天槍の下のバシレイス2 まれびとの棺(下)
著者 伊都工平/イラスト 瑚澄遊智
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)犬神一族汁《いぬがみいちぞくじる》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)団長|小早川《こばやかわ》・珍回答集
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あなたの街[#「あなたの街」に傍点]
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[#改丁]
行路する彼女の帰巣
2019/11/16〜11/17
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[#改ページ]
暗闇《くらやみ》の黒のあちこちに、たくさんの赤い光が灯《とも》っていた。
光の一つひとつは赤い色の球体で、ぽつんと真ん中に一つ。大きな円の模様がある。
模様の色は柔らかな黄色《きいろ》。赤い眼球の瞳孔《どうこう》のようだった。
発光する無数の目玉は、あちらを向き、こちらを向き。
房となって宙に浮き、ゆらゆらと揺れていた。
そのうち一つにぽっと火がつく。そして周囲に欠片《かけら》を撒《ま》いて、地面へ散って屑《くず》へと変わった。
そのまま燃《も》え尽き灰となり、みしみし燻《くすぶ》る音も絶えると、静寂と暗がりが戻る。すでに欠片さえ見あたらない。
だがやがてまた一つ、小さな炎が燃え上がった。
そしてその火が、今度は燃え移る。
真《ま》っ赤《か》な眼球はひしゃげるように、次から次へと地に落ちる――。ひとつ、ふたつ、みっつ。
*   *   *
「先生、もう読み終わりました……けれど」
委員長・田端《たばた》志津《しづ》が席からそう声をかけると、女教師・白井《しらい》は、ようやく気がついたように顔を上げた。そして教壇《きょうだん》から、しんと静かな教室を見回す。
「そうですか。授業を中断させてしまって、申し訳ない」
いつもの堅苦しい表情を崩さずに言う白井に、生徒たちは『やれやれ』と苦笑を浮かべる。
だが普段《ふだん》から『鉄血教師』の名を欲しいままにする白井はこのところ――特に今日は様子《ようす》が変だった。まだどこか鈍《にぶ》い目をしたまま、声だけ大きくして次の生徒を当てる。
「では山根《やまね》君。次の段落を読みなさい」
だがそれに答える声はない。そして教室の生徒たちはしばしの沈黙《ちんもく》を挟んで、小さくざわめき始めた。その幾重もの小声を破ったのは、教室中ほどからの鋭《するど》い声である。
「白井先生、『山根』という名字の生徒は、この教室にはいません。体の調子が悪いなら[#「体の調子が悪いなら」に傍点]、無理はしないで下さい[#「無理はしないで下さい」に傍点]」
声の主は制服姿にもかかわらずゴーグルを首からかけた少女――川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》である。彼女は睨《にら》むような視線《しせん》のまま、そう言う。
随分きつい物言いなのではないかと、他《ほか》の生徒たちははらはらする。しかしこのやり取りの裏には、失調《しっちょう》を認めようとしない白井と、認めさせたい敦樹の駆け引きがある。そして同時に敦樹の側からしてみれば、これは助け船でもあった。白井は休息を取るべき、ある事情を抱えているのだ。
しかし教壇に立つ白井の方は、そんな気づかいに応じる気配《けはい》もない。ぴしゃりと自分の両頬《りょうほお》を叩《たた》き、「フン!」と気合いを入れ直した。
「――済みませんね、少し朝から熱《ねつ》っぽいものですから。しかし教師たる身がこれでは、示しもつかないというもの。授業を続けます。――山本《やまもと》さん、読んで」
「はい」
女子生徒の一人が立ち上がり、教科書の朗読を始める。何とかその朗読の間は、白井《しらい》も恐《こわ》い目をしたまま意識《いしき》を保った。そして授業終了五分前となる。
白井は昨日の小テストの返却を行った。
「――いいですか? 十二月の期末テストまでは、もうあっという間です。今回返す小テストの結果もそうですが、苦手な科目は早めに勉強を始めておくように」
そう告げ終わると同時に、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
生徒と教師は互いに礼。そして白井は教科書やチョーク入れなどをまとめて持つと、教壇《きょうだん》から廊下へと向かった。
ようやくの休み時間に、生徒たちもざわめきつつ席を立つ。その多くは小テストのショッパイ結果を眺めながら、友人と互いに愚痴《ぐち》をこぼし合った。
「――ああ、そうでした」
全員がとっくに去ったと思っていた白井は、まだ教室の出口に立っていた。ぼんやりとした表情のまま彼女は振り返り、生徒たちに言う。
「窓のところにかけてある紅提灯《べにちょうちん》、日直は片づけておきなさい」
突拍子《とつぴょうし》もないことを言い出す白井に、生徒たちは顔を見合わせた。
「ちょうちん、ですか?」
委員長・田端《たばた》志津《しづ》が後ろを振り返りながら、代表して確認《かくにん》するように訊《き》く。他《ほか》の生徒たちも不思議《ふしぎ》な顔をしたまま、自分たちの背後、教室の後方を一斉に振り返った。
だがそこにあるのは黄色がかったカーテンのみ。それが開いた窓から吹く風に、ゆっくりと揺られているばかりである。
生徒たちが首を捻《ひね》りながら視線《しせん》を教室出口へ戻すと、すでに白井は去ったあとだった。
しん、となった教室で、彼らは不可解そうに再び顔を見合わせた。
「参ったな。――まずい感じだ」
白井の去ったあと、佐里《さり》の隣《となり》の机に腰かけた敦樹《あつき》は、素早《すばや》く小声でそう言った。教科書やノートを片づけていた佐里も、天井《てんじょう》を見上げてウーンと唸《うな》る。
「……確《たし》かに白井先生の様子《ようす》、ちょっと尋常《じんじょう》じゃない変さだったよね。っていうか、『ちょうちん』って一体、何のこと?」
敦樹《あつき》は『自分に分かるわけがない』といった顔で、横に首を振って言った。
「とにかく、まともな状態《じょうたい》じゃないんだ。一時的なものなんだから土曜《どよう》の今日くらい、素直に休んでくれたらいいんだが。――いやそれはそれでまずいか」
困ったように、額《ひたい》に手を当てる。
「……あの白井《しらい》が、大人《おとな》しく家にいるとは限らない、か」
「境界線《きょうかいせん》越《ご》えの後遺症《こういしょう》による幻覚のことって、もう防災団側から誰《だれ》かが説明に行ってるんでしょ?」
佐里《さり》の問いに、敦樹は「小早川《こばやかわ》さんが直々《じきじき》に」と言って頷《うなず》いた。
――そもそもこの状況の始まりは三週間ほど前、十月の終わりに遡《さかのぼ》る。
無断欠席の続いた敦樹を指導《しどう》するため、教師白井は耐性を持たないにもかかわらず、難侵入《カタラ》地域の境界線を越えた。そして彼女は塔《メテクシス》の発するアンテムーサ効果により、前後不覚に陥《おちい》り遭難《そうなん》したのだ。もちろんこの時はすぐに救助しているし、白井も無事である。しかしこの事件は、それでは終わらない。
非耐性者がアンテムーサ効果の影響《えいきょう》を受けた場合、かなりの確率《かくりつ》で後遺症が出る。具体的にはある一定の期間に、幻覚を見るようになる。そして再び境界線を越えようとしてしまうのだ。
もちろん、そうした事態に陥ったとしても、対応のしようはいくらでもあった。
境界線のすぐ内側には防災団事務所が並び、また境界線周辺の人間の足取りは六甲《ろっこう》山地の|生体レーダーサイト《AVR》で追うことができる。たとえ教師白井が再び境界線を越えるようなことになっても、もう一度救助することは困難ではない。あまり深刻ぶるような状況でもないのは確かなのだ。
しかし一方で、幻覚を見ている間は当然、周囲への注意が散漫になる。二次的な事故にあう危険性はあった。用心するに越したことはない。
――とそんな話を、防災団地域団長の小早川が本人宅まで出向き、教師白井とその夫を前にして一通り説明していた。
そしてこの件に関しては、防災団側でもフォローすることを提案していた。具体的には白井の帰宅時には手すきの防災団員が警戒《けいかい》にあたるし、学校では敦樹たち|樋ノ口町《ひのぐちまち》防災団がその任に就くと。しかし――。
敦樹は苦い表情で首を振った。
「白井の方は『自分は幻なんかには惑わされない』と言って、つっぱねたそうだ」
「そうだろうね」
佐里も溜《た》め息《いき》をつく。
「本人は幻覚を見てるっていう自覚が薄《うす》いだろうし、承知すれば日常生活を知らない人間にずっと尾行されるんだから。普通の人でもちょっと、躊躇《ためら》っちゃうよ。――先生の性格からすると、一番『らしい』結果なのかな」
「まあ白井《しらい》は、脚気《かっけ》検査をやられて本気で悔しがるタイプではあるからな……」
「格好《かっけ》エエ検査?」
よく分かっていない聞き返し方をする佐里《さり》に、敦樹《あつき》は座ったままこちらに膝《ひざ》を向けるよう言った。そして佐里が言う通りにした途端《とたん》、その膝下《ひざした》にチョップを叩《たた》き込む。
スカートの裾《すそ》から勝手に跳ね上がった自分の脚に、佐里は「おお」と声を上げる。
「今の何? もう一回やってみて」
敦樹は無言のまま、言われた通り再び膝下をチョップ。全く同じ結果に、佐里は声を上げた。
「私が敦樹に操《あやつ》られた!」
「いや、操ったとかそういうのじゃなくて、単なる健康な証拠だ。しかしまあ、白井がしているのも、そういう類《たぐい》の誤解ではあるのか……」
困ったように頭を掻《か》く。
――事態は深刻ではない。しかしそれ故に、非常にややこしいことになる可能性がある。おまけに白井は敦樹の注意にすら、全く耳を貸さない。敦樹にしてみればこの件に関して自分が信頼されていないようで、少々不満でもあった。
そして結局、白井は明らかな幻覚症状を示しながらも授業をきちんとこなしている。この綱渡りのような状況に、敢《あ》えて挑戦しようとしているようなフシさえある。
「――何でも気合いで乗り切ればいい、ってものでもないんだが。むしろそういう気張った考えの持ち主ほど、あの幻覚にはやられる」
黙《だま》って聞きながら再び机の上の教科書を片づけていた佐里は、「そういえば」と敦樹を振り向いた。
「白井先生の方は、自分がどういう幻覚を見ることになるか、まだきちんと説明は受けてないんだっけ?」
「ああ。そういう決まりだ。症状の根拠を説明してしまうと、逆に幻覚の影響《えいきょう》を強く受けるようになる。詳しいことを話すのは、症状がピークを越えてからだな」
言いながら敦樹は思い出し、憂鬱《ゆううつ》な気分になった。実は今のと全く同じ説明を、地域団長・小早川《こばやかわ》も白井に行ったと言っていたのだ。
しかし白井は不敵に笑って『はっきり原因を自覚するほど効果の強くなる幻覚? ちょっとした謎《なぞ》かけですね』と言い返すと、ニヤリと笑ったのだそうである。
まあこの負けず嫌いこそ白井であると、敦樹も思いはするのだが。
「……結局、小早川さんの話では、防災団はこの件で特に動かないことにしたそうだ。白井の帰宅後は旦那《だんな》さんが目を光らせることで落ち着いた。そして白井が学校にいる間は、私たちが生徒として、白井を監視《かんし》する」
「監視、ねえ」
どうにも物騒《ぶっそう》な敦樹の物言いに、佐里は小さく呟《つぶや》いた。
「……別に言い方を変えても、やることの内容と必要性は変わらないんだけど。でも実際、どこまでできそう? 明日は日曜日《にちようび》だし、授業のある平日みたいには行かないわよ? 白井《しらい》先生の突っ張ね具合を見てると、さっきも敦樹《あつき》が言った通り、一日中家で旦那《だんな》さんと過ごすって感じじゃなさそうだし。――尾行でもするの?」
「必要があれば、そうするまでだ。大した手間じゃない。――と言いたいところなんだが」
敦樹は考え込むように天井《てんじょう》を見上げる。
「……明日午前中はこちらも防除地区の巡回だから、動けるのは午後になってからになる。そうなると午前中に白井が外出すれば、それで追跡はアウトってことだ。市街地のレーダー情報を見るにはプライバシーの問題も絡むから、何重もの許可|申請《しんせい》が必要になる。仮に見れたとしても周囲に人が多い繁華街《はんかがい》じゃ、個人の特定は不可能だろうし。――何か白井の行動を制限できる方法があればベストなんだが」
「それも、白井先生のご機嫌《きげん》を損ねないようにね」
「まあ……な」
息を吐くと机に頬杖《ほおづえ》をつき、視線《しせん》を落とす。
敦樹は、今回の一件の根本的な原因である。
だからこそ教師白井が不快な気分を抱かぬよう、最大限努力する義務があった。その労を惜しむべきではないと考えている。ただしかし。
「その相手が白井となると、なかなか難《むずか》しい……」
敦樹は困ったように言い、そして佐里《さり》と二人、無言で考え込む。
「ねぇえ。小テストの結果って、どうだった?」
そんな風に背後から、いつもの明るい声を振りまいたのは、クラスメイトの楢橋《ならはし》南美《なみ》だった。
敦樹はこれにもまた困ったような表情を浮かべ、やって来る南美を座ったまま振り返る。
「……まあ順当に、悪い。そもそも学校を休みまくっていたからな。これで成績《せいせき》だけがいいって言うんじゃ、そちらの方が理不尽《りふじん》ではあるが」
そう言って自分の席に手を伸ばし、問題の小テストをつまみ上げて見せた。
教師白井が先ほど返却したのは、現国・古文・漢文が一纏《ひとまと》めとなった学力確認のための小試験《しょうしけん》である。敦樹の採点結果については、現国だけならそこそこなのだが、古文・漢文の二教科が相当に悪い。
「私は本を読むのは嫌いじゃないし、現国ならばその場勝負ってのもありだから何とかなるんだがな。『ありおりはべり』を憶《おぼ》える――なんてことになると、なかなか」
そう言って溜《た》め息をつく。
「漢文の方も文字の並びを見れば、フィーリングで何となく意味は分かるんだが。それを正確《せいかく》に理解するとなると、どうにもうまく行かない。そもそもレ点って何でレなんだ? とか。そちらの方が試験中、急に気になったりする」
「なるほど、気が合うじゃん」
南美《なみ》が笑いながら自分のテストを広げて見せる。脳天気な表情に反して、これもまた随分|酷《ひど》いものだった。
彼女は理数系の教科はかなり成績《せいせき》がいい。実家の『楢橋《ならはし》商店』で仕事を手伝っている関係もあってなのだろう。しかし逆に、文系科目はコテンパンといった有様《ありさま》である。自分自身の才能に諦《あきら》めたような顔で、南美は言う。
「古文とか漢文なんて日常生活で読まないし、何となくでいいよねえ」
「いや言葉っていうのは恐《こわ》いぞ、楢橋」
敦樹《あつき》は横へ首を振った。
「お互いに意思の疎通をしたはずが、分かったつもりで分かってないっていうのは、どんな場にあっても最悪の結果を招く。――私自身はこのテスト結果、痛恨だ」
その大げさな物言いに、南美は「そう……」と引きつった笑いを浮かべ、横では佐里《さり》が肩をすくめた。
ちなみに佐里の方は、普通に勉強して普通の点数を取っている。彼女の場合、勉学に関しては全教科とも、『さぼりはしないが欲がない』といった成績だった。
話し込む三人の許《もと》に、さらにクラスメイトの片山《かたやま》菜穂子《なおこ》や原田《はらだ》雪見《ゆきみ》が何となくやってきて、話題に加わる。
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二人とも具体的な点数に触れることはひとまず避《さ》けた。しかしどうやらこちらも、かなり散々な結果だったらしい。そのことが話しぶりの端々から伝わってきた。南美《なみ》が肩を落とす。
「何かみんな揃《そろ》って、酷《ひど》いもんだよね」
それを聞いた雪見《ゆきみ》は、胸を張って答えた。
「アチャー、それが私たちの合い言葉!」
「あちゃー」
頭を押さえてそう言う片山《かたやま》さんに、敦樹《あつき》も考え込むように唸《うな》る。
「……そろそろ期末テストも近いからな。真面目《まじめ》に勉強もしなきゃならない時期か」
「いっそみんなで、勉強会でもやる?」
南美が言うと「いいねえ」と片山さんがすかさず賛成《さんせい》を表明した。
そして突然ひらめいた敦樹は、佐里《さり》を振り向き目配せする。
明日の日曜《にちよう》、白井《しらい》の機嫌《きげん》を損ねずに行動を制限する方法、それを思いついたのだ。意図を悟った佐里はしばし黙考《もっこう》し、頷《うなず》いた。それを了解と受け取った敦樹は、南美たちを振り向いて話を切り出す。
「私たちはもうちょっと勉強するべきだと、みんなそう思うか?」
敦樹のその問いに、南美たちは『また唐突な……』といった表情を浮かべた。
「何か、やなこと言うなあ。ってかどうしたの?」
「実は楢橋《ならはし》、明日の日曜日、私の方の仕事は午前中までなんだ。どうせなら他《ほか》のみんなも呼んで、大々的に勉強会を開かないか?」
「いいねえ、大勢だと楽しそうだしー」
またしても片山さんがのんびりと賛成。
しかし南美《なみ》と雪見の方は、少々乗り気ではないように言う。
「楽しそうって点に関しては、片山さんに同意だけど。でも人数増えると、場所の確保《かくほ》がなかなか大変だし。――やるとしてもどこでやろっか? それが決まらないことには……」
意外と現実主義者の雪見が渋るように言うのに対し、敦樹は答えた。
「学校の部屋が借りられないか、職員室《しょくいんしつ》で交渉してみよう。ある程度人数が集まれば、日曜でも開放してくれるだろう」
驚《おどろ》いたような表情を浮かべる二人に、すかさず佐里が横からもう一押しを入れる。
「期末テストの勉強なら、どの教科もやらなきゃ駄目《だめ》だしね。文彦《ふみひこ》君とか、集中的に勉強すれば済む暗記物なんかは得意なんだけど、数学とかは全然駄目だから。そっち方面が得意な楢橋さんだったら、いろいろ教えて上げることもできるかなあ――」
実に露骨《ろこつ》な誘いかけだったが、その佐里の一言で南美は一気に実現強硬派へと鞍替《くらが》えした。
「そうね、やるべきだと思う!」
うまく乗せられた彼女の様子《ようす》に、雪見一人が『おいおい』といった表情を浮かべる。しかし別に彼女にしても、積極的《せっきょくてき》に反対する理由はない。
やがて雪見《ゆきみ》も分かったというように頷《うなず》いた。
「私も参加する。何人ぐらい集まるか、他《ほか》にも参加者、募集してみよっか」
その言葉に敦樹《あつき》は頷き、休み時間の教室を振り返った。
「――明日の日曜《にちよう》、期末テストに向けて勉強会をやろうと思うんだが、参加者を募《つの》りたい!」
「勉強会?」
学年副担任にして体育教師でもある吉田《よしだ》は、職員室《しょくいんしつ》の椅子《いす》に座ったまま、奇妙な物体でも見るかのような目でそう聞き返した。自分自身は教師のクセをして『よくやる』といった表情が、ありありと浮かんでいる。
対して今回の代表交渉役である片山《かたやま》さんは、ニコニコしたまま単に頷いた。その後ろにサポート役の敦樹が一人、付き添って成り行きを見守る。
片山さんが交渉役に選ばれたのは、もちろん理由があってのことである。彼女は成績《せいせき》の方は今ひとつなのだが、その素直な性格から、教師たちには一種の信用があった。
そして片山さんから何か頼み事をされると、悪い気がして非常に断わりにくい。それは敦樹たちでさえそうなのである。片山さんは、いわば他人《ひと》の首を縦《たて》に振らせる天才だった。あとは言いくるめられないようにだけ、敦樹が的確《てきかく》にフォローすればいい。
だが今回の件に関しては、要求の方がやや大胆だったからか。若い体育教師・吉田も、簡単《かんたん》には首肯しようとはしない。
「いや、日曜日の勉強会自体はまことに結構だと思うんだが……」
首をかしげ、真意を探るような目を向けて訊《き》く。
「……ただ、何の必要があって、その場所がこの学校の学生食堂なんだ? 普通勉強するなら、図書室辺りじゃないのか?」
「先生は高校生のころ、図書室とかで勉強してたんですかー?」
片山《かたやま》さんがそう訊くと、途端《とたん》に体育教師・吉田は、L字の指を顎《あご》に当て、きっぱりと答えた。
「一度だってないね!」
「要するに、そういうことです」
すかさず敦樹が、そう口を添える。
「今回の勉強会ってのは、どちらかというと普段《ふだん》勉強しない連中を引っ張ってくることが目的なんです。図書室じゃ敷居《しきい》が高過ぎる。
それに午後からですから、結構長引きそうなんですよ。そんなとき学食なら気分転換に茶や菓子も用意できるし、材料を用意しておけば夕食だって作れる」
「……校内キャンプっぽくやるわけか。確《たし》かに楽しそうだし、アイデアだけなら悪くはないんだがなあ。しかしそもそも何で、担任の白井《しらい》先生じゃなくて真っ先に俺《おれ》のところへ来る?」
「それこそ……敷居《しきい》が高過ぎるって言うか」
敦樹《あつき》は片山《かたやま》さんと困ったように顔を見合わせる。
「いきなり白井先生にじゃあ、交渉うまく行かないですよー。だから吉田《よしだ》先生に口添えして欲しいんです」
「駄目《だめ》、ムリ」
吉田はあっさり掌《てのひら》を振ると、そっぽを向き拗《す》ねたように言う。
「……あの人にとっちゃ俺《おれ》だって、お前らと同レベルの単なる若造なんだから」
「何や男のクセにそのヒネた言い草は! 全く頼りにならんなあ、吉田っちは」
背の高い片山さんの後ろから、ひょっこり顔を出した小柄な畑沼《はたぬま》清子《きよこ》がそう言った。無言で驚《おどろ》く敦樹たちに構わず、清子はさらに言葉を重ねる。
「さっきの台詞《せりふ》なんか、自分から『僕はまだ学生気分です』って言っとるようなモンやないか、吉田っち。そりゃ白井センセにも馬鹿《ばか》にされるっちゅうもんや、吉田っち」
「吉田っち連呼するな、転校生」
さすがに不愉快そうに体育教師は睨《にら》んだ。しかし清子の方はさらに偉そうな素振《そぶ》りで、『ダメダメ』と人差し指を振る。
「今度は都合良く、大人《おとな》ぶんのか? やから吉田っちはヘタレやっちゅうねん。――が、そんなキミを男にする魔法《まほう》の御札《おふだ》がここにある!」
そう言って清子が取り出したのは、映画試写会のチケット二枚。片山さんがそれを指でつまみ、不思議《ふしぎ》そうに首をかしげた。
「どうしたのー、それ?」
「仕事でもろてん。そしてこれを使えば、『保健医の岩清水《いわしみず》センセ』をデートに誘うことなど、全くもって造作もないこと!」
「…………ナニ!」
隙《すき》のない動作で、吉田は清子のチケットを手に取る。
「別に普通の試写会チケットじゃないか。『ショーシャンクの空に』? 先行試写会? それも明日? この映画が何で保健医の岩清水先生に繋《つな》がるんだ?」
「なに言《ゆ》うてる、そんなんやからモテへんちゅうねん体育教師!」
怒ったように眉《まゆ》を寄せ、清子は人差し指で吉田をビシッと指さした。敦樹《あつき》たちはもはや取り残されたように、呆《あき》れた表情で成り行きを見守る。
「ええか、コイツは二十五年前アメリカで公開されたものの、その直後に塔《メテクシス》が出現したせいで日本では公開できへんかったっちゅう、伝説の一作や! 特にスティーブン・キングの熱心《ねっしん》なファンにとっては、身売りしてでも見たい映画!! ――ちなみに、岩清水センセが『スタンド・バイ・ミー』見るために何回映画館に足運んだか、もちろん知っとるわなあ、吉田《よしだ》っち?」
教師吉田は、顔を顰《しか》めて考え込む。
今は電力事情により、放送文化がラジオに集約されている時世である。そんな中にあって映画人気もまた高い。町のあちこちには小さな映画館があり、しかし新作は需要に追いつかない。人気のある作品は何度でも繰《く》り返しフィルムがかかるし、ものによってはかなりの回数を見ることができる。
「年に一度は行くって言ってたから、二十回……以上にはなるのか」
「四十三回や。岩清水《いわしみず》センセの歳《とし》がいま二十三やから、物心ついてから年に三回ぐらい見とる計算になる。――そんな女にこのチケットを渡してみい。もはや明日のデートは成功したも同然や。たとえその相手がヘタレの体育教師やったとしてもな!」
教師吉田はしばらくじっと、手に持った二枚のチケットを見詰める。
「……俺《おれ》はヘタレじゃないぞ!」
「ゆうたな! その口でゆうたったな!! やったら、男やっちゅうところガツンと見せてみい吉田っち!! まずは厳《いか》つい白井《しらい》センセのとこ行って、学生食堂の使用許可をゲット! そして明日からは男のロマンと、バラ色人生の日々をゲットや!! ――あ、ちなみにチケット代の金は先に払ってな」
いい気分に水を差された教師吉田は、がくりと肩を落として思わず唸《うな》った。
「……しっかりしているな、転校生」
「ああ、ちゃうちゃう。生徒からの贈与《ぞうよ》が教育委員会とかにばれたら、いろいろと厄介《やっかい》なことになるやろ? きちんと『売り買い』の事実作っとかんと」
「ああ、それは……。もちろんそうだ」
「二枚二千円でええわ」
すぐさま吉田は財布を取り出し、叩《たた》きつけるように机の上へ千円札二枚を置く。
「俺は勝負する男だ。とにかく勉強会の件は、男の面子《メンツ》にかけて了解した。俺に任せておけ。――あ、岩清水先生ちょっと〜」
廊下を通りかかった意中の保健医に気づき、体育教師・吉田は慌《あわ》ててフラフラそのあとを追いかけていく。その教師としての威厳《いげん》の欠片《かけら》もない後ろ姿を見送った敦樹《あつき》たちの前で、清子《きよこ》は愉快そうに笑った。
「いやいやこりゃあ、こっちの結果もオモロイことになりそうやな」
「おもろいデスカ?」
首をかしげる片山《かたやま》さんに、清子は頷《うなず》いた。
「まあ『便利な人』で一日終わってまうんやろうなあ。そうゆう星の下に、生まれた男の顔やねん、吉田っち」
とにもかくにも、教師|吉田《よしだ》に前段交渉の約束を取りつけた敦樹《あつき》たちは、ひとまず職員室《しょくいんしつ》をあとにした。放課後《ほうかご》にもう一度|確認《かくにん》に来る必要はあるが、『吉田はデート実現のため、死にものぐるいで白井《しらい》を説得するだろう』と清子《きよこ》が保証した。
実際に目の前で成り行きを見ていた敦樹たちも、ひとまず勉強会の開催可能については、ほぼ決まったものと見ていた。
「それにしてもキヨコちゃん凄《すご》いなー。転校してからたった一週間で、この学校の人間関係を知り尽くしてるよね〜」
歩きながら背の低い清子にだらーんと覆《おお》いかぶさり、大柄《おおがら》な片山《かたやま》さんが頭上からそう言う。対して清子は、「へへへん」と胸を反らせた。
「学級征服の偉大なる一歩、っちゅう奴《やつ》やね」
「委員長選がある来年の春まで、お預けになっちゃったけどね〜」
「……まあなあ」
沈み込んで答える清子に、悪気のない片山さんは「?」と首をかしげる。隣《となり》でそのやり取りを見ていた敦樹が、のんびりと言った。
「それにしてもよく、あんなチケットを持っていたな。かなり手に入れるのが難《むずか》しいものなんだろう?」
「そうでもない。実はウチ、個人的にちっこい会社やっててな。出入りの業者がいろんなチケット持ってきよんねん。それをちょこっとな」
「会社って……」
敦樹は慌てて聞き返す。
「防災団業務の合間に、清子はそんなことまでやってるのか?」
これに関しては、全くの初耳だった。山陰《さんいん》の連合知事と、深い繋《つな》がりを持つ清子である。その関係であろうと、ひとまず勝手に納得はできるが。
一方、呑気《のんき》な片山さんは「おおー」と、単純に感心したような声を上げた。
「じゃあキヨコちゃん女社長なんだ? カーッコイイ!」
「それ言《ゆ》うたら、カタヤマかって薬局店店長補佐やん」
機嫌《きげん》を持ち直した清子が照れたように言う。と、片山さんの方は途端《とたん》にとろけるような笑顔《えがお》を浮かべた。
「女店長補佐……。カッコイイ〜」
「重い重いてカタヤマ、かぶさってもいいけど、寄りかからんといて〜」
「しかし大したもんだってのは確《たし》かだ。私も感心する」
助けようともせずに敦樹《あつき》がそう言うと、清子《きよこ》は重量挙げのような姿勢のまま、青い顔で強がった。
「まあウチの場合は、金儲《かねもう》けが目的ちゃうからな。防災団とのかけ持ちでも、何とかなる。
――どっちにしたって今の世の中、何が起こるか分からへんのや。蓄財《ちくざい》なんかしてもしゃあないちゅうのが、ウチの主義やからな。
ただ、手元にある程度の金があって人とのつき合いがあれば、いざっちゅうときスムーズに物事を動かせる。こうゆう手札は、防災に関《かか》わる人間やったらいくら持っとっても損はないで」
「なるほどな。確《たし》かに清子の言う通りだ」
「女店長ホサ〜」
「まあ今回の吉田《よしだ》っちの件は、うまく人を動かせるちゅうことの……一例やな。でも今回かて金だけあればOKやったかっちゅうと……そんなこともない。日ごろからの積極的《せっきょくてき》な情報集めこそが…………重いて、アギャン!」
悲鳴を上げて、清子と片山《かたやま》さんは廊下に潰《つぶ》れ、ひっくり返った。
敦樹は考え込んだまま、その二人に手を貸し立たせる。
「清子の言うことは一々もっともだ。と言っても、私に商才があるとも思えないし、真似《まね》をしようとまでは思わないが。
――しかしちょっと、分からないな。出入りの業者が、何だってチケットなんか持ってくるんだ? 粗品とは言え忙しい人間にとっては、押しつけられてもかえって面倒《めんどう》なだけという気もするが」
ゼエゼエと肩で息をしてスカートの裾《すそ》を叩《はた》きつつも、清子はニヤリと笑った。
「お代官様、世の中には『金券ショップ』というものがございましてなあ」
ああ、と敦樹は呆《あき》れたように頷《うなず》いた。換金する術《すべ》が恒常的にあるのだから、実質的には現金を渡しているのと変わらない。
「何とも分かりやすい賄賂《わいろ》だな。――しかしそうすると、そのチケットの受け渡しって、場合によっちゃあ犯罪になるんじゃないのか?」
「ほう、キヨコ屋。そちもなかなかのワルよのう?」
指をくわえて言う片山さんに、清子は横へ首を振る。
「やから金なんか結局、ものに変わらへんかったらただの数字やねんて。そんな数字で誰《だれ》が動くねん。ウチがやってんのは右から左に手渡しして、いろんなコネを作ってく作業や。業者の方も考えは一緒《いっしょ》。顔出して話してくんだけが真の目的やわな。ホンマの意味で数字が動くんは、相手の背中を後押しせなアカン時だけや。そもそもいくらプレミアチケット言《ゆ》うたかて、換金しても大人《おとな》の小遣い程度の金額《きんがく》でしかない。それよりも必要なんは、相手に印象づけるインパクトやろ?
――そしてその程度のモンが犯罪になるかそうでないか、その線引《せんび》きなんちゅうのは、ホンマTPOの問題でしかない。けどま、ウチは警察《けいさつ》に睨《にら》まれるようなドンクサイことはやってへんし、ドンクサそうなアホとは仕事せんから」
敦樹《あつき》は「ふむ」と、ちょっと理解しかねるといった表情で考え込む。
「――しかしまあどちらにせよ、今回助かったのは確《たし》かだ。清子《きよこ》には礼を言う」
「大体の事情はサリサリから聞いとるし、体育教師も一応代金は払っとるからな。まあトントンや。それにウチはガメツいけど、ケチちゃうから」
「その二つって、どう違うの?」
不思議《ふしぎ》そうに訊《き》く片山《かたやま》さんに、清子はニィっと笑った。
「ただほど高いモンはない、ってな。アツキにはそのうち、きっちり借りを返してもらうっちゅーこっちゃ」
気取った口調《くちょう》で清子は言う。敦樹は納得したように肩を落とした。
「なるほど、ちゃっかりしている……。しかしそれについては了解した。何かの折りに、借りは返させてもらうさ」
「おう、期待してるわ」
「ところで清子は、明日の勉強会には来ないのか?」
その敦樹の問いに、清子は鼻で笑って返す。
「ウチは満点取るて目標立てたら、どんな手つこうてでもそれを実現する少女や。勉強会なんか、最初から必要あるかいな。それに明日は、午後から会社の方に顔出さんとあかんから。ま、お前らでガンバっとき」
翌日、日曜日《にちようび》。
高校一年組の生徒たちは、午後になると平日と同じく制服姿で学校に集まった。
もちろん参加不参加は個人の自由である。しかしそれでもちょうど二十人ほどが昨日中に、この勉強会への参加を表明していた。
そしてその参加者の内ほとんどの者は、ちょっとした大きさの段ボール箱《ばこ》を持参している。学生食堂の確保《かくほ》はひとまず予定通り昨日中に成功したので、夕飯の材料を持ち寄れる分だけ持ち寄ったのだ。勘定はあとで均等に分ける。
「幸田《こうだ》、これ卵だけどどこ置く? 冷蔵庫入れとくか?」
――普段《ふだん》はまず入ることのない学生食堂の調理室で、小さめの段ボール箱を持ったクラスメイトの一人がそう訊《き》いた。そして訊かれた幸田は、テキパキと答える。
「必要ない。右の奥の棚に分かるようにまとめて置いといてくれ。箱から出しといてくれるとありがたい」
その後も次々とクラスメイトたちが指示を仰ぎ、幸田《こうだ》はそれに答えた。業務用弁当などを作る食品工場に勤めている彼にとって、料理は唯一にして絶対とも言える特技の一つである。普段《ふだん》の巨乳語りはともかく、調理《ちょうり》に関してだけは任せて間違いはない。夕食作りの段取りについては基本的に幸田が仕切るということで、昨日中に全員が合意していた。
一方、すでに机に腰かけた文彦《ふみひこ》は、そんなクラスメイトたちの様子《ようす》をノートに書きつけている。まるで新聞記者のように細かく記しながら、佐里《さり》に向かってフニャリと笑いかけた。
「何だか楽しくなりそうだね」
落ち着かない様子で食堂の扉の方を見ていた佐里は、文彦の不思議《ふしぎ》そうな視線《しせん》に気づくと、どうにか笑顔《えがお》を作って答えた。
「うーん。そうだといいんだけど……」
「あ、敦樹《あつき》ちゃん」
文彦がようやくやって来た彼女に、そう声をかけた。
敦樹は文彦たちよりも先に、一人で防災団事務所を出発していた。なのにまだここへ着いてもいなかったのだ。文彦の方もちょうど、どうしたのかと思っていたところだった。そして学生食堂にいた全員が驚《おどろ》いたことに、敦樹と共にクラス担任の白井《しらい》がいた。
「え、今日って先生つき?」
調理室から出てきた幸田が、驚いたようにそう言う。白井は不機嫌《ふきげん》な顔で、その幸田の前まで足早にやって来る。何やら逆鱗《げきりん》に触れたらしいと、幸田は逃げ出そうとしたが間に合わない。襟《えり》をグイと引っ張られた。そのまま白井は、だらしなく歪《ゆが》んだ幸田の制服を乱暴に直す。
「その言い方は何です? わざわざ休日出勤をした身に失礼な」
敦樹はそんなやり取りを見ながら、軽く息をついた。
白井はこの勉強会の魂胆が『白井自身の監視《かんし》のため』であるということを、すでに知っている。ただ内容が学生たちの勉強である以上、嫌《いや》な顔はしなかった。そして午後から学校へ行くとなれば、午前中に無闇《むやみ》な外出をすることもない。敦樹は『白井に不快な思いをさせずにその行動を制限する』という目標の一つを果たすことができた。ただし昨日の段階では、である。
白井は今日になって、敦樹がわざわざ家まで三輪《さんりん》自転車で迎えに来たのが相当不満だったらしい。敦樹としては『登校中の白井に何か起きては』と思っての行動だった。しかし白井の方は大げさだと感じているらしく、ずっと不機嫌な様子である。
その白井が、改めて生徒たちに向き直った。
「とにかく調理のために火を使うつもりなのだから、当然、責任者は必要です。そしてここは学校なのですから、節度を持って行動するよう!」
「でもそれじゃあ、いつもの授業と同じじゃあ――」
まだブツクサ言う幸田を、白井はきつい視線で睨《にら》む。
「……勘違いをしないように。勉強会だと言うから、学校は部屋を開放したのです。いつもの授業と同じで、問題のあるはずがありません。
もちろん、疲れたなら休息を取ればいいし、夕食は全員で楽しんで作ればいい。ただし勉強は勉強、楽しみは楽しみと、きちんとお分けなさい」
親や教師なら必ず言うお小言に、学生たちは全員「うへい」と情けなく返答した。
*   *   *
かくして午後一時半より、勉強会は始まった。多くの者が期待したような――『勉強会』とは名ばかりの馬鹿《ばか》騒《さわ》ぎとはならず、粛々《しゅくしゅく》とした雰囲気の中、自分たちで用意した課題《かだい》に取りかかる。
ちなみに教師|白井《しらい》は学生食堂の壁際《かべぎわ》ど真ん中に、いつもの気難《きむずか》しい顔で陣取っていた。その彼女を前にして彼ら学生たちのほとんどが『こんなはずでは……』といった表情を浮かべる。
そのまま黙々《もくもく》と一時間が経過。
「もう、耐えられない……」
隣《となり》に座る片山《かたやま》さんのその声に、敦樹《あつき》は小さく振り向いた。彼女は鉛筆を放り出すと、机の上にうつぶせに潰《つぶ》れ、動かなくなる。
敦樹は『まだ始まったばかりだ』と励まそうかとも思ったが、『どうでもいいことか』と思い直し、やめた。正直、余計なお世話である。
――そもそも勉強会というのは、敦樹にとっても口実なのだ。片山さんは片山さんのペースでやればいい。何も成績《せいせき》が悪いからと、誰《だれ》も彼《かれ》もがガリ勉する必要はない。
もちろん勉強は必要だと、敦樹は思う。だが学校の成績が悪いと不幸だというのは、そういう生き方をする人間にとってのことである。だからそういう人間はそういう道を行くために頑張ればいい。しかしその道しかこの世にはないというのも、また幻想だと敦樹は思っている。要は自分の為《な》すべきことを、成すべき時までに為せばいいのである。
無表情のままそう黙考し、敦樹は再び自分のノートに向き直った。そして姿勢正しくノートを文字で埋めていく。
だが一方、片山さんはうつぶせのまま、くぐもった声で訊《き》いた。
「アツキちゃん、謀《はか》ったね?」
小声の恨みっぽい問いかけに、敦樹の鉛筆は再び止まった。
「……いや。というかそもそも何の話だ? 片山さん」
「先生のことー。普通だったらこのごろ体の調子《ちょうし》が悪そうな白井先生に、頼むカナ? 一緒《いっしょ》に職員室《しょくいんしつ》行った時に言ってくれれば、私が別の先生に頼んだのに〜。不自然だよ、理由全然分からないけど……」
顔を起こした片山さんは、拗《す》ねた顔で部屋の壁際《かべぎわ》に座った白井の方を見る。
その白井は教科書と指導《しどう》要領を開いて、授業の準備作業を行っていた。だが白井の手は先ほどから止まりがちで、気がつけばボンヤリと手元を見たまま、ただ椅子《いす》に座っている。
生徒たちへのプレッシャーにはなっているのだが、それ以上でもそれ以下でもない。本来の白井《しらい》の行動力から考えれば、確《たし》かに調子《ちょうし》はかなり悪いと言えた。
「……だがまあ、白井がノリノリだったりした日には、地獄の勉強会になってしまうしな」
「それもそうだけどー」
「――先生の調子が悪いというなら、私たちがそれぞれきちっとやればいい話だ」
「そんな、アツキちゃんまで白井先生みたいなこと言うしー。……幸田《こうだ》くんじゃないけどホント、これじゃ平日と変らないよう。ようよう」
そう言ってもう一度、机にベッタリ突っ伏すと、片山《かたやま》さんは眠そうにゴロゴロする。対して敦樹《あつき》は、静かに言った。
「いつも通りなら、それが一番だ。――問題はない」
細野《ほその》忠夫《ただお》は、実に困っていた。
斜め向かいのテーブルに座っている楢橋《ならはし》南美《なみ》が、チラチラとこちらを見てくるからである。気が散って勉強どころではない。
もちろん彼女の目的は、細野ではない。その隣《となり》に座る野球部仲間、春瀬《はるせ》文彦《ふみひこ》である。別にそれはいいのだが、南美の様子《ようす》はまるで遊んでもらいたがってしっぽをパタパタ振る犬のようだった。そのそわそわした態度に、細野自身も落ち着かない気分になるのだ。そして――。
「細野ぉ、ここの式ってどうやって解くの〜?」
今度は文彦がのんびりした声で、そう訊《き》いてくる。
すでに十五回目となる要請《ようせい》に細野は隣を振り向くと、一通り式の解き方を実行してみせた。
数学でも何でも実際にやって解き方を見せた方が、文彦の場合は圧倒的に理解が早い。もちろん勉強法としては、ろくでもないものである。が、まあそれに関しては文彦の勝手だろうと思う。とにかく一通り解き終わると、文彦は「なるほどなるほど」と言いながら自分の勉強に戻った。今度は自力で、きちんと問題を解く。
その様子を見て、細野は思う。
文彦は結構、不思議《ふしぎ》なヤツである。
飲み込みが早いし計算も速い。しかしそのくせ、この春に習ったばかりのことをすっかり忘れていたりする。
文彦とのつき合いはまだほんの半年ほどだが、その結論《けつろん》として細野は文彦のことを『興味《きょうみ》のないことはさっさと忘れる質《たち》らしい』と見ている。
まあ、それはいい。とにもかくにも文彦の勝手である。だが――
細野《ほその》は横目でチラリと楢橋《ならはし》南美《なみ》の方を見た。そこにはいつの間にか、泥棒《どろぼう》を見る目をした番犬がいた。凄《すさ》まじいまでの勢いで、細野は南美から睨《にら》まれている。
そしてまたしばらくすると、南美の視線《しせん》は再び文彦《ふみひこ》の方へ向き、パタパタしっぽを振るような顔つきになるのだ。先ほどから、この繰《く》り返しである。
――結局、何だかんだ言って、面白《おもしろ》がってるのかなあオレ。
細野はほぼ真っ白なままの自分のノートに視線を落として、大きな溜《た》め息をついた。
南美の文彦に対する好意は、同じクラスの人間なら余程の鈍感以外は気づかない者のいない、半ば公然の事実である。というか、南美の態度の一々を見ていれば、気づかない方がまれだろう。
だが彼女の不幸の一つは、その『鈍感なクラスメイトたち』の中に文彦自身が含まれていることだった。文彦当人の『オトボケぶり』を知る細野などからしてみれば、南美については『気の毒な』という感想しか出てこないのが正直なところである。
とはいえ。
男同士で並んで座り、静かで真面目《まじめ》に勉強中。しかも自分は全く進んでいない――というお寒い状況なのである。それがなぜ、嫉妬《しっと》の炎を異性から燃《も》やされなければならないのか。
そこまで考えるに至って、細野は『アホらしい』という結論《けつろん》に達した。
「――俺《おれ》ちょっと、藤井《ふじい》に分からんとこ訊《き》いてくるから」
席を立つとテーブルの上の荷物をまとめ、そう告げる。文彦は「ああ、うん」とそれだけ言って、さっそく状況の変化を日記帳に記した。
細野はそそくさと、文彦の背後にあたる席に移動して荷物を置き、椅子《いす》に腰かける。そしてノートを開きながら、文彦の様子《ようす》をそれとなく見守った。隣《となり》に座る級友の藤井は『なに珍妙なことしてんだ』という目で見てくるのだが、どうにも成り行きが気になって仕方がない。
しばらくすると、南美が行動に移った。必要もないのに忍び足で文彦のところへやって来て、その隣――細野が元々いた席に腰かける。すぐそれに気づいた文彦は、さっそく南美に質問を開始した。南美の方は緊張《きんちょう》した表情で、訊かれた問題を訊かれたところだけ、丁寧《ていねい》に解説し始める。
――それじゃダメなんだなあ。
細野は小さく笑った。案《あん》の定《じょう》、文彦はまだるっこしそうな顔をしながら、ひとまずその説明を従順に聞いている。
まああとは、二人で徐々にすり合わせていけばいい話だ。何となく安堵《あんど》して、ようやく自分の勉強に取りかかる。――という段になって、細野は隣に座る藤井が先ほどよりさらに奇妙な顔をして、自分を見ているのに気がついた。
「変なヤツ」
「……自分でもちょっと、そんな気がしてきた」
情けなく俯《うつむ》いて、細野《ほその》は答えた。
――どうにもこの作業は集中できない。
教師|白井《しらい》は手元の授業計画ノートを前に、数度|瞬《まばた》きをした。授業計画はいわば本番のための予行演習である。いい加減な計画を立て、いい加減な授業をするわけには行かないのだ。
なのに先ほどからうまく没頭できない。この状態が続くのだとすれば、こういった重要な作業はさっさと切り上げ、別のもっと重要度の低い作業に切り替えるべきだった。
そう判断して机の上の荷物をまとめると、白井は食堂の丸椅子《まるいす》から立ち上がった。そのまま学生食堂の扉を開けたところでしかし、背後から川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》に呼び止められる。
「どこへ行くんですか、先生?」
振り返った白井は、敦樹を不快そうに睨《ね》めつけた。対して敦樹の方は、『どこへでもついて行くぞ』と、それだけしか考えていない顔で返答を待っている。
「……少し気が散り過ぎではないですか? 川中島敦樹。何のための勉強会です?」
小声で威嚇《いかく》するようにそう問う。
対して敦樹も、小声で答えた。
「これは勉強会を装った、先生の監視《かんし》です。そのことは昨日、私が直接火元責任者をお願《ねが》いした際に説明したはずです」
「では私は、同じ校舎にある職員室《しょくいんしつ》に荷物を置きに行くだけのことに、あなたの許可が必要なのですか?」
白井は目を凶悪なまでに細めるが、敦樹はその意図を察しない。勢い込んで答える。
「職員室ですか、お供します」
その返答に白井は手に持った教科書を持ち上げ、敦樹の頭上に乗せるように落とした。
「言った通り、この荷物を置きに行くだけなのです。それよりもあなたは落第しかねない成績《せいせき》なのだから、きっちりと勉強なさい」
「…………分かりました」
頭を手で押さえた敦樹は、そのままズルズルと扉の向こうに引っ込み、扉を閉めた。
白井は大きく息をつき、職員室へと向かって廊下を歩く。
どういうつもりか知らないが、とにかくこういうやり方が白井は大嫌いだった。虫唾《むしず》が走ると言ってもいい。たとえそれが彼女の担任する生徒の一人であったとしてもだ。
誰《だれ》かが誰かを親切面《しんせつづら》で拘束《こうそく》できると思っているのが、とにかく許せない。
どこにも行かせたくないのなら、この講道館《こうどうかん》柔道五段の白井《しらい》多恵《たえ》を、力尽くで止めてみろというのだ。少なくとも白井自身ならば、そうする。
――いや、さすがにそれはやり過ぎかと考え直す。
しかしとにかく。
白井《しらい》は自分の行く手を阻《はば》まれるのが大嫌いだった。後ろからヒョロヒョロついてこられるのも同様である。常に病人を見る目で四六時中|監視《かんし》されることなど論外《ろんがい》だった。ましてやそれが、自分のするべきことさえできていない人間ならば、なおさらである。
廊下を歩きながら白井の中でどんどんと、理不尽な扱いに対する怒りは膨《ふく》れ上がる。
実はすでに白井にも、『自分が幻覚を見ている』といういくつかの自覚はあった。全く不覚としか言いようのない有様である。
しかしだからといって、自分が必ずしも不健康な状態であるとは感じない。防災団の人間が脅かすので『これは危険な傾向なのか?』と一時期悩みもした。だが、どうにもそんな気がしてこないのである。
白井の見る幻覚は、内容がどうもはっきりとしないのだが、しかし恐ろしくはなかった。むしろ優《やさ》しい。それが幻覚と知ったあとでも、何か暖かい気持ちにさせられるのだ。
しかしそれでいて、なぜこれ程イライラとするのか。それが白井自身にも不可解だった。
体調《たいちょう》によるストレスやヒステリーなどではないはずなのだ。その自覚が白井にはある。
もっと明確に言うなら、白井は何事かを否定したがっている自分に気づいていた。
どこか心の奥底にあるものが、目の前の現状を受け入れがたいと感じている。
……敦樹《あつき》には悪いが、実のところ彼女への態度は八つ当たりに近い。
だがなぜか。白井の中の何かが、『思考』を強く否定していた。
そして全《すべ》ては曖昧《あいまい》なまま、自分の前を通り過ぎていく。
目には映っているが、焦点は定まらない感じなのだ。
気がつくと白井は、校舎外れの細長い廊下にいた。
そもそも自分は職員室《しょくいんしつ》に何の用があったのか?
