TITLE : 岳史よ、生命あるかぎり
講談社電子文庫
岳史よ、生命あるかぎり
加東 康一 著
はじめに
十歳そこそこの人間の記憶というものは、どれだけ残るものであろうか。
私自身でいえば、戦争のさなかの十歳前後の記憶はまさに鮮やかで、当時はまだ郊外だった世田谷のわが家のたたずまいや、朝の納豆売りの売り声、ベーゴマにビー玉、鎮守《ちんじゆ》さまのお祭りに並んだ夜店、教育勅語《ちよくご》をひどい訛《なま》りで読む校長先生。そして東京駅から中国に出発していった父親……ときりがないほど思い出がつまっている。
その後の敗戦後は、もう生命をつなぐのがやっとで、そのときの癖がずっと抜けずに全力疾走。なつかしいなんて記憶を持たないまま、そろそろ六十年という年齢を重ねてしまった。
そしていま私は声を失った。末期舌ガンによる舌と喉頭《こうとう》の全摘手術の結果である。
私の息子・岳史《たけし》は、私の声を覚えていてくれるであろうか。二度と再び息子と会話を交わすことのあり得ない私の切ない不安である。
これまで、ひたすら走りつづけてきた私は、岳史とゆっくり会話を交わしたこともなかったように思う。いま小学校六年生の息子の耳に私の声は記憶されているであろうか。頼りない話である。
ただ、いま私は思う。父としての私が死と対決して、どのように闘ったか。なにを思い、どう苦しみ、そしてなにをつかみとったか、声をなくした私は、息子に書き残したいと考えた。
私の発病以来、おまえは目のあたりに私のもだえ苦しむ様を見てきた。ときに途方にくれ、あるいは健気《けなげ》に背中をさすりながら「頑張って……」と励ましてくれていたおまえに、私はありのままの闘病の記録を残したい。
父親は誰しも、息子には知られたくない、見せたくない……という部分をかかえているだろう。私もまた、息子のおまえに、うじうじと思い悩み、苦痛に泣いたりの弱みをさらしたくはないと思う。
これが人情というものだと心得ながら、私はありのままの自分をさらそうと思う。
私が倒れて以来、なんと数多くの人々の励ましや慰めを受けたことか。同病のひとからの便りも珍しくなかった。その人々に対しても、私は私自身をリポートする義務があると思っていた。
だからベッドにあって、少しでも調子のいいときはノートにペンを走らせた。病状の推移によって、そのときどきに感じ方はちがうだろう。そのありのままを、私は息子・岳史に伝えるかたちをとりながら、数限りない私を励ましてくださった方たちへの感謝の証《あか》しとしたい。
目 次
はじめに
1章 治療より仕事だ
その日がきた
昭和の終った日
スリランカと私
駆け足人生
宣 告
オレンジ色のカプセル
ボクもそれでいいよ
限界がきた
2章 明日を楽しみに
おまえともう少し……
無駄じゃなかった四ヵ月
ソイレント・グリーン
転 院
幻覚をさまよう
誕生パーティ
スキャンダル
生と死の境界
アヒルが三羽
勉強より大切なもの
3章 過去との訣別
手術の日が決った
十一時間半の闘い
さよなら《やじうま》
頭頸科病棟
ア、イ、ウ、エ、オ
額の向う傷
おまえとオレと
4章 焦らず、気長に
素晴らしい友たち
去っていった夏
空いたベッド
水を飲む
象さんの長い鼻
走る天使たち
喉にあいた穴
なんとかいって
新入り阿木翁助さん
秋がやってきた
いわぬが花……か
5章 声なき世界
抗ガン剤投与
傷だらけの人生
生命の価値
ガマの油売り
やっぱりきた脱毛
口から飲めるぞ
息子の初舞台
骨がきしむ
6章 絶ちきれぬ未練
破れた手風琴
ハードボイルド派の死
拒否反応
告知の是非
潜在的な予感
映画からテレビ時代へ
もぐさの灸
7章 待ちに待った日
ガタゴト列車
抗ガン剤終了
調理人志願
ゆく年くる年
退 院
さてこれから ――あとがきにかえて
あとがきのあとがき ――文庫版のために
岳史よ、生命あるかぎり
1章 治療より仕事だ
その日がきた
とうとうその日がきた。一九八九年七月二十七日である。
昨夜から病室に泊ってくれていたかみさん(祥子《さちこ》)も息子も六時前に起こされる。いつもの朝とちがうのは、すべてが手術の準備のための処置であることだ。
親子三人、過去との訣別を強いられる最後の夜をともにすごした。
かみさんは息子に、「明日はパパの出陣式をしてあげなくちゃ」と語っていた。妻は私の病と手術は、新しい別の人生の“出産”だ、と自分にも息子にもいいきかせていたらしい。
早朝八時前から、いろんな顔が病室に集った。まるで出征兵士を送る会である。
病室はにわかにバタバタしはじめ、私は手術室行きのベッドに移される。たちまち全裸になれるような姿でベッドに横たわる。
すでに麻酔科の担当医が精神安定剤を注射しているのでボーッとしはじめている。
ブルートレインでかけつけてくださった田中龍玄《りゆうげん》さんの眼がキラキラ光った。友人たちの顔がみんなダブッて私の視野を交錯する。
「さあ行きますよ」
看護婦の声は明るい。これが大切なことなのだろう。患者や家族は不安にちがいないのだから。
ベッドが勢いよく動きだし、天井を見ていた私の顔の上を息子がのぞき込んで、
「お父さん、頑張ってよ!」
とひと言。小学校六年生の彼にも、いまなにが起こりつつあるかはよく理解できているのだろうが、あのとてつもなく丈夫な親父がどうかなってしまうなどとは、とても想像できないというのが正直なところだろう。いつもの調子で、せっぱつまった切実な響きなどないのが、私にとっては救いだ。
三階から二階へ、長い廊下の天井を見つめたまま、手術室に入る。ベッドわきについてきたかみさんだけが確信にみちた表情だった。
内田、苦瓜《にがうり》、井上の三医師が手術台の私をのぞき込む。昨日、麻酔科の橋本医師が語った通り、腕に針の感触を感じた後は、みるみる意識はなくなっていく。
意識の最後の視野に残っているのは、あの手術室独特のライトだった。
「お父さん、頑張ってよ!」
息子の岳史《たけし》の声が、霞《かす》んでいく意識のなかで、こだまのように耳の底で鳴る。
「待ってろよ、おまえのところに帰っていくから」
薄れる意識のなかで、私は答えていた。
昭和の終った日
舌にチクリと痛みを感じたのは、なぜか昭和の終る日だった。
一九八九年一月七日。この日、私はスリランカの首都コロンボにいた。
ホテルのベッドでコロンボ在住の友人・中村肇氏からの電話で起こされた。早朝六時三十分である。天皇が今朝崩御《ほうぎよ》された……六時三十三分だったという報《しら》せだ。ベッドサイドの腕時計を見て、一瞬「バカな」と思ったが、スリランカと日本では時差三時間三十分。東京はすでに十時。大使館経由で日本人会の連絡網に訃報《ふほう》が伝えられていても当然だった。
今日一日は昭和とし、夜中の二十四時で昭和は終り、平成という新元号が決ったとも知らされた。
この二年間ほど、マスコミのなかに身を置いて、天皇崩御のいわゆるXデーをどう扱うのか、また扱うべきなのかを繰返し議論し、特にテレビメディアでは番組編成をどうするのか、一九八八年九月の天皇重体発表以来、カンカンガクガクとやってきた一人の私が、コロンボでその日を迎えようとは感慨無量だった。私が知ったそのころには、テレビは一斉に予定通りの服喪放送を行っているにちがいなかった。
ロビーに降りるとエレベーター・ボーイまでが、日本人とわかると「ジャパニーズ・エンペラー」の死をいたんで「お気の毒に」と合掌《がつしよう》する。いかにも仏教国であり、この国と日本の関係を表していた。
その日の夕刻。ポカッと時間があいて、ホテルの窓からインド洋の茫々《ぼうぼう》たる水平線に沈んでいく太陽を見ながら、私は感慨無量だった。
私たち世代はみんなそうだろうが、文字通り激動だった昭和という時代をもみくちゃになりながら生きてきて、落ちついてふりかえる暇《ひま》もなかった。いまこの日に昭和が終る。その落日を語る相手もなく、ただ一人インド洋に沈む太陽を見ながらブランデーのグラスを傾けていた私は、しきりと人恋しく孤独だった。そのとき、はじめて舌の右下あたりにチクリと痛みを感じた。ガンはすでにジワジワと私の舌を冒《おか》しはじめていたらしいのである。
もともと敗戦以来四十余年、無茶苦茶に生きてきた。酒もタバコも人一倍だったと思うし、過労、睡眠不足が日常だったから、口のなかがただれるといったことも珍しくなく、それも自然にまかせていれば治っていた。
その延長だろうし、ことのほか辛いスリランカ料理のせいなのでは……、ぐらいに気軽に考えてもいたのだったが、一寸先が見えぬのも人の世の常だろうか。
スリランカと私
いわゆる“Xデー”対応がとられていた一九八九年一月早々に私がスリランカにいたのは、正月休みでもなんでもなかった。
三月下旬にコロンボで《愛と平和を願うフェスティバル》を開催する話が煮つまり、年末になって急遽、一月十日までにスリランカ側と最終的な詰めの打合せのために飛んでほしいということになったためである。週二便のエアランカ航空では、一月五日に日本を発《た》ち、八日コロンボ発の便で帰る以外になかった。
もともと、この話のスタートは、広島県呉《くれ》市の名物尼僧・田中龍玄《りゆうげん》さんの素朴な善意からだった。
龍玄さんはスリランカからの留学僧たちに手をさしのべて、お世話したことから、帰国した僧がスリランカ南部の自分の寺と呉の龍玄さんの龍玄院とを友好寺院にしたいという話に発展。一九八八年十月に龍玄さんがスリランカを訪れた。このとき私も同行したのである。
田中龍玄さんというひとは数奇な半生をたどった女性で、少女時代は日本舞踊で嘱望《しよくぼう》され、青春時代をSKD(松竹少女歌劇団)、そして撮影所で夢いっぱいにすごした。
現役映画記者だった私は、松竹京都撮影所や、大映の勝新太郎主演の《悪名《あくみよう》》シリーズのセットですれちがっているはずなのだが、全くの新人女優の当時の彼女と言葉を交わすことはなかった。
そのひとがそれ以後、再三にわたって絶望の淵に立たされた。彼女は多くを語らないが、結婚に破れ、わが子を失い、自殺まで考えたのだそうだが、一念発起して山岳密教に身を投じた。男でも音《ね》をあげるといわれる荒修行を経て、尼僧として生まれ故郷の広島県呉市で庵《いおり》をひらいた。龍玄院の誕生である。
尼僧でありながら若い娘さんたちに日本舞踊を教える、明るく陽気なひと……として田中龍玄さんは話題を集め、大阪ABCの昼のワイドショーをはじめ、テレビでもおなじみになったのだが、その前後から、私は龍玄さんと親しくなった。正確にいえば、私よりもかみさんが、まるで実の姉妹のように親交を結ぶようになり、私はいわば二人の兄貴分といった感じだったのである。
そんな訳で政情きわめて不安定なスリランカへの旅に私が同行することになったのだが、この旅がコロンボ市での《愛と平和を願うフェスティバル》につながった。スリランカと日本の文化交流を強く希望する政界の長老、S・D・バンダラナイケ氏と私が知り合ったのはこのときであり、流血のゲリラ活動が続発するスリランカで、いま最も必要なのは《LOVE AND PEACE》なのだと語り合ったりもした。
田中龍玄さんは、スリランカ歴訪での触れ合いに感動し、再度の訪問を約束していた。「スリランカで護摩修法《ごましゆほう》をしたい」という龍玄さんの願いと、スリランカ側の文化交流の希望がジョイントしたかたちで《平和の祭典》の計画が進められたのだが、スリランカはカースト制度もきびしい仏教国であり、宗教行事を大々的にやるとなると問題も大きい。
「日本側代表はぜひ加東康一で、スリランカ側はS・D・バンダラナイケさん」が、いわばいきがかりで決ったようなもので、私には荷の重い仕事だったが、一月早々にバンダラナイケ氏以下要人と会うことになったのである。
三月二十三日、スリランカが東洋一と自慢するバンダラナイケ大ホールでフェスティバルを開催。スリランカ側は国をあげて私たちを歓迎する……とプランは煮つまった。
私は平成がはじまった日、コロンボ空港を発って日本にもどった。
駆け足人生
コロンボでチクッと痛みを感じた舌は、いつもの口内炎のように簡単には治らなかった。が、およそ病というものと無縁に等しかった私は、気にもとめなかった。
スリランカのフェスティバルには、あちらの国立民族舞踊団に対して、和太鼓の演奏で応《こた》えることとし、“大江戸助六太鼓”の小林正道さんにお願いをした。もろもろの雑用は山積していた。
その前年の一九八八年十二月に読売ホールとヤマハホールで計三ステージ開催した“文化パステル”の《音楽とトークのショー》も好評で、次回はなにをやるのか準備が急がれている。
“文化パステル”は、マスメディアの効率万能主義からはじき出されてしまっている大切なものを、サロンのかたちででも自分たちでとりもどそうと、劇作家の阿木翁助《おうすけ》さんを理事長に、NHKの放送総局長からN響の理事長となられた川口幹夫さん、TBSのプロデューサー・大山勝美さん、女優の岸恵子さん、音楽評論家の伊藤強さん、フジテレビ出身のフリープロデューサー・嶋田親一さん、そして私などが中心となって、同じ思いの人々を集めたグループで、本格的な活動がはじまったところだった。
饒舌《じようぜつ》であるうえに、すぐ走り出すタイプの私は、ここでも推進役といったかたちだった。
もちろんレギュラーの番組も、テレビ朝日の《やじうまワイド》をはじめ大阪YTVの《2時のワイドショー》などなどをかかえていたし、新聞の連載と週刊誌、月刊誌を加えると、「いい加減にしたら。人間業じゃないよ」などとからかわれもしたが、結構その追っかけられる日常が好きで、むしろ、どんどん仕事を増やしている傾向もあった。
そんな訳だから、舌のチクリぐらいを気にしている暇はなかった、というより気にもとめなかった。
毎年恒例としてきたグアム島トレーニングのツアーも、今年はメンバーの枠をひろげて行われた。成人の日を過ぎ、巨人軍のキャンプがやってこない間の土日をはさんだ四日間が私たちの旅の日程の決りで、ゴルフを楽しみながら情報を交換し合い、リフレッシュを計るというのだが、なんのことはない、ゴルフと酒のドンチャン騒ぎで終るのだ。ここでもなんとなく私が団長で伊藤強さんが事務局長。芸能界やマスコミの気の合った仲間が集ったのだが、映画評論家の林冬子さん、脚本家の内舘牧子さん、ロックシンガーの葛城《かつらぎ》ユキさんと女性軍もハッスルだった。
このときもメンバーのなかで私が誰よりも元気だった。最年長の私がである。
いまにして思えば、消える直前のローソクみたいなもので、やたらパアーッと勢いよかったのかもしれない。
ガンは確実に私の舌を冒し、その進行は二月に入ると、とたんに私も意識せざるを得ない痛みとなって現れた。それは驚くほどの急テンポだったのである。
宣 告
「前ガン症状と申し上げましょうか」
私の友人K先生の紹介で、J医大病院の耳鼻咽喉科《じびいんこうか》の診察を受けたのは二月上旬だった。
K先生の紹介もあり、私のテレビなども見てくださっていた教授以下の先生方は慎重に診察し、私は放射線科にもまわされた。耳鼻咽喉科の教授と放射線科の教授が話し合われている様子を診察台から垣間見ても、容易ならざる事態らしいな……と私にもわかった。
「明日からでも放射線の照射を毎日受けてください。そのうえで手術に踏みきるかどうか決めましょう」
舌を強く左にひっぱって、舌の右側のやや下のほうをはじめて見せられた私も、そこにできた、えぐれたようになっている潰瘍のただれた色には愕然《がくぜん》とした。
「ただ手術をしたとして、いまと同じようにしゃべれるかどうか、保証しかねますね」
仕事が仕事だから……と気の毒がる先生。
「このまま放置したら、ひと月もしないうちに食べられなくなるし、しゃべれなくなるでしょう」
きびしい宣告であった。私の頭のなかを、すでに私を中心に決っているさまざまなイベントがかけめぐった。それは思案といったものではなく、一瞬の反応といってよかった。
J医大から自宅までの車のなかで、窓の外を流れていく見なれた風景が、全く別のもののように感じられた。頭のなかが白くなって、やがて妙に落ちついた。
「明日からっていったって、明日は朝の便で大阪行きだものな」
弾《はず》んだ声でこういうと、診断結果を知っている私のアシスタントのU君は、ハンドルを握ったまま、どう答えていいのか深刻な表情だった。
自宅に帰りつくまでに私の心は決っていた。
「やれるところまで突っ走ろう。倒れたところでケジメをつけよう」
二月はすでに“文化パステル”のトークショーが、私の総合司会でヤクルトホールと大宮で三ステージ決っている。三月は山形でのイベントにつづいて、スリランカ行きがひかえている。日本側から総勢百八十三名の団長として、スリランカ側の要人に接する役割りを、いまさら交代してもらうのは困難だろう。
医師は一ヵ月でしゃべれなくなるといったが、やれるところまでやってみよう。せめて三月末のスリランカ行きまで……。
放射線照射をはじめれば、激しい痛みがやってくることも、友人たちの体験をきかされて知っていた。
明日からはじめて、その痛みに耐えたとしても、たちまち仕事はできなくなるだろう。そのうえ、手術となれば仕事の終結を早めるようなものなのではあるまいか。それだったら、ぎりぎり、どこまでやれるのか、自己流にやってみるしかないのでは……と私は決めていた。
ご紹介いただいて懇切《こんせつ》に診察してくださったJ医大の先生方には申しわけないが、私のやり方を押し通してみよう。
帰宅していきさつを話し、J医大の治療を受けないつもりだと告げたとき、かみさんは「大丈夫よ、ガンじゃないわよ、きっと。パパの思うようにやったらいいの……」と明るい声で応えた。そういいながら、心のうちで妻がどのように感じていたのか……いずれにせよ、これが地獄の第一歩だった。
オレンジ色のカプセル
J医大での診断通りに、二月の末ごろには舌の潰瘍《かいよう》はかなりひろがり、痛みも次第に激しくなってきた。友人のK医師からいただいた粘膜表皮麻痺剤キシロカインのチューブと鎮痛剤のオレンジ色のカプセル、そして薄紫のうがい用の粉薬が私の必携品となり、食事もおかゆと豆腐などの軟らかいものしか受けつけなくなってきた。
助手のU君は、出先の楽屋や会議室での昼食には、懸命に走りまわって、おかゆを調達してくれたり、うがいのためのぬるま湯を用意してくれるなど、細かく気を配ってくれたが、周期的に襲ってくる痛みに耐え、しゃべりにくくなってきた舌をどうにかかばいながら、笑顔でおしゃべりするのは、かなり苦痛だった。
それでも“文化パステル”のトークショーは岸恵子さん、草笛光子さん、篠田正浩さんや二期会のテナー・斎藤忠生さんとその仲間や津軽三味線の岡田修さんに参加していただき、“経済大国・飽食のニッポンを考えてみる”なんてテーマが客席を沸《わ》かせるかたちで大成功だった。
私が舞台の袖でキシロカインを舌にぬりたくり、顔をゆがめながら出番を待っていたなどとは、ほとんど誰も知らなかった。
大阪YTVに出かけるときも冷汗ものだった。新幹線三時間の間に自分の身になにが起こるか……身を固くしてシートに座っていたし、食事も思うにまかせぬから、バッグに流動栄養食の缶詰をしのばせていた。
脂汗をにじませながら、見えないところではこぶしを握りしめて、顔は笑って応答している。それを誰にも悟られないように……と私は懸命だった。
三月に入ると潰瘍はさらに進み、激痛が走ると、耐え難いまでになってきた。が、自分で決めたことだ……ぶっ倒れるか、周囲が私のおしゃべりを聞くに耐えない……と引導《いんどう》を渡してくれるまでは、なにがなんでも頑張ろう、と鞭《むち》を打つのだったが、唯一あからさまに痛みを訴えられるのはわが家だけである。吠えるように痛いと叫び、当り散らされるのは身内のものたちだった。かみさんはそんな私を懸命に支え励ました。
それでもまだ、このあたりは序の口で、J医大の診断だった一ヵ月でしゃべれなくなるのを通り越して、三月も半ばをすぎるころからは、次第に鎮痛剤も効かなくなり、満足な食事もできないまますごしてきたために体重も十キロは減って、ベルトレスのズボンははけなくなってきた。
三月二十三日、スリランカ訪問の旅である。かみさんも息子の岳史《たけし》も、助手のU君も同行してもらう。百八十三名の結団式は成田ビューホテルで前夜祭のかたちで催された。
鎮痛剤で支えられた私は、この旅の団長としてつとめなければならないであろう場面の最小限にだけは、笑顔で立とうと自分にいいきかせていた。
成田からシンガポール経由でコロンボ空港までの十二時間を、じっとシートに座ったまま、襲ってくる痛みと闘うのは苛酷《かこく》をきわめた。隣席には田中龍玄さんが座り、あれこれ気を配ってくれたし、かみさんと息子が入れかわり立ちかわり、「頑張って……」と肩をさすりにきた。
かみさんとは、これがはじめての海外旅行だし、親子三人の渡航など、これが最後となるのかな……という思いが頭をかすめた。
ボクもそれでいいよ
「今日はあなたをパパとママの子供というよりは、一人の男として話をします」
かみさんは息子の岳史《たけし》に真正面に向き合って、こうきりだしたそうである。
私がガンであり、医師の指示する治療を拒んで、とことんまで仕事をすると決めたことを、もはや息子にもきちんと告げるべきだと感じたのだろう。
「ママはパパに協力してあげようと思うけど、ママだけが勝手に協力して、その結果パパにもしものことがあったら、あなたが大人になったとき、ママの選択や自分だけが知らなかったことに、口惜しい思いをしないかしら。三人家族の一員として、一人の男として意見があるならいってちょうだい」
小学校五年生の息子・岳史は、しばらく沈黙して、「ボクもそれでいいよ。ママ、頑張ろうね」といったそうである。
まだ少年の岳史に、こんなことを打ち明けるのは残酷なのではと思いながら、現実、目の前で苦痛に顔をゆがめる父親の姿がある。どうせ隠し通せるものではない……とかみさんのぎりぎりの決断だったにちがいない。
これは、後になってきかされた話だから、私は成田を飛び立ってコロンボに向ったころは、そんな母と子の会話があったとは知らなかった。
いまにして思えば、小学生のおまえも、肚《はら》をくくって親父の私を見つめていたというわけだった。
スリランカでの芸術・文化交流のイベントは盛大に行われ、現地のテレビもメインニュース、新聞も一面トップの扱いで、大成功といってよかった。バンダラナイケ大ホールでのフェスティバルにステージから挨拶《あいさつ》、スリランカ要人の間に座ってステージを見守る間、私は目のくらむような痛みに脂汗を流していた。タキシードの下は、赤道直下のスリランカの暑さによるものとはちがった冷い汗でびっしょりだった。
このメイン・イベントが終った後は、私はホテルの部屋で休ませてもらっていた。どうしても私が出席する必要のあるのはスリランカ側の歓迎パーティと、ラストの日のお別れパーティである。
日本側の一行は仏跡めぐりのスケジュールなどが用意されていたが、私はすべて失礼してベッドにいた。
どうすれば鎮痛剤を飲まずに耐えられるか。オレンジ色のカプセルが、飲みつづければ胃をはじめ他の臓器を冒しはじめることは、私にもよくわかっていたからである。
かみさんは私に付き合って、結局ほとんどをホテルの部屋ですごした。初の海外旅行であるにもかかわらず、私に当り散らされる役まわりは無残だったにちがいないが、わかっていながらそうでもしなけりゃ耐えがたい苦痛でもあった。
小康状態の朝、私はかみさんと息子をホテルのプールに連れ出した。親子三人飛沫《ひまつ》をあげて泳いだのだが、思えば私にとって、これが最後の水泳ということになり、二度と泳ぐことなどかなわぬ身となるのである。
ともあれスリランカの旅は終った。三月三十日の早朝、成田空港に全員無事に帰りついた。ロビーで私は団長として大声で挨拶した。それが、私が大声をはりあげた最後となった。
限界がきた
「いよいよ、いけないかな」
スリランカから帰って、かなり疲れたのと同時に、予定が決っていた大きなイベントはすべてこなしたという解放感からホッとひと息ついたところで、病状はいよいよ悪いと自覚せざるを得なかった。
舌の潰瘍の傷は右半分をえぐるほどひどくなり、痛みは口のなかからこめかみを通って耳のなかを針で突き通すように走り、一方は頭を突き通して、とてもじっとしていることができなかった。
「痛い、痛い……」とわめきながら部屋の壁に頭を叩きつける、われながら無残な私を、かみさんは懸命に支えた。鎮痛剤のカプセルを二錠、三錠と口に放り込もうとする私を、
「そんなことしたら、体がまいっちゃうんだから」
と小さな体で必死にとめるかみさんをはじきとばして、裸足で外に飛び出したことも一度や二度じゃなかった。
そのたびに息子の岳史《たけし》までが私をおさえにきた。外へ出たところでどうにもなるものじゃないが、いても立ってもいられなかった。
病馴れしていない私には大きなことはいえないが、これほどの痛みってそうあるものじゃないだろうと思えもしたし、このまま痛みがつづいたら発狂するのでは……と自分で感じたりもした。
かみさんは友人の医師から痛み止めの筋肉注射のアンプルを分けてもらい、注射を自分の手でするようにもなった。ぎりぎり耐えられない状況が襲ってくると、かみさんが私の肩に注射した。
夜が恐ろしかった。うとうととまどろんでも、三時ごろには痛みで目が覚めた。何度か頭を打ちつけた壁には穴があいた。ベッドでじっと耐えてることはとてもできなかった。はい出してのたうちながら階下のダイニングに降りると、かみさんは必ず起きていた。かみさんは私の痛みが尋常でなくなってから、わずかに仮眠をとるだけで眠っていなかった。
それでも私はレギュラー番組への出演をつづけた。テレビ朝日《やじうまワイド》の金曜日は藤原弘達さんと私のコンビで、私も好きな番組だった。家を出る前に注射を打ち、朝六時から打合せ、七時から一時間半の生放送に、私はテーブルの下で爪の跡が掌《てのひら》に刻まれるほどこぶしを握りしめて、痛みをかくしながら笑顔を作っていた。
放送終了後、定例となっている社員食堂での放談会にも、もうまともなものは受けつけなくなった私は、ミルクなどを前にしながら付き合ってもいた。
「今朝は加東さんへ問合せやら心配の電話がかなりかかりました」
担当プロデューサーの山本敏さんが話してくれたのは、四月中旬であった。
入れ歯が合わないのでは……という歯科医の方や、口内炎は早く治さないとという主婦をはじめ、しゃべり方が普通じゃない、具合が悪いのでは……という視聴者からの声だった。
「もう限度だな、テレビなんてものは、元気印にハナマルがついたみたいなひとが出るもので、視聴者が心配するような人間が出ちゃいけない」
私は退陣を決めて、山本敏さんに伝えた。
「ともかく、代打をたてるから早く治してもどってください」
敏さんの声に私はどう答えればいいのか迷った。
番組では、「加東康一さんの代りに、今日は福岡翼《つばさ》さんが……」と吉沢一彦アナが、毎週そういいつづけているのを心苦しく思いながら、そろそろここらが限界だなと思った。
痛みをこらえ苦悶《くもん》しながら仕事をこなす私に、ピッタリ付き合ってくれてきたアシスタントのU君は、極度の緊張の連続に耐えられなくなったのであろう。プツンと糸の切れたように、私の前から姿を消してしまった。
かみさんも息子も狂ったように苦しむ私との日々はもう限界だろう。このままでは家族全員がダメになるとも考えた。
すでに周期的な痛みを超えて、常時となり、頭のなかがくだけたガラスがこすり合うような痛みで、原稿を書くことも難しかった。いよいよしゃべれなくなり、かみさんから連載中の各社にことわりの電話を入れてもらい、「入院しよう。手配を頼む」と、かみさんに伝えたのは六月八日だった。
2章 明日を楽しみに
おまえともう少し……
とりあえず下落合《しもおちあい》の大同病院に私は入院した。
妻の友人の医師からの紹介で、あたふたと入院した。私はすべての力が抜けたようにベッドに横たわり、鎮痛剤の注射を求めた。
すでに食べるものは、おかゆのわずかな粒でも舌にあたって痛く、喉を通らなかった。栄養飲料の缶詰と、腕からの点滴で命をつないでいるようなもので、痛み止めの筋肉注射は四時間おきが限度だというのだが、それさえも待てない状態で打ちつづけた。
幻覚や幻聴が出はじめたのは、その夜からであった。心配そうに私を覗《のぞ》き込む家族や友人の間に、いろんな顔が見えた。四十代も半ばで世を去った私の父がいたり、鬼籍《きせき》に入った旧友たちの顔があった。私はメモ用紙になにやら書いて渡そうとするのだが、ふっと現実にもどって、そこにわが息子・岳史《たけし》の顔を発見したりする。
あちらとこちらを行ったりきたり、つまりはこれが生死の境なのかなと、朦朧《もうろう》とする意識のなかで感じたりする。
「お父さん、大丈夫……?」
おまえの声が私を現実に引きもどす。まだ死ねないなと思う。私の体がどうであれ、小学校六年生のおまえを残しては……。もう少しわが息子と付き合わせてほしい。
世間並みにいえば遅い子持ちである。間もなく五十歳という一九七七年の夏、岳史は生れた。この年も私はやたらと忙しかった。パリからカンヌ、モナコを旅して映画祭にも出席した。ヘラルド映画の原正人さん、監督の実相寺《じつそうじ》昭雄さん、そしていまは亡き俳優の岸田森《しん》さんがいっしょだった。
そして、この年、私たちは“革新自由連合”という政治団体を結成した。
「政治を文化の手に取りもどそう」
というスローガンのもとに中山千夏さん、矢崎泰久さん、ばばこういちさん、大島渚さん、小室等さん、妹尾《せのお》河童《かつぱ》さん、そしてガンであっけなく逝《い》ってしまった《クイズダービー》の迷答学者・鈴水武樹さんなど多士済々《たしせいせい》だったのだが、連日夜を徹して論議がつづくという状態だった。
そんなわけで、生れたときから、付き合う時間の少なかった私であるうえに、たまに幼なかったおまえを散歩に連れて出たりすると、「可愛いお孫さんで……」などといわれた。おまえは口をとがらせて、「ちがうよ、息子だよ」とはっきり訂正を求めるのを、私は頼もしく見つめてきたが、世間並みの父親と比べれば、私がおまえと付き合える歳月は少ないと覚悟はしていた。
だからこそ、付き合える間に私のあらん限りを息子に吸収してほしいと願ってきたが、その終焉《しゆうえん》がいまでは、あまりに時間が足りなすぎる。
幻覚に悩まされながら、まだ生きられる、生きてみせると自分にいいきかせていた。
無駄じゃなかった四ヵ月
その大同病院の院長・島本悦次先生のご紹介で、入院の翌日、東京女子医大第二病院の耳鼻咽喉科の教授・荒牧元先生の診察を受けた。まず若い先生が、
「どうしました……」
の問診からはじまった。それが一番の苦痛である。この舌の状況を見れば、「なんでいままで放置したのか」という話になり、話せば長い話となる。しかも、もう私はしゃべることはできなかった。大判のノートに私が一月に痛みを感じて以来の経緯を大ざっぱに記した。
その途中で「いいから、こっちにいらして……」と診察台に招いてくださったのは荒牧先生である。「ウーム」とうなった先生は、「よくここまで頑張ったなア。昭和ヒト桁だなア」と、半《なか》ばあきれ、半ば驚いて、一人言のようにこういうと、キシロカインを思いきり舌に塗りたくり、「ちょっと待って……」と姿を消された。
なかなかもどらない先生に不安を感じはじめたとき、荒牧先生は、
「すぐ行って、いま飛んで行けば間に合う。待っててくれますから」
と、せきたてるように私を診察室の外へ連れ出した。
「この病状を治す日本一の医者が癌研にいる頭頸科《とうけいか》部長の内田正興先生……なかなかつかまらない先生だが、幸いにも電話がつながった。急いで行ってください」
教授自ら病院の玄関まで出てタクシーを拾ってくれた。かみさんと私はあわただしく大塚の癌研究会附属病院に飛び込んだ。一階外来はもう診察時間を終ってひっそりとしていた。
内田正興先生は私を待っていてくださった。
「ウーン。やりますか……すんだことはいってもしようがない、明日に向って長いマラソンになるけど、頑張ろう」
温顔の内田先生は笑みをたたえながらこう語った。私の最も恐れていた、「こうなるまで、どうして……」とはひと言もおっしゃらない内田先生の眼鏡の奥でキラキラ光る目に、私はこの先生にすべてをおまかせしよう……と、その瞬間に決めていた。
「すべて、おまかせします」
