天槍の下のバシレイス1 まれびとの棺〈上〉
著者 伊都工平/イラスト 瑚澄遊智
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)アヒル烏帽子《えぼし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)関西《かんさい》弁|講座《こうざ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]伊都工平 拝
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まれびとの棺
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まれびとの棺〈序章〉[#地付き](2018/12/03)
黄金色《こがねいろ》の夕日の中、途切《とぎ》れがちな雪が降り始める。
東西を長大な山脈に挟まれた旧|長野《ながの》県・伊那《いな》に、本格的な冬が訪れようとしていた。
流れていく細切《こまぎ》れの雲に、夕日が遮られてはまた射《さ》す。樹《き》の葉や背の高い草原《くさはら》に白い結晶は緩《ゆる》やかに降り下り、すぐに露《つゆ》へと変わっていく。
そんな生まれたばかりの水滴を、一本の腕が振り払った。掻《か》き分けられた草の間からは、迷彩服を着た一人が慎重に顔を出す。
朴直《ぼくちょく》そうな少女。どこかのんびりとした雰囲気を漂わせながらも、冷静さや芯《しん》の強さといったものも感じさせる。だが今、その表情は緊張《きんちょう》で険しく顰《しか》められ、さらに染《し》み出すような疲労で覆《おお》われていた。
彼女は肩にかけたアサルトライフルとプラスチック製の鞘《さや》に収まった大刀を地面に置き、腰の荷物入れから双眼鏡《そうがんきょう》を取り出した。そして彼女が今いる東側の斜面から谷の底にある町並《まちなみ》を見下ろす。
すぐに発見できた飯田《いいだ》線|飯島《いいじま》駅とその周辺は、すでに完全な廃墟《はいきょ》だった。二十五年前の『大降下』でまず最初に被害を受けたのがこの地域なのだから、当然といえば当然である。
「どうだ?」
背後の木立《こだち》から出てきた少年が小声でそう訊《き》いた。さらに彼の後ろからは十一人の少年たち、――子供ばかりが続いて出てくる。双眼鏡《そうがんきょう》を覗《のぞ》いたままで、先頭の少女は答えた。
「木造家屋は、もうほとんどが倒壊《とうかい》している。原形を留《とど》めているのはコンクリート造りの建物だけだ。ただ、野営をするならこの場所で良いと思う。――安田《やすだ》の意見は?」
「お前は簡単《かんたん》に言うけどな……」
安田と呼ばれた大人《おとな》びた風貌《ふうぼう》の少年は、後ろを振り返って身振りで合図する。団子のように固まっていた少年たちの間から、大きな機械《きかい》を背負った一人が進み出た。
彼が背負っているのは『|移動式生体レーダースキャナ《CAVR》』と呼ばれる装置である。様々な電磁波源の中から、動物《どうぶつ》筋組織《きんそしき》の微弱な電気活動だけをフィルタリングして抽出することができる。この装置を使用すれば、人間を含め半径5km[#「km」は縦中横]以内にいる『動物』の位置を特定することが可能だった。
安田は少年の背負うレーダー本体から、取り外し式の液晶モニターを取ると、少女へ向かって差し出した。
「見てみろ、川中島《かわなかじま》」
少女――川中島|敦樹《あつき》は言われるままモニターを覗き込んだ。
黒い背景に映った輝点《きてん》は、合計で二十ほど。それが二群に分かれている。
「真ん中に近いこっち側が俺《おれ》たち。そして向かってくるのが『剛粧《ごうしょう》』の群だ。八匹いる」
「少ないな。半径5km[#「km」は縦中横]に八匹か」
無感動に敦樹は答えた。
「この辺りまで来れば、もっと数がいて当然だと思っていた。おまけに、相手の速度は遅いし進路も不規則。――まだ発見されてはいない?」
「進み方がフラフラしてんのは、群が林道の麓側《ふもとがわ》に入ったからだ。――確《たし》かにまだ発見されてはいないが、ここから下は一本道だろ? このまま道を進めば、鉢合わせになる」
「なら、相手が気づく前に、有利な位置から奇襲《きしゅう》をかけよう」
「おうおう。一班班長川中島サンは、実に戦士だねェ」
少々|苛立《いらだ》たしげに、安田は言った。だがその棘《とげ》のある軽口に気分を害した風もなく、敦樹は首だけをかしげる。
「剛粧は鼻が利く。下に降りるつもりなら、道を脇《わき》に避《よ》けてやり過ごすというのは無理だと思うが。――何か妙案でも持っているのか?」
「ああ」
自信満々という顔で、安田は頷《うなず》いた。
「前に進まなければいい。ここから一目散に引き返す」
「下の町へ行くのなら、迂回《うかい》する道はない」
「逃げるって、言ってる」
安田《やすだ》の言葉に、背後の少年たちが小さく息を呑《の》んだ。
「任務を放棄してか? ようやくここまで来たんだぞ?」
呆《あき》れたように敦樹《あつき》は言い、谷の向こう側、中央アルプスの方に目をやる。
舞《ま》い降る小雪と流れていく雲の向こう、安平路山《あんぺいじやま》のちょうど背後。そこに巨大な――あまりにも巨大な構造物が、遥《はる》か空の彼方《かなた》に向けて、そびえ立っていた。
直径約1km[#「km」は縦中横]、厚さ推定10[#「10」は縦中横]m。
そして全高は遥か3万7000km[#「km」は縦中横]。――単純な比較では、静止|衛星《えいせい》の軌道高度を超える。
どのように自重を支えているのかさえ定かではない、地上に突き刺さった黒色のストローというのが、その全体像だった。そして表面には運河を思わせる巨大で規則正しい模様が、縦横《じゅうおう》に走っている。漆黒《しっこく》の表面に対してその模様だけが、陽《ひ》の下でも薄《うす》く発光していることが確認《かくにん》できた。
人類以外の何者かによって建造され、二十五年前、突如世界中に現れた謎《なぞ》の存在。――もしくは現象。何処《いずこ》からか『剛粧《ごうしょう》』と呼ばれる巨大生物を次々とこの地球上に送り込み、世界を分断へと導《みちび》いた元凶《げんきょう》が、そこにあった。
「私たちの任務は塔《メテクシス》の調査《ちょうさ》だ。そしてようやくここまで辿《たど》り着いた。なのに今さら、よりにもよって今になって、逃げ出すのか? ――明日には塔《メテクシス》の麓《ふもと》、太平峠《おおひらとうげ》まで到着できる。ひょっとしたら剛粧発生の原因を、……いや全《すべ》てを終わらせるための手がかりだって、そこで得られるかもしれない」
落ち着いた声で、そう言う。だが安田の様子《ようす》は何か、いつもと違っていた。
「福島《ふくしま》政府は俺《おれ》たちに、そんな成果を求めちゃいない。そもそも調査って言うが、そのための道具なんか何にも持たされちゃいないんだぞ? ――塔《メテクシス》に辿り着いても、観光旅行よろしくぽか〜んと見上げてすごすご引き返すってんじゃ、命の割にあわん」
「まだ辿り着くことのできた人間が一人もいないのだから、それも仕方ない。どういった調査を行うべきなのか。それを見極めるのも重要な仕事だ」
「上の人間は、本当にそう考えていると思うのか? もしアイツらが本気だったとしたら、俺たちなんかをこんな装備で送り出すか?」
安田の掲《かか》げたライフル――時代遅れのAN94が乾いた音を立てて鳴った。
|2018年《現在》の対剛粧作戦では、どの戦線でも『|高度虚物質技術《デイノス》』と呼ばれる新世代兵器が主流となっている。剛粧は状況次第で千匹を超える圧倒的な数で押し寄せた。個人で持てる銃器程度では、太刀打《たちう》ちできないと考えるのが普通だった。
まして敦樹たちの調査行が徒歩・無補給になるというのは、最初から分かっていたことである。ライフル本体はともかく、弾薬の重さというのは馬鹿《ばか》にならない。そんな装備を歳《とし》が十五に届かない子供に持たせ、大人《おとな》ですらできないことをやってこいと言う――。
「これが悪意じゃなかったら、何だって言うんだ。四十人いた仲間のうち、もう二十七人も失ったんだ。いい加減認めろよ川中島《かわなかじま》。俺《おれ》たちがやらされてるのは特攻だ」
敦樹《あつき》は押し黙《だま》った。言葉の意味ではなく、安田《やすだ》の真意を推りかねた。
実は安田がこの話を敦樹にするのは、初めてではない。だが他《ほか》の隊員の前でそれを言ったのは、今回が最初である。実際、剛粧《ごうしょう》との戦いを前に、隊には動揺が走っていた。そのことを安田は理解してやっている。
――本気で逃げようと言っているのだ。ただ、なぜ今になって言うのか。それが敦樹には分からない。
「一体何を考えている?」
「全員で『西』に逃げないか、川中島」
少年たちの間から、驚《おどろ》いたような息が漏れる。敦樹はわずかに目を細めた。
「東日本を――福島《ふくしま》政府を捨てるのか?」
「ああ。俺たちは今、円状に広がる難侵入《カタラ》地域のど真ん中にいる。つまり生きて帰るためには、来たのと同じ距離《きょり》を引き返さなきゃならない。今が判断する時なんだ。西へ行くなら戦闘《せんとう》は避《さ》けて、戦力を温存したい」
敦樹はまた考え込んだ。
――陸路を通って西へ行く。それが自分たちに可能かどうかを、安田は今まで見極めようとしていたということなのだろう。実際驚くほど、安川は冷静だった。しかし――。
敦樹は安田の隣《となり》にいる元三班班長の中嶋《なかじま》に、視線を向けた。
「安田の今の話、どう思う?」
「俺は――」
そこまで答え、言い淀《よど》む。
「俺が逃げ出したことで、家族に迷惑さえかからなけりゃ……」
「他のみんなも、安田の意見に賛成《さんせい》なのか?」
そう訊《き》く敦樹に、仲間たちから明確《めいかく》な答えはない。だが彼らの意思は、表情を見れば自《おの》ずと明白だった。それほどに、ここ数日の戦闘は過酷さを増していた。
――自分たちは全滅することを前提にされている。その不信は大なり小なり、旅立ったころから燻《くすぶ》っていた。だから敦樹は、静かに頷《うなず》いた。
「確かに、それもありだな。――分かった、ここで別れよう。もしも私が帰還《きかん》できたとしても、全員死んだと報告する」
「ちょっと待て、お前はどうする気だ?」
慌てて安田は言ったが、敦樹はきっぱりと横に首を振った。
「私は塔《メテクシス》へ行く。やることはやっておきたい」
「一人でか? そこまで福島《ふくしま》政府に義理立てする必要があるのかよ!」
「義理は関係ない。ただ塔《メテクシス》に行くことの可能性を信じたいんだ。もちろん分の悪い賭《か》けだから、安田《やすだ》たちの判断というのはありだと思う。ただ、私がここまで来れたというのは、チャンスなんだとも思う。剛粧《ごうしょう》の発生原因を突き止められれば、いろんなことに終止符が打てる。それを期待して送ヶ出してくれた人だっているはずだ」
「けれど――」
「それに『西』に逃げて、そのあとどうするんだ? 安田はどんな生活を送る? 人類そのものがいつ滅んでもおかしくないこの時代に、普通の生活を求めるのか? 春から高校へ入学でもするのか?」
「そりゃ行ってみないことには、具体的なことなんて分かりゃしないが……。全員で助け合いながら、それぞれやりたいことを、やればいいんじゃねえのか?」
口ごもり、考え考え安田はそう答えた。
「学校行きたいヤツは学校行けばいいし、川中島《かわなかじま》が戦いたいって言うなら、そういう仕事をさせてもらえばいい」
「西の山陽《さんよう》や山陰《さんいん》の共同体群は、福島政府とは違う」
あやふやな安田とは違い、敦樹《あつき》ははっきりとした口調《くちょう》で言い切る。
「自分たちの土地を守ることばかりに必死で、剛粧と積極的に戦わない。挙げ句の果てに文明が三十年も後退して、対剛粧用の『デイノス』も、福島政府が製造したものを命がけで船舶|輸送《ゆそう》している。――戦って勝利の糸口を見つけなければ、人類は滅ぶ。なのに西日本は手を打たないまま、全員で衰退することを選んだ人々の集まりだ。彼らの考え方を否定するつもりはないが、私の居場所ではないと思う」
静かな口調のまま、敦樹はそう断言した。
「安田はこの旅を特攻だと言うし、事実そうなんだろう。仲間もたくさん死んだ。だが私は、それほど悲壮ぶった気持ちでここまで来たつもりはない」
「けれどさ――」
なお説得を口にしようとしたが、敦樹の真っ直《す》ぐな目を見て言葉に詰まる。安田はやがて悲しげに、諦《あきら》めたように首を振った。
「分かったよ、川中島。ここで別れよう」
「ああ」
「ただし、いま近づいてる剛粧の掃討は手伝う。ってことでどうよ?」
安田は他《ほか》の仲間の意思を確認《かくにん》するため、背後を見回した。
「女一人残して目の前にいる敵から逃げたっていうんじゃ、あまりにも格好悪い」
全員がそれぞれに頷《うなず》く。彼らにとって、運が悪ければ死者さえ出るかもしれないこの戦闘《せんとう》に付き合うメリットは全くない。しかし敦樹《あつき》はもう二週間もの間、共に歩き共に戦い、そして生き残ってきた彼らのリーダーである。
たとえ本人の意思だとは言っても、そう簡単《かんたん》に置き去りにできるものではなかったし、心の整理をつけるにはいい機会《きかい》だった。また好意に甘える形になる敦樹にしても、現実的に考えればそれはありがたい申し出だったので素直に受け入れた。
そして一度決まれば、あとは素早く行動するというのは全員の了解するところだった。敦樹は古びた地図を手早く広げると、問題の道を指し示した。
「……確《たし》かに、最初|安田《やすだ》が言った通りだな。相手は急|勾配《こうばい》の斜面にある、蛇行《だこう》した林道を上っているところだと予測できる。この林道は幅一車線、舗装《ほそう》されている」
全員が覗《のぞ》き込む中、敦樹の指先が蛇《へび》のようにうねる道の途中で止まった。
「蛇行した道路の直線が一番長くなっているところ。ここで剛粧《ごうしょう》を迎撃《げいげき》する。私と安田と中嶋《なかじま》の三人が囮《おとり》になって、敵の注意を引く。残りは一段上の道からライフルで狙撃。――全員、残ってる焼夷徹甲弾《API》を出して山口《やまぐち》に預けろ」
敦樹の言葉に、それぞれが鞄《かばん》の中から弾を取り出した。そして彼らの中で最も射撃の腕がいい少年に、それを渡す。
「――全部で何発残ってる?」
そう訊《き》いた敦樹に向かって、童顔の山口は渋い表情を浮かべた。
「三十六発、か。弾倉一個ちょいだな。三日前の戦闘《せんとう》で、バカ撃《う》ちしたから……」
「大事に使ってくれ。実際に効く弾はそれしかない」
「言われなくても分かってるし」
ぶっきらぼうに答えながら、山口は弾を弾倉に詰めていく。敦樹は周囲を見回した。
「他《ほか》は徹底《てってい》して山口の援護《えんご》にあたってくれ。普通弾も牽制《けんせい》にはなる。敵の足を止めて射撃しやすい状況を作るんだ。私たち三人が質量刀《しつりょうとう》で突撃するタイミングで射撃は停止。それ以外の指示は山口に従うよう」
「川中島《かわなかじま》、先に偵察に出よう」
すでに荷物を背負って歩き出した安田が、そう呼ぶ。振り返って、敦樹は頷《うなず》いた。実際のところこれまでの戦闘で、少数の敵に対する戦い方の手順自体は確立《かくりつ》されていた。あとは山口に任せ、敦樹は自分のバックパックを背負うとさらにライフルと大刀を担《かつ》ぎ、林道へと向かった。
敦樹は歩きながら、ベルトで肩から吊《つる》したプラスチック製の鞘《さや》に目を落とす。
結局、この『刀《かたな》』という原始的な武器が、剛粧との戦闘の中で一番効果を発揮していた。
もちろん、見た目通りのものではない。この大刀――質量刀は、重量3kg[#「kg」は縦中横]、慣性《かんせい》質量60[#「60」は縦中横]kg[#「kg」は縦中横]という高度虚物質技術《《デイノス》の基礎応用《きそおうよう》で生まれた武器である。その挙動は使用者すら振り回し、使いこなすのには相応の技量が必要になる。しかしうまく使えば、巨大生物である剛粧に対して確実なダメージを与えることができた。
ただし接近戦となる以上、こちらがやられる状況にも陥りやすい。すでに『質量刀《しつりょうとう》使い』は各班班長の生き残り、――道を共に歩いている安田《やすだ》と中嶋《なかじま》に敦樹《あつき》自身を合わせた三人だけとなっていた。
黙《だま》ったまま三人が行く。林道はアスファルトが不規則にひび割れ、その隙間《すきま》から雑草が生《は》える、思った以上に狭い道だった。攻撃《こうげき》を仕掛けるポイントにはすぐに辿《たど》り着いた。
灰色に汚れたガードレールから身を乗り出し、敦樹は再び双眼鏡《そうがんきょう》を取り出した。林道は急|勾配《こうばい》の斜面に張りつくように、何度も曲がりながら下へ続いていく。その道を剛粧《ごうしょう》――象《ぞう》ほどもある四足の巨大な生物が列を作って上ってくる。すでに随分と近い。
剛粧は体全体が卵殻《ケリュフォス》と呼ばれる厚い白色の殻に覆《おお》われていることから、こう呼ばれていた。露出《ろしゅつ》しているのは脚の関節と顔だけだ。むっくりした体型とぶきっちょな歩き方は、まるで羊か何かのように見える。しかしその外見に反して生態は獰猛《どうもう》そのもので、口元には牙《きば》が剥《む》き出しで並んでいる。剛粧に草食はいないのだ。
さらに運動能力も凄《すさ》まじいというのが、共通した特徴である。獲物《えもの》を見つければ、どんなに動きが鈍いものでも時速60[#「60」は縦中横]km[#「km」は縦中横]は出して突進してくる。これが千匹も集まれば実質『陸の津波』と呼ぶ他《ほか》はない状態となる。本来、人間が生身で戦うにはあまりにも分が悪い相手だった。
もっとも今回の敵はわずか八匹。この数なら対処さえ間違わなければ、今の戦力でもまず負けることはない。
[#挿絵(img/basileis1_014.jpg)入る]
敦樹《あつき》たちが剛粧《ごうしょう》を迎撃《げいげき》する下の道路の状態を確《たし》かめる間に、一段上にある道路に打ち合わせを終えた山口たちが到着した。それぞれ姿勢《しせい》を低くして、ガードレールの下からライフルの銃口を出すように構える。今いる道路を『く』の字に例えると、上側の端近くに山口らライフル隊がいて、下側の端から現れる剛粧の群を待ち構えているという状況だった。
道路同士の高低差は人間でも登るのが難《むずか》しそうな急斜面を挟んで、たった10[#「10」は縦中横]m。その場所を山口は選んだ。随分と近いが、このくらいの距離《きょり》でないと銃で有効な攻撃を加えられない。
敦樹たちは上と下、両方の道路が見える『く』の字の中央部分、ヘアピン状のカーブまで道を引き返した。そこで質量刀《しつりょうとう》の鞘《さや》を外し抜き身のまま足下《あしもと》に置くと、さらに逆の肩に担《かつ》いでいたライフルを構える。|負い革《スリング》は三人とも緩《ゆる》めたまま。撃《う》ち終わればすぐに捨てられるようにする。
それからちょうど一分後、群の先頭が敦樹たちのいる道路へ姿を現した。
すでに敦樹たちを察知していたのだろう。
剛粧は獲物《えもの》の存在に興奮《こうふん》していた。威嚇《いかく》するように一声大きく咆吼《ほうこう》すると、巨体を揺らしながら近づいてくる。
囮《おとり》である敦樹たち三人は、一斉にオートでライフルを撃った。銃声が山峡に響《ひび》き渡り、剛粧の列は驚《おどろ》いたかのように一旦《いったん》止まった。だが予想通り、当てても何の効果もない。棘《とげ》が刺さった程度にしか感じていない風だった。
再び前進を始めた剛粧はカーブで待機《たいき》する敦樹たちに、一歩一歩にじり寄るように進む。それは反撃を恐れてではなく、餌《えさ》が逃げ出さないよう、慎重を期しての動きだった。
だが道の半ばで突然、先頭の巨体がよろめき崩れる。その背中に小さく燐《りん》の炎。遅れて破裂音が高い空に木霊《こだま》した。
山口《やまぐち》が焼夷徹甲弾《API》で狙撃、剛粧の急所である脊髄《せきずい》を焼き砕いたのだ。続けて二匹目。今度は外した。弾は当たったが、剛粧は倒れない。
この狙撃は胴体の甲羅《こうら》――卵殻《ケリュフォス》の外側から内部の骨格を想像して脊髄を砕かなければならない。これに移動が加わると、当てるのはかなり難《むずか》しくなる。
狙撃手である山口は、仲間に合図した。すぐに普通弾の攻撃がフルオートで加えられる。至近だが、当たった弾は良くて切り傷を作った程度、大したダメージになっていない。しかし標的の剛粧は着弾の反動で動こうとした方向に動くことができず、その場で足踏みした。そこへ山口が再び焼夷徹甲弾《API》を撃《う》ち込む。二匹目の剛粧も今度は、もんどり打って倒れた。
――勝てるな。
順調な成果に敦樹は安堵《あんど》の息を吐いた。
だが二匹を倒された剛粧の群は次の瞬間《しゅんかん》、思いがけない行動に出た。まるで何かに命令されたかのように進路を変え、ライフル隊のいる方――急斜面の上にいる山口たちに向かって斜面を登り始めたのだ。虫のように這《は》いずりながら肉薄《にくはく》する敵に、ライフル隊は混乱に陥った。山口《やまぐち》以外は相手に通用する弾を持っていないのだから、当然だった。
「落ち着け。撃《う》ちっぱなしにすれば、着弾の反動で斜面の下に追い落とせる!」
叫んだ敦樹《あつき》はライフルを捨て、質量刀《しつりょうとう》を体の前で押し出すように構えると、仲間の方へ道を上った。安田《やすだ》と中嶋《なかじま》も続く。
敦樹の言ったことは、別に気休めではない。いま相手にしている剛粧《ごうしょう》は足が短い。傾斜45度を超える急斜面を登るという行動には根本的に無理があるのだ。
実際、勝手に斜面から転がり落ち、アスファルトに打ちつけられるものも何匹か出ている。登れるはずのない坂なのだ。だが剛粧は、起き上がると再び斜面をよじ登ろうとする。
そして最初の剛粧が上の道路に辿《たど》り着いた時、とうとうライフル隊は総崩れとなった。
逃げる間もない。最も近くにいた一人に、剛粧は躍《おど》り掛かった。
「うわ――ふ」
叫び声を上げた少年の上半身が巨大な口の中へ消え、くぐもった声に変わる。直後、骨の折れる乾いた音が連続して響《ひび》き、多量の血と共に下半身が路上に落ちた。だが口の周りを真《ま》っ赤《か》にした剛粧はそれに目もくれず、別の一人を前足の爪《つめ》で引き裂き殺す。
敦樹の隣《となり》を走る安田が叫んだ。
「川中島《かわなかじま》、銃持ってる奴《やつ》を後退させろ。このままじゃ全員死ぬ」
「できるならやってる! だがどうやって、どこへ逃げる。相手の足は、私たちより速い」
背後で中嶋が舌打ちする。
すでにライフル隊の少年たちは、目前の敵に向かって出鱈目《でたらめ》に弾を撃ち込むばかり。その弾が剛粧の体のあちこちにめり込む。しかし剛粧は全く怯《ひる》まない。状況は悪化する一方だった。
唯一、リーダーの山口だけが冷静に指示を出し続けていた。後退しながら敦樹たちと合流するよう言い、自分は這《は》い上がってきた二匹を仕留める。
だが目の前の射撃《しゃげき》に神経を割《さ》いていた山口は、真横を這い上がってきた一匹に気がつかなかった。振り返った途端《とたん》逃げる間もなく踏み倒され、その太い足の下で胸を押し潰《つぶ》される。
「山口!」
敦樹は叫んだが、すでに山口は絶命していた。敦樹の声に振り向いたのは、血まみれの敵――剛粧たちだけだった。もう誰《だれ》が生き残っているのかさえ分からない中、敦樹は群の中に走り込んだ。両手で構えた質量刀《しつりょうとう》を振るい、一番近くにいた一匹の首を叩《たた》き落とす。黒い泥水のような体液が、切り口から吹き出した。
すぐさま敦樹は道路中央を振り向くと、質量刀を振り上げ、次の一匹に目標を変える。卵殻《ケリュフォス》から露出した左前脚関節を狙《ねら》う。思いきり質量刀を振り下ろして一刀両断。さらに勢《いきお》いをつけて走り込んできた安田がもう片方の前足を切り落として動けなくし、最後に中嶋が傷口へ質量刀を突き立てた。切っ先は剛粧の心臓《しんぞう》まで達し、巨体は痙攣《けいれん》を繰《く》り返しながら動きを止める。
――残り二匹。
一匹は安田《やすだ》と中嶋《なかじま》に任せる。敦樹《あつき》はガードレールから身を乗り出し、下を確認《かくにん》。一気に跳び越え、まだ斜面を這《は》い上がる最中の一匹に向かって自分の落下位置を合わせた。加速しづらい質量刀《しつりょうとう》に全体重をかけ、突っ込む。
正面から見て本当にわずかな卵殻《ケリュフォス》の隙間《すきま》へ切っ先を合わせ、剛粧《ごうしょう》の喉元《のどもと》に質量刀を突き立てた。剛粧の足は衝撃《しょうげき》で斜面を離《はな》れ、ひっくり返るように下へ落ちる。しかし敦樹は質量刀から手を離さず、そのまま全力でねじ込んでいく。
下の道路に剛粧の体が打ちつけられると、さすがに敦樹は衝撃で振り落とされた。道路の坂道を転がりながら数m行き、何とか止まることができる。敦樹は呻《うめ》きながら、体を起こした。
剛粧は仰向《あおむ》けのまま、死んでいた。
敦樹は強く打った足をさすりながら巨大な死体のそばまで寄ると、根本まで刺さった質量刀を抜こうと柄《つか》に手をかけ引っ張る。しかしそれは完全に首から体の中に食い込んでしまっていて、全く動かない。三度引き抜こうと試みて失敗し、結局敦樹は諦《あきら》めた。
周囲には静寂が戻っていた。
敦樹は上を振り仰いだ。自分が飛び降りた一つ上の道路からも、先ほどまでしていた銃声や、剛粧の鳴き声、仲間たちの交わす声は聞こえない。
たった三分ほどで、戦闘《せんとう》は終わっていた。
「安田ァ、無事か?」
返事はない。
敦樹は斜面を見上げて、登るのは無理だと諦めた。くの字型の道に沿って上っていき、最初に囮《おとり》として待機《たいき》していたカーブへと向かう。そこには先ほど敦樹たちが捨てたアサルトライフルが三丁、無造作に転がっていた。武器のない敦樹は取り敢《あ》えず自分のものを拾い、上の道路を振り向いた。そこには人間の死体と剛粧の死体が、無造作に転がっていた。
――全滅、したのか?
まさかという思いを抱きながら、敦樹は道を上っていった。途中からは走った。まだ手当をすれば助かる者がいるかもしれないと、思い至ったからだ。だが近づいて周囲を見回しても、動くものはなかった。
敦樹はガードレールに寄りかかるようにして倒れている少年の死体の横に、大きな荷物が転がっていることに気がついた。|移動式生体レーダースキャナ《CAVR》だ。
急いでそのモニターを外す。まだ機能《きのう》は生きていた。半径5km[#「km」は縦中横]に亘《わた》って探知が可能なこの装置に、生休を示す光点が二つ映っている。
中央の光点は敦樹自身だ。そしてそこから少し南側に、もう一つ光点がある。
「誰《だれ》か生きていないか?」
「川中島《かわなかじま》、か……?」
かすれた声で、答えが返る。声の方へ敦樹《あつき》は走った。答えたのは安田《やすだ》だった。地面に転がった彼の右肩から先は、すでに根本からなくなっていた。
安田は途切《とぎ》れ途切れに問う。
「どうなった……」
「私と安田だけだ。あとは――」
「そうか……。楽勝だと思ったんだがなあ……」
「本当にどうしたんだ。残りたった一匹にお前がこの有様っていうのは」
敦樹はしゃがみ込んで手当をしようとしたが、――すぐに諦《あきら》めた。ここにいたのが医者だったとしても、安田を救うことは不可能だろう。それほどの深手だった。
「――何だってこんな」
「余裕で残り一匹を倒して、上からもお前が剛粧倒したの、確認《かくにん》したから……。声をかけようとしたんだが。その途端《とたん》に後ろから爪《つめ》で斬《き》りつけられて。……あとはもう何が起きたのか」
安田は突然気がついたというように、力のない視線で左右を見回した。
「敵が、まだ近くに……」
「安心しろ。さっきレーダーで確認した。ここにはもう、私とお前しかいない」
「そうか」
息をつきながら安田は言い、目を瞑《つむ》った。
「西へ行け、川中島《かわなかじま》。こんな戦いをさせる福島《ふくしま》政府は、下らないよ。みんなの代わりに、西へ……」
「分かった。分かったから――」
取り敢《あ》えず敦樹は、そう答えるしかなかった。安田は安堵《あんど》の表情を浮かべ、動かなくなる。
空は明るいが、日は沈みかけていた。そして一時止《いっときゃ》んでいた雪が、また降り始める。
ガサリと、葉が鳴った。
敦樹は項垂《うなだ》れていた頭を上げると、素早く周囲を見回す。
不自然な音だった。油断なく周囲を警戒《けいかい》しながら、ライフルをいつでも撃《う》てるよう構える。そしてそのまま姿勢《しせい》を低くすると、再び|移動式生体レーダースキャナ《CAVR》のところまで走った。モニターを見る。光点は自分を表す一つしかない。しかし葉が鳴る音は止まらない。林道周囲のあちこちから、間隔を置いて聞こえてくる。
――何だ?
敦樹は繰《く》り返し周囲を見回す。見回しながら、自分が持つライフルは相手が剛粧《ごうしょう》だった時には効《き》かないということに、ようやく思い至った。安田の質量刀《しつりょうとう》が遺体《いたい》のすぐそばに転がっていたはずであることを思い出し、そちらへ目をやる。確《たし》かにそこにあった。
もう一度モニターを見る。光点は一つ。確認して顔を上げる。
巨大な影が、いつの間にかそこにいた。
夕闇《ゆうやみ》に浮かぶ白――卵殻《ケリュフォス》で体が覆《おお》われている以上、それは剛粧《ごうしょう》の一種なのだろう。しかし何かが、一線を画している。巨大化した肉食獣《にくしょくじゅう》でしかない他《ほか》の剛粧とは、何かが根本から違っていた。
そう思考した瞬間《しゅんかん》には、敦樹《あつき》はアサルトライフルの引き金を引いていた。弾倉に残っている弾は十発前後。それが連続で吐き出される。
しかし巨大な影《かげ》はまるで虫でも払うかのように、前腕を振るって敦樹の体をはじき飛ばした。
背後のガードレールの遥《はる》か下方、夜の迫る林の闇《やみ》に向かって、敦樹は投げ出された。
* * *
世界各地に塔《メテクシス》が現れ、地上が剛粧と呼ばれる巨大生物で溢《あふ》れてから四半世紀。いま日本は、三つの土地に分裂していた。
本州中央は塔《メテクシス》の現れた長野《ながの》県を中心に、人間を――耐性者以外を惑わし遭難《そうなん》させる難侵入《カタラ》地域となった。人の判断力を奪う塔《メテクシス》の奇妙な性質は、周辺一帯を剛粧のみが跋扈《ばっこ》する無人の土地へと変えた。人の住める土地は日本列島の東と西に分断されたのだ。
東日本は、旧|東京《とうきょう》から政府機能を移転した『福島《ふくしま》政府』によって統治されていた。
一方、その統治能力が及ばない西日本は各県によるいくつかの連合――共同体群によって運営されている。
ここ数年の動きとして福島政府は、『日本国土の回復』を目標とした決死の特殊観測隊《とくしゅかんそくたい》を、塔《メテクシス》へと送り込んでいた。
この通称『トッカン』と呼ばれる作戦は、2018年だけで四度になる。数合わせのため、弱冠十五|歳《さい》の少女でしかない川中島《かわなかじま》敦樹が率いることになった『三〇四特殊観測隊』も、その一つだった。
この隊は目標である塔《メテクシス》の目と鼻の先、旧長野県|中川《なかがわ》村の陣馬《じんば》形山《かたやま》付近で完全に消息を絶ち、全滅したとされた。しかし彼らによる到達|記録《きろく》の更新――難侵入《カタラ》地域の最も奥深くに踏み込んだという成果を、福島政府は大々的に宣伝した。
彼女と仲間たちの合同国葬は、その様子《ようす》が東日本全域で報じられた。そしてほんの一ヶ月ばかりの間、『川中島敦樹』の名は東日本で最も知られた名となった。
だがその一年後である。
彼女は大刀を手に『西』で剛粧と戦っていた。
[#改丁]
まれびとの棺〈第一章〉[#地付き](2019/10/29〜10/30)
1
南兵庫《みなみひょうご》県でも難侵入《カタラ》地域との境界線に最も近い学校が、御茶家所《おちゃやしょ》町にある。
秋の昼下がりの陽《ひ》に照らされた、少々くたびれた灰色校舎の群。その中の南棟三階にある開け放たれた窓から、今日も学校中に届くような金切り声が響《ひび》いていた。
「川中島《かわなかじま》はァ、また欠席ですか!」
語尾を不自然に上げ、中年女性国語教師・白井《しらい》多恵《たえ》は花瓶の乗った教卓をばんばんと叩《たた》いた。
御茶家所学校・高校一年組――学年に一クラスしかないのでこう呼ぶ――の生徒は、狭い教室の中で困ったなといった表情を、それぞれが、それぞれの方法で浮かべている。
取《と》り敢《あ》えず一番前の列に座る女子生徒・楢橋《ならはし》南美《なみ》が、恐る恐るといった表情で手を挙げた。
「あの、今晩は防除地域に剛粧《ごうしょう》の大群が到着するっていう予報が出てて、夕方までには住人に避難《ひなん》命令が出る予定で。……その件じゃないでしょうか? 川中島《かわなかじま》さん、防災団で働いてますし」
実際すでに、今夜の剛粧《ごうしょう》対策に向けての注意報が発令されている。同じ学校内にある小中学生のクラスは休校扱いになっていた。この水準が警報《けいほう》に上がれば、高校も即時授業打ち切りである。さっさと家へ帰れるのにと、生徒の大半は思っていた。
――と言っても、帰宅後のんびりできるわけではない。防災団の剛粧対策開始までに、神戸《こうべ》市の指定|避難《ひなん》場所まで避難しなければならないからだ。
「……毎回思うんですけれど、私たちこんな時まで授業やってる場合なんでしょうか。川中島さんだって、あれで結構、責任感が強いから――」
「それはこの際どうでもよろしい。私は川中島が今日も休んだことの、具体的な理由を訊《き》いているのです!」
「先生、知ってま〜す」
教室の真ん中の席。活発そうながらどこか間の抜けた風に見える生徒――春瀬《はるせ》文彦《ふみひこ》が、のんびりした声と共に手を挙げた。
「敦樹《あつき》ちゃんは、防災団の予備訓練に行きました」
だがその言葉に、今度は教室全体がざわめく。文彦は「あれ?」といった表情で周囲を見回した。見かねた後ろの席の部活仲間、細野《ほその》忠夫《ただお》が文彦の背を突《つつ》く。
「……おい。おいって、文彦」
「何?」
「何って……。ってかさ、予備訓練があるんなら、何でお前や四方《しほう》さん、学校に来てるわけ?」
言いにくそうに、細野は言った。単なる質問にもかかわらず、文彦があまりにも素なので自信なく訊く。文彦はキョトンとして返した。
「え? 平日は正午からの授業だし。朝の本訓練のあとに来てるんだから、寝坊はしないよ?」
「そうじゃなくて。お前も同じ|樋ノ口《ひのぐち》町の防災団員だろう。今日の夜に剛粧対策があるんだったら、その予備訓練とかいうの、行っとかなくていいわけ?」
「ああ、それは――」
文彦は考えるように眉《まゆ》を寄せ、首をひねった。細野の目の前で、その顔が曇《くも》る。
「もしかして、まずかったのかな……」
「いきなり反省かよ。……川中島さん、学校に来れないわけだ」
「でもいつもやってる演習を再確認するだけって言ってたし……。それに敦樹ちゃん本人が、僕たちに学校行けって言ったんだから。うん、たぶん大丈夫だ」
お気楽に答えながら、文彦は机から小さなノートを取り出した。そこに今のやりとりを記録《きろく》する。日記をつけるのが趣味《しゅみ》なのだ。
一方、細野《ほその》の方は、友人のそんな様子《ようす》に溜《た》め息をついた。
「それって、文彦がこの調子《ちょうし》だからなんじゃ――」
「いいえ、そんなことは関係ありませんよ!」
教卓から教師|白井《しらい》がキンキンと叫んだ。細野は思わず、首を竦《すく》める。小声でやりとりしているのに、完全に筒抜けになっているのだから、その聴覚《ちょうかく》はあなどれない。
他《ほか》にも教科書への落書きを見破る目、早弁をかぎ分ける鼻、宿題忘れの言い訳を五秒で断念させる舌。クラス担任・白井|多恵《たえ》という教師は、全《すべ》てが他の一般教師のスペックを大幅に上回っている。
さらに加えて化粧の厚み、口紅の紅《あか》さ、三角|眼鏡《めがね》の張り出し具合とヒールの高さ。白井は全てが過剰なパーツでできていた。
生徒に『改造人間』とか『女幹部』とかいったアダ名をつけられる教師も、ちょっといないよなあなどと考え、文彦はフニャリと笑った。それも日記につけておく。
白井の怒声はなおも続いた。
「ただでさえ川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》は出席日数が足りないのです。そんな勝手は許しません!!」
(勝手って……)
教室の生徒たちは一様に、困ったなあという顔をする。しかし教師白井にとっては教育こそ正義、それを阻《はば》むものは全て悪なのだ。そしてその価値観に『例外』という概念は含まれない。
「このままでは埒《らち》があきません。四方《しほう》佐里《さり》さん!」
「あ、はい」
あさっての方向を向いて眼鏡のフレームを触っていた少女――長い髪を後ろで束ねている――が、慌《あわ》てて答えた。その驚《おどろ》いたような表情を、白井は蛇《へび》のような目で見詰める。
「今日の放課後《ほうかご》、家庭訪問を敢行します。そのことを帰ったら、川中島に伝えなさい」
「え、家庭訪問ですか?」
頓狂《とんきょう》な声で訊《き》き返して、佐里は慌てて愛想笑いを浮かべる。
「でも|樋ノ口《ひのぐち》町は『境界線』の内側ですよ? 耐性者以外は入れないし、そもそも私たちは防災団員としてあそこにいるだけですから。親と暮らしてないのに家庭訪問しても?」
しどろもどろになって答えながらも、その視線は度々、あらぬ方向を向く。白井は目を細め、不信の籠《こも》った視線をじっと佐里に注いだ。
四方佐里は、同じく教室にいる春瀬《はるせ》文彦や、今ここにいない川中島敦樹と同じ、防災団で働く生徒である。その佐里の眼鏡は関係者が非常時でも呼び出せるよう、無線接続された簡易《かんい》視聴覚《しちょうかく》インターフェイスの機能《きのう》を持っていた。簡易とは言っても特定職の者に共同体から支給されている装備品で、普通の市場《しじょう》には出回らない高性能なものである。
機能|集積《しゅうせき》が高度に進んだ結果、外観からはただの眼鏡と見分けがつかない。だがそれは、外の防災団用通信網と繋《つな》がっている以上、通信機としての機能《きのう》を持っていた。
そして四方《しほう》佐里《さり》は今、どこかと通信を行っている。そのことに、白井《しらい》は気づいた。あろうことか、授業中に。
佐里は慌《あわ》てて弁明する。
「あの、違うんです。私、敦樹《あつき》――じゃなくて川中島《かわなかじま》さん一人が予備訓練に出るんじゃ悪いなと思って。だから、砲課《ほうか》用のシミュレーションには参加するって言っちゃったんです。で、その呼び出しが、さっそく入っちゃってて。あの私、悪いんで、訓練協力の間だけ、ちょっと、少し授業を抜けます先生。あ、もちろん私は実地参加じゃなくて、砲課のシミュレーション参加だけですから。操作《そうさ》して結果を送るだけなんです。本当、すぐに終わります。授業中には戻ってきますから」
白井の許可は決して下りないと判断した佐里は、一方的に頭を下げて謝《あやま》る。と、脱兎《だっと》のごとく、教室を飛び出していった。
「佐里ちゃんも大変だなあ」
頬杖《ほおづえ》をついて呑気《のんき》にそう呟《つぶや》く文彦《ふみひこ》に、「他人事《ひとごと》じゃネエだろ」と細野《ほその》がツッコむ。
「……私の教育理念が逃げていく」
白井はおもむろに教卓を叩《たた》き割らんばかりの勢いで打つと、次の瞬間《しゅんかん》には廊下へ飛び出していた。「何事!」と他《ほか》の生徒たちがそのあとに続く中、文彦だけがやれやれといった感じで黒板に向かった。そしてチョークを持つと、こう書く。
――自習。
2
川中島敦樹は荷物運搬用である三輪《さんりん》自転車のハンドルに両足を乗っけたまま、次の指示を待っていた。
場所は道のど真ん中。といっても、行き交う車はない。人間自体が敦樹しかいない。
ここはすでに『境界線』の2km[#「km」は縦中横]内側――つまり難侵入《カタラ》地域の中だった。周囲も元は小さな商店街だった場所である。しかし今では全面が錆《さび》つき開くことのないシャッターの列は、かえってもの悲しさを感じさせた。
秋風に吹かれて目の前を転がっていく枯れ葉を目で追う。と、敦樹が首にかけていたゴーグルから電子音が二回鳴った。
敦樹はハンドルから足を下ろすと、ゴーグルをかけた。これは見た目も重さもゴーグルそのものだが、その内容は佐里の眼鏡《めがね》と同じものである。頑丈なフレームには集積された複合《ふくごう》視聴覚《しちょうかく》インターフェイス機器と、操作のための接触スイッチが入っている。無線接続されているので通信装置として使える他、情報端末や視覚補助装置にもなるものだった。
また、対象地域内の剛粧《ごうしょう》の動きは、六甲《ろっこう》山地に設置された大規模レーダーサイトで全《すべ》て観測《かんそく》されるようになっていた。各防災団の団員はその観測結果を、必要に応じてゴーグル内に表示することができた。
一年前、敦樹《あつき》たちが移動式レーダーを背負って作戦を行ったのとは、雲泥の差である。守りに徹《てつ》して戦地を全く移動しない分、ここ南兵庫《みなみひょうご》の剛粧対策における装備とそのシステムは充実していた。
今、敦樹がかけているゴーグル越しの視界には、一つの情報図が浮かび上がっている。外の風景と重なるように、防除対策指定地域の地図が立体的に表示されていた。南兵庫県旧|尼崎《あまがさき》市と伊丹《いたみ》市の、ほぼ全域である。
続いて松並《まつなみ》町防災団一班班長にして地域団長・小早川《こばやかわ》剛史《たけし》のダミ声が、ゴーグルに搭載された開放式スピーカーから漏れた。
「次の演習は福知山《ふくちやま》線バリケードが、塚口本町《つかぐちほんまち》付近で突破された状況を想定する。誘導《ゆうどう》路から逸《そ》れる剛粧は、今夜南兵庫地域に到着予定である推定四千匹のうち、約9パーセントにあたる三五八匹。状況発生から三十分後を想定、敵標点の散乱はこうなる」
ゴーグルの向こうで浮かんでいる地図に、光点がばらまかれた。敦樹は先ほど行われた打ち合わせを加味しながら、行動計画を素早く立てていく。自分の担当地域の他《ほか》に、隣接《りんせつ》する防災団と協力して倒さなければならない剛粧も含めて手順を考える。最終的には敦樹一人で、約六分の一にあたる六十匹近くを相手にしなければならない。
かなり厳《きび》しい数ではある。だが、敦樹自身に与えられている装備もまた、かつてとは桁外《けたはず》れに充実していた。余裕はないが、絶望的な数というわけでもない。
ただし決して忘れてはならないことがある。防災団には『逃げる・負ける』という選択は有り得ないということだ。
敦樹たちのすぐ後ろにあるのは、人の住む町だ。いま目の前の地図上にばらまかれている、剛粧を意味する光点。この全てを、どんな方法を使ってでも絶対に潰《つぶ》してしまわなくてはならない。
六湛寺《ろくたんじ》中央事務所にいる小早川の声は、なおも続く。
『――事前説明通り、演習時の高度虚物質技術《デイノス》使用について、福島《ふくしま》政府への使用許可|申請《しんせい》は行われていない。各自、行動終了後に修正申告するよう。それに合わせて状況図を動かす。――以上だ』
説明終了と同時に、点呼が始まった。
『日野《ひの》、了解』
『松並二、三班、了解』
『戸崎《とざき》、了解』
……。
――福島《ふくしま》政府、か。不器用なことだ。
限りなく無音で嘆息すると、敦樹《あつき》は答えた。
「|樋ノ口《ひのぐち》、了解」
各防災団の点呼が一巡すると、小早川《こばやかわ》は一呼吸置いて、スピーカーから号令を告げた。
『了解確認、演習開始!』
その声を合図に、敦樹は前傾になると三輪《さんりん》自転車のペダルを思いきり踏み込んだ。
新世代兵器群『高度虚物質技術《デイノス》』とは、純粋な虚物質で構成された最新鋭《さいしんえい》装置の総称である。生身の人間が剛粧《ごうしょう》と渡り合うための個人用装備として、圧倒的な能力を使用者に提供する。しかし高度虚物質技術《デイノス》の自力再現に、西日本は成功していない。そしてその使用には治安上の理由から『供給元である福島政府』の使用許可がいる。これによって、剛粧とは関《かか》わりのない争いに『デイノス』が使用される危険を抑えているのだ。
敦樹も本来の装備を使えれば、もっと素早く移動できる。しかし今回のような予備訓練程度ではわざわざ使用許可を取らないのが普通だった。
代わりに必死でペダルを漕《こ》ぐ。
敦樹の三輪自転車は交差点を曲がり、二つ先の信号機《しんごうき》跡で停止した。進行方向にある陸橋上にも、ちょうど別の防災団の人間が来たところだった。双方で手を挙げて、確認《かくにん》をし合う。
「樋ノ口、日野《ひの》町と県道42号上の標点133から141までを挟撃《きょうげき》。移動時間修正|−《マイナス》180秒、戦闘《せんとう》時間修正、|+《プラス》300秒」
『了解』
中央事務所との通信に合わせ、ゴーグルに映った状況図が書き換えられる。
「これより樋ノ口は県道606号を東進する。――佐里《さり》、援護《えんご》砲撃の準備」
言いながら敦樹は交差点を左に折れて、再びペダルを漕ぎまくる。学校にいる同じ防災団の団員、四方《しほう》佐里には、すでに呼び出しをかけておいた。スピーカーから『りょ、了解』と上擦《うわず》った返事が返ってくる。
その返事から数十秒あって、状況図に射撃シミュレーションがかけられた。北東に固まっていた剛粧を表す標点が、次々と消えていく。しかしどうにも全体の反応が遅いことに、敦樹は首をかしげた。耳を澄《す》ますと周囲の風音に混じって、スピーカーから佐里の上擦ったような息づかいが漏れてくる。
「どうした?」
『今ちょっと、走りながらやってる』
「走る? どこを?」
『学校の廊下と階段っ。ハア。…いま三階』
バタンと大きな音が一つ、通信の向こうで響《ひび》く。どこか狭いところに入ったのだと、呼気の籠《こも》ったような様子《ようす》から知ることができた。
「どうしたんだ?」
