TITLE : 自註鹿鳴集
自註鹿鳴集   会津 八一
予が家の鹿鳴集《ろくめいしゆう》は、昭和十五年創元社より世に送りたるものなるも、その中には、大正十三年春陽堂より出したる南京《なんきよう》新唱の全篇を含み、またその南京新唱の中には、明治四十一年奈良地方に一遊して得《う》るところの歌若干首を含めるが故《ゆゑ》に、今ここに収むるところは、実に二十八歳より六十歳に至る予が所作を網羅《もうら》したりといふべし。この故に今これを繙《ひもと》きて読みもて行くに、自家半生の行止《こうし》と感懐と、多くはこの中に反映し、当年の事眼底を来去して尽くるなし。また楽しからずとせず。
されど、また思ふに、予が初めて奈良の歌を詠じたる頃には、その地方の史実と美術とを知る人、世上未《いま》だ多からず。しかるにまた、予が慣用したる万葉集の語法と単語とは、予が終始固執せる総平仮名の記載と相俟《あひま》ちて、予が歌をして解し易《やす》からざらしめ、甚《はなは》だ稀《まれ》にこれに親まんとする人ありても、その人々をすら、遂《つひ》には絶望して巻を擲《なげう》たしむることも屡《しばしば》なりしなるべく、すべてこの歌集の流布をして、ますます狭隘《きようあい》ならしめたるべきは、想察に難《かた》からざるなり。しかるに日を逐《お》ひ、年を経《ふ》るに従ひ、世上には尚古《しようこ》の風次第に興り、遂にはこの集の世に行はるること、また漸《やうや》く広からんとすと聞く。およそ文芸に携はるもの、その生前に於《おい》て江湖の認識を受くるの難きは、古来みな然《しか》り。予齢《よはひ》すでに古稀《こき》を過ぎたりといへども、今にして之《これ》を聞くは、むしろ甚だ早しといふべし。
かるが故《ゆゑ》に、ここに旧稿を取出《とりい》で、新潮社の請に応じて、世に敷かんとするに当り、予が歌の美術と史蹟《しせき》とに関するもの、及び古典、古語に係《かか》はるものには、遍《あまね》く小註《しようちゆう》をその左に加へたるほか、歌詞は旧に依《よ》つて総仮名を用ゐ、品詞によりて単語を切り、以《もつ》て来者をして再び誦読《しようどく》に誤りなからしめんことを努めたり。嗚呼《ああ》、予の粗漫なるや、この頽老《たいろう》に及びて、わづかに四十年前の宿債を償はんとするに似たり。何人かこの迂拙《うせつ》を嗤《わら》はざらん。また何人かこの痴頑《ちがん》を憐《あはれ》まざらん。
昭和二十七年十二月
著  者
例言
一、この書、題して自註鹿鳴集《じちゆうろくめいしゆう》といふ。鹿鳴とは、巻中の歌、著者が青年の日よりしばしば奈良地方に遊びて、その間に成れるもの最も多きに居れば、これに因《ちな》みてなり。
一、註釈は文法、語意、史実、宗教、伝説、地理、土俗より作者身辺の雑事に至るまで、すべてこの集に収めたる歌の会得を助くるに必要なるべきことを網羅せり。
一、読者の学力として、著者がここに執筆に当りて期待せるところは、現制の高等学校より大学に至る生徒学生を以て標準となせり。
一、註釈中に現はるる人物の生歿《せいぼつ》、社寺の興廃、書籍の述作等につきて、知らるる限りその年次を西暦を以て記入して、むしろやや煩に渉《わた》るをも厭《いと》はざりき。これを以て時代の推移につきて明確なる理解に資せんことを期せるなり。
一、南都諸刹《しよさつ》のうち、法隆寺につきては、学界の研究未だ徹底せざる点多く、東大寺につきては、縷述《るじゆつ》を要する綱目甚だ少からず。ともにこの小冊子に於《おい》て尽すこと能《あた》はず。幸《さいはひ》に近時行はるる中等教科書に、一応の説明あるに信頼して、特に註釈を加へざりき。
一、篇中の用語の中、同義同音にして、しかも文字を異にすること「廬遮那《るしやな》」と「廬舎那」、「弥陀《みだ》」と「阿弥陀」、「鈔《しよう》」と「抄」、「伎《ぎ》」と「妓」の如きあり。ともに原典を重んじて強《しひ》て統一を加へず。されど「廃」を「癈」となし、「掘」を「堀」となすの類は是正を加へたる所あり。
一、「印象」と題したる唐詩に附記したる作者の小伝は、概《おほむ》ね臧励和《ぞうれいわ》等諸人の大辞典を抄出したるも、ひとり李収《りしゆう》は『全唐詩』によれり。ここにこれを明かにす。
一、寺院の宗別は書中に一々之《これ》を註記したるも、古来ややもすれば移動あり。ことに大戦以後は、新宗の興起するものまた少からざるが如《ごと》きも、著者は、これを与《あづか》り聞かざること多く、また、たまたま之を聞くも、この書中に記せるところに関すること少ければ、すべて戦前に従へり。特に之を記す。
一、註釈の史蹟《しせき》と故実とに関せるものは、古来の通説に拠《よ》れるもの多きも、著者の私見を以《もつ》てせるところ亦《ま》た少からず。また引用せる群書は、必らずしも歴史学者の謂《い》はゆる根本資料のみに限らずして、往々稗史《はいし》雑載の類にも及べり。蓋《けだ》しこれ学術の論究にあらずして、短歌鑑賞のためにせんとする書なればなり。
一、註釈中、つとめて引用の書名を挙げて、一々その出所を明《あきら》かにせんとしたり。これ、読者が、他日これらの原典を得て繙読《はんどく》するの日あるべきを思ひ、これがために便ならんと欲したるなり。
一、京都奈良の地は、古美術の淵叢《えんそう》と称すべし。作者は常にこの間に徘徊《はいかい》して、さきに自《みづか》ら詠ずるところを今自ら註解して、この書を成したるも、通篇の中未《いま》だ曾《かつ》て好んで美術の趣味とその好悪《こうお》とを説明せんとしたることなし。蓋し、これを指さして説けば、徒《いたづら》にその指端を見て、その物を見るを忘るるもの多く、真諦は自ら悟るべくして他の説明に俟《ま》つべきにあらず、而《しか》もまた、たまたま説き得たりとなすも、多くは第二義以下に堕するを以てなり。されば、この書、解きてこれに触れざるを以て、著者のこれを見ること甚《はなは》だ軽きに因《よ》るとなすこと無からんことを望む。むしろ甚だ重きに因ればなり。
一、巻末には、集中に現はるる地名、社寺名、神仏名等につきて、索引を附したり。往々これを実地の歴遊に携へんとする人あるべきを想ひ、その利用に備へんとしたるなり。
一、この書、最初は一切の註釈は本文の欄外に組み入るる意図なりしがために、行文は極《きは》めて簡省ならんことを期したるに、後に至りて、あまりに簡省にては、初学の読者に解し易《やす》からざるべきに気づき、知らず知らず行文を伸長したるがために、組み方の初案を変更するに至れり。ただ憾《うら》むところは、これによりて説明の精疎に統一を欠きたる所多きにあり。
一、著者は、さきに東京にて、戦災のために悉《ことごと》く蔵籍を失ひ、帰り来《きた》りて故郷に幽居し、資料検索の便乏しきのみならず、齢《よはひ》すでに古稀《こき》を過ぐること数年、ことに最近血圧しきりに昂騰し、執筆意の如くならざるを、尚《な》ほ床上に強起して稿を進めたることさへ屡《しばしば》なれば、篇中或《あるい》は誤脱なきを保しがたし。天もし仮すに余命を以てせば、再び補訂の筆を執るべし。
一、著者は、さきに昭和五年一月、一文を草し、雑誌『東洋美術』第五号に掲げて、法隆寺の諸像の伝来を論じ、同寺の所謂《いはゆる》「六体観音」を以て橘寺《たちばなでら》の旧物なりとなせり。しかるに今この書中にては、これを中宮寺に帰せしめんとせり。知らず学者のいづれに与《くみ》すべきかを。
一、著者のこの書を綴《つづ》るに当り、齢はすでに古稀を過ぐること三歳、流竄《りゆうざん》の身には群籍の検索にその便乏しきに、老と病と、こもごも執筆を妨げ、しばしば意挫《くじ》けて中絶せしめんとせり。ことに校正の事に慣れざるに苦しみしに、新潮社員佐野英夫君よく著者を助けてその功を竣《を》へしめたり。これを記してこれを謝す。
目次
例言
南京新唱
南京新唱序(山口剛)
南京新唱 自序
山中高歌
放浪〓草
村荘雑事
震余
望郷
南京余唱
斑鳩
旅愁
小園
南京続唱
比叡山
観仏三昧
九官鳥
春雪
印象
鹿鳴集後記
自註鹿鳴集
南京《なんきよう》新唱 明治四十一年八月より大正十三年に至る
南京・ここにては奈良を指《さ》していへり。「南都」といふに等し。これに対して京都を「北京」といふこと行はれたり。鹿持雅澄《かもちまさずみ》の『南京遺響』佐佐木信綱氏の『南京遺文』などいふ書あり。みな奈良を意味せり。ともに「ナンキン」とは読むべきにあらず。
春日《かすが》野《の》にて
かすがの に おしてる つき の ほがらかに
あき の ゆふべ と なり に ける かも
春日野・若草山の麓《ふもと》より西の方一帯の平地をいふ。古来国文学の上にて思出深き名にて、今も風趣豊かなる実景なり。
おしてる・照らすといふことを、さらに意味を強めていへり。この歌を作者の筆蹟《ひつせき》のまま石に刻《ほ》りたる碑は、春日野の一部にて古来「とぶひ野」といふあたりに立ちてあり。『古今集』に「かすが野の飛火の野守《のもり》いでて見よ今いく日ありて若菜摘みてむ」といふ歌あり。そのあたりなり。これを見ん人は、その位置を春日神社の社務所にて確めらるべし。
うちふして もの もふ くさ の まくらべ を
あした の しか の むれ わたり つつ
うちふして・「うち」は接頭語。次に来る語を強む。
ものもふ・物を思ふ。物思ひす。
つの かる と しか おふ ひと は おほてら の
むね ふき やぶる かぜ に かも にる
つのかると・「かる」は「刈る」。鹿は本来柔和の獣なれども、秋更《ふ》けて恋愛の時期に入れば、牡《をす》はやや粗暴となり、時にはその角を以《もつ》て人畜を害することあり。これを恐れて、予《あらかじ》め之《これ》を一所に追ひ集めて、その角を伐《き》るに春日神社の行事あり。この行事に漏れて、角ありて徘徊《はいかい》するものを誘ひ集め、捕へてその角を伐ること行はる。ある日奈良公園にて散歩中に之に遭《あ》ひし作者は、その伐り方の甚《はなは》だ手荒なるを見て、やや鹿に同情したる気分にて、かく詠《よ》めるなり。
むね・棟。
こがくれて あらそふ らしき さをしか の
つの の ひびき に よ は くだち つつ
あらそふ・牝を争ひて相闘ふなり。時としては、一頭乃至《ないし》数頭の牝鹿《めじか》を独占せんとて、牡鹿の互《たがひ》に角を以て搏《う》ち合ふなり。その音春日野の夜の闇《やみ》を貫きて十四五メートルの彼方《かなた》にも聞ゆ。
さをしか・牡鹿。「さ」は接頭語。「小男鹿」または「棹鹿」など宛字《あてじ》するは穏かならず。
よはくだちつつ・「くだつ」とは「下る」「傾く」の意。夜のくだつとは、更け行くをいふ。「つつ」といふ助詞は、同じ動作の繰返して行はるるに用ゐる。現代語にて継続の意味に用ゐるとは同じからず。
うらみ わび たち あかしたる さをしか の
もゆる まなこ に あき の かぜ ふく
わぶ・思ひわづらふ。鹿の心を擬人法にていへるなり。
かすがの の みくさ をり しき ふす しか の
つの さへ さやに てる つくよ かも
みくさ・「み」は接頭語。草。
さやに・さやかに。分明に。
つくよ・つきよ。月夜。月明。「よひづくよ」「ほしづくよ」「さくらづくよ」などあり。
かすがの に ふれる しらゆき あす の ごと
けぬ べく われ は いにしへ おもほゆ
あすのごと・「ごと」は「如く」。明日にもならばといふこと。
けぬべく・消えなんばかりに。雪は明日にも消ゆべし。われも消え入らんばかりの心にて、上代のことを思ふといふなり。
もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の
ねむり しづけき はる の ゆき かな
ふぢ・藤。春日山のほとりには、杉の古木多く、それに纏《まと》へる藤にも老木多し。
よる・倚る。よりかかる。身を寄す。
をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく
ながるる つきひ とどめ かねつ も
をぐさ・「を」は接頭語。ただ「草」といふに同じ。
しか・鹿。上下の顎《あご》を左右にゆるく噛《か》み合せて草を食ふ。その顎の暫《しばら》くも止《や》まざる如《ごと》く、歳月は流れ去るといふに思ひ合せて詠めり。『万葉集』の歌人は獣の同じ習性を「春の野に草食《は》む駒《こま》の口やまず吾《あ》を忍ぶらむ家の子ろはも」など云へり。
また『万葉集』の鹿は、ただ里遠く木隠《こがく》れて鳴く本能の姿なりしに、藤原時代に入れば、忽《たちま》ち神格を帯びて記録に現はるるものあり。しかるに此の集に見るところの鹿は、往々にして社頭の行人《こうじん》の心に似たるものを帯び来《きた》れるが如し。
興福寺をおもふ
はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり
ほとけ の には に はな さく らし も
興福寺・法相《ほつそう》宗三大本山の一。藤原不比等《ふひと》が和銅三年(710)厩坂寺《うまやざかでら》をここに移したるに始まり、藤原氏の氏寺として、歴代の官寺たる東大寺と対峙《たいじ》して二大勢力の一となり、遂には堂塔の数も百宇を超《こ》ゆるに及べりといふ。中世以後には僧兵を蓄《たくは》へて武威を張り、或《あるい》は春日の神輿を擁して朝廷に強訴し、或は比叡山《ひえいざん》、多武峯《たふのみね》等と相攻伐し、その間兵火に罹《かか》ることも屡《しばしば》なりしも、従つて近畿《きんき》の最大勢力となり、嘉吉《かきつ》元年(1441)に記録せるこの寺の『官務牒疏《ちようそ》』によれば、山城《やましろ》、大和《やまと》、近江《あふみ》、摂津、伊賀の五国にわたり、二百数十の社寺の上に統御の権を握りしが、享保二年(1717)金堂、西金堂、講堂、南円堂が罹災《りさい》して伽藍の中枢を失ひ、明治に入りては諸制度一変のために全く衰弱に陥れり。
その五重塔と東金堂とが、今も奈良市の景観の中心を成せるは、真に多とすべきも、その建立《こんりゆう》は室町時代を遡《さかのぼ》るものにあらず。これより古きものには、北円堂と三重塔とがあれど、これ等もまた、鎌倉時代を上るものにあらざるのみにあらず、観光者にしてその存在に注意するものまた少し。ひとり観音《かんのん》霊場西国第二番の札所《ふだしよ》として、わづかに徳川初期に再興したる南円堂に賽《さい》するものあるのみ。
ただ境内に桜樹多く、ことに「いにしへの奈良の都の八重桜」と称する一株の老木は、この寺の地つづきなる学芸大学の庭上にあり。桜には千年の古木あるべくもあらねど、この名を聞きたるのみにても感想また多かるべし。『大和《やまと》名所図会《ずえ》』には当時に於《お》ける樹姿を描けり。
そもそも天平《てんぴよう》時代に於けるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、須《すべから》く先《ま》づ『続日本紀《しよくにほんぎ》』と『万葉集』とを読み、併《あは》せて『興福寺流記』または『諸寺縁起集』中のこの寺の条を読むべし。まことに咲く花の匂《にほ》ふが如きものありしを知るべし。
猿沢池《さるさはのいけ》にて
わぎもこ が きぬかけやなぎ み まく ほり
いけ を めぐりぬ かさ さし ながら
猿沢池・興福寺の南にあり。この池の岸に「采女祠《うねめし》」といふものあり。そのほとりに「衣掛柳《きぬかけやなぎ》」といふものあり。一たび平城京のさる天皇の寵《ちよう》を得て、やがてまたこれを失ひしを悲みて、身をこの池に投じたる一人の采女の伝説あり。その天皇の歌に「猿沢の池もつらしなわぎもこが玉藻《たまも》かづかば水ぞひなまし」、また柿本人麿《かきのもとのひとまろ》の歌に「吾妹《わぎも》子《こ》が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」など『枕草子《まくらのそうし》』『大和物語』『南都巡礼記』その他にも見ゆ。
しかるに、ひとり『七大寺巡礼私記』及び『諸寺縁起集』に収めたる『興福寺縁起』にては、これを桓武《かんむ》天皇の三皇子の皇位継承に伴ふ葛藤《かつとう》によりて生じたる悲劇とし、水死したるものを平城天皇の皇后なりとせり。
また「猿沢」といふ名につきて『和州旧跡幽考』などには、仏典にいふところの、天竺《てんじく》の「〓《み》猴池《ごうち》」といふものに摸したる命名の如くにいへど、古来春日山には野猿多く、今日にても、群をなして公園に近き民家の裏庭の果樹を荒すことさへ珍しからざれば、遠き印度《インド》にまで、その起源を求むる必要はなかるべきなり。
奈良博物館にて
くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
かげ うごかして かぜ わたる みゆ
奈良博物館・この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少くも一時間を送らるることを望む。上代に於ける祖国美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出《みいだ》しがたかるべければなり。
やうらく・瓔珞。本来は、珠玉など七宝を綴《つづ》り合せて造れる頸飾《くびかざり》をいふ語なれども、ここにては、宝冠より垂下せる幾条かの紐形《ひもがた》の装飾をいへるなり。
されどこの歌は、法輪寺講堂の本尊十一面観音を詠《よ》みたるものなるに、歌集刊行の際、草稿の整理を誤りて、ここに出せるなり。それにつきて『渾斎《こんさい》随筆』に一文を草しおけり。
くわんおん の せ に そふ あし の ひともと の
あさき みどり に はる たつ らし も
せにそふあし・背に副ふ蘆。所謂《いはゆる》「百済《くだら》観音」の光背の支柱を、蘆の茎の形に刻めるものをいへり。その支柱に微《かす》かに残れる白緑の彩色をよすがとして、そぞろに春色の蘇《よみがへ》り出《い》で来《きた》らむことを、希望を込めて詠めるなり。
ほほゑみて うつつごころ に あり たたす
くだらぼとけ に しく ものぞ なき
ほほゑみて・一種静かなる微笑を湛《たた》へたり。後に法隆寺夢殿にて詠める歌にても、この一語あり。参照されたし。
うつつごころ・うつつとも夢ともなき心地、有無の間に縹渺《ひようびよう》たる心境、かかる意に作者はこの語を用ゐたり。この歌、今にては多少世上に知られ、ほぼ作者のこめたる意味にて解せられ居るが如《ごと》きも、古人は「正心」、「正気」、「本心」の意味にのみこの語を用ゐたるが如し。
くだらぼとけ・以上二首は、法隆寺よりその頃久しく出陳して、館のホールの中央なる大ケースの正面に陳列してありし俗称「百済観音」を詠めるなり。されど、この像の法隆寺に於《お》ける存在は、文献の上にては、遠き上代には遡りがたし。恐らく中古に至りて、衰亡せる他の寺より――たとへば玉虫厨子《たまむしのずし》などの如く――移入されしものなるべし。元禄《げんろく》、享保の頃、法隆寺の学僧良訓が手録せる『良訓補忘集』及び同じ人の『古今一陽集』には、ともにただ異国よりの将来にして伝歴明《あきら》かならざるよしを記せるのみにて、特に「百済より」といふことはあらず。依《よ》つて思ふに、「百済観音」の名が、一般的に固定するに至りしは、恐らく明治時代の中期以後なるべく、作者のこの歌も、或《あるい》は何程かこの固定に貢献し居るやも知るべからず。ことに亡友浜田青陵君が、大正十五年(1926)に出したる美術随筆集を『百済観音』と名づけ、その赤き表紙に、作者の自筆なるこの歌を金文字にて刷り込みたることなど、この場合として思ひ出さるることなり。
また作者は、かつてこの像の台座の底面を見たることありしに、「虚空蔵」の三字が達筆に墨書されてありき。これは法輪寺にて、この像と殆《ほとん》ど同型、同持物の菩薩像《ぼさつぞう》を、同名にて呼び来れると同じく、中古には、虚空蔵菩薩を中心とせる会式の本尊として、便宜上、法隆寺にても通用したることありしなるべし。されど倉庫の中より、別に発見されたる、まさしくこの像の宝冠と見るべきものに、阿弥陀《あみだ》の化仏《けぶつ》が透彫《すきぼ》りに刻まれてあるは、虚空蔵にあらずして観音なることの一確証なり。(化仏トハ宝冠、宝髻《ホウケイ》、マタハ光背ナドニ、小形ノ像ノ取リ附ケラレタルヲイフ。)
つと いれば あした の かべ に たち ならぶ
かの せうだい の だいぼさつ たち
つといれば・「つと」とは卒然としてといふに同じ。俳諧《はいかい》の季題に「つと入り」といふことあるも、ここには何等関係なし。
せうだい・招提。唐招提寺《とうしようだいじ》を指していへり。作者この歌を詠みしころは、博物館のホールに入りたるばかりの処に、雪白の堊壁《あへき》を背にして、唐招提寺のみにあらず、薬師寺、大安寺などの等身大の木彫像林立して頗《すこぶ》る偉観を呈したり。
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
をゆび の うれ に ほの しらす らし
をゆび・「おゆび」といはば「お」は接頭語にて、ただ「ゆび」といふに同じきも、「をゆび」は小指なり。小指の末端は最も敏感なるものなれば、かく詠めるなり。
うれ・末端。
ほのしらすらし・ほのかに認識したまふなるべしといふなり。『万葉集』には「ほの聞く」といふ語あり。中古には「ほの見る」「ほの聞く」「ほの思ふ」などいへる例あれば「ほの知る」とつづけたるなり。「しらす」は「しる」の敬称。「らし」は推量。
こんでい の ほとけ うすれし こんりよう の
だいまんだら に あぶ の はね うつ
こんりよう・紺綾。紺色の綾地《あやぢ》に金銀泥にて描きたる縦広一丈にあまる大曼荼羅《だいまんだら》。金剛界、胎蔵界の二幅あり。空海(774−835)が唐土より齎《もたら》すところといふ。高市郡高取町子嶋寺の出陳なりき。
高畑《たかはたけ》にて
たびびと の め に いたき まで みどり なる
ついぢ の ひま の なばたけ の いろ
高畑・奈良市の町名。東大寺より南方に当る。新薬師寺のある所。
ついぢ・「築き地」の転。また「ついひぢ」「ついがき」などいふ。土を築き上げ、その中に屋根瓦《がはら》、石塊、木柱などを塗り込めて作れる塀《へい》。「ひま」とは崩《くづ》れたる間隙《かんげき》。『枕草子』には「人にあなづらるるもの、ついぢのくづれ」、『伊勢物語』には「ついひぢの崩れより通ひけり」、『古今著聞集《ここんちよもんじゆう》』には「ついぢの上に瞿麦《なでしこ》をおびただしく植ゑられたり」など諸書にいろいろの例ありて聯想《れんそう》豊かなり。
かうやくし わが をろがむ と のき ひくき
ひる の ちまた を なづさひ ゆく も
のきひくき・この辺は、奈良にても、やや場末なれば、軒低き家多きなり。
なづさふ・なつかしむ。
新薬師寺の金堂にて
たびびと に ひらく みだう の しとみ より
めきら が たち に あさひ さしたり
新薬師寺・高畑町にあり。古来東大寺の末寺たり。西の京に薬師寺あるを以《もつ》て「新」の字を加へたるなり。これを混同する人多けれども全く別寺なり。聖武《しようむ》天皇の眼疾平癒《へいゆ》のために、天平十九年(747)光明《こうみよう》皇后の建つるところ。天平勝宝二年(750)寺領を定めて五百町を寄せ、住僧百余人に及べる一伽藍《がらん》なりしが、宝亀《ほうき》十一年(780)雷火によりて、一日にしてその金堂、講堂、西塔《さいとう》を失へり。今この寺にて金堂と称するものは、その位置、構造、規模などより考ふるに、決して最初の金堂にはあらずして、わづかに残存せる一棟《ひとむね》、たとへば食堂《じきどう》などにてありしが如し。
また今の金堂にて、本尊《ほんぞん》薬師如来を囲繞《いによう》せる十二神将は、本尊よりも古き様式を持つのみならず、廃滅せる岩淵寺《いはぶちでら》より移入せりといふ伝説あり。しかるにこの寺の別堂に近頃まで安置せる「香薬師《こうやくし》」の立像は、その様式、これ等の神将群よりも更に古し。いづれも本末を顛倒《てんとう》せるものの如し。また、この寺の最初の十二神将は、何の時か興福寺の衆徒のために奪ひ去られて、その寺の東金堂の壇上に陳列され居りしことは、保延六年(1140)の『七大寺巡礼私記』に記しあれども、これ等の神将像は、かの治承四年(1180)の罹災《りさい》によりて堂と共に全滅して、今また見るべからず。諸仏の運命も、その果敢《は か》なきこと人間界に似たりといふべきなり。
しとみ・蔀。後世にいたりて造りつけたるものなるべし。平素は密閉して堂内は暗黒なれども、たまたま美術行脚《あんぎや》の人々など来りて乞《こ》はるる時にのみ、寺僧は之《これ》を開きて暫《しばら》く外光を入るるなり。
めきら・「迷企羅」の漢字を宛《あ》つれども、実はその漢字には意味なく、梵名《ぼんめい》の原音の宛て字なり。薬師如来に従属する十二の神将の一。ただしこの寺の十二神将は、その製作、日本に現存する神将像中最も古く、したがひて、その形式は後世に固定せるいづれの儀軌にも吻合《ふんごう》せざるが故《ゆゑ》に、凡《およ》そかかる場合には一一《いちいち》の名称は、その寺にて従来称《とな》へ来《きた》りしところに従ふを穏当とす。しかるに作者がこの歌を詠じたる時には、本尊の右側に立ちて、太刀《た ち》を抜き持ち、口を開きて大喝《だいかつ》せるさまにて、怒髪の逆立《さかだち》したるこの一体には、寺にては、久しくその脚下に「迷企羅大将」の名標を添へおきたりしかば、作者はその意を尊重して、かくは詠じたるなり。然《しか》るにその後、現住職福岡師の勉強にて、この群像は最も『恵什鈔《けいじゆうしよう》』の儀軌に近きことを発見し、今は同鈔に従ひて一一の名称を改め、堂内の配列をも変へ居るなり。
特に初心の読者のために述べんに、ここに「儀軌」といへるは、礼拝祈祷《らいはいきとう》の対象として仏像の製作をなし、これを厳飾し、または仏具の配列など為《な》さんとするに当り、それぞれ特殊の形式に従はしむるやうに規定せるものをいふ。されども、その儀軌にも種類ありて、必ずしも互《たがひ》に一致せざるのみにあらず、いづれにするも、平安朝初期に密教が我が国に渡来せる後に、やうやく盛《さかん》に行はれ来りしことなれば、それ以前の古像を、之を以て律することは、この歌の作者の躊躇《ちゆうちよ》せんとするところなり。
なほこの書の中「軍荼利夜叉明王《ぐんだりやしやみようおう》」「百済観音」「九品《くほん》ノ弥陀《みだ》」「中宮寺本尊」の条に儀軌の一端に触れたり。それらによりて、儀軌といふものをよく理解せらるべし。
香薬師《こうやくし》を拝して
みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の
やまとくにばら かすみて ある らし
香薬師・奈良時代前期と思《おぼ》しき形式を、その製作の細部に有する小像にて、傑作の名高かりしを、昭和十八年(1943)第三回目の盗難に罹《かか》りたるままにて、遂《つひ》に再び世に出《い》で来らず。惜みても余りあり。正倉院に伝来せる天平勝宝八歳(756)の『東大寺定界図』に「新薬師寺堂」の東北に当る丘陵地帯に「香山堂」の名あり。おもふに、わが「香薬師」は、本来この堂に祀《まつ》れるを、何故《なにゆゑ》かこの堂は早く荒廃して、この像は「新薬師寺」に移され、その後はその記念のために「香」の一字を仏名の上に留《とど》めたるなるべく、寺そのものも、この像あるがために、『延暦僧録《えんりやくそうろく》』または『東大寺要録』その他に見ゆる如く「香薬寺」といふ別名を得るに至りしなるべし。『延暦僧録』に曰《いは》く「皇后マタ香薬寺九間ノ仏殿ヲ造ル、七仏浄土七躯《シチク》ヲ造リ、請《シヨウ》ジテ殿中ニ在《ア》リ。塔二区ヲ造リ、東西ニ相対ス。鐘一口ヲ鋳ル。住僧百余。」と。亦《ま》た以て今日の諸堂の衰微と甚《はなは》だ相似ざるものなりしことを知るべし。
また「香山」の二字は、或は「カグヤマ」と和様に読むべきこともあれど、ここにては「カウゼン」を正しとす。ヒマラヤ山脈の中にて、今は「カイラーサ山」と称するものを指《さ》して、仏典にては「香酔山」又は「香山」と書き、また、かの『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』の中にて「香山浄土」または「香山」と書けるは、共にこれなり。
うつらまなこ・何所《ど こ》を見るともなく、何を思ふともなく、うつら、うつらとしたる目つき、これこの像の最も著しき特色なり。されど「うつらまなこ」といふ語は、さきに出でし「うつつごころ」とともに、古人に用例あるを知らず。或はこの歌の作者の造語ならむ。
ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の
みそなはす とも あらぬ さびしさ
あふぎみれども・高さ二尺四寸の立像にて、決して高しとはいふべからざるも、薬師堂の正面の壇上に、やや高く台座を据ゑたれば、「仰ぎ見る」とは詠《よ》めるなり。
この歌を作者自筆の碑は、今は空《むな》しくその堂の前に立てり。嶋中《しまなか》雄作君の建つるところ。
高円山《たかまどやま》をのぞみて
あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に
ゆきて しめさむ いも も あら なく に
高円山・春日《かすが》山の南、新薬師寺の東にあたる小丘。聖武天皇の離宮ありしところ。後々まで萩《はぎ》の名所となれり。『万葉集』に「宮人《みやびと》の袖《そで》つけ衣《ごろも》秋萩に匂《にほ》ひよろしき高円の宮」「わが衣摺《す》れるにはあらず高円の野べ行きぬれば萩の摺れるぞ」などあり。なほ後世この山の萩の歌多し。
そでにはすらじ・奈良時代には植物の花葉をそのまま衣服に摺りつけて模様とすること行はれたり。これを「はなすりごろも」また「すりごろも」などいふ。
滝坂にて
かき の み を になひて くだる むらびと に
いくたび あひし たきさか の みち
滝坂・『大和名所図会』には滝坂を紅葉の名所とし、里人数輩が、渓流の岸なる樹下に毛氈《もうせん》を敷きて、小宴を開くの図を出し、その上に「千里ノ楓林《フウリン》ハ煙樹深ク、朝トナク暮トナク猿吟《エンギン》アリ。」と題せり。文字の誇張はさることながら、この辺に野猿の多きは、これにても見るべし。
くだる・石切峠より下り来るなり。
まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
くひ もて ゆきし たきさか の みち
まめがき・字書によれば「葡萄柿《ぶどうがき》」「ころ柿」など、みな「まめがき」といふ別名あるよし。されど、ここに詠《よ》みたるは、極《きは》めて小粒の柿といふまでのことなり。すなはち「豆本」「豆電球」の「豆」のごとし。
かけ おちて いは の した なる くさむら の
つち と なり けむ ほとけ かなし も
つちとなりけむ・この歌は、かかる仏もあるべしと想像して詠みしなるも、俗に「寝仏」と名付けて、路傍に顛落《てんらく》して、そのまま横たはり居《を》るものもあるなり。
たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて
きよき かはせ に あそびて ゆかな
たきさかの・この歌偶然にも「カ」行の音多く、「カ」四、「キ」五、「コ」一あり。幾分音調を助け居るが如し。後に法隆寺金堂の扉《とびら》の音を詠みたる歌の音調の説明を参照すべし。
ゆかな・「な」は希願の助辞。
ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の
あかき はさみ に あき の かぜ ふく
はにふ・埴《はに》のあるところ。
あかきはさみ・胴体小さく、鋏《はさみ》のみ赤き沢蟹《さはがに》は、川岸を駈《か》けめぐること神速にして飛ぶが如し。
地獄谷にて
いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし
まつ の はやし に めじろ なく なり
地獄谷・滝坂より進みて石切峠の急坂を攀《よ》ぢ、左側に石仏群を見る。久寿二年(1155)の刻銘、保元二年(1157)の墨書あり。それより東南に小径《こみち》を進むこと三百メートルに地獄谷石窟《せつくつ》あり。その壁上に六体の仏菩薩《ぶつぼさつ》像を線刻し、もと彩色を施し、所々に金箔《きんぱく》を押したる痕跡《こんせき》あり。藤原時代の作と見らる。
『沙石集《しやせきしゆう》』(1279)『春日《かすが》御流記《ごりゆうき》』の二書には同文にて、解脱上人《げだつしようにん》の弟子なる璋円《しようえん》は死後魔道に堕《お》ちて、その霊が、或る女に憑《つ》きて、その口を藉《か》りて云はしめし言葉として、春日明神は、春日野の下に地獄を構へて、毎朝亡者《もうじや》の口に清水《しみず》を灑《そそ》ぎ入れて、正念《しようねん》に就《つ》かしめ、大乗の要文を唱へ聞かせて得脱せしめらるるよしを記《しる》せり。されど、これを以《もつ》て「地獄谷」の名称の起源となすとも、今の石窟中の諸像の製作時代には関するところ無かるべし。
東大寺にて
おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
おほき ほとけ は あまたらしたり
