ナポレオン その情熱的生涯
〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年十二月二十五日刊
(C) Toshikazu Kase 2000
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目  次
第一章 砲弾の炸裂
夜霧の女/初恋/婚約/冗談はおやめになって/将軍の観相/革命の英雄
第二章 花と剣
ジョセフィーン/革命の閃光/王政の葬送/悪の花/初夜/運命に
第三章 奔流のように
世界の沃野へ/おかしなひとね/色と金/嫉妬の業火/不貞/天才にセックスはない
第四章 革命は終った
スフィンクスの眼/すベての女に禍あれ/砂漠のクレオパトラ/運命の日/砂糖のナポレオン/一茎の清楚
第五章 歩幅をはかりつつ
歌姫グラツィアニ/玉座に向って/鉱泉の効能は?/パリのヴィナス/処女だった/超俗の人間
第六章 英雄交響曲
開眼/帝冠を戴く/アウステルリッツの太陽/|花形《プリマ・》|女優《ドナ》/宮廷の美女/サン・スウシイ宮にて
第七章 わが心は車輪のごとく
大晦日の急使/白一色/皇帝の召喚状/日々万余/里をゆく/血河屍山/それが私の運命なのだ
第八章 山頂風強く
筏のうえで/女色攻勢/孤高の寂蓼/強者の友情/ここに人物がいる!/スペインの潰瘍
第九章 運命の転機
離婚/白バラと白鳥と/発育のよい娘だね/号砲を数える/モスクワへ/ボロディノの血戦
第十章 三色旗振わず
聖都炎上/氷雪の退却/英雄と外交家/諸国民の戦い/戦史の花/退位
第十一章 百日天下
その軍服ではいや/ほんとうの女だった/エルバ島脱出/会議は踊る/パリ入城/出陣
第十二章 巨大なる落日
その前夜/空しき追撃/ウォタアルー/万恨蛾眉ニアリ/セント・ヘレナ/軍の先頭
後  記
あ と が き
ナポレオン年譜
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ナポレオン その情熱的生涯
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天才は空からふってくる炎である  ナポレオン

第一章 砲弾の炸裂
夜霧の女
パリ、一七八七年。
晩秋の霧が、濃く淡く、大理石の円柱を洗うように流れる。その霧のなかから、ひとりの小柄な男が現われる。三角帽に長いマント姿は、どうやら、陸軍将校らしい。男は|濡《ぬ》れた敷石に冷たい靴音を残して、ゆっくりと歩む。心なしか、うしろ姿に孤愁が漂っている。やがて、街燈の下にたたずむ小さな女を認めると、立ちどまって、声をかける。
『|今晩は《ボンソア》、|お嬢さん《マドモアゼル》!』
うつむいていた女は顔をあげる。意外に若く愛らしい。温順そうである。だが、薄い眉は、いかにも、薄命の佳人という印象を与える。さもあろう、夜霧に咲く|仇花《あだばな》の一輪なのだから。
『|今晩は《ボンソア》、|将  軍《モン・ジエネラル》!』
と、やさしく答える。
将軍と呼んだのは、もとより戯れである。将軍ではない。砲兵中尉ナポレオン・ボナパルトなのである。この十八歳の青年士官は、夜ともなれば、パレ・ロアイヤルを独り散歩し、その|界隈《かいわい》に出没する売春婦を物色している。
とはいっても、快楽の追求だけが目的なのではない。悔いなく童貞を捧げるのに|相応《ふさ》わしい女性を探しているのである。だから、彼らしく合理的に、会うほどの女に、どこで生れたか、幾歳になるか、家族はあるか、どうして売春などを職業にするのか、病気はないか、などと丹念に質問する。とくに、年齢は必ずきく。後年、名を成してからも、彼は高貴な婦人に、よく年齢を尋ねては、迷惑がられたものである。『ときに、公爵夫人は幾歳になられましたかな』という調子で。
パレ・ロアイヤルの浮かれ|女《め》は、多くは毒々しく厚化粧したアバズレで、すさみはて、いじけ、ひねくれ、ひがんでいる。しかし、今夜は、ちょっと様子がちがう。夜霧の女は問われるままに、暗い過去を、恥じらいつつ、ためらいつつ、静かに語るのである。しかし、暫くすると、
『でも、いつまで、こんなところで立話をなさるお積りなの? わたし寒いわ。寒くてやりきれない……それに、空腹なのよ。ねえ、あなたの|住居《うち》にいかない? お願い、そうしてちょうだいな』
と訴える。中尉は真顔で、
『ああ、そうしよう。だけど、僕の|住居《うち》にいって、いったい、なにをするのかね?』
ときく。
女はクスリと笑ったようであるが、『暖まってから、あなたの欲望を満たせばいいんでしょう』と答える。
いつの間にか、ふたりは肩を並ベて歩き始める。と思うと、肩はひとつになる。男は女をマントのなかに|抱《かか》えこんだらしい。その姿は、たちまち、濃い霧のヴェールに包まれて見えなくなる。
その頃の彼は|細々《こまごま》と日記をつけていた。この翌日、すなわち、十一月二十二日の記入には、女の前夜の告白が|綿々《めんめん》と綴られている。
女はブルタニュ(フランス北西部)のナント出身である。小企業主の家に生れたが、倒産の憂き目にあい、余儀なく自活する。そこに、|美貌《びぼう》の士官が出現して、彼女を誘惑する。結婚する約束だったのだが、士官は間もなく蒸発して、消息を断ってしまう。寒さと餓えに堪えながら、|空《むな》しく恋人の帰りを待つうちに、第二の男が魔手をのばす……続いて、第三、第四の男……ついに、売笑婦の|境涯《きようがい》に落ちこんでしまう。
これは、いつの世にも、売笑婦が好んで語る型通りの転落の告白である。だが、ナントの女は、まだ職業経験が浅いらしく、わりに新鮮である。
『それで、どんなふうに処女を失ったのかね』
と童貞の青年は、根ほり葉ほり、熱心にきく。彼は女に会うまえに、イタリア・オペラを観劇して感動したのだが、そのロマンティックな興奮からさめていないらしい。女も相手が童貞ときいて、異常に興奮する。
シェブウル・ホテルの貧しい一室で、安いブドウ酒をコップにつぐと、この|可憐《かれん》な|一夜妻《いちやづま》は、さも楽しそうに
『童貞からの解放に乾盃!』
と言う。
これが、ナポレオンの女性遍歴の第一夜である。彼は故郷のコルシカ島に、一年の賜暇を過ごしたのち、陳情のために、パリに上京していた。フランス革命は、この一年半後に起る。
初恋
ここに、ナポレオンの生い立ちを詳述する必要はあるまい。
彼が生れたのは、一七六九年八月十五日であるが、この時、コルシカ島はフランス領に編入されてから、まだ、一年しかたっていなかった。それまではジェノアの領地だったが、コルシカ島民の激烈な独立闘争に悩まされ、フランスに売却したのである。フランスでは買収に反対する者が多かったのだが、ルイ十五世の裁断で買い取った。歴史は偶然によって支配される。もし、フランスが獲得しなかったら、コルシカ島は独立を達成するか、イギリスの植民地になっていたろう。そうなったら、ナポレオンが世界史の舞台に登場するチャンスは、まず、無かったと思われる。
フランスの統治が始まると、コルシカ島民は英雄的指導者ジェネラル・パオリの指揮のもとに、勇敢な抗争を続けた。その有力な協力者が小貴族シャルル・ボナパルトだった。シャルルは十八歳の時に、ジェノア官吏の娘で十六歳のレチツィアと結婚した。十三人の子を産み、八人が成長した。五男三女であって、ナポレオンは次男に当る。彼は独立闘争の砲煙のなかから生れたようなものだった。母のレチツィアは妊娠中も、夫とともに銃を取って戦場を駆けまわったのである。事実、彼女は産室に入るいとまもなく、広間の敷物のうえに、ナポレオンを産みおとした。
大家族の扶養は容易でないので、シャルルはフランス派に近づき、やがて(一七七九年)コルシカ島選出議員として、パリに赴く。それでも、ボナパルト一家にとっては、パオリは依然として、|英雄《ヒーロオ》だった。パオリこそはナポレオンが最初に心酔した人物だった。パオリは常にプルタアクの英雄伝を引用したが、これがどのくらい少年期のナポレオンに影響したか、測り知れぬものがある。
スタンダール(「赤と黒」の作者)のナポレオン伝によると、フランス軍司令官マルブーフは、美人のレチツィアにひそかに恋慕していた由であって、彼の援助によって、ナポレオンはブリエンヌの幼年学校に給費生として入学することになった。同時に、兄のジョゼフも本土の神学校に迎えられた。
兄弟は一七七八年末にアジャクシオの生家を旅立った。ナポレオンは九歳だった。フランス革命の起る約十年まえに当る。
ブリエンヌには五年半滞在し、この間に、性格を鍛えた。在校生は、みな、富有な貴族の子弟であって、彼のような貧しい田舎者はいない。だいいち、初めはフランス語さえ満足に話せなかった。明らかに、彼は異邦人だった。級友は小男――一・六二メートルしかない――の彼を軽視し、寄ってたかってナブリものにした。彼は校庭の樹の下に、独り離れて、プルタアクを|耽読《たんどく》するのだった。
『ブリエンヌでは私がいちばん貧乏だった。みんな金を持っていた。私には|一文《いちもん》もない。だが、私は自尊心が強かったから、それを気づかれまいとして、ずいぶん苦労したものだ。ほかの者のように愉快に笑うことは到底できなかった……学生ボナパルトは仲間はずれにされ、たしかに不人気だった』
と皇帝になってから述懐したものである。だが、その皇帝時代に、ブリエンヌを訪れて、ひとしお昔を懐かしがったところをみると、まんざら、いやな想い出ばかりだった訳でもなさそうである。
学業は数学だけが抜群だったが、総じて、平凡な成績だった。歴史と地理が好きで、築城に創意を示した。なにごとによらず、新しいものに情熱をわかせ、たちまち、これを消化する才能を示した。彼を評して、『火山によって白熱された熔岩』と言った教師がいるのは面白い。
海軍が志望だったが、門地が低く縁故者(つまり、コネクション)がないので、果たせなかった。これが彼の|旧 体 制《アンシアン・レジム》に対する反感をあおることになる。海軍には入れなかったが、十五歳でパリ士官学校の砲術科に進むことができた。数学の好成績がモノをいったのである。かくて、彼は花の都パリの洗礼を受け、フランスの偉大な国力に感銘する。五十八人のクラスの四十二番で卒業し、一七八五年、十六歳――正確には十六歳と十五日――で少尉に任官した。この年、父シャルルは三十九歳で死去し、家計は窮迫するに至る。
新任少尉はヴァランス(フランス南東部)のラ・フレール砲兵連隊附となる。兵営町だから、軍人は優遇される。『長靴のなかの小猫』と呼ばれながらも、相当に社交を楽しんだらしく、ダンス教習所に通ったり、カルタ遊びに夜を|更《ふ》かしたりする。そして、エムマという良家の令嬢に恋をして、求婚する。|頻《しき》りに恋情を訴えて熱っぽい手紙を書くが、エムマの心は動かない。
ナポレオンは失恋の結果、メランコリィにとらわれる。そこへ、彼と同年のカロリーンが現われる。コロンビエ家は地方の有力者であるが、無名のコルシカ青年を暖かく迎えてくれる。こんどは意気投合して、ナポレオンと|栗毛《くりげ》のカロリーンは恋仲となる。ふたりの間には、結婚の相談もあったらしい。しかし、フランス革命前夜の社会不安は、ようやく地方都市にも波及し、連隊は治安出動に忙殺され、やがて、リヨンに移駐するので、この恋愛は、あえなく、中断されてしまう。
カロリーンについては後日談がある。一八〇四年八月、皇帝ナポレオンはイギリスを征服しようと試みて、ブーローニュに二十万の大軍を集結した。フルトンが蒸汽船を売りこもうとしたのは、この時のことである。副官が差し出す手紙を|一瞥《いちべつ》すると、ナポレオンは、
『狂人フルトン君の意見書なら、見る必要はあるまい』
と言ったが――フルトンを狂人扱いにしたのは不覚だった――副官は別の一通を手渡した。発信人は女文字で、カロリーン・ブルッシゥーとなっている。心当りがない。ハテと思って開封すると、旧姓コロンビエとあるではないか。|紛《まぎ》れもなく、二十年間、消息を断っていたカロリーンの筆蹟である。内容は、弟を士官に採用してもらいたい、という依頼状である。
ナポレオンは懐かしさに堪えかねた表情で、直ぐに返信を口述した。なぜ、もっと早く手紙をくれなかったのか……是非早々に訪ねてきてもらいたい……。
間もなく、カロリーンは皇帝に拝謁した。かつての貧相なコルシカ士官は、いま、栄光|燦《さん》として、全欧州に君臨する独裁者に変っている。彼女の感慨は推察にあまりある。ナポレオンは親しげに世間話をかわしたが、彼女が|畏《かしこ》まって退出すると、側近に、
『昔はもっと美しかったのだがなあ』と嘆ずるのだった。それでも夫のブルッシゥーには官職を与え、カロリーンは宮女に起用して、|男爵夫人《バロネス》の称号を許した。
後日、セント・ヘレナの配所で、ナポレオンは、
『私とカロリーンくらい無邪気な関係もなかった。ランデブは頻繁だった。しかし、至って無邪気なランデブでね。いまでも良く憶えているが、真夏の夜明けに密会しながら、なんと、ふたりで桜の実をセッセと食ベて終りさ』
と回顧するのである。彼の当時愛読していたジャン・ジャック・ルッソーを実演した趣きがある。
初恋とは、そんなものかも知れない。
婚約
初恋は|脆《もろ》くも破れたが、ナポレオンは軍務の余暇に、精力的に読書をする。タシタス、プラトオ、モンテスキュウ、コルネイユ……とくに、コルネイユの悲劇は、ほとんど全部暗誦した。一時は、彼の野心は作家となって、文名をあげることだった。コルシカ史に筆を染めたのは、依然として、祖国の独立回復を念願していたからに、|他《ほか》ならぬ。
ヴァランスからオーソンヌに移動した(一七八八年)頃には、六人の子を抱える母の窮状を救うために、弟ルイの養育を引き受けたので、食うや食わずの貧苦の生活を送った。朝四時に起きて、夜十時に寝るのだが、食事は午後三時に一回だけですました。当時の支出明細書が残っているが、一日三フラン半で兄弟ふたりの生活をまかなっている。こういう体験があればこそ、ナポレオンは浪費を憎み、節約を奨励したのである。
この頃、彼は『恋愛についての対話』という|小論《エツセイ》を書いているが、恋愛は善よりも悪を産むと結論している。恐らく、恋愛の常習失敗者だったのだろう。
とかくするうちに、一七八九年夏のフランス大革命が起る。だが、ナポレオンは冷静である。彼は、なお、本質的にはコルシカ人であって、仮にフランス人になったに過ぎない。従って、傍観者として外部から革命の推移を眺め、出来得れば、この混乱に乗じて、コルシカ独立を一気に推進しようと画策怠りない。故に、機会さえあれば賜暇を請求しては、コルシカに帰る。フランス軍は国境に迫る外国軍を迎えて、防戦にいとまないのだが、これも、ナポレオンにとっては、彼の出る幕ではない。
そのうち状況が変って、ナポレオンはパオリ一派と鋭く反目し、ボナパルト邸は急襲され、レチツィア以下の家族は、ほうほうの|態《てい》でマルセイユに亡命する。一七九三年六月のことである。ナポレオンはやっと大尉に昇進したが、その俸給で大家族を維持するのは不可能である。さすがに、レチツィアだけは少しも動揺しない。
そういう折から、長男のジョゼフが織物商兼銀行家の長女ジュリィ・クラリィと結婚し、|莫大《ばくだい》な持参金を入手したのは、望外の幸運だった。ジュリィは、後日、ナポレオンがジョゼフをスペイン王に|封《ほう》じたので、スペイン王妃となる。
他方、ナポレオンのほうは少しも芽が出ぬので、|鞅々《おうおう》として暮す。コルシカ熱は、いつの間にか冷めてしまったが、同時に、人間そのものについて懐疑的になる。イデオロギイも哲理も魅力を失う。ただ、あるのは行動だけである。その行動の機会がない。二十四歳の失業士官は再びペンに夢を託して、『ボーケールの夜食』を書く。これは|過激《ジヤコバン》派の立場にたって、マルセイユ市民に警告を発した論策である。多分、時局の主流をなす|過激《ジヤコバン》派に接近する試みだったろう。
この間にも、彼はクラリィ家の婿に収まった兄が|羨《うらや》ましくて、たまらない。口癖のように言うのである。『兄貴は巧くやったな!』
実は、彼にも目当てがある。ジュリィは器量が悪いが、妹のデジレは豊髪|豊頬《ほうきよう》の美人である。なんとかして、このデジレと結婚して、私生活を安定させたいのが、彼の本心である。都合よく、十六歳のデジレも、恋を夢みる思春期の|乙女《おとめ》なので、彼等は|忽《たちま》ち相思の仲となり、当人同士は早くも結婚の約束をする。だが、クラリィ家では『ボナパルトはひとりで沢山だ』といって、両親が難色を示すので、正式の婚約には進まない。
とかくするうち、年末、トゥーロン軍港が革命政府に反抗し、艦隊を引き渡すことを代償に、イギリスの救援を求める。リヨンは既に王党(反革命)派の白旗を掲げている。こうなると、英軍支持のもとに、敵はトゥーロンに集結して、大勢力となり、パリの革命政府を脅威する恐れがある。政府は|慌《あわ》てて、ナポレオンをトゥーロン攻撃軍の砲兵隊長に起用する。彼は期待に|背《そむ》かず、要害の岬を占領して、港内の軍艦を直射し、軍港を奪回する。みずから砲撃を指揮したが、乗馬は敵弾を受けてたおれ、彼もまたイギリス兵の槍に突かれて|膝《ひざ》に負傷する。最初の負傷である。戦功によって少将に躍進する。
敵は総崩れとなり、冬の夜空を赤く染める炎のかなたに、戦勝に乗ずる兵の|掠奪《りやくだつ》の叫びが|凄《すさ》まじく聞える。その火柱のように、ナポレオンの名声は、|俄《にわ》かに燃えあがる。実に、このトゥーロンの一戦によって、彼は運命の人となったのであって、この時点以後、歴史はひたすら彼に奉仕するのである。
その後一年、彼は南フランスに滞在する。沿岸警備を担当したり、イタリア方面軍の砲兵指揮官になったりする。彼の希望はイタリア遠征軍総司令官になることである。そのために、過激派の頭領として最高権力をふるっているロベスピエールに接近しようとして、その弟を利用する。ところが、パリでは突如として、ロベスピエールが失脚し、断頭台にのぼる。一七九四年七月のテルミドール(熱月)の異変である。これは、ロベスピエールの恐怖政治に対するブルジョア勢力の反撃であって、バラス、タリヤンなどが策謀して演出したものである。恐怖政治は、五月に三百四十六人、六月に六百八十九人、七月には既に九百三十六人の大量処刑を行なっていたが、血は血を呼んで、いつ終るとも知れず、さながら|無間《むげん》地獄の様相を呈していた。恐怖政治に終止符をうつには、早晩、元凶と目されるロべスピエールを、たおすほかなかったのである。
ナポレオンはロべスピエール派とみられ、逮捕投獄されるが、十日余りで釈放され、パリに召喚される。しかし、要注意人物であることに変りはない。しかも、ヴァンデーの王党派討伐軍司令官に任命されたのに、平然と拒否する。歩兵への転籍にも応じないので、ついに冗員扱いを受ける。この頃が最悪の苦境であって、彼はトルコ政府の砲術顧問になろうかと思ったりもする。自殺さえ考えたらしく、兄に送った手紙には『人生は|果敢《はか》ない夢のように、たちまち消え去る』と書いている。
それに、デジレからは手紙もあまり来ない。彼女はナポレオンが五月、パリに向って出発する際には、炎のような文字を連ねて、
『あなたの健康を保つことは、あなたのデジレの健康を保つことと同じですわ。だから、くれぐれも健康に気をつけて下さいね。デジレはあなたがいなくなったら生きていけませんもの。どうぞ婚約を守って下さい。私も必ず守り抜きますから……』
と訴えたのだが、心変りでもしたのだろうか。彼はジョゼフにデジレの本心を確かめてくれと依頼して、肖像画を送り、『彼女がまだ欲しいというならやって下さい。もし、|要《い》らぬといったら、兄さんに差し上げます』と書き添える。
実際は、パリの生活に親しむに従って、彼のほうが関心が徐々に薄らいでいたのである。その証拠には、彼は、『パリの女は実に素晴らしい。男は女に夢中で、女のことばかり考え、女のためにだけ生きている。半年もパリで暮すと、「美女は帝国を築く」という真理がわかる』と兄に報告している。要するに、眼が肥えるに従って、デジレのようなヒナびた純情女性の魅力が減退するのは当然だったのである。どちらかといえば、彼よりはデジレのほうが、熱情的だったようである。彼女はナポレオンがタリヤン夫人と|頻繁《ひんぱん》に|森《ボア》を散歩するときいて、
『あなたは有名なタリヤン夫人とブーローニュの森をよく散歩なさるそうですけれど、どうか、デジレとふたりで河岸を散歩した時の想い出を汚さないで下さい』
と|怨《えん》じている。
彼女は後に高名となった将軍ベルナドットと結婚する。ベルナドットはナポレオンの部下でもあり、競争者でもあった。ナポレオンは彼を元帥に登用したが、その後に、スエーデンに皇太子として迎えられ、ついに、国王となる。つまり、デジレはスエーデン王妃として玉座にのぼるのである。幸運というべきだろうか。
そうともいえぬようである。一八一二年、ナポレオンがロシア遠征に失敗し、フランス本国の防衛に全力を傾けていた時、ベルナドットはロシア、オーストリア、プロシアの同盟軍に加担して、旧恩あるナポレオンを攻撃するのである。のみならず、ロシア皇帝アレクサンダアに取り入り、あわよくば、ナポレオンの後継者として、フランス皇帝になろうと|企《たくら》んだ。ナポレオンが昔の恋人の夫として、ベルナドットに多くの栄誉を与えたことを考えると、忘恩もはなはだしい、といわねばならぬが、デジレはそれを|諫止《かんし》しようともしなかったらしく、従って彼女に対する史家の評価は低い。
しかも、ウォタアルー戦役(一八一五年)の後には、彼女は王党派の中心人物であるリシュリュウ公爵に恋するという附録までついている。せめてもの救いは、八十三歳の高齢で死んだ時、枕の下から、ナポレオンに書き送った恋文の|草稿《したがき》が幾通も発見されたことだろう。
他方、ナポレオンはセント・ヘレナ島の回想談のなかで、
『デジレは愛らしい女性であって、私には総てを許した。ある夜など、私のベッドに滑りこんで、挑発したことだってある……』
と語っている。
デジレの行動は少し理解しにくい。だが、もしナポレオンが彼女を妻としていたら、恐らく、天分を発揮せず、小成に甘んじて生涯を終ったことだろう。
冗談はおやめになって
デジレは性格的に温良ではあるが、|強靭《きようじん》でなく、どこか|脆《もろ》いところがあったようだ。ナポレオンにしてみれば、彼女が両親を説得して結婚を早く実現することを期待していたから、彼女の緩慢な態度に物足らなかったろう。だが、デジレとしては、パリの社交界に出入りして、きらびやかな貴婦人とランデブを楽しむナポレオンに、いつとはなく置き去りにされたような気持になったのではないか。いずれにせよ、当時のナポレオンは失意の日々を味気なく送っていたから、デジレに裏切られたと思って、いたく悲観したのである。
『こんな調子だと、是が非でも|結婚したいという狂暴な欲望《ラ・フ オ リ イ ・ ド ・ ム・ マ リ エ》に襲われそうだ』
と兄に告白している。
いわば、結婚マニアである。それだから、十四歳も年長のペルモン夫人に求婚する。これはコルシカ出身の財産家の未亡人であって、ギリシア系の絶世の美女である。ラ・パノレアと呼ばれ、社交界の一勢力をなしている。ナポレオンが求婚した時には、未亡人になって幾日もたっていない。ラ・パノレアは呆れて高笑する。『冗談はおやめになって頂きたいわ!』
縁は不思議なもので、彼女の娘ローラが後にナポレオン|麾下《きか》の勇将ジュノー――トゥーロン攻略に参加してナポレオンに傾倒し、進んで副官になった――と結婚する。ジュノー夫人は回想録を残しているが、母のラ・パノレアは、ナポレオンに求婚された時は息がとまるほど驚いた、と語ったという。さもあろう。
ナポレオンが次に言い寄ったのは、ラ・パノレアよりもさらに高齢のブウシャルディ夫人である。王政時代の植民地官僚の未亡人であるが、芸術的才能が豊かで、装身具業を経営して巨利を収めたうえ、演劇界に進出して|忽《たちま》ち成功した。別名をラ・モンタンジュという。処刑された王妃マリイ・アントアネットの信任が厚く、ヴェルサイユ劇場の支配人格だった。革命が起ると当然失脚し、投獄されたが、テルミドールの政変によって、危ういところを救われた。救ったのはバラスである。
出獄後は再び社交界に返り咲き、金銭的にはバラスの後援者となり、肉体的には彼の情人になっていた。バラスはラ・モンタンジェの持家を借用していたので、ナポレオンはこの家を訪れては、よくバラスと密談した。ナポレオンは、テルミドール政変の指導者であり、当時の実力者ナンバー・ワンのバラスに接近していたが、バラスのほうでもトゥーロン攻略以来、ナポレオンの実力を高く評価していた。
ある日、両人が額を寄せて談合していると、ノックもせずに、ラ・モンタンジェが入って来た。バラスが紹介すると、
『バラスの親友なら、私にとっても大切な親友よ。|頼母《たのも》しそうな|方《かた》ね、将軍!』
といって傍に坐った。年こそ少しとっているが、|残艶《ざんえん》なお悩ましいまでに美しい。さすが、一世にうたわれた才女だけのことはある。ナポレオンが讃美の眼を注ぐと、彼女も友情のあふれる|眼差《まなざし》で見返す。バラスは巧みに座をはずす。
その翌日、ナポレオンは早々にバラスに連絡して、ラ・モンタンジェの財産はどのくらいか、と照会する。バラスは苦笑する。『ずいぶん性急だね』
だが、バラスも結婚そのものには賛成なのである。革命後に世に出たナポレオンにとって、|旧 体 制《アンシアン・レジム》下で名を知られた女性と結婚するのは、いわば、新旧両体制に関連を持つことになるし、それに、コルシカ人意識を清算して、フランス社会に溶けこむ方便ともなる、と説く。
そこで、ナポレオンはラ・モンタンジェとランデブを重ね、両人は、婚約して近くコルシカ島に行こうか、などと相談を進める。しかし、実行に移さぬうちに、俄かに政治情勢が急迫して、それどころではなくなる。
このように、ナポレオンが、とかく年長の女性に|憬《あこが》れたのは、あるいは母のレチツィアの影響によるものかも知れない。彼が生れたのは、母が十九歳の時であるが、この母は美しく、賢く、正しく、そして、強かった。ほとんど無学ではあったが、誇り高く、神のほかには何物をも恐れなかった。後年、|母后陛下《マダム・メール》と仰がれた時にも、堂々としていたが、同時に、いささかも権勢に|驕《おご》るところがなかった。ナポレオンの家族は、概して、不出来だったのに、みな富貴に執心した。母だけは淡々としていて、ナポレオンが没落した際にも、『多分、こんなことになるだろうと思っていたよ』という態度で、暖かく|労《いたわ》った。ナポレオンはこの母を心から敬慕していた。母にだけは、終生、頭があがらなかった。
つまり、ナポレオンは母っ子だった。レチツィアのイメージを年長の女性に求めたとしても不思議はあるまい。それは、また、|善良《ボンヌ》で|温順《ドウース》で家庭的な婦人という彼の理想にも通ずる。ただ、パリに来てからの彼の好みは、いつの間にか、清純な|処女《おとめ》から、円熟した既婚婦人に変っている。そして、財産家にだけ関心を示す。
将軍の観相
バラス、タリヤン等の反ロベスピエール勢力が、テルミドール|政変《クーデタア》によって、|過激《ジヤコバン》派を粛清したことは前にもふれた。天下は取ったものの、テルミドール派の地位は、決して強固ではない。彼等は|過激《ジヤコバン》派を倒したのだから、その敵意に備えねばならぬのだが、ルイ十六世の処刑(一七九三年一月)に賛成して手を|汚《よご》しているから、王党派の|復讐《ふくしゆう》をも警戒しなくてはならぬ。つまり、左右から|挾撃《きようげき》される危険な立場にいるのである。そこで、左を制し右を抑える綱渡りのような均衡政策を取るほかないが、こうなっては民衆の支持を期待できぬのだから、必然的に軍に頼らざるを得ない。テルミドール派の主柱として、既に重さをなしつつある軍部は、時局の最終的収拾者として、やがて、本番を迎えることになる。
他方、恐怖政治が終ると、緊張の反動として、社会生活は忽ち|弛緩《しかん》し、ダンスや|賭博《とばく》が流行し、美徳(ロべスピエールは美徳の支配を強調した)は|抹殺《まつさつ》されて、男女関係は乱れに乱れた。パリ市内の六百のダンス・ホールは満員だった。ホールからあふれた群衆は監獄――恐怖政治の期間に無数の犠牲者が|呻吟《しんぎん》していた――でハメをはずして踊り狂い、無縁墓地で踊りわめいた。街には、|金色青年隊《ジユネス・ド・レ》がハデな上着、狭い胴、細いズボンという珍妙な|服装《いでたち》で、|棍棒《こんぼう》や長剣をふりまわして、大道狭しと横行した。これは、テルミドール派が作った私兵的組織である。これと並んで、婦人は長い|裳《もすそ》を両手で抱え、顔をかくすほどの大きなボネットをかぶり、全身を、ごてごてと飾り立てて、得意になっていた。彼女等はメルヴェイエーズ(素晴らしい女たち)と呼ばれた。後に、婦人のドレスは一転し、古代ギリシア風と称して、肌の透視できる薄ものを着用するのが流行となった。
サロンの社交生活も華麗に再開された。数あるうちでも、テレーズ・タリヤンの主宰するサロンが最高だった。彼女はスペイン銀行家の娘であって、幾度も離婚している。恐怖政治の間は投獄されていたが、テルミドール政変のおかげで釈放され、この政変劇の主役のひとり、タリヤンの情人となり、後に正妻となった。その後、バラスと同棲したが、この物語の時点では大銀行家ウヴラールの愛人である。『テルミドールの夫人』とうたわれたが、まさに、社交界の輝かしい明星だった。
テレーズは|薄紗《はくしや》の|衣《ころも》を長身にまとい、巨大なカメオを飾った|帯《ベルト》をしめ、そのうえから、軽くカシミヤのショールを羽織っている。頭にはダイアモンドをちりばめた古典的な|小冠《デイアデム》をのせ、素足にサンダルをはく。足首や指には高価な指輪が輝く、という趣向である。時には、透明なドレスの下に、金の星を散らした桃色のタイツをはいている。
このサロンにナポレオンが現われる。
野戦で|綻《ほころ》びた将官服のうえに、使い古した灰色の|外套《がいとう》を着ている。|櫛《くし》を入れぬ長髪は|犬 の 耳《オレイユ・ド・シアン》(というへア・スタイルが流行った)のように、前こごみの両肩にザンバラに垂れさがっている。長く細い手であって、手袋は省いている。彼にいわせると、不必要なのだそうだが、実は、新調できないのである。長靴も寸法が合わず、磨いてもない。それに、三角帽のくたびれていること!
他の将官が、みな、シャレた軍装をしているだけに、ナポレオンの野暮な格好は、対照的に見すぼらしい。それに、|小身《こがら》で、顔は骨張って|尖《とが》っている。これが、トゥーロン攻略の名将と、誰が想像しよう。ただ、眼だけは鋭く光った。当時自認したように、彼は上流夫人の群れに接するのが不得手だった。
それにもかかわらず、テレーズのサロンに出入するのは、タリヤン、、バラス等の実権派に接近するためである。従って、彼としては、不得手な社交に全力をつくさねばならなかった。ある夜、彼はテレーズの|傍《かたわ》らに座を占めて、彼女の手相を見る。奇想天外の予言をして、彼女を笑わせる。テレーズの腕は雪のように白く、腕輪は黄金の蛇である。その頭はエメラルド製であって、両眼にはルビイがはめこんである。
『マダム、次に現われる|貴女《あなた》の恋人は、蛇よりも執念深いでしょう』
とナポレオンが言うと、テレーズは、
『まあ、ほんと? 嬉しいわ。息の根がとまるほど、いちど蛇に強く抱きつかれてみたいわね』
と明るく答える。ナポレオンは勇気をふるって、
『私が蛇だったら、マダムのその細い首に|絡《から》みついて、ウイというまで離れませんよ』
と一歩進む。
『この首なら――』
と答えて、テレーズは両手を|喉《のど》にあてる。|黒檀《こくたん》よりも黒い頭髪が|象牙《ぞうげ》のような首筋を、ひとしお細く見せる。腕輪の蛇が、眼を輝かせて、その喉もとに迫る。
『この首なら、小さな蛇で間に合いそうね、将軍』
と|艶《あでや》かに微笑する。
ナポレオンの心は|弾《はず》む。テレーズは半歩進んだようだ。それとも、半歩退いた積りなのか。こちらは、もう一歩踏みこまねばならぬ。
『マダム、それでは、私が蛇になることを許して頂けますか?』
とたんに、テレーズは立ちあがって、折しも入って来たバラスに、濃艶な|秋波《しゆうは》を送る。
『今晩は、バラス。いま、ボナパルト将軍に手相を見て頂いているのよ。|貴方《あなた》もいらっしゃいな。とても、お上手だから』
ナポレオンは黙って唇を噛む。
ノートル・ダアム・ド・テルミドールを征服しようと思いたって、機会があれば、日ごと夜ごと、機嫌をとっていた彼なのである。出来れば、結婚したいとも考えていたのだが、みごとに、|失策《しくじ》ったようである。しょせん、恋愛技巧は未熟だった。
このことがあってから、タリヤン夫人をひそかに小憎らしく思った。後日、志を得てから、復讐することになる。
革命の英雄
この間に、政治情勢は刻々と緊張を増大する。テルミドール派はロベスピエールの経済統制政策を大幅に修正したので、インフレーションが激化し、アッシニア(土地で償還する政府公債)は二〇%台に下落し、食糧不足にともなって、物価は暴騰した。紙幣は暴落を続けるので、一万フラン札以下は作っても無意味になり、ついには、硬貨でなくては物を買えなくなる始末。
こうなると、社会不安が激成され、民衆は|過激《ジヤコバン》派独裁時代に郷愁を抱き、一七九五年春以降、頻りに暴動・蜂起が起り、政府は軍隊を繰り出しては|峻烈《しゆんれつ》な弾圧を加えた。この最中に新憲法が制定され、「五百人会議」と「元老会議」の可決した法律を「総裁府」が実施する新制度が樹立された。「|総 裁 府《デイレクトアール》」は五百人会議の提示する十倍の候補者リストから、元老院が任命する五名の総裁によって構成される仕組みである。
ところが、反革命派・王党派の勢力は、インフレーションの|昂進《こうしん》とともに増大するので、テルミドール派は政権維持のために、新憲法下の最初の選挙に際しては、当選議員の三分の二(両院合計五百人)は旧|国民公会《コンヴアンシオン》の議員でなくてはならぬ、と規定した法令を発布した。不合理極まる法令なので、反対派は当然に息まいた。しかし、新憲法は人民投票によって承認され、選挙は十月二十日を期して施行されることになった。
その直前の革命暦ヴァンデミエール(ぶどう月)十二日、すなわち十月四日、王党派を中心とする反対勢力は|国民公会《コンヴアンシオン》を襲撃しようとした。兵力二万数千、四十八のパリ全地区のうち、三十地区が参加して、盛んに気勢をあげた。
これに対して、ムヌー・パリ司令官は強力な措置を取らず、かえって叛徒と内通する有様なので、|国民公会《コンヴアンシオン》は逮捕|罷免《ひめん》して、バラスを国内軍総司令官に任命した。バラスは軍人出身の政治家で、テルミドールのクーデタアに際しては、軍を率いた立役者である。だが、軍務よりも策謀に長じており、それに悦楽に溺れているので、局面収拾の自信がない。|手許《てもと》の正規軍は五千人しかないのである。
そこで、ナポレオンを副官に起用しようと考えて、緊急に招致する。三分以内に諾否を決定せよ、と迫る。ナポレオンは一考のうえ、断固たる態度で、
『よろしい。引き受けよう。だが、作戦の全権を与えてもらいたい。私が剣を抜くからには、秩序が完全に回復されるまで、手段を選ばず、事態を処理する方針だが、それでよいか』
と念を押す。これが午前一時である。
彼は直ちに行動を起し、敵の機先を制して、ミュラアの騎兵隊三百騎を急派して、ムヌーが郊外に放置した五十門の大砲を入手すると、|国民公会《コンヴアンシオン》の周辺に配置する。叛軍が来襲すると、砲門を開いて、遠慮なく実弾を射ちこむ。敵は混乱して、忽ち|潰走《かいそう》し、危機は解消する。彼は暴徒が大嫌いなのである。かつて、チュイルリイ宮に暴徒が乱入して、スイス|傭兵《ようへい》を虐殺したのを、間近で見て以来、暴徒には砲弾を、と決意していた。これが、文豪カアライルがフランス革命史に叙述した「|砲 弾 の 炸 裂《ホイツフ・オブ・グレイブシヨツト》」である。敵の損害は三百。味方の戦死三十。砲弾の炸裂によって、ナポレオンは一夜にして、救国の英雄となる。
「ヴァンデミエール将軍」が|国民公会《コンヴアンシオン》に|颯爽《さつそう》と姿を現わすと、賞讃の拍手が議場を圧して起る。新しい革命の英雄に対する拝礼である。だが、二十六歳の、将軍は平然と構えている。こんな勝利は物の数でもないのだ。冷やかに議場を眺めつつ、彼は内心でつぶやく。「これでも、この先生がたは、国民の指導者の名に値するのだろうか。砲声をきいて、驚き、腰を抜かしているのに。だが、私は今日から、このお偉がたの保護者になったのだ。この連中が私の従順な奴隷になるまで、立派に守ってやらねばなるまい」
翌日、彼は国内軍総司令官に任命される。ナポレオン・ボナパルトの暗い夜は終った。明るい太陽が、いま、地平線に昇る。その地平線は無限に広大である……。
叛乱予防のために、政府は市民の所持する一切の武器没収を命ずる。その指揮はナポレオンがとる。この時、十二歳の紅顔の少年が、母の手許から没収された亡父の遺愛の剣を返してもらいたい、と嘆願する。ナポレオンが快く応じたので、間もなく、少年の母が謝意を表しに来訪する。なんと美しい女性だろう! 妖艶なうえに、気品が高い。さながら、盛りのバラを見る思いである。
一枝の濃艶――ほかならぬ、これが、ジョセフィーンである。
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第二章 花 と 剣
ジョセフィーン
ジョセフィーンは一七六三年六月、マルチニック島に、タシェ家の長女として生れた。
マルチニック島はフランス領植民地であって、西インド諸島のプエルトリコに近い。四十マイルに十五マイルという小島であるが、軍事的価値があるので、英仏戦争が始まると、必ず争奪の対象となった。熱帯的風土だから、花も鳥も女も濃艶である。白人一万、黒人三千の人口構成であるが、ほかに黒人奴隷が七万もいた。産業は砂糖とコーヒーであって、プランテーション(農園)を経営する白人はグラン・ブロンと通称された。
タシェ家もグラン・ブロンではあるが、小さな砂糖プランテーションを、なんとか工面して維持している程度だから、決して裕福ではない。フランスでは先祖は一応の旧家だったのだが、当主はマルチニック民兵の大尉ということで、島の社交界でも大きな顔はできない。もっとも社交界といっても、フランスから移住してくる者の多くは、金をもうけるのが目的で、ひと財産作れば、サッサと帰国したがるから、総督の周辺を除けば、有力者は少なかった。
それだけに、島の生活は楽天的、かつ、解放的で、至極のんびりしていた。奴隷労働を|搾取《さくしゆ》する社会は総て同じであるが、一般に怠け者で賭けごとに熱中し、なにかというと決闘|沙汰《ざた》に及んだ。しかし、人情は|濃《こま》やかで、とくに女性は南国情緒が豊かだった。マルチニックのフランス系婦人をクレオールと呼ぶが、彼女等は早熟だったから、自然に、恋愛の技巧にも長じていた。その反面、孤島は知性を育てる施設にとぼしく、従って、教養の水準は低かった。
ジョセフィーンは、このような環境で成長したが、幼時は忠実な|混血《ムラツトオ》の乳母にかしずかれ、その後は島の女学校に通い、十四歳で一応の教育課程を終了した。その頃の彼女の印象を知人はこう語っている。
『マドモアゼル・タシェは動作が優雅で、いかにもエレガントである。妖精のように躍り、鳩のように情熱的だ。だが、少しく軽薄なところがあり、移り気で、異性に興味を持ち過ぎるようだ。それに、浪費癖が強い。美しいというよりは、魅力が素晴らしいというべきだろう……』
これは、かなりよく、ジョセフィーンの性格をとらえている。十四、五歳で、早くも、「|なまめかしい《コ  ケ  ツ  ト》」といわれるのも、彼女なればこそ。
ジョセフィーンの生れる六年まえに、マルチニック島に、新総督フランソワ・ド・ボーアルネエ侯爵夫妻が着任した。本国では、十字軍以来の古い伝統を誇る名門の出身である。島に在任する間に、タシェ大尉の美貌の妹マリイ――ジョセフィーンの叔母に当る――と特殊な関係を結んだ。マリイは嫁してルノダン夫人を名乗ったが、直ちに離婚して、再び総督の情人となった。この間に、総督夫人はアレクサンダアという男子を産んだ。一七六〇年五月のことである。つまり、ジョセフィーンより三歳ほど年長ということになる。
やがて、総督夫妻は任期満了して、パリに帰ったが、アレクサンダアは遠路の航海をするには幼な過ぎるという理由で、タシェ家に預けられた。彼は三年ほど滞在し、幼年期をジョセフィーンと無心に遊び暮した。しかし、アレクサンダアが本国に帰ると、ふたりの間には五千マイルもの広大な海洋があるので、ほとんど他人同様の間柄となってしまった。唯一の|絆《きずな》はマリイ・ルノダン夫人である。彼女はアレクサンダアの母代りだったが、総督のあとを慕って、パリに移住していたから。
ボーアルネエ侯爵家は軍職貴族の家がらだから、アレクサンダアも軍人になった。十六歳で少尉に任官すると、そろそろ、結婚が話題となる。この頃、侯爵夫人は既に他界し、ボーアルネエ前総督は、半公然と、ルノダン夫人と|居城《シヤトウ》に同棲していた。従って、アレクサンダアの嫁さがしも、主として彼女の任務となったが、クレオールは同族意識が強いので、彼女はタシェ家の娘――ジョセフィーンのあとに、さらに、ふたりの女児が生れていた――に眼をつけた。
アレクサンダアは進歩的な家庭教師の影響もあって、当時流行の自由思想にカブレていたが、思想だけではなく、恋愛においても自由奔放に振る舞った。なにしろ、名門の|御曹子《おんぞうし》である。金もあるし気前もよく、それに、軍服姿は|凛々《りり》しい。女運に恵まれなかったら、むしろ不思議であるが、困ったことには、まだ十八歳の地方連隊附中尉というのに、早くも私生児の父になろうとしていた。相手は、これもクレオールのマダム・ロンプレという、とかくスキャンダルの多い未亡人だった。アレクサンダアは騎士気取りで得意だったが、女は十一歳も年うえだった。
こんな事情なので、ルノダン夫人は、善は急げ、とばかり、アレクサンダアの結婚を推進し始めた。彼女が選んだのは、タシェ家の次女である。ジョセフィーンではアレクサンダアとの年齢の差が少な過ぎるという理由で、見送られた。ところが、この次女が婚約間際に急死したので、やむなく三女が候補者となった。しかし、この娘は僅かに十二歳なので、俄かに起った縁談にショックを受けて、発病してしまった。そこで、最後に、それではジョセフィーンにするほかあるまい、ということになった。
現代感覚では理解しにくいが、十八世紀のフランスでは、こんなことは別に珍しくもなかった。良家の女性は両親の指示に、黙々と従ったのである。いささか不審に思われるのは、アレクサンダアの気持であるが、彼としては結婚に積極的になる理由があった。結婚すれば、父の侯爵から四万リーブル(現在の通貨価値で四万ドル)の年金をもらえることになっていたから。ロンプレ夫人に熱中している彼としては、三女のうちの誰を妻に迎えようが、さしたる問題ではなかったらしい。
こうして、ジョセフィーンは病中の父につきそわれて、荒天の大西洋を横断し、一七七九年末にパリで、ボーアルネエ大尉と結婚した。大尉はこの機会に|子爵《ヴイコント》に叙せられた。|芽出度《めでた》い結婚式だったのに、ジョセフィーンは淋しそうだった。新郎側は老侯爵をはじめ、名だたる|親戚《しんせき》が多数列席したが、新婦側は父は病気に倒れ、花嫁ひとりという状況だった。ジョセフィーンが頼りにできるのはルノダン夫人だけだった。ついでながら、新婦の持参金の大半は夫人が支弁した。
ボーアルネエ子爵は、さすがに新婚当初はジョセフィーンを|愛撫《あいぶ》したが、これも|束《つか》の|間《ま》で、長くは続かなかった。新妻が知的教養を欠いていることに失望し、みずから再教育を試みて、難解な哲学書や史書の勉強を強制したが、ジョセフィーンがいっこうに興味を示さないので、ますます失望した。どうやら、彼女は消極的抵抗によって、巧みに夫を|翻弄《ほんろう》したものらしい。夫が激しく非難しても、柳に風と受け流して、黙っていた。ソクラテスのいったように、女の最良の武器は沈黙である。
ついには、夫は旅行ばかりして、パリの邸宅に寄りつかなくなった。その間に、男子が生れた。ジョセフィーン十八歳の時である。ユウジェーヌと命名した。続いて、女児を妊娠するが、夫は家をすてて、マルチニック島に出奔してしまった。しかも、情婦のロンプレ夫人をともなって。
この淫乱な未亡人は、よほどジョセフィーンが|妬《ねた》ましかったものとみえ、年若い子爵をそそのかし、ジョセフィーンの婚前の|放埒《ほうらつ》な素行なるものについて、無根の風説を現地で集めさせた。それらによると、ジョセフィーンは少女時代に、男から男へと|淫蕩《いんとう》な生活を送り、黒人にさえ肌を許したことになっている。
ボーアルネエ子爵はマルチニック島から、『おまえの汚らわしい行状については、動かぬ証拠がそろったぞ』と、|悪罵《あくば》の限りをつくした手紙を、幾通もジョセフィーンに書き、『さっさと、|修道院《コンヴエント》へ入れ』と命ずる。女児オルタンスが生れたのは、こうした際なのである。その時、ジョセフィーンは洗礼の費用を|捻出《ねんしゆつ》できず、結婚記念の宝石を売却する始末だった。
宝石を売り払うとともに、夫の愛情にも見切りをつけたらしく、婚家を出て、コンヴェントに移るとともに、離婚訴訟を起した。曲折を経たのち、ジョセフィーンの勝訴となり、法律的に別居を認められた。一七八五年春である。
革命の閃光
革命の遠雷は、この時既に|轟《とどろ》いていた。一七八五年といえば、ルイ十六世の政府は、財政難に四苦八苦していたが、この年の八月には、有名なダイアモンド|頸飾《くびかざり》事件が起ったのである。
ストラスブール(アルサス)大寺院のド・ロアン大司教は、名門の大貴族で、ウィーン駐在大使を勤めた人物である。典雅で優美ではあったが、軽薄な野心家だった。首相になりたいと思って、王后マリイ・アントアネットに接近するが、王后は|一顧《いつこ》も与えない。この大司教が大嫌いなのである。
そこに、|稀代《きたい》の詐欺師ヴァロア|偽《にせ》伯爵夫妻が登場する。彼等は宮廷の御用宝石商が百六十万リーブル(現在なら百数十万ドルか)もするダイアモンド製頸飾――前王ルイ十五世が|寵妾《ちようしよう》デュ・バリイ夫人のために作らせた――を持てあましているのを知り、一計を案出する。かねてから、王后は宝石が好きで、この頸飾を欲しがっているが、|手許不如意《てもとふによい》で購入できない。そこで、偽伯爵は王后の親書を偽造し、王后が大司教に代金を立て替えるように依頼したことにして、マンマとこの頸飾を詐取し、ロンドンに高飛びして、売却してしまう。
偽伯爵は詐欺の天才である。大司教をタブラカすために、薄暮に、ヴェルサイユ宮殿のヴィナスの森において、マリイ・アントアネットに扮装した偽王后に密会させたりもする。偽王后は、なんと、パレ・ロアイヤルの盛り場に出没する売笑婦ニコルである! 大司教は平素は冷淡な王后から、親しく|挨拶《あいさつ》――ニコルに暗記させておいた――を賜わって、わがこと成れり、と狂喜して、ペテン師のいうままになる。
ところが、宝石代金が|滞《とどこお》るので、宝石商は王后に拝謁して恐る恐る督促する。王后は寝耳に水で驚く。この事件には、なんの関係もないのである。マリイ・アントアネットは思慮が浅いが、男まさりのオーストリア女帝マリア・テレザの娘だけあって、異常なまでに誇りが高い。彼女は激怒して、夫王を動かし、廷臣の並居るなかで、ウムをいわせず大司教を逮捕投獄させる。それでもムシがおさまらず、公開裁判を指示する。
国民はアッと息をのむ。フランスの王政史に、かつてない一大スキャンダルだから、裁判所には傍聴人が殺到し、裁判記録は羽がはえたように売り切れ、いかがわしいパンフレット類が洪水のように出版される。なにしろ、面白くさえあればよいのだ。とうてい信用できそうもない内容が、もっとも信用される。
それは、訴訟を起した王后が、かえって世論に裁かれるという、意外な結果を招く。毒蛇の巣に手を突っこんだようなものである。貴族と僧侶は彼等の強大な勢力を結集して、マリイ・アントアネットに対抗する。国民は、「こんな怪事件が起るのも、王后の私行が乱れているからだ」と考え、非難のコーラスに騒然と加わる。
判決は翌一七八六年春に下され、ド・ロアン大司教は無罪となった。売笑婦ニコルも無罪。わずかに、偽伯爵が労役、ヴァロア夫人が、V(|窃盗人《ヴォラール》)の|烙印《らくいん》を焼きつけられて、終身刑に処せられた。だが、誰の手引があったのか、彼女は間もなく脱獄してロンドンに渡り、邪悪のペンをふるって「真相」を公表した。全部がマリイ・アントアネットの仕組んだ狂言であって、頸飾はいまなお王后が秘蔵している、というのである。
王后はフランス国民には|頗《すこぶ》る不人気だったから、半信半疑ながらも、彼女の手は汚れているらしい、と疑い始めた者が多い。こうして、この事件はマリイ・アントアネットに致命的打撃を与え、彼女の運命を封ずるとともに、革命の大暴風を予告する閃光となったのである。
王政の葬送
ジョセフィーンは|孤閏《こけい》を守っていたが、一七八八年夏、娘のオルタンスだけを連れて、マルチニック島の生家を訪れた。一部には、ある男の|胤《たね》を宿したので、こっそりと産むためだと、カンぐる向きもあったが、これは悪意の中傷である。
翌一七八九年五月には、パリに、|三 部 会《エタ・ジエネロウ》が開かれた。当時|旧 体 制《アンシアン・レジム》下においては、僧侶(第一身分)・貴族(第二身分)・庶民(第三身分)の三階層があったが、全人口の五%に過ぎぬ僧侶・貴族が特権階級として横暴をきわめていた。彼等は自立する力がなく、|寄生木《やどりぎ》のように大木にまつわりついて、その養分を盗みとっていた。大木が、すなわち、搾取される庶民であって、第三部は国民それ自体でありながら、しかも、その政治的価値はゼロにひとしかった。これを是正しようとするのが三部会であって、第一部・第二部それぞれ約三百名、第三部六百余名の代表――選挙された――で構成されていた。だが、その運用は容易でなく、やがて、第三部は独立して|国 民 議 会《アサンブレ・ナシオナル》となった。フランス革命は、近代産業の発達にともなって|擡頭《たいとう》した|市民階級《ブルジヨアジイ》が、大衆を抱きこんで、旧体制に挑戦した結果起った社会変革であるが、空洞となりつつあった王権も、旧体制の象徴として、あえなく亡び去る。その挑戦の第一弾が、七月十四日のバスチーユ監獄の襲撃である。
この時ジョセフィーンは、まだ、マルチニック島にいた。彼女にとっては、革命は無縁の騒動だったが、間もなく、暴風の余波は、この小島にも及び、黒人奴隷が大挙して|白人農園主《グラン・ブロン》を襲うという危険な事態になったので、ほうほうのていで帰国した。一七九〇年秋である。
この間にも、フランスの社会改革は着々として進んでいたが、十月には『パンをよこせ』と怒号する群衆の圧力によって、国王夫妻はヴェルサイユからパリに連行された。この行進こそブルボン王政の葬送にほかならなかった。
翌九一年六月、国王は従僕の制服を着て、王后・従者とともに亡命を企てたが失敗し、捕えられて、パリに連れもどされる。国王がチュイルリイ宮殿から脱走した時、国民議会の議長席に坐って、
『諸君、国王は昨夜逃亡した。議事を進めよう』
と冷静に宣言――歴史的に有名である――したのは、誰あろう、ジョセフィーンと離別したボーアルネエ子爵である。彼は自由主義者らしく、革命に進んで同調し、三部会に選出され、憲法制定と取り組んでいたのである。彼のプレイ・ボーイ的一面しか知らぬジョセフィーンにとっては、別人を見る思いがしたろう。国王逃亡事件の際には、議会は当然に論議白熱したが、彼は、議長として、実に、百二十六時間のマラソン討論を主宰した。
しかし、彼は新憲法によって議席を失ったので、再び軍職に復し、フランスがオーストリア、プロシアの侵入軍と戦端をひらく(九二年春)と、ライン方面軍に加わって出動した。パリの暴徒は、国王が外敵と通謀していると疑い、いちどならず王宮に乱入し、夏には守備に当るスイス|傭兵《ようへい》を、みな殺しにしてしまった。その年末には国王は裁判にかけられ、翌九三年一月コンコルド広場で処刑された。獄舎を出る時、
『これを妻に渡してくれ、そして、別れが辛いと伝えてもらいたい』
と従者に結婚記念の指輪を託し、むしろ、|従容《しようよう》と|断頭台《ギロチン》にのぼった。上着を脱ぎ、ネクタイをはずすと、刑吏は乱暴に両手を縛った。刑場を|埋《うず》める軍隊と大砲と物見高い群衆。太鼓が鳴りやむと、一閃して|刃《やいば》は落下し、ルイ十六世は死んだ。
この年春、アレクサンダア・ボーアルネエ子爵は栄進して、ライン方面軍最高司令官になった。ルイ十六世処刑に怒って、イギリスも敵軍に加わったので、祖国の戦局は不利の際である。しかも、勝たぬと、司令官は「外敵通謀」を理由に、罷免され処刑される。もともと、彼等は貴族の転向者だから、疑惑の眼で見られるのである。アレクサンダアも例外ではない。要害マインツを敵軍に奪われたので罷免された。
この時、国内ではモンタニアールが権力を握って、|仮借《かしやく》ない恐怖政治を展開しつつあった。その第一号が、王后マリイ・アントアネットである。王后は、わずか二日の裁判ののち、夫王と同じく、断頭台にかけられて、無惨に果てた。
これが一七九三年十月のことであるが、翌年四月には、ついに、ボーアルネエ将軍も逮捕され、続いて、ジョセフィーンも投獄された。容疑者が続々と送りこまれ、八千の囚人で監獄は超満員となったので、パリの古い僧院にも収容した。
ジョセフィーンは悪名高いカルメリイト修道院に、三カ月も拘禁された。これは、既に、二年以上もまえから監獄に使用されていたが、しばしば暴徒が来襲して、在監者を見境なく斬殺したという不気味な牢獄である。壁には剣をふるった|痕《あと》があり、洗っても洗っても、床には|血糊《ちのり》がコビリついていた。通風が悪く、湿気が強いので、|着衣《きもの》を絞ると、多量に水がこぼれた。一室に十四人も女囚が雑居し、不潔をきわめるので、悪臭は鼻をつき、南京虫が充満していた。もっとも、廻廊まで出て、ここで家族や知人と面会することは、黙認された。ジョセフィーンの子たちは、ユウジェーヌ十三歳、オルタンス十一歳になっていたが、毎日のように、母を見舞った。その際、雑種の小犬フォルチュネの首輪のなかに紙片をかくして、秘密連絡に当てた。ジョセフィーンは、よく、トランプの独り占いをしては、泣き崩れていた。しかし、同室の高名な貴夫人の証言によると、さすがに、いつも|身綺麗《みぎれい》にしていて、動作は平素と変らず優雅だったという。彼女が、同じカルメリイト修道院につながれていたオーシュ将軍と、獄中で肉体的交渉を持ったという風説は、恐らく、こんなところから出たものだろう。真偽のほどはわからない。
他方、ボーアルネエ将軍は、|美貌《びぼう》を以てきこえるキュスティーヌ夫人と恋愛を楽しんでいた形跡がある。彼は、「人民の敵」として処刑される時、子爵家代々の家宝となっている指輪を彼女に与えている。刑死したのは、一七九四年七月二十四日、そのわずか三日後に、ロベスピエールはテルミドール政変で没落して、さしも|猖獗《しようけつ》をきわめた恐怖政治も終った。不運なことだった。
ジョセフィーンは危うく虎口をのがれた。巧みに、獄吏を買収して、裁判に呼び出される(それは処刑を意味した)順番を延ばしてもらったらしい。容疑事実を記録した|書類《ドシエ》を適当にかくしてしまうのだが、この獄吏は、なんと、千百五十三通も粉々に噛み砕いて、飲んでしまったという!
