれたんです」
「預かるってジョン太が?」
呆れて尋ねた。
子どもが子どもを預かってどうする。
おまけに仕事はホストだ。
「俺だってまずいって言いましたよ。でも、むかしめちゃめちゃ世話になった人だから、どうしても断れなくて……」
「何をどう世話になったのよ」
私が聞くと、ジョン太は決まり悪そうな顔で話し始めた。
五年ほど前の話しだ。
高校を卒業したジョン太は、お気楽なフリーター生活を送っていた。
そして、とあるカフェレストランでバイトをしている時に、客の女に声をかけられ、誘われるままにホテルに行き、やることをやってしまったらしい。
ところが女の正体はヤクザの愛人で、後日その男に店に乗り込まれ、「金払え。じゃなきゃ指詰めろ」とすごまれた、というよくある話だ。
「俺、そんなのテレビとか映画でしか見たことなかったし、どうしていいかわからなくて、マジでちびりそうになっちゃったんですよ」
そこまで話して、ジョン太は顔を歪めた。
よほど恐ろしい思いをしたのか、細い目が潤んでいる。
でもまあいかにもな話だ。
ノリ一発の度胸はすごいが、後先のことは考えない。
それがジョン太だ。
話の結末も定石通りで、そこに割って入ってくれたのがレストランのオーナー、つまり少女の父親であった。
オーナーは、店の常連客のつてを頼りに某有名暴力団の幹部を紹介してもらい、頭を下げて頼み、それなりの金も渡し、何とか話を丸く収めていただいたらしい。
「そりゃ断れないわね」
私が言い、ジョン太ががっくりと肩を落として頷いた。
すると、待ち構えていたように塩谷さんが言った。
「よし、決まりだな」
「何が?」
「ジョン太の代わりに、お前があの子を預かるんだよ」
それが当然という口ぶりだった。
「何でそうなるのよ」
するとジョン太が身を乗り出し、頭を下げた。
「すみません! 昨日一日がんばったんですけど、どうしてもだめなんです。あいつ、わがままで自分勝手で生意気で、俺の言うことなんて全然聞かなくて。むかしはあんなじゃなかったのに」
そう言って恨めしそうに少女を睨んだ。
しかし彼女はどこ吹く風で、記念撮影を続けている。
「女のわがままなんてお手のもんでしょ。indigoのナンバーワンホストがなに情けないこと言ってるのよ」
「そう言う問題じゃないんです。あいつはマジでヤバいんですよ。俺の手に負えるようなガキじゃない」
また声を落としてそう言った。
「助けてくださいよ。店の仲間とか男の友達に預ける訳にいかないし、俺にはこういうこと頼める女の友達っていないんです。晶さんだけが頼りなんですよ。お願いします!」
顔の前で両手を合わせ、アフロ頭を深々と下げた。
「勝手なこと言わないで」
言い返してはみたものの、言葉に今ひとつ力が入らなかった。
ジョン太が本当に辛そうだったからだ。
というより、ひどく何かに困惑しているようでそれが気にかかった。
「決まりだな」
もう一度、塩谷さんが言った。
「申し訳ありません。しかし、このままあの子をここに置いておく訳にはいきませんし、万が一問題でも起こされると、店としても非常にまずいので……」
優夜さんまでそう言って、シャープに整えられた眉を大袈裟に寄せてみせた。
「でも、学校はどうするのよ。明日も明後日も平日じゃない」
最後に悪あがきをしてみたが、ジョン太はあっさりこう答えた。
「それは大丈夫です。ジイさんが死んで、一家で田舎に帰ってることになってます」
「あっそ」
用意周到というやつだ。
恐らく話は、私が現れる前にとっくに決まっていたのだろう。
しかし今さら気づいたところで、後の祭りだ。
「おい、開店十五分前だぞ」
優夜さんの言葉を合図に、VIPルームのホストたちが立ち上がった。
すると少女は、
「え〜いっちゃうの? これからみんなでプリクラ撮りに行こうと思ってたのに」
と言って、小さな唇を尖らせた。
輪郭の淡い丸い顔に凹凸の少ないパーツ。
地味だが、バランスはとてもいい。
年頃になったら、周囲がぎょっとするほど美人になるタイプだ。
「仕事なんだから仕方がないだろ」
ジョン太が言い含めるように声をかけたが、膨れっ面でぷいと横を向いてしまった。
「代わりにこのおばちゃんが何でも好きなもの買ってくれるってよ」
塩谷さんが大きな、妙に浮かれた声で言うと彼女は顔を上げ、初めてこちらを見た。
私は立ち上がると、フロアの一番奥にあるVIPルームに近づいていった。
「名前は?」
言いながら見ると、少女はプラチナのキーホルダーに、安っぽいソフトビニールのキャラクター人形をぶら下げようとしていた。
「祐梨亜《ゆりあ》」
こちらを凝視しながら短く、でもはっきり答えた。
何の遠慮もない、好奇心と警戒心剥き出しの視線だ。
「私は高原晶。よろしくね」
そう言って精一杯母性に溢れた笑顔を作ってみたが、祐梨亜は、
「変な名前、男みたい」
とつぶやき、つんと横を向いた。
パーカーの胸のロゴをふちどるスパンコールが、キャンドルの明かりを反射して輝く。
真正面から向かい合って気づいたのだが、祐梨亜は壮絶な格好をいていた。
パーカーにデニムのミニスカート、ハイソックス、スニーカー。
コーディネートはごくオーソドックスだ。
今から二十数年前には、私も同じような服を着ていた。
問題は色だ。
ピンク、赤、オレンジ、黄色……ポップで鮮やかな色づかいの生地に、さらにカラフルなキャラクタープリントやワッペン、ラメ、スパンコールがちりばめられている。
そして、腰に巻いた太いベルトにも、ビーズを編み込んだチェーンと、キャラクター人形、携帯電話がじゃらじゃらぶら下がっていた。
最近、一部の小中学生の女の子の間で、この手の派手な色づかい、キャラクターづくしのファッションが流行っていることは、雑誌やテレビで見て知っていた。
某子ども向けアパレルブランドを中心としたブームで、今では渋谷の駅前に、この手の服を扱うショップばかりを集めたファッションビルもあるほどだ。
私も街中でそれ風のファッションの少女を見かけたことはあったが、目の前で、しかもここまで極めている℃qを目にするのは初めてだった。
子どもらしくないとか悪趣味とかいうよりは、破壊しつくされてる、そんな感じだ。
ひょっとして、とんでもない爆弾を押しつけられてしまったのではないだろうか。
色彩の洪水に目を瞬かせながら、私は思った。
それから祐梨亜を連れ、山手線と中央線を乗り継いで阿佐ヶ谷まで行った。
「アパートじゃん」
家に着くなり、祐梨亜が言った。
鮮やかなスカイブルーのボストンバックを抱えたまま顔をしかめ、三階建ての小さな建物を見上げている。
「アパートじゃない。コーポよ」
私はそう訂正した。
一応鉄筋だが、築三十年以上経っているので、クリーム色の外壁は薄汚れ、あちこちに大きなひびが走っている。
それを埋めている灰色のパテが、さらに貧乏臭さを増大させていた。
階段を登り、部屋にはいると祐梨亜はさらに文句を言った。
「ジョン太の方がずっといい部屋に住んでるよ。あの店のオーナーなんでしょ? お金ないの?」
六畳と四畳半の1LDK。
交通至便、日当たりも抜群だが、気密性に問題があるらしく、夏も冬もエアコンの効きが悪い。
それでも私は、この部屋にもう十年以上住み続けている。
「ここが好きなの」
何か文句ある?
心の中でそうつけ足しながら言い返した。
すると祐梨亜は鼻を鳴らし、
「あたし、シャワー浴びたい」
と言った。
三十分後、小さなバスルームから祐梨亜が出てきた。
裸にバスタオルを一枚巻いただけの格好で、勝手にキッチンの冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのボトルを出して飲んでいる。
何だか棒きれにぼろ布を巻きつけた、小さな案山子《かかし》のように見えた。
「何これ。安い服ばっかじゃん」
祐梨亜が大袈裟に声をあげた。
今度は洋服ダンスを開け、私のワードロープをチェックしている。
パーカー、Tシャツ、ジーンズ、アーミーパンツ……確かにほとんど安売りの量販店で買ったものばかりだ。
「そうよ。でもどれもかわいいでしょ? 私は値段やブランドじゃなく、センスで服を選ぶの」
私がそう言って胸を張ると、
「ふうん」
と面白くなさそうに言って、さっさと鏡の前に移動した。
壁際に細長い姿見を置き、横に折りたたみ式の小さな椅子を置いてドレッサー代わりに使っている。
「化粧品、マジでこれだけしかないの? ヤバくない?」
祐梨亜がまた騒いだ。
椅子の上にあるのは、化粧水のボトルとファンデーション、口紅が数本、放っておくと左右がつながる眉毛を抜くための毛抜きが一本、それだけだ。
「マジだし、ヤバくもないわよ」
うんざりしながら答えた。
洋服は好きだが、メイクには全く興味がない。
三十路女として、見苦しくない程度、それが唯一のコンセプトだ。
「風邪引くわよ。何か服を着たら?」
私の申し出を無視して祐梨亜が言った。
「ねえ、あたしの胸大きいでしょ?」
鏡に向かって腰をくねらせ、自慢げに胸を突き出している。
胸というよりはつぶれた小龍包《ショウロンポウ》という感じだったが、人のことは言えない。
それより私は、祐梨亜の手足に目が釘づけになった。
BCGの注射痕のない腕、膝小僧に小さなかさぶたのある足。
ただ白く細いだけで何のメリハリもない、典型的な子どもの手足だ。
しかし、肌はまるで瀬戸物だった。
艶がどうとか、肌理《きめ》がどうとかいう以前に、毛穴すら見あたらない。
かつては、私もこんな奇跡のような肌をしていたのだろうか。
私の羨望《せんぼう》に満ちた視線には全く気づかず、祐梨亜は、
「クラスで二番目に胸が大きいのよ。なのにジョン太のやつ……」
と言って、何かを思い出したように膨れっ面になった。
「ジョン太がどうかしたの?」
私の質問には答えず、ぷいとそっぽを向いた。
ふと思いつき、質問を変えた。
「祐梨亜ちゃん、ひっとして、昨日ジョン太にもその格好で今と同じこと言った?」
祐梨亜が頷く。
「他には? 何かしたの?」
「膝の上に乗って、触りたかったら触ってもいいのよって言った」
「それだけ?」
祐梨亜はしれっとして答えた。
「一緒に寝たがってるんじゃないかと思って、ベッドの中に入ってあげた」
「……」
なるほど。
そういうことか。
ジョン太の複雑な表情の意味がやっとわかった。
さしものナンバーワンホストも、小学五年生の女の子に迫られるとは思っていなかったらしい。
おませかつストレートなアタックにたじたじ、うろたえるだけといったところだろうか。
調子はいいが、邪心はない。
それもジョン太だ。
「何よ。何笑ってるのよ」
祐梨亜に睨まれ、ゆるんだ顔を慌てて引き締めた。
「で、ジョン太どうしたの?」
すると祐梨亜は、憮然としてこう答えた。
「ガキはションベンしてとっとと寝ろ、ってお尻叩かれて、寝室から放り出された。超むかつく。人を子ども扱いしてさ」
ジョン太にしては、百点満点の対応だ。
というより、この場合誰だってそうするしかないだろう。
つくづく恐ろしい娘だ。
「ジョン太は、あたしの初恋の人だったんだ」
祐梨亜が言った。
ようやくボストンバッグからパジャマを出して着始めた。
パジャマまで原色オレンジだった。
「へえ」
意外なことに、私は本気で驚いていた。
「優しくてカッコよくて、笑うと目がなくなるところとかかわいくて、大好きだった。絶対結婚するって決めてたの」
「そうなんだ」
「でも、久しぶりに会ったら、ダサくなっててがっかり。何あの髪型。サイテー」
祐梨亜は冷たくそう言うと、乱暴にバッグのファスナーを閉めた。
「確かにあの髪型はどうかと思うけど、でもジョン太だって結構がんばってるのよ」
取りなすつもりで言ってみたが、祐梨亜は、
「何それ。バカみたい。訳わかんない」
とぶつ切りの言葉を投げ返し、「もう寝る」と言って断りもせず私のベッドに潜り込んだ。
セクハラ編集者や、ノリだけで生きているホストの相手ならお手のものだが、十一歳の女の子をどう扱ったらいいのかわからない。
三十年とちょっと生きていてこの体たらくだ。
翌朝目を覚ますと、パジャマ姿の祐梨亜が私の仕事机に座っていた。
「何やってるの」
床に敷いた布団から体を起こし、背中に声をかけると、
「プリクラを貼ってるの」
と答えた。
「プリクラ?」
あくびをしながら尋ねると振り返り、
「そう。これ」
と言って広げて見せた。
デニム地のカバーがついた安っぽいシステム手帳のリフィルの用紙に、縦一・五センチ、横二・五センチほどのプリクラがべたべたと貼りつけられていた。
隙間には蛍光色のマーカーで、判読不能の文字やイラストが描き込まれている。
写っているのは祐梨亜と、同じくらいの年頃の少女たちだ。
手帳はぱんぱんに膨らみ、プリクラの数は全ページ合わせると二百枚以上あった。
「これ、全部撮ったの?」
眠気が一瞬で吹っ飛び、真剣に見入った。
祐梨亜は大きく頷くと、弾んだ声で答えた。
「うん。でも、これだけじゃないよ。同じ手帳が家にあと三冊あるんだ」
「へえ」
「そうだ。晶にいいもの見せてあげる」
そう言うと慌ただしく手帳をめくり、ページを開いてこちらに突き出した。
受け取ってみると、胡散《うさん》臭いほど目鼻立ちの整った男の子や、大きく開いた目に無理矢理力を込めて微笑む痩せた女の子と祐梨亜のプリクラが貼り込まれていた。
「最近学校で、芸能人や超イケてる男の子と撮ったツーショットプリクラを集めて見せっこするのが流行ってるの。あたしのコレクションは、学年で一番って言われてるんだよ」
言われてみれば、テレビや雑誌で見たことのある顔がいくつかあった。
「祐梨亜ちゃん、すごいわね」
何がすごいのかよくわからなかったが、他に言葉が見つからなかったのでとりあえずそう言った。
すると、たちまち祐梨亜の目が輝き、口元から白い歯が覗いた。
得意満面、絶対子どもにしかできない笑顔だ。
「晶はプリクラ好き?」
椅子から身を乗り出して尋ねた。
「嫌いじゃないけど」
「じゃあ、これに貼りなよ」
祐梨亜はそう言うと手帳から用紙を一枚はずし、こちらに差し出した。
艶のある滑らかな紙質で、上下にレモンイエローのテディベアが印刷されている。
「プリクラ専用の紙で、何度でも貼ったりはがしたりできるんだよ」
自慢げに言い、
「これも一本あげる」
と、蛍光グリーンのマーカーまでおまけしてくれた。
「ありがとう」
私は礼を言って受け取った。
プリクラは二、三回しか撮ったことがないし、祐梨亜のコレクションにもさほど興味を惹《ひ》かれた訳ではない。
ただ、祐梨亜が初めて正面から私を見てくれたようで、それが嬉しかった。
「ねえ、新宿に行こうよ」
ふいに祐梨亜が話題を変えた。
「新宿?」
「うん。歌舞伎町のゲームセンターに、そこしかない限定プリクラマシンがあるんだって。撮って友達に自慢したいの。連れていってよ。どうせひまなんでしょ?」
「……」
最後の一言にはカチンときたものの、確かに今日は書かなければならない原稿も、打ち合わせの予定も入っていなかった。
「やった! 決まりだね」
勝手に決めて着替えを始めた祐梨亜に、私は素朴な疑問をぶつけてみた。
「プリクラをたくさん撮ってどうするの?」
すると祐梨亜は当たり前のように、
「思いで作り」
と答えた。
いつの間にか思い出は意図的に、しかも機械で作られるものに変わったらしい。
新宿には、店に出る前のジョン太と、(なぜか)塩谷さんまで会社を休んでつき合ってくれた。
お目当ての店は、劇場通りの端にあった。
薄暗い照明、煙草の臭い、けたたましい電子音とそれに負けじとフルボリュームで流れるアイドルポップス。
日本中のどこのゲームセンターも同じだ。
平日の真っ昼間だというのに、店内は賑わっていた。
フリーター、大学生風の若者がほとんどだったが、どう見ても中学・高校生、中には祐梨亜と同じ年頃の子どもまでいる。
この子たちも、親公認のサボりなのだろうか。
祐梨亜はお目当てのプリクラマシンを見つけ、上機嫌でジョン太と何枚も撮っている。
昨日店でも見た、水平に倒したVサインを目の脇にかざすこましゃくれた仕草が彼女の決めポーズ≠轤オい。
最後には私と塩谷さんも引っ張っていかれ、三十路女と四十男が水平Vサインポーズを取らされた上、四人で無理矢理狭いフレームに収まった。
「どうしよう。もう貼るところがない」
祐梨亜が言った。
でき上がったプリクラをさっそく貼り込もうとしているのだが、スペースがないらいし。
祐梨亜は手帳だけでなく、バッグや財布、ベルトにまでびっしりプリクラを貼っていた。
「携帯は?」
私はそう言って祐梨亜の腰を指した。
ジーンズに巻かれたラメ入りシルバーのベルトには、大量のキーホルダーやマスコットと一緒に、携帯電話がぶら下げられている。
しかし、なぜか携帯電話にだけは、二、三枚のプリクラしか貼られていなかった。
「ここはだめ」
祐梨亜はそう言うと携帯電話を手に取った。
「ここには、特別なプリクラしか貼らないの」
「特別って?」
「ホントに好きで大切な人と撮ったやつ」
「ふうん」
私が言うと、祐梨亜はそっと両手でパールピンクのボディを包み込んだ。
指の隙間から覗いた一枚には、縁なし眼鏡をかけた色黒で恰幅《かっぷく》のいい男性と、ワンレングスヘアの細面の女性が写っていた。
二人とも私とほぼ同年代、祐梨亜の両親だろう。
そして、二人の間で少しはにかんだように微笑む祐梨亜は黒髪で、シンプルな白いブラウスを着ていた。
Vサインも、指を二本立てて突き出すだけのノーマルバージョンだ。
今と全くイメージが違う。
いつ頃撮影したものなのだろうか。
気がつくと、祐梨亜の姿が消えていた。
ねだられてUFOキャッチャーでチワワのぬいぐるみと格闘しているうちに、大人三人がすっかり夢中になっていた。
慌てて捜すと、店の入口で見知らぬ若い男と話していた。
茶髪のロン毛にシワだらけのダークスーツ、日サロで焼いた顔には荒《すさ》んだ疲れの色と、生え始めたヒゲが目立つ。
朝帰りの不良大学生か、仕事上がりのホストといった風情だ。
男は笑顔で身振り手ぶりをまじえ何か話しかけているが、さすがの祐梨亜も身を硬くして黙り込んでいる。
「この子に何か用?」
めいっぱいドスを利かせ、後ろから声をかけた。
男が振り向き、祐梨亜は慌てて私の背後に隠れた。
「いや、別に。迷子かなと思って声をかけただけ。最近怪しい連中がこのへんうろうろしてるから。心配でしょ?」
男は慌てる風もなく、斜め三十度の角度からガンを飛ばす私に、なれなれしく微笑みかけてきた。
両目にグリーンのカラーコンタクト、右の小鼻にはシルバーのピアスをしている。
「……」
「そう言うあんたも、相当怪しいんだけど?」、私の心の声が聞こえたのか、男は細い眉を寄せ、顔の前で大袈裟に手のひらを振った。
「変な誤解すんなよ。マジだって。俺にもこれぐらいの妹がいるんだよ。だから心配で……」
早口でたたみかけるように言いながら顔を背け、店の前の通りを見回した瞬間、男の動きが止まった。
そして、ふいに口元を歪めて舌打ちをすると、小走りにその場から立ち去ってしまった。
「何よ、あいつ。祐梨亜ちゃん、あいつに何て言われたの?」
人込みに紛れかけた背中を睨みながら聞くと、祐梨亜は指先で私のジャケットの袖をつかんだまま、
「別に。かわいいねとか、歳はいくつとか」
と答えた。
「何が『俺にもこれぐらいの妹が』よ。典型的なナンパの台詞じゃない」
私は呆れて言った。
しかし、ノリやルックスからして、ロリコン趣味の変態男だとは思えない。
無意識に男が見ていた通りに目を向けると、人混みの中に見覚えのある顔をみつけた。
空也だ。
全身から神々しいほどのオーラを放ちつつも、少し落ち着かない様子で周囲を見回し、行き交う人々に視線を走らせている。
私が声をかけると、驚きもせず一言、
「なんだ。あんたか」
と言った。
茶髪に細眉、ダークスーツ、プラチナとシルバーのアクセサリーという絵に描いたようなホストファッション。
きつめの香水は優夜さんと同じものだ。
空也は、ここ新宿歌舞伎町に本店のある業界最大手、ホスト三百名を抱えるホストクラブ〈エルドラド〉のナンバーワンだ。
それだけでなく、日本じゅうの王道系ホストクラブのホストたちの頂点に立つ超売れっ子、いわば業界の帝王だ。
「何か揉めごと?」
何となく不穏な空気を察して尋ねると、
「ちょっとな」
と低い声で曖昧に答え、通りに視線を送った。
「ふうん」
「それより久しぶりだな。元気?」
余裕|綽々《しゃくしゃく》、といった口調に戻って言った。
歳はひと回り近く下のはずだが、すっかりタメ口だ。
でも、それも仕方がない。
「その節は大変お世話になりました」
私はそう言いながら、かしこまって頭を下げた。
すると、いつの間にか背後に立っていたジョン太も「どうもっす」と言ってそれにならった。
塩谷さんまで「おう」とつぶやいて目礼している。
私が空也に会うのは、あの事件以来だ。
私は以前一度だけ〈エルドラド〉に行ったことがある。
空也から〈club indigo〉が巻き込まれたちょっとした事件に関するヒントをもらうためだ。
そして、そのお陰で事件は解決した。
つまり私とindigoは商売敵である彼に、大きな借りを作ってしまった訳だ。
「indigoの首脳陣がこんなところで何やってんだよ。歌舞伎町に店でも出す気か?」
言いながら、空也が祐梨亜の存在に気づいた。
「この子、あんたたちの子ども?」
私と塩谷さんを指してそう言った。
「バカなこと言わないでよ!」
私が憤慨すると、
「冗談だって。こんなに奇麗な子が、あんたたちの娘の訳ないもんなあ」
と言いながら、かがみ込んで祐梨亜に微笑みかけた。
唇の端をほんの少し上げただけ。
その代わりに目に力を込め、相手の視線を真正面から捉える。
十一歳の子ども相手でも手加減なしだ。
この笑顔を自分だけのものにするために。何十人もの女たちが給料をつぎ込み、貯金をはたき、さらには莫大な借金まで背負って破滅していったのだろう。
そう思うと寒気がする。
しかし祐梨亜はぽかんと口を開け、瞬きも忘れて空也の顔を見つめ返していた。
空也と別れた後、四人で食事をした。
場所は新田裏のそば屋。
祐梨亜の希望だ。
ジョン太は「子どもなら、ハンバーグとかカレーとか食えよな」とぼやいたが、返事は「ダイエット中なの」の一言だけだった。
「ねえ晶」
危なげな箸づかいでざるそばをたべながら、祐梨亜が言った。
「なあに」
私はジョン太にビールをお酌してもらいながら答えた。
つまみは天ぷらの盛り合わせだ。
「さっきの人だれ?」
「さっきの人って?」
「ゲーセンで会った男の人」
祐梨亜が答えた。
「ああ、空也ね。ホストよ」
塩谷さんのグラスにビールを注ぎながら、私が言った。
「どこで働いてるの?」
「歌舞伎町の〈エルドラド〉だけど。空也がどうかしたの?」
私の質問に。祐梨亜はこう答えた。
「めちゃめちゃカッコいいよね。すごく優しそうだし、おしゃれだし、いい匂いもした。それに、あたしのこと奇麗って言ってくれたの」
はにかんだように俯き、すぼめた唇が驚くほど赤く艶やかだった。
加えて澄んだ大きな目がとろりと潤み。頬もかすかに上気している。
まずい。
本能的にそう思った。
「祐梨亜ちゃん、あれはね……」
しかし祐梨亜は私の言葉を遮り、話を続けた。
「奇麗なんて言われたの初めて。かわいい≠ヘ、小さい頃から何十回も言われてきたけど、だから、すっごく嬉しかったの。どきどきしちゃった」
「あの男が口にする褒め言葉には折れたシャーペンの芯ほどの重さも意味もないんだってば。それに、子どもは誰だってかわいい≠チていわれて育つものなの」、現実を教え、目を醒《さ》まさせてやろうと思ったができなかった。
女として祐梨亜の気持ちが痛いほどわかったからだ。
「あたし、空也さんと二人でプリクラが撮りたい」
たちまち場の空気が凍りついた。
ジョン太は、箸の先に鴨せいろの鴨肉をつまんだまま固まっている。
「ねえ、〈エルドラド〉ってお店に行けば空也さんに会えるの? 昨日のindigoのみんなみたいに、一緒に遊んでもらえるんでしょ? 忙しくても、ちょっとだけならプリクラ撮りにつき合ってくれるよね?」
ジョン太が鴨肉を放り出し、立ち上がった。
「冗談じゃねえぞ!」
「その通り!」
なぜか塩谷さんまで叫んだ。
ぎょっとして見ると、豆粒のような目でじっと祐梨亜を見据えている。
「〈エルドラド〉はうちとは違う。ものすごく高いんだ」
声は重々しく、威厳もあったが、無精ヒゲにビールの泡がカビのようにこびりついている。
「ちょっと、問題はそういうことじゃないでしょ」
私はあわててポロシャツの袖を引っ張り、そう耳打ちしたが、塩谷さんは全く動じなかった。
事態を根本的に誤解しているらしい。
「いくらぐらいあればいいの?」
祐梨亜が言った。
すると、塩谷さんはおもむろにチノパンのポケットから財布を引っ張り出し、中からカードの形の小さな電卓を取り出した。
「初回料金だから、酒・つまみセットで三千円ですむ。しかし、ホストを指名する場合は別途指名料がかかるから、空也が一万円、ヘルプが二人ついたとして各五千円だな。ここまでで合計二万三千円ってところだ」
淀みなく話しながら、ものすごい速さで数字を叩いていく。
その手元を祐梨亜が食い入るように見つめ、私とジョン太は唖然としていた。
「ただし、だ。空也を同席させるからにはドンペリのピンクの栓を抜くのがお約束らしいから、ここで一気に一本十万円。そうなるとつまみもそれなりのものが必要になって、フルーツとオードブルで各三千円。おまけに途中でプリクラを撮りにいくとなると外出料金がかかるから、一時間として一万円だな。これにサービス料二○パーセントと税金を足すと十七万五千百四十円、最後に肝心のプリクラ代金四百円も乗せて、と。出たぞ、合計金額十七万五千五百四十円!」
塩谷さんはそう言って祐梨亜の鼻先に電卓の液晶画面を突き出した。
「うそ〜! めちゃめちゃ高いじゃん」
非難がましく叫ぶと、テーブルの下で足をばたつかせた。
「お前、今いくら持ってるんだ?」
塩谷さんが言った。
祐梨亜はヒップバッグのファスナーを開け、熊だか犬だかよくわからないキャラクターがプリントされたビニールの財布を取りだして中を覗いた。
「八千九百四十円。あとテレカとオレンジカード」
力のない声で答えた。
「それじゃあ空也に相手をしてもらうどころか、店にはいるのも無理だ。諦めるんだな」
塩谷さんがとどめを刺すと、祐梨亜は黙り込み、じっと自分の財布を見つめた。
「塩谷さん、譬《たと》えが生々しすぎますよ」
ジョン太はそう囁くと、眉をひそめた。
indigoに着くまで、祐梨亜は一言も口をきかなかった。
私がおだてても、ジョン太が脅しても押し黙ったままで、じっと何かを考えている様子だった。
その夜は、オーナールームで定例の経営会議を開いた。
私も塩谷さんも、ふだん店のことは優夜さんに任せきりだ。
だから月に一度は会議を開き、営業方針や従業員たちの働きぶりなどについて三人で話し合うことにしている。午後七時、店を開けると着飾った客たちが次々とお目当ての男の子に会いにやってきて、フロアはほどなく満席になった。
ほどんどが二十代、OLやフリーター、学生もいる。
ハーレム風の裾絞りパンツにルーズなカーディガン、またはタンクトップの重ね着というコーディネートが目立つ。
アラビアの蛇つかいみたいだ。
「ねえ晶」
祐梨亜が話しかけてきたのは、会議が一段落して休憩している時だった。
「なあに」
私はオーナーデスクで帳簿に目を通していた。
塩谷さんはソファに寝転がっていびきをかき、優夜さんは自分のオフィスでパソコンに向かっている。
店は一階が客席と厨房、二階がダンスフロアとカウンターバー、その奥がホストたちのロッカールームと事務所という造りになっている。
事務所は中央をパ−ティションで仕切り、手前を優夜さんのオフィス、奥をオーナールーム兼応接室として使っている。
「お金貸してくれない?」
「いくら?」
「十六万六千六百円」
「何よ、その変な金額」
私が怪訝《けげん》な顔をすると、
「空也さんと遊んでプリクラ撮るのに必要なお金から、あたしが今持ってるおこづかいを引いたの。で、足りないお金が十六万六千六百円」
とすらすら答えた。
「計算が得意なのね」
嫌味のつもりだったが、祐梨亜は全く動じず、
「ねえ、貸してくれるでしょ?」
とにじり寄ってきた。
「だめ」
即答すると、小さな手を私の腕にからめ、甘ったれた声を出した。
「お年玉を貯めた貯金が三十万円あるの。家に帰ったら必ずそれで返すから。お願い!」
「絶対だめ」
すると祐梨亜は乱暴に手をほどき、小鼻を膨らませて憤慨した。
「どうして? 友達なんだから、貸してくれたっていいじゃん」
「友達? 私とあなたが?」
思わず聞き返すと戸惑ったような顔になり、
「だって、泊めてくれたし、一緒にプリクラも撮ったし……友達でしょ?」
と答えた。
「……」
それが友達の基準か。
だったら知らない人∴ネ外はみんな友達だ。
「だったらなおさら貸せない」
私は言った。
「何それ。訳わかんない」
祐梨亜が怒りを含んだ声で言い、私を睨んだ。
「私が友達って呼ぶのは、ものすごく好きな大切な人だけ。あの店はそんな人から借りたお金で行く場所じゃないわ。行きたければ、自分で働いて作ったお金で行きなさい」
きっぱりそう答えた。
祐梨亜は恨めしそうな顔でもう一度私を睨むと、オーナールームから出ていった。
祐梨亜が消えたことに気づいたのは、会議を終え一時間ほど経った頃だ。
慌てて優夜さんと二人で捜してみたものの、事務所はもちろん、トイレ、一階フロアにも姿はなかった。
「誰か祐梨亜を見なかった?」
ロッカールームのドアを開けて尋ねた。
とたんに汗と煙草とヘアスタイリング剤をミックスさせた、強烈な臭いが鼻を突く。
壁際にスチール製のロッカーがずらりと並び、中央に巨大なガラスの灰皿と、コミック雑誌が載ったテーブルが置かれている。
「さっき店の前で会いましたよ」
アレックスが野太い声で答えた。
ロッカーのドアについた鏡の前に窮屈そうに体を屈め、栗毛色の眉の形を整えている。
室内には他にも数名、これから出動するホストと休憩中のホストがいた。
「それで?」
急いで歩み寄ると、顔を見上げた。
プロのキックボクサーとして試合にも出ているアレックスは、身長二メートル、体重も百キロ近くある。
日米ハーフでインターナショナルスクール出身、人気ホストの一人で、従業員たちからも兄貴のような存在として慕われている。
「金を貸しました」
「貸したの!? いくら?」
思わず大きな声で出すと、ぎょっとした顔で、
「五万円。どうしても必要で、すぐに返すって言われたんで」
と答え、色素の薄い目を瞬かせた。
すると、横からもう一人があっけらかんと言った。
「俺も祐梨亜ちゃんに金貸しましたよ。二万円だけど」
犬マンだった。
面長の顔に丸く小さなパーツ、小柄だがバネのある体、犬というより小猿というルックスだが、物真似が上手く、客の人気は高い。