東大寺・大仏殿は天平十七年(745)聖武天皇によりて奈良の地にて起工。治承四年(1180)平重衡《たひらのしげひら》によりて焼失。建久六年(1195)源頼朝《みなもとのよりとも》(1147−1199)大檀越《だいだんおつ》となりて再建。永禄十年(1567)三好《みよし》、松永の兵火にて焼かれ、宝永五年(1708)復興落成せり。
作者が初めてこの寺に詣《まう》でたるは、明治四十一年(1908)恰《あたか》も大修理の最中なりしかば、境内《けいだい》には木石の山を築き、鉋鋸《ほうきよ》の響《ひびき》耳を聾《ろう》し、人夫車馬の来往織るが如く、危《あやう》くその中を縫ひて進めば、大仏の正面には、いと高き足場を組み上げ、その上より参拝せしめられたり。
あまたらし・盧舎那仏《るしやなぶつ》即ち大仏は、宇宙に遍満すとも、或《あるい》は宇宙と大さを同《おなじ》うすともいふべし。これを「あまたらす」といへり。「たらす」とは「充足す」「充実す」の意なり。今の大仏は従来幾度か火難に遇《あ》ひて、惜むべし上半身は後世の補修なれども、下半身は原作のままにしてことに座下の蓮片には、一片ごとに天平のままなる三千世界図の流麗なる線刻あり。すなはち『梵網経《ぼんもうきよう》』に説ける宇宙の図にして、大仏は実にかくの如き世界の、無数に集合せる上に、安坐することを、象徴的に示せるなり。仏教はもとより広汎《こうはん》深遠なるものにて、その大綱を知るさへ、決して容易にあらざれども、奈良地方を巡遊して、その美術的遺品を数をつくして心解せんとするほどの人々は、たとへ年少初学の士なりとも、志を深くし、適当なる指導者を得て、予《あらかじ》め相応なる知識的準備をなすを必要とす。その準備の深きに従ひて、収穫また従つて多かるべし。『梵網経』に曰《いは》く「コノ時、盧舎那仏即チ大ニ歓喜シ(中略)、諸《モロモロ》ノ大衆ニ示スラク、是《コ》ノ諸ノ仏子ヨ諦聴《テイチヨウ》シ、善思シテ、修行セヨ。我已《スデ》ニ百阿僧祇劫《アソウギゴウ》、心地ヲ修行シ、之《コレ》ヲ以テ因トナシ、初《ハジメ》テ凡夫ヲ捨テ、等正覚《トウシヨウガク》ヲ成シ、号シテ盧舎那トナス。蓮華《レンゲ》台蔵世界海ニ住シ、ソノ台周遍《アマネ》ク千葉《センヨウ》アリ、一葉ハ一世界ニシテ、千世界トナル。我化シテ千釈迦《シヤカ》トナリ、千世界ニ拠リ、後ニ一葉世界ニ就キテ、復《マ》タ百億ノ須弥山《スミセン》、百億ノ日月、百億ノ四天下、百億ノ南閻浮提《ナンエンブダイ》アリ。百億ノ菩薩釈迦、百億ノ菩提樹下《ボダイジユカ》ニ坐シ、オノオノ汝《ナンヂ》ガ問フ所ノ菩提薩〓《サツタ》ノ心地ヲ説キ、ソノ余ノ九百九十九釈迦ハ、オノオノ千百億ノ釈迦ヲ現ズルコト、マタマタ是《カク》ノ如シ。千華上ノ仏ハ、是レ吾ガ化身ナリ。千百億ノ釈迦ハ、是レ千釈迦ノ化身ニシテ、吾《ワレ》已ニ本原ニシテ、オノオノ盧舎那仏トナル。」とあり。またその下巻には「我今盧舎那、方《マサ》ニ蓮華台ニ坐シ、周匝《シユウソウ》千葉ノ上、マタ千ノ釈迦ヲ現ジ、一華百億国、一国一釈迦ニシテ、オノオノ菩提樹下ニ坐シ、一時ニ仏道ヲ成ズ。」とあり。
また作者が自筆のままにこの歌を刻したる石碑は、大仏殿の中門の西に当る木立の中にあり。高さ一丈五尺。嶋中鵬二《ほうじ》氏の建立するところ。
あまたたび この ひろまへ に めぐり きて
たちたる われ ぞ しる や みほとけ
ひろまへ・神社仏閣の前庭。
戒壇院をいでて
びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
まなこ に み つつ あき の の を ゆく
戒壇院・聖武天皇(701−756)の招請により、天平勝宝六年(754)に我国に渡来せる唐僧鑑真《がんじん》は、翌年大仏殿前に戒壇を築きて、天皇、皇后、以下百官、僧俗に戒律を授け、その後大仏殿の西方なる現在の地に之《これ》を移せり。しかるに、この院は、幾度か火災に遇《あ》ひ、現在の堂宇は、享保十年(1725)の再建立なり。堂内の中央なる土壇の上に五重の小塔あり。その中に釈迦、多宝の二躯《にく》の坐像あり。共に満身に罹災の痕《あと》を示せり。然《しか》るに東大寺の僧凝然の『三国仏法伝通縁起』(1311)は最初の戒壇を談《かた》りて「立ツル所ノ戒場ニ三重ノ壇アリ。大乗菩薩三聚浄戒ヲ表スル故ニ、第三重ニ多宝塔ヲ安ンズ。塔中ニ釈迦多宝二仏像ヲ安ンズ、一乗深妙理智冥合《メイゴウ》ノ相ヲ表ハス。」といへり。ことに壇の四隅には、最初は天平勝宝七年(755)に成りし鋳銅の四天王像を安置したりといふ。また壇を築ける土は、天竺《てんじく》、唐土、日本のものを和して用ゐたれば、之を甞《な》むれば、その味、天竺の大那爛陀寺《だいならんだじ》のものの如くなりしといふ。
びるばくしや・広目天の梵名《ぼんめい》 。「毘楼博叉」又は「毘留羅叉」の漢字を宛《あ》つ。
まゆねよせたる・両の眉《まゆ》を寄せて、遥《はる》かなる彼方《かなた》を見入るが如き目つきをなせり。しかるに奈良に住める一部の人々の中には、この像の目つきは、甚《はなは》だこの歌の作者のそれに似たりと評する者あれど、果して如何《いかん》。これにつきて『渾斎《こんさい》随筆』に記せり。
東大寺懐古
おほてら の ほとけ の かぎり ひともして
よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき
懐古・『続日本紀《しよくにほんぎ》』によれば「天平十八年(746)十月、天皇、太上天皇、皇后、金鐘寺ニ行幸シ、燈ヲ燃シテ盧舎那仏ニ供養シ、仏ノ前後ノ燈一万五千七百余坏《はい》ナリ。夜一更ニ至ルトキ、数千ノ僧ヲシテ、脂燭《シソク》ヲ〓《ササ》ゲテ賛歎供養シテ、仏ヲ繞《メグ》ルコト三匝《サンソウ》セシメ、三更ニ至リテ宮ニ還《カヘ》ル。」また天平勝宝六年(754)正月の条にも「東大寺ニ行幸ス。燈ヲ燃スコト二万ナリ。」とあり。ここに天皇とは聖武、太上天皇とは元正《げんしよう》、皇后とは光明をさせり。また金鐘寺とは東大寺の前称なり。
ほとけのかぎり・寺中のいやしくもあらゆる諸仏、諸菩薩、諸天の像にも悉《ことごと》く献燈せりといふこと。
おほてら の には の はたほこ さよ ふけて
ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける
はたほこ・『万葉集』には「幡幢《はんとう》」、『和名類聚鈔《わみようるいじゆしよう》』には「宝幢」の漢字を宛てたるも、作者はむしろ『東大寺要録』の如く「幡鉾」の二字を宛てむとす。即ち鉾《ほこ》の形をなせる竿《さを》に幡《はた》を取りつけたるものなればなり。但《ただ》し幡には、金属製なるも、麻製なるも、また絹製なるもあり、従つて彫鏤《ちようる》せるもの、描染せるもの、刺繍《ししゆう》せるものもありしなり。かの天平十五年(743)の東大寺大仏鋳造発願文《ほつがんぶん》に「虹幡《こうはん》」「雲幢」の語あるは、この類の色彩の華《はな》やかなる物をいへるなるべく、ことに『東大寺要録』には天平勝宝四年(752)車駕《しやが》親臨の条及びその他に「繍幡」の語を用ゐること数回に及べり。即ちこれ作者の謂《い》ふところの、刺繍の紋様ある幡鉾なり。また『東大寺要録』には「繍観自在菩薩像三鋪」、『唐大和上東征伝《とうのだいわじようとうせいでん》』には「繍千手像一鋪」あり。空海の『性霊集《しようりようしゆう》』に「荒城大夫奉造幡上仏像願文一首」を載せ、その中に「宝幡ノ上ニ十方ノ仏菩薩神王等ノ像六十躯ヲ図シ奉ル」の句あり。
奈良坂にて
ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
こさめ ながるる はる は き に けり
ならざか・昔は平城京大内裏《だいだいり》の北方を山城国《やましろのくに》へ抜ける道を「ならざか」と呼びしが、今はこれを「歌姫越《うたひめごえ》」といひ、もとの般若寺《はんにやじ》越の坂を「ならざか」といふこととなれり。
いしのほとけ・奈良坂の上り口の右側の路傍に俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。永正六年(1509)四月の銘あり。その表情笑ふが如《ごと》く、また泣くが如し。
またこの像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に「朝日観音」といふものあるに遥《はる》かに相《あひ》対するが如し。
浄瑠璃寺《じようるりじ》にて
じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる
はる の やまべ を ひとり ゆく なり
浄瑠璃寺・一名九体寺《くたいじ》。山城国相楽《そうらく》郡当尾《とうのお》村字西小《にしお》にあり。天元五年(982)多田満仲《ただのみつなか》の創基、永承二年(1047)義明の再興と称す。寺名「九体」といふは阿弥陀《あみだ》を想《おも》はしめ、「浄瑠璃」の薬師を想はしむると一致せず。その間に寺史の変遷を暗示せるなり。
じやうるり・仏典によれば、東方十恒河沙《ごうがしや》の里程に薬師瑠璃光如来《によらい》の浄土あり。これを浄瑠璃世界といひ、これを以《もつ》て西方阿弥陀如来の極楽世界に対す。「恒河」とは即ちガンジス河をいふ。その河底の砂粒の限りなきが如き大数を現さんとする表現なり。
かれ わたる いけ の おもて の あし の ま に
かげ うちひたし くるる たふ かな
たふ・塔。藤原時代の三重塔あり。檜皮葺《ひはだぶき》。治承二年(1178)一条大宮より移建せるもの。この塔内に薬師如来の坐像あり。
あしのま・蘆の間。
びしやもん の ふりし ころも の すそ の うら に
くれなゐ もゆる はうさうげ かな
はうさうげ・宝相華。図案化したる一種の華麗なる植物文様《もんよう》。ただしこの歌を詠《よ》みし後、数年を経て、作者はふたたびこの寺に至りて堂の床に匍《は》ふやうにして窺《うかが》ひ見るに、この毘沙門像の裾《すそ》の裏には、この歌にいへる如き鮮紅色の宝相華は見当らざりき。見たる如く思ひ違ひて、帰り来《きた》りて後にかくは詠みなししものと見ゆ。
平城宮址《し》の大極芝にて
はたなか の かれたる しば に たつ ひと の
うごく とも なし もの もふ らし も
平城宮・元明天皇の和銅三年(710)都を平城京に遷《うつ》し、皇居を平城京といふ。
大黒芝・だいこくのしば。もとの大極殿の址《あと》。「大極」といふことばは里人には耳遠くなりて、いつしか「大黒」となれるなり。一面に芝草を植ゑたり。
ものもふ・物思ふの略。
はたなか に まひ てり たらす ひとむら の
かれたる くさ に たち なげく かな
まひてりたらす・「ま」は接頭語。充分に日光の照らせりといふこと。作者はこの後「平城宮址懐古」七首あり。かかげて作者の『全歌集』にあり。参読してこの史蹟《しせき》の余情を偲《しの》ぶべし。
海龍王寺にて
しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
はしら の まそほ かべ に ながれむ
海龍王寺・別名を「角寺《すみでら》」「隅院《すみのいん》」などいふ。天平三年(731)光明皇后の立願にて建立。玄〓《げんぽう》は僧正義淵《ぎえん》の門より出《い》で、眉目《びもく》秀麗音声清朗にして学才あり。霊亀《れいき》二年(716)唐に赴《おもむ》き、智周より法相《ほつそう》の薀奥《うんのう》を受け、皇帝玄宗より紫色の袈裟《けさ》を贈られ、経論章疏《しようそ》五千余巻を齎《もたら》して、天平六年(734)得々として帰朝し、聖武天皇及び皇后の殊遇を受け、内道場に出入し、この海龍王寺に居れり。当時彼のために企てられしこの寺は、金堂、東西金堂、五重小塔、講堂、経蔵《きようぞう》、鐘楼《しようろう》、三面僧房、食堂《じきどう》、浴室等を悉《ことごと》く備へたりと称せらるるも、今日にしては、その最初の西金堂と鎌倉時代再建の経蔵とを遺《のこ》せるのみなるは、まことに甚《はなはだ》しき凋落《ちようらく》といふべし。今は真言律宗。
しぐれのあめ・後世にては、ただ「しぐれ」とのみいふを、『万葉集』だけにても、この語を含みたる歌は十数首に及べるが、作者は暢《の》びやかなるこの語の音調を好めり。ことに天平十一年(739)十月、皇后主催の維摩会《ゆいまえ》に、唐楽、高麗楽《こまがく》を供養したるのち、 市 原 王 《いちはらのおほぎみ》、忍 坂 王《おさかのおほぎみ》が弾《ひ》ける七絃琴に合せて、田 口 家 守《たぐちのやかもり》、河辺東人《かはべのあづまひと》等数人が歌ひたる仏前の唱歌に「時雨《しぐれ》のあめ間《ま》なくな降りそ紅《くれなゐ》に匂《にほ》へる山の散らまく惜しも」といへるを、作者は愛唱すること久しかりしかば、図らずも、その皇后に縁浅からざるこの寺に臨みて詠《よ》める歌は、おのづから、その余韻を帯び来《きた》りて、恰《あたか》もこれに唱和せるが如きを覚ゆ。されど歌材は、あくまでも、眼前の実情なり。また実朝の『金槐集《きんかいしゆう》』には「いたくなふりそ」の句二度まで見ゆるも、作者の態度は、著者とは互《たがひ》に同じからず。
まそほ・真赭。「ま」は接頭語。赭色《あかいろ》の顔料。建築の塗料とす。『万葉集』には「仏《ほとけ》造るまそほ足らずば水たまる池田の朝臣《あ そ》が鼻の上を掘れ」などいひ、「まそほ」には「真朱」の二字を宛てたり。
ふるてら の はしら に のこる たびびと の
な を よみ ゆけど しる ひと も なし
はしらにのこる・作者往年微酔を帯びて東大寺の傍《かたはら》を過ぎ、その廻廊の白壁に鉛筆を以て文字一行を題して去りしが如し。還《かへ》つて自ら之《これ》を記憶せざりしに、十数年にして人ありて之を見たりと称す。信ぜずしてその文を質《ただ》せば、乃《すなは》ち曰《いは》く「秋艸道人《しゆうそうどうじん》酔ひてこの下を過ぐ」と。これを聞きて苦笑これを久しくしたるも、今は洗ひ去られてまたその痕跡《こんせき》なし。
法華寺本尊《ほつけじほんぞん》十一面観音
ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に
あひみる ごとく あかき くちびる
法華寺本尊・この寺は、藤原不比等《ふひと》(659−720)の歿後《ぼつご》、その次女なる光明皇后(701−760)が父の遺宅を移して寺となしたるに始まり、天平十三年(741)聖武天皇が東大寺を「総国分寺」とし、「四天王護国ノ寺」と名づけたるに対して、皇后は之を「総国分尼寺《にじ》」とし、「法華滅罪ノ寺」と名づけたり。この上代に於《お》ける一女人として、その意気の雄邁《ゆうまい》なるに感ぜざるを得ず。然るに、次第に寺運傾き、鎌倉時代に至りて嵯峨《さが》の二尊院の湛空《たんくう》(1176−1253)の修理、西大寺の叡尊《えいそん》(1201−1296)の復興を経たるも、乾元《けんげん》二年(1303)の記録には、すでに「棟《ムネ》破レテ甍《イラカ》アラハナリ。壇崩《クヅ》レテ扉《トビラ》傾ク。」とあり。しかして応永十五年(1408)には西塔《さいとう》炎上し、その後興亡二百年の末、堂一宇、塔一基のみとなり果てたるに、今の本堂は、もとの金堂の余材を以て、豊臣秀頼《ひでより》が生母淀君《よどぎみ》の菩提《ぼだい》のために、慶長六年(1601)片桐且元《かたぎりかつもと》に命じて再興せしめたるものなりとて、欄杆《らんかん》の擬宝珠《ぎぼし》にその刻文あり。創建当時の俤《おもかげ》とては、少数の国宝と、庭前に散在する一々の残礎とによりて空《むな》しく之を偲《しの》ぶべきのみ。ただ本尊十一面観音ありて、今もこの寺の名をして高からしむ。依《よ》つて想《おも》ふに、ここに録したる四首の歌は、この像を天平盛期の製作とし、ことにこの皇后の在世の日に来朝したる異国美術家の手に成りし写生像なりとして、専門史家の間にも信ぜられたる明治時代に、これらの甘美なる伝説に陶酔して、若き日の作者が詠じたるものなり。されど、この寺の最初の本尊が、この観音像よりも一時代早き丈六の如来像なりしことは、『諸寺縁起集』『元亨釈書《げんこうしやくしよ》』などに明かなるのみならず、現に同寺に丈六型の如来像の頭一個と、脇侍《きようじ》のものと見ゆる天部像の頭二個を有することを併《あは》せて考ふべきなり。
うつしみに・現身に。この像に対すれば、皇后を目《ま》のあたりに見るが如しといふなり。伝説によれば、北天竺の乾陀羅国《けんだらこく》の王が、遥《はるか》にこの皇后の絶世の美貌《びぼう》を伝へ聞き、彫刻家にしてその名を文答師《もんどうし》といふものを遣《つか》はして、皇后に請ひて写生して作らしめたる三躯《さんく》の肖像のうち、一躯は本国に持ち帰り、他の二躯はこの国に留《とど》め、この寺と施眼寺とに安置されたりといふこと『興福寺流記《るき》』『興福寺濫觴記《らんしようき》』などに見ゆ。
この施眼寺今すでに在《あ》らず、その像また行く所を知らざるも、『興福寺濫觴記』に引けるその寺の『流記』の一節によれば、像は一度賊のために施眼寺より盗み去られしも、たまたま興福寺の僧寿広《じゆこう》の獲《う》るところとなり、天長二年(825)これをその寺の西金堂内に安置せりといひ、また皇后在世の日、我が歿《ぼつ》する後六十余年にして、この肖像の、この寺に帰すべきを予言せられたりといへり。その事甚《はなは》だ妄《みだり》なるが如きも、今もし此の像の様式を以て、天長二年の製作となさば、人多くこれを怪まざるべし。この伝説の中には深く寓《ぐう》するところあるに似たり。
法華寺温室懐古
ししむら は ほね も あらはに とろろぎて
ながるる うみ を すひ に けらし も
からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
うみ に あきたる あかき くちびる
からふろ・光明皇后は仏に誓ひて大願を起し、一所の浴室を建て、千人に浴を施し、自らその垢《あか》を流して功徳を積まんとせしに、九百九十九人を経て、千人目に至りしに、全身疥癩《かいらい》を以て被《おほ》はれ、臭気近づき難きものにて、あまつさへ、口を以てその膿汁《のうじゆう》を吸ひ取らむことを乞《こ》ふ。皇后意を決してこれをなし終りし時、その者忽《たちま》ち全身に大光明を放ち、自ら阿〓《あしく》如来なるよしを告げて昇天し去りしよし、『南都巡礼記』『元亨釈書』その他にも見ゆ。
「からふろ」に往々「唐風呂」の字を充《あ》つれども、蒸風呂にて水無きを「から」といひしなるべければ、「空風呂」を正しとすべし。現にこの寺の庭上にありて皇后を記念すと称する一宇の浴室は蒸風呂なり。また法隆寺の北方の民家にも、かかる浴場を営みて「からふろ」と称するものあり。
また『和州旧跡幽考』には「法華寺の鳥居のたつみ、わづかに隔りて、田の中に松の一木ありし所ぞ、阿〓寺の跡なる。当代は鳥居もなく、松も見えず。」とあり。この阿〓寺こそは、この奇蹟《きせき》を記念せんために、皇后が建てしめられしものと云ひ伝へ、なほこの所にこの寺の浴場の遺物とて、大石槽《せきそう》の破片ありしを、天正《てんしよう》年中(1573−1591)郡山城《こほりやまじよう》の築造に石垣《いしがき》の材料にと運び去られしといふこと『法華尼寺縁起』その他に見ゆれば、特殊なる浴室の存在せしことは考ふるに足るべきも、阿〓仏出現の奇蹟は今にして論議にも及ばざるべし。
からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を
ひと に すはせし ほとけ あやし も
ししむら・肉体。「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。
あやしも・霊異なり、怪奇なり、不可思議なりといふこと。「も」は接尾語。
秋篠寺《あきしのでら》にて
たかむら に さし いる かげ も うらさびし
ほとけ いまさぬ あきしの の さと
秋篠寺・生駒《いこま》郡平城村秋篠にあり。今は浄土宗。奈良電車平城駅より西一キロ。平城京の西北の角。光仁《こうにん》天皇の命にて宝亀《ほうき》十一年(780)善珠僧正(723−797)の開基。もとは七堂伽藍《がらん》の備はれる大寺なりしも、保延元年(1135)の火災にて講堂以外悉《ことごと》く焼亡し、後再建せられしも、また兵火に遇《あ》ひ、現在は講堂のみ本堂として遺《のこ》り、寺地も甚《はなはだ》しく狭隘《きようあい》となれり。京都なる宮廷の御修法《みずほう》に因縁深かりし鎌倉時代製作の大元帥《だいげん》明王像は、今も寺中に鎮座すれども、その堂は近年の造立に変れり。
作者が初めてこの寺を訪《たづ》ねたる時は、住職と見ゆる一人の高齢の僧ありて、明治初年頃、このあたり諸寺窮乏のさまを詳《つまびら》かに語れる中に、仏像の多きに人手無くして供養に遑《いとま》あらぬ寺々にては、夜陰に出《い》でて仏菩薩の像をひそかに他寺の境内に棄《す》て、あるひは他より棄てられしものを、更にまた他に棄てに行きなどし、甚しきは、それらの破片を粗略にせんことも勿体《もつたい》なしとて、据風呂の薪《まき》となしたるもありと云々《うんぬん》。その僧の語れるところは、世に「ほとけ風呂」といひ伝へたるものありしことの偽《いつはり》ならぬを示せり。
かげ・太陽の光をいふ。陰影にはあらず。
ほとけいまさぬ・この歌を詠《よ》みしころには、この寺の救脱菩薩《ぐだつぼさつ》、伎芸天《ぎげいてん》、梵天《ぼんてん》など、美術として世に聞えたる諸像は多くは博物館などに寄託して、堂内は甚だ寂しかりしをいふ。
まばら なる たけ の かなた の しろかべ に
しだれて あかき かき の み の かず
かきのみのかず・累々《るいるい》として赤き柿の梢《こずゑ》は、秋篠《あきしの》より西京《にしのきよう》のあたりにかけて、晩秋の特異なる一景観なり。
あきしの の みてら を いでて かへりみる
いこま が たけ に ひ は おちむ と す
いこまがたけ・生駒山。大和《やまと》と摂津との境にあり。高き山にはあらねど、姿よろし。『新古今集』に載せたる西行《さいぎよう》(1118−1190)の歌に「秋篠や外山《とやま》の里やしぐるらん生駒の岳《たけ》に雲のかかれる」といふは、よく実際の景致を捉《とら》へたり。
西大寺《さいだいじ》の四王堂にて
まがつみ は いま の うつつ に あり こせど
ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も
西大寺・生駒郡伏見村字《あざ》西大寺にあり。電車は西大寺駅。寺は称徳天皇が天平神護元年(765)の創建にして、当時は薬師、弥勒《みろく》の両金堂以下、伽藍《がらん》の内外を厳飾して華美を極《きは》めたることは、宝亀十一年(780)に記録せるこの寺の『資財流記帳』を精読すれば明かなり。しかるに、その後、承和十三年(846)以来数度の火災にかかりて、衰廃に就《つ》き、鎌倉時代には、叡尊《えいそん》(1201−1296)この寺に住みて法運の恢興《かいこう》に努めしも、寺は文亀《ぶんき》二年(1502)罹災《りさい》して再び頓挫《とんざ》し、今に存する諸堂は、悉《ことごと》く江戸時代の建立となり、天平の面目は地を払ひて失はれたり。今は真言律宗。
四王堂・堂の名は奉安せる四天王像より来れり。創建の初め、それらの像の鋳造に幾度か失敗したるために、称徳天皇自ら寺に臨み、手づから熔銅《ようどう》を攪拌《かくはん》して工程に助力して、やうやく完成に至りしといふ。最初のものは七尺の銅像なりき。
まがつみ・邪鬼。邪神。最初の四天王は、おのおの、型の如《ごと》く脚下に邪鬼を踏み鎮《しづ》めて立ちしを、今は、その原作の四体は亡《ほろ》び去りて、後世の拙《つたな》き補作がこれに代り居《を》るに、その脚下なる邪鬼どもは、多少の損傷は、ともかくも、いづれも原作のものが今日にまで遺《のこ》れること、まことに皮肉とも見ゆべし。ことにその後補の四天王のうちの一躰《いつたい》は、短小貧弱なる木像となれるは、最も憐《あはれ》むべし。作者はこの現状に感じてかく歌へるなり。
いまのうつつに・今の現実に。現実なる今日に。
ありこす・今日までその存在を続け来たれりといふこと。「あり」は、さきに「ありたたす」あり、ここなる「ありこす」、また「ありがよふ」など、すべて同じ語勢なり。ただ『万葉集』の「ありこす」には希願の意味を含めるも、作者のこの場合は、「勝ち越す」「借り越す」などの「こす」にて、意味は同じからざるなり。我等が『万葉集』の歌に於《おい》て貴《たふと》ぶものは、その詠歌の態度と声調とにあり。千年を隔てて語義の変遷は免かるべきにあらず。またこれを避くべきにあらず。ことに又、造語は、時には作者の自由として許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥《こうでい》して、死語廃格を墨守すべきにあらず。新語、新語法のうちに古味を失はず、古語、古法のうちにも新意を出し来《きた》るにあらずんば、言語として生命なく、従つて文学としても価値なきに至るべし。
菅原《すがはら》の喜光寺にて
ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
きしや の ひびき の ゆき かへり つつ
喜光寺・一名菅原寺。法相《ほつそう》宗。伏見村菅原にあり。養老六年(722)行基《ぎようき》(670−749)の創基にして、天平七年その寂《じやく》するところといふ。今の金堂は応永年間に建てられしものなるも、創建の土壇と旧礎との上に、天平式の細部を以《もつ》て造立されたれば、俗間にては「大仏殿試みの雛形《ひながた》」なりと誤伝さるるを、作者は俗間にてしばしば聞きしことあり。事実を反対にせるが面白しともいふべし。
かなしむ・作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠《のねずみ》のすだくを聞けり。すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。
唐招提寺《とうしようだいじ》にて
おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
唐招提寺・西の京駅の東北半キロ。律宗大本山。天平宝字三年(759)唐僧鑑真《がんじん》の建立するところ。金堂内に、本尊毘盧舎那仏《びるしやなぶつ》、薬師如来、千手観音、大日《だいにち》如来等の巨像を始め、梵天、帝釈天《たいしやくてん》、四天王など、天平、平安の名作多し。初めて奈良地方の古美術を見学するものは、法隆寺の金堂、東大寺の三月堂、この唐招提寺の金堂、しかる後に室生寺《むろふじ》の金堂、法界寺の阿弥陀《あみだ》堂、平等院の鳳凰堂《ほうおうどう》などを、序を追ひて次々に参観することを忘るべからず。時代時代の建築と彫刻とが、ある程度まで、よく調和契合して、その中より発揮する、それぞれ濃厚なる、宗教的また芸術的雰囲気《ふんいき》の中に、日本文化史の大系とその色調とを悟得することを得べし。
つきかげ・上代の歌には「月光」を「つきかげ」と詠みたる例多きも、作者は、この歌にては、月によりて生じたる陰影の意味にて之《これ》を歌ひたり。作者自身も「光」の意味にて「かげ」を用ゐたる歌四五首ありて、別にこれらをこの集中に録しおけり。人もし言語を駆使するに、最古の用例以外に従ふべからずとせば、これ恰《あたか》も最近の用例以外には従ふべからずとすると等しく、共に化石の陋見《ろうけん》と称すべし。
つちにふみつつ・この歌を見て、古歌に「橘《たちばな》の影ふむ道のやちまたに物をぞ思ふ妹《いも》に会はずて」とあるを模倣したるにはあらずやと問ひ来《きた》りし人あれど、それには全く関係なきのみならず、この自作の方遥《はる》かによく単純化し得て、この古歌に比するも、必ずしも甚《はなはだ》しく遜色《そんしよく》ありとは思はずと答へおけり。
因《ちなみ》にいふ。この歌を作者自筆の碑は、この金堂の左側にあり。見んとする人は寺務所にてたださるべし。
せんだん の ほとけ ほの てる ともしび の
ゆらら ゆららに まつの かぜ ふく
せんだんのほとけ・この寺の礼堂に、嵯峨清涼寺《さがしようりようじ》と同式の釈迦《しやか》立像あり。その材は栴檀《せんだん》と称し、寺伝にては毘首羯磨《びしゆけちま》の作といひしも、胎内の文書には正嘉《しようか》二年(1258)の供養とあり。
まつのかぜ・この寺の境内には松樹多し。これこの寺の特殊なる一景観なれど、創建の初には、いまだかかる風趣を示さざりしは云ふまでもなからむ。またこの寺に、今は塔なきも、嵯峨天皇の弘仁元年(810)に建てられしその東塔は、徳川時代の後期、享和《きようわ》二年(1802)火災に逢《あ》ふまでは恙《つつが》なかりしなり。されば、寛政三年(1791)に出《い》でたる『大和《やまと》名所図会《ずえ》』には、明かにこの東塔の図を描けり。然《しか》るを、今この寺を訪《おとな》ふもの、多くは塔なきことを悲まず、また松あるを憂へざるは、蓋《けだ》し簡素に満足して自然を愛好する国民性の然らしむるところなるべし。
開山堂なる鑑真《がんじん》の像に
とこしへ に ねむりて おはせ おほてら の
いま の すがた に うちなかむ よ は
鑑真・唐招提寺《とうしようだいじ》の開祖(688−763)。『大蔵経《だいぞうきよう》』の史伝部には、各本ともに「真」を誤りて「貞」となせども、同寺にては「ガンジン」と二字ともに濁りて読み来れり。もと中国揚州《ようしゆう》の人。広陵の龍興寺の僧なり。若き時、両京に遊学して三蔵を究《きは》め、後揚州に帰りて戒律を教授せしが、天宝元年(742)日本の留学僧、大安寺の栄叡《えいえい》、興福寺の普照《ふしよう》の二人に遇《あ》ひ、日本の天皇が伝戒の人を求むること急なるを知り、渡来の志を起し、幾度か官憲の禁止と航海の困難とに阻《はば》まれしも、屈することなく、天平勝宝五年(753)我が国の遣唐使の帰航の船に便乗して、始めて薩摩《さつま》の地に着し、翌年都に入り、朝廷の殊遇を受け、仏像、舎利、経疏《きようそ》、法帖《ほうじよう》その他を献じ、上皇、太后、天皇、皇后以下の僧俗に戒律を授く。されど船中風浪の難を重ねて辛労多かりしがために、失明せりといふ。随行の徒弟中に多くの芸能人あり、日本文化に大なる貢献をなしたるは、真人《まひと》元開の著はしたるその伝記『東征伝』(778)に詳《つまびら》かなり。かくして鑑真は、最澄《さいちよう》、空海等が、密教を将来するに先だちて、我が仏教界に生面《せいめん》を開き与へたるも、彼の死後久しからずして、都は平安に遷《うつ》り、他の南都の諸大寺とともに、宗運次第に低下し、この寺は永久四年(1116)中川の実範《さねのり》が、その頽廃《たいはい》を慨《なげ》きて朝廷に請うて修理を加へたるものなるが、当時は堂宇朽損し、僧侶《そうりよ》は四散し、遂《つひ》にはただ一人を留《とど》むるのみとなり、その一人さへ農夫となりて、牛を追ひて寺地に耕作しつつあるに遇《あ》ひて、実範はこれに問ひて、わづかに鑑真の影堂の存在を知り、ともにその堂に上りて、彼より四分戒品《しぶんかいほん》の伝授を受くるを得たるなりといふ。
しかるに鎌倉時代に入りて、覚盛(1194−1249)叡尊《えいそん》(1201−1296)等輩出し、二人はともに、朝廷よりそれぞれ「大悲」「興正」の菩薩《ぼさつ》号を贈られたるほどの傑物にて、就中《なかんづく》前者はこの寺を中心として活躍し、暫《しばら》く再興の機運を迎へ得たるも、その後幾何《いくばく》もなくして、寺は再び寂寞《せきばく》に帰せり。
またこの寺には、鎌倉時代に僧蓮行《れんぎよう》が鑑真東航の顛末《てんまつ》を描ける五軸の絵巻物(1298)と、別にこの寺の盛時の全景を想像せる大軸の懸幅《かけふく》とあり。現状と対比せば感慨浅からざるべし。
ねむりて・この寺の開山堂に安置せる鑑真の紙塑《しそ》の肖像は、趺坐《ふざ》して瞑目《めいもく》せるさまに造れり。『招提千歳伝記《しようだいせんざいでんき》』によれば、これ天平宝字七年(763)五月遷化《せんげ》直前の風〓《ふうぼう》にして、かくの如《ごと》く結跏《けつか》趺坐して、定印《じよういん》を結びたるまま逝《ゆ》けりといふ。後世松尾芭蕉《ばしよう》(1644−1694)の俳句に「若葉しておん目の雫《しづく》ぬぐはばや」といへるは、この像を見ての作なり。
うちなかむよは・「よは」は「よりは」の古語。「うち」は接頭語。現状に泣かんよりは瞑目して居たまふべしといふなり。
大安寺をいでて薬師寺をのぞむ
しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より
み いでて うれし やくしじ の たふ
大安寺・奈良駅の西南一キロ。聖徳太子が創建せる「熊凝精舎《くまこりしようじや》」は、舒明《じよめい》天皇これを百済《くだら》河の畔《ほとり》に移して「百済大寺」といひ、天武天皇これを高市《たけち》郡に移して「高市大寺」また「大官大寺」といひ、元正天皇は養老元年(717)これを平城の新京に移し、聖武天皇は天平元年(729)より起工し、当時天竺《てんじく》の祇園精舎《ぎおんしようじや》の再現と称せられし唐の西明寺《さいみようじ》の図様を、入唐僧《につとうそう》道慈が齎《もた》らし帰りたるに〓《も》して、これを改築して「大安寺」といひ、七大寺の一に算《かぞ》へ、また東西の両大寺に対して「南大寺」と称す。今日にも遺《のこ》れるその東西両塔の礎石は、その間隔百三十五メートルあり。これを以《もつ》て見るも最初の規模の如何《い か》に宏壮《こうそう》なりしかを想像し得べし。然《しか》るにその後、幾度か火災にあひ、寺運衰傾し、今は僅《わづか》に一宇の仮堂を存するのみ。慶長年中(1596−1614)の記録には、諸像を二間四面の草室に積み重ね、本尊も数片に砕け「仏面ハ庭ノ芝草ノ敷物トナセリ」などいへり。かかる窮状を経来《へきた》りしためか、今この寺の仏像には、全身に無慚《むざん》なる損傷の痕甚《あとはなはだ》しきもの多し。