彼女を救出したのは、テルミドールの演出者バラスであって、ジョセフィーンは出獄すると、彼の|懐《ふとこ》ろに飛びこんで、いち早く情婦になった。それからは、悲惨な監獄生活の反動でもあろうか、自由|放埒《ほうらつ》な快楽生活を、ただひたむきに享楽したのだった。
悪の花
一七九五年十月のある夕、百メートル間隔で、いかめしい騎馬憲兵が沿道を固めている。道はバラス邸をジョセフィーン邸と結んでいる。まず、数台の荷馬車が現われる。肉や野菜・果物類を満載している。これが、ジョセフィーン邸内に姿を消すと、間もなく、バラスが側近有力者とともに、お忍びで到着する。すると、警戒任務を終って、憲兵は兵営に引きあげる。
物資とくに食糧不足の折からなのにかかわらず、|晩餐《ばんさん》は豪華をきわめる。肉は山と積まれ、酒は川と流れる。バラスと向いあってジョセフィーン、バラスの両側にはタリヤン、レカミエ両夫人が席をしめる。彼女等こそは、『テルミドールのグレイス』とうたわれた時代の|妖花《ようか》なのである。
スウプが出ると、このスリイ・グレイセスは、いっせいに透明なドレスをかなぐりすてて、半裸になる。ジョセフィーンはバラスの|盃《カツプ》を取ると、乳首をシャンパンにひたす。魚から肉へとコースが進むにつれて、彼女等は、器用にストリップを演じて、ついに、一糸をもまとわぬ全裸となる。レカミエ夫人が腰にナプキンを巻いて踊れば、タリヤン夫人は|女豹《めひよう》の真似をして走りまわる。晩餐が終ると、主客は、あかあかと燃える暖炉の前に、いまは男も女も、みな、裸体となって、思い思いに相手を求めて、愛撫抱擁する……。
早朝、騎馬憲兵は再び警戒任務につく。ジョセフィーンの眠そうな眼に見送られて、バラスは重い体を馬車に運ぶ。
この情景は、一目撃者が残した記録によるものである。
ジョセフィーンは、すでに、ボーアルネエ子爵夫人ではなく、革命の生んだ単なる|女性市民《シトアイエンヌ》に過ぎぬはずなのだが、テルミドール反動の|廃頽《はいたい》したムードのなかで、サロンの女王として社交界に重きをなしていたのである。テレーズ・タリヤンやジョセフィーン・ボーアルネエは、サロンに咲く妖艶な悪の花だった。この花の発散する芳香に誘われて、政治家も将軍も、われ先にサロンに集まった。わけても、甘い蜜を求めて、企業家や投機師が、さかんに出入りした。|莫大《ばくだい》な利権がバラスやタリヤンによって、半公然と私売されていたからである。そして、利権への近道は、サロンの美女の微笑だった。
革命の暴風が吹き荒れている間は、ジョセフィーンは気息|奄々《えんえん》としていた。息子のユウジェーヌを大工の|徒弟《みならい》に、娘のオルタンスを洋裁店の針子にして、いかにも革命的女性らしく表面を装ってはいたものの、内心は昔の特権階級の安楽な生活がなつかしく、生きた気持とてもなかったのである。
サロンの生態は快適だった。これが性に合うのだろう。ダイアモンドを磨くように、彼女の素質も磨きぬかれ、玉の肌は、いよいよ光沢を帯び、明るい眼は、ますます光彩を放った。それに、化粧の巧みなことと、趣味の|優《すぐ》れていることは、当時並ぶものがなかった。客扱いにも、また、天才的才能を発揮した。
そういうジョセフィーンだから、バラスの一行が盛宴を張る時には、金に糸目をつけず、一枝の花にも万金を投じて惜しまなかった。だが、どういうわけか、食器・銀器類は備品がなく、いつも、あわてて隣家から借りるのだった。この辺にも、ジョセフィーンらしい、どこか投げやりの習性が現われている。多分、クレオール的性格の一面なのだろう。
バラスはシャンゼリゼエの|凱旋門《エトアール》から程近いロンポアンに、ショーミェールという|茅《かや》ぶきの別荘を持っていた。ここでも、よく、長夜の宴をもよおしたが、|主婦人《ホステス》役は常にジョセフィーンが勤めていた。バラスが来る夜は、例の通り、ジョセフィーンが隣人から食器を借り集めるので、直ぐにわかったという。
ナポレオンがジョセフィーンと会った時の、彼女の生活環境は、このようなものだった。ユウジェーヌの切なる要請にこたえ、ナポレオンがボーアルネエ将軍の形見の軍刀を返したので、ジョセフィーンが礼を述べに、「ヴァンデミエールの英雄」を訪ねたことは、前に記した(第一章)。
ナポレオンは気が早い。直ぐに、答礼に出向いた。
ジョセフィーンはリュウ・シャンテレエヌ(サン・ラザール駅の近くであるが、その後の都市改造によって、いまは全く変ってしまった)の借家に住んでいた。借家といっても、年額四千金フランの家賃だから、堂々たる邸宅である。さして広くはないが、庭も品よく整っており、二階建てで、いとも華麗に装飾されていた。例えば、二階の寝室は、金と青の色調であるが、天井には、花冠をいただく白鳥が赤いバラにかこまれている絵がかいてある。ベッドは二つ離れているが、ひもを引くと音もなく寄りあってひとつになる。三方の壁は全面が鏡である。隣室は銀色の|私 室《ブドワアール》であって、美しい|寝椅子《デイヴアン》が、ほどよく配置されている。この部屋を通って浴室にいくのだが、これは|桃色《ピンク》の大理石で作ってある。階下にはサロンが大小二つ、食堂・音楽室という構造であるが、難をいえば、少し絵が多過ぎたようだ。サロンにはハアプが置いてある。ジョセフィーンがひくのである。もっとも、いつでも、同じ曲を、しかも中途までしか弾かなかった……。
ナポレオンはようやく脚光を浴び始めてはいたが、まだ、「コルシカの異邦人」という劣等意識から完全に解放されておらず、はなやかなサロンの|雰囲気《ふんいき》に溶けこめぬふうだった。それを如才なく取り扱って、気持を楽にくつろがせたのは、ジョセフィーンなればこそである。
ナポレオンはタリヤン夫人のサロンで、テレーズの手相をみていた頃にも、ジョセフィーンの姿を見かけたはずである。だが、その時は、テレーズに夢中だった。いま、夢さめて、改めて、ジョセフィーンに接すると、これは、天人が|花吹雪《はなふぶき》とともに、雲のうえから舞い降りてきたような想いがする。彼は忽ち恋のとりことなってしまった。
その頃、ジョセフィーンが所持していた身分証明書が現存しているが、
『二十九歳。身長五フィート。鼻・口ともに形よろし。眼はオレンジ色。頭髪は褐色。面長で|顎《あご》は丸い』
と記入してある。オレンジ色とは珍しいが、光線・衣服によっては、時に緑、時に青に変化するオパアルのことでもあろうか。二十九歳は年齢より三歳低い。それだけサバをよんだのだが、知らぬ人には、もっと若く見えたにちがいない。成長した二児の母とは、とうてい、想像できなかった。
初夜
ナポレオンにとっては、年齢など問題ではなかった。ジョセフィーンが美しく、裕福なことだけで大満足だった。彼はジョセフィーンの華麗な邸宅と、|豪奢《ごうしや》な生活をみて、裕福にちがいない、と判断した。これは誤解だった。ジョセフィーンの資産は革命の変動によって、あらかた消滅してしまったし、マルチニックの生家からの送金も、|杜絶《とだ》えがちだったから、むしろ、家計は窮屈だった。ただ、彼女にはバラスを初めとして有力なパトロンがついていた。それに、借金で不足をまかなっていた。借金には、ほとんど無神経で、いくら負債が大きくなっても平然としていた。そして、使い切れぬほど、高価な宝石を買い集めた。商人が勧めると、ノンと言えぬ――断わっては気の毒だ、と思う一種の善良さがあった。
ナポレオンが公務のために、やむなく、ジョセフィーン邸の日参を怠っていると、ある日、思いがけず、彼女から手紙がとどいた。
『私は|貴男《あなた》が好きなのに、ちっとも来て下さいませんのね。お見すてになってはいやですわ。深い愛情を抱いているこの私を。明日、昼食においでにならない? お目にかかって、貴男のお仕事について色々お話をしたいのです。お|寝《やす》みなさい。貴男に|接吻《くちづけ》を送ります。
[#地付き]未亡人ボーアルネエ』
ナポレオンは、胸をときめかして、直ぐに返事をしたためる。
『どんな風の吹きまわしで、お手紙を下さったのでしょうか。私ほど|貴女《あなた》の友情を欲する者はありません。その証拠なら、いつでもお目にかける積りです。もし、公務がなかったら、この手紙は私自身が持参したでしょう。
[#地付き]ボナパルト』
この往復|書翰《しよかん》の日附はわからない。次のナポレオンの手紙にも、日附がない。
『午前七時、
貴女のことばかり考えて眠れません。貴女の絵姿と、昨夜の|爛《ただ》れるばかりの陶酔の記憶が私の全身をしびれさせ、官能をかき乱して、もの狂おしくするのです。いとしく、比類ないジョセフィーン。貴女は私の心臓に、なんと不思議な魔力をふるうことか! 私のことで怒っていらっしゃるかしら? なにか悲しいことでもおありかしら? それとも、気分でもお悪いのでしょうか? 私の心臓は悲哀に打ちひしがれ、私の思慕は片時のやすらぎも与えません。……貴女の唇と、貴女の胸から、この燃える思いを吸いとっている私なのですから、私自身が炎に焼きつくされるのは不思議ではないでしょう。貴女の肖像が実物の貴女と比べものにならぬことを、昨夜という夜が、はっきりと示したのです。午後にはお目ざめでしょう。あと三時間もすれば、また、お会いできますね。それまで、では、愛する貴女に千回の接吻を。でも、貴女は私に接吻しないで下さい。接吻されたら、それこそ、私の血管は爆発してしまうから!』
これがナポレオンがジョセフィーンに書き送ったラブ・レタアの第一信である。ジョセフィーンはこれらのラブ・レタア――二百五十通残っている――を大切に保管していたらしく、彼女の死後に侍僕が手文庫から発見し、いちどは、不心得者に売却した。不思議なことに、ジョセフィーンのナポレオンにあてた手紙(わりに少ないらしい)は一通しか現存しない。これらの手紙は、後に、ジョセフィーンの娘オルタンスが検閲し、修正して公表した形跡があるが、それにしても、ナポレオンの激情には驚かされる。
明らかに、彼はジョセフィーンの肉体的魅力に圧倒されたのである。|爛熟《らんじゆく》した肉体と洗錬された技巧によって、歓喜の絶頂にみちびかれた彼は、|悶《もだ》えつつ、|呻《うめ》きつつ、焼かれつつ、焦がれつつ、ひたすら、彼女に傾倒したのである。
彼女のほうは、習性的に、いわば浮気で深い考えもなく、ナポレオンを寝室に誘ったのであろうが、ナポレオンが本気になったので、いささか、当惑したらしい。そこで、バラスに苦境を訴える。バラスは昨今、彼女に対して、やや冷淡なのである。バラスの回想録を見よう。
『ボーアルネエ夫人は、「こんどの相手(ナポレオン)には愛情を感じていない」と言った。それも道理である。彼には社会的地位がないのだ。彼女は、「愛していないのだからこの件は処理もしやすい」と言って、彼女が本当に愛しているのはこのバラスただひとりだ、と繰り返し、「|貴男《あなた》のような立派な人物を愛した私が、どうしていまさら他の男を愛せようか。私はいつまでも貴男ひとりのものだ。貴男が合図をすれば、彼とは別れて、直ぐに貴男のふところに帰る。でも、貴男は、もう、私を愛してはいない。それが|口惜《くや》しい」とかき口説き、さめざめと泣いた。私(バラス)が「では、オーシュ将軍とは関係がなかったのか? 噂によれば、将軍の副官とも交渉があったそうではないか?」と反問すると、彼女は怒って席を立ってしまった』
この回想録は、バラスがナポレオンに追われてから書いたものだから、信用しかねる節もあるが、ジョセフィーンがナポレオンの短兵急な求婚にたじろぎ、なんとか結婚を避けたいと苦慮したことは事実であって、これは彼女もみずから側近に告白している。
ところが、バラスはナポレオンに対しては、良縁だから結婚せよ、と勧めている。ナポレオンをバラス政権の強力な支持者に利用したいので、彼が自分の情婦と密通するのを大目にみたばかりでなく、さらに、ジョセフィーンに|熨斗《のし》をつけて譲ろうとするのである。男女関係が乱れに乱れていた当時のことであるから、誰はばかることなく、思うままに、愛したり別れたりしたものらしい。
バラスには勘のよいところがある。なにしろ、最少の得票で総裁になったのに、最も長く総裁の地位を保った|老獪《ろうかい》な|政治屋《ポリチシアン》なのである。、彼はトゥーロン攻略以来ナポレオンに注目し、ヴァンデミエールの際にも軍事を託したのだが、そのナポレオンが、かねてからイタリア遠征軍総司令官の地位を熱望していることを知っていた。幸いに、|総 裁 府《デイレクトアール》の軍事を担当するカルノオ総裁はナポレオンの才能を高く評価している。そこで、ナポレオンとジョセフィーンの結婚の引出物に総司令官の辞令を与えようと画策した。ある意味では、これがジョセフィーンの持参金にもなり、また、彼女に与える手切金にもなろう、というものである。
運命に
一七九六年二月十九日、婚約は公表される。続いて、三月二日、ナポレオンは正式にイタリア遠征軍総司令官に任命される。
結婚式は九日夜、オペラ座近くの市役所で挙行される。革命以来、儀式は簡素となっているが、それにしても、この結婚式は、総てが略式である。
新婦のジョセフィーンには、バラス、タリヤンと他にひとり計三人の友人が証人として、附き添ってくる。ところが、なかなか新郎が現われない。二時間も待たされるうちに、市長は立腹して、下級吏員を代理に命じて、引き揚げてしまう。たった一本の|裸蝋燭《はだかろうそく》がゆらめいて陰気な部屋を照らす。吏員は木製の義足をカタカタと床に鳴らして、落ち着きなく歩きまわる。
みなが|苛々《いらいら》しているところへ、やっと、階段に靴音が高く鳴って、新郎が駆けつける。従う副官はジュノー(後日の元帥)である。
式は数分ですむ。ジョセフィーンはマルチニック島から戸籍謄本を取り寄せる|暇《いとま》がないことを理由に、口頭で生年月日を述べる。書記は結婚証書に、新婦二十八歳、と書きこむ。だいぶん割り引きしている。もしこれが正しければ、ジョセフイーンは十二歳でボーアルネエ家に嫁したことになる! ナポレオンのほうは実齢よりも、二歳年上になっている。これで、両人の年齢の差は一歳となる。本当は、ジョセフィーンは六歳の姉なのである。
結婚指輪には「運命に!」と刻んであった。
年齢の点ばかりでなく、この結婚式は法律的に極めて不完全なものだった。市役所吏員も副官ジュノーも法定年齢に達していないのである。だが、当人たちはもちろん、出席者一同はなんの疑念も抱かず、平気なものである。
両家とも親戚は列席していない。というよりも、事後に通報する積りなのである。通知を受けて、最もショックを感ずるのは、ナポレオンの母レチツィアである。
結婚証書を点検していた公証人ラギドオは、新郎の遅刻をさいわいに、ジョセフィーンに耳うちして、『まだ間に合う。こんな割に合わぬ結婚はおよしなさい』と忠告する。
『ボナパルト将軍は一文無しですな。花とうたわれる|貴女《あなた》の手に入るのは、古外套と錆びた剣だけではありませんか』だが、花は剣と結ばれた。
ナポレオンはジョセフィーンから、この忠告をきいたらしく、後日、晴れの戴冠式に際して、とくにラギドオを招き、
『どうかね、ラギドオ。私の外套と剣は無価値だったかい?』
ときくのである。
結婚式も終って、新郎新婦はリュウ・シャンテレエヌのジョセフィーン邸で、初夜を過ごす。あの鏡にかこまれた寝室である。ナポレオンが性急にベッドに入ろうとすると、愛妻のほかに先客がいる。彼女の愛犬――監獄でまでかわいがったフォルチュネが、丸くなって眠っている。ナポレオンが追い出そうとすると、ジョセフィーンは抗議する。犬がいやなら、別のベッドで寝てくれ、と言うのである。やむなく、犬もろとも|同衾《どうきん》することになる。だが、ナポレオンが手荒く妻を愛撫し始めると、フォルチュネはジョセフィーンが虐待されているものと誤解して噛みつく。
『これが、名誉の負傷だよ』
そういって、ナポレオンは、よく、|傷痕《きずあと》を戦友に見せて笑ったものである。
ナポレオンが結婚したときいて、かつての婚約者デジレは、こんな手紙を書く。
『結婚なさったのですってね。|貴男《あなた》に捧げようと思った私の生涯は、これで終りです。貴男が他の女性と結婚したなどとは、とても、想像できません。私には、もう、生き続ける力がありません。でも、貴男は誓約を破ったけれど、私は死ぬまで婚約を守ります……絶対に結婚はしません。せめて、幸福に暮して下さいね。私が幸福にしてあげる積りだったのだけれど、……どうか、貴男のデジレを忘れないで』
二年後に、このデジレはベルナドットと結婚する。
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第三章 奔流のように
世界の沃野へ
新婚の夢は二夜で終る。出陣である。
ナポレオンは南仏ニースに待機する直属部隊と合流して、意気揚々と進発する。総裁政府とイギリス政府の交渉が決裂したが、フランスとしては、イギリス本土の攻撃は不可能なので、その同盟国であるオーストリアと戦端を開いたのである。モロー、ジュールダンの第一、第二両軍がドナウ河から、オーストリアの首都ウィーンに進撃することになっており、ナポレオンの指揮する第三軍は、イタリア半島に|屯《たむ》ろするオーストリア軍を|牽制《けんせい》するのが任務である。すでに、マッセナ、オージュロウなどの先任司令官が、イタリア各地に転戦している。
ナポレオンは、独得の軍事的直感に従って、アルプスの|山麓《さんろく》を、快速で進む。
アルプス連峰は、氷の歯を|鋸《のこぎり》のように、透明な青空に突きさして立つ。自然は、その巨大な量感を以て、微弱な人間を圧倒する。しかし、ナポレオンの強大な自信は、この重圧をはね返す。彼は砲身を愛撫しつつ、独語する。
あの山岳のかなたに、不滅の栄光が私を待っている。高原の下にひろがる敵地に攻めこんで、勝利の|凱歌《がいか》を高らかにあげるのだ。その時、ナポレオン・ボナパルトの運命は翼に乗って、飛躍を開始するだろう……。
敵はオーストリア・イタリア(サルジニア・ナポリ王国)の連合軍八万であるが、雪がとけるまでは、戦機は熟すまいと考え、冬営にこもって油断している。ナポレオン軍四万はその虚を|衝《つ》く作戦である。
だが、フランス軍の主力部隊は、三年にわたる野営で、士気が衰えている。遅配される給料はインフレーションで下落し、紙屑同様である。服は切れ、靴は破れ、よくも餓死せぬものだ、と思うばかり。傷病と脱走で、戦力は半減しているうえに、革命の影響で、軍規も乱れている。彼等が、風采のあがらぬ小男の新司令官を迎えて、少しも信頼の念を抱かぬのも、不思議ではあるまい。それに、先任の将軍たちは、たかが「内乱将軍」に、なにが出来るものか、と冷笑しているのだ。
それを知らぬナポレオンではない。彼は断固として将軍連に対する反面、温容をもって兵卒に接し、彼等とつぶさに辛苦を分ちあう。装備・医療・補給に細心の注意を払い、たえず|前哨戦《ぜんしようせん》を続けつつ、十数回も移動する司令部から、半月の間に、実に、百二十三通もの命令書を、彼ひとりで書く。
その半月で、軍はアルプス南端の最後の高地に到達する。兵は喚声をあげて喜ぶ。見よ、眼下一望の平原を。ロンバルディアの|沃野《よくや》は、無限のかなたにひろがり、四月の陽光を浴びて、野花が点々と咲いているではないか。青年総司令官は、|鞭《むち》をあげ、はるかな地平線を指して、声を励ます。
『兵士諸君、諸君は空腹だ。そして裸も同然の姿だ。フランスは諸君から多大の恩恵を受けているのに、諸君に対して、なんの報酬をも与えてはいない……諸君、私は諸君を、これから、世界第一の沃野に連れていこうとする。美しい都市と豊かな田園が諸君を待っている。諸君は、そこに、名誉と栄光と財宝を獲得するだろう。イタリア遠征軍の兵士諸君、前進!』
いかにも、ローマ時代の武将を連想させる雄弁である。読者は、ナポレオンが少年の頃から、プルタアクの英雄伝を愛読したことを、想起されるだろう。マッセナは、『ナポレオンが将官帽をかぶると、二フィートは背が高くみえた』と述懐しているが、さもあろう。しかも、彼の雄弁には、別の意図が|秘《かく》されている。それは、戦争は戦争を養う――現地徴発によって戦争を続けていく、という方針である。本国政府が補給を怠っているのだから、やむを得ない措置である。
彼はかつて、士官学校在学中に、恩師ギベールに新しい戦術を教えられている。敵を分断し、敵の弱点に対して、圧倒的に強力な兵力を集中して、各個撃破する戦法である。これに、工夫を加え、砲兵と騎兵を活用するのが、ナポレオン戦術である。彼は得意の機動力を発揮して、この戦術を駆使する。古典的戦術しか知らぬ敵将は、勝手がちがうので混乱する。|忽《たちま》ち、分断され、包囲され、撃破されてしまう。ナポレオンが二十七歳なのに、オーストリア軍司令官ボーリュウは七十二歳、アルヴィンツイは六十五歳である。軽快と鈍重の対照である。
ナポレオンはオーストリア軍とイタリア軍を分断し、先ず、イタリア軍を打ち破り、サルジニアを戦列から脱落させてしまう。サルジニア王と休戦|取極《とりき》めを結ぶと、総裁政府に報告する。
『サルジニアに対する講和条件には、なにを要求なさっても差し支えない。全要塞を占領してしまったのだから。……総裁政府が本官に対して完全な信頼を続ける限り、今後の成功は確実である。イタリアは貴下のものと思ってよい』
これが四月末のことである。まことに、意気盛んなるものがある。眼中すでに敵はない。敵ばかりではなく、総裁政府さえ無視している。ここに至って、歴戦の将軍たちもナポレオンに心服し始め、軍は占領地の潤沢な物資によって、面目を一新する。
だが、オーストリア軍は、まだ、健在である。五月十日、ナポレオンはロディの一戦で、これを撃破し、勇名をはせる。敵軍の司令官ボーリュウは高齢ながら、名将のきこえが高い。ナポレオンは陽動作戦でこの名将を|翻弄《ほんろう》したうえ、敵兵八千の死守するロディの|橋頭堡《きようとうほ》を粉砕して、ポー河を押し渡る。まず、騎兵隊に上流を渡河させ、退路を|遮断《しやだん》してから、みずから陣頭に立ち、四千の兵を率いて、弾丸雨飛のなかを、|面《おもて》もふらずに、橋を渡って突撃する。敵は|潰滅《かいめつ》し、捕虜二千と多数の大砲を得る。
このロディの決戦によって、将兵はナポレオンを鬼神の如く崇拝し、「無敵将軍」と讃美するに至り、彼の絶妙な用兵と、果敢な勇気は、全欧州に|喧伝《けんでん》される。彼自身、後日、『ロディの勝利で、初めて自分の運命について|開眼《かいげん》した』と述ベているが、『地球が|独楽《こま》のように急廻転し、私の身は空中高く舞いあがったように感じた』とも語っている。彼が無限の自信と無量の野心を抱いたのは、実に、この時である。
かくて、ボーリュウ軍は敗走し、北イタリアにおけるオーストリアの本拠ミラノは、その五日後に開城した。
晴れの入城式に際して、ナポレオンは、またも、雄弁をふるう。
『兵士諸君。諸君はアペニン山脈を奔流のように南下してきた。……ミラノは諸君の手中にある。だが、われわれは全世界の民族の友でなくてはならぬ。とくに、われわれの手本とするスキピオやブルータスたちの子孫の友なのである。いまこそ、神殿を再建して、英雄たちの像を建てようではないか。数世紀来、いたましくも奴隷の地位に甘んじてきたローマ人を解放しようではないか。
かくてこそ、諸君の勝利は結実し、後世を驚嘆させるだろう。ヨーロッパの最も美しい国に、輝かしい新体制を樹立することによって、諸君の栄誉は永遠に不滅となろう。そして、諸君が故郷に帰る時、人々は、「あそこにイタリア遠征軍の勇士がいく」といって、諸君の偉業を讃えるにちがいない』
ナポレオンは鋭い歴史感覚を備えている。彼はみずから時代の|檜舞台《ひのきぶたい》に立って、主役として演技する時にも、この歴史感覚を、巧みに、時勢の要請に適合させることを忘れない。イタリアは彼の|軍靴《ぐんか》の下にひれふしている。彼は征服者である。だが、同時に、解放者でもある。イタリア人を封建制の|桎梏《しつこく》から解放して、自由な新体制の樹立に参加させようと試みる。
実は、フランス軍は革命の落し子ともいうべきものであって、革命精神によって武装された民衆の軍隊なのである。彼等が戦っているのは、自由思想の普及のためなのであり、非自由世界を自由世界に作り変えるためにほかならない。ここに、フランス軍が強かった理由がある。しかも、|不世出《ふせいしゆつ》の軍事的天才がこれを率い、|卒伍《そつご》の兵士に対して、充実した使命感を与えたのである。旧体制を固守する諸王国の|傭兵軍《ようへいぐん》が、確たる目的意識もなく、貴族出身の職業軍人によって率いられていたのとは、まったく訳がちがう。ナポレオンは革命の民族的エネルギイを、歴史的次元において、白熱するまでに燃焼させたのである。しかも、フランスの人口三千万は、ヨーロッパ最大であって、オーストリア・イギリス両国の人口を合算したものよりも大きかったばかりでなく、青年層の比重が大きく、それに、彼らの失業率は高かった。ここに毎年十万の壮丁を徴募できる、軍国フランスの素地があった。
おかしなひとね
ナポレオンの連勝記録には、別の理由がある。ほかならぬ、ジョセフィーンである。ナポレオンは後ろ髪をひかれる想いを断ち切って、出征したのであって、|新妻《にいづま》に対する恋々たる思慕が、強烈な迫力となって、敵軍を粉砕したのである。
ここに、ニースから愛妻に送った手紙(三月三十日附)の一部を採録する。
『一日といえども、|貴女《あなた》を愛さずに過ごしはしなかった。一夜といえども、貴女をこの腕に固く抱きしめなかったことはない。私の生命そのものである貴女、その貴女から私をひき離す栄光と野心を、|呪《のろ》わずにはいられない。一杯の茶をのむ時でさえも、われとわが宿命を怨んでいるのだ。
軍務をとっている時も、部隊の先頭に立っている時も、戦場を駆けめぐっている時も、私の心臓を独占し、精神を支配し、思念を吸収するのは、貴女ひとりだけ、ただひとりだけ。
私がローヌ河の水流の早さを以て、貴女から離れるのは、もっと早く貴女のもとに帰りたい一心からにほかならない。私が真夜中に起きて仕事をするのも、貴女が到着するまでの時間を短縮したいからなのだ。
それなのに、貴女の手紙の冷たいこと! それに、もう四日も手紙が来ない……。
私は永遠の愛も貞節も求めない。私の欲しいのは真実だけなのだ。でも、もし、貴女の私に対する愛情が|冷《さ》めるようなことがあったら、それは、私の生命の終りを意味する』
軍団司令官が、戦陣から書いた手紙とは、とても思えぬ内容が、綿々と続くのだが、彼はこれに似た手紙を、毎日毎夜――多い日には四通も――書くのである。「若きウエルテルの悩み」(ゲーテ)を愛読しただけあって、炎と燃える情熱に身を焼いて、嘆き、悲しみ、訴え、呪い、|喘《あえ》ぎ、悶えるのである。
『私はどんな危険に遭遇しても、断じて、たじろがぬ勇気がある。|睫毛《まつげ》一本も動かしはせぬ。……だのに、私のジョセフィーンが不幸ではないか、病気になりはせぬか、いや、それよりも、ひょっとして、私に対する愛情が冷めはせぬか、と考えると、心臓は停止し、血管は凝結して、生ける|屍《しかばね》となる。絶望する意力さえ失ってしまうのだ……ああ、許してくれ、ジョセフィーン、私は半狂乱なのだ。でも、私のように熱愛すれば、発狂せぬのが不思議ではないか……』(四月七日)
という調子である。四月七日は、ナポレオンがアルプスの南端に立って、兵士を沃野に導こう、という、あの歴史的演説をしたその日である。この手紙には、『ジョセフィーンに愛されなかったらどうしよう、いっそ死ぬほうがましだ』とか、『万一ジョセフィーンが私を裏切って、不貞を犯したらと思うと、いてもたってもいられない』とか、書きつらねたうえ、末尾は、
『最後に|接吻《くちづけ》を、腹部より下に、ずっと下に』
と結んでいるが、腹部より下に、という五語を三度もアンダーラインしているのである。ジョセフィーンの不貞については、なにか神秘的な不安を感じていたらしく、進軍中に、ジョセフィーンの|肖像画《ミニユエチユア》のガラス――軍服のポケットに入れていて、一日に何百回となく接吻していた――が突然、粉々にこわれた時には、顔色蒼白となって、馬の手綱をしぼり、副官を顧みると、
『見ろ、粉々になった。妻は病気か不貞か、どちらかだ。よし、全軍突撃だ!』
と言いすてて、矢のように、敵陣に向って疾駆したこともある。
彼はジョセフィーンが、あとから|速《すみ》やかに来会することを期待していたのであって、彼女が冷然と構えて、いっこうにパリを離れる気配がないので、焦燥を感じ、バラスに対しても、一日も早く出発させてくれ、と依頼していたのである。
サルジニア王と休戦を取極めた直後に、彼はミュラアにジョセフィーン宛書翰を託して、彼女がミュラアと同道して来るように要請する。その手紙には『別離は小さい情熱を冷却するが、大きな情熱を沸騰させる』、『使者のミュラアは貴女の小さな手にふれることが出来て|羨《うらや》ましい限りだ』と書いて、『貴女の心臓に、それから少し下のほうに、そして、もっと、ずっと下に、熱い接吻をする』と結んでいる。
ところが、ジョセフィーンは、いっかな腰をあげようとはせず、ミュラアを買収して――一説には、美男のミュラアに肉体を提供したという――どうやら、懐妊したらしく、到底、長途の旅行に堪えそうもない、とナポレオンに返事をさせる。この時、彼女は夫の熱狂的なラブ・レタアをミュラアに音読させて、
『おかしなひとね、ボナパルトは!』
と声をあげて笑ったのである。
ナポレオンは、愛妻が妊娠したときいて、感激して、すぐにペンをとる。ロディ戦勝の直後である。
『妊娠したんだって! これは素晴らしい。だが、ミュラアの手紙によると、貴女は病気がちで、長い外国旅行をするのは適当ではあるまい、ということだ。……貴女の手紙は短く、悲しく、それに、字がふるえている。たいへん変った、と書いてあるけれど、いったい、どう変ったのかしら。ああ、私の熱愛するジョセフィーン。どうか、もっと、愉快に暮してもらいたい。貴女が半病人になって、不幸な生活をすることを想像すると、私は苦しくてやりきれない。それが、最大の苦痛なのだ、この私にとっては。
貴女は私を嫉妬深いというが、そんなことは決してない。貴女がメランコリイにかかるくらいなら、私のほうで、進んで貴女に愛人を探してあげてもよい、とさえ思っている。晴れやかに、面白く、楽しく暮して下さい。それが、私を幸福にすることなのだ。われわれの幸福は不可分なのだから!』
ジョセフィーンは、どんな気持で、この手紙を読んだのだろう?
妊娠したといったのは、「ウソも方便」で、パリに残留するための口実に過ぎなかった。彼女は心浮き浮きと、晴れやかに、軽やかに、また、きらびやかに、サロンからサロンへと、花を誘う春風のように渡り歩いていた。当時の新聞のゴシップ欄に、
『パリ社交界の目下の話題は、テレーズ・タリヤンとジョセフィーン・ボナパルト両夫人の髪色が変ったことである。両夫人の輝くばかりの黒髪は有名である。ところが、ふたりとも、流行には敵しがたく、ついに、金髪のカツラを使い始めたのだ。もっとも、金髪流行の折から、黒髪では、お忍びの場合に目立ち過ぎようというものだ』
とあるが、ジョセフィーンの行状には、とかくの|取沙汰《とりざた》があったらしい。バラスとは、いつしか、よりが戻っていた。バラスは総裁政府第一の実力者である。比類稀れなる|老獪《ろうかい》な政治家である。しかも、|淫楽《いんらく》に溺れきっていた。その淫楽が、不正な利権に結びつくところに、総裁政府の|破綻《はたん》する|萌芽《ほうが》がひそんでいた。
色と金
ジョセフィーンは、クレオールらしく、どこか倫理感が緩んでいた。それに、世話好きな――生来親切なのである――性質なので、知人に頼まれると、なにごとによらず、|否《ノン》とは言えなかった。ナポレオンが連戦連勝して、名声とみにあがると、彼女の人気も、また、大きくなり、従って、彼女を利用して利権を|漁《あさ》る者も多くなった。ジョセフィーンには異常な浪費癖があって、いつも、債鬼に悩まされていた。そこで、再びバラスに密着する――色と金が接着剤だった。
ところが、ここに、イポリイト・シャルルという軽薄才子が登場する。騎兵大尉ではあるが、戦場で敵を征服するよりは、サロンで女を誘惑するほうが得意である。空色の上着に、金のドルマン(ケープ)、真紅の帯に、赤い乗馬靴という軍装で、|銀鞘《ぎんざや》の長剣を鳴らして歩く|伊達姿《だてすがた》は、満都の女性に嘆息をさせる。ジョセフィーンより九歳若く、俳優にしたいほどの美男なのだ。それに如才がなく、会話が気がきいていて、常に要領よく立ち廻る。ずいぶんの悪童でもあって、いつぞやは、ジュノー(ナポレオンの副官)のサーベルに|糊《のり》を流しこみ、剣を抜けぬようにしておいてから、おごそかに挑戦した。女出入りのあげくの決闘沙汰である。ジョセフィーンが青くなって、ジュノーをなだめたが、彼女が色を失ったのは、シャルル大尉に夢中だったからである。彼女がパリから離れなかった理由はこれだった。
愛情の点では、ジョセフィーンのほうが熱度が高かった。シャルルは情交を重ねながらも、主要な関心を利権の入手に置いていた。実際、ジョセフィーンを通じて、イタリア遠征軍の補給万端を一手に引き受け、巨利を収めていたのである。
この時、ナポレオンは既にミラノに入城している。ジョセフィーンの妊娠を信じて、疑わず、こんな手紙を書く。
『ちっともポンヌ・アミイ(良き友)から手紙が来ない。彼女はこの私を忘れてしまったのかしら。ミオ・ドルチェ・アモール(私のやさしい恋人)から手紙が来ないと、私が嘆き悲しむことを忘れたのかしら。
ミラノでは日夜、盛大な祝宴が続いている。イタリア人は、私を喜ばそうと思って、五、六百もの美女を動員したが、私の心臓に深く刻まれているのは、ああ、ジョセフィーン、|貴女《あなた》の顔だけなのだ! ひとりとして、貴女の足もとに及ぶ者はいない。私の眼は貴女だけを追い、私の心は貴女だけを思う……。
時に、妊娠のほうはどうなのか。昼も夜も、貴女の裸体は、私の眼底にある。貴女の|小さな腹《プチ・ヴアントル》は、さぞ、愛らしいことだろう!』
ミラノのナポレオンは、独立王国の強力な君主のように行動した。一方においては、封建制度を打倒する解放者の新政策を進めながらも、他方においては、儀礼万端は|旧 体 制《アンシアン・レジム》当時よりも、さらに華美にしたから、彼の本営は、あたかも古典的宮廷のような趣きがあった。彼はパリの総裁政府の意向には構わずに、ほしいままに、休戦を取極め、講和を交渉し、独自の構想のもとに、イタリア体制を着々と建設した。
総裁政府は、内心は苦々しく思ったが、なにしろ、諸政行き詰まっている折から、ナポレオンの戦勝によって、辛うじて政府の威信を保っている実状だから、放置するほかなかった。それに、彼は多額の賠償金ばかりでなく、多数の名画――ミケランジェロ、ティティアン、コレジオ――や古代彫刻の名作を本国政府に送ったので、総裁たちは、財政的にもナポレオンの配慮を多とせねばならなかった。
とかくするうちに、政府もついにナポレオンの熱烈な要請に応ぜざるを得なくなり、ジョセフィーンに出発を促すことになった。カルノオ総裁のナポレオン宛文書には、『いままで、ボナパルト夫人に出発を差し控えてもらったのは、貴将軍に軍務に専念して頂くためだった。しかし、立派にミラノを占領されたのだから、もはや、夫人の要望を拒否する理由はなくなった。よって、夫人は近く出発する』と記してある。どうやら、ジョセフィーンが、バラスに依頼して、出してもらったものらしい。これが、五月二十一日、ナポレオンのミラノ入城の一週間後のことである。
ナポレオンは胸をときめかして、愛妻の到着を待つのだが、時は空しく経過する。北イタリアの戦場を勇猛に転戦しつつ、彼はジョセフィーンに訴える。
『六月六日以来、貴女が、もう着きそうなものだと思って、時間ばかり気にしている。ボルゲットーの戦場から砲煙が消えぬのに、馬を飛ばして帰ってみたが、貴女はいなかった。数日後に、パリから|伝書使《クーリエ》が来てわかったが、貴女はまだパリにいるのだ。しかも、伝書使は貴女の手紙を一通も持参しなかった。なんということだ。私の心は悲哀に打ちひしがれている』
そして、バラスには、
『私は絶望のどん底で呻いている。妻は来そうもない。きっと、愛人ができたのにちがいない。すベての女を憎む』
と書く。ナポレオンは一カ月の間に、ジョセフィーンから、「僅かに二通、それも三行ずつ」の手紙しか受け取っていない。彼のほうは毎日欠かさず書いているのだ。現に、『間もなく、貴女に会ったら、ポケットいっぱいの手紙を見せてあげる。あんまり激烈な内容なので出さなかったのだ』と告白している。それなのに、ジョセフィーンは、『やれ芝居だ、やれ音楽会だ、やれ舞踏会だといって、タリヤンやバラスと遊び暮しているばかりでなく、愛犬フォルチュネ(新婚の初夜ナポレオンに噛みついた、あの小犬である)の世話にいそがしくて、夫の存在を忘れてしまった』としか思われない。
彼は|堪《たま》りかねて、兄のジョゼフに、
『私が全世界で愛しているのは、ただひとり、ジョセフィーンだけなのに、彼女の近況がわからない。病気かも知れぬと思うと、生きたここちもなくなる。ジョセフィーンは私が初めて本当に愛した女なのだ。真実が知りたい。恐ろしいけれど、真実が知りたい。兄さん、どうか、事実を|報《しら》せて下さい。妻がなにをしているか。
私は独りぽっちだ。みんな私を見棄ててしまった。私は、いま、ある|忌《いま》わしい恐怖にとらえられて、昼も夜も、悶え苦しんでいる。
ジョセフィーンが病気でないなら、直ぐこちらに寄越して下さい。是非とも来るように言って下さい。会いたい。会いたい。一日も早く、一刻も速やかに会いたい。会って、この胸に抱きしめたい、固く、固く。私は狂おしいほど彼女を愛している。発狂しないのが不思議だと思う。このうえ、離れて暮すことはできない。とてもできない。もし、ジョセフィーンの愛が冷めたら、それこそ、私の人生は終りなのだ……』
と書き送る。これではジョセフィーンも出発せざるを得ない。六月末、彼女はジュノーにつきそわれ、四人の侍女を従え、数台の馬車を連ねて、ミラノに向う。華麗な騎兵の一隊が前後を護衛している。ジョセフィーンの車には、例のフォルチュネと、ひとりの男が同乗している――シャルル大尉である。
嫉妬の業火
二週間ののち、七月十日、一行はミラノ本営に着く。セルベロニ宮殿がそれである。ナポレオンは出陣中だが、ジョセフィーン到着、ときくと、風のように疾駆して帰る。
豪華な宮殿。|清楚《せいそ》な庭園。祝宴と舞踏。音楽と花火。
その花火が夜空を美しくいろどっては、忽ち消え去るように、ナポレオンとジョセフィーンの恋愛も、つかの間、|灼熱《しやくねつ》する。僅かに、二夜の抱擁ののち、ナポレオンは|倉皇《そうこう》と戦場に向う。新鋭のオーストリア軍が出動したのだ。
だが、二日二夜というものは、ナポレオンは至上の幸福に酔う。酔いに酔う。彼の愛撫は烈しく、それに応えてジョセフィーンも燃えに燃える。
『将軍は絶えずジョセフィーンを求めていた。明らかに、熱愛、いや|溺愛《できあい》している。時々、書斎から出てくると、ジョセフィーンを小娘のように扱って、余念なく遊び戯れた。ジョセフィーンも、よく、明るい声をたてて笑い興じていた。「およし遊ばせ!」「イヤよ、そこまで!」「もうダメ!」と叫んで……。
将軍は人目もはばからず、強引にジョセフィーンを抱擁することがある。そんな時は、われわれは眼のやり場に困って、窓のそとを眺めていた』
と側近は書き残している。
ジョセフィーンも、また、ボーアルネエ侯爵――八十一歳になっている――に送った書翰のなかで、ナポレオンの声望が隆々としている状況を伝えて、
『彼は終日、私にあこがれ、女神のように|侍《かしず》いてくれます。私の望みは、なんでもききとどけるし、私が言い出すまでもなく、私の望むほどのことは、みんな手廻しよく処理してくれるのです。多分、世界じゅうで、いちばん良い夫でしょう。私にとっては、これ以上の主人はあり得ません』と報告している。
それなのに、ナポレオンは出陣の数日後には、五頭の馬を乗りつぶす激戦のあいまに、
『……その男なら私も知っている。女たらしのロクでなしだ。これが貴女の新しい情人なのか? 事もあろうに、貴女はそんな男に利権を取り持とうとしているそうだ。もし事実なら、貴女は|怪物《モンストル》だ。
貴女は、いま、なにをしているのだろう? 寝ているかしら? それなのに、私は貴女の寝顔、美しい寝顔を飽かず眺めることもできねば、貴女を燃えさせて、愛撫に狂わせることもできぬのだ。貴女から離れると、夜は長く、退屈で、|惨《みじ》めなのに、貴女といっしょの時は、夜が終らねばよいと思う』
と嫉妬の苦汁を、心臓からしぼり出して、非難の文字を連ねる。イポリイト・シャルル大尉の存在に気がつき始めたのだ。
だが、敵軍は頑強である。ナポレオンはマントヴァを包囲し、オーストリア軍はこれを救援するので、激戦に激戦が続く。わけても十一月中旬のアルコレの死闘は歴史にも有名である。ナポレオンは敵が砲火を集中するなかを、みずから軍旗をかかげて先頭に立ち、橋を渡って突進する。この光景は画家によって描かれ、詩人によって歌われて、ナポレオン伝説の輝かしい一ページを成している。アンドレ・モーロアは、総司令官としては、むしろ無謀な行動であると批判しつつも、恐らく、ジョセフィーンの不貞に対する|憤懣《ふんまん》を、敵に向ってぶつけたものだろうと観察している。
連戦連勝のナポレオンは、一七九七年二月、ついに、マントヴァを攻略し、オーストリア軍を急追して、ウィーンまであと百マイルの地点まで進出する。ここに、彼の軍事的天才は|遺憾《いかん》なく立証されたのだが、この間にも、彼は間断なく、ジョセフィーンに手紙を書く。
『もう貴女なんか愛するものか! それどころではない。大嫌いなのだ。貴女みたいに、憎らしく、意地悪く、いやらしい女はないと思う。だいいち、貴女はこの夫を愛してはいないのだ。ちっとも、手紙をくれないではないか。
いったい一日じゅう何をしているのか? 手紙を書けぬほど多忙だとは思わない。そうだ、きっと、新しい情人ができたのだ。それにちがいあるまい。貴女の時間を全部独占し、昼も夜も貴女を支配する、この輝かしい愛人は誰なのだ? ジョセフィーン、気をつけるがよい。ある夜、不意に寝室のドアを|蹴破《けやぶ》って、貴女の眼前に立ち現われるから!
直ぐに手紙を書かなくてはいけない。最低四ページの手紙を、愛情をこめて書けば許してあげる。さもないと……。
数日中に|凱旋《がいせん》したら、貴女が息絶えるほど強く抱きしめて、百万回キスをする――赤道のように熱いキスを』
やがて彼等はミラノで再会し、|口論《いさかい》をしたかと思うと、忽ち和解する。ナポレオンはバタアを火で|焙《あぶ》るように、ジョセフィーンの魅力にとろけてしまう。ジョセフィーンは王妃のように威儀を飾って、占領地を巡遊し、至るところで盛大に歓迎される。彼女は、イタリア遠征軍の三カ月分の戦費に相当する、多数の宝石を買い入れる。もっとも、そのうちには、ヴェニス代表が薄暮に|宮苑《きゆうえん》を散歩しながら、そっと、ジョセフィーンの指にはめたダイアモンドの指輪もある。かねて、シャルル大尉を仲介として、ヴェニス王国に恩恵をほどこしてあったのである。
そのうちに、カンポフォルミオ条約が締結され、ナポレオンのイタリア遠征は目的を達成した。彼はドイツ諸邦の処理のため、オーストリアとさらに交渉を重ねたが、ジョセフィーンは十一月、パリに向けて出発した。この時、シャルル大尉はナポレオンに追放されていたのに、どこからともなく姿を現わして、ジョセフィーンのあとを慕った。
彼女がパリに着いたのは、翌一七九八年一月初めである。ナポレオンはその一カ月前に帰っていた。
不貞
ナポレオンは二十一カ月ぶりでパリに帰る。この二年足らずの期間に、無名の一将官は常勝将軍の名をほしいままにして、フランスの栄光の象徴となりつつある。彼は考える。国民は戦勝に輝くひとりの総裁を求めている。平凡な五人の総裁には飽きているのだ。国民が望んでいるのは、思想でも理論でもない。大衆が欲するのは、偶像なのだ。大衆に偶像を与えれば、彼等は感激して追随する。だが、自分が偶像の役目を買って出るのは、まだちょっと、早過ぎるようだ。フランス軍兵士は革命の洗礼を受けているから、独裁政権を指向するクーデタアを支持するか疑わしい。といって、パリ市民ほど記憶の短いものもない。いまは常勝将軍とうたわれても、この名声は、軍馬の|蹄《ひづめ》に舞いあがる|砂塵《さじん》のように、忽ち消え去るだろう。なにかせねばならぬ。問題は次になにをするかだ。
ナポレオンは慎重に行動する。彼の人気は爆発せんばかりであって、彼の住むリュウ・シャンテレエヌは公式にリュウ・ド・ラ・ヴィクトアール(勝利の街)と改名される。彼が外出すると、群衆は『ボナパルト将軍万歳!』と歓呼する。劇場にいけば、総立ちになって熱烈に拍手する。総裁政府が喜ぶはずはない。
ナポレオンは軍服をぬぎ、地味な平服で街頭に出る。よく|国立学士院《アカデミイ》にいく。学会の会合に出席して、数学・天文学・詩文を論じて、飽きる様子もない。だが、彼の腹心の部下は、全国に散って、情報を集めている。
当時、フランス政府はイギリス攻略を企図していたので、ナポレオンにその指揮を|委《ゆだ》ねようとする。彼は三週間の検討ののち、この企図を非現実的と判断し、その代りに、エジプト遠征を進言する。
ここに、ナポレオンの古い夢がある。プルタアクの英雄伝を愛読した少年期からの古い、古い夢である。東方に偉大な帝国をきずく――これこそ、少年ナポレオンがアレクサンダア大王とともに抱いた黄金の夢なのである。イタリア遠征中にも、彼は側近に語っている。
『東方にだけ偉大な帝国と壮大な変化があった。東方には六億の人間が住んでいる。ヨーロッパなんかモグラ塚に過ぎない!』
いま、彼はこの大帝国の中心に、エジプトを設定する。エジプトを征服し、東地中海からインド洋に進出して、インド大陸をイギリスから奪取する計画なのである。|蜃気楼《しんきろう》にも似た構想である。だが、彼は眉をあげて|昂然《こうぜん》という。
『私には行きたいところへ、どこへでも道を開く自信があるのだ』
総裁政府にとっても、この際、ナポレオンをパリから遠ざけることは、好都合である。エジプト遠征案は採択され、ナポレオンは毎夜おそくまで、地図を案じて、作戦計画の樹立に熱中する。
遅れて帰ったジョセフィーンは、直ぐに、花やかな社交活動を始める。外相|タ《(1)》レイランは政財界の有力者三百人を招き、善美をつくして、ジョセフィーンをもてなす。彼女は、表面は、水を得た魚のように溌剌(はつらつ)と動くが、どこかに、暗い影がただよう。
原因は例の美男シャルルである。シャルルは軍籍を失っていたが、ジョセフィーンの|寵愛《ちようあい》は失わぬ。フォーブール・サントノレ百番地に邸宅を構えているのだが、ジヨセフィーンは人目を忍んで毎日訪れる。この邸には、シャルルのほかにボーダンという山師的商人がひそんでいる。彼等はフランス軍部の指定商人になって、暴利をむさぼっている。つまり、ボーダン=シャルル=ジョセフィーン=バラスの汚職路線が存在するのである。
ナポレオンは兄のジョゼフから真相をきき、激怒して、妻を詰問する。ジョセフィーンは『なにも知らぬ』と泣いて抗弁するが、バラスに急ぎの使者を出して、『ボーダンの一件については無関係ということにしておいてくれ』と依頼する。
次に掲げる手紙は、比較的最近に発見されたものである。彼女はシャルルに、
『……私は夫に対して、彼がなにを言っているのか全然判らない、離婚したいなら|判然《はつきり》そう言ってもらいたい、なにも、こんな卑劣な手段を用いる必要はないのだ、と言ってやりました。私ほど不運で不幸な女はない、とも申しました。最愛のイポリイト、私は彼等兄弟を憎悪しています。私が心から愛するのは|貴男《あなた》だけですわ。ほんとうに貴男ひとりだけなのです。私が身ぶるいするほど彼等を嫌っていることは、彼等にもよく判ったことでしょう。貴男に会えないで絶望しているのです。私がどんなに失望しているか、それも、彼等に充分判らせてやった積りです。貴男に余生を捧げることが出来ぬのなら、私の人生は苦悩に過ぎませんから、いっそ、死にたいと思います。ええ、イポリイト、私はむしろ自殺を選びますわ。私の最期の呼吸は貴男のものです。いったい、私が彼等|怪物《モンストル》どもに、なんの害をしたというのでしょう?
イポリイト、六時にはサントノレにいくから待っていて下さいね。私を幸福に出来るのは、全世界に貴男ひとりしかいません。愛している、と言ってちょうだい。私だけを愛していると。それで、私は世界一の幸福な女になれるの。燃える心臓から熱烈な接吻を送ります。ああ恋しい! すベてを貴男に』
幸いにも、ナポレオンはこの手紙を知らなかった。それに、彼は東方経略に完全に没頭していた。元来が女性の涙には弱かったから、やがて、ジョセフィーンに泣き落された形となってしまったらしい。
天才にセックスはない
この頃、ひとりの高名な女性が現われて、|頻《しき》りに、ナポレオンを誘惑しようと試みた。マダム・ド・スタールは、処刑されたルイ十六世の財政総監として、腕をふるった富豪の銀行家のネッケルの娘であって、当時はスエーデン大使夫人だった。
タレイランが外相の地位を得たのは、彼女の工作による。一代の才女であって、「女性のなかの真珠」とうたわれていた。
この才女がナポレオンに恋したのである。不世出の天才ナポレオンがジョセフィーンごとき知性の乏しい婦女と結婚したのは誤りであって、彼女(ジアーメーン・スタール)のような|才媛《さいえん》と結婚すべきである、と確信していた。ナポレオンは男のなかの男、自分は女のなかの女、ふたりが結ばれて協力すれば、全世界に英知の光をあまねく注げる、という信念である。
彼女はタレイランを使って、ナポレオンに接近して讃辞を呈したが、ナポレオンは冷やかに黙殺した。それでもこりずに、リセプションに晩餐会に舞踏会に、あらゆる機会に、ナポレオンを追い慕った。ある日は衛兵を押しのけて、彼の馬車に乗りこみ、あやうく接吻しようとして、追い出された。また、ある夜はリュウ・ド・ラ・ヴィクトアールの私邸に現われ、『将軍はただいま入浴中です』と断わられると、『構いませんよ、天才に|性《セツクス》はないのだから』と言って、浴場に|闖入《ちんにゆう》する始末だった。ついに、ナポレオンを捕えて、
『将軍の愛する女性は誰ですか』
ときくと、ナポレオンはさもウルサそうに、
『私の妻』
と答えた。
『では、どんな女性を尊敬しますか』
と尋ねると、
『家事に巧みな女性』
と言う。最後に、
『女性の最高の資質はなんだとお思いですか』
という質問には、
『多勢子供を産むこと』
という皮肉な回答だった。
ナポレオンの女性観が、よく、現われている。スタール夫人は失望し、恋愛変じて憎悪となるのだが、それでも、こんな印象を書き残している。
『ナポレオンには愛憎の感情がない。彼にとっては、自分以外のなにものも存在しないのだから。自分以外の人間は「その他多勢」に過ぎないのだ……彼は大衆の|喝采《かつさい》を求めるが、同時に、大衆を軽侮している。人を驚かそうと試みるが、別段、それに情熱を傾けるわけでもない。いずれにせよ、私は彼の前に出ると、呼吸さえ自由に出来なかった……』
(1)タレイラン(一七五四―一八三八) 旧貴族出身の高名な外交官。累代軍職の家柄だったが、片足が不自由になったため僧侶にされ、司教となった。政界に進出して、三部会・国民議会などで活躍したが、一七九二年外交使節として滞英中に英仏両国が開戦したので、アメリカに亡命した。破戒僧であって、投機・収賄・姦淫など、平然と罪悪を重ねた。テルミドール政変後に帰国し、スタール夫人の口添えで総裁政府の外務省に入り、やがてナポレオンの外相となった。外交手腕を発揮してナポレオン皇帝の信任を博したが、一八〇八年頃から意見が合わず、皇帝を裏切り、あるいはオーストリアのメッテルニヒ、ロシア皇帝などと密謀し、あるいはブルボン王家と密通した。ウィーン会議の活躍によって有名である。後に駐英大使となる。
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第四章 革命は終った
スフィンクスの眼
やがて、エジプト遠征の準備は完了する。
ナポレオンは、五月四日(一七九八年)、ジョセフィーンを同伴して、トゥーロン港に向う。愛妻を戦地へ連れて行きたいのだが、イギリスが制海権を握っているので、危険が大き過ぎると考えて、|暫《しばら》く見合わせる。
半月後、別離を惜しみつつ、ナポレオンは進発する。旗艦の名は、|奇《く》しくも「|東洋《オリアン》」である。四万の部隊は三百隻の輸送船に分乗し、これを護衛して、ブリュイ提督が五十隻の艦隊をひきいている。十字軍以来の壮観である。
艦隊には、哲学者・考古学者・天文学者・数学者・地質学者・化学者・土木技師のほかに画家・詩人など、厳選された知識人が百七十五名も便乗している。あたかも、一大綜合大学が東方に航海している観がある。人選も、研究課題の設定も、ナポレオンが親しく行なったものである。それに、多数の本を積みこんでいる。大砲と書籍――このコンビネイションこそ、ナポレオンが単なる武人でないことを立証する。彼自身は一冊の本を持ちこむ。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」である。
他方、イギリスはフランス軍の動静を、怠らず警戒しており、ネルソン提督のひきいる強力な艦隊は、ナポレオン艦隊を|捕捉《ほそく》しようと、地中海を捜索する。フランス艦隊は劣勢だから、捕捉されたら、勝目はない。ところが、暴風のためにイギリス艦隊は一時四散し、集結に努めている|隙《すき》に、ナポレオンは運よく、間一髪の差で、七月一日、目的地アレクサンドリア港に滑りこむ。その途中、マルタ島(イギリス領)を奇襲制圧する。ネルソンは急追するが、敵艦隊の数マイルの鼻さきを通過しながら、気がつかない。もし、両艦隊が交戦していたら、ナポレオンは恐らく戦死をとげ、欧州の歴史は全くちがったものになったろう。
ボナパルト将軍は白馬にまたがり、カイロに向って進軍する。フランス軍主力は、軍鼓も勇ましく、いま、整然と砂漠を横断するのだ。かなたにはピラミッドがそびえ、かたわらにスフィンクスが横たわっている。スフィンクスの過去の眼と将軍の未来の眼が、|灼熱《しやくねつ》する空間で交差する。その時、地平線に黒点の集団が現われる。エジプト軍の精強、マムルーク騎兵が殺到してくるのだ。その数八千。
二十九歳の将軍は、はるかなるピラミッドを指して叫ぶ。『兵士よ、四千年の歴史が、ピラミッドのうえから諸君を凝視しているのだぞ!』マムルーク騎兵は砂煙をあげて突撃に移る。勇敢無比である。だが、彼等は砲火の敵ではない。|忽《たちま》ち、算を乱して|潰走《かいそう》する。
ナポレオンはカイロに入城すると、|早速《さつそく》、独得の政治工作に着手する。威圧と懐柔を併用して、エジプト住民の協力をうながす。彼自身はカトリック信徒なのに、必要とあれば、回教徒に早替りしかねぬ態度である。回教寺院を尊重し、|掠奪《りやくだつ》を厳禁する。同時に、エジプト学会を設立し、エジプトの近代化に着手する。
ところが、「ピラミッドの勝利」の十日後、八月一日、フランス艦隊はアブキール湾内に|碇泊《ていはく》中に、ネルソン艦隊に襲撃され、戦艦十三隻のうち十一隻を失って、ほとんど全滅する。ブリュイ提督も旗艦オリアンと共に、海底に沈む。
エジプト遠征軍は孤立無援となる。さすがのナポレオンも|衝撃《シヨツク》を受けるが、外見は落ち着き払っている。側近を顧みて言う。『さあ、あとどれくらいエジプトにいることになるかな。六カ月か。いや、六年もいるかも知れぬ。仮に、六年いても、私はやっと三十五歳だ。しかも、六年あれば、インド攻略も可能ではないか』
フランス軍が苦境におちいると、トルコ――エジプトの名目的支配者である――は宣戦して、大軍をエジプトに進める。二月(一七九九年)、ナポレオンは機先を制してシリアに進撃し、幾度か勝利を収めるが、陸軍士官学校の同級生で|亡命貴族《エミグレ》の一将軍が堅塁を守って善戦するので、進路を|阻《はば》まれ、やむなく、砂漠を難行軍して退却する。傷病兵は遺棄できぬので安楽死を与え、敵の捕虜はすベて斬殺してしまう。
カイロに帰還したのは六月である。士気は当然ふるわない。そこへ、トルコ軍が大挙来襲するが、ナポレオンは天才的用兵をもって、これを撃破する。時に、実に、ピラミッドの戦闘から一年目である。
ナポレオンは悶々とする。最大の苦痛は、本国の状況や欧州の事情が、まったくわからぬことである。とくに、総裁政府との連帯感が断たれる恐れがある。パリから送られる公私の文書は、すベて、イギリス艦隊に奪われる。たまに着く文書や書翰は、イギリス側が検閲して、無害またはイギリスに有利と判断したものに限られる。ナポレオンが本国に送る文書も同じである。イギリスは、こういうことにかけては悪魔的才能があるのだ。従って、ナポレオンが入手する情報は、みな、悪い。イタリア占領地――彼が辛苦経営した――は奪回され、ライン方面は動揺し、反仏同盟軍はフランス国境に迫りつつある、という|類《たぐい》である。これは、ある程度は事実である。やむなく、パリの総裁政府はナポレオンに帰国を命ずる。
ナポレオンはそれを知らぬ。だが、たまたま入手したイギリス新聞紙を一読して、直感的に帰国を決意する。東方経略の夢は、あらかた消え去っていたのである。
彼の場合は、決心すなわち実行である。そこで、後事をクレーベル将軍に託して、八月二十三日、|密《ひそ》かに、エジプトから脱出する。遠征軍は半減し、戦力は低下している。本国と連絡を断たれた敵地にこの部隊を残して、彼ひとり脱出するのは、いささか無責任である。だが、そんなことには構っておれない!
アブキール海戦にうち漏らされた軍艦二隻と、小船をかき集めて、彼はイギリス海軍の監視の眼をかすめ、本国に向って一月半も航海する。むしろ、漂流に似ている。まことに、薄氷をふむ想いである。途中、故郷のコルシカ島に寄港し、情報を集める。ミラノもマントヴァも敵の手に落ちている。『もういちど|遣《や》り直しだ』と独語しつつ、十月九日、南仏フレジュスに上陸する。
彼は巧みにエジプト遠征の成果を宣伝し、それによって、「常勝将軍の|凱旋《がいせん》」ムードをかもし出す。沿道の大衆は凱旋道路を行進する国民的英雄を迎えて花をささげ、歓呼の声はパリまで続く。|俄然《がぜん》、フランス政局は、彼の名声を軸にして、めまぐるしく廻転を始める。ナポレオン帰る、の第一報に接して、ある有名な国会議員は、感激のあまり卒倒急死する。
十月十六日、、パリに着く。馬車を駆って、リュウ・ド・ラ・ヴィクトアールに急ぐ。邸前に婦人が立っている。ジョセフィーンではない。母のレチツィアである。
すベての女に禍あれ
ジョセフィーンはどうしたのだろう?
彼女は夫を見送ると、プロンビエールの鉱泉に保養に|赴《おもむ》いた。ローマ時代から子宝の授かる名泉として聞えている。松林にかこまれた景勝の地である。ここで、ある日、思わぬ怪我をして、滞在が長びいた。さもなければ、夫のあとを追って、エジプトに渡る|手筈《てはず》になっていた。
彼女は直ぐに退屈する。バラスに書いた手紙が現存するが、頻りに来訪を求め、
『なんとかして病気になって、早く保養に来てちょうだいな。そしたら、どんなに嬉しいことか! 私は心底から貴男が好きでたまりません。だって、私ほど貴男をよく知っている女はないのですもの。貴男に私の全部を』
と訴えている。生来が多情なのだろう。
健康も回復したので、彼女は秋風と共にパリに帰ったが、どうやら、また、イポリイト・シャルルと情交を重ねていたらしい。そういう折から、フランス艦隊全滅のニュースが、電撃のようにパリを襲った。ナポレオンが殺された、という情報も伝わった。ジョセフィーンは、息せき切って、バラスのところに駆けこみ、ボナパルトが横死したのは事実かと尋ね、バラスが、事実と思われる、と答えると、
『ああ、これで、やっと息がつけますわ。もう不幸な女ではなくなるのよ。だって、ボナパルトは自分のことしか考えない男ですもの。利己と野心の結晶なのよ、あの男は。世界随一の利己主義者なんです』
と語ったという。出所がバラスだから、必ずしも、信用はできぬが、当時の彼女には、あるいは、こんな心境に似た迷いがあったのかも知れない。
他方、ナポレオンはカイロ滞在中、軍務に忙殺されながらも、深刻に悩み苦しむ。副官ジュノーがジョセフィーンとシャルルの|醜 聞《スキヤンダル》について、本国から秘密報告を受け取ったのである。もし、イギリス艦隊がこれを押収していたら、ナポレオンの苦悩も半減していたろう。彼は頭を抱えて、
『ジョセフィーン、お前は本当に私を裏切っているのか? 女とはそんなものなのか! 女、女、すベての女に|禍《わざわい》あれ! |狆《ちん》ころみたいな愚連隊どもは、みんな、処刑してやる。|磔殺《はりつけ》にしてやるぞ! そして、ジョセフイーン、お前とは離婚だ。そうだ、こうなっては離婚のほかない!』
と呻くのである。
そして、兄ジョゼフには、
『……わが家の|帳《とばり》は引き裂かれてしまった。いまは兄さんしか信頼できる者はない。人間が愛情の全部をひとりの女性に集中すると、こんなにも深く悲しまねばならないのだ。……帰国したら、人目を避けて暫く静かに暮したいから、パリ近郊に別荘を物色して下さい。私は人間ぎらいになりつつある。孤独と|寂蓼《せきりよう》が欲しい。ひとりになって考えたい。名声がむなしく、栄光が無意味なのを、いま、骨にしみて痛感している。二十九歳で私の人生は終りだ』
と書いている。ジョゼフはこの手紙を受け取っていない。敵に取られたからである。イギリス政府らしく、政治向きの部分(前半)は公文集に採録したが、さすがに私事にわたる部分(後半)は省略した。このほうは|大 英 博物館《ブリテイツシユ・ミユジアム》に保存してあって、ネルソンが自筆で、『伝書使から押収した』と書き加えている。
当時、ナポレオンの側近にいて、|寵愛《ちようあい》を受けていたのが、ジョセフィーンの連れ子、ユウジェーヌ・ボーアルネエである。彼は母にあてて、ナポレオンがシャルルの件についていかに悩んでいるか、を報告し、それにもかかわらず、彼に対して依然として深い愛情を注ぐことに感激していると言って、切々と反省をうながしている。だが、この書翰もイギリス政府に押収され、ジョセフィーンの|手許《てもと》にはとどかなかった。
砂漠のクレオパトラ
こうして、エジプト遠征中のボナパルトは、愛妻の不貞に、深く傷つけられるのだが、その反動でもあろうか、彼自身が結婚後はじめて浮気をするのである。
エジプト遠征軍に参加を志願したフレースという歩兵中尉がいる。新婚の妻と別れることが出来ぬので、男装させて運送船ルセット号に、もぐりこませた。妻の名はマルゲリイトである。ある貴族が料理婦に産ませた私生児なのだが、青く澄んだ眼と、濃い|睫毛《まつげ》、真珠のように輝く歯と、全身をおおうほど豊かな金髪を持っている。パリの有名な帽子店の売子だったが、声が美しいので、シャンソン歌手を副業にしていた。フレース中尉はプレイ・ボーイだったから、短時日に恋愛技巧を教えこんだ。そのために、彼女の芸も一段と磨きがかかったようである。
カイロには欧州美人はいない。それに目をつけて、ダルジュアヴェルという興行師がナイト・クラブ「ティヴォリ」を開くことを思いつき、マルゲリイトと同じように男装して潜入したフランス婦人を、高給で募集した。顧客は遠征軍将校である。
ある夜、ナポレオンは、数名の幕僚を従えて、この「ティヴォリ」に現われる。その時、シャンソンを歌ったのが、ベリヨットことマルゲリイトすなわちフレース中尉夫人である。ナポレオンは一目でべリヨットが好きになり、数日後には、部下の将官に命じて、彼女を夕食会に招かせる。もちろん、彼女の主人は招かれない。宴半ばに、ナポレオンが現われて、同席すると、副官――例のジュノーである――がコップを倒し、ベリヨットの夜会服を濡らす。ナポレオンは厳しく副官を叱っておいて、別室にべリヨットを|誘《いざな》う。ドレスを着替えるという口実なのだが、なんと、両人は二時間も姿を消したままである。しかも、やっと席に戻ったべリヨットの金髪は、いたく乱れている。
こうなると、フレース中尉の存在がうとましくなる。そこで、一計を案じ、中尉に機密書類を持たせて、直ちにパリに急行させる。中尉は重要使命に感激しながらも、ひと目、愛妻に会ってから出発したいと言うが、許されない。べリヨットは、そのまま、ナポレオンの住む宮殿に赴く。
ところが、中尉の乗船シャスール号は、アレクサンドリアを出港すると、直ぐにイギリス軍艦に捕獲され、中尉も機密文書と共に敵手に落ちる。中尉が使命の失敗に深く失望していると、イギリスの艦長は、さもおかしそうに笑って、簡単に釈放する。さすがに、イギリスだけのことはあって、ナポレオンの動静は残らず探知しているのだ。そこで、中尉は二十四時間もたたぬのに、エジプトに舞い戻る。そして、上官が制止するのもきかず、遠征軍の本営に暴れこみ、愛妻が総司令官の寝室から忍び足で出てくるのを目撃する。ナポレオンは激怒し、有無をいわせず、中尉に離婚を強制する。
こうして、ベリヨットは晴れてナポレオンの情人になり、中尉のことは、きれいさっぱりと忘れてしまう。ナポレオンは彼女の「幾何学的に均整のとれた裸体」を愛し、「全裸の満身を包んで余りある金髪」を|賞《め》でて、ジョセフィーンの不貞を、ベリヨットの肉体の燃焼のうちに忘れようとする。べリヨットと同乗して、馬車をナイル河畔に走らせる。すると、兵士は、『クレオパトラ万歳』と連呼するのである。
ナポレオンはシリアに軍を進めるために、暫く、ベリヨットと別れるが、カイロに帰ると、再び彼女を抱く。だが、エジプトを脱出する時には、彼女を棄てて悔いない。所詮は、|徒然《つれづれ》に摘んだ一輪の野花に過ぎぬのだ。だが、この花をかざしている間は、彼も幸福だったのであって、べリヨットが子を産めば、ジョセフィーンを離婚して結婚してもよい、とまで言ったものである。べリヨットはそれを信じ、ナポレオンの後を追って、やがてパリに現われる。
しかし、その時には、事態は既に一変している。ナポレオンはクーデタアを起し、政府の実権を一手に握っており、しかも、ジョセフィーンとは和解をとげているのだ。それに、やっと政権を獲得したばかりで、四面に敵を控えているのだから、素行も慎まねばならぬ。彼はべリヨットの面会要求を拒否し、会う代りに、多額の年金を贈る。そのうえ、彼女に夫を与える。結婚の引出物はスペイン駐在領事の地位である。ところが、ベリヨットには|田舎《いなか》領事の生活は退屈だったらしく、夫と別居して、パリで気軽に遊び暮した。ちょっとした文才もあったようで、次々と小説を書いたが、さして売れた様子もない。文才だけではなく、画才もあった。このほうは相当なもので、現存する自画像なども、まず一級品である。
彼女は、かつての愛人ナポレオンが、ウォタアルーで敗北した頃、近衛騎兵将校と、三度目の結婚をする。三十五、六歳の女盛りだった。その後、新天地ブラジルに渡り、大量のマホガニイ材を持ち帰って、大金をもうけた。フランスにマホガニイ製調度を流行させたのは、ほかならぬ彼女である。一説には、ベリヨットはセント・ヘレナ島から、ナポレオンを救出するために、ブラジルで快速船を入手し、密かに、同志を募っていた、ともいう。
そのうち、未亡人になったが、無数のカナリヤと猿にかこまれ、ペンと絵筆を握って、楽しく晩年を送った。邸宅の窓の下を、ナポレオン三世(ナポレオンの|甥《おい》)が、|銀甲《ぎんこう》かがやく騎兵を従えて、意気揚々と通過する時には、彼女はカーテンを、そっとあけて、
Je vis pour elle  私は彼女のために生き
Et meurs d'amour  焦がれて死ぬ
と口ずさむのだった。ナイル河のほとり、夕月の下を、静かに馬車を駆る時、ナポレオンがよく彼女に求めた歌だった。その頃、|流行《はや》ったチェルビニのオペラのアリアである。
そうだった、私をみつけて、兵士たちは、クレオパトラ万歳、と叫んだものだった……回想のなかで、彼女は七十年前のべリヨットになり、ナイルのクレオパトラになる……。
そのクレオパトラは一八六九年、ナポレオン三世の没落の一年前、九十歳の高齢で安らかに死んだ。その直前に、黄金の手箱から、古い文がらを取り出して、ふるえる手で焼き棄てた。ナポレオンの恋文である。
運命の日
話をもとに戻そう。
ボナパルト将軍が、エジプトを脱出して、南フランスに上陸したというニュースは、軍事通信――といっても、丘から丘へと手旗信号で伝達されたのだが――によって、パリに急報された。
この時、ジョセフィーンは筆頭総裁(首相に当る)ゴイエと、密室で食事をしていた。ゴイエはジョセフィーンに想いを寄せている。夫が急に帰国した、ときいて、さすがに、ジョセフィーンは興奮し、『こうしてはいられませんわ』と言って、そそくさと席を立った。彼女の素行については、真偽とりまぜ、多くの|醜 聞《スキヤンダル》がある。それに、ボナパルト一家は、みな、ジョセフィーンに反感を抱いている。母のレチツィアにしても、結婚には反対だった。ナポレオンはジョセフィーンの代筆をして、母に結婚を事後通報し、母の代筆をして、ジョセフィーンに祝福の言葉を送る、という奇妙な芸当をせねばならなかった。ジョセフィーンとしては、ナポレオンの家族が先に彼に会うと、なにを告げ口されるかわからぬ、という心配があった。
そこで、彼女は娘のオルタンスを連れて、途中まで夫を出迎えるため、仕度もそこそこに出発した。一夜の|衾《しとね》を夫とあかせば、万事うまく取り運ぶにちがいない、と考えて。ところが、リヨンに着くと、夫は既に北上していることがわかった。選んだ道が異なったので、スレちがったのだ。リヨンが全市を照明し、花火をあげ、|炬火《たいまつ》行列をくりひろげて、常勝将軍の帰国を歓迎した、と知って、ジョセフィーンの胸はさわぐ。
結局、夫より二日遅れて、リュウ・ド・ラ・ヴィクトアール邸に着く。だが、彼女の所有品は荷造りされて廊下に積んであり、ナポレオンは寝室に鍵をかけてこもったまま、呼べど叫べど答えない。彼が帰宅したのは、午前六時だった。ジョセフィーンの姿はみえず、彼女のベッドはきちんとしていた。妻は外泊して、不貞を重ねているのだ、と思った。その怒りが、まだ、烈しく続いている。
ジョセフィーンは、力つきてドアのそばに倒れ、声をあげて泣く。しかし、ドアは固くとざされている。どうしたらよいか? 彼女の|召使《メイド》が、オルタンスとユウジェーヌに応援を頼む。三人は涙にむせびつつ、声を合わせて哀訴する。ついにドアが|開《あ》く。ジョセフィーンは夫の腕のなかに走りこむ。次の瞬間、ナポレオンはドアを閉めると、荒々しくジョセフィーンを寝台のうえに倒す……。
総裁政府は極めて不人気だった。支持しているのは、現政権から甘い汁を吸っている者だけだった。史家テーヌは『若き共和国は老衰|萎縮《いしゆく》している』といったが、その通りだった。無力で怠惰で、そのうえ、汚職の腐臭は鼻をつくばかりだった。五総裁のうち、バラスは節度を失って、|疎《うと》まれていた。三総裁は実力がない。バラスに代って|擡頭《たいとう》したのは|シ《(1)》ェースである。『第三身分とはなにか』を書いた、あの革命の哲学者である。彼は鋭い眼で情勢を分析する。国民は強力な政府を求めているが、左の恐怖政治も、右の王政復古も欲していない。それに、フランスは外敵と戦争をしている最中である。時局を処理するには、有能な将軍を起用するほかない。必要なのは鋭利な軍刀なのだ。では、誰か? オーシュもジュベエルも死んでしまった。そうだ、ボナパルトがいる。彼は少しく危険人物だが、軍隊に信望があり、国民に人気がある。それに勇気に富んでいる。彼ならやれるだろう……。
シエースはナポレオンに、クーデタアを起させ、みずから実権を握ろうと考え、その日のために、乗馬の練習を始める!