「三十分くらい前にトイレの前で会って、頼まれました。晶さんとジョン太にはないしょにしてね、って念押しされた」
「あ、俺も俺も!」
私が絶句していると、夜食のラーメンを食べていたDJ本気《マジ》が手を挙げた。
金髪のマッシュルームカットに、真っ赤なオールインワンというお笑い芸人のような格好をしている。
おまけにDJと名乗りながら、経験も興味も皆無だという。
indigoには、他にもこの手のふざけた源氏名のホストが大勢いる。
彼らにとって最優先すべきは「ノリとウケ」らしい。
「今金ないからって断ったんだけど、小銭でもいいからどうしてもって言うから、六百円貸しました。ちゃんと返してもらえますよね?」
DJ本気は、せっぱ詰まった私にそう言った。
「……」
とたんにずっしりと体が重くなり、胸の中で何かがざわざわと動き出した。
いやな予感というやつだ。
明治通りに出て、タクシーを拾った。
行き先はもちろん新宿歌舞伎町だ。
「迷惑かけてすみません」
車が走り出すと、ジョン太がそう言って頭を下げた。
いつもの笑顔は消え、引きつった青い顔をしている。
私は首を横に振った。
「私が最初に気づくべきだったのよ。油断してたわ」
祐梨亜にとって空也は、いろいろな意味で「絶対ツーショットプリクラを撮りたい人」だろう。
それはわかっているつもりだったが、彼女の想いがこうまで強く深いとは考えてもみなかった。
「でも、まさか誰かさんが祐梨亜の軍資金作りに協力してたとはねえ」
わざとそっぽを向き、嫌味たっぷりに言うと、シートの逆端に座った塩谷さんが身を乗り出し、
「仕方ねえだろ。『明治通りの雑貨屋に、すっごくかわいいバッグがあるの〜』って何度もしつこくねだられたんだよ」
と言ってこちらを睨んだ。
あれから、仕事中のホストを一人ずつオーナールームに呼び、祐梨亜金を貸していないか、貸した場合はいくらかをリサーチした。
結果はこうだ。
アレックスから五万円、犬マンから二万円、DJ本気から六百円、サム平から三万円、板東イルカから五万円、権藤クジラから一万円、おまけに塩谷さんから六千円。
合計金額はぴったり十六万六千六百円だ。
「塩谷さん、いつもその手でキャバクラ嬢にブランドバッグとか貢がされてるんじゃないすか?」
ジョン太にまで非難がましく言われ、
「うるせえな。祐梨亜を連れ戻して金取り返せば文句ねえんだろ。がたがた言うなよ」
と逆ギレして運転席の椅子を蹴り上げた。
バーコード頭の運転手が、ハンドルを握ったままびくりと肩を揺らした。
「祐梨亜もむかしはこんなことするようなやつじゃなかったんですよ。素直で人なつっこくてホントにかわいかった。服の趣味だってあんなじゃなかったし」
かばうようにジョン太が言った。
「らしいわね」
私は昼間ゲームセンターで見た、祐梨亜の携帯のプリクラを思い出していた。
「あいつが変わった原因は、両親だと思います」
ジョン太はきっぱりとそう言った。
声は落ち着いていたが、ジーンズの足は小刻みに貧乏揺すりをしている。
「実はここ一年くらい親父さんの店が上手くいってないらしいんです。そのせいで夫婦仲まで険悪になって、最近はケンカばっかりしてたそうです。祐梨亜の様子がおかしくなったのも同じ頃からで、態度が反抗的になって派手な服を着たり、塾をサボってゲーセンでプリクラばっかり撮るようになった」
「ふうん」
「でも俺、あいつなりに必死だったと思うんですよ。ほら、どんなに仲の悪い両親でも、子どもに何かあると、ものすごい勢いで一致団結するでしょ? だから、自分が悪さをしたり、心配かけてる限り両親は別れない、いつかは元通りになれるって考えたんじゃないのかな。それにプリクラを集めてるのも、寂しさや心細さを少しでも紛らわすためだと思います」
「……」
短絡的で極端、いかにも子どもが考えつきそうなやり方だった。
しかし同時にそれは、私をひどく切ない気持ちにさせた。
「ところが先週、ひどい口ゲンカをして、親父さんが思わずお袋さんを引っぱたいちゃったらしいんですよ。で、キレたお袋さんがついに家を飛び出したって訳なんです」
「そうだったの」
だからといって、何をしても許されるということにはならない。
でも、祐梨亜は本当に孤独で苦しかったんだろう。
家と学校と塾。
この三つが世界の全ての十一歳の少女にとって、背負う荷物はあまりに大きく、重すぎる。
「俺は、空也の野郎も許せねえな。小学生のガキにまで色目つかいやがって」
助手席から押し殺したような声が聞こえてきた。
アレックスだ。
続いて狭い車内に、指の関節を鳴らす物騒な音が響く。
バックミラーに、それをちらちらと眺める運転手の怯えきった顔が映っていた。
出がけにアレックスを呼んだのは塩谷さんだった。
確かに彼は、この手の非常時には欠かせないメンバーだ。
普段は心の優しいシャイな若者だが、正義感がめっぽう強く、一旦キレると誰にも手がつけられなくなる。
「空也を責めるのはスジ違いよ。それに、何ごともなく空也のところに辿り着いていてくれれば、それだけで万々歳だわ」
私が言うと、隣でジョン太がうなり声をあげてアフロ頭をかきむしった。
塩谷さんは、黙って車窓に映った自分の四角い顔を睨んでいる。
靖国通り、西武新宿通り、職安通り、区役所通り、四つの通りに囲まれた数百メートル四方の土地に、約五千の飲食店と風俗店、約百件のラブホテルが寸分の隙もなく、迷路のように建ち並んでいる。
これが歌舞伎町だ。
この街で一番おいしいエサ≠ヘ男のスケベ心。
そしてそれを主食とする風俗嬢、さらにその女から搾り取ろうとする男たち、という明快かつ生臭い食物連鎖が夜ごと展開されている。
その仕組みをきっちり理解している人間、または私のように獲物としての価値が皆無に等しい者にとっては、それほど恐ろしい街ではない。
夜、一人で映画を見にいったり、裏通りにお気に入りのエスニックレストランもあるが、特に身の危険を感じたことはない。
しかし、祐梨亜にそんな裏事情を理解できるはずがない。
無垢≠焉Aこの街では立派なエサになる。
それが小学五年生の女の子ならなおさらだ。
私の願いもむなしく、祐梨亜は〈エルドラド〉には来ていなかった。
「どこかに隠してるんじゃないでしょうね?」
ジョン太はそう言って、上目づかいに空也を睨んだ。
その後ろで、アレックスが拳をきつく握って肘を体の内側に曲げ、両腕の三角筋を強調して無言の脅しをかけている。
黒いTシャツがはち切れそうだ。
塩谷さんは、広い店内を鋭い目で見回している。
しかし、カウンターのスツールに腰かけた空也は全く動ぜず、「どうぞ。気がすむまで捜してくれよ」
と言って手のひらで背後を示した。
ぴかぴかに磨き上がられた大理石の床と円柱、宇宙空母のようなシャンデリア、何の脈絡もなく置かれたブロンズ像と金屏風、ソファはパープルのベルベット地にペイズリー柄だ。
以前来た時と何も変わっていない。
唯一違う点は、午前一時の開店までまだかなり時間があるので、ホストたちの姿がほとんどない。
本来は、ナンバーワンホストの空也が出勤するような時間ではないのだが、優夜さんが電話で事情を話し、呼び出してくれたらしい。
この世界では全て思いのまま、怖いものなしの空也も、なぜか優夜さんには頭が上がらない様子だ。
ちょっとした事件の折に「昔すごく世話になった」とだけ聞いたが、詳細は不明だ。
そもそも優夜さんという人自体謎だらけで、私もindigoの男の子たちも彼の経歴、年齢どころか、本名すら知らない。
全てを知っているのは、店を始める時に彼を連れてきた塩谷さんだけだ。
空也が言った。
「小学生のガキが突然消えるとしたら、営利誘拐、いたずら目的の変態野郎、チャイニーズマフィアの臓器売買、少女ポルノ……」
そしてふいに何かを思い出したように振り返り、おつきの男の子に、
「おい、武流《たける》はどうした?」
と声をかけた。
「いつも通り、遼一《りょういち》と区役所通りでキャッチやってるはずです」
男の子が答えた。
キャッチとは、路上でやる客引きのことで、入店したての新人や、指名客の少ないホストにとっては欠かせない仕事だ。
通常は二人一組で行い、割引券などをエサにアルコールのおかげでガードが下がった女の子のグループを引っかけ、店までお連れする。
「電話しろ。武流じゃなく遼一に」
空也が強い口調で命じた。
男の子は黙って頷き、すばやく胸ポケットから携帯電話を取り出した。
ダークスーツにグッチのローファー、まんなか分けの茶髪。
クローンのように空也とそっくりだ。
「ちょっと、どういうこと? 武流って誰なの?」
私が尋ねると、空也が答えた。
「最近うちに入店したホストだよ。でも、ギャンブルにハマって店はもちろん、街金や闇金にかなりの借金があるらしい。店にも取り立て電話ががんがんかかってきてたよ。で、最近になって、金を返すためにヤバいバイトをやってるって噂が流れ始めたんだ」
「バイトってなに?」
「少女ポルノのモデルスカウト。街に遊びに来た小中学生の女の子にかわいいねとか、モデルにならないとか声をかけて、ラブホテルに連れ込むんだ。で、後からその手の写真を雑誌やらインターネットに流してるプロダクションのやつらが現れて、縛り上げて裸にして無理矢理……」
ジョン太がひょろ長い手足をばたつかせて、空也の言葉を遮った。
「冗談じゃねえぞ! そいつが祐梨亜を連れ去ったって言うのか?」
「決まった訳じゃない。ただ、俺が思い当たるのは武流しかいないってことだ」
なだめるように空也が答えた瞬間、私の頭に一人の男の顔が浮かんだ。
「ねえ、ひょっとしてその武流って、グリーンのカラコンと鼻ピアスしてない?」
すると、空也が驚いたように答えた。
「その通りだ。でも、なんであんたが知ってるんだ?」
「やっぱり! 昼間、そいつがゲーセンで祐梨亜に声をかけてきたのよ。でも、店の前の通りを見たとたん、急に逃げるように姿を消しちゃったの。私たちが空也と会ったのは、そのすぐ後よ。ねえ、あれってひょっとして……」
空也が大きく頷き、言葉を引き継いだ。
「ああ。武流が逃げたのは、俺を見つけたからだ。間違いない。今朝閉店後に、噂が本当か確かめようと思ってあいつを呼びだした。でも、逃げられてあちこち捜し回ってたんだ」
「決まりじゃねえか! 祐梨亜をさらったのは武流だ!」
ジョン太が声を裏返して叫ぶと同時に、おつきの男の子が電話を切り、空也にこう報告した。
「武流はキャッチの途中で消えました。顔見知りらしい小学生の女の子に声をかけて、一緒に風林会館方面に歩いていったそうです」
跳ねるように飛び出したジョン太を追い、四人で〈エルドラド)を出た。
地上に出ると、まっすぐ東に向かって進んだ。
軍資金を調達して歌舞伎町に舞い戻ったものの、肝心の店の場所がわからない。
困った祐梨亜は、当てもなく街の中をうろついていたのだろう。
そして、運悪く武流に見つかり、副業≠フターゲットにされてしまったのだ。
きっと「空也に会わせてやる」とか何とか言われ、ついていってしまったに違いない。
三分後、私たちは風林会館前の雑踏に、無言で立ちつくしていた。
風林会館は、歌舞伎町のランドマークともいえる七階建ての古いビルで、バーやクラブ、卓球場やビリヤード場などが入っている。
そして一階には、この街で働く人々やその筋の方々の商売と癒しの空間、そして時には銃撃事件なんかもおこったりする日本一スリリングな喫茶店もある。
今夜もビルの前には、窓ガラスにスモークフィルムをがっちり貼ったベンツが堂々と歩道に乗り上げて停まり、その前でダブルスーツ、ボタン全開の殿方たちが肩をいからせ、周囲に鋭い目を光らせていた。
そしてこの建物の裏から、北は職安通り、東は明治通りまでの一帯が歌舞伎町きってのラブホテル街だ。
日当たりの悪いじめじめとした通りに沿って、祐梨亜の服のような配色の看板が並んでいる。
〈プチシャトー)〈竜宮〉〈ONE-WAY〉……いかにもなネーミングばかりだ。
勢いで駆けつけてきたまではよかったが、武流と祐梨亜の姿はなく、また二人がどのホテルに入ったのかも皆目見当がつかなかった。
私たちの目の前を、騒々しい学生のグループ、携帯電話相手に客のぐちをこぼすキャバクラ嬢、カラオケボックスのビラ配りの青年などが絶え間なく行き来していった。
「やべえよ。どうすんだよ」
ジョン太がつぶやいた。
きつく握った拳をもう片方の手で握りしめ、小刻みに振っている。
「少し落ち着け」
空也が諭《さと》すと、目を剥いて怒鳴った。
「ふざけんな! これが落ち着いてる場合かよ。俺らがこうやってもたついてる間にも、変態野郎どもが祐梨亜を……」
そこまで言うと意味不明のうなり声をあげ、両手で頭を抱え込んだ。
パンチパーマにデコラティブな刺繍が施されたニットを合わせた紳士が、じろりとこちらを見た。
ふいに、能天気な着メロが流れだした。
氷川きよしの演歌、ジョン太の携帯だ。
慌ててボディを開いたジョン太は、液晶画面を見て首を傾げた。
「誰だ? こんな番号知らねえよ。もしもし?」
しかし次の瞬間、顔色を変え、声を張り上げた。
「祐梨亜か!? お、お前、どこにいるんだよ! 無事なのか?」
残りの四人が一斉にジョン太を取り囲み、耳を澄ませる。
祐梨亜が甲高い声でものすごい早口でしゃべっているのがわかった。
「え? 何だよ。何言ってるかわかんねえよ。もっとゆっくりしゃべれよ」
大声で、いらついたようにジョン太が叱る。
私は手を伸ばすと携帯電話を引ったくった。
「もしもし祐梨亜? 晶よ」
「あ、晶。助けて! 怖いよ。きしょいおじさんたちが、あたしに変なことしようとするの」
まくし立てるのを遮り、できるだけ優しく、一言一言丁寧に、力を込めてこう話した。
「わかった。必ず助けてあげる。だから落ち着こう。今どこからかけてるの?」
「歌舞伎町のラブホテルのトイレだよ。おしっこしたいって言って、テーブルの上に置いてあったおじさんの携帯をこっそり持って来ちゃった。あたしのは、部屋に入ってすぐに取り上げられちゃったから」
少し落ち着きを取り戻し、祐梨亜が言った。
「すごいじゃない。偉いわよ、祐梨亜。そのホテルの名前は? 場所はどのへんかわかる?」
「どっちもわかんないよ。暗かったし、看板とかちゃんと出てないんだもん」
甘えといら立ちが入り混じった声で答える。
私は質問を変えた。
「そっか、わかった。じゃあね、そこはどんな部屋? 何か変わったものとか、気になるものとかない?」
「まんなかにでっかいベッドがある。その横にソファとテーブルがあって、向かいの壁にはプラズマテレビがかけてあったよ。あとは……そう! お風呂場の壁が全部透明なガラスなの! 絶対おかしいよね? だって外から見えちゃうじゃん。恥ずかしくないのかな」
勢いこんで祐梨亜が言った。
十一歳の女の子が抱く疑問としてはごく当たり前なものだが、「その恥ずかしいところがツボなのよ」と答える訳にもいかず、「ホントにおかしいね。なんでだろうね。それより他に思いつくものはない?」
とたたみかけてはぐらかした。
場に妙な空気が流れ、みんなが電話に耳を近づけたまま目をそらしたり、わざとらしい咳払いをした。
「え〜今言ったのだけじゃ見つけられないの? たくさん挙げたじゃん」
祐梨亜は憤慨したが、どれも典型的なラブホテルのインテリアばかりで手がかりにはならない。
「うん。もう少しだけ教えて。小さなことでもいいの。今いるトイレはどう? 見えるものを全部話して」
周囲を見回す気配がして、祐梨亜が答えた。
「普通の狭いトイレだよ。床も壁もフローリングで窓はない。便器はウォシュレット、ドアに金色のタオルかけがついてて、タオルは……あっ、そうだ8!」
「8? 8がどうしたの?」
「このホテルね。ベッドカバーとかクッションとかに数字の8がたくさんついているの。その8がトイレのタオルにもある。でもこの8何か変。だって……」
祐梨亜が言いかけた瞬間、携帯のバッテリー切れを知らせる警告音が流れ始めた。
同時に雑音が入り、音声がぶつぶつと途切れる。
「もしもし祐梨亜、どうしたの? 何が言いたいの? 答えて!」
慌てて私が怒鳴り、ジョン太たちも口々に呼びかけたが、電話はあっけなく切れ、その後何度かけ直してもつながらなかった。
「ちくしょう!」
ジョン太が叫び、スニーカーの踵《かかと》でアスファルトを蹴った。
「数字の8がどうとか言ってましたけど、どういう意味すかね?」
アレックスが言い、私は答えの代わりに空也にこう尋ねた。
「名前に8とかエイトとか入っているラブホテルはない? ロゴマークに使ってるところでもいいわ」
ラブホテル=けばけばしい内装に鏡張りの壁、回転ベッド、というのは一昔前のことで、最近はシンプル&モダンが人気らしい。
代表的なのが白い壁とフローリングの床、間接照明に有名デザイナーのインテリアというパターンで、中にはホテルのロゴマークなどを使ったオリジナルのリネン類や、アメニティーグッズを売りにしているところもある。
祐梨亜が連れ込まれたのも、恐らくこの手のホテルだろう。
ちなみにこれらの知識は、数ヶ月前にやった某健康雑誌の仕事「特集・セックスで十歳若返る!」の取材で仕入れたものだ。
しかし空也の答えはこうだった。
「新しいホテルができるとそれを口実に誘ってくる客がいるから、一応全部行ってるけど、そんなのは知らないな」
さり気なくディープなことを聞かされたが、深く考えている余裕はなかった。
みるみる場の空気が煮詰まっていく。
時間がない。
みんなそれはわかっていた。
黙りこくっていた塩谷さんが、ふいに口を開いた。
「祐梨亜は、最後に何か言いかけてただろ? 確か『この8何か変』だ。ひょっとしてマークは8じゃなくて、8に似た別のものなんじゃないのか」
アレックスが頷いた。
「その可能性はありますね。8に似たもの……雪だるまとか?」
「鏡餅もあるぞ」
ジョン太は目を輝かせたが、空也が呆れたように、
「どっちもない。第一、雪だるまや鏡餅だらけの部屋でやる気になる思うか?」
と答えた。
「う〜ん。一体なんだよ」
ジョン太はそう言って首をひねると、手のひらに指先でせわしなく何度も8の字を書いた。
それを眺めていたら、ふいにひらめいた。
「ねえ、『何か変』なのは、祐梨亜がマークを間違った方向から見たからなんじゃないの? 正しい方向から見ると、マークは8じゃなくて……」
私はそう言うと自分の手のひらに、指で大きく「∞」と描いた。
「これ、『無限大』って意味の記号よね。英語で言うと確か……」
「|infinity《インフィニティ》!」
パーフェクトな発音でアレックスが叫んだ。
「それなら知ってる。こっちだ!」
言うが早いか空也が裏通りの暗闇に向かって走りだし、慌てて私たちも後を追った。
〈HOTEL INFINITY∞〉、ホテルの入口脇の壁には、そう彫られた銀色の細長いプレートが埋め込まれていた。
それを下から照らし出すのは、蛍光灯の小さな明かりだけだ。
コンクリートの打ちっ放しの灰色の箱のような五階建ての建物で、まだ真新しい。
黒フィルムが貼られた避難用の窓を数えると、部屋は全部で二十六あった。
自動ドアの玄関を入ると、頭上でチャイムが鳴った。
ロビーには、ペパーミントグリーンの背の高いソファとガラスのテーブルが三組、間隔を大きく空けて並び、正面の壁には、中に蛍光灯の入ったアクリルの大きなパネルがかかげられていた。
パネルは正方形に区切られ、各部屋の写真がはめ込まれている。
好きな部屋を選んでボタンを押すと、下の取り出し口からキーが出てくるという仕組みだ。
これがフロントの代わりらしく、従業員の姿は見あたらなかった。
料金も室内に設置された自動精算機で支払えるようになっているのだろう。
パネルは三分の一ほど明かりが消えていた。
つまり現在使用中ということだ。
ロビーの奥がエレベーターホールになっていて、その横に鉄のドアがあった。
恐らく中は事務所だ。
ジョン太が激しくノックするとドアがほんの少し開き、太った若い男が顔を出した。
「小学生の女の子が誘拐されて、このホテルに連れ込まれたんだ。どの部屋に入ったか調べて、スペアキーを貸してくれ」
ジョン太は早口で、一気にそうまくし立てた。
「支配人の許可がないと……」
こちらの目を見ず、ぼそぼそとした声で答える。
ダークグレーの制服のシャツには横ジワが走り、ボタンがはじけ飛びそうになっていた。
「じゃあ支配人を呼んでくれ。マジでヤバいんだよ。頼むよ!」
ジョン太は顔の前で手を合わせると、男に向かって頭を下げた。
「……」
返事はなかった。
すると、今度は空也が進み出て言った。
「支配人って、マダム侯《ホウ》のことだろ?」
「そうだけど」
男が答えると、空也はスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出して開いた。
そして電話番号のメモリーを呼び出すと、猛スピードで画面をスクロールさせ始めた。
並んでいるのは女の名前ばかりに違いない。
「あった」
空也がつぶやいた。
ダイヤルボタンを押すと、すばやく耳に当てる。
呼び出し音が五回鳴る間に背筋がまっすぐに伸び、髪とスーツの乱れが整えられた。
さらに目には強い光、口元には自信と誇りに溢れたえみが浮かぶ。
相手が電話に出た時には、すっかり業界ナンバーワンホスト≠フ顔になっていた。
「もしもし〈エルドラド〉の空也です。ご無沙汰しています」
低く、甘く、それでいて力強い声で通話口に語りかけた。
相手の女が息を呑む気配が、はっきり伝わってきた。
十五分後、玄関のドアが開き、ヒールの音を響かせながら背の低い中年女が入ってきた。
「マダム侯、お忙しいところお呼びたてして申し訳ありません」
出迎えた空也は、そう言ってうやうやしく頭を下げた。
仕草が優夜さんにそっくりだ。
「久しぶりに電話してきたと思ったら、いきなり頼みごと?」
試すように言って、マダム侯が微笑んだ。
名前とアクセントからして中国人だろう。
余裕たっぷりという口ぶりだったが、赤い口紅が唇からわずかにはみ出ている。
恐らく大慌てで支度をして、車を飛ばしてきたに違いない。
首回りや顎にたっぷり脂肪がつき、純白の丸首スーツのお腹もやや苦しそうだったが、目は切れ長の二重、鼻筋も通っている。
若い頃は相当な美人だったのだろう。
今はチャイニーズマフィアの幹部のやり手妻といった風情だ。
「スペアキーを貸してくれ。早く!」
突然ジョン太が二人の間に割り込み、マダムの肩にすがりついた。
細い目は血走り、顔は紙のように真っ白だった。
マダムはその形相とアフロ頭にぎょっとしながら、すばやく手を振り払って言った。
「話は空也の電話で聞いたわ。でも、証拠はあるの?」
「ある。ただし今は、詳しく話しているひまがないんだ。とにかく調べてくれ」
今度は塩谷さんが答えた。
「協力したら、何かいいことある?」
マダムはそう言って、意味ありげな視線を空也に送った。
見返りは何だ、と聞いているらしい。
すかさず空也が答えた。
「もちろん相応のお礼はさせていただきます」
「例えば?」
いいながら、パーマでたっぷりボリュームを出した髪を肉付きのいい指先でなでつける。
「〈エルドラド〉もご来店くださいましたら、特別料金でサービスさせていただきます。それから……」
「それから?」
すると空也は同じように意味深なまなざしをマダムに返し、こうつけ足した。
「知人が、汐留のホテルでフレンチレストランをやっています。近いうちにディナーにご招待させてください」
「どうしようかしら」
女はそう言うと口元をゆるめ、空也の全身にゆっくり視線をはわせた。
舌なめずりの音が聞こえてきそうな目つきだった。
私の隣で塩谷さんが「げっ」とつぶやき、顔をしかめた。
しかし空也はその視線を真正面から受けとめ、
「必ず満足いただける一夜になると思います」
と静かに言って微笑んだ。
「……約束ね?」
たっぷりの媚《こ》びと、かすかな脅しを含んだ口調でマダムが尋ね、空也の目の奥を見つめた。
空也は小さく、しかし力を込めて頷いた。
商談成立。
「いらっしゃい」
マダムは私たちにそう命じて、鉄のドアを開けた。
事務所の中は狭く、窓も磨りガラスの小さなものが一つあるだけだった。
部屋のまんなかに大きなテーブルが置かれ、タイムレコーダー、湯飲み茶碗と急須、煙草の吸い殻がてんこ盛りになった大きな灰皿などが載っている。
壁際の棚には、折りたたまれた布団カバーやシーツがぎっしりと詰まっていた。
どれも奇麗なサックスブルーの生地で、∞のマークが等間隔に織り込まれている。
間違いない。
優梨亜はこのホテルのどこかにいる。
反対側の壁際にはスチールのデスクが並び、、その一つに十四インチのモニターが置かれていた。
モニター画面は四分割され、ロビーや地下の駐車場など、監視カメラの映像を映しだしている。
また、ビデオデッキも内蔵され、同時に録画する仕組みになっているらしい。
面倒なことが起きた場合には、録画したテープを警察なりバックの組織なりに渡し、カタをつけるのだろう。
マダムはデッキのボタンを押し、録画を止めるとテープを少し巻き戻し、再生ボタンを押した。
五人が肩をぶつけ合いながら、小さなモニターを取り囲んだ。
粒子の粗いカラー画像で、左下に表示された小さな数字が、日付と時刻、秒数をカウントしている。
私たちは画面左上、ロビーを撮影した部分に意識を集中した。
カメラは斜め上の角度から、ロビーに入ってきた客がパネルの前で部屋を選び、エレベーターホールに向かうまでの姿を撮影している。
まず現れたのは、東南アジア系の若い女と、千鳥足の中年サラリーマン。
その次がぴったりと寄り添い、ディープキスを繰り返すティーンエイジャーのカップルだ。
そしてその後、客足はぱったりと途絶えた。
「なんだよ、いないじゃないか」
ジョン太がいら立った声でつぶやき、マダムが早送りのボタンを押した。
そのとたん、画面に見覚えのあるショッキングピンクのパーカーが現れた。
「祐梨亜だ!」
マダムが慌てて再生モードに切り替える。
祐梨亜は物珍しげにきょろきょろと周囲を見回していた。
肩に垂らした艶のいいライトブラウンの髪と、頭頂部からやや右下にずれた位置にあるつむじがはっきりと映っていた。
そして、その隣に立つ背の高いダークスーツの男、もちろん武流だ。
武流は、作り笑顔でしきりに祐梨亜に話しかけながらパネルを見上げ、迷うことなく最上段、右端の部屋のボタンを押した。
同時に中の明かりが消える。
出てきたキーを受け取ると、そのまま祐梨亜を連れて歩き去った。
するとマダムが無言で立ち上がり、デスクの引き出しを開けると中から黒いカードキーの束を取りだした。
そして、口紅と同じ色のマニキュアで彩られた指先で一枚を抜き出し、「部屋は五階の一番奥。505号室よ」
と言って、ジョン太に差し出した。
エレベーターのドアが開くと、周囲の様子を窺《うかが》いながら、一人ずつそっと外に出た。
ダウンライトに照らされた薄暗い廊下に、黒い墓石のようなドアが並んでいる。
最上階の部屋、505号室はこのホテルの中で一番広く、値段も高い部屋なのだろう。
隣の部屋のドアとの間隔も、際立って長かった。
ドアの前まで行き、耳を澄ませてみたが何の音も聞こえてこない。
ジョン太は右手でドアノブをつかみ、左の鍵穴の溝にキーを差し込むと、私たちに目配せした。
空也が短く頷き、アレックスは腰を落としてファイティングポーズを取った。
ジョン太がすばやくキーをスライドさせると、小さな電子音と共に解錠される。
同時に体当たりするようにしてドアを開け、ジョン太、アレックス、空也、私、塩谷さんの順番で室内になだれ込んだ。
フローリングの床に黒革のソファ、人工大理石のテーブル、壁には大画面のプラズマテレビ、ガラス張りのバスルーム、祐梨亜の証言通りの広々とした部屋だった。
全員が真っ先に目で捜すと、祐梨亜はダブルベッドにいた。
服を脱がされ、ギンガムチェックのチューブトップとお揃いのショーツという姿で後ろ手にロープで縛り上げられている。
口には猿ぐつわをかまされ、目は恐怖で大きく見開かれ、頬は涙でべっとりと濡れていた。
そして、彼女が激しくばたつかせる足を両手で必死に押さえ込もうとしているのが、憎き武流だ。
しかし、敵はそれだけではなかった。
顔色の悪いチビと、スキンヘッドのデブ、正しくきしょいおじさん≠セ。
おそらく武流から連絡を受け、後からホモのカップルでも装って、別の部屋にチェックインし、ここで合流したのだろう。
チビは、ベッドの正面にセットしたデジタルカメラのファインダーを覗いていた。
歳はまだ二十代らしいががりがりに痩せ、煮染めのような色のネイルシャツに、今時どこで買ったのかケミカルウォッシュのジーンズをはいている。
足元にはビデオカメラや照明機材も置かれていた。
一方スッキンヘッドは、全身黒ずくめで年齢不詳。
髪だけでなく眉毛までもないのが不気味だった。
その汚らわしい手が、祐梨亜チューブトップの裾をつかみ、今まさに引き下ろそうとしている。
突然、アレックスが英語で何か叫んだ。
恐らく、最上級の罵倒の言葉なのだろう。
そして、ベッドサイドに駆け寄るとスキンヘッドの襟首を鷲づかみにして、いきなり向かい側の壁に投げつけた。
重々しい音とともに部屋全体が揺れ、コクトーのリトグラフを収めた額縁が壁を滑り落ちた。
慌ててドアに向かおうとしたチビには塩谷さんが足払いを喰らわせ、床に転がした。
すかさず私はクローゼットに走ってバスローブの腰紐を調達し、スキンヘッドとともども縛り上げてやった。
「動くな!」
裏返った声に顔を上げると、武流がベッドの上に乗り、祐梨亜にナイフを突きつけていた。
それを挟むようにして、空也とジョン太が左右のベッドサイトに立っている。
「これ以上近づいたら、ガキを刺すぞ」
そう言って肩をつかむと無理矢理祐梨亜を立たせた。
ナイフは刃渡り約十センチ、持ち手は明るいブルーの樹脂製で折りたたみ式、よくアウトドアショップで見かけるやつだ。
何か叫びかけたジョン太を指で制し、空也が言った。
「武流、ダサい真似はやめようぜ。〈エルドラド〉のホストがやることじゃないだろう」
どうでもいいという口調だったが、視線は武流の目の奥を見据えている。
「うるせえ。偉そうな口叩くんじゃねえよ。俺はマジだぜ」
気圧《けお》されたように言い返し、武流は祐梨亜の細く白い喉に、銀色の刃先を向けた。
目尻がつり上がり、薄い唇が小刻みに痙攣している。
そして、顎でこちらを指すと、
「おい、お前。二人を縛った紐をほどけ」
と言った。
ご指名を受けたアレックスは怒りで顔を真っ赤にして肩をいからせ、武流に詰め寄ろうとした。
しかし、
「妙なことしやがったらガキを殺すぞ。とっととやれ」
とナイフをちらつかされ、憮然とした顔で今縛ったばかりのスキンヘッドとチビの紐をほどき始めた。
まずい。
事態はとても危険な方向に向かいつつある。
猿ぐつわの下で祐梨亜がうめき、苦しそうに顔を歪めた。
長い睫毛が涙で黒々と濡れ、大きく見開いた目が救いを求めるように私を見た。
大丈夫。
さっき約束したでしょ?