薬師寺・この寺の建立は、天武天皇の八年(680)に皇后の病気平癒《へいゆ》のために天皇これを起願したるに、その後天皇は崩《ほう》じ、平復したる皇后は即位して持統天皇となり、高市郡木殿《きどの》の地に先皇の遺願を継承して、一伽藍《がらん》の造立を企て、文武天皇の二年(698)に至り、その諸堂の構作は大略完了したるに、養老二年(718)の平城遷都となり、木殿に建立せしこの寺は、両塔とともに、そのまま原地に留め、それと殆《ほとん》ど同様式なる諸堂を新《あらた》に奈良の新京に建立し、その東塔が成りしは、天平二年(730)なり。しかして木殿の地にとどめたるもとの両塔は、承暦三年(1079)京都なる法成寺に移建したるも、永久五年(1117)に至りて共に焼失せり。奈良に於《お》ける東塔の建立につきては諸家の説あり。作者は雑誌『天平』第三号(1948)に一文を掲げしめおけり。
のずゑのむら・今はあさましき原野となりはてたる平城の都址《とし》を隔てて、西の京の方を望むに、時雨《しぐれ》の降りしきる里落の中より、まづ薬師寺の塔の目に入り来れるを詠《よ》めるなり。
薬師寺東塔
くさ に ねて あふげば のき の あをぞら に
すずめ かつ とぶ やくしじ の たふ
東塔・もとは東西の両塔ありしを、西塔は享禄《きようろく》元年(1528)に焼失して、今日はその礎石の中心なる正円形の凹《へこ》みに雨水を湛《たた》へたり。往昔《おうじやく》は、この凹みに小壺《こつぼ》に入れたる仏舎利を埋蔵し、その上を塔の心柱が塞《ふさ》ぎ居たるなり。また東西両塔の第一重には、本来は釈迦八相の泥塑《でいそ》群像を、おのおの四相づつ、即ち東塔には「入胎」、「受生」、「受楽」、「苦行」を、西塔には「成道《じようどう》」、「転法輪」、「涅槃《ねはん》」、「分舎利」の群像を、それぞれ分置したるものにて、ここに「入胎」とは天帝が母后の胎内に宿らんとするところ、「受生」とは降誕、「受楽」とは若き太子が宮苑《きゆうえん》にて遊楽のところ、「苦行」とは仙人《せんにん》の下にて苦行するところ、「成道」とは菩提樹下《ぼだいじゆか》に大悟するところ、「転法輪」とは説法、「涅槃」とは逝去《せいきよ》、「分舎利」とは八ケ国の国王がその遺骨を得んと争ふところをいふ。近年に至り、この寺の古き長持の中より、それらの残骸《ざんがい》らしきものを発見せり。今の法隆寺塔に仏伝的土偶を四面に配列したると類似の意匠なり。しかるに今はこの東塔の第一重の心柱の四側には、後世の習慣に従ひて、江戸時代製作の四方四仏像を取りつけてあり。恐らく西塔の焼失によりて、同じく八相の中にても「成道」「転法輪」「涅槃」など最も重要なる三相を失ひたるために、かくの如き整理の企てられたるならむ。
かつとぶ・ここに「かつ」といふ副詞は、その場の実感より偶然かく詠《よ》み出《い》でたるものにて、他の日本語にては説明しがたし。依《よ》りて思ふに「そばより」「かたはしより」など辞書に説けるが、作者の意に最も近きが如く思はる。
すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の
ひま にも すめる あき の そら かな
すゐえん・水煙。すべて塔の頂上に立つ九輪の上には、恰《あたか》も火焔《かえん》の如き形に鋳造せる銅板を掲ぐ。これを「水煙」といふ。「水」の字を用ゐるは火難を禁厭《きんえん》する意なり。この薬師寺のものは、雲気の中に数名の飛天が、歌舞音楽せるさまを作り込めたり。往々意匠の独創を以《もつ》て称せらるるも、実はその源は印度《インド》に発し、中国六朝《りくちよう》時代以後の仏像の光背などには、むしろ屡《しばしば》襲用されたる様式なり。「飛天」とは飛行する天人といふこと。或《あるい》は天華、或は天香、或は天楽を以て空中より諸仏を供養す。一般には女性の如く考へらるるも、その中に両性あり。さればこの場合には、作者は特に「をとめ」と呼べるのみ。
歌舞音楽する天人と、音声《おんじよう》菩薩或は二十五菩薩等が、各々《おのおの》楽器を奏しつつあるとは、普通は混同され易《やす》く、画工彫工等も混同して造顕する場合多きも、天部と菩薩とは階級自《おのづか》ら異り、菩薩は本来男性のみに限らる。さればかの浩瀚《こうかん》なる大蔵経《だいぞうきよう》中にても、釈迦は諸菩薩を呼ぶに、未《いま》だかつて一度も「善女人」といひしことなく、常に「善男子よ」といへり。されば『延暦僧録《えんりやくそうろく》』に聖武《しようむ》天皇と共に光明《こうみよう》皇后をも「菩薩」を以て呼びたるは例外といふべきなり。然るに天部には、弁才天《べんざいてん》、吉祥天《きつしようてん》、伎芸天《ぎげいてん》、功徳天、夜魔天などの女性あり。
あらし ふく ふるき みやこ の なかぞら の
いりひ の くも に もゆる たふ かな
もゆる・西天の暮雲に映ずる落照を背景として、燃ゆるばかりなるこの塔のさまを形容したるなり。これにて幾分意味は強めらるべし。下に「もゆるいらか」の句ありて、燃えなむばかりの意に用ゐたると同じ語法なり。
法隆寺村にやどりて
いかるが の さと の をとめ は よもすがら
きぬはた おれり あき ちかみ か も
やどりて・ここに詠める機《はた》の音は、作者が明治四十一年(1908)の八月、夢殿に近き「かせや」といへる宿屋にやどりて、夜中村内を散歩して聞きしものなり。高浜虚子《きよし》君が『斑鳩《いかるが》物語』の中に、同じ機の音を点出されしは、この前年なりしが如し。しかるに、この後久しからずして、この機の筬《をさ》の音は再びこの里には聞えずなりしといふ。
きぬはた・作者の意は、絹を織る機といふにあらず、衣料のための機といふにあり。
あきちかみかも・「ちかみ」は、近くなりたればにやといふこと。「かも」は軽く疑ひて感動をあらはす助詞。秋の近づきたるためにやといふなり。
御遠忌《ごおんき》近き頃法隆寺村にいたりて
うまやど の みこ の まつり も ちかづきぬ
まつ みどり なる いかるが の さと
御遠忌・五十年忌以後五十年毎《ごと》に行ふをいふ。ここにては聖徳太子の法会《ほうえ》をいふ。太子は『日本書紀』によれば、推古天皇の二十九年(621)二月二十二日に逝《ゆ》きたりとあり。それより起算して大正十年(1921)四月十一日法隆寺にて千三百年忌が執行されたる時なり。されど作者は、同寺金堂の本尊釈迦三尊光背の銘文を基礎として、太子の薨去《こうきよ》は同天皇三十年(622)二月二十二日と信じ居れり。
うまやどのみこ・聖徳太子は用明天皇の第一子。母なる穴穂部間人女王《あなほべのはしひとのひめみこ》が、あまねく宮中を巡《めぐ》りて、恰《あたか》も厩舎《きゆうしや》の前に至りし時、俄《には》かに産気づきて誕生せるところといふ。厩戸皇子《うまやどのみこ》、上宮太子《かむつみやのみこ》、耳聡太子《みみとのみこ》、豊聡耳太子《とよとみみのみこ》、八耳太子《やつみみのみこ》、法大王《のりのおほきみ》、法主王《のりのぬしのおほきみ》など世に称せられたりといふ。
いかるが の さとびと こぞり いにしへ に
よみがへる べき はる は き むかふ
いにしへによみがへる・上代の気分に立ち還《かへ》ること。聖徳太子が、しきりに大陸文化を輸入されし頃、その新しき刺戟《しげき》に目醒《めざ》めたるこの里の人々が当時の心境に復帰すること。
世に百済《くだらの》国《くに》阿佐太子《あさたいし》筆の聖徳太子像と称して、左右に扶翼《ふよく》童子を伴へるものあり。されど阿佐の筆なることを疑ふものは、既に鎌倉時代よりありしのみならず、先年洛陽《らくよう》附近より出土せし画像石に、相貌《そうぼう》のこれに似たるものありしより、之《これ》を初唐画法の一類型に帰せんとする人あり。ことに頭上の漆紗冠《しつしやかん》は、我国の冠制としては、一時代後《おく》るるものなるべきは、夙《つと》に明治時代より注目せる人あり。真にこの太子を想慕せんとする者は、この像に拠《よ》らざらんことを望む。
きむかふ・めぐりくる。
うまやど の みこ の みこと は いつ の よ の
いかなる ひと か あふが ざらめ や
みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて
ひきて かへらぬ いにしへ あはれ
みとらしのあづさのまゆみ・「ま」は接頭語。貴族級の人の手沢《しゆたく》の梓弓《あづさゆみ》といふこと。法隆寺の綱封蔵《ごうふうぞう》には、かかる名の弓一張あり。寺伝にては聖徳太子の手沢なりといふ。されど『万葉集』第一巻には、同じ名称にて、舒明《じよめい》天皇手中のものを指《さ》していへり。誰にても貴族の手沢ならば用ゐ得べき名なること云ふまでもなし。ただし、この法隆寺のものは、果して太子の遺物なりや否や、今となりては、いづれとも確証のあるべきにあらねど、太子が十四歳にして、物部守屋《もののべのもりや》と戦ひて、これを征服せられしといふことは、太子の武勲として最も華々《はなばな》しき事件なるも、養老四年(720)に成りし『日本書紀』、延喜《えんぎ》十七年(917)に成りし『太子伝暦《でんりやく》』などには、太子は侍臣なる迹見《あとみ》の赤檮《あかいちひ》に命じて、樹上より頑強《がんきよう》に抗戦しつつありし守屋を、地上に射落さしめ、赤檮はそれらの功を以《もつ》て戦後一万頃《しろ》の田地を恩賜されたりとあれば、守屋を射止めたるは太子の弓矢にはあらざりしわけなり。然《しか》るに、『上宮聖徳太子伝補闕記《ほけつき》』に至れば、「賊ト太子ト相去ル遠カラズ、賊ハ誓ヒテ物部ノ府都ノ大神ノ矢ヲ放チ、太子ノ鎧《ヨロヒ》ニ中《ア》ツ。太子マタ誓ヒテ四天王ノ矢ヲ放チ、即チ賊ノ首ナル大連ノ胸ニ中ツ。倒レテ樹ヨリ墜《オ》ツ。」とあり。この『補闕記』は今遽《には》かにその選述年代を詳《つまびらか》にしがたきも、その所載の他の史実につきて見るも、頗《すこぶ》る古味あるが如くにして、しかも信じがたき所多し。これに次ぎては保延六年(1140)の『巡礼私記』には「御弓一張、箭《ヤ》三筋、コノ弓ハ守家大臣ト合戦ノ時ノ御物」と註《ちゆう》し、嘉禄《かろく》三年(1227)の奥書ある『太子伝古今目録抄』、また仁治《にんじ》三年(1242)の『聖徳太子伝私記』にも、太子の遺物といふこと見え、文明十五年(1483)の『玉林抄』に至れば、「御弓一張。守屋逆臣誅罰《チユウバツ》ノ時之ヲ用ヰ給フ。御箭十四ノ内、鳴箭《なりや》一、利箭《とや》十。」とあり、これ等の弓矢が中世以後稍《やや》久しく太子の武勲を物語り来《きた》りしを知るべし。ことに最後に至りて矢の数の甚《はなはだ》しく増したるも興味深きことなり。されど、作者は、当時は年二十八の青年として、この寺の薄暗き綱封蔵の中にて、初めてこの古風なる弓矢を見、この優雅なる名称を聞きて、忽《たちま》ち太子思慕の情に堪《た》へず。恍惚《こうこつ》として忽ちこの歌を詠《よ》みしものなることを、ここに附記す。
つるはけて・「はく」とは「剥《は》ぐ」にあらず、「矧《は》く」なり。弓に弦《つる》を掛くること。
法隆寺の金堂にて
おし ひらく おもき とびら の あひだ より
はや みえ たまふ みほとけ の かほ
おもきとびら・この寺の金堂の扉は甚《はなは》だ高く、甚だ広く、甚だ厚し。したがひて、甚だ重きものなり。これを閉す音に悠古《ゆうこ》の響《ひびき》あり。四五十年前は一人の拝観者ありても、その一人のために、一々これを開閉したれども、今はその響を知らざる人多かるべし。友人浜田青陵《せいりよう》(1881−1938)かつてこの響につきて一文をものし、作者のこれら二首の歌を引きたることあり。
たち いでて とどろと とざす こんだう の
とびら の おと に くるる けふ かな
たちいでて・この歌には「ト」六、「タ」二、「テ」二、「チ」一あり。三十一音中、タ行十一音なり。一首中のかかる配置は、歌意の表現を助くるに何程《なにほど》かの力を致し居《を》ることならん。されど、作者は、ことさらに意を用ゐてかく作り上げしにはあらず。
五重塔をあふぎみて
ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を
ひとひ の ごとく たてる この たふ
ちとせあまり・太子の千三百年忌が近しといふ印象の下に、おほらかにかく歌ひたるなり。その年代につきて学術的に決定して歌ひたるにはあらず。またこの塔の頂上なる水煙は、徳川時代の補作らしく、軒をめぐる鐙瓦《あぶみがはら》のうちには三つ葵《あふひ》の紋様のものありて、四代将軍家綱(1641−1680)の生母なる桂昌院《けいしよういん》の寄進による大修理を経たることを示せり。されど、とにかく凡《およ》そ千三百年を一日の如く立ち尽し来れりと詠めるなり。
夢殿の救世観音《ぐぜかんのん》に
あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
この さびしさ を きみ は ほほゑむ
夢殿・(後ニ出ヅ。)
救世観音・救世観音の名は、大陸の仏典または造像には、未《いま》だ曾《かつ》て見えず。されど「救苦観音」といふものは、唐時代以後散見す。ことに河南省龍門の石窟《せつくつ》の銘文にその例あり。龍門にては「苦」の字の「」と「十」とを顛倒《てんとう》して「」または「」としたるもの数例あり。もしこの「」の下部が更に省筆され又は破損などによりて「」とならば、「世」の別体と見なさるることとなるべく、ここに於《おい》て日本にて「救世観音」の名称が成立することとなるべし。ことに観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》は、『妙法蓮華経《みよほうれんげきよう》』の『普門品《ふもんぼん》』には「能《ヨ》ク世間ノ苦ヲ救フ」とありて、我が国人にさへ一般に親炙《しんしや》せる句にて、「救世《ぐぜ》」と「救苦《ぐく》」とは甚だ近邇《きんじ》せる語意なれば、国人はこの差別には殆《ほとん》ど無関心なるが如きも、とにかく「救世」は大陸にては殆ど見ざる仏名なることをここに明かになしおくなり。宝亀《ほうき》十年(779)真人《まひと》元開の著はしたりと称せらるる『唐大和上東征伝《とうのだいわじようとうせいでん》』には、その将来品中「救世観世音」の名あれども、同書の観智院本及び高山寺本共に「救苦」とあり。これ元開本の根拠となりし思託の原本がかくの如くなりしことを暗示するものならむ。また後世法隆寺にては夢殿式に直立せるものを救世観音と呼び、四天王寺にては、半跏思惟像《はんかしゆいぞう》なるを同じ名を以《もつ》て呼べるが如し。共に経典、儀軌に於てその基くところを知らず。
ほほゑむ・中国六朝《りくちよう》時代の造像には、常に見慣れたる類型的の微笑ありて、夢殿の本尊もその一例なるを、ここにてはこの像の特別なる表情の如く作者の主観として詠《よ》みなせり。
また中国六朝時代より我が国の飛鳥《あすか》時代に波及せる一種の微笑的表情を、遠く希臘《ギリシヤ》のARCHAIC時代の彫刻にその源流を帰せんとする学者、わが国には一人のみにあらざるも、所謂《いはゆる》アーケイツク時代は、耶蘇《やそ》紀元を遡《さかのぼ》ること五世紀を超《こ》ゆるに、我が飛鳥時代はその紀元後七世紀なれば、千二百年を中にして、突如として遠隔せる東洋に影響し、しかもその中間には一もこれを中継せる伝承の径路を明かにせずとせば、これを以て学術的提説とはいふべからず、一場の座興となすべきのみ。
病中法隆寺をよぎりて
あまた みし てら には あれど あき の ひ に
もゆる いらか は けふ みつる かも
よぎりて・通りかかりに立ち寄りて。
あまたみし・いくたびも見慣れたる。
もゆるいらか・『聖徳太子伝暦《でんりやく》』の中に、太子が一日椎坂《しひざか》の東より斑鳩《いかるが》の宮の方を望みて歌はれたる歌として「斑鳩の宮の甍《いらか》に燃ゆる火のほむらの中に心は入りぬ」といふがあり。この『伝暦』の歌は、或《あるい》は後人仮託の作なるべきも、とにかくその意は、斑鳩の宮の未《いま》だ無事なりし日に、太子は既に身後の罹災《りさい》を予知して、かく詠みたるものと一般に解釈さるるも、作者のこの歌は、寺の甍が秋陽《あきび》を浴びて燃ゆるが如きさまを詠めるなり。作者が、かくの如くただ「燃ゆる」とのみいひて「燃えむばかり」の意となしたるは、さきに薬師寺の塔にも一首ありき。また鹿を詠みて「燃ゆる眼」といへるもありき。
うつしよ の かたみ に せむ と いたづき の
み を うながして み に こし われ は
うつしよ・現実の世間。現世。
いたづき・病気。
いたづき の まくら に さめし ゆめ の ごと
かべゑ の ほとけ うすれ ゆく はや
かべゑ・この集中には、壁画を「かべゑ」「かべのゑ」また「かべのふるゑ」など詠めり。されど直ちに「へきぐわ」と詠むことを厭《いと》ふにはあらず。その場合としての音調のためなり。
はや・「や」は感歎《かんたん》の助詞。『古事記』に「阿豆麻波夜《あずまはや》」など。
ひとり きて めぐる みだう の かべ の ゑ の
ほとけ の くに も あれ に ける かも
ほとけのくに・仏土。仏国。壁画は金堂の内壁大小十二面に四方四仏の浄土、ならびに、その脇侍《きようじ》に擬すべき諸菩薩の像を描けり。この歌は壁面の剥落甚《はくらくはなはだ》しきに、仏国荒廃の意を託して詠めるなり。先年さる方面より、これ等の壁画の保存方法につきて意見を求められしに対して、作者は、これら十二枚を、いとも周到なる用意のもとに切り取りて、別に安全なる処に保管し、その跡には現代作家をして新《あらた》に揮毫《きごう》せしむるに如《し》かずとの意見を送りたるに、忽《たちま》ち法隆寺の内外より猛烈なる反感を招き、不謹慎、不敬虔《けいけん》の譏《そしり》をさへ受けしが、その後、その寺にて不注意より起りし火災のために、壁画は殆《ほとん》ど全滅とも云ふべき大破を来《きた》したり。当時作者の意見の用ゐられたりしならばと、遺憾《いかん》最も深し。
おほてら の かべ の ふるゑ に うすれたる
ほとけ の まなこ われ を み まもる
うすれ ゆく かべゑ の ほとけ もろともに
わが たま の を の たえぬ とも よし
たまのを・魂の緒。生命。
たえぬともよし・絶ゆるも可なり。
ほろび ゆく ちとせ の のち の この てら に
いづれ の ほとけ あり たたす らむ
ほろびゆく・万物は推移し、何物も遂《つひ》には滅亡を免かれず。法隆寺はすでに千余年を経たるも、さらに千年を経なば果して如何《いかん》。作者また思ふに、『太子伝私記』に太子の語といふものを伝へて曰《いは》く、「本朝ノ仏法ハ、我《ワレ》入滅ノ後、漸《ヤウヤ》ク減ジ漸ク滅シ、或《アルイ》ハ龍宮ヲ摂《ヲサ》メ、或ハ天上ヲ摂メ、一千年ニ至リテ、諸国七道ノ仏道悉《コトゴト》ク滅シ畢《ヲハ》リ、纔《ワヅカ》ニ法隆学問寺ノ根本ノ金堂ノミ残ラン。」これを直《ただち》に太子の語とは信ずべきにあらざるも、千年の後事は、何人《なんぴと》も思ひ寄るべきところならむ。
中宮寺《ちゆうぐうじ》にて
みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の
あさ の ひかり の ともしきろ かも
中宮寺・今は真言《しんごん》律宗。中宮の名は、用明天皇の皇后にして太子の生母なる穴穂部間人女王《あなほべのはしひとのひめみこ》の生前の住址《じゆうし》なりしに因《よ》る。これが寺となるに至りしは、恰《あたか》も法起寺《ほつきじ》は太子の離宮なりしを、その歿後《ぼつご》十六年(638)にして寺院として初めて金堂を造りたるも、たまたま上宮王家の滅亡のために頓挫《とんざ》し、天武の十三年(685)に至りて塔を建て、慶雲三年(706)に至りて、漸《やうや》くその露盤を完成したると相似たり。されば、今日《こんにち》中宮寺の遺物と考ふべき仏像が、太子長逝《ちようせい》の直後(623)に鋳造せられたる法隆寺金堂の釈迦三尊像に比して、遥《はるか》に後代の作風手法ありても、当然のことにして、少しも怪むべきにはあらざるなり。この寺初めは法隆寺の東方五町に当る冨郷村《とみさとむら》の、今は田畑となれる中にありて、次第に衰亡したるを、慶長(1596−1615)年間現在の地に移して再興したるならむ。旧地は冨郷村役場の北に当りて、数株の松と池とがあり、徳川時代までは、その築地の跡も残れりといひ、地形また歴然として徴するに足る。法起寺《ほつきじ》の岡本、法輪寺の三井《みゐ》を北に望み、西は斑鳩宮《いかるがのみや》と法隆寺とに対し、太子生母の宮址《きゆうし》として最も恰好《かつこう》の地なりき。この寺は、中世に於《お》ける衰微の稍《やや》久しかりしためか、文献は失はれて稍《やや》乏しきも、〓《えき》斎《さい》が『京游筆記《けいゆうひつき》』に手録せる断章によりて綜合《そうごう》するに、塔、金堂、講堂を枢軸とせる一廓の伽藍《がらん》にて、その講堂の本尊は薬師三尊にして、その背後の壁上には、著名なるかの繍帳《しゆうちよう》を懸けたりといふ。しかるに、金堂の本尊につきては、文献は全く闕如《けつじよ》せるも、もし今の半跏《はんか》の菩薩像を、創立以来の金堂本尊とせば、恐らく丈六像なりしと想像さるる講堂の如来三尊に比して、仏格も、形式も、大小も、軽きに失すべきを恐る。即ち最初の金堂の本尊は、その時代の多くの類例の示すが如く、丈六型の釈迦三尊像にてありしなるべし。ことに注意すべきは、之《これ》を大同なる雲崗《うんこう》の石窟《せつくつ》に徴するに、この寺に見る如き半跏像は、屡《しばしば》中央なる如来像を挟《はさ》みて脇侍《きようじ》として左右同形式にシムメトリに造設されたる例あれば、この像はむしろ最初の金堂本尊の脇侍の一なりしと認むべきに似たり。
この寺は、創立以来久しく火災に罹《かか》りしことなかりしも、所謂天寿国曼荼羅《いはゆるてんじゆこくまんだら》は、之を法隆寺の綱封蔵《ごうふうぞう》に託しありしを、文永年間に信如《しんによ》といふ尼僧が中心となりて寺運の復興を企て、曼荼羅を法隆寺より取り戻し、建治三年(1277)に諸堂の修理を行ひ、弘安四年(1281)落成供養を行ひたるに、久しからずして延慶二年(1309)庫裏《くり》僧房ともに全焼し、僧房のみ新築したるに、応長元年(1311)その新築も再び焼亡したれば、本寺たる法隆寺の当局は『嘉元記《かげんき》』の内にその状を形容して、「種種ノ秘計ヲ致シ僅《ワヅカ》ニ僧房バカリ造リ営ミシトコロ、ワヅカ中一年ニシテ、マタ焼失ノ条、尼衆悲歎《ヒタン》ソノ限リナシ。」といへり。かかる間に、康安元年(1361)には、宿直の番など始められしは盗難なども繁《しげ》かりしにや。かくて、もと寺中にありし仏像仏具は、次第に失はれしなるべく、かかる悲境に陥りしために、寺地の移転も容易に決行し得るに至りしなるべし。かくの如くにして、本来如来像なりし金堂の本尊が失はれし後に、その脇侍なりし菩薩像が、これに代り、しかも又、その菩薩像が、優《すぐ》れたる芸術的価値によりて、再興後の本尊としての貫禄を保ちたるならん。こはあり得ることなり。すなはち、法華寺、観心寺の場合と共に考ふべきなり。
また想《おも》ふに、法隆寺に伝来せる木像のうちに、世に「六体観音」を以て称せらるる一群あり。上代の法隆寺の文書、目録の類《たぐひ》には、その蹤跡《しようせき》を示さざるより見れば、中世以後他寺より移入せしものなるべし。今詳《つまびら》かにこれを観《み》るに、決して悉《ことごと》くが観音にはあらずして、「日光、月光《がつこう》」「観音、勢至《せいし》」「文珠《もんじゆ》、普賢《ふげん》」の三対にして、その高さは六体すべて均一なり。しかるに作者は先年奈良市内の某骨董《こつとう》商の秘蔵せる一体の菩薩を見たるに、様式、身長、面貌《めんぼう》悉くこれらの六体に同じきも、何故《なにゆゑ》か後人が手を加へて細部を変改したる痕跡《こんせき》あり。乃《すなは》ち知る、この外に、遂《つひ》に行くところを知らざる一体をも加へて、薬師、弥陀《みだ》、釈迦、弥勒《みろく》の如来像の脇侍として、塔基の四方四仏を形成せるものなりしことを。果して然《しか》らば、そはいづれの塔ぞやといふに、最も古き文献には之《これ》に該当するものなきも、ただ『法隆寺別当次第』の長寛二年(1164)の条に、「四月ノコロヨリ、中宮寺ノ御塔修造セラル。塔中ノ仏像十二躰《タイ》、モトノ如ク皆ナ金色ニ改造セラレ畢《ヲハ》レリ。」とあり。ここに十二躰といふは四方の四仏に二躰づつ脇侍を添へたるなり。『聖誉鈔《せいよしよう》』に拠《よ》るに、信如尼は文永十年(1273)二月十五日より八昼夜、この塔中に参籠《さんろう》したるに、その同行の尼は夢中に曼荼羅の所在を感知したりといへば、その頃はこれらの「六観音」は当時は尚《な》ほ八体にて、その塔内にてそれぞれの如来像の両側に侍立《じりつ》してありしなり。しかして法隆寺の倉の中に移されしは、その後のことと知るべし。
法隆寺の僧良訓の『古今一陽集』(1738)には、古老の伝説として、東院伝法堂の天蓋《てんがい》が、もと中宮寺の物なりしことを証《あか》したる後に、「ソノ外《ホカ》古仏アマタアリ。カノ尼寺荒廃ノ時、本寺タルニ因《ヨ》リ、当寺ニ移シイレタルナリ。」とあり。かの「六体仏」はこの中に属すべきなり。ただ惜しむ、その移入の年次を精細に知り難きことを。
ともしきろかも・かそけくなつかしきかな、といふほどの意。「ろ」は意味無き助詞。『万葉集』には「悲しきろかも」「尊《たふと》きろかも」「乏しきろかも」などあり。
またこの歌は、この半跏思惟像《はんかしゆいぞう》の一種微妙なる光線の反影を詠《よ》みたるものなれども、この光沢は近時この寺の尼僧たちが、布片などにて、しきりに仏身に払拭《ふつしよく》を加ふるために、偶然に生じ来《きた》りしものにて、製作の最初には、かかる光沢は期待されざりしなり。これかの西の京なる薬師寺金堂の三尊が、再度の罹災《りさい》によりて鍍金《ときん》を失ひし代りに、僧侶《そうりよ》の払拭によりて、その地金より、玲瓏《れいろう》たる光沢を発し来りしと同じことにて、これに心酔するは鑑賞する人々の自由なるべきも、最初の製作者の意図せざりしところなり。この像の前額部を仔細《しさい》に検すれば、左右対称的に整列する小さき釘穴《くぎあな》の群あり。かくの如き穴は胸部にもあり。また左右の手首、二の腕にもあり。これこの像が、最初は釘留めにせる薄金作りの宝冠を戴《いただ》き、胸には瓔珞《ようらく》、両臂《りようひぢ》両腕には釧環《うでわ》を帯び居たりしことを示すものにて、これ等の装飾は、恐らく罹災またはその後の混乱にて失はれたるなるべく、もしそのままにてありしならば、今の如くこの寺の尼衆たちが、心やすく仏身に触れて払拭することは容易ならねば、かかるわざは思ひもつかざりしなるべく、従つて、かかる微妙なる光沢は生じ来《きた》らざりしならむ。
尚ほこの像の仏名は、俗間には多く「如意輪観音《によいりんかんのん》」と称するも、この像の製作せられし時代には、如意輪観音の形像も、その儀軌も、未《いま》だ我が国には伝来し居らざりしのみならず、この像と密教にいふところの如意輪観音とを仔細《しさい》に比較するに、全身の姿勢より左右の手足の位置に至るまで、一も同じきところなしといふを正しとす。しかるに当時の朝鮮半島にては、この姿態を持てるものを、何故か、弥勒菩薩《みろくぼさつ》と呼び、河内《かはち》の野中寺の像(666)の如きは、明かにその系統に属す。されど、広く大陸に眼を放てば、この種の像は、釈迦が、その青春の日に、一日野外に出《い》でて、樹下に独坐して思惟《しゆい》に耽《ふけ》りし姿より発生したるものなれば、これを釈迦の幼名を以て「悉多太子《しつたたいし》半跏思惟像」または略して「太子思惟像」と呼ぶを正しとす。またかの『大安寺縁起并《ならびに》流記資財帳』(747)の中に「太子像七体」とあるは、即ちこの同型の像なりしなり。また法隆寺に伝来して、後に明治の皇室に献納せる所謂《いはゆる》四十八体仏の中にも、この種のもの数躯《すうく》あり。ひとしく「太子像」と呼ぶべきなり。
法輪寺にて
みとらし の はちす に のこる あせいろ の
みどり な ふき そ こがらし の かぜ
法輪寺・法隆寺東院の北約二キロ、冨郷《とみさと》村三井《みゐ》にあり。岡本の法起寺《ほつきじ》のものに似たる古式の三重塔ありて、往時はともに法隆寺村より望見し得たりしも、昭和十九年(1944)雷火にて焼失せり。寺中に上代仏像の見るべきもの数躯あり。されど金堂の本尊なる薬師像と、観音立像との光背の支柱が、ともに中宮寺の半跏像《はんかぞう》、または法隆寺の百済《くだら》観音と同式の、蘆茎《ろけい》の形式なるは、明治時代の修繕に当り、その工人が、これ等の二例に鑑《かんが》みて摸造して補加したるものなることを記憶すべきなり。この寺近世に至りて真言宗東寺派に属す。
みとらしのはちす・「みとらしの」は前に出《い》でたり。この寺の講堂の本尊十一面観音が手にせる蓮華《れんげ》なり。
こがらしのかぜ・秋の末より冬へかけて吹く風を「木枯《こがらし》」といひ、また「凩」の字を宛《あ》つ。この風の吹き渡る時は、山野の草木一時に凋落《ちようらく》すといふが故《ゆゑ》に、この蓮葉《はすは》のみは吹くことなかれと歌ひたるなり。
二上山《ふたがみやま》をのぞみて
あま つ かぜ ふき の すさみ に ふたがみ の
を さへ みね さへ かつらぎ の くも
二上山・頂上が「男岳《をだけ》」「女岳《めだけ》」の二峰に分るるを以《もつ》て「ふたがみやま」といふ。また当麻寺《たいまでら》の山号として「にじやうざん」といふ。寺はその東方の半腹にあり。
かつらぎのくも・葛城山は二上山の西に連《つらな》る。この山は上代に雄略天皇(?-479)が、一言主神《ひとことぬしのかみ》に遇《あ》ひ、ともに馬を駢《なら》べて田猟せしところといひ、後には《えんの》 行 者《ぎようじや》が岩窟《がんくつ》に籠《こも》りて練行《れんぎよう》したるところといひ、常に一種怪異の聯想《れんそう》あり。この山を出《い》でたる白雲が、山腹を匍《は》ひ来《きた》りて、やがて二上の全山を埋《うづ》むるを見て、作者は異様に心を動かして、この一首を成したるなり。
当麻寺《たいまでら》にて
ふたがみ の てら の きざはし あき たけて
やま の しづく に ぬれぬ ひ ぞ なき
当麻寺・用明天皇の皇子《み こ》なる麻呂古《まろこ》親王は、二上山の西麓《せいろく》に、この寺の基を創《はじ》めしが、白鳳《はくほう》十年(681)に至り、今の地に移りて工を起し、四年にして成り、高麗《こうらい》の僧慧灌之《えかんこれ》を供養す。もと行者の故地なるを以《もつ》て、これを開山第一世に擬すといふ。治承年間(1177−1180)兵火に罹《かか》り、奈良時代の両塔の外は悉《ことごと》く焼失し、他の諸堂は、みなこの後の建立なり。寺に秘蔵せる大曼荼羅《だいまんだら》(763)あり。横佩《よこはぎ》右大臣の娘なる法如(俗ニ中将姫トイフ)が一人の化人《けにん》の助けを得て、藕糸《はすのいと》を以て一夜にして織るところと称すれども、要するに当時大陸にて流行せる浄土変相図の一なり。織成にあらずして絵画なりと主張せし学者ありしも、検鏡すれば、正に織物なり。また藕糸にあらずして絹糸なるが如し。また、もとより一夜二夜にして成るべきにはあらず。寺は今は新義真言と浄土との二宗に分る。
さきに挙げたる子嶋寺《こじまでら》の大曼荼羅は、図像群の平面的配列によりて、密教の教理を示せるものなるも、今この当麻寺のものの如きは、阿弥陀如来を中心とせる燦然《さんぜん》たる極楽浄土の風景なれば、むしろ浄土変相図といふを正しとす。
てらのきざはし・当麻寺は、山腹に添ひて伽藍《がらん》を配置したれば、寺地に高低あれども、天平《てんぴよう》寺院の常として、南を以て正面とす。東西の両塔の間を進みて金堂にいたる。その本尊弥勒《みろく》如来(681)及び四天王像は、寧楽《なら》初期の作風雄勁《ゆうけい》なり。金堂の北に講堂あるは、これまた寧楽の定式なり。しかるに鎌倉時代にいたり、かの尨大《ぼうだい》なる曼荼羅堂の一宇が、東向きに出現して、一山の本堂と称せられしより、東門を以て正門となし、配置の体裁全く一変するに至りしなり。作者が「きざはし」といひたるは、本来の正門の石階をいへるなり。
やまのしづく・山気の凝《こご》りて成りたる露滴をいふ。この語、現代人には稍《やや》耳遠きが如くなれども、『万葉集』巻二なる大津皇子《おほつのみこ》と石川郎女《いしかはのいらつめ》との唱和に見えたる後、歴代の歌集にしばしば用例あり。
ふたがみ の すそ の たかむら ひるがへし
かぜ ふき いでぬ たふ の ひさし に
たかむらひるがへし・歌の心は、塔の廂《ひさし》に迫れる叢竹《むらたけ》が、山颪《やまおろし》のために吹き煽《あふ》らるるさまを遠望していへるなり。
