ソルフェージュ〜Sweet harmony〜
円まどか
『プロローグ』
ここは、桜立舎学苑《おうりつしゃがくえん》。
幼稚舎から大学までがあるこの学苑では、特に音楽の教育に力を入れており、そのキャンパス内では、様々な音色が風に乗って流れてくる。
ある時はバイオリン、ある時はピアノ、そしてまたある時はフルート。
この日は珍しく、フォルテールの音色が流れていた。
演奏する者の心情を如実に表現する妙なる音色は、その演奏者の性格をあらわすという。
――ゆったりとしたこの音色は、大好きなあの先輩の音だ……!
聞いているだけで心が癒されるような音に、彼女は歩く足を速める。
音色に導かれるままに、制服のスカートを翻して階段を駆け上がった。
廊下を走ることは校則で禁じられているので、なるべく早足で廊下を通り抜け、『第6練習室』とプレートの下がった部屋のドアをガラッと開ける。
「こんにちは、かぐら先輩!」
元気に声をかけると、キーボードに向かっていた人影がこちらを向いた。
「あら、未羽《みう》ちゃん、今日は早いね」
その人物がゆっくりと向き直る。
それと同時に、癒しの音色がピタリと止まった。
開け放たれた窓から入ってきた風が、その人物の薄茶の長い髪をサラリと揺らす。
いつか、他愛のないお喋りの中、頭の上で二つにまとめた髪をオダンゴ結びにしているのがトレードマークになってしまって以来、ヘアスタイルを変えると苦情が来るようになったので変えたくても変えられない、とボヤいていたのを思い出して、未羽はその顔に微笑みを浮かべる。
「だって、かぐら先輩の音を聞くと、早く会いたくて、じっとしていられないんですもの!」
かけよって、大好きなかぐらに抱きついた。
抱きしめる腕に力を入れると、石けんの良い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「あははっ、そんなにぎゅってしたら苦しいよ、未羽ちゃん」
苦笑混じりの、けれど、包み込むような優しい声が降ってくる。
未羽は、こうしてかぐらを抱きしめたり、抱きしめられたりするのが好きだった。
かぐらから発せられる優しい石けんの香りが、優しく包んでくれるような気がして、とても安らぎを覚える。
未羽のふわふわした髪をそっと撫でてくれる指の感触も好きだった。
この指が、あのゆったりとした伸びやかな音を奏でるのだと思うと、幸せな気分におぼれてしまいそうになる。
「えへへ……かぐら先輩、だーい好き!」
そう言って、未羽はかぐらの胸元に頬を摺り寄せた。
「もう……未羽ちゃんったら、甘えんぼうさんなんだから」
手放しで甘えてくる未羽が可愛いらしく、かぐらも未羽を邪険に扱わない。
未羽が満足して離れるまで、引き剥がすことなく、じっと待ちながら、頭を撫でていてくれる。
「あたし、この学苑に入学して良かったって思うんです!」
ひとしきり、かぐらの胸元に擦り寄ってから、顔を上げた未羽がにっこりと笑う。
「ねぇ、ウソじゃないですよ? ホントのホントですよ!」
「やだなぁ、未羽ちゃん、誰も疑ってないってば」
「だってーぇ! ……んー、もう、どうしたら、あたしのこの嬉しさが伝わるんだろう? 言葉なんかじゃ伝わんないかな? 歌っちゃった方が早いかも!」
「……歌うのは構わないけれど、その前に、ドアを閉めなさい」
冷静な声が降ってくる。
「あ、織歌《おりか》ちゃん、いらっしゃい……って言うのも変だね」
新しく入ってきた後輩に向けて、かぐらがにっこりと微笑んだ。
「いえ、わたしは宮藤先輩の練習時間に便乗して、ここの練習室を使わせてもらっている居候の身ですから、宮藤先輩が『いらっしゃい』とおっしゃるのは間違っていないと思います」
「もー、おりちゃん、相変わらず堅苦しいんだから!」
可愛らしく憤慨する様子を見せて、未羽が織歌へと駆け寄っていく。
開けっ放しだったドアを適当に閉め、織歌の背中をぐいぐいと押して、かぐらの前へと差し出した。
「かぐら先輩、おりちゃんも、ぎゅってしてほしいんですって!」
「何を言っているのよ、わたしは何も……」
「うふふ」
かぐらはにっこり微笑んで、目の前に立ち尽くしている織歌へと手を伸ばして、そっと抱きしめた。
「甘えてもいいんだよ、織歌ちゃん」
「わ、わたしは……」
「織歌ちゃんが『甘えちゃいけない』って自分を律するのはすごいって思うし、尊敬もするけど、未羽ちゃんほどでなくても、わたしは織歌ちゃんに甘えてほしいって思ってるんだよ?」
「でも……ご迷惑なのでは……」
「可愛い後輩に甘えられるのを迷惑だなんて、思うわけないよ。むしろ逆だよ、織歌ちゃん」
「ですよねー、かぐらせーんぱいっ!」
織歌を抱きしめたかぐらごと、未羽が腕を伸ばして抱きしめる。
「あたしねっ、最初、この学苑に入ろうなんて思ってなかったの。かぐら先輩のストリート・ライブを聞いてから、あのステキな人はどこの学校に通っているのかなーって思って、この学苑のことを調べてみることになったんだけど、自宅から通えないし、寮生活だし、校則は厳しいし、ちょっとやだなーって思ってたの」
「うふふ、この学苑の校則、確かにちょっと厳しいもんね」
かぐらの言葉に、こくりと織歌も頷いた。
「廊下を走っただけでペナルティが課せられるなんて、考えたこともなかったです」
「でも……入ってすごく良かった。だって、こんなに誰かのことを大好きって思えるような気持ちを知ることができたんだもん!」
嬉しそうな未羽の笑顔に、つられるように織歌の表情も和らいでゆく。
「わたしも、こんな気持ち……初めてよ。誰かを大好きって思える気持ちが、こんなに優しくて強いものだなんて、初めて知ったわ……」
クスッとかぐらが微笑んだ。
「そうだね……わたしも、この学苑に来て、誰かを思う気持ちの嬉しさや辛さを知ることができたの。あなたたちも、この学苑でわたし以上に、もっと深い経験ができるかもしれないね」
未羽はにっこりと笑って大きく頷き、織歌は照れたように小さく頷いた。
2人の後輩の身体から手を離して、かぐらは元通り、フォルテールに向き直る。
「さ、おしゃべりはこのくらいにして、そろそろ練習を始めようか」
フォルテールという魔導楽器がある。
魔力を持った人間のみが奏でられるという不思議な楽器で、その音色は『魔導楽器』というまがまがしい名前が示すとおり、一度聞いたら二度と忘れられない音色をしているという。
そして、この音色は、人の心に作用する効果もあり、一時期は戦争に有効利用できないかという研究が行われていたのだとか。
無論、人々に癒しを与えるための楽器を戦争に利用するなど言語道断という世論が高まり、その研究は永久凍結された上で、フォルテールそのものに、人の心を左右する魔力を減じる措置がなされたという。
後輩2人を指導しながら、そのフォルテールを奏でているのは、宮藤かぐら。桜立舎学苑の2期生で、フォルテール奏者として、学苑内ではすっかり有名になってしまった生徒である。
というのも、去年、彼女が1期生の時に、学苑のコンクールの出場者として選出され、いろいろあった末に、優秀な成績を収めることができたからである。
この学苑のコンクールは、卒業後の音楽家としての人生を左右するとも言われる。少なくとも、ここで優秀な成績を残すことは、すなわち、来賓として呼ばれた音楽家へのアピールにも繋がるということで、在校生にとって、垂涎の的ともなっているのだ。
そのかぐらに抱きついて甘えていた少女は、上月《こうづき》未羽。かぐらと同じく桜立舎学苑の声楽科の1期生で、フォルテールの音は出せないものの、かぐらの練習楽曲に合わせて歌をうたうために、毎日のように練習室に顔を出している。
そして、最後に現れて、控えめな感情表現をしていたのは、二波《ふたみ》織歌。未羽と同じく1期生だが、フォルテールの天才奏者として既にリサイタル経験を持ち、この学苑へも、特別待遇生として入学している。
―――これは、フォルテールの不思議な音色が導いた、人と人との絆のお話。
『パッショネイト・メロディ 1』
その時の未羽には、特に悩みごとはなかった。
否、悩みごとがない、というのが悩みごとだと本人はぼんやりと思っていた。
高校への進学にしてもそうだ。
特別に行きたいと熱望する高校もないし、高校進学を絶望視するほどの成績でもない。
自分はこのまま、仲良しの子たちと一緒に、家から通える私立の女子校に通うのだろうと思っていた。
「あーあ、何だかつまんないなー」
風呂上りに心地よいソファにゴロ寝しながら、中学の帰りに寄ったコンビニで買ってきたお菓子の袋を開ける。
「こう……湧き上がるようなパッションがほしいのよね〜、人生変えちゃうような、さー」
ブツブツ言いながら、バリッと煎餅をかじった。
ボリボリと不機嫌に煎餅を噛み砕きながら、未羽はチラッとドアの向こうを見る。
「やーん、ケンちゃんったらぁ、も〜」
ドアの向こうでは、姉が彼氏と電話していた。 聞けば聞くほど不愉快になるような甘ったるい声で、思い切り猫をかぶりまくっている姉は、自宅から電車で片道1時間半の私立の女子校に通っている。
たかが『制服が可愛いから』という理由で、わざわざそんな遠い高校に通うなんて……と未羽は思ったのだが、実際、姉の着ている制服は可愛くて、受験を目前に控えた今では、姉の言うことも少しはわかるような気がした。
とはいえ、どんなに制服が可愛くても、未羽には3年間もの長い期間にわたって、往復3時間もの通学に耐えられそうにもない。
なので、未羽は進学先は姉の高校は除外し、徒歩通学のできる高校を選んでいる。
とはいえ、この高校へ行くことにも、未羽は迷っていた。
女子校なのは良いとしても、制服が時代を感じさせる灰色のボックス型のプリーツスカートで、これがまた、すこぶる可愛くないのだ。
近隣の学校からは、その制服の見た目のイメージから『動く墓石』などと有り難くもないあだ名をつけられていて、この地味すぎる制服を着ることになれば、あの可愛い制服を着た姉に馬鹿にされきった目で見られることは火を見るよりも明らかだった。
……すんごいブルー。
そう思いながら、次の煎餅へと手を伸ばす。
「え〜、次の週末にお泊まり〜? 無理だよぉ、ウチが厳しいの、ケンちゃんだって知ってるでしょぉ〜?」
それにしても、あの語尾をやたらと延ばす喋り方はどうにかならないものかと、未羽は眉間にしわを寄せた。
なるべく聞かないようにしようと思っているのに、聞こえてくるのだから仕方がない。
というか、姉は自分の携帯電話を持っているのに、何故、それで通話しないのか。
自宅の電話を使われると、こうして自分がリビングでゴロゴロしていると、嫌でも会話内容が聞こえてくるではないか。
聞きたくもないものを聞かされる、こっちの身にもなってほしい……。
「うふふ、行きたいのは山々だけどぉ、成績落ちたらマズいのよね〜。ほら、あたし、無理して遠い学校に通わせてもらってるから〜ぁ」
「……はぁ」
ため息が漏れる。
何が無理して遠い学校に通わせてもらっている、だ。
その遠い学校に通わせてくれなきゃ家出してやると無理を言ったクセに。
不機嫌全開で、未羽は煎餅をバリバリかじった。
姉の電話なんて聞きたくなかったが、このリビングから出て行きたくもない。
「え? ……ああ、妹がお煎餅を食べてるのよ。うふふ、ポロポロ食べこぼして、子供みたい」
その言葉で、未羽の忍耐心は決壊した。
「ちょっと、お姉ちゃん、家の電話で彼氏に電話するの、やめてよっ!」
しかし、姉は面倒くさそうに、手でしっしっと追い払うようなジェスチャーをする。
「ん〜? あ、妹が何か言ってるけど、気にしないで? あたしがこうしてケンちゃんとお話してると、いっつも邪魔しに来るんだも……あれ?」
切れてしまった通話に、未羽の姉は不思議そうな顔をして受話器を見つめる。
その間に、ドタドタと足音荒く、未羽はリビングを出て自分の部屋に戻った。
電話線を抜いてやったくらいでは、この不機嫌さは解消されない。
ベッドにダイブして枕に顔をうずめていると、ノックもなしにドアが開けられた。
「未羽! ちょっとあんた、どーして人の電話切っちゃうのよ!?」
「だったら、部屋でケータイで電話すれば良いでしょ」
姉の抗議に、むっくりと身体を起こし、不貞腐れた口調で姉へと反論する。
しかし、姉は余裕の表情を浮かべると、未羽の断りもなく、部屋へと入ってきた。
「それはそうと、あんた、高校はドコ行くつもりよ?」
ニヤニヤと笑っている姉へと、未羽は枕を投げつけた。
「お姉ちゃんには関係ないでしょ!」
「それが大アリなのよね」
未羽の投げた枕をあっさりキャッチしながら、それでも姉はまだニヤニヤしている。
「未羽って、将来は歌手になりたいんでしょ?」
「別に!」
「ケンちゃんの学校のOBの人がさぁ、上月家の美人姉妹を売り出したいって言ってるんだけどさぁ、やっぱり姉妹揃って同じ学校の方がインパクトがあるらしいのよねぇ」
「……」
未羽は不機嫌そうに眉間にシワを作る。
「売り出したい、って……お姉ちゃん、音痴じゃん」
「音痴じゃないわよ、失礼ね!」
ボスッと枕を投げつけられた。
「そりゃ確かに、あんたと比べりゃ音痴かもしんないけど! でも、最近は別に歌が上手じゃなくても歌手になれ……ブッ!」
投げ返された枕を投げるつけと、ちょうど姉の顔にヒットする。
が、気分は全然晴れない。
「ふざけないでよ、あたしの未来にお姉ちゃんが口出しする権利ないでしょ! それに、あたし、芸能界なんて真っ平なんだから!」
「わっかんない子ね! ちょっと歌っただけで、チヤホヤされて、キレイな衣装を着せてもらえて、贅沢な暮らしができるんだよ? そのチャンスが転がってるのに、あんた、馬鹿なんじゃないの!?」
「馬鹿なのはお姉ちゃんの方だよ! そんな上辺だけの歌手なんて使い捨てにされるに決まってる! あたしは、使い捨てにされない、歌で誰かを感動させることができる歌手になりたいの! その前に、歌手になるかどうかなんて、まだ決めてない!」
「未羽のバカッ!」
姉がまた枕を投げてきた。
「せっかく良い話だって思ったから持ってきてあげたのに! あんたなんかには、あの地味〜な墓石みたいな制服がお似合いよ!」
「頼まれたって、お姉ちゃんの学校になんか行かないよ!」
「あたしだって、あんたがあたしの後輩になるなんて願い下げよ!」
バンッと乱暴にドアが閉められる。
「お姉ちゃんのバカッ!」
憤りのまま、未羽は枕をドアに向かって投げつけた。
枕を投げつけたところで、たかぶった気持ちはまだ治まらない。
イライラした感情を持て余して、未羽は布団を被って、ベッドに丸くなった。
「未羽、もしかしなくても機嫌悪い?」
昼休みに、おそるおそるクラスメイトがきいてきた。
むっすりと膨れっ面のまま、未羽はゆっくりと頷く。
「なに、また姉妹ゲンカ?」
再び未羽は頷く。
「歌が上手くなくても歌手になれるってさ」
「あー、そりゃまた未羽ちゃんの地雷を踏んでくれちゃったんだねぇ」
別のクラスメイトによしよしと頭を撫でられて、また未羽がぷぅっと膨れる。
「でもさ、未羽のお姉ちゃんって、確かH女学院に行ってなかったっけ、あの可愛い制服の?」
「売り出しやすいから、ウチに来いとか何とか言ってた」
「あ、そっか……H女って音楽科あるもんね」
「でも、あたしは、毎日往復3時間の通学なんて、絶対に嫌だもん!」
「……友達と別れるのが嫌だって言ってくれないのが、未羽らしいよ」
2人の友達を前に、未羽は唇を尖らせた。
「しょーがないなぁ、そんな傷心の未羽ちゃんの気晴らしに付き合ってあげよう」
「ユカ?」
ユカと呼ばれた少女はニヤッと笑って、未羽に耳打ちした。
「今日の夜7時、K駅前の南口ロータリーで待ってて。きっと未羽の気に入るようなことがあるから」
未羽が驚きに顔を上げたと同時に、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「え、ちょっと、ユカ、今のは……?」
が、ユカはニヤニヤ笑いながら、未羽に手を振って、自分の席に戻った。
未羽は別の友達を見た。
「ナオミ、ユカが……」
しかし、ナオミは未羽が振り向くより早く、自分の席に就いている。
「夜7時にK駅前南口ロータリー……?」
未羽は首をかしげながら、教室のドアをあけて教師が入ってくるのを、ボンヤリと見つめていた。
あの後、2人を捕まえようとしたものの、逃げられてしまい、放課後になってしまった。
結局、2人から何の話も聞き出せず、未羽は更に不機嫌になって、自宅へと帰る。
「あんなの約束でも何でもないんだから」
唇を尖らせて、ベッドに寝転んだ。
姉はまだ帰ってきていない。
母もまだ戻ってきていない。
「……」
寝転んだまま、チラッと時計を見ると、既に5時半を回っている。
「……」
別に約束をしたわけではないのだから、このまま家にいても誰も自分を責めることはできない。
けれど……。
『今日の夜7時、K駅前の南口ロータリーで待ってて。きっと未羽の気に入るようなことがあるから』
ユカの声が脳裏をよぎる。
「……あたしの気に入るようなことって何だろう?」
未羽はむっくりと起き上がった。
今から出かける準備をすれば、ギリギリで7時の待ち合わせに間に合うかもしれない。
間に合わなくても、ユカたちには用事があったとでも何とでも言って誤魔化せるはずだ。
「だって、あたしの予定を聞かずに、勝手に時間を指定してきたのはユカたちだもんね!」
まるで自分に言い訳でもするかのように呟いて、未羽はベッドから飛び降りた。
待ち合わせのK駅は、家路を急ぐ人と、通勤帰りに一杯ひっかけていこうという人でごった返していた。
人の波を掻き分けながら、駅の表示に従って南口へ急ぐ。
逆方向へと行こうとするサラリーマンのカバンに、お気に入りのふわふわのスカートが引っかかってしまって、足止めまで食らってしまった未羽は、改札を出て、南口に辿り着いた時にはまた不機嫌になってしまっていた。
しかも、南口ロータリーにも人だかりが出来ていて、気分転換にもなりそうにない。
「……あーあ、もう……来るんじゃなかったー」
眉間のシワが深くなる。
わざわざ交通費をかけてやって来たというのに、このまま回れ右をすることは、その金額と労力を無駄にすることになる。
チラッと時計を見ると、もう7時になっていた。
取り敢えず、もうしばらくここにいて、帰るのは何が起きるのか見届けてからでも良いかもしれない。
そう思って、ロータリーのガードレールに腰をかけて、キョロキョロと周囲を見回してみる。
一方的に約束を取り付けた友達の姿は見えない。
「あーあ、待ってるだけなんてつまんないなーぁ」
何するともなく集まっている人たちを見ると、自分たちと同じ年齢からおじいちゃん・おばあちゃんまで、いろいろな人がいた。
何気なく見ていると、その人たちに共通していることに未羽は気づいた。
「あれ……」
ゆっくりと立ち上がる。
みんな、楽しそうな表情で、何かを待っているようだった。
「……?」
人だかりの向こうに何かがあるのだ、きっと。
そう察知した未羽は、人の群れを掻き分けて前へと進んだ。
その刹那。
胸の奥深くを鋭く突き刺すような、それでいて、ささくれだった心を優しく包み込むような音が周囲に響き渡った。
『パッショネイト・メロディ 2』
突如として響き渡った音に、はっとして未羽が顔を上げる。
前方をふさいでいた人の波が途切れ、最前列へと飛び出した。
「……ぁ」
最初は、声が出なかった。
鋭いのに柔らかな音の奔流に、体内の時間が止まってしまったような錯覚を覚える。
ひらけた視界には、見慣れない鍵盤楽器を並べて演奏している2人の女性がいた。
1人は見たことのない制服を着ている中高生らしい女の子で、一所懸命な様子でメインメロディを演奏している。
もう1人の女性はラフな私服姿で、制服姿の女の子のメロディを優しく補佐するような演奏している。
2人の手元のキーボードのような楽器からは、今まで聴いたことのないような不思議な音色が零れ落ちるようなイメージを伴って周囲に流れていて、未羽は呆然としたまま、2人の演奏に釘付けになっていた。
制服の子の演奏は、慣れていないのか、時々、つっかえるような音になる。
その度に、私服姿の女性の演奏がサポートしていた。
まるで、よちよち歩きの子供と、その覚束ない歩行を優しい目で見つめる母親のイメージが、未羽の脳裏に広がる。
そのイメージからか、つっかかるような演奏にさえも、愛しさがこみ上げてきた。
何度目かで彼女の演奏がつかえたとき、思わず声が出た。
「頑張って!」
制服姿の子は、演奏を止めないながらも、びっくりしたような表情で未羽を見た。
それから、微笑みながら、ありがとう、と言ってくれた。もっとも、演奏の音にかき消されて未羽の耳には届かなかったけれど。
未羽はキラキラした目で、一所懸命に楽器を演奏している女の子を見つめる。
たぶん、年齢は未羽とそう離れてはいないはず。
頑張って、がんばって……。
そう呟きながら、女の子の一挙手一投足を見守った。
やがて、演奏が終わり、未羽は大きく息を吐き出した。
知らない内に緊張して、身体に力が入っていたらしく、ほどよい疲労感を覚える。
「みんな、今日も集まってくれてありがとう!」
私服姿の女性が、集まった聴衆へと声を張り上げる。
マイクも使わずに、良く通る澄んだ声だった。
「今日は、お友達のかぐらちゃんが加わってくれることになったんだよ。さ、かぐらちゃん、一言どうぞ?」
「あ、えー……っと……、その……。こ、こんにちは、宮藤かぐらです。えっと……」
たどたどしく言葉を紡ぐ姿に、未羽はまた声を上げる。
「頑張って!」
かぐらと名乗った少女は、頬を染めながら未羽を見た。
そして、微笑みを浮かべると、こくりと頷いた。
「わ、わたしなんかがこんな場所で演奏しちゃって良いのかなって思ったんですけど……、その……ゆうなさんに誘われて、来ちゃいました。えと……」
私服姿の女性は『ゆうな』という名前らしいと判断して、未羽はゆうなを見た。
まだ幼さの残るかぐらとは違い、ゆうなには大人の女性らしい落ち着きが感じられる。
全体的な雰囲気から、高校生か大学生かそのあたりだろうと予想をつけ、未羽はかぐらへと視線を戻した。
「あの……ごめんなさい、何度もミスちゃって……。それでも、少しでも楽しんでいただけていたら、とても嬉しいです」
聴衆の中から「ミスなんて大丈夫!」という声援が飛ぶ。
未羽も、その声援にこくこくと大きく頷いた。
かぐらは照れたような微笑みを浮かべている。
「あの……ありがとうございます。これからも、いっぱい練習して、頑張ります」
「大丈夫だよ、普段のかぐらちゃんは良い演奏できてるって! こういう風に、人前で演奏する度胸さえつけば、すぐにでも、ここの人たちを楽しませることができるよ!」
「そ、そうかな……?」
「そうだよ、かぐらちゃん、自信を持って!」
恥ずかしそうに微笑むかぐらは、見ているだけで応援したくなる、不思議な雰囲気を持っているように未羽には感じられた。
かぐらが一歩下がって、ゆうなの演奏が始まった。
本来のストリートライブはゆうながメインで演奏するものだったらしいということは、先ほどのゆうなの言葉でわかったのだが、未羽はゆうなの演奏を聞きながら、さっきまでの熱気がどこか冷めているような気がしてならなかった。
どうして、あたしは、あの人……ゆうなさんの演奏にあんなにドキドキしないんだろう……?
「もう! ちょっと、未羽!」
バシッと肩を叩かれて、我に返る。
「約束の時間、もう15分も過ぎてるんだけど!」
振り向くと、ユカとナオミが立っていた。
「あたしはちゃんと7時に来たよ?」
ムッとして言い返す。
「ってゆーか、こんなに混雑するんなら先に言ってよ! 探せないじゃ……」
「未羽ちゃん、演奏中だから……その話は、後で、ね?」
ナオミが唇に手を当てて囁く。
ユカは怒っているようだったが、怒られるようないわれはないと思った未羽は、視線をゆうなに戻して、不思議な旋律に耳を傾けることにした。
ゆうなの演奏が3曲続いた後は、休憩に入ったらしい。
頭を深く下げてから、鍵盤楽器を置いて後ろに下がったゆうなに、かぐらがペットボトルを差し出している。
楽しそうに笑っている二人を、ただ未羽は見つめていた。
「ねぇ、ちょっと未羽! 待ってたのよ、わたしたち!」
「あー……うん、ところであの人、誰?」
怒っているユカに目もくれず、かぐらを見つめたままきいてみた。
「ああ、ゆうなさんっていうの。かなり前から、ここでストリート・ライブやってるらしくて、こないだユカとたまたま通りがかって、すごく良かったから、未羽ちゃんにも聞かせてあげたいねって……」
「そうじゃなくて。ゆうなさんの隣にいる、あのオダンゴ頭の人」
嬉しそうに説明するナオミの言葉を遮ってきいてみる。
しかし、ナオミは首をかしげただけだった。
「さぁ……初めて見たけど? でも、ゆうなさんの演奏、ステキでしょ?」
「……」
未羽はじっとゆうなを見た。
確かに、ナオミの言う通り、ステキな演奏だったと思う。
けれども、何か物足りない気がする。
否、足りない、のではなく、あまりにも与えられる感情が多すぎて、受け止めきれないフラストレーションが残っているような感じだった。
あの音の中に、しっかりと演奏者であるゆうなの感情は感じられるのに、心は揺り動かされはしたものの、沸き立つような心境にはならなかった。
それよりも、あのたどたどしい演奏の方が、より深く心に残っている。
……あの人、また演奏してくれないかな。
期待をこめてかぐらを見つめた。
その視線に気づいたのか、ゆうながこちらへと軽くウィンクをする。
それから、かぐらへと何事か囁いた。
かぐらは顔を赤くして、未羽を見る。
こくっと頷いて、置いてある楽器へと進み出る。
「かぐらちゃんの演奏を聞きたがってるお客様が何人もいらっしゃるみたいなので、次は、かぐらちゃんのナンバー! 慣れてない子だから、いじめちゃダメだよ?」
いたずらっぽいゆうなの紹介に、ぺこりと頭を下げたかぐらは、息を大きく吸い込んで、鍵盤に指を乗せた。
優しい音が周囲を満たす。
「……!」
やっぱり、この音だ!
未羽は確信した。
確かに、ところところメロディが怪しかったり、詰まったりして、練習不足は否めない。
けれど、それを補って余りある才能を感じられる。
「頑張ってー、頑張ってー!」
気がついたら、周囲の観客と一緒になって、声援を送っていた。
かぐらが照れたような、けれど、嬉しそうな表情で微笑む。
その微笑みは決して自分だけに向けられたものではないとわかっていたが、それでも、未羽はかぐらが喜んでくれたことが嬉しかった。
「あーん、もう、かぐらさんの演奏、すっごく良かったぁ!」
「……その言葉、何回も聞いたよ」
かぐらたちが演奏していたロータリーから、自分たちが住んでいる町までは、電車で約1時間かかる。
電車に乗っている間、ずっと未羽はかぐらの演奏を褒めていた。
友人2人は呆れた様子で、顔を見合わせている。
「わたしたち、ゆうなさんの演奏を見せたくて呼んだのよ?」
苦笑しながらナオミが言う。
「んー、ゆうなさんの演奏も良かったけど、あたしには、かぐらさんの演奏のがグッと来たのよね〜! 確かに、ゆうなさんよりも全然下手だけど、何てゆーか、こう……頑張れ〜って応援してあげたくなるって感じ?」
言った後、かぐらが演奏していた曲を口ずさむ。
「あーん、また聞きたいなー、かぐらさんの演奏! ね、いつもあの場所で演奏してるのかな?」
「いつもじゃないみたいよ? というか、あんたの好きなかぐらさんとやらは、初めてみたいだったし」
最初こそ未羽が遅刻したと怒っていたユカだったが、喜びまくる未羽を見て、怒りは治まったようだ。苦笑混じりに、未羽に教えている。
「また会いたいなー。でも、あの駅まで毎日は通えないよなー。でも、会いたいなー」
聞いているんだか、聞いていないんだかわからない未羽の様子に、友人2人はまた顔を見合わせて苦笑していた。
それから数日後。
担任から渡された紙を見ながら、未羽は自宅のベッドの上、ゴロゴロしながら唸っていた。
「うーん……進路……。そろそろ決めないといけないんだけどなー……」
進路調査票と印刷されたその用紙には、第3希望までの学校名を記入する欄がある。
「取り敢えず、お姉ちゃんの学校にだけは、死んでも行かないってことだけは決まってるんだけどなー」
言いながら、左右にゴロゴロする。
その時、机の上に置いたままだった携帯電話が鳴り響いた。
窓に表示された名前を確認してから、通話ボタンを押す。
「あー、もしもし、ユカ?」
『喜べ、未羽! かぐらって人のこと、ちょっとわかったよ!』
「ホント!? 嬉しい!」
意気込んで話すユカの話に耳を傾ける。
ユカの情報によると、かぐらは桜立舎学苑という聞いたことのない学校の1年生だとわかった。
そして、かぐらとゆうなが演奏していた、あの見たことのない鍵盤楽器はフォルテールという、何だか良くわからないけれど、ある才能がないと音が出せない、不思議な楽器だということだ。
『あんたの代わりに、ライブに来てた人たちから情報を仕入れてあげたんだそ! 感謝しろ!』
「はーい、感謝しまーす! チュッ!」
『キモいことすんな!』
「あははっ、ユカ、ありがとー!」
ハイテンションで軽口を応酬する。
「えーっと……かぐらさんの学校って、ドコにあるの?」
『ん、桜立舎? 確か、あのライブやってた駅からそう遠くはないと思うけど……あんた、桜立舎、知らないの?』
呆れ返った様子の声が電話の向こうから響いてくる。
ここで見栄を張っても仕方がないので、未羽はこっくりと頷いた。
「知らない」
その途端、電話の向こうから、盛大なため息が聞こえてくる。
『知らない、ってあんた……あそこは全生徒に音楽教育を施すことで有名でしょ? 何でも、良い音楽で、生徒が持っている才能を引き出してどうこう……とか』
「そうなんだ……」
『未羽って学校にあんまり興味ないもんね〜』
電話の向こうでケラケラとユカが笑っている。
笑い声と同時に、車のエンジンの音が聞こえる。
どうやらユカは外にいるようだった。
「あの……ユカ?」
『あん?』
「その……ありがとう」
『……なーにを今更! あたしたち友達じゃん!』
飾らないユカの親切にジンと胸の奥があたたかくなる。
それから少し喋ってから、未羽はユカとの通話を切った。
次の日、早速、未羽は進路指導室で学苑のことを調べてみた。
「う、わー……」
ファイリングされた資料は想像を超えていて、書かれている内容を読めば読むほど、未羽はただ唖然とする。
とにもかくにも、桜立舎学苑はお嬢様学校らしい。
そこに書かれている、ハイソサエティちっくな香りに、庶民派の未羽は思い切り引いていた。
「幼稚舎から大学までの一貫教育……って、うわぁ……希望者には寮生活も可能……ひえぇ」
ページをめくる度に、未羽の心には『メンドクサ』という思いが大きくなってくる。
「ほぅ、桜立舎か……上月には合っているかもしれんな」
頭上から声が降ってきた。
慌てて立ち上がると、進路指導担当の教師が立っている。
「どうして……先生はあたしに合ってるって思うんですか?」
教師は未羽を見て、ニヤッと意地悪な笑みを浮かべた。
「お嬢様学校だからな。校則も厳しいらしいし、上月の騒がしい性格を矯正してくれるかもしれんだろ?」
「……ぶー!」
未羽は頬を膨らませ、パタンとファイルを閉じる。
「まぁ、そうムクれるな。歴代の卒業生の中でも、うちから入学した生徒は数人しかいないが、音楽が好きな生徒にとってはパラダイスだって言ってたヤツもいるから、本格派シンガーを目指している上月にも、パラダイスになるんじゃないか?」
「パラダイス、ねぇ……」
腕の中のファイルを見る。
どんなに音楽の授業が楽しくても、お嬢様学校はちょっと嫌だと思った。
未羽のイメージでは、お嬢様は世間知らずで、鼻持ちならない金持ちで、未羽のような庶民を馬鹿にしてそうで、そんな中に入ったら最後、とても肩身が狭い思いをしそうだと思った。
「ま、受験するかどうかはさておき、一応、資料請求の問い合わせをしてやろう」
未羽の手からファイルを受け取り、教師は笑いながら、元の場所へと収納した。
「あたし、面倒な学校は嫌なんですけどー……」
「面倒かどうかは、行ってみなきゃわからんだろ」
「でもぉ……」
モヤモヤした気持ちを抱えて、未羽はただ唇を尖らせる。
その時の未羽は、桜立舎学苑への進学の意思はなかった。
『小さな決心1』
一方の織歌は、というと、未羽が初めてかぐらの演奏を聞いたその路上ライブの聴衆の中にいたのである。
「……」
織歌は不機嫌だった。
わざわざ電車を乗り継いでやってきたというのに、この程度のレベルの演奏を聞かされるだけとは思っていなかったのだ。
舌打ちしたい気持ちを抑え、ぼんやりと音に耳を傾ける。
私服姿の女性の演奏はまだ失敗もなく、聞きやすいと思う。
しかし、制服姿の女子学生の演奏は、ミスだらけで、聞くに堪えなかった。
他の聴衆から「頑張って!」と声援が飛ぶ。
……ありえないでしょう、演奏に対してそんな声援は。
織歌はイライラしながら、傍らに立つ女性を見た。
「先生、もう帰っても良いでしょうか?」
先生と呼ばれたその女性は、不思議そうな顔で、織歌を見返す。
「あら、どうして? 来たばかりじゃないの」
織歌の眉が不快に寄せられる。
「時間の無駄です。こんなミスだらけの演奏を聞くことが、わたしのためになるんですか?」
「……織歌らしいわね」
女性はクスッと笑うと、織歌の頭を抱きこむようにして、前を向かせた。
「いいから、聞きなさい。ここは、演奏の技術をひけらす場所ではなく、心を開く場所なのよ」
「意味がわかりません」
「じゃあ、織歌は、あのオダンゴの子を見て、どう思う?」
「あんな下手くそな腕で衆人環視の場に出てくることができるなんて、よほどの厚顔無恥なんですね」
「これはまた辛らつね……」
苦笑混じりに呟いた後、女性は織歌の頭を離した。
「では、もし織歌があの演奏をするとしたら、どんな風に演奏をするかしら?」
「え?」
言われたことが理解できずに、織歌は首をかしげた。
「あなたが演奏するのなら、まずはあの旋律を覚えなくてはいけないでしょう? つまりわたしは、覚えなさい、と言っているの」
「小夜子先生?」
怪訝そうな顔をする織歌に、小夜子はにっこりと微笑みを浮かべた。
「では、今日の課題。あのオダンゴの子が演奏した曲を覚えて、明日、聞かせてちょうだい」
「……」
課題、と言われてしまえば、織歌には逆らえない。
渋々ながらも前を向き、聞こえてくる演奏に耳を傾ける。
しかし、織歌が演奏に集中し始めた頃には、演奏は終わってしまった。
「みんな、今日も集まってくれてありがとう!」
まだ聞ける演奏をした女性が声を張り上げる。
織歌はただ不機嫌そうに唇を引き結んだ。
「残念だったわね、あなたが最初から真面目に聞いていれば、1曲で帰れたのに。取り敢えず、今日はまだここにいる必要がありそうよ?」
「……」
織歌は悔しそうに、傍らに立つ小夜子を睨んだ。
「そんな顔をしてもダメ。ほら、前を向いて。あなたは、あんな風に聴衆にリップサービスもできるようにならないといけないのよ?」
路上では、先ほどの女性が聴衆に向かって話している。
「今日は、お友達のかぐらちゃんが加わってくれることになったんだよ。さ、かぐらちゃん、一言どうぞ?」
「あ、えー……っと……、その……。こ、こんにちは、宮藤かぐらです。えっと……」
これで、あの下手くそな演奏をしていたオダンゴ頭の女子生徒の名前がわかった。
宮藤かぐら……この自分にこんな面倒なことをさせることになった人物の名前は、きっと一生忘れないだろう。
「わ、わたしなんかがこんな場所で演奏しちゃって良いのかなって思ったんですけど……、その……ゆうなさんに誘われて、来ちゃいました。えと……」
引き続き、聞ける演奏をした女性の名前もわかった。
けれど、それぞれの名前がわかっただけでは、自分はまだ帰れない。
イライラしながら、織歌はそっと自分の右手の人差し指を噛む。
「あの……ごめんなさい、何度もミスちゃって……。それでも、少しでも楽しんでいただけていたら、とても嬉しいです」
楽しめるわけがないじゃない、と、心の中で呟く。
が、他の聴衆は違ったらしい。
「ミスなんて大丈夫!」という、信じられない声援が飛んでいた。
更に信じられないことに、その意見は大半の聴衆に受け入れられたようで、あちこちから同意のジェスチャーや声が漏れている。
「あの……ありがとうございます。これからも、いっぱい練習して、頑張ります」
「大丈夫だよ、普段のかぐらちゃんは良い演奏できてるって! こういう風に、人前で演奏する度胸さえつけば、すぐにでも、ここの人たちを楽しませることができるよ!」
「そ、そうかな……?」
「そうだよ、かぐらちゃん、自信を持って!」
ゆうなとかぐらの遣り取りに、織歌は吐き気さえ覚えた。
この人たちは何を言っているのだろう……?