必ず助けてあげるから。
私はその目を見つめ返しながら、心の中でそう呼びかけた。
武流にきづかれないように、そっと室内を見回した。
目に留まったのはベッドの上の布団だった。
∞マークがびっしり並んだカバーに包まれた、ダブルサイズの薄っぺらな羽毛布団。
武流と祐梨亜はその真ん中に立っている。
どちらかが体を動かすたびに、足元が危なげに揺らいだ。
ゆっくり腕を動かすと、隣に立っている塩谷さんを肘でつついた。
小さな目が注意深く動き、こちらを見る。
私は視線と指先の動きを巧みに使い分け、すばやく計画を伝えた。
塩谷さんは一瞬考えるような顔をした後、小さく鼻を鳴らした。
「了解」の合図だ。
私は早速作戦を開始した。
「わかったわよ。こっちの負け」
大きな声でそう言うと、両手を上げ、一歩前に進み出た。
全員がぎょっとしてこちらを見る。
「その通りだ。降参する」
すかさず塩谷さんも言い、万歳のポーズで前進した。
ベッドまでの距離は約三メートル。
「来るな! 近づくんじゃねえ!」
唾を飛ばしながら武流が叫び、刃先を祐梨亜の喉に押しつけた。
「晶さん、何バカなことを言ってんすか!」
憤慨するジョン太を無視して私はさらにこう続け、前進した。
「お金が必要なんでしょ? いくらいいるの? 欲しいだけ用意してあげるから、その子を放して」
「調子のいいことを言ってんじゃねえよ。その手に乗るか」
言葉はあくまで強気だったが、カラコンの下の瞳には心の動揺がはっきり表れていた。
「くれるって言うんだから、素直にもらっときゃいいじゃねえか」
相変わらず気だるそうな調子で、空也が口を挟んだ。
見ると、視線の端で目配せしてきた。
訳がわからないなりに調子を合わせてくれる気らしい。
「お前も知ってるんだろ? こいつら〈club indigo〉のオーナーだぜ。こんなナリしててもお金だけはたんまり持ってるんだよ。お前の借金肩代わりするなんて、ちょろいもんだぜ」
散々な言われようだったが、空也が気を引いてくれている隙に私と塩谷さんはすり足でベッドの足元まで辿り着き、左右に分かれて戦闘配置についた。
「……」
初めて武流が黙り込んだ。
空也はさらにだめ押しで続けた。
「五千万円もふんだくれば、借金返して高飛びしても十分余るだろ? その金で店でも始めればいい。全部リセットして出直すんだよ。どうだ武流、悪い話じゃないと思うぜ」
「リセット」、若者が大好きな便利で耳ざわりのいい言葉。
それは武流にとっても同じだったらしい。
わずかに肩の力が抜け、視線が泳ぐ。
脳細胞をフル回転させて、あれこれ必死に思いを巡らせているのだろう。
そして、ナイフの刃先が祐梨亜の喉元からはずれた。
チャンス。
私と塩谷さんはすばやくかがみ込み、両手で羽毛布団を鷲づかみにすると、互いの顔を見ながら同時に、そして、力任せに手前に引いた。
唐突に足元をすくわれた武流は喉の奥から間抜けな悲鳴を漏らし、仰向けでベッドに叩きつけられた。
一緒に転んだ祐梨亜は着地のショックで弾き飛ばされ、ベッドの下に転がり落ちた。
大成功。
日頃は憎まれ口ばかり叩き合っている私たちだが、こういう場面では絶妙なコンビネーションを発揮する。
それからはビデオの早送りのようだった。
ジョン太、空也、アレックスが一斉にベッドに飛び乗って武流を押さえつけ、ナイフを奪取し、ついでに一人一発ずつ、それぞれの思いを込めて殴りつけた。
塩谷さんは面倒臭そうにアレックスがほどきかけた紐を元に戻し、ついでに武流の手足もカラオケ用のマイクコードできつく縛った。
一方私は床の上に倒れ、足をばたつかせて泣いている裕利亜に駆け寄り、大急ぎでジャケットを脱ぐと小さな体を包んでやった。
「大丈夫? どこか痛いところはない?」
ロープと猿ぐつわをはずすと、そう言って顔を覗き込んだ。
しかし祐梨亜は涙をぼろぼろとこぼし、真っ赤な唇を震わせながら私を見上げているだけだ。
とっさに言葉がでてこないらしい。
「祐梨亜」
床に散らばった衣類を拾い、着せてやっていると、ジョン太がやってきた。
額には大粒の汗をかき、まだ肩で息をしている。
すると祐梨亜は立ち上がり、私を押しのけてジョン太に抱きついた。
そして、大きな声を上げ泣き始めた。
「このクソガキ! アホ娘! 大バカ野郎!」
ジョン太は両腕を体の脇に垂らして突っ立ったまま、腰にすがりつく祐梨亜に向かって真剣な顔で怒鳴った。
「みんなめちゃくちゃ心配して、お前のことばっかり考えてたんだぞ。お前が好きで、心配してる人がここには大勢いるんだ。お前は一人ぼっちじゃないんだよ。自分で考えているよりず〜っと幸せなんだからな!」
すると、祐梨亜の泣き声がやんだ。
ずるずると鼻水をすすり、何度もしゃくり上げながら小さな手のひらでジョン太のシャツをきつくつかんでいる。
「いいか、わかったか?」
ジョン太はそう言うと、両手で祐梨亜の肩を引きはがし、体を屈めて顔を覗き込んだ。
短い沈黙の後、祐梨亜がこくりと頷いた。
「よし」
ジョン太が頷くと、祐梨亜は再び飛びつき、声を上げて泣き始めた。
ジョン太は、今度は両腕でしっかりその体を受けとめ、胸に抱きあげると、ライトブラウンの髪をくしゃくしゃになでてやった。
細い目がなくなり、代わりに両頬におおきなえくぼが浮かぶ。
祐梨亜が「大好き」と言っていた笑顔だ。
一一○番に通報すると、すぐにパトカーがやってきた。
始めに現れた警官二人は、部屋の有様を見るなり絶句した。
縛り上げられ、ぐったりして転がっている悪者三人組と、見事にちぐはぐな組み合わせの男女、加えて少女が一名。
私たちも事情聴取を受けなくてはならないらしく、新宿警察署に同行することになった。
「祐梨亜ちゃん、だったよね」
パトカーに乗り込もうとしていた空也が、ふいに振り返って言った。
祐梨亜が驚いたような顔で頷いた。
ジョン太に背負われ、恥ずかしいのか肩の後ろに隠れて、真っ赤に泣き腫らした目だけを覗かせている。
空也は歩み寄ってくると、
「怖い思いをさせてごめんね」
と静かな声で優しく言った。
祐梨亜は黙ったまま、それでも大きく首を横に振った。
すると、突然空也が自分の小指にはめていたプラチナの指輪をはずした。
そしてジョン太の肩に置かれた祐梨亜の左手を取り、そっと薬指にはめてやった。
その一部始終を、祐梨亜はもちろん全員が呆気に取られて見守っていた。
祐梨亜は小さな、ぷっくりした手を顔の前で広げると、じっと指輪を見つめた。
街灯の明かりよりも、それを映す指輪の方が遙かに明るく、力強く輝いている。
「ゆるゆる」
祐梨亜が少しかすれた鼻声で言った。
当然指輪は大きすぎて、祐梨亜が手を動かす度に左右に揺れた。
すると空也は頷いてこう言った。
「今はね。だから、この指輪がぴったりになったらその時店においで。レディーとして歓迎するよ」
「……」
祐梨亜は大きく開いた目で指輪を見つめ、それから空也を見た。
空也がもう一度祐梨亜の目を見て微笑んだ。
いつもの、業界ナンバーワンホストのフェロモンと誇りに溢れた微笑みだった。
ジョン太が険しい顔で何か言いかけ、でも途中でやめて黙り込んだ。
「気の長い営業だこと」
私が茶々を入れた。
しかし空也は、すました顔で肩をすくめただけだった。
私たちが警察から解放されたのは、翌日の早朝だった。
indigoメンバーには優夜さんが、祐梨亜には父親が迎えにきてくれていた。
空也は武流について証言しなくてはならず、まだしばらくは帰れそうにないらしい。
祐梨亜の父親が現れると、ジョン太は痛々しいほど何度も頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。
しかし、祐梨亜の父はその倍私たちに頭を下げ、娘のしでかした不祥事を詫びていた。
プリクラで見たより痩せていて、くるくるとよく動く丸い瞳が祐梨亜と似ていた。
祐梨亜は父親の顔を見るとさらにもう一度べそをかき、最後に「お腹がすいた」と言った。
祐梨亜は父親が乗ってきた車で帰宅するため、私たちは青梅街道で別れることになった。
新宿警察署は、西口の高層ビル街のはずれにある。
薄汚い空気の中を、夜遊び帰りの若者のグループ、早朝出勤のサラリーマン、段ボールを引きずったホームレスなどが行き来している。
「また遊びに来てもいい?」
父親が車を回すのを待つ間、祐梨亜が遠慮がちに尋ねてきた。
まだ少し鼻声で、まぶたも腫れて縁が赤くなっている。
「私はいいけど……どうする?」
私はそう言って、わざと深刻ぶった顔でみんな見渡した。
「俺もいいすよ。いいトレーニングになったし」
アレックスが野太い声で言って頷き、祐梨亜に親指を突き立ててみせた。
「私はオーナーさえよろしければ」
おごそかにそう答えたのは優夜さんだった。
取り返したホストならびに塩谷さんのお金、十六万六千六百円が入ったバレンチノのセカンドバッグを脇にしっかりと抱えている。
そして、祐梨亜がすがるような目で塩谷さんを見上げると、彼は鼻を鳴らし、背中を向けてしまった。
それからぶっきらぼうな声で、しかしはっきりと、
「勝手にしろ」
と言った。
「大歓迎だって」
私が通訳してやると、祐梨亜は嬉しそうに頷いた。
行方不明になった母親は見つかったのか、両親の仲がこの先どうなるのか、それはわからないし、私たちには何もしてやれない。
それでも、この出会いで彼女の小さな世界が少しでも広がるのなら、それはきっといいことなのだろう。
濃紺のステーションワゴンが私たちの前に滑り込んできた。
祐梨亜の父親の車だ。
「これあげる」
ふいに祐梨亜がポケットから何かを出して、ジョン太、私、塩谷さんの順に配った。
見ると小さな紙片、プリクラだった。
昨日ゲーセンで撮ったやつだ。
全体が白っぽく、粒子の狙い独特の画像で、中央に祐梨亜と私、その後ろにウインクしてるジョン太と塩谷さんが、頬を寄せ合って写っている。
全員が水平Vサインポーズを決め、中でも塩谷さんはむくんだ仏頂面とのコントラストが絶妙だった。
「もらっていいの?」
驚いて聞くと、祐梨亜はこくりと頷き、
「自分のはもう貼ったから」
と答えた。
「どこに?」
私がそう尋ねようとすると、車の中から父親が、
「祐梨亜、行くぞ」
と促した。
祐梨亜はそそくさと助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。
父親は最後までぺこぺこと頭を下げ、やがて車がゆっくりと走りだした。
その時、祐梨亜がこちらに向かい、窓から何かを突き出してみせた。
ころりとしたパ−ルピンクのボディ、携帯電話だった。
そしてボディの上部、両親との写真の隣に、四人で撮ったプリクラが貼ってあった。
「ホントに好きで、大切な人と撮ったやつしか貼らない」
そう言っていた場所だ。
私が呆然と見つめていると、祐梨亜はにっこりと微笑み、水平に倒したVサインを目の脇にかざしてみせた。
どんなに色鮮やかな服よりもまぶしく、どんなキャラクターのプリントよりも楽しげで、向けられた人の心を弾ませる、そんな笑顔だ。
ふいに温かく、切ない気持ちが胸に込み上げてきた。
私は慌てて右腕を上げると、どんどん小さくなる祐梨亜に向かい、同じポーズを返した。
こましゃくれて憎たらしい、大嫌いな水平Vサインポーズ。
それでも、これが二回り違いの友達≠ノ返せる精一杯のエールだった。
サンキュー、祐梨亜。
必ずまた会おうね。
それまで、自分の世界を生き抜いて、祐梨亜なら、きっとできるよ。
ビルの谷間から朝日が差し込み、ふいに街が色づき始めた。
私は祐梨亜を乗せたワゴンが車の波に呑まれ、完全に消えてしまうまでVサインを送り続けた。
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第三話 センター街NPボーイズ
渋谷の中でも、ずば抜けて客の平均年齢の高い店だろう。
ここに来る度にそう思う。
渋谷駅東口、明治通りと六本木通りの交差点沿いに建つ古い喫茶店。
ビニールタイルの床に合板の大きなテーブル、流行遅れのラタン椅子には、ゴブラン織りの座布団が載っている。
公園通りあたりのこじゃれた喫茶店、通称カフェ≠ニはほど遠い雰囲気だが、渋谷にもこういう店を必要とする人間が大勢いる。
買い物帰りのおばさんグループに仕事をサボってスポーツ新聞に読みふける営業マン、加えて色艶の悪い顔で打ち合わせをする出版関係者。
もちろん私もその一人だ。
「高原さん、聞いてます?」
我に返ると、浅海さんが眼鏡の奥から疑わしげな目でじっとこちらを見ていた。
「もちろん。原稿締切は厳守。進行前倒し前倒しに、ですよね。わかってます」
慌てて身を乗りだし、早口で言った。
「頼みますよ。どんな事情があったか知りませんが、この間の『前立腺の病気がわかる本』みたいな綱渡りは二度とごめんですからね」
浅海さんはそう言って、日に焼けた眉間にシワを寄せた。
「はい、わかってます。すみません」
まさか「あの時原稿が遅れたのは、副業でやってるホストクラブの客が殺され、犯人捜しをしてたからです」とも言えず、私は殊勝に頭を下げた。
「でも今回は高原さんにとっても身近なテーマですし、原稿も進むと思いますよ」
コーヒーを飲みながら、浅海さんが言った。
私の前には『翠林《すいりん》出版 ニコニコ元気ブックス【もう怖くない! 更年期障害笑顔で乗りきる50のコツ】企画書』と書かれたA4のコピー用紙が置かれている。
むっとしたものの、無理矢理笑顔を作り抗議を試みた。
「これでも一応まだ三十代なんですけどね」
しかし浅海さんは、大きく首を横に振ってこう続けた。
「最近では、三十代で更年期が始まる女性が増えてるんですよ。特に不規則な生活やバランスを無視した食事、多量の飲酒習慣のある人に多いそうです」
「……」
あまりに自分の私生活そのまんまなので、反論する気が失せた。
それに、言われてみれば近ごろ顔がのぼせたり、汗をかきやすくなったような気もする……。
「ア・キ・ラちゃ〜ん!」
甘ったれながらもドスの利いたハスキーボイスが響き渡った。
ぎょっとして顔を上げると、なぎさママが入口の自動ドアの前で手を振っていた。
「よかったあ〜。ちょうど電話しようと思ってたとこなのよう」
店内の視線を一身に集めつつ、笑顔でこちらのテーブルに歩み寄ってきた。
同時に凄まじい香水の芳香が漂う。
落とすのにたっぷり三十分はかかりそうな濃厚メイクに美容院帰りの巻き髪、スーツはディオール、バッグはクロコのケリーだ。
逞《たくま》しい肩幅とが発達しすぎた手足が男≠感じさせるものの、遠目には誰が見ても「高級クラブのやり手美人ママ」だ。
「おはようございます」
私は、思わず夜の世界の挨拶を返してしまっていた。
時刻は午後四時すぎだ、横目で浅海さんの様子を窺うと、ぽかんと口を開けたまま、私とママの顔を見比べている。
しかしママは構わず、
「この子たちとお茶しにきたのよ。偶然ねえ。ツイてるわ」
と言い、顎で背後を指した。
若い男の子を二人従えている。
一人は小柄痩せ形、色白で黒目がちの大きな瞳、チワワそっくりだ。
もう一人はレバーパンツにワークブーツ、先の尖った鼻は歪みのない奇麗な二等辺三角形をしている。
タイプは正反対だが、二人とも飛びきりの美形。
ママの好みは実にわかりやすい。
しかし私は、
「なるほど」
気の抜けた声で返すのが精一杯だった。
今のところ、私の副業のことは表の仕事≠ナあるフリーライター業の関係者は誰も知らない。
特に理由はないのだが、何となく面倒臭そうなので黙っている。
するとママは私の耳に口を近づけ、早口でこう囁いた。
「頼みたいことがあるの。急ぎで時間作ってもらえる? できれば明日か明後日」
顔を上げると、ママと目が合った。
優雅な微笑はそのまま、しかし矯正パーマで異様に反り返った睫毛に縁どられた目は、全く笑っていなかった。
加えて肩に乗せられた大きな手のひらはじっとりと熱く、硬く強ばっている。
私は小声で、でもきっぱりと答えていた。
「明日の夜なら」
「じゃあ十一時に神泉町《しんせんちょう》の新しい店に来て。もちろん塩谷ちゃんも一緒にね。待ってるわ」
ママが言った。
目には安堵《あんど》の色が満ちていくのがわかる。
そして、顔を上げると「そんじゃ〜ね。お邪魔しましたぁ」と妖艶に微笑みかけて浅海さんをビビらせ、美少年二人とともに二階フロアに上がっていった。
「お、お知り合いですか?」
浅海さんがうわずった声で尋ねてきたので、私は用意していた言葉を返した。
「むかし取材でお世話になった方です」
「ああ、取材で。なるほど」
なら納得、という口調で言い、浅海さんが頷いた。
こういう時、ライターという仕事に与えられた数少ないメリットを感じる。
あらぬ誤解を招くようなシーンや、人間関係を目撃された場合も「取材です」の一言でOK。
加えて適当な出版社の名義で領収書をもらっておけば完璧だ。
「店を探し回ってる間に腹ぺこにさせて、着いたらどっかり食わして儲けようって作戦だよ」
店に入るなり、塩谷さんが毒を吐いた。
出迎えの仲居さんの笑顔が引きつっている。
校了明けでほとんど寝ていないところを無理矢理引っ張ってきたので、いつにも増して機嫌が悪い。
なぎさママの新しい店は旧山手通りから裏通りを数本奥に入った場所にあった。
このあたりは地図があってもわかりにくい上に、交通のアクセスもよくない。
私たちも、人気のない深夜住宅街をさんざん歩き回らされた挙げ句、ようやく辿り着いた。
しかし、若者たちの顔ではこの手の店が人気で、「隠れ家レストラン」などと称され、あちこちの街でオープンしているらしい。
私たちが通されたのは、二階の座敷だった。
京都の染物屋を移築したという古い家屋で、瓦屋根に紅殻格子《べんがらごうし》、犬矢来《いぬやらい》、窓には簾《すだれ》という純町屋スタイル、しかしふるまわれる料理は無国籍、という売りらしい。
一階フロアは、若いOLやカップルで大賑わいだった。
ふすまを開けると真っ先に目に飛び込んできたのは、上座に座った男性だ。
歳は五十代後半、大柄で厚みのある体、彫りの深い顔に切れ長二重の目、引き締まった口元、絵に描いたような二枚目だ。
スーツもネクタイも地味だが、仕立てのいいものだとわかる。
芸能人やホストのような派手なオーラはないが、静かな威圧感と胆力のようなものを感じる。
そして、その傍《かたわ》らには同じくスーツ姿の痩せた男が座っていた。
歳は四十代前半、分厚いレンズの銀縁眼鏡をかけ、髪型は今時きっちり七三分けだ。
彼は私たちの姿を見ると慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「二人とも、急に呼び出してごめんね。とりあえず座って」
二枚目の隣に座ったなぎさママに、そう促された。
艶やかな朱に塗られた長方形の座卓に、四人向かい合って座った。
七三分けは、二枚目の背後に影のように控えている。
すかさずふすま開き、作務衣《さむい》姿の男の子たちが入ってきて料理と酒を並べていく。
もちろん美形揃いだ。
男の子たちが出ていくと、ママが隣を指して言った。
「こちら、渋谷区長の小金澤《こがねざわ》さんと秘書の望月《もちづき》さん」
「初めまして。小金澤です」
二枚目は背筋をまっすぐに伸ばし、シルバーグレイの頭を下げた。
続いて七三分けも、
「望月です。よろしくお願い致します」
と力の入った声で言い、こちらに名刺を突き出した。
「渋谷区長? 現役の?」
機械的に名刺を受け取りながら、思わず聞き返した。
渋谷のはずれで店を始めて三年近く経つが、区長が誰でどんな顔をしているかなど考えたことすらなかった。
ママは黙って頷き、それから、
「晶ちゃんたちのことは、ちゃんと説明してあるの。安心して」
とつけ足して微笑んだ。
レザースーツの肩に派手なプリントのシルクスカーフを巻いている。
ママのお気に入りのコーディネートだ。
「はあ」
何をどう「ちゃんと説明」したのかいまいち不安だったが、とりあえず続きを聞くことにした。
「小金澤さんはあたしの高校時代の部活の一年先輩で、すごくお世話になった方なの。もちろんお世話って言っても、変な意味じゃないわよ。あたしがこっちの組合に入ったのはもっとずっと後のことだから」
笑いながら断りを入れた。
区長は背筋を伸ばしたまま前方を見つめ、神妙な顔でママの話を聞いている。
シワは多いがたるみのない顔、しかし、心なしか頬のあたりが強ばり、色艶もよくない。
秘書・望月はその斜め後方に鎮座し、区長と全く同じ姿勢と表情を作っている。
「小金澤さんが区長になったことは知ってたんだけど、こんなオカマが会いにいっても迷惑なだけじゃない? だからずっと陰で応援してたのよ。ところが、半年くらい前にセルリアンタワーのカフェでばったり会って、あんまり懐かしいんで声かけちゃったの。で、それ以来お忍びで時々店に来ていただくようになったってわけ」
眉を寄せ、少し恥ずかしそうに、ママが言うと、ようやく区長の頬がゆるんだ。
「あの時は本当に驚いたよ。声をかけられたのはいいけど、全然誰だかわからないんだから。三十年以上会わなきゃ変わるのは当たり前だけど、こうなるとは思わないだろ。まさか我が部の副将が、こんな美女に変身してるとは……」
太い眉が下がり、細めた目の脇にひときわ深いシワが三本刻まれる。
いたずらっぽい、子どものような笑顔だった。
するとママは、
「ちょっと、副将はやめてよ。昔の話はしないって約束でしょ」
と甘えるように言って、区長の背中を叩いた。
「……」
私も塩谷さんも言葉を失っていた。
現役渋谷区長となぎさママの青春秘話には興味を惹《ひ》かれるものの、なぜか自分たちがこの場に呼ばれたのか、さっぱり分からなかったからだ。
気配を感じたのか、ふいに真顔に戻ってママが言った。
「実はね、小金澤さんは今ちょっとやっかいな事件に巻き込まれてるの」
「事件って?」
「私からご説明させていただきます」
望月があたふたと進み出てきた。
眼鏡の度が異様に強いせいで、他のパーツに比べ目だけがアンバランスに拡大されている。
「三日前、区長の自宅のポストに一通の封書が投げ込まれていました。差出人は不明、中には区長のご令嬢・美玖《みく》さんの裸の写真が数枚入っていました。そして同封されていた手紙には、写真をマスコミに公表されたくなければ三千万円用意しろ、受け渡し方法は後日連絡する、と書いてありました。美玖さんに確認すると、二週間ほど前の夜に道玄坂のクラブで声をかけてきた男とラブホテルに行き、その際にデジタルカメラで写真を撮られていたことがわかりました。恐らく写真を持ってきたのはその男です」
極めて事務的に、しかし言葉と表現を選び、核心には一切触れずにそう説明した。
「お嬢さんはおいくつですか?」
「十七歳、高校二年生です」
私が絶句し、反対に塩谷さんはぐぐっと身を乗り出した。
すると区長は、
「お恥ずかしい限りです」
と低い声で言い、目を伏せた。
もちろん望月も一緒だ。
高校二年生にして夜の渋谷をうろつき、初対面の男とラブホに行ってセックスし、挙げ句の果てに裸の写真まで撮らせてしまうご令嬢。
二枚目区長もいろいろと苦労しているらしい。
「警察には通報したんでしょう?」
すると望月は首を横に振り、
「それができないから、お二人においでいただいたんです」
と答えた。
「どういう意味ですか?」
「警察に話せば男は捕まえてくれるかもしれませんが、美玖さんの写真のことも表沙汰になってしまいます。恐らくマスコミにもすぐに嗅ぎつけられるでしょう。それに……」
望月はわざとらしく咳払いすると、こう続けた。
「半年後に区長選挙があるんです」
「なるほど」
ようやく私にも事情が呑み込めてきた。
区長は再選をめざし、これまで着々と準備を進めてきたに違いない。
それが告示前になってこの騒動、表沙汰になれば大きな痛手となることは確実だ。
「まさか僕らにその男を見つけ出して、写真の元データ、つまりデジタルカメラのメモリーカードを取り返して欲しいって話じゃないでしょうね?」
ふいに塩谷さんが口を開き、ぶっきらぼうな早口でそう言った。
「さすが塩谷ちゃん! わかってるじゃない」
ママが両手をぱちぱちと叩いた。
「私たちが? 何で?」
驚いて聞くと、ママはこう答えた。
「あんたたちにはindigoがあるじゃない。indigoの男の子たちなら渋谷の裏事情にも詳しいし、ネットワークも持ってるわ。それを使えばきっと男も捕まえられるわよ」
「そんな無茶な。だって男の名前も住所もわからないんでしょ? じたばたしないで写真を買い取ればすむ話じゃないの?」
私の提案には、区長が応えた。
「今はそれですんでも、後々ことが明るみに出ればさらに大きな問題になります。ですから、この一件は現時点で確実かつ隠密、加えて早急に解決しておきたいんです」
急に演説口調になり、熱っぽい鋭い目でこちらを見た。
その背後では、望月の巨大な目も光っている。
区長はさらに演説を続けた。
「見栄や世間体を守りたくて言ってるんじゃありません。私には、やりかけた大きな仕事が残っているんです。そう、広尾のあの土地は、断じてカラオケボックスなどにする訳にはいかない。あくまで地域のお年寄りのために……」
「まあまあ。小金澤さん、少し落ち着いて」
割って入ったママは、穏やかな笑顔でたしなめた。
そして私たちに向き直ると、
「突然呼びつけて、こんなこと頼んで、全然スジが通ってないことはわかってるの。でも、どうしても小金澤さんを助けたいのよ。あたしにできることなら何でも手伝うし、もちろんお礼だってちゃんとする。だからお願い、力を貸してください」
と言って座卓に両手をつき、深々と頭を下げた。
思わず塩谷さんと顔を見合わせた。
こんなママを見るのは初めてだった。
「……ちょっと調べるくらいなら」
勢いに押され思わず口走ると、アイシャドウ、アイライン、マスカラの順で重厚に彩られた目がぱっと輝いた。
そして、
「ホント? やってくれる? 嬉しい! ありがとう。小金澤さん、よかったわね。これで安心よ。この二人に任せておけば絶対大丈夫だから」
と、ものすごい早口で、こちらに口を挟む隙を一切与えず話をまとめてしまった。
それから唖然としている私たちを見据え、
「しっかりやんのよ」
とドスの利いた声で言った。
〈club indigo〉のオーナールームに着くと、優夜さんが出迎えてくれた。
事件のいきさつと、なぜか私たちがナンパ男捜しをするはめになったことは携帯電話で説明ずみだ。
それでも、
「おはようございます。お疲れさまです」
と、いつも通りドアノブをつかみ、おごそかに迎え入れてくれた。
今夜の優夜さんは、珍しく全身黒ずくめだった。
しかし、よく見るとスーツは光沢のある玉虫色《シャンブレ》、カフスボタンは巨大なオニキス、加えてぴかぴかのエナメルシューズまではいている。
まるで結婚式場の花婿だ。
「これが美玖ちゃんよ」
三人で応接ソファに座ると、私はそう言って一枚のスナップ写真のをテーブルに載せた。
帰り際に望月から捜査資料として借りたものだ。
鮮やかな手つきで水割りを作りながら、写真を覗き込んだ優夜さんは、
「なるほど」
と言った。
肩を剥き出しにしたチューブトップにスリムのカプリパンツを合わせた少女が、無邪気な笑顔でVサインを突き出している。
毛先を縦ロールに巻いた明るい茶髪のロングヘアに、濃厚なメイクにも埋もれないすっきりした鼻筋と切れ長の大きな瞳。
小金澤美玖は父親にそっくりだった。
「犯人の男について、美玖さんは何て話してるんですか?」
優夜さんが尋ねた。
一階フロアからは、ジョン太が大声で歌う調子はずれな「ハッピーバースディ」が聞こえてくる。
恐らく客の誰かが誕生日なのだろう。
午前一時過ぎ、客もホストも一番テンションが上がる時間だ。
私はさっき望月から聞いた話をそのまま伝えた。
「歳は二十二、三。身長は百七十五センチ前後で痩せ形、髪型は茶髪のソフトモヒカン、顔は色白面長、細眉で二重まぶた、でも似てる芸能人は思い浮かばない。モイチって名乗ってたそうだけど、偽名の可能性が高いわね」
「持ち込まれたのはどんな写真なんですか?」
「それが見せてもくれないし、説明してもくれないのよ。小金澤さんは、引きつった怖い顔で『区長としての立場以前に、一人の父親としてあれを人目にさらす訳にはいきません』って言うだけだし」
私が言うと、塩谷さんが鼻を鳴らした。
「ただのヌード写真じゃないのは確かだな。恐らくハメ撮り、つまりセックスしながら撮った写真だろ」
「なるほど」
優夜さんがもう一度そう言って、クールに頷いた。
私は写真を手に取り、改めて美玖を眺めた。
シミどころかホクロ一つないなめらかな肌と小ぶりな胸、すらりとした手足、その中で腰回りにだけみっちり肉がついている。
アンバランスな分リアルな、とてもエロティックな体だった。
翌日、小金澤美玖と会った。
場所は代々木上原駅前のカフェ。
区長の自宅はこの街の丘の上にあるらしい。
メンツは私、仕事をサボった塩谷さん、そして犬マンだ。
犬マンはindigoの人気ホストの一人だが、店に来る前はナンパの名手として渋谷センター街あたりではちょっと知られた顔だったらしい。
捜査の手助けになるのでは、と優夜さんが声をかけてくれたのだ。
美玖を待つ間に、私が事件のいきさつを説明した。
「どう思う?」
「もしかしたら、ナンパ師が関わってるかもしれませんね」
犬マンがコーヒーを飲みながら答えた。
オーバーサイズのネルシャツにジーンズ、スニーカーというシンプルなコーディネート。
背は高くないが、頭が小さく手足が長いので何を着ても様になる。
「ナンパ師? 何それ」
「ナンパをするためだけに、クラブや繁華街に通う奴らがいるんです。それも一人で、ほとんど毎日、季節も天気も関係なし」
「なんで?」
驚いて聞くと、
「好きだからに決まってるじゃないすか」
と答え、あっけらかんと笑った。
面長の顔の中央に集まった丸いパーツ、くっきりした鼻の下の筋、大きな耳。
源氏名は犬だが典型的な猿顔だ。
「ナンパ師ねえ」
ナンパなんて酔った勢いか、その場限りのノリでやるものだとばかり思っていた。
そこまで熱意と愛情を持って取り組む若者がいたとは驚きだ。
約束の時間から遅れること二十分、ガラスのドアを押して美玖が入ってきた。
茶髪の巻き髪にラメ入りゴールドのニット、スリムジーンズの裾はロングブーツの中に入れている。
この後魚河岸にでも行くつもりなのだろうか。
その背後から、望月が短い足をばたつかせながら駆け込んできた。
「お待たせしました」
純白のハンカチで額に浮いた汗と脂を拭いながら頭を下げた。
今日もきっちり七三分け、スーツは濃紺、格子縞のネクタイは結び目も幅も極太だった。
簡単な自己紹介の後、それぞれの席に着いた。
私たちは区長の知り合いで、仕事の手伝いをしているということになっている。
「声をかけてきた男のことを聞かせてくれる?」
私が言った。
すると美玖は、
「またあ? パパにも望月さんにも何度も話したじゃん。もうやだ」
と言って顔をしかめた。
「美玖さん、困りますよ。何でもお話しするようにお父様に言われたでしょう?」
望月はわかりやすく狼狽《ろうばい》すると腰を浮かし、子どもに言い聞かせるように言った。
その口調が気に入らなかったのか、美玖はさらにふて腐れたような顔になり、背中を向けてしまった。
写真の一件が発覚して以来、適当な理由をつけて学校を休まされ、家に軟禁されているらしい。
「そいつ、モイチだっけ? かなりカッコよかったんじゃない?」
犬マンが勢いよくたたみかけるように話しかけた。
見るとソファに浅く腰かけ、身を乗り出してじっと美玖の目を見つめている。
彼が仕事モードに入った証拠だ。
普段は物静かで目立つ存在ではないのだが、一旦仕事モードに入るとしゃべりに物真似に歌、ダンスとエンターテイナーぶりを発揮し、とことん客を楽しませる。
プロ意識の高さという点では、店の男の子たちの中でもピカイチだ。
「そうでもないけど……」
横を向いたまま、それでも目の端で犬マンをちらちらと見ながら答える。
「だって、美玖ちゃんなら普段からナンパされまくりでしょ? よほど自信がなきゃ、声なんてかけられないよ」
ノリはあくまでも軽く、しかし確信に満ちた口調で言い、最後ににっこり笑った。
細めた目が垂れ、代わりに口角がきゅっと上がり、その両脇に小さなシワが一本ずつ寄る。
恐ろしく平和でのんきな、見る人を脱力させる笑顔、犬マンの秘密兵器≠セ。
美玖の表情も目に見えて和らいでいった。
「まあね。特に最近はモテちゃって、モイチに会う一週間くらい前にも同じクラブで声かけられたんだ。でもその男、ミュージシャンみたいなカッコしてるくせにダンスが異常に下手なの。もうリズム感ゼロって感じ? だからトイレ行くふりしてバックレちゃった」
美玖は自慢げにそう言うと、肩をすくめた。
昨今のティーンエイジャー独特の、発音が不明瞭でどこかだるそうなしゃべり方だ。
「何そいつ、ダッセー。バックレて当然だよなあ」
大袈裟に声をあげ調子を合わせた後で、犬マンが本題に入った。
「じゃあ、モイチはダンスが巧かったの?」
「フツー。でも、話は面白かった」
美玖が言った。
ハイビスカスの花のネイルアートが施された指先で、アイスコーヒーのストローを弄《もてあそ》んでいる。
「テレビとか洋服とか大したことは話してないんだけど、いちいちオチがあるっていうの? 聞いてて退屈しなかったな」
「つまらない話を面白く語るのがプロ」、私は優夜さんがindigoのホストたちに与えたという金言の一つを思い出していた。
「モイチのこと、結構気に入ったんだ」
犬マンの言葉に美玖が頷き、望月が眉をひそめた。
「だからエッチもしたし、絶対誰も見せないからって言葉を信じて写真も撮らせてあげたの。なのに親に渡して、その上お金までゆするなんて信じらんない、サイテー」
美玖は吐き捨てるように言い、顔を背けた。
しかし私には、初対面の本名も知らない男を「気に入ったから信じる」という思考回路の方が信じられない。
「美玖ちゃん、モイチにパパの仕事が何か話した?」
塩谷さんが聞くと、美玖は細い眉をつり上げ、呆れたように言い放った。
「ありえな〜い! そんなダサいことする訳ないじゃん」
「親のこと話すのってダサいの?」
私が素朴な疑問をぶつけると美玖は、
「当たり前じゃん。だれもそんな話しないよ。夜の街に出たら、親が何やってるかとか、学校がどことかそんなこと関係ないの。イケてるか、イケてないか、そんだけ。だから面白いんだよ」
と妙にムキになって答えた。
「ふうん」
一見即物的でクールと感じるが、日々の生活にそれだけ重圧感を感じているということだ。
昨今の若者もなかなか大変らしい。
「モイチが最初に声かけてきた時、何て言ったか覚えてる?」
煙草をくわえながら犬マンが言った。
質問の意図がわからず、私と塩谷さんは面食らったが美玖は、
「覚えてるよ」
と頷き、ついでにくすりと笑った。
「どうしたの?」
