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DADDYFACE ダディフェイス
[#地から2字上げ]伊達将範
プロローグ
静かな夜――|山《さん》|麓《ろく》の寂れた街を、木枯らしが吹き抜けた。
路面の木の葉が舞い上がり、ある表札に張りついた。
“|青《あお》|葉《ば》学園”
県で唯一の|保《ほ》|護《ご》施設である。
コンクリ|壁《へき》で囲まれた|敷《しき》|地《ち》の中には、平屋の建物が見えた。
恐ろしいほどのボロ屋だ。屋根は北と南で色が違い、|壁《かべ》も|修繕《しゅうぜん》の|痕《あと》だらけ。窓ガラスにも|縦横無尽《じゅうおうむじん》に|亀《き》|裂《れつ》が入り、テープを当ててしのいではいるものの、|貼《は》られたセロハンは既に|剥《は》げる寸前という有り様だ。
強めの風が吹いた。
窓ガラスがしなり、枠がカタカタ音を立てた。
そこに映る小さな人影が一つ。
――少年である。
まだ幼い。一〇歳にも満たないだろう。整った顔立ちである。少年は、どこか不安げな|眼《まな》|差《ざ》しで、夜空に|輝《かがや》く月を見つめた。
唐突に、背後でドアが開いた。
「しゅ、しゅーくん、起きてるっ?」
「ゆうちゃん!」
少年は立てかけてあった“|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》”を|掴《つか》むと、ヒョコヒョコと不安定な足取りで、戸口へと向かった。
深夜の来訪者は、美しい少女だった。
フワッとした長い髪、メノウを思わす大きな|双《そう》|眸《ぼう》――外見は少年よりやや上だが、この|年《とし》|頃《ごろ》では当てにならない。
少年を見つけたと同時に、少女の|美《び》|貌《ぼう》がさらに華やいだ。笑ったのである。
「しゅーくん!」
「えっ? ちょっ――わっ!」
少女に抱きつかれ、少年はバランスを崩した。二人して、ベッドに倒れ込む。
慌てて、少女が顔を起こした。
「あ――しゅ、しゅーくん、背中だいじょうぶ!?」
下で、少年が体をずらした。|両肘《りょうひじ》を支えに、上半身を起こす。
めくれたパジャマの|裾《すそ》から、白っぽいものが見えている。包帯だ。
「うん。ぼくは平気なんだけど……」
「だけど?」
「うん……。ゆうちゃん……いいのかな?」
少年は、顔を赤くして言った。
返事は、少女の|唇《くちびる》がした。
「んっ……」
いきなりのキス――しかし|想《おも》いの行動を、少年は受け入れた。目を閉じ、相手に任せたのである。
すぐに女の子は体を離した。
が――彼女の表情を見て、少年はギョッとした。
双眸から流れた涙が、|頬《ほお》を|濡《ぬ》らしていたのである。
彼女は、寂しそうに笑むと、
「だって……だって明日でお別れなんだよ……?」
「あ……」
少年の顔に走ったもの――|脅《おび》えという。
彼は腕を伸ばすと、少女を抱きしめた。そっと、優しげに――|壊《こわ》れ物を扱う手つきだった。
幼い二人が、自然とシーツに倒れ込む。
少女は顔だけを起こすと、少年をジッと見つめ、
「しゅーくん……わたしのこと忘れないで……」
もう言葉はいらなかった。
|薄《うす》|闇《やみ》の中、幼い少年と少女は、体を重ねた。
少年は路上に突っ伏していた。
|遥《はる》か目の前を、リムジンが音を立てて遠ざかっていく。リアガラスには、泣き|腫《は》らした少女の顔があった。
少年は手を伸ばした。
車は、指の間から|掻《か》き消えた。坂を下ったのだ。
冬の風が、少年の前髪を揺らしていく。
小さな|拳《こぶし》が、アスファルトにめり込んだ。
「強くなってやる……! ぼく強くなるよ、ゆうちゃん……!」
やや不自由な体を起こして、少年は|呟《つぶや》いた。
この一連の出来事が、後の彼の人生を、大きく変えることになった――。
幼い日の過ち、無知ゆえの愚行。
大人は、常に子供の|想《おも》いを否定する。
だが、どのような形であれ、愛には結晶が残るものなのだ。
……まあ、“多少の問題”はあるかも知れないが。
時は流れて一三年後――。
連続する銃声が、|樹《じゅ》|海《かい》の星空を切り裂いた。
|山《やま》|梨《なし》県側、|富《ふ》|士《じ》|山《さん》|麓《ろく》――|青《あお》|木《き》ヶ|原《はら》樹海。|霊《れい》|峰《ほう》の|裾《すそ》|野《の》で緑の|絨毯《じゅうたん》を作る広大な樹林が、今は深い|霧《きり》の中だ。
異常な事態が、その木々の下で起きていた。
――|闇《やみ》|夜《よ》の林を走る、少女の姿があった。
「はあ、はあ……」
フライト・ジャケットに、親が見たら泣きそうなミニ、パンストにスニーカー――全身がブラック一色だ。彼女の疾走と共に、おまけのようなスカートの裾が上下し、半ば幼児体型のお|尻《しり》が見え隠れする。
|年《ねん》|齢《れい》は、まず一二〜三。
気の強そうな|眉《まゆ》に、固い意志を映す|瞳《ひとみ》、小さなアゴと|唇《くちびる》。髪は長く、肩を隠すほどだ。両サイドを束ねる赤いリボンがアクセント。今でこそ、その表情は焦りに|歪《ゆが》んでいるものの、かなりの美形――銀幕を飾ってもおかしくない。
ただし、問題があるとすれば一つ。
肩にかけたカービン型SMG――銃声の源が、これだ。
「はあ、はあ……」
荒い息を|繰《く》り返しながら、少女は皮のグローブをはめた細い指で、胸ポケットからPDAを抜いた。親指で、ボタンを押す。
携帯ゲーム機もどきの小さな液晶画面に、フルカラーで自分の位置が現れた。地図上の赤い△印マークが点滅しながら移動する。
GPS――衛星ナビ・システム。
少女の顔に、笑みが|射《さ》していく。
「な〜んだ、余裕じゃん! 国道までもう少し――」
頭の後ろで、風が鈍く|唸《うな》った。
少女が顔色を変えるのと、頭を下げたのがほぼ同時。直後に、巨大な柱を思わせる影が、頭のあった位置をスッ飛んでいった。
すぐに、|地《じ》|響《ひび》きが辺り一面を|駆《か》け抜けた。
異物が数メートル先の地面に突き刺さったのだ。
――大木である。ただし、逆さまだ。
「じょ……じょーだん……!」
びっしり生えた根を見上げながら|呟《つぶや》くと、少女は青い顔で振り返った。
星を映す瞳の先で、|闇《やみ》が、ぬるりと動いた。
巨大な人影である。
ただし影に質を問うならば、この場合――ゲル状。
姿は暗くて分からない。しかし、人影が動くたびに、地面がキラキラ光った。粘液質の何かが地面にこびりついていく。
「くっそォ、しつっこい……!」
鈴を転がすような声とは|裏《うら》|腹《はら》に、彼女の決断の速さは異常なものだった。|躊躇《ちゅうちょ》なく腰を落とし、素早くSMGを|構《かま》えたのである。
――H&K・MP5KA1。
マズルフラッシュが闇夜に|炸《さく》|裂《れつ》した。
「おらおら、死んじゃえ〜!」
幼すぎて、セリフにも行動にも現実味がない――まるでコミックのワンカットだが、そうなのだから仕方がない。
とにかく、断続的な光が、下から|美《び》|貌《ぼう》を照らした。問答無用である。九×一九ミリパラベラム弾がバラ|撒《ま》かれ、迫り来る人影に吸い込まれた。しかもその連射性能は、毎分九〇〇発。|薬莢《やっきょう》が立て続けに排出され、地面で跳ね|躍《おど》った。
すぐにマガジンが底を尽き、少女は銃を上げた。
再び、森に静寂が満ちた。
影が動き、少女の顔に動揺が走った。
「……返しや」
押し|潰《つぶ》されたような声が、眼前の|闇《やみ》から上がった。
少女は冷や汗を流し、|後《あと》|退《ずさ》った。
「も、もともとアンタのじゃないでしょ! ヒトを泥棒みたいに言うんじゃないわよ! そんなに手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》なら――」
と少女がポケットから取り出したもの。軟式ボール大の球体。
なんと|手榴弾《てりゅうだん》だ。
「だったら――これで遊んでなさい!」
言うなりピンを抜き、セイフティを外すと、自分の足下にポイ。
その|瞬間《しゅんかん》から一秒目。
――すぐさま背を向け、再び全力疾走に移った姿は、やはりマンガ的だった。
面白い性格をしている。
二秒目。
――影が止まり、転がる手榴弾を見て、首を|傾《かし》げた。
|獣《けもの》的な動作である。
三秒目。
――走る少女の目の前で、突然、森が開けた。
先の下方に国道が見える。
四秒目。
「やったあ!」
|可愛《か わ い》い声で、少女は|歓《かん》|喜《き》の声を上げた。
五秒目。
――少し位置が高いが、彼女は森の端で止まることなく、|跳躍《ちょうやく》した。
小さな美影が、|闇《やみ》に舞った。
六秒目。
――タッチ・ダウン。アスファルトの上で|華《きゃ》|奢《しゃ》な|膝《ひざ》を曲げ、落下の|衝撃《しょうげき》を吸収する。
少女は、してやったり、と振り返った。
七秒目。
――カウント・アウト。
闇と静寂を、|爆《ばく》|炎《えん》が切り裂いた。
平坦な森を突き破って火柱が|噴《ふ》き上げ、天を|衝《つ》く。火の粉が舞い上がり、風に乗った。ゴウゴウと燃え盛る炎が、少女の顔に影を落とす。