できないことを「できないから」と言い訳して、努力もせずに、傷の舐めあいをしているだけにしか思えない。
自信を持つのが許されるのは、必死で努力した人間のみだと織歌は思う。
なのに、ゆうなは、かぐらの何を見て『自信を持て』なんて言葉を吐くのだろう?
「……」
織歌には、何故、小夜子が自分をここに連れてきたのか、その理由がわからなかった。
だが、効率主義者の小夜子がわざわざ行動を起こすからには、何かがあるのだろう。
それが何かはわからないが、小夜子のレッスンを受けている自分には、小夜子の言葉に従う義務がある。
だから織歌は、始まったゆうなの演奏を黙って聞くことにした。
……どうせなら、あの下手くそなオダンゴの演奏じゃなくて、こっちの演奏を覚えたかったな。
そんなことを考えながら、ゆうなの奏でる旋律を脳細胞に刻み込むように、音の一つ一つを丁寧に拾ってゆく。
ゆうなの音は、思っていたよりも拾いやすくて、織歌は知らない内に、ゆうなの旋律を追うのに夢中になっていた。
ポンと肩を叩かれ、ハッと我に帰ると、旋律は途切れ、あたりはざわめきに包まれている。
「せ、先生……?」
「インターバルよ、あなたも休憩しなさい」
目の前にパックジュースが差し出された。
こくりと頷いて、冷たいそれを手にする。
「あの人……ゆうなさん? の、音……意外に聞きやすかったです……」
「驚いたでしょう?」
小夜子の言葉に、織歌は素直に頷いた。
どうせ下手な者同士、わざわざ聴く価値もないだろうと思っていたのだ。
だから、音を聞き取るために集中しようとしても、集中しきれずに途切れてしまうと思っていたのだが、どうやら自分は何曲か連続で集中して聞いていたらしい。
頭の奥に、じんわりと心地よい疲労感を覚える。
こんな感覚は久しぶりだった。
「あなたに正確な演奏を求めてきたわたしが、こんなことを言うものおかしいけれど、音楽って、演奏技術を競うものなんじゃないんだってこと、彼女たちの演奏を聴いて思い出したのよ」
優しい眼差しで、小夜子はじゃれあっている2人を見ていた。
「確かに、楽譜通りに演奏する正確な演奏も必要よ。でも……それ以上に必要なことがあるということを、わたしはあなたに教えてこなかったわ」
「……」
織歌は黙って小夜子を見つめる。
「あなたは最近、何かにつまづいて、立ち止まってしまっているわね。けれど、それが何なのか、あなたにはわからない。だから、いつまで経っても、先に進めない」
「……」
小夜子の言っている言葉の意味が良くわからない。
自分は立ち止まってなぞいない、と言いたかった。
けれど、声が出ない、唇が動かない。
「あなたが足踏みしている理由を口で説明するのは簡単だけど……それじゃ、あなたは成長しないの。ううん……違うわ、成長しないだけじゃなくて、あなたの本当の才能の芽を摘んでしまうかもしれない……」
「意味が……わかりません」
かすれた声で、それだけ言う。
小夜子が小さく微笑んだ。
「頭ではわからなくても良いの。ただ、わたしはあなたに『感じる』ということを覚えて欲しいだけ」
「……感じる?」
「彼女たちの演奏には、あなたを1回りも2回りも大きく成長させるものが潜んでいるわ。織歌には、それが何なのかを感じ取ってほしいの」
「……」
小夜子が何を言っているのか、まったくわからなかった。
が、いつまで経っても、小夜子は織歌にも明快にわかるような答えを提示するつもりはないらしい。
「わけが、わかりません。わたしに向けておっしゃっているのなら、わたしにわかるように説明するのが筋だと思いますが?」
小夜子を睨むように見つめて、織歌が言った。
しかし、小夜子はただ苦笑にも似た微笑みを浮かべただけだった。
「そろそろ次の演奏が始まるみたいよ……ふふ、ちょうど、あなたの課題の相手なのね」
正面に目を向けると、かぐらが一歩進み出てきたところだった。
「かぐらちゃんの演奏を聞きたがってるお客様が何人もいらっしゃるみたいなので、次は、かぐらちゃんのナンバー! 慣れてない子だから、いじめちゃダメだよ?」
ゆうなのアナウンスに、織歌の眉がまた寄せられる。
またあの下手くそな、たどたどしい演奏を聞かせられるのかと思うと、苛立ちが募る。
が、小夜子の言いつけには逆らえない。
自分がフォルテール奏者として、中学生ながに成功しているのは、小夜子に師事したからだと、織歌は思っていた。
つまり、今後の更なる成功のために、織歌は小夜子の言う通りに動く覚悟があるのだ。
それがどんなに理不尽な指示であっても、その通りに従うつもりだった。
まさかこんな場所で、自分の覚悟を試されるとは思わなかったが、小夜子がやれと言ったのだ、やらないという選択肢は織歌にはない。
「……」
織歌はゆっくりと深呼吸をした。
……たいしたことないわよ、きっと。
かぐらが鍵盤に指を乗せたのを見届け、そっと目を閉じる。
柔らかな音が周囲に満ちる。
さっさと覚えて、早く家に帰って、練習しなくては……。
音に耳を傾けながら、織歌がそう考えた時だった。
胸の奥底に、何やらわけのわからないモヤモヤとしたものが浮かび上がってきた。
「……?」
ゆっくりと目を開ける。
ペットボトルを傾けているゆうなと、フォルテールに向かっているかぐらがいる。
何の変哲もない、演奏風景にしか見えない。
なのに……この胸のざわめきは何だというのか。
ちらっと隣に立つ小夜子を見る。
小夜子は優しい目でかぐらを見ていた。
「……わけがわからないわ」
ボソッと呟いて、胸の奥に感じた感情のゆれを無視して、織歌は音を追い始めた。
時々、違う鍵盤を叩いていたり、モタついたりすることがあるが、それなのに、何故かスルリと頭の中に入ってくる。
ふと、織歌は、腕を組んだ指先で、トントンとリズムを取っている自分に気がついた。
それが何故か恥ずかしくて、慌てて組んだ腕をほどく。
ハッとして隣を見ると、包み込むような目で小夜子が自分を見ていた。
「……何ですか?」
つい冷たい口調できいてしまったが、小夜子は何も言わず、口元に笑みを浮かべただけで、視線をかぐらへと戻す。
「……」
モヤモヤとした気持ちが膨らんでいく。
わけのわからない感情に振り回されたまま、織歌はただかぐらの演奏する旋律を、自分の脳細胞に刻み込むという作業に没頭するフリをした。
『小さな決心2』
結局、あの後、ライブが終了するまで、織歌は小夜子とその場に留まっていた。
本当なら、かぐらの演奏が終わった時点で帰宅しても良かったのに、何故か、その場を離れたくなかったのだ。
……もう一人の自分が、かぐらとゆうなの演奏をもっと聞きたがっていたからなのかもしれない。
そんな考えに行き当たってしまって、織歌はゾクッと身を震わせた。
まるで自分の中に、もう一人、自分がいるような感覚……。
「ありえないわよ、そんなこと」
五線紙に向かって、ボソリと呟く。
イライラした気持ちを吹っ切るように、耳に残る旋律を追いながら、五線紙に書き込んでゆく。
ゆっくりと目を開ける。
見慣れた風景だった。
目の前には、書きかけの五線紙が散らばっている。
どうやら、自分は小夜子に言いつけられた課題をやりながら眠ってしまったらしい。
椅子に座ったままで眠ってしまったせいか、身体中の関節が痛い。
痛みが出ないように注意しながら、ゆっくりと身体を起こす。
そして、諦めた気分で、置いてある時計を見てみた。
「……今日も遅刻、か」
ため息混じりに呟いて、織歌は椅子から立ち上がる。
――時計の針は、9時を5分ほど過ぎた時刻を指していた。
織歌が中学校に到着したのは10時を少し過ぎたころだった。
当然、授業開始時間より大幅に遅刻である。
が、授業途中で織歌が入ってきても、教師は何も言わない。
クラスメイトがヒソヒソと喋る声が聞こえてくる。
「私語は慎みなさい!」
織歌が自分の席についた途端、教師の叱責が飛んだ。
不自然に静まり返った教室で、織歌は小さくため息をつく。
……こんなことは日常茶飯事じゃないの。
机の上、きつく組み合わせた手を見つめながら、織歌は唇を噛む。
……気にしてはいけない。この学校の教師は、二波家の名前を使って生徒を集めているのだから、自分は、ここに在籍しているだけで良いのだ、雑音に耳を傾けてはいけない。
強く握りすぎて、指がプルプルと震えている。
「えー……次は、山崎、読んでみろ」
「はい」
教師に当てられた生徒が立ち上がり、朗読を始める。
教師は、教科書さえ出そうとしない織歌に注意しようとはしなかった。
家政婦が用意してくれた弁当は、まるで砂を食べているように感じられる。
せめて少しでも気分を浮上させようと、教室を出て、中庭にやってきたのだが、まったく気分は晴れない。
ため息をつきながら、黄色い卵焼きを口に運んだ時、どこかから声が聞こえてきた。
「あの子……二波さんって、高校、ドコ行くのかなぁ?」
自分の名前が出たことにドキッとして、思わず口の動きを止めた。
「つか、日本の高校に進学するの? いきなり音楽留学しそうじゃん、イメージ的に」
「そうだよねぇ……二波さん、思いっきり浮いてるし。日本の学校は合ってないよね」
「でもさ、二波さんのあの性格で、外国の個人主義の荒波を渡っていけるとは思わないんだけど」
……勝手なことを言っている。
ムカムカする気持ちを飲み込むように、口の中の卵焼きを飲み込んだ。
「どうなんだろ? でもさ、近場だとH女学院かな、音楽科あるし」
H女学院なら織歌も知っている。
女の子に人気の可愛い制服で生徒を集めているという、あまり偏差値の高くない学校だったように記憶している。
確か、母親の仕事の関係者が通っているという話を聞いたような、聞かなかったような……。
「H女かぁ。……あそこ、校則厳しくないし、制服チョー可愛いから狙ってたのに、二波さん行くなら、ちょっとなー……」
「そうだよね、いかにも『ワタクシはアナタがたとは違うのよ!』みたいな態度取られちゃ、やりにくくて仕方がないよね!」
「しょーがないよ、だって二波さんは声楽家の二波響一朗の娘で、『天才フォルテール奏者』なんだもん。天才様には、わたしたち下々の人間なんて低俗すぎて、お付き合いできないんでしょ」
「そうかもねー!」
複数の足音と共に、笑い声がだんだん遠のいていく。
「……」
織歌は膝の上の弁当箱を見つめた。
既に食欲なんて消え失せてしまっている。
「……わたしの評価なんて、こんなものよね」
自嘲混じりに弁当箱の蓋を閉めた。
クラスメイトのことを低俗だなんて、思ったこともない。
ただ、接点がなかっただけだ。
いつの間にか、自分がクラスメイトの輪からはみ出ていただけで、自分から出て行こうなどと思っていたわけでもない。
それなのに、あんな誤解をされているなんて、ショックだった。
「……」
織歌は弁当箱を片付ける手を止めた。
……ショック?
その感情が正しいのだとしたら、自分は何にショックを受けているのだろう?
誤解されていたこと?
クラスの輪からはみ出してしまっていたこと?
それとも……?
「あの、二波さん」
声をかけられて、織歌はハッと我に返った。
見ると、クラス委員長が、おどおどした様子で立っている。
「あ……もしかして、この場所、邪魔だった? ごめんなさい、気がつかなくて」
これ以上、クラスメイトに嫌われるのは嫌だと思った。
だから織歌は早口に言うと、さっさと立ち上がる。
「あの、違うの、二波さん!」
委員長が織歌の腕を掴んだ。
「……?」
怪訝な顔をして委員長を見ると、彼女はサッと頬を赤らめ、手を離した。
「あ、ごめんなさい、馴れ馴れしくしちゃって!」
「……」
織歌はため息をつく。
たかが手を掴まれたくらいで、馴れ馴れしくされたと思われるような人間なわけだ、自分は。
「……で、何?」
呆れ半分、自嘲半分に、織歌は委員長を見る。
そして、名前を呼ぼうとして、自分はこの委員長の名前さえ知らないことに気がついた。
そんな自分に嫌気が差す。
「あの……さっきのあの子たちの話……聞いてたんじゃないかって思って……」
「ええ、聞こえていたけど?」
それが何か? と訊ねると、委員長はまた頬を赤く染めた。
「あの子たち、悪気はないと思うの」
「……」
悪気がないのに、『一緒の学校に通うのは嫌だ』という内容のことを言うのが、一般の生徒の思考なのだろうか、バカバカしい。それこそ低俗な思考ではないか。
織歌はゆっくりと首を振る。
それをどう勘違いしたのか、委員長は微笑みを浮かべた。
「やっぱり、二波さんね。わかってくれると思っていたわ」
「……」
反論する気もなくして、ただ黙って委員長の言葉を聞くことにした。
「あのね、あたし、二波さんがすごく努力してるの、知ってるから」
「……」
はぁ、それはありがとうございます、とでも言うべきかしら?
いつになく意地悪な気持ちになって、織歌は目の前の少女を見つめる。
「あの、あたしもH女受けるんだけど、二波さんも受験するなら……ちょっと嬉しいな」
委員長は頬を染めて、照れたような微笑みを浮かべた。
何故かわからないながら、不愉快なものを感じて、織歌は眉を寄せた。
「どうして?」
「え、何が?」
不思議そうに問い返される。
「あなたたちは、わたしのことを鬱陶しく感じているのでしょう? なのに何故、あなたはわたしに話しかけてくるの?」
「え……?」
戸惑った表情で、委員長は織歌を見ていた。
その表情に、更に苛立ちが募る。
「わたしと仲良くしていると、内申書が良くなるから? それとも、クラス委員だから?」
「そんな、あたしは……!」
「そうじゃないと言いたいの? 友達面したいのなら、下心は上手にカムフラージュしないと、成功しないわよ?」
苛立ちに任せて言い切った後、委員長を見ると、委員長は目を見開いたまま、織歌を見ていた。
「……酷い、二波さん!」
水の膜が盛り上がって、ポロッと零れ落ちる様子がスローモーションのように目に映る。
「……あ」
織歌が何か言う間もなく、委員長は身を翻して、その場から走り去ってしまった。
帰宅後、織歌は自宅の防音室に直行した。
小夜子は先に来ていて、織歌は会釈だけして、無言でフォルテールの前に座る。
鍵盤に指を乗せ、昨夜、聞いたかぐらの旋律を奏でる。
その時、すぐ近くでピシッという音がした。
顔を上げると、小夜子がブラインドを弾いたのだとわかった。
「……気がそぞろのまま演奏するのはやめなさい。フォルテールに失礼よ」
冷たく言われ、織歌は指を止める。
「困ったわね……あなたの演奏は、昨日よりも悪くなっているわ。学校で何かあったのね?」
「決め付けないでください」
「あなたのその性格や、その態度で、同年代の女の子と仲良くできるとは思えないけど」
「……!」
ズキッと胸の奥が引きつれるように痛む。
「何よ……何よ、同年代の子と何があったって、先生には関係ないでしょう!?」
「図星、ね」
「わたしはっ! わたしだって、仲良くしたくないわけじゃない! でも、向こうが敬遠するんだもの、どうしようもないでしょう!?」
「……困った子」
小夜子はため息をついて、微笑みを浮かべた。
「織歌は思っていた以上に子供だったのね」
そっと頭を撫でられる。
それはいつもは子供扱いされていると腹立たしく感じられる行為なのに、今日は何故か心地よいと感じた。
「人は一人では生きられないのよ、織歌。そして、付き合う人が多くなれば多くなるほど、傷つくことも多くなるのだけれど……。あなたは傷つきたくなくて、誰とも付き合わないようにしているだけ」
「小夜子先生にはわたしの気持ちなんかわからない!」
「ええ、わからないわ。だって、あなたは何も言わないもの」
「……っ!」
小夜子の言葉に、織歌は息を呑んだ。
織歌のことなら何でもわかると言いたげだった小夜子からこんな言葉を聞くとは思わなかった。
「わたしはあなたのフォルテールの先生をしていて、あなたの演奏のことなら、何でもわかろうと努力はしているわ。でも、だからって、あなたの考えていることが何でもわかるエスパーじゃないの。思っていることは言わなきゃ相手には伝わらないのよ」
「……」
「わたしは思うの。あなたの悲劇は、天から与えられた才能が人よりも少し多かったことだって。あなたにフォルテールの才能や、音楽のセンスがなければ、あなたはもう少し、他人と交わる努力をしたでしょう……音楽に逃げ込むことなく」
「わたしは……!」
逃げてなんかいない、と言おうとした言葉を、強い視線で遮られた。
「音楽を逃げ場にするのはやめなさい、織歌。あなたの先生としてではなく、同じ人間としての忠告よ」
黙り込んでしまった織歌へと、小夜子はフッと微笑んで、持ってきていた封筒を差し出した。
「この学校はわたしの母校なの。全生徒に音楽教育を施すことで有名な学校よ。そして、あなたが悪く言ったオダンゴの子も、この学苑の生徒らしいわ」
封筒の表には、『桜立舎学苑高等部 入学案内在中』と印刷されてある。
「やっぱり織歌は似た境遇の同年代の女の子たちの間で生活する方が楽になれるかもしれないわね。桜立舎には、あなたと同じような悩みを抱えた子もたくさんいるわ。将来、音楽の道に進みたいのにスランプから抜け出せない子もいれば、今のあなたのように、音楽に没頭しすぎて、他人との距離感がわからなくなってしまった子もいるの」
「……」
織歌は黙って封筒を手に取った。
「音楽は巨大すぎる魔物よ。その魔物に向き合うためには、心の強さが必要なの」
「……」
「自分以外の誰かと一緒に生活することは、あなたを一回りも二周りも大きくしてくれるはず。そして、自分以外の誰かを思う気持ちは、あなたの心を強くするわ」
小夜子はどこか遠い目で窓の外を見た。
「わたしは桜立舎へ行くことで、音楽に潰されることから免れたの。もっとも、プロの音楽家としての成功を捨てる羽目になったのだけれど……今は後悔していないわ」
それから、織歌へと向き直る。
「織歌、あなたには後悔させたくないの。フォルテールに出遭い、フォルテールに没頭した過去を、忌まわしいものだと思わせるような未来を歩ませたくないの」
「……」
織歌は小さくため息をついてから、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「どうやら先生は母校懐かしさのあまり、冷静な判断ができなくなっていらっしゃるようですね。今日のところは自習にして、先生はご自宅で頭を冷やされては?」
「織歌……」
チラリと小夜子を見ると、傷ついた表情をしていた。
その表情で自分が言い過ぎたことを悟った織歌だったが、何と弁解すれば良いのかわからず、そのまま無言で防音室を出た。
『小さな決心3』
モヤモヤとした言いようのない感情を抱きながら、織歌は自室に戻って、五線紙に旋律を写し取る作業を再開した。
つっかえつっかえしながらも演奏していたかぐらの、それでも何故か楽しそうな表情が脳裏をよぎる。
「あんな演奏……最悪だったわ」
ペンを置いて、ボソッと呟いた。
「でも……」
幸せそうな微笑みだった。
あんな風に笑う人……初めて見た。
少なくとも、自分の周囲にはいないような気がする。
「……」
黙ったまま、織歌はフォルテールに向かった。
鍵盤に指を乗せて、自分なりにアレンジしたかぐらの旋律を奏でてみる。
指遊び程度の演奏ではあるが、やはり自分の演奏の方が観客をより満足させられるはずだ。
けれど、あの場にいた聴衆は、きっと自分のこの演奏には、あんな声援は送ってくれないだろうということは、ぼんやりとわかっている。
そう、何かが足りないのだ。
観客が夢中になって、声援を送りたくなるには、自分の演奏には何かが足りないのだ。
何が足りないのか、自分ではわからない。
けれど、小夜子にはわかっているという。
小夜子が教えてくれないのは、それは誰かに聞いて教えてもらうようなことではなく、自分で探して見つけ出さなければいけないものだから、らしい。
「……はぁ」
織歌は大きなため息をついた。
考えてわかるくらいなら、最初からこうして悩んだりしない。
自分が悩まないために、小夜子が存在するのではないのか。
わからない。
「……何だというのよ」
忌々しそうに呟いて、織歌はフォルテールの前から離れた。
気がついたら、K駅前ロータリーに来ていた。
路上ライブがあった場所へと視線を向けると、ゆうながフォルテールをセッティングしているところだった。
今日もまたライブをやるのかな……。
そんなことを考えながら、じっと見ていたら、ゆうなが織歌に気づいたらしい。
こちらを見て、ちょいちょいと手招きしている。
織歌は周囲を見回して、他にゆうなが手招きしている人物がいないかどうか確かめてから、警戒しながら近づいてみた。
「何かご用ですか?」
「ご用ってほどのことはないけど……きみ、こないだ、かぐらちゃんの演奏をスゴイ顔で見てたでしょ」
ゆうなの言葉にドキッとした。
あの時、不機嫌だったことは自覚しているが、ライブ主に覚えられるほどの表情をしていたのだろうか。
我知らず、じわじわと顔が熱くなってくる。
「なんでこんな下手クソが、聴衆に受け入れられているのか理解に苦しむ……そんな顔で、さ」
クスクスと笑うゆうなに、織歌は赤面しながらも、毅然と言い放った。
「その通りです」
「そっか」
それだけ言うと、ゆうなはまたセッティングの作業に戻った。
「……?」
その内、また何か言うだろうと思って、その場で待っていた織歌だったが、ゆうなは何を言う気配もない。
黙々とライトの場所を調整している。
織歌はきゅっと唇を噛むと、作業中のゆうなに問いかけることにした。
「どうして、あんな下手な人と一緒に演奏なんかしようと思ったんですか?」
「……ふふ」
笑われるとは思っていなかった。
頭に血が上ったらしく、思っていたよりも強い言葉が口をついて出た。
「すごく下手だったじゃないですか! つっかえるし、ミスするし、とてもじゃないけど、誰かに聞かせられるレベルの演奏じゃなかったです!」
言い過ぎたと思っても、言ってしまった言葉はもう取り返せない。
おそるおそるゆうなの顔を見上げる。
けれど、ゆうなは気分を害した様子もなく、穏やかに微笑んでいる。
「うん、確かにそれは事実だね」
ゆうなは作業の手を止め、織歌を正面から見つめた。
「もしも、この間のライブが、観客からお金を取るようなライブだったら、彼女はここに立つだけの資格はなかったよ。それは、あたしも認める」
それは織歌にとっては、意外な言葉だった。
だからこそ、疑問が募る。
「だったら……!」
何故、あんな下手な人をあの場に呼んだのか、という疑問は遮られた。
「でも、あのライブは無料だし、この場所も無料だよ。ここでは誰だって好きな時に好きな演奏をしても良いんだ。どんな下手クソでもね。モチロン聴衆だって、好きにしても良いんだよ、聞く聞かないは自由なんだから」
「でも……」
「そうだね。それでも、この間の聴衆は立ち去らなかった。それどころか、声援を送った。何故だかわかる?」
ゆうなが織歌の疑問の核心に触れる。
織歌はごくりと息を呑んだ。
「……わかりません」
しかし、ゆうなはまた表情の読めない穏やかな微笑みを浮かべただけで、織歌の疑問に答えてはくれなかった。
「ふふ……わからないってことは、キミは恵まれているんだろうね、音楽の才能に。でもね、それは『普通じゃない』ってことに気づいた方が、今後のためだよ?」
ドキリとした。
普通じゃない――それは、常々、織歌が考えないようにしてきたことだから。
「……わ、わたしは普通です!」
ゆうなは再びクスッと笑った。
「じゃあ、訊くけど。普通の人がフォルテールを演奏できるのかな? フォルテールは魔導楽器だよ、魔力がなきゃ、音を出すことさえできないってこと、忘れてない?」
「……!」
「キミには音楽の才能がある。それはとても恵まれたことなんだよ。だから、恵まれてない人が、何故、できないのかがわからない。できなくても当然なのに、できない、イコール、努力が足らないと思ってしまう」
「……」
ゆうなの声が、胸の奥に染みこんでくる。
できなくても当然、ということがあることを肯定する言葉に、心のどこかがホッとしたような気がした。
「……そして、そんな考えで行動するってことは、とっても不幸なことだって、あたしは思う」
泣きたくないのに、涙が出てきた。
自分の感情さえもわからなくなる。
「……かぐらちゃんはね、恵まれた才能を持っているのに、ずっとそれに気づかずに、自分には何もないって思い続けてきた子なんだよ。あたしはそれがもったいなくて、おせっかいを焼いているだけ。……ま、下心もあるけどね」
悪戯っぽく微笑む、ゆうな。
ゆうなの指が伸びてきて、織歌の涙をそっと拭ってくれた。
慌てて織歌は自分の手の甲で涙を拭く。
「下心って……ゆうなさんは、かぐらさんの才能の手助けをすることで、ご自分がメジャーになろうと思っていらっしゃるんですか?」
非効率的だと思った。
ゆうなほどの実力があるのなら、かぐらの成長を待たずに、勝手にデビューした方が早いはず……。
「ふっ、あははっ。なるほどね、キミの周囲には、そんな風にキミを見る人が多いんだね」
「え……?」
ゆうなの言葉に、織歌はただ戸惑うしかなかった。
「だって、下心って……!」
「ふふ、人間の下心って、十人十色なんだよ」
クスクス笑いながら、ゆうなは織歌の頭を優しく撫でてくれた。
「そうだね……あたしの下心は、先輩社員が新人の女の子に優しく仕事を教えてあげる時の心境に、ちょっと近いかもね」
意味がわからず、織歌は首をかしげた。
「わからないのなら、わからないで構わないよ。あたしも、これ以上、言うつもりはないし」
「そう、ですか……」
……結局、疑問は解消されなかった……。
がっかりした気分で織歌は俯いた。
「キミの疑問は、かぐらちゃん本人が解決してくれそうだね」
「え?」
思わず顔を上げる。
クスッとゆうながまた笑った。
「どうして、あんなに下手なのに、かぐらちゃんが観客に応援されるのか――それは、あの場にいた人たちに聞いても、きっとキミにはわからないと思うよ。今のキミは、それを理解するだけの準備ができてないからね」
「……準備、なんて必要なんですか?」
「モチロンだよ。キミは、数字を覚え始めた幼稚園児に、因数分解を教えたいと思う?」
織歌はゆるゆると首を振る。
ゆうなに『幼稚園児並み』と遠まわしに評されても、不思議と不快には感じなかった。
「そうだろう? 理解するには、経験を積み重ねる他はないんだよ。キミの場合、手っ取り早いのが、かぐらちゃんのすぐ近くで、かぐらちゃんを観察することじゃないかな。とにかく、頭で考えてもわからないのなら、肌で感じるしかないよね」
「……」
ゆうなの言葉に、織歌はゆっくりと頷いた。
確かに、自分には経験が足りないと思う。
フォルテールを上手に演奏することはできても、観客を感動させられないのは、この経験が足りない部分のせいかもしれない……。
「お時間を取っていただき、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
ゆうながまた笑った。
「キミ、いつもそんな感じなの?」
「え?」
「それじゃ、友達になれないよ?」
織歌は目を見開いて、ゆうなを見つめる。
苦笑しながら、ゆうなが織歌の頭を撫でる。
「あたしはキミと友達になりたいと思ったんだけど……キミはそうじゃない?」
問われて、ふるふると首を振った。
なれるのなら、友達になりたいと思う。
否、なってほしい。
「なら、お時間うんぬんは不要だよ。今のキミがするべきことは、あたしに名前を教えてくれることと……そうだね、あたしのほっぺにキスしてくれることかな。それで十分!」
「キ、キス……?」
ゆうなは悪戯っぽく笑っている。
「ほっぺにチューくらい、誰でもやってるよ」
「……」
織歌は少し考えてから、ぎこちない微笑みを浮かべた。
「あの……今更ですが、二波織歌と言います。これからも、その……」
おずおずとゆうなに近づいた織歌は、ゆうなの肩に両手を置いて、自分よりも少しだけ高い場所にある頬に、そっと唇を寄せた。
「……その……よろしくお願いします」
カーッと顔が熱くなる。
恥ずかしくて顔が上げられない。
そっと肩を抱かれて、ゆっくりと織歌は顔を上げた。
「嬉しいよ、織歌ちゃん。これからもよろしくね」
「……はい」
小さく頷くと、ゆうなは肩を押しやって、身体を離してくれた。
「あ、それから、一つ忠告」
「はい?」
「キスは大好きって気持ちを伝えるためのツールだよ。だから、それ以外ではやらない方が良いかもね」
織歌は唖然とした。
「……だましたんですか!?」
ゆうなは、クックッと忍び笑いを漏らしている。
「だましたなんて、人聞きが悪い。織歌ちゃんはあたしのことが大好きじゃないの?」
「……!」
反論もできず、かといって、納得することもできなくて、織歌は悔しそうにゆうなを見上げた。
「あたしはすごく嬉しかったよ、織歌ちゃんにキスしてもらって」
「……」
ゆうなの満面の笑みを向けられて、不思議と織歌の感情が静まってゆく。
同時に、こんなに喜んでくれたのだから、まぁ良いか、という気分と、あんなキスごときでこんな顔を見せてくれるなんて、という、嬉しさが高まってきた。
「ゆうなさんって、不思議な人ですね」
織歌の言葉に、ゆうなはニヤッと人の悪い笑みを浮かべた。
「うん、良く言われるんだ、それ」
自宅に戻って、ベッドに腰掛ける。
ゆうなの言葉は、半分ほどわからなかったが、小夜子と似たようなことを言っていたような気がする。
つまり、今の自分は普通じゃないから、普通の人のことがわからないらしい。
「……確かに、そうかもしれないわ」
今まで、そんなことを考えたことがないわけではない。
けれど、考えてしまえば、自分にとって不愉快な結論に至りそうで、考えないようにしていただけなのだ。
『理解するには、経験を積み重ねる他はないんだよ』
ゆうなの言葉が頭をよぎる。
『頭で考えてもわからないのなら、肌で感じるしかないよね』
「肌で、感じる……か」
ゆっくりと起き上がる。
机の上を見ると、小夜子に渡された封筒がそのまま置いてあった。
……同じフォルテール奏者のかぐらの傍にいれば、自分に足りないものがわかるようになるのだろうか……?