ナポレオンは政権欲がないように装いつつ、虎視|耽々《たんたん》と機会を狙う。諸情報を集めると、クーデタアに同調しそうなのは、シェースとロジャア=デュコスの二総裁だけで、ゴイエ、バラス、ムーランの三総裁は排除せねばならぬらしい。ナポレオン腹心の部下は、暮夜、彼の私邸に参集して、密かに政権奪取の準備を進める。外相タレイランと警視総監|フ《(2)》ーシェも共同謀議に加わる。
ジョセフィーンは彼女一流の手腕を発揮して、バラスを操り、ゴイエを惑わし、私邸に集まる各党各派の要人を、忽ち|艶然《えんぜん》たる微笑の|捕虜《とりこ》にする。まさに、芸術とも称すべき至芸である。ジュールダン将軍もくれば、ベルナドット将軍もくる。ベルナドットはナポレオンの兄ジョゼフの義弟に当るが、クーデタアの陰謀には乗り気でない。ナポレオンが共和制の絶望的状況を力説しても、冷やかに構えている。かつて、無名のナポレオンは、ベルナドットの妻デジレ・クラリィと相思の仲だった。それを根に持って、釈然としないのだろうか。座が白けると、ジョセフィーンは、ベルナドットの肩を抱いて、『でも、秘密だけは守って下さるわね』と念を押す。いまは夫に野心をとげさせようと、|一所懸命《いつしよけんめい》なのである。
クーデタアの決行は、革命暦プリュメール(霧月)十八日すなわち十一月九日ときまる。その前夜、ジョセフィーンはゴイエに手紙を送る。
『明朝八時に奥様と食事にいらっしゃいませんか。必ず来て下さい。大変に重要なお話がありますから。では、それまで。私の誠実な友情を常に信頼して下さいませ』
という文面である。虫が|報《しら》せたのか、ゴイエは来ず、妻だけ来る。彼女が発見するのは、朝食ではなくて、庭いっぱいに|溢《あふ》れる完全武装の将兵である。その多くは、ナポレオンとイタリアの戦場で労苦を分った、勇猛なる部下である。
運命の人の運命の日は、|霧 月《ブリユメール》の名にふさわしく、霧深い朝で始まる。七時、元老院と五百人会議が開かれる。ナポレオンの帰国を祝う意味で、弟のルシアンが、一カ月間、五百人会議の議長に推されている。元老院議長も陰謀派の一員である。元老院は、|過激《ジヤコバン》派の不穏な計画が発覚した、という口実のもとに、議場をパリ郊外のサン・クルウに移動する旨の決議を採択する。パリの|暴民《モツブ》を警戒したのである。過激派議員は、故意に、召集していないのだから、異議を唱える者はない。次いで、ナポレオンは手兵をひきいて、元老院に赴き、パリ軍司令官の任命を受ける。総裁のうち、デュコスはシエースに追随するが、ゴイエとムーランは抵抗して、軟禁される。バラスはタレイランから|賄賂《わいろ》をもらって、辞表を提出する。タレイランがナポレオンから預かった買収金を、全額バラスに手渡したかどうかは疑わしい。
翌朝、ナポレオンはサン・クルウに赴く。両院に|過激《ジヤコバン》派陰謀の実体を説明し、これに対抗するために、臨時政府を樹立する権限を獲得せねばならぬのだ。ところが、元老院では演説がまずく、反対派議員に詰問され、続いて、五百人会議では、演壇に立往生して、危うく、失神せんばかりになる。反対派議員は彼を取り巻き、|襟首《えりくび》をつかんで、こづきまわし、ついには、『|法の外に置け《オール・ラ・ロア》!』と怒号する。彼は不覚にも失神して倒れるが、兵士に支えられ、やっと場外に逃れ出る。叛逆者を倒せ、独裁者を殺せ、の怒声に送られて。
ナポレオンは愛馬に乗ると、兵士に呼びかける。その態度は、数分前とは、全く別人の観があり、威容|颯爽《さつそう》としている。
『私は共和国の危急を救おうとしたのに、彼等は短刀をふるって襲撃したのだ。兵士よ、諸君に期待してよいか?』
乱闘のためだろう。蒼白な顔面に一条、二条血が走っていて、実感がこもる。兵士は議会を尊重すべきか、将軍に服従すべきか、暫し戸惑う。そこへ、弟のルシアンが現われ、|過激《ジヤコバン》派議員の暴挙を糾弾して、ナポレオンの胸に剣を突きつけ、
『万一、この兄がフランスの自由を損傷するなら、いま、この手でこの胸を突き刺してみせる』
と見得をきる。兵士は歓声をあげ、ナポレオンの命令に従って、いっせいに議場に突入する。ミュラアの銃剣の前に議員は離散し、クーデタアはやっと成功する。元老院は新たに、ナポレオン・シエース・デュコスの三名を臨時|統領《コンスル》に任命する。
夜半、ナポレオンはユウジェーヌを、ジョセフィーンのもとに走らせ、クーデタアの成功を報せる。ジョセフィーンは、ひとり、力ルタ占いをしていた。
砂糖のナポレオン
クーデタアの翌日、早くもナポレオンとジョセフィーンは、四年住みなれたリュウ・ド・ラ・ヴィクトアールの私邸から、ルクサンブール宮殿に移る。赤いバラと白鳥の寝室、鏡にかこまれた寝室、ふたりが飽くことなく情痴の限りをつくした寝室、この寝室は去りがたい。しかし、|統領《コンスル》ともなれば、|宮殿《パレエ》に住まねばならぬ。その宮殿は二百年も昔に建造され、古色|蒼然《そうぜん》としている。ブルボン王朝が倒れた時、ルイ十六世とマリイ・アントアネットは、この宮殿に幽閉されていた。ダントンも処刑されるまで、ここに|繋《つな》がれていた。昨日までは、バラスが淫楽の生活を送っていた。ゴイエがジョセフィーンを誘惑したのも、この宮殿の密室である。
馬車を宮殿に走らせながら、新統領は市街の状況をつぶさに観察する。|街角《まちかど》には、新政権の樹立を知らせる布告がはってある。空は晴れ、街は静かである。|過激《ジヤコバン》派が|蜂起《ほうき》する気配もない。だが、と彼は考える。私は征服者なのだ。征服者として、いままで誰も握ったことのない広大な権力を保持せねばならぬ。反抗する者は仮借なく弾圧しよう。承服する者は寛大に優遇しよう。要するに、剣の政治なのだ。しかし、剣には限界がある。その限界は、民衆の声である。どのようにすれば、民衆の声を正確に計量できるだろうか……
その夜、彼は宮殿の|露台《バルコン》に立つ。ラッパを吹き、太鼓を打ち鳴らし、市民は手に手に|炬火《たいまつ》をふりかざして、一団また一団、眼下を過ぎていく。ボナパルト万歳! 平和万歳! の合唱が星空にどよもす。彼等は神秘的な東洋から凱旋した――実は部隊を遺棄して軍律を犯したのだが――常勝将軍に無限の期待を寄せている。奇術師がシルクハットから、白い鳩を取り出すように、ボナパルト将軍の三角帽から、平和の鳩が羽ばたきして飛び立つものと、確信しているらしい。
この時、ナポレオンの背後に、影のように歩み寄るのは、警視総監のフーシェである。彼は|低声《こごえ》にささやく。『将軍、劇場でも、満員の観客が統領政府に、盛大な拍手を送っていますぞ』
フーシェは|稀代《きたい》の陰謀家だが、民衆の声に対しては、極めて敏感な耳を持っている。また、時勢を|洞察《どうさつ》して、いち早く大勢に便乗する特殊の才能がある。この夜、ジョセフィーンの寝室に、砂糖製のナポレオン像をとどけたのも、この男である。その足もとには『彼はわれわれに勝利を与えた。きっと、平和をも与えてくれるだろう』と刻んである。フーシェは製菓問屋に命じて、パリじゅうの菓子店で、この糖像を売り出させたのである。ボナパルト夫妻が宮殿で結んだ第一夜の夢は、このうえなく甘い。
ところが、シエースは、もっと甘い夢を見続ける。乗馬のレッスンも続ける。彼の得意は憲法作製である。新憲法のからくりによって、ボナパルトを抑え、みずから実権を掌握しようと試みる。だが、ナポレオンはその手に乗らぬ。結局、シェースとデュコスは退き、ナポレオンは|第一統領《プルミエ・コンスル》として、三頭体制を支配するに至る。第一統領の任期は十年、ルイ十六世よりも強大な権限を持ち、実質的には独裁者である。第二統領のカンバセレス、第三統領のルブランは装飾的存在に過ぎぬ。第一統領の決定に、副署するだけが任務なのだ。任期も短い。公安委員会の元委員長カンバセレスは革命派を、王朝政治に関係したルブランは|旧 体 制《アンシアン・レジム》を、そして、ボナパルトは新時代を、それぞれ代表する形である。つまり、フランスの融和が象徴される。それは、派閥にも結社にもこだわらず、広く人材を登用することを意味する。
三十歳の第一統領は、新時代の建設に情熱を傾ける。一日十八時間たて続けに働いても、いささかも疲労の色がない。疲れきって、閣僚が居眠りをしても、彼だけは涼しい眼をしている。知らぬことは、なんでも質問する。質問しながら、忽ち、事の本質を理解し、次の瞬間には、専門家が驚嘆するような指示を与える。記憶も絶倫である。陸軍大臣が、沿岸の防備状況を報告すると、××陣地の大砲が二門故障していたが、あれはどうした、と追及する。万事この調子。
当面の重大問題は財政整理である。ブリュメール・クーデタアの時、総裁政府の金庫は|空《から》だった。赤字は一億フランにも達していた。ナポレオンは財政の権威を集め、適切な対策をたて、フランス国立銀行を設立する。税務署を設置して、脱税者を厳しく取締る。財政に劣らず緊急なのは、革命で崩壊した行政組織の再建である。そこで、中央集権制度を確立し、警察を整備し、新聞を監視して、鋭意治安を回復する。全国に十万の警察署を新設したので、一時は白昼に横行した野盗群もかげをひそめる。そして、後世に有名なナポレオン法典の|編纂《へんさん》に着手する。
一八〇〇年二月、新憲法は国民投票によって認められる。|賛成《ウイ》三、〇一一、〇〇七票に対して|反対《ノン》は僅かに、一、五二六票である。憲法発布(一七九九年十二月)に際し、ナポレオンは布告する。
『市民よ、ここに革命は当初の諸原則に定着した。革命は終ったのだ』
一茎の清楚
二月(一八〇〇年)、第一統領はチュイルリイ宮殿に移る。その行事を記念して、美々しく盛装した近衛部隊が、楽隊を先頭に、はなやかに行進する。ナポレオンは将軍の一団にかこまれ、馬上に直立して軍旗に敬礼する。砲弾に千切れた軍旗、砲煙に|汚《よご》れた軍旗、鮮血に染まった軍旗、一|旒《りゆう》また一旒、市民は歓呼し拍手し乱舞して熱狂する。ナポレオンは独語する。フランスが欲するのは栄光なのだ。
ジョセフィーンはこの行進を、宮殿の|花 の 館《パピリオン・ド・フロール》から感慨深く眺める。ブリュメール・クーデタアに|甲斐甲斐《かいがい》しく夫を援けてから、世人の眼には、彼女の比重は|俄《にわ》かに増大する。彼女は宮殿の壁に残っている赤い帽子(革命の象徴)の|落書《らくがき》を洗い落とさしたり、|宮苑《きゆうえん》から乞食を追い出さしたり、このところ多忙である。ナポレオンも機嫌よく宮殿の設営を手伝う。廓下には、古今の英雄の胸像を並べる。アレクサンダア大王、シーザア、シセロ、ブルータス、フレデリック大王、それに、ジョージ・ワシントンなど。シーザアとワシントンが並んでいるのは奇観である。
『私の|可愛いい《プテイツト》クレオール、こっちにおいで。王様と王妃の使ったベッドで寝ようではないか』
と彼は優しく愛妻を寝室に誘う。この寝室こそ、恐怖政治が最高潮の頃は、公安委員会が占めていて、無数の「人民の敵」を|断頭台《ギロチン》に送ったのである。そして、その直ぐそばで、一七九四年七月末、三十六歳のロベスピエールは少年兵の一弾に|顎《あご》を打ち砕かれ、血まみれになって苦悶しているところを捕えられ、手荒く処刑された。これは、わずか、六年足らず前のことである。その想い出が、ジョセフィーンを不安にする。それだけに、鋼鉄人間のような夫が、いまは、いっそ、|頼母《たのも》しい。その夫は、
『ジョセフィーン、|恐《こわ》いことはないさ。いっさいの過去にカーテンをおろすのだよ』
と言って、肩を抱いてくれる。寝室の色調は青と白と金。
ジョセフィーンは過去に幕をおろす。これからは、フランスの最高権力者の妻として、統領政府のファースト・レディとして、誰にも、うしろ指をさされぬように、素行を慎まねばならぬと思い知る。ボナパルト将軍が運命の人であることを、改めて深く悟る。
では、ジョセフィーンのかつての情人イポリイト・シャルルはどこにいるのか? 前年(一七九九年)春には、彼女は、まだ、シャルルと組んで頻りに利権を|漁《あさ》っていた。夏頃にも、シャルルとマルメイゾンで密会していた形跡がある。マルメイゾンはこの頃彼女が物色して購入した、パリ近郊の広大な別荘である。二十七万フランという価格は、当時のナポレオンにとっては大金だったが、事前になんの相談もなく買ってしまったのだから、支払うほかなかった。
だが、秋風が立ちそめる頃――ナポレオンがエジプト脱出を企てていた時には、両人の関係は冷却したらしく、ジョセフィーンは、
『……これが私の最後の手紙と思って下さい。欺かれた時には、善良な女は、無言で身を|退《ひ》くものですわ』
と|怨《えん》じている。どんな理由で別れることになったのかは、よく判らない。ともかく、一八三七年に、シャルルは死に臨んで、ジョセフィーンの書翰を全部焼きすてるように遺言したから。だが、どうしたことか、五通だけ残っている。
こうして、ナポレオンとジョセフィーンは、ようやく、安定した結婚生活に入る。荒天に、危うく難破しそうになった船が、帆は飛びマストは半ば折れた姿で、やっと、港にたどりついた観がある。この間に、ナポレオンのジョセフィーンに対する異常な|情熱《パシオン》は冷め、逆に、ジョセフィーンのナポレオンに対する思慕は次第につのるのである。もっとも、ナポレオンは国務の処理に日夜忙殺され、愛妻の一喜一憂に心を悩ます余裕は少ない。ジョセフィーンは、むしろ、貞淑につかえつつ、磨きに磨かれた社交手腕を、惜しみなく、縦横に発揮する。三十七歳、なお、一茎の清楚、露にたえぬ|風情《ふぜい》がある。既に、革命盛時の、シトアイアン・シトアイエンヌ(市民)の呼称は|廃《すた》れ、|往時《むかし》のように、ムシュウ・マダムの通称にかわっている。ナポレオンに対しては、一般に、「殿下」の敬称を用い始めている。
ナポレオンは、彼の考案した真紅に黄金の|刺繍《ぬいとり》をした制服を着て、毎月二回、外交団を引見する。統領政府の儀典は、王朝時代よりも華麗である。服装も重厚となる。頃合いをみて、タレイラン外相がジョセフィーンの手を取って、厳粛な表情で現われる。ジョセフィーンは優雅に会釈する。会話が始まれば、せせらぎの如く語り、舞踏が始まれば、|微風《そよかぜ》のように舞う。彼女の服装・姿勢・態度・音声は、最大級の表現をもって、讃美される。そして、彼女の趣味は、建築に、装飾に、調度に、一世を|風靡《ふうび》し、|帝 国 様 式《ル・ステイル・アンピール》と呼ばれる。
まことに、革命は終ったのである。
(1)シエース(一七四八―一八三六) フレジュスの中産階級に生れ、僧職に入ったが、早くから革新運動に投じ、『第三身分とはなにか』と題する小冊子(一七八九年)によって、一躍有名になった。革命後大いに政界で活動し、テニス・コートの誓いや憲法を起草した。中間派的存在だったが、「革命のモグラ」と呼ばれたように、地下策動によって、社会を指導し、かつ混乱させた。ナポレオンと結んでブリュメール・クーデタアを起したが、意に反して実権をナポレオンに奪われ、結局、野心をとげ得なかった。
(2)フーシェ(一七五九―一八二〇) ナント附近の小村落の船員の息子に生れたが、秀才だったので聖職を志し、革命に共鳴して狂信的なシャコバン教師になった。国民公会議員として、ルイ十六世の処刑に賛成し、反革命派を残酷に弾圧した。だが、変節きわまりなく、私利のために平然と各派を転々とした。総裁バラスに接近して在外大使に任ぜられ、やがてパリ警視総監になったが、ブリュメール・クーデタアの際ナポレオンを支持し、前後三回警視総監に登用された。しかも、ナポレオンを裏切って、メッテルニヒ、ルイ十八世などと内通し、その墓穴をほった。
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第五章 歩幅をはかりつつ
歌姫グラツィアニ
ナポレオンはひたすら平和を願った。国民が平和を望むばかりでなく、一度でも敗ければ、彼の地位は崩れ去るし、他の将軍が戦功をたてれば、強力な競争者となるのは明らかだった。
そこで、彼はイギリス国王とオーストリア皇帝に対し、和議を申し入れたが、彼等には、「権力を盗み取った成り上り者」と交渉する意思はなかった。それに、オーストリアはイタリアを奪い、大軍をスイスに進め、南フランスを|窺《うかが》うので、放置できぬ情勢となった。やむなく、ナポレオンは国内の王党派・反対派勢力を討伐したうえ、五月六日(一八○○年)、新編成の予備軍三万をひきいて出陣した。
彼はジュネーブから転じて、サン・ベルナアル峠を踏破して、イタリア平原に突進し、六月二日、|忽《たちま》ちにして、ミラノを奪取して、全欧州を驚嘆させた。標高八千百フィートのグラン・サン・ベルナアルは、二千年の昔、名将ハンニバルが辛苦を重ねて突破したが、ナポレオンも、また、言語に絶する|艱苦《かんく》を克服せねばならなかった。部隊は一列縦隊になって、大砲を押し上げ引き上げ、|嶮《けわ》しい山路を懸命によじ登る。ナポレオンは叫ぶ。
『兵士よ、わが軍は、いま、雪と氷と突風と氷河を相手に苦闘している……だが、間もなく、落雷のように敵軍の頭上に襲いかかるのだ!』
落雷のように、ロンバルディア平原を襲ったフランス軍は、ミラノ入城の十日後、敵将メラスのひきいる大軍とマレンゴに戦う。ナポレオンはメラスを軽視して、兵力を分散する|過《あやま》ちを犯したので、敵は四万・砲百門、味方は二万・砲二十門である。当然、苦戦におちいり、敗北は決定的となる。その時、折よく、ドセーの友軍が到着し、戦勢逆転して、敵将は傷つき、オーストリア軍は|潰滅《かいめつ》する。しかも、ドセーは乱軍のうちに戦死する。『五時には敗けていた。七時にやっと勝った』と戦史は記録している。ナポレオンには珍しい拙劣な作戦である。しかも、救援が遅れたので、この間に、味方のマッセナはジェノアの防衛を放棄してしまった。
パリは一時はマレンゴ大敗のニュースに、いたく動揺した。バラス、シエース等は王党派と気脈を通じ、タレイラン、フーシェをも抱きこんで、ナポレオン放逐の陰謀をめぐらしたのだが、そこへ、大勝利の確報がとどいたので、一味は|狼狽《ろうばい》して四散した。そのうち数名の有力者は、ジョセフィーンの|庇護《ひご》を求めた。彼女は親切で寛大だったから。
ナポレオンは首都不安の報に接し、後事をマッセナに託して、急ぎ帰国する。パリ市民は歓呼して迎えるが、彼は暗然として、側近につぶやく。『私はまるで老人になったような気持だ』。人間というものに深い幻滅を感じたのである。
このような気持になるのは、決して珍しくない。彼には、どこか、人間を軽侮するところがあって、それが彼を孤独にする。孤独に苦しんだあげく、人間に接近すると、裏切られて、ますます、人間に失望する結果を招く。ジョセフィーンにしてもそうだった。
そのジョセフィーンには、野営地から、筆まめに手紙を書いた。マレンゴの戦勝直後には、
『親愛なる友よ。
私の最初の|月桂冠《ローリエ》は祖国に捧げるが、次の月桂冠は|貴女《あなた》にあげる。
アルヴィンツィ(敵将)を攻撃する時には、祖国を想ったが、彼を撃破したいまは、貴女だけを思っている。
貴女の愛 息(ユウジェーヌ)は敵の部将モルバッハを捕虜にした。モルバッハの帯剣の|下緒《ドラゴンヌ》を送るそうだ。彼は亡き御尊父(ボーアルネエ子爵)の名を|辱《はずか》しめぬ、立派な軍人になっている。
勇敢で不幸な将軍(ボーアルネエ子爵)の後を継いで貴女の夫となった私としても、故将軍にあやかって、大いに勝つことを学ばねばなるまい。
貴女に接吻を送る』
と書いている。イタリア遠征の頃の熱狂的なラブ・レタアではないが、それでも、静かな愛情――あるいは友情――にあふれている。
本来ならば、ジョセフィーンは、あとから戦地の夫に合流するはずだった。それが取りやめになったのは、軍事情勢もさることながら、ナポレオンが美しい歌姫と、たまゆらの恋愛を楽しんでいたからである。
その歌姫はミラノ座の高名なるオペラ歌手ラ・グラツィアニ。彼女は四年前に、ナポレオンがイタリア遠征軍の若き司令官として、ミラノに君臨していた時にも、既に、プリマ・ドナとして、盛名を|馳《は》せていた。だが、その頃のナポレオンは、ただひと筋に、|新妻《にいづま》のジョセフィーンに恋い焦れていた。
こんどは事情がちがう。彼はグラツィアニの美声を鑑賞するだけでなく、二十七歳の豊満な肉体をも愛撫する心理的余裕を持っていた。どちらかといえば、女のほうが積極的だったようであるが、ナポレオンも寸暇があれば、必ず会っていた。秘書ブーリエンヌの回想録によると、ナポレオンは、最悪の事件が突発した時だけは、睡眠中に起してもよい、と命じていた。マッセナがジェノアで敗退したという重大ニュースを伝えたのは未明だったが、ナポレオンはグラツィアニと同じベッドで寝ていたという。「女」と「歌」のどちらが、第一統領を|捕虜《とりこ》にしたのかは、想像するほかない。彼は音楽は好きで、わけても、グラツィアニが歌えば、いつまでも飽かずにききほれるのだった。
ナポレオンが帰国すると、グラツィアニもあとを追って、パリにきて、その美声と|美貌《びぼう》をもって、一夜にして、フランスを征服した。彼女はジョセフィーンに代って、チュイルリイ宮の女王になる下心を抱いていたらしいが、ナポレオンの心は、そこまでは動かず、結局、政治的収穫は無かった。彼は常に恋愛と政治を区別した。もっとも、物質的には|莫大《ばくだい》な報酬を与えた。
グラツィアニは当てがはずれたらしく、急にパリに|嫌気《いやけ》がさし、ローデというイタリア人のヴァイオリニストと駆け落ちした。彼女はいつも激烈な恋愛に陶酔しなくては、|生《い》き|甲斐《がい》を感じなかったのである。ローデは|天下人《てんかびと》の愛人を寝とったのだから、いつ、追手がかかるかと、|戦《おのの》いていた。ところが、ナポレオンは苦笑しただけで、とがめだでせず、やがて両人を呼び返して、国立劇場を提供し、みずから後援して、特別演奏会を開くのだった。彼にしてみれば、グラツィアニを抱擁したのは、単なる「ソファの上の出来ごと」だった、と考えたかったのかも知れない。
とはいえ、彼がグラツィアニに愛情を抱いていたのは事実であって、ジョセフィーンは嫉妬に苦しみ、警視総監フーシェに頼んで、歌姫を四六時中監視させたほどである。一説には、フーシェがローデに大金を与えて、グラツィアニを誘惑させたのだ、ともいう。フーシェならやりかねまい。
グラツィアニの名声は、年と共にいよいよ高く、ミラノに、ロンドンに、ベルリンに、花やかに脚光を浴びて歌い続けたが、パリを訪れれば、ナポレオンと親しく談笑するのが常だった。一八〇七年、皇帝ナポレオンが権勢の絶頂にあった時、彼女は「陛下の最高の|歌女《うたいめ》」という称号を許され、巨額の年金を授けられた。
その頃、彼女は地方公演の途次、暗夜に、群盗に襲われ、丸裸にされたうえ、無惨に|輪姦《りんかん》された。この時、ダイアモンドで縁どったナポレオンの肖像も奪われたが、彼女は『宝石はいりません。肖像だけは返して!』と哀訴した。この事件をきくと、皇帝は激怒し、フーシェに厳命して盗賊どもを捕えると、即刻極刑に処した。
だが、皇帝の多くの情人と同様に、グラツィアニも、また、ナポレオンが没落すると、忽ち彼を記憶から除外してしまった。そして、ウォタアルーの勝者ウェリントン将軍が、意気揚々とパリに入城すると、ほどなく、軽やかな足どりで、彼の寝室に出入りし始めるのだった――一曲、二曲オペラのアリアを口ずさみながら。
玉座に向って
ナポレオンはマレンゴの苦戦によって、戦争が政治家にとって、いかに危険であるかを痛感した。故に、オーストリア軍に決定的打撃を与えると、直ぐに、講和を申し入れたが、ウィーン政府は容易に応じない。幸いにも、モローがライン方面で快勝したので、一八○一年二月、リュネヴィルの講和が成立した。フランスにとって、極めて有利な内容であって、ベルギイとライン左岸は、イタリアと共に、その支配に帰した。
残るのはイギリスである。フランスがエジプトとマルタを要求するので、交渉は難航した。それに、ナポレオンがスペインから北アメリカのルイジアナ地方を獲得したことも、イギリスの植民政策を脅かした。ナポレオンはイギリスの商船を欧州大陸から締め出そうと試み、ロシア皇帝ポール一世と諒解に達した。|皇帝《ツア》は、プロシア、スエーデン、デンマアクなどを語らって、海洋自由(すなわち反英)連盟の組織に着用したが、三月末、暗殺されてしまった。ナポレオンの胸像を机の上に飾るほどに、第一統領を評価していたのである。前年のクリスマス・イブには、ナポレオンも危うく、暗殺されるところだった。背後には、イギリスの黒い手が動いた形跡が濃厚である。
ナポレオンは暗然として、
『パリで私を狙った爆弾が、セント・ペテルスブルグで|皇帝《ツア》を仕止めたのだ』
と言った。ポール一世が殺されなかったら、ナポレオンのロシア遠征も起らず、世界史はまったく違った発展をとげたことだろう。
こうして、曲折はあったが、イギリスも戦費の負担に苦しみ、フランスも敵の制海権に挑戦できぬので、ついに、一八○二年三月、アミアン条約によって、和解が成立した。フランスは既に、ロシア、オーストリア、プロシア、スペイン、ポルトガルと講和している。アミアン条約は、待望の全面平和をもたらしたのである。
第一統領は誓約どおり、フランスに平和を与えた。欧州諸国は王侯君主に統治される旧体制を維持していたのだから、この平和は、新思想(すなわちフランス)と旧勢力(すなわち欧州)の暫時の共存を意味した。ナポレオンは、この平和を最大限に活用して、新しいフランスを建設せねばならぬ。
彼は一八○○年から一八○三年――マレンゴの戦勝から対英戦争の再開まで――の間、内政の充実に主力を傾注する。彼は軍事的天才であるが、同時に、政治的超人でもある。そして、なによりも、革命の子である。フランス革命が、単に政治改革にとどまらず、社会改革として、大きな文明史的意義を持っていることを、正しく認識している。『私は軍人として統治しているのではない。国民は私に政治家の素質があると信じて、統治を|委《まか》せているのだ』という彼の言葉には、農民と新興ブルジョア層を主力とする国民のために、広く深く奉仕しようとする政治姿勢が示唆されている。
ここに、フランスの|再 生《ルネツサンス》が始まり、黄金時代が|展《ひら》ける。フランスは新しい秩序のもとに、統合されて繁栄し、文教は興り、法制は整い、産業は伸び、人口は増える。「敵でなければ友として迎える」のが彼の柔軟政策なのである。四万の|亡命貴族《エミグレ》は許されて、続々と帰国し、カトリック教会も和解に応ずる。『信仰なしに、どうして社会秩序を維持できようか。社会に貧富の差がある限り、宗教は必要なのだ』と彼は説く。いわば、功利的信仰である。
これが具体化したのが、一八○一年七月の法皇庁との|宗教協約《コンコルダア》である。十年の断絶ののち、教会は再びフランス社会において、重要な機能を回復する。
翌年の復活祭当日、ノートルダム寺院に、法皇代表カーディナル・キャパラを迎えて、目も|綾《あや》な、荘厳きわまる儀式を、とり行なう。アミアン以後、第一統領は軍服をぬいで、絹服に白靴下を着用しているが、この日は緑衣である。第二統領は赤衣、第三統領は青衣、各省大臣は黄衣。第一統領の馬車は八頭の白馬がひき、他の二統領は六頭、大臣と各国大使は四頭。その前後を華麗な近衛部隊が固める。一行が寺院に着くと、|殷々《いんいん》と祝砲が鳴り始め、ナポレオンは悠然と馬車から降りる。緑衣のうえに、金の|刺繍《ぬいとり》も重い真紅のヴェルヴェット製マントを羽織り、手には三色の羽毛をつけた帽子を持っている。黄金の|佩剣《はいけん》がきらめき、ズボンを留めるダイアモンドが光る。万余の観衆は声を限りに、第一統領万歳! を連呼する。パリ駐在のプロシア公使は、
『第一統領夫妻の日常生活は、王朝盛んなりし頃のヴェルサイユ宮廷の生活様式に、だいぶん似てきた。豪華な服装、華麗な馬車、優雅な儀典、善美をつくした|饗宴《きようえん》、群がる侍女・侍僕――ルイ王が出御しても、少しも違和を感じまい。それに、第一統領は前王に習って、狩猟を始めたらしく、外交団も時々招待される』
と報告している。
ナポレオンは大衆が壮大なスペクタクルに感激することを、よく知っている。儀典も栄誉も民心操縦の道具だてなのである。ノートルダムの盛典ののち間もなく、彼はレジョン・ドヌール勲章を創設する。この勲章は現存するが、創設に対しては強硬な反対があった。『勲章をオモチャだというなら、それでもよい。だが、人間は案外オモチャに支配されるものなのだ』と彼はうそぶく。これは、|宗教協約《コンコルダア》と同じく、ブルボン王政復古に対する心理的防壁なのであり、革命の成果を定着させる政治的方便でもある。
こういう状況ともなれば、外国の観光客も多数来遊する。とくに、アミアン和解の影響もあって、十万からのイギリス人がパリに集まる。市の中心地には、ロンドン市のパノラマ模型が展示される。祝典・夜会・リセプションが続く。ロード・ホランドやチャールズ・ジェイムズ・フォックスのような有力者は、チュイルリイ宮の|晩餐会《ばんさんかい》に招かれて、ボナパルト夫妻と歓談しているが、彼等は、みな、第一統領の非凡な政治的|経綸《けいりん》と、ジョセフィーンの比類まれな社交的魅力に深い印象を受けている。
イギリスの政治家と交歓しつつ、ナポレオンは考える。革命は君主制と両立するだろうか? 彼の答えは|肯定《ウイ》である。王制復古は、農民とブルジョアにとっては、財産没収を意味するから、一大災厄である。いな、生命さえも危ういはずだ。彼等すなわち国民的勢力にとっては、現体制の存続が望ましい。だが、現体制を体現するナポレオン個人に万一のことがあったら――戦死したり、暗殺されたりしたら――統領政府は|瓦解《がかい》して、王制に復帰する可能性が多かろう。それを防止するには、ナポレオン施政の永続をはかるほかない。つまり、世襲のみが、反革命運動を阻止できるのだ。かくて、ナポレオンが終身統領を経て、皇帝になる論理的過程が、次第に、展開されていく。
宗教協約とアミアン条約の二重奏をバックグラウンド・ミュジックにして、ナポレオンは、おもむろに、玉座に向って進み始める――慎重に|歩幅《ほはば》をはかりつつ。
元老院は彼の任期の十年延長を提案するが、彼は一方、元老院に迫って、終身任期を承諾させるとともに、他方、すベての権力の源泉である国民の総意に従うと称して、人民投票に問う。ウィは三五〇万票、ノンは八千票である。これに自信を得て、彼はさらに憲法を修正し、後継者の指名権をも獲得する。玉座への距離は、あといくらもない。革命のロマンスは終りつつある。
それを象徴するように、チュイルリイ宮に盛大な祝宴が催される。宮殿は|眩《まぶ》しいばかりに照明され、三百人のオーケストラが徹宵演奏し、ジョセフィーンを|花蕊《はなしべ》にして、大輪の花が咲いては散るように、美女は踊り、かつ、踊る。ノートルダム寺院の塔には三十フィートの星が輝き、ポン・ヌーフには四十フィートの平和の女神像が立つ。シャンゼリゼは花火を見る群衆で|雑沓《ざつとう》する。その顔はどれも幸福に酔っている。
鉱泉の効能は?
少しばかり、ジョセフィーンの生活を見よう。ナポレオンがマレンゴに辛勝した頃、彼女はプロンビエールの鉱泉に赴いた。ナポレオンの子を産みたいのである。義兄のジョゼフ・ボナパルトの妻ジュリイ・クラリイは、この鉱泉の効能(と信じていた)によって、四年ぶりで妊娠したではないか。ナポレオンもジョセフィーンが生殖能力を回復することを念じて、頻りに、優しい|労《いたわ》りの手紙を書いている。
彼女がなかなか第一統領の|胤《たね》を宿さぬので、ボナパルト一族の間では、ナポレオンの跡目を誰が継ぐか、をめぐって、深刻な内紛が起っている。しかも、彼等は、みな、ジョセフィーンを憎悪しているのだ。
彼女の対策は、十七歳になった娘のオルタンスを、ナポレオンの九歳したの弟ルイと結婚させることだった。読者は、ナポレオンが砲兵中尉の頃、僅かな手当しかもらわぬのに、空腹をかかえてルイを養育したことを記憶されるだろう。彼はルイを寵愛し、イタリア・エジプトに遠征した時も、副官として連れていった。ある時期には、ルイを後継者にしようとさえ考えていた。だが、これはナポレオンの|眼鏡《めがね》ちがいで、実は、ルイは感情的にバランスの欠けた、一種の変質者だった。容貌もすぐれず、軽微な半身マヒで、常に頭痛を訴えていた。
ルイはオルタンスに興味がなく、オルタンスは他の男――デュロック将軍――を愛していた。それにもかかわらず、一八〇二年初頭、ジョセフィーンは強引に、ふたりを結婚させてしまった。彼等はリュウ・ド・ラ・ヴィクトアールの邸宅で新婚生活を送ったが、間もなく不和になり、ルイがオランダ王に封ぜられてからも、夫婦関係は改善せず、ついに別居してしまった。もっとも、ルイとナポレオンの関係も険悪だった。ルイが余りにオランダ的になり、ナポレオンに反抗して、フランスの国益に反する行動を取ったので、ナポレオンはついにルイを義絶し、オランダをフランスに併合したのである。
ルイとオルタンスの結婚が成功していたら、そして、ルイの進退が常識的だったら、ナポレオンは、ジョセフィーンが不妊の場合には、彼等の子を後継者に指名する積りだった。彼等は三児をもうけた。しかし、破婚となってしまっては、いかんともなしがたかった。ジョセフィーンの計画は、もろくも|挫折《ざせつ》した。ただ、一八〇八年に生れた末子のシャルル・ルイは、彼女の死後に、ナポレオン三世になるのである。
オルタンスの結婚が、早くも、曇りのち雨模様となると、ジョセフィーンは傷心を抱いて、また、プロンビエールに保養に出かけた。この頃、一八○二年夏、ナポレオンが彼女に書いた手紙は、彼等の結婚生活が完全に安定したことを示している。いわば、典型的なブルジョア夫妻の平凡な関係に似ている。
ナポレオンは鉱泉の|効能《ききめ》はどうか、と頻りに尋ね、ジョセフィーンに月経らしい兆候がある、ときくと、心から喜んで自愛を求める。
『私は初めて会った時と同様に、|貴女《あなた》を愛している。貴女は誰よりも善良で親切だから。愛をこめて接吻を送る』
『気分がすぐれないときいて、本当に心配している。でも、数日休養したら|快《よ》くなるのではないかしら。オルタンスは元気だ。ユウジエーヌは|風邪《かぜ》気味だが、快方に向っている。私がジョセフィーンに対して抱いている愛情ほど純真なものは、この世にないのだ。それを信じておくれ』
『手紙をありがとう。だけど、鉱泉の効果はどうなのか? 一週間後に帰京するときいて、たいへん喜ばしい。貴女のいない生活は堪えがたいから。
昨日、オルタンスは「セヴィルの理髪師」のロジーヌを|演《や》った。実によく演った。貴女を愛していることを信じて欲しい。とても会いたいのだ。貴女が傍にいないと、すベてが陰気くさくてやり切れない』
だが、ジョセフィーンは知らないのだ。ナポレオンが彼女に労り深いのは、妻を愛しているからではあるが、実は、新しい情人が出現したからでもある。男が女を労るのは、女を欺いている時が多い。
パリのヴィナス
新しい人はマドモアゼル・ジョルジュ、別名をジョルジイナという。コメディ・フランセーズの|花形《プリマ・》|女優《ドナ》である。
ナポレオンは古典演劇が好きである。近代劇や喜劇にはまったく関心がなく、もっぱら、伝統的な悲劇を好む。ブルタアクを愛読する彼が、舞台に展開する英雄的抒情詩に陶酔するのは当然だろう。マレンゴの戦勝とアミアンの平和によって、彼は巨大な超人になり、半神的偶像として仰がれている。周辺には、肩を比べる人物はいない。とすれば、悲劇の世界に没入し、シーザアと語り、アガメムノンと談ずることに、慰安と刺戟を求めても、さして不思議はあるまい。女性にしても同じである。生来のロマンティストだから、|凄艶《せいえん》なるクレオパトラと、壮大な運命を分ちたいのである。彼はゲーテに、『指導者は古典的悲劇を鑑賞することによって、反省の機会を与えられる』と語っているが、悲劇の|主人公《ヒーロオ》に共鳴し同化する間に、彼の創造力は豊かに再生されるのである。
まだ無名の尉官だった頃、夜霧のパレ・ロアイヤルに売笑婦を物色していた彼は、当代随一といわれる男優タルマと知り合い、その好意で、よく無料入場券をもらったものである。交友は永く続き、ナポレオンは統領に就任すると、進んでコメディ・フランセーズの後援者になって、タルマを初め多くの俳優を厚く|庇護《ひご》する。ジョセフィーンも演劇を好んだから、古典劇は盛んに興隆する。彼女がボナパルト将軍と初夜を契った、かのリュウ・シャンテレエヌの邸宅も、タルマから譲り受けたものである。
当時、コメディ・フランセーズに重きをなしたのはマダム・ロークールである。四十歳の彼女は、後継者をスカウトするために、地方の芝居小屋を|行脚《あんぎや》し、アミアンを訪れる。ここに、ジョルジュ・ウェイアー夫妻が小劇場を、細々と経営している。革命の混乱は地方劇場にも大きな打撃を与え、昨今は客足も淋しいのである。夫妻は元来が旅役者である。芝居を演じ、オーケストラを指揮し、脚本を書き、作曲までする。木戸番は娘のミミ(本名はマルグリイト=ジョセフィーン)に委せているが、これが利発で、五歳の時から子役を立派に勤めていたという。
ロークール夫人が来訪した時、ミミは十四歳になっていて、アミアンの人気女優に成長している。夫人はその輝く美貌と|優《すぐ》れた技巧にほれこみ、|内弟子《うちでし》に取り立てる。この娘が、後日のジョルジュである。
やがて、ウエイアー一家はパリに移り、ミミはロークール夫人に親しく演劇指導を受ける。呼び名もジョルジュとなる。芝居も、めきめき上達するが、なにしろ、ギリシアの女神像そのままの美貌である。忽ち、パリ社交界の注目を集める。
その頃、ナポレオンの弟ルシアンはスペイン大使の任務を終って、帰国していたが、マドリッド在任中に巨万の私財をつくり、絵画彫刻の逸品を山と積んで、|頗《すこぶ》る得意である。ボナパルト兄弟のなかでは、最も芸術的素質があるので、ジョルジュの才能を認め、種々と援助をする。もとより、下心あってのことである。当時、彼はジュベルトンという、世評の|香《かん》ばしくない有夫の婦人と同棲し、兄ナポレオンの不興を買っている。兄の反対を無視して、この婦人と結婚する積りなのだが、暫くジョルジュを情人にして楽しみつつ、兄の眼を欺く方便にしたいのである。従って、彼は、むしろ公然と、ジョルジュに接近し、『私のジョルジイナだよ』と言って、みせびらかす。その結果、ジョルジイナは、ボナパルト一家の誰彼と親しくなり、オルタンスを通じて、その母ジョセフィーンの知遇を得ることになる。オルタンスがジョルジイナを連れて、チュイルリイ宮を訪れ、ラシイヌの悲劇から、一節二節を暗誦させると、情にもろいジョセフィーンは、涙にむせんで感激する。
こうして、ジョルジイナは、出世街道に一歩を進め、一八〇二年末、晴れて、初舞台を踏む。タルマの共演で、イフィゲニイのクリテムネストラを演ずるのであるが、第一統領夫妻も盛装して、正面ボックスから観覧する。最後に幕がおりると、拍手と歓声のあらしは劇場をゆする。大成功である。演劇批評の権威ジォフロイは、『アポロの妹が出現した!』と書く。この夜以後、わずか十五歳の少女は、『パリのヴィナス』と讃美される。
この成功の裏には、恩師ロークール夫人の苦心の演出がある。彼女は四百枚の切符を、これはと思う知人に分配し、盛んに拍手をさせたのである。つまり、サクラであって、フランスではクラックといって、よく使う手段である。もっとも、これは暴君ネロが、自作の劇を上演する時に始めたのだから、歴史は古い。ジョルジイナの|初演《デビユウ》に、クラックが必要だったのは、彼女より一足さきに、ドゥシュスノアという|初演女優《デビウタント》が、同じ舞台で、ラシイヌのフェードルに主演して、絶讃を博していたからである。彼女は二十五歳、|器量《かお》こそ劣っているが、演技はジョルジイナより優れている。観衆のなかには、彼女の熱烈なファンがいて、ジョルジイナの|独白《モノローグ》を妨害したのである。現に、演劇界は、ジョルジイナ派とドゥシュスノア派に分れて、敵意を燃やし、対抗している。だが、ジョルジイナのほうが、はるかに運がよかった。
ドゥシュスノアは極貧の家に生れ、|饑餓《うえ》のなかに育ったのであって、一時は、パレ・ロアイヤルの|売笑窟《ばいしようくつ》にいたことさえある。それだけに、自己を主張する自信を欠き、日蔭の花のように、社会の片隅に、ひっそりと咲く趣きがある。
実は、ナポレオンは、彼女の|初舞台《デビユウ》に感激して、チュイルリイの寝室に招いたことがある。ドゥシュスノアは、やっと幸運に恵まれたと思って、胸をときめかして来る。舞踏場ほどに広い寝室の一隅で待つ。いくら待っても、第一統領は姿を現わさない。仕事に熱中しているのだ。気の毒に思って、侍僕のコンスタンが、書斎のドアをノックすると、
『待たせておけ』
と|乾《かわ》いた返事だけ聞える。
一時間たつ。また、一時間。こんどは、コンスタンは書斎に入って、遠慮がちに、
『お待ちになっていますが』
と注意すると、振り向きもせず、
『着物を脱いで待っておれと伝えろ』
と答える。
ドゥシュスノアは脱衣して、寒さにふるえながら待つ。さらに、一時間。コンスタンはそっと書斎をのぞく。ナポレオンは険しく眉を寄せて鋭く命じるのだった。
『帰宅させてよろしい!』
処女だった
こういう前例もあるので、ジョルジイナは第一統領から、サン・クルウ宮殿に来るように、指示された時は、どうすべきか、迷いに迷った。表向きは、彼女の妙技に対してコンプリマン(賞め言葉)を呈する、ということになっている。明夜八時にコンスタンが迎えにいく、という連絡である。
彼女には、多くの有力者が後援している。ルシアンは外遊中で不在だが、代って、ポーランド貴族サピエハ公爵が、衣服でも、宝石でも欲しいものは、なんでも買ってくれる。サントノレ街の邸宅も、馬車も、みな、彼の贈物なのである。しかも、『金が余って使いようがないのですから、少し使うのを手伝って頂きたいのです。ダイアモンドでも、カシミヤのショールでも、なんなりと、お望みのものを差し上げます。といって、心配は御無用ですよ。こんど、クリテムネストラをお演りになった時に、楽屋で握手して下されば、それで満足です。さあ、ここに|黄金《きん》の鍵があります。別荘の鍵ですよ』と言うのである。本心のほどは判らぬが、こういうと、彼女の指に接吻して、ステッキを取り上げ、静かに辞去する。このくらい品のよいパトロンもあるまい。
彼女は、多くのティーンエイジャアと同じく、第一統領を崇拝している。彼に愛されたら、どんなに素晴らしかろう、と思うと、胸がワクワクする。だが、直ぐに棄てられるに、ちがいないのだ。
思い余って、タルマに相談すると、『これで運が開けるのだ。|逡巡《しゆんじゆん》せずに、第一統領の腕のなかに飛びこめ』と激励する。
その日になる。定刻コンスタンが現われる。|御者《ぎよしや》のシーザアは、一杯機嫌で馬車を、疾風のように飛ばす|習慣《くせ》がある。ジョルジイナは生きた心地もない。|蚊細《かぼそ》い声で、『今夜はよすわ』と言うが、コンスタンは|微笑《わら》って取り合わない。忽ち宮殿に着く。
寝室は広く、緑の厚いカーテンを背景に、大きなベッドがある。暖炉には赤々と|薪《たきぎ》が燃え、シャンデリアの燭光は昼をあざむくほど明るい。
ジョルジイナが、消えも入りたい気持で、レースのショールに半顔を埋めて、|俯向《うつむ》いていると、靴音がして、ナポレオンが隣室から入って来る。緑の上着には赤い|襟《カラア》がついている。白い半ズボンに白の靴下。ジョルジイナは立ち上り、|畏《かしこ》まって礼をする。ナポレオンは、優しくその手を取ると、|長椅子《デイヴアン》に導いて、並んで坐る。ショールを取り|除《の》けて、顔をのぞきこむ。
『どうして|顫《ふる》えているんです? なにも、恐がることはない。|貴女《あなた》の先夜の演技が美事だったから、会って|褒《ほ》めたいと思って、呼んだのです。あの夜直ぐに、三千フランとどけた|筈《はず》だが、受け取りましたか? こうして、私が好意を示しているのに、貴女は少しも反応しませんね?』
という調子で語りかける。案外に砕けた態度である。ジョルジイナは部屋が明る過ぎて恥ずかしい。だが、半分ほど消してもらうと、やや落ち着き、次第に打ち解けて、求められるままに、生い立ちを語る。彼女の手記には、
『第一統領は明らかに私を好きになったようだ。私が恥じらって、軽い抵抗を試みると、かえって喜んだ。「そう急がないで」と嘆願すると、ますます興奮するのだった。でも、私が、「今夜はいや、明日また来ますから」と言うと、素直に|諦《あきら》めて、「明晩も、きっと来てくれますね」と繰り返し念を押した』
と書いてある。こうして、なんと、午前五時まで語り明かしたのである。辞去する時、ナポレオンはショールを彼女の頭にかぶせ、かき抱くと、ショールのうえから、額に接吻した。ジョルジイナは笑いを殺して、
『あら、プリンス・サピエハの下さったショールに、接吻なさったわ!』
と言った。
とたんに、ナポレオンは恐ろしい|形相《ぎようそう》になり、ショールを|剥《は》ぎ取って、ビリビリと引き裂き、彼女の指輪を抜き取って、靴で乱暴に踏みにじった。
『サピエハなどに物をもらってはいかん!』
ジョルジイナは、冷たい朝風のなかを、ショールなしで帰宅したのだった。
次の日の夜、ジョルジイナは再び、ナポレオンの寝室を訪れた。ナポレオンは、前夜の彼女の身の上話が、全部真実だったこと――フーシェ警視総監に調査させたのだ――に満足の意を表して、
『あれは、ほんとうに、プリンス・サピエハの贈物だったのですね。プリンスには|禁足《あしどめ》を命じましたよ』
と言って、さも愉快そうに|哄笑《こうしよう》した。そういう時の無邪気な表情は『天使の顔のようだった』と、彼女は述懐している。
この夜、ナポレオンは熱烈に求愛したが、ジョルジイナは巧みに、この常勝将軍の攻撃を防いで、最後の一線を守り抜いた。ただ、それには、明晩は必ず彼のものになる、という固い|言質《げんち》を与えねばならなかった。彼はやっと納得すると、|暁方《あけがた》帰り仕度をするジョルジイナに、大粒のダイアモンドの耳輪を贈った。
次の夜は、ジョルジイナがシンナに主演する番に当っていた。ナポレオンはジョセフィーンとともに観覧した。
『シンナを征服したからには、私はどんな男でも征服できるのだ!』
という|台詞《せりふ》を述べる時、彼女とナポレオンの眼が、期せずして、空間で交叉して、豪華に火花を散らした。パリの観客は敏感である。それとも、既に、|噂《うわさ》がひろがっているのか。彼等はボックスの第一統領と舞台のジョルジイナを、等分に眺めながら、やんやの拍手を送るのだった。
芝居がはねてから、ジョルジイナは、みたび、サン・クルウ宮殿に馬車を走らせた。今夜は、白一色の清楚なドレスに、歓喜に烈しく鼓動する心臓を包んで。
彼女の告白をきこう。
『少しずつ、少しずつ、彼は私のドレスを脱がした。まるで、私の侍女になったかのように、優しく、巧みに、しかも、陽気に、順々に脱がしてくれるのだった。こうされては、|否《いや》とはいえない。誰だって、女だったら、この男性の魅力には抵抗できまい。なんと、素晴らしい男! 彼は、もはや、|統領《コンスル》ではない。恋する男なのだ。そこには、燃える情熱だけがある。だが、手荒なことは|微塵《みじん》もない……。
朝七時に別れた。だが、ベッドがひどく乱れているので、
「片付けていきますわ」
と言うと、彼は、
「よし、手伝おう」
と|肯《うなず》いて、ふたりの熱烈な愛撫の跡を、まめまめしく、いっしょに始末してくれるのだった』
ジョルジイナは処女だった。
超俗の人間
ジョルジイナの性格は、比類なく明朗だった。満開のバラのように明るく、快晴の空のように澄んでいた。彼女の腕のなかにいる時、超人ボナパルトは、凡人ナポレオンに一変した。そこに、|無量《むりよう》の慰安があった。常人の十倍もの仕事をして、疲れを知らぬ彼も、気分転換を必要としたのだ。
第一統領が、サン・クルウ宮殿から、チュイルリイ宮殿に帰ると、密会はしやすくなった。この宮殿には、秘密階段があって、人目につかずに、二階の寝室に入れた。ただ、暗い長い廊下を、足音を忍ばせて、歩かねばならなかった。例のコンスタンが、|燭台《しよくだい》をかかげて、案内するのである。
ある夜、彼女は階段を登りながら、片方の靴を落とした。靴には|頭文字《イニシヤル》が刻んである。とんでもないことになった、と心配すると、ナポレオンは、
『きっと好色の男が拾って、抱いて寝るだろうよ。パリのヴィナスの靴とわかればね』
と言って笑い興ずるのだった。
ふたりはよく笑った。ジョルジイナが白バラの帽子をかぶって来た時は、ナポレオンはそれを頭にのせ、鏡に向って、百面相をして、彼女を楽しませた。そのあげくは、|浴槽《バス》で合唱した。鬼ごっこもした。かくれんぼもした。彼は寝台の下にかくれていたり、クッションを積んで、そのしたで息を殺していたりした。見つけると、彼女はハサミを持って、彼を追いかけるのだった。頭髪を切りとろうとすると、
『許してくれ、それだけは。だんだん貴重品になってきたから』
と言って、本気になって、逃げまわった。
ナポレオンは三十三歳、ジョルジイナは十六歳。なんとかして実子が欲しいので、彼は夜ばかりでなく昼も、このヴィナスを抱く。ジョルジイナも薬をのんだり、|祈祷師《きとうし》の門をくぐったりする。
人の口に戸は|閉《た》てられぬ。第一統領とヴィナスの関係は、だんだん噂になる。それに、ナポレオンが、ほとんど連夜、あけがたに妻の寝室にくるので、ジョセフィーンも不安を抱き始める。夫は異常に疲れている。国務繁忙のため、徹夜して働いていたのだ、と言って、そっけなく眠ってしまうのだ。
彼等は結婚して以来、ジョセフィーンのベッドで、|同衾《どうきん》する習慣を続けている。この寝室はチュイルリイ宮の地階にある。夜半まえには、ナポレオンは残務をすませ、寝巻姿になって、書斎から降りてくる。侍僕の連絡を受けると、別室にいたジョセフィーンは、カルタ遊びをやめ、しとやかに夫を寝室で迎える。ナポレオンがベッドに入ると、暫く、彼女は小説などを音読する。その声は|鴬《うぐいす》のように|滑《なめ》らかである。やがて、統領は静かな寝息をたてて眠る。これが、ヴィナスが出現するまでの、夜の|定型《パタアン》になっていた。
ジョセフィーンは三十九歳になっている。まだまだ、情熱を傾けて強く抱擁はしたが、彼女のかもしだすムードは、安息と情感であって、浴槽の合唱や寝室の遊戯からは、ほど遠い。だいいち、彼女の品位が、それを許すまい。ファースト・レディを自覚しているから。
もともと、彼女はよく泣くのだが、この頃は、いっそう、涙を流して、かき口説くことが多い。ナポレオンには、これが煩わしい。それに彼女は、事もあろうに、侍女を使って、スパイさせている。彼女自身が彼の寝室のそとに|佇《たたず》んでいたりもする。ついに、ナポレオンは、別のベッドで寝ようではないか、と提議する。ジョセフィーンは|衝撃《シヨツク》を受け、泣いて反対する。彼女は眠りが浅く眼ざとい。第一統領に対する暗殺計画が、頻繁に摘発される昨今である。同衾を続けるほうが、安全というものではないか。
彼女は内心離婚を恐れている。ボナパルト一家は、あらゆる機会を利用して、ナポレオンに、ジョセフィーンを離婚せよ、と迫っている。彼の地位が高くなるのにつれて、圧力も大きくなる。あんな不貞な女をなぜ許すのだ! あんなに淫乱な生活をしたむくいで、妊娠不能になったのだ! ボナパルト家の|面汚《つらよご》しだ!