『何で国語の時間なんかに、さっそく演習の呼び出しがかかるのよ』
「国語?」
敦樹《あつき》は相変わらずペダルを漕《こ》ぎながら、左腕の男物の腕時計を見た。現在午後二時。しかしそれを知ったところで学校の時間割など憶《おぼ》えていないことに思い当たり、溜《た》め息をつく。まあどうでもいいことだ。
「それで、国語がどうかしたのか?」
『クラス担任の白井《しらい》先生に追いかけられてるんだけど!』
「ああ、白井の授業か」
つまらなそうに返事した直後。『ガツリ』と大きな音がして、佐里《さり》が『ヒッ』と小さな悲鳴を上げた。佐里が逃げ込んだ場所――おそらく掃除具入れかトイレの個室か、あるいは家庭科室の戸棚の中か。どちらにしてもその場所が、女教師白井に発見されたようだった。
『先生、無理です。下の隙間《すきま》からは入れませんって。……ひ、ひゃあ』
「……何をやってるんだか」
溜め息をついた敦樹は一方的に通信を切ると、中央事務所に繋《つな》ぎ直す。
「補正、|−《マイナス》20秒でかけておいて下さい」
『……何だ今のは?』
通信は筒抜けだったらしく、団長・小早川《こばやかわ》が困惑したような声を漏らす。敦樹は数拍迷ったあと、正直に答えた。
「御茶家所《おちゃやしょ》の学校に、妖怪《ようかい》みたいな教師がいるんです」
『妖怪?』
「ええ。それに追いかけられていたらしいです。迷惑をかけてすいません。四方《しほう》には、あとで言っておきますから」
『もしかして、三角|眼鏡《めがね》のモーレツ教師か?』
小早川が担任の白井を知っていたことに、敦樹は少々意外な思いで「そうです」と答えた。
「ご存知なんですか?」
『このあいだうちの事務所に、剛粧《ごうしょう》の防除対策で子供を使うとは何事か! って怒鳴り込んできた』
ペダルを漕ぎながら、敦樹は舌打ちした。そんな反応をしていることに敦樹自身が驚《おどろ》いたが、苛立《いらだ》ちは確《たし》かに胸の中で渦を巻いている。
「……いちいち押しつけがましいったらない。――とにかく、そういう性分の人なんです。こちらにすれば、迷惑な話だ」
『いや……。それはそれで、真面目《まじめ》に検討しなければならないことなんじゃないか? 確かに人手は不足しているし、|樋ノ口《ひのぐち》町の力も認めている。ただ、学生ばかりの防災団になってしまうのが分かってて許可したなんて、俺《おれ》も焼が回ってる』
「小早川《こばやかわ》さん!」
思わず声を荒げて言ってしまったあとで、さすがに敦樹《あつき》は押し黙《だま》った。
「――いえ。すいません。次の地点に急ぎます」
3
午後四時きっかりに予備訓練は終了し、敦樹は一旦《いったん》、|樋ノ口《ひのぐち》町の事務所に戻ってきた。
こちらに接近しつつある剛粧《ごうしょう》の大群は、ちょうど先頭が奈良《なら》盆地に入ったところだ。防除対策地域に到着するのは午後十時と予報されており、それまで各自、食事を取るなり仮眠を取るなりする時間が与えられていた。
現在、敦樹たちが事務所に使っているのは、かつて中学校だった建物の一階部分である。教室だった部屋の一つに畳を持ち込み、そこで寝泊まりしている。敦樹自身はもちろん、他《ほか》の二人の団員――文彦《ふみひこ》と佐里《さり》も親がいないので、半分学生|寮《りょう》のようなものだった。
樋ノ口町は本来、剛粧対策においてそれほど重要な場所ではない。以前はこの辺りに来る剛粧は伊丹《いたみ》に侵入した剛粧と同じく、まとめて宝塚《たからづか》まで誘導《ゆうどう》し、そこで迎撃《げいげき》していた。地域団長の小早川は身寄りのない敦樹たちの職住《しょくじゅう》を保障するため、――そして次世代防災団員の育成ぐらいのつもりで、ここを任せてくれたようだった。
もちろん、昼からの予備訓練のように全体が相当の苦戦中である時には、敦樹たちにもそれなりの負担は回ってくる。しかしあそこまでの状況というのは、まずない。現在のところ、敦樹たちの防災団業務はうまくいっていた。
ともあれ、こうして敦樹たちはここに住むようになった。正直に言って三人の団員だけで暮らすには、この校舎は少々広すぎる嫌いはある。だが運動場と運動用具一式が揃《そろ》っているのはありがたい。難点《なんてん》があるとすれば難侵入《カタラ》地域境界線の外にある学校まで、毎日片道数km[#「km」は縦中横]を往復せねばならないことぐらいだ。しかしこれも西日本では珍しいことではないし、慣《な》れればどうということはなかった。
だが今日に限っては、学校から帰宅した佐里はフラフラだった。ちゃぶ台の前で冷えた麦茶を飲んでいた敦樹には目もくれず、制服のままズルズルペタリと畳に倒れ込む。
「……なんだか、憔悴《しょうすい》しきっているな」
クラスメイトたちの間では『清楚《せいそ》』ということで通っている佐里のみっともない格好に、タンクトップ姿の敦樹は頬杖《ほおづえ》をついて言う。
「佐里、スカート」
芋虫のようにうつぶせになっていた佐里が、無言のまま顔だけ上げて敦樹の方を見た。
「――後ろめくれてる。パンツ見えかけ」
「……うううう〜ぅ」
佐里《さり》は半べそのような表情を浮かべると、じたばたともがいてスカートの裾《すそ》を直す。敦樹《あつき》は麦茶の瓶とコップを持って立ち上がると、「制服がシワになる」とだけ言った。だだっ広い部屋の片隅に置かれている冷蔵庫《れいぞうこ》に麦茶の瓶をしまい、廊下にある水道場でコップを洗う。
その背後で佐里が、愚痴《ぐち》っぽい声を上げた。
「学校で酷《ひど》い目にあって、そのあとやっぱり元学校の事務所に帰ってきて、しかも夜からは仕事があるなんて。もう酷スギル! ……今日からグレる」
「高校デビューというやつか」
蛇口《じゃぐち》を締《し》め、コップの水を切る。
「――お祝いがてら、白マスクとチェーンを探しておこう」
部屋に戻ってきた敦樹が軽口で答えると、佐里は非常に嫌《いや》そうな表情を浮かべた。同時に敦樹は、予備訓練の時のことを注意すると小早川《こばやかわ》に言った件を思い出した。しかし。
――まあいいか、とすぐに思う。剛粧《ごうしょう》対策の本番中に、佐里が午後の演習の時のような中途半端をしないことは、この一年の付き合いで敦樹が一番良く知っていた。同じことはもう。一人の防災団員、春瀬《はるせ》文彦《ふみひこ》にも言える。それは例えば地域団長である小早川が、結果的に敦樹たち学生だけの|樋ノ口《ひのぐち》町防災団を容認し、信頼してくれているのと同じことである。
加えて。
[#挿絵(img/basileis1_042.jpg)入る]
同じ防災団の佐里《さり》や文彦《ふみひこ》、そして他《ほか》のみんなが送る普通の高校生らしい生活。それを守ることが、敦樹《あつき》自身の戦う理由でもあった。それはかつて、彼女が大事な仲間たちから奪ってしまった未来でもあったからだ。
「――それで、何があったんだ?」
「白井《しらい》先生に学校中追いかけ回されたあと、職員室《しょくいんしつ》で椅子《いす》に正座させられて、二時間お説教食らった〜」
「白井に?でもあれから二時間って――。授業は?」
佐里はうつぶせのまま肩を竦《すく》めるという器用な仕草《しぐさ》。敦樹は顔を顰《しか》めた。
「本末転倒じゃないか……。まあともあれ、ご愁傷《しゅうしょう》様」
「他人事《ひとごと》じゃないかもよぅ」
「どういうこと?」
「秘密なのです」
答えて佐里は小さく笑う。だが敦樹の方は『どちらにしろ次に学校へ行けば分かることだ』と考え、追求を止《や》めた。いい話のわけがないし、いちいち訊《き》かなくても容易に想像はつく類《たぐい》のことではある。
一方、佐里は敦樹が構ってくれないことが不満なのか、拗《す》ねたような表情を浮かべる。
その反応を取《と》り敢《あ》えず無視して、敦樹はちゃぶ台の上に置いた自分のゴーグルを掴《つか》むと、再び廊下へと向かった。
「どこ行くの?」
声を背に敦樹はつっかけをはくと、廊下の窓越しに佐里を振り向いた。
「ちょっと運動してくる。午後の訓練じゃ、足ばかり動かしてたから。――かえって体の方は鈍ってる感じがして、どうも落ち着かない」
「ええ、仮眠取っとかなくていいの? 二十二時から開始の『対策』なら、今夜は間違いなく徹夜《てつや》だよ?」
「今は眠くないから。佐里は?」
「私は、――寝る」
そのまま畳に突っ伏す。
「時間になったら起こして」
「服着替えて、布団しいた方がいい。風邪《かぜ》を引く」
「う〜」
のろのろと立ち上がった佐里は、頷《うなず》く。その動作に重なるように、呼び出しの電子音が鳴った。三度目の呼び出し音で敦樹はゴーグルの接触スイッチに触れ、手に握ったまま答える。
「|樋ノ口《ひのぐち》・防災です」
『六湛寺《ろくたんじ》中央・通信室だ』
聞き慣《な》れた通信室|職員《しょくいん》の声が返る。
『いま動けるか?』
「どうしたんですか?」
『六甲《ろっこう》の|生体レーダーサイト《AVR》が、さっきから身元を特定できない影《かげ》を拾っている。そちらに向かっているので、対処してもらいたい』
「剛粧《ごうしょう》のはぐれですか? ――それにしたって来るのが早すぎる」
『ああ、違う』
慌《あわ》てて言って、スピーカーの向こうの職員は誤解を招くような言い方をして済まないとわざわざ謝《あやま》った。
「そうじゃないんだ。人間側の遭難者《そうなんしゃ》だ。誰《だれ》かが難侵入《カタラ》地域の境界線を越えた。おそらく子供だろう。――そちらの事務所からが一番近い、保護《ほご》してくれ」
「分かりました」
答えて敦樹は通信を切った。境界線と言っても標識が設置されている程度で、鉄条網やバリケードがあるわけではない。範囲《はんい》が広すぎて、その手のものはとても作っていられないのだ。
二十五年前の『大降下』以来、迂闊《うかつ》に近づくべきでない場所は山のように増えた。それをいちいち柵《さく》で囲む余裕などない。一人ひとりが知識《ちしき》で自衛《じえい》するしかないのだ。しかし毎年夏になると川での水難事故が報じられるように、危険を見極め損なう人間というのは出てくる。こういうことは時々あるし、それに対処するのも防災団の仕事だった。
「ちょっと行ってくる」
振り向いて言うと、なぜか佐里《さり》は急いで廊下に出てくる。その顔の青さに敦樹《あつき》は驚《おどろ》く。
「私も行く」
佐里の申し出を不可解に思いながらも、敦樹はすぐに頷《うなず》いた。緊急《きんきゅう》の事態で、あまりくどくど訊《き》いている暇もない。
二人は校舎の玄関に向かい、そこから小走りでグランドを横切った。
「国道の方?」
敦樹の問いに、対象者の情報を再確認していた佐里が頷く。
二人は校門を抜け、広い国道跡に出た。この道路は完全な直線がずっと続くので、道の真ん中に出ればかなりの距離《きょり》が見通せる。実際、すぐに問題の遭難者を発見できた。
まだ背格好くらいしか見えないが、その足取りがフラフラしていることは分かる。泥酔《でいすい》者が歩いている時の様子《ようす》、というのが一番近いだろう。本人にはもう、自分が歩いているのかどうかすら、判断できなくなっているはずだ。放っておけば、そのまま餓死《がし》するまで難侵入《カタラ》地域の奥へ奥へと向かって歩き続ける。耐性を持たない者が境界を越えた時に見せる、典型的な症状だった。
「白井《しらい》先生、しっかりして下さい!」
敦樹《あつき》の横で突然、佐里《さり》が叫んだ。そのまま道を、人影《ひとかげ》に向かって走っていく。
「え、白井《しらい》?」
驚《おどろ》いたように敦樹が問い返すと、立ち止まった佐里は振り向いて頷《うなず》いた。
「白井先生なのよ。敦樹が学校来ないから、家庭訪問するって言ってて。私、てっきり冗談《じょうだん》だと……」
敦樹はその言葉に、すぐに反応することができなかった。ようやく一言。
「白井が家庭訪問?」
4
「それじゃ、行ってくる」
三輪《さんりん》自転車に腰掛け、敦樹は言った。心配そうな表情の佐里が頷く。三輪自転車の後部にある大きな荷台には、当て身で気を失わせた女教師・白井が載っていた。少々手荒かとも思ったのだが、相手が大人《おとな》でしかも暴れるというのでは、こうする以外に対処のしようがない。
「二時間ほどで帰るから、その間に何かあったらよろしく」
「うん、分かった」
そう答えた佐里の顔には、いつの間にか心配と同時に何かを期待するような表情がある。敦樹にしてみれば不可解を二重塗りしたような気分で、道の向こうへ視線を逸《そ》らし呟《つぶや》いた。
「……何なんだか、全く。おまけにこのタイミングで仕事が増えるっていうのは」
「でも先生、本当に来てくれたんだよ?」
「白井の事情を押しつけられても困る」
「それは学校に顔を出さない敦樹も、一緒だよ」
なぜか怒ったように、佐里が言った。
口調《くちょう》は静かだから諫《いさ》めるつもりで言っているのだろうが、敦樹は自分が何を言われているのか分からなかった。不思議《ふしぎ》な顔をするしかない。
「……まあ、いい。とにかく行ってくる」
無表情のまま、敦樹は三輪自転車のペダルに足をかけた。後ろから佐里が「行ってらっしゃい」と見送る。
夕方に差しかかった無人の町で、敦樹は必死にペダルを漕《こ》ぐ。南西へと向かって伸びる国道跡は十分に広く、基本的には平坦な道が続く。面倒《めんどう》なのは整備不足でガタガタになったアスファルトの段差ぐらいのものだ。ただし道には途中、鉄道跡を越えるための大きな陸橋がある。
二人分の体重のせいで、そこだけは敦樹にとっても随分しんどい道になった。
「あれ、敦樹ちゃん?」
息を切らして辿《たど》り着いた陸橋の頂上で、バット入れを背負った学ラン姿、春瀬《はるせ》文彦《ふみひこ》とバッタリと出くわす。敦樹《あつき》が止まると文彦《ふみひこ》は三輪《さんりん》自転車の後ろ、荷台に載せられている白井《しらい》の方へと向かった。
「うわぁ白井先生、本当に来ちゃったんだ……。これから甲山《かぶとやま》に埋めに行くの?」
「死んでない」
苦い表情で敦樹は答えた。
「こういうのは学校にいる文彦が、止めてくれないと。――それで、部活帰り?」
文彦は敦樹の目がバット入れを見ていることに気がついて「ああ、うん」と頷《うなず》いた。
「試合が近いんだ。もちろん敦樹ちゃんの言いたいことは分かるよ。でも放課後《ほうかご》に、一時間だけだから」
「って言っても、さすがに当日だからな。……今夜中は芦屋《あしや》よりこっちは避難《ひなん》命令が出てるんだし。他《ほか》の連中も何をやっているんだか」
「野球部にとっては大事な時期だからさ。――そんなにまずかったかな?」
申し訳なさそうに言う文彦の様子《ようす》を見ながら、敦樹は三輪自転車のハンドルに肘《ひじ》をつく。
「……昼からやった予備訓練は全部、文彦の端末にまとめといた。役に立つかは微妙だが、帰ったら一通り目を通しておいてくれ」
「うん分かった。ありがとう」
「あと、さすがにこういう日ぐらいは早く帰ってきてもらわないと困る。――私は先生を送ってくるから、今夜必要な準備を佐里《さり》と一緒《いっしょ》に進めておくこと」
「分かったよ。今度から気をつける。行ってらっしゃい」
フニャリと笑って軽く手を挙げると、文彦はいつもの日記帳を取り出した。胸ポケットに差したペンで今の出来事を書き込んでいるらしい。
「帰り道、白井先生を載せた敦樹ちゃんに遭遇。お・こ・ら・れ・る、と」
敦樹はその呑気《のんき》な様子《ようす》に軽く息をつくと、再び三輪自転車を漕《こ》ぎ始めた。少し行くと陸橋の下り坂が始まり、自転車は漕がなくても自然に先に進むようになる。
徐々に上がるスピードのため、車輪が路面のひび割れを踏む度《たび》にガタガタと揺れた。荷台の白井にはかなりダイレクトな振動が伝わっているようにも思うが、敦樹としてもできる範囲《はんい》で避《さ》けるようにハンドルを操作《そうさ》しているのだから、我慢してもらう。
敦樹の目指す境界線は、もうすぐそこだった。用水路のような小さな川を少し行ったところから道路表面に赤い塗装がなされ、それが50[#「50」は縦中横]mほど続いている。頭上には道路|標識《ひょうしき》型の厳重《げんじゅう》な注意書きが設置されていた。
それを見ながら、敦樹は思う。
――こういった場所が紀伊《さい》半島から日本海までのあらゆる路地にあって、なおかつそれでも入ってきてしまう大人《おとな》がいるのだから、その労力は報われない。
標識の下を進みながら、敦樹は改めて溜《た》め息をついた。そしてその目が、夕日に照らされた道路の向こうに広がる白いもやのようなものを見つける。吹き上げられた土埃《つちぼこり》の壁《かべ》がその正体で、ゆっくりとこちらへ近づいてくるのだ。
空気の雪崩《なだれ》だった。
敦樹《あつき》は舌打ちすると、急いで首にかけたゴーグルを着ける。直後、圧倒的な強風に、敦樹の三輪《さんりん》自転車は30[#「30」は縦中横]cm[#「cm」は縦中横]ほど宙に浮いた。何とかひっくり返らないよう、空中でバランスを取り続ける。露出《ろしゅつ》した頬《ほお》や腕を、砂のような小さな粒が激《はげ》しく打つ。
道路|脇《わき》の屋根の向こうから巨大な翼《つばさ》を持った剛粧《ごうしょう》がその姿を現し、凄《すご》い速度で東の空へと向けて滑空していった。翼を広げた大きさが1km[#「km」は縦中横]に届くか届かないかという巨大さだから、それはもう鳥だとかどうとかという話ではない。それがこの付近の地表近くまで下りてきて羽ばたき、今の強風が起こったのだ。
どうにか無事地面に着地できた敦樹は、息をついた。今ごろになってスピーカーからは警報《けいほう》音が鳴り、インターフェイスを兼ねるゴーグル内に緊急《きんきゅう》の文字情報が映し出される。六甲《ろっこう》のレーダーは少し前から捕らえていたはずだが、一匹の剛粧がどこでどういう行動に出るかなど、予測しきれる人間はいない。
ゴーグルを下ろすと、敦樹は恨みの籠《こも》った視線で背後の空を振り返った。無自覚な加害者――ペリカンを不細工にしたような鳥型巨大剛粧は、悠々と飛び去っていく。
「大きいわね……」
気の抜けたような声が上がり、敦樹は視線を下ろした。背後の荷台にいた白井《しらい》が意識《いしき》を取り戻し、座ったままぼんやりと空の剛粧を見上げている。まだまともに歩ける様子《ようす》ではないので、敦樹はそのまま前を向くと、再びペダルを漕《こ》ぎ始めた。
「――卵殻《ケリュフォス》をつけたまま空を飛べるんですから、大きいに決まっています。塔《メテクシス》の力で『降下』してきた生物は、例外なく体全体を同じ厚さの卵殻《ケリュフォス》で覆《おお》われている。鳥類系はその影響《えいきょう》をもろに受けて、小さいものは飛べないまま死んでしまいます」
「アラ、詳しいのね」
白井はようやく調子が戻ってきたのか、ちょっと嫌味《いやみ》っぽく言った。
ただ敦樹は、先ほどの強風で白井の引っ詰め髪がキューピーちゃんのようになっているのを見てしまったので、どうにも腹を立てるという方向に感情が進まない。そのまま続ける。
「――空の剛粧はあの大きさだから、人の脅威《きょうい》にはならずに済んでいます。近くにどんぶり飯があるのに、地面の米粒を拾う必要はないのと一緒で、人間には興味《きょうみ》がないんですよ。あれは、今こちらへ近づいている剛粧の群に向かって飛んでいます。でもあんなのが剛粧の群を目がけて集まってくる以上、とばっちりを食らう可能性はあって、だから避難《ひなん》の勧告も出ている」
「なるほど。で、その程度のことも私が知らないと?」
「そうですね。教師なら耐性者以外が境界線を越えたらどうなるか、誰《だれ》よりも正しく知っているはずだ」
うまく嫌味《いやみ》っぽく返せたかな、と、敦樹《あつき》は教師|白井《しらい》の反応を待つ。しかし背後から降ってきた言葉は、敦樹の期待とは全く逆のものだった。
「そうです川中島《かわなかじま》敦樹! このままだと出席日数が足りなくて進級できませんよ!!」
頭の左右をガッチリ掴《つか》まれ、授業中と同じキンキン声で言われる。
――何で薮蛇《やぶへび》ってことになるんだ。
敦樹は顔を顰《しか》め、溜《た》め息をついた。
「……ですから先生。剛粧《ごうしょう》の防除対策は全《すべ》てに優先《ゆうせん》されるべきじゃないんですか? 人間の生存圏が脅《おびや》かされてるんですよ? 明日には神戸《こうべ》までの土地を放棄しなきゃならなくなるかもしれないっていうのに――」
「それは大人《おとな》に任せればいいのです。学生は勉強なさい」
白井はキッパリと言う。それだけ元気があるのなら下りてほしいなあ、などと思うのだが、どうにも言い出せない。
代わりに敦樹は、前から思っていたことを訊《き》いてみた。
「ずっと気になってたんですが、先生はなぜ、こんな辺境の学校に来たんです?
先生の価値観は別にいい。そんなものはそれぞれの勝手だと思います。けど、予定通りの授業をしたいなら、神戸《こうべ》や広島《ひろしま》の学校に行けばいいじゃないですか。こんなトコに来れば私みたいなのがいて、余計な苦労をするのは目に見えている」
「あなたが四方《しほう》佐里《さり》や春瀬《はるせ》文彦《ふみひこ》を学校によこしている理由と、それほどは変わらないつもりですが?」
「それは、また……」
苦笑いで敦樹は返したが、どうやら白井は真剣に言っているようだった。
「――確《たし》かに剛粧対策という職《しょく》に就けば、親のいないあなたたちでも衣食住を確保できる。でも働き口は他《ほか》にもあるでしょう。あなたの歳《とし》でそこまでしなければならない事情を一度、二人だけでしっかりと話したくて今日は来ました」
「今日じゃなきゃ駄目《だめ》ですか?」
「その手の言い訳で逃げるのが何度目か、憶《おぼ》えていますか川中島敦樹? 私はあなたが退学届けを出すまで、待つつもりはありませんよ!」
――お見通しか。
敦樹は息をついた。実は白井を町まで送るついでに、学校を辞めるという話をしようと思っていたのだ。少なくとも高校は、西日本においても義務教育ではない。
それに今日のことを考えると、小規模とはいえ防災団を束ねる立場の敦樹には、あまり学生として在籍《ざいせき》している意味がないとも感じる。両立できていない。
授業料も、安いとはいえ無料ではないし、何より中途半端なままだから、かえって周囲に心配もかける。
ただ、これまでの敦樹《あつき》の行動が白井《しらい》の『境界線越え』という愚拳を招いたのだとすれば、責任の一端を感じないわけにはいかなかった。後ろの荷台で怒ったように喋《しゃべ》る女教師はすでに五十近い歳《とし》で、無理をしているのは確《たし》かだ。敦樹には説明の義務がある。
とっかかりを探すように、敦樹はしばし考えながら口を開いた。
「――先生。私が一年前まで『東』にいたというの、話したことありましたか?」
「ありません。なかなか珍しい経歴ですね」
白井は答えた。
日本列島の東西での行き来は、空や海や地に溢《あふ》れた剛粧《ごうしょう》によって事実上、断たれていた。唯一、日本海沿岸を船舶|輸送《ゆそう》するルートが存在することになっているが、これも剛粧に船を沈められる事故があとを絶《た》たず、失敗することが多い。交易に関しては東日本ならロシアと、西日本なら韓国《かんこく》と行《おこな》った方がまだ安全なのである。それぐらい、列島東西間での移動は難《むずか》しかった。
加えて敦樹は、政治的な理由から自分の経歴をあまり大っぴらには語れないという事情があった。語ることを厳《きび》しく禁じられているわけではない。しかし社会的混乱を引き起こしかねないいくつかの真実を、敦樹は掴《つか》んでいた。そして自重《じちょう》しなければならないことも、十分に理解している。
だから出身地などを訊《き》かれても、誤魔化《ごまか》すようにしてきた。敦樹自身が秘密にしてきたのだから、クラス担任である白井が知らないというのは不思議《ふしぎ》ではない。
女教師は考え込むように、言う。
「あなたが一年前に、というなら――十五歳の時ですか。その歳で東から西へ来たというのは、確かに……非常に珍しいと思います。それで?」
「私は十二で軍に入ったんです。そして訓練期間が明けると、そのまま特別な隊に選抜されました。高度虚物質技術《デイノス》なんか一つも持たない、ものすごく貧相な装備で、塔《メテクシス》を目指したんです。お偉いさんはみんな車に乗るのに、私たちは徒歩でその作戦を遂行することになりました。他《ほか》の隊員も子供ばかりだったんです」
思いもよらぬ話だったらしく、白井はしばらく荷台の上で押し黙《だま》ったあと、ようやく口を開いた。
「……福島《ふくしま》政府がそういうことをやらせているというのは、聞いたことがあります。ただ、情報は歪《ゆが》んだ形で入ってくるし、西の共同体群は東からの政治放送を無視することも多い。私とあなたの認識《にんしき》が一致しているとは限りませんが。――酷《ひど》い話ですね」
「まあそうです。だから、仲間が最後の十二人になった時、彼らは西《ここ》へ逃げようと言い出したんです。なのに私だけが反対して、その直後に剛粧と戦闘《せんとう》になった」
かいつまんで話しながら、JR神戸《こうべ》線の高架前で敦樹は三輪《さんりん》自転車を止めた。ここまで来れば、周囲に人もいるし電車もある。すでに商店は閉まっていて住民も避難《ひなん》してしまったようだった。しかし代わりに、境界線の外で剛粧《ごうしょう》を迎え撃《う》つ、『耐性者』以外で構成された防災団がこの周辺での展開準備を始めている。
もっとも、話は終わっておらず、白井《しらい》はまだ下りようとしない。敦樹《あつき》はそのまま続けた。
「……何の因果だったのか、その戦闘《せんとう》で、です。仲間は全員死にました。そして西へは行かないと言った私だけが一人、ここにいる。――だから私は、佐里《さり》や文彦《ふみひこ》を守るために戦えれば、それでいいんです」
「その行動に、何か意味があると思っているのですか?」
白井が厳《きび》しく言う。その質問は随分と容赦のないものだと感じたが、敦樹は頷《うなず》いた。
「無意味なのは分かっています。佐里たちは死んだ仲間の代わりじゃない」
「いいえ、分かっていません。そもそも自分が無意味だとかバカだとか宣言してはばからない人間は、過去を活《い》かそうとしない。そして、そうやって知性と思考を伴わない戦いを始めようとする人間が結局、国を滅ぼし仲間を殺す」
敦樹はこれまで、どこか淡々とした気分でいた。しかし白井の最後の一言に、突然血が沸騰《ふっとう》するような怒りを感じた。
「私は信じてたんだ!」
感情を顕《あら》わにして、敦樹は叫んだ。それは白井に言われる筋合いのことではないと思った。
「馬鹿《ばか》みたいに敵に突っ込んで、仲間を殺したんじゃない。私は塔《メテクシス》を調査すれば、この世界を元に戻す糸口が見つかると信じていたんだ。だから軍にも入った。どれほどの苦難《くなん》があったとしてもこれは確《たし》かに世界を救うための一つのチャンスで、そのために私は前に進もうと思った。誰《だれ》もがそうなのだと、思い続けていたんだ!」
叩《たた》きつけるように言って、敦樹はきつく目を閉じた。
「……けれど仲間はみんな死んで私だけが実際に塔《メテクシス》に辿《たど》り着いて、その真実を見て。ようやくそれは見当違いだと分かった。そして福島《ふくしま》政府は、塔《メテクシス》を調査しても意味なんかないっていうことを、最初から知っていたはずなんだ。仲間は本当に、犬死以下の理由で死んだんだと、ようやく気がついた」
三輪《さんりん》自転車で止まっている奇妙な二人組を、周囲の人間は遠巻きに眺めながら通り過ぎていく。白井はしばらく考えたあと、敦樹に言った。
「……あなたが喋《しゃべ》らずにいるのだから、塔《メテクシス》で何を見たのかは訊《き》かない方が良さそうですね。しかしあなたの言う通りなら、福島政府はなぜ調査団など派遣しているのです?」
「――政府は無闇《むやみ》に難侵入《カタラ》地域に軍を侵入させています。勝利を宣伝したがるんです。特に東京奪回は悲願ですから、支持率だって跳ね上がる。けれどそういった福島政府の無闇なやり方――失策のせいで、東日本は剛粧に勝てなくなり始めているんです。すでに新潟《にいがた》や北関東の戦線は崩壊《ほうかい》しかかっているのが現状です。
けれどその責任を追及されたくない政府は、市民の目を逸《そ》らすための手段として特殊|観測隊《かんそくたい》を使った。『川中島《かわなかじま》は人類のために戦って死んだのに、お前は文句を言うだけか?』と言われて、反論できる人間がいますか? ――綺麗《きれい》に宣伝された『死』は、市民の批判を麻痺《まひ》させる。死んでほしいのだから、装備だってろくなものをよこさない。なのに関係ないと思っていた。私なら塔《メテクシス》まで辿《たど》り着けると思っていた。そして結局、仲間ばかりが全員――」
苦悶《くもん》を押し潰《つぶ》したような声が、漏れる。
「私は、償《つぐな》わなければならない。そして、私たちにそういうことをさせた人間を、絶対に許さない」
何度目かの沈黙《ちんもく》。やがて白井《しらい》は息をついた。ようやく荷台を下り、敦樹《あつき》の正面に立って身を乗り出す。
「……私は若いころね、支援のためにボランティアで海外へ行ったことがあるの。ボスニアが最初で、ブルンジ、アンゴラ。――大体は食料を配るだけなのだけど、あちこちの紛争地域を回ったわ」
敦樹はわずかに、顔を上げた。
「外国ですか? ――『大降下』前の話ですよね。それが?」
「あなたみたいな子は、どこにもたくさんいたわ」
敦樹は口を喋《つぐ》んだ。白井は続ける。
「みんな純朴なのだけれど、それぞれの正義を教え込まれ、そして裏切られる。けれど現在の状況を自分で見抜く方法も知識《ちしき》も持っていないものだから、ますます泥沼に嵌《はま》る」
「……状況を自分で見抜く方法?」
「あなたはこの世界全体が閉塞《へいそく》していると、ただひたすら滅びに向かっていると、そう感じているのでしょう? だから隠棲者《いんせいしゃ》のように生きようという発想が出てきたりもする」
――見透《みす》かされている。
敦樹はそう思った。罪を償《つぐな》うなどというのも、また都合のいい言い訳だ。
……本当は、倦《う》んでいたのだ。この出口の見えない世界で自分が何をするべきなのか、敦樹はそれが分からなくなった。そんな無力感の最たるものを、敦樹は塔《メテクシス》まで行き、そして知った。
「けれどもそれは、違うのよ」
白井は確《かく》と、宣言する。
「人が越えていかなければならない時代というものがあったとして、背をかがめてやり過ごすのか、それとも胸を張って立ち向かうのか。――それが全く違うことは、あなたにも分かるはずです。我々はまだ戦える」
「……戦う?」
「そう。私たちは固く守りに入りながら、じっと次の機会《きかい》を窺《うかが》っている。そういう中では全員が、全《すべ》ての物事に対して、オフェンシブでなければならない。だからあなたは、ここを福島《ふくしま》政府のような連中の好きにはさせないために、大いに学びなさい」
小さく笑うと、白井《しらい》は踵《きびす》を返した。
「学校へいらっしゃい、川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》。昼に来ることができない日は、夜来ればいい。深夜であろうと、早朝であろうと、生徒が学校にいるのなら私は教師をしましょう」
5
「で、敦樹ちゃんの方は先生にどう答えたの?」
土手に寝ころんだ文彦《ふみひこ》は、星空を見上げたままそう訊《き》いた。
敦樹が戻ってきたのは一時間前。その後、|樋ノ口《ひのぐち》町防災団の三人は中央事務所から全防災団に支給された弁当を待機《たいき》場所であるここで食べ終え、次の指示を待っているところだった。
服装はすでに全員、青みがかった灰色の対策服に着替えている。ズボンにある大きなポケットばかりが目立つ、無地の服だ。砲課《ほうか》の佐里《さり》だけはその上からさらに、革製のジャンパーを羽織《はお》っていた。
夜の秋風が涼しい。まだ今は虫の鳴く声だけが響《ひび》く、静かな夜である。
敦樹たちがいる川の西岸は、河川道《かせんどう》に沿って等間隔で街灯がともっていた。一方、三人の目の前に広がる東岸の風景は、ただひたすら暗闇《くらやみ》に浮かぶ廃墟《はいきょ》の影《かげ》ばかりである。その中に一本だけ、地上から輝《かがや》く光の線が、天に向かって伸びていた。塔《メテクシス》の姿は250km[#「km」は縦中横]ほどの彼方《かなた》にありながら、空気さえ澄《す》んでいれば難《なん》なく見つけることができる。敦樹はそれをぼんやりと見上げ、考え事をするかのように押し黙《だま》っていた。
「聞いてる、敦樹ちゃん?」
情けない声で文彦が再び問う。隣《となり》にいる敦樹はようやく「――ああ」と答えた。
「特に何も答えなかった。白井の方は、さっさと駅に行ってしまったし」
文彦は「ふむ〜」と唸《うな》る。
「でも敦樹ちゃん、学校辞めるつもりだったんだ。僕もそれは反対だなあ。うん」
「他人事《ひとごと》じゃないけど、ね」
敦樹を挟んで文彦の反対側に座っている佐里が、そう言った。
「私たちがもっとしっかりして、敦樹の負担を減らさないと」
「いや……」
敦樹は首を振る。
「それは私の都合で、そういうのは押しつけがましいんじゃないのかってのも、白井は言ってたんだと思う。まあ私はそれでも、防災団をしていたい理由がある。別れ際、勉強しろとは言われたけど、防災団を辞めろとは言われなかった。――結局白井は、譲歩《じょうほ》してくれたんだと思う」
「それで、先生と話してみてどうだった?」
隣《となり》から顔を覗《のぞ》き込んできた佐里《さり》に、しばらく考え込んで敦樹《あつき》は口を開く。
「白井《しらい》は無茶苦茶《むちゃくちゃ》だし、意味不明に強引だ。でも私に説教をする、口先だけではない大人《おとな》で、それは結構大切なことなんだと思う。話せてちょっとすっきりした。それは確かかな」
「思い詰めた顔、してたもんねえ」
「そう?」
佐里は腕を組んでうんうんと頷《うなず》く。文彦《ふみひこ》だけが一人「?」といった表情を浮かべ、会話から置いていかれている。
「ねえ、何の話?」
振り向いた敦樹は首をひねり、文彦の質問にどう答えたものかと再び考え込む。――そして結果的には、答えないまま終わってしまった。南の空から長く唸《うな》るようなサイレンが複数同時に響《ひび》いたのだ。直後、三人それぞれの通信端末――首にかけたゴーグルや眼鏡《めがね》が電子音を立てる。スピーカーからは地域団長・小早川《こばやかわ》のダミ声。
『剛粧《ごうしょう》先頭集団が、大阪《おおさか》南部|警戒《けいかい》ラインを越えたことが確認された。現時刻より災害|鎮圧《ちんあつ》宣言まで、高度虚物質技術《デイノス》の使用許可が下りる。各防災団は準備』
「|樋ノ口《ひのぐち》、了解です」
佐里が代表して、通信に答えた。砲課《ほうか》である彼女は、対策行動中の通信担当も仕事になる。
「それじゃ、行きましょうか」
促す佐里に、敦樹と文彦は頷いて返し、三人は立ち上がると橋の方へと向かった。彼らはそれぞれ自分の道具をその手に持っていた。敦樹は剣、文彦は長いハンマー、佐里は巨大な鍵《かぎ》のような装置。
橋を渡りきるとまず佐里が、両手で抱えるように持っていた巨大鍵を地面に立てた。もちろん見た目通りのものではなく、広域的な高度虚物質技術《デイノス》の使用を管理する多目的制御棒というのがその正体である。
一方敦樹は、ズボンのポケットから鉛筆大の金属棒を三本取り出し、指の間に挟んで構える。文彦も同じように金属棒を三本取り出した。歩課《ほか》である二人が持つこの金属棒一本一本が、高度虚物質技術《デイノス》装置と対《つい》になる登録《とうろく》起動鍵なのである。
佐里は用意はいいかと確認するように他《ほか》の二人に目配せすると、地面に立てた巨大鍵に右の掌《てのひら》を当てた。指に沿って光が走り、使用者の個人|認識《にんしき》が行われる。
「発令! 現時刻より樋ノ口町防災団は、防除対策指定地域において剛粧との交戦を開始する。デイノス発動位置の検認と、登録起動鍵の解放を要請《ようせい》!!」
佐里の声と共に、敦樹と文彦が手に持った金属棒の二ヵ所で亀裂《きれつ》が生まれ、そこを境に伸びる。伸びたことによって露出《ろしゅつ》した内部構造が緑色の光を放っていることを確認《かくにん》し、敦樹と文彦はそれぞれ、金属棒に対して告げた。
「通達、摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、構造《こうぞう》骨格《こっかく》機講《きこう》、複層《ふくそう》情報《じょうほう》結合《けつごう》の使用要請」
「通達、調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》、可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》、複層情報結合の使用要請」
金属棒はそれぞれの要請を認識《にんしき》する。そして、漏れる光を緑から赤に変え、稼働《かどう》状態に入った。歩課《ほか》である二人が三つずつ持つデイノスは、これでいつでも使用することができる状態になった。
そして最後は、砲課《ほうか》である佐里《さり》が呼ぶ。
「多脚《たきゃく》機動《きどう》砲台《ほうだい》パリカリア、出撃《しゅつげき》!」
佐里の背後で、上下へ通過するかのように一瞬《いっしゅん》の閃光《せんこう》が走った。そして夜の空へ焼き付いたかのような巨大な影《かげ》が空中に残る。
影は数瞬後《すうしゅんご》、地響《じひび》きを立ててアスファルトの上へと降り立った。足を踏み鳴らして着地後のバランスを取る音が、ガツガツと暗闇《くらやみ》の中に響く。
全身を覆《おお》う大げさな鉄板と六本の脚、側面に黒で『|樋ノ口《ひのぐち》‐1』と書かれ、その上部には巨大な砲塔。文彦《ふみひこ》が『大きなカブトムシ』と言ってはばからないこの多脚砲台が、樋ノ口町防災団の要《かなめ》、佐里の力だった。
パリカリアと名づけられたこの多脚砲台は、角度を考慮《こうりょ》せずに取りつけられた装甲板のせいで、敦樹の知る戦車とはだいぶ印象が異なって見える。実のところ、あまり良い設計ではない。
しかし相手が剛粧《ごうしょう》である以上は、これで十分なのである。多脚砲台が接近|格闘《かくとう》で蹴《け》りを食らわすような事態は起こり得た。だが相手から弾が飛んでくる心配はないのだ。装甲設計の優劣《ゆうれつ》は多脚砲台にとって、それほど重要な問題ではない。
「それじゃ、敦樹も文彦君も気をつけてね」
そう言うと佐里は多脚砲台《パリカリア》の後部にある手すりに掴《つか》まり、前進を命じた。川の堤防上を行った先にある新幹線高架へと向かう。
それを見送った敦樹は、無言で鞘《さや》から剣を抜き、動作を確認《かくにん》するために手の中で三転させる。段階的に剣は、その長さを変えた。
現在敦樹が使用するこの『連装刀《れんそうとう》』は、高度虚物質技術《デイノス》の解析によって西日本側で独自に開発された、模造虚物質技術《テクネー》と呼ばれる装置類の一種である。鞘を外すと、柄《つか》の重力方向に対する回転を検出するセンサーにスイッチが入る。それによって柄を半回転するごとに、六種の剣を入れ替えで実物質化できる。
連装刀の動作に問題がないことを確認すると、敦樹は文彦を振り返った。
「余所《よそ》との連携情報、ちゃんと頭に入っているか?」
「大丈夫、一通り見直したし、瞬間的な記憶《きおく》力はバッチリだから」
文彦は三本あった登録《とうろく》起動|鍵《かぎ》のうち一本をハンマーに仕込むと、こめかみを突《つつ》いてそう答えた。
「一夜漬けは得意中の得意だよ」
「一夜漬けって……。自慢げに言われてもな」
少々不安ぼく呟《つぶや》きながら、敦樹《あつき》は金属棒二本を肩のホルダーにしまい、残り一本を襟元《えりもと》に着ける。そして首に吊《つる》したゴーグルをかけると『デイノス=複層《ふくそう》情報《じょうほう》結合《けつごう》』によって、視界は把握不可能なほどの情報で満たされた。その中から不必要なものを、ゴーグルの枠に仕込まれた接触スイッチで一つひとつ消していく。最後には地図と文字情報表示板がそれぞれ一枚ずつだけ残り、その向こうには明るく鮮明《せんめい》な暗視画像が広がった。
「とちらないようにしてくれよ」
『そっちもね』
通信機《つうしんき》を通じて、二人は挨拶《あいさつ》のような軽口を交わす。
『――でもまあ、基本的には佐里《さり》ちゃんの護衛《ごえい》に回ればいいんだし、いつもと一緒でしょう? 楽勝楽勝』
明るい夜の風景の中で、敦樹と同じようにゴーグルを着けた文彦《ふみひこ》が、気楽そうに手を振って答えた。
6
剛粧《ごうしょう》はほぼ四十日周期で、大集団を形成して『外』へとやって来る。
塔《メテクシス》の活性時期に大量に『降下』した陸上性の剛粧たちは、食料を得ることができずに行き場を失う。そして雪崩《なだれ》を打ったように難侵入《カタラ》地域の外、人間たちの世界を目指すのである。
今回近づきつつある剛粧の数は約四千匹。これを全《すべ》て倒すのが、防災団側の目標だった。下手《へた》に逃がすと再襲撃《さいしゅうげき》の可能性がある。しかし散り散りになった剛粧の行動に対処するのは、非常に困難《こんなん》だ。集団で行動しているうちに全力でこれを叩《たた》くのが基本だった。
ただ、全力とはいっても南兵庫《みなみひょうご》の防災団の人員は、全体で千人に満たない。さらにそのうち八百人は耐性者ではなく、難侵入《カタラ》地域の境界線外側に展開している。彼らの存在はあくまで『最後の予防線』である。剛粧が難侵入《カタラ》地区に引き返せば追跡不可能である彼らには、結果的に剛粧を殲滅《せんめつ》する能力がない。
つまり旧|尼崎《あまがさき》市や伊丹《いたみ》市で防除対策を行う『主力』は、耐性者である必要があった。
南兵庫の全戦力が集約されている精鋭《せいえい》ではあるが、その数はわずか二百人足らず。
この根本的な数の差を埋めるにはいくつかの工夫が必要だった。それは「多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》をどれだけ有効に使うか」ということと同義である。可能な限り剛粧を密集させ、そこに集中砲火を食らわせる必要があるのだ。――方法は、それほど込み入ったものではない。
西へと向かう剛粧たちの群は大抵の場合、大阪《おおさか》か、その北部を通過する。そこで各所に剛粧用のバリケードを設置して、側壁《そくへき》の強化された高速道や鉄道跡、幹線道へと誘導《ゆうどう》するのだ。この逃げ道を塞《ふさ》いだ一本道の奥深くまで誘い込んだ集団に、今度は多脚砲台で集中砲火を浴びせるのである。
幸い大阪《おおさか》から神戸《こうべ》へと至る地域は、南北を海と山に挟まれている。そしてその間の狭い平地を、東西方向に平行な幹線道がいくつも走っていた。元からこの作戦は、地形的に適している。
ただ剛粧《ごうしょう》の方も、そうそう人間の思うようには動いてくれない。誘導《ゆうどう》のために築いたバリケードは毎回数ヵ所で突破され、廃墟《はいきょ》の中を出鱈目《でたらめ》な進路でやって来るものが出てくる。
対策開始と共に幹線道上で東に照準を合わせ、ほぼ休みなく射撃を続けなければならない多脚砲台は、側面からの攻撃に脆《もろ》い。そこで誘導に乗せ損なった剛粧は、敦樹《あつき》や文彦《ふみひこ》たちのような歩課《ほか》が各個撃破する。多脚砲台に支援砲撃を要請《ようせい》し共同で作戦にあたることもあるが、これはタイミングの合った時だけだ。
この防災団の基本的な方針を敦樹たち|樋ノ口《ひのぐち》町防災団にあてはめると、こうなる。
まず対策行動の中心になるのは廃線になった山陽《さんよう》新幹線の高架であり、佐里《さり》の多脚砲台《パリカリア》はこの上に陣取っている。誘導されて高架上をやって来た剛粧を延々と狙《ねら》い撃《う》ちにするのが、佐里の仕事だった。
後衛《こうえい》の文彦は高架下で佐里を守り、高架以外をやってきた剛粧を、絶対佐里に近づけないようにすることが任務である。
逆に前衛の敦樹は担当地区を駆け回る。文彦が目的上持ち場を離《はな》れられないのに対して、敦樹は積極的に移動し、地域に散った剛粧をそれぞれ迎撃するのである――。
「国道171号の寺本《てらもと》交差点に四匹・二匹・二匹、の集団が来た。今から向かう」
『りょーかい、敦樹ちゃん』
文彦のお気楽な声がスピーカーから流れる中、敦樹は滑るように道を走っていた。広い道路に障害物の列。人間一人分がやっと通ることのできる隙間《すきま》しかないその間を、次々とすり抜けていく。
敦樹の使う『デイノス』の一つ、『摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』は、虚物質で構築された装置が足下《あしもと》部分に使用者を押し出す力場を発生させ、高速移動を実現する。つま先側と踵《かかと》側で推力の方向が反対なので、足の着き方でスピードを調節できる。
ただこれの使用については二つ重要な点があった。まず一つは、加速時のつま先接地時間と減速時の踵接地時間が完全に同じでないと、理論上、止まることができないこと。もう一つは力場が足下に発生するため、速度に合わせて前傾しないと転《こ》ける。
しかし現在の敦樹のように速度が時速100km[#「km」は縦中横]を超えるとその風圧は凄《すさ》まじく、人間の筋力のみによる姿勢維持は困難《こんなん》だ。これを容易に可能としているのがもう一つの『デイノス』、『構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』の力である。
これは敦樹の体に張りついた、案山子《かかし》の骨のような力場である。完全に動きをトレースし、強靭《きょうじん》な第二の骨格と筋力を、敦樹に与える。
唯一の欠点はあくまで骨でしかないこと、つまり体全体を覆《おお》う鎧《よろい》ではないことだ。防御に使おうとすると、思わぬケガをする。要するにこの構成で取ることのできる戦法は一撃《いちげき》離脱《りだつ》、それのみということだった。
最後のバリケード脇《わき》を抜けると、剛粧《ごうしょう》の白い卵殻《ケリュフォス》が見えた。数は二匹、新種である。首と四肢が長く、体高5mほどある馬のように見える。――が、その首の頂点にある顔が接近する敦樹《あつき》に向けて牙《きば》を剥《む》いた。剛粧に草食はいない。この体型は獲物《えもの》を追うことに特化した典型的な狩猟型と思うべきだった。