「その台詞がすっごく寒かったの。あんまり寒くて思わず笑っちゃったくらい」
「どんなの?」
「ナンパどうでしょう、いいの入ってますよ、だって」
そう言って美玖が笑い転げた。
確かに寒い。
しかし犬マンは顔色を変え、
「マジ? マジでモイチってやつ、そう言って声かけたの?」
と詰め寄った。
「そうだけど……」
あまりの迫力にうろたえながら美玖が答えた。
すると、犬マンが私を見て言った。
「俺、犯人わかりました。ていうか、知り合いです」
美玖たちと別れると、タクシーで渋谷センター街に直行した。
犬マンの希望だ。
車中で聞いた説明によると、犯人とおぼしき男の本名は大槻大和《おおつきやまと》、歳は二十三、センター街を根城にするナンパ師の一人で腕前は上の中クラス、らしい。
「腕のいいナンパ師には、それぞれオリジナルの声かけフレーズがあるんですよ。ナンパどうでしょうっていうのは、大和のお得意のフレーズです」
「声かけフレーズねえ」
どうも信じられずに私がつぶやくと、犬マンは、
「まあ見ててくださいよ」
と言って笑った。
渋谷センター街は、駅前のスクランブル交差点から東急百貨店本店に至るまでの長い通りで、両側にはファーストフードショップや居酒屋、ゲームセンター、携帯電話の販売店などがぎっしり雑然と建ち並んでいる。
おしゃれとかスタイリッシュという言葉にはほど遠い雰囲気だが、「若者の街・渋谷」を代表する通りということになっているらしく、テレビの街頭インタビューなどにも度々登場する。
当然人通りも曜日や時間を問わず多く、特に夕方の混雑はすごい。
今日も三人が並んで歩くのは不可能なほどの人出だった。
すれ違う人々を眺めると、ほとんどが十代、二十代の若者だ。
特に目立つのが制服姿の高校生で肩に似たようなデザインのナイロンのスクールバッグをかけ、ほぼ全員がポケットやファスナーの隙間から飲みかけのペットボトルを覗かせている。
女の子は揃って膝上どころかもも上丈の超ミニスカート、隆盛を極めたルーズソックスは減り、濃紺のシンプルなハイソックスをはいている子が多い。
彼女たちの流れを堰《せ》き止めるように通りのまんなかに立つのが、ビラやティッシュ配りの若者たち、そしてその遙か後方、通りの両端が定位置なのが、ダークスーツに手入れの悪い茶髪のロン毛、黒い肌の男たちだ。
揃って手ぶら、力の抜けただらしない格好で突っ立っているくせに、視線だけは鋭く行き交う女の子たちを見つめ、時折追いかけていっては胡散臭い笑顔で声をかける。
「あれがナンパ師なの?」
男たちを眺めながら尋ねると、犬マンが首を横に振った。
「あれはキャッチセールス。ああやって声をかけて、近くの事務所に連れ込んで化粧品とか美顔器みたいなのを売りつけるんです。通りの入り口周辺は、むかしからキャッチセールスとかキャバクラのスカウトマンのシマで、ナンパはできないんです」
「そんなシマ分けがあるの?」
驚いて聞くと、
「主だった通りには全部ありますよ。例えば公園通りだと丸井の前の交差点、あのあたりもキャッチセールスのシマ。ナンパなんかしたら確実にボコられますね」
と、教えてくれた。
渋谷の街は何百回と歩いているが、そんな色分けがされているとは全く知らなかった。
通りを五十メートルほど進むと、犬マンが足を止めた。
「このへんからナンパ師のシマです。もう何人か来てますけど、大和はいないみたいですね」
言われて塩谷さんと二人で通りを見回したが、人が多すぎてよくわからない。
すると、一人の男の子が道路の端をこちらに向かって歩いてきた。
歳は犬マンよりやや上、小太りで顎ヒゲを生やしている。
テーラードのコットンジャケットにプレスされたBDシャツ、しかしボトムスはグレイのスウェットパンツという、やる気があるのかないのかよくわからないコーディネートだった。
男の子は私たちの目の前で、デニムのミニスカートをはいた女の子に話しかけた。
「すみません、ナンパなんですけど」
からりと明るい、酒屋の御用聞きのような口調だった。
表情はとぼけた笑顔、魅力はないが、代わりにキャッチセールスの男たちのようなギラついた野心も感じられない。
女の子は顔を上げると驚いたように足を止め、
「そうですか」
と答えた。
確かに他に答えようがない。
すかさず男が続ける。
「これから買い物? 何買うの?」
「え、服とか」
戸惑いながらもちゃんと答える。
長い髪を頭のてっぺんでルーズに結っている。
目の下がぷっくりと膨らんだ愛らしい顔立ちだが、視線の終点が今ひとつ定まっていない。
「一緒に選ばせてよ」
男が誘うと首を横に振り、舌っ足らずな声で、
「え〜恥ずかしいし。だめ」
と拒絶した。
「じゃあ終わったらカラオケ行かない? 気が向いたらでいいからさ。とりあえず携帯電話番号を教えてよ。メルアドでもいいよ」
軽いノリのたたみかけるような早口、犬マンが美玖と話していた時と同じだ。
女の子はほんの一瞬考えるような顔をした後、
「気が向いたらだよ?」
と念押ししながら自分のメールアドレスを告げ、歩み去った。
「きっかり四十秒」
塩谷さんが言った。
見ると腕時計を覗いている。声かけから連絡先を聞き出すまでのタイムを測定していたらしい。
声をかける方はもちろんだが、かけられる方も慣れたものだ。
簡単にアドレスを教えるのには驚いたが、いつでも着信拒否できるという安心感があるのだろう。
「|K《ケー》スケ君」
私が感心していると、犬マンがスウェットパンツの男の子に声をかけた。
すると彼は、
「大《マサル》さんじゃないすか」
と驚いたように声をあげた。
マサルは犬マンの本名だ。
「久しぶり。見てたよ。腕上げたじゃん」
犬マンが笑顔で言うと、Kスケと呼ばれた男の子は背筋を伸ばし、
「ありがとうございます」
と言って頭を下げた。
「悪いんだけど、みんなを集めてもらえるかな? 聞きたいことがあるんだ。あ、この人たちは俺の今のボス。晶さん、こいつKスケ。俺のむかしのナンパ仲間」
思い出したように振り返り、犬マンが紹介した。
Kスケは私たちに、
「Kスケです。現役時代のマサルさんには、いろいろ教えていただきました」
と言ってまた頭を下げ、どこかに走り去った。
「ナンパ仲間ってなに?」
私の質問に、犬マンはこう答えた。
「毎日同じ場所に同じ目的で立ってる訳だから、いやでも顔見知りになるんですよ。初めは挨拶ていどだけど、そのうち情報交換したり、飲みにいったりして仲間がどんどん増えていくんです。初心者にコツを教えたり、仲間同士で協力し合ってナンパすることもありますよ」
「女の子の取り合いとかならないのか?」
塩谷さんが尋ねた。
「それも込みで楽しいんですよ。女の子がどっちを選ぶか賭けたり、声かけた子の数や、聞き出した携帯番号の数を競ったりして。飲み会の場所に、ナンパした女の子を見せびらかしにくるやつまでいますよ」
そう言って犬マンが笑った。
世の中には、こちらが思いも寄らないものをツールに親睦を深める人たちがいるらしい。
間もなく、Kスケが男の子を数名連れて戻ってきた。
犬マンは一人一人と腕を高く上げ手のひらを叩き合うという、見ている側はどうにも恥ずかしい挨拶を交わした。
平均年齢二十三、四歳といったところだが、中には十代とどう見ても三十すぎの人もいる。
ファッションもバラバラでジーンズにスニーカーはもちろん、上下白ジャージのヤンキー系、茶髪のロン毛にダークスーツのそのまんまホストの子もいた。
その統一感のない男の子たちが犬マンを囲み、夕暮れの道端で和やかに談笑している。
不思議な光景だった。
「ちょっと大和に用があって来たんだけど、誰か見なかった?」
犬マンが言うと、男の子たちが意味ありげに目配せし合った。
「どうかしたのか?」
犬マンが聞くと、太いジーンズをはきベースボールキャップを斜に被ったBボーイファッションの子が答えた。
「あいつ何かやらかしたんすか?」
「どういう意味?」
「ここ一週間くらい顔見せないと思ってたら、あいつのことを捜し回ってる連中が現れたんです。居場所とか何か聞いてないかとか、渋谷じゅうのナンパ師に片っ端から聞いてますよ」
「どんな連中?」
「若いのが一人とオヤジが二人。見ためはスーツ着た普通のサラリーマンなんだけど、妙に目つきが鋭いし、しつこく聞き回ってるみたいなんで気になってたんです」
思わず私は塩谷さんと顔を見合わせた。
何者だろう。
すると、犬マンが質問を変えた。
「じゃあ、大和がストナンやめてクラナンに宗旨《しゅうし》変えしたって話は聞いてない?」
「いや、そんな話聞いてないですよ」
Kスケが答え、犬マンはさらに質問を続けた。
「それじゃ誰があいつから|NP《エヌピー》した子の話聞いてないかな。二週間くらい前に即撃ちした子で、スト10レベルなんだけど」
今度はホストもどきの男が答える。
「聞いてないな。大和のことだから。そんな子撃ったらすぐに自慢するはずですけどね。何しろスト6以下は声かけに成功しても、即放流っていうのが口癖だから。俺なんかスト2レベルでも大喜びなのに」
みんなが一斉に笑い、私と塩谷さんはそれを唖然と眺めていた。
もちろん、交わされた会話の意味がほとんど理解できなかった。
ナンパ師たちと別れ、再びタクシーに乗った。
今度の行き先は幡ヶ谷だ。
ナンパ師の一人が、大和の自宅住所を知っていた。
行く道々で、先ほどの意味不明の言語を解説してもらった。
ナンパ師同士が使う隠語のようなもので、ストナンはストリートナンパを指すそうだ。
さらにNPはナンパのことで、即撃ちは相手と会ったその日のうちにセックスすること、放流は声をかけたものの趣味じゃなかったり、反応が悪い場合にその場から立ち去ること、らしい。
そして面白かったのが「スト○」という表現で、早い話がナンパした女の子の点数だ。
スト1が最低ランク、最高ランクのスト10は「一年に一人出会えるかどうかのかわいい子」を指すそうだ。
ストはストナンの略なので、これがクラナンの場合、表現はクラ1、クラ2と変化する。
この他にもカンシカは声かけした女の子に完全に無視されること、TMGはTEL・MAIL・GETの略で電話番号とメールアドレスを聞き出すこと等々全部で百近い隠語があるそうで、塩谷さんと二人、ただただ感心して聞いていた。
独自の言語まで持っているとは、すでに一つの文化と言えるかもしれない。
「大和のことを捜し回ってる連中って何者だろう。写真の一件と関係あるのかしら」
車が山手通りから甲州街道に入った頃、私が言った。
すると塩谷さんが、
「タイミングから考えてそうだろうな。後は、大和がどうやって美玖の素性を知ったのかも気になる。やつが政治家の家族に詳しいとは思えないしな。お前はどう思う?」
と尋ね、犬マンを見た。
彼は静かに答えた。
「俺が引っかかってるのは、もっと基本的な問題です」
「どういう意味?」
「大和が美玖をナンパした場所がセンター街じゃなく、クラブだったってことですよ」
「そういえばさっき、大和がクラナンに宗旨変えとか聞いてたな。そのことか?」
渋谷さんが聞き、犬マンが頷いた。
窓ガラス越しにじっと街を眺めている。
「ナンパ師はストナン派とクラナン派に分かれてて、声のかけ方も話を進めるプロセスもまるっきり違います。根っからのストナン派の大和が、突然クラナンするなんて変ですよ」
すっかり日が暮れ、街道沿いに商店の明かりが歩道を行き交う人のシルエットを浮かびあがらせていた。
「でも美玖をナンパしたのは大和で間違いないんでしょ?」
私が身を乗り出して尋ねると、犬マンは低い声で、しかしきっぱりと答えた。
「ええ。だから理由があるんでしょう。ストナン派の大和がクラナンをした理由が。俺には、それがすごく大事なことに思えるんです」
大和のアパートは、六号通り商店街からほど近い場所にあった。
鉄筋二階建ての小さな建物で、蛍光灯の明かりに照らされた狭い廊下に沿って、えんじ色の扉が等間隔に並んでいる。
大和の部屋は二階のまんなかだった。
「大和って何やってる人?」
コンクリートの階段を登りながら私が尋ね、犬マンが答えた。
「フリーターって聞いてますよ。どのバイトもあんまり長続きしないみたいだけど」
部屋の前まで行くと、チャイムのボタンを押した。
返事はなく、ドアの上の明かり採りを見上げると、室内は真っ暗だ。
犬マンがドアノブをつかんで回すと、かちりと硬い音がしてドアがわずかに開いた。
思わず三人で顔を見合わせた後、恐る恐るドアを開け、玄関に入った。
手探りでスイッチを押すと蛍光灯の明かりが点り、六畳ワンルームの全容が目の前に広がった。
「ヤバい」
犬マンがつぶやくのが聞こえた。
部屋の中はめちゃくちゃに荒らされていた。
衣類、CD、雑誌、ゲームソフト、食器、食料……フローリングの床に、押し入れや本棚、タンス、冷蔵庫に収納された品々が全て引っ張り出され、ぶちまけられ、その上無惨に破壊されている。
さらに壁際に置かれたシングルサイズのソファベッドも表面をナイフのようなもので切り裂かれ、あちこちから白いウレタン材が飛び出している。
クッションや枕、布団、ダウンジャケットなどの衣類も同様に切り刻まれ、パンヤや羽毛が室内を雪のように舞っていた。
「壮観だな」
犬マンに続き、室内に入りながら塩谷さんが言った。
二人とも土足のままだ。
「何よこれ。泥棒?」
しばしば迷った挙げ句、私も土足のままだ。
「だとしたら物の価値がわからないやつだな」
私の足元を凝視しながら、塩谷さんが言った。
みると、GAPのトレーナーとカップ焼きそばの間に、オメガのスピードマスターが転がっていた。
その横の、毛玉だらけのセーターの上には、クロムハーツのゴールドリングとブルガリのバングルもあった。
すべてピカピカの新品、最近入手したばかりのものらしい。
床を埋めつくすカジュアルかつリーズナブルな品々の中で、その三アイテムだけが明らかに浮いていた。
ふいに犬マンが床の上に座り込み、顔をしかめて言った。
「なんか訳わかんねえけど、めちゃめちゃいやな予感がする。この事件、絶対ヤバいですよ」
私も、恐らく塩谷さんも全く同じ気持ちだった。
オーナールームに着くと優夜さんとなぎさママが待っていた。
「じゃあ何、あたしたち以外にも、美玖ちゃんの写真を捜してるやつらがいるってこと!?」
代々木上原、センター街、幡ヶ谷の経過を報告すると、なぎさママが言った。
応接ソファのまんなかに腰かけ、優夜さんにサーブさせながらワインを飲んでいる。
「多分よ、多分。塩谷さんの推理ではそうなるらしいの」
私がフォローを入れた。
ママが血走った目を向けると、塩谷さんがこう説明した。
「部屋の荒らされ方から見て、犯人が捜してたのはメモリーカードである可能性が高い。渋谷で大和のことを聞き回ってるのも、恐らく同じ連中だろうな」
オーナーデスクの椅子に座り、足を机上に投げ出すといういつものスタイルでくつろいでいる。
デジタルカメラのメモリーカードにはいくつかの種類があるが、どれでも切手ほどの大きさで、厚さも三ミリ前後しかない。
「だとしたら、そいつらにメモリーカードを盗られちゃったかも知れないじゃない。やめてよ、冗談じゃないわよ」
ママは眉をつり上げると、腰を浮かせた。
「大丈夫です」
クールに答えたのは犬マンだ。
「さっき電話でKスケ君に確認したら、相変わらず大和のことを聞き回ってる連中が街をうろついているそうです。大和のメモリーカードもまだ見つかってないって証拠でしょ?」
ママは大きくため息をつくと、ソファに座り直した。
「話を整理しましょ。つまり、謎は二つってことよね。一つめは、ストナン派の大和がどうして美玖ちゃんをクラナンしたのか。二つめはスーツ姿の男たちの正体。何者で、大和と写真を捜している目的は何か」
「もう一つ追加して」
私が言うと、みんながこちらを見た。
「そもそもその連中は、どこで美玖ちゃんの写真の存在を知ったのかってこと。おかしいわよね? 写真の件は小金澤さんとご家族、秘書の望月さん、ここにいるみんな、後は大和しか知らないはずだもの」
「確かにそうですね」
優夜さんが頷いた。
すると、塩谷さんが話をまとめた。
「決まりだな。謎は全部で三つ。それを解いていけば写真も大和も男たちの正体も見えてくるってことだ」
「Kスケ君たちにも協力してもらいますよ。あいつらは信用できますから」
「とにかく頼むわ。小金澤さんにはあたしから報告しておくから」
そう言って、ドアに向かって歩き始めた。
その背中に塩谷さんが声をかける。
「ところでママ」
「なによ」
振り返って答えた。
「小金澤区長とは部活の先輩後輩って言ってたけど、何部だったんですか?」
塩谷さんの質問に私も乗った。
「それ、私も聞こうと思ってたの。確か副将がどうとか言ってたけど、どういう意味?」
するとママは急に頬をゆるめてにっこりと笑い、
「知りたい?」
と思わせぶりに言った。
二人で激しく頷くと笑顔のまま、
「じゃあとっとと写真を見つけなさい。そうしたら教えてあげる」
と言い、八センチヒールの音を響かせながらオーナールームを出ていった。
Johnnyの「ジェームス・ディーンのように」の着メロで目が覚めた。
時計を見ると午後一時すぎ、あれから簡単な打ち合わせをして家に帰り、その後十時間近く寝ていたことになる。
寝ぼけながら手探りで枕の下の携帯電話を引っ張り出した。
「もしもし」
「犬マンです。今いいですか?」
「おはよう。どうしたの? 何かあった?」
私が聞くと犬マンは、
「井の頭通りのプロントにいるんですけど、ちょっと出てきてもらえませんか?」
と、有名ファーストフードショップの名を口にした。
声は落ち着いていたが、何かを話したくて、聞いてもらいたくて仕方がないという気配が伝わってくる。
「わかった。四十分で行く。待ってて」
すばやく答えて電話を切り、起き上がった。
井の頭通りは渋谷センター街と並行して走る通りで、建ち並ぶ店も人通りも道幅も似たような感じだがセールスマンやナンパ師の類はほとんどいない。
なぜかといえば、車の通りが激しい上に歩道がとても狭いからだ。
少しでも気を抜いて歩いていると、あっという間に車道にはじき出され、急停止した車にクラクションを浴びせられることになる。
プロントは通りに入ってすぐ、映画館の隣にあった。
レジカウンターで買ったコーヒーを持ってフロアに進むと、喫煙席に犬マンが立ち上がって手を上げた。
同じテーブルにKスケもいる。
私が席に着くと丸い目を輝かせ、犬マンが言った。
「さっそくKスケ君たちが動いて、渋谷じゅうのナンパ師から大和について話を聞いてくれました。そしたら、意外なことがわかったんですよ」
「意外なことって?」
私の問いにはKスケが答えた。
興奮した様子で鼻の穴を広げている。
「大和のやつ、ナンパした女の子をハメ撮りして、写真を投稿写真雑誌に売ってたんです」
「投稿写真雑誌?」
すると犬マンが話を引き継ぎ、
「素人が投稿したハメ撮り写真ばっかりを載せた雑誌のことです。晶さんを待つ間に何冊か買っておきました」
と言うが早いか、テーブルの上にどさりと雑誌を載せた。
判型はどれもB5判で百六十ページほど、表紙では『絶頂投稿』『愛写倶楽部』『ぴーち★スタジオ』等々のタイトルのもと、いまいちあか抜けないルックスの女の子が、ビキニかセーラー服姿で微笑んでいる。
一冊を手に取りページを開いたものの、すぐに閉じて左右を見回し、テーブルの下に隠して改めて読み始めた。
隣のテーブルでは昼休み中の若いOL四人組が、クロワッサンサンドを食べながら和やかに談笑している。
各ページに、三センチから十センチ四方くらいのカラー写真が十枚ほど並んでいる。
被写体はもちろん女の子、年齢は十代後半からどう若く見ても四十代後半と幅広いが、全員全裸。
カメラの正面に腰をおろして両膝を立て、大きく股を開くポーズと、壁やベッドに手をついて尻を突き出すというバックポーズが圧倒的に多い。
ペニスをくわえているところや、挿入シーンを撮影したものもあった。
加えて、射精した精液が女の子の顔面にかかっているものや、トイレや風呂場での放尿シーンまである。
ヘアや乳首はもろ出し、両目と股間には黒い線かモザイクが入っているもののごく薄く、性器のシルエットや色がわかるものも多い。
場所のほとんどはラブホテルだが、車の中や屋外で撮影している強者《つわもの》もいた。
区長の家のポストに放り込まれた美玖の写真も、恐らくこの手のものだろう。
区長が脳卒中や心筋梗塞の発作を起こさなかったのは、不幸中の幸いだ。
さらに写真横の表には投稿者とモデルのペンネームと年齢、撮影場所、デジカメ・フィルムカメラなど撮影機材の種類が記載され、その下に投稿者、編集部の順でコメントが添えられている。
例えばこんな感じだ。
「いつも掲載していただき、ありがとうございます。恋人のレイカと温泉に一泊旅行に行った時の写真です。ナース服でのコスプレ、バイブ責め、穴あきパンティでのファックを楽しみました。次回はいよいよアナルに挑戦しようと思います。いい写真が撮れたら送りますので、よろしくお願いします」「編集部:小ぶりながらもハリ抜群のメロン・オッパイが最高。クリ責めで喘ぎまくる表情も秀逸です。次回挑戦のアナルファックにも期待度絶大級!!」
どれも文章が妙に丁寧なのが笑えるが、それだけに投稿者のほとんどはごく普通に社会生活を営むまっとうな人たち、というのが伝わってくる。
出版の世界で仕事を始めて十年ちょっと経つが、こういう雑誌の存在は全く知らなかった。
「肛門にはモザイクをかけないのね。猥褻《わいせつ》物には当たらないってこと?」
よく日に焼けた尻をモデル自ら両手でつかんで左右に引っ張り、剥き出しになったアナルを正面から撮影した一枚を眺めながら言うと、犬マンが、
「晶さんらしい感想っすね」
と言って苦笑した。
Kスケが説明を続ける。
「雑誌に投稿した写真が掲載されると、一枚当たり五千円くらいの謝礼が出てるんですよ。大和はそれめあてでナンパした子の写真を片っ端から撮っては、直接編集部に持ち込んでたらしいです」
「相手の女の子たちは、みんな雑誌に載るのを承知してたのかしら」
雑誌の巻末ページを開きながら私が言った。
トラブルを避けるためだろう、どの雑誌にも掲載同意書を添付し、モデルになった女の子にサイン・捺印をさせた上で写真と一緒に送るように義務づけている。
「だと思いますよ。あいつ口が上手いから、女の子乗せるのも得意だし。無断で載せて問題になりそうになっても、金とかプレゼントとか渡してごまかしてたんじゃないですかね」
眉をひそめ、憎々しげにKスケが言った。
「大和がどの雑誌に写真を売ってたかわかってるの?」
「たぶんこれだと思います。ナンパ師の一人に、記事を見せて自慢してたそうです」
犬マンが雑誌の中の一冊、『ミルキィ写真館』とつかんでこちらに差し出した。
受け取って裏返すと、発行元は東亜図書出版、名前だけは堅苦しいが聞き覚えのない会社だ。
住所は品川区西五反田となっている。
私が言った。
「ミルキィ写真館の編集部に行ってみるわ。手がかりが得られそうな気がするの」
「大丈夫ですか? こういう雑誌ってガードが堅くて、よほどのことがないと投稿者やモデルについて教えてくれないらしいですよ」
犬マンの質問に私は、
「まあ任しておいて」
と答え、携帯電話を取り出すと編集部の電話番号をプッシュし始めた。
東亜図書出版は五反田駅からほど近い、第二京浜と山手通りの交差点の裏手にあった。
古く小さいながらも鉄筋四階建て、しかも自社ビルだ。
エレベーターの中で各フロアの案内板を見ると、ミルキィ写真館の他にアダルトビデオの情報誌、AV女優の写真集、十代の女の子向けの美少年同性恋愛小説、いわゆるやおい¥ャ説の文庫シリーズも出している。
二階で降りると、狭い廊下を挟んですぐ正面にドアがあった。
低い天井に蛍光灯の明かりが煌々《こうこう》と点る広い部屋で、壁際は全て本と書類が詰まった棚とコピー機でふさがれ、フロア中央に向かい合わせに置かれたスチールデスクの列が二つ並んでいる。
客にいる編集者たちは二十代後半から四十代前半、数名だが女性もいる。
BDシャツかポロシャツにチノパン、女性はパンツスタイルで長い髪をヘアクリップがバレッタでまとめている人が多い。
それぞれのデスクの上にはデスクトップパソコンとキーボード、電話機が置かれ、その間に文房具類が散乱している。
さらにデスクの両端には雑誌や書類の束が危うい均衡を保ちながら積み上げられている。
ライターの仕事で何十回と目にした光景だ。
健康実用書でも投稿写真雑誌でも、出版社の編集現場はどこも似たような雰囲気になるようだ。
手前の列が『ミルキィ写真館』の編集部らしく、天井から先ほど渋谷で見たばかりの表紙が印刷されたポスターが垂れ下がっていた。
手前の席にいた女の子に声をかけると、すぐに奥のデスクから男性が出てきた。
私とほぼ同世代、ストレートの茶髪をまんなかで分けてサイドに流す吉田栄作ヘアで、左手の薬指には真新しいプラチナの指輪が光っている。
男は私を入口近くの打ち合わせスペースに案内した。
「雑誌の内容をご存じの上で、こちらにおいでになったんですよね?」
向かい合って座ると男はそう言い、怪訝そうな顔で私の全身に視線を走らせた。
交換した名刺によると、男の名は久保田《くぼた》、『ミルキィ写真館』の副編集長らしい。
「もちろんです」
私はそう言って力強く頷いた。
「高原さんは、これまでどんなお仕事をされてきたんですか?」
お約束の質問を投げかけられたので、バッグから分厚いファイルを出して渡した。
中にはこれまで私は書いた雑誌や企業のPR誌などの記事をスクラップしたものが納められている。
いわば履歴書代わりで、売り込みに欠かせない道具だ。
さらに、「ここ数年は、健康実用書の原稿を書いています。これは、最近刊行されたものです」とつけ加え、『前立腺の病気がわかる本』と『痛風を治す本』をテーブルに載せた。
すると久保田はますます訳がわからないという顔になり、本を手に取って眺めている。
私はライターの売り込みという名目でここにやってきている。
フリーのライターやカメラマンが、自分で編集部にアポイントを取って営業に行くのは珍しいことではない。
編集部の方でも常に新しい人材を求めているので、よほどの事情がない限りは会ってもらえる。
ただし健康実用書のライター、しかも女性がいきなり投稿写真雑誌の仕事をしたいという設定には、少々無理があったかもしれない。
久保田は本を私の前に押し戻しながら言った。
「うちの雑誌は記事に独特のノリがあるので、それが感覚に合わないと仕事をするのはきついと思うんですよ。あとは……」
言葉を切ると、遠慮がちにこう続けた。
「読者の平均年齢が二十代後半から三十代前半なんです。なので、ライターさんもそのあたりの方をメインにお願いしてるんですよね」
早い話が「うちの仕事をするには、あんたは歳を取りすぎてる」ということだ。
こういう理由で仕事を断られるのも珍しい話ではない。
言葉は、残酷なほど書き手のセンスや感覚の新旧を映す。
歳を取ると必ずしも言葉の感覚が古くなると言う訳ではないが、選べる立場なら、より読者に近い人間に記事を書いてもらいたいと思うのは当然のことだ。
私はがっかりという表情を作り、うなだれた後でこう言った。
「そうですか。残念です。せっかく大和君が薦《すす》めてくれたんだけど……」
「大和君? 大槻大和君のことですか?」
久保田が驚いたように言った。
「ええ。ご存じですか?」
「もちろん。うちの編集部の有名人ですよ。高原さんとはどういうご関係なんですか?」
私が答えた。
解釈の問題で嘘はついていない。
久保田は急に砕けた口調になって言った。
「なんだ、そうなんですか。大和君はモイチ≠チてペンネームで、むかしから毎号のように写真を投稿してくれてたんですよ。でも女の子のレベルがずば抜けて高いし、写真も巧いので、編集者が直接対応するようになったんです」
話がいい流れになってきた。
私はさりげなく本題を切り出した。
「最近はいつ頃来ましたか?」
「あれはいつだったかな。おい、坂巻君《さかまき》」
久保田が振り返って叫ぶと、鼻ピアスをして二の腕に梵字《ぼんじ》のタトゥーと入れた男の子が顔を出した。
彼が大和の担当らしい。
「この前大和君が来たのって、あれ、いつだった?」
坂巻という男は、壁に貼られた印刷会社のカレンダーを見ながら答えた。
「先週の水曜日ですね。会議があった日だから」
私は簡単に自己紹介すると、坂巻に冗談めかしてカマをかけた。
「大和君って、最近感じが変わったと思いません?」
すると、坂巻の顔色が変わった。
「どうしてそう思うんですか?」
警戒と不安の入り混じった目で、私を見つめる。
間違いない。
何かを知っている。
「特に理由はないんですけど。変なことを言ってごめんなさい。きっと私の気のせいです」
とぼけて話を切り上げようとすると、慌てて坂巻が乗ってきた。
「いえ、僕もそう思います。彼、変わりましたよね」
「どのへんが?」
「先週ここに来た時、ブランドものの時計とかアクセサリーをたくさん身につけてたんですよ。その前に会った時には、バイトをクビになって金がないってぼやいてたのに。訳を聞いたら、ちょろい仕事で小金が入るあてができたから、カードで買ったって言ってました」
ゆうべアパートで見たブランドグッズのことだ。
落ち着け、私は自分にそう言い聞かせながら質問を続けた。
「ちょろい仕事って何ですか?」
「さあ。それより、その後が変なんですよ。いつもみたいにデジカメで撮った写真を自分でプリントアウトしたものを五、六人分持ってきてたんですけど、僕がチェックしてたら突然一人の子の写真だけ返せって言い出したんです」
私は慌ててバッグから美玖の写真を取り出した。
「それは、ひょっとしてこの子ですか?」
すると坂巻は、目を見開いて言った。
「ええ、そうです。この子です。間違いありません。でも、何であなたが写真を持っているんですか?」
「知り合いの知り合いなんです」
これも嘘ではない。
私はさらにたたみかけるように質問を続けた。
「他に何か言ってませんでしたか?」
坂巻が答えた。
「顔もボディも文句なしに奇麗な子だったから惜しくてずいぶん引き留めたんだけど、大和君はがんとして聞き入れませんでした。で、最後には謝礼の額を上げるって言っても、そんなはした金じゃ売れない、この子にはフェラーリー一台分の価値がある、って言い残して出ていっちゃったんです」
「……」
「ちょろい仕事で小金が入る」が、ほんの数分後に「フェラーリー一台分の価値」……。
頭の中で、おぼろげな輪郭しか見えなかったが何かがはっきりと一つに像を結び、姿を現そうとしていた。
「写真をチェックしている間、大和君はどこにいたんですか?」
すると坂巻は、私を指して言った。
「そこです。今あなたが座っている席にいました」
改めて周囲を見回すと、テーブルの横に箱形の小さなマガジンラックが置かれているのに気づいた。
中を覗くと、表紙のめくれ上がった雑誌が数冊突っ込んである。
「この雑誌、大和君が来た時と同じ状態ですか?」
今度は久保田に向かって尋ねた。
「ええ、多分」
「見せてもらってもいいですか?」
私の勢いに押され、久保田が頷いた。
「でも、どうして……」
「ありがとうございます」
強引に会話を打ち切り、腕を伸ばすとラックの中の雑誌を全てテーブルの上に載せた。
他者の投稿写真誌と成人コミック雑誌、エンターテイメント情報誌、おじさん向けの週刊誌がそれぞれ数冊ずつあった。
「見つけた」
雑誌をチェックし始めて約三十分、私はそうつぶやいてガッツポーズを決めた。
久保田と坂巻は自分のデスクに戻り、気味の悪そうな顔でちらちらと見ている。
開いているのは、おじさん向けの週刊誌の先週号。
その中ほどに「家族の肖像」という連載ページがある。
ポートレート写真で有名なカメラマンが独自の感性で選んだ各界著名人の家族写真を撮影するというものだ。
そして先週号で被写体となったのは「渋谷区長・小金澤龍彦氏と綾子夫人、一人娘の美玖さん」。
中央に置かれた椅子に丸首のスーツを着た品の良さそうな中年女性が腰かけ、その背後に背広姿の区長とブレザーの制服を着た美玖が立っている。
区長は相変わらず堂々としたダンディぶりだが、美玖は露骨に不機嫌そうだった。
かろうじて口元に笑みは浮かべているものの、抜きすぎた眉毛の下の目は「親が何やってるかとか、全然関係ないよ」とでも言いたげにレンズを睨んでいる。
大和は何も知らずに美玖をナンパして、いつものようにハメ撮りし、編集部に持ち込んだのだろう。
しかし、写真をチェックしてもらっている間に偶然この雑誌を目にし、美玖の商品価値≠ノ気づいたのだ。
そして瞬時にそれを金に換える計画を思いつき、写真を取り返して飛び出していった、とうのが私の推測。
「ひょっとして、大和君は何かの事件に巻き込まれているんですか?」
私が帰り支度をしていると、坂巻がおずおずと話しかけてきた。
「どうしてそう思うんですか?」
「大和君が来た、二、三日後なんですけど、僕が夜中に一人で残業してたら、彼のことを聞きにきた人がいるんです」
声のトーンを落としてそう言った。
「どんな人ですか?」
「男性が三人です。一人は若くて、二人は中年。大和君の行きそうな場所はどこかとか、友達を知らないかとしつこく聞いていました」
「その人たち、ひょっとしてスーツを着て、ちょっと目つきが鋭かったりします?」
私が言うと、坂巻は勢いよく頷いた。
「はい。その通りです」
やっぱり。
私は心の中でつぶやいた。
渋谷で大和を捜し回り、部屋を荒らした連中が、ここも現れていたのだ。
「大和君が持ち込んだ写真のことも聞かれたんで、一人の写真だけ取り返して出ていった話をしました。そうしたら、その人たちも血相変えて飛び出していっちゃったんです。だから僕、心配で……」
坂巻は細い眉を寄せ、目を潤ませた。
ナリは派手だが、表情にはまだ幼さが残っている。
「他には何か言ってませんでしたか?」
「帰り際に、大和君から連絡があったら必ず知らせるようにって、名刺を置いていきました」
「見せてください」
半分命令口調で言うと、慌ててジーンズのポケットから黒い革にシルバーのスタッドが打たれた名刺入れを取り出し、一枚を抜いてこちらに差し出した。
淡いグレイの横型の名刺で、左半分に英語の社名ロゴマーク、右半分に小さな文字で『(株)帝都興業プロジェクト準備室室長 有賀悟郎《ありがごろう》』と印刷されていた。
住所は渋谷区渋谷1丁目となっている。
「帝都興業? 何をしてる会社ですか?」
私が聞くと坂巻は首を傾げ、
「さあ。でも、何かすごく怖そうな名前ですよね」
と言ってすがるような目でこちらを見た。
「……」
美玖の写真を捜し、大和を追っているのは帝都興業という会社の人間だった。
しかし、肝心なことが見えてこない。
帝都興業の正体が何で、なぜ大和を追うのか?
さらに大和が美玖の写真を撮ったことと、投稿写真雑誌に持ち込んでいたことをどうやって知ったのか?