当麻寺に小角《えんのをづの》の木像を見て
おに ひとつ ぎやうじや の ひざ を ぬけ いでて
あられ うつ らむ ふたがみ の さと
小角・文武《もんむ》天皇(697−707)の時に葛城山《かつらぎやま》の岩窟《がんくつ》に住みたりといはるる人。その名『続日本紀《しよくにほんぎ》』に出《い》づ。飛行自在にして常に鬼神を駆使し、奇蹟《きせき》多し。「ノ行者」また「ノ優婆塞《うばそく》」といふ。作者の見てこれを歌に詠《よ》みたる像は金堂の中にあり。
おにひとつ・行者の像には、常に左右に前鬼後鬼《ぜんきごき》の二像あり。作者この寺を出でて奈良に帰らんとする時、恰《あたか》も東門の前にて一としきりの急霰《きゆうさん》に逢《あ》ひ、時は晩秋にて、まだ霰《あられ》のあるべき季節にもあらざるに、さては、かの鬼のいづれかが、追ひ来《きた》りて、この戯《たはむれ》を為《な》すかと空想を馳《は》せて詠みたるなり。
またこの歌にて、「一人」とも「一疋《ぴき》」ともいはずして「ひとつ」といひしは、いづれも蹲踞《そんきよ》したる一塊の木彫なりければなり。
あしびきの やま の はざま の いはかど の
つらら に にたる きみ が あごひげ
あしびきの・「やま」の枕詞《まくらことば》。
はざま・谷間、谷あひ。
つららににたる・行者像は、常の如く細長き顎鬚《あごひげ》を胸に垂《た》れたり。「つらら」は氷柱。
そもそも山腹の寺にて見たる像にてあり、像そのものは、岩に踞《きよ》したるさまに彫《きざ》まれたれば、おのづから「岩」といふ語の点出されたるならむ。
河内国磯長《かはちのくにしなが》の御陵《ごりよう》にて太子をおもふ
やまと より ふき くる かぜ を よもすがら
やま の こぬれ に きき あかし つつ
磯長御陵・大阪府磯長村叡福寺《えいふくじ》の傍《かたはら》にあり。聖徳太子、慈母穴穂部 間 人 女 王《あなほべのはしひとのひめみこ》、愛妃膳大郎女《かしはでのおほいらつめ》の三人を合葬したり。世にこれを「三骨一廟《いちぴよう》」といふ。慈母は前年(621)十二月廿日《はつか》、愛妃は二月廿一日、太子自身はその翌日、かくの如く相継ぎて三人ともに身まかり去られしために、世人哀悼して、かくは名づけたるなるべし。この間のことは法隆寺金堂の釈迦像の銘文にて知るべし。
この磯長陵につきては、空海は百日参籠《さんろう》して廟崛《びようくつ》内に光明輪中に弥陀三尊《みださんぞん》の現はるるを見、また誦経《ずきよう》の声を聞きたりといひ、天喜《てんぎ》二年(1054)法隆寺の僧忠禅は、廟崛より掘出《いだ》せりと称して偽作の碑文を発表し、元久年間(1204−1206)当麻寺の僧、浄戒、顕光の二人、太子の遺骸《いがい》の歯を盗み出して、東大寺の俊乗坊に与へたりといひ、貞和四年(1348)北朝の将高師泰《こうのもろやす》は廟崛を破壊して、沙金《さきん》その他のものを悉《ことごと》く捜《たづ》ね取り、その中にありし像を毀《こぼ》ちたりといひ、世代の下るに従ひ、猥雑《わいざつ》耳を被《おほ》はしむ。常に之《これ》を太子の霊のために悲しむ。
やまと・太子は大和にて生れ、大和の女を娶《めと》り、大和にて国政を執《と》り、大和にて最も多く仏寺を営み、大和にて死したる人なれば、長へにここに眠りつつも、大和より吹き来る風の音をなつかしみて聞きたまふべしと思ひて、かく詠《よ》めり。
こぬれ・樹梢《じゆしよう》。
観心寺の本尊如意輪観音《ほんぞんによいりんかんのん》を拝して
さきだちて そう が ささぐる ともしび に
くしき ほとけ の まゆ あらは なり
観心寺・大阪府長野駅の東南三キロ半。古義真言宗。大宝《たいほう》年間の創立なる「雲心寺」を、空海(774−835)が再興して「観心寺」と改め、その弟子の実恵《じつえ》(784−846)に附す。吉野朝には楠木《くすのき》氏の建てたる僧院四十六宇に及び後村上天皇(1327−1367)の行在所《あんざいしよ》となる。慶長年間、豊臣秀頼《とよとみひでより》命じて修理せしむ。本尊以下仏教美術の遺品やや多し。
さきだちて・先導して。住職は開扉《かいひ》に先だちて、弟子僧とともに厳《おごそ》かに加持祈祷《きとう》し、恭《うやうや》しく扉《とびら》を開きたる後、燭台を捧《ささ》げてわれ等を導きたり。
くしき・幽婉《ゆうえん》にして神秘的なる。
まゆあらはなり・その眉目《びもく》わが眼前に現はるるに、彎曲《わんきよく》して長く濃き眉《まゆ》は、ことにこの像をして妖艶《ようえん》ならしめたり。
なまめきて ひざ に たてたる しろたへ の
ほとけ の ひぢ は うつつ とも なし
ひざにたてたる・像は平安初期の如意輪観音にして、六臂《ろつぴ》のうち、一手は頬を支《ささ》へ、その白き肱《ひぢ》は、立てたる膝《ひざ》の頭にあり、元慶《がんぎよう》六年(882)同寺にて勘録せる『縁起資財帳』に「綵色《さいしよく》如意輪菩薩《ぼさつ》像一躯《いつく》。高三尺余。木像。」とあるもの即ち之《これ》なり。傑作を以《もつ》て籍甚《せきじん》す。ただその『資財帳』に記載せる講堂の諸仏像十点のうち第四位に記され居《を》るより考ふれば、最初の本尊にあらざりしことは明かなり。
うつつともなし・現実の意識を遠ざからしむるごとき思ありといふこと。与謝蕪村《よさぶそん》(1716−1783)の句に「うつつなき摘みごころの胡蝶《こちよう》かな」といふがあり。「うつつなき」の語義これと稍《やや》近し。
橘寺《たちばなでら》にて
くろごま の あさ の あがき に ふませたる
をか の くさね と なづさひ ぞ こし
橘寺・同名の駅の東二キロ。高市《たけち》郡高市村橘にあり。用明天皇の宮址《きゆうし》にして聖徳太子誕生の所といひ、また太子が『勝 鬘 経《しようまんきよう》』講讃《こうさん》の旧跡と称せらる。法隆寺の宝物として、今の世に最も有名なる玉蟲厨子《たまむしのずし》も、甞《かつ》て法隆寺より皇室に献じたる四十八体仏も、本来は、この寺の所伝なりしこと、『太子伝私記』『法隆寺金堂日記』『古今一陽集』などに見ゆ。しかるに『寛文《かんぶん》寺社記』によれば、寛文(1661−1673)の頃には、ただ講堂一宇と、太子自作と称する立像一躯あるのみなりしといふ。その後やうやく、せめて今日の姿にまで再興したるなり。今は天台宗。
なほまた、太子が、この所にて『勝鬘経』を講じたる時、傍《かたはら》なる丘の上に千体の仏頭が湧出《ゆうしゆつ》したるために「仏頭山」の山号を得たりと伝ふ。されど思ふに、ここに「仏頭」といふは、そもそも、この小丘は、一つの古墳なりしなるべく、その中腹の土中に、かねて埋められてありし陪葬《ばいそう》の石人像の群が、一夜豪雨などのために洗ひ出されたるを、翌朝僧俗これを見て異様の感をなし、さらに後々になりて、太子講経の伝説と結合せしめたるものの如《ごと》し。今この寺の本堂の前面に木柵《もくさく》して置かれあるものは、明かに古墳より出づる陪葬の石人なり。
くろごま・黒駒。烏駒《からすごま》。作者は伝説のままに歌ひたるものなれど、『日本書紀』によれば、雄略天皇の乗馬にも同じく「甲斐《かひ》の黒駒」の名ありて、かへりて聖徳太子の条には之を見ず。しかるに『万葉集』には「赤駒の厩《うまや》を建てて、黒駒の厩を建てて」「妹《いも》が家に早く至らむ歩め黒駒」などの句あり。即ち甲斐の黒駒とは、その産地と毛色を示したるのみの名なりしを、世を経て『太子伝補闕記《ほけつき》』『聖徳太子伝暦《でんりやく》』に至れば、太子は之に乗りて空を凌《しの》ぎ雲を践《ふ》みたりなどいひ、太子が無二の愛馬たるに止《とど》まらずして、太子と精神的の関係深き伴侶《はんりよ》の如く尊崇せらるるに至れり。冨郷《とみさと》村には、中宮寺の南に江戸時代に修築されたる「黒駒塚」といふものあり。橘寺にては、黒駒の墨刷の絵馬を売り、その門前には、その大なる銅像をさへ立てられたり。伝説展開の径路を見るべし。されど、作者が青年の頃には、欣然《きんぜん》として之を太子の半神的愛馬なりと信じて、かくは詠《よ》みたるなり。
なづさひぞこし・なつかしみ、心を寄せて来れりといふこと。
弘福寺《ぐふくじ》の僧と談《かた》りて
よ を そしる まづしき そう の まもり こし
この くさむら の しろき いしずゑ
弘福寺・上代の川原《かはら》寺《でら》の址《あと》。天武天皇の十四年(686)山田寺へ参詣《さんけい》の途中にこの寺に幸して衆僧に稲を施せり。大官大寺、飛鳥《あすか》寺《でら》とともに当時の三大寺と称す。しかるを、今は衰へ果てて、寺院とは見えぬばかりの小屋なり。今は新義真言宗となれり。
よをそしる・いやしくも上代勅願の大寺なりしを、今に及びて住僧をしてかく生活にさへ苦しましむるは、世人無信仰の致すところなりとて慨《なげ》けるなり。
しろきいしずゑ・この寺の地内より隣地の水田の底にわたりて、白色の礎石の今に存するもの二十余個あり。みな大理石なり。寺にてはこれを馬脳《めのう》石といひ、太子が百済《くだら》より輸入せるところと称し、なほ奈良県にて、中古には東大寺大仏殿の盤、薬師寺金堂の須弥壇《すみだん》、興福寺の大燈籠、元興寺《がんごうじ》の弥勒《みろく》像その他にその例あれど、これを礎石となしたるは、他に例なかるべし。およそ古き寺院の礎石は、これを「伽藍石《がらんせき》」と名づけて後世の造庭家の間に喜ばるるものなれば、由緒《ゆいしよ》も古く、特色もあるこの寺のものは、ひそかに之を売らば、大金をも得べかりしを、これまで保ち得たることを、その僧はしきりに誇り居たり。こは未《いま》だその筋より保存の指定を受けざりし頃のことなれば、この僧のいふところは、感心ともいふべく、また当然ともいふべかりし。
三輪の金屋にて路傍の石仏を村媼《そんおう》の礼するを見て
みみ しふ と ぬかづく ひと も みわやま の
この あきかぜ を きか ざらめ や も
三輪の金屋・三輪山の南なる弥勒谷《みろくだに》といふところに、高さ六七尺、幅三尺ばかりの板状の石に仏像を刻したるもの二枚あり。もとは里川の橋となりてありしよし。作者の至りし時には、それらの二枚は路傍の木立の中に立てかけ、その前に燭台、花瓶《かびん》、供物、および耳を疾《や》める里人の納めものと見ゆる形ばかりなる錐《きり》など置きてありき。しかるに今はすべて、その側に建てられし小さき祠《ほこら》の中に祀《まつ》りてありといふ。
『大和《やまと》志』(1736)には「弥勒ノ石像。弥勒谷ニアリ。高サ六尺。」とあり即ちこのものをいふなるべし。然《しか》るに同書には、また三輪の山上に不動、薬師、地蔵の三体の石仏あるよしあれば、或《あるい》はそのうち薬師の一面が更にここに移されて二面となりしものか。
みみしふ・耳聾《ろう》す。盲人を「めしひ」といふが如し。
室生寺《むろふじ》にて
ささやかに にぬり の たふ の たち すます
このま に あそぶ やまざと の こら
室生寺・むろふでら。宇陀《うだ》郡室生。近鉄大阪線室生口。大野駅よりバス二五分。新義真言宗豊山派。『大和志』に「高岳後ニ聳《ソビ》エ、清流前ニ漲《ミナギ》リ、秀麗奇絶、風致闃寂《げきせき》ナリ。」とあり。伝説にては、《えんの》小角《をづの》が開き、空海の再興などいへど、実際は、この二人とは関係なきが如し。有名なる『風信帖《ふうしんじよう》』に収められたる空海(774−835)が最澄《さいちよう》(767−822)に与へたる書簡の一に、君と吾《われ》とのほかに、「室山」をも加へて、三人にて仏教の大義を商量し、仏恩に報じたしといふ意味の句あり。ここにいふところの「室山」とは、蓋《けだ》し室生山の住僧の略称なること、恰《あたか》も比叡山《ひえいざん》を「叡岳」といひ、高野山を「野山」といふに同じ。しかるに最澄は弘仁《こうにん》十三年(822)に死したれば、それ以前に、かほどの大物が、この山に住みたりといふは、まことに注意すべきことなり。元来室生には「龍穴」といふものありて、請雨を以て夙《つと》に世に聞えたり。興福寺の賢〓《けんけい》は、先に唐僧鑑真《がんじん》が渡来せし時、最も早く之を迎へて羯磨法《かつまほう》を受けたる耆宿《きしゆく》にて、この龍穴にも最も関係深かりしが、延暦《えんりやく》十二年(793)八十九歳にて死せり。彼に従ひて法相《ほつそう》を学び、その後継者を以て見らるる者に修円あり。この人は『宝物集』(1178)『今昔物語』(1254)などに拠《よ》れば、天皇の加持僧として、空海の競争者と目せられたりと称し、『僧綱補任《そうごうぶにん》』によれば、天長の初年(824−827)には僧位はかへりて空海の上にあり。興福寺の別当たること十数年、また延暦寺の座主たらんとして果さず。『本朝高僧伝』(1702)によれば、承和元年(834)室生にて死せりといへり。その『高僧伝』にては「居ヲ室生ニ移シテ」とありて、暗に従来ここに定住したるにあらざるを示せるが如くにもあれど、思ふに弘仁十三年(822)以前に、この山に住みて、空海によりて「室山」と呼ばれたるその人と見るべき修円は、晩年に至りて再びこの山に入りしと見るが妥当なる如し。然るに今日の室生寺にては、一言も賢〓、修円等の興福寺系の人物に及ばずして、直に空海の弟子堅恵《けんね》と称するものを以てこの寺の創始者と為《な》すは、殆《ほとん》ど解しがたし。然るに『東大寺雑集録』『塵添〓《じんてんあい》嚢抄《のうしよう》』の二書は同文にて、この寺を天長(824−834)承和(834−848)頃に空海の創基なりとし、彼の歿後一旦《ぼつごいつたん》廃滅したるも、嘉祥《かしよう》二年(849)に至りて堅恵が十数年の後に再興したるものなりといへり。もし今この説を修正して、空海に代ふるに、修円を以てせば、真に近きものとなるべし。されば、俗間には「女人高野《によにんこうや》」の称あれども、その謂《いは》れなしといふべし。
にぬりのたふ・この寺の塔は、高さ五丈三尺四寸、殆ど東大寺大仏の坐高に等しく、また法隆寺塔の二分の一に近く、日本第一の小塔なるに、檜皮《ひはだ》を以て葺《ふ》き、桷《たるき》の小口を白塗りにしたり。凡《およ》そ塔は多くは丹を以て塗らるるものなるも、この塔は緑深き老杉《ろうさん》の下に反映して、鮮麗ことに愛すべし。またその頂上なる九輪の上部に水煙を置かず、その代りに宝瓶《ほうへい》を以てせるは、『洛陽伽藍記《らくようがらんき》』(547)に見ゆる北魏《ほくぎき》平《へい》元年(516)に建てられし永寧寺の塔を想《おも》はしめ、興味深し。されど、この永寧寺の塔は、その高さ一百丈。その宝瓶の中に二十五石を入るるに足れりといへば、その懸隔も亦《ま》た甚《はなはだ》しといふべし。
みほとけ の ひぢ まろら なる やははだ の
あせ むす まで に しげる やま かな
あせむす・汗蒸す。この寺四周の山は高く、谷は深く、軒に迫れる木立は鬱々《うつうつ》たるに、安置の仏像は豊麗を極《きは》むるもの少からず、そぞろに作者をしてかくの如《ごと》き擬人法を用ゐしむるに至りしが如し。
汽車中
やまとぢ の るり の みそら に たつ くも は
いづれ の てら の うへ に か も あらむ
るり・紺色の宝石。今は「瑠璃」の字を充《あ》つれども、古くは「流離」の字を充てたり。恰《あたか》も「葡萄《ぶどう》」を「蒲桃」と書き、「琵琶《びは》」を「枇杷」と書きしが如し。これを見れば、むづかしき漢字も、時としては単なる音表に近づき、かへつてこの集の作者の仮名書き主義と相距《へだた》ること遠からざるを知るべし。作者は北国に生れ、幼時より一年の大半を、常に灰色の曇天をのみ眺《なが》めつつ育ちたればにや、畿内《きない》、関西の天空の清朗なるに感嘆する傾向あり。ことに大和《やまと》河内《かはち》の空は明澄にして常に美しく見ゆ。
わさだ かる をとめ が とも の かかふり の
しろき を み つつ みち なら に いる
わさだ・早田。「わせだ」に同じ。『万葉集』には「岳辺《をかべ》なるわさだは刈らじ霜は降るとも」などあり。
かかふり・手拭《てぬぐひ》などにて頬冠《ほほかむ》りせるをいふ。
奈良の宿にて
をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を
いへ は おもはず いにしへ おもふ に
奈良の宿・作者は明治四十一年(1908)の第一遊には、東大寺転害門《てがいもん》外の「対山楼」といふに宿れりしも、その後は登大路町《のぼりおほぢまち》の「日吉館」を常宿とす。
いへは・我が家は。
ならやま の したは の くぬぎ いろ に いでて
ふるへ の さと を おもひ ぞ わが する
くぬぎ・どんぐりの木。櫟。
ふるへのさと・古家の里。故郷。
奈良より東京なる某生へ
あかき ひ の かたむく のら の いやはて に
なら の みてら の かべ の ゑ を おもへ
のら・「の」は、ここにては関東平野。「ら」は接尾語。
いやはて・はてのはて。一等のはて。
かべのゑ・暗に法隆寺金堂の壁画を指《さ》していへり。
奈良を去る時大泉生へ
のこり なく てら ゆき めぐれ かぜ ふきて
ふるき みやこ は さむく あり とも
のこりなく・数多き奈良の寺々をことごとく。
ならざか を じやうるりでら に こえむ ひ は
みち の まはに に あし あやまち そ
みちのまはに・「ま」は接頭語。「はに」は粘土。この辺は粘土がちにて山路の滑《すべ》り易《やす》きを警《いまし》めたるなり。『万葉集』には「やまとの宇陀《うだ》のまはにのさにつかば」などあり。
奈良にて
いにしへ の なら の みやびと いま あらば
こし の えみし と あ を ことなさむ
みやびと・宮人。宮仕の官人。
こしのえみしと・越《こし》の国の蝦夷人《えぞびと》の来れりと。
『興福寺縁起』に天平二年(730)創建の同寺五重塔の実状を記せること甚《はなは》だ詳《つまびら》かなる中に、第一層に、四方浄土の群像を陳列して、その南方釈迦仏《しやかぶつ》浄土の人物の中に「新羅《しらぎ》人形《ひとがた》一人」「婆羅門《ばらもん》人形一人」とともに「蝦夷形一人」といふものあり。その像もし今日に保存せられてあらば、この北方人の骨格、容貌《ようぼう》、服飾などを見るを得たりしならむ。学術のために惜しむべきことなり。
あをことなさむ・「あ」は「吾」。「ことなす」は言成す。評判す。云ひ騒ぐ。『万葉集』に数例あり。「うつせみのやそ言のはは繁《しげ》くとも争ひかねて吾を言なすな」「くれなゐの濃染《こぞめ》の衣下に着て上に取り着ば言なさむかも」「陸奥《みちのく》の安太多良真弓《あだたらまゆみ》つら矧《は》けて引けばか人の吾を言なさむ」など。
東京にかへるとて
あをによし ならやま こえて さかる とも
ゆめ に し みえ こ わかくさ の やま
さかる・離る。遠ざかる。
ゆめにし・「夢」にといふこと。「し」は意味を強むる助詞。
みえこ・「こ」は「来《きた》れ」。見え来れといふなり。
わかくさのやま・嫩草山または若草山。春日《かすが》山の北に連なる丘陵。その斜面の一種なだらかなる輪廓を以て特色とす。その姿の、東京へ帰りて後も、尚《な》ほ眼前に髣髴《ほうふつ》として見え来れといふなり。
東京にかへりて後に
ならやま を さかりし ひ より あさ に け に
みてら みほとけ おもかげ に たつ
あさにけに・朝ごとに、日に日に。『万葉集』に「青山の嶺《みね》の白雲あさにけに常に見れどもめづらしわぎみ」「あさにけに色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに」などあり。
おもかげにたつ・俤に立つ。印象が鮮明に泛《うか》び来るをいふ。『玉葉集』に「ひとりのみ浪間《なみま》に宿る月を見て昔の友や俤に立つ」「うすみどり混じる樗《あふち》の花見れば俤に立つ春の藤浪《ふぢなみ》」などあり。
補 註
三八頁《ページ》の二行目(「東大寺懐古」二首目註釈)に『東大寺要録』には「幡鉾」に「はたほこ」の振仮名あることを記したるが、なほ延喜五年(905)の『観世音寺資財帳』には「幡懸鉾」の名あり。ハタカケホコと訓《よ》むべし。
七一頁の三行目(「中宮寺にて」註釈)にいふところの「信如といふ尼僧」は、三四頁の二行目(「地獄谷にて」註釈)に出《い》でし「璋円」の娘なること『古今一陽集』に見ゆ。果して然らば、この父子の超凡の性格に一味相通ずるところあるを首肯するに足らむ。
南京新唱 序
友あり、秋艸道人《しゆうそうどうじん》といふ。われ彼と交ること多年、淡きもの愈《いよいよ》淡きを加へて、しかも憎悪《ぞうお》の念しきりに至る。何によりてしかく彼を憎む。瞑目《めいもく》多時、事由三を得たり。
彼質不覊《ふき》にして、気随気儘《きまま》を以《もつ》て性を養ふ。故《ゆゑ》に意一度《たび》動けば、百の用務も擲《なげう》つて、飄然《ひようぜん》去つて遠きに遊ぶ。興尽き財尽く、すなはち帰つて肱《ひぢ》を曲げて睡《ねむ》る。境涯真に羨《うらや》むべし。かかる身のほどは、駑馬《どば》われの如《ごと》きも、つねに念じて、なほたえて果さざるもの、彼遥《はるか》にわれに先《さきん》じて、大《おほい》に駿足《しゆんそく》を誇る。これ憎まざる可《べ》からざる理の一つ。
彼客を好みて議論風発四筵《しえん》を驚かす。されど多くは衷心の声にあらずして消閑一時の戯《たはむれ》なるに似たり。彼が相《あひ》対して真情を吐露せんと欲するは、ただ奈良の古き仏たちか。彼慈顔を仰ぎて大に語らんとする。諸仏何の意か、顧《かへりみ》るところなし。彼悄然《しようぜん》としてうたふらく「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」と。われ聞いて、ひそかに掌《て》を拍《う》つてよろこぶ。されど、一度われと語る時、彼何の心を以てわれに対するかをおもへば、意平《たひら》かならざるものあつて存す。これ憎まざる可からざる理の二つ。
彼自《みづか》ら散木を以て任じ、暇日の多きを楽んで悠々筆硯《ゆうゆうひつけん》の間に遊ぶ。俗才、世路に彷徨《ほうこう》するわれの如き、羨望《せんぼう》ために死せんとす。しかも、その書を展し、その詠を誦《じゆ》するや、吾《われ》ただ妙と称して羨むことなし。蓋《けだ》し天資おのづから異るあるを知ればなり。
彼がみづからを信ずるやあつし。いはく、われ古人を見ざるをかなしまずして、古人のわれを見ざるを古人のためにかなしむと。われもと、訓詁註疏《くんこちゆうそ》に専《もつぱら》なるもの、つねに古人をこれ貴《たふと》しとなす。彼平然として、あが仏をなみす。われ古人のために彼を憎む。
われまた芸術の士のこの気魄《きはく》なかるべからざるを知る。故に必しも憎むこと深からず。されども、彼が世の歌の奇なるもの巧《こう》なるものを排しながら、世の奇工のすべてを詠中に蔵するを憎む。俳家繊細の工夫を藉《か》り来《きた》りて、しかも蔽《おほ》ふに万葉素朴の風格を以てするを憎む。作者知つて然《しか》るか、知らずして然るか。未《いま》だ知らず。われはただ、その歌とその言の相背《そむ》くあるを知る。
大極殿址《だいごくでんし》は南 京 旧 蹟《なんきようきゆうせき》の雄、行人《こうじん》誰か感慨無量ならざるを得む。われ往日ゆきとぶらうて、空《むな》しく涙して帰れり。道人の如き、まさに吟詠百首、わが無能を償はざるべからず。何ぞ知らん、彼よみすてていふ。「はたなかのかれたるしばにたつひとのうごくともなしものもふらしも」と。つひにみづからに触るるなくしてやむ。何等の老獪《ろうかい》ぞ。これを憎まずして、世にまた憎むべき何ありや。
道人今斯《かく》の如き歌九十三首をあつめて一集をなし、われに序を徴す。道人すでにわが不文を知つて揶揄《やゆ》一番するか。以て大に憎むべし。
われ彼の憎むべき事由を数へ来るや、つひに三ならず。五六また七、いよよ出《い》でて徒《いたづら》に彼を大にし、われを小にす。われいかでか堪《た》へん。如《し》かず、筆を擱《お》かんには。
大正十三年八月念三日
不言斎主人  山  口   剛
南京新唱 自序
もし歌は約束をもて詠《よ》むべしとならば、われ歌を詠むべからず。もし流行に順《したが》ひて詠むべしとならば、われまた歌を詠むべからず。
吾《われ》は世に歌あることを知らず、世の人また吾に歌あるを知らず。吾またわが歌の果してよき歌なりや否やを知らず。
たまたま今の世に巧《たくみ》なりと称せらるる人の歌を見ることあるも、巧なるがために吾これを好まず。奇なるを以て称せらるるものを見るも、奇なるがために吾これを好まず。新しといはるるもの、強しといはるるもの、吾またこれを好まず。吾が真に好める歌とては、己が歌あるのみ。
採訪散策の時、いつとなく思ひ泛《うか》びしを、いく度《たび》もくりかへし口ずさみて、おのづから詠み据ゑたるもの、これ吾《わ》が歌なり。さればにや、一人にて遠き路を歩きながら、声低くこれを唱ふるとき、わが歌の、ことに吾に妙味あるを覚ゆ。
われ奈良の風光と美術とを酷愛して、其間《そのかん》に徘徊《はいかい》することすでにいく度ぞ。遂《つひ》に或《あるい》は骨をここに埋《うづ》めんとさへおもへり。ここにして詠じたる歌は、吾ながらに心ゆくばかりなり。われ今これを誦《じゆ》すれば、青山たちまち遠く繞《めぐ》り、緑樹甍《かはら》に迫りて、恍惚《こうこつ》として、身はすでに旧都の中に在《あ》るが如《ごと》し。しかもまた、伽藍寂寞《がらんじやくまく》、朱柱たまたま傾き、堊壁《あへき》ときに破れ、寒鼠《かんそ》は梁上《りようじよう》に鳴き、香煙は床上に絶ゆるの状を想起して、愴然《そうぜん》これを久しうす。おもふに、かくの如き仏国の荒廃は、諸経もいまだ説かざりしところ、この荒廃あるによりて、わが神魂の遠く此間に奪ひ去らるるか。
西国三十三番の霊場を巡拝する善男善女は、ゆくゆく御詠歌を高唱して、覊旅《きりよ》の辛労を忘れむとす。各々《おのおの》その笠《かさ》に書して同行《どうこう》二人といふ。蓋《けだ》し行住つねに大慈大悲の加護を信ずるなり。しかるにわが世に於《お》けるや、実に乾坤《けんこん》に孤〓《こきよう》なり。独往して独唱し、昂々《こうこう》として顧返することなし。しかも歩々今やうやく蹉〓《さた》、まことに廃墟《はいきよ》の荒草を践《ふ》むが如し。ああ行路かくの如くにして、吾が南京の歌の、ますますわれに妙味あるか。
わが郷さきに沙門《しやもん》良寛を出《いだ》せり。菴《あん》を国上《くがみ》の山下に結び、風狂にして世を終ふ。われその遺作を欽賞《きんしよう》することここに二十余年、この頃やうやく都門に其名を知る者あるを見る。その示寂《じじやく》以後実に九十四年なり。良寛常にいへらく、平生書家の書と歌人の歌とを好まずと。われ亦《ま》た少しく翰墨《かんぼく》に遊び、塗鴉《とあ》いささか自ら怡《よろこ》ぶ。遂に一の能《よ》くするなしといへども、また法家の余臭を帯びざるを信ず。ただ平素詳《つまびら》かに歌壇の消息を知らず。徒《いたづら》に当世作家の新奇と匠習とを排すといへども、良寛をしてわが歌を地下に聞かしめば、しらず果して何の評を下すべきかを。又しらず、今より百年の後、北国更に一風狂子を出し、其人垢衣《こうい》にして被髪し、野処して放歌し、吾等をして地下に耳を欹《そばだ》てしむべきものありや否やを。
大正十三年九月東京下落合《しもおちあひ》の秋艸堂にて
会 津 八 一
山中高歌 大正九年五月
山田温泉は長野県豊野駅の東四里の谿間《けいかん》にあり山色浄潔にして嶺上《れいじよう》の白雲も以《もつ》て餐《くら》ふべきをおもはしむかつて憂患を懐《いだ》きて此所《こ こ》に来《きた》り遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声《じらいたんせい》のなほ耳にあるを覚ゆ
嶺上の白雲・陶弘景は中国六朝《りくちよう》の梁《りよう》時代(502−557)の人。幼少より神仙《しんせん》の道を慕ひ、博読にして多芸。天文、地理、博物、医術など通ぜざるなく、のち句容の句曲山に隠居し、自《みづか》ら「華陽ノ真逸」と号す。北斉《ほくせい》の武成帝深く之《これ》を信頼し、国に吉凶の大事あれば、諮問せざるなきが故《ゆゑ》に、時の人これを「山中ノ宰相」といふ。帝ある時、書を致して山中の生活を問ふ。これに答へたる詩に「山中何ノアル所ゾ。嶺上ニハ白雲多シ。只《タ》ダ自ラ怡悦《イエツ》スベキノミ。持シテ君ニ寄スルニ堪《タ》ヘズ。」といへり。その第一句は武成帝の慰問の語をそのまま取入れたるなり。年八十五にして病なくして死す。
餐ふ・食ふにも堪へたりといふなり。
潭声なほ耳にあり・潭は深き水。その声はもとより低かるべきも、今尚《な》ほ耳のほとりにあり。
みすずかる しなの の はて の むらやま の
みね ふき わたる みなつき の かぜ
みすずかる・「信濃《しなの》」の枕詞《まくらことば》。「み」は接頭語。「すず」は篠竹《しのだけ》のことなり。
むらやま・群山。
みなつき・水無月。陰暦六月。作者がこの温泉に遊びしは新暦五月なり。水無月頃の山風のすがすがしかるべきさまを想像して詠《よ》めるなり。
かぎり なき みそら の はて を ゆく くも の
いかに かなしき こころ なる らむ
みそら・「み」は接頭語。空中。
おしなべて さぎり こめたる おほぞら に
なほ たち のぼる あかつき の くも
さぎり・霧。「さ」は接頭語。
あさあけ の をのへ を いでし しらくも の
いづれ の そら に くれ はて に けむ
あさあけ・曙《あけぼの》。あけぼの。
をのへ・山の峯《みね》。「を」とは山の高き所をいふ。
くも ひとつ みね に たぐひて ゆ の むら の
はるる ひま なき わが こころ かな
たぐひ(ふ)・そふ。ともなふ。傍《そば》を離れざる。
ゆのむら・いでゆのむら。温泉の村。
いにしへ の ヘラス の くに の おほがみ を
あふぐ が ごとき くも の まはしら
ヘラス・「希臘《ギリシヤ》」の二字は中国音にて「ヘラス」。希臘人は己《おの》が国を呼ぶに「ヘラス」といへりといふ。
まはしら・柱。「ま」は接頭語。この山中にて見たる白雲の柱は、上代のさる神像の如《ごと》しといふなり。
あをぞら の ひる の うつつ に あらはれて
われ に こたへよ いにしへ の かみ
うつつに・現実に。
かぜ の むた そら に みだるる しらくも を
そこ に ふみ つつ あさかは わたる
むた・と共に。
あさかは・朝の川。
たにがは の そこ の さざれ に わが うま の
ひづめ も あをく さす ひかげ かな
さざれ・小石。
ひかげ・日光。陽光。
かみつけ の しらね の たに に きえ のこる
ゆき ふみ わけて つみし たかむな
かみつけ・上野国《かみつけのくに》。
しらね・白根山。山田より背後の山を越ゆれば、白根は遠からず。
たかむな・たかんな。竹の子。筍《たけのこ》。笋。『古事記』上巻「ソノ右ノ御ミヅラニ刺サセル湯津津間櫛《ユツツマグシ》ヲ引キ闕《カ》キテ投ゲ棄《ウ》テタマヘバ、乃《スナハ》チ笋生《タカムナナ》リキ。是《コ》ヲ抜キ食《ハ》ム間ニ逃ゲ行《イ》デマシキ。」
放浪〓草《ぎんそう》 大正十年十月より同十一年二月に至る
〓草・「〓」は「吟」の古字。「吟草」にて「詠草」といふに同じ。
大阪の港にて
をちこち に いたがね ならす かはぐち の
あき の ゆふべ を ふね は いで ゆく
をちこち・彼方《かなた》此方《こなた》、方々に。
いたがねならす・鉄板を打ち鳴らす音なり。鉄工所か造船所にてもありしならむ。
瀬戸内海の船中にて
わたつみ の みそら おし わけ のぼる ひ に
ただれて あかき あめ の たなぐも
わたつみ・往々「綿津見」など書けども、有害無益の宛《あ》て字なり。ここにては「海」のこと。
たなぐも・棚《たな》の如く平らかに層をなして靡《なび》ける雲。『万葉集』には「たなぐもる」「たなぎらふ」など動詞にして用ゐたり。
鞆《とも》の津《つ》にて
きてき して ふね は ちかづく とものつ の
あした の きし に あかき はた たつ
きてきして・汽笛を鳴らして。
ふね はつる あさ の うらわ に うちむれて
しろき あひる の なく ぞ かなしき
はつる・碇泊《ていはく》する。
うらわ・浦回。「うらみ」といふに同じ意味に用ゐたり。この集中尚《な》ほ多し。海岸の陸に入りこみたる所をいふ。謡曲『羽衣《はごろも》』に「かざはやの三穂のうらわを漕《こ》ぐ船の」などいへり。
かなし・いとほし、かはゆしの義。
尾道《をのみち》にて
ほばしら の なか より みゆる いそやま の
てら の もみぢば うつろひ に けり
てら・寺。浄土寺ならむ。
うつろふ・色褪《あ》す。
わが すてし バナナ の かは を ながし ゆく
しほ の うねり を しばし ながむる
厳島《いつくしま》にて
みやじま と ひと の ゆびさす ともしび を
ひだり に み つつ ふね は すぎ ゆく
ひとのゆびさす・同船の客が指さして教へたるなり。
みぎは より ななめに のぼる ともしび の
はて に や おはす いちきしまひめ
はてにやおはす・夜の空の中に燈火にて位置を推定せるなり。
いちきしまひめ・市杵島姫命。島名の厳島と同語原なること明かなり。 田 心 姫 命《たごころひめのみこと》、湍津姫命《たぎつひめのみこと》の二柱と合祀《ごうし》す。
ふたたび厳島を過ぎて
うなばら を わが こえ くれば あけぬり の
しま の やしろ に ふれる しらゆき