途端《とたん》、校舎の隙間《すきま》から射《さ》したオレンジ色の夕日が、廊下の窓ガラス越しに白井の目を射《い》た。その明るさに目眩《めまい》を覚え、白井は反射的に目を閉じ教科書を持った腕で顔を庇《かば》った。だが閉じたはずの目蓋《まぶた》の裏に、さらなる風景が広がっていた。
――何、これは……。
そこは一面の、赤い赤い真《ま》っ赤《か》な夕焼けの地である。
そしてどこまでも広がる真《ま》っ直《す》ぐな地平線《ちへいせん》に、薄《うす》い黄色《さいろ》をした大きな太陽が浮かんでいる。校舎の廊下からは絶対に見えるはずのない光景だった。白井のわずかに残された理知的な部分が、その不思議《ふしぎ》に首をかしげる。
だが驚《おどろ》きはそればかりではない。夕日は一つではなかった。
いつの間にか何十もの太陽が、そこには浮かんでいた。どこまでも透明な大気の中を、全てが一斉にゆっくりと沈もうとしている。いよいよそれは地平線《ちへいせん》に達する。
だが白い太陽は全《すべ》て停止すると、今度は一斉に昇り始めた。
その馬鹿馬鹿《ばかばか》しさに、白井《しらい》は魅了《みりょう》されながらも唇だけで失笑してしまう。
そして停止。限りなく白に近い夕日は、真《ま》っ赤《か》な夕空を再び緩《ゆる》やかに沈んでいく。
全てが同期していた。――風に吹かれて揺れているのだと、なぜか白井は直感的に知っていた。そして夕日は、瞬《またた》くように明滅し始める。夕日の中に、細く灯《とも》る炎の影《かげ》が見える。蝋燭《ろうそく》の火のような、細長い火である。
……これは見た目通りのものではない。何か白井の実体験《じったいけん》に基づいた――現実世界で目にした記憶《きおく》と、強烈に結びついたものだった。いくつかの断片的な記憶が組み合わさって、こういったものを見せている。
ただそれが何であったか。知ろうとする努力を白井の中の深層が拒否した。
そうする間にも、風景はさらに変化を見せる。
白い太陽のいくつかは、横から押し潰《つぶ》したように縦長《たてなが》の楕円《だえん》へと変わり始めた。気がつくと真円を維持しているものの方が、少ないくらいだった。
白の円は実体ではない。
それは夕焼け空と同じ赤さの球体に描かれた、ただの模様だったのだ。これは赤い空に掲げられた、無数の紅提灯《べにちょうちん》なのである。なぜか遠近の感覚が大幅に狂って、こんな風に見えている。
そして白井は、ただそこに立ち尽くすしかなかった。
異様な光景に恐怖を感じてではない。それどころか大きな安らぎ、失ったはずのものへの憧憬《どうけい》を感じている。
――違う、私はここ[#「ここ」に傍点]にいるのだ。この場所でこそ頑張っているし、今の自分の生徒たちを第一に考えている。
美化されているのであろう過去の記憶への執着など、ないはずだ。あってはならない。
しかしその思考と裏腹に、白井はいつまでもここにいたいと、そう思っていた。
どこからともなく、白井を呼ぶ声が聞こえる。
――せんせい、せんせい。
「先生、先生!」
乱暴に肩を揺すられていることに、白井ははたと気がついた。目の前には堅い表情をした川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》の顔が、すぐそこにある。
「大丈夫ですか?」
意識《いしき》を確認《かくにん》するかのように問う敦樹に、白井は数拍の間を置いて、コクリと頷《うなず》いた。
「もちろん大丈夫です。――肩を掴《つか》んでいるあなたの手、痛いので離《はな》して欲しいのですが」
いつも通りの意固地《いこじ》な言葉で答える。
そして目の前の敦樹《あつき》は安堵《あんど》の溜《た》め息《いき》を、深々とついたのだった。
学生食堂に戻ってきた白井《しらい》と敦樹を横目で追いながら、原田《はらだ》雪見《ゆきみ》はボソリと呟《つぶや》いた。
「何か調子《ちょうし》悪そうなんだよねえ……」
頬杖《ほおづえ》をついて鼻の下に鉛筆を挟んだまま、彼女は喋《しゃべ》りにくそうにそう言う。隣《となり》にいた佐里《さり》は英語の問題集を解きながら「そうだね〜」と答えた。
「体調悪い時って、誰《だれ》にでもあるものだけれど。でも私たちのためにわざわざ出てきてくれるんだから、やっぱり白井先生ってありがたいよ」
「いやそっちもだけど、そっちだけじゃなくて」
答えた拍子に鼻下から鉛筆が転がり落ちた。隣の佐里がそれを手で押さえる。雪見は「ありがと」と言いながら、片山《かたやま》さんの隣に腰かけた敦樹の方を目配せする。
「川中島《かわなかじま》さん、ここ数日で徐々に体調崩してるように見える。それも先週にあった、剛粧《ごうしょう》対策の時からかな? ケガっていうほど急激《きゅうげき》じゃないし、一時的なものかなあと思ったんだけど……。でも、何だろう。何かあったの? 寝不足気味?」
雪見はそう矢継ぎ早に訊《き》いてくる。銭湯が実家である雪見の身体洞察力については、佐里も先日|驚《おどろ》かされたばかりである。そしてその力は、この場でも発揮されていた。
そして本当のことを言うと、雪見の診断はかなり当たっている。一緒《いっしょ》に仕事する佐里たちしか知り得ぬことだが、敦樹はある事情を抱え込んでいた。
「……何ていうか、前の剛粧対策の時、いろいろあったんだよね。誰かがケガしたとか、仕事で失敗したとか、そういうことじゃないんだけれど。敦樹、毎晩変な夢見て、よく眠れなかったりするみたい」
佐里は両手で頬《ほお》を挟むと、考え込むようにそう答えた。
――先の戦闘《せんとう》で初めて遭遇した、敦樹の仇《かたき》とも言える存在。その出現に、敦樹は心理的に振り回されている。
「……敦樹って結構、黙々《もくもく》と思い悩むタイプだから。ちょっと長引くかもしれない」
「夫の健康管理は、妻がきちんとしないと」
「私にできることがあるなら、頑張りもするんだけどね」
佐里は、溜め息を漏らす。
「あと、ツッコミ待ち?」
「さあ来い!」
「ツマちゃうやろー」
今いち張りのない声で、佐里《さり》は雪見《ゆきみ》の肩を叩《はた》いた。
「……ホント、悩んでも仕方がないことなんだけれどね」
「何が?」
「いやいや。でも原田《はらだ》さんって凄《すご》いよね。人の外見だけでそこまで分かるなら、多分《たぶん》いいお医者さんになれるよ」
誤魔化《ごまか》すため感心したように、佐里は言う。しかし雪見は掌《てのひら》と首を同時に横へ振った。
「私、健康な裸体にしか興味《きょうみ》ないから。病気の体ばっかり見てると、精神的にへこんできちゃうし。それにお医者じゃ、素っ裸は見れないからね。風邪《かぜ》ひいた人に『パンツも脱いで』ってわけにいかないじゃん」
「……それは確《たし》かに、恐《こわ》いね」
ちょっとだけ自分の言ったことを後悔して、佐里は納得した。
「つまり、銭湯で番台やるのが天職《てんしょく》なんだ」
「そうそう。あの広い風呂場《ふろば》の掃除っていう重労働さえ誰《だれ》かがやってくれたらなあ。もう文句なしなんだけれどねえ」
雪見は憂鬱《ゆううつ》そうな表情で唸《うな》った。と、学生食堂の扉が突然開く。
「おう! 学んでおるかね、学徒の諸君《しょくん》!!」
佐里と雪見は聞き覚えのあるその声に、顔を見合わせた。
この脳天気な大声は、ここには来ないはずだった清子《きよこ》のものである。しかし現在すでに勉強会が始まってから数時間。日もそろそろ完全に沈もうかという時間帯でもあり、参加には少々遅過ぎる。
だが一方、私服姿の清子は全く気にした風もない。笑みを浮かべて、室内全体に響《ひび》き渡るような声で言った。
「キミタチに差し入れを持ってきたったで〜。ウチがこんなに太っ腹とは、まさに天気予報の的中率並みの出来事!」
「差し入れ?」
佐里たちは立ち上がって、さらによく見る。清子は二つの大きな紙袋を、天秤《てんびん》のように両手に乗せていた。そのまま一歩、室内に踏み込む。そしてそこでようやく教師|白井《しらい》の突き刺さるような視線《しせん》に気がつき、その場に凍りついた。
「……これはこれはセンセさん、こんなところに。騒《さわ》がしてお邪魔《じゃま》でしたでしょか?」
清子は『うっかり忘れていた』らしいことがよく分かる表情で、軽く頭を下げる。対して白井は腕を組んだまま、上目《うわめ》づかいで言う。
「そんなことはありません。と言うより、そういう問題ではありません。――大声コンテストでも始める気ですか、あなたは。今ごろ突然やって来て何なのです?」
「やあ、みんなそろそろ腹減ってるんやないかな〜と思て。いか焼きの差し入れを参加者の人数分……持ってきたり……とか?」
白井《しらい》は困ったような表情で清子《きよこ》を見、そして息をついた。
「そう普通に説明すればよろしい。冷めてしまう前にお配りなさい。――しばらく休憩《きゅうけい》にしましょう!」
途端《とたん》に室内のクラスメイトたちから、喝采《かっさい》の声が上がる。
配るのを手伝うために清子のところへ行った佐里《さり》は、二つある緑色の紙包みの片方を清子から受け取り、包装紙を開いた。香《こう》ばしいしょう油ソースの臭《にお》いが室内に充満し、生徒たちからはどよめきのような声が上がる。
だが包みの中のいか焼きは五枚。清子の持つもう一方の包みも、おそらく同じくらいの数しか入っていないだろう。合わせて十枚前後だ。対して勉強会の参加者は正確《せいかく》には十九人。教師の白井といま来た清子を合わせると、二十一人になる。佐里は首をかしげた。
「人数分、あるんだよね?」
「や、一人じゃ持ち切れへんからな。もう一人に残り運ぶの手伝ってもろてん。タバタ〜、はよ入ってきいや〜」
廊下の方に、そう呼びかける。
清子の呼んだ委員長・田端《たばた》は、今日はバイトがあるということで、この勉強会には参加していない。もっとも、進学を目指す彼女らしく成績《せいせき》も優秀《ゆうしゅう》であるから、用事がなくても参加したかどうかは微妙なところである。そんな彼女を、清子は連れてきたらしい。
だが廊下から紙袋を両手に掲げた田端|志津《しづ》が現れると、室内の一同は呆気《あっけ》にとられた。彼女は白衣に緋袴《ひばかま》の巫女《みこ》装束《しょうぞく》だったのである。
全員が沈黙《ちんもく》するという思った通りの反応に、田端は一瞬《いっしゅん》怯《ひる》む。しかし言い訳などみっともない。やがて彼女は意を決したように、固い表情のままズカズカと大股《おおまた》で室内にやって来た。そしてどさりと机にいか焼きの袋を置き「――じゃあ、そういうことで」とクールに一言、その場を去る。
「今日が七五三……だったか?」
そうボソリと見当違いを呟《つぶや》いたのは、敦樹《あつき》だった。田端は立ち止まるとクルリと踵《きびす》を返し、無言のまま詰めよるとその肩を揺する。
「どうして七五三に高校生が行くのよ!?」
「済まない。……いや、七・五・三を足したら十五で――」
首ごとゆらゆら揺れながら、敦樹は急いで指を折る。
「早生まれなら十五歳がって……」
「わけの分からない風習を無理矢理作らないでよ。バイトの最中ってだけだから!」
「なるほど。……なるほどよく分かった」
聞こえるように大きな声で、敦樹が二度言う。そしてようやく、田端の揺する手が止まった。
「……とにかくご苦労。しかしどうしたんだ、その格好ってのは?」
敦樹《あつき》は恐る恐る訊《き》いた。それまで固かった田端《たばた》の表情が緩《ゆる》むと、そのまま崩壊《ほうかい》するかのように、彼女はこっぱずかしそうな表情を浮かべる。
「神社のバイトなの! 誓文祭《せいもんさい》、今週でしょう? ――神社の南の広場で売れ残りの市《いち》を毎年やってて、出店位置の整理を手伝ってるのよ」
「せいもん、さい?」
佐里《さり》が不思議《ふしぎ》そうに訊く。その問いに答えたのは、部屋の奥に座る教師|白井《しらい》だった。
「戎講《えびすこう》、誓文払いの儀式《ぎしき》のことです。――昔は商売の上で破った誓文や口にした嘘《うそ》を、神様に許してもらう日が一年に一度もうけられていたのです。それが今では転じて、商売|繁盛《はんじょう》の祝祭になっているわけです」
ほー、と感心したように、みんなが頷《うなず》く。
その話を聞いた敦樹は、クルリと背後を振り向いた。
「清子《きよこ》」
「何や?」
「お前も行っておいた方がいい」
「何でや!」
清子は敦樹のその言葉に怒鳴って返した。
「神さんに謝《あやま》らなあかんことなんかやってへんちゅうねん!!」
「いや……」
敦樹は視線《しせん》を逸《そ》らして言う。
「その……商売繁盛、だろ?」
「何やねん白々《しらじら》しい」
「それじゃ、私はこれで……」
会話の中心が自分から逸れたことをこれ幸いと、田端はそそくさと去ろうとする。だがその彼女の肩を清子がすかさず押さえ、「まあまあ」とねちっこい声で呼び止めた。
「わざわざここまで、荷物運んでくれたんや。タバタの分もあるし、みんなと一緒にいか焼き食うてく時間ぐらい何とかならへん?」
それもそうだと敦樹やその他《ほか》も頷き、同時に首をかしげる。
「しかしなぜ、バイト中の委員長が清子と一緒《いっしょ》にいるんだ?」
その敦樹の問いに、少しずつ精神を消耗している最中といった顔の田端が答えた。
「……バイト仕事の休憩《きゅうけい》時間に休んでたら、近くのお好み焼き屋から畑沼《はたぬま》さんが出てきて。突然、『いか焼きを差し入れのために買ったんだけど、一度で運ぶには量が多過ぎて、でも急いで運ばないと冷めてしまう』って言うもんだから。私は否応《いやおう》なく手伝わされてここに――」
「いや何か、駅前の商店街で買い物して帰ろとしててんけど、隣《となり》にデカイ神社あるやん? そこでタバタがオモロイ格好してベンチ寄りかかってダレとったからな。どうせ暇なんやったらぜひみんなにも見てもらお思て、ここまで連れてきてん」
しれっと言う清子《きよこ》に、巫女《みこ》装束《しょうぞく》の委員長|田端《たばた》は顔を顰《しか》めた。
「……ちょっと待ってよ。もしかしてそれが狙《ねら》いで、わざわざ山ほどいか焼き買ったの? 人が善意で恥《は》ずかしい思いまでして手伝ったのに!」
「いややなあ。嵌《は》めたんは事実やけど、そんな悪意から出た行動みたいに言わんといてや。実際、一部のナウなヤングにバカウケやんか?」
悪びれた風もなく、清子は答える。だがその発言に、幸田《こうだ》が「待った」をかけた。
「別に委員長はどうでもいいんだ。それよりもそのバイトの中に、巨乳は、若い巨乳の巫女さんはいるのか?」
詰めよる幸田の顔を、さらに雪見《ゆきみ》が横から押しのける。
「それより一番小さい子で何歳ぐらい? 中学生ぐらいの子って、バイトの中にいる?」
――どいつもこいつも。
そう言いたげに、田端の顔はどんどん不機嫌《ふきげん》なものへと変わっていく。
そしてそんなやり取りの間にも、一部有志の手で学生食堂の皿が用意された。彼らの手によっていか焼きは皿に乗せられ、箸《はし》と一緒に一人に一枚ずつ配られていく。
「サリちゃん、これで全部だよねー?」
一通り配り終えた片山《かたやま》さんが、佐里《さり》の方を振り返って訊《き》いた。
「うん。畑沼《はたぬま》さんたちと先生の分もあると思う」
いつの間にか皿にいか焼きを載せる仕事を手伝っていた佐里が、そう答える。そして片山さんが嬉々《きき》として全員に言った。
「それじゃみんな、席について一服しましょう。ほら委員長も〜」
「とはいえなぁ」
清子差し入れのいか焼きを箸で千切りながら、幸田は腹を押さえる。
「正直これじゃ、おやつにもならんな」
「おう。ウチのおごりに文句あるんかい幸ちゃん!」
「そっち名字だし。変な名前で呼ぶな。――ってかそうじゃなくて、改めて腹減ったなあってことだ」
その幸田の言葉に、彼らは全員、壁《かべ》にかかった時計を見た。時刻は午後五時を回ったところである。外はそろそろ薄暗《うすぐら》くなり始めていた。
「調理《ちょうり》の時間も考えなきゃならないし、これ食ったら晩飯に取りかからないか?」
料理に関しては仕切ることになっている幸田の提案に、クラスメイトたちから賛成《さんせい》の声が上がる。
「いいですか、先生」
幸田《こうだ》の問いに、白井《しらい》は黙《だま》ったまま頷《うなず》いた。
ようやく本格的にお楽しみの時間、と全員が歓声を上げ手を打った。
「それじゃ、いか焼き食い終わったら取りかかろう。あと、用意した食材が結構余分にあるんだが、畑沼《はたぬま》と委員長はお客さんってことで俺《おれ》たちが晩飯用意する感じでいいよなあ?」
「おう、気が利くなあコウダ」
ふふん、と笑った清子《きよこ》はすでにお呼ばれモードで、ドカリと丸椅子《まるいす》に腰かけている。一方、田端《たばた》の方は慌てて横に首を振った。
「私は仕事中だから」
「じゃ委員長の方を優先《ゆうせん》で、何か軽いもの作るから。ささっとオムレツ辺りかな。今から十五分だけ待ってくれれば」
「まあ、……それくらいなら」
田端はしぶしぶ頷いた。
五分後、清子の差し入れを一気に食べ終えた彼らは、さっさと机の上の勉強道具を片づけ、料理の準備へと取りかかっていた。
幸田も長袖《ながそで》シャツを腕まくりすると、エプロンをつける。そこへ清子がメモ用紙片手にやって来て、訊《き》いた。
「なあなあ幸田ぁ、ちょっと訊きたいねんけど。オマエ料理詳しいんやろ?」
「おう」
「この辺りでな、信州味噌《しんしゅうみそ》っぽいの置いてる店ってないん? 実は商店街行ったって、それ探しててん。けどなかなか見当たらへんでなあ。そんで気がついたら、なぜか神社に出てしもてたてゆうんが、ホントのとこやねん」
「ってか信州味噌? 『あか味屋』になら、まあ確実《かくじつ》にあるか――」
「おう、その店どこにあるんか、教えてくれへん?」
「別に構わんが……」
町名と通りの名前で場所を説明しようとして、幸田は口を噤《つぐ》んだ。こっちに越してきたばかりの清子に細かな地名を言っても、おそらく分からないだろうと考える。
「……ちょっと地図|描《か》くから、それ貸してくれ」
清子からメモ用紙と筆記用具を受け取り、そこに線《せん》を引く。
「半分|豆腐屋《とうふや》もやってるちょっと古くさい店だが、それこそ豆板醤《とうばんじゃん》ぐらいまで揃《そろ》ってるから」
「ほうほう――」
そんな清子の様子《ようす》を横目に、敦樹《あつき》も普段《ふだん》使っているエプロンをかけた。幸田が首だけ振り返って言う。
「ああ川中島《かわなかじま》、準備ができたら今ある食材の総数、先にチェックしてくれ」
「分かった」
すぐに返事して、敦樹《あつき》は調理室《ちょうりしつ》の奥へと向かった。
そこにあるのは手ぬぐいから食用油に靴まで、てんでバラバラの品目が印刷された段ボール箱《ばこ》の山である。もちろん箱だけを再利用しているからで、中身は今日のための食材である。
この辺りでは、ちょっとした畑をやっている農家はいくつもあった。その農家と直接交渉すれば、市場で買うより安く野菜などを買い揃《そろ》えることができるのだ。大勢の食事を作るなら、こういう方法で集めた方が安上がりな場合は多い。
とはいえもちろんリスクもあって、量の単位がとにかく大きくなり過ぎる。敦樹の見る限りここに集められた食材は、どう考えても三十人分を軽く上回っていた。一部があまるのは確実《かくじつ》な様子《ようす》である。
もちろんそれらは勉強会終了後、分配してそれぞれが持って帰ることになるだろう。従ってその件に関しては何とかなる。だが問題は、集まった食材の『偏《かたよ》り』である。
「こっちは白菜、こっちも……白菜、これも白菜」
箱の中身を数個まで確認して、敦樹はチラリと冷蔵庫の方を見る。今日この日のために、値段の張る豚肉を持ってきた人間がいるとは思えない。ほぼ間違いなく鶏肉《とりにく》だろう。
「……この調子だと、典型的な鍋《なべ》コースだな」
「コンロを持ち出せるんなら、それもいいんだがな。それよりこれ、ちょっと問題だぞ」
据えつけ式のガスコンロを見ていた幸田《こうだ》が、何度か火をつけ、唸《うな》るように言う。
「どうした、幸田?」
「……左三つのコンロの火力が弱い。ボンベの方の問題じゃなさそうだし、このままコンロ使うんなら、揚げ物や炒《いた》め物をメニューの中心に据えるのは無理だな。この人数だと半分ぐらいは、グズグズになっちまう」
「ああ……」
敦樹はこの学食で『外れメシ』と悪名高い『デロデロラーメン』のことを思い出した。運が悪いと時々出てくるあの半分延びたラーメンは、こういう裏事情で生み出されていたのだ。
「何、コンロの調子悪いの?」
二人の話を聞きつけた南美《なみ》が、エプロン姿に不似合いなプライマーとドライバーを両手に、嬉々《きき》とした表情でやって来る。しかし幸田は、凄《すご》い形相《ぎょうそう》で南美《なみ》を睨《にら》みつけた。
「余計なことはしなくていいから! さっさとみんなで決めた通りの準備しろよ。――俺《おれ》はこの若さで爆死《ばくし》したくない」
「大げさなヤツ」
「そう思ってるの、お前だけだから」
シッシと手を振る幸田《こうだ》に南美《なみ》は舌を出し、しょうがなく言われたようにする。敦樹《あつき》の横に来た幸田は床にしゃがみ込み、材料を白菜とそれ以外とに分け始めた。
「――これだったら、食う連中の舌のこともあるし、巻き煮中心で行きたいなあ」
「巻き煮ってのは?」
「ロールキャベツを白菜でやんの。余裕があったら炒《いた》め物だな。タケノコ缶があるから、八宝菜《はっぽうさい》もどきとか。――そっち、ちゃんとメシ炊《た》けてるか確認《かくにん》してくれ」
そう言いながら立ち上がると、幸田自身はテーブルまで卵を取りに行く。それをボールに割り、長い箸《はし》でクルクルと器用にかき混ぜ始めた。
その無駄《むだ》のない手際の良さにしばし見とれていた敦樹は、後ろから小さく肩を叩《たた》かれる。
「――ちょっと」
振り返った先にいた佐里《さり》は、深刻な表情を浮かべ早口に言った。
「白井《しらい》先生がいない」
敦樹は無言のまま急いで、食堂室の方へと向かう。そこでは清子《きよこ》が机で、何か考え事をしながらメモを取っていた。巫女《みこ》田端《たばた》は少し離《はな》れた別の席で、お茶を飲みながら待っている。
「清子、今までどうしてた?」
「ん? 朝食の献立《こんだて》作ってる」
清子はのんびりと顔を上げた。
「もうすぐウチの当番やろ? ――どないした?」
「ここで書いてたわけか。白井がどこに行ったか見てないか?」
「センセ? え、あそこおるやん」
答えて振り向いた清子は、「ありゃあ」と顔を顰《しか》めた。先ほどまで白井がいたその椅子《いす》は、すでに空だった。
「扉の方は横目でしっかり見とったつもりやってんけど。油断したわ」
「きちんと頼まなかった私が悪い。目を離してたのは、――五分ぐらいだな」
時計を見て、確認する。そう遠くには行っていないはずだった。
敦樹はすぐにいつも首にかけているゴーグルをつけると、|生体レーダーサイト《AVR》の情報を確認する。
「まだ市街地から出てない、か。今のところレーダーで特定できる場所にはいない。見当違いの方角を探したりすると厄介《やっかい》だな。――ひとまず私が自転車で追いかけるから、佐里と清子は幸田たちにフォローしておいてくれ。今回の件は、変に騒《さわ》ぎを大きくする必要もない」
「この状況なら、他《ほか》の防災団にも応援かけられるやろ?」
清子が言う。しかし敦樹は振り向きながら答えた。
「どのみち私が一番近い。行ってくる」
10
真っ暗な道だった。
街灯の明かりさえ、一つとしてない。
いや正確《せいかく》には、周囲は空も含めて明るいのかもしれない。だが白井《しらい》にはその判別がつかない。別に、気にもならなかった。必要がなかったからである。
真《ま》っ赤《か》に揺れる灯《あか》り。不気味だとも温かいとも、同時に感じられる赤い光が、目の前の道に続いていた。暗闇《くらやみ》の道を、トンネルのアーチのように包み込んで照らしている。
だから白井は、迷う必要はなかった。
道の外、灯りの向こうは『真っ黒な闇』に閉ざされている。それはつまり何もないということと変わりはない。だからこの赤い光の道は、白井を優《やさ》しく導《みちび》く道しるべなのだと思えた。
そして白井はその灯りが指し示すまま、暗闇の通路をゆっくりと歩いている。
進めば進む程、赤い光――紅提灯《べにちょうちん》の数はどんどんと増えていく。その提灯の中央に描かれた白い目だけが、じっと白井の方を見ていた。
やがてどこからともなく、雑踏のざわめき、露店《ろてん》への呼び込みの声までもが聞こえてくる。
そして真っ暗な道の前方から、赤い提灯の光が一つ、ゆっくりと白井の方へ近づいてきた。
それは白井の前まで来て止まる。胸ぐらいの高さに浮かんだ光の中に、ぼうっと小さな顔が浮かび上がった。
「先生?」
「山根《やまね》――くん?」
十歳ほどの少年は手にした提灯を持ち上げ、白井の顔を照らした。そして彼は、自分の背後を振り返る。
「先生だ、先生お祭り来たって!」
その呼びかけに、さらにいくつもの光が、白井の方に集まってくる。
「先生」「先生」
どの紅提灯の光にも、一つに一人ずつ。浴衣《ゆかた》姿の子供たちが浮かび上がった。男の子も女の子も、白井の両手を取り合うようにする。
「先生」「先生!」
全員が知っている顔だった。
ああ、ああ――と。
「あなたたち、こんなところにいたの。私はあのあとも、ずっと探して……」
白井は目から涙がこぼれ落ちるのを感じた。
そしてそれが儀式《ぎしき》ででもあるかのように、白井は目の前の不思議《ふしぎ》を全《すべ》て受け入れた。
「行こう」
「お祭り行こう、先生!」
そう言いながら、彼らは手を引く。
いくつもの手に導《みちび》かれ、白井《しらい》はゆっくりと歩き出した。
そしていつの間にか白井自身も、あのころの自分に戻っていた。まだ若く、少し洗濯《せんたく》し過ぎてくたびれたシャツを着ていた。あのころはそれしかなかったのだが、気にもならなかった。
季節は夏の八月。
「先生早く!」
「ちょっとみんな、待ちなさい」
困ったように優《やさ》しく笑い前に進む白井は、しかし、そこで止まるしかなかった。
いつの間にか、胴に腕が回されていて、前に進むことができなくなったのだ。
そしてそこに大きなゴーグルをかけた少女がいた。見慣《みな》れぬ学校の制服を着た彼女の周りだけ、世界が歪《ゆが》んでいる。
「ようやく追いつきました、先生。帰りましょう」
「誰《だれ》ですか、あなたは――誰!?」
だがその問いに少女は眉《まゆ》を顰《しか》めただけで、何も答えないまま白井の体をグイと引っ張った。そのまま後ろへ引きずっていく。白井は抵抗した。
[#挿絵(img/basileis2_060.jpg)入る]
「やめて、……離《はな》しなさい!」
しかし少女は、黙《だま》って白井《しらい》を押し戻していく。
紅提灯《べにちょうちん》を持った目の前の子供たちの手は、白井の腕からするりと抜けた。あとはただ見ているばかりで、こちらへ来ようとはしない。
――先生ぇ、せんせぇー。
彼らがそう呼ぶ。その口が全く動いていないことに、白井は気がついた。そして反響《はんきょう》する声ばかりが、夜の闇《やみ》の中に響《ひび》く。いくつもの視線《しせん》が自分を誘うように、じっとこちらだけを見ていた。
そして白井の胴を支えた腕の力は、緩《ゆる》むことがない。二人はもつれるようにしながら、確実《かくじつ》に後方へと退《しりぞ》いていく。
――せんせぇー。
徐々にその顔が、その手が、その足が。白井を誘おうとする子供たちの姿が、闇の中に溶けていく。気がつけば周囲を覆《おお》っていた紅提灯の灯《あか》りも、あんなにも遠い。
「待って。置いていかないで。待って――」
二人はもつれるようにして転んだ。鈍痛と共に、街灯の鈍《にぶ》く白い光が、突然目の中に映る。手をついた地面にあるのは、ザラザラした人工の赤いマーキングだった。
「大丈夫ですか、先生――」
ゴーグルを首まで下ろした敦樹《あつき》は、慌ててそう問う。しかし白井は頭上を見上げていた。
そこにあるのは、ここが『境界線《きょうかいせん》』であることを警告《けいこく》する赤い標識《ひょうしき》である。それを見上げたまま、白井は絶句するしかなかった。
全《すべ》ては幻だったのだ。突然取り上げられた幸福と、それを未《いま》だに幸福と感じている自分。
その両方に、白井は言葉を失っていた。
敦樹が立ち上がり、手を差し出して言う。
「帰りましょう、先生」
11
二人はほんの半月前と同じような経緯《けいい》で、同じ道を走ることになった。
敦樹の漕《こ》ぐ三輪《さんりん》自転車の軋《きし》んだチェーンの音が、静かな夜道に響く。そして荷台には白井が黙ったまま乗っていた。意識《いしき》を取り戻してからは茫然自失《ぼうぜんじしつ》の体《てい》で、ここに乗せるのさえも敦樹は随分と時間がかかっている。白井は自分の見た幻について、気持ちと考えをまとめようとしているらしかった。そして敦樹は自転車を漕ぎながら、そんな白井を待っている。
人の行き来する大通りまで来て、ようやくポツリと背後から言葉が漏れた。
「……すみませんね。あなたにはいろいろ事前に注意されておきながら」
敦樹《あつき》は少しだけ後ろを振り向き、前に視線《しせん》を戻す。そして横に首を振った。
「いえ、気にしないで下さい」
「私が意固地《いこじ》なものだから、まともに取り合いもしないで。あげくに結局、勝手にいなくなってしまって、おまけにあんなことに……」
「大したことじゃないです。今回のことは結局、私のせいでもあるんですから。――それにこれは『こういうもの』でもあります。先生みたいな反応を示すのは、意外と先生だけじゃないんです。気にしないで下さい。
一度でも塔《メテクシス》に引かれた人間は、再び引かれてしまう。リンゴの実が地面に落ちるのと同じぐらい、当たり前のことなんです」
その言葉に白井《しらい》はしばし口を噤《つぐ》んだ。
「……ですが、何と言うべきか。私はあの時、『冷静』だったような気がします。物理的な力に引き回されたのではないし、無理やり引き立てられたような感覚もない。私の意思に反して、脚が勝手に動いたのではなかった。
自分で判断し、自分の脚で歩きました。逆に止まろうと思えば、止まることはできたような気がします。なのに私は、あの幻覚に抗《あがら》えなかった。あれは……拒絶しがたい」
弱気な口ぶりで、そう言葉を切る。だが敦樹は、落ち着いた声で努めて明るくその言葉に答えた。
「心配はしなくても大丈夫です。この症状っていうのはただの揺り返しですから、そんな深刻なものじゃない。今回のがおそらくピークです。
あと三日もすれば、全《すべ》て元通りになります。幻覚を見ることも完全になくなって、それでこの騒《さわ》ぎはお終《しま》いのはずです」
「けれど……。結局あれば、何なのです? 最初に境界線を越えた時は頭が洪水になっていて、何かを見たという記憶《きおく》はありません。しかし今回の幻覚ははっきりと見えた。きちんと意味を持っていて、私を導《みちび》いた……。ですが防災団の人間だって、死者と再会することになるなどとは一言も――」
「いえ何が見えるかっていうのは人それぞれで、死者が現れるってのは一つのケースに過ぎません。見えるものが生きている人間のこともあるし、逆に人間が全く出てこないこともあるらしいです」
敦樹はどこから話したものかと、少し悩みながら説明を始めた。
「――アンテムーサ効果に最初にかかった時、大抵の人間は情報の洪水に晒《さら》されます。
だから体で反応してしまいながらも、何が起こっているのか自覚できないことが多い。脳が追いつけないんです。そしてそれは強烈な体験《たいけん》としてのみ、記憶の中に擦《す》り込まれる。
ですが、しばらく経《た》つとようやく、その洪水に脳の処理が追いつくようになってくるんです。今までは混沌《こんとん》としていた体験の記憶を、頭の中で何度も何度も反芻《はんすう》し、だんだんと処理できるようになってくる」
「記憶《きおく》の反芻《はんすう》?」
「はい。先生は半月前に体験した情報の洪水を、記憶しているんです。今回の『揺り返し』っていうのは、それによって引き起こされたんです。
防災団はアンテムーサ効果の具体的な説明を、最初は行わない。それはこういう事情があるからなんです。理屈での説明が、脳の処理の手助けになってしまうんです。情報の洪水の意味を理解し自覚することは、『揺り返し』へのあと押しになりかねない」
そう敦樹《あつき》は語る。
だが白井《しらい》が本当に知りたいと思っているのは、そこではないということも分かっていた。そして思った通り、白井は慎重《しんちょう》に敦樹へと訊《き》く。
「あなたの言う『揺り返し』については、分かりました。それでつまりあれは――アンテムーサ効果で見る幻とは一体何なのです?」
敦樹は答えるのにしばし躊躇《ちゅうちょ》し、一呼吸を置いた。
「……先生が見たのは『その人の帰りたい場所』なんです。――いわばその人の最も美しい記憶、でしょうか」
「それは一体、どういう――」
「いえ、言葉のままの意味です」
どう言えば的確《てきかく》かと考え込むように、敦樹は小さく首を捻《ひね》る。
「……例えば今回の事例が子供の身に起きた場合だったとします。するとその子は『両親の待つ家へ帰るつもりだった』と言うんです。彼にとっては自宅こそが帰りたい場所、一番美しい記憶ということになります。
これが先生の場合だったら――ちょうちんがあって、山根《やまね》君のいる場所でしょうか。ちょっと想像がつきませんが」
そして白井は、ようやく納得したように大きく頷《うなず》いた。そのまま項垂《うなだ》れる。
「なるほど。だから私はあれ程までに、あの幻覚を認めたくないとも感じていた。――私はここで教師をしていながら、実はまだあの場所に――二十年も昔に、心を置いてきている」
「……先生?」
しかし敦樹の問いかけには答えず、白井は訥々《とつとつ》と語り出す。
「紅提灯《べにちょうちん》というのは、山口《やまぐち》の七夕祭《たなばたまつり》で使うものなのですよ。旧暦に合わせるので八月の初めなのですが。夕方から竿《さお》にたくさんの提灯をぶら下げて、道を囲むように吊《つる》す。――そして山根君というのは、そこの学校にいた一番困った子の名です」
「御茶家所《おちゃやしょ》の学校に来る前ですか……」
「ええ。――とは言っても、そこにいたのも、彼らが生きていたのも、もう二十年も前のことなのですが。……そう、もし生きててもみんな、三十近いオジサンオバサンになる。なのにまだその子供のままの姿を見て、心が揺れる――」
小さな声で、白井《しらい》は呟《つぶや》いた。
「私は大降下後、教師の職《しょく》に就いて数年間、そこにいたのです。本州《ほんしゅう》の西端の山口県《やまぐちけん》でも、特に山口市は内陸にあるから、西日本では安全な場所ということになっていた。だから子供もどんどん疎開してきていたのです。でもあのころは本当に、どんなことでも起きたから。
強行|離陸《りりく》した輸送機《ゆそうき》が剛粧《ごうしょう》に襲《おそ》われて墜落《ついらく》して、その落ちた場所が……。なぜよりにもよって、あの時あの場所に――」
「――先生」
敦樹《あつき》は突然、白井の言葉を遮った。
「先生……。冷たいようですがその話、今は聞かないでおこうと思います。――今はまだ、先生には『先生』でいて欲しいと、私は思っています」
白井は押し黙《だま》り、敦樹も小さく肩を落とす。
「私の方は散々がなったくせに、こういうことを言うのは不公平だと思うんですが。ただもう少しの間だけ、先生には今のままでいて欲しいと、そう思うんです。……何と言えばいいか」
敦樹は今ほど、自分の口下手《くちべた》を呪《のろ》ったことはなかった。
ただ敦樹たちはまた明日から、居眠りをしては叩《はた》かれ、宿題を忘れたと言ってどやされ、――そんな日常を再開せねばならないのだ。そうでなくては困る。
今まで通りの白井がまだ必要であると、敦樹は感じていた。白井との距離感や関係性が壊《こわ》れてしまうことを恐れている。だが今夜の事件は、全《すべ》てを濁流《だくりゅう》のように押し流そうとしていた。いま背後で力なく過去の悲しみを語っている初老の女性は、敦樹が全く知らない白井の姿だった。もしそれを双方が認めてしまえば、もう二人の関係が元通りに戻ることはない。
――そして結局、そのことを一番分かっていたのは、白井自身だった。一呼吸を置くように、静かに静かに息をつく。
「……確《たし》かにそれもそうですね」
普段《ふだん》通りの自信を取り戻した張りのある声で、白井は言った。
「そうでなくても変に弱みを見せると、学生というのはそれを盾にして、すぐさぼろうとするから。私もしっかりしなければ」
「はい……」
白井の言葉が本心であるかどうかは、また別の話である。ただ白井は普段から自分の役割を認識《にんしき》し、信じている。だからこそ、こういう風にも振《ふ》る舞《ま》えるのだ。
敦樹は安堵《あんど》して一つ大きく息をつくと、自転車のハンドルから右手を離《はな》し、それを肩越しに後ろへ差し出した。
「約束します。三年後にはみんなで、先生の話を聞きに行きますから」
「分かったわ」
差し出された手を後ろの白井《しらい》は握手するように握る。程なくして三輪《さんりん》自転車は、学校の裏口へと到着した。自転車置き場にそれを置き、二人は明かりの漏れる学生食堂へと廊下を歩く。
敦樹《あつき》がここをあとにしてから、もう一時間ほどが経過していた。案《あん》の定《じょう》というか、すでに夕食を食べ終え一息ついているらしいクラスメイトたちは、完全にだらけ切って談笑《だんしょう》モードに入っている。幸田《こうだ》の大きな声が、廊下まで響《ひび》いていた。
「……でオヤジはこう爺《じい》ちゃんの前で土下座してさ。緊張《きんちょう》してるもんだからうっかり『お嬢《じょう》さんの巨乳を僕に下さい』って口走ったわけ。すぐにまずいと思ったけど、もうあとの祭でさ。爺ちゃん激怒《げきど》してオヤジぶっ飛ばして、玄関突き破って表通りまで転がって――」
「それさすがに、作り過ぎやろ」
清子《きよこ》のツッコミにみんなが失笑し、対して幸田は反論《はんろん》している。
「いやマジで実話だっての。だからそうやって生まれてきた俺《おれ》が巨乳好きなのは、実にまっとうなことであり、権利でもあるわけだ」
「けどお前のオヤジさんって、あのチョビ髭《ひげ》の教科書とかに載ってそうな人だろ? そんな馬鹿《ばか》なこと言うか?」
「え、お前ら俺のオヤジのこと、そういう風に見てたの? そりゃ勘違いも甚《はなは》だしい――」
学生食堂の扉の前に立った白井は大きく息を吸うと、勢い良くその扉を開けた。
「何を騒《さわ》いでいるのです。勉強会なのでしょう!?」
殴り込みでもかけるかのような白井の怒鳴り声に、蜘蛛《くも》の子を散らすような足音が響く。真っ先に学生食堂の隅に逃げた幸田が、及び腰で言い訳を始めた。
「ただボクたちは、勝手にいなくなった誰《だれ》かさんたちを待ってただけなのに!」
「それは悪かったな。こちらもちょっとした野暮用《やぼよう》だったんだ」
学生食堂に入った敦樹はひとまず幸田に調子《ちょうし》を合わせ、教師白井の次の一言より先に謝《あやま》った。
「みんなも食事はまだなのか?」
だが室内に入って見回すと、そういう風でもない。あちこちの机に食べ終わった食器が並んでいる。アドリブでの連携に失敗した敦樹は、顔を顰《しか》めた。
「……ちょっと先走ったか。今どういう状態なんだ? 幸田」
「いやもちろん、川中島《かわなかじま》と先生の分は今から温め直すが。しかしみんなが食い終わらないと食器の片づけができないし、片づかないと勉強は……」
幸田の反論に白井は一喝。
「そんなものはやる気と工夫の問題でしょう!」
「……大人《おとな》ってみんなそう言うヨネ?」
幸田は何とかそれだけ言い返して、そそくさと調理室へ逃げ込んだ。それを聞いて、敦樹は小さく笑いながら同意する。
「全くだ」
教師|白井《しらい》は振り返ると、憮然《ぶぜん》とした表情で睨《にら》む。それにできるだけ目を合わさないようにしながら、敦樹《あつき》は片づけに取りかかる他《ほか》のクラスメイトたちを手伝い始めた。
だがその目が、ようやく戻ってきたいつもの日常への安堵《あんど》と共に、疲労を湛《たた》えて緩《ゆる》む。
敦樹もまた、ここのところ夢を見るようになっていた。
教師白井と同じ過去の、――しかし孤独と苦渋に満ちた夢を。
そしてそこには、必ず『敵』がいた。
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まれびとの棺
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まれびとの棺〈第三章〉[#地付き](2019/11/20〜11/22)
――これは……またいつもの夢か。
体が沈んでいくような落胆と共に、敦樹《あつき》はそう気がついた。
死んだはずの仲間が、そばにいた。雑草ばかりの花壇《かだん》越《ご》しにライフルを構え、バースト射撃《しゃげき》を数秒間隔で繰《く》り返している。
破裂音が間断《かんだん》なく鼓膜を叩《たた》いた。そして聴覚《ちょうかく》はその不快を閉め出そうと、ゆっくり麻痺《まひ》していく。
それは敦樹の率いていた少年少女ばかりの三〇四特殊|観測隊《かんそくたい》が最終的に全滅した日の、ちょうど一週間前の様子《ようす》だった。
敦樹たちは新潟《にいがた》戦線《せんせん》を出発してから上越《じょうえつ》を経由して長野《ながの》に入り、さらに南の松本《まつもと》へと抜けようとしていた。そこで先行偵察していた数名が、剛粧《ごうしょう》の大群を発見したのだ。
相手の数は三万匹から四万匹。文字通り地を埋め尽くしていた。敦樹《あつき》は急遽《きゅうきょ》、これを迂回《うかい》するため南東の小諸《こもろ》方面へと進路を変更。しかしその途中で、大群から分離《ぶんり》して迷走する剛粧の一部に追いつかれてしまったのだ。
西と南から、合計百匹ほど。
全体から見ればわずかな数だが、今の敦樹たちには辛《つら》い数だった。だが同時に、もうほとんどの者が逃げ切る体力を失っていた。
戦闘《せんとう》をしながらの後退が一夜続いた、濃《こ》い霧《きり》の朝のことだった。敦樹はあのとき口にした言葉を、正確《せいかく》になぞるように声へと変えた。
――なぜ四班は後退しないんだ。
*   *   *
「なぜ四班は後退しない」
敦樹の問いに銃声三発分|撃《う》ったあとで、二班班長である安田《やすだ》は白い霧の中を振り返った。
「伝令は十五分も前に出してる。四班だってローテーションで殿《しんがり》をやってるんだ。あそこに留《とど》まるはずがないんだから、もうちょっと待ってもいい」
そう乱暴に言い返す。
出発当初、合計四十名で構成された三〇四特殊|観測隊《かんそくたい》は、十名ずつ四つの班に分けられていた。隊を率いる敦樹自身も、同時に一班の班長を受け持っている。
基本的に隊はこの班構成に従って行動していた。現在のような後退中の場合ならば、一つの班が最後尾の防衛《ぼうえい》にあたる。そして残り三班は先行して拠点を作る、という作業を順に繰《く》り返して移動することになっているのだ。
剛粧を食い止める新しい拠点の方は、もうこの場に完成している。頑丈《がんじょう》な柵《さく》の多いこの花壇《かだん》周辺は、剛粧の行動を制限するのに格好のポイントだった。
あとは四班がここまで後退し二班三班と共にこの場を出発、新たな拠点を探す。そしてその間、今度は敦樹の率いる一班がここで殿を務める。
そういう手筈《てはず》になっていた。
「しかし――」
四班の立て籠《こ》もった500mほど先の高台を見て、敦樹は言葉に詰まる。
そこには台地型に造成された展望台があった。頂上には小さな小屋があり、そのあちこちで銃火が煌《きら》めいている。西側から接近する獰猛《どうもう》な巨大生物――剛粧を、四班がそこで食い止めているのだ。しかしすでにだいぶ分が悪くなっているのがここからでも分かる。
「このままだと後退のタイミングを逃して、四班が孤立する。こちらから行動に出るべきじゃないか、安田?」
南側から別ルートで現れている敵に向けて自分もライフルを撃ちながら、敦樹がそう問う。対して安田《やすだ》は落ち着きのない声で答えた。
「こちらからの連絡は出したんだ。あとの判断は班長の園町《そのまち》に任せろ。四班だって死ぬつもりでやってるわけじゃない」
敦樹《あつき》は無言のまま目を細める。何かおかしいと、安田自身も自覚している声だった。
そして結局。
敦樹たちはこのあとすぐに、自分たちの見当違いを思い知らされる羽目《はめ》になった。
「……安田、そこの噴水《ふんすい》の陰にいた」
三班班長の中嶋《なかじま》が、固い表情で一人の少女の背を押し、突き出した。ライフルを撃《う》っていた安田は振り返ると、唖然《あぜん》とした表情を浮かべる。
「倉松《くらまつ》、何で……。四班はまだあそこに立《た》て籠《こ》もってるのに、何で伝令に行ったお前だけがここにいるんだ?」
しかし彼女は答えない。安田は立ち上がると倉松の肩を掴《つか》み、詰問した。
「……お前だけ先に下がれって、園町に言われたのか? 行ったよな? 四班に後退しろって、伝えてきたよな!」
「――女の私が一人で、そんなことできるはずないじゃない」
「行ってないのか?」
「……弘子《ひろこ》だって死んじゃって」
まだ十四歳でしかなかった彼女はついに泣き出し、その場にへたり込む。だが、安田は怒鳴った。
「今そのことは関係ないだろ!! 手が足りないのにお前が戦えないって言うから! だから伝令頼んだんだ。大体、女だからできないって。たった500mだろ。頼んだ時はまだ、こことあそこの間の安全は十分に確保《かくほ》してた」
「止《よ》せ。もうやめろ安田」
敦樹がそう言って、自身もパニック状態に陥っている安田を止めた。しかし安田は、なおも言う。
「何もできないって、じゃあどういうつもりでこんなトコまで来たんだ。……遠足やってんじゃないんだぞ!」
「そんな男子と同じように考えないでよ。私だって来たくて来たわけじゃない……」
「男とか女とか、言ってる状況じゃないだろ! それに川中島《かわなかじま》はちゃんとやってる」
「そんな特別な例と比較しないでよ!!」
「いいから二人とも、黙《だま》れ!」
割り込むように、敦樹は怒鳴った。ただの責任|転嫁《てんか》と分かっていても口が止まらなくなっていた安田は、真《ま》っ青《さお》な表情で俯《うつむ》く。敦樹は敢《あ》えてゆっくりと、二人に言った。
「安田も倉松も私も。私たちは全員が、分不相応なことをやっている。失敗の責任を一々口にするな。――それよりも孤立した四班の救出が先だ」
敦樹《あつき》は周囲を振り返ると指示を出す。
「中嶋《なかじま》は急いで衛生《えいせい》の高久《たかひさ》を呼んできてくれ。お前も入れて三人で行く。安田《やすだ》はここに残って、他班の指揮を頼む。私たちが下がるまででいいから、持ちこたえてくれ」
だがその指示も、もう間に合わなかった。
木の柱が折れる大きな音が高台の方から響《ひび》き、敦樹たちは霧《きり》の向こうを振り返った。
うっすらと見えていた小さな小屋の影《かげ》が、みるみる潰《つぶ》れていく。そしてその上に跳び乗った巨大な剛粧《ごうしょう》が、勝利を宣言するかのように雄叫《おたけ》びを吼《ほ》えた。小屋からの銃撃《じゅうげき》は、すでに完全にやんでいる。
「川中島《かわなかじま》、俺《おれ》が行く。すぐ救出に!」
失敗の責任を感じている安田は焦って叫んだ。だが、敦樹は横に首を振るしかなかった。
「もう間に合わない。命令する立場の安田は落ち着いた判断を下すべきだ」
「何でそんなに冷静でいられるんだ! 元はといえば、俺が確認《かくにん》しないから――」