オルタンスとルイを結婚させてから、非難はいよいよ激しくなる。ルイは完全に孤立し、怒りをオルタンスに浴びせる。兄ナポレオンが自分(ルイ)をさしおいて、長男を後継者に決めようとするからである。
ジョセフィーンは、プロンビエールの子宝温泉の効能がみえぬので、懐妊不能らしいとは思っているが、むしろ、夫に|子胤《こだね》がないのではないか、と疑ってもいる。その点は、ナポレオンも半信半疑なのだ。
もっと若い健康で健全な女を|娶《めと》ればよい。きっと|嗣子《よつぎ》が生れる。ボナパルト一族は、そう言って、ナポレオンを|唆《そそのか》す。現に、ジョルジイナの情事にしても、黙認しているのだ。それに、ほかにも、美女を|斡旋《とりもつ》ている形跡がある。
ジョセフィーンが|堪《たま》りかねて、ナポレオンを追及すると、|昂然《こうぜん》と答える。『いまさら、恋の愛のということではないのだ。恋愛学校は、もうとっくの昔、卒業してしまった。単なる気晴らしに過ぎないのだから、心配するに及ばない。それよりも、私を常人の道徳規律で束縛するのは、やめてもらいたい。私は超俗の人間なのだ!』
この間に、フランスとイギリスは再び不和になる。アミアン条約は一年間の休戦に過ぎなかったのだ。
ナポレオンは、一瞬にして、寛厳の態度を変える特異な才能を持っている。ジョルジイナと|雑念《ぞうねん》なく戯れている時、イギリス大使が急用で来訪したことがある。ナポレオンはすばやく服装を整えると、大使を引見し、満面に怒気をみなぎらせて、叫んだ。
『よろしい。イギリス国王が戦争を始めたいなら、フランスは|何時《いつ》でも応戦する用意がある!』
一八〇三年五月、両国は戦争状態に入った。ナポレオンはブーローニュに二十万の大軍と二千の船舶を集結し、晩秋を期して、一気に英仏海峡を押し渡り、ロンドンを占領する計画を練った。幕僚にかこまれ、地図を案ずる彼の英姿は|颯爽《さつそう》としている。ジョセフィーンには、若き日のボナパルト将軍をみる想いだった。その将軍が、思いがけず、ブーローニュ方面視察に同行を求めた。彼女は心も浮き浮きと旅仕度にとりかかるのだった。
ブーローニュから帰ると、ナポレオンは、多忙の時間を|割《さ》いて、ジョルジイナを招いた。彼女の手記によると、この時ナポレオンは一変していた、という。愛撫はした。抱擁もした。だが、白熱の燃焼はなかった。彼の眼は遠くを見ていた。ドオバア海峡のかなたを。
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第六章 英雄交響曲
開眼
ナポレオンの軍事的天才をもってしても、海軍が足らぬから、イギリス攻略は至難である。他方、イギリスも陸軍が弱いので、フランスに侵入できない。双方は睨み合う。|ピ《(1)》ット首相はロンドンから、|莫大《ばくだい》な黄金をばらまいて、|対 仏 同 盟《グランド・アライアンス》を組織しつつ、フランスの反ボナパルト勢力
を結集し、ナポレオン打倒を画策する。
ナポレオンは|間諜《スパイ》を駆使して、イギリスの密計を探知する。王党派・共和派系の将軍を糾合し、「第一統領を|誘拐《ゆうかい》してロンドンに連行する」筋書ができている。暗殺も考慮されているらしい。ナポレオンは、動かぬ証拠を握ると、|敏捷《びんしよう》に行動して、ピシュグリュ、モロー両将軍を、陰謀の黒幕カドゥーダルとともに逮捕する。王党派の実力者カドゥーダルは処刑され、ピシュグリュは獄中で怪死をとげ、モローはアメリカに追放される。一八〇四年一月のことである。ピシュグリュは公安委員会時代の花形将軍だった。モローは|霧 月《ブリユメール》クーデタアの協力者であるが、その後ボナパルトの名声を憎み、レジョン・ドヌールを授与されると、冷笑して、愛犬の|頸《くび》にかけた将軍である。
折から、アルザス国境に、|亡命貴族《エミグレ》が集結し、動静不穏の|兆《きざし》がある。三月中旬、ナポレオンはバーデン(中立国である)を急襲し、ブルボン一族のアンギャン公を捕えて処刑する。青年貴公子の銃殺は、全欧州に|衝撃《シヨツク》を与え、多くの王侯に敵意を抱かせた事件であって、史家は、ナポレオンの最大の失策と評している。貴族出身で、|亡命貴族《エミグレ》の間に人気のあるジョセフィーンは、涙をもって|諫止《かんし》したが、ナポレオンは|頑《がん》として譲らなかった。この|苛烈《かれつ》な処置によって、反対派の息の根をとめる決意だったから。
この直後、ナポレオンは巧妙な世論操作を始める。国家の運命を一個人ナポレオンの生命に託するのは危険である。彼を倒しても政府は微動もせぬことを明確にすれば、暗殺|沙汰《ざた》も自然にやむはずである。ここから、世襲制の論理が生れる。
果して、五月、元老院は「世襲皇帝制」を宣言した。反対したのは、かつての恩人カルノオひとりである。国民投票の結果は、賛成三、五七二、三二九、反対二、五六七だった。
戴冠式は十二月二日と決定する。
ナポレオンは、法皇ピオ七世を招く。六十四歳の老法皇は、三十台の馬車を連ね、冬のアルプスを越えて、パリに急ぐ。六|枢機卿《カーデイナル》・十|僧正《ビシヨツプ》を始め、従う一行は百余名である。皇帝と法皇のいずれが上席か、儀典は微妙である。ナポレオンはフォンテーヌブロウ宮殿を新たに設営し、ここに一行を迎え、狩猟の途中、森の|小径《こみち》で、偶然に法皇に出会った形式にする。気の毒にも、法皇は雪白の衣服で、泥道に、降りたたねばならなかった。
もっと問題なのは、ボナパルト一家の態度である。皇帝には、兄ジョゼフのほかに、ルシアン、ルイ、ジェロームの三弟があり、エリザ、ボーリーン、カロリーンの三妹がある。彼等は一致して、ジョセフィーンを|嫌悪《けんお》しているので、彼女が皇后として、王冠を戴くことを好まず、あらゆる妨害を試みる。だが、ナポレオンは意に介しない。
『ジョセフィーンは善良な女なのだ。ボナパルト家に対して、なんの害意も抱いていない。折角、皇后になる積りでいるのだ……もし、私が玉座に登るかわりに、獄舎に下ったとしても、喜んで、運命を共にしたにちがいない。だから、彼女には私の栄光を|分《わか》つ権利があるというものだ。それが正義ではないか』
こう言って、ジョセフィーンを|庇護《ひご》する。これをみても、彼等の夫婦関係が安定していることが判る。戴冠式前にも、皇帝は|屡々《しばしば》ブーローニュに赴いて、対英作戦の準備を監督するのだが、その頃、ジョセフィーンが夫に書いた書翰が残っている。実は、これが、現存する唯一のナポレオン宛の手紙なのである。
『愛情に満ちあふれた、心のあたたまる御手紙を頂いて、嬉しくて、悲しみは総て消えうせました。おいそがしいのに、貴男のジョセフィーンに、こんなにも時間をさいて下さって、ほんとうに、ありがとう御座います。貴男の愛する妻が、どんなに喜んだか、おわかりになったら、きっと、御自慢なさるわ。
書翰は心の肖像です。この御手紙を固く抱きしめると、ほのぼのとした幸福感に酔うのです。いつまでも、いつまでも抱いていますわ。いつまでも。
御手紙は、お別れしている間は、私を慰めてくれましょう。ごいっしょにいる時は、私を導いてくれるでしょう。貴男の眼からごらんになって、いつでも、善良で温順な妻でありたいと、念願するジョセフィーンなのです。愛する夫の幸福だけを、ひたすら祈りに祈って。
さよなら、ボナパルト。御手紙の最後の一節の素晴らしいこと! 心の奥に大切にしまって、一生忘れませんわ。一字一字が、この心臓に永久に刻まれているのですもの。貴男の愛に、全心全霊をもって、お|応《こた》え致します。
私も貴男を喜ばせたい気持でいっぱい。愛しています。いえ、恋い慕っています』
ナポレオンのイタリア・エジプト遠征中に、数々の不貞を重ねたジョセフィーンとは、まったく別人である。だが、|霧 月《ブリユメール》の政権奪取このかた、|旭日昇天《きよくじつしようてん》して、いま、白日の太陽のごとく、|燦然《さんぜん》と中空に輝く皇帝ナポレオンも、また、ボロのように|汚《よご》れた軍服をまとった、かつての貧相なコルシカ将官ではない。ジョセフィーンにしてみれば、偶然に拾った小石が、、いつかダイアモンドの巨岩に変ったようなものである。石がダイアに転化する過程において、ジョセフィーンも徐々に変身した。驚異の眼をもって、夫を評価し始めた。いわば、|開眼《かいげん》である。しかも、この開眼を通じて、ジョセフィーン自身が魂を洗われて、純化し、あでやかに生れ変った。この間に、ナポレオンのウェルテル的な「|暴 風 時 代《シユトラム・ウント・ドランク》」は終り、家庭生活においては、むしろ、|小 市 民《プチ・ブルジヨワ》的ともいえる安息を求めるようになり、ジョセフイーンも呼吸をあわせたので、夫妻の花園には、静かな愛情が、深く根をおろしたのである。
それに、ジョセフィーンの社交的手腕は、いよいよ、洗錬され、衆目の一致するところ、ナポレオン帝政のエレガンスを、その極致において、表現する観があった。その意味では、皇帝の理想的伴侶だった。
戴冠式を控えた一日、元老院議員全員が伺候して、彼女に祝意を表した。祝辞は、『皇后は世のあらゆる不幸な人々に、慈悲をたれることで有名であられるが、これこそ、皇帝の施政にとって最大の支柱となろう。後世の史家は、ひとの涙を|乾《かわ》かすことこそ、ひとの心を治める|捷径《しようけい》であるという真理を、深い感謝をもって記録するだろう』と述ベている。多少の誇張はあるにせよ、ジョセフィーンが善良で、慈悲心に富んでいたことは、まぎれもない事実なのである。
それなのに、ボナパルト一家が、ジョセフィーンを悪女のように非難するのは、ナポレオンにとって、許しがたい干渉だったにちがいない。
彼等はジョセフィーン排斥に失敗すると、こんどは、挙式の際の序列や肩書を問題にして、散々に皇帝を悩ました。結局、兄弟はプリンス、妹たちはプリンセスの称号を許された。スタンダールが指摘したように、『ナポレオンには家族がないほうがましだった』のである。
兄ジョゼフは|統領《コンスル》になれなかったのを根に持ち、ナポレオンの人形を作って、射撃練習の|標的《まと》に使う有様だが、弟ルシアンは|霧 月《ブリユメール》政変の功績におごり、これまた、統領の地位を望んでいたので、内務大臣では満足しない。しかも、トウモロコシを、事もあろうに、敵のイギリスに密売して、私腹を肥やし、軍部の怒りを買い、失脚する始末である。やむなく、スペイン大使に転出させるが、ここでまたタンマリと私財をたくわえ、そのうえ、ジュベルトン夫人にうつつをぬかし、夢中になっている。
ルイはオルタンスと結婚しながら、不行跡を重ねるし、末弟のジェロームは、海軍に勤務したが、艦長なのに乗艦を棄て、北米ボルチモアで実業家パタソンの娘を知り、無断で結婚してしまった。
妹たちも、兄ナポレオンと同格の権勢を望んでやまない。エリザはコルシカ貴族と結婚し、北イタリアの領主となったが、男出入りが絶えなかった。ポーリーンは絶世の美人である。ナポレオンの部将ジェネラル・ルクレルクに嫁したが、早く未亡人となり、これまた素行がおさまらない。カロリーンは猛将ミュラア(のちのナポリ王)と結婚したが、タレイランが評したように、『彼女の美しい肩のうえにはクロンウェル(十七世紀のイギリスの武断政治家)の頭がのっていた』。ナポレオンが戦死したら、実権を握りたいと考えて、陰謀をたくらみ、そのために、パリ軍司令官ジュノー(かつてのナポレオンの副官)を、その豊満な肉体をもって誘惑したうえ、オーストリア大使メッテルニヒとも情交を通じた。このような無軌道な妹ばかりだったにもかかわらず、ナポレオンは彼女等の要求は万事|容《い》れていたのである。同族愛の強いコルシカ気質が、ここに、よく現われている。
しかし、このような兄弟姉妹が団結して、ジョセフィーン反対のコーラス――それに母のレチツィアまで加わった――を合唱すると、ナポレオンは、かえって、意地になって、妻を|庇《かば》うのだった。
それでも、ジョセフィーンは安心できなかったらしい。八年前に、市庁舎で行なった略式の結婚では、いついかなる理由で、無効とみなされるかも知れぬと憂えて、フォンテーヌブロウ宮に法皇を訪ね、『改めて、カトリック儀式にもとづく、正式の結婚式をとり行なって頂きたい』と依頼した。法皇は早速承知すると、自分(法皇)の手で、結婚式をやり直さぬ限り、戴冠式には臨席せぬ、と皇帝に通告した。ナポレオンは渋面を作ったが、戴冠式は翌日に迫っていることでもあり、やむなく譲歩して、十二月一日、チュイルリイ宮殿の礼拝堂で、儀式をとり行なった。叔父のカーディナル・フェシュ――|法皇庁《バチカン》大使――が立会い、証人には、外相タレイランと参謀総長ベルティエがなった。ジョセフィーンが、これほど巧妙に立ち廻つたことも珍しい。
帝冠を戴く
この間に、ノートルダム寺院は、巨費を投じて改装され、画家ダビドの手によって、内部装飾も一新した。ナポレオンは戴冠式の準備万端を、細心の注意を払って、みずから指揮した。こういう儀式などにも、水も漏らさぬ周到な配慮をするのが、彼の性分なのである。諸経費は合計八百五十万フラン(現在なら八百五十万ドル)に達した。イギリス国王ジョージ四世の戴冠式(一八二〇年)が、六百万ドル(現在の貨幣価値で)かかったのに比べると、いかに豪華だったか想像できよう。ジョセフィーンの衣裳代は七十五万フラン、宝石は百万フランもしたのである。
戴冠式当日の十二月二日は、曇天からチラチラと粉雪の舞い落ちる、肌寒い天候で始まったが、間もなく、晴れわたった。朝六時、軍隊は既に沿道に|堵列《とれつ》している。道路には砂を敷き、両側の民家は、思い思いに、赤白青の三色をあしらった装飾をこらしている。七時、盛装の政府大官の行列が威儀を正して出発する。九時、|綺羅《きら》びやかな外交団が現われる。前後して、法皇の一行もパリに向う。法皇の馬車は八頭の灰色の馬がひく。十時、皇帝皇后は号砲に送られて、チュイルリイ宮殿を出る。八頭だての馬車、白馬の足並みが美しい。宮門をくぐる時、ナポレオンは兄ジュゼフを顧みて言う、『お父さんにひと眼見せたかったなあ』
やがて、法皇の一行、外交団、将軍・大官の一群が、粛然と待ち受けるところへ、皇帝夫妻は|徐《おもむ》ろに到着する。彼等が入場した時の、寺院の光景は、華やかな服装と輝く宝石に|盲《めし》いんばかりで、まさに、色彩の|饗宴《きようえん》である。祝砲が鳴りやむと、四百六十人のオーケストラが演奏を始める。
式は予定通り滞りなく進んだ。帝冠は法皇が授けることになっていた。だが、ナポレオンは法皇が手を出さぬうちに、素早く、祭壇上の帝冠を取って、みずからの頭上においた。法皇の祝福は受けるが、彼の手から帝冠を授けてもらう積りはなかったのである。帝冠は彼が実力で獲得したものなのだ。ジョセフィーンの王冠は、ナポレオンが授けた。ダビドが不朽の名画に残したように、彼女はひざまずき、両手を合わせて、慎ましやかに、この王冠を受けた。
ダビドの絵は、戴冠式の実況とは、だいぶんちがっている。画中、法皇が正面に|端坐《たんざ》しているが、ほんとうは、うしろにいてよく見えなかった。母のレチツィアの姿も見えるが、彼女は戴冠式の式次第に立腹して、出席を拒否したのだから、これはあとからつけ加えたものである。
それにしても、この日のジョセフィーンは、天女のように、気高く一段と美しかった。|緋色《ひいろ》のヴェルヴェットのマントには月桂樹と黄金の蜂が一面にぬいとってあった。ナポレオンのマントと同じである。娘のオルタンス、ナポレオンの三人の妹とジュリイ・クラリイ(兄ジョゼフの妻。デジレの姉)の五人のプリンセスが、その|裾《すそ》を持って従ったのである。目撃者の記録には、『二十五歳くらいにしかみえなかった』と書いてある。得意想うべし。
その夜、皇帝夫妻はチュイルリイ宮殿で、さし向いで、おそい晩餐をとる。宮苑の木々には、色とりどりの灯をかけ、さながらお|伽話《とぎばなし》の国に遊ぶようである。はるかに望む、コンコルド広場には、巨大な人工の白い星が輝いている。いま、フランス全土には華麗な祝典がくりひろげられ、皇帝万歳の声が、花火とともに、夜空をどよもすのだ。
ナポレオンはジョセフィーンの肩を抱いて、窓ぎわに立つ。皇帝万歳の連呼に、快く耳を傾けながら、静かに言う。
『長い八年だったね。色んなことがあった……でも、とうとう、ここまで来たな』
別の感慨を抱いた者がいる。
ナポレオンは対英戦争と戴冠式に忙殺されたのか、ジョルジイナを招くことも少なかった。だが、彼女の思慕は、いささかも衰えない。戴冠式の日は、早朝から、行列の通る沿道の家――みんな部屋を賃貸しした――に出かけ、寒気にさいなまれつつ、幾時間も待った。彼女は時めく心を抑えて、皇帝の馬車を迎えた。善良な女だから、ジョセフィーンに対して少しも嫉妬の感情を抱かない。彼女の手記は、ジョセフィーンは優美典雅の極致であって、その眼は慈愛に輝き、その微笑は群衆を魅了した、と惜しみなく讃辞を呈している。しかし、同時にナポレオンは遙か遠く、彼女の手の届かぬところに、流星のように、飛び去ってしまった、と内心深く悲しんでいる。事実、この一カ月後に、皇帝は彼女をあたたかく寝室に迎えるのだが、つかの間の情事で終り、ジョルジイナは、ナポレオンが急変したのに驚き、『皇帝が|第一統領《プルミエ・コンスル》を追放してしまった』と失望するのである。
もっと深刻に失望したのはべートーヴェンである。帝政宣言を読むと、怒りにふるえる手で、第三シンフォニイ(英雄)の第一頁を引き裂く。革命の英雄ナポレオンに対する献辞を破りすてる。自由の精神を体現するはずの英雄は、帝冠をいただくことによって、輝かしい理想を裏切ったのだ……。
そうなのだろうか。シャルルマーニュ大帝(七四二―八一四年)の再来をもって、自任しつつも、ナポレオンは、
『玉座は|繻子《しゆす》の布におおわれた木片に過ぎない』
と達観している。
帝政は統治の方便なのである。彼はフランス人の国民心理の深層に、宮廷すなわち王政的秩序の伝統的景観に対する、|憧憬《どうけい》がひそんでいることを知っている。だからこそ、元帥をつくり、貴族をつくった。タレイランはべネヴェントオのプリンス、フーシェはオトラントオのデュークになった。その後八年間に、プリンスは四人、デュークは三十人、カウントは三百八十人、バロンは千九十人も生れた。そして、宮廷生活を|整頓《せいとん》するために、タレイランを宮内大臣に起用し、十四人の将軍――ベルティエ、ミュラア、ランヌ、ネイ、ダヴゥらの猛将――に侍従を兼職させた。宮廷で軍服を着用しているのは、ナポレオンだけである。権力は剣から生れる。彼は剣によって、帝冠を得た。彼の帝冠を奪う者があれば、剣を用いるだろう。その剣は彼が独占するのだ。
とはいえ、ベートーヴェンが、いみじくも看破したように、「革命の子」が帝冠を戴くこと自体に矛盾があった。革命精神を体験する筈の彼が、反動的な「王侯インタアナショナル」の一員になるのは、革命原理に逆行するから。
ナポレオンは情操的に、古代社会の夢のなかで成長したために、頭にはプルタアク的英雄像が充満していた。そして、彼の気質からいって、ローマ帝制時代に共感したのは、むしろ、当然だった。だが、このように、彼自身が古典のなかの一人物となることは、現実の環境から遊離することになりかねなかった。そこに、没落の遠因があったといえよう。
彼はフランスが帝制を選べば、欧州の君主国とも交際しやすくなろう、と考えた。だが、オーストリアもイギリスも、全くちがう反応を示した。
アウステルリッツの太陽
一八〇五年三月、ナポレオンは対英攻勢を進めかね、ミラノに赴き、ジョセフィーンと共に、イタリア王国の鉄冠を受ける。オーストリアはこれに|反撥《はんぱつ》し、イギリス・ロシアと対仏同盟を結んで、九月、フランスの同盟国パヴァリアに侵入する。
ナポレオンは精兵二十二万をひきいて、戦場に急ぐ。ミュラア、ネイ、ベルナドット、マルモン、オージュロウらの歴戦の勇将が従う。この時以来、フランス軍はグランダルメ(大軍団)と呼ばれることになる。オーストリア軍はマック将軍が十八万を指揮している。これがロシア軍と合流せぬうちに、撃破せねばならぬ。
ナポレオンは電撃的な行動によって、ウルムに敵軍を包囲する。十月二十日、敵将マックは退路を断たれ、全軍降伏する。一弾をも発せずに戦闘は終る。
輝かしい勝利である。だが、運命の皮肉なる、その翌三十一日、フランスは海戦において、致命的敗北をこうむる。
ナポレオンの命令に従って、ナポリに向って、カディス港(スペイン南岸)を出たフランス・スペイン連合艦隊は、出港直後、トラファルガア岬の沖で、イギリス艦隊に|捕捉《ほそく》され、|潰滅《かいめつ》する。フランス・スペイン艦隊三十三隻は、五隻が撃沈され、十七隻が捕獲され、八千の将兵が戦死する。イギリス艦隊には、一艦の損失もない。
海戦は正午近くに始まった。フランスのヴィルヌーブ提督は艦隊を巧みに展開して、イギリス艦隊を迎え討つ陣形をとっていた。ネルソン提督の座乗するヴィクトリイ号は、
『イギリスは各員がその義務をはたすことを期待する』
という、あの有名な信号を掲げつつ、陽光に満船の白帆を輝かせて、敵陣に迫った。まず、フランス艦隊が砲撃を開始し、やがて、|接舷《せつげん》する大激戦となった。その最中に、フランスの狙撃兵が帆げたのうえから射った――十五フィートの距離だった――一弾が、上甲板で指揮をとる、ネルソンの左肩の|肩章《エポレット》に命中した。提督は制服の胸に、四箇のきらびやかな勲章をつけていたから、狙いやすかったらしい。脊骨を打ち砕かれて戦死した。胸のポケットには恋人レディ・ハミルトンの肖像画が収めてあった。スペイン提督アルヴァも戦死した。ヴィルヌーブは捕虜になった。
フランス海軍は、もともと、イギリス海軍よりも劣勢だったが、革命のために、熟練した海軍士官が亡命したので、戦力はさらに低下していた。海軍は陸軍のようには、速成はできぬのである。
ナポレオンは、イギリス艦隊の|隙《すき》を狙って、強力な艦隊をもって、数日だけでも、英仏海峡を制圧し、その間に、大軍をイギリス本国に揚陸しようと、企図していたのである。この企図は、トラファルガアの敗戦によって、水泡に帰してしまった。
こうなれば、得意の陸戦によって、オーストリアとロシアの同盟を破壊し、欧州大陸諸国を糾合して、イギリスに対し経済封鎖を試みるほかない。
あたかも、オーストリアは敗軍をまとめ、ロシア軍の救援を待って、ナポレオンに挑戦しようとしている。敵軍の総帥はロシア皇帝アレクサンダア一世である。彼はイギリス式の教育を受け、自由主義的傾向を持つ、理想家であって、神秘的な一面さえある。天下に武威並ぶ者のないナポレオンに、ひと泡吹かせて、英雄になろうと考え、血気にまかせ、|猪突《ちよとつ》的作戦を進める。
戦場はブリュン(現在チェコスロヴァキア領モラヴィア地方)に近いアウステルリッツの原野である。
十一月二十日、ナポレオンは早くもブリュンに進出し、十日にわたって、予定戦場を周到に点検する。この辺は丘陵が起伏し、アカシアの林が散在している。小川の流れるほとり、林間に村落が点々とうずくまる|風情《ふぜい》は牧歌的に美しい。彼は丘から谷へ、谷から野へ、野から村へと、連日、馬を走らせ、完全に地形を|掌握《しようあく》する。パリの近郊と同じように、精通してしまう。そして、野戦総司令部をツーラン丘(標高二百メートル)に置くことをきめる。
他方、彼は政治的立場を強化するために、アレクサンダア帝に対して、和議を申しこむ。戦争を挑発した責任が、ロシア(とオーストリア)にあることを、明白にしておくためである。|露帝《ツア》はナポレオンが、臆病風に吹かれて、戦争を回避しようと試みている、と誤解し、いよいよ、高圧的心境になり、|和睦《わぼく》の条件として、ベルギィ・オランダ・ライン左岸とイタリア領の放棄を要求する。ナポレオンが激怒して、露帝の特使を追い返すと、アレクサンダア帝は、これもナポレオンが苦境に立って|苛《いら》だっている証拠だ、と判断して、ますます自信を固める。
和議が決裂したのは、二十八日である。この時、ナポレオンはアウステルリッツに滞在している。|麾下《きか》の諸将は、ロシア軍が兵力十万、砲二百七十八門なのに対し、フランス軍は兵力七万、砲百三十九門で劣勢なので、この際は退却すべきだ、と進言する。ナポレオンは静かに|微笑《わら》うと、
「よろしい、退却しよう」
と言う。ただし、彼の「退却」は偽装退却であって、敵をワナにかける計略である。
フランス軍がアウステルリッツから退陣すると、敵軍は前進し、プラッツェンをはさんで布陣する。アレクサンダア・フランツ両帝はアウステルリッツに本陣をおき、ナポレオンは予定通り、ツーラン丘に指揮所をもうける。
十二月一日夜、ナポレオンの幕舎では、小宴がもよおされる。皇帝の表情は、既に大勝利を収めたかのように、晴れ晴れとしている。折しも、パリでは経済恐慌が起り、銀行の取付け騒ぎが起っているのだが、彼はこの一戦に快勝すれば、本国の政情は一挙に安定すると信じている。しかも、快勝は疑いないのだ。
ナポレオンは上機嫌で、コルネイユを語り、ラシーヌを論じて、飽きる様子もない。ようやく宴がはてると、暫し仮眠するが、夜半、愛馬に乗って前線部隊を視察する。各部隊は、野営の火を|連《つら》ね歓呼して、皇帝を迎える。|焔《ほのお》を背景にして、ナポレオンが白馬で|疾駆《しつく》する姿は、まことに印象的である。アレクサンダア帝は夜空を焦がす焔を遠望して、フランス軍が後退のため、軍用資材を、焼きすてている、と錯覚する。
明ければ二日、七時半、ナポレオンは各軍司令官を集めて、最後の指示を与える。露帝の猪突心理を逆用し、ダヴウのひきいる右翼をわざと突出させて、敵に弱点を見せ、敵軍がこれに釣られて進撃するのを待ち、右翼が後退する間に、ランヌのひきいる左翼とスールの中央軍が、敵の右翼と中央に決定的強打を加える作戦である。
ナポレオンの布告は、勝利の確信を強調したうえ、
『もしも、暫しなりとも勝利が危うくみえたら、その時は、皇帝みずから身を|挺《てい》して陣頭に立って、突撃する決意である』
と結んでいる。この一句によって、全軍の士気は奮い立つ。
八時、濃霧は晴れて、太陽が明るく輝き始める。戦闘はナポレオンの想定した通りに、寸分の狂いなく進む。右翼のダヴウ軍は三倍の敵軍と善戦しつつ、|徐《おもむ》ろに後退する。アレクサンダア帝は意気ごんで、この方面に、主力部隊を投入する。やがて、その虚に乗じて、ランヌの左翼軍とスールの本隊が、|太鼓《たいこ》をうち鳴らし、軍歌を高唱しつつ、クーツゾフ軍を強襲する。
十一時半、ナポレオンは先刻までクーツゾフの立っていた陣地を奪い、そこに指揮所を移し、双眼鏡――後日セント・へレナ島にたずさえていった――を眼にあてて、壮烈な白兵戦を観戦する。フランスの親衛隊が、総崩れになって退却するロシアの近衛師団を急追すると、林のなかから、突如ミュラアの騎兵隊が疾風のように走り出して、敗走する敵軍を随所に|捕捉《ほそく》粉砕する。騎兵隊の合言葉は、『ペテルスブルグ(ロシアの首都)の女たちを泣かしてやれ!』
である。
敵軍が凍結した湖面に密集すると、ナポレオンは砲兵を指揮し、砲弾をもって結氷を砕き、全部撃滅してしまう。こうして、四時間の激闘で十万の敵軍は潰滅し去る。
この戦争には、ナポレオン・アレクサンダア・フランツの三皇帝が参加したので、「三帝会戦」と呼ばれる。実に、ノートルダムの戴冠式の一周年記念日に当っていた。
ナポレオンはジョセフィーンに、報告する。
『昨日、オーストリア皇帝を私の陣営に迎えた。二時間ばかり話し合った。彼は私の慈悲にいっさいを委せた形だ。……とにかく即刻、戦争をやめることに合意した。アウステルリッツの戦勝は、いままでで最もはなやかなものだ。連隊旗五十五本、大砲百五十門、ロシア将官二十名、総数三万の捕虜を得た。敵の戦死は少なくとも二万、もの凄い大戦果だ』
戦史家は、この戦闘によって、戦争指導は新時代を迎えた、という。従来は、演習隊形をそのままに、両軍が激突し、原隊形をうち崩されたほうが敗北した。これが、フレデリック大王以来の古典的戦術だった。ナポレオンは、この古典的概念にとらわれず、一翼を犠牲にして、大勝を博する新戦術を案出したのである。実に、アウステルリッツの戦勝こそ、ナポレオン戦史の太陽である。
アウステルリッツの一戦は、反仏同盟を粉砕した。ロシア皇帝は本国に敗退した。ナポレオンは、アレクサンダアにはなにも強要しない。懐柔したいのだ。オーストリア皇帝は和を乞い、イタリアとドイツ諸邦を割譲させられた。旧ドイツ帝国は|瓦解《がかい》し、神聖ローマ帝国の空名は砲煙とともに、消え去ったのである。ナポレオンはナポリからブルボン一族を駆逐し、兄ジョゼフをナポリ王に封じた。次弟のルイはオランダ王に、妹のエリザはイタリアのピアムビノ領主に、ポーリーンは同じくグァスタラ領主になり、末弟ジェローム(パタソン嬢とは離婚した)はヴュルテンベルク王女と、ジョセフィーンの息子ユウジェーヌはバヴァリア王女と、結婚した。これによって、名門ヴィテルスバッハ家とボナパルト家は姻戚となる。ドイツの十六王侯はライン同盟を結成し、ナポレオンは兵六万の提供を代償として、その保護者となった。
こうして、欧州地図は彼の思うままに塗り変えられ、さすがに強情のピット・イギリス首相も、『アウステルリッツの敵弾は私にも命中したのだ』
と痛憤の言葉を残して死んでいく。
ナポレオンほどの見識高い政治家が、不甲斐ない兄弟姉妹を、欧州の王座に坐らせたのは、いささか理解に苦しむが、彼としては、危急の際には、やはり血を分けた肉親が頼りになる、と考えたのだろう。しかし、この期待は|惨《みじ》めに裏切られることになる。
皇帝が四カ月戦場を|馳駆《ちく》して、パリに凱旋すると、市民は歓呼してこの|不世出《ふせいしゆつ》の英雄を迎え、あたかも神を礼拝するかの如く、ありとあらゆる栄誉を捧げた。彼の帯剣は宝剣として神殿に収められ、彼の誕生日は国民祝日として休日になった。昇る朝日の勢いとはまさにこのことであるが、彼の不在中に首都は恐慌前夜に陥っていた。ウヴラールたちの金融家が投機に熱中したため、フランス銀行に取付け騒ぎが起る有様だった。大蔵大臣バルべ・マルボアの行動も不審だった。彼は投機業者を銃殺すると威嚇して、やっと、事態を収拾すると、ジョセフィーンに語る。
『人間とは、なんと強欲なものだろう。まったく愛想がつきる。ほんとうに信頼できる人間は見当らないよ』
|花形《プリマ・》|女優《ドナ》
ナポレオンには|人間嫌い《ミザントロープ》の側面がある。恐らく、そのためだろう。彼は時として、暫しの安らぎを美女の腕のなかに求めるのだった。
ナポレオンのジョルジイナに対する恋情は、徐々に冷却したが、それでも、彼等は時々密会を楽しんでいた。
ある夜、ジョルジイナはチュイルリイ宮殿の皇帝のベッドに添い寝していたが、突然、ナポレオンが発作を起して、苦悶し始め、口辺から泡を吹き出したので、|慌《あわ》てふためいて、|傍《かたわ》らの綱を力いっぱいに引っ張った。忽ち全宮殿に警報の鈴音が鳴りわたり、侍僕のコンスタンを先頭に、当直将校・医者・看護婦らが、血相を変えて駆けつけた。ジョセフィーンは眠りが浅いから、直ぐ目覚めて、これも、息を切らして、駆けこんで来た。彼等が発見したのは、ほとんど全裸で皇帝を介抱している、コメディ・フランセーズの名優・パリのヴィナスだった。
ナポレオンは持病の|癲癇《てんかん》を起しただけのことだったが、この|醜 聞《スキヤンダル》は、翌日はもうパリ全市につたわっていた。そして、ジョルジイナの深夜の訪問も、これが最後になった。
その後、彼女はタレイランや、銀行家ウヴラールの世話になったが、十八歳という花も盛りの年齢であり、天成の美貌はいよいよ光り輝いたので、オーストリア大使メッテルニヒ――欧州随一の美男のほまれが高かった――の寵愛を受けて、芸名ますます盛んだった――ある時期までは。
ナポレオンが情けをかけた女優はほかにもいる。
テレーズ・ブルゴアンは、ジョルジイナやドゥシュスノアと演技を競う、二十一歳の|花形《プリマ・》|女優《ドナ》だった。内務大臣シャプタルの自慢の愛人だったが、そんなことに遠慮する皇帝ではない。天使のような童顔に、よく光る眼と、|悪戯《いたずら》そうな口。それに、才気|煥発《かんぱつ》なのが、気に入ったらしい。彼女は皇帝に召されると、時こそ至れり、とばかり、|贅沢《ぜいたく》の限りをつくし、宝石・衣裳・調度品、なんでも買いこんでは、多額の|請求書《つ け》を皇帝に廻した。初めはナポレオンも機嫌よく支払ったが、限度を越えるので、ついに忍耐がつきた。元来が、浪費は嫌いなのである。それに、皇后ジョセフィーンは相変らず浪費をやめない。浪費家はひとりで沢山だ、と思っているところへ、また、巨額の請求書を届けてきた。『これを払えぬと名誉を失うから、やむなく自殺します』というメモがついている。
こういう際のナポレオンは、案外気が弱い。早速、要求額を副官に持たせてやると、テレーズは|豪奢《ごうしや》な邸の一室に、社交界のプレイ・ボーイを集めて、ドンチャン騒ぎを演じていた。賭博を開帳していたのである。彼女は病的に賭博が好きで、寸暇があると、チュイルリイ官殿の廊下で、通りがかる廷臣を呼びとめては、カルタを始めるのだった。
副官の報告をきいて、ナポレオンは激怒した。折しも、彼は内務大臣を更迭しようと思っていたので、暮夜、テレーズを寝室に招いたうえ、時刻をはかって、シャプタルを緊急に招致した。夜ふけになって呼ばれることは、格別珍しくないので、内務大臣は|畏《かしこ》まって出仕した。シャプタルが隣室に待っている間に、ナポレオンは荒々しく情事を済ませた。テレーズが身づくろいをしながら、その隣室に現われると、なんと、シャプタルが|端坐《たんざ》しているではないか!
シャプタルは憤激して、席を立って帰宅すると、直ちに辞表を提出した。もちろん、テレーズとも絶縁した。
ナポレオンは内相を辞任させると同時に、情人に痛い思いをさせるという、一石二鳥の効果をあげたが、このために、この男女の|怨恨《えんこん》を買うことになった。シャプタルは皇帝の敵となり、テレーズもいかがわしい回想録を書いて、ナポレオンを|誹謗《ひぼう》した。彼女は四十八歳で舞台を退き、その四年後に、孤独のうちに死んだ。
もうひとり皇帝の寵を受けた高名な女優がいる。マドモアゼル・マルスは絶世の美人とうたわれ、演技も絶妙だった。ナポレオンは中世紀の騎士道精神が好きで、トルバドールを奨励した。中世紀の騎士は出陣する時、高貴な女性のハンカチーフや手袋などを|貰《もら》い受け、それを肌身はなさず持って、彼女のために、名誉の戦死をとげることを誓った。その気風を軍隊のなかにひろめたので、ナポレオン宮廷には、自然に、トルバドール的雰囲気が濃厚にただよっていた。マドモアゼル・マルスはその象徴のような存在だったから、皇帝との間に、深い精神的共感があったにちがいない。それに、彼女は、カロリーンやポーリーンの演劇指導に当っていたから、ナポレオンとしても、かなり自由に|逢《お》う|瀬《せ》をつくれたのだろう。
宮廷の美女
これらの女優に比べると、ジョセフィーンの侍女との関係は、もっと、微妙だった。ジョセフィーンの趣味もあって、宮廷は華やかで、侍女は美しかった。革命によって、旧貴族社会は消滅してしまったので、美女は宮廷生活を通じて、せめて、貴族的素養を身につけ、良い配偶者を獲得しようと試みた。ジョセフィーンは、また、美女でさえあれば誰でも侍女に採用した。ナポレオンの食指が動くのは、むしろ当然だった。
マダム・ド・ヴォディは貴族出身で、元老院議員夫人だった。ジョセフィーンのレクトリイス(本や手紙を読む役)だったが、いつの間にか、皇帝の手がついていた。この婦人も、テレーズ・ブルゴアンと同様に、賭博好きで、大金を賭けては負け、負けると皇帝に|要請《ねだ》るので、ついに、ナポレオンは|愛想《あいそ》をつかしてしまった。ところで、彼女は寵を失うと、皇帝に対して烈しい敵意を抱き、イギリスの諜報機関と通謀して、皇帝暗殺をはかるに至った。もっとも、イギリス当局に賭博資金を|捻出《ねんしゆつ》させるのが、目的だったのかも知れぬ。彼女は半身不随の乞食になりはてて、路傍に窮死した。
これと全くちがうのが、同じく侍女のマダム・ドゥシャアテルである。アデール・ドゥシャアテルはナポレオン伝記のマダム・エックスとして、かなり長い間、素性がわからなかった。彼女は|楚々《そそ》たる細腰の佳人で、金髪|碧眼《へきがん》とくに|二重瞼《ふたえまぶた》の眼が美しかった。主人は五十三歳の行政官だった。彼女より三十歳も年長である。とても、二児の母とは思えぬみずみずしい|肢体《からだ》を持っていた。
ナポレオンは、本心から、彼女に恋したらしく、皇帝秘書長デュロック元帥の証言によると、一時は政務も手につかず、アデールのことばかり気にしていた、という。暇さえあれば、ジョセフィーンを見舞うので、おかしいと思ったら、目当ては、侍女群だった。ジョセフィーンは直感が鋭いので、直ぐに、それと気はつくのだが、さて、いずれ劣らぬ名花ばかりだから、侍女のうちの誰が皇帝の意中の人か、少しもわからない。皇帝は、さりげない様子で現われると、侍女たちに、まんべんなく愛想をふりまき、冗談を言って笑わせては、満足そうに引きあげるのである。
ジョセフィーンは女官長格のマダム・レミュザに命じて、これはと思われる侍女について内偵させるが、手がかりはつかめない。ある時はネイ将軍夫人、ある時はジュノー将軍夫人が疑われる。両夫人は、飛んでもない|濡衣《ぬれぎぬ》だ、といって抗弁する。もっとも、皇帝はよく早朝ジュノー夫人の寝室を訪れては、ベッドのなかに手を差し入れて、彼女の小さい足をソッと|抓《つね》る習慣がある。
「皇帝とジュノー夫人は、ただならぬ仲だ」という噂は以前からあったのだ。
苦心の末ジョセフィーンは、やっと、犯人を突きとめる。皇帝の恋文を拾ったのだ。相手が彼女の最も信頼するアデールなので、大きなショックを受ける。そして、ある夜、マダム・レミュザに彼女を尾行させ、皇帝の寝室に忍びこむところを確認したうえ、暫くたって、みずから奇襲する。ジョセフィーンがドアをノックしても、なかからは返事がない。だが、|鍵穴《かぎあな》から|覗《のぞ》くと、たしかに気配が怪しい。ジョセフィーンは|苛《いら》だって、烈しくドアをたたき、|把手《ハン<ドル》をゆさぶる。見かねて、マダム・レミュザが制止してもきかない。
ややあって、ドアを明け放って、皇帝が出てくる。満面怒気にあふれている。声を|荒《あ》らげて、ジョセフィーンを叱る。『皇后の威厳を忘れるな!』と厳しく戒める。ジョセフィーンはベッドの乱れを、いち早く眼にとめ、ほとんど逆上する。哀れにも、アデールは物蔭に立ちすくみ、生きた心地はない。
その場は、なんとか、マダム・レミュザがとりつくろって収めたらしい。結局、悪いのはジョセフィーンだ、ということになる。皇后ともあろうものが、|端《は》したなく品位を欠いたのは許し難い不心得だった、と彼女自身が認める。無理が通って道理が引っこんだ形である。従って、この後は、ジョセフィーンは、強引な奇襲はせずに、もっぱら、涙顔をみせることによって、夫の浮気に|止《とど》めを刺す戦術に転換する。ナポレオンも、浮気はしても、妻を愛しているので、さめざめと泣かれると、我を折って妥協するのが常だった。
いずれにしても、アデールと皇帝の恋愛には、ジョセフィーンも深く心を痛めたようである。ナポレオンの家族は、依然として、彼女に敵意を抱いており、妹のカロリーンやポーリーンは、進んで美女を皇帝に周旋していた形跡がある。ミュラア将軍(カロリーンの夫)などは、充分に|弄《もてあそ》んだうえで『素晴らしい掘り出しものを進呈しましょう』と言って、彼の古い女を提供したこともある。
ミュラアばかりではない。美女を|斡旋《あつせん》することによって、皇帝に接近しようと試みる野心家も少なくなかった。それに、宮廷に入って、皇帝を誘惑して、|寵妾《ちようしよう》になろうと企む女性も多かったのである。従って、ナポレオンも自然に、漁色の習慣を身につけることになった。いわば、玉座の|垢《あか》である。
こういう生活に|馴染《なじ》むと、とかく人間は|恣意《しい》になり、非情になる。とくに、ナポレオンは専制君主も及ばぬ絶対的権力を持っており、しかも、国民から半神的存在として、無限に讃美され、無量に敬仰されているので、文字通り、|唯我独尊《ゆいがどくそん》となり、周囲との関係が断絶する恐れが、多分にあった。ただ、彼の女色は政治的には、概して無害だった。女性が政治に干渉することを極度に嫌ったから、ルイ十五世時代のように、ポムパドゥールやデュバリィのような寵妾は出現しなかった。
サン・スウシイ宮にて
とかくするうちに、戦雲は再び|慌《あわただ》しく去来する。こんどの主敵はプロシアである。
ナポレオンは、チュイルリイ宮殿の書斎に、フレデリック大王の胸像を据えて、日夜、無言の会話を続けている。ナポレオンが青年期を迎えた頃には、大王はまだ健在で、花々しい武勲に輝いていた。彼が砲兵中尉になったのは、大王が死去する前のことである。天才ナポレオンといえども、大王の戦術に教えられるところは、きわめて多い。
従って、ナポレオンとしては、プロシア軍と戦うことは避けたかった。だから、プロシアをライン同盟に参加させようと、百方努力したが、成功しなかった。国王は軟弱だったが、王妃ルイゼは熱烈な愛国者であって、ロシア皇帝と結んで、ナポレオンに挑戦したのである。
一八〇六年十月八日、プロシアはフランスに宣戦する。ナポレオンは行動を起すと、疾風のように進撃する。パリ政界の陰謀から解放され、宮裏の女性を忘却し、馬に|鞭《むち》をふるう彼の姿は、生れ変ったように新鮮で|颯爽《さつそう》としている。戦闘の前夜、午前二時、ジョセフィーンにこんな手紙を書く。
『万事が思う通りに運んでいる。プロシア国王はいまに|惨澹《さんたん》たる敗北を喫するだろう。王妃もエアフルトに来ている。彼女が戦闘をみたいと思っているなら、|残酷な快楽《クルエル・プレジール》を存分に味わわせてやろう。
私はとても元気だ。毎日、百マイルも飛び廻っているのに、体重は増している。八時には寝るので、夜半に眼ざめる。そんな時、ふっと、ジョセフィーンはまだ起きてるかな、と思ったりする。すベてを|貴女《あなた》に』
はたして快勝する。十月十四日、イエナの会戦にプロシア軍は大敗し、主将以下首脳は多く死傷して、疾風に追われる枯葉のように、|潰走《かいそう》する。彼はまた書く。
『愛する妻よ、みごとな作戦で、十五万のプロシア軍を撃破した。大勝利を収めた。多数の軍旗と百門の大砲を奪い、二万の敵兵を捕虜にした。プロシア王の至近距離に迫り、もう少しで王妃もろとも捕獲するところだった。もう、二日も野営しているが、健康は申し分ない。
さよなら。健康に気をつけて、そして、私を愛しておくれ』
『ナポレオンがプロシアに|一息《ひといき》吹きかけると、プロシアは忽ち消滅した』――詩人ハイネの言葉である。彼は意気揚々とベルリンに入城し、ポツダムのサン・スウシイ宮に、三泊する。マルセイエーズを奏しつつ、フランス軍が三色旗をかかげて、歩武堂々と行進する光景は、スタンダールを無上に喜ばす。もし、この栄光の時に、ナポレオンが「革命の将軍」として、プロシア国民の心をとらえ、王権を排除して、革命的政府をベルリンに――そしてウィーンにも――樹立したら、フランス帝国は確固として安定したろう、とスタンダールは説く。
だが、ナポレオンが欲したのは、欧州の古い君主と同格になることだった。ともあれ、プロシアを粉砕して、いま、フレデリック大王の墓前に、花を捧げる彼の心境こそ察するに余りあるではないか。彼はこの哲学的軍人を深く敬慕し、大王のスタイルを模倣しているのである。三角帽も、灰色の乗馬服も……。
その大王の亡霊が乗り移ったのだろうか、世界地図を眺めて言う。
『エルべとオーデル河畔において、われらは、わがインド、わがスペイン、わが喜望峰を、獲得したのだ!』
大言壮語である。その意味は、イギリスの死命を制した、ということだろう。十一月二十一日、彼はイギリスに対して大陸封鎖令を発布する。彼の剣がイギリスに届かぬなら、イギリスの手が欧州に届かぬようにするほかない。イギリス諸島の封鎖を命じ、欧州大陸の港湾から、イギリスの商船貨物を締め出すのだ。欧州に滞留するイギリス人は、すベて捕虜とみなし、イギリス人の財産は戦利品として取扱う。
ここに、フランスを盟主とする欧州統合的構想の芽生えがある。イギリスは欧州とは別箇の異質的存在であって、欧州統合のモザイックの一片にはなり得ない。ほかの大陸諸国を一つの共同体に編成し、フランスがこれに号令する――軍事力による大陸統合がそれである。そして、イギリスを屈伏させたならば、インドを征服し、喜望峰を支配して、東方に大帝国を建設するのだ。
それには、ロシアを大陸封鎖政策に同調させねばならぬ。
地図から眼をあげて、ナポレオンは進軍を命ずる。ポーランドへ!
(1)ピット(一七五九―一八〇六)ウイリアム・ピットは大ピットの次男で小ピットと通称される。一七八一年議会に入ると、たちまち頭角を現わし、二年後に英国史上最年少の二十四歳で首相となり、十七年も政権を維持した。イギリスは一七九三年以来、対仏同盟の中心勢力となり、ナポレオンを相手に戦ったが、一八〇五年、アウステルリッツの敗戦が決定的打撃となり、翌年一月わずかに四十七歳で、『ああ祖国よ』を最後の言葉として逝去した。
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第七章 わが心は車輪のごとく
大晦日の急使
一八〇六年十一月末、ナポレオンはベルリンを進発する。
プロシアを軍事基地に利用して、ポーランドに進出したロシア軍に、攻撃を加える作戦である。だから、プロシアのルイゼ王妃が哀訴しても、、冷やかに構えて、講和を許さない。ルイゼはジョセフィーンに口添えを依頼する。ナポレオンは妻の|周旋《とりなし》に対して、
『手紙はもらった。だが、私はなによりも手管を|弄《もてあそ》ぶ女が大嫌いなのだ。私は善良で、従順で、協調的な女性に馴れているし、また、そういう女性が好きだ……かれらが私を甘やかすことがあっても、それは私が悪いのではなく、むしろ、|貴女《あなた》のせいなのだ。私には善良で、単純で、可憐な女性でなくては向かない――そういう女性なら、貴女に似ているわけだから』
と答える。この手紙には、彼の女性観の一端が露呈している。
ポーランドの宿営地に着くと、
『いよいよポーランドだ。今晩はポーゼンに入る。間もなくベルリンに帰るから、私と同日に着くようにしてもらおう。
健康はよい。天気が少々悪く、三日降り続けている。戦況は申し分ない。ロシア軍は退却中だ』
と書く。
十二月二日はアウステルリッツの戦勝記念日である。彼はポーゼンから、
『雨が降っている。舞踏会にいった。元気だ。貴女を愛している。むしょうに、抱きたい。わが軍はワルソオにいる。まだ、寒くはない。
ポーランド婦人は、みな、フランス女性を模倣する。だが、私にとっては女性は、この世にひとりしかいない。誰だかわかる? 彼女を描写することは簡単だが、多分、美化し過ぎるだろうから、貴女には当てることができまい。私の心は、ひたすら、彼女を礼讃しているのだ。彼女のいない夜は、淋しくて長い』
と書き送り、
『やっぱり貴女は嫉妬しているのだな。これは嬉しい! だが、ポーランドの砂漠で美人を探しても無益なのだよ』
などと軽口をたたく。
ジョセフィーンはマインツ(ドイツ)まで来ており、頻りに、皇帝のもとにいきたいと訴えるのだが、彼は、『天候は悪し、道は遠し、危険も多いうえに、軍務に忙殺されて、相手になれぬから』早くパリに帰れ、と指示する。事実、|膝《ひざ》を没する|泥濘《でいねい》なのである。これが十二月二十八日である。その三日後の|大晦日《おおみそか》に、パリからプルトスクの本営に、急使が到着し、皇帝の実子が生れたとの、重大報告をもたらす。
実子レオンは情人エレアノール・ドニュエルが産んだ。
エレアノールは、ナポレオンが気軽に抱いた女性であって、恋愛からは、ほど遠い心境である。彼女の両親は、あまり評判がよくなかった。父はイカサマ相場師で、母は美人ではあったが、危ない橋を大胆に渡る、札つきの野心家だった。美貌の娘を資本にして、ひと旗あげる魂胆だったから、エレアノールを当時パリで最も高名な、マダム・キャンパンの女学校に入れた。これは、ジョセフィーンの娘オルタンスの母校であって、大官・将軍の令嬢が集まっていた。ところが、両親の眼鏡ちがいで、折角、高価な教育を与えた十八歳の|愛娘《まなむすめ》を、とんでもない不徳義漢にめあわせてしまった。レヴェルという騎兵士官で、押出しは堂々としていたが、実は文なしだった。新婚旅行から帰ったとたん、印書偽造罪で、御用になってしまった。
両親は悲嘆にくれ、やむなく、マダム・キャンパンに救いを求めた。エレアノールが皇妹カロリーン・ミュラアの侍女に採用されたのは、キャンパン女史のおかげである。カロリーンは、エレアノールと同級生だった。
ところが、彼女は忽ちミュラアと情を通じたので、カロリーンは処置に窮したあげく、兄のナポレオンに提供したのである。皇帝は、深い考えもなく、チュイルリイ宮殿に招いた。侍僕コンスタンの証言によると、これが一八〇六年一月のことであって、春さきまで、よく深夜に、彼女の姿を皇帝の寝室でみかけた、という。その頃には、獄中のレヴェルと離婚していたが、どうやら、妊娠したらしいので、リュウ・ド・ラ・ヴィクトアール(かつてのジョセフィーン邸)に囲っていた。男子が生れたのは、十一月十三日のことである。
急報に接して、ナポレオンは歓喜した。それまでは、自分には子種がないらしい、とほぼ|諦《あきら》めていたのである。ミュラアの|胤《たね》ではないか、という|一抹《いちまつ》の懸念はあったが、日数からいって実子に間違いはなかった。それに、彼に生き写しだという……。
とはいえ、エレアノールに対しては、もはや格別の愛情は抱いていない。彼女にしても、同じらしい。エレアノールは皇帝と情事を重ねている時にも、ずいぶん退屈を感じていたようだ。ある夜などは、皇帝が気がつかぬうちに、置時計を三十分ほど、そっと進めておいた。それとは知らぬ皇帝は、ふと時計をみて、
『おお、もう、こんな時間になったか』
と言って、急いでベッドを離れるのだった。
だから、皇帝にとっては、彼女が男児を産んだ事実だけが、重要であり、強烈な感銘を受けたのである。すでに、世襲帝政は制度として、確立しているのだ。欠けているのは、後継者だけである。この際、彼に生殖能力のあることが、立派に立証されたのは、極めて意義深い。こうとなったら、然るべき王朝から、適当な配偶を迎えて、皇子を得ることが、帝政維持のために、賢明な措置ではあるまいか。しかし、それには、ジョセフィーンを離婚せねばならぬ。
この日以後、ナポレオンは、この問題を|抱《かか》えて、苦慮に苦慮する。離別を決意するまでに、実に、三年もかかるのである。
ナポレオンは、直ちに、レオンとエレアノールに賜金を授ける。
この後、いちど、エレアノールはチュイルリイ宮殿に、幼児レオンを抱いて現われるが、ナポレオンは前約のないことを理由に、彼女を引見しない。そして、レオンは皇妹カロリーンに引き取られ、皇族として正式に養育される。皇帝はカロリーン邸を訪れては、余念なく、楽しそうにレオンをあやすのだった。
エレアノールには、例によって、夫を与えた。オージェという歩兵将校である。結婚の|引出物《ひきでもの》は、二万二千フラン(=ドル)の年金である。だが、この将校がロシア遠征で戦死すると、バヴァリア王国の士官と、みたび結婚した。その頃、前夫のレヴェルが出獄して、皇帝と彼女の関係を|誹謗《ひぼう》するパンフレットをバラまいて、散々に彼女を悩ましたが、困ったことに、レオンも感化されて、不良少年になり、ナポレオンの|盛名《せいめい》を悪用して、社交界の鼻つまみになってしまった。
それでも、ナポレオンはレオンを見捨てず、ウォタアルー敗戦直後にも、十万フランの大金を与え、また、セント・ヘレナ島で逝去した時には、遺言において、領地を購入するための莫大な財産を残した。レオンはこれを全部浪費したうえ、流れ流れて、アメリカに移住し、料理婦と結婚した。
エレアノールは八十歳の高齢で死んだ。ナポレオンの死後、四十七年もながらえて。
白一色
実子誕生の急報に接した翌日、すなわち、一八○七年一月一日、ナポレオンの生活に、もうひとつの重大な異変が起った。二十四時間内に、二重の宿命的事件が、|踵《くびす》を接して、発生したのである。
ナポレオンは、簡単にロシア軍を処分して、ベルリンに帰還できると思っていたのだが、作戦は予定どおりに|捗《はかど》らず、さらに、軍を東に進めねばならなかった。そこで、吹雪をついて、プルトスクからワルソオに向ったのだが、途中、ブロニアという村落で馬をかえた。すると、ポーランド農民の一群が熱狂して、皇帝の馬車を、歓呼の声とともに、とり囲んで、花つぶてを投げた。ポーランドは、隣国のロシア・プロシア・オーストリアに、三回にわたって、分割されており、国民は独立回復の悲願に燃え立っていたから、ナポレオンに祖国再興の期待を寄せていたのである。ナポレオンは|怨敵《おんてき》プロシアを粉砕したではないか。やがて、|仇敵《きゆうてき》ロシアをも撃破してくれるだろう……。
この時、ふたりの妙齢の女性が、群衆にもまれて悲鳴をあげるのを、皇帝の副官が認めた。一見、高貴な婦人らしい。
救い出してきくと、英雄ナポレオンをひと目見るために、馬車を駆って首都から来たのだ、という。
副官の報告をきいて、ナポレオンは花にうもれた馬車から降り立つ。群衆の拍手にこたえながら、ふたりの女性に会釈する。そのひとりは、ためらいがちに進み出て、|可憐《かれん》な声で、歓迎の言葉を述べる。皇帝は微笑して、一輪の花を手渡す。この間、ものの、二、三分だったろう。
その夜、ワルソオの古宮には、華麗な舞踏会が催される。
うるわしの宵。この一夜を踊りあかす群舞また群舞。多彩な軍服と宝石に輝く夜会服。これこそ、光と色の巨大な祭典である。青い|帳《とばり》を裂いて、星は光りつつ流れ、紅い霞のおくに、花はふるえつつ匂う。憂愁のワルツ。歓喜のポロネーズ。
頃あいをはかって、ナポレオンは悠然と現われる。暫く、会場を眺め渡すが、やがて、視線は一点に集中する。ひとびとは好奇の眼をもって、いっせいに、その視線を追う。そこに、白鳥のように清楚な女性が、踊りの輪から離れて、静かに立っている。副官だけが、物知り顔にうなずく。たしかに、昼間ブロニアで見かけた、あの美しい貴婦人にちがいない。
皇帝は、つかつかと歩むと、彼女を誘って、コントラ・ダンスを踊る。白一色に装った彼女は、優雅に、かつ、優雅に踊る、一曲、また、一曲。
彼女の頬が紅潮する間に、その名は、口から口へと、風のように、宮殿内にひろがる――伯爵夫人マリイ・ワレフスカ。
ナポレオンは、戦場の地形を瞬間に記憶するのだが、同様に、これはと思う人の顔は、ひと眼で|脳裡《のうり》に刻みこむ。伯爵夫人の場合もそれである。
だが、まだ、この碧眼金髪の佳人が誰なのか知らない。ただ、熱烈な恋愛におちいったことだけを、胸が痛むほど自覚している。
夜会が果て、朝の微光のなかに、主客が四散すると、彼は眼を輝かして、副官にきく。『あれは誰なのだ?』副官は手廻しよく調ベている。
マリイ・ワレフスカは、名門ラチンスカ家の出身であるが、父を早く失い、母は家計をやりくりして、六児を養育した。四男二女、いずれも美貌だったが、とくに、マリイは天女のように輝かしかった。
『小柄で明るい金髪。眉清く、眼は涼しい。白磁の顔に|朱唇《しゆしん》。花のほころびるような微笑と控え目な物腰。どことなく、哀愁がただよっていて、それが得も知れぬ|風情《ふぜい》となる』
当時の記録は、このように伝えているが、ロベール・ルフェブルの残した画像をみると、もの静かに、品よく、いかにも優美である。信仰深く、読書が好きで、ピアノと乗馬にすぐれていた。
十六歳の時に、ワレフスカ伯爵に|見初《みそ》められて、後妻になった。伯爵は六十七歳、彼女よりも八歳も年長の孫がいた。この結婚は、明らかに、マリイの母が|膳立《ぜんだ》てしたものである。伯爵家はポーランド屈指の領主で、|頗《すこぶ》る富裕だったから。
マリイは気が進まなかったらしく、婚約前後には、ひと月余りも熱病にかかって、生死の境を|彷徨《ほうこう》した。正気づいたら、|枕頭《まくらもと》に老伯爵がまんじりともせず坐っていた。前妻を失ってから、十五年も|寡夫《やもめ》生活をしていた彼が、恥も外聞も忘れて、求愛したのである。
ナポレオンが出現した時は、彼女は二十一歳になっていた。マリイは内気な反面、熱情をたぎらせる性格でもあった。ことに愛国心が強く、この機会に、祖国ポーランドの再興を是非とも実現させねばならぬ、と固く信じていた。それだから、伯爵にも無断で、従妹を誘って、四頭だての馬車をブロニアまで走らせたのである。
皇帝に会ったら、祖国再建の悲願を、親しく訴える積りで、口上を暗記していたのだが、いざという段になって、興奮のあまり、なにも言えなかった。それでも、皇帝に会えて嬉しかった。ナポレオンの馬車が、風のように走り去っても、彼女は降りしきる雪のなかに、いつまでも|茫然《ぼうぜん》とたたずんでいた――従妹にうながされるまで。
マリイは私邸に帰ると、皇帝からもらった花を卓上に飾り、飽かず眺めた。この一輪に祖国の運命がかかっているように、思われてならなかった。
この邸宅は、社交|季節《シーズン》にそなえて、伯爵がワルソオ市内に整備したもので、さすがに、善美をつくしていた(いまでも残っていて、西欧大国の大使館になっている)。ポーランドの愛国貴族は毎夜ここに集まって、論議に花を咲かしていたのである。ナポレオンの腹心として知られるポニアトウスキイ公爵は、その中心人物であるが、その愛妾マダム・ヴォバンはマリイの無二の親友だった。
ワルソオ宮殿の大舞踏会は、外相タレイランが主催したものであって、マリイはマダム・ヴォバンに勧められて、出席したのである。伯爵は老齢を理由に欠席した。彼女は、とくに、念を入れて化粧したので、やや遅れて着いた。それだから、舞踏に加わらぬうちに、皇帝の眼にとまったのである。
皇帝の召喚状
舞踏会の翌朝、マリイは一通の手紙を受け取る。使者は返事を待っている、という。不思議に思って開封すると、
『|貴女《あなた》しか見なかった。貴女しか賞讃しなかった。貴女しか求めていない。直ぐに返事が欲しい。この抑えようもない激情をしずめるために。N』
と|認《したた》めてある。明らかに、皇帝の召喚状である。|求める《デジール》とは、肉体を求める意味にちがいない。マリイは手紙を床に投げ棄てると、侍女ジュリイに言う。
『返事はない、と言ってちょうだい』
ジュリイは答える。
『マダム、でも、御使者はポニアトウスキイ公爵さまなのですよ!』
『構わないわ、お断わりしてよ』
押問答をしていると、公爵が戸口に現われる。マリイは、一瞬はやく、ドアを閉めて、鍵をおろす。そして、『返事は御座いません』と言う。公爵は、いっかな立ち去らず、『是非とも御返事を頂かなくてはなりません』と争う。彼は説得し、強要し、懇願するが、マリイは頑強に拒否し続ける。ついに、公爵は怒って、引きあげる。
マリイは聖像の前に|跪《ひざまず》いて、涙ながらに、神の加護を祈る。ナポレオンは、全ポーランド人の希望の象徴なのだ。彼を怒らしてはいけない。だが、彼女は有夫の身なのだ。彼女の深い信仰は|姦淫《かんいん》を許さない……いったい、皇帝は本気なのだろうか?
侍僕コンスタンによると、ナポレオンは真剣なのである。
『舞踏会の翌日、皇帝は異常な興奮状態だった。部屋を歩き廻る。坐る。たち上る。また歩く。朝食をすますと、皇帝は、さる大官を伯爵夫人のもとに|遣《つか》わして、懇請させた。彼女は誇りをもって、これを拒否した。皇帝は急ぎ過ぎたようだ』
翌朝、また、手紙がとどく。マリイは開封せずに、前回の手紙とあわせて、つき返す。
その夜、皇帝側近のデュロック元帥が伯爵邸を来訪する。マリイのつき返した第二の書翰をたずさえている。『明夜、皇帝が晩餐をさしあげる』という伝言とともに。
手紙には、
『マダム、なにかお気に|障《さわ》ったのかしら? そんなことはあるまいと思う。それとも、私の考えちがいかな。
貴女の感情は冷え、逆に、私の情熱は烈しくなる。貴女のために、私は安息を失ってしまった。かくも貴女を|礼讃《らいさん》する、この哀れな心臓に、ほんの少しの歓びと幸せを与えてほしい。返事をするのが、|何故《なぜ》そんなに難しいのだろう。貴女は二度も返事を怠っているではないか』
とある。
晩餐はナポレオン、デュロック、マリイの三人だけである。デュロックが月下氷人の役を勤める。彼が、
『伯爵は嫉妬深いそうですな』
と言うと、マリイは顔を伏せて、
『そんなことよりも、ポーランドの独立が問題なのですわ』
と答える。元帥はすかさず、
『それは貴女次第というものですよ、伯爵夫人。貴女が善処なされば、直ぐにでも、実現するのですぞ……それなのに、貴女は皇帝に|抗《さか》らっていらっしゃる』
皇帝は微笑すると、優しく言葉をはさむ。
『あの花はどうしました?』
マリイは深い眼色になって、
『私の大切な宝で御座いますもの。|一片《ひとひら》の花弁も散らさぬように、ていねいに押花に致しましたわ』
と答える。
『では、もっと貴重な宝物をさしあげましょう』
と皇帝。
『いいえ、花しか欲しいものは御座いません』
とマリイ。
『それでは、伯爵夫人、勇敢なフランス軍は、貴女の愛する祖国で、最も美しい花を摘んで、ポーランド国民に贈呈することに致しましょう』
と元帥。
マリイは美しく|肯《うなず》く。
彼女が辞去する時、皇帝は近々と身を寄せて、暫し凝視する。その眼光は、|焔《ほのお》の矢のように、鋭く、熱く、深く、彼女を刺すのだった。
日々万余里をゆく
邸館に帰ると、ポニアトウスキイ公爵をはじめ、愛国党の貴族が夫人同伴で、多勢待ち構えている。異口同音に、マリイに善処をうながすのである。この際は、皇帝の申し出でを受けてもらいたい、それが、愛国者の義務なのだ、もし、皇帝の不興を買ったら、祖国復興は永久に実現しまい、それに、御主人の伯爵も黙認することに同意している、ここは、眼をつぶって、犠牲になって頂けまいか、――とこもごも説得する。貞操観念の強いマリイは、無言の涙をもって、|空《むな》しく抗議する。
そこへ、また、デュロック元帥が来る。
『これをお読みになれば、きっと、決心がつきますよ』
と言って、新たな手紙を手渡す。
涙にかすむ眼で読めば、
『あまりに地位が高くなると、身動きができぬこともある。それが私の現状なのだ。
ああ、わかってもらえたら!