あけぬり・朱塗。
あけぬり の のき の しらゆき さながらに
かげ しづか なる わたつみ の みや
さながらに・そのままに。
わたつみのみや・海神の宮。
あかつき の ともしび しろく わたつみ の
しほ の みなか に みやゐ せる かも
わたつみ・ここにてはただ「海」といふこと。
みなか・中。「み」は接頭語。
みやゐ・宮居。鎮座すること。
わが ため に みて うち ならし わたつみ の
あした の みや に はふり は うたふ
わがために・作者の希望に応じて。
みて・手。掌。「み」は接頭語。
はふり・禰宜《ねぎ》に次ぐやや低き神職。『万葉集』に「味酒《うまさけ》を三輪の祝《はふり》がいはふ杉《すぎ》」とあり。
うたふ・謡ふ。神ほぎうたを唱ふ。
ひとり きて しま の やしろ に くるる ひ を
はしら に よりて ききし しほ の ね
よりて・凭りて。もたれて。
しほのね・海潮の音。
別府にて
いかしゆ の あふるる なか に もろあし を
ゆたけく のべて ものおもひ も なし
いかしゆ・効験ある温泉。
もろあし・両脚、双脚。良寛(1757−1831)の詩には「長ク両脚ヲ伸シテ睡《ネム》ル」といふ句もあれど、それに限らず、かかる表現は、更に古く『寒山詩』の中にもあり、東洋的にはありふれたることなり。
はま の ゆ の には の このま に いさりび の
かず も しらえず みゆる このごろ
いさりび・漁火。漁撈《ぎよろう》の燈火。
しらえず・知れぬほど。
ひさかたの あめ に ぬれ つつ うなばら を
こぎ たむ あま が たぢから も がも
ひさかたの・「あめ」の枕詞《まくらことば》。
こぎたむ・漕ぎ廻る。
あま・漁夫。
たぢから・腕力。
がも・希望の助辞。
たちばな の こぬれ たわわに ふく かぜ の
やむ とき も なく いにしへ おもほゆ
たちばな・橘。わが宿りし旅館の前庭にも多くこれを植ゑたり。
たわわに・その果実累々《るいるい》として枝も撓《たわ》むばかりに。「とををに」「たわたわに」「たわに」など、みな同じ。
わが こころ つくし の はま の たちばな の
いろづく まで に あき ふけ に けり
わがこころ・「つくし」の枕詞。
うなばら に むかぶす やへ の しらくも を
みやこ の かた へ ゆめ は ぬひ ゆく
むかぶす・彼方《かなた》に遠く低く伏す。
やへの・幾重にもかさなれる。
ぬひゆく・白雲の重畳せる中を針をもて縫ふが如くに、夢は都の方向に辿《たど》り行くといふこと。
つきよみ の かげ は ふたたび みつれども
たび なる われ は しる ひと も なし
つきよみのかげ・月の光。天 照 大 神《あまてらすおほみかみ》の弟に月夜見尊《つきよみのみこと》ありて、月光照耀《しようよう》の世界を司《つかさど》るといふ。
みつれども・満つれども。旅中に満月に逢《あ》ふこと二度に及びたりといふこと。唐の岑参《しんしん》にも「家ヲ離レテ月ノ両回円《マル》キヲ見ル」の句あれど、実情にしてその摸倣《もほう》にはあらず。
われは・「我を」といふこと。
鬼の岩屋といふところにて
ゆふ されば ほとぎ の さけ を かたまけて
いはや の つき に おに の ゑふ らむ
鬼の岩屋・かかる名の洞穴《どうけつ》別府の海岸にあり。
ほとぎ・缶。胴太く口小さき土器の壺《つぼ》。
かたまけて・傾けて。
別府の宿より戯《たはむれ》に奈良の工藤精華に贈る
そらみつ やまと の かた に たつ くも は
きみ が いぶき の すゑ に か も あらむ
工藤精華・その頃奈良に住みてよく酒を嗜《たしな》みたる老写真師。古美術の撮影にて知らる。『日本精華』の著あり。
そらみつ・「やまと」の枕詞。
いぶき・息を吹くこと。この歌は、この老人のつねに好みて壮語するを諷《ふう》したるなり。
別府のやどりにて夢想
をちこち の しま の やしろ の もろがみ に
わが うた よせよ おき つ しらなみ
夢想・ここにては「空想」にはあらず。睡眠中に作りて、醒《さ》めて後尚《のちな》ほ記憶せる詩歌の類《たぐひ》を神仏の霊感などの如く思ひて「御夢想」などいふ。
をちこち・あるひは遠く、あるひは近く。
もろがみ・もろもろの神々。
よせよ・運び行きてこれを伝へよ。
大分《おほいた》市外上野《うへの》の石仏をみて
ひびわれし いし の ほとけ の ころもで を
つづりて あかき ひとすぢ の つた
ころもで・袖《そで》
豊後《ぶんご》海上懐古
かみ の よ は いたも ふりぬ と ひむがし に
くに を もとめし おほき すめろぎ
いたも・いたくも・甚《はなはだ》しく。
ひむがし・東方。今の九州の地より、謂《い》はゆる畿内《きない》地方を指《さ》してかくいへり。
すめろぎ・天皇。
あたらしき くに ひらかむ と うなばら の
あした の かぜ に ふなで せり けむ
くにひらかむと・日向《ひうが》地方は、山岳のみ多くして、土地狭隘《きようあい》なるに、天孫の一族は、久しくかかる所に籠居《ろうきよ》したりといふ伝説あるによりて、新しき国土開拓の希望を想像したるなり。
せりけむ・せしならむ。
うなばら を こえ ゆく きみ が まながひ に
かかりて あをき やまとくにばら
まながひ・目のさき。まぢか。眉宇《びう》の間に想見するなり。
耶馬渓《やまけい》にて
大正十年十二月十二日雨を冒して耶馬渓に入り二日にして去る時に歳やうやく晩《おそ》く霜葉すでに飛びつくしてただ寒巌と枯梢《こしよう》と孤客の病身に対するあるのみ蕭条《しようじよう》まことに比すべきものなかりき
耶馬渓・山国川の谿谷《けいこく》。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽《らいさんよう》(1780−1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。
あしびきの やまくにがは の かはぎり に
しぬぬに ぬれて わが ひとり ねし
あしびきの・「やま」の枕詞。
しぬぬに・しつとりと。
やまくに の かは の くまわ に たつ きり の
われ に こふれ か ゆめ に みえつる
こふれか・恋ひ慕へるにや。
よひ に きて あした ながむる むか つ を の
こぬれ しづかに しぐれ ふる なり
むかつを・「を」は峰。向ひの峰。旅館の二階より眺《なが》めていへり。「つ」は上下の名詞を連ねて熟語をつくる助詞。「時つ風」「沖つ浪《なみ》」「国つ神」など。
なり・詠歎《えいたん》。
ひと みな の よし とふ もみぢ ちり はてて
しぐるる やま を ひとり みる かな
よしとふ・よろしといふ。
しぐるるやま・時雨《しぐれ》ふる山の景致。
しぐれ ふる やま を し みれば こころ さへ
ぬれ とほる べく おもほゆる かも
やまをし・「山を」といふこと。「し」は意を強むる助詞。
ぬれとほる・湿気が心の奥まで沁《し》み込む。
あさましく おい ゆく やま の いはかど を
つつみ も あへず このは ちる なり
あさましく・なさけなきほど見苦しく。
おいゆく・兀々《こつこつ》たる岩山の形態を、人の骨高に老いたるに比したるなり。
なり・詠歎。
むか つ を の すぎ の ほこふで ぬき もちて
ちひろ の いは に うた かか まし を
すぎのほこふで・鉾《ほこ》の如く末の尖《とが》りたる杉《すぎ》を、そのまま筆となしてと、ことさらに誇大なる物いひをなせるなり。『万葉集』には唯《た》だ一度「ほこすぎ」といへり。また樹木を筆の形に比したるは東西の文学にその例あり。たとへばハイネの「ノルドゼイ」の如《ごと》し。
しぐれ ふる やまくにがは の たにま より
ゆふ かたまけて ひとり いで ゆく
ゆふかたまけて・「かたまく」は「かたむく」。夕も近く、日の暮れむとするに、といふこと。
やまくに の かは の せ さらず たつ きり の
たちかへり つつ みむ よし も がも
せ・瀬。浅瀬。
さらず・離れず。立ち去らず。
たつきりの・「の」は「の如く」。立ちわたる霧の如くといふなり。
たちかへりつつ・上に「たつ」とあるを、音声のそれに近き「たち」を以て受けたり。幾度も来《きた》りてといふ意。「つつ」は、さきにも出《い》でし如く、同じことを繰返す助詞。
よし・手段。因縁。たより。
がも・あれかしと希求の詠歎。
あき さらば やまくにがは の もみぢば の
いろ に か いでむ われ まち がて に
あきさらば・秋ともならば。秋の来らば。
いろにかいでむ・植物なれども、真情を色に露《あら》はすものの如く詠《よ》めるなり。
われまちがてに・吾《われ》を待ち遠しく思ひて。待ちかぬる思ひにて。
たにがは の きし に かれ ふす ばら の み の
たまたま あかく しぐれ ふる なり
たまたま・まれに。
なり・詠歎。
自性寺《じしようじ》の大雅堂にて
自性寺は豊前《ぶぜん》中津町にあり池大雅《いけのたいが》かつて来りて滞留したりと称し寺中の二室を大雅堂と名づけその襖《ふすま》に彼の書画大小二十余点を貼《は》りつめたりまことに西海の一勝観なりしかるにこの寺今はさだまれる住職もなきばかりに衰へて袴《はかま》はきたる青年ただ一人ありて見物の客の案内などするのみそのさま甚《はなは》だ旅懐をいたましめたり
彼・池大雅(1723−1776)。今に及びて最も人気ある南画家。本名池野秋平。別号は三岳道者、霞樵《かしよう》など。
貼りつめ・作者が、これらの歌を詠みてより、久しからずして、この墨蹟《ぼくせき》を、悉《ことごと》く剃刀《かみそり》かなどにて、襖より切り抜きて盗み去りしものあり。それより後今日に至るも、遂《つひ》に行くところを知らずといふ。因《ちなみ》にいふ、昭和五年(1930)平凡社発行の『書道全集』第廿一巻には、これらの墨蹟のうち五点を掲載せり。(八九、九〇、九一、九二、九三頁《ページ》参照。)
むかしびと こころ ゆららに もの かきし
ふすま に たてば なみだ ながるる
ゆららに・ゆらゆらに。ゆららかに。心ゆたかに。
いにしへ の くしき ゑだくみ おほ かれど
きみ が ごとき は わが こひ やまず
くしき・手腕の霊妙なる。(前ニモ出《イ》デタルモ意味少シク異ル。)
ゑだくみ・絵師。画家。
なほざりに ゑがきし らん の ふで に みる
たたみ の あと の なつかしき かな
なほざりに・気楽に。深く苦心の風もなく。
たたみのあと・あまり厚からぬ毛氈《もうせん》の上にて、奔放に筆を揮《ふる》へば、畳の目がその筆触の中に鮮《あざや》かに見ゆることあり。この場合それなり。自性寺には、墨蘭の小品に、かかる筆致のものありき。
いにしへ の ひと に あり せば もろともに
もの いは まし を もの かか まし を
ありせば・あらば。ありしならば。
木葉《このは》村にて
肥後国《ひごのくに》木葉村に木葉神社あり社頭に木葉猿といふものを売る素朴また愛すべしわれ旅中にこの猿を作る家これを売る店のさまを見むとて半日をこの村に送りしことあり
このごろ の よる の ながき に はに ねりて
むら の おきな が つくらせる さる
はにねりて・「はに」は粘土、または陶土。それを捏《こ》ねて。(前に出デタリ。)
つくらせる・作りたまへる。戯《たはむれ》に敬語を用ゐたるなり。
かはら やく おきな が には の さむしろ の
かぜ に ふかるる さにぬり の さる
さむしろ・むしろ。蓆。莚。「さ」は接頭語。
さにぬり・丹《に》塗り。「さ」は接頭語。
ほし なめて かず も しらえぬ さにぬり の
ましら が かほ は みる に さやけし
ほしなめて・乾《ほ》し並べて。「こまなめて」下に出《い》でたり。
しらえぬ・知れぬ。知られぬ。
みるにさやけし・目にも鮮《あざや》かなり。
こころ なき おい が いろどる はにざる の
まなこ いかりて よ の ひと を みる
こころなき・無心なる。素朴なる。
よのひとをみる・唐の王摩詰《おうまきつ》の詩に「白眼ニシテ他ノ世上ノ人ヲ見ル」といふ句あり。やや似たる趣なり。
さる の こ の つぶらまなこ に さす すみ の
ふで あやまち そ はし の ともがら
つぶらまなこ・つぶらかなる目。円《まる》き眼。
はし・土師。粘土にて物を造る人。
ともがら・伴侶《はんりよ》。連中。なかまの人々。
ひとごと を きかじ いはじ と さる じもの
くち おしつつみ ひじり さび す も
ひとごと・他人のいふ言葉。『万葉集』にては「人言」「人辞」「他言」「他辞」などの文字を宛《あ》てたり。
さるじもの・猿といふものの如《ごと》く。猿らしく。『万葉集』には「いぬ」「うま」「かも」「とり」「しし」などの下に、この「じもの」をつづけたる語法あり。作者はことさらにかかる古式の語格を用ゐて滑稽《こつけい》の気分を扶《たす》けんとしたるなり。
ひじりさびす・智者ぶる。賢人ぶる。
も・詠歎。
さる の みこ ちやみせ の たな に こま なめて
あした の かり に いま たたす らし
さるのみこ・猿を貴公子などの如くに見立てたり。
こまなめて・馬の頭を立て並べて。
いまたたすらし・今しも出発せらるるか。『万葉集』巻一に「朝狩に今立たすらし、夕狩に今たたすらし、み取らしの梓《あづさ》の弓の、なかはずの音すなり。」とあるを取りて、戯《たはむれ》にこれに倣《なら》ひたるなり。
ましらひめ さる の みこと に まぐはひて
みこ うまし けむ とほき よ の はる
まぐはひて・「まぐはふ」は男女の交り。
みこ・「み」は接頭語。ここに「みこ」といふは、ただ「子」といふこと。「み」は接頭語。
車中肥後の海辺《うみべ》にて
たち ならぶ はか の かなた の うなばら を
ほぶね ゆき かふ ひご の はまむら
肥後の海辺・これは何所《いづこ》なりしかを記憶せざるも、作者の知れるある人、九州の旅より帰り来《きた》り、まさにこの歌の如き風景を車窓にて見たるよし談《かた》れり。
旅中たまたま新聞にて大隈《おほくま》侯の病《やまひ》あつしと知りて
わせだ なる おきな が やまひ あやふし と
かみ も ほとけ も しろし めさず や
大隈侯・大隈重信《しげのぶ》(1838−1922)をさせり。
太宰府《だざいふ》のあとにて
いにしへ の とほ の みかど の いしずゑ を
くさ に かぞふる うつら うつらに
太宰府の址《あと》・駅の北二キロ。水城《みづき》村にあり。推古天皇の十七年(609)に初めて史籍《しせき》にその名を見、天智天皇の朝に定置され、西海諸国の統治と、対外警備と、外客の饗応《きようおう》とを司《つかさど》れり。
とほのみかど・地方官庁といふこと、ここにては太宰府を指す。
いしずゑ・太宰府址に存する礎石は、正庁址に三十六個、東庁址に九個、西庁址に八個、中門址に六個、大門址に十二個あり。ことに正庁址のものは、径二メートル、二重三重に柱座の造出しありて、工作の精巧なると、その遺存の数の多きとは、頗《すこぶ》る旅客の目を驚かすに足る。当時はそれを以て外客に威武を示さんとしたるなるべし。
菅原道真《すがはらのみちざね》をおもひて
わび すみて きみ が みし とふ とふろう の
いらか くだけて くさ に みだるる
みしとふ・「見しといふ」の略。
とふろう・都府楼。『唐書』の「百官志」によれば、節度使ありて、その地方々々の軍政及び行政を掌《つかさど》り、節度府の高殿を「都府楼」といふ。我が国の「都府楼」は、それに倣《なら》ひしものなり。この地に左遷されし菅原道真(845−903)の詩に「都府楼ハ纔《ワヅカ》ニ瓦色《ガシヨク》ヲ看《ミ》ル、観音寺ハ只《タ》ダ鐘声ヲ聴《キ》ク。」といふ句あり。また世俗に周知さるる「去年ノ今夜清涼ニ侍ス」の句を含める七言絶句あり。その閉戸幽悶《ゆうもん》の状睹《み》るが如し。かくの如きこと三年にして此の地にて死せり。
観世音寺《かんぜおんじ》の鐘楼にて
この かね の なり の ひびき を あさゆふ に
ききて なげきし いにしへ の ひと
観世音寺・駅の北二キロ。さきに挙げたる道真の詩に「観音寺」といへるは、即ちこれなり。斉明天皇のために、天智天皇(626−671)の創《はじ》むるところにして、養老七年(723)沙弥満誓《しやみまんぜい》をして造営せしめ、聖武《しようむ》天皇の天平《てんぴよう》十七年(745)僧玄〓《げんぼう》を遣《つかは》して工事を督せしむるに、玄〓は翌年落成供養の行列中にありて、落雷に打たれて死せり。或《あるい》はいふ、輿《こし》に乗じて堂に入らんとする時、空中に物ありて、忽《たちま》ち彼を捉《とら》へて支裂し、首は遠く奈良の興福寺の唐院の前に落つ。これ彼に宿怨《しゆくえん》ありし藤原広嗣《ふぢはらのひろつぐ》の亡霊の為《な》すところなりと。寺はその後数回の火災に遇《あ》ひ、今の堂宇は、みな江戸時代の再建なるも、仏像には藤原、鎌倉の佳作多し。寺今は天台宗。
このかね・この鐘。道真が朝夕聞きて感傷したる鐘は、今なほ観世音寺の鐘楼に懸《かか》りてあり。高さ四尺ばかり。細形にて上下に唐草《からくさ》の狭き文様帯あるのみにて、銘文なし。全体に蒼勁《そうけい》の趣あり。奈良時代初期のものと推定すべし。
いたづき の たぢから こめて つく かね の
ひびき の すゑ に さぎり は まよふ
いたづきの・前にも出でたり。作者が病中なりしをいふ。
たぢから・「てぢから」の転化。すなはち「腕の力」。(前ニ出ヅ。)
さぎりはまよふ・「さ」は接頭語。たまたま暮近き空に、鐘声とともに、夕霧の低迷せりといふ意なり。
ひとり きて わが つく かね を ぬばたまの
よみ の はて なる ひと さへ も きけ
ぬばたまの・「夜」の枕詞《まくらことば》。
よみ・黄泉。冥土《めいど》。
つき はてて くだる しゆろう の いしだん に
かれて なびかふ はた の あらぐさ
つきはてて・撞《つ》き了《をは》りて。
しゆろう・ある時は「鐘楼」の二字を「しようろう」と読まず、かく読む。
なびかふ・「かふ」は「く」の延音。靡《なび》く。
あらぐさ・ほしいままに生《は》え茂りたる雑草。
長崎のさる寺にて
おくり いでて かたる ほふし の ゆびさき に
みづ とほじろき わうばく の もん
さる寺・某寺。その寺名は忘れたるも、山手の然《しか》るべき寺なりき。福済寺なりしかと覚ゆ。
みづとほじろき・ここにては、遥《はる》かなる海水が、遠く白々と見ゆるをいふなり。『万葉集』には「山高み水遠白し」といふ句は前後二度あらはる。即ち山部赤人《やまべのあかひと》が富士山に登りて俯瞰《ふかん》して成れる句を、大伴家持《おほとものやかもち》(718−785)は、後に越前《えちぜん》の国にて詠める歌の中にこれを襲用せるなり。しかるに今、この集の作者は、西国に旅して詠むところ、たまたまその片句に暗合せるなり。
わうばくのもん・黄檗《おうばく》寺院の住僧が、門前まで送り出でて、地勢の説明をなしてくれたるなり。思へばこの寺もこの僧も今は無かるべし。
西国の旅より奈良にもどりて
しか の こ は みみ の わたげ も ふくよかに
ねむる よ ながき ころ は き に けり
ふくよかに・軟《やはら》かに。ふさふさとしたる綿毛を、その耳の内側に持てる鹿の子のさまなり。
奈良の戎《えびす》の市《いち》にて
ささ の は に たひ つり さげて あをによし
なら の ちまた は ひと の なみ うつ
戎の市・作者は大正十一年(1922)正月奈良にありて、この市を見たれども、その市の中心なる神社には詣《まう》でざりしが、後に日吉館の主人に訊《たづ》ねやりしに、それは南市町の恵美須《えびす》神社にて、祭礼は一月五日なりと答へ越せり。
たひ・鯛。笹《ささ》の枝に、紙にて造りたる鯛のほかに、大判小判など吊《つ》り下げたるものを、縁起物としてこの市にて売るなり。
奈良より東京の友に
なべて よ は さびしき もの ぞ くさまくら
たび に あり とも なに か なげかむ
くさまくら・「旅」の枕詞。
石切《いしきり》峠にて
いはばな の ほとけ の ひざ に わすれ こし
かき の み あかし ひと も みる べく
石切峠・滝坂を行きつくして登れるところ。左手に道路よりもやや高く、岩壁に刻したる仏像群あり。(前ニモ出ヅ。)
いはばな・岩山の側面に突出したるところ。
こし・来《きた》りし。
かきのみ・柿の実。
村荘雑事 大正十一年九月より同十三年に至る
村荘・作者は、これより先久しく小石川区豊川町にて星島二郎君の貸家に住みしを、この時より落合町三丁目一二九六番地なる市島春城翁《おう》(1860―1944)の別荘を借りて移り住みしなり。
きく うう と おり たつ には の このま ゆ も
たまたま とほき うぐひす の こゑ
このまゆも・「ゆ」は「より」の意。「も」は感歎詞《かんたんし》。木立の間より、といふこと。
きく うう と つち に まみれて さにはべ に
われ たち くらす ひと な とひ そ ね
まみれて・両手ともに土に汚《よご》れて。
さにはべ・庭辺。庭のほとり。「さ」は接頭語。
ひとなとひそね・「な」「そ」は禁止。人の訪《と》ひ来ることなかれといふなり。「ね」希望の助詞。
はな すぎて のび つくしたる すゐせん の
ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ
かすみ たつ をちかたのべ の わかくさ の
しらね しぬぎて しみづ わく らし
をちかたのべ・をち方の野辺。遠方の野原。作者が初めて移り行きし頃は、垣《かき》の外はひろびろとしてまことに武蔵野《むさしの》の一端といふ趣ありき。
しらね・白き根。
しぬぎて・しのぎて。押しわけて。
しらゆり の はわけ の つぼみ いちじるく
みゆ べく なりぬ あさ に ひ に け に
はわけのつぼみ・茎の上端なる葉柄の繁《しげ》りあひたる間より、押し分くるやうにして、伸び出づる蕾《つぼみ》をいひたり。されど古人にかかる用例ありしを記憶せず。
あさにひにけに・朝ごとに、日に日に。(前ニモ出ヅ。)
の の とり の には の をざさ に かよひ きて
あさる あのと の かそけく も ある か
をざさ・小笹。
あさる・餌を尋ね求むる。
あのと・足の音。足にて地を掻《か》く音。
あるか・「か」は感歎。「あるかな」といふに同じ。
ゆく はる の かぜ を ときじみ かし の ね の
つち に みだれて ちる わかば かな
ときじみ・時もなく。その時節にもあらざるに。『万葉集』「時じくぞ雪は降りける」。
ちる・まだ軟《やはら》かき若葉が、風のためにその柄を吹き折られて、樹下の地上に散り布《し》く。
まめ ううる はた の くろつち このごろ の
あめ を ふくみて あ を まち に けむ
くろつち・畑の畔《あぜ》の土。
あを・吾を。吾が立ち出で来《きた》りて耕さんを、畔の土は待ちてありしならむと、擬人法にいへり。『万葉集』「大和《やまと》女《め》の膝《ひざ》まくごとに吾《あ》を忘らすな」。
いりひ さす はたけ の くろ に まめ うう と
つち おしならす て の ひら の おと
くろ・畔。あぜ。
あめ はれし きり の したば に ぬれ そぼつ
あした の かど の つきみさう かな
そぼつ・濡れ透《とほ》る。
うま のる と わが たち いづる あかとき の
つゆ に ぬれたる からたち の かき
あかとき・あかつき。暁。早朝午前六時より始まりし市谷《いちがや》なる士官学校の練習に間に合はんとて、毎朝四時に村荘の門を出でたり。中国内地の旅行をなさむとて、その用意のために乗馬の稽古《けいこ》を始めたるなりき。その頃は彼《か》の地にはバスなどの便は無かりしなり。
あきづけば また さき いでて うらには の
くさ に こぼるる やまぶき の はな
あきづく・秋に近づく。『万葉集』には「秋づけば尾花が上におく露の」「秋づけば萩咲き匂《にほ》ふ」などいへり。されど「春づく」「夏づく」「冬づく」といふはあらず。
やまぶき・山吹は普通は晩春の候に咲くものなれど、わが裏庭のは四季咲なりき。
みづ かれし はちす の はち に つゆぐさ の
はな さき いでぬ あき は きぬ らし
はちすのはち・睡蓮《すいれん》を植ゑたる大鉢。
つゆぐさ・露草。鴨跖草《つゆくさ》。田野に自生して藍色《あゐいろ》の花を開く。
きぬらし・来りしにや。
おこたりて くさ に なり ゆく ひろには の
いりひ まだらに むし の ね ぞ する
おこたりて・除草不行届きにて。
いりひまだらに・雑草の中に夕照のさし入りて、その影の斑々《はんぱん》たるさまをいへり。
しげり たつ かし の このま の あをぞら を
ながるる くも の やむ とき も なし
わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と
ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ
ふたりのゑかき・この二人はわが家に近く住みし友人中村彝《つね》(1888−1924)が門下の人々なりき。
むさしの の くさ に とばしる むらさめ の
いや しくしくに くるる あき かな
とばしる・「たばしる」「ほとばしる」に同じ。飛び散ること。
むらさめ・一としきり降りて過ぐる雨。
いや・いよいよ。ますます。
しくしくに・頻《しき》りに。『万葉集』に「浜清く白浪《しらなみ》騒ぎしくしくに恋ひはまされど」などいへり。
震余 大正十二年九月
九月一日大震にあひ庭樹の間に遁《のが》れて
おほとの も のべ の くさね も おしなべて
なゐ うちふる か かみ の まにまに
大震・いはゆる大正(1923)の震災なり。九月一日、恰《あたか》も午飯を喫し居《を》る時、俄《には》かに強く揺れ出したれば、庭に飛び下りしも、震動烈《はげ》しくつづきて、地上に立つこと能《あた》はず。しばらく四つ匍《ば》ひになりたるまま、前後を打ち見るに、睡蓮《すいれん》を植ゑたる幾鉢《いくはち》の水は、泥とともに飛び散り、屋根の瓦《かはら》は大半落ちつくさんとす。余震はしばしば到りて、書棚《しよだな》は悉《ことごと》く倒れて畳の上に重なり合ひ、家の中には安んじて入りがたければ、戸袋より雨戸を引き出し来りて、邸内の杉の林の中に、所を選びて之《これ》を敷き並べ、客間の広き敷ものを剥《は》ぎ来《きた》り、細紐《ほそひも》にてその四隅《よすみ》を杉の林の梢《こずゑ》に釣《つ》りて、これを以て雨除《よ》けとし、蚊取《かとり》線香にて夜の蚊を防ぎなどして、ここにて数日を送るに、夜半に至りて、何者とも知れず、邸外より大声にて法外なる流言を伝へ、甚《はなはだ》しきは、垣根《かきね》越しに窺《うかが》ひ寄りて、ピストルを連発するものさへありき。かかることもありきと、今も折々思ひ出すことあり。
おほとの・天皇の宮殿。
くさね・草根。ここにては根のみをいふにあらず、むしろ、ただ草といふこと。
なゐ・地震。
かみのまにまに・造化の神の思ふままに。
うちひさす みやこおほぢ も わたつみ の
なみ の うねり と なゐ ふり やまず
うちひさす・「みや」の枕詞《まくらことば》。
なみのうねりと・「と」は「の如く」。
あたらしき まち の ちまた の のき の は に
かがよふ はる を いつ と か またむ
のきのは・軒の端。
かがよふ・かがやく。耀《かがよ》ふ。
後数月にして熱海《あたみ》の双柿舎《そうししや》を訪《おとな》はんとするに汽車なほ通ぜず舟中より伊豆《いづ》山を望みて
すべ も なく くえし きりぎし いたづらに
かすみ たなびく なみ の ほ の へ に
双柿舎・坪内逍遙《しようよう》先生(1859−1935)の宅。熱海市の水口町にあり。庭前に二株の柿の古木あるを以て、これより先に作者が命名せしものなり。
くえし・崩《くづ》れし。
きりぎし・断崖《だんがい》。
なみのほ・「ほ」とは物の秀《ひい》でて高きところをいふ。浪《なみ》がしらの高く湧《わ》き上りたる部分をさしていへり。
へに・「へ」は「ほとり」。
被服廠《しよう》の跡にて
あき の ひ は つぎて てらせど ここばく の
ひと の あぶら は つち に かわかず
被服廠・本所区にあり。その広大なる敷地を信頼して逃《のが》れ込みし四万人の避難者悉《ことごと》く焼死せるを以《もつ》て有名なり。
つぎて・ひきつづきて。日に日に。
ここばくの・そこばくの。多くの。
ひとのあぶら・難に遭《あ》へる幾万の人体の脂肪の、大地一面に黒々と染《し》み入りしもの。
みぞがは の そこ の をどみ に しろたへ の
もの の かたち の みゆる かなしさ
みぞがは・溝の如《ごと》くにして、わづかに流るる小川。
をどみ・沈澱《ちんでん》せるもの。
もののかたち・作者はこの時、その溝の濁水の底に腐爛《ふらん》したる人の足らしきものを見たるなり。これを文字にするを忌避して、ただ「もの」とのみいへるなり。
山口剛に
うつくしき ほのほ に ふみ は もえ はてて
ひと むくつけく のこり けらし も
山口剛・号は不言斎(1884−1932)。作者が中年時代の親友。国文学者。博洽《はくこう》の読書家。奇逸なる趣味家にしてまた文章を能《よ》くせり。作者の処女歌集なる『南京《なんきよう》新唱』のために寄せたる序は、最も詞句の精妙を以て称せらる。久しく浅草駒形《こまがた》なる知人根岸氏方に寄寓《きぐう》し、この時(1923)罹災《りさい》して悉く蔵書を喪《うしな》ひ、悲嘆の状見るに堪《た》へず。是《これ》を以て作者ことさらに諧謔《かいぎやく》の語を以て一首を成して贈る。意はむしろ倶《とも》に啼《な》かんとするに近し。然《しか》るに昭和二十年(1945)四月に至り、作者は自ら戦災に罹《かか》り、満屋の万巻ことごとく灰燼《かいじん》に帰したれども、彼すでに世に在《あ》らず。作者の為に手を拍《う》つて大《おほい》に笑ふもの無きことを悲しめり。
淡島《あはしま》寒月老人に
わが やど の ペルウ の つぼ も くだけたり
な が パンテオン つつが あらず や
淡島寒月・名は宝受郎(1859−1926)。椿岳《ちんがく》の子。向島《むかふじま》須崎町弘福寺の門前に住める趣味家。明治以後最も早く井原西鶴《さいかく》の文章に心酔し、これを幸田露伴(1867−1947)尾崎紅葉《こうよう》(1867−1903)の二人に鼓吹せし人、後にこの二人によりて文壇は初めて西鶴の存在と価値とを知れり。老後は諸国の土俗玩具《がんぐ》、内外の神仏像などを多く蒐集《しゆうしゆう》したるが、この火災にて、身長の一倍半に近かりし自著の随筆の稿本とともに、悉くそれらを烏有《うゆう》に帰せしめたり。作者とは久しく忘年の交あり。
ペルウのつぼ・南アメリカ秘魯国《ペルー》の先住民インカ族の造り遺《のこ》したる土製の壺《つぼ》。人畜鳥魚などを描きたるその文様に特色ありて、趣味家の間に愛玩《あいがん》せらる。
なが・汝が。君が。
パンテオン・PANTHEON。羅馬《ローマ》の皇帝アグリッパが紀元前二十七年に建立《こんりゆう》して、当時の世界各地の宗教的偶像を陳列したりといふ神殿の名なり。その神殿に擬して戯《たはむれ》にかく詠《よ》みしなり。
望郷 いつの頃よりか大正十四年七月に至る
望郷・作者の郷里は新潟《にひがた》の市内なり。されど一生の大半を東京にて暮らし、罹災《りさい》して困窮に陥りしために、やむなく老後の身を故郷に寄せ来《きた》りしなり。かへつて新潟の歌を詠《よ》むこと少きは、住むこと久しからざりしためなり。
はる されば もゆる かはべ の をやなぎ の
おぼつかなく も みづ まさり ゆく
はるされば・春の来れば。春ともなれば。
もゆる・草木の萌《も》え出《い》づるをいふ。
をやなぎ・低く小さなる柳。
おぼつかなくも・大河の茫々《ぼうぼう》として水量の溢《あふ》るるさまの心もとなきをいへり。
あさり す と こぎ たみ ゆけば おほかは の
しま の やなぎ に うぐひす なく も
あさり・魚介を取ること。
こぎたむ・漕《こ》ぎまはる。(前ニ出ヅ。)
おほかは・新潟市の附近にては、信濃《しなの》川をかく呼ぶ。この川は信濃にありては「千曲《ちくま》川」といひ、越後《えちご》に入りては「信濃川」といふ。
しま・上流より押し流し来りし泥土より成れる低きデルタは河筋のところどころにあり。
ふるさと の ふるえ の やなぎ はがくれ に
ゆふべ の ふね の もの かしぐ ころ
ふるえ・古江。『万葉集』第十七巻には「あしがものすだくふるえ」とあり。ここにては越中国《えつちゆうのくに》の郷名なれども、作者のこの歌にては、ただもの古りたる水辺の意なり。ただ「ふるさと」「ふるえ」「ふね」と、おのづから口調を成せるは、寧《むし》ろ偶然なり。
よ を こめて あか くみ はなち おほかは の
この てる つき に ふなで す らし も
よをこめて・前夜を遅くまで。
あか・閼伽。水のこと。拉甸《ラテン》語のAQUAに通ず。越後にては水の船底にたまれるものをいふ。
くみはなち・汲《く》み放ち。「はなち」は、棄《す》つるなり。
かすみ たつ はま の まさご を ふみ さくみ
か ゆき かく ゆき おもひ ぞ わが する
ふみさくみ・ふみつけて。
かゆきかくゆき・行きつ戻りつして。
すべ も なく みゆき ふり つむ よ の ま にも
ふるさとびと の おゆ らく をし も
すべもなく・如何《いかん》ともしがたきばかりにといふこと。但《ただ》しこの歌は東京に在《あ》りし日に詠《よ》めるなり。