「ここを拠点にする準備だって、急ぐ必要はあったんだ。隠れた倉松《くらまつ》をわざわざ確認する余裕があれば、安田が直《じか》に行っただろう」
静かな声で答えると、敦樹は背後にいる仲間を振り返った。
「全員、急いで移動の準備だ。しばらくは血の臭《にお》いが、剛粧を高台に引きつけてくれる」
何人かがその言いように顔を顰《しか》めたが、結局全員が無言のまま準備を始める。
「出発するぞ、倉松。立て」
敦樹は地面にへたり込んだ女子隊員の脇《わき》の下に腕を通すと、その体を持ち上げて立たせた。
「……無理だったのよ」
呟《つぶや》くように言った倉松は、突然その顔を両手で覆《おお》って叫んだ。
「塔《メテクシス》まで私たちだけで行くなんて無理なのよ。みんな死んじゃう――引き返しましょうよ!」
「たった今、自分で仲間を殺しておいて……」
呻《うめ》くように言う安田を、敦樹は手を挙げて遮った。その場にしゃがみ込むと、足下に置いた自分の荷物を手早くまとめ、その作業をしながら諭《さと》すように話しかける。
「なあ倉松。……ここに来るまでの間に、合計十四人が死んだ」
倉松の膝《ひざ》がビクリと震《ふる》える。先ほど死んだ四班の九人を含めて、その数だった。
「しかしそれは不運な失敗か? この隊は死に過ぎだろうか?」
敦樹の問いに倉松は背を丸めたまま首を振る。
「違うわよ。私が悪いんじゃ……ない」
「そうだ。この隊は十五歳以下の子供だけで編成《へんせい》された、とても不完全な観測隊《かんそくたい》だ。今回のことは、いずれは必ず起きただろう事故の一つに過ぎない。かなりの確率で起こりえた大きな不幸を、倉松がまず最初に引き当ててしまっただけなんだ」
敦樹《あつき》が下から顔を覗《のぞ》き込むと、倉松《くらまつ》は俯《うつむ》いて目を瞑《つむ》ったまま、黙《だま》って頷《うなず》く。
「――だが、そうだとしたら。倉松が言うようにここから新潟《にいがた》戦線《せんせん》まで引き返す間に、さらに十四人以上が死ぬ計算にならないか? 道をただ往復しただけで、二十八人以上が無駄《むだ》死《じ》にしたって言うんじゃ、割に合わないと私は感じる。
塔《メテクシス》へ行こう、倉松。そこには必ず、人類を救う手がかりがある。その仕事を達成し多くの人々を救うことでしか、私や安田《やすだ》やお前が殺した仲間の死は、償《つぐな》えない」
――敦樹は理を尽くして諭《さと》したつもりだった。
ただの理屈ではあるが、それは絶対的に正しいと、敦樹は信じ込んでいた。
だが倉松は目を見開くと、恐怖と絶望で表情を歪《ゆが》ませた。
目的地点である塔《メテクシス》に対する自分と敦樹の期待の不一致が、彼女の最後の逃げ道を塞《ふさ》いだ。そのことを悟った目だったのだ。
――夢を見ている今の敦樹になら分かる。だがこの時の敦樹は、倉松の予想外の反応に戸惑うばかりだった。
「どうした――」
「いや!」
彼女は敦樹が差し伸べた腕を払いのけて、叫んだ。
「私は帰る。帰るんだから――!」
ヒステリーのような声を上げて、彼女はその場を走り去る。
「待て倉松!!」
だがあとを追おうとした敦樹の前に、六人ほどの少年が立ちはだかり、ライフルの銃口を敦樹に向けた。立ち止まるしかない敦樹の背後で「お前たち……」と中嶋《なかじま》が呻《うめ》くように言う。そのほとんどが、中嶋が班長を務める三班の少年たちだった。
「悪いが俺《おれ》たちも、もうこれ以上アンタの下にいたくない。これ以上、進みたくないんだ。ここからは勝手にやらせてもらう」
「いい加減にしろ! 実際には川中島《かわなかじま》のミスで出ている被害じゃないだろ。今まで以上のことが、お前たちだけでできるつもりなのかよ」
中嶋は仲間を止めようと、感情的な口調《くちょう》で言う。しかし敦樹は「冷静になれ」と背後の中嶋を諫《いさ》め、改めて去ろうとする六人を見回した。
「――私たちがここで戦力を分散するメリットはない。どちらも弱体化して生存率を下げることになるぞ?」
「……済まないと思う。だがもう本当にこれ以上――進みたくないんだ」
震《ふる》えて小さく上下する銃口を向けたまま、この行動の首謀者《しゅぼうしゃ》らしい少年が言う。
敦樹は黙ったまま、四班が壊滅《かいめつ》した高台の方を振り仰いだ。そこには血の臭《にお》いに惹《ひ》かれた剛粧《ごうしょう》たちが、たった一口の屍肉《しにく》でも得んと、続々に集まり始めていた。もうあまり、残された時間はない。
「……分かった、引き留めはしない。そちらのしたいようにしてくれ。倉松《くらまつ》のことは、任せていいな?」
「俺《おれ》たちはアンタとは違う」
憮然《ぶぜん》とした答えが返る。だが敦樹《あつき》の方は顔色一つ変えずに、荷物を担ぎ上げた。
「楽観《らっかん》できないだけだ。全員が必ず生きて帰還《きかん》できる方法があるなら、私の判断ももう少しは変わる」
口にした気持ちに嘘《うそ》はなく、しかしその態度は冷たかった。
首謀者《しゅぼうしゃ》の少年は舌打ちしてようやく銃を下ろすと、背後を振り返った。
「時間がない。行くぞ!」
彼を先頭に出発した一団は、これまでの仲間たちを何度も振り返りながら、後ろめたそうな顔で歩き始めた。先ほど倉松が走り去った方へと、その姿が霧《きり》の中へ消える。
敦樹も最後の手荷物――鞘《さや》のついた大刀《たいとう》を右肩に担ぐと号令をかけた。
「私たちも、出発する」
だが、声をかけた仲間たちの影《かげ》は、いつの間にか随分と遠い。
「……安田《やすだ》? どこだみんな。……中嶋《なかじま》ァ!」
一年前のあの時、実際はしばらくして晴れたはずの霧が、今は一面の、ますます濃密《のうみつ》な白へと変わっている。その霧の中を、冬の寒風が吹き抜ける。
悪寒《おかん》に襲《おそ》われ目を細めた敦樹は、ようやく何かがあの時とは違うことをはっきりと自覚した。
先ほどまで隊の仲間たちだと思っていた細長い影は、右と左が交互に動く。そしてその中央は純白。霧に紛《まぎ》れた卵殻《ケリュフォス》の白だった。
今まで人の影に見えていたものが獣《けもの》の手足だと分かる位置で止まると、その主は腕を大きく広げる。『それ』の名を、敦樹は呟《つぶや》いた。
「幽霊剛粧《ファンタズマ》……」
首を締《し》められているかのように、小さな声しか出ない。頭痛がし、目が霞《かす》む。
『無能は死に、厄介者《やっかいもの》は自ら去った!』
まるで笑ったヒヒのような幽霊剛粧《ファンタズマ》は、濁《にご》った声で朗々と告げた。だがそれは安田や中嶋の声、いや走り去った倉松や他《ほか》の仲間たちの声にも聞こえた。
『さぞかし清々とした気分だろう!?』
「そんなつもりで、いたわけじゃない……」
うちひしがれたような敦樹の反論《はんろん》を、姿のはっきりしない幽霊剛粧《ファンタズマ》の幻影《げんえい》は嘲笑《あざわら》った。
『ただでさえ困難《こんなん》な仕事だ。なのに他の連中はまるで子供、その面倒《めんどう》までなぜ見なければならない。――結局お前は隊が全滅したあの時まで、ずっとそう考えていたのだ。誰《だれ》もいなくなればいいと』
「そんなことはない。選別して人を殺せるほど……私はできのいい人間じゃない。……ただ何も、できなかったんだ」
『では、最良の選択をしたか? 最善の行動を取ったか!? なぜ淡々と、目の前で仲間が死んでいくのを見捨てる』
「……私たちには塔《メテクシス》の調査《ちょうさ》という使命があった。塔《メテクシス》へ行けば、剛粧《ごうしょう》が発生する原因を突き止めることができる。剛粧がいなくなれば、生きるべき人々が死なずに済む。全《すべ》ての犠牲《ぎせい》は報われる。――そのための調査だ」
質《たち》の悪い熱《ねつ》を患《わずら》った時のように、頭だけが重い。それでも敦樹《あつき》は、必死に言い返した。
だがその反論《はんろん》を、幽霊剛粧《ファンタズマ》は一笑に付《ふ》す。
『そしてお前一人が、念願通り塔《メテクシス》に辿《たど》り着いた。だが、何も変わりはしなかった。塔《メテクシス》はあの日から一年たった今もそこにあり、我ら剛粧は止まらない。塔《メテクシス》で一体、何を見た?』
敦樹の目は霞《かす》み、目蓋《まぶた》が幾度も勝手に落ちた。そして幽霊剛粧《ファンタズマ》の声だけが、ただはっきりと響《ひび》く。
『全員、無駄《むだ》死《じ》にだ。そしてお前は、進んで殺して省みることもない』
「結果論だ……! 私自身が望んだことのように言うな……」
『お前の心の内など、誰《だれ》が保証することができる。お前は仲間に死を強《し》いて、自分だけが生き残り、そして何もできなかった。なのにそのことを、努めて忘れようとする』
「違う……そうじゃない」
『お前は殺すのだ。仲間を殺す。――訪れる脅威《きょうい》を隠《かく》れ蓑《みの》にして害を為《な》し、自分だけは平然と生き残る』
「黙《だま》れ! ……黙れ……」
*   *   *
そう寝言を呻《うめ》いて口を動かしている自分に気づき、ようやく敦樹は目が覚めた。夢から覚めても、頭が重い。一度きつく目蓋を閉じ、再びゆっくりと目を開く。見えるのは所々にヒビの入った天井《てんじょう》と、一列に並ぶ蛍光灯だった。朝になればいつも目にしている光景である。壁《かべ》かけ時計を見ると、現在午前五時。
視線《しせん》を転じると、窓の外は冬の早朝。まだ真っ暗である。そして部屋の明かりが半分だけついていた。
敦樹はもがくように半身を起こすと、体を軽く伸ばし、息をつく。視線の先、一畳分向こうの布団で、清子《きよこ》が安らかな寝息を立てていた。敷布団《しきぶとん》に対して時計回りに45[#「45」は縦中横]度傾いた姿勢という、寝相がいいのか悪いのかよく分からない格好である。
さらに隣《となり》の空いた布団を見て、敦樹は再び小さく息をつく。
――佐里《さり》を起こしてしまった。
うなされてでも、いたのだろう。まだ起きる必要のない時間だった。敦樹はその姿を探し、室内を一周見回す。
この部屋は、元は学校だった建物の教室の一室である。広い部屋の隅には石油ストーブが置かれていて、その燃焼筒《ねんしょうとう》がいま火を入れたばかりという風に、下だけ赤い。そして廊下の水道場から、水の流れる音が聞こえてくる。
音が止まると、寝間着《ねまき》の上から褞袍《どてら》を羽織《はお》った姿の佐里《さり》が、ヤカンを待って部屋に入ってきた。清子《きよこ》を起こさぬよう忍び足で室内を横切ると、ストーブの上に先ほど水を汲《く》んだヤカンを置く。そして敦樹《あつき》の方を振り向いた。
「――おはよう。のど乾いてない?」
小声で訊《き》きながら、手をストーブにかざす。
「もうちょっと待ってくれたらお茶入れるけど、もう一眠りするんだったら冷蔵庫の煮沸水の方がいいかもね。目がさえちゃうし……」
「私も起きる」
敦樹は小声でそう答えた。
普段《ふだん》の起床時間より一時間早いし、このところ寝不足気味ではある。しかし佐里を起こしておいて自分だけ寝るというのは、理屈が通らない。それに、いま寝るとまたあの夢を見てしまいそうだった。
――幽霊剛粧《ファンタズマ》の存在を確認《かくにん》した先週の戦い以来、敦樹は何度も同じような夢を見るようになっていた。起きている方が、気が落ち着く。
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「……湯が沸くまでに茶出しの用意でもする」
「うん、お願い」
寒そうに手を擦《す》り合わせる佐里《さり》は、首だけ振り返って笑うと、そう答えた。
「朝メシできたでー」
清子《きよこ》がそう呼んだ時、すでに敦樹《あつき》は防災団事務所のグラウンドで、早朝の運動を始めていた。朝食後からは防災団の業務が始まるので、自分で必要だと思う訓練はこういう時間にやるしかない。
今朝《けさ》は準備運動と軽いランニングで体を温めたあと、ストレッチで十分に体をほぐし、さらに本格的な練習に入っていた。敦樹は一心不乱に木刀を振るう。
ただしその動作は実のところ、剣術の型と言うにはかなり奇妙なものだった。静と動の差が、はっきりと分かれている。前傾姿勢で木刀を突き出したまま十数秒停止したかと思うと、次の瞬間《しゅんかん》数歩下がりながら木刀を手の中で翻《ひるがえ》し、素早《すばや》く左へ振り抜く。そしてまた十数秒の停止。
体を冷やさないために着込んでいる上下の防寒着は、その動作の度にバサバサと大きな音を立てて揺れた。
もちろんこれは生身で行う本来の剣技ではない。敦樹の使用している高度虚物質技術《デイノス》、『構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』と『摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』、そして六本の剣を自由に入れ替えることのできる『連装刀』の使用を前提としたものだった。簡単《かんたん》には使用許可の取れない『デイノス』の、いわばイメージトレーニングである。
――集中から繰《く》り出される、瞬発の一撃《いちげき》。
だが敦樹は、清子の頓狂《とんきょう》な甲高《かんだか》い声に、その動作を中断することになった。
「ほ一、二! 一、二ィ!!」
何事かと敦樹が振り返ると、割烹着《かっぽうぎ》に三角巾《さんかくきん》姿の清子がお玉を振り回し、神妙な表情で踊っている。
「何をやってるんだ……」
「アツキの真似《まね》」
ビュンビュンとお玉《たま》で十字を切る。敦樹はその出鱈目《でたらめ》加減に面倒臭《めんどうくさ》さを隠そうともせず、息をついた。
「てんで滅茶苦茶《めちゃくちゃ》じゃないか」
「そんなんわかっとるわ。それより飯やって呼んどるやろ、ナニ無視しとんねん」
清子はお玉を敦樹に向かって突きつけると、ギロリと睨《にら》む。
「ウチの初当番やったっちゅうのに、早《はよ》せんと冷めてまうやないか」
「ああ悪い。あと一分待ってくれ。すぐに終わる」
敦樹《あつき》は全く動じない、いつも通りの口調《くちょう》で答え、大げさに木刀を振る動作を再開する。清子《きよこ》は苛々《いらいら》したように溜《た》め息《いき》をついた。
「――まあ熱心《ねっしん》なんはええけどな。朝からナニしとんねん?」
「動作の型の確認《かくにん》だ。デイノスを使った高機動《こうきどう》戦闘《せんとう》っていうのは、素早《すばや》さと正確さを求められる。目で見てから頭でゆっくり判断している時間はない。いざという時に体がきちんと反応するよう、毎日動作の確認をしておくんだ」
靴の底をするような足運びで三歩下がり、その間に水平方向へ木刀を薙《な》ぐ。その切っ先は全く同じ高さのまま、綺麗《きれい》な半円を描く。
「ほ〜。でも歩課《ほか》やったらそういう練習の前に、もっと筋トレとかせんでええん?」
「体が重くなれば、動作の速度も落ちる。そういう無駄《むだ》な体作りは、するべきじゃない」
敦樹は生真面目《きまじめ》に答えた。
「そもそも私はデイノスで『構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』を使っている。だから極端な筋力をつける必要はないんだ。そして『構造骨格機構』が私の動きをトレースする以上、瞬発力《しゅんぱつりょく》による素早い動作と、正確な位置での動作終了こそが必要になる。これを失敗すれば、大ケガをしかねない」
「けどアツキは、一撃《いちげき》離脱《りだつ》が身上やったんちゃうん? ――要するに、突っ込んで離《はな》れるの繰《く》り返しやろ? 攻撃の手数《てかず》は増やせんわな。やのに何で、そんな何回もブンブン振り回しとん?」
清子はこれで、意外と鋭《するど》いところをついている。敦樹は参ったなと苦笑した。
「――実はいま集中的にやってるのは、一撃離脱についての動作確認じゃない。狭い場所に逃げ込んだ敵を、倒すための技を考えている」
「要するに幽霊剛粧《ファンタズマ》対策、ちゅうことか?」
「そうだ。アイツは私の手で確実に倒したい」
はあ、と呆《あき》れたように清子は息をついた。体の大きさも含め、まだほとんど何も分からぬ敵である。敦樹が対策を立てるのは勝手だが、情報のない今の段階でそれをやって通用するかどうかは微妙なところなのだ。
「焦り過ぎや思うけど。私情挟んで大ケガせんようにな。しかしまあそういうことなら、ウチが一応、運動解析かけたるわ。ゴーグルかしてみい。どこや?」
「運動解析?」
問い返しながら、敦樹は清子にベンチの上へ置いた自分のゴーグルの方を目配せする。
この敦樹のゴーグルは、カメラとしての機能も含む複合|視聴覚《しちょうかく》インターフェイスである。清子はそれを手に取ると、目に当ててフレーム内に敦樹が写っていることを確認しながら、接触スイッチを操作《そうさ》した。
「コンピュータ使《つこ》て、デイノス使用した場合にうまいこと動作できとるかどうか、確認《かくにん》したるわ。今の練習、カメラで撮《と》るから、もう一回一通りやってみ」
「……分かった」
あまり興味《きょうみ》を感じないといった風に答えつつも、敦樹《あつき》は木刀を右手に持ち、大きく振りかぶった状態で構えた。
「ほんなら行ってみよか」
その声を合図に、敦樹は木刀を真《ま》っ直《す》ぐ正確に振り下ろした。
*   *   *
「さーて、飯や、メシメシ!」
朝の廊下に清子《きよこ》が元気な声を響《ひび》かせる。そのあとを、手と顔を洗いタオルで拭《ふ》いている敦樹が続く。
この元学校校舎である|樋ノ口町《ひのぐちまち》防災団事務所の中で、食堂部屋は女子三人の居室とは別の一室を確保してあった。場所は同じ一階にあるが、畳は敷《し》かずにタイル貼《ば》りのままで、そこに普通の家庭でも使うテーブルと椅子《いす》を持ち込んでいた。
他《ほか》にもプロパンのボンベやコンロ、炊飯器《すいはんき》などといった調理《ちょうり》器具の一式があり、広い部屋の隅に不釣り合いな感じで並んでいたりする。大抵の場合、四人分の食事はここで作るのだ。
扉を開けると室内は、鍋《なべ》の方から漂う心地良い味噌《みそ》の香りに満たされていた。
テーブルにはすでに文彦《ふみひこ》と佐里《さり》の二人が席についており、敦樹を待っていた。文彦は眠そうな目のままぼんやりラジオの天気予報を日記に書き写している。佐里の方は『やさしい関西弁《かんさいべん》講座《こうざ》4 〈外回り環状《かんじょう》編《へん》〉』なる本を読んでいた。口の中でブツブツと「……な・んでやねん? なんでや・ねん?」と、イントネーションでも確認するかのように呟《つぶや》き続けている。
そんな二人も部屋の戸を開けた清子が「メシ!」と叫ぶと、それぞれ立ち上がった。敦樹は手に持ったタオルを首にかけ、当番である清子が用意した朝食の盛りつけを四人で始める。
「みそ汁の方はウチがやるからそっちはご飯、茶碗《ちゃわん》に盛って。切り身とおひたしは四等分して皿にな」
「分かったよ。――敦樹ちゃんおはよふ〜」
文彦が、最後は欠伸《あくび》混じりに言って口元を手で押さえた。
「――ふぁ。何か今日は、朝から結構気合い入ってるね」
「いやそうでもない。実を言うと、たまたま少し早く目が覚めた」
苦笑して敦樹は答えながら、茶碗を取ってくれるよう文彦に言う。
「あまり寒い内から運動すると、かえって体に悪い場合もあるしねえ」
皿におかずを盛る佐里の言葉に、敦樹も同意を込めて頷《うなず》いた。
「冬も本番になると、日の出る前から運動っていうのは害の方が多いな。早起きするにしても、別の作業と入れ替えて昼に運動の時間を確保した方がいいような気はしている――」
「僕も敦樹《あつき》ちゃんも、体のスジ違えちゃったから休みます、ってワケには行かないからねえ」
そんな会話のやり取りをしながら清子《きよこ》の指示通り三人は食事の準備をし、席についた。そして最後に、清子のよそったみそ汁がテーブルの上に順に並べられる。しかし――
「何だこれは……」
敦樹の口から、思わず言葉が漏れた。
いたって普通のみそ汁――ではある。しかしその山吹色《やまぶきいろ》の表面から、人間の脚のような形が二本、ニョキリと生《は》えていた。
この小さな脚はオレンジ色で、原材料がニンジンなのだとは分かる。だがその他の点で全く意味不明だった。敦樹は席についた清子を睨《にら》み、静かに言った。
「――清子、食べ物で遊ぶな」
「何ゆうとる、こういう調理法《ちょうりほう》なんや。塔《メテクシス》出現前には信州《しんしゅう》那須《なす》地方に伝わっとった、『犬神一族汁《いぬがみいちぞくじる》』っちゅう郷土料理やで?」
悪びれた様子《ようす》もなく清子は答える。一方、敦樹は腕を組んで考え込んだ。
「栃木《とちぎ》ではなく長野《ながの》? 那須という地名……あったか?」
敦樹は中部地方の地名を、ある時期完全に頭に叩《たた》き込んだことがある。しかしどうしてもその名が思い出せず、首を捻《ひね》る。
「……まあしかし、どうでもいいことか」
「いいのかなあ」
文彦《ふみひこ》が不審《ふしん》のこもった視線《しせん》でみそ汁を見ながら、日記帳にその絵を描《か》いている。対して敦樹はふむと頷《うなず》いた。
「郷土料理とはこういうものなのかもしれない」
その様子《ようす》に、一人清子だけがニヤニヤする。
「汁の実は三種の神器《じんぎ》が混じっとるからな、よう探してなあ。――さあ、さっさと食わんと冷めてまうで」
「それもそうだな。いただこう」
敦樹は手を合わせると、テーブルの上の箸《はし》を取った。佐里《さり》と文彦も未《いま》だ躊躇《ためら》いながら、「いただきます」とそれぞれ箸を手に取る。
敦樹は最初に、清子の作った『犬神一族汁』に取りかかった。椀《わん》に口をつけ、まずは一啜《ひとすす》りする。清子は普段《ふだん》とは違う味噌《みそ》を使ったのか、豊かな香りが口の中に広がった。見てくれは何だが、以外にいける。
と、そう思った途端《とたん》、みそ汁の表面から仰々《ぎょうぎょう》しく突き出した二本の脚が倒れてきて、敦樹の額《ひたい》を打った。
「敦樹……」
佐里が恐る恐る声をかける。そして無言の間。
敦樹《あつき》は倒れた脚を箸《はし》で立て直して一度|椀《わん》をテーブルの上に置くと、腕を組んで考え込む。
――以外と邪魔《じゃま》だな、これ。
顰《しか》めた顔のまま、敦樹は清子《きよこ》を振り向いた。
「清子。この盛り合わせは、先に食べてしまってもいいのか?」
「おうガブッといったり」
清子はカッコ良くビシッと親指を立てる。
敦樹は頷《うなず》くと、人間の下半身型に整形されたニンジンをみそ汁の中から取り出した。そのまま、半分ほどまで一口に齧《かじ》る。恐る恐ると様子《ようす》を見守る佐里《さり》と文彦《ふみひこ》を前に、敦樹は眉《まゆ》を寄せて小さく唸《うな》った。
「生か……」
「おう。健康にええで、生野菜!」
敦樹は不審《ふしん》な顔のまま、残り半分を口の中に放り込む。
様子見を決め込んでいた佐里と文彦も、無言のままみそ汁から取り出した『脚型ニンジン』を口にし、しばらくはカリコリという音だけが部屋に響《ひび》いた。
やがて佐里が、一人でボソリと呟《つぶや》く。
「……何でやねん」
防災団では朝食後すぐに、それぞれの仕事が始まる。
剛粧《ごうしょう》対策で出動する時を除けば、その内容は大きく分けて業務か訓練かのどちらかだった。今日の|樋ノ口町《ひのぐちまち》防災団は、業務の受け持ちである。内容は防除対策地域内で活動する保健研究所|職員《しょくいん》の護衛《ごえい》だった。
「……犬神一族汁《いぬがみいちぞくじる》は微妙に不発かー。かなあんのー」
鼻を木製の洗濯《せんたく》ばさみで挟んでいる清子は、ろれつの回らないガチョウのような声で、一人ぼやく。
「思ったより美味《うま》かったって、素《す》で言われてもなあ」
仕事のために呼び出した多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》・二十四式の砲塔にだらしない姿勢で乗っかり、流れていく廃墟《はいきょ》の町並を不満顔で見上げた。スッキリと晴れた青い空へ向かって、健康に悪そうな白い煙がモクモクと昇っていく。
ここ一週間は毎朝、この一帯は白い煙で覆《おお》われる状態が繰《く》り返されていた。戦いの場である防除対策指定地域で、剛粧の死骸《しがい》を薬品焼却する作業が進められているのだ。この作業を怠《おこた》ると伝染病の原因となったり、屍肉《しにく》を漁《あさ》りに来た大型|鳥類《ちょうるい》剛粧が町に災害をもたらしたりする。つまりこの『あと始末』も、剛粧《ごうしょう》対策における重要なプロセスの一つと言えた。各防災団はこの作業の間、交代で防除対策地域内を巡回する。清子《きよこ》を含む|樋ノ口町《ひのぐちまち》の四人も一人ずつ持ち場が指定されており、現在はそれぞれがその場所に散っていた。
――そして清子自身には、個人的にもう一つやらなければならない仕事があった。
確《たし》かこの辺りかと前方に目をこらす。多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の進む先には、消毒溶解液をタンク車から振りかけて剛粧の死体を溶かしている白い防護服《ぼうごふく》の集団がいた。清子は多脚砲台を路肩に寄せ、そちらへと近づいていく。
「仕事中悪いンやけろ、芭原《ばはら》センセ見いひんかっら? 今日、剛粧の標本引き取りに、大学からここ来るて言うててんけろ」
防護服の一人が、身振り手振りを交えて清子に答えた。相手はマスクをつけており、近くではタンク車のポンプ音が鳴り響《ひび》いている。声はほとんど聞こえなかった。しかしその身振りから、道の向こう側に止まっているトラックを差しているのだというのは理解できた。
「わかっら。ありかろさん」
清子は礼を言って、乗っている二十四式をそちらへ向かわせる。トラックのそばまで来ると、すぐに目的の男は見つかった。柄《ガラ》の悪い顔をした、大きな骨を担いだ白衣姿がそうである。清子は鼻につけていた洗濯《せんたく》ばさみを服の袖《そで》につけ直し、大声で叫んだ。
「芭原のオッチャン、マンモス狩りの帰りかぁ?」
骨を担いだ男が何事かと振り向き、すかさず清子はその仕草《しぐさ》に合わせて効果音を付け加える。
「ウキキー?」
芭原が思わず取ってしまったポーズと絶妙のタイミングで入った清子の合いの手に、手伝いらしい周囲の大学生たちが爆笑《ばくしょう》した。
「……くだらんことで、笑うなボケエ! ぶっ飛ばすぞ!!」
芭原は怒鳴り散らしながら手に持った骨の標本をブンブン振り回し、笑った学生を追い回す。その仕草がますますそれっぽく、最初の笑いを堪《こら》えた者たちまで笑い出す始末だった。
清子は多脚砲台の上で胸を張って言う。
「フィールドワークに従事する耐性者の学生|諸君《しょくん》。朝から元気で結構!」
「何が結構か。ガキが偉そうに……」
肩で息をする芭原が、清子を睨《にら》み上げる。対して清子の方は、上機嫌《じょうきげん》で笑った。
「一々その程度で怒っとったら、老《ふ》けるん早いで? それより例の調査《ちょうさ》結果、どないなってる?」
「いま用意するから、ちょっと待ってろ清《きよ》ちゃん」
「……その呼び方、本気でガキっぽいからやめてえな」
ゲンナリした表情で、清子は呟《つぶや》いた。どうもこちらに来てから、一部の者は頑《かたくな》に清子をそう呼ぼうとする。正直、辟易《へきえき》していた。
芭原《ばはら》の方は、自分の運ぶ標本をトラックに積《つ》むと、大きな茶封筒《ちゃぶうとう》を持って清子《きよこ》のところへやって来る。近くで見るとはっきりするが、彼はその厳《いか》つい体格といい、顔の左にある大きな縫《ぬ》い傷といい、姿勢の悪いガニ股《また》歩きといい、まるでやくざの三下《さんした》にしか見えない風体《ふうてい》をしていた。一応、神戸《こうべ》の大学で助教授をしているが、そのことを裏読みしたくなってしまう。そんな男である。
助教授・芭原は勝手に多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の手すりに掴《つか》まり、上に登ってくると茶封筒を清子に渡した。
「こないだの調査《ちょうさ》の結果は、一通りそこに書いてある。何か分からないことがあるなら、勝手に質問しろ」
「命令形かいな。あー……」
茶封筒の中身を取り出して一瞥《いちべつ》した清子が、そのデータの山を見ながら口を尖《とが》らせる。
「分析の過程なんか見ても、ウチ分からんねん。それよりも手短に、まずは結果教えてや。幽霊剛粧《ファンタズマ》って、知能どれくらいになるん?」
トラック周辺でアリンコのように働く学生たちをアリンコを見る目で見ながら、芭原は面倒臭《めんどうくさ》そうに答えた。
「人間の知能|年齢《ねんれい》で、ほぼ六歳から二十四歳ぐらいの頭の良さ、だな」
「幼稚園児から大学院生の幅? ……それ、何も分かってへんのと一緒《いっしょ》やん」
「迷路を解いた方法も、解くのにかかった時間も分からんのだから、まあ当然だわな」
「思ったより、役に立たん……」
不満げな顔で、清子は呟《つぶや》く。しかし芭原は、「とんでもない」という風に首を振った。
「少なくともコイツは、この防除地域に築かれた迷路を解いた。ひょっとすると、人間に匹敵する知能の持ち主なのかもしれん」
「人間に匹敵って……。また大き出たなオッチャン。そんな剛粧《ごうしょう》、塔《メテクシス》が出現してからの二十五年で、出たことないやん? それともついに新発見とか言《ゆ》うん?」
胡散臭《うさんくさ》そうな清子の反論《はんろん》。だがそこに、何かを誤魔化《ごまか》すような色がないか。それを探るような目で、芭原は清子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「――なあ、清ちゃん。なぜ、剛粧は塔《メテクシス》で繋《つな》がれた別の世界から来るってことで通用してるか分かるか?」
「また唐突やな。――別に変なことないやん。あんなようさんゾロゾロ湧《わ》いてんねんから」
気のない返事をする清子に対し、芭原の方はニヤリと笑った。
「果たしてそうか? ――剛粧は巨大な塔《メテクシス》から発生する。ならそれは、宇宙まで届く塔《メテクシス》の中から現れた、と最初は考えるのが自然じゃないか? しかし人間は、剛粧を異星からの侵略の先兵などとは考えない。なぜなら剛粧は、全く統制されていない無垢《むく》の存在だからだ。共食いし自滅することも度々あるその混沌《こんとん》は、全くの出鱈目《でたらめ》なのだ。剛粧にとって我々人類は、食物の一品目程度の意味しか持たない。
だがそういったことよりも、まず強烈な印象として、我々は剛粧《ごうしょう》の背後に『もう一つの世界』があることを否応《いやおう》なく想像してしまう。なぜだ!?」
「そりゃあ――」
「そう! 剛粧は二十五年前のある日突然現れたにもかかわらず、地球の大気を吸い、1G下で運動する。環境《かんきょう》に適応し過ぎているんだ。だから人々は大なり小なり、剛粧の故郷として地球に似たもう一つの世界があると感じている。実際、剛粧は地球の生物を別の隔離《かくり》環境で独自進化させたものと考えていいくらい、その生態は酷似《こくじ》している」
「いや、ちょっと待って――」
「例えばあそこのトラックにいま積《つ》んでいる標本!」
興奮《こうふん》した芭原《ばはら》は清子《きよこ》を無視したまま、学生たちが剛粧の骨を運ぶトラックを指さす。
「あれは前回の対策時に確認《かくにん》された二種類の新種の内の一方だが、実際はヒエノドン亜科の進化系統図のケツに載せたいくらい、よく似ている。だがこういったものをいくつも見ていると考えてしまうんだ。――これだけ地球上の生物に酷似した多種多様な種が出てくるのに、なぜ剛粧には『人類』の位置を埋める存在が確認されていない?」
中年学者は血走った目で、清子に迫る。
「だがここに来て知性だよ知性! 知性の痕跡《こんせき》!! これは剛粧がどうなんて話が吹っ飛ぶ程の大発見だ。ついに人類は孤独ではなかったことが――」
「ハイハイハイ。そこまでやオッチャン」
清子はつまらなそうな顔で大きく手を打った。
「ちょっと落ち着いてよう考えてみい。相手がどうやって迷路解いたんか分からんて、いま自分の口で言うたばっかりやん。総当たりで出口探すとかやったら、鼠《ねずみ》でもできるんやろ?
――その手の早とちりで恥かいた動物学者て、過去にもようさんおるんとちゃうん?」
うっ、と唸《うな》って、芭原は黙《だま》り込んだ。
ニヤニヤと笑う清子は、慰《なぐさ》めるように芭原の肩を叩《たた》く。
「まあオッチャンがいま喋《しゃべ》った『恐竜人間』並みのSF少年的夢想は、ウチの胸にしまっとくさかい、気にせんとき。しかしテストそのモンは、そんなモンか。――あとはどうやって、幽霊剛粧《ファンタズマ》が他《ほか》の剛粧|操《あやつ》ってるかやなあ。何か分からん?」
夢から一気に覚めた鬱々《うつうつ》とした表情で、芭原は「ああ」と呻《うめ》くように返事した。
「操られたのが確認された剛粧を、いくつか解剖してみた。何も分からなかったんだが、一つだけ共通していたことがある」
「へえ、やるやんオッチャン。で、何なん?」
清子は愛想のいい笑みで訊《き》く。芭原の気分はちょっとだけ持ち直した。
「腹に未消化の食い物――捕食された剛粧がいっぱいだった。まあ集団で他《ほか》の剛粧を襲《おそ》えば餌《えさ》は取りやすいだろうというのは、分かる話ではある。問題はコイツらが普通の剛粧のように、飢餓感《きがかん》からここに来たわけではないということだ」
「おお。ほんなら、何なん?」
「腹が満たされれば、巣に帰る。剛粧《ごうしょう》を操《あやつ》っているのは――帰巣《きそう》の本能だ」
敦樹《あつき》や清子《きよこ》たちが通う御茶家所《おちゃやしょ》学校は、正午から授業を開始する。
授業は四十分間。休み時間は五分間である。
ただし二限と三限の間には、二十分間の中休みがあった。その過ごし方は様々だが、雨さえ降らなければ大抵は教室組と校庭組に分かれる。そんな中で清子は、圧倒的に教室組だった。それもほとんどの場合、内職《ないしょく》中である。
授業中はかけない丸眼鏡《まるめがね》をわざわざかけ、ワイヤレス・キーボードをカタカタ叩《たた》く。丸眼鏡は画像表示デバイスであり、モニター代わりになっているのだ。
このセットというのはかなり高価なもので、市場に出回っているものではない。しかし同時に、清子の様子《ようす》を見て奇妙だと思う者はいない程度には認知されたものだった。ちなみに清子は作業の最中に声をかけると怒るので、この状態の時には誰《だれ》も話しかけないのが通例である。
だが今日に限ってはキーを叩いていた清子の手が、数分前からパタリと止まっていた。そしてそれきり動かない。何か放心したように、清子はぼんやりとあらぬ方を見ていた。
「ねえ、畑沼《はたぬま》さん……」
気づいた佐里《さり》が、恐るおそる声をかける。しかし清子の耳には届いていないようだった。そばまで行くと――
「さいれんしす?……いやでもきそう……ばーすと……やったらはけいっち」
などと、意味不明の独《ひと》り言《ごと》をブツブツと呟《つぶや》いている。
佐里は困ったように眉《まゆ》をひそめた。清子の様子はあまりにアブナイ。不審《ふしん》に過ぎる。
「畑沼さ〜ん、何してるの〜」
目の前で手を振ってみた。しかし反応はない。佐里は腕を組んで、考え込む。
「――こうなれば」
佐里は自分のかけている眼鏡――複合|視聴覚《しちょうかく》インターフェイスでもあるそれのフレームをいじり、カメラ機能《きのう》を起動する。そしてそこから撮《と》った画像を、今度は清子の視界画像に無理やり割り込ませた。
「わっ、何やこれ!!」
驚《おどろ》いて立ち上がった清子は、左右を見回す。いきなり視点が90[#「90」は縦中横]度回転して、しかもそこに慌てた自分の顔があるのだ。自分の視界と体の動作が一致しない清子は数歩よろめいてバランスを崩し、あげくに自分が先ほどまで座っていた椅子《いす》に躓《つまず》いて、ひっくり返った。
「だ、大丈夫、畑沼《はたぬま》さん」
予想以上・想定外の効果と反応に、佐里《さり》は慌てて割り込みを解く。そして床へ尻餅《しりもち》をついた清子《きよこ》に、急いで謝《あやま》る。
「ごめん、ここまでとは思わなくて」
「……思わなくてやない、サリサリ。何してくれとんねん」
起き上がった清子が当然のごとく怒って、ギロリと佐里を睨《にら》みつける。
「こっちゃ仕事しとんのやから、邪魔《じゃま》せんといてや」
「仕事? でも止まっちゃってたから」
思考を中断させられて不機嫌《ふきげん》な清子は、溜《た》め息をつくとスカートの尻を叩《はた》いて椅子《いす》に座り直した。
「ハッピーなイタズラしかけるサリサリと違《ちご》て、ウチは日本一色々と悩み事の多い少女やねん。――それより、共有したるからちょっとウチの仕事、見てみ」
そう言ってキーボードを叩《たた》くと、清子自身が作ったらしい画像を佐里の視界に送ってよこす。その画面の中では、緑色《みどりいろ》の四角い箱《はこ》で組み上げられた人形が、盛大に伸び縮《ちぢ》みする棒を手に、クルクルピョンピョンと飛び跳ねていた。
「……何なの、これ」
「アツキの超必殺技、らしいで」
「超?」
「通用すればええけどなあ……」
「え、これ何か、どんどん体が宙に上っていってるけど」
何度もリプレイされる画面を見ながら、佐里は当惑気味の声でそう呟《つぶや》いた。重力に逆らった物理的に不自然な動きを、その人形はしているように見える。対して清子は面倒臭《めんどうくさ》そうに、顔の前で手を振った。
「連装刀は実質量が保存されへん。やからこれを『錘《おもり》』にすれば、そういう運動ができんねん。分からんかなあ……」
どのように説明したものかと、清子は頭を掻《か》く。
「なあ、敦樹《あつき》が自分の体重と同じ重さだけある六号刀使う時、ガチッと構えて突っ込んでくンは知ってるやろ。構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》のサポートつこうて、力任せにブンブン振り回したりはせえへん。もし仮に体重と同じ重さの六号刀を振り回せばどうなる?」
「敦樹の方が吹っ飛ぶ……」
躊躇《ためら》いがちに佐里が答えると、「そうや」と清子は頷《うなず》いた。
「けどこの吹っ飛ばされる力――つまり反作用をうまく使えば、逆に空中を上っていけるねん。例えば六号刀を上段に構えて、思い切り振り下ろす。これで敦樹の体は宙に浮くわけや。で、最下点で一番軽い一号刀に変換して振り上げ直して、また六号刀にして振り下ろす。これを繰《く》り返すわけやな」
その説明を理解しようとしてやや引っかかり、佐里《さり》はしばし考える。
「……そんな素早《すばや》く、腕の上げ下ろしってできる? 腕を振り下ろした時に発生する回転の運動みたいなのは、そのまま残るから――」
「もちろんそうや。竹刀《しない》や木刀の素振《すぶ》りみたいにはいかん。そこで、体ごと回ってまうねん。パッと見、鉄棒の前周りの要領やな。で、ここに前の遭遇で予想されたファンタズマのモデルを置く」
赤いゴリラのような前屈姿勢の人形が、佐里の見る画面に現れた。そのシミュレーション画像の中で、緑色《みどりいろ》の小さな敦樹《あつき》の人形は垂直方向に回転しながら地面を飛び上がり、相手の右上腕に斬《き》りつけ腕を切断する。さらに肩の付け根に着地して全《すべ》ての勢いを相殺《そうさい》すると、今度は背中側に飛び降りながら水平方向に剣を回転、赤い人形の首を切り落とす。
佐里はそれを見て、ようやく一言。
「……なんか凄《すご》いね」
「仇《かたき》やとかゆうてたからな。熱《ねつ》も入るんやろう。――それに引き替え、サリサリも文彦《ふみひこ》も呑気《のんき》なモンやのう」
清子《きよこ》は息をついて丸眼鏡《まるめがね》を外すと、校庭の方に視線《しせん》を向ける。窓の外では、文彦が同じ野球部の細野《ほその》らとノックをやっていた。仲間同士で部外者には意味不明のかけ声をかけ合い、続いて金属バットの打撃音《だげきおん》が響《ひび》く。
たった二十分しかない休み時間にこれをやっているのだから、「大した機動力《きどうりょく》だ」と清子は小声で皮肉った。佐里も苦笑いして視線を転じる。教室内に残った他《ほか》の生徒たちも、ほとんどが窓際から校庭の様子《ようす》を見ていた。
「畑沼《はたぬま》さんも、窓から応援して上げるとか」
「ウチはここでええわ。文彦がんばれよー」
椅子《いす》に座って頬杖《ほおづえ》をついたまま、清子はやる気のない声でボソボソ言う。ほとんど独《ひと》り言《ごと》の域で、校庭になど聞こえるはずもなかった。
実際、教室内ですら誰《だれ》も清子の声に注意など払わない。唯一クラスメイトの楢橋《ならはし》南美《なみ》だけが、キョトンとした顔で一瞬《いっしゅん》だけ振り向く。
「お、何か感度のええのが一人おるやん」
清子はニヤニヤ笑いながら言い、佐里も「うーん」と唸《うな》る。
「やっぱし楢橋さんは文彦くんにアレなのかなあ。問題は文彦くんがアレにどれだけアレなのかっていうアレなのよねえ」
佐里の説明は全くの意味不明だったが、清子はただつまらなそうに呟《つぶや》いた。
「前にナラハシが言《ゆ》うとった髪飾りがどうこうの話って、文彦のことやったんか。――やめときゃええのに、あんなん」
だがその一言に、佐里《さり》は突然|興味《きょうみ》をそそられたような表情を浮かべた。
「何、どうして畑沼《はたぬま》さんがそんなこと言い出すの? ハッハーン」
「ひとり合点、早ッ! ちった間を置け。ってか今どきハッハーンって何やねん、ハッハーンって……」
「だって、あの畑沼さんがわざわざ忠告なんて……。ねえ?」
「なに言《ゆ》うてるねん。文彦《ふみひこ》やで? ホンマもんのアホやで? 天然バカのバカっぷりが遺憾《いかん》なく発揮されるその瞬間《しゅんかん》が、目に浮かぶようやて言うてるだけや」
心底そう断言する清子の顔を、佐里が未練がましい表情で覗《のぞ》き込む。
「それだけ?」
「当たり前や!」
「仲良しに見えるんだけどなあ……」
佐里は残念そうに言う。嫌《いや》そうな表情を浮かべた清子は小さく毒づいた。
「……どうせナラハシかて、文彦のバカさ加減で嫌《や》な気分味わうに決まってんねん。やから、やめとけ言うてんねん」
「でもそういうところが保護欲《ほごよく》をそそる、とか?」
「典型的な錯覚《さっかく》やね! ――やっとられんわ」
[#挿絵(img/basileis2_112.jpg)入る]
「……もうちょっと軽いノリで行こうよ、畑沼《はたぬま》さん」
視線《しせん》を逸《そ》らして寂しく笑いながら、佐里《さり》はムスッと黙《だま》り込んだ清子《きよこ》の席を離《はな》れた。そのままクラスメイトたちのいる窓際へと向かう。同じように窓際にいて校庭を見ていた敦樹《あつき》が、振り返って佐里に訊《き》いた。
「どうしたんだ、清子は? 何かブツブツ言っていたが」
「ううん、何でもない」
佐里は笑って誤魔化《ごまか》した。敦樹の方も「そうか」と短く答えると、校庭の方へ視線を戻す。だが敦樹の目は、時々|南美《なみ》の方へと向けられ、その南美は文彦《ふみひこ》を見詰めたまま物憂《ものう》げな溜《た》め息をつく。
佐里は敦樹の袖《そで》を引いて、小声で訊いた。
「どうしたの?」
「――いや、よく分からないから困っている。時々、私や佐里の方を見てボンヤリしているから何かと」
「そんなことも分からんとは。楢橋《ならはし》の気持ちになって考えろウ! キミタチは!!」
どこから出たのか、敦樹と佐里の間に勝手に割り込んできた幸田《こうだ》が、偉そうに胸を張る。
「つまりだ、楢橋は文彦にラブラブなわけだ。しかし『いつも彼の一番近くにいるのは私じゃないの、クスン』ってことで、イロイロ焦っているのだ。――考えてみれば文彦にしても、成り行きとはいえ女三人と同居生活する男。結構|羨《うらや》ましい奴《やつ》だ!」
「そうなのか、佐里?」
「さあ……」
「そんなんじゃないわよ!!」
いつの間にか幸田の後ろに南美がいて、グイと制服の詰《つ》め襟《えり》を捻《ひね》るように引っ張った。
「黙《だま》って聞いてればこの男は、思いつきであることないことペラペラと」
「痛い、地味に痛いって。カラーが首に食い込む……」
敦樹たちが困ったというように口ごもる。一方で、幸田は反論《はんろん》に出た。
「じゃあ楢橋、何でそんな『センチメンタルなんですぅ』ってな顔してるのか、説明してみろよ。俺《おれ》が言ってることは見当違いかよ」
「それは、当たってるけど……」
「意外と素直っていうか、オレ、首絞められ損やん?」
グッタリした声で、幸田が文句を言う。だがその主張はきっぱりと無視され、南美は幸田の首を絞めたまま、恥ずかしい――というよりはむしろ落ち込んでいるといった表情で言う。
「だって川中島《かわなかじま》さんも四方《しほう》さんも美人で、しかも一緒《いっしょ》に生活してるのよ? 私なんか接点作るのだけでも四苦八苦してるのに」
敦樹は慌てて首を振った。
「いや、文彦《ふみひこ》と私の間に、そういう感情はない。心配するな」
「そうそう」
佐里《さり》も笑って、合いの手を入れる。
「それに敦樹《あつき》が美人って。学校じゃ制服着てるからまだましだけど、防災団事務所じゃジャージにサンダル履《ば》きでリールに油とか差してるんだよ? ホント、頭に紙袋とかかぶせてあったら、誰《だれ》かと思うって」
「そうそう……」
今度は敦樹が、少し悩むような表情で相槌《あいづち》を打つ。
「それに…だ」
ようやく首《くび》締《し》めから自力で逃げ出した幸田《こうだ》が、南美《なみ》の信じられないような握力でグチャグチャになった襟元《えりもと》をただしながら言う。
「川中島《かわなかじま》は四方《しほう》さんとで、手一杯だから。文彦は問題ない。むしろジャマ」
その言葉に、南美はポンと手を打った。
「なるほど。それじゃあ安心、なのかな……」
「それで納得されても困るんだが」
すかさず敦樹が、嫌《いや》そうに言う。そして南美の頭の後ろから突然、清子《きよこ》の声が降ってきた。
「なあなあ、さっきの『キレイな人』に、何でウチが入ってへんの?」
机の上に上履きのまま立った清子が、そのまま南美の背に負《お》ぶさる。
「なあナラハシ、何でウチが入ってへんの?」
南美の方は、突然のことで言葉に詰まる。
「っと、それは……」
「なあなあ、何でなん」
「は、畑沼《はたぬま》さん、重い。どいて……」
南美の肩からぶら下がったまま、清子は叫んだ。
「なんでや〜」
放課後《ほうかご》、部活を終えた文彦が防災団事務所に戻ってきたのは、夕方の六時半のことだった。
夕方と言っても、十一月の後半。日の落ちるのは相当に早い。すでに周囲は真っ暗だった。
授業が終わるのは、大体午後四時過ぎである。つまりこのごろはどう頑張っても、一時間半ほどの部活時間しか取れない。もう五時ごろには、動くボールは目で追えなくなってしまう。
中学も野球部だった細野《ほその》などは「こんなもんだ」と諦《あきら》め顔で練習を終える。しかし四月からこちらに来て、それと同時に野球を始めた文彦にしてみれば、このことは随分と不満だった。
何かいい方法がないものかと、帰宅するまでずっと考えていた。
――ボールに蛍光塗料塗るっていうの、やってみようかなあ。
その思いつきに廊下の途中で立ち止まり、日記につけておく。書き終わって日記をしまうと、元用務員室である自室の扉を開けた。文彦《ふみひこ》一人が寝起きする部屋なので室内には誰《だれ》もいないが、一応「ただいま」と言う。
だが、この日は違った。
狭い部屋の中では、ミラーボールが回っていた。天井《てんじょう》から吊《つ》り下がった銀色の玉が、明かりを半分消した室内でクルクルと回っているのだ。
――何これ?