「|樋ノ口《ひのぐち》・前衛《ぜんえい》、対策に入る。新種と思われるので、画像を撮《と》りながら実行。佐里《さり》、中継して」
『了解。六湛寺《ろくたんじ》中央に中継。敦樹、今日最初の相手だから気をつけてね』
「分かった」
答えながら、敦樹はゴーグルの接触スイッチに触れた。自分視点の画像を記録《きろく》し送信するように設定すると、二匹の剛粧に突っ込む。
最初に連装刀《れんそうとう》を回転、日本刀サイズだった四号刀が、長さ2mを誇る最大の六号刀・首落《シュラク》刀へと変わる。運動量の保存則により、増大した質量分だけ敦樹の速度は一旦《いったん》落ちた。そこから腰を落として再加速する。
右手は刀の柄《つか》、左手は峰についたハンドルを握ると、肩で押さえ込むように上半身を入れる。そのまま素早く進路を合わせ、警戒《けいかい》の鳴き声を発する剛粧二匹とすれ違う。
[#挿絵(img/basileis1_072.jpg)入る]
敦樹《あつき》の構える大刀は、ほとんど動かなかった。剛粧《ごうしょう》が首を下ろそうとした場所の下を、敦樹は正確に走り抜けた。
二つの塊が落ちて、鈍い音を立てる。わずかに振り返った敦樹の視界に、どす黒い血液を吹き出す二つの体と、それが崩れるように倒れる様が見えた。
「二匹、対策成功。次の集団に移る。記録《きろく》は続行」
『了解』
今度は短い答え。現在高架上で砲撃《ほうげき》を続けている佐里《さり》も、基本的にはあまり余裕のない状況にいる。敦樹はそのまま、立体交差点へと向かった。
剛粧《ごうしょう》の標点を再確認し、陸橋の方には向かわず、地上の細い一方通行を抜ける。しばらく行って開けた視界の先に、次の二匹がいた。それぞれの位置関係から先ほどのようにうまくはいかないと判断した敦樹は、ひとまず右側の一匹に狙《ねら》いを絞った。
相手が気づいた時点で、六号刀を元の四号刀に変換する。重さが50[#「50」は縦中横]kg[#「kg」は縦中横]近く減少したことで、スピードが一気に増した。急激《きゅうげき》な加速で押し潰《つぶ》されそうになりながら、敦樹はすれ違いざまに相手の右膝《みぎひざ》を狙う。連続して前と後ろ、二本の脚が竹を割るように斬《き》れ飛んだ。背後から苦痛の咆吼《ほうこう》が轟《とどろ》き、それがかすれるように小さくなる。
あの程度では確実なとどめにならないが、今はまず移動力を奪えればそれで良い。半身をひねるとバックスケーティングの姿勢で制動をかけ、敦樹はもう一匹の動きを見守る。
残された一匹は、敦樹という脅威《きょうい》を正確に認識《にんしき》したようだった。突然、ホウホウホウホウと奇妙な声で遠吠《とおぼ》えのように鳴く。それを聞きつけて、陸橋の反対側にいたはずの同型剛粧が四匹、駆けつけてきた。しかもそのまま敦樹に向かって突進してくる。
――コイツ、群のボスか。
運の悪さに舌打ちして、敦樹は方向を転換。逃走に移った。
だが新種剛粧の脚は速い。敦樹は対決することのできる場所を急いで探し、追いつかれる前に住宅地跡に逃げ込んだ。速度を落として狭い路地へと入る。
「摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、一時切断」
肩のホルダーに差した金属棒に、そう告げる。足下《あしもと》から浮遊感が消え、敦樹は地面の上へ降り立った。住宅地をさらに進むと廃屋《はいおく》の玄関に身を隠し、ズボンの大きなポケットから手榴弾《しゅりゅうだん》を一つ取り出す。閃光《せんこう》を出すだけのものだ。
いま隠れている場所の一区画向こう。随分と近くに剛粧の足音と鼻息が聞こえる。臭《にお》いを辿《たど》ってすぐそばまでやってきているのが分かった。
敦樹は相手を引きつけるためにゆっくりと五まで数え、閃光手榴弾のピンを抜くと、それを表の通りに向けて投げた。その後すぐにゴーグルの暗視センサーを切り、逆に閃光用のスモーク効果を作動させる。そして光の爆発《ばくはつ》を合図に、自分も表の通りに向かった。
狭い道路で、剛粧は暴れ狂っていた。これまでの暗闇《くらやみ》に適応していた目に、いきなりとんでもない光量が入ってきたのだ。何も見えないのはもちろん、そのもたらす刺激《しげき》と苦痛は想像に難《かた》くない。合計五匹が狭い道を出鱈目《でたらめ》に駆け回っていた。あるものは撤去《てっきょ》されていない電線に首を引っかけ、あるものは周囲の廃屋《はいおく》に突っ込む。
その狂乱の中を、敦樹《あつき》だけが冷静に避《よ》けて通る。自動調節されるゴーグル越しの風景は、先ほどと変わらぬ外の景色を敦樹に見せていた。
合計五匹のうち、最も後方にいたこの群のボスを、まず倒す。続いてよろめきながら近づきつつあった二匹の首を、順に落とした。
徐々に光量を弱めつつある閃光《せんこう》手榴弾《しゅりゅうだん》の向こうで、敵の一匹が敦樹を何とか認識《にんしき》し、頭を低くして突進してくる。敦樹は飛び退《の》いてその突進を避けると、剛粧《ごうしょう》は平屋建ての民家に突っ込んだ。自分で開けた穴に首が嵌《はま》り、身動きが取れないまま宙を掻《か》く左前脚。それを四番刀の一閃目で落とし、二閃目で首を落とす。
残り一匹。敦樹はその姿を探す。しかし相手は三階建ての小さなビルに頭を打ちつけ、すでに絶命していた。首が有り得ない方向へ曲がっていて、黒っぽい泡を吹いている。すでに息をしていない。
剛粧などと仰々しい名前をつけてみても、根本的なところでただの動物と大差はない。こういう事故のような死に方をするものもいるのだ。
敦樹は一つ息をつくと、軽く拝むようにして呟《つぶや》いた。
「まあお互い、恨みっこなしということにしておいてくれ」
感傷ではなく、あくまで職業上《しょくぎょうじょう》の気分から、そんなことを口にする。
その場に背を向けると、敦樹は暗視センサーの設定を元に戻し、通信の回線を開いた。
「こちら|樋ノ口《ひのぐち》・前衛《ぜんえい》。寺本《てらもと》交差点の対策は完了した。次の地点に――」
敦樹の声はしかし、驚愕《きょうがく》によって途中で途切《とぎ》れた。
すぐ上空を、小さな羽ばたきの音がいくつも通り過ぎていく。
急いで防除地域全体の状況を確認する。剛粧であることを示す光点がいくつも、障害物の影響《えいきょう》を全く受けないまま一直線に西へと移動していく。しかもその進行方向は真っ直《す》ぐに、各防災団の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》へと向かっていた。
大型の飛行剛粧は人を襲《おそ》わず、小型の飛行剛粧は卵殻《ケリュフォス》の影響《えいきょう》で飛べない。それが『大降下』以降、二十五年間の常識《じょうしき》である。
対策行動中、空の脅威は意識《いしき》されておらず、その存在は大混乱を招く。
「摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、再接続。――佐里《さり》! 四方《しほう》佐里!! そっちに剛粧が向かっている」
現在23時4分。夜の道を走りながら、敦樹は通信装置の向こうへと叫んだ。
7
新幹線高架上で剛粧《ごうしょう》を待ち伏せる多脚砲台《パリカリア》の主砲は、すでに二十分間、休むことなく強荷電粒子《きょうかでんりゅうし》の射出を繰《く》り返していた。その間、砲台の5m後方に立つ佐里《さり》は地面に突き立てた巨大|鍵《かぎ》に掌《てのひら》を当て、延々と照準を入力し続けている。
いま佐里がいる武庫川《むこがわ》の東岸から、高架上に確保できる直線は約2km[#「km」は縦中横]。この区間で向かってくる剛粧《ごうしょう》を倒さなければならない。脚の速い剛粧ならば、射界に入ってから佐里の位置まで到達するのに一分と少し。その間に撃《う》たなければならないのだ。
砲身が異常加熱しないよう出力を絞り、効果を上げるため正確に狙《ねら》いをつける。そうすることで初めて主砲の連射も可能になる。歩課《ほか》のように身体は使わないが、神経の疲れる仕事だった。おまけに晩秋の空気は、深夜に向かうにつれどんどんと寒さを増している。上着を持ってきて正解だったと、佐里は一人、息をついた。
防災団の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》は、戦車のような外見に反して内部に乗り込むことはできない。というより、元々|操縦者《そうじゅうしゃ》保護《ほご》の観点から、遠隔|操作《そうさ》を行うように作られていた。そのための機能《きのう》も十分に備わっている。
例えば現在、佐里の眼鏡《めがね》に映し出され視界を覆《おお》っている映像は、多脚砲台《パリカリア》の砲塔についたカメラからのものである。少し高い位置からの風景が、手を伸ばして届くほどの奥行きにある仮想スクリーンに結像するように映し出されていた。佐里がこの場所にいなければならない必然性は、現時点ではあまりない。
だがこの一帯の防災団では、多脚砲台を遠方から操作することはまれだった。砲課《ほうか》は全員現場に出てくることが通例となっている。砲台の足場や周辺の状況というのは、機械《きかい》を通した画像や音声だけでは、完全に伝わらない。
加えて遠隔操縦を実施すれば、その操縦者自身をどのように護衛《ごえい》するのか? という問題が発生する。
どこか一ヵ所に砲課|職員《しょくいん》を集中させた場合、そこが攻撃《こうげき》を受けた時点で全《すべ》ての多脚砲台は停止してしまう。そのあとに待つのはこの地域全体の破滅だ。
では分散させればどうかというと、今度は人手が足りない。歩課《ほか》は多脚砲台の護衛で手一杯なのに、さらにその操縦者までもを守らなければならなくなる。
砲課職員は結局、歩課に護衛されたうえ圧倒的火力を持つ多脚砲台のそばにいるのが、最も合理的で安全なのだということになる。
ただそういうことを抜きに、佐里はこのやり方というのが苦手だった。
周囲の空気は剛粧たちの苦悶《くもん》の声で満たされていた。だが対策中は耳を塞《ふさ》ぐこともできない。そして目に映った映像の中では、狭い高架の上を押し合いへし合いやって来る剛粧が、次々と強荷電粒子《きょうかでんりゅうし》に貫かれていく。剛粧《ごうしょう》はその瞬間《しゅんかん》に墨のような黒い血を吹き出しながら、少しだけ焼け焦げた煙を立て、数個の肉塊へと変わる。逃げようと身を翻《ひるがえ》したものは背後から押し寄せる同胞と、左右の補強された厚いコンクリートの壁《かべ》に行く手を阻《はば》まれ、結局は他《ほか》と同じ運命を辿《たど》る。
そんな中、何匹かの剛粧は果敢にも射撃《しゃげき》を避《よ》けながら多脚砲台《パリカリア》に接近しようとする。しかし佐里《さり》は容赦しない。相手につけ込まれれば、自分が真っ先に喰《く》われるのだ。この場所がいくら安全と言っても、それは佐里が正確に多脚砲台《パリカリア》を操《あやつ》ったうえでのことである。自分の倒すべき敵を倒さなければ佐里自身に悲惨な結末がもたらされるだけでなく、他《ほか》の防災団員たちや、ひいては避難《ひなん》した市民たちにも被害を及ぼすことになる。
――いくら凄惨《せいさん》に思えても、佐里がやらなければならないことなのだ。これが生物としての存続を懸《か》けた戦いであることは理解しているし、今の人間側の状況はそれほど甘くはないことを、佐里は十分に分かっていた。
しかし同時に、である。
目の前で肉塊になっていく剛粧の映像を見ながら、こんなことばかりをやって人生を費やしていくというのは本当にしんどいとも、佐里は感じてしまっていた。それは敦樹《あつき》にしたところで、同じに決まっているのだ。こればかりは、決意だとか何とかで、どうにかなる話ではない。
だからこそ外部との接点は、非常に重要であると佐里は思っていた。教師|白井《しらい》が敦樹に会いに来たこと、それで敦樹が考えを変えたことに、佐里は大きな安堵《あんど》を感じていた。
単純だが失敗は許されない作業の合間にそんな考え事をしているところへ、早口の通信が入った。
『四方《しほう》佐里! そっちに剛粧が向かっている』
「うん、援護《えんご》砲撃《ほうげき》ね。ちょっと待って、確認《かくにん》する」
敦樹からの通信に佐里は小声で答えると、視界の中の画面半分を周囲状況図に切り替えた。
だが画面|調整《ちょうせい》の操作《そうさ》をしながら少々|不審《ふしん》に思う。いま佐里が高架上の敵で手一杯なのは、レーダーの情報で分かるはずだ。敦樹らしくない要請《ようせい》タイミング――。
画面に上空から見下ろした周辺地図が浮かび上がった。続いてその上に、剛粧の現在位置を示す標点が重なる。
「これって」
呆然《ぼうぜん》と一人、声を漏らす。
いつの間にか佐里は囲まれていた。慌てていま映している画像を全《すべ》て切り、肉眼に暗視を付加した状態で左右を見回す。敵の姿はない。一時的に自動照準に切り替わった多脚砲台《パリカリア》が、目の前で連続して砲撃する音が響《ひび》くばかりだ。とすれば高架の下。佐里が気づかないうちに、文彦《ふみひこ》が守備する領域に剛粧が侵入したということになる。
「文彦くん!」
『違う佐里《さり》ちゃん、上!!』
通信に返答が来るより早く、視界の中に自動防御行動へ移ることを示す文字列が赤く映し出された。直後、多脚砲台《パリカリア》の砲塔側面に着いた連射砲が夜空に向かって唸《うな》りを上げる。佐里が見上げると巨大なフクロウのような動物が、翼《つばさ》を広げ急降下してくるところだった。佐里はその姿に、愕然《がくぜん》とした。
――確かに剛粧《ごうしょう》なのだが、共通の性質であるはずの卵殻《ケリュフォス》をどこにも纏《まと》っていない。幸い連射砲の自動|射撃《しゃげき》は十分その役割を果たし、順調に巨大フクロウを迎撃している。
「何でこんなものが……」
言いかけて佐里は、自分がとんでもない失敗をしたことに気がついた。自動防御への移行と同時に主砲の射撃が止《や》んでいる。新幹線の高架上をやって来る剛粧は、すぐ目の前だった。
「腕部解放と展開、主砲、前方に自動照準」
巨大|鍵《かぎ》に手を当てて、何とかそれだけを命じる。多脚砲台《パリカリア》の車体上面に折り畳まれたドーザーブレード――モグラの手にそっくりな左右一対の腕が現れ、もう目前に迫った高架上の剛粧に斬《き》りつけた。続けて主砲が三連射される。
しかし、そこまでだった。照準の甘い主砲攻撃をかいくぐり、多脚砲台《パリカリア》の胴体に剛粧の巨体が乗り上げた。そのまま全体重で砲塔を押さえつける。あさっての方向を向いたまま発射された主砲の四発目は、高架の壁《かべ》をぶち抜き、廃墟《はいきょ》の町に爆発《ばくはつ》の炎を巻き上げた。
[#挿絵(img/basileis1_082.jpg)入る]
多脚砲台《パリカリア》はすぐにその剛粧《ごうしょう》をはねのけるが、さらに別の剛粧が次々と取りつく。その重量に、砲台は完全に腹を着いてしまった。一旦《いったん》こうなってしまえばもう、身動きの取りようがない。
そして佐里《さり》自身は、阻《はば》むもののなくなったいくつもの剛粧の視線に晒《さら》されていた。じりじりと後ずさるが、どれだけ下がっても意味などない。それは優《すぐ》れた運動能力を持つ剛粧たちにとって、軽い跳躍《ちょうやく》ほどの距離《きょり》でしかないのだ。一撃目をかわされると他《ほか》の剛粧に獲物《えもの》を奪われる。それだけの理由でできた、ほんのわずかな時間だった。
佐里の頭上で空気が鳴った。
上空で待機《たいき》していた巨大フクロウの最後の一匹が、急降下してきたのだ。そして注意が自分たちから逸《そ》れたことを察した地上の剛粧たちは、一斉に佐里に襲《おそ》いかかった。手に持った巨大|鍵《かぎ》だけを盾に細い悲鳴を立てて、佐里は身を縮《ちぢ》めた。
あらがえない力で振り回されるように自分の体が後方へ飛ぶのを佐里は感じた。そして見開いた目の端には、巨大フクロウが真っ二つになって地面に叩《たた》きつけられる様が映った。
8
「大丈夫か?」
敦樹《あつき》は腕の中の佐里に訊《き》いた。
地面に下ろすと、こわばった表情ながら佐里は頷《うなず》いた。敦樹が視線を転じると文彦《ふみひこ》も高架に上がってきたところで、剛粧《ごうしょう》を食い止めながら多脚砲台《パリカリア》の自力脱出を手伝っている。
「真面目《まじめ》に予備訓練、出ないから、失敗しちゃった」
震《ふる》える声で笑いながら、佐里は言う。しかし敦樹は首を振った。
「阪急《はんきゅう》と名神《めいしん》高速の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》も同じ目にあって、大混乱が起きている。ここだけの話じゃない」
そう告《つ》げる敦樹の声も、どこか震《ふる》えていた。胸の奥が、ざわざわとする。今のような状況を、敦樹は以前にも味わった。
この襲撃《しゅうげき》は小型の飛行剛粧というこれまで有り得ないとされたものの存在を除いても、あまりにも不可解だ。そもそも剛粧一般の行動原理、その本能と一致していない。道に迷い迷走しているのならまだしも、空が飛べるなら一直線に西へ飛べばいいのだ。わざわざ他《ほか》の剛粧のために、多脚砲台を襲《おそ》ってやる必要はない。種の異なる剛粧同士が連携することは、本来、有り得ないことなのだ。
知性じみたものの唐突な介入。常勝であるはずのシステムの崩壊《ほうかい》。
一年前のあの時に起きたことと、あまりにも似ていた。
――そして敦樹は恐れた。
自分があの時と同じ敗北を、もう一度迎えようとしているのではないかと。もしここで敗北したら、次に自分はどこへ逃げればいいのかと。その考えに、押し流されそうになる。
だが同時に。
それを押《お》し止《とど》めようとする力がある。数時間前に聞いたばかりの声と言葉だ。
『自分がバカだと宣言してはばからない人間は、過去を活かそうとしない』
そうだ。
状況が同じならば、あの時できなかったことを実行すればいい。ただそれだけで、この泥のような敗北感から抜け出せる。
あの時の不可能も、力《デイノス》を手にした今ならできる。突破点が他《ほか》にないことは、あの苦い敗北の中で学んだ。
前へ向かって一歩。
敦樹《あつき》は駆け出した。
「敦樹、どうするの?」
背後から佐里《さり》が訊《き》く。だがデイノスによる疾走で、すでに直接は会話できないほど距離《きょり》が開いている。敦樹は通信を繋《つな》ぐと、それを通して答えた。
「ひとまず砲台を動けるようにする。佐里は六甲《ろっこう》トンネルの入り口まで下がってくれ」
『仕切り直すの? 共同であたった方が、良くはない?』
「流れをこちらに引き戻さないと、負ける」
答えながら五号刀を振るい、次々と剛粧《ごうしょう》を斬《き》る。装甲のあちこちに歯形や爪痕《つめあと》をつけられた多脚砲台《パリカリア》は、ようやく剛粧の群から這《は》い出すことに成功した。そして佐里の命令に従って、後退を始める。
『言う通りにする。到着したらすぐに砲撃《ほうげき》再開の合図を出すから、ちゃんと避《よ》けてよ』
「当たり前。――文彦《ふみひこ》は?」
少し離《はな》れたところでハンマーを振るっていたもう一人の仲間に、敦樹は訊く。
『ちゃんと聞こえてた。了解だよ、佐里ちゃん』
同時に二匹を相手にしながらも指で丸を作る。それを一瞥《いちべつ》で確認《かくにん》し、敦樹は全体指揮の中央である松並《まつなみ》一班へと直接通信を繋《つな》いだ。スピーカーの向こうは、混乱の声が行き交っていた。それに負けないように、怒鳴る。
「こちら|樋ノ口《ひのぐち》。小早川《こばやかわ》さん、歩課《ほか》二名はこのまま高架上の初期|射撃《しゃげき》地点を死守、砲課《ほうか》の佐里だけトンネル前まで後退させます」
『砲課だけを下がらせるのか? しかし――。今そちらの状況を確認した。砲課の射撃支援なしに歩課だけで対処できる数じゃないぞ?』
「足止めだけなら何とかなります。デイノス三本も使ってる歩課の能力は、そんなに低くはない。それよりもこのまま混戦が続いて砲課がやられるようなことになれば、そのままなし崩しで防災団が全滅しかねない。とにかくどこも混乱してて、あなたは指揮官なんだ。全面後退でも良いから個別に、そちらから新しく指示を出してほしい」
『――分かった』
各所に散らばる防災団は、それぞれ能力も守備する環境《かんきょう》も異なる。それを踏まえての判断ができるのは、地域団長の小早川《こばやかわ》だけだった。その能力にあとは任せ、敦樹《あつき》は目の前の敵に集中する。次々と剛粧《ごうしょう》を屠《ほふ》る。
『目標の地点まで後退した。準備が終わるまであと少しだけ――』
数分と経《た》たずに、佐里《さり》から連絡が入る。敦樹は隣《となり》で戦いながら同じ通信を受けている文彦《ふみひこ》と、目配せを交わした。
『準備終わり、砲撃を再開するわ。二人とも避《よ》けて』
その合図と共に敦樹は文彦を抱え、『デイノス=構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』の剛力に任せて高架の側壁《そくへき》を跳び越えた。
下はこの時期水量の増えている武庫川《むこがわ》の水面。そこに大きな水しぶきが上がる。
二人が岸に上がるとすでに、多脚砲台《パリカリア》の射撃は再開されていた。
9
夜明けまで続いた攻防で、南|兵庫《ひょうご》の防災団は剛粧の大群をどうにか鎮圧《ちんあつ》した。
神戸《こうべ》以西に避難《ひなん》していた市民たちは、ごった返す電車で午前のうちには帰宅。そして御茶家所《おちゃやしょ》学校も普段《ふだん》通り、正午から授業を開始した。
出席簿《しゅつせきぼ》を読み上げる教師・白井《しらい》の甲高《かんだか》い声が、高校一年組の教室に響《ひび》く。その七番目。
「川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》!」
しかし、返事はない。
「川中島は休みですか?」
どこか落胆した声と共に、白井は顔を上げ教室を見回した。その彼女に向かって、生徒の一人が慌てて手を挙げる。
「川中島さん、今日は来てます。その、ちょっと、返事できない状態なだけで……」
教室の視線が敦樹の席に集中した。制服姿でゴーグルを首にかけた敦樹は、自分の席に着いたまま腕を組んだ姿勢でだらしなく寝転《ねこ》けていた。見れば佐里や文彦も同じ体《てい》たらくだ。しかし剛粧対策は『鎮圧』の宣言まで、大きな危機《きき》を乗り越えながらも夜明けまで続いたのだ。そのことを考えれば今の三人の様子《ようす》も不思議《ふしぎ》なことではない。
「……分かりました」
随分珍しいことに白井は笑うと、川中島敦樹の欄《らん》に丸をつけた。そして教壇《きょうだん》を下りると窓際にある敦樹の席へと向かって、机の間を歩いていく。
その白井を目で追っていた生徒たちは、突然、彼女が出席簿を手にしたままであることに気がついた。
「文彦《ふみひこ》、――ふ、み、ひ、こ! 起きろ」
細野忠夫《ほそのただお》は目の前で眠っている春瀬《はるせ》文彦を、必死で揺すった。文彦は薄目《うすめ》を開けると、両手両足を揃《そろ》えるように、ちょこんと座り直す。
「はい。わたくしぃはるしぇ・ふみひこは、こえからも、ええいどりょくするしだいでありましゅ」
フニャリと笑う。
細野はやって来る教師を、恐る恐る見上げる。まだ寝ぼけている文彦の横を、白井は「よろしい」と低い声で一言。そのまま通り過ぎた。
四方《しほう》佐里《さり》も、どうにか周囲の人間に起こしてもらう。ただ敦樹《あつき》だけは、肩を揺すられてもガクガク首を前後させるだけで全く起きる気配《けはい》がない。
敦樹の席の前で白井《しらい》は立ち止まる。そして敦樹を起こそうとする全《すべ》ての努力は、放棄された。
一息吸って白井は出席簿《しゅつせきぼ》を振り上げ、その角《かど》を正確に敦樹の頭頂部に叩《たた》き込む。「カコン」という綺麗《きれい》な音が教室に響《ひび》くと、敦樹の口からは声にならない悲鳴が漏れ、そのまま頭を抱えて机に突っ伏した。
「あなたは目を閉じたまま授業中の黒板を見ることができるのですか! 川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》!!」
(容赦なしか……)
教室の生徒たちは、それぞれがそれぞれの表情で溜《た》め息をついた。
10
「……なるほど。一時は危険だったみたいだが、うまく立て直したようじゃないか」
六湛寺《ろくたんじ》中央事務所の大モニターに映る昨日の状況|遷移《せんい》図を見上げ、男は言った。
彼の名は春瀬《はるせ》史郎《しろう》、山陰《さんいん》共同体の連合知事である。剛粧《ごうしょう》の群に数ヵ月前から起こるようになったある奇妙な現象を追い、日本海に面した自分の本拠地からはるばるこの地へやって来た。その史郎が、先ほどから端末の前でムスッとした表情を浮かべている愛弟子《まなでし》を振り向く。
「どう思う?」
「話にならんわ。ヘッタクソやなあ、ここの指揮!」
辺《あた》りをはばからない毒舌で、彼女――畑沼《はたぬま》清子《きよこ》は答えた。まだ後片づけに追われている周囲の職員《しょくいん》はムッとした表情を浮かべるが、史郎が詫《わ》びるような苦笑で返したので、どうにか無言のまま抑えてくれる。
史郎は困ったように顎《あご》を撫《な》でながら、一呼吸置いて、もう一度|訊《き》いた。
「で、どう思う?」
「――剛粧に大きい動きのあった23[#「23」は縦中横]時3分の観測データ、ちょっと見てほしいねん。N線領域フィルタ通す前の奴《やつ》」
清子《きよこ》は端末に向き直ると、手元のキーボードを叩《たた》いた。モニターに昨日の記録《きろく》、レーダーサイトの捕らえた全《すべ》ての電磁波情報が映し出される。五秒刻みで進む画面では、まるでオーロラのように色が波打っていた。かろうじて東から西への動きだけが見て取れる。
「グチャグチャで、何か良く分からないが」
「……そろそろ出るから。あ、ここ、ここ。見てや」
言う間にも、画面に白い輪《わ》が浮かび上がった。それが外側に向けて瞬時《しゅんじ》に広がる。画面は真っ白になった。しかし次のコマでは、再び元通りの画面へと変わる。史郎《しろう》は清子の言わんとしていることを察して、考え込んだ。
「……何らかの電磁波バーストがあったのに、フィルタがそれを生物の活動ではないと判断して、除外してしまったのか?」
「っちゅうか、誤観測《ごかんそく》扱いでコマごと無視やな」
「なるほど」
確かに真っ白な観測結果など、行動中の防災団に送っても混乱を増《ふや》すだけだ。
「で、見てほしいねんけど、このバーストの中心位置がココ」
清子がマウスを操作《そうさ》すると、画面に+の印がついてズームアップされる。
「で、このバースト前後十分間の、電磁波観測のデータを重ね合わせたのがこれ」
色の地層を重ねるように、何重にも色彩が積《つ》み上げられていく。しかし一ヵ所だけ黒いまま、全く反応のない場所が浮かび上がる。そしてそれは清子のつけた+の印と一致していた。
「バーストの中心には、完全に何にもおらへんことになっとる。普通の剛粧《ごうしょう》はこの時間だけ、ここに全く近づいてへんことになる。別の時間帯は平気で通っとるのにやで?」
それは史郎にも分かった。そしてそれは、そのまま結論と直結していた。
「幽霊剛粧《ファンタズマ》だな、この特徴は。やはりここに現れたか」
――日本海沿岸で史郎たちを苦しめ、一ヵ月前にぱたりと姿を消した謎《なぞ》の敵。レーダーから身を隠し、剛粧を操《あやつ》る、より高度に進化した剛粧。
それを追うために、二人ははるばるやって来たのだ。
「奴の存在に確証《かくしょう》を持てると、そう思うか?」
史郎が問うと、清子はフンと鼻で息をついた。
「今回の小型鳥剛粧。卵殻《ケリュフォス》破るのに他《ほか》の剛粧が手え貸した公算が大きいゆう話やろ? 普通んなことせんと喰《く》うやろ、って学者先生は首ひねってたけど、幽霊剛粧《ファンタズマ》がやったっちゅうんやったら納得はできる」
「そうだな……」
「着いたその日にご対面やな。運がいいんか悪いんか」
自分の弟子の言いように、史郎は苦笑を漏らした。
「清子《きよこ》には、ここで頑張ってもらうことになりそうだな」
「まあ、コイツにはコケにされっぱなしやからな。それはええねんけど……」
「どうした?」
清子は考え込むような目で、訊《たず》ねた史郎《しろう》を見上げる。
「要するに、剛粧《ごうしょう》ってぎょうさんはおるけどアホやん? やから人間も同じくらいアホやない限り、何とかやってけてる。――けどある程度の知能があって剛粧を操《あやつ》れるコイツの能力は、はっきり言《ゆ》うたら人間側にとって脅威《きょうい》やろ?」
「だから私たちは追ってきた」
清子は「うん」と頷《うなず》いた。
「けどコイツ、やってることはホントにただの小手調べやん? あれから同じような攻撃《こうげぎ》はかけてこんかったし、調べてみたけどもう六甲《ろっこう》のレーダーの範囲《はんい》にはおらへん。うちらんトコに出没しとった時と一緒で、様子《ようす》見だけですぐ引き上げるっちゅう感じや。飯食いたい、みたいな剛粧本来の行動原理とは全く違うトコにおんねん」
清子は端末のモニターに目を落としながら、頬杖《ほおづえ》をついた。
「なあ、前からおもててんけどな。――コイツ、何か探しとるんとちゃうか?」
[#改丁]
まれびとの棺〈第二章〉[#地付き](2019/11/08〜11/13)
1
――転校生が来る。
それがここ数日の御茶家所《おちゃやしょ》学校・高校一年組の中心的な話題だった。
性別は女子、という基礎《きそ》の基礎から始まって、どこから来る? なぜ剛粧《ごうしょう》対策の最前線であるこの町へ来るのか? などなど。様々な話題が級友同士で顔を突《つ》き合わせては、妄想混じりで話し合われる。
噂《うわさ》は抽象的で内容がなく、その割にはいくつもの尾ひれを付けて拡大しつつあった。
ともあれ、娯楽の少ないこの町へとやって来る、突然の転校生である。退屈が嫌いな彼ら高校生の共通話題としては、格好の対象《ネタ》だったということだろう。
そして今日。――転校当日を迎える。
ちょうどクラスの日直だった春瀬《はるせ》文彦《ふみひこ》は、いつもより十五分早く登校した。黒板消しを窓で叩《はた》いたあと、転校生のための椅子《いす》と机を空き教室から取ってくる。
「よいしょ、っと」
転校生の席は教室の一番後ろの列。そこに、運んできた机を置く。
直後、まるで待ち構えていたかのように雑巾《ぞうきん》を片手にした男子生徒――幸田《こうだ》重嗣《しげつぐ》が、埃《ほこり》まみれの机に飛びつき、一心不乱に磨き始めた。
「な、何事?」
うろたえる文彦に雑巾男、幸田はぴしゃりと答える。
「玲奈《れいな》ちゃんがついに我が校へ来るというのに、こんな汚い机に座らせられるか」
「汚いのはしょうがないじゃん。いま運んできたばっかなんだし……」
「原因や事情を問題にしてるんじゃない。とにもかくにも彼女のため、俺《おれ》の手で特等席を用意するのだ」
「――特等席、ね」
気圧《けお》されたのを誤魔化《ごまか》すように笑いながら、文彦は言う。まあ確《たし》かに担任が『あの』白井《しらい》なのだから、教室の一番後ろであるこの席は、それだけで特等席ではある。おまけに後方の壁《かべ》に並ぶ個人用ロッカーにもすぐ手が届くことから、人気は高い。
だが幸田が言っているのは、そういうことではない。それは文彦にも分かる――。
などと考えている間にも、さほど大きくもない机を丹念に、執拗《しつよう》に拭《ふ》いている幸田は、二度拭きを終え三度拭きに取りかかった。横で見ていた文彦は、さすがに声をかける。
「もう、それぐらいでいいんじゃない?」
「まだだ、まだまだ。玲奈ちゃんの机だからな」
聞く耳持たない返事に、文彦は困ったような表情を浮かべた。
――すでにちゃんづけだもんな。
そして深々と、溜《た》め息をつく。
転校生が菫崎《すみれざき》玲奈という名前であることは、割と早い段階で判明していた。そして他《ほか》にも、昨日までに文彦自身が聞いた噂《うわさ》はいろいろある。
まず彼女は、岩国《いわくに》基地のいわゆる『居残り在日米軍』のアメリカ人が父。つまりハーフである。そのため髪は、ロングで赤みがかった色。軽くウェーブしているそうだがこれをパーマと間違われ、風紀の厳《きび》しい前の学校で苦労したとか。身長は161[#「161」は縦中横]cm[#「cm」は縦中横]、体重は47[#「47」は縦中横]kg[#「kg」は縦中横]。
別に情報を集めているわけでもない文彦でも、なぜかここまで知っている。しかし――。
「――幸田って、そんな転校生に熱心だったっけ?」
その問いに次の瞬間《しゅんかん》、幸田の目が光った!
……ように見えた。
「聞いてくれるか、春瀬文彦……」
十二度|拭《ふ》きを終わらせた幸田《こうだ》は、すっくと立ち上がり文彦《ふみひこ》を振り向いた。
「実は彼女の有力な目撃《もくげき》情報を、今朝《けさ》、仕事帰りの八百屋《やおや》で仕入れたのだ」
幸田は午前中、食品工場で働いている。そこから一旦《いったん》自宅に帰る時に、商店街にでも寄ったのだろう。――と、その辺《あた》りまでは文彦にも予測できた。
「でも、八百屋って? 何でそんなところに転校生が……」
「もうこっちに来て、生活してるらしいからな。食い物だって買うだろう。――ってそうじゃなくて」
「うん。違う」
いま問題になっているのは、なぜ幸田が今日になって突然、転校生に興味《きょうみ》を持ち出したのか、その理由だ。
「実はだ、文彦。八百屋のオヤジの目撃証言によると、彼女はとてもスタイルがいいらしいのだ」
「うん。そういうのに滅茶苦茶《めちゃくちゃ》こだわるよね、幸田は」
「だから俺《おれ》はすぐに衣料店へと向かった。やはりそこでも、彼女は買い物をしてたらしい」
話が早いなあ、などと考えながら文彦はフニャリと笑った。幸田は構わず、興奮《こうふん》するままに続ける。
「そして俺は、店員から彼女のスリーサイズを聞き出すことに成功した!」
「よくそんな赤の他人のプライベート、聞き出せたね……」
「人徳だ!!」
「人徳かあ〜」
何か胡散臭《うさんくさ》いと感じながらも脳天気に鸚鵡《おうむ》返《がえ》しし、文彦は納得したふりをする。しかし幸田の方は妙に自慢げなまま、話の先を急ぐ。
「まだるっこしいので、結論からいこう。彼女のサイズは下から――」
「何で下から?」
「87[#「87」は縦中横]・58[#「58」は縦中横]そして103……」
「へぇ」
気のない返事をする文彦に、幸田の表情は一気に険しくなった。肩が震《ふる》えている。
「……お前は乳の1m越えを見たことがあるのか?」
「そう言われても」
首をかしげながら、文彦は顎《あご》を掻《か》く。
「サイズとかって、普通がどれくらいなのかあんまりよく知らないし。クラスで一番大きいのって、――佐里《さり》ちゃん?」
内容が聞こえたのか、文彦たちの隣《となり》を通ったクラスメイトの女子が、道ばたのドブ鼠《ねずみ》でも見るような目で睨《にら》んでくる。文彦はいたたまれない気分で目を伏せたが幸田は止まらない。
「四方《しほう》さんより片山《かたやま》さんの方がデカイ。ちなみにあれで、大体85[#「85」は縦中横]のDだ。だが玲奈《れいな》ちゃんそれよりもさらに、二回り以上大きいんだよ!」
「……そういうのって何かさ、スペック的だよね。杓子定規《しゃくしじょうぎ》で人間の外だけ測ってるっていうか。数字ばっかり大げさで、イマイチ良く分かんないよ……」
「分からないだと? ああ、何でこう誰《だれ》も彼《かれ》も想像力が足りないんだ!」
幸田《こうだ》は頭を掻《か》きむしると、すぐそばの黒板からチョークを手に取った。
教壇《きょうだん》とは反対側の壁《かべ》に位置するこの黒板は、本来プリントなどの掲示物を張り出すことに使われている。しかし幸田はその掲示物を勝手に脇《わき》へどけて、スペースを作り始めた。
「いいか、図で説明してやる。――つまりだ。これまで得られた寸法情報を元に、想像図を描いてみると、だ。彼女がこの学校指定の机に座った時、」
カッカッと凄《すさ》まじい勢いで黒板に想像図が完成していく。転校生・菫崎《すみれざき》玲奈が机に座った様を横から見た時の図だ。
「彼女の胸はこの机の上に、載る!」
載る、と黒板に書いて、幸田はその文字を赤いチョークでグルグルと囲む。軋《きし》んだ音を立てながら赤チョークは割れて飛び散った。
そして。
ことここに至って、文彦《ふみひこ》にもようやく事態の重大さが飲み込めてきた。確認《かくにん》するように、恐る恐る、訊《き》く。
「……つまり今日くる転校生は、一生自分の胸に机の一部を占拠されながら生きていかなければいけない――そういう人だってこと?」
「そうだ!」
「大変だ。この絵、日記につけなきゃ」
慌てて小さなノートを取り出した文彦に、幸田は満足げに頷《うなず》いた。
「思う存分つけろ。写し終わったら黒板を消しておいてくれ」
「分かったよ」
ロッカーの上で文彦は日記を書き始める。しばらくは熱心に絵を描き写すが、しかしふと気がついたというように文彦は手を止めた。
「それにしたってさ。転校が十一月って、中途半端な時期だよねえ。普通だったら四月か九月じゃない?」
「なに言ってる。――そりゃ確かにちっとは珍しいが、ここは剛粧《ごうしょう》対策の町だ。人の出入りだって頻繁《ひんぱん》にあるし、親の都合っていうならそれに従うもんだろ」
バケツで雑巾《ぞうきん》を絞りつつ、先ほどの熱狂はどこへやら。幸田は素の口調で淡々と答えた。
「四月に転校時期を合わせてここに来たお前の方が、珍しいっての。川中島《かわなかじま》と四方さんの二人が来たのも今年の二月――中三の授業がそろそろ終わるってころだったし」
「そういうもんかな」
「そういうもんだ。…………いやしかし」
絞り終えた雑巾《ぞうきん》を教室隅の雑巾かけに乱暴に投げつけ、幸田《こうだ》は眉《まゆ》をひそめる。
「曰《いわ》くありというのも、趣《おもむき》があって面白《おもしろ》い」
「……幸田のオモムキで転校生の事情まで変わるんじゃ、大変だけどね」
「バカ。始業までのあと三分を、どう最大限に楽しく過ごすか、ってだけのことだ」
「なるほど」
文彦《ふみひこ》は頷《うなず》いた。自他共に認める通り、幸田はやはり相当変なヤツだ。
「ちょっと誰《だれ》、私の机に鞄《かばん》置いたの? 捨てるよ!?」
教室の前の方から女子の声が上がる。ちょうどいま登校してきたところらしい楢橋《ならはし》南美《なみ》が、教室を見回していた。同じく学校に到着したばかりといった風の敦樹《あつき》と佐里《さり》も、まだ鞄を持ったまま南美の机を見下ろしている。
「あ、それ俺《おれ》のだ。ちょっと待って。――文彦。バケツの水の始末は頼んだぞ」
「ええ? 嫌だよ」
「元は全部、お前の仕事だろうが」
有無を言わさず幸田は後始末を押しつけると、南美たち三人の方へ机の間を走る。そして教卓の真ん前にある楢橋南美の席に座った。
「座るな!」
南美は幸田の頭を鞄でひっぱたいた。しかし幸田は動じない。
「順序が前後して済まないが、実は急遽《きゅうきょ》、席を替わってほしいんだ楢橋。――俺の机は後ろから三列目。悪い交換じゃあるまい」
「い・や・で・す」
「頼む」
「断わる」
――強引な幸田の依頼を拒否しながら、しかし実のところ、南美の表情は悩んでいた。
女教師|白井《しらい》が怒鳴り散らすと唾《つば》さえ飛んでくるこの席は、実はなかなかに辛《つら》い場所ではあるのだ。本当を言うと幸田の言った通り、悪い交換ではない。だがこうも一方的だと、それはそれで気分が悪い。南美にしてみれば拒否せざるを得なくもなってくる。
そんな二人の不毛な緊張《きんちょう》状態の後ろで、敦樹と佐里は顔を見合わせた。そして敦樹は困ったように頭を掻《か》きながら、『やれやれ』と口を開く。
「――あのな、幸田。変にごり押ししても平行線だぞ? 少しは楢橋の気持ちも考えろ」
極めて大人《おとな》の意見を、いつもの落ち着いた口調で幸田に告げる。
「せめてなぜ席を替わってほしいのか、それを楢橋に説明するべきだろう」
「転校生を間近で見たい」
「……」
「バカぁ! 変態! キモチ悪ッ!!」
南美《なみ》は叫びながら、鞄《かばん》で幸田《こうだ》の頭をバシバシ叩《たた》く。
教科書などが入っているから結構痛かったりもするはずだが、幸田は動じない。何だか南美の方が加害者じみてきたので、隣《となり》にいた敦樹《あつき》が「そのくらいに」と止めた。
肩で息をしながら、南美は幸田に詰め寄った。
「そんな下らない理由で席替わりたいんだったら、せめて自分の机持ってきて入れ替えてよ」
「悪いが、もう時間がない。残念だったな」
「何?……何でアンタ勝ち誇ってんのよ!」
激昂《げっこう》した南美を押《お》し止《とど》めるように、敦樹が後ろから羽交い締《じ》めにする。そして今度は、今まで黙《だま》って見ていた佐里《さり》が代わりに訊《き》いた。
「うーん、幸田くんの目的は分かったけど。でもそもそも転校生が目当てなら、どうしてこの席なの?」
その問いにはすぐに、敦樹も頷《うなず》く。
「転校生の席の隣だというのなら、まだ幸田の話も分かる。しかしここで間近に見ると言っても、そんな機会《きかい》は最初の挨拶《あいさつ》だけだぞ? それにこう言っては何なんだが、白井《しらい》が担任のこのクラスでその席に座り続けるのは――辛《つら》いぞ?」
「覚悟の上だ」
「だから、なぜ?」
幸田は座ったまま背筋を正すと、敦樹を見上げた。
「実は目的がもう一つあるからだ。――|刷り込み《インプリンティング》、という言葉を聞いたことがあるか、川中島《かわなかじま》?」
「生まれたてのヒヨコがどうとか、そういう話か?」
「動物学者ローレンツが発見した動物における学習の一形態だ。動物はある特定期間内に目にしたものを固定的に認識《にんしき》し、以後それを見ると機械《きかい》的に反応するように学習する。鳥類における雛《ひな》と親鳥との関係が最も有名な例だが、現在では動物全般の生育において、もっと様々な|刷り込み《インプリンティング》があるのではないかと考えられている」
「ふむ。それで?」
敦樹の問いに幸田はスッと教室の扉を指さした。そして廊下から教壇《きょうだん》までゆっくりと、その指先を滑らせる。
「例えばだ。転校してきた彼女、菫崎《すみれざき》玲奈《れいな》が教室に入ってくる。彼女は新しいクラスになじめるか不安で、ずっと俯《うつむ》いたままだ。だが教壇で自己紹介するように言われ、初めて顔を上げる。そこで俺《おれ》と、最初に目が合う。――彼女は俺に惚《ほ》れる」
「バカだろう、お前」
容赦なく、敦樹《あつき》は言った。
しかし幸田《こうだ》は無言のまま腕を組むと、じっと真正面の中空に視線を固定した。その視線は確《かく》として、1ミクロンの揺るぎもない。近い未来にそこに現出するであろう何ものかを射抜くかのような、鋭《するど》い眼差《まなざ》しだった。その厳《きび》しい目が、ふっと、柔らかく弛《ゆる》む。
「俺《おれ》を馬鹿《ばか》だと、――愚かだと思うか、川中島《かわなかじま》よ。だが漢《おとこ》の諺《ことわざ》に、こういう言葉がある」
「何?」
「馬鹿で結構ずくめ!!」
始業のチャイムが鳴った。
振り返った敦樹は頭痛を抑えるようにこめかみに手を当てたまま、南美《なみ》を振り返った。
「……いいんじゃないか? 代わってやれば」
少々同情的に言ったあとで、きつい視線を幸田に戻す。
「ただしだ。あとでまた元の席に戻せとか、そういうのはナシだからな。もしそこでまたごねたなら、私も黙《だま》っちゃいない」
「別に今だって黙ってはいないと思うが……。無論《むろん》了解だ、川中島。俺は次の席替えまで、男らしく振《ふ》る舞《ま》おう」
「本当に分かってるのか? 一番前の席から一番後ろの転校生は見えないんだぞ?」
「俺が玲奈《れいな》ちゃんを見ることに、本質的な意味はない。俺を――白井《しらい》の授業を真正面で受けるこの勇姿を、見てもらうことこそ大切」
「……何で会ったこともない奴《やつ》に、そこまで入れ込むんだか」
溜《た》め息をついた敦樹は首を振りながら、諦《あきら》めたように自分の席へと向かった。佐里《さり》も困ったような表情のまま、南美を促す。
席を取られた南美にしてみれば、まだ言いたいことは山ほどあった。しかし時間切れでは仕方がない。机の中に置いたままにしている教科書を乱暴に取り出すと、わざとらしく息をついてその場を去る。そしてこれまでは幸田が使っていた席に、まだ不満そうな表情で腰掛けた。
「本当に、男子って勝手なんだから――」
「まあ内容的にはラッキーな取り引きだった、ってことでいいんじゃないか?」
愚痴《ぐち》に付き合いながら、敦樹も南美の斜め後ろにあたる自分の机に鞄《かばん》を置いた。
「ちょっと待って、敦樹」
突然、佐里が言う。
椅子《いす》に座るところだった敦樹は腰を浮かしたまま「どうした?」という表情を作る。だが佐里の方は眼鏡《めがね》を中指で押し上げただけで、説明はしなかった。
勝手にいま敦樹が座ろうとした椅子を持ち上げると、佐里は教室内で唯一の空席、――先ほど幸田が必死で磨いていた転校生の椅子と交換する。
幸田がそれを見ていたら猛|抗議《こうぎ》したであろうが、すでに最前列のど真ん中へ陣取った彼は、背筋を伸ばして運命の時を待ち構える態勢に入っていた。後ろで佐里《さり》が行うことなど、小指の先ほども気づく様子《ようす》はない。
「さあ、どうぞ」
「……良く分からないが、ありがとう」
不可解をそのままに、しかし性格的にそれ以上のことは訊《き》かず、敦樹《あつき》は佐里の入れ替えた椅子《いす》に座った。同時に担任の白井《しらい》が教室の扉を開け、入ってくる。転校生に対する大小それぞれの期待をこめて、教室がざわめいた。
「HRを始めます。全員自分の席につきなさい」
出席簿《しゅつせきぽ》を教卓に置くと、教師白井はいつもの高血圧気味な口調で言った。
「今日はまず転校生を紹介します」
途端《とたん》に拍手した数名をキッと睨《にら》んで静かにさせると、白井は廊下に向かって呼びかけた。
「――畑沼《はたぬま》清子《きよこ》さん、入りなさい」
教室の生徒たちはしんと静まり返った。
――転校生の名は『畑沼清子』?