ノートにそう書いた私に、内田先生はニッコリうなずいた。人間の器《うつわ》の大きさを物語る笑顔だった。
かみさんはそんな私を見て、「地獄から救われた」と思ったそうである。
満足に眠ることもなく、苦痛にもだえる私を見守りながらの四ヵ月は、まさに地獄の日々だったであろう。
「でも、この先生にめぐり会うための日々だった。無駄ではなかった」
と繰返し述懐した。しかし、癌研のベッドは空いていなかった。私はしばらく大同病院から大塚まで通院することになった。
朝の外来は雑踏のような混み方である。各科とも外来患者があふれ、待合いの椅子にも座りきれない。頭頸科もまたそうなのだが、どこを見ても圧倒的に女性が多い。「このひとが病気なのだろうか」と思わざるを得ないほど、着飾り厚化粧の中年婦人が、二人、三人とグループを組んで診察を待っている。
「どこも悪くない方が多くてね。それが不満らしく他の科に行くようですよ」
内田先生は苦笑したが、子育ても終り、全く暇となった婦人たちのレクリエーションといったら問題があるかもしれないが、ともかくそうした外来患者を含めて超満員なのだ。
私は下落合《しもおちあい》から大塚までたどりつくと、もう見栄《みえ》も外聞《がいぶん》もなく長椅子にへたり込み、スペースがあれば横たわって診察を待つほど、体力が衰え、痛みも激しかった。長い闘いのはじまりだったのである。
ソイレント・グリーン
点滴だけでは体力がもたない、と私は鼻からチューブを胃袋まで挿《さ》しこまれた。ここから流動栄養を注入するのである。
両の頬にエンジ色の×印がつけられる。放射線照射の標的である。癌研に通院する私は、外来から地下二階の放射線科に通う。
放射線科の治療室は明るい色彩の壁で、中央にデンと放射線照射台がSF映画の機械みたいにすえられ、黒く細長い患者用の寝台がある。ここに寝かされて照射の的《まと》が決ると、それまで周囲にいた先生方が、いっせいに姿を消し、ガラスの向うの部屋に移る。
とたんに一段と部屋は明るくなり、爽《さわ》やかなBGMが流れる。その間に照射は終る。患者の恐怖心をいくらかでも和らげようというのだが、部屋には患者以外、誰一人いられないほど放射線の影響は大きいということだ。
ふと私は一九六〇年代のアメリカ映画《ソイレント・グリーン》のエドワード・G・ロビンソンの最期のシーンを思い出した。
このSF映画では、地球の環境破壊が進み、植物も動物も死滅。人間だけが徹底した管理下で生活している。
食物は一日一錠配給されるソイレント・グリーンという錠剤である。その錠剤も人間そのものを原料としてできている。そして自ら死を願うひとには、その最後の瞬間に、緑したたるかつての地球を味わわせてやるというものだった。
老優ロビンソンが横たわる。三百六十度のスクリーンには美しい田園風景が映し出され、たえなる旋律が流れる。そのなかでロビンソンは陶然と死を迎えるのだが、世界に警鐘を乱打したこの《ソイレント・グリーン》の死の部屋のシーンが、放射線科での初日に思い起こされた。
「いまはどうもないが、敵もさるもので、照射をつづけると痛みますよ」
内田先生の警告通り、放射線科に通いはじめて間もなく、これまでとはまたちがった痛みが走った。癌研から下落合《しもおちあい》まで、車のシートに横になり耐えるのがやっとという状態で、大同病院の二階の病室にたどりつくと、痛み止めの注射を求め、正気と幻想の間をいったりきたりがさらに激しくなった。
友人や知人が次々と見舞ってくれたし、お見舞いの花も次々ととどいた。見舞いの誰彼と、その都度きちんと応対しているつもりだったが、メモ用紙に書く文字は乱れに乱れて、“はんじもの”のようだったそうだし、ゴルフのスタートがせまっているだとか、もう間もなく開演だからだとか、原稿は後で送るとか……ともかく幻覚と応答している私に、友人たちもギョッとしたらしい。
大同病院で十日目の夜中、私はゲボッと吐き気に襲われた。起き上がってトイレに行く余裕などなかった。ベッドサイドの屑《くず》かごに顔をつっこむ間もなく、胃から突き上げてくる嘔吐《おうと》はほとんど血だった。その血といっしょに鼻から入れているチューブが、だらしなく口からたれ下がった。
ベッドもそのまわりも、テレビの刑事ドラマの殺しの現場みたいな有様だった。
鎮痛剤のカプセルを飲みつづけた結果、胃はただれきっていたのであろう。二日後、私はとりあえず癌研の南三階、頭頸科《とうけいか》の大部屋に転院することになった。下落合から大塚に通うエネルギーのロスもあれば、二十四時間の管理体制が必要だったからでもあった。
転 院
大同病院での最後の夜、夕方から雨足が激しくなっていた。私はどうしても整髪をしたかった。発病以来、髪を切っていないむさくるしさのまま、癌研に移りたくはなかった。
「もしかすると、これが最後になるのかもしれない」
できれば身ぎれいにして行きたいという思いが私をせきたてた。ファッションライターの金田美智子さんは美容界にも精通している。こちらの状態を納得したうえで、手早く整髪してくれる美容院を探してもらって、新大久保のヘアサロンに出かける。洗髪してカットする間、椅子に座っているのがやっとだった。
病室にもどると、もう口もきけない疲労感と痛みでベッドにへたり込む。熱はみるみるあがって三十九度を超えた。
それでも思い通りに身じたくを整えて旅立てるって満足感があった。
翌朝は見事に晴れていた。
大同病院から、大塚の癌研附属病院に転院する。
一九八九年六月二十一日である。個室が空くのを待っていても、大同病院から通院してくるだけで体力の消耗が激しいだけ。とりあえず大部屋でもなんでも転院させねばということだった。
個室にこだわったのは贅沢《ぜいたく》ではなくて、大勢のお見舞いを受けることはわかっていたからで、同室の患者には迷惑だろうし、見舞い客も気づまりだろうからだったが、そうしているうちに大同病院で十二日間もすごしたことになる。
痛みと熱に悩まされ、鎮痛剤も注射しつづけたため記憶は断片的で、幻覚や幻聴が入り交じって、いろんな顔が脳裏を交錯するのだが、十日以上も経ったこととはとても思えない。
三階南病棟の頭頸科《とうけいか》では、若くハンサムな苦瓜知彦《にがうりともひこ》先生が主治医と決った。
とりあえず六人部屋の空きベッドに収容された私は、つとめて元気を装った。ただちに右胸の血管に直接チューブを接続固定し、二十四時間の点滴がはじめられた。
鼻からのチューブが胃袋まで、鼻の先には約一メートルに及んでブラブラするのは、食事や薬を直接胃袋に注入する“経管栄養”っていうのだそうだが、胃袋の一部が鼻の先まで出張してきているってのは妙な気分で、「象さん、象さん、お鼻が長いのね……」って童謡が思い出され、この年齢になって象になろうとは夢にも思わなかった……と見舞いの友人たちに書いて見せたが、さっぱり受けない。こちらは余裕のあるところを見せたかったのだが、事態はそれどころじゃなかった。
放射線の照射は大同病院から通ってきていたのにつづいて、地下二階の放射線科で行われたが、そこに通うのも車椅子。
自分では向うっ気強く、元気にふるまおうとするのだが、体重もめっきり減って体力の衰えはおおうべくもない。起き上がれば、自分でも信じられないほどふらつくのだ。宙をつかむような手つきでなにかを求める私の手を、握りしめるかみさんも不安の色はかくせなかった。
内田先生にすべておまかせして、俎《まないた》のコイと決めてはいるが、「ひょっとすると、いけないかな……」って思いが胸のなかをよぎる。鎮痛剤の連続投与で、あの狂うような痛みからは解放されたが、次々に意識が錯乱して、自分がいまどうしているのか、それさえも判然としない時間が継続する。
そして間もなく四十度、四十一度の高熱にうなされる日々となっていった。
幻覚をさまよう
「ほんとに大丈夫なの……」
蒼《あお》ざめた顔で三沢あけみさんは、かみさんにきいたという。もちろん後できかされた話だが、四十度を超える熱にうなされている私には記憶が残っていない。
「××さんがきてくださったわよ」
という妻の声で、私は霞《かす》んでいる意識から呼びさまされて、見舞いにみえた誰彼とそれなりに応対……といっても、しゃべれる訳でもないし、メモ用紙の文字も判読は難しい乱れ方だったそうだが、手を握り、なんかいおうと口をもぐもぐさせたという。
うつろな目が宙を求めるさまを目のあたりにして、三沢あけみさんはギョッとしたらしい。彼女はかみさんとは幼な友達で、わが家へもよく遊びにきていたし、私に相談を持ちかけたりもする気のおけない仲だった。
私の握った手の異常な熱さに彼女は身震いしたという。
「その手の熱さが、帰りの車のなかでも私の掌に残っていて、危いんじゃないかしら……と思ったの」
元気をいくらかとりもどしたころ、再び見舞ってくれた彼女はこういって、ホッとしたと語った。この時期お見舞いをいただいた多くの友人たちも、似たような思いで私を見ておられただろうし、私の記憶のなかから見事に欠落しているのである。
入院当初の六人部屋から四人部屋に移り、さらに三五六号室の個室に移されたのだが、その間の記憶さえさだかでない。
人間などというものは使わないとたちまちダメになる。入院してベッドに寝込んで二週間もすると脚の筋肉が紙風船のごとくになる。
もともと私は敗戦後を日雇いの港湾労務の仕事や炭鉱で働くことできりぬけたほうなので、骨はガッチリと太い。石器時代以前だったら、私の脚や腕の骨は充分に有効な武器となったにちがいない……と思うほどなのだが、その骨にシワシワの皮膚が痩《や》せさらばえた筋肉をかろうじてはりつけているという感じで、ベッドで足組みをし、上にあげた脚を触《さわ》ると、火葬場のあのブリキの大皿に余熱を漂わせながら登場する「故人の骨」を想像するに充分なほど、衰えきった脚なのである。こうなるまで、実にアッという間だ。
入院当初三十八度、三十九度という高熱で、ほとんどモーローとした状態。もともと平熱が低いこともあって、三十七度程度でフーフーいう私だから、三十九度なんてことになると幻聴幻覚のさなかにいる。
それが四十度、さらには四十一度となっては、なにをかいわんやで、現実と幻覚とがごちゃまぜになり、どちらが本当なのか全くわからなくなる。
現実に見舞いにきてくれているひととひとの間に、気にかかっている仕事の関係者がハッキリと見えたりして、書類にサインしよう……なんて話を幻覚のなかでやっている。ペンをさがしてみたり、宙をさぐりながら書類を求めたりするのだから、見舞ってくれていた人々はギョッとしたらしい。懸命に目を見張ると、そんな人物はいないのだが、フーッとモーロー状態になると、次なる場面の幻覚があらぬことを口ばしらせたり、手が宙を舞ったりだったらしいから、ベッドから起きられるわけがない。
病室を移ってもしばらくそんな状態だったから、気がついたときはベッドに起き上がるのも他人の手を借り、車椅子でないと長距離(といってもほんの二十〜三十メートルの廊下)の移動も心もとないってことになってしまっていたのである。
こりゃいかんぞ……意識のほうは焦るから、いろいろ試みてみるのだが、あわや転倒か、頭を叩きつけそうになるという次第で、退歩の度合の激しいこと、恐ろしき限りだ。
誕生パーティ
癌研の頭頸科《とうけいか》病棟に移って、何日が経過したのかも判然としない状態で私はベッドにいた。
当初七月四日を手術と決めておられた先生方も、私の状況から、とても手術は無理と延期、私の誕生日、十日ごろにという話だったが、高熱に意識が霞んでいく状態はつづいていた。
後刻、主治医の苦瓜《にがうり》先生にきかされたのだが、私の舌はガンに冒され、ほとんど腐ったような状態で、いちじるしい炎症を起こしていた。そのため舌の動きは全く不充分で、飲食物の飲み下しも満足でなく、気管に入ってしまい、嚥下《えんか》性肺炎を起こしていた。つづいて、ひどい下痢、発熱を伴い、大腸炎がはじまり、さらに低蛋白血症、肝機能障害、そして敗血症まで引き起こしたのだそうである。
血液中に細菌が繁殖する敗血症は、きわめて危険な感染症で、適切な治療をほどこさないと死に至る。治療の主体は抗生物質の投与なのだが、血液中の細菌に感受性のある適切な抗生物質を見つけ出して、点滴投与しても、ある種類の細菌をやっつけると、別の細菌が勢力を増してくるというやっかいなもので、治療の効果が出てくるまで時間がかかる。
要するに、とても手術どころの状態ではなく、手術はさらに先送りとなった。
五十九歳を迎えた一九八九年七月十日は、高熱で四六時中意識モーローとしていた。敗血症治療の真最中だったわけである。
夕方から三十九〜四十度の高熱が出る。「くるぞ、くるぞ」って感じで、用意してくれた湯タンポを五個もかかえ込んでいてもガタガタ歯が鳴るほどの悪寒《おかん》が襲う。二時間も震えていると、今度は熱いのなんの汗だらだらで約二時間。この往復でがっくり疲れるのだが、ここまでくる前の原因不明期は幻覚に悩まされる意識モーロー期であった。
その時期に五十九歳。
私のベッドのまわりには、なじみの顔が集った。今村優理子さんと、ばばこういち夫人の崎谷美耶子さんがバースデーケーキを贈ってくれ、松島トモ子さんがシャンパンをとどけてくれた。
内田先生も忙しいなかを病室までやってきてくださって、私の誕生パーティである。
私にかわって息子の岳史がケーキの上のローソクを吹き消し、病室での誕生日は終ったらしい。
らしいというのは、そのあたりの記憶がさだかでないほど、私はまだ高熱にうかされ、意識は判然としなかったのである。
新聞記事風にいえば五十九歳は老人扱いである。本人はこれといった感慨はないが、もう五十九年も人間をやってきたのかという気もなきにしもあらずだ。
ティーンエージャーから、背伸びどころか竹馬に乗って生きてきたし、自由奔放身勝手な生き方をしてきた。それを守るために世間並みの人々の三倍は働いたろう。いろんな意味で、この五十九年は少なくとも倍の百十八年はありそうな実感がある。とすれば人生の幕が降りても当然ということになる。
しかし、その逆に若っぽくも見えるらしいし、本人もいつまでも若い気できたからギャップは大きい。私が世話やきになって、やろうという仕事が増えてきているところだったから、唐突なダウンは周囲に混乱をまき起こしたのも事実だろう。
ズバッと死んだほうがなにかと始末がいいという見方もある。私も面倒がなくていいかなとも思ってきた。
しかし、闘病経過からいうと、九〇年代も人間をやることになりそうである。そうなれば、よほど工夫してうまく生きなければ、まわり舞台の転換が大向うをうならせるってところまでいかずとも、これまでの五十九年に未練を残さない新しいボクをどうはじめるか。こりゃ、かなりの難問になってきたし、若いころのように無茶して乗りこえられるものでもないし、甘える余地もない。
洒脱《しやだつ》に声なき人生を楽しんでみせるのも一興だろうし、妙にはしゃいでみせるのも悪くはない。いずれにしろ、山にこもって座禅を組むほどの了見になれるとも思わない。俗塵《ぞくじん》にまみれながら世俗に超然としていられる五十九歳でありたいと思う。
スキャンダル
七月十日の誕生日を境に、私は少しずつ高熱から解放され意識もはっきりしてきた。朝六時の検温ではじまる病棟の日課にも、かなり馴れてきた。
それにしても、入院馴れなどというのは哀しいものである。
朝六時に看護婦さんがきて、体温計を配るのにはじまる段取りや手順が、こちらにすっかり飲み込めてしまっている。尻の穴の拭かれ具合までわかったうえで、看護婦一人一人の個性がわかってくる。白衣の天使もそりゃ人間で、培《つちか》われてきたキャラクターもある。注意深く見ている気はないのだが、看護のマニュアルのなかでも十人十色であるのが面白い。そこまで飲み込めてしまう、こちらの入院馴れが悲しいのである。
菅原文太さんから再び花籠がとどく。本当にやさしいひとである。文ちゃんとは七月には体をあけてゴルフに出かける固い約束をしていた。いまさらながら口惜しいし、無念でもある。
グアムからエマ・アファグレさんが奈良の弟君とわざわざ見舞ってくれた。エマちゃんの愛称で、この気さくなグアム銀行マンの夫人は、われわれ悪童どもがグアムヘ出かけると、あれこれ面倒をみてくれたが、一人息子のケンちゃんが六月から夏休みで、六、七月と奈良の小学校へ通うとかで、今月末には帰国するそうだが、今年の一月あれほど元気だったボクがベッドにいるとは信じ難い表情。
六時には起床している私は、自分がレギュラー出演していた《やじうまワイド》の熱心な視聴者となっていた。
いやでも世間の動きや、芸能界のすったもんだが耳目に入る。
七月十一日の午後、中森明菜が近藤真彦のマンションで左腕内側をカッターナイフで切り自殺未遂。大阪公演から帰宅する途中のマッチは虫が知らせて、自動車電話から何度も自宅に連絡。鳥居坂《とりいざか》のマンションに帰ってから浴室で血みどろの明菜を発見し、自分で一一九番通報したという。
明菜の自殺未遂はこれで三回。二十三歳で歌謡界のあらゆる賞を手中とし、もはや戦う相手を失った情緒不安定な女の子を、これまでオドオド、ハラハラ見守ってきた研音の社長・花見赫《かく》さんが気の毒でもある。
マッチこと近藤真彦は二十四歳、どちらも不安定な年齢だろうが、自殺騒ぎの直接の原因がマッチの松田聖子への傾斜。例のニューヨークのデイト騒ぎなど、ひどく感情の起伏の激しい明菜には神経ズタズタって話だったろう。もちろんマッチのほうは、男なら誰でも風のいい訳やらにつとめたにちがいないが、つきつめていくと、「そんなら別れようや」って話だったにちがいない。
さて、そのマッチの不倫の恋人・松田聖子のほうは神田正輝との離婚はともかく、デビュー以来世話になったサンミュージックの相沢秀禎《ひでただ》社長と手を切るという。相沢さんは聖子のマネージャーとして、非常によくやってきた。いま彼は口を閉ざしたままだが、いいたいことは山のようにあるにちがいない。私自身が知り得ている聖子をめぐる話だけでも暴露小説の一冊分は充分なのだが、そのどの場面でも矢おもてに立って聖子をかばってきたのは相沢さんである。
マネージャーなら当然といえばそれまでだが、男五十年、体を張ってやってきてストンと裏切られた想いやいかにである。花見赫さん、相沢秀禎さん、ともに親友だけに切ないが、その渦中に私は病床で点滴というのも皮肉なめぐり合わせである。
生と死の境界
いくらかでも調子がもどってきて、世間が気になったりしはじめると、焦りが私の胸のなかに渦巻いてくる。
癌研附属病院に転院してそろそろ一ヵ月近くなるのに、まだ手術の日程も決らない。連日どなたかが見舞いにきてくださるが、声にならないセリフが、知らず知らずのうちに涙になって溢《あふ》れる。
元気なひとへの羨望《せんぼう》や嫉妬《しつと》でもないし、自分が哀れだからというのでもない。ただ、もう私にはもどれない世界が、いやでも意識されて涙腺《るいせん》を刺激するのか、それとも年齢のせいで涙もろくなったのか、いずれにせよ、私らしからざる情けなさである。
ベッドのかたわらで、かみさんは、
「笑わなきゃ、こんなに元気になったんだから」
と弾んだ声で私の背中を叩くのだが、まだどこかで死の影がちらつく。
このところ見る夢には、何故か故人ばかりが現れる。なんの不自然もなく鬼籍《きせき》のひとたちと語っているうちに、夢のなかで、「そうだ、彼は死んだはずだった」と気づいたりする。とたんに彼らとのコミュニケーションはうまくいかなくなる。雑踏にはばまれて引き離されたり、待ち合せの場所がどうしても見つからなかったり、姿は見えてもこちらの声がきこえなかったり……で夢から醒める。そのあたりが生と死の境なのかなと思ってみたりもする。
文化通信の社長・鈴木信治郎さんが東映の小野田啓宣伝部長ときてくれる。鈴木さんの配慮だろうが、松竹の奥山融副社長から果物の籠がとどいたりする。世話好きの苦労人として映画業界でも信頼の厚い鈴木さんだが、彼も十年ほど前に胃をやられて、生死の境をさまよう入院生活を体験している。そのときには私は二度ほど見舞ったが、胃を三分の二以上とってしまってからの鈴木さんは人生観をかえた。ゴルフが唯一の趣味の彼は、おそらく週に三日はコースに出ているだろう。文化通信の社長としての業務ももちろんこなしていてのことだが、生き方のポイントの置きどころをかえたといっていい。
私ももし健康をとりもどしたら身辺整理して、のどかに生きる気でいるのだが、どうであろうか。
今日は石原裕次郎の三回忌。マコ夫人によって“あじさい忌”と名づけられて、葉山の森戸海岸には裕次郎灯台に灯がともった。
《太陽の季節》の葉山ロケで、プロデューサーの水の江滝子さんから「原作者の(石原)慎太郎さんの弟で裕次郎クンっていうの」と紹介されたのが、彼との出会いだったが、その慶応ボーイが憧れていた北原三枝さんとは、松竹でデビューしたころから親しくしていた。
いわば「憧れのスター・北原三枝」と裕ちゃんが結婚に至る過程も、再起不能か……と語られた骨折事故も、ごく身近に見てきたし、《黒部の太陽》に賭けた彼に共鳴して、飲みあかしたこともあった。
ともに飲み歩き、歌って騒いだけれど、学生っぽさの抜けない一方で、常に善意にみちてもいた。素晴らしい奴だったし、自由奔放に生きたと思うが、私より四歳も年下ですでに三回忌とはあまりにも哀しい。
私が調子が悪くなってからでも手塚治虫さん、大坂志郎さん、渡辺岳夫さん、そして美空ひばりさんと、親しかったひとたちが言葉も交わさぬうちに逝《い》ってしまった。
人間どう生きるかは、つまりどう死ぬかだというが、死んでしまっちゃおしまいである。といって人間は必ず死ぬ。結局どううまく生きるかだろう。
それにしても逝ってしまったひとのことが、しきりに気になる。
正直にいって、私にとっては大塚癌研とは近よりたくない場所であった。何人もの先輩知己をここで逝かしめた苦い記憶があるからである。
なかでも東和の宣伝部長の田中月男さんとは、病室を見舞って、年末には銀座で飲もうと約束をして旬日を経ずして月さんは逝ってしまった。
小津安二郎監督は激痛に苦しみながら、「こんな痛い思いをしているんだ。死んだら合わないよ」とおっしゃりながら、悶々《もんもん》のうちに世を去った。
さて私はどうであろうか。
「焦らないで……」
といわれるが、同じことの繰り返しで毎日ベッドに縛りつけられていると、はっきりしてくれと叫びたくもなる。
調子が悪くなって、戦線離脱して以来、世の中の動きはめまぐるしく大きかった。リクルートに揺れる日本政界では、自民党のなかでさえ、いま動いたら損だと、権力抗争にピットインの構えの連中だらけ。
宇野総理などはまるで茶番で、三顧《さんこ》の礼でかつぎ出し、パリ・サミットに送り出したとたん、七月二十三日の参院選の結果では責任問題は当然、などと新幹事長・橋本龍太郎あたりが大声をあげたりする。当の宇野総理は遂にアメリカを抜く世界最大の海外援助国として拍手を浴びたが、金をバラまく成金がいれば、それが誰だって、顔なんか知らねえという扱い。
その間、中ソ急接近で北京を訪れたゴルバチョフは愛嬌《あいきよう》をふりまいたが、天安門広場を埋めたのは学生を中心とした民主化要求の市民。面子《メンツ》丸潰れの小平《とうしようへい》老人たちは血迷った戒厳令布告。それにつづく学生市民への発砲。さらには陰惨な密告による逮捕処刑と、二十世紀の大詰めとも思えぬ狂乱。
その一方でイスラム世界のカリスマ、イランのホメイニ師死去。イスラム・アラブ世界の混迷はさらなるものになりそう。
「まア、焦らないで」
と毎日、同じ処置を受け、後は二十四時間の点滴と投薬を受けるだけでベッドにいる身はジレてきて当り前である。
芸能界にしても、なんのかんのといっても昭和という時代を代表した美空ひばりが逝った。普通なら特別番組やらワイドショー、そして週刊誌などに追いまわされるところだが、幸か不幸か門外漢の私である。それにしても、女王・ひばりは元気、元気の報道のなかで、私に伝えられた「この夏は越せないでしょう」という情報は確かであった。
本当に昭和は終ったと思う。
私の時代も終った。終った奴は生き残ってなにをすればいいのか。じっくり考えてみるときではある。
アヒルが三羽
一九八八年、昨年は冷夏だったが、帳尻を合わせるように、今年はジリジリと照りつける太陽が炎暑《えんしよ》と呼ぶにふさわしい夏を持ってきたらしい。
らしいというのは、病室はエアコンで一定温度だし、病床のボクはただじっとしているだけだから、実感はないのである。
わが息子が通知表を持って病室にやってきた。小学校六年生の第一学期が今日終って、明日から夏休みだそうである。
「アヒルが三羽になっちゃった」
アヒルつまり“2”が三科目、“ややおとる”だから、教育家庭なら青スジたてて問題とするところだが、
「しようがねえなア、おまえも」
「ボクもそう思う。少しは勉強しなきゃまずいなって……」
現実の親父がそうだからやむを得ないが、私と同じように理数系に弱い。ただ私が感心するのは、わが息子ほど私は大物じゃなかった。苦手ではあっても世間並みに帳尻を合わせるための勉強などを重ねて、一応の帳尻は整え、通信簿では常時全甲を守った。その限りにおいては優秀な成績の生徒なのである。わが息子のように乙とか丙とかがピョコピョコ顔を出して、「まずいなアとは思ってるんだ」などとおおらかに構えている逞《たくま》しさは残念ながらなかった。
中学に進んだころには配属将校が幅をきかせる軍国日本で、公立中学校は戦闘員養成機関となりさがっていたから、教練の成績さえよければ英語や物理、化学、数学など少々どうでも通ってしまう。中学一年で中隊長兼小隊長となっちまうあたりは、私の要領のいいところで、成績優秀もあてにならない。
戦中戦後の混乱期を経ても、要するに私は並々ならぬ努力家ではあったと思うが、才能のひらめきなどはほとんどなかったのではあるまいか。
一九四五年八月の敗戦を、私は東芝府中工場で迎えた。中学三年だったが、前年の秋から勤労動員の名のもとに工場に通わされ、人間魚雷“回天”を作っていた。工場にはすでに働きざかりの工員の姿はなく、老人と動員で集められた中学生だけだった。
敗戦の混乱のなかで、中国上海にいるはずの私の父は、上海・南京路でテロに殺されたらしい……と敗戦直前に帰国した朝日新聞の特派員からきかされたりで、とても学窓にもどるどころではなかった。
日本国中、路頭に迷い、食べものを求めてさまよう状況のなかで、十五歳の私を頭に五人の子どもをかかえた母は、それこそ必死だったにちがいない。いま思えば、そのときの母はまだ三十五歳の若さだったわけだが、長男の私は母と励まし合って、父の無事を信じ、父が帰るまで頑張ろうと、その日その日をつないでいた。
年齢を十八歳といつわって、東京港の港湾荷役の日雇労働の列に並び、進駐軍物資の陸上げで、日給十円をもらって帰る日がつづいた。その仕事も、少しでも遅れて列の後ろに並んだのでは、あぶれることになる。仕事などまるでない焼土の東京、現金収入を求めて、あらゆる階層の人々が列を作ったからである。
世田谷の自宅から、玉川電車の始発に乗っていたのでは間に合わなかった。渋谷まで、まだ夜の明けぬ路を歩き、山手線の始発で田町へ。田町駅からはどっとはき出された人々にまじって、東京港の有刺鉄線で囲まれた、進駐軍のゲートまで走るのだ。
母は私の持ち帰る十円に涙をためて頭を下げたが、一家を支えるわずかな足しにしかならない。
敗戦の年も暮れて、一九四六年を迎えたが、依然として父の消息ははっきりしない。
「なんとかしなければ……」
あぶれることも珍しくない日雇労働ではどうにもならないと、私は岩手県県南の炭鉱へ働きに出ることにした。石炭が黒ダイヤといわれたエネルギー難の時代で、私の出かけたのは、石炭以前の“亜炭”と呼ばれる、まだ木質を残した炭を掘る亜炭鉱だった。
学校からは、再三の復学のすすめがあったが、そんな余裕は私にはなかった。かつて“紀元節”と呼ばれた二月十一日に東京・千住をトラックの助手席に乗って岩手に向けて旅立った。トラックを炭鉱まで陸送がてらの就職だったのである。
炭鉱で働きはじめて間もなく、父の生存が確認された。父の巳之助は“可東みの助”のペンネームで、漫画家として活躍していた。一九三九年に従軍記者として中国に渡ってからは、上海を中心に中国各地を飛びまわり、上海租界に集っていた英米仏、そして中国の漫画家たちと“上海漫画家集団”を組織したりもし、中国大陸に夢を託した一人だった。母も弟妹を連れて上海に渡ったのは、父の夢を物語るものだったろうが、一九四一年十二月、揚子江に浮かぶ英艦を日本軍が砲撃した一瞬から父の夢はぶっ飛んだ。真珠湾奇襲と歩調を合わせての米・英への宣戦布告だった。
父はただちに母を帰国させた。父からまだ小学生だった私にあてた手紙には、日本が窮地に立たされることは間違いないと暗示してあった。母と励まし合って父の帰りを待つという暮しは、そのときからはじまったのである。
中国大陸から続々と引揚げてくる日本人のほとんど最後というころに、父はやっと帰国した。私は飛んで帰りたかったが、私が岩手から送る金が、東京のわが家の重要な支えとなっていると知っていたから、じっと耐えてカンテラたよりの坑道暮しだった。
東京にもどった父は、岩手の私のもとまでやってきてくれた。私の記憶にある父は大きく逞《たくま》しく明るかった。ところが、目の前に立っている父は小さくなってしまい、弱々しくさえ思えた。かつては見上げていた父も、私のほうが成長して父よりも身長が高くなっていたのだから当然だったが、敗戦後の辛酸《しんさん》が父にとってどんなものだったかを物語ってもいた。
私はそんな父をわずかでも援《たす》けたくて炭鉱に残った。結局、東京にもどったのは一九四七年の春だった。
東京には帰ったものの、もう学校にもどる気はしない。かりにもどれたとして、同期生と机を並べるわけにはいかないことは明らかだったし、戦後社会になじめず、それを誇りとさえしている父の苦悩と、そんな父の姿にいらだちながら、すさまじい食糧難と闘っている母を目のあたりにして、私はなんとか就職しようと決めた。
新興新聞“国際タイムス”の編集部に私がもぐりこめたのも、戦後の混乱期だったからこそだが、占領軍による新聞用紙の割当てをめぐって、新聞乱立時代だった。“国際タイムス”は在日韓国人が経営する新聞で、幹部はすべて韓国人。現場で働くのは日本人という仕組みだったが、私のジャーナリスト生活の第一歩はここからはじまった。
父にとっては、私の就職は複雑な思いのようだったが、門前の小僧ではないが、父にならって漫画、漫文の豆レポートを紙面の片隅に掲載してもらうようになった私を、「わが志をつぐもの」と、ひそかに喜んでくれたようであった。
新橋西口の闇市でバクダン焼酎の杯を交わした父は、たちまち酔って、私が背負って帰ることも珍しくなかった。炭鉱できたえられた私には、その父が妙に軽く哀しかったが、その年の秋、父は母とともに自殺して世を去った。
私に後事を託した遺書には、敗戦を境に変り果ててしまった日本、そして日本人に絶望したと綴《つづ》られ、弟たちを頼むと結ばれていた。
父母を同時に失い、新聞記者の身が取材される立場に立たされた私には、泣き悲しんでいるゆとりはなかった。生きることに必死の日々がつづいた。夜中にふとんをかぶり声を殺して泣きながら、ハイティーンの私は走りまわっていた。
いまでは想像もつかないだろうが、私のみならず、多少の差こそあれ、戦中戦後の混乱期、私たち世代はこうした棘《いばら》の途《みち》を這《は》うようにして生きてきたのだと思う。
が、いずれにせよ、私は学窓とは無縁に、現場を通しての独学で世の中を渡ってきた。その意味では、他人に見せないところで、人一倍の努力もした。いわばその努力の積み重ねだったかもしれないし、それ以外に私には途《みち》がなかった。
勉強より大切なもの
私は岳史《たけし》が誕生したときから、「親バカ結構。過保護も承知」を宣言してきた。あまりに悲しすぎた父と子だった自分の思いが、そうさせたのだが、かみさんもいささかあきれていたが、さほど反対もとなえなかった。
小学校の予備校みたいな幼稚園に通わなかったのもそのためだし、本人がめったやたらに芝居っ気が旺盛で、芝居じみたことが好きだったから劇団ひまわりにも入れた。子供に芝居の勉強などさせても無駄だし、むしろマイナスを生む。しかし、ひまわりが、現場での礼儀作法に口うるさいのは気に入った。