炎の多さがまともではない。恐らく、ナパームだろう。
「ふう。ま、ざっとこんなもんでしょー」
肩をすくめて立ち上がる少女の顔には、余裕すらある。このテの|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》は慣れっこよ、とでも言わんばかりだ。
再び、彼女はPDAを取り出した。
だが異変は、|止《とど》まることを知らなかった。
――銃声である。
幼い|美《び》|貌《ぼう》がギョッとすると同時に、腰の辺りから、小物がバラバラと落下した。
リップクリーム、デオドラントスプレー、香水の|小《こ》|瓶《びん》、などなど。アスファルトの上を転がっていく。とりあえずまとも――|歳《とし》相応の品物だ。
慌てて少女は、ジャケットの|裾《すそ》をめくった。ベルトに巻かれたポーチの底が破れ、焼け焦げている。撃ち抜かれた|痕《あと》だ。
「ああ〜! ひっどーい!」
「……ひどくなるのは、これからだ」
鈍い声が|響《ひび》き、少女は顔を上げた。
「ゲ……! また|鬱《うっ》|陶《とう》しいのがァ……」
目の前の国道に、数人の男たちがいた。
全員が黒服だ。見るからにアブなそう――まともな職業ではあるまい。|構《かま》えたアサルトライフルの|狙《ねら》いは、|揃《そろ》って少女である。
そして真ん中――|頬《ほお》|傷《きず》のある男が進み出て、
「小娘とは|驚《おどろ》きだが――|貴《き》|様《さま》、ダーティ・フェイスの関係者だな?“|稗田《ひえだの》|阿《あ》|礼《れ》私本”、渡してもらおうか」
少女は動じなかった。それどころか、皮肉っぽく|唇《くちびる》の端を曲げ、
「ハン! ミュージアムのザコがえっらそうにィ!」
と空いた手で肩にかかった髪を、挑戦的に背中へと|弾《はじ》いてみせた。観客がいたなら、ここで拍手だ。
「……おまえを生かしておく理由は、どこにもないのだが」
|頬《ほお》|傷《きず》がトリガーに指をかけた。|撃《う》つぞ、の脅しだ。
だが少女は|嘲笑《ちょうしょう》で返した。
「あらあら、そーなの。でもそれって、こっちも同じなのよね〜」
同時刻、|樹《じゅ》|海《かい》の|遥《はる》か上空。
星空を冠し、雲をも|睥《へい》|睨《げい》する世界で、巨大な影が動いた。
|鋼《こう》|鉄《てつ》の|翼《つばさ》を右に傾け、旋回を開始する――。
黒服は抑揚のない口調で、
「強がりはよせ。第三者は、既に排除ずみ――半径五〇〇メートル以内に、ヒトは我々と|貴《き》|様《さま》だけだ。もう少し真実味のある|嘘《うそ》をついたらどうだ?」
「さっぶ〜。あんたこそ、もうちょっとマシな脅ししなさいよね〜。ヤクザ映画でも|観《み》て、セリフの勉強でもしたらどぉ?」
あ〜、やだやだ、と少女は肩をすくめた。
少し、間があった。
「いいだろう。ならば――」
突然、何か空気が抜けるような音が|山《さん》|麓《ろく》を|駆《か》け抜け、同時に男は凍りついた。
彼は見たのだ。
目で追えない速さで上空から出現した、二本のオレンジの軌跡を。
――マーベリックAGM65G。
早い話が、空対地ミサイルである。
「なっ――!?」
「アハハハッ! ばーか、死んじゃえ〜!」
少女が|傲《ごう》|慢《まん》な|嘲笑《ちょうしょう》を放ったと当時に、その頭上をミサイルが通過した。
|爆《ばく》|発《はつ》は、男たちの直上で起こった。
鼓膜を突き破りかねない|轟《ごう》|音《おん》と、太陽のような光が、辺りを|瞬時《しゅんじ》に埋め尽くした。男たちが|衝撃《しょうげき》で吹っ飛ばされたのは言うまでもない。頬傷の男は、爆風で路面に|叩《たた》きつけられ、中の一人に至っては、ガードレールから転落した。
爆散した弾体から漏れた炎が、少女と男たちを隔てていく。
「ば、|馬《ば》|鹿《か》な……! いったいどこから……?」
頭を振りながら、男は体を起こした。
“それ”は、炎の向こう――腕を組んで立つ少女を、|覆《おお》うように舞い降りた。
黒く塗られた、巨大なデルタ|翼《よく》|機《き》だ。
機体はエアブレーキを全開。少女の|遥《はる》か後方で、ギア・ダウン――接地。ランディング・ギアのアブソーバーを|軋《きし》ませ、路面に火花を散らしていく。
圧倒的な質量を見せつけ、機は少女に近付いていった。双発のジェット・エンジンが風を巻き起こし、不敵に笑む主の髪をなびかせる。
この場に軍関係者がいたら、度肝を抜かれたことだろう。
「し、信じられん……! 実戦配備されたラプターだと……!?」
男は|茫《ぼう》|然《ぜん》と|呻《うめ》いた。
――ロッキード・マーチン、F22ラプター。
米軍の最新型・半ステルス|戦《せん》|闘《とう》|機《き》である。
公表こそされたものの、実は|未《いま》だ実験段階にあり、その正確な|諸《しょ》|数《すう》|値《ち》は不明。肝心のエンジンすら未完成だという。ただし投入された多方面の最新技術から、ポテンシャルは|桁《けた》|違《ちが》いとされ、非同盟国の恐怖の対象となっていた。
超大国の空飛ぶ軍事機密が、|樹《じゅ》|海《かい》|脇《わき》の国道に着地した――既に十分異常なのだが、しかしこの機体の異様さは、それだけにとどまらなかった。
カスタマイズの具合が、|半《はん》|端《ぱ》ではない。
まずコックピットからして違う。ラプターは単座だが、この機体は双座――ダブルシートだった。キャノピも一回りでかい。さらに、|主《しゅ》|翼《よく》の形が、|若干《じゃっかん》だが異なっていた。付け根に可動部分が存在するのだ。腹部にローダー・フックがあるところを見ると、無理やり|艦《かん》|載《さい》|機《き》化した結果なのだろう。原形に空母から飛び立てる特性はない。
とどめは、キャノピ・シルの下に描かれた、おかしなパーソナル・マークだ。
舌を出したツインテールの女の子の顔とVサイン――それがデフォルメされ、ご丁寧にセル画調に描かれていたのである。
“MISA‐CUSTOM(自家用)”
丸っこい|縁《ふち》どりフォントで、そうある。
ミサとは、少女の名か――少なくとも、顔マークのモデルは、髪型から見ても彼女に間違いないだろう。
そして真横に機体が止まるやいなや、少女はノーズのタラップに手をかけ、
「ハハハッ、このばぁ〜か! 今度から、|索《さく》|敵《てき》|範《はん》|囲《い》は五〇〇メートルなんてケチなこと言わないで、五〇〇〇メートルに広げることね!」
トントントン――ヒョイ。コックピットに跳び乗った。
恐ろしいことに、内部には彼女以外の人影などなかった。これまた|驚異《きょうい》的――半ば自動化されているらしい。
少女は手早く酸素ハーネスとゴーグルを着けた。リュックをコンソールの下に|蹴《け》り込み、キャノピスイッチ・オン。総電子化されたシステムの光が、幼い顔に影を作る。
少女を乗せたF22は、再び動き始めた。
|双《そう》|尾《び》|翼《よく》のラダーを動かし、アプローチ・ラインを補正。離陸体勢に入る。
「くっ! させるか!」
|頬《ほお》|傷《きず》の男が叫び、小銃が|唸《うな》った。
ノーズ周辺にオレンジの火花が飛び散ったが、機体を止めることはできなかった。
――アフターバーナー・オン。
ジェットノズルから文字通り火を|噴《ふ》き、F22は発進した。黒服たちが反応できたのは奇跡と言っていいだろう。逃げ惑う人影を突っ切って、テイク・オフ。
「ばいば〜い。今度は容赦しないから〜」
コックピットで少女が笑い、暗黒の機体が浮いた。
頬傷の男が|呆《ぼう》|然《ぜん》と見つめる先で、F22はズーム上昇。星空を勝利の背景にし、垂直に天へと消えていった。
突き抜けるジェット音の|残《ざん》|滓《し》が、|闇《やみ》の|山《さん》|麓《ろく》に|響《ひび》き渡る。
「……やられたな。車がないのを妙に思うべきだったが、まさか|戦《せん》|闘《とう》|機《き》とは」
|忌《いま》|々《いま》しげに呟いて、頬傷は視線を落とした。
少女の小物に混じって、一枚のメモ用紙が、路面をヒラヒラ舞っている。
何を感じたのか、男はメモを拾い上げた。
[#ここから3字下げ]
|草刈鷲士《くさかりしゅうじ》
東京都|武蔵《む さ し》|野《の》市|風《かぜ》|苅《かり》町五―一四―八
ふじ荘二〇一号室
[#ここで字下げ終わり]
「これは……ダーティ・フェイスの関係者か……?」
|眉《まゆ》をひそめ、男は顔を上げた。
天を|覆《おお》う星の海のもと、今、静かに事件が動き始めた――。
第一章 パパは大学生
真冬にしては日差しも暖かい昼下がりの午後。
山手沿線の外れにある|相模《さ が み》|大《だい》の一角は、妙な|緊張《きんちょう》に満ちていた。
弓道部・道場。
ともすれば、毎日が祭りのような校内にあって、異様な静けさだ。
フェンスで囲まれた|敷《しき》|地《ち》の周りには、人が群がっていた。ほとんど男である。みんな熱でもあるような|面《おも》|持《も》ち――視線の先は、道場だ。
板張りの床の上では、胴着に|袴姿《はかますがた》の部員たちが正座している。全員が女性だ。彼女たちの目も、|揃《そろ》ってある人物に向けられていた。
――道場の真ん中に立つ、しなやかな影に。
男でなくとも、目を奪われるほどの美女が、そこにいたのだ。