さっそく何かがずれている。
事前の情報では転校生の名は『菫崎《すみれざき》玲奈《れいな》』。印象からして全く違っていた。
そして扉から転校生が姿を現す。最前列中央の席を強奪までした男・幸田《こうだ》は、思わず立ち上がり、叫ばずにはいられなかった。
「ちっさ!!」
身長は140cm[#「cm」は縦中横]ほど。当然、小学校高学年程度のその体に幸田の求める発育など、あるはずもない。そしてその驚愕《きょうがく》は、大小の差はあれども教室全体のものだった。ハーフだとか赤毛だとか、彼らが得ていた事前情報は、ことごとく外れていた。
一方、畑沼清子の方はその反応にニタアと笑うと、唇を歪《ゆが》めた表情のまま教壇《きょうだん》へと向かう。
立ったまま信じられないものを見る目をしていた幸田は、教師白井に食ってかかった。
「先生、今日転校してくる菫崎さんは――」
返ってきたのは頭上への出席簿による一撃《いちげき》だった。
「席につきなさい」
「はい…………」
グズグズと崩れるように、死人の目の幸田は椅子に座った。
「それでは自己紹介をしてもらいます」
白井が言うと、畑沼清子は宣誓するかのように右の掌《てのひら》を突き出し、高らかに言う。
「どうも、キヨコです。まずは軽いジャブっちゅことで、情報|操作《そうさ》とかさせてもらいました。これからも数々の陰謀《いんぼう》を駆使し、真綿で首を絞めるようにこのクラスの支配権を拡大していこう思てます。ヨロシク」
(情報|操作《そうさ》って)
転校生を前に、生徒たちは軽い思考停止に陥る。
「ねえ、じゃあさ……」
弱々しい笑みを浮かべた幸田《こうだ》が、猫なで声で訊《き》く。
「……バスト1mの玲奈《れいな》ちゃんは?」
「あかんな君ィ。学生のうちにフィクションと現実の区別がつくようになっとかんと、大人《おとな》になってからごっつ苦労するで?」
「そんな……」
にべもない清子《きよこ》の答えに、幸田は人差し指をくわえ半泣きのような表情を浮かべた。
一方、話の見えない教師|白井《しらい》は眉《まゆ》をひそめる。
「先ほどから一体、何の話です?」
「や、何でも。つまり学生同士で、普段《ふだん》から切磋琢磨《せっさたくま》しようっちゅうことです。センセもそういうの、賛成《さんせい》やろ?」
「当然です。存分におやりなさい」
即答。清子は満足げに頷《うなず》いた。
「そんなら自己紹介も終わったし、自分の席行ってええですか。あの空いてるところやろ?」
「いいでしょう。――以上でHRは終わり、授業を始める前に出席を取ります」
[#挿絵(img/basileis1_110.jpg)入る]
白井《しらい》が順に生徒の名を呼ぶ声の中、清子《きよこ》は教壇《きょうだん》から下りて一番窓際の列へと向かった。そしてノートと教科書を机の上に広げていた敦樹《あつき》の前まで来て、立ち止まる。
気がついた敦樹は、何か用があるのか? と訊《き》こうとして、考え直す。それではつっけんどんかと思い直し、「よろしく」と一言、普通に言う。
対して清子は敦樹を見ると一瞬《いっしゅん》睨《にら》むように目を細めたが、なぜかすぐさま、冷笑を浮かべた。
「――フッ、とぼけて勝者ヅラか。あんま調子こくなよ、川中島《かわなかじま》敦樹」
「…………はぁ」
わけが分からない敦樹は、一拍子遅れて間抜けな答えを返してしまう。
清子はついと顔を逸《そ》らすと、一番後ろの列の自分の机に鞄《かばん》を置き、席についた。
途端《とたん》、手足を投げ出した姿勢《しせい》で後ろへひっくり返る。
「なんとー!!」
教室後方のロッカーに頭をぶつける凄《すご》い音が響《ひび》き、叫びは途切《とぎ》れた。慌てて周囲の生徒たちが、清子に駆け寄る。
目を回している清子の隣《となり》には、なぜか右の後ろ足が根本から折れた椅子《いす》が転がっていた。
2
「いやー史郎《しろう》さん、史郎さん。久しぶりやないか、史郎さん」
そう連呼しながら山陽《さんよう》共同体|神戸《こうべ》支庁・総務部の応接室に入ってきたのは、妙に高そうな背広を着込んだ中年太りの男だった。
暑くもないのに扇子《せんす》をバタバタ振りながら『史郎さん』をさらに二連発。その声は無闇《むやみ》に大きい。
「遠いところからはるばるご苦労ですなあ。何や今年は北の方もえらい豊作で、調子よろしらしいですやん。いやあ、結構結構」
原価0円の世辞を続けざまに並べたてる男――瀬戸内海《せとないかい》に面した山陽共同体の連合知事・空知《そらち》金蔵《きんぞう》はさらに途切《とぎ》れることなく、世間話に口を動かし続ける。
一方の客人――痩身《そうしん》の中年男である春瀬《はるせ》史郎は「はあ」とか「ええ」とか、かなりどうでもいい返事を返した。愛想のいい笑いを浮かべながら、ペラペラのキノコ帽子を取る。
彼の格好は紬《つむぎ》織《お》りのよれた羽織《はおり》にたるんだ袴《はかま》。時代がかっている割には随分とだらしのない服装をしている。が、春瀬史郎はこれでも西日本の日本海側一帯――山陰《さんいん》共同体の連合知事なのである。
つまりこの背広姿の太った男と、着物姿の痩《や》せた男は、それぞれ西日本本州部の南北トップにあたる二人ということになる。もっとも、予備|知識《ちしき》なしでそれを見抜ける人間は少ないだろう。この場を一見すれば、まるで貧乏人が悪徳金貸しに借金の相談《そうだん》に来たようにしか見えない。
その違和感は二人の男の一方、空知も感じているようだった。親切ぶって、同年代の相手に顰《しか》めっ面《つら》を浮かべる。
「お節介で言わしてもらいますけど、着るものだけはなあ、史郎《しろう》さん。もうちょいええもんの方がええでっせ?」
空知《そらち》は自分の胸をポンポンと叩《たた》いた。彼が着ているのはイギリスの有名ブランドを真似《まね》して作らせた、高級背広である。生地《きじ》などは地元産で間に合わせた模造品ではあるものの、実に洗練された良いものだった。そして結果的に空知の外観を下品ギリギリで踏み止《とど》まらせるという、非常に重要な効果を発揮している。
ただしものの良さを判断してではなく高価だからということを前提に、空知はこの服を着ていた。そしてその贅沢《ぜいたく》は、空知なりの主義があってのことでもある。曰《いわ》く――
「偉そぶってなめられんようにするんも、上におるもんの義務でっせ。今のご時世、こっちがドンと構えとらんで、下のモンが安心できますか? それに、金もっとるモンがその金を地元に落とせば、それだけ地域も潤《うるお》いますやろ?」
「ああ、でも私の着物も、地元で買ったものなんですよ。京都の西陣《にしじん》から来た職人《しょくにん》とか、丹後《たんご》の方にいた人たちとか。日本海側じゃ着物作ってるところが結構あるんで」
言いながら史郎は袖口《そでぐち》を握り、今朝《けさ》しょう油をこぼして作った小さなシミを隠す。空知はそんな史郎の様子《ようす》を、ジロジロと見回す。
「その上下と手元の帽子でいくらですのん?」
「帽子の方は弟子が贈《おく》ってくれたものなんで、値段は――。羽織《はおり》袴《はかま》は合わせて六千円くらい、だったかな?」
「……安いっちゅうか、もうびっくりプライスの世界ですな。近頃《ちかごろ》なら貧乏学生でも、もうちょいええ余所《よそ》行き持ってまっせ」
史郎は「はあ」と再び良く分からないような返事をして、首筋に手を当てた。
「でもそうそう。今回はお忍びですから」
「お忍び? ……それならまあ、しゃあない事情もありますわな」
変な着物姿の史郎を見ながら、空知は苦い顔をする。史郎の方はまた、困ったような愛想笑いを浮かべた。実は半分くらい嘘《うそ》である。春瀬《はるせ》史郎は普段着《ふだんぎ》も大体こんなものだった。
別にそこまで金がないわけではないのだが、先に妻を失った史郎にとって空知が着ているような上等な服は、洗濯《せんたく》しにくいだけの厄介《やっかい》な代物《しろもの》なのだ。一時期はそれでも頑張ったのだが、どうにも長続きしない。
空知からの忠告はある程度|真摯《しんし》に受け止め、史郎は椅子《いす》にかけたまま身を乗り出した。
「ところで空知《そらち》さん。実はお土産《みやげ》を持ってきたんですよ」
本題に入る。そして空知に会う時は、何はともあれまずは『お土産』なのである。
史郎《しろ》は鞄《かばん》から取り出した紙袋を、机の上へ置いた。
立ったままだった空知はようやく応接《おうせつ》椅子《いす》に腰掛けると、三重折りにされていた袋の口を開け中身を確認《かくにん》する。
「――米?」
「種籾《たねもみ》です。私の個人的な研究所で開発した飼料稲の新品種なんですが、良ければ使ってやって下さい」
「ああ、餌《えさ》用ですか。こりゃすいませんな。肉が安うなったら、みんな喜びます。市民たちに代わって、お礼言わせてもらいますわ」
口元に笑みを浮かべて、空知|金蔵《きんぞう》は言った。しかし逆にその目は滑稽《こっけい》なぐらい真剣なものだった。彼の頭は今、この種籾を誰《だれ》にいくらで売りつけられるか、その計算で一杯なのだ。
口では『市民に代わって礼』などと言っても、それはあくまで口先だけのことなのである。空知自身の興味《きょうみ》は『最終的に自分がいくら儲《もう》かるか?』。それ以外のことは全《すべ》てまったくどうでもいいことなのだ。
ただしこれが、空知の真価でもあった。彼はこの種籾を、最もその価値の分かる人間に渡すことができる。そして以降、この種は次々と人の手を渡り、共同体の全体に広まっていくだろう。
最終的にそれが市民の利益に繋《つな》がっていけば、史郎としても過程にはこだわる必要はなかった。人間としての好悪《こうお》、政治家としての素質はともかく、商売人としての空知金蔵は超一流だった。彼の『取り引き』の積み重ねが、ここ山陽《さんよう》共同体の繁栄《はんえい》と現在を作り出していく。その実績《じっせき》があるからこそ、空知は連合知事でいられるのだ。
――ただ、である。
史郎にしても無償《むしょう》で空知を儲けさせるほど、無邪気な大人《おとな》ではない。
平たく言えば、これは賄賂《わいろ》だった。
「実は今回も、空知さんにお願いがあるんですよ。聞いて頂けますでしょうか?」
「他《ほか》ならぬ友人、春瀬《はるせ》氏の頼みでっせ? 誰も断わりませんて。何なりと」
察したのか、空知金蔵はケロリとした顔で答えた。これも、いつものことなのである。
「いつも私から頼むばかりで申し訳ない。いや実は、半年ほど前から私たちの山陰《さんいん》では、あるものを追っていましてね。そのために、いろいろ手を貸して頂きたいのです。具体的にはこちらへ弟子の一人を派遣したいのですが、その際にいろいろ便宜《べんぎ》を図って頂きたくて」
史郎の言葉を先読みして、空知は首をひねった。
「もしかしてまた、防災団関係でっか?」
こういう話の早い頭の良さは好きだなと思いつつ、史郎は笑って頷《うなず》いた。
3
「見た? 終業のチャイムが鳴った時の幸田《こうだ》の顔」
始業前は席を取られたことを怒っていた楢橋《ならはし》南美《なみ》は、放課後《ほうかご》の帰り道ではもう、上|機嫌《きげん》で笑っていた。
「燃《も》え尽きて、ハニワみたいになってんの」
「まあ、結果があれじゃ、な」
大きな三輪《さんりん》自転車の荷台に南美と佐里《さり》を載せてペダルを漕《こ》いでいる敦樹《あつき》は、そう気の毒そうに言う。もっとも偽情報で博打《ばくち》を打ったのも、勝手にそれに負けたのも幸田本人なのだから、自業自得《じごうじとく》としか言いようがない。後ろの佐里も、わずかばかりの同情をこめつつ小さく笑う。
いま三人は田中《たなか》町にある商店街に向かっていた。佐里は市場で防災団の団員三人分の食料を買い出しするため。敦樹と南美は『楢橋商店』へ行く。
『楢橋商店』は南美の実家で、各防災団のために模造虚物質技術《テクネー》を扱う工房の一つだった。
今、敦樹が漕ぐ自転車の荷台には二人の同級生と三人分の鞄《かばん》の他に、普段《ふだん》は持ち歩かない長い布の袋包みがあった。袋の中身は連装刀《れんそうとう》である。次の戦いへ向け、楢橋商店で調整《ちょうせい》を受けるために持ってきたのだ。
「敦樹、私はここら辺でいいから」
商店街のアーケードの前まで来ると、市場へ用のある佐里はそう言った。三輪自転車が止まると荷台から降り、自分の鞄を取る。
「――ちょっと待った」
敦樹が止め、佐里は荷台にかがんだまま「え?」と顔を上げた。
「買い物に行くんだから、佐里が自転車を使えばいい。そのために今日は、コイツで登校したんだし」
「いいの?」
「どうせ楢橋商店《うち》、もうすぐそこだしね」
言いながら同級生の南美《なみ》も、三輪自転車から降りる。佐里は素直に頷《うなず》いた。
「――確かに三人分の食料だから荷物も多くなりそうだし。敦樹が言うなら、そうする」
そう言って、なぜか敦樹の方をじっと見る。敦樹はその表情から、佐里があとで『今日の奇妙な転校生』の話をしたいと考えていることを察した。実は敦樹の方もいろいろと引っかかっていて、佐里と話し合いたいことがある。
「……それじゃ買い物が終わったら、帰りに楢橋商店の方に寄ってくれないか? 私が漕《こ》いで一緒に帰った方が早いだろう」
「うん分かった」
佐里《さり》は自分の鞄《かばん》をもう一度|三輪《さんりん》自転車の荷台の隅に載せると、代わりに敦樹《あつき》と南美《なみ》の鞄、そして連装刀《れんそうとう》の入った袋を荷台から取って差し出した。
「そっちはそんなに時間、かからないよね?」
「いつも通りの調整《ちょうせい》だから。大丈夫だと思う」
敦樹の返事にサドルに腰掛けた佐里は頷《うなず》いた。
「それじゃ、またあとで」
リヤカーほどもある大きな三輪自転車。それを一つ西の通りにある市場の方へゆっくり漕いでいく佐里を、敦樹と南美の二人は見送った。
「一緒に帰るってことは、いつもより夕飯遅くなるの? 部活に行った文彦《ふみひこ》くんは?」
隣《となり》にいた南美が、敦樹にそう訊《き》く。敦樹は少し首をひねったあと、首を振った。
「文彦なら、どうせ野球部の細野《ほその》たちとあんパンとか、下らないもの買い食いして帰ってくるから。少々遅くても、大丈夫だと思う」
「へえ、そうなんだ。――まあいいや。行こう」
南美が促し二人は踵《きびす》を返すと、アーケードの入り口をくぐった。
この商店街は、店の並びは一見普通の商店街と変わらない。食品から生活用品まで、一通りの店が揃《そろ》っている。
だが特徴的なのは、商品を店前に陳列しない工房のような店舗《てんぽ》が、ぽつぽつと並んでいることだった。
ここは防災団の町である。その日常生活を支えるのに必要な普通の食料品店や衣料店と同じく、各種の特別な道具類を扱う店もまた、数多く存在していた。
そんな商店街の中を行き、二人は庇《ひさし》に『楢橋《ならはし》商店』と書かれた店――南美の実家までアーケードの下を歩く。
まだ閉ざされたままの商店正面口を開くと、南美は先導《せんどう》するように「ただいま」と店内に入った。敦樹もそのあとに続く。
コンクリート剥《む》き出しの店内は薄暗《うすぐら》い。明かりが漏れてくるのはその一つ奥、右側にある狭い階段の方からだけだった。楢橋家は一階が店舗で、二階が居間を含めた生活空間になっている。
「お父さんお母さん! いるの? もう外、暗くなり始めてるし。お店の出入り口閉めたままで明かりまでないんじゃ、閉店してるみたいじゃん。あと、川中島《かわなかじま》さん来た」
南美は靴を脱いで奥へ上がると、敦樹を振り返り「呼んでくるからちょっと待ってて」と言ってトントンと階段を上っていく。しばらくして小言のような南美の声が階上から聞こえ、入れ替わるようにのっそりと南美の両親が顔を出した。
「わるいわるい」
「わるいなあ」
ハモりながら言う二人に、敦樹《あつき》は頭を下げた。店内のスイッチがつくと、切れかけの蛍光灯がともる。
ようやく明るくなった周囲と同時、敦樹は階段のさらに奥にある作業室に、天井《てんじょう》すれすれの大きな影《かげ》があるのに気がついた。防災団にいる敦樹にとっては、随分見覚えのある形である。
「……多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》、作ってるんですか?」
「下の六本脚だけや。――それもミニチュアやけどなあ。来年初めに農地開拓用の重機《じゅうき》コンペがあって、それに間に合わせよう思てるんやけど――」
南美《なみ》の父親、灰色の作業着を着た楢橋《ならはし》健三《けんぞう》がもじゃもじゃ頭を掻《か》きながら答える。
「今日試乗したら、どうにも酷《ひど》い乗り心地でなあ」
こちらはセーター姿の楢橋|兼子《かねこ》――南美の母が、小さな目をしょぼしょぼさせ、憔悴《しょうすい》した顔でさらに言った。
南美の両親の調子《ちょうし》が悪そうであることは敦樹にもすぐ分かったが、その原因はどうやら二人とも乗り物酔いのようだった。蛍光灯の下であることを差し引いても、顔色が青い。
「日を改めましょうか?」
「いや本当に、ちょっとしたアクシデントやから大丈夫。――『東』の福島《ふくしま》政府は武器みたいな形でしか高度虚物質技術《デイノス》の供給してくれへんのやし、民生品はこっちの技術で何とかできるようにしてかんと。それ考えてやってることやから、この程度で店閉めとられへんよ」
「それに今日やないと敦樹ちゃんが困るんやろ? 剛粧《ごうしょう》の第二波、近いゆう話らしいし」
合いの手を入れた楢橋母の言葉に少し考えた末、敦樹は素直に頷《うなず》き、作業してもらうことを決めた。
二人ともプロの技術者であるし、敦樹自身にしても失敗の許されない仕事に従事している。ここは任せるのが正しい。実際、再侵攻は近いのだ。
塔《メテクシス》が活性化するのは、ほぼ四十日に一度。この時期に大量の『剛粧』と呼ばれる異生物がこちら側の世界に降下してくる。長野《ながの》県と岐阜《ぎふ》県の県境、塔《メテクシス》の周辺に現れる剛粧たちは、群を作って一斉に外側――難侵入《カタラ》地域の外にある人間の世界を目指すのだ。
しかしほとんどの場合、剛粧の群は夜行性・昼行性といった生態《せいたい》の差に加え、進行ルートの差によっていくつかの集団に分かれてしまう。
一つの群を鎮圧《ちんあつ》すれば、次に塔《メテクシス》が活性化する一ヵ月後までは何事もない、というわけにはいかないのだ。剛粧は数度に亘《わた》り、波のように押し寄せてくる。
今回の場合、第一陣がやって来たのが十日前の戦いである。そして今日の時点ですでに、第二陣の到着が今後一週間以内であるという予報が出ていた。有力視されているのは週明けの水曜《すいよう》日、つまり五日後である。
ただし通常は第一陣が最も大規模で、以降、急激《きゅうげき》に数は減っていく。前回の第一波に比べ、今回は比較的楽な相手だった。――とは言え、備えは重要である。だからこそ今日、敦樹は楢橋《ならはし》商店を訪れたのだ。
鞘《さや》つきの連装刀《れんそうとう》を長い布袋から取り出し、敦樹《あつき》は楢橋父にそれを渡す。彼はそれをしげしげと眺めた。
「で、どないしたん?」
「いつも通りです。使っているうちに重力センサーのブレが気になってきて」
「おう了解。ちゃちゃっとやってまうわ」
頷《うなず》くと楢橋父は、連装刀片手につっかけを引きずりながら店の奥へと向かう。入れ替わりに楢橋母が書類の乱雑に挟まったファイルを持ち出してきた。それを細長い台の上に置くと、手招きする。
「それじゃはい。銃刀免許を拝見」
鞄《かばん》を置いた敦樹は、制服のポケットからパスケースを取り出した。『南兵庫県警察公安委員会生活安全課発行・第一種銃刀所持免許』と印刷されたそれを差し出す。
楢橋母は敦樹が持つ免許証の項目を、一つひとつ指さしで確認《かくにん》する。それが終わるとファイルから作業契約書一式を取り出して、敦樹の方へ向けた。
「それじゃあこれ第一条から順番に読むから、内容を確認したら印鑑《いんかん》押してね」
「お母さん、別に毎回のことなんだし。ささっとやって上げたらいいじゃん」
二階の自室で私服のトレーナーに着替え、前掛けをして出てきた南美《なみ》が、そう母に背後から言った。しかし振り返った楢橋母は、頑《がん》として首を横に振る。
「何ゆうてるの、この子は。刀とか銃とか日常的に扱う人間が緊張感《きんちょうかん》と責任感なくしたらお終《しま》いやで。姫路《ひめじ》蜂起《ほうき》みたいなん、また起きたら嫌やろ?」
十年前のクーデター事件の話を出され、南美は不服そうながらも押し黙《だま》る。そんな昔のことを持ち出されても困るという顔だった。
だが、何だかんだで西日本全域の住人がその事件をトラウマに感じていることは、敦樹も度々《たびたび》感じる。
例えば楢橋商店が普段《ふだん》扱うのは、毎回使用許可が必要な高度虚物質技術《デイノス》ではなく、その代わりとして独自に研究されている模造虚物質技術《テクネー》である。これは高度虚物質技術《デイノス》のように使用許可のいらない、自分たちの技術だ。しかしその対象がこと銃や刃物となると、今度は自らの手でそれを封じる。そんな風潮《ふうちょう》が西日本全体にあるのだ。共同体の規制は格段に厳《きび》しくなり、市民の側もまた、それを良く守る。
結局、楢橋母は作業契約書の第二十条までをきっちり読み上げ、敦樹はそこに持参したハンコを押した。南美は苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔のまま受付に立ち、引き出しから取り出したソロバンをパチパチと弾《はじ》く。
「――いつもの調整《ちょうせい》料金でいいの?」
「う〜ん。すぐに月末やし学生さんなんやから、二割引でええわ。私お父ちゃん手伝ってくるから、アンタ書類《しょるい》作っといて」
楢橋《ならはし》母はそう言うと重要部分だけ書き込んだ作業契約書を渡して、奥の作業部屋へと引っ込んだ。南美《なみ》はその契約書を開くとしばらく目を通していたが、ふと思いついたというようにソロバンを弾《はじ》いた。眉《まゆ》が引きつって、その指が止まる。
「経営とか、結構|厳《きび》しいのか?」
敦樹《あつき》の問いに、南美は諦《あきら》めたような溜《た》め息をついて、ガックリと頷《うなず》いた。
「川中島《かわなかじま》さんに心配かけることじゃないけど、ちょっとね。――まあ、そういう部分で逆に贔屓《ひいき》にしてくれるお客さんもいるんだから、別にいいんだけどさ。おこづかいの日に現物支給とかいって鉄屑《てつくず》の山を渡されるのはね……。
神戸《こうべ》まで行く電車賃にも事欠くっていうのは、シャレにならないよ。――あ、そうだ」
言いながら気がついたというように、南美は顔を上げる。
「そう言えばあさっての日曜日《にちようび》さ、十時集合で神戸に遊びに行くっていう話、川中島さんは文彦《ふみひこ》くんから聞いてる?」
「いや。――文彦とデートなのか?」
敦樹は普段《ふだん》と変わらぬ調子で聞き返す。だが南美の方は思いもよらない切り返しに、慌てたように真っ赤《か》になった。
「ち、違うわよ。違います! 何で私が文彦くんと。っていうか、デートなら川中島さん誘わないし。……そうじゃなくて、クラスのみんなで元町《もとまち》に行くの。川中島さんってこれまで、あんまりそういうのに来たことないから、どうかなって。四方《しほう》さんも誘ってさあ」
その言葉に敦樹は南美が、最近になってきちんと学校へ通い出した自分に気を使ってくれたのだと気づく。素直に感謝《かんしゃ》したい気分だった。しかし、敦樹は横に首を振る。
「残念だが、仕事がある。またの機会《きかい》だな。その時にはできるだけ都合をつけるようにする」
「え、あさって仕事なの?」
「正午から剛粧《ごうしょう》対策の会議《かいぎ》がある。さっきもおばさんと話したんだが、次の剛粧対策が近そうなんだ」
敦樹の答えに、南美は一気に不安の表情を浮かべた。
「もしかして文彦《ふみひこ》くん、そのこと忘れてて……」
「いや、文彦はいいんだ。あるのは会議だけで、訓練は翌日からだ。出なければいけないのは、各防災団事務所の歩課《ほか》課長と砲課《ほうか》課長。つまり私と佐里《さり》だけだから。防除地域のパトロールも他《ほか》の防災団が担当の日だし、文彦が出かけることに問題はない」
「そう、なんだ……」
安堵《あんど》したように南美は言って、今度は少し後ろめたそうな顔になる。
「――何か、文彦くんばっかり遊び回ってるみたいだよね。川中島さんたちは一生懸命《いっしょうけんめい》仕事してる時に。毎日部活だってやってるし、迷惑とかじゃない?」
その問いに、敦樹《あつき》は腕を組んで考え込む。
「……文彦《ふみひこ》は何か、友達付き合いに全身|全霊《ぜんれい》をかけているようなところがあるから。そこまですることなら、認めることもできる」
「そう、なの?」
確認《かくにん》するように南美《なみ》が身を乗り出す。敦樹は頷《うなず》いた。
「実際、文彦はあれでいて剛粧《ごうしょう》対策とそれ以外をしっかり両立させているから。私や佐里《さり》が文彦の生活に付き合ったら、三日で目を回す。あれは大変だと思う」
本気で敦樹はそう考えていた。
実際、明日|土曜《どよう》は午前に訓練、午後に学校。文彦はその後部活に出る。夕食を食べて夜の八時から敦樹たちは警戒《けいかい》夜勤に入り、仕事が終わるのは日曜の朝六時。十時集合というのはおそらく現地でということだろう。結局文彦は、二時間ほどしか寝られないことになる。
本人が楽しんでいることを除けば、こんな生活が毎日続くのは苦行に近い。
それは敦樹にとっては不思議《ふしぎ》でもあり、また同時にある種の漠然とした不安すら感じることだった。
「文彦が体を壊《こわ》さなければいいんだが。まあ本人はピンピンしているから、問題はないんだと思う。――ただもし疲れているようなら、気づかってやってほしい」
「うん分かった。映画とかそういう方に誘導《ゆうどう》してみる。でも、そうか。文彦くんもあれで頑張ってるんだ」
南美は安堵《あんど》したように――そして何だか嬉《うれ》しそうに笑っていた。
その反応もまた、敦樹には不思議に思えた。
4
一時間ほどで連装刀《れんそうとう》の調整《ちょうせい》は終わり、敦樹は楢橋《ならはし》商店をあとにした。
まだ空は明るいが、陽《ひ》は完全に沈んでいる。商店街にかかるアーケードにも、すでに鈍い明かりがともっていた。
冬も近く、街灯に群がる虫たちの姿もない。商店の出入り口で何かそんなことに気づきながら、敦樹は周囲を見回した。そして街灯を挟んで反対側に、三輪《さんりん》自転車と佐里の姿を発見する。
食料の買い出しはとっくに終えたようだった。野菜満載の買い物袋を後部の荷台に入れたまま、本を手にした佐里はサドルにもたれかかって待っている。
「ゴメン、待たせた。――その本は?」
時間|潰《つぶ》しといった様子《ようす》で佐里が読んでいる本の背表紙を、敦樹は覗《のぞ》き込む。佐里は顔を上げると、敦樹が見やすいように本を持った手首を上げた。
「古本の翠木堂《すいぼくどう》さん通りかかったら、処分するからって。タダで何冊かもらっちゃった」
荷台へ視線を落とすと、買い物袋の中に角張った紙袋が混じっている。そして佐里《さり》がいま読んでいる本の名は『やさしい関西弁《かんさいべん》講座《こうざ》 ザ・カンサイ 〈基礎《きそ》編〉』――
「……何て言うか、くどいタイトルだな」
「そう?」
佐里は小首をかしげて問い返したが、――まあどうでもいいことである。敦樹《あつき》は後ろの荷台に自分の荷物を入れた。それを跨《また》ぐように佐里も荷台に乗ったのを確認《かくにん》すると、敦樹は三輪《さんりん》自転車に乗り、ペダルに足をかける。
「ああ、そうだ」
思い出したように敦樹は振り返った。
「釣具屋に寄り道していいかな? カミツブシだけ補充したい」
「エエヨー」
声が裏返った付け焼き刃のイントネーションで佐里は答え、クスクス笑う。
「――女の子にしては、変わった趣味《しゅみ》だよね。しかも妙に似合ってるから、かえって変」
敦樹のこの趣味は、『どうせ川縁《かわべり》の防災団事務所に住んでいるんだから食事に一品でも足せれば』という下らない理由で始めたものだった。だが今では結構、嵌《はま》っている。空き時間が少しでもできれば、まずは釣り竿《ざお》を持って川へ行くほどだった。
「あれでなかなか奥が深い……」
「はいはい。ただし釣具屋さんは、晩ご飯待ってる文彦《ふみひこ》君が、お腹《なか》空《す》かせてブーたれない範囲《はんい》でね」
「分かった」
敦樹は佐里が自分の両肩に手をかけたのを確《たし》かめ、前輪の前照灯用発電機《ダイナモ》に一|蹴《け》り入れると、ペダルを漕《こ》ぎ始めた。
「――しかしさっきの本。関西弁なんていろいろあるんだから、一|括《くく》りにできるもんでもないだろうに。そもそも何だって、関西で関西弁の基礎なんて本が売ってるんだ? 日本の東西ですら行き来のない今の時代、私や佐里みたいな新参者はそういるものでもないだろうに」
「でもこれ、二十年くらい前に出た本だから」
「ああ……なるほど」
納得して、敦樹は答えた。
塔《メテクシス》が出現し、剛粧《ごうしょう》が跋扈《ばっこ》するようになったのが二十五年前。その直後世界中のあちこちで――そして日本でも、国民的な大移動が起きたのだ。そういった人たちに合わせて、作られた本なのだろう。
敦樹が生まれる前のことだが、流入した難民《なんみん》がさらに難民を生んだような時期である。そんな中にあって、方言など真っ先に破壊《はかい》された。その経緯《けいい》を考えると、佐里の読んでいた古本の努力は、むしろ微笑《ほほえ》ましくすら感じる。
「しかしまあ外国語じゃないんだから、勉強してもな。……今でもわざわざ関西弁なんて話すのは、昔からこの土地に住んでいる人間くらいだろう。楢橋《ならはし》のオヤジさんとか、あと――」
「例の転校生とかね」
佐里《さり》は敦樹《あつき》の耳元に口を寄せると、小声で言う。
「来るそうそう、征服宣言しちゃうし。しかも敦樹が何か変な目のつけられ方してるみたいだから。あの子と知り合いってこともないでしょう?」
「ここに二人で来てから、まだ一年も経《た》っていない」
記憶《きおく》を反芻《はんすう》するように口ごもりながら、敦樹は答えた。
「知らない人間から恨みを買っているなんてことは、ないと思うが。ただ、私たちは経歴が経歴だからな……」
「まあ、その手の深刻な事態ではないとは思うけどね。やり口だって悪戯《いたずら》程度のものだし」
だが佐里の慰《なぐさ》めに反して、敦樹は少々深刻な表情で押し黙《だま》った。人通りの少ない夜道に、チェーンの軋《きし》む音ばかりが鳴る。
転校生・畑沼《はたぬま》清子《きよこ》がひっくり返ったのは、元々敦樹の席にあった椅子《いす》に座り、その脚が折れたからだ。だがあとでその断面を調《しら》べてみると、鉄ノコか何かで最初から切れ目が入れてあったことが分かった。
「本当に心当たりなんかないんだが……。しかし佐里の方も。ああいうのって、見抜けるものなのか?」
「普段《ふだん》からいろいろなモノが見えているのデス。これ特別製だから」
佐里は自慢げに、眼鏡《めがね》を上下させた。佐里のつけるそれは、単なる近眼の視覚補助器具ではない。敦樹が緊急《きんきゅう》時通信に備えて常に首からぶら下げているゴーグルと同じ、複合視聴覚インターフェイスの一種である。この装置は確《たし》かに、通信や記録《きろく》用カメラ、暗視|機能《きのう》などと、様々な能力を持つ。
しかし敦樹は時々佐里が、複合視聴覚インターフェイスの能力以上の情報を見ているように感じることがある。同じものを見ても敦樹が気づかないことに、佐里は気づくのだ。
敦樹が毎日座っている教室の椅子――その些細《ささい》な異常など、敦樹は見つけても無視するだろう。だがそこから事の実態を見抜き、行動に移れるというのは、完全に佐里の機転《きてん》がなせる技だった。あの場に敦樹しかいなかったならば、まず間違いなくあの陰険なトラップに引っかかっている。
さらに佐里はあの時点で、転校生・畑沼清子が犯人であると見抜き、意趣《いしゅ》返《がえ》しまで成功させてしまったわけだが――。
「あの時の一連の態度を考えると、細工をしたのはやっぱり転校生なのか?」
「だろうね。三限に保健室から戻ってきたあとは、もうずっと針みたいな視線で敦樹の後頭部を睨《にら》んでたもの。ねえ、敦樹。本当に知らない子なの?」
少々心配そうに、佐里《さり》が背後からそう訊《き》く。敦樹《あつき》は自信なさげに唸《うな》った。
「……プライベートな範囲《はんい》では、って言うなら、心当たりはないな。容姿はともかく、あのキャラクターはそうそう忘れないと思うし」
「確《たし》かにね」
佐里は力なく笑って同意する。
「まあ、あの子の目的はおいおい分かるとしても、目をつけられてるのは確実《かくじつ》っぽいんだから気をつけてね」
「分かってはいるが……」
気乗りしない返事をして、敦樹は溜《た》め息をついた。
5
土曜《どよう》の一日が過ぎて、夜勤明けの日曜。
敦樹が起きた時にはすでに、文彦《ふみひこ》は友人との待ち合わせに出かけたあとだった。
佐里もすでに起きていて、遅い朝食の準備をしていた。ほとんどは昨晩の夕食の残りを温め直しただけなのだが、これは今日が忙しくなることを見越し、あらかじめ多めに作っておいたものだった。
敦樹と佐里の二人はそれを食べ終わると、今度は揃《そろ》って六湛寺《ろくたんじ》中央事務所へと向かった。時間ギリギリである。滑り込んだ大|会議室《かいぎしつ》には折り畳み式の机とパイプ椅子《いす》が並び、全体の七割――三十人ほどの席がもう埋まっていた。そして会議室の一番前に、畑沼《はたぬま》清子《きよこ》が小さな体でふんぞり返るように座っている。
「何で転校生が……」
この思いもかけない出来事に、敦樹と佐里は途方にくれた。そんな二人の様子《ようす》を見た清子は、勝ち誇ったようにフフンと笑う。
「どうしたんや、川中島《かわなかじま》敦樹。新しい作戦|顧問《こもん》サマがこんなカワイコちゃんやから茫然《ぼうぜん》自失かいな? お人形さんみたいに突っ立っとらんで、茶ァの一つも出さんかい!」
「――いや、あのな。っていうか作戦顧問?」
いつできた役職《やくしょく》なのだ? という疑問はさておき、敦樹には状況が良く飲み込めない。そんな困っている敦樹の前へ、代わりに佐里が割って入った。
「お茶の代わりにお茶漬けで良ければ、私が作るわよ畑沼さん?」
眼鏡《めがね》の奥で目を細め、友好的にニッコリと笑う。
(――何だそりゃ。)
他《ほか》の防災団員たちは、揃《そろ》って首をかしげた。直後のざわめきは空気の揺れとなって、室内に広がる。
もちろんこの「茶漬けを出す」は言葉通りの意味ではなく、有名な旧|京都《きょうと》の高等|暗喩《あんゆ》である。その真の意味は『さっさと帰れ』。
ただし微妙に状況と、噛《か》み合っていない。
(ああ、関西《かんさい》弁|講座《こうざ》に載ってたアレか)
同じ本を読んだ敦樹《あつき》だけが、普通に納得した。
一方、清子《きよこ》のやたらと険悪な視線は、敦樹から佐里《さり》へと移る。
「……なるほどな。教室の椅子《いす》すり替えたんは、お前か?」
「違うわよ」
かけらほどの誠意もない笑顔のまま、佐里は即答した。普通、とぼけるなら『何のこと?』辺《あた》りが妥当だろうと、この手の腹芸《はらげい》に疎《うと》い敦樹でも今度は思った。だが佐里は、自分の嘘《うそ》を隠そうとはしない。良く分からない火花が飛び散る中、何だ何だと無闇《むやみ》な人集《ひとだか》りができていく。
「ふん。ウチに宣戦布告かいな。あ〜あ、無知いうんは恐いね」
「そうね。転校してきてから、まだ三日だし。私、もっと畑沼さんのこと知りたいな」
相変わらずの笑顔。敦樹は仲裁の言葉を思いつけず、オロオロとする。何が根底にあるのか、本気で心当たりがない。そして清子が敦樹に見せた根拠不明の敵意のせいで、第三者のはずの佐里が過剰反応している。
「え、この子って御茶家所《おちゃやしょ》の学校の子なの?」
迷う間にも、人集りを作った防災団員の一人が訊《き》く。佐里は頷《うなず》いた。
「そうなんです。畑沼《はたぬま》さん転校初日に自分の席で――」
「言うなぁあああぁあああ!!」
直後、清子の後頭部をスリッパで叩《はた》く「パコン」という間抜けな音が鳴る。そして絶叫はピタリと止まった。
「行儀《ぎょうぎ》良くしろ、清子」
お世辞にも綺麗《きれい》とは言えない着物姿の男が、先ほど叩くのに使ったスリッパを床に落とし、履《は》き直した。そして帽子を取ると、ペコリペコリと周囲の防災団員たちに頭を下げる。
「すいませんね、どうも。躾《しつけ》がなってなくて」
そして、「誰《だれ》?」という疑問を防災団員たちが口にするよりも早く、防災団地域団長・小早川《こばやかわ》のダミ声が室内に響《ひび》いた。
「会議《かいぎ》を始める。全員、どこでもいいから席についてくれ」
この清子たち奇妙な二人組の紹介は、どうやら小早川の方からあるようだった。人集りが解け、席が埋まっていく。件《くだん》の男はいつの間にか、チョコンと清子の隣《となり》に座っていた。
「さてまずは今日の会議の趣旨《しゅし》だが――」
団長小早川がそう切り出した。
「先日の剛粧《ごうしょう》対策に際して我々に降りかかった危機《きき》は、全員|記憶《きおく》に新しいことと思う。卵殻《ケリュフォス》の影響《えいきょう》で飛行は不可能とされていた小型飛行|剛粧《ごうしょう》の襲来《しゅうらい》は、塔《メテクシス》出現以降の二十五年間で、初めてのことだった。
だが空からの襲撃という点とは別に、我々の剛粧防除対策の体制には、根本的な脆《もろ》さがある。それをつかれたがゆえの危機《きき》だったということは、全員の認めるところだと思う。
そこで我々の今後取るべき作戦について、山陰《さんいん》共同体の連合知事である春瀬《はるせ》氏、及び氏の門下生である畑沼《はたぬま》氏から助言を頂くことになった。なお畑沼氏は砲課《ほうか》要員として、次回作戦にも直接参加して頂く」
声こそ上がらなかったが、全員の表情には一様に驚《おどろ》きが浮かんでいた。
西日本における剛粧対策は、その共同体内の予算、人員、そして責任によって運営されてきた。その活動に外部の人間――今回の場合なら畑沼|清子《きよこ》――が権限を持つということは、これまで慣例的になかったことなのである。しかもその後ろ盾として余所《よそ》の共同体の連合知事本人が来たというのは、まさに異例中の異例であると言えた。そして結局は『そもそもなぜそんなことが可能になったのか』ということが、全員の一番の疑問だった。
とは言え、現場の人間である彼らにとって『春瀬|史郎《しろう》とその弟子』による協力は願ってもないことでもあった。なぜなら西日本の共同体群の中でも、北の山陰は現在、最も成功している共同体だからである。
史郎が知事を務めるその土地は、剛粧対策でもそれ以外でも、他の共同体の一歩先を行っている。そして様々な場面でリーダーシップを発揮することも多い。いわばその立役者である人物と、彼の育てる次世代エリートとも言える存在が、協力を申し出てくれているのだ。これほど心強いことはない。
――ひとまずそう、言いきりたいところだが。
このやたらと口の悪い少女についてばかりは、誰《だれ》もが一抹《いちまつ》の不安を感じていた。
無言のまま、全員の視線が史郎に集中する。
(ホントに大丈夫でしょうか……)
史郎も表情だけで答えた。
(何とかなるでしょう……)
微妙な間が、室内を支配する。
そしてその沈黙《ちんもく》ができた隙《すき》を逃《のが》さず、畑沼清子は勝手に目の前のマイクに向かって叫んだ。
「ええか? 話は簡単《かんたん》や。次の対策までに尼崎《あまがさき》を迷路化する!」
6
作業は翌日の月曜《げつよう》から、さっそく始まった。
――南|兵庫《ひょうご》の防除対策指定地域である尼崎市と伊丹《いたみ》市は、元々北を山、南を海に挟まれた市街地だった場所である。そして東に大阪《おおさか》、西に神戸《こうべ》という大都市が存在する位置関係から、東西方向に何本もの幹線道路や鉄道が走っていた。
大阪が難侵入《カタラ》地域に呑《の》み込まれた現在、これらを使う者はいない。そこで、この幹線道跡に『剛粧《ごうしょう》』を誘い込み、そのうえで多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》による砲撃《ほうげき》を加える、というのがこれまで繰《く》り返し行われてきた作戦だった。
「けどや。この方法やと防災団側も各道路に戦力を分散させることになるやろ? そやから何かの不都合でどっか一ヵ所に剛粧が集中した時、他《ほか》の防災団はフォローできへん。自分トコの持ち場もあるしな」
あらゆる建物が埃《ほこり》で灰色がかった廃墟《はいきょ》の町の中を、大きな車輪《しゃりん》のついたトレーラーを引いて歩行する清子《きよこ》所有の『二十四式多脚砲台』。その上面装甲に立ち上がり、腰に下げたメガホンを手で叩《たた》きながら、清子は風に負けない大声で言った。
「そ・こ・で・や。――まずは出口を三つに減らす。大部隊で待ち伏せをかけよ、ちゅうわけや。そうすれば元々限りのある戦力でも、確実《かくじつ》に敵を撃破できる。
ま、もっともこのとき剛粧の方も三ヵ所に集中して一気に押し寄せるような状況やと、元の木阿弥《もくあみ》や。そこで、町を迷路化して相手を分断するのと同時に、全体の侵攻を遅らせて少しずつ確実に相手してくわけや。
――結果的に今までの剛粧対策より、鎮圧《ちんあつ》宣言まで時間はかかるかも知れん。けど、ローテーション組めば順番で休憩《きゅうけい》もできるし、この問題には対応できる。どや、完璧《かんぺき》やろ」
[#挿絵(img/basileis1_140.jpg)入る]
そう説明してふんぞり返る。清子《きよこ》と同じ二十四式に乗る文彦《ふみひこ》は、背後のトレーラーに山積みされているテトラポッドから視線を転じ、感心したように拍手した。
「そんなこと思いつくなんて、凄《すご》いねキヨちゃん」
「お前にキヨちゃん呼ばれる憶《おぼ》えなんかないわ」
持っていたメガホンで、文彦のオレンジヘルメット頭をぽかりと殴る。
「小学生の宿題|褒《ほ》めるような言い方すんな!」
「……そこまで大層な作戦でもないじゃん」
文彦はしょんぼりした表情を浮かべると、いつもの日記帳を取り出して今のやりとりを記録《きろく》した。そんな二人を乗せたまま、二十四式は廃墟《はいきょ》の町を急ぐ。
剛粧《ごうしょう》の到着は二日後と、今日になって予報が確定《かくてい》された。もうあまり時間はない。この一帯では清子が立案した迷路作成に向けて、大急ぎで準備が進められていた。本来なら実戦か正式な訓練でしか使わない高度虚物質技術《デイノス》の使用許可も出ており、そのうえでの総動員態勢だった。
各防災団は民間と共同して作業にあたっている。一方で、清子自身は砲課《ほうか》の一員として|樋ノ口《ひのぐち》町防災団に預けられていた。
預けられていたのだが――
――本当は押しつけられたんだろうなあ。
清子たちの隣《となり》で同じようにトレーラーを引く佐里《さり》の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》・パリカリア。その上に座った敦樹《あつき》は、ぼんやりと空を見上げた。隣《となり》にいる佐里も似たようなことを考えているのか、膨《ふく》れた顔のままだ。もっとも清子に知れると煩《うるさ》いので、二人とも黙《だま》っておく。
そうする間にも道路の前方から、仮設電線にポールを伸ばした集電トローリー式のトラックがやってきた。敦樹たちは道路の左右に分かれて道を空ける。敦樹はすでに荷台を空にしたそのトラックの運転手と軽く手を挙げ合って挨拶《あいさつ》を交わし、通り過ぎるのを待った。
完全に車両が通過すると、佐里が再び多脚砲台に前進を命じる。その一方で敦樹は、隣を歩く多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》から、清子がこちらをじっと見ていることに気がついた。
「……最初見た時から思ててんけど、えらいけったいやなあ、そっちの」
多脚砲台の足音に負けぬよう、清子はメガホンを口に大声で怒鳴ってくる。対して敦樹は、のんびりと答えた。
「正式採用品じゃないからな。外装が少し違う」
だが清子は、かえって不信めいた表情を浮かべた。『少し違う』で済むのかという顔である。
例えばいま清子が操《あやつ》っている多脚砲台『二十四式』は、細かな改装パターンがいくつかあるものの、現在最も新しく最も使用者の多い車種である。対して佐里のパリカリアは試作車扱いであり、そうした共通名を持たない。
両車両とも六本の脚とその上に載った砲塔、折り畳んだ重作業可能なドーザーブレード、多目的制御棒による外部|操作《そうさ》といった基本的な構成は同じなのだ。しかし外観について抱く感想は、『根本的に全く別のもの』だった。
まず一番分かりやすい違いは、その大きさである。佐里《さり》のパリカリアは二十四式より一回り以上大きい。また全体を覆《おお》う装甲も、パリカリアの方はどこもかしこもひとまず鉄板で覆ってしまい、二十四式に比べ随分と野暮《やぼ》ったい印象だった。
おまけに前回の戦闘《せんとう》で剛粧《ごうしょう》に噛《か》みつかれた歯形が、今も車体にくっきりと残っている。穴の縁《ふち》を触ってケガをしないよう、敦樹《あつき》が軽くヤスリをかけたのだが、そういうことができてしまうこと自体、あまり良くない材料を使っていることの証拠だった。
「――まあ多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》は主砲が撃《う》てれば、それで十分だ。今までもコイツでやって来た」
そう言う敦樹の呑気《のんき》な態度に、清子《きよこ》は不満げに鼻を鳴らす。
「珍妙なこだわり持つんはええけど、足引っ張らんといてや」
「そういう言い方ばっかりしてると、みんなに嫌われるよキヨちゃん」
「キヨちゃん言うな!」
再び文彦《ふみひこ》のヘルメットをポカンと殴るのと同時、清子は目的地に到着したことに気づいて多脚砲台に停止を命じた。十分に速度が落ちると、清子は装甲の上から飛び降りる。多脚砲台の方はさらに二、三歩進んで停止した。
「さあ、さっさと仕事に取りかかろか」
四人がやって来たのは、五合橋《ごごうばし》線の陸橋である。陸橋本線の方は開放して通り道とし、その両|脇《わき》にある地上側道路を塞《ふさ》ぐのが作業の目的だった。
その陸橋が跨《また》いでいる鉄道線路を、三段に折り畳まれたコンクリート壁《かべ》を積んだ列車が、ちょうどゆっくりと通り過ぎていく。いわゆる『堤防列車』と呼ばれるもので、設置・展開すれば高さ10[#「10」は縦中横]mほどの壁を線路上に築くことができる。
「……あんなものまで、移動させているのか?」
敦樹の呟《つぶや》きに、清子は笑って答えた。
「こんな使い勝手のええモンも、ちょっとないからな。一見不安定に見えるけど、油圧スタンドさえきっちり展開したらそうそうはひっくり返らんらしいし」
「それはそうだが。――随分と金をかけてるみたいじゃないか」
「何か問題あるか?」
その返答に敦樹は一つ息をつくと、停止したパリカリアの上に立ち上がり、作業用のヘルメットを目深《まぶか》にかぶった。
「別にケチをつけるつもりはない。――作業に入ろう。少なくとも受け持ち分は、時間内に終わらせたい」
答えながら荷台へと上がり、テトラポッドを固定していた鎖《くさり》を外す。佐里の方はトレーラーの連結器を解除にかかった。同じように文彦も作業を始める中、取り残されたように清子は「え?」と聞き返した。
「時間て?」
「今日は月曜《げつよう》だ。昼から授業がある」
敦樹《あつき》は答えながら、トレーラー後部にあるパネルのストッパーを左右とも解除する。佐里《さり》はその間に多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》を移動させ、モグラの手を巨大化したようなドーザーブレードを展開させた。パリカリアは長大なブレード本体と親指を使って、緩慢《かんまん》な動きでテトラポッドを掴《つか》む。
文彦《ふみひこ》が自分たちのトレーラーに上ったまま、呼びかける。
「キヨちゃん、こっちも開け終わったよ。僕たちの方も――」
「ちょこっと待て。アンタら設置終わったら、学校行く気なんか?」
「そのつもりだ。白井《しらい》には借りがある。休校|確実《かくじつ》な剛粧《ごうしょう》対策当日以外は、あまり欠席したくない。ただ、仕事としてやるべきことはきちんとやってから行く。それはルールだ」
敦樹はそれだけ言うと、黙々《もくもく》と作業を開始する。
「勉強やのうて、借りを返すためにガッコ行くんかいな。変なやっちゃなぁ……」
清子《きよこ》は呆《あき》れたように言い、天を仰いだ。雲が一つぽっかりと浮かんでいる。
7
きっちり三日後、剛粧の群は南|兵庫《ひょうご》へやって来た。数は一千。
第二波ということで、規模としては小さい部類である。その意味では、清子の作戦を最初に試すのには手頃《てごろ》な相手だった。
今回の剛粧対策は早朝四時から始まっている。
県道42号線に沿って三ヵ所設置された尼崎《あまがさき》迷路の出口を、各防災団の多脚砲台でそれぞれ固めた。これまで八つの橋に配置されていた二十一の防災団が再配置されることになったのだ。
迷路出口で集中砲火を浴びせるのは、各防災団の多脚砲台と砲課《ほうか》員の仕事となる。一方、高度虚物質技術《デイノス》を携《たずさ》えた歩課《ほか》員は、想定外の場所を剛粧が突破してきた場合に備え、背後の土地に分散して配置されていた。
さらにこれとは別に、大規模な緊急《きんきゅう》事態発生時に迅速《じんそく》な対応をするための予備|遊撃《ゆうげき》班が、二つ作られている。これは二つの防災団が、それぞれの場所に配置されることになった。
現在、作戦立案者の清子が臨時《りんじ》に加わっている|樋ノ口《ひのぐち》町防災団は、この予備班の一つに回っている。少なくとも序盤《じょばん》は、他《ほか》の防災団の活動を見守るというポジションだった。
現在、午前六時半。ようやく地平線から頭を出した太陽を横に、清子は自分の操《あやつ》る多脚砲台・二十四式の上にあぐらを組んで座っていた。
「いやあしかし、壮観やなあ」
迷路出口の一つ、西大島《にしおおしま》出口を少し離《はな》れた場所に見ながら、清子《きよこ》は機嫌《きげん》良く声を上げた。その口から白い息が漏れる。
広い交差点の真ん中には、多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》八両が砲口を東に向けて並んでいた。これまで三両で守っていた地点であるから、倍以上の戦力で剛粧《ごうしょう》に対峙《たいじ》することになる。
「こんだけ火力集中してんねんから、ちょっと負けへんで」
「思惑通りに行けば、な」
清子の視察に付き合っている敦樹《あつき》は、目の前の道に積み上がったテトラポッドの山を見上げた。横にいた佐里《さり》と文彦《ふみひこ》も、その視線を追う。
至るところに築《きず》かれたこの巨大なバリケードは、的確《てきかく》な配置によって確かに尼崎《あまがさき》市内を複雑怪奇な迷路に仕立て上げてしまった。仮に敦樹自身が地図を持たずに入ったなら、数時間は出てこれないのではないかと思うような入り組みようである。
そしてすでに剛粧の先頭集団は、この迷路内に侵入していた。その証拠に廃墟《はいきょ》のあちこちから、剛粧の鳴き声らしきものが聞こえてくる。だが今のところはこの迷路の存在に行く手を阻《はば》まれ、出口まで辿《たど》り着いたものはいない。