大林宣彦監督なんてひとに可愛いがられたのも幸いだったが、NHKの教育ドラマを含めて主役にならないのも気に入っていた。子役で人気者などとなったら悲劇だからでもある。
本人は結構対抗意識もあって、オーディションに落ちたりすると一応は傷つくらしいのだが、浮世はこんなものさとケロッとしているところもいい。誰でもいいような端役でも、「オレ現場が好きなんだよなア」と一人前に感想をのべたりするところが、私としては大いに気に入っていた。
それもこれも親バカにはちがいないが、大河ドラマの子役などやって人気が出たりしたらロクなことがないのを、私はよく知っているからである。
さて小学校だが、ボクが横から見ていてもあきれるほどに勉強というのをしなかった。
「学校は好きだけどさア、勉強がなきゃあなア」
あきれた生徒であるが、同級生の百パーセントは学習塾に通い、家庭教師をつけて勉強しているとなると、「くだらない勉強などやめとけ、勉強は学校の教室だけでたくさん。子供はその他に遊びを通じたり、いたずらを通して勉強するものだ」って気になり、たまには世間並みの親らしく、「勉強しろ」などといってみるものの、真剣味のないことおびただしく、仕事が入れば、もちろん教頭や担任に頼んで学校は休み、家族旅行なども教室に優先。
学校側もよくできた先生方で、
「いま教室以外の体験のほうがずっと貴重ですから……」
と解放してくれてしまうのである。
私も実感としてそう思う。教室の授業は大切だが、その現実は偏差値制度に支えられたフルイにかけやすいためのマニュアルのつめこみシステム化していて、学童の年代にあった勉強らしい勉強とも思えない。
さらに私などの眼から見ていると、基本的に現在の教育のありようは誤りだらけである。人間が個性的判断や発想を持たなければならない教科に対しては、採点システムが面倒なことから評価を置かず、コンピュータ採点の可能な理数系の教科、あるいは○×方式や選択肢回答の出来不出来だけで選別していく。この選別で優秀とされた子供が、果たして人間としてどれほど個性的な発想や表現力を持ち得ているのか。マンモス教育機関はその責任を持とうとしない。
しかし、百人に問うても同じ答えが導き出されなければならない学問は、現実の社会でさえ、すでに機械が人間の個々人の才能に代って答えをだしている。マイコン、オフコンの時代だ。私がこだわる文字でさえ、私の同僚の半数以上がワープロに依存しはじめた。
つまりは、いま教育の過程で選別の基準としていることがらは、人間の評価とはほとんど無縁である可能性が高い。そうしてみると、わが息子のごとく、遊びにかけては卓越した才能を発揮する奴のほうが面白いかもしれない。
小学六年の夏休みとなれば、中学進学で子供たちは親以上に血眼《ちまなこ》である。
「いいから、いいから。気にしない、気にしない」
といってきた岳史も、私立高校の附属中学を受験してみる気になっているらしいのだが、「オレ頭悪いからな」と、さして気にしているところもない。
わが病室の片隅で《インディ・ジョーンズ》に熱中しながら、それでも一応は気になるらしく、
「おやっさん、早くよくなってくださいよ」
てなことをいっている十一歳を見ていると、どうなることかと思うのだが、私など足元にも及ばなかった天衣無縫《てんいむほう》な自由さに、異星人を見る思いなのである。
そんなおまえの明日を楽しみにしながら、私は生きることにしようと思う。そう思ったら手術にも耐えられる気がするのだ。
3章 過去との訣別
手術の日が決った
担当医の苦瓜《にがうり》先生が病室を訪れて、一週間後の七月二十七日を手術と決めたという。
手術はかなりきびしいもので、舌のすべて、喉頭のすべて、そして下顎骨《かがくこつ》を切除、頸部《けいぶ》リンパ節郭清《かくせい》というもの。手術には八時間を予定しているが、十時間を超えることもあり得るという話。
手術が成功すれば余命は保証されるが、声はもちろん食事も完全な流動食。呼吸もノドにあける気管孔に頼るしかない。
つまりは、しゃべることと食文化の享受《きようじゆ》は絶望ということで、それでも手術の成功によって新しい途《みち》がひらけるとしたら素晴らしいのでは……ということであった。第四期舌癌《ぜつがん》の現実である。
手術までどう心の安定をはかるか。私には重いテーマである。
いろんなひとの顔が浮かぶ。私が再起できるものと信じて待っていてくれる《やじうまワイド》の藤原弘達さんはじめスタッフの諸君や、おなじみの各局のプロデューサー。“文化パステル”の川口幹夫さんや大山勝美さん。そして“二人シンポジウム”を計画してきた伊藤強さんなどなど際限がない。
私は書き手ではあったが、おしゃべりによっての説得力で珍重されてきたところもあって、その方面への付き合いが広がる一方だったので、声を奪われることの怖さは自分が想像していた以上である。声を失ったら書きゃいいじゃないかといって、なにを書くか。あれがダメならこれってほど軽々しく対応できるとも思えない。
しばらくは呆然自失《ぼうぜんじしつ》なのではあるまいか。もし手術が成功して退院したら、お世話になった各位にどんな挨拶をするのか。いずれにしてもしばらくは浮世を離れたい。
といっても暮しもある。かみさんになにをしてやれるのか、息子になにを残してやれるのか、思えば切ない話である。
心は千々に乱れるが、過去のオレを捨てるために一年や二年はかかりそうな気がする。
苦瓜先生の処置を受ける。
手術は予定通り七月二十七日朝九時からはじめるというが、手術に向けての体調作りは順調にいっているようで、手術の成功はまず間違いないと担当医は自信をのぞかせる。
生死を分けるのが手術の成功・不成功を語るのだとすれば、ボクは七月二十八日を迎えられることはどうやら確実らしい。
術後のことについては、もう一切《いつさい》考えないことにした。考えてみても予測のつきかねることばかりで、即実戦以外にないと考え至ったからである。
内田先生と苦瓜先生の思案のゆえんは、ボクの機能をどこまで残すことができるか、それが癌細胞の全摘出とどう関わるかということらしいのだが、ボクとしてはもはやすべてをおまかせしたのだから、私のほうからいうことはないのである。
術後が結構辛いらしいが、ボクにとっては肉体の一部を切除するのははじめてだから、なにかと苦痛がつきまとうのだと思う。
それを含めて、三月、四月当時の激痛を思えば、どうってことはないだろう。
珍しいことだが、痛苦を逆体験してしまっているのが良かったのかもしれないのである。
手術が明後日に迫る。昨日は再三採血をし、レントゲン写真を撮った。
今日は麻酔科で検査があるらしい。いずれも手術に耐えるかどうかのテストで、執刀する頭頸科《とうけいか》の内田先生や苦瓜先生は各科のデータ待ちである。
昨日から巷《ちまた》は参院選での自民党大敗で大騒ぎ。昨日は朝から深夜までテレビで選挙関連の特番を見つづけて、今日はいささか睡眠不足である。
比例代表区の最後の一人がなかなか決らなかったが、一人は自民党で十六位にすえられた扇千景、もう一人がスポーツ平和党を名乗って立候補したアントニオ猪木。昨日の夕方までもつれ込んで、猪木が五十人目の比例区当選者となったが、プロレスはやめないと語る猪木をかかえて、新日本プロレスの会長・辻井博さんは、なにかとご苦労の多いことだろうと思う。辻井さんの三十年来の友の一人として気になる。
保革逆転、社会党政権の可能性ありとはしゃいでいる向きもあるが、土井たか子委員長は頭が痛いところだろう。衆院選での勝利はかなり難しいし、それ以上に社会党という政党はわかりにくく、扱いづらい。
一九七七年以来、〈革自連〉で中山千夏さん、矢崎泰久さん、ばばこういちさんたちと悪戦苦闘した当時が思い出される。思えばあのころは元気だった。
いよいよ手術は明日だ。
担当の苦瓜先生の話では、術後、外観的にも顔の変形は避けられないということだ。癌研の廊下をすれちがう術後変形した患者さんたちの顔が浮ぶ。
麻酔科の担当医・橋本佳夫先生も病室にきてくれる。特に問題はないと思うが、手術前に担当として質問をしておきたいのだそうである。
手術の手順を細かくきかされた。ボクは手術室に入って五分もすると眠ってしまって、ガス麻酔による全身麻酔のまま八時間から九時間は全く夢のなかで、その間に舌と喉頭の全摘、右下アゴの摘出手術をほどこすのが前半で、後半は胸の筋肉を持ってきて舌と舌の下部の部分を埋める作業をほどこし、胸のあいた穴は大腿部の表皮をはがして胸に移して張り合わせるという手術なのだそうである。下顎骨の半分近くを切除するので、外形的にも変形は避けがたいということらしい。
ボクはただ眠っているのだから、まさしく俎《まないた》の鯉《こい》だが、術後しばらくはかなり苦しむようである。
二週間から三週間を術後のかたちで生活していく訓練にあてるらしいが、過去がもどることはもちろんない。それでも生命あることを喜ぶべきだろう。
昨夜はファッションライターの金田美智子さんが付添いで泊ってくれたが、彼女が仲介で石原まき子さんと電話で話した。話したというよりは、私は全く話せないわけだから、マコちゃんの声をきいたということだが、
「頑張ってくださいね、絶対大丈夫だから。裕さんにも頼んでいますからね」
マコちゃんの切なそうな声が胸にこたえた。マコちゃんは裕次郎三回忌が終ったところで早速、私の病室に花を贈ってくれた。裕ちゃんともマコちゃんとも、それこそ古い仲だが、石原軍団となると世代交代もあるし微妙な思惑もからんだりで、マコちゃんも素直には動きにくいところもあるらしい。辛いことも多いのだろうと思う。
〈女性セブン〉が、バーニングプロの周防郁雄さんを通して、私のかみさんの手記がほしいといってきた。もちろん書いている暇もないわけだが、「業病に倒れた夫の看病記」みたいなもので、談話筆記であちらが記事にまとめるとかで、病棟にやってきたらしい。かみさんがなにをいったか知らないが、マスコミが私をどう扱おうと、そちらもまた俎上《そじよう》の魚でいくしかない。
黒柳徹子さんが手紙を事務所の若者に託してとどけてくれた。例によってきちんとした文字で、私への激励がつづられていた。
「まだみんなが加東さんを必要だっていっているんだから、運が悪かったなんて思わないで、きちんと手術を受けて、また私たちのところへもどってきてください」
とあった。いつもながらだが、徹子さんの厚情には胸がつまる。彼女の声を背に、明日は手術室に向かおうか。
手術といえば、生死の境をさまよって、残念ながらということだって多いわけである。私だって、問題なしとはいうものの、なにが起こるかわからない。
もし万一凶と出たところで、私はふり返ってみて幸せである。
私の人生とかかわってくれた数多くのひとが私をいとおしみ、愛してくれているのを切実に実感しているとは、なんと嬉しいことか。いましみじみとそれを肌で感じている。
十一時間半の闘い
かすかに意識がもどってきた。まるで痙攣《けいれん》するように手足が震える。首から上の感覚はほとんどない。
手術は終った。全身麻酔の私は手術台の上で意識が薄れはじめてから全くなにも知らないのだが、八時間を予定した手術が実に十一時間半を要した。
頭頸科《とうけいか》部長・内田正興先生を中心に苦瓜《にがうり》知彦、井上哲生の両先生が執刀に当られたが、第四期癌の病巣を残らず摘出し、再発の余地を残さないことと、アゴから上の顔にはなんとしても傷をつけないようにという配慮を重ね合わせた手術は並大抵ではなかった。
すべて後になってきかされた話だが、アゴの下を切りひらき、ゴムのお面をはがすようにアゴから鼻の下まで顔面をひきはがしたうえで、患部の摘出手術が行われた。舌の全摘、喉頭の全摘、そして下顎骨の切除、頸部リンパ節郭清《かくせい》。第四期舌癌のきびしい現実である。
舌をとり去った口の中の空洞には、右の大胸筋を切りとって移植する。といってもステーキみたいに肉を持ってきて、あてがえばいいってもんじゃない。血の通わぬ筋肉はたちまち死んでしまうからで、胸の筋肉を血管をつないだまま右アゴの下から口のなかに入れて、わずかに残った舌根に縫い合わせるのである。口内の細い縫合は、おそろしく神経を使う手術で時間もかかる。
そして再び顔の表皮をひきずり下げて縫い合わせる。右アゴから頬が膨れ上がっているのは、大胸筋を口のなかにつないだためだが、筋肉をとりのぞいて、ほとんど肋骨ばかりの右胸には、右の大腿部の皮をはがして張りつける。
下アゴの骨を削りとってしまっているから、右側の蝶番《ちようつがい》を失ったアゴは右に左にグラグラ動き、歯は噛み合わない。
喉頭全摘をしたため、通常のように口や鼻から呼吸ができなくなり、のど仏の下あたりに穴をあける。この気管孔から呼吸することになる。
ほとんど“サイボーグ”といいたいほどの手術を、顔には傷ひとつつけずに医師団が完了した。片時も息の抜けない緊張の連続であったにちがいない。
十一時間半、手術室の外で気づかいながら待っていてくれた、かみさんをはじめ友人たちにとっては、あまりにも永い時間であったろう。
手術台からベッドに移されて手術室を出された私は首を固定され、まっすぐ上を向いたままで、まだ意識も朦朧《もうろう》としていた。
「パパお帰りなさい、お疲れさま。ゆっくり眠ってね」
というかみさんの声が、まるで別の世界からのように遠くからきこえてきた。
ベッドの後ろについて手術室を出てこられた内田、苦瓜、井上の三医師は、すべてを出しつくし、憔悴《しようすい》しきって立っていらしたという。
「三人の先生がご自分の命の炎を分けてくれて、主人を助けてくれたのだ」
とかみさんは感じたそうである。涙で先生方の顔が滲《にじ》んだ。私が倒れてから一度も涙を見せなかったかみさんの涙であった。
手術は終った。
次第に意識がもどり、はっきりとしてくるにしたがって痛みが走った。自分のものとは思えない口のなかの感覚、縫い合わされたアゴや首、そして右の胸。
「大丈夫ですよ。すべてうまくいきましたよ」
内田先生の力強い声に励まされて、病室にもどった私は、じっと痛さに耐えるしかないのだが、それでも、三月、四月のあのころの痛みに比べれば、まだしれたものだという思いがあった。
手術の無事終了を友人たちが、電話であちこちに知らせてくれているらしかった。十一時間半もの間、かみさんと一緒に待っていてくれた友たちだった。思わず涙がこぼれた。
さよなら《やじうま》
「まるで頭陀袋《ずだぶくろ》だな」
われながらそう思った。手術後、縫合した各所は出血がつづく。そのまま放置すれば、血のかたまりが体のなかにできてしまうので、その出血を体外に出すために吸引器なるものを、各所につける。
簡単に説明すると、子供たちの浮袋にエアを入れるためのポリ製のペコペコみたいな代物《しろもの》で、そこからのびたチューブが出血する患部に差し込まれていて、鮮血が吸引される仕掛けである。私の場合は、このポリのペコペコが五個も体にぶら下がった。
ベッドから起きて処置に出かけるとか、自分で用をたそうとすると、首から袋をかけて、その袋に五個の吸引器を大切そうに収めて歩くのである。その姿は、修行僧が托鉢《たくはつ》に出かけるときの、あの頭陀袋そっくりなのだ。
術後、時間が経つにつれて、頬とアゴ、首は膨れ上がる。細い血管はズタズタのままで、自然に機能が回復するのを待つしかない。右下アゴの骨を削りとったため下の歯が痛む。大胸筋をえぐりとった右胸は、ちょっと動いてもズキズキするが、つとめて右手を動かさないと、そのまま固まって右手が使えなくなるのでは、という恐怖心が自分を突き上げて、まず右手で文字を書いてみる。当然、苦痛をともなうが、病床記を書きつづけることにする。
手術に臨んで、術後どうなるかははっきりときかされていた。二月上旬に、「いけるところまで、とことんやってみる」と決めたときから覚悟のうえのことだったが、どこかで僥倖《ぎようこう》を期待する気持ちもなくはなかった。
だが、手術が終って舌と喉頭の全摘出という現実を前に、私はいまの私自身を冷静に見つめざるを得ない。
まず、なにより気になったのは、《やじうまワイド》だった。私が復帰することを前提に、「加東さんの代りに今日は……」とことわりのセリフを入れつづけてくれている番組に対して、私は偽りをいいつづけてきたことになる。私がブラウン管に復帰することなど、もうあり得ないからだ。
担当プロデューサーの山本敏さんにきてもらって、手術結果を話し、番組に向けてのメッセージを書いた。
「手術は成功しましたが、残念ながら生命とひきかえに声を失いました。声の出ない私では、夢にまで見てきた《やじうまワイド》への復帰は絶望です。口惜しく残念ですが、多年のご声援に感謝しながら、私も一視聴者に加えていただきます」
これだけ書くのが精一杯で、悔《くや》し涙が、とめどもなく流れた。
どうしてこうも涙もろくなってしまったのか。声の出ない代りに、やたらと眼から水が流れる。「年寄りは涙もろくなる」というほどの年齢でもない。過去との訣別にやはり未練があるのか。もうもどることのできないかつての自分への惜別《せきべつ》なのか。いずれにせよ、私らしからざる涙だった。
《やじうまワイド》は、私がレギュラーだった金曜日、私のメッセージをブラウン管から伝え、藤原弘達さんは激励の檄《げき》をとばしてくれた。
視聴者のみなさんからも、慰めや励ましの手紙が局や自宅に殺到。スポーツ各紙は、私の闘病を大きく報じてくださった。反響の輪はひろがって、病室には見舞いの花や人々が集り、病棟のなかの患者さんたちも、改めて同病の士に、こんなのがいたのか……となったようだった。
頭頸科病棟
〈とうけい科〉という名称は、私はここにくるまで知らなかった。音《オン》できくと病院の統計をつかさどるセクションかと思うのだが、頭頸科というまさしく読んで字のごとくで、脳をのぞく首から上のすべての癌の治療に挑むところである。
癌研がこの名称をはじめて用い、いま、大学病院などでも、少しずつ頭頸科を名乗るところができたところだそうだから、私の耳に新しくて当然である。
頭頸科で最も多い患者は咽頭《いんとう》癌と口腔《こうくう》癌、そして口腔癌のうちでは舌癌が最も多いのだそうだ。癌はどこに巣食うか予測はたたない。喉頭癌にしても上部、中部、下部とそれぞれだし、口腔癌でも舌の他に歯肉、口腔底、頬粘膜などさまざま。その他に鼻腔癌、副鼻腔癌、耳下腺癌、甲状腺癌、咽頭癌、頸部食道癌などが、頭頸科の守備範囲だそうである。
そのなかでも舌癌は喉頭癌と並んで最も多いという。
癌はどこならいいというものではないが、胃癌、肺癌、乳癌、子宮癌などは、早期であり合併症さえなければ、いまや簡単な治療で、社会復帰も容易なのだが、頭頸科の患者はそうはいかない。舌にしろ喉頭にしろ、切除したとたんに基本的な暮しのありようをうばわれることを余儀なくされる。
しゃべれない、口から飲み食いができない、口と鼻からの呼吸ができない。これは大変な変化である。そしてほとんどの場合、それが元にもどることはない。
「よく癌告知の賛否が論じられますが、ここでは病院の性格もありますけど、病気をはっきりお話ししないかぎり治療には入れませんね」
主治医の苦瓜《にがうり》先生は、頭頸科の性格を説明しながらこう語った。
私のように末期癌であることを自覚してやってくる患者は珍しいとしても、ご同輩たちは、みなさん癌と真正面から対決しているわけである。
それにしても、入院病棟はいうなれば〈プリズン〉……収容所である。ここへ患者として入ったものは、一日も早く収容規則に馴れ、従順となるに越したことはない。無駄な抵抗は自滅を招きかねない。
病馴れていない丈夫一式だった私にとって、他と比較するわけにはいかないが、この大塚癌研は、非常に良くできた病院で、医師、看護婦、用務員を含めてスタッフも優秀だし、気配りのゆきとどいた人々で構成されている。
それにしても収容所にはちがいない。
患者は入院したその瞬間から、年齢、社会的経験、地位、その他諸々とは一切《いつさい》関係なく、収容された〈子供〉である。
孫のような若い看護婦さんが、子供をあやすような、あるいは叱るような口調で患者に接する。それが彼女たちの献身なのだが、生命のキイをにぎられた患者は、みるみるうちにプリズンの子供になっていくのだ。
私とて全く同様で、癌研病院の三階、頭頸科病棟に入院したとたんに、四十度を超える高熱つづきで、ほとんど意識不明だったが、熱が下がるまで二週間ほどの間に、完全に収容されつくしていた。
徐々に病棟にも馴れて、体力回復のために自分の足で廊下を歩くようになると、ご同輩の頭頸科入院患者のみなさんが、それぞれに個性的で、それなりに自己主張しているのが見えてきて面白い。
はじめのうち私は、できるだけ眼を合わせないようにしていた。私がここに入院していることはテレビやスポーツ紙・週刊誌などで知っておられる向きもあるようだし、ブラウン管を通じて私とはなじみだというひともいる。だから余計に具合が悪い。声が出ないし、首もまわらないのだから挨拶のしようもないという負い目がある。
それでもだんだんと馴れてきて、会釈を交わすようになったのだが、その陰には私のかみさんのあきれるほどの大活躍があった。
先生たちや看護婦さんはもちろんのこと、掃除のおばちゃんに至るまで、あれよあれよって間にお友達気分。入院患者やその付き添いの家族たちまで、みるみるうちにお知り合いの輪に入れてしまい、こまめに動きまわっては笑顔をふりまく。
「どうせなら、みんな明るく楽しいほうがいい。まして陰気になりがちな病院だもの」
というのが彼女の哲学らしいのだが、それをこれほどおおらかにやってのけるのは、ちょっと珍しい資質と才能だと唖然《あぜん》として見ていた。
そのかみさんに背中を押されたかっこうで、廊下ですれちがうご同輩とも無言の挨拶を交わすようになった。
素性の割れているのは私のほうだけで、お相手がどんなひとなのか知る由《よし》もない。
出色なのは、いかにも頑固一徹な職人風のおっさんで、黒の甚平《じんべい》を一着に及び、坊主頭の上に何故か常にピンクのタオルをきちんとたたんでのせている。このおっさん入院歴もかなりのものらしく、いまでは点滴もなければ、目立つ包帯もガーゼもなく、あたりをにらみすえながら廊下を闊歩《かつぽ》する。
話好きの下町の酒屋か八百屋のおやじさん風なひとがいるかと思うと、沈痛な面持ちのまだ四十代そこそこのサラリーマン風もいる。地方の校長先生みたいな雰囲気の初老のひとは秋田市からここへ入院だという。埼玉県越谷、茨城県水戸などなど、付添いの家族も大変である。
もちろん頭頸科にも女性の患者はいる。婦人の病室はしかし男の半分もなく、女性患者は三割。
一階外来の受付や各科の持合いベンチを埋める女性たちの圧倒的な数に比べると、いかにも不思議な気がする。
ア、イ、ウ、エ、オ
入院以来、ガーゼの浴衣スタイルの寝まきであった。さまざまな検査があったり、ベッドから起き上がることもできず、尿道にチューブをさし込んで直接採尿するとか、手術後のベッドでの診察治療を要する患者は、浴衣スタイルの寝まき、それもガーゼのものに限るのである。
私も例外ではなく、ずっとガーゼの寝まきですごしてきた。
パジャマ姿やトレーナー姿で廊下を歩くご同輩の患者がうらやましくも、うらめしくもあったが、私も尿道チューブもとれ、処置室の治療も上半身がひろげられればいい状態。点滴台をゴロゴロころがすヒモつきの身だが、どこへでも移動できるところまできた。
浅利香津代さんが仕事の合間を縫って飛び込んできた。彼女とうちのかみさんは日大芸術学部のクラスメートで、昔ばなしに花が咲く。
前進座をやめるかどうか悩んでいた時期に、大坂志郎さんを座長格に秋田出身の芸能人が集り、“外野の会”と称して、秋田を北の大館《おおだて》から南の横手まで、一週間にわたって公演したことがあった。私は唯一人、外野どころか場外の男だったが、銀座の博品館で公演中の桜田淳子さんのメッセージをたずさえて、秋田まで飛んで行き、異郷のひととして秋田人の結びつきをうらやむという設定で参加した。浅利香津代さんも、そのときの一員だった。
当時は旧友が私の妻などとは露知らなかった浅利さんは大いに驚き、見舞いにかけつけたのだったが、
「加東さんは派手なほうがいいと思って」
と色鮮やかなグリーンのパジャマをプレゼントしてくれた。
そういえば入院以来、たくさんパジャマをいただいていた。いままでガーゼの寝まきだから、仕舞《しま》いっぱなしであった。
「ねえ、着かえて、着かえて……」
旧日大芸術学部二人にせきたてられて、そのグリーンを着てみた。パッと心が晴れるような気がした。
その夜以来、昨日は“KENZO”、今日は“セリーヌ”、明日は“バレンチノ”である。それも、これでもかって派手さで病棟の廊下を歩くことになった。
手術後三週間が経過した。
手術前に高熱がつづき、ほとんど意識不明といった状態で、体内の蛋白質も低下していたことを考えれば、むしろ順調にすぎる回復で、内田先生も、
「加東さん、体力あるねえ」
といってくれるのだが、こちらは口から下、肩までが、とても自分のものとは思えない不自由さで、しきりにイラだつ。
下唇からアゴ、首、そして肩まで感覚が鈍く、神経は半分も働いていないと思われる。下唇やアゴに指で触れてみても、なにか遠くからなでられているような感じで心もとない。
手術の傷のため、ガーゼでおおわれている部分は触れようもないが、後ろの首すじなどあまり感じないくらいで、肩はパンパンにはってしまっている。
「そのくらいだから、痛みもあまり感じなくてすんでいるんですよ」
むしろラッキーなのだと説明されても、このままで大丈夫なのかと不安が残る。
下唇の動きをよくするために唇を動かすように……ということで、「アイウエオ」の唇の型を繰り返し作る。
そのうち、「声が出ないものだろうか」という思いが頭をかすめる。唇の型を作りながら、懸命に音を出してみようと試みた。
「ア」も「イ」も「ウ」も口のなかを風が吹きぬけるだけで、そのスースーという音が哀しい。
「やめた、やめた」
と自分に当るのだが、気をとりなおして「ア、イ、ウ、エ、オ」である。
これからの暮しは、多分ここからはじまるのだろうと思う。なにしろ我慢強くなった。声を失うということは、いやが応でも我慢を強いられる。
声に出してただちに反応できないということは、想像していた以上にやっかいなことで、たいていはこちらが我慢してしまうよりしかたがない。
文字に書いて伝えればいいのだが、それほどのことでもないのに、第一、書いていたのでは間に合わないのだ。
例えばの話、髪を洗ってもらっている最中、
「どこかかゆいところはありますか」
と問われても、わずかに首を横に振って、「ない」というしかないのである。
熱いか熱くないか、痛いか痛くないか、問われたときに、そのどちらでもない中間の微妙な答えがあるし、注文もあったりするのだが、さりとて紙をとり出して改めて文字にするほどのことでもない。YESかNOで答えておくしかないのである。
なにかをいいたいときにも、気軽に声をかけるって訳にはいかない。紙に書いて差し出すには、それ相当の理由がなければなるまいと、こちらが思ってしまう。
いちばん辛いのは、呼びかけたい相手の視線に私が入っていないときである。民謡酒場でビールの追加注文をするわけじゃないから、ポンポン手を叩くのもはばかられる。相手がこちらを見てくれるまで我慢である。
声を失うということの日常性を改めて思い知る日々なのだが、病院を出たらもっと切実であるにちがいない。
それにしてもうらめしいのは、病院の廊下にある電話だ。連絡をとりたいひと、お礼をいいたいひと、近況を知りたいひと、etc.……だが、電話は私にとっては全く無縁のものとなってしまった。
ついこの間まで欠くことのできない必携品であった電話番号控帳は、いまや私には無用の品である。こりゃ辛い話だ。
額の向う傷
「下アゴの前の部分を、もう一度処置したほうがいいな」
とは毎日の処置室の治療でいわれていた。もう一度、あの手術室へか……と思っただけでもいい気持ちはしなかった。
のびのびになっていたその再手術が、今日午後一時三十分から行われる。
七月二十七日の十一時間半に及んだ手術から約一ヵ月経過した八月二十五日だ。
東京の朝は早朝から雷鳴が遠く近く、雨が激しく降ったり、パタッとやんだりで、いつもなら朝日が射し込み、まぶしいくらいの私の病室も薄暗くしめっぽい。
今日の手術は口のなかの縫い合わせた傷の一部が、残してきた下顎骨とあたって、うまくかみ合わずに化膿しかけたため、下顎骨をさらに削り、歯を一本抜いて、きちんと縫いなおすのだそうで、局部麻酔で約一時間の予定。
「ちょちょっとしたもので、手術室じゃなくてもいいんですが、削る機械が……」
と担当医はいってくれたが、手術室に行くとなると病院にルールがあるようで、昨日は、にわかにヒゲは剃るわ、入院以来はじめてのことだが、胸から上は傷があるから避けるとしても、下半身はシャワーを浴び石鹸でよく洗うって騒ぎ。
それでなくても、あんまり楽しい気分じゃない患者のほうは、一段と不安になったりする。朝食はいつもの通りの注入による“経管栄養”だが、昼は抜きで手術室に向かう。
執刀はわが親愛なる頭頸科部長・内田先生。目をつぶって、すべておまかせしかないか。
午後一時半からの予定の手術が三十分のびるとのことだが、早々と素っ裸にされて、手術のための白衣を着せられ、頭からは目が見えないほどまぶかな白い帽子という姿で手術室行きのベッドに移されて待機する。
一ヵ月前も同じだったはずだが、あれよあれよという間の朝だったので、改めて手術室のルールを味わわされる。
手術は口のなかの下前歯を一本削り、縫いなおすというものだから、なんともオーバーなのだが、歩いてノコノコなんてことは許されない。三階から二階へ長い廊下の天井を見つめて、手術室の入口で病室の看護婦から手術室の看護婦に引き渡しが行われる。儀式そのものだ。
執刀は内田先生。今回は局部麻酔だから、周囲の会話もすべてきこえるし、先生のほうからも呼びかける。
左手の中指にリングがはめられ、リングは押しボタンになっている。親指で押すとピーピーと鳴る仕掛け。
「痛かったら押すように」
といわれるのだが、少々痛くて当り前だろうと思うから、押しようもないのだが、開口器って代物《しろもの》で強引に口をめいっぱいひきあけられたのには参った。痛いのなんの。骨を削って歯ぐきを縫う。ピーンとひっぱられる糸の感触を含めて、ズッシリとこたえた。
角川映画《天と地と》のカナダロケから上杉謙信役の渡辺謙さんが、ものもらいが治らないという理由で降板帰国。理由はその程度のことではあるまいと思っていたら、案の定、骨髄性白血病だという。
NHK大河ドラマ《独眼竜政宗》のヒーローで一躍スターとなった彼はまだ二十九歳。医学の発達は彼を救うだろうことを期待したいが、あの夏目雅子さんも白血病だった。暗澹《あんたん》たる思いは拭《ぬぐ》いがたく、気の毒でならない。
私など彼の倍生きて、勝手気儘《きまま》にやってきての末のことである。それでさえ思い患い苦しむ。渡辺謙さんの胸中や、察するにあまりある。
手術後の前歯のあたりがズキズキ痛む。加えて額の傷だ。
手術の翌日は熱が出た。本人は手術ってほどのものでもないし、どうってことない……と思い込みたがっているのだが、発熱するとたちまち体力がおちる。夜中にフラフラするのを懸命にこらえて立ち上がる。ナースコールのボタンを押して看護婦さんにきてもらうのが、どこか気恥ずかしいというか、自らの敗北感につながるようでいやなのだ。
なんとかトイレに行って、やっとベッドに帰りついた途端に、頭から転落した。左額が裂けて血が吹き出した。
私の倒れた音で、夜勤の看護婦さんが飛んできて、当直医を呼び、応急の縫合をほどこした。午前二時半ごろである。
なんとも不覚のかぎりだ。もうかなり昔だが、私の旧友のU氏が、胃潰瘍で入院中、脳震盪《のうしんとう》で逝《い》ってしまったのを思い出した。U氏の場合も私と同様だったようで、ベッドからの転落が死につながった。
「もうドキンとさせないでください。呼んでくれなきゃだめですよ」
翌朝、処置室で額の傷をきちんと縫いなおしたときの看護婦さんのセリフ。
なんともはやである。
あの十一時間半の大手術からちょうど一ヵ月が経った。私の気持ちとしては、一ヵ月も経過した……だが、一般的には、僅《わず》か一ヵ月が……ということらしい。