モデル並みの長身――一七〇は下るまい。
うなじが見えるほど切り詰められたショートの髪が、風に揺れた。冷然とした切れ長の|双《そう》|眸《ぼう》が見つめるのは遠くの的だが、ここにいる|誰《だれ》もが、彼女の視線を奪えるならば、|射《い》|貫《ぬ》かれても|構《かま》わないと思っていることだろう。柔らかそうな|唇《くちびる》が一声かければ、男女問わず、誰でも犬になってしまいそうだ。
美女は弦を引いたまま、微動だにしない。
風でも読んでいるのだろうか。
「はぁぁ……」
と|悶《もだ》えたのは、|脇《わき》に控えた部員の一人である。
その|刹《せつ》|那《な》、美女の手元で、風が|唸《うな》った。
――トン。
的の真ん中から生えた棒の|矢《や》|尻《じり》が、左右に揺れる。
美女は何事もなかったように振り返った。道場の片隅――太鼓の前でホケ〜としている部員に目をやったかと思うと、目を閉じてため息をつく。
「……|三《み》|杉《すぎ》?」
美女が促し、三杉とやらは我に返った。慌てて太鼓を|叩《たた》き、
「か、|皆中《かいちゅう》〜!」
すべてヒットしましたよ、の意だ。
弓を下げた美女が手甲の|紐《ひも》を解くと同時に、ワッと部員たちが立ち上がった。
「すごいです、|麻《ま》|当《とう》|先《せん》|輩《ぱい》!」
「|美《み》|貴《き》さん、今日も三連続で|皆中《かいちゅう》ですよ〜!」
「大会でも優勝|狙《ねら》えますね、先輩!」
「美貴先輩、すてき!」
「麻当さんて、もう死ぬほどカッコイイですぅ!」
目を|輝《かがや》かせる下級生たちに囲まれ、美女は再びため息をついた。
「ごめん、今日はもう帰るから。後はよろしく」
淡々と言って、粘液質の人波をやりすごす。
道場を下りていく|袴姿《はかますがた》の美影を、後輩たちはうっとりと見つめた。
――麻当美貴。
それが彼女の名である。
女子弓道部の部長を務める才女。折り紙つきのお|嬢《じょう》さま学校・名門カト女付属の出身で、その容姿ときたら――周りの反応を見れば分かる。本人は迷惑そうだが、その良くも悪くも素気ない人当たりが、さらに気を引いてしまうのだ。
美貴は、|些《いささ》かウンザリしたように、砂地を横切った。
フェンスに張りついた男どもが、彼女の一挙手一投足に視線を注いだ。|隙《すき》あらば、ぜひお近付きになりたい。どこまでもお供したい。サ店やクラブは言うに及ばず、できればベッドの中までも――目が、そう言っている。
が、|彼《かれ》|等《ら》の望みがかなったことは、ただの一度もない。
なぜなら、麻当美貴がエスコートを許す男は、たった一人。
なにを思ったか、美貴は唐突に足を止めた。
長い|睫《まつげ》の|双《そう》|眸《ぼう》を、静かにフェンスへと向ける。
それだけで、人だかりに波が生じた。難攻不落の女神から視線を授かった者は|誰《だれ》か――申し合わせたかのように、一斉に振り返る。
|瞬時《しゅんじ》に、全員が落胆の色を|露《あらわ》にした。
――“彼”が、そこにいたからである。
みすぼらしい男であった。
とにかく、みすぼらしい。
とことん、みすぼらしい。
なにはともあれ、みすぼらしい。
まず、かけた|丸《まる》|眼《め》|鏡《がね》がみすぼらしい。適当に分けた髪がみすぼらしい。苦笑いする気弱な表情がみすぼらしい。色あせたスタジャンと、|膝《ひざ》が破れたジーンズもみすぼらしい。
唯一の救いは、その長身――軽く見積もっても一八〇後半――だが、それも人込みでみすぼらしさを際立たせるだけだった。
仮に、この青年を別の言葉で表すなら、たった一言。
“貧乏くさい”
「こ、こんにちは、|美《み》|貴《き》ちゃん」
気の抜けたコーラみたいな声で、青年はフェンス越しに愛想笑いを浮かべた。
「………」
無言――やや|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で、見つめ返す美貴である。
青年の顔から、冷や汗が流れた。
やがて美貴が、人差し指を上げた。上向きに|鍵《かぎ》の形を作り、青年へクイクイ。
一緒に来なさい、の合図だ。
「あっ、うんうん」
絶対的に人の良さそうな笑いで、青年は何度も|頷《うなず》いた。フェンスを隔てて美貴に歩調を合わせ、彼女が出てきたところで、肩を並べる。
「………」
「あはは――いい天気だね」
|美《び》|貌《ぼう》は無言だが、青年はニコニコし通しだった。
静かに、二つの影が構内の並木道に出る。
やがて美貴が横目で、チラ、と青年を|覗《のぞ》き見た。手甲と弓を真横に突き出し、
「……三日だよ」
少し|拗《す》ねの入った物言いだった。この場にいれば、男どもは殺意を抱いただろう。|無《む》|論《ろん》、道具を受け取った青年へ、である。
彼は|瞬《まばた》きしながら、
「えっ、えっ?」
「だから――三日。|鷲士《しゅうじ》、カオ見せなかった。大学にも来てなかったよね」
冷然と言い放ち、ねめつける。
鷲士と呼ばれた青年の顔が、サーッと青くなった。
「あ、いや、それは、その……」
「なに?」
「……はい。バイトです。|群《ぐん》|馬《ま》の方で、三日ほど」
持たされた弓で顔を隠し、青年は言った。
|美《み》|貴《き》は瞬きし、|眉《まゆ》|根《ね》を寄せた。
上背のある青年を、少し心配そうに見上げ、
「……泊まり込みで? 今月も苦しいんだ?」
「あははは……ちょっと、ね」
「まさかとは思うけど、それで学校をやめるなんてことは――」
「ないない、絶対ない。授業料だけは、なんとか」
首をブンブン振って、青年は否定した。
「そ、そう」
安心したように、美貴は目を閉じた。|驚《おどろ》くことに、口元には笑みが。
それを見て、ニッコリ笑う青年である。
彼の反応に気付いた美貴の顔に、赤みが差した。照れ隠しのつもりか、ゴホンと|咳《せき》|払《ばら》いすると、|澄《す》ました感じで、
「ほ、本当に苦しくなったら、わたしに言うように。少しは|融《ゆう》|資《し》するから」
「……そうはいかないよ」
青年は、苦笑した。
この時だけは、なぜかみすぼらしくなかった。
「美貴ちゃんも、独り暮らしなんだし、学生なんだし……ぼくにも男のプライドってものがあるからね。女のコに頼るわけにはいかない」
「お金なくても?」
「そっ。なくても」
笑いながら答える青年だった。
生っちょろいが、どこか|潔《いさぎよ》い――そこが、素気ない美女の琴線に触れるのだろう。美貴は満足げに|頷《うなず》くと、
「で、今日は何の用?」
「あ……うん。そのことなんだけど……」
青年は荷物を持ったまま、器用にスタジャンに指を突っ込んだ。
手渡された紙切れに、|美《み》|貴《き》が目を落とし、
「これ――映画のチケット?」
「今週の日曜日なんだけど……どうかな?」
「ふーん、珍しく|奮《ふん》|発《ぱつ》したね。どれどれ?」
とタイトルに目をやる美貴。
これがまずかった。
|美《び》|貌《ぼう》の|眉《み》|間《けん》に、|瞬時《しゅんじ》に|皺《しわ》を刻んだかと思うと、彼女はバッと顔を上げ、
「こら、|鷲士《しゅうじ》!」
「は、はいっ!」
「こんなもの――どういうつもりだっ!?」
「……は?」
彼がボケ|面《づら》さらしたのを、|誰《だれ》が非難できるだろうか。女心と宇宙の真理――どちらか読解しろと言われたら、簡単なのは、まず後者だ。
美貴は、チケットをバンバン|叩《たた》きながら、
「は、じゃない! 『ストリング・シープスV〜密林の|遺《い》|跡《せき》〜』――これって、宝探しの話じゃないか!」
「そうだけど……美貴ちゃんよく知ってるね」
ニッコリと、青年。だが、すぐにハッとし、
「あ……! ひょっとして、もう|観《み》ちゃったとか? まずいなー」
「だ・れ・が・み・る・か! こんなもの!」
|噛《か》みつきかねない|形相《ぎょうそう》で、美貴は|喚《わめ》いた。
「古代の神秘とロマンを追うなんて言えば、聞こえはいいけどね! 実質的には、自然を|壊《こわ》して、現地の人に迷惑かけて、揚げ句の果てに、保存の名のもとに遺産を横取り――おっそろしくタチの悪い墓泥棒じゃないか! そんなの、わたしは絶対に認めない! 宝探しなんて、不良のやることだ!」
「ふ、ふりょ……? いや、でもぼくが宝探しってわけじゃ――」
「見損なったよ、|草《くさ》|刈《かり》鷲士! こんなくだらない映画にわたしを誘うほど、子供だとは思わなかった! 悪いけど、わたしは行かない!」
怒声でチケットを突っ返すと、美貴は道具一式を奪い取った。
そして、プイ、と顔を背け、スタスタスタ。プレハブ部棟のドアを勢いよく開け、中に消えてしまった。
「ちょ、ちょっと、|美《み》|貴《き》ちゃん?」
情けない顔で、ノブに手をかける青年である。
その鼻先を|掠《かす》め、ドアが内側から開いた。
「よ、良かった。あの、|機《き》|嫌《げん》を損ねたんだったら、|謝《あやま》るから――」
だが、そううまくはいかないものだ。
顔だけ出した美貴が、ドアのプレートに視線を送り、
「これ見えない?」
“男子禁制・女子弓道部”
「あ……」
と青年が|呟《つぶや》いたと、同時に、ドアは派手に閉まった。
それっきり――反応なし。