みゆき・ただ「ゆき」といふこと。「み」は接頭語。「深雪」とあて字して、深き雪と解し居《を》る人多きも、それは当らず。
おゆらくをしも・老い行くは惜しむべしといふこと。「らく」は「る」の延音。「も」詠歎《えいたん》の助詞。
みゆき ふる こし の あらの の あらしば の
しばしば きみ を おもは ざらめ や
あらしば・粗《あら》き柴。次に「しばしば」といふ語を受くるための序となりてあり。
おもはざらめや・思はずといふことあるべくもあらず。思ひてありといふことを力を籠《こ》めていへるなり。
南京《なんきよう》余唱 大正十四年
吉野北六田《きたむだ》の茶店にて
みよしの の むだ の かはべ の あゆすし の
しほ くちひびく はる の さむき に
北六田・「六田」は『万葉集』には「むつだ」と読めども、今は「むだ」といふ。吉野郡大淀《おほよど》町に属し、吉野川に沿へり。
みよしの・「み」は美称の接頭語。
あゆ・吉野の鮎《あゆ》は上代より聞ゆ。『万葉集』にも「隼人《はやびと》の、せとの巌《いは》ほも、鮎走る吉野の滝《たぎ》に、なほ若《し》かずけり」などあり。
くちひびく・口にひりつく。この語は『古事記』(712)中巻なる神武天皇の歌の中にあり。「みづみづし、久米《くめ》の子等《ら》が、垣《かき》もとに、植ゑしはじかみ、口ひびく、吾《われ》は忘れじ、打ちてし止《や》まむ」。「はじかみ」は「生薑《しようが》」。
吉野塔尾《たふのを》御陵にて
すめろぎ の こころ かなし も ここ にして
みはるかす べき のべ も あら なく に
塔尾御陵・後醍醐《ごだいご》天皇(1288−1339)の陵《みささぎ》。
すめろぎ・天皇。
かなしも・いたまし。「も」は感歎。
みはるかす・権威を以《もつ》て遠く見渡す。
吉野の山中にやどる
はる さむき やま の はしゐ の さむしろ に
むかひ の みね の かげ の より くる
はしゐ・端《はし》近く居ること。
さむしろ・莚《むしろ》。「さ」は接頭語。「狭」といふ字を宛《あ》つるもその意味なし。
かげのよりくる・夕日の傾くにつれて、彼方《かなた》の山の影が、谷を隔てたるこなたに迫り来るなり。
みよしの の やままつ が え の ひとは おちず
またま に ぬく と あめ は ふる らし
ひとはおちず・葉一枚も欠かさずに。葉一枚も例外とせずに。『万葉集』には「ひと日もおちず」「ひと夜もおちず」などいへり。
またま・珠《たま》。「ま」は接頭語。
ぬく・貫く。雨滴の珠を松の葉にて貫く。正岡子規《しき》子(1867−1902)に、松葉に貫ける無数の雨滴の珠玉を詠《よ》める、有名なる一聯《いちれん》の歌ありて、用語にも相似たるところあれど、その摸倣《もほう》にはあらず。また景情の規模を異にするが故《ゆゑ》に、敢《あへ》て自ら棄《す》てず。
あまごもる やど の ひさし に ひとり きて
てまり つく こ の こゑ の さやけさ
あまごもる・雨に降り籠《こ》められたる。
ふるみや の まだしき はな の したくさ の
をばな が うれ に あめ ふり やまず
ふるみや・古き宮にあらず、古く宮室のありし址《あと》を作者は意味せり。
まだしき・いまだしき。見るには尚《な》ほ早き。
をばな・尾花。すすき。
うれ・末端。末梢《まつしよう》。
香具山《かぐやま》にのぼりて
はにやま と ひと は なげく を ふみ さくむ
わが うげぐつ に かみ は さやらず
香具山・香山、また天香山《あめのかぐやま》、天香久山、天香具山と宛字《あてじ》す。耳成山《みみなしやま》、畝傍山《うねびやま》とともに、大和《やまと》三山の名あり。『万葉集』には三山の恋愛闘争を材としたる歌あり。「香具山は畝傍ををしと耳成とあひ争ひき」云々《うんぬん》。
はにやま・粘土より成れる山。
ふみさくむ・ふみつく。ふみ分く。(前ニ出ヅ。)
うげぐつ・穿《は》きたる靴。『万葉集』第五には、有名なる憶良《おくら》(659−733)の長歌に「うげぐつ」といひて、破れたる靴の意味に用ゐたれど、今この場合には係はりなし。
さやらず・障碍《しようがい》なし。支障もなく登攀《とうはん》し得たりといふこと。
かぐやま の かみ の ひもろぎ いつしかに
まつ の はやし と あれ に けむ かも
かみの・神に捧《ささ》げて作られし。
ひもろぎ・山上など特定の場所に、神霊の存在を信じて、上代人が榊《さかき》などを植ゑめぐらして祭れる所をいふ。
まつのはやしと・荒廃して単なる松の林となり果てたりと慨《なげ》きたるなり。
かぐやま の こまつ かり ふせ むぎ まく と
をの うつ ひと の あせ の かがやき
はる の の の こと しげみ か も やまかげ の
くは の もとどり とかず へ に つつ
もとどり・桑の枝を束ねたるを、人の頭髪の髻《もとどり》に比して戯《たはむれ》にかく詠みたるなり。
いにしへ を ともらひ かねて いき の を に
わが もふ こころ そら に ただよふ
ともらひかねて・「ともらひ」は「とむらひ」に同じ。弔はんと心は逸《はや》れども、これといふ方法も案出しかねて。
いきのをに・精神をこめて。『万葉集』には「いきのをに吾《われ》は思へど」「思ひわたらむいきのをにして」「いきのをに思へば苦し」などあり。
そらにただよふ・「そら」は虚空、天空。わが思ひは天外に馳《は》すといふこと。
畝傍山《うねびやま》をのぞみて
ちはやぶる うねびかみやま あかあかと
つち の はだ みゆ まつ の このま に
畝傍山・畝傍駅の南一キロばかり。
ちはやぶる・「神」の枕詞《まくらことば》。
あかあかと・日のさして、松の木の間に、あからさまに見ゆ。先にも云へる、上代の三山求婚の争ひのことなど聯想《れんそう》して、木の間より見ゆる山の地膚《じはだ》なども、何となく哀れに思はるるといふなり。
山田寺の址《あと》にて
くさ ふめば くさ に かくるる いしずゑ の
くつ の はくしや に ひびく さびしさ
山田寺・舒明《じよめい》天皇の時、山田石川麻呂の創立せし寺。石川麻呂は忠誠なる功臣なりしを、讒《ざん》にあひて皇太子、すなはち後の天智天皇(626−671)の疑ふところとなり、討伐を受け、無抵抗にてこの寺の塔の中に入りて縊死《いし》せしを、官兵は尚《な》ほ迫りて、その屍《しかばね》に刃《やいば》を加へ、一族郎党これに殉死せるもの八名あり。石川麻呂の娘なる造媛《みやつこひめ》は、太子の妃《きさき》なりしが、これを聞きて悲傷のために病を得、幽悶《ゆうもん》のうちに死せり。ことは『日本書紀』孝徳天皇大化五年(649)の条に詳《つまびら》かなり。今この寺の遺跡には、畑中に土壇と礎石とあるのみにて、往々土中より瓦片と仏とを発見す。伽藍《がらん》の配置は塔、金堂、講堂を南北に一直線に並べたる謂《い》はゆる四天王寺式なり。なほこの寺の建立の次第につきては、『上宮法王帝説』の裏書に文化史的に意義深き記事あり。
また先年興福寺東金堂修繕の際、その壇下より発見されて世を驚かしたる丈六型の鋳銅の仏頭は、文治三年(1187)三月興福寺の衆徒が、理不尽に襲ひ来《きた》りて強奪し去りし、この寺の講堂の本尊薬師像のものなり。この像は、天武天皇の六年(678)即ち石川麻呂の死後二十九年の作なりしを、かくして暫《しばら》く興福寺東金堂の本尊となりてありしも、この後正平十一年(1356)に堂は焼けたれども、像は取出されて免かれしが、応永十八年(1411)には、その堂とともに罹災《りさい》して、遂《つひ》に胴体を失ふに至れり。しかして現在のその堂の本尊は、その後四年にして堂の新築とともに、河内《かはち》鋳師の手にて造られたるものなり。天武天皇(631−686)は、その即位十四年(686)八月十二日、山田寺に幸して衆僧に稲を施す。天皇は、その兄天智天皇と親しまざりし人なれば、兄によりて冤罪《えんざい》を以《もつ》て誅《ちゆう》せられし石川麻呂の遺跡に、さきには講堂が造立せられ、今また親臨して寄進の行はれしは故《ゆゑ》ありといふべし。
くつのはくしや・靴の拍車。作者は、この度は乗馬靴にて奈良に赴《おもむ》きしなり。それにつきては、『渾斎《こんさい》随筆』の中に一文あり。参読さるるを望む。
やまでら の さむき くりや の ともしび に
ゆげたち しらむ いも の かゆ かな
やまでら・山寺。この寺の址《あと》には文章も文字も、貫名海屋《ぬきなかいおく》(1776−1863)の筆に成れる石川麻呂雪冤《せつえん》の碑あり。
さむきくりや・ここに「さむき」といふは、気温の低しといふほかに「乏しき」といふ意をも籠《こ》めたり。あだかも漢語にて「寒厨《かんちゆう》」などいふに近し。
聖林寺《しようりんじ》にて
あめ そそぐ やま の みてら に ゆくりなく
あひ たてまつる やましな の みこ
聖林寺・桜井駅より南に登ること二キロ。浄土宗。乾漆《かんしつ》十一面観音像と、その繊麗を極《きは》めたる光背を以て有名なり。この像もと三輪神社の神宮寺なりし大御輪寺《だいごりんじ》の本尊として伝へしを、明治初年の廃仏に遇《あ》ひ、この寺の住職が、三輪の神主某と同門の誼《よしみ》ありしため、ひそかに相謀《はか》りて、この寺に迎へ入れしものにて、決して世間に往々伝ふる如《ごと》く、路傍に遺棄して雨露に濡れたるを偶然拾ひ来りしにはあらずと、その当事者の法弟にて、後にこの寺の住職となりし三好宥忍《みよしゆうにん》師は作者に談《かた》れり。なほこの人は後に「観仏三昧《ざんまい》」の中にもあらはる。
享保二十一年(1736)の『大和志』に曰《いは》く、「大御輪寺ハ馬場村ニ在《ア》リ。大宮、若宮、両本地仏堂二宇。三層浮図《フト》、護摩堂、蔵経堂、伽藍《ガラン》神アリ。」と。このうち若宮本地仏堂こそ、今の十一面観音像の、もとの所在なりしなるべけれ。
やましなのみこ・今の筑波藤麿《つくばふぢまろ》氏なり。
豊浦《とよら》にて
ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を
おして たて けむ この むら の へ に
豊浦・岡寺駅の東北三キロ。欽明《きんめい》天皇十三年(552)百済《くだら》国より献じたる仏像を、この地なる豊浦宮に安置して豊浦寺といひ、仏法最初の寺と称せらる。
かみのいむとふ・「いむ」は「忌む」。「とふ」は「といふ」の略。日本在来の八百万《やほよろづ》の神達は、これを好みたまはざるべしといふ懸念、その頃一般に行はれたり。
奈良博物館即興
たなごころ うたた つめたき ガラスど の
くだらぼとけ に たち つくす かな
くだらぼとけ・(前ニ出《イ》ヅ。)
あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の
ほとけ の くち は もゆ べき もの を
びんばくわ・BIMBA。頻婆果。印度《インド》の果実の一種にして、その色赤しといふ。経典には、仏陀《ぶつだ》の肉体的特色として三十二相、八十種好を挙ぐる中に「脣色《シンシヨク》ハ赤紅ニシテ頻婆果ノ如シ」「丹潔ナルコト頻婆果ノ如シ」「光潤ニシテ丹暉《タンキ》ナルコト頻婆果ノ如ク上下相称《カナ》フ」「赭菓脣《シヤカクチビル》ヲ涵《ウル》ホス」などいひ、略して「果脣《カシン》」などいふ語も生じたり。
さてこの歌の心は、世上の人の古美術に対する態度を見るに、とかく骨董《こつとう》趣味に陥りやすく、色褪《あ》せて古色蒼然《そうぜん》たるものをのみ好めども、本来仏陀の唇は、赤くして輝きのあるがその特色の一つなるものを、といふなり。仏陀の形像を見るに、枯木寒巌を以てよしとせざる作者の態度を示したるものなり。この歌を発表したる時、特に強く推賞の辞を公にしたるは、当時いまだ一面識だもなかりし斎藤茂吉《もきち》君なりしなり。
ガラスど に ならぶ 四はう の みほとけ の
ひざ に たぐひて わが かげ は ゆく
四はうのみほとけ・四方四仏。我等が住めるこの世界より、限《かぎり》無く遠き彼方《かなた》にも、如来の治めたまふ世界ありと想像して、これを浄土と名づく。かかる浄土は無数の多きにも達すべけれども、最も早く人の想像に上りしは、天上と西方となるべし。西方は落日の光彩陸離たるより特に注意せられしなるべく、常に阿弥陀《あみだ》如来を以てその主宰者とす。これに対して、東方には薬師如来又は阿〓《あしく》如来の浄土あり。南方と北方とは、諸経の説くところ時によりて相異れり。今この西大寺の塔の場合は、寺伝にては東方を阿〓、西方を阿弥陀、北方を釈迦、南方を宝生《ほうしよう》と呼べり。この集の作者も、平素は少しく仏典に親しみ居《を》れど、諸経の中にて未《いま》だこれと同じき四仏の配列に遭《あ》ひたることなし。恐らく寺伝の誤なるべし。そはさておき、これらの四仏は、恐らく神護《じんご》景雲三年(769)頃建てられし、この寺の最初の塔の中にありしを、延長五年(927)の雷火にて塔は焼亡し、像のみ辛うじて搬出によりて免かれたるなるべし。
また、もとは一体づつ四方に向ひて配置されたるものなるべきを、博物館のケースにては、之《これ》を一列に陳列したれば、その膝《ひざ》のあたりを、作者の投げたる影が葡《は》ひ行けるなり。
のち の よ の ひと の そへたる ころもで を
かかげて たたす ぢこくてんわう
ぢこくてんわう・持国天王。四天王の一。大安寺出陳。元来重厚の作風なるを、破損を修理せる工人の技術精妙ならざりしために、衣袂《いべい》はますます重苦しげに見ゆるに至りしなり。
春日《かすが》野《の》にて
かすがの の しか ふす くさ の かたより に
わが こふ らく は とほ つ よ の ひと
かたよりに・鹿の伏したる跡は、草は一方に片靡《かたなび》きて折れ伏す。その如《ごと》く、わが心は、ひたすら傾きて、古人を思慕すといふなり。『万葉集』には「あすの宵《よひ》照らむ月夜は片よりに今宵《こよひ》によりて」「秋の田の穂向きのよれる片よりに吾は物思《も》ふ」などいへり。
奈良のやどりにて
かすがの の よ を さむみ か も さをしか の
まち の ちまた を なき わたり ゆく
よをさむみかも・夜を寒しとてにや。
まちのちまた・奈良の鹿には、特定の寝所あれど、其所《そ こ》には赴《おもむ》かずして、ひとり群を離れて、夜半に市街をさまよふものあるなり。
またある日
あまごもる なら の やどり に おそひ きて
さけ くみ かはす ふるき とも かな
あまごもる・(前ニ出ヅ。)
いにしへ に わが こふ らく を かうべ に こ
おほさか に こ と しづこころ なき
こふらくを・恋ふるを。
かうべにこ・「こ」は「来れ」。神戸、大阪に来れといふなり。
しづこころ・落ちつきて静かなる心。
たはむれに東京の友に送る
あをによし なら の かしうま たかければ
まだ のらず けり うま は よけれど
木津《きづ》川の岸に立ちて
み わたせば きづ の かはら の しろたへ に
かがやく まで に はる たけ に けり
木津川・京都府に属し、奈良の北方を流る。この川の魚は、時に奈良の旅館の食膳《しよくぜん》にのぼることあり。
たけにけり・「たく」は「闌《た》く」「長《た》く」「たけなはなり」。
笠置山《かさぎやま》にのぼりて
のびやかに みち に より ふす この いは の
ひと なら まし を われ をろがまむ
以上二十七首大正十四年三月
笠置山・この山は登りゆく途中に、見るからに心行くばかりなる巨石に遇《あ》ふこと屡《しばしば》なり。
奈良に向ふ汽車の中にて
かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の
ゆめ にも たたす わが ほとけ たち
たたす・立つの敬語。「立ちたまふ」。
わがほとけたち・年ごろわが親しみ、なつかしみ来れる諸仏、諸菩薩《ぼさつ》の姿態。
あさひ さす いなだ の はて の しろかべ に
ひとむら もみぢ もえ まさる みゆ
もえまさる・一きは目立ちて燃え立つ。
春日神社にて
みかぐら の まひ の いとま を たち いでて
もみぢ に あそぶ わかみや の こら
春日神社・神護景雲二年(768)に常陸国《ひたちのくに》鹿島の武 甕 槌 命 下 総《たけみかづちのみことしもふさ》国香取《かとり》の経津主命《ふつぬしのみこと》河内国枚岡《ひらをか》の天児屋根命《あめのこやねのみこと》、および比売神《ひめがみ》の四柱を祀《まつ》れるに始まると称すれども、これに先だちて、春日山下に天児屋根命夫婦を祀れる藤原氏の族祠《ぞくし》ありしことは想像し得べし。その後同氏の勢力の増大するとともに、この神社の繁栄に赴《おもむ》きしこと目醒《めざ》ましく、今日同社の遺構を〓するに、殆《ほとん》どみな藤原時代に建立せる原様に遵《したが》ひて、後世工匠の修理するところなり。かくしてここに甚《はなは》だ日本的なる一区の建造物を見ることを得るなり。
わかみやのこら・「こら」は「子等」。若宮は崇徳《すとく》天皇長承四年(1135)の鎮座。つねに数名のいと若き巫女《み こ》たちありて、賽者《さいしや》のために鈴を振りて神楽《かぐら》を舞ふ。老杉《ろうさん》の下、白衣紅裳《こうしよう》相映じて甚だ美し。その謡《うた》ふところは、二条天皇(1143−1165)の作といふ。曰《いは》く「若宮の、み影映らふ、ます鏡、曇あらせで、顧みたまへ。お神楽こそ、めでたう思《おぼ》し召せ。命長う、ちうようのそひて、何事も思ふところ、望みに叶《かな》へさせたまへ。若宮の、み影映らふ、ます鏡、曇あらせで、顧みたまへ。」
三笠山にて
やま ゆけば もず なき さわぎ むさしの の
にはべ の あした おもひ いでつ も
三笠山・山の形が三重に笠を積みたる形に似たりとてこの名あり。一名嫩草《わかくさ》山。この歌は麓《ふもと》の木立の中にて詠《よ》みたるものなり。
むさしの・これは関東の武蔵野なり。
にはべ・にはといふこと。作者が東京落合《おちあひ》の自宅の庭をいへり。
法隆寺東院にて
ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
こもりて いま も まします が ごと
東院・法隆寺は、金堂、塔、講堂、中門、食堂《じきどう》その他、西門より東大門までを西院伽藍《がらん》といひ、夢殿、伝法堂、礼堂その他一帯を東院伽藍といふ。この東院の地は、もと聖徳太子が推古天皇の九年(601)に建立されたる斑鳩宮《いかるがのみや》の遺跡にして、これを寺院となしたるは法隆寺の僧行信にして、時は天平十九年(747)の頃なり。
ものもひ・「物思ひ」の略。思惟《しゆい》、憂愁などの意。比較的後世の書なる『聖徳太子伝暦《でんりやく》』(917)などによれば、太子平生仏典を読み、たまたま意義の通じがたきところあれば、夢殿に入り、食膳《しよくぜん》を召さず、婦女を近づけず、冥想《めいそう》すること一日、三日、五日に及べば、西方より金色の異人来《きた》りて、その義を教ふ。夢殿の名はこれより来れりといふ。然《しか》るにこの伝説は、『日本書紀』(720)には見えず。『上宮聖徳法王帝説』には、太子が高麗《こうらい》の慧慈《けいじ》法師の指導の下に三経《さんぎよう》の義疏《ぎそ》を草せんとせられし時、「太子問フトコロノ義、師通ゼザルトコロアリ。太子夜夢ニ金人ノ来リテ解セザルノ義ヲ教フルヲ見ル。太子寤《サ》メタル後、即チコレヲ解キテ、乃《スナハ》チ以テ師ニ伝フ。師亦《マ》タ領解セリ。」とありて、慧慈を師としながら、時に自《みづか》ら潜心考究して、夜半に及び、恍惚《こうこつ》として異人の来りて教ふるに逢《あ》ひし如《ごと》き幻想を伴ひしこともありしを伝へたるのみなるに、之《これ》に継ぎて、この事に及びしは、渡来の僧鑑真《がんじん》の弟子なる思託の筆に成れる『上宮皇太子菩薩伝《ぼさつでん》』なるが、思託はただ太子が禅定に入りたりとのみいひて、敢《あへ》て異人が夢中に来りて深趣を教へたりとはいはず。しかるに『伝暦』に至れば、師傅《しふ》たる慧慈の影はますます薄らぎ、金人の光輝がますます鮮明となり来りしなり。また思託はその文中に「夢殿」といはずして「夢堂」といへるは、中国人としては、むしろ当然の用字法なるべし。また今のいはゆる夢殿が天平十九年(747)頃の造立にして、太子(574−622)在世の時のものにあらざるは、今にしては学者の常識なるも、この歌を作るに当りては、その区別を問はざることとなせり。また世上に天平十九年の『法隆寺東院縁起』といふ一文あり。その中に「定観ノ殿ハ毀《コハ》レテ余基ナシ」といふ句あり。「定観」の一語は頗《すこぶ》る思託いふところの「禅定」に似たるも、全文の内容には疑ふべきところ尚《な》ほ多ければ、何人か後世の仮託たることを思はしむ。
ぎそ の ふで たまたま おきて ゆふかげ に
おり たたし けむ これ の ふるには
ぎそ・伝ふるところにては、太子は『法華《ほつけ》』『勝鬘《しようまん》』『維摩《ゆいま》』の三経の註疏《ちゆうそ》を著はしたりといひ、その稿本といふもの今に存し、これを『三経義疏』といふ。しかして仏家にては「疏」の字を「シヨ」と読む習はしなるも、作者は「シヨ」の音調のやや硬きを避けて、特に「ソ」と読めり。恰《あたか》もこの集中にて「釈迦《しやか》」を、ことさらに「サカ」と読めるところあると同じことなり。特にこれを註す。
正倉院《しようそういん》の曝涼《ばくりよう》に参じて
とほ つ よ の みくら いで きて くるる ひ を
まつ の こぬれ に うちあふぐ かな
正倉院・聖武天皇崩《ほう》じて四十九日目、即ち天平《てんぴよう》勝宝八年(756)六月廿一日、その生前身辺に愛玩《あいがん》せし楽器、文房具、服飾、遊戯具、飲食器、薬品より武器に至るまで、三千余点を取纏《とりまと》め、光明皇后は自筆の願文及び目録を添へて東大寺に寄進し、その倉庫を同寺の一院として現代に至りしものにて、歴世天皇の勅封の下にありしが、昭和大戦の終息とともに、天皇より之を国家に移譲せられたり。その中には、遠く欧亜《おうあ》諸国のその当時の製品をも含み、ことに鮮新なる伝世の色沢を以て保存されたれば、工芸美術の大宝庫として世界に著聞す。
曝涼・風入れ。虫干。毎年十一月之を行ひ、従来は勲位または学芸ある人々にのみ特に倉中に入りて見ることを許可したり。然《しか》るに倉内は窓なく、小さき入口より射《さ》し入る日光のみなれば、双手《もろて》に懐中電燈を持ち、その焦点を集中してわづかに品物を見るを得るばかりなりき。
東伏見宮《ひがしふしみのみや》大妃殿下も来《きた》り観たまふ
あさ さむき みくら の には の しば に ゐて
みや を むかふる よき ひと の とも
みくら・正倉院は北、中、南の三棟《みむね》に分れ居《を》れば、「みくら」の別名あれど、この歌にて「み」といふは敬意の接頭語にして「三」の意味にあらず。同一の正倉院を指《さ》せどもその意味異る。作者として特に之を註《ちゆう》す。
よきひと・官吏。
とも・ともがら。ひとびと。
まつ たかき みくら の には に おり たたす
ひがしふしみのみや の けごろも
たたす・立ちたまふ。(前ニモ出《イ》デタリ。)
奈良の町をあるきて
まち ゆけば しな の りはつ の ともしび は
ふるき みやこ の つち に ながるる
しなのりはつ・中国人の理髪店なり。
東大寺の某院を訪《たづ》ねて
おとなへば そう たち いでて おぼろげに
われ を むかふる いしだたみ かな
そう・僧。この僧は東大寺観音院の稲垣晋清《いながきしんせい》師なりしかと覚ゆ。
鹿の鳴くをききて
しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも
しらで ひともす なら の まちびと
かかる・かくの如《ごと》き。次の一首に、「わがもふごとく」といへるに同じ。かばかりに、われは思ふものをといふ意をこめたり。
しか なきて なら は さびし と しる ひと も
わが もふ ごとく しる と いはめ や も
いはめやも・云はんや。云ふべけんや。「も」は感歎《かんたん》。
太秦《うづまさ》の広隆寺の宝庫にて
あさひ さす しろき みかげ の きだはし を
さきて うづむる けいとう の はな
広隆寺・聖徳太子に扈従《こじゆう》して文化事業に貢献したる秦《はた》の川勝《かはかつ》の創《はじ》むるところ。有名なる半跏思惟像《はんかしゆいぞう》のほか、鎌倉以前の仏像多し。今は古義真言宗別格本山。
きだはし・「きざはし」に同じ。階段。
嵐山《らんざん》
だいひかく うつら うつらに のぼり きて
をか の かなた の みやこ を ぞ みる
以上十五首大正十四年十一月
だいひかく・大悲閣。渡月橋より戸難瀬滝を経て、石径を登ること二〇〇メートル。黄檗《おうばく》宗千光寺なり。眺望《ちようぼう》よろし。
斑鳩《いかるが》 大正十四年八月
斑鳩・数珠掛鳩《じゆずかけばと》をいふ。雀科《すずめか》の〓《しめ》に似たる一種とする説あるも、作者は採らず。この名につきて従来の国語字典の定義まちまちにて一致せず。中には全く異る二種の鳥の属性を綜合《そうごう》して一種として書けるもあり。それにつきて『渾斎《こんさい》随筆』のうちに詳説したり。
八月二十三日友人山口剛を誘ひて大塚に小鳥を買ふ
とりかご を て に とり さげて とも と わが
とり かひ に ゆく おほつかなかまち
山口剛・(前ニ出ヅ。)
おほつか・もとの小石川区大塚仲町。
みち の べ は なつび てらせる ごこくじ の
かど めぐり ゆく おほつかなかまち
なつび・盛夏の日光。
いたり つく とりや が みせ の ももどり の
もろごゑ しぬぎ こま ぞ なく なる
しぬぎ・しのぎ。凌駕《りようが》し。圧倒して。『万葉集』には「奥山の菅の葉しぬぎ降る雪の」「春去れば木の葉しぬぎて霞《かすみ》たなびく」「秋萩《あきはぎ》しぬぎさをしかの」などいへり。
ふみ あまた とも は よめれど おほつか の
とりや に たてば わらはべ の ごと
こまどり の なき の まにまに わが とも の
かがやく まなこ わらはべ の ごと
まにまに・につれて。に従ひて。
ももどり の なき かふ みせ の たな の うへ に
ましろき はと の ただに ねむれる
なきかふ・鳴き交はす。
ただに・ひたすらに。専《もつぱ》ら。
たな の うへ の ちひさき かご の とまりぎ に
むね おしならべ ねむる はと かな
わが こふる おほき みてら の な に おへる
とり の いかるが これ に し ありけり
おほきみてら・「大寺」といふこと。法隆寺を指《さ》していへり。一名「いかるがでら」。また「いかるが」には古来「伊河留我」「伊河流賀」「斑鳩」「鵤」「」などの宛字《あてじ》が用ゐられたり。
こまどり は きみ が まにまに この はと を
おきて かふ べき とり も しら なく に
きみがまにまに・この「まにまに」は、さきに出でしものと意味異る。ここにては「君の意にまかす」といふこと。
ふろしき に つつめる かご の とまりぎ に
かそけき あのと きき の よろしき
あのと・足の音。(前ニ出ヅ。)
おちあひ の のなか の もり の ひとつや に
さげて わが こし かご の いかるが
ひとつや・作者はその頃は、真にかかる言葉にて呼ぶに似合はしき家に住み居たり。自《みづか》ら「村荘」と呼び慣れたるもこの家なり。作者は、かつて原版『鹿鳴集』の例言に記して曰《いは》く『「村荘雑事」、「小園」に詠ずるところは、今の淀橋《よどばし》区下落合《しもおちあひ》三丁目千二百九十六番地なる市島春城翁の別業なり。もと名づけて「閑松菴《あん》」といへり。著者は、さきに小石川区豊川町五十八番地に住したりしが、大正十一年四月に至り、慨するところありて遽《にはか》に職を辞し、之《これ》がために生計一時に艱《なや》めり。翁《おう》はこの窮状を憐《あはれ》み、貸すにこの邸を以てせられしかば、乃《すなは》ち欣然《きんぜん》として群書と筆硯《ひつけん》とを携へて移り来り、その名を「秋艸堂《しゆうそうどう》」と改め、居ること十六年に及び、自適最も楽めり。土地高爽《こうそう》にして断崖《だんがい》に臨み、秋冬の候、日々坐して富士を望むべし。庭上に鬱林《うつりん》あり、脩竹《しゆうちく》あり、叢菊《むらぎく》あり、果樹菜圃《さいほ》あり、また冷泉あり。鳴禽《めいきん》の声は四時絶ゆることなし。今此稿を校するに当り、追感最も切なり。之を記して翁の曠懐を伝へんとす。』
こがくれて なけや いかるが あす より は
はた の はて なる ひと も きく がに
がに・「がね」の転。やうに。ために。
旅愁 明治四十年八月より大正十五年一月に至る
軽井沢にて
からまつ の はら の そきへ の とほやま の
あをき を みれば ふるさと おもほゆ
からまつ・落葉松。
そきへ・遠く離れたる彼方《かなた》。
越後《えちご》の中頸城《なかくびき》に住めるころ
むらびと が とがま とり もち きそひ たつ
あした の はら に きり たち わたる
中頸城・新潟《にひがた》県西南部の郡名。作者は明治三十九年(1906)の秋より、この郡の板倉村大字針《おほあざはり》といふ所にある有恒学舎の英語教員として赴任し、四十三年(1910)八月まで留《とど》まれり。この時代のことはこの書の「後記」の中に述べたり。この学舎の校主増村朴斎(1868−1942)こそは儒教主義の漢詩人なりしが、当時始めて世に出《い》でて殆《ほとん》ど顧る者なかりし作者の歌を玩味《がんみ》し、賞揚して止《や》まざりし人なり。初刊の『南京《なんきよう》新唱』(1924)に、この人の題詩を掲げたり。曰《いは》く「霞宿《カシユク》雲遊シテ筆研随《シタガ》フ、篇々《ヘンペン》ノ古調ハ自然ニシテ奇ナリ。賞音ハ吾豈《ワレアニ》人後ニ落チンヤ、一巻ノ南都新唱ノ詩。」
とがま・利鎌。鋭利なる鎌といふこと。
さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に
ゆき ふる おと の さびしく も ある か
さよふけて・「さ」は接頭語。「よふけて」といふに同じ。
かどゆくひと・門前を通りかかる人。
あるか・「か」は「かな」といふに等し。詠歎《えいたん》。
よるべ なく おい に し ひと か やまかげ の
をだ の はすね を ほり くらし つつ
よるべなく・身寄りもなく。たよるべき肉親故旧などもなく。
をだ・田圃《たんぼ》。「を」は接頭語。
はすね・蓮根。藕《はすのね》。
信濃《しなの》の野尻《のじり》なる芙蓉湖《ふようこ》に泛《うか》びて
しまかげ の きし の やなぎ に ふね よせて
ひねもす ききし うぐひす の こゑ
野尻・柏原《かしはばら》駅より近し。柏原は俳人小林一茶《いつさ》(1763−1827)の郷里。江戸の生活をやめて郷里にて生を終へたり。野尻に芙蓉湖(俗ニハ野尻ノ池)あり。その中央に島あり。小祠《しようし》ありて弁才天を祀《まつ》る。むかし此地の城主たりし宇佐美貞行は、その主上杉《うへすぎ》謙信の姉聟《あねむこ》なる長尾政景《まさかげ》がひそかに謙信に異図を懐《いだ》けるを憂ひ、紅葉見に事よせて之《これ》を招き、舟をこの湖上に泛べて酒宴の末、格闘して相抱《いだ》きて共に水底に没したりといふ伝説あり。水辺に二人の墓といふものあり。
ひねもす・一日。終日。
汽車より善光寺をのぞみて
みすずかる しなの の はて の くらき よ を
ほとけ います と もゆる ともしび
みすずかる・「しなの」の枕詞《まくらことば》。(前ニ出ヅ。)
ほとけいます・「ほとけ」とは善光寺如来をいふ。伝説が真ならば、日本最初の仏像なるべきも、未《いま》だこれを見たる人なしといふ。
の の はて に てら の ともしび のぞみ きて
みち は やまべ に いらむ と する も
ののはて・「善光寺平」と名づくる平野ここに尽きて、道は信越国境の山路にさしかかるなり。
も・詠歎。
習志野《ならしの》にて馬に乗り習ふころ
かすみ たつ のべ の うまや の こぼれむぎ
いろ に いづ べく もえ に ける かも
習志野・騎兵聯隊《れんたい》へ乗馬の練習に赴《おもむ》きし頃の作なり。
勝浦の浜にて
いそやま や けさ みて すぎし しろうし の
くさ はみて あり おなじ ところ に
勝浦・千葉県の勝浦なり。この歌は、明治四十年(1907)の夏作れるものならむ。
みなぞこ の くらき うしほ に あさひ さし
こぶ の ひろは に うを の かげ ゆく
くらきうしほ・水底のさまなり。「うしほ」は海水のこと。
塩原温泉途上
なづみ きて のべ より やま に いる みち の
みみ に さやけき みづ の おと かな
なづみきて・行き悩みつつ来《きた》りて。『万葉集』には「雪消する山道すらをなづみぞ吾《わ》がこし」「夏野の草をなづみくるかも」などいへり。
鎌倉長谷《はせ》のさるかたに宿りて
かぜ の むた ほとけ の ひざ に うちなびき
なげく が ごとき むらまつ の こゑ
かぜのむた・「むた」は「とともに」「にしたがひて」といふこと。『万葉集』には「風のむた」「浪《なみ》のむた」「神のむた」「人のむた」「吾がむた」などあり。
むらまつ・叢松。松の林。
尾張篠島《をはりしのじま》をおもふ
まど ひくき はま の やどり の まくらべ に
ひねもす なきし ねこ の こ の こゑ