文彦が呆然《ぼうぜん》と見下ろしたすり切れた畳の上を、光の玉が這《は》う。
そしてそこには無断侵入した先客、清子《きよこ》の姿があった。
大人《おとな》っぽいタイトスカートに胸元の開いた寒そうなブラウス。扉の正面に寝そべり文彦を待ち伏せしていた彼女は、――暗くてよく分からないが化粧さえしているようだった。
その清子が、櫛《くし》を通して真《ま》っ直《す》ぐ下ろした髪に手刀《しゅとう》の鋭《するど》さで手を差し込み、パーンと跳ね上げる。ビクッとあとずさった文彦に、清子は微笑《ほほえ》みかけた。
「文彦ちゃん、お帰りなさい」
「どうしたの? 隠し芸の練習?」
室内を見回す文彦の、まず第一声がそれだった。
清子はプイッと目を背けると、顎《あご》に拳《こぶし》を当ててブリッコポーズ。
「そんなこと言う文彦ちゃんのことなんか、もう嫌いになっちゃうもん。ぷん――」
文彦は扉を閉めた。額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》う。
一体自分の身に、何が起ころうとしているのか。
だがまあと、すぐに考え直す。
この建物も、空き部屋はたくさんあるのだ。清子が飽《あ》きるまでの間、寝袋で我慢すればいいだけの話である。隣町《となりまち》の防災団事務所にしばらく厄介《やっかい》になるという手もあった。まず責任者の敦樹《あつき》に事情を説明して――
「閉めてもうたら、お話できへんやろ?」
ガラリと戸が開き、文彦は肩をすくめた。清子は満面の笑みを浮かべている。
「お話って……」
「このカッコ見て、何かゆうことあらへんの? この格好」
「ええ?」
疑問で返す文彦に、清子はクネクネとS字に身を曲げる。
「一言欲しいねんな、一言。今のウチって、彼《か》の大女優《だいじょゆう》も顔負けの『セクシーさん』やろ。なあ? ププッピ・ドゥ〜♪」
「誰《だれ》?」
「マリリン知らんのかいな!?」
素《す》で怒鳴る清子《きよこ》に口をパクパクさせた文彦《ふみひこ》は、息をついて視線《しせん》を床に逸《そ》らす。
「キヨちゃんは僕がそういうの知ってるはずがないっての、分かってるじゃないか」
「あらん、そうだったわね、ウフン」
小首をかしげた清子は、ウィンクして手を合わせた。
「メンゴ!」
「………………………………今どきオカマでも言わないよ。っていうかこれ、何の罠《わな》?」
「罠やなんて、酷《ひど》いわあ。ウチはただ、『かわいい☆』って言って欲しいだけやねん。ああん、でも惚《ほ》れたらあかんで? 死ぬで?」
「……」
――思考が飽和した文彦は、くるりと方向転換し、フラフラと廊下をあさっての方へと行く。そのまま勢いあまって、柱に頭をぶつけた。
額《ひたい》の痛みは現実のもので、それでようやく頭が少しスッキリする。
「そうだこのこと、日記に書かなきゃ……」
文彦は学ランのポケットから日記帳を取り出すが、ふと悪寒《おかん》を感じて背後を振り返った。
清子は上機嫌《じょうきげん》でスキップをしながらこっちへ来る。文彦は、逃げた。
「はあ……」
翌日学校に到着して自分の席につくなり、文彦は机の上に突っ伏した。
「疲れる……」
「大丈夫か、文彦?」
一緒《いっしょ》に登校してきた敦樹《あつき》が、心配そうに訊《き》く。
昨晩、そして今朝《けさ》午前の防災団訓練の間も、休むことなく続いた清子の猛攻。それによってスタミナだけは定評のあった文彦が、すでにボロボロだった。
「とはいえ結局、どういうことなんだ、文彦?」
「……こっちが訊きたいよ」
「しかし清子のあの馬鹿《ばか》げた様子《ようす》ってのは、文彦が『美人だ』ぐらいをひとこと言えば、済むことなんだろう?」
そう確認《かくにん》するように訊く。敦樹にしても、この頭の悪い騒動《そうどう》に昨夜から巻き込まれている被害者の一人なのだ。
――どうやら清子は『美しい女性の条件』について、自分の会社や防災団関係者など、個人的につき合いのある年上の女性何人かに相談《そうだん》をしたらしい。そして多量の知識《ちしき》と古着その他の手みやげを持たされて帰ってくると、さっそく実践に取りかかった。
だが知識と実際は、往々にして一致しない。数度の失敗を経てついに、清子《きよこ》は全面的な総当たり作戦に出たのである。
こういう時の清子の努力と集中力は凄《すさ》まじい。ただそれに一々アドバイスを求められる敦樹《あつき》たちは、堪《たま》ったものではなかった。正直いい加減にしてもらいたいのだが、敦樹は勉強会の件で清子に借りがある。そして佐里《さり》はあまりに人が良過ぎた。
おまけに、実際怒るようなことなのかというと敦樹もやや判断に苦しむ。だが――
「もう言いましょう。言って楽になろうよ、文彦《ふみひこ》くん」
一緒に登校した佐里が、心の底からそう勧める。対して文彦は突っ伏したまま、横に首を振った。
「それはできないよ、佐里ちゃん。僕があれを認めたら、キヨちゃんはダメな人間になってしまう……。そんな気がするんだ」
文彦のその台詞《せりふ》に対して、わけの分からないままクラスメイトたちから喝采《かっさい》の声が上がる。
「カツ丼《どん》だ」
「誰《だれ》かカツ丼を!」
そして――。
騒動《そうどう》の主が、遅れて教室に現れた。
「文彦くん、おはよう」
清子の声に文彦の肩は恐怖でビクリと震《ふる》える。ちなみにこの台詞を文彦がかけられるのは、すでに今日五回目である。何度もいろいろな格好で、やり直そうとするのだ。
だが教室に現れた清子の姿は、大半の予想を裏切って意外にもまともだった。髪を下ろしスカートの丈《たけ》を上げ――しかし校則の基準を、全《すべ》てきわどいところでクリアしている。
たった一日での変身。そしてそこには確《たし》かに、美学があった。
「皆さんも、おはようございます」
クラスメイトたちに向かって、ニッコリと満面の笑みを浮かべる。
誰もが最初は『意外といいんじゃないか』と考え、しかしだんだん、それが清子であることを思い出し、恐くなってくる。
そしてそんな清子を指さし、立ち上がったのは楢橋《ならはし》南美《なみ》だった。文彦の状態を見ればその実態は勘違いしようもないのだが、南美は勘違いした。
「畑沼《はたぬま》さん、あなたどういうつもりで文彦くんに迫って――」
「そんな、誤解です。私はただ――」
傷ついたというように、清子はキュッと口元に手を当てる。
「楢橋さんが――ウチの実力をイロイロ侮《あなど》っとるみたいやからのう」
その姿勢のまま邪悪《じゃあく》な笑みで南美《なみ》を凝視《ぎょうし》して、クックッと笑う。
「一発本気のところを、見せたろ思うてなあ。舐《な》めとったらあかんぞコラ」
「畑沼《はたぬま》さんがどうとかは、この際どうでもいいのよ。私は本気で文彦《ふみひこ》くんのこと好きなんだから、面白《おもしろ》半分でからかわないでよ!」
「へ?」
拍子抜けしたように、清子《きよこ》は聞き返した。
全員が呆気《あっけ》に取られ、教室には沈黙《ちんもく》が流れる。
「……いや、楢橋《ならはし》それって」
敦樹《あつき》が遅ればせながら、自覚を促してみる。しかし南美はフンと息をついた。
「いいのよ、もう。いつまでもこうやって、幸田《こうだ》や畑沼さんに面白半分でからかわれるぐらいなら」
ズカズカとクラスメイトたちを掻《か》き分けるようにして、妙に気張った表情の南美は文彦の席の前までやって来た。机に突っ伏していた文彦は不思議《ふしぎ》そうな顔でポカンと南美を見上げる。
「文彦くん、好きです。私とつき合って下さい!」
ある意味、南美はこのときキレていた。
結局のところ、清子は薮《やぶ》を突《つつ》きまくったあげく見当外れの蛇を出してしまったのだ。
ただクラスメイトの大半にとっては、状況の異常さはともかく『やっとか』といった思いがほとんどだった。春から数えて、もう半年である。
――南美はあまり思い悩んでいるのが似合うタイプではないし、一方文彦は、つき合いだけはいい男である。良く言えば柔軟、悪く言えば押しに弱いところがあった。従って逃げ道を周囲の目撃者《もくげきしゃ》、つまり級友たちに断たせた上で、正面からぶつかるという南美の行動は、かなりの効果を発揮すると全員が思った。
そしてそもそも、文彦に一途《いちず》な興味《きょうみ》を抱くような物好きと言えば南美ぐらいのものである。これは決まりだなと、クラスの全員が考えていた。しかし――。
「ゴメン僕、そういうのはちょっと……」
特に照れて、といった様子《ようす》もない。カラリと笑って文彦は答えた。
「せっかくなのに、ゴメンね南美ちゃん」
「……うん」
真《ま》っ青《さお》な表情のまま、南美は頷《うなず》いてしまう。見かねた幸田が、文彦の肩を背後から叩《たた》いた。
「ちょっと聞け、文彦よ。漢《おとこ》の諺《ことわざ》にこういうのがある」
「へっ?」
「――恋愛は自由! しかし女に恥を掻《か》かすな!!」
「けどこの場合、僕ってどうするべきなんだろう?」
文彦が慌てたように訊《き》く。何も考えていなかった幸田は、言葉に詰まった。
「それは、だ。――うん。なぜ楢橋《ならはし》の申し出を断わるのか、それぐらい言ってやってもいいんじゃないか?」
うんうんと、普段《ふだん》なら幸田《こうだ》を毛嫌いする女子まで、その言葉に頷《うなず》く。
文彦《ふみひこ》は「う〜ん」と唸《うな》った。
「それはね――」「ここでじゃない!」
幸田が慌てて文彦を止めた。
「どこか二人で行って、こっそりやれっての。楢橋に恥かかすなって言ったの、聞いてねえのかよ!」
「うん。でも南美《なみ》ちゃん自身は、関係ないから」
頭を掻《か》いて、文彦はフニャリと笑った。
「僕はね、みんなと仲良くしたいんだ。でも特定の誰《だれ》かとだけ特に仲良くっていうのは、その邪魔《じゃま》になるじゃない。だからそういうのは断わってるんだよ」
「……? それだけ!?」
幸田の反応に、そんなに変なことかと驚《おどろ》いた表情のまま、文彦はコクリと頷いた。幸田は文彦の肩に手を置いたまま、ズルズルと崩れ落ちる。
「小学生がいる……」
「……やっぱり変かな?」
笑いながらも戸惑ったように、文彦は聞き返した。教室のあちこちから呆《あき》れたような溜《た》め息が漏れる。
そうする間にも、授業の開始を告げるチャイムが鳴った。成り行きに注目していた教室中の生徒たちは、その白《しら》けた空気を引きずったまま、自分の席へと向かう。
「やからあんなアホ、止《や》めときゃええねん」
憮然《ぶぜん》とそう呟《つぶや》いた声が妙に耳に残って、敦樹《あつき》は振り返った。清子《きよこ》が今までの自身の行動を真っ向から否定するようなことを、妙に無機質《むきしつ》な声で言ったのだ。だが何かその口調《くちょう》には悲嘆を無理に押し殺すような生々しさがあり、敦樹は首を捻《ひね》った。
――問いただすべきことなのか。
その判断を下す間もなく、教師|白井《しらい》が出欠を取るために教室へやって来た。しかたなく敦樹は、自分の席へと向かう。視線《しせん》を転じると、すでに南美も席についていた。その南美は俯《うつむ》いたまま、じっとしている。
何か言葉をかけるべきかと敦樹は着席しながら思ったが、やはりこれも、どうにもその言葉が思いつかない。教壇《きょうだん》に上った白井はいつものごとく出席簿《しゅっせきぼ》を開くと、それを順に読み上げ始めた。そして力行の敦樹が名を呼ばれそれに返事を終えた時、南美はいつの間にかその姿勢のまま泣いていた。
敦樹はどうするべきかますます困惑する。だが行動するより先に、南美の様子《ようす》を見かねた佐里《さり》が立ち上がった。
「あの先生、すいません。楢橋《ならはし》さん体の調子《ちょうし》が悪いみたいなんで、保健室《ほけんしつ》に連れていきます」
出席を読み上げていた白井《しらい》は、初めて教室内の異常に気がついたようだった。一瞬《いっしゅん》だけ南美《なみ》を見る間があって、すぐに頷《うなず》く。
「分かりました。一限の宮田《みやた》先生には、私から伝えておきましょう」
「はい」
席を立ちながら答えた佐里は、俯《うつむ》いてしゃくり上げる南美を促す。南美は素直に席を立って、二人は教室をあとにした。残りの出席を読み上げた白井も『生徒間でこそ解決すべき問題』と判断したからか、口を挟まない。特に何も言わないまま教室を出ていく。
そしてその後の室内は、努めて無視を決め込む者と小声を潜《ひそ》め合う者とがない交ぜになった。ただ全員が冷たい視線《しせん》を文彦《ふみひこ》に向けていることに変わりはない。
その視線に文彦はヘラヘラと笑って返し、しかしどうしようもなくなって、背後の席の部活仲間・細野《ほその》を振り向いた。
「……こんなつもりじゃなかったんだけど」
しかし話しかけられた細野は答えず、代わりに『便所スリッパ』と悪名高い学校|上履《うわば》きを片足だけ脱ぎ、それで文彦の頭を一発しばいた。
教室はそれで、ひとまず静まった。
黒と朱色《しゅいろ》の絵の具を水入れに溶かしてかき混ぜたような夕方の空。それを見上げて歩きながら、文彦はまだ悩んでいた。
すでに授業を終え放課後《ほうかご》。今日は防災団の定期巡回があるので、部活には出ずに真《ま》っ直《す》ぐ事務所に帰ってきた。現在は剛粧《ごうしょう》対策時に戦いの場となる防除対策指定地域を、同じ歩課《ほか》である敦樹《あつき》と共に回っている最中である。ちなみに砲課《ほうか》の佐里や清子《きよこ》は、この時間は事務所で待機《たいき》していて、別の事務仕事を行っていた。
廃墟《はいきょ》の町を行く敦樹たち二人は、対策服を着、連装刀など一通りの装備を持って来ている。
――とは言っても、この巡回の本来の目的は昨日午前のそれとはまた違って、担当地域にある崩壊《ほうかい》しそうな建物や、道路の陥没などをチェックすることにあった。戦闘《せんとう》に関する装備類は、あくまでも用心である。
もちろん剛粧は群で移動するものばかりではない。予期せぬ遭遇《そうぐう》戦というのは、確率的に起こりえた。しかしそれは六甲《ろっこう》山地《さんち》に設置された|生体レーダーサイト《AVR》で事前に察知できる。実際の遭遇よりもかなり早い時点で、警報《けいほう》が出るようになっていた。
ちなみに、この定期巡回で敦樹たち|樋ノ口町《ひのぐちまち》防災団が受け持つのは、本来の持ち場である新幹線《しんかんせん》高架を中心とした地域である。下部が全《すべ》てコンクリートで埋められ陸上の堤防となっている高架橋を遠くに見ながら、文彦《ふみひこ》はポツリと呟《つぶや》いた。
「そんなに変なこと言ったかなあ……」
横でその呟きを聞いた敦樹《あつき》は、「うむ」と言い淀《よど》む。だんだん分かってきたのだが、文彦がしょげ返っているのはいわゆる『後悔』とは多少色合いが異なっていた。純粋に南美《なみ》やクラスメイトたちの反応が理解できず、それで悩んでいるようなのだ。
「――まあ確《たし》かに、何か双方で誤解《ごかい》というかズレがあるようには思うが」
「僕はちゃんと、僕の気持ちを伝えたいと思っただけなんだけど……」
「文彦は楢橋《ならはし》のこと、嫌いか?」
敦樹は振り向いてそう訊《き》く。一方の文彦は横に首を振った。
「そんなことはないよ。……でも南美ちゃんに魅力《みりょく》があるかないかっていうのは、問題じゃないんだ」
「つまり文彦が教室で言ったことを合わせて考えるとだ。友達はたくさん欲しいけれど、親友や彼女はいらないということか?」
敦樹の質問に、文彦は『自分でも分かりかねる』と言いたげな困った表情で首をかしげた。
――そこが問題点か。
敦樹は少々深刻な思いで、息をついた。
人間には普通、人に認められたいという願望がある。敦樹自身ですら――本来あまり人の評価が気になる質《たち》ではないが――防災団の一員として、自分もこの土地を守っているのだと認められたいと願っている。
しかし文彦には、それが全くない。
文彦は多くの人間に、乱暴に言えば誰《だれ》にでも友情を抱く。だが相手の側が文彦に友情を抱くかどうかは、全くどうでもいいのだ。
つまり双方向ではなく投げっぱなしの関係であり、しかもそれが普通ではないことを文彦は自覚していない。その一方通行は、例えるなら薬局の軒先で首を揺らして愛嬌《あいきょう》を振りまく人形と変わらない。告白に失敗した南美の状況は、いわば風に揺られる首振り人形へ律儀《りちぎ》にお辞儀を返してしまった通行人のようである、というのが一番近い。
そこまで考えて一瞬《いっしゅん》、敦樹は目眩《めまい》にも似た感覚を覚えた。
――何か、根本的に凄《すご》くおかしくはないか?
突然、そう感じる。
文彦のことを深く考えようとして、知らぬ間に虚無《きょむ》の深淵《しんえん》を覗《のぞ》き込んでしまっているかのような気分に襲《おそ》われた。分からないのではなく、文彦という存在自体がない。そんな感覚に晒《さら》されたのだ。
「敦樹ちゃんどうしたの? いきなり止まって」
そう文彦《ふみひこ》に問われて「ああ」と生返事しながら、知らぬ間に立ち尽くしていた敦樹《あつき》は、再び歩き始めた。
文彦も何か気まずくなったのか、しばらく二人は無言のまま歩く。
「……ねえ敦樹ちゃん」
再び文彦がそう口を開いたのはそれから三十分もあと、巡回路の折り返し点を過ぎた辺りだった。
「何だ?」
敦樹が問い返すと文彦は何か取っかかりを探すような声で、言葉を絞り出す。
「――僕たちってこんな仕事やってて、剛粧《ごうしょう》とも戦うわけだけど。敦樹ちゃんは『恐《こわ》い』と思ったことってない?」
「剛粧が恐いかっていうことか?」
疑問で返す敦樹に、文彦は頷《うなず》いた。しかし敦樹はその質問に関しては、「ないな」と淡々と答える。
「別に自慢したいとか、そういうつもりで言ってるんじゃないんだ。――だが剛粧はどこまで行ってもしょせん『獣《けもの》』でしかない。魔物《まもの》やお化けじゃないんだ。こちらが事前に情報を集めて、適切に行動すれば、被害なんてものは出るはずはないというつもりで、私はいる」
「でもそれは、敦樹ちゃんだからできるんだよ」
文彦はちょっと笑って言い、すぐに憂《うれ》うような表情を浮かべる。
「僕は駄目《だめ》だなあ」
「私は文彦のことを、そういう風には感じないけれどな」
これも少し意外な思いで、敦樹は答えた。
「文彦は割と平気で、剛粧の群にだって突っ込んでいく。――勇敢だと思う」
「そう言われると、何か照れちゃうんだけど。……でも剛粧対策は自分の身だけ守れればいいっていうわけじゃないしね。僕自身がどれだけ戦えても、仲間がやられることはある。それはやっぱり辛《つら》いよ」
今度は敦樹も、すぐには言葉が出てこなかった。文彦の言ったことは最近――幽霊剛粧《ファンタズマ》との遭遇以来、たびたび見るようになったあの夢を思い出させる。
「仲間か。……案外私は、それすらも平気なのかもしれない。目的があって、それを達成するためなら、命さえ足し算引き算できたんだ私は。――そんな自分に、今ごろになってゾッとしている」
「いや敦樹ちゃんは、ちゃんとみんなのこと考えてるよ」
慌てて文彦が言う。
「絶対、そんなことないって」
「まあ今は、仲間を守ることが剛粧と戦うことの第一の目的だからな。考えてみれば、恐いものなしだ」
敦樹《あつき》は誤魔化《ごまか》すように、そんな調子《ちょうし》のいいことを言った。文彦《ふみひこ》も調子を合わせて小さく笑ったが、しかし――
「敦樹ちゃんに比べて僕はもう、全然ダメなんだ」
なぜか他人《たにん》のことのような口ぶりで、文彦はそう呟《つぶや》く。
「僕は恐《こわ》いんだよ。本当は剛粧《ごうしょう》と戦うのも恐い。全部恐い。そして相手が克服できないものなら、記憶《きおく》は戦いの邪魔にしかならない。でも『それが恐い』ってことを忘れれば次にあった時は知らないものだから、必要以上の恐さはなくなる。だから忘れる――」
「忘れる?」
敦樹は問い返した。確《たし》かに敦樹にも都合良く忘れてしまいたいと思う出来事――剛粧に関するトラウマはあるのだ。
その事実を文彦に言おうとして、しかし、会話は突然打ち切るように終わった。
――早々と日は落ちた。そして建物の闇《やみ》の中に、何かがいた。
物音だったのか臭《にお》いだったのか。自分たちにとってさえ定かではない、わずかな変化。
それをほぼ同時に感じ取った敦樹と文彦は、それぞれ戦闘《せんとう》の態勢を取る。二人とも最小限の動作でゴーグルをつけ、その視界に暗視をかけた。
だが相手を発見するより先に、空気が鳴る。せいぜいその方角、――左側からということぐらいしか分からないまま、敦樹と文彦は同じ方向へ跳《と》んだ。
先ほどまでいたその空間に、巨大な質量が降ってくる。敦樹はその正体を見極めようと振り返った。しかし敵はすぐさま跳躍《ちょうやく》、すでにおらず、道路|脇《わき》の建物の屋上へ姿をくらます。
「見えたか!?」
敦樹は隣《となり》の文彦に問うが、その文彦も横へ首を振るばかりだった。
「視界の隅に影《かげ》が写った程度、かな。あれって――」
「幽霊剛粧《ファンタズマ》だ」
敦樹はそう断言し、敵の去った方を睨《にら》む。文彦の方は確信までは持ちかねるといった表情だったが、他《ほか》に可能性を思いつけず、息をついた。
「――だろうね。まだ警報《けいほう》が出てない、つまりレーダーに映ってないってことだもんね。ファンタズマの特徴の一つ、か。操《あやつ》る剛粧がいないなら出ないだろうっていうこっちの予想、ちょっと甘かったのかもしれないね」
その言葉に、敦樹は素早《すばや》く頷《うなず》く。
「ひとまずここを離《はな》れて高度虚物質技術《デイノス》を使う用意をしよう。生身じゃどうしようもない」
「分かったよ」
二人は同時に通りに沿って走り出すと、鉛筆大の金属棒――それぞれの登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》三本を取り出した。
「緊急《きんきゅう》通達! 摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》、複層《ふくそう》情報《じょうほう》結合《けつごう》の使用|要請《ようせい》」
敦樹《あつき》は指に挟んだ登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》に向かって告げる。しかし登録起動鍵は、いつものように反応を返さない。敦樹の要請を無視し、沈黙《ちんもく》したままだ。
「――まさか」
「そうか!」
文彦《ふみひこ》がようやく気がついて声を上げた。
「幽霊剛粧《ファンタズマ》はまだレーダーに映ってないから。僕らが剛粧《ごうしょう》と戦ってる証拠がないって判断されてるんだよ」
「この状況で、幽霊剛粧《ファンタズマ》と遭遇した証拠を採取して、中央事務所にかけ合ってもらわなくちゃならないってのか」
呻《うめ》くように敦樹は言った。だが高度虚物質技術《デイノス》とは、そういうものである。
敦樹はゴーグルの接触スイッチに触れ通信機能を起動すると、そのマイクが声を正確に拾うよう大きな声で告げた。
「六湛寺《ろくたんじ》中央へ緊急! 巡回中に敵性生物と遭遇し、攻撃《こうげき》を受けている。おそらく捜索中の幽霊剛粧《ファンタズマ》と思われる。ただ、|生体レーダーサイト《AVR》で捕捉《ほそく》できない性質上、こちらだけでデイノス使用の登録起動鍵検認が行えない。今からそちらに証拠の画像を送るので、至急、話を通して欲しい。あと地域の全防災団に警報《けいほう》を」
『本当か? 了解』
立ち上がって椅子《いす》を蹴《け》り飛ばしたような音と共に、当直の通信官は答える。
『すぐ手配する』
敦樹は敵の位置を確認《かくにん》するように背後を振り返り、さらに隣《となり》を走る文彦を振り向いた。
「ヤツは追ってきている。しかしこう一方的に動き回られたんじゃ、生身のこちらが圧倒的に不利だ。どこかこの近くで誘い込める場所ってないか? 少なくとも相手の姿を捉《とら》えないと、高度虚物質技術《デイノス》の申請もできない」
「それじゃあ、北に走って新幹線《しんかんせん》高架の下の通路に行こう」
その返答に敦樹は、自分たちの進行方向の少し左手に続く長大なコンクリート壁《かべ》を振り仰《あお》いだ。背後のどこかで、建物の踏み潰《つぶ》される音が響《ひび》く。
「分かった。急ごう」
敦樹はそう頷《うなず》き返し、通りから小道へと入った。
防除地区内の各高架橋建造物は、その下部が元々の橋脚だけでなく、完全に埋められてしまったものが多い。これは大量の剛粧が押し寄せた時、その流れを誘導《ゆうどう》するための仕切として機能させるためである。もっとも、そのために人間の通行までもが制限されてしまってはかえって不都合だ。そこでこの壁の下部には数百メートルおきに、人ひとりが腰を屈《かが》めてかろうじて通れる程の通路が開いていた。
二人は散々に小道を折れ、うまく後方からの追跡を翻弄《ほんろう》しながら、新幹線《しんかんせん》高架の下まで出る。のっぺりとした灰色の壁《かべ》に小さく開く穴。――胸まで程の高さしかない通路に、敦樹《あつき》たちは逃げ込んだ。
「どうだ、来そうか?」
先に通路に入った敦樹は、背後の文彦《ふみひこ》にそう訊《き》いた。小声が反響《はんきょう》する。
「足音は追いかけてきてたみたいだけど……」
自分たちの入ってきた南側の入り口へ方向転換しようとした文彦は、腰を打って小さく呻《うめ》いた。その直後、石に鉄杭《てつくい》を打ちつけるような大きな音が響《ひび》く。さらにすぐ三回ほど、爪《つめ》で引っ掻《か》くような不快な音。その度に音の源は、頭上をゆっくりと回っていく――。
「登ってる! 20[#「20」は縦中横]m以上あるコンクリートの垂直の壁《かべ》だよ!?」
「大声を出すな、文彦」
敦樹は鋭《するど》く言って、通路の反対側である北側の出口へ走った。出口の前で止まると身を低くして、同時にゴーグルのカメラを起動させる。幽霊剛粧《ファンタズマ》は一気に壁を越えたらしく、着地する足音が、その場に響いた。
ただ敦樹たちを見失ったことは確《たし》かなようで、その足音は躊躇《ためら》うように周辺を行き来する。通路出口からはまだ直接見えないが、頭を出して逆に発見される愚を犯したくない。敦樹は、しばし待った。
狭い通路の端で、二人は息を潜《ひそ》める。
そしてついに、こちらへ向かって歩行するその姿が、暗視のかかった敦樹の視界に入った。思ったよりも大きいそれは方向転換すると、自分の獲物《えもの》がどこに逃げたのかと、再び見当違いの方角を探し始める。だが――
非常時ゆえ急ぐというのに、敦樹は喉《のど》を塞《ふさ》がれたように無言とならざるをえなかった。背後にいた文彦もまた、言葉を失っている。
ようやく掠《かす》れた声で、文彦は敦樹に訊いた。
「……あれ、幽霊剛粧《ファンタズマ》だよね?」
その口を敦樹は手で塞ぎ、通信を繋《つな》ぐと慎重に言う。
「……中央事務所へ。済まない、先ほどの警報《けいほう》は誤報だ」
『どういうことだ――? おいどうした!?』
通信官はそう問い詰めるが、敦樹は一方的に通信を切った。口を塞がれた文彦も驚《おどろ》きの目で敦樹を見てくるが、敦樹はそれに答えないまま通信先を繋ぎ直す。
「――佐里《さり》?」
『はい、ちょっと待って。いま何か警報が中央事務所から出てて――。敦樹の方は大丈夫?』
「それは私が出して、いま取り消した。幽霊剛粧《ファンタズマ》と遭遇したが、処理は内密に進めたい」
『内密って……』
驚《おどろ》いたように佐里《さり》が聞き返す。
『私たちが?』
「幽霊剛粧《ファンタズマ》の正体を、これからそっちに画像で送る」
必要最小限に言って、敦樹《あつき》は先ほど中央事務所に知らせることを拒否したその画像を、佐里へと送信した。数秒の間、佐里は完全に沈黙《ちんもく》し、そして慌てて訊《き》いてくる。
『……ええ? これって。――どういうこと?』
「詳細は分からないが、この画像を他《ほか》の防災団の人間に見せることはできない。ことが大っぴらになる前に、私たちの手で始末をつけたい。佐里から直接『アイティオン』に事情を説明してデイノスの使用許可を取ってくれ」
『話は通すけど……高度虚物質技術《デイノス》を使ったって人間が戦うのは無茶《むちゃ》よ、敦樹!』
暗視効果のかかった敦樹の視界。
その中に写るのは、異世界から渡ってきたことを証明する卵殻《ケリュフォス》を身に纏《まと》った、――多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》だった。
「何で多脚砲台がこんなところでウロウロしてて、しかも僕らを攻撃《こうげき》してくるの?」
口元を塞《ふさ》いでいた手をようやく離《はな》して貰《もら》えた文彦《ふみひこ》は、まず真っ先にそう訊いた。必死に感情を押し殺した囁《ささや》くような声。だが敦樹としては、ひとまず押し黙《だま》るしかない。
――道理で清子《きよこ》が、ファンタズマの正体を見きわめるために回りくどいことをしようとするわけだ。
その理由にようやく敦樹も納得がいった。
高度虚物質技術《デイノス》も多脚砲台も東日本――福島《ふくしま》政府が製造したという認識《にんしき》で、これまでの日本はやって来ている。その製造物が、――いやそもそも何者かに『造られた存在』が、世界を渡った証拠である卵殻《ケリュフォス》をつけていては、困るのだ。
「文彦――」
声をかけて、人差し指と中指を立てた右手で耳と左手の甲を順に触るブロックサインを敦樹は出した。中央事務所との通信を完全に切れという意味だった。
戸惑いの表情を浮かべながらも、文彦は通信装置でもあるゴーグルを操作《そうさ》し、その指示に従った。
「……言う通りにしたけど、これ地域団長の小早川《こばやかわ》さんに怒られるよ? それに応援を呼んだ方がいいんじゃないかな。あれが多脚砲台ならどこかで操作してる人がいるわけだから、そっちだって――」
ファンタズマの動きを観察しながら少し考え込んでいた敦樹は、その文彦の言葉を遮った。
「ファンタズマに操縦者《そうじゅうしゃ》はいない。それは私が保証する。そして卵殻《ケリュフォス》をつけた多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》は、大っぴらにはできないものだ。文彦《ふみひこ》と私は、見てはいけないものを見てしまっている」
「……それは分かるよ。僕も知ってるんだ」
「知ってる、って?」
「多脚砲台や高度虚物質技術《デイノス》を作ってるのは福島《ふくしま》政府じゃない」
その返答に敦樹《あつき》は無言で文彦を振り向いた。しかし文彦は暗い表情のまま、頷《うなず》く。
「そう、知ってる。日本の東西を輸送船《ゆそうせん》が行き来してるけど、その積《つ》み荷はデイノスじゃない。――でもそれがばれると結局はみんなが困るから、敦樹ちゃんは僕たちだけであれを倒そうとしてる?」
またしばらく考え込んで、敦樹は意思のこもった表情で頷いた。
「その通りだ。いま全《すべ》てを話す余裕はないが、これは守られなければならない秘密なんだ。文彦の力を貸して欲しい」
「うん、それじゃしょうがないか」
文彦はフニャリと苦笑いする。
「――ただアレってこれまでの様子《ようす》からすると、防災団の多脚砲台とは性能段違いなんでしょ? 僕の方から敢《あ》えて言わせてもらうなら、準備が整ってないのに『戦闘《せんとう》』っていう判断は、らしくないよ敦樹ちゃん」
敦樹は視線《しせん》だけで自覚していることを告げる。そして無言のまま待った。
程なくして、佐里《さり》からの通信が入る。
『デイノスの使用許可――いま取れたわ。あまり無茶《むちゃ》しないで、敦樹』
「分かっている」
敦樹と文彦はそれぞれの登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》を起動すると、互いに目配せする。そして身を隠していた通路を抜けて、まだ敦樹たちを捜索中である『ファンタズマ』へ向かって飛び出した。
「私は右手から先に接近する! 文彦は私が気を引いてる間に逆側から回って、一気に猛攻をかけてくれ」
「分かったよ」
敵であるファンタズマを300mほど向こうの道路正面に置き、右側をコンクリートの高い垂直|壁《かべ》、左側が民家の建ち並ぶ住宅街という状況だった。
使用する『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』の加速に任せ、連装刀を構えた敦樹は真正面からファンタズマに肉薄《にくはく》する。一方、徒歩の文彦は、住宅街へ続く左手の脇道《わきみち》に急いで入る。
二人に気づいたファンタズマは素早《すばや》く全身の向きを転換、接近する敦樹を正面に捉《とら》えた。『潜伏《せんぷく》行動は失敗』と判断したのか、これまでのように姿を隠すのはやめ、一直線《いっちょくせん》にこちらへ近づいてくる。
――火器類《かきるい》の調査《ちょうさ》が、まず最優先《さいゆうせん》か。
敦樹《あつき》は砲塔の状態に注目する。防災団の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》には必ず装備される小型の連射砲は、最初から存在していないようだった。肝心の主砲も、卵殻《ケリュフォス》の厚い殻で全体が覆《おお》われている。砲口が塞《ふさ》がったままであるから、発射不可能であると判断して良さそうだった。
そして本体の前面には、地面に引きずられた左右のドーザーブレードがある。付着した卵殻《ケリュフォス》のせいか収納はされず、ダラリと垂れ下がっていた。だが唯一の武器としてこれが生きていることは、前回の戦闘《せんとう》からも判明している。慎重に対処を、と敦樹が自分を戒《いまし》めた瞬間《しゅんかん》、右のブレードが敦樹を打とうと一閃《いっせん》した。速い。
――横には避《よ》けられない。
想像以上の強力な一撃《いちげき》を繰《く》り出され、背中に嫌《いや》な汗が噴《ふ》き出る。ファンタズマの攻撃は人間の反射神経のレベルを超えていた。敦樹はほとんど賭《か》けで、その腕の付け根側に突進した。連装刀を最も短い一号刀にして身を低くすると、そのままファンタズマの下面へ潜《もぐ》り込み、斬《き》りつける。
だが今度は、ファンタズマの右側面にある三本の足先が、敦樹を圧殺せんと襲《おそ》ってきた。もっともこちらは以外と速度がない。敦樹が身を屈《かが》めたままさらに加速すると、捕まることなくファンタズマの腹の下をすり抜けることができた。
――脚回りに何らかの障害を起こしている?
敦樹はファンタズマの後方へ離脱《りだつ》するのと同時に、ひとまず制動をかけた。その間《かん》にふと右手の一号刀に目をやって、舌打ちする。刃《やいば》が欠けて刀身の半分ほどまでヒビが入ってしまっていた。
一方ファンタズマは、敦樹に向かって方向転換を始める。しかしそのタイミングで、側面に回った文彦《ふみひこ》が民家だった廃墟《はいきょ》の屋根から飛び降り、ファンタズマのすぐそばに着地した。そのまま『デイノス=調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》』を仕込んだハンマーで、左側の三本ある脚の内、一番後ろの脚を打つ。外側を覆っていた卵殻《ケリュフォス》が砂利のように崩れ、元々の装甲が露出《ろしゅつ》する。
『信管作動!』
文彦はそう告げた。だが不可解なことに、本来の爆発的《ばくはつてき》な振動|破壊《はかい》は起こらない。文彦はすぐに飛びのいて、ファンタズマとの距離《きょり》を取る。
「どうした、文彦?」
『装甲が逆振動して、攻撃打ち消された――。こいつ、デイノス使った攻撃への対策がされてるんだ!』
スピーカーから漏れた驚愕《きょうがく》の声に、減速と進路変更を終えた敦樹は告げた。
「文彦もういい。あとはもう一度、私が一撃離脱をかける。その間に文彦は後退してくれ。私も文彦も、直接武器が効かないっていうんじゃ、攻撃方法を考え直すしかない」
『建物崩して下敷《したじ》きにするとか? 分かったよ』
文彦はすぐにその場から離《はな》れた。幸いファンタズマは、動きの早い敦樹の方に集中している。
敦樹《あつき》はファンタズマの『腕』の範囲《はんい》には入らないようにしながら、方向転換する相手のさらに後方へ回り込む。さすがに小回りでは、敦樹の方が上だ。しかし――
――攻撃《こうげき》は、無意味か。
先ほどの一号刀の無惨《むざん》な姿を思い出す。今は四号刀に持ち替えた連装刀を手に、敦樹はその場から一気に離脱《りだつ》した。幸い文彦《ふみひこ》は、すでに逃げおおせている。――敦樹としては口惜《くちお》しいが、今はそうするのが最良だった。
『敦樹ちゃん、凄《すご》い勢いでそっちを追ってきてるよ。気をつけて。後退行動の段取りはアドリブだから、タイミング合わせてね』
高架に隣接《りんせつ》した道を西へ走る敦樹は、後方を確認《かくにん》しながら「了解」を告げる。確《たし》かにファンタズマは、敦樹のあとを追ってきていた。
様子《ようす》を見るため一旦《いったん》北へ進路を変更する。しかしファンタズマはなおも正確に追跡してくる。この程度で撒《ま》けるはずもないが、同時に何か、奇妙な感覚がつきまとった。そしてほとんどひらめきのように、敦樹はその事実に思い至った。
――まさかコイツ、ずっと私個人を追っていたのか?
敦樹とファンタズマの遭遇は、昨年冬の長野県《ながのけん》山中に遡《さかのぼ》る。そこで敦樹の仲間は全員がファンタズマに殺され、敦樹だけが唯一逃げ延びた。だがファンタズマはその後、一年もかけて討ち漏らした逃亡者を追ってきたのだ。先ほどの戦闘《せんとう》での文彦に対する無関心ぶりを考えれば、ありえない話ではない。少なくとも今、ファンタズマは執拗《しつよう》に敦樹のあとを追っている。
ならば自分は、どうするべきか。
黙考《もっこう》する間に文彦から次の通信が入った。
『最初の誘導《ゆうどう》地点まで下がったよ、敦樹ちゃん。不意打ちできる場所に潜《もぐ》り込んだから、ここまで誘導して』
「いや、私はコイツを引き離《はな》して時間を稼《かせ》ぐ」
自分の出した答えに息をつきながら、敦樹は逃走の進路を突然東へ――難侵入《カタラ》地域の境界線《きょうかいせん》とは正反対の方向へと変えた。
巨体ゆえ突然のコーナーを曲がり損ねたファンタズマは、街路の角に建つ廃墟《はいきょ》ビルに突っ込む。しかしその姿勢は揺らぐことがなく、ビルの壁材《へきざい》を跳ね飛ばしながら敦樹のあとをなおも追ってきた。
「――文彦は、佐里《さり》たちと合流してくれ。おそらく佐里なら、ファンタズマに対する有効な手段を考えられる」
『だったら敦樹ちゃんも――』
「コイツは私を追っている。うまく誘導して、時間を稼ぐ」
『無謀《むぼう》だよ、一人でただ逃げるだけじゃ、すぐ追いつかれるって』
いつになく強い声で、文彦は言う。しかし疾走する敦樹は無言のまま。
おそらく文彦《ふみひこ》の言うことは正しい。実際に『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』で精一杯の速度を出している今も、後方のファンタズマは確実《かくじつ》に追尾してくる。小回りを利かせて引き離《はな》しても、すぐに直線《ちょくせん》で巻き返されるのだ。敦樹《あつき》は舌打ちする。
――厄介《やっかい》な。
そしてそんな追跡劇《ついせきげき》に痺《しび》れを切らせたのは、ファンタズマの方が先だった。
大きく跳躍《ちょうやく》して敦樹の頭上を跳《と》び越えると、一気に前方に躍《おど》り出た。そこはちょうどオフィスビルのなれの果てに左右を挟《はさ》まれた、狭い一本道である。そこを塞《ふさ》ぐように、ファンタズマは車両を傾けた。
だが敦樹の方も、止まるつもりはない。ファンタズマが戦闘《せんとう》の態勢を取るよりも早く、連装刀を五号刀の状態にして脚に斬《き》りつけ、その横を走り抜けた。だがその結果は今度も、五号刀の刃《やいば》が無駄《むだ》にかけただけだった。ファンタズマへのダメージは、厚い卵殻《ケリュフォス》に一直線の傷をつけたのみである。
元々の装甲に卵殻《ケリュフォス》のかぶさった二重装甲の敵である。鋼鉄《こうてつ》の刃では、何のダメージもない。
――接近戦に持ち込んで関節を狙《ねら》わないことには、どうにもならない、か。
単純にファンタズマを自分一人で倒せるとは、敦樹自身も思わない。しかし自分の体力がある内に相手の脚の一本でも落とせば、追跡の速度は落ちる。より長時間の時間|稼《かせ》ぎができるはずだった。
そう判断した敦樹は追いすがろうとするファンタズマと対峙《たいじ》すべく、制動をかけてスピードを落としながら、後方に向き直った。
――主砲が使えず脚回りに障害があるなら、戦いようはある。
だがその楽観をまるで読んだかのように、ファンタズマは両腕で主砲を覆《おお》っている卵殻《ケリュフォス》を挟み込んだ。表面にヒビが入り、下から傷一つない主砲が姿を現わす。顕《あら》わになったそれが機能《きのう》するだろうということは、外観を見ても察することができた。
ファンタズマはより確実に敦樹の逃走を防ごうと、主砲の使用を決めたようだった。
「……出し惜しみしていたとは、な」
相手の攻撃《こうげき》は、どこまででも届く。こうなってしまった以上、もはや背を向けて逃げるという選択はない。
停止してファンタズマと対峙する敦樹も、覚悟を決めるしかなかった。
前進する敵を前に、敦樹は連装刀を回転させた。最も重い六号刀の状態で、大きく振りかぶって構える。以前|清子《きよこ》にも見せた、空中に飛んで上から関節を狙う技の構えである。
ぶっつけ本番、しかも事前に敦樹が想定していた『ファンタズマ』と、いま目の前に迫るそれの体型には、大きな隔たりがある。しかしそれでも、やるしかなかった。アドリブでも何でも入れてその脚を折る。もしくは攻撃能力を奪うべく左右のドーザーブレードか主砲を潰《つぶ》すしかない。
なおもゆっくりと、ファンタズマは接近してくる。そして振り上げられたファンタズマの両腕が敦樹《あつき》に届く位置――。
瞬間《しゅんかん》、敦樹は体を沈め、『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』で一気に加速した。まずは斜めに一直線《いっちょくせん》。主砲の射線軸《しゃせんじく》をかわしたまま、側面に接近する。
ファンタズマが向かって右のドーザーブレードを横なぎに払ったのに合わせ、振りかぶった六号刀を一気に振り下ろす。敦樹の体は一転して空中を舞《ま》い、直後に風の轟音《ごうおん》が体のすぐ下を通過した。
しかし気にせず真下に六号刀が来たタイミングで一号刀に変換、保存された角運動量によって一時的に速度が増す。さらにもう一度。敦樹は完全にドーザーブレードの付け根の高さまで、体を浮かせた。
――行ける!