ガックリ肩を落とす青年の周りを、ひゅうう〜、と寒い風が吹き抜けた。足下を転がっていくゴミクズは、さながら|西《せい》|部《ぶ》|劇《げき》のタンブルウィードだ。
そして集まってきた外野の男どもが、口々に、
「お、恐ろしい……今日も出たぜ、|麻《ま》|当《とう》美貴の不条理|攻《こう》|撃《げき》」
「理屈じゃねーかんなー、ありゃ。ナニ考えてんだか」
「しっかしよ、麻当も|草《くさ》|刈《かり》のコトどう思ってんだ? |他《ほか》のオトコは見向きもしねーくせに、草刈は草刈であの扱いだ」
「そこがなー。こっちも強く出れねートコなんだよなー」
女がすべての学生たちは、しみじみ|頷《うなず》き合って、うなだれる青年に目をやった。
彼は、微動だにしない。
――この男、名を草刈|鷲士《しゅうじ》という。
一言でいうと、みすぼらしい――じゃなかった――今どき珍しい“苦学生”である。
とにかく貧乏なのである。
|相模《さ が み》|大《だい》には一浪で入り、学費から生活費まで、すべてバイト。施設の出身で、身寄りが全くなく、大学に入るにも苦労の連続だったらしい。一浪したのは、学費を|稼《かせ》ぐためだった、という|噂《うわさ》もある。ここまでくると、人間ひねくれそうなものだが、その性格は、至って温厚――見たまんまのお人|好《よ》しだ。貧乏を売りものにする男は数あれど、“相模大一の金欠男=草刈鷲士”の公式は、|誰《だれ》もが知るところである。
そして鷲士の貧乏を有名にしたのが、麻当美貴だ。
二人の関係は相模大の七不思議――今や、その筆頭だった。
片や三年連続ミス・キャンパス、片や想像を絶する貧乏人。これでイチャイチャしていれば、お|嬢《じょう》さまと貧乏男のしみったれた学生恋愛で終わるのだが、話は全く別なのだ。美貴が一方的に|鷲士《しゅうじ》を振り回し、はい、また今度、と来る。
ところが、分からないのが|美《み》|貴《き》の方である。
彼女は、鷲士には何もさせない。手も触らせない。だから、貧乏人をからかっているだけかと思いきや、そうでもないらしいのだ。
美貴は、鷲士が顔を出さない時は、終日|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になる。|隙《すき》をついて声をかけた男が、文字どおり張り倒されたほどだ。さらに鷲士が来ない日が続くと、あちこちに顔を出して、心配そうに|行方《ゆ く え》を尋ねる。で、鷲士が出てくると、元に戻る。
男どもは嘆く。
どうして|草《くさ》|刈《かり》なんだ、と。
並み居る男たちの中には、美貴に真剣な態度で付き合いを申し込む者もいる。だがそういう場面では、相手に恥をかかせないように、美貴は丁寧にお断りする。
それでいて二人の関係はというと、
『???』
なのだ。
|露《ろ》|骨《こつ》に|分《ぶ》は悪い。だが放っておくには、あまりにも美貴は惜しい――それが外野の素直な感想だった。
部棟の前でうなだれたまま、鷲士は動かない。|落《らく》|魄《はく》しているようだ。
そして、後ろからやってきたラグビー野郎が、彼を見かけるなり、
「おう、その様子だと、またスカされたな? モヤモヤは良くないぞ、なんだったら、これからランニングに付き合え」
「……悪い、これからバイトでさ。現場へ直行なんだ」
ゾンビみたいに顔を上げ、鷲士は答えた。
苦笑して去りかけた男だったが、ふと足を止め、振り返った。
「そういえば、草刈――きのう、おまえを捜して、女のコが来たぞ。こんぐらいの」
と、自分の|鳩《みぞ》|尾《おち》の辺りで、手のひらをヒラヒラさせる。
鷲士は|瞬《まばた》きした。
「……ぼくを捜しに? どんな?」
「中学入りたてって感じだったぜ。髪は、こう、長くてな、横を赤いリボンで留めててよ。カト女付属の制服だ。バイトで二〜三日あけるらしいって教えたんだが、ひどくガッカリしてたぞ。あとはおまえがどんな人間かとか、そんなもんだ。知り合いか?」
「いや、|記《き》|憶《おく》には、ちょっと」
首を|傾《かし》げる鷲士である。
「名前は聞かなかったけど、また来るってよ。じゃ、確かに伝えたぜ」
「ありがと――今度、メシでも食いに行こう」
軽く手を振って別れ、|鷲士《しゅうじ》は正門に向かった。
「はぁ……。|美《み》|貴《き》ちゃんて分かんない……」
ポケットに両手を突っ込み、トボトボと。たまに立ち止まってため息をつくさまは、まるで晩年を迎えた老人だ。
――だが、である。
どこで転機が来るか分からないから、人生は面白い。
彼の場合は、この日――大学の門を出たと同時に起こった。
「|草《くさ》|刈《かり》鷲士さんですね?」
どことなく陽気な声と共に、右肩にごつい手が載った。節くれ立った指である。付け根の盛り上がりは、|拳《けん》ダコだろう。
振り返った鷲士のメガネに映ったものは――笑顔の七三男だった。顔だけ見れば、一昔前の営業マンだが、肩幅はレスラー並だ。
「そ、そうですけど――あの、なにか?」
汗ジトで答える鷲士の左肩に、また手が載った。
反対側にいたのは、クルーカットだった。
「申し遅れました。わたしたち、こういうものでして」
ゴツ、と硬いものが、背中に押しつけられる。
――|拳銃《けんじゅう》。トカレフだ。
横目で盗み見た鷲士の顔を、|驚愕《きょうがく》が走り抜けた。
「けっけっけっ、けんじゅ――」
「……ポケットから腕を出せ。|騒《さわ》ぐとこの場で|撃《う》ち殺すぞ」
押し殺した声で、クルーカットは言った。こいつも|緊張《きんちょう》しているのか、|額《ひたい》には汗が。ヘタに刺激すると、本当に撃ちかねない。
真っ青になりながら、鷲士は、静かに手を抜いた。
すかさず、七三が前に回った。
それらしく鷲士の胸元を探ると、|眉《まゆ》をひそめ、
「……おかしい。こいつ、何も持ってないぜ。手ブラだ」
「なに? ナイフ一本もか?」
クルーカットは、あからさまに動揺した。
「そ、そんなはずはない。こいつはな、アフリカの小国にミサイル一〇〇発も撃ち込んで、三〇分で|壊《かい》|滅《めつ》させたようなサイコ野郎なんだ。しかも、そんなの一度や二度じゃないんだぞ。手ブラなんて信じられるか、もっとよく調べろっ」
「は、はぁ〜? あの、いったい|誰《だれ》のことを――」
と鷲士が言葉を発した途端、二人が|睨《にら》んだ。
ヒッ、と|怯《ひる》むヘナチョコ青年に向かって、
「おまえ……本当に|草《くさ》|刈《かり》|鷲士《しゅうじ》なんだろうな?」
「そ、そうですけど、|誰《だれ》かと勘違いしてますよぉ〜、きっと」
泣きそうな顔で、鷲士は主張したが、聞いてはもらえるはずもない。男たちは、互いの顔を見合わせて、
「……どう思う?」
「連れて行けば、分かるんじゃないか?」
真剣な顔で、二人は|頷《うなず》き合った。
「そ、そんなぁ〜、どうしてぼくが――」
と鷲士が嘆いた時である。
|外《がい》|壁《へき》の角から、ヒョイっと、小さな人影が現れた。
これには、三人が三人とも|眉《まゆ》をひそめ、立ち止まった。新たな登場人物は、それほど場違いだったのだ。
――美しい少女である。
|歳《とし》は、せいぜい一二〜三。
身長は、一五〇センチもない。
肩を|覆《おお》う長い髪に、両サイドを束ねた赤いリボン。ベージュのジャケットは、関東随一の名門、カト女の制服だ。この特徴は、ラグビー野郎の描写と合致するが、鷲士に思い出す余裕があったかどうか。なにより、メノウ石のような|瞳《ひとみ》、長い|睫《まつげ》、小さなアゴ――これらが作り出すコンパクトな|美《び》|貌《ぼう》&|可愛《か わ い》さを、友人は伝えていなかった。
「な、なんだ? おい、そこをどけ――」
クルーカットは言ったが、既に遅かった。
少女は、はぁ〜、と息を吸い込んだかと思うと、
「キャ―――――――――ッ!」
天に向かって絶叫したのである。
「|誰《だれ》かーっ、誰か助けてくださいーっ! ロリコンよぉ! さらわれるーっ、裸にされてビデオに撮られちゃうーっ!」
小さな肺から|繰《く》り出される悲鳴の声量が、いかに|凄《すさ》まじかったか――これには鷲士までが目を回した。門を行き交う男女が、ギョッとして振り返る。
二人の男を、動揺が貫いた。
大学で異質なのは、うだつの上がらない青年やちっこい少女ではなく、自分たち――その程度の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》は持ち合わせていたらしい。
ざわめきが広がる中、二人は鷲士から手を離し、
「くっ、次はこうはいかんぞ!」
古典的な捨て|台詞《ぜ り ふ》を残すと、手前のセダンに乗り込んだ。
急発進し、去っていく車を、|鷲士《しゅうじ》の青い顔が見つめた。
「た、助かった……!」
|呟《つぶや》くと、全身から力を抜き、顔を戻す。
が、またもギョッとする|破《は》|目《め》になった。
すぐ前に、彼を救った少女がいたからである。
しかも|眉《まゆ》をハの字――思い詰めた表情だ。
「あ、ありがとう。きみのおかげで――」
「……鷲士くん!」
目をうるませて、少女は地面を|蹴《け》った。
まさか鷲士も、これほどの美少女が、公衆の面前でいきなり抱きついてくるとは、夢にも思わなかっただろう。