「一ヵ月もしたらこの程度には……」と想像してきた状態とは裏腹に、万事不自由だ。そう思うのは患者の贅沢、まして全力疾走で暮してきた私などの思いあがりらしい。
「手術に入る直前のことを考えたら、こんなに早く、ここまで回復するなんて」
とベテラン看護婦さんは、なぐさめでなく真顔でいうのだが、主治医の苦瓜《にがうり》先生も、
「実は手術を行うかどうか迷った」
のだそうである。
入院直後から高熱がつづき、意識モーローの状態がつづいて、手術予定日を変更してきた。鼻からの食事も受けつけずに、点滴に頼るだけという日もつづいた。熱にうなされる状態からようやく解放されて、本人は調子の良いつもりでいたのだが、血液中の蛋白質が低下、体力の消耗も激しく、手術に踏み切るには難しい状態だった。しかも放射線照射の効果が切れてしまっては、はじめからやりなおし。ぎりぎりのところで七月二十七日と決めたのだそうである。
「正直いって五分五分でした」
その患者がここまできたのは上々というわけだが、どうしてもいらだち焦る自分が悲しい。
このところ、つとめて廊下に出て歩き、腕を上下に振り、腰をひねる体操のまねごとをはじめるが、腕は思うように上がらないし、横にも振れない。
特に右腕は、右胸の筋肉をとったために大きく動かない。
先生は保証してくれていたが、これで本当にゴルフがやれるようになるのかな……と不安がよぎる。
おまえとオレと
台風17号は四国に上陸、近畿・北陸を通過、日本海にぬけた後、東北地方をかすめて北海道を縦断した。ななめ袈裟《けさ》がけに日本列島を斬ったかっこうである。
東京もその余波で激しい雨が断続し、病室の窓も大粒の雨に叩かれる。
八月早々から呉《くれ》市の龍玄院《りゆうげんいん》の夏山修行に参加していた息子の岳史《たけし》が帰ってくるはずなのだが、一行は四国霊場めぐりでしめくくるため四国にいる。
台風通過で飛行機も連絡船も欠航、自慢の本四架橋も通行止めと報じられ、四国から本州に渡るのは無理じゃないかと案じられる。
夕方、岳史から病院に電話が入る。いま連絡船に乗るところだと声をはずませていたとかみさんがいう。
台風通過でやっと一便だけフェリーが出航したらしいが、遅れている新幹線に乗りついで、二十三時過ぎには東京につくとか。台風をかいくぐっての旅といったところで、息子にもいい経験になっただろう。
この一ヵ月の旅で、どれほど成長したか、おまえの姿をすぐにでも見たいが、九時消灯の病院ではすべて明日のことだ。
台風一過の朝はスカッと晴れ渡った。
私自身の体調はしかし必ずしもスカッて具合にはいかない。回復にまだかなりの努力と時間が必要なのだ、と思い知らされることばかりである。
病棟の廊下が、なんとなくあわただしく、緊張感がみなぎる。重い手術が重なっているな……と、すぐに感じられるようにまで病棟の空気になじんできた。
美人の看護婦の表情もけわしい。手術に踏み切るには私の場合がそうであったように、手術そのものに耐え得る患者の状態を測定して行われるのだが、生死の境をさまよう手術もある。
大きな手術の重なった日の病棟は、重苦しい空気につつまれる。その雰囲気は患者一人一人に微妙に伝わっていくのがよくわかる。
病棟の廊下ですれちがうご同輩は、レギュラー・メンバーみたいな気がしているが、結構入れかわり、新陳代謝しているのだ。
嬉々として退院していくひともいる。その反対に、かみさんが親しくしているK夫人のご主人のように、今日、明日が……というひともある。
なんでこんなところにいるのだろうと思うくらい颯爽《さつそう》としているのは新入りで、やがては手術などの処置を受けるのだろうが、いまはそのための検査期間で、表向きは全くの健康人みたいなひともいる。そのひとたちも不安の色はかくせない。それが癌研附属病院というものだろう。
午後、かみさんといっしょに息子が勢いよく飛び込んできた。小学生最後の夏休みを夏山修行ですごしたのだが、結構楽しかったらしいし、逞《たくま》しくもなった。
白の長ズボンをはいているので、いっそう大人っぽく見えるし、ベッドの親父を一人前の口調で激励したりする。握力アップのための機器と、バスタオルが岳史から私へのおみやげ。
二学期から、はじめて塾に行ってみるともいい出して、やる気になっている息子を見ていると、病床の自分が腹立たしく情けなくもある。
「加東康一の息子です。父がお世話になっています。よろしくお願いします」
きちんと挨拶にきた岳史に、主治医の苦瓜《にがうり》先生も戸惑ったらしい。
看護婦さん全員にゆきわたるように四国からのみやげも用意したという息子は、荷物をかかえて看護室に婦長さんを訪れたりもした。
挨拶の口上もキビキビと大人っぽく、居合わせた看護婦さんたちも唖然《あぜん》としたという。
もう子供というよりは少年である。背も母親よりずっと大きくなった。親父の私を超えるのも、そう遠い日ではないだろう。
ずっと公立中学でいいんだといっていた息子が、私立中学を受けてみるといい出したという。私の前では照れておどけてみせるだけで、肝心の話はかみさんを通じてだが、本格的にその気を固めたのであろう。私にも、「やってみるんだ」といい出した。
その時期のおまえに、父親の私が病床にいるのはつらい。しかし、反対に私が病に苦しんでいるから、おまえがやる気になったといえなくもない。
父親という存在は存外そんなもので、「親父があれじゃ、オレがなんとかしなきゃ」って気になったりもするものだ。
それにしても、なんとか社会復帰を果して、おまえとヒザ付き合わせて付き合っていきたい。少なくとも日々刻々といっていいほど成長をとげていくおまえを見守っていたいものである。
4章 焦らず、気長に
素晴らしい友たち
いつものように朝五時半に目覚める。
昨日、松山英太郎さんがかかえるように持ってきてくれた真紅のバラに、朝の陽光が当って、まぶしいほどに美しい。
私の病室は東向きの窓で、朝日が射るようにさし込む。カーテンをしない窓からの光で目覚めるわけではなく、これが一日のはじまりの癖となってしまった。
病棟の消灯は九時である。夜行族でありつづけた私が眠れるわけはないのだが、テレビ番組をあさったりしながらも、十一時に巡回してくる看護婦さんに痛み止めの薬と眠剤を鼻のチューブから注いでもらうと、観念して眠るのだが、夜中の二時か三時に必ず目が覚める。痛み止めの効果が薄れて、ということもあるが、長い間、三、四時間眠る程度で走りまわるのが習い性となっていたためなのかもしれない。
それからウトウトッとすると朝の光の中で五時半前後に目覚める。六時になると病棟のスケジュールが始まる。看護婦さんが体温計を配って歩く軽やかな足どりは、完全徹夜の夜勤のつづきとは思えない。体温、脈搏、そして排泄《はいせつ》の調子などを調べてまわるのは、六時半ごろまでに終わる。病棟の長い一日のはじまりである。
汗ぐっしょりで飛び込んできた松山英太郎さんは、これから京都に行くのだという。
“おじいちゃん”の愛称で親しまれる森繁久弥さんにとっては、竹脇無我さんとともになくてはならない世話役、お守役の彼だが、若いころから付き合ってきて、いつの間にか二十年、彼はいまや役者仲間のまとめ役でもある。
森繁のおじいちゃんのエピソードを含めて、近況を面白くきかせてくれた英太郎さんは、「じゃアね」と手を振って京都に向った。
この松山英太郎さんの真紅のバラに限らず、入院以来、私の病室は花でいっぱい。長い付き合いの芸能界の俳優、歌手の方々をはじめ、マスコミ界の友人、あるいは妻の友人などなど、激励のメッセージをそえてとどけてくださる。
それも、まるで連絡をとり合って、時期をずらしながらなのではあるまいか、と思うほど、花が絶えたことがない。
病室に見舞いに来てくれる人々も、一日として誰も顔を見せなかったという日がないのである。
「おしゃれしてなきゃだめ」
とシルクのパジャマと励みになるようにとブランデーをかかえて、飛んできてくれた梓みちよさん。
自らも腹部の脂肪をとる手術で、お腹をおさえながら現れてくれた坂本スミ子さん。
毎日、私へのハガキを、自宅で闘病していた四月から書きつづけて送ってくれている脚本家の内舘牧子さん。
そのお牧さんを含めて、一党を引きつれて週に一度は様子を見にきてくれる音楽評論家の伊藤強さん。
声帯ポリープの極度の悪化で筆談生活の経験を持ったことから、他人ごととは思えないと仕事の合間を縫って飛んできてくれた畠山みどりさんや、新幹線のとんぼ返りで何度もきてくれる京都祇園のママさんなどなど、お礼のいいようもないほど多くの方々が私を見舞ってくれた。
丈夫なときには、お互いいつでも会えると思いつつ、いつの間にか三年、五年と会っていなかった旧友が顔を見せてくれたり、見舞いかたがた結婚の報告にみえたカップルもあったが、私の状況がどうなのかはなかなかわかりにくいようで、図解と筆談で理解してもらうのも、結構手間がかかる。口がきけたら三分もあれば正確に伝えられるのに……といった思いが胸をよぎる。
それにしても、こうした友に恵まれている私は幸せだ。かみさんもせっせと通ってきて世話をやいてくれるし、息子もめげずに、むしろ親父の私をなんとか笑わせようとおどけてみせたりする。その健気《けなげ》さがこちらの胸に突きささって、ジーンときたりするのだが、ともかく恵まれた患者ではある。
同じ病棟のご同輩の患者さんたちは、それぞれ千差万別だが、それぞれの家庭の事情で、かなりの重度の症状でも、家族が付添えないひともいる。見舞い客もほとんどなく孤独に耐えているひともいれば、入院中に家庭が崩壊なんて例だってある。
恵まれている私は、なんとしても、もう一度娑婆《しやば》にもどって、多くの好意に酬《むく》いる自分をとりもどさねばと痛切に思う。
「焦っちゃいけませんよ。徐々にゆっくりです」
担当の苦瓜《にがうり》先生の声が耳に痛い。
去っていった夏
八月が終った。今年は私に夏はなかった。暑さのきびしい夏だったそうだが、病室は一定の気温がたもたれていた。
「世の中、ムシ風呂だし、生まれてはじめての避暑暮しってつもりで……」
と友人たちにいわれるのだが、暑さにうだり、ブーブーいいながらだって健康がいいに決っている。
この夏は、ビデオマニアのMなる異常な若者の幼女殺人死体遺棄事件でマスコミはもちきり。どうでもこの男が犯人でなければならないといった調子で、テレビのニュース枠もワイドショーも、この吐き気を催しそうな事件で埋めつくされた感じである。病室のテレビにこの事件リポートが映ると、スイッチを切りたくなるのだが、そのためには起き上がって、部屋の隅のテレビにまで手をのばさねばならない。点滴のチューブを胸につなぎ、スタンドと結ばれている私には、かなり億劫《おつくう》な作業で、通りすぎるまで眼をそむけるのだが、どこも同じ映像を繰返し使って、センセーショナルに訴えかける。
この騒ぎのおかげで海部《かいふ》内閣の誕生も新聞紙面の片隅におしやられ、まるで一時待避ってかっこうで、水玉の殿様はアメリカに渡り、メキシコ、カナダを歴訪して愛嬌をふりまいた。が、日米経済摩擦はその溝をひろげる一方で、互いに社会の仕組みや人々の暮し方まで言及する始末。ざっくばらんな討議というが、それほどの仲良しだったのかと、鬼畜米英時代から占領当時を鮮やかに記憶する私などは、ひやっとする。
その一方で社会主義諸国はゆれにゆれている。共産党一党独裁に二十世紀末を迎えた民衆はついていかない。北京政府は天安門広場事件を強引にねじ伏せて、徹底した民主解放への弾圧を強行し、学生も民衆も口を閉ざしたが、「面子《メンツ》を潰された」と激怒したであろう小平老人の頑固一徹では自由化の底流はとまらない。
ゴルバチョフのソ連も、民族独立の波にもまれている。バルト三国は独立を求めて叫びをあげ、モスクワは威嚇《いかく》と慰撫《いぶ》に懸命である。
ポーランドのワレサ議長を中心とした“連帯”が選挙で圧勝し、共産党政府は連帯を含めた連立政権となさざるを得なかった現実の影響は大きい。ゴルバチョフのペレストロイカも前途は多難だ。
東ドイツからはハンガリー経由で西ドイツに移住を求める人々が相次ぎ、東側のハンガリーの対応も微妙、受け入れる西ドイツはそれでなくとも外国人労働者にあふれ、ドイツ市民に深刻な失業問題を投げかけているのだから、悩みの根は深い。
わがニッポン国は失業問題どころか人手不足で悩んでいるといい、学生などは売り手市場で、中小企業などもみ手しきりで学生に媚《こ》びる。
工場や作業場などでは、非合法を含めて外国人労働者の手を借りなければやっていけない……という現状のところへ、この夏はベトナム難民船のラッシュであった。その背景は複雑で、中国福建省が中継地点で、ベトナム難民を装って中国人たちが大量に日本に流れ込もうとしていた。経済格差がこれほど激しくなれば、日本での就労は夢に見るほどの魅力だろうし、背後には北京政府の自由化阻止の圧迫感もある。中国をはじめアジアからのニッポンを目指す人の流れは、おそらく止めようがないのではあるまいか。
これが一九八九年の夏であった。私がベッドのなかからでさえ、ひしひしと感じざるを得ない世界の潮流でもある。
一九四〇年代から五〇年代にかけて一応の態勢がととのった世界は、九〇年代という世紀末を迎えようとしているいま、大きくゆれ動いている。
私は病に倒れ声を失った。私自身の生き方、暮し方に否応なく全く新しいありようを求められる九〇年代があるのだろう。
私はそのなかで二十世紀の終りを見つめたいと思う。そして二十一世紀に生きることを約束されているわが息子・岳史《たけし》を見守りたいと思う。
「おまえの世代は大変だぞ」と声援をおくりながら。
空いたベッド
病棟の廊下に重苦しい沈黙が流れる。ナースコールに呼ばれて病室に急ぐ看護婦さんも足音に気をつかっているようだ。
かみさんが親しくしていたS夫人のご主人が、たったいま息をひきとったという。
病院の宿命だが、再び甦《よみがえ》ることが不可能だったという患者も、当然避けがたいわけで、S氏の場合も、「今日か、明日か……」といわれながら一週間余が経過していた。互いに付添いの家族として慰めたり励ましたりしてきたかみさん同士だった妻は、自宅に電話して息子の岳史《たけし》に数珠《じゆず》と経典を持ってすぐくるようにと命じたようである。
「友達に千円借りてバスと電車に乗りついで飛んできた」
という息子の汗ににじんだTシャツ姿が、妙に逞《たくま》しく見える。子供から少年に、そして間もなく私を追い越していくのだろう。
声のない私に、なんとか話かけて勇気づけようという彼なりの配慮がよくわかる。病棟の談話室から碁盤を持ってきて、「五目並べをやろう。元気出して」と、ベッドサイドでひときわ弾んだ声の岳史である。
地下の霊安室でお経をあげてきたという妻を追うようにS夫人がみえる。今夜のうちに「水戸の家に主人を連れて帰ります」。S夫人は闘い疲れた戦士のようだった。酸素マスクをつけたままベッドで苦悶《くもん》する夫を見守りつづけ、いまホッとしているのだろう。涙がこみあげてくるのは、もう少し時間が経ってからにちがいない。
死者を送り出した病棟は重く沈みがちである。医師も看護婦もつとめて平静を保ち、患者にショックを与えないようにつとめる。
いまの私のように点滴台をひきずりながらでも廊下を歩ける患者はともかく、ベッドから起き上がることも不可能な重度の患者に、同病者の訃報《ふほう》は精神的に良いわけはない。看護婦さんたちの気遣いが痛いほどよくわかる。
S氏が逝《い》ったのは午後二時ごろだったから対応もスムースだった。夜勤の看護婦さんたちは、こうした患者をかかえた病棟では、誰しも「自分の当番の夜でありませんように……」と願う。それが人情というものだろうが、処置室の前の大部屋のベッドがひとつポッカリと空いたのを見るのは辛いものだ。
水を飲む
あの手術から四十日、朝の処置で内田先生が「そろそろ水を飲む練習しなさいよ」と、例によっての温顔をほころばせながら語りかけた。
手術前、鼻腔チューブを入れて、鼻から直接胃袋に流動食でも薬でも注入するようになってから数えると、ほぼ三ヵ月である。この間、私の口は一滴の水も通したことはない。
人間は普通一日に一リットルの唾液を出すそうだが、その唾液さえも飲み込むことが難しい。舌のかわりに移植した私の右の大胸筋は、欠落した口のなかをふさぎこそすれ、動こうとはしないのである。
早い話が「アカンベー」と舌を出してみろ……といわれても、私の脳からの指令に、やつはビクとも反応しない。舌のあった場所に移動はしたが、そのものはやはり胸の筋肉なのである。したがって私の右の乳も口のなかのどこかにいるはずなのだが、これが不思議にくすぐったかったりはしない(当り前か……)。
ともかくそんな訳で、頭頸科《とうけいか》の患者の半数以上は、この水を飲む訓練でひと苦労するのだそうである。
私と同じように鼻からチューブをたらしているひとは、チューブに頼って生命をつないでいるひとたちで、すでに練習をはじめているひと、まだそこまでいっていないひとのどちらかである。この間までご同輩だった方が、鼻のチューブから解放されているのを見ると、「ムムッおぬしできる」と思ってしまう。困難な練習をのりこえて、口から飲める、あるいは食べられるようになった証拠だからだ。
私はまだ鼻チューブ族である。そして二十四時間点滴を受ける身だ。私の行動範囲は点滴台につるされたバッグ型の点滴液から私の胸に突きさされているチューブの長さが限度である。病室内でも廊下でもゴロゴロと点滴台を押して行動する以外にない。
入院当時や手術後に比べれば点滴の種類も少しずつ減って、いまはバッグ型だけ。少年野球のホームベース程度の透明な袋に黄色い液体がパンパンにみたされている。それをポツリポツリと二十四時間に配分して体内に注入するのだ。
この点滴から解放されるのは、自分の口で飲めるようになるのが条件。つまり、鼻のチューブと点滴のチューブは同時進行で私の体から離れるというのだから、水を飲むといったって、それこそ命がけなのだ。
舌がないということは、まことに凄《すご》いことで、口のなかにたまった唾液は行き場もなく、ネチャネチャとねばっこくなって唇からあふれ出す。まだ半分程度しか感覚のもどっていない下唇は、だらしなく粘液の糸をたらすという始末だ。
ベッドサイドの吸引器で、口のなかの唾液を吸いとるくらいは自分の手でできるようになったが、いよいよ水飲みの練習。
「新しく生まれかわるつもりで……」
と冒頭に内田先生がいった意味が実感として迫る。母の胎内で羊水にただよい臍《へそ》の緒《お》から栄養をとっていた胎児が、出産と同時に口に乳首をくわえるのに等しい。
頭頸科独特の吸い口のやけに長い吸い飲みが与えられる。そこに三分の一ほど水を入れて、吸い口を口の奥に入れ、めいっぱい上を向いて流し込む。飲むという実感をとりもどすまでが大変だし、うまく飲めたつもりが、口の前のほうにまわった水は、ダラダラと唇からこぼれ落ちる。それも忘れたころ、うつむいた途端にだったりする。
「気長に練習してください。お上手なほうだから安心しました」
と担当の苦瓜先生。なかには水が鼻にまわってしまったり、どうしても喉を通らずに四苦八苦、熱が出てしまうひともいるとか。それにしても水を飲むのにこれほど苦しもうとは……。
象さんの長い鼻
朝六時検温。夜勤の看護婦さんが疲れた様子も見せずに体温計を配って歩く。三十分後に回収。前日来の体調など尋ねてメモをとり、脈搏を計る。一日のスタートである。
七時半になると朝食がはじまる。もう点滴も鼻のチューブもないひとは、名前を呼ばれて食膳を受取りに出たりするらしい。
私は鼻腔チューブ族である。食事はすべてミキサーにかけて液状にし、“ガートル”と呼ばれるガラス器に入れ、その底からのびたチューブを鼻のチューブに接続する。途中に調節のネジがついていて、チューブを狭くしたり広くしたり、落ち方を調節するのである。
鎮痛剤のめちゃ飲みで、ただでさえ自慢できる胃袋じゃなかったものが、ただれきって、チューブからの流動食も受けつけなかった時期もあったが、はじめのころのオモユ状態から、少しずつ食事らしくなってくる三分がゆから五分がゆへ、おかずも魚の煮たものを細かくほぐしたり、ゆで卵のみじん切りに、野菜のつけ合わせなどなどとなってくる。
かみさんが夜も付添っていてくれたころは、食膳を受取り、ミキサーにかけて“ガートル”を点滴台につるすのだが、これが結構難しく、スムースにチューブが流れるとは限らない。
まして、五分がゆとなり、おかずの材料がカボチャだとか、マッシュポテトなんてことになると、缶入りの健康飲料などを混ぜて、ミキサーにかけて薄めてみても、それこそポタッ……ポタッって程度にしか落ちてこない。これでは何時間かかるかわからない。「点滴、石をもうがつ」というのでは、こちらが疲れ果てる。
看護婦さんの援《たす》けをかりるのだが、これが得意のひとと、どうもそうでもないひとがいて、食事もひと苦労なのだ。二時間もポッタン、ポッタンやっていると、「もういいからやめてくれ」と叫びたくなる。こんなときに声が出なくてよかったということなのかもしれないが、じっと横たわって待っているのは苦痛なものである。
付添いがいなくなって私一人が病室にいると、看護婦さんがすべてとりしきる。たまには一度食膳を持ってきて、「今日のメニューは……」と見せてくれてからミキサーにかけることもあるが、大抵はそんな余裕はない。
こちらも鼻のチューブから直接胃なのだから味もなければ匂いもない。なにが入ってたって関係ないわけだが、それでも、いきなりドロドロの液体より、原形を見せてもらったほうが納得する。
「アア、あれとあれを食っているのか」
と味の記憶をたどってみたりできるからである。
食後の胃薬も鼻のチューブヘ注射器で送りこまれる。夜中の痛み止めも、眠剤もすベて鼻から。
このチューブから朝七時半、昼十一時半、夕四時半の三回の流動食の注入以外には、全く水も飲まなきゃ、ましてお茶もジュースも、もちろんの話だがアルコールも一切《いつさい》体に入れていない。また、とりわけ欲しいとも思わないのだから不思議である。
それにしても象さんの長い鼻はいつとれるのか。私は目の前の視線にどうしても入ってしまう鼻のチューブをうらめしく呪《のろ》うのである。
走る天使たち
日曜日の午前中の病棟は静かである。当番の医師が患者を処置室で診たり、処置をほどこしたりはするが、病院自体が休診だし、人の動きも少ない。
それでも看護室のナースコールはひっきりなしに鳴る。私の病室と看護室はさほど離れていないせいもあるが、静かな日曜日は、コールのブザー音が私の耳にもはっきりきこえる。
それはもう間断ないって感じで、そのたびに白衣の彼女たちが廊下を走る。コールしたベッドの患者にはなにが起こっているのか、予測のつきがたいことだってある。
大抵はベッドの患者の状況は掌握している。重度の症状でベッドに寝たきりのひと、入院間もなくで、まだ検査の段階で手術を待っているひと、そして回復に向かいつつある患者などさまざまだし、それぞれの性格もまた千差万別なのだろう。
それらを承知のうえでコールブザーに呼ばれて飛んでいけば、「窓を開けてくれ」とか「枕が気に入らない」といった、他愛もない注文から、気管孔がつまって呼吸困難にあえいでいる場面もあれば、点滴の細いチューブに血が逆流していたり、病状が急変して危険な状態って場合だってあり得る。コールブザーに軽々しい予測は禁物で、看護婦さんたちは廊下を走り、ベッドヘ飛んでいく。
南病棟三階の頭頸科《とうけいか》の看護婦さんは、若いころは男性たちの憧《あこが》れを一身に集めたであろう美人の婦長を中心に、ベテランからヤングまで二十三名、看護学生が五名。計二十八人が日勤、準夜勤、深夜勤の三交代システムで勤務している。厚生省は、この三交代のローテーションがお気に召さないと伝え聞いたが、私が見ていても、彼女たちの仕事量の多さはすさまじい。
六時、十四時、十八時の検温や、患者の症状による血圧測定。採血、採尿、三食の世話から、体を熱いタオルで拭くなどの日常だけでも並大抵じゃない。常時満杯の五十ベッドのうち、三割強はベッドでほとんど身動きできない患者である。私も高熱にうなされていた約十日間や手術後しばらくは、まさにそうであった。こうした患者の世話は、それこそ腰痛の原因となるにちがいない力仕事だったりもする。
しかも、医師がいるときに緊急事態が起こるとは限らない。患者に密着して、状況の変化に対応する最前線に立たされているのは彼女たちである。
患者たちの勝手な注文に、いやな顔ひとつしないで対応しているのは、まさに天使と呼ぶにふさわしい。よほど良い教育を受けたのであろう。
「頭頸科では、患者さんたちに私たちが育てられてるってところがありますね。他の科とちがって、真正面から頼られてる……私たちを必要としているって実感が……」
とA嬢はいったが、頭頸科の患者のほとんどは、生きる基本の部分、呼吸、飲食が困難で、かつそれを訴える声をうばわれるといったケースが多く、看護婦たちへの依存度も高い。それが彼女たちの励みともなり、やり甲斐ともなっているのだろう。
それにしても休みは週一・五日、希望を申し出ることもあるが、原則として婦長が決める。半数以上が病院のごく近くの寮生活。死と隣合せの患者をかかえる日々は苛酷だといっていい。
看護婦不足が叫ばれ、新しい施設はできたが、看護婦不在で開業できないといった実態が日本の各所で伝えられるなかで、フィリピンからの輸入労働力に依存するなどの現実は、わかるような気がする。
私の病室に重ねられている女性週刊誌の表紙をちらっと見ながら、点滴液の補充にきたヤングが、
「えッ、明菜がマッチと結婚しちゃったん……ですか……ホントですか」
後半は、病床の私にきいてもしようがないかと、声を落した。
「だからア」「それでエ」と例のブツ切りの語尾を使った、若者たち特有の話し方をする彼女は、この病棟でも最も若い看護婦さんであろうが、この世代で、この仕事に耐えていけるひとが少なくなったのは、どうやら否定できない事実だろう。
そして今日もまた、私の隣の病室から、白い布を顔にかけられて地下の霊安室に、ともに闘ってきたご同輩が運ばれていった。
喉にあいた穴
左胸の鎖骨のすぐ下の大静脈に直接注ぎ込むかたちの“IVH”と呼ばれる二十四時間点滴も、二ヵ月余となったが、静脈にさしこまれたチューブの副作用であるらしく、いきなり三十九度の高熱が出る。
昨日まで、まアまア体調も良く、つとめて廊下を歩き、自己流の体操を繰返すなど、体力作りにつとめてきたところだけに、いきなり横っ面《つら》を張り倒されたようなショックである。
再びベッドに縛りつけられた感じで、高熱とともに血圧がグンと下がって、立ち上がるとフラつく。
夜中にベッドから転倒して額を割った苦い経験もある。同じことを二度やったら、もの笑いのタネだろうと慎重にならざるを得ない。尿も溲瓶《しびん》でベッドの上でとるようにする。
熱の原因が点滴だろうというので、ただちに点滴が外《はず》された。ちょうど、そろそろ鼻のチューブから胃に注がれる流動食だけでやっていけるのでは……と先生方は考えていたとかで、私は発熱によって二十四時間点滴のヒモ付きから解放され、ゴロゴロと点滴台を引っぱって歩かなくてもすむことになったのだが、わずか三ヵ月足らずでも、胸のあたりに点滴のチューブの存在感が残っていて、ベッドでの動きも、それを気にしたものになっている。
邪魔くさかった点滴台のゴロゴロが急になくなると、歩くのもなんとなく心もとないというか、淋しいというのか。杖を頼りにしはじめたら杖なしで歩けなくなる、というのもわかるような気がする。
熱は三十八度から三十七度の間を上下、もともと熱に弱い私はグッタリとしてすごす。
秋雨前線が東西の高気圧にはさまれて日本を縦に走り、そのまま停滞、東京は「はっきりしない天気」程度だが、全国的に記録的な雨。しかも気象庁の記録を更新する残暑のきびしさだというこの一週間を、悶々《もんもん》のうちにすごす。
気管孔での呼吸が苦しくなる。手術のときにあけられた“永久気管孔”だが、人間の回復しようという本能が、要するに傷口である気管孔を少しずつ縮めてきたらしい。人間本来にそなわった能力のすごさである。
そこで気管孔を大きく切りひらく手術が行われた。「手術ってほどのものではありません」と苦瓜《にがうり》先生のいうように、病棟の処置室の片隅に寝かされて気管孔のあたりに麻酔を注射され、それでも型通りに、大きな布の中央に穴のあいた手術布をかけられる。
局部が見えるだけで、医師は患者の表情も、動きも一切《いつさい》見えない。思うに、これは医師と患者の間の人間的関係を遮断《しやだん》して、処置すべき対象をものとしてとらえる便法なのだろうと思う。ある意味で人間性を否定してかからないと、手術なんてできないだろう。
気管孔がこれまでの倍ぐらいに広がったので、縫合の痛みは残ったが、呼吸は楽になった。これまで痰《たん》がつまっては看護婦さんの世話になってきたが、ゴホンとうまく痰を気管孔まで出して、自分でティッシュペーパーでとれるようにもなる。
手術後だから血の混じった痰はひどくねばっこく、鏡のなかの自分の気管孔とにらめっこで悪戦苦闘だ。
これは最初からわかっていたことだが、喉頭全摘の手術を受ければ、食道と気管を巧みに使いわけてきた弁がなくなる。気管に唾液や、その他の飲みものなどが入らないようにするためには、喉に穴をあけて、そこから空気をとり入れるようにして、口につながる気管をふさいでしまう。そうしなければ生きていけないのだ。
“永久気管孔”と呼ばれる首の穴は、これから生涯、私が使う呼吸口なのであって、鼻も口も私の呼吸には関係ない。早い話、鼻と口をふさがれてもどうもない。が、首の小さな穴をふたされてしまえば、悶絶《もんぜつ》するしかない。
したがって、この穴とうまく付き合っていくしかないのだ。痰というやつは、首の穴よりさらに深いところで作られるものらしく、突き上げてくる痰をゴホンとうまく気管孔の外に出すのは結構コツが必要なのだが、気管孔が広がってからは、うまくいくようにもなった。
ただ、風呂にザンブリってわけにはいかなくなった。私はあふれる湯に鼻ぎりぎりまでつかっているのが大好きで、充分に温まったところで、ゾリゾリとヒゲを剃《そ》るのを日課としていたが、そんな風呂の入り方は望むべくもない。気管孔から水が入れば、苦悶の末に肺に水が入り、いわゆる溺死《できし》である。
来年三月の春休みには、息子の岳史《たけし》とグアムヘ出かけたいと思ってきたが、おまえと蒼《あお》い海を泳ぎまわるのも、もうかなわぬ夢となった。わかりきったことではあるのだが、重く哀しい。
なんとかいって
「そんなにガミガミいわないで……」
かみさんは、あれこれメモ用紙に書いて渡す私にこういう。自宅に残してきたことや、外からの連絡で気になることが重なると、ベッドの私はイライラする。
妻のほうは私の病室に通ってくるばかりか、家事をこなし、息子を学校に出し、そのうえ仕事をかかえている。彼女を頼みにしている人々のために、夜も眠る時間を割いているのだから、私の要求通りの時間に動けないのも、もっともな話なのだが、限りなく永い一日をベッドですごす私には気に入らないのである。メモ用紙の乱発となるのだ。
それは、まさしくガミガミいわれているとかみさんには伝わって、それが自然らしいのだが、私はギクリとする。
「できることならガミガミいわせてくれ。もう一度怒鳴らせてくれ……」
私がどうあがこうと、唇は空《むな》しくパクパクするだけで声にはならない。
ある日の午後、友人のデザイナーにプレゼントされた服を着て、明るく弾んで病室に入ってきたかみさんは、ベッドからただ眼で追うだけの私に淋しくなったのだろうか、
「いいでしょう。ネエなんとかいって……」
と一回転しながらいった。
なんとかいいたいのは山々なのだが、それができない苦しみをじっとかみしめている私と、思わずごく自然な会話としてのセリフが口をついて出るかみさん。
この落差はこれからも私を苦しめるにちがいない。相手に悪気はいささかもないのだが、こちらは胸にグサリと辛いのである。
わざわざ眼で呼びとめて、メモ用紙に文字を書く、じれったい時間を待ってもらって伝えたりしたら、私の本意とはちがった意味も持ちかねない……と思うことは意外に多い。
軽い冗談、さらっとした好意、ささやかな忠告や抗議……などなどは、声を失ったとともに私が持ちにくい種類の表現となってしまった。書くという時間を置いたのではシャレにもならないし、文字に書くとなると別の重みを持ちかねないからで、私は沈黙……いや、もともと沈黙しているのだから、どういえばいいのか、表現することをためらってしまうのだ。