ただこれまで様々な剛粧を見てきた敦樹からしてみれば、やはり不安もあるというのが正直な感想だった。
「このテトラポッドの壁《かべ》、人間ならばともかく体の大きい剛粧なら、登れる奴《やつ》もいるんじゃないのか?」
剛粧の体は、総じて卵殻《ケリュフォス》と呼ばれる固い石灰質の鎧《よろい》に覆《おお》われている。その存在が邪魔《じゃま》となり、どの剛粧も極端に運動能力が落ちているのは確かだ。しかし一口に『剛粧』とは言っても、すでに数百近い種が確認されている。そしてその各々《おのおの》がどのような能力を持つかは、未知数な部分も多い。
「確《たし》かに会議《かいぎ》での話通り、これまでの方法が脆《もろ》いってのは分かる。だが前回の対策では、突然空から狙《ねら》われる羽目になったんだ。――それに対する備えってことを考えれば、この迷路化には本当に意味があったのか?」
だが敦樹の不安に、清子は「フン」と偉そうに笑った。
「その空の敵かて、結局は多脚砲台の連射砲で全部|叩《たた》き落とせたんやろ? 要するに落ち着いて対処しとったら、大したことあらへんかってん。――なら考えなあかんのは、空への備えをどうこうするっちゅう話やのうて、不測の事態に陥った時どう迅速《じんそく》に対応するか、その態勢作りが必要やっちゅう話なんとちゃうか?」
周囲を横柄《おうへい》に見回しながら、自信満々の表情で清子は言う。
「この迷路は群を分断することが、一番の目的なんや。大群の突破はまず無理っちゅうだけで十分やろ。何か予想外の変なんが迷路出口に現れたかて、こっちも出口の一地点に大勢おるんや。どうとでも対処できる。そして出口以外のところから出てくるんは、多くてもせいぜい一時間に二、三匹。そいつらは散開して配置されとる歩課《ほか》と遊撃《ゆうげき》班で倒せばええねん。これはいつものことやろ? 要するに、いつも通りやることはやらなあかんけど、安全度は前より確実《かくじつ》に上がっとんのや。まあ見とけて」
――その慢心が恐い。
言葉にはしないが神経質な表情で、敦樹《あつき》はそう思う。『いつものこと』が通用しない敵に、すでに二度、敦樹は遭遇した。剛粧《ごうしょう》は人間が越えられないはずと考えていた様々な『壁《かべ》』を、ある日突然越えてきたのだ。
清子《きよこ》は不測の事態に対する体制作りが重要と言い、それは一理あると敦樹も思う。
だが本当にこれで万全なのか。人間側が完全なつもりでいる備えを、剛粧はさらに破ってくるのではないか。そう敦樹は考えてしまう。
しかし一方で、清子の自慢げな口ぶりは止まらない。
「今回は指示を出し合う仲間が周囲におるんや。よっぽどのことがない限り孤立したりはせんからな。奇襲《きしゅう》にビビるようなトンマが一人ぐらいドジ踏んでも、フォローOKやで?」
佐里《さり》の方を含み笑いで見て、前回の戦闘《せんとう》を揶揄《やゆ》する。どうやら記録《きろく》を調《しら》べたらしかった。
普段《ふだん》温厚で怒った姿などほぼ皆無《かいむ》である佐里が、今回ばかりは顔色を変えた。二人の間にいた文彦《ふみひこ》だけが分かっていない表情で、双方を交互に見る。敦樹自身も今度は『参ったな』という気分で、渋面《じゅうめん》を作った。
――佐里は図星だからこそ、この下らない挑発を受け流せないのだ。
清子の言うことは事実としてその通りで、佐里は命を落としかけた。佐里には言い訳のしようがないし、実際しない。
「どうしたんや、何か言わんのか?」
「そのへんにしておけ」
調子《ちょうし》に乗る清子を、敦樹が静かな声で遮《さえぎ》った。
「勝ち誇るのは自分の実力を示してからにしてくれ。自分の成績《せいせき》を見せたことのない人間が、他人の成績にごちゃごちゃ言うのは、私は好きじゃない」
「……ほう」
笑って清子は頷《うなず》いた。
「まあええ。ここは退《ひ》いたるわ。んな、視察も大体終わったし、川まで引き返そか。きちんと待機《たいき》しとかんとな」
清子は砲塔の上に立ち上がると、砲課《ほうか》の象徴とも言える多目的制御棒を用いて命じる。二十四式は踵《きびす》を返し、ゆっくりと前進を始めた。文彦が「待ってよ」と慌ててその手すりに掴《つか》まる。
敦樹はパリカリアの上で押し黙《だま》ったままの佐里を見上げた。
「気にするな」
「うん、分かってる」
小さく頷《うなず》いて微笑《ほほえ》むと、佐里《さり》の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》も足音を立てながら二十四式のあとに続いた。そのまま四人は、武庫川《むこがわ》にかかった名神《めいしん》高速の橋へと向かう。今回はそこが、敦樹《あつき》たちの待機《たいき》場所として指定されていた。
清子《きよこ》の作戦によって町の中を迷路化してしまったことで、防災団側も迷路出口より東側、防除地域内で行動することが困難《こんなん》になっている。そこでこれからは、今まで剛粧《ごうしょう》を誘い込むのに使っていた廃線高架を、逆に人間の移動用に使うことになったのだ。あらゆる不測の事態に対処することが求められる遊撃《ゆうげき》班は、その付近で待機する。
「でもさあ、キヨちゃん。僕らは補助戦力なんだから、ホントはもっと後ろに下がってた方がいいんじゃない? どこかで不都合が起きた時、状況に対応しやすいようにさ。――それが今は、わざわざ名神《めいしん》高速のところで待つような配置になってて。これって迷路の真ん中に飛び込めるようにでしょ? 他《ほか》の防災団を支援するのにそんな必要って、本当にあるの? 何かしっくりこないような気がするんだよなあ」
今まさに敦樹が考えていた疑問を、前方の文彦《ふみひこ》が清子に言った。対して清子は、やれやれという風に肩を竦《すく》める。
「ウチの作戦は完璧《かんぺき》やけどな。それでも何が起こるか分からんのが剛粧対策や。慎重に行かんとな。それとキヨちゃんはやめ」
――慎重か。
清子には最も似合わない言葉だと敦樹は思いながら、黙々《もくもく》とパリカリアの隣《となり》について歩く。
遠くで、小太鼓を連打するような音が響《ひび》いた。
「お、始まったみたいやな」
元から眼鏡《めがね》をかけている佐里以外の三人が、申し合わせたようにそれぞれのゴーグルをかける。視界には上方の空と雲しかない場所に結像する形で、青い板の上に文字情報が映し出されていた。特に緊急《きんきゅう》性のない情報は、このような形で掲示されることになっている。
表示される文字の列は、先ほどまでいた西大島《にしおおしま》出口で剛粧四十匹の待ち伏せ撃破に成功したことを告げていた。
その後も次々と成果が報告される。
全体の進行はこれまでの剛粧対策と比べ遅々とはしているが、確《たし》かに清子の言う通り危なげがない。敦樹たちは川の堤防から名神高速跡の高架に上り、戦況を見守った。
敵の動きと味方の動き。全体の行動と結果は逐一中央事務所から配信されるので、過不足なく知ることができる。四人は高架上に乗り入れた二台の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》に寄りかかったり、道に座り込んだりしながら、自分たちの出番を待つ。
しかしこのまま順調《じゅんちょう》に行けば、出番などなさそうだった。トコトコと呑気《のんき》な射撃音だけが、ようやく朝らしい朝を迎えた空に響き渡る。
ゴーグルを額に持ち上げた文彦が、退屈したように呟《つぶや》いた。
「何か、蚊帳《かや》の外って感じだね。僕たち出番なしかな、敦樹《あつき》ちゃん」
「持ち場を持っていた時と勝手が違うのは分かるが、あまり気を抜くな」
取り纏《まと》める立場として、だらけないよう敦樹はきつく言う。しかし内心では同じことを考え、少々焦ってもいた。
ここまで大掛かりな作業をした以上、よほどの不都合が起こらない限り、現在の清子《きよこ》の作戦は採用され続けるだろう。だが『|樋ノ口《ひのぐち》町防災団』は全員未成年だからと、このままこの遊撃《ゆうげき》班という補欠《ベンチウォーマー》のような役に封じ込まれたのでは堪《たま》らない。
一方、そんな内心など知ったことかというように敦樹たちを予備戦力に押し込んだ張本人である畑沼《はたぬま》清子は、自分の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の上でゴロンと寝そべり気楽に構えている。まるで呑気《のんき》なものだった。
その様子《ようす》を見た敦樹は、内心の迷いを振り払うように大きく数度、首を振った。
剛粧《ごうしょう》との戦いはもう二十五年も続いている。
今の敦樹たちのように、不測の事態に備えながらひたすら待つというのも、防災団という職務《しょくむ》の一側面である。
「――毎回、大騒《おおさわ》ぎが起きてたんじゃ堪らない、か」
敦樹の呟《つぶや》きを耳ざとく聞きつけたらしく、ゴーグルを着けた清子はニヤニヤしながら体を起こした。
「わざわざ心配せんでも、ウチらかて大活躍《だいかつやく》、回ってくるでぇ」
「どういう意味だ?」
さすがに顔を顰《しか》めて、敦樹は問い返した。
「お前の指示で準備したこの作戦に、不備があると?」
「不備なんかあるかいな。まあなんちゅうか、あれやな。――誘いボケ?」
相変わらずニヤニヤしたまま、清子はとぼける。さすがに敦樹は不審《ふしん》と不快を表情に浮かべ、砲塔上の清子をきつく睨《にら》み上げた。
清子の態度はまるで『この作戦の失敗を待っている』と言わんばかりである。先ほどの台詞《せりふ》も、絶対の安全と確実を期さねばならない防災団員にとっては、聞き捨てることのできない一言だった。
「……何か隠しているのか? 一体どういうことだ、畑沼」
「さてね〜♪」
韜晦《とうかい》してそう答えた次の瞬間《しゅんかん》、ゴーグルの中で清子の目が細められた。そして敦樹にはもう目もくれず、東の空を振り向く。
「……敦樹ちゃん。何か、変なことが起きてない?」
背後にいた文彦《ふみひこ》が、そう呟いた。敦樹はすぐにゴーグルの接触スイッチに触れ、防除地域全体の地図を呼び出す。
防除地域内における剛粧《ごうしょう》の動きは、六甲《ろっこう》山地に設置されている|生体レーダーサイト《AVR》で常に観測《かんそく》され、情報が送られてくる。レーダーの死角に入らなければ剛粧の存在位置は筒抜けであり、それが上空から見下ろした図という形で全防災団員に配信されていた。
この二時間で、剛粧の光点は迷路のほぼ全体に散らばっている。だがなぜか、入り組んだ道をものともせずかなりのスピードで進んでいく集団が、地図の中に現れていた。
しかも道の選択が出鱈目《でたらめ》ではない。正確に迷路を解き、最短ルートで一つの出口を目指そうとしていた。そしてそれ以外の剛粧たちもまた、群を作る習性のまま迷路突破に走る集団に続こうとする。
その目標とする出口は、ただひたすら一番南に位置する一つ。
「畑沼《はたぬま》、これは――」
敦樹《あつき》の叫びに、緊急《きんきゅう》呼び出しの電子音が重なった。
『こちら元浜《もとはま》出口。剛粧の到着数が予想の範囲《はんい》を超え始めている。応援を――』
8
敦樹は清子《きよこ》を殺気の籠《こも》った目で睨《にら》んで、すぐ通信に答えた。
「こちら遊撃《ゆうげき》1。元浜、急いでそちらへ向かう」
マイクが声を正確に拾うよう、大声で怒鳴る。だが多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》から地面に飛び降りた清子が、それに続けて勝手に通信を付け加えた。
「訂正や。遊撃1は別行動に移る。散ってる歩課《ほか》は呼び戻してええから、元浜の件はそっちだけで対処して」
「ちょっと待て!」
怒気を含んだ声で、敦樹は清子の肩を掴《つか》み上げた。
「……これまでは黙《だま》っていたが、いい加減にしておけよ。お前の作戦は失敗した。それで仲間が危機《きき》に陥っているんだぞ」
「みたいやな。――でもなんでやろうな」
「何だと?」
軽く眉《まゆ》を上げた敦樹を、清子は睨み返す。
「例えばアリンコは自分の臭《にお》いを残して、入り組んだ道の道しるべとする。まあ『普通に』迷路が解かれるんやったら、この手のマーキング能力を持った剛粧やろうなと、今んトコ考えてはいる。――でも今回の様子《ようす》は、そういうんとは違《ちが》うやろ? 前ぶれもなしに、まず結果が出た」
それは確《たし》かにその通りだった。敦樹は少し落ち着くよう自分に言い聞かせ、静かに訊《き》く。
「……要するに、何が言いたい?」
「こないだの空からの攻撃《こうげき》といい、今回の迷路突破といい、ここら一帯で何か『相当に』おかしなことが起こっとる。そう思わんか、ゆうてんねん。――中央事務所! 事前にゆうといた電磁波バースト、拾えたか?」
清子《きよこ》が通信で訊《き》くと、スピーカーから答えが返った。
『こちら六湛寺《ろくたんじ》中央、確《たし》かに出ました』
「結果をそのまま見たいから、位置と地図の重ね合わせだけして3aのチャンネルに載せて」
『了解です』
応答の声が返ると清子は、見てみろと視線で促す。敦樹《あつき》は掴《つか》んでいた手をようやく離《はな》すと、ゴーグルの接触スイッチをいじり問題の『ch‐3a』を開いてみた。
前方の空間に、防除地域一帯の地図が結像する。そしてその上へ、外へ飛び出すような無数の白線が入った画像が重なる。
「……何か花火みたいな模様が映ってるね」
画像を見た文彦《ふみひこ》が、呟《つぶや》くように言う。佐里《さり》も黙《だま》ったまま頷《うなず》いた。模様の周辺にはさらに、意味不明の濃淡《のうたん》やいくつもの点が映っている。
「ついさっきのレーダー観測《かんそく》結果を、フィルタかけずにそのまま載せたもんや。ちゅうても限界容量超えて、本来の内容の方はトンでもうてるけどな」
清子が説明する。
「その中心――次屋《つぎや》町の辺《あた》りやけどな。ここにこれまで、散々ウチらを悩ませてきた『剛粧《ごうしょう》を操《あやつ》る剛粧』がおる」
「剛粧を操る……剛粧?」
敦樹は戸惑いながら訊いた。確かに、肉食動物として狩りを行う剛粧は、様々な集団行動と命令伝達の手段を持つ。そこに相乗りし、自分に都合のいい命令を下すことができる奇妙な剛粧がいるということは考えられる。
「しかしそんな報告例は聞いたことがない。第一、この観測結果が示すのは――」
「毎年どれだけの新種剛粧が記録《きろく》されてると思《おも》てんねん。これまでの常識《じょうしき》より、いま実際に起きてる状況を重視するべきやろ。とにかく、この異常事態を引き起こしとる元凶はコイツや。山陰《さんいん》でもそれなりに被害出ててな。ほっとくこともできんから、足取り追っとったんや」
「でも畑沼《はたぬま》さんが言うここって、剛粧どころか何もいないわよ?」
急いで他《ほか》の状況図と清子の観測結果を比較し、佐里が答えた。
「六甲《ろっこう》レーダーには、何も映ってない……」
「コイツは|生体レーダー《AVR》には映らへん。――というより、まだあらゆる意味で観測自体ができてへん。その姿を見たヤツがおらんのや。やからウチらは幽霊剛粧《ファンタズマ》て呼んでる。ちゅうても実際はそんな非科学的な話やなくて――」
「レーダーに映らないなら……土の中? もしかして下水管を通って」
佐里《さり》が、すぐに思いつく可能性を口にする。しかし清子《きよこ》は首を振った。
「それはもう検証済みや。土ン中も掘ってみた。痕跡《こんせき》はゼロ。一番可能性が高いんは、丁寧《ていねい》に建物の影《かげ》を選んで移動するっちゅう方法やろな。元々そういう生態の持ち主なのかも知れんけど、タチ悪いっちゅうか、剛粧《ごうしょう》にしては頭のええやっちゃで……」
これに関してはまだ確証《かくしょう》が持てないという口調《くちょう》で、清子は話を続ける。
「とにかくコイツは、どこにおるか見つけられへん。他《ほか》の剛粧を操《あやつ》る時の変な電磁波に気づいて、ようやく存在を特定できた。けどさっき言った通り、実際にその姿を見た奴《やつ》はまだおらん。まあ、農薬の効かん害虫が毎年出てくるみたいに、こっち側の構築したシステムを完璧《かんぺき》にくぐり抜けられる剛粧が出てきたっちゅうこっちゃ。――ウチらはコイツを倒す。そうすればこの状況は打破できる」
「……どうしたの、敦樹《あつき》?」
佐里が心配そうに訊《たず》ねた。清子と文彦《ふみひこ》が振り向き、敦樹の顔を覗《のぞ》き込む。
しかし敦樹は、完全に放心していた。
異常な行動に出る剛粧と、その黒幕。レーダーにさえ姿を現さない、その狡猾《こうかつ》さ。視界の中で一瞬《いっしゅん》、夕日に赤く染まった卵殻《ケリュフォス》。一年前、長野県山中で敦樹の隊を有り得ない全滅に追い込んだ、あの巨大な影《かげ》。
「……行く」
「何が? 聞こえてる敦樹?」
佐里が肩を揺する。しかしその手を退《の》けて、敦樹は肩のホルダーに挿した金属棒――すでに検認は済んでいる高度虚物質技術《デイノス》の登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》に向かって叫んだ。
「摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》、接続!」
驚《おどろ》く三人の前で敦樹の体がわずかに浮き上がり、高架上を東に急加速する。
目指すのは一路、敵のいる場所――。
すぐにスピーカーから怒鳴り声が響《ひび》く。
『突然ワケ分からんキレかたすんなや! 何やねん一体!!』
「……アイツは私の仇《かたき》だ。逃がさない」
『アホか、一人で先行して何ができんねん! 砲課《ほうか》と歩調合わせや。高速下りたら、下は剛粧だらけやねんで!?』
怒鳴りながらも呆《あき》れたように、清子が言った。
『今から文彦乗せて、砲台でそっち追いかけさせる。ウチらは直接行っても足手まといになりかねんから、ここに残って遠隔で操作《そうさ》するわ。現場向かうんはオマエでええから、指示出してうまいこと使い」
後方を振り返ると小さく見える二台の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》が、猛スピードで敦樹のあとを追いかけてくる。その上部装甲の手すりには、文彦が必死の表情でしがみついていた。敦樹は考え込むように息を止め、数瞬《すうしゅん》後その息を吐き出し、合流できるよう少しだけ速度を落とす。
「……二つだけ、訊《き》きたい。お前はアイツの居場所をあぶり出すために、この迷路を考えついたのか?」
『そうや。道に迷う、みたいなじれったい状況になると能力ある奴《やつ》はすぐ使いたなるもんや。それにこの作戦は学者先生にも協力してもろて、知力のテストも兼ねとんねん。納得したか? で、二つ目は?』
「――お前は防災団《私たち》を囮《おとり》に使ったのか?」
『何やて!』
スピーカーからの怒鳴り声に、敦樹《あつき》は顔を顰《しか》める。
『じゃあ訊くが。なあ!? 前のままの配置やったら今回無事で済んだんか?』
まだこの程度のことが分からないのかと、清子《きよこ》は苛々《いらいら》した調子《ちょうし》で声を荒げた。
『前回コイツが現れた時は、まだ様子《ようす》見やってん。今回みたいな集中|攻撃《こうげき》がどっか一つの防災団に集中しててみい。今ごろ全滅して突破されとるで。――防災団の人間守るためには、急ごしらえでも『城』が必要やった。それが今回の尼崎《あまがさき》迷路作った、本当の意味や。
――迷路に使う道の選択は、きちんと考えた。どこ通っても左右に障害物のある幅の狭い道路が、必ず一ヵ所はあるようになっとる。そこで出口に到達する剛粧《ごうしょう》の数は調節《ちょうせつ》できんねん。もちろん出口側できちんと対処すれば、十分撃退できる数や。アホな脳味噌《のうみそ》で理解したら、ウチらがやらなあかんことに集中しい』
怒鳴る清子の言葉は正論だった。敦樹は小声で返す。
「……分かった」
ようやく後方から追いついた二両の多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》の横を、敦樹は併走しタイミングを見計らう。そして文彦《ふみひこ》のいる二十四式の方に、飛び移った。片手だけで手すりに掴《つか》まり、体を安定させる。
『デイノス=構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』で身体能力を強化している敦樹にとっては、一連の動作も楽なものだった。しかし文彦がいつも使用しているデイノスの方は完全な防御仕様で、この手のことには向いていない。生身の力で何とかしがみついているのを、敦樹が後ろから支える。
数秒後には閉鎖《へいさ》されたインターチェンジが見え、再び清子から通信が入った。
『そのインター過ぎてしばらく行ったら、下にある道路、近松《ちかまつ》線沿いに南東に向かうのが早い。場所表示するから、そこで高架から下りて』
声と共に敦樹の視界内で道路上を矢印が伸び、かなり行ったところで右へ折れる。清子の側《がわ》で敦樹の視点を拾い、ゴーグルの表示装置に上書きしているらしい。
「……便利だな、これ」
『ウチが今、ごっつ時間かけて整備《せいび》しとる新システムや。――下には二人だけで降りた方が、身動き取りやすいやろ。多脚砲台の方はこのまま高架沿いに進んで、支援砲撃する』
「飛び降りるタイミングはこちらで取りたいんだが、ここからだと両脇《りょうわき》の壁《かべ》が邪魔《じゃま》になって位置が分からない。そちらで場所を表示できるか?」
『場所? ……地面に描いても、そのスピードやったら見えへんな』
ゴーグルを通した敦樹《あつき》の視線の先で、半透明の赤色をした壁《かべ》が持ち上がって道を塞《ふさ》いだ。それが目印のようだった。
「確認《かくにん》した。――文彦《ふみひこ》、抱えて下りるから体を丸めててくれ」
「うん、分かった」
文彦が答えると、敦樹はその胴に左腕を回した。さらに手すりを掴《つか》んでいた右手を離《はな》す。そのまま地面に着地すると停止の減速に入った二台の脇《わき》を抜け、『デイノス=摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』で加速する。敦樹はできる限り手足を縮《ちぢ》めている文彦を抱えたまま、視線を上げて清子《きよこ》が画像の中に描いた目印を確認《かくにん》、徐々に左側の路側壁《みちそくへき》に進路を寄せる。
――ここだな。
判断と共に敦樹は右へ急カーブを切る。再加速をかけるとみるみる近づく壁《かべ》の前で、小さくジャンプ。重力に逆らい両足で垂直のコンクリート壁に着地する。さらにそこから前方――空の方向へ向かって急加速が始まる。敦樹と文彦の体は高い壁を乗り越え、空中に舞《ま》った。
上昇の頂点で姿勢《しせい》変更し、敦樹は目標の道路を見下ろす。
運の悪いことに落下地点には、口先の尖《とが》った巨大ワニのような剛粧《ごうしょう》がいた。というより、見える範囲《はんい》だけでもかなりの密度で剛粧がうろうろしている。
「構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》、着光《ちゃっこう》!」
空中で敦樹が叫ぶと『デイノス=構造骨格機構』の力場が存在する位置に光が浮かび上がる。
構造骨格機構はいわば不可視の力場のみで構成された筋力増幅装置だ。同時に増幅した力が使用者に負荷を与えぬよう強固な骨格を持ち、相手に殴りつけることも可能である。
ただしこれは、あくまで体を支える骨に過ぎない。格闘《かくとう》を仕掛けるつもりでも当て所を間違うと、敦樹の方が大ケガをすることになる。
そこでこういう場合には力場の位置を発光させ、その存在する位置を確認できる機能が備わっている。下半身の構造力場が正確に脚の前面に存在していることを確かめた敦樹は、空中で膝《ひざ》落としの姿勢を取った。そしてそのまま、剛粧の胴へと落下する。
衝撃《しょうげき》と共に、木板を叩《たた》き割った時のような高く乾いた音が響《ひび》いた。空から降ってきたものが何であるかを悟る間もなく、剛粧はガチョウのような悲鳴を上げ腹這《はらば》いに気絶する。
一方、背に着地した敦樹の方は、すぐにそこから地面へ跳び降りた。だが抱えた文彦を降ろすより早く、周囲にいた別の剛粧がこちらへ突進を始める。
これもワニのような外観《がいかん》、おそらく同じ種の群だ。短い脚で胴体の一部だけをくねくねと振りながらやって来る。愛嬌《あいきょう》のある動きとは裏腹《うらはら》に、その速度は凄《すさ》まじい。敦樹は急いで、周囲の状況を見回した。しかし次の行動へ移るより早く――。
「可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》接続。への八番、展開」
まだ抱えたままの文彦《ふみひこ》が、自分の登録《とうろく》起動《きどう》鍵《かぎ》に言う。突進するワニ剛粧《ごうしょう》は見えない壁《かべ》――力場だけの障害物に鼻先と前足を乗り上げる。そして自分の陥っている状況を良く理解できない様子《ようす》で凹曲面になっている斜面を登り続け、完全に腹を見せたところで勢い良くひっくり返った。
すぐさま起き上がると、大きな顎《あご》を開閉させ、威嚇《いかく》の音を上げる。それが感染したように周囲にいる同種のワニ剛粧も顎《あご》を打ち鳴らしながら、二人への距離《きょり》をどんどんと詰める。敦樹《あつき》は改めて、単身で飛び込もうとした自分の迂闊《うかつ》さを思い知らされる気分だった。
「――確かにこれは、清子《きよこ》の言う通り掃射してもらわないと身動きが取れないな」
「って言っても照準合わせは手間だからね。時間|稼《かせ》ぎなら僕の専門だよ」
敦樹の腕からすり抜けるように地上へ降り立った文彦は、そのまま道路中央に向かって軽快に走る。
敦樹にあれだけ振り回され、今もまた周囲をつんざくような威嚇《いかく》の音の中である。なのに全くケロリとしているのだから、これで文彦もただ者ではない。そしてその右手には文彦の武器、『デイノス=調律《ちょうりつ》打撃《だげき》信管《しんかん》』の仕込まれたハンマーがある。
これは一見、確《たし》かにハンマーのような外観《がいかん》をしている。しかしその実態は『調律打撃信管』の補助装置であり、本来の機能はスピーカーに近い。
威嚇を全く無視して不用意に近づく文彦に、進路上の剛粧が地響《じひび》きを立てて近づき踏み潰《つぶ》そうとする。しかしそれをするりと死角に回り込んで避《よ》けると、文彦はいきなり剛粧の胴体にハンマーを叩《たた》き込んだ。たったそれだけの動作で、重厚な卵殻《ケリュフォス》の装甲はボロボロと脆《もろ》く細かく割れる。さらに一押し。
「信管作動」
文彦が叫びカチリという音が響くと、ハンマーを叩き込まれた剛粧は横っ飛びに吹き飛んだ。文彦も逆方向に跳んで、反動を吸収する。地面に崩れ落ちた剛粧は体が妙な方向に捻《ねじ》れ、白目をむいて絶命していた。
周囲の剛粧は次々に文彦に殺到する。しかしそれを見えない壁、『可変空間装甲』で順にいなしながら、文彦は一匹一匹とどめを刺していく。いつでも応援に入れるよう身構えながら、敦樹は砲課《ほうか》の二人と通信する。
「動きが取れない。砲台の放物線射撃で、進路までの剛粧を一掃してくれ」
『やっぱりな。ゆうた通りやないか』
『了解、もう準備始めてる』
清子と佐里《さり》の声がそれぞれ、スピーカーから返った。
直後、ミシミシと軋《きし》むような音が周辺のあちこちから響き始める。
鉄筋の建物、街灯、信号機、標識《ひょうしき》。
この区画に存在するあらゆる金属物が振動する音である。多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》が展開している磁気チューブの影響《えいきょう》で、細かく揺れているのだ。
それからさらに数十秒後、見上げた高速道からまず十本の光の束――強荷電粒子《きょうかでんりゅうし》が上空に向かって打ち上げられた。光の束はそれぞれ強力な磁力によって緩《ゆる》やかな弧を描きながら、辺《あた》りにいた剛粧《ごうしょう》の上へ正確に降り注いでいく。文彦《ふみひこ》が身を退《ひ》いた目の前で強荷電粒子の塊は剛粧を貫き、一帯は墨のような剛粧の血だまりとなった。
「敦樹《あつき》ちゃん! 後ろは僕が固めるから、敦樹ちゃんは先に行って」
文彦の申し出に敦樹は頷《うなず》くと、連装刀《れんそうとう》の鞘《さや》を外した。抜き身の三号刀から四号刀に入れ替えると、そのまま『デイノス』の加速で道沿いに南東へと進む。その進む先、目の前の区画へ、次の砲撃《ほうげき》が始まる。それを避《よ》けながら道を行くと、地面に再び清子《きよこ》の描いた矢印が現れた。矢印の先は狭い横道で、そこに入れと言っている。
――目標が近いのか。
そう判断し、敦樹は制動をかけて停止すると、ホルダーの登録《とうろく》起動|鍵《かぎ》に告げた。
「摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、一時切断。――佐里《さり》、こっちの視点を転送するから記録を頼む。あと物音を立てたくない。私への通信は音声|封鎖《ふうさ》を通達」
『慎重にね』
スピーカーからの答え。敦樹はゴーグルの接触スイッチに触れ、カメラを起動する。敦樹視点での映像の記録が始まった。これは敦樹自身が返り討ちにあっても、敵の正体だけは見極めるための、いわば保険だった。
狭い道を、一歩一歩進んでいく。
左手側には雑草の伸び放題になった駐車《ちゅうしゃ》場跡。右手側には数十年放置され、倒壊《とうかい》した町工場のトタン壁《かべ》。
午前の太陽に明るく照らし出されたその風景は、あまりにものどかで安らかだった。今は風もなく、動くものは何一つとして存在していない、絵画のような一場面。敦樹は100mほど歩いて、立ち止まった。
確《たし》かに、気配《けはい》がある。
手を出すか、それとも逃げるか。決めかねるような、ためらい混じりの殺意。
――来い。相手をしてやる。
しかし敵は姿を隠したまま、じっと動かない。
敦樹は最小限の動きで連装刀を回す。長めの五番刀を出現させると、目を閉じた。
清子が幽霊剛粧《ファンタズマ》と呼んだこの敵は、おそらく視線の動きを読むことができる。そして確実に死角へと回り込んだまま忍びより、避《さ》けようのない攻撃を仕掛けてくるのだ。実際、長野《ながの》の山中ではそれをやられた。
だから逆に、この行動は挑発になるはずだった。そして敦樹は視覚を脳から閉め出し、耳と肌に神経を集中する。
そのまま、じっと待つ。
ゆっくりとした足音を、空気が運んできた。方向は真後ろ、用心深い足の運びと体重の雰囲気から、それが文彦《ふみひこ》だと分かる。そしてその足音が敦樹《あつき》の姿が見えただろうという位置でピタリと止まった。いま敦樹は文彦に状況を説明することができない状態だが、こういった場合どうするべきかを、文彦は正確に判断できる。
一方、敵はまだ動き出さず、間合いは遠い。敦樹はいつでも行動できるよう、体のバネを溜《た》め、逆に必要のない力を抜く。そうしてさらに相手の動きを待つ。
途端《とたん》、気配《けはい》が猛スピードで動いた。敦樹は目を見開き、思わず舌打ちする。敵は最初にこの場へ現れた敦樹ではなく、後ろにいる文彦に目標を切り換えたのだ。
敦樹は跳び退《の》きざまに体を反転させ、後方を振り向いた。
「摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》、再接続! 逃げろ、文彦!!」
「って言ってもどっちに?」
道の200mほど向こうで、左右を見回しながら文彦が問う。しかし敦樹の方は「南側から来る」としか答える余裕もない。代わりに一気に加速した。文彦と未《いま》だに姿の見えない敵との間に入るべく急ぐ。
そして文彦の方も、それ以上余計なことは訊《き》かなかった。
敦樹も時々|驚《おどろ》かされるのだが、こういった場合の文彦は普段《ふだん》よりもさらに――まるで相当に戦い慣《な》れしているかのような行動に出る。
不十分な情報からこちらへ向かってくる敦樹の意図を正確に理解し、文彦から見て右方向としか分からない敵の推定位置を予測。さらに一瞬《いっしゅん》で周囲の見晴らしのいい場所を確認《かくにん》すると、そこへ向かって走る。その間も常にハンマーは目の高さに構え、頭と顔を守る姿勢を取り続けた。
廃墟《はいきょ》と化した工場の向こうから、固いものを引き剥《は》がすような異音が響《ひび》いた。直後、工場の低い屋根を越えて、何かが文彦に向かって飛んでくる。それを目の端に捕らえた文彦は一瞬|呆気《あっけ》に取られたが、すぐに身構えた。どこかからむしり取ったらしい、鉄筋の飛び出したブロック塀だった。
「悪球打ちィィィい!」
振りかぶった文彦のハンマーは、それを正確にヒットした。
「信管作動!!」
叫ぶとブロック塀は粉々に砕け、吹き飛ぶ。だがビーンボールはその一球だけではなかった。続いて屋根越しに飛んできたのは、廃棄されたセダンの二十五年ものだった。
文彦はさすがに慌てた。対象がこれだけ重いと、どうハンマーで打っても打ち負ける。本来なら『可変《かへん》空間《くうかん》装甲《そうこう》』で受け止めるべき攻撃《こうげき》だが、展開が間に合わない。
しかしここでようやく敦樹が追いついた。横合いから飛び込むと、連装刀《れんそうとう》の中でも最長の2mを誇《ほこ》る六号刀で、車体の真ん中まで切り込む。
「ッせい!」
敦樹《あつき》は『摩擦《まさつ》変換《へんかん》推進《すいしん》』のスピードに『構造《こうぞう》骨格《こっかく》機構《きこう》』のパワーを加え、さらにもう一段押し込む。空中で自動車は真っ二つになった。そしてそのまま錆《さび》付《つ》いた鉄塊は、部品を撒《ま》き散らしながら騒々《そうぞう》しい音を立てて地面に転がる。
弾《はじ》かれたように、文彦《ふみひこ》は言った。
「じ、自動車|斬《ぎ》りぃいい!」
「……いや、他人《ひと》のまで叫ばなくていいから」
制動をかけながら敦樹は答え、知らぬ間に掻《か》いていた冷や汗を拭《ぬぐ》う。そして悔恨《かいこん》か安堵《あんど》か自分でも判断のつかない溜《た》め息をついた。
これ以上の追撃《ついげき》はない。
敦樹ではなく文彦を、それもわざわざ物陰からものを投げるような方法で狙《ねら》った理由は、はっきりとしている。今の攻撃はいわば目潰《めつぶ》しだ。――明らかな優位《ゆうい》にもかかわらず、敵は逃げたのだ。
入れ違いで、砲課《ほうか》の二人から通信が入る。
『画像見とったで、戦闘《せんとう》しとんのか? こっちはもう射撃できる位置についとる』
『相手のデータを送って』
[#挿絵(img/basileis1_172.jpg)入る]
清子《きよこ》と佐里《さり》が、ほとんど同時に言う。敦樹《あつき》は落胆の声で答えた。
「悪い、……逃げられた」
『相手はどんな奴《やつ》や? こっちが見とんのはお前の視点画像やから、ぶれててよう分からんかってん』
「――最後まで姿を表さなかった。潜伏《せんぷく》能力の高さと腕でものを掴《つか》んで投げたことから、猿系の身体能力を持った剛粧《ごうしょう》だと予測できる程度だな」
『マボロシの巨大肉食ザルを追え! か。――正体不明っちゅうオチにはうってつけやな』
明らかに不機嫌《ふきげん》そうな声で、清子は言った。だがその気分は敦樹も同じだった。ここで逃がしたということは、いつかまた再び、あの敵が襲来《しゅうらい》することを意味するのだ。
「すまない。私の方のミスだ」
『――まあええわ。それより予想の根拠が訊《き》きたい。でかいゴミが建物の屋根越えて飛んできたんは分かったけど、腕|使《つこ》て投げたっちゅうのは?』
「僕の視点で撮《と》った動画も残ってるから、あとでそれを見てもらえば分かるんだけど」
道路の向こうにいる文彦が、通信に割り込んだ。
「投げつけられたものに、それほど回転がかかってなかったよ。きちんと見ればスローイングに必要な腕の長さは逆算できると思う。もちろん首がものすごく長い剛粧が口でくわえて投げたとも考えられるけれど、剛粧に最低限共通する骨格を考えると、自動車は持ち上げられないと思う。っていうか胴体が大きくなりすぎるね。素早い潜伏移動ができなくなる」
『ふん。……まあ取《と》り敢《あ》えずあとで確認すればええか』
つまらなそうな清子の返事が、スピーカーから漏れる。
そこでひとまず通信が終わると、敦樹は剛粧たちの標的にされた元浜《もとはま》出口の状況を確認《かくにん》した。
一旦《いったん》始まった流れはそう簡単《かんたん》には収まらない。元浜では未《いま》だに、必死の抗戦が続いていた。ただどうにか持ちこたえる目処《めど》は立ちそうだった。
その一方でこの数分の出来事、そして謎《なぞ》の敵の逃走を象徴するかのように、迷路を蛇行《だこう》する剛粧の行列は、途中《とちゅう》で途切れていた。
9
その後は剛粧対策も順調に進行し、午後三時には鎮圧《ちんあつ》宣言が出された。そのあとの報告会で一連の出来事と新種の剛粧の特性についての報告が、清子から行われた。
また同時に連合知事である春瀬《はるせ》史郎《しろう》から、清子の作戦|顧問《こもん》解任が告げられた。これは新方式での剛粧対策の運用方法と実効性が、ある程度スムーズに受け入れられたからである。この報告をもって会議《かいぎ》は解散、敦樹たちはようやく下りた肩の荷にどこかホッとして、帰路へとついた。
従って――清子《きよこ》が今後も|樋ノ口《ひのぐち》町防災団に配属されることになったと聞かされたのは、樋ノ口町の事務所に帰ってきてからのことである。清子と、挨拶《あいさつ》に来た羽織《はおり》袴《はかま》の山陰《さんいん》共同体連合知事・春瀬《はるせ》史郎《しろう》を前に、それを迎えた三人は呆然《ぼうぜん》としていた。ようやく無理やりな笑顔を浮かべるのに成功した佐里《さり》が「え〜っと」と首をかしげる。
「それじゃ畑沼《はたぬま》さん、作戦顧問は解任されたけど、地元に帰らないんだ……」
「ハ、あったりまえやろ。まだ何の決着もついてへんしな。大体、そんな簡単《かんたん》に帰るんやったら、わざわざめんどくさい転校なんかせんわ!」
確《たし》かにその通りである。
テンション高め、やる気満々といった清子の様子《ようす》に、敦樹《あつき》は溜《た》め息をついた。
「っていうか何で、うちの防災団に……」
疲れを隠そうともせずに言う敦樹へ、年齢《ねんれい》的に唯一の大人《おとな》――清子の保護者《ほごしゃ》といった風の史郎が答える。
「それなんだが。どこがいいだろうかと地域団長の小早川《こばやかわ》さんに訊《き》いたら、樋ノ口町は成り行きで同世代の子ばかりだから、ってね。ここを紹介されたんだ。同世代どころか同級生というから、これはうってつけだと思ってね」
「……何てことだ」
ボソリと呟《つぶや》いた敦樹に、清子はメガホンを向けて怒鳴る。
「言いたいことははっきり言え、川中島《かわなかじま》ァ!」
「ここの砲課《ほうか》の責任者は佐里なんだ。――今日の私が言えることじゃないが、スタンドプレーは困る」
ムスッとした表情で、敦樹は清子を見る。
「お前は佐里の下で、ちゃんと言うこと聞いてやっていけるのか?」
「やっていくぞゥ」
「屁理屈《へりくつ》こねて命令に横槍《よこやり》入れたりするんじゃないのか?」
「入れたりしないぞゥ」
「口先だけだろ?」
「口先だけじゃあ、ないゾゥ」
疑心暗鬼の言い合いは続く。敦樹は無表情で、清子は目だけが笑っているのだから質《たち》が悪い。
舌戦の行方《ゆくえ》を横で見ている文彦《ふみひこ》も、情けない顔で笑う。
「何だかなあ」
「うまくやっているかい? ここで」
二人の言い合いに気を取られている時にいきなり春瀬史郎からそう訊かれ、文彦はキョトンとした表情を浮かべた。
「え、あ、はい。……何がですか?」
「ああ、いやいや。――違うんだ」
慌てて弁解するように言うと史郎《しろう》は頭の帽子に手をかけ、まるで目元を隠すかのようにクシャクシャの帽子をさらにクシャクシャにした。
「地域団長さんから君は春に来たばかりと聞いたものだから。生活は大丈夫かい?」
「いえ、事務所には僕の他《ほか》にも二人いますし――」
言いかけてこれじゃ分からないなと思い、文彦《ふみひこ》は慌てて言い直した。
「ここの防災団事務所は、元々|敦樹《あつき》ちゃんと佐里《さり》ちゃんの二人でやっていて、僕はそれに相乗りさせてもらっただけなんです。ですから、ええと……」
言葉が浮かんでこず、文彦は先に強引に頷《うなず》いた。
「ええと、うまくやってます!」
「繋《つな》がってへんちゅうねん」
ポコンとメガホンツッコミが頭に落ちる。文彦は隣《となり》の清子《きよこ》を睨《にら》んだ。
「何でキヨちゃんは、そう簡単《かんたん》に叩《たた》くかなあ……」
「キヨちゃんとちゃう。――まあお前は頭空っぽでええ音するからな。時々叩かせや」
清子が言い終わるより早く、文彦はメガホンを奪った。それでポコポコと数発、清子を叩き返す。
「アレレ、キヨちゃんもいい音するじゃん」
「返さんかい!」
もちろん文彦は要求に応じず、追いかけっこが始まる。
「――小学生か」
ボソリと敦樹は呟《つぶや》き、史郎は愉快そうに笑った。佐里も苦笑しつつ、首をかしげる。
「何だか仲がいいですね、あの二人」
「ああ、彼がいるなら大丈夫だろう。手のかかる子で面倒《めんどう》をかけると思うけれど、よろしくお願いする」
頭を下げる史郎に、敦樹は頷いた。
「責任を持って、お預かりします。――って、あまり自信がないというのが本音ですが」
「ウチは力貸してやんねんからな! そこんトコ勘違いせんといてやぁ!」
どうにか奪い返したメガホンで文彦に逆襲《ぎゃくしゅう》しながら、畑沼《はたぬま》清子は叫んだ。
10
「――かくて新人加わる、と。あ、ここでお終《しま》いか」
文彦はノートのページをめくってこれが最後なのをもう一度|確認《かくにん》すると、一息入れるように座卓の湯飲みを啜《すす》った。すでに随分ぬるい。
元々は用務員室だった部屋が、文彦《ふみひこ》の自室である。蛍光灯の滲《にじ》んだような光の下《もと》、今日起きた様々な出来事をいちいち日記につける作業に文彦は没頭していた。しかし清子《きよこ》を頼むと言った春瀬《はるせ》史郎《しろう》のことを最後に書き加える直前で、小さなノートの方が先に最終ページに来てしまった。
ここ数日は日曜《にちよう》に友人と映画を見たことなども含め、いろいろなことがあった。日記の進み具合も随分|順調《じゅんちょう》だ。満足げに息をついて文彦は座布団から立ち上がると、押入《おしいれ》に向かった。
襖《ふすま》を開けると上の段には布団、下の段には金庫とノートの買い置きがあった。
しゃがみ込むと買い置きの中から一冊新しいノートを取り、隣《となり》の古い金庫――廃墟《はいきょ》に放置されていたのを拾ってきたもの――を開けた。
中にはびっしりと記入済みの日記が数百冊、日付順に詰まっている。
病んでいた。
少なくともこの部屋に誰《だれ》かが入り、誰かがこの風景を見れば、そう指摘しただろう。
しかし|樋ノ口町《ここ》は耐性を持たぬ者は立ち入れぬ土地にあるから、友人が来たことはない。同じ建物で生活する敦樹《あつき》たちにしても、朝食などで扉前に呼びにくることはあっても中に入ることは滅多《めった》にない。当然押入の中など覗《のぞ》いたことはない。
そして文彦には、日記を金庫に厳重《げんじゅう》保管しなければならない理由があった。
たとえその異常を人に指摘されたとしても、文彦は自らの正確な記録《きろく》を残し保管する作業を止《や》めるわけにはいかないのだ。
だが金庫の中にある日記の冊数は、もう入りきらないほどの数である。どうにか無理やり押し込もうと文彦が奮闘《ふんとう》していると、上段が崩壊《ほうかい》して雪崩《なだれ》のように床に広がってしまった。
「……参ったな」
できるだけ順番が混ざらないように日記の束を拾い上げる。しかしその日記の一冊から写真が一枚、翻《ひるがえ》りながら床へと落ちてしまった。ひとまず文彦は日記の束を床に置くと、落ちた写真を拾う。
平屋建ての建物の前での、集合写真だった。
真ん中に大人《おとな》が一人だけいて、その周囲を高校生から小学生までの子供が取り囲んでいる。
その子供たちの中に文彦もいた。現在に比べると少々髪が長く、どうにも笑顔がぎこちないが、それは文彦だった。矢印が引いてあり『春瀬文彦』と名前が書き込んであるのだから、間違いはない。全員にそうやって、わざわざ名前が書いてある。
真ん中の大人は『春瀬史郎』だった。
その隣に清子もいる。写真の中の文彦ほど今と顔立ちが変わっていないし、そもそも史郎と同じように名が記してあるのだから確《たし》かだ。
「何で……こんなのが」
額《ひたい》に手を当て呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた文彦《ふみひこ》は、弾《はじ》かれたように先ほど置いた日記の束を掴《つか》んだ。今年の三月以前の日記――まだこの防災団に来る前の、文彦自身の記録《きろく》である。それを、手に取った中から古い順に一つひとつ読んでいく。
そうやってずっと、文彦は自分の日記を漁《あさ》っていた。
夜が更《ふ》け、さらに空が白み始める時間になってようやく、文彦はその作業を止《や》めた。大量にある日記を、ほぼ全《すべ》て読破したあとだった。
「……そういうことか」
写真を、元にあった日記のページに挟んで閉じる。
「人が悪いや、史郎《しろう》さん」
やり場のない――文彦が普段《ふだん》他人《ひと》の前では絶対に見せることのない孤独な笑みが、その目元にこぼれた。
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そんな佐里の日常
〈もしくは『清子大迷惑』〉
2019/11/15
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1
川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》、四方《しほう》佐里《さり》、畑沼《はたぬま》清子《きよこ》の三人が揃《そろ》って銭湯『原《はら》の湯《ゆ》』ののれんをくぐったのは、この日が初めてのことであった。
そもそも今日は清子が|樋ノ口《ひのぐち》町防災団に加わって以来、最初に回ってきた非番の日だったのである。そこで佐里の提案により、放課後《ほうかご》は清子を町の各所へ案内することになった。
しかし佐里や敦樹が案内を予定していた生活用品店その他については、すでに清子もこの数日で探索済みとのことだった。結局、予定のほとんどは潰《つぶ》れ、ほぼ学校から一直線で、三人はまず最初に銭湯へと来る羽目になってしまった。
時刻は午後四時半。まだ外は明るく、さすがに客の姿も少ない。
佐里は長い髪を頭上にタオルでまとめると、さらに手ぬぐいタオル一本を持ち、浴室へ続く引き戸をカラカラと開けた。途端《とたん》に吹き出してくるような白い湯気を顔に浴び、さて困ったなと溜《た》め息をつく。佐里は極度の近眼である。風呂《ふろ》に入るためとはいえ、眼鏡《めがね》を外すと驚《おどろ》くほどに何も見えないのだ。
もっともこれはいつものことである。改めて困っていても仕方がない。それに今日は、ここを案内するために来ているのだ。
気を取り直して後ろにいる清子を振り向くと、佐里は説明を始めた。
「畑沼さん。防災団事務所にも一応お風呂はあるけど、それを使うのは週二回で――」
「いや私に言っても……」
目の前にある肌色のモヤモヤした塊が、やんわりそう言った。こっちは敦樹だったらしい。
その敦樹が佐里の両肩を掴《つか》んでぐるりと半回転、浴室の中へと背中を押した。入ってみると確《たし》かに、そこにも肌色のモヤモヤがいる。
「風呂があんのに、使うの週二回だけなん? あとは銭湯?」
間違いなく清子である。佐里は頷《うなず》くと、説明を再開した。
「そう。事務所で入るお風呂は、結構な電気代がかかっちゃうから。だから勤務時間に余裕のある日は、学校帰りにここで汗を流すようにして」
「おう分かった。さて、金払った分、ゆっくり疲れ落とさせてもらおか」
「――ただし常識《じょうしき》の範囲《はんい》内でだぞ! 清子!」
後ろから敦樹が叫び、佐里は肩を竦《すく》める。
「どこの世界に、銭湯の湯船へ頭から飛び込む馬鹿《ばか》がいる」
そう言いながら、敦樹は急ぎ足で佐里の左横を行く。そして清子の方は逃げながら「へーい」とふて腐れたように返事した。そのまま向かって右側へ、ピタピタと足音を立てながら歩いていく。確かそこにはシャワーが並んでいるはずだった。
「……まったく。私たちをからかってわざとやってるんだろうが、疲れる」
そんな呟《つぶや》きと共に、敦樹《あつき》は目の前で身をかがめた。続いてお湯のザッと流れる音がする。どうやら敦樹は体を流しているようだった。何度目かで桶《おけ》を置くと、ゆっくりと浴槽《よくそう》の中に足を入れ、湯に浸《つ》かる。佐里《さり》も突っ立っていたのでは仕方がない。やや手探りで浴槽の位置を確認《かくにん》すると、ちょうど足下《あしもと》に置いてあった桶に湯を掬《すく》って体を流した。
「敦樹が大変なのは、分かるけどね。――畑沼《はたぬま》さんだって初めての土地だから。いろいろ落ち着かないのよ」
顔を上げ目の前のモヤモヤした肌色に向かって言うと、途端《とたん》バサバサと慌てるような水音がした。そして直後に手首を掴《つか》まれる。
「――私はこっちだ。どうもすいません」
「いーえー」
のんびりとしたおばあさんの声が返った。佐里も頭を下げ、手を引かれるまま行く。そして改めて体を流すと、敦樹の隣《となり》の湯に浸かった。
ひとまず左手は敦樹がずっと握ったままである。佐里はゴムひも付きのロッカー鍵《かぎ》を巻いた右手で、自分の頭を小突《こづ》いた。
「失敗失敗っ、てへっ」
「私を相手にかわいぶってどうする……」
「練習しとかなきゃ。女の子なんだし」
「……そういうものか」
疲れたような声で、敦樹のモヤモヤは大きく伸びをした。そのままグッタリと湯の中で体を伸ばす。人の少ない時間帯ならではのささやかな極楽気分、といった風だった。
佐里からすると、敦樹は普段《ふだん》から――それこそ食事中ですら、適度の緊張感《きんちょうかん》を身に纏《まと》うようにして一日を送っている風に見える。だからこそ入浴中というのは、最も弛緩《しかん》できる時間なのだろう。取《と》り敢《あ》えず気持ちよさそうなので、佐里も真似《まね》してみる。
「おう。お二人さん、お手て繋《つな》いで仲良しこよしやのう」
目の前の湯面を、清子《きよこ》らしい黒い頭と、正体不明の黄色い小さな塊が横切っていった。
「……ほっといてくれ」
説明するのがめんどくさいといった口ぶりで、敦樹は答えた。そしてそのまま無言。どうやら湯に浸かったまま、うとうとしているようだった。
「あれ、川中島《かわなかじま》さんに四方《しほう》さん。来てた?」
佐里は後ろを振り向いた。敦樹もノロノロとそれに続く。
声の主の位置は特定できたが、それが誰《だれ》か佐里には視認できなかった。だが大体の想像はつく。頭に巻いたタオルの白は髪が長い証拠であるし、それに声の調子を重ね合わせると、該当《がいとう》する知り合いは一人に絞れる。クラスメイトの楢橋《ならはし》南美《なみ》だった。
何といっても広いようで狭い町なので、こういうニアミスは良くあった。もっとも南美《なみ》と銭湯で出会うというのは、案外初めてだったかもしれない。
佐里《さり》の隣《となり》で、敦樹《あつき》が答えた。
「髪を洗ったあとってことは、私たちより先に来てたのか? 湯気で分からなかった」