「あ〜ん、もう、やっと会えたよぉ! ずーっと、ずーっと、ホントにずーっと捜してたんだからぁ! 鷲士くん、鷲士くん、鷲士くぅん!」
涙を流しながら、少女は青年の首に手を回した。|濡《ぬ》れた|頬《ほお》を|擦《す》り寄せる。
「えっ、えっ、えっ? いや、あの――」
と戸惑った鷲士が、少女の腰に手をかけた時である。
校内から、立て続けに足音が聞こえてきたかと思うと、
「おいっ、ロリコン野郎ってのはどこだ!?」
「中学生を裸にひん|剥《む》きやがったんだって!?」
「白昼堂々とレイプたぁ、|舐《な》めやがって!」
ボクシング部、柔道部、空手部、|相撲《す も う》部などなど――体育会系の学生たちが群れとなって押し寄せ、校門の前で立ち止まった。
いや、凍りついたと言っていい。
|彼《かれ》|等《ら》の視線が向かった箇所――少女の腰に回された、鷲士の手。
怒相に、さらに青筋が加わった。
「……てっめえ、この、|草《くさ》|刈《かり》ィ!」
「|麻《ま》|当《とう》にスカされっぱなしだからって、中ボーに無理やりたぁ……!」
「覚悟しろよ、この野郎!」
ここに至って、ポケポケ青年もやっと理解したらしく、慌てて手を離した。
「ごっ、|誤《ご》|解《かい》だよっ! ぼくはこのコに助けてもらっただけで――」
が――時、既に遅し。
弁解する顔に、まずボクシング・グローブの右フックがめり込んだ。ゲフッ、とふっ飛ぶ貧相に、返す刀で、相撲部の張り手。
|痩《や》せ細った体が、ヘロヘロと|後《あと》|退《ずさ》った。
「キャーッ! しゅ、|鷲士《しゅうじ》くん!?」
|驚《おどろ》いて、口を手で|被《おお》う少女の前に、男たちが立ちふさがった。彼女の身長では鷲士の安否は分かりはしないが、肉打つ音だけはしっかり聞こえたはずだ。
少女は、泣きそうな顔で目を閉じると、
「やーん、もうっ、違うんだってばぁ! わたしの鷲士くんが死んじゃうよーっ!」
のんきな昼下がりの空に、|可愛《か わ い》い悲鳴が|響《ひび》き渡った。
駅をはさみ、大学の反対方向には、少し寂れた住宅街が広がっている。
人通りの少ない坂を、二つの人影が下りていた。
ひょろひょろでフラフラのと、小さいのだ。
――鷲士と、例の少女である。
「はーい、じっとしてぇ――そぉそぉ」
舌っ足らずな声で言い、少女は|爪《つま》|先《さき》立ち。
猫プリントのハンカチが、腰を|屈《かが》めたヘナチョコ学生の鼻に触れた。
「いっ――! 痛い痛い、痛いってば」
「もーっ、男のコでしょ。少しは我慢しなきゃ」
困ったように言って、少女は布きれを引っ込めた。代わりに、柄模様のバンドエイドを取り出して、患部にペタリ。
「っ……!」
「はい、おしまい」
絶句して|悶《もだ》える鷲士を|尻《しり》|目《め》に、少女は体を戻した。
肩を並べた影が、坂道に落ちている。
「えーっと……こ、この先に、鷲士くんのアパートがあるんだよねっ」
アハハ、と|誤《ご》|魔《ま》|化《か》すように、少女が坂の下を指差した。
鷲士は痛みを|堪《こら》えたまま、|煩《はん》|悶《もん》している。
うっ、と青ざめる少女。やがて、おそるおそる上目遣いで、
「……怒ってるの?」
「つつつ……えっ?」
鼻を押さえながら、鷲士は涙目で少女を見た。
「だからぁ、さっきのこと。わたしが抱きつかなかったら、鷲士くん、間違えてボコボコにされるコトなかったんだしぃ……。怒ってるんでしょ?」
グスッ、とすすり上げたからたまらない。
鷲士の顔から、色が抜け落ちた。
「いっ、いやっ、そんなことないよ! きみが助けてくれなきゃ、|今《いま》|頃《ごろ》どうなってたか! 怒ってなんかないから――ねっ?」
やや形の変わった顔を引きつらせ、|鷲士《しゅうじ》は笑った。
メノウ色の|瞳《ひとみ》が、ジーッ、と見つめ返す。
そして――ニッコリ。
「良かったぁ! やっぱり、男のコはそうじゃないとねっ♪ うんっ、さっすがわたしの鷲士くん! おっとな〜!」
「ははは……いちおう、ハタチ超えてるから」
「んーっ、でも、ケンカ弱いってゆーのは、ちょっとマイナスかなっ!」
「えっ? い、いやぁ、こう見えて、ぼく、腕には少し自信が……」
「アハハハッ、強がっちゃってぇ! じゃ、今日は二人が初めて会った記念日になるわけだしぃ、特別にそーゆーことにしといてあげるっ♪」
「あ、ありがとう。ははは……う、|嬉《うれ》しいなぁ」
手を|叩《たた》いてはしゃぐ少女に、乾いた笑いで返す鷲士だった。
「で――きみ、だれ?」
場を凍てつかせるとは、このことだ。
シーン。
少女の幼い|美《び》|貌《ぼう》は、笑顔から――一気にムスーッと。
「……信じらんない。ホントに分かんないんだ?」
泥棒でも見る目付きで、少女は|呟《つぶや》いた。
鷲士が笑顔のまま青くなったのは言うまでもない。
「えっ、いやっ、あの――そ、そうだっ! カト女付属の制服着てるってことは、きっとあれだ、きみ、|美《み》|貴《き》ちゃんの関係者でしょ? そうなんでしょ?」
間が持たなかったのか、鷲士は必要以上に笑顔を作った。だが――|記《き》|憶《おく》にない対人関係で当てずっぽをやると、まずロクなことはないものだ。
少女は|弾《はじ》かれたように前に回り込み、美貌の血相を変えた。
「み、美貴ィ!? なっ、なによ、それっ!? どーゆー関係っ!?」
「あ、あれっ? 違った?」
「知らないわよ、そんなのぉ! まさか――鷲士くんの女!?」
「い、いやぁ、とてもそんな。ただの同級生だよ。でも、ちょっとだけ、ぼくには優しくしてくれてるみたいで――えへへへ」
はにかむ鷲士である。美貴のこととなると、これだ。
ところが彼の態度が、核心への引き金となった。
少女は|俯《うつむ》いたかと思うと、
「……さいってー」
「え、ええっ?」
「……さいてーって言ったの。わたし、絶対に認めないからね。|他《ほか》の女に手を出すなんて。これじゃ、死んだママが|可《か》|哀《わい》|想《そう》だよ……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ママ? きみ、そもそもぼくとどういう関係なの?」
さすがのお人|好《よ》しも、|眉《まゆ》をひそめた。
それを不信感てんこ盛りの|眼《まな》|差《ざ》しで迎え|撃《う》ち、
「……娘だもん」
「大丈夫、男のコには見えないよ」
「そうじゃなくて――あなたの!」
「は?」
|鷲士《しゅうじ》は、|瞬《まばた》きした。
「|誰《だれ》が?」
「わたしが」
「誰の?」
「あなたの」
鷲士の目が、点になった。浮いた話とは|無《む》|縁《えん》の大学生が、中学生ぐらいの小娘に父親呼ばわり――当然の反応だ。
彼は引きつった笑顔で、眼前に迫ってきた二階建ての木造アパートを指差し、
「あ――つ、着いちゃったね。悪いんだけど、これからバイトがあるんだ。きょ、今日はホントに助かったよ、ありがとう。それじゃ、ぼくはこれで――」
そして足を速めた背に、ボソッと、
「……しちゃったくせに」
「え……?」
振り返ったその先で少女は赤らんだ顔を背け、
「だから、こっ、子供ができるようなことっ。一三年前の夜、|青《あお》|葉《ば》学園でっ。わたし、ちゃんとママから聞いてるんだからねっ」
|喚《わめ》くように言って、彼女は、顔を戻した。
「わたし――|結《ゆう》|城《き》|美《み》|沙《さ》・一二歳は、|草《くさ》|刈《かり》鷲士の血を引く、実の娘なんですっ!」
身を乗り出すと、大きな|瞳《ひとみ》を、真剣に鷲士へ向ける。
応じるように、目を細め、青年は見つめ返した。
冷たい風が、少女の髪をなびかせていく。
突然、大学生の顔に|衝撃《しょうげき》が走った。限界まで目を見開いて、
「ま、まさかきみは――!?」
|草《くさ》|刈《かり》|鷲士《しゅうじ》の脳を、かつての|記《き》|憶《おく》が切り裂いた。
一三年前――木枯らしの夜。
天井を背に、メノウ色の|瞳《ひとみ》をした少女が、悲しそうに|微笑《ほ ほ え》んでいる。
『しゅーくん……わたしのこと忘れないで……』
記憶に焼き付いた残像が、眼前の少女――|美《み》|沙《さ》――に、映像を重ねた。
メノウのような瞳、|栗《くり》|色《いろ》の髪、小さなアゴ、絶妙な造形美。似ているというのは簡単だが、ここまで来ると、もう次元が違う。
――まるで、同一人物が、少しだけ成長したようだ。
そして美沙は、ご|機《き》|嫌《げん》ナナメの様子で腕を組み、
「どぉ? これで分かったぁ?」
とエッヘン。
カクカク動く鷲士の様子は、まるで病人のそれだった。
「い……いや……うん……似てる……。似てるよ……そっくりだ……。でも、でも……ぼくはあのとき、まだ八歳で――」
「ギネスブックの記録、知ってる?」
「ギ、ギネス?」
「アフリカの方なんだけどさ、八歳で子供生んだ女のコの記録があるの。で、ママは鷲士くんとしちゃったときに――ね?」
「一歳年下だったから、七歳……! 妊娠期間を考えると……!」
「あ、よっく|憶《おぼ》えてる〜! やっぱり、ママとの愛はホンモノだったんだ?」
|嬉《うれ》しそうに手を|叩《たた》く自称・娘である。
鷲士の顔色は、もはや紫色だった。
「じゃっ、じゃあ、じゃあっ……! きみ、ホントに……ゆうちゃんの!?」