篠島・尾張の師崎《もろざき》と三河《みかは》の伊良湖崎《いらこざき》との間にある島の一。この島の少年は、馬を見知らず。名古屋に修学旅行して荷馬車を見て、大なる鼠《ねずみ》が箱を曳《ひ》くとて驚きしといふ。素樸愛すべし。
きみ と みし しま の うらわ の むし の ひ の
まなこ に ありて ととせ へ に けり
むしのひ・夜光虫。
まなこにあり・今尚《な》ほその印象の眼底にありといふこと。
滋賀《しが》の都の址《あと》に遊びて後に同行の人に送る
みづうみ の きし の まひる の くさ に ねて
きみ が うたひし うた は わすれず
讃岐《さぬき》の海岸寺にやどりて病める北川蝠亭《ふくてい》によみて送る
いそやま の あをばがくり に やどり して
よる の うしほ を きき つつ か あらむ
北川蝠亭・大阪の人。本名藤之助(1884−1937)。養はれて三代目蝠亭となる。薄倖《はつこう》の才人にして書画篆刻《てんこく》を以《もつ》て生計を営めり。その特技なる緑釉《ろくゆう》、また藍釉《らんゆう》の小陶印は一時に行はれたり。
大和《やまと》安堵《あんど》村なる富本憲吉の工房に立ちよりて
いかるが の わさだ の くろ に かりほ して
はに ねらす らむ ながき ながよ を
富本憲吉・窯芸《ようげい》家。久しく東京に住み、後、京都に遷《うつ》れるも、作者が訪《と》ひたるは、最初大和の安堵村の本宅に在住の頃なり。また書画を能《よ》くす。(1886−)
わさだ・「わせだ」に同じ。稲の早く実る田といふ意。
くろ・「ほとり」といふほどの意。畔《くろ》。(前ニ出ヅ。)
かりほして・かりそめの菴《いほり》を作りて。「いほり」は粗末なる小家。
はにねらすらむ・「はに」「ねる」ともに前に出でたり。
大和のさるかたにて
みづがめ の ふた の ひびき も うつろ なる
てら の くりや の くれ かぬる ころ
さるかたにて・ある人のもとにてといふこと。実は東大寺観音院なりしならむ。
京都東山《ひがしやま》のあたりをおもひて
はる と いへど まだしき れんげわうゐん の
ひとき の やなぎ もえ いで に けむ
れんげわうゐん・蓮華王院。京都東山区なる妙法院に属す。俗に「三十三間堂」といふ。長寛二年(1164)後白河《ごしらかは》法皇(1127−1192)の起願。堂前に一株の枝垂柳《しだれやなぎ》あり。堂に配合して風姿頗《すこぶ》るよろし。
小園 大正十三年前後より昭和九年頃に至る
小園・さきに「村荘雑事」に詠《よ》みたると同じ庭園なり。
たち わたす かすみ の なか ゆ とり ひとつ
こまつ の うれ に なき しきる みゆ
わたす・かかる。たなびく。
ゆ・助詞「より」。
うれ・尖端《せんたん》。頂上。
はる たけし には の やなぎ の はがくれ に
はと ふたつ きて ねむる ひ ぞ おほき
たけし・たけたる。闌《たけはな》となりたる。盛りがやや過ぎなむとする。
はがくれに・木の葉の中より見え隠れに。
あをやぎ の えだ も とををに あわゆき の
ふり つむ なべに つゆ と ちり つつ
とををに・たわわに。たわむほどに。(前ニ出《イ》ヅ。)
あわゆき・淡雪。消えやすき雪。薄く降りたる雪。この歌にては春の雪なり。
なべに・「に従ひて」「と同時に」「と共に」。
ひびき なき サジタリアス の ゆみ の を の
かど の かれき に かかる このごろ
サジタリアス・SAGITTARIUS。黄道十二宮のうち「射手《いて》星座」といふもの。むしろ「サジテリアス」と読む方よろしかりしならむ。
ゆみのを・弓の緒。即ち弦《ゆづる》のこと。星座のことなれば、弦が人の目に見ゆるにはあらねど、近頃は恰《あたか》も我が家の庭木の枯枝に、その弦の懸《かか》りてありとも見るべき夜頃となれりと詠《よ》みたるなり。ただし、星は刻々に位置の変はるものなれば、宵《よひ》より暁まで終夜かくの如《ごと》しといへるにはあらず。また「かれき」といひても、ここにては落葉せる木立といふほどの意なり。
仏伝をよみて
みほとけ を やどし まつりて くさ の と の
あかつきやみ に かしぐ かゆ かな
仏伝・その篇名《へんめい》を忘却したり。
くさのと・賤《しづ》が伏家《ふせや》。
折にふれてよめる
あり わびぬ ほとけ いまさば をろがまむ
やむ と しも なき よる の まくら に
わびぬ・佗《わび》しく暮せり。
やむとしもなき・病気といふほどにもあらざる。
さき ををる もも の したみち ひたすらに
くだち も ゆく か よる の をすぐに
さきををる・今を真盛りと咲ける。
もものしたみち・『古事記』(712)に、黄泉《よ み》より女神のために追はれて遁《のが》れ来《きた》れる男神が、黄泉《よもつ》比良坂《ひらさか》の下にて、桃の樹より三個の実を摘み取りて、魔除《よ》けとなしたるよしあり。作者は、この歌にては、その桃樹の満開の頃を想像したるなり。なほかく邪気防遏《ぼうあつ》のために桃樹を点出せる『古事記』には、道家の影響ありといふべし。
よるのをすぐに・よみのくに。
ふじ の ね の そこ つ いはね に もゆる ひ の
あかき こころ は しる ひと も なし
そこついはね・底つ岩根。大地の底なる磐石《ばんじやく》。
某生の訃《ふ》をききて
くれ かねて いざよふ はる の むさしの の
いづれ の そら に きみ を もとめむ
くれかねていざよふ・暮れなむとして、はかばかしく暮れもかねたる。「いざよふ」は躊躇《ちゆうちよ》する意なり。『万葉集』には「山のまにいざよふ雲は妹《いも》にかもあらむ」「山のはにいざよふ月を出《い》でむかと」などいへり。
南京続唱 昭和三年十月
唐招提寺《とうしようだいじ》にて
せきばく と ひ は せうだい の こんだう の
のき の くま より くれ わたり ゆく
せうだい・招提。この語はもと梵語《ぼんご》、巴梨《パリー》語の音訳なりといふ。その訳出に多少の訛誤《かご》を含めるらしきも、とにかく「四方ノ客僧ニ供給スベキ宿舎」即ち「四方僧房」の意味なるが如《ごと》し。日本にては他に例なければ、「招提」としいへば唐招提寺に限れる如くなりしなり。この寺自《みづか》らは「唐招提寺」のほか「建初律寺」「唐律招提寺」「建初律招提寺」など称せり。
のきのくま・「くま」とは隅々《すみずみ》、入り込みたる部分、隈《くま》。この寺の金堂の軒廻りの組物《くみもの》は、高く、深く、壮観なり。専門家は、この種の組物の形状、構造などを鑑賞し、また建造年代推定の標準とす。
あまぎらし まだき も くるる せうだい の
には の まさご を ひとり ふむ かな
あまぎらし・霧、小雨など空一面にこめて曇れるをいふ。良寛(1757−1831)の歌に「ひさかたの天霧《あまぎ》る雪と見るまでに降るは桜の花にぞありける」といふあり。
まだきも・その時としては尚《な》ほ早きに。
菩薩戒会《ぼさつかいえ》の夜唐招提寺にて
よもすがら かいゑ の かね の ひびき よる
ふるき みやこ の はた の くさむら
菩薩戒会・この戒会は毎年十月十九日より廿六日にわたりて、この寺の礼堂にて行はるる念仏会の間に修せらる。附近の老幼うち群れて、鉦《かね》打ち鳴らし、秋の夜長をいとしめやかに行ふさま哀深し。
かいゑ・「戒会」。「菩薩戒会」を略してかくいふ。
ひびきよる・人の打つ鉦の音が、無心の草むらに響き寄ることに感じて詠《よ》めるなり。
はた・畑。
のき ひくき さか の みだう に ひと むれて
には の まさご に もるる ともしび
さかのみだう・「さか」は釈迦。ここにては礼堂の釈尊を指《さ》せり。
東大寺の戒壇院にて
うつろひし みだう に たちて ぬばたまの
いし の ひとみ の なに を か も みる
うつろひし・古びて衰微の色ある。
ぬばたまの・枕詞《まくらことば》としては前に出でたり。「ぬばたま」とは檜扇《ひあふぎ》といふ草の実の円く黒きをいふ。「の」は如きといふこと。この戒壇の四方に立てる四天王は塑像なるに、その眼睛《がんせい》のみは黒耀石《こくようせき》を塗り込めて造れり。これを「石ノ瞳子」といへるなり。
かいだん の まひる の やみ に たち つれて
ふるき みかど の ゆめ を こそ まもれ
まひるのやみ・常時は密閉したる南都寺院の諸堂は昼も尚《な》ほ暗し。
たちつれて・四体の天王こもごも四隅《よすみ》に立てることをかくいへり。
ふるきみかど・聖武《しようむ》天皇(701−756)を指していへり。
ゆめ・ここに「夢」とは、仏教を興隆し、東大寺大仏を中心として諸国に国分寺を造り、政教の合一を以て天下に臨まんとせし聖武天皇の理想を指していへり。この二首の歌は、これらの四体が、この理想を守りて、戒壇の四隅を警護せるさまなるに興味を覚えて、詠《よ》みたるものなり。されども、そもそも、この堂は、治承四年(1180)平重衡《たひらのしげひら》の来襲、文安三年(1446)北堂の出火、永禄十年(1567)三好《みよし》、松永の兵火に至るまで、三度《たび》全焼したるものにて、その後享保十八年(1733)に至りて新築の後、これ等の四天王は他の堂よりここに移入されたるものなることを併《あは》せ知るべし。尚ほまた、これ等の四体は、それまでは絵図堂といふ堂に置かれありしといふことなれど、その堂の由来明《あきら》かならず。
奈良博物館にて
ゆゐまこじ むね も あらはに くむ あし の
ややに ゆるびし すがた こそ よけれ
ゆゐまこじ・維摩居士。この像は、法華寺《ほつけじ》出陳。維摩居士は釈迦在世の時の人と称せらる。在家にして大乗の造詣《ぞうけい》最も深く、思索弁証の無礙《むげ》自在を以《もつ》て鳴る。『維摩詰所説経』を読みてその人となりを知るべし。法相《ほつそう》宗にて最も尊重する人物なれば、上代より中世へかけて、興福寺及びその他の寺々にて盛なる維摩会が行はれしが、法華寺衰頽《すいたい》の後は、その式典の中心が専《もつぱ》ら興福寺に移りしかば、この像は、深くこれを羨《うらや》みけむ、元来は西向に据ゑられありしを、みづから東南に向き直りて、興福寺を慕ひたるよし、『南都巡礼記』にあり。蓋《けだ》しこれ、仏教の彫刻には、ややもすれば、均整の姿勢に加へて、没表情に近きもの多きに、この像の自然にして柔軟なる姿態より、おのづから生じたる伝説なるべし。また奈良の寺々にて維摩と、その法論の好敵手文珠菩薩《もんじゆぼさつ》との像が多き所以《ゆゑん》をも、これにて知るべきなり。
ややに・「やや」といふに同じ。
ゆるびし・「弛《ゆる》みし」に同じ。解けほどけたるをいふ。
あき の ひ は ぎえん が ふかき まなぶた に
さし かたむけり ひと の たえま を
ぎえん・義淵。この像は岡寺《をかでら》出陳。義淵(?-728)は岡寺に住し、大宝三年(703)僧正に任ず。薬師寺の行基《ぎようき》(670−749)興福寺の玄〓《げんぼう》(?-746)東大寺の良弁《りようべん》(689−773)大安寺の道慈(670−744)及びかの道鏡(?-722)など、一代に活躍せる名僧は、みなその門に出《い》でたり。龍蓋《りゆうがい》、龍門、龍福の三寺は、その建つるところといふ。
ふかきまなぶた・凹《へこ》みて深き眼瞼《まなぶた》。「まなぶた」「まなじり」「まなざき」「まなざし」など「ま」は「め」、「な」は「の」の転じたるなり。
ひと・博物館の参観人。
かべ に ゐて ゆか ゆく ひと に たかぶれる
ぎがく の めん の はな ふり に けり
ぎがくのめん・伎楽面。鼻高く、口大きく、顎《あご》張り出《い》で、威嚇嘲笑《ちようしよう》の表情強きもの。
はなふりにけり・「ふり」は「古り」。鼻が古びたりといふなり。
いかで われ これら の めん に たぐひ ゐて
ちとせ の のち の よ を あざけらむ
いかで・何とかして、これを実行したしといふなり。
たぐひゐて・この中に同輩の如《ごと》く混り居て。『万葉集』には「朝鳴きし雁《かり》にたぐひて行かましものを」「君にたぐひて山路越え来ぬ」などいへり。
ちとせののちのよ・今より千年の後の世といふことなり。ある人解して、天平時代より千年の後、すなはち現代のことといひたるは当らず。
あざけらむ・大《おほい》に罵倒《ばとう》せんといふにはあらず。軽く尻目《しりめ》にかけてやらむといふほどの意。
春日《かすが》野《の》にて
をとめら は かかる さびしき あき の の を
ゑみ かたまけて ものがたり ゆく
かかる・かくの如く。かくまでに。
ゑみかたまけて・「ゑむ」は笑ふ。「かたまけ」は「傾け」といふ如し。笑ひ崩《くづ》れて。
をとめら が ものがたり ゆく の の はて に
みる に よろしき てら の しろかべ
うつくしき ひと こもれり と むさしの の
おくか も しらず あらし ふく らし
右十三首昭和三年十月
こもれり・『伊勢物語』に「むさし野は今日はな焼きそ若草の妻もこもれり吾《われ》も籠れり」といふ歌あり。この歌にてこの語にこめたる意味をもちてここに用ゐたり。
むさしの・春日野の地続きに「武蔵野」といふ所あり。その名は武蔵守良岑安世《よしみねのやすよ》(785−830)の塚あるより来れりといふ。『伊勢物語』にもこの野の名あり。されど今俗に「玄〓《げんぽう》頭塔《たつちゆう》」といふものを安世の墓なりといふ説あれども、こは玄〓にも安世にも関係なく、実は東大寺の僧実忠の築きたりと『東大寺要録』に記せる「土塔」即ち是《こ》れなるが如し。作者は、かかる因縁に係《かかは》らず、ただ春日野の果てといふほどの意にて詠めり。
述懐
ふるてら の みだう の やみ に こもり ゐて
もだせる こころ ひと な とひ そ ね
右一首昭和五年十月
もだせる・黙して物云はざる。
ひとなとひそね・人の問ひたまふ勿《なか》れ。「な――そね」この語法は前にも出でたり。
比叡山《ひえいざん》 昭和十三年十月
比叡山・また「日吉」「日枝」などの字を宛《あ》つ。山城《やましろ》、近江《あふみ》の両国に跨《またが》り、京都の東北に聳《そび》ゆ。東麓《とうろく》に日吉神社あり。その名は夙《つと》に『古事記』(712)に出で、「淡海《あふみ》之日枝《のひえ》」といへり。延暦寺《えんりやくじ》の創立以来、僧徒はこれを地主の神として尊崇し、「山王」と称せり。
十八日延暦寺の大講堂にて
のぼり きて しづかに むかふ たびびと に
まなこ ひらかぬ てんだい の そし
延暦寺・延暦四年(785)七月、最澄《さいちよう》(767−822)比叡山上に一草庵《そうあん》を営みしより起り、遂《つひ》に山中山下到る処に寺観僧房充満すといはるるほどに至りしも、今はまた甚《はなは》だ沈静なり。天台宗本山。
のぼりきて・麓《ふもと》より登り来《きた》りて。
たびびと・作者自身をさしていへり。
まなこひらかぬ・もとより瞑目《めいもく》したるさまに彫《きざ》める像なるを、この歌にては、ことさらに、作者のために目を開きてくれざる如き気分を軽く含めたり。
てんだいのそし・日本天台宗の祖師、すなはち最澄。号を贈りて伝教大師《でんぎようだいし》といふ。
やまでら の よ を さむみ か も しろたへ の
わたかづき せる そし の おんざう
わたかづきせる・「かづく」は冠《かぶ》る。頭に載せる。綿帽子の如きものを被《かぶ》りたるさま、園城寺《おんじようじ》に伝へたる画像の如し。徳川初期の尋常一様の作と見ゆれども、登り来りて山気の中に之《これ》に対すれば、感興おのづから生ず。かつて『経国集』(827)を読むに「延暦寺ニ登リテ澄和尚《ちようかしよう》ノ像ヲ拝ス」と題して詩あり。良岑安世《よしみねのやすよ》の作るところ。その中に「炉煙ハ猶《ナ》ホ昔ニ似タリ。形像ハ正ニ真カト疑フ。」の句あり。即ち香炉より立ち登る煙は、往年と同じことなるに、その人は既に逝《ゆ》きて再び見るべからず。徒《いたづ》らに肖像の奕々《えきえき》として真に迫れるを悲しめるなり。安世は桓武《かんむ》天皇(737−806)の子にして大師と面識あり。その感傷は、我等隔世のものと比すべきにあらざりしならむ。
また思ふに、黄檗《おうばく》の即非(1616−1671)は明暦三年(1657)に来朝し、寛文十一年(1671)長崎にて寂せり。その間一度この寺に詣《まう》でて最澄の像に謁して詩あり。その句に「定裡《じようり》何ノ教ヲカ伝フル、天花講台ニ落ツ。」といふあり。即非の見たるは、即ち作者が観たるこの像なり。
根本中堂の前に二株の叢竹《そうちく》あり開山大師が唐の台岳より移し植うるところといふ
あきの ひ は みだう の には に さし たらし
せきらんかん の たけ みどり なり
台岳・天台山のこと。「天台宗」の名の起るところ。
さしたらし・豊かに日のさしたるさま。
せきらんかん・石欄干。一対の石の欄杆のうちに、おのおの一株の竹を植ゑたり。左を「〓《いん》篠《じよう》」右を「《しゆう》篠《じよう》」といふ。
ふたむら の この たかむら を みる なべに
たう の みてら を おぼし いで けむ
なべに・それと共に。それにつれて。
たうのみてら・唐の寺院。最澄が留学したる天台山国清寺。
山中にて
あのくたら みほとけ たち の まもらせる
そま の みてら は あれ に ける かも
あのくたらみほとけたち・『新古今集』(1205)には、「比叡山の中堂建立のとき」と詞書して「阿耨多羅三藐三菩提《あのくたらさんみやくさんぼだい》の仏たち、我が立つ杣《そま》に、冥加《みようが》あらせたまへ」といふ最澄の歌あり。作者はこの意を受けて、その無上正等覚の諸仏の加護したまへる杣木にて造れる伽藍《がらん》も、いたく荒廃したるものよと歎《なげ》きたるなり。
「阿耨多羅三藐三菩提」を略して「阿耨三菩提」又は「阿耨菩提」ともいふ。『慧苑音義《えおんおんぎ》』に、『「阿」ハ「無」トイフナリ。「耨多羅」ハ「上」ナリ。三藐ハ「正」ナリ。「三」ハ「遍」ナリ「等」ナリ。「菩提」ハ「覚」ナリ。総ジテ「無上正等正覚」トイフベキナリ。』とあり、訳して「無上正遍知」「無等正遍知」「無上正等正覚」「無上正等覚」などいふ。
まもらせる・「せる」は敬譲の助動詞。
そま・杣とは他日伐採の目的にて植ゑおける山林、またそれに連関する作業、またその事にたづさはる人々をも云ふ。
さいちよう の たちたる そま よ まさかど の
ふみたる いは よ こころ どよめく
まさかどのふみたるいは・比叡山の四明嶽の頂上には「将門岩」といふものあり。彼が践《ふ》みたる址《あと》といふ。
かの みね の いはほ を ふみて をのこ やも
かく こそ あれ と をたけび に けむ
をのこやもかくこそあれ・頼山陽《らいさんよう》(1780−1832)の『日本外史』(1827)によれば、平将門《たひらのまさかど》(?-939)はその友藤原純友《ふぢはらのすみとも》とともにこの岩の上に立ちて皇居を俯瞰《ふかん》し、「壮《サカ》ンナルカナ。大丈夫ココニ宅《ヲ》ルベカラザルカ。」と叫びて、共に謀叛《むほん》を誓ひたりといふ。「や」「も」「こそ」ともに意を強めたる助詞。
かくこそあれ・須《すべから》くかくの如くあるべし。
をたけび・勇壮なる叫び声。「をたけび」はここにては動詞。
下山の途中に
くだり ゆく たに の さぎり と まがふ まで
まつ の こずゑ に しろき みづうみ
さぎり・霧。「さ」は接頭語。『古事記』に「さぎりの末に生《な》りませる神のみ名」などいへり。
しろき・下山の途《みち》すがら、樹梢《じゆしよう》の間に琵琶湖《びはこ》の水を望むなり。最澄の作れりといふ『叡岳《えいがく》相輪塔銘』といふものに、「叡岳ハ秀聳《シユウシヨウ》ニシテ、朝ハ北都ニ謁シ、神嶽ハ嵯峨《サガ》トシテ、夕《ユフベ》ニ東湖ニ臨ム。」とあり。前に掲げたる即非の詩には、「殿ハ山影ヲ低ウシテ合シ、門ハ湖光ニ対シテ開ク。」の句あり。地勢まさにかくの如きなり。
あきやま の みち に すがりて しのだけ の
うぐひすぶえ を しふる こら かも
しふる・強ふる。山中の子供等の小遣《こづかひ》かせぎに押売りするものならん。
これよりさき奈良の諸刹《しよさつ》をめぐる
ゆく として けごん さんろん ほつさう の
あめ の いとま を せうだい に いる
ゆくとして・行くところとして。至るところ。
けごん・華厳宗(東大寺、新薬師寺)。『華厳経』に基き、唐の杜順《とじゆん》(557-640)を始祖とし、賢首(643−712)これを大成し、天平八年(736)道〓《どうせん》(702−760)これを我が国に伝へ、新羅《しらぎ》の審祥も来《きた》りて良弁《りようべん》(649−733)に授け、良弁は東大寺によつて之《これ》を弘通《ぐつう》せり。
さんろん・三論寺(法隆寺)。『中論』、『百論』、『十二門論』を所依とする故《ゆゑ》に三論といふ。印度《インド》の龍樹《りゆうじゆ》、提婆《だいば》を始祖とし、東晋《とうしん》の鳩摩羅什《くまらじゆう》(336−409)之を漢訳し、隋《ずい》の吉蔵《きちぞう》(549−623)之を大成し、推古天皇(554−628)の時、その弟子高句麗《こうくり》の慧灌《えかん》これを我が国に伝へたり。
ほつさう・法相宗(法隆寺、興福寺、薬師寺)。『解深密経』『瑜伽論《ゆがろん》』『唯識論《ゆいしきろん》』に依《よ》る。印度にては、無着、世親、護法、戒賢、相次ぎ、玄奘《げんじよう》(603−664)これを支那《しな》に伝へ、その弟子慈恩(632−682)これを成せり。我国の入唐僧《につとうそう》道昭(629−700)は之を元興寺《がんごうじ》に、また玄〓《げんぼう》はこれを興福寺に伝へたり。
せうだい・唐招提寺は律宗総本山。律宗は印度に起り、三国の頃中国に入り、天平勝宝六年(754)唐僧鑑真《がんじん》これを日本に伝ふ。
いかで かく ふり つぐ あめ ぞ わが ともがら
わせだ の こら の もの いはぬ まで
法隆寺福生院に雨やどりして大川逞一《ていいち》にあふ
そうばう の くらき に のみ を うちならし
じおんだいし を きざむ ひと かな
福生院・東院にて夢殿に最も近き北側の一院。その頃は無住の如《ごと》くに見えたり。
じおんだいし・慈恩大師(632−682)。長安の人。名を窺基《きき》といふ。勅を奉じて玄奘(603−664)に学び、法相宗を大成す。永淳元年(682)大慈恩寺飜経院にて寂す。我が国奈良の法隆寺、興福寺、薬師寺にて十一月その法会を行ひ来れり。眼大きく、眉尻《まゆじり》の高く上り、肩の肉厚き魁偉《かいい》の肖像は、奈良の諸大寺にて常に見るところなり。
観仏三昧《ざんまい》 昭和十四年十月
観仏三昧・仏像の研究と鑑賞に専心すといふこと。仏典に『観仏三昧海経』といふものあれども、ここには少しも関係なし。
十五日二三子を伴ひて観仏の旅に東京を出《い》づ
やまと には かの いかるが の おほてら に
みほとけ たち の まちて いまさむ
二三子・二三人の門下学生といふこと。『左氏伝』に「二三子以《モツ》テ己《オノ》ガ力トナス」とあり。
いかるがのおほてら・(前ニ出《イ》ヅ。)
十七日東大寺にて
おほてら の ひる の おまへ に あぶら つきて
ひかり かそけき ともしび の かず
おまへ・仏前。
おほてら の ひる の ともしび たえず とも
いかなる ひと か とは に あらめ や
とはに・永久に。とこしへに。
三月堂にて
びしやもん の おもき かかと に まろび ふす
おに の もだえ も ちとせ へ に けむ
三月堂・東大寺羂索院《けんじやくいん》の法華三昧堂《ほつけさんまいどう》の俗称。天平彫刻の精華多くここに集まれるを以て有名なり。但《ただ》しこの堂の中なる仏像は、山内なる諸堂の退転に従ひて、次第にここに輻湊《ふくそう》するに至り、現在の配置は、最初のままにはあらざる如し。堂は天平《てんぴよう》の建立。後に鎌倉時代に至りて礼堂を補加せり。この機会にも内陣の仏壇の模様変れる如し。
びしやもん・毘沙門、すなはち多聞天《たもんてん》。この堂内の四天王はいづれもそれぞれの足下に邪鬼を践《ふ》めるも、歌としては、いづれの天王にても効果同じとはいひがたし。「増長天」「持国天」などいはば、一般人にはやや耳うとかるべし。また同じ像にても「毘沙門」といふ方「多聞天」といふよりは耳に親しみあるべし。但しかかることは、作者としては、殆《ほとん》ど無意識のうちに決定して詠《よ》み出づるなり。『七大寺巡礼私記』(1140)には「金色不空羂索《こんじきふくうけんじやく》、四天王像、同像足下ノ鬼形等神妙ナリ。」とあり。『七大寺日記』(1106)にも、この句をこのまま収録したるが、仏像の精工を賞讃《しようさん》して脚下の鬼類にまで及べるは、古来甚《はなは》だ稀《まれ》なり。
十九日室生寺《むろふじ》に至らむとて桜井の聖林寺に十一面観音の端厳を拝す旧知の住僧老いてなほあり
さく はな の とはに にほへる みほとけ を
まもりて ひと の おい に けらし も
聖林寺・(前ニ出ヅ。)
さくはなの・「の」は如くの意。
とはに・末長く。
にほへる・この「にほふ」は芳香ありといふにあらず。美しく艶《えん》なるをいふ。『万葉集』に「紫のにほへる妹《いも》」「朝日かげにほへる山」「女郎花《をみなへし》にほふ宿」「朝露に匂《にほ》ふ紅葉《もみぢ》」などいへり。
浄瑠璃寺《じようるりじ》
二十日奈良より歩して山城国《やましろのくに》浄瑠璃寺にいたる寺僧はあたかも奈良に買ひものに行きしとて在《あ》らず赤きジャケツを着たる少女一人留守をまもりてたまたま来《きた》るハイキングの人々に裏庭の柿をもぎて売り我等がためには九体阿弥陀《あみだ》堂の扉《とびら》を開けり予ひとり堂後の縁をめぐれば一基の廃機ありこれを見て歌を詠じて懐を抒《の》ぶ
やまでら の みだう の ゆか に かげろひて
ふりたる はた よ おる ひと なし に
廃機・破損して使用に堪《た》へざる機織《はたおり》器械。
かげろひて・物蔭《ものかげ》の目立たぬ所に置かれたるをいへり。『新古今集』(1205)に西行《さいぎよう》(1118−1190)の歌に「よられつる野もせの草のかげろひて涼しく曇る夕立の空」などあり。
ふりたる・古びたる。古くなりたる。
あしびきの やま の みてら の いとなみ に
おり けむ はた と みる が かなしさ
いとなみに・生計のために、生活の資として。
やまでら の ほふし が むすめ ひとり ゐて
かき うる には も いろづき に けり
いろづきにけり・木々の葉は紅葉し初めたり。
みだう なる 九ぼん の ひざ に ひとつ づつ
かき たてまつれ はは の みため に
みだう・御堂。すなはち阿弥陀堂。
九ぼん・九品。『観無量寿経《じゆきよう》』に、人はおのおの、その行業の優劣によりて、阿弥陀の浄土に往生するに、九等の階段のあることを説けり。それに従ひて、阿弥陀像にも「上品《じようぼん》上生」より「下品《げぼん》下生」に至るまで、一一その両手の印相を区別して画き示せるものには、元禄頃の刊本に『仏像図彙《ずい》』あり。また近時『岩波写真文庫』に加へたる『仏像―イコノグラフイー』あり。ともにその拠《よ》る所を示さざるも、恐らく『覚禅鈔《かくぜんしよう》』(1176−1217)に本づくものの如し。しかるに同鈔にては、別説として、九品みな定印なるをも挙げたり。今この寺の阿弥陀像も、また九品すべて定印に刻めり。作者は定朝《じようちよう》(?-1057)なりと称す。
ひとつづつ・一体の阿弥陀に柿を一つづつ。
ははのみために・これは、寺の娘に向ひて告げたる形に詠《よ》めるなり。母とはその娘の亡き母を想像して指《さ》せるなり。
この日奈良坂を過ぎ佐保山の蔚々《うつうつ》たるを望む聖武《しようむ》天皇の南陵あり傍《かたはら》に光明皇后を葬りて東陵といふ
さほやま の こ の した がくり よごもり に
もの うちかたれ わがせ わぎもこ
よごもりに・夜の更《ふ》くるまで。『万葉集』には「よごもりに鳴くほととぎす」「夜ごもりに出《い》で来る月」などあり。「夜をこめて」といふに同じ。
わがせわぎもこ・皇后は天皇を「わがせ」、天皇は皇后を「わぎもこ」と呼び交して、むつごとせらるるならんといふなり。
廿二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山《あかはだやま》正柏が窯《かま》に立ちよりて息《いこ》ふ
あかはだ の かま の すやき に もの かく と
いむかふ まど に ちかき たふ かな
いむかふ・「い」は接頭語。『万葉集』に「天の川い向ひ立ちて」「安の川い向ひ立ちて」などあり。
たふ・この塔は薬師寺の塔なり。
もの かきて すやき の さら を ならべたる
ゆか の いたま に とぶ いなご かな
いたま・「板の間」といふに同じ。
もの かきし すやき の をざら くれなゐ の
かま の ほむら に たきて はや みむ
をざら・小皿。
ほむら・焔《ほのほ》。
たきて・焼きて。
さきだちて さら や くだけむ もの かきし
われ や くだけむ よ の なか の みち
よのなかのみち・世道の無常なるをいへり。
二十四日奈良を出で宇治平等院黄檗山万福寺《おうばくさんまんぷくじ》を礼す
わうばく に のぼり いたれば まづ うれし
もくあん の れん いんげん の がく
わうばく・黄檗宗大本山。万福寺。承応三年(1654)に来朝したる隠元《いんげん》(1592−1673)が明《みん》代の様式にて造営したるもの。
まづうれし・連日の奈良めぐりにて、唐代の影響強き天平仏像に慣れたる作者の目は、此所《こ こ》に来《きた》りて、黄檗僧の明末式の筆蹟《ひつせき》に接して、気分の転換に一味の快適を感じたるならむ。ただし作者は平素隠元、木庵等の書道に専《もつぱ》ら随喜し居るものにはあらず。
みそら より みなぎる たき の しらたま の
とどめ も あへぬ ふで の あと かな
ふでのあと・虚空より落ち来れる如《ごと》き流麗なる筆のはこび。
しやかむに を めぐる 十はちだいらかん
おのも おのもに あき しづか なり
十八だいらかん・「悪漢」「田舎漢《でんしやかん》」の「漢」は、漢字にて「をとこ」といふ字なれども、ここにては、たまたま梵名《ぼんめい》 ARAHANTの宛字《あてじ》として「阿羅漢《あらかん》」と書くのみ。ただ「羅漢」とのみいふは、「阿」を省略せるなり。一切の煩悩《ぼんのう》を断ち、上智を得て世人の供養を受くるに足る聖者をいふ。その数は、日本人の耳は、「十六」といふに慣れ居れど、大陸にては「十八」といふが常なり。本来は、その数に限りあるべからず。この寺のものは釈迦《しやか》の左右に、合せて十八躯《く》あり。同時代の范道生《はんどうせい》(1637−1670)の作といふ。
おのもおのも・それぞれに。おのおのに。
あきしづかなり・寂然として眉宇《びう》の間に秋色を湛《たた》へたりといふこと。
万福寺仏殿の用材は故国より筏《いかだ》に編みて曳《ひ》き来りしとて柱に貝殻の着きし跡あり開山の鴻図《こうと》を憶《おも》はしむ
ひむがし の うみ に うかびて いくひ に か
この しきしま に よ は しらみ けむ
開山・隠元を開山とす。中国福州の人。承応三年(1654)日本に着したる時、すでに六十三歳なりしといふ。その年齢恰《あたか》も天平時代に来朝したる鑑真《がんじん》のそれに同じ。当時の日本人には、この年齢にて海外に航してかくの如き新事業に着手せんとするものは、たえて無かりしならむ。
ひむがし・東方。
しきしま・日本の古名。
この日醍醐《だいご》を経て夕暮に京都に出《い》で教王護国寺に詣《まう》づ平安の東寺にして空海に賜ふところなり講堂の諸尊神怪を極《きは》む
たち いれば くらき みだう に ぐんだり の
しろき きば より もの の みえ くる
東寺・延暦《えんりやく》十五年(796)藤原伊勢人を造寺司長として、羅生門《らしようもん》の左右に、東西の両寺を建てしめ、弘仁十四年(823)にいたり、西寺を守敏《しゆびん》に、東寺を空海(774−835)に賜ふ。今の東寺は、堂塔は多く桃山の造営なれども、仏像には弘仁の大作少からず。森然として密教芸術の壮観を呈せり。真言宗東寺派総本山。
ぐんだり・軍荼利夜叉明王《やしやみようおう》(KUNDALI)。『陀羅尼集経』第八に、軍荼利明王の様式を説きて曰《いは》く、「遍身青色ニシテ両眼倶《トモ》ニ赤ク、髪ヲ攪《ミダ》シテ髻《モトドリ》トナシ、ソノ頭髪ノ色ハ黒ト赤ト交雑シ、三昧《サンマイ》ノ火焔《カエン》ノ如ク、眼ヲ張リ大怒シ、上歯ハミナ露《アラ》ハシテ下唇《シタクチビル》ヲ〓《カ》ミ、大瞋面《ダイシンメン》ヲナス。二ノ赤蛇アリ、両頭相交ヘ、垂《タ》レテ胸前ニアリ。頭ハ仰イデ上ニ向ヒ、ソノ両蛇ノ尾ハオノオノ像ノ耳ヲ穿《ウガ》チ、尾ノサキハ垂下シテ肩上ニ至ル。ソノ二蛇ノ色ハ、黄侯蛇ノ如ク、赤ト黒ト間錯セリ。」一読して凄惨《せいさん》の気眼前に漲《みなぎ》るものあらむ。
もののみえくる・密閉したる真言宗寺院の堂内に立ち入る時は、暫《しばら》くは視力を失ひたる如く、やうやくにして物の見え来るを常とす。その時軍荼利《ぐんだり》明王の牙《きば》の白きより堂内の諸物は見え初め来れりと詠《よ》めるなり。
ひかり なき みだう の ふかき しづもり に
をたけび たてる 五だいみやうわう
をたけぶ・勇猛なる喊声《かんせい》を上ぐ。
五だいみやうわう・中央は不動明王、東方は降三世《ごうざんぜ》明王、南方は軍荼利夜叉明王、西方は大威徳明王、北方は金剛夜叉明王、みな憤怒の形相にて、或《あるい》は瞋目叱〓《しんもくしつた》し、或は跳躍咆哮《ほうこう》せり。ともに弘仁《こうにん》美術の大作なり。