私たちの障壁を除くことができるのは、貴女だけだ。手段はデュロックにまかせればよい。
来て、来て、早く来て! 貴女の願望はすベて満たされよう。貴女が私の哀れな心臓に、|燐爛《れんびん》をそそいでくれれば、貴女の祖国は、私にとっても、もっと、大切になるにちがいない!』
という文面である。
やっと得心がいったようである。マリイは|低声《こごえ》につぶやく。
『わかりましたわ』
この夜、十一時、元帥が迎えに来て、マリイは|密《ひそ》かに宮殿に赴く。黒外套に身を包んで。
ナポレオンは彼女の足もとに、跪いて、雄弁にかき口説く。
『貴女は私を憎んでいるのですね。私が恐いのですか? 貴女は誰か別の男性を愛しているにちがいない。それは誰なのですか? その幸福な男性は、いったい、誰なのです?』
マリイは答える。
『いいえ、そうではありません。恥ずかしいだけです。私自身に対して、恥ずかしい思いで、いっぱいなのです』
ナポレオンは奇怪な倫理を説く。
『善い行いをするのに、なにが恥ずかしいというのです? 貴女は私に幸福を与えてくれるのですよ。つかの間の幸福でもよい。私には、いま、幸福が必要なのです。世間は私が幸福だと信じていますが、飛んでもない間違いなのです。私は不幸なのです。ええ、大変に不幸です。……私が幸福になれれば、私の支配する大帝国の民衆も、また、幸福の分配を受けようというものです。だから、私に幸福を与えて下されば、それが善行に結びつくわけです。
恐くはないでしょう? これ、こうして、私は貴女の足に接吻して、愛を求めているのですよ!』
マリイは泣くばかりである。『姦通は、人が許しても、神は許しません』と言って、寝室に入ることを拒みとおす。午前二時、侍僕のコンスタンが、軽くドアをたたく。
『では、明晩また必ず来て下さい』
と言って、皇帝は残り惜しげに見送る。拒否されれば、されるほどに、彼の欲情は募る。
翌朝、マリイは四回目の書翰をもらう。花束とダイアモンドが添えてある。
『優しいマリイ、毎日の最初の願いは、貴女に会うことだ。最後の望みも、貴女に再会することだ。今晩会うのが楽しみだ。この花束をあげる。ふたりの心を結ぶ、秘密の花の糸にしようではないか。私の手が心臓を抑えると、マリイ恋し、と高鳴っているのがわかる。その返事には、この花束に接吻しておくれ!』
その夜、ついに、マリイは皇帝の愛撫を受ける。炎上する焔が千万の火粉に散るように、熱く乱れて昇華する。彼女の手記には、
『この場景には暗幕をおろしておきたい。罪悪の場面なのだから。でも、私は限りなく、幸福だった。ナポレオンは噴火山だった。彼の情欲は|凄《すさ》まじい。暴風よりも荒々しい抱擁だった』
と告白している。
ナポレオンの数多い恋人のうちでも、ワレフスカほどの誠意をもって、彼の愛情に応えたものはない。彼女はナポレオンに深く恋して、|憧憬《あこがれ》ていたのにかかわらず、姦通を禁ずるカトリック信仰のために、がんじがらめのディレンマにおちいって、苦悶に苦悶を重ねた。だが、|無間《むげん》地獄に落ちる覚悟をきめて、ひとたび、玉の肌を許してからは、可憐な純情を、惜しみなく捧げたのであって、ナポレオンの運命の起伏に、いささかも影響されず、終生、女の|誠実《まこと》をつらぬいた。
わが心は車輪のごとく
日々万余里をゆく
車輪のようにワレフスカの思慕は、一路ひたすらに、ナポレオンのあとを追うのである、風雪にめげずに。
もとより、彼女には、祖国再興の悲願があった。だが、しょせん、女である。初めのうちこそ、『早くポーランドに独立を』と、間断なく迫ったが、やがて、愛欲の悦楽のうちに、完全に没入するのである。
他方、ナポレオンは、ポーランドの民族解放運動に一応の理解は持っていながらも、オーストリアやロシアに対する外交的配慮を優先したので、とかく勇断を欠くきらいがあった。後世史家のうちには、もし、思い切って、ポーランドを強力な民族国家として、再建していたら、ロシアに対する障壁になり、ナポレオン帝国は崩壊を免れたろう、と観察する者もある。いずれにしても、ポーランド人が、フランス革命の理想に共鳴して、ナポレオンに解放者として過大の期待を寄せたのは、当然だった。ワレフスカにしても、同じであって、ナポレオンが、ともかく「ワルソオ公国」を樹立したのは、彼女の純愛に報いたのだ、ともいえよう。
血河屍山
ナポレオンは一月いっぱいを、マリイ・ワレフスカの熱い抱擁のなかに暮した。この間にも、ジョセフィーンには、週二回くらいの平均で、せっせと手紙を書いている。
『この長い冬の夜を、貴女といっしょに過ごせたら、とつくづく思う』(一月八日)
『いつも貴女を愛している。でも、淋しくて泣いているときくと、つい、叱りたくなる。皇后ともなれば、もっと、しっかりしなくてはいけない』(一月十六日)
『そんなに泣いてばかりいては困るね。勇気を持ちなさい。さあ、元気を出して!』(一月十八日)
というように、ジョセフィーンが彼のもとに来たいというのを抑え、泣くな泣くな、と慰めている。千マイルも離れて、戦陣のなかにいる夫の身辺を、彼女なりに心配しているのだが、女の鋭い直感で、皇帝に新しい愛人ができたらしい、と疑い始めたのだ。
その恋人と、暫しの別れを惜しみ、一月末日(一八〇七年)、彼はべニヒゼンの率いるロシア軍を迎え撃つため、ワルソオを出発する。この冬は、いわば暖冬異変で、氷雪が溶け、道路は泥海になって、行軍は困難をきわめる。もし、ロシア軍が退却を続けつつ、得意の焦土戦術をとったら、フランス軍はどうなっていたかわからない。糧食は欠乏し、給与も滞りがちで、士気は振わないのだ。
二月八日、両軍は吹雪をおかし、アイラウ(プロシア)で衝突する。敵は八万、味方は六万数千。激戦は早朝から始まるが、正午過ぎにはフランス軍は危うく総崩れになろうとする。ナポレオンは辛うじて、捕虜となるのを免れる。あわや、という危機一髪の際に、ネイの二千の援軍に救われる。かくて、勝敗の決まらぬうちに薄暮となり、戦闘はようやく終る。ダヴウの部隊が後退を始めようとした時、参謀将校が耳を大地につけると、敵陣の方向で重量感をともなう鈍い音がする。紛れもなく、大砲・弾薬を運ぶ音である。敵将べニヒゼンは陣を払っている!
ダヴウは伝騎を本陣に急派する。ナポレオンは、農家の納屋に、毛布をひき、ストーブのそばで、長靴をはいたまま、仮眠している。顔には疲労の色がひときわ濃い。だが、報告を聴取するうちに、見る見る生気が|蘇《よみが》える。助かったのだ。彼は直ぐに、パリ政府に勝利を通報する。
ロシア軍は、ナポレオンが他にも予備兵力を持っている、と錯覚して退却したのだ。敵の同盟軍プロシア部隊の指揮官シャルンホルストは、ベニヒゼンの行動に憤激して、『|罪悪《ジユンデ》と|恥辱《シヤンデ》』だと非難する。
アイラウの戦場くらい、|凄惨《せいさん》な光景もなかった。|血河屍山《けつかしざん》とはこのことで、重傷者の断末魔の声が、夜をこめて、ナポレオンの耳を襲った。そのなかで、彼はジョセフィーンに、『眼も当てられぬ惨状だ』と|報《しら》せ、ワレフスカにも、『戦争というものが、いかに無惨なものかを思い知った』と感慨をこめて書いている。
かくて、ナポレオンは、表面は「大勝利」を宣伝しながらも、内心には焦燥を秘めつつ、ワルソオに帰り、近くのフィンケンシュタイン城に冬営する。|城廓《じようかく》は広大なので、全軍幹部を収容できる。マリイは、いまや、公然と、皇帝と同棲している。|霏々《ひひ》と降る雪、赤々と燃える暖炉、新婚の蜜月のような甘い夜が続く。マリイは時には、夜半静かにピアノを弾き、時には、月下に、皇帝と馬首を並ベて、遠乗りをする。
ふたりのロマンスは、やがてパリ社交界の話題になる。ジョセフィーンが|猜疑《さいぎ》すると、皇帝は、
『手紙ありがとう。だが、私の新しい情人とは、いったい、なんのことかね。私はジョセフィーンだけを愛しているのだ。親切だが、意地が悪く、移り気なジョセフィーンを。彼女はなんでも優雅にやってのける、口論を吹きかけるのさえも。ほんとうに素晴らしい女性だ。しかし、猜疑する時は一変して、ほんものの悪魔になる。それはとにかく、さっきの女の話だが、もし私が関係を持つのだったら、それこそ、香り高いバラの|蕾《つぼみ》でなくてはね。貴女が問題にしている女性というのは、この種類に入るのかしら』と書く。
ジョセフィーンは、皇帝不在の折から、国家的行事を代行することが多くて、ずいぶん多忙なのだが、やはり、淋しいのである。『一日に二度も手紙が来ることはあるけれど、手紙は皇帝の代りにはならない』と、娘のオルタンスに嘆いている。その長男――ナポレオン・シャルル――が五月、僅か五日間の病気で死んだ。ナポレオンは彼を皇位継承者にしようと考えていたので、深く落胆した。ジョセフィーンの悲嘆は、さらに、さらに深い。しかも、そのあとを追うようにして、彼女の母がマルチニック島で|逝去《せいきよ》した。七十一歳だった。いくら、ジョセフィーンが勧めても、ついに、フランスに帰らずに、この世を去ったのである。ナポレオンは、プリンセスの資格にふさわしい葬儀を指示した。
この間にも、彼は来るべきロシア軍との格闘に着々と準備を進めつつ、遠くパリ政府に指令して、大小の国務を精力的に処理する。
例えば、
フーシェには、「ユリシーズの|凱旋《がいせん》」というバレエは、時宜に適した主題で結構だが、大臣みずから必ず初日に観て、演出に手落ちがないように充分注意せよ、と命じたり、
シャムパニイには、ひとつフランス帝国の首都にふさわしい、堂々たる|証券取引所《プ ル ス》を建設しようと思う、規模を広大にして、大量の業務を処分できるように配慮せよ、市民が周辺を|悠《ゆつ》くりと散歩できることが望ましい、と命じたり、
カンバセレスには、オデオン劇場の設計を承認する、直ちに着工せよ、と命じたり、
閣僚会議には、リヨンの織物業に百四十万フラン、ガラス製造業に五万フラン、|鍛冶業《かじぎよう》に十五万フランの補助金を支出せよ、と命じたりする。
さらに、リヨンにフラハという偽名を使用する悪徳商人がいて、密輸品の売買によって、暴利をむさぼっているが、警察がこれを摘発せぬのは怠慢である、直ちに、背後関係を突きとめよ、と戒め、また、例のスタール夫人に尾行をつけ、その行動を逐一報告せよ、とも指示している。
妹のカロリーンが、ジュノーと目にあまる浮気をして、パリのスキャンダルになったのも、この頃のことだが、ナポレオンはジュノーを、皇妹の名誉を傷つけるのは許しがたい、と厳しく叱って、ポルトガルに左遷する。ポルトガル王室全員の|誘拐《ゆうかい》を命じたのである。
その他、商法法典の修正、税法細則の補足、道路網の整備、新聞統制、芸術家の年金から、沿岸警備艇の速力に至るまで、実に、あらゆる雑多な政務を決裁している。
そうかと思うと、ペルシア・トルコ両国に同盟――ロシアを側面から|牽制《けんせい》するのが目的である――を申しこむため、入念な外交文書を|口授《くじゆ》する一方、ダンチヒ市攻略の作戦を練り、大砲の射程まで|細々《こまごま》と指令する、という調子である。これらの指令のうち、あるものは戦塵のなかから出している。
それが私の運命なのだ
ナポレオンの驚異的な軍事才能は、あまねく知られているが、実は、政治的識見にも稀れにみる独創性があった。
彼が最も充実した幸福感を味わったのは、平和的建設と取り組んでいる時だった。チュイルリイ宮殿には、彼がみずから|設計《デザイン》した机がある。この机に向って、山なす書類を決裁する時、閣僚会議に臨んで重要国策を討論する時、難問の打開について指令を口授する時、これが、彼の生甲斐を感ずる時なのだ。
ジュセフィーンや、恋人たちには、よく直筆の手紙を書いたが、他の場合には口述した。直筆の文章は、|筆蹟《ひつせき》が大変に判読しにくいうえに、独得の綴りを用いるので――やはり、コルシカ生れの異邦人なのだ――もらった人は困ったようだ。口述は猛烈なスピードである。全くちがう問題について、同時に、三、四通の命令書や公文書を、口述することも珍しくなかった。頭のなかに、いわば、無数の|抽斗《ひきだし》があって、個々の問題に関する資料が、整然と収めてあるようだった。
そういえば、少年時代から、数学が得意だった。それが、彼に幾何学的思考を好ませる。同時に、彼は豊かな想像力を持っていた。それが、彼に偉大なロマンスを夢みさせる。数学者の計算と、詩人の空想が、微妙に入り混って、彼の人生行路を、多彩にいろどる。そこに、無限の可能性が生れる。だから彼の辞書には「不可能」という言葉はない。しかし、それは、また、意外な破局を招来することにもなる。ロシア遠征はその適例である。
いったい、彼に一貫した計画があったろうか。コルシカの貧乏士官が、|霧 月《ブリユメール》クーデタアの主役になったのも、|第一統領《プルミエ・コンスル》が帝位にのぼったのも、計画表に予定されていたのではない。環境にうながされて、むしろ、自然発生的にそうなった、ともいえそうである。これは|荒鷲《あらわし》が、双翼を張って、空高く舞いあがるにつれ、眼下の展望も、また、巨大となるのに似ている。詩人ブラウニングは「鷲の一マイル、蟻の一インチ」とうたった。鷲は英雄、蟻は凡人である。ナポレオンの場合は、「鷲の千マイル」だろう。
故に、時として、彼の行動には、飛躍が多過ぎて、常人には理解しにくいことが少なくない。また、それだから、計画が挫折することもあったのだ。
ナポレオンは平和を希求した。それは、戦勝ののちには、必ず講和を急いだ事実が立証する。彼はフランスを、いな、欧州を、平和的に建設統合したかったのだ。
ただ、彼はフランス革命の申し子であって、ある意味で、革命精神を体現していた。それは、当然に、欧州の専制君主たちにとって、重大な脅威となる。だから、彼等は、敗れても敗れても、ナポレオン打倒をあきらめず、|執拗《しつよう》に、頑強に、必死に、三色旗に挑戦したのである。
ナポレオンとしては、当面の平和をあがなうためには、敵性諸君主――ロシア、オーストリアの皇帝、プロシアの国王ら――と握手せねばならぬ。だが、この握手は長続きしない。といって、これら敵性国の民衆に直接訴えようとしても、フランスとはちがって、新興ブルジョア階級が存在しないから、反応が思わしくない。そこに、彼のディレンマが伏在していた。
やがて、フィンケンシュタイン城にも、春が訪れる。戦雲は、ふたたび、不気味に動き始める。ジョセフィーンは『また、戦争ですか、どうして、おやめになれませんの?』と、怨みをこめて、書いてよこす。ナポレオンは答える。
『戦争以外のことでも、私は立派にやれるのだが、この際は義務を優先せねばならぬのだ。私は全生涯にわたって、あらゆるものを、運命に捧げて犠牲にしてきた、平静も、私益も、幸福も』
|それが私の運命なのだ《セ・モン・デステイネ》――ナポレオンは、そう言って出陣する。
幸いにも、対仏同盟は|破綻《はたん》している。プロシアは、ダンチヒ失陥――五月下旬フランス軍が攻略した時、ロシア軍は救援しなかった――の責任を問題にして、ロシアと反目し、ロシアはイギリスの補助金の不支払、海軍の横暴に怒って、両国は断交する始末である。
六月十四日(一八○七年)朝、フランス軍八万とロシア軍五万は、フリードランド(プロシア)に戦う。初めは敵将べニヒゼンも善戦したが、夕刻になって、ナポレオンは果敢な追撃を行なって、完勝する。
彼は砲煙のなかを、鞭をあげて白馬を疾駆させつつ、参謀長のベルティエ元帥を顧みると、
『今日は何日か?』
ときく。元帥は、
『六月十四日――皇帝、マレンゴの戦勝記念日ですぞ』
と答える。
その直後、皇帝は本国政府に、「マレンゴ、アウステルリッツ、イエナの栄光と肩を並べる大勝利」を通報する。敵軍の戦死・捕虜三万、敵将の戦死二十五名、大砲捕獲八十門、フランス軍の損害は比較的軽微である。つまり、戦術の勝利である。
べニヒゼンは敗兵を収めると、アレクサンダア皇帝に、戦力すでにつき、このうえの抗戦は不能であると、窮状を報告する。皇帝はプロシアとの同盟を無視して、単独講和を決意する。
ナポレオンにとっては、貴重な収穫である。直ちに、デュロック元帥を派遣し、『講和条件は、ナポレオン・アレクサンダア両帝が会見し、親しく談合したい』と申し入れる。
場所はティルジット(現名ソヴエッカ)。バルト海に注ぐ、メーメル川の下流の町であって、いまはケーニヒスベルク(現名カリニングラアド)とリガ(ラトヴィアの首都)を結ぶ鉄道沿線の工業都市になっている。
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第八章 山頂風強く
筏のうえで
ティルジット、一八○七年六月二十四日。
盛夏の太陽に照らされて、メーメル川は|眩《まぶ》しく反射する。中流には満艦飾をほどこした一隻の|筏《いかだ》が浮いている。そのうえには、NとAの金文字を打った天幕が張ってあり、両端には、フランスとロシアの国旗が、微風に翻えっている。
定刻、両岸から、太鼓の音に送られて、礼装の将兵を満載した舟艇が、河心に向って、|悠《ゆつ》くりと漕ぎ出す。ナポレオンとアレクサンダアは、同時に筏に乗り移り、固い握手をかわす。随行の両国の将軍たちは、肩を抱き合う。兵士は川をはさんで、声を限りに歓呼し、銃を棄てて乱舞する。昨日の敵は今日の友となる。
両帝は、たがいに、相手を凝視し、観察し、測定し、評価する。それぞれ膨大な虚栄心を持っている。それを平等に満足させようとして、ふたりは最高の演技をもって、あらゆる魅力を発揮する。一時間半、余人をまじえず会談したのち、双方が相手に|惚《ほ》れこみ、盟友となって別れる。アウステルリッツもフリードランドも、すベてをメーメルの|杳《はる》かなる水に流して。
アレクサンダア帝は、容貌も肢体も、すぐれて女性的な美青年である。それだけに、どことなく、弱々しい印象を与える。ナポレオンはひと眼みて、これなら思いどおりになるぞ、と直感する。
だが、この美青年は、さすがに、豊かな知性と高い教養を備えている。理想家であって、いささか神秘的なムードを発散する。そこに、ナポレオンのロマンティックな性格と、共通する一面がある。
ナポレオンは洗錬された外交家である。巧みにアレクサンダアのムードにあわせて、哲学を語り政治を論ずる。アレクサンダアは、拍車を鳴らし長剣に|杖《つえ》する、粗暴な征服者を予想していただけに、かつ驚き、かつ喜ぶ。意外にも、ナポレオンは博学達識の文化人ではないか。ナポレオンが世襲君主制を|擁護《ようご》すれば、アレクサンダアは立憲君主制を支持する、という調子で、両帝は隔意なく談笑する。
陣営に帰ると、ナポレオンは言う。『|露帝《ツア》が女だったら、本気に恋したかも知れないよ』
ジョセフィーンにも、『いま、アレクサンダア帝に会ったところだ。私は心から満足している。露帝は、美しく善良な青年だ。世間で想像するよりも知性がある』と書く。
彼はアレクサンダアの品位ある魅力について、『私だって彼の表面的印象に負けたら、直ぐに、夢中になったことだろう』と言う。ただ、『彼にはどこか奇妙なところがあって、彼の人格あるいは行動に、なにかが欠けているのだ。しかも、最も不審なのは、ある特定の瞬間になにが欠けるのか、的確に予見できぬことなのだ。この欠陥は変幻きわまりないから』と附言するのを忘れない。
このような人物が、|忽《たちま》ち、ナポレオンの誘惑に制せられても、不思議はあるまい。|露帝《ツア》が花身ならば、皇帝は鉄人なのだから。
翌日から、両帝はティルジットに会場を移し、半月も談判についやす。交渉は皇帝のペースで進められる。
その結果、ワルソオ公国をつくって、サクソニア王に兼ね治めさせ、プロシア領を|割《さ》いて、ウェストファリア王国を|創《はじ》め、皇弟ジェロームを国王にあてた。露帝は南プロシアを獲得し、その代償として、皇兄ジョゼフがナポリ王となり、皇弟ルイがオランダ王となることを認めた。他方、フランスはロシアとトルコの間を仲裁し、ロシアはフランスとイギリスの間を調停することに合意した。
なお、両帝は秘密取極めにおいて、攻守同盟と単独不講和を約定したうえ、露帝はイギリスに対し、フランス及び同盟国領土の返還を求め、イギリスが拒否すれば、宣戦する義務を受諾した。イギリスが応諾せぬのは明白だから、その際は、大陸封鎖令を全欧州に拡大する方針を、打ち合わせたのである。
哀れをとどめたのは、プロシア国王フレデリックである。メーメル川上の会談から除外され、岸辺にロシア将校の間に立ちまじって、借り物のロシア外套で、俄か雨――途中から雨になった――を|凌《しの》ぎながら、アレクサンダア帝の帰還を待つのだった。天幕には、彼の頭文字Fはなかった。しかも、頼りにする露帝は、平然とプロシア領土を奪ったのだ。
ティルジットに|伺候《しこう》して、やっと皇帝に引見されたが、ナポレオンは、気力なく眼を|俯《ふ》せる国王を、|傲然《ごうぜん》と見下して、剣もほろろに扱った。ナポレオンはこの年春、イギリス征服を画策し、ポルトガルに軍を進め、イギリスの油断に乗じて、ロンドンを攻略するとともに、同時に、南米のポルトガル領ブラジルをも奪取しようと、企んだのだが、プロシア討伐のために、この計画は放棄を余儀なくされた。そこで、今度こそ、プロシアに、断じて再起を許さぬ決意だった。
プロシア国王は、最後の手段として、心進まぬ王妃ルイゼを説いて、ナポレオンに哀訴させた。さすがの皇帝も、美しいルイゼの涙に、やや|面《おもて》をやわらげたが、当面の問題になると、巧みに話頭を転じて、深入りを避けた。
かくて、プロシアは領土を半減され、兵力を四万二千に制限されたうえ、償金一億三千五百万フラン(=ドル)を課され、償金皆済まで、フランス軍の駐留を認めさせられた。そればかりでなく、ナポレオンは国王の重臣ハルデンベルヒが、主戦派だという理由で、交渉委員から除外するという干渉まで、|敢《あ》えてした。だが、その代りに、フォン・シュタイン男爵を指名したのは、おかしかった。彼はハルデンベルヒに劣らぬ熱烈な愛国者だったのだから。
ティルジット条約は七月九日に調印された。この時ナポレオンは全盛時代の絶頂に達した。後年、セント・ヘレナ島で、質問に答えて、『ティルジットの頃が最も幸福だった』と述懐している。だが、ポーランド再建の民族的悲願に応えず、また、余りにも|苛酷《かこく》にプロシアを弾圧したので、この幸福も長くは続かなかった。ことに、「なにものかが欠けている」露帝に、欧州経営の|伴侶《はんりよ》を求めたのは、ほとんど致命的だった。
さすがにタレイランは眼が高い。露帝が移り気で、忽ち沸騰し、忽ち冷却する、女性的習性を持っていることを指摘して、変化の周期を、およそ五年と観察している。恐るべき予言である。
女色攻勢
ティルジットの和平を土産にして、七月二十七日、皇帝は十カ月ぶりで、意気揚々と、パリに|凱旋《がいせん》する。八月十五日の誕生日は、期せずして、一大国民祝典となる。教会は鐘を鳴らし、連隊は祝砲をうち、市民は花をささげる。夜空を焦がす花火、暁におよぶ舞踏。ナポレオン帝国の栄華、永遠にかくあれとばかり。
ひとり、|国母陛下《マダム・メール》と|侍《かしず》かれるレチツィアだけは冷静である。彼女は首をかしげる。『いつまで続くことだろうね』
皇帝はフォンテーヌブロウ宮殿にいて、外征中に渋滞した国務を処理する。例によって、水ぎわだっている。ジョセフィーンは、皇帝をその|腕《かいな》に迎え、久しく奪われていた宝玉を取り返したように喜ぶ。彼女の神経も鎮静したようで、皇帝が折々、漁色を試みても、それが過度でない限り、概して黙認する態度をとる。
二、三の例をあげると――
ナポレオンは、妹プリンセス・ポーリーンの侍女マダム・バラルに、懸想したことがある。衣裳の着こなしはパリ随一、といわれた二十七歳のシックな伯爵夫人である。夫の伯爵は四十歳も年うえだった。彼女は温順なのだが、不幸な結婚に反撥したためか、侍従武官セットゥール男爵と恋愛していた。多情のポーリーンは、この将校――アポロの再来といわれるほどの美男だった――を誘惑するために、伯爵夫人を皇帝に周旋した。
マダム・バラルの部屋は、ジャルダン・ド・ディアーヌ(ダイアナの|苑《その》)の一隅にある。ある闇夜、ジャルダンに面した窓は|開《あ》いたままになっている、ときいて、皇帝は、まず、侍僕コンスタンに花を持たせて、偵察させる。コンスタンは窓から忍びこむが、部屋のなかに階段があるのを知らぬので、転倒して軽い怪我をする。隣室の女性が悲鳴をあげると、コンスタンは、ほうほうの|態《てい》で逃げかえる。皇帝は足をひきずる侍僕をみて、笑いがとまらぬ。やがて、『こんどは本番だ』と言って、自分が出かける。
コンスタンが|灯《ひ》をかかげて、そっと先導する。窓はまだ開いている。皇帝は巧みに、室内に忍びこむ。暫く、|低声《こごえ》に言い争う声が漏れてくるが、やがて静かになる。コンスタンは|肯《うなず》いて引きかえ
す。
同じ頃、ポーリーンは急用を理由に、セットゥール男爵を招く。彼女はボナパルト一家の、「宵の明星」とうたわれた、|凄艶《せいえん》な美人である。しどけない半裸の姿で、秘術をつくすのだが、男爵は応じない。間もなく、男爵は突然スペイン前線に転出を命ぜられ、奮戦して、敵弾に一脚を奪われる。
その|報《しら》せが着いた時、皇帝はマダム・バラルと狩猟に興じていた。彼女は宮廷に並ぶものはない、騎乗の名手である。その彼女が不覚にも落馬する。皇帝は、それと察し、彼女を|労《いたわ》り、賜暇を許す。
その夜、皇帝は、寝物語の間に、ジョセフィーンに、マダム・バラルとの情事を逐一告白する。コンスタンの転倒する姿を想像して、ジョセフィーンも声をあげて共に笑う。そして言う。
『でも、プリンセス・ポーリーンには、今後お気をつけ遊ばせね』
カルロッタ・ガサニはジョセフィーンの自慢のレクトリイス(読み手)だった。タレイランがミラノで、「発掘」した佳人で、カルロッタの「びろうどの黒眼」といえば、パリ社交界では、とりわけ有名だった。
ナポレオンは、フォンテーヌブロウ宮殿の密室で、当時二十歳のカルロッタを寵愛したが、一時はかなり熱心だったらしく、そのため、いつか噂がひろまった。
オーストリア大使メッテルニヒ公は、
『皇帝の情事は近来ますます盛んであって、目下はマドモアゼル・ガサニが愛情の対象である。彼女は皇后のレクトリイスだが、フランス語もイタリア語も未熟だから、外交団では、あれでよく勤まるものだ、と不審に思う向きが多い。だが、レクトリイスとは表面だけのことであって、実は、皇帝の|閨房《ハアレム》の一員なのだ。皇帝はレクトリイスに、よく手をつけるが、いずれも軽い浮気に過ぎぬので、後宮の女性が特権を握るようなことはない。だから、レクトリイスの|統治《レーニユ》は天下泰平である』
と本国政府に報告している。
これが真相だろう。だが、「天下泰平」のなかでも、まったく犠牲者が出なかったわけではない。カルロッタには秘密の愛人がいた。皇帝は、男女を問わず、側近者の私信は、自分で開封する習慣があったので、愛人ティラールの存在を知ると、外交官に起用して、|てい《ヽヽ》よく、国外に追放してしまった。そうまでしながら、皇帝は間もなくカルロッタを棄てたので、彼女は名外交官プールタレスと同棲する。しかし、皇帝に対する愛情は純粋だったようで、後に、ナポレオンがエルバ島を脱出して、いわゆる「百日天下」が始まると、彼女はいちはやく、チュイルリイ宮殿に駆けつけたし、また、ウォタアルーの会戦に敗れた時は、けなげにも私財を処分して、敗軍の将兵をねぎらったのである。
シャルロッテ・キールマンゼッゲは、才色兼備の伯爵夫人である。皇帝はティルジットから、パリに凱旋する途次、ドレスデンに立ち寄って、盟邦サクソニアの国王と交歓した。この時シャルロッテは、王命により、皇帝の|枕頭《ちんとう》に|侍《はべ》った。三十歳の女盛りであって、「暗く|蒼《あお》い眼が、ある時は輝き、ある時は沈む」、メランコリックな|才媛《さいえん》だった。皇帝に身をささげたのは、金のためではない。彼女の生家はドレスデンでも、屈指の富豪なのだから。
シャルロッテの夫は、ナポレオン嫌いの軍人だったから、国王と意見が合わない。反対に、彼女はナポレオンに心酔していた。という次第で、伯爵は妻を棄てて、プロシア軍に投じてしまった。
皇帝にとっては、一夜の|冒  険《アヴアンチユール》だったが、シャルロッテにとっては、一生の|記念《スヴニール》だった。その後、彼女はナポレオンの最も信頼する|密偵《スパイ》になって、縦横に活躍した。彼女の使命は常に重大だった。それを|生命《いのち》がけで遂行したのである――皇帝に対する愛情ゆえに。
のちに、ナポレオンの命令によって、皇帝からの私信を全部焼却してしまったので、両人の関係の推移はよくわからない。しかし、セント・ヘレナ島に潜行しようと試みたことは事実であるし、皇帝の死後は終生喪服を着ていたことも事実である。その墓石には「|ひとり征服されて《スール・エ・スウミーズ》」と彫ってある。
これらは、いずれも、ティルジット和平の前後に起ったエピソードであるが、他にも、色々な女性が、走馬燈の影絵のように、登場する。ナポレオンは、欧州の輝かしき支配者として、古今絶無の権力を握っていたから、各地の王侯君主は争って美女を献じた。もとより、政略のためである。タレイランを初め、皇帝の有力な側近も、これに協力した。彼等自身が美女の分配にあずかっていたのだ。それに、前記のように、皇妹たちは、ジョセフィーンを皇帝から遠ざける目的をもって、これはと思う女性を次々と周旋した。また、美貌に自信を抱く女性が、皇帝の寵愛を受けようとして、進んで|媚《こび》を呈することも稀れではなかった。
普通の人間だったら、この女色攻勢によって、身心が軟化したことだろう。この点、ナポレオンは、やはり、非凡だった。こういう漁色的環境のなかでも、少しも|荒淫《こういん》せず、生活の歩調はさして乱れなかった。ワレフスカにも、よく手紙を書き、
『やさしいマリイ
貴女のような熱烈な愛国者には、私が長い不在のあとで、フランス本国に帰ってきて、どんなに嬉しいかお判りだろう。貴女が一緒にここで暮してくれたら、それこそ、この喜びは完全になる。だが、貴女の面影は常に私の心を占めているのだ!』
と慰めている。
孤高の寂蓼
とはいえ、権力は腐敗する。ティルジット以後、人間ナポレオンは、微妙な変貌をとげるのである――彼のひきいる帝国が変貌したように。
ナポレオンの|脳裡《のうり》には、少年期から、プルタアク的なローマの英雄群が活動している。彼はいつの間にか、これらの英雄と肩を並べるに至り、みずからを「運命の人」と観ずるようになった。軍刀一閃、欧州は降伏したではないか。勅令一片、フランスは近代国家に脱皮しつつあるではないか。
無限の自信と無限の野望。自信は野望を拡大し、野望は自信を拡大する。ここに悲劇の誕生がある。欧州を征服した彼は、インド遠征を夢みる。いな、夢ではない。彼はアレクサンダア帝に対して、『フランスとロシアが五万の精鋭をもって合作し、コンスタンチノープル(トルコの首都、現名イスタンブール)を奪取し、一気にインドに侵入すれば、必ずイギリスは崩壊する。陛下と私は先般それぞれの帝国の平和を維持する方針を協定したが、いまこそ、天の声に耳を傾けるべきだと信ずる。小人どもには理解できぬにちがいないが、われわれは古代歴史の原型こそが、現代を処理する最高の良識であることに、深く想いを致すべきである』と説いている。欧州の征服とアジアの支配、ここに、ナポレオンの昔ながらの野望がある。しかも、その原型を古代歴史の、なかに求めているのだ!
そういう、ナポレオンの独創的想念を、理解できる者はなかった。だから、彼は孤立し、焦燥に悩み、憂愁に襲われる。いわば、孤高の|寂蓼《せきりよう》である。
彼は政治家としても、卓絶した手腕を発揮したが、独裁体制の基礎として、集権的かつ階層的な教育組織を確立した。これによって、帝位と民心とを密着させようとした。かくてブルジョア子弟は、あげて、ナポレオン帝国に奉仕することになる。例えば、小学生からして、皇帝を礼讃して、『ナポレオン一世陛下に、愛を、尊敬を、服従を、忠誠を、そして軍務を捧げる。神は皇帝に勝利を与え給い、地上における神の化身とし給うたがゆえに』と、毎日|復誦《ふくしよう》したのである。
また、彼は検閲を厳重にして、新聞を統制した。演劇についても、干渉してはばからなかった。コルネイユの劇からさえ、気に入らぬ箇所の削除を命じた。それは、反面において、民衆の間に、不平が|擡頭《たいとう》していることを意味する。事実、料理店やキャフェでは、皇帝に対する|誹謗《ひぼう》が、半公然と行なわれていたのである。国民大衆にとっては、こんなはずではなかったのだ。
大衆は、自由の抑圧はともかくとして、平等の否認には強く反撥した。平等こそは、ナポレオン政治の核心だったのだから。
自由は少数の有能な者だけに必要なのであって、自由が制限されても、大衆の生活には格別の影響はない。群衆の欲するものは平等である――これが、彼の政治信条だった。だから、彼は軍人でも官僚でも、出身階層を問わずに、才能次第で登用した。彼の将軍は、みな、戦功によって、|卒伍《そつご》から身を起した。無名の兵卒でも、軍功次第では、元帥に昇進することができた。
ところが、ナポレオンは帝冠を戴くと、新しい身分制度をつくり、世襲貴族を設けた。これは、実力者をナポレオン帝政に結びつける政策だったのだが、次第に爵位が乱用され、さしたる勲功のない者が、社会の支配層を形成するに至った。現に、皇帝の情人の夫は、みな、爵位を授けられている。このように、世襲的に身分が固定した結果、平等にもとづく民族エネルギイの発展は、必然的に阻害されることになった。
山頂をきわめた者は、やがて、降りねばならぬ。ナポレオンも、彼の帝国も、ようやく、降下の一歩を踏み出す。
ナポレオンは肥ってきたようだ。行動もやや緩慢になり始めた。彼は食事に十五分しか費やさず、賓客は彼がさっさと席を立つので、空腹を訴えたものであるが、この頃になると、食卓で雑談をするようになり、こんどは、国務に支障をきたす有様だった。もっとも、相変らず質素で、例えばズボンは新調すると三年、靴は二年使用に堪えることが規則になっていた。そういう点は、ブルボン王朝の|贅沢《ぜいたく》と全くちがうが、それでも、権勢が増大するに従って、どことなく、態度が冷たくなり、尊大になって、寛容を失い、節度を欠き、絶対服従を求める習癖が強くなった。その結果、心ある協力者は、彼の周辺から脱落していく。彼の過敏な神経は、いよいよ鋭くなり、熱湯のような風呂に、長い時間つかることによって、わずかに平静を保つ。胃の鈍痛も、しばしば、彼を苦しめる。
いずれにしても、欧州地図を支配する大帝国は、ナポレオンの天才をもってしても、独力で維持できるはずはなかった。しかも、無能なうえに強欲な家族が、諸国の王位についている。やがて、帝国地図は裂け始め、一族の王冠は、この裂け目から、泥のなかに落ちるのである。
強者の友情
亀裂の主因は、大陸封鎖令だった。
大陸封鎖は、軍事的支配に立脚する経済政策であって、イギリスの打倒を目的とする、巨大な計画だった。いわば、海のイギリスと陸のフランスの決死の格闘であって、ナポレオンは、陸をもって海を制そうと試みたのである。
たしかに、イギリスは大きな打撃を受けた。輸出は圧殺され、工業は停滞し、失業は増大し、金準備は流出した。
だが、大陸側にも困難が加重した。大陸諸国の国民経済は、発展段階がちがうので、その要請も異なり、従って、大陸封鎖に対する反応も|区々《まちまち》である。だが、一般的には、大陸封鎖はフランス産業のため、従属国を搾取する結果を生む。ロシアやプロシアにしても、穀物・木材をイギリスに輸出できぬので不満である。スエーデン・デンマアク・ポルトガルなどは、イギリスの対抗措置――大陸封鎖に同調すれば船舶を没収する――を恐れている。法皇もイギリスに通じている。しかも、フランスにおいてさえ、港都は荒廃し、小麦は過剰となり、産業は原料不足を訴えるに至り、ナポレオンを権力の座に送ったブルジョア階級が離反し始める。それに、密貿易は盛んになるいっぽうである。
ポルトガルが動揺すると、ナポレオンはジュノーの一軍をリスボンに急派し、武力をもって、ブラガンツァ王室を廃止する。スペインと|謀《はか》って、ポルトガルを分割するはずだったのだが、スペイン国王と王子が反目しているのに乗じ、強引に王位を奪って、長兄ジョゼフをスペイン国王に封ずる。国王と皇太子は捕えて監禁してしまう。一八〇八年五月のことである。スペインにはジュノー軍を応援するため、ミュラアが進軍していたが、彼はみずからスペイン王になりたくて、この政変を、側面から演出したのである。ミュラアはナポリ国王となる。
不幸にして、ナポレオンはスペインを知らぬ。統治能力に乏しい国王や反動的な貴族・僧侶を駆逐すれば、国民は喜ぶと思ったのだが、宗教心が深く、愛国心が強く、名誉心の高い国民は、ナポレオンが詐欺的に王位を強奪したのを許さず、ジョゼフ王を侵略勢力の汚らわしい代表とみて、激烈に反抗する。
まもなく、首都マドリッドに、民衆蜂起が起り、ジョゼフ王は逃亡する。蜂起には農民と軍隊も加わって、勇敢に戦うが、ミュラア軍に|蹴散《けち》らされる。マドリッドのプラドオ美術館には、画家ゴヤの「戦禍」と題する傑作がかかげてあるが、この日の市民の|苛烈《かれつ》な抵抗が、肌寒いまでに活写されている。
スペイン各地には、続々と革命組織が生れ、活溌なゲリラ戦を展開した。強烈な民族独立運動が点火されたのである。七月、デュポン(フランス)軍二万は、スペイン軍に包囲され降伏した。続いて、イギリス軍がポルトガルに上陸し、ジュノー軍も屈伏した。
ナポレオンにとっては、事態は重大である。ひとたび弱点を示せば、欧州は蜂の巣をつついたように混乱し、ナポレオンの支配体制が動揺するのは明らかである。彼はスペイン親征の必要を痛感するが、背後を固めるために、まず、|露帝《ツア》アレクサンダアに会見を要請する。
会見はドイツのエアフルト(現在東独領)で行なわれる。フランスとロシア両帝国の中間地点である。この会見は、ナポレオンにとっては、新しい経験である。従来は、戦勝ののちに、敗敵を引見したものである。こんどは、戦勝を背景とせぬ対等の会議である。しかも、スペインの形勢は悪い。露帝に対し、プロシア駐屯軍を撤兵する――スペイン鎮圧に転用するためなのだが――と通報して、その歓心を買う必要さえあった。
九月二十七日、ナポレオン・アレクサンダア両帝は、エアフルト市外で会い、|轡《くつわ》を|両《なら》ベて入城する。ほかに来会する者、四国王(バヴァリア・サクソニア・ヴュルテンベルク・ウェストファリア)及び三十四君主、|絢爛《けんらん》たる会談である。
ナポレオンは、仏露同盟の確固たることを示威すると共に、彼の支配する中欧体制が微動だもせぬことを、オーストリア・プロシアに認識させねばならぬ。そのために、名優タルマ――彼の年来の旧友――以下、コメディ・フランセーズ一座をひき連れている。タルマは、プリマ・ドナとなって返り咲いたドゥシュスノア――かつて、ナポレオンの寝室で寒気にふるえた全裸の女優――と毎夜共演する。皇帝の古い愛人ジョルジイナは、この時、ロシア貴族ベンケンドルフ伯爵のあとを追って、駆け落ち同様にパリを棄て、露都ペテルスブルグに滞在している。
エアフルト劇場は、二帝三十八王侯の親臨のもとに、ある夜はコルネイユを、ある夜はヴォルテールを公演するが、期せずして、金銀宝石も|眩《まばゆ》い一大社交場となる。
タルマはマホメットを演じて、
いまや、ローマ帝国は瓦解し
その肢体は地にまみれて粉々に散乱する
この古き世界の破片から
東方に新帝国を建設しようではないか
見よ、新たなる神は盲目の世界に君臨する!
彼は勝利によって王冠を獲得した
ただ勝利のみによって
しかも、偉大なる征服者は
いま、ここに、平和の王冠を戴こうとする!
と語る。満場は拍手に高鳴る。この|台詞《せりふ》は、ヴォルテールの原作に、ナポレオンが、わざわざ加筆したものなのである。
続いて、タルマが、オイディプス(ソフォクレスの悲劇)の一句、
強者の友情は神の|賜《おくりもの》である!
を唱えると、ロイヤル・ボックスのなかでは、アレクサンダアが親しげに、ナポレオンの耳に口を寄せ、
「その通りだと思いますよ、皇帝」
とささやく。並みいる王侯は、この光景を見ると、感激して、両帝に向い、やんやの|喝采《かつさい》を送る。
アレクサンダアも、なかなかの外交巧者である。十四カ月月まえの、ティルジット会談の時のようには、一方的に圧倒されていない。いわば、|呪縛《じゆばく》から解かれた観がある。両帝の関係は、外見的には、|頗《すこぶ》る友好的であるが、実質的には、かなり冷却している。ナポレオンが『美女を口説くように』、最高の演技をもって、露帝を魅了しようと試みても、アレクサンダアは|含羞《がんしゆう》の微笑で、軽く受け流す。
ナポレオンの目的は、依然として、大陸封鎖の励行によるイギリス打倒であって、そのためには、スペインを鎮圧せねばならぬ。そこで、露帝を利用して、再起の機会を狙うオーストリアを抑止しようと試みる。みずからはスペインを自由に処分する権利を獲得したうえ、万一オーストリアが兵を動かす場合はロシアに討たせる、その代償として、露帝にはトルコ分割と、ワラキア・モルダヴィア(現在のルーマニア)を提供する方針なのである。
だが、露帝は、ナポレオンの提示する条約案に署名を渋る。タレイランが|密《ひそ》かに、露帝に内通しているからである。
ここに人物がいる
タレイランは、両三年前から、ナポレオンの膨脹政策に疑惑を抱いているが、とくに、スペインの処置によって幻滅を痛感し、いまにして、皇帝の野望を抑制せねば、フランスは早晩破滅すると、深く憂慮している。エアフルト会談第一日の日程が終ると、彼はプリンセス・ド・トゥール(ナポレオンに哀訴して拒否されたプロシア王妃の妹)の邸館に赴いて、アレクサンダア帝と密会し、得意の説得力を発揮し、
『陛下のほかに欧州を救えるものは御座いません。そのためには、ナポレオン帝の要請を拒否されることです。フランス国民は文明的ですが、皇帝は非文明的です。他方、ロシア皇帝は文明的ですが、国民は非文明的です。従って、ロシア皇帝こそフランス国民の盟友となるべきだと信じます……フランス国民の最大の願望は、戦争をやめて平和に暮すことなのです。しかし、陛下がナポレオンの好戦的政策を阻止されねば、フランスは侵略戦争を続け、その結果、いつか自滅するでしょう。その間、欧州の受ける惨害は、実に測り知れぬものであると恐れます』
と述べ、感受性の強い|露帝《ツア》の心を、少なからず動かす。しかも、タレイランは、同じ趣旨を、色々な人物から、露帝に吹きこませるから、アレクサンダアは、次第に、これがフランス人多数の心境だろう、と考えるようになる。
この後、露帝とタレイランは、少数の同志と共に、毎夜、トゥール邸に参集し、いかにしてナポレオンのうらをかくか、について謀議を凝らす。
タレイランは、この時は外相ではなく、侍従長官である。だが、ナポレオンとしては、このような外交の大舞台ともなると、どうしても、彼の才腕に頼らざるを得ぬのである。彼としても、タレイランの信頼度には、疑いを抱いてはいるのだが、絶大の自信を持っているから、『あの小狐になにができるものか』とタカをくくっている。だが、彼が露帝に秘密条約案を手渡し、『われわれ両人以外には絶対漏らさないで頂きたい』と、念を押しても、露帝は、その夜直ぐにタレイランに見せてしまうのだ。しかも、タレイランの助言を求め、メモに|認《したた》めて、翌日の交渉に臨むのである。
タレイランの行動は、明らかに裏切りである。彼は露帝と密通しつつ、なにくわぬ顔をしてナポレオンに随従している。外交官と廷臣の役目を、巧みに使い分ける。しかし、彼としては、皇帝よりもフランスを、フランスよりも欧州を重視した積りだろう。彼の回想録を読むと、当時の彼にはナポレオンを打倒する企図はなく、むしろ、彼の政策に節度を与えるのが、当面の目的だったように見える。
会議中のある夜、ナポレオンは寝室にタレイランを招き、あれこれと語ったあげく、|嗣子《よつぎ》を得るために皇后を離婚しようと思う、と打ち明けたうえ、アレクサンダア帝の妹を配偶に迎えたい、とほのめかす。カタリナ・パブロフナは十九歳である。
離婚――これは一大ニュースである。タレイランは、トゥール邸に急行し、酒盃を片手に、バーデン公妃と夜半の恋を語る露帝に、ナポレオンの内意を伝える。アレクサンダアは『よく考えてみるが、母后の意見次第だろうな』と答える。
こうして、エアフルト会議は終り、十月十八日、両帝は東西に|袂《たもと》を分つ。この会議ほど、外見が壮観で、内容の空虚なものも少ない。どうやら、目的をとげたのは、ナポレオンでもアレクサンダアでもなく、タレイランらしい。しかも、彼は抜け目なく露帝の力を借りて、甥のために、富裕なクアランド公夫人の娘と婚約を結んでいる。
それでも、ナポレオンは会議中に、
『ちょっと風邪をひいたようだ。ロシア皇帝には、大いに満足している。すベて順調だ。いま、午前一時、少し疲れた』
とジョセフィーンに報告している。
エアフルト滞在中に、ナポレオンはゲーテに会う。
皇帝は書斎――兼食堂兼会議室――のテーブルに向って、執務している。右にタレイラン、左にダヴウ将軍が坐っている。朝食を終ったばかりらしい。
ドアが開かれる。戸口に現われたのはゲーテである。ナポレオンは眼をあげて、息をのむ。ややあって言う、独語のように。
『|ここに、人物がいる《ヴオアラ・アンノム》!』
ゲーテは五十九歳、ナポレオンは三十九歳。天才と哲人は、眼を合わせた瞬間に、たがいに、すベてを諒解する。
ただ、ゲーテは、ナポレオンの業績を、哲人の立場から、極めて高く評価しているが、ナポレオンのほうは、よくゲーテを知らぬ。ゲーテはドイツにおいてさえ、まだ、充分には認められていないのだ。それでも、詩聖の風格に、天来の|霊  感《インスピレーシヨン》を発散して、皇帝の共感を呼ぶ。
ふたりは時余歓談する。ナポレオンが「若きウェルテルの悩み」を、七度も愛読したと言って、
『しかし、終末がよくないと思う』
と述べると、ゲーテは|微笑《わら》って、
『陛下はロマンスが終らぬことを望まれるのでしょう』
と答える。
味わうべき問答である。両人は、詩を論じ、劇を語る。皇帝はシーザアについて、悲劇を書くことを勧める。みずからを、シーザアに、なぞらえているのである。詩人は、自分には古典の|文体《スタイル》がない、と答える。皇帝は、それではエアフルト大会議にちなみ、露帝に讃美の詩を呈してはどうか、ときく。詩人は、かつてそのようなことをしたことがなく、従って、『幸いにして、後悔したこともない』と言う。
暫くして、ゲーテは話をやめ、『それではこれで』と言って、静かに辞去する。本来ならば、皇帝が会話を打ち切るのを待つのが礼儀である。ワイマアル宮廷の閣僚を勤めたゲーテが、これしきの儀礼を知らぬはずはない。
ゲーテは、この会見を、生涯の最も重要な事件のひとつに数えている。
スペインの潰瘍
ナポレオンはパリに帰ると、十日後の十月二十九日(一八〇八年)には、十六万の大軍をひきいて、スペインに進発する。十二月二日には、早くも、マドリッドに入城する。ジョゼフを復位させ、市民を武装解除し、敵の財政を没収し、宗教裁判と封建的特権を廃止して、ブルジョア的改革を行なう。それで平静になると期待したのだが、国民の抵抗は執拗に続く。
バイロンのチャイルド・ハロルド(第一部)には、サラゴサの|少女《おとめ》が勇猛に戦う光景を、歌った詩がある。
恋人が倒れる――一滴の涙も落とさぬ
隊長が殺される――直ぐにその部署につく
戦友が逃げる――その行く手をさえぎる
この小都会は、一戸一戸を争奪する激烈な市街戦の結果、一八○九年一月に陥落し、五万の市民が虐殺された。フランス軍にとっては、勝手のちがう戦争である。山岳と砂漠の荒涼たる戦場は、ナポレオンの得意とする機動的用兵には向かない。それに、間断なく、ゲリラが出没するのだ。フランス軍は民族解放軍から、民族弾圧軍に転落したのである。
一日、ナポレオンは、在りし日のスペイン帝国の建設者、フィリップ二世の肖像と対面し、沈思して|暫《しばら》く動かない。そこに、パリから急使が着く。皇帝の不在中に、タレイランがフーシェ(警視総監)と握手し、陰謀を企んでいる、という。この両人は犬猿の間柄だったのだ。ところが、フーシェがタレイラン邸の大夜会に姿を現わし、これ見よがしに、親愛の情をこめて抱擁している! ナポレオンを廃して、義弟のミュラア――その妻カロリーンはオーストリア大使メッテルニヒと情交がある――を帝位につける計画らしい。
激怒したナポレオンは、疾風のように、パリに帰ると、満座のなかで、タレイランとフーシェを、口汚なく|辱《はずか》しめる。
『お前たちなど、いつでも、ガラスのように粉砕できるのだぞ。だが、それをするにも値しない虫けらどもだ!』
そうは言っても、宮廷から追放しない。両人とも、かけがえのない才能を持っているからである。
タレイランは、エアフルト会議から、パリに帰ると、いちはやくメッテルニヒ大使に対して、ロシアと和解することを勧告したが、フランス軍二十五万がスペインに釘づけになっている好機に乗じて、兵を動かすように働きかけた形跡がある。
オーストリアでは国民のナショナリズムが旺盛となり、フランツ帝はイギリス・トルコと結び、四月、南独バヴァリアに侵入し、ここに、第四回の対仏戦争が始まる。フランツ帝は「世界に告げる宣言」を発し、『われらはフランス国民と戦うのではなく、侵略制度に対して戦うものである』と訴える。しかし、プロシア王は|逡巡《しゆんじゆん》し、|露帝《ツア》はオーストリアに好意を示しながらも、|暫《しば》し傍観する。
ナポレオンは、十二日夜十時に第一報に接すると、夜半、動員令を発し、翌朝、四時には出動する。六頭だての馬車に、ジョセフィーンを同乗させ、二日でストラスブールに着く。ここで皇后と|訣《わか》れ、単独で前線に向う。四十時間に七十マイルを進撃し、敵軍を撃破する。エアフルトからジョセフイーンに、『露帝はダンスがうまい。だが、私はもう踊れない。四十歳は四十歳だからな』と書いた彼なのだが、戦鼓の音をきくと、忽ち、若返るのである。
かくて、五月十三日、彼は再びウィーンを占領し、シェーンブルン宮殿の主人となる。翌日、愛人マリイ・ワレフスカに手紙を書く。彼女はオーストリア軍を迎えて戦うポーランド部隊――ポニアトウスキイの同盟軍――に従って、古都クラコウにいるが、直ぐにも、ウィーンに飛んできたいという。だが、敵の主力部隊は、なお、健在である。
両軍は五月二十一日アスペルンに戦う。フランス軍の戦死三万、オーストリア軍の戦死二万五千、フランスは歴戦の勇将ランヌを失う。敵将が|敏捷《びんしよう》だったら、ナポレオンも危ういところだった。この敗戦によって、チロル、(バヴァリア領)その他に盛んに反仏運動がひろがり、ナポレオンは苦慮するが、七月五、六両日、ワグラム会戦において快勝する。フランス軍十七万、オーストリア軍十三万は、追いつ追われつ激闘を重ね、味方は二万、敵は二万五千が戦死する。オーストリア軍の捕虜一万五千。ナポレオンは、雷雨のなかを白馬に乗って疾駆しつつ指揮をとるが、戦況が有利になると、樹下に毛皮を敷き、ごろりと横臥する。『二十分寝るぞ』と言うと、砲声のとどろくなかで熟睡する。正確に、二十分後には起きて、また督戦を続ける。
オーストリアは戦意を失い、和を乞う。フランス軍も損害が大きく、かつ、新兵と老兵が多いので――この後この傾向は、ますます顕著となる――進撃を控えざるを得ない。講和は十月十四日成立し、オーストリアは二千平方マイルの領土を割譲し、償金八千五百万フランを支払い、かつ、兵数を十五万に制限される。
ナポレオンは、もっと|苛酷《かこく》な条件を課す積りだったが、この二日前に、シェーンブルン宮殿で、大観兵式を行なっている際に、十八歳の少年に襲われ、急に講和条件を緩和したのである。少年の名はスタップス、懐中に恋人の写真を持っていた。ナポレオンが親しく取調べると、動機は純粋な愛国心である。『もし、釈放されたら、どうするか?』ときくと、|昂然《こうぜん》と胸を張って、『この次には必ず暗殺に成功してみせる』と答えるのだった。処刑される時、少年は、『自由万歳! 暴君に死を!』と叫んだ。民族主義はこれほどまで、|勃興《ぼつこう》していたのである。少年の刑死は、ナポレオンの心に痛撃を与えた。
これと並んで、もうひとつの重大事件があった。この戦争中に、皇帝は足に負傷した。これが、ナポレオンは絶対に安全で、不死身であるという、神秘的な伝説を破壊し去った。皇帝に万一のことがあったら――それが、敵にも友にも、改めて、現実の可能性となり始めたのである。
それに、アスペルンの敗報や、イギリス軍のベルギイ上陸の流言によって、一時パリの人心が動揺した時、フーシェは独断で、予備役を動員し、ベルナドットの指揮にゆだねた。ベルナドットは従来とかく、ナポレオンと対立してきた将軍ではないか。この一事は、皇帝が不在になれば、本国でなにが起るか判らぬことを、示唆するものである。
さらに、ナポレオンは法皇と鋭く反目し、法皇領を没収し、法皇はこれに破門をもって対抗するに至り、カトリック信徒に、少なからぬ|衝撃《シヨツク》を与えた。
これらは、いずれも、スペイン情勢の副産物である。ナポレオンは、セント・ヘレナ島で告白する。『スペインの|潰瘍《かいよう》が私の破滅となったのだ』
そういう折から、ワレフスカが|傍《かたわ》らにあって、孤独の苦悩を緩和したのは、彼にとっては無量の救いだったにちがいない。彼女は七月末に来て、シェーンブルン宮殿に住む。三カ月の間、夜ごとの愛撫は続く。そして、マリイは妊娠する。皇帝はパリから侍医コルヴィサアルを招いて、「ポーランドの妻」を優しくいたわる。可憐なる二十歳の妻である。
ワレフスカ老伯爵は、騎士的精神を発揮して、寛大にも、マリイの出産に居城を提供すると申し出る。
十月末、皇帝は尽きぬ訣れを惜しみつつ、パリに向う。相思、黄葉落ツ。
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第九章 運命の転機
離婚
ついに、断はくだる。
十一月三十日(一八○九年)、ナポレオンはジョセフィーンと、簡素な夕食をとる。食事は十数分で終る。ふたりとも、押し黙ったままである。
いつもなら、給仕が銀盆にコフィ・カップをのせてくると、皇后が受け取って、砂糖を入れて皇帝に手渡すのだが、皇帝は不意に手を伸ばすと、カップを取り、『|退《さが》ってよい』と言う。数秒ののち、姿勢を改め、厳しい口調で、皇后に離婚を申し渡す。
ジョセフィーンは、小声にアッと叫ぶと、床に倒れる。気絶したらしい。ナポレオンは|慌《あわ》てふためいて、隣室のドアをあけ、大声に助けを求める。驚いて、宮内長官のボーセと給仕が駆けつける。意外な光景に、|茫然《ぼうぜん》とたちすくむ。
ナポレオンは両人を叱り、給仕に|燭《しよく》を持たせ、宮内長官とともに、皇后を階下の寝室に運ぶ。長官は肩をかかえ、皇帝は両脚を持つ。階段は狭く、険しく、暗い。それに、ジョセフィーンは、かなり体重がある。長官は帯剣に足をとられて、転びそうになり、つい、肩を持つ手に力がはいる。気絶したはずのジョセフィーンは、薄眼をあけ、低い声で、
『だめ、痛いわ!』
とささやく。
皇帝は気がつかぬ。やっと、ジョセフィーンを寝室のソファにねかすと、長官は鈴を鳴らして、侍女たちを集め、侍医を呼ぶ。急をきいて、ユウジェーヌも、オルタンスも飛んでくる。ナポレオンは、この両人を|溺愛《できあい》している。彼等の憂い顔をみると、いたたまれなくなり、ハンカチーフで涙を抑えつつ立ち去る。
二日後に、戴冠式記念日の大夜会が、市庁舎でもよおされる。オーストリアとの講和慶祝をかねて、チュイルリイ宮殿では、王侯君主を招いて、盛大な舞踏会がある。けなげにも、ジョセフィーンは、明るく、|艶《あで》やかに|微笑《ほほえ》む。タレイランは、『この夜の皇后ほど、美しく気高く見えたことはない』と述懐している。
さらに、その二日後、チュイルリイ宮殿において、ボナパルト家全員が、盛装して参集し、正式に離婚を決定した。皇帝皇后は玉座に坐り、
マダム・メール(ナポレオンの母)
ルイとオルタンス(オランダ王と王妃)
ジェロームとキャザリーン(ウェストファリア王と王妃)
カロリーンとミュラア(ナポリ王妃と王)
ポーリーン(ボルゲーゼ公爵夫人)
ユウジェーヌ(イタリア副王)
のほかに、キャンバセレス首相、タレイランらが威儀を正して参列した。
皇帝は、明らかに激情を抑えつつ、この際、|嗣子《よつぎ》が必要なので、『十五年の長きにわたって、私の生活を美しく飾ってくれた、最愛の女性を離婚せねばならぬが、彼女の想い出は、永久に私の心臓に刻まれていよう』という趣旨の声明書を読みあげた。
ジョセフィーンは、これに応えて、声明書を読んだが、『私にはもう子を産む望みはなく、従って、皇帝の政策とフランスの利益に役立たなくなったので、ここに、皇帝に対する愛情の最大の|証明《あかし》として……』にというところで、絶句してしまった。彼女の|嗚咽《おえつ》は烈しく、あとはタレイランが読んだ。ナポレオンは|俯向《うつむ》いて、唇を噛んでいる。ユウジェーヌとオルタンスは、泣き崩れる母を支える。|凱歌《がいか》を奏しているのは、ボナパルト一族である。やっと、ジョセフィーンの追放に成功したのだ!