「そっ。ゆうちゃんって――きっと名字の|結《ゆう》|城《き》のことだと思うけど――とにかくコングラチュレーション! ギネスの世界へようこそ、ってね!」
「……!」
しかし珍事はとどまることを知らない。
ふと、鷲士の|目《め》|尻《じり》が、|脇《わき》の様子を|捉《とら》えた。
唐突に口をアングリ。
アパート二階――南の角部屋のドア周辺で、荷を持った作業服の人間が、行ったり来たりを|繰《く》り返している。|敷《しき》|地《ち》入り口の前に止まっているのは、黄色いバンだ。
“サルカニ引っ越しセンター”
車両のサイドには、そうある。
「あ、あの部屋はぼくの――!?」
|鷲士《しゅうじ》は絶句した。
あんな身なりをしていれば、どんな鈍い人間でも予想がつく。しかも作業員は、部屋から出てくるときは手ぶらだった。その意味するところは、一つ。
「あっ、ごくろうさまですぅーっ!」
業者たちに手を振ったのは、|隣《となり》の少女だった。
巨大なダンボールを抱えていた若いのが、気付いて足を止めた。
「ちーっす、どうもっ! もうすぐ入れ終わりますんで!」
「はぁーい、頑張ってくださーいっ」
少女は笑顔で答えると、振り返って、エヘヘ、ときた。
「実は――|曾《ひい》おじいちゃんとやり合っちゃって。家出してきたんだぁ。でも、他人のとこに転がり込むのって、なんかみっともないしぃ。まあ、いろいろあったけど、やっぱり家族の|絆《きずな》って強いと思うのよねー。あ、家具はともかく、身の回りのものは後で買いに行かないと。だって一緒に住むことになるんだしぃ。あ、晩ご飯、なんにする? とーぜん、鷲士くんが作ってくれるんだよねー、おっとなだもんねー」
たたみかけるように言うと、自ら|美《み》|沙《さ》と名乗った少女はニッコリ。横に立ち、ギュッと“父親”の腕に手を回して、
「そういうワケだからぁ――今日からよろしくねっ、パパ!」
ひまわりみたいな笑顔だった。
青ざめ、絶句した青年の耳に、|甲《かん》|高《だか》い声がこだました。
――|草《くさ》|刈《かり》鷲士、大学生。
|謎《なぞ》の少女・|結《ゆう》|城《き》美沙との出会いが、一介の学生を巨万の富と栄光、そして尋常ならざる世界へと|導《みちび》くことになるとは、この時、まだ彼は知らない――。
|穏《おだ》やかな風が、夕刻の太平洋に吹いた。
|相模《さ が み》|灘《なだ》沖――二〇〇キロの地点。
とんでもないものが、東京湾に向かって航行していた。
全長三三三メートル、全幅四〇・八メートル。総排水量一〇万トンを超え、有事には五五〇〇人もの乗員を運べる超巨大な鉄の城だ。
――ミニッツ級|航《こう》|空《くう》|母《ぼ》|艦《かん》である。
白い波が、|喫《きっ》|水《すい》|線《せん》にぶち当たっては、消えていく。
フライト・デッキには、人影も機影もない。
そして|甲《かん》|板《ぱん》の|右《みぎ》|脇《わき》にそびえ立つブリッジ――その内部。
|薄《うす》|闇《やみ》の中、電子の光に包まれた作戦司令室で、数名のオペレーターが任務に就いていた。ディスプレイ・コンソールを前に、|黙《もく》|々《もく》とデータ・チェック。
不思議なことに、全員が女性だ。
これで軍服でも着ていれば、単なる女性士官で終わりなのだが、話は違った。みんなブラウスの上にブルーのベストを|羽《は》|織《お》っているものの、スカートや靴は|各《おの》|々《おの》で異なっていたのだ。どうやら、|他《ほか》は自前らしい。
ベストの背には、オレンジ色のロゴで、
"THE FORTUNE-TELLER INDUSTRY HEADQUATER'S STAFF"
とある。
手元のパネルを見ていたメガネの索敵要員が、唐突に|眉《まゆ》をひそめ、
「キャ、キャプテン!」
呼ばれて、背後の女性が振り向いた。
「……どうしたの?」
メリハリの効いた|美《び》|貌《ぼう》とでも言おうか。
分けた髪のフロントはアゴのラインで|揃《そろ》え、後ろは流したまま。リング状の大きなイヤリングが目を引いた。黒いスーツに、下はタイトスカートだ。|歳《とし》は彼女たちより少し上――それでも、二〇代前半だろう。
「キャプテン、それが――」
「|冴《さえ》|葉《ば》で結構よ。わたしは常務員ではないし」
女性は肩にかかった髪を後ろへやりながら、歩み寄った。
「それより、鬼……ね?」
「は、はい。これを!」
士官がイスを後ろへずらし、冴葉は目を細めてパネルを|覗《のぞ》き込んだ。
――赤い△マークが、黄色の線で囲まれた領域から出つつある。
「予想外です。|樹《じゅ》|海《かい》の|警《けい》|戒《かい》ラインから、こうも早く……! やっぱり、私本のありかが分かってるんでしょうか……?」
「……実際の映像は?」
「あ、はい。こっちに出します」
|頷《うなず》いて、士官はキーボードを|叩《たた》いた。
横の大型スクリーンが、デコードされた映像を映した。
――視点は直上からだった。
赤く色付いた木々の間に、何か白くて人の形をしたものが見える。何かは分からないが、|縮尺《しゅくしゃく》から考えると、かなり大型――三メートルは下るまい。
恐ろしいことに、頭部と思わしき部位で、二つの赤い光が|点《とも》っている。
真紅の目だ。
後ろの通信士官が、ゴクッ、と|喉《のど》を鳴らし、
「ま、まるで、こっちに気付いてるみたいですね……」
「よ、よしなさいよ。|監《かん》|視《し》衛星“|叢《むら》|雲《くも》”の軌道は、高度五万メートル以上――」
「……ありえない話ではないわ」
|冴《さえ》|葉《ば》が、クルーの視線を集めた。
若き女|艦長《かんちょう》は、ただ一人冷静に、
「アフリカの草原に住むマサイ族の中には、確認されているだけでも視力一二・〇――そんなのがごまんといるのよ。|彼《かれ》|等《ら》は真昼の空に人工衛星を見付けるというわ。ましてや、相手は人外の存在」
「衛星のガンカメラに視点を合わせるぐらい、ワケはない……?」
メガネの問いに、冴葉は無言で|頷《うなず》いた。
全員に、|緊張《きんちょう》が走る。
|沈《ちん》|黙《もく》を破ったのは、やはり艦長だった。女史は、パン、と手を|叩《たた》くと、
「索敵班は、叢雲の監視密度を二倍に! バッテリーが落ちるギリギリまで|構《かま》わないわ! このまま鬼の|行方《ゆ く え》を追って、できるようなら、|目標《もくひょう》経路の算出!」
「は、はいっ!」
「通信班は、ボスにコール! 連絡が取れ次第、指示を仰ぎなさい! その間、ミュージアム側の通信傍受も忘れないで!」
「わっ、分かりました!」
「じゃ、後は任せたわ。何かあったら、衛星携帯に入れて」
そう言って、美影はきびすを返した。
メガネの士官が肩越しに振り返り、
「あ、あの、|冴《さえ》|葉《ば》さんは?」
「……政府に根回ししてくるわ。問題が起きたら、区画の全面|閉《へい》|鎖《さ》、報道管制――そういう細かいことやらなくちゃいけないでしょう?」
肩をすくめると、女史は元の|闇《やみ》に消えた。
スクリーンの赤い|双《そう》|眸《ぼう》は、無気味な光を放ち続けた。
同時刻――|成《なり》|田《た》・新東京国際空港。
人が行き交う吹き抜け状ロビーのタイルを、白い|爪《つま》|先《さき》の|革《かわ》|靴《ぐつ》が踏み|締《し》めた。
主は、|痩《そう》|躯《く》の影だ。
辺りを通り過ぎる女性たちの半数が、思い出したように振り返る。
――美しい男だった。
波をウェットにまとめた髪、細い|瞳《ひとみ》、|薄《うす》い|唇《くちびる》――それらがクールにまとまっている。白いスーツは、アルマーニだ。肩にかけたマフラーは、ともすれば|嫌《いや》|味《み》だが、この男の場合においては、ファッションになりうるものだった。
|微《かす》かに開けた目で、ロビーを|睥《へい》|睨《げい》する。
手に持った|薄《うす》めのスーツケースと、後ろに控えた二人の男の組み合わせを考えると、一種の企業関係者かも知れないが、彼の雰囲気を表すならば、次の言葉がピッタリだ。
――芸術家――と。
男が歩き出し、部下が追った。
エントランスを抜けたところに、数人の黒服たちが待ち受けていた。
中から、一人が進み出て、低頭する。
「お待ちしておりました、ハイ・キュレーター――|桐《きり》|古《こ》|連《れん》さま」
と上げた顔の|頬《ほお》には、|抉《えぐ》れたような傷があった。
|富《ふ》|士《じ》の|樹《じゅ》|海《かい》にいた、あの男である。
そしてマフラーの男――桐古――は、目を閉じて、
「私本の|行方《ゆ く え》は?」
美青年の微笑が、どれほどの効果をもたらしたか――|頬《ほお》|傷《きず》は、|瞬時《しゅんじ》に青ざめた。
「い、いえ。それが、まだ」
「……困った人ですね、きみも」
|桐《きり》|古《こ》は、笑顔を崩さず、|目《ま》|蓋《ぶた》を開けた。
冷酷に満ちた|瞳《ひとみ》とは、こんな目を言うのだろう。
「……わたしを含め、キュレーター仲間でのあなたの評価は、芳しくありませんよ。特に館長はお怒りです。ミュージアムは、そんなに甘い組織ではないのですから」
「そ、それはもう」
頬傷の男から、滝のように汗が流れていく。