ベッドから降りて、封筒を手にした。
「そうね、虎穴にいらずんば、よね」
織歌の胸で、小さな決心が固まりつつあった。
『未来への希望 1』
織歌が桜立舎学苑への進学を視野に入れた頃、未羽の方は、進路のことなど頭の片隅に追いやって、普段どおりの日常生活に戻っていた。
「ナオミ、今日のお弁当も美味しかったー!」
「うふふ……そんなに喜んでもらえると、作る甲斐があるな」
昼休みは仲良し三人組で集まって、一緒にお弁当を食べるのが未羽の日常だった。
特に、料理好きなナオミにお弁当を作ってもらえるようになって、未羽は昼休みが楽しみで仕方がない。
「明日も楽しみー!」
「あんたね……ちったぁ遠慮しなさいよ」
苦々しい表情で、ユカがたしなめる。
「あ、いいのよ、ユカちゃん。わたしが好きでやってることだから」
慌てて、ナオミが取り成した。
「わたしの得意分野って料理だけだもん。その料理を未羽ちゃんみたいに、素直に喜んでくれる人がいるのって、すごく嬉しいことだよ」
ナオミの言葉に、ユカは呆れた表情をした。
「ナオミもお人好しすぎだよ。未羽は、正直だけが取り得の、ただ空気読めないお子ちゃまなんだから、毎日作ってあげる必要はないんだよ?」
「もー、ユカったら、ひどいよー!」
未羽が怒っても、ユカは未羽を無視して、ナオミに心配そうな視線を向けている。
「いいの、わたしが作りたくて作ってるだけだから。それに、未羽ちゃんの言葉って、今後の勉強にもなるのよ」
ユカはまだ怒っている未羽へと、チラッと視線を向けた。
「……ま、味にうるさいバカ正直者だからね、未羽は」
「もー、ユカー!」
ユカと未羽の遣り取りを見ながら、ナオミは笑っている。
「わたしね、将来、こうしてわたしが作った料理を食べてもらえるような職業に就きたいなって思ってるの」
ナオミの言葉に、未羽はポカンとナオミを見つめた。
が、ユカはナオミの夢を知っていたらしく、「ナオミなら絶対大丈夫だよ!」と応援している。
「……スゴイな、ナオミ……」
思わず、口をついて出た言葉に、ナオミもユカも驚いたような顔をして未羽を見る。
「あたし……将来のことなんて、何も考えてないよ」
「未羽は歌手になりたいんじゃないの?」
不思議そうに聞くユカに、未羽はゆっくりと首を振った。
「歌手になりたいなんて思ってないよ。あたしはただ、歌をうたうことが好きなだけ」
「好きなことを仕事にすりゃいいじゃん」
「そうかもしれないけど……でも、何だか違うんだよね……」
ユカとナオミは困ったような表情で、顔を見合わせている。
「ま、将来のことを決める時間はまだたっぷりあるんだから、気楽にしてれば?」
笑いながら、ユカが背中をバンと叩いてくれた。
「やーん、ユカったら痛いよぅ!」
思い切り叩かれたせいで、背中は痛かったけれど、どこか心が楽になったような気がした。
「おい、上月、ちょうど良かった」
家に帰ろうと、廊下を歩いていた未羽は、進路指導担当の教師に呼び止められた。
「来たぞ、書類」
が、教師の言葉の意味がわからず、首をかしげる。
「おいおい……桜立舎学苑高等部の資料を請求してやったじゃないか。おまえのための受験用の願書だろ。忘れるなよ」
苦笑混じりに教師に言われ、そう言えばと思い出した。
「えー……でも、まだ受験するって決めたワケじゃないんですけどー」
「まぁ、そう言うな。選択肢は多い方が良いだろ、特に、上月みたいに滑り止め必須の生徒には」
意地悪に言われ、未羽は思わず唇を尖らせた。
「ぶー!」
「ははは、図星だったか、悪い悪い!」
「悪いなんて思ってないクセに! センセの意地悪、根性悪!」
「まぁ、そう拗ねるな」
封筒でポンと頭を叩かれて、思わず、封筒を受け取ってしまった。
「資料、おまえ用に、1部余分にもらったから、家でも読んでおけ。受験する気になったら、いつでも言いに来いよ」
「はーい!」
取り敢えず、教師に対しては適当に良い返事をしておいて、未羽はさっさと封筒をかばんに仕舞い込んだ。
それから、とぼとぼと歩き出す。
いつも元気な自分らしくなく、何だか心の奥がすっきりしない。
「……調理師、かぁ」
ナオミの夢を見るような表情が蘇ってくる。
「そーいえば、ユカはジャーナリストになりたいって言ってたっけ……」
2人とも、おぼろげながらでも、将来のビジョンを持っている。
それに比べて……。
「あーあ、将来、かぁ!」
大きく伸びをして、空を見上げる。
夕刻に近づきつつある空は、深い藍色の色が混じり始めていた。
その場に立ち止まって、しばらく空を見上げていた未羽だったが、背後から自転車のベルを鳴らされて、慌てて脇に退いた。
「……」
ちょこんとガードレールに腰掛けると、ごそごそとかばんを開けて、つい先ほどもらった封筒を取り出してみる。
「……桜立舎学苑高等部 入学案内在中。何だかなぁ……」
中身を見る気になれなくて、未羽はその封筒をまたかばんに仕舞い込む。
「やーん、何だかスッキリしないー、モヤモヤするーぅ!」
ガードレールの上で、手足をバタバタさせてみた。
そして、ふとひらめく。
「あ、そうだ!」
ぴょんと歩道に飛び降りる。
「あそこ、行ってみよう!」
言うが早いか、未羽は駅への道を駆け出していた。
「うーん、やっぱりいないかぁ……」
K駅前ロータリーは、ライブの時より人は少なくて、ゆうながいるかどうかは、駅を出てすぐにわかった。
ガックリした気分で、自動販売機でパックジュースを買って、ガードレールに座る。
このまま帰るのも間が抜けてるよね……どうしようか。
ジュースを飲みながら、ぼんやりと通り過ぎる人の群れを眺めていた。
その時。
「あっ!?」
見覚えのあるポニーテールが目の前を横切った。
「あっ、あのっ!」
思わず駆け寄り、その人の手を掴む。
「あれ……キミは……」
「やっぱり、ゆうなさんですよねっ!」
ゆうなは驚いたように目を丸くして、それから満面の笑みを浮かべた。
「覚えててくれたんだ……キミはかぐらちゃんしか見てなかったのに」
今度は未羽が驚く番だった。
「やーん! どうして、あたしのこと、覚えてるんですかー!? 嬉しいけど、恥ずかしいー!」
未羽の調子に苦笑いをこぼしつつ、ゆうなは微笑みを浮かべる。
「そりゃあ、あんなにキラキラした目で、かぐらちゃんが動く度に顔を動かしてりゃねぇ……。かぐらちゃんはゲストだったのに、ライブ主としては、ちょっと嫉妬しちゃうな」
「すみませんー」
てへへ、と笑う未羽に、ゆうなは包み込むような優しい微笑みを見せた。
「で、今日はどうしたの? その制服姿、学校帰りみたいだけど……キミの学校って、この近くじゃないよね?」
「あー……、その……。かぐらさんのことを聞いてみたくて、ここに来たら、ゆうなさんかかぐらさんに会えるかなーって」
「そりゃ、あたしで残念だったね」
「え、でも、ゆうなさんでも、会えてよかったです!」
「ふーん、『ゆうなさんでも』なんだ?」
「あ、えーっと……」
途端に困った表情をする未羽に、クスクスとゆうなが笑う。
「ごめん、ごめん。キミがあんまり素直だから、ちょっとからかってみただけだよ」
「もう、ゆうなさんはイジワルです!」
ぷぅと頬を膨らませた未羽の頬を指先で突いて、ゆうながまた笑った。
「でも、かぐらちゃんのことに関する質問には答えられないよ? プライバシーってのものがあるからね」
「えー!? かぐらさんが桜立舎に通ってるって聞いたから、学校でどんな風にしてるのか訊いてみたかったのにー!」
「うーん……それもちょっと答えられないなぁ」
「じゃあ、かぐらさんは将来、何になりたいか、とか……」
「そういうことは、直接、本人に聞くのが一番だよ」
やんわりと断られ、未羽は唇を尖らせた。
「……本人に直接きく機会がないから、ゆうなさんに訊いてるのに……」
未羽の拗ねた様子に、ゆうなは笑いながら、そっと頭を撫でてくれた。
「キミの気持ちもわかるけど……ゴメンね、自分の知らないところで、自分の噂話をされるのって、あまり気分の良いものじゃないだろう?」
「……」
唇を尖らせたまま、未羽は持っていたジュースのストローに唇をつけた。
「もし良かったら、キミがかぐらちゃんに訊きたいことを教えてくれるかな? かぐらちゃんに会うことができたら、あたしから訊いておいてあげるから」
「ホントですか!?」
拗ねた表情が一転して、明るいものになる。
その変わり身の早さがおかしかったのだろう、ゆうなは笑いをかみ殺すような表情をした。
「ああ、ホントだよ、約束する」
未羽はニコッと笑って、ゆうなを通行人の邪魔にならない場所まで引っ張ってきた。
そして、2人でガードレールに並んで腰掛ける。
「あたし……今、中学3年生なんですけど、進路に迷っててるんです。家から通える高校に、友達と仲良く通っても良いんだけど、それじゃ何も変わらない気がして……」
「キミは何かを変えたいの?」
ゆうなの言葉に、未羽は力強くうなずいた。
「モチロンですよ!」
ゆうなはまた包み込むような優しい目をする。
「じゃあ、行動しなきゃ。ところで、キミは何がやりたいこととかある?」
「あたしね、歌が好きなんです。でも、別に歌手になりたいとかそういうのじゃなくて……。だから、音楽科のある高校じゃなくても良いんだけど、でも、桜立舎学苑は学校そのものが音楽科みたいなものだって聞いて、で、ちょっと迷ってる」
「どうして迷うの?」
「だって、桜立舎は校則が厳しいし、通学に1時間かかるし……」
「寮があるって話だけど?」
「うーん……。……実はね、はっきり言うと、あたし、お嬢様じゃないから」
未羽の言葉に、ゆうなは驚いた表情をした。
そして、プッと吹き出した。
「あっ、笑った! あたし、真面目に悩んでるのにー!」
「ごめんごめん、学校の話をしてたはずなのに、予想外な話になったから」
「だって! 桜立舎ってお嬢様学校だから、あたしみたいな庶民が入ったら、いじめられそうかなって思ったんだもん!」
ゆうなは困ったような微笑みを浮かべる。
「本当のお嬢様はそんなことしないよ」
優しく頭を撫でられた。
「それに、キミみたいに、からかっても予想通りの反応が返ってくるような素直な子、いじめたってあまり楽しくなさそうだしね」
「ゆうなさん……」
唖然として未羽がゆうなの顔を見る。
「ふふ、冗談だよ。そうだね、確かに、桜立舎には上流家庭のお嬢様も通っているけど……校風はおっとりしてて、むしろあたしみたいな騒々しい人間から見たら『この人たち、大丈夫なのかなぁ』と心配してしまうほどのノンキな学校だよ?」
「そーなんですか?」
ゆうなは笑ってうなずいた。
「知っての通り、かぐらちゃんもあの学校に通ってるんだけど……。何もないところでつまづいたり、転んだりする天然なかぐらちゃんでさえ問題なく過ごせているんだから、普通の学校に普通に通えているキミなら大丈夫だよ」
「そうかなー」
「そうだよ」
ゆうなの微笑みは、何故か信じても大丈夫なような気がして、ゆうながそう言うのなら、進学しても良いかもしれないと思える。
「将来ってのは、ハイリスク・ハイリターンだよ」
「え?」
突然の横文字に、未羽は目を丸くした。
そんな未羽を優しく見つめながら、ゆうなは微笑みかける。
「大きな変化を求めるなら、より大きなリスクを背負わなくてはならない。今を変えたいのなら、不安に飛び込んでいかなくちゃいけないってことさ」
「なるほどー!」
未羽は目をキラキラさせた。
「ハイフリスク……えーっと?」
「……キミはもう少し勉強をした方が良いかもしれないね」
「う……」
「桜立舎の入試には音楽の実技があるくらいで、その他は普通の学校の入試と変わらないから、ちゃんと勉強しないと」
ゆうなは苦笑混じりに言うと、思い出したかのように、荷物の中から1枚のCDを取り出した。
「これ、キミにあげるよ」
「何ですか、このCD……?」
「かぐらちゃんの演奏曲。本当は別の子にあげる予定だったんだけどね、キミ、かぐらちゃんが大好きみたいだから、キミにもあげる」
「いいんですか?」
「ダメなら渡さないよ。演奏曲はデータがあるから、CDならまた用意できるし」
ま、その子にあげる約束もしてないんだけどね、とゆうなは笑っているが、未羽はただ手元のCDを見つめていた。
「かぐらちゃんはね、リラックスして演奏すると、意外なほどに良い音を出すんだよ。聞いているだけで勇気が出てくるような……」
「あ、わかります! この間のライブ、あたし、かぐらさんに元気をもらいました!」
「だろう? 練習不足なのがバレバレの演奏でさえ、キミを元気にするんだよ。彼女には才能があると思わない?」
「思いますっ!」
言って、手にしたCDをぎゅっと抱きしめた。
「家に帰るのが楽しみです!」
「そう、それは良かった。あたしも、かぐらちゃんのファンが増えると嬉しいな」
ガードレールから降りて、ゆうなは未羽に手を差し出した。
「キミの名前、訊いてもいいかな?」
「あ……すみません。未羽です、上月未羽!」
「そう、未羽ちゃんね。今日はライブは休みだけど、また気が向いたら、ライブ、聞きに来てくれたら嬉しいな」
「はい、また聞かせてください!」
元気に返事をすると、ゆうなは満足そうに微笑んだ。
「……かぐらちゃんがゲストに来てくれるかどうかはわからないけどね」
「今度はゆうなさんの演奏を聞きに行くんですってばー!」
「ホントかなぁ……未羽ちゃんの言うことだからなぁ」
「ぶー!」
クスクスと笑いながら、じゃあ、と手を上げて駅に消えたゆうなの後ろ姿を、未羽はしばらく立ち尽くしたまま、じっと見つめていた。
『未来への希望 2』
家に帰るとすぐ、あわただしく自室に篭り、ゆうなからもらったCDをデッキにセットした。
ベッドにダイブし、枕元にあったリモコンの再生ボタンを押す。
しばらくの間が空いて、やがて、あの不思議な音色がスピーカーから流れ出してきた。
「ああん、もう、やっぱりステキだよぅ……」
枕に顔をうずめながら、柔らかな旋律に身を任せる。
まるで、一つ一つの音が、未羽の肌を優しく撫でていくような感覚に、うっとりした。
ぎゅうっと枕を抱きしめる。
そうしないと、湧き上がる幸福感に叫びそうになった。
「やーん、やっぱり大好き〜!」
ベッドの上でゴロゴロ転がっていると、CDに収録されていた全てのトラックが終了して、スピーカーが沈黙する。
むっくりと起き上がって、未羽はデッキにリモコンを向けた。
「やん、もう、オートリピートにしちゃう!」
ピッピッとリモコンを操作する。
何度か聞いていると、頭の中にメロディが残った。
じっとしていられなくなって、立ち上がって、スピーカーから溢れてくる音にあわせて、口ずさむ。
幸せな高揚感。
「ちょっと未羽、うるさいわよ!」
突然、バンとドアが開けられた。
「ごはんだって呼んでるのに、返事もしないで歌って踊って! いい加減、近所迷惑も考えなさい!」
ずかずかと入ってきた姉に、いつもなら言い返すところだが、今日の未羽はいつにない上機嫌だった。
「お姉ちゃん、聞いて聞いて! この曲、すんごくステキなんだよ!」
「あん?」
一旦、CDを止めてから、眉間にシワを刻んだ姉の手を引き、ベッドに座らせ、再度、再生ボタンを押す。
流れてくる柔らかなフォルテールの音に、最初は不機嫌全開の表情だった姉も、少しずつ表情を和らげる。
「へぇ……あんた、どうしたの、このCD?」
「えへへ。ステキでしょう?」
「んー、まぁまぁなんじゃないの?」
そんな憎まれ口を叩いているが、姉が本心では未羽に同意しているのがわかっているから、未羽も嬉しくなる。
「もう、お姉ちゃんは素直じゃないんだから! ステキだって一緒に騒いでくれたって良いじゃん!」
「はいはい、また今度ね〜」
いなすように、姉がふわふわの未羽の髪を撫でる。
未羽は真剣な表情で姉をじっと見た。
「な、何よ、未羽……そんな顔して……」
見慣れない未羽の真剣な顔に、うろたえたらしい。
が、未羽は表情を崩すことなく、言葉を続けた。
「あのね……おねえちゃん、お願いがあるの」
「な、何よ?」
「勉強、教えてほしいんだ」
「は? あんた、熱でもあるの?」
意外な未羽の言葉に驚いたらしい、姉は未羽の額に手のひらを押し上げる。
それを押しのけながら、未羽は更に姉に言い募った。
「そーじゃなくて! あたしね、この曲を演奏してる人がいる学校に行きたいの! でも、馬鹿じゃ入れないって言うから、勉強しようって思ったんだ」
しばらく、姉は黙って未羽を見つめてから、口を開いた。
「なーるほどね……それで、勉強、か。で、あんたが行きたいっていう、その学校ってドコよ?」
言おうか言うまいか、少し迷う素振りをしてから、思い切って、未羽は胸の中にある学校の名前を告げた。
「……桜立舎学苑」
「は!?」
未羽の言葉に、姉は目を丸くして驚いた表情をする。
「……あー、でもまぁ、未羽ならアリかもね……音楽系だし」
ふっと微笑みを浮かべた姉に、未羽はホッとした表情をした。
「お姉ちゃん……」
「あの学校、すごいお嬢様学校みたいだけど、あんた、上品にできるの? 勉強だけじゃなくて、マナーとかも勉強した方が良さそうだけど?」
「うーん、やっぱりそうだよね……。でも、マナーとかは合格した時に考えるとして、今はまず勉強しなきゃって思うんだ」
ぐっと握り拳を作る。
姉は、未羽を見て、くっくっと笑った。
「なるほど。ま、可愛い妹がせっかくヤル気を出してるんだから、協力してあげても良いけど〜?」
悪戯っぽい表情をする姉に、未羽はぎゅっと抱きつく。
「わーい。お姉ちゃん、大好き!」
「ええい、この現金者めっ!」
姉が楽しそうな笑い声を上げた。
「その代わり、二度とケンちゃんとの電話の邪魔しないって誓いなさいよ」
「うん、誓う誓う、何でも誓っちゃう〜!」
「……ホント、いつも軽いわよね、あんた」
ため息をつきながらも、姉はなんだか嬉しそうで、それが未羽にはくすぐったかった。
それから2ヵ月後。
姉の指導の甲斐あってか、未羽は劇的に成績を上げた。
そして、ミニテストの答案を持って、両親の前に座る。
「どうしたの、未羽ちゃん、改まって……」
困惑顔の母親に、未羽は頭を下げた。
「あたし、桜立舎学苑に進学したいの!」
「は!? 桜立舎だと!?」
「え、いきなり何を言い出すの、未羽?」
未羽の言葉は予想外だったのだろう、両親はそろって表情を曇らせた。
「桜立舎に行くために、お姉ちゃんを口説き落として、頑張って勉強したの! ホラ、見て!」
96点と書いてある答案を父親の前に差し出す。
「……今まで進学に興味がなかったおまえが、どうしていきなり桜立舎なんて学校に行きたがるようになったんだ?」
父親は苦りきった表情で、未羽を見た。
「目標にしたいスゴイ人が桜立舎学苑にいるから! 初めてその人の演奏を聞いた時、『これかも!』って思ったの! 今のあたしは、将来、自分が何になりたいのかさえわからない半端な状態だけど、その人と一緒にいたら、何かが見つけられそうな気がするの!」
一息に喋った後、じっと父親の顔を見た。
「……」
父親は渋い顔をして未羽を見ている。
そんな父親の袖を、くいくいと母が引っ張る。
「未羽にやりたいことができたことは喜ばしいことじゃありませんか」
しかし、母親の言葉にも、父親は表情を崩さない。
「それはそうだが……通学はどうするんだ? 桜立舎は遠いだろう?」
毎朝起きられるのかと遠回しに訊かれているのだと思い、未羽は決意をこめた目で父親を見た。
「お姉ちゃんより通学時間は短いけど、実は寮に入ろうって思ってる」
「寮だと!?」
途端に、父親が顔色を変えて立ち上がる。
「この家を出て、寮に入るだと!?」
「だ、だって! 寮の方が、より音楽の勉強に浸れると思うし……それに、日常生活に関するマナーの勉強は、家よりも寮の方がしやすいだろうし……っ!」
「未羽! おまえはまだ15だろう!? 親元を離れるのは、もう少し大人になってからでも良いじゃないか!」
どうやら、寮に入ると言ったことが、父の逆鱗に触れたようだ。
けれど、未羽も引き下がるわけにはいかない。
「お父さんはそう言うけど、じゃあ、学苑の寮で暮らしてる子たちは大人なの? 高等部の人の大半は寮生活をしてるけど、その人たちは大人で、あたしはまだ大人じゃないの!?」
「そういうことを言ってるんじゃない! 遠いところから入学した子は寮に入るだろうが、おまえはこの家から通学できるだろう!?」
「じゃあ、お父さんは、あたしが学校にさえ通えば良くて、寮でしか学べないことは別に学ばなくても良いって言いたいの!?」
「そんなことは言っていないだろう!」
売り言葉に買い言葉で、父娘の言い合いはヒートアップしていく。
なかなかわかってくれない父親に、未羽が焦れ始めた頃、リビングの入り口から姉が声をかけてきた。
「おとーさーん? そろそろ諦めて、未羽の言い分を認めちゃった方がいいんじゃない?」
「早弓!」
「お姉ちゃん!」
一同の視線を受けて、姉がにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「未羽の決心は変わらなさそうだよ? 未羽がどれだけ桜立舎に行きたがってるか、この子の勉強に付き合ったあたしが良くわかってる。でも、もしお父さんたちが反対したら、この子、家出しちゃうかもね」
ケラケラと笑う姉へと、父が苦い表情を向ける。
「……早弓、おまえが入れ知恵したのか?」
「お父さんったら、やだなー、入れ知恵だなんて人聞きの悪い。あたしは姉として、可愛い妹が大事にしてる、未来の希望を尊重しようと思っただけよ。なーんて美しい姉妹愛!」
「……」
「ま、妹が有名になったら、あたしもその恩恵にあずかれそうだって下心もあるけどね!」
姉らしい言い草に呆れながらも、また、わざわざ援護射撃をしてくれたことが嬉しくもあり、未羽は表情を崩した。
「もー、お姉ちゃんったら」
そんな未羽に、姉は力強くうなずきかける。
「だから、お父さん、お母さん、未羽の本気、認めてやってよ。あたしなんかより、この子の方が、よほど真面目に未来を考えてるんだから!」
「……!」
未羽は姉を見た。
姉は、しょうがないなぁ、という顔で、未羽の頭を抱き寄せる。
「お姉ちゃーん……!」
涙がぶわっと溢れてきた。
「ほら、未羽だって、お父さんに反対されて、どんなにか心細かったかわかる? ここは、父親らしく、広くてふかーい懐を見せてあげなきゃ、可愛い未羽たんに『お父さんなんてキライ!』って言われちゃうよ?」
「……」
姉の言葉の後、ややあって、父親が盛大にため息を吐き出した。
「……仕方がないな」
「そ、それじゃあ……?」
「ああ、ここまで未羽が頑張ったというのなら、その頑張りを評価するしかないじゃないか」
「……お父さん、大好き!」
苦笑いをしている父親の首に、泣き笑いの表情で、未羽はがしっと抱きついた。
母親は、にこにこと微笑ましそうに見ている。
――こうして両親の説得作戦が成功した。
部屋に戻ると、いつの間にかいなくなっていた姉が、未羽のベッドの上で寝そべっていた。
「お姉ちゃん、さっきは援護射撃、ありがとう! お父さんを説得できたの、お姉ちゃんのおかげだよ!」
満面の笑顔でそう言うと、姉はニコッと笑って、未羽に右手を差し出した。
「……何、この手?」
「ミッション・コンプリート。ってことで、成功報酬」
「……」
ちゃっかりしている姉に、思わず絶句する。
「……これがなければ、素直にお姉ちゃんに感謝するのに」
「未羽の素直な感謝より、報酬の方が嬉しいです、ワタクシ」
「ちぇー」
渋々ながら、未羽はサイフを取り出して、姉が行きたがっていたコンサートのチケットを渡した。
「うほーん、コレよコレ! サンキュー、未羽! またヘルプがほしくなったら、何でも言ってね!」
「もう……ちゃっかりしてるんだから」
そんなわけで、未羽は登校後、意気揚々と進路指導担当の教師のもとへ行き、進学先の第一希望を桜立舎学苑高等部にすることを告げた。
「そうか、とうとうご両親を説得したか!」
「はい! お姉ちゃんも協力してくれました!」
「そうかそうか。上月がなぁ……。アイツ、卒業してから一度も見かけないが、元気か?」
「元気も元気! 昨日も彼氏と長電話してました!」
「あー……そうか」
思い当たるところがあるのか、教師は言葉を濁して苦笑している。
それでも嬉しそうにしているので、未羽も嬉しくなってしまった。
「じゃあ、学校側から願書を出しておくが……入寮はどうする?」
さすがに入寮までは無理かもしれないと思っているらしい教師に、未羽はにっこりとVサインを見せる。
「入寮の許可ももらったよ!」
「そうか。快挙だな、上月!」
「はいっ!」
大きくうなずいて、未羽は「よろしくお願いします」と頭を下げて、進路指導質を後にした。
「んーと、これで願書は大丈夫でしょー。あとは、授業をちゃんと受けて、家に帰って、お姉ちゃんが帰ってくるまで、参考書をやって、お姉ちゃんが帰ってきたら勉強を見てもらうだけ! よしっ、今日も頑張るぞー!」
テンションは右肩上がりだ。
廊下で、「おーっ!」と右拳を上げてみる。
他の生徒に笑われても、まったく気にしない、未羽だった。
『未来への希望 3』
「ねぇねぇ……願書って提出したら、後は何をすればいいのかなー」
教室で、机にだらーっとへばりついて、未羽はユカとナオミに訊いてみた。
「勉強でもしてれば?」
「ユカったら冷たいー!」
あっさり短く返されて文句を言った時、校内放送が流れた。
『3年生の上月未羽さん、至急進路指導室へきてください』
「あれ……呼ばれた……」
教室上部に備えつけられたスピーカーを見上げて、未羽が立ち上がる。
「何だろ……至急って言ってたよね……」
「もしかして、未羽の桜立舎の願書が受け付けられませんでしたー! とか?」
軽口を叩くユカの脇を肘でつついて、ナオミが微笑みかけた。
「大丈夫だよ、未羽ちゃん。きっと良いことがあって、先生がすぐにでも知らせたいって思ってるんだよ」
「……そうかなぁ」
急に不安になってきた。
「とにかく、至急って言ってたから、早く行っといでよ」
「あ、うん!」
小さくうなずいて、未羽はダッシュで教室から出て行った。
進路指導室に着いてすぐ、教師が申し訳なさそうな顔で謝ってきた。
「悪いな、上月。実は桜立舎学苑なんだが……」
「エッ!? もしかして、あたしは受験もさせてもらえないとか!?」
教師は呆れた顔で、丸めた書類で、未羽の頭をポコッと叩く。
「そうじゃない。人の話は最後まで聞きなさい」
叱られて、未羽は、はーいと舌を出して微笑んだ。
教師の態度から、桜立舎学苑を受験させてもらえないという事態ではないようで、取り敢えずはホッとする。
「桜立舎学苑なんだが……願書は郵送ではなく、志願者本人が持ってこなければいけないそうだ」
「へぇ、そうなんですか?」
深刻そうに言う教師に対して、未羽はあっさりうなずいた。
「パンフレットには何も書いてなかったから、先生も知らなくてな。先月送って、送ったことに安心して、確認を忘れてたんだよ」
「えー、忘れちゃうなんてヒドイ!」
「すまん、上月」
「ぶーぶー!」
唇を尖らせて、抗議する。
教師はまた済まなさそうな顔で、未羽の頭をポンポンと叩いた。
「で、昨日、学校宛に、一度、学苑の見学を兼ねて、本人が顔を出してくれたら嬉しいという内容の手紙が送られてきたんだが……上月、行けるか?」
未羽は小さく肩をすくめる。
それから、ニヤッと笑った。
「行った方が良いんでしょ?」
「まぁ、そうなんだが……。今回のことはあちら側の不手際だから、都合が悪ければ来校できなくても構わないということと、願書はこのまま受け付けると言ってくれてるんだが……」
「でも行く!」
きっぱりと答える。
未羽の言葉は意外だったようで、教師は目を丸くしていた。
「え、そうか?」
「ついでに、学校の中を案内してもらう!」
「……ちゃっかりしてるな、おまえ」
「えへへー。でも、あたしの場合は家から1時間程度でいけるからいいけど、遠いところに住んでる子も願書を持っていかなきゃなんないのかな?」
だとしたら不親切だよね、と未羽はまた唇を尖らせる。
「いや、今回はパンフレットの印刷ミスらしく載っていないらしいんだが、郵送不可の地域が指定されているらしい。上月の家は、もちろん、その郵送不可地域だったというわけだ」
「ふーん」
「向こうの先生と電話で少し話をしたんだが、今年は何故か外部からの入学希望者が多いらしくて、ちょっとバタバタしていたみたいだぞ。いつもは多くて20人程度らしいんだが、今年は届いた願書だけでいつもの3倍近くあったらしい」
「へー」
聞いているんだか、聞いていないんだか良くわからない未羽の反応に、教師は呆れたようにため息をついた。
「……のんびりしてるな、おまえは。志願者が増えるってことは、それだけ競争率が上がるってことだろうが」
「あ……!」
言われて初めて気づいたように、未羽は顔を上げる。
「しっかりしろよ、上月! 今の成績なら筆記試験は問題ないだろうが、実技試験は何があるかわからんから、油断は禁物だぞ?」
「はーい!」
取り敢えず、といった感じで元気に返事をして、未羽は大きく右手を上げた。
とにもかくにも、受験資格がなくなったわけではない、ということで、未羽は安心していた。
それから2日後。
教師が電話で予約してくれた時間枠に従って、未羽は学苑へと赴いた。
「こっちかなー……」
備品のスリッパをパタパタさせながら歩いて、職員室と書かれたプレートの下で立ち止まる。
ノックを2回すると、内側から「どうぞ」という返事が返ってきたので、未羽はドアを大きく開けた。
バタバタしていると聞いていたから、職員室は蜂の巣を突いたような騒ぎになっているのかと思いきや、整然としていて、ちょっと拍子抜けする。
「こんにちは、上月未羽さんですか?」
パッと見、外国人の教師らしき人物が出てきて、流暢な日本語で喋り始めた。
「ひょ……っ!?」
が、未羽はその外見に慌ててしまい、目を白黒させている。
「今回は二度手間をかけていただき、申し訳ありませんでしたわね」
「あっ、あいあむ、ス…ピーク、ジャパニーズって……あれれ、スピーキング?」
クスクスと笑う声に我に帰る未羽。
「大丈夫、日本語は通じていますよ、ミス上月」
「あ」
一旦停止してから、ゆっくりと相手を見上げてゆく。
教師らしいその女性はクスクスと楽しそうに微笑んでいた。
「やーん、あたし、のっけからやっちゃったよーぅ!」
「安心なさい。願書提出時の失敗まではチェックしませんから。もっとも、我が校の生徒になるのに相応しくない言動があれば別ですが」
笑いながらも、今、一番、未羽が気にしていることを教えてくれる。
「よ、良かったーぁ……」
正直に肩の力を抜いた未羽に、女性はまたクスクスと笑った。
「アタシはスミス・F・フローレンス。この学苑で英語の教師をしています。今日は学苑長も教頭も不在なので、アタシが学校を案内させていただきますわね」
「はーい、よろしくおねがいしますー!」
「うふふ、元気が良いのね」
クスクスと笑い続けているスミス先生の後について、未羽はスリッパをまたパタパタさせながら、歩き始めた。
「そうですか……ミス上月は、声楽を極めてみたいと思ったのが受験動機なのですね」
「は、はい」
ホントはちょっと違うけど、と未羽は胸の中でペロッと舌を出す。
「この学苑は平和で、勤務している者が言うのもおかしいかもしれないけれど、とても良い学苑だと思いますよ。ただ……」
「ただ?」
「ただ、あまりに平和すぎて、生徒たちは卒業後、あの社会の荒波を無事に乗り越えられるかどうかと思ってしまうときはありますね」
そう言って、スミス先生は苦笑するような微笑みを浮かべた。
ゆうなも似たようなことを言っていたと思い出しつつ、「まぁ、お嬢様学校だもんねぇ」と未羽が考えた時、背後から「スミス先生!」と呼び止める声がした。
振り向くと、ツインテールの生徒が教科書を持って、申し訳なさそうに立っている。
「どうしましたか、ミス二条院?」
「あの……来客中に申し訳ありません。今日の授業で少し疑問点が……」
「わかりました。あ……っと、ごめんなさい、ミス上月。少し待っていてくださいね」
「あ、はい」
未羽がうなずいたのを見て、生徒に向き直って、教科書を挟んで何やら教えている。
丁寧な教え方だなぁと聞き流しながら、未羽はぼんやりと窓の外を見た。
見覚えのあるあのオダンゴ頭が歩いている。
「あ……っ!」
かぐらさんだ!
窓に近寄って、食い入るように見つめてみる。
(あぁ……やっぱりこの学苑の生徒だったんだぁ。あの楽器、弾いてくれないかなぁ……って、ここじゃ無理か)
未羽の熱い視線に気づいたのか、かぐらがコチラを見た。
(……っ!)
かぐらは未羽を見て、にこっと笑って、ぺこりと頭を下げた。
慌てて未羽も頭を下げる。
その時、かぐらの背後から、かぐらめがけて走ってくる人影が見えた。
「かーぐらーぁ!」
その人物は、かぐらに接近すると、「とうっ!」という掛け声と共にジャンプし、かぐらに抱きついた。
「きゃあっ!?」
「あ……っ」
そのままかぐらは転んでしまうかと思ったが、体勢を建て直し、抱きついてきた人物をしっかりと抱き止めて、地面に下ろす。
「もう、ちほちゃん、危ないったら!」
「えへへ、ごめーん。かぐらを見かけたら、つい……」
「『つい』でフライング・ボディ・アタックをされると危険なんだけど」
「あはは、もうしないってば。なるべく、だけど」
「なるべくじゃダメ!」
ちほという人物は笑いながら、不機嫌そうなかぐらをなだめている。
「それに、今日は外部受験希望の人が来てるんだから、恥ずかしいでしょ」
「え、そうなの?」
かぐらに指を差されて、未羽はドキッとした。
ちほは未羽を見て、にこっと微笑みかけてくる。
「あ、あなた、受験希望の人?」
突然、話しかけられて、未羽はただコクコクとうなずいた。
「えへへー……だったら、あたしたちの後輩だね!」
「ちほちゃん、まだ後輩になるって決まったワケじゃないよ?」
「いいの、いいの、カタイこと言いっこなし! んじゃね〜! ウチの受験、頑張ってね!」
手をヒラヒラ振りながら、ちほとかぐらは連れ立って行ってしまった。
「……」
残された未羽は、唖然としながら、その背中をただ見送るだけ。
「……チョー羨ましいんだけど」
ボソリと呟いた。
それから、想像してみる。
「かぐらせんぱーい!」と呼んで、「とうっ!」とジャンプして、がしっと抱きつく自分。
それをかぐらが、しっかりと抱き止めてくれて――。
「……ああ、ステキ……」
未羽はうっとりとかぐらの消えた方向を見た。
この学苑に入学できた暁には、何としてでもかぐらと仲良くなって、さっきの人みたいに、かぐらに抱きつくのだ。
「そのためには、絶対に合格しなきゃ!」
ぐっと握り拳を作った未羽に、クスクスと笑いかける声が振ってくる。
「その意気ですよ、ミス上月」
見上げると、スミス先生が微笑んでいる。
「あなたのようにガッツ溢れる生徒がいると、この学苑もきっと良い方向へと変わりそうな気がしますわね。ぜひ、入学してくださいね」
そう言われ、未羽は照れてしまった。
「えへへ……まずは入学試験を頑張らなきゃ、ですよね」
「ふふ、ミス上月ならきっと大丈夫ですよ」
ふわりと微笑まれて、嬉しくなる。
こんな風に柔らかく自分を肯定してくれる存在があるということが、こんなにもくすぐったい嬉しさを伴うものだとは思わなかった。
「スミス先生もいるし、あたし、ガゼン頑張っちゃいます!」
「ふふ、頼もしいわ」
ニコッと笑ってから、スミス先生は手元の時計をチラッと見た。
「ああ……ミス上月。中座しておきながら、大変申し訳ないのだけれど、次の受験希望者の案内の時間が迫っているようです。もし良ければ、別の日程で校内の案内をしますが、希望しますか?」
申し訳なさそうな顔をするスミス先生に、未羽は少し考えてから、笑顔で首を横に振った。
「あ……いえ、いいです。また受験に来る日に、ちょこっとウロウロさせてもらえれば」
「それはできるかどうか約束はできないけれど……そうね、希望者には集団で案内役をつけるということも検討してみても良いかもしれないわ」
ブツブツと言い始めたスミス先生だが、職員室で別の教師と話をしている知らない制服を着た少女を見て、未羽に微笑みかける。
「では、ミス上月。受験の日、会えるのを楽しみにしていますね」
「はい、スミス先生!」
ぺこりと頭を下げて、未羽は元気に職員室を後にした。
ドアを閉める前に、チラッと来客を見る。
同じ年代くらいの、どこかの学校の知らない制服を着ている子だった。
すらりと背の高い少女で、印象的なストレートの長い髪と、整った顔立ちをしているが、緊張しているのか、その表情からは、彼女の感情はうかがえない。
(この子が、さっき先生が言ってた次の受験希望者かな?)
だとしたら、来年、この学苑で一緒になる可能性もありそうだ。
(あなたも頑張ってね!)
そう思いをこめて、ニコッと微笑んだ。
が、相手は未羽を見ているはずなのに、眉一つ動かさない。
(……ん?)
ペコッと頭を下げると、何故か怪訝そうな顔をされた。
彼女が笑顔を返してくれる可能性は限りなく低い。
(チョー感じ悪いー! 一緒のクラスになったら、ちょっとヤかも)
ムッとしながら、ドアを閉めた未羽だった。
『HONESTIES 1』
一方、桜立舎学苑を受験することを決めていた織歌の方は、何とか生まれ変わろうと努力していた。
このままでは、桜立舎に入学しても、また同じような孤独を味わうかもしれない……。
それでは、自分は今のまま、変わることもできない。
一人は確かに気楽で良いけれど、落ち込んだ時には、寂しさが膨れ上がるような気がするのだ。
友達になろうと言ってくれたゆうなのためにも、もう少し友人と呼べる同年代の女の子との付き合い方を学びたいと思った。
ので、まずは目覚まし時計を3つ買い足して、4つの目覚まし時計から構成される音の波状攻撃で、遅刻を減らすことを心がけた。
面倒がって、足が遠のいていた主治医を受診して、不眠症の診断ももらい、その治療も開始した。
生まれ変わろうと決心したものの、既に織歌を敬遠しているクラスメイトに自分から話しかける勇気は出なかった。が、なるべく彼女たちの会話に耳を傾け、内容を理解しようと心がけた。
そして、他人から近寄りがたいと思われる原因のひとつになっている眉間のシワが薄くなるように、寝る時には眉間にシワ伸ばしのテープを張った。
それらを小夜子に話すと、努力を褒めてもらえはしたが、眉間のテープに関しては、苦笑混じりに『そんなことをするより、普段から笑顔を心がける方が良いのに……』と言われた。
もちろん、織歌にもそれはわかっていたが、何もないところで笑顔になることが恥ずかしくて、まだ無理そうだと思った。
なので、織歌は鏡の前で微笑みの練習もしてみたのだが……。
「う……なんてうさん臭い表情……」
ひくひくとひきつる頬や口元が、柔らかな自然の笑みの形になる日は来るのだろうかと不安になってしまった織歌だった。
そんな風に、織歌が努力を始めてから少しした頃。
「そーいえば、二波さんって、桜立舎を受けるらしいよ?」
「……!」
昼休み、中庭の隅で弁当の包みを開いた矢先に、背にした壁の上部にある窓の向こうから、自分の噂話が聞こえてきた。
一瞬、どうしようかと迷った。
人の話に聞き耳を立てるのは失礼なことだとわかっている。
(でも、わたしに関することだし……)
織歌はごくりと息を呑んだ。
(それに、最近のわたしのあの努力は、ちゃんと効果があるのかしら……?)