東亜図書出版のビルを出ると、すぐに携帯電話でみんなをindigoのオーナールームに集めた。
「帝都興業ですって!?」
入手した情報を報告すると、なぎさママがすっとんきょうな声をあげた。
「知ってるの? どんな会社?」
私が驚くと、こう説明してくれた。
「カラオケボックスを経営してる会社よ。センター街とか歌舞伎町に店を出してる。でも、カラオケっていうのは名前だけで、薄暗い照明で床にはでかいマットレス、みたいなラブホテルまがいの部屋ばっかりなのよ。ホテルに行くより安いから盛りのついたガキどもにはウケてるみたいだけど、売春とか麻薬の売買なんかに利用する連中もいて、問題になってるらしいわよ」
「そういえば、そんな話聞いたことあるな」
塩谷さんが言った。
オーナーデスクに座り、足を机上に投げ出すといういつものスタイルだ。
私とママ、犬マンはソファに座り、優夜さんはその傍らに背筋を伸ばして立っている。
「でも、どうしてカラオケボックスの会社の社員が美玖ちゃんの写真を捜すの? 写真を手に入れてどうするつもりなのかしら」
私が質問を投げかけると塩谷さんは、
「知らん」
と答えてそっぽを向き、ママと犬マンも首を傾げた。
優夜さんは厳しい顔で何か考え込んでいる。
すると突然、オーナールームのドアが開いた。
「マサルさん、どデカいネタつかみました!」
Kスケだった。
無精ヒゲの生えた頬を紅潮させ。鼻の頭には汗が浮かんでいる。
背後には、背の高い痩せた男の子を連れていた。
「ちゃんと聞くから、落ち着いて話せ」
勢いよく部屋に駆け込んできたものの、興奮のあまり言葉が出てこないKスケを、犬マンが静かに諭した。
Kスケは頷くと、大きく深呼吸してから話し出した。
「大和が美玖ちゃんをNPする一週間くらい前に、ハヂメちゃん、あ、こいつのことなんすけど」
と言って親指で男の子を指した。
すると彼は、
「ハヂメです。公園通りでナンパ師やってます。マサルさん、お久しぶりっす」
と言って頭を下げた。
茶髪の毛先を逆立て、黒い革ジャンにスリムのブラックジーンズ、足元は今時珍しい白黒コンビのラバーソールだ。
Kスケが話を続けた。
「ハヂメちゃんが公園通りで声をかけられて、『バイトしないか。こっちが指定した女をクラブでナンパして、ハメ撮りした写真を雑誌に売り込むだけで百万円やる』って持ちかけられたそうなんです」
「まさかその女って……」
私が言いかけると、Kスケが後を継いだ。
「美玖ちゃんです。ハヂメちゃんに写真を見せて確認したから、間違いないです」
「あんた、まさかその話に乗ったんじゃないでしょうね?」
ママはドスを利かせまくった声で言うと、ハヂメを睨みつけた。
恐れをなしたハヂメは、慌ててKスケの背後に隠れた。
「すみません! 一度は乗って、クラブで美玖って子に声かけました。でも俺、クラナンするの初めてでノリがつかめなくて、一緒に躍ってる途中で『トイレに行く』って逃げられちゃったんです。だからハメ撮りどころか手も握ってません。マジです!」
早口で、必死にそう弁明した。
「ひょっとして美玖ちゃんが、『ミュージシャンみたいなカッコしてるくせに、ダンスが異常に下手でリズム感ゼロ』って話したナンパ師って、お前のことか?」
犬マンが驚いたように言うと、ハヂメは決まり悪そうに、
「たぶん……」
と答えて俯いた。
その左耳には、シルバーのリビングピアスが三つ縦並びにぶら下がっている。
するとママが立ち上がって言った。
「ねえ、ハヂメに声をかけた連中は、次に大和に話を持ちかけたんじゃない? 大和が言ってた『ちょろい仕事』って、きっとこのバイトのことよ!」
犬マンが大きく頷いた。
「そうですよ! それなら大和がクラナンしたのも説明がつく」
「まだ続きがあるんです」
Kスケが割って入った。
「ハヂメちゃんに声をかけてきたのも、スーツ姿の三人組なんです。若いの一人にオヤジが二人。絶対大和のことを捜し回ってるのと同じ連中ですよ。で、その中の一人が連絡用にハヂメちゃんに名刺を渡してるんです」
そう言って、ポケットから紙片を取り出した。
淡いグレイの横型の名刺で、左半分に英語のロゴマーク、右半分に小さな文字で社名と名前が並んでいる。
それを見た私と犬マンは同時に叫んだ。
「帝都興業!」
ほんの一時間ほど前に、『ミルキィ写真館』編集部で目にしたものと全く同じ、プロジェクト準備室室長・有賀悟郎の名刺だった。
するとなぎさママが、
「え? でも大和は帝都興業から逃げてるのよね? 何でだっけ? やだ、頭痛くなってきたわ。誰か話を整理して」
と言って、不自然なほど肌の張りと艶のいい額を深紅のマニキュアで彩られた指先で押さえた。
「仕方ねえなあ」
俺の出番とばかりに塩谷さんが短い足をデスクから下ろし、進み出てきた。
「帝都興業の連中は事前に美玖ちゃんの行きつけのクラブを調べ、最初はハヂメに、失敗すると今度は大和に話を持ちかけてナンパさせ、ハメ撮りした写真を雑誌に持ち込ませようと計画した。ここまではわかるな?」
塩谷さんが顔を見回し、みんなが一斉に頷いた。
「ところが、だ。編集部で偶然美玖ちゃんの素性を知った大和は、さっさと雇い主を裏切り、自分で区長から大金をせしめる作戦に変更したんだ。焦ったのは帝都興業の連中で、何とか大和を捕まえて写真を取り戻そうと血眼になってるって訳だ」
「なるほど。そういうこと」
ママが納得し、塩谷さんは自慢げに胸を張った。
「でも、帝都興業は美玖ちゃんの写真を雑誌に載せてどうするつもりだったのかしら。そもそもの目的はなに?」
私が疑問を投げかけると、横から、
「それは私に説明させてください」
と聞き慣れたバリトンボイスが響いた。
優夜さんだ。
「小金澤区長は、大和の一件以外にもトラブルを抱えています。広尾六丁目の土地問題です」
するとママが、
「それならあたしも知ってるわ。アフリカのどっかの国の大使館跡地でしょ?」
と言い、続けて次のように説明してくれた。
「小金澤さんはその土地を区で買い取って、地域のお年寄りのためのコミュニティセンターにしようと考えたのよ。地元の人たちも大賛成で、区議会でも採択されたんだけど競売に負けて、土地は赤坂の不動産のもの。不動産屋は転売を拒否し続けてるって話よ」
「そういえばママの店で小金澤さんに会った時も、土地の話をしてたわね。『やりかけた大きな仕事』って言ってたわ。でも、その話と今回の事件がどう関係するの?」
私が言うと、優夜さんが静かに話し始めた。
「みなさんが大和を追っている間に、私は知人の力を借りて、この土地問題について調べてみました。その結果、不動産屋に札束をチラつかせ、土地は区ではなく自分に売れと追っている会社があることがわかったんです。その会社こそが……」
私と犬マン、さらに今度は塩谷さんとなぎさママ、Kすけも加わって叫んだ。
「帝都興業!」
「その通りです。帝都工業は買収した土地に、カラオケボックスのビルを建てるつもりでいます。しかし、それを知った地元住民は猛反対、区長をリーダーとして土地からの撤退を訴える運動を起こす準備を始めました。怒った帝都工業社長の墨岡《すみおか》は次期区長選に出馬し、選挙で問題にケリをつけようと考えたんです」
「墨岡? あのスケベジジイが選挙に出る?」
ママが目を剥くと、優夜さんが重々しく頷いた。
右胸に、大きな唐草模様の刺繍の入ったミッドナイトブルーのソフトスーツ。
分厚い肩パッドがアメフトの選手のようだ。
「しかし、まともに戦ったのでは勝ちめはない。そこで美玖さんのスキャンダルを捏造《ねつぞう》し、写真が投稿雑誌に掲載されたら改めてマスコミにリークして、小金澤区長を失脚させる計画を立てたのでしょう。つまり今回の事件の黒幕は、墨岡だということです」
「確かにそれなら今までの謎は全部解けるし、集めた情報も一つにつながるわ」
私が言い、みんなが力強く頷いた。
優夜さんは自分のオフィスから書類を一枚取ってくると、
「これが墨岡です」
と言ってこちらに差し出した。
数ヶ月前の週刊誌のコピーだった。
さっきママから聞いた、ラブホテルまがいのカラオケボックスとその経営者を糾弾する記事で、中央にベンツに乗り込む墨岡の姿を写した写真がレイアウトされていた。
顔にも体にもたっぷり肉がつき、それが全部下に垂れ下がっている。
欲の塊と言った風情だ。
加えて妙に目鼻たちの整った美形の若者が数名、スーツ姿で墨岡を取り囲むようにして立っている。
ボディガードのつもりなのかもしれないが、それにしては全員小柄で体もつきも華奢だった。
すると、ママが怒りを爆発させた。
「あのジジイ、ふざけやがって! こうなったら、何が何でも墨岡より先に大和をふん捕まえて、写真を手に入れてやるわ。晶ちゃん、どうすんのよ?」
目をギラつかせ、すごんでみせた。
「脅迫状には、お金の受け渡しについては後日連絡するって書いてあったんでしょ?」
私が言うと、犬マンが首をひねった。
「ちゃんと連絡してきますかね」
「くる。必ず。奴は帝都興業に追い込みをかけられて家にも帰れず、相当焦ってるはず。金を手に入れて高飛びしようって考え始めてる頃だ」
そう断言したのは塩谷さんだ。
「許せねえな」
ぽつりと、細い声がつぶやいた。
みんなの視線が声の主を追う。
Kスケだった。
「ナンパなんて、世間のやつらからすればふざけたくだらないことかもしれない。でも、それをマジで、命かけてやるのがナンパ師のプライドだと思うんすよ。なのに大和の野郎、セコい儲け話に乗りやがって……」
チノパンの上で拳を固く握りしめ、うなるように言うとスニーカーの踵で床を蹴った。
すると、犬マンが言った。
「大和は躍らされただけ、本当の敵は墨岡の野郎だ。やつはてめえの薄汚い欲のために、ナンパ師を利用しようとしたんだ。ナメやがって。絶対許せねえ」
淡々と話しているが、言葉の端々から怒りが滲んでいる。
顔全体が赤らんでいるので、ますます猿そっくりだ。
すると、なぎさママが言った。
「あたしに任せて」
「どういう意味?」
私が聞くと、ママはソファに腰を下ろし、芝居がかったポーズで足を組んだ。
「墨岡に関しては、土地問題以外にもちょっとした噂を聞いているの」
「噂? どんな噂ですか?」
驚いたように優夜さんが尋ねる。
しかしママは、
「いいから。とにかくあのジジイのことはあたしに任せて、みんなは写真を取り返すことに集中してちょうだい」
とだけ答え、にんまり笑った。
悪意と憎悪に満ち、それでいてひどく楽しそうな、童話に出てくる悪い魔女のような笑顔だった。
塩谷さんがいやらしい声を立てて笑うと、肘で私の肩をつついた。
「見ろよ、顔色が赤から青に変わったぞ。信号機みたいなやつだな」
私は肘を払いのけ、
「面白がってる場合じゃないでしょ」
と言い返した後、急に不安になってつけ足した。
「でも、あの人本当に大丈夫なのかしら。大和が現れる前に卒倒するんじゃない?」
左手前前方約三十メートル、ぽつり点った街灯の明かりの下にコンクリート平屋建ての薄汚れた小さな建物がある。
その前に、しゃれっ気ゼロのスーツに包まれた体を突っ張らせ、度の強い銀縁眼鏡の下半分を興奮と緊張で白く曇らせて立っている男が一人、渋谷区長秘書・望月だ。
そして、指の関節が白くなるほど強く胸に抱きしめているのは、ぱんぱんに膨らんだナイロンのドラムバッグ、中身は現金三千万円也。
indigoで作戦会議を開いてから三日後、大和が連絡してきた。
区長の自宅に宅急便でプリペイド式の携帯電話を送りつけてきたのだ。
「明日午後十一時にこの携帯を持って渋谷駅付近で待機していろ、細かい指示は改めて電話する」と書かれた手紙も同封されていた。
当日、私たちは優夜さんが手配してくれたワゴン車に乗り込み、渋谷駅前で連絡を待った。
Kスケとその仲間たちは街の各ポイントで監視してくれている。
プリペイド式の携帯電話が鳴ったのは、午後十一時三分過ぎ。
応対した区長に大和は、「金を持って五分以内に宮下公園の公衆便所の前に来い」と告げた。
区長は金は使いの者に持たせる旨を告げ、私たちは公園に向かう車の中で大急ぎで作戦を立て、それぞれの持ち場に散った。
私と塩谷さんの担当は明治通りにかかる大きな歩道橋の上、設定は「渋谷の夜景を眺めつつ、年甲斐もなくいちゃつく中年カップル」だ。
歩道橋は渡り切るとそのまま公園の入り口の階段へとつながっている。
階段にはパーカーのフードを目深にかぶった男が体を丸めて寝転がっている。
犬マンだ。
足元には何が詰まっているのかよくわからないコンビニの袋が数個置かれていた。
この公園の住人に化けているらしい。
平日の夜とはいえ、明治通りの人通りは多い。
歩道橋も酔った若者のグループや、互いにしなだれかかるように身を寄せ合うカップルが、絶え間なく行き来している。
しかし、公園に入っていく人はほとんどなく、フェンスで囲まれた園内はしんと静まり返っている。
宮下公園は公共駐車場の屋上を利用して作られた古い公園で、山手線の線路に沿って、渋谷駅前からファイヤー通りの手前まで細く長く延びている。
園内の両端には桜の木が植えられ、その下にベンチが並び、中央には水は出ないものの噴水やブランコ、ジャングルジムなどの遊具が置かれている。
しかし、ここ数年この公園の主となっているのは、ホームレスの人々だ。
左右のフェンス沿いにスカイブルーのビニールシートで覆われたテントがびっしりと並び、樹木の間にロープを渡して洗濯物が干してあったり、テーブルの上に洗った食器が重ねてあったり、ゴミがきちんと分別されて出してあったりもする。
目の前に明治通り、反対側には丸井や西武百貨店があり、眼下を着飾った若者が昼夜を問わず行き来する周囲の環境と比べると明らかに異質だが、これも渋谷の一つの顔だ。
ポケットの中で、私の携帯電話が震動を始めた。
「もしもし」
「どうなってんのよ。とっくに五分すぎたのに、大和のバカは来ないじゃない」
出たとたん、噛みつくようになぎさママが言った。
「焦らないでよ。きっと現れるから」
私はそう言うと手すりから身を乗り出し、明治通りを見下ろした。
歩道橋の柱の陰に濃紺のワゴン車が停まっている。
車内にはなぎさママ、小金澤区長、運転席では優夜さんがスタンバイしているはずだ。
ママはさらにぼやいた。
「あんたたちが待ち伏せしてるのがばれたんじゃないの? そもそも塩谷ちゃんと晶ちゃんじゃどうがんばってもアベックには見えないもの。やっぱりあたしと優夜さんが行った方がよかったんじゃない?」
「そっちの方が百倍怪しいわよ。ちゃんと作戦通りにやるから、心配しないで待ってて。小金澤さんにもそう伝えてね」
私は早口で一気に言うと電話を切った。
ママは今日一日情緒不安定でヒステリックに怒鳴り散らすかと思ったらおろおろと慌て出すの繰り返しだ。
しかも、そのママを励ましているのが小金澤区長なのだから、本末転倒もいいところだ。
また塩谷さんに肩をこづかれた。
「痛いわね。何よ」
顔をしかめて睨むと、顎で公園の中を指した。
小さい目が鋭く光っている。
見ると、左手、渋谷駅方向から黒い人影が望月に向かって近づいてくる。
犬マンがぴくりと頭を上げ、体を起こすのが見えた。
細身で長身、ややなで肩、黒いナイロンのトレーニングウエアの上下にニットキャップをかぶっている。
街灯に照らし出された望月の顔は今や青から白に変わり、表情と呼べるものが全て失われている。
すると、犬マンが足首を忍ばせて階段を登り、二人の背後に回った。
犬マンに大和を説得してもらい、難しそうな場合は私と塩谷さんも加わり、強制的に身柄を確保するという作戦だ。
「ナンパどうでしょう、いいの入ってますよ」
一呼吸置いてから、犬マンはそう声をかけた。
声は明るく、調子は軽く、でも他意は感じさせない、そんな口調だ。
すると、なで肩が小さく弾んだ。
硬直したように体はそのままで、顔だけで振り向いた。
顔色は色白を通り越して血の気が失せ、頬はげっそりとこけ、おまけに目の下にはどす黒い隈までできている。
「久しぶりだな、大和。俺だよ、マサル」
パーカーのポケットに両手を突っ込み、犬マンはそう言って微笑みかけた。
大和はぽかんと口を開け、血走った目でその笑顔を見つめ返している。
「こんなとこで何やってんだ、って顔だな。お前を待ってたんだよ。そのポケットに入ってるメモリーカードのことで」
犬マンがカマをかけると大和の指先がぴくりと動き、ナイロンパンツの右ポケットに触れる。
わかりやすいやつ。
犬マンは間を開けずに話し続けた。
「その写真は、お前が想像してるより遙かにヤバい話しに絡んでる。悪いこと言わないから、このへんで降りろ」
「そういうことですか?」もしくは「どういう意味ですか?」と聞きたかったのだろう。
かさかさに乾き、ひび割れた大和の唇が「ど」の形に開きかけた瞬間、背後から、「大槻!」
という声と、革靴がアスファルトを打つ音が聞こえてきた。
ぎょっとして振り向くと、男が三人歩道橋の上をこちらに向かって走ってくる。
先頭は細い目が左右に離れたヒラメ顔の若者、少し遅れて日焼けした肌に銀縁眼鏡と体格のいい角刈り、二人とも歳は四十ちょいすぎといったところだ。
帝都興業プロジェクト準備室の面々に違いない。
噂通りの地味なスーツを着てぱっとしないネクタイを締めているが、眼光の鋭さと目つきの悪さは想像以上だ。
「お、お金は写真と交換ですっ!」
今度は甲高い悲鳴のような声があがった。
見ると大和がドラムバッグの肩ひもをつかみ、望月から金を奪い取ろうとしていた。
しかし望月も全身でバッグにしがみつき、意地でも離すまいとがんばっている。
頬も額も再び真っ赤に染まっていた。
「やめろ!」
叫びながら犬マンが駆け寄ると、大和は望月を突き飛ばし、公園の奥の闇に向かって駆け出した。
犬マンはバッグをしっかり抱えたまま地面に転がっている望月を飛び越えて後を追い、私と塩谷さんも続いた。
作戦失敗。
大和はフェンスの突き当たりまで行くと転がるように身を翻して左折し、渋谷の街に通じる狭い通路を駆け下り始めた。
五メートルほど間隔を空け、私たちも続く。
背後からはもちろん帝都興業の三人組もついてくる。
フェンスの外を山手線が線路にリズミカルな音を響かせて通りすぎていった。
大和は坂を下りきると、突き当たった歩道を右に曲がった。
すぐに正面に山手線の下をくぐる落書きだらけの小さなガード、そこを抜けるとタワーレコード前のスクランブル交差点に出る。
歩行者用信号は赤だが、終電前の混雑で交差点内には車が溜まっていた。
空車のライトを点したタクシーと地方ナンバーの改造車が目立つ。
大和は車の間をすり抜け、交差点を斜めに突っ切って渡り始めた。
犬マンは迷わずそれに続き、私と塩谷さんもびくびくしながらヒステリックにクラクションを鳴らす車の前を通りすぎた。
交差点を渡りきると、通りに沿って長くゆるやかな上り坂が続く。
あれだけ憔悴《しょうすい》した顔をしていたくせに、大和はテンポよく、左右の足を繰り出し、どんどん前に進んでいく。
私と塩谷さんは半分も登らないうちに足がもつれ、息が上がり始めた。
すると、犬マンが走りながら携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「Kスケ君か? 大和が逃げた。バックドロップ前の坂をパルコ方面に向かってる。みんなをバラして道をふさいでくれ。帝都興業の連中に気をつけろよ」
大きく息継ぎしながら、怒鳴るように指示した。
向かい側の歩道を帝都興業ご一行が駆け上がっていくのが見えた。
パルコ前の交差点に出る頃には、私と塩谷さんは汗だくになり、荒い呼吸で話もできないような有様だった。
老化と日頃の運動不足、不摂生の結果だ。
追跡は若者に任せ離脱しよう、そう思い、スローダウンしかけると、
「晶さん、こっちです」
と前を走る犬マンが振り返り、ご丁寧に順路を指示してくれた。
仕方なく、肩で息をしながら走り出す。
背後からは、獣のうなり声のような塩谷さんの息づかいも聞こえてくる。
もはや私たちには先頭を走る大和の姿は見えず、犬マンのパーカーの進む方向についていくだけだ。
犬マンはパルコパート1前の広場を横切り、GAPのビルとの間の路地に入っていった。
とたんに道が細くなり、人の数がどっと増える。
道幅いっぱいに広がって大声で話す若者グループ、反対に道の端をぴったりくっついて歩くカップル、その肩にぶつかり、指先で光る煙草の火をかろうじて避けながら、転がるようにして前を進んだ。
通りを二十メートルほど進むと、左折してスペイン坂に通じる急な階段を降りる。
登ったと思ったら今度は下りた。
こうして走り回ってみると、渋谷という街にいかに坂が多いかわかる。
スペイン坂は井の頭通りに通じる狭い小道で、レンガを敷き詰めた歩道の両脇に小さな映画館や洋服屋、飲食店が軒を並べている。
この時間になるとどの店もシャッターを下ろしているが、その中で唯一、煌々と明かりを点しているのは、数年前にオープンした女の子向けのゲームーセンターだ。
「マサルさん!」
その声に顔を上げると、Kスケのナンパ仲間の二人、Bボーイとホストもどきが、ゲームセンターの入口の前に立っていた。
そして腕を高く上げ、突き出した人差し指を激しく振って店内を指している。
この中に大和が逃げ込んだという合図だ。
三人で迷わずゲームセンターの中に飛び込んだ。
店内は、大音量のユーロビートとメンソールの煙草の煙で満たされていた。
奥行きがなく横に長いウナギの寝床のような造りで、ゲームセンターとは言ってもおいてあるのはぬいぐるみやマニキュア、口紅などをつり上げるクレーンゲームや、安っぽいビニールの目隠しで覆われたプリクラマシンばかりだ。
内装からゲーム機まで全てショッキングピンクを基調とした濃厚な原色で統一されていて、長時間いると頭が痛くなりそうだ。
当然ながら客の大半は女の子、十代から二十代前半、茶髪、ミニスカ、ロングブーツ、地味な顔立ちに派手な化粧というタイプが多い。
大和の居場所はすぐにわかった。
彼の全身黒ずくめのファッションは、公園の暗闇では保護色になるが、ポップな原色づくしのこの店では浮きまくりだ。
それに、混み合ったフロアを無理矢理前進しようとするため、行く先々で、
「ちょっと何すんのよ!」
「痛いじゃん!」
「マジウザい!」
等々、怒りと非難に満ちた悲鳴があがる。
テレビゲームの効果音みたいだ。
私たちはその声を頼りに、糸ミミズのような眉をひそめる女の子たちをかき分け店の奥に進んだ。
店内はガラス張りで、その中の数々所が観音開きのドアになっている。
大和はその中の一つ、スペイン坂ではなく、裏通りに出るドアをめざしているらしい。
スペイン坂には、途中数ヶ所狭い横路があり、その両脇にも小さな洋服屋やアクセサリーショップなどが店を構えている。
私たちがドアの前に辿り着くのと、通りに飛び出した大和を、待ち伏せしていたBボーイとホストもどきが左右から押さえ込みにかかるのがほぼ同時だった。
「やった! もう走らなくてすむ」、そう安堵した瞬間、暗闇からヒラメ顔と銀縁眼鏡が姿を現し、背後から二人にのしかかるようにして、大和に飛びかかった。
しかし大和はひらりと身をかわし、バランスを崩した男四人はそのまま路上に転がる。
またも作戦失敗。
慌てて捕まえようとしたが、ドア前に群がる女の子たちが邪魔で思うように進めない。
「どけ!」
塩谷さんが怒鳴ると、再び黄色い怒号があがった。
「何このオヤジ!」
「サイテ〜」
「ありえな〜い! こいつ、今あたしのお尻触ったよ!」
塩谷さんも負けじと言い返す。
「そんな垂れた尻、誰が触るか!」
その間に大和は折り重なってもがく四人を飛び越え、再び走り出した。
何とか店を出て後を追ったが、パルコパート3前に出る階段を駆け上がったところで完全に姿を見失った。
「どうする?」
息絶え絶えに私が尋ねた。
めまいと吐き気がして、胸の奥からはなぜか熱っぽい血の味がこみ上げてくる。
この感覚は中学校のマラソン大会以来だ。
塩谷さんは無言で道端にへたり込んでいる。
「主だった通りは全部Kスケ君たちが封じてくれてるから、大和を見つけたらすぐに連絡が来ると思います。とりあえず井の頭通りに出ましょう」
パーカーの袖で額に浮いた汗を拭いながら犬マンが答えた。
「悪いけど……」
「体力の限界。後は任せていい?」そう続けようとしたとき、ポケットの中で携帯が震動し始めた。
「もしもし?」
塩谷さんの腕を引きずるようにして立たせ、さっさと歩き出した犬マンの後を追いながら答えた。
「あんたたち、何やってんのよ!」
周囲の若者がぎょっとして振り向くくらいの大声で、ママが怒鳴った。
さっきから何度もかかってきていたが、無視し続けていたのだ。
私は携帯のボディを耳から少し離してから答えた。
「依然大和とメモリーカードを追跡中。細かいいきさつは勘弁して」
「そんなの望月さんから聞いたわよ。今どこにいるの? さっきから渋谷じゅうを捜し回ってんのよ」
ママたちもワゴンで移動中らしい。
声が不明瞭でところどころ途切れる。
すると、井の頭通りから迷彩柄のコーチジャケットを着たKスケが駆け込んできた。
「大和はセンター街に逃げ込みました。クアトロの隣のビルに入るのを確認してます」
周囲に目を配りながら、硬い声で言った。
「追いつめられて古巣に舞い戻った訳か。よし、行こう」
犬マンが頷き、駆けだした。
私は携帯を耳に戻すと、早口でママにこう告げた。
「大和を見つけたわ。捕まえたら電話する」
「聞こえたわよ。センター街のどこだって? ちょっと待ちなさいよ、切ったら承知しないから!」
野太い声でわめくママを無視して電話を切り、ついでに電源もオフにした。
渋谷センター街は、中央にある十字路から奥に進むと雰囲気ががらりと変わる。
急に道幅が狭くなり、日差しも途絶え、一日中じめじめと湿っぽい。
両脇に並ぶのは居酒屋やレストラン、バーなどの飲食店ばかりで、そこにぽつんとパルコの別館・クアトロがある。
大和が逃げ込んだのは、その隣に建つビルだ。
ところどころ薄汚れた白いタイル張りの雑居ビルで、エントランスの横に螺旋状の外階段がついている。
ビルの前まで来るとKスケは、
「屋上に隠れてるみたいです。外階段を使えば、屋上まで直接行けます」
と言って、突き立てた親指で背後を指した。
高さは十階ちょっとある。
絶句している私と塩谷さんをよそに、犬マンは、
「わかった。Kスケ君はここで帝都興業のやつらを見張っててくれ」
と指示すると、さっさと階段を登り始めた。
それを見た塩谷さんは、
「坂道マラソンの次は階段登りかよ。ちょっとしたトライアスロンだな。シメは代々木公園の噴水でスイミングか?」
とコメントした。
妙に声が明るい。
やけになっているのかもしれない。
「上等じゃない。泳ぎは得意なのよ」
私もやけくそで言い返すと、コンクリートの手すりにすがりつくようにして階段を登り始めた。
ふくらはぎがぱんぱんに張り、両足が鉛のように重い。
これが明日の朝には、起きあがれないほどの筋肉痛に変わるのだろう。
犬マンに遅れること約五分、何とか屋上まで辿り着くと、彼は中央に置かれたクリーム色の大きな給水タンクに向かって何やら語りかけていた。
大和はコンクリート造りのタンクの足場の陰に隠れているらしい。
屋上に照明はないが、周囲のビルの明かりやネオンで思いのほか明るかった。
タンクの遙か向こうには、マークシティの高層ビル群のシルエットが浮かんでいる。
「……てな訳で、俺らと帝都興業の連中がお前が撮った写真を追っかけてたんだよ。わかっただろ? その写真は俺らが捌《さば》けるような代物じゃない。帝都興業のやつらに捕まる前に俺に渡せ。あいつらはマジだ。下手すると殺されるぞ」
犬マンは淡々と、一切の感情を含まずにそう言った。
「……」
返事はないが、ナイロンの服が擦れるしゃりしゃりという音が聞こえる。
私と塩谷さんは、足元にずらりと並んだエアコンの室外機の上に腰を下ろし、ことの成り行きを見守ることにした。
強いビル風が吹き抜け、首筋に滲んだ汗を乾かしていく。
「出てこいよ、大和。お前もセンター街のナンパ師だろ。自分のした仕事の始末は自分でつけるのがスジってもんじゃねえのか」
一転して、厳しい口調で諭す。
すると、ようやく大和が口を開いた。
「そんなヤバい裏があるなんて、全然知らなかったんだよ!」
震えてかすれた、悲鳴のような声だった。
「三週間ぐらい前に、センター街でやつらに声をかけられたんすよ。女を一人NPして、ハメ撮りして写真を売るだけでいい、それだけで百万円やるって。俺、ちょうどバイトをクビになって焦ってて、ついに話しに乗っちまったんです。でも、女が区長の娘だってわかって、てっきりやつらが俺が撮った写真をネタに区長をゆするって計画だと思い込んじまった。だから、たったの百万ぽっちでごまかされたら思ったら、すんげえむかついて……」
言葉に詰まり、押し殺したような嗚咽《おえつ》が漏れ始めた。
私は呆れ返って口を挟んだ。
「だから自分でお金を取る計画を立てたっていうの? それはちょっと都合がよすぎるんじゃない? 世の中ナメんのも……」
「大概にしなさいよ」、そう言ってやろうとした瞬間、塩谷さんに肘で二の腕をこづかれた。
「黙ってろ」という合図らしい。
すると犬マンが言った。
「わかったよ、大和。帝都興業にも区長にも、俺のボスが上手く話をつけてくれる。もちろん警察にパクられたりもしないから心配すんな」
「でも俺、金が入ると思って時計とか指輪とかばんばん買っちゃったんです。それ、どうしたらいいんすか?」
鼻水をずるずるとすすり上げつつ、甘ったれた声でそう訴えた。
美玖から聞いた腕利きナンパ師の姿は、今や見る影もない。
犬マンは鼻で笑うと、こともなげに答えた。
「そんなもん、働いて返せばいいだけの話だろ。バイトなら俺が紹介してやるよ。お前にぴったりなところ、一つ知ってるんだ」
「マジすか?」
言いながら、大和が顔を出した。
ニットキャップとナイロンジャンパーを脱いでいる。
先ほど宮下公園で見た時よりさらに頬がこけ、目の下の隈が濃くなった気がする。
加えて汗と埃と涙でどろどろに汚れている。
犬マンは彼の目をまっすぐに見ると、
「俺を誰だと思ってんだよ」
と言って笑った。
細めた目が垂れ、代わりに口角が上がり、その両脇にキュートなシワが寄る。
彼の秘密兵器≠ヘ、同性にも効果を発揮するらしい。
大和はその笑顔に誘われるようにふらふらと進み出てくると片手で涙を拭い、もう片方の手でポケットからシワくちゃになった封筒を引っ張り出し、犬マンに渡した。
封を開けると口にチャックのついた小さなビニール袋が一枚出てきた。
犬マンは振り返って、私と塩谷さんに袋をかざしてみせた。
中身は切手大の黒くて薄いプラスチック片、デジカメのメモリーカード、商品名・スマートメディアだ。
こんなにちっぽけなもののために私たちは歩き回り、知恵を絞り、挙げ句の果てに深夜の渋谷の街でトライアスロンの真似ごとまでさせられたという訳だ。
「ご苦労さん」
後ろから、不気味な声が響いた。
続いてビル風が安物のヘアトニックの臭いを運んでくる。
振り返ると、帝都興業の三人組の一人、角刈りの男がこちらを冷たい目で睨んでいた。
そして銀縁眼鏡とヒラメの顔に両側から押さえ込まれ、首元にナイフまで向けられているのはKスケだ。
慌てて階段に向かおうとした大和に、ヒラメ顔が鋭く叫んだ。
「動くな! こいつの頸動脈をぶった切るぞ」
犬マンがびくりと足を止め、ヒラメ顔は曇り一つないナイフの刃先をKスケの喉元に押しつけた。
Kスケは、むさ苦しいヒゲ面を真っ青にして引きつらせている。
「大和、戻れ」
犬マンが静かに声をかけると、大和はそそくさと彼の背後に隠れた。
「まず、そのメモリーカードをもらおうか。話はそれからだ」
角刈りはそう言うと、犬マンに手を突き出した。
低く太いけれどよく通る声。
人を恫喝《どうかつ》しなれてる、そんな感じがする。
恐らくこいつがプロジェクト準備室室長@L賀悟郎だ。
「マサルさん、渡しちゃだめですよ!」
Kスケは健気《けなげ》に叫んだが、その声は恐怖でうわずっている。
犬マンがこちらに視線を送り、私と塩谷さんは無言で同時に頷いた。
「話がまとまったようだな。お前らが何者かは後でゆっくり聞かせてもらうが、大和と写真を見つけ出したことだけは褒めてやる。渋谷のガキどもがこんなに使えるとは思わなかったぜ」
有賀はそう言うと、声を立てて笑った。
犬マンの顔が怒りでみるみる赤く染まっていく。
「さっさと渡せ!」
銀縁眼鏡のだみ声に促され、犬マンがのろのろと腕を上げた。
指先でつかんだビニール袋が有賀の手のひらに触れようとしたその瞬間、甲高い悲鳴があがった。
ぎょっとして見ると、ヒラメ顔がナイフを握りしめたまま宙に浮いていた。
背後から襟首と股間を鷲づかみにされ、凄まじい力で持ち上げられているのだ。
そして、股間に食い込む節くれ立った指の先は、深紅のマニキュアで彩られている。
シャネルのヴェルニー#121、なぎさママお気に入りの色だ。
「やめろ! 放せ!」
全員が呆気に取られていると、ヒラメ顔は金切り声をあげながらナイフを振り回した。
するとママはヒラメ顔の体を自分の右肩に引きつけ、そのまま腰をひねると勢いよく後方に投げつけた。
ごつん、ヒラメ顔の後頭部がコンクリートの床を打つ鈍い音がした。
ナイフが床を滑り、暗がりに吸い込まれていく。
「大丈夫よ。気絶しただけ。ちゃんと手加減してるから」
ぴくりとも動かなくなったヒラメ顔で顎で指し、ママがク−ルに言った。
指先で巻き髪の乱れをすばやく整える。
黒いレザースーツに身を包み、足元は八センチヒールだ。
「ママ……」
後の言葉が浮かばず絶句すると、
「良くも携帯の電源切ったわね。ここ捜し出すの大変だったんだから」