「ですが、あの男の――|草《くさ》|刈《かり》|鷲士《しゅうじ》の――居場所は|掴《つか》みました」
「ほう?」
「いちおう部下を使ったのですが、しょせんは空手の|師《し》|範《はん》|代《だい》クラス――さすがに失敗しましたので。今は別の者たちに、周辺の調査をやらせている最中です」
「やりましたね。では――」
「はい。命令さえあれば、すぐにでも、ヤツを」
頬傷は息を|呑《の》み、言葉を待った。
桐古は苦笑すると、
「……いや、焦りは禁物でしょう。敵は一二の国家を滅ぼし、七つの海を干上がらせ、四つの歴史的|遺《い》|跡《せき》を|壊《かい》|滅《めつ》させた、目的のためには手段を選ばない狂人です。まずはじっくりと外堀を埋めて――ことを起こすのは、それからでも遅くはありません」
「はっ。では、引き続き」
深々と低頭する頬傷。が、顔を起こすと、
「ですが……」
「どうかしましたか?」
「あの男――草刈鷲士が、本当にダーティ・フェイスなのでしょうか?」
桐古は、|眉《まゆ》をひそめた。
頬傷の男は、どこか惑ったように、
「いえ、身体的な特徴は、確かにギルドから奪取した情報と一致します。しかし現役の大学生で、全くの|徒《と》|手《しゅ》|空《くう》|拳《けん》だったとか。ヤツの行動を考えると、とても」
「情報そのものがダミーだと?」
「あくまで、私見ですが」
冷めた目で、見返す桐古。
しかし、フッ、と笑うと、
「あなたの考えすぎでしょう。真のプロフェッショナルとは、肉親にもそうと気付かせないものですよ。あなたは、調査を続行してください」
「わ、分かりました」
一礼する|頬《ほお》|傷《きず》に|頷《うなず》いてみせると、|桐《きり》|古《こ》は顔を上げた。
ひさし越しに、赤く染まりかけた空が見えている。
|酷《こく》|薄《はく》な|唇《くちびる》が、|呟《つぶや》くように動いた。
「……さて、どう出る? ダーティ・フェイスよ……」
「はぁ〜い、|鷲士《しゅうじ》くん、これ持ってぇ〜」
「あ、う、うん」
「え〜っと、じゃあ、次はこれねっ」
「ちょ、ちょっと重いね」
「あっ、これ|可愛《か わ い》い〜! んーっ、これもお願いっとぉ」
「ええっ? まだ買うの?」
というやり取りの十数分後――。
鷲士と|美《み》|沙《さ》は、夜の商店街を、肩を並べて歩いていた。
行き交う男女が、クスクス口元を|弛《ゆる》め、通り過ぎてゆく。
前が見えないほど荷物を抱え、|両肘《りょうひじ》からもいくつもの紙バッグをぶら下げていれば、周りの失笑を買うのも無理はない。
無論、鷲士の話である。
「ととととっ……」
声を上げながら、右へ左へフラフラと。まるで酔っぱらいだ。
美沙はというと、買ってもらったソフトクリームを|舐《な》めながら、
「アハハ、鷲士くん、おっもしろ〜い♪」
「そ、そうかい? 喜んでもらえてうれしいなぁ……ははは」
荷物の|脇《わき》から顔を出し、鷲士は乾いた笑いで答えた。
横を、会社帰りの人々がよぎっていく。
「あの……ホントにウチ来るの?」
|遠《えん》|慮《りょ》がちに、鷲士は|訊《き》いた。
「そぉだよ。だって、もう荷物運んじゃったんだし、身の回りのものもこんなに買っちゃったし――あ、ひょっとして、|邪《じゃ》|魔《ま》だとか思ってるワケ? ひっどーい、実の娘に。わたし、絶対に出て行かないよ〜」
ジトー、とねめつける美沙だった。
「じゃ、邪魔だなんて、そんなっ」
鷲士は、ブンブン首を振って否定し、
「でもさ、家出ってのはまずいよ、絶対に。|誰《だれ》にも言ってきてないんでしょ? きっと家族の人も心配してるよ?」
「もぉっ、自っ覚ないなあ。誰かさんって、一番近い家族じゃん」
「ははは……ち、父親始めて、まだ三時間だし……」
「ま、それは仕方ないとして――親のトコに行くんだから、なにも問題ないもん。それにあんなバカでっかい家で誰かいなくなっても、誰も気付きゃしないよぉ。家出がバレるのに、半年はかかるんじゃないかな?」
「は、半年ぃ?」
「あっ、それとも――あれかなぁ? お金の心配してるのかなぁ? あんなアパートに住んでるんだもんねー、うんうん、分かる分かる」
「い、いや、まあ、それもあるけど」
顔を赤らめる|鷲士《しゅうじ》である。
その背中を、バシン、とぶっ|叩《たた》き、
「だいじょーぶだいじょーぶ! わたし、こう見えてもよゆーあるから! 二人分の生活費ぐらい、|美《み》|沙《さ》ちゃんにおっまかせ!」
「う〜ん、実家の方がいいと思うんだけどなぁ」
ノリ的に逆らえるはずもなく、鷲士は美沙の後を追うように、角を曲がった。
大小の背が、人通りのない住宅街の景色と重なる。
――異変が起きたのは、その時だ。
建物の角で、小さく風を切り裂く音がした。
針に似た|鋭《するど》い影がほとばしり、二つの背中を追った。電光を思わせる速さだった。目指すはひょろひょろでヘロヘロの影ではなく、小さい方――美沙だ。
影の直線上にあるのは、彼女の後頭部だった。
|瞬《まばた》きしながら、なぜか鷲士が振り返った。
彼が何かに気付いたとは思えない。しかし、その右足が|瞬時《しゅんじ》に|霞《かす》んだ。
もしモーターカメラでこの場面を撮っていたなら、鷲士の長い足が、完全な弧を描いていたことが分かったかも知れない。
針のような影は、美沙の首筋に到達する寸前、ボロいスニーカーの|踵《かかと》と接触。ポスッ、と力を失い、アスファルトに落下した。
|繰《く》り出された時と同様、音も立てず、鷲士の足が下りた。
影は動かない。踵との相対速度を考えれば路面で跳ね返るべきである。理由は一つ――鷲士の|蹴《け》りが、影の速度を根こそぎ消失させたのだ。
今さらのように、風が巻き起こった。蹴りの風圧だ。
ゴオッ、と空気が|唸《うな》り、前を行く美沙の髪を逆立たせた。
ついでに赤いチェックのミニ――制服のスカートも。
この|瞬間《しゅんかん》も、モーターカメラで撮っていれば、意外なものが見られたはずだ。
――黒いパンティと、ガーターストッキングである。
|鷲士《しゅうじ》の目が点になり、|美《み》|沙《さ》は血相を変えた。
「キャッ――なになになになに!?」
悲鳴を上げてスカートを押さえ、振り返る。
「みっ、見たっ? 見たっ?」
「み、見てない見てない」
荷物の間から出た顔を、|一生懸命《いっしょうけんめい》振る鷲士である。
「あ……でも、中一で黒はやめた方が……」
「なによぅ! しっかり見てんじゃない、鷲士くんのエロォ!」
顔を真っ赤にし、美沙はポカポカ殴りかかった。
その拍子に、大きな|瞳《ひとみ》が、路上のものを|捉《とら》えた。
――白木の矢だ。
「……なにこれ? |破《は》|魔《ま》|矢《や》? わたし、こんなもの買ったっけ?」
「さ、さあ? 神社の帰りに、|誰《だれ》かが落としたんじゃないのかなぁ?」
自分が|蹴《け》り落としたことなどおくびにも出さず、次いで鷲士は、
「そ、それよりさ、早く帰ろうよ。ぼく、考えると昼間も何も食べてなかったし、さすがにお|腹《なか》が|空《す》いてきた。アパートで、お祝いやろう。そうしよう」
「ど、どうしたの、急に? さっきまであんなに――」
「いいからいいから。さっ、夜道は危ないし、アパートに戻ろう」
「う、う〜ん……ま、いっか。楽しい方がいいもんね♪」
再びアイスに口をつけ、美沙は歩き出した。前向きだ。
ふ〜、と肩の力を抜き、鷲士も後に続く。
が――すぐに足を止め、肩越しに振り返った。
まるで別人のような顔だった。
メガネの奥の|眼《まな》|差《ざ》しは、ポケポケ青年のものではなかった。目を細め、遠いものを捉えるような――意思の感じ取れない、平坦な目付きだった。
|瞬《まばた》きもせず、角の一点を見つめる。
「もーっ、鷲士くん、自分で言っといてなにボケっとしてんの? 置いてっちゃうよっ、勝手に入って|鍵《かぎ》かけちゃうよっ?」
美沙が|喚《わめ》き、鷲士は首を戻した。
もうボケ青年の顔だった。
「あ、ごめんごめん。でも鍵かけるのだけはやめて」
ひえ〜、と困ったように笑いながら、娘に肩を並べる。
そして――その姿が小さくなった時、通りの角で、人影が動いた。
二つの|瞳《ひとみ》が、|闇《やみ》|夜《よ》に|輝《かがや》いて、
「……|踵《かかと》を動かして、鉄をも貫く矢の力、殺したか。やりおるわ」
|嗄《しゃが》れた声だった。
「滅びし|蝦夷《え み し》の技と見たが……あれは相当な|手《て》|練《だ》れじゃな。“美術館”の連中から聞き出した話とは、だいぶ違うようじゃが……はて?」
影は、首を|傾《かし》げた。
「……なんにせよ、アレは奪い返さんとのう。それまで、命は預けたぞ」
|呟《つぶや》きの中には、冷静な殺意のみがあった。
現れた時と同じように、気配は消失した――。
第二章 パルプ・フィクション
朝――スズメが電線に舞い下りて、チュンチュン鳴いた。
対面のボロアパートの窓に、人影が見える。
|草《くさ》|刈《かり》|鷲士《しゅうじ》が、ダンボール箱に囲まれた|布《ふ》|団《とん》の中で、まどろんでいた。
「……ムニャムニャ」
ゴロン、と寝返りを打った表情は、幸せそのものだ。
その顔に、長い髪の影が|覆《おお》い|被《かぶ》さった。
ドスン!