振り返って、噂話が聞こえてくるであろう窓を見上げる。
(……聞いてみよう。ちょっと怖いけど、もし効果が出てないのなら、もっと努力しないといけないし)
小さくうなずいて、織歌は聞こえてくる声をひとつひとつ拾っていくことにした。
「桜立舎ねぇ……。まぁ、二波さんにはぴったりなんじゃない? お嬢様学校だし」
「二波さん、お嬢様だもんね。遅刻ばっかだけど、頭良いみたいだから、桜立舎の外部入学でも試験に合格するでしょ」
彼女たちの話す内容は、あくまでも他人事のようだった。
ちょっとさみしくなる織歌だったが、今までの自分の態度を考えると、それも仕方がないと思い直す。
けれど……。
(頑張っているのを認めてもらえないのは、意外と辛いものなのね……)
そんなことを考えた、その矢先――。
「……でもさ、二波さんには桜立舎で頑張ってほしいよね」
その言葉に、織歌はドキッとした。
「うん……わたしたちみたいな一般人じゃあ、彼女の友達にはなれそうにないけど、桜立舎には、二波さんにふさわしい音楽のセンスあふれる人がいそうだし」
「遅刻してもお咎めナシってのはムカつくけど、二波さんも若いのにイロイロ苦労してそうだしね」
「やーだ、『若いのに』って同い年じゃーん!」
きゃははと笑う声が聞こえる。
「……」
胸の奥が、少しあたたかくなった。
同級生たちが自分をどう見ていたのかがわかって、複雑な心境でもあったが、それでも彼女たちは、織歌が新しい学校で頑張ることを祈ってくれているのだ。
「……」
卵焼きを口に運ぶ。
穏やかな気分で食べた弁当は、いつもと全然違っていて、すごく美味しかった。
噂話をしていた同級生たちの声が遠ざかっていく。
常にないほどにリラックスした気分で弁当箱を片付けて教室に戻ると、委員長が何か言いたげに織歌をじっと見ている。
「何か用?」
つい、いつものようにつっけんどんに言ってしまい、反省した。
「あの……ごめんなさい、わたし、こんな言い方しかできなくて……」
自己嫌悪に陥りかける織歌に、委員長は柔らかな微笑みを浮かべて、ゆっくりと首を振ってみせた。
「別に気を悪くするとかはないから、大丈夫よ。それより、二波さんは今日も一人でお弁当を?」
少し声が震えているような気がする。
そんなに怖がらせているのか、と落ち込みつつも、織歌はこくりとうなずいた。
口を開くと、またとげとげしい言葉が出そうだったので、何も言わないことにする。
「それが何か?」と視線に疑問を乗せて、じっと委員長を見た。
が、委員長は何やらモジモジしている。
「んー……と、あの……、あのね、二波さん……」
「……」
口ごもっては、チラッと織歌を上目遣いに見て、また口ごもってモジモジする委員長に、正直、苛立ちを覚えた。
早く言え、と言いたいのを我慢して、織歌は無表情で待つ。
本当なら微笑みのひとつを浮かべてやれば良いのだとわかってはいたのだが、自分の微笑みのあのうさん臭さを思い出すと、織歌は無難な表情の方を選択した。
それに、この委員長なら、織歌の無表情を見慣れているだろうし、きっと大丈夫だろうとも思う。
「えと……二波さん、……あの、ね……」
「……」
じっと見ていると、委員長は握り拳を作って、突然、それでガスッと自分の顎を殴った。
「……!?」
ギョッとしていると、委員長は織歌に向けて、にっこりと微笑んだ。
「あのね……もし良かったら、明日からあたしと一緒にお弁当を食べる……なんて、どう?」
「え?」
委員長の突拍子もない行動と、彼女の言葉の内容がリンクせず、織歌はただ唖然と委員長の赤くなった顎を見る。
何故か、殴られてもいないのに、織歌が見ている内に赤くなっていった頬が不思議だとも思った。
「ひとりで食べるより、ふたりで食べたほうが、お弁当も美味しいと思うの」
それはそうかもしれないが、ふたりきりになった途端、今までの態度をネチネチ言われて、ガスッと殴られたらどうしよう……。
そんな不安に、おそるおそる委員長の目を見てみたが、委員長の目には、包み込んでくるような優しさが伺えて、いきなり他人に暴力を振るうようなタイプには見えない。
「あの……誤解されると悲しいから先に言うけど、あたし、別にクラス委員だから二波さんに声をかけてるわけじゃないのよ……? あたしは、その……」
委員長はしどろもどろになっている。
「あたし、ずっと二波さんとお友達になりたくて……。でも、二波さんからは『誰も近寄るな!』ってオーラが出てて……」
「……」
そんなオーラを出していると思われていたんだと、織歌はまた反省した。
「でもね、ここ最近、二波さん、ちょっと変わったかなーって……。あたしでも、話しかけていいんだって思えるようになったから……だから……」
織歌はクスッと笑った。
自嘲の笑みではないことに、自分でも少し驚く。
「ありがとう」
意外なほど素直に口から言葉が出た。
けれども、それ以上に表情に変化は出なかったようだ。
自分でも表情筋が動いていない自覚があった。
とはいえ、内面が顔に出なくて良かったかもしれない。
自分が何を考えているのかが伝わってしまうのは、まだ恥ずかしい。
けれど、織歌の素直な言葉に驚いたのだろう、目を丸くしている委員長に、おずおずと訊いてみる。
「あの……それは、明日から……でも良い?」
気が早いと呆れられたらどうしよう。
そんなことを考えたが、それは杞憂に終わったようだ。
委員長は、にっこりと嬉しそうに微笑んでくれた。
「もちろんよ! 明日が楽しみだわ!」
「……」
そんな風に言ってもらえる日がくるなんて、考えもしなかった。
じわじわと胸の奥に広がる嬉しさに、顔の筋肉がどんどんと緩んでいく。
自分がちゃんと微笑むことができているのか、不安になったけれど。
でも、下手な微笑みでも良いから、歩み寄ってくれた委員長に、自分が喜んでいることを伝えたいと思った。
「……うーん、でも残念だなぁ」
突然、委員長がボソッと呟いた。
その言葉に、織歌はまたドキッとする。
……何か、委員長が残念がるようなことをやってしまったのだろうか?
それとも、微笑みそのものが『残念』だったとか……?
だとしたら、しばらくは立ち直れそうにない……。
そんなことをグルグル考えて、織歌は短くきいてみた。
「何が?」
言ってしまった後で、またもや素っ気なさすぎたかと反省する。
自分の人付き合いの下手さ加減に落ち込みながら、落ち込んでいる暇はないんだから、と奮起した。
そんな織歌の内面の葛藤に気づくはずもない委員長は、織歌に向けて、少し寂しそうな微笑みを浮かべる。
「だって、二波さん……H女に行かないんでしょう?」
H女学院に行かないことと、委員長が残念がる理由が、織歌の中で繋がらない。
「……そうだけど?」
委員長は織歌を見て、小さく笑った。
その笑いの意味がわからず、織歌はまた混乱する。
「わたし、桜立舎を受験するわよ……他の学校に通うつもりはないから」
そう説明すると、委員長は困ったように微笑んだ。
「H女は二波さんにとって、魅力がなかったのね」
「……」
そうだと肯定するのは無神経なことだということは、織歌にも理解できた。
なので、黙って委員長を見る。
「……あーあ。あの可愛い制服を着た二波さん、見たかったんだけどなー」
ふふふと笑う級友に、また戸惑った。
委員長の本心が全く読めない。
そんな織歌が面白かったのか、彼女はまた笑った。
「あたし、H女学院を受けるんだけど、忘れちゃった?」
「……?」
「わからないかなぁ? 一緒の学校に行きたかった、って言ってるんだけど」
「あ」
二波さんって結構ニブイよね、と笑われて、織歌は何ともいえない気分になった。
馬鹿にされたはずなのに、笑われたことがそんなに不愉快でもなく、むしろ気分が良かったのが不思議だった。
自宅の防音室でフォルテールに向かう。
鍵盤に指を乗せ、そっと音を出す。
澄んだ音が室内一杯に広がった。
「最近、音が伸びてきているわね」
小夜子にも褒められた。
この指導者は穏やかな性格をしているものの、音楽、特にフォルテールに関しては異常なほどに厳しいのがわかっていて、今まで一度も褒めてもらったことがなかった。
その小夜子が、褒めている。
振り返って、小夜子の顔を見てみたが、ウソをついているわけではないようだ。
「そういう褒め方をしていただけるなんて、思っていませんでした」
「……あなたはわたしをどういう目で見ているの?」
小夜子は呆れているらしい。
「あ……いえ……、そういうつもりでは……」
慌ててフォルテールに向き直ると、背後でクスクスと笑う声がした。
織歌の行動がおかしかったらしいが、織歌には何故、笑われているのかがわからない。
混乱したままフォルテールの鍵盤に指を乗せると、案の定、何ともいえない揺れまくった音が出た。
「織歌、動揺しすぎよ」
クスクス笑いながら、小夜子がポンと織歌の肩を叩く。
「ホラ、深呼吸なさい」
「……」
その言葉に従って、何とか大きく呼吸をした。
少し、気分が落ち着いてくる。
「それはそうと、進学先、桜立舎に決めたんでしょう? もう願書は提出したの?」
「ええ、決めた翌日に書いて、小夜子先生の推薦状を添えて、書留で送りましたけど?」
「……書留?」
何故か、小夜子は怪訝そうな顔をしている。
「先生……?」
「桜立舎の受験願書って確か、遠距離でない限り、基本は生徒本人の持参が原則だったはずだけど?」
「え?」
織歌は唖然とした。
「そんなこと、パンフレットにも、どこにも書いてませんでしたよ?」
「変ねぇ……クレーム多くて変更したのかしら……?」
その日はそのまま練習を終えたが、翌日、織歌の自室の机の上には桜立舎からの封筒が届いてあった。
中には、生徒本人が持参しなければいけないという記述が抜けていたお詫びの言葉と、二波家は持参対象区域に入っているから、できれば一度学苑へ来て欲しいが、今回は学苑の不手際なので、都合が悪ければこのまま願書を受理する旨の手紙が入っていた。
「不思議な学校……」
クスッと笑って、織歌は学苑の電話番号をプッシュした。
『HONESTIES 2』
学苑に電話をすると、学苑に顔を出す際にも、時間予約が必要だったらしい。
一度にたくさんの生徒に来校されても、学苑側としても困るのだろう。
それにしても、と、織歌は思う。
書留で送った受験願書は、そのまま学苑にあるというのに、わざわざ来て欲しいというのは、学苑の人にとっても手間なのではないのだろうか?
織歌としては、特に断る理由もない上、ついでに学苑を案内してくれるとのことだったので、二つ返事でOKしたわけだが。
「……不思議な学校」
そう呟きつつも、その不思議な学校の不器用さが、自分に重なるような気がして、織歌は桜立舎学苑に顔を出す日を楽しみにしていた。
予約の日、時間より少し早く、織歌は学苑の門をくぐる。
廊下に出ている表示に従って職員室に行くと、担当の教師は別の受験希望の生徒を案内しているから、待っているように言われた。
早く着いたのだから、待たされるのは仕方がない。
そう思い、うなずいた矢先に、その教師が戻ってきたらしい。
すらりとした長身の白人系の女性と、見たことのない制服を着た、自分と同じくらいの年齢の少女が、並んで廊下を歩いてくるのが見えた。
その少女の制服は、やや野暮ったさを感じるセーラー服だった。
そう言えば、同級生たちは、制服の可愛らしさで学校を選ぶこともあるようなことを言っていたことを思い出す。
その時は、制服で学校を選ぶなんてバカバカしいと思って聞き流していた織歌だったが、少なくとも、目の前のこの少女は、織歌と同じく、制服の可愛らしさで学校を選ぶタイプではないらしい。
少女のセーラー服は、スカート丈を短くしたり、スカーフをおしゃれに結んだりということはしていないようで、それが野暮ったさを見せている原因だとわかってはいたが、その改変のない制服にこそ好印象を抱いた。
「……?」
ふと気づくと、その少女は織歌をじっと見つめている。
ニコッと微笑んだ顔は、何やら見覚えがあるような気がして、胸の奥がざわめく。
どこで見たのか思い出せずにいると、その少女がぺこりと頭を下げてきた。
(……どこかで見たはずなのに、……ダメだ、ぜんぜん思い出せないわ……)
そんなことを考えている内に、どうやらまた織歌は現実世界から離れてしまっていたらしい。
ハッと我に返った時には、その少女は既に姿を消していた。
どうやら、織歌が思いにふけっている間に、さっさと帰ってしまったようだ。
……残念だ。
少し話をしたいと思っていたというのに。
集中力があるのは良いことらしいのだが、普通の生活を送る上では、こうして時々支障が出てしまう。
この集中すると何も見えなくなってしまうところも、何とか改善しなければいけない。
「ごめんなさい、お待たせしてしまいましたわね」
いつの間にか、目の前に白人系の女性教師が立っていた。
この教師が目の前に来たことも気づけなかった。
やっぱり自分はダメかもしれないと思ったところで、目の前に右手を差し出された。
反射的に握ると、何故かクスッと笑われる。
「……?」
何故、握手しただけで笑うんだろう?
不思議に思って見上げると、女性教師は柔らかな微笑みを浮かべた。
「あなたは日本人なのに、握手する習慣があるのですか、ミス二波?」
自分の握手のしかたがおかしかったわけではないのだと知って、織歌はホッとする。
「両親の仕事の都合で、いろいろな方と接することが多いですから」
そう答えると、教師は大げさな身振りで驚きを表した。
「OH、そうでした! ミス二波のお父様は、声楽で有名な二波響一朗サンでしたわね。そして、あなた自身も既に単独でリサイタルを開催できるほどのフォルテールの腕前だとか」
職員室に響くような大きな声に、気恥ずかしくなってうつむく。
「……いえ、わたしなんてまだまだです」
実際、有名な父の名前があったからこそ、今の自分があると織歌は思っていた。
確かに血の滲むような練習を必死でしてきたが、それは、有名な父の顔に泥を塗るわけにはいかないという思いから出た、織歌にとっては当然の行動だった。
磨きに磨いた演奏技術はともかく、織歌自身の演奏が聴衆を感動させるに至るレベルではないことは、誰よりも織歌自身が良く知っている。
「うふふ、謙虚なのね、ミス二波は。特別待遇入学候補生なのに、本当にそう思っているらしいところが、好感度大、ですね」
教師はクスクス笑っている。
織歌は眉を寄せた。
……特別待遇入学候補生……?
初耳だ。
「あ、申し遅れました。アタシはこの学苑で英語を担当している、スミス・F・フローレンスです」
「あ……二波織歌です。わたしのプロフィールは、もうご存知みたいですけど」
そう言った後で、嫌味っぽく聞こえたかもしれないと不安になった。
チラッとスミス先生の表情を伺ったが、特に気分を害した様子はなく、取り敢えず、ホッとする。
「本来なら、学苑長か教頭が事務面を、生徒会執行部が学苑生活の案内をするのですが、今年は案内書類に不備があっただけでなく、どういうわけか受験希望者が多くて、正直、手が回っていないというのが現状です。慣れない案内で申し訳ないのですけれど、わからないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げると、座るよう指示されて、手近なソファに座る。
向こうで何かしていたスミス先生がコーヒーを持ってやってきた。
いただきます、と、コーヒーに口をつける。
口の中に一瞬で広がったかぐわしい、味と香り。
その意外な美味しさに、織歌は驚いた。
織歌の驚きに気づいているのかいないのか、織歌の向かいに腰を下ろしたスミス先生は、ゆっくりと話し始める。
「添付されていた紹介状を職員一同で検討した結果……ミス二波が無事に試験をパスした暁には、特別待遇生として我が校に入学してもらうことに決まりました。もちろん、辞退することも可能です。ミス二波、我が校の特別待遇生になることに、異存はありませんか?」
思いがけない言葉に、織歌は唖然としてスミス先生の顔を見る。
別にからかっているわけでもないらしい。
だとしたら、自分はこの学苑では特別待遇生として過ごすことになるわけで……。
「……」
織歌は少し考えてから、ひとつだけ質問をした。
「特別待遇生って……具体的には、他の生徒とどう違うんですか?」
「正直、特別扱いはしません。ただ、学苑主催のコンクールを含めた行事に、その腕前を披露してもらう機会が増えるくらいかしらね。学苑生活を送る上でも、一般生徒との違いは大してありません。授業も他の生徒と同じ教室で受けてもらうし、特待生だからと特別扱いはナシ。一般の生徒にも、在学中から既に音楽活動をしている子もいますが、音楽活動で授業を休んだ場合でも、補講や試験はしっかり受けていただきます。あとは……学費が割安になることくらいかしら?」
なるほど、と織歌は考えた。
特別扱いはされない、ということなら、織歌の望む学苑生活を送れそうだ。
「もし、希望なら、特別待遇生だということを伏せることも可能です。最終的にはバレてしまいますが、初期の内なら、一般生徒となんら変わりはありませんから、その間に友人関係を構築してしまえば大丈夫でしょう?」
「……!」
願ってもないことだと織歌は考える。
とにかく、織歌は普通の女の子としての生活をしたかった。
そうすれば、自分も普通の女の子になれるかもしれないと思ったのだ。
もう、ひとりぼっちで弁当をつつく生活に戻るのは嫌だった。
人付き合いは下手だと自覚しているが、何とか努力でカバーするから、とにもかくにも、誰かと楽しく『普通の女の子の生活』を過ごしてみたいのだ。
後でバレてしまうにしても、一般生徒として友人を作る猶予があるというのなら、それはものすごく好都合なことではないだろうか。
「他に質問は?」
「……特にありません」
コーヒーを飲み干して、織歌はゆっくりとうなずいた。
ふと、職員室の窓の向こうに、この学苑の生徒がふたり、仲良くじゃれあっている様子が見えた。
「……」
ショートボブの女の子と、両サイドをオダンゴの形にした、髪の長い女の子。
見覚えのあるヘアスタイルに、織歌は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「そうか……」
……あの人にも、あんな風に仲良しの友達がいるんだ。
同じフォルテール奏者だからという理由だけで、自分と比べるのはおかしいかもしれないが、この学苑に入れば、もしかしたらあんな風に笑ってじゃれ合える友達ができるかもしれない……。
そんなことを考えながら、学苑案内に出るというスミス先生の後に従って、ソファから立ち上がった。
特待生候補ということで、織歌の時間は他の生徒より多めに取られていたらしい。
スミス先生に説明をされながら、校舎、校庭、講堂などを見て回る。
歴史を感じるそれなりの古さはあるものの、建物自体には生徒や学苑のスタッフの愛着が見られる。
「アタシの権限では寮まで案内はできないのだけれど……ミス二波は入寮希望でしたわよね?」
「ええ、寮に入った方が、より早くこの学苑に馴染めるような気がするので」
そう答えると、スミス先生は大きくうなずいてくれた。
「良い心がけですね。寮生活はあなたにとって良い経験になるでしょう」
その微笑みに、織歌の心が軽くなった。
ふと、この先生なら、という思いが持ち上がり、織歌はひとつの質問をしてみることにする。
「あの……正直に告白します。わたしは今の中学で、良好な人間関係を築くことができませんでした。こんなわたしでも、この学苑で楽しくやっていくことができるでしょうか?」
いきなりの告白めいた質問に、スミス先生は、驚いたようだ。
目を丸くして織歌を見た後、穏やかな微笑を浮かべた。
「正直なんですね、ミス二波は。安心しなさい、あなたの努力はきっと報われますよ」
「……」
言葉がすとんと胸に響く。
「あなたは素直な子なのね。この学苑では、なまじ音楽に才能があったばかりに、普通科の学校では人間関係に支障が出るような子でも、普通の女の子として学苑生活を楽しんでいるようです。校則は他の学校に比べると厳しいかもしれないけれど、あなたが努力する限り、学苑の教師も生徒会も、あなたに協力するでしょう」
「……」
「あとは……そうね。アタシから一言。『他人だけじゃなくて、自分にも優しくあれ』。優しさって、他人と分け合うと、すごく幸せな気分になれるの。それは、優しいと思う感情がどんどん増えていくからなのね」
スミス先生の言葉に、じわじわと胸の中が暖かくなってゆく。
同時に、この学苑に入学したいという思いもまた強くなってゆく。
「ふふ……アタシとしたことが、またお説教しちゃったわ。若くて頑張ってる子を見ると、応援したくなるのは良いことだと自分でも思うんだけど、その分、どうしても説教臭くなってしまうの」
クスクス笑うスミス先生が、織歌には眩しく見えた。
いつか、ゆうなやスミス先生のように、懐の深い女性になって、今の自分みたいに、道に迷っている子に的確なアドバイスを与えることができるようになれれば、と思う。
そして、合格できるかはわからないけれど、背中を押してくれたゆうなに、願書提出の報告をしなければと考えていた。
『友達というもの 1』
未羽が進路指導の担当教師に願書を提出したその日。
放課後、自宅へまっすぐに帰ろうとした未羽は、はたと足を止めた。
「そうだ! ゆうなさんに会いに行こう!」
その声に驚いたらしく、バスを待っていた人がギョッとして未羽を見たが、気にせずに、そのまま駅構内へと駆けてゆく。
ライブをやっているかも、会えるか会えないかさえもわからなかったが、とにもかくにも、あの悪戯っぽくも優しい微笑みを浮かべる年上の人に会いたかった。
会えなくても、あの人を感じられる空気に触れたかった。
話したいことはたくさんある。
「待っててね、ゆうなさーん!」
未羽の足は軽く、折りよく、ホームに滑り込んできた電車に駆け込んで、車内アナウンスに当て付けのように注意されてしまった。
☆ ☆ ☆
那宮駅前南口ロータリー、いつもの場所で、目的の人物はフォルテールの準備をしている真っ最中だった。
「ゆうなさーん!」
定期入れをカバンにしまう間も惜しんで、未羽はゆうなに駆け寄った。
未羽の声に気づいたゆうなも、準備の手を止めて、にっこりと未羽に微笑みかける。
その微笑みが嬉しくて、未羽はその勢いのまま、がしっとゆうなに抱きついた。
「あはは、こーら、未羽ちゃん!」
たしなめるような口調ではあったが、ゆうなも未羽の身体を抱きとめてくれたことが嬉しくて、未羽は更にぎゅーっと抱き締める腕に力をこめる。
ゆうなの身体は華奢ではあったが、それでも未羽よりは大きくて、しなやかさが感じられた。
「いいなー、ゆうなさん」
ゆうなの身体から腕を放しながら、ポツリと未羽が呟く。
「どうしたの、未羽ちゃん?」
「だって、アタシ、小さいもん……」
「え?」
首をかしげるゆうなに向かって、ぶーと唇をとがらせてみた。
「小さい身体って声楽には不利だって、音楽のセンセが言うんです」
未羽の言葉が、意外だったようだ。
ゆうなは目を丸くする。
そのまま黙っていると、未羽はマシンガンのように日頃の不満をぶつけてきた。
「でも、小さいのなんて、あたしのせいじゃないもん。あたしだって、大きくなれるんなら大きくなりたいもん! そうすれば、満員電車で埋もれちゃって、通勤のおじさんたちに潰されることもなくなるでしょ? こないだなんて、ふくらはぎを踏まれちゃったんですよ、足を踏まれるのも嫌ですけど、ふくらはぎですよ、ふくらはぎ! ありえないっしょ! あ、でも、おじさんたちから見えないってことは、痴漢されることもなくて、それはそれでありがたいんですけどねー。そういえば、この間も小学生に間違えられたんですよぅ! しかも、おまわりさんが……って、ゆうなさん、聞いてますー!?」
弾丸のようにまくしたてられる未羽の言葉がおかしくて、ニヤニヤしていたのが気に障ったらしい。
今度は、両手をバタバタさせながら、未羽は怒っているとアピールした。
「あははは、未羽ちゃんは可愛いねぇ」
腕を伸ばして、ぎゅっと抱き締めると、未羽の小さな身体はすっぽりとゆうなの腕の中に納まってしまう。
ゆうなに抱き締められながら、未羽は小鳥のように首をかしげながら、ゆうなを見上げた。
「可愛い? あたし、可愛い?」
「うん、可愛い。未羽ちゃんは素直で、とっても可愛いよ」
「えへへー」
嬉しそうな顔をする未羽をそっと手放すと、未羽は嬉しそうに、その場をクルクルと3回ほどターンしてから、また戻ってきた。
「可愛いって言ってもらっちゃった!」
その天真爛漫な仕草に、ゆうなもまた微笑みを浮かべる。
「小さくてもいいじゃない。大きい身体を小さく見せることは無理があるけど、小さい身体を大きく見せる方法なら、いくらでもあるんだから、気にしなくても良いと思うよ」
「うーん、でもぉ……」
「それに、小さいほうが抱き締めがいがあって、あたしは嬉しいな」
「抱き締めがい……?」
ストレートなゆうなの言葉に、未羽はまた首をかしげている。
どうやら、ゆうなの言葉の裏は伝わらなかったらしい。
「うーん、ゆうなさんがそう言ってくれるんなら、あたし、小さくてもいいかなー?」
えへへと笑ってから、未羽はゆうなから少し離れて、ガードレールに腰をかけた。
ゆうなも、中断していたライブの準備を再開する。
「あ、そうだ! かぐらさんのCD、ありがとうございました! ライブのような臨場感はなかったけど、音が流れるようにスムーズで、すっごく気持ち良かったです!」
「そう? 喜んでもらえて、あたしも嬉しいな」
「それに、あたし、桜立舎学苑の願書も出しました!」
「……」
未羽の言葉に、ゆうなが手を止めた。
それから、ゆっくりと振り返る。
「そう……。それで、学苑の様子はどうだった?」
ゆうなに聞かれて、未羽は「うーん」と先日の様子を思い出した。
「んーとね、あたしを案内してくれたのは、女の先生だった! キビシそうだけど、優しい先生だったなー。最初ね、あたし、テンパっちゃって、変な英語を喋っちゃったんだけど、そのセンセったらニッコリ笑って、今日のことは試験とは無関係だから大丈夫って言ってくれたんだぁ」
「そうなんだ……良かったね」
「はい! でね、かぐらさんとも会っちゃったんですよー!」
両手をバタバタしながら喋る未羽に、ゆうなの頬にも柔らかい笑みが浮かぶ。
「かぐらちゃんは元気そうだった?」
「はい、とっても! でね、かぐらさんに抱きついた人がいたんですよー!」
「ああ……かぐらちゃんの親友のちほちゃんのことかな」
「ふーん。ま、かぐらさんにも、そういうお友達がいてもおかしくないですよね! でもでもっ、あたしも桜立舎に入学したら、あの人みたいに、かぐらさんに抱きつく機会があるってことですよねー!」
ゆうなはクスクスと笑っているが、未羽は気にせずに喋り続ける。
「あたしねっ、絶対に桜立舎に入るんだぁ! そんでねっ、かぐらさんを『かぐら先輩』って呼んで、かぐらさんの一番の後輩になるんだぁ!」
「桜立舎学苑には、姉妹制度みたいなものがあるのに、『後輩』でいいの?」
ゆうなの言葉に、未羽は迷いのない瞳を向けた。
「はい! あたしはかぐらさんの可愛い『後輩』になりたいんです!」
「でも、妹の方が、後輩よりもより近くなれる気がしない?」
未羽は不思議そうな顔をしているゆうなを、同じく、不思議そうな顔で見上げた。
「妹はどこまで行っても妹でしかないもん。でも、後輩なら……後輩なら、かぐらさんの隣に立つこともできるじゃないですか! 妹という目下のポジションじゃなくて、かぐらさんを支えることができるポジションに立ちたいです!」
「……」
ゆうなは目を丸くして未羽を見ている。
それから、堪えきれないような笑いを浮かべた。
「あ、何ですか、その顔!」
「いや……キミは意外と野心家なんだなって思ってね……」
「どーゆー意味ですか、それ!」
「だって……ねぇ? かぐらちゃんを支える、ねぇ……キミが……」
「ぶーぶー!」
クスクスと笑っていたゆうなは、笑いながらも未羽の頭をそっと撫でる。
「キミのそういうところ、とても魅力的だよ。きっとかぐらちゃんにとっても、救いになるかもね」
「そういうところ……? 救い……??」
首をかしげている未羽を残して、ゆうなは準備中だったフォルテールへと向き直る。
「ついでにライブを聞いていきなよね!」
そう言われて、未羽は大きく頷いた。
ゆうなの言ったことは意味不明で理解できないことが大半だったような気はするが、あまり気にしないことにする。
考えてもわからないものを気にしても、わかるようになるわけではない。
そうこうしている内に、聴衆が集まってきて、少し場所を変える。
「みなさん、今日も集まってくれてありがとう! これから―――」
穏やかなゆうなの声と、流れてくる柔らかな旋律を聴きながら、未羽は桜立舎学苑入学後に思いを馳せていた。
☆ ☆ ☆
窓の外を光が飛ぶように流れていく。
ゆうなのライブが終わると、既に夜になっていた。
少しだけゆうなと喋ってから、通勤客でごった返す駅構内に入る。
いつもなら不快に感じる電車の振動が、今日は何故かひたすら心地よい。
「……」
静かに息を吐き出す。
まだ、耳の中にゆうなの演奏曲の旋律が残っている気がする。
心地よい旋律。
けれど、かぐらの曲を聴いた時のような、血液の流れが変わる感覚は得られない。
(要するに、あたしはかぐらさんの曲の方が合ってるってことなんだよね!)
そんなことを胸の中で呟いて、未羽はただ後ろへ流れていく、街の明かりを眺めていた。
☆ ☆ ☆
自宅の最寄り駅にも、ストリートミュージシャンがいた。
彼らの怒鳴るような歌声を耳にしていると、だんだんと自分も歌いたくなってくる。
「うーん……」
けれど、この場所で歌うのは、ストリートミュージシャンたちの歌声が邪魔になるし、自分の歌声も彼らの邪魔になるだろう。
そう考えて、未羽は彼らの音が聞こえてこない場所を探して、駅周辺をさまよってみた。
やがて、少し奥まった場所、閉店した雑居ビルの入り口に、ちょうど良い場所を見つける。
別に誰かに聞かせるわけではないので、人通りが少ないのは好都合だった。
マイク代わりの携帯電話を握り締める。
「ここでいいかな……」
すぅっと息を吸い込んで、のどを開くような感覚で、静かに声を滑らせた。
覚えた旋律には歌詞はない。
伝えるべき『言葉』がない分、声帯を楽器にして、声という音に感情を乗せた。
胸の底に残っている旋律を、声帯を使って奏でていく感覚に身を任せていると、時間を忘れてしまうことが多々あるのだが、どうやらこの時も、同じことが起こってしまったようだ。
ハッと気がつくと、周囲に人だかりができていた。
「―――ひえぇっ!?」
パチパチと拍手が沸き起こる。
思ってもいなかった出来事に、未羽は慌てて足元においていたカバンを掴むと、「ごめんなさーい!」と喚きながら、そのままその場所を逃亡した。
☆ ☆ ☆
「ひゃーん、なにアレ、何あれ!?」
逃げ出したその足で、バタバタと走る。
それから、誰もいない場所に来たことを確認してから、やっと足を止めた。
心臓がバクバクしているのは、全力で走ったから、というだけではない。
あんな風に、見ず知らずの多数の人に歌を披露したことなんてなかった。
合唱部や音楽部に入っていたら、そういう機会もあったのかもしれないが、多数の中の一人だと、埋もれてしまう感じがして嫌だった。
どうせ歌うなら、一人で舞台に立ちたかった。
だから、今までそういった部活にも入らなかったのだが……。
「……でも、気持ち良かったな……」
ボソリと呟く。
その途端、誰かが背後から未羽の腕を掴んだ。
「きゃーっ、きゃーっ、きゃーっ!?」
パニクった未羽は、その手を振りほどくと、つい反射的に、手にしていたカバンで殴りかかる。
が、聞こえてきた声に、ハッと我に返った。
「いっ!? ちょっ……こら、未羽! 痛いってば、も……いったーい!」
「……あれれ、ユカ?」
「ユカ?じゃないよ、このバカッ!」
「さっき、未羽の歌声が聞こえてきたから、ユカちゃんとふたりで追いかけてたんだよ」
痛かったのだろう、涙目になっているユカの背後から、ひょこっと顔を出したナオミが微笑んだ。
「追いかけて……って?」
「だって、未羽ちゃん、逃げちゃったから……。でも、あんな風に、一人で人前に出て歌ったの、初めてじゃない?」
こっくりと頷くと、ナオミはクスッと笑う。
「さっきの歌、すっごく良かったよ!」
「ホント!?」
「あそこで逃げずに、もう少し歌えていれば、きっとたくさんファンができたと思うよ?」
ナオミの言葉に、胸の奥が熱くなる。
「えー……えへへ……。あたしも、目を開けたらあんなに人が集まってて、びっくりしちゃってさー……思わず逃げちゃったんだよね」
「未羽ちゃん、びっくりしちゃったの? 逃げなくても良かったのに」
「だって、思ってもみなかったんだもん。あんなにたくさんの人が……あたしの歌を聞くために、足を止めてくれるなんて……」
「アンタの歌にはそれだけの力があるってことだよ」
ユカがコツンと頭を叩いてくれる。
いつもなら反撃するところだったが、叩かれた場所が何となくくすぐったい。
「うーん……あたしの歌の力じゃなくて、かぐらさんのメロディのお陰だよ」
本心からそう言うと、ユカとナオミが呆れたような表情で顔を見合わせた。
「ホメるだけ無駄みたいだね、ナオミ」
「未羽ちゃんったら、もう頭はかぐらさん一色みたいだもんね」
そんなことないよと反論しようとしたら、悪戯っぽい笑みを浮かべたナオミの人差し指に、そっと唇を押さえられた。
「未羽ちゃんの、かぐらさん好きっぷりは、わたしたちも嫌というほど知ってるもの」
「あたしたちはかぐらさんに負けちゃったんだね…」
「未羽ちゃんは、思い込んだら一直線だものね」
「まさに、イノシシか猛牛か……ってトコ」
好き勝手言う親友たちに、未羽は両手を振り上げた。
「もー、やーん! もっと可愛い動物にたとえてよ!」
「んー、じゃあ、普段はナマケモノ」
「もうっ、ユカー!」
ワイワイ言いながらも、あたたかな感情が胸の奥に広がっていくのを感じながら、未羽は友達というものの存在を有り難く思っていた。
そして。
応援してくれているふたりのためにも、頑張らないと! と、決心を新たにしたのだった。
『友達というもの 2』
いよいよ当日。
桜立舎学苑高等部の入学試験会場は、1階部分にある2クラス分の教室を使用して行われている。
筆記試験の開始時刻は午前8時。
他の学校の入試開始時間よりは早い時間設定に、未羽は、いつもよりも随分と早起きをして、30分前に学苑に到着した。
既にスタンバイを終えてから、聞こえてきた喋り声に耳を傾けてみることにする。
「今年って、外部受験者数が多いらしいよね」
「うん、あたしも先輩から聞いたよ。去年の受験生って、1クラス分しかいなかったんだって」
「えー、それって、今年の受験生、損してない? 合格率、下がるじゃん」
「だよねぇ。あーあ、あたし、去年受験したかったなぁ」
どうやら彼女たちは同じ学校の生徒らしい。
一人で受験にきた未羽には、お喋りできる友達がいることを羨ましかいと思ったが、自分は受験に来ているのだと思い出して、ぶんぶんと首を振る。
それから、キョロキョロと周囲の受験生を見回した。
……確かに、多い。
この人数が、もう1クラス分あると考えると、少し気分が落ち込みそうになる。
けど! と未羽は拳を握り締める。
あたしほど、この学苑の受験に命賭けてる子はいないはず!
ふっふっふ、と、笑いまでこみ上げてきた。
そうなのだ。
自分は、この学苑への入学を決意してから、今日までの間に、ずいぶんと変わったのだ。
成績だってそうだ。
姉に勉強を見てもらったおかげで、学年で最下層グループにいたのが、たった半年足らずで、トップグループ入りするようになった。
生活面でも、寮に入ることを考えて、今まで母親におんぶに抱っこだった家事も、自分から率先して手伝うようにもなった。
これだけでは、まだまだかもしれないが、それでも、自分は変わったと確信している。
だから、絶対、合格する!
根拠があるようなないような自信に、未羽はこっそりガッツポーズをした。
その間に、喋っていた子たちの話題は、好きなアーティストの話題になり、未羽の興味は急速に失せていく。
未羽はカバンに手を突っ込んで、持ってきた携帯プレイヤーを取り出すと、イヤホンを両耳に装着した。
(試験前の、リラックス・ターイム!)
ピッと再生ボタンを押すと、聞きなれたフォルテールの心地良い音が流れ込んでくる。
その旋律に身を任せて、未羽はそっと目を閉じた。
ゆうなからもらったかぐらのCDは、ここ一番というときに、未羽をリラックスさせてくれる、最高のリラクゼーションCDになっている。
(この試験にパスしたら、あのかぐらさんと同じ学校に通える! そんで、かぐらさんの後輩になれる! かぐらさんを先輩って呼んで、ぎゅって抱き締めて、んでもって、あたしもぎゅってしてもらうんだー! えへへー!)
そんなことを考えている未羽は、受験生らしいプレッシャーとはすっかり無縁の存在だった。
☆ ☆ ☆
筆記試験は5教科、各40分で、教科ごとに10分の休憩を挟むことになっている。
音楽科で受験科目が5教科というのは珍しいことだと、未羽の勉強を見ながら、姉の早弓がボヤいていたのを思い出す。
あまり受験に興味のなかった未羽にしてみれば、姉が何故ボヤくのかが良くわからなかったが、どうやら、周囲の受験生も姉と同じ意見なようだ。
数学の試験問題が配られ、試験開始になった時、周囲から次々に溜め息が聞こえてきた。
姉から、周囲の受験生と差をつけたければ、理数系を重点的に!と言われ、特訓までされた未羽としては、配られた問題など、大した壁ではなかった。
20分ほどの余裕を残して問題を解き終わって、後はしっかり見直しをして終了する。
休憩の10分の間は、受験生の溜め息が飛び交っていた。
どうやら、音楽科の試験というものは、国語と英語の2教科と実技試験というのが常識なのだと、囁き交わされる言葉で初めて知った。
(そんなの、受験要綱に書かれてたことじゃんねぇ。5教科が嫌なら、受験しなきゃいいのに)
消しゴムに貼られたシールを指先で撫でながら、未羽は唇を尖らせる。
そのシールは、ユカとナオミがわざわざ神社にまで出向いて、合格祈願のために買ってきてくれたシールだった。
(ユカとナオミのためにも、あたし、ぜーったい合格するんだから……! で、合格して、かぐら先輩と……えへへ……)
☆ ☆ ☆
昼食を挟んで、午後は実技試験だった。
声楽での受験者はピアノやバイオリンに続いて受験者数が多いので、一番最後になると説明されて、未羽はこっそりと唇を尖らせる。
一番最初に受験するグループの中には、今年の受験生では唯一のフォルテール奏者がいると聞いたものの、今の集中力をそぎたくなかった未羽は、無視を決め込むことにした。
筆記試験で使った教室がそのまま待機室になり、未羽は座ったまま、大きく伸びをする。
待機中は何をしても自由とのことだったが、他の受験生の妨げになるという理由で、学苑内の見学は不可になっていた。
ふと、周囲を見回すと、大抵は文庫本を読んでいたり、マンガを読んでいたりしたが、中にはカバンを枕に昼寝を決め込む勇者さえもいる。
何もすることがなくなった未羽は、カバンの中から携帯プレイヤーを取り出して、かぐらの音に浸ることにした。
(かぐらさんよりも、あたしの心を鷲掴みにするフォルテールの音なんてないよねー!)