離婚合意書には、ナポレオンは虚勢を張って、平素よりも大きく署名したが、ジョセフィーンは、そのそばに、寄り添うように、心細げに、いとも小さく署名した。閣議は直ちに、これを認証した。
その夜、ジョセフィーンは、忍びやかに、皇帝の寝室を訪れる。乱れ髪はあやしく肩にかかり、せきあえぬ涙は頬を、しとどに濡らしている。さながら、雨に煙る柳の|風情《ふぜい》である。ふたりが、どのような|睦《むつ》ごとを交わしたかは、誰も知らぬ。夜半、ジョセフィーンは、淋しそうに立ち去る。そっとドアを閉(し)めた時、彼女は、半生の華麗な絵巻物を、永久に閉じたのである。女としての生命を終ったのである。幾点カ愁人ノ涙。
皇帝は、その後三日間、トリアノン離宮に引き籠り、誰にも会わず、なにもせず、飲食さえほとんど断って、|茫々《ぼうぼう》と過ごすのだった。
彼は回想する。
『イタリア・エジプトに遠征した頃は、ジョセフィーンに恋い焦がれて、狂わんばかりに|懊悩《おうのう》した。その時、愛妻は軽薄な不貞を重ねて、私を絶望させた。そうだ、離婚を決意したことさえある。だが、|霧 月《ブリユメール》クーデタアによって、|第一統領《プルミエ・コンスル》になってからは、彼女の生活に、おのずから節度が生れた。そして、名花一輪、香気を放って、統領政府の格調を高くした。ジョセフィーンの内助がなかったら。その後のナポレオン・ボナパルトがあり得たか疑問である。だから、一族の反対を|斥《しりぞ》けて、私はこの手で、彼女の頭上に王冠を置いたのだ。それなのに、いま、同じこの手で、その王冠を取りあげたのだ。彼女が|嗣子《よつぎ》を産んでくれさえしたら……。
権力を握るに従って私はずいぶんと浮気もした。べリヨット、グラツィアニ、ジョルジイナ、ワレフスカ……ジョセフィーンに嫉妬されたことも多い。だが、本当に愛情が定着しているのは、なんといっても、ジョセフィーンなのだ。だから、あの不愉快なスペイン遠征中にも、九週間に十五通もの手紙を書いたのだ。ジョセフィーン、ジョセフィーン、せめて泣くのはやめておくれ。お前が悲しんでいると思うと、私は苦しくてたまらない。それにしても、帝位とは、いかに|哀《かな》しく、|空《むな》しいものか……』
越えて、十二月十五日、元老院は離婚を承認する。当然、全会一致かと思ったのに、賛成七十六票に対して、反対が七票、白票が四票も出る。その夕、冷雨のそぼ降るなかを、仔犬を抱えて、ジョセフィーンは数台の馬車を連ねて、マルメイゾン離宮に向う。
皇后の尊称と、この離宮と、三百万フランの年金が、四十六歳のクレオールに与えられた「退職金」なのである。
白バラと白鳥と
ここに、皇后としての、ジョセフィーンの生活の一端を紹介しよう。
ナポレオンは|制度《システム》を好んだ。いわば、制度的人間である。宮廷生活にしても、「帝室儀礼」をみずから、細かく指示して、厳しく制定した。これが、実に、微に入り細にわたっている。例えば、「各|部 屋《アパルトマン》の出入順序」には四十八節、「皇帝の食事」については四十三節も、細則が規定されている。
儀礼の実施には、タレイランを初め、多くの高名練達な旧貴族が当ったが、ジョセフィーン自身が旧知の友を集めたので、例えば、ロシュフコー公爵夫人などが中心になって、華麗な宮廷行事が復活された。
皇后の侍女も、初めは数人だったのが、離婚当時には、三十名にふえていた。侍僕も相当の数にのぼったが、彼等の部署は、「水晶の間のドアから××フィートの点に」侍立する、というように、ことこまかに定めてあった。
ジョセフィーンは、八時に眼をさます――というよりは、侍女が起す――と、ベッドで軽い食事をとり、暫く愛犬と遊んでから、化粧を始める。これが、たっぷり三時間はかかる。この間、侍女と歓談をする。多くは、社交界のスキャンダルが話題である。
|午食《デジユネ》は十一時、客がなければ、お気に入りの侍女が相手をする。午後は、よく、ボア(ブーローニュの森、当時は原始的な森林だった)に馬車を走らせる。ラッパ手が先乗りをし、十四名の近衛騎兵が、前後を警護する。帰ると、接見の合間に、音楽、カルタ遊び、刺繍などに時を過ごす。本はあまり読まない。理知的性格ではないのである。
夕食は、公式宴会がなければ、皇帝とさし向いである。しかし、皇帝の希望なので、ジョセフィーンは、いつも、美しく装って、着席する。ただ、皇帝がいつ書斎からおりてくるか、これが、全くわからない。国事優先なのである。
ボナパルト夫妻は、結婚以来、久しく、同じベッドに寝ていた。その後、皇帝の要請によって、別に寝るようになったが、侍僕コンスタンは、
『どうも、それから、御夫妻の愛情は多少冷やかになったようだ。皇后の寝室は、かなり離れているので、そこへいくには、長い廊下を歩かねばならなかった。その両側には、廷臣・侍女・侍僕の部屋がずらりと並んでいる。
皇帝が皇后と夜を過ごす時は、皇帝は、まず、自室で寝巻に着換え、ドレッシング・ガウンを羽織り、頭をハンカチーフで包んで、廊下を渡るのだった。私が燭を捧げて、先に立った』
と書き残している。
皇帝の「夜の訪問」は、色々な理由で、次第に珍しくなったが、翌朝には、全宮廷が、そのニュースを知っていた。ジョセフィーンが、さりげなく、ヒントを与えたからである。皇帝は「愛人」に飽きると、必ず、皇后の腕に帰った。なんといっても、妻は妻だったのである。
その妻には、ひとつの難点があった。かつての不貞の記憶は、すでに消散している。難点は、生来の浪費癖である。
皇后にはカセット(手許金)年額十二万フラン、トアレット(化粧料)同三十六万フランが、国庫から支給された。カセットは主として、慈善のための小額喜捨に使うが、ジョセフィーンは慈悲深いので、ずいぶん、広く喜捨をした。リストには、処刑された貴族の遺児や、変っているのは、ルイ十六世の乳母まで入っていた。
それはよいとして、化粧代は少なくとも二倍は使った。それに、宝石でも調度品でも、金に糸目をつけずに、見境なく買いこむので、いつも、山のような借金をかかえていた。ナポレオンは数学者だから、正確な収支観念を持っており、皇后の浪費には、いつも渋面をつくるのだった。離婚するまでの五年間の借金は、なんと、三百二十万フランにも達したのである。なんのかのと、彼女が使った金は、年額百万フラン(現在の百万ドル)くらいだろうか。もっとも、当時の国家予算が七億五千万フランだったから、法外の贅沢ともいえまい。|断頭台《ギロチン》に命を失ったマリイ・アントアネット王妃は、一晩の遊興に四万フランもかけたし、彼女の|賭博《とばく》の負債だけでも、四十八万フランに及んだのだから。
ジョセフィーンのエレガンスは、万人の賞讃するところだったので、皇帝も化粧料には、わりに寛大だった。彼女が皇帝と別れて、マルメイゾン離宮に運んだ手廻り品のなかには、
ヴェルヴェットのドレス 六七三着
カシミヤのドレス     三三着
夏のドレス       二〇二着
靴           七八五足
帽子          二五二箇
カシミヤ・ショール    六○枚
靴下          二〇八足
シュミーズ       四九八枚
などがある。
マルメイゾンは、パリ郊外の優美な離宮であって、マルメイゾン・セ・ジョセフィーン(マルメイソンすなわちジョセフィーン)といわれるように、彼女の洗錬された趣味の結晶である。マルメイゾンとは、字義は、「不吉な家」なのだが、ここで、彼女は宮廷の|煩瑣《はんさ》な束縛から解放され、幸福な私生活を送ったのである――ある時はナポレオンとともに、ある時は独り静かに。
十七世紀の古い邸館を改築したのだが、家も庭も華麗である。いま訪れても、ドアのうしろから、鏡のうらから、木立のかげから、|在《あ》りし日のジョセフィーンが、|衣《きぬ》ずれの音もさわやかに、匂わしく、立ち現われるのではないか、と錯覚する。それほどに、この離宮には、彼女の体臭がしみついているのである。そういえば、彼女は寝室の壁に、|麝香《じやこう》を塗りこめていた。余香はいまも匂っている。
マルメイゾンの白バラ――スヴニール・ド・マルメイゾンと呼ばれる――は有名であるが、彼女は花園に、世界各地の名花を移植して楽しんだ。百八十四もの珍種があった。名画も多かった。ラファエル、ティティアンなどの傑作は、のちに露帝アレクサンダアが買い取った。いまは、レニングラアドのエルミタアジュ美術館にある。
そして、湖面に泳ぐ無心の白鳥。白バラと白鳥こそは、ジョセフィーンの心情を永久に象徴するようにも思われる……。
発育のよい娘だね
ナポレオンは再婚の候補者を吟味する。リストには十七名の、欧州王室の花恥ずかしき、適齢のプリンセスが記してある。年齢は、最低十三歳、最高二十九歳である。結局、ロシア・オーストリア・サクソニア三王家から選ぶことになる。
一八一〇年一月末、皇帝はチュイルリイ宮殿に、重臣を召集して、選択について、意見を聴取する。カンバセレス、ミュラア、フーシェは、ロシア皇女を選び、タレイラン、ルブランは、オーストリア王女を選ぶ。タレイランは外交的見地から、オーストリアの保全が、欧州の勢力均衡を維持する重要条件である、と信じている。それに、フランス革命が、オーストリア王女のマリイ・アントアネットを処刑したことに対する、一種の|贖罪《しよくざい》になり、フランス・オーストリア両国民の心理的融和に寄与する方便となろう、と考えている。
皇帝も、タレイランと同感である。ハップスブルグ(オーストリア)は多産系である。現に、フランツ帝妃は十三人も産んでいる。それに、|露帝《ツア》からは、色よい返事が来ないし、両帝の関係は、昨今むしろ、悪化しているのだ。数日後、ナポレオンは仮装舞踏会で、メッテルニヒ公爵夫人と踊りながら、オーストリア皇帝フランツのマリイ・ルイズ姫について、探りを入れる。
『公爵夫人、もし、私が|貴女《あなた》に結婚を申し込んだとしたら、どうなさるか?』
『陛下、大変な名誉では御座いますが、お断わりさせて頂きますわ』
『それは残念だ。……では、マリイ・ルイズ姫ではどうだろう?』
『そのことで御座いましたら、陛下、シュヴァルツェンベルグ大使に御下問たまわりませ』
という会話があって、その夜、公爵夫人は、直ちに、夫のメッテルニヒ公爵に、皇帝の|思召《おぼしめし》を伝える。公爵は喜び、時を移さず、本国政府にこれを報告するとともに、シュヴァルツェンベルグ大使(メッテルニヒ公の後任である)を通じて、ジョセフィーンの側面援助を求める。メッテルニヒとタレイランは同腹なのである。
ナポレオンは、この婚姻によって、欧州最古の名門、ハップスブルグ王家の構成員となり、いわば、「王族クラブ」の正会員になれるのである。それが、彼の創始したナポレオン王朝に|箔《はく》をつける。成り上り者として、王侯君主から、とかく白い眼で見られていた、コルシカの貧乏将校ボナパルトが、正真正銘の帝王になるには、これしか方法はないのだ。
だが、それは、革命の子としての彼の面目、平等社会を築いた彼の理想、民族解放運動の旗手と仰がれた彼のイメージ――彼の半生の、輝かしい記録を汚すものではなかったか。旧体制の打倒者は、いま、旧世界の擁護者に変ろうとするのである。
フランツ帝からみれば、このナポレオンの転向によって、欧州の|正統主義《レジテイミスム》を防衛できるし、フランスをロシアから引き離し、再び、欧州政局に雄飛する機会を、握り得るのである。
こうして、かつての仇敵、両帝は縁を結ぶ。ナポレオンは、百五十万フランのダイヤモンドと五百万フランの贈物に、親書を添えて、ウィーンにベルティエ元帥を派遣する。親書には、
『王女殿下が結婚を承諾されたのは、単に御両親に対する服従精神の発揮によるものとは、思いたくない。もし、ほんの少しでも好意をお持ちなら、私はこれを大切に育てて、殿下の愛情をかちとるために、絶大の努力を傾ける積りだ』
と記してある。マリイ・ルイズは十九歳であるが、深宮に育ったので、世事には全くうとい。だが、ナポレオンには二度も、シェーンブルン宮殿から追い出された経験があり、側近と同様に、皇帝を「悪魔」・「吸血鬼」と呼んでいたのである。「服従精神の発揮」以外に、この「悪魔」の配偶になる動機が、あろうはずはない。それに、ハップスブルグ王朝は、儀礼儀典が厳格だから、もの心ついてから、異性に接したことがない。王女の周辺には、犬であれ猫であれ、小鳥さえも、雄はいっさい近づけなかった。だから、三月十一日、ホーフブルグ(王城)で、形式的な結婚式――ナポレオンの代理人は、彼と幾度も血戦したチャアルス大公だった――を行なった時も、もの悲しいだけで、よくは理解できなかったらしい。
彼女の一行は、美々しく威容を整えて、ストラスブールに入り、ここから、豪雨をついて、ソアッソンに向う。ここで、出迎えのナポレオンと二十八日に会い、共にパリに入り、改めて、正式の結婚式を挙行する|手筈《てはず》になっている。マリイ・アントアネットの|輿入《こしい》れの際と、万事、寸分たがわず、荘重に慶事を進める準備ができている。
ナポレオンは一足さきに、コンピエーヌに来ていて、狩猟を楽しんでいたが、四羽の|雉《きじ》に熱烈な求愛の書翰をそえて、旅行中のマリイ・ルイズに送り届ける。
しかも、まだ見ぬ花嫁の到着を待ち切れず、馬を飛ばし、途中で王妃の一行を襲う。新調の礼服を用いず、ワグラムの戦場で着用した古軍服を着て、ズブぬれのまま、王妃の八頭だて馬車に乗り移る。マリイ・ルイズが驚くまもなく、かき抱いて接吻する。同乗の皇妹カロリーンが、慰めても、旅の間、泣きやまなかったルイズなのである。ナポレオンはやや離れて、二十二歳年したのルイズを眺める。眼は空色の青、下唇が厚く鼻が長いのは、ハップスブルグ一族の特徴である。|下膨《しもぶく》れの顔であって、さして美人とはいえぬが、さすがに、品よく愛くるしい。小さい手と小さい足。皇帝は微笑して、カロリーンに言う。
『|発育のよい娘だね《アン・ボオ・ブラン・ド・フアム》』
コンピエーヌに着くと、燈火輝き奏楽高鳴り、盛装の王族・廷臣の一群が、うやうやしく出迎える。皇帝は、紹介もそこそこに、アッケにとられる歓迎陣を放置して、マリイ・ルイズを連れ去る。カロリーンを加えて三人の晩餐が終ると、皇帝は叔父のフェシュ(|枢機卿《カーデイナル》である)から、
『一応の結婚式は、代理人を立てて、ウィーンですましてあるのだから、直ちに夫婦関係を結んでも、まあ、差し支えあるまい』という、あいまいな黙許を得る。
皇帝の副官ジェネラル・グールゴオの「セント・ヘレナ日記」には、ナポレオンの回想が記してある。
『皇帝「|父君《ちちぎみ》はなんと言われたか?」
マリイ・ルイズ「ふたりだけになったら、陛下の|仰《おつ》しゃるとおり、なんでも、御要求に従え、と申しつけました」
皇帝「よろしい。では、今夜いっしょに寝るとしよう」
マリイ・ルイズ「はい、結構です、陛下」
そこで、カロリーンが、こういう場合に、花嫁に与える、通例の心構えを説いたが、既に、ウィーンで全部教えられていた。そればかりでなく、マリイ・ルイズは|待ちきれぬ様子《フオル・アンパシアント》だったという。私はオードコロンを全身にふりかけ、新妻のベッドに入った。彼女は微笑して、快くすベてに応じた……』
翌朝、皇帝は上機嫌で、副官に語る。
『ドイツ女性と結婚するんだな。これが世界一の絶品だぞ。従順で、善良で、純真で、バラのように新鮮なのだ!』
号砲を数える
結婚式の盛典は、四月二日、ルーブルで挙行される。ルイ十六世とマリイ・アントアネットの挙式を前例にし、豪華を極める。だがナポレオンがルイズと同乗して、シャンゼリゼから|凱旋門《エトアール》――皇帝の命令で施工中だったが、完成せぬので木製で間にあわした――に向うと、沿道の市民は、むしろ、冷やかに見送るのだった。マリイ・アントアネット――新皇后の叔母に当る――の想い出が、抵抗を感じさせるのか、ジョセフィーンに対する、そこはかとない同情が、「異国人の皇后」に対する反感を生むのか……。
しかも、結婚式典には、招かれた二十七名の枢機卿のうち、十二名も欠席する、という状況だった。法皇――幽閉されている――はナポレオンを破門しており、ジョセフィーンとの離婚さえ認めていないので、法皇派からみれば、皇帝は二重結婚の大罪を犯していることになるのである。
だが、皇帝は|頗《すこぶ》る満悦の|態《てい》であって、ほとんど、寸時も新妻の傍を離れない。そして、マホメットのように、「玉子のゆだる時間さえも」、若妻を男性と同席させない。『要するに、|腹《ヴアントル》を借りるだけのことさ』と言った皇帝らしくもない。マリイ・ルイズも、『私は一日も離れては暮せないほど、皇帝を熱愛している』と、親友に書き送る。メッテルニヒ公爵に、得意げに、『私はちっとも皇帝は|恐《こわ》くない。むしろ、皇帝のほうが私を恐がってるみたいだわ』
と語る有様である。
この間にも、スペインの戦局は悪化するばかりで、現地の将軍たちからは、|頻《しき》りに皇帝の親征をうながしてくるのだが、ナポレオンは三度も出陣の決意をしたのに、マリイ・ルイズの涙に負けて、そのつど中止する。代りにマルモン将軍を派遣する。幕僚に|咎《とが》められると、不機嫌に答える。『私だって人間なのだ。少しは幸福を味わわしてもらいたいよ』
他方、ハップスブルグ王家との縁組によって、ナポレオン王朝は、表面的には、盛観をきわめ、皇帝の威信は隆々として、欧州を圧している。ヴァンドーム広場には、ローマ皇帝の服装をしたナポレオン像が、高い石柱の上から、パリの中心街を見おろしている。
『あんな高いところに立ったら、さぞ、眼がまわることだろうな』
と皇帝は苦笑する。
笑いごとではない。|追従《ついしよう》と甘言の毒煙は、|濛々《もうもう》と石柱をよじ登って、彼の視界をさえぎる。彼は高慢になり、性急になり、独善になる。才能のある者は遠ざけられ、無能の者が側近に集まる。フーシェはイギリスと密かに和解をはかったことが、はしなくも露見して追放される。フーシェはタレイランと並んで、皇帝政治の二本の主柱だったのだ――札つきの危険人物ではあるが。
新聞にしても、官報的なモニイトゥールほか四紙に統制され、四種類もある皇帝の警察が、厳重に眼を光らす。十年間に、二百名とは在監しなかった政治犯が、両三年で、二千人も収監される。ナポレオンは権力に酔う。音楽家がヴァイオリンを愛するように、ひたすら権力を愛する。そして、彼ひとりが、そのヴァイオリンを弾くのだ。
こうして、ジョセフィーンを離婚して、三カ月余りで、ナポレオンはジュピタアのように、強大な帝王となったが、この時、大陸封鎖令の摩擦は、ますます増大し、フランスとオランダの利害が衝突して、皇弟ルイは、ついに、王位を棄てて、出奔するに至った。また、スエーデンでは王室に内紛が起った結果、ナポレオン配下のベルナドット元帥が、迎えられて皇太子となった。この裏では、フーシェが一役買っているのだが、皇帝はベルティエかミュラアのいずれかの元帥を、売り込みたいと思っていたので、いたく失望する。
ジョセフィーンがいたら、あるいはベルナドットの野心を制止できたかも知れぬ。だが、皇帝はマリイ・ルイズと結婚するに当って、ジョセフィーンを一時パリから退去させた。約六十マイル離れたナヴァル城を与え、移り住ませたのである。城は荒廃していて、ジョセフィーンを悲しませた。「皇后」の尊称こそ維持しているものの、彼女は次第に政界の消息から遠ざかり、この後は、花鳥風月を友とする生活に親しむのである。
とはいえ、皇帝はジョセフィーンを忘れたわけではない。ジョセフィーンが離婚されて、マルメイゾンに移ると、その翌日には、親しく慰問した彼なのである。その後も、短いけれど――数行のことが多い――よく手紙を書いた。
六月半ばに、皇帝が久しぶりに、マルメイゾンを訪れると、ジョセフィーンは、その翌日、オルタンスに、
『どんなにか嬉しかったことか! 皇帝のいる間は、なんとか涙を抑えることが出来たけれど、お帰りになると、ただもう泣くばかりでした。涙にむせて。
皇帝はいつものように優しく|労《いたわ》ってくれました。私の心にあふれる、無限の愛情が、きっと、通じたにちがいありません』
と書いている。
暫くすると、マリイ・ルイズが懐妊したときいて、ジョセフィーンは皇帝に、懇切な見舞状を出す。ナポレオンの返信(九月十四日附)には、『皇后は妊娠四カ月で元気だ。深く私を愛している』と記している。
この頃、マリイ・ワレフスカがパリに現われ、リュウ・ド・ラ・ヴィクトアールの邸宅に住む。ナポレオンとは縁故の深い街である。皇帝は月額一万フランを支給している。彼女は五月に男児を産んだ。伯爵を授けられ、アレクサンダアと呼ばれている。ジョセフィーンは母子をマルメイゾンに招く。不思議な対面である。かつての|恋敵《こいがたき》は、いま、|恩讐《おんしゆう》を超えて、完全に和解する――ふたりとも、ナポレオンに半ば棄てられたが故に。
一八一一年三月二十日朝、三日の難産ののち、マリイ・ルイズは、やっと男児を産む。ローマ王と命名される。
チュイルリイ宮前に集まった大群衆は、興奮して号砲を数える。二十一発で終れば、女児である。砲手はわざと二十一発目でひと息入れて気をもます。二十二発目が鳴ると、同時に、大歓声が起る。ナポレオン王朝は、これで安泰だ。フランスに平和が保障されるのだ!
パリの空高く、ブランシャールの気球があがり、この重大ニュースを報せる|伝単《ビラ》を、市民の頭上にまき散らせば、伝騎は各門から、いっせいに走り出す――ウィーンへ、モスクワへ、ナポリへ、マドリッドへ。
ナポレオンは四十一歳と七カ月で、待望の|嗣子《よつぎ》を得たのだ。彼は満面に喜色を浮かベて、露台に姿を現わしては、群衆の熱狂に応える。数日間、慶祝行事が盛大に続く。ジョセフィーンが祝辞を書くと、『息子は大きく、とても健やかだ。胸と口と眼は、私とそっくりだ。彼が天の与える使命を|完《まつと》うすることを念じている』と答える。
それからは、ローマ王の成長が、なによりの楽しみとなる。ヨチヨチと、立ち歩くようになると、皇帝は、余人には出入りを許さぬ書斎で、幼児を相手に、他愛なく戯れる。三角帽をかぶせたり、軍刀を腰に結びつけたり、鏡に向って百面相をつくったり、余暇さえあれば、|嬉々《きき》として、あやしている。
モスクワへ
戦雲は、またも、怪しく去来する。
エアフルト会見このかた、ナポレオンと|露帝《ツア》アレクサンダアの間には、|猜疑《さいぎ》が蛇のように、黒くトグロをまいている。
そのうえ、露帝からみれば、ナポレオンがハップスブルグ王家から皇后を迎えたのは、フランス・オーストリアの反露同盟を意味しそうだし、ナポレオンがポーランド王国独立を推進する気配もあり、かつ、スペインの王座を奪取した強引なやり口からみると、ロシアに対しても、どんな謀略をめぐらしているか、判ったものではない。
のみならず、ロシア王室には、母后を中心とする有力な反ナポレオン勢力があり、これが、大陸封鎖令に反撥する貴族階級を背景として、露帝を突きあげている。ナポレオンが、中立国船の駆逐を要求すると、露帝はフランス貨物船を駆逐する。これに、ポーランド領の争奪もからんで、露仏両国の関係は、日を追って切迫する。
一八一二年四月、先ず露帝が動く。彼はイギリス・スエーデンと同盟し、オーストリアを誘惑しつつ、ナポレオンにプロシア駐屯軍の撤退要求を突きつける。ティルジット会談(一八〇七年夏)の際、タレイランがいみじくも予言した「五年の周期」が、到来したのである。
ナポレオンはロシア大使を招き、『たとえ、ロシア軍が、パリのモンマルトルまで進軍したとしても、プロシアからは撤兵せぬし、ポーランドの一つの寒村も、一軒の水車小屋も、譲る意思はない』と言って、|峻拒《しゆんきよ》する。だが、同時に、対露戦争は避けたいので、露帝に、『少女のリボンの色』程度のことで、たがいに争うのは|大人《おとな》げないではないか、と申し入れる。これをきいて、露帝は冷然と言う。
『リボンの色ならどうでもよい。問題は、私か彼か、ということなのだ』
露帝の挑戦を受けて、ナポレオンも雌雄を決せざるを得ない。彼はマリイ・ルイズを伴って、ドレスデンに向う。途中、各地の王族の|挨拶《あいさつ》を受けながら、ドレスデンに着くと、オーストリア皇帝夫妻、プロシア王夫妻などが待ち受け、有史以来最大のグランダルメ(大軍団)を編成する。総兵力六十万、半数はフランス兵であるが、半数は同盟軍であって、十カ国語を使うという、複雑な混成軍団である。
スタンダールは、『ロシア遠征は、国民に人気があった』と述ベているが、一般に戦争を|嫌悪《けんお》するムードが|擡頭《たいとう》していたのではないか。しかし、皇帝は、『欧州大陸を処理したら、インドに出撃して、イギリスに|止《とど》めを刺すのだ。私の使命はまだ完了していない。欧州を統合して、共通の法典・法廷・通貨・度量衡を採用する積りだ。そのためには、ロシアの妨害を排除せねばならぬ。そのうえで、イギリスを征服して、アジアに進出する。私は欧州にシステムの基礎をつくった。これを安定させたなら、すベての国家を、ひとつのシステムに統合し、パリを世界の首都にするのが、私の大理想なのだ』と語って、|昂然《こうぜん》と胸を張るのである。
大軍団は、六月二十三日、ニエーメン川を渡り、ヴィルナ(リトアニア)に着く。ここに、三週間滞在して、皇弟ジェローム及びユウジェーヌのひきいる別軍の到着を待つ。この時、愛人ワレフスカが皇帝の側近にいる。
ナポレオンの当初の意図は、ロシア領内に深入りせず、出来るだけ|速《すみ》やかに、敵軍を撃破して、有利な講和を結ぶにあった。ところが、ロシア軍は決戦を避けて、村落を焼きつつ、退却を続ける。大軍団は強行軍をもって、急追するが、次第に補給線が延びて、食糧・飲料水・飼料が欠乏する。各部隊は飢餓と炎熱に苦しみ、赤痢が猛威をふるうため、落伍者は続出する。兵は馬尿を飲んで渇をいやす。その馬には屋根から|藁《わら》を引き抜いて食わせるのである。士気も、ようやく、衰え始める。皇帝さえ、時には、馬車をすてて、汗まみれになりつつ、徒歩で行進を余儀なくされる。それでも、彼だけは、『兵士と露営をするのは愉快だ』と言って、幕舎のなかで、小説を読む。
八月十五日、皇帝の誕生日、ようやく、スモレンスク前面に到達する。この時、大軍団は四分の一の兵力に減っている。落伍者が多いだけでなく、占領地の確保に兵を|割《さ》くからである。赤い城壁の背後に、二十九の|尖塔《せんとう》が、夕日に明るく輝いている。敵将バアクレイは城壁に|拠《よ》って、よく防戦する。フランス軍は、かなりの損害を出す。しかも、やっと占領すると、忽ち、市内から火災が起る。皇帝は副官を顧みて、
『まるで、ヴェスヴィウスの噴火のようだ。綺麗だな』
とつぶやく。まだ、それだけの余裕があるのだ。
前進を中止して、スモレンスクで冬営すべきか――諸将の意見は分れる。皇帝は断固進撃を命ずる。大軍団は攻勢の軍隊なのだ。守備の軍隊ではない。停止しては、かえって危うい。それに、彼としては、是が非でも、モスクワ正面で快勝せねばならぬのだ。
モスクワへ!
八月二十四日、大軍団は進発する。|埃《ほこり》が全部隊を包み、呼吸も困難なほどで、戦友の顔さえ識別できない。補給は、ますます困難となり、脱落者は、いよいよ増加する。そして、敵軍は依然として、|捕捉《ほそく》できない。この時、|露帝《ツア》は六十七歳の老将軍クーツゾフを総司令官に任命する。クーツゾフはカタリナ女帝の宿将である。トルストイの「戦争と平和」には、常に居眠りばかりしているが、いざという|正念場《しようねんば》には、獅子の如く猛然と戦う、典型的なスラヴ武将として、|頼母《たのも》しげに描かれている。
ボロディノの血戦
九月五日、ナポレオンはクーツゾフと、ボロディノに戦う。皇帝は全軍に布令する。
『兵士諸君、待ちに待った戦闘の好機は、ついに、到来した。勝利はひとえに諸君にかかっている。しかも、勝利は絶対に必要なのだ。それによって、諸君は富有となり、快適な冬営地を獲得し、速やかに祖国に凱旋できることになる。アウステルリッツ・フリードランド・スモレンスクの場合に劣らず各員奮戦せよ。フランス国民は、後世ながく、諸君の本日の善戦を記憶し、あれこそ、モスクワ城壁の戦勝に輝く勇士だと、賞讃を惜しまぬだろう!』
濃霧が晴れると、フランス軍はマルセイエーズの奏楽とともに軍旗を先頭に、砲火をおかして敵陣に肉薄し、二日間、十二時間にわたって、両軍の激戦が続く。前線はいま占領したかと思うと、次の瞬間には奪回される。丘陵も、陣地も、指令所も、取っては奪われ、奪っては取り返される。毎分百四十発の砲弾が、肉片とともに|炸裂《さくれつ》するなかで、騎兵は襲撃し、歩兵は突撃する。戦闘ではない、虐殺である。
ナポレオンは、ボロディノ部落から、三キロのヴァルエボ高地に、天幕の本陣を設ける。前夜、マドリッドとパリから、急使が着いた。スペインの戦況は険悪である。だから、この一戦には大勝せねばならぬ。パリからは、マリイ・ルイズが、愛児ローマ王の肖像画を届けてきた。小さな棒を持って、地球儀をころがしている絵である。いかにも、象徴的である。皇帝はこの肖像を、幕舎の外の卓上に飾る。兵士が『ローマ王万歳!』を唱和すると、破顔一笑する。だが、時が移り、肉裂け骨砕ける激闘が始まると、
『幼児に地獄を見せるのは、まだ、早過ぎよう』
と言って、取り片づけ、白馬にまたがって、砲煙のなかに乗り出す。予備の馬は三頭もある。いつもなら、みな、乗りつぶすのだが、今日は不思議にも、活動しようとしない。風邪をひいて、かなりの熱があるのだ。胸が|膨《ふく》れて、騎坐がたしかでない。
だが、激闘、また激闘、ついに、さしも頑強な敵軍にも、動揺の色がみえる。
ミュラアは半顔を血に染め、愛馬も傷ついている。彼の勇猛な騎兵隊には、追撃の余力がない。
『皇帝、いまが機会です。親衛隊に出撃を命じて下さい!』
と絶叫する。
ナポレオンは|床几《しようぎ》に腰をおろしたまま、双眼鏡から眼を離さない。黙っている。迷っているのだ。ここは、モスクワの城門外だ。しかし、パリからは二千四百マイルも離れている。それに、二万の親衛隊は、最後の予備軍なのだ。もし、明日、逆襲を受けたらどうする?
各隊の伝騎は、|砂塵《さじん》をあげて、ひっきりなく、本陣に乗りつける。みな、援軍の要請だ。ネイも、ダヴウも、ベルティエも、諸将は口を揃えて、親衛隊を放って、一挙に敵を撃滅すべきだ、と主張する。皇帝は、やおら、右手をあげる。満を持していた親衛隊は、おもむろに、丘をおり始める。すると、また、手をあげて制止する。やはり、次の敵襲に備えねばならぬのだ。皇帝ナポレオンは、しょせん、マレンゴ戦場の若きボナパルト将軍ではない。もし、この時、欧州最強といわれる親衛隊が、敵陣に殺到していたら、クーツゾフ公爵は戦死していたにちがいない。
砲声がやんで、豪雨となる。戦場は惨として声がない。両軍の戦死七万、そのうち四万五千は敵の将兵である。ロシア兵は、実に、よく戦った。大地に根がはえたように、踏みとどまって、一歩、いな半歩も退かなかった。死んでも立っている。力いっぱい押すと、やっと、倒れるのだった。名将バグラチオン公爵は、致命傷を負いながらも、最後まで陣頭で指揮をとった。
フランス軍は、キャンパン以下、十二名の古参将官を失った。ダヴウは乗馬を射殺され、剣をふるって、辛うじて、重囲を脱した。従来にない、|苛烈凄惨《かれつせいさん》な血戦だった。ナポレオンは、いまだかつて、このように|執拗《しつよう》な抵抗にあったことがない。戦闘の後では、平然と、戦場を巡回して、死者を弔い、傷者を|労《いたわ》るのが、常なのだが、こんどばかりは、顔色蒼白、暗然とした表情で、気勢があがらない。
それでも、彼はマリイ・ルイズに、『ロシア軍を撃破した。元気だ』と|報《しら》せる。同じ時、クーツゾフも老妻に、『こんどはロシア軍の勝利だった』と書く。
どちらが本当か?
フランス軍は一応は勝ったのだが、ロシア軍は痛打を受けながらも、依然として、対陣していた。クーツゾフは翌日、改めて攻勢に出る積りだったのだ。だが、損害の規模が判明するに従って、このうえ、一戦を挑むことは、全く不可能なことを悟り、やむなく、残軍をまとめて退却した。
ソ連政府は、毎年、「ボロディノの戦勝」を慶祝するが、それは、戦えば必ず勝つナポレオンの無敵常勝軍を、勇猛に迎えうって、初めて破竹の進撃を阻止したことを、「戦勝」と解釈するのである。それまでは、ナポレオンの軍隊は|士気《モラール》において、常に敵を圧倒していた。戦う前に、敵に勝っていた。こんどはちがう。ロシア軍の士気は、同等に、あるいはそれ以上に、旺盛だった。一種の|道義的勇気《モーラル・カレツジ》が、全軍に|漲《みなぎ》っていた。
開戦前に、ロシア駐在のフランス大使コーランクールは、皇帝に対して、
『陛下、戦争目的が明確で御座いません。フランス国民は、このたびのロシア遠征を、国民的戦争として、心から支持するでしょうか?』
と直言したが、道徳的次元において、どうやら、フランス軍には欠けるものがあった。
とはいえ、いかに偉大な英雄でも、個人ナポレオンに、どれだけ、運命の展開を支配できたか、疑問とすべきだろう。いずれにせよ、大軍団は、いまや、十万に減ったが、ボロディノの勝利に、意気再びあがり、「食物と住居」を求めて、ひた押しに、モスクワへ向って進軍を始める。彼等の背後には、焦土しかない。食もなければ、水もなく、家もないのだ。
モスクワへ!
この進軍は、ある意味では、ナポレオンの個人的意見とは無関係だ、ともいえそうである。もちろん、ナポレオンはそうは思わぬ。大軍団は彼の命に従って動いている。だが、仮に、彼がこの進軍を制止しようとしても、もはや、兵士は承知しないだろう。
トルストイは「戦争と平和」のなかで、『致命傷を負った野獣が、猟師の銃口に向って突進するように』、ナポレオンはモスクワという名の死地に、ほとんど宿命的に行軍したのだ、と書いている。
ボロディノから退却すると、クーツゾフは諸将を集めて、作戦会議をひらく。場所は、モスクワから僅かに四マイルの地点、百姓小屋の一室である。燭火に|隻眼《せきがん》を光らせつつ、彼は黙然と耳を傾ける。
モスクワを防衛するか、それとも放棄するか?
べニヒゼン将軍は一戦を主張して譲らない。『古き聖なるモスクワを防衛せずに、敵に|背《うしろ》を見せては千載の恥だ』と強調する。クーツゾフは冷やかに答える。『「古き聖なるモスクワ」が問題なのではない。ロシア軍と祖国をどうするかが問題なのだ』
結局、彼はこの責任は一身に引き受けるから、と言って、反対論を|斥《しりぞ》け、軍隊を温存するために、総退却を命ずる。諸将が退出すると、白髪の頭を抱えて、唸らんばかりに苦悩する。
『いったい、どうしてこんな事態になったのか? モスクワを放棄せねばならぬような重大失策を、いつ、私は犯したというのか?
だが、これでよいのだ。ナポレオンは|怒濤《どとう》だ。とても防禦できるものではない。いまは、退却して、兵を養うほかない……そうだ、モスクワを開城して、フランス軍をひきいれるのは、巨大な|海綿《スポンジ》で怒濤を吸収することになるだろう……』
ボロディノの一戦は、ナポレオンの運命の転機となった。
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第十章 三色旗振わず
聖都炎上
ナポレオンは、いま、ポクロニイの丘に立っている。敵将クーツゾフが、首都を防衛すべきか、放棄すべきか、苦しい作戦を練ったのもこの丘である。
九月十四日朝の太陽は、夏のように|眩《まぶ》しい。眼下には、広大なモスクワ市街がひろがっている。川があり、公園があり、|邸館《パレエ》が立ち並ぶなかに、無数の教会の|円屋根《キユポラ》が、近く遠く星のように
輝く。その遠望のなかに、ひときわ鮮やかに、赤くそびえる城壁こそはクレムリン宮殿にちがいない。絵のように、美しく静かである。
『これが聖都モスクワか!』
このアジア的な景観は、想像した以上に壮大であり、神秘的に華麗である。
やっと着いたぞ――彼は胸にこみあげる喜びを噛みしめながら、「本当にモスクワに来たのかな」と疑いたくなる。それほど、モスクワへの道は、遠く、かつ、苦しかった。そのモスクワは、ついに、征服されたではないか。ややあって、地図から眼をはなすと言う。
『ボヤアル(ロシア貴族)たちを引見するとしよう』
将軍のひとりが、一隊の龍騎兵をひきいて、金甲を光らせつつ、都門に向って、走り去る。だが、いつまで待っても、ボヤアルは姿を現わさない。皇帝は丘のうえで、|午餐《デジユネ》をすます。まだ来ない。
こんなことは、かつてなかった。ウィーンでも、ミラノでも、ベルリンでも、マドリッドでも、開城に際しては、敗軍の代表者が、必ず、威儀を正して、城門に出迎えたものだ。ついに、皇帝は部隊に入城を命ずる。一発の号砲とともに、大軍団は西門から、|雪崩《なだれ》をうって、侵入する。
死の街である。全市はもぬけの殼なのである。それときいて、ナポレオンは激怒する。彼はボヤアルに、寛大な態度で接し、後世に残るような、格調の高い平和的演説を行なって、それを|端緒《きつかけ》に、|露帝《ツア》と和解しようと考え、いまのいままで、慎重に想を練っていたのだ。
フランス軍が西から進入すると、ロシア軍は東から撤退する。進む前衛と、退く後衛は、ほとんど接触せんばかりである。ロシア軍の後尾はパニック(恐慌)を起し、|掠奪《りやくだつ》をしながら|遁走《とんそう》する。こうして、クーツゾフ軍六万は、モスクワから八十マイルも西方に退却する。
モスクワは全く無人になったわけではない。三十万の人口のうち、二万くらいは残っていようが、その多くは、貧民か|無頼《ぶらい》の徒だった。夜になると、各方面で火炎が起った。都長官ロストプチン伯爵――抗戦派の幹部――の命による放火である。しかも、消防用具は全部持ち去るか、または、破壊してある。
ナポレオンは市外の邸宅で一夜を過ごし、十五日、白馬エミイルを市中に乗り進める。クレムリン宮には、三色旗がひるがえっている。露帝の玉座に立てば、万感無量である。彼はアレクサンダア帝のベッドには寝ず、常用の鉄製のベッドを持ちこむ。夜半、副官に起される。四面は火の海である。次々と、将軍が来る、伝令が来る。廷臣が来る。
セグウルの手記は、
『周囲の火焔が、皇帝の頭脳に、延焼したようだ。いま、立ちあがるかと思うと、すぐ坐る。坐れば、また、忽ち立ちあがる。そして、部屋のなかを、せかせかと歩き廻る。明らかに、|凄《すさ》まじく興奮している。緊急命令を口述しながら、途中でやめる。直ぐにまた、始める。やめたり、始めたりするうちに、ツカツカと窓際に歩みよる。
窓をあけると、熱気は顔面を打たんばかり。モスクワ川は、大火災を反映して、血の色に染まっている。皇帝は|唸《うな》るように、独語する。
恐ろしい光景だ! 無数の|邸館《パレエ》が燃えている。これが、彼等自身の|仕業《しわざ》なのだ。なんということだ。敵でさえ|敢《あ》えてせぬ野蛮行為ではないか!』
と伝えている。
クレムリンは爆破されるらしいときき、皇帝は側近に譲られて、宮殿から郊外に脱出する。煙のために方向が判らず、|商店街《バザアル》の路地に迷いこむと、狭い道の両側は、盛んに火を吹きあげている。皇帝は眉ひとつ動かさず、火粉を浴びつつ、悠々と歩く。
三日後に、再びクレムリンに帰る。さしたる被害はない。市街も四分の一ほど焼け残っている。皇帝は秩序回復に、超人的精力を傾ける。布告を発して、市民の生命財産を保障し、善政を公約する。だが、軍規は|弛緩《しかん》し、とくに、プロシア・イタリアなどの外人部隊が、盛んに掠奪を始め、ついに親衛隊にまで感染する。かなり豊富な物資が、地下室に保存してあったのだ。
気温は意外に高い。皇帝はマリイ・ルイズに、『春のように温暖の日が続く』と書くが、さすがに、前途に不安を覚え、九月二十日、霧帝に三回目の親書を送る。『私としては、陛下に対して、なんの敵意も抱いておらず、モスクワ占領も本意ではない。ティルジットの友好関係を回復できるなら、快く撤退する用意がある』という趣旨である。捕虜を使いにたて、クーツゾフにも和議を申し入れる。
十日余りも待つが回答はこない。
実は、首都ペテルスブルグでは、和平派が勢いを得つつあって、フランス軍が北上来襲しはせぬか、と恐れていた。主戦派だった母后まで講和を望むのだが、アレクサンダア帝は珍しく強硬で、『もし完敗して、王位から追われたら、農夫になって馬鈴薯を栽培するまでだ』とうそぶいて、ナポレオンの申し入れを拒否する。これは、スエーデン皇太子ベルナドットが、ナポレオンに代って、フランス皇帝になる野心を抱き、露帝を|煽《あお》ったためである。別しては、ナポレオンによってプロシアから追放された愛国
政治家フォン・シュタイン男爵が、ロシアに亡命し、アレクサンダア帝の知遇を受けていたからでもある。シュタインは、この時とばかり、情熱を傾けて、露帝に徹底抗戦を勧告した。
ナポレオンは進退に窮する。漫然と時を過ごすのは危険である。さればといって、モスクワから撤退すれば、信望を失墜し、全欧州の離反を誘発する恐れがある。フランス本国にしても、安心できたものではない。パリとの通信連絡には、十三日から十八日はかかるのである。『モスクワは|軍事的地歩《ポジシオン・ミリテール》ではなくて、|政治的地位《ポジシオン・ポリテイク》なのだ。政治においては、後退は禁物だ。威信を失うから』――彼はこう独語する。
十月六日、マリイ・ルイズに『天気はよくて、ごく暖かい。フォンテーヌブロウと同じように快適だ』と書く。昼は林を散歩し、夜はヴォルテールの「シャルル十二世伝」を|耽読《たんどく》する。露都にいる俳優を集めて、コメディ・フランセーズ観劇会をもよおす。マリヴォの喜劇である。この時、かつての愛人ジョルジイナは、露都にいるはずなのだが姿を現わさない。だが、パリに指令して、コメディ・フランセーズの改組を、命じたりもする。ナポレオンならでは、このような心理的余裕はあるまい。この頃は、モスクワに冬営し、翌春を期して、大軍を集め、ペテルスブルグに進攻する構想に、傾いていたようだ。そうすれば、叛乱が起り、アレクサンダア帝は失脚するにちがいない……。
氷雪の退却
十月十三日、初雪が降る。五日後に、クーツゾフは反撃を開始する。
十月十九日、十万の大軍団は、撤退に着手する。その半数は、馬か車に乗っている。将校は多数の召使を連れているし、隊列には、おびただしい数の女性も混じっている。フランス座の女優マダム・クジルもそのひとりである。彼女の|回想録《メモアール》によると、『兵は牛などの家畜を多数ひき連れていたが、やせ細っていて、|屠殺《とさつ》するまでもなく、忽ち、道ばたにたおれてしまった。無数の運搬車は、食糧・衣料などの軍需品のほかに、あらゆる掠奪品を山と積んでいた。ある旅団長は、二十五頭の馬と六台の荷車を持って、|頗《すこぶ》る得意だったが、荷車は異様な財宝・貨物でこぼれんばかりだった。軍団の行進は|巨大なる無秩序《ジガンテスク・デソルドル》だった』
規律を保っているのは、親衛隊くらいのものである。皇帝は苦々しく思うが、いまさら、なんともならぬので、やむなく黙認する。これが、やがて、大軍団の破滅を招来するのである。
ナポレオンは、三十六日もモスクワに滞在したが、いまは、一刻も早く、冬営予定地のスモレンスクに、この雑然たる大軍団を後退させねばならぬ。マリイ・ルイズに『いま冬営地に向って出発する。天候は素晴らしくよいが、長くは続くまい。モスクワは焼けてしまったし、最終目的からみて、軍事的価値はないから放棄することにした』と書き送る。だが、出発後に、クレムリンの爆破を命じたことには、ふれていない。その爆破は成功しなかった。
クーツゾフが、フランス軍の撤退を知ったのは四日後の二十三日である。彼は直ちに進撃を命じ、大軍団と並行して行進する。
十一月六日。大雪が降り始める。「冬将軍」の来援によって、ロシア軍の士気は大いに振う。本隊の進撃は、いよいよ、急であるが、コサック騎兵が盛んに出没し、土民のパルチザン(ゲリラ)も|頻《しき》りに奇襲する。大軍団は支離滅裂となる。皇帝は親衛隊のつくる方陣のなかで、辛うじて野営する。
コサックの襲撃にも劣らず、寒気の脅威は恐ろしい。兵は吹雪に足を奪われ、視力がかすみ、聴覚が絶えると、氷雪のうえに倒れて、忽ち凍死する。馬は死ぬにまかせ、車は遺棄する。|裸足《はだし》に|藁《わら》をまいて歩くのだから、足が凍傷で腐ってしまう。軍医もいなければ、薬品もないのだ。夜ともなれば、餓えた狼の群れが一団、二団と襲いかかる。
食物がない。ある上品な大佐夫人は、|白繻子《サテン》のドレスに毛皮外套を着たままで、食い荒らされた死馬の肝臓を必死に求める。ナイフがないので、頭を馬の腹中に突っこんで|食《くら》うのだ。皇帝は望遠鏡で、地平線を探る。十一月中旬、ドニエプル渡河の際、コサック騎兵は、フランス軍小部隊を捕捉すると、全員を丸裸にして、川に追い立てる。
皇帝は怒りに|悶《もだ》える。落伍者は、将官か高級将校でなければ、その場で刺殺される。これがロシア遠征なのだ!
やっと、スモレンスクに着くと、家は壊れ食はなく、しかも、敵軍主力が退路を断つ形勢なので、敗軍は――もはや大軍団ではない――僅か五日滞在しただけで、さらに|遁走《とんそう》を続ける。
最難関は、ドニエプルの支流べレジナの渡河である。遠征軍は六千しか残っていない。十一月二十八日、幸いにも、ヴィクトルとウーディノオの援軍が合流し、ネイの率いる後衛部隊も加わったので、皇帝は自信を回復し、ロシア軍の追撃を暫時阻止し、急造の架橋を渡って、ようやく危地を脱出する。その直前に、軍旗を集めて焼き、紋章入りの食器を破壊する。『これを敵手に渡すよりも、指で食うほうがましだ』と言って。渡河に失敗すれば、ピストル自殺をする覚悟だった。
こうして、皇帝は遠征軍と行動を共にしたが、十二月五日夜、スモルギニイにおいて、指揮をミュラアに委ね、変名変装して、少数の側近と、三台の馬車に分乗し、ポーランド、ドイツを通って、一路パリに直行する。二隊の親衛隊騎兵が護衛に当る。零下三十五度の極寒なので、騎兵は忽ち十数名に減ってしまう。
十日夜、|橇《そり》でワルソオに着き、オテル・ダングルテールに小憩する。ただひとり随行のコーランクールがフランス大使をたたき起して、皇帝到着を報せると、大使は気絶せんばかりに驚く。皇帝は、みるみる元気を取り戻し、「ポーランド妻」ワレフスカと是非とも一夜を過ごしたいと言うが、コーランクールが説得して、直ちに出発する。
十三日夜半、ドレスデン到着、盟友サクソニア王の歓待を受け、旅装を整えて、十五日エアフルトに入る。さして遠くない過去に、ここで、多数の王侯君主に|侍《かしず》かれ、|露帝《ツア》と交歓したことが、改めて想い出される。義父のオーストリア皇帝に、『悪天候のため|失策《しくじ》ったが、もう大丈夫だ』と書き送る。翌十六日、マイアンスに着く。十日あまりの逃避行の末に、とにかく、本国に帰ったのだ。
『|崇 高《スプリーム》から|笑 止《リデイキユール》への距離は一歩だ』
と彼は苦笑する。
皇帝のあとを追って、露都を|発《た》った一女性がある。ジョルジイナである。彼女はベンケンドルフ伯爵と結婚する積りで、ペテルスブルグに走ったのだが、伯爵は彼女をアレクサンダア帝に「献上」する下心だった。|露帝《ツア》にはマダム・ナリシュキイヌという、美貌の|寵妾《ちようしよう》がいたが、政治向きのことに干渉するので、一部の廷臣が、ジョルジイナに君寵を奪わせよう、とはかったのである。
露帝はピイタアホフ宮殿に、暮夜ジョルジイナを招いたが、心を動かさず、みごとなダイアモンドを賜わっただけで、|ふたりだけの《テータテート》会合は不発に終った。よく考えれば、ナポレオンとアレクサンダアが、同一女性に、恋愛するはずもなかったのだ。露帝は知性を好む理想家であって、恋愛にも、精神的共鳴を求める。ジョルジイナにはそれがない。ないからこそ、ナポレオンは愛したのだ。
だが、ティルジット――エアフルトの時代は、仏露両国は親交を結んでいたから、モスクワの上流社会は、こぞって、パリ・モードを模倣した。演劇も例外ではなく、従って、ジョルジイナは、「パリのヴィナス」の降臨として、至宝のように歓待された。トルストイの「戦争と平和」にも、ベソンホフ伯爵夫人邸で、彼女が「フェードル」を演ずる場面が、美しく描かれている。
こうして、ジョルジイナは五年の歳月を、「ペテルスブルグのヴィナス」となって、楽しく暮した。そこに、ナポレオンのロシア遠征が起り、彼女の立場は|俄《にわ》かに微妙になった。とくに、フランス軍が退却を始め、首都には、慶祝の舞踏会が続き、夜ごとに花火大会がもよおされると、もともと愛国心の強い彼女は、いたたまれなくなった。
一八一三年一月末――ナポレオンは既にパリに帰っている――彼女は妹と|橇《そり》に乗って、モスクワを脱出する。白鳥の羽でつくった帽子をかぶり、上等の毛皮の下には、全身に宝石をつけ、三十万金フランもの現金を持っている――後に、彼女の情人になったアレクサンドル・デュウマの証言によれば。途中、フランス軍の脱走兵に脅かされながら、ストックホルム(スエーデン)にたどり着いた時には、帽子も毛皮も泥まみれで、見る影もなかった。しかし、ベルナドット皇太子とその妻デジレや、例のマダム・ド・スタールがいて、国賓待遇で、なにくれとなく世話をしてくれるので、三カ月も滞在した。幾夜も華やかな舞台に立って、盛んな|喝采《かつさい》を浴び、多くの有力者から恋の花束を受けたうえ、ドレスデンに着いたのが、六月二十日のことである。
その日、ここで、皇帝ナポレオンに再会する。
英雄と外交家
ナポレオンが帰国を急いだひとつの理由は、本国の政局不安だった。
十月二十三日には、ジェネラル・マアレエが、クーデタアを企て、もう少しで成功するところだった。彼は二回も叛乱を試みたので、監禁されていたのだが、『皇帝はモスクワ城外の戦闘で戦死した』という虚報を流布し、在監中の二将軍を釈放して、軍隊を動かした。臨時政府の名において、宮殿・元老院・フランス銀行などを接収し、政府首脳を捕え、パリの大部分を手中に収めたのである。ところが、マアレエがヴァンドーム広場で、大見得をきろうとした時に、彼の旧部下が陰謀を看破して、逮捕したので、このクーデタアは一幕の笑劇に終った。
とはいえ、この事件をみても、ナポレオンとしては、数カ月もモスクワに冬営することは、すこぶる危険と、判断せざるを得なかったのである。彼にとって、甚だしく不満だったのは、仮に彼が戦死しても、パリにはローマ王がいるのに、誰も、この幼児擁立を考えなかったことである。そういう事情もあって、パリに急行したのである。
パリ到着は、一八一二年十二月十八日、従う部隊は一万に過ぎなかった。ロシア遠征は、明らかに、軍事的失策だった。だが、それ以上に、政治的敗北でもあった。大軍団の敗退はフランス支配下の諸国に、期せずして、民族主義的行動に決起する端緒を与えた。とくに、プロシアは|苛酷《かこく》な講和を|強《し》いられて、ナポレオンに対する反感が強く、シュタイン、ハルデンベルヒの社会改革、シャルンホルストの軍事刷新が、ようやく実るとともに、再起の機会を狙っていたから、士気旺盛だった。フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という愛国的講演を行なったのは、フランス軍がベルリンに進軍した時だったのだが、|雌伏《しふく》数年にして、いまや、プロシア軍はドイツ民族の先頭に立つ気概をもって、ナポレオンを追撃しつつあった。
ナポレオンは、のちに、『フランス革命の社会的成果を支配地域にも及ぼしていたら、状況はちがっていたろう』と述懐するのだが、時既に遅い。
それよりも、当面は、決定的大勝利を収めて、一挙に退勢を、|挽回《ばんかい》せねばならぬ。彼は早速、大軍団の再建に着手する。五十回の勝利は誇るに足るが、百万の犠牲は大きな出血だった。それにもかかわらず、ともかく大軍を徴募した。『戦争の連続ではあったが、人口は増加し、工業は発達し、農業も充実し、国富は各階級にひろく分配されていた』(モンティリヴェ内相報告)のである。ここに、ナポレオンの政治力があった。戦況は悪化しても、青年は皇帝の要請に応じて、銃をとったのである。
一八一三年四月十五日、ナポレオンは十八万の軍隊をひきい、パリからマインツに向って、出撃した。十八歳の新兵が多い。革命期に成長したから、体力は強くない。敵との比率は一対三で不利である。それでも、ネイ、ダヴウ、ベルティエ等の古参将軍がいる。それに、「北方の古狐」クーツゾフは、疲労に倒れてしまった。ナポレオンは自信満々である。こんどの主敵は、恐らく、プロシア軍の総司令官ブリュッハアだろう。七十二歳の高齢ながら、|前 進 将 軍《ゲネラル・フオアヴエルツ》と通称される猛将なのである。
五月二日、そのプロシア軍と、ルッツェンに戦う。朝九時から、夕七時半まで続く激戦だった。皇帝はみずから馬を前線に進め、巧妙な作戦をもって、各部隊を指揮したが、敵軍が善戦したので一時は敗北かと思われた。やっと、戦勢を逆転したが、騎兵が足りぬので、撃滅できなかった。ブリュッハアは敗走し、フランス軍はドレスデンを奪回した。
続いて、二十日、バウツェンで、ウィトゲンシュタイン将軍(クーツゾフの後任)のひきいるロシア軍を撃破した。これも、激戦であって、皇帝の古い戦友デュロック元帥が戦死した。ナポレオンは近くの農家で、|末期《まつご》の戦友を抱いて号泣したが、農夫に多額の金を与えて、記念碑の|建立《こんりゆう》を依頼した。ここに、友情に厚い彼の性格が現われている。なお、この両戦闘では、空砲しか射ったことのない新兵が、敵の猛攻を、一歩もたじろがずに支えたので、皇帝は至極満悦だった。
しかし、決定的勝利を収め得ず、オーストリアの調停で、一時休戦に入った。この休戦は五十日も続いたが、その間、ドレスデンとプラーグで、複雑な外交交渉が行なわれた。好機到来とみて、オーストリア首相|メ《(1)》ッテルニヒが、乗り出したのである。
プリンス・メッテルニヒは、一八○六年、三十三歳の若さでパリ大使になり、至近距離でナポレオンを観察したが、三十六歳で外相に起用され、もっぱら、対仏謀略に、その鬼才を発揮していた。読者は、彼がタレイランと通謀していたことを記憶されるだろう。彼の目的は、ナポレオンに連敗して国威を失墜した祖国を、復興することであって、そのために、時を稼ぐ方便として、王女マリイ・ルイズの結婚も推進したのである。しかし、オーストリアはロシア・プロシアとは|競争《ライヴアル》関係にある。そこで、彼は、表面は武装中立を維持しつつ、フランス帝国を、その自然の国境――東はライン川、西はピレネエ山脈、南はアルプス連峰――に縮小し、オーストリアはイタリア領を回復し、ワルソオ公国を解体して、ロシア・プロシアはポーランドを分割する、という調停案を提示した。
ナポレオンが受諾したら、欧州の平和は、あるいは、一応樹立されたかも知れぬが、彼には別の立場があった。
六月二十六日、ナポレオンはメッテルニヒを、ドレスデンのマルコリイニ宮殿に招致した。その時の状況は、メッテルニヒが回想録に記している。
『ナポレオンは剣を帯び、三角帽を|腋《わき》の下にはさんでいた。私の方に向って進むと、冷静を装って、フランツ帝の健康について尋ねた。だが、直ぐに、厳しい表情になり、私の前に立ちはだかって、
「よろしい、戦争したいなら、いつでも相手になろう。私はプロシア軍をルッツェンで、ロシア軍をバウツェンで撃破した。こんどは、オーストリア軍の番というわけだ。それならウィーンで再会しよう。
人間というものは|性懲《しようこ》りないもので、過去の教訓を忘れるらしい。私は三度もフランツ皇帝の王座を救ってやったのだ。私の生きている限り、平和を守ると約束してやった。そのうえ、娘まで貰ってやったではないか。あの時は、馬鹿なことをするものだ、と自分でも思った。済んだことは致し方ないようなものの、実際、いまは後悔しているのだ」
と言った。
この時、私は自分が、全欧州の代表者なのだ、という自覚を抱いた。すると、ナポレオンが小さく見えた。
「和戦の鍵は陛下の手にあるのです。欧州の運命、欧州と陛下の将来は、すベて、陛下ひとりの意思にかかっています。陛下は、今日なら平和を結べるでしょうが、明日となっては恐らく手遅れとなりましょう」
と答えると、ナポレオンは色をなして、
「いったい私になにをせよというのだ。名誉を汚すようなことは、死んでもせぬぞ。一寸の領土も|割《さ》くものか。世襲君主は二十度敗けても、平然と首都に帰れようが、私はそうはいかぬ。私は軍人が出世しただけなのだから」
と叫ぶのだった』
こういう会話が、なんと、八時間も続いたのである。ナポレオンは、オーストリアの真意を探ろうとし、メッテルニヒは欧州ばかりでなく、フランス国民の流血をも阻止する必要がある、と説き、論争は白熱した。メッテルニヒが、
『フランスが力つきようとしているのは明白です』
と指摘すると、ナポレオンは激怒して、
『君には軍人の心理はわからない。私は戦場で育ったのだ。私にとっては、百万人の生命もたいしたことではない!』
と放言して、帽子を床にたたきつけた。
メッテルニヒも興奮して、
『そんな空恐ろしいことを、よくも|仰《おつ》しゃれたものです。さあ、ドアを開け放って、いまの陛下の言葉を、フランス全国民にきかせようではありませんか!』
と言った。
やがて夜になって、たがいの顔もよく見えなくなったのに、誰も恐れて燭火を持ってこない。そのうち、ナポレオンは鎮静し、室内を歩き廻りつつ、なにげない動作で帽子を拾うと、調子を改め、
『戦争にはならないね』
と言って、メッテルニヒを送り出したのである。
メッテルニヒの回想録なのだから、だいぶん彼自身の役割を誇張している形跡はあるが、刻々と暗さを増す宮殿の一角で、最大の英雄ナポレオンと、最高の外交家メッテルニヒが、運命の対決をする光景は、劇的な一幕だったにちがいない。
ナポレオンは、メッテルニヒの調停案を受諾すれば、結局、彼の地位さえ危うくなる、と判断したらしい。この時、スペインでジュールダン軍(フランス)がウエリントン軍(イギリス)に大敗し、フランス国境まで危険となったのは、彼にとっては、極めて不運だった。
五十日の休戦中に、ナポレオンはパリから、コメディ・フランセーズを招いて、特別公演をさせた。ライン、バルチックその他から、二十数名の王侯が参集していたので、余裕|綽々《しやくしやく》たるところを示したかったのだろう。
この時、前記のように、ナポレオンの昔の愛人ジョルジイナが、モスクワからパリに帰る途中、ドレスデンに立ち寄っていたのである。皇帝はこれをきくと、直ちに、彼女を呼び出し、名優タルマと「フェードル」を共演させた。
皇帝に召されて、ジョルジイナの心は躍る。彼女とて、ナポレオンに処女を捧げた頃の、純真|無垢《むく》の少女ではない。皇帝の寵愛が衰えてからは、ウヴラール、タレイラン、メッテルニヒと多くの高名な保護者に抱かれ、また、ベンケンドルフ伯の後を追ってモスクワに走ったほどだから、恋愛の手管も充分に心得ている。それでいながら、ジョルジイナにとっては、忘れがたい男性はナポレオンただひとりだったのだ。
いまの自分なら、肉体的にも成熟しているから、ほんとうにナポレオンを喜ばせる自信がある、と思って、念入りに化粧して、マルコリイニ宮殿におもむく。
ナポレオンは優しく微笑して、ジョルジイナを迎えた。ただ、この久しぶりの対面は、第一回が朝の七時だった。いかにジョルジイナが恋愛技術に長じていても、この時間ではなんともならぬ。暫く歓談しているうちに、たがいに、懐かしさが|潮《うしお》のように胸を浸すのだったが、海潮音が愛の奏鳴曲にかわらぬうちに、皇帝の副官が要務をたずさえて現われたので、次の機会に、ということで、そわそわと辞去するほかなかった――もの足らぬ心を抱いて。
その時、ナポレオンは彼女を呼びとめ、スクリーンのかげで、そっと抱くと、静かに額に接吻した。次の機会は、ついに訪れなかった。オーストリアがフランスに宣戦し、皇帝は出陣の準備に忙殺されたから。
それでも、皇帝はジョルジイナに、高価な宝石を届け、コメディ・フランセーズの客員の資格を与えたうえ、五年余の|失踪《しつそう》期間の給与を全額支給するように、特別に取計らった。フェミニスト・ナポレオンの一面というべきか。
諸国民の戦い
対仏同盟は、オーストリアを加えて、意気あがる。ロシア二十万、プロシア十五万、オーストリア十二万、スエーデン四万、総計五十余万の大軍(砲一、三八○門)は、必勝を期して、ドレスデンに迫る。ナポレオンは四十万の大軍団と四万の騎兵(砲一、二○○門)を集めて、エルべ河の左岸に待機する。八月下旬、戦機が熟するより早く、ナポレオンは、ロシア・プロシア軍とオーストリア軍を分断するため、迅速に東方に進出するが、敵将シュヴァルツェンベルグの有力部隊がドレスデンを脅かし始めるので、強行軍をもって、引き返す。百二十マイルを四日間で移動――当時としては|神業的《かみわざてき》スピードである――して、敵軍の虚をつく。
ドレスデン攻防戦は、八月二十六、七両日にわたり、両軍は豪雨のなかで、勇猛に戦う。第一日はフランス軍が快勝し、薄暮に至り、敵は隊形を乱して敗走する。この時、ナポレオンが追撃を指揮したら、ドレスデン会戦は、大勝利をもって終結したにちがいない。ところが、不幸にも、激烈な腹痛を訴え、戦場を離脱して、マルコリイニ宮殿に去る。野戦食のニンニクに中毒したのだ。侍僕のコンスタンは、宮殿に着いて、外套――例の灰色の外套――を脱がすと、『川のなかから拾いあげたように、ズブぬれだった』と語っている。
このために、惜しくも追撃は|挫折《ざせつ》し、敵に立ち直る余裕を与え、翌日は猛反撃を受けて、フランス軍は各地に惨敗する。マクドナルド将軍はオーデル河まで急追して、ブリュッハア軍に撃破され、ウーディノオ将軍はベルリン附近で敗退する。オーストリア軍を追撃したヴァンダンム将軍は、ついに降伏する。
ヴァンダンム降伏の報に、フランス軍本営は色を失うが、ナポレオンは病床で、地図にコンパスを当てながら、平静に、
『そうか――』
と言うと、|低声《こごえ》に、
どんな場合にも、国家の運命は
一瞬に決まることを
私は昔から知っている
と、コルネイユの悲劇を|誦《くちずさ》むのだった。
ナポレオンは、ドレスデンにサン・シール軍三万を残し、西方ライプツィヒに後退する。ここに、十月十六日から十九日にかけて、歴史に有名な「諸国民の戦争」が展開される。フランス軍十六万、敵の同盟軍はその二倍であるが、そのうえ十万の予備兵がある。この点、フランスの兵力源は底をついている。だが、ナポレオンは自信満々である。シュヴァルツェンベルグ(オーストリア)やベルナドット(スエーデン)は裏切者に過ぎぬ。アレクサンダア帝・フランツ帝・プロシア王は、幾度も彼に降伏したではないか。それに、同盟国の利害は、微妙に対立しているのだ。
だが、彼はこんどの敵軍が、単に王侯の勢力拡張欲だけではなく、諸国民の民族主義の|覚醒《かくせい》によって、精神的に鼓舞されている事実に、充分に気がついていない。例えば、プロシア軍などは、ナショナリズムの充実した、愛国的国民軍に変っているのである。
十五日夕、シュヴァルツェンベルグ軍は白い|狼煙《のろし》を、ブリュッハア軍は赤い狼煙をあげて、両軍が合流する。この時、フランスの有力な騎兵隊は強行偵察中に、敵のきらびやかな将官団を発見し、|密《ひそ》かに接近して、まさに捕獲しようとするが、不覚にも、将校のひとりが剣を落とし、音を立てたために、逃が
してしまう。この将官団は、アレクサンダア帝・プロシア王とその幕僚だった。
十六日朝、本格的戦闘が始まる。午後二時には、大勢は決定したかにみえる。ミュラアのフランス軍騎兵隊は、雷鳴の如く、|馬蹄《ばてい》を|轟《とどろ》かせて、敗走する敵陣に殺到する。ライプツィヒの教会は勝利の鐘を鳴らし始める。
だが、まだ早過ぎる。|露帝《ツア》が全予備隊を注ぎこみ、騎兵集団を放って、反撃に転ずる。戦線は混乱し、やがて、夕刻となって、砲声も喚声もやむ。
両軍の陣地には、ほとんど移動がない。ナポレオンは、二百騎の幕僚を従えて、戦場を巡廻し、将兵をねぎらう。目撃者の記録によると、白馬にまたがった三角帽と灰色外套の皇帝は、華美な軍服の集団のなかにあって、かえって、ひときわ|颯爽《さつそう》と見えた、という。だが、この時、彼は翌日の作戦を思案し、退却の是非を自問自答していたのだ。
翌十七日は、戦闘らしい戦闘はない。両軍とも休息して、隊形を整える。ただ、同盟側には十万の援軍が加わるが、フランス軍は僅かに一万増強されただけである。皇帝はオーストリア軍の捕虜将官を釈放し、フランツ帝に和議を申し入れる。返事はこない。
十八日、戦闘再開。かつてない激戦が続き、勝敗は全くわからない。その時、突然、フランス軍の一角が崩れる。友軍のサクソニア部隊が敵に寝返りつつある。フランス戦線は動揺し、苦戦におちいる。マルモン元帥も、ネイ元帥も負傷して、後送される。
この一日だけで、フランス軍は十万発の砲弾を打っている。
やがて夜になる。沈黙が戦場を支配する。皇帝は幕舎の外に木製の椅子をおき、どっかと腰をおろす。月が出る。風が吹いている。ライプツィヒの方角に火の手があがる。敵の支隊が突入したらしい。
沈思していた皇帝は、おもむろに、ベルティエ元帥に命ずる。
『退却だ』
ナポレオンがマルコリイニ宮殿に着いた時には、敵弾が市中に落下し始めている。彼は盟友サクソニア王と|訣別《けつべつ》し、ドレスデンの守備隊(サン・シールの三万)に脱出を命じたうえ、手兵をひきいて、エルスタア河の唯一の橋を渡る。橋は退却する部隊が充満し、身動きができない。皇帝も兵にもまれながら、側近と徒歩で渡る。初めて味わう敗戦の現実である。だが、彼は『それで、軍曹さんも戦争に出た』という軍歌を口笛に吹いている。
橋を渡ると、彼は一睡をとる。一大爆音で眼をさます。|恐慌《パニツク》心理に捕われた工兵が、過早に、橋を爆破したのだ! まだ、三万からの部隊が対岸に残っているのに。
三万の半数は敵に包囲虐殺されてしまう。終始勇戦したポーランド部隊も|潰滅《かいめつ》する。司令官のポニアトウスキイ公爵は、馬を水流に乗り入れるが、敵弾に当って溺死する。ダイアモンドの肩章は、元帥の階級を示している。僅か、四十八時間前に、皇帝は戦功を賞して、彼を元帥に任命したのだ。
ナポレオンの大軍団は完敗し、アレクサンダア・フランツ両帝とプロシア王は、夢みる心地で、祝盃をあげる。しかし、両軍の損害は大きい。同盟軍は戦死五万四千、フランス軍は戦死四万、捕虜二万。捕虜のうちには、サクソニア王もいる。彼は、哀れにも、コサック騎兵に監視されて、ベルリンへ、さらにベルリンからシベリアへ護送される。ライン同盟も崩壊する。
ライプツィヒ会戦の含蓄は深い。ナポレオンが親しく陣頭に立てば、決して敗けたことはなかった。その「常勝将軍」の神話が、ついに消滅したのだ。ロシア遠征の失敗に次ぐ、この敗北は、ナポレオンの威信に致命的打撃を加えた。
三色旗、地にまみれ、フランス国民は、いま、栄光の代価の余りにも高価なのを知る。ロシア遠征の犠牲者も少なくないが、その多くは外人兵だった。こんどはちがう。戦死傷者は、みな、フランス人なのだ……。
戦史の花
ナポレオンは敗軍をまとめて、マインツに退く。ライプツィヒからは二百マイルある。マインツに着いたのは、十一月二日である。その間に、十月末、義弟のミュラア元帥は、戦列から脱落して、領国ナポリに逃げ帰った。敵前逃亡である。ナポリ王妃カロリーン――ナポレオンの妹――は、かねてから、オーストリアに内通し、皇帝が失脚しても、ナポリの王座を確保することを条件に、寝返る工作を進めていたのであって、ユウジェーヌ――皇帝の義子――はナポリ軍に|牽制《けんせい》されるために、ナポレオンの救援に赴けなかったのである。実は、ミュラアがドレスデン・ライプツィヒの両戦闘に参加したのは、偶然によるものであって、彼は他用で附近に来たところ、砲声をきいて、|堪《たま》らなくなり、フランス本陣に駆けこんだのだった。
他方、皇妹エリザは、ナポレオンの没落促進をはかるフーシェと共謀する。また、皇弟ジェロームも、彼の支配するウェストファリア王国が|瓦解《がかい》し始めると、いち早くライン河を渡って、命からがら逃避する。ある村落の小ホテルの門前に、金甲|燦《かがや》く数名の衛兵を並べ、二室しかないその一室には、勲章を胸いっぱいにつけた侍従の一群が、|生《なま》|欠伸《あくび》を噛み殺している。まさに、|田舎《いなか》役者の演ずる喜劇ではないか。
ナポレオンは十一月九日、「緑色馬車」でパリに着いた。これは二人乗りの六頭だて大型馬車で、特製の|抽斗《ひきだし》に、地図や書類が多数収めてあり、「走る本営」の名に恥じなかった。同伴者は、いつも、ベルティエ参謀総長にきまっていた。皇帝はこの馬車――「走るホテル」でもあった――で寝起きしつつ、欧州大陸を縦横に疾駆したのである。
皇帝がパリに到着するのと前後して、同盟軍三十万はフランクフルトを占領した。また、ウェリントン将軍のイギリス軍精鋭は、敗走するフランス軍を追撃して、ついに、フランス領内に侵入した。ナポレオンが権力を握って以来、初めて、外敵の侵攻を許したのである。
だが、逆境に立つと、かえって、軍事的才能が光輝を発するのが、ナポレオンなのである。十週間、営々として努力した結果、ともかく軍隊を再建した。最後の動員令をもって、二十八万の新兵を徴集したが、農村には婦人と老人しか残らぬ状況となり、納屋に潜んで、兵役を回避する者も少なくなかった。しかし、青年層は依然として、熱烈に、ナポレオンを崇拝し、軍旗のもとに集まった。なんといっても、彼は時代精神の象徴だったのだ。
青年だけではない。国民軍を創設した大先輩カルノオ将軍は、六十一歳の|老躯《ろうく》をひっさげて、|馳《は》せ参じた。進歩的思想を抱く、この孤高の将軍は、ナポレオンの権勢欲に反撥して|袂《たもと》を分っていたのだが、祖国の危機を傍観しがたく、軍務復帰を願い出たのである。このように、「祖国危うし」となれば、国民のナショナリズムは燃えあがるのである――炎のように、烈々と。
一八一四年一月二十三日、皇帝は五万の部隊をひきいて、チュイルリイ宮殿を進発する。四十五歳の分別盛りである。皇后マリイ・ルイズは、三歳になったローマ王とともに見送る。これが最後の別れとなろうとは、神ならぬ身の知る由もない。
出発に際して、皇帝はタレイランを鋭く凝視して、
『外敵だけではない。パリにも敵がいることはわかっているのだ』
と言う。そして、首都防衛司令官の皇兄ジョゼフに、パリの各城門に守備隊を配置し、いざという時には、皇后と王子を必ず脱出させるように、|細々《こまごま》と指示する。城門の守備隊は、なんと、各門に二百五十人ずつなのだ!