「シャワー使ってれば、見えるのは後ろ姿だけだしね。それに私の方も、頭洗ってる間は目も耳も塞《ふさ》がっちゃってたから」
そして次の敦樹の声は、少し間を置いたあとになった。
「……清子《きよこ》の方に先に会ったのか? 風呂《ふろ》の中にいる後ろ姿を見て、よく私だと分かったな」
「いや分かるって。だってさあ」
言いながら体を流した南美は、湯に浸《つ》かって佐里たちの向かい側へ回って座った。らしい。
「これだけ空《す》いてるのに、女二人で並んでお湯に浸かっててさあ。しかも全然しゃべんないんだから。――雰囲気出し過ぎだよ、アンタたち」
「雰囲気?」
事情の飲み込めない佐里は、敦樹と顔を見合わせる。
「……何か誤解がないか? そうじゃなくて。佐里は近眼過ぎて眼鏡《めがね》を外すと何にも見えなくなるんだ。だから銭湯じゃ私が引っ張ってかなきゃならないだけだ」
「本当かなあ? へへー」
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「本当だ。その証拠に佐里《さり》は、私がいま誰《だれ》と喋《しゃべ》っているのか、分かっていない。まだ私は、そっちの名前を一度も口にしていないからな」
そう言って、敦樹《あつき》は正面に座る南美《なみ》を指さした。
「――佐里、あそこにいるの誰だと思う?」
佐里は分かってはいたが、ここで普通に答えるのはこの土地流ではないと本に書いてあった。頑張ってみる。
「温泉《おんせん》玉子《たまこ》さん。――お風呂《ふろ》だけに」
「無理にボケなくてもいいから。それに少し外していると思う」
「む――」
流儀《りゅうぎ》を無視した上、実に正直な感想を聞かせる敦樹に、佐里は膨《ふく》れた。
「楢橋《ならはし》さんでしょ。見えてないけど、それぐらい分かるわよ」
しかしそれを聞いた南美は、納得したような声を上げる。
「……そっか、本当に見えてないんだ」
その南美の呟《つぶや》きの意味に佐里はすぐ気づき、敦樹が指し示す手を右手で手探りしてみた。敦樹の指先は、正面の南美のいる方とは関係のない、全く別の方向をさしていた。
2
それからのんびり三十分後、銭湯を堪能《たんのう》する清子《きよこ》を呼び、全員で風呂から上がる。脱衣所でさっそく眼鏡《めがね》をかけた佐里は、ひとまず目をぱちくりとさせた。
「ふう、落ち着く。――わあ本当に楢橋さんだ」
「わあって……。何か本当に大変そうだね」
南美の方は引きつり笑いを浮かべる。しかし佐里は首をかしげた。
「でも何か、違和感があるし。何でだろ?」
「ああ。これ着けてないからかな?」
濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》いていた南美は、荷物を入れたロッカーの中から、普段《ふだん》頭の後ろに着けている銀色の髪飾り――バレッタを取り出した。なるほどと佐里も納得する。
一見普通の髪飾りなのだが、その飾り部分は三方に張り出した『人の字型』をした金属板である。しかも板を構成しているのは柔らかな曲線ではなく、定規で引いたような直線と、コンパスで描いたような円弧だった。そのため異様な重量感、存在感がある。そしてそれが欠けているため、いつもと少し違った風に見えるのだ。
「結構変わってるよね、コレって」
体を拭きながら言う佐里《さり》に、南美《なみ》も頷《うなず》く。
「思い出の品だから、自分でこういう風に作ったの。人から見るとちょっと変だろうけど、目的があってやってることだから」
「ふうん?」
「まあ髪が乾くまでは、外しとくけどね」
「ふうん……」
佐里は首をかしげながら、ひとまず頷いた。
二人がそんな会話をする背後から、少し遅れて上がった敦樹《あつき》がロッカーへとやって来る。だが、さっそく清子《きよこ》に振り回されることになった。
「ちょっと待つんだ、清子!」
その声に佐里が振り向くと、清子はパックをしたまま昼寝を決め込んでいる太めの夫人にちょっかいを出そうとしているところだった。敦樹は怒ったように言う。
「他人《ひと》の安息を邪魔《じゃま》するんじゃない。それも素っ裸で」
「どんなんか、近くでよう見よとしてただけやん」
「そういうことはしなくていい。――全く、お上《のぼ》りさん丸出しだな」
その言いように、清子はムッとした表情を浮かべた。
「馬鹿《ばか》にスンナ! ここかて辺境の下田舎《いなか》やないか。地元におった時は、たまたま大人《おとな》と風呂《ふろ》に入るような機会《きかい》が少なかっただけや」
「いいからさっさと服を着ろ。風邪《かぜ》を引く」
「――ああ。おばちゃん起きとったら、いろいろ訊《き》きたいことあったのに」
結局、清子は敦樹に捕まって脱衣所の簀子《すのこ》の上を引きずられることになり、無念そうに呟《つぶや》く。
一連のやりとりを見ていた南美は、ガックリと肩を落とした。
「大変そうだね、川中島《かわなかじま》さんも。同《おな》い年《どし》のはずなのに保護《ほご》者みたいで。――って言うか、何か畑沼《はたぬま》さんって、学校いる時と人格違わない?」
そう言う南美に、佐里も苦笑する。
「普段《ふだん》はこんなんなのデスヨ。……でもまあ、畑沼さんも仕事では、押さえるところを押さえてくれる人だから、ね。プライベートな時間くらいは」
「そうであってほしいもんだが」
ようやく自分のロッカーまで来れた敦樹が、そう愚痴《ぐち》を漏らす。そして清子は体を拭《ふ》きながら、今度は体重計へと向かった。
「ところでさ……」
そそくさと急いで服を着る南美が、声をひそめて二人に言う。
「番台のあれ、ちょっとやばくない?」
言われて佐里と敦樹は、横目でそちらを振り向いた。そこにいるのはこれまたクラスメイトの女子である。
名は原田《はらだ》雪見《ゆきみ》。この銭湯『原《はら》の湯《ゆ》』は彼女の実家で、つまり今は家業の手伝いをしている。
緩《ゆる》い天然パーマの髪がかわいい彼女は、番台の上に頬杖《ほおづえ》をついて座っていた。しかしその表情がこちら側――女子の脱衣所を見たまま極楽へとぶっ飛んでいる。
「原田さん、着替えてる間中、ずっとこっち見てるのよ?」
「まあでも、同じ女子だし。……うーん、まあ確《たし》かに気にはなるかな」
佐里《さり》は弁護《べんご》しようと思ったのだが、雪見のギラギラした視線を見ていると、確かに南美《なみ》の主張も認めざるをえない。
「ちょっと私、ひとこと言ってくる」
下着の下をようやくはいたばかりの佐里は、急いで大きめのTシャツだけ着ると、財布を持って番台の方へと向かった。最初から頭ごなしではさすがに感じが悪いので、用事のついでを装うことにしたのだ。
佐里はまず、番台の上に硬貨を置いた。
「コーヒー牛乳、一つ下さい」
しかし番台の上の少女は、反応しない。幸せの極致といった顔をして、瞬《まばた》きすら忘れている。
佐里は顔の前で手を振ってみた。
「原田雪見さーん。何やってるのー?」
「ああ! ……ごめんなさい」
ようやく慌てて佐里に視線を合わせ、何度も瞬《まばた》きする。
「コーヒー牛乳、よね」
取り敢《あ》えず聞こえてはいたらしい。足下《あしもと》の小さな冷蔵庫から言われた通りの品を取り出し、栓抜きで栓を抜いて佐里に渡す。それを受け取りながらも、雪見の浮《うわ》ついた様子《ようす》に佐里は小さく溜《た》め息を落とした。ここまで露骨《ろこつ》では、直球で行くしかない。
「原田さん、ちょっと言いにくいんだけど……。そこに座ってる時は、もうちょっと別のことに注意向けててくれないかな?」
「別のこと?」
首をかしげる雪見に、佐里は頷《うなず》いた。
「その……。同じ女同士だけど、あんまり着替えをジロジロ見ないでほしいのよ。そりゃ仕事の都合もあるんだろうけれど、さすがにちょっと、ね」
「あ……。ごめんなさい」
番台の上の雪見は顔を真《ま》っ赤《か》にして、平|謝《あやま》りに謝る。佐里にしても話がうまくまとまったのなら、問題はなかった。「お願いね」とひとこと言い添えて、背後を向くとコーヒー牛乳のビンを煽《あお》った。
「……私、人の裸を見るのが大好きなの。確《たし》かに変だよね」
佐里《さり》はブッと吹き出し、その場でケホケホとむせた。
「大丈夫、四方《しほう》さん? あの、ゴメン変な意味じゃないの。――ああ何で、こういう言い方するかな私。そうじゃなくて、美術でも裸婦像とかあるじゃない? そういう意味でのウツクシイが好きなのよ」
慌てて自分自身をフォローしながら、雪見《ゆきみ》は言う。
「人間って、顔だけ見たって良く分からないじゃない? けど、体を見ればどういう生活をしてきたかっていうのは、必ず分かるのよ。――同時にそれは、その人がどう生きてきたかってコト、つまり生きてきた時間の結晶でもあるわけ。男女とか歳《とし》とか関係なしに、綺麗《きれい》な体を見てると、もうドキドキするの」
「そうなんだ……」
困ったように返事する佐里に向かって、雪見はまだ服を着る最中である敦樹《あつき》の方を目配せしながら身を乗り出す。
「ほら、川中島《かわなかじま》さんもすっごくきれいな体してるでしょ? マッチョじゃないんだけど筋肉はしっかりついてて、胸とかおしりとかスン! としたカンジで。こう、体の線っていうのかな。骨の線とか筋肉の線が一つに繋《つな》がってて、しかもその二つがピッタリ重なるのよ」
「うんまあ、言わんとしてることは分かるけど……」
改めてそういう視点から友人の体を見てみる。確《たし》かに綺麗《きれい》なものなのかもしれない。雪見のドキドキぶりも、わずかながら理解できる気がした。
「――ただ太股《ふともも》の下|辺《あた》りにちょっと変な筋肉がついちゃってるのが残念かな」
「変な筋肉?」
問い返す佐里に、雪見は頷《うなず》いた。
「別に目立ちはしないけど、膝《ひざ》を曲げる時に薄《うす》く浮かび上がるのよ……。うーん。多分《たぶん》、川中島さんってその部分、仕事中とか無意識《むいしき》に力入れちゃうクセがあるんじゃないかなあ?」
「そんなことまで分かるの?」
慌てて雪見は「素人《しろうと》鑑定《かんてい》だけど」と笑って付け加える。興味《きょうみ》の出てきた佐里は、「私は?」と訊《き》いてみる。だがそれに対し、雪見は一転して暗い表情を浮かべた。
「四方さんは――まずいかな。疲れが溜《た》まりやすい体質なのかもしれないけど、とにかく立ち仕事の疲れみたいなのが、体中に出ちゃってる。
もちろん肌は全然|綺麗《きれい》だし、胸おっきいんだけれど。骨、がね。こう――レジ打ちのオバサンと一緒の形に積み上がっちゃってるよ」
「レジ打ちのオバサン……」
佐里にしてみればショックを隠せない。しかし雪見は真剣に眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「今のままの生活だと、あっという間に老《ふ》けちゃうかもよ。猫背っぽくならないように普段《ふだん》から注意して、あと毎日|体操《たいそう》――かな。体に堪《たま》った無理なストレスとかを開放していかないと」
「うん、分かった、そうする!」
すっかり感心したように、佐里《さり》は言う。
――背筋良く。
コーヒー牛乳のビンを片手に、佐里は胸を張ってシャキッと姿勢を正す。番台の雪見《ゆきみ》は「そうそう」と頷《うなず》いた。
「普段《ふだん》からそうしてれば、その効果で顔つきまで美人に変わってくるから」
「…………ふぅ」
吐く息と共に空気が抜けるかのごとく、佐里はいつもの姿勢に戻る。
「今日はここまで」
「短ッ!」
エヘヘと笑う佐里に、雪見は困った子を見る目で溜《た》め息をついた。
「まあ、できるところからでいいんだけど。――でもやっぱり、大人《おとな》はダメだね。歪《ゆが》んで矯正《きょうせい》して、歪んで矯正して。それの繰《く》り返しでくたびれちゃってるから。
やっぱり小中学生ぐらいが一番いいよ。あの年代にしか表現できない、付加価値ってのがあるしねえ」
「付加価値……デスカ?」
「そう。例えばこう……新しく中学に上がった子がさあ。入学式の直後ぐらいに。昨日までノーブラだったのに初めてブラしてきたりするわけ。で、着替えの間ずっと周りを恥ずかしそうに見回してるの。そういうのってなんか、……凄《すご》く良くない?」
訥々《とつとつ》と語りたいことを語ると、雪見はうっとりとした吐息を漏らす。
――うわあ。
佐里の中で微妙に『尊敬』へと傾きかけていた天秤《てんびん》は、根本からへし折れ針が吹っ飛ぶ。しかしなおも雪見の独白は続く。
「男子の幸田《こうだ》とかさ。巨乳だ豊乳だって好き勝手言ってるけれどさあ。やっぱりふくらんで成長していく過程が一番|綺麗《きれい》だよね。明日はどんな胸カナ? みたいな」
「原田《はらだ》さん、しっかりして、原田さん!」
佐里が肩を揺さぶるが、雪見は幸せそうな顔でずっと笑っている。
「……何でここは、こんな危険物を番台に据えておくんだか」
タオルで頭をゴシゴシ拭《ふ》きながら敦樹《あつき》がやって来て、しみじみとそう言う。その後ろに隠れるように、南美《なみ》もいた。
「いやいや。その歳《とし》でちっさいことの良さが分かるとは、なかなかやるやないか」
キャミソール姿で先頭に立つ清子《きよこ》だけが景気よく言い、番台の上に硬貨を置く。
「つまりユキミはエロス的人間なんやろ? ウチにもフルーツ牛乳ちょうだい」
瞬間《しゅんかん》、雪見は清子を見詰めたまま恍惚《こうこつ》とした表情で冷蔵庫からフルーツ牛乳を取り出し、差し出す。佐里《さり》は二人の間にあるギャップに、額《ひたい》を押さえた。
「……ねえ、畑沼《はたぬま》さん。話ちゃんと全部聞いてた?」
「んにゃ、全然」
――これである。
「何でそんなリアクションなん? 誰《だれ》かて猥談《わいだん》ぐらいするやろ? 銭湯の番台には、聖人君子しか上ったらアカンのか?」
「そういうことじゃなくて……」
雪見《ゆきみ》の『ストライクゾーン』が自分なのだと知らない清子《きよこ》は、気楽に屁理屈《へりくつ》を言ってフルーツ牛乳のビンを煽《あお》った。そしてプハッと一息。
「うまー!」
その清子の仕草《しぐさ》に、雪見は口元を押さえ涙目になっている。しかし清子は何も気づかず、雪見に無邪気《むじゃき》な表情で訊《き》いた。
「なあ、あの風呂《ふろ》場に置いてあるアヒルなあ。アレってどこで売ってるん?」
「お風呂場のアヒル? ……ああ」
雪見は少しぼおっとした顔のまま、そう返事する。
「オモチャのアヒルね。あれは確《たし》か……。銭湯の用品を扱ってる業者さんから買ったんじゃないかな? 風呂桶《ふろおけ》とかと一緒に。女湯じゃあんまり人気ないんだけどね。でも何で?」
「いや、あれ防災団事務所の風呂にも欲しいな思て――」
「あげるよ?」
雪見は即答した。しかしさすがに清子も、遠慮《えんりょ》して首を振る。
「それはさすがに悪いやろ。店の備品なんやし。それに何か、ウチが無理言ってねだったみたいやん」
「そうは言っても百円もしないものだし」
言いながらもこの線では押せないか、と雪見はじっと目を細めた。そして名案が浮かんだのか腹黒い笑みを浮かべ、頷《うなず》く。
「……それじゃそのヒヨコは、畑沼さんの転校祝いってことで、どうかな?」
「ええんか?」
そう訊く清子に、雪見は頷いた。
「どうせ滅多《めった》に遊ぶ子いないし。それにもう年末だからね。近いうちにまた業者さんも来るだろうから」
「ん〜。何か、ねだったみたいで悪いけど、百円せんのやったらもらってええかなあ」
清子は敦樹《あつき》と佐里を交互に見る。そして敦樹は頷いた。
「オモチャ屋にでも行けば多分《たぶん》、同じ値段で同じものが買えるんだろうが。しかし、原田《はらだ》の歓迎の気持ちが籠《こも》っているものの方が、価値はある。くれるというなら、もらっておけばいい。――ただし原田《はらだ》に礼を言っておけよ。あと、大切にしろ」
「おー、ユキミありがとな」
「いやいやフッフ。お礼を言うのはまだ早いよ、畑沼《はたぬま》さん」
目を閉じた雪見《ゆきみ》は髪の毛を指先にクルクルと巻くと、目を見開き唐突《とうとつ》に宣言する。
「これから小松家《こまつや》で『転校生を歓迎する集《つど》い』を開きます。ここにいる全員で『玉突き』しながら!」
「また、いきなりだよね……」
呆《あき》れた気分で佐里《さり》は呟《つぶや》くが、雪見の魂胆《こんたん》はともかく、確《たし》かに悪い案ではない。清子《きよこ》に町を案内するつもりだった予定は、今後ポッカリと空いてしまっているのだ。
佐里はその場にいる面々の顔を見回す。
「防災団組は非番だし、みんな問題ない――かな?」
敦樹《あつき》と清子は頷いて返した。そして佐里のよこした視線に、南美《なみ》も「うん大丈夫」と答える。
「玉突きぐらいなら、私も時間あるし。――むしろ問題は、仕事中の原田さんなんじゃ」
「心配ご無用です。店番はロボ雪見に任せます! ――ジャジャドン♪」
勇壮なリズムを口ずさみながら、雪見は番台の下側に潜《もぐ》り込んだ。
「ロボ雪見って? ちょっと、原田さん?」
「四方《しほう》さん、四方さん」
南美が背中を突《つつ》いた。そしてやや後ろめたそうに、言う。
「私が上げた、ブリキの箱のことなのよ。見たことない? 側面に『この中にお金を入れて、お入り下さい』って書いてあるヤツ――」
「……見たことある」
それなら佐里も、すでに知っていた。原《はら》の湯《ゆ》では時々、番台に人がおらず、缶の箱だけが置かれていることがある。
「あれって、ロボ雪見って名前なんだ」
初めて知った事実に、佐里は感心する。南美は恥ずかしそうに視線を逸《そ》らした。
「その名前も私が考えたの。全自動だから。ギャグのつもりだったんだけど、原田さんノリノリで……」
しかし。
「あれ、どうしたんだろう? いつものところにないなあ……」
番台の台の下で、くぐもった声。そして男湯の側にニュッと一人の女性――雪見の母親がいつの間にか立っている。その手には、二つのブリキ缶があった。底の部分には『ロボ雪見一号・女湯用』『ロボ雪見二号・男湯用』と書かれている。
「……私たちだけで、先に小松家に行ってるってことで良さそうだな」
敦樹が小声で促し、全員が脱衣所のロッカーへと引き返した。
「おかしいなあ、いつもここに置いてるんだけど……」
その声と共に雪見《ゆきみ》は体を起こしたのだろう。ブリキ缶の底で殴る『ベコン』という音が、二発同時に鳴り響《ひび》いた。
3
『とにかくあと一時間は、真面目《まじめ》に店番しな!』という母親からの厳《きび》しいお達しと共に、雪見は仕事の続行が決定した。
佐里《さり》たちは一応、雪見の母に歓迎会のことなど事情を説明してはみた。しかしこういう時にものを言うのが、普段《ふだん》の行いである。もちろん雪見の場合は、完全な裏目に出た。『ロボ雪見』が番台に常駐《じょうちゅう》している時点で、まあ仕方がないことではある。
ただ、雪見の母もただの罰則として店番を押しつけているわけではない。『原《はら》の湯《ゆ》』はちょうどこれから客の増えてくる時間帯なのである。仕事をする雪見だけでなく、佐里たちの方も、脱衣所でたむろするわけにはいかなかった。仕事のジャマになる。
結局、雪見とは一時間後に小松家《こまつや》で再合流することを約束し、一行は銭湯『原の湯』をあとにした。
外はまだ日没直後である。オレンジ色の明るい夕焼けを横に見ながら、四人はのんびりと道を歩く。防災団の三人は制服姿で、いつも通学に使う学生|鞄《かばん》を肩にかけていた。一方、南美《なみ》の方は自宅――『楢橋《ならはし》商店』に一度帰ってから来たのか私服姿で、タオルと着替えを入れたバッグだけを手に持つ。
一行は一旦《いったん》、大通りに出ようということになった。どのみち小松家はその通りに沿って、だいぶ行った先に位置している。
四人が向かう大通りは大降下以前から広い幅を持つ道で、しかも車が滅多《めった》に通らないためまるで広場のようになっていた。いつもこの時間帯は帰宅途中の人々が道の一面に溢《あふ》れているが、それでも非常に歩きやすい通りなのである。
しかし実際に行ってみると、今日に限ってはどの通行人も行儀《ぎょうぎ》良く歩道を歩いていた。本来車道である位置には仮設電線が引かれ、その電線に集電のポールを伸ばしたトラックが、時々モーター音も煩《うるさ》く通り過ぎていく。
南美が、防災団の三人を振り向いて訊《き》いた。
「前の迷路作りの時も凄《すご》い数の車だったけど、また防除地区で何かやるの?」
「んー、今回は逆の作業やな」
清子《きよこ》が、湿った髪を気持ちよさそうに風に靡《なび》かせながら答える。
「これからしばらくは剛粧《ごうしょう》の数も減る一方やろ? 来月まではそんな大きい戦いもない。で、人間が楽に調査《ちょうさ》とか作業できるよう、あっちこっちで迷路に道開けてる最中なんや。――まあ、ちゅうても大した作業量ちゃうし。デカいトラック通るんも今日だけかなあ」
「そっかあ」
南美《なみ》がひとまず安堵《あんど》したように言った。普段《ふだん》見慣《みな》れないものが町の中を行き来する様は、何かしら落ち着かない気分にさせられるのだろう。
とにかく、駅に近いこの場所は狭い歩道に人々が溢れており、四人もほとんど縦《たて》一列になって歩く。しばらく行ってようやく、徐々に道は空《す》いてきた。だいぶ歩くのが楽になったころ、先頭の清子《きよこ》が待ちわびたように、後ろの佐里《さり》を振り返った。
「なあなサリサリ。頭|三《み》つ編《あ》みにすんの、手伝ってや」
「はいはい」
佐里は答えて、清子の後ろにいた南美と場所を代わってもらう。そして意外と長い清子の後ろ髪を、三つに分けて持った。
敦樹《あつき》はそんな二人の様子《ようす》を不思議《ふしぎ》に思ったのか、佐里に耳打ちをしてくる。
「結構、仲がこじれているのかと思っていたが……。和解したのか?」
「そういうことでもないんだけれど。まあ何て言うか、落とし所が分かった……のかな?」
当の清子が目の前にいるので、取《と》り敢《あ》えず誤魔化《ごまか》すように佐里はそう言う。そして思った通り、察しの悪い敦樹は『分からない』という表情を浮かべ、腕組みして首をひねる。
ただ敦樹が佐里に抱いた疑問は逆に、他人《ひと》が敦樹と清子の関係――例えば、先ほどの銭湯でのやりとり――を見れば、同じように不思議に感じるはずだった。敦樹の方は佐里と違って、無意識《むいしき》のうちに実践しているだけなのである。
要するに。
――清子との付き合いでは、同い年だと思わなければいいのだ。生意気で我《わ》が儘《まま》な妹|辺《あた》りが、突然できたのだと思えばいい。最初から、張り合う必要などなかったのだ。
例えば、組織《そしき》や学校という枠組みの中にいる時の清子は、ひたすらワンマンに振る舞《ま》っているかのように見える。自信満々であると同時に実力もあり、そして独断でことを進める。佐里や敦樹たちが清子に対して抱いた最初の感想も、そういったものだった。
だがそれは清子の一方的な傲慢《ごうまん》さが、なしていることではない。清子と防災団事務所で共に生活をしてみて、佐里はそれに気づいた。要するにこれが、清子のやり方なのだ。
清子は最初のころ、露悪的《ろあくてき》なまでに傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に振る舞っているだけのように見えた。だが実際はあれで、周囲には非常に気を使っていたのだ。そして清子は自分の行動によって生じた他人の反応を、注意深く観察している。この新たに来た見知らぬ土地で、自分にとって誰《だれ》がどういう存在なのかを見極めようとしていた。
しかし佐里ともいろいろあった末、清子は苦にならない範囲《はんい》で佐里に甘えたがった。そして敦樹に対してもその個性に合わせる形で、甘えているのだ。
だから佐里は、甘えられておくことにした。それで二人の関係性はうまくバランスが保たれたし、実を言うとまんざらでもない。――そんな事を考えながら清子《きよこ》の髪を手際よく編《あ》んで行く一方、佐里《さり》は南美《なみ》の方を振り返った。実は彼女についても、先ほど話をしていて興味《きょうみ》を引かれたことがあるのだ。
「――ねえ、楢橋《ならはし》さん。さっきのバレッタのことだけど」
「え、何?」
佐里の見事な手さばきを眺めていた南美は、驚《おどろ》いたように聞き返す。
「あの変わった部品のこと、思い出の品って言ってたじゃない? その話、もうちょっと詳しく教えてほしいなあ、とか。ダメかな?」
「ええ、ああ、うん……」
困ったような、嬉《うれ》しいような、恥ずかしいような。南美はそんないろいろな感情が入り混じった顔をしてはにかむ。普段《ふだん》はポンポンとものを言うのが持ち味の南美が、言いにくそうに言葉を濁《にご》しながら、問題のバレッタを鞄《かばん》の中から取り出した。
「……コレって実は、プレートクラッチの部品なの。――ちょっと話が飛ぶんだけど、今年の春先にさあ。海に大きな剛粧《ごうしょう》が現れたことがあったの、憶《おぼ》えてない?」
「全長が320mの通称『ヒレ長イルカ』だろう。確《たし》か、まだ春休みだったはずだ」
言って敦樹《あつき》は、少しだけ得意げな表情を浮かべる。
「実は第一発見者は私だ。海に行ってて、見つけた」
「……世間って狭いなあ」
呆《あき》れたように言う南美に、敦樹は「別に不思議《ふしぎ》なことでもない」とのんびり答える。
「海釣りには良く行くからな。それに何せ、あの大きさだったし。私が発見者と言っても、あの日、誰《だれ》が一番東側で釣りをしていたかって程度のことでしかない。
もっとも、本来なら大阪《おおさか》湾内に侵入する前に追い返すんだが、確《たし》かあの時は|友ヶ島《ともがしま》の魚探《ぎょたん》が調子《ちょうし》を悪くしていて、見逃したとか何とか。結局、『穏《おだ》やかな性格なので、刺激《しげき》せずやり過ごそう』ということになった」
「うん、そうそう。確かにそれ。――現場に川中島《かわなかじま》さん、いたんだ」
「楢橋も見に来てたのか。とは言っても、とんでもない人出だったからな」
敦樹が言うと、南美は少し俯《うつむ》いて頷《うなず》いた。
「……何か町中が騒《さわ》いでて、近くの工場まで仕事で部品取りに行った帰りに、私も物見遊山《ものみゆさん》で出かけたの。これと同じ型の部品、ぎっしり鞄に詰めたままね」
南美はメッキされたバレッタの飾りを示しながら言う。
「でも川中島さんの言う通り、凄《すご》い人出で。あげくに人にぶつかって、荷物ひっくり返しちゃって。で、人混みに押し潰《つぶ》されそうになりながらそれを拾ってる私を、守って手伝ってくれた人がいたんだ。
ところがそのあとで、その人がものすごく身近な人だっていうことが分かって。でも彼は、そのことすっかり忘れてて」
へー、と話を聞いている防災団三人組は、一様に感心したように言う。
「私、お礼言いたいんだけど、あの時は名前も訊《き》かなかったから本人か自信なくて。だからあの時に彼が拾ってくれたもの、目立つところに着けておけば、ね。もし本人なら思い出してくれるかなって。――それでこれ、自分でメッキして溶接して、バレッタにしたの」
「ちょっと待って、溶接!?」
佐里《さり》は驚《おどろ》いて口を挟む。
「あの工場とかで、お面着けてバチバチやる、あの?」
「やっぱり変かな? でも作り方をお母さんに訊いたら、そうするんだって教えられて」
「……いや、手芸をやってて火花や煙は出ないでしょう」
佐里は苦笑いを浮かべた。
技術者である南美《なみ》の母親には何度か会ったことがあるが、確《たし》かにやりそうな人ではある。
しかしどう作ったかはともあれ、工作のできはなかなかいい。南美の気持ちが伝わってくるような銀色メッキの髪飾りに、佐里はため息をついた。
「そういう特技があるのって、いいよね。大切なもので自作アクセサリーっていうのは、ロマンチックで素直に羨《うらや》ましいな。相手もうまく思い出してくれるといいね」
「しかし回りくどいだろう? なぜ直接本人に訊かないんだ? そうすれば、話は早い」
自信満々でそう言う敦樹《あつき》を、佐里は冷たい視線で見る。
「……何でそんな目で、私を見るんだ」
「別に……。ダメだこりゃ、って思って」
言いながら佐里は、三《み》つ編《あ》みの先をゴム紐《ひも》で止めて、清子《きよこ》の頭をポンと叩《たた》いた。
「はいこっちは終了」
「おう、ありがとなサリサリ。一人でやると、絶対曲がってまうねんなあ」
上機嫌《じょうきげん》で清子は礼を言い、銭湯でもらったばかりのアヒルのオモチャを頭の上に乗せ、嬉《うれ》しそうに遊ぶ。
と言っても、この水にも浮かぶ中身が空洞のオモチャは、意外に安定性がない。清子自身の思惑とは裏腹に、二三歩行ってヨロヨロ、さらに二三歩行ってヨロヨロを繰《く》り返すことになる。そしてついに、それがぽろりと頭の上から転がった。慌ててあとを追おうとする清子より先に、どうにか敦樹がアヒルを空中でキャッチする。
「勘弁してくれ、清子。危なっかしくて見ていられない。この道は他《ほか》にも人がいるし、今は車だって通ってるんだ。事故にでもあったらどうする?」
「……敦樹は心配症やなあ」
不満げに清子はぼやいた。だがそう言う間にも、大通りをトラックが通過する。
「――まあ、しゃあないわな」
残念そうに、清子《きよこ》は息をついた。だが、成り行きにホッとした佐里《さり》が視線を転じると、南美《なみ》が腕を組んだまま、真剣な表情で考え込んでいた。
「――川中島《かわなかじま》さんって、良く釣りとかするの?」
「まあ一応。……下手《へた》の横好きって程度の腕前ではあるが」
「糸《テグス》って、いま持ってる?」
南美が何を考えているのか今いち分からない顔で敦樹《あつき》は頷《うなず》き、学生|鞄《かばん》を漁《あさ》った。中から小さな木製の糸巻きが出てくる。
「何でそんなモン、学校持ってきとん?」
そう問う清子に敦樹は「別に変なことはないと思うが」と生真面目《きまじめ》に答えた。
「清子が防災団事務所の風呂《ふろ》にヒヨコを置きたいというのと同じだ」
「いや、何言ってんねん?」
「持ち運べない道具は、ちゃんと学校に置きっぱなしにしている」
佐里は事情を知っているので、黙《だま》って乾いた笑いを浮かべる。しかし清子にとっては、話が繋《つな》がらないらしい。しばらく考え込んでからようやくその意味を理解し、ポカンとした表情を浮かべた。
「釣りセット一式、学校にあるんか?」
「だから、持ち帰れないものだけだ。――防災団事務所は武庫川《むこがわ》には面しているが、海まで遠い。対して学校は、夙川《しゅくがわ》や海まで随分近い。
竿《さお》を学校にも置くのは釣り人として、まあ当然といえば当然の工夫だな」
「……あかんわ、この人」
呆《あき》れたように清子が南美を振り向くと、こちらはこちらで糸巻きについている小さなカッターで、釣り糸を切っている。その様子《ようす》を見てだんだん心配になってきた佐里は、ひとまず訊《き》いた。
「楢橋《ならはし》さん、一体何を?」
「大丈夫、ちょっとした細工よ。川中島さん、そのヒヨコ貸して。――畑沼《はたぬま》さん、ちょっとの間、動かないでね」
そう言って南美は、清子の頭を釣り糸でぐるりと一巻きする。そして着替えの入ったバッグの中から、大きな銃のようなものを取り出した。もちろんそんな物騒《ぶっそう》なものではなくて、緑色の外観から工具の一種なのだというのは分かる。しかし――。
「おい待てて。何や! 何が始まるんや!?」
「畑沼さん、動かないでって。じっとしてて」
「いやナラハシ、何か凄《すご》い変なこと考えてへんか? ちょと待て。落ち着いて考え直せ!」
だが清子がそう言う間にもブシューブシューと変な音が漏れる。
「これでヨシと」
「ヨシと、やないやろ」
清子《きよこ》は両手を上げ、慌てて自分の頭の上を探る。オモチャのヒヨコが、釣り糸でガッチリ固定されていた。清子は糸に指を入れて引っ張ってみるが、ビクともしない。その奮闘《ふんとう》の様子《ようす》に、敦樹《あつき》が横へ首を振る。
「無理だ清子。その長さの釣り糸を人の手で引き千切ることは、不可能だと思った方がいい」
だが諦《あきら》めない清子は、必死になって糸に指をかける。
「……千切ったりせんでも、……ヒヨコがずれればすぐ取れるハズ」
「心配しなくても大丈夫だって。ボンドガンのボンドで、しっかり固定しといたから」
先ほどの銃のようなものをバッグにしまう南美《なみ》を見ながら、清子はあんぐりと口を開けた。
「ボ……ボンドガンて……」
「応急処置には必須《ひっす》よ?」
「応急どうこうの前に、結論《けつろん》急ぎ過ぎやちゅうねん。どうしてくれんねん、この有様!」
「大丈夫、大丈夫。頭に乗せるので、良かったのよね? 糸が細いから全然見えないし。どこから見ても頭にアヒルを乗せた、かわいい女の子だって」
「そういう問題とぉぉ、ちゃうわぁぁ!!」
南美は清子の怒る理由が分からないのか、困った顔で佐里《さり》を振り向いた。
「もしかして私、何か違った?」
南美には悪いが、佐里としても「違う」と首を横に振るしかない。ヒヨコに手をかけた敦樹が、さすがにオロオロと焦ったように言う。
「っていうか、これ本当に全然取れないぞ、楢橋《ならはし》」
「だいたい固定してどうする、固定して! ――あああぁ……何ということか! 安全だとか便利だとか。余計なことして親切|面《づら》の、空虚なる理性の文明よ!!」
「……うんまあ、落ち着いて。大丈夫」
まるで自分自身を落ち着かせるかのように、南美は両手を広げて言った。
「心配しなくても、そのボンドは熱で暖めればすぐ溶けるのよ。それを拭《ふ》き取れば大丈夫。糸《テグス》はもちろん、ヒヨコの方の接着剤も綺麗《きれい》に剥《は》がれるから。防災団の事務所にも、ドライヤーぐらいあるんでしょ?」
「あるけど……。これから小松家《こまつや》行くんでしょ? 頭にヒヨコ乗せてお店入るの?」
佐里は慎重な口調で、そう言う。
困ったように、南美は首をかしげて清子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「ごみん?」
「……ホンマ、コイツだけは!」
清子は両拳を握りしめて、ブルブル震《ふる》える。しかし南美は再び鞄《かばん》を探ると、ハサミを取り出した。
「これで釣り糸を切れば、大丈夫だから。ごめんね、畑沼《はたぬま》さん。私何か、余計なことしちゃったみたいで。……何かいっつもこうなんだ」
落ち込んだ表情で、南美《なみ》はそう言う。
清子《きよこ》は大きな溜《た》め息をついた。だが、ハサミと南美の表情を横目で順に睨《にら》んで、イライラと足踏み。そして再び、大きな溜め息をついた。
「――まあ、ハサミがあるんやったらええわ。ナラハシかて親切でしてくれたんやから、店に着くまでぐらいやったら、辛抱《しんぼう》したるか……」
途端《とたん》、南美の顔はわずかに明るさを取り戻す。だが甘い顔をするつもりはないとでも言いたげに、清子は不機嫌《ふきげん》な表情を崩さぬようにしながら、道を歩き出した。
4
しかしどうにも人が多いと落ち着かない。一行は大通りを一旦《いったん》折れた。田んぼに面した、狭い小道へと入る。道に沿って続く一区画分だけを使った小さな田んぼは、すでに刈り取りも終わっており、茶色の土の中に崩れかかった切り株だけが並んでいた。
実のところ、大通りではなくこちらの道を使うと、『小松家《こまつや》』までは少々遠回りになってしまう。その意味では、完全な回り道だった。ただ、一行はどのみち銭湯で仕事をしている雪見《ゆきみ》の到着を待たねばならない。時間|潰《つぶ》しそのものは無駄ではなかった。
それに混雑した大通りと比べて、こちらの道は通る人の姿が全くない。時々|佐里《さり》が振り返っても、誰《だれ》もいないくらいなのだ。横に広がって話をしていても邪魔《じゃま》にならないというのは、なかなかに快適ではあった。
「――それにしても、楢橋《ならはし》さんのものすごく身近な人って、誰だろう?」
佐里が首をひねりながら、そう話題を切り出した。
「学校の方は……ちょっと想像つかないなあ。お店の関係の人?」
「う……ん」
言葉を濁《にご》すように答えた南美は、佐里の興味津々《きょうみしんしん》の視線に気づくと、慌てて何度も頷《うなず》いた。そばで様子《ようす》を見ていた敦樹《あつき》が、やんわりと佐里を睨む。
「その辺にしておけ。単なる好奇心で、あまり楢橋を困らせるな」
「だってそういう話題に飢《う》えてるんだもん。――敦樹は興味ないの?」
首を振り「興味ない」と答える敦樹を待たずに、佐里は「誰なんだろう……」と南美の方へ視線を向けた。
「じゃあ何か、ヒントだけでも。特定できなくてもどんな人か想像がつけば、彼に楢橋さんのこと思い出してもらう方法、何かアイデア出せるかも知れないし」
と、それまでアヒル烏帽子《えぼし》で集団の右端を歩いていた清子が、顎《あご》に手を当て突然言う。
「――ところで君たち、チッスはしたことあるのかい?」
「何で標準語なんだ?」
素《す》で訊《たず》ねる敦樹《あつき》を押《お》し止《とど》め、佐里《さり》が首を振る。ツッコみ所は、そこじゃない。南美《なみ》も脱力したように、肩を落として訊《き》いた。
「どうしていきなり、そんな話を……」
「んー、あのなあ。ちょっと回りくどい話になって悪いんやけど――」
普段《ふだん》の口調に戻った清子《きよこ》が、さすがに恥ずかしそうに言う。
「初チッスってやあ、イロイロ語られるだけ語られてるけど、実際やってみるとびっくりするぐらい『何でもないこと』やねんなあ。それについて他《ほか》のヤツはどう思《おも》てんのか、前から聞いてみたかったんや。
やってな、よう考えてみいや。あれって自分の上唇と下唇をギューってくっつけた時の感触と、変わりがあるわけないやん? そやろ? やのに何で、初チッスはあんなもてはやされとるん? 不公平ちゃうん?」
だがその清子の問い掛けに、返事はなかった。一行は黙《だま》り込む。
不思議《ふしぎ》に思った佐里が左右を見回すと、清子を除いた全員が自分の上唇と下唇をひっつけ、アヒルの口になっている。もちろん佐里自身もだった。――試してみたかったのだ。
だがそもそもの発言者・清子の呆《あき》れたような顔に、どうにも気まずい沈黙《ちんもく》が流れる。
敦樹が無表情のまま最初に口を元に戻し、そして訊いた。
「――つまり清子は、すでに誰《だれ》かとキスしたことがあるということか?」
思わぬ反撃《はんげき》だった。おそらく敦樹自身が考えている以上に、この問いの切っ先は鋭い。
その証拠に全員の視線が集まる中、清子は「えーっと……」と腕を組んで俯《うつむ》いてしまう。そして清子はこういう場合、大体開き直って誤魔化《ごまか》すのだった。
「そや、えと。わあい、みんな引っかかったあ。アヒル軍団結成やあ……」
白々しいまでに冷めた自分の『ノリ』に、清子の声は徐々に小さくなり、自己嫌悪に沈み込んでいく。だがそれを救ったのは、敦樹だけが示した素直な納得だった。
「そうか、引っかけだったのか」
「そ、そや。地元では子供の間ではやっとんねん」
「これは一杯食わされたな」
佐里は無言のまま、敦樹の顔を凝視《ぎょうし》する。しかしどうやら本気で言っているらしい。
南美は「ははは、そうだったんだ」と硬い笑い声を上げた。佐里にしても清子の魂胆《こんたん》は見え見えではあったが、まあこちらは南美の件とは違って、無理に告白を迫る雰囲気でもない。軽く流しておくべきところだろうと判断する。
「と、とにかくやナラハシ。その男に気づかせる、っちゅうのは分かった。問題はそのあとやねん。ウチが思うにそいつは、ごっつフラフラした、忘れっぽい男のはずや。繋《つな》ぎ止めたいんやったらな、キスぐらいで安心しとったらあかんねん!」
「なるほど」
それは確《たし》かに一理あると、南美《なみ》はもう一度アヒルの口をやってみた。何とも心許《こころもと》ない感触である。
「しかしでは、どうすればいいんですか、畑沼《はたぬま》先生?」
「うむー、取り敢《あ》えず乳《ちち》辺《あた》りを揉《も》ませてしまいなさい。それがいいでしょう。ただし、最後の一線はじらしにじらすのですぞ」
途端《とたん》に南美はクルリとそっぽを向き、深々と溜《た》め息をついた。
「……高一にもなって、頭にオモチャのアヒル乗っけてる人に、そんなこと言われてもなあ」
「お前がやったんやろうが! ウチのせいか? これはウチのせいなんか!?」
言い争う二人を置いて、佐里《さり》と敦樹《あつき》は先に道を行く。そして道の延びる先の辻《つじ》に見知った姿を見つけ、佐里は手を振った。
「片山《かたやま》さーん!」
道の先の通りには、街路|樹《じゅ》を挟んでしなびた薬局が建っている。その店の前でクラスメイトの片山|菜穂子《なおこ》が、落ち葉を箒《ほうき》で掃いているところだった。薬局の方はもう閉める準備なのか、シャッターが半分下りている。ちなみにクラスの女子で一番背の高い彼女こそが、男子・幸田《こうだ》が言うところの『巨乳の片山さん』である。
もちろんこれは多分《たぶん》に失礼な呼び名で、片山菜穂子を伝える正確《せいかく》な言葉ではない。まず彼女について最初に語られるべきと誰《だれ》もが思うのは、その落ち着いた物腰についてだろう。
五人兄弟の最も上として育った彼女は、とにかく余裕のある性格だった。何か困りごとを相談《そうだん》すると、のんびりと、だが我慢強く人の話を聞いてくれる。佐里たちのクラス、高校一年組の生徒たちにとって、良き相談相手なのだ。
つまり大人《おとな》であると、誰もが感じていた。それ故にクラスメイトたちは彼女を下の名前ではなく、尊敬の念をこめて『片山さん』と呼んでいる。
片山さんは佐里に気づくと、笑顔を作って手を振り返した。
「どうしたの、四人とも揃《そろ》ってー」
「これから歓迎会で、玉突きに行くの。片山さんもどう?」
急ぎ足で道を行く佐里の言葉に、片山さんはキョトンとした表情を浮かべた。
「歓迎会で『玉突き』?」
そしてしばらくして「ああ」と、ようやく納得したように頷《うなず》く。
「……『玉突き』ね。じゃあ小松家《こまつや》なんだ。もうお店閉めるから、私も行こうかな。でも一体、何の歓迎会?」
「畑沼さんの転校の歓迎会、まだやってなかったから。それで」
やや弾んだ息で薬局の前までやって来た佐里は、遅れてこちらへ来る清子《きよこ》を振り返ってそう答えた。南美《なみ》と清子《きよこ》の二人は、急ぐわけでもないのに小走りで。敦樹《あつき》ばかりが、相変わらずのんびりと歩いていた。その様子《ようす》を見ながら、佐里《さり》は言う。
「原田《はらだ》さんの提案でやろうっていうことになって。彼女も遅れて来るから」
「でもそっか。まだ転校のお祝いってやってなかったっけ。――言われてみればそうだね」
片山《かたやま》さんはやって来た清子を見て、のんびりと頷《うなず》いた。そして清子の頭の上の黄色いアヒルを突《つつ》くと、ニッコリと微笑《ほほえ》む。
「じゃあこれは、プレゼントなんだ。こん・にち・わ」
「ガー」
清子が裏声で答え、片山さんはひとしきり笑った。
「いいなー。それじゃ私も、キヨコちゃんに何かプレゼント用意する。大したものは無理だけどね」
「ええて、ええて。お構いなく」
ひとまず清子は、割と真面目《まじめ》に遠慮《えんりょ》した。佐里の見るところ、先ほど親切の押し売りできつい目にあった――いや、あっている最中であることが、結構|堪《こた》えているらしい。
だが片山さんは「いいのいいの」と言い返し、そそくさとシャッターを半分下ろした店内に入っていった。そして何か、小さな袋を持って出てくる。
「ピカピカピー! 今日届いた新製品の試供品ー! これでキヨコちゃんの肌をお手入れして、美人にしまーす」
おお、とみんなで拍手。
まあ試供品程度ならば、オモチャのアヒルとも釣り合いの取れる相応の品である。清子の方も遠慮《えんりょ》のガードを下げたのか、素直に喜んで礼を言った。
さらにあくまでマイペースを貫きながら、片山さんは提案。
「さっそく、ここでやっちゃおう。私がして上げるから。――ちょっとどいててねえ」
わざわざ断わって、片山さんは清子の頭のヒヨコに手をかけた。しかし取れない。
あれっと小首をかしげる片山さんに、清子は叫んだ。
「ナラハーシ! さっきのハサミ持ってこい!」
「はいはいここに」
南美がささっと差し出し、清子が自分で釣り糸を切る。ヒヨコは無事、清子の頭を離《はな》れた。片山さんはびっくりしたように、しばし呆然《ぼうぜん》とする。
「ああ、そうなってたんだ。わたしのんびりしてるから、気づかなくって……」
「それが普通やて。ハサミありがとうな、緑色のボンドガンの人」
嫌味《いやみ》ったらしく言って、清子は恐縮《きょうしゅく》顔の南美にハサミを返す。その確執《かくしつ》に一人訳が分からない片山さんは、首をひねった。
「ボンドガン? でんでけでっでーんでんでっでっ、でんでけでっでーんでんでっでっ?」
「いや、007は全然無実でカンケーないから」
佐里《さり》が言うと、清子《きよこ》はポンと手を打つ。
「……そっか、ナラハシのことは今度からボンドガールって呼ぼ」
「えー……」
南美《なみ》が不服そうに声を上げたころ、ようやく敦樹《あつき》が到着し、手を挙げる。
「それじゃあ片山《かたやま》さんと清子の作業の間、落ち葉掃きは私たちでやってしまおう。その方が早く全員で出発できる」
その提案に、「お願いー」と片山さんは笑う。敦樹は無言のまま一つ頷《うなず》き、店の前に置きっぱなしの箒《ほうき》を手に取ると、それで道を掃き始めた。ちりとり役は南美がすぐさま買って出る。清子のそばにいるといじめられるので逃げたのだ。
あまってしまった佐里は、片山さんのする化粧を見学させてもらうことにした。
「じゃあキヨコちゃんは、ここに座って」
言われるまま街路|脇《わき》の石段に腰掛けた清子の前で、片山さんは試供品の袋を開ける。中には説明書と、小さなチューブが一本だけ入っていた。
「そうそう。わたしも注意して塗るけど、もし間違って目に入っちゃったら痛いからー。できればぎゅって、瞑《つむ》っててもらった方がいいかなあ」
慌てて清子は目を瞑り、ついでに口もきつく閉じる。
佐里が様子《ようす》を見守る前で、片山さんは小さなチューブから赤いクリームをわずかに、人差し指の上に乗せた。そしてそれを、付属の説明書に従って清子の顔に塗っていく。
しかしその様子をしばらく見守っていた佐里は、クリームの独特な塗られ方にあるものを連想する。
「――何《なん》か随分、変わってるね。これってカブキ? みたい……?」
思わずそう訊《き》いてしまう。片山さんが清子の顔に塗っていく赤いクリームの跡は、そのまま歌舞伎《かぶき》役者の隈取《くまど》りのようだった。女性の化粧品にしてはえらく勇壮である。片山さんはうーんと唸《うな》り、作業しながら解説してくれる。
「カブキのクマドリが、この製品のコンセプトみたい。これ商品名は『KAGEMASA』だって。かげまさー」
「またエライかわっとるな。一体何なん?」
目を瞑《つむ》ったままで清子が訊《き》くと、片山さんは優《やさ》しく答える。
「エエト、つまりね。歌舞伎の隈取りっていうのは、役者の顔を誇張するために入れるの。顔のシワや、血管で皮膚《ひふ》の色が変わって見えるところにね、さらにはっきり目立たせるために色を入れていくわけなのよ。でね。歌舞伎の世界ではそういうことを、いろんな人が四百年間、改良に改良を重ねてずっと続けてきたの。つまり歴史の積み重ねがあるわけね。
それでね。歌舞伎役者が誇張しようとした顔の上の位置っていうのは、元々人の目が集まる重要なところでもあるわけでしょ? シワとか、血管とかね。だからその部分を中心にお手入れして綺麗《きれい》にしよう! っていうのが、この製品なのよー」
「おおー」
目を閉じた清子《きよこ》は感心したように声を上げ、小さく拍手。
「話自体は三流化粧品にありがちな嘘《うそ》くさい宣伝文句やけど、そんだけすらすら言えるっちゅうのは、大した商品|知識《ちしき》やで。なかなかやるな、カタヤマ」
「えへへ、そうでしょー」
片山《かたやま》さんは調子《ちょうし》よく、自慢げに返す。もちろん丸暗記しているのではない。目を瞑《つむ》った清子は気づいていないが、いま片山さんが手に持っている説明書に全文そのままその通りに書いてあるのである。
佐里《さり》の表情から、片山さんはカンニングに気づかれたことを悟ったのか、お茶目《ちゃめ》な表情で「しー」っと人差し指を唇に当てる。ひとまず佐里は頷《うなず》いた。それほど無粋《ぶすい》なつもりもない。
「片山さん。ひとまずこちらは、一通り終わりだ」
敦樹《あつき》は落ち葉を掃いていた箒《ほうき》を置き、そう告げた。
「あ、――こっちも完成。ナミちゃん、ちりとりはここに置いておいて」
その指示通り、南美《なみ》は片山さんの隣《となり》にちりとりを運んだ。一回使い切りの試供品のゴミを一つにまとめた片山さんは、それを分別して捨てるためにちりとりの落ち葉の上にそっと置く。
「じゃあキヨコちゃん、終わったから目を開けていいよー」
「おっ、完成?」
「ああ触らないでね。広がっちゃうから。じゃあ私もすぐに準備するから、玉突き行こう」
「? ――いや、ちょっと待ってくれ」
敦樹が手を広げて押し止《とど》め、確認《かくにん》するように訊《き》いた。
「……そのまま行くのか?」
清子は『どうした』と首をひねる。片山さんも不思議《ふしぎ》そうに、同じ方向へ首をかしげた。
「でもこれ、しばらくつけてないと効果ないよー」
片山さんの言葉に、敦樹は腕を組みしばし黙考《もっこう》。渋い表情を浮かべる。しかし。
「――それじゃしょうがないか。片山さんの、せっかくの厚意だものな」
敦樹はそれで引き下がる。片山さんは心配そうに、清子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「ちょっとネトネトするけど、キヨコちゃん気持ち悪いー?」
「や、塗ってもらったトコ、すうすうしてエライ気持ちええし。ウチは別に問題ないけど」
その清子の言葉で、納得のいかなかった佐里、そしておそらく南美も、何がこのズレを生じさせているのか気がついた。
清子は自分の顔に塗られたのが透明なクリームだと思っているのだ。目を瞑っていたので、クリームが真《ま》っ赤《か》な色だったことを知らない。
そして片山《かたやま》さんはあまり人の体裁《ていさい》を気にしない性格で、反応に現さない。その結果、清子《きよこ》は自分の顔がどうなっているか、気づいていないのだ。
片山さんは佐里《さり》たちの苦悩も知らぬげに、ちりとりに乗った落ち葉と試供品のゴミを店の入り口のゴミ箱に、分別して捨てる。そして手を拭《ぬぐ》うと「出かけてくるー」と中に告げ、店のシャッターを閉めた。本来の玄関は店舗の裏側にあるが、そちらに向かう気配《けはい》はない。片山さんは靴ではなくつっかけのまま行くつもりらしかった。
シャッターを施錠《せじょう》すると鍵《かぎ》をご機嫌《きげん》で振り回しながら、「それじゃあ、行こう」と清子に向かって手を伸ばす。清子は素直にその手を握り、二人は楽しそうに会話を始めた。
敦樹《あつき》がいつもの無表情で二人に続こうとするところを、佐里は制服の裾《すそ》を引っ張り、静かに呼び止める。
「あのまま行かせていいの?」
佐里の問いについて同感の意をこめて、南美《なみ》も頷《うなず》く。一方、敦樹は唸《うな》った。
「……顔のことか? ――しかし化粧なんだから、ああいうものなのだろう?」
「いや、あれで町に出ていくのはアリなの?」
重ねてそう訊《き》く。自分に余裕がないのか、片山さんや敦樹が鷹揚《おうよう》すぎるのか。もはや佐里には判断がつかなかった。たださすがにマイペースの敦樹も、問題そのものは把握しているようだった。