どちらかといえば饒舌《じようぜつ》であった私にとって、これは心に重くのしかかる。
たくさんしゃべってくれる見舞客はありがたい。質問をしてくれるひとも嬉しい。私が聞き手にまわるか、質問に答えて文字を書けばいいのだから。
こちらから文字にして差し出すセリフは、文字にしたというところから、私の気持ちとどこかピッタリこない違和感を私自身が感じてしまって、重く苦しいのである。
毎朝、明け方に夢を見る。眠っている間に首から上がうっ血して、口のなかが膨れ上がる。その圧迫感で目覚めるのが三時か四時である。
手術で細い血管はズタズタなのだから、血行がスムースにいくようになるまでには一年や二年はかかるらしく、この圧迫感は避け難いのだ。
目覚めてから、朝の検温の六時まで、なんとか眠らなければと、ウトウトとまどろむ。夢はほんの一瞬の間に見るものだというが、朝六時前に再び目覚めたときには、鮮明な記憶として残っている。
夢は決って私がしゃべっている。場面はいろいろだが、仲間たちとイベントの打合せをしていたり、ゴルフ・コースを親友とまわっていたり、あるいは家でかみさんや息子とガサゴソと片付けごとをしていたりなのだが、私はそこで昔のようにしゃべっている。
と、誰かが叫ぶ、「なんだ声出るじゃないか」。まわりもしゃべっている私が自然なのだが、ふと声が出ないはずだったのでは……と気がつくのだ。
「お父さん、しゃべれるじゃ……」
息子の大声で私はハッと目覚める。
まだ覚めきれぬ頭のなかで、
「そうだ。オレ、しゃべれたんだ」
などと思ったりしている私は、唇を動かしてみる。乾いた唇と口のなかにたまった粘液質の唾液の不快感が、夢を無残に打ち砕く。シャボン玉の夢、……なんとかいってやれない苦《にが》さが胸にひろがる。
新入り阿木翁助さん
「ゆっくり歩いてくださいよ。めまいがするようなら、私を叩いてください」
ベテラン看護婦さんに付添われて、病院内を散歩する。点滴台をゴロゴロとひきずって、南病棟三階の頭頸科《とうけいか》から屋上庭園から地下二階まで、ゆっくり歩く。
地下二階は放射線科に通ったなつかしい場所でもあったりするのだが、いわば私の後輩である患者さんたちが、頬やアゴに×印をつけて、そろりそろりと歩いている。きっと激しい痛みに耐えているにちがいない。
エレベーターのなかで意外なひとに出っくわした。阿木翁助《おうすけ》さんである。阿木さんはシナリオ作家協会のボスであると同時に、私たち“文化パステル”の理事長でもあり、二月にヤクルトホールでは私と対談していただいた。
ガーゼの寝間着姿でいるところをみると入院患者なのだが、私は声が出ない。点滴台にぶら下げたメモ用紙で筆談。
「いや、しつこい風邪だと思って医者にいったら、こりゃ、ここにきたほうがいいって……肺癌だそうですわ。いま検査してますが、間もなく手術でしょう」
と屈託のない表情。
風の便りにきかされたが、“文化パステル”の事務局のお嬢さんも乳癌だという話。癌は、いつどんなかたちでとりつくかわかったものじゃないのだ。
「もう私は、やりたいように生きてきましたから、どうなっても未練はありませんがね」
私の病床に見舞いにみえた阿木さんは、入院患者の後輩として仁義をきりにきたといわれたが、元気なもの。
その阿木さんが無事に手術を終えられたと伝え聞いて間もなくである。文字通りの早期発見で、わずか二十日ほどで退院していかれた。右肺の三分の一を摘出手術したとのことだが、
「お先に失礼しますよ」
とご挨拶にみえた阿木さんは、
「痛いことは痛いんですがね、大和《やまと》魂で痛いとはいわんのです」
と笑っておられた。
癌も早期発見で肺とか胃、乳、子宮などだと始末にいいようで、頭頸科の患者の入院期間に比べたら、アッという間の早さである。
私の病棟には一年を超える入院患者も珍しくない。私自身も自分で想定していた秋退院などという訳にはいかないようで、主治医の苦瓜《にがうり》先生は、
「今年いっぱい。ちょうどいいじゃないですか」
とこともなげにいう。まだ九月がはじまったところだ。三ヵ月半もの間、私はこうしているのかと思うと、どっと落ち込む。
そこから這い上がり、気をとりなおして、体操を試みたり、ペンをとったりするのに二、三日かかってしまう。
六月に入院して半年となれば、経費だって膨大な数字となる。かみさんはあれこれやりくりしているし、友人知己からお見舞いもいただいた。
医療の現場では、最大限の努力が私に対して払われてもいる。だが果して、それらを享受するだけの価値が、これからの私にあるのだろうか……などと落ち込んだ夜は眠れずに悶々《もんもん》とする。
脚本家の内舘牧子さん、音楽評論家の伊藤強さんたちは、私が娑婆《しやば》にもどったら、まず、なにをおいても仲間たち十余人が集って、調理人をもって任ずる伊藤さんが包丁をふるい、鯛《たい》などをさばいて、歓迎会をするのだとはりきっているが、残念ながら私は見ているだけでしかあり得ないのが冷酷な現実。
口から飲む練習をはじめたが、最大限機能を回復しても、スプーンでプリンなどを口の奥に送り込んで喉に通す程度で、コップで水を飲めるようになるのも、かなり難しい。まぎれもなく生涯流動食なのだから、せっかくの鯛の刺身も私には観賞用でしかない。主賓《しゆひん》の私がその有様では、座がシラケるのでは……と気になったりもするが、それさえも年内は無理かもしれないのである。
秋がやってきた
めっきり日の出が遅くなった。正直なもので、秋の彼岸を過ぎたとたん、記録的残暑といわれたこの夏も、めっきりおとなしくなり、秋のたたずまいだ。
なんとか体を動かさないと、手も足も腰も弱りきって固まってしまう……と自分にいいきかせて、日に何度か自己流の体操を試みてきたが、右の胸の筋肉をとった関係もあって右手が思うように上がらない。不思議なもので、それに付き合うように左も自由にならない。廊下に出て体操してみるが、車椅子や歩行器にたよる患者さんたちの視線がどうしても気になる。
秋晴れの今日、屋上の人工芝の庭園で体を動かす。三百六十度の視野に東京の街がひろがる。近くのマンションなどでは、洗濯ものを干す主婦や、テレビの前に座り込むひとの姿など、暮しの姿が手にとるように見えたりするのだが、巨大なサンシャインビルを含めて、人々のあわただしい生活が営まれているのだろうが、とり残されて疎外されている自分を切なく実感する。
「くそ! 負けるものか」
などと屈伸運動に精を出して、右胸の傷跡が痛くなったりする。そのあたりが昭和ひと桁の奮励《ふんれい》努力を美徳と心得てきた悪いところで、もっと自然に己の置かれた場所になじまなければ、これから暮していけないぞとも思う。
かみさんも午後やってきて夕方には帰るようになった。洗濯などの雑用をこなし、自宅にとどいた手紙や連絡などを伝えてくれる。自分でできることはつとめてこなそうと、食膳をミキサーの用意されているキッチンに運んで流動物にしたり、食器洗いなど、ご婦人方の間でやるのは照れ臭いが、なんによらず自分で動かねば……と看護婦さんの助力もことわるようにする。
そういえば、ナースコールのボタンを押すこともめったになくなった。気管孔の痰《たん》も鏡を覗きながら自分で処置している。
あの手術から二ヵ月が経った。回復は早いほうだと先生からはいわれるが、“昨日の私”には、もうもどれないと実感させられる時間の積み重ねでもある。
この間、頭頸科《とうけいか》病棟も結構めまぐるしく新陳代謝してきた。私より先輩のおなじみの顔はグンと減ってしまった。多少の不安をかかえながらもニコやかに退院していったひと、医療技術の限りをつくしてなお、生命をつなぎとめることのできなかった方といろいろだが、空いたベッドには即日入院してくる患者がいる。
このひとは見舞い客にちがいない……というくらい颯爽《さつそう》とした紳士や、華やいだ雰囲気のお嬢さんが、実は癌に蝕《むしば》まれていて、入院手続きを終り、ベッドについて治療がはじまると、みるみる変貌する。
頬にエンジ色の×印をつけられ、放射線照射を受けるようになると、もう激しい痛みで廊下を歩くのも、腰をかがめ、ソロソロと歩み、苦痛にゆがむ顔は、四、五日前の面影もない。そして、そのひとそれぞれの症状に合わせて手術がほどこされるのだが、私の場合は、這いまわるような痛みの末の入院だったから、それ以上の苦痛を入院以降には味わっていない。
それがいいとはいわないが、二月の時点でJ医大に入院していたら、おそらく、いま私が見ている後輩の患者のような路をたどっていたのだろうと思ったりもする。もちろん二月に対処していれば、舌、喉頭全摘なんてことにならずにすみ、社会復帰も容易だったかもしれないが、二月の時点で私のしゃべる仕事に終止符を打たれていたろう。まがりなりにも二ヵ月、私は仕事をこなした。いまさらながらだが、覚悟のうえのいまに悔いはないし、よかったのだと納得もしている。
いわぬが花……か
「ただいま!」、元気な声で子供が学校から帰ってきます。二階で片付けものをしている私は、「お帰り」と心のなかで叫ぶのですが、声にはなりません。「なんだ、誰もいないのか……」、ランドセルと帽子を玄関に放り出して、外へ飛び出していってしまう息子。どんなに哀しい思いをいたしましたことか……。
《やじうまワイド》に寄せられた私への激励の手紙の一節で、声帯を失った愛知県の主婦の方からの体験談だった。
胸がつまった。私もおそらく、そんな思いを重ねながら、これからの人生を送っていくのだろうと思う。
「加東さんのあの声と、あたたかみのある口調が大好きでした」
という便りもいただいた。これが一番辛い。声をとりもどせないということは、当然、いいまわしの妙や、言葉の間のとり方での微妙な表現など、私には無縁のものとなった。
文字を綴《つづ》って表現するのとは、また別の味わいや意味を、しゃべりによって持つことができる。脚本家の書いたセリフを生かすも殺すも、それを口にする俳優のしゃべり方にゆだねられているといってもいい。文字でセリフを書く側からすると、こんなはずじゃなかったのにと絶望的な気持ちになることもあるかと思えば、自分では気づかなかった素晴らしい表現に出っくわすこともある。
ばばこういちさんが、「普段は絶対きかないものを持ってきた」と、落語名人選や浪曲名作選のカセットを持ってきてくれた。志ん生、文楽、三木助などなど、日本の話芸の天才たちの録音を聞いていると、やみくもに寄席に通った三十年前が彷彿《ほうふつ》としてくるのだが、しゃべりというものは、そのひとによって、同じ設定のセリフでも千変万化の彩《いろど》りを持てるものだとつくづく思う。
声を失った私は、その貴重な表現の手だてを持てないわけで、文字で書いて微妙な思いを伝えるのは、それこそ難しい。
小沢昭一さんから新刊のエッセイ集《裏みちの花》が届いた。小沢さんは私の一歳年上だが、まさしく同じ時代を生きてきた仲間で、新刊出版のたびに贈っていただいているが、この昭ちゃんの文章は、小沢昭一のしゃべりを生き生きと思い出させる名調子である。活字ではあるのだが、その行間から、あの小沢昭ちゃんの声がありありと聞こえてくる。
私もそんな文章を書きたいものだが、それほどの芸当ができるとも思えない。
「でも口に出したら嘘になる。自分の気持ちが伝わらないってこともあるわ」
雪村いづみさんが見舞いにきてくれて、自分自身にいいきかせるようにいった。
「お嬢(美空ひばり)が逝《い》ってしまって……なんか語ってくれっていわれたけど、一切《いつさい》ことわってじっと耐えたの。なにをいっても、私の気持ちは伝わらないと思ったから」
三人娘と呼ばれ、敗戦直後から、ひばり、チエミ、いづみで活躍してきて、チエミちゃんは孤独のうちに急逝し、女王・ひばりもまた世を去った。
「あなたが結局一番幸せだったわね……といわれるのが、なにより辛くて……」
再三出演を求められたテレビ番組にも、インタビューにも、一切応えなかったという。
「声を持たないほうがいいこともあるわ」
トンコと、私たちが愛称で呼ぶ雪村いづみさんは、可愛い孫にも恵まれていたが、キラリと涙の露を光らせた。
たしかに、しゃべらないほうがいいことだってあるだろう。「いわぬが花」ってセリフもあれば、「沈黙は金」ともいうし、“寅さん”の決り文句「それをいっちゃあおしまいよ」というのもある。
しかし、それらは、しゃべれることを前提としてのセリフで、しゃべれないのがいいといってる訳ではもちろんない。
子供の「ただいま!」に応えられなかったお母さんの哀しみは、痛いほどわかるし、私もまた、この病棟のなかでさえ、声を持たない切なさに胸を刺されもしてきた。それを乗り越えるのが、私自身の第二の人生の最初のハードルだろう。
《やじうまワイド》の私の後任も正式に決った。東大文学部の助教授・樺山紘一《かばやまこういち》さん。異色の人選だが、私より十一歳若い同じ〈こういち〉にすべておまかせ。じっくりブラウン管から見せていただこうと思う。
5章 声なき世界
抗ガン剤投与
「声が出ないくらいなによ……」
例えば視力を失ったとか、全くきこえなくなったとか、両脚の自由をうばわれたとか……障害はかぎりなくある。それに比べたら、声を失うことぐらい……と激励の意をこめて叱咤《しつた》してくれる友も少なくない。
まさにその通りだろう。声が出ない、食事が普通には摂れない、呼吸が変則的だ程度なら、日常生活のうえで、さしたる障害とはいえないかもしれない。
それよりもはるかに重度の障害に苦しみながら、それを乗り越えて逞《たくま》しく生きている人々の姿は、これまでも何度となくテレビのドキュメンタリー番組で見たり、〈パラリンピック〉などのように、驚異的な意欲を発揮する人々に感動したこともあるが、どこかで眼をそむけたい思いがあったり、憐憫《れんびん》の情がよぎったり……そして自分には無縁のことと思ってもきた。
そうした障害に比べたら、私の場合など、とるに足らないのかもしれない。
事実、この頭頸科《とうけいか》の病棟でも、手術を重ね、術後変形もすさまじい患者さんもおられるし、再起の望みもほとんどないと思われるひともいる。
私などは泣きごとをいっている立場じゃないのだ……と自分にいいきかせるのに、かなりの時間を要した。
その自覚は、娑婆《しやば》にもどれたとき、私が“弱音”としての意識を持つことなく、世間に、友人に、そして家族に対するための最低の条件のような気がする。
イブ・モンタンがやってきて九月が終った。〈セプテンバーソング〉――〈枯葉〉――モンタンと連想がつながるのだが、七十代となって子宝に恵まれ、若い夫人と颯爽《さつそう》と東京入り。《東京国際映画祭》の審査委員長をつとめる。
今年は、映画祭に全く参加できないのが残念だが、病床から盛況を祈るとしようか。
そして十月に入ってすぐ抗ガン剤の投与がはじまる。まず一日目の午前中にガラスビンの点滴を二本、ジャスト二時間がかかる。採血やら採尿などの検査が行われたうえでの投与開始だ。
二日目、ポリボトルとガラスビンの点滴を朝から九本、左腕に注ぐ。十時間を超えるとっかえひっかえの作業だし、左腕に注意を払っているから疲れる。
ポトリ、ポトリと落ちる点滴液を見つめていると、それこそ「羊が一匹、羊が二匹」と数える催眠法みたいなもので、眠気を誘うのだが、まるで点滴の液がそのまま尿になって出ていくのではないかと思うほど、一時間足らずでトイレに立つ。といっても排尿量を計るので、ボトルに溜めるのだが、尿を大量に出させるのが、この点滴の目的のひとつらしい。
そして三日目、またまた朝から三本の点滴。いささかうんざりするが、本格的抗ガン剤投与はその後にやってきた。
それまでの十四本の点滴のうち抗ガン剤は二本だけ。それ以外は副作用をできるだけおさえるためのもの。まず腎臓に負担がかかるので、排尿を促進しておき、予測されるめまいや吐き気の予防をしたのだそうだ。
三日目に入って、抗ガン剤五tを二十四時間のうちに胸の皮下に注入する装置が付けられる。カセットテープの箱をややタテ長にして、心持ち厚くした程度の箱だが、このなかに電池とモーターによって動く“持続注入器”が仕組まれている。
わずか五t、小さな注射器一本分の液体を二十四時間で注入するのだから、注入というよりは垂《た》らすといったほうが正しいのだろうが、それくらいのテンポでなければならないほどの副作用があるということだ。
これが五箱、五日間でワンクールというのだが、三日目あたりから確実に副作用が襲ってきた。ムカムカする吐き気と全身の脱力感、そしてめまい。
しかも、みるみるうちに口のなかの粘膜がただれて膨れ上がり痛む。
せっかく栄養飲料の一缶ぐらい、吸い飲みからではあるけれどスイスイ飲めたものが、まるでうけつけない。挫折感は一層気分をめいらせる。
吐き気止めの皮下注射などを試みてもらうが、ほとんどきかない。鼻のチューブからの流動食も摂る気にならないのだが、私など軽いほうで、なかには洗面器をかかえっきりでゲーゲーと苦しむひともいるという。
「吐きながらでも、胃に入れないと、吐くものがないから余計つらいので、無理にでも食べさせるんですよ」
と婦長さん。
それにしても、この五日間の持続注入は辛かった。針をぬいたのはジャスト一週間後の日曜日の朝だったが、吐き気と口のなかのただれは、ずっと尾をひいた。
「抗ガン剤は白血病といわれる血液の癌にはかなり有効なんですが、現在もおそらく将来も、固形癌への効果となると難しいのです。体の状況をみながら進めましょう」
と苦瓜《にがうり》先生。ワンクールではかえって逆効果なので、ワンクール後の血液中の白血球の数や、腎臓の機能などを診たうえで、ツークール目の日程を決めるという。
「もう、いい加減にしてくれ」
と叫びたいところだが、めまいをおさえながら軽い体操を試みてみる。とても耐えられるものじゃなかった。
傷だらけの人生
「生きていてくださいね。死んじゃだめ。生きていてくださいね」
細い指が私の手を握りしめた。鶴田浩二夫人の照子さんである。小野照子さんは鶴田浩二さんの死後、話題のひととされてしまった。死後認知を求めて二人の男性が訴訟を起し、その背後には鶴田の実母と、嫁としての照子さんの確執があり、当然、戦後最高の二枚目俳優の遺産問題がからんでいたからである。
死後認知訴訟の最終的結論は下った。妻である照子さんが、あくまで夫の最後の言葉を信ずる以外になかったのも当然だったが、
「もうさっぱりしました」
と語る未亡人は、遺産も整理してすべて解決の途を歩み、いまはマンションのひとり暮しだという。
私は鶴田浩二さんとは、ことのほか親しかった。彼は私より六歳年上なのだが、何故か私を年上と思い込み、終生そのように対してくれたが、俳優とジャーナリストを超えた親友でもあった。
その彼が逝《い》ってしまって、本葬の司会をつとめた私は、三回忌法要の司会をお引き受けする約束をしていた。ところが、その六月十六日、私は病床で高熱にうなされ、記憶もさだかでない有様だったのである。
次第に声が思うように出なくなり、七転八倒の苦痛に見舞われはじめた四月の上旬、照子夫人に、司会の任はとても耐えられないとおことわりするのも、自分では思うにまかせず、かみさんに電話連絡してもらう有様だったのだが、三回忌の法要は盛大に営まれたと伝えきいていた。
照子さんは私の病状を気にして、何度か、かみさんに電話をくださったそうだが、裁判問題も決着して、解放された表情で私の病室に見舞いにこられた。
「加東さんにご相談したいことがたくさんあったんです。生きていてくだされば、それができるんだから……」
どうであっても夫には生きていてほしかった。生きていてくれさえすれば……という思いは、この未亡人にはひときわ強かったにちがいない。涙に濡れた眼でベッドの私の手を握る細く冷たい指が切なかった。
三回忌にみなさんに配った記念品は、鶴田さんがNHKテレビ《ビッグショー》に出演したときのVTRをコピーして、《名もない男の詩》とし豪華な箱に収めたもので、私にもとどけていただいたが、早速、ベッドサイドのビデオデッキで再生してみた。〈傷だらけの人生〉ではじまる、このビデオを凝視しながら、私は後から後からあふれ出る涙をおさえることができなかった。
もし声が出ていたら、それは嗚咽《おえつ》となって廊下にまでもれたかもしれないのだが、どんなに泣こうと、もう私の涙は声にはならない。涙はとめどなく頬をつたった。
鶴田浩二さんとの数限りない思い出が甦えり、「あいつがもういないなんて……」という切なさに加えて、死線をさまよいながら、いまこうして生き残っている私が切なくもあり、哀しくも思われる。
私が新米映画記者、彼が新人スター。ともに同じ時代を歩み、奔放無頼に生きてきて、お互い文字通り“傷だらけの人生”であったなと思うと、後から後からいろんな場面が浮び上がってくる。
そして浩ちゃんのヒット曲〈傷だらけの人生〉〈街のサンドイッチマン〉〈赤と黒のブルース〉などは、いずれも私の愛唱曲だった。が、残念ながら二度と再び歌うことのできないわが身への、惜別《せきべつ》の情もないとはいえない。
漫画家の針すなおさんは誌上で、大きな万年筆をにぎる私を描いてくださり、その万年筆に「今度はオレがしゃべる」と語らせて、病床の私にエールを送ってくださったが、そのわきに小さく針さん自身が描かれていて、「六本木でカラオケやれないのが残念です」と書いておられたが、針さんともよく飲み、よく歌った。私は必ず鶴田の歌だった。
もう帰ってこない過去となってしまったわけだが、涙ににじんだブラウン管で、切々と歌う鶴田さんの遺影が、苦笑しているかのようでもあった。
生命の価値
ききしにまさるというか、噂にたがわずというのか、抗ガン剤の副作用というやつは結構きつい。持続注入の針が抜けて一週間は、全身の倦怠感と吐き気、軽いめまいがつづいた。とりわけ口のなかの粘膜がただれて痛むのは、吐き気と相乗して、なんともいえない不快感である。
それでも私の場合は軽いほうだそうで、同時期に私と同じ方法で抗ガン剤の投与を受け、ベッドに寝たきりとなってしまったご同輩もあった。
抗ガン剤そのものが、おそらくは永遠に不確実なものへの挑戦だろうともいわれるのだから、患者はその過程で苦しむことになるのだが、再発と転移を可能な限りおさえるにはこれしかない。
それにしても人間を殺すのは簡単だが、生かしつづけるのは並大抵じゃないと、医療の現場をまざまざと見ながら、痛切に感じる。
私のいる頭頸科《とうけいか》病棟だけでも、刻々と変化する患者の状況に対応して、全神経を集中している医師や看護婦の日常は並大抵じゃない。激しい苦痛を訴える患者はまだいいが、夜中や明け方に病状急変などで、自宅から呼び出される先生たちの一刻を争う動きは、まさに生命を守るための戦士である。
それでも守れない生命もある。人体のメカニズムを医師がどうサポートしても限界はある。私が入院してからでも、何人の患者を鬼籍《きせき》に送らざるを得なかったことか。医療の現場の人々は口惜しいにちがいない。
そんなにまでして守る意味のある生命なのかどうか。生きてどうしようというのか。生命の灯をつないでなにができるのか。
私自身、何度も自問したことであった。
「加東さんはいいですよ。声をなくしても、本来が書くのが本業。原稿を書くという手だてがはっきりしている。そんなひとはめったにいないんです。営業マン、教師、サービス業……いろんな方がいますけど、社会復帰は難しいと思います。その悩みをかかえながらの闘病ですからね」
子供をさとすように語ってくれたのは前田婦長だったが、たしかにその通りで、私などはまさしく恵まれたほうといわなければなるまい。
それでさえ、この生命にどれほどの価値があるだろうか……と思ったりもする。
しかし、生命の価値をジャッジしはじめることこそ危ない。生命はどうであれ、それ自体が尊いのだと確認するしかない。
人類の歴史は殺戮《さつりく》の積み重ねであった。あったと過去形で語ることは誤りで、現在もまた激しい殺し合いが、地球上のあちこちで繰返されていることは周知の通りだ。ニカラグアで、カンボジアで、中東で、際限のない戦争状況がつづき、生命はまるで紙屑《かみくず》のように簡単に奪われている。
殺戮手段が今世紀ほど発達したことはなかったのはもちろんだが、その高価な代償を、戦争というかたちをとらずとも、世界のどこの人々も支払わされ、生命の危機が説かれたりもしている。
そうした現実のなかで、わずかな可能性にも賭けて、生命の灯を守ろうとする医療の現場は、生命の価値の軽重を問うたりは決してしない。ほんの少しでも、それが入り込んだら成立しない仕事だからである。
私は死期を脱して手術をほどこし、いくつかの生活機能を失ったが、見事に生きている。素直にその生命の灯を歓《よろこ》び、社会復帰のための訓練を重ねるべきなのであろうと思う。それが私に注いでくれた医療現場の人々に対する最低限の義務だとも思うのだ。
「さア、水を飲むぞ……」
自分にいいきかせて、ベッドから起き上がり、吸い飲みに、冷蔵庫のなかの冷たい水を注ぐ。
抗ガン剤投与の副作用で、口のなかがただれ、せっかくかなりうまく飲めるようになっていたのに、全く水を受けつけなくなっていた。
一からやりなおしだが、長い特殊な吸い口を、ほとんど喉の奥まで入れて冷水を流す。冷たいという感覚はあって、喉を通り過ぎると食道から胃に入っていくのがわかるのだが、常温だったり、なまぬるかったりするとうまくいかない。
口の前のほうに残った水は、どうやっても喉のほうには運ぶことができない。唇からタラタラと外にこぼす以外にないのだが、練習を重ねれば、鼻腔チューブを外して流動食を口から摂れるようになるはず。
「頑張って、加東さん」
と看護婦さんの声援が背中に飛ぶ。
頑張って鼻のチューブがとれたとして、しかし私は生涯流動食以外は口にできない。贅沢《ぜいたく》いえる身分じゃないが、テレビCMなどを見ていると、ほとんどその半分は飲食物のメッセージだと実感する。飽食の時代の産物にはちがいないが、結局のところ、人間の楽しみは食と性につき、そのバリエーションを求めて“文化”はかたち作られたといってもいいだろう。
その食文化とほとんど完全に無縁となった実感は切ない。
食べられないとなると、高級料理などが頭に浮ばないのも妙なものだ。ずいぶん、美味、珍味といわれる味をいただいてきた私だが、もう一度食べてみたいとなると、シソの葉が臍《へそ》にうめられたアンパンだったり、ごく平凡なそば屋の天丼、熱いメシにカラシの効いた納豆、カリッと焼きあがったトーストにバターといった、ごく平凡なメニューが並んだりする。
そうそう、それに切り口からトロッととけたようなカマンベールチーズ……、えい畜生め。やめだ、やめだ……と妄想をふり払う。
ガマの油売り
アッという間に雪の便りである。札幌の街の激しい雪や、八幡平の猛吹雪がテレビの画面に流れる。十月も半ばをすぎたとたんに、一気に冬の気配だ。私が入院したころは初夏だった。時はまたたく間に流れたという気がする。
そういえば、入院前、私がまだしゃべれたころには、どんなにいっても長ズボンをはくのをいやがって、激しい寒さでも長い脚を出して半ズボンで飛びまわっていた息子の岳史《たけし》が、いまは頑として半ズボンをはかなくなった。
「もうじき脚に毛が生えるんだぜ。みっともねえよ」
というのが、息子のかみさんへのいい分だそうで、日曜日ごとに病室に現れる彼は、一人前にスラックス姿である。急に大人っぽくなってしまった息子を目のあたりにしても、時の流れを感じざるを得ない。
ベッドで苦悶している間に、世の中はどんどん変っていってしまっているのではないか……と不安と寂寞《せきばく》が胸のなかを吹き抜ける。いまの世の中、みんなが忙しすぎて、半年や一年、どこかに雲隠れしていても、誰も気にもとめない。姿を現したら、まるで昨日別れたみたいな挨拶《あいさつ》がかえってくるほどなんだと頭でわかっていても、とり残されていくんじゃないかって思いが捨てきれない。
声を失って、その思いはさらに切実だ。声のないことに自分が日を追って馴れていくだろうと思ったのは間違いで、むしろ逆である。私の口のかわりは右手がつとめている。右手で書く文字が、私の声なのだが、その文字で伝えることの限界にいらだち悩む。
私が伝えられない、伝えにくいということは、他人の声もまた伝わってこないということで、言葉が飛び交う会話のなかからでしか生まれてこない世界があることを、改めて実感することばかりだ。
会話のなかだったら、おそらく「そういう考え方もあるが……」と軽く扱われる程度の話も、文章に書くと別の意味を持つ。書いている間、のぞき込みながら待っている相手のなかの心理的動きも、会話の比ではない。沈黙しながら待つという時間の微妙な重みがのしかかって、友人を悩ませたり考え込ませたりもする。私としては全く不本意だが、肩をポンと叩いて「頼んまっせ」って具合にはいかなくなってしまった現実は辛く切ない。
屈託のない息子の岳史も、「大丈夫? 元気?」以外に私への言葉のかけようがない……といった具合で、そこから先の会話は難しい。入院患者の父親なのだから無理もないのだろうし、退院して家にもどれば、いくらか話はちがってくるだろうが、はしゃいだ会話はのぞめまい。
そう思うと声のあるうちに、もっとたくさん伝えておきたかったと口惜しさが胸をかきむしる。
この年代の男の子たちは誰でもがそうであるように、岳史、おまえも私の前ではなんとなく照れて、「お父さん」と呼んだり、「おやっさん」といってみたり、「父」と叫んでみたりしたが、仲間たちと話しているときは、「うちの親父がよう……」などと、いっぱしの口をきいているのを、私は微笑《ほほえ》ましくきいていた。
そのおまえが、小学校低学年のころから、しきりに怪談噺《ばなし》をききたがった。私は、私の父からきかされて、幼な心に、怖くて震えあがった実話風怪談のいくつかを鮮烈に覚えていて、それらを次々とおまえにきかせた。父から子へ、子から孫へ……である。
私の父は話がうまかった。いっしょにきいていた私の従兄弟《いとこ》たちなど、耳をふさいで叫び声をあげたくらいだったが、私の語りの口調にも、その父の声音が伝わっていただろうと思う。
おまえは眼を輝やかして体を硬くしてきいていたが、幼き日の私がそうであったように、おまえもたちまち話を覚えてしまった。
友達が集って、「カトウよう、あの怖い話、やってくれよ」とおまえにせがんでいるのを垣間見て、思わず微笑んだ。結構クラスメートを集めては、怖がらせているらしいのだ。
そんなわけで、私はぜひそのうちに、私の父の十八番《おはこ》で、酒が入ると決ってきかせてくれた〈ガマの油売り〉の口上を、おまえに教えようと思っていた。父のこの芸はかなり有名で、戦前の映画人仲間では「みのさんのガマの油」といえば、名人芸といわれてきたらしい。その可東みの助の名調子を、長男の私は小学生でほとんど覚えてしまった。
「さアさ、お立合い。ご用とお急ぎでない方はゆっくりときいておいで……」
ではじまった「このガマの住めるところは、ここより遥か北のほう筑波山の麓《ふもと》でオンバコという露草を食して育つ……」の例の落語のネタでもあるのだが、その正調〈ガマの油売り〉を祖父ゆずりというかたちで、おまえに伝えたかった。
が、残念ながら間に合わなかった。ひどく無念な気がする。
〈ガマの油〉に限らず、息子と語り合い、そのなかから、受けとめてもらいたいことは山程あるにちがいない。それが、とてもできにくいのは父親として辛い話だが、思えば仕事仕事でおまえとゆっくり旅をすることもなかったし、家で語り合うこともなかった。
旅らしい旅といえば、昨年、一九八八年の三月にグアムに出かけたくらいのものだったような気がする。そして、こうした旅をつづけようと思っているうちに、こうなってしまった。
もう少しおまえが大きくなったら、大人の話をしながら旅をしたいと思ってもいたものを……と思うとなんとも切ない。
やっぱりきた脱毛
サンフランシスコ一帯に大地震。マグニチュード六・九という割には、ハイウェイを中心に都市災害のすさまじさをまざまざと見せつける。
私がサンフランシスコに行ったのは、もう十年も前か。フィッシャーマンズワーフに下りていく古い坂の街並みが好きで、滞在中は毎日その坂を下ってロブスターを食べに通ったものだが、そのあたりの家が無惨につぶれている姿が、病室のテレビのブラウン管に何度となく映し出される。