今頃、実技試験を受けているであろうフォルテール奏者のことがチラッと頭を掠めたものの、席を立つこともなく、消しゴムに貼られた『合格祈願』のシールを指先で撫でながら、柔らかな旋律に耳を傾けることにした。
☆ ☆ ☆
何かが肩に当たった気がして、はっと目を開ける。
どうやら、後ろの席の子が実技試験に呼ばれたらしい。
目を擦りながら、未羽はキョロキョロと周囲を見回した。
教室内に残っているのは、自分を含めて、あと6人。
実技試験が終わった生徒は、順次帰宅しても良いことになっているが、実技試験が終わった後なら、校内を見学しても良いことになっている。
口元に風を感じて、はっと手をやると、指先に濡れた感触がある。
「う……」
うたた寝していただけでなく、ヨダレまで垂らしていたとは……!
誰にともなく赤面すると、未羽はかけっぱなしだった携帯プレイヤーをオフにすると、はずれかけていたイヤホンを耳から外す。
それから、うーん、と伸びをした。
ふと窓側を見ると、窓の外の景色は、既に日が傾きつつあるようだ。
あとしばらくしたら、夕焼け色に染まり始めるだろう。
(試験の後の校内見学に参加したかったけど……そうしちゃうと、帰るのが遅くなっちゃうだろうな……)
そんなことを考えて、窓際へ行こうと椅子から立ち上がったとき、教室のドアが開かれた。
「上月さん、いらっしゃいますか?」
「あ、はい!」
振り向くと、桜立舎学苑の制服を着た上級生が立っていた。
どうやら、入学試験の雑用の手伝いは、在校生がやっているらしい。
「受験番号34番の上月未羽さん、でしたわね? そろそろ出番ですよ」
一瞬だけ、足が震えたような気がしたが、ニッコリと微笑む顔に勇気をもらった気がして、未羽は大きく頷いた。
「はいっ、頑張ります!」
☆ ☆ ☆
案内されたのは、音楽室だった。
「受験番号34番の上月未羽です。よろしくお願いいたします!」
ピアノの前には、制服を着た生徒が座っている。
どうやらこの人も、お手伝い組の上級生らしい。
ぺこりと頭を下げると、ニコッと柔らかな微笑みが返される。
未羽はますますこの学苑が好きになった。
審査員をしてくれる先生の席に、先ほどのスミス先生が座った。
それを見て、未羽は大きく深呼吸した。
右手に隠し持っていた消しゴムのシールに、そっと唇を当てる。
そのまま右手を握り締め、更に左手で包む。
「シューベルトのアヴェ・マリアを……アカペラで」
背後でピアノの前の上級生の微笑んだ気配に勇気づけられた気がした。
審査員席に座っているのは3人。
スミス先生と、教頭先生と……あと一人は誰だろう?
(ま、いっか。入学したら、きっとまた会えるハズだもんね!)
気持ちを切り替えて、未羽はまた大きく息を吸い込んだ。
相手が誰であっても構わない。
(あたしはただ、ここで歌を歌うだけ……!)
ゆっくりを息を吐き出すと、驚くほどに気持ちが落ち着いている自分に気がついた。
スミス先生を見ると、微笑とともに頷かれる。
それへと、小さく頷いて、未羽は胸の奥に湧き上がる気持ちを、声と一緒に、そっと大気中に解き放つ。
この歌声がかぐら先輩に届きますように―――!
そう願いながら、静かに、かつ、豊かに、歌い上げた。
『I'll do my best. 1』
一方の織歌はというと、話は願書提出の際の学苑案内にまでさかのぼる。
☆ ☆ ☆
校内案内を終え、校門を出た織歌の頭には、スミス先生から聞かされた、特別待遇入学生候補生の話が残っていた。
「……特別待遇入学候補生、かぁ」
辞退することも可能だが、スミス先生の話だと、あまり一般生徒との差異はないらしい。
なら、受けてみてもいいかもしれない……。
もっとも、特待生になるかどうかは、ギリギリで判断しても良さそうだ。
なら、今は、ゆうなに正式に桜立舎学苑を受験することを報告しておこう。
スミス先生に会ったこと、特別待遇入学候補生の話をされたこと、それらを話すと、ゆうなはどんな反応をするだろう……?
そう考えると、織歌の足は、自然と軽くなる。
が、3歩、ステップを踏んだだけで、織歌の足はピタッと止まった。
しばらく立ち止まった後で、織歌はまた駅に向かって歩き始める。
お礼を言いに行くのに、手ぶらで行くのも失礼だと思い直した彼女は、一旦、自宅へ戻ることにしたのだ。
☆ ☆ ☆
「お帰りなさい。桜立舎、どうだった?」
自宅に戻ると、いつものお手伝いさんではなく、小夜子が出迎えてくれた。
「どう……と言われても……。スミス先生から、特別待遇入学候補生として名前が挙がっている、と言われたくらいかしら……」
「特待生!? まぁ……家柄と実績を考えると、そうなっても当然かもね」
小夜子に座るよう促され、応接間のソファに腰をかける。
「ところで、スミス先生というのは、どんな先生だった?」
目をキラキラさせて聞いてくる小夜子に辟易しながら、織歌は先ほどまで会っていた女性の、薄いエメラルドブルーの印象的な瞳を思い浮かべる。
「瞳の力の強い、綺麗な女性の先生でした。担当科目は、きっと英語でしょうね。外国の血が混じった外見をされていて、外国語が母国語のようでしたし。日本語には堪能なようでしたが、特定の言葉に少しだけナマリが残っていました」
織歌の分析に、小夜子は笑いをかみ殺したような顔をしていた。
「……何かおかしかったでしょうか?」
「織歌……あなた探偵にでもなるつもりなの?」
笑いながら言われて、サッと織歌の頬が上気する。
「でも、あなたの読みは間違っていないわ。そう……スミス先輩、桜立舎に戻って、今は先生をやっていらっしゃるのね」
懐かしそうな小夜子の表情に、織歌は怪訝そうな目を向けた。
「お知り合い……だったのですか?」
「たまたま、ね」
小夜子がクスクスと笑う。
「今となっては、本当にたまたまだったのよ。あの人は2コ上の先輩で、わたしの憧れのヒトだったの」
いつになく甘い小夜子の声を聞きながら、織歌はうっかり悩みを相談してしまった自分を振り返ってみる。
何故、あの場で、今まで思い悩んでいたことを口にしてしまったのか――。
それは、無意識ながらも、あの女性の懐の広さを感じて、その懐に飛び込んで、甘えてみたくなったからではなかっただろうか。
『他人だけじゃなくて、自分にも優しくあれ』
スミス先生の優しい声で、そう言われた時、心のどこかの固まった部分が、氷のかけらのように溶けてなくなってしまうような錯覚を覚えた。
学生時代の小夜子とスミス先生のことは知らないが、きっと昔の小夜子は、スミス先生の外見ではなく、そういうひととなりに魅かれたのだろう。
「憧れの、ヒト……」
「そう。わたしだけじゃないわ、スミス先輩に憧れている子はたくさんいたわ。わたしは……たまたま、あの人の目に留まって、仲良くしてもらっただけ」
「たまたま、で、仲良くしてもらえるものでしょうか? 先輩が特定の後輩を特別に可愛がるのには、何か理由があるのではないでしょうか」
疑問を小夜子にぶつけてみる。
が、小夜子は穏やかに微笑んだまま、織歌の肩を抱き寄せた。
「あなたも、先輩になって後輩ができれば、きっとわかるわ。先輩に認められたくて、必死になってしまう後輩の気持ちが。そして、そんな風に必死になった後輩の可愛らしさが……」
「…………」
「きっと大丈夫。あなたにもわかるようになるはずよ」
何も答えられなくて黙っていると、小夜子が小さく笑った声が降ってくる。
「桜立舎に入ったら、きっと、大人になっても、心の奥底で大切に思い続けられるような人に会えるかもしれないわね」
織歌は何も言わないまま、小さく頷いた。
☆ ☆ ☆
結局、小夜子の桜立舎学苑での思い出話を聞いていたら時間が遅くなってしまい、レッスンするだけで、一日が終わってしまった。
なので、今日は学校の帰りに、ゆうなへのお礼の品を買いに行こうと、織歌は決心した。
そして、その足で、K駅前のあの場所へ行くのだ。
浮き立つような気持ちを覚えて、自分の席にカバンを置くと、緊張した面持ちで、委員長が近寄ってきた。
「お、おはよう、二波さん……」
「おはよう……」
委員長の硬い表情に、織歌は眉を寄せる。
が、彼女は、織歌の警戒した様子に気づいているのかいないのか、カバンから小さな包みを取り出した。
「あの……これ……。口に合うかどうかわからないけど……」
差し出されたので、思わず受け取ってしまうと、織歌はそっとその包みを開いた。
ふわりと漂ってくる、バニラの優しい香りが鼻をくすぐる。
「クッキー?」
「受験勉強の気晴らしに作ったの。甘いもの、嫌いだった?」
「いえ、そういうわけではないけれど……」
言いよどむ織歌の口調に、委員長が不安そうな顔をした。
「ないけれど……?」
「こういうのって、校則違反じゃないのかな、と思って」
「…………」
織歌の気まずげな言葉に、委員長は目を丸くした後、小さく吹き出した。
「何故、笑うの?」
ムッとして尋ねてみたが、委員長は笑ったまま、包みごと、織歌の手のひらをそっと両手で包み込んだ。
「あたしが校則違反をしたのを知っているのは、二波さんだけ。その二波さんが今すぐに証拠を隠滅してくれれば、あたしはお咎めナシだと思わない?」
そう言いながらも、まだ笑っている。
「それはそうかもしれないけれど……」
「さ、早く胃袋の中にしまって?」
「…………」
織歌は眉間にシワを刻んだまま、小さなクッキーを摘み上げ、口の中に放り込む。
「どう?」
委員長は、今度は神妙な顔で、織歌をじっと見ていた。
凝視されて、居心地の悪さを感じながらも、織歌は小さく頷く。
「美味しいけど?」
それが何か?と聞こうとしたところで、委員長は、はっきりと苦笑した。
コロコロと変わる表情が不思議で、織歌はまた眉を寄せる。
「さっきも訊いたけれど、あなたは何故、笑うの?」
委員長は何でもないことのように答えてくれた。
「おかしいからよ」
「何がおかしいの?」
「二波さんの反応がおかしいから」
「…………」
ストレートな委員長の言葉に、思わず黙り込んでしまう。
自分の人付き合いの下手さ加減など、言われなくても、嫌というほど知っている。
委員長は、手作りのクッキーをダシにして、自分をからかっているのだろうか。
だとしたら、手の込んだことをする……。
そう考えて、織歌は小さな溜め息をついた。
「ねぇ、今、妙なことを考えてるでしょ?」
委員長は呆れた表情で織歌を見ている。
織歌は正直に頷くことにした。
「わたし……こういう時、どういう反応をすればいいのか、わからないから。不快にさせてたら、ごめんなさいね」
そう言ってから、ペコリと頭を下げると、またクスクスと笑われた。
「そういう時の対処方法、教えてほしい?」
思ってもいなかったことを言われ、織歌は顔を上げる。
「あのね、アナタがクッキーを食べてくれた時、あたしがどういう気持ちで、あなたに『どう?』って訊いたのか、わかる?」
その質問には、黙って首を横に振る。
「そっか……。あたしね、お菓子作りには自信はあるんだよね。だから、あなたにこのクッキーを食べてもらって、喜んでほしいって思ったの。あたしはね、あなたが来るまで、『喜んでくれるかな、美味しいって言ってくれるかな? それとも、口に合わなくて、不味いって怒られるかな?』ってドキドキしてたんだよ。でね、『普通なら、空気を読んで、不味くても、不味いって言わないよね。せめて、二波さんの口に合ってくれたら嬉しいな……』って、そう思ってたの」
複雑な微笑みを浮かべて、委員長はそう言った。
「なのに、二波さんの返事は、『美味しいけど?』なんて素っ気ない上に、『どうしてそんなことを訊くの?』って言いたげなんだもん。あたし、ガックリきちゃったわ」
「…………」
「不味かったら不味いって言ってくれても全然いいんだけど、美味しいって思ってくれたら、素直に美味しいって言ってほしいな」
「……そういうものなの?」
怪訝な顔で尋ねると、委員長は苦笑混じりのウィンクを返す。
「好きな人には、褒めてもらいたい……、織歌さんはそう思わない?」
「……!」
ハッとして委員長を見る。
委員長はうっすらと頬を染めていた。
「あ、あの……クッキーのお礼を要求するわけじゃないけど……、織歌さんって呼んじゃダメ、かな? そう呼ばれるの、迷惑、かな?」
「め、迷惑じゃないけど……」
気恥ずかしい気分になって、織歌は慌てて目をそらした。
「今まで……そんな風に呼んでくれる人、わたしの周囲にはいなかったから……少し、驚いただけ」
何故か、頬がカーッと熱くなる。
「じゃあ、あたしが織歌さんのお友達、一番乗りなんだね! 嬉しい!」
「…………」
胸の奥がくすぐったくてたまらない。
クッキーの包みを乗せたままの右手を、柔らかな両手でキュッと握られたけれど、全く不快さは感じなかった。
ただ、胸がドキドキしていただけで―――。
「ねぇ、織歌さん! あたしのことは、エリカって呼んでくれる?」
「エ……リカ……?」
「そう、あたしの名前! 名前負けしてるでしょ?」
クスクス笑いながら、自虐的な言葉を紡ぐエリカに、織歌は唖然とする。
確かに、エリカの地味な外見に比べると、この名前がアンバランスな気もしないでもない。
が、委員長は、この派手な名前を気に入っているようだ。
「うふふ……あたしね、織歌さんにエリカって呼んでもらえる日が来ることを、亡くなったおばあちゃんに、毎日祈ってたの」
「……亡くなった、おばあさま……?」
「そうなの! この名前、おばあちゃんがつけてくれたのよ! おばあちゃん、昔、女優になりたかったらしくて、その時、エリカって芸名をつけるんだって心に決めてたんですって。でも、おばあちゃんの子供は、お父さんしか生まれなかったの。さすがに男の子に『エリカ』ってつけるわけにもいかないでしょ? だから、わたしにつけてくれたんだって。お母さんが兄弟多かったから、母方のおじいちゃんとおばあちゃんから文句は出なくって、平和解決だったんだって!」
「……そ、そうなの……」
どう反応すれば良いのかわからず、織歌は引きつった笑みを浮かべる。
が、エリカは、織歌の笑みが引きつっていたのは、笑うことに慣れていないからだと、好意的に受け取ったらしい。
「織歌さんとわたしの名前って、一文字しか違わないのよね。何だか嬉しい偶然よね!」
「ええ……そういえば、そうね」
「卒業まで、もうそんなに間がないけど……わたしね、織歌さんとたくさんのステキな思い出を築いていきたいな」
素直なエリカの言葉に、胸の奥があたたかくなる。
間もなく、チャイムが鳴って、エリカは自分の席に戻っていった。
織歌も、クッキーの包みを両手で隠すように持ったまま、自分の席に着く。
授業が始まる前に、一つつまみあげて、そっと口の中に入れた。
ふわりと優しい甘さが口いっぱいに広がる。
『卒業まで、もうそんなに間がないけど……わたしね、織歌さんとたくさんのステキな思い出を築いていきたいな』
そういう風に言ってくれた人は、初めてだった。
織歌は、こみ上げてくる嬉しさを噛み締めながら、クッキーをそっと包み直し、1時間目の授業を受けるための準備を始めた。
『I'll do my best. 2』
放課後、菓子折りを買ってから、目的地のK駅前南口ロータリーへ到着した織歌だったが、残念ながら、目的の人物は見当たらなかった。
がっかりしながらも、そのまま帰る気になれずに、いつもゆうなが腰掛けているガードレールの前まで行く。
そのまま、何をするでもなく、織歌はただぼんやりと、ガードレールを見つめていた。
「ねぇ、お嬢さん、こんなところで何しているの?」
背後から声をかけられたが、聞こえないフリをする。
「このままここに立ってても、仕方がないんじゃない? ねぇ、一緒に遊ぼうよ?」
「…………」
相変わらず無反応を貫いていると、今度はクスクスと笑われた。
「……?」
聞き覚えのあるその笑い声に振り向くと、そこにはゆうなが立っていた。
「ダメだよ、そんなんじゃあ、ナンパは撃退できないよ?」
「あ……えっと……」
突然の出現に、織歌はどう反応すれば良いのかわからず、ただ視線をあちこちにさまよわせる。
「驚かせちゃった? ごめん、ごめん」
「あ……いえ……」
ケラケラ笑うゆうなに何も言えないまま、小さく首を振る。
そして、ふと、ゆうながフォルテールを持っていないことに気がついた。
「今日は……ライブはしないんですか?」
ゆうなはにっこりと笑って、こっくりと頷く。
「ん、毎日はライブしないよ」
疲れちゃうからね、と微笑むと、ゆうなはいつものようにガードレールに座った。
その言葉に、織歌は首をかしげる。
「じゃあ、どうしてここに?」
ゆうなに手招きをされて、織歌もガードレールに座る。
「んー、それはね、キミが呼んでるような気がしたんだよ」
「……!?」
唖然として、織歌はゆうなの悪戯っぽい微笑を見た。
目を丸くした織歌の表情が面白かったのか、ゆうなはクスクス笑っている。
「冗談だよ。この駅は良く使う駅だからね、ここを通りがかったのは、たまたま、だよ」
「か……からかったんですか?」
「からかうだなんて。あたしはただ、織歌ちゃんがあたしを呼んでくれてるといいなぁって思ってただけ。で、実際、織歌ちゃんはあたしを呼んでくれてたワケ?」
「…………」
織歌は何も言えず、きゅっと唇を噛んで、うつむいた。
ゆうながまたクスクスと笑う。
「それより、キミの方こそ、どうしてここに来たの? あたしに会いに来てくれたんなら嬉しいんだけど」
「…………」
ゆうなは無言のまま、買ってきた菓子折りを差し出した。
「何、これ?」
「……受験の件で、相談に乗っていただいたから」
「相談って……織歌ちゃん……」
呆れたような、溜め息交じりの声が降ってきた。
織歌が顔を上げると、憮然とした表情のゆうなが、織歌を見下ろしていた。
「…………」
どうやら自分の行動が、ゆうなを不機嫌にしてしまったらしい。
それがわかったところで、解決方法は思い当たらず、織歌はしょんぼりと俯いてしまった。
頭上から、再び溜め息が降ってくる。
「あのね……友達が悩んでいたら、話を聞いてあげるのって、当たり前のことなんだよ?」
「……?」
呆れた口調に、顔を上げた織歌は、思ってもいなかった優しい微笑みを目の当たりにした。
「ねぇ、織歌ちゃん。織歌ちゃんは、もしかして、あたしが落ち込んでたとしても、あたしの話を聞いてくれないのかな?」
「そ、そんなこと……!」
反論しようとして、初めて、ゆうなの言いたいことに気づいた。
「だろ? キミがそうやって気遣って、わざわざお菓子を買ってきてくれたのは嬉しいよ。でもさ、それは、キミを友達だって思ってたあたしの気持ちに対して考えると、ちょっと失礼ってモンじゃないかな?」
「……ご、めんなさい……」
俯いてしまった織歌の髪を、ゆうなは優しい指でそっと撫でる。
「謝る必要はないよ。織歌ちゃんは、あたしの言いたいことをわかってくれたんだよね? なら、次から活かしてくれればいいから」
「……はい」
ゆうなの指がくすぐったくて、けれども、心地よくて、織歌はただじっとして、ゆうなの指が遊ぶままにすることにした。
「ところで、それ、お菓子?」
そう聞かれて、ゆっくりと頷く。
「はい。お口に合うかどうかわからなかったけれど…
…その、最中です」
「そう」
クスッと笑われて、織歌は菓子折りをそこに置いて、
帰ろうかと思った。
が。
「一人で食べちゃうと太りそうだし、かといって、せっかくの贈り物を無駄にするのは申し訳ないし……ね、織歌ちゃん、一緒に食べよっか」
「……はい?」
予想外の言葉に、織歌はまた目を丸くする。
「ちょっと待っててくれる?」
織歌の返事も聞かずに、駆け出したゆうなの背中を見つめながら、織歌は逃げることもできないまま、ガードレールの上、ただちょこんと腰掛けていた。
やがて戻ってきたゆうなの手には、ペットボトルのお茶が2本握られていた。
「はい、どうぞ」
「え?」
その内の1本を差し出されて、反射的に受け取ってしまってから、また慌てる。
「えと、このお茶は……?」
「最中って美味しいけど、そのまま食べるのはキビシイもんね! お菓子、開けてもいい?」
屈託なく言われ、おずおずと頷いて、織歌はゆうなが菓子折りを開ける手元をただ見つめていた。
「うわ、美味しそう! いただきまーす!」
嬉しそうな笑顔が向けられて、ドキッとする。
「ほら、織歌ちゃんも食べなよ!」
緑色の包み紙の最中を一つ、手のひらに握り込まされて、何となく笑いたい心境になってきた。
「こういうのってさ、一人で食べるより、二人で食べた方が美味しいよね」
ニコッと微笑みかけられて、ぎこちなく微笑みを返す。
こういう時に、相手が嬉しくなるような、柔らかでキレイな微笑みを返すことができればいいのに。
そう思うと、悔しいような気持ちが湧き上がってきたが、今は練習あるのみと思い返すことにして、織歌は最中の包み紙を剥がした。
「やっぱり、織歌ちゃんは笑った方が可愛いよ」
「え……?」
手の甲で、サラリと頬を撫でられる。
再びドキッとした。
「あんまり笑うことを意識しすぎないで。織歌ちゃんは、ちゃんと笑えてるから、大丈夫。素直に、ありのままの自分でいることを心がけると、自然と感情も豊かになってくるし、感情につられて、自然な笑顔も浮かぶようになるよ」
「そう……でしょうか……?」
「そうだよ!」
おずおずと呟くと、自信たっぷりに肯定されて、表情が緩んだ。
「だったら……嬉しいです」
「大丈夫だよ! だって、織歌ちゃん、努力してるよね、普通の女の子になろうって」
「……!」
また、心臓が大きく鳴った。
「そのせいかな……織歌ちゃん、この間よりも、すごく穏やかな顔をしてるよ。見違えるような表情で、さ」
「…………」
嬉しい、と思った。
努力していたことを気づいてもらえたことも、その努力を評価してもらえたことも。
素のままの自分を受け入れてもらえているような実感が、織歌を嬉しくさせている。
じわじわと顔が熱くなっていくのが恥ずかしくて、織歌は手にしていた最中にかじりついた。
そして、エリカにもらって、ポケットに入れていたクッキーのことも思い出す。
「あの、ゆうなさん……。わたし、クラスの子から、クッキーをいただいたんですけど、一緒に食べませんか?」
勇気を出して、そう聞いたのだったが、ゆうなは苦笑にも似た表情を浮かべた。
「最中にクッキー? 面白い取り合わせだね」
「あ……」
クスクスと笑われて、羞恥に顔が赤くなる。
「ふふ、織歌ちゃんって、意外と表情豊かだよね」
「わたしが……ですか?」
「うん、キミが、だよ。本当のキミは、きっと照れ屋さんなんだろうね」
「…………」
ゆうなの言葉に、どんな顔をしたらいいのかわからず、織歌は照れ隠しに、ペットボトルのお茶を飲む。
「そのクッキーって、もしかして、手作り?」
不意に聞かれて、慌てて頷く。
その様子がおかしかったのか、ゆうなが笑ったが、笑われても不快に思わないのが不思議だと思う。
「手作りのクッキーなら、それは織歌ちゃんが一人で食べるべきだよ。せっかく織歌ちゃんのために作ったクッキーを、あたしが食べちゃうのって、作ってくれた子に悪いよ」
「あ……そうですよね……すみません」
謝った織歌に、またゆうなが笑った。
「そんな風に謝らなくてもいいってば。あ、そうそう……キミにあげたいものがあったんだよ」
本当は、桜立舎を受験する前に渡したかったんだけど、と前置きをして、ゆうなはカバンの中から1枚のCDを取り出した。
「これは……?」
CDを持って、首をかしげる織歌へと、ゆうなは悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
「家に帰ったら、聞いてみて」
それから、ウィンクを一つ、投げて寄越した。
「キミの悩みを解決するための、ひとつの鍵になったらいいんだけど……ね」
☆ ☆ ☆
帰宅した織歌は、練習室に置いてあるCDデッキにCDをセットした。
練習室の外では、心配そうな顔をした小夜子が室内をうかがっているのがわかっていたが、邪魔をされたくなかったので、鍵をかけて締め出すことにする。
わざわざ自分のために時間を割いてレッスンに通ってきてくれている小夜子に、酷い不義理を働いているという自覚はあったものの、ゆうなからのCDを一人でゆっくりと集中して聞いてみたかったのだ。
いつも暗譜に使っている、座り心地の良いお気に入りの椅子に座って、リモコンを操作した。
やがて、流れてきた音は、聞きなれた楽器の、聞いたこともない柔らかな旋律だった。
この演奏の主が誰かは聞かなかったけれど、ゆうなから知らされなくても、それが誰なのか、織歌にははっきりとわかった。
「…………」
流れてくる旋律に、織歌はただ息を呑む。
まるで頭を殴られたようなショックを感じた。
決して上手だとは言えない、つたない演奏ではある。
けれど、そのつたなさを感じる部分を、丁寧さがカバーしている。
それだけでなく、演奏自体に演奏者本人の人の良さがにじみ出ているようで、聞いているだけで、どこかホッとするような落ち着きさえ感じられる気がする。
「…………」
流れる音に、織歌はただ身をゆだねていた。
柔らかな音が、ささくれ立った神経を慰めて、鎮めてくれるような感覚。
まるで、心の傷が癒されて、ふさがっていくようだ。
溢れそうになる涙を認めたくなくて、織歌は上を向いて、目元を交差させた腕で覆った。
こんな演奏……自分にはできない……。
自分の演奏が技巧に頼っただけの、空虚な演奏だということは、嫌というほど自覚している。
けれど、CDから流れてくる演奏は、荒削りすぎて、失笑さえ浮かびそうなほどに下手なくせに、こうして聞くものを感動させているのだ。
「…………」
演奏は技巧だけではないと、わかっていた。
けれども、それを実感したのは、初めてだった。
技巧に頼らなくても、こうして、こんなにも織歌の心に訴えかけることができるのだ。
良い意味で、自分の既存観念を打ち砕かれたような気がした。
織歌は、心地よい音の空間に心をさまよわせながら考える。
昔の、フォルテールを習い始めた頃の自分が、このことに気づいて、こういう演奏を目指していれば、こんな風な演奏ができただろうか……。
馬鹿げた考えに、織歌はゆっくりと首を振って、椅子から立ち上がる。
「……空恐ろしいわね」
この演奏がいつ録音されたものかはわからないが、この演奏主が、正しい訓練をして、演奏上の技巧を身につけたとしたら―――。
知らず、口元に笑みが浮かんだ。
「やはり、わたしはあの学苑へ絶対に入学しなくては!」
自分が成長するために。
―――そして、あの人の成長を見届けるために。
『I'll do my best. 3』
そして、受験当日。
起きることができずに遅刻して、受験できなくなるのは避けたかったので、前日は昼寝をし、半徹夜で出かけることにした。
用意された席に着いた織歌は、ゆうなから貰ったかぐらのCDを聞こうと、イヤホンを手にした。
その途端、背後から肩を叩かれる。
「ねぇ、あなた、どこの学校の子?」
振り向くと、見知らぬ制服を着た二人の生徒が立っていた。
「…………」
怪訝な表情でじっと二人を見ていると、二人は織歌の表情に気づくことなく、勝手に喋り始めた。
「ねぇ、知ってる? 今年は受験生の数が多いんですって!」
「去年の受験生って、1クラス分しかなかったんだって」
「なのに、今年は2クラス分だもん、やんなっちゃうよね!」
「…………」
織歌は軽い苛立ちを覚え始める。
黙って、眉間にしわを寄せて、二人を見てみるが、二人は気づく様子もなく、受験に関する愚痴めいた発言を繰り返している。
「つか、去年だったら良かったよね。今年の受験生になっちゃって、もう、サイアク〜!」
この言葉は、ただでさえ、受験当日でナーバスになっていた織歌の忍耐袋の緒を切れさせるには十分だった。
「……サイアクだと思うのなら、その受験票を破って、今すぐ帰りなさいな」
「な……ッ!?」
「受験生が何人いても、実力がトップクラスなら、嫌でも入学できるものでしょう? 自信がないクセに、グダグダ言っているヒマがあるのなら、試験開始までの短い時間で復習でも何でもすればいいのよ」
「…………!!」
絶句した相手を無視して、織歌は自分の席について、イヤホンを装着した。
倍率がどれだけ高くても、わたしはできることをできる限りやるだけ。
―――全力で試験にあたるだけ。
二人組は、織歌に対して何やら文句を言っているようだったが、柔らかな音の奔流に心をゆだねることにして、織歌は雑音を排除することに決めた。
☆ ☆ ☆
昼休み。
家政婦さんが作ってくれたお弁当を黙々と口に運びながら、午前中の試験のことを考える。
筆記試験は特に問題はなかった。
桜立舎学苑の入学試験は、5教科の筆記試験と実技試験から成っているが、自分が調べた限りでは、音楽科の入学試験としては、かなり特殊な部類に入るようだ。
実技試験が必須なのはともかく、筆記試験が5教科というのは、勉強する範囲が増えて、受験する側としてはかなり厳しいはずだ。
桜立舎学苑という教育機関が、音楽教育だけではなく、学力にも力を入れているということのアピールかもしれないが、これはこれで、くだらない受験生をふるいにかける効果もあるだろう。
2つ目の試験は数学だったのだが、座席のあちこちから、溜め息が聞こえてきた。
今朝、織歌の気分を害したあの二人組も溜め息をついたのだろうと思うと、織歌は胸のすく思いがした。
そして、そんな自分の性格の悪さをこっそりと自嘲する。
「…………」
こんな風に性格が悪いから、友達もできないのよね……。
そんなことを考えて、一口カツを口に入れた時、教室のドアが開いて、スミス先生が入ってきた。
「ああ、みなさん、そのままで……楽にして聞いてください。
午後の実技試験は、受験者数の少ない楽器から執り行われます。試験順の3人前に呼びにまいりますので、なるべく教室から出ないようにしてください。一応、この教室には、受験者数の多いピアノや声楽、バイオリンの受験者はいらっしゃいませんので、黒板に順番表を貼っておきます。後で確認しておいてくださいね。何か質問は?」
「はい! 実技試験待ちの間に、校内を見学しようって思うんですけど、いいですか?」
教室の端に座っていた生徒の質問に、スミス先生は穏やかな微笑を返す。
「ごめんなさいね。校内探検は、試験中の生徒の妨げになる可能性もあるし、呼びに来た時にいないと試験が後回しになってしまうこともあるので、全員の実技試験が終わるまでは、この教室にいてくださいね。希望者には、試験終了後、アタシが責任を持って、校内をご案内いたしますわ」
教室内がざわついているが、特に反対意見は出ず、スミス先生はそのまま微笑みを残して教室から出て行った。
織歌は少し迷ったものの、行儀が悪いのを承知の上で、食べかけの弁当箱を置いて、黒板に貼られた表を見に行った。
順番表の上から2番目に自分の名前を見つけると、もう用はないとばかりに、席に戻って、昼食を再会する。
周囲の受験生から、「一番最初じゃなくて良かった」という声が聞こえてきたが、今は昼食を片付けることに専念し、噂話は黙殺した。
☆ ☆ ☆
耳から流れ込んでくるCDの心地よい音に精神を開放していると、案内のスミス先生がやってきた。
呼ばれた最初の3人の内の一人として、音楽室へ行く。
一人はそのまま音楽室に入り、織歌ともう一人は、音楽室の隣の準備室に入る。
持参のソルフェージュを手早く準備しながら、チラッと見ると、もう一人の受験生はマリンバの演奏者だったらしい。木琴に似た楽器を、手伝い要員らしい上級生の手を借りて、準備しているところだった。
「あなたはお手伝いは……いらなさそうね」
「はい、もう準備はできました」
上級生に声をかけられて、織歌は緊張しながら申し出を辞退する。
断られたことに気を悪くした様子もなく、上級生は見事な黒髪を揺らして、クスッと笑った。
「……何か?」
笑われたことにムッとして聞くと、相手は柔らかな微笑みを浮かべてゆっくりと首を振る。
「ごめんなさい、あなたのことを笑ったわけではないの。随分と緊張しているみたいだけれど、あなたのその様子を見ていると、去年の自分を思い出してしまっただけよ、気にしないで」
「…………」
織歌が絶句したしたその瞬間、隣の部屋からハープの音色が流れてきた。
試験会場である音楽室に一番最初に招き入れられた受験生は、ハープの演奏者だったようだ。
ハープの甘美な音色に聞き入ってしまい、織歌がハッと我に返った時には、手伝いの上級生達は全員退室した後だった。
残されたマリンバの奏者と共に、流れてくるハープの演奏に耳を傾ける。
そして、先ほどの上級生の言葉を思い出してみた。
『随分と緊張しているみたいだけれど、あなたのその様子を見ていると、去年の自分を思い出したのよ』
『去年の自分』と発言したということは、さっきの上級生は2年生……桜立舎学苑での呼び方では『2期生』なのだろうかと考える。
どんな楽器で、何を演奏したのかはわからないが、きっとあの黒髪の人は、緊張しやすい性質なのかもしれない。
そう考えると、見知らぬ上級生に親近感が湧いた。
☆ ☆ ☆
やがて、ハープの演奏が終わり、音楽室へと繋がっている準備室のドアが開け放たれる。
上級生達の手を借りて、ハープが準備室へ運び込まれ、入れ替わりに、いつでも演奏できるよう準備を完了させたフォルテールを運び込む。
先ほどの上級生がすれ違いざまに「頑張って」と囁いてくれて、小さく頷き返した。
フォルテールの前に立ち、審査員席を見る。
設えた席には、学苑長を中心に、スミス先生と、あと一人――きっと来年度の新入生担当の学年主任あたりなのだろう――が座っていた。
織歌はそっと息を吸い込む。
この『舞台』は、今まで経験してきた、どの『舞台』とも違う。
自らの意思で立ち、そして、その『勝利』を掴むことを熱望している『舞台』など、今まで経験がない。
そう考えると、不意に足元から不快な震えが上がってきた。
ふと、織歌は考える。
ゆうながCDに入れてくれた演奏の主であるあの人も、去年、この場所に立ったのだろうか……。
かぐらのことを考えた途端、不思議なくらいに落ち着いてきた。
いける……。
あの人のように、フォルテールが歌っているみたいな演奏はできないけれど、でも、きっと、フォルテールを歌わせるようにって心がければ……。
――きっと、今までで一番の演奏ができる……!