「……確《たし》かにあれで、大通りに出るのはな。しかし別にパックとかの類《たぐい》ってのは、ずっとつけている必要はないはずだ。せいぜい十分《じゅっぷん》ぐらいでいいんだろう? 片山さんも大通りに出る前には、清子に顔を拭《ふ》かせる気でいるんじゃないのか?」
そこまで言って敦樹は困ったような表情を浮かべた。
「佐里たちが気にするのも分かるが、私は成り行きに任せようと思う。せっかく清子があれだけ喜んでいるのに、効果が出る前に顔をふけっていうのはどうも気が引ける。片山さんにも悪い気がするし」
「それは確かに……そうだけど」
佐里たち三人は結局、結論を出せなかった。そしてそのまま、もう随分先にいる清子と片山さんを追いかけた。
5
小さな商店街を少しばかり行くと、店の並びは唐突に終わる。そしてそこから先は、集合住宅がいくつも並ぶ区画となっていた。
一人増えて五人がぞろぞろと道を行く。その集団の中ほどを、佐里は後ろめたい気分のまま歩いていた。手首の小さな時計を見るが、再出発してからまだ五分しか経《た》っていない。いつ切り出したものかと一人悩みながら、佐里《さり》は一行の先頭二人に目をやった。
ヒヨコのオモチャは外したものの、今度は歌舞伎《かぶき》役者のような隈取《くまど》りを顔に描かれた清子《きよこ》は、片山《かたやま》さんと共に楽しげに話しながら歩く。子供っぽい清子と、大人《おとな》らしい包容力のある片山さんの組み合わせなので、意外としっくり来ているようだった。そして二人の会話は佐里の気になる『清子の顔』には触れないまま、様々な話題を行ったり来たりしている。
「――ところでキヨコちゃん。学級征服、その後どう?」
「おう、水面下でゴッツ順調《じゅんちょう》に進行中や!」
カッカッカと清子は豪快に笑って、片山さんにそう答えた。
「三学期のクラス委員長選は、期待しとってな」
「ああ。『委員長』に挑戦するんだー。これはいよいよ本気デスネ?」
「なんぼのもんか!」
「でも委員長の田端《たばた》さんも、すごいんだよー。小学生の時からずっと委員長をやってる、委員長オブ委員長だからね。強敵だよ?」
おどけて脅かすように、身長の高い片山さんが大きく両手を広げる。直後にキキキと後方から、効きの悪い自転車のブレーキ音が響《ひび》いた。
「あ、もしかして、ごめんなさいー」
振り返って原因を確認《かくにん》するより先に、片山さんは謝《あやま》った。だがブレーキの音は佐里たちよりもさらに後ろからである。
「……委員長オブ委員長?」
一行全員が振り向いた先にいたのは、新聞を大きな籠《かご》に積んだ少女だった。ちょっと不機嫌《ふきげん》そうに口を尖《とが》らせている。
「そんな風に呼ばれてるの、私?」
今まさに話題にしていた現役委員長、田端志津《たばたしづ》その人が、低い声でそう言った。
田端は現在の格好から推測するに、バイトで夕刊配達をしている最中のようだった。乗っている自転車は販売所で借りているものらしく、使い込まれていて随分と古い。ちなみにジャージ姿に軍手だが、いつも通りの凛《りん》とした雰囲気を漂わせている。
佐里にとってその雰囲気は、いま隣《となり》にいる敦樹《あつき》のものと近いような気がいつもする。しかし同時に、全く違った二人と感じる時も良くあった。根が頑固なところは二人とも似ているのだが、敦樹が『剛』なら田端志津は『柔』だった。頭の回転が速く、切り替えもまた素早い。
彼女はすぐに不機嫌な表情を引っ込めると、落ち着いた声で謝った。
「不躾《ぶしつけ》な訊《き》き方をして、ごめんなさい。それでどうしたの? みんなお揃《そろ》いで」
こういう部分を、佐里はとても大人っぽいと思う。片山さんとはまた別の意味でだ。
委員長・田端志津は表情が豊かでありながら、しかもそれを完全に自分でコントロールできるタイプの人間だった。目的達成のため、相手に弱みを見せず時期を待ち、翻弄《ほんろう》し、論破《ろんば》する。そんな田端《たばた》はこの歳《とし》にしてすでに、立《た》ち振《ふ》る舞《ま》いや言動にある種の貫禄《かんろく》が備わっていた。
今はジャージ姿だが。
――しかし委員長なら、畑沼《はたぬま》さんの今の姿に何か適切なことを言ってくれるはず。
佐里《さり》はそんな期待の視線を、彼女に注ぐ。
しかし田端|志津《しず》は、公正な精神の持ち主だった。つまり清子《きよこ》の外見がいかに逸脱したものであっても、ここが校外である以上、それは清子の自由であると判断したのだ。より正確《せいかく》に言えば、彼女はこの件に関して無視し通すことを、清子が振り返ったその瞬間《しゅんかん》から決定していた。
ただそれほどクールな田端でも御せないのが、このクラスメイトたちの侮《あなど》れないところではある。
「あーあ、田端さん。こんな整備不良の自転車に乗ってたら危ないって」
南美《なみ》のその声に、全員がハッとなった。いつの間にか彼女は自転車のタイヤをガッチリと車輪《しゃりん》止めで固定し、ドライバーとベンチで作業をしている。例の南美が持つバッグの中に、入っていたらしい。
「ちょっといきなり! 止《や》めてよ、楢橋《ならはし》さん」
「それはこっちの台詞《せりふ》です。――何でみんな、ドライバー一本と時間が五分あればできることを、何にもやらずに自転車乗るかなあ。こんなの雨の日に乗ってたら、絶対事故起こすよ?」
そう言う間にも南美はテキパキ作業を完了させてしまい、今度はバッグの中から空気入れを取り出す。それをタイヤに当てて、ブシュブシュとポンプを押す。
「そんな、勝手に――」
「大丈夫、お代は頂きませんから。一市民として我慢ならないから、やらせてもらってるだけです」
「そうじゃなくて」
清子は二人のやり取りを横目で見ながら「懲《こ》りんなあ……」とボソリと呟《つぶや》いた。だが次々進む作業に田端は結局根負けし、疲れた顔で南美のしたいようにさせる。のんびり者の片山《かたやま》さんは、朗らかに笑って言った。
「ナミちゃんはさしずめ、『生活の赤ひげ先生』ってところねー」
「……どこの世界にいきなり道ばたで患者を羽交い締《じ》めにして、勝手に手術を始めるような無体《むたい》な医者がいるのよ」
ペースが掴《つか》めないことにイライラした田端の反論《はんろん》に、敦樹《あつき》が感心したように頷《うなず》いた。
「さすが委員長。うまいことを言う」
全員に笑顔がこぼれる。
「そこは笑うところじゃないからね!」
田端は冷たく言い放った。一同がシュンとなる。
だが清子だけは、なおもフッフッフと不敵に笑っていた。
「――まあ偉そうなんも、今のうち。クラス委員長・田端《たばた》志津《しづ》! お前の呼称が『委員長』なのも、今年が最後。来年初めからはただの田端さんに戻ってもらうで!」
「?」
その言葉の意味を正確《せいかく》に理解した田端は、無言のまま顎《あご》に手を当て、続いて同情の表情を浮かべた。別に清子《きよこ》を馬鹿《ばか》にしているのではない。感情表現が正確なだけだ。
「――クラス委員長の任期は通年だから。三学期も私が委員長だと思う」
「ナニ!」
清子は慌てて周囲のクラスメイトたちを見回した。『言われてみればそうだった』という表情を、全員が今さら浮かべる。田端は息をついた。
「みんなは結局、委員会活動についていい加減だから。本来の仕事が忙しい人だって、もちろんいるしね。それにホント、ただの雑用よ? 正直、あまり私を目の敵《かたき》にしても仕方がないと思う。それに私にしたって、奨学金が欲しくて役職《やくしょく》やってるだけだから」
相変わらずクールに言う田端に、清子はワナワナと震《ふる》える。
「その地位、私利私欲のためとは!」
「いや、お前もだ」
敦樹《あつき》が冷静に突っ込む。田端は肩を竦《すく》めた。
「別に仕事をさぼってるわけじゃないもの、私は過不足なく勤めを果たしている。道義的にも問題ないと思うわ」
「あのでも――」
不可解そうに、佐里は小さく手を挙げた。
「田端さんは成績《せいせき》だっていいし、バイトもかなりの数をこなしてるって聞いてるけれど。奨学金をクラス委員長|職《しょく》で上乗せしなきゃならないほど、生活、苦しいの?」
「そうじゃなくて。お金|貯《た》めてるの。大学に行きたいのよ」
おー、と全員の口から今度は感心したような声が漏れる。その反応に、田端は頭が痛そうにこめかみを押さえた。
「ちょっと待って。この中で進学考えてる人いないの?」
彼女の問いに対して、それぞれからバラバラに答えが返る。
「剛粧《ごうしょう》の防除こそが、まずは急務だからな」
「うーん、敦樹の言う通りでもあるし、まあ三年|経《た》ってみないと分からないかなあ?」
「地元帰ってから考えるわ」
「そう言えば彼って、どうするんだろう? できれば、それも含めて考えたいし」
「あはー。私じゃむりむり」
五人は顔を合わせ、一つ頷《うなず》く。
『いないっぽいです委員長!』
元気のいい答えに、田端《たばた》は「分かった。もう訊《き》かない」とだけ呟《つぶや》いて、ハンドルに突っ伏す。
「――それで、今日は集まって、一体なに?」
「あの……転校の歓迎会をやろうって。みんなで玉突きをすることになったの」
佐里《さり》の返事に、田端はようやく全《すべ》ての合点《がてん》がいったようだった。
「小松家《こまつや》、よね。時間は……私、三十分ほど遅れるけど行っていい?」
「参加条件はプレゼントなんだってー」
止める間もなく、片山《かたやま》さんが言ってしまう。佐里は慌ててフォローした。
「あの、あればでいいの。生活の事情はそれぞれだし、気持ちだけでいいから」
「なるほど、要するにそういうことなのか」
清子《きよこ》の顔にある隈取《くまど》りの意味をどうにか理解できたらしく、田端はそう呟いた。そして自転車のカゴ部分に取りつけられた、大きな新聞入れのバッグを漁《あさ》り、紙袋の包みを取り出す。
「いいタイミングだったのかもね。これ、良かったら畑沼《はたぬま》さん使って」
清子は包みを受け取り、中を開けてみた。田端からのプレゼントは防寒具の耳あて――ヘッドフォンに毛皮を張ったような代物《しろもの》である。
「配達の仕事場で毎年支給されるんだけど、今年のは私、どうも合わなくて。朝刊配りとかじゃ必需品なんだけど、着けてると頭が痛くなっちゃうのよ。私は結局、去年の使うことにしたんだけれど、ただ捨てるのも勿体《もったい》ないし。もし良ければ畑沼さんに」
そう言うと田端は自転車の後ろを振り返った。
「もう行っていい、楢橋《ならはし》さん?」
「あ、ちょっと待ってね――ハイ、どうぞ」
南美《なみ》は慌てて車輪《しゃりん》止めを外す。田端はハンドルを翻《ひるがえ》し、自分の来た方へ古い自転車を方向転換させた。再び地面に足をついて止まると、南美を振り返って少し驚《おどろ》いたように言う。
「確かにペダルが軽い」
「そうでしょ」
南美が嬉《うれ》しそうに答えたので、田端は『あまり調子《ちょうし》に乗るな』と戒《いまし》めるかのように睨《にら》む。
「――それじゃ私、仕事に戻るから。みんなまたあとで」
そう言うと颯爽《さっそう》とした漕《こ》ぎっぷりで、委員長・田端は去っていった。
6
もらったばかりの耳あてを、清子はその場で着けた。仲間たちとの相談《そうだん》の結果である。
田端がそれを手放した理由――つまり『頭が痛くなる』というのは、もしかしたら左右を繋《つな》ぐヘッドバンド部分に問題があるのかもしれないと南美が指摘。全員がそれぞれの体験《たいけん》に照らし合わせ、その指摘に同意したのだ。
だが同時にそれぐらいならばすぐに直せることを、南美《なみ》が請《う》け負った。そして清子《きよこ》が着けてもやっぱり頭痛がするか、ひとまずテストすることになったのである。小松家《こまつや》に着く前に結果が出れば、今日中に修理できる。
だが佐里《さり》はすぐに、それを止めなかったことを後悔することになった。――完成してしまったのである。
佐里の三《み》つ編《あ》みによる、普段《ふだん》とは異なった後ろ側に流れる髪型。
片山《かたやま》さんの手による、赤い顔の化粧。
田端からもらった耳あてによる、耳の輪郭《りんかく》の巨大化。
この全《すべ》てが重なり、そこに制服を着た一匹の『おさる』が出現していた。
佐里は必死に、無表情を保つべく努力する。一行の和《なご》やかな雰囲気を壊《こわ》したくなければ、清子にこのことを悟られるべきではない。
しかし当の清子は片山さんと喋《しゃべ》りながら、バナナ色のヒヨコのオモチャを取り出し、再び頭の上にそれを乗せる誘惑《ゆうわく》と葛藤《かっとう》している。
――もう、ダメだ。
佐里の表情がほとんど決壊《けっかい》に差しかかろうかという時に、横で「片山さん、片山さん」と南美が小声で呼びかけ、後ろから彼女の肩を突《つつ》いた。
振り向く片山さんと同時に、一緒にいる清子と佐里も、南美の方を向く。だがここで見事な連係プレーが生まれた。事前に申し合わせていたのか、敦樹《あつき》がフォローに入ったのだ。たわいもない話で、ややぎこちなく清子の注意を引く。
その間に南美は片山さんと佐里に目配せして清子から引き離《はな》し、急いで小声で言った。
「あの化粧って、あとどれくらいつけとかなきゃならないの? 片山さん」
「え?」
首をかしげる片山さんに、佐里も慌てて頷《うなず》く。
「もうそろそろ大通りに出るし、時間的にも十分じゃ?」
「ああ、そうよね。そろそろよねー」
のんびりと答えて、片山さんは小さく笑った。
「そう言えば拭《ふ》くためのタオル持ってくるの忘れちゃった。ウフフ」
「ウフフじゃないって。……でも大丈夫。タオルなら私たちが持ってるから」
佐里は南美の方を見て、互いに頷く。片山さんは安堵《あんど》したようにホッと手を合わせた。
「良かった。乾燥《かんそう》したタオルで拭かないと、顔料が跡になって残っちゃうのよ」
「え?」
今度は交互に顔を見合わせ、互いに横に首を振る。
「どうしたのー?」
「乾いたタオルはないの。私たち銭湯に行ってきた帰りで……。乾いてないと、ダメなの?」
「ダメだと思うー。滲《にじ》んじゃうし」
それを聞いて青くなった南美《なみ》は、慌てて敦樹《あつき》のところへ走った。二言三言、耳打ちして会話を交わす。
やがて南美は、両腕を交差させ×マークを作った。
佐里《さり》は頭を抱える。ひとまず小松家《こまつや》まで行って、そこでタオルを借りるしかないらしい。
* * *
それからの佐里たちは、もう必死だった。
トラックの通過する大通りを再び行く一行は、合計五人。そのうち佐里と南美の二人は、やや前に出て左右に広がり、清子《きよこ》の顔を前方の衆人の目から守る。さらに背の高い敦樹と片山《かたやま》さんは清子の隣《となり》かわずかに前の位置にピッタリとつき、横からの視線に備えた。まさに鉄壁《てっぺき》の守りである。
しかしその程度で『誰《だれ》からも見えない』ということには当然ならない。実際のところ清子を守ったのは、清子自身の堂々とした態度だった。隈取《くまど》りをした三《み》つ編《あ》み・耳あての制服女子高生が道を歩くというのは、『おさる』を連想しないまでもかなり異常な風景ではある。
だが清子はそれを見せびらかすでもなく、かといって憶《おく》するでもない。実に堂々とした態度だった。それ故もし顔を見られても、『演劇《えんげき》部員が移動中』ぐらいで済んでしまうのである。また、清子の隣にいる敦樹と片山さんはちょっとのことでは動じない。そんな二人が清子のそばにいて、さらに事態を好転させているのだ。
一方、少し離《はな》れて前方を行く佐里は、先ほどとは真逆の理由で胃がキリキリする思いだった。
――本当に無事、小松家まで辿《たど》り着けるのか。
車道側へ視線を向けると、隣の南美も同じような顔をしている。二人同時に情けなく笑い、夕空を仰ぐ。
その視線の先に、目指す店の看板が見えた。『たこ焼き小松家』と書かれた白文字に紺《こん》色が地の看板である。
あともう少しで、目的地なのだ。佐里の緊張《きんちょう》は極限に達し、目が回るような思いだった。
だがここに来て最大の難関《なんかん》が現れた。
「――ねえ、四方《しほう》さん。あれ」
南美の促す声に、佐里は視線を歩道上の人波に向ける。道のあちら側から同じ店を目指しているらしい学ラン姿の一団がやってきていた。文彦《ふみひこ》ら、部活帰りの野球部の面々である。同じクラスの男子も何人かいた。
「あれ、佐里ちゃん今帰りー? 南美ちゃんも」
気づいた文彦が手を振った。佐里と南美も困ったように小さく振り返す。
「文彦君たち、小松家?」
「うん。……? 佐里ちゃんたちもだよね。結構珍しくない?」
ここまで来たら、変に誤魔化《ごまか》してもしょうがない。とにかく清子《きよこ》の顔を見られさえしなければいいのだ。
「畑沼《はたぬま》さんの転校祝い、やろうと思って。私たち、小松家《こまつや》で玉突きしようっていうことになって。あとで原田《はらだ》さんや田端《たばた》さんも合流する予定なの」
「じゃあ一緒のところだね。僕らも参加するよ」
「ならば俺《おれ》も、黙《だま》っているわけにはいかないだろう!」
大通りの反対側からの馬鹿《ばか》っぽい台詞《せりふ》に、双方が振り向いた。そこにいたのは風呂敷《ふろしき》包みを抱えたクラスの男子生徒・幸田《こうだ》だった。その結び目の隙間《すきま》からは、白い調理《ちょうり》服が見える。幸田は食品工場で働いていて、その帰りのようだった。
広いようで狭い町なので、こういうニアミスは良く起こる。その片方が集団で目立つようなら、なおさらである。
「畑沼さんの転校歓迎会よ?」
歩道の道路側にいる南美《なみ》は、車道を挟んで向こうの歩道にいる幸田に確認《かくにん》するように訊《き》く。
幸田は清子の転校当日に、偽情報で一杯食わされた痛い過去を持つ。あまりいい感情を持っているとは思えなかった。
だが視線を転じた幸田は、南美たちの後ろからやって来る清子の有様に爆笑《ばくしょう》する。
「むしろ行く行く。絶対行く。あの転校生の食事代は、初日にきついの食《くら》わされた礼に俺が持ってやる!」
幸田は歩道から出て、不注意に車道へと踏み出し、大通りを横切ろうとした。
何となくだった。注意が足りないというより、普段《ふだん》通りに行動したということでしかない。だがその直後、鼓膜も破れんばかりのトラックのホーンが鳴り響《ひび》いた。
7
道に飛び出した幸田はトラックに気づき、慌てて立ち止まった。そしてトラックの運転手も、急ブレーキを踏みハンドルを切る。幸田のまさに鼻先を、トラックは通過した。
だがその急な運動に、タイヤがわずかにスリップした。屋根の集電ポールが電線から外れ、ビン! と一段跳ね上がる。そしてコントロールを失ったトラックが突っ込んでくるのは、佐里《さり》たちの集団の方。――それもやや離《はな》れて先頭の道路側を歩いていた南美に、真っ直《す》ぐ向かってくる。
佐里はすぐに動いたし、敦樹《あつき》も走り始めていた。しかしそれよりもなお早く動いた影《かげ》がある。人混みを縫《ぬ》うように全くロスなく駆け抜けたその影――文彦《ふみひこ》が、凄《すさ》まじい勢いで南美に体当たりをかけた。
トラックはわずかに歩道に乗り上げ、どうにか停止する。そして文彦たちの方も、もつれるように道へ倒れ込んだ。衝撃《しょうげき》を吸収するため、文彦《ふみひこ》は意識《いしき》的にアスファルトの地面を転がる。そして自分の方が完全に外側へ回り、内側に守った南美《なみ》への衝撃をうまく逸《そ》らした。ようやく止まるとすぐさま手をついて半身を起こし、腕の中の抱えた南美に訊《き》く。
「大丈夫、南美ちゃん?」
ポカンとした表情だった南美は、すぐに無言のまま何度も頷《うなず》く。実際|擦《かす》り傷ほどの傷もない。慌てたように、トラックの運転手も下りてきた。
「大丈夫か?」
その声に「問題ありません」と文彦は手を振った。中年の運転手は安堵《あんど》の表情で脱力したようによろめく。見事なまでの救出|劇《げき》に、パラパラと拍手が起こった。だが――。
「文彦、ちょっとやりすぎ」
クラスメイトであると同時に野球部仲間でもある細野《ほその》が、最初に南美の立っていた位置に自分が立って、そう言った。まだトラックの先頭まで1mほどの幅がある。つまり南美が元の位置に立っていたとしても、轢《ひ》かれることはギリギリなかったのだ。文彦は『ありゃりゃ』と間抜けな表情を浮かべた。
「こりゃ、突き飛ばされ損だったね南美ちゃん」
「そ、そんなことないよ、うん。あ、あのありがと……う…」
「そっかあ、良かった。確《たし》かに二人ともケガしなかったし、何かこれって役得だよね」
[#挿絵(img/basileis1_244.jpg)入る]
そう言ってもう一度|文彦《ふみひこ》が抱き寄せ、南美《なみ》は赤い顔のままコチコチに硬直する。おどける文彦の様子《ようす》に、青い顔をしていた運転手までもが周囲の人たちと共に笑った。
――しかし、と。
佐里《さり》はその輪《わ》から離《はな》れ、真剣に現場を見る。細野《ほその》の示した隙間《すきま》は、わずか1mである。
トラックの速度。運転手の反応。タイヤのグリップ力。南美が立っていた位置。
何か一つが今と違っていたとすれば、結果は全く変わっていただろう。その程度の距離《きょり》なのだ。文彦の行動が無駄《むだ》だったというのは、結果論でしかない。
そんなことを考えているうちに押《お》っ取《と》り刀《がたな》で幸田《こうだ》が駆けつけ、トラックの運転手に散々|叱《しか》られた。そしてそれもすぐに終わり、騒《さわ》ぎに集まっていた人々も徐々に散っていく。運転手は文彦と南美に『もしもの時に』と会社の名刺を渡し、この二人には丁寧《ていねい》に詫《わ》びて運転席に乗り込んだ。
バッテリーでモーターを再始動し、トラックは電線の下に戻ると停止した。運転手が窓から身を乗り出す。
「ここは普段《ふだん》、車なんか通らない。信号だってほとんどないくらいだ。だが注意はちゃんと、いつもしてくれよ。特にそこの君! もう大きいんだから」
「すいません。以後、気をつけまあす」
幸田はさすがに反省の色を浮かべ、そう答えた。そしてトラックはポールを電線にかけ直すと、その場から走り去った。南美は体中の力が抜けたようにグッタリとして、長身の片山《かたやま》さんに縋《すが》りついている。その肩を清子《きよこ》がポンポンと叩《たた》き、「ようやった、ようやった」と意味不明の慰《なぐさ》めを連呼していた。
一方で佐里は、文彦のところへ行く。だが同時に敦樹《あつき》もやって来ていて、佐里よりも先に訊《き》こうと思っていたことを訊いた。
「どうして楢橋《ならはし》の方へ向かったんだ?」
制服のズボンを叩《はた》く文彦は「?」と敦樹を見上げた。
「えっと、それってどういう質問なの?」
「最初トラックは幸田とぶつかりそうになった。文彦が幸田の方へ向かったのなら、それは理解できる。
しかし文彦は人を避《よ》けつつも、最初から楢橋に向かって一直線に突進したように見えた。それもハンドルを切る前にだ。そうでなければ間に合っていない。――最初から楢橋だけを守ろうとしたのでなければ、こうはいかないだろう。実際私は、全く間に合わなかった。どうしてそんな風に動けたんだ?」
「いやそれは、――言っちゃ悪いけど、敦樹ちゃんが自分中心に物事《ものごと》を考え過ぎてるかなあ」
文彦は体を起こすと、軽く上半身をひねりながらフニャリと笑った。
「え、どういうこと?」
敦樹《あつき》と同意見だった佐里《さり》の問いに、文彦《ふみひこ》は正確《せいかく》な記憶《きおく》を探るよう、少し考えるかのような表情を浮かべる。
「持ってた鞄《かばん》を捨てて、前傾姿勢――ここまでは確《たし》かに、幸田《こうだ》の方に走るつもりだったんだ。けどその直後に、僕はちゃんとトラックがハンドル切るの、見えたよ。それからトラックが突っ込もうとする方向に動いた。そこにいたのが南美《なみ》ちゃんだったのは、ホントにたまたま偶然だよ」
「おおい文彦、早く店行こう!」
敦樹の背後にいる部活仲間たちが呼ぶ声に、文彦は「分かった!!」と手を振って返す。
「まあ誰《だれ》もケガせずに済んで、万事OKだよね」
さすがに少し圧倒されたような表情で敦樹は「ああ」と答え、黙《だま》りこくってしまう。その敦樹の様子《ようす》を『考えをまとめている最中』と判断したからか、文彦は佐里の方を向いて訊《き》いた。
「――ところで。そんなことより、佐里ちゃん。さっきから訊こうと思ってたんだけど、あれって何?」
「へ?」
文彦が指さしたのは、片山《かたやま》さんと協力して南美を店へ引きずっていく清子《きよこ》だった。そう言えばこの騒動《そうどう》で、化粧その他の問題が全くうやむやのままである。
「えっと、話せば長くなるんだけれど……」
佐里は答えあぐね、その隙《すき》に突然、敦樹がさらりと答えた。
「二日前、防災団の仲間に加わった畑沼《はたぬま》清子だ、文彦は忘れっぽすぎる」
「ちゃうやろー!」
佐里は敦樹の肩を叩《はた》く。息がピッタリなことを改めて確認する、という不毛な現実|逃避《とうひ》を終えたところで、同時に佐里はあることを思い出した。
「そう言えば文彦君。小松家《こまつや》ってさ、入ったところに大きな鏡《かがみ》あるよね? 商店街の名前が下に入ったやつ」
「ああ、そう言えばあったね……」
文彦が困ったように頭を掻《か》く。敦樹も小さく首をひねった。
「確《たし》かあったはずだ」
直後、店の入り口から期待を裏切らない清子の絶叫が轟《とどろ》いた。
「なんじゃこりゃ〜〜!!」
8
机を繋《つな》げて長く一纏《ひとまと》めに取った席の上座《かみざ》に、ようやく普段《ふだん》の顔に戻った清子が座っていた。とは言え、先ほどからプリプリ怒っていて、誰《だれ》とも口を利かない。
もっともこういう時の清子《きよこ》の扱いは、ここ数日の付き合いで敦樹《あつき》にも分かっていた。すなわち一方的に事情を説明して、みんなにも一通り謝《あやま》らせ、あとは放っておいたのである。
こんなのでいいのかと全員が心配したが、敦樹は「大丈夫だ」と、わざわざ清子に聞こえるように請《う》け負った。
まあ悪気がなかったことがはっきりすれば、一人で怒っているのも馬鹿《ばか》らしい。しかも片山《かたやま》さんの音頭《おんど》で勝手に歓迎会は始まり、それぞれの口から清子への歓迎の言葉が出てくるのだ。
全く面識《めんしき》のない野球部の先輩《せんぱい》からもその場のノリで歓迎の言葉が贈られるに及んで、清子の表情は確実に軟化しつつあった。
「遅れてゴメン〜」
「いま仕事終わったわ――って」
ほとんど同時に店にやってきた銭湯の原田《はらだ》雪見《ゆきみ》と委員長・田端《たばた》志津《しづ》は、倍近くに増えた歓迎会の人数に戸惑う。だが、あまり深くは詮索《せんさく》せず、自分の注文をして手近な空席に腰掛けた。
こうして清子の歓迎会は、本格的に開始となる。
運ばれてきた小松家《こまつや》のたこ焼きは、まず真っ先に清子の席へと献上された。
清子はプリプリした表情のままそれを食べ、「うまー」と一言。そして不機嫌《ふきげん》な顔のまま店員に「他《ほか》の連中のあとでええから、もう三皿追加して」と注文する。幸田《こうだ》の顔が引きつるのは、もちろん最初の約束通り、清子の分は彼のおごりが前提だからである。
そうこうするうちにも次々と焼き上がったたこ焼きが、テーブルに運ばれてくる。佐里《さり》は自分の前に置かれたたこ焼きの皿に、満面の笑みで手を合わせた。
ピチピチと油と共にソースが跳ね、その上にまぶした花鰹《はながつお》が湯気でせわしなく揺れる。
ほどよくお腹《なか》も空《す》いていた佐里は、皿に添えられた竹串《たけぐし》を取り、まず一つ。表面がカリカリに焼き上がったたこ焼きの玉を、その竹串でプツリと突き刺した。
「佐里、マヨネーズはかけないのか?」
隣《となり》に座る敦樹が、アルミのマヨネーズ箱とスプーンを持って、そう訊《き》いてくる。だが途端《とたん》に二つ向こうのテーブルから、地元民の幸田が待ったをかけた。
「川中島《かわなかじま》。たこ焼きにマヨネーズなど不要!」
「そうは言っても、店に堂々と置いてあるものなんだぞ?」
中にマヨネーズの盛られたアルミの缶を持ったまま、敦樹は周囲を見回した。
「それに片山さんも、タップリかけてる」
敦樹は、幸田にそちらの方を見るよう目配せする。その片山さんはたこ焼きの上に、ほとんど山のようにマヨネーズを盛っていた。さすがにやり過ぎといった表情が、全員の顔に浮かぶ。幸田は嘆息した。
「……あれさえなきゃ、俺《おれ》もほっとかないんだがなあ。食品に携わるものの一人として、あれだけは見るに忍びん」
「まあ、なかなかうまく行かないものではあるな。そういうのは」
自分で言っておきながら片山《かたやま》さんの悪食《あくじき》ぶりに胸焼けがしたのか、敦樹《あつき》は持っていた缶を何もせずにテーブルに下ろした。佐里《さり》はそれを受け取ると、自分の皿にはちょっとだけマヨネーズを載せる。
一方、佐里の隣《となり》に座る南美《なみ》は、先ほどの事件が恥ずかしくて顔を上げられないという様子《ようす》だった。赤い顔で俯《うつむ》いたままたこ焼きを口に運び、黙々《もくもく》と食べている。だが突然、何かに気づいたように顔を上げた。無言のままバッグの中を探り始め、南美はバレッタを取り出す。そして悲嘆の声を上げた。
「――壊《こわ》れてる!」
南美の手製によるバレッタは、真っ二つに割れていた。アクセントとして溶接された機械《きかい》部品の方も、見事なまでに綺麗《きれい》な断面を見せている。
「ああ、さっきの時にやっちゃったみたいだね。ごめんね、南美ちゃん」
文彦《ふみひこ》がすまなそうな顔で、見せてと手を差し出す。南美はガックリとした表情でそれを差し出した。その二人を見た幸田《こうだ》が、わざわざ席から立ってちょっかいを出してくる。
「しょうがないな、文彦くんは。きちんと弁償《べんしょう》するんだぞ。まああまりにも色気のない髪飾りだからな。何かかわいいのをお前が選んで、ウッ」
南美は幸田の腹に五本の指を突き立てると、家業で鍛《きた》えたその握力で万力のように胃を締《し》め上げる。まるで愉快で仕方がないとでもいうように、南美は怒ったまま笑っていた。
「オホホホホホホホホ! 元はと言えば、アンタが全《すべ》ての元凶《げんきょう》でしょうが」
「ごめんなさい、全くその通りです。もちろん僕もお金出します。っていうか僕が出します。漢《おとこ》の諺《ことわざ》にもこんなのがあるんです。『女性と使う財布には、蓋《ふた》もないし底もないし、札も小銭も入らない』って。もうバーンと給料三ヵ月分でも。だから離《はな》して。痛いです痛いです痛いタタタタタ」
幸田が悶絶《もんぜつ》する一方で、文彦は南美の壊れてしまったバレッタの断面を組み合わせた。左右がピタリと一致したそれを見て、文彦は首をかしげる。
「アレ……これってもしかして」
そして気がついたというように文彦は大きく頷《うなず》いた。南美は手を離し、幸田は魂が抜けたようにその場に膝《ひざ》をつく。そして何度も頷く文彦の顔を、南美は期待の籠《こも》った目で見た。
「そうだ。今年の三月二十八日の午前十時ころに、こんなのを女の子がいっぱい落としたんだ。で、僕それ拾うの手伝ったはずなんだよ。あれってもしかして、南美ちゃんだったの?」
「うん……」
南美は、何と言うべきか言葉を失ったような、笑顔を浮かべる。つられて文彦も笑った。
「あのあと大丈夫だった――」
二人の会話を少し離れたところから聞いていた佐里も、何だか幸せな気分になる。南美の恋の相手がどんな人物なのかと思っていたが、何だか納得できる話だった。
いろいろあったはずなのに、今日一日全部が楽しい一日だったなと思う。
竹串《たけぐし》をくわえたままのんびりたこ焼きを味わっている敦樹《あつき》を振り向いて、佐里《さり》は笑った。
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不帰の客人《まれびと》のあいさつ
2019/01/23〜01/24
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1
夕刻、福島《ふくしま》駅東口で雑踏の隅に立ち止まり、問題の人物は壁《かべ》を見上げていたのだそうだ。
身長は170cm[#「cm」は縦中横]ほど。中肉中背。性別は確認《かくにん》されていない。無地で灰色のツバつき帽を深くかぶって顔を隠し、少し余裕のある薄茶《うすちゃ》合成革のハーフコートで体型を隠していた。
ズボンは紺《こん》のジーパン。靴についても性別同様はっきりとした証言が得られていないが、スニーカーだったのではないかという意見が多かった。
ちなみに当初、問題の人物が意図的に身体特徴を隠しているとは、周囲を通った通行人の誰《だれ》も思っていなかったそうである。つまり、一月の福島ならば誰しもがする程度の厚着で、季節的に異常な服装ではなかったということだ。
なお問題の人物が見上げていたのは壁というより、そこに貼《は》られた一面のポスターだった。駅のその場所には、同じ図柄のものが丁寧《ていねい》に並べて貼られていた。
このポスターであるが、中央を少女の写真が占めているものである。斜め上を向いて敬礼した『川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》』のモノトーン写真で、上下に文章が入っていた。内容は――
『三〇四特殊観測隊・合同|葬儀《そうぎ》!
国士人民のために必死の調査行《ちょうさこう》に赴いた少女軍神・川中島陸軍少尉と少年少女隊員たち三十九名を弔《とむら》い、平成三十年十二月十六日に合同葬儀が執行される。
国士諸君は参加されたし。
郡山《こおりやま》陸軍基地第三演習場にて、午前十時より』
この合同葬儀に関するポスターは、新聞折り込みで配布されたものを含め数種存在、事件にあったのはこの中の一種になる。主文の下にテレビ中継の時間や半旗掲揚の期間などが、太字で細かく印刷されているタイプのものだ。
ちなみに駅|職員《しょくいん》数名の話によると、だいぶ雪でふやけた状態だったそうである。もう役目を終えたポスターだったが新たに貼り替える予定がなく、その場に居座り続けていたのだという。
犯行時刻、近くにいた通行人の一人は、問題の人物が何かを呟《つぶや》いたと証言した。内容については聞き取れなかったが、何らかの悪態と思われる短い言葉だった。ただその声は、意外と若い声だったそうである。
そして帽子の人物はポスターに手をかけ、衆人|環視《かんし》の中、それを破り始めた。周囲の通行人は、帽子の人物がすることを遠巻きに眺めていた。
現場は駐車場《ちゅうしゃじょう》に面していて、さらにその先にある道を挟んで向かい側に交番が建つ。騒《さわ》ぎに気づいた警官《けいかん》三名が駆けつけたのは、事件の発生から約一分後だった。
彼らが現場に駆けつけた時点で、縦《たて》3×横7で壁面《へきめん》に二十一枚貼られていたポスターの下二列が、全《すべ》て破くように剥《は》がされていた。
直後に帽子の人物は逃走し、警官《けいかん》一名が追跡。しかしそのまま容疑者を見失い、未《いま》だ発見できていない――。
2
「とまあ、そんな事件がつい先ほどあったわけです。――いま夜の九時だから、大体、四時間ほど前ですなあ」
福島《ふくしま》北西の郊外にある児童|養護《ようご》施設『永晴《えいせい》学園』を訪れた公安部刑事・須貝《すがい》警部補は、喋《しゃべ》りながら調書《ちょうしょ》のコピーを片手で器用に畳んだ。彼はそれを内ポケットにしまい、タバコを挟んだ左手で遊戯《ゆうぎ》室の壁《かべ》を指さす。子供が屋内で遊ぶための部屋には不釣り合いな『三〇四特殊|観測隊《かんそくたい》・特別合同|葬儀《そうぎ》』のポスターが、ここにも貼《は》られていた。
「これと同じものです。このポスター、実は案外不評なんですがねぇ。こんなやる気のなさそうな顔ってのも、ちょっとない。まあ急なことで、他《ほか》の写真がなかったんでしょうが」
髪に白いものの混じる須貝はそう言いながら、子供用の小さな机に腰掛ける。
一方、まだ三十歳になったばかりである『永晴学園』の若い園長、八巻《やまき》千鶴《ちづる》は過去を思い返すように眉《まゆ》を顰《ひそ》めて言った。
「……元々写真とかが苦手な子でしたから。でも、誰《だれ》がそんな酷《ひど》いことを。それに刑事さんがなぜ、私どものところへ?」
「――川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》には、家がない。十一歳の時に両親は病気で他界。そしてこの施設に来た。つまり問題の川中島敦樹は、ここの出身者、ここが出身地だ。軍神|詣《もう》での連中だって、この児童養護施設へやって来る」
須貝はそう言って短くなったタバコを灰皿でもみ消すと、廊下の方へ向かってウィンクする。興味津々《きょうみしんしん》といった様子《ようす》で室内を覗《のぞ》き込んでいた子供たちの間に、興奮《こうふん》したような笑顔が広がった。
ガソリンが高騰《こうとう》し、誰《だれ》でも車に乗れるという時勢《じせい》ではない。その時代にあって、パトカーで乗りつけた背広の刑事は、それだけでヒーローだった。
だが大人《おとな》である園長・八巻は、子供たちほど楽天的でも心|穏《おだ》やかでもない。『公安部の刑事に目をつけられている』という噂《うわさ》だけで、地域から孤立してしまうのが今の時代だった。
そんな八巻の緊張《きんちょう》を読みとったのか、刑事須貝は笑顔のまま横に首を振った。新たなタバコを一本取り出し、高そうな金色のライターで火をつける。
「緊張しないで。――犯人がここの人間なんてことは、まずない。そうではなくてです。一連のポスター剥がしが、川中島敦樹という故人に対する怨恨《えんこん》だとした場合、ここにも被害が及ぶ可能性があるってことなんですよ。もし不審《ふしん》者でも何でも見かけたら、すぐ我々に連絡して頂きたい」
「ここを警察《けいさつ》が守って下さると?」
「我々が犯人を――」
念を押すように、須貝《すがい》は言う。
「我々が犯人を、逮捕できます。まあ結果的にはそれが、この学園を守ることに繋《つな》がるんでしょうな」
利害の差を隠そうともせず、刑事須貝はそう言いきった。公安は政治犯の一人を掴《つか》まえられれば、あとはどうなっても別に困らない。そう言っているのだ。
だがだからと言って、この一方的な協力|要請《ようせい》を拒否する自由などあるはずもない。またそうする理由も八巻《やまき》の方にはない。「分かりました」と弱気に返事する園長・八巻に、須貝は笑いかけた。
「俺《おれ》はどうも無神経でいけない。こっちの都合ばかりを、他人に押しつけちまう。
ただね。園長さんは、『たかがポスターを破いただけで政治犯か?』とお思いでしょう。それがいけない。たとえ些細《ささい》でも、一切の予定外はあっちゃならんのです。今の日本政府には、『その程度のこと』ってのを受け止めることさえできない」
突然の微妙な発言に、八巻は無言のまま顔を顰《しか》めた。私服の刑事がこういうことを言うのだから、誘導《ゆうどう》尋問を疑ってかからなければならない。
八巻は慎重に、安全な答えを選んだ。
「私、政治のことはあまり良く分からないものですから……」
「いや俺が喋《しゃべ》るだけですから、聞いてて下さればいい」
こちらは過剰反応にウンザリという表情で、須貝が答える。
「今の日本政府が推し進める極右政策っていうのは、二十五年前の大降下以前を知る私ら古い人間にとっちゃ悪夢みたいなモンです。しかしでは、なぜそんな体制を守るために働いているのかといえば、他《ほか》の方法ではうまく人をまとめられないことが分かっているからなんですな」
「はあ……」
「例えば西日本を見てみればいい。彼らは大きな求心力を用意できず、結果、空中分解してしまった。まるで戦国時代まで逆戻りだ。
しかし私たちは、東側の日本政府をそんな風にするわけにはいかんのです。『剛粧《ごうしょう》』という脅威《きょうい》から人々を守るためには、どれだけ醜悪《しゅうあく》なものであっても、東日本は今の統合された形でなきゃならない」
「しかし西日本は分裂した政治体制のままで、二十五年間やって来ました」
言ってしまってから、園長・八巻は慌てて口を押さえる。
「……いえ、反論《はんろん》ではなくて。そのことを刑事さんはどのように考察しているのか……意見を窺《うかが》いたいなと思っただけです」
「食料――特に農作物の年間生産量がこちらとは全く違いますよ」
その一言で、『納得した』というように八巻《やまき》は何度も頷《うなず》いた。須貝《すがい》の言うことは体制信奉者の決まり台詞《ぜりふ》である。これが出ればもう、そこから議論《ぎろん》が発展した例しはない。それに事実の一面でもあると、八巻も思う。
「とにかくです、園長先生。この福島《ふくしま》に置かれた日本政府は、我々が絶対に守らなきゃならないものなんです。そして同時に、コイツああまりにも脆《もろ》くなっちまってる。だからこそ秩序を乱す全《すべ》ての兆候は、徹底《てってい》して根絶しなきゃあならない。さもなくば日本政府は、あっという間にひっくり返るでしょう。そうなれば誰《だれ》が剛粧《ごうしょう》と戦うのか。
――言うなれば俺《おれ》たち警察《けいさつ》が求められ、また市民にも求めているのは、『全ての市民が剛粧から守られるための努力』なんです。それを怠《おこた》るべきじゃあない。
今回の事件に関しても、園長先生にはぜひ積極的に協力願いたいんですよ」
そこまで言って突然、須貝は自嘲《じちょう》気味に笑った。
「――まあもっとも、そのことで新たに不幸な子供を産み出すこともあるんですがね。そして園長先生の仕事が増える」
そう言いながら、部屋の外の子供たちを見回す。
憧憬《しょうけい》の目で須貝を見る子供たちに混じって、明らかな敵意を浮かべる子供たちがいた。須貝ら公安部が捕まえた、政治犯の子らだった。
「最近の警察は、孤児の増加に一役買っちまってる。……まぁ別に俺ぁ、許してくれなんて言うつもりもない。――結局、俺とあの子らの払う犠牲《ぎせい》で、数千万人の命が救われている。ただそれだけのことでしかない。安全を守るというのは、そういうことなんです」
「そう……ですね」
八巻は刑事の表情を見て、曖昧《あいまい》なことしか答えられない。
今この刑事は、自分の浮かべている表情を自覚していないのだろう。だがもう嫌というほど、八巻はこういう顔の人間を見てきた。
おそらく本来なら、この須貝という刑事は職務《しょくむ》に熱心な、それでいて人なつっこい警察官なのだ。だがその人格や判断の基準は、すでに根底で善良とはほど遠いものに入れ替わってしまっていた。
――いや、そういう言い方も正確《せいかく》ではないと、八巻は考え直す。
政府のやり方は『残忍』である。治そらくそのことは、この刑事も認める。しかしでは『悪か?』と問われれば、刑事は『否』と答え、八巻も返答に窮《きゅう》するのだ。
結局、須貝の側というのは『時代の流れについて行くことのできた人間たち』なのである。そして八巻やポスターを破いただけの帽子男の側は『流れから取り残された人間たち』でしかない。そのことが双方の違和感となり、衝突《しょうとつ》が起きる。
だが八巻個人に『力』などない。すでに八巻の全選択肢は塞《ふさ》がれていた。
どれだけ不快なものが目の前に横たわろうとも、とにかく目を伏せ、通り過ぎるのを待つことしかできないのだ。
そんな八巻《やまき》の黙考《もっこう》を、気づいているのかいないのか。
刑事|須貝《すがい》は『こりゃ言うだけ無駄《むだ》だったか?』という顔のまま、「それじゃこの辺で」と言い、腰掛けた机から立ち上がった。同時に自分のくわえたタバコを手に持ち眺める。まだ吸えると判断したのか、灰皿に灰を落としてもう一度くわえた。
「夜分に下らない話を長々として申し訳ない。ひとまずこれで帰ります。――もう一度言いますが、何か兆候を見かけたら、警察《けいさつ》の方へすぐに連絡を」
そう告げて須貝は壁《かべ》のポスターを一瞥《いちべつ》すると、子供たちの溢《あふ》れている廊下へと向かった。
「さあさあもう子供は寝る時間だぞ! 先生たちに迷惑かけずに、さっさと寝た寝た」
そう言ってガハハと笑う。園長・八巻は刑事の後ろ姿を見送りながら、複雑な思いで溜《た》め息をついた。
3
永晴《えいせい》学園の就寝・消灯時間はいつも午後十時半。
大人《おとな》たちが総がかりで四|歳《さい》から十二歳までの子供五十人を寝かしつける。その作業を終えると、園長・八巻の他《ほか》に三人いる職員《しょくいん》たちは全員帰宅した。住み込みは八巻一人である。
そして彼女は寝静まった施設内で、夕食分の食器洗いをしていた。普段《ふだん》なら今ごろはゆっくりしていられる時間なのだが、今日は刑事が突然やってきたおかげで、全《すべ》ての予定がずれてしまっていた。刑事がいたあの遊戯《ゆうぎ》室もまだ掃除が済んでおらず、このあとすぐ取りかからねばならない。八巻は疲れたように、息をついた。
この『永晴学園』は十五年前にできた、児童|養護《ようご》施設である。剛粧《ごうしょう》の発生によって世界がこうなって以来、この手の施設の必要性は増え続けていた。そして八巻がここの園長になったのは六年前、二十四歳の時になる。川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》が入園したのはそのさらに二年後、当時彼女は十一歳だった。
皿に乗った石けんの泡を凍《こご》えるような水で流しながら、八巻は回想する。
川中島敦樹は元々、両親と共にこの福島《ふくしま》に住んでいた子だった。ただ彼女が永晴学園《ここ》にいた期間は一年に満たない。入園したのが四月で、翌年二月には軍に入ったからだ。
軍はこの十年ほどの間、毎年、児童養護施設の卒園予定者から少年兵を取っていた。
――そもそも十六歳以下の少年兵志願には、本人と家族の志願証がいるというのが建前となっている。この二つを揃《そろ》えるのは、実際はなかなか難《むずか》しい。だがそれが孤児ならば、本人だけの志願で済む。大人が十二歳の子供を『嵌《は》める』のは造作もないことだった。
児童養護施設はどこも、子供たちの学校での成績《せいせき》を秘密裏に軍へ提出している。そして軍の採用官は『説明会』と称して施設にやってきて、集会の傍《かたわ》ら、上位三人に唾《つば》をつける。裏で子供たちと接触するのである。
例えば最初にAという子供に『これはまだ秘密だから口外しないでほしいんだが、Bはすでに志願の意思を表明している』と吹き込む。そしてBという子供には『Aが志願する』。そしてCという子供には『国のためにAとBは志願する、君は?』……。
この程度の手に、子供は引っかかるのである。そして彼ら三人が真相に気づくのは、軍に入ってからだ。
同じ手口で毎年『永晴《えいせい》学園』からも十二|歳《さい》の子供が三人ずつ、軍に志願することになっていた。基本的に一学年の生徒数は五人から七人であるから、志願者はその半分を占めることになる。そしてそれはノルマだった。
結局、ここで世話を見た子供の半分を、八巻《やまき》は軍に送り込み殺しているのだ。そうすることで国からの資金を滞りなく受け取り、『永晴学園』は存続している。
だが川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》は四人目だった。
別の三人が成績《せいせき》順で決まっていたのに、全く自主的に志願したのだ。
特に目立ったところのある子ではなかった。学校の成績は中の下。難侵入《カタラ》地域を作りだす『アンテムーサ効果』への耐性を持っていたから、その点だけは軍人として有望だった。しかし逆の言い方をすると、本当にそれだけだった。
――いやもしかすると自身の能力を無意識《むいしき》に隠し、目立たないように行動する子だったのかもしれない。彼女の出した結果からは、そうとも思える。ただ別に八巻は、軍に入ってからの敦樹の成績など知らないし、特に知ろうとも思わない。
――有能なのか、無謀《むぼう》なだけだったのか。大人《おとな》には最後まで判断のつかなかった少女。
彼女は四十人に及ぶ同世代の子供たちを引き連れて、難侵入《カタラ》地域の中心に向かった。そして隊の全滅という形で全員を殺し、自分一人が英雄となった。
敦樹の死後、八巻の教育は軍と政府から高く評価された。『永晴学園』は来年度、優秀《ゆうしゅう》推薦《すいせん》施設として、様々な場で取り上げられる予定になっている。子供たちは川中島敦樹に続くと張り切り、八巻個人にも講演《こうえん》の依頼がいくつも舞《ま》い込んでいた。
もちろん他人に向かって喋《しゃべ》ることなど八巻には何もない。今は悲嘆を理由に全《すべ》て断わっている。しかしそれでも、そのうち引き受けざるを得なくなるのは確実《かくじつ》だった。しかし八巻がたった一年で、川中島敦樹の何を変えられたというのか。
講演など開かれても、何の役にも立たない教育理念を語って聞かせるしかないのだ。
この土地では、誰《だれ》も彼《かれ》もが自分たちの作りだした誇大妄想に踊っていた。そしてその大きな渦の中心に、八巻は気がつくと巻き込まれ、引きずり込まれていた。いつの間にか自分が踊らなければならない番が回ってきたのだ。
だが作り上げた嘘《うそ》を、嘘と承知している人間に向かって話すことほど、屈辱的なことはない。
――そしてこれは罰なのだというのが、最近の八巻《やまき》の結論《けつろん》だった。
八巻が『永晴《えいせい》学園』を維持するため、生《い》け贄《にえ》として軍に差し出した子供たちの恨み。それが川中島《かわなかじま》敦樹《あつき》という実体を取り、八巻を責め立てるための罠《わな》を張ったのだ。
流し台に両手をついて、大きく溜《た》め息をついた。そしていつまでも終わらない洗い物をまた再開する。
そう、刑事が来て日課《にっか》を邪魔《じゃま》するのもまた罰なのだ。鬱々《うつうつ》としながら、八巻は皿を洗った。
だがあと少しで洗い物が全《すべ》て片づくというところで、こん、と鈍い音が鳴った。流し台の前にある、磨《す》りガラスの窓からである。
窓の外には『永晴学園』の敷地《しきち》を囲むブロック塀が立っていた。建物と壁《かべ》との隙間《すきま》は50[#「50」は縦中横]cm[#「cm」は縦中横]もない。その隙間に、何者かがいた。磨りガラスの向こうに明るい茶色の服の色と輪郭《りんかく》だけが、かろうじて見て取れる。
「誰《だれ》なの?」
八巻は恐る恐る訊《き》く。しかし言葉での返事はなかった。
こん――こん、と。もう二度、窓ガラスが鳴る。相手は窓をノックしていた。不安ではあるが、ここに大人《おとな》は八巻自身しかいない。自分で開けて確認《かくにん》するより他《ほか》なかった。
しかし先ほど、刑事から物騒《ぶっそう》な話を聞かされたばかりでもある。いや、だがその話は、実はポスターを破いたというだけの人物のことだ。危険視しているのはあくまであの刑事個人の発想でしかないのかもしれない――。
八巻は努めて落ち着くよう自分に言い聞かせた。冷たい手を拭《ふ》きながら周囲を見回し、もしもの時に武器となるものを探す。
さすがに包丁は物騒すぎた。もしもただの知り合いだった時、あまりにもバツが悪い。ひとまず食器棚の引き出しから果物ナイフを取り出すと、竹でできた鞘《さや》を外して置く。そして炊事場まで戻ると、流し台の下に隠すように持った。これで窓からは見えない。
「――開けるわよ」
外に聞こえるよう八巻は確認して、片手で窓を開ける。下ろしたもう片方の手にある抜き身のナイフを、いま一度視線を落として確認し、窓の外を睨《にら》む。そして息を呑《の》んだ。
外に立っていたのは、ツバつき帽を目深《まぶか》にかぶった男だった。刑事の話した目撃《もくげき》証言と、あまりにもピッタリと一致する。
――しかしこれは……もしかして女?