と言って私を睨んだ。
すると銀縁眼鏡が、
「ババア、何しやがる!」
とだみ声を張り上げ、ママに襲いかかった。
ママはするりと身をかわすと、両手で銀縁眼鏡の右腕をつかみ、体を反転させた。
そして腰を落とすと、そのまま肩越しに投げ飛ばした。
ダークグレイのスーツに包まれた銀縁眼鏡の体は、空中に奇麗な弧を描き、エアコンの室外機に激突した。
「俺、ママが何部だったかわかった……」
隣で塩谷さんが言った。
唖然とした顔でママを見つめている。
「私も」
私が言い、犬マンも頷く。
「柔道部、ですよね」
素人目にもわかる鮮やかな一本背負い。
黒帯、しかも相当な猛者に違いない。
銀縁眼鏡は倒れたまま体を丸め、苦しげなうめき声をあげている。
Kスケと大和は身を寄せ合い、不安げにことの成り行きを見守っていた。
手下を片付けたママは、最後の獲物・有賀にゆっくり近づいていった。
「悪あがきはやめて答えなさい。この騒ぎ、墨岡が選挙で勝つために、小金澤さんを陥れようとしたんでしょ? とっくに全部お見通しよ」
「お前ら、本当にどこの誰なんだよ」
焦りと怯えを含んだ声で言いながら、有賀が後ずさりを始めた。
背後にあるのは地上六十メートル余の絶壁、屋上の周囲には三十センチほどの高さの縁があるだけで、柵や手すりの類は一切ない。
「質問に答えなさい。大和を雇って美玖ちゃんの写真を撮らせ、雑誌に載せようとした、そうよね?」
ママが言う。
ヒールの音を響かせて歩きつつ、視線は有賀の動きを見張っている。
「黙れ、オカマ野郎!」
そう叫ぶと、有賀が逃亡を図った。
ママはすかさずその襟元をつかむと股の間に右足を差し入れ、踵で膝の内側を蹴り上げてそのまま横倒しに放り投げた。
この技はオリンピックで見た覚えがある。
名前は確か「内また」。
「そうよ、あたしはオカマよ」
言いながらママは床に転がり、苦痛に顔をしかめる有賀に近づいていった。
そして、背広の胸元をつかむと体を持ち上げ、上半身を屋上の縁から空中に突き出した。
ママが手を放せば、有賀は遙か眼下のセンター街に真っ逆さまだ。
「やめろ!」
さすがに顔色を変え、有賀が手足をばたつかせている。
ママは身を乗り出し、その耳に囁くようにして言った。
「しかも筋金入りのね。タマ二つ取って、胸に塩水入りのビニールバッグ入れてんの。それがどういうことかわかる?」
「知るか!」
必死に顔を背け、両手で必死に空を掻きながら叫んだ。
横目でちらちらと地上を眺めている。
センター街にたむろする若者たちがこの騒ぎに気づき始めたらしい。
ビルの下に小さな人だかりができ、通りがざわついている。
「怖いものなんかな〜んにもないってこと。あんたみたいなチンピラ一人、ここから突き落とすのなんか屁みたいなもんよ。嘘だと思ってんでしょ。試してみようか?」
言うが早いかママは、胸元を握りしめた手を開いた。
有賀の喉から今まで聞いたことのない音が漏れ、私はきつく目を閉じた。
「あらやだ。あたしの反射神経もまだ捨てたもんじゃないわね」
きゃははという笑い声に恐る恐る目を開けると、有賀が空中に胸を突き出すような姿勢で体を硬直させていた。
ママの赤い指先は、彼の背広の片襟をかろうじてつかんでいる。
「どうする? まだ続ける?」
顔を覗き込むようにして言う。
ママは心底楽しそうだった。
すると、有賀が叫んだ。
「わかった! 認める、あんたの言う通りだ。全部墨岡社長が考えたことで、俺たちは言われた通りに動いただけなんだ。頼むから助けてくれ!」
さっきまでの迫力が嘘のような、とことん情けない声だった。
「わかりゃいいのよ。はい、お疲れ〜」
そう言うとママは、あっさり有賀の体を引き上げてやった。
有賀は腰が抜けたまま手足を必死に動かし、できるだけママから離れようと床を這っていった。
それから私たちは三人を一カ所に集め、事件終結に向けての話し合いをした。
「そっちの陰謀を警察に黙っていてやる代わりに、美玖の写真はなかったことにする。同時に金輪際大和にも手は出さない」という私の提案を三人は、必ず墨岡に伝えると約束した。
するとママが、「これはあたしからのプレゼント」と言って、スーツのポケットから数枚の写真を取り出した。
場所はどこかのホテルの一室、脂ぎった中年の男がベッドに腰かけている。
ワイシャツの前をだらしなくはだけ、下半身は目にもまぶしい白ブリーフ一枚、墨岡だった。
煩悩《ぼんのう》丸出しの笑顔を浮かべ、果てしなく広い額をてからせている。
そして、指毛がびっしり生えたおぞましい手に肩を抱かれたり、膝の上に乗せられたりしているのは、半裸の、どう見ても十代後半の美少年二人だ。
「ちょっとした噂って、こういうこと?」
驚いて尋ねると、ママが頷いた。
「だめもとで罠しかけたら、あのスケベジジイ、ほいほい乗ってきたわ。でも、この子たち説得するの大変だったんだから。後で山ほど服だの靴だの買わされちゃった。近頃の若い子ってホントにちゃっかりしてるわよねえ」
そうぐちると眉をひそめた。
よくよく見れば、写真の二人は数日前に東口の喫茶店で会った時に、ママが連れていたチワワとレザーパンツだ。
「……」
私は絶句したがママは涼しい顔で、
「今後、小金澤さんやご家族に手出ししようもんなら、この写真が週刊誌のトップを飾ることになるからね。そこんとこしっかり墨岡に伝えておいてよ」
と言い放ち、写真を突き出した。
有賀は無言で受け取ると、ろくに見もせずにスーツのポケットに押し込んだ。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「これで一件落着ね」
私が言い、息をついた。
緊張で忘れていた足腰のだるさがたちまち蘇ってくる。
「でもなさそうだぜ」
塩谷さんが言う。
「どういう意味?」、そう尋ねる前にサイレンの音が聞こえてきた。
慌てて下を覗き込むと、通りの向こうから、赤色灯を回転させたパトカーが二台走ってくる。
野次馬の誰かが通報したらしい。
ふいにママが叫んだ。
「あんたたち、何でぐずぐずしてんの! 逃げるわよ。ここで警察に捕まったら、今までの苦労が全部パアじゃない」
慌てて犬マン、Kスケ、大和、塩谷さんの順で階段に向かって走りだした。
帝都興業の三人も後を追う。
私はほとんど動かない足を無理矢理持ち上げ、みんなに続いた。
すると、背後からママの怒号が飛んできた。
「一人残らず絶対に、完璧に逃げきんのよ! もし捕まったりしたら、生き霊になって呪い殺してやるからね!」
いきなりピッチが上がり、全員転がり落ちるようなスピードで階段を下り始めた。
それからしばらくして、渋谷区区長選挙が公示された。
真っ先に名乗りを上げたのは小金澤区長、墨岡はついぞ立候補することはなかった。
優夜さんの話では、帝都興業は広尾の土地からも手を引いたらしい。
ともあれ、小金澤区長の再選はほぼ間違いなしといったところだ。
そして、放蕩《ほうとう》娘・美玖は謹慎を解かれ、学校に通い出したそうだ。
さすがに懲りたのかクラブ遊びは控えているものの、犬マンをいたく気に入ったそうで、紹介しろと秘書・望月にしつこく迫っているらしい。
その犬マンの仕事ぶりは、ますます好調だ。
事件以降、秘密兵器≠フ威力が増したらしく、最近ではナンバーワンホスト、ジョン太に迫る売れっ子ぶりだ。
そしてつい最近、新人ホストが一名〈club indigo〉に入店した。
大和だ。
あの晩、犬マンが「お前にぴったり」と言っていたバイト先は、うちの店のことだったらしい。
彼の源氏名はモイチ=A命名者は犬マンだ。
本人はいやがっていたが、事件の反省を促すためにも当分はこの名前でがんばってもらうつもりだ。
数日前、円山町《まるやまちょう》のクラブを一晩貸し切りにしてパーティを開いた。
招待客は犬マン、Kスケ、そのナンパ仲間たちだ。
事件の後、小金澤区長が「お礼に」とお金をくれた。
結構な大金だ。
塩谷さんと二人で相談した結果、そのお金で事件の慰労会を開くことにしたのだ。
飲み放題、踊り放題、騒ぎ放題で朝まで大いに盛り上がったらしいが、私と塩谷さんは参加せず、ママと三人で表参道のバーで飲んでいた。
そこで聞いた話では、小金澤区長とママはやはり柔道部の先輩・後輩で副将≠ニは、柔道、剣道などの団体戦で四番目に戦う選手の名称らしい。
ちなみにママは一年生ながらレギュラーに抜擢《ばってき》され、区長と同じ年にインターハイに出場した経験もあるそうだ。
さらに酔っぱらったママは、
「ホントは、小金澤さんがあたしの初恋の人なの」
という衝撃の告白までしてくれた。
「柔道部に入ったのも、もちろん彼に近づくためよ。最高だったわ。特に寝技の稽古」
ママはそう言って野太い声でぐふふと笑い、塩谷さんの背中をどついた。
そして、Kスケたちナンパ師は事件の後も相変わらず街角に立っている。
一瞬の出会いを求めて行き交う女の子たちの後を追い、自慢のフレーズで声をかける。
ノリはあくまでも軽く、口元は笑顔、胸に秘めるのは下心と熱いプライドだ。
私がセンター街を歩くと、彼らは気軽に挨拶してくれる。
でも、今のところ誰も「ナンパどうでしょう、いいの入ってますよ」とも「すみません、ナンパなんですけど」
とも言ってはくれない。
それがちょっと不満だ。
[#改ページ]
第四話 夜を駆る者
「ていうか、僕って人と話すの好きじゃないですかあ。だからホストとか向いてるかな。みたいな?」
向かい側のソファに座った男の子は、半疑問形で志望動機を述べると小首を傾けた。
「じゃないですかあ、ってそんなこと知らないわよ。君にはさっき初めて会ったんだから」
眉をひそめながら突っ込むと、男の子はぽかんとした顔で私を見た。
切れ長のシャープな目に細い眉、反対に鼻と口はぽってりと丸くて幼い。
バランスは悪いが、そこがかわいいという女の子も大勢いるのだろう。
私は手元の資料を眺めながら尋ねた。
「二十二歳、フリーター、家族と同様……ご両親には、このバイトのこと何て話すの?」
「あ、全然大丈夫です。僕んち、お父さんもお母さんも友達みたいな感じなんですよ。だから僕のやりたいことは何でもポジティブに応援してくれます」
「あっそ」
「『全然大丈夫』じゃなくて『全く問題ありません』でしょ」、「いい歳して人前で親をお父さん、お母さんと言わないの」喉元まで出かかったが、きりがないのでやめた。
こちらの心中を察したのか、背後で憂夜さんがわざとらしく咳払いをした。
塩谷さんは我関せずという顔で、デスクの上に足を投げ出し、革張りの椅子を左右にゆらゆらと動かしている。
「ええと、山田君?」
気を取り直して呼びかけた。
資料によると、彼の源氏名は山田ハンサム=B
「ハンサムって呼んでください」
にこやかに、しかしきっぱりと言った。
「……じゃあハンサム君」
仕方なく訂正したが、言っていてとても恥ずかしかった。
「はい」
「君の夢って何?」
私が新人ホスト全員にする質問だ。
「夢?」
「なりたいものよ。何かあるでしょ」
すると山田ハンサムは目を輝かせ、元気よく答えた。
「有名になりたいです!」
「……」
私が絶句すると、憂夜さんが割って入ってきた。
ワインレッドに白のチョークストライプの三つ揃い、ワイシャツは鮮やかなピンクだ。
「高原オーナー、今日のところはこのへんで。おい、仕事に戻っていいぞ」
そう促されるとハンサムは立ち上がり、首を前に突き出すようにして会釈すると、部屋を出ていった。
「有名になりたい、ねえ。なかなか新鮮な答えだとは思うけど」
私がため息をつくと憂夜さんが、
「申し訳ありません。あんなやつですが、やる気は本当にあるようです。時間をかけて、一からみっちり仕込みます」
と言って頭を下げた。
〈club indigo〉のオーナールーム、深夜二時すぎ。
定例の経営会議のために顔を出すと、新入りホストが挨拶にきた。
従業員の採用や教育は全てマネージャーである憂夜さんに任せているが、必ず私と塩谷さんに顔見せすることになっている。
そして、その度に私は今時の若者のライブ感溢れる言語感覚、悪意はないが的はずれな受け答えに直面し、腹を立てたり、脱力したりしている訳だ。
内線電話の呼び出しベルが鳴った。
憂夜さんは他の電話の通話中で、塩谷さんははなから出る気がないため、仕方なく私が応接テーブルの上の受話器を取った。
「もしもし」
「キャッシャーのジュンです。憂夜さんに電話なんすけど」
「他の電話に出てるのよ。どこから?」
私が尋ねた。
受話器からヒップホップミュージックが漏れ聞こえてくる。
全く同じ曲が、ガラス窓の下の客席フロアにも大音量で響いていた。
客席は今夜も満席だ。
「それが、BINGOからなんです」
「BINGOですって!?」
ぎょっとして叫んだ。
BINGOは、以前indigoにいたホストの名前だ。
BINGOも憂夜さんに連れられて挨拶に来た。
ルックスは中の上、とにかく色白で美肌という以外は印象に残らなかった。
話し方もおどおどとして落ち着きがなかったが、「そういう自分を変えたい」というのが志望動機だった。
しかし研修を終え、店に出ると間もなく頭角を現し始めた。
とにかくカンがよく、客の表情や仕草を読んでそれに対応する能力がずば抜けて高い。
さらに話題は豊富ではないものの好奇心旺盛で、ツボをついた相づちや質問を返すことができた。
「百人に一人の逸材」、憂夜さんは彼のことをそう評した。
そして本人もそのことに気づき、みるみる背筋が伸び、顔も引き締まり、売れっ子ホストの自信とオーラを身につけていった。
ところが今から三ヶ月前、突然彼は姿を消した。
売り上げ・指名数とともにトップ5入りを果たした直後だった。
しかも、「辞めます、さよなら」というふざけたメールを一本送ってきただけで、事情説明も挨拶もなしだ。
すぐに連絡を取ろうとしたものの、携帯電話は解約され、自宅アパートも引き払った後だった。
この彼の行為に、私と店の仲間たちが激怒し、同時にひどく落胆したのはいうまでもない。
「今さら何の用があるっていうのよ」
無意識に声をあらげていた。
怒りが胸にふつふつと蘇ってくる。
するとジュンは私の剣幕に怯えたように、
「よくわかんないすけど……でも、ちょっとヤバそうな感じですよ」
と言った。
「ヤバそう? まあいいわ。とにかく回して。まず私が話すわ」
いいチャンスだ。
憂夜さんに代わる前に、言いたいことを全部言ってやる。
保留音のメロディが短く流れた後、電話が切り替わった。
「もしもし」
「もしもし? 憂夜さんですか?」
聞き覚えのある声が早口でそう言った。
「何のご用でしょうか?」
刺々《とげとげ》しい声で応えると、
「あ、晶さんですか? 俺です、BINGOです」
さらに早口の、妙にせっぱ詰まったような口調で言った。
「だから何の用よ。よく今さら電話なんかかけてこられたわね」
「助けてください」
BINGOが言った。
携帯電話からかけてきているらしいが、電波状態がよくないのか、ぶつぶつと音が途切れる。
「はあ? 何言ってんのよ」
「俺、今ちょっとヤバいことになってて、しゃれになんない状態なんすよ」
「しゃれになんないのは君の方でしょ。憂夜さんやみんなにさんざん世話になっておきながら、あのふざけた辞め方は何なの? 世の中ナメんのも大概にしなさいよ。そもそも……」
本格的に説教を始めようとすると、BINGOに遮られた。
「そのことは後悔してます。ホントすみません。甘い話に乗った俺がバカだったんです」
「甘い話? 何よそれ」
「とにかくマジでヤバいんです。お願いですから助けてください」
焦りと恐怖が入り混じった、すがりつくような声だった。
「代わってください」
声と同時に、後ろから受話器をもぎ取られた。
振り向くと、目の前に憂夜さんの日焼けした端正な横顔があった。
きつい香水の香りでくしゃみがでそうになる。
ソファの隣には、いつの間にか移動してきたのか塩谷さんが座っていた。
「俺だ。お前今どこにいるんだ?」
憂夜さんが低い声でそう言った。
BINGOが、大声で必死に何か訴えているのがわかる。
「よく聞こえないぞ。えっ? おい、どうした? もしもし?」
唐突に電話が切れた。
「何よ、今のいたずら電話のつもりかしら? いやなやつ」
怒りが収まらない私は悪態をつき、憂夜さんは、
「かけ直してくるかもしれませんね」
と言って受話器を戻した。
しかし、その後BINGOからの電話はなかった。
店を出ると、みんなで下りのエレベーターに乗り込んだ。
「さっきBINGOからの電話があったって、マジですか?」
身をよじり、無理矢理振り返ってジョン太が尋ねてきた。
「マジよ」
私が答えると、アレックスが肩をいからせた。
「あの野郎、ふざけやがって。今さら何だってんだよ」
そううなりながら酒臭い息を吐き、両手の指を鳴らす。
ぼきぼきという不吉な音が、私の耳元で響いた。
狭い箱の中に私、塩谷さん、憂夜さん、その他ホスト数名がぎゅうぎゅう詰めで乗っている。
これから、みんなで飲みにいくところだ。
経営会議の後の飲み会は店の恒例行事だが、参加できるのは売り上げ上位の数名だけだ。
ゆえにホストたちの間では、この席に呼ばれることが成功《サクセス》の証≠ニされているらしい。
「さあね。訳のわかんないことわめいたと思ったら、すぐに切れちゃったのよ」
私が肩をすくめると、犬マンが言った。
「勝手に辞めておいて何の用ですかね。あいつ今何やってんだろうな。コナン、何か聞いてないか?」
「えっ? いや、なんも聞いてないっすよ」
ぼんやりしていたのか、呼ばれたコナンは慌ててそう答え、ニットキャップをかぶった頭を左右に振った。
コナンは若手では人気ナンバーワンのホストで、かつてはBINGOのヘルプについていた。
仏頂面で階数表示パネルを睨んでいた塩谷さんが言った。
「どうせ金貸してくれとかいう話だろ。ヤバい女に手を出した借金でも作って、尻に火がついたんじゃないのか」
「どっちにしろ、図々しいにもほどがあるわよ。ああ、もっと言ってやりたいことがたくさんあったのに」
私はそう言って拳を握りしめ、ホストたちも一斉にBINGOへの非難の言葉を口にした。
「まあまあ。もうすんだことですから」
憂夜さんがそう言ってみんなをなだめる。
エレベーターが一階に着くと、短いチャイムが鳴り、ドアが開いた。
外に踏み出そうとした瞬間、全員がぎくりとして足を止めた。
小さなエレベーターホールの向こう、街灯に照らし出されたアスファルトの上に若い女が立ち、じっとこちらを見ている。
身につけているのは丈の短いキャミソール一枚だけで足元は裸足、ひどく痩せていて体じゅうの骨が浮き上がって見える。
げっそり頬のこけた顔が紙のように白く、目尻の下がった丸い瞳は虚ろにどろりと濁り、濃い隈も浮いていた。
加えて全身血まみれで、特に左右のてのひらは、半分乾きかけた血液で赤茶色に染まっている。
どこからどう見てもまともでない。
男の子たちの表現を借りるなら、「かなりキテる状態」と言えるだろう。
「ハルカちゃん!?」
初めに口を開いたのはコナンだった。
私たちを押しのけてエレベーターから飛び出し、女に駆け寄った。
ぎょっとして見直すと、確かに別人のようにやつれ果ててはいるものの、indigoの客の一人でキャバクラ嬢のハルカだった。
ハルカはコナンに肩を抱かれると、へなへなと道路にへたり込んでしまった。
「ハルカちゃん、どうしたの?」
「大丈夫? 何があったんだよ」
慌てて後を追って駆けつけ、取り囲むとみんなで声をかけた。
しかしハルカは俯いたまま、細い肩を小刻みに震わせているだけだった。
明るい金色のロングヘアは乱れ放題で艶もなく、長いことカラーリングもしていないのか、生え際の数センチは真っ黒だ。
「ケガはないようだが、救急車を呼んだ方がいいな」
言いながら憂夜さんは上着を脱ぎ、ハルカの肩にかけてやった。
すると、ハルカがのろのろと顔を上げて言った。
「助けて……」
かすれた、今にも消え入りそうな声だった。
しかし、こちらに向けた視線は虚ろで定まらず、何を見ているのかわからない。
「だからどうしたんだよ。何があったか話してくれよ」
コナンはしっかり肩を抱いて促したが、ハルカは何もきこえないようにもう一度、
「助けて」
と繰り返しただけだった。
「無理に聞き出すな。とにかく救急車だ」
塩谷さんが言い、憂夜さんが携帯電話を聞いたその時、車のタイヤが軋《きし》む音が通りに響いた。
振り返ると、明治通から大きなワゴン車が一台左折してるのが見えた。
ふいにハルカが、喉の奥で短い悲鳴を漏らした。
そしてコナンの手を振り払って立ち上がると、止める間もなく駆けだした。
憂夜さんの上着がふわりと宙を舞い、アスファルトに落ちる。
ハルカは背中を丸め、足をふらつかせながらも必死に狭い通りの奥に向かって走っていった。
「ハルカちゃん!」
後を追うとしたコナンの足を、ワゴン車のヒステリックなクラクションが止めた。
ボディは黒塗り、スモークフィルムを運転席までがっちり貼っている。
慌てて飛び退いた私たちの前を、猛スピードで走り抜けていった。
前方を走るハルカとの距離があっという間に締まり、ヘッドライトの明かりに肩甲骨の浮き上がった背中が青白く照らし出される。
その時、ハルカが振り返った。
苦痛に歪んだ口元、血走った目は大きく見開かれている。
「ハルカちゃん!」
もう一度、コナンが叫ぶ。
ハルカとワゴン車は、そのまま通りの突き当たり、東横線のガード下の闇に吸い込まれていった。
「出た」
車から降りてきたのが豆柴だとわかると、思わず私はそう口走っていた。
「人をバケモノみたいに言うな」
豆柴は後ろ手にセダンのドアを閉めながら、憮然として言い返してきた。
屋根の上では、赤色灯が回転している。
「柴田さん、ご無沙汰しています」
憂夜さんが深々と頭を下げる。
すると豆柴は、
「よお、相変わらず羽振りがよさそうだな」
と言って下卑た笑顔を浮かべた。
通りかかった制服姿の警官が、豆柴に敬礼して足早に歩き去る。
私はその後ろ姿を見送りながら言った。
「ちゃんと捜してくれてるんですか? もう二時間近く経ってますよ」
時刻は午前六時、すでに夜は明け、雑居ビルの間から朝日が差し込み始めている。
あの後急いで110番通報し、現れた警官に事情を説明した。
すぐに応援のパトカーも数台駆けつけ周囲の捜査を始めたが、ハルカは見つからなかった。
塩谷さんはパトカーに同乗し、男の子たちもそれぞれ心当たりの場所を捜してくれている。
「当たり前だ。だから俺が来たんだろうが」
「怪しいもんだわ」
そっぽを向いてつぶやくと、上目づかいにこちらを睨みつけてきた。
百六十センチ足らずの私とほとんど変わらない背丈、だらしなくせり出した腹、滑稽なほど短い手足は今日もサイズの合わない安物のスーツの中を泳いでいる。
むだに色艶のいい額は、しばらく会わない間にさらに面積を広げたようだ。
柴田克一・通称豆柴は、渋谷警察署生活安全課の刑事だ。
彼とは、以前〈club indigo〉が関係したある事件を通じて知り合った。
事件は店の仲間と豆柴が協力し合って解決したものの、私と彼の個人的な相性は良好とは言えない。
むしろ最悪だ。
「何かの事件に巻き込まれたという可能性はないでしょうか? 格好といい、様子といい明らかに異様でしたし」
あくまでも礼儀正しく、憂夜さんが尋ねた。
ワイシャツのピンクが、徹夜明けの目にまぶしい。
憂夜さんの上着は、わずかな間ながらもハルカがはおっていたため、捜査資料として警察に渡してある。
「照会してみたんだが、管内にも近隣所轄にも該当しそうな事件の報告は入っていなかった」
豆柴が答えた。
上着のポケットからシワくちゃになった煙草の箱をだし、一本抜いて口にくわえる。
すかさず憂夜さんが、ダンヒルのライターで火を点けた。
「ハルカちゃんの勤め先と自宅は調べましたか?」
私の質問に豆柴は、大きな鼻の穴から煙草の煙を吐きながら答えた。
「ああ。しかしハルカ……本名、宮田江美《みやたえみ》は、ひと月ほど前に勤務先の道玄坂のキャバクラ〈ジャスミン〉に『辞めます』と電話をかけてきて、それきりらしい。自宅マンションにも、その頃から帰っていない様子だ」
「行方不明ってことじゃないですか! 家族から捜索願いとかは出てなかったんですか?」
私が声をあげると、豆柴は鬱陶《うっとう》しそうに顔をしかめた。
「さっき調べてみたが、江美はガキの頃から相当グレてたらしいぞ。両親との折り合いも悪く、高校卒業と同時に家出同然で上京して以来、ずっと音信不通だそうだ」
「だからって、捜査の手を抜いたりしないでくださいよ。身の上はどうであれ、がたがた震えながら『助けて』って言ってたわ」
「わかってるって。事件の可能性がある以上、捜査は続けるさ。しかし、手がかりが少ない上に曖昧すぎるんだよ。お前らは一番肝心なこと、つまり江美がどこから来て、何から助けて欲しいのかってことを何も見聞きしてないじゃないか」
言いながら、指先でばりばりと頭を掻いた。
大量のフケが焦げ茶色のスーツの肩に落ちる。
「あの車はどうなんですか? 黒いワゴンの話も聞いてるんでしょ?」
ムキになって食い下がったが、豆柴はさらに渋い顔になり、
「本当に江美のことを追ってきたのか? 連れ去られるところを見た訳じゃないんだろ? まあ、車のナンバーでも覚えてるのか?」
と言って、横目でちらりとこちらを見た。
「……覚えてません」
私はそう答えると唇を噛みしめ、顔を背けた。
私も、他のみんなも誰一人ナンバーどころか、社名すらチェックしていなかった。
あまりにも唐突で、異様で、あっという間の出来事だったので、そんなことを思いつく余裕すらなかったのだ。
それでも、ハルカの変わり果てた姿と、うわごとのように繰り返していた「助けて」という言葉は、はっきり目と耳に刻まれている。
それに、最後にこちらを振り向いた時の瞳。
恐怖と絶望、そして深い哀しみが痛いほど伝わってきた。
夕方、少し早めに店に行くと、オーナールームには既に憂夜さんと塩谷さん、ジョン太、アレックス、犬マンが来ていた。
あの後、捜査は警察に任せて家に帰ったが、ハルカの顔がちらつき、ほどんど眠れなかった。
恐らくみんなも同じだろう。
「晶さん、今連絡しようと思ってたんですよ」
ジョン太が勢いよくソファから立ち上がった。
「どうしたの? 豆柴から何か連絡あった?」
私が駆け寄ると、憂夜さんが黙って首を横に振った。
ハルカはまだ見つかっていないらしい。
「ハルカちゃんの事件つながりで、おかしなことがわかったんです」
ジョン太が興奮してアフロヘアを揺らすとアレックスも、
「この一件、何かありますよ。絶対ヤバい」
と野太い声で言い、大きな背中を丸めた。
自分が通うキックボクシング道場のオリジナルTシャツを着ている。
サイズはXXXL。
「おかしなことって?」
空いたソファに座りながら尋ねると、犬マンが説明してくれた。
ノーブランドのトレーナーにジーンズ、それでも一分の隙も感じられない。
「手がかりになる話が聞けるかもと思って、俺ら昼間から桃花《ももか》ちゃんとゆうなちゃんに連絡取ってたんです」
桃花とゆうなはハルカと同じ店で働くキャバクラ嬢で、ともにindigoの常連客だ。
「ところが、何度携帯に電話してもつながらないんで、さっき〈ジャスミン〉に行ってみたんです。そしたら、二人とも店を辞めてました。ひと月くらい前に突然電話してきて、それっきりって話でした。自宅にもずっと帰ってないみたいです」
「まるっきりハルカちゃんと同じじゃない!」
私が驚くと、ジョン太が細い目を爛々《らんらん》と輝かせて言った。
「ね、おかしいすよね? ヤバいすよね?」
「何かのトラブルに巻き込まれたのかしら。お金とか、対人関係とか」
今度は憂夜さんが答えてくれた。
「私もそう思って、さっき心当たりを調べてみました。しかし、三人ともサラ金などへの借金はないし、〈ジャスミン〉の客や店長、同僚とのトラブルも特になかったようです」
相変わらず仕事が早い。
「心当たり」が何なのかは、別の機会にゆっくり探ることにしよう。
「男絡みってことはない?」
「そっちは調査中ですが、今のところヒモとか暴力団関係の男とつながっているという話は聞いていません。麻薬が関係している可能性も低そうです」
すると犬マンが口を挟んだ。
「三人とも、そのへんはちゃんとわかってる感じでしたよ。金にしろ男にしろ、こっから先はヤバいっていう境界線を知ってて、その線ぎりぎりのところで遊んで面白がってるみたいな」
「ふうん」
私は、オーナールームの窓から時折見かけた三人の記憶をかき集め、つなぎ合わせた。
歳は二十から二十二、揃って金髪の巻き髪に濃い化粧、むやみに露出の高い服にブランドもののバッグやアクセサリー。
絵に描いたような渋谷の不良娘だが、性格は明るく気さくで、ノリもよかった。
特にハルカは太めで美人でもなかったが、姉御肌で気っぷがよく、度々差し入れをしてくれたり、新人ホストたちを食事に連れていってくれたりして、店のみんなから好かれていた。
「でも三人とも、ここ何ヶ月かは店に来てないわよね? 確か前は週に二、三回ペースで通ってたと思ったけど。どうしてかしら?」
するとジョン太が口を尖らせ、面白くなさそうに答えた。
「そんなの決まってるじゃないすか。BINGOが店を辞めたからですよ」
「なるほど」
言われてみれば、三人ともBINGOの指名客だった。
しかもかなり熱心でプレゼントやアフターなど相当な金をつぎ込んでいたはずだ。
「なるほど、じゃねえだろ」
ふいに背後から、ぶっきらぼうな言葉を投げかけられた。
塩谷さんだ。
今日も定位置のオーナーデスクに、シワだらけのチノパンに包まれた足を投げ出して座っている。
「どういう意味よ」
「BINGOの名前を聞いて、何か思い出すことはねえのか?」
「何かって何?」
するとバカにしたように鼻を鳴らし、
「更年期通り越して、ボケが始まったか」
と言った。
負けじと言い返そうとして、思い出した。
「そういえば、ゆうべBINGOから電話があったわね」
「確かに。ハルカの騒動ですっかり忘れていました」
憂夜さんも頷く。
「でも、それがどうかしたの?」
私が聞くと、大げさにため息をつき、面倒臭そうに説明してくれた。
「はるか、桃花、ゆうなのキャバクラ嬢三人が同時期に同じパターンで姿を消し、今朝になってハルカだけが血まみれで俺たちの前に現れた。そしてその前夜、彼女たちのお気に入りだったBINGOが突然店に電話をかけてきた……ただの偶然にしちゃできすぎだと思わないか?」
みんなが一斉に口を閉ざし、代わりにざわついた、冷たい空気が流れた。
「そうだ! 豆柴に知らせなくちゃ」
私ははっとして床に置いたバッグをつかみ、携帯電話を取り出した。
猛スピードで番号を捜していると、電話が鳴りだした。
着メロは三原順子の「セクシー・ナイト」。
豆柴からだった。
「もしもし?」
「〈club indigo〉に塚原真之《つかはらまさゆき》というホストがいたことがあるな?」
唐突にそう聞かれた。
「あります。今そのことで電話しようと思ってたんです」
私が驚くと、
「今からすぐに金王《こんのう》八幡宮に来い。塩谷と憂夜も一緒にな」
と言われた。
妙に落ち着いた硬い声、しかもこちらを気づかい、言い含めるような気配も感じられた。
「何があったの?」
無意識に、声が同じトーンになる。
「塚原の死体が発見された」
私が言葉を失い、背後に集まって聞き耳を立てていた男の子たちの顔色が変わった。
塚原真之、それがBINGOの本名だ。
すぐに三人で店を出た。
明治通りを横断し、恵比寿方面に三十メートルほど走って横道に入る。
ゆるやかな坂道の下から、突き当たりに立つ赤い鳥居が見えた。
金王八幡宮は、高層ビルの谷間にぽつりと空いた空間で、狭い境内には本殿や社務所、結婚式場などの建物が肩を並べている。
いつもは訪れる人も少なく閑散としているが、時ならぬ大事件にたくさんのパトカーと警察車両、そして大勢の野次馬たちに周囲をぐるりと囲まれ、騒然とした雰囲気だ。
「こっちだ」
一気に坂を駆け上がり、肩で息をしていると豆柴に呼ばれた。
入り口の小さな石段の上、立入禁止の黄色いテープの向こうに立っている。
境内に入ると、左手に鮮やかな朱色に塗られた本殿があった。
柱や梁には龍や虎の彫刻が施され、日光東照宮のような極彩色で彩られている。
私たちは豆柴の後ろにつき、本殿の右手、区の天然記念物にもなっている大きな桜の樹の裏側に回った。
樹の下には石造りの背の低い歌碑がいくつか建っていて、BINGOの遺体はその一つの下にあった。
発見したのは、犬の散歩にきた近所の老人らしい。
「塚原真之に間違いないな?」
豆柴が尋ねた。
私と塩谷さんが黙っていると、代わりに憂夜さんが、
「はい、間違いありません」
と硬い声で答えた。
日の落ちかけた境内を巨大なライトが照らし、その下を白手袋をはめた背広や制服姿の警官が慌ただしく行き来している。
BINGOは、長い手足を折り曲げるようにして体を丸め、横向きに倒れていた。
目は閉じ、代わりに口は軽く開かれている。
三ヶ月ぶりに見る横顔だ。
血の気が全く感じられない唇と、腹の下にできているとどす黒い血だまりを除けば、眠っているようだった。
その周囲で、テレビで見覚えのある青い制服を着た鑑識課員が写真を撮ったり、地面に何かの印をつけたりしている。
「死因は出血多量。腹部を鋭利な刃物でひと突きにされてる」
豆柴の説明が遠くに聞こえる。
体のまんなかに何か重たいものを投げ込まれたようで、身動きができず、何の感情も湧いてこない。
その代わりに、疑問だけが次々と電光掲示板の文字のように頭に浮かんでは消えていく。
なぜBINGOが?
誰がこんなことを?