織歌は口元に笑みを刻み、深く頭を下げる。
「受験番号38番、二波織歌です、よろしくお願いします。演奏曲は……」
☆ ☆ ☆
演奏終了後、一旦、元の教室に戻り、帰宅しようとした織歌は、廊下に出たところで、先ほどの上級生に呼び止められた。
「二波織歌さん……ですわよね? 学苑長がお話したいことがあるそうですが、お時間はありますか?」
風が吹いて、日本人形のようにまっすぐな上級生の黒髪が揺れる。
「時間は……大丈夫です。けれど、わたしに何の用事があるんですか?」
「さぁ……残念ながら、わたしはその内容までは存じません。学苑長から、実技試験の審査があるので、少しお待たせしてしまうことになってしまいますが、あなたにお話したいことがあると、伝言を頼まれただけなので」
「はぁ、別に構いませんけど……」
まっすぐな眼差しに、無碍に帰ると言い張るのも申し訳ないような気がして、織歌は言葉を濁す。
上級生はホッとした微笑みを浮かべると、フォルテールを持っていない方の織歌の手を掴んだ。
「では、行きましょう」
その言葉に、織歌は怪訝な顔をする。
「行く、って、どこへ?」
「生徒会室、ですわ」
☆ ☆ ☆
連れて行かれた生徒会室で、上級生に紅茶を振る舞われた。
天野まりと名乗ったその上級生は生徒会長であり、入学試験の手伝いをしている在校生は、生徒会役員とボランティアの生徒だと説明した。
会話は途切れがちながらも、予想以上に美味しい紅茶と、強要されない会話に、穏やかな時間が流れる。
生徒会室は音楽室から離れているとはいえ、窓が開け放たれている音楽室からは、受験者の演奏が風に乗って切れ切れに聞こえてきていた。
「二波さんは、どうしてこの桜立舎を受験しようと思ったの?」
そう質問され、逆に聞き返してみる。
「そういう天野会長も、何故、この桜立舎を受験されたのですか?」
質問を質問で返されたことに、まりは驚いたらしい。
目を丸くして織歌をしばらく見つめ、それから、クスッと微笑んだ。
「残念ながら、わたしは幼稚舎の頃から、この学苑の生徒よ。だから、あなたとは少し立場が違うわ」
まりの答えに、織歌は首をかしげる。
「なら、先ほど、緊張していたわたしに、『去年の自分みたい』と発言したことは一体……?」
「…………」
まりは黙って紅茶を飲んでいる。
繊細な細い指が、カップを置いた。
「あなたが、どんなプレッシャーと戦いながら、ここの入学試験を受けたのかはわからないけれど、去年のわたしは、あなたに負けないくらいのプレッシャーを感じていたことがあるのよ」
「……プレッシャー、ですか?」
「そうよ。伝統ある桜立舎学苑の生徒会長……ずっと憧れていたポジションだったけれど、いざ指名されると、手足が震えて……わたし、寮に戻ってから、あまりにも無様な様子を晒してしまって、同室者にからかわれてしまったの」
ひどく優しい表情でクスクスと笑うまりに、織歌の緊張が解けてゆく。
しばらくの間、まりとポツリポツリと他愛ない話をしていたつもりだったが、意外と時間が経っていたらしい。
小さなノックの音と共に、生徒会室に別の生徒が入ってきた。
「あ、二波さんですね。お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした。ピアノと声楽の審査は、教頭先生がすることになったので、学苑長がすぐいらしてください、とのことです」
やわらかそうな髪を両サイドで二つに結んだ生徒が、柔和な微笑みを浮かべる。
「彼女は2期生の二条院琴美さんよ。あなたが入学したら、きっと一番お世話になる先輩ね」
「お世話だなんて……わたしの方こそ、新入生の方から、いろいろ学ばせてもらうつもりです」
謙虚な言葉に、織歌はペコリと会釈をして、まりに紅茶のお礼を言った後、案内をするという琴美について、生徒会室を出て行った。
☆ ☆ ☆
「先日はお会いできなくて残念でした。急な出張が入ってしまったもので……今日もお待たせしてしまって、ごめんなさいね」
「いえ……そんな」
出されたコーヒーに口をつけながら、織歌は正面に座った学苑長の真意を読み取ろうと観察する。
「それにしても、先ほどの演奏は、大変素晴らしいものでしたよ、二波さん」
「はい、ありがとうございます」
「もうスミス先生から聞いていると思いますが、あなたを特別待遇生として入学させようという動きが出ています」
本題を切り出されて、織歌は身を硬くした。
「それについて、二波さんご自身の意見を聞きたいのですが、如何ですか?」
織歌は小さく頷いた。
「特に異存はありません。わたしは入学する気もない学校を受験するほどヒマではありませんし、この学校に入学できるのなら、オプションは、関係はありません。特別待遇で入学するかどうかは、正式に、入学試験に合格してからの話です」
「ほほほ、これは手厳しいわね」
きっぱり言った織歌の言葉に、学苑長は気を害した様子もなく、笑いながら肩を竦めた。
「正式な合格通知は後日、郵送しますが、実技試験の内容では、あなたは合格です」
「……筆記試験の結果を見るまでは、合否はわからないというわけですね」
「ええ、当然です。他の学校ではどうなのかは存じませんが、少なくともこの学苑では、特別待遇生だからといって、試験までをも特別待遇にするつもりはありませんよ。学生の本分は勉強なのですから」
「そうですね」
織歌の頬にも笑みが浮かぶ。
「あなたが我が学苑に来てくれたら、きっと他の生徒たちの良い刺激になるでしょう。もちろん、あなたにとっても、我が学苑での生活は、良い刺激になるはずだと信じています」
「はい」
「入学前に、あなたとお話をしてみたかっただけだったのですが、わたくしのワガママで遅くまで残っていただいて、ごめんなさいね。ところで、今日は見学をして帰りますか?」
学苑長の申し出に、心が少し揺らいだが、ふと目に入った窓の外の風景に、織歌はゆっくりと首を振った。
「いえ、前回来た時に見学させていただいたので、今日はもう帰ります」
「そうですか。では、また」
立ち上がって、一礼して学苑長室を出る。
今日は早く帰れるはずだったのにな、と思いながら、学苑長室のドアに背を向けた。
その時、織歌と同じく受験生らしい少女が、織歌の前を通りがかったところだった。
「あ……」
見覚えのある少女の姿に、思わず、声が出る。
「あっ!」
それは、向こうも同じだったようで、相手も小さく声を出した。
しばらく見つめあう。
「この間の……?」
ふわふわした髪を揺らしながら、相手が呟く。
その声で、ライブのときにかぐらに声援を送っていたうるさい子だと、織歌は思い出した。
にわかに相手に対する興味が湧いてきたが、どうしたらよいのかわからなくて、織歌はただ相手の少女を見つめる。
やっぱり相手も同様だったらしく、織歌をただじっと見ている。
そうして、二人はしばらくの間、学苑長室の前で、お互いを見つめあっていた。
『出会いに万歳!』
見つめあいの沈黙を先に破ったのは、未羽だった。
「あたし、上月未羽。声楽で受験して、今、終わったトコ。あなたは?」
質問を向けられて、織歌はハッと我に返る。
「二波織歌よ。わたしはフォルテールで受験したの」
織歌がそう言った途端、未羽の表情はパッと輝いた。
「へぇ、今年唯一のフォルテールでの受験生って、あなただったのね! すっごーい!」
「は、はぁ……」
何がすごいのか良くわからなかったが、何やら喜んでいるようだし、水を差すのも申し訳なく思った織歌は、黙って頷くことにした。
「フォルテールで受験したってことは、フォルテールが弾けるってことだよね!?」
「…………」
当たり前のことを言う未羽に、あきれ半分で頷く。
「ね、何か弾いてみてくれる?」
その言葉に、織歌は絶句した。
「ここで……?」
「あ!」
ハッとした未羽が周囲を見回すと、自分達と同じ受験生や、在校生が、クスクス笑いながら、自分達を見ている。
さすがの未羽も、学苑長室前の廊下での演奏はまずいと思ったのだろう。
「うー……また今度でいいや」
しょんぼりした未羽は、まるで叱られた子犬のようで、自然と織歌の口元がわずかに持ち上がる。
「別にいいけど……また今度って、いつのこと?」
意地悪っぽくそう訊いたら、未羽はキョトンとした顔をした。
「入学してから、だけど?」
まるで当たり前のことをなぜ聞くのかと言わんばかりの表情に、織歌は唖然とした。
「あなた……合格するつもりなの?」
今度の質問は、意地悪するつもりもなく、純粋な疑問から発せられたものだったが、未羽はいたくプライドを傷つけられたようだ。
「当たり前でしょ! そのために、あたし、お父さんを説得して、お姉ちゃんに勉強を見てもらって、今日まですっごく頑張ったんだから! この学苑に入れないんだったら、浪人するんだもん!」
未羽のその言葉に、この少女も自分と同じくらい、この学苑に入りたいと思っているのだと知った織歌は、最初に抱いていた反感が急速に消えていくのを感じた。
むしろ、逆効果で、今ではこのやや空気の読めないところのある少女に好感さえ抱いている。
「そう……だったの? 無神経なことを言って、ごめんなさい」
そう言って頭を下げると、未羽がぶんぶんと手を振った。
「あっ、言葉がキツかったかもっ。あたしの方こそ、ごめんねー! あたし、すぐムキになっちゃうんだよねー、失敗、失敗!」
屈託なく笑う未羽に、織歌の表情も柔らかくなる。
「わたしも……この学苑に入れなかったら、浪人するわ。他の学校へ行く気なんてないもの」
心の裡を呟くように言うと、未羽が目を丸くした。
「え、あなたも?」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、あたしたち、一緒ね!」
キャッキャッと笑いながら、未羽が織歌の両手をギュッと握り締める。
今までであまり経験のないスキンシップを、ほぼ初対面の人にされて、織歌はただ固まってしまった。
「えへへ、あたし、あなたのこと、気に入っちゃった! ね、どこかでちょっと喋らない?」
「え……?」
固まったまま、織歌はただ目を丸くする。
「はい、決まりね! あたしたちの出会いにバンザーイ! さ、行こ行こ〜!」
人の話を聞かずに、握った織歌の手を繋ぎなおして、未羽はずんずんと進む。
「あ、あの……上月さん? ちょっと!?」
織歌は困りきった声で未羽の名前を呼んだが、テンションが上がりきっている未羽には聞こえないらしい。
どうしたら良いのか混乱しながらも、胸の奥に湧き上がる気持ちは、不快なそれではない。
織歌は小さく溜め息をついて、未羽の先導についていくことにした。
☆ ☆ ☆
未羽に連れていかれたのは、桜立舎学苑の最寄り駅でもある、K駅の南口ロータリーだった。
つい先日、ゆうなが腰掛けていたガードレールに、未羽が先にちょこんと腰掛けて、織歌へと手招きをしている。
偶然ってあるものなのね、と思いながら、織歌は未羽の隣に腰をかけた。
「ね、フォルテールって難しい?」
「難しいか、といえば……そうなのかもしれないわね。この楽器の音が鳴らせるのは、ごく一部の限られた人間だけだから……」
そう答えると、未羽は不思議そうな顔をする。
「ふーん、そうなんだ。ってことは、あなたはその『限られた一部の人』なんだぁ……。いいなぁ、音が鳴らせて」
未羽の言葉に、織歌が訊ねる。
「あなたもフォルテールを演奏したいの?」
「うーん……そうだなー。できるものなら、演奏してみたい、かな」
呟くように言う未羽は、頬を染めて笑顔を浮かべる。
「あたしね、一緒に演奏したい人がいるんだ」
未羽の告白に、織歌はドキリとした。
「あたしね、その人と一緒にいたくて、あの学苑受けたんだよ」
「……」
口には出せなかったが、わたしも、と、織歌は胸の中で呟く。
「ねぇ、これ、聞いてみて?」
未羽は織歌に携帯プレイヤーを差し出した。
織歌はそれを受け取って、再生する。
耳になじむ音が聞こえてくる。
「その音が、あたしの迷いを吹っ切ってくれたの」
フォルテールが、歌っている―――。
織歌はゆっくりと頷いた。
「……わたしもよ」
呟くように言う。
「え?」
織歌の言葉が良く聞こえなかったのか、未羽が聞き返してきた。
今度こそ、織歌は、はっきりと未羽に言う。
「わたしもよ。……暗闇で迷っていた時、かぐらさんのこの演奏が、わたしの中に光を灯してくれたの」
「……!」
未羽は息を呑んで織歌をじっと見た。
それから、バッと立ち上がって、織歌の正面に回ると、織歌の手を取って、ぎゅっと握り締めた。
「あたしたち、親友なんだわ!」
「は?」
予想外の言葉に、織歌が目を丸くする。
「あたしたちが親友になるのは、これは運命なの!」
「はぁ……」
未羽はやたらとテンションが上がっているようで、織歌が微妙な表情をしていることにも気づいていないらしい。
「あたしたちは、入学後も卒業するまで……ううん、卒業してからも、ずっと親友なのよ! だから、一緒の学校に入学できるはず! ううん、運命なんだから、一緒に入学できなきゃおかしいよね! 絶対に一緒の学校に入学して、3年間、親友として過ごすんだー!」
「……」
織歌は唖然として、未羽の顔を見つめていた。
それが未羽の気に障ったらしい。
唇を尖らせて抗議してくる。
「もうっ、反応鈍いなぁ! あたしたち、絶対合格するって言ってんの!」
「あ……そう」
あまりの未羽のテンションの高さに、正直、織歌はやや引き気味になったが、未羽の言葉には満更でもない気分になってきた。
もちろん、誰に言われるまでもなく、織歌自身は合格する手ごたえは十分だった。
が、未羽の学力の程も知らなければ、歌を聞いたこともないので、その実力もわからない。
とはいえ、織歌が引くくらいに自信満々なのだから、それなりに勝算はあるのだろうと考え、織歌はゆっくりと頷いた。
「一緒に通えたらいいね」
「そうだよね! でも、あたし、合格したら、さっさと入学決めちゃうからね!」
「…………?」
未羽の言葉の意味がわからず、織歌は首をかしげる。
すると、未羽がニヤッと笑った。
「受験に失敗したら、浪人するんだよね? うふふ、あたし、あなたに上月先輩って呼ばれるようになっちゃったら、どうしよう〜」
「…………」
不吉なことを、ニヤニヤした顔で言われて、思わず織歌の眉間にシワがよった。
「あ、怒った? 怒っちゃった? やーん、ちょっとしたジョークだよぅ、怒らないで〜?」
甘えた仕草で、しなだれかかってくる未羽を、ポイッと放り投げるような仕草で突き放す。
「ジョークにしても、もう少し場の空気を考えた方が良いのではなくて?」
そう言ってしまった後、言い方がキツかったかと思って未羽を見ると、未羽は目を丸くして織歌を見ていた。
「あ、その……」
ごめんなさい、と謝ろうとした矢先に、またぎゅっと手を握られる。
「やーん、さっきの言い方、すっごいお嬢様みたーい!『考えた方が良いのではなくてッ!?』 ううう〜〜〜、かっこいいよぉ!」
「…………」
織歌は呆れてしまって、ただ天を仰いだ。
グレーがかった曇天の空には、かすみがかった月が見えて、織歌は常にない気分の良さに、ついクスッと笑ってしまった。
☆ ☆ ☆
それから、しばらくの間、織歌は未羽の話を聞いていた。
未羽は家族のことや友達のことを、屈託なく話してくれて、同時に織歌の話を上手に引き出してくれる。
時々、織歌を絶句させたり、ムッとさせたりすることもあるが、それが未羽のキャラクターなのだろうと、織歌は納得することにした。
いろんな人がいるからこそ、人付き合いは面白いのかもしれない。
そう思えるようになってきたのは、自分でもすごい成長だと思える。
小夜子に連れられて、ゆうなのライブでかぐらの演奏を耳にした日以来、自分の人生はどんどん変わってきている。
時々、自分で自分の変化が怖くなることもある。
けれど、きっとこの変化は、自分がより成長するためには、欠かせない変化なのだろうと思う。
「今日は、ゆうなさんのライブはないみたいだね」
話が途切れた時、未羽がポツリと言った。
「この間、お会いした時、『疲れてしまうから、毎日はライブはしない』って仰っていたわ」
「ま、そりゃそうだよね! 毎日ライブするのって、楽しいだろうけど、やっぱ疲れちゃいそうだもんね!」
明るい声で言った後、未羽はガードレールからぴょんと飛び降りた。
「ねぇ、次に会った時は、おりちゃんのフォルテールを聞かせてね! あたしも、おりちゃんに、あたしの最高の歌、聞かせてあげる! たぶん、入学式になるだろうけど!」
織歌は目を丸くした。
「おりちゃん……?」
意外なニックネームに唖然としつつも、胸の奥がくすぐったくて、嫌な気はしない。
未羽はニッコリと笑っている。
既に日はとっぷりと暮れているが、駅前の街灯は明るく、お互いの表情は昼間のようにはっきりと見える。
「あたしん家、ちょっと遠いから、もう帰るね! ゆうなさんのライブもないようだけど、おりちゃんはどうする?」
「なら……わたしも帰るわ。試験が終わったこと、メールだけでなく、ちゃんと報告しておきたいし」
「そっか」
未羽はまたニコッと笑った。
まるで夏のひまわりのような明るい笑顔を見る度に、織歌の心が軽くなってゆく気がする。
「じゃ、また……入学式でね! 一緒に学苑生活を楽しもうね!」
未羽はぶんぶん手を振って、駅へと向かう。
すっかり受かる気でいる未羽の様子に、織歌はただ苦笑した。
「また、ね」
ガードレールに腰掛けたまま控えめに手を振ると、一旦、背を向けた未羽が、また振り返り、大げさなほどに手を振り返された。
「……不思議な子」
そう呟いた織歌は、帰途に着こうとして、自分も駅を利用することを思い出し、慌てて未羽の後を追いかけたのだった。
『巣立ちの日』
学校からの帰り道、自然と未羽の足は軽くなる。
だって、今日は――。
「ただいまー! おかーさん、桜立舎からお手紙、届いたってー!?」
「あはは、文字通りに飛んで帰ってきたわよ、この子ったらぁ!」
リビングに飛び込むと、母ではなく、姉がぶ厚い封筒と同封されていたと思しき書類をバタバタさせて笑っていた。
「つか、お手紙ってなんなのよ、未羽。あたし、ちゃんと『合格通知が届いたよ』ってメール打ったじゃん」
「そうだけどっ! なんでお姉ちゃんが、あたしの手紙、先に見てんのよ!」
昼休みに母親からメールが届いてから、早く帰宅したいとはやる気持ちを何とか抑えて、頑張って午後の授業も受けてきたのに。
やっとの思いで帰宅したら、姉が先に開封していたなんて……!
「見なきゃ、合格したのかどうかわかんないじゃない」
「てか、お姉ちゃん、学校はどうしたのよ!」
「あたしは試験休み中。中学とは違うのだよ、中学とは」
「だからって、あたしの通知を、あたしより先に見るなんて許せなーい!」
ソファを挟んで、姉と合格通知の取り合いをしていると、背後からバシッと何かで頭を叩かれた。
「未羽! 帰ってきたなら、さっさと着替えていらっしゃい! 桜立舎の寮に入るなら、ちゃんとしないとダメでしょう!?」
振り返ると、母親が雑誌のような本を持って仁王立ちになっている。
「上月家のしつけはどうなっているんだ、なんて言われて、恥をかくのは未羽だけじゃないのよ。これから入寮まで、ビシビシ鍛えますからね、覚悟なさい!」
「うぇ〜ん、お母さん、ひどいー!」
「あんたのためじゃん。あんなお嬢様学校に行くのに、最初っから庶民全開でどーすんのよ。いじめられちゃうわよ?」
「付け焼刃でも何でもいいから、少しでもお嬢様っぽくしないと!」
姉と母に左右から詰め寄られて、制服姿のまま、じりじりと未羽は後ずさる。
「ううう……なにもそんなにムキにならなくても……ね? きっと何とかなるって……ね?」
未羽の言葉に、姉と母が同時に反応する。
「何ともならないわよ」
「何とかならなかったらどうするのよ」
「ひゃーん! 異口同音が、ナンチャラサラウンドで聞こえるよぅ、左右からの台詞は微妙に違うけどー!」
頭をフルフル振りながら、未羽が声を上げる。
「もうっ! 何でもいいから、着替えてらっしゃい!」
母の雷が落ちる頃には、頭をフルフルと振り過ぎたせいで、未羽は目を回しそうに鳴っていた。
「……おかーさーん、止めるの遅いよぅ……」
☆ ☆ ☆
合格通知が届いて以来、上月家の食事時はテーブルマナー講座になってしまった。
それだけではなく、未羽の立ち居振る舞い全てにチェックが入る。
廊下を歩く時に足音が立つと注意され、風呂上りに下着姿で歩いても注意され、リビングのソファに寝転んでいても注意される。
入寮後、未羽が庶民だからという理由で、いじめられないようにと気遣ってくれる気持ちは嬉しいが、正直、未羽にとってはありがた迷惑でもあった。
「浪人しなかったのはいいけど、ホントにお嬢学校に行くだなんて、大変なことになったよねぇ、未羽も」
胸に赤いリボンをつけながら、ユカが笑う。
「もぉ家にいるのがストレスだよぅ……いったぁっ!」
自分の胸にリボンのついたバッジをつけようとした途端、うっかり指先を刺してしまい、思わず未羽は悲鳴を上げた。
大丈夫?と言いながら、ナオミが近づいて、未羽の指先のキズを確かめてくれる。
「でも、未羽ちゃんのことを思ってくれてるんでしょう?」
生徒手帳に挟んでいた絆創膏を取り出して、手早くそれを未羽の指先に巻いてから、ナオミは未羽の胸にリボンバッジをつけてくれた。
バッジに垂れ下がったリボンには『卒業おめでとう』と印字されてある。
「あーあ、とうとう卒業かぁ」
自分のリボンを指先で弾きながら、ユカがポツリと呟いた。
それから、未羽を見て、ニカッと笑う。
「アンタが無事に卒業できるなんてね。ましてや、あの桜立舎に行っちゃうなんて思わなかったなぁ」
「ぶーぶー!」
ユカの軽口に、未羽は唇を尖らせる。
「卒業式の日にまで、そんなイジワル言わなくてもいいじゃんー! バカユカっ!」
「もう、ユカも未羽ちゃんも、卒業式の前にケンカしないの!」
ナオミが仲裁に入る。
いつもの風景。
いつものやり取り。
それも、今日で終わるのだ――。
「ま、ナオミに免じて、今日は許してあげるよ。じゃ、講堂に行こうか」
ユカの言葉に、ナオミと共に、頷いた未羽だった。
☆ ☆ ☆
卒業式は、リハーサル通りに進んだ。
たかが中学校の卒業式だ、泣くこともないだろうと思っていたが、講堂のあちらこちらからすすり泣く声が聞こえてくると、つい、涙腺がじわりと緩んでしまう。
既に涙目になってしまっていることはわかっていた。
けれど、そろそろ限界だ――。
ポケットから取り出したハンカチで、そっと目元を押さえた時、無事に卒業式は終わってくれた。
喧騒に紛れて、未羽はホッとしながら教室に戻る。
それから、短いホームルームの後、帰るのが勿体なくて、けれど、誰かと喋ると泣いてしまいそうで、未羽は一人で校内をウロウロして思い出に浸ってみる。
しばらくしてから、教室に戻ると、教室には誰もいなかった。
「…………」
教室の窓の外には、懐かしい記憶を伴って、見慣れた景色が広がっている。
あのグラウンドでは、体育祭の日に転んで、膝を擦り剥いたこともあった。
あの銀杏の下では、知らずに落ちた実を踏みつけて、ユカに臭いとからかわれたこともあった。
それから、ナオミと一緒に、無断で忍び込んだ調理室で、杏仁豆腐を作ったこと。
できた杏仁豆腐はあまり美味しくなかったけど、そのほとんどをユカが文句を言いながら平らげてくれたこと。
後日、「ユカに美味しいって言わせてやるんだから!」と、ナオミがリベンジを果たし、本当に美味しい杏仁豆腐を3人で食べたことも。
3人で笑いながら、過ごした日々。
3年間の思い出が、胸によみがえる。
「あ、ここにいたんだ、未羽」
振り返ると、ユカとナオミが入ってきた。
「未羽ちゃんったら、ホームルームが終わったら消えちゃうんだもん、先に帰っちゃったのかと……」
「あたしたち、仲良しトリオなのに、先に帰ってたんだとしたら、どんだけ冷たいヤツだよって、後で文句言いに行くところだったんだけどね」
「うん……ごめん、ちょっとフラフラしてたの」
少し謝って、また外を見る。
ユカとナオミも、窓際に来て、一緒に外を見た。
しばらく、3人で黙ったまま、ボンヤリと視線を遊ばせる。
「高校に行ったら、アンタはいないんだよね……」
ポツリとユカが呟いた。
「うん……、そうだね……。あたしだけ、進路が違うもん」
未羽がそう言った後、ユカの向こうで、はぁ、と、ナオミが溜め息をついたのが聞こえた。
ユカがクスッと笑う。
「あたしさ……アンタに協力するよ、とか言ってたけど。本心では、アンタが桜立舎を落ちればいいのに、って思ってた……って言ったら、どうする?」
「……え?」
ユカの言葉が理解できなくて、未羽はユカの顔を見た。
夕日でオレンジに染まったユカは、いつものように悪戯っぽい顔をしている。
「なーんてね、ただのヤツアタリ。ジョークだよ、ジョーク」
「ユカ?」
「あたしたちを……、親友のあたしたちを置いて、先に夢に進むんだから、これくらいの暴言、許しなよね!」
そう言った途端、ユカの顔がみるみるうちに歪んでゆく。
「ユカ……?」
そっと手を伸ばすと、未羽の手を撥ね退けるようにして、ユカはその場にうずくまってしまった。
「ユカ?」
ユカの肩が小刻みに震えている。
途切れ途切れの嗚咽が聞こえてくる。
「な、泣かないでよ……ユカ……」
「泣いてないっ! 泣いてなんか……うるさくて騒がしいアンタと別れて、せいせいしてるんだから!」
「…………」
どうしたら良いのかわからずに立ち尽くしている未羽の隣から、苦笑混じりに進み出たナオミが、ユカの肩にかがみ込む。
「よしよし」
腕を伸ばしたナオミが、そっとユカを抱き締めている。
そのナオミの首に抱きついて、ユカは号泣し始めた。
「もー、ユカったら、そんな風に泣いちゃったら、未羽ちゃんも困っちゃうよ? ごめんね、未羽ちゃん。ね……ユカ、わたしが未羽ちゃんを引き止めておくから、顔を洗っておいでよ」
ポンポンと背中を叩くと、コクリと頷いたユカは、顔を隠すようにしながら、教室を小走りに出て行った。
苦笑しながら、ユカを見送ったナオミが、寂しそうに微笑む。
「ユカ、ね……きっと未羽ちゃんのこと、好きだったんだよ。それはわかってあげてね」
「うん、あたしもユカのこと、大好きだよ」
「…………」
絶句した後で、小さくナオミが笑う。
「うーん……そうじゃなくて、ね。ま、未羽ちゃんに通じるとは思ってなかったけど」
「……ナオミ?」
ナオミの苦笑に、未羽は首をかしげる。
未羽の視線に気づいているのかいないのか、ナオミは窓ガラスに手を当てて、夕焼けに染まった校庭を眺めている。
「実はね、未羽ちゃんが桜立舎に行くことを決めたこと、ユカ、すごく喜んでたんだよ。でもね、本心ではすごく複雑だったと思う。あのライブに連れてさえ行かなかったら、未羽ちゃんは今までと同じように、わたしたちと同じ学校へ進んだのに……って。……ふふ、意地っ張りな子だから、そんなこと、口が裂けても言わないけどね」
親友として過ごした3年の間、ナオミは一歩控えて、暴走しがちな自分とユカの後ろを黙ってついてくるだけの、控えめな子というイメージしかなかった。
そのナオミの横顔を見ながら、いつの間にか、彼女の横顔が大人っぽくなっていることに、未羽は気づいた。
「未羽ちゃんは、新しい学校でも、わたしたちよりも仲良しの、新しい友達を作っちゃうんだろうね」
「……ナオミ」
どう返答すれば良いのかわからずに、未羽はただ戸惑ったまま、親友の名前を呼ぶ。
振り向いたナオミは、夕日の逆光になって、表情が読み取れない。
「ううん、それは悪いことじゃないの。当たり前のことだし、仕方がないことだよね。でも……今まで、わたしたちが未羽ちゃんの一番の友達で……だから、感情が納得しないの。わたしたちは未羽ちゃんが大好きなんだもの!」
「ナオミ!」
何故、そんなことをしたのかはわからない。
が、気がつくと、未羽はナオミに抱きついていた。
「学校が変わっても、ナオミたちがあたしの一番の親友だよ!」
「未羽ちゃん……」
「ユカとナオミがいたから、あたし、桜立舎を受けようって思ったんだもん! だから、あたしの一番の親友は……」
「ダメだよ、未羽ちゃん」
言い終わらない内に、ナオミは未羽の腕の中から逃れ出た。
「わたしたちは、未羽ちゃんの一番の親友だった。過去形、なんだよ」
「ナオミ……」
「未羽ちゃんは、新しい学校で、新しい親友を作らなきゃダメだよ。同じような夢を持った『仲間』と、今よりももっと高い場所を目指さなきゃダメ。でなきゃ、わたしたちと離れて、桜立舎へ行く意味がないよ」
「…………」
ナオミの言葉に、未羽はハッとする。
ナオミはポロポロと涙をこぼしながらも、未羽ににっこりと微笑みかけた。
「未羽ちゃんが落ち込んでしまった時は、わたしたちが慰めてあげる。でも、それ以上のことは、わたしたちにはもうできないの……。ユカはね、本当は未羽ちゃんを追いかけて、桜立舎を受験するつもりだったの。だって、未羽ちゃんのピンチに真っ先に駆けつけるには、一緒の学校じゃなきゃ不利だもんね。でも、何かの間違いで入学できたとしても、音楽に縁のないユカは、未羽ちゃんの枷にしかならないって言い出して……あの気の強いユカが泣くの、見てるだけだったのはとても辛かったよ」
「ユカが……?」
「未羽ちゃんは、ユカの決心をムダにしないで。わたしたちとのお友達ごっこくらいで、満足してちゃダメだよ」
ナオミの指が、いつの間にか流れていた未羽の涙にそっと触れる。
それから、ふふっと小さく笑って、自分の涙を指で拭った。
「なーんてね。今、わたしが喋ったこと、ユカにはナイショよ。バレたら、わたしがユカに絶交されちゃう!」
クスクスと笑うナオミに、未羽は泣き笑いの表情を浮かべた。
「うん……今のあたしがいるのは、二人のお陰だよ。わかってる。……感謝、してるよ、ありがとう」
「そうそう、たっぷり感謝してね。学校は別になっちゃったけど、わたしたちは友達なんだから」
明るいナオミの言葉に、未羽は乱暴に制服の袖で涙を拭いて、ニコッと笑う。
「うん! あたしたちの友情は変わらない〜! 夏休みになったら、去年みたいに、また泊めてくれる?」
「えー。わたし、今年こそはユカと二人っきりでパジャマパーティするはずだったのに、未羽ちゃんも加わるのかぁ」
「やーん、ひっどーい! あたしをのけ者にするなんて、ナオミ、意地悪になった! ユカのがうつったんじゃない? だとしたら、将来がしんぱーい!」
「誰が何だって!?」
軽口を叩いていた未羽の頭を、いつの間にか現れていたユカが、ぺシッと叩いた。
「あたしほど自分を犠牲にしてまで、あんたのために尽くしたヤツはいないってのに、その言い草は何だ!」
「えへへ〜、感謝してます〜。でも、ユカがイジワルなのは本当のことだもん!」
「にゃにおぅ!」
ガシッと頭をホールドされる。
きっとこれが、中学最後の悪ふざけ。
「きゃーん、痛い、痛いってば〜!」
ケラケラと笑う未羽の頬を、また、新しい涙がこぼれ落ちた。
☆ ☆ ☆
家に帰って、ベッドの上でくつろぎながら、未羽はアルバムを捲ってみる。
どの写真にも、ユカとナオミと自分の3人が仲良く写っている。
未羽が撮ったユカとナオミのじゃれあう写真の一枚を手に取る。
「あれ……?」
ふと、ナオミの表情がひどく違うことに気づいた。
別の一枚では、未羽に悪戯を仕掛けているユカのナナメ後ろで、穏やかに笑っているナオミ。
そして、また手にした一枚は、未羽を真ん中にして、3人で腕を組んでいる写真。
良く見なければわからないが、ユカと二人で写っている写真のナオミの表情は、なにやらとろけるように優しい。
「…………」
そっか……。
未羽は小さく笑う。
……ユカがあたしばっかり構ってるのを見て、ナオミはどんな気分だったのかなぁ?