間近に見える複雑な構造の関節へ向かって、敦樹は六号刀を思い切り振り下ろした。
重量に加え、回転の勢いまで加わった斬撃《ざんげき》に、刃先は中ほどまで食い込む。しかし――返ってきた手応《てごた》えから切断にはパワーが足りていないことを、敦樹は感じた。刃《やいば》は関節の構造に挟まって止まり、六号刀は高い音を立てて途中から折れた。
「クッ」
敦樹はすぐに三号刀に持ち替え、減速した回転に合わせファンタズマの上へ着地する姿勢に入る。だがその時になってようやく、事前に想定しようのなかった攻撃が自分に迫りつつあるのを敦樹は横目で捉《とら》えた。ファンタズマは高速で砲塔を一回転させ、主砲を打ちつけようとしていたのだ。
体はまだ空中である。避《よ》けるための動作はできない。
敦樹は両腕で顔面をガードする。もはや反射的な動作でなければ間に合わない距離《きょり》だった。
回転した砲塔の砲身に強打され、敦樹は近くにあったビルへと叩《たた》きつけられた。ガラスはすでに撤去《てっきょ》されていたが、随分と丈夫な窓の支柱を背中で割り折る羽目《はめ》になる。そのままコンクリートの露出《ろしゅつ》した床を転がり、壁《かべ》に激突《げきとつ》する。呻《うめ》く声すら出なかった。
これが生身であれば、即死だっただろう。敦樹は『デイノス=構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』を使用しているおかげで、いくつかの打撃をうまく、そして運良く『力場』の発生部分で受けることができたのだ。
しかしその衝撃《しょうげき》は、確実《かくじつ》に敦樹に達していた。
いくつかの記憶《きおく》がコマを飛ばしたようになっているのは意識《いしき》が飛んだ証拠であるし、関節の捻《ねじ》れるような痛みは耐え難《がた》い。
だが敦樹はすぐに首だけを起こして、ファンタズマの姿を確認した。敵の存在位置を把握できないことは即、自身の死を意味する。いわば本能に突き動かされた行動だった。
暗視のかかった画像の中でファンタズマの砲塔が、横たわった敦樹自身と同じ高さに見える。どうやらここは、ビルの二階のようだった。だが何か視界に異常を感じて、敦樹《あつき》は必死に目をこらした。その正体に気づき、再び深い焦燥感《しょうそうかん》にかられる。
ファンタズマを映し出す明るい風景。だがそこに何本も横方向の黒い線《せん》が映り込んでしまっていた。先ほどの衝撃《しょうげき》で、ゴーグル内の表示用|集積《しゅうせき》液晶が破れてしまったのだ。
――安かないんだぞ。
誰《だれ》に対するものか分からない愚痴《ぐち》を考えながら、敦樹はゴーグルを首まで下ろした。見えるのはただ、夜の闇《やみ》でしかない。そして確実に近づいてくる、重々しい足音。
敦樹は動かない体のまま、ズボンのポケットに入れた閃光手榴弾《せんこうしゅりゅうだん》を探る。とにかく光がないと、戦いようがなかった。ただし直接光が目に入れば、敦樹の目の方がやられる。
――照明の代わりにするなら、ここから地上に落として……
そこまで考えた時だった。
「……敦樹ちゃん、無事?」
黒い影《かげ》の塊が傍《かたわ》らにいて、小声でそう訊《き》いた。
「佐里《さり》と合流しろって……言ったはずだ」
文彦《ふみひこ》は指示を守らなかった。敦樹は切れぎれの言葉で詰《なじ》るように言う。しかし暗くて表情の分からない文彦は、苦笑するような声で答えた。
「だからって放っとくと、敦樹ちゃん死んじゃうよ」
「そう言う文彦にしても……勝算があるわけじゃないだろう」
「まあね。でもしょうがないよ、そういう時もあるって。誰《だれ》かがアレ、止めなきゃね」
「文彦……!」
慌てたように敦樹は言って、その靴に手をかける。
「無茶《むちゃ》だ。頼む、やめてくれ……。こんなんじゃ、あの時と一緒《いっしょ》じゃないか。もう私は嫌《いや》なんだ……誰かが死ぬのは」
「うん、――さっき敦樹ちゃんは平気かもって言ったけど、そんなことないよね。そしてそれは、誰だってそうなんだよ」
文彦が小さく呟《つぶや》くと、その周りに六本の積《つ》み木のような奇妙な形をした柱が現れ、暗闇《くらやみ》の中に光を放った。『デイノス=可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》』の力場存在位置を着光させているのだ。
「僕と敦樹ちゃんは、同じ防災団の同じ歩課《ほか》で。だから敦樹ちゃんしか知らない僕の記憶《きおく》があるんだ。――それは僕自身の一部で、失うことは体の一部をもぎ取られる痛みと同じなんだ。だから失えない」
「何を言ってる……。私の文彦の記憶? それで文彦自身が死ぬようなまねをしてどうする」
敦樹は何とか上体だけ起こしてそう訊《たず》ねるが、文彦は横へ首を振った。
大人《おとな》びた乾いた口調《くちょう》で、文彦は言った。
「僕はどうせ空っぽになっていく存在だから。僕が振りまいて残したものだけに、僕の意味はあるんだ。じゃあね」
「どういう意味だ、待て……文彦《ふみひこ》!」
止める声を無視し、文彦は敦樹《あつき》の崩した窓から表に飛び降りた。敦樹は這《は》いずってそのあとを追い、窓際まで行く。体はほとんど動かなかったが、幸い『デイノス=構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』が動作の助けとなった。
「文彦……」
敦樹は呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた。
なぜいつも、こうなってしまうのか。
だが文彦にしても、無為な戦いをしに来たわけではなかった。
六本の『可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》』を一列に並べて一枚の壁《かべ》にすると、ファンタズマの進路を塞《ふさ》ぐ。かと思うと、今度は分離《ぶんり》して六つの力場を中央で折り畳《たた》んだ状態で突進させ、その足下を掬《すく》う。
敦樹がある程度状況を限定し、予測を立てて避《よ》けるしかなかったファンタズマの動きに、文彦はきちんとついていくのだ。そして手に持つハンマーでの攻撃《こうげき》のチャンスを作るため、足下を崩すことに集中している。
「文彦! ファンタズマは主砲が使用できる。気をつけてくれ」
何とか体を動かそうと、痺《しび》れた感覚を取り戻そうと努力しながら、敦樹はそう叫んだ。文彦は「分かってる、でも先に」と叫び返す間にも、階段状に組んだ可変空間装甲を駆け上がる。文彦は、六号刀を斬《き》り込んだ関節を狙《ねら》っているのだと、敦樹も気づいた。
文彦の『デイノス=調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》』による攻撃は、ファンタズマ自身の表面を覆《おお》う特殊な装甲により打ち消されてしまう。しかし敦樹の打ち込んだ六号刀の破片は、切断には至らなかったものの間違いなく内部まで達している。それを介して攻撃を加えれば――。
文彦がファンタズマの左腕の付け根に、ハンマーを叩《たた》き込む。
「信管作動!」
六号刀の破片ごと何もかもが吹き飛び、耳をつんざくような重い音がその場に響《ひび》いた。
ファンタズマのドーザーブレードはゆっくりと捻《ねじ》れ、地へと落ちた。文彦は反撃を受けぬようにだけ注意して地上へ飛び降り、一旦《いったん》距離《きょり》を置いて自分の前に『可変空間装甲』を集める。
――もしかして、勝てるのか。
調子《ちょうし》良くそうまで考えた敦樹は、しかし次の瞬間《しゅんかん》、自分を呪《のろ》った。
文彦を優先《ゆうせん》して排除すべき脅威《きょうい》であると悟ったファンタズマは、主砲の照準を文彦へと合わせ、ついに撃《う》った。意図を悟った文彦自身は避けたが、それが直接当たった『デイノス=可変空間装甲』の三本が、脆《もろ》く崩れ落ちた。そのまま機能不良を起こし、消滅する。
「それ以上|無茶《むちゃ》をするな、文彦!」
「無茶は元々――」
文彦はハンマーを構える。だがたったそれだけの動作よりも速く、ファンタズマは動いた。今までが何だったのかと思うような、目で追えない動きだった。その片側の脚の一本で、ファンタズマは文彦《ふみひこ》を跳ね飛ばす。
まるで何か、非現実的な光景でも見ているような気分だった。文彦は人形のような不自然さで空中に飛び、道路に落ち、そのまま転がる。
「文彦!」
そしてファンタズマはさらに最後のとどめを刺すべく、グッタリと動かない文彦の方へと主砲を向けた。
片手で崩れた窓枠に掴《つか》まったまま、敦樹《あつき》は額《ひたい》に手を当てた。体は動かない。動いたところで全《すべ》てが間に合わない。しかし。
――何か方法はあるはずだ。何か。
奥歯を噛《か》みしめて顔を顰《しか》めた敦樹は、突然あることに気がついて顔を上げた。
敦樹や文彦がファンタズマと戦闘《せんとう》するのは、これが初めてではない。前回の剛粧《ごうしょう》対策で――完全に翻弄《ほんろう》されただけだったが――ファンタズマと遭遇している。
あの時はまず敦樹がいて、そこに文彦がやってきた。つまり現在の状況と変わらない。人間二人とファンタズマの戦力差は圧倒的だった。
それではなぜ、以前の戦闘でファンタズマは逃げたのか。
あの時ファンタズマは、互角以上の戦力を持つ『脅威《きょうい》』に照準されそうになっていた。そしてそのタイミングで、不利と判断して逃げ出したのだ。
敦樹は首にかけたゴーグルの通信を繋《つな》いで、それに向かって大声で言った。
「佐里《さり》! 聞こえるか」
『無事なの、敦樹? 文彦くんは――』
「佐里、パリカリアをこの場所に投下してくれ。それでこの戦闘は終わる」
わずかばかりの間があって、全《すべ》てを察した佐里は呟《つぶや》く。
『――そういうことなの!? 分かった。すぐそっちに送る。でも完全に機能制限は解けないし遠隔《えんかく》操作《そうさ》だから、ハッタリにしかならないのは覚悟しておいて』
「分かっている。もしこれが失敗なら、その時は――」
何とか立ち上がる敦樹の通信に、今度は清子《きよこ》が割って入ってきた。
『――文彦どないなっとんねん。敦樹、ウチも二十四式、そっちに出す!』
「駄目《だめ》だ!」
強く頑《かたく》なに、敦樹は怒鳴った。通信の向こうで、清子が絶句するのが分かる。
「……済まない。だが下手《へた》な手を打って、無駄に戦力を失いたくないんだ。ここは佐里に任せてくれ」
そう告げながら、敦樹は夜空を見上げた。ほぼ予想通りの理想的な位置に、縦横《じゅうおう》の光が走る。そしてそれが急速に一つの姿をはっきりとさせた。土中に潜《もぐ》り込んだ虫のように丸められた六本の長い脚と、それをクリップのように挟んだクレーンつきのハンガー。空間格納されていたパリカリア――多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の戦略|輸送《ゆそう》形態がそこに現れた。
その姿が確《たし》かなものになった瞬間《しゅんかん》、ハンガーは大きく上下に開き、パリカリアを高さ20[#「20」は縦中横]mの空中に放り出して消える。そしてパリカリアは大きく六本の脚を伸ばすと、建物の乱立する市街地へと自由落下を開始した。
途端《とたん》、地上にいるファンタズマの砲塔が慣性《かんせい》さえ感じさせない素早《すばや》さで反転する。そしてその主砲の先端が、避《よ》ける術《すべ》のない空中のパリカリアへと向けられた。
「佐里《さり》、狙撃《そげき》される!」
『大丈夫――』
答えが返るより早く、地上で待ち受けるファンタズマの強荷電粒子砲が連射された。光の束は落下中のパリカリアに到達する。しかしその寸前、伸びた光の線《せん》は不自然な軌道を描いてパリカリアから逸《そ》れ、雲と星空の広がる夜の虚空《こくう》へと吸い込まれていった。
一方パリカリアの側も、三発ほど撃《う》ち返す。しかしこの攻撃もファンタズマのそばで軌道が逸れ、当たりはしなかった。
肉眼では見えないが、双方とも周囲に磁気チューブの渦《うず》を展開しているのだ。そのせいで主砲から発射された粒子の塊が、直進しない。
大音を立てて、パリカリアは着地する。衝撃《しょうげき》を吸収するように六本の脚をせわしなく踏み換える一方、砲塔と主砲は微動だにしない。パリカリアは佐里による遠隔《えんかく》操縦《そうじゅう》に合わせて、照準を正確《せいかく》にファンタズマへと合わせている。
双方静止して数秒。
撃っても当たらないことは、先ほどの戦闘《せんとう》で証明済みである。どちらも手詰まりだった。
だが佐里のパリカリアには、相手より圧倒的に有利な条件が一つだけあるのだ。それは『操縦者』の有無である。
敵であるファンタズマはその頭脳となるべき存在を欠いており、そのことで自己戦力を相当に低く評価している。――その確信のみが、敦樹の切り札だった。
『敦樹《あつき》、追い払うわよ』
「……ああ」
敦樹は佐里の通信に答えた。ここで逃せば、ファンタズマは態勢を立て直し、再び襲撃《しゅうげき》してくるだろう。だが今は、負傷した文彦《ふみひこ》の処置が先だった。
『それじゃ、やる』
佐里が告げるのと同時に廃墟《はいきょ》に散った埃《ほこり》――正確には鉄分を含む細かなゴミが、宙に舞《ま》って薄《うす》く発光する。それは螺旋状《らせんじょう》の模様を作り、その上をいくつもの小さな青白い放電が、真《ま》っ直《す》ぐ走る。強荷電粒子を誘導《ゆうどう》するための磁気チューブが、ファンタズマのいる位置へ向けて展開されているのだ。
実質的にはあまり意味のない操作《そうさ》だった。しかし攻撃《こうげき》の意思は、これで表明できる。そしてファンタズマはまるで足し算・引き算のような単純さで敦樹《あつき》を諦《あきら》めると、前回と同じく逃走を開始した。
パリカリアは去ってゆくファンタズマを主砲で牽制《けんせい》する一方、ゆっくりと倒れている文彦《ふみひこ》に近づいていく。
『敦樹、病院まで搬送するから、文彦くんと一緒《いっしょ》に乗って。私たちは途中で合流する』
敦樹は苦労して意識《いしき》のない文彦を担ぐと、パリカリアの上に運んだ。砲塔上は、人ひとりを寝かせるのに十分なスペースがある。そこに文彦を横たえ、佐里《さり》に移動を開始するよう告げる。日の落ちた暗い道を、ライトを点《とも》したパリカリアが六本の脚で歩行を開始した。
あまり速度は出ていないが、代わりに脚部で完全な衝撃《しょうげき》吸収制御を行っている。歩行による揺れはほとんどない。
敦樹はパリカリアから落ちないように気をつけつつ、砲塔横の車体に下りる。その場で身を屈《かが》めると、急いで後部のカーゴを開いた。そして中から応急|医療《いりょう》セットを取り出し、再び砲塔へ上る。
[#挿絵(img/basileis2_160.jpg)入る]
まずは手順通り、敦樹《あつき》は文彦《ふみひこ》の口元に耳を近づけ呼気を確認《かくにん》した。数度目の確認でもあり、今回も緊急《きんきゅう》の問題はないと判断すると、次に医療《いりょう》セットからブレスレットのような輪《わ》っか状の装置を取り出す。そしてそれを文彦の手首に嵌《は》めた。勝手にスイッチが入り、血圧と脈拍の測定が始まる。
結果が出るまでの間に文彦のヒビの入ったゴーグルを頭から外すと、傷口を蒸留水《じょうりゅうすい》で洗浄し、医療用のスプレーをかけていく。容器の先端から噴出《ふんしゅつ》されたムース状の泡が、これで傷を止血・殺菌してくれる。
文彦はファンタズマの一撃《いちげき》を、できる範囲《はんい》で避《よ》けようとしたらしかった。腕と脇腹《わきばら》を骨折しているが、何とか命に関《かか》わる様子《ようす》はない。ただそのあと意識《いしき》を失い、受け身すら取れないまま地面に叩《たた》きつけられた。顔と体の左前面を中心に、擦《す》り傷と打ち身による痣《あざ》が結構|酷《ひど》い。敦樹は無言のまま、傷を一つひとつできる範囲で処置していく。
外傷として見ることのできる部位が一通り終わると、一旦《いったん》先ほどつけたブレスレットに目をやる。脈拍を告げる電子音は、一定のリズムを刻んでいた。血圧は低いが、安定している。
「あとは病院についてから、か……。変なところを打ってなきゃいいが」
「大丈夫、と、……思う」
意識が戻ったらしく、うっすらと目を開けた文彦がそう答えた。
「……骨を折ったところ以外、体が、重い感じは、しないから。あと敦樹ちゃんも、ほっぺたから……血が出てる」
「私はあとでいいさ。他《ほか》には?」
「傷口が……熱《ねつ》っぽいくらい。それと……肩のところ、服が血で気持ち悪い」
「それは我慢してもらうしかないな。さすがに替えがない」
額《ひたい》にできた擦《す》り傷から出た血だろう。赤黒く染まった文彦の対策服を見て、敦樹は溜《た》め息《いき》をついた。その息が白い。
夜の空気の寒さをようやく自覚した敦樹は、すぐに立ち上がるともう一度車体後方のカーゴまで行き、毛布を取り出して文彦にかぶせた。
「薬もいろいろあるが、こういうケガならあまり不用意に使いたくない。病院にはすでに連絡が行っている。あと七、八分ほどで到着するはずだから我慢してくれ」
「……うん」
小さく頷《うなず》いて、文彦は目を閉じる。
「おい大丈夫なんか、文彦!!」
パリカリアの進行方向から清子《きよこ》の声が上がった。見ると道の真ん中に清子と佐里《さり》の二人がいて、こちらへ走ってくるところだった。二人は一旦、歩行を続けているパリカリアの後ろ側に回ると、はしごに取りついてそのまま車体の上まで上ってきた。
「どないなっとんねん!」
清子《きよこ》は敦樹《あつき》に食ってかかる。この一時間ほどの出来事について、不完全に情報から遮断されたのだから、その怒りと苛立《いらだ》ちは理解できた。しかもこの結果である。
ただ敦樹自身も疲れていて、何が説明でき、何を言ってはならないか、正確《せいかく》に判断する自信がなかった。
「あとでまとめて説明する」
そう一言だけ、短く答える。
清子は敦樹を睨《にら》みつけたまま、文彦《ふみひこ》の毛布をめくった。その目に血の赤が飛び込んでくる。
「文彦ォ。何やっとんねんお前は。……人のことはコロッと忘れるくせに、そうかと思たら今度は勝手に命がけかいな。どうなっとんねん」
「……ゴメン、キヨちゃん」
「黙《だま》れや。ゴメンで済むんか……死んでも大丈夫なんか……。ホンマ、どういうつもりやねんお前は……」
涙目の清子が、文彦の襟首《えりくび》を持って揺さぶる。
「……それで済むと思っとんのか! 生き返れー!!」
「いや別に死なないから。取《と》り敢《あ》えず落ち着いてくれ」
困ったように、敦樹は清子を止めた。
「とにかく重傷だが、命に別状はない。――それより清子、話が見えない。文彦が忘れるって何のことなんだ?」
敦樹はずっと奇妙に思っていた、その文彦の行動原理らしい謎《なぞ》について訊《き》く。
文彦から引き離《はな》された清子は、へたり込むように尻餅《しりもち》をついた。
「……コイツは、な。記憶《きおく》力に外科《げか》的な操作《そうさ》受けとんねん。どんなことでも三ヶ月|経《た》つと、完全に記憶から消えてまう。きちんと残っとんのは手術受けた十二歳の記憶までで、しかもそれすら事故のせいで部分的に欠落しとる。文彦は元々……ここの防災団に来る前までは、ウチと一緒《いっしょ》のとこにおった人間やねん」
敦樹は呆然《ぼうぜん》とした。
『剛粧《ごうしょう》と戦うのが恐《こわ》い』
巡回の途中《とちゅう》でそう言っていた文彦の言葉が、すぐに結びつく。自分たちの年齢《ねんれい》や、かつて共に塔《メテクシス》を目指した仲間たちの剛粧に対する反応を考えれば、それはむしろ自然な感想なのだろう。
だが文彦は、その恐れやトラウマを消すための手術を受けたというのだ。そしてそのことによって生じる日常生活上の齟齬《そご》を封じるために、いつでも日記をつけている。しかしそれが文彦自身の望んだこととは、とても思えない。
――まさか山陰《さんいん》の共同体が、耐性者にそういうことをやっているのか?
一瞬《いっしゅん》だけそんな予想が頭に思い浮かぶ。が、すぐにその見当違いを打ち消した。清子を頼む、とわざわざ防災団事務所まで訪ねてきた連合知事・春瀬《はるせ》史郎《しろう》は、そういう大人《おとな》ではないように思える。むしろそういうことを平気でやってしまう個性というのは――。
「もしかして文彦《ふみひこ》君、福島《ふくしま》政府《せいふ》の……元々東日本にいた人?」
敦樹《あつき》と同じ結論《けつろん》に達したらしい佐里《さり》がそう訊《き》いた。文彦は目を閉じたまま頷《うなず》く。
「僕は元々、少年兵として日本海航路の輸送船《ゆそうせん》に乗ってたらしいんだ。けど三年前にその船が剛粧《ごうしょう》に襲《おそ》われて沈んで。……一人だけ海岸に漂着《ひょうちゃく》したのを、史郎さんに拾ってもらったんだ。史郎さん、知事になる前から孤児を引き取って面倒《めんどう》を見るみたいなこともやってて……」
「つまり養子にしたから、二人とも春瀬の姓だっていうことなのか? いや……」
敦樹は首筋に手を当てて、しばし考え込む。
「違う……。史郎の史は『ふみ』だし、『郎』が男の意味で『彦』になるなら、春瀬史郎と春瀬文彦は、全く同じ名前じゃないか……」
「コイツは自分の本名が、分からへんねん。さっきも言った通り、海に放り出されたショックも重なって、自分が何者なんかすら、すっかり忘れてもうとるんや」
肩を落とした清子《きよこ》が、敦樹にそう言った。
「せやから……去年、東日本から来たばっかりのお前なら、何か少しでも文彦が思い出すきっかけになること知ってんのやないかてな……。史郎さんが手配して、ココに送り込んでん。政治の上の方じゃ、お前の存在自体は結構有名になっとったからな」
敦樹にしてみれば、その事実は驚《おどろ》きだった。
「そんなことが。……しかし私は文彦《ふみひこ》に、東日本や福島政府のことを訊かれたことは一度もないし、話したこともないはずだ」
青白い顔で辛《つら》そうながらも、文彦《ふみひこ》は笑った。
「敦樹ちゃんはそういうこと、訊く前から話したくなさそうだったし……。ここでの生活を始めた僕にとってももう、どうでもいいことだったんだ…………」
そう言って文彦はゆっくりと目を瞑《つむ》った。
10
岩だらけの崖《がけ》に座って、暗くなっていく海を見ていた。
波は恐ろしい音を立てて目の前の岩棚で砕けると、まるで何もかもを引きずり込もうとするかのように、大きな力で退《ひ》いていく。その姿に感じるのは恐怖なのに、なぜか目を逸《そ》らすことができなかった。
どんよりとした色に濁《にご》る、深く、暗い、北の海原《うなばら》。だが少し東に目をやれば、その向こうに自分の故郷はあった。
――あそこにいたころの僕は、どうやって『存在』していたのだろう。
そんなことを思わずにはいられなかった。
僕は今朝《けさ》、過去の日記ノートを一冊なくしていたことに気がついた。どこを探しても出てこない。
それは去年の十二月に書いた、たったの一週間分の日記だったけれど、もうどのようにしてもはっきりとは思い出せない記憶《きおく》だった。つまり日記として失われた一週間分にあたる僕の生存は、消滅したことになる。
自分の過去はそうやって簡単《かんたん》に失われていくものだということに、僕はゾッとしていた。
そしてもう何も考えたくなくなって、ここに来ていた。
一人で海を、見ていた
「……。探した探した。こんなところにいたのか」
後ろの遠くから、そう声がした。僕にかけられた声だと分かっていたけれど、振り返らなかった。
この崖《がけ》に続く竹薮《たけやぶ》の小道の方から、少し上がった息の声が聞こえる。史郎《しろう》さんだった。
史郎さんはこの日本海に面した地域一帯の知事だ。もっとも、知事と言っても昔何をやっていたのかはっきりしない、へんてこな人らしい。そういうよく分からない人間でも、使える人材なら使わなければならない。今の日本中が、そんな状況なのだそうだ。
『共同体だ、自治州だと、自分たちでは名乗っている。しかし実際はただの地域有力者が土地を仕切っているのに過ぎない。知事はいわば、その代理人のような存在なんだ』と、史郎さん自身が言っていた。
……ただ史郎さんは、いい人だと思う。
「海は、好きかい?」
いつも着物姿の史郎さんは、裾《すそ》を叩《はた》くと僕の隣《となり》に腰かけた。
しばらくどう答えていいのか分からなかったが、僕は正直に言った。
「……嫌い、だと思います。恐いから。でも三ヶ月前の僕は好きだったのかもしれないし、三ヶ月後の僕も好きなのかもしれません」
史郎さんは、ちょっと意外そうな顔をした。
「それじゃ、なぜ今の君は海を見てるんだい?」
「海は繰《く》り返すだけで、何も変わらないから。一々|記録《きろく》を細かくつけずに済みます。――そうだ。いま話したことも、記録しないと」
僕は胸のポケットから、今つけている日記のノートを取り出そうとした。そしたらそれを遮るようなタイミングで、史郎さんも懐《ふところ》からノートを出した。僕は一瞬《いっしゅん》、目を疑う。それは僕がうっかりどこへ置いたのか分からなくなってしまい、こうして途方に暮れている原因になったものだった。
史郎さんは説明してくれる。
「――蔵《くら》の食器棚のお皿の上に、ね。ぽつんと置いてあった。おそらく去年の大掃除の最中に別の用事を言われたか何かで、置き忘れてしまったんだろう」
僕はそれを受け取ろうと手を伸ばす。なのに横から足音を忍ばせた三人目の手が伸びてきて、大事な日記をかすめ取った。
「渡しなや、こんなん。ナナシノゴンベがアホな頭で、ちっとはモノ考えるきっかけになるとこやったのに、元《もと》の木阿弥《もくあみ》や」
そう言ってちょっかいを出してきたのはキヨコだった。史郎さんと生活する孤児の中では、中学生になってもガキ大将のような存在で、ことあるごとに、僕に嫌《いや》がらせをする。
「止《や》めるんだ清子《きよこ》」
史郎《しろう》さんはキヨコから日記を取り返し、僕に渡してくれた。
「――これは君のものだ。だから、君に返す。だが清子の言う通り、やはり君も私も、いろんなことを考え直す時期なのかもしれないとも思う」
「考え直すことなんてありません。僕はこうしていかなきゃ、生きていることにならない」
僕はそう答えた。しかし――。
「本当にそうだろうか?」
史郎さんはゆっくりとした声で、そう訊《たず》ねた。
「君は自分の『存在』のために日記をつけていると言う。だが閉じこもるようにして日記を書いて、それを読み返すことだけにほとんどの時間を費やすような生活が、果たして生きていると言えるだろうか? ――実はもっといい方法が今、急にひらめいたんだ」
「いい方法……?」
「文字を手で書くなんて非効率なことは、できるだけ避《さ》けるのさ。――例えばそうだ。記録《きろく》装置として人間を使ってみるのはどうだろう?」
そう話す史郎さんに頭を掴《つか》まれたキヨコは「ええ?」と不可解な顔をする。僕もよく分からなかった。
「どういうことですか?」
「私や清子や他《ほか》のみんなの中に、君自身の記憶《きおく》を築くんだ。できるだけたくさんの人、多くの人の中に君を残す。そうすれば君の存在は、紙の上だけのものじゃなくなる」
その言葉に、僕はほんの一瞬《いっしゅん》、答えが見えたような気がした。しかしそれも、すぐにしぼむ。
「でも、人は死んじゃうんだ。消えてしまう……」
「だからそれを、君が守ればいい」
「守……る?」
「そうだ。小さいころから剛粧《ごうしょう》と戦うための全《すべ》てを教え込まれた君なら、それができるはずだ。君は君の記録を人の中に作り、その記録を守るために生きるんだ」
みんなを守り、そして自分のことを憶《おぼ》えてもらう。
その姿を、僕は想像してみる。しかし、欠けている。
「……僕には名前がない」
「おう、そうか!」
キヨコが声を上げると、草を手で弾《はじ》きながらその場でクルクルと回る。
「ヨシ、ひらめいた。ならばお前は、今日から『七志田《ななしだ》権平太《ごんべいた》』を名乗るがいい!」
「いや清子《きよこ》、さすがにそれはどうかな」
ちょっと慌てたように史郎《しろう》さんは言って、そして僕の方を振り向く。
「そうだな。君には私の名前をそのまま上げるよ。――それで、どうかな?」
「春瀬《はるせ》史郎が二人っちゅうん? そんなん、どっちがどっちか分からんやん!」
さっそくキヨコがケチをつける。史郎さんは笑って首を振った。
「名字だけ一緒《いっしょ》にして、名前の方を少し変えるんだ――」
*   *   *
病院に担ぎ込まれた翌日、個室のベッドに横たわった文彦《ふみひこ》は、自らの過去をそう語った。
頬《ほお》に絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》った敦樹《あつき》だけが病室にいて、黙《だま》って話を聞いている。
「それからはもう、向こうじゃみんなに憶えてくれって頼む一方だったんだよ、僕。それがすっかりキヨちゃんのこと忘れてた。そりゃ怒るよね。――けれどもこっちに来てからは本当に、そういうことはどうでも良くなったんだ」
文彦は病室の大きな窓から入る、明るい日差しの方へ視線《しせん》を向けた。
「もちろん日記をつける習慣《しゅうかん》は残ったままだったけど、でもそれはみんなと一緒にいる時間が楽しくて、だからなんだって思うようになってた。もちろん記憶《きおく》の障害はそのままだし、変に気づかわれるのが嫌《いや》だったから、知られたくないっていうのもあったんだけど。
でもここに来てからは、いろんなことがいくらでも起きる。……だから僕だけが過去を普通より早く忘れていってしまうことに、大してこだわりはなかったんだよ、敦樹ちゃん」
「そうか」
敦樹はゆっくりと頷《うなず》いた。
――例えば敦樹自身にとって、共に道を歩んだかつての仲間たちの記憶は、なかったことにはできない大切なものだ。たとえそれが悪夢となって自分を苦しめたとしても、文彦のように過去を忘れてしまうことが幸福だとは決して思わない。
だがしかし、それが自分にとって『最も』大切なものかと問われれば、そんなことはないというのが答えだろう。
現在にはそれだけの価値がある。だからこそ、守りたいと願うのだ。
「しかし文彦。――そうすると、楢橋《ならはし》のことは実際どうなんだ? たった一人っていうんじゃ、守り切る自信がないのか?」
途端《とたん》に文彦は困ったような表情を浮かべ、首をかしげる。
「……僕は一時期、史郎《しろう》さんたち数人としか話ができなかった。だけど史郎さんにあの助言をもらってからようやく、大勢の友達を作ることができるようになったんだ。なのにそこからまた誰《だれ》か一人に絞ったら、昔に逆戻りだよ」
「要するに、そんなことか。心配するな。それは多分《たぶん》、全く違うことだ」
「そう――だよね」
文彦《ふみひこ》はベッドの上で、安心したようにフニャリと笑う。と、けたたましい音を立てて、病室の扉が開いた。
「みんな、落ち着いて。病院だから、静かに!」
必死で押し止《とど》める佐里《さり》が、押し寄せるクラスメイトたちに流されていく。先頭の幸田《こうだ》がベッドの上の文彦を確認《かくにん》すると、慌てて訊《き》いた。
「春瀬《はるせ》文彦! 仕事中に崩れた廃墟《はいきょ》にびっくりしたあげく側溝に嵌《はま》って1km[#「km」は縦中横]流されて死にかけたっていうのは本当か!!」
――どういう誤魔化し方をしたんだ。
病室の入り口から奥の方に押されていく佐里に目をやり、敦樹は溜《た》め息をついて席を立った。邪魔になる椅子《いす》を、部屋の片隅まで下げる。
「で、労災でこんないい病室か。この贅沢者《ぜいたくもの》が」
入れ替わりにベッドの隣《となり》へ来た野球部仲間の細野《ほその》に肘《ひじ》で突《つつ》かれ、文彦は困ったような顔で笑った。
もちろん実際の事情は、細野の言ったこととはかなり異なる。
文彦はファンタズマの一件に関して、共同体側から様々な事情|聴取《ちょうしゅ》を受けねばならない。その際の情報|漏洩《ろうえい》を避《さ》けるために、個室へ入れられたのだ。しかし文彦自身は誰《だれ》もいない部屋に一人で押し込まれるのを嫌《いや》がっていたし、それも無理ないことと今の敦樹《あつき》になら分かる。聴取が一通り済んだら、相部屋へ移れるようかけ合うつもりだった。
「その、……文彦くん。ごめんなさい。――でした」
クラスメイトたちの中を、片山《かたやま》さんや雪見《ゆきみ》たちに背を押されるようにやってきた南美《なみ》が、顔を俯《うつむ》かせたままそう言う。文彦は驚《おどろ》いた顔で、「えっ、どうして?」と訊《き》いてしまう。
「別に南美ちゃんは、悪くない、よね? むしろ僕が――」
助けを求めるように、文彦は敦樹の方を見る。しかし南美は、俯いたまま横へ首を振った。
「私が一方的に自爆《じばく》して、一方的に泣いて被害者みたいな顔をするのってオカシイと思う。そりゃ辛《つら》かったんだけど、文彦くんもあのあとずっと元気なかったってみんな言ってて。細野くんだって『アイツは分からないことは本当に分からないから』って言うし。それでいろいろ考えて、私、わたし……」
「また泣くし〜」
片山さんの声に「だってだって」と言いながら、南美は目元を押さえる。『何だか困ったなあ』という感じで、病室の中には和やかな笑顔《えがお》がこぼれた。
文彦《ふみひこ》は顔を赤らめたまま俯《うつむ》いて、「南美《なみ》ちゃんは悪くないよ、悪くない。うん」などとブツブツ言っては周囲の男子から小突かれている。
――こういうものを守りたいっていうのは、分かる話か。
端《はた》で見ていた敦樹《あつき》は、静かに文彦の病室を抜け出した。
ゆっくりと扉を閉めて、ふと廊下に視線《しせん》を転じると、そこには清子《きよこ》が一人でいる。
「中に入らないのか?」
敦樹がそう訊《き》くと、清子はフンと煩《うるさ》そうに鼻を鳴らした。
「そんなんこっちの勝手やろう」
「何でそんな、不機嫌《ふきげん》なんだ……」
やれやれといった風に、敦樹は肩を落とす。それに対して清子は、視線を逸《そ》らしたまま数度口を開け閉めし、やがて喋《しゃべ》り始める。
「こっち来てすぐ――ガッコ行く前に文彦の様子《ようす》、見に行ったんや」
「そうなのか?」
「やのにアイツ、目がおうても気づきもせえへん。まあ、ウチとしてはおもろないわな」
そこまで言われてようやく気づいたというように、敦樹は「ああ」と手を打った。
「だから転校当日、私の席に罠《わな》を仕かけたのか? ――八つ当たりじゃないか」
情けない表情で息をつく。もっとも敦樹の方にしても、結果的には何ら実被害をこうむったわけではないし、全《すべ》ての事情が分かった今となっては怒る気もしない。
「まあ昔の仲間にソデにされて苛立《いらだ》つってのは、分からなくもないが」
「仲間やのうて、子分!」
「子分……」
呆《あき》れたように言って、しかし敦樹はそのまま口を閉ざした。
清子の言うことである。
何が真実でどこまでが嘘《うそ》かなど、敦樹ごときに見抜けるはずもない。ただ心底|辛《つら》く感じているというのは、清子の表情を見れば察することはできた。
「……まあ私がどうこう言うことでもない、か。素直に見舞《みま》ってやればいいんじゃないか?」
「ハン、言われるまでもない」
清子は胸を張り、ズンズンと病室へと向かう。
「イッチョこん中を、恐怖のどん底に叩《たた》き落とそかのう!」
「そういうことは、しなくていいから。……何で進んで嫌われるようなことをするんだ」
疲れたようにそれだけ言って、敦樹はもう放っておくことに決めた。その場に背を向けるとしかし、今度は清子の方が声をかけてくる。
「それよりお前、あの敵どないすんねん。今回は妙な成り行きで逃げてったけど、また戻ってくるで?」
聞かれた敦樹《あつき》は立ち止まると、頭を掻《か》いて考え込んだ。
「そうだろうな。戦力比の釣り合いを取るために、今度は剛粧《ごうしょう》を操《あやつ》るあの妙な能力で、大勢の手駒《てごま》を引き連れてくる」
――その剛粧の降下、塔《メテクシス》の活性化まではあと一週間。
「奴《やつ》にとっても私にとっても、せわしない話になりそうだ」
「ファンタズマは準備が済んだら、最短の期間でここに来る。こっちも大がかりな準備するんやったら、早《はよ》せんともうあんまり時間もないで?」
「奴の目標はこの土地じゃない。私だ」
敦樹は、確《かく》とした口調《くちょう》で清子《きよこ》に答えた。
「この戦いは、私の方で始末をつけるさ」
[#改ページ]
まれびとの棺〈第四章〉[#地付き](2019/11/29〜12/07)
周囲を険峻《けんしゅん》たる山谷に囲まれた長野県《ながのけん》南木曾《みなみきそ》。
その灰色がかった空に、大きな穴が開いていた。
低く厚い雪雲が局所的な上昇の気流に引き上げられ、漏斗状《ろうとじょう》に見えているのだ。そしてその中心にあるのは、運河状の模様を明滅させる地に生《は》えた巨大柱、塔《メテクシス》――。
大気は徐々に不安定さを増し、先ほどから真冬の遠雷が絶え間なく響《ひび》いていた。厚い雲はますます厚みを増し、太陽の光は遮られて届かない。まだ正午を過ぎたばかりにもかかわらず、この一帯は日没後のような暗さだった。
そして地上は、起伏の激《はげ》しい斜面に木がわずかに立ち並ぶばかりの痩《や》せた土地である。土と薄《うす》く積《つ》もった雪がまだら模様を作るほとんど禿《は》げ山と言っていい場所。そこに雷光が明滅し、空の割れるような不気味な音が、低く鳴り響《ひび》いていた。
やがて上空を覆《おお》った黒い雲から、真っ白な雪の粒が舞《ま》い降りてくる。だが奇妙なことに、それはなかなか地上へと降りてこない。
そして、最初の一つが地に落ちるよりも早く、あっという間に天はその白粒で埋め尽くされていた。
――雪ではないのだ。
そう呼ぶには一つひとつがあまりにも巨大で、そして歪《いびつ》な形をしている。空へ浮かぶその数は、ひたすら膨大《ぼうだい》、全天を覆い尽くしていた。
次から次へと雲を突き抜けて現れる、巨大で歪な白い降下物。それはよく見ると、一つひとつができの悪い彫像だった。
あるものは馬であり、あるものは翼《つばさ》を持った鳥である。またあるものは鰐《わに》のような巨大な顎《あご》を持ち、あるものは獅子《しし》であった。
どれも作りが雑な上、総じて体型が太い。ただ苦悶《くもん》するかのように身をひねったその姿だけは、それぞれが今にも動き出しそうな躍動感《やくどうかん》を秘めていた。
そんな天からゆっくりと降る彫像たちの群は、まるで何かの紐《ひも》に吊《つ》り下げられたモール細工のようにも見える。あるものは空中で小さく前後に揺れながら。あるものは風に煽《あお》られてくるくると回る。そして静かな重い音とともに、ようやく地上へ着地した。
明滅する雷光に照らされながら、彫像の降下は途切《とぎ》れることがない。
最初は屋外の展覧会場《てんらんかいじょう》を思わせたその場所も、今はさながら子供のおもちゃ箱《ばこ》のように乱雑な姿を晒《さら》す。そして彫像の一つひとつが大きければ、それが地を埋め尽くすのはあっという間だった。
静寂の荒野を、遠雷と風の音だけが吹き抜ける。
だが彫像の落下がいよいよ本番というころになって、すでに地上へ降り立った彫像に変化が起きた。小さな音を立てて、揺れ始めたのだ。
一つや二つではない。暗い雪の野原で、全《すべ》ての彫像が、揺れ、蠢《うごめ》いていた。
鋭《するど》い爪《つめ》で石を引っ掻《か》くような音が響き、耐え難《がた》い苦痛に噴《さいな》まれる亡者の呻《うめ》きのような声があちらこちらから漏れる。
やがて彫像は次々とひび割れ始めた。そこから覗《のぞ》くのは獣《けもの》の毛皮。
脚を折り曲げ、身を投げてヒビを入れ、木に寄りかかって頭を打ちつける。そうやって自分を封じ込めた卵殻《らんかく》から、幾分かの自由を取り戻した獣たち。この巨大生物たちこそが、人間が剛粧《ごうしょう》と呼ぶものたちだった。
たったいま卵殻《ケリュフォス》を破ることに成功した首と頭部の長い四足獣《よんそくじゅう》の一群は、草食動物の特徴を思わせる姿の持ち主である。関節の回りの卵殻《ケリュフォス》をへし割り、動けるようになったものから周囲の警戒《けいかい》に当たっていた。彼らは彼らの本能に従って、従来の群としての行動を取り戻そうとしているのだ。
そしてそこへ、彼らより一回り大きな肉食|剛粧《ごうしょう》――体中の動きを卵殻《ケリュフォス》に邪魔《じゃま》され、無様に草を踏み鳴らす一体が接近する。
元の世界では仇敵《きゅうてき》だったものの出現。まだ満足に動けぬ草食剛粧は痙攣《けいれん》したように、必死で卵殻《ケリュフォス》を割る。動けるものは一斉に逃げ出した。
――ただ逃げると言っても、不格好に卵殻《ケリュフォス》をつけた姿である。思うように走れず、地を転がるようなほうほうの体《てい》だった。そして一方、彼らを襲《おそ》おうとした肉食剛粧の方も事情は同じ。まるで群に追いつけない。
結局『追跡』という行為を早々に断念した肉食剛粧は、まだ卵殻|剥《は》がしに手こずる、取り残された草食剛粧の許《もと》へ引き返した。そしておもむろに、一匹の首を前足で一撃《いちげき》。振るわれた剛力に首は卵殻《ケリュフォス》ごとぽきりと折れ、草食剛粧は動かなくなった。
肉食剛粧は獲物《えもの》の胴体部を覆《おお》う卵殻《ケリュフォス》を前足で乱暴に割ると、その腹の肉を食《は》み始めた――。
この一連の光景を、冷たく見詰める一つの目がある。
現在は右の一本となった、剣のような巨腕。そして主砲の突き出した砲塔。
卵殻《ケリュフォス》を身に纏《まと》った、しかし剛粧ではありえない六本脚の持ち主。
――かつては人間たちに『幽霊剛粧《ゆうれいごうしょう》』と呼ばれた存在、ファンタズマだった。
彼は自身の配下を増やさんと、今この熾烈《しれつ》な生存|競争《きょうそう》が行われている塔《メテクシス》の麓《ふもと》に来ていた。砲塔のカメラをぐるりと旋回させながら、周囲の剛粧たちの様子《ようす》をじっと観察《かんさつ》する。
自らの意のままに操《あやつ》ることのできる個体の居場所を、彼は探そうとしていた。そしてそれは、正面の林の向こうに現れた。
本来の生存活動を再開する巨大生物たちの中に混じって、まるで生気なく一方向に移動を開始している一団がある。様々な種の入り混じった、とんでもない数の群だった。
彼らの間では、肉食か草食かなどということはまるで問題になっていない。ただ一所に集まり、ひたすらに真《ま》っ直《す》ぐ塔《メテクシス》へと向かって前進する。
途中、自由に動き回る肉食剛粧に一匹が襲われ、引き倒された。しかし集団は逃げるでもなく、かといって助けることもしない。
どこかおぼつかない足取りで、ただひたすら塔《メテクシス》を目指して歩いてゆく。
だがファンタズマはその一団の前に回り込み、立ち塞《ふさ》がった。集団の行く手を完全に塞ぐと、砲塔の後部を卵殻《ケリュフォス》越しに薄《うす》く発光させる。
――そしてその瞬間《しゅんかん》、塔《メテクシス》を目指していた集団には劇的《げきてき》な変化が訪れた。
出鱈目《でたらめ》に歩いていた集団|全《すべ》てが、一斉に180度方向転換したのだ。そしてそのまま、陣形のようなものを作り始める。
一番先頭には獰猛《どうもう》で強力な大型肉食剛粧がまとめて配置され、左右の脇《わき》には小回りの利く中型の肉食剛粧が配置された。そして真ん中には行軍中の餌《えさ》であり、他《ほか》の群の気を惹《ひ》くための囮《おとり》でもある草食|剛粧《ごうしょう》を集合させ、他《ほか》にこれを守らせる。
総勢一千匹余。これが、ファンタズマが決戦のために得た軍団だった。
――ファンタズマの中枢《ちゅうすう》に据えられた、複雑ゆえに単純な条件づけを為《な》された頭脳。それが、これからの戦いにおける決定的な不利を埋めるための戦力として、この軍団を欲したのだ。
そう。決定的な不利、である。
ファンタズマの中に今でもいるはずの『主《あるじ》』は、もう長い間、沈黙《ちんもく》していた。
何も指示を出さず、保存食料を送ってもそれを受け取らない。
そして知らぬ間に主人の体は酷《ひど》く脆《もろ》くなってしまった。前回の戦闘《せんとう》でも一部の機動能力を解放したために、2・2%を崩壊《ほうかい》させてしまった。
しかしそれは任務を全うし帰還《きかん》が叶《かな》えば、修復可能な微細な破損である。そう、ファンタズマは考えていた。
――わずかでも早くその日を迎えるために!!