「何でこんな格好してるんだ」
渋谷さんの声で我に返った。
見ると小さな目を鋭く動かし、BINGOの全身を眺めている。
改めて見直すと、確かに変だった。
毛先を遊ばせたショートレイヤー、ヘアスタイルはindigoにいた時と同じだ。
しかし、ライトブラウンだった髪は枝毛だらけのけばけばしい金色に変わり、抜けるように白かった肌も日サロでどす黒く焼かれている。
服装も同様で、ダークスーツにノーネクタイ、はだけだワイシャツの胸元からはシルバーのクロスチェーンが覗いている。
歌舞伎町・六本木などのいわゆる王道系のホストクラブで流行のコーディネートだ。
すると、豆柴が答えた。
「塚原はお前らの店を辞めた後、池袋の〈クロノス〉というホストクラブで働いていたらしい。遺留品に名刺があった。店にも確認ずみだ」
「〈クロノス〉!?」
憂夜さんが驚いたように声を上げた。
「結構な売れっ子で、稼ぎまくってたって話だぞ。知らなかったのか?」
豆柴が聞き、三人同時に首を横に振った。
そんな話は全く聞いていない。
そこに救急隊員が到着し、遺体を運び出す準備を始めた。
豆柴に促され、私たちも出口に向かって歩きながらBINGOが店を辞めるまでのいきさつとゆうべ電話があったこと、さらに桃花とゆうなが消えた一件も報告した。
「電話があったのは何時頃だ?」
豆柴が聞き、私が答えた。
「午前二時半頃だと思います。BINGOが刺されたのは何時頃ですか?」
「午後二時から三時の間ってところだ。境内の周囲からも血痕が見つかってるから、他の場所で刺された後でここに運ばれたか逃げ込んだかして、力つきたんだろうな」
つまり、BINGOは店に電話をしてきた直後に何ものかに刺されたということになる。
「犯人の目星はついてるんですか?」
今度は塩谷さんが尋ねた。
「今捜査中だ。お前らにも後で改めて話を聞くことになるから、連絡がとれるようにしておいてくれ」
「ハルカちゃんの件はどうですか? その後何かわかりましたか?」
私がたたみかけるように質問すると、豆柴は足を止め、大げさにため息をついた。
「そっちも捜査中だよ。何かわかったら知らせてやるから、これ以上首を突っ込むな。お前らが捜査に関わるとろくなことにならないんだよ。もし勝手に動いたり、何か隠したりしたら、いいか? 店を営業停止にして、お前らも店のガキどもも、まとめてぶち込んでやるからな」
お約束の言葉で締めると、私たち三人の顔を端からじろりと、精一杯ドスを利かせて睨みつけた。
「肝に銘じておきます」
口だけ殊勝にそう返した。
今さら首を突っ込むなと言われても手遅れだ。
私も、〈club indigo〉もとっくに事件に巻き込まれている。
それに、ハルカの行方もBINGOを殺した犯人も、見つける糸口は間違いなく私たちの手の中にある。
すると豆柴が私に向かって、余計な一言をつけ加えた。
「男勝りは、晶って名前だけで十分だろう」
「その台詞は前にも聞きました。言っておきますけどそれ、セクハラですよ」
むっとして言い返すと、隣で塩谷さんが肩を震わせ、ひひひと笑った。
店に戻ると、一階の客席フロアに男の子たちを集めた。
開店までは、まだ二十分ほどある。
憂夜さんがBINGOの殺害状況と、彼が〈クロノス〉で働いていたことを手短に説明した。
「じゃあBINGOが店を辞めたのも、〈クロノス〉で働くためってことですか?」
最初の口を開いたのはジョン太だった。
他の男の子たちはそれぞれソファに腰かけ、不安げな表情で押し黙っている。
「多分ね。スカウトマンに口説かれたんじゃないかしら」
私が答えると、男の子たちの間にざわめきが起きた。
俯いたまま小声で何か囁き合っている。
スカウトといえば聞こえはいいが、早い話が引き抜きで、この世界では日常的に行われていることだ。
すると、憂夜さんが進み出て言った。
「他に〈クロノス〉から誘われた者はいないか? 正直に名乗り出てくれ」
しかし男の子たちは揃って首を横に振り、憂夜さんは厳しい表情で黙り込んだ。
彼にはさっきから何度も頭を下げられている。
「BINGOが引き抜かれたのは、マネージャーである自分の監督不行届」というのがその理由だ。
「……すみません」
弱々しい声が聞こえ、同時にフロアの端でのろのろと誰かの手が挙がった。
レザーのリストバンドが巻きつけられた華奢《きゃしゃ》な腕、コナンだった。
「お前も引き抜きにあったのか? どんなやつだった? どんな風に誘われたんだ?」
憂夜さんが矢継ぎ早に質問すると、コナンは慌てて首を横に振った。
「違うんです。俺は誘われてません」
ニットキャップの下の目をおどおどと動かしている。
「どういう意味だ? 誰もお前を責めないからちゃんと説明しろ」
アレックスが穏やかに諭すと、コナンはほっとしたように頷き、話し始めた。
「三ヶ月くらい前なんですけど、BINGOさんを熱心に指名する客がいたんです。その女がスカウトマンだったらしく、少し経ってから『今度池袋にオープンする〈クロノス〉って店に誘われてるから、そっちに移る。金も待遇もめちゃめちゃいいし、もっと名前を売ってこの世界のトップに立ちたい。時期を見てお前も〈クロノス〉に引っ張ってやるから、誰にも言うな』って言われました。ヤバいって思ったんすけど、BINGOさんにはいろいろかわいがってもらったし、正直俺もその気になりかけてた。でも、まさかこんなことになるなんて……」
ふいに言葉を詰まらせ、両手で頭を抱え込むと肩を震わせ始めた。
「そういうことか」
塩谷さんが頷き、また男の子たちがざわめいた。
客を装って店に入り込み、目をつけたホストに巧みに話を持ちかける。
最も基本的な引き抜きの手口だ。
他にはホストの携帯番号を調べたり、遊び場で逆ナンを装って声をかけるなどのパターンもある。
「それじゃまさか、ハルカちゃんたちがindigoに来なくなったのは……」
私が言いかけると、コナンが顔が上げた。
「そうです。BINGOさんが〈クロノス〉に連れていったからです。三人ともすぐ常連になって、毎日のように通ってたはずです」
目を真っ赤に充血させ、鼻水をすすり上げながら言った。
「なるほどね」
これもよくあることだ。
引き抜かれる際に、自分の指名客の中から特に上客を誘い、新しい店に連れていく。
売り上げは確実に確保できるし、新しい店への手みやげにもなるが、元にいた店に対しては完全な裏切り行為だ。
BINGOが姿を消したのも、それがわかっていたからだろう。
「〈クロノス〉ってどんな店なんすか?」
質問したのはDJ本気《マジ》だ。
ヒッコリーのオーバーオールを着て、ソファの上で体育座りをしている。
髪型はトレードマークの金髪マッシュルームだ。
「開店して間もないが、急激に売り上げを伸ばしているという話だ。大手ホストクラブチェーンの傘下ではないらしく、経営母体ははっきりしない」
憂夜さんが答えた。
「どっちににしろその店、怪しいですね」
黙って話を聞いていた犬マンが口を開き、みんなの視線が集まった。
「これまでの流れを整理するとこうなります。まず三ヶ月前にBINGOが〈クロノス〉に引き抜かれ、客としてハルカ、桃花、ゆうなもついていった。その後ハルカたちが姿を消し、ゆうべ突然、BINGOとハルカがそれぞれ俺らに助けを求めてきた。そしてBINGOは殺され、ハルカは消えた。つまり、全ては〈クロノス〉の引き抜きから始まってるんです」
急いでコナンを連れて渋谷警察署に行き、さっきの話を豆柴にも聞かせた。
「絶対〈クロノス〉が事件に関係してます。すぐに捜査してください」
最後に私がそうつけ加えると、豆柴は露骨に迷惑そうな顔で、「捜査に首を突っ込むなって、さっき言ったばかりだろ」
と言った。
「貴重な情報をわざわざ提供しにきた市民に対して、そういう言い草はないんじゃないですか?」
思わず文句を言うと、
「協力には感謝してるさ。しかし、そんなことはとっくに捜査ずみなんだよ」
と答えて煙草をくわえ、アルミの灰皿を引き寄せた。
刑事課の取調室。
以前indigoが巻き込まれた事件の際に、たっぷりお説教されたのとは別の部屋だ。
しかし中央にスチールのデスク、パイプ椅子、窓には鉄格子というレイアウトは変わらない。
コナンは珍しそうに室内を見回している。
「捜査ずみ?」
「ああ、塚原真之をお前の店から引き抜いたことも、キャバクラ嬢の三人を客として連れてきたことも、全部〈クロノス〉の代表から聞いてるんだ」
面倒臭そうに言い、椅子にだらしなく背中を預けた。
代表とは、店の実務を仕切る責任者的な立場のホストのことで、トップから二番目のポストということになる。
王道系のホストクラブでは、従業員たちに独特の肩書きや役づけを与えている。
店によって若干の違いもあるが、最も一般的なのがオーナーまたは社長を頂点に、代表、支配人、店長、幹部が二、三名、加えて幹部候補も数名、という序列だ。
「じゃあ何で」
「〈クロノス〉って店はちゃんと営業許可も取ってるし、従業員の身元も確かだ。法律上は何の問題もない、ごく普通のホストクラブなんだよ」
「そんなの表向きだけよ。きっと、裏で何かやってるんだわ。家宅捜査でも何でもして、徹底的に調べるべきですよ」
「そんな必要はない」
「どうして言い切れるんですか?」
しつこく食い下がると、ついに豆柴がキレた。
「いい加減にしろ! 本当にぶっ潰してぶち込んでやるからな。脅しじゃねえぞ」
顎を突き出し、噛みつくように言った。
私は大きく広がった鼻の穴を見つめると、静かに目をそらした。
「じゃあ仕方ないですね」
その言葉に豆柴が頷くのを確認してから、すかさずこう続けた。
「でも、店の男の子たちが納得するかしら。引き抜かれたとはいえ、かつての仲間を殺されて興奮してるみたいだし、自分たちで勝手に調べるとか言い出さなきゃいいけど」
「……お前、俺を脅す気か?」
体を起こし、低い声でうなるように言った。
私はすました顔でさらにだめ押しした。
「とんでもない。事実を言ったままです。indigoの男の子たちが本気で動き出したら、私や憂夜さんにだって制止しきれないわ。あの子たちの行動力とネットワ−クは、柴田さんもよくご存じでしょう?」
豆柴が黙り込んだ。
ものすごい形相で私の横顔で睨んでいるのがわかる。
どうなるのかと、コナンが私たちの顔を交互に見比べている。
「教えてやったら、事件から手を引くな? ホストどもをおとなしくさせるな」
「もちろん」
私は満面の笑みを浮かべて答えた。
すると豆柴は「絶対だな?」と念押しした後、誰もいないのに周囲を見回し、小声でこう話してくれた。
「昨日の明け方、ハルカに着せてやったっていう上着を憂夜から預かっただろ? さっきその鑑識結果が出て、微量の血液が付着してることがわかったんだ」
「それならハルカちゃんの体についていた血ですよ。両手も体も血まみれだったもの」
「わかってる。問題は、それが誰の血だったかってことだ」
「誰ですか?」
すると豆柴は、さらに声を低くして答えた。
「塚原だよ。江美の体に付着していたのは、塚原真之の血液だったんだ」
「BINGOの!?」
思わずあげかけた声を、たしなめられて抑え込んだ。
すると、豆柴は話をこう続けた。
「加えて〈クロノス〉の代表とホストたちの証言から、塚原と江美、つまりBINGOとハルカの間に痴情トラブルがあったらしいことがわかったんだ」
「痴情トラブル?」
「そうだ。塚原が連れていった三人の中でやつに一番入れ込んでたのが江美で、新しい店に移っても毎晩のように同伴、アフター、店外デートをしていたらしい。で、成り行きで肉体関係を持ち、江美はいよいよマジになったが、塚原にとっちゃ客の一人にすぎないから、他の女とも同じことをする。キレた江美はストーカーまがいの行為を始め、店にも出入り禁止になるが、行動はますますエスカレートしていく……お前も何十回と聞いた話だろ?」
私は大きく頷いた。
この世界ではさして珍しくもない、ごくありふれた事件だ。
「だから、捜査本部では江美を塚原殺しの重要参考人として追うことにしたんだよ」
「ハルカちゃんがBINGOを殺したっていうの!?」
また大きな声を出しかけ、豆柴に止められた。
「決まった訳じゃない。だが、そう考えるのが自然だろ? 両手や体じゅうに被害者の血をべっとりつけてたんだぞ。それに江美がお前らの前に姿を現した場所、つまり〈club indigo〉と遺体の発見現場は、目と鼻の先じゃないか」
ふいにコナンが言った。
「だって、あんなに激痩せして、歩くのもやっとってくらい弱ってたんですよ。男を刺し殺すなんて絶対無理だ」
「そうよ。それに、桃花ちゃんやゆうなちゃんの件はどうなるんですか? ハルカちゃんとほとんど同じ時期に姿を消してるんですよ」
私も加勢すると、豆柴はこう答えた。
「その二人についても調べてみたが、ハルカ同様、どうしようもない放蕩娘だったみたいだぞ。親には半分勘当されたような状態で、もちろん捜索願いも出されていない」
「だからって……」
私の言葉を手ぶりで遮り、豆柴は言った。
「わかってる、ちゃんと捜すよ。そのためにも、江美を見つけることが重要なんだ。二人の行方について、必ず何か知ってるはずだからな」
「じゃあ、あの車、ハルカちゃんを追ってきた黒いワゴンは?」
「まだそんなこと言ってるのか」
豆柴がわざとらしくため息をついた。
「十中八九偶然通りかかっただけで、事件とは何の関係もない車だよ。お前はいちいち深読みしすぎるんだ」
反論しようとすると、また豆柴に遮られた。
「とにかく、江美を見つけ出すのが先決だ。怪しい、何かあるってだけじゃ〈クロノス〉のガサ入れはできないし、そもそもホストクラブなんてどこも怪しい噂の一つや二つあるもんだろ」
「それはそうだけど……」
私が口ごもると、豆柴はこれ幸いとばかりに立ち上がり、
「これで質問には全部答えたぞ。とっとと帰って、ホストどもをおとなしくさせろ。今度、捜査現場でお前らの誰か一人でも見かけたら、公務執行妨害で逮捕してやるからな」
と言ってハエか野良猫でも追い払うように、手のひらを振った。
閉店を待ち、オーナールームで作戦会議を開いた。
私はみんなに豆柴から聞いた情報を伝え、同時に屈辱的な対応に対するぐちもぶちまけた。
「もう何かわかっても、絶対あいつにだけは教えてやらないわ」
話を終えるとテーブルの上のグラスをつかみ、ビールを一気に半分ほど飲んだ。
「あんな万年刑事課長の小男、あてにする方が間違ってるのよ」
隣のソファで、呆れたように言ったのはなぎさママだ。
BINGOの事件を知り、心配して店に来てくれたのだ。
「そうすよ。こうなったら俺たちだけでハルカちゃんを見つけて、BINGOの殺しの犯人も捕まえてやりましょう」
向かいの席に座ったジョン太が言い、隣でアレックスが鼻息も荒く頷いた。
「でも、おかしいですね」
犬マンが言った。
「ハルカちゃんがBINGOにマジ惚れしてるのは知ってたけど、ストーカーなんかするようなタイプには見えなかったけどな」
すると、コナンが手を挙げていった。
「あっ、同感です。もし他の女に嫉妬してキレたとしても、ハルカちゃんならストーキングなんて面倒なことしないで、直接BINGOさんの横っ面をはり倒してますよ」
「そうそう。ハルカちゃんて、絶対そういうキャラだよ」
ジョン太がアフロ頭を揺らして同意した。
「じゃあ、痴情トラブルっていうのはでっち上げ、つまり〈クロノス〉の代表とホストたちが口裏を合わせて警察に嘘の証言をしたってこと? 何のために?」
ママが尋ねた。
ごつい手で、膝に乗せた子犬の頭をなでている。
生後三ヶ月のトイプードルで、全身きついカールのかかったダークブラウンの毛で覆われている。
「多分何かを隠すためか、ごまかすためよ」
私が答える。
「じゃあ、ハルカちゃんの体にBINGOの血がついていたのはなぜかしら」
「状況はわからないけど、BINGOが殺された現場にハルカちゃんがいたのは確かね。それより私は、もっと基本的なことが気になってるの」
「基本的なことって?」
「ハルカに桃花にゆうな、三人は揃って家族と絶縁状態で、失踪しても捜索願が出されていない。確かにお水系って訳ありな女の子も多いけど、ちょっと不自然じゃない? まるで誰かが、身の上を知った上で三人を選んだみたいだわ」
「誰かにって誰よ?」
今度の質問には私も肩をすくめ、みんなも首をひねった。
視線を感じて横を見ると、子犬が黒いビー玉のような目でじっと見上げている。
無意識に手を伸ばすと、いきなり牙を剥いて吠えつかれた。
「ちょっと晶ちゃん、まりんに何するのよ」
ママは非難がましく言うと私を睨みつけ、子犬を胸に抱き寄せた。
「それはこっちの台詞よ。なでてあげようとしただけじゃない」
私が言い返すと、
「この子、女が嫌いみたいなのよね。特に気の強い三十女が」
と減らず口を叩き、子犬の頭に頬をすり寄せた。
「……」
憮然として子犬にガンを飛ばすと、オーナーデスクで塩谷さんがカンにさわる声を立てて笑った。
男の子たちは俯いて、必死に笑いをこらえている。
なぎさママがこのいまいましい犬を飼い始めたのは、つい最近のことだ。
青山のペットショップの店先で目が合い、お得意の天啓≠受けて買ったそうだ。
性別はもちろんオス、血統書つきでお値段四十三万円也。
とにかく凄まじい溺愛ぶりで、どこにでかけるにも一緒らしい。
見た目はぬいぐるみのようにかわいらしいが性格は凶暴そのもの、とくに私には敵意を剥き出しにする。
まりんとかいう名前がついているらしいが、男の子たちは陰でこの犬のことを四十三万円≠ニいう身も蓋もない愛称で呼んでいる。
「手がかりになるかどうかはわかりませんが、新たにわかったことがあります」
憂夜さんが口を開き、みんなの視線が集まる。
「どんなこと?」
「開店に際して、〈クロノス〉は都内のあちこちのホストクラブから従業員を引き抜いたようです。しかし声をかけられたのは、腕がいいのは確かですが、とにかく名前を上げたい、金を儲けたい、そのためなら手段も選ばずというタイプのホストばかりなんです」
まさにBINGOのことだ。
「この世界のトップに立ちたい」、彼はコナンにそう話していた。
しかし今となっては、そんなBINGOを批判する気にはなれなかった。
彼も他の多くの若者たち同様自分の居場所、必要としてくれる人を求め、必死にもがいていたのだ。
「その手のホストばかりを集めれば、確かに短期間で驚異的な売り上げを上げられるでしょう。しかし、無理に高い酒を勧めたり、強引な営業をすればすぐに逃げられて潰れます。自分で自分の首を絞めるようなもんです。そんな店が長続きしないことは、誰でも知ってますよ」
憂夜さんが言い、みんなで一斉に頷いた。
「それからもう一つ。〈クロノス〉のオーナーがわかりました。黒崎《くろさき》という男ですが、関西で風俗店を数店経営していたらしいという以外の経歴は謎です。しかし一部では、黒崎は神原《かんばら》組とつながっているという噂も流れています」
「神原組って?」
「ヤクザです。池袋に事務所を置いて、西口の繁華街を中心に仕切っています」
男の子たちがざわめいた。
目的が見えない引き抜きを行い、客の女が三人も失踪、従業員のホストは殺され、正体不明のオーナーのバックにはヤクザ……。
〈クロノス〉という店、どう考えても「ごく普通のホストクラブ」ではない。
「決めた」
私が言うと、みんなとついでに四十三万円もこちらを見た。
「客を装って〈クロノス〉に潜り込んでみる。きっと何かつかめるはずよ」
「反対です。危険すぎる。相手はヤクザですよ」
誰よりも速く憂夜さんが反応した。
「わかってるわよ。でも他に方法がある?」
「警察に頼みましょう。私からも柴田さんに〈クロノス〉の捜査をお願いします」
「むだよ。確かな証拠を揃えて突きつけない限り、警察は動いてくれないわ。それに。今度こそ本当に逮捕されかねないわよ」
「だからといって、高原オーナーが一人で乗り込むなんて無茶ですよ」
「仕方がないじゃない、男連れでホストクラブ行く訳にはいかないから、みんなにつき合ってもらうのは無理だし、店の仲間の中で女は私だけもの」
そう言って肩をすくめると、隣でハスキーボイスが響いた。
「失礼ね。ここにもう一人いるじゃない」
ぎょっとして見ると、なぎさママと四十三万円が恨めしげな目で私を睨んでいた。
そして、
「あたしが一緒に行ってやるわよ」
というと、グラスのワインを飲んだ。
「えっ? でもそれは……」
私はうろたえたが、ママは、
「いいの。心配しないで。BINGOには、アフターでさんざんあたしの店を使ってもらったのよ。ハルカちゃんにも何度か会ったけど、いい子じゃない。あたしにも協力させてよ。それに、いざとなったらボディーガードになるわよ。ヤクザだかホストだか知らないけど、柔道黒帯の実力を見せてやるわ」
と勝手に話をまとめ、シルクブラウスの袖をまくり上げて雄々しく力こぶを作ってみせた。
四十三万円が、羨望のまなざしでそれを見上げている。
「まあ確かにママが一緒に来てくれれば心強いけど」
心中複雑ながらも私が納得し、憂夜さんは、
「いや、しかし……」
とつぶやいて眉をひそめた。
すると、塩谷さんが言った。
「じゃあこうしようぜ。〈クロノス〉の前に車を停めて、晶とママが中に入ってる間、男たちが交代で見張りをする。で、異常があったり、二時間経っても二人が出てこなかったら、憂夜さんに連絡して指示を仰ぐ。どうだ?」
「それならまあ……」
憂夜さんが渋々納得すると男の子たちの間から歓声があがり、興奮した四十三万円が甲高い声で鳴き始めた。
念のためにアゼリア通りで車を降り、歩いて〈クロノス〉のある細い小径に入った。
湿ったアスファルトはカラスの糞で汚れ、煙草の吸い殻が散乱している。
西口五叉路から池袋二丁目の交差点まで、劇場通りを挟んだ左右十ブロックほどが池袋を代表する歓楽街だ。
規模は新宿歌舞伎町の十分の一程度で、狭い通りに低層の雑居ビルが軒を並べている。
飲み屋やキャバクラ、ヘルスにソープはもちろん、ホストクラブが集中しているのもこのエリアだ。
時刻は午前二時をすぎ、通りには終電を逃したサラリーマンや若者のグループが気の抜けた顔で行き来していた。
シャッターを下ろした店の前には、ジーンズやナイロンパンツをだぶつかせた若者たちが座り込み、その前を、仕事を終えたキャバクラ嬢やヘルス嬢が疲れた顔で通りすぎていく。
「まりんは元気にしてるかしら」
歩きながらなぎさママが言い、ため息をついた。
アニマルプリントのワンピースにゴールドのパンプス、いで立ちも派手なら化粧も香水も一段と濃い。
「別れてからまだ三十分も経ってないじゃない。それに、ちゃんと家にペットシッターとかいうのに来てもらってるんでしょ?」
私が呆れると、ママはすねたように首を傾げた。
「そりゃそうだけど、こんなに長時間離ればなれになるのは初めてなのよ。寂しがってないかしら」
「ないない。今ごろ元気にシッターさんの向こう脛《ずね》に噛みついてるわよ」
そう断言すると、ママが私を睨んだ。
「ちょっと、失礼なこと言わないでよ。それより晶ちゃん、また腰が落ちてる。歩く時は、背筋と膝をまっすぐに伸ばすって言ったでしょ。一目でハイヒールはき慣れてないってばれちゃうわよ」
「だって、足元がふらついて上手くバランスが取れないんだもの」
アスファルトにヒールを打ちつけるようにして歩きながら、私が言い訳した。
「情けないわねえ。たった五センチじゃない。あたしが晶ちゃんの年の頃には、近所に買い物に行く時も十一センチヒールをはいていたわよ」
「よくサイズがあったわね。ママの足って確か二十八センチよね?」
憎まれ口を叩きつつ、ちらりと背後を振り返った。
二十メートルほど距離を置き、濃紺のワゴン車が徐行運転でついてくる。
運転席にはコナン、助手席には犬マンだ。
二人して私の格好と、慣れないハイヒールでのぶざまな歩き方を笑いながら見物しているに違いない。
あの後みんなで計画を練り、私とママは翌日の晩から〈クロノス〉に通うことになった。
しかし、問題が一つ。
典型的な王道系ホストクラブである〈クロノス〉は、客の大半がキャバクラ嬢やソープ嬢といった水商売の女性だ。
そこにほぼすっぴん、ジーンズにスニーカー姿の三十路女と、全身ブランドづくしの熟年オカマの組み合わせで出かければ明らかに浮く。
そこで仕方なく私が変装し、「仕事帰りのキャバクラ嬢(ギリギリ二十代)と、いきつけのオカマバーのママ」という設定をでっち上げることにしたのだ。
衣装と小道具の調達は憂夜さん、ヘアメイクはなぎさママが担当してくれた。
出がけにindigoに現れた塩谷さんは、金髪巻き髪のカツラにミニのキャミソールドレス、加えてつけ睫毛とマスカラの重ね塗りで目がラクダのようになっている私を見て、「こういうオカマを歌舞伎町で見たことあるな」とコメントした。
〈クロノス〉は通りの中ほど、二階建ての小さな古いビルの一階に入っていた。
エントランスをくぐると短い廊下があり、その突き当たりに金ピカの看板を貼りつけた重厚なガラスのドアが見える。
ドアの前まで来てもう一度振り返ると、通りの向かい側にワゴン車が停車するのが見えた。
運転席の窓がわずかに開き、コナンがこちらに向かって親指を突き立ててみせる。
作戦開始の合図だ。
「行くわよ」
私が言い、なぎさママが力強く頷いた。
重たいドアを押し開けたとたん、
「いらっしゃいませ」
という威勢のいい声と、大音量のユーロビートに出迎えられた。
「初めてなんだけど、いいかしら?」
近づいてきた男の子に、ママが言った。
「もちろんです。ようこそ〈クロノス〉へ」
前髪を鼻の上まで簾のように垂らした彼は、そう言ってにっこり笑った。
案内されて狭い通路を進みながら、すばやく店内をチェックした。
低い天井に人工大理石の床とテーブル、鏡張りの壁、柱や手すりはすべて金色だ。
ホストたちは揃って金髪シャギーに黒い肌、ダークスーツにノーネクタイ、はだけた胸にシルバーのネックレスというスタイル。
フロアに出ているのが二十名ほどなので、休みや外出中の子、さらに厨房スタッフを入れると総在籍数は三十名弱といってことろだろう。
ここまでは予想通りだ。
席に通されるとすぐに別の男の子が現れ、ひざまずいて料金とシステムについて説明してくれた。
初回に限りフリータイム、税金、サービス料込みで一人五千円、ブランデーと焼酎が飲み放題。
そして二回目以降は一時間につきタイムチャージが三千円、税金は五パーセント、サービス料は十五パーセント、他にホストの指名料がかかり、ボトルキープは七千円から。
特別高くも安くもない、ごく一般的な料金設定だ。
「担当はお決まりですか?」
説明を終えると、男の子が尋ねた。
指名したいホストはいるかと聞いているのだ。
一見の客でも、噂を聞いたり、ホームページを見たりして指名ホストを決めている場合も多い。
いないと答えると、分厚いアルバムを手渡された。
ホストたちの写真と源氏名、簡単なプロフィールが載っている。
それぞれポーズは少しずつ違うが、全員が上目づかいの潤んだ瞳、ナルシズムと媚びに溢れた表情でこちらを見つめている。
中には力を込めすぎて目玉が飛び出しそうになっている子や、まぶたの周辺の筋肉が引きつっている子もいた。
私が辟易《へきえき》して目をそらすと、ママが言った。
「かわいい子ばっかりで決められないわ」
すると男の子は、
「分かりました。ではできるだけ多くのスタッフをお席に伺わせます」
と答え、下がっていった。
これがいわゆるフリー≠フ状態で、ホストたちが入れ替わり立ち替わりで接客し、その中から次回以降指名する子を決める。
ほとんどの王道系ホストクラブでは、永久指名制といって一度指名する男の子を決めると、よほどのことがない限り、変更できないシステムになっている。
間もなくテーブルに焼酎のボトルと氷、|チャーム《おつまみ》が並び、同時に男の子が二人現れた。
「ようこそ〈クロノス〉へ。黎太《れいた》です」
顎のまんなかに一筋ヒゲを生やした子が言い、名刺を差し出した。
「初めまして。智也《ともや》です」
もう一人は鼻ピアスに金髪のロン毛だ。
二人は、私とママを挟むようにして座った。
「あたしはなぎさ、渋谷でバーやってんの。こっちはお友達のアキちゃん。道玄坂の〈プチセレブ〉ってクラブの子よ。仲良くしてね〜」
ママが勝手に源氏名と勤め先の店名を考えてくれたので、私も「アキでぇ〜す。よろしく〜」と小首を傾げてみせたが、笑顔が引きつるのが分かった。
何層も重ね塗りしたファンデーション、コンシーラーその他の化粧品で表情筋が思うように動かないのに加え、ひどく緊張している。
潜入捜査はもちろん、客としてホストクラブに来るのもこれが初めてなのだ。
「ねえ、この店煙草OK?」
いきなりママが尋ね、メンソールの煙草を指に挟んだ。
「もちろんです」
智也が言い、スーツのポケットからすばやくライターを取り出した。
「じゃあオカマは? OKかしら?」
すかさずシナを作ってママが聞き、黎太と智也が爆笑した。
「あっ、やっぱお客さん、そっち系の人すか?」
「もちろんOKです。楽しんでいってくださいよ」
あっという間に場が和んだ。
「えっ、じゃあひょっとしてアキちゃんも……」
尋ねながら、黎太が戸惑ったような視線を私の全身に走らせた。
「ひっど〜い! 女に決まってるじゃん。サイテ〜」
無理矢理声を張り上げ、黎太の肩を叩く。
するとママが身を乗りだしてきた。
「サイテーはこっちの台詞よ。こんな汚いオカマがいる訳ないじゃない。見てよ。この子の乳。小さい上に思いっきり垂れてんのよ」
身ぶり手ぶりを交えて大袈裟に言い、黎太と智也が笑い転げた。
「ちょっと! 見たこともないくせにいい加減なこと言わないでよね」
思わずムキになって抗議すると、男の子たちはさらに湧いた。
ママがちらりとこちらに目配せしてくる。
「潜入成功」、そう言っているらしい。
さすがこの道のプロ、わずか数分の間に場を盛り上げ、ペースを作ってしまった。
その後も、約十五分間隔で次々と男の子が現れては去っていった。
時間とともに私の緊張も解け、男の子たちとあれこれ話してみたが、想像していたより遙かにレベルが高い。
クールな二の線から突っ込みメインのお笑い系、子どもっぽい天然系と顔ぶれが揃っている上に、みんなマナーがよく、話題も豊富だった。
予定の二時間はあっという間にすぎ、私は名残惜しそうなママをせき立ててキャッシャーに向かった。
請求された金額は一人税金・サービス料込みで五千円、初めに説明された通りだ。
「本日はお楽しみいただけましたか?」
ふいに背後から声をかけられた。
振り向くと、全身黒ずくめの男が立っていた。
短く刈り込んだ髪も黒で、毛先をジェルで固めて立たせている。
「とても楽しかったわ。いいお店ね」
そう答えながら、ママがにっこり微笑んだ。
すると男は一礼し、名刺を差し出した。
「ありがとうございます。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」
名前は真咲《まさき》、肩書きは代表≠ニなっている。
警察にBINGOとハルカについての証言をした張本人だ。
思わず身構えると真咲は、
「新規ご来店のお客様に限り、こちらのくじを引いていただいております。どうぞ」
と言ってキャッシャーの脇を指さした。
小さな円テーブルが置かれ、黒いノートパソコンが一台セットされている。
「くじって、何が当たるの? ブランドグッズとか?」
ママは目を輝かせたが、真咲は申し訳なさそうに首を横に振った。
「いえ。当選された方には、当店のVIPチケットを三枚差し上げております」
「VIPチケット?」
今度は私が聞き、真咲は、
「はい。料金が特別割引きになるクーポン券のようなものです。大変お得ですので、ぜひ挑戦なさってください」
と答えながら、私とママをパソコンの前に導いた。
十四インチの液晶画面に、CGイラストで中央に取っ手のついた角張った箱が描かれている。
いわゆるガラガラくじ≠ニいうやつだ。
箱の前には『ここをクリックしてスタート!』という表示のボタンもある。
「どうぞ」
真咲はまずママを促した。
するとママは、
「あたし、こういうの得意なのよ」
と言い、何の迷いもなくパソコンの脇にセットされたマウスをつかんでスタートボタンをクリックした。
すると箱のイラストが回転を始め、右下から青い玉が一個転がり落ちた。
画面が玉のアップになると、まんなかから二つに割れ、中から『はずれ! 残念!!』の大きな黒い文字が躍り出た。
「何よ〜、はずれ!?」
ママが舌打ちし、真咲は、
「申し訳ございません」
と言って大袈裟に頭を下げた。
そして、そのままの姿勢で私を見上げ、
「お客様、どうぞ」
と促した。
その目の妙な光と力の強さに、背筋がぞくりとする。
しかしママは、
「アキちゃん、やりなさいよ。あたしの分までリベンジしてちょうだい」
と言い、私の肩を押した。
仕方なくマウスをつかむと、スタート表示をクリックした。
先ほどと同じように箱が回転し、今度は赤い玉が出てきた。
そして、割れた玉からは『大当たり! おめでとう!!!』というカラフルな文字が飛び出した。
「当たったわ! やったじゃない!!」
ママは興奮して叫び、私の背中をばしんと叩いた。
足元がぐらつき、危うく転びそうになる。
「おめでとうございます。こちらをどうぞ。VIPチケットです」
真咲は満面の笑顔でそう言うと、私に長方形の紙片を三枚手渡した。
つや消しゴールドの地に黒で〈クロノス〉のロゴマークが印刷されている。
裏返して見たが、何も書かれていない。
「特別割引ってどういうこと?」
私が聞くのと同時に、フロアでカラオケが始まった。
大音量でイントロが流れ、落ちた照明の代わりに安っぽいカクテルライトが回りだす。
歌っているのはホストで、何とかいうビジュアル系バンドの新曲だ。
歌声と伴奏にかき消されて会話ができない。
「こちらのチケットをご持参いただけますと、料金が三十パーセント割引になります。その他詳しいことはこちらに」
そう言って真咲が目配せすると、レジ係の男の子が表面をラミネート加工したB5サイズの書類を一枚手渡した。
黒地に赤の小さな文字がびっしり並んでいるが、表面にライトが反射してよく読めない。
サビ部分に入ったのか、歌声のボリュームがぐんと上がり、ライトの回転も一段と速くなった。
「わかったわ。とにかくもらっておく」
書類を返し、受け取ったチケットを借り物のディオールのバッグに押し込んだ。
耳鳴りがして、目もちかちかする。
ママと二人で急いでキャッシャーから離れ、店の外に出た。
真咲とホストたちが数名、慣れた様子で整列した花道を作る。
「ありがとうございました」
男の子たちが一斉に頭を下げ、通りを行く人々が何ごとか振り返って見ている。
「ありがとね。また来るわ〜」
なぎさママが上機嫌で手を振る。
すると真咲が、
「またのご来店をお待ちしています」
と言って私の目を見つめ、静かに微笑んだ。
それから三日ほど間を空け、私となぎさママは再び〈クロノス〉に行った。
初回はどこの店もいいところしか見せないもの、今度こそ、と意気込んで出かけたものの、怪しい話をもちかけられることも、無理に高い酒を勧められることもなかった。
さらに三度目も同様で、楽しく飲んで騒いであっという間に二時間が経ってしまった。
四度目に出かけたのは、〈クロノス〉に通い始めてから十日ほど立った晩だった。
「今夜こそ何かつかんでやるんだから、絶対飲み過ぎないでよ、ママ」
池袋に向かう車の中で私がそう忠告すると、ママは覗き込んでいた手鏡から顔を上げ、
「わかってるわよ。しつこいわね」
と答え顔をしかめた。
「どうもママは、あの店に行く目的を見失ってる気がしてしょうがないのよね」
ママは〈クロノス〉がすっかり気に入ってしまったらしい。
毎回大はしゃぎでボトルを空にした上、男の子たちにマラカスやタンバリンを振らせながら、カラオケで青江美奈や美川憲一やら六十年代ムード歌謡を歌いまくった。
「バカねえ。あれも作戦の一つなの。わざとバカっぽいカモれそうな客を装って、向こうの出方を見てるのよ。それに、せっかく割引きチケットが当たったのにけちけちしてたら、かえって怪しまれちゃうわ」
「よく言うわ」
呆れた私を無視して、ママは化粧直しを再開した。
「しかし、そのVIPチケットってすごいっすよね」
助手席に座ったジョン太が、大きなあくびをしながらこちらを振り返った。
運転席にはDJ本気《マジ》、今夜はこのコンビが見張り当番だ。
「三十パーセント割引を三回でしょう? ボトルをキープしてたら、客はほとんどただですむじゃないですか。全部で何人に当たるのか知らないけど、よくやっていけるなあ」
みんなにくじ引きで当たったVIPチケットを見せると、「話がうますぎる。怪しい」という声があがった。
しかし、恐る恐る二度目の来店時に使ってみると、本当に料金が割引になった。
もちろん、文句を言われたり、脅されたりすることもなかった。
「そうなのよね。でも憂夜さんは、大手の傘下じゃない新規参入店が生き残ろうとしたら、赤字覚悟でこれくらいのサービスはするかもしれないって言ってたわよ」
私が言うとジョン太は、
「そんなもんすかねえ」
と言って、またあくびをした。
左右のまぶたが腫れぼったくむくみ、目がいつにも増して細く見える。
つられて、DJ本気もハンドルを握りながらあくびをした。
ワゴン車は真夜中の山手通りを北上している。
「ちょっとあんたたち何なの? さっきからあくびばっかりしてるじゃない」
真っ赤な口紅を重ねて塗りつつ、ママが眉をひそめた。
「寝不足なんですよ。ゆうべ店でお客さんの誕生パーティをやったんだけど、閉店までさんざん騒いだ後、アフターにもつき合わされて、朝の八時まで飲んでたんです」
だるそうに首を回しながら、ぼんやりした顔でジョン太が説明した。
店の仕事に加えて交代で私たちの送り迎えと見張り、男の子たちにも疲労の色が見え始めている。
「大丈夫? 運転代わるわよ」
少し不安になって申し出ると、DJ本気がルームミラー越しに私を見た。