そんなことを考えながら、未羽はアルバムを片付けることにした。
ユカのために、泣きながらも微笑むナオミの姿が、脳裏をよぎる。
「……イライラするナオミなんて、見たことないけど、あんまり相手にしたくないなぁ」
クスッと笑って、ボフッとベッドに倒れこむ。
そして、入学式を待ち望みながら、そのまま夢の世界へと旅立っていった、未羽だった。
『ゴーイング・マイ・ウェイ』
未羽の中学の卒業式の翌日が、織歌の通う中学の卒業式の日だった。
蛍の光を卒業生で唱和した後、織歌は壇上でフォルテールの演奏を披露する。
講堂のあちこちから、すすり泣く声が聞こえてくる。
……ただ周囲の雰囲気に呑まれたのではなく、わたしのこの演奏で、感情を揺さぶられてくれた人が、この中にいてくれたらいいのに。
そう思いながら、織歌は鍵盤の上に指を躍らせることに集中した。
☆ ☆ ☆
フォルテールを手早く片付け、教室に戻ると、エリカがやってきた。
「織歌さん! 演奏、すっごく……」
「……?」
言葉を区切ったエリカに、織歌は首をかしげる。
エリカの頬を、何かがころりと転がり落ちた。
「すっごく…ステキっ、…だった、よ……!」
「え!?」
いきなり泣き出してしまったエリカに、織歌はただオロオロと周囲を見回した。
が、クラスメイトたちは、自分たちのお喋りに夢中で、織歌が困っていることに気がつかない。
オロオロしながらも、織歌はしゃくりあげているクラス委員長の震える肩にそっと手を置いた。
「わ、わたし、なにかあなたを泣かせるようなこと、した? ねぇ、泣かないで、お願いだから……」
「んもう、織歌さんのバカッ!」
泣き笑いの表情で、顔を上げたエリカは、きゅっと織歌の髪を引っ張った。
「いた……っ!?」
「こんな時なのに……もう、このニブチン!」
「え……えと……」
戸惑った表情のまま、織歌はしゅんとうなだれた。
「その……鈍くて、ごめんなさい」
「最後の最後なのに、締まらないなぁ……もう」
涙を拭きながら、クスクスとエリカが笑う。
「ねぇ、今度、あなたのフォルテールをちゃんと聞かせてくれる?」
「え?」
意外な申し出に、織歌は顔を上げた。
「観客は、あたしだけ。ねぇ、いいでしょう?」
「…………」
涙で濡れた真剣な眼差し。
こんな表情で、こんな風にお願いをしてきた人は今まで自分の周囲にはいなかった。
織歌は嬉しいような怖いような戸惑う気持ちのまま、視線をさまよわせて、それから、きゅっと唇を噛んだ。
「えと……」
いいよ、と言おうとした途端に、エリカが寂しそうに笑う。
「……いいの、ごめんなさい、わがままを言って。織歌さんみたいに、やがて世界に羽ばたくのがわかっている演奏家に、こんなワガママなお願いは迷惑だよね。困らせるつもりは……」
「い、いいよ……っ!」
エリカの言葉を遮って、思い切って言ってみる。
目を丸くして見上げてくるエリカは、どうやら固まっているようだ。
何故、固まっているのかがわからず、織歌は首をかしげる。
「あなたが私の演奏を、本当はどう思っているかは知らないけど、わたし、桜立舎で腕を磨くつもり。今のままの演奏じゃ全然ダメだってわかったから……だから、わたし、もっともっと練習して、わたしの演奏の全てを磨くつもり」
今度は、エリカが首をかしげた。
「……織歌さん? あの……何を言っているの?」
そんなエリカに、織歌は口元を無理に引き上げて、見よう見まねの微笑みを作りながら、問いかける。
「夏休みで、いいかしら?」
「え、何が?」
織歌が何を言っているのかわからず、エリカが問い返す。
エリカの言葉に、織歌は少しガッカリした表情を浮かべた。
「わたし、寮に入るの。入学した後、次にまとまった時間が取れるようになるのって、たぶん、夏休みだから。日帰りできる距離だけど、日帰りだと落ち着けないでしょうし」
織歌の言わんとすることがわからなかったらしく、エリカはきょとんとしている。
しばらく考えた後、おそるおそるという感じできいてきた。
「もしかして……それって、さっき、あたしが演奏を聞かせてほしいって言ったことの、答え……?」
こっくりと頷く、織歌。
「それ以外に何があるの?」
しかし、エリカは不思議そうな顔をしている。
「あなたは、一人ぼっちのわたしに初めて声をかけてくれた友達で、わたしの恩人でもある人だから。わたしの演奏で良いなら、喜んで聞かせてあげる。それに、普通、友達のお願いは聞くもの、なんでしょう?」
しばらくの間、ポカンとしていたエリカだったが、その表情がだんだんと喜びの色に染まっていく。
「ホント!? ホントに、織歌さんの演奏を聞かせてくれるの!?」
勢い込んだ様子のエリカに、織歌はビクッとして、慌てて一歩後退さった。
「で、でも、夏休みだったら、まだわたしの演奏技術は向上していないと思うの。それでもいいなら……」
「ぜんぜんいいっ! 技術とかそんなの、あたし、ぜんっぜんわかんないしっ! あたしがわかるのは、織歌さんがあたしのために、わざわざ時間をとって、演奏してくれるってことだけ!」
がしっと手を握られて、織歌はただ目をぱちくりさせる。
こんな経験は初めてで、どんな風にしていたら良いのか、まったくわからない。
「ありがとう! あたし、夏休みを楽しみにしてるね!」
「そんな……あの……、あまり期待しないでね……?」
ビクビクしながらそう言った織歌だったが、幸せそうな満面の笑みを向けられていることに気づいて、嬉しいやら恥ずかしいやら、自分の中に湧き上がってくる理解不能な感情にただ面食らった。
視線をさまよわせた後、チラッとエリカを見上げる。
エリカはまだ満面の微笑を浮かべていた。
「練習途中のつたない演奏を聞きたいなんて……変なの」
「…………」
織歌の言葉に、エリカは絶句したらしい。
それから、エリカは小さく笑う。
「もうっ、織歌さんったら! 最後まで、ゴーイング・マイ・ウェイなんだから」
何故、エリカが笑っているのかわからなかったが、織歌はこっくりと頷いた。
「ええ、わたしはわたしが信じた道を行くわ」
「んもう……織歌さんったら!」
突然、エリカにギュッと抱き締められて、織歌は慌てて、エリカの腕から逃れようとジタバタしてみる。
けれど。
「まったく……もう。この朴念仁。あたしの気持ちくらい、察してくれたらいいのに……このトーヘンボク」
非難の言葉を涙交じりの声で囁かれて、織歌はふっと身体の力を抜いた。
何故、そうしたのかは、わからなかったけれど、そうした方が良さそうな気がして、両手をエリカの背中に回してみた。
☆ ☆ ☆
帰宅後、いつものように、織歌は小夜子に練習を見てもらっていた。
「最近、随分と音の伸びが良くなったわね」
「ありがとうございます」
褒められて、悪い気はしない。
特に最近は音の伸びに気をつけながら演奏をしていたのだから、それを褒められて、嬉しさもひとしおというものだった。
「けれど、音の伸びを気にするあまり、あなたが苦労して手に入れた技巧がおろそかになっているようね」
小夜子の言葉に、織歌は顔を上げる。
「……技巧……」
「そうよ、技巧も大切なの。たしかに、演奏は技術だけではないわ。そして、それに気づくことができたのは、あなたにとって大きな進歩よ。けれど、だからって、技巧をないがしろにしてもいいってものでもないのよ」
「はい……すみません、気をつけます」
織歌は自分の練習態度を反省した。
小夜子の言う通り、音が伸びることが嬉しくて、今まで頑張ってきた練習内容をないがしろにしていたのだから。
「……あなたとこうして練習するのは、もうすぐ終わるのね」
「え……?」
思ってもいなかった言葉に、織歌は鍵盤の上を躍らせていた指を止めた。
「わ、わたしは寮に入りますけど……でも、夏休みとかの長期休暇には家に戻ってくるつもりです。たしかに、今までのように、ほとんど毎日のように、練習を見ていただくことはなくなってしまいますが……先生との契約はまだ終わりではないはずで……」
「そうじゃないのよ、織歌」
フッと笑って、小夜子は織歌の言葉を遮った。
「そうじゃないの。わたしも、もう一度、夢を追いかけてみようって思って……」
「先生?」
「手術、受けてみようって思うの」
「…………!」
織歌はビクリと肩を揺らす。
「手術、って……」
「まだ若いっていっても、この先、身体は老化する一方だし、今のままの生活をどれだけ続けられるかわからないでしょう? なら、今、まだ若いうちに……身体が衰えていないうちに手術すれば、って……思ったの。万一のことがあっても、体力がある分、帰ってこられる可能性が高くなるでしょう?」
「ま……万一……?」
「当時のわたしの心臓では、プロの生活は望むべくもなかった。だから、スランプを理由に、わたしは世界の舞台に立つことから逃げたの。でも、手術をすれば……もしかしたら、あきらめていた世界に、あの舞台に立てるかもしれない。世界の舞台に立てなくても、少なくとも、挑戦することはできるようになるわ」
にこっと微笑む小夜子。
「そう考えたら、じっとしていられなくなったの。逃げているだけの自分が、恥ずかしくもなったわ。もう遅いなんてわかっているの。でも、このまま何もしないより、どんな結果になったとしても、挑戦してみたくなったの」
「決心……されたんですね……」
答える代わりに微笑んだ小夜子は、そっと織歌の手を握った。
「あなたが……あなたの勇気が、わたしに決心させてくれたのよ。今のままじゃいけない、リスクを恐れちゃいけないって」
微笑む、小夜子。
織歌は黙って小夜子を見上げた。
見慣れた顔なのに、どこか眩しく感じる。
目を離すこともできない。
「だから、手術を受けるの。将来、あの二波織歌の指導をしたフォルテニストだってインタビューをされて、あなたと一緒の写真に入るために」
「…………!」
小夜子の決心は既に固いようだ。
もう織歌が何を言っても、ひるがえらないだろう。
「……先生」
視界が揺れる。
「しゅ、手術は、いつですか?」
声が震える。
「あなたの入学式の2日前よ。たぶん、夏休みくらいには、遊園地にいけるくらいには復活しているはずよ。ジェットコースターに乗れるかどうかは、担当の先生に聞いてみないとわからないけどね」
かなり前に、小夜子本人から心臓の持病のことを聞いていた。
完治させるには手術するしかないが、ハイリスクな手術なので、日常生活には支障はないことに甘えて放置していることを。
つまり、平穏な日々を過ごせば、生死を賭けずとも、心臓が老いるまで、平和な日々は送れるのだと。
手術の成功の可能性を聞こうとして、織歌は口を開いた。
が、織歌は別の言葉を口にする。
「だとしたら、今年の夏休みは、いろいろな予定で忙しくなりそうです。学校の友達に、フォルテールを聞かせる約束もしているので」
潤む目を誤魔化しながら、慣れない微笑みを浮かべようと頑張ってみる。
手術の成功率を聞くなんて、ナンセンスだと思った。
成功率が低くても高くても、織歌にできることは祈ることだけなのだから。
織歌の内心の葛藤を知っているのか、クスッと小夜子が小さく笑う。
「それにしても、織歌に友達ができるなんてね。あなた、成長したのね……」
「はい、先生のおかげです」
織歌の言葉を聞いて、小夜子ははっきりと苦笑した。
「わたしの、ではなく、かぐらさんの、でしょう?」
小夜子の笑いに、織歌はゆるゆると首を横に振る。
「いえ、わたしがかぐらさんの演奏を知ることになるきっかけを作ったのは先生です。先生には、わたしが勇気を出して一歩を踏み出した結果を見るという責任があります。なので、必ず、戻ってきてくださいね」
「逃げられそうにないわね」
「もちろんです。わたしは執念深い女なので、逃がすつもりはありません」
くすくす笑う二人。
常にない充実感に満たされて、織歌はフォルテールに向き合った。
入学式まであと少しだが、それまでに少しでも上達するために。
『琴美のお遊び』
入学式が近づくにつれ、新生徒会長に就任したまりの気分は、落ち着かなくなってきた。
ウロウロと歩き回りたくなる足を無理やり止め、落ち着くために、自分で紅茶を淹れてみる。
「……ふぅ」
今日の紅茶は、花の香りがかぐわしいキームンにしてみた。
が、やはり落ち着かない。
ゆっくりと気分を落ち着けて飲むはずが、つい何度もカップに唇をつけたり離したりするまりを見て、琴美が小さく笑う。
「ふふ……まり先輩ったら、そんなにそわそわなさって。昨日今日で、例の新入生からのお返事が届くわけがないじゃないですか」
「そんなことは、言われなくてもわかっているわよ、琴美」
ばつが悪そうに返事をするまりに、琴美は微笑みながら、そっとマカロンをつめた箱を差し出した。
「どうぞ。作り慣れていないので、お口に合うかどうかはわかりませんが、口慰みにはなるはずですわ。これでイライラをお鎮めになってください」
「…………」
口元を隠していたカップを置いて、まりはパステル色のマカロンに手を伸ばす。
「一応、一言追加しておくけれど、わたしがあの新入生に電話をかけたのは一昨日よ。昨日じゃないわ」
「でも、返答の締め切りは明日ですよね。わたし、思うんですけれど、返答までの猶予も準備期間も、少し短すぎではないでしょうか?」
一口サイズのお菓子を口に入れ、まりは、ぐ、と息を詰まらせる。
「そ、そんなこと言ったって、仕方がないでしょう? 思いついたのが一昨日の朝なんだから! 意思確認の締め切りを延ばしてもいいけれど、入学式の日程は動かせない以上、延ばせば延ばすほど、先方の時間が短くなってしまうじゃない」
まりは不満そうに、唇を尖らせる。
子供っぽいまりの素直な表情に、琴美はクスクスと笑った。
「まぁまぁ、そう拗ねないでくださいな」
そう言いながら、ゆっくりと立ち上がり、まりの背後に回りこむ。
「あ、わたしったら気がつかなくて。琴美にもお茶を淹れてあげるわね」
「いえ、今日は結構ですよ、まり先輩」
立ち上がろうとしたまりの肩を上からやんわりと押さえ、琴美はまりの見事な黒髪に指を絡めた。
「それより、わたし、まり先輩のこの綺麗な髪で遊ばせていただいても構いませんか?」
「ええ、いいわよ。わたしのお茶の時間の邪魔をしないなら」
「はい、そのつもりです。あ、まり先輩、マカロン、全部召し上がっても構いませんよ」
「さては、琴美、最初からわたしの髪で遊ぶつもりで、おやつを持ってきたのね」
「えへへ、バレちゃいました?」
悪戯っぽい琴美の言葉に、ふふっと笑って、まりは過去を振り返る。
高等部入学時、琴美を生徒会に引き入れるきっかけを作ったのはスミス先生だったが、あれから、琴美はずいぶんと成長したと思う。
気が弱くて、部屋の隅でプルプルと震えているだけだった子ウサギのような少女は、生徒会の仕事や、友人の協力もあって、したたかさを身に着けたようだ。
1年間で随分と成長したものだと、かぐわしい紅茶の香りを楽しみながら、まりは小さく息を吐く。
「わたし、まり先輩の髪を触るの、好きなんです」
まりが思い出に浸っていたことを知らない少女は、ポケットから取り出した櫛を手に、まりの背後で、穏やかに笑っている。
「どうして? 琴美の髪も綺麗じゃないの」
「でも、わたしの髪は猫っ毛で、まり先輩の髪ほど量も多くないし、コシもないし、あまり遊べないんですよね……」
言いながら、何かを思いついたらしく、琴美は結んでいた自分の髪をほどき始めた。
琴美の手が止まったのを不審に思ったまりが振り向いて、唖然とする。
「なにをしているの、琴美?」
手櫛で髪をざっと整えてから、再び櫛でまりの髪をとかし始める。
「わたしの髪ではできなかったけれど……まり先輩の髪ならできそうですよね……」
「なにが?」
「うふふ、何でしょう」
楽しそうに琴美が笑った。
「こ……琴美……?」
琴美の真意がわからず、まりは椅子から立ち上がろうとしたが、またもや肩を上から押さえられて、座らされてしまう。
「さ、まり先輩は黙って完成を待っていてくださいね。それまではヒミツです」
琴美は何も言うつもりがないようで、ただクスクス笑っている。
「……仕方のない子ね。わかったわ、好きなようになさい」
まりはあきらめて、琴美のやりたいようにさせることにした。
高等部に入学後、多少は性格に変化が見られるようになったとはいえ、琴美が人の嫌がるようなことをするとは思えない。
何をしようとしているのかはわからないが、たまには、こういう風に、好きなようにさせるのも良いだろう。
「ねぇ、琴美。わたし、鏡が見たいわ」
「ダメですよ、まり先輩。鏡を見せたら、わたしが何をしようとしているのか、バレちゃうじゃないですか」
楽しそうに笑いながら、琴美はまりの髪を4つにブロッキングし、上部の左右をそれぞれ一つに結んだ。
「だから……あなたは、何をしようとしているの?」
「それは完成のお楽しみですってば」
笑いながら琴美が答える。
「でも、わたしの髪よ。何をされるのかわからないままなのは不安だわ」
ポケットの中に手鏡を持っていたなら、琴美の言葉を気にせずに、取り出して見てしまうのに……と思ったまりだったが、なるべく頭部に神経を集中させて、琴美の手の動きを探ろうとする。
琴美はそれぞれ結んだ左右の髪を、どうやらお団子にしようとしているようだ。
「…………」
あの、憎いくらいに可愛い、琴美のクラスメイトの髪型が頭をよぎる。
「……ねぇ……琴美?」
「なんですか?」
「もしかして……頭を両サイドでお団子にしようとしてない……?」
「えー、まり先輩ったら、もうわかっちゃったんですか? 後で鏡見せて、一緒に喜ぼうと思ってたのにぃ」
琴美には珍しく語尾を伸ばして喋っている。
甘えた口調が、くすぐったくて、好ましい。
去年までの、引っ込み思案で、真面目だった琴美からは考えられない変化だ。
この変化をもたらしたのも、あのクラスメイトだと思うと、まりの口元に笑みが浮かぶ。
そういうまりも、そうだった。
あの、怖がりなくせに、震えながらも、まっすぐな瞳で自分に立ち向かってくる下級生が生意気で、腹立たしくて、つい苛めてしまったけれど……。
気がついたら、穏やかなようで、決して穏やかだけではない芯の強さに、いつの間にか惹かれていたのだ。
「はい、どうぞ!」
ニッコリ笑った琴美が、鏡を差し出した。
「…………」
思わず、絶句する。
「まり先輩の髪の質ならできると思っていましたけど、こんなにキレイにお団子が作れるなんて、感動ですわ」
「…………」
まりは何も言えず、鏡の中の自分をみつめた。
鏡の中には―――。
「うふふ、かぐらさん黒髪バージョン! ですね、まり先輩!」
☆ ☆ ☆
その後、髪を下ろしたままの琴美は購買に行って、髪ゴムを買って戻ってきた。
何をするのかと思って見ていると、自分も頭の両側にお団子を作って、「わたしも、ホラ、かぐらさん!」と言って喜んでいた。
「うふふ、わたしたち、ダブル・かぐらさんですね! まり先輩、写メ撮りましょ、写メ!」
そんなことを言いながら、携帯電話のカメラ機能をフル活用して遊んで、現在に至る。
「…………」
呆れながらも、まりは、どこかまんざらでもない気分に浸っていた。
入学式前の忙しい時期ではあったが、春休みなのだから、これくらいの遊びもたまには良いだろう。
けれど、そろそろ遊びの時間を終える必要がありそうだと判断した。
生徒会役員はヒマではないのだから……。
「ねぇ、琴美。そろそろ仕事に戻らないと……」
まりが髪をほどこうとした途端、すかさず「ダメェ!」と意外なほど大きな声で制される。
「こ、琴美?」
まりはただ唖然として、琴美を見つめた。
琴美は1期生の頃、小さな声しか出せずに悩んでいたこともあるというのに、それを考えると、目を見張るほどの成長ぶりではないか。
「ダメ、まり先輩、ほどいてはイヤです! 帰るまでそのままでいてください!」
「…………」
珍しく、琴美がワガママを言っている。
まりはただクスッと笑った。
後輩の成長を目にするのは、どんな形であれ、とても嬉しいのだから。
可愛いワガママを聞くことくらい、大したことではない。
「まったく……しようのないワガママさんね」
まりは苦笑して、琴美の言う通りに髪をほどくのをやめた。
「仕事に戻る前に、お紅茶、淹れてあげましょうね」
そんな時だった。
廊下の向こうからドタドタドタという足音が聞こえてくる。
「……何か聞こえてくるわね」
「ええ、どうやらとても急いでいる足音のようですね」
「この伝統ある桜立舎学苑の生徒ともあろうものが、あんな大きな足音を立てるなんて……」
まりの眉が不快に寄せられた。
「ちょっと注意してくるわ!」
苛立ちのまま立ち上がる。
その途端、派手な音を立てて、生徒会室のドアが開いた。
『新入生、乱入!』
入学式を目前に控えたある日、未羽は織歌から連絡をもらったのだ。
桜立舎学苑生徒会執行部から電話があったという織歌が真っ先に相談してきたのが自分だとわかって、喜びのあまり、織歌の言葉に何でも二つ返事でOKした。
入寮のための引っ越しで忙しい時期ではあるので、あまり出歩くのは得策ではない。
が、未羽の家から寮まで片道1時間くらいで済むことを考えると、別に寮に全ての荷物を運び込めなくても、毎週、少しずつ手荷物を持ち込むようにすれば事足りそうだ。
「うん、そうしよう! 引っ越し荷物は最小限でオッケー! うーん、らっくちーん!」
と、未羽は気楽に構えることにした。
☆ ☆ ☆
一方の織歌は、未羽に生徒会執行部からの用件を伝えると、彼女が何らかのマイナスな反応をしてくるだろうと思っていたのだが、あっさりとOKされて拍子抜けしていた。
「……あの子……考えるってことをしないのかしら?」
未羽が聞いたら憤慨しそうなことを、電話を切った後、呟いてみる。
それから、ふと思いついて、一度は閉じた携帯をもう一度開いた。
今度は電話ではなく、ポチポチとメールを打ってみる。
『生徒会に顔を出す前に、わたしたちで打ち合わせをしましょう。時間と場所は……』
☆ ☆ ☆
しかし、織歌の気遣いは報われなかった。
「廊下は走ってはいけません! 生徒手帳にもそう書いてあるでしょう!?」
学苑に行く前に打ち合わせをしようと約束していたというのに、その待ち合わせに未羽が遅れた挙句、どういうわけか、学苑まで走らされ、何を考えたのか、未羽はそのまま生徒会室のドアを開けてしまったのだ。
制止する暇もなかった……。
「あの、まり先輩? この方々は、どうやら新入生のようですけど……」
まりの隣に立っていた生徒が、二人を叱り付ける生徒会長にそっと囁く。
受験当日に話をしたこともあり、生徒会長の顔は覚えていた織歌だったので、まりの隣に立っている生徒は副会長だろうと憶測する。
が、まりも副会長も、誰かをイメージさせる髪形をしており、織歌は怪訝な顔で首をかしげた。
(流行っているのかしら、あの髪型……?)
しかし、織歌が別のことを考えている間も、まりの小言は続いている。
「新入生でも、転入生でも、我が学苑の生徒であることには変わりはありません。その制服を着ている以上、あなたがたはこの学苑の看板を背負っていることになるのですよ。ましてや、その制服を着た上での、この学苑内での行動であるのなら、誰もがあなたがたをこの学苑の生徒だと思うでしょう? 誰かに見られて恥ずかしいと思うような行為は慎んでいただきたいものですわね」
厳しい口調で言われてしまった。
打ち合わせの後、気が向いたらそのまま桜立舎学苑に行っても大丈夫なように、先を見越して制服を着てきたことが、裏目に出てしまった……。
とはいえ、まりの言うことも尤もだと思ったので、織歌はすみませんと言いながら頭を下げる。
が、未羽はそうではなかったらしい。
唇を尖らせて、ぶー、と言ったのだ。
「あたしたちは生徒会長に呼び出されたのにぃ。生徒会長の面倒ごとを引き受けてあげようって思ったから来たのに、こんなにガミガミ叱られるなんて、割に合わないー」
これには織歌もギョッとした。
「ちょっと、未羽さん!?」
しかし、未羽はすっかりへそを曲げてしまっているらしい。
クルッと回れ右をすると、織歌の手をぎゅっと掴んだ。
「おりちゃん、帰ろ?」
「ちょっ……未羽さん!?」
返ろうとする未羽に慌てる織歌の前に、すかさず穏やかな表情をした副会長が回りこんだ。
「まぁまぁ、どうかお気を悪くなさらないでください? ね?」
ニコッと微笑まれて、織歌は戸惑ったまま、未羽を見る。
未羽はまだ唇を尖らせていた。
「天野会長には悪気はなかったんですよ。あなたがたが駆け込んでいらしたので、少し驚かれただけで」
「琴美! 何を言っているのよ!」
背後からまりの非難する声が聞こえてきたが、琴美は顔色を変えずに、未羽と織歌の肩に手を置く。
そのまま、二人の入室を促して、さっさと生徒会室のドアを閉めてしまった。
「どうぞ、お二人とも、席についてくださいな。今、お茶菓子をお持ちしますわね」
「えっ、お茶菓子?」
琴美の言葉に、未羽が反応する。
「ねぇ、お茶菓子、美味しいですか?」
素直すぎる未羽の言葉に、琴美は気を悪くした様子もなく、ニッコリと微笑む。
「ええ、モチロンですわ。お菓子はわたしの手作りですので、お口に合うかどうかはわかりませんが、お紅茶は専門店で飲む以上に美味しいんですよ。ね、まり先輩?」
話を向けられたまりは、しばらく眉間にしわを寄せていたが、やがて、はぁと溜め息をついた。
「……どうやら、来ていただいたのが二波さんと、二波さんとペアを組む方のようなだし、琴美があんな期待を煽るようなことを言ってしまったのだから、お茶をふるまわないわけにはいかないわね」
渋々立ち上がって、まりは茶器を手に取る。
「うふふ、まり先輩のお紅茶は最高ですのよ」
「わーい、楽しみー!」
琴美の言葉に続いて、正直すぎるコメントを口にしながら、未羽がウキウキと椅子に座る。
「……未羽さんったら……もう……」
雰囲気を壊したくなかったので、溜め息をつきながらも、織歌も琴美にすすめられるままに、席についた。
☆ ☆ ☆
まりの紅茶が美味しいのは受験当日にご馳走されて知っていたが、再び飲んでみると、本当に美味しいものだと、織歌は満足げな溜め息をつきながら思った。
未羽も同じ感想を抱いたようで、目をキラキラさせながら紅茶を飲み、出されたマカロンを口にしては、うっとりしている。
「……で。お二人揃って、今日は何のご用でいらしたのかしら?」
まりの言葉に、未羽はキョトンと動きを止めると、不思議そうに織歌を見た。
「ねぇ、おりちゃん。この人、生徒会長なのに、あたしたちがここに来た用件を知らないみたいだよ?」
「な……!?」
まりと織歌が同時に絶句した。
それから、織歌は盛大な溜め息をつく。
「それもそうでしょうね……生徒会の方に呼び出されたのは、明日なんだから」
織歌の言葉に、未羽はその場に立ち上がった。
「ええっ!? 今日じゃなかったの!? てっきり今日だと思ってたから、あたし、すんごく走ったのにぃ! すっごくすっごくしんどかったのにぃ!」
ギャーギャー文句を言う未羽の陰で、織歌が頭を抱えている。
「…………」
まりは呆れて、琴美はニコニコしながら、二人の遣り取りを見ているが、口を出す気はないらしい。
「あのね、未羽さん。わたしが、今日、待ち合わせをしようとしたのは、生徒会長に言われた内容をしっかり説明するためと、明日、生徒会室にうかがう際の相談をしたかったからよ」
「ってことは……」
目をぱちくりさせながら、未羽が愛想笑いを浮かべた。
それへと、織歌がまた深々と溜め息をつく。
「ええ、あなたの早とちりよ……もう」
「あわわわわ……」
真っ青になった未羽を見ながら、織歌は溜め息を殺して、まりに頭を下げた。
「……というわけで、天野会長、大変不躾な真似をして、申し訳ありませんでした。例の件は引き受けさせていただきますので……その代わりというのも変ですけど、今回の不調法はどうか不問にしていただければと思います」
「……その代わり、ねぇ……」
まりは苦笑して、手元のカップに唇をつけた。
「いいじゃありませんか、まり先輩。お引き受けいただけるのなら、わたしたちとしても嬉しい限りですし!」
琴美の言葉に、まりが苦笑しながらも微笑んだ。
が。
「ねぇ、おりちゃん。例の件って、何?」
「は?」
3人が一斉に未羽を見る。
「な、ななな、なに? あたし、なんかヘンなこと、言った?」
集まった視線に驚いたらしく、未羽は慌てて座っていた椅子の背中に回りこんだ。
どうやら身を隠そうとしているようだ。
「……未羽さん、わたしの話を聞いていなかったの? 昨日、電話した時に、あなた、二つ返事で引き受けてくれたじゃない」
「んんー、昨日……? たしか入学式の日に、おりちゃんのフォルテールにあわせて歌ってほしいってことだよね? あ、その入学式の日に歌うのって、放課後でいいよね! あたし、朝はちょっと苦手なんだー、声も思うように伸びないし」
「…………」
織歌は絶句して、再び頭を抱えて、机に突っ伏した。
どうやら根本的に話が通じていなかったらしい。
琴美がクスクス笑いながらも、未羽に説明する。
「上月さんは、二波さんが我が学苑に特待生として入学されることをご存知ですか?」
「えー、おりちゃん、特待生なのー!? すっごーい!」
騒ぐ未羽に小さく頷きながら、琴美が微笑んだ。
「そして、生徒会主催の企画として、入学式にフォルテールを披露していただけないかと打診させていただいたのです。そうしましたら、二波さんから、自分ひとりでは目立ちすぎるから、他の人と一緒に出たいという申し出がありまして……」
琴美の言葉の後を、まりが引き継ぐ。
「その相手として、二波さんが指名したのが、上月さん、あなただったの。上月さんへの連絡は任せてほしいとおっしゃるからお願いしたのだけれど……まさか、前日にいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
チクッとイヤミを言われて、また未羽が唇を尖らせた。
「ぶーぶー! おりちゃーん、あの会長さん、淹れてくれるお茶はこんなに美味しいのに、すんごくイジワルなことばっかり言うよぅ」
「もうっ、未羽さん」
たしなめる織歌に、琴美はクスクス笑い、まりは憮然としている。
「うふふ、今年の新入生はいろいろな意味で期待できますわね、ねぇ、まり先輩」
「……たしかにね。わたしに向かって、こんなに堂々と非難の言葉を向けるなんて、大した神経の新入生が入ってきたものだわ」
ひきつりながらのまりの言葉に、未羽はまた目をぱちくりとさせた。
「おりちゃん、どうしよう。あたし、褒められちゃったよ」
「褒められてません!」
「褒めてません!」
織歌とまりの声が重なる。
同時に、琴美がおかしそうに笑った。
☆ ☆ ☆
「ところで、念のために確認させていただくけれど。一日早かったとはいえ、わざわざここまでいらしてくださったということは、入学式に演奏していただく件は了承していただけたと見なして、関係各所への連絡も含めて、もう準備を進めても構わないのね?」
織歌はチラッと未羽を見てから、まりへと頷きかける。
「先ほども申しました通りです」
まりはホッとした様子で微笑んだ。
「そう。とても助かるわ。お茶のお代わりはいかが?」
「いただきますー!」
ぐびっとカップの中身を飲み干して、未羽がまりにカップを差し出す。
一瞬、唖然としたものの、クスッと笑って、まりは未羽のカップに紅茶を注いだ。
「ホント、この紅茶、すっごく美味しいですー! あーあ、会長が厳しい人じゃなかったら、寮のあたしの部屋にお持ち帰りするのになー!」
「……わたしも一応、寮生ですけど?」
苦笑いしているのか、怒っているのか、微妙にわからない表情で、まりが言う。
「え、そーなんですか!? それじゃ、今度、お部屋に突撃しても……」
「いらっしゃるのは構わないけれど、大丈夫かしら、わたしの同室者は性格がかなりアレな子だけれど。あなたみたいな子、きっとあの子の餌食になっちゃいそうだわ」
未羽の言葉を遮って、まりは脅すように言ってみた。
「性格が……アレ……? 餌食……って?」
まりの思惑通りに怖がる未羽を見て、琴美が柔らかく微笑む。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。でも、まり先輩の同室の方は、生徒会の役員でもあるので、ここでは迂闊……じゃなくて、詳しいことは言えませんの、ごめんなさいね」
「……うう……迂闊なことが言えないって……おりちゃーん……」
織歌の制服のジャケットの裾をきゅっと握る未羽を見て、まりは口元をわずかに上げている。
「…………」
どうやら、この生徒会長は未羽をからかっているのだとわかって、織歌は少し呆れてしまった。
☆ ☆ ☆
「ところで、曲目は何になさるつもり?」
まりが尋ねてくるのに、そういうことも先に決めておかなければいけないと、織歌は思い出した。
「ええ……わたしは何でも構わないのですが……。未羽さんは何か希望ある?」
「へ? 何がぁ?」
「…………」
のんびりした未羽の口調に、一瞬、イラッとした織歌だったが、それを顔に出さないようにと、深呼吸をする。
何せ、ここで怒っても仕方がないのだ、無駄なエネルギーは使わないに越したことはない。
「だから、入学式でわたしたちが演奏する曲のこと。わたしはあなたに合わせるから、あなたが決めてくださる?」
「…………」
だが、未羽は唖然として織歌を見ている。
「どうしたの?」
「あれ? 入学式では、おりちゃんが演奏するんじゃないの?」
「ええ、わたしも演奏するけれど、あなたにも舞台に上がってもらうつもりよ」
「…………」
首をかしげていた未羽だったが、言葉の意味がわかったらしく、大声を上げた。
「えーっ!? わたしがぁ!?」
そして、あわてた様子で首を振っている。
「無理だよ、無理! あたし、人前に出て歌ったことなんてないもん!」
「でも、声楽家を目指してらっしゃるなら、舞台度胸はつけておいたほうが良くてよ?」
「あ、そっか」
琴美の助け舟に、あっさりと頷く未羽。
織歌は、未羽がどんな風に自分の説明を理解していたのかと問いただしたい気分になったが、更に頭を悩ませる羽目に陥ることになりそうで、黙っていることにした。
「じゃあ、あたし、やってみる! おりちゃん、よろしくね!」
あまりに簡単にことが運んだので、まりと織歌は唖然としたまま、未羽を見て、顔を見合わせた。
「……あなたのお友達、悩みがなさそうで羨ましいわ」
「悩みがなさそうで羨ましいという件に関しては、わたしも同感です、天野会長」
気苦労を背負い込むタイプの二人が、お互いを認め合った瞬間でもあった。
『ココロを伝える手段』
次から次へとマカロンを口に入れる未羽の食欲に呆れながら、織歌は同席しているまりと琴美を交互に見ながら質問を口にした。
「あの……気になっていたのですが、天野会長たちは、この桜立舎でどんな楽器を選択されているのでしょうか?」
そう聞いてしまってから、単刀直入すぎる自分の質問に、織歌はこっそり落ち込んだ。
……もっと別の言い方があったんじゃないの、わたし。
うふふと笑う琴美の声に、追い討ちをかけられたような気もして、織歌は赤くなって俯いてしまった。
「おりちゃんのフォローをするとぉー、あたしは声楽れぇ、おりちゃんはフォルテールでふぅ!」
マカロンを頬張りながら喋っているから、未羽の言葉は聞き取りにくくなっている。
フォローをありがとうと言うべきか、それとも、行儀の悪さを注意するべきか。
迷った織歌は、微妙な表情を浮かべてみる。
そんな新入生に、まりは苦笑混じりに頷いた。
「そういえば、まだ言ってなかったわね……琴美は上月さんと同じく声楽よ」
「そして、まり先輩は、二波さんと同じ楽器なんですのよ」
まりと琴美は微笑み合いながら、新入生に互いを紹介する。
「ということは! あたしは声楽でおりちゃんがフォルテールだから、あたしたちって、会長コンビとおそろいの組み合わせなんですねっ!」
きゃはっと笑った未羽が織歌に満面の笑みを向けると、織歌は微妙な表情のまま、口角をわずかに上げて応えた。
☆ ☆ ☆
「ねぇ、まり先輩! わたし、まり先輩のフォルテールを聴きたくなってしまったんですけど、どうですか?」
「……っ!」
突然の琴美のおねだりに、まりは唇をつけていたカップから紅茶を吹きこぼしそうになった。
「わーい、あたしも天野会長のフォルテール、聴いてみたーい!」
途端に、未羽が色めきだす。
「こ、琴美!? 何を言い出すのよ、いきなり……!」
「いいじゃありませんか、まり先輩。新入生にまり先輩の実力を見せ付けて差し上げましょう?」
ニコニコと琴美がけしかけている。
「見せ付ける、って……琴美?」
困りきって、まりは琴美を見つめ返した。
が、琴美は、まりの視線に気づいているはずなのに、織歌へと微笑みを向ける。
「ほら、二波さんも聞きたいと思ってらっしゃるのではなくて? まり先輩も同じフォルテール奏者なのですから」
「はぁ……」
しかし、予想に反して、織歌からは気のない返事が戻ってきた。
「はぁ、って、二波さん?」
「申し訳ありませんが、わたしには既に目標とするフォルテール奏者がいますので、他の演奏者には、正直、それほど興味は湧きません」
「…………」
織歌の言葉に、琴美は絶句したようだ。
そして、まりはというと、負けん気をくすぐられたらしく、フォルテールの準備をするために、無言で立ち上がった。
それを見て、新しいマカロンを口に入れようとした未羽の手が止まる。
「あれぇ? 天野会長、イキナリどうしたんですか?」
「見てわからない? わたしはあなたたちに、わたしのフォルテールを聞かせてあげたくなったのよ」
☆ ☆ ☆
まりの演奏が始まった。
「…………」
織歌はただ唖然として、まりの音を聞いていた。
繊細で、それでいて、包み込むように優しい音色は、同時に、まりが織歌同様に不器用な性質なのだと伝えているようだ。
不器用だからこそ、ついキツイ言葉遣いをしてしまい、そんな自分を後で責めてしまうところがあるのかもしれない……。
そんなことを考え、まりに対して織歌が奇妙な親近感を覚えている間に、気づいたら、まりの演奏は終わっていた。
「……というわけだけれど、いかがかしら?」
自信たっぷりの表情に、拍手をしようとした織歌の隣で、未羽が「きゃーん!」と悲鳴のような声を上げる。
「すごいすごいすごいすごーーーいっ! あたし、天野会長の演奏、だーい好き!になっちゃいましたーぁ!」
「……現金ねぇ」
まりは苦笑しているが、手放しで褒められて、どうやら満更でもないらしい。
未羽の舞い上がりっぷりに圧倒されつつも、織歌は小さく感嘆の吐息を漏らした。
「さすが桜立舎……いろいろな人材がいるのね……」
織歌の呟きが聞こえたのか、琴美がクスッと微笑む。
「ええ、自分の中の眠っている才能に光を当てるのも、更に、その才能を伸ばす教育を選択するのも、結局は本人の努力次第ですけれど、この学苑の教師陣は、そんな風に頑張りたいと願う生徒への手助けを惜しまない人が揃っていますから」
琴美の言葉をまりが引き継いだ。
「もっとも、当の本人がもっと上へ行きたいと望むのなら、だけどね。そして、本人の努力だけではどうしようもないのなら、教師だけでなく、生徒会も協力にバックアップするわ。そのための体制が十分に整っているのが、この学苑の魅力だと、わたしは思っているの」
「おおーっ、何だかわかんないけど、すごいよ! ね、おりちゃん!」
「…………」
未羽の言葉に、織歌が微妙な顔をした。
一方のまりは、未羽の言葉に気を良くしたのか、胸を張っているように見える。
何だかわからない、の部分は聞こえていなかったのか、聞いていなかったのかはわからないが、褒められて嬉しかったのだろうと、織歌は勝手に判断した。
チラッと琴美を見ると、未羽の発言に引っかかりを覚えたらしく、強張った微笑みを浮かべている。
「すごいよね!」を連発しながら、織歌をゆさゆさと揺さぶっている未羽に反応を返さないようにしながら、織歌は琴美に対して尊敬の念にも似た思いが浮かぶのを抑えられなかった。
☆ ☆ ☆
「じゃあ、天野会長がステキな演奏を聞かせてくれたお礼に、あたしも歌っちゃいまーす!」
未羽が立ち上がる。
一瞬、唖然とした織歌は、次の瞬間、ハッと我に返った。
「ちょっ……未羽さん!?」
未羽を止めようと腰を上げかけた織歌を、やんわりと琴美が制した。
「まぁまぁ、二波さん、落ち着いて?」
「でも……っ、ここは生徒会室で……っ!」
「生徒会長のまり先輩が止めないのですから、別にいいんですよ」
琴美に言われて、まりを見ると、まりは織歌の心配も気にしていないようで、興味津々な表情を浮かべている。
「……そのようですね」
織歌は溜め息をつきつつ、しぶしぶ座り直した。
そんな遣り取りがあったことなど気づかない未羽は、生徒会室の黒板の前に立つと、ポケットから携帯電話を取り出した。
携帯で何をするのかと見ている面々の前で、未羽はそれを右手に持ち直す。
「んーとね、入試ではシューベルトのアヴェ・マリアを歌ったので、今日は、カッチーニのアヴェ・マリアにしようと思います!」
そして、右手の携帯をマイクのように持って、未羽は歌い始めた。
☆ ☆ ☆
「…………」
織歌は心底、驚いた。
未羽に言ったら失礼だと怒るだろうが、普段の未羽の様子からでは想像できない、伸びやかに澄んだキレイな歌声だった。
この歌声があるから、あれだけの傍若無人とも思えるような自信満々な態度ができるのだろうか。
「……すごいわ……未羽さん……」
今なら、素直に、未羽を尊敬できる。
「本当に……すごいわ……」
☆ ☆ ☆
未羽の歌が終わったと同時に、織歌は拍手をした。
「あらまぁ。わたしの演奏には拍手をしてくれなかったのに、お友達の歌には拍手をするのね、二波さんは」
まりが拗ねた調子で呟いている。
「いえ……あの、そういうわけではなくてですね……わ、わたし、実は、未羽さんの歌を聴くのは初めてで……その……」
しどろもどろになる織歌と、拗ねたフリで織歌の反応を楽しんでいるまりの様子を、表面上はニコニコしながら、琴美が見ている。
「ねぇ、おりちゃん、どうだった? いいって思ってくれた? 拍手してくれたってことは、あたしの歌、ちょっとはいいって思ってくれたんだよね?」
そんな3人の雰囲気をぶち壊すように、未羽が割って入ってきた。
結果的に、まりの追求が遮られた形になったことにホッとしながらも、織歌はこっくりと頷く。
そして、まりに向かって言った。
「この子、初めて会った時からこんな調子だったんです。だから、正直なところ、彼女が声楽をやっていると知っても、そんなに大した歌声じゃないだろうって思っていました……」
率直すぎる織歌の意見に、思わずまりはプッと吹き出した。
「笑っちゃ失礼ですよ、まり先輩」
そう言う琴美の声も震えている。
一方の未羽は、ぶーと唇を尖らせていた。
「ひどいよ、おりちゃん。あたし、上手だよって、おりちゃんにちゃんと教えてあげてたのにぃ」
「……だから不安になったんでしょ」
突っ込む織歌。
「あなたはもう少し謙虚であるべきよ。だから無用な誤解を招くの」
「ぶーぶー! そーゆーおりちゃんの方はどうなのよー! あたし、おりちゃんの演奏、一度も聞いたことなーい!」
騒ぎ始めた未羽に、織歌は困ってしまった。
「そんなこと言ったって、今日はあなたと相談するだけのつもりだったから、フォルテールを持ってきてはいなくて……」
「良かったら、わたしのフォルテールをお使いになる?」
まりから申し出られ、織歌は目を丸くする。
フォルテールは魔力を引き出す楽器。
それゆえに、他人に触られるのを嫌がる奏者も多いというのに、あっさりと貸し出しを申し出るなど……。
「え……でも、天野会長は構わないのですか?」
「ええ、構わないわ。嫌がる人もいるみたいだけど、あなたは無茶な演奏をしなさそうだし、壊さないって約束してくれるのなら、貸して差し上げるわ」
まりは何でもないことのように言っている。
どうやら本心からの言葉のようで、織歌は小さく息を吐いた。
「では、お言葉に甘えて……」
まりのフォルテールの前に立ってから、大きく息を吸う。
不思議なほどに、心が静かになってゆく。
未羽だけでなく、まりと琴美の視線が、自分に集まっているのを感じた。
今までこんな風に観客の視線を意識したことなどない。
そして、今、この観客を喜ばせてあげたいと、素直に思える。
「…………」
指先が震える。
自分が緊張していることに、織歌は驚いた。
が、これは決して不快な緊張ではなく、むしろ――。
「……では、未羽さんと同じく、わたしもカッチーニのアヴェ・マリアを……」
☆ ☆ ☆
未羽が歌った旋律を、未羽のそれに似せて、演奏する。
演奏を聞きながら、未羽が小さな声で歌っているのが感じられた。
それが嬉しくて、未羽が加えたアレンジを、もっと未羽らしく再現してみる。
自分は今まで譜面通りに演奏しないと気持ち悪く感じるタイプだったはずなのに。
普段なら絶対にアレンジなど加えないのに。
未羽が喜びそうだと思ったから……。
「…………」
案の定、未羽はとても嬉しそうな顔をしている。
自分の演奏するフォルテールの音に混じって、軽やかな歌声が混じりこんで聞こえてくる。
自分の感じたことは間違いではなかったのだ。
心拍数が上がる。
気分が高揚する。
……この感じは……何だろう……?