そして、その直後を追うようなかっこうで、中国大陸でも、かなりの地震があったと新華社電が伝える。
山西省と河北省あたりで、北京の高層ビルもかなり揺れたというのだが、サンフランシスコやオークランドからの詳細な映像に対して、中国からの詳報はなく、なにやら「うちだって地震あったんだから……」と小平じいさんが懸命にいいつのっているのでは、って悪い冗談もいいたくなる。
この夏、海底火山の活動による地震騒ぎで閑古鳥《かんこどり》だったと嘆いた伊東温泉など、災害のうちに数えにくい惨状が、リアルタイムで伝えられるのは強烈な刺激である。
その災害とは、もちろん関係ないが、朝、蒸しタオルで頭を拭いて、ギョッとした。タオルが真黒なのだ。よく見るまでもなく、頭髪がそれこそゴソッと抜けているのだ。
「とうとうきたな」
ひょっとすると……と覚悟はしていたがショックだった。
抗ガン剤の副作用による脱毛がはじまったのだ。「抜けることがあるかも……」と苦瓜《にがうり》先生にはいわれていたが、吐き気やめまい、全身倦怠《けんたい》、口の中の粘膜のただれなどはただちに起こったが、頭髪に影響は見られなかった。ひとまずホッとしていたところだけに衝撃は大きい。
私はめっきり白髪は増えたものの、毛髪は剛く丈夫で、しかも濃すぎるくらいだ。それが指先でちょっとつまんだだけで、ボソッと抜ける。この分ではアッという間に一毛も残さぬ坊主頭になるのではないかと思う。
しかも、黒い毛から脱落していくようで、白髪のほうは抜け方が少ないのだ。あれよあれよという間に薄くなった白髪を透して、頭の地肌が見えてきた。「そっとしておきなさい」といわれても、ついつい手が頭にのびる。指でつまむと指の間にボソッと髪がかたまって抜けてくる。
ふと《四谷怪談》のクライマックスでのお岩さんを思い出す。夫・民谷伊右衛門に毒を飲まされたお岩さんが、鏡をのぞき込むと、はれあがった右眼のあたりが、ぞっとする恐ろしさで、櫛《くし》で髪をすくとボソッと髪が抜け落ちて、ただれた頭皮が現れる。怨霊《おんりよう》お岩さんの登場である。
「髪の毛ぐらい、どうってことないじゃないですか、二十代で禿《はげ》で悩むってのはわかるけど、もうツルツルだって不思議じゃない年齢じゃないか」
と慰められたり、叱られたりだが、ベッドの枕はもとより、シーツにまで脱落した髪が散乱。荷作り用のガムテープで、ベタベタと髪の毛を集めると、その数の多さに愕然《がくぜん》とする。
ガン患者特有の妙に生々しい禿頭に、ポヨポヨッと毛が残っている有様は、なんとも無惨である。いっそいまのうちに、理髪師にきてもらって丸坊主になっておこうか……。“ジャイアンツ”が優勝したからって、頭を丸めた《ニュースステーション》の久米宏キャスターもいるんだから、坊主頭などなにほどのこともないのだが、抗ガン剤の副作用の根深さを思い知らされての衝撃は大きい。
掌と足の裏の皮が薄くボロボロとむけるのも、薬の作用だという話だが、この調子で二クール目の抗ガン剤投与が行われると、その結果はどうなるのだろうか……と不安である。
映画評論家の林冬子さんが、その私の哀れな頭をかくすために、ハンチングなどの帽子を数点持ってきてくれる。かぶってみると、かみさんが転げるように笑った。ゴルフ場でさえめったに帽子をかぶらなかった私だ。本人もピンとこないくらいだから、よほど似合わないのだろうと思う。嗚呼《ああ》……である。
口から飲めるぞ
ベッドサイドのラジカセからはFM放送が《ホワイトクリスマス》を流す。テレビの画面にはフィルムメーカーの年賀状のCMが登場。
まだ都内の銀杏《いちよう》は緑だというのに気ぜわしい話だ。そのクリスマスや正月に私は娑婆《しやば》にもどっていられるのだろうか……もどれたとしたら、あれも、これもと、焦ったりもする。
あの十一時間半の手術からまる三ヵ月が経った。それまでには、なんとしても鼻腔チューブをはずせるように……と、それこそ懸命に吸い飲みで口から飲む練習を重ねた。
唇からだらしなくこぼれ落ちる水に泣きたい思いで、誰もいないとき、ひそかに吸い飲みを手に悪戦苦闘である。
人間は誰しもそうだが、健康に暮しているのが普通であって、その普通に感謝したり、普通でなくなりはしないかと不安を覚えたりはしない。私自身まさにそうだったが、人体の驚異的なメカニズムも狂いはじめるとやっかいだし、欠落部分をおぎなうのは容易なことじゃない。
私の失われた舌は、右の大胸筋でその跡を埋められているが、その代用品の舌は動くことを知らない。しかも口のなかは大手術後、神経がズタズタで感覚をとりもどすまでに至っていない。長い吸い口でほとんど喉の入口まで送り込んでやった水も、思うように食道に流れず、飲めたつもりでいても、下を向くとダラダラと唇の間から流れ落ちてくるのは、なんとも情けない。
そんな姿はなるべく他人に見せたくはない。かみさんにだって、できれば見られたくないし、息子の前ではカッコつけたい。暮夜《ぼや》ひそかに……ってことになるのだ。
その懸命の努力の甲斐があって、ほとんどこぼさずに飲めるようになった。はじめのうちは冷蔵庫で冷たくした水でないと難しかった。冷水ならば、口のなかは喉の奥で流れを感じることができるからである。ところが生ぬるいもの、ねばり気のあるものとなると、なかなかうまくいかなかった。
胸元に大きなポケットのあるビニールのエプロンに腕を通して試みてみる。常温の栄養飲料などは、ややねばり気があって、はじめのうちはエプロンのポケットにかなりこぼれた。泣きたい思いでエプロンを洗面台で洗い、バスタブの上で干している自分が哀れに思えてくるのだったが、それでも繰返し頑張った。
目標とした三ヵ月目までには、なんとしても鼻のチューブを抜くのだ……その思い一途だった。エプロンがあると依存心がおこって、こぼしてもなんとかなるという安易さが生ずるのでは……と、エプロンもつけるのをやめた。
途中で抗ガン剤の副作用による吐き気が襲ってきて、練習を中断せざるを得なかったのは辛かったが、負けてたまるかと、まるで戦場に臨むかのような騒ぎである。いってみれば口から飲むというだけのことにだ。
主治医の苦瓜《にがうり》先生は、
「頭頸科《とうけいか》の患者さんのことは、ほかの科の先生方にはわかりにくいでしょうし、私たち医者も、患者さん一人一人の苦労はわからないのかもしれません」
と語っていたが、ミキサーにかけた流動食を口から食道に流し込むことだけでも想像し難い苦労だった。なに気なく暮していたころの私自身を含めて、人間の機能をごく当り前として享受している人々は、自らの健康にまず感謝すべきだろうが、こうなってみなければ気付かないというのもまた人間。
友人たちと気炎をあげながら水割りをグイグイ飲んでいた、ついこの間までの自分がまるで別人のように思えてもくる。
ともかく自分の口から飲めそうだ……と確信が持てた。苦瓜先生に申し出て、鼻腔チューブを外《はず》してもらうことにする。
「いけそうですか。そうですか。よかった」
と苦瓜先生も嬉しそうだ。過去、何度かチューブがつまって通らなくなり、抜いては入れかえた鼻腔チューブだ。鼻を通り口にぬけて、のどを通過、嘔吐感《おうとかん》をこらえて、自分でも飲み込むようにして胃袋まで……痛いわけじゃないが涙が出る作業にも馴れていたが、ズルズルと引き抜かれたチューブに、胸中ひそかに、
「ざまアみろ、二度と入れてやらないぞ」
と叫んでいた。目標だった「手術後三ヵ月までに」に間に合った。「勝った」って思いが胸のなかにひろがった。
鼻からぶら下がったチューブを首にまわし、洗濯ばさみでパジャマの襟にとめているって姿から解放されて、十月二十七日を迎えた。七月二十七日のあの手術から、まるまる三ヵ月である。
「同じように病と闘っている方々の励みともなるように、加東さんには頑張っていただきたい」
内田忠男さんの激励でしめくくられた《モーニングショー》の私の闘病記録がオンエアされた。
病床の無惨な姿をさらしたくはなかったが、朝ワイド班で《やじうまワイド》の担当プロデューサーというよりも、親友といった仲間の山本敏さんからの依頼で、病室にVTRカメラが入ることを了解してから、制作スタッフが何度か病棟にやってきた。
内田先生や前田婦長の承認を受け、他の患者さんの迷感にならないように神経を使ってのVTR撮りだったが、ブラウン管に映る自分の姿を見ていると、改めて口惜しさがこみ上げてくる。
「こんな姿でテレビに登場するはずじゃなかった」
テレビというメデイアで試みてみたい企画もあれこれあって、多くの仲間たちと話し合ってもきたし、実現の一歩前というプランもあった。
かみさんは生出演して、梨元勝さんと私の現状について語っていたが、肚が座ったというか、もうビクともしない冷静さが爽《さわ》やかである。
社員食堂で藤原弘達さんや《やじうま》の私の後任の樺山紘一さんにもお目にかかったとかで、かみさんは元気で病室に飛び込んできた。
《モーニングショー》は今後も取材をつづけて、一ヵ月後には、その後の私をオンエアするのだそうだが、刻々と頭髪の抜け落ちていく姿をさらすのは辛い話だ。
息子の初舞台
劇団ひまわりからの連絡で、岳史《たけし》を東京・芸術座の十一・十二月公演に出演させたいが……と相談があったという。
小学校六年で、中学進学をひかえている時期でもあり、どんなものだろうか……という話らしいのだが、息子は好きではじめた仕事だ。
小学校低学年のころから、「現場が好きなんだよね」といっぱしのセリフを口にして、仕事となれば嬉々として、どんな端役でも文句ひとついわなかった岳史である。塾に通うことも一切《いつさい》せずに、自由気ままにしていながら、大林宣彦監督の《時をかける少女》や《さびしんぼ》に出演したり、TBSの《水戸黄門》に出していただいたりしてきた。伊藤俊也監督の《風の又三郎》の幻想シーンは、ついこの間の話だが、「将来も役者をつづけるのか」と問うてみたら、「とにかく好きなんだよね、中学卒業まではやらせてよ。それまでに将来のことは決めるから」といいきったのは、もう二年も前の話だ。
「どうなるかわからんけど、面接にいってこいよ」
と私はかみさんに伝えた。かみさんも私がいうまでもなく、やらせる気でいるにちがいなかった。
それにしても十一月二日の初日は目の前である。よほどなにかのアクシデントがあっての子役選びであるにちがいない。
翌日の午後、あわただしく、かみさんが病室にやってくる。東宝本社地下での面接で、岳史の出演が決ったという。即刻、稽古に入り、息子は部厚い台本を渡されて稽古場に……かみさんは報告のために飛んできたという。
井上ひさしさんの母堂マスさんの原作の舞台化で、《人生は、ガタゴト列車に乗って……》。浜木綿子さん、大空真弓さん、江守徹さんたちが出演。浜さんが井上ひさしさんの母親役で、岳史は井上ひさしさんの少年時代を演ずるのだという。
すでに決っていた少年役がうまくいかず、土壇場で入れ替えとなったものらしいのだが、浜木綿子さんや、大空真弓さんとは映画記者時代から親しくしてきた。特に浜さんとは、愛息の照之クンが、香川照之の名で俳優としてデビューし、私はこの照之クンに大きな期待を寄せていたこともあって、浜さんも私に親しみを感じていたのだろう、私が病に倒れたと知って、母子の連名で激励をいただいたところだった。
井上ひさしさんとも、いろんなかたちで行動をともにした親しい仲で、特に彼の超大作《吉里吉里人》の映画化を計画する菅原文太さんを含めて、遠大な計画を立ててきた仲間でもある。そのひさしさんの少年時代を私の息子が演じようとは、なんとも奇遇というほかはない。
少年俳優・加藤岳史が私の息子だと、浜さんや大空さんにもたちまちわかったらしく、「くれぐれもよろしく」とのことだったとかみさん。
「よろしく」お願いしなければいけないのは私のほうで、わが息子は映画やテレビの経験は多少あるが、舞台はまさにはじめて、うまくやってくれればいいが……と親バカが頭をもたげる。
私がこうしてベッドにいるとき、息子の岳史が重い役で初舞台というのも複雑な思いだが、稽古場では合格点をもらって、はりきっているらしい。
ボンと肩を叩いて、「しっかりやれ」といってやりたいところだが、声なき声援を病室から送るしかない。
おまえにとっては、大好きな“現場”だ。二ヵ月間の初体験は、おまえの人生を決めるかもしれない。しっかりなにかを学びとってきてほしいと、父親としての私は切に願うのみだ。
初日があいたら、先生に頼んで外出許可をもらい、おまえの初舞台を覗《のぞ》いてみよう。
骨がきしむ
《モーニングショー》を観たという方たちから次々と手紙をいただく。激励と慰めの長文の手紙に恐縮する。
なかには、私と全く同じ舌、喉頭全摘、右下顎の切除を、四年前にこの癌研の内田先生の手で受けたという先輩からの手紙もあった。そのときの病室が三五七号だったといわれるから、いま私のいる病室の隣である。
四年先輩のHさんからの手紙は、まさに私がいまたどっている道そのままで、病棟のなかでの私の姿に、四年前をまざまざと思い出されたようだ。
Hさんは四十九日間で退院なさったそうだが、その後の通院が大変だったと書かれていて、気管孔の自己管理など、貴重な体験が綴《つづ》られていた。私にとっては参考になることばかりでありがたい話だが、日常会話には筆談にかえて電子手帳を利用しておられるとか。なるほどと感心させられる。
私は手術からすでに九十日を超えているし、入院から数えると百二十日に達する。これからまだ二ヵ月近くの入院生活が予定されているということは、私自身が考えるよりも、私の体は良くないのかもしれない……と不安がよぎったりもするのだが、すべてを内田先生の判断におまかせした以上、じっと耐えるしかあるまい。
退院して四年余になるHさんの悩みは、もちろん声のないことだが、それ以上に流動食を流し込むことであり、入浴であるらしい。固形物は一切《いつさい》だめ、ミキサーにかけた流動食をいろいろ工夫して流し込むのは、いまだにご苦労なさっているようだし、気管孔をかばいながらの入浴、洗髪も大変らしい。
私も洗髪こそ自分でやらないが、病室のバスルームで入浴を試みている。鳩尾《みぞおち》のあたりまでバスタブに湯をためて、こわごわわが身をひたす。気管孔に湯水が入ったら一巻の終りだ。こうして最大限洗えるところは、スポンジで洗ってみるのだが、ホーローのバスタブに腰の骨がゴツゴツ当って痛い。
鏡に映るわが裸身を見ると、なんとも情けない。大胸筋をとった右胸は肋骨に皮を張りつけた状態で当然だが、左の胸も大差ないほど肉が落ちているし、腹から腰も筋肉が衰退して、なんとなくナチ収容所のユダヤ人を思いおこさせる痩《や》せさらばえ方なのだ。
健康だったころは六十七キロ前後だった私が、いまは五十キロそこそこ。アウシュビッツ収容所が思い浮んでも無理はないのだろうが、毎週日曜日の朝は体重測定日だ。かなり気力も充実してきて食欲もあるのだが、この一ヵ月ほどは、五十三キロ、五十二・六キロ、五十一キロと、むしろわずかながらだが、さらに痩せてきている。腰の骨などパジャマの外から触れても、不気味なほどゴツゴツと骨の形がわかるという寸法だから、浴槽に当って痛いのも無理はない。
「なんとか、少しでも太りたい」
などと思うのは、これまた私の人生ではじめてのことだ。
朝の処置が終ると、雨でも降らないかぎり、屋上に出る。人工芝のガーデンで懸命に体操する。体操というよりは体を動かすといったほうが正しいだろう。両手が思うように上がらないからだが、それでも痛さをこらえて、懸命に体操する。肉の落ちた肩も、骨がゴツゴツと姿を現して、ギシギシきしむ感じだ。
ともかく名状しがたいほど肩がこっているのだ。ゴキゴキ鳴る肩をまわすだけでもいくらか楽になるのだが、灸や電極マッサージなど、いろいろ試みるが、効果はあがらない。
「この手術をしたひとの宿命です」
と看護婦さんはいったが、Hさんも多分、肩こりに耐えながら頑張っておられるのだろう。
私も流動食や気管孔といっしょに、死ぬまで道連れにしなければならないもののひとつが、肩こりということになるのか。
かみさんが舞台稽古の楽屋から息を切らせて病室にやってきた。岳史が結構頑張っていると私に伝えたかったからだが、私もしきりに気にかかっていた。
「おおらかでケロッとしているおまえのことだから、うまくやるにちがいない」
と思っていても、生の舞台の緊張をはねかえせるのかどうか心配だったのだが、セリフも全部入って、母親役の浜木綿子さんにほめられているとか。かみさんは報告もそこそこに芸術座にとってかえした。
明日は通し稽古で、明後日には初日の幕があく。さすがに緊張からか少し痩せたとお母さんはいっていたが、おまえのことだ、のりきっていくだろう。おまえ自身が選んだ道なのだから。
十月が終った。北から南まで、全国的に、雨のハロウィンデーである。
6章 絶ちきれぬ未練
破れた手風琴
十一月だというのに異常にあたたかい。九月下旬か十月上旬の気温だという。酉《とり》の市《いち》の声もきかれるこの季節だ。普通ならコートの襟《えり》をたてて歩きたくなるのだが、病室を訪れてくださるひとは、誰も汗をぬぐって上着を脱ぐ。一九八九年という年は、さまざまな意味で異変の年らしい。
芸術座の《人生は、ガタゴト列車に乗って……》は二日に幕をあけたが、ダブルキャストで、初日・二日目は速水昌治クンが出演。岳史《たけし》の初舞台は三日目の十一月四日。
初日、二日目と舞台を見に通ったわが息子は、初体験を無事にこなしてくれるだろうか。病床からではどうにもならないが、気になってしかたがない。
本人はケロッとしたもので、家に帰ると台本を読みなおすでもなく、セリフは全部入っていると……ファミコンをピコピコ。心配でならない母親には、
「練習なんかしたら、固くなっちゃうよ」
と気楽なものだったそうである。
四日夜、病棟にかみさんから電話でのことづけ。
「昼の部はうまくいきました。夜の部も元気でやっていますから安心してください……とのこと」
と看護婦さんから伝えきく。私が電話に出ようもなく、ましてかけようもないのが切ないが、根っから役者稼業に向いているのだろう、わが息子はものおじもせずにこなしているらしい。
私も早く舞台を覗《のぞ》きたいと思うが、いまのところままならないのが辛い。
かみさんに話して、岳史に舞台を離れたらあくまで小学六年生であることを忘れないでほしいと伝える。
おそらく、岳史、おまえも褒《ほ》められて得意だろう。自信にもつながっていくのだろうが、それでいい気にならないでほしい。週に三日舞台に立てば、学校に通うのは半分。当然学業は遅れをとるだろうけれど、「当り前じゃないか」と、むしろ自慢気だったりする子役にはなってほしくない。
舞台に立ったことを鼻にかけるようなおまえではないと思うけれど、気にかかるところだ。陥りやすいところで、みっともない姿をおまえにはさらさせたくないからだ。
それにしても、楽屋口から大声で挨拶して通い、神棚に拍手礼拝して、先輩たちに礼を尽しているとお母さんから報告をきいた。おまえらしいなと一人微笑んでいる。そういうあたりは、きちんと教育されてきたし、折目正しくなければ気のすまないおまえだと思って見てきたからだが、殊勝につとめているおまえの姿を覗いてみたい思いがしきりだ。
その十一月四日は《鎌倉ミニミニ寄席》の第三十回上演の日である。詩人・菊岡久利さんの法要が縁で、菊岡さんの愛娘・菊岡ノンコさん、鎌倉に住む嶋田親一さんたちと、サロンのかたちで文化を語る会を組織しようや……と話し合ったのが、一九八七年の春。
ノンコさんが経営するレストランを会場に毎月第一土曜日の夜、マスコミの場面では接することのできない芸を披露していただく名人・達人をお招きして、その芸に接しながら、私が狂言まわし役であれこれおしゃべりをするというトークショーで、一九八七年の六月にシャンソンの石井昌子さんに来ていただいて《鎌倉で一月早いパリ祭》って趣向を第一回に、とうとう三十回を数えることになった。
私は、「二十世紀が終るまでつづける」という愛好家のみなさんの声に応えるべく、いろいろプログラムを組んできたが、第二十一回の一九八九年二月を最後にマイクの前に立つことはできなくなった。三月の第一土曜日には、もう長丁場のトークショーに耐えられる身体じゃなかったからである。
その間、音楽評論家の伊藤強さん、ラテンのおスミこと坂本スミ子さん、作曲家の市川昭介さん、N響理事長の川口幹夫さん、フォークの三上寛さん、俳優で物語の世界をひらく真弓田一夫さん、アコーデオンの横森良造さんなどなど、多彩な方々にお付き合いを願ったが、私自身が、こういうかたちで途中挫折したのは、なんとも無念だし、申し訳ない思いで胸がつまる。
私が倒れてからは、嶋田親一さんが司会役をひきつぎ、菊岡ノンコさんも発足当時の意志をつらぬこうと「意地でもつづける」と意気軒昂《いきけんこう》だというが、娑婆《しやば》にもどったら、一度鎌倉に出掛けよう。《鎌倉ミニミニ寄席》の常連のみなさんにもご心配いただき、お礼をいいに出向きたくもあるのだが、いまや声なき私では、頭を下げるのみ。客席の片隅できき手にまわったら、さぞや辛いことだろうと思いやられもする。
伊藤強さんとその一党が久しぶりに病室に元気な声を響かせる。伊藤さんとは木曜レギュラーの《やじうまワイド》のほかにも、ブラウン管でちょくちょくお目にかかるが、めっきりダンディーとなったわが友が、ちょっぴりねたましかったりもする。今年は中森明菜の自殺未遂事件や、松田聖子の独立などを含めて、音楽業界も生臭い話がしきり。《レコード大賞》もまきかえしにあれこれ知恵を絞った結果、舞台裏で虚々実々の「往年をしのばせるおどろおどろしさ……」といった話が飛び交う。
私が娑婆にいたら……あれこれふりまわされながら面白い日々だろうに、と思うと切なさがこみあげる。話の輪に入れず、メモ用紙で口をはさむ余地もないまま、いつか、みんなの話が遠い世界のものとなっていくのを感じる。霧がかかったというか、カーテン越しの別世界の会話とでもいうのか、疎外感にさいなまれる自分が、なんともやりきれない。
「クソ、オレだって……」
と、メモ用紙にペンをとってみるが、破れた手風琴《てふうきん》みたいな空しさが残った。
ハードボイルド派の死
「松田優作急死」の報が飛び込む。十一月六日、月曜日の夜六時四十五分だったという。三十九歳、膀胱癌《ぼうこうがん》が腰から背筋まで転移しての死だった。
あのハードボイルド派で頑健そのものに見えた松田優作さんが、なんとあっ気ない死であろうか。私よりも二十歳も若く、暴力沙汰などで問題児とされていた彼とは、杯を交わしながら、高校中退で渡米し放浪生活を送った話などをきいたことがある。根は純粋でやさしい男だった。
折から彼の出演したアメリカ映画《ブラック・レイン》が封切られたところで、いかにも唐突な死だったが、きくところによると、いわば覚悟のうえの死だったようだ。
彼が膀胱癌を告げられたのは一年前。このとき《ブラック・レイン》でマイケル・ダグラス、高倉健の二人と共演の話が決っていた。入院治療をとるか、仕事に賭けるか……彼は後者を選んだ。
ガンであることを妻の美由起さんにさえも告げずに、彼は《ブラック・レイン》に賭けた。しかし、この秋にはガンは全身をむしばみ、すでに手術さえもできない体となっていたという。
「どれほど魅力的な仕事だったり、引き受けた責任があったにせよ、まず体じゃないか。ちゃんと治療して生命を守れば、また、いくらも仕事ができたはず」
逸材を惜しむ声は、やがてガンの告知問題、患者としての対応、医師の責任といった論議を呼んだが、私は痛いほど松田優作さんの気持ちがわかる。
膀胱癌は比較的治しやすいガンだという。が、一年前にガンと知ったときに彼があえて治療をしりぞけ、宿願の仕事を優先させたのは、入院加療をしたとして、元気な体をとりもどせるという保証を実感できなかったからにちがいない。仕事を放棄して治療に励んだら、全く健康で、これまで以上に闘える体がもどるとは確信が持てない。生命はとりとめたとしても、元の体とはいきにくいのでは……と思ったとき、彼が《ブラック・レイン》に没入したのは、ひどくよくわかるのだ。
まだ幼い三児をかかえる夫人をはじめ、肉親は、「どうであっても生きていてほしい」と願うだろうが、彼が「生きているだけ」の屈辱に耐えられるとは、とても思えないからである。
このあたりにガン告知の難しさがあるのだろうが、私自身の場合でいえば、一九八九年の二月に、舌の異常は前ガン症状だと告げられ、ただちに放射線照射を含む治療に入るようにいわれたが、私がそれに従ったとしても、ほとんどただちにしゃべれない……少なくともテレビに出たり、ステージでしゃべったりなどという芸当はできない状態となり、治療が成功したとしても、おしゃべりを業とすることは難しいのであろうと、容易に推測できた。
そんな私は、二月、三月と自身が企画、プロデュースし、総合司会をつとめる予定のイベントをいくつもかかえ、三月末にスリランカヘの文化親善団の代表として、海を渡ることも決っていた。それらを含めて、すべての仕事をキャンセルして、治療に入ったとしても、私は二度としゃべる仕事は難しいと悟ったとき、「とことんやるしかないか」と決めていた。
仮説だが、もしあのとき入院加療に入っていたとすれば、舌の半分を切除する程度ですんだかもしれない。しゃべるのは不自由でも、食事にことを欠き、気管孔で呼吸するなどという生活機能の欠落を見ずにすんだかもしれない。だが、しかし私の胸の底には、自らが仕掛けて、大きく膨らんだ仕事を途中で放棄してしまったのだという、いまとは別の深い悔いが残ったであろうと思う。
《華の乱》で吉永小百合さんの与謝野晶子と共演し、有島武郎を演じていた松田優作さんと京都の撮影所で会った二年前、自殺して果てる有島役に打ち込んでいた彼は、
「人間、自殺でもしないかぎり、死にざまは選択できませんからね」
と語っていたが、そのとき、すでに体の不調を感じ、ある予感を抱いていたのかもしれない。
それにしても若過ぎる。彼から見れば私はすでに二十年も余計に人生を体験させてもらってきた。この二十年を振りかえってみれば、語ってもつきないほどの波乱があり、歓びもあった。いろいろなひとにもめぐり逢えたし、子供にも恵まれた。
その二十年を差し引いたとしたら、私などはほとんどなにもしなかったことになりそうな気がする。
松田優作さんはこの三十九年間に見事な仕事をした。遺作《ブラック・レイン》はアカデミー賞助演賞にノミネートも確実だともいう。これからが楽しみな大器ではあったが、燃焼しつくしたといえなくもあるまい。
ただ、あまりにも幼すぎる三人の子供を残しての死は、なんとしても無惨である。
私自身を省《かえり》みても、小学校六年生の息子でさえも、もう少し、もうしばらくいっしょにいたい、見守っていたいと腹の底から念じるのだから、彼の心残りはいかばかりであろうか。それを思うと胸がふさがる。
拒否反応
第二期抗ガン剤の投与がはじまる。前回と同じく、初日は前哨戦で点滴のガラスビンが二本と、ポリ容器の一本が注入され、二日目は朝から夜まで、九本の点滴が左腕の血管に注ぎ込まれる。九本の薬の成分はいろいろだが、いわゆる抗ガン剤はそのうちの二本だとか。
たちまち、吐き気と全身の倦怠《けんたい》、軽いめまいが起こりはじめ、口のなかの粘膜はただれて、頬が内側から腫れて膨らむ。水を飲むのさえ辛くなるのだが、懸命にこらえて吸い飲みを口にあてる。
三日目の朝から胸の皮下に針を入れて、持続注入のボックスをぶら下げるのも前回と同じだが、前回とちがうのは、強烈な吐き気と全身が震えるような悪寒《おかん》だ。流動食など全く受けつけない。その夜半から嘔吐《おうと》がはじまる。ゲボッと吐くのだが、胃袋にはなにも入っていない。薄茶色の胃液は驚くほどの量で、吐き出された後の嘔吐の苦しいのなんの。
「抗ガン剤をはじめると誰でもこうですよ。頑張って水分を摂《と》って……」
婦長さんに肩を叩かれるが、まともに応答さえできないだらしなさである。
持続注入二日目、私はついに音《ね》をあげた。苦瓜《にがうり》先生は落胆しきりといった表情で注入セットをはずし、投与は中止された。
中止しても嘔吐感と口の腫れは残った。なんにも喉を通らない体は、ただでさえ痩せているのに、一層皮がたるみ、動こうにも力が出ない。
かみさんには、息子の舞台出演の付き人と、家庭、そして彼女を頼りとする人々との重要な接点である龍玄院東京礼拝所の代表としての仕事が重なっている。病棟にやってくるどころじゃないのだろうが、間を縫って病室に飛び込んでくるかみさんは、必ず「ただいま」と弾《はず》んだ声なのだ。
かみさんは私の病室に「くる」のではなく、「帰る」のだと固く決めている。亭主のいるところが“家”だとすれば、妻は「ただいま」でなければならないというのが、病床の私への気配りなのだろう。「帰ってきた」かみさんは、洗濯や部屋の片づけ、そして病棟内でのお付き合いと、やたら忙しく、つむじ風のごとくに「じゃあ、行ってきます」と出ていく。
ゆっくり話す暇もないから、重要な用件や連絡、あるいはこちらの状況説明などは、あらかじめ手紙に書いておくようにしたのは一ヵ月ほど前からだ。そうでもしないと、かみさんの姿を見てからの筆談では間に合わず、結果として癇癪《かんしやく》をたてるのが落ちだと悟ったからだが、これも無舌の人間の心得るべき節度というものなのかもしれない。
抗ガン剤投与を中止したことで、苦瓜先生と話し合ったらしいかみさんは、
「がまんして、全部やらなきゃ。あの痛さに耐えられたパパなんだもの、頑張れないはずないわ」
とがっくりと肩を落す。わかっているし、私なりに精一杯頑張っているのだが、前回とちがって今度の拒否反応は半端じゃない。
しかし、このままでは退院も心もとないとあっては、もう一度チャレンジするしかないか。十一月末に化学治療の再開を苦瓜先生と約束する。
それにしても、抗ガン剤の副作用が現れはじめたら、しばらくはなにもできない。読むことも書くことも気力がつづかないし、耐えていられない。まだ、どうしても捨てきれない娑婆《しやば》っ気《け》が、あれもやらなきゃ、これも書いておかなければと、私をせきたてるから、余計に拒否反応が怖くもあるのだ。
テレビの画面を見ていても、いまもって「オレならこうする」と思い、「ちがうだろ、語らなきゃならないのは別の話だ」とイラついたりの末、こんなことにならなければ……と未練がましい自分にフッと気がついて、肌寒い思いが残る。
もう大概にあきらめて、「あっしにはかかわりのねえことで……」と達観してもよさそうなものだが、まだ私の視線は現場の眼、生臭く、熱っぽい現役の見方、感じ方になってしまっている。
「ああ、オレが現場にいられたらな」という切なさは自己嫌悪を生んだりする。
それを振りはらって目をつぶると、奇妙なことに、なんの脈絡もなく、昔口ずさんだ歌が頭のなかに浮んでくる。それは小学唱歌であったり、戦前の流行歌だったりするのだが、愛唱歌というわけでもない。頭のなかで繰返し歌っている自分に苦笑する。
「あなたと呼べば、あなたと答える……」
繰返し歌っている、私の潜在意識ってのはなんなのだろう。
そんな私の眼に、ブラウン管は息を弾ませてベルリンの壁が倒されたと報じる。東ドイツ民衆の自由化要求は、世界がアッというほどの速さで、歴史的変革の時を迎えた。ハンガリー、ポーランドにつづき東欧諸国は急速な変化。チェコスロバキアも西側への出国を自由化したし、東側の優等生といわれてきたブルガリアにも自由化の波。
民主化要求の声を圧殺してきた中国でも、小平が完全引退を宣言。そのとき北京にはキッシンジャーの姿があるという不気味さ。
世界は大きく動いている感じだが、日米間はアメリカ側のヒステリックなリアクションを含めて、不協和音しきり。コロンビア映画の買収につづく、ロックフェラービルの過半数の株をもったニッポン資本にマスコミまで騒然。
東京には木枯《こがら》し一号が吹いた。昨年より約一ヵ月遅れだそうである。
告知の是非
朝食のお膳に、きちんとたたんだチラシが申し訳なさそうにそえられている。「看護婦をふやして……」という医労連のメッセージで、「看護婦は疲れきっています。私たちの運動にご理解を願います」と訴えている。
たしかにその通りだと、ベッドにいる患者の側としても共感するのだが、私たちは“団結”と赤いバッジをつけた看護婦さんたちに、陰ながらの声援を送るしかない。