そもそも密教とは、一言にして之を蔽《おほ》へば、仏教の発生以前より印度《インド》の地に行はれし婆羅門《ばらもん》教の信仰及び作法が、中頃より仏教に混流し来りしものとも見るを得べし。しかるに、この混流の余脈を、中国より伝承したるために、我が国の仏教美術は、自然の発達を阻害せられし如く観る人もあれど、これ等の初期に於《お》ける密教の影響は、怪しく誇張されたる自然主義のうちに、灼《や》くが如き神秘主義を蔵し、摩訶《まか》不可思議なる効果を収め、我が国の芸術史を豊潤ならしめたるは、作者の常に感謝するところなり。
東寺の塔頭《たつちゆう》観智院にて
むかし きて やどりし ひと を はりまぜ の
ふるき びやうぶ に かぞへ みる かな
塔頭・唐音にて「タツチユウ」といふ。凡《およ》そ本寺に隷属する子院の多き場合に、その中にて最も大なるものを、かく呼ぶなり。しかるに、この観智院は、彫刻、書画、文献の収蔵最も豊かなるを以て知らる。
はりまぜ・この寺に来泊したる江戸時代の人々の筆蹟《ひつせき》を貼《は》り集めたる小屏風《こびようぶ》あり。作者もかつてこの寺の客となりて、古書の校合のために三四泊したることあるによりて、これらを見て感ことに深かりしなり。
二十五日大原に三千院寂光院《じやくこういん》を訪《と》ふ
まかり きて ちやみせ に たてど もんゐん を
かたりし こゑ の みみ に こもれる
三千院・延暦《えんりやく》年中最澄《さいちよう》の創立、貞観《じようがん》二年(860)承雲の改築。天台宗。
寂光院・建礼門院(1157−1213)隠棲《いんせい》の所。天台宗。
もんゐん・院主の尼僧は、「建礼門院」を略して「門院」と呼べり。
おほはら の ちやみせ に たちて かき はめど
かきもち はめど バス は みえ こず
この日また修学院《しゆがくいん》離宮を拝す林泉は後水尾《ごみづのお》法皇の親《みづか》ら意匠して築かしめたまふところといふ
ばんじよう の そん もて むね に ゑがかしし
みその の もみぢ もえ いでむ と す
修学院離宮・叡山《えいざん》電車「修学院」の東八百メートル。万治二年(1659)徳川家綱(1641−1680)が、天皇のために造るところ。
ばんじようのそん・万乗の尊。天子の尊貴をいふ。中国周代の制として、諸侯は戦時兵車千乗を出し、天子は万乗を出すといふより出《い》づ。乗とは乗物の数をかぞふる語。
二十六日山内義雄に導かれて嵯峨《さが》に冨田渓仙の遺室を弔《とむら》ふ
きうきよだう の すみ の すりかけ さしおける
とくおう の ふで さながらに して
渓仙・冨田渓仙(1879−1936)のちに「渓山人」と改む。
きうきよだう・鳩居堂は京都にて古き文房具商。
とくおう・宮内得応は東京の筆匠。
さながら・生前に用ゐたるまま。
ここ にして きみ が ゑがける みやうわう の
ほのほ の すみ の いまだ かわかず
みやうわう・渓山人が描きしは不動明王なり。明王としいへば五大明王のみにあらざるも、その尤《ゆう》なるは不動なり。
ぶつだん に とぼし たつれば すがすがし
あすかぼとけ の たちて います も
とぼし・燈火。
二十八日高雄神護寺にいたる
あきやま の みづ を わたりて いまだしき
もみぢ の みち を わが ひとり ゆく
神護寺・古義真言宗。和気清麿《わけのきよまろ》(733−799)が河内《かはち》の地に創建したるを、天長元年(824)この地に移し、空海もここに住みたることあり。寿永元年(1182)文覚《もんがく》これを再興せり。
いまだしき・紅葉の鑑賞にはやや早かりしなり。槙尾《まきのを》の西明寺、栂尾《とがのを》の高山寺に、この高尾の神護寺を加へて「三尾」とて観楓《かんぷう》の名所とせらる。
九官鳥 昭和十五年一月
九官鳥・南亜《なんあ》地方より舶載す。日本語を習はしむれば鸚鵡《おうむ》よりも流暢《りゆうちよう》なり。作者は「渾斎《こんさい》随筆」の中に、この鳥を飼ひたる経験を記せり。
庭上
ことごとく しらね はきたる すゐせん の
たまね うう べき ひま も あら まし を
庭上・この庭は、作者がさきに記《しる》したる「村荘」より出《い》でて、箱根土地会社の開拓せる目白文化村の一軒に移りて後のものなり。
しらねはきたる・水仙《すいせん》の球根を買ひおきて、日を経《ふ》れども、これを植うるに遑《いとま》なかりし時の歌なり。「はく」は「吐く」。「たまね」は「球根」。「あらましを」は「あらまほしきものを」といふこと。
さにはべ の かぜ を こちたみ うつろひし
ばら の つぼみ の ゆれ たてる みゆ
こちたみ・こちたきために。烈《はげ》しさに。本来は「言痛シ」より来ればにや、『万葉集』にては上に「ひとごとを」の伴ふを常とせり。
うつろひし・色褪《あ》せたる。これは咲き了《をは》りし花が乾《かわ》き果てて枝とともに風に揺らるるさまなり。
除夜の銀座に出でて
ちかづけば きみ に います と たち よりて
いたはる とも を かなしむ われ は
かなしむ・いたましく思ふ。
かぎり なく ゆき かふ ひと の いづれ より
われ おい けらし みち の ちまた に
みちのちまたに・市井の間に老いにたるか。『万葉集』にては「ちまた」は「衢」または「街」の字をあてたり。
枕頭《ちんとう》
いね がて に わが もの おもふ まくらべ の
さよ の くだち を とし は いぬ らし
いねがてに・眠成らずして。
さよのくだちを・更《ふ》けたる夜半を。「さよ」の「さ」は接頭語。『万葉集』に「待ちつつ居るに夜ぞくだちける」「雨も降り夜くだちけり」などいへり。
いぬ・行く。去る。
いで はてて をのこ ともしき ふるさと の
みづた の おも に とし は き むかふ
いではてて・応召しつくして。この歌を発表したる当時は、反戦思想なりとて、一部より非難ありしものなるも、明治天皇(1852−1912)もかつて「子等はみな軍のにはに出で果てて翁《おきな》やひとり山田もるらむ」の作あり。深く国を憂ふる者の歌なりと答ふるを常としたり。
ともしき・とぼしき。
きむかふ・めぐり来る。(前ニ出ヅ。)
歳旦
はしゆつふ の はや おき いでて とり の ゑ の
すりゑ する らし くらき あした を
はしゆつふ・派出婦。
あさ さむき テイブル に わが ひとり ゐて
むかふ ざふに に ゆげ の たち たつ
たちたつ・立ちまた立つ。『万葉集』には「国原は、煙立ち立つ、海原は、鴎《かまめ》立ち立つ」などいへり。
はしゆつふ の かしぐ もちひ に たつ ゆげ の
ほのかに しろく とし の いたれる
もちひ・餅《もち》。「もちいひ」の略。
ほのかにしろく・貧しき書生生活に、あまつさへ家に入院者を出し、派出婦の作りたる雑煮の白き湯気を上ぐるよりほかに、春らしき景色もなかりしなり。
斎居
このごろ は もの いひ さして なにごと か
きうくわんてう の たかわらひ す も
斎居・この三首及び「歳旦」三首は、今にして見れば何事もなき如《ごと》くなれど、その頃は時勢に対して内心に慨するところありても、固く黙して口に出《いだ》さざる人多きことを、これらの歌の中に諷《ふう》したれば、その当時は、相当に強き批評を受けたることを記憶す。今これを誦《じゆ》すれば感慨深し。
こもり ゐて もだせる われ や こころ なく
かたらむ とり に しか ざる な ゆめ
もだせる・物云はず、沈黙せる。『万葉集』には「辱《はぢ》をしぬび辱をもだして」などいへり。
こころなくかたらむとり・無心にして尚《な》ほ人の如く物いふ鳥。
しかざるなゆめ・ゆめゆめ鳥にも及ばざることなかれ。「ゆめ」は「かならず」「決して」などいふ意味の副詞。
あさな あさな わが て に のぼる いかるが の
あかき あし さへ ひえ まさる かな
いかるが・その頃作者の家に飼ひ居りし一羽の数珠掛鳩《じゆずかけばと》は、よく主人に慣れて、毎朝籠《かご》より出せば、かならず先《ま》づ主人の手に飛び乗りて高鳴きするを常とせり。
春雪 昭和十五年二月
二日飛報あり叔父の病を牛込《うしごめ》薬王寺に問ふこの夜春雪初めていたる
ふみ よむ と もの を し かく と おもほえし
ひと おい はてて ここ に こやせる
叔父・同姓にて名は友次郎(1868−1940)。
ものをしかくと・「し」は助詞。「書きものをするにつけても」といふこと。
おもほえし・思ひ出されし。
こやせる・臥《ふ》してあり。『万葉集』には「路にこやせるこの旅人あはれ」「こやせる君が家路知らずも」など。
われ わかく ひと に まなびし もろもろ の
かぞへ も つきず その まくらべ に
ひとに・この人に。
よもすがら さもらひ をれど きみ が め の
ひとめ も わかぬ われ ならめ や も
さもらひをれど・吾《われ》は侍坐してあれど。
きみがめのひとめもわかぬ・君が目に見て、この吾を、誰とも認識したまはざるほどのといふ意。
われならめやも・吾にてはあらざるものを。
はる さらば やま の しのはら ゆき とけて
ただに たつ べき きみ なら なく に
ただに・ただちに。すぐに。
六日午後堀の内に送りて荼毘《だび》す
おくり ゆく ひつぎぐるま の のき の は に
きざめる くも の ひかり さぶし も
きざめるくも・葬儀用自動車の屋蓋《おくがい》の軒に彫刻したる金色の雲形模様。
さぶし・寒し。
ここ にして ひと の かくろふ くろがね の
ひとへ の とびら せむ すべ ぞ なき
かくろふ・隠るの延音。
せむすべぞなき・如何《い か》にとも為《な》さむやうを知らず。
はふりど の つち に たまれる こぼれみづ
さむけき ひかり おもほえむ か も
はふりど・火葬場。「はふる」は「葬る」。
おもほえむ・後に至りて思ひ出されむ。
その夜家にかへりておもふ
たび にして はふれる たま や ふるさと に
こよひ かよはむ そら の ながて を
はふれるたま・火葬に附したる後の霊魂。
ながて・長き路筋。長途。『万葉集』にては、常に「みちのながて」とつづけてのみ用ゐたり。
みぞれ ふる こし の むらやま さよ ふけて
きみ が みたま の こえ がて に せむ
こえがてに・越えがたしと。『万葉集』には、「過ぎがてに」「行きがてに」「待ちがてに」「寝《いね》がてに」などいへり。
きみ が ため ふるさとびと の まゐり こむ
みてら の かど に ゆき は つむ らし
まゐりこむ・会葬し来《きた》るべき。
印象 大正十二年九月
かつて唐人の絶句を誦《じゆ》しその意を以《もつ》て和歌二十余首を作りしことありちか頃古き抽斗《ひきだし》の中よりその旧稿を見出《いだ》し聊《いささ》か手入などするうちに鶏肋《けいろく》の思ひさへ起りてここにその九首を録して世に問ふこととなせり或《あるい》はこれを見て翻訳といふべからずとする人あるべしまた創作といふべからずとする人もあるべしこれを思うてしばらく題して「印象」といふされど翻訳にあらず創作にもあらざるところ果して何物ぞこれ予が問はんと欲するところなり
乙卯《おつぼう》十月
絶句・五言四句のものを五言絶句といひ、七言四句のものを七言絶句といひ、略して五絶、七絶といふ。
鶏肋・食ふべきところ乏しきも尚《な》ほ棄《す》つるには惜しきもの。
世に問ふ・人に示して評を受く。
乙卯・大正四年(1915)。
漢詩の和訳は可能なりや否やにつきて『渾斎随筆』の中に所見を述べおきたり。この問題に興味ある人々は一読して作者の意のあるところを批判されむことを望。
懐瑯〓二釈子  韋応物《いおうぶつ》
白雲埋大壑 陰崖滴夜泉
応居西石室 月照山蒼然
つくよ よし たに を うづむる しらくも の
な が いはむろ に つゆ と ながれむ
瑯〓《ロウヤ》ノ二釈子ヲ懐《オモ》フ
白雲ハ大壑《タイガク》ヲ埋《ウヅ》メ、
陰崖《インガイ》ハ夜泉ヲ滴ラス。
応《マサ》ニ西ノ石室ニ居ルベシ。
月照ラシテ山ハ蒼然《ソウゼン》。
韋応物・京兆《けいちよう》の人。若くして三衛郎を以《もつ》て玄宗に仕へ、晩年節を折《をり》て書を読めり。貞元《ていげん》(785−805)中、出《い》でて蘇州《そしゆう》刺史となる。恵政多し。性高潔。在《あ》るところ香を焚《た》き地を掃《はら》ひて坐す。顧況、劉長卿《りゆうちようけい》等と酬唱す。世に韋蘇州と号す。その詩、〓《かん》澹《たん》簡遠。世に之《これ》を淵明《えんめい》に比す。
秋夜寄丘員外  韋応物
懐君属秋夜 散歩詠涼天
山空松子落 幽人応未眠
あきやま の つち に こぼるる まつ の み の
おと なき よひ を きみ いぬ べし や
秋夜丘員外ニ寄ス
君ヲ懐《オモ》ウテ秋夜ニ属シ、
散歩シテ涼天ニ詠ズ。
山空シクシテ松子落ツ。
幽人ハ応《マサ》ニ未《イマ》ダ眠ラザルベシ。
秋 日   耿〓《こうい》
返照入閭巷 憂来誰共語
古道少人行 秋風動禾黍
いりひ さす きび の うらは を ひるがへし
かぜ こそ わたれ ゆく ひと も なし
秋 日
返照ハ閭巷《リヨコウ》ニ入リ、
憂ヒ来《キタ》ツテ誰カ共ニ語ラン。
古道ハ人ノ行ク少シ。
秋風ハ禾黍《カシヨ》ヲ動カス。
耿〓・河東《かとう》の人。字《あざな》は洪源。宝応(762−763)の進士なり。官は右拾遺たり。詩に巧《たくみ》にして、銭起、盧綸《ろりん》、司空曙等とともに大暦(766−780)の十才子といふ。その詩深く琢削《たくさく》せずして、風格自《おのづか》ら勝《すぐ》る。
照鏡見白髪  張九齢《ちようきゆうれい》
宿昔青雲志 蹉〓白髪年
誰知明鏡裏 形影自相憐
あまがける こころ は いづく しらかみ の
みだるる すがた われ と あひ みる
鏡ニ照シテ白髪ヲ見ル
宿昔ノ青雲ノ志。
蹉〓《サタ》タリ、白髪ノ年。
誰カ知ラン、明鏡ノ裏。
形影自ラ相憐《アハレ》ムコトヲ。
張九齢・曲江の人。字は子寿。景龍(707−710)の初、進士に擢《ぬきん》でらる。開元(713−742)中、徴せられて中書令を拝す。諤々《がくがく》として大臣の節あり、文学一時に冠たり。安禄山《あんろくざん》は奚契丹《けいきつたん》を討ちて敗る。九齢これを誅《ちゆう》すべしと唱ふれども玄宗聴《き》かず。後蜀《しよく》に遷《うつ》るに及びて、その先見を思ひ、流涕《りゆうてい》して使を遣《つかは》してその霊を祭らしむ。『曲江集』あり。
登鸛雀楼  王之渙《おうしかん》
白日依山尽 黄河入海流
欲窮千里目 更上一層楼
うみ にして なほ ながれ ゆく おほかは の
かぎり も しらず くるる たかどの
鸛雀楼《カンジヤクロウ》ニ登ル
白日ハ山ニ依《ヨ》リテ尽キ、
黄河ハ海ニ入リテ流ル。
千里ノ目ヲ窮《キハ》メント欲シテ、
更ニ一層ノ楼ニ上ル。
王之渙・并州《へいしゆう》の人。詩に巧なり。文名一時に鳴る。かつて王昌齢、高適とともに旗亭に飲む。伶官《れいかん》及び伎数輩続いて至る。昌齢等ひそかに約すらく、唱ふところ若《も》し己《おの》が詩ならば、各画壁に之《これ》を記すべしと。忽《たちまち》に高適は一を得、昌齢は二を得たり。ひとり之渙を遺《のこ》せり。之渙諸伎中最も佳なるもの一人を指《さ》して曰《いは》く、もし唱ふところ我詩にあらずんば、則《すなは》ち諸君と衡を争はじと。この伎果して「黄河遠ク上ル白雲ノ間」の一首を唱ふ。正《まさ》に之渙得意の作なりき。因《よつ》て大《おほい》に諧《とも》に笑へり。
送霊〓上人  劉長卿《りゆうちようけい》
蒼蒼竹林寺 杳杳鐘声晩
荷笠帯斜陽 青山独帰遠
たかむら に かね うつ てら に かへり ゆく
きみ が かさ みゆ ゆふかげ のみち
霊〓《れいてつ》上人ヲ送ル
蒼々《ソウソウ》タル竹林ノ寺。
杳々《ヨウヨウ》トシテ鐘声晩《ク》ル。
笠《カサ》ヲ荷《ニナ》ウテ斜陽ヲ帯ブ。
青山独《ヒト》リ帰ルコト遠シ。
劉長卿・字は文房。開元(713−742)の際進士に登第す。官は随州刺史を以て終る。詩調雅暢《がちよう》にして五言の長城と称せらる。『劉随州集《りゆうずいしゆうしゆう》』あり。
訪隠者不遇  賈島《かとう》
松下問童子 言師採薬去
只在此山中 雲深不知処
やま ふかく くすり ほる とふ さすたけ の
きみ が たもと に くも みつ らん か
隠者ヲ訪《オトナ》ウテ遇《ア》ハズ
松下ニ童子ニ問ヘバ、
言《イハ》ク、師ハ薬ヲ採リテ去レリ。
只《タ》ダ此ノ山中ニ在《ア》ラン、
雲深クシテ処《トコロ》ヲ知ラズト。
賈島・苑陽《えんよう》の人。字は浪仙《ろうせん》。初は僧侶。後進士に挙げらる。嘗《かつ》て京師にて驢《ろ》に騎《の》りて苦吟し、句を得たり。曰《いは》く「鳥ハ宿ル池辺ノ樹、僧ハ敲《タタ》ク月下ノ門」と、初めは「敲ク」を「推ス」と為《な》さんとして決せず。手を以《もつ》て推と敲《こう》と二様の態をなし、覚えず当時京兆《けいちよう》の尹《いん》なりし韓退之《かんたいし》の輿《こし》に衝突し、詰責せられて実を以て答ふ。退之曰く、「敲」字可なりと。乃《すなは》ち轡《くつわ》を并《なら》べて行く行く詩を論じたり。毎歳除夜、一年中作るところの詩を検し、之《これ》を祭るに酒脯《しゆほ》を以てして、曰く、吾《わ》が精神を労す、是《これ》を以て之を和《やはら》ぐるのみと。
幽 情    李収《りしゆう》
幽人惜春暮 潭上折芳草
佳期何時還 欲寄千里道
はる たけし きしべ の をぐさ つみ もちて
すずろに おもふ わが とほ つ びと
幽 情
幽人春ノ暮ルルヲ惜《ヲシ》ミ、
潭《フチ》ノ上《ホトリ》ニ芳草ヲ折ル。
佳期ハ何ノ時カ還《カヘ》ラン、
寄セント欲ス、千里ノ道ニ。
李収・右武衛録事。(一本ニハ左武衛トアリ。)
山 館   皇甫冉《こうほぜん》
山館長寂寂 閑雲朝夕来
空庭復何有 落日照青苔
うらやま に くも ゆき かよふ ひろには の
こけ の おもて に いりひ さしたり
山 館
山館ハ長ク寂々タリ、
閑雲ハ朝夕ニ来《キタ》ル。
空庭復《マ》タ何カ有ル、
落日ハ青苔《セイタイ》ヲ照セリ。
皇甫冉・丹陽の人。字は茂政。十歳にして能《よ》く文章を成せり。張九齢之《これ》を呼んで小友となせり。天宝(742−756)中、進士第一に挙げらる。無錫《むしやく》の尉《い》を授く。大暦(766−780)の初、累遷して右補闕《うほけつ》となり、使を江表に奉ず。その家に卒《しゆつ》す。
鹿鳴集 後記
予の郷里は越後《えちご》の新潟《にひがた》なり。父母は久しく、叔父が継ぎたる本家に同居し、我等兄弟は其所《そ こ》にて生れ、また人となれり。しかるに叔父は幼時より秀才を以《もつ》て称せられし人にて、田舎《ゐなか》には珍しきばかりに、一応和漢洋の学に通じ、読書力もあり、筆蹟《ひつせき》も唐様《からよう》にて美しかりき。その頃新潟の鎮守なる白山神社の禰宜《ねぎ》に日野資徳《すけのり》といふ人あり。叔父はこの人に就《つ》きて和歌を学び、その社中の高足なりしかば、予は小学校への途中に、しばしば詠草を携へて其《その》門に遣《つか》はされしことあり。そもそも予が中学に入りし頃より、何かといと懇《ねんごろ》に文学の方向に導きくれしはこの叔父なれば、今に至りても深く心に銘記して感謝し居れど、当時叔父が熱心に凝り居たる、その桂園《けいえん》風の和歌には、子供心ながら少しも興味を覚えざりき。
しかるに明治三十二年四月、中学五年級に進み、国語教科書として課せられたる三上、高津の『日本文学小史』の中に、作例として挙げたる記紀万葉の古歌を読むに及び、不思議とも云ひつべきほどに強き感動を覚え来《きた》りしかば、先づ当時は大阪積善館の刊本にて専《もつぱ》ら世に行はれ居たりし『略解』を求め、遂《つひ》には其頃この地方にては高等女学校の図書室ならでは蔵するもの無かりし『古義』をわざわざ人を介して折々借り出し来り、日夜に読耽《よみふけ》りて、忽《たちま》ち俄《には》か作りの万葉学者となり、毎週教場にて、国語の教師に向ひて、質問戦の先鋒《せんぽう》をつとむるを聊《いささ》か得意となし居たり。これよりさき我等は郷党の高僧として、また奇人として、良寛禅師の逸話に耳慣れ居たりしが、禅師の歌として聞きしものは、みな云ひ知れず懐しき響《ひびき》ありて、我等が幼時教へこまれし小倉《をぐら》百人一首の類《たぐひ》とは、いたく調子の異れるものあるを、かねて怪《あやし》み居たりしに、これぞ『万葉集』の調子なりけるよと、初めて悟りしことも深き歓《よろこび》の一つなりき。
しかるに此の年の早春より予はたまたま俳句を始め、『ホトトギス』『日本』などを愛読しつつ句作に熱中し居たりければ、同じく『万葉集』を宗とする正岡子規子等の作歌に接する機会もしばしばなるにつれて、忽ち其《その》主張流風に傾倒し、俳句のかたはら歌をも作り始めたり。もとより素養も無き少年の、一口に歌を作るといひても、なかなか容易のことにあらず。最初佐佐木氏の『詠歌自在』といふものを求めみたるも、これにて自在に歌の出来得べしとも思はれず。後には物集氏、草野氏の辞典類のほかに『冠辞考』『冠辞例』『冠辞例歌集』などいふものを机の上下に備へおき、大体は俳句にて覚えたる手心にて作れり。かくて出来たる歌は、子規子等の手もとに送りて選評を受くるには至らざりしも、その都度地方新聞の文苑《ぶんえん》に掲載せしめ居たり。しかるにこの頃一二年下級なる友人のうちには、例の日野氏の家塾に通ひて『枕草子《まくらのそうし》』『源氏物語』などの講義を聞くこと流行せしが、ある日、日野氏は慨然として一同に向ひ、近来何者か万葉体の歌を作りて折々新聞に出すものあるも、そもそも『万葉』は遠き世の私集にして、中には漁樵田夫《ぎよしようでんぷ》の作をさへ載せたれば、後世の勅撰集《ちよくせんしゆう》の風雅に比すべくもあらず。もとより今にして鑑《かがみ》と為《な》すべきにあらず。さても世に不心得なる者もあるものかなと、深く誡《いまし》められしよし、たまたま聴講のために席末にありし予が妹は、帰り来りてゆゆしげに物語れり。この日野氏は、万葉学にかけては相当の造詣《ぞうけい》ありて、木村正辞翁などと文通を交はし居られし様子なるも、万葉体の作歌は少しも喜ばれざりしものと見ゆ。されど老国学者のかかる非難こそ、かへりて我等の心には逆効果を齎《もたら》し、一入《ひとしほ》の熱中を煽《あふ》るのみなりき。かくて当時の『日本』紙上に発表されし根岸《ねぎし》短歌会の歌は、常に予等が興奮の種となれり。就中《なかんづく》伊藤左千夫氏の
元の使者すでに斬《き》られて鎌倉の山の草木も鳴り震ひけむ
といふ一首の如《ごと》きは、久しき間予は殆《ほとん》ど口癖の如く繰返し繰返し諷誦《ふうじゆ》して止《や》まざりしものなり。
その翌年三月、予は中学校を卒業して東京に出《い》でしも、ほどなく病に罹《かか》りて、七月に郷里に帰れり。帰るに先だちて、六月の某日、根岸庵に子規子を訪《おとな》ひ、初めて平素景慕の渇を医《い》するを得たり。この日、俳句和歌につきて、日頃の不審を述べて親しく教《をしへ》を受けしが、梅雨の煙るが如き庭上の青葉を、ガラス戸越に眺《なが》めながら、午頃《ひるごろ》の静かなる庵中にてひとりこの人に対坐して受けたる強き印象は、今にして昨日の如く鮮《あざや》かなり。その時乞《こ》ふがままに五枚の色紙短冊《たんざく》を書き与へられしが、そのうち二枚は俳句にして、三枚は左の歌なり。
橘《たちばな》の花酒に浮けうたげする夜くだち鳴かぬ山ほととぎす
ほととぎすその一声の玉ならば耳輪にぬきてとはに聞かまし
朝顔画讃
あかつきの起きのすさみに筆とりて描きし花の藍《あゐ》うすかりき
この日予はまた子規子に向ひて我が郷の良寛禅師を知り玉ふやとただしたるに、否と答へられたり。ここを以て帰郷するや、先づその歌集一部を求めて贈れり。そは同じく我が郷里にて戊辰《ぼしん》の志士の一人なりし村山半牧が、万葉仮名もて草体に書きし美濃《みの》紙判の木版本なりき。この本今も稀《まれ》に市上に見ることあり。かくて予は良寛禅師の名が子規子の筆によりて広く世上に紹介せらるべき日を待ち居たるに、同年の秋にいたりて、『ホトトギス』紙上の随筆に、禅師につきて記さるるところあり。予は之《これ》を見て大《おほい》に喜びしも、そはただ一瞬時のみなりき。けだし子規子が禅師生涯の佳作として挙げられしは、ただ二首のみなるに、そのうち
山笹《やまざさ》に霰《あられ》たばしる音はさらさらさらりさらりさらさらとせし
心こそよけれ
といふ旋頭歌《せどうか》は、実は古き琴唄《ことうた》にて、禅師の作にはあらざりければなり。禅師はただ興に任せて書きつけたまひけむを、半牧が心無く収め入れたるなりけり。この行きちがひは、子規子を経て、次なる左千夫氏にまで及びたるを思へば、両公に対し、ことにまた禅師に対して、予は責任の大半を負ふべきを、今も痛切に感じ居るなり。
東京より帰りたる後、予は養痾《ようあ》のかたはら、二種の地方新聞の客員として俳句の選者となり、一方には、なほ中学に通ひ居たる若き人々を語らひ、小さき文学雑誌を出したるが、その人々は、後に政治家、実業家、或《あるい》は官吏となりて名を出したるもあるが、中に、ここには特に山崎良平君を挙ぐべし。この人、後に第一高等学校に入り、野上臼川氏等と校友会雑誌の委員となるや、良寛禅師を宣揚せんために長篇の論文を草し、雑誌一冊を殆ど一人にて書きつぶして、他の一切の原稿のために少しも余白を与へざりしを以て先づ四周を驚倒したる人なり。又その頃、我等の雑誌のために、遥《はるか》に稿を寄せて応援したる人には、当時なほ一高の生徒なりし桜井天壇君あり。その紹介にて山岸光宣、石倉小三郎、内ケ崎作三郎の諸君ありき。
かく予は凡《およ》そ地方文学青年の為《な》すべき仕事は一応為さざるはなく、二年の間は前後を忘れたりしも、思へば身はまだやうやく二十歳の若さなれば、この乏しさのままにて果つべきにもあらず。且《か》つ家運もやうやく傾き来《きた》りしかば、今のうちに将来生活の途《みち》も講じおかざるべからずと、その事しきりに心にかかり来りければ、三十五年四月には、殆ど此等《これら》一切の仕事を打ち捨て、新《あらた》に志を立てて再び上京し、その頃はまだ東京専門学校と称したる早稲田《わせだ》大学に入り、英文学哲学などを学ぶこととなれり。しかるにたまたま此年の入学者には、片上天弦、白松南山、秋田雨雀、相馬御風《そうまぎよふう》、生方《うぶかた》敏郎、白柳秀湖の如き面々なほ多く、上級には小川未明、高須梅渓、吉江孤雁、村岡典嗣《のりつぐ》の諸君あり、教場の内外なかなか賑《にぎ》はしく、新気運の萌《きざ》し見えそめて、互に来往して談論応酬頗《すこぶ》る盛《さかん》なりしも、予が家の財力はますます衰へ、予は辛うじて月々の下宿料をこそ払ひ得たれ、新聞の購読すら易《やす》からざるほどの窮乏のうちに在《あ》りしかば、予は殆ど何人とも交際らしきこともせず、ひそかに学内の図書館に通ひて、己《おの》が好める数十部の古書を読みしくらゐのことにて、平々凡々として三十九年七月に卒業し、九月には越後中頸城《なかくびき》なる有恒《ゆうこう》学舎といふに、英語教師として赴任せり。最も華《はな》やかなるべき大学生時代も、かくて幽独に堪《た》へたる閉戸読書の時代なりしなり。
されどかく、薄給ながら自ら生計を立つるに至りて、心は再び文芸に蘇《よみがへ》り来り、四十一年の暑中休暇には、初めて奈良地方に遊び、古蹟《こせき》を巡り美術を賞して感興浅からず。その間に短歌を詠ずること二十首にして帰れり。俳人一茶《いつさ》の研究に手を染めしもこの頃なり。その後四十三年には、この地を辞して再び早稲田に戻り、初めは中学に英語を、後には大学に英文学を教ふることとなりしが、いつしか奈良文化の研究に身を入るるやうになりてより、次第に俳句には遠ざかりしも、極《きは》めて寡作《かさく》ながら、和歌は今日に至るまで前後四十余年の間作りつづけ来れるなり。されど最初より歌壇といふものには全く交渉なく、ことに東京に落ちつきて後は、身辺に同好の友もなかりしかば、真に一人にて作り、一人にて楽み居たるなり。されば嘗《かつ》て大正二年頃かと覚ゆ、伊藤左千夫氏に書を致して画帖《がじよう》に揮毫《きごう》を請ひしに、氏は
まづしきにたへつついくるなどおもひはるさむきあさをこに
ははくなり
の一首を書き贈られたり。後にて気づけば、これ人も知る氏が特色ある最晩年の作風なりしを、当時予はただ格調の変化著しきに眼を瞠《みは》りて打ち驚くのみなりき。その後三四年にして、相馬御風君は東京を見限りてか、郷里糸魚川《いといがは》に隠れ去られしに、たまたまかの山崎良平君、同地の中学校に教師として赴任し、それより後相馬君の良寛研究は始まれるやに聞けり。
大正十三年に至れば、かつて山崎君とともに我等が雑誌の同人なりし式場麻青といふ人上京、己《おの》が年来の歌稿を纏《まと》めて携へ来り、東京にて出版したしとて、一切の世話を頼みて去りしかば、体裁などの参考にもせむとて、牛込《うしごめ》辺のある書店の棚《たな》より、手にまかせて四五種の歌集をもとめ来り、数日の間これを眺《なが》めもし読みもするうちに、予は初めて朧《おぼろ》げながら少しく世上の歌のさまを知れり。秦《しん》の乱を避けて山に入りし周末の遺民が、遂に漢晉《しん》あるを知らざりしに似たりと云ひつべし。とにかくかかることにて俄《にはか》に世心《よごころ》のつきしものか、同じ年の十二月、人のすといふ歌集といふものを、我もして見むとてか、『南京《なんきよう》新唱』一巻を上梓《じようし》したるなり。
しかるに、これよりさき、予が英文学の師、坪内逍遥《しようよう》先生は、大正八年五月還暦を迎へられ、これを機として和歌を作り始めらる。この時人を派し、又書を寄せて、いとも丁寧に作歌の批評を需《もと》められしかば、予は謹みて之を引き請けたり。このことは後に『南京新唱』のために与へられし先生の序にも見ゆれども、なほその中に、そもそも予の歌を作ること、これより始まるやにものしたまへるは、説いて稍精《ややくは》しからざるを憾《うら》みとすべし。蓋《けだ》しこれ、最も恩遇を受けて久しく親交を辱《かたじけな》くしたるこの先生にさへ、一度も我が歌を披露《ひろう》せしことの無かりしかば、かくは思ひ込みたまへるなるべし。されば又香取秀真氏の『天之真榊《あめのまさかき》』のうち、大正十三年の条に、『南京新唱』の寄贈を受けて初めて予が名を知られしよし、さる歌の詞書の中に記されたるも当然のことと云ふべし。
その後予は『南京余唱』といふ小冊子を出したるも世上知る人少かるべし。後『新万葉集』の企あるや、編輯《へんしゆう》の諸公何をか思ひ過ごしけむ、幾度か足を門に運びて懇望やまざりければ、遂にもだしがたく、三十首の旧製を手録して之に応じたることあり。また需《もと》めらるるままに『遍路』『はたれ』『作歌』『槻《つき》の木』など流派傾向とりどりなる短歌雑誌に題簽《だいせん》を与へしこともあり、斎藤、相馬、窪田《くぼた》、折口の諸家より、予が歌に同情ある批評を恵まれしこともあり、ことに斎藤茂吉氏が、幾度か推輓《すいばん》の筆を執られたるは感激に堪へざるところなるも、予が心はなほ極地の氷雪の如く、依然として遠く斯壇《しだん》と隔絶しつつ今日に及べり。
されど歌壇以外にありて、予が歌に興味を動かしたる人は決して少からず。ことに浜田青陵君が論文集の典麗なる表紙に、予が歌を刻みつけて得々たりし、また中村彝《つね》君が臨終の数日を予が歌を唱ひ暮らしたる、而《しか》もこの二人は遂にまた相見るを得ざる、今や予をして徒《いたづら》に寂しく微笑せしむるのみなるも、そもそも予が歌は、『万葉集』と良寛と子規子とに啓発せられ、後に少しく欧亜《おうあ》の詩文と芸術とにより培《つちか》ひ来《きた》りしばかりにて、もとより素人《しろうと》の手業とて、所詮《しよせん》素人向に出来居る筈《はず》なれば、素人の間にこそ予が知音はなほ有らば有るべけれ、たまたま専門匠家の風尚に合はざるものありとも、今さら何の不思議もなく、又何の遺憾《いかん》も無かるべきなり。
されどまた、余りに物を識《し》らざるも不便なればとて、昨年十二月の末おしせまりて、初めて短歌に志す人々のためにさる人々のものされし一二の作法指南の書を読みしに、その中にてつぶさに現代大家の家集の名を知り得たれば、只今《ただいま》はぽつぽつそれ等を購《あがな》ひ読みて、一冊は一冊ごとに想はぬ空に眼界を拡《ひろ》めゆく心地して、今にして年来の固陋《ころう》を悔いつつあれど、老後の学修とて、進歩まことに遅々たるに、うたた歎息《たんそく》しつつあるなり。
昭和十五年二月
著  者
文字づかいについて
一、本歌集は『会津八一全集 第五巻』(昭和四十三年十一月、中央公論社刊)を底本とし、仮名づかいは旧仮名づかいのままとした。
二、当用漢字以外の漢字も使用し、音訓表以外の音訓も使用した。なお字体は新字体を用いた。
三、難読と思われる漢字には振仮名をつけた。振仮名も旧仮名づかいによった。ただし、漢字の字音による語は、古い字音仮名づかいによらず、現代の字音による仮名を振った。(例えば、「瓔珞」「馬脳」を「ヤウラク」「メナウ」とせず、「ようらく」「めのう」とした)
この作品は昭和四十四年六月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
自註鹿鳴集
発行  2002年5月3日
著者  会津 八一
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861177-2 C0893
(C)(財) 會津八一記念館 1969, Coded in Japan