嫌じゃない。
不快でもない。
嬉しい、という言葉が一番近いかもしれない。
そう、入学式には、あの子と一緒の壇上に立つのだ。
「……ふふっ」
フォルテールを演奏しながら笑うなど、織歌にとっては初めての経験だった。
(入学式が楽しみになってきたわ……)
沸き立つような感情を音に乗せ、入学式を待ち望むようになった織歌だった。
『出会いと別れの季節』
「ね、おりちゃん、入学式の準備、しよっ!」
――という未羽の声で、入学式に向けて、二人は練習をすることになったのだが。
「……なんで、未羽さんがわたしの家にいるのかしら?」
はぁ、と溜め息をついて、織歌は未羽を見た。
未羽はフキンを手に、「てへ」と笑っている。
「…………」
二人で入学式の練習をしようと決めたまでは良かった。
気がついたら、自宅の練習室を提供することになっていたが、それもまぁ良いだろうと織歌は思った。
が、未羽を練習室に通した早々、ノドが乾いたというようなことを言い始めたあたりから、織歌の眉間のシワが少しずつ深くなっていったのだ。
未羽にお茶を出してあげようと思ったものの、いつものお手伝いさんは買い物に出かけているらしく不在で、茶葉の場所もわからなければ、来客用のティーセットの場所もわからず、結局、お手伝いさんが持ち込んでいたらしきティーパックの紅茶を拝借して、淹れてあげたというのに。
未羽は、美味しくないと呟き、山盛りの粉ミルクと砂糖を投入した挙句、入れすぎたと渋い顔をし、挙句の果てに「あたしが淹れ直してあげる!」と言い出し、押し問答の結果、織歌が持ってきた茶器をひっくり返し―――。
で、現在に至るわけだ。
「……なんでわたし、床を拭いているのかしら?」
手にした雑巾を絞りながら、深々と溜め息をつく。
「うーん、それはね、せっかくあたしが紅茶を淹れてあげるって言ってあげたのに、おりちゃんが変な遠慮したから、紅茶がこぼれちゃったからだよね〜」
「…………」
織歌は絶句して、未羽の顔を見た。
そんな織歌に、未羽は満面の笑みを浮かべてみせる。
「もしかして、おりちゃんって……物忘れひどい?」
☆ ☆ ☆
結局、買い物からお手伝いさんが戻ってくるのを待ち、お手伝いさんに改めて淹れてもらった紅茶を飲んで、落ち着いてから、二人で一通りの練習をする。
未羽にとっては、伴奏つきでの練習など初めての経験だった。
しかも、織歌が自分のリズムに合わせて伴奏をアレンジしてくれているようで、自分の声が織歌の音に重なるような感覚が、ひどく心地良い。
一曲、通して歌い終わった後、未羽はじっと織歌を見つめてみた。
「……な、なによ……」
その視線に気づいた織歌が、居心地が悪そうに、視線をさまよわせ始める。
別に、と言おうとして、未羽は別の言葉を口にしてみた。
「この間から思ったんだけど、おりちゃんて、あたしの歌に合わせて演奏してくれてるんだよね?」
未羽の言葉に、織歌は何を言い出すんだと言わんばかりの表情で、ゆっくりと頷いた。
「ええ、そうだけど?」
「……そっか」
噛み締めるように呟きながら、未羽は微笑みを浮かべる。
未羽の微笑みの意味がわからなかったらしく、織歌は幸せそうな微笑みを浮かべたままの未羽に訊いた。
「……それが何か……?」
「うん……あの……、その、ね……えへへ……」
いつも何事もズバズバと言いすぎるくらいの未羽が、珍しく言い淀んでいる。
「だから、何?」
「んーとね、その……こういうのって、嬉しいなーって思ったの」
「……嬉しい……?」
よほど未羽の言葉が意外だったらしい、織歌は目を丸くして未羽を見ている。
そんな織歌の反応に驚いて、未羽は慌てて言葉を足した。
「あのねっ、あたしねっ、声楽やってるーって言ってたけどねっ、ホントはすんごくシロウトなのっ! だからねっ、あたしだけの伴奏をしてくれたのって、おりちゃんが初めてなんだよ!」
「……素人……?」
唖然とした表情で織歌が呟く。
「あっ、シロウトって言えばシロウトなんだけどっ、でも、だからこそ桜立舎でちゃんと声楽の勉強をしたくって! あ……もしかして、あたしがシロウトなの、学校にバレちゃったら、入学取り消されちゃうのかな!? でもでもっ、高校は勉強するところだし、経験不足を熱意でカバーするっていうのはアリだよねっ!? ねっ!?」
「…………」
混乱し始めた未羽を、織歌はただ黙って見ていた。
「やーん、どうしよう! おりちゃん、あたしがシロウトだってこと、学校の先生にはナイショにしててくれる!?」
「……そんなの、授業が始まれば、いずれバレてしまうと思うけど」
「そんなこと言っちゃやーん!」
織歌の呆れた口調にも気づかないらしく、未羽は一人で混乱している。だから、織歌の口角が微妙に持ち上がっていることに気づけなかった。
「まったくもう……未羽さんたら……」
ボソッと呟いて、織歌が自分の口元に指を押し当てたとき、ピタッと未羽の動きが止まった。
それから、くるっと織歌を振り返る。
「おりちゃんは……小さい頃から、ちゃんとした先生に教えられながら、フォルテールの勉強をしてきたんだよね……?」
念のために、おずおずと訊いてみると、案の定、織歌に呆れた顔で頷かれてしまった。
「当たり前でしょう? 専属のフォルテールの先生がいるわ、桜立舎のOGのね」
「桜立舎のOG!?」
織歌の言葉に、今までの混乱ぶりも忘れて、未羽は目をキラキラさせる。
「ってことは、おりちゃんって、身近に学校に詳しい人がいるんだねー! 羨ましい〜!」
「学校に詳しいって……先生が卒業されたのは、随分と前の話だし、当時と今とでは学苑の雰囲気も変わっているはずで……」
「いいなー、いいなー、おりちゃん、いいなー! 学校のしきたりとか規則とか、わかんないことがあったらすぐに聞けるじゃん、いいなー!」
「…………」
身近にOGがいるのが羨ましくて、つい騒いでしまった未羽だったが、ハッと我に返ると、織歌が泣きそうな顔で俯いているのに気がついた。
「おりちゃん、どうしたの? あたし、何か気に障るようなこと言った?」
「……すぐになんて……聞けないわ」
ポツリと織歌が呟く。
「だって……小夜子先生、心臓の手術をなさるんだもの……。今は安静にして、体力をつけなくちゃいけない大切な時だし、手術後は手術後で、大変なはずだから、ヘンなことを聞いて、心配させたり煩わせたりするのは良くないわ……」
「……そっか……」
沈んだ表情の織歌に、未羽はそっと手を伸ばした。
一瞬、嫌がるかな、と思ったけれど、気にせずに、ぐいっと肩を抱き寄せる。
「あたしの親友のおりちゃんは、とっても優しくていい子だよ」
「……未羽さん?」
「だから、そのおりちゃんの先生……小夜子先生も、きっとすごくステキな人なんだよね」
「…………」
織歌はじっとしたままで、未羽の手を振り払おうとはしない。
そんな織歌の肩に、未羽はコトンと頭をもたせかけた。
「ステキな先生だから、おりちゃんが先生を大事に思ってるの、あたし、わかるよ。大事に思ってるからこそ、おりちゃんがすっごく心配してるのだって、あたし、わかる」
「未羽さん……」
未羽は勢いよく離れると、織歌の顔を覗き込んだ。
「だから、先生のためにも、入学式、ちゃんと演奏しなきゃね! もちろん、先生、見に来てくれるんでしょ?」
「来ないわ」
サラッと言われ、未羽はあんぐりと口を開けた。
「来ない、の? ホントに?」
「ええ」
未羽の言葉に、織歌はこっくりと頷いている。
「だって、先生、もう入院なさっているんですもの」
「ガーン!」
入学式の日は織歌の先生に挨拶して、仲良くなって、仲良くなれたら……などと考えていた計画が一瞬にして白紙になってしまった。
「ちなみに、二波の家からは、入学式には誰も来ない予定よ。父も母も忙しいし、代わりに来てくださるかもしれないと思っていた先生は、手術後すぐで、たぶん、ベッドから動けないだろうし」
「…………!」
淡々と言う織歌に、未羽はショックを受けた表情でフラフラとその場に座り込む。
「み、未羽さん?」
「……入学式……、おりちゃんが新入生代表として、フォルテールの演奏をしちゃう晴れの舞台なのに……誰も見に来ないなんて……」
落ち込んだ気分でボソボソと呟くと、そんな未羽の頭を優しい手がそっと撫でてくれた。
「いいのよ、いつものことだから、気にしないで」
「……気にしないでって言われても……」
顔を上げると、織歌が何とも言えない表情でクスッと小さく笑った。
「何て顔をしているのよ、あなた。そんなことより、早く練習をしな……」
「練習なんてしてる場合じゃないよっ!」
織歌の言葉を遮って、未羽が立ち上がった。
「え……でも、未羽さん?」
「そうだ、お見舞いに行こう!」
「はぁ!?」
旅行会社のキャッチフレーズのような言葉を言った後、未羽は織歌の肩をガシッと掴んだ。
「お見舞いって……未羽さん?」
「もちろん、あたしも行くよ! だって、あたし、おりちゃんの親友だもん! おりちゃんの先生がどんな人なのか、見定める義務があるもん!」
「義務って……。あなた、言葉の意味、わかって言っているの?」
キッと織歌を見る。
「今、重要なのは、言葉の意味じゃなくて、おりちゃんが先生のお見舞いに行くかどうかってことだと思う!」
「…………」
口をパクパクさせて、織歌はただ未羽を見ている。
今度は織歌のほうが混乱しているようだ。
「さ、行こう! 今すぐ、行こう! ねっ、おりちゃん!」
「…………」
結局、未羽の勢いに勝てなかった織歌は、そのまま未羽に引きずられるように、自宅練習室を後にすることになった。
☆ ☆ ☆
小夜子の入院している病院へ行く途中、二人は馴染んだK駅で下車をした。
「会えるかな……?」
「そうね、会えたらいいのだけど……どうかしら、ゆうなさんも、ずっとここにいるわけじゃないと思うし……」
ゆうならしい人影は見えない。
「どうしよう……夕方まで待っちゃう?」
「ええ……わたしはそれでもいいけど、あなた、小夜子先生のお見舞いに行きたいって言ってなかった?」
「あ、そっか」
そんな言葉を交わしながら、ガードレールに並んで腰掛けて、ぼんやりと通り過ぎる人の波を見つめ続けている。
「……ゆうなさん、来ないね」
「そうね……ゆうなさんに似た人も通らないわね」
二人で、溜め息をつく。
そんな時だった。
「ゆうなさん、最近見ないけど、どうしたのかな……」
二人の腰掛けているガードレールの前で足を止め、ボソリと呟いたスーツ姿の若い男性がいた。
「「!!」」
二人は顔を見合わせて、その呟きを発した男性を見る。
先に行動を起こしたのは未羽だった。
「あのっ、すいませんっ!」
「えっ!?」
ガードレールから飛び降り、立ち去ろうとした男性の上着を両手で掴む。
しかし、引き止めたまでば良かったが、後が続かなかった。
「あのっ、ゆうなさんって……その……っ!」
しどろもどろになってしまった未羽に織歌が助け舟を出す。
「引き止めたりして、大変申し訳ありません。わたしたち、ゆうなさんにお礼を言いたいんですけど……ゆうなさん、最近、ここで演奏していらっしゃらないんですか?」
男の人は、上着にしがみついたままの未羽と、礼儀正しく頭を下げた織歌を見比べてから、頭をポリポリと掻いた。
「え……そ、そうだけど……。僕が最後に見たのは3月の終わりくらいかな……ゆうなさん、それからここには来てないみたいだよ」
その声が聞こえたらしく、別の人も話に割って入ってきた。
「ゆうなさんなら、ここしばらく、姿さえも見てないよ。俺、この近くでお店やってて、ゆうなさんはライブがない時でもよく来てくれてたんだけど……もしかしたら、彼女、どこかに引越してしまったのかもね」
「…………」
未羽は黙り込んだまま、掴んでいた男性の上着を手放した。
織歌が二人に頭を下げて、ほんの一瞬だけ止まっていた周囲の人波がまた動き始める。
「……携帯の番号くらい、聞いておけば良かった……こんな風に会えなくなっちゃうなんて……すごくショック」
しょんぼりと未羽が呟く。
「そうね……でも、ゆうなさんにも何か事情があったのかもしれないわ」
落ち込む未羽の背中を慰めるように叩いて、織歌が言った。
「新生活が始まるシーズンだし、ゆうなさんも、わたしたちと同じように、今頃は新しい生活に慣れるために、目を回しているかもしれないでしょう?」
織歌の言葉に、未羽がこくりと頷いた。
「そうだよね! 春は出会いと別れの季節、だもんね! でも……きっと、いつかまた会えるよね!」
「そうね。わたしたちが音楽を続けていれば、また会えるわ、きっと……!」
☆ ☆ ☆
「…………」
入院先の面会室で、小夜子はポカンとして、思いもしなかった来客の顔を交互に見ていた。
「あの……入学してしまえば、日々に追われて、お見舞いに来ることもままならなくなりそうだったので……」
おずおずと説明する織歌の言葉を聞いて、教え子の行動を納得したらしく、小夜子はにっこりと微笑みを浮かべた。
「いいのよ、嬉しいわ、織歌。あなたが手術前に来てくれるなんて思ってもいなかったから、ちょっと驚いてしまっただけ。で、そちらの可愛いお嬢さんは……もしかして、お友達?」
「上月未羽ですー! あたし、おりちゃんのお友達で、もうすっごい親友なんですー!」
「すっごい親友……」
未羽の言葉に目を丸くした小夜子は、次の瞬間、爆笑した。
「えー!? どーしてソコで笑うんですかぁ!?」
けれど、しばらく、笑っていたかと思っていた小夜子は、そのまま肩を震わせて泣き始めた。
「わ、あっ、あのっ、小夜子センセー!? もしもーし!? やーん、おりちゃん、どうしよう! あたし、センセのこと泣かせちゃったよぅ!」
「……ご、ごめんなさいね、未羽ちゃん、あなたは何も悪くないの。織歌が……あの織歌に親友って言ってくれる子が現れるだなんて予想もしていなくて……なんだか、すごく嬉しくて……これでもう思い残すことはないわ」
「思い残すなんて、縁起の悪いことを言わないでくださいっ! というか、その前に、先生、サラッとすごく失礼なことをおっしゃっていませんでした?」
小夜子に言ってやりたいことはたくさんあったものの、織歌は二つに絞って言ってみる。
手元においてあったフェイスタオルで涙を拭いてから、小夜子は織歌の頭をポンポンと叩いた。
「ふふふ、あなたがそうやって感情を出すなんて、年に何回あることなのかしらね。それとも、今のあなたには、しょっちゅうのことなの?」
「この子が……未羽さんがわたしの神経を逆撫でしたり、周囲の空気を読まない言動をしたりしてくださるので、わたしはしょっちゅう、怒鳴らされています」
「そーなんですー! おりちゃんったら、静かな場所でも平気で怒鳴るので、あたし、ちょっと恥ずかしいんですー」
「だったら、あなたも自分の言動に注意なさい!」
ぴしゃっと織歌に怒鳴りつけられて、未羽が首をすくめる。
それから、ペロッと舌を出して、織歌を指しながら小夜子を見た。
「……こんな感じです、いつも」
「へぇ……」
未羽と織歌の遣り取りを見つめながら、小夜子は穏やかな微笑みを浮かべた。
「ねぇ、未羽ちゃん……織歌は融通が利かないところがあるけれど、根はとっても優しい子なの。どうか、未羽ちゃん、これからも織歌をよろしくね?」
「はい! 精一杯よろしくします!」
「ちょっと未羽さん、それはわたしのセリフよ!」
織歌と未羽の漫才に、小夜子はとろけそうなほどに優しい微笑みを向けている。
窓の外は既に暗くなり始めていたので、そろそろ帰るよう勧めると、織歌が振り返って言った。
「今まで言わなかったけど、わたし、卒業後に小夜子先生とペアを組んで演奏してみたいと思っているので、先生には何としてでも、手術を乗り越えていただかなくてはいけません。ですから、先ほどのような弱気な言葉は、もう絶対に許しません。だから……そのつもりでいてください」
織歌の決心の混じった言葉に、小夜子は微笑みながら頷いた。
「ということは、無事に手術が終わっても、わたしにはのんびりするヒマはなさそうね」
「当然です。わたしが桜立舎を卒業する頃には、間違いなく、今よりももっと上達していますから。練習不足の先生を追い抜いているかもしれません」
師弟で見つめあう中、未羽の声が割って入る。
「うわー、おりちゃん、ヒネクレてるー。素直に『手術、頑張って』って言えばいいのにー」
「……っ!」
一気に壊れた雰囲気に、織歌の頬が引きつった。
が、織歌の反応など気づかなかったように、未羽はベッドの上の小夜子にヒラヒラと手を振っている。
「じゃ、小夜子センセー、また来ますねー!」
明るい声を残して、織歌の背を押すように、病室から出て行った。
残された小夜子は小さく笑う。
「……織歌みたいな考えすぎる子には、ああいう底抜けに明るい子の方がいいのかもしれないわね」
そう呟いて、教え子の将来に思考をめぐらせたのだった。
『初めての観客、そして初めての――』
結局、未羽と織歌の練習は、なしくずしのまま二波家の離れにある練習室で行われていた。
春休みの間に、入寮のための様々な手続きや、引越しなどもあったが、その合間を縫うような練習だったので、あまり満足な時間は取れなかったものの、その分、充実した練習時間だった。
練習の間、ことある毎に未羽が織歌の旋律は歌を合わせやすいと喜んでいたが、それは織歌にとっても同様で、未羽の歌声に合わせて演奏すると、何故か音が伸びているように感じていたのだった。
☆ ☆ ☆
そして、入学式前日――。
☆ ☆ ☆
「明日は絶対うまくいくよね!」
市販のペットボトルの紅茶を飲みながら、未羽は織歌に笑いかけた。
「それにしても、やっぱりペットボトルのお茶はイマイチだね、おりちゃん」
「そうね……一度でも天野会長の紅茶を飲んでしまうと、並大抵の紅茶では満足できなくなってしまうわね」
「…………」
不意に未羽が沈黙した。
どうやら何かを考えているらしいのだが、頭をよぎった嫌な予感に、織歌は顔を引きつらせる。
案の定、顔を上げた未羽は、織歌がギョッとするようなことを言ってきた。
「ねぇ、おりちゃん、今から学校に行かない?」
「は?」
「生徒会室に行って、ついでに天野会長に紅茶をごちそうしてもらおうよ!」
一瞬、絶句しそうになった織歌だったが、ここで黙り込んでしまうと、未羽の思うままに話が進んでしまうことが目に見えていたので、何とか気力を振り絞って反論する。
「ついでに、って……あなた、それは迷惑ってものでしょう」
しかし、そんな織歌の思惑を知ってか知らずか、未羽は唇を尖らせた。
「だって、あたしたち、明日の入学式のためだけに、こんなに頑張ってるんだよ? あたしたちって寮生だから、ホントは練習なんて寮でするほうが楽なのに、生徒会の人が勝手に考えた入学式のお楽しみ企画だからってことで、誰にもヒミツで、おりちゃんの家で、コソコソ練習するハメになってるんだよ? そんな風に頑張ってるあたしたちなんだから、『美味しい紅茶を飲ませて〜!』って言う程度のワガママくらい、許されるって思わない?」
「そんなこと言ったって、入学式は明日なのよ? 生徒会のみなさんが忙しいのは、火を見るよりも明らかで……」
「あーもうゴチャゴチャ言わない! あたしは天野先輩の紅茶が飲みたいの! 明日になったら飲めるだろうけど、このモヤモヤした気持ちのままだと、入学式で大役を演じるなんて無理ったら無理ー!」
「…………」
あまりの言い草に、とうとう織歌は黙り込んだ。
「いいもん! おりちゃんが行かないって言うんなら、あたし、一人で行っちゃうから!」
「え!?」
「んでもって、忙しくしてる天野会長にまとわりついて、紅茶飲ませてくれるまで騒いじゃうんだから!」
「ちょっと未羽さん!?」
「天野会長が仕事できなくっても、あたし、知らないもん! おりちゃんがあたしを止めないのが悪いんだもん!」
「…………」
もう何と言えば良いのかわからず、織歌は頭を抱えてしまった。
「……というわけで、おりちゃん、あたしの暴走を止めるために、一緒に学校に行ってくれるよね?」
「…………」
「おりちゃんがいれば、ちゃんと止めてくれるから、あたしが暴走しても安心だよね!」
「…………」
結局、長い沈黙の後、未羽に押し切られる形で、織歌は頷くことになった。
一応、『二人の演奏の完成度を見せに来た』という理由は用意して。
☆ ☆ ☆
学苑に入ると、少しぴりぴりした緊張感が伝わってくる。
その雰囲気を感じ取ったのか、未羽はキョロキョロと周囲を見回している。
「ねぇ、おりちゃん、なんか……忙しそうだねぇ」
「……だから言ったのに」
溜め息混じりにそう返すと、未羽が唇を尖らせた。
「ぶー! おりちゃんだって、結局、こうして来てるじゃんー! 来てる時点で、あたしと同罪だよぅ!」
「……同罪、って……」
未羽の言うことに反論する気も失せて、織歌は肩を落としながら、生徒会室へ歩を進めた。
☆ ☆ ☆
ノック2回の後、奥から「どうぞ」と声がかかった。
ドアを開けると、生徒会室には様々な書類やダンボール箱が乱雑に置かれているのが目に入る。
「…………」
唖然としたまま、未羽と二人で立ち尽くしていると、箱の向こうから琴美がひょっこり顔を出した。
今日は、普通にツインテールにしている。どうやら、先日の髪型は、特別だったようだ。
「あら、お二人揃って、どうなさったのかしら?」
「あのぉ〜……そのぉ〜……」
殺伐とした雰囲気に完全に圧倒されてしまったらしく、未羽はしどろもどろになっている。
そんな未羽に小さく溜め息をついて、織歌が一歩踏み出した。
「明日の入学式での演奏の最終調整をしていたのですが、わたしたちでは客観的にどのくらいの仕上がりなのかわからなくて困っているんです。ですので、先輩方に一度見てもらって、指示をいただこうと思ってやってきたのですが……先に連絡をしてからの方が良かったですね」
「うーん、連絡していただいていれば、きっと『無理』の一言で終わっていたでしょうね」
「……そうですか。お邪魔をして申し訳ありませんでした」
ペコリと頭を下げ、まだ固まっている未羽の腕を掴んで帰ろうとした途端、琴美が奥から出てきて、制止する。
「待ってください、お二人とも。せっかく来ていただいたのですから、そのままお返ししてしまっては、わたしがまり先輩に叱られてしまいますわ。ご覧の通り、散らかっている、というには、散らかりすぎていますけれど、どうぞ、お入りになって。奥の方は少しスペースが空いていますから。ね?」
ねだるように小首をかしげて言う琴美に、織歌はどうしようか迷って未羽を見た。
「…………」
が、未羽はまだ状況を把握していないようだったので、溜め息を飲み込みながら、琴美へと頭を下げた。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
☆ ☆ ☆
琴美の言葉通り、奥にはパイプ椅子をいくつか置くだけのスペースはあった。
「お紅茶は如何ですか? わたしはまだ未熟で、まり先輩ほど美味しくは淹れられないのですけど……」
「わーい、いただきまーす!」
元気を取り戻した未羽が大声で返事をする。
クスクス笑って、琴美がお茶の用意をし始めた。
やがて漂ってきた香りに、うっとりとしている未羽を横目に、織歌は恐縮しながら、琴美の後ろ姿に声をかける。
「……入学式って、生徒会の人にとっては大変なことなんですねぇ」
ボソリと言う織歌。
「入学式だけじゃありませんわ」
琥珀色の液体に満たされたカップを未羽に渡しながら、琴美が微笑む。
「文化祭や体育祭、コンクールやら卒業式……桜立舎学苑の卒業生には、著名な方もいらっしゃいますし、マスコミの方もいらっしゃいます。まだ学生だからとか、知識が足りないとか、社会経験がないとか、そんな言い訳をしたり、気を抜いたりしている暇も余裕もありません。けれど、同時にその緊張感こそが、やりがいに繋がるので、大変であれば大変であるほど、わたしたちは頑張ってしまうんですよ。それに……」
一度、言葉を切った琴美からカップを受け取りながら、織歌は身を乗り出した。
「それに?」
「……それに、入学式の主役である新入生にとって、印象に残らない入学式より、『この学苑に入学して良かった』って思われる入学式の方が嬉しく感じませんか? わたしたち2期生が入学した去年も、先輩方が趣向を凝らした入学式をしてくださったので、わたしは感動して、『この学苑で3年間、頑張っていこう』って思った覚えがありますわ」
「なるほどー!」
紅茶をフーフーしていた未羽が口を挟む。
「入学して良かったって思ってもらえるように、あたしは歌をうたえばいいんですね!」
「ふふ、そういうことです。わたしたちは生徒で使える予算も限られていますから、あまり派手で大掛かりな仕掛けはできませんが、それでも、ちょっとした気遣い・気配りで、印象に残るような入学式を計画することならできます。幸いにして、今の学苑長は、生徒の自主性を重んじてくださる方なので、わたしたち生徒会も様々な提案をさせていただけて、とてもやりがいがあるんですよ」
それから、ちょっと悪戯っぽく舌を出して琴美が笑った。
「ま、その分、忙しさも倍増しちゃうんですけどね!」
それはそうだろう、と織歌が頷いた時、タイミング良く、ドアがガラッと開く。
「琴美? そこにいるの?」
「あ、はい! まり先輩、少し奥で休憩なさいませんか?」
「……そうね……ちょっと休憩しようかしら」
書類とダンボールの山をかき分けて、まりが奥までやってくる。
まりも琴美同様に、髪をお団子にしてない。
やはり、先日、二人でお団子にしていたのは、何か別の意図があったようだと、織歌は判断した。
「あら、あなたたち、いらしてたのね」
「すみません、急に訪れて……」
「いいのよ。事前に連絡があったら、『今日は無理』って断ることになっていたでしょうし。で、ご用件は何かしら?」
追加で淹れた紅茶を琴美から受け取って、まりが疲れた微笑みを浮かべる。
「明日の演奏の仕上がりを見ていただきたいそうですわ。生徒会からお願いしたことですもの、最終チェックには協力しないといけませんよね、まり先輩」
すかさず、琴美がフォローした。
「そうね……最終チェックか……。たしかに自分の演奏って客観視しにくいものだものね。いいわ、やってみて」
「え〜、まだ飲み終わってないのにぃ!」
カップに口をつけたまま、未羽が不満そうな声を上げる。
「もう、未羽さん! わたしたちは、天野会長に演奏を聞いていただくために、前日というお忙しい時期にお邪魔させていただいたのよ?」
「ぶー、そんなのおりちゃんが用意した大義名分じゃない、あたしは紅茶を飲みに来たのにぃ、ぶーぶー」
ボソボソと未羽が呟くが、織歌は聞こえないフリをして、まりへと頭を下げた。
「申し訳ありません、天野会長、素直すぎる子で……」
「……い、いいのよ、二波さん。たしかに飲みかけの紅茶を放置させるようなことをお願いするなんて、わたしの思慮が足らなかったわ。飲み終わるまで、どうぞゆっくりなさってね」
まりの言葉をそのまま受け取って、紅茶を味わいながら飲み始めた未羽を横目に、織歌は何とも言えない表情を浮かべたまま、カップに唇をつける。
「うふふ、新入生って可愛いですわね、まり先輩」
琴美の言葉にさえも恐縮しながら飲んだ紅茶は、あとで振り返っても、味が良くわからなかった。
☆ ☆ ☆
「いいんじゃないかしら」
二人の演奏後、あっさりとまりが感想を言った。
「さっきの演奏は、上月さんの天真爛漫な伸びやかさといい、二波さんの柔らかな慎重さといい、二人の持ち味が遺憾なく発揮されていて、とても良かったと思うわ。あとは……入学式という場だからと、緊張しすぎて、硬くならなければ大丈夫じゃないかしら」
まりの言葉に、未羽は感動したようだ。
「どうしよう、おりちゃん! あたしの歌、『天真爛漫』とか『伸びやか』とかって褒められちゃったよ!」
ぎゅっと上着の肩口のあたりを握られて、織歌は困ったような微笑みを浮かべた。
「未羽さん……褒められて嬉しいのはわかるけど、そんなに強く握られると、シワが……」
「だって! あたし、こんな風に誰かにゆっくり歌を聴いてもらうなんて初めてなんだもん! あたし、おりちゃんみたいに慣れてないんだもん!」
「…………」
織歌は小さく息を吐いて、興奮している様子の未羽の頭をそっと撫でた。
「今からそんな様子で、明日、全校生徒の前で歌っても大丈夫なの?」
「うん、ぜーったい大丈夫だよ! だって、おりちゃんと一緒なんだもん、絶対、頑張れる! あたしの初舞台、おりちゃんと一緒なら、大丈夫だよ!」
「…………」
嬉しい、という気持ちって、こういうものなのかしら……。
目の前の空気を読まないところのある友人を抱き締めたい衝動に駆られたが、二人の先輩のいる手前、織歌はただ頭を何度も撫でるだけに留めておいた。
そんな新入生の様子を見ながら、琴美は浮かべていた微笑みを更に深くする。
「うふふ、頑張る後輩って、こんなに可愛く感じるものなんですね、まり先輩」
「ふふ、あなたも、先輩の気持ちがわかる立場になったのね、琴美」
「はい。まり先輩も嬉しいですか?」
「後輩の成長を実感できるということは、誰でも嬉しいと感じるものよ」
☆ ☆ ☆
まだ仕事が残っているから、と、慌しく生徒会室を出て行ったまりを見送った後、自分たちも用事が済んだからと寮に帰ろうとした時、琴美が二人にそっと小さな包みを差し出した。
「これは……?」
「お口に合うかわからないけれど……チーズケーキのお裾分け。忙しいまり先輩のためにと、夜に食べても大丈夫なように、胃に優しいレシピで作ったので、元気なお二人には物足りないかもしれないけれど……」
「わぁ、ありがとうございますー!」
「ありがたくいただきます」
小分けされた包みを受け取って、織歌は深々と頭を下げた。
包みから漏れてくる甘い香りが、優しく嗅覚をくすぐる。
「二条院先輩のお菓子って、美味しいですよね。この間いただいた丸いお菓子も、すごく美味しかったです」
「マカロン、だよ、おりちゃん。おりちゃん、もしかして美味しければ名前なんてどうでもいいって思ってない?」
「もうっ、作ってくださった先輩の前で何てこと言うのよ、あなたは!」
言い合う二人に、琴美がクスクスと笑う。
「わたしのお菓子を気に入ってくださるなんて、嬉しいですわ。毎日ではないけれど、お菓子を作ったら持ってきているので、お暇があるなら、また生徒会室にいらしてね」
「はーい、また来ますー!」
無邪気な未羽の言葉にギョッとした織歌だったが、琴美のニコニコしている笑顔を見て、一つ年上の先輩が気を悪くした様子もなかったことに、ホッと胸を撫で下ろす。
「では、わたしたちはこれで失礼いたします」
そう言って頭を下げると、これ以上、未羽が何も言わない内にと、未羽を追い出すように、そそくさと生徒会室を後にした織歌だった。
☆ ☆ ☆
生徒会室を出て、琴美の持たせてくれたお土産を胸に抱きながら、二人してのんびりと校内を歩く。
「おりちゃんのお陰で、最初の目的の美味しい紅茶を飲めたし、美味しいお菓子までもらえたし、明日はすんごく頑張れそうだよぉ!」
「……頑張ってもらわないと、あなたを推薦して、こんなに苦労しているわたしの立場がないわ」
「うぅーん、おりちゃんったら、こんな時でもクールなんだからぁ」
織歌の言葉の意味を理解しているのかいないのか、未羽はケラケラと笑っている。
「……では、こんなときはどういう反応をすれば良いのかしら?」
「あ、噴水だぁ!」
織歌の問いかけを無視して、未羽が走り出した。
「もうっ、あなたはまた空気も読まずに……!」
「見てみて、おりちゃーん! 噴水だよー、スゴイねぇ、キレイだねぇ!」
未羽が満面の笑顔を自分へと向けている。
「…………」
そんな無邪気な笑顔を見ていると、腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなってきて、もういいかという気分になっていくのが不思議だ。
「そうね……綺麗ね」
優しい気持ちになって、未羽の隣でぼんやりと噴水を見ていた時、唐突に未羽が言った。
「んとね、こういう時は、『あたしも頑張るぞー!』って言えばいいと思うよ?」
「は?」
きょとんとする織歌に、未羽はがっかりした顔をした。
「もー、おりちゃんが訊いてきたんじゃんー。『こんな時にどういう反応をすれば良いのか』って! 忘れちゃってたでしょ!」
「あ……」
少し前の会話を思い出し、律儀なのか何なのか良くわからない未羽に、織歌は複雑な笑みを返す。
「……てっきり、流されたんだと思っていたわ」
「んー、もう今更なような気がしたし、スルーしようかなって思ったんだけど、こういうことを教えてあげると、おりちゃん、次からちゃんとやってくれそうだし……」
言いながら、微笑んでいる未羽の笑顔が眩しい。
「クールなおりちゃんも、おりちゃんらしくていいけど、あたし、どうせやるなら目一杯楽しみたいから、おりちゃんもノリが良くなってくれると嬉しいかなって思って」
「そうね……」
未羽の言葉に、織歌は納得する。
「それにしても、明日だよね! 明日、かぐら先輩に会えるんだよね!」
「そうか……そういえば、そうよね」
「かぐら先輩への初めてのアピールだもん、頑張ろうね、おりちゃん!」
未羽の言葉に、こくりと頷く、織歌。
その時、どこからともなく、フォルテールの音が風に乗って運ばれてきた。
この、柔らかく包み込むような、けれど、芯の強さを感じる演奏は……。
「これって……かぐら先輩の演奏だぁ!」
弾かれるように、未羽が走り出す。
未羽の後を追うように、織歌も走る。
☆ ☆ ☆
明日までなんて待っていられない。
同じ敷地内に、思い続けたあの人がいるとわかったら、じっとなんかしていられない。
情熱と衝動とに突き動かされるようにして、漂ってくる優しい音を頼りに、二人は出会いの場に急いだのだった。
< ゲーム本編へ続く >