医療の現場での看護婦不足は、全国的に大きな問題となっているのだが、抜本的な解決は、ますます難しいのが現実だろう。
ここ癌研附属病院では、その基本的テーマに、年末一時金に対する不満が、ストライキにつながっていった。「例えば慶応病院との待遇格差は……」といった、歳末の生臭い風が、病棟にもかけぬける。
食膳にそえられた「本日、午前十時三十分〜十一時三十分、ストライキに入ります」というチラシは、癌研労組の“くみあいだより”のかたちだが、なんとも素朴でなつかしい感じの手書きをコピーしたもの。ワープロ万能の印象さえあるなかで、二十年ほどタイムスリップした印象なのだが、妙に好感が持てる。
二階入院患者出入口前の駐車場で、看護婦さんたちのスト集会がひらかれていたが、「解決しないんですよね」と苦笑していた頭頸科《とうけいか》病棟の看護婦さんも、寒そうに肩をすくめて参加していた。
電器各社が空前の好況で、組合要求に対して、ほぼ満額回答というかたちでスタートした年末一時金闘争だが、医療の現場では、そのきびしい就労状況でありながら、風は冷たく肌寒いようである。入院患者の一人としては、彼女たちに頼みごともしづらい思いだ。
それにしても、浮世は歳末に向けて走り出しているのを、いやでも実感する。第四十回を迎えた《紅白歌合戦》をめぐる情報は、ベッドの私にまであれこれと伝わってくるし、恒例の正月番組《新春スターかくし芸大会》のVTR撮りもはじまっている。
「なのにオレはまだ退院のメドもたっていないのか」
と焦燥感《しようそうかん》が胸をこがす。焦ったってはじまらない、ここはじっくり腰を落ちつけて……と、わかっちゃいるのだが、あさましくも娑婆《しやば》っ気《け》が頭をもたげる。
松田優作さんのガン死から、ガンの告知問題がマスメディアでも改めて論議を呼ぶ。病室の私のもとにも、メモで意見を……と週刊誌が依頼してきたりする。
テレビのワイドショーなどを見ていても、告知すべきでない、いや告知は必要だ……と考え方が分かれ、私の見たところ、告知すべきでないという意見のほうが、やや多いようである。
鶴田浩二さんの場合も、本人には知らせなかった。医師と家族の連係プレーで、懸命にガンとさとられないようにつとめたという。
石原裕次郎さんの場合は、鉄の団結を誇る石原軍団の幹部だけが承知していて、本人はもとより、夫人のまき子さんにさえ告げなかった。
本人が知らないほうが、医療の現場では対応しやすいのか、それともガンと知った患者のリアクションを恐れるのか。いずれにせよ、医師は家族に伝え、本人には秘するというのが、平均的パターンのようだ。
松田優作さんの場合は全くその逆で、一年前にガンと知った彼は、家族にさえ知らせずに壮絶に闘って逝《い》ってしまった。
私はかねがね、ガンは告知すべきだと考えてきた。たとえ発見が遅れて余命いくばくもないとしても、本人が知っているべきだと思ってきた。自分の体であり命である。自分以外の妻や子供、あるいは仕事仲間が、「こうしていられるのも後しばらく、間もなく起き上がれなくなって、もっても半年」などと心得ていられて、当の本人はなにも知らずに、将来の計画を語ったりしているなんて残酷にすぎる。
「そんなことできっこないのに」とわかっている周囲のひとたちは、哀れみをおしかくしながら適当に相槌《あいづち》を打っているなんて、私だったら許せない。どうであれ自分の命だ。余命をかぎられたとしたら、それぞれに残りの日々のありようを選択するだろう。よしんば半狂乱になったり、自殺を計ったりしたとしても、わずかな時間をあざむかれてすごすことに比べれば、はるかにいい……と考えてきた。
そして、いまもそれに変りはない。
この病棟では、癌研究会ということもあって、患者はほとんど百パーセントが、ガンであることを熟知している。頭頸科の治療は、患者がガンであることを知っているという前提に立たないと困難だということもあるが、それだけわかっている患者のなかでも、かつて自殺者が出たこともあったらしい。
入院生活も私のように長期になると、癌研の長い歴史のなかでのエピソードが伝わってきたりする。予想外の術後変形に絶望して自殺した日本舞踊の師匠の話だとか、ガンの治療の実際を知りすぎていることから、自分がガンだと知って首をつってしまった看護婦さんの例など、病棟の主みたいな付添婦のおばちゃんからきかされもした。
ガン告知へのためらいは、そうした絶望感を患者に抱かせ、自殺に走らせたり、自暴自棄の末の危険な生き方を恐れてのことだろうが、それらを含めて本人の選択だと私は思うのだ。
誰もがそうであるように、私も「オレはガンには無縁だろう」と思って生きてきた。だが、ガンは私を例外とはしなかった。私の場合は舌癌ということもあって、告知もなにも、いやでも自覚する状態だったが、自分が知らない、あるいは知らせられないことなど、私にはどう考えても納得いかない。
松田優作さんは不運を呪《のろ》い、家族を思って悩み苦しんだろうが、彼なりの納得のしかたで生命の灯を燃やし、消えていった。
彼の場合、本人に知らせないということはできなかったからかもしれないが、知らずに朽《く》ち果てるより、知っていてこその余命だと思う。
まして、知らないのは自分だけだったなどとは、私には耐えられない恥辱である。
拒否反応の激しさに音をあげて中断した抗ガン剤投与を、十一月の末から再開すると決った。そのための採血、採尿などの検査がはじまった。
あの苦痛を考えると身も縮むが、娑婆にもどる地獄の関門。チャレンジせざるを得ないだろう。
その前に外出許可をもらって、どうしても芸術座の息子の舞台を覗《のぞ》こうと思う。思えば、六月にこの病棟に入ってから、一歩も外へ出たことはない。はしゃいだ気分よりも、一抹《いちまつ》の不安はぬぐえぬが、岳史《たけし》の初舞台をこの眼でしっかり観たいと胸がはずむ。
潜在的な予感
「ヨオッ」、いつもと変らない、ちょっと照れたような表情で菅原文太さんが病室に入ってきた。
「一人じゃきにくいし、顔が揃ったから……」と、昭和オートレンタリースの副社長・宮松昭男さんと、PPS通信の専務・木島章さんの三人がベッドを囲んだ。私を含めた四人は一九八八年、半年以上にわたってガン撲滅を訴え、その基金を募りながら世界一周マラソンをつづけていたイギリス青年イアン・マクドナルドさんを支え応援してきた。
イアンさんはロンドンを出発、ヨーロッパ、中東、東アジアを走りぬけて、日本に渡ってきた。経済大国ニッポンの企業や団体を歴訪したが、無名のイギリス青年には、どこも手をさしのべず、日本一周マラソンの夢は果たされぬまま、一年余も足止めを食ったままだった。
彼の存在を知って、私たちはなんとしても日本一周を果たさせてあげたいと考えた。肩書偏重社会にどっぷりとつかっている日常をよく承知しているわれわれの自省を含めて、イギリス青年をこのまま放置しておいては、ニッポンの恥だとも思った。
イアンさんが走るための伴走車兼キャンピングカーの提供を含めたすべての経費は、宮松さんが昭和リース・グループを動かして調達することになり、私たちは一人でも多くのひとに共鳴していただくお手伝いをすることになって、黒柳徹子さんにも加わっていただき、イアンさんのスタートを見送った。
私は、その一年、イアン・マクドナルドさんの日本一周の各ポイントでの歓迎レセプションと基金募集の呼びかけの司会を引受けた。
鶴田浩二、石原裕次郎、和田浩治、川口浩と、まだまだ若い友人たちを相次いでガンに奪われた実感も、私を鞭《むち》打った。
名古屋、大阪、広島、松山、福岡、熊本、大分、金沢、山形、札幌、盛岡、仙台と、私はイアンさんを追って、ガン撲滅を訴えて歩いた。
私の呼びかけに坂本スミ子さん、江原真二郎・中原ひとみ夫妻、横森良造さんなどなど、友人たちも各地方まで応援にきてくれたのだったが、宮松、菅原、木島そして私の四人は、そのとき以来の奇妙に話のわかりあえるチームなのである。
「ガン撲滅を……」と叫んで歩いていた私が一年後にはガンで倒れ、こうして病棟暮しというのは、なんとも皮肉な話だが、もしかすると潜在的な予感があったのかもしれないし、天の配剤なのかもしれない。
文太さんをはじめ三人の男たちは、口々に「あんたの出てくるのを待っているんだ」といってくれる。これまでのような動きはできないのは百も承知で、私になにかをやらせようと三人で話し合ってくれているらしいのだが、どこまで私が応えられるか、自信はない。いまは彼らの友情に感謝するのみだ。
文太さんはCBSソニーから、久しぶりにレコードを出すという。《港の男歌》はいかにも彼らしい男演歌で、「生放送の歌番組はかんべんしてくれ」といってきた菅原文太さんが、今回は禁を破って《夜のヒットスタジオ・SP》にも出演するという。
バリバリやってほしい。できることはなんでも……。やりたくたってできない私みたいな奴もいるのだから。元気な人々をうらやみながら切実にそう思う。
敗戦後間もなく、ハイティーンで新聞社に飛び込み、GHQの検閲のゲラを運ぶ“坊や”の仕事から、社会部記者まで、戦後の混乱期だったからこその駆け足が許された。
が、両親を失って新聞社の給料ではどうにもならず、戦後のカストリ雑誌の編集者に転じたが、間もなく出版界も整理統合の時代を迎え、私のつとめていたカストリ出版社も倒産。フリーの漫画家として出版社に漫画や漫文を売り込んで歩いたが、すさまじいインフレのなかで、出版社も相次いで倒れた。原稿は採用されても原稿料がもらえず、一文なしの大《おお》晦日《みそか》なんてこともあって、四苦八苦の末に、再び新興出版社の編集部に迎えられて、新雑誌の創刊にかかわることになる。
“三号雑誌”って呼び名があるくらいに、興亡の激しい出版界で、その出版社もわずか二号を出したところで潰《つぶ》れるって始末。
ようやく用紙事情も好転してきた一九五〇年、戦前に人気を集めたグラフ雑誌《映画情報》が復刊されることになり、どうでも私に編集長を引受けろと要請された。
亡父がこの《映画情報》の一九三〇年の創刊に編集長だったからである。以来、私の映画芸能記者の暮しがつづいたのだが、それまでのわずか三年、目まぐるしい変転のなかで、私はどれほど多くを学んだことか。眠る時間を割いて、常に二つ三つの仕事と取組んできた。
その習性は映画記者となってもおさまらず、編集者としての仕事のうえに、雑文を書きまくり、漫画を書き、夜も昼も走りまわっていた。
映画からテレビ時代へ
二十歳そこそこのチンピラ編集長である。「なめられてたまるか」と、私はめいっぱい背のびをして撮影所を走りまわり、ロケーション現場にも飛んでいった。一九五一年の日米講和条約を境に、映画人たちはまさに水を得た魚だった。最も活気に溢《あふ》れていたし、荒っぽくもあった映画の制作現場を飛びまわった私は、月に一度は京都を訪れた。出かければ一週間は滞在した。
東京駅を夜行列車で発《た》ち、早朝に京都着。駅から真っすぐに新京極の“さくら湯”で朝風呂につかり、それから祇園《ぎおん》の常宿に。ゆっくり朝がゆをいただいてから、「おはよう、お帰りやす」などと、おかみさんのはんなりとした声に送られて太秦《うずまさ》の撮影所界隈に……という、いまでは考えられない“良き時代”が一九六四年の新幹線開通までつづいた。
阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、月形竜之介、大友柳太朗といった戦前からの時代劇の大御所の方々とも、どういうわけか東京の映画記者には珍しいほど親しくしていただけた。
撮影所のすぐ近くの丘の上にあった千恵蔵さんの邸宅には、庭に伏見の酒蔵のあの巨大な酒造りの樽をすえつけてあった。その樽に屋根を葺《ふ》いて離れ座敷とした麻雀部屋があって、何度となくそこで徹夜麻雀のお付き合いをした。また、豪快な飲みっぷりで有名な酒豪・右太衛門さんには、祇園町を梯子《はしご》酒で楽しませてもらった。いまは観光名所として有料で一般公開されている嵐山の大河内さんの家には、月見の酒宴に招かれたりもした。大友さんとはそれこそ紅灯の巷《ちまた》を彷徨《ほうこう》するといった裸の付き合いでもあった。
憧れの美女・原節子さんに東宝砧《きぬた》撮影所ではじめて会ったときにヒザが震えるのを感じたり、チャキチャキの江戸っ子・佐野周二さん、頭の回転が早くウイットにとんだ会話には脱帽した高峰秀子さんなどとの出会いも忘れ難い思い出である。
戦前からのスターたちとの交友の日々に、もう時間を忘れる毎日だった。そのうちに、戦後第一期のスターたちが相次いで生れた。鶴田浩二、佐田啓二、高橋貞二の“松竹三羽烏”や、東宝ニューフェイスの三船敏郎、久我美子、そして“ミス・ニッポン”の山本富士子たち。年齢的には多少の凸凹があっても、私とは戦中、戦後を似たような体験をしてきた同世代である。
もうお互いに夢中に生き、熱気にあふれた毎日だった。血気さかんな年代だからもめごとも少なくなかったが、そのなかで恋の花が咲き、死ぬの生きるのって騒ぎもあった。渦中にまき込まれたこともしばしばで、汲《く》めどもつきない思い出話は、とてもここでは語りきれない。
独立プロ活動も活発で、今井正監督の《ここに泉あり》の高崎ロケや、吉村公三郎監督の《夜明け前》の木曾福島、新藤兼人監督の《縮図》の新潟県高田などでの撮影にも長期にわたってお付き合いし、岸恵子、乙羽信子、殿山泰司といった人々と、俳優と記者をはなれた付き合いを持つようになった。
一九六〇年代に入って、錦ちゃん(中村錦之助・現萬屋錦之助)、千代ちゃん(東千代之介)そして大川橋蔵の東映勢、市川雷蔵、勝新太郎の大映と新しい時代劇のヒーローが相次いで生れたし、石原裕次郎、浅丘ルリ子、吉永小百合などのみなさんが日活の青春映画時代を創り出し、佐久間良子、三田佳子のお二人が東映の現代劇を代表した。
みんな若く、奔放《ほんぽう》なうえに闘志に燃えていた。ちょっぴり先輩の私は、これらの人々と、飲み歩き語り明かしたりしながら、新しいものを求めて歓《よろこ》び合ったり、怒ったりの日々も重ねた。
大島渚さん、篠田正浩さんたち、いわゆるヌーベルバーグの旗手といわれた映画作家たちとカンカンガクガク、乱闘騒ぎにいたるまで痛飲しながら論争したのも、忘れられない思い出でもある。
いずれにせよ、戦後の映画黄金期に、その立役者たちと時代を共有できたことは、私にとってなによりも幸せなことだったし、間もなくテレビメディアが誕生して、その草創期から試行錯誤の制作現場にかかわれたのも楽しかった。
映画記者がいつの間にか、映画にかぎらず歌謡音楽業界、演劇、演芸、さらには広告業界までと交際の幅がひろがってしまったのは、まさしくテレビというメディアの成長とともに、クロスオーバーな活動をみんながするようになったからである。私自身も《桂小金治アフタヌーンショー》に顔を出したりしているうちに、日本テレビの《テレビ三面記事》にレギュラー出演するようになった。司会がE・H・エリックさんで、ばばこういち、豊原ミツ子、桂朝丸、青空はるおといったひとたちがレギュラー。私はいわば“おつまみ”あるいは“中和剤”といったところだった。
まだその当時は、活字メディアの私が、その立場から質問に答えるといったかたちで、いわゆる芸能レポーターなどと呼ばれる世界が誕生するのは、ずっと後のことだったが、ともかく次第に電波メディアとのかかわりも深くなり、週刊誌育ちの梨元勝さんや福岡翼、須藤甚一郎といったひとたちをブラウン管に誘い出してしまってからは、あれよあれよという忙しさとなってしまった。
大晦日も元日も家にいることはめったになかったし、ゴールデンウィークも夏休みも関係なし。かみさんも駆けまわっている私をつかまえるのにひと苦労だったし、息子の岳史《たけし》は父親とはそういうものだと思っていたらしいのである。
こうして、アッという間に四十年近くの歳月が流れた。忙しさを楽しみ、人間が大好きで、人々との交流のなかで嬉々としているうちに時間が飛び去っていったというのが実感なのだ。
間もなく還暦といういま、えらく律儀《りちぎ》に生き方を改めて、振り出しからはじめざるを得ない条件を与えられた。生死の境をさまよった末に、生命を与えられ、第二の人生を歩みはじめることになったのである。
もういい加減に駆け足を改めて、じっくりと落ちつき、明鏡止水《めいきようしすい》といかぬまでも、冷徹に自分を見つめ世の中を見守るといった境地になってもいいのでは……駆け足人生はもう十二分にやってきたじゃないか……とは思うのだが、元気な友人たちや、どうにも納得のいきかねる世間の動きなどを見ていると、もうじっとしていられないって気になってくるのは、われながら浅ましくも、未練がましい。結局は悟りの境地などに至らぬままに声なき身で、また駆けだしたがるのであろうか。
もぐさの灸
声を失ってからもう半年以上になる。しかし、私の意識のなかでは、絶えずしゃべりつづけ、歌ってさえもいるのは、隔絶された世界にたった一人でいる人間と同じなのかもしれない。眠っていてさえ、私はほとんど絶え間なくしゃべっているような気がする。夢というかたちで記憶に残る場面でも、私は饒舌《じようぜつ》である。
頭のなかでしゃべりつづけていないと、いてもたってもいられない不安が襲ってきそうな気がするのと、声を失ってからのほうが、しゃべりたいことが急に増えたような思いもある。
しかし、そのおしゃべりは誰にもきこえはしない。私の言葉を伝えるためには文字にするしかないのだが、文字で会話のかたちをとるのは想像以上に難しい。自ら墓穴を掘るように挫折感を味わったりもする。
会話というかたちを離れて、原稿を書いていると、どこかホッとする。しゃべっているような錯覚が原稿を書き進めるうちに、私を支配するからだ。
恐ろしいことに、原稿を書きはじめるとほとんど同時に、私はなにかを探している。なにか足りないという感じなのだ。それが煙草《たばこ》だと気がつくのにふた呼吸かかるほど、私は煙草に無縁になっているのだが、原稿を書きはじめたら、灰皿がたちまち吸いがらの山になるほどのヘビースモーカーだった私の条件反射みたいなものなのだ。
その煙草だが、禁煙しているわけでもなんでもなく、手術後の私は煙草を吸おうにも吸えないのだ。
煙草へのノスタルジアは消えることがなく、ある日、かみさんの吸いかけの煙草を唇にくわえてみた。いくら吸ってみても、私の唇の煙草はもぐさの灸《きゆう》のごとく、ゆらゆらと細い煙をのぼらせるだけ。
私の口も鼻も吸うという行為には無縁なのだ。煙草を吸う意識でスーツと息を吸ってみても、空気の通るのはノドの気管孔だけで、口のなかは関係ない。手術はまさにそのようにほどこされたのだから、理屈で考えれば当然で、煙草はおろか、ストローで液体を吸うことも、おちょこの酒をすすることもできないわけだし、いま私が流動食を摂るために使っている吸い飲みも、名称こそ吸い飲みだが、私にとっては吸うことはできないわけだから、流し込む器具であって、正確には、吸い飲みに対して“流し飲み”とでもいうべきなのか。
同じ理屈で、鼻をかむってこともできない。鼻をかむためには気管からの息を鼻腔に送ることが必要なのだが、「フン、フン」と鼻をかむつもりが、息の吹き出すのは、ノドの気管孔である。これまた当然の話だが、はっきりと自覚したとき一瞬たじろいだ。
人間がなに気なくやっていることも、実はすばらしく精巧な人体のメカニズムあればこそなのだと、こうなってみて、何度痛感させられることか。
それにしても、わが唇にはさまれたまま、頼りなげに細い煙を漂わせるだけの煙草を見たときの想いはなんともいい難い。
この病棟で、私と同じような手術を受け、声を失い、流動食を余儀なくされて退院なさった先輩の方々から、激励の手紙をいただく。
いずれも退院後の生活の知恵を含めた貴重な体験談で、私には参考になる以上のものだが、「病院にいる間は、みんながわかり合っているからいいのだが、退院して世間と向き合ったら、辛いことも多いですよ」と綴《つづ》ってくれるひともいる。
電車のなかでよろけて隣のひとの足を踏んでしまった。普通なら「すみません」とか「ごめんなさい」ですむことなのだが、こちらが無言のため、むかっときたらしく、「謝ったらどうなんだ」と怒鳴られた。声のかわりに頭を下げるのだが、相手はこちらがしゃべれないとは知らないから、馬鹿にしやがって……と激怒しはじめ、おさまらなくなった。「電車のなかで土下座しました」という体験談は身につまされる。
「謝れ!」といったひとも、こちらが声を失っていると知っていたら、怒鳴ったりはしなかっただろうが、思えば辛い話である。
社会にもどったら、それ相当の覚悟をしなければと、同病の先輩は忠告してくれているのだが、お灸のような煙を漂わせる煙草じゃないが、改めて思い知ることが多いにちがいない。
入院以来五ヵ月、この病院の外へは一歩も出たことがなかったが、息子の舞台を見に出かけるために、外に出たらどんな調子なのかを試みたかった。それと、どうやってみても五十一キロ以上にはならぬ痩せ方で、ズボンがまるで合わなくなっている。細くなったウエストに合わせたズボンを買うために、ファッションライターの金田美智子さんに池袋まで連れていってもらう。
ウィークエンドの池袋は人の波。どこもかしこももうクリスマスだった。それが当り前の暮し方をついこの間までしていたはずなのに、雑踏に気をのまれ、圧迫感で息苦しくなる。
「こんなこっちゃいかんぞ」
と喫茶店にも寄ってみる。病室から持参した吸い飲みに、コップのミルクを移して口に運ぶ。かたわらを通るウエイトレスや、隣席の客はいぶかし気に私を見つめる。そのひとたちの視線がときおりチラッチラッと私を見ているのを感じる。そんなこと気にしていたら、これからやっていけないぞと、氷ぬきのアイスミルクをもう一杯注文する。
7章 待ちに待った日
ガタゴト列車
私の病室にもクリスマス・ツリーが届いた。白いブーツの鉢カバーに収まった植木鉢のツリーは、綿の雪をかぶり、デコレーションが可愛く飾られている。かかえて持ってきてくれたのは坂本スミ子さん。嬉しい限りだが、彼女はもう何度も病床を訪れてくれている。自身開腹手術をして、術後必ずしも快調とはいい難いらしいのだが、明るく弾んだ声で私を激励してくれる。
このひとでなければ生み出せない世界がある貴重な歌手だ。大切に使ってほしいと病床の私がおスミさんに忠告したりしたが、いつまでもやさしく可愛いひとだ。
おスミさんのクリスマス・ツリーにつづいて、〈モーニングショー〉の取材クルーを引き受けている制作プロ“タキオン”のスタッフからもツリーをプレゼントされる。私の病室はにわかに歳末気分だ。もう師走まで何日もない。一九八九年もいよいよ大詰めだなという実感がひしひし。
四、五日前から私の隣の病室では、吠えるような、うめくような患者の声が、ほとんど一晩中つづく。きっと激しい痛みに苦しんでおられるにちがいないが、その叫びは壁を通して私にも伝わってくる。
この春、自宅でのたうちまわっていたころの自分の姿が思い起こされる。きっと耐え難い苦痛であるにちがいないのだが、病棟にあって、医師や看護婦さんたちの処置を受けながらも、この悲惨な状態だ。
付添っておられる奥さんは、私と顔を合わせると、しきりに申し訳ないといわれるし、病室にくる看護婦さんは、「眠れないんじゃないですか……」と心配するのだが、七十歳を超えたばかりのご主人は、発病と併行してボケがはじまり、吠えるような叫びは痛みばかりではないらしい。担当医も手術などの処置ができる状態ではなく、沈静を待っていたらしいが、病状はいよいよよくないらしいのだ。辛い話である。
十一月二十六日、日曜日の朝。私は妙に落ちつかない。昨夜からほとんど眠れなかったのは、隣室のうめき声のせいではない。芸術座の昼の部を観て、楽屋を訪れる予定だからで、柄にもなくドキドキしていたからだ。
随行取材するという〈モーニングショー〉のクルーが早々とやってきて、身仕度をする私をVTRに収めるという。映画評論家の林冬子さんもきてくれて、彼女の車で連れていってもらうことにする。池袋で買ったズボンと靴、そしてワイシャツを着用に及んだが、こんな姿は実に八ヵ月ぶりのことだ。
快晴の街は、私にはなじみの光景のはずなのだが、妙に新鮮で刺激的に映る。口のなかや気管孔が、外出している間、満足に保ってくれるか、一抹《いちまつ》の不安は隠せない。が、VTRカメラが私を追っている。つとめて普通の顔でいようと、日比谷の駐車場から、日比谷シャンテの横を通って芸術座まで、軽快に歩いたつもりだが、ヒザが笑うって感じで、うっかりするとガクッときそうになるし、アスコットタイの下の気管孔も息苦しさを訴える。自分ではもう普通のつもりでいても、とても普通じゃあり得なくて、慎重にゆっくり動かないと危ない……と実感する。
頭のなかの記憶回路では、手も足も首もこのように動くはずとインプットされたままで、そのつもりでいると、実際の動きのほうはとてもついていけない状態なのだ。急に動き出したりすると軽いめまいと動作の遅れで倒れそうになったりする。無意識に動くのではなしに、まず考えてから一拍おいて動かないといけないらしいのは無念である。
芸術座は超満席。井上マスさんの半生は浜木綿子さんのキャラクターにぴったりで、《人生は、ガタゴト列車に乗って……》は初日以来、連日満席。客席に身体を埋めて開幕を待つ私は、試験に臨む少年のように緊張する。わが息子・岳史《たけし》の初舞台をこの眼で見るわけで、どうにも落ちつかないが、VTRカメラの動きもあって、私に気づかれたお客さんもおられるようで、つとめて胸を張っているしかない。
幕があいた。浜木綿子さんと江守徹さんのからみの場面で、岳史とその弟役の少年が飛び出す。ドキドキしながら見すえていたが、私が思っていたよりも、きちんとつとめていた。動きも自然だし、セリフも通る。普段のわが息子・岳史とは別人のようでもある。
おまえはどうやら、根っから芝居が好きらしくて、幼いころから“仕事”として誇りを持っていた。端役のオーディションに何度落ちてもケロッとしていたし、決った仕事には夢中だった。
まだ小学校一年のころ、テレビドラマの端役で都内ロケに参加する朝、風邪を引きこんで、三十八度の熱だったことがあった。メインの子供を登校の折に誘うだけの役だったようだが、誰でもいいようなものの、当日になってこられなくなった……となれば現場は迷惑する。たかがそれだけの役だが、その日になって代りを探すのは、全く余計な手間だ。時間と金のきびしい制約のなかで苦闘する制作会社の台所事情を熟知している私は、心配するかみさんを制して、
「岳史、熱があってもやれるか……。どうしても立てないならしかたがないが、約束した仕事はやりとげろ。役者が仕事に穴をあけるほど恥ずかしいことはないんだ」
と、おまえを見つめた。
「大丈夫だよ。ボク行ってくる」
お母さんと出かけていったおまえを、私は頼もしく思いながら、しかし心配だった。
ロケ先で衣装に着替えるおまえが、真っ赤な頬をしているので、衣装部のおばさんが「熱があるんじゃないの」とおまえを覗き込んだとき、「約束した仕事に穴をあけたら男じゃないって、パパがいったんだ」とおまえは胸を張ったそうだ。
後刻、ドラマのヒロインの沢田亜矢子さんにきかされたのだが、居合わせた中尾ミエさんなどと、「凄《すご》い親もいるものネ」と「ボクのパパってなにするひと?」と聞いたそうである。
「芸能評論家の加東康一だよ」
大声で答える小学一年生にみんなギョッとしたそうだ。「お子さんにもああなんだもの、きびしいこというわけね」と、ひとしきり話のタネだったというのだが、いま思えば、元気だった私が、おまえに残したささやかな遺産だったという気もする。
そのころから、おまえは演ずることが好きだった。NHKの教育ドラマ《さわやか三組》での千葉県の合宿ロケも、《風の又三郎》の岩手ロケにも嬉々として一人で出かけていった。仕事を通して、一人歩きも平気な少年に育ってくれたのは嬉しい限りだ。
芸術座の舞台はしかし、客席を前に、やりなおしのきかない真剣勝負である。劇のクライマックスのひとつが母と子の別れで、唯一の泣かせどころでもある。子役がきちんとしていなければ台無しになりかねない。
浜さんの薫陶《くんとう》で、岳史も浜さんと毎回、本物の涙を流しているという。感情移入がそこまでできれば、まずは及第だろう。
客席に身体を埋めていた私は、ドラマのストーリーとは別に眼がうるんだ。VTRカメラが私を追っていたが、眼頭《めがしら》が熱くなるのを、こらえられなかった。
幕が下りて、楽屋に浜さんを訪ねた。声のないことが、これほどもどかしいとは……。浜さんにペンを走らせて感謝の意を伝えるのだが、いいたいことの一割も伝えられない。
岳史も浜さんの楽屋にやってきたが、私の前だとやたらに照れてしまう息子である。
大空真弓さん、光本幸子さん、江守徹さんなど、なつかしい顔にもお会いした。ご挨拶したいのだが、楽屋の廊下では、私はただ頭を下げるのみ。「こりゃ娑婆《しやば》にもどるとかなり辛いぞ」と実感する。
クリスマス・デコレーションの夕暮れの街を再び病院に急ぐ。明日からはじまる抗ガン剤投与の前哨戦《ぜんしようせん》で、夕方から点滴が二本、私を待っているからだ。この間の中途挫折があるから、今回は意地でも完了せねばと思う。
隣室がシーンと静まりかえっていた。私が外出している間に、吠えるように苦しんでおられた隣人は逝《い》ってしまった。やっと苦痛から解放されたのだろうが、手術もできぬままにと思うと、胸が痛む。
抗ガン剤終了
「いよいよくるな。クソ、負けてたまるか」
まず、とっかえひっかえ九本の点滴が朝からつづく。そのうちの二本が化学治療の抗ガン剤で、他の七本は副作用を最小限におさえるための薬。特に腎臓の負担を軽減するために、点滴の液体はそのまま尿になって出るのではないかと思うほど、排尿が激しい。もちろん尿の計量と検査がつづく。
しかし、これはまだ序の口で、次の日の朝から腕の血管に長い針を入れ、五日間、百二十時間連続注入の点滴がはじまる。ガラスビン一本を八時間かけて入れるのだから計十五本。量を重ねるにしたがって吐き気、全身倦怠《けんたい》、めまい、口腔内のただれなどの副作用が正比例して激しくなってくる。
今度音《ね》をあげたら、それこそ、もの笑いのタネだぞ……と自分にいいきかせる。ここで再び投げ出したら、かみさんや岳史《たけし》が落胆《らくたん》するだろうし、主治医の苦瓜《にがうり》先生にも面《メン》子《ツ》がたたない。三日目あたり、「もういいでしょう」といいたかったのだが、懸命に耐える。
たとえゲーゲー吐くことになっても胃袋に入れなきゃだめだと、朝、昼、晩の食事も意地になって流し込む。
ただ残念ながら、左腕を点滴台につながれっ放しでは、体の自由がきかない。これまで食膳を自分でミキサー・コーナーに運んで、清涼飲料などをミックスして自室に持ち帰り、吸い飲みで口に運んでいたのだが、それができない。看護婦さんの手をわずらわしてミキサーにかけてもらうしかない。
食欲がないどころか、ベッドに縛りつけられて懸命に吐き気をこらえながらの食事である。「食べなきゃ負けなんだ」と意地を張っているのだが、プッツンと糸がきれそうにもなる。
そんなときに、私の元からミキサー・コーナーに食膳を運んでいった看護婦さんが、一時間待っても食事を運んではくれない。ナースコールできてもらったら、担当の看護婦さんがうっかり忘れていたって話。
体調最悪だったこともあって、私は年甲斐もなくカッときて、乱暴にメモ用紙に「もういらない」となぐり書き。青くなってベッドサイドまで飛んできて、ひざまずいて謝る担当だった看護婦さんを、顔も見ずに無視しつづけたりしたのだった。
婦長さんまで口添えにこられて、許してやってほしいという話にまでなって、われながら恥かしくなった。私の病室の向いの部屋も隣も重度の症状で、心電図の器具や酸素吸入が運び込まれ、二十四時間態勢で介護がつづいている状況。そんななかで、ついうっかり私の食事を忘れたからって無理もない話なのだ。怒りまくった私が情けなく、今度はこちらが謝る番である。
そんなこんなののいったりきたりで、化学治療を遂に完了した。ともかく頑張り通して、左腕から長い針を抜いたときには、ホッとするというより、全身から力が抜けていく感じだった。苦瓜先生も、「頑張りましたね」と自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