ファンタズマは自分の軍勢に前進を司令した。
砲塔後部が、再び薄《うす》く光る。千匹の軍団はぞろぞろと同じ速度で、同じ方向に歩き始めた。
中央に守られた草食剛粧を狙《ねら》って、数匹のすばしっこい肉食剛粧が突入してくる。だが彼らは軍団の秩序だった剛粧たちによって手痛い逆襲《ぎゃくしゅう》を食らい、すぐに自分たちの方こそが肉塊へと変わる。それを捕食する許可を、ファンタズマは功を上げた剛粧たちに与えた。
戦いの間にも、軍団全体はゆっくりとした歩調《ほちょう》で前進を続けている。
そしてその外郭にはいつの間にか、奇妙な大群の動向を見守り探るように、軍団の数倍に相当する剛粧たちが続いていた。
剛粧を操《あやつ》る装置。その効果|範囲《はんい》を見据えていたファンタズマは、自分も出発しなければならない時期が来たことを知る。
彼は静かな一歩を踏み出し、自らの軍団のあとに続いた。
何かの間違いで『主』の体を壊《こわ》すことのないよう。
ゆっくりとゆっくりと、長い道のりを歩く。
連合知事・空知《そらち》金蔵《きんぞう》は、いつものごとく恰幅《かっぷく》のいい体に上等な背広を着込んでいた。応接|椅子《いす》に座ったまま、扇子をバタバタと扇《あお》ぐ。
しかしこの知事室はストーブこそ置かれているものの、全く真冬の寒さだった。そのことを考えれば空知の様《さま》は随分と滑稽《こっけい》で、しかし彼は緊張感《きんちょうかん》がないようでいながらも、その視線《しせん》は鋭《するど》く硬い。
空知は完全に季節外れのその扇子を畳むと、まずは対面して応接椅子に座った二人――敦樹《あつき》と佐里《さり》の二人に訊《き》いた。
「わざわざ呼び出した理由は、分かっとるな? ――昨日の午後一時ごろ、剛粧《ごうしょう》の降下があった。まあこれは、事前の予報通りっちゅうことになるか」
二人はそれぞれの表情で、黙《だま》ったまま頷《うなず》く。さらに空知《そらち》は、自分の隣《となり》に座っている地域防災団の団長・小早川《こばやかわ》に訊いた。
「今回ので降下してきた剛粧は何匹や?」
「山陰《さんいん》との合同|観測《かんそく》の結果では、推定で活動数九万匹。規模としてはいつも通りです」
小早川のダミ声が、四人だけしかいない閑散とした部屋に、わずかに響《ひび》く。
「こちらへ向かうのはファンタズマに誘導《ゆうどう》されたものを含め、五千匹以上かと」
「誘導、な。……要するに結局、や。ワシらが今まで幽霊剛粧《ファンタズマ》て呼んどったんは、実は|向こうさん《アイティオン》の製造物やったゆうわけや。それも防災団用に低機能化再設計された多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》やのうて、そのオリジナルにあたる戦術歩行艦《シャリオ》――」
敦樹は黙って頷いた。
――そう。高度虚物質技術《デイノス》や多脚砲台は、人類の作り出したものではない。
この剛粧と戦うための力を人類に授けたのは、難侵入《カタラ》地域の中心である塔《メテクシス》に調査拠点《キャンプ》を作る、『アイティオン』と呼ばれる存在なのである。
彼らは人類を助けながら、しかし、その事情を考慮《こうりょ》したりはしない。全《すべ》ては一方的、独善的に進められていた。
「今回の事件、アイティオン側はどう見とんねん? ――ま、いつものごとく『そっちで勝手にせい』ちゅうことやろけどな」
空知は佐里に視線《しせん》を向ける。そして佐里は、言いにくそうに答えた。
「ファンタズマが卵殻《ケリュフォス》をつけていることから分かるように、あれは『こちらの世界』へ正式に派遣されたものではありません。この一件は完全に事故です。
ただ、ファンタズマの本来の所有者だったアイティオン側の組織《そしき》は、その所有権を放棄しました。――つまりファンタズマは廃棄物として扱われ、アイティオン側による回収は実行されません」
「……何から何まで、全部あっちさんの都合か。気に食わんのう」
空知は不満そうに溜《た》め息をつくと、顔を拭《ぬぐ》うような仕草《しぐさ》をしながら呟《つぶや》いた。
この肝心なことを投げっぱなしにする独善的な感覚こそが、アイティオンの人類に対する普遍《ふへん》的な態度である。剛粧出現後のこの二十五年間にしても、結局はそういうことなのだ。
人類はうまくやっているようでいて、実のところはこの気まぐれなアイティオンに全てを依存し続けていた。せざるをえなかったのだ。もうずっと非常に不安定な、崖《がけ》っぷちの状態だったのである。
だからこそ西日本側も、福島《ふくしま》政府が『デイノス』を製造しているという宣伝と欺瞞《ぎまん》に歩調《ほちょう》を合わせてきた。デイノスや多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の使用には、毎回アイティオンへの許可が必要になる。もしアイティオンがデイノス使用許可を凍結すれば、人類はそこで滅亡するしかない。
――そしてそういったことは、思いもよらぬ形で起きる可能性があった。
大降下後の不安定な社会を安定へ導《みちび》くためには、結局このことを市民に対して大きな『秘密』にしておく必要があったのである。
「……しかし分からんなあ」
空知《そらち》は敦樹《あつき》を睨《にら》んで、唸《うな》るように言った。
「何で剛粧《ごうしょう》と戦うための戦術歩行艦《シャリオ》が、わざわざジャリガキ一人をつけねろとる? どう考えても、パワーの無駄遣《むだづか》いやろ。……何が原因や? それが分かればうまく行き先|誘導《ゆうどう》して、アイティオンの連中に尻《しり》ぬぐい押しつけることもできるんちゃうんか?」
空知の問いに、敦樹は答える。
「それに関しては、私もあちらに訊《き》いてみました。あれは元々、ある研究|機関《きかん》の警備《けいび》を主任務としていたようです。つまりファンタズマの敵は本来、剛粧ではありません。研究機関の情報を持ち出そうとする存在を抹殺するため、特定の領域を防衛《ぼうえい》していたらしいです」
「研究機関て? 何の研究?」
「塔《メテクシス》にあって、難侵入《カタラ》地域を作り出しているもの。つまり『サイレンシステム』のです。
『サイレンシステム』の広範囲《こうはんい》化技術は、アイティオン内部の一部勢力が独占しています。そしてその所有物であるファンタズマは、効果範囲が狭い代わりに能力は高い『従来型』のサイレンシステムを搭載し、武器にしている。剛粧はアンテムーサ効果で操《あやつ》られています」
空知は難《むずか》しい顔のまま、息をついた。
日本の真ん中に広大な無人地帯を作り出した『アンテムーサ効果』は、実は塔《メテクシス》そのものに属する特性ではない。剛粧の拡散を防ぐため、アイティオンが勝手に設置した装置によるものなのである。いわば誘蛾灯《ゆうがとう》のようなものだと言っていい。
これによって塔《メテクシス》周辺に降下した剛粧の大部分は、――人間がそうであるのと同じく『アンテムーサ効果』により一ヵ所に集められる。その上で毎回、アイティオンの手によって『処分』されているのだ。
しかし人間にアンテムーサ効果の影響《えいきょう》を受けない『耐性者』がいるように、剛粧にもある確率《かくりつ》で『耐性個体』が含まれている。それらについては『サイレンシステム』も全くの無効果だった。結果、『耐性個体』である剛粧は餌《えさ》を求めて人の住む土地を目指す、というのがこの二十五年間の現実だった。
敦樹はさらに話を続ける。
「つまり、これまで我々がファンタズマと呼んできたあの戦術歩行艦《シャリオ》は、自分がこちらの世界に転送されたことを認識《にんしき》できていないんです。所属する研究機関施設も、ファンタズマの想定している座標には存在しない。にもかかわらず、あの戦術歩行艦《シャリオ》は任務を実行し続けているわけです。
――そこへ運悪く一年前、私が仲間と通りかかった。結果、仲間は殺され、私だけが何とか逃げ延びたことになります。
そしてファンタズマは、自らの任務を『情報を持ち出した可能性のある私』の抹殺へと切り替え、探索を始めた」
「……厄介《やっかい》な話やの。大体、お前を追いかけた、て。元々の土地の防衛《ぼうえい》はどないしてん?」
「おそらくファンタズマは、周囲に仲間がいないことをうまく把握できていません」
「つまり連絡も取れへん、おりもせえへん仲間に、あと任したゆうんか? ――機械《きかい》のクセに思考が分裂しとんのちゃうか」
空知《そらち》はソファーにふんぞり返ると、小馬鹿《こばか》にしたように鼻で笑った。しかし敦樹は、横へ首を振った。
「実際、それに近い状態《じょうたい》にあるらしいです。何らかの障害が発生して、ファンタズマは総合的に思考を行えなくなっています。――そしてファンタズマに搭乗するパイロットは、もうすでに死んでいる。ファンタズマはそのことさえ、理解できずにいます」
「そうそう、それも訊《き》こ思ててんけど、直接|確認《かくにん》したわけちゃうやろ? 操縦者《そうじゅうしゃ》が死んどる言うんは確《たし》かなんか?」
敦樹は頷《うなず》いた。
「ファンタズマの操縦者にとって、食料をこちらの世界で確保することは非常に困難《こんなん》です。ファンタズマが何年前からこちらにいるのか、定かではありません。しかし一年前には確実にこちらにいました。普通に行けば、食糧《しょくりょう》は尽きているはずです。
パイロットの生存は物資的に不可能ですし、ごく初期に死亡したのでなければもっと適切な行動はいくらでも取られたはずなんです。
ですが実際は、ファンタズマがアイティオンの調査拠点《キャンプ》と接触し、補給を受けた記録《きろく》はありません。それどころか、遭難中《そうなんちゅう》にもかかわらず逆にステルスで潜伏《せんぷく》してしまった。そして現在、ファンタズマは動力源であるポテンシャル・バッテリーをかなり切りつめ、長期活動に備えつつ行動しています。
例えばエネルギーを多量に食う主砲は、前回の戦闘《せんとう》まで全く撃《う》ったことがない風でした。それに脚回りの機動性にも、意識的《いしきてき》な抑制が働いていることを確認しています。――後者は何らかの故障である可能性も高いんですが」
「ほう」
やや顔色を明るくして、空知が声を上げた。
「で、ファンタズマの燃料は、あとどれくらい保《も》つ?」
「――アイティオンの方でも特定できていません」
その問いには佐里《さり》が答えた。
「ファンタズマが主砲を全く撃《う》たないのであれば、数百年は保《も》つと」
「……ぬか喜びか。聞かんかったら良かったわ」
空知《そらち》は『頭が痛い』という風に首を振ると、敦樹《あつき》へ畳んだ扇子の先を向ける。
「なら、もうちょい具体的な話に入ろう。例えば、や。もしファンタズマがお前の抹殺に成功すればどうなる?」
「次の任務にファンタズマが何を選ぶか次第でしょう」
敦樹《あつき》ははっきりとした口調《くちょう》で答えた。
「ただ十中八九、それは元のテリトリーの防衛《ぼうえい》継続だと思います。つまりファンタズマは長野県《ながのけん》の山中に戻ります。
もしくは任務を終了して帰投するために、ありもしない基地・拠点を目指して日本中をさまようか。こちらの可能性は二割程度でしょう。
最悪の場合なら情報流出の阻止を目的に、私が接触した可能性のある人間を抹殺、または都市を破壊《はかい》する可能性もあります。ただこれは、これまでのファンタズマの行動から考えればないと考えていいと思います」
「まあどっちにしても、や。お前一人が死ねば、ファンタズマがこの山陽《さんよう》共同体に被害をもたらす確率《かくりつ》はぐっと下がるっちゅうわけやな?」
空知の確認に、佐里《さり》はビクリと肩をすくめる。しかし敦樹は率直に頷《うなず》いた。
「そういうことになります」
「なら決まりやな。共同体の財産である防災団は、今回は動かせへん。生き残るためにファンタズマと戦うてゆうんやったら、お前とそこの姉ちゃん――」
そう言って佐里へチラリと空知は目をやる。
「二人だけでやってくれ。ま、必要なモンがあれば、多少のことは便宜《べんぎ》はかったろう。こっちかて、寝覚めの悪い思いするんは嫌《いや》やからな」
「――ちょっと待って下さい、知事」
そう強い声で言ったのは、今まで難《むずか》しい顔のまま黙《だま》って話を聞いていた地域団長・小早川《こばやかわ》だった。
「失礼ですが知事、ファンタズマはたった一体でやって来るわけではありません。五千匹の剛粧《ごうしょう》を引き連れているのです。それをたった二人で、全《すべ》て相手しろと――」
小早川が全てを言う前に、空知の持った扇子がその額《ひたい》を打った。小早川は絶句し、呻《うめ》く。
「――何を」
「ええか? 自分の町に被害出さんように考えるんが、お前の仕事や小早川。それ以外のことは考えんでええし、口出しするな」
低く恫喝《どうかつ》するような声で、空知は睨《にら》む。しかし小早川は首を振った。
「それでも言わせて下さい、空知知事。私はもう自分が生きている間に、世界が元のような繁栄《はんえい》を取り戻すことはないと諦《あきら》めています。
……言ってみれば我々の世代は、次に『繋《つな》いでいく』ために戦っている。それが私たちの共通した認識《にんしき》であるつもりです。それを子供だけ死地に追いやるというのは、――本末転倒《ほんまつてんとう》ではないですか。納得しかねます」
「とゆうことらしいわ。自分ら、最後にエエ話聞いたなあ」
空知《そらち》はつまらなそうな顔で、そう付け加えた。
「んじゃ、ワシらからの話はそれだけや。まあ頑張ってくれ。二人とも下がってええで」
「知事!」
叫ぶ小早川《こばやかわ》の額《ひたい》を、再び空知がぴしゃりと扇子で打って黙《だま》らせた。佐里《さり》と共に席を立った敦樹《あつき》は、困ったような表情を浮かべる。
「大丈夫です、小早川さん。私だって死ぬ気はないし、ここで生活していきたい理由もあります。そして、こちらにだって戦術歩行艦《シャリオ》はあるんです」
敦樹は空知の方を振り向いた。
「――ただし今回の『使用』は、半々ぐらいの可能性で私たちの切り札を切ってしまうことになるかもしれません。だからこそ、これまで使用は控えましたし、できればこれからも温存したいと考えていました」
対して空知の方は、視線《しせん》を佐里へと向けた。
「じゃあそっちの姉ちゃんは、お前のおらへんこの土地を守るために、その切り札とやらで戦ってくれるんか? ワシはそうは思えんけどなあ」
空知の問いに、佐里は立ったまま無言を返す。
それを返事と受け取って、空知は勝手に肩をすくめた。
「――どっちみち札は手元には残らんわけや。やったらここが、戦術歩行艦《シャリオ》の使いどころやろうな。大体、命|狙《ねら》われとる当の本人がそんな先の心配してて、どないすんねん」
「そういうことでしたら、勝つための方法は考えていますから、何とかしてみせます」
敦樹は表面上は自信ありといった顔で、――しかし内心では『そううまく行くものでもないか』とも考えながら、大人《おとな》たちに告げた。
だがそのやり取りを聞いても小早川の表情は真《ま》っ青《さお》なまま、瞬《まばた》きすら忘れたかのように動かない。その様子《ようす》に知事の空知は皮肉な笑いを浮かべた。
「ホンマ、エエコチャンやなあ、自分。まあうまいこと切り抜けられるよう、ワシも祈っといたろう。――けど憶《おぼ》えとき。ワシみたいな悪い大人ばっかりのトコでハイハイ首ばっか振っとると、いつかどうしようもないことになるで」
「そんなことはさせません」
敦樹は本心であるその言葉を、静かに言った。
「ここは、仲間たちが命がけで目指そうとした場所です。彼らは福島《ふくしま》政府よりも、あなたの街[#「あなたの街」に傍点]を自分たちの故郷にしようとしていたんだ。――ここは絶対に、そういう場所でなければならない。その期待には、応《こた》えてもらいます」
対して空知《そらち》はフンと鼻を鳴らすと、視線《しせん》を逸《そ》らして舌打ちする。
「……ンなモン、知るかいな。日本の東と西で、何が違うねん。こっちかてイッパイイッパイなんは一緒《いっしょ》やっちゅうねん」
その空知の本心からの愚痴《ぐち》は、敦樹《あつき》にも分からないことではなかった。自分もこの一年、この場所で暮らして、様々なものを見てきたのである。この土地が抱える問題の数々は、いろいろ目にもしてきた。
ただそれをどうにかするのは、それこそ空知の仕事である。突き放した言い方をすれば、敦樹の知ったことではない。
「……佐里《さり》、行こう」
促した敦樹は佐里と共に一礼すると、知事室をあとにした。
廊下に出た途端《とたん》、佐里は緊張《きんちょう》から解放されたように深々と溜《た》め息をつく。そして先に行く敦樹の背を追って歩きながら、心細げに呟《つぶや》いた。
「本当にこれで、大丈夫なのかな……」
「大丈夫かそうじゃないかは、問題じゃない。やるしかないんだ」
敦樹の返答に佐里は、頬《ほお》に掌《てのひら》を当てしばし考え込む。
「……でも私たち二人だけでなのよ? せめてファンタズマと一緒に来る剛粧《ごうしょう》に関してだけでも、何らかの力を貸してもらった方が良かったんじゃ」
「いや、ファンタズマの主砲の射程を考えれば、その危険は冒せない。そもそも防災団の装備じゃ、対抗しようがない。
――今回の戦いっていうのは実のところ、佐里とファンタズマの戦いなんだ。
私には囮《おとり》としての価値がある。だから今回は『切り札』として行動できる。しかし純粋な戦力としては私自身ですら足手まといでしかない、っていうのが本当のところだ」
そして困ったように、敦樹は頭を掻《か》いた。
「――防災団の誰《だれ》を連れていったところで、万全の体制を整えた戦術歩行艦《シャリオ》の前じゃ、ただ足を引っ張るだけなんだ。
けど私の立場からすれば、それを面と向かって小早川《こばやかわ》さんに言うわけにもいかない。あの空知って知事は、分かって憎まれ役をやってくれているよ」
「そうかなあ。私にはあれが素《す》に見えるけど」
佐里は天井《てんじょう》を見上げて言う。敦樹は複雑な表情のまま腕を組んで考え込んだ。
「……あの人だって、言うほど気楽な立場じゃない。例えば『私の抹殺に成功したファンタズマが東へ引き返す』っていうのは、あくまで可能性だ。残り二割っていうのは、馬鹿《ばか》にできる数字じゃない。ファンタズマが人の住む西へ向かって、何らかの破壊活動を始める可能性は厳然《げんぜん》としてあるんだ。
そうなれば防災団が出てくることになるが――まあ勝てないだろうな。この一帯の防災団は壊滅《かいめつ》して、それはつまり共同体の滅亡を意味する。
けれども、私たちとファンタズマの戦闘《せんとう》、そしてアイティオンのことは、市民に対しては明らかにできない。もし私たちの戦いが最悪の結果を迎えたとしても、市民の避難《ひなん》開始はギリギリになってしまう。――いや明らかに間に合わない、か」
佐里《さり》は無言のまま黙《だま》り込んだ。
要するにこの戦いには、病院にいる文彦《ふみひこ》や学校のクラスメイトの命さえかかってくるのだ。
「結局、あの空知《そらち》という知事の決定は、私たちにとって驚《おどろ》くほど寛容だったと言っていい」
「――ねえ敦樹《あつき》。一つだけ確認《かくにん》しておきたいことがあるの」
後ろにいた佐里が立ち止まり、そう切り出した。振り返った敦樹は頷《うなず》く。
「何でも」
「今回の戦いって、昔の仲間の敵討《かたきう》ちのつもりだったりしないよね?」
その問いに、敦樹はしばらく無言だった。
「……そういうことは、ないつもりだ。私はここに『逃げてきた』わけじゃないし、ここでただ『生かされている』わけでもない。自分で選んだ生き方のために、ここにいる。――だから学生だけの防災団だってやってきた。
ファンタズマとの戦いは、私たちが『ここにいてもいいこと』を自分で決めるための戦いだというつもりでいる。佐里には、力を貸して欲しい」
「……今回はアイティオンの不始末なんだから、その処理に私が協力するっていうのは問題ないのよ。でもこれだけは分かっていて」
佐里は胸の前で指を組み替えながら、言い出しにくそうに言葉を選んだ。
「結局、凄《すご》いのは私じゃなくて『パリカリアの性能』なのよ。敦樹はそれをごっちゃにして私に頼るから、ものすごく困ってる」
敦樹は一瞬《いっしゅん》、佐里がなぜこんなことを言い出したのか分からなかった。
――しかし考えてみれば、敦樹たちはこれから巨大な敵と戦おうとしているのだ。
佐里としてはうまくやれる自信などない。できる根拠が、そもそも存在しない。にもかかわらず、敦樹は自分の命やこの共同体の未来を、佐里個人に託すと言っている。
当の本人からすれば、何の根拠もない重責のように感じるのだろう。だが――
「違うんだ。実を言うとそういうことじゃない、佐里」
敦樹は言いにくそうに、言葉を濁《にご》した。
「……一年前、塔《メテクシス》を目指した私の無謀《むぼう》は、結局完全な無駄《むだ》に終わった。塔《メテクシス》はアイティオンの建てたものではないし、アイティオンの技術を持ってしても、破壊できずにいた。しかもそのことを、福島《ふくしま》政府は知っていた。仲間たちの死さえ、全くの無駄だったんだ。
しかしそこで佐里《さり》と出会えたことは、私が手にした唯一にして確《たし》かな成果だと思っている」
「でもそれは――」
「『力』の話じゃないんだ。聞いてくれ。――私は前の戦いで、文彦《ふみひこ》に大ケガをさせている」
敦樹《あつき》は佐里の目を見て、静かに言う。
「最初は文彦を、巻き込まないために行動したつもりだった。なのに実際起きたことは、私が独断で動いて、文彦がそのとばっちりを受けた。
――そんな私がまた、ファンタズマと戦おうとしている。この町を救いたいし、この事件に、自分の手で決着をつけたいと思っている。
なのに自分一人じゃ勝てないから、今度は佐里を巻き込もうとしている。その力に甘えようとしているんだ。普通ならこんな勝手は、ありえないよ」
そうして敦樹は、大きく息を吐き出した。
「戦力としての佐里を求めているんじゃない。それ以前に私がこんなことを頼めるのは、もう佐里しかいないんだ。だから、一緒《いっしょ》に戦ってほしい――」
言い終わるより早く、佐里は敦樹に両腕を回した。
そして「分かったから」と言い、ポンポンと二度背中を叩《たた》く。
「私が助けたんだもん。敦樹のことは私が守る」
「……佐里」
[#挿絵(img/basileis2_200.jpg)入る]
「やる気出てきた」
畑沼《はたぬま》清子《きよこ》はたった一人で、神戸《こうべ》のさらに西に位置する加古川駅《かこがわえき》に来ていた。
ここは本州瀬戸内海《ほんしゅうせとないかい》側の東西を繋《つな》ぐ山陽本線《さんようほんせん》と、北の新福知山駅《しんふくちやまえき》までを繋ぐ加福線《かふくせん》が交わる、交通の要衝《ようしょう》にあたる駅である。規模としてはさらに西にある播但線《ばんたんせん》・姫路駅《ひめじえき》に劣るものの、難侵入《カタラ》地域発生以降は、この加福線が西日本本州部の南と北を結ぶ最も東側の鉄道路として重要な意味を持つようになっていた。
最近になってここ加古川駅もようやく拡張工事が行われ、通路の柱は白く真新しい。同じく新設されたらしいベンチに、清子はマヨネーズのボトルを持ったままじっと座っていた。
背丈の低い彼女が着るのは、ぶかぶかのジャンパー。その襟《えり》に顔をできるだけ埋める。吹きさらしの通路はことさら寒く、吐く息は白い。
「おおぅい、そこのお嬢《じょう》さん」
威勢のいい女性の声がかかり、清子は振り向いた。そこには、竹の行李《こうり》に野菜を満載して担いだ四十歳代の人物がいる。山間《やまあい》で農作物を作り都市に売りに来た、といった風の典型的な農村中年女性だった。
彼女は愛想のいい顔でニコニコしながら、キュウリを取り出して清子に差し出す。
そして清子の方も、黙《だま》ってマヨネーズのボトルを差し出す。
――これは『周辺に問題なし、情報交換開始』という意味の暗符である。
彼女の名は竹田《たけだ》恵子《けいこ》と言う。清子の地元である山陰《さんいん》の、諜報《ちょうほう》関係者だった。
*   *   *
「――で、竹田のおばちゃん。手紙で頼んだ件やけど」
塩もみして水洗いしたキュウリにマヨネーズを載せてポリポリと齧《かじ》りながら、清子はそう訊《き》いた。
清子は地元との連絡に電話を使わない。特にその内容が今回のような一件――共同体間のパワーバランスに関《かか》わるような事柄なら、なおさらである。
手紙ならば挨拶《あいさつ》文を装った暗号や、ニセ手紙による攪乱《かくらん》など、打てる手は多い。また封筒に細工をすれば、どの情報が漏《も》れたのかも把握できる。しかし電話となると、盗聴《とうちょう》の有無を知るのは相当に困難《こんなん》となる。逆に言えば今回はそこまで用心すべき事柄と、清子は考えていた。
「――結局、いくら調《しら》べても分からへんねん」
「そうだねえ」
屈託《くったく》なく笑いながら、竹田は相槌《あいづち》を打った。清子は口元をすぼめる。
「……川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》のおった三〇四|特殊観測隊《トッカン》が全滅したんは、去年の十二月や。そして今おる土地に現れたんが今年の二月。要するに約三ヶ月のタイムラグがある。その間、アイツはどこで何しとったんや?」
重い口調《くちょう》で、そう問う。
現在、川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》の身柄を預かる山陽《さんよう》共同体は、彼女に関する情報を公開していない。だからこそ、それを探るために清子《きよこ》は調査を始めた。しかし記録《きろく》があるのは、|樋ノ口町《ひのぐちまち》に防災団を開いた二月以降のみ。そしてその内容は、予測の範疇《はんちゅう》を超えない平凡なものばかりである。
だが清子は敦樹の身の上に起きた空白の三ヶ月間に、必ず何か決定的な出来事があったのだと考えている。結局は素人《しろうと》調査を諦《あきら》め、専門家である諜報員《ちょうほういん》・竹田《たけだ》に調査《ちょうさ》を依頼した。ただその竹田も「さっぱりだねえ」と肩をすくめる。
「あちこちくまなく当たってみたけど、二月以前の記録は全然ないね。そもそも何でそんなことが気になるんだい。史郎《しろう》さんも心配してたよ、私に理由を訊《き》いてこいってね」
数少ない弱点である育て親の名を出され、清子は憮然《ぶぜん》とした表情を浮かべた。
「……川中島敦樹は、高度虚物質技術《デイノス》を製造しとるんが東日本の福島《ふくしま》政府やなくて、『アイティオン』なんやっちゅうことを知っとる」
「そうだねえ」
のんびり答えた竹田は、ニコニコしながら魔法瓶《まほうびん》の水筒を取り出し、その蓋《ふた》に茶を入れ清子に差し出した。湯気立つそれを清子は受け取り、一口飲んでまたキュウリを齧《かじ》る。
「――問題は敦樹が、『アイティオン』と直接デイノス使用の交渉をした、っちゅうことやねん。共同体の政治家連中の頭の上、飛び越えてや。アイツは確実《かくじつ》に『アイティオン』とのコネ持っとる。
――けど何で『アイティオン』は、川中島敦樹だけを特別扱いしてる? どうしてそういう特別が、突然起きる? 一体アイツはこれまで、どこで何をしてきた? そして何でそれが、何も分からへん?」
竹田はそんな清子の様子《ようす》に『やれやれ』と大きく息をついた。
「アタシらの方だって、ザルみたいな調査をやってたわけじゃないさ。今年の二月以前の記録が全然ないってのは、ホントに何にもないんだ。人を使って難侵入《カタラ》地域に隣接《りんせつ》した土地、山陰《さんいん》から紀伊《きい》までの全戸籍《ぜんこせき》や旅館の宿泊|名簿《めいぼ》まで、全部|調《しら》べた。そしてその内容のウラも取った。――けれどもね。川中島敦樹のいた痕跡《こんせき》はどこにもない」
「どっかの家に潜《もぐ》り込んで、世話なっとったとかは? あと敦樹は野宿も平気らしいで?」
「平気って……。時期は今と同じ、真冬だろう? それは考えたくないねえ」
竹田は寒そうに体をすくめると、大きく苦笑いした。
「もちろんね、可能性はあるよ。けれどよくよく考えてみりゃあ、あの子には西日本側で身を隠さなきゃならない動機《どうき》はない。だから私はこう思う。――あの子は三ヶ月間、難侵入《カタラ》地域で過ごして、今いる土地に現れた」
「え? いや、ちょっと待ってや」
慌てて清子《きよこ》は言った。それではそもそも、大前提がおかしくなる。
「三ヶ月、人のおらん難侵入《カタラ》地域の中で過ごしたって? そりゃおばちゃんの調査網《ちょうさもう》に引っかからん理由にはなるけど。――野宿以下やん。剛粧《ごうしょう》はほぼ月一《ツキイチ》で来よんねんで? 三ヶ月なら最悪計三回も、剛粧の大群やり過ごさなあかんわけや。それを個人でやり遂げたっちゅうなら、そもそも隊が全滅したりはせんやろ? それに『アイティオン』とのコネの説明かて……」
「塔《メテクシス》の麓《ふもと》にいる『アイティオン』の調査拠点《キャンプ》が、川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》を直接|保護《ほご》したんだろうねえ。――あの子は塔《メテクシス》で三ヶ月を過ごしたあと、ここへやって来た」
竹田《たけだ》の言っていることは清子の常識《じょうしき》から言えば、相当に大胆な推理である。清子はキュウリ片手のまま、しばし呆気《あっけ》に取られた。
「……ありえへんやろう、それは」
次第に集中して思考を巡らせながら、清子は呟《つぶや》く。
「そういうことは起こらんのが、これまでのルールや。『アイティオン』が何で今さら、一個人と接触すんねん?」
「それはアチラの都合が何かあるのかねえ。確《たし》かに『アイティオン』は『たかが一匹の人間』と接触したりしないのが通例だよ? でもその前提さえ取り除けば、いろんなことの辻褄《つじつま》が合わないかい」
その答えに反論《はんろん》しようとした清子は、またしばらくのあいだ考え込む。そして「……ちょっと待ってや?」と聞き返した。
「ほんなら竹田のおばちゃん。敦樹が塔《メテクシス》から直接この土地に来たっちゅうなら。防災団始めた時から敦樹と連《つる》んでる四方《しほう》佐里《さり》は、どこにおった人間なん? アイツは元からこの土地におった人間とちゃうで?」
それはクラスメイトから聞いて、割と以前から知っていたことである。西日本へ到着して各地を転々とした敦樹が、どこかでスカウトしたのだと清子は思っていた。
しかし竹田の予想が正しいとすれば、その前提は崩れる。
敦樹の隊がファンタズマによって全滅させられてから三ヶ月後、彼女は難侵入《カタラ》地域から直接この地へ現れた。そしてその時にはもう、敦樹の隣《となり》には佐里がいたのだ。
つまり敦樹は難侵入《カタラ》地域で過ごした三ヶ月の間に、どこかで佐里と出会ったことになる。
竹田は頷《うなず》いた。
「結局それだけが、この状況の証拠なんだろうねえ」
そう呟きながら竹田は懐《ふところ》に手を入れる。財布を取り出し、さらにその中から新聞切り抜きのコピーらしき小さな紙片を、清子に差し出した。
「何これ?」
「十二年前の記事」
その内容に清子《きよこ》は目を通す。
『14[#「14」は縦中横]日午後10[#「10」は縦中横]時。神鍋山《かみなべやま》観測台《かんそくだい》の職員《しょくいん》が久美浜《くみはま》付近の境界線《きょうかいせん》越境者に気づき、豊岡署《とよおかしょ》に通報した。同署では12[#「12」は縦中横]日夜から和田山町《わだやままち》の旅館に宿泊していた下関市《しものせきし》の家族連れ三人と見て、身元の確認《かくにん》を急いでいる――』
「……ごっつウチらの地元やん。記事の方はだいぶ前に流行《はや》っとった、『境界線心中』とかゆうヤツやろ? 耐性ないのがアンテムーサ効果かかると、結構気持ちエエらしいからなあ。どんな死に方でも苦しまずに死ねるとか何とか……」
「あのころはまだ、みんなが食い詰めてたからねえ」
「それで、十二年前のこの不幸な一家心中がどないしたん?」
清子《きよこ》は新聞のコピーを指に挟んでピロピロ振りながら訊《き》く。竹田《たけだ》は答えた。
「そこに書いてある下関市の家族連れなんだけどね。四方《しほう》行信《ゆきのぶ》=当時三十歳と、四方|真理《まり》=当時二十八歳、そして四方|佐里《さり》=当時四歳だったことが二日後、確認されてる」
キュウリの握られた手を膝《ひざ》の上に落とし、清子は押し黙《だま》った。竹田がなおも続ける。
「両親《りょうしん》だけが非耐性で、四歳の娘は耐性者だったんじゃ、って考えるとさあ。本当に気の毒な気分だよ。しかしアイティオンは、何の気まぐれか難侵入《カタラ》地域内をさまようこの子に救いの手を差し伸べた。そして成長した四方佐里が、今度は川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》を救った、ってね。まあ、想像でしかないんだけどさ」
清子は手の中の紙片を、知らぬ間に握り潰《つぶ》していた。そして吐き出すように呟《つぶや》く。
「何やねん、それ……」
文彦《ふみひこ》は、病室に来て何も喋《しゃべ》らない敦樹に困惑していた。
時刻は夕方、ちょうど放課後《ほうかご》である。いつものように首にゴーグルをかけた敦樹は、制服の上にコートの姿。学校が終わってから直接ここへ来たらしかった。
到着早々敦樹は、「三日前に共同体と、文彦の事情|聴取《ちょうしゅ》についての話し合いがついた」と言い、「明日から相部屋に移れることになった」と告げた。
結局その二つだけ言って首に巻いていたマフラーを畳むと、コートも脱がないまま椅子《いす》に座って黙り込んでしまったのだ。そしてずっと、窓の方を見ている。
もちろんこの報告白体は、文彦にとって素直に嬉《うれ》しいことだった。秘密保持のために個人病室へ閉じ込められている日々が、ようやく終わるのだ。しかしそれっきりで敦樹が喋らないのでは、どうにも話題が続かない。取《と》り敢《あ》えずこれまでの検査や治療《ちりょう》の様子《ようす》について一通り語った文彦は、様々な方面に話題を振ってみる。対して敦樹は相槌《あいづち》だけを返す。
結局敦樹の関心を惹《ひ》けたのは、困った末のどうということのない一言だった。
「何か、今日って随分寒いね」
椅子《いす》に腰かけたまま窓の外を見詰めていた敦樹《あつき》は、張りつめていた表情をようやく少しだけ崩した。そして文彦《ふみひこ》を振り向く。
「そうだな。――済まない。雪が降るとラジオで言っていたから、少し感傷的になった」
「へえ、雪か。この部屋からも見えるといいなあ」
本当に楽しみそうに言った文彦は、次の瞬間《しゅんかん》、「ああ、いやゴメン」と言葉を濁《にご》した。
「……敦樹ちゃんたちは、仕事があるんだもんね。寒いとみんなが大変なのに、僕だけのんびり楽しんでるみたいなこと言って。
ホント、年末で忙しい時期なのにこんな有様《ありさま》だし」
文彦は左腕に巻いたギプスを、申し訳なさそうな表情で持ち上げる。しかし敦樹は、横へ首を振った。
「利き手じゃなくて良かったさ。日記はつけられる。それに文彦のケガは、名誉の負傷じゃないか。私を守って、ファンタズマの片腕を叩《たた》き落とした。――立派な戦果を上げている」
「そうかな。嬉《うれ》しいからいま日記につけよう」
文彦はいそいそと日記帳代わりのノートを取り出すと、先ほどの会話を書き始める。敦樹はその様子《ようす》を見ながら言った。
「文彦が防災団から抜けてるっていうのは、確《たし》かに戦力のダウンだ。しかしここのところの剛粧《ごうしょう》対策は、以前のように各防災団単位でバラバラに動いているわけじゃない。清子《きよこ》の作った新態勢のおかげで、数ヵ所が共同で動く。
歩課《ほか》一人分ぐらいの穴は、埋められるさ。文彦の方は、ゆっくりケガを治してくれ」
「……でも今度の敵は、それだけじゃ済まないんだよね」
文彦は鉛筆を置くと敦樹の目を覗《のぞ》き込み、考えを探るかのように言う。
「アイツは敦樹ちゃんを狙《ねら》ってた」
「――何とかするさ」
敦樹はゆっくりと答えた。
「敵の正体は分かったんだ。私の技もそれに合わせて再調整《さいちょうせい》している。前回のような負けは、もうないつもりだ。――だから文彦は、ケガを治すことに専念してくれればいい。
もっとも私の方も、次の対策まで強化訓練で顔を出せなくなる。まあ、だから今日は来た」
「強化訓練?」
文彦が興味津々《きょうみしんしん》といった風に訊《き》くので、『ふむ』と頷《うなず》くと敦樹は椅子から立ち上がった。途端《とたん》、両腕をグルリと振り回すとスパッと振り抜く。
「?」
不可解な表情の文彦の前で、今度は逆方向に同じ動作。
「大体こんな感じだ、文彦。どうだ?」
「いや、何が始まったの?」
文彦《ふみひこ》が訊《き》き、三度目を繰《く》り返そうとした敦樹《あつき》の動作はピタリと止まった。
「ファンタズマの予測|射撃《しゃげき》にはクセがある。私のデイノスを起動した状態で連装刀を持ち、ある程度スピードが出ていれば、これで主砲を避《よ》けられるらしい。
もっとも狭い場所では実行不可能だから、万全ってわけでもないんだが。――追い詰められさえしなければ、何とかなる」
「へぇ……」
半信半疑といった様子《ようす》の文彦に「本当だぞ」と言って、敦樹は再び椅子《いす》に腰かけた。
「まあそういうわけだから、ファンタズマが現れても大丈夫だ」
「……ねえ、次の戦いって、佐里《さり》ちゃんは一緒《いっしょ》なんだよねえ?」
その突飛《とっぴ》とも思える質問に敦樹はしばし考え込む。が、やがて頷《うなず》いた。
「ああ。さすがに、私一人じゃ戦えない」
「そうだよね。なら大丈夫か……」
文彦は一度きつく目を瞑《つむ》り、目を開けた。そして突然思いついたように、包帯を巻いた手を打つ。
「そうだ、それじゃあデイノスの登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》、敦樹ちゃんに渡しとくよ。好きにいじってくれていいから、剛粧《ごうしょう》対策の時に使ってよ」
ベッドの隣《となり》に置かれた台にある引き出しを、文彦は探り始めた。「いやしかし……」と敦樹は戸惑う。
だが一方の文彦は、登録起動鍵を差し出すとフニャリと笑った。
「僕、しばらくは現場に出ちゃ駄目《だめ》だって、お医者さんに言われてるから。このまま病院に置きっぱなしにしとくのは勿体《もったい》ないよ。ええっと、『複層《ふくそう》情報《じょうほう》結合《けつごう》』は敦樹ちゃんも持ってるからいいとして――」
文彦は三本の金属棒の内、一本を取り除く。これは同じものが何本あっても、仕方がない類《たぐい》のデイノスである。
「残りの『調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》』と『可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》』だね。『可変空間装甲』は楢橋《ならはし》さんトコの機械《きかい》で内容書き換えれば、いろんな空間|障壁《しょうへき》作れるから便利だよ」
「それは知っているが、いじっていいものか迷う……」
「大丈夫、僕の方のレシピもお店で保管されてるから。僕が復帰した時にまた直せば、問題ないよ。――敦樹ちゃんは遠慮《えんりょ》ばっかりしてないで、もっと自分のことも考えなきゃ。今度の戦いは、絶対に勝たなきゃ駄目なんだからさ」
「……そうだな」
敦樹は頷いた。
「じゃあ文彦の厚意に甘えて、しばらく貸してもらおう」
そう言って文彦《ふみひこ》が持った二本の登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》に手を伸ばす。だが、敦樹《あつき》が登録起動鍵を握っても、文彦は手を離《はな》さなかった。
「ちゃんと返してくれなきゃ駄目《だめ》だよ」
敦樹は驚《おどろ》いたように文彦の顔を見た。だがすぐに不機嫌《ふきげん》ぽい表情を浮かべる。
「そんなことは当たり前のことだ。私はネコババなんかしない。これは責任を持って、元の状態で文彦に返す」
「責任かあ。……敦樹ちゃんは堅いなあ」
呆《あき》れたように文彦は苦笑して、ようやく手を離した。
「キヨちゃんぐらい出鱈目《でたらめ》な方が、面白《おもしろ》おかしく長生きできるよ、多分《たぶん》。――そういえば最近、キヨちゃん見ないけど、どうしてる?」
敦樹は登録起動鍵をコートのポケットにしまいながら、首をかしげた。
「防災団業務は普通にやってるし、学校にも一緒《いっしょ》に行くぞ? 自由時間に出かけることは多くなったが、……ここに来てるんじゃないのか?」
「三日に一回ぐらいだね。見舞《みま》いものの果物食べながら、まるでヨッパライみたいにクダ巻いて帰るよ。相変わらず秘密ばっかりで、話の半分ぐらいは意味不明かな」
――何をやってるんだか、アイツは。
敦樹はガックリと肩を落とし、文彦が笑う。
「まあキヨちゃんはそんなモンだよ」
「文彦が、それでいいならいいんだが。――それじゃあ、そろそろ行く」
腕時計を見た敦樹が立ち上がって言うと、「うん」と文彦は布団に潜《もぐ》り込んだ。
「今回の剛粧《ごうしょう》対策が終わったら、また来る」
敦樹は床に置いた鞄《かばん》を持ってそう告げると、そのまま病室をあとにした。
しん、とした空気が室内に戻る。文彦はシーツの上で手を組むと、息をつきながら目を瞑《つむ》った。
「……いってらっしゃい、敦樹ちゃん」
敦樹は文彦の見舞いのあと、直接、楢橋《ならはし》商店へ向かうことにした。
文彦の病院は、防災団の中央事務所が存在する六湛寺町《ろくたんじちょう》に位置する。対して楢橋商店まではそこから阪神本線《はんしんほんせん》の終点・西宮駅《にしのみやえき》を挟んだ、ごくわずかな距離《きょり》だった。
体の芯《しん》から冷えるような、寒く薄暗《うすぐら》い夜の近づく道。マフラーに顔を埋めた敦樹は一人、足早に歩く。
だが今は使われていない踏切跡まで来た時、ふと視界を小さな影《かげ》が横切った。立ち止まって顔を上げると、厚い雲から雪が降り始めていた。
もっとも、積《つ》もるような感じではない。小さな小さな粉雪が、綿埃《わたぼこり》のように強い風に吹かれて飛んでいく程度――雪時雨《ゆきしぐれ》である。しかし敦樹《あつき》にとってその風景は、強い既視感《きしかん》を覚させるものだった。
長野《ながの》山中での最後の戦い。確《たし》かあの時も、こんな雪が降っていた。
そして今日で、あの日からちょうど一年になる。
――出来過ぎているな。
敦樹は鞄《かばん》を肩に担ぎ直すと、再び歩き始めた。
商店街に到着しアーケードをくぐると、そこには防災団のための各種各店が軒《のき》を連ねている。店の並びのちょうど中ほどに、目的の楢橋《ならはし》商店はあった。
営業中の札は出ていたので、敦樹は正面口から店に入る。そこでは、クラスメイトである楢橋|南美《なみ》の父親・健三《けんぞう》が、テーブルについて一人の客と将棋《しょうぎ》をさしていた。対局は夕食後のついでなのか、テーブルの上には将棋|盤《ばん》の他《ほか》に、出前らしいどんぶりが二杯、重ねて置かれている。
ちなみに楢橋父の相手は、客と言っても同業者である。叶《かのう》慎二《しんじ》という三十代の男だった。叶《かのう》は業務用刃物の専門店を営んでいて、ハサミ研《と》ぎから刀鍛冶《かたなかじ》まで、刃物に関することなら何でもやる。
[#挿絵(img/basileis2_216.jpg)入る]
――と、言うと力仕事が得意な無骨な男の姿を思い浮かべがちである。しかし叶《かのう》の第一印象はどちらかといえば、外科医のそれに近い。
すらりとした長身とこけた頬《ほお》、そして常に皺《しわ》の寄っている眉間《みけん》。彼はその神経質そうな外見からも察せられるように、どんな刃物でも図面通り、一分《いちぶ》の狂いもなく作り出してしまうような男だった。
その叶《かのう》は現在、楢橋《ならはし》父の長考を待っているらしかった。いつも以上に苛々《いらいら》とした凶悪な表情を浮かべている。
店内に現れた敦樹《あつき》にすぐ気づいたのも叶《かのう》の方で、彼は楢橋父の肩を叩《たた》いた。
「健三《けんぞう》、防災団の川中島《かわなかじま》が来ている」
叶《かのう》は敦樹をこういう風に呼ぶ。対して楢橋父の方は将棋盤《しょうぎばん》を睨《にら》んで首を捻《ひね》ったまま、上《うわ》の空《そら》で言った。
「いらっしゃい。オカンは町内会、南美《なみ》やったら学校帰ってきてからすぐ、文坊《ふみぼう》の見舞《みま》いに行ったで? あの歳《とし》なると妙に色気づいてかなわんなあ。――って、あっちゃんも同い年やんなあ、ハハハハハ」
楢橋父は将棋盤を睨んだまま、もじゃもじゃ頭を掻《か》いてそう笑う。
――南美と道で入れ違いになったのか?