そう八巻が思い至るより早く、驚《おどろ》いたことにその人物は自分から帽子を脱いだ。
「お久しぶりです、園長先生」
八巻は無言のまま、半歩後ずさった。騒《さわ》がぬよう努力したのではない。声も上げられなかったのだ。そこにいたのは川中島敦樹だった。あのポスターの写真と、少し髪が伸びた程度の違いしかない。
「何か不審《ふしん》な訪ね方になってしまって、すいません。変に顔が知れてしまって、先生個人と連絡を取る方法がなかったもんですから。――ここの磨《す》りガラスの向こうにいるのも、園長先生って確信《かくしん》がなくて。緊張《きんちょう》しました」
「……事前に電話でもくれれば、こんな驚《おどろ》かずに済んだのに」
ようやく半笑いで、八巻《やまき》は間抜けに答える。しかし敦樹《あつき》は素早く横に首を振った。
「ここにかかってくる電話は、全部|警察《けいさつ》に盗聴《とうちょう》されています。私に関する合同|葬儀《そうぎ》の前後っていうのは、結構嫌がらせの電話があったんじゃないですか?」
「ええ、まあ……」
曖昧《あいまい》に答えるが、実際はそんなものではない。どこの誰《だれ》とも知らない相手から『子供たちを金で売る殺人者』と、八巻は名指しで怒鳴られたのだ。顔も知らぬ何人もから、何度も何度も。
――奇妙な心理だが、実際にそうなら適度な自己|憐憫《れんびん》で八巻はやり過ごせただろう。
しかしその発端となったのは『自分から志願した川中島《かわなかじま》敦樹である』という事実が、八巻の心中に微妙な狂いを生じさせていた。まるで、これまで見ないことにしていた現実のツケが、一度に回ってきたかのように感じていたのだ。
だが当の敦樹が実は生きていて、目の前でスパイ映画のようなことを言う。
「ここにかけた電話は内容を記録《きろく》され、逆探知されます。警察が反政権的な活動の取り締《し》まりに、利用しているんです。――その辺《あた》りのことも含めてなんですが、園長先生とゆっくり話がしたいんです。外に出てこれませんか?」
敦樹はそう言う。そして何かを急に頼まれると、八巻は何も考えずに承諾《しょうだく》してしまうところがあった。すぐに頷《うなず》き返す。
「え……ええ。……分かった。分かったわ」
「正門横の茂みで、待ってます」
敦樹はそう一方的に告げると、狭苦しい建物と塀の間を歩いていく。八巻は窓を閉めると、流し台に片手をついて数秒|呆然《ぼうぜん》とした。まるで貧血でも起きたように目の前がチカチカとし、動けなかった。
だが気を取り直すと、すぐに部屋の奥へ行き外套《がいとう》を手に取った。そこでやっと八巻は、自分がずっと握ったままでいたナイフに気がついた。その銀色の刃に、流し台の蛍光灯の光が反射してゆらゆらと揺れる。
何か自分でもはっきりとしない衝動《しょうどう》に突き動かされ、八巻は抜き身のそれを外套《がいとう》のポケットに入れた。そしてその外套を着ると改めてポケットに手を入れ、中でナイフの柄《つか》を握る。
八巻はゆっくりと、建物の玄関へと向かった。
4
「状況と努力をうまく一致させられない女ってのは、いるんだよなあ――」
国道13号線を南へ向かうパトカーの中で、コート姿の警部補《けいぶほ》・須貝《すがい》は八巻《やまき》をそう評した。
「流れに乗っちまえば楽なんだが、妙な自尊心がそれを邪魔《じゃま》する。本来なら美徳になり得る部分なんだろうが、こんな時代じゃあな。
で、あんまり面構《つらがま》えがヨタヨタしてるんで、こっちも馬鹿《ばか》みたいに演説ぶっちまった。カッコ悪《ワリ》ィったらない。――とは言え一歩間違えりゃ、オレらが仕事で面倒《めんどう》見なきゃならなくなる手合いなんだよなあ、ああいうのは……」
鼻で息をつき、ボックスから抜いたタバコをくわえる。
一方、ハンドルを握る制服姿の巡査・平間《ひらま》は「深いッスね」などと、どうとでも取れる実に下らない相槌《あいづち》を打った。
もっとも、須貝が『永晴《えいせい》学園』で話をしている間、平間の方は一人パトカーで待機《たいき》していたのである。燃費《ねんぴ》節約のためエンジンもヒーターも切った車内にいて、寒さにガタガタ震《ふる》えていた。当た前だが、園長・八巻とは会っていない。
まるで警官というより雇いの運転手のような扱いを受けている新人・平間にしてみれば、会ったこともない人間の人物評を聞かされても答えようがなかった。
一方で、そんな迷惑など知らぬといった様子《ようす》の助手席・須貝は、背広の胸ポケットを探りながら窓の外を流れる景色へと目をやる。
首都・福島《ふくしま》とは言っても、その風景は須貝が青年時代を過ごした『東京』とは似ても似つかないものだった。ここには高層ビルというものが、そもそも存在しない。高さの突出した建物を作ると、鳥型|剛粧《ごうしょう》の標的にされてしまうのだ。元から建っていたビルでさえ、とうに取り壊《こわ》されている。だが首都移転で急増した人口をどのように住まわせるかというのは、避《さ》けようのない課題《かだい》だった。
そこで、従来型のビルの代わりに現れたのが『箱船型』と呼ばれる巨大集合ビルである。使い始めの石けんのような形をした、巨大な建物だった。雪に覆《おお》われたそれがナトリウムランプに照らされた道に沿ってずらりと並ぶのが、今の首都中心の風景なのである。
ただそんな巨大ビルの建設も、十年前には停止していた。人々は東北《とうほく》各地の都市へ流出し、福島の人口は年々減少している。
加えて福島だけを見ても、人々は外へ外へと移動しつつあった。都心には腐るほど空き部屋があるのに、誰《だれ》も彼《かれ》もが郊外の一軒家に住もうとした。そして用をなさないいくつもの建物は、まるで書き割りのような空虚さを見せている。実際のところ、書き割りのようなものだ。一本でも道を間違うと、そのまま山道に繋《つな》がっているような場所はたくさんあった。
「……まあ、いくら中央が通勤に便利っても、窓のない家に家族とは住めんわなあ」
そう呟《つぶや》くと、空《から》のポケットから手を抜いて逆の方に手を突っ込む。やはり空であることを確認《かくにん》すると、須貝《すがい》はバタバタと体中のポケットを漁り始めた。
「どうしたんですか、須貝さん?」
横目で訊《き》く巡査の平間《ひらま》に、須貝は「ああ?」と生返事をした。くわえたタバコにまだ火がついていないことに気づき、平間も変な顔をする。そして体中のポケットを探り終えた須貝は、大きく舌打ちした。
「しまった。……ライター、置いてきちまった」
「火ィなら、貸しますけど?」
平間は片手で制服のポケットから、百円ライターを取り出す。
「……お前に恩着せられるくらいだったら、最初から車のシガーライター使ってる。そういう問題じゃねえんだよ」
文句を言いながらもライターだけは受け取って、須貝はタバコに火をつけた。
「カァちゃんからのプレゼントなんだ。確《たし》か、ありゃ水晶婚式……? だとか何とかの」
まだ二十代前半で独身の平間は、「へえ」と感心したように言う。
そのまま、双方とも無言。
「――さっさと引き返せ」
気の利かない平間にイライラしながら、須貝は命令した。
上司の言うことは絶対である。平間は大きく溜《た》め息をつくと、パトカーを分離帯《ぶんりたい》の切れ目でUターンさせた。
5
「本当にあなたなの?」
ポケットの中のナイフを確認して歩きながら、八巻《やまき》は問う。対して先に表門へ来ていた敦樹《あつき》は、雪を踏みしめながら真《ま》っ直《す》ぐ頷《うなず》いた。
「どうにかおかげさまで。何とか生きてます。足もあるし、足跡も雪の上にちゃんと残ってるでしょう?」
「どうしてここに?」
「……やはりご迷惑でしたか?」
街灯の下で顔を曇《くも》らせ、敦樹は問い返す。八巻は慌てて横に首を振った。そして急いで愛想笑いを浮かべる。
「そうじゃないのよ。――あなたのポスターがたくさん破られたって聞いたから、何か全《すべ》ての出来事が不思議《ふしぎ》に繋《つな》がってて。因縁《いんねん》っていうか、まるで幽霊《ゆうれい》か何かみたいって……。私も何だか、ぼんやりとした夢見心地みたいな感じっていうのかしら」
「あれをやったのは、私です。――そうですね、ここに来るつもりでいるくせに、あんなことをしたんですから。迂闊《うかつ》でした。
また遠くへ行くものですから、その前に先生と少しお話がしたくて――」
少し離《はな》れた位置に立つ敦樹《あつき》が言葉を切って、その場から心配そうに顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「……どうかしましたか、園長先生?」
八巻《やまき》はビクリと肩を竦《すく》めた。そして自分を落ち着かせるように、ポケットの中に隠した抜き身の果物ナイフの柄《つか》を、強く握ってまた離《はな》す。そして敦樹はもう一度、八巻に訊《き》いた。
「園長先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫って、……何がかしら?」
「顔色が悪いです。それにさっきから、震《ふる》えていませんか……?」
「ちょっと寒いだけ。この外套《がいとう》、意外と薄《うす》いものだから。急いでいたしね」
言いながらやっと、八巻は自分の歯の根が合っていないのを自覚した。言葉に奥歯のカタカタという音が混じってしまう。
とにかく自分は、いま極端に混乱していた。興奮《こうふん》してもいる。
後先考えずにナイフを持ち出したのも、その証拠だ。とにかく敦樹が本人であることは確認《かくにん》した。もしできるなら、一度落ち着いて一人で考える時間を確保したかった。
「そう、確かに寒いわね……」
麻痺《まひ》して鈍った頭を必死に回転させながら、八巻は提案する。
「――少し長い話になりそうなんでしょう? 何か温かいもの飲まない? 私が自販機《じはんき》で買ってくるから」
「ああ先生。それなら私が買ってきます」
「いえいいのよ。客であるあなたがそんなに気を使わなくても」
「でも自販機なんてすぐそこですし――」
敦樹が通りの向こうを指さし、そちらを振り返る。しかし彼女の視線の先にはシャッターを閉めた商店があるのみ。ただの暗闇《くらやみ》である。
「――あれ?」
「だいぶ前に撤去《てっきょ》されたのよ。電気代も最近は高騰《こうとう》しているし。ここから通り一つ向こうまで行って、道を曲がらないとないわね」
八巻が指をさして、正門から真っ直《す》ぐ延びる道を示す。敦樹は頷《うなず》いた。
「分かりました、とにかく行ってきます。これが先生のお役に立てる、最後の機会《きかい》になるかもしれませんし」
疑問を顔に浮かべた八巻を押し止《とど》めるように手を挙げ、敦樹は雪の道を歩き出す。
「すぐ戻りますから、先生はそこで待っていて下さい」
夜の道に声を響《ひび》かせながら、敦樹《あつき》はさっさと行ってしまう。八巻《やまき》はその後ろ姿を素直に見送った。そして『永晴《えいせい》学園』の建物に向き直り、考える。この事態に自分はどうするべきか。
「おう、園長先生。どうして一人、こんなところに?」
そう背後から声をかけられ、八巻は飛び上がりそうになった。いま最も会いたくない相手、公安部刑事の須貝《すがい》だった。
須貝が追っているポスター破り犯は、いま通りを向こうへと歩いている敦樹なのだ。死んだはずの敦樹が生きていたことも含め、このことは騒動《そうどう》になる。何かの間違いで、ありもしない嫌疑を警察《けいさつ》にかけられたのでは堪《たま》らない。
一方須貝は、八巻の視線を追って敦樹の歩く背後の通りを振り返った。だが敦樹はすでに、道を折れたあとだった。雪の上の真新しい足跡以外、敦樹のことを語るものはない。八巻は中年刑事がそれに気づかぬようにと、神に祈らずにはいられなかった。
「……何もありゃあしませんぜ、園長先生。どうかしましたか?」
あっさりそう言ってこちらを振り向いた須貝に、八巻は視線を合わさないようにして必死に答えた。
「あ、いえ。……いえ。何でもありません。ちょっと気分転換で夜風に当たっていて、ぼうっとしていたものですから。……風邪《かぜ》でしょうか。そう、それよりも刑事さんは?」
急いで八巻は質問を繰《く》り出し、話題を変える。
とにかく刑事に、ここへ留《とど》まられては困るのだ。敦樹が戻るまでに須貝をどこかへ追い払わないと大変なことになる。だがそんな八巻の気も知らず、須貝はしばらく言い出しにくそうにグズグズとする。
「いやあ、そのう……。何ですか。実はうっかりライターを、ここに忘れちまいまして。それを取りに来たんです」
「ああ、そういうことですか。どうぞ……」
八巻は急いで、半開きの状態だった正門を開けた。
「入って下さい」
「えっ、あの」
刑事須貝は驚《おどろ》いたように訊《き》く。
「……俺《おれ》が一人で中に入って、勝手に取ってきていいんですか?」
八巻もその問いに一瞬《いっしゅん》唖然《あぜん》とし、そして慌てて何度も頷《うなず》いた。
とにかく敦樹が戻ってくる前に、この刑事にはどこかへ行ってもらわねばならないのだ。一方で八巻は、ここで敦樹を待つ必要がある。彼女をどこか、離《はな》れた別の場所へ誘導《ゆうどう》しなければならない。置き去りにした敦樹が勝手に歩き回れば、結局この刑事と鉢合わせすることになりかねなかった。
だがそれはあくまで八巻自身の事情であって、須貝にとっては不自然きわまりない態度なのだ。そのことにやっと気がついた。
急いで八巻《やまき》は言い訳を考える。
「ライターの場所は……。そうそう、あの遊戯《ゆうぎ》室なのですよね。刑事さんは身元のはっきりしている方ですし、勝手に入って勝手に持って帰ってもらえば。――子供の就寝部屋にだけは近づかないようにして頂ければ、問題ありません」
「はあ、……そうですか」
どうやら刑事も、八巻がここに留《とど》まることを無理やり納得したようだった。
――いや不審《ふしん》は不審だが、こだわる必要はないと思っている、というのが正確《せいかく》なところなのだろう。日中ならばともかく、もう深夜である。一市民の無害な奇行にいちいち付き合うほど、刑事の方も酔狂《すいきょう》ではないらしい。
「じゃあ、急いで取ってくるとします。すいませんね。一応帰りにも、挨拶《あいさつ》しますんで」
「いえ。……もう夜中ですし、私がまだ正門にいなければ、どうぞお気になさらずにそのままお帰り下さい」
「……はあ、それじゃ」
刑事|須貝《すがい》は首をひねりながら踵《きびす》を返した。小さなグランドを横切って、玄関の方へと歩いていく。八巻は門柱の影《かげ》に回ると、そこから顔を出して静かに須貝の行動を観察《かんさつ》した。
コート姿の刑事は、結局一度も振り返ることなく真っ直《す》ぐ玄関の中に消える。八巻はやっと、大きな息をついた。
「どうしたんです、先生」
背後からの突然の声に、八巻はビクリと肩を震《ふる》わせる。一方の敦樹《あつき》は、訝《いぶか》しげな表情のまま両手に持ったおしるこ缶の一方を差し出した。
「あ……ありがとう」
ずっと両手をポケットに入れていた八巻は缶を受け取ろうとして、一度、思い止《とど》まる。
ポケットの中の右手には、ずっと果物ナイフを握っているのだ。まずはそれからゆっくりと手を離《はな》す。そして両手を差し出すと、改めて缶を受け取った。
小豆《あずき》色のおしるこ缶は確《たし》かに熱《あつ》く、暖かかった。それを緊張《きんちょう》で硬くなった両手に、心地よく感じる。だが敦樹の曇《くも》った表情は、八巻が缶を受け取ってからも全くそのままだった。
「どうしたんですか先生? 顔色も震えもさっきよりますます酷《ひど》い」
自覚のなかった八巻が反論《はんろん》するより早く、敦樹は掌《てのひら》で額《ひたい》に触れてきた。そして首をかしげる。
「……風邪《かぜ》や熱って感じじゃないと思いますけど、どうも体の調子《ちょうし》が良くない風に見えます。とにかく、いくら何でもここは寒すぎますね。建物の中で話しましょう」
「ええ、いやちょっと。敦樹さん」
確《たし》かにこのまま正門前に留まるわけにはいかない。ライターを取り戻したあの刑事と、鉢合わせになってしまう。場所を変えなければならないのは確かなのだ。しかしだからと言っていま建物に戻るのは、もっとまずい。
なのに敦樹《あつき》は八巻《やまき》の左腕へ自分の腕を回すと、強引に正門の中へと引っ張った。
「体調《たいちょう》が悪いなら、言って下さいよ。無理はいけません、園長先生」
そう言って雪のグランドを引きずっていく。八巻が抵抗しようと足を踏ん張ると、反動でポケットから抜き身の果物ナイフが落ちそうになった。慌てて空いた右手でそれを押さえる。
自業自得とは言え、散々だった。八巻は一瞬《いっしゅん》、刑事が中にいることを敦樹に告げようと本気で思った。だがその結果がどうなるかを先に考えてしまう。
おそらくこの困った事態は、全《すべ》て解消されるだろう。
敦樹は八巻の様子《ようす》に納得し、何も言わずにこの場を去る。そしてもう二度と、八巻の前には現れない。
そんな気がした。
――だがそれでは困るのだ。
八巻はポケットの中のナイフを確認《かくにん》する。そして一つ深呼吸すると、意を決したように永晴《えいせい》学園の玄関へと向かって歩いた。むしろ先導《せんどう》するように、暗い建物へと敦樹の手を引く。
6
「フン……?」
刑事|須貝《すがい》は不機嫌《ふきげん》に鼻を鳴らした。
街灯の光が射《さ》し込むだけの真っ暗な遊戯《ゆうぎ》室。須貝の目の前にあるのは『三〇四特殊|観測隊《かんそくたい》・特別合同|葬儀《そうぎ》』のポスターである。確かにここで、これを見た。この位置、この角度だった。
真ん中にプリントされた『つまらなさそうな顔で敬礼する少女』を前に、須貝は不可解な思いで首をひねる。同じ間取りの別の部屋、ということはない。
先ほど来たのは、確《たし》かにこの部屋だった。その証拠に机の上には須貝の使った灰皿が、吸《す》い殻《がら》が残ったまま置かれている。なのにその隣《となり》に置いたであろうデュポンのライターだけが、机の上からなくなっていた。
「さて、どこに消えたか。……しかし、かといって探し回るのもなあ」
周囲を見回す。暗闇《くらやみ》の中ではなかなか楽なことではない。
この部屋に限れば、電灯をつけても文句は言われないだろう。だがもし見つからず他《ほか》の部屋もとなると、そうも行かない。そもそもここは、人様の家ともいえる場所である。なのに忘れ物が見つからないからと、部屋ごとに電気をつけて回るような真似《まね》は、どうにもみっともない。
もちろん園長・八巻に言《こと》づけるという選択肢はある。案外、翌朝明るくなってから誰《だれ》かがあっさりと見つけ、送ってくれるかもしれない。
だがもし見つからなかったなら、須貝はまたこの施設に乗り込んできて、大騒《おおさわ》ぎして探すことになるだろう。妻の機嫌《きげん》はともかく、数年を共にしたあのゴールドのデュポンを失うというのは、須貝《すがい》にとって非常に落ち着かないことなのだ。毎朝起きたら顔を洗うという習慣を、突然永久に止めるようなものである。
とは言え、後日のライター捜索がどれだけ迷惑なことであるかということも須貝は理解していた。自分の仕事が地域社会にどれほど嫌われているかというのは、ウンザリするほど自覚している。その公安部刑事がやって来て、家宅捜索の真似事《まねごと》のようなことをするのだ。ここにとって迷惑な風評が広がることは確《たし》かだろう。それは避《さ》けたい。
須貝は、自身の信奉する理念を損なおうとする者たち――須貝自身が犯罪者と認めた者たちには容赦するつもりはない。
しかし一方、無辜《むこ》の市民たちというのは、絶対に守られなければならない存在であるとも思っていた。
もちろん須貝個人の力には限界があり、また組織《そしき》の手順というものも無視するわけにはいかない。それ故に回りくどい方法になりがちだが、しかし広い視点で見た時にそういった人々を守っている。それこそが、須貝の活動理由であり行動理念なのだ。
こんな下らないことで『永晴《えいせい》学園』の園長・八巻《やまき》に迷惑はかけられない。
「もうちょい探してみるしかねえよなぁ……」
無人の部屋で一人わびしく呟《つぶや》いて、須貝は机の下を覗《のぞ》きこんだ。
7
「……で、園長先生。何でこの部屋なんですか?」
敦樹《あつき》ができる限りの小声で、隣《となり》にいる八巻にそう訊《き》いた。
明かりと呼べるものは、部屋の出入り口上にある非常口表示が二つと、廊下から漏れる火災報知器の赤ライトのみ。そして二人の目の前では五十人もの子供が、寝息を立てている。学園の就寝室と呼ばれる、大部屋だった。
八巻がこの部屋へ敦樹を連れてきたのは、もちろんあの刑事と顔を合わせずに済むようにと、考えてのことである。この部屋へは近づくなと言ってあるし、その理由も明確《めいかく》である。常識《じょうしき》的な大人《おとな》ならば約束を守るだろう。
彼は遊戯《ゆうぎ》室で自分の置き忘れたライターを回収する。そしてこの部屋の前すら通らずに玄関へと向かい、この場を去る。それであの刑事に関する件は、全《すべ》て穏当《おんとう》に片がつくはずだ。
ただそのことを敦樹に説明するわけにもいかない。
八巻は別の理由を答えた。
「実は新しく入った四|歳《さい》の子がね。大体この時間にトイレで起きちゃうのよ――」
このこと自体は真実である。壁《かべ》掛《か》け時計は現在、零時数分過ぎ。畳《たたみ》敷《じ》きの床にしゃがんだ八巻《やまき》は、すでにぬるくなりつつあるおしるこ缶を静かに床へと置いた。
「一人だと暗くてトイレに行けないし、そうすると次の朝におねしょしちゃうから。だからその子をトイレに連れていって、それからようやく私も寝る。それがこの一年の私の日課、一日の終了なのよ」
――そして八巻は午前一時に寝て、朝六時半に起きる。当番で早朝出勤の職員《しょくいん》と共に、子供たちの朝食を作るのだ。
それが八巻の日常だった。似たり寄ったりでこれまでずっと続いてきて、おそらくこれからもずっと続く。
「みんな、いい寝顔です……」
敦樹《あつき》も壁《かべ》を背にして床に座ると、八巻が置いた缶の隣《となり》に自分のおしるこ缶を置いた。この静寂の部屋でプルタブを引くわけにもいかない。座った敦樹は体育座りのように脚を抱えると、小声で話を切り出し始めた。
「先生、実は……私」
「ごめんなさい、ちょっと待って」
もちろん敦樹の話は、彼女がここへ来た理由の核心であるし、八巻もひとまずは聞いてみたい。しかしそれでも、止めなければならなかった。敦樹の方もその理由に気がついて頷《うなず》く。小さな男の子が半身を起こし、目を擦《こす》っていた。八巻はその隣に行くと、身をかがめて訊《き》いた。
「どうする? 行く?」
男の子は片手で目を擦りながら頷いた。八巻は『目にバイキンが入るから』と手を下ろさせ、立ち上がるように促す。しかし敦樹の存在に気づいた男の子は、立ち上がったまま寝ぼけた目で、じっとその顔を見る。
「……あれ、ぐんしんのひとだ」
そう言って四|歳《さい》の子供が、敦樹に向かって敬礼した。
敦樹は布団の間を八巻たちの方へやって来ると、寂しそうに笑ってその頭を撫《な》でた。
「いいよ、そんなことしなくても。そもそも軍のやることは――」
「止《よ》しなさい」
八巻は再会して初めて、きつい声で敦樹を黙《だま》らせた。
「この子はこれからここで、この世界で生きていくの。あなたのつまらないお説教で、この子に重荷を背負わせないで」
あくまで小声のまま叱責《しっせき》するように言い、そして視線を落とす。
「子供は何でも口にするのよ。でもそれを受け流せない大人《おとな》が、たくさんいるから……」
敦樹は申し訳なさそうに肩を落とした。
「先生の言う通りです。……何も言ってやれないが、大人になったら自分の方法で考えろよ」
頭を撫でていた手を敦樹が離《はな》すと、男の子はわけも分からぬまま頷いた。一方で八巻は、彼が下ろしたままだった方の手に、何かを持っていることに気づいた。
「どうしたの、これ……」
腕を取り、それが何であるかを確《たし》かめる。寝ている間もずっと手に持っていたのか、随分と生温《なまぬる》い金属の塊。
「ライター……ですね。子供が持つものじゃない。どうしたんだ、これ?」
敦樹《あつき》が訊《き》くと、「拾った」と男の子は答えた。
八巻《やまき》はいま自分の手の中にあるライターに、見覚えがあった。あの刑事が持っていたものである。彼は遊戯《ゆうぎ》室に向かったはずだが、そこにこの金色のライターはない。この子が勝手に忘れ物を手に取り、ここに持ってきてしまったのだ。
敦樹の顔とライターの間で、八巻は視線を往復させる。しかしあまり考えている時間もない。この建物にはあの刑事がいて、まだこのライターを探しているはずだった。
「――敦樹さん、悪いけれどその子のこと、お願いできるかしら?」
意外そうな顔をして敦樹は自分を指《ゆび》さすが、すぐに頷《うなず》く。
「分かりました」
「ごめんなさい。このライターの持ち主に心当たりがあって、ちょっと連絡を入れてくるから。トイレの場所は分かるわよね?」
「大丈夫です」
敦樹は再び頷き「さあ、行こうか」と男の子をすぐ近くの部屋の出口へと促した。だがそれを八巻は慌てて止めた。
「ちょっと待って。……そっちじゃなくて、北側のトイレを使って」
「はい……? でもあっち側は遠いですよ?」
「ちょっと……。そう、掃除中なのよ」
八巻は適当な言い訳をする。その声に「おしっこ〜」と男の子の声が重なる。
敦樹も「分かった」と慌てて頷き、北側のトイレに向かう廊下の出口に男の子を促した。
二人が急いで出ていく後ろ姿を、八巻は見送る。だがその姿が扉の向こうに消えてから息をつく間もなく、彼女の背後で小さな音と共に引き戸が開いた。八巻は振り向いて睨《にら》む。先ほど敦樹が男の子と出ようとした出口に、刑事|須貝《すがい》がいた。
「すまねえ園長先生、俺《おれ》のライターが――」
「就寝部屋には入らないで下さいと、言っておいたじゃないですか!」
かすれるような声で大声にはならないようにし、しかし感情的な口調で八巻はその出口へと向かった。刑事の胸を押して部屋から追い出すと、後ろ手に出入り口を閉める。
さすがに須貝も情けない表情で、ひとまず抗弁する。
「遊戯室は灰皿だけあって、ライターがない。他《ほか》の部屋探そうと思ったんだが、当てなんかないわけで。結局、園長先生にひとこと挨拶《あいさつ》して帰ろうと思ってたら、たまたま通りかかったこの部屋にいるのが見えたもんだから。
こればっかりは、どうにもすまねえ。公務でってならともかく、私事の下らない用事でアンタの仕事|邪魔《じゃま》しちまって」
「いえ、……私もちょっと乱暴な言い方でした」
冷静になろうと、八巻《やまき》は努めてゆっくりと言った。
「それとライターに関しては、こちらで見つけました。どうも子供が勝手に持ち出していたみたいです。すいません」
そう告げて手に持ったライターを差し出す。受け取った須貝《すがい》は「これだこれだ」と感謝《かんしゃ》したように小声で言って、それをポケットにしまった。
「ところでその後、何か不審《ふしん》なことなんかは?」
「特にはありません。用が済んだのなら――」
急いで一息で言うところだった八巻は、大きく息を吸って吐いた。
「……用事がそれだけでしたら、お引き取り下さい。騒《さわ》がしくして子供が一斉に起きてしまうようなことになれば、とても私一人の手じゃ寝かしつけられません」
「ああ……確《たし》かに……」
刑事須貝は数度|頷《うなず》くと、玄関に向かって歩きながら軽く腕を上げた。
「つまんねえことで、迷惑かけました。夜分に失礼。――それじゃあ」
刑事は真《ま》っ直《す》ぐ玄関に消える。
その姿を見送って丸一分後。八巻は緊張《きんちょう》からの解放で、その場にへたり込んだ。
8
ようやく永晴《えいせい》学園には、いつも通りの深夜の静寂が訪れた。
子供たちが寝ている就寝部屋のすぐ外の廊下に、敦樹《あつき》と八巻はいた。二人は立ったままで、すでに冷たくなったおしるこ缶をちびちびと舐《な》めるように飲む。
「……何だか今日は、凄《すご》く疲れました園長先生」
敦樹は呟《つぶや》くように切り出してみた。八巻も「ええ」と答え、そして小さく吹き出すように笑い出す。
何がおかしいのか敦樹には良く分からなかったが、朗らかな気持ちのいい笑い声だった。敦樹の方も、自分で知らぬ間に結構張りつめた気持ちになっていたのか、急に気が楽になる。
「……来て良かったです」
「ねえ、どうしてここに戻ってきたの?」
おしるこの最後の一口を飲み干して、八巻が訊《き》いてきた。
「あなたは死んだことになってる人間で、生きていることが知れるのは困るのでしょう? なのにここが電話なんかを警察《けいさつ》にマークされていることを知ったうえで、敢《あ》えて来た。私はもちろん歓迎するけれど、その理由はなぜ?」
「心残り、……でしょうか」
「ほら、ね。幽霊《ゆうれい》が化けて出たようなことを言う」
八巻《やまき》はまた小さく笑う。確《たし》かにその通りだと、敦樹《あつき》は頭を掻《か》いた。
「でも、違うんです、先生。そうじゃなくて。――私はこっちで生きた全《すべ》てを、今日で捨てようと思います。西に行くつもりなんです。いえ行かなければなりません。
……ただ、それで迷惑をかけることになる人たちを、放っておくことになるのも嫌でした。
もっとも、私と繋《つな》がりがあるのはもう園長先生ぐらいなんですが。でももし私のことで迷惑をかけているのなら一緒に西へと、そう思ったんです」
敦樹も缶を飲みきって、廊下の床に置いた。そして視線を転じ、扉の窓から眠っている子供たちの様子《ようす》を眺める。
「ですが正直、浅はかでした。――最初から分かっていたことだ」
後輩《こうはい》である子供たち。その姿をガラス越しに見ながら、敦樹は静かな声で言った。
「コイツらの面倒《めんどう》を見なきゃいけない先生が、ここを逃げ出せるはずがないんですよね。だから――」
「……きれい事を、言わないでよ」
突然の泣き出しそうな声に、敦樹は廊下を振り向いた。その反応は全く唐突なことのように、敦樹は感じた。
薄暗《うすぐら》い廊下の真ん中に、八巻は小さなナイフを両手で構え、立っていた。
「……園長先生?」
「知っているでしょう? 私は軍に子供を送り込んでる。そしてその代わりに、この施設を運営する資金を国からもらってる。でもそれは哀れな子供たちを一人でも救うため、仕方なくやっていることかしら? 違うでしょう?」
その問いに、敦樹は言葉を失う。八巻は畳みかけるように、自分で答えた。
「そうよ。そういう仕事をしていないと、『私が』生きていけない。だからやっているの。
私はそれをね、自分が死ぬまで続けていくの。続けなきゃならないのよ」
自分自身を蔑《さげす》むように、八巻は泣いたまま薄笑いを浮かべる。その心の痛い告白を聞いても、敦樹は目を伏せて黙《だま》っているしかなかった。
――確《たし》かにそういう『仕組み』があることは、軍で同世代の子供と一緒だった敦樹も知っていたのだ。
園長・八巻は、なおも言う。
「私はそうやってあなた以外に十五人、軍へ送ったわ。そしてもう十一人もの死亡通知が来た。
子供だものね。大人《おとな》のようには戦えないわよね? 消耗品扱いだもの。
でもそこに寝ている子供たちの半分は、これからそうやって死んでいくのよ。そして私だけがここに残って、毎年毎年、一つずつ歳《とし》を取っていく。毎日|卑屈《ひくつ》に笑って、その場を凌《しの》ぎながらね。その私だけを、連れて逃げようと思った?
――あなたにとって私は、たった一年、たまたま面倒《めんどう》を見ただけの大人《おとな》なのよ! その私が、あなたにとって何だっていうのよ!!」
「……すいません」
辛《つら》い表情で謝《あやま》った敦樹《あつき》を見て、八巻《やまき》は声を立てて笑った。そしてナイフを手に、敦樹へとにじり寄って来る。
「いいのよ、別に。……だってあなた、もう私と同じなんだもの。あなたの『偉業』とやらのおかげで、これからたくさんの人たち、子供たちが死んでいくの。
――でもね、その罰は『ここ』できちんと受けなきゃね。あなた一人だけが逃げ出したりしちゃあ、ダメでしょ?
だから止めるの。私が止めなきゃ。私には義務があるんだから」
興奮《こうふん》した八巻は、もうあと一歩の距離《きょり》というほどまで近づいていた。相手を刺激《しげき》しないようにと、敦樹は軽く手を挙げ抵抗の意思がないことを示す。
だが敦樹は八巻の手元を見て、横へ首を振った。
「駄目《だめ》です。園長先生、その持ち方じゃあ。――うまく刺さらない」
「何を言って……!」
半狂乱になって言う八巻に、敦樹は挙げていた手を下ろし、自分の指を折って説明する。
「果物ナイフってのは、――包丁もそうですけど、背中が丸めてあるでしょう。無闇《むやみ》にケガをしないようにするためです。
そして先生は今、ナイフを下に構えています。そこから振ると、ナイフは下から斜め上へ向かう軌道を通ることになる」
敦樹は腕を揺すって、実演してみせる。
「それだと相手を刺すつもりでも、結局、背の部分が当たってしまうんです。刺さりっこありません。――そういうのを使う時は、敢《あ》えて上下逆さに握るか、思いきり振り上げて、振り下ろすように刺すんです」
八巻の視線は、敦樹の口と手元のナイフを往復する。
そして何かに取り憑《つ》かれたかのように、八巻は片手でナイフを振り上げた。
だがその時にはもう、敦樹は一歩踏み込んでいた。そして延びきった八巻の手首に、思いきり手刀を叩《たた》き込む。ナイフは手を離《はな》れて壁《かべ》を打ち、床に転がって軽く甲高《かんだか》い音を立てた。
一瞬《いっしゅん》何が起きたのか理解できずにいた園長・八巻は、やがて空になった手を見て顔を覆《おお》う。そのまま膝《ひざ》を折って床に突っ伏し、静かに嗚咽《おえつ》を漏らし始める。
「違うの……。違うの! ――私は何てことを! 私は何てことを!!」
「……いいんです園長先生」
まるで自分が叱《しか》られてもしたかのような気分だった。沈んだ声で、敦樹《あつき》は言う。
「私も今さら……別に命なんか惜しくはないんですが。
でも、ここで死ぬのだけは、全くまずいんです。私は生還《せいかん》した直後に、何の真実も伝えられないまま死体になる。そして先生はただの犯罪者ではなく、国賊扱いだ。
私の嫌いな『宣伝屋連中』にとって好みのネタが、束になって転がり込むことになる。そんなことのために、ここに来たわけじゃないんです」
敦樹は膝《ひざ》を折ると、八巻《やまき》の肩を叩《たた》き言う。
「先生は悪くありません。私の考え方が迂闊《うかつ》だったんです。
今夜のことは全部忘れて下さい。誰《だれ》かが騒《さわ》ぎを知ったとしても、見知らぬ不審《ふしん》者がやったと言うのがいい。それが一番、無難《ぶなん》です」
廊下の向こうまで転がったナイフを見ながら、敦樹はもう一度八巻の肩を叩いて立ち上がった。ポケットに入れていた帽子を、目深にかぶり直す。
「すいません。本当に、こんなつもりじゃなかったんです。――もう行きます」
そう告げて廊下を歩きながら、敦樹は言った。
「さようなら、八巻先生。――おやすみなさい」
9
パトカーのハンドルを握ったまま、巡査・平間《ひらま》は深々と溜《た》め息をついた。
「須貝《すがい》さんは本当に酷《ひど》い人ですよ」
「何が?」
真っ暗な車内で、助手席の刑事須貝は不機嫌《ふきげん》に聞き返した。この新人警察官は、文句と無駄《むだ》が多すぎる。対して無駄にこき使われている平間の方も、憮然《ぶぜん》と反論《はんろん》を始めた。
「こっちも勤務中なんスから。パトカー持ち出したまま今まで何やってたのか、上司にちゃんと説明して下さいよ?」
「俺《おれ》の勘が当たれば、その必要もない」
「当たらなかったら?」
「知るかよ」
横暴な上司に、平間は再び溜め息をついた。そしてもたれかかっていたハンドルから手を離《はな》すと、頭の後ろで組んでシートに倒れ込む。
永晴《えいせい》学園の正門前に、パトカーは停車していた。寒々とした車内で、須貝と平間の二人は凍《こご》えながら張り込みをしている。そして周囲は、いつまで経《た》っても全く静かな郊外の夜だった。しかし――。
「来たぞ、ビンゴだ! ――あれだけ様子《ようす》がおかしけりゃ、何かあるのが普通ってモンだ」
須貝《すがい》は助手席から手を伸ばし、ヘッドライトをハイビームで点灯する。暗闇《くらやみ》の中を正門から出てきた人影《ひとかげ》が、目を射られてよろめいた。
須貝はすぐさま拳銃《MP448》を抜くと、車のドアを開け構えた。
「警察《けいさつ》だ、動くなよ。……よし、ゆっくりと手を頭の上に」
「職質《しょくしつ》でいきなり銃ですか? 須貝さん、一体……」
「お前は邪魔《じゃま》しなきゃいい! そこに座ってろ!!」
若い割に状況への適応が鈍い平間《ひらま》を怒鳴りながら、須貝は人影の方へと向かう。銃を構え、雪を踏みながら慎重にと歩く。
「そこから動くなよ。手はゆっくりと、だ」
命令しながら、須貝は目を細めた。
ライトの中に浮かび上がった人物の特徴は、駅前でポスター破りをした人物の目撃《もくげき》証言と、ピタリと一致する。
そして相手は言われた通り、ゆっくり手を挙げる。が――その右手が懐《ふところ》に向けて動いた。須貝はすぐさま、空へ向かって一発発砲する。
「余計なことをするな!」
帽子の人物は観念したように、両手を高く挙げた。須貝は銃を突きつけたまま、あと三歩ほどの位置で立ち止まる。相手が刃物を持っている可能性を警戒《けいかい》してのことだった。
「何者《ナニモン》ンだ、お前。帽子脱げ」
ライトに照らされた不審《ふしん》人物は、右手だけをゆっくりと下ろし、ツバつき帽に手をかけた。須貝が苛立《いらだ》った声で「さっさとしろ!」と言うと、帽子を取り顔を見せる。
その一瞬《いっしゅん》、明らかに須貝は隙《すき》を作ることになった。そしてすぐさまその人物は、帽子を須貝の顔に叩《たた》きつけるように投げる。
目潰《めつぶ》しを食らったと思った時には、すでに須貝は銃を持った手を掴《つか》まれていた。慌てて引き金を引こうとしたが、筋《すじ》を極《き》められて人差し指が曲がらない。そのまま足下《あしもと》を払われ、天と地が一転した。
須貝は雪が薄《うす》く積もっただけのアスファルトに、容赦なく叩きつけられた。きつい一撃《いちげき》に、息が止まる。
「須貝さん!」
新人・平間がただ間抜けに叫ぶ間にも、須貝の手から銃が奪われる。さらに相手は先ほど投げつけた帽子を急いでかぶり、そして逃げた。
須貝はようやく体を起こすが、起き上がってもまだ茫然《ぼうぜん》自失の気分だった。だが――。
頭を振って、いま見たものを打ち消す。
夕方からずっとあの『気乗りしない顔をした娘』に振り回されてきたから、そんな風に見えたのだ。それに見たものが事実にせよ錯覚《さっかく》にせよ、自分を投げ飛ばしたのが不審《ふしん》な人物であることに変わりはない。捕まえてみれば、全《すべ》てははっきりとすることのはずだった。
「馬鹿《ばか》、追いかけるんだ」
すぐさまパトカーにいる平間《ひらま》を振り返った須貝《すがい》は、背中と腰の痛みを堪《こら》えながら、そう大声で叫んだ。
「さっさとエンジンかけろ!!」
自分は足を引きずりながら、パトカーに戻る。張り込んでいる間、定期的に暖機《だんき》をしたかいがあって、エンジンはすぐにかかった。
須貝が飛び乗るのと同時、平間はパトカーを急発進させた。
10
あちらこちらから響《ひび》き始めたサイレンに、敦樹《あつき》は周囲を見回した。この辺《あた》りは住宅街、首都|福島《ふくしま》のベッドタウンである。深夜で道に人はなく、塀で囲まれた敷地《しきち》ばかり。逃げ込めるような場所もない。
――最初からある程度覚悟はしていたが、それにしても実際追われるとなるときつい。
すぐ背後からサイレンが聞こえ、敦樹は電柱の陰に身を隠した。
やり過ごしたのを確認《かくにん》して別の道へ入ったが、今度は停車しているパトライトの光が進行方向に見える。敦樹は慌てて元の道へ引き返し、必死に走った。
どちらを向いてもサイレンの音が聞こえる。あっという間に手配は進んでいく。そのことに、敦樹は皮肉な笑みを浮かべていた。
――私の隊には、ろくな無線機も渡さなかったくせに。警察《けいさつ》ばかりは随分と金持ちだ。
だが今の敦樹もまた、あの時とは違う。積極的に打てる手を持っていた。
走りながら懐《ふところ》のポケットに手を入れて、ネクタイピンのようなものを取り出す。そして敦樹はそれを襟元《えりもと》に着けた。小型通信機となっているピンに向かって、大声で告げる。
「悪い、警察に包囲されそうだ。合流地点まで、行けそうにない。もうこちらでの用事は、全て済んだ。済まないが、そちらから回収に来てくれ」
それだけ伝え、全力疾走で道を行く。その行く先の道をまたパトカーが横切り、直後急ブレーキの音が響いた。発見されたことを悟った敦樹は舌打ちして、横道に入る。
だが警察の方が動きが早い。次の十字路に着く目前で横合いから白黒の車体が現れ、強引に道を塞《ふさ》いだ。
ある程度勢いが出ている敦樹は慌てる。足下《あしもと》の凍りかかった雪に滑り、急に止まると転倒しそうだった。だがうまくボンネットに手をつくと、その上を転がり障害をパスする。
「待て、動くな」
背後からの制止の声に、敦樹《あつき》は先ほど奪った拳銃を上着のポケットから抜いた。そして立ち止まって振り返りざま、威嚇《いかく》の意味もこめて二発、タイヤに撃《う》ち込む。
そしてそのまま再び走り出し、道の先を急いだ。
だが前方に、またもパトカーが現れた。しかも今いる狭い道に、真《ま》っ直《す》ぐ侵入してくる。
後ろは塞《ふさ》がっている。敦樹は慌てて左右を見るが、どちらも高いブロック塀で、簡単《かんたん》には越えられそうもない。そして活路を見出《みいだ》せないでいるうちに、正面のパトカーは停車した。
中から出てきたのは、先ほど正門で敦樹を呼び止めた刑事らしき男だった。開いたフロントドアを盾に、敦樹が奪ったのとは別の銃を突きつける。さらに運転席のドアが開き、そこからもおっかなびっくりで銃を持った警官《けいかん》が出てくる。同時に背後――先ほど威嚇したパトカーの方でも、同じことが起きているのが音と声で分かった。
完全に囲まれている。
「無駄《むだ》手間《でま》取らせやがって。――まずは手に持った銃を捨てろ!」
居丈高《いたけだか》に、正面の刑事が言う。
敦樹は今度もまた、慎重に手を挙げ両手を開いた。ただし手にしていた銃は地面へは落ちず、人差し指に引っかかったまま、くるりと回る。
「舐《な》めやがって。『捨てろ』と言ってるんだ!!」
刑事はさらに大きな声で怒鳴る。だがこれに応じる必要はなかった。敦樹の『時間|稼《かせ》ぎ』はこの一分にも満たない時間で十分だった。
民家の屋根の上。その真っ暗闇《くらやみ》が、目の前のパトカーへと突然降ってきた。『ガン!』と大きな音が響《ひび》き、細かく割れたガラスが飛び散る。車外に出ていた刑事と警官はかろうじて逃れたが、パトカーは踏み潰《つぶ》され車高が半分に縮《ちぢ》む。
「何だ、一体!」
地面に転がりながら、刑事の方が叫んだ。一方、巨大な影《かげ》はさらに地面へ飛び降りると、パトカーを掴《つか》んで半分に折り曲げる。そしてそれを振りかぶると、敦樹の後方にいるもう一台へと投げつけた。車を盾に銃を構えていた警官たちは、慌てて逃げ出す。
「……何で多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》がこんなところに」
そんな呆然《ぼうぜん》とした刑事の声を横に、敦樹は黒い多脚砲台に向かって走った。
「拾ってくれ!」
その声に多脚砲台は敦樹の壁《かべ》になるよう移動し、その腕――ドーザーブレードを差し出した。ようやく事態を悟った警官たちは、一斉に発砲する。しかし拳銃の弾ぐらいでは、この黒い多脚砲台に傷もつかない。
身をかがめて砲塔によじ登る敦樹の耳に、「これは軍の陰謀《いんぼう》だ!」などと見当違いのことを叫ぶ声が届く。――まあ勝手な勘違いのうえ混乱してくれるのなら、敦樹の方も好都合ではある。
「私は大丈夫だ。行ってくれ」
その声に呼応し、多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》は歩き始める。やがて国道へと出、一気に移動のスピードを上げた。三車線の道を南へと走る。
対して追跡のパトカーは、すぐさまその後方に並んだ。最初に敦樹《あつき》が逃走した時点で、動かせる車両は全《すべ》てその地区に投入していたらしい。黒い多脚砲台の行く手を遮《さえぎ》るものはなく、警察《けいさつ》の車は後ろからばかり現れる。
ただ後方から、小石をぶつけるような音がいくつも響《ひび》き始めた。先ほども聞いたばかりの音に敦樹がそっと覗《のぞ》くと、助手席にいる警官がパトカーから身を乗り出し、拳銃を撃《う》っている。
――危なっかしいことをする。
半ば呆《あき》れた思いで、敦樹はオレンジ色のナトリウムランプがずっと続いている後方の道を眺める。と、多脚砲台の砲塔がゆっくりと回り始めた。敦樹は慌てて通信機に言う。
「もう十分だ、止《や》めておけ。今回の旅は私の我《わ》が儘《まま》だ。これ以上『アイティオン』に迷惑をかけるわけにはいかない」
すぐに砲塔は止まり、元の正面に戻った。敦樹はその砲塔によじ登る。そして伏せたまま、砲塔後部まで匍匐《ほふく》して進んだ。
街灯が飛ぶように流れていった。そして後ろには大行列を作ったパトカーが続く。銃弾の音は一向に止まないが敦樹の場所は全くの死角で、流れ弾が飛んでくる心配さえない。ぼんやりと敦樹は、この馬鹿《ばか》騒《さわ》ぎの風景を見ていた。自分自身の価値を熟知する敦樹には、追跡してくる彼らの惜しみない物量投入と努力が、完全な空回りに見える。
――そう、ここでは全てが空転していた。
たかが駅のポスターを破いた敦樹は、深夜の街を大量のパトカーに追いかけられている。
園長の八巻《やまき》はただ生存するために、働き、疲れ、最後に泣いた。
ふと脇腹《わきばら》のポケットにある、ゴツリとした存在を意識する。敦樹はそれを取り出した。刑事から奪った拳銃だった。結局まだ持っている。
砲塔の上に寝そべった敦樹は、その拳銃を両手で構えてみた。狙いはパトカーの先頭。
運転席の警官は追跡に必死なのか、まだ敦樹の行動に気づいていない。その顔に向かって、敦樹はゆっくりと照準を合わせた。
自分はこんな大人《おとな》たちのせいで、結局全てを失ってしまったのだ。ならばこのまま引き金を引いても、別に許されるような気がした。
手元で小さな銃声が響く。
フロントグラスには、蜘蛛《くも》の巣のようなヒビ。
そして車内では、顔から血を撒《ま》き散らして制服姿の警官が死ぬ。
――そう、無線で命令されロボットのように動く警察官が、たった一人死ぬだけだ。
それに何の意味がある。
「クソッ……」
現実と混じり合う残酷な空想。その幻惑のような感覚に捕らわれた敦樹《あつき》は、額《ひたい》の熱《ねつ》っぽさを払うように頭を振った。耳元で風の音だけが鳴る。
――違う。そうではないのだ。
本当は自分を拒絶した故郷に、自分が拒絶した故郷に、涙が出そうなのだ。
誰《だれ》かに「違うのだ」と言いたかった。聞いてほしかった。誰かに理解してほしかった。誰かに許してもらいたかった。おそらくナイフを振りかざした八巻《やまき》にしても、そうだったのだ。
だが敦樹も八巻も互いにそれを求めながら、互いに拒絶した。
そう。そんな相手など、最初からどこにもいはしない。これからもずっと。
――だから敦樹は、まるで大人《おとな》のように『自制』した。
子供のように泣かないし、喚《わめ》きもしなかった。そんなことはまるで無駄《むだ》なことだと感じた。人を殺せる拳銃を、黙《だま》って路側の茂みに放り投げる。
そして体の方向を転換すると、また砲塔の前側まで這《は》って進み、そこから下りた。
「車相手に道路を逃げてたんじゃ、きりがない。山の中に逃げよう。夜明け前までに白河《しらかわ》の戦線を抜けば、捕まる心配はない」
そう告げると自分の腕を、主砲の砲身に回した。そして衝撃《しょうげき》に備え、しっかりとしがみつく。
黒い多脚《たきゃく》砲台《ほうだい》は頷《うなず》くように体をかがめると、一気に跳んだ。
道から逸《そ》れて、元は畑らしい開けた雪の地面に着地。さらにもう一跳びでその端まで行くと、そこから狭い農道へと入った。車ならば迂闊《うかつ》に速度の出せない雪の泥道を、多脚砲台は道路と変わらぬスピードで走り始める。
これで追跡は確実に捲《ま》ける。ただ代わりに、車体の上にいる敦樹は張り出した小枝を自分で避《さ》けねばならなかった。身をかがめ、腕で顔を覆《おお》ってやり過ごす。
しばらくするとようやく木立は途切《とぎ》れ、多脚砲台は見晴らしのいい斜面道に出た。敦樹が伏せていた顔を上げると、ほんの数分だったのに随分と高いところまで登ってきていた。
眼下に街の光が見える。ついさっきまでいた永晴《えいせい》学園の位置も大体見当がついた。もっとも今は、光点の隙間《すきま》にある暗闇《くらやみ》の一部でしかない。
見ている間にも、多脚砲台は移動を続けている。すでに明滅するパトライトの赤も、サイレンの音さえも、遥《はる》かに遠い。敦樹は徐々に遠ざかる街の光を、ずっと見ていた。
山と山の谷間に広がる光点の集合。そこへ向かってゆっくりと、届くわけのない手を伸ばす。
――そこはかつて、敦樹が住んでいた街だった。故郷と呼んだ場所である。
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あとがき
どうも、初めまして。もしくはお久しぶりです。伊都工平《いとこうへい》です。新シリーズです。
さっそく本作品についてですが、この文庫に収録されているのは『西方世界剣魔攻防録』として「電撃《でんげき》hp」vol.28[#「28」は縦中横]〜31[#「31」は縦中横]誌上(04[#「04」は縦中横]年2月〜8月)に計四回連載された作品の前半二回分となります。(ちなみに後半にあたる『まれびとの棺《ひつぎ》・下』は04[#「04」は縦中横]年11[#「11」は縦中横]月刊行の予定です。こちらもぜひ、よろしくお願いします。)
なお連載中からおつきあいいただいている読者様の中には、今回の文庫化でびっくりなされた方も多いかと思います。タイトルが大幅な変更となりました。前タイトルは漢字ばかりということで、連載掲載以前より編集《へんしゅう》部内での評判が悪く、この機会《きかい》に変更ということにあいなった次第です。
……などとまあ紆余曲折《うよきょくせつ》を経《へ》つつも、なんとかこうしてこの作品を、文庫として世に出すことができました。これも連載中応援して下さった皆様の、お力|添《ぞ》えあってのことです。この場を借りてお礼申し上げます。
とはいえ初の連載ということで、未熟《みじゅく》な作者にはいろいろ大変でもありました。
特に各回ごとのフォーマット的な制約というものに振り回され、カットせざるをえなかった部分がいくつかありまして。そこで今回それを補う意味も含めて、書き下ろしの短編二本を収録《しゅうろく》させていただきました。追加一本目の話が第二章のすぐあとの出来事《できごと》。追加二本目は主人公・敦樹《あつき》が|樋ノ口《ひのぐち》町防災団を開設する前、つまり第一章の約一年前の出来事となります。
この本で初めて本作を読まれる方はもちろん、すでに連載四本を読了済みの方にも楽しめるよう、アレコレ細工がしてあります。よろしければ、どちら様もご一読を。
なお本作のイラストは、瑚澄《こすみ》遊智《ゆうち》氏にお願いすることになりました。こちらに関《かん》しては何というか、もう凄《すご》いという言葉しか思いつきません。
キャラの可愛《かわい》さカッコ良さはもちろん、文章とのマッチング感は言うに及ばず、それを支える構図、風景、小物、メカと、死角ナシ過ぎです。
本作では連載中からお仕事をご一緒《いっしょ》させていただいているわけですが、そのクオリティーに頭が下がりっぱなしです。瑚澄氏にはこの場で改めて、感謝《かんしゃ》の言葉を。ありがとうございました。
それでは今回のご挨拶《あいさつ》はこの辺で。次巻でまた、皆様とお会いできますよう。
[#地付き]伊都工平 拝
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底本:「天槍の下のバシレイス1 まれびとの棺〈上〉」電撃文庫、メディアワークス
2004(平成16)年10月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月18日作成