この時、シュヴァルツェンベルグ軍二十万、ブリュッハア軍五万、ベルナドット軍三万は、アレクサンダア帝の大軍を後詰めにして、ライン河を越えて、フランスの|沃野《よくや》に乱入し、放火掠奪をほしいままにしつつ、パリに向って進撃している。
フランス軍の別働部隊は、ケルンにマクドナルド軍、ライン河後方に、マルモン・ヴィクトル軍、マインツにベルトラン軍、リオンにオージュロウ軍が散在し、スペイン国境附近では、スール軍がウェリントン軍の攻勢を支えている。
フランス軍は十対一以下の劣勢である。それにもかかわらず、ナポレオンは軍事的天才を存分に発揮し、|寡兵《かへい》をもって、敵軍を随所に連破する。二月九日にはブリュッハア軍を、十七日にはシュヴァルツェンベルグ軍を撃破するが、ナポレオンは弾雨のなかを、白馬を走らせ、ある時は大砲の射程をみずから指示し、ある時は先頭に立って突撃を指揮する。あたかも、イタリア遠征の頃の若きボナパルトを再現するかのようである。三月に入っても、ランスに、キャロンヌに、ラオンに転戦して連勝する。雪と泥が、地理に詳しいフランス軍を援けている。ロシア遠征とは逆である。この時の軍事行動は、「ナポレオン戦史の花」として、後世に賞讃されているが、白馬の皇帝が幕僚をひきいて進む雄姿は、メソニエの不朽の画面に|彷彿《ほうふつ》として残っている。
だが、しょせんは、|剣 闘 士《グラデイエイタア》の最後の力闘に過ぎない。三月末、皇帝はマリイ・ルイズに簡単に書翰を送り、戦況はよいと記したうえ、『敵軍をパリから引き離すために、これからマルヌに向う』と報せる。末尾には『息子を抱擁する』と書いてある。これが、不運にも、コサック騎兵に奪われる。
敵軍はナポレオンを放置し、全軍パリに向う。マルモンは首都正面で善戦するが、大勢は既に決している。モンマルトルの丘から、ジョゼフとジェロームの兄弟は観戦するが、形勢非なりとみて、早々に脱出を決意する。
ローマ王は、宮殿内外の唯ならぬ気配に|脅《おび》え、泣きじゃくって、ドアにしがみつき、マリイ・ルイズがいくら叱っても、離れようとしない。やっと|宥《なだ》めて、ジョゼフ共々に、ランブイエに落ちていく。ジョゼフは首都防衛司令官なのに、義務を放棄するばかりでなく、マルモン元帥に敵軍と交渉する権限を与え、ただ逃げ急ぐ。陰謀家タレイランの同行を求めることも忘れて。
パリ市内では、早くも、白い帽章をつけた王党派が、騒々しく、示威を始めているが、タレイランは、その名もリュウ・ド・パラディ(楽園)の私邸で、怪しく、ほくそ|笑《え》みつつ、王政復古を期待して、新憲法の起草に着手している。
そこへ、同盟軍十八万が、|露帝《ツア》とプロシア王を先頭に、歩武堂々と入城する。露帝はタレイラン邸に仮泊する。チュイルリイが爆破されるのを恐れたのだが、アレクサンダア帝は、『これは貴下を盟友として信頼する証左であり、フランスの処置については、誰よりも先ず貴下の意見をききたいからである』と言って、タレイランを喜ばす。いまや、フランスの運命は、露帝がひとりで握っているも、同然なのだから。
退位
さりとは知らぬナポレオンは「パリ危うし」の急報に接すると、転進して、フォンテーヌブロウに向う途中、脱走兵からパリ開城の事実をきき、怒髪天を|衝《つ》いて憤激する。側近は、これほどナポレオンが激情を示したことは、かつて見たことがない。
しかし、事態は、彼の意見を無視して、冷酷に進む。
四月一日、パリに臨時政府が樹立され、タレイラン以下四名が中心となる。タレイラン・フーシェの合作体制である。続いて、二日、元老院はナポレオンを非難して退位を要求する。市会はブルボン王朝回復を決議する。
三日、ナポレオンは親衛隊を閲兵し、フォンテーヌブロウ宮殿に、宿将を集め、残兵二万五千をもって、パリに進撃する作戦を|披露《ひろう》する。だが、マクドナルドは『パリをモスクワと同様に灰にするに忍びない』と言い、ネイも『もはや、軍隊は行進せぬ』と断言して反対する。ナポレオンは、やむを得ず、退位して、ローマ王に帝位を譲るほかない、と考え、ネイ、マクドナルド、コーランクールの三将を、同盟軍本営に派遣して、交渉させる。コーランクールは外相になっている。
交渉が微妙な段階にある時、五日、マルモンは一万二千の軍をひきいて、敵陣に合流する。彼はナポレオンの二十年来の戦友である。それをみて、ネイもブルボン王朝に恭順の意を表する密書を、同盟側に送る。オージュロウもまた敵軍と内通を始める。
こうして、ナポレオンが|卒伍《そつご》の間から起用し、元帥の地位と|公爵《デユーク》の栄誉を、惜しみなく与えたのにもかかわらず、むしろ、その栄爵と財産を救わんがために、年来恩顧の部将は、この|期《ご》に及んで、冷やかに彼を見棄てる。マルモンはラグウサア公爵だから、その変節を|嘲《わら》って、時人は raguser という新語をつくった。裏切りの意味である。ナポレオンに最後まで忠誠だったのは、報われるところの少ない、無名の兵士なのである。
六日、ナポレオンは静かに退位宣言に署名する。
『同盟列強は、欧州平和回復の唯一の|障碍《しようがい》は、ナポレオン皇帝であると宣言したので、皇帝は自己の宣誓に従って、彼自身ならびに嗣子が、フランスとイタリアの王位を放棄することをここに声明する。フランスの利益のためなら、皇帝はいかなる犠牲をも忍ぶから』
という文面である。ついに、愛児の王位継承権さえも、放棄せねばならなかったのだ。なんのために、ジョセフィーンを離婚し、なんのために、マリイ・ルイズと結婚したのだろう。そのマリイ・ルイズには、幾通手紙を書き送っても、一通の返事もこないのだ。
この時、ひとりだけ、変らぬ|誠実《まごころ》を示した女性がいる。マリイ・ワレフスカである。彼女は、暮夜、幼児アレクサンダア――皇帝との間に生れた愛の結晶――の手をひいて、フォンテーヌブロウを訪ねてくる。だが、皇帝は会わない。密偵の眼を恐れているのである。いま、ワレフスカに会っては、マリイ・ルイズを失い、ひいてはローマ王をも失うにちがいない、と考え、心を鬼にして会わない。ワレフスカは涙ながらに、淋しく帰っていく。女は言わず、花は語らず、英雄ノ心緒乱レテ糸ノ如シ。
その夜半、ナポレオンは毒を仰ぐ。かつて、全欧州を支配した大帝国と、いさぎよく、壮大なる最期をともにしたかったのだろう。
暗示的である。翌朝のロンドン・タイムス紙は、『|彼は倒れつつある、倒れつつある《ヒイ・イズ・フオリング・フオリング》』と題する社説を掲げたのである。
毒薬は効かなかった。古過ぎたのである。モスクワ遠征に携えていったままだったから。
かくて、同盟国の条件によって、「エルバ島に流され、年額補助六百万フランを受け、皇帝の称号を保持し、四百人の近衛兵を保有する」ことになる。エルバは九十平方マイルの小島である。大帝園から小島へ――運命という名の戯曲家は残酷である。
(1)メッテルニヒ(一七七三―一八五九)オーストリアの名門としてきこえる伯爵家の長男。父はオランダ総督だったが、フランス革命の余波を受け、メッテルニヒ家は多くの領地を失った。母が有能だったので、宰相カウニッツ公の孫娘と結婚し、外交界に進出する機会をつかんだ。一八〇一年ドレスデン公使になり、二年後ベルリン公使になって対仏同盟結成に成功した。同盟軍惨敗後、フランス大使となって、ナポレオン皇帝を観察して、つぶさに、その弱点を研究した。一八○九年外相に就任し、皇女マリイ・ルイズとナポレオンの婚儀を推進した。時を稼ぐ方便だった。ナポレオンがロシア遠征に失敗すると、フランスと開戦し復讐の悲願をとげた。ウィーン会議議長。一八二一年には首相となる。保守主義のチャンピオンとして、神聖同盟を組織したので有名である。
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第十一章 百 日 天 下
その軍服ではいや
出発の時がくる。
四月二十日、ナポレオンは、フォンテーヌブロウ宮前において、最後の閲兵をする。悠然と白馬から降り立つと、隊列の前に立って、おごそかに告別の辞を述べる。
『兵士諸君。諸君とは長年苦楽を共にしてきたが、ここで別れねばならぬ。二十年の間、私は諸君とともに、一路栄光の道を歩いた。この数週間に、諸君が示してくれた勇気と忠誠を、私は永久に忘れないだろう。諸君のような勇士がいる限り、勝利は疑いない。だが、内戦は避けねばならぬから、私は一切の個人的利益を犠牲にして、進んで祖国に奉仕するのだ。だが、諸君と別れるのは、やはり実に辛い。その代り、諸君と一緒に成しとげた偉大な業績を記録にして、歴史に残す積りだ。最後に、心から諸君を抱擁する。
親愛なる戦友諸君、さようなら。別れに際してせめて、軍旗に接吻することを許してもらいたい』
兵士は|喉《のど》も裂けよとばかり、『皇帝万歳!』を連呼する。満面の涙、|嗚咽《おえつ》、号泣。
プティ将軍が軍旗を捧げて、一歩前へ出ると、皇帝は|旗竿《はたざお》の金の|鷲《わし》に唇をつける。隊列からは、また、津波のように、『皇帝万歳!』の怒号がわきあがる。一波また一波。
ナポレオンは、怒号をあとに、静かに馬車に乗る。
詩人イェーツは、この光景を、『恐ろしいまでに美しい』と歌っているが、さもあったろう。
乗船地はフレジュス。彼が十五年前に、エジプトから脱出した時に、上陸したゆかりの地点である。そこまで、マリイ・ルイズは同行することになっているのだが、さらに姿を見せない。
フレジュス港までの八日の旅行は、散々である。南にくだるに従って、兵の嗚咽の代りに、群衆の|呪誼《じゆそ》を浴びる。『暴君を倒せ、独裁者を殺せ!』と絶叫しつつ、彼等は馬車に投石し、皇帝を引きずり出して、私刑を加えようとする。血と泥によごれたナポレオン人形を、町の広場で焼くのだ。皇帝はオーストリア大佐の軍服を借用し、変名して、やっと危難をまぬがれる。
フレジュス。二十一発の礼砲に迎えられて、イギリス軍艦アンドーンテッド号に乗り移る。ベルトラン元帥と四百名の近衛兵が、あとから乗りこむ。親衛隊隊員は、この四百名のなかに選ばれようと、みな烈しく競争したのである。
五月三日、皇帝はエルバ島に着く。
この間に、皇帝の家族は、強風に舞う木の葉のように、散り散りになる。
マダム・メールは、かねての予言が適中したのだから、さして驚く様子もない。彼女は弟のフェシュ枢機卿と、ローマに落ちる。ルシアンもエリザも後を追う。ジョゼフ、ルイ、ジェロームの三王は、|慌《あわ》てふためいて、スイスに逃亡する。カロリーンは夫のミュラア元帥を|鞭撻《べんたつ》し、ユウジェーヌ軍を攻撃させる。同盟側とくにオーストリア政府の歓心を求めるためである。
醜態を演じないのは、美貌のポーリーンくらいのものである。彼女の乱行は有名であって、皇帝がモスクワに滞陣していた頃は、名優タルマと同棲していたし、その後も、幾度となく男をかえている。だが、ひとたびナポレオンが逆境におちいると、ボルゲーゼのプリンセスはコルシカ女にかえり、城を売り、絵を売り、宝石を売って、惜しみなく軍資に提供した。皇帝が|悪罵《あくば》と嘲笑にさいなまれて――ナポレオンは生理的に|暴徒《モツブ》を嫌った――深刻な幻滅を味わいつつ、フレジュスに着いた時に、美しく微笑して迎えたのは、このポーリーンだけである。彼女はタルマと恋愛している時、月明の夜、湖心に小船を漕ぎ出し、豪華な夜会服を脱ぎすてると、驚く恋人の前に全裸となり、|飛沫《ひまつ》をあげて、水中に身を投じたものである。情熱の女なのだ。いま、ポーリーンは、俗世的な財宝を古いドレスのように、未練なく、かなぐりすて、失意の兄に従って、配所に赴こうとするのである。
ナポレオンが嬉しそうに抱き寄せると、ポーリーンは、
『いや、その軍服ではいやだわ』
と拒む。
皇帝は苦笑して、白いオーストリア軍服を脱ぎ、緑に赤い縁をとった、常用の軍服に着換え、改めて、兄妹の抱擁をするのだった。
ほんとうの女だった
では、ジョセフィーンはどこにいるのか。マリイ・ルイズがパリから逃亡する前後に、ジョセフィーンもマルメイゾン離宮を棄てて、領地のナヴァル城に逃避した。ダイアモンドをドレスの|裾《すそ》に縫いこみ、財宝を十数頭の馬に積み、数名の侍女にかしずかれて。
ナヴァルに着いたのは、パリ開城の日である。その数日後に、彼女はタレイラン――臨時政府首席――に書翰を送り、マルメイゾンの保持を許されたいこと、ナポレオンと離婚した時に与えられた身分・財産を改めて保障してもらいたいこと、などを|細々《こまごま》と依頼している。
その必要はなかったようだ。同盟国側は、ジョセフィーンに百万フランの年金(娘のオルタンスには四十万フラン)を認めたのである。ところが、四月九日、彼女は息子のユウジェーヌに、こんな手紙を書いている。
『この一週間ほど惨めな思いをしたことはありません。皇帝に対する仕打は、あまりにひどいと思います。新聞は口汚なく|罵《ののし》り、恩寵を受けた人びとは、争って、裏切るのです。もう、絶望です。万事終りました。皇帝は退位するのです。
お前は自由です。忠誠の誓約から解除されたのですよ。これ以上、皇帝のために、お前がなにをしたところで、すベて無益です。
家族のために善処なさい』
書かずもがなの手紙だった。この時、ユウジェーヌは、敵に降伏した義父バヴァリア王が帰順を勧めても、一歩も譲らず、勇戦していたのだ。彼だけは、最後まで、部署を死守していた。
この数日後に、ナポレオンはフオンテーヌブロウから、ジョセフィーンに手紙を送る。
『八日に書いた手紙は、多分、敵に奪われたことだろう。まだ、交戦中だったから。
戦闘はやんで、通信連絡が回復したようだから、この手紙は、きっと、着くだろう。
私は決意した。その前には、つくづく情けないと思った。だが、いまは、かえって、良かったと考えている。これで巨大な重荷を肩からおろすことになって、さばさばした気持だ。私の失脚は大きい。しかし、みんな、これが国益に寄与する、というのだ。
配所では剣をペンにかえる積りだ。私の治世の物語は、世間を驚かすにちがいない。彼等は私の一面しか見ていない。私の全面を見せてやるのだ。書くことは、それこそ山ほどもある! みんな、私を誤解しているのだから。無数の卑劣漢に幾多の恩恵をほどこしたのに、彼等は私に対して、最後になにをしたか?
みんなが私を裏切った。そうだ、みんな、忘恩の徒だ。僅かに例外はユウジェーヌだけだ。彼だけは、私と|貴女《あなた》の子にふさわしい立派な行動をとった。新王が彼の美質を認めることを念じている。
さよなら、愛するジョセフィーン。私と同じように、|諦《あきら》めて運命に従うことだ。
貴女を忘れたことは決してない。忘れることも決してない――永久に』
これが最後の手紙である。
このすぐあとで、彼女はマルメイゾンに帰る。ナポレオンはまだフォンテーヌブロウにいる。だが、ジョセフィーンは皇帝のもとにはいかない。
|露帝《ツア》が来訪したからである。アレクサンダア帝は、ジョセフィーンがマルメイゾンに帰ると、その翌日、待ちかねたように、会いにきた。
露帝はジョセフィーンを、騎士的に|労《いたわ》りながら、肩を並ベて、宮宛を散歩した。楽しそうな様子をみると、来あわせていたオルタンスは、露帝に挨拶もそこそこに、フォンテーヌブロウに馬を走らせ、ナポレオンがエルバに出発するまで、片時も|傍《かたわ》らを離れなかった。
露帝は毎日のように通ってきた。
『陛下は将来について心配を抱かれている御様子ですが、そんな必要は全くありません。その点は私がお約束致します。陛下の御親切に甘えるようですが、マダム、金曜日の晩餐のお招きを、ありがたくお受け致します』
こんな手紙が残っている。露帝が「ジョセフィーン皇后陛下」に書いたものである。いかにも、ロマンティストらしいではないか。
露帝ばかりではない。同盟軍の銃剣に護られて、ルイ十八世――処刑されたルイ十六世の弟――がチュイルリイ宮殿に入ると、ブルボン王族や旧貴族も、続々と、パリに帰ってきたのだが、彼等も競って、マルメイゾン離宮に伺候したのである。
ジョセフィーンの身辺には、名門の旧貴族が多勢いた。そのひとり、マダム・レミュザは|統領《コンスル》時代から女官長をしていたが、彼女は、ほかならぬタレイランの情人だった。それに、ジョセフィーン自身が、恐怖政治の犠牲になった、かのボーアルネエ子爵の夫人だった。
それだから、マルメイゾンは、王政時代を復元したように、華やかな社交場となり、華美を好むジョセフィーンは、ルロア服飾店に命じて、幾着もの夜会服を新調するのだった。
ブルボン一族は、二十余年の亡命生活から帰国したばかりであるから、自信がないし、ナポレオンの潜在的人気は、依然として大きい。従って、政策的見地からも、ジョセフィーンを歓待する必要を感じていたのであって、タレイランもメッテルニヒも抜け目なく彼女を優遇した。
こうして、ジョセフィーンは、はからずも、時のひととして脚光を浴び、露帝のみならず、プロシア王もバヴァリア王も、その他の群小君主も、夜ごとのマルメイゾンの晩餐に招かれて、音楽に舞踏に、歓をつくすのだった。
五月二十四日、彼女は、アレクサンダア帝を主賓とする、盛大な夜会を催す。露帝とジョセフィーンが、まず、相擁して踊り始める。一曲二曲ワルツを踊ると、ふたりはそっと庭に出る。さわやかな初夏の宵である。ジョセフィーンは、|蝉《せみ》の羽のように薄い、ローブ・デコルテをきている。月光が、露出した胸に、背に、腕に、玉の露を落とさんばかりの|風情《ふぜい》である。
『ギリシア美神の彫刻そのままですよ、|陛下《マダム》は』
アレクサンダアは、ジョセフィーンの手に接吻する。風が出て、木の葉を鳴らす。ジョセフィーンは、寒いと言う。
その翌日から発熱し、五日後の二十九日、ついに永眠した。五十一歳の誕生日まで、あと二十五日あった。その日には、露帝が一大祝宴を設けるはずだった……。
|遺体《なきがら》は、四日間、教会に安置され、王侯顕官のほか、二万のパリ市民が弔問した。葬儀も盛観だった。葬列はロシア兵が銃を捧げて|堵列《とれつ》するなかを、おもむろに行進した。ぬか雨が降っていた。
ジョセフィーンの|数奇《すうき》なる一生は、かくて、静かに幕をとじた。
彼女の死を、誰も、ナポレオンに|報《しら》せなかった。皇帝の侍僕がエルバ島から帰国の途中、ジェノア(イタリア)の新聞に|訃報《ふほう》がのっていたので、驚いて送った。
ナポレオンは、
『これでジョセフィーンも本当に幸福になれる』
と言うと、一室にとじ|籠《こも》ったまま、飲食を断って、終日、誰にも会わなかった。
その頃、パリでは「|善良《ラ・ボンヌ》なジョセフィーン」と題するパンフレットが、飛ぶように売れていた。
『彼女はいつも優雅だった。ベッドのなかでさえもエレガントだった……恋愛技術が巧みだったが、それが、どんなに大切かということをよく知っていて、遺憾なく活用したものだ……私は心から愛していた。でも、尊敬はしなかった。ウソつきだったから。
しかし、なんともいえぬ魅力を持っていた。ほんとうの女だったのだよ』
これがナポレオンの最後の評価である。
エルバ島脱出
エルバ島のナポレオンには、少しも悪びれたところがなかった。いかなる状況においても、自己を戯画化せぬのが、ナポレオンの真価なのである。道路を建設し、防波堤を修繕し、砲台を構築した。鉱山を開発し、塩田を開拓し、|養蚕《ようさん》を奨励した。病院を建て、劇場を設け、学校を開いた。そして、小海軍を整備し、小陸軍を編成した。四百人の近衛兵は、一千人の部隊に強化された。
少なくとも、最初の数カ月は、「エルバ島皇帝」で一応は満足していたようだ。マリイ・ルイズに送った手紙にも、『この安息の島で、ともに静かに、余生を楽しもうではないか』と書いている。
マリイ・ルイズは、パリ落城に際し、ランブイエに逃れたが、そこから父帝フランツに引き立てられるようにして、ウィーンに連れ去られ、厳重な監視のもとに置かれた。初めのうちは、ナポレオンを慕ってもいたようだし、ローマ王を連れて、エルバ島に渡る積りだった。
それを極力妨害したのは、メッテルニヒである。彼はローマ王をナポレオンに養育させたら、第二のナポレオンになる危険がある、と恐れていた。また、マリイ・ルイズをナポレオンの配偶にしたのは、オーストリアが国力を回復するまで、時間を稼ぐ方便に過ぎなかった。だから、ナポレオンが失脚したからには、この結婚は解消すべきものだった。元来、メッテルニヒは正統主義――正統な王朝の権利を擁護する――の伝統を強く身につけている保守政治家であって、のちに「神聖同盟」を推進したほどだから、「革命の子」ナポレオンに共鳴する|筈《はず》はない。
そこで、彼は、先ず、ナポレオンとマリイ・ルイズの文通を断ち切った。双方の手紙を、途中で握りつぶしたのである。ナポレオンのマリイ・ルイズ宛書翰は、メッテルニヒが一読したあとで、父帝に渡した。マリイ・ルイズの手紙は焼き棄てた。そして、ある期間が経過すると、ナポレオンと通信することを厳禁した。
これと同時に、メッテルニヒは、ナイッパアグ伯爵をマリイ・ルイズの侍従武官に起用した。ナイッパアグは四十代の将軍だったが、戦傷で一眼を失っていたのにもかかわらず、女性には人気があった。音楽その他の文化的素養が豊かで、一種のダンディだったのである。当時はポラという美貌の情婦と結婚するため、夫人を離婚したばかりだった。メッテルニヒは、この|隻眼《せきがん》伯爵に、マリイ・ルイズの|閨房《けいぼう》の|無聊《ぶりよう》を慰める任務を与えた。どうやら、ナイッパアグは、はまり役だったらしく、マリイ・ルイズとスイスを旅行中に、首尾よく、この微妙な使命を果たした。
行楽中に、思いがけなく暴風となり、彼等は、とある礼拝堂に仮泊したのである。記録によると、九月二十四日となっているから、ナポレオンがエルバ島に着いてから、五カ月弱|経《た》っている。その後、マリイ・ルイズは伯爵に夢中になり、ナポレオンのことは完全に忘れてしまった。
メッテルニヒの計略は図に当ったのであるが、さらに彼はローマ王――やっと三歳になった――をマリイ・ルイズから引き離し、ホーフブルグ(宮城)の一室に軟禁した。ナポレオンのスパイが|誘拐《ゆうかい》することを、警戒したのである。ローマ王は明朗活溌な子だったが、古城に孤独の生活を送るうちに、次第に、陰気病弱になり、間もなく肺病にかかった。
さりとは知らぬナポレオンは、マリイ・ルイズが依然として彼に貞節であり、彼女がエルバ島に来ないのは、もっぱら、オーストリア政府が妨害しているためだ、とばかり信じていた。
エルバ島には、母のレチツィアも来住したので、ポーリーンも同行してきたことでもあるし、もし、マリイ・ルイズとローマ王が合流していたら、彼はさだめし、「安息の島」に安住したことだろう。事実、彼は宮殿を新築し、その寝室に、マリイ・ルイズの好きそうな調度品をそろえ、壁には、二羽の鳩が雲にさえぎられている絵を描かせていた。その鳩の足は赤いリボンで結ばれていた。
いつまでも来ぬ|女《ひと》を、忍耐強く待ったのだ。
九月一日、マリイ・ワレフスカが、四歳になる愛児アレクサンダアを伴って、訪れてきた。ナポレオンは「ポーランドの妻」を、丘のうえの迎賓館エルミタアジュに案内した。栗の老樹にかこまれ、野花の|薫《かお》る別邸である。折から登る月を仰ぎながら、彼等は馬を歩ませた。
ナポレオンは庭に天幕を張り、二人の侍僕とともに幕舎に移ったが、夜半、ドレッシング・ガウンを羽織って、エルミタアジュに忍び入り、夜明けまで帰らなかった。
ワレフスカは二十五歳になっている。ワルソオやウィーンで、燃える恋を語った頃とくらべると、美しさは少しも変らぬが、哀愁のかげりが、ひとしお、彼女を|可憐《かれん》にしていた。
愛撫は三夜に及んだ。それでも、ナポレオンが、わざわざ天幕を張って別居を装ったのは、島に滞在する同盟国代表(ロシアとオーストリア代表がルイ十八世代表とともに常駐していた)やスパイの眼を欺くためだった。つまり、マリイ・ルイズの来島を妨げる恐れのあることは、慎重に避けたのである。さもなかったら、ワレフスカはエルバ島を、立ち去らなかったろう……。
ナポレオンには、他にも種々の不満があった。パリの新政府は、退位の条件を履行せず、年金の支給を怠ったし、チュイルリイ宮に残されたナポレオンの私財をも没収してしまった。だから、ワレフスカが辞去する時に、皇帝が彼女に贈った六万フランは、侍僕から借りたものだった!
それに、メッテルニヒやタレイランは、幾度も、ナポレオンの暗殺を企てて、刺客をエルバ島に潜入させていたし、もっと遠方に移せ、という主張もあった。
しかも、ブルボン王朝復活は、必然的に、貴族や僧侶の階級的|擡頭《たいとう》をうながし、旧体制に逆戻りする傾向を示したので、ルイ十八世は、日とともに、不人気になった。ブルボンは亡命中になにごとも学ばなかったのだ。とくに、貴族が軍職に復帰し、将校兵卒は大量に解雇され、失業せぬものは給与を半減されたので、衣食にも窮し、軍隊には不満が|鬱積《うつせき》しつつあった。それになんといっても、占領軍の銃剣に依存する政府は、国民のナショナリズムの反撥を受けることは、避けがたかった。
これが、ナポレオン時代に対する郷愁になり、失われた栄光に対する思慕になるのは当然であって、八月十五日の皇帝の誕生日には、当局の警告にもかかわらず、『皇帝万歳』を叫ぶ示威が行なわれる状況だった。ナポレオンはスパイを通じて、このような民心の動向をよく知っていた。
のみならず、もし、適時に、彼が行動を起さぬと、デューク・ド・オルレアン(一八三〇年の七月革命によって王位に|即《つ》いたルイ・フィリップである)がクーデタアを起す可能性があった。そして、九月半ばに始まったウィーン会議は、列国の利害が衝突し、紛糾のうちに越年して、難航を続けていた。
事を起すならいまだ。
一八一五年早春、ナポレオンは決心をすると、師団参謀でもあるかのように、みずから綿密周到な脱出計画に着手した。この計画くらい、彼の知能犯的才能を、よく示すものはない。部隊の集結、艦船の調達、航路の選定、脱出の時期、すベてを|隠密《おんみつ》に取り運ばねばならぬ。フランス上陸の際に行なう宣言や、パリ到着とともに出す布告も、自分で起草した。その|写し《コピイ》を何百枚となく、腹心の部下に作らせたのである。
出発の前日、貴婦人相手のトランプ遊びをやめて、さりげなくテーブルを離れると、彼は庭の一隅で編物をするレチツィアの傍らに立ち、
『お母さん、これは極秘なのです。ポーリーンにも報せてはいけない……実は、明晩出発するんです』
とささやく。
『どこへお行きだね』
『パリへ』
母はアッと心で叫ぶ。やっぱりそうだったか! この数カ月、気に入りの息子と楽しく、水入らずで過ごしたが、この生活も、「運命」の強欲な手によって、忽ち奪い去られてしまうのだ。レチツィアは一瞬たじろぐが、すぐに、立ち直って、静かに言う。
『お前さんの運命に従うがよい。神さまは、お前が剣で倒れることを望んでおられるのでしょう』
翌二月二十六日未明、ナポレオンは七隻の小巡洋艦に一千百の兵を分乗させ、密かに出港する――祖国フランスに向って。
会議は踊る
一八一四年九月中旬から、ウィーンに集まった欧州諸国の代表は、ナポレオン戦争の跡始末をするために、連日協議を続けていた。
だが、会議議長のメッテルニヒが嘆いたように、『会議は踊ってばかりいて、少しも前進しなかった』
ウィーン会議は、ロシア・オーストリア・プロシア・イギリスの四戦勝国が中心になって、戦後の勢力均衡を樹立するために、開催したものであるが、タレイランは敏腕をふるって、四強国のなかに割って入った。同盟国は、ナポレオンという共通の大敵がいる間は、とにかく結束していたが、彼が失脚すると、忽ち反目し始めた。最も困難だったのは、ポーランドの処置であって、ロシア・プロシアとオーストリア・イギリスが烈しく対立し、会議は決裂に|瀕《ひん》した。タレイランは巧みに、この危機的情勢を利用し、オーストリア・イギリスと秘密同盟を結ぶことに成功した。これが一八一五年初めのことである。
その間、ウィーン会議は、音楽会・観劇会・園遊会・仮装舞踏会と、連日連夜、歓楽の限りをつくしていた。十月二日のオーストリア皇帝主催の大夜会には、当時の記録によると、一万二千人が招かれ、二つの大広間には八千の燭火が点ぜられていたという。一つの広間は金と赤、他の広間は銀と青。その広間いっぱいに、盛装の男女が、夜を徹して、ポロネーズを踊ったのである。ところが、一晩で、帝室紋章のついた銀器が、三千箇も紛失したのだから面白い。
今日は四千人、明日は二千人と、大舞踏会は毎夜続くので、衣裳店には「|飢饉《ききん》の時のパン屋の店頭のように」美しい顧客が殺到した。実に、ウィーン会議は、策謀と舞踏と恋愛のカクテルだった。そのカクテルを調合したのは、メッテルニヒとタレイランである。最大の権力を握る|露帝《ツア》は、美女を擁して陶然と
していることが多かった。余説になるが、某公爵夫人をメッテルニヒと奪い合っていたのである。三月初めには、ポーランドに続いて、他の難問(例えばイタリア)も、ようやく、解決の|目途《めど》がつき、まずは決裂の恐れもなくなったので、会議はいよいよ、メッテルニヒ・タレイラン合作のカクテルに酔い|痺《しび》れるのだった。
だから、ナポレオンのエルバ島脱出のニュースは、舞踏会場に爆弾を投げこんだ、のと同じだった。
メッテルニヒの回想録には、
『三月六日は夜も多忙で、ベッドに入ったのは七日の午前三時だった。だから、急報がきても起すなと命じておいた。それにもかかわらず、六時に起された。至急情報だといったが、発信人を見ると、「ジェノア総領事」とあるので、さしたることもあるまいと思って、開封せずに眠ってしまった。
しかし、寝つかれぬので、七時頃、先刻の封書を読んでみた。「イギリス艦長が、エルバ島を脱出したナポレオンの|行方《ゆくえ》を探している。本官が、ジェノアに上陸した形跡はない、というと、艦長は早々に出港した」という内容である。
早速、身仕度をして、八時にフランツ皇帝に報告した。皇帝は冷静に、「ナポレオンは冒険をやるらしい。われわれとしては、飽くまで欧州平和を維持せねばならぬ。直ぐに、露帝とプロシア王に連絡し、わが軍はフランスに進撃する用意がある、と申し入れよ」と命じた。
八時十五分に露帝、八時三十分にプロシア王に会った。いずれも、わが皇帝の意見に賛成した。十時には、イギリス代表ウェリントン将軍、ロシア代表ネッセルロード伯爵、プロシア代表ハルデンベルヒ公爵が、私の招きに応じて参集し、直ちに対仏戦備に着手することに一致した。すベて一時間で決まった。
続いて、タレイランが来たので、ジェノア情報を見せた。彼は表情を変えずに、ナポレオンはどこに向っているのか、ときいた。それはわからぬと答えると、彼はイタリアに上陸して、スイスに侵入するだろう、と言ったので、私はパリに直行すると思うと述べた』
と記してある。
マリイ・ルイズも、すぐに、この重大ニュースをきいた。彼女はなにも言わずに、席を立つと寝室にとじ籠ったが、暫くの間、烈しく泣きじゃくる声が、侍女たちの控えの間にもきこえた。既に、ナイッパアグの|胤《たね》を宿しているのである。
ウィーン会議の小国代表は、名状しがたい大混乱におちいった。|檻《おり》のなかの猫をからかっていた鼠の群れが、猫が檻を破って出てきたので、慌てふためいて、逃げまどうのに似ていた。
パリ入城
この三月七日は、ナポレオンの運命を左右した日である。
彼はイギリスの|哨戒線《しようかいせん》を突破して――ウィーンではイギリス海軍の怠慢を非難する声が高かった――三月一日、フレジュスに上陸し、人口の稀薄な険しい山路を選んで北上した。そのために、大砲まで遺棄したのである。そして七日に、、グルノール近郊に達した。
この間に、国王政府は五日ナポレオン脱出の急報に接すると、スール陸相に命じて、三万の討伐軍を差し向けることにした。スール元帥は、討伐軍に参加するマクドナルド、サン・シール、ネイ各元帥と同じく、ナポレオン恩顧の武将だから、内心|頗《すこぶ》る当惑した。
ナポレオンの部隊はグルノーブルで、国王の軍隊と初めて|遭遇《そうぐう》する。銃火を交えたら、万事は休するのだ。
皇帝はひとり進み出ると、
『第五軍の兵士諸君、私がわかるかね』
と言うと、例の灰色の外套を脱ぎすて、胸を開いて、微笑し、
『諸君の皇帝を射ちたい者がいるなら、いまだ。私はここに立っている!』
と叫ぶ。
期せずして、隊列から、『皇帝万歳!』の喚声が起る。大隊長は剣を皇帝に渡して、恭順を誓う。この瞬間にパリへの無血行進は保障されたのである。
グルノーブル市に入ると、皇帝は、『私の生涯は国民の平和と幸福のためにのみ存在する』という布告を出し、歓呼して迎える兵士には、
『諸君、ウルム・アウステルリッツ・イエナ・フリードランド・ワグラム・モスクワで掲げた栄光の鷲章旗を、再び、高くふりかざそうではないか……鷲の一群は、ノートルダム寺院(パリ)のうえに翼を休めるまで、一つの尖塔から、他の尖塔へと飛び続けるだろう!』
と呼びかける。
彼は七千の軍隊を得て、前途に対して、自信を強める。マリイ・ルイズに急便を送り、『すベては順調に進んでいる。ローマ王を連れて速やかにパリに来てもらいたい。オーストリアと平和・友好を回復したい、と父帝に伝えてくれ』と連絡する。マリイ・ルイズが彼の|懐《ふとこ》ろに帰ってきさえすれば、フランツ帝も彼に好意を抱くであろうし、それに、マリイ・ルイズは|露帝《ツア》の気に入りだから、明確に平和政策を打ち出せば、列強と新しい共存関係に入ることも出来よう、と期待しているのである。
次の危機はリヨンである。マクドナルドは部下を|叱咤《しつた》して、ナポレオン隊に攻撃を命ずるが、兵士は口々に『皇帝万歳!』を叫び、隊列を乱して、「敵軍」に合流するので、マクドナルドはパリに逃げ帰る。
国王政府はネイに希望を託する。ネイは、『必ずナポレオンを鉄の檻に入れて連れてくる』と豪語したからである。だが、そのネイも、皇帝の親書を受けると、忽ち、軟化する。リヨン陥落は十三日、ネイの脱落は十四日である。ナポレオンは二万の軍隊と、六十門の大砲を得て、あらしのような『皇帝万歳』の大合唱のなかを、胸を張って、一路パリに進軍する。ゆくゆく、マリイ・ルイズに出発督促の書翰を送りながら。
三月二十日、一発の弾丸もうたずに、パリに入城する。ローマ王の誕生日である。その前夜、滝のような雨のなかで、肥満したルイ十八世は、持病の痛風をいたわりながら、馬車に乗りこむと、十一カ月住んだパリを棄て、ゲント(ベルギイ)さして落ちていく。
二十日、皇帝の到着を迎えて、各戸に三色旗がひるがえり、店頭からは国王の肖像が消えて、ナポレオンの肖像にかわる。
一年前、ナポレオンの苦境に際して|馳《は》せつけた、かのカルノオ将軍の息子は、十四歳の学生だが、皇帝の入城する模様を、その日の日記に、こう書いている。
『教室からは、ヴァンドーム広場がよく見えた。学生は勉強に身が入らず、窓の外ばかり気にしていた。いまか、いまかと皇帝の到着を心待っていたのだ。
突然、私は我知らず叫び声をあげた。記念碑から、ブルボンの白旗が除かれ、代って三色旗が掲げられたのだ。同時に、遠方から軍楽の音がきこえてきた。全校の学生が机の上に踊り上り、ドアに突進し、街頭に飛び出し、熱狂する群衆と抱擁した。興奮が全市を支配した』
群衆と同じように感激した女性がいる。かつての「パリのヴィナス」ジョルジイナである。彼女はアパルトマンの窓に、三色菫をいっぱい飾って、無言の歓迎をした。ナポレオンはペール・ラ・ヴィオレット(すみれの|父親《おじさん》)と呼ばれていたのである。
ジョルジイナはその夜、三色菫をコルサージュにして舞台に立ち、観衆の熱烈な拍手を浴びるのだった。
オルタンスは皇帝に先だって、チュイルリイ宮に入り、侍女たちに命じて、宮殿内を整理していた。ブルボン一族は慌てに慌てて、目も当てられぬ混乱を残し、逃げ出したのである。侍女が、いまいましそうに、敷物の「百合の花」――ブルボンの紋章――を|引《ひ》き|剥《は》がすと、なんと、そのしたから、「蜂」が顔を出すではないか! 「蜂」はボナパルトの紋章なのである。
そのうちに、宮殿の前庭は、無数の兵士で充満して身動きがとれなくなった。誰も彼も興奮している。彼等にとっては、皇帝は「地上の神」なのだ。
急にどよめきが起った。皇帝が到着したのだ。どよめきは忽ち『皇帝万歳!』の怒号にかわる。
『天も裂けるとは、この怒号だった。私は群がる兵士を押しのけて、皇帝のために道をつくらねばならなかった。彼が宮殿の石階を登り始めると、私は先に立ち、|背《うし》ろ向きに一歩一歩登った。私の眼は涙でいっぱいで、皇帝の顔がよく見えない……「ナポレオンだ、皇帝だ、ほんとうに皇帝が帰ってきたんだ!」と叫ぶと、皇帝万歳! のコーラスが、またしても、新たに湧きあがる。
皇帝は眼をつぶって、両手を前方に突き出し、盲人のように|悠《ゆつ》くりと登る。微笑する顔は幸福に輝いていた』
これが、ラヴァレット伯爵(ナポレオンの郵務長官)の目撃した光景である。
こうして、「百日天下」は始まる。
パリの興奮と対照的に、ウィーンは陰惨である。とくに、タレイランは焦燥の色が濃い。それでも、情人ペリゴール伯爵夫人――姪に当る――が|素人芝居《しろうとしばい》の|台詞《せりふ》の練習をするのを、半眼をとじてきいている。彼は六十歳、姪は二十一歳。
タレイランはメッテルニヒと協議し、「ナポレオンを平和の敵として法の外に置く」会議宣言を採択させる。そのために、マリイ・ルイズに、「彼女はナポレオンのエルバ脱出を関知せず、この際諸列強の保護を要請する」趣旨の公文書を、会議に提出させる。マリイ・ルイズがナポレオンを見限ったことを、全欧州に明らかにするのが目的なのである。
三月末、ロシア・イギリス・プロシアは、それぞれ十五万の軍隊を供出して、ナポレオンを王座から駆逐することを誓約する。
出陣
ナポレオンは新政府を組織し、自由主義的な憲法のもとに、平和政策を進めたい、と考え、新憲法の起草を、ベンジャマン・コンスタン(「アドルフ」の作者として知られる文学者)に依頼する。コンスタンは次のような皇帝の言葉を、記録に残している。
『私の唯一の使命は、フランスの安定を回復し、国民性に適する憲法を制定することだ』
『言論の自由、普通選挙、議会に責任を持つ内閣、そのいずれにも大賛成だ』
『多数の国民は、依然として、私を求めていると思う。私は兵士の皇帝であるだけでなく、農民と労働者の皇帝でもあるのだ。だが、貴族との|絆《きずな》はない』
エルバの十カ月の静思期間に、ナポレオンは思想的に成長した。彼の胸中には、時代の新潮流に|棹《さお》さして、フランスの近代化を推進したいという、強い意欲が|漲《みなぎ》っている。
そのためには、平和が欲しい。四月一日、彼は親書をもって、講和提案を、オーストリア帝に送り、同時に、コーランクール外相から各国政府に対して、友好関係の回復を申し入れるが、全部黙殺される。
マリイ・ルイズに対しても、引き続き手紙を書くが、返事はこない。そこで使者をウィーンに送りこみ、マリイ・ルイズの側近ムヌヴァル男爵――パリから随従してウィーンに赴いた誠実な人物――に密かに連絡させると、初めて、彼女がナィッパアグ伯爵と密通していることが判明する。
ナポレオンは深刻な打撃を受ける。この時から、自信が動揺し、いま楽観するかと思うと、忽ち悲観するというように、ムードが不安定になる。エルバ島からパリに帰還した時は、いかにも健康そうだったのに、しばしば、持病の腹痛を訴える。エルバ島を脱出した時の計画の中心は、マリイ・ルイズのパリ早期帰還だったのだから、打ちのめされて失望したのも、無理はあるまい。
その直後、四月中旬、彼はオルタンスを誘って、マルメイゾン離宮を訪れる。
よく晴れた朝である。皇帝はオルタンスと腕を組んで、庭園を散歩する。ジョセフィーンの丹誠して育てた名花が、至るところに、故人の想い出を匂わせる。両両宿花房――花を|臥所《ふしど》にふたり寝たるに。
皇帝は声をつまらせて言う。
『つい昨日、ここをジョセフィーンと歩いたような気がする……死んだとは思えないよ、とても』
皇帝はジョセフィーンのベッド・ルームに入って、長い間出てこない。赤と金のこの寝室には無量の想い出があるのだ。
想えば、ジョセフィーンは彼の運命を開いた女性だった。それに反して、マリイ・ルイズは彼の運命を閉じてしまったのだ……。
ジョセフィーンは国民に愛されていた。「|われわれの勝利夫人《ノートル・ダアム・ド・ヴィクトアール》」と呼ばれたものだ。それとひきかえ、マリイ・ルイズは国民に、まったく人気がない。それに、この頃はフランスを憎み、彼を嫌っているという。兵にしても、ジョセフィーンを「守り本尊」と信じていた。彼女がいなくなってから、とかく戦争もうまくいかない。
|瞑想《めいそう》からさめて、彼は独語する。
『私は平和を熱望している。だが、平和を入手するには、戦争に勝たねばならぬ。これが私の宿命だ』
いまは早期決戦しかない。パリに帰ると、彼は精力的に戦備を進める。徴兵令は廃止されてしまったから、大軍の編成は困難である。せいぜい、三十万どまりだろう。
折から、イタリアではナポリ王ミュラア軍が、ナイッパアグ将軍の率いる大軍に圧倒されて、総崩れとなる。ミュラアがオーストリアを牽制することを、期待していたのだから、これは打撃である。皇弟ルシアン――イタリアから逃げ帰ってきた――は退位を勧める。再び警視総監に起用された、例のフーシェも、同意見である。そのフーシェはイギリスと通謀しているのだ。
六月一日、練兵場に一大祭典が催され、コンスタンの作製した新憲法が公布される。国民投票が、賛成一、二八八、二五七、反対四、八〇二で採択したものである。だが、五百万の有権者の大多数は棄権している。
五万の軍隊が整列し、六百門の大砲が祝砲を放ち、ラッパが鳴り、太鼓が響く。皇帝はピラミッドの頂点にしつらえた玉座に、|悠《ゆつ》くりと登る。古代ローマ風の白い|繻子《サテン》の服のうえに、紫のヴェルヴェットのマントを羽織っている。マントは白皮で縁どり、一面に金の刺繍がついている。異様な服装である。だが、これがシャルルマーニュ大帝のイメージなのだ。観衆は盛んに拍手しながらも、『いつもの灰色の外套のほうが、ずっと良いな』とささやきあう。
その三日後、チュイルリイ宮殿に、出陣の祝宴が催される。皇帝は進発する部隊に、新しい連隊旗を授与する。シャンゼリゼには、三十六の酒の泉、十二の天幕食堂が設けられ、飲み放題食べ放題である。野外演奏があり、野外曲芸がある。劇場は無料で開放される。
夜になると、宮苑では、星空の下で、群衆が踊り、また、歌う。皇帝が姿を現わすと、花火大会が始まる。最後は仕掛け花火である。皇帝がエルバ島脱出の際に座乗した巡洋艦ランコンスタン号が燃える。その甲板に、大きな星をいただいて、ナポレオンが立っている。そのナポレオンも燃えあがる。暗示的である。
翌朝、皇帝は十二万五千の軍団を率いて、ベルギイに向う。ウェリントンは十万をもってブラッセルに、ブリュッハアは十三万をもってシャルルロアに布陣している。ナポレオンは、まず、プロシア軍に痛打を与えたうえ、イギリス軍を撃破して、一挙にブラッセルを占領する計画である。
彼我の兵力は二対一であるが、質においてはフランス軍のほうが、遙かに|優《すぐ》れている。装備も士気もよい。
ウェリントン将軍の十万の多くは、つい最近まで、ナポレオンの大軍団の一部だった部隊だから、戦意のほども怪しい。ナポレオンに勝てるなどとは夢にも思っていないのだ。
ウェリントンは苦笑して、副官に言う。
『私の指揮する軍隊は雑然たるもので、いわば、|悪名高い軍隊《インフエイマス・アーミイ》なのだ。信頼できるのは、三万五千だけだ』
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第十二章 巨大なる落日
その前夜
六月十五日、午前三時、ナポレオンはベルギイ領に進出する。皇帝も将兵も、自信満々としている。
ナポレオンは四十六歳であるが、軍団長・師団長は、すベて五十歳以上である。猛将ネイが遅れて到着する。皇帝と同年である。ナポレオンは再会を喜んで、彼に左翼軍の総指揮を|委《ゆだ》ねる。ところが、ネイは戦局の形勢にも通じていないし、|麾下《きか》の将軍や幹部将校の名もよく知らない。右翼軍の総司令官グルウシイ元帥との関係もしっくりしない。それに参謀総長のスール元帥も、前任者のベルティエ元帥――自殺した――のように経歴が長くない。従って、総ては、皇帝の指揮にかかっている。
イギリス軍司令官の年齢構成は若い。ウェリントン将軍はナポレオンより三カ月年うえだが、ロード・アックスブリッジは四十七歳、師団長・旅団長の平均年齢は四十三歳である。
プロシア軍総司令官ブリュッハア元帥だけが七十二歳の高齢である。参謀長グナイゼナウは五十五歳だった。
ウェリントン将軍が、フランス軍の越境を知ったのは、十五日の午後三時である。この夜、ブラッセルではダッチェス・オブ・リッチモンド(公爵夫人)の大舞踏会が催された。『美女と勇士は、きらめく燈火に照らされて』というバイロンの詩によって知られる、有名な歴史的舞踏会である。
ウェリントン将軍が遅参した時は、将官や高級将校は辞去し始めていた。将軍はさりげない様子にみえたが、時々、|虚空《こくう》の一点を凝視していた。それでも、翌十六日の午前三時まで居残った。ブラッセル市民に、悠然たる態度を見せるためだったのだが、もうひとつの理由は、愛人のレディ・フランシス・ウェブスタアと別れを惜しみたかったのである。少壮将校のなかには、舞踏会場から、盛装のまま馬を走らせ、戦死をとげたものも少なくない。ウェリントンは午前五時、愛馬コペンハアゲンに乗って、カアトル・ブラアの陣地に向った。
他方、ナポレオンは|悠《ゆつ》くりと起きると、フラールスに馬を進め、命令受領に集まった将軍連を加えて、改めて作戦を練った。太陽の灼きつくような、暑い日である。
午後三時、進撃命令は下る。全軍に与えた布告は、
『フランスの勇士に告げる。
いまこそ、征服か滅亡かを決定する瞬間が到来したのだ。奮戦せよ、然らば勝利の栄冠は、疑いなく、諸君の頭上に輝く!』
という言葉で結ばれている。
教会の時鐘が鳴り終ると、フランス軍は前面のプロシア軍陣地に砲撃を加え、続いて、歩兵が襲撃する。フランス軍は七万八千、プロシア軍は八万四千。戦線は七マイルにわたっているが、プロシア軍主力の固める、リニイという町の争奪が、戦闘の焦点である。七箇師団の別働隊――フランス軍の三分の一に当る――をひきいるネイは、同時に、カアトル・ブラアのウェリントン軍を攻撃している。
リニイに進撃するフランス軍――ヴァンダンムとジェラアルの両軍団――は、五フィートもあるライ麦の畠を前進するので、速度が鈍く、敵の砲火を浴びて、大きな損害を出す。しかし、ついにリニイに突入し、燃えさかる民家のなかで、|戸毎《こごと》に|凄《すさ》まじい白兵戦を演ずる。敵は執拗に抵抗する。ナポレオンは炎のなかに、あとからあとから、部隊を注ぎこむ。戦局が一進一退するうちに、烈しい雷雨となる。その雷鳴と呼応して、フランス軍の二百門の大砲が火をふく。砲撃がやむと、親衛隊が銃剣をそろえて、得意の突撃に移る。勝機はいま、とみて、ナポレオンが敵に|止《とど》めを刺すのである。
既に、午後八時であるが、戦場はまだ明るい。敵将ブリュッハアは、先頭に立って騎兵隊をひきい、猛然と反撃する。さすがは、「ゲネラル・フォアヴェルツ」(前進将軍)の異名をとった勇将だけのことはある。
それとばかり、グルウシイの騎兵隊が迎えうつ。混戦のなかで、ブリュッハアの乗馬は倒れ、彼は馬腹の下敷きになる。そのうえをフランス騎兵が飛び越え、代って、プロシア騎兵が走り過ぎる。やっと味方の将校に助けられ、半ば人事不省になって、ブリュッハアは数マイルも後送される。
プロシア軍は敗北する。しかし、|潰走《かいそう》はせぬ。徐々にワーブル方面に退却する。
この激戦の間、ナポレオンは幾度も、ネイに伝騎を走らせ、転進してブリュッハア軍を側・背面から|挾撃《きようげき》せよ、と命令する。だが、ネイはウェリントンの本隊を相手に苦戦しているので、僅かに、デルロン将軍の一部隊しか|割《さ》けない。そのデルロンは、命令が徹底しないので、右往左往するばかりで、ついに、惜しくも戦機を逸する。彼が機敏に行動していたら、プロシア軍を|捕捉《ほそく》できたろう。
午後十時、戦場には静寂が訪れ、フランス兵一万一千、プロシア兵一万六千の死体が散乱している。グルウシイは皇帝に、敵を追撃すべきか、指示を求めるが、ナポレオンは、『命令は明朝改めて出す』と答えて、引き揚げる。将兵の『皇帝万歳!』の喚声に送られて。
この際、急追すべきだったのだ。だが、彼はプロシア軍に加えた打撃を過大評価していたうえに、イギリス軍の戦力を過小評価していた形跡がある。現に、ネイに対して、ほとんど|叱責《しつせき》に近い語調で、不満を伝えている。そのネイは四千の損害を出し、ウェリントンは五千を失って、イギリス軍やや優勢のうちに、相討ちの形で引き分けていたのである。
翌十七日、日の出とともに、グルウシイ元帥は、皇帝の本陣に現われ、命令を仰ぐが、ナポレオンは休息と称して引見しない。休息ではなくて病気なのである。それに、パリの微妙な情勢に心を砕いているのだ。
十一時、グルウシイは三万三千の大軍をもって、プロシア軍を追撃せよ、との命令を受ける。彼は追撃の時機が遅れ過ぎていると考え、むしろ、兵力を分散せぬほうが賢明ではないか、と反問するが、この意見は採用されない。皇帝は豪雨のなかを、七万三千(大砲二百六十六門)の主力部隊をひきいて、ブラッセルに向う。残りの小一万は予備軍として控えている。
ウェリントン将軍はウォタアルーまで後退し、フランス軍の進路をふさいでいる。主力は六万七千(大砲百六十五門)、別にアルに一万七千の別軍を配置している。彼はプロシア軍が、敗戦にもかかわらず、立ち直って、共に戦うなら、ここで防戦する方針なので、ワーブルに退却したブリュッハア元帥の連絡を待っている。
プロシア軍は痛打を受けたので、参謀長グナイゼナウは、『こんどはイギリス軍が戦う番だ』と言って、むしろ消極的である。元来、彼はウェリントンを信用していない。イギリスの利益のために、プロシアが滅亡すべき理由はない、と信じている。だが、ブリュッハアは、断固として戦うと言う。
ウェリントンの陣営に、ブリュッハアの使者が、決戦を続ける意向を、伝達してきたのは、十八日午前二時である。ウェリントンはやっと安心する。しかし、ブラッセルはナポレオンに占領されぬとも限らない。彼は愛人のレディ・ウェブスタアに書翰を届け、『直ぐに、アントワープに避難せよ』と警告する。
豪雨はやまない。兵は|濡《ぬ》れ|鼠《ねずみ》になる。みな立ったまま、数人が|身《からだ》を寄せあって、仮眠する。雨水のなかに、腰までつかって、坐りこむ者もあれば、水死体のように、顔だけ水面に浮かばせて、眠りこける者もある。
フランス兵とて同じである。夜半、ナポレオンは敵軍本陣の露営の火を遠望しつつ言う。
『勝利は私のものだ。百のうち九十の勝算がある』
空しき追撃
六月十八日、日曜日、世界史の運命が決する日である。
夜来の豪雨はやんだが、濃霧がたちこめている。
午前八時、ナポレオンは、敵陣から僅か二マイルの地点、ラ・カイユの農家で、悠然と朝食をとる。帝室紋章のついた黄金の食器を使って。
参謀総長スール元帥が、恐る恐る、グルウシイを呼び戻すほうが良いのではないか、と進言する。この時、グルウシイ軍は、ワーブル方面に退却するプロシア軍を求めて、緩慢に行進している、膝を没する泥道――いな、泥海――なのである。皇帝は不機嫌に答える。
『元帥、君はスペインでウェリントンに敗けたので、おじけがついているんだ。イギリス軍は弱虫だよ。今日は、まず、|遠足《ピクニツク》と思えばよい』
午前九時、皇帝は灰色の|駿馬《しゆんめ》デジレ――かつての許婚者の名である――に乗って、ベル・アリアンスの丘で進出偵察する。十時、壮大華麗な最後の閲兵を行なう。
目撃者が残した記録をみても、騎兵は長剣をきらめかせ、熊皮帽の砲兵は大砲を護り、歩兵は軍帽を銃剣の|尖《さき》につきさし、一隊また一隊、『皇帝万歳!』と叫びながら、意気盛んに行進する盛観は、金の|兜《かぶと》、銀の|胸甲《むねあて》、|緋《ひ》のマント、緑のドルマン、赤白青、色とりどりの羽毛――まさに、一巻の絵巻物である。ただ、|親 衛 隊《ガルド・アンペリアル》だけは、灰色の上着に青のズボンという地味な|姿《いでたち》である。皇帝の特命によって、正装は|背嚢《はいのう》に大切にしまっているのである――ブラッセル入城の祝賀行進のために!