先ほどまで病院にいた敦樹がそう考える間にも、叶《かのう》は近くにあった新聞紙を丸め、それで思いっ切り楢橋父の頭を叩《はた》いた。
「店の客だ、馬鹿《ばか》モノ」
そう毒づかれてやっと、楢橋父は敦樹の方を振り向いた。
「おう、いらっしゃい。――そんな入り口で突っ立ってへんと。店ン中、入ってき」
改めて気づいたというように、楢橋父は慌ててそう言う。敦樹は無言で頭を下げると、言われる通りにした。
「で、どしたん? ゴーグルの修理は終わったし、連装刀の方の納期にはまだ日があるはずやけど――」
「少し相談《そうだん》したいことが……」
そう言いながらテーブルのところまで行った敦樹は将棋盤に目を落とし、しばし口に手を当てて沈黙《ちんもく》する。
「……3七に金で、抜けられませんか?」
楢橋父は慌てて盤面に目を戻すと、確認《かくにん》するように空中で人差し指を動かす。そして途端《とたん》にニヤリと笑い、一方の叶《かのう》は舌打ちした。
嬉々《きき》として敦樹の指示通りに駒《こま》を動かした楢橋父は、そのまま将棋盤を脇《わき》へ押しやり、敦樹を振り向いた。
「いやあ、助かったわ。で、相談て何や? ちなみに壊《こわ》れた連装刀の方やったら、今はコイツの仕事が終わるの待ち」
そう言って叶《かのう》を親指で指し示す。
敦樹《あつき》の連装刀は、一号刀から六号刀までを柄《つか》の回転で入れ替えることのできる武器である。システムを作ったのが楢橋《ならはし》商店店主である楢橋父。そして実際に六本の刀を作ったのが、この叶《かのう》だった。
システムの方に問題はなく、破損は刀そのものについてのみだった。同時に前回の戦闘《せんとう》で、これまでの剣ではファンタズマに通用しないこともはっきりとしていた。
そこで敦樹は叶《かのう》に、各刀の修理と合わせて改良を依頼している。より重く、より丈夫に。その答えが、手斧《ておの》状切先への切り替えだった。
「そうは言っても、六本の大半を修理・再製作だからな。時間はかかる」
叶《かのう》は言って、不機嫌《ふきげん》そうに腕を組む。
「断ち切り専門の刃物を使う人間は、防災団には多い。本来はそれ程、手こずるものでもないんだが。――六号刀だけはあの大きさだからな」
「手数をかけます」
敦樹が言い、叶《かのう》は黙《だま》って頷《うなず》いた。そこで楢橋父が、再び訊《き》いてくる。
「で、修理に関する話やないとなると、今日は何の相談《そうだん》?」
「はい」
敦樹はポケットに入れていたデイノスの登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》を二本、――たったいま文彦《ふみひこ》から受け取ったばかりの金属性の棒を取り出して、テーブルの上に並べた。
楢橋父はそれを手に取ると、詳細を見ようと目を細め、さらに敦樹へと視線《しせん》を向ける。
「これは?」
「調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》と可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》です。しばらくの間、私が文彦から預かることになりました。これを使った七号刀の作成を、依頼したいんです」
「ほー。……まあ確《たし》かに、文坊《ふみぼう》が入院しとる間、ただの肥《こや》しにしとくのも勿体《もったい》ない話やけど。――珍《めずら》しいな。デイノス使用権の委譲《いじょう》許可は取ってきたん?」
「まだですが、すぐに準備できます」
それは知事の空知《そらち》に話を通せば、問題はないことだ。七号刀作成の資金についても、同様である。一方、大人《おとな》二人もその辺りのことに関しては敦樹を信用してくれているのか、それ以上は聞かない。
「しかし――」
しばらくして叶《かのう》が、そう口を開いた。
「デイノスの使用はデリケートだ。数を多く使えばそれだけ良い結果が出る、という単純なものでもない。使い始めてすぐに、その動作を習得できるものではないしな。使いこなすのには時間がかかる」
「だからこそ私の戦い方にうまく合うよう、七号刀を作ろうと考えています」
敦樹《あつき》のその返答に、叶《かのう》は顔を顰《しか》める。
「それは、例えばどんなものを?」
「調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》を使った、振動切断する剣とか」
「乱暴な。そんなものを作れば、普通は剣の方が壊《こわ》れる」
憮然《ぶぜん》とした表情で、刃物の専門家である叶《かのう》は咎《とが》めるように言った。
「それに可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》は、相手の行動を制限するための障害物として使う。自ら動き回ることで相手の不利を突いていく君の戦闘《せんとう》スタイルには、あまり向いていないんじゃないか?」
「……いやそうでもないぞ、叶《かのう》」
しばらく一人で考え込んでいた楢橋《ならはし》父が、背後の事務用カウンターから白紙と鉛筆を手に取る。そして頭を抱え込むようにして、その紙に何かを書き始めた。
「可変空間装甲は、共有結合格子のみで構成された壁《かべ》やろ? しかし力学的には通常物質と変わらへんから、振動を伝える媒体《ばいたい》として使える……」
「可変空間装甲を刃先にするのか?」
楢橋父は「ちゃうちゃう」と首を振って、「ヒントや」と親指と人差し指を立てると銃を撃《う》つ仕草《しぐさ》をする。
叶《かのう》は首を捻《ひね》った。
「共振させた可変空間装甲の弾丸を炸薬《さくやく》で撃ち出すのか? ――いやナンセンスだな。可変空間装甲自体にも移動能力はあるが、これも弾丸としては遅過ぎるし……」
楢橋父が無言のまま小馬鹿《こばか》にしたような笑みを浮かべているのに気づき、叶《かのう》は必死の形相《ぎょうそう》で考える。
大人《おとな》たちの知恵比べに、敦樹はもう完全に置いてきぼりだった。実際、この楢橋商店・店主が何を考えているのか、見当もつかない。
だが叶《かのう》の方は一分とかからずに答えに辿《たど》り着いたのか、「――そうか」と声を上げた。
「前後を次々に入れ替えて可変空間装甲の出現位置を繋《つな》いでいけば、当たった的《まと》に振動|破壊《はかい》を起こせる飛び道具として使えるじゃないか」
そう感心したように言う。楢橋父は『どうか?』という表情で、敦樹を見た。
敦樹は押し黙《だま》ったまま考え込む。
「……意外と行けそうな武器に思えます。銃は私も扱えますし、連装刀のシステム的にも邪魔《じゃま》になりません。――むしろなぜ、普段《ふだん》これを使う人間がいないのかと。誰《だれ》か気づく人が、今までいなかったんでしょうか?」
「鋭《するど》いなあ。なかなか言いづらいことなんやけどなあ。銃としては致命的な欠点が、一つだけある」
楢橋父は妙にもったいぶった風に言う。
「実は射程が100mしかないねん」
「それのどこが銃だ」
呆《あき》れたような声を叶《かのう》は上げた。
「詰めの甘さは将棋《しょうぎ》の腕と一緒《いっしょ》か、お前は? ……もし100mを越えると、弾はどうなるんだ?」
楢橋《ならはし》父は肩をすくめる。
「消滅する。流れ弾とかさえなしやから、普通の武器としては結構ツライ」
「――ああ、そうか。可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》の出現可能|範囲《はんい》が、登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》を中心に半径100m以内だから……」
納得のいった敦樹《あつき》が、そう呟《つぶや》く。楢橋父も「そうやねんなあ」とぼやいた。
「剛粧《ごうしょう》の突進速度を考えると、デイノス二本使ってる割りには心許《こころもと》ない武器やねん。ただし今回は敦樹ちゃん、自分のデイノスも使うんやろ? そういう特殊な場合やったら、うまいこといくんちゃうかなあ?」
是《ぜ》か否《ひ》かを問うように、楢橋父は敦樹を見る。そして敦樹は頷《うなず》いた。
「これで行きましょう。剛粧にダメージを与えられるのは確《たし》かですし、射程の制約は私ならうまく対処できると思います」
「よし、ならこれで決まりやな。早速作ろか」
嬉《うれ》しそうにそう言って店の奥の作業部屋に引っ込んだ楢橋父は、見た目そのままのライフル銃を担いで戻ってきた。
「何なんだそれは」
焦ったように叶が訊《き》く。楢橋父は「?」と呑気《のんき》な顔で首をかしげた。
「二十五年前に当時の自衛隊《じえいたい》がばらまいた、89式小銃。これ外装に使おう思て」
「なぜそれをお前が持っている。銃刀法違反で捕まるぞ!」
怒鳴る叶《かのう》に「モデルガン、モデルガン」と楢橋父は手を振った。
「無可動実銃っちゅう奴《やつ》やな。半分|骨董品《こっとうひん》やし、今の共同体の取締《とりしまり》法的にも問題ないて。届け出してへんけど」
「今からそれを、使えるようにするんだろう? できるんだろう? ……いや答えなくていい。共犯はまっぴらだ」
「大げさやなあ。外っかわ使うだけや言うてるやん」
快活に笑う楢橋父を前に、敦樹はどう言ったらいいものかと無言で迷う。そして叶《かのう》は座ったまま頭を抱え、テーブルでうずくまった。
「脳天気なお前と違って、兼子《かねこ》さんはそういうのに煩《うるさ》いんだ。できるだけ見つからないように作業しろ」
楢橋父は妻の名を出され、笑った顔のままビクリと背筋をただした。
納得がいかないという顔で、清子《きよこ》は頬杖《ほおづえ》をついていた。加古川《かこがわ》駅での情報交換から一週間後、場所は文彦《ふみひこ》の病室である。
と言っても、文彦は個室からようやく解放され相部屋へと移っていた。文彦個人の病室ではない。周囲の同室者たちからは、深刻そうな清子の様子《ようす》に好奇の視線《しせん》が集まる。
清子が見舞《みま》いに来るのは病室を移ってから初めてだったので、文彦は最初、そのことを喜んでいた。
しかし清子はベッドの横の丸椅子《まるいす》に腰かけたまま、沈黙《ちんもく》するばかりである。先日の敦樹《あつき》の時とはまた違った意味で、空気が重い。
文彦がかけるべき言葉を躊躇《ためら》っていると、清子は突然、ぼんやりとしたままの目を向けた。
「なあ、あのなあ……」
「何?」
緊張《きんちょう》した声で文彦は問い返す。清子はまだ考え込むように、再び口を開いた。
「サリサリの持っとるパリカリアって多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》、結局アレって何なん?」
「え、いやあ……? 多脚砲台の試作機《しさくき》なんじゃないの、装甲とか大昔の戦車みたいにガチガチだし」
文彦にしても、戸惑ったように当たり前のことを言い返すしかない。しかし清子は声を潜《ひそ》め、なおも言う。
「……あれは戦術歩行艦《シャリオ》のはずや。やからこそ同じ戦術歩行艦《シャリオ》であるファンタズマを追っ払えた。しかしあの程度のモンに何の能力があんねん。――前の戦いの時、アツキが何かゆうとってんけどなあ……。ウチかて必死やったし、この前の戦闘《せんとう》の通信|記録《きろく》、こっちの共同体にごっそり押収《おうしゅう》されてもうたからなあ」
「いやキヨちゃん。そもそも何のこと言ってんの?」
「分からんなら分からんでええ」
――じゃあ最初から言わなきゃいいのに。
文彦は情《なさ》けない表情で思う。だが清子は人に話して聞かせることで、自分の考えをまとめようとしているらしかった。
「……なあ、文彦。サリサリって、元々どこにおった人間か聞いてない?」
――こういった風に突然、少しだけ違った話題へ飛ぶ。文彦は余計なことは言わず、「聞いたことないなあ」と素直に答えた。
「そういえば、元いた中学とかどこなんだろう?」
「知らんのかいな。……ずっと一緒《いっしょ》に生活しとる割りに、信用されとらんのう」
自分のことは棚に上げ、清子《きよこ》はぼんやりそう言った。
だが文彦《ふみひこ》もこの一言には、ややムキになって反論《はんろん》する。
「訊《き》かれなかったし、訊かなかったんだよ。僕たちはそうやって、やって来たんだ。敦樹《あつき》ちゃんや佐里《さり》ちゃんは、そういうことで人を判断したりしない。――それに僕だって、子供のころに何してたかとか、答えたくないよ」
「お前の場合は、綺麗《きれい》さっぱり忘れとっただけやないか」
冷静な声で的確《てきかく》に反論され、文彦は一瞬《いっしゅん》押し黙《だま》った。
「……そう言うキヨちゃんこそ、何コソコソ仲間内の身元|調査《ちょうさ》みたいなことしてるのさ。気になるんだったら直接、佐里ちゃんに訊いてみればいいじゃん」
「それも一遍《いっぺん》考えたんやけどなあ。変に警戒《けいかい》されたら調《しら》べにくなるしなあ」
清子はすぐそばに置かれた見舞《みま》い品の籠《かご》からミカンを手に取り、それをまじまじと見詰めながら言う。
「それにアイツら、最近コソコソ二人で行動すること多いからなあ。やりにくうてしゃあないわ。今日なんか朝からおらへん。敦樹もやで? ウチが知らん間にちゃっかり学校に欠席届出して休みよった。
ただ、いくら授業が短い土曜《どよう》や言《ゆ》うても、対策は三日後やで? 防災団の人間は全員事務所に張りついとるっちゅうのに、何をアイツらだけ勝手にいななってんねん。――まあそうはゆうても、ウチかて正式な待機《たいき》命令でてへんから、ここに来てんねんけどなあ」
食べるつもりだったが興味《きょうみ》をなくしたという目をして、清子はミカンを籠に戻すと大きく伸びをした。
「ファンタズマが狙《ねろ》とるのは、ほぼ間違いなく敦樹なんやで? フラフラ出歩いとってええんか?」
「……二人とも?」
何かを悟ったように、文彦が呟《つぶや》く。同時に清子もまた、そのたった一言に表情を険しくした。
目を細めると堰《せき》を切ったように思考を再開。そしてわずかな間を置いて清子は、焦燥《しょうそう》の表情を浮かべる。
「……おい、まさか」
文彦は頑《かたく》なに無言のまま。しかし清子は確信し、舌打ちする。
「何でここまであからさまな兆候に、気がつかんかったんや。ファンタズマと剛粧《ごうしょう》が来るんて、今日なんか?」
「僕は何も聞いてないよ」
「『何も聞いてない』やないやろ! 何か心当たりがある顔しとったやないか。敦樹と佐里だけで……今回の剛粧対策やらせようっちゅうんか? いま防災団に全待機がかかっとるんかて、アイツらが失敗した時のバックアップなんとちゃうんか――」
再び思考を巡せながら、清子《きよこ》は唸《うな》るように言う。
「……そもそも何でウチでも気づかんようなこと、お前だけがそんな分かってたみたいな風にしてんねん?」
その問いには文彦《ふみひこ》の方が迷う。しかしやがて意を決して口を開く。
「そういうことは、あるかもしれないと思ってた。だから僕のデイノスの登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》、敦樹《あつき》ちゃんに渡したんだ。敦樹ちゃんその時、結構素直に受け取ってくれたから」
「何やと……」
考え込んでいた清子は、視線《しせん》を上げて文彦を睨《にら》んだ。
「ファンタズマは敦樹個人を狙《ねろ》とるんや! アイツが死ねば万事解決て、知事の空知《そらち》とか、上から命令されてやっとることやろ――」
ベッドの上の文彦に掴《つか》みかかる。
「やのにお前、なに背中のあと押ししてんねん! 自分のしたこと分かってるか? 二人だけで戦えっちゅうんか!?」
しかし文彦はその剣幕《けんまく》に怯《ひる》まず、真《ま》っ直《す》ぐに清子を見詰め返した。
「……僕はキヨちゃんみたいに、裏事情の読める人間じゃない。だから連合知事の空知さんとか、会ったことのない誰《だれ》かが何を考えてるかなんて、分からないよ。
けど敦樹ちゃんのことは、よく知ってるんだ。――敦樹ちゃんは、わざわざ負けに行くようなことはしない。ましてやそんな戦いに、佐里《さり》ちゃんを巻き込んだりしないよ」
「分かるか、そんなこと!」
「分かるんだよ。敦樹ちゃんが自分で決めた戦いなんだ。だから僕は、敦樹ちゃんがより確実《かくじつ》に勝てるよう、僕の渡せるものを渡したんだ」
「何でどいつもこいつも、そんな軽々しいねん。命かかってんねんぞ! 話にならんわ!!」
清子は怒鳴ると文彦を突き放し、病室を飛び出した。
「何というか、寂しいもんだな」
周囲の圧倒的な廃墟《はいきょ》――かつての大阪《おおさか》市街を見回して、敦樹は言った。
「本当に、観光《かんこう》だけで一儲《ひともう》けできる規模だよね」
佐里は巨大な鍵の形をした多目的制御棒を腕に抱え、周囲をグルグルと見回す。
現在の大阪は難侵入《カタラ》地域に呑《の》み込まれた無人都市である。かつては数百万人の人間が暮らしたこの街に、今は敦樹と佐里の二人しかいない。
剛粧《ごうしょう》のいない時期ならば、この辺りまで何かの仕事で出張ってくる耐性者もいる。しかし敦樹たちがこの旧大阪市街にやって来たのは、三日前の前準備が最初だった。未《いま》だに何もかもが珍《めずら》しい。
今日、ここで剛粧《ごうしょう》五千匹とそれを率いる敵・ファンタズマを迎え撃《う》つ。
二人は最初の陣地作りをするため、まずは御堂筋《みどうすじ》に沿って中之島《なかのしま》まで来ていた。
この一帯の道路は雨の排水がうまくいかなかった時期があるらしく、表面をからからに乾燥《かんそう》したゴミや土砂の類《たぐい》がマーブルの模様を作っている。そして空を覆《おお》った厚い雲の隙間《すきま》からは、すでに高い太陽がこの灰色の風景にこぼれ落ちるように射《さ》し込んでいた。
「左にある窓のたくさんある建物が大阪《おおさか》市役所跡で、右のちょっと独特なのが大阪の日本銀行よね。で、ここにある川が道頓堀《どうとんぼり》?」
「堂島川《どうじまがわ》だ。『どう』しか合ってない」
敦樹《あつき》が訂正する。
「――というか、大阪の川は淀川《よどがわ》か道頓堀川のどっちかだと思ってないか、佐里《さり》?」
「大きくは間違っていない……はず?」
佐里の答えに、敦樹は困ったような表情を浮かべた。
まあしかし、実際いまいる中之島は旧淀川の中州《なかす》であるし、道頓堀川はその旧淀川の支流だ。佐里が正しいと言えないこともない。
「どうでもいいことか」
その一言で決着を図ろうとする敦樹に、佐里が「えぇ……」と不満げな視線《しせん》を向けた。敦樹の方は努めてそれを無視すると、左腕の時計を見る。
[#挿絵(img/basileis2_232.jpg)入る]
現在、午前十一時四十七分。
「そろそろ剛粧《ごうしょう》の到着する時間だ。佐里《さり》、準備を始めよう」
「はーい」
答えて佐里は、抱えていた多目的制御棒を地面へと立てた。頭の方が重い巨大|鍵《かぎ》は、一瞬《いっしゅん》不安定に揺れる。が、すぐに垂直に立って静止した。高度虚物質技術《デイノス》による力場が為《な》している技である。
一方、敦樹《あつき》もポケットから鉛筆大の金属棒を取り出す。右手に三本、左手に二本の合計五本を指に挟み、それぞれ持った。
佐里は地面に対して垂直に立つ鍵型多目的制御棒に掌《てのひら》を当てると、朗々と告げる。
「発令! 現時刻より|樋ノ口町《ひのぐちまち》防災団は事前特認指定E‐5地域において、単独による剛粧との戦闘《せんとう》を開始する。デイノス発動位置の検認と、登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》の解放を要請《ようせい》!!」
無人の街に佐里の声が響《ひび》いた。そして敦樹が手に持った五本の登録起動鍵には亀裂《きれつ》が生じ、そこを起点としてわずかに伸びる。伸びたことによって露出《ろしゅつ》した内部構造が緑色《みどりいろ》の光を放っていることを確認《かくにん》し、敦樹は登録起動鍵に告げた。合計五つ。
「通達、摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》、調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》、可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》、複層《ふくそう》情報《じょうほう》結合《けつごう》の使用要請」
五本の登録起動鍵|全《すべ》てが、要請を認識《にんしき》する。そして漏れる光は緑から赤へと変わり、稼働《かどう》状態に入った。さらに佐里は続けて告げる。
「多脚《たきゃく》機動《きどう》砲台《ほうだい》パリカリア、出撃《しゅつげき》」
埃《ほこり》で燻《くすぶ》った廃墟《はいきょ》の空に、光が走った。空間格納されているパリカリアが、上空に姿を現わしたのだ。その車体を上下から挟んで固定していたハンガーが解放され、パリカリアは御堂筋《みどうすじ》の大通りへと投下された。無骨な多脚砲台は敦樹たちの目前で大音を立てて着地し、足を踏み鳴らす。
そしてさらに、佐里は最後の通達を告げた。
「――パリカリア、最終機能制限と偽装装甲の解除準備!」
佐里のすぐ前の空間に、均一の光沢《こうたく》を持った金属製の円柱が現れた。
宙に浮いた金属棒には中央に真《ま》っ直《す》ぐな切れ目がある。佐里は地面に立てていた鍵型の多目的制御棒を持ち直すと、目の前に浮かぶ金属円筒の切れ目にそれを差し込んだ。
円筒はまるで錠前《じょうまえ》のシリンダーそのもののように半回転すると、さらに多目的制御棒を頭まで完全に呑《の》み込み、消滅する。
途端《とたん》、まるで止めていたネジが一斉に外れたかのように、パリカリアの車体から平らな装甲板、そして主砲までもが次々と地面に落ち始めた。散々|騒々《そうぞう》しい音を立て、全ての分厚い金属板が地面に転がる。そしてその跡には、全く別の姿をしたパリカリアが立っていた。
全身を覆《おお》う漆黒《しっこく》と、綺麗《きれい》で無駄《むだ》のない直線《ちょくせん》を描く本体。車両の腰が一段高く、その強靭《きょうじん》な六本の脚はこれまでとは比べものにならない機動《きどう》性能を有しているように見える。
砲塔の主砲部分は先ほど偽装装甲と共に完全に地上へと落ちた。そのため今はのっぺりとした前面を晒《さら》している。だがすぐに砲塔の上面に畳まれていた別の主砲が、マストのように垂直に起き上がった。そしてそのまま前方まで倒れ込んで、本来の主砲位置に接続される。
多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の主砲が連射時の加熱《かねつ》に脆弱《ぜいじゃく》であるのに対し、これは全くその心配を必要としない連射用主砲だった。
この姿こそが、戦術歩行艦《シャリオ》であるパリカリアの、本来の姿。子供のころに『アイティオン』に拾われ、塔《メテクシス》の麓《ふもと》で育てられた佐里《さり》が、彼らから与えられた力だった。
――一年前、敦樹《あつき》は長野《ながの》の山中でファンタズマに襲《おそ》われた。そして逃亡中に佐里によって救助され、ようやく塔《メテクシス》へ辿《たど》り着いたのである。本来ならば頑《かたく》なに人間を突き放すアイティオンが敦樹を受け入れたのも、佐里の説得があればこそだった。
やがて佐里は敦樹と共にアイティオンの調査拠点《キャンプ》を出、人間の世界へと帰ることが決まった。当時からの愛機であるパリカリアには、能力を制限する装置を組み込み、その力を使うのは最後の最後と決めていた。
そして今、佐里は再び真の姿を取り戻したパリカリアの正面に立つ。
腕組みするように車体正面を覆っていたドーザーブレードがまず展開され、その剣のようにすら見える腕を持ち上げて後方へと畳んだ。さらに車体下部の重厚なハッチが開き、操縦席《そうじゅうせき》がフレームごとせり出す。
佐里はバイクのような操縦席に跨《またが》ると、フレームの右上と左上にあるサブパネルに触れ、機能を起動した。そのまま操縦|桿《かん》を操作するとパリカリアはなめらかに歩き始め、敦樹の前まで来て停止する。
「ちょっと操縦の感覚を取り戻すまでに時間かかりそうだけど……大丈夫、行けそう」
せり出させたままの操縦席から佐里はそう言い、準備|体操《たいそう》でもするかのようにパリカリアを軽くジャンプさせる。その動きもスムーズなもので、これだけの質量が飛び跳《は》ねてほとんど音がしないことに敦樹は改めて驚《おどろ》いた。
「……問題はなさそうだな。佐里、例のパイルドライバーってのは?」
敦樹がそう訊《き》くと佐里は飛び跳ねるパリカリアをぐるりと反転させ、後方に折り畳んだ右の腕、ドーザーブレードの甲を示した。
「この出っ張り構造がそう。ここに制御乗っ取り用の杭《くい》を打ち出せる装置が入ってる」
佐里がいくつか操作をすると、ドーザーブレードの構造物から半分だけ杭が飛び出した。
「この杭を直接打ち込めば、ファンタズマの動きをこちらで乗っ取れるわ」
「つまり私たちの勝ちってことだな」
佐里は頷《うなず》いた。
「それが無理なら、ファンタズマの完全|破壊《はかい》ね」
「分かった。――とは言え、どのタイミングでファンタズマが出てくるか、読めないのも確《たし》かだ。まずは予定通り、佐里《さり》はここで待ち伏せ、私が囮《おとり》をやろう。剛粧《ごうしょう》の集団を射程に引きずり込む」
「了解、ここに陣地作るね」
準備運動のような各部の動作|確認《かくにん》を一通り終えて、佐里は答えた。
「土がかかるといけないから、敦樹《あつき》は下がってて」
「分かった。ただ一応、地中ソナーでアスファルトの下を調《しら》べてからやってくれ。地下鉄を掘り当てたり、二十五年前のガスが詰まったガス管に当たったりじゃ、目も当てられない」
「大丈夫だと思うけどね」
答えながら佐里が正面のパネルを操作《そうさ》すると、足をかけていたペダルが前に、操縦桿《そうじゅうかん》が手元に移動する。それに合わせて視界確保|優先《ゆうせん》だった前傾姿勢の佐里は後方へと倒れ、バケットシートのような背もたれに沈み込んだ。そのまま操縦席のフレームはパリカリアの中へと引き込まれる。
正面のハッチが閉まるのと同時に、音叉《おんさ》を叩《たた》くような音がパリカリアの右前足から響《ひび》いた。
『……うん、ソナーの方は問題ないみたい、始めるね』
スピーカーを通した佐里の声が、通信機《つうしんき》の役割も果たす敦樹のゴーグルから返る。敦樹は頷《うなず》くと、道の隅に移動しながら首にぶら下げたゴーグルをかけた。
その視界には地中探査の結果が律儀《りちぎ》に送られてきている。一方、パリカリアは後方へ逸《そ》らすようにしていた左右のドーザーブレードを前方に構え直すと、それを地面に突き立てた。
アスファルトにヒビが入り、それを剥《は》がすと下から白っぽい土が現れる。
パリカリアはそれを脇《わき》に避《よ》けながら、どんどん穴を掘っていく。そして三十秒もかからない内に前方と左右に土の山を築くと、その穴に身を伏せた。
土の壁《かべ》の向こうに車体のほとんどを隠し、主砲を振ってもぶつかったりしないか、砲塔をクルクルと回す。
『どうかな?』
「いいと思う。――まあ、敵のファンタズマも強荷電粒子砲を撃《う》つんだ。気休めだが」
『ま、できる間は慎重に行くってことで』
「ああ」
敦樹は答えると、今度は自分の方の準備に取りかかる。一旦《いったん》ポケットにしまっていたデイノスの登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》五本から、まず普段《ふだん》も使っている登録起動鍵の内、三本を取り出した。それを対策服の襟《えり》と腕のケースにそれぞれつける。
次に連装刀を鞘《さや》から抜いて柄《つか》を回転、従来通りの直刀《ちょくとう》である三号刀の状態から、この戦いのために新調《しんちょう》した各刀を再確認する。どの刀も切っ先部分に小さな錘《ウエイト》がつき、刃は分厚くなっている。
これまでの連装刀各刀に比べ切れ味は落ちるが、硬質な対象物への破壊力《はかいりょく》は増しているはずだった。
そして最後に現れた、刀とは名ばかりの七号刀。
外装は89[#「89」は縦中横]式小銃となっているそれの弾倉部――実際は登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》のソケットに、敦樹《あつき》は文彦《ふみひこ》から預かった『調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》』と『可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》』の登録起動鍵を差し込んだ。すでに発射のテストは済ませてある。撃《う》てるはずだった。
――これは文彦から託された武器であり、その意思でもある。
敦樹は目を瞑《つむ》ると、そのことをよく自分に言い聞かせる。文彦はどんな思いで、これを託したのか。
『敦樹、剛粧《ごうしょう》の先頭集団が…………いま大東市《だいとうし》と八尾市《やおし》を通過! そろそろよ』
佐里《さり》からの通信に、敦樹は目を開け顔を上げた。
「分かった。出発する」
そして敦樹は『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』の機能《きのう》接続を登録起動鍵に告《つ》げると、地を滑るように走り出した。
剛粧の発生する塔《メテクシス》は、長野県《ながのけん》と岐阜県《ぎふけん》の県境付近に位置する。ここから剛粧たちが西を目指す場合、名古屋市《なごやし》から岐阜市《ぎふし》までの間のどこかを通過してくることが多い。そしてそこから先の進路は、鈴鹿《すずか》山脈《さんみゃく》と琵琶湖《びわこ》によって大きな制限を受けることになる。
今回、ファンタズマが引き連れた集団は鈴鹿山脈の南へ回り、その後、奈良《なら》盆地《ぼんち》へと入った。ここから真西に向かえばすぐに大阪《おおさか》であり、ファンタズマと敦樹が遭遇した尼崎《あまがさき》の防除指定地域はそのさらに西――目と鼻の先ということになる。
しかしこの奈良と大阪は、生駒《いこま》山地《さんち》という大きな壁《かべ》で隔《へだ》てられていた。そもそも生駒は典型的な悪路の多さで古くから知られる場所である。大集団で移動する剛粧にとっての進入路は、かつての有料道路などを含め数ヵ所しかない。そしてそれを最終的に一ヵ所へ誘導《ゆうどう》するのは、困難《こんなん》ではあるが不可能ではなかった。
対策の開始を通達してから一時間後、敦樹は阪神《はんしん》高速《こうそく》13[#「13」は縦中横]号・東大阪線《ひがしおおさかせん》を西へ向けて移動していた。『デイノス=摩擦変換推進』の能力で、高架上の道路を滑るように走る。その後に続くのは、剛粧三十匹ほど。北方面に抜けそうになったのを、ここまで引っ張ってきた。
今のところはまだ、これらの剛粧の中にファンタズマに操《あやつ》られた個体が含まれている様子《ようす》はない。剛粧《ごうしょう》たちは食欲と本能のままに、逃げ回ろうとするすばしっこい餌《えさ》である敦樹《あつき》を追ってきている。
――そろそろ目的地か。
進行方向右側に天守閣《てんしゅかく》の片側が崩れた大阪城《おおさかじょう》が一瞬《いっしゅん》見える。と、剛粧の一匹が一吼《ひとほ》えして猛然とダッシュし、敦樹に襲《おそ》いかかってきた。
あくまで剛粧を誘導《ゆうどう》するために囮《おとり》をやっている敦樹は、現時点でそれ程スピードを出しておらず、距離《きょり》も置いていない。完全に引き離《はな》してしまっては、意味がないのだ。
そんな敦樹に、剛粧は容赦なく追いつこうとする。鋭《するど》い爪《つめ》の伸びた腕を、思い切り良く伸ばしてきた。
だが敦樹は、手に持つ連装刀を新調《しんちょう》した四号刀に変換しながら、余裕を持ってその攻撃《こうげき》を避《よ》けた。そのままわずかに減速して一瞬《いっしゅん》で剛粧の横に並ぶと、伸ばした腕の付け根とその向こうにある首を斬《き》り飛ばす。剛粧は黒い血しぶきを上げながら、高架上を後方に転がっていった。
――威力はあるが、前より反動が大きいのが難点《なんてん》か。
新しい連装刀について、敦樹はそう分析する。わざわざ新調はしたが、剛粧との戦闘《せんとう》に限って言えば、その効果も一長一短である。ただ本命であるファンタズマとの戦いでは、その強固な関節を叩《たた》き折る際に、現在の連装刀が最大の効果を発揮するはずだった。
横目で後ろを確認しながら敦樹がそんなことを考える間にも、剛粧はさらに二匹三匹と続く。
この先の高架道路は、しばらく一直線《いっちょくせん》だった。敦樹は軽くジャンプすると、体を半回転して滑走《かっそう》したまま背後に向き直る。スピードは落とさず連装刀を回転、手の中に現れたライフル銃――七号刀を構えた。素早《すばや》く狙《ねら》いをつけ、そして撃《う》つ。
反動はなく、弾も見えない。ただ何かが確実《かくじつ》に剛粧に当たった。剛粧の卵殻《ケリュフォス》が局所的に砕け、さらにその向こうの体が骨ごと捻《ねじ》れる。そのたった一撃で行動不可能となった剛粧は、脚を折って地面を滑った。敦樹は容赦なく次の剛粧を撃つ。
この七号刀に関しては、剛粧の集団に対して文句なしの効果を発揮している。
多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の強荷電粒子砲のように、一気に相手のとどめを刺せるようなものではない。しかしほとんどの場合、当たればまず間違いなく、剛粧は行動不能に陥った。
ただ最初から言われている制約――射程100mは覆《くつがえ》しようのない欠点だった。弾をばらまくような撃ち方はできず、大集団に対して効果的に使うのは、なかなか難《むずか》しい。
接近しつつあった剛粧だけをひとまず追い払った敦樹は、再び軽くジャンプして進行方向へ向き直ると、やや速度を上げた。
進む先は入り組んだランプウェイ――阪神《はんしん》高速《こうそく》の1号|環状線《かんじょうせん》に合流している。そしてそこでもまた、剛粧が一方向に走っていた。敦樹とそのあとを追う二十数匹の剛粧は、環状線へと入り、先客たちと合流する。
前方の道を塞《ふさ》ぐ剛粧たちを連装刀でなぎ払いながら、敦樹はスピードを剛粧に合わすことをやめ、一気に最高速度まで加速した。
この環状線《かんじょうせん》では到着した剛粧《ごうしょう》を順に誘い込み、周回させている。下手《へた》に速度が遅いと、逆送する剛粧が出てきてしまうためだ。
もっともこの辺りでは防除対策指定地域と異なり、高架橋の保守や側壁《そくへき》強化などは行われていない。どのみち剛粧たちの行動を完全に制限することは不可能でもあった。
無論《むろん》、必要のある分岐《ぶんき》や出口は、敦樹《あつき》たちの手によって塞《ふさ》いだり破壊《はかい》したりしてある。しかしそれを突破して街の廃墟《はいきょ》に散っていく群や、側壁を突き破ったあとに墜落死《ついらくし》するものなど、剛粧たちの運命もまた様々だった。
ただ大阪《おおさか》市街で戦うなら、街のあちこちを流れる川と高速道路網をうまく使えば、敵の行動を制限することはできる。出口を見つけられない剛粧たちは、確実《かくじつ》にこの市街地跡へ溜《た》まりつつあった。
――そろそろ一千匹。これだけの数を誘導《ゆうどう》できれば、頃合《ころあ》いか。
敦樹は素早《すばや》く肩越しに振り返って、背後から追走してくる剛粧の様子《ようす》を確認。そして土佐堀《とさぼり》出口付近で側壁の割れ目を抜けて、高速高架から飛び降りた。
地上の道路へ難《なん》なく着地し、再び走る。道を数度折れると、わずか数百mを走って佐里《さり》の待ち伏せる場所へと到着した。
「いいぞ、佐里」
敦樹はそう告げながらパリカリアの右を通過しつつ、制動をかける。
『了解、計測始める』
応答と共に、半分地面の穴に埋まったパリカリアの砲塔後部が、独立して動き出した。
左側真横まで一気に回転すると、さらに今まで底面だった部分を正面へと向ける。そこには一面にびっしりと詰まった、百個の球形カメラがはめ込まれていた。
『起動、リュンケウスの百眼《ひゃくがん》!』
佐里の号令を合図に、球形カメラは一斉にギョロギョロと動き出す。距離《きょり》も遮蔽物《しゃへいぶつ》もものともしない千里眼《せんりがん》は、近い順に百匹の剛粧へとそれぞれ焦点を合わせる。
『続いて装填《そうてん》、イダスの百槍《ひゃくそう》』
今度は砲塔の中段に折り畳まれた箱《はこ》が右側に展開し、上下に開く。さらにその中から三角柱の棒が次々に飛び出すと、廃墟のあちこちでバチバチと強烈な電光が飛び始めた。
球体カメラアレイ『リュンケウスの百眼』によって現在も計測中の剛粧たちへ向け、『イダスの百槍』が迷路のような磁気《じき》通路を周辺に展開しているのだ。
やがて砲塔の加速器に全《すべ》ての力を結集するように、パリカリアは前傾の衝撃《しょうげき》吸収姿勢を取る。
『――撃《う》てェ!』
パリカリアの主砲が容量ギリギリの光を吐き出した。周囲は閃光《せんこう》で何も見えなくなり、その中心にいる巨大な影《かげ》――パリカリアだけが六つの足を引きずるように掘った穴の後方まで滑っていく。
一方、主砲から撃《う》ち出された巨大な光は砲口のすぐ手前でいきなり十本に分岐《ぶんき》した。その後も光は直進せず、ほぼ直角に近い急角度で次々と上下左右へ折れ曲がる。そしてまるで葉脈《ようみゃく》のように、さらなる分岐を繰《く》り返した。
あるものは大通りに沿って地上を低空で這《は》い、あるものは川へ下りて泥水を蒸発《じょうはつ》させながら橋の下をくぐる。またあるものは次々と進路を変えて、敦樹《あつき》のやって来た高速道の上へと延びた。
その向かう先にいるのは、必ず剛粧《ごうしょう》である。一撃《いちげき》必中の粒子束はその巨体へと吸い込まれ、迷走する巨大生物を次々と肉塊へと変えていった。
やがて主砲の射出が終了し、ようやくこれまで通りの廃墟《はいきょ》の景色が戻ってくる。
パリカリアの後方で待機《たいき》していた敦樹は、軽く息をついた。
――まずは何とか百匹、か。
流れ弾に巻き込んだ剛粧も数匹はいるだろうが、大した数ではないはずだ。
「佐里《さり》」
敦樹が促すように言うと、佐里からも応答が返る。
『分かってる。撃ったら移動、と。場所変えながらあと九回撃てば、大体第一陣は一掃かな』
[#挿絵(img/basileis2_246.jpg)入る]
パリカリアが展開していた砲塔|両脇《りょうわき》の装備が、再び後方へと折り畳まれた。だがパリカリアが自分の掘った穴から出ようとした瞬間《しゅんかん》――。
『――? えっ』
慌てたようにパリカリアが跳《と》びのいた直後に、南の空から強荷電粒子が降り注いだ。地面を穿《うが》って熱《ねつ》に変えるその爆発《ばくはつ》にパリカリアは空中で煽《あお》られ、後方にひっくり返りそうになる。と、宙に浮かびそうな六本の脚を逆に伸ばし、パリカリアはむしろ後ろに向かって積極的に跳んだ。さらに左右のドーザーブレードを器用に突き、一回転する。完全なバック転だった。
『見た、敦樹《あつき》。超信地旋回《ちょうしんちせんかい》』
「縦《たて》には回らないし。全然違う。――佐里《さり》、どうやらファンタズマがもうこの場に来ているらしい。……追撃《ついげき》はなしか」
『単なる砲の撃《う》ち合いは、あんまり意味がないからね。それは向こうも、前の戦いで分かってるだろうし』
「そんなところか。どちらにしても、油断するな」
固い表情で敦樹は言った。
確《たし》かに戦術歩行艦《シャリオ》の圧倒的な力を見れば、どこか安心しそうにもなる。しかしこの戦いにおける剛粧《ごうしょう》たちは、敦樹たちの裏を掻《か》くための手駒《てごま》でしかない。つまりいくら倒したところで、勝利には直結しないのだ。
これはファンタズマを倒すための戦いである。そして敵ファンタズマは勝てるつもりの戦力を揃《そろ》えて、ここに乗り込んできている。『パリカリアの性能を最大限に発揮してようやく対等』という敵と、敦樹たちは戦おうとしているのだ。その上で相手に勝とうというのなら、自分たちはファンタズマのさらに上を行かねばならない。
『――って何か、一人で黙々《もくもく》と考え込んでるよね』
呆《あき》れたような佐里の声が、通信の向こうから漏れる。
『強敵なのは確かだけど、敦樹はもっと肩の力抜いてね。ガチガチの顔してる』
そう告げるとパリカリアは移動を開始した。敦樹は「そうか?」と首を捻《ひね》って、ゆっくりと両肩を回す。
――この戦いを渋っていた佐里に言われているんだから、相当だな。
自嘲《じちょう》して左手を頬《ほお》に当てると、敦樹は強《こわ》ばった顔の筋肉をほぐした。
確かに佐里の言うことは正しい。戦いはまだ、始まったばかりなのだ。
「右に、二匹で、左に、一匹」
照準して、確実にとどめを刺すべく主砲の連射。
敦樹《あつき》とは別行動に入り、佐里《さり》のパリカリアは単独で剛粧《ごうしょう》を打ち倒しながら、中之島《なかのしま》の東端にある天神橋《てをんばし》まで移動していた。
戦術歩行艦《シャリオ》と剛粧の間には、圧倒的な力の差がある。その力で次々と敵を叩《たた》く。しかしそうでありながら、佐里は次第に悪戦苦闘《あくせんくとう》という状況に追い込まれつつあった。
――周囲をぐるりと剛粧に取り囲まれてしまっている。いつの間にかパリカリアを中心とした円形の包囲網が、何重にも築かれてしまっていた。しかも知能は獣《けもの》並みであるはずの剛粧が主砲の射線上《しゃせんじょう》に重ならず、一射で一匹倒す間に波状《はじょう》攻撃《こうげき》を仕かけてくる。
敵をまとめて殲滅《せんめつ》できる『リュンケウスの百眼《ひゃくがん》』と『イダスの百槍《ひゃくそう》』は、その準備に数十秒ほどの時間が必要になる。取り囲まれた現在の状況なら、かなりのリスクを背負わなければ使用は不可能だった。もちろん一旦《いったん》逃走して距離《きょり》を取るという選択肢もあるが、佐里にはここに敵を引きつけておきたい事情がある。
――少なくともこの布陣って、ファンタズマが操《あやつ》ってるっていうことよね。
妙なやりにくさに、佐里は操縦席《そうじゅうせき》で眉《まゆ》を顰《ひそ》める。現状では一匹ずつを、確実《かくじつ》にしとめていかざるをえない。その間にも周囲にはどんどん剛粧が集まってくる。状況は時間が経《た》つ程、悪くなりつつあった。
――ずっと相手の手の内ってのも不安か。そろそろ頃合《ころあ》いだし、こっちからも仕かけよう。
そう佐里は決め、パリカリアを天神橋の縁《ふち》――欄干《らんかん》側へと移動させていく。自ら行動|範囲《はんい》を狭めたパリカリアに、剛粧たちはにじり寄った。しかしパリカリアは欄干を器用に跨《また》ぐと、そこから下の川へと身を躍《おど》らせた。
思いもよらぬパリカリアの行動に、剛粧の一匹が、慌てて追いすがる。しかしその剛粧も結局、勢いあまって橋から落下、川に落ちて水しぶきを上げた。――そしてその一匹だけが、上下|逆《さか》さまで橋床に取りついたパリカリアを見た。低いアーチ状の橋の裏側で、足先を天井《てんじょう》の鉄骨に引っ掻《か》け、ぶら下がっていたのだ。
佐里は顔だけを出して流されていく剛粧に、主砲を撃《う》ってとどめを刺す。それを終えると砲塔後部の機構《きこう》を展開し、上下逆さのまま『リュンケウスの百眼』と『イダスの百槍』の準備を開始した。
さすがにこんな場所には、剛粧も易々《やすやす》と来ることはできない。しかしパリカリアもまた相当不安定ではある。
磁気《じき》通路を周辺に形成すると、先ほどのように主砲を一気《いっき》撃《う》ちはせず、今回は細かく連射した。橋を包み込む繭《まゆ》のように、次々と曲線を描いた光が踊る。先ほどまで橋の上でパリカリアを取り囲んでいた剛粧は、手の出しようのない場所から撃たれ、一掃される。
全く静かに全《すべ》てを終えたパリカリアは、逆さ吊《づり》のまま橋の裏側を慎重な足取りで移動して、再び橋の上へよじ登った。その橋の周囲に広がる剛粧の死体と、墨のように飛び散った黒い血を見て佐里は息をつく。
「……ひとまずはこんなもの、か。敦樹《あつき》、あとはうまくやってよ」
佐里《さり》はそう呟《つぶや》くと、南西方向へ大急ぎの移動を開始した。
*   *   *
敦樹は十九階建てのビルの屋上で、うつぶせに寝そべっていた。
手元にはライフル型の七号刀がある。そして体には、あらゆる電磁波を遮る遮蔽《しゃへい》シートをかぶっていた。現在、敦樹の姿は六甲《ろっこう》のレーダーに映っていない。
これまで敦樹とファンタズマの戦いは数度に及ぶ。その時の状況を丁寧《ていねい》に追っていき、敦樹はある結論《けつろん》に達していた。
――敵ファンタズマは、防災団の情報網に侵入し、内容を盗み見している。
つまりこの放浪する戦術歩行艦《シャリオ》は、佐里のパリカリアほど『眼』が良くはないのだ。現在のような市街戦にあっても、直視しなければ何も発見できない。広い範囲《はんい》の変化を独自に認識《にんしき》するためのシステムを持っていないため、それを防災団の|生体レーダーサイト《AVR》情報を盗むことで補っている。
しかし意識的《いしきてき》にレーダーから身を隠すのは、実はそれほど難《むずか》しいことではない。
例えば戦術歩行艦《シャリオ》であるパリカリアとファンタズマは高度なステルス機能《きのう》を持っているので、最初から映らない。そして敦樹のような生身の人間にしても、建物の影《かげ》に入ったり単純なシート一枚をかぶることで、もうレーダーには映らなくなるのだ。
つまりファンタズマが|生体レーダーサイト《AVR》の情報から敦樹や佐里の位置を特定することは、市街地ではかなり困難《こんなん》であると言える。ただ剛粧《ごうしょう》の動き、もしくは戦闘の形跡が観察《かんさつ》できれば、どこでどのようなことが行われているかは大体分かる。
そこでファンタズマは、まず疑わしいと思われる地域に剛粧を送り込み、組織的《そしきてき》な攻撃《こうげき》で敦樹たちを足止めさせた。そしてファンタズマ自身がその付近まで移動して『目視』できたら攻撃を加える、という行動を繰《く》り返している。
――ならばと敦樹は、網を張った。
本来|護衛《ごえい》である佐里が囮《おとり》となり、敦樹自身はファンタズマを待ち伏せたのである。
佐里のパリカリアは、少し前に天神橋《てんじんばし》で大規模な戦闘を行った。そしてそこから靱《うつぼ》公園へと移動中である。もちろん行く先々で付近の剛粧を倒し、その居場所をファンタズマに対してアピールしていた。
もしファンタズマがこの動きを追おうとした場合、東横堀川《ひがしよこぼりがわ》を渡ることになる。川へ下りる理由がないファンタズマは、必ずどこかの橋を渡る。
そしてファンタズマは、狭い道のどれかを通るはずだった。遠距離《えんきょり》から砲撃を食らいたくなければ、ビルの谷間を移動するしかない。敦樹たちはそうしているし、その事情はファンタズマにしても同じだった。このことに『川と橋』に関する要素を加えると、ファンタズマの通過地点はかなり絞り込める。
敦樹《あつき》は先ほど高麗橋《こうらいばし》周辺を張っていたが、うまく遭遇できなかった。今回は思案橋《しあんばし》とも呼ばれる大手橋《おおてばし》を、敦樹は待ち伏せのポイントとしている。川を西へ渡った途端《とたん》いきなりT字路に出るという、路地の入り組んだ場所だった。
そして今回こそ当たりだった。敵ファンタズマは、ゆっくりと橋を越えてやって来た。
慎重に道を選びつつも、六本脚によるその移動速度は意外に速い。
敦樹は改めて、ビルの端から七号刀《調律弾ライフル》を構え直す。だがファンタズマをじっと見据えた敦樹の目は、途端に険しく細められた。
――前回、ファンタズマとの戦闘《せんとう》は夜だったこともあり、暗視をかけていたにもかかわらず気がつかなかったのだ。しかし陽《ひ》の光の下で見るファンタズマの腕は、明らかに血と分かる黒いシミで汚れていた。そして剛粧《ごうしょう》の血は乾燥《かんそう》しても、あの茶色がかった色にはならない。あれは人の血だ。
ファンタズマがこれまで、どれ程の人間を襲《おそ》ったかは知らない。しかしあの中に長野《ながの》の山の中で突然襲われて死んだ、安田《やすだ》や中嶋《なかじま》や仲間たちの血が混じっているのだ。息も絶え絶えに「西へ行け」と言ったその姿が思い出される。
――余計なことを考えるな。冷静になれ。
自分に言い聞かせて敦樹は大きく深呼吸すると、改めて七号刀を構えた。
現在いる屋上から地上までは70[#「70」は縦中横]m、距離《きょり》は七号刀の射程ギリギリである。そして発射される振動|破壊《はかい》をもたらす弾丸――調律弾《ちょうりつだん》はファンタズマの通常装甲に当てても効果はない。
ファンタズマの装甲には、デイノスの攻撃《こうげき》に対抗するための機能《きのう》が施されている。それは前回の戦闘で文彦《ふみひこ》が証明済みである。
敦樹は両目を開けたまま、右目で文彦の切り落とした左腕根本へ照準を合わせる。――そこが現時点での唯一の弱点だった。ファンタズマは敦樹に感づいた様子《ようす》はない。
敦樹は、――引き金を引いた。
狙《ねら》いは正確《せいかく》である。切断され内部骨格が露出《ろしゅつ》したファンタズマの左腕跡は、目には見えない力によって瞬時《しゅんじ》に大きな穴へと代わり、その縁《ふち》がめくれ上がった。
ファンタズマの六本脚が衝撃《しょうげき》でわずかに道路上を滑る。そして倒れるように右側三本の脚を地に折った。
*   *   *
突然の衝撃が、『彼』の露出した内部構造の一部を襲った。もっとも、致命的という程には威力のない、たかが一発の攻撃である。『彼』自身に大きな被害はない。
しかし『彼』がこれまで大事に守ってきた『主《あるじ》』は違った。
操縦席《そうじゅうせき》を覆う慣性《かんせい》消去装置は、事前の予測があってこそ初めて機能するものなのだ。だがこの攻撃は全くの突然で、気がつけば全《すべ》ては取り返しのつかないことになっていた。
あらゆる手立てを考えたが時間は戻らず、完全に手遅れだった。
共に帰還《きかん》することを願った『彼』の『主《あるじ》』は、粉々に砕《くだ》け散ってしまった。
*   *   *
まるで絶叫のようだった。
錆《さ》びた鉄同士をすり合わせてでもいるかのような、長々と響《ひび》く異音。その轟《とどろ》きが、廃墟中《はいきょじゅう》に響き渡って鳴り止《や》まない。
音の中心で脚を折り、傾いた姿勢でいるファンタズマに、敦樹《あつき》は耳を塞《ふさ》ぎたくなった。
――たかが機械《きかい》の立てる音だ!