その抗ガン剤投与のさなかに、師走に入った。そしてその十二月一日は世界が激しく動いた。フィリピンでは国軍二千名がクーデター。アキノ政権は誕生以来三年十ヵ月で、六度目の軍の反乱に見舞われたのだが、今回は最大規模。どう収拾するのか、アキノ政権の命運にかかわろう。
アキノ政権誕生の理由であった前大統領マルコスのあきれかえった国家財産の横領をはるかに上回る権力乱用の実態が、東独であきらかになる。ホーネッカーをはじめとする東独共産党幹部のすさまじい汚職体質は、東側諸国にとってもショックだったろう。
東独は政治的空白がつづき、チェコスロバキアも共産党一党独裁は崩壊。東欧諸国はゆれにゆれつづける。
ゴルバチョフ・ソ連議長は、米ソ首脳会談を前に、バチカンに法王ヨハネ・パウロ二世を公式訪問。ロシア革命以来七十余年の対立に終止符をうって、マルタに向かった。
私などには、あのハンフリー・ボガート主演のサスペンスアクション《マルタの鷹》以上になじみのない地中海の小さな島国で、ブッシュ、ゴルバチョフ両首脳が会談。折から地中海は大荒れだったが、米ソ両首脳が並んで記者会見に臨んだ画期的な情況を、リアルタイムで病室のブラウン管から見つめる。
歴史の大きな転換期を病床で見つめる私は感慨無量だが、米ソ会談にアジアはほとんど触れられていない。東西の大幅な歩み寄りは、西側の一員である経済大国ニッポンを孤立化させる危険は充分にある。中国は東欧諸国の変化に批判的で、あくまで社会主義体制を守ろうとするルーマニアに学ぼうという。そのルーマニアも、嵐のような民主化要求には抗する術もないのは明らかだ。
そのルーマニアからはあの五輪体操の名花コマネチが亡命し、アメリカに渡った。コマネチの手引きをしたのはアメリカ在住のルーマニア男性コンスタンチン・パニットという人物だが、妻と四児のある身で、コマネチと恋の逃避行と、芸能誌の飛びつきそうなスキャンダラスな付録付き。
ゆれる東欧、微妙な反応のEC諸国に世界の視線が集るなかで、アジアも確実に動いている。病に倒れるまで、かなり積極的にかかわってきたスリランカも、そしてカンボジアも、ゆれ動き地殻変動が起こりそうだ。病床に縛りつけられてしまったのが、なんとも無念だが、これもまた天の配剤なのだろう。
一九九〇年代に私は、いまの私の姿でのかかわり方を模索しながら、引きつづきアジアの一員でありたいと思う。
息子・岳史はダブルキャストの中学生が期末試験とかで休演のため、一週間ぶっ通しで出演。本人は大喜びで楽屋のみなさんにも可愛がられながらの毎日らしいが、どうやら根っから好きらしい。この分では役者以外にないのだろうが、そうなると中学の選択も難問だろう。
かみさんも芸術座に詰めっぱなしだから、しばらく病室には姿を見せない。化学治療の一番辛いときを見せずにすんで、かえってよかったとも思う。
吐き気やめまいなどの副作用は次第に収まってきたが、口腔内のただれと耳鳴りによる難聴はかなりひどい。発声をしないと自然にきく能力も衰えるのだろうかと、疑いたくなるくらいに耳が遠くなる。副作用の後遺症はしばらくつづきそうだ。
調理人志願
小春日和といいたいほど、うららかにあたたかい。師走《しわす》も半ばをすぎて、クリスマスどころか、そろそろ正月の飾りつけをはじめる店もあるというのに、この暖冬ぶりはどうであろうか。
息子の岳史《たけし》が勢いよく病室に飛び込んでくる。〈モーニングショー〉の取材クルーといっしょで、今日は私が息子と病室を出て公園などを散歩するシーンをVTR収録したいのだそうだ。岳史はピンクのセーターを私へのクリスマスプレゼントだとかかえてきた。また一段と背が伸びた感じである。
小石川の公園の池のほとりを散策したが、元気があまっている息子に対して、私のほうはちょっと段差のある道だったりするとフラフラとよろけそうになる。
「大丈夫、お父さん」と岳史。なんとなく“負うた子に教えられ”って雰囲気にもなってくる。
チビでやせっぽちのかみさんが、帝王切開で岳史を出産した九段坂病院の夏の昼下がりが、ついこの間のようにも思えてくるのだが、子供というやつは、アッという間に育っていく。
岳史が生れたのは、私が四十七歳、かみさんが三十四歳のときだから、まさに遅い子持ちであった。私はその岳史の誕生を、ほとんど狂気乱舞で迎えたのだが、世間並みの父と子のように、長く付き合うことは難しいだろうな……と切なくもあった。親バカといわれようが、過保護と責められようが、「こいつとめいっぱい楽しくすごそう」と心に決めていた。
生後三ヵ月も経たぬうちに新宿ゴールデン街のバーに連れていき、カウンターにすわらせたり、乳母車をゴルフ練習場にのり入れたり、西に東に飛んで歩く毎日のなかで、許された時間は、もうベッタリ息子といっしょだった。
三輪車が補助輪つきの自転車になり、やがて補助輪なしの二輪車を乗りこなせるようになると、日曜ごとに神宮外苑に通ったのも昨日のようだが、間もなくサイクリングに父子で出かけるようになった。いまや一輪車をスイスイ乗りこなすおまえに、親父の私はフームとうなりながら拍手する変りようである。
みるみるうちにおまえは成長し、もうとうにお母さんより身長も体重もある。そして間もなく私を超えていくだろう。その確実な足音を公園の飛び石を伝い歩く私に手をそえるおまえに感じた。頼もしくもあり、ほろ苦くもある奇妙な感触である。
公園から病院にもどる途中、クリスマスプレゼントを買いに池袋西武に寄る。目指すは玩具売場のファミコン・コーナー。ほとんどもみ合いへし合いの混雑。
「お父さんはここから動かないで待ってて……」
とティー・ラウンジの前に私を残して、おまえは雑踏のなかを泳いでいく。機敏で逞《たくま》しいその姿は、私の腕のなかで両足をつっぱってはピョンピョンはねていたあの赤ん坊のおまえとはとても思えない変貌なのだ。
間もなく芸術座の公演も無事に打ち上げとなるだろう。おまえは初舞台の経験に嬉々として輝いている。私にもそれがよくわかる。どうやらおまえの将来は俳優の道しかないようだとも思える。なにしろ好きらしいのだから、それもまたいいだろう。
私の父・みの助が筆をとる稼業だった。私も戦後の混乱のなかで同じように筆をとりはじめて、ここまできてしまった。その血を受けついで三代目も……と思わぬではなかったが、おまえが全身で表現する俳優の世界に魅力を感じたことを、私はむしろ喜びたい。人間、好きなことにかかわれるほど幸せなことはないからだ。目の前のすさまじい買物客たちの混乱を呆然と見ながら、明日のおまえを、そして私を思う。
息子が大きくなったら、いっしょに飲み歩く……親父なんてものは誰しも、その日を夢に描くものだろうが、私もそうだった。
そんな思いが先行して、三歳のころから銀座のバーを連れて歩いたりもしたが、こうなってしまっては、どうやらその夢は果たせない。酒を飲めなくはないだろうが、残念ながらコップからは無理である。吸いのみに水割りを移して流しこむ有様では、銀座のクラブや六本木のバーでもあるまいと思う。
それが口惜しいが、私が飲めなくても食べられなくても、かみさんや息子を、私の体験した“味どころ”に案内してやろうと、このごろしきりに思う。もう食べられないからこそ、私の代りに味わってもらったら、私も食べた気になれそうだからだ。
なんでもかんでも、ミキサーにかけて流動食にする。いいかえれば、流動食にできないものは一切《いつさい》たべられない身となって、はじめのうちはテレビの旅番組やCMまでが腹立たしかった。うまそうに逸品料理を味わう姿や、即席ラーメンをすする表情に目をそむけてもきたが、待てよ……と思いはじめた。
目を閉じ背を向けて食文化に無縁とスネているよりも、積極的にかかわるために自分が料理する側にまわったらいい。もともと私は料理ぎらいどころか、結構器用に調理するほうだった。舌が効かないから、味みっていうのができないのが心もとないが、それだってカンに頼ってできぬことはあるまい。ここはひとつ調理人として名乗りをあげてやろう……と思ってからは、ひどく気が楽になった。
以来、テレビの料理番組はかかさず見るようになった。〈金子信雄の楽しい夕食〉〈生島ヒロシのおいしいフライパン〉〈ごちそうさま〉などなど、メモこそとらないがベッドから熱心に見ている殊勝な視聴者である。
退院してわが家にもどったら、せっせとキッチンに立って、かみさんや息子のために腕をふるってやろうとひそかに考える。
「料理作ってるうちに食べたくなくなっちゃう」とよくいうが、それが当たっているならば、目をそむければ余計に欲望が肥大するだろう。しかし、逆に自分のほうが接近すれば楽になるはずだ。
久しくその機会もなく、廊下の片隅でホコリをかぶっている釣り道具にも磨きをかけて、健康をとりもどしたら釣りにも出かけてみるか。半分は息子の手を借りながらでも、沖釣りに出かけられたらな……と夢もふくらむ。
こんな風に考えられるまでに半年かかったな……と、一人噛みしめる夜だ。
ゆく年くる年
年末もあんまり押し迫らないうちに退院を……とずっと考えてきた。苦瓜《にがうり》先生も「年末には……」といっておられたから、私はそのつもりで、友人たちにも年内には娑婆《しやば》にもどるといいつづけてきた。
だが血液検査の結果、白血球の減少と、血液そのものが通常より四〇パーセント近く足りない貧血状態とわかった。中断した第二回を含めて、前後三回の抗ガン剤投与の影響である。ただ自然に回復してくるのを待つしかない。
「肺炎などがこわいですから、年内退院は見合わせましょう。年を越して、もう一度検査して一月中旬ごろには……」
内田先生も部長回診でニコやかにこうおっしゃる。私としては、「ややっ……」てなもので、年内退院の気でいたからショックである。
「そんなはずじゃなかったのに……」
と戸惑いと焦りのなかで、クリスマス・イブを迎える。外は冷たい雨が降りつづいている。静まりかえった病室で一人すごす聖夜……。一年前は名古屋観光ホテルでの雪村いづみさんのディナーショーを、伊藤強さんたちと見て、その翌日から飛騨《ひだ》高山、下呂《げろ》温泉と旅して歩いていた。
ページをめくるように思い返してみると、こんなクリスマス・イブは、まさに生涯ではじめてのことである。疎外感がそくそくと胸を打つのだが、世界はそれどころじゃなかった。
病室でたった一人だったからこそ、このクリスマスをはさんでの東欧と中米の騒乱に、私の目は釘づけだった。
ルーマニアのチャウシェスク政権はアッという間に崩壊し、ナチのゲシュタポを想起させる治安警察は、民衆の側に立った国軍と砲火をかまえ、六万からの市民がその犠牲となった。国外逃亡を伝えられたチャウシェスク大続領夫妻は救国戦線評議会に捕えられ、国軍裁判にかけられて即刻銃殺というすさまじさ。
中米パナマで反米の狼煙《のろし》をあげつづける独裁者ノリエガ将軍に業《ごう》を煮やしたアメリカは遂に軍事介入。ところが、ひとたまりもないと思ったパナマのノリエガ派軍の根強い抵抗にあって、増強部隊の出動を要請する始末。ノリエガの首に賞金までつけるといった西部劇もどきの騒ぎだったが、当のノリエガは白昼単身でバチカン大使館に亡命を求めて逃げ込んでしまうといった事態である。
レーガンを引きついで「強いアメリカ」を誇示したかったブッシュ米大続領は、クリスマス休暇先から、あくまでノリエガ逮捕を叫ぶ。他国の総帥《そうすい》を「逮捕する」という大国の支配意識と、マルタ会談の合意とがどうつながるのか、波紋を投げかけるクリスマスだった。
「お正月は一時帰宅してもいいですよ」
と外泊許可書も見せられたが、未練がましく、大晦日と元日だけ“外泊”するなんてみっともないまねができるか……って思いもある。外泊するくらいなら退院してしまう……と、病室にいすわることにする。
除夜の鐘をここできき、ここから年の終りと九〇年の幕あけをじっくりと味わおうと決める。
年末年始を一時帰宅する患者さんが結構いて、三十日あたりから頭頸科《とうけいか》病棟もひっそりとしてくる。医師も看護婦も一月五日の診察再開まで、当番のローテーションが決ったようで、故郷に帰る看護婦さんもいる。正月がくるんだなと複雑な思いだ。
「一夜飾りはよくないから」
と三十日、かみさんが大荷物をかかえて、芸術座の舞台を無事につとめ終えた息子と病室にやってくる。松に結び柳、赤い実が可憐な千両を花瓶に、かわいい鏡餅にウラジロ、ユズリハ、葉ミカン。そして輪飾り。これで私の病室もにわかに迎春の準備がととのった感じだ。
「パパがここだから、この部屋にお正月がくればいいの。家のほうは門松もなし」
とかみさんは笑ったが、家のなかの掃除もこれからだと、早くもお年玉の皮算用に忙しい息子の岳史《たけし》をせきたてるように帰っていく。
マスコミはあげて一九八九年の総決算。年末大詰めまで、まだなにが起こるかわからないといったゆれ動く世界のなかで、わがニッポン国のみが金あまりを語り、年末年始に海外脱出組だけでも四十二万人を超えるという。
東欧がこれからどう動くのか。秘密警察だった同胞を洗い出そうと疑心暗鬼の渦巻くルーマニアは異例だとしても、民主化の波が経済の壁にぶち当ったときどうなるのか。ペレストロイカのゴルバチョフ政権は深刻な国内経済問題と、バルト三国を筆頭とする内なる民族自治の叫びをかかえて、その政治生命さえもあやぶまれる。
天安門事件を圧殺し、小平老からバトンタッチした江沢民総書記の中国共産党は、この東欧情勢をどう見るのか。十二億の民衆をかかえた中国の九〇年代はきびしいにちがいないが、その世界注視だった血の六月四日の天安門事件の学生リーダー・ウアルカイシは北京を脱出しアメリカヘ。そして東京にも姿を現したが、その背景はいかにも不気味に謎っぽい。
生体肝移植、凍結受精卵による出産、テクノロジーと倫理をめぐる論議もしきり。バイオテクノロジーによる生態系の異変が、地球の環境破壊とならんで二十一世紀の課題となるだろうといわれるなかで一九八九年もラストデー。大晦日がやってきた。
静かな大晦日である。病棟はひっそりとしている。この一年をふりかえってみて、月並みな表現だが感慨無量だ。
夕方、かみさんがやってくる。すっかり書斎と化した病室をあれこれ片づけながら、年内退院を果たせなかった私の胸中を気づかって、「かえってよかったわよ。外は寒いし」などと慰めてくれるのだが、彼女もまたこの一年をふりかえって、思わず涙ぐんだ。入院以来半年余の間で、私が二度目にみたかみさんの涙だった。
かみさんにとって、この一年はまさに激動の日々だったにちがいない。予想もしなかった亭主の発病、生死の境をさまよう夫を見守りながらの日々。そして声を失いイラだつ私をかかえて一家を支えた明け暮れ。いま、どうやら退院に漕ぎつけられそうな私を目のあたりに、ふっと気を許しているのであろうか。
「ご苦労さんでした。ホントにありがとう」
私はメモに走り書き。それ以上に言葉もない。
「まだ、家のなか片づけなきゃ」
とかみさんが引きあげた後は、不気味なくらいな静けさである。
病棟にアナウンスが響く。
「今日は大晦日ですので、テレビ室は十二時まで開けております」
九時消灯で、なにかときびしい病棟も今日は特別。大部屋の患者さんたちも、テレビ室で《紅白歌合戦》を楽しむということなのであろう。
今年はじっくり《紅白歌合戦》を見ることにする。二部構成で七時から四時間四十五分。第一部の「歌でつづる昭和」には、VTRで登場する美空ひばり、水原弘、山口百恵、森昌子などを含め、五年ぶりに歌う都はるみとつづく。TBSの《レコード大賞》にとっては大打撃は必定《ひつじよう》。
テレビメディアにおける歌番組の低迷がいちじるしいときに、最大の歌謡曲のイベントである《レコード大賞》をNHKが潰しにかかり、自らの《紅白歌合戦》も生彩を失う。結果を見る前から予測できたことだったが、ひと言でいえば《紅白歌合戦》という歴史を刻んできた番組の担い手たちの志の低さ、いやしさが、この貴重な番組を支離滅裂なものとしてしまっていた。
その《紅白》放送中に、黒柳徹子さんの事務所の若者が病室までとどけもの。《紅白》の第一部で歴代司会者の一人として思い出をチョコッと語っていた黒柳さんが、NHKホールの楽屋で吹き込んでくれた私へのメッセージのテープに、わざわざウォークマンをそえて「十二時が過ぎたら聞いてネ」と走り書きがそえてあった。
《紅白》が終り、《ゆく年くる年》で永平寺の鐘が新しい年を告げるのを待ちかねて、私はウォークマンのイヤホーンを耳にあてた。
「加東さん、明けましておめでとう」
明るい黒柳さんの声がひびく。楽屋を人ばらいして、テープを入れているのだと語りながら、《紅白》の楽屋裏のテンヤワンヤぶりを面白く語り、正月五日からインドに出かける話などを例によってポンポンと伝えながら、病室で一人年を越す私を気づかっての彼女の思いやりが、痛いほど伝わってくる。テープの声に何度もうなずきながら、思わず目がしらが熱くなった。
私の新しい年一九九〇年はこうして明けた。テレビ朝日の《朝まで生テレビ》の元気いっぱいな人々の激論をチラチラ見聞きしながら、うとうとする間もなく朝日がのぼってきた。
六時四十分過ぎ、東京は快晴で、私の病室からもキラキラと朝の陽光がまぶしい。
一九九〇年、今年は私にとってどんな年になるのであろうか。娑婆にもどっての第二の人生で、私を待ちかまえているものがなんであるのか。ここまでくると私自身が興味津々《しんしん》でさえある。
退 院
「いや、どうも……またお世話になります」
口のきけるひとはそんなセリフを交わしながら、「おめでとう」とはいいにくいって表情で、家族に付添われながら病室に帰ってくる。年末年始に一時帰宅していた患者さんたちが次々にもどってくるのだ。
一月五日、病院の診療活動が再開され、一階の外来は雑踏を思わせる混雑。頭頸科《とうけいか》病棟も、看護婦さんたちのあわただしい動きや、掃除のおじさん、おばさんたちの活発な働きなど日常がもどってきた。
早朝、採血されての血液検査の結果が昼過ぎにはわかった。
「まだ少し貧血気味ではありますが、白血球も正常にもどりました。一週間後に退院ということにしましょうか」
内田正興先生が温顔をほころばせて、私に伝えてくれる。
一月十二日午後に退院することが決定。それまでの一週間に、レントゲン検査、気管孔の調整、下アゴの矯正などが行われる。
私の十二日退院が病棟の看護婦さんたちから助手さんたちに伝わり、患者に付添いの家族の方々からも、「よかったですね。おめでとうございます」と声をかけられる。
思えば長い病院暮しだった。六月九日に大同病院に入院。癌研に転院したのが六月二十一日。数えてみると百十七日の入院生活だった。正直にいえば、大同病院から癌研附属病院に入ったときは、ここを出るときは棺桶なんだろうなと思ってもいた。
事実、意識不明の日が何日もつづいた。それでも歯を喰いしばって、病床記のペンをとりつづけたのは、わずか十一、二歳で別れることになるかもしれないわが息子の岳史に、父親である私の死に至るまでの赤裸々な姿を残してやりたかったからだし、そうすることで、もし鬼籍《きせき》に入ったとしても、息子のおまえの五体を通して、私もきっと世の中を見つづけることができるであろう……と思いもしたからだった。
しかし、私は病に倒れたことで、私という男が、なんと多くの人々の愛に支えられていたのかを、痛感させられた。私に寄せられた激励と慰め、あるいは叱咤《しつた》の声に、私は、死線から這いあがることができた。
病棟の先生方や看護婦さんたちのご尽力《じんりよく》も、もちろんそのときどきの情景までもが鮮明に甦《よみがえ》るほどに記憶しているのだが、私の気力を導き出してくれたのは、わが友たちの厚い友情だった。
そして、どうにか退院を迎えるところまで歩んできたのだ。長い道程《みちのり》だった。そして、まさに地球規模の動きを含めて、いろいろあった日々の積み重ねだった。
一月七日、昭和天皇の一周年祭。私の舌ガン日誌の第一ページが奇《く》しくもコロンボでの天皇崩御《ほうぎよ》の報に接した日からであった。まさにあれから一年である。さまざまな思いが交錯するなかで、少しずつ病室を片づけはじめる。
半年余も暮し、いまや書斎と化した私の病室は、ちょっとした独身サラリーマンの部屋ぐらいの構えで、いざ引き払うとなると、まさに引っ越し騒ぎ。
手のつけられるところからダンボールに詰めて、宅急便で自宅に送る。そうした需要も多いのだろう、二階入院患者入口近くには宅急便の看板が出ていて、手際よく受付けてくれる。
それでもまだ退院当日はかなりの荷物となりそうで、十二日には大勢の友人たちが手伝いに来てくれるという。
私の退院の一日前に、渡辺謙さんが退院した。彼にとっては忘れられない一月十一日となるのだろうが、白血病の謙さんは抗ガン剤の投与で頭髪が私と同じように激しく抜け落ちたのだろう。頭を丸めてソフトをかぶっての記者会見がブラウン管に映った。元気に語る彼は、やや痩せたけれど意欲にみちていた。
渡辺謙さん退院の朗報につづいて、加東康一も今日午後には退院する……と《やじうまワイド》が語ってくれた。吉沢アナウンサーの声を受けて藤原弘達さんの変らぬ元気いっぱいの激励の声が飛び、私もいよいよ娑婆《しやば》にもどるんだなって実感が湧いてくる。
病室に〈モーニングショー〉の取材クルーが昼前からやってきた。退院風景を細かく取材するという。
かみさんと岳史が現れたころには、テレビ各局とスポーツ紙、週刊誌のみなさんが取材に集ってこられた。声を失った身では満足なお応えはできないし、えらいことになったな……って感じだが、取材陣の数は膨れ上がっている様子。
気になったが、内田、苦瓜《にがうり》の両先生が外来の診察を終えられて、私の病室にみえるまで、じっとお待ちする。
昨夜もほとんど眠れなかったが、温室を出て娑婆にもどるという興奮と緊張からか、全く眠気はない。
一週間後にはC・T検査があり、その翌週からは、二週に一回通院して経過をみることになる。再発や転移の可能性が全くないわけではないし、口のなかの様子や気管孔での呼吸の具合なども監視しつづける必要があるというわけだ。
内田先生が明るい笑顔でみえられる。
「おめでとう。よく頑張りましたネ」
苦瓜先生もうれしそうだった。お二人に送られ、かみさんと岳史とともに病棟を出る。報道陣の集ったことから私の退院が病院内に知れわたったようで、売店や食堂のひとたちや、他の病棟の患者さんや付添いの方々までが見送ってくださる。病院の入口には報道関係者が半円の陣を組んで待ちうけてくれていた。
晴れがましく気恥ずかしいが、長い入院生活から這《は》いあがってきた男を祝福してやろうという、仲間たちの温かさが嬉しい。
百十七日ぶりにもどった六本木のわが家には、部屋中あふれんばかりの花がとどけられていた。退院を知った友人からの色とりどりの花が、涙に滲んでぼやけて見えた。もどってきたんだな。生きているんだな……という実感が胸に突き上げた。
「おめでとうございます」と集ってくれる友人や近所の方。かみさんの友人たちは朝から祝膳の用意をしてくれていた。私は箸《はし》を持つわけにはいかないのだが、吸い飲みで冷酒を乾杯しながら、みなさんの祝福をうける。
久しぶりに、わが家に父親の座る姿を実感した息子の岳史は、しきりにはしゃぎながらも、なんとなく照れながら留守中の家の内の異変を語ったりした。
ひとあたり騒ぎがおさまり、お客さんも引きあげたところで、改めてわが家を実感する。実はこれからが出発なのだが、さてどうなることか。雲をつかむような頼りなさや、肉体的条件への一抹《いちまつ》の不安は拭《ぬぐ》いようがないのだが、まだもう少しやってみろという天の配剤であろう。
生きたいというよりも生かされた自分を、どのように意味あるものとしていくのか。私に限りなき愛情を注ぎ声援を送ってくださった人々に対する私なりの応えも出さずばなるまい。
そして岳史よ、おまえに私は残された日々に私が伝え得るすべてを伝えておこうと思う。そういう時間を与えられたことに私は感謝しよう。
ありがとう。
さてこれから
――あとがきにかえて
思えば長い病棟生活だった。私の人生ではこれほどの時間を自分自身と対決したのは、まさにはじめてだ。
が、私のガンとの闘いは終ったわけではない。ある意味では、これからが本当の闘いのはじまりなのかもしれないとも思う。
しかし、生と死の境をさまよいながら、こうして生命をながらえ得たのも、内田正興先生、苦瓜《にがうり》知彦先生をはじめ、癌研究会附属病院南三階病棟のみなさんのお陰だし、入院以来、数限りない激励を寄せてくださった友人、そして、まだ面識もない方々からの熱いご好意があってのことだと痛切に感じている。
それにしても、他人の病気の話なんか読まされても面白いものかどうか。不安や疑問はもちろん残るのだが、ひょっとするとこのままいけないかな……と思ったときから、歯を食いしばってノートに書きつづけた記録を、できるだけそのまま活字にすることにした。
小学六年生の一人息子・岳史《たけし》への父からのメッセージという思いも切実だったが、私の闘病に「負けるな、頑張れ!」と励まし、慰め、叱責《しつせき》してくださった多くの方々に、私がどうガンと対決し、どう感じてきたかを、ご報告する義務があるとも思い定めてのこの一冊である。
思い返せば恥かしくも情けない場面も再三だった。折から一九八九年という年は、まさに歴史的な激動の時間の積み重ねでもあって、思いわずらうこともしきりだった。それらを含めて、正直な私の姿を読みとっていただければ幸いである。
声を失うということがどういうことなのか。食文化といえる世界とひき離されることがどんなものなのか。病棟暮しがほとんどだった現在は、まだ半分もわかっていないのだと思う。
その意味で、娑婆《しやば》に戻ったこれからが本格的な勝負なのかもと感じてもいるのだが、病に倒れたことで、私がどれほど多くの友人たちに囲まれてきたのかを実感させてもらったのは、望外の歓びだった。
これからどう生きるかが、その計り知れないご厚情への私にできる応えだと思っているのだが、あまりにも大きな宿題をいただいたって気もする。
終りにあたって、私事で恐縮だが、発病以来、意地を張りつづけてきた私が当り散らせるのは、かみさんだけだった。彼女は驚くほどの忍耐力と知恵で私を支えつづけてくれたし、その明るい行動力にはわが妻ながら脱帽だった。どうも面と向っては照れ臭いという悪い癖をお許し願って、紙上を借りて「ありがとう」と伝えたい。
そして、私に生きるんだ、生きていなけりゃ……と気力をふりしぼらせたわが息子・岳史のおおらかな姿にも……。
岳史よ、おまえとまだもう少しは付き合えそうだ。そのことを嬉しくも思うし、おまえになにをどう伝えていくか、これからの大きな課題だとも思っている。
この一冊に綴《つづ》った私の裸の姿を、おまえは、しっかり受けとめて育っていってほしいと切に願ってもいる。
最後になったが、病床の私を激励しながら、せっせと病室に通いつめて、執筆をうながしてくださった講談社の吉崎正則さんに謝辞を申し添えるとともに、本書をお読みくださったすべてのみなさんに、心からなる感謝を捧げたい。ありがとうございました。
一九九〇年一月十二日
加東康一
あとがきのあとがき
――文庫版のために
お読みいただいたように、主人は舌ガンとの壮絶な闘いに克ち、喋らない評論家として新しい人生に向かうつもりでした。
約一年という闘病を終え、自宅に戻ってきた主人は“評論家”として明け方まで原稿用紙に向かい、“主夫”として私たちの食事を作り、“男”として友人と語り合い(もちろん筆談ですが)……声を失っても、始終笑顔を絶やすことはなかったのです。月並みな言い方ですが、入院前以上に燃えていたと思います。
でも「ガンが治った、よかったよかった」と喜んでいたのは実は主人とまわりの人々だけだったのです。お医者さんと私と息子は、その燃える主人の胸の奥、右肺にすでに、転移がみとめられていたのを知っていたのです。今度は手術ができない、死の影がくっきりと見えていた転移でした。
平成元年十二月末のことです。
振り返ってみますと、それは主人の退院を目前にひかえたお正月でした。
癌研究会附属病院の病室のドアを開けると、ベッドの上で体調もよくなってきた主人が『岳史よ、生命あるかぎり』の原稿のペンを走らせる音が聞こえました。
主人が私の顔を見るなり笑顔でペンを置き、差し出した一通の手紙。それは、ある出版社からの私への執筆依頼だったのです。
「ガンという病気との闘病を患者の立場からだけではなく、家族、それも妻の立場から書いてほしい」
これまで文章を書くなど考えたこともなく、丁重にお断りしていたのですが、今度ばかりは主人は筆談で、
「ぜひ、やってみなさい。いままで患者側から書いた本は何冊もある。家族側から書いた本もいくつかあるだろう。でも、ひとつの病気を患者本人、そして家族の双方の視点から書いた例はない。面白い、やってみなさい」
と大変な喜びようでした。
結局、出来上がった原稿を主人がアドバイスしてくれるということで、私が執筆を始めたのは退院後の二月ぐらいだったでしょうか。ひとつの屋根の下、一階で主人が、二階で私が原稿を書くという妙な、でも幸せな夫婦が出来上がったのです。深夜階下から、トントンと足音をさせながら、コーヒーとケーキを持って上がってきて、
「どう? 調子は」
「まとまったら見せなさい」
仕事一途で家庭など顧みなかった主人のこんな変わりようを目の当たりにして、この状態がいつまでも続けばいいと、私は祈るような気持ちでした。
階下に主人が下りていったあと、昔のある夜のことを思い出すことがありました。まだ主人にも私にもガンという病気が、現実ではなかったころの、私たち夫婦の約束事です。
「なあ、オレたちのうち、どちらかがガンになったら、お互いに告げ合おうよ」
完治したと思い込んでいる主人は、仕事や私生活でずいぶんと無理を重ねていました。そんな生活は私には葛藤の毎日でした(無理を止めるべきか、でも主人には時間がない。あの笑顔を消したくはない。やりたいようにやらせるベきじゃないの?)。
そう、主人の笑顔に応える私の笑顔は、心からのものとは決して言えなかったように思います。ガンの転移を心に秘めて告げず、あの夜の約束を破り、裏切りに近いことをしていたのですから。
無理がたたり、三月十四日再入院となりました。その瞬間は思ったよりも、ずっと早く訪れたのです。今度の入院は癒えるあてのない、一刻一刻死に近づいてゆく看護だったのです。
春というのに肌寒かった平成二年五月に主人は逝き、私と息子には、空虚感だけが残り、考えることといえば、何度も考えたはずなのに、(これからどう生きよう?)ということだけ。でも悲嘆にくれてばかりもいられない。私を奮い立たせたのは、息子を育てなければならないこと、そして主人と一緒に作る予定だった本の執筆でした。
当初、主人の闘病記と並行してガン患者の妻の側面から書くはずだった、もうひとつの闘病記『失われた声』は、成り行き上、主人の死、そして主人には決していうことのできなかった、私の心の葛藤をつづるものとなりました。そしてその後ガンとの関わりを、私のライフワークにしようと決心させたのもこの葛藤からでした。
主人の死を無駄にはしたくなかった、だから微力ながらもガンと関わりガンのために何かをしていきたい、そして、あなたとも一緒に考えたいのです。
一九九三年十月二十日
加東祥子
本書は、一九九〇年二月、小社より刊行されたものです。
本電子文庫版は、一九九三年十二月刊行の講談社文庫版第一刷を底本としました。
●著者 加東康一(かとうこういち)
一九三〇年、千葉県市川市に生まれる。東京府立十二中学を卒業後、炭鉱労働者などを経験したのち、『国際タイムス』の社会部記者、『映画情報』編集長を経て、六〇年フリーの芸能評論家になる。以後、新聞、雑誌に健筆をふるう一方、「やじうまワイド」「こんにちは二時」などテレビで活躍。八九年、舌ガンのため舌・喉頭の全摘手術をうける。九〇年五月一三日、肺ガン転移のため死去。享年五十九歳。著書に、『スキャンダルの昭和史』(第7回日本雑学大賞)、『裕次郎――きみは冬のカモメか』『いい酒いい友 いい人生』などがある。
岳史《たけし》よ、生命《いのち》あるかぎり
講談社電子文庫版PC
加東康一《かとうこういち》 著
Sachiko Kato 1990
二〇〇〇年九月一日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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