だが、閲兵が終っても、進撃ラッパは鳴らぬ。将兵は次第に興奮がさめ、空腹を訴え始める。強酒は配給されたが、パンは間に合わぬのだ。
皇帝はどうしたのだろう。いつもの機動力を示さぬではないか。
ナポレオンには持病があったのだ。|痔疾《じしつ》である。前日は長時間、馬を乗り廻していた。そして、兵と同様に全身ズブ濡れになった。それが、痔疾を刺戟したうえ、もうひとつの持病、|膀胱炎《ぼうこうえん》を誘発した。しかも、彼としては、この運命の大会戦に際して、発病したことを、敵味方に夢にもけどられてはならぬのだ。事実、皇帝がこの時、痔と膀胱と高熱に苦しんでいることは、侍医のラレイ男爵と侍僕のマルシャン、それに、皇弟ジェロームの三人しか知らない。皇帝は、むしろ、虚勢を張って、強気に出る。自然、作戦は強引粗雑になりやすい。
もっとも、参謀将校のうちには、風が吹き、強い太陽が照り始めたから、地面が固まるのを暫く待つのがよい、と進言する者もいる。泥中を大砲を運び、据えつけるのは困難である。ナポレオンはこの進言をいれ、それを口実に、ロッソンムに退いて、持病の発作を手当したのである。
その間に、ウェリントンはウォタアルーから、モン・サン・ジュアンに進出し、丘の背に陣地を構築して、兵に食事をさせ、丘陵の|灌木《かんぼく》の蔭に待機させた。フランス軍とちがって、部隊を敵前に露出せぬのが、彼の戦法だった。
午前十一時、フランス軍が砲門をひらく。予定より二時間おくれている。貴重な二時間が。
戦闘はシャトオ・ウーグモンの争奪から始まる。かなり大きな石造の|邸館《シヤトオ》で、厳重な石垣をめぐらし、堅固な正門がある。マクドナルド大佐のスコットランド連隊が死守するのを、フランス軍は、死傷を惜しまず、幾度撃退されても、坂を登って肉薄する。この戦略地点を奪取すれば、イギリス軍の死命を制し得るのだ。ついに、フランス兵が突入し、連隊旗をふるって|凱歌《がいか》をあげると、邸内の一角から、血まみれのマクドナルド大佐が|逼《は》い出して、虫の息で正門をしめ、残兵を|叱咤《しつた》して、フランス兵と格闘する。フランス兵は全滅する。
午後一時、ベル・アリアンスに待機していたネイの本隊一万七千が、出撃態勢に入る。いまや戦闘は全線にわたり、刻々に高潮する。皇帝は、依然として、ロッソンムにいて、農家の椅子に坐っている。時々、立ち上ると、望遠鏡で戦場を展望する。捕虜将校が引き立てられてくる。尋問すると、プロシア軍の一翼ビュウロウ部隊の斥候である。皇帝は格別気にする様子もない。ただ、伝騎を走らせて、グルウシイ元帥に対し、『直ちに本隊に合流せよ』、と命令する。元帥は、まだ、ブリュッハア軍を追跡して、行軍している。緩慢に、そして、次第に本隊から遠ざかりつつ。
午後一時半、ネイは七十四門の大砲を集中し、イギリス軍陣地に、猛射を浴びせる。三十分後、歩兵は銃を構え、整然と進撃する。密集隊形である。各人の間隔は二十一インチに決まっている。太鼓のリズムが、ラム・ダム・ラム・ダム・ランマダム・ダムダムダムと続くのに、歩調を合わせて巨大な|潮《うしお》のように、ひた寄せに寄せていく。軍旗は野花のように、美しく太陽に映え、指揮刀は銀の林のように、鮮やかに光る。だが、ドロンコの麦畑に全身を露出して、坂を登り、高地の敵陣に挑むのだ。それに、泥に靴を奪われて、片足|裸足《はだし》になる。大麦の根に|躓《つまず》いて転ぶ。『皇帝万歳!』と絶叫し散開して、突撃に移る瞬間、イギリス軍は、至近距離から、一斉射撃を加える。フランス兵は、算を乱して倒れる。
フランス兵は突撃を続けては、撃退され、撃退されては、また突撃する。陣地を占領する。奪回される。また、占領する。完全な混戦のうちに、両軍の騎兵隊は疾駆して、火花を散らしては激突する。彼我の大砲四百門は、射ち続けに射つ(当時の大砲は鉄砲と同じく、一分一発平均で発射した)。たちこめる砲煙のために、視界も暗い。
この時、グルウシイの大軍は、とある農村を中心に、小休止をしていた。彼はブリュッハア軍が、ワーブルからブラッセルに転進し、ブラッセルでウェリントン軍と合流するものと推察していた。ところが、ブリュッハアは、グルウシイの追跡をふりきって、ウォタアルーの戦場に急行していたのだ。ただ、泥道を大砲や|輜重《しちよう》を伴う行軍は、頗る難渋をきわめ、遅々として進まなかった。
小休止をしている間に、大地をゆるく震動させる|轟音《ごうおん》が、風に乗ってきこえてきた。幕僚は地面に耳をつけて、確かめる。明らかに砲声である。それも、集中砲撃だ。かなり遠方だが、それほどの距離でもないらしい。ジェラアル中将は、グルウシイ元帥に、
『砲声に向って進撃すべきです、総司令官』
と主張する。
グルウシイは暫く沈思するが、首を横にふる。皇帝から受領した命令は、プロシア軍の追撃なのだ。皇帝から別の命令がこない限り、追撃を続行するのが彼の正しい任務ではないか。そうだ、越権行動をとって、失敗したら、取り返しがつかぬ……。
グルウシイは忠実ではあるが、凡庸な騎兵将官だった。先輩が脱落したために、序列で元帥に出世しただけの人物である。独創的判断も、自主的行動も期待できない。
ジェラアルは、せめて、自分の師団と数千の騎兵をひきいて、戦場に急行させてくれ、と泣かんばかりに懇願する。
ほんの数秒だけ、グルウシイは考える。答えは、ノンである。
この寸秒が、ナポレオンの運命を封殺し、世界史の行程を決定する。
本隊に合流せよ、という皇帝の命令はまだ着かない。伝騎でも二時間半かかったのだ。だが、この時点で、彼が善処していたら、少なくとも、ジェラアル伯爵に急援を許していたら、ナポレオンの勝利は確実だったのである。
かくて、グルウシイ元帥は、姿なき敵を追って、|虚妄《きよもう》のなかを、当てもなく|彷徨《さまよ》い続けるのである。
ウォタアルー
ナポレオンとネイの連絡も充分ではない。両人は、朝九時から夕七時まで、いちども会っていないのだ。皇帝のいるロッソンムからは全戦場は展望できない。また、ロッソンムから戦場までは、伝騎でも十五分はかかるのである。前日皇帝の不興を買ったためもあり、ネイは必死の奮戦を続けている。「勇士のなかの勇士」といわれるネイは、兵士の偶像的存在であって、彼が陣頭に立つと、士気は百倍するのが常である。しかし、勇将ではあっても、智将ではない。
午後四時、ネイは、なにを勘ちがいしたのか、騎兵隊に敵陣の強襲を命ずる。騎兵は敵陣が歩兵の突撃で動揺し、戦線が|破綻《はたん》し始めた時に、その好機に、くり出すものなのである。イギリス軍も力戦して、多大の損害を出し、極度に疲労はしているが、まだ、頑強に防戦を続けている。だから、フランス騎兵隊が、突如として、平原に出現した時は、敵も味方も痛く驚いた。トーマス・ハアディが長詩「|覇 王《ザ・ダイナスツ》」に、『狂人の残酷きわまる暴走』と歌った、あの突撃である。
『いけない! 一時間早過ぎる』
皇帝はスール元帥を|顧《かえり》みて、舌打ちするが、第一隊五千騎は、既に、敵陣に殺到している。イギリス軍は引き寄せて一斉射撃を加える。窓ガラスに石を投げつけるように、騎兵の隊列に穴があく。それでも襲撃する騎兵に対しては、直ちに円陣をつくり、銃剣を構える。馬は銃弾に射たれ、銃剣に刺され、狂いに狂う。しかし、続いて来襲する騎兵は、踏み止まれぬから、そのまま突進し、大混乱が起る。その機を逃さず、ロード・アックスブリツジは騎兵をひきいて反撃する。馬が馬にぶつかり、人が人ともみあい、長剣をふるって斬り結ぶ。
やがて、騎兵隊が引き揚げると、戦場は傷つき倒れた兵と馬で充満する。
ややあってネイは第二隊を放つ。九千騎の|蹄《ひづめ》は大地を踏み鳴らし、砲声もかき消される。|金甲《きんこう》は輝き、銀甲は光る。赤に緑が続き、緑に青が続く。そして、また赤の騎兵服。まさに史上最高の華麗な集団である。ウェリントンは『さすがにネイだ、勇敢な男だな』と感嘆する。アックスブリッジはイギリス騎兵隊が残り少ないので友軍のオランダ騎兵隊に進撃を命ずるが、恐れ|辣《すく》んで一騎も動かない。
ネイの第二隊は、法外の犠牲を払いながらも、イギリス歩兵の方陣を|蹂躙《じゆうりん》し、ウェリントン将軍の本陣に迫る。フランス騎兵隊の襲撃は、実に、前後十二波に及び、さすがのイギリス軍も動揺する。
ネイはラ・エ・サントの敵の要害をも、苦戦して占領する。攻防時余、この戦場は血の浴槽さながらである。彼の奮戦は目ざましく、乗馬は既に四頭も射殺されている。
午後七時、満身に血を浴びた姿で、ネイは皇帝の指揮所を訪れ、援軍を要請する。
『皇帝、もうひと息です。この機会を逸してはなりません。|親 衛 隊《ガルド・アンペリアル》の出撃を願います。ウェリントンに止めを刺しましょう!』
と訴える。皇帝は十四箇連隊の親衛隊を温存している。だが、冷やかに、要請を拒否する。
『もうすぐ、グルウシイ軍が到着する|筈《はず》だ。もう少し、待とう』
グルウシイはまだ来ないか、とフランス全軍は待ち望んでいる。ブリュッハアはまだ来ないか、とイギリス全軍も待ちかねている。ナポレオンとウェリントンは、それぞれ、時計を睨んでいる。時計を握るふたりの手は火のように熱い。
ウェリントンの身辺には砲弾が盛んに落下し、彼の顔は泥と血でよごれている。幕僚がいくら勧めても後退しない。その幕僚が相次いで倒れる。前線からは、ひっきりなしに、援軍を要請してくる。だが、既に一兵の予備もないのだ。しかも、イギリス陣地からは、一隊、二隊と戦場を脱落し始めるものもある。敗けた、と思った。ウェリントンの|傍《かたわ》らにいた副官が流弾に傷つくと、幕僚のひとりが、『もし閣下に万一のことがあったらどう致しましょうか?』ときく。ウェリントンは静かに答える。『片足になっても、陣地に立って、最後の一弾を射て! と全線に命令してくれ』
三十分経過する。地平線に小さく姿を現わしていた部隊は、刻々、大きくなる。プロシア軍の|先鋒《せんぽう》だ!
皇帝は一隊を割いて、その方面に|馳《は》せ向わせると、ついに、親衛隊に出撃を命ずる。またしても、ネイが先頭に立つ。帽子は吹き飛び、乗馬は射たれ、赤い長髪をふり乱し、徒歩になって、弾雨のなかを|面《おもて》もふらず突き進む。親衛隊は六十人が横隊になって前進する。彼等が進撃する時は、既に、あらかた勝敗は決しているのが常なのである。一気に敵陣を乗っ取って追撃すればよい。だから、意気|軒昂《けんこう》としている。だが、今度ばかりはちがう。敵の戦線には、早くも、プロシア部隊が加わっているのだ。意外の抵抗に、親衛隊はたじろぐ。ひとたびたじろぐと、形勢は、忽ち、逆転する。ここぞとばかり、イギリス・プロシア混成軍は攻撃に移る。
世界無敵を誇る親衛隊は、浮き足立って総崩れとなる。ウェリントン将軍は、馬上で帽子をふる。総攻撃の合図である。砲兵も歩兵も射ちまくる。騎兵も歩兵も突撃する。
ナポレオンは、親衛隊精鋭の方陣のなかに愛馬を立て、辛うじて、敵の追撃を逃れる。さすがに精鋭だけあって、親衛隊は善戦しつつ、皇帝を護って退却する。
勝てる|戦《いくさ》に敗けた!
ナポレオンは、方陣のなかで、唇を噛んでいる。血のように|朱《あか》い太陽が、地平線に沈むのを、馬上から凝視しながら。彼の太陽も、また、沈みつつある。巨大なる落日である。
ウェリントンがベル・アリアンスまで追撃してくると、ラッパの音とともに、一団のプロシア騎兵隊が現われた。先頭のブリュッハア将軍は、『|親愛な戦友よ《マイン・リイバア・カメラアド》!』と叫びつつ、馬を寄せると、ウェリントン将軍と馬上で固い握手をかわした。感激の一瞬である。プロシア部隊はイギリス国歌を唱い、続いて、イギリス部隊はプロシア国歌を唱う。
月が出た。戦場には、二マイル四方の平地に、四万の将兵と一万の馬が倒れている。重傷者の苦悶のうめきに、誰も耳をかす者はない。やがて、野盗と化した戦勝軍の兵士が、彼等を刺殺して、無情に死体を|剥《は》ぐのだ。当時は看護卒などはいない。ウェリントンもブリュッハアも、負傷兵の処置には一言もふれずに、凱旋してしまう。最後の生存者が後送されるのは、やっと、五日後のことである。その時、サン・ジュアン丘のイギリス軍陣地のなかで、世にも稀れな美女がフランス龍騎兵の軍装をして、戦死しているのが発見される。多分、愛人と|轡《くつわ》を並ベて、突入したのだろう。戦場に咲く一輪の野花というべきか。
花より団子、という。ウォタアルー決戦の大勢が判明するやいなや、ブラッセルへ快速馬車を走らせた男がいる。港につくと、待機していた船に飛び乗り、帆走してロンドンに着いた。彼は、みごとに、政府の騎馬飛脚を出し抜き、株式相場に大変動を起して、一躍、大富豪となった。ロスチャイルドそのひとである。
この間に、イギリス軍は休息し、プロシア軍は追撃を続けた。敗走する四万を、勝利におごる四千が追う。ジュナップの町は、先を争って橋を渡ろうとする、フランス兵でごった返している。デイル河には一本の橋しかないのだ。プロシア騎兵は、追いすがって、無力な敗兵を斬殺する。
ナポレオンも、やっとのことで、徒歩で橋を渡って、落ちのびる。
皇帝の「緑色馬車」は捕獲される。車内にあったのは、黄金の食器、百に及ぶ黄金の化粧用具と香水、観兵式用の正服、多数の勲章……そして、ブラッセル占領に際して公表する布告文……。
万恨蛾眉ニアリ
曇天から今にも、ひと雨降り出しそうな朝、六月二十一日、ウォタアルー敗戦の三日後、ナポレオンは馬車で、パリに帰った。身心ともに、疲労の極にあったが、熱湯のようなバスに一時間ほど|浸《つか》ると、元気を回復した。早速、御前会議に臨む。皇帝に退位を求める意見が出る。カルノオ内相はこれに反対し、敵軍が侵入しつつあり危機なのだから、皇帝に臨時独裁権を与え、祖国防衛に当ってもらうのがよい、と主張する。皇弟ルシアンも支持する。
ナポレオンは考える。まだ、軍隊はあるのだ。グルウシイ軍がいるではないか。彼が機敏に行動していたら、ウォタアルーで敗けずにすんだのだ。こんどは、性根をすえて戦うだろう……それに、自分が退位したら、軍は自然に解体してしまうにちがいない。
そのグルウシイは、フランス軍が総崩れになってから、ようやく戦場近くに着き、プロシア軍の後衛部隊に接触したのである。彼はやっと救われた気持になり、猛然と攻撃に出た。ジェラアル中将は真っ先に突っこんで、敵弾に倒れた。彼の進言が用いられていたら、フランスは大勝利を得ていた筈なのだ。グルウシイ軍は重囲におちいりながらも、善戦して、巧みに脱出し、ほとんど無傷で帰国したのである。
御前会議が決定を延ばしている間に、フーシェ警視総監は、タレイラン、ラファイエットらと、頻りに謀略をめぐらしている。ブルボン王朝の回復を、企てているのである。
議会はクーデタアの先手をうち、祖国が危急に瀕しているという理由で、解散を拒否する声明を出す。皇帝派は、武力によって両院を制圧せよ、と主張するが、ダブウ陸相――ナポレオン恩顧の武将――が反対する。ナポレオンは情勢不利とみて、ついに二十二日、帝位をローマ王に譲って退位する。ブルボンの復帰を恐れる議会は、ローマ王をナポレオン二世に擁立する。だが、彼はウィーンの囚人なのだ。
フーシェは臨時政府首席となり、半公然とルイ十八世の帰国を促進しながら、しかも、いかにも、ナポレオンに忠実であるかのような態度を装う。
この間にも、プロシア軍はパリ周辺に進出し、フランス部隊は橋を爆破して、消極的に抵抗する。フーシェの勧告に従い、ナポレオンはエリゼ宮を出て、二十六日、マルメイゾンに移る。
翌日は|麗《うら》らかに晴れわたる。宮苑にはバラが、無心に咲き乱れている。
そのバラよりも、美しく匂わしい女性が訪ねてくる。マリイ・ワレフスカである。悲境にある恋人を慰めにきたのだ。アレクサンダアの手を引いて。
ナポレオンは夢かと驚く。再び帝位を失い、友に|背《そむ》かれ、世に棄てられ、人生に幻滅して、無量の孤独感に|苛《さいな》まれている時に、彼女だけが、永遠に変らぬ愛情を、ひたむきに捧げてくれるのだ。
ふたりは、夜をこめて、しめやかに語り合う――ワルソオの初会を、ウィーンの愛撫を、そして、エルバ島の別離を。
ワレフスカは、『もう二度と、お|訣《わか》れしたくありませんわ』と、|怨《えん》じながらに訴える。皇帝は重く肯く。『だが、いまは時期が悪い、マリイ。ブリュツハァは、私を捕えて銃殺する、と息まいているのだ。暫くは、亡命せねばならぬ。多分、アメリカに渡ることになろう。きっと、呼び寄せる。近いうちに必ず再会しよう』
ワレフスカの眼は涙にあふれる。|万恨蛾眉《ばんこんがび》ニアリ。これが、最後の抱擁だった。
次の日には、母のレチツィアが、オルタンスと連れ立って来訪する。彼等の訣別も、また、心あたたまるものがある。
だが、急がねばならぬ。敵軍はマルメイゾンに迫っているのだ。ナポレオンは一夜を、ジョセフィーンの寝室に過ごす。彼女とともに、白馬の背に乗って、バラの海に漂う夢をみる。いまさらのように、ジョセフィーンが懐かしいのである、壁画の白鳥を見ても、庭の白バラを眺めても。
フーシェは、ロシュフォール港(南西フランスのビスケイ湾)に脱出すれば、比較的容易に、海外に亡命できる、と示唆する。ナポレオンは変装し、ベルトラン、グールゴオ両将を伴って、パリを出る。沿道各地の将兵は、ナポレオンを認めると、『皇帝万歳!』を連呼し、剣を取って立ってくれ、と哀願する。部隊を編成して、彼のあとを慕う一徹の将軍もいる。
だが、総ては終ってしまったのだ。ナポレオンもいまは|諦《あきら》めている。しかも、ロシュフォールに来てみれば、港口には、イギリス巡洋艦べレロフォン号が|遊戈《ゆうよく》していて、脱出は不可能である。フーシェがイギリス政府と通謀しているのだ。
ナポレオンは、イギリス海軍に捕えられて恥辱を忍ぶよりも、むしろ、自発的に身を|委《ゆだ》ねるほうが、堂々としていると考え、イギリス摂政に書翰を送り、七月十五日、進んでべレロフォン号に赴く。イギリスとは多年戦ってきたが、大国として礼節をわきまえていると信じて。
べレロフォン号は、十日目にイギリス本国のプリマス軍港に着く。物見高い群衆が、|埠頭《ふとう》に集まるが、遠くから艦上のナポレオンを認めて、脱帽するので、彼もやや安心する。花をとどけてくる無名の女性もいる。四日後にイギリス政府の回答を受け取る。「セント・ヘレナ島に流罪、将官三名、医師一名、従者十二名の随行を認める」という内容である。同盟国が共同決定した条件なのである。
ナポレオンは事の意外に驚き、烈しく抗議する。彼にしてみれば、自由意思をもって、イギリス政府の温情を期待して身を寄せたのであって、捕虜でも囚人でもない筈なのである。『セント・ヘレナなどに流罪にするくらいなら、いまここで銃殺せよ』といきりたつが、イギリス当局は冷やかに構えて取りあわない。
彼の身柄は老朽船ノーザンバアランド号に移される。与えられたのは、狭苦しい一室だけである。室内をたえず歩き廻る習慣のある彼には、堪えがたい苦痛である。しかも、八月九日に出港したのに、セント・ヘレナ島のジェイムスタウンに入港したのは、十月十五日のことである。なに故か、|迂回《うかい》航路を選んだのである。甲板に立ち、腕を組んで、不吉な島影を眺めつつ、ナポレオンは独語する。『ロシア遠征の時に、クレムリンで死ぬべきだった』
セント・へレナ
セント・ヘレナは絶海の孤島である。欧州からは、二千マイルも離れている。海底から噴出した火山島であって、黒い熔岩が陰惨な城壁のように、|嶮《けわ》しくそそり立つている。気候は殺人的であって、炎暑と寒冷が、一日に幾度もいれかわる。一年滞在して、健康を害さぬ者は少ない。赤痢が流行し、心臓病と肝臓病の患者が多い。
しかも、イギリス政府がナポレオンに提供した、丘上のロングウッドと呼ばれる住宅は、建ててから半世紀もたつ、朽廃した|厩舎《きゆうしや》を改造したものである。その改造も、ぶっつけ仕事で、大急ぎで済ませたから、寝室も食堂も、床下から立ち登る|馬糞《ばふん》の悪臭が、常にたちこめていた。それに、狂暴な鼠が昼夜を分たず、ところきらわず走り廻っていた。ドアには節穴があり、窓のすきまからは、湿気を多量に含む貿易風が吹きこみ、洋服も、靴も、本も、みんなカビだらけになった。
ナポレオンには、書斎兼寝室――といっても、アウステルリッツの戦役に使用した、鉄の粗末なキャンプ・ベッドが、一隅においてあるだけだった――、二つの個室、応接間、食堂、バス・ルームが当てがわれた。書斎の壁――雨漏りのあとが抽象画のようにひろがっている――には、マリイ・ルイズとローマ王の肖像がかけてあった。こんなに悲惨な生活はしていても、ハップスブルグ王族の一員なのだぞ、という皮肉をこめた、ささやかな示威だった。マントルピースのうえには、豪勢な黄金の燭台、香炉その他の貴重品とともに、フレデリック大王の愛用した時計が飾ってあったが、いかにも、場ちがいの印象を与えた。
食堂の壁は青ペンキで塗りたくってあり、赤いカアペットは古道具屋から仕入れたもので、|擦《す》り切れていたし、椅子はみな不安定だった。
定刻、ドアを開けると、侍僕のマルシャンが、|恭々《うやうや》しく、最敬礼をして、
『皇帝陛下、晩餐の御用意が整いました』
と言う。
すると、皇帝が着席するのを待って、正装の随従者が|厳《おごそ》かな表情で、ひとりずつ入ってくる。
ベルトラン伯爵は、元侍従長である。その夫人ファニイは、セント・ヘレナに同行するのを嫌がって、投身自殺を企てた。
モントロン伯爵は、ジョセフィーン皇后の元侍従長である。夫人アルビーヌは、とかくの噂のある女性で、姦通が理由で、二度も離婚された前歴がある。それだけに、妖気を発散する美女である。
グールゴオ将軍はナポレオンの心酔者で、モスクワ遠征の際、クレムリンに一番乗りをして、玉座の下から爆弾を発見した功績によって、男爵を授けられた。ラス・カアズ伯爵は元海軍将校であるが、文才があり、ナポレオンの回想録を執筆している。息子を連れてきている。
これらの人物が、六十七カ月の間、ナポレオンの側近に奉仕したのであって、その誰もが、多かれ少なかれ、セント・ヘレナの回想を書いている。
別に、バルコム一家がある。ウィリアム・バルコムは東インド会社の富裕なるセント・ヘレナ代表である。夫人・二男・二女の構成する家庭は、イギリスの典型的なブルジョア生活を営んでいたが、家族ぐるみ、ナポレオンに温かい友情を示した。
ナポレオンは、ロングウッドの改造が終るまで、約二カ月、バルコム家――「ブライアー」と呼ばれていた――の離れに住んでいたので、この一家と親密になった。多分、この期間だけが、比較的快適だったのではないか。特に次女のエリザベス(通称ベティ)は、十四歳の美少女だったが、年齢に似合わず、利発で思慮深かったので、忽ち、ナポレオンの|寵児《ペツト》になった。「ブライアー」の広大な庭は、イギリス風に緑の芝生を苅りこみ、点々と花を植えてあって、実に美しかった。ナポレオンはベティと、この庭で鬼ごっこや隠れん坊をして、|嬉々《きき》とハシャいだのである!
ロングウッドに軟禁されてからは、ナポレオンは四マイル以内の|区劃《くかく》にとじこめられ、しかも、イギリス総督の特別許可証がなくては、外来者の出入は厳禁されたので、ベティにも自由に会えなくなってしまった。それというのも、ひとつには、総督サア・ハドソン・ロウが、軍人らしくなく、狭量で|猜疑心《さいぎしん》が強く、ナポレオンの、脱走ばかり警戒して、事ごとに不当な干渉をしたからである。彼はバルコム一家が、ナポレオンに好意を寄せ過ぎるといって、ウィリアムを呼びつけては、苦情を述ベていたが、殊に、ベティがナポレオンに接近するのを嫌っていた。
それを知りながら、ベティは無許可でナポレオンに会いにいき、ナポレオンも彼女の冒険を奨励したので、総督は立腹して、あらゆる卑劣な手段に訴えて、ふたりの間を割こうとした。
ふたりの間――というと、いささか|艶《なまめ》かしいが、六年の間には、ベティも思春期から、次第に成熟した女性に育つし、ナポレオンも、まだ、年齢的には若かったのだから、徐々に、愛情が芽生えても不思議はあるまい。「ナポレオンの最後の恋愛」とか、「セント・ヘレナのロマンス」とかいう本もある。
ナポレオンがベティを愛したことは疑いないが、どうやら、これは純情なプラトニックの関係にとどまっていたようだ。ベティが後日執筆した回想記によっても。
この回想記には、彼女が早朝ロングウッドまで愛馬を走らせ、イギリス哨兵の眼を盗んで――兵士の多くはナポレオンに同情していたから、見て見ぬふりをする者も少しはいたらしい――邸内に忍びこみ、リリブレロの一節をロ笛に吹くと、ドレッシング・ガウンを着たナポレオンが、寝室の窓をあけ、ベティは素早く滑りこんだ、という。
そういう関係だから、ベティは両親が勧めても、誰とも結婚しようとしなかった。『私の心臓はナポレオンのためにだけ鼓動していたから』と彼女は書いている。
ところが、ロンドンの大衆紙が、『ナポレオンはミス・エリザベス・バルコムと情交を結んでいる』と書きたてたので、両親は驚いて、ベティを一年半も監禁した。なんと、ロウ総督が、不徳のフランス人を買収して、投書させたのである!
女性関係ならば、むしろ、モントロン伯爵夫人を語るべきだろう。
アルビーヌは、明らかに、ナポレオンの情人だった。しかも、伯爵はそれを知っていながら、黙認した形跡がある。彼女はセント・ヘレナ島で女子を産み、ナポレオーネと名づけた。眼も口も鼻も額も、ナポレオンに生き写しだった。
『アルビーヌは黒のデコルテに、ダイアモンドの首飾りをつけ、黒い髪にも、ダイアモンドの大きな星をひとつ光らせていた。産後とは思えぬ血色だった。
ノックもせずに、皇帝の書斎に忍びこむと、
「ずいぶんお精が出ますのね、陛下」
と|艶《つや》のある声で呼びかけた。
皇帝は夢中になって仕事をしていた。ラス・カアズ伯爵に口述した回想録を、点検しているのだ。
「もう夜半ですわ、おやめ遊ばせな。それに、この頃は、すっかりお見限りですのね」
と言いながら、アルビーヌは机のそばに寄り、ナポレオンの手を取ると、
「まあ、綺麗な手ですこと! 女でも羨ましいほどですわ」
と言って、指先を朱唇にふくんで、軽く噛むのだった。
手を|労《いたわ》って、戦場でも化粧を怠らず、インクで指を汚さぬように、なるべく鉛筆を用いるのが、ナポレオンの年来の習慣なのである。それほど、美しい手を持っていた。
「およし、アルビーヌ、ひとがくるといけない」
そう言いつつも、ナポレオンは鉛筆をすてて、机を離れると、彼女を抱いて隣室に姿を消した。
隣は寝室である』
とある回想録には記されている。伯爵が何故に夫人の不貞を黙過したのか、よく理由はわからないが、一説によると、ナポレオンが大金を持っていることを知っていたので、死後の遺産が目当てだったという。そうは考えたくないが、彼等夫妻は、遺産分配にあずかった九十七人のなかでも、金額において、上位にいたことは事実である。そして、幼女ナポレオーネも十万フランもらっている。
軍の先頭
ロウ総督は、ナポレオン伝説中、最も醜悪な人物である。
彼はロングウッドの周辺に、歩哨を配置して、日夜、ナポレオンの行動を監視し、園丁や掃除夫になりすましたスパイを多数潜入させて、四六時、ナポレオンの動静を探査した。それでも気がすまず、みずからロングウッドに出向き、邸内をのぞくのだった。ある時はナポレオンの入浴しているところを観察したりした。脱走防止のためである。万一、脱走した時は、青い旗信号を使うことになっていた。無事なら白――六年間、白ばかりだった。
ナポレオン宛の私信は、残らず、総督がみずから検閲した。没収してしまうものも多かった。レチツィアの手紙――彼女は切々たる手紙を幾通も書いた――などは、ほとんど、ナポレオンの|手許《てもと》に届かなかった。
ところが、ナポレオンは機略に富んでいるから、ジェイムスタウンに入港する商船の船長を、幾人でも買収して、島外の親族や友人と文通した。商船の船長は、イギリス人をも含んで、例外なく、ナポレオンに同情し、ロウを|軽蔑《けいべつ》していたのである。
とはいえ、総督のスパイが随所に、眼を光らせているから、書翰や文書の取扱いには、慎重な配慮を必要とした。ラス・カアズは、毎日ナポレオンの懐旧談を筆記したが、完成すると、ビンに入れて、そっと地中に埋めるのだった。そして、まとまった分は、然るべき船長に託送した。こうして、ロンドンで次々と、回想録の類が公表され、読者は総督の冷酷な処置に対して、烈しい非難を浴びせ始めるので、ロウはいよいよナポレオンに対して、深い敵意を抱いた。彼がナポレオンの侍医を、続けざまに、幾人も追放したのは、医師たちが、「ある種の投薬を拒んだ」ためだと|取沙汰《とりざた》されると、激情詩人バイロンは、
さらば、フランスよ、さらば、
そなたが私に王冠を授けた時
私はそなたを地上の驚異にした
さらば、フランスよ、さらば、
自由が再びそなたの国によみがえる時
ああ、その時こそ、私を想い出しておくれ!
と歌って、ナポレオンを讃美した。そして、|議 会《パアラメント》では野党領袖が、こもごも立ち、『ロウ総督の行動はイギリスの国辱だ』といって、鋭く政府を糾弾した。ナポレオンの作戦は奏功しそうに見えた。それは、ロウを死刑執行人に、彼を世紀の殉教者に仕立て、イギリスの世論を沸騰させ、それによって、セント・ヘレナから、もっと健康な土地に移ることだった。
だが、世論は|激昂《げつこう》しても、イギリス政府は、さらに動く気配はない。ナポレオンはウォタアルー戦勝記念のトロフィなのだ。
それではどうするか。
脱走のほかない。ナポレオンが脱走を計画したことは確かである。それも、一回や二回ではない。
彼の健康は年とともに衰えたが、流刑になってからも、最初の両三年は、格別の異状がなかった。彼自身、『あと十五年は生きてみせる』と語っていた。病気といえば、かなり重症の赤痢を三回わずらった程度である。
幾つかの脱出企図のうちでも、一八一六年秋――セント・ヘレナに着いてから一年たっている――以後一年間つづいたシャン・ダジイル計画には、一時、ナポレオンも相当の期待を寄せていた様子である。
当時、長兄のジョゼフはアメリカに亡命していたが、フィラデルフィアを中心にして、かなりの勢力を養っていた。グルウシイもヴァンダンムらの元将軍も集まっていたので、ナポレオンを迎えて、新天地に三十万のフランス人を糾合し、一大|植民地《コロニイ》を開拓する構想だったのである。ナポレオンはジョゼフに、フランスに隠匿しておいた大金の一部を送った事実がある。
計画が何故に|挫折《ざせつ》したかは、明らかでない。脱出については、百万フランで請負う、と申し出た計算高いイギリス船長もあれば、ジェイムスタウン港のイギリス軍艦を奪取しよう、と意気ごむ、勇ましいフランスの有志もいた。だが、恐らく、イギリス海軍の警戒が厳重なので、計画の成功する見込はない、と結論せざるを得なかったのだろう。ラ・ベリヨットがブラジルへ逃避させようと計画したという説があることは、読者の記憶されるところだろう。
海、またしても、海は彼を拒否したのだ。想えば、欧州統合の夢はイギリス征服の失敗によって崩壊したのではなかったか。いま、シャン・ダジイルの雄図も、海ゆえに放棄せねばならぬのである。
そのうち、肝心なナポレオンの健康が変調を呈し始め、彼自身が冒険の意欲を失うのである。
ナポレオンは、エルバ島の配所生活の際と同じように、極めて規則正しく暮した。一日の持ち時間を、数学的に細分し、頗る効果的に使用した。なにごとによらず、厚生が彼の特色なのである。
朝は七時に目をさます。侍僕がカーテンをひらき、窓をあげる。ナポレオンの最初の質問は、
『どんな天気かね?』
である。直ぐにブラック・コフィをすする。それから、|悠《ゆつ》くりと丹念に化粧をする。侍僕が鏡をささげると、その前で顔を|剃《そ》る。そのあとで全身にオードコロンをふりかけて、ごしごしと摩擦させる。
それから、ラス・カアズに早口で口述をする。グールゴオが筆記することもある。疲れると、馬に乗る。これは十二マイルまで許されている。農夫の娘が、必ず、野花を持って、待ち受けている。だが、乗馬時間は、次第に短縮される。狭いところを乗っても、詰まらないのだ。
帰邸すると、熱い湯に入る。彼は入浴を、一種の医療と考えている。首まで|浸《つか》って、本を読んだり、軽い昼食をとったりもする。
身仕度を終ると、来客を引見する。種々の外人が敬意を表しにくるのだ。
四時になると、天候がよければ、ベルトラン、モントロン両夫人とともに、馬車でドライブする。この両夫人は、あまり仲がよくない。ナポレオンは彼女等のさやあてをきいて笑う。ドライブの間に、よく長い散歩をするが、両夫人にとっては、これが迷惑至極である。
夕食は七時。正装して、宮中席次に従って坐る。みごとな紋章入り食器を使用する。ロウ総督がロングウッドの経費を削減――年額六千ポンドに――したので、大部分は売り払ったが、それでも、最後に、まだ、二百三十四枚の黄金の皿が残っていた。
食後は、カアド(かるた)、チェスなどをする。ナポレオンは、よく、ごまかした。それが露見すると、子供が叱られる時のように、さも情けないという表情をする。
飽きると、音読が始まる。
『さあ、コメディ・フランセーズ座にいくとしよう』
というと、コルネイユやヴォルテールを音読する。アルビーヌが|欠伸《あくび》をする。ファニイが居眠りをする。ナポレオンはパタンと本をとじると、時計を見て、
『ああ、もう、こんな時間か』
とつぶやく。これが合図で、一同は静かに退出する。十一時である。
だが、ベッドに入っても、なかなか、寝つかれない。そこで、やたらに本を読む。彼は六年間に、三千冊からの新刊書を、欧州各地から取り寄せている。
不眠症は、時とともに悪化する。
フランス皇帝とセント・ヘレナの距離は、どのくらいあるか?
それはわからない。王冠があまりにも|眩《まぶ》しく輝くから。
王たちは食卓につき、王妃たちは踊りに立つ。
晴天ののちには、吹雪する日が来るにちがいないのだ!
キップリングの詩である。
花から雪へ、雪から花へ、六星霜。欧州は「フランス皇帝」を忘れ始めたようだ。
ナポレオンの健康は、徐々に虫ばまれ、一八一九年頃から、異状を呈しだした。翌二〇年夏になると、慢性化した消化不良が悪化し、しばしば腹部の激痛を訴えた。発作は身辺の事情と関連して、誘発されるようだった。ロウ総督の非情な仕打ち、側近の不和。グールゴオ・モントロン夫人の|慌《あわただ》しい帰国、ラス・カアズの追放、侍医の交代。彼に終始好意を示したバルコムまで、総督命令で転勤させられたのだ。そればかりではない。フランスのニュースも悪い。ミュラアが銃殺された時は、さほどでなかったが、ネイも銃殺されたと知った時のナポレオンの憤激は、かつてないほど烈しかった。
それに、文字通り殺人的な気候。セント・ヘレナは刑場の門である。ここを通る人間は、なしくずしの死刑に処せられる。ナポレオンに随従して、フランスから渡ってきた、約五十人の配下は、その大半が既に死去している。しかも、ロングウッドは、島内でも悪名高い霧と風の不健康地なのだ。ジェィムスタウンとの気温の差は、十四度もある。それでなくても、島全体がナポレオンにとっては、一大監獄なのだが。
一八二一年になると、ナポレオンはやせ細り、もはや、固形物はほとんど食べられなくなった。
『ベッドは良いものだ、ドクタア。全世界の王冠とも交換したいとは思わないね』
と言うようになってしまった。マレンゴの、アウステルリッツの、フリードランドの、あの勇将が!
ベルトラン、モントロンらはローマにいるマダム・メール(レチツィア)とフェシュ枢機卿に、「至急に信頼できる医者を送ってくれ」と依頼するが、レチツィアもフェシュも、ナポレオンは既にセント・ヘレナを脱出して、どこかに身をかくしており、いずれ決起するにちがいない、と信じているので、無名の田舎医者を差し向けてくる。「ナポレオンは脱出した」という神告を信じていたのである。ナポレオンは老母にまで見棄てられたと思って、絶望し、病状は急速に悪化する。
四月中旬、彼は人事不省におちいるが、正気を回復すると、モントロン伯爵に遺言を口述し始める。胃が燃え、激痛と高熱と|悪感《おかん》が全身を襲っているのだ。遺言は自筆でなくては、法律的効果がないので、冷や汗を流しつつ、ベッドに坐って、書き直す。
『遺骸はセーヌ河畔に安置されたい。セーヌこそは、国民の中心にあって、私が心から愛したものだから』
という一句がある。そして、遺骸の解剖を命じている。彼は死後までも、真理の探求者である。これほどに肉体を責め|苛《さいな》む業病の正体を、将来の医学のために明らかにしたいのである。
四月二十七日、病状は改まり、五月三日に|臨終《サクラ》|塗油《メント》を受ける。
その間に愛児ローマ王(いまはライヒシュタット公と呼ばれている)に、哀切きわまりない遺訓をのこす。
『君主の目的は統治することだけではなく、教育・道徳・幸福を普及させることにある。眼を常に大衆に向けよ。
欧州は理性によって心服させるべきであって、剣によって征服すべきものではない。
お前は私が各地に開花させた新思想を継承せねばならぬ。欧州を永久に和解統一するという私の理想を。
私がやむなく武力で行なったことを、お前は国民の合意にもとづいて行なうのだ。
もし、一八一二年に、私がロシアで勝利を収めていたら、平和は百年間保たれたにちがいない。私は諸国民のゴーディアン・ノット(難題)を断ち切ったが、いまや、これを結び合わすべき時が来ている。諸国の君主をして、理性の声に耳を傾けしめよ。欧州には国際的憎悪を生む原因は、もはやない。偏見は消え、共通の利益は拡大融合しつつある』
こういう卓見が、全篇を黄金の糸のように貫いているのである。これが、ナポレオンの不朽の真価である。だが、死のベッドで、かく語るナポレオンは、未完成の状態で粉砕された傑作を、痛恨の念をもって眺める、偉大な彫刻家にも似ている。
そのローマ王は絶えず『父はどこにいるのだ』と|廷臣《ていしん》にきくのだが、誰も口をつぐんで答えぬので、ナポレオンが死の床に横たわっていることも知らぬのである。マリイ・ルイズはまたも妊娠して、イタリアに転居し、ほとんど、この幼児を遺棄して顧みない。さもあろう、ウォタアルーの一戦にナポレオンが敗れた時、手をうって喜んだ女なのである。
五日、臨終。未明に高熱にうかされつつ、彼はうわごとを言う。
『フランス!……軍隊!……軍の先頭……ジョセフィーン!』
次の瞬間、ナポレオンはベッドから|跳《と》び出し、|傍《かたわ》らにいたモントロンに、断末魔の死力をふりしぼって組みつく。この最後の戦闘の敵は誰か――誰も知らぬ。
深い霧がロングウッドを包んでいる。死の暗幕のように……。
ナポレオンは五十一歳八カ月と二十日の生涯をとじた。胃癌だった。
[#地付き]〈了〉

後  記
ナポレオンの愛人のうち、ジョルジイナは八十歳まで生きながらえたが、美食(むしろ飽食)し過ぎたため、恐しく肥満し、しばしば戯画の題材になった。デュウマ、ユウゴオ、バルザックなどとも浮名を流したが、最後には、一文無しになって、劇場のクローク係りにまで落ちた。だが、葬儀は盛大を極め、ナポレオン三世(ナポレオンの|甥《おい》)が費用を出した。棺の内も外も三色菫でいっぱいに飾ってあった。
マリイ・ワレフスカは、その後オラノ伯爵と結婚したが、|産褥《さんじよく》で死んだ。一八一七年末のことである。ナポレオンとの間に生れたアレクサンダアは、ナポレオン三世の外相になった。
マリイ・ルイズはナイッパアグ伯爵の死後また結婚し、平凡な生涯を送った。ローマ王(デューク・ド・ライヒシュタット)は一八三二年に死去した。
[#改ページ]

あ と が き
ナポレオンを知らぬ人はあるまい。たいていの人は、一生に少なくとも一度は、ナポレオンの伝記を読む。文明国なら、どこでも同じである。それに、ナポレオンが嫌いだという人は、ほとんどない。まず、みんな好意を抱いている。とくに、青年層に好かれる。英雄待望の心理だろう。しかも、彼が生れたのは、二百年も昔なのである。二百年後も、この世界的人気は変るまい。何故だろう。ナポレオンは古今に独歩する軍事的天才である。また、歴史に比類ない政治的超人でもある。だが、それだけが理由ではなかろう。
ナポレオン時代は、フランス革命を前奏曲として、壮大なスペクタクルを展開する。コルシカの無名士官は、風雲に乗じ、孤剣をふるって帝冠をかちとり、全欧州に号令するが、ロシア遠征に敗れて、エルバ島に流される。と思うと、忽ち脱出して、ウィーン会議の華麗な舞踏会を混乱におとしいれる。だが、ウォタアルーの決戦に、惜しくも一髪の差で勝利を逸し、百日天下は|慌《あわただ》しく幕をおろす。そして、セント・ヘレナの配所に、五年半の憂愁生活を送って、淋しく|悶死《もんし》する。
ナポレオンの生涯は|絢爛《けんらん》たるドラマの連続である。数学者だったから、合理性を尊重したが、同時に空想家でもあったから、時として、非合理的な冒険に走った。欧州を統合し、共通の法典・通貨・施政を実現しようと企図したのは、現在の欧州共同体の先駆的構想とも評価し得るのであって、いかにも彼らしい合理的ビジョンである。そこには、社会革新を志向する「革命の子」ナポレオンの面目が躍如としている。だが、ペルシア・インドを征服して東方に一大帝国を築き、パリを世界の政治|中枢《ちゆうすう》にしたいと望んだのは、いささか空想に溺れたものであって、ここに、ロマンティックな彼の一面が露呈している。彼は当面の課題を現実的に処理する時には、常に非凡な成功を収めたが、将来の抱負を非現実的に追求する際には、ややもすると、悲劇的な失敗を招いた。いわば、数学者と空想家が同居していたのであって、空想家が没落を早めたのだが、彼の偉大な素質もまた、空想家が生んだものである。トマス・ハアディの長詩「|覇 王《ザ・ダイナスツ》」はナポレオンを評して、
偉人は流星のように、燃えつきつつ、明るく地球を照らす
と歌っているが、ナポレオンの空想は、流星のように大きく夜空を裂いて、歴史に不滅の光輝をそえるのである。
「|女 を 探 せ《シエルシエ・ラ・フアム》」は犯人追跡の|極意《ごくい》である。男性の伝記を書く場合も同じではあるまいか。およそ、伝記の主人公になるくらいの男なら、女を愛し女に愛されなかったはずはない。どんな女に恋し、どんな女に恋されたか――それを明らかにすれば、男の性格はわかろうというものである。女性を無視した伝記は、オフェリアの登場せぬハムレット劇のようなものではあるまいか。
セント・ヘレナのナポレオンは、折にふれて、側近に恋愛の想い出を語ったが、七人の女性をあげている。もっとも、仮りそめの情事は数えきれない、と告白している。全盛時代には、占領地の王侯君主が争って美女を献上したし、彼の一族はジョセフィーンを憎悪していたから、彼女を失脚させようとして、これまた、頻に|佳人《かじん》を|周旋《しゆうせん》した。「赤と黒」のスタンダールによると、ナポレオンは公務の合間に、剣を帯び靴をはいたままで女を抱くことがあったが、情事はものの数分で終ったそうである。だが、これは「その他多勢」の場合だけだったろう。
ナポレオンは生来のロマンティストだから、女性には優しかった。しかし、政治に関与することだけは固く禁じた。彼が好んだのは、善良・温順で|可憐《かれん》な女性であって、インテリ婦人をひどく嫌った。このため、一般に、ナポレオンの女性関係を軽視する傾向があるが、これは間違いだと思う。例えば、第一の妻ジョセフィーンが彼に与えた影響は大きい。いつぞや、私はアンドレ・モーロアとナポレオンを語ったことがあるが、彼は『ジョセフィーンの不貞に対する怒りが爆発して、イタリア戦役の大勝になったのだ』と説いた。同感である。また、彼がエルバ安住の当初の方針を捨て、脱出して再起を試みたのは、第二の妻マリイ・ルイズ(と愛児ローマ王)が来島しなかったからである。さらに、彼に永遠の愛を捧げて悔いなかったマリイ・ワレフスカ――優美なポーランド妻――の|我心終不移《わがこころついにうつらず》という真心は、多情多感なナポレオンには、少なからぬ救いとなったにちがいない。元来が|人間嫌い《ミザントローブ》なのだから。
一九六九年八月十五日はナポレオン生誕二百年に当る。異色ある伝記にしたいと思ったので、全身像をえがきながらも、ひとつの重点を彼の多彩な恋愛遍歴においてみた。いわば、ナポレオンの「詩と真実」である。彼の人間的側面を紹介できたら満足である。
[#地付き](一九六九年夏)

ナポレオン年譜
西暦  歳 ナポレオンおよびヨーロッパのうごき
(  )内は月日または月
一七六九
コルシカ島に生れる(8・15)
一七七九 10
ブリエンヌ幼年学校に入る
一七八四 15
パリ士官学校に入る
一七八五 16
少尉となりヴァランスに勤務 マリイ・アントアネットの頸飾事件
一七八九 20
フランス革命勃発(7)
一七九二 23
パリで八月十日事件を目撃
一七九三 24
ルイ十六世処刑される(1)
パンフレット「ボーケールの夜食」を発表して|過激派《ジャコバン》(ロベスピエール派)に近づく(7)
トゥーロン港の攻囲戦に成功(12)――はじめて軍人としての才能をしめす
一七九四 25
陸軍少将となり、イタリア方面軍砲兵司令官となる
テルミドールのクーデタア(7)でロベスピエール失脚
ロベスピエール派として二週間投獄される(9)
一七九五 26
ヴァンデミエール叛乱(王党派が中心)を鎮圧(10) 総裁政府が成立 国内軍司令官となる
一七九六 27
イタリア遠征軍司令官に任ぜられる ジョセフィーンと結婚 イタリア戦役に出発(3) ロディの戦い(5) アルコレの戦い(11)で勝つ
一七九七 28
マントヴァ占領(2) オーストリアとカンボ・フォルミオ条約を結び(10)パリに凱旋(12)
一七九八 29
エジプト遠征に出発(5) ピラミッドの戦い(7)に勝ち アブキールの海戦(8)に負ける
一七九九 30
イギリス・オーストリア・ロシアによる第二次対仏同盟成立(6) エジプト脱出(8) フランスに帰国(10) ブリュメールのクーデタア(11・9〜10)成功 総裁政府・議会を解体 統領政府が成立 第一統領となる(12)
一八〇〇 31
フランス銀行設立(1) 行政・司法改革(2〜3)
イタリア戦役(第二次)開始(5) マンレゴの戦い(6)に辛勝
一八〇一 32
オーストリアとルュネヴィル条約を結ぶ(2)
ローマ法皇と|宗教協約《コンコルダア》を結ぶ(7)
ロシアとも講和条約を結ぶ(10)
一八〇二 33
イタリア共和国大統領となる
レジョン・ドヌール勲章制定(5)
終身統領となる(8)
一八〇三 34
ドイツ諸侯の領土編成(2)
イギリス、アミアン条約を破棄(5)
王党派のナポレオン暗殺計画(12)
一八〇四 35
ナポレオン法典発布(3)
人民投票により皇帝となる(5・18 戴冠式は12・2)――第一帝政のはじまり
一八〇五 36
イタリア王国の王位をかねる(3) 第三次対仏同盟成立(8) 同盟国バヴァリアに侵入(9)
ウルムの戦い(10・20)に勝つが、トラファルガ沖の海戦でイギリス海軍に敗れる(10・21)
アウステルリッツの三帝会戦(12)に快勝し、プロシアとシェーンブルン条約をオーストリアとプレスブルク条約を結ぶ
一八〇六 37
ロシア、イギリスと和平(6)――第三次対仏同盟解消
ライン同盟成立(7) フランツ二世帝位放棄 神聖ローマ帝国崩壊(8)
プロシア、フランス軍の撤退を要求(10) イギリス・ロシアも同調――第四次対仏同盟成立
イエナ、アウエルシュテットの戦い(10・14)に勝ち、ベルリン入城
ベルリン勅令発表(11・21)――大陸封鎖の開始
一八〇七 38
アイラウ(2) フリードランドの戦い(6)に勝ち ロシア、プロシアとティルジット条約を結ぶ(7)
ジュノー、ポルトガルに侵入(11)
一八〇八 39
ローマを併合(2)
マドリッド(スペイン)に反仏蜂起 兄ジョセフをスペイン王とする(5)――スペイン戦争(半島戦争)開始
エアフルトでロシア皇帝らと会見(9)
マドリッドにはいる(12)
一八〇九 40
第五次対仏同盟成立(4)
オーストリア軍バヴァリアに侵入(4)――対オーストリア戦役開始
ウィーン入城 法皇領併合(5)
ワグラムの戦い(7)に勝ち シェーンブルン条約を結ぶ(10)
ジョセフィーンと離婚(12)
一八一〇 41
マリイ・ルイズと結婚(4)
オランダを併合(7)
イギリス、経済危機(8)
ロシア、大陸封鎖破棄(12)――対ロシア戦役の端緒
一八一一 42
マリイ・ルイズ、ナポレオン二世(ローマ王)を生む(3)
一八一二 43
ロシアに侵入開始
ボロディノの戦い(9・5〜6)
モスクワに入城(9・14)
退却開始(10・19)――没落の第一歩
パリに帰る(12)
一八一三 44
ドイツ解放戦争始まる――ルッツェン、バウツェン、ドレスデンの戦いでプロシア・ロシア軍を破る(5〜8)
ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)にプロシア、オーストリア、スエーデンの同盟軍に敗れる(10・16)
オランダ、独立のため叛乱(11)
一八一四 45
同盟軍(イギリスも参加)フランス戦役を開始(1)
同盟軍、パリ入城(3)
皇帝を退位(4) エルバ島に到着(5)
ルイ十八世即位(5)――第一王政復古
一八一五 46
オーストリアら、ウィーン会議を開く
エルバ島脱出(2) パリに帰る(3)――百日天下はじまる
ウィーン会議最終議定書なる(6)
ウォタアルーの戦いでウェリントンに敗れる(6・18)
イギリス軍に投降、皇帝を退位(6)――第二王政復古
パリ降伏(7)
オーストリアのメッテルニヒ、神聖同盟をつくる(9)
セント・ヘレナにいたる(10)
一八二一 51
セント・ヘレナで死去(5・5)
一八四〇
遺骸、パリにかえる
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文庫版に寄せて
[#地付き]加 瀬 俊 一 
両度の世界大戦を除けば、最も多く人命を損傷したのはナポレオン戦争だろう。それにもかかわらず、史家のナポレオンに対する評価は極めて高く、死後百五十余年を経て、価値観が大きく変化した現在なお、彼の名声は依然として盛んである。その証拠には、既に二万余の評伝が存在するのに、いまでもフランスを中心として、毎年、数十種の新しい伝記類が世界各地で刊行されるばかりでなく、遺品が競売されると、法外な値段で落札されるのである。書翰やオートグラフ(署名)は、私も手にすることがあるが、時には、遺髪五本などという珍奇な売物も出る。セントヘレナ島で悶死したのは、ナポレオンを敵視した英国総督ロウが、ひそかに毒を盛ったからだ、という疑惑が残っており、遺髪から|砒素《ひそ》が検出される可能性があると取沙汰されたからだろう。先年、彼の遺愛の三角帽を日本の|好事家《こうずか》が巨費を投じて取得したことは、まだ記憶に新しい。このように、ナポレオンの英雄像は万人の胸に永遠に生きている、その年齢を問わず。
そういえば、さき頃、ナポレオンが青年時代に書いた恋愛小説の原稿の、一部が発見されて、にぎやかな話題になった。一時は、彼は作家志望だったのである。これでもわかるように、彼は天性のロマンチストだった。これが彼の英雄像を虹色に染めあげるのである。虹さながらの多彩なロマンスのなかで、彼の人生行路に最も深く影響したのは、いうまでもなく、ジョセフィーンである。
そのジョセフィーンをめぐって、知られざるエピソードがある。エピソードというよりも、哀愁限りない一篇の秘話である。その概要を紹介してみよう。
×     ×
ジョセフィーンにはエイメ・デュブクという、ほぼ同年齢の従妹がいた。デュブク家は名門貴族であるが、エイメの父は軍功をたてながらも、故あって仏領マルチニック島に亡命し、ここで農園を経営して成功した。ところが、エイメがまだ幼少の頃に両親は死去したので、彼女は叔父のタシエ家――島の有力者である――に引き取られ、長女ジョセフィーンとともに実の姉妹のように養育されて、ふたりは大の仲よしになった。
当時は、マ島の上流少女はフランスに留学し、第一級の|修道院《コンヴエント》で鍛えられると、優雅な適齢期の女性になり、帰島して良縁を求めるのが常だった。まず、ジョセフィーンが留学し、ボーアルネエ子爵夫人になった。続いて、エイメも渡仏して、ナントの修道院に入った。時に十三歳である。英仏戦争が起り、マルチニック島周辺が戦場になったので、彼女は八年も滞在したが、修道女たちの寵愛を一身に集めていた。美しく賢かったからである。
戦争が終ったので帰島の途についたが、海賊船に襲われて、アルジェリアに連行された。地中海を横行する|獰猛《どうもう》な海賊の根拠地である。彼女を庇護していたのは、トルコ総督――アルジェリァはトルコ領だった――であるが、エイメを一見すると、この高貴な女性を、みずから賞玩するかわりに、|皇帝《サルタン》に献上して手柄にしようと考えた。
かくて、エイメはコンスタンチノープル(現名・イスタンブール)に護送され、老帝ハミト一世のハレムに収容されるが、やがて召し出されて処女を奪われる。この頃はトルコの勢威はなお隆々としており、宮廷生活は|豪奢《ごうしや》をきわめていた。ゴミ箱にさえ純金を用い、浴槽には真珠をちりばめ、タオルには金糸銀糸をぬいこみ、傘の骨は金、留めがねは|青玉《サフアイア》という調子だった。
だが、宮廷は伏魔殿さながらであって、保守派と進歩派が血みどろの抗争を演じていた。前者はシリア出身の現帝妃とその生んだ王子ムスタファが中心であって、これを反動的な皇帝親衛隊が支持していた。後者はコーカサス出身の先帝妃とその王子セリム皇太子である。トルコでは年齢順に帝位を継ぐことになっていた。コーカサス妃は明敏だったから、フランスの最新教養を備えるエイメを老帝に近づけ、それによって、守旧の因習を打破するとともに、わが子セリムとエイメを接近させ、皇太子をも感化しようと努めた。老帝はエイメを「ナキシュ」(美しきもの)と呼んで溺愛し、シリア妃を|疎《うと》んじ進歩政策を取り始めたので、保守派は不満を募らせ、エイメを排撃し皇太子を廃立するために盛んに策動した。間もなく、エイメが王子マフムトを生むに及んで、彼女に対する敵意を露骨にあらわし、セリムとエイメが密通していると非難した。セリムもまたエイメに心酔して、フランス文化を礼讃していたのである。ふたりは同年輩であって、一種の恋愛関係にあったらしいが、セリムにとっては、エイメは遥かなる未知の世界から思いがけずに現われた美神であり、|香《か》ぐわしい福音の使者だった。この影響によって、皇太子セリムはパリ王宮のルイ十六世に友好を求める親書を送ったほどである。かつて前例のないことだった。
一七八九年、老帝が死去しセリムが即位した。この年フランス革命が起り、風雲児ナポレオンが権力を掌握する。エイメはジョセフィーンが皇后になると、高価なダイアモンドの首飾を贈る。前後して、コーカサス妃が他界すると、新帝の欧化政策にあきたらぬ保守派は英露両国を語らって謀反を起す。セリムがナポレオンに救援を乞うと、武勲に輝く宿将セバスチアンが来援して鎮圧する。だが将軍は愛妻を失うと、落胆して帰国し、それを合図に、親衛隊は反乱を起して皇帝セリムを斬殺し、エイメを捕えた。彼女を一髪の危機から救ったのは、進歩派の義軍であって、その支持のもとにエイメの愛児マフムトが即位し、彼女は母后陛下として、絶大な権力を握り、諸政刷新に|邁進《まいしん》したので、ここにトルコは黄金時代を迎えた。
ところが、マフムト即位の翌年、ナポレオンはジョセフィーンを離婚した。エイメとマフムトは驚き、かつ、怒った。エイメとしては、異郷にあって同様の運命に支配されているだけに、実姉を慕う愛情をもって、ジョセフィーンの幸福を念じていたのである。
この時点から、彼等のフランスに対する心境は一変した。たまたま、コンスタンチノープルには外交の鬼才といわれるカニング英国大使――のちの外相――が駐在していたので、この機に乗じてフランスとトルコを巧みに離間した。ナポレオンの野望は無限であって、コンスタンチノープルを制圧しトルコを併合しようと欲している、と説いた。そうきけば、なるほどと思うフシもある。現に、野心をとげるために、ジョセフィーンを追い、オーストリア皇女と政略結婚をしたではないか。
やがて、ナポレオンは大軍団をひきいてロシアに遠征した。その直後に、トルコは交戦中のロシアと休戦した。カニング大使が斡旋したのである。本来ならば、ロシアはトルコの宿敵なのだから、ナポレオンに侵入され苦戦している時こそ、フランスと協力して怨敵を打倒する天与の機会だった。だが、マフムト帝はあえて休戦して、強力なロシア軍が祖国防衛戦に参加する道を開いたのである。ナポレオンがモスクワを放棄した時、トルコ戦線のロシア部隊は反転して北上し、退却するフランス軍を急追した。さしもの大軍団も氷雪のなかで撃滅され、ナポレオンはスモレンスクに落ちのびたが、ベレジナ河畔で大敗を喫し、かろうじて渡河して、命からがらパリに走った。このみじめな敗戦を、かくも完敗に至らしめたのは、トルコが決定的瞬間に、反仏政策に転じたのが原因だった。英国史家は外交家カニングの功績を特筆するが、マフムト帝が彼の説得に応じたのには、別に理由があったのである。
それにしても、ジョセフィーンとエイメの運命は、まことに数奇なものがある。ジョセフィーンは栄光の絶頂に立つが、やがて転落する。エイメもまた栄華をきわめるが、三十三年をハレムに亡霊の如くに生きるのである。イスタンブールの旧帝室墓地には、エイメの豪華な墓碑がある。碑面には
ナキシュ、美しき者、外国貴族の血を受けた母后陛下、オリエントの門を新しき光に開いた女性。
と刻んである。
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
ナポレオン
その情熱的生涯
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
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