敦樹は必死でそう納得しようとする。だがそこに込められた明確《めいかく》な殺意は、背筋を凍《こお》らせた。
とはいえ、グズグズとはしていられない。自分を奮《ふる》い立たせ、敦樹は遮蔽《しゃへい》シートを手に隣《となり》のビルへ急いで跳《と》び移る。思った通り、ファンタズマは敦樹のいた場所を続けざまに主砲で撃《う》ってきた。わずか数発の着弾で、背の高いビルは完全に崩れ去った。
難《なん》を逃れた敦樹はさらなる攻撃を加えるべく、七号刀《調律弾ライフル》を再びファンタズマに向けて構える。だが照準を合わせた次の瞬間《しゅんかん》、フロントサイトの向こうにいたファンタズマの姿が忽然《こつぜん》と消えた。
「何!」
ファンタズマはこれまでほとんど使用していなかった高速機動を開始したのだ。前の戦いで文彦《ふみひこ》さえ避《よ》け切れなかった、あの動きである。
敦樹は自分のいるビルの下を、慌てて確認した。ファンタズマはすでにビルの壁面《へきめん》に取りつき、垂直の壁《かべ》を猛烈な速度で上ってくる。
――読み違えか? コイツ、脚回りに障害なんてない。
その思考の間だけで、ファンタズマは敦樹のいるビルの屋上に躍《おど》り出る。敦樹は全く動けなかった。
しかしそこへ、別方向からとんでもない速度で登ってきた影《かげ》が割り込んで入った。佐里《さり》のパリカリア――そう敦樹が認識《にんしき》する間もなく、両者は互いに体当たりする。衝撃《しょうげき》で双方の体が宙に吹っ飛び、地上へ向けて落下を始めた。
だが佐里のパリカリアは空中でファンタズマの脚へドーザーブレードを伸ばし、しっかりと掴《つか》んだ。そしてそのままグイと、自分の方へ引き寄せる。
空中で捕まったファンタズマは、まるで狂ったかのように右のドーザーブレードを斬《き》りつけた。そして佐里のパリカリアは、空いた方のブレードでそれを正確に受ける。そのまま二十度斬り結び、さらに双方十一本の脚が、蹴《け》りによる攻撃《こうげき》と防御を同時に繰《く》り返す。
地上までに早くも数十手。両者は地響きを立てて同時に着地した。
が、パリカリアはすぐさま砲塔を旋回させ、長い主砲でファンタズマの砲塔側面を打つ。対してファンタズマもパリカリアの砲塔横に主砲を打ちつけた。
双方の主砲が無照準のまま発射された。
佐里《さり》がこの攻撃《こうげき》に出たのはファンタズマの後方にあるビルを崩し、相手をその瓦礫《がれき》の下敷《したじ》きにするためだった。しかし一方、ファンタズマは全く無意味に建物を撃《う》った。完全な出鱈目《でたらめ》である。
巨大なコンクリート塊《かい》が木屑《きくず》のように飛び散る状況の中、パリカリアの内部にいる佐里は敦樹《あつき》の姿をモニター上に探した。
――巻き込んだりしてないわよね。
位置はすぐに確認《かくにん》できた。幸い敦樹のいるビルは、この大破壊《だいはかい》に巻き込まれていない。しかし飛んできて破片で打ちでもしたのか、敦樹自身は肩を押さえビルの屋上でうずくまっていた。
「そんな……」
佐里は敦樹が生身であるということを改めて実感した。対して自分は、安全なパリカリアの操縦席《そうじゅうせき》、耐圧殻の中にいる。
現在のこの状況の中で、佐里がいるのは世界で一番安全な場所なのだ。
「……だったら私がやらなきゃ、私が!」
佐里は操縦|桿《かん》のスロットルを開放するよう操作する。パリカリアの六本の脚は最大の力を振り絞って踏ん張った。そして片側の腕だけで、ほぼ同体重であるファンタズマを持ち上げる。ファンタズマの足が完全に地面から離《はな》れると、すかさず上下|逆《さか》さまにし、思い切り地面へと叩《たた》きつけた。
そして佐里は掴《つか》んでいたファンタズマの脚を離すと、そのまま素早《すばや》く右腕の甲にあるパイルドライバーを構えた。それをファンタズマに向けて撃つ。発射された杭《くい》がファンタズマに刺されば、佐里の勝ちである。
しかし制御を乗っ取るための杭は、途中《とちゅう》で蒸発して消滅した。上下逆さまに地面に叩きつけられたファンタズマが、そのままの姿勢で主砲を撃ったのだ。
その射線上《しゃせんじょう》に、佐里のパリカリアもいる。佐里は慌てて避《よ》けた。
だが回避《かいひ》で注意が逸《そ》れた隙《すき》に、地面へひっくり返っていたファンタズマは跳《と》び上がるように起きた。そしてさらにジャンプすると、脚三本を束ねた飛び蹴《げ》りをパリカリアに叩き込む。
「――きゃあ!」
操縦席にいる佐里の悲鳴が小さくて済んだのは、パリカリアの慣性《かんせい》消去装置のおかげだった。しかし本体の方はそうはいかない。パリカリアはアスファルトの上を数度バウンドして、東横堀川《ひがしよこぼりがわ》に落ち、巨大な水柱《みずばしら》を上げる。
相手をしばしの行動不能に陥れたファンタズマは、周囲を数回だけカメラで探索し、敦樹が見つからないと分かるとビルの谷間へと姿を消した。ファンタズマにとって目標はあくまで敦樹であり、佐里のパリカリアは障害でしかない。真正面から戦うメリットはないのだ。
――そして遮蔽《しゃへい》シートに身をくるみ、狙撃《そげき》のチャンスを窺《うかが》っていた敦樹も、構えた七号刀とまだ痛む腕を下ろす。ファンタズマが弱点をこちら側へ見せる機会《きかい》を窺っていたが、結局そのチャンスは訪れなかった。
敦樹《あつき》は今までいたビルを下りると、川に落ちたパリカリアの許《もと》へ向かった。
「――大丈夫か? 佐里《さり》」
『ひとまずね』
「私が言うのも何だが、さすがにさっきの攻撃《こうげき》はちょっと無茶《むちゃ》だぞ。落ち着いていけ」
『敦樹が……ケガ、したように見えたから』
疲労というよりも極度の緊張《きんちょう》に息を激《はげ》しくして、水中に沈んだ佐里がスピーカーから答える。やがて水面をバサリと割って、パリカリアが姿を現わした。苦労して蔦《つた》だらけの橋へとよじ登るその姿を目で追いながら、敦樹は落ち着いた声で言う。
「私は大丈夫だ。でかいコンクリが当たって痛むが、ただの打ち身だ。心配はない」
そう答え、無事を示すように腕を振り回す。それでようやく、佐里の頭も冷えたようだった。
お互いに無事を改めて確認《かくにん》すると、敦樹は|生体レーダーサイト《AVR》の情報をゴーグルの中に出した。
大阪《おおさか》の地図に重なるいくつもの標点。そこには東から大量の剛粧《ごうしょう》――いわば本隊が近づきつつあるのが映っている。
「佐里、じきに次が来る。まずは現時点で市街内に散らばっている剛粧の掃討《そうとう》を先に済ませよう。コイツらの相手をしながらファンタズマを探すしかない。アイツは必ず、私たちの戦いに介入してくる」
『先に焦《じ》れた方が……負けっていうこと……?』
乾いた道路に水を滴《したた》らせるパリカリアの中から、佐里がそう問い返した。敦樹は首肯《しゅこう》する。
「そうだ。それにさっきの戦闘《せんとう》でも分かるように、パイルドライバーの撃《う》ち込みはファンタズマの行動能力を奪ってからでなきゃ、おそらく無理だ」
『まずは動けなくするのが先決、ね』
そう息をついた佐里は、次の瞬間《しゅんかん》慌てて言った。
『敦樹、ファンタズマが撃とうとしてる。離《はな》れないで』
その声と共に佐里のパリカリアが、大規模な磁力チューブの壁《かべ》を展開する。そして空からは、光の滝が何本も落ちてきた。放物線《ほうぶつせん》を描いた強荷電粒子の雨は一区画ごと正確に降り注ぎ、周囲一帯を完全に破壊《はかい》。所々で炎が踊り始める。
廃墟《はいきょ》となったこの街にも、枯れて乾燥《かんそう》した植物などはあちこちにある。それに火が燃《も》え移ったのだ。
「この状況で絨毯《じゅうたん》砲撃? 何を考えているんだ」
『敦樹、私が先行してここを脱出する。離れないようについてきて』
そう告げて、佐里のパリカリアは磁気の壁を維持したまま移動を開始した。敦樹は了解を告げ、周囲の惨状を見回す。
――こんなものが、人のいる土地で攻撃《こうげき》を始めたら。
敦樹《あつき》は苦々《にがにが》しく息をついた。
10
二十四式・多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の砲塔上にあぐらをかいた清子《きよこ》は、仏頂面《ぶっちょうづら》で東へ向かっていた。
どの防災団にも出動命令がかかっていないのに、どういうわけか多脚砲台が呼び出せてしまった。結局そのことから、清子は自分の読みを確信《かくしん》することになった。
現在、旧|大阪府《おおさかふ》内に入ってから三分ぐらい。阪急《はんきゅう》神戸線《こうべせん》に沿って神崎川《かんざきがわ》を越えた辺りである。このまま進んで十三駅《じゅうそうえき》から国道176号線に出れば、すぐに大阪中心街だった。
いつもの対策時と同じようにゴーグルをかけた清子は、じっと目的地である大阪を睨《にら》む。そこでは明らかに大規模な戦闘《せんとう》が行われていた。
間断《かんだん》なく聞こえるようになった砲撃の音――正確には強荷電粒子砲が着弾して対象物を破壊《はかい》する音が、耳に届く。そうでなくとも、空には小規模な火災による黒煙が、雲の下でくっきりとたなびいていた。あの煙の下では戦術歩行艦《シャリオ》同士が戦っているのだ。何事もなく、とは行くはずもない。
実際この煙は、防災団事務所がある辺りからでも見えるのだろう。各防災団から中央事務所への問い合わせで、すでに通信回線はパンク寸前だった。一方の中央事務所側は、微妙な珍回答を織《お》り交《ま》ぜつつも、『問題ない』の一点張りである。この煙は自然火災によるものだというのだ。
そして彼らがその根拠として挙げるのが、|生体レーダーサイト《AVR》の情報を配信する情報チャンネルだった。今のところそこには、剛粧《ごうしょう》など一匹も映っていない。
もちろんこれは偽装である。敦樹たちにしても剛粧の位置情報なしに数千匹を相手にすることは不可能だ。清子は別の専用チャンネルを使っていると推理し、探してみた。案《あん》の定《じょう》、ものの五分ほどで見つけることができた。
――どうせ隠すんやったら、もうちょい上手《うまあ》やれっちゅうねん。
近づく街の姿にそろそろ頃合《ころあ》いかと考えた清子は、ゴーグルの接触スイッチに触れ、直通で敦樹へと通信を繋《つな》ぐ。そして仏頂面のまま、マイクに告げた。
「あーあー。本日は晴天なり」
わざと嫌味《いやみ》ったらしく言ってみる。
「こちら|樋ノ口《ひのぐち》‐2。ただいま淀川区《よどがわく》を南東に向けて移ど――」
『清子? ――来たのか!?』
さっそく詰問《きつもん》するような返事が、敦樹から返る。予想していたとはいえ、さすがに清子はムッとした。
「――ンなこと言うても、ウチ、来るな言われてへんからなあ」
『コイツの相手は二十四式じゃ無理なんだ。急いで退避《たいひ》しろ。さっきからまたファンタズマが射撃《しゃげき》準備をしている。巻き込まれるぞ!』
「おいおいウチが今おるん、まだ淀川《よどがわ》のこっちやで?」
さすがにその心配性に呆《あき》れて、清子《きよこ》は肩をすくめた。
「まだ10[#「10」は縦中横]km[#「km」は縦中横]もある。こんな距離《きょり》で当てられるんやったら、すでに逃げようなんかあらへんやないか」
『駄目《だめ》だ、空に向けて撃《う》った。清子、急いで多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》から離《はな》れろ!』
「へ?」
スピーカーからの切羽《せっぱ》詰《つ》まった怒鳴り声に、清子は空を見上げた。見上げたからこそ、上空から急カーブを描いて降ってきた光に反応することができた。
「おう、わ――」
急接近する強荷電粒子に声を上げて、清子はまだ移動中の二十四式から転がり落ちるように飛び降りた。直後、光が多脚砲台の砲塔からその腹の下の地面までを一直線《いっちょくせん》に貫く。
車両のど真ん中に大穴を空けられた二十四式は、ゆっくり脚を折った。そして地面に尻餅《しりもち》をついた清子の前で、開いた大穴から大量の黒煙を吐き出し始める。
――この距離でたった一撃かいな。冗談《じょうだん》ちゃうで。
清子は喉《のど》がからからになりながらそんな文句を考える。通信機《つうしんき》の向こうから、敦樹《あつき》が慌てた声で訊《き》いた。
『無事か、清子?』
「ウチは何とかな。――ゴメン、素《す》で舐《な》めとったわ」
ここまではっきりした結果を見せられては、清子としても認めざるをえない。
直接は見えない10[#「10」は縦中横]km[#「km」は縦中横]先の目標に正確に攻撃を当ててくる戦術歩行艦《シャリオ》。その前では多脚砲台などただのいい的である。そのことがようやく実感できた。
そして南東の空に、再び光の束が打ち上る。その次の目標は――。
「おい、まさか……」
清子がそんな独《ひと》り言《ごと》を言う間もない。三回分の光の塊が西に向かって飛び、はるか彼方《かなた》の六甲《ろっこう》山地《さんち》にある白い巨大な建物――|生体レーダーサイト《AVR》を直撃した。巨大なパラボラアンテナが割れて吹っ飛ぶのが、清子の場所からも肉眼で見えた。
『まさか破壊《はかい》するとは。向こうだってコイツの情報を利用して、私たちの位置を割り出していたんだろうに』
敦樹が通信機の向こうで唸《うな》るように言う。これだけ周囲に剛粧《ごうしょう》がいるのだ。レーダーの情報がなければ、敦樹たちの行動は困難《こんなん》を極める。
――別件で来たのに仕事増えそうやな。どっちにしてもグズグズしとられん。
清子《きよこ》は破壊《はかい》された二十四式をそのままに、それを操作《そうさ》するための多目的制御棒だけを脇《わき》に抱えて走り出した。今いる線路《せんろ》を下りて道路に出、通りを行く。
一度地図をゴーグルの中に呼び出すと、目的の廃墟《はいきょ》ビルの位置を確認《かくにん》。それが今いる通りに面した目の前の建物だと確認し、その入り口をくぐった。入ってすぐにある狭い階段を、地下へと進む。
「ボンクラ二人組! 今からこっちでサポートしたるわ。|生体レーダーサイト《AVR》の代わりくらいにはなってみせるから、アツキは視点からの画像送ってな。サリサリはパリカリアで観測《かんそく》した剛粧《ごうしょう》の情報、回覧《かいらん》通信のルートに載せてって」
『清子、まだ何かやる気か? ヤツは|生体レーダーサイト《AVR》の意味を認識《にんしき》して、攻撃《こうげき》したんだぞ』
敦樹《あつき》が怒ったように言い返してきた。
『清子がそこから情報を発信すれば、今度はそこが砲撃される!』
「分かっとるわ、それぐらい」
清子は地下室で、防災団が設置した目的の装置を見つけた。パッと見ではスチール製のロッカーに見えるそれの正面パネルを開ける。左端でいくつものLEDが点滅を繰《く》り返しており、機能《きのう》中であることが確認できた。
清子はそれに手をかけ、大きく深呼吸をする。
――このウチが置いてきぼり食らったあげくに、足手まとい寸前のバックアップか。
「この屈辱は忘れんからな……。憶《おぼ》えとれよ、川中島《かわなかじま》敦樹!」
『何だ?』
「何でもない!! ――ウチはこれから、情報後方支援に回る。戦いの方はお前らがきっちり片つけなあかんねんから、ようウチの指示聞いときいや!」
怒鳴りながら意を決した清子は、目の前の装置の端子の位置を確認する。そして対策服のズボンのポケットから規格の合うケーブルを取り出すと、それで大容量通信の起点ともなる多目的制御棒と装置の端子を繋《つな》いだ。
清子の多目的制御棒には、自分で増設したキーボードがある。それを忙しく叩《たた》く。ゴーグルの中で結像する地図画像に重ね合わせるように、大阪《おおさか》周辺に埋設された通信中継器の位置が浮かび上がった。
ちなみにここもその一つ――いま清子の前にあるのは、防災団の通信中継器なのである。
旧大阪市街は本来防災団が活動する防除地域の外である。しかし状況によっては活動|範囲《はんい》ともなりうる。その時のために、無線通信の中継器と電源はあらかじめ用意されているのだ。
それぞれが地中のネットワークで繋がれていて、そのおかげで廃墟の大阪にいても情報を送受信することができる。
「これから暗号|鍵《かぎ》のファイルをそっちに送る。こっちからの合図に合わせて起動して」
清子《きよこ》の見ているゴーグル内の画面に、二本の鍵《かぎ》マークが現れた。そしてそれが画面端に吸い込まれるように消える。
『こっちに変なマークが来たが……。状況が見えない、何をする気だ?』
「ええから。接触スイッチ、一発でポンや。行くで、3・2・1・0!」
清子も同時にキーボードのキーを叩《たた》く。途端《とたん》、大阪《おおさか》中に埋められた中継器|全《すべ》てが、偽情報の大合唱を始めた。少なくともこれで、ファンタズマは相当な混乱に陥るはずだった。
ちなみに清子たちが情報をやり取りする本物は一つで、ルートは時間ごとにランダムで変化する。この変化は暗号鍵を受け取った敦樹《あつき》と佐里《さり》にしか分からない。
『どう・った・の?』
佐里から雑音混じりの通信が入る。
「ウチらの情報のやり取りが分からんよう、妨害かけたんや。まあウチがうまいようにやるから、戦闘《せんとう》やっとるそっちはあんまり気にせんでええ」
『何・聞こえな・?』
音声にブツブツと細かいノイズが入る。戦闘中である敦樹‐佐里間の通信には介入していないから、二人での会話に影響《えいきょう》は出ていないはずだ。しかし清子自身がまともなやり取りをできないのでは困る。
――レートを変えれば解決する問題、やな。
電源の容量が気になるが、清子は構わず通信状況を改善する手を打った。同時にシステムの安全度を計算。もしもの時のバックアップ手順を頭の中で構想する。
どれも何とかなる。問題はない。実行。
「これでええやろ。どや?」
『綺麗《きれい》に聞こえた。こちらからの送信はどう?』
クリアな声で、佐里の応答が入る。清子は「問題ない」と返事し、黙々《もくもく》と次の作業の準備へと移った。さらに佐里からの通信。
『畑沼《はたぬま》さん。言われた通り、剛粧《ごうしょう》の観測《かんそく》情報は回覧《かいらん》通信網に載せたわ。どうするの?』
「情報を元に、地図を作り直す。それで|生体レーダーサイト《AVR》の代用をするんや。あとこっちが本命なんやけど、新式の表示システム使《つこ》てみる。今回の剛粧対策に間に合わせるつもりで、これまで作っててん。テストは済んでるから行けるはずや」
テキパキと告げながら、清子は佐里からの観測情報をシステムに落とし込む作業に入る。が、手を動かしながらも、一人|呆気《あっけ》にとられた。
――ちょっと待て。これどんなシステムで情報取っとんねん。
かなりの数の剛粧を同時観測しているとしか思えないパリカリアからのデータに、清子は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。これが戦術歩行艦《シャリオ》なのだと、改めて思い知る。
しかしただ驚《おどろ》いている時間も惜しい。清子はさらに作業を急いだ。
まずパリカリアの観測《かんそく》結果をデータ上の大阪《おおさか》市街地図に再分布して、現時点での位置と移動予測位置の情報を映し出す。もちろん擬似的《ぎじてき》なものではあるが、これを続けていけば、破壊《はかい》された|生体レーダーサイト《AVR》と同じ情報を作り出すことができる。
「――手えつけられるトコから再構成しとるけど、どうや?」
『大丈夫みたい』
『確《たし》かに行けそうだな。助かる』
佐里《さり》と敦樹《あつき》が交互に通信で言うが、清子《きよこ》は目を細めた。
「あくまで擬似的なもんやから、あまり過信せんといて。情報の起点はパリカリアになっとるから、敦樹の方はあんまりパリカリアから離《はな》れんようにしてな」
情報の収集と、その結果を反映するプログラムを大急ぎで作って自動化する。そして清子は次の作業に取りかかった。
まず中央事務所のサーバーに置いてある完成版の新システムをごっそりこちらへ転送し、通信中継器のメモリにプールする。次にそのプログラムに最後の微調整《びちょうせい》を加え、情報表示用プログラムとして敦樹と佐里に送信した。
「行ったで。どうや?」
『これが、さっき言ってた新式の表示システムか? 視界の中に、直接情報が出るようになった。剛粧《ごうしょう》全部に、引き出し線《せん》と表示タグがついている、のか?』
戸惑った敦樹の声に、清子は「そうや」と頷《うなず》いた。
「剛粧の位置|確認《かくにん》するときに毎回地図で視界|塞《ふさ》いどったら、危のうてしゃあないやろ。やから戦闘用《せんとうよう》の表示システム作ってん。建物の陰におる目視できん敵も、引き出し線の位置にはおるから。ちなみに引き出し線の長さが相手までの距離《きょり》や。近さ100mまで近づいたところで引き出し線の長さはゼロになって、タグの上の距離メーターが回り出す――」
調子良く説明する清子の声を、敦樹が遮った。
『しかし清子、画面が煩《うるさ》い』
清子は暗い地下室でムッとした表情を浮かべ、敦樹の状況を確認する作業に入った。
「ウチのデザインにケチつけるとは、ええ度胸やないか。……って、ちゃうやろ。お前、思いっ切り囲まれとるやないか!」
『そうか。道理で次から次に敵が現れるわけだ』
呑気《のんき》な敦樹の口調に、清子は呆《あき》れたように額《ひたい》を押さえた。
「――ファンタズマかて、ノリで|生体レーダーサイト《AVR》を攻撃《こうげき》したわけやない。お前を孤立させるための、伏線《ふくせん》やったっちゅうことやな。サリサリ、すぐにバックアップについて」
言いながらも清子は、キーボードを連打する。これで敦樹のゴーグル内への表示はだいぶスッキリとしたはずだった。
「対象|範囲《はんい》をしばらく半径500mまで絞る。その代わり二十秒以内に反応せえへんと死ぬで?」
11
敦樹《あつき》は一号刀で間近に迫った剛粧《ごうしょう》の首を突き刺し、すぐさまそれをライフル型の七号刀に変換。右側から近づきつつあった別の剛粧の顔面ど真ん中に調律弾《ちょうりつだん》を撃《う》ち込み、振動|破壊《はかい》で絶命させる。
「今ので……何匹目になる、清子《きよこ》」
上がった息でそう訊《き》く。
『もう四千は超えとる。操《あやつ》られて移動する剛粧もほとんど出んようなったし、ここらで打ち止めやろう』
通信の向こうからそう答えが返った。清子はすでに情報を整理する役を数時間続けているが、剛粧の減少で一時期よりは作業量が減ったような雰囲気だった。
しかし敦樹は唸《うな》る。
「それじゃ困る。私はファンタズマを追っているんだ。ここで取り逃がしたんじゃ、元も子もない。位置とか予測できないのか?」
『候補は絞れとるけど……。コソコソ隠れて、いざとなったら逃げたらええ、っちゅうのがアチラさんの強みやからな。そう簡単《かんたん》にはシッポ出さんやろう。――けど焦ってコッチに犠牲《ぎせい》出すくらいなら、今回は逃がすのもありなんちゃうかと、ウチは思う』
――確《たし》かにそれはそれで一理あるか。
敦樹は焦った気分の自分を、そう戒《いまし》める。味方への犠牲|云々《うんぬん》はともかく、自分は精神的に追い込まれつつあった。そのことに危機感を持つ。そしてファンタズマは、間違いなくそこを突いてくるだろうという気がするのだ。そして――
『敦樹、見て。東の方』
わずかに離《はな》れた場所で、『リュンケウスの百眼《ひゃくがん》』を展開したまま主砲を撃ち続けていたパリカリアから、佐里《さり》がそう促した。敦樹は夕景に彩られた無人の心斎橋《しんさいばし》商店ビル街を、言われた方角に振り返る。
すでに火災は鎮火《ちんか》に向かっており、煙もほとんど見えない。そこからの風景は、ただどこまでも続く無人の町並だ。しかしゴーグルを通した敦樹の視界には、剛粧の存在を表したタグが塊となって表示されている。その引き出し線《せん》は、どんどん上へ延びようとしていた。
「……市街をまとめて離《はな》れていく集団があるのか?」
不思議《ふしぎ》そうに問いながら、敦樹は普段《ふだん》から使っている地図型の情報を表示した。国道308号線に沿って一塊りになって去っていく群がある。三十匹ほどで、随分《ずいぶん》と速い。
『本能で動く剛粧は、東へ逆走しないわ。この中にファンタズマがいて、指令を出してる』
佐里《さり》はそう断言すると、『イダスの百槍《ひゃくそう》』と主砲の連射で、周辺の剛粧《ごうしょう》に一気にとどめを刺した。そのまま東へ向けて、移動を開始する。
慌てて敦樹《あつき》が追いすがった。
「佐里、どこへ行くんだ?」
『あれを追いかけないと。――ファンタズマが剛粧を率いてゲリラ戦とかやり出したら、私たちにも対処できなくなる』
「それはそうだが……」
『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』で急いでパリカリアに追いついた敦樹はしかし、併走しながら迷ったように言う。佐里の言葉はもっともなのだが、どうにも引っかかる。
逃げるのが目的にしては、選ぶ道がおかしいのだ。もっと移動の楽な道はあるし、ファンタズマならそれぐらいの判断はできるはずである。
「……違うこれは罠《わな》だ!」
そう叫び、敦樹は急制動をかけた。
「佐里、コイツらは囮《おとり》だ! 誘導《ゆうどう》を断たれた非耐性個体が、塔《メテクシス》を目指しているんだ。ファンタズマはサイレンシステムを切っただけで、まだこの近くにいる」
『そんな、でも……えっ』
敦樹の言葉も佐里の反応も、わずかに遅かった。追撃《ついげき》に向かおうとしたパリカリアの直上、廃墟《はいきょ》ビルの三階。そこにビルごと突き破って現れたファンタズマがいた。
ファンタズマはそのまま飛び降りると、パリカリアの上にしがみつく。
「佐里!」
敦樹の叫んだ目の前で、双方|無茶《むちゃ》な姿勢のまま主砲の撃《う》ち合いが始まった。
二両は上下に重なり合っている。お互いの砲口は、どちらも相手を捉《とら》えていない。しかし誘導のための磁気チューブを強引に曲げて相手をマークし、主砲を撃ったのだ。
そして当然のごとく、二つの粒子束は干渉し合った。強荷電の光弾は組み合った双方の周りを旋回するように出鱈目《でたらめ》なカーブを描き、周囲のビルや道をズタズタに破壊《はかい》していく。接近しようとして飛び散る瓦礫《がれき》に阻《はば》まれた敦樹は、忌々《いまいま》しげに舌打ちした。
――これじゃどっちも当たらない。
だが、破壊《はかい》によって生じた土煙と埃《ほこり》の向こう。夕日に照らされた戦術歩行艦《シャリオ》同士の力比べは、圧倒的に上を取ったファンタズマの方が有利だった。馬乗りになったファンタズマはパリカリアの脚を踏みつけて押さえ、抵抗する力を奪っていく。敦樹は慌《あわ》てて、通信の向こうの佐里《さり》へ言った。
「脚を取られないよう、縮《ちぢ》めるんだ佐里。身動きができなくなったらお終《しま》いだぞ」
『でも相手もそれ分かってる。関節|極《き》められて……動かない』
佐里の悲鳴のような声が返る。展開したままだった『リュンケウスの百眼《ひゃくがん》』が、ファンタズマの腹に押されて大きくかしいだ。球体カメラの整然とした列は歪《ゆが》み、外れ、ポロポロと地面へ落ちていく。
結局は戦術歩行艦《シャリオ》といえども、自らの懐《ふところ》――特に車体後部は死角なのである。佐里《さり》のパリカリアはあらゆる抵抗を試み、背後のファンタズマを振り落とそうとする。しかし効果はない。
そして有利な位置を取ったファンタズマは、一本だけ残った鋼《はがね》の右腕を振り上げ、振り落とした。鈍《にぶ》い音がして、パリカリアの砲塔上面がへこむ。もちろんこの程度では、致命的な打撃《だげき》にはならない。だがさらにそのへこみ部分へドーザーブレードを突き立てようと、ファンタズマは再び右腕を振り上げた。
――が、そこに、敦樹《あつき》が走り込んだ。水平の断頭台のような、強烈な回転による一撃。
振り上げられたファンタズマの鋼の腕は、そのもっとも脆《もろ》そうな根本の関節で綺麗《きれい》に切断され宙を舞《ま》った。
改修された四号刀を手に敦樹は走り抜け、制動をかけながら振り向く。両手を失ったファンタズマに向かって、敦樹は静かに言った。
「お前の敵は、私のはずだ」
意味のない語りかけである。そもそも人の話す言葉が通じる相手かどうかも疑わしい。
――だがファンタズマは、敦樹の言葉に応じた。
覆《おお》いかぶさっていたパリカリアの上から下りると、敦樹の方へ二歩、三歩と近づいてゆく。
『敦樹!』
すぐさま佐里は、自分に背を向けたファンタズマに主砲を照準する。しかし敦樹は「ここは任せてくれ」と、ゆっくりとした声で佐里を止めた。
「もう決着だ、佐里。あとは私がやる」
『でも――』
「ようやく分かった。もう納得がいった。コイツも私も、帰還《きかん》を望んでいる。――譲《ゆず》ることのできない戦いだが、それも勝敗さえ決まれば全《すべ》て終わる」
『全て終わるって……。敦樹が勝てるかどうかなんて――』
「悪い佐里。今回だけだと約束した上で、だ」
夕日の中、乾いた声で嬉《うれ》しそうに笑って敦樹は言った。
「――私にとってはどうでもいいことだ」
そして敦樹は『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』の接続を命じ、「ついてこい!!」とファンタズマを挑発しつつ走り出した。ファンタズマもまた最後の力を振り絞るように高速|機動《きどう》を開始し、追いながら主砲を連射する。
それを敦樹は回避《かいひ》しつつ、長堀《ながぼり》通《どお》りを東へと向かった。事前に『アイティオン』から得た情報通り、その射撃にはクセがあり、避《よ》けられないことはない。そして十分に佐里のパリカリアから離《はな》れると、敦樹は再び制動をかける。そのまま背後を振り返り、ファンタズマを待った。
遅れてすぐに現れたファンタズマを、正面に捉《とら》える。そして敦樹《あつき》は、ゴーグルの接触スイッチに触れた。ファンタズマまでの距離《きょり》を表すメーターが、視界の中に現れる。
敦樹は手の中の連装刀を六号刀に変換すると、上段に構え、姿勢を固定した。
――決戦技の構え。そのまま再度、『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』の接続を命じた。
足は固定。制動はかけずに『デイノス=摩擦変換推進』の加速のままに突っ込んでいく。ファンタズマも主砲を撃《う》ち反撃《はんげき》するが、敦樹はそれをなんとか避《よ》けた。
風だけが耳元で鳴り、あっという間に速度は限界に達する。視界の中では距離《きょり》メーターだけがグルグルと回り、その数字を減らしていった。
――その数字が20[#「20」は縦中横]mになった時、ファンタズマは敦樹の右前方にいた。
「行かせてもらう!」
左の足首を外側に向け一気に踏み切ると同時、構えた大刀《たいとう》を振り下ろす。敦樹の体は地面からはじき飛ばされたかのような勢いで、背面《はいめん》跳《と》びを繰《く》り出した。強荷電粒子の束が、敦樹の脚のわずかに上を通過する。しかし敦樹は首を横に固定したまま、横目で地面だけを見ていた。この角度では直接、進行方向にいるファンタズマは見えない。
流れていく地面にファンタズマの左前脚の脚先がやっと見え、次の瞬間《しゅんかん》に高速|機動《きどう》に入って消える。
「――ここ!」
[#挿絵(img/basileis2_278.jpg)入る]
敦樹《あつき》は体を丸めて、跳《と》んだのとは別の軸で横に回転する。その手に持った四号刀はファンタズマの左中脚の真ん中にあたる関節を正確《せいかく》に捉《とら》え、斬《き》り飛ばした。
ファンタズマはこの事態に精一杯の対処をする。すなわち、まずはより早く敦樹から逃げようとしたのである。だがその間にも敦樹はさらに、動作直前だった左後ろ脚を切断し、地面に着地した。
「摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、切断」
そう命じて敦樹は、『デイノス=構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』を形成する力場の先端を地面に突く。両足と左腕の計三ヵ所は地面に引っ掻《か》き傷を作りながら、敦樹の体に急ブレーキをかけた。ファンタズマは脚を切り落とされて左後方の支えを失い、体勢を崩す。崩しながらも主砲の照準を敦樹に向け発射、熱《ねつ》が地面を穿《うが》つ。
しかしその時にはもう、敦樹は元の場所から跳んでいた。姿勢を低くし、脚を失って体勢を崩しつつあるファンタズマの腹の下に入り込む。重心を残してバランスを取ろうとするファンタズマの右側三本の脚は、完全に延び切り、しかも動かない。転倒しないためには、そうせざるをえないのだ。
敦樹は長めの五号刀を振るって、内側から右前足と右中脚を一気に切断した。
残る脚はたったの二本。ファンタズマは姿勢を維持できず、左後方にかしいだ。そのまま尻餅《しりもち》をつくように、擱坐《かくざ》する。
だがファンタズマはすぐに残った脚を折り、完全に腹を地面につけた。こうしなければ、地上にいる敦樹に、最後の攻撃《こうげき》手段となった主砲を向けられない。そして、叩《たた》きつけるような勢いで砲塔を回転させる。が、その時点で敦樹はすでにファンタズマの上に駆け上っていた。その手にあるのは最重の六号刀――。
まるで斬り結ぶかのように影《かげ》が交差し、ファンタズマの主砲と六号刀が同時に折れ飛んだ。鉄塊の転がる騒々《そうぞう》しい音が、廃墟《はいきょ》の街に響《ひび》き渡る。
ファンタズマは最後の攻撃の手段も失った。そして満足な移動すら、すでに不可能である。
だがそれでも必死で逃げようと、そして再起せんと、這《は》いずった。砲塔の上で四号刀を握る敦樹は、それを見下ろして言う。
「……もういいんだ。お前の戦いは、すでに終わっている」
連装刀を振りかぶった敦樹は、残った二本の脚を順に斬り落とした。
12
その後の剛粧《ごうしょう》の掃討《そうとう》は、比較的|速《すみ》やかに進行した。
パリカリアは先の戦闘《せんとう》であちこちを損傷しており、特に『リュンケウスの百眼《ひゃくがん》』に受けたダメージは大きい。だが力を思う存分に発揮する戦術歩行艦《シャリオ》の存在は圧倒的だった。
これまではファンタズマを警戒《けいかい》していたために、敦樹《あつき》と佐里《さり》は慎重《しんちょう》な行動を強《し》いられてきている。しかしその心配もなくなれば、残り千匹に満たない剛粧《ごうしょう》は脅威《きょうい》ではなかった。
戦闘《せんとう》の片はあっさりとつき、敦樹たちは半時間後――どうにか日の沈む前に、再び擱坐《かくざ》したファンタズマのところへ戻ってくることができた。
行動力を失ったファンタズマには、すでにパリカリアのパイルドライバーから杭《くい》が打ち込まれている。打ち込んだ杭は制御を乗っ取り、現在ファンタズマはパリカリアの完全な支配下にあった。
「いいぞ、佐里。ハッチを開けてくれ」
ファンタズマの胴体下を覗《のぞ》き込んでいた敦樹からの合図に、せり出させた自機《じき》の操縦席《そうじゅうせき》に座る佐里は頷《うなず》いた。
軋《きし》みながら徐々に、ファンタズマのハッチが開く。中から細かな黒い埃《ほこり》のようなものがわずかにこぼれた。内部を覗き込んだ敦樹は、思った通りの状況に顔を顰《しか》める。
「……佐里、何でもいいから入れ物にできるものを探してきてくれ」
ハッチ全体を体で覆《おお》うようにして、敦樹は言った。状況を察した操縦席の佐里は、青ざめた表情で頷くと、パリカリアに反転を命じる。
敦樹はその後ろ姿を見送って、再びハッチの中を覗いた。思った通りそこには、死後数年が経《た》つ操縦者のミイラ化した遺体があった。敦樹の攻撃《こうげき》やファンタズマ自身の高速機動によってバラバラになり、操縦席の奥に散らばっている。
この脆《もろ》くなった遺体を、ずっとファンタズマは気づかってきたのだ。
「……大したヤツだよ、お前」
敦樹は片手をかけたハッチの縁《ふち》を、コツコツと叩《たた》いた。
「――敦樹」
戦術歩行艦《シャリオ》の重く静かな足音と共に、佐里が背後から呼びかける。敦樹が振り返ると、戻ってきたパリカリアはその腕にオープン式のドラム缶を挟んでいた。
「ガソリンスタンド跡から、できるだけ汚れてないの探して持ってきた。大きさはこれで大丈夫そう?」
「十分だと思う。そこに置いてくれ」
敦樹はすぐそばの地面を指さすと、自分はファンタズマのハッチの中へ潜《もぐ》り込んだ。遺体を運び出そうと、まずミイラ化した操縦者の最も大きな破片を手に取る。それは頭部と斜めに割れた胸部の塊だった。
落ちくぼんだ眼窩《がんか》、皮のこびりついた歯。それだけ見れば人類《じんるい》と変わりはない。しかし側頭部が後方に大きく張り出していた。頭蓋骨《ずがいこつ》が三角形をしているのだ。そして何より、大きい。
例えばこれが人間ならば、背の高さが伸びても頭の大きさはそれほど変わるものではない。しかしこのミイラは、骨格そのものが大きいのだ。身長170cm[#「cm」は縦中横]の人間を2mに引き延ばしたような感じである。
これが剛粧《ごうしょう》たちと故郷を同じくする知的生物――『アイティオン』の一種族だった。
敦樹《あつき》はその遺体を大事に持って、出口のハッチを振り返る。と、パリカリアを降りた佐里《さり》がそこにいた。
「……私も手伝うから」
その申し出に、敦樹は素直に頷《うなず》いた。
「ちょっときついかと思うが、そうしてやってくれ」
そして二人は黙々《もくもく》と作業を始めた。破損した遺体を運び出し、最後に敦樹が散らばった遺体の衣類《いるい》を畳んで外に出る。
「これで全部だ」
そう告げると佐里は黙《だま》って頷き、パリカリアの操縦席《そうじゅうせき》に戻った。いくつか操作をすると卵殻《ケリュフォス》で覆《おお》われたファンタズマのハッチが閉まる。敦樹は手に持った衣類をドラム缶の中の遺体にかぶせ、蓋《ふた》を閉めた。
そのまま抱えてパリカリアの前まで運ぶ。地面に置くと、『からん』と小さな音がした。
「アイティオン側がファンタズマの存在を放棄した以上、遺体の受取手もいないわけだが……。この異郷の地に埋めるのも、何か忍びない。せめてあちらの世界へ送ってやろうと思うんだが――」
敦樹の提案に、佐里は頷く。
「……ファンタズマ本体は無理だけど、このドラム缶だけなら、私の権限《ちから》で送れると思う」
「うん、頼む」
敦樹が答えると、佐里はパリカリアの操縦席でいくつかの操作をする。そしてパリカリアごと、遺体の入った缶に向き直った。だが今度は二人のすぐ横で、ガリガリと引っ掻《か》くような大きな音が響《ひび》く。敦樹と佐里が振り向くと、ファンタズマが切り落とされた脚のわずかな残りを使って、起き上がろうとしていた。
「そんな、動けるはずないのに」
佐里が慌ててコンソールを操作する。しかしそれを、敦樹が止めた。
「……いいさ、ここまで守り続けた主人なんだ、見送りたいだけだろう。害はないと感じる。佐里は元の操作を続けてくれ」
敦樹が言う通り、ファンタズマは地上と空が同時に見える角度まで眼《カメラ》を持ち上げ、その姿勢のまま再び動かなくなる。佐里は安堵《あんど》の息をついた。
そしてパリカリアは改めて左右のドーザーブレードを缶に添えた。ドラム缶は数cm[#「cm」は縦中横]空中に浮かび上がり、静止する。その上に輝《かがや》く円環《えんかん》が現れると、内容を走査するかのように下降と上昇の一往復をする。
やがて浮かび上がった缶に、縦横《じゅうおう》の光が走った。一瞬《いっしゅん》にしてその輝きが増すと、全《すべ》ては光の粒へと変換され、わずかに傾いて空へと上っていく。光の向かう先にあるのは赤紫《あかむらさき》の雲の谷間と、一本の黒ずんだ線《せん》のような塔《メテクシス》である。
二人とファンタズマは、無言のままその風景を見ていた。
陽《ひ》の沈もうとする町を風が吹き抜ける。佐里《さり》は少しだけ寒そうに首をすくめて言った。
「……帰ろうか」
敦樹《あつき》は返事をしようとして、しかしそれより早く、道の向こう側から声がかかる。
「おおい、無事かいな!」
声の主は清子《きよこ》だった。自分の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》を破壊《はかい》され、ここまで徒歩で来たらしい。その清子が突然「おお!!」と叫び、最後は全力ダッシュでやって来る。
「凄《すご》いなあ、これが戦術歩行艦《シャリオ》かいな。お、こっちがファンタズマか。うわサリサリィ、このパネルごっついやん!」
「あ、畑沼《はたぬま》さん。勝手にコンソールいじっちゃ駄目《だめ》だって」
操縦席《そうじゅうせき》に飛びついた清子を、慌てて佐里が止める。それを横目に見ながら敦樹は、もう動かなくなったファンタズマを振り返った。――コイツがこのままとなると、帰ってからまたいろいろやらなきゃならないな。そう考え一つ息をつくと、改めて二人を振り返った。
「清子、佐里、防災団事務所へ帰ろう。このままだと日が暮れる」
「お? っちゅうてもここから歩きって、エライ距離《きょり》やで?」
まるで子供のような期待を込めて、清子《きよこ》が言い返す。敦樹は困ったような表情を浮かべた。
「……まあ、人の目につかない辺りまでなら、パリカリアに乗ってけばいいさ。それでいいかな、佐里《さり》?」
「もちろん構わないけど」
操縦席《そうじゅうせき》を何とか死守した佐里は、清子を不審《ふしん》の目で見る。
「……乗せるだけだからね?」
「まあいきなり大砲《たいほう》撃《う》ってくれ言《ゆ》うわけにもいかんしな。今日のところはそんなところで許しといたろう!」
「ハイハイ」
疲れたように相槌《あいづち》を打つ敦樹に、ニヤニヤと清子は笑いかけた。
「それより中央事務所への問い合わせに対する『団長|小早川《こばやかわ》・珍回答集』っちゅうの、戦闘《せんとう》終わったあとで編集《へんしゅう》してみてん。道すがら見せたるわ。爆笑《ばくしょう》やで?」
「悪趣味《あくしゅみ》な。……苦労かけるな、小早川さんには」
敦樹は溜《た》め息をついて清子がパリカリアの車体に上るのを手伝い、自分もそれに続く。
「二人とも大丈夫? あちこち潰《つぶ》れてるし、多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》と違って掴《つか》まるところ少ないから、気をつけてね」
開放した状態の操縦席《そうじゅうせき》にいる佐里が、上に向かってそう言った。二人は了解を告げる。
「帰ろう、佐里」
敦樹の声を合図に、廃墟《はいきょ》の町で三人を載せたパリカリアはのんびりと歩き始めた。
向かう先は、冬の夕日が沈み始めた西の空と六甲《ろっこう》の山々。
――そしてそこに、彼らの住む町がある。
[#改ページ]
まれびとの棺〈終章〉[#地付き](2019/12/07)
「文彦《ふみひこ》帰ったぞ、って……」
まずは戦いの勝利と無事を報告するため文彦の病院を訪れた敦樹《あつき》は、しかし病室の扉を開けた途端《とたん》、口を喋《つぐ》むことになった。そこにはすでに二十人ほどの防災団員が押しかけていたのだ。
全員、難《むずか》しい顔で入ってきた敦樹をじろりと見る。ちなみに文彦は彼らに囲まれ、自分のベッドの上で窮屈《きゅうくつ》そうにしていた。敦樹の出現にリアクションも返せず、困ったような表情になっている。
「……どうしたんですか?」
そう敦樹は訊《き》くものの、実際のところ、ことの成り行きは大体予想がつく。他《ほか》の防災団が今回の事態に少なからず気づいていることは、すでに帰り道、清子《きよこ》から聞いていた。そして中央事務所や地域団長の小早川《こばやかわ》がいくら取《と》り繕《つくろ》ったところで、仲間内で点呼《てんこ》を取れば一発である。
敦樹《あつき》たちがいないことなどすぐ分かっただろう。
そして彼らは最終的に|樋ノ口町《ひのぐちまち》防災団で唯一居残ることになった文彦《ふみひこ》の許《もと》へ集まった。しかし彼らの調査《ちょうさ》はここで行き詰まったのだろう。文彦が本当に、何も知らなかったからだ。
ともあれ、今の敦樹にしても、本当のことを語るわけにはいかない。とぼけたまま、重ねて訊《き》いてみた。
「……皆さんも文彦の見舞《みま》い――ですか?」
しかし全員、相変わらず恐《こわ》い顔をしたまま、無言。そしてそんな防災団員たちの中から、一人がずいと進み出た。中武《なかたけ》眞木《まき》という名の、勝ち気な目をした二十代半ばの女性である。
彼女は腕利きの防災団|歩課《ほか》職員《しょくいん》であると同時に、新人防災団員の教育係でもあった。敦樹もこの中武から、防災団の様々を教わった。その彼女が疑り深い表情で、敦樹に訊く。
「……そういうそっちは、何しに来たんだい?」
「何しにって……仲間の見舞いに来るのは、別に普通だと思いますが」
ここは敦樹の側も、気を張って言い返す。
この中武という先輩《せんぱい》防災団員は、姉御肌《あねごはだ》で気が強い。そして今回のような状況なら、ことの善悪よりも、相手が後ろめたい気分でいるか、そうでないか。それだけを判断の基準とする。防災団という仕事は、役所仕事のようでは追いつかない。組織《そしき》の手順を飛び越えてでも結果を出さなければ成り立たない時や場合が、確《たし》かにあるのだ。
今回、手続きを欠かざるをえなかった敦樹に、非がないわけではない。だがそれでやましいことをしたわけではないのだから、中武に対しては胸を張っていればいいのである。
そんな敦樹の態度に、中武は極めて不満そうにフンと鼻を鳴らした。
「……で、ケガは?」
「ありません」
「他《ほか》の二人も?」
「……はい」
「じゃあもういいや。引き上げだ」
面倒臭《めんどうくさ》くなったという風に声を上げると、中武は敦樹のいる病室出口へとやって来る。だがすれ違いざまポカリと軽く、敦樹は頭を叩《たた》かれた。
「――二度とこういうこと、やるんじゃないよ。先輩サマをナメンナ!」
ドスの利いた声でそう告げて、病室をあとにする。彼女に続く他の防災団員たちも、ポカポカと順に敦樹を叩いて病室から去っていった。
「酷《ひど》いもんだ……」
頭に手を当てたまま、敦樹は文彦のベッド脇《わき》の丸椅子《まるいす》に座る。そして文彦は先ほどの様子《ようす》を日記に書きながら、同情したように笑った。
「いやあ、見てて冷や冷やしたよ、敦樹《あつき》ちゃん。でもまあ、自業自得《じごうじとく》だよね。僕だってポカポカしたいし。――みんな心配してたんだよ?」
「それは分かってるさ。ファンタズマとの最初の戦闘《せんとう》で文彦《ふみひこ》が私のところへ来た時――、私も怒っていたような気がする」
辟易《へきえき》した表情で、敦樹はそう答えた。文彦はフニャリと笑う。
「まあ、鉢合《はちあ》わせちゃったのは運が悪かったかもね。できればもうちょっと、ゆっくり来れば良かった?」
「いや病院だって面会時間ってものがあるしな。――私以外に佐里《さり》と清子《きよこ》も来てるんだが、二人とも先に、急いで連絡を取りたいところがあるらしい。そういうわけで、私だけが先に来た。これをすぐに、返したかった」
敦樹はポケットから金属棒――デイノスの登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》を取り出し差し出す。文彦はそれを受け取って、しげしげと眺めた。敦樹はその様子《ようす》を見ながら言う。
「随分と役に立った。ちゃんと、返したからな」
「でもそんな、急がなくてもいいのに……」
「いや、私自身の気持ちに、今ここで区切りをつけたいんだ」
敦樹は文彦を押し止めるように、そう言った。
「ファンタズマを倒し、仲間の仇《かたき》を取った。――これで私は、自分の過去に納得しようと思う。明日からはまた、いつも通りを一からやり直しだ」
「敦樹ちゃん……?」
うろたえたように文彦は問いかける。
敦樹は知らぬ間にこぼれていた涙を拭《ぬぐ》った。
「……ファンタズマを倒したって、一体それが何になる」
それはこれまでずっと棚上げにしたままだったことである。しかし敦樹は、とうに気づいていた。
「仲間たちが死んだ本当の理由は、全く別のところにあるんだ。問題は何も解決していない。敵を倒して満足しているような戦い方じゃ意味がない。私たちは勝たなければ[#「勝たなければ」に傍点]駄目《だめ》なんだ」
すぐにいつもの冷静な表情に戻り、敦樹は強く言う。
「力をつけよう、文彦。そして仲間を集めて、この状況に打ち勝つための方法をみんなで考えよう。今はまだ雲を掴《つか》むような話だが、その日のために一歩一歩、私は進んでいこうと思う」
「――うん」
頭の下に腕を敷《し》いて、文彦は笑いながら答えた。
「多分《たぶん》それで、いいんだと思うよ」
何やら遅い佐里《さり》たちの様子《ようす》を見るため、敦樹《あつき》は一旦《いったん》、文彦《ふみひこ》の病室をあとにした。敦樹が病院の階段を下りていくと、二階の廊下では佐里が一人、暗闇《くらやみ》に向かって何やら話しかけている。
「……しかし今回の件はアイティオン側が原因で――ああ、ちょっと一方的に切らないで!」
見えない何かを追いかけるように佐里は数歩進み出る。複合《ふくごう》視聴覚《しちょうかく》インターフェイスである眼鏡《めがね》の中に映った通信画像を、追いかけているのだ。
「佐里、目の前に壁《かべ》がある」
敦樹が注意するのも間に合わず、佐里は真っ白な廊下の壁に頭をぶつけた。
「あいたた……」
「大丈夫か?」
敦樹が声をかけると、佐里は振り返って憂鬱《ゆううつ》そうな表情のまま頷《うなず》いた。
「このぐらいは別に。それよりも『アイティオン』との交渉、うまく行かないかもしれない。パリカリアの修理はするけれど、封印の解除決定権は向こう持ちになるかもって。これだからアルケー派の施政周期間っていうのは……」
佐里の言葉に、敦樹も顔を顰《しか》めて目を細めた。
戦術歩行艦《シャリオ》の能力を使用した場合のアイティオン側の反応については、幾通りか予想はしていた。しかし佐里のいま述べた実際の決定は、かなり悪い部類《ぶるい》のものである。下手《へた》をすれば偽装装甲を解除したパリカリアの姿を見ることは、敦樹も佐里も、もう二度とないという可能性さえあった。
「……向こうにしたって、ケチで頭が固いってだけの話ではないと思うんだが。まあ『アイティオン』がこちらの思う通りに力を貸してくれるような存在なら、人類全体もこれほど苦労はしない。今回の結果は、ひとまずそういうものだと思うしかないな。――交渉の取っかかりは、必ずどこかにあるはずだ。時間はかかるかもしれないが、地道に続けてみるさ。私も協力する」
「でも、ね……」
落ち込んだように、佐里は肩を落とす。
佐里はパリカリアという存在を、様々な部分で心の支えにもしていた。それを他者の手によって、部分的にとはいえ自由に使えなくされるというのは、非常に不安なことなのだ。それが分かっている敦樹は、申し訳なくも思う。
「私のために済まない。だが、佐里のおかげで当面の脅威には片をつけることができた」
そして顔を上げ、安堵《あんど》させるように静かな声で言う。
「通常の業務なら一年もの間、私たちは私たちの力で、うまくやってきているんだ。今後、戦術歩行艦《シャリオ》としてのパリカリアの力が必要になるなんてことは、そうそうないさ」
「そう願いたいけれどね……」
どうにも弱々しい表情で笑い、佐里《さり》は病院廊下の長椅子《ながいす》に腰かけた。その左右の手を取ると、敦樹《あつき》は佐里の目の高さまで持ち上げて言う。
「私のために佐里の切り札を使わせてしまったんだ。だったらパリカリア復活の日までは、何があっても私が佐里のことを守る」
病院廊下の薄暗《うすぐら》い蛍光灯の下。清子《きよこ》は受話器の呼び出し音を聞きながら、公衆電話の上部にそっと手を添えた。そこにはあちこちを走り回って両替した十円玉が、何本も柱のように積《つ》まれている。長距離《ちょうきょり》電話をかけるので、毎回これぐらいは準備しておく必要があるのだ。
受話器を持ったまま、しばし待たされる。待ちくたびれた清子が壁《かべ》にもたれかかるのと同時、ようやく呼び出し音がカタンと途切《とぎ》れ、男の声が返ってきた。
『もしもし、春瀬《はるせ》ですが?』
「おう、史郎《しろう》さん? ウチやけど」
その清子の返事に電話の向こう――山陰《さんいん》の連合知事、春瀬史郎は驚《おどろ》いたような声を返した。
『清子が手紙じゃなくて電話ってのは、随分珍しいね』
「今回は急ぎの用やねん。ちゅうてもまあ、内容は大したことでもないねんけど」
硬貨が電話機の中で次々落ちる音が響《ひび》く中、清子は答える。受話器の向こうの春瀬史郎はしばし考え込むように唸《うな》った。
『当てようか? ――何かいいことがあった?』
「んー。ファンタズマの件、何とかなったわ。ちょっと一口じゃあ説明できんから、詳しい報告はまた今度になるけど」
『それは良かった。空知《そらち》さんも、随分|無茶《むちゃ》をしたようだしね』
そう言って受話器の向こうから小さな笑みが漏れてくる。清子は口を尖《とが》らせた。
「……何や知ってたんかいな。人の悪い」
しかしそこで、一つ大きな溜《た》め息《いき》をつく。
「とにかく、決着はついた。ウチがここにおる理由、これでなくなってしもたわ」
『でも清子自身はもう少しそこにいたい。だから私に急いで電話をかけてきた。――大体そんなところかな?』
史郎は言葉を先読みするので、話がポンポンと進む。全く参ったという気分の清子は、しばし「ん〜〜」とどこまでも語尾を伸ばす羽目《はめ》になった。
「ま、……実はその通りやねん」
『清子《きよこ》がそうしたいなら、私が無理に呼び戻す理由はないよ』
「けど何か、悪いな思て。……こっちに残りたい、っちゅうんはウチの判断で、まだ根拠を示せる段階とちゃうから。今んとこは、我《わ》が儘《まま》と一緒《いっしょ》や」
言いにくそうに、清子は言葉を濁《にご》す。しかし史郎《しろう》は優《やさ》しく答えた。
『……実を言うと私の方も何となく、そうなってしまうんじゃないかと思っていたんだ。
先日、和田山《わだやま》地域団長の石飛《いしとび》さんが、こちらに寄ったんだけれど。その時に川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》は将《バシレイス》の器《うつわ》かもしれないって話が出たんだよ。いろいろ私の知らない話を、石飛さんは聞いているらしくってね』
「石飛の爺《じい》ちゃんが? ――でも何かそれ、情報が誇張されて耳に入ってへんか? アイツ、人には言《ゆ》うこと聞けて命令するくせに、自分はスタンドプレー連発やん。嘘《うそ》つきと我が儘は将《バシレイス》にはなれません!」
電話の向こうで史郎はひとしきり笑った。その間に料金切れの安っぽい電子音が、受話器から漏れる。清子は急いで、公衆電話の上に積《つ》んだ十円玉を次々と投入した。
『……しかしね清子。将《バシレイス》が人を惹《ひ》きつけるのは引力[#「引力」に傍点]だと石飛さんは言うんだ。それはもう絶対的で、魅力《みりょく》という言葉すら追いつかない程のね』
「あの唐変木《とうへんぼく》にそれがあるて? んなアホな」
『しかし文彦《ふみひこ》君は、彼女に取られてしまったよ』
清子もすぐには答えられなかった。確《たし》かに文彦は誰《だれ》にも強制されぬまま、まるで当たり前のことのように敦樹の許《もと》に組み込まれてしまっている。
『そして今度は清子だ。私は優秀《ゆうしゅう》な人材を、この一年で彼女に二人も引き抜かれてしまったことになる……』
「……拗《す》ねへん、拗ねへん!」
どうも史郎の方に元気がないと、清子自身まで里心が出そうになる。できる限りの明るい声で、清子は受話器の向こうに言った。
「それにサリサリはどうか知らへんけど、ウチや文彦の場合は、敦樹個人がどうこうちゅう話でもないやん。強《し》いて言うなら、その周りでいろいろ気になることがあるってことやろ?」
『それも含めての、引力[#「引力」に傍点]さ。とにかくこれから、そっちは賑《にぎ》やかになりそうだね』
「……まあ、そういうことなんかなあ」
『先ほどの話に戻るけれど。清子がどこで生きるかなんて、別に誰かに許可のいることじゃない。清子がしたいようにすればいいさ』
「うん……。ウチはお母ちゃんのために、勝たなあかん[#「勝たなあかん」に傍点]少女やからな。この場所で勝負かけてきたいねん。ま、取《と》り敢《あ》えず年末年始は一旦《いったん》そっち帰って、正式な報告させてもらうわ」
『分かった。面白《おもしろ》い話がたくさん聞けることを期待しているよ』
「まかしといて。ほな」
そして清子《きよこ》は受話器を置く。
取り出し口に返ってきた十円玉は三枚。さらに公衆電話の上には、まだかなりの数の十円玉が残っていた。
「もうちょい長い話になるか思てたけど。意外にウチも親離《おやばな》れが進んでる、ちゅうことなんかいなあ……」
呟《つぶや》きながら清子は、その硬貨を財布とポケットに詰め込んだ。
「清子、まだかかりそうか?」
ちょうどタイミング良く、階段から敦樹《あつき》が呼びに現れる。隣《となり》には佐里《さり》も一緒だった。「いま行く」と答えた清子はそちらへ向かい、三人|揃《そろ》って階段を上る。鈴のように小銭の音を響《ひび》かせながら、清子は敦樹に訊《き》いた。
「先に病室行ったんやろ? 文彦《ふみひこ》どうやった?」
「いつも通りだ」
「……まあ、そりゃそうやわな。ちゅうか、よう考えたらウチ、昼に会《お》うたばっかりやん」
清子の言葉に、佐里が苦笑する。
「結構、奇妙なカンジはするよね」
「そうや! あの時ウチ、文彦突き飛ばして出てきたんやった!!」
階段から廊下に出たところで今さらながら思い出し、清子がさらに声を上げた。そして廊下の向こうにいた看護婦《かんごふ》から「お静かに」と注意される。三人は頭を下げながら、逃げるように文彦の病室前まで足早に急いだ。
扉の前まで来ると、何だかんだで先頭の清子がノブに手をかけることになる。だがそこで往生際《おうじょうぎわ》悪く、清子は背後の二人を振り返った。
「う〜、何か落ち着かんなあ」
しかし敦樹と佐里は「早く」と急《せ》かす。清子は肩を落とすと、諦《あきら》めたようにノブを捻《ひね》った。
三人は病室の入り口をくぐりながら同時に――ただし他《ほか》の患者の迷惑にならないよう、そっと小さな声で言う。
「ただいま〜」
ベッドの端に腰かけた文彦は答えた。
「おかえりなさい」
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あとがき
こんにちは、こんばんは、伊都《いと》工平《こうへい》です。新シリーズ第二巻です。
さっそく本作品についてですが、この文庫に収録《しゅうろく》されているのは『西方世界《せいほうせかい》剣《けん》魔《ま》攻防録《こうぼうろく》』として「電撃《でんげき》hp vol.28[#「28」は縦中横]〜31[#「31」は縦中横]」誌上(04[#「04」は縦中横]年2月〜8月)に計四回連載された作品の、後半二回分となります。さらに新たな文庫書き下ろし分として、追加|短編《たんぺん》が一本と「まれびとの棺《ひつぎ》」の終章パートが収録されています。
ちなみに今回の追加短編につきましては、本編である「まれびとの棺」の重要な伏線《ふくせん》を構成するパーツの一つでもあります。実を言うと連載時に入れておきたかった話なのですが、三章・四章は共に掲載ページ数の上限ギリギリだったため、最終的にカットすることになりました。どうにか今回、一つの話として復活させることができた次第です。ともあれ、第一巻収録の短編と合わせ、敦樹《あつき》の成長ぶりが出せているといいな、と思います。
さて追加短編と言えば、連載時にもおなじみのキャラクターに加え、新キャラが何人か登場しています。主人公の成長物語と共に、その周囲を取り巻いている彼ら彼女らもそれぞれの役目を携え、作品|舞台《ぶたい》の各所へ散っていくことになります。
また敦樹に最も近い三人については、今のところ各話で問題提起が為《な》されたばかりの段階です(そもそも連載四回分の構造は、一話で一人のキャラクターにスポットを当てるというものでした。第一話が敦樹の話で、二話は清子《きよこ》、三話は文彦《ふみひこ》、四話は佐里《さり》という風に)。今後は彼らの抱える問題にそれぞれ踏み込んでいくという流れが、ストーリーの重要な位置を占めることになります。
逆に言うと今回の「まれびとの棺《ひつぎ》」は、基本的には敦樹個人の物語です。誰《だれ》でも何かを始める[#「始める」に傍点]ためには、まず越えなければならない壁《かべ》というものがあるわけでして。そのためシリーズスタートにあたる今回に関しては、敦樹とファンタズマの『決闘《けっとう》』にストーリーを絞り込んでいく形になりました。そして次巻からはいよいよ、リーダーとしての力を発揮し始める敦樹が、全体を引っ張っていくことになります。ご期待下さい。
ところで本作のイラストは、前巻に引き続き瑚澄《こすみ》遊智《ゆうち》氏に担当していただきました。
シーン中での『動き』さえ一枚のイラストへ封じ込めるその画力に、毎回|無茶《むちゃ》な要求で甘えさせていただいております。連載期間中も含め、今巻もありがとうございました。
それでは今回のご挨拶《あいさつ》はこの辺で。次巻でまた、皆様とお会いできますよう。
[#地付き]伊都工平 拝
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底本:「天槍の下のバシレイス2 まれびとの棺〈下〉」電撃文庫、メディアワークス
2004(平成16)年11月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月18日作成