「大丈夫です。運転も見張りもビシッとやりますから、安心してください」
元気よくそう言ったが、同時に強烈なミントの香りが漂ってくる。
眠気覚ましのガムを数枚まとめて噛んでいるらしい。
四度目の〈クロノス〉も、特に変わりはなかった。
ホストたちはノリがよく、客席はほとんど満席、なぎさママはお気に入りの男の子たちに囲まれて上機嫌だ。
異変が起こったのは、店に入って三十分ほど経った頃だった。
トイレに立ったついでに浮き上がってきた目尻のシワをファンデーションで塗り込め、カツラを整えて席に戻ると、ママが姿を消していた。
ホストたちの話では、携帯にかかってきた電話に出たとたん血相を変え、帰ってしまったという。
「まりんが大変なの。と何とか言ってたけど」
ホスト一人が、訳がわからないという顔で言い、首を傾げた。
私は心の中で舌打ちすると再びトイレに駆け込み、携帯電話でママの番号を呼び出した。
「もしもし、晶ちゃん? ごめんね〜」
電話に出るなりママはそう言って謝った。
「突然どうしたのよ。まりんに何かあったの?」
「晶ちゃんがトイレに行ってる間にペットシッターの女の子から電話があって、まりんがいなくなったって言われたのよ」
「いなくなった?」
「散歩に行きたがったんで外に出たらしいんだけど、途中であの子がシッターの子の足首に噛みついたそうなの。で、驚いて引き綱を離したら、逃げちゃったって言うのよ」
半べそをかきながら、ママはそう説明した。
「……」
あまりに私の予想通りの出来事なので、何も言う気が起こらなかった。
つぶらな瞳を邪悪に輝かせ、シッターの女性の柔足に牙を立てる四十三万円の姿がありありと目に浮かぶ。
ママは興奮した様子で話を続けた。
「きっとシッタ−の子は、まりんがいやがることを無理矢理しようとしたのよ。かわいそうに、あの子今頃どこかで震えながら、あたしが迎えにくるのを待ってるわ」
「だからって勝手に帰らないでよ。まりんならシッターさんが捜してくれるわよ。すぐに戻ってきて」
「だめよ。うちの近所でまりんが逃げ込みそうな場所は、あたししか知らないんだもの。それにもうタクシーに乗っちゃってるし。いいじゃない、晶ちゃんだけでも遊んでいきなさいよ」
私は背中を丸め、手のひらで通話口を囲むと言った。
「だから遊びに来てるんじゃないんだってば。とにかく、急に一人にされても困るわ。心細いじゃない」
「わかってるわよ。でも晶ちゃんが急に慌てたり、おどおどしたりしたらそっちの方が怪しまれるわよ。堂々として座ってればいいの。それに、ジョン太たちにも、晶ちゃんが一人になったことはちゃんと話しておいたから大丈夫よ」
その時、ふいにトイレのドアがノックされた。
「アキちゃん、大丈夫?」
同席しているホストの声だった。
確かに怪しまれるのが一番まずい。
私は電話を切ると、ドアを開けた。
「ごめんね〜。お化粧してたの」
能天気に声をかけると、ホストも笑顔で熱いおしぼりを差し出してきた。
「よかった。具合が悪くなったんじゃないかって、心配しちゃったよ。なぎさちゃんはどうしたの? まりんってだれ? なぎさちゃんの彼?」
「まあ、そんなようなものかな。よくわかんないけど、すごく大事な用ができたんだと思う。仕方ないよね」
おしぼりで手を拭きながら、何気なく答える。
「ふうん。じゃあ、今夜なぎさちゃんはもう戻ってこられないんだね?」
ホストはそう言うと、鬱陶しそうな前髪の隙間から私の顔を覗き込んだ。
「多分ね。私一人だけじゃ何か問題ある?」
少し緊張しながら尋ねると、ホストは首を大きく横に振った。
「まさか。全然ないよ。アキちゃんがいてくれるだけで、チョ〜嬉しい。当たり前じゃん」
「ホント? よかった。私もチョ〜嬉しい」
無理矢理テンションを合わせて微笑み返すと、
「じゃあシャンパンで乾杯しようよ。俺、オーダー入れてくるから、先に席に戻っててくれる?」
と言い、足早にバックヤードの方向に歩き去った。
その後改めてドンペリで乾杯し、一時間ほど話し、乗せられてカラオケまで振りつきで一曲歌った(中森明菜の「1/2の神話」)。
帰り支度をしてキャッシャーに立ったのは、午前三時過ぎだった。
これも借り物のヴィトンの財布からVIPチケットの最後の一枚を取り出し、カウンターの上に置く。
すると、レジを叩いていた男の子が言った。
「お会計は、百五十六万八千円です」
「はあ?」
思わず聞き返した。
「ご請求金額は、百五十六万八千円になります」
指先でレジの金額表示画面を示しながら、男の子が繰り返す。
しかも真顔だ。
「どういうこと? 二時間いただけだし、VIPチケットも使ったのよ。そんな金額になるはずないじゃない」
訳がわからずに尋ねると、すぐ後ろから返事が返ってきた。
「私からご説明させていただきます」
ぎょっとして振り向くと、真咲が立っていた。
今日も黒ずくめ、前髪もほぼ直角に立っている。
彼に会うのは、初めて店に来た時以来だ。
「お客様は、これで三枚のVIPチケットを全て使いきられたことになります。ですので、本日の飲食代に加え、これまでにご利用いただいたチケットの割引対象外となる料金を精算していただきたく、お願いしております」
淀みのない口調で、穏やかな笑顔を浮かべつつ、そう説明した。
「割引対象外の料金!? 何よそれ。そんな話聞いてないわよ」
私が大きな声を出すと、入口付近の席に座った客が驚いたように振り返った。
しかしホストたちは素知らぬ顔で客に酒を勧め、おしゃべりを続けている。
「わかりました。では、上の者から説明させていただきます」
全く表情を変えず、真咲が言った。
「上の者?」
「はい。当店のオーナーを呼びますので、事務所でお待ちいただけますか?」
言いながら、フロアの奥を指した。
一瞬迷った後、私は頷いて答えた。
「わかったわ」
不安よりも、割引対象外料金の正体と噂のオーナー・黒崎に会いたいという気持ちの方が強かった。
それに、いざとなればジョン太たちが助けにきてくれるはずだ。
真咲の後についてフロアを横切り、バックヤードに向かった。
手前に厨房、奥にホストたちのロッカールーム、狭い通路を挟んで向かい側に事務所という造りらしい。
通路の突き当たりには裏口のドアも見える。
「どうぞ」
そう促され、室内に入った。
応接ソファにスチールの書類棚、事務机がいくつか、ゴージャスな客席フロアとは別世界のように地味な事務所だ。
壁が厚いのか、客席の喧嘩も伝わってこない。
奥にもう一部屋あるらしく、横の壁にドアがあった。
しかし、そのドアには異様なほどの数の鍵とチェーンが取りつけられている。
部屋の中に何があるのだろうか。
ソファに座っていた中年男が二人、立ち上がって私に席を譲った。
揃ってヘアスタイルはパンチパーマ、サマーセーターの胸には派手な刺繍が施されている。
ボトムスは裾の広がった黒いスラックス、革靴の先端はサメの鼻のように尖っていた。
絵に描いたようなヤクザファッションだ。
ソファに腰かけ、下品な目つきでこちらを眺めるパンチパーマコンビにガンを飛ばしていると、入口のドアから背の高い男が入ってきた。
「オーナーの黒崎です」
男はそう言って頭を下げた。歳は四十半ば、まんなか分けの黒髪で小さな縁なし眼鏡をかけている。
ダークスーツを着ているが、ホストにもやくざ風にも見えない。
爬虫類のような目つきと、整えすぎた眉を除けば、エリート商社マンと言えなくもない風貌だ。
「当店のサービスシステムにご不満をお持ちだとか?」
私の向かいに座りながら言った。
その後ろに真咲とパンチパーマの男たちがずらりと並ぶ。
「不満も何もどうして百五十万も払わなきゃならないの? 割引対象外の料金って何よ」
余裕を見せるつもりで、足を組み替えながら聞き返した。
「差し上げたチケットで割引になるのは飲食代だけです。ですから、その他の料金は別途ご請求させていただいております。また、チケットご利用のお客様は名前の通りVIP待遇となりますので、お連れ様分も含め、料金設定は通常とは異なります。明細はこちらの方に」
黒崎が言うと、真咲が伝票を差し出してきた。
引ったくるように受け取ってみると、確かに酒とつまみは三回とも割引が適応され、ただのような金額だった。
問題はその他だ。
ホスト指名料が一名一時間につき五万円、ヘルプが一名いて二万円、さらにテーブルチャージとボックスチャージが一回につきそれぞれ二十パーセントもかかる。これを三回×二人分、最後に私が一曲、ママが二十曲以上歌ったカラオケの料金・一曲一万円の合計を加え、出てきた総合計請求金額が百五十六万八千円ということらしい。
「よくもまあ……」
呆れ返ってそれ以上の言葉が出てこなかった。
こんな古典的かつ初歩的なぼったくりの手口を、よく臆面《おくめん》もなく使えるものだ。
「とにかく、私にこの代金を払う義務はないわ。だって、詐欺だもの。割引が飲食代だけとか、VIP料金なんて一度も聞いてないわよ」
「言いがかりは困りますね」
指先で眼鏡のブリッジを押し上げながら、黒崎が言った。
「この真咲が、きちんとチケット利用時の規約をお見せしています」
「嘘言わないで。そんなの見てないわ」
待ちかまえていたように、真咲がテーブルに何かを載せた。
ラミネート加工された黒いB5の紙にびっしりと細かい文字が並んでいる。
VIPチケットをもらった時に、真咲が見せてくれたものだ。
確かにあの時彼は、「詳細はこちらに」と言っていた。
慌てて利用規約に目を通すと、たった今黒崎に説明された通りのことが書かれている。
やられた、そう悟ると同時に全身の力が抜けた。
それでも私は必死に抵抗を試みた。
「でも、あの時は暗くてよく読めなかったのよ。それにカラオケがうるさくて……」
「それはお客様の個人的な事情でしょう? 私どもには何の関係もないことです」
「そんな……」
私の言葉を遮り、黒崎は強い口調でこう言った。
「とにかく、料金はお支払いいただきますよ。念のため申し上げておきますが、当店は売掛もクレジットカードも取り扱っておりませんので。百六十万八千円、現金でお持ちですか?」
私はやけくそになって答えた。
「持ってる訳はないでしょ」
「では仕方がありませんね」
わざとらしくため息をつくと、黒崎が肩をすくめた。
「警察に、と言いたいところですが、当店としては、お客様に代金相当の仕事をしていただければ、表沙汰にする気はございませんので」
「仕事?」
「はい。ただし、お客様の場合はかなり時間がかかるのは覚悟してください。それなりにお歳も召してらっしゃるようですし」
こちらを小馬鹿にしたような口調で言った。
言葉づかいが丁寧なままなのが、腹立たしさを倍増させる。
「ちょっと、それどういう意味よ。失礼ね」
そう問いただすと、黒崎の手が伸びてきて、すばやく私のカツラを奪い取った。
真咲や男たちがぎょっとして見る。
「そのメイクもファッションも、がんばって水商売風になさっているようですが、むだですよ。こちらもその道のプロですので。どんな事情があってそんな格好で来店されたのかは後でゆっくり伺うとして、まずはあちらへどうぞ」
黒崎はそう言うと薄い唇を歪め、右手で奥の部屋に通じるドアを示した。
そのまま抵抗する間もなく男たちに腕をつかまれ、奥の部屋に連れ込まれた。
窓のない広い部屋で、ビニールタイルの床には絨毯が敷かれている。
中央に大きなローテーブルが置かれ、その周囲に下着姿の女が十人ほど毛布にくるまって寝ころんだり、骨の浮き出た足をだらしなく広げて座っていた。
「おい新入りだ。仲良くしてやれよ」
男の一人が声をかけると、女たちがのろのろと頭を上げた。
艶のない髪、青白い顔、どす黒い隈に縁取られた瞳からは何の感情も読み取れない。
真っ先に目に留まったのがハルカだった。
思わずあげそうになった声を必死に呑み込む。
傍らには、桃花とゆうなの姿もあった。
ハルカはこの間見た時よりもさらに憔悴した様子で、なぜか左目の周囲が赤黒く腫れ上がり、唇の端も切れていた。
「ちょっと、この子たちに何したのよ。仕事って一体何なの?」
私が振る返ると、男は、
「そのうちいやでもわかる。それまでおとなしくしてろ」
と言って下卑た笑い声をあげた。
そして乱暴に私の背中を押して床に転がすと、ドアの鍵をかけて立ち去った。
まずハイヒールを脱ぎ捨て、女たちに歩み寄った。
とたんに饐《す》えた匂いが鼻を突く。
テーブルの上は、コンビニ弁当やペットボトルの空き容器、スナック菓子の袋などに覆いつくされていた。
「みんな大丈夫? いつからここにいるの?」
見回しながら声をかけたが、返事はなかった。
だるそうに寝返りを打って私から目をそらした。
ひどくやつれてはいるが、全員私より十歳以上年下だろう。
かつてはきちんとセットされていたはずの金色のロングヘアも、揃ってカールは絡み、毛先は枝毛だらけだ。
加えて、生えぎわに伸びてきた黒髪の面積も全員ほぼ同じ。
ほとんど同時期に監禁され始めたということになる。
「ハルカちゃんよね?」
正面に回り、顔を覗き込んで言った。
ハルカはテーブルの前で、膝をきつく抱え込むようにして座っていた。
「十日くらい前の明け方、渋谷の〈club indigo〉の前で会ったでしょう? 覚えてる?」
「indigo?」
だるそうに顔を上げ、ろれつの回らない舌でハルカが言った。
「そう。私は高原晶。あの店のオーナーなの。ハルカちゃん、よく遊びにきてくれたわよね。BINGOがお気に入りだったでしょう?」
「BINGO……BINGOって……」
ふいに目に光が戻った。
身を乗り出すと、私の腕にしがみついてきた。
「助けて! BINGOが刺されたの。早くしないと死んじゃう!」
私は口の前に人差し指を立てて声を落とすように注意しつつ、もう片方の手で骨張った背中を優しくさすった。
「わかったから落ち着いて。何があったの? どうしてハルカちゃんや他の女の子たちはここにいるの? 初めから話してちょうだい」
「あなた誰? indigoのオーナーって……」
ハルカが怪訝そうな顔で私を見つめた。
「詳しいことは後で説明する。とにかく、私はあなたたちを助けにきたの。だからこれまでのことを話してくれる?」
一瞬のためらいの後ハルカは頷き、話し始めた。
「あたし、BINGOに店を移るからついてきてくれって頼まれて〈クロノス〉に通い始めたの。桃花とゆうなも同じ。でも、くじで当たったVIPチケットを使ったら、三回目にすごい大金を請求されちゃって」
「ハルカちゃんも!?」
私が驚くと、ハルカは悔しそうに頷いた。
「でも、あんなの詐欺だよ。真咲はちゃんとチケットの利用規約を見せたって言うけど、部屋は暗いし、カラオケはすっごくうるさいしさ。それに他の女の子たちも、指名したホストは違うけど、同じ手口で騙されたって言ってる」
「なるほど」
ようやく気づいた。
すべてが計算づくなのだ。
真咲がVIPチケットの説明を始めると、誰かが合図してカラオケを始める手はずになっているのだろう。
店内を暗くするのは利用規約の読みにくい文字をさらに読みにくくするため、大音量のカラオケとキャッシャーの横のスピーカーは客の注意をそらし、とにかく券を受け取らせてしまうためだ。
そしてチケットを使った客には一度目、二度目と割引対象料金だけを支払わせて安心させ、たっぷり金を使わせた上で三度目には法外な金額を請求するという手口だ。
ハルカが話を続けた。
「それで、文句言ったら事務所に連れてこられて、お金がないなら仕事して返せって言われて、ここに閉じこめられたの」
「仕事って何なの?」
「裏口から車に乗せられて、渋谷とか新宿のホテルで男の相手をさせられるの。終わったらまた車でここに連れて帰られる。その繰り返し」
「それってまさか」
私が口ごもるとハルカが、
「そう。ホテトル」
と答え、顔を背けた。
「……」
私の沈黙を批判と感じたのか、ハルカが声をあらげた。
「あたしだっていやだったよ。だから必死に抵抗したの。でもだめ。殴られてシャブまで注射された。他の子だって同じ。シャブ中にさせられて、ぼろぼろだよ。みんなとっくに払えなかった代金の分は働いたのに、逃げたくても逃げられないんだよ」
「なんてことを……」
言ったとたん、腹の底から怒りが湧き上がってきた。無意識に振り返り、ドアを睨んだ。
黒崎の人を小馬鹿にしたような口調も、真咲の薄ら笑いも、絶対に許すことはできない。
「ハルカちゃんたち、〈ジャスミン〉に自分で電話をかけて辞めてるわよね? あれはどうしたの?」
「ここに来てすぐ、さっきの男たちの監視つきでかけさせられたの。あいつら、神原組の組員だよ。他の子も同じように電話させられてた」
「他の子も? みんなどんな仕事してたの?」
「よく知らないけど、お水とかフリーターとかだと思う。電話一本で簡単に辞められてたから。実家に電話させられた子もいたよ。『旅行に行くから当分連絡とれなくなる』って」
「それだけで親は納得するの?」
私が驚くとハルカは目をそらし、
「するよ。親なんて、子どもを放ったらかしか、無理矢理言いなりにさせようとするやつばっかりじゃん。どっちもあたしらの話なんか聞いてくれない。だから全部捨てて、楽しいこと探すために東京に出てきたの。桃花やゆうなも、他の子たちもきっと同じだよ」
と、吐き捨てるように言った。
肩が小刻みに震えている。
「そういうこと」、私は心の中でつぶやいた。
もう一つ謎が解けた。
黒崎と神原組は、初めから売春組織を作る目的で、〈クロノス〉を開店させたのだ。
そして、ホストたちから集めた情報を基に顧客の中から失踪しても騒ぎになる可能性の低い職業・身の上の女の子を選び、VIPチケットを与えて罠にはめたのだ。
あのくじ引きも、獲物の女の子が引いたら必ず当たりが出るようにパソコンを細工しているのだろう。
「ホストたちは黒崎たちがやってることを承知で、この店で働いているの?」
「初めのうちは知らないと思う。でも、気づいても外でしゃべったら殺すって脅されてるし、お金が欲しいから見て見ぬふりしてる」
「BINGOもそうだったのかしら」
私の言葉に、ハルカは激しく首を横に振った。
「違う! 〈クロノス〉の正体を知ったBINGOは、あたしを助けてくれようとしたの。この前の夜、BINGOはあたしの乗った車を尾行して、道玄坂のホテルから隙をついて連れ出してくれた。ホントだよ、嘘じゃない。でも、途中で見つかって、追ってきた男にナイフでお腹を刺されちゃったの。一生懸命逃げて何とか金王八幡宮に隠れたんだけど、全然血が止まらなくて、BINGOもあたしも服や体が真っ赤になって……」
そう言うと、ハルカはじっと自分の薄い手のひらを見つめた。
「そしたら、BINGOが俺は大丈夫だからお前一人で逃げろって。indigoに行って助けてもらえって言われたの」
「それで、一人で店の前まで来たのね? でも追っ手が来るのが見えたから思わず逃げ出してしまった。あの黒いワゴンがそうなんでしょう?」
「うん。あの後すぐ捕まって、ここに連れ戻されてめちゃめちゃに殴られた」
言いながら、ハルカが指先で唇の傷に触れた。
そして再び思い出したように、
「ねえBINGOは? 助かったのよね?」
と尋ねてきた。
私はハルカの目を見て、きっぱりと答えた。
「亡くなったわ。あの翌日、遺体で発見されたの」
「嘘でしょ?」
ハルカの顔がみるみる歪み、血走った目に涙が滲む。
「泣くのは後!」
強い声で言うと、ハルカが驚いたような顔で見た。
女の子たちもびくりと肩を揺らし、濁った目を向ける。
「泣くのも嘆くのも、ここを抜け出してからにしなさい。わかってる? BINGOは自分の犯した過ちに気づいて、命がけでハルカちゃんを助け出そうとしたのよ。だから一刻も早くここから出なきゃ。そのために私が来たの。這ってでも、みんなでこのろくでもない店から逃げ出すのよ」
早口で一気にそう言うと、呆気に取られたまま、ハルカが質問してきた。
「……でも逃げるって、どうやって? 窓はないし、ドアには鍵がかかってるし。ひょっとして、携帯持ってるの?」
私は首を横に振った。
携帯電話は、さっき事務所でバッグごと取り上げられてしまっている。
「だいじょうぶ。手は打ってあるの。もうすぐ助けが来るはずよ」
自信たっぷりに言い切ったものの、これまた借り物のフランク・ミュラーの腕時計を覗いたとたん、急に不安になった。
おかしい。
約束の二時間はとうにすぎている。
ジョン太たちが優夜さんに異常を知らせてくれれば、もう助けが来てもいいはずだ。
「どうしたの? 助けっていつ来るの?」
ハルカに聞かれ、私は無理矢理明るい声で、
「すぐよ、すぐ。きっと、今出たところ」
と、そば屋の出前のような答えを返した。
すると、ドアが開いた。
黒崎と男たちが立っている。
ハルカが怯えたように私の背後に隠れた。
「なるほど。そういうことでしたか、高原様。あなたがあの〈club indigo〉のオーナーだとは。知らなかったとはいえ、大変失礼しました」
言いながら近づいてきた。
相変わらず口元に歪んだ笑みを浮かべている。
私はすばやく立ち上がると、体勢を整えた。
「立ち聞きしたのね? それとも盗聴器でも仕かけてあるのかしら。極悪人の上に変態なんて、救いようがないわね」
「気分を害されたのならお詫びします。しかし、お陰であなたがそんな格好で来店された理由がわかりました。まさか人助けとはね。自分の店を裏切って引き抜き話に乗ったホストと、その客ですよ? つくづく甘いお方だ」
「甘くて結構。しょぼい手口で女を食い物にして、汚れた金稼いで喜んでる連中よりましよ。こんな悪事がばれないとでも思ったの? あんた、自分で思ってるほど頭よくないわよ」
斜め三〇度からガンを飛ばしながら言い返す。
「まあそう怒らないで。これを打てば気も静まりますよ」
黒崎が目配せすると、男たちが近づいてきた。
一人は手に透明な液体が入った小さな注射器を持っている。
考えるまでもない。
覚醒剤だ。
「ちょっと、やめてよ。冗談でしょ?」
慌てて後ずさったが、後ろはすぐ壁、逃げようがない。
あっという間に部屋の隅に追い込まれた。
ハルカや女の子たちは呆然とそれを見守っている。
「大丈夫。静脈ではなく筋肉注射ですから、注射針の痕は残りません。薬の効きめはいまいちですが、あなたの奇麗な肌を汚したくありませんし、今後お相手をしていただくお客様にも嫌がられるんですよ」
黒崎が言った。
ぺらぺらとよくしゃべる男だ。
「こんなもの打たれたら、私は何するかわからないわよ。きっと暴れてこの部屋をめちゃくちゃにして、おまけに他の女の子たちを……」
私も負けじとしゃべり続けたが、黒崎の合図と同時に男たちが左右から私の肩を押さえつけてきた。
全身の力を振り絞り、足もばたつかせて抵抗したがびくともしない。
今にも腕に突き立てられようとする銀色の針を見て、思わず叫んだ。
「やめて!」
その時、事務所のドアが蹴破られる大きな音がした。
続いてどたばたという靴音が響き、アレックス、犬マン、コナンが部屋に飛び込んできた。
「遅い!」
思わず怒鳴ると、アレックスが獣ような声をあげながら駆け寄ってきて、注射器を構えた男の腕をねじり上げた。
ぽきりと乾いた音がして肘の関節があり得ない方向に曲がった。
男が絶叫し、注射器が床に転がる。
「なんだてめえ!」
そう言って殴りかかってきたもう一人の頭を、アレックスはグローブのような手で上から押さえつけた。
そして、もう片方の手でサマーセーターの襟首をむんずとつかむと、部屋の反対側に勢いよく投げつけた。
テーブルが倒れ、ゴミが宙を舞った。
女の子たちが悲鳴を上げて立ち上がる。
「私に触るな!」
ヒステリックな声があがった。
見ると黒崎が犬マンとコナンの手を振り払い、部屋から逃げ出そうとしている。
「そいつが黒崎よ! BINGOを殺して、女の子たちを監禁した黒幕よ!」
私が叫ぶと、アレックスが黒崎に腕を伸ばした。
と、そこに〈クロノス〉のダークスーツ、茶髪ロン毛のホストたちが駆け込んできて、
「殺すぞ!」
「ざけんじゃねえよ!」
等々物騒な言葉を吐きながら、犬マンたちに襲いかかった。
あっという間に大乱闘となり、その隙に黒崎はまんまと部屋から脱出した。
「すぐ戻るから!」
私はハルカにそう言い残すと、揉みあう男たちの間をすり抜け黒崎の後を追った。
逃がしてたまるか。
諸悪の根源はあの男なのだ。
通路に出ると、黒崎と優夜さんが睨み合っていた。
裏口から逃げようと図った黒崎の前に、優夜さんが立ちはだかっているのだ。
ぎょっとして立ち止まった私に、シルバーグレイのマオカラスーツーに身を包んだ優夜さんが、
「高原オーナー、危険ですので下がっていてください」
と静かな声で言った。
腰を低く落として膝を曲げ、前後に足を開いている。
拳は軽く握られ、右手は体の前、左手は顎の下、カンフー映画でお馴染みのポーズだ。
「あんたがあの伝説の男、優夜か。会いたいと思ってましたよ。どうです、こんな無粋な女ではなく、私の下で働きませんか?」
黒崎が言った。
減らず口は相変わらずだったが、笑顔はさすがに引きつっている。
「ふざけるな、この外道が。お前のような腐った人間に、この世界で生きる資格はない」
優夜さんが言い、黒崎を睨んだ。
今までに一度も見たことのない、冷たく鋭い目をしていた。
「それは残念……」
言いながら、いきなり黒崎が殴りかかった。
優夜さんはそれを待ちかまえていたように右手首で受け、間髪を容れずに左拳を前方に繰り出し、黒崎の腹にめり込ませた。
顔をしかめ、かがみ込んだ首筋にとどめの手刀を振り下ろす。
失神した黒崎が足元に転がるまでに、三秒もかからなかった。
「おケガはありませんか? 遅くなって申し訳ありません」
優夜さんはそう言って、私にうやうやしく頭を下げた。
櫛目も鮮やかなオールバックヘアには乱れ一つなく、いつもの香水を涼しげに漂わせている。
「ない。ないけど……なんでカンフー? 伝説の男ってどういうこと?」
今度こそ聞いてやろうと思った瞬間、客席フロアの方向から、
「やめろ、バカ野郎!」
と、情けなくも偉そうな悲鳴があがった。
塩谷さんだ。
駆け出そうとした優夜さんを止め、
「奥の部屋にハルカちゃんたちがいるの。薬を打たれてる。助けてあげて」
と言って代わりに救助に向かった。
通路を駆け抜け、客席フロアに出たとたん、私の足が止まった。
フロアはとんでもないことになっていた。
indigoと〈クロノス〉、二つのホストクラブのホストたちが、店内を破壊しつくしながら大ゲンカを繰り広げているのだ。
ジョン太はアフロヘアを引きずり回されながらもローキックを連打し、DJ本気はテーブルをなぎ倒しながらつかみ合い、山田ハンサムまでもが壁の鏡を叩き割りながら、ドンペリのボトルを振り回していた。
一方の〈クロノス〉のホストたちも茶髪のセットは乱れ、ダークスーツの袖は裂け、日サロで焼いた肌も血まみれだ。
怒号が飛び交い、埃が舞い上がり、その中を客の女たちが金切り声を張り上げながら右に左に逃げまどっていた。
「バカ、何やってんだ。早く助けろ!」
塩谷さんの声で我に返った。
壁際に追いつめられて、尻もちをつき、手足を必死にばたつかせて抵抗している。
そして、その頭上で黒ずくめの男が合成皮革の丸ソファを振り上げている。
この後ろ姿と突き立てた髪は絶対に忘れない。
極悪人その二、悪魔に魂を売ったホスト・真咲だ。
私は急いで周囲を見回し、床に転がっていたカラオケマイクをつかんだ。
そして背後から駆け寄ると、ジャンプして真咲の後頭部をマイクヘッドで殴りつけた。
鈍い音がして、丸ソファ、真咲の順に床に転がった。
「試合終了。そこまでだ」
耳障りなハウリングの後、店内に大音量で男の声が響いた。
全員が思わずケンカの手を止め、声の主を見る。
入口のドアの前に、五十がらみの恰幅《かっぷく》のいい男が拡声器を手に立っていた。
「警察だ。それ以上続けるなら全員公務執行妨害で逮捕するぞ」
男が言うと、入口と裏口から制服姿の警官たちがわらわらと駆け込んできた。
妙に白けた空気が流れ、ホストたちは振り上げていた拳やつかんでいた相手の胸ぐらを放し、のろのろと体を起こし始めた。
警官たちに促され、店の外に出た。
騒動に関わった者全員が、所轄《しょかつ》署である池袋警察で事情聴取を受けなくてはならないらしい。
明るくなり始めた通りには赤色灯を回転させたたくさんのパトカーと救急車が停まり、通行止めにされた通りの左右には、ひしめき合う野次馬とテレビカメラも見えた。
まずパトカーに押し込められたのは、黒崎と真咲だ。
二人とも警官に抱えられてるようにして歩き、顔を歪めながら黒崎は腹部の、真咲は後頭部の痛みに耐えている。
後ろからはパンチパーマの男たちも続く。
次いでハルカたちが全身をすっぽりと毛布で覆われ、救急隊員につき添われて救急車に乗り込んだ。
自力で歩くことができず、担架で運び出される子もいた。
「お前ら、またやらかしてくれたな」
サイレンを鳴らしながら走り去る救急車を見送っていると、豆柴が現れた。
「捜査に首突っ込んだら逮捕するって言っておいただろうが」
果てしなく広い額を、怒りで真っ赤に染めながら言った。
「何で柴田さんがここにいるの?」
何も考えずに聞くと呆気に取られた顔になり、次にがっくりとうなだれ、
「優夜、お前から話してやれ」
と言った。
「喜んで」
優夜さんが優雅に微笑むと、これまでの一部始終を説明してくれた。
私となぎさママが〈クロノス〉に入った後、ジョン太とDJ本気は見張りを始めた。
しかし、前夜のどんちゃん騒ぎが祟《たた》り、眠くて仕方がない。
そこでなぎさママが帰った後、交代で十分ずつ寝ることにしたらしい。
ところが、ジョン太は自分が見張る番の時につい眠り込んでしまい、優夜さんの電話で二人が目覚めた時には、とっくに二時間以上経過していたという訳だ。
「じゃあ何、私が覚醒剤を打たれかけた原因は、ジョン太たちの居眠り?」
呆れ返って言うと、
「すみません!」
と背後から大声で謝られた。
驚いて振り向くと、ジョン太とDJ本気、その他indigoのホストたちがずらりと顔を揃えていた。
「危ないめに遭わせて申し訳ありません! 全部俺の責任です」
ジョン太がそう言って膝まで頭を下げた。
すると、横からDJ本気が、
「いや、悪いのは俺です! 交代で寝ようって言い出したのは俺なんです」
と身を乗りだして相棒をかばった。
こんなところまで絶妙なコンビネーションだ。
「もういいわよ。ぎりぎりだったけど助けには来てくれたし、ハルカちゃんたちも無事に救い出させたんだから」
私は脱力してそう言い、話の先を促した。
「じゃあ、警察には優夜さんが通報してくれたのね。私が帰ってこないって言ったんでしょう?」
すると、豆柴が顔をしかめた。
「お前が消えたくらいで、こんなに大勢の警察が動く訳ないだろ。塩谷が俺に電話してきたんだよ。『〈クロノス〉に宮田江美が隠れてるって情報をつかんだ。捕まえろ。早くしないと逃げる』って。だから慌てて池袋署に連絡して、緊急出動してもらったんだ。全く、まんまと騙されたよ」
睨まれた塩谷さんは、どこ吹く風でそっぽを向いたままだ。
「まあまあ、柴田さん。江美は本当に〈クロノス)にいた訳ですし、BINGO殺害の件も解決しそうなんですから、結果オーライということで」
優夜さんが取りなすと豆柴は、
「何が結果オーライだよ。こいつら、やりたい放題じゃないか」
と言い、男の子たちの顔を見回してため息をついた。
言われて改めて眺めると、全員顔も服もぼろぼろで、鼻血に擦り傷、切り傷のオンパレード、ある意味壮観だった。
特にジョン太は自慢のアフロ頭が無惨にひしゃげ、前歯も一本折れている。
加えてDJ本気の左目は半分しか開かないほど腫れ上がっていた。
優夜さんは、大袈裟に眉を寄せると言った。
「その点は心からお詫びします。私は警察の皆さんはお任せしろと止めたのですが、彼らは『晶さんは俺らが助け出す』と言って店を飛び出していってしまったんです。今後は二度とこのようなことがないよう、重々言って聞かせますので」
「当たり前だ。あってたまるか」
豆柴が顎をしゃくり上げて言い、さらに私を指してこうつけ足した。
「ついでにこいつにもよく言っておけ。たとえどんな事件だろうが、今度探偵気取りでしゃしゃり出てきやがったら、すぐに〈club indigo〉の営業許可証を取り上げてやるからな。いいか、もう一度言うぞ。男勝りは……」
「名前だけにしとけ」
塩谷さんが引き継ぎ、ひひひといやらしい声を立てて笑った。
「だから、それはセクハラだってば」
そう言って私が二人を睨みつけると、なぜか男の子たちまで傷だらけの顔で楽しそうに笑った。
その後しばらくは、池袋のホストクラブ〈クロノス〉とその悪行の数々についてのニュースがマスコミを賑わしていた。
あの大混乱の直後、売春防止法、薬物取締法その他もろもろの罪で逮捕された黒崎と真咲だが、初めはシラを切り通し、無実を主張していたらしい。
しかし、〈クロノス〉のホストたちの口から客の女たちに対する詐欺や監禁、売春などの手口を次々と暴かれ、あっという間に言い逃れのしようもなくなった。
ほどなく、事件の共謀者として神原組の幹部も逮捕され、BINGOを刺したのはすでに逮捕されているパンチパーマの男の一人であることが判明した。
さらに、この事件をきっかけに神原組には、覚醒剤の密輸販売の疑惑も浮上し、今後徹底的に捜査することが決まっているらしい。
もちろん〈クロノス〉は閉店し、跡形もない。
豆柴から聞いた話によると。
あの晩、真咲たちはターゲットである私を筋骨逞しいなぎさママからどう引き離すか、事務所で策略を巡らせていたらしい。
そこに、訳はわからないがママは早早に姿を消して戻ってこないという報告を受け、これ幸いとばかりに私を監禁部屋に連れ込んだ、といういきさつだ。
しかし、この話には失礼極まりないおまけがついてきた。
私の推測通り、黒崎たちは客の中から目的に見合う身の上の女の子を選び、細工したパソコンでエサとなるチケットを与えていた。
しかし、彼らが私に目をつけた理由は、他の女の子たちと大きく異なる。
「無茶な若作りに、むだに勝ち気な性格。見るからに縁遠そうで、失踪しても誰も心配しないと思ったから」
だというのだ。
思い当たる節がない訳ではないので、尚のこと腹立たしい。
店の男の子たちの表現を借りて言い返すなら、「ていうか、大きなお世話?」という感じだ。
その夜、〈club indigo〉は十日ぶりに店を開けた。
休業の表向きの理由は「従業員の研修」だが、その実、ホストたちの顔のアザや腫れが引くのを持っていたのだ。
ホストたちは「この顔が客の母性本能をくすぐる」「お化け屋敷ホストクラブってコンセプトで」等々のたまい、店に出ると主張したが、経営陣三人で話し合った結果、休養することにした。
「おはようございます。ハルカさんから手紙がきていますよ」
ドアノブをつかみ、六〇度の角度で頭を下げて出迎えてくれながら優夜さんが言った。
ソフトスーツに磨き上げられた革靴、濃厚な顔立ちにむせかえる香水、いつも通りのいで立ちだが、日焼けした額に垂らす前髪の量が心なしかいつもより多い。
これも。優夜さんなりの営業再開に向けて意欲の表れなのだろう。
「手紙? ハルカちゃんから?」
私が聞き返すと、オーナーデスクに座った塩谷さんがこちらに背中を向けたまま、
「ほらよ」
と言って、便箋をひらつかせた。
私はソファにバッグを置くと、すぐに便箋を受け取って読んだ。
ハルカは今、都内の病院に入院し治療を受けている。
他の女の子たちもそれぞれに、体と心に受けた傷を癒すための治療中という話だ。
手紙は、私や店のみんなが送った見舞いの品に対する礼状だった。
ピンク地に銀のラメを散らした便箋、ラズベリー色のペンで書かれた丸い文字は線の長さやバランスがめちゃくちゃで、句読点や半濁音符が異様に大きい。
巷の若い女の子の間では、こういう文字が流行らしい。
そして、手紙はこう締めくくられていた。
「周りのみんなは、あたしがBINGOに騙されたって言ってる。でも、あたしはそうは思わないよ。だって、晶さんやindigoのみんながあたしを助けにきてくれたじゃん。BINGOはずっとあたしを励ましてくれたんだよ。『indigoまで行けば大丈夫。きっと店のみんなが助けてくれる。何とかしてあげるから』って。その通りになったでしょ? BINGOは、あたしに一度だって嘘はつかなかった。晶さん、みんなもありがとう。いつになるかはわかんないけど、きっとまた会えるよね?」
「この手紙、今日店がハネたら男の子たちに読んでやるわ」
便箋をたたみながら私が言うと、優夜さんが口の端をあげて優雅に微笑み、塩谷さんは鼻を鳴らして短い足をデスクに乗せた。
二人とも「大賛成」ということらしい。
私は、ガラス張りの壁に近づくとブラインドを開き、フロアを見下ろした。
今日も客席は満席だった。
VIPルームでジョン太が笑い転げ、前歯に入った純白の仮歯が丸見えになった。
アフロヘアも以前よりさらに巨大化している。
その横でDJ本気がまだ少し腫れている目をコントの小道具のような派手な眼鏡でごまかし、隣のテーブルではアレックスが客に力こぶを見せて喜ばせ、犬マンは相変わらずラフなファッションでも隙がない。
そして胸に空のボトルを抱え、その間をしなやかにすり抜けていくのがコナンと山田ハンサムだ。
確かに、BINGOの言葉は嘘じゃないかもしれない。
アロマキャンドルの光に最高の酒とクラブミュージック、そして、おしゃれで面白い男の子たち。
〈club indigo〉で一晩過ごせば、世の中の大抵の厄介ごとは何とかなる、どうってことないって思えるはずだ。
それでも解決しないなら、仕方がない、話くらいなら聞いてあげてもいい。
フロアの中央、螺旋階段を上がってダンスフロアの奥、そこが事務所だ。
ノックはいらない。
王道系ホストファッションでばっちり決めた濃厚な二枚目が、絶妙なタイミングでドアを開けてくれるから。
私は部屋の奥で愛想も口も悪い相棒と憎まれ口を叩き合っているはずだから、いつでも声をかけて。
ただし、オーナーの正体は他言無用。
それだけは約束して欲しい。