朝の準備完了――制服姿で馬乗りになり、|美《み》|沙《さ》は、
「こっら〜! 鷲士くん、起っきろ〜!」
「うっ、うわ〜っ!」
でもって数分後――美沙の部屋。
ガラスのテーブルで、|鷲士《しゅうじ》と娘は、朝パンをつっついていた。
「――でねでね、部屋に畳が使われてるって言ったら、みんな|驚《おどろ》いて、ぜったい見てみたいってー! でも入れてやんないの!」
|嬉《うれ》しそうに言いながら、|美《み》|沙《さ》はカーペット端の畳をペタペタ。
「……うん。そうだね」
生返事しながら、新聞に目を落とす鷲士である。
美沙は見る見るうちに|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になった。
「ちょっとぉ、聞いてんの? なに見てんのよぅ」
とテーブルに身を乗り出して、自分も紙面に目をやった。
“情報通信の巨人、総理を|招聘《しょうへい》”
フォーチュン会長秘書とホテル・ラマダンにて――黒いスーツの女性と、首相が握手を交わす写真が、経済面を飾っていた。内容は、アメリカの超大手企業が総理を呼びつけ、日本のインフラ整備の遅れにケチをつけた、というものだ。
美沙は|瞬《まばた》きした。
「鷲士くん、フォーチュンに|興味《きょうみ》あるの?」
「えっ? い、いやぁ、友達が就職したいって言ってたから、ちょっと」
頭を|掻《か》きながら、|鷲士《しゅうじ》は笑った。
――フォーチュン・テラー・インダストリー。
直訳すれば幸福語り工業。このおかしな名の企業は、|NY《ニューヨーク》に小さなオフィスを|構《かま》えているが、ヒトは常に電話番だけ。だが|彼《かれ》|等《ら》を知らぬ者は、少なくともG8加盟国にはいないという。最先端技術開発株式会社の|異名《いみょう》を持つ、経済界のホープだ。
一言で言うと、このフォーチュン、OSの|元《もと》|締《じ》めである。M社の独占支配下にあったオペレーティング・システム市場を、この会社はたった一年で塗り替えた。カーネルのオープンソース化が功を奏したのだ、と経済評論家は|誉《ほ》めたたえたが、それだけで株価が二万パーセントも上がるはずがない。
この企業の恐ろしいところは、およそすべての情報通信産業――その最先端技術のパテントの九割を有している点にある。ソフトをチマチマ作るよりも、その根っこを完全に押さえているのだ。他社が何をしても、|懐《ふところ》に金が流れ込む仕組みである。
さらに、このフォーチュン、ヒトの|遺《い》|伝《でん》|子《し》解析にまで手を出しているという|噂《うわさ》もある。もし|他《ほか》の連合より先にコード化に成功した場合、遠からず、すべての|医療《いりょう》関係企業も、フォーチュンに特許料を支払うことになるだろう。
現在では、およそすべての通信体は、フォーチュン・テラーの支配下だ。各国が独禁法を持ち出さないのは、この|謎《なぞ》の企業が手を引くと、政府が|転《てん》|覆《ぷく》してしまうから――そんな冗談とも本気とも取れぬ笑い話が、ネット上で飛び交っているという。
そして|美《み》|沙《さ》はニヤリと笑うと、
「ねっ、ねっ。じゃあ、わたしが紹介してあげようか」
「え……ええっ? 知り合いでもいるの?」
「だって――わたし、そこの大株主だもん」
とエッヘン。腕を組んだ。
鷲士は|瞬《まばた》きした。だが、すぐに苦笑し、
「はいはい、そうだね。で――畳がどうしたの?」
「あー、信じてないな? ま、いいけど……とにかく、畳が珍しいって話してたの。みんな来てみたいって言ってるんだから」
ちょっと不満そうに、美沙は言った。
コーヒーに口をつけながら、鷲士は首を|傾《かし》げた。
「え……でもカト女なら、茶室ぐらいあるんじゃないの?」
「そうだけどさー、だって根本的に違うじゃん? お風呂も一人でギューギューだって話したら――てゆーか、このボロ家にバスルームがあること自体奇跡みたいなもんだけど――場末の宿屋みたいで|羨《うらや》ましいって」
「ば、場末の宿屋ぁ〜?」
「ねえ、|鷲士《しゅうじ》くん」
|美《み》|沙《さ》は突然、真剣な顔になったかと思うと、
「ビンボーって……楽しいのね」
と両手を握り合わせ、うっとり。
鷲士はどこか|呆《ぼう》|然《ぜん》としながら、
「いや、あのね。それは違うと――」
「あっ、もうこんな時間だぁ!」
美沙は、大きなデジタル腕時計に目をやると、|鞄《かばん》を引っ|掴《つか》んで立ち上がった。
「じゃ、今日も帰りに大学寄るから! それまで待っててね!」
「えっ? いやぁ、それよりも、ちゃんと実家に帰った方が――」
と鷲士が慌てて制しようとした時だった。
美沙が横に回ってきて、体を|屈《かが》めた。
――チュッ。
|唇《くちびる》で、|頬《ほお》をついばんだのである。
「なっ――ななな!?」
頬を押さえて|後《あと》|退《ずさ》る鷲士に、美沙は照れ臭そうに笑ってみせ、
「エヘヘ……やっぱり、パパと一緒っていいね。じゃ、行ってきま〜す!」
バイバイ、と手を振り、小さな影は出ていった。
戸が閉まる音を聞きながら、鷲士は、ほっぺたを押さえた。
……違うでしょう、それは。
頭の片隅で考えながら、部屋を見回す。
随分と、様変わりしてしまった。
なんというか――全体がピンク調。
無地のカーテンは、模様入りの明るいものに取り換えられ、窓の下には、足なしのベッドが置かれた。物の|隙《すき》|間《ま》のあちこちには、ヌイグルミだ。
……ここがぼくの部屋だったとは思えないなー。
鷲士は、変な意味で感心した。
もともと二階の角部屋、2LDKという間取りである。元は自分がこっちにいたのだが、|美《み》|沙《さ》が窓が二つある方がいい、と言い張り、鷲士は使ってなかったもう一つの部屋に追いやられてしまった。
もっとも、変わったのはそれだけではない。
部屋の角には大型のハイビジョンが|導入《どうにゅう》されたし、台所の方には、電子レンジやガス湯沸かし器、|洗《せん》|濯《たく》|機《き》まで取り|揃《そろ》えられた。彼には|無《む》|縁《えん》なものばかりである。
……ホントに住む気なんだろうな、やっぱり。
はう〜、とガックリ。
「……ぼくも学校に行く準備でもしよ」
|呟《つぶや》いて、|鷲士《しゅうじ》は自分の部屋への|襖《ふすま》を開けた。
ダンボール箱の山が、視界を埋め尽くした。
まだ開けてない|美《み》|沙《さ》の荷物である。
本当なら、小さな本棚やタンスがあるはずなのだが、ダンボールで見えない。なんとか|布《ふ》|団《とん》を|敷《し》くスペースだけは作ったものの、それが限界だ。
「しょーがないな〜。ちょっと片していくか」
腰に手を当て、ため息をつくと、足を踏み入れる。とりあえず本棚の教科書を取るべく、箱を動かし始めた。
ぼんやりと、彼女のことを考えてみる。
――|結《ゆう》|城《き》美沙。
それが彼女の名前だった。
カトレア女学館の中学一年生で、今年で一二歳。性格は明るい――というより、完全な直情型だ。詳しくは話してくれないが相当なお|嬢《じょう》さまらしい。持ち込まれた家具を見れば分かる。話の端々からも、実家が金持ちなのは想像がついた。
しかし、である。
話してくれる情報は、なぜかこの程度に|留《とど》まるのだ。
『ね、ねえ、お母さん――ゆうちゃん――と写ってる写真とかないのかな?』
『あ、見たいのぉ? そんなもの、何枚でも――』
と、ニコニコ笑顔が、ここで急に青ざめた。
美沙は慌てて手を振り乱し、
『そっ、そう言えば、|曾《ひい》おじいちゃんにぜぇ〜んぶ捨てられちゃったのよね! すっかり忘れてたわ、うん! あの白ヒゲジジイ、極悪だから!』
『す、捨てられた〜?』
『えーっと……|戸《こ》|籍《せき》|謄《とう》|本《ほん》とかあれば……』
『うー、意外と|疑《うたぐ》り深いんだぁ。分かった、じゃ、今度取ってくるから――』
と、ここでまたも青ざめ、
『だっ、だめよ、だめ! てゆーか、鷲士くんとママ、もともと結婚してないんだから、戸籍謄本なんか見たって意味ないじゃん!』
『あっ、そっか、そうだよね。う〜ん』
――こんな感じに、|逸《そ》らされてしまう。
彼女の話では、|鷲士《しゅうじ》と|美《み》|沙《さ》は、|年《ねん》|齢《れい》|差《さ》がたった九歳という|驚異《きょうい》的な父娘になる。それだけに、さすがに|鵜《う》|呑《の》みにするワケにはいかない。
ところが、やんわりとでも追及しようとすると、
『あー、もうっ! だったら血液|鑑《かん》|定《てい》――|遺《い》|伝《でん》|子《し》判別やろっ!』
腰に手を当て、エッヘン。
――と不思議な開き直り方をする。
普通なら、それこそ|嫌《いや》がりそうなものだが、実の親子という点においては、絶大な自信を見せるのである。
……なんなんだろーなぁ、あれは。
理由は分からない。だが実家――特に母親のことを知られたくないようだ。
そして――ぼんやり考えながら、ダンボール箱を動かそうとした時だった。
ガスッ!
「だっ……!」
|弁《べん》|慶《けい》の泣き所を、箱の角に|直撃《ちょくげき》したのだ。悲鳴らしい悲鳴など出るはずもない。彼は箱を抱えたまま、前のめりにブッ倒れた。さらに続けて――ドカドカドカ。|衝撃《しょうげき》で|脇《わき》の箱までが、ボケ青年の背中に落ちて来る。
静まるまでに、たっぷり一〇秒はかかった。
「いててて……!」
箱の山の中から顔を出し、ずれたメガネを直す。
その髪に、コツン、と何かが当たった。髪でバウンドし、目の前に落ちる。
――指輪だ。
ただしオモチャの、である。
ルビーに見立てた石の部分は赤い透明プラスチックだし、フレームも同様――金メッキが施されただけの|代《しろ》|物《もの》だ。なにより小さすぎる。
鷲士の口元が、ほころんだ。
「この指輪……大事にしてくれてたんだ……!」
脳裏を、思い出が|駆《か》け抜ける――。
一三年前――夏祭りの夜。
夜店が立ち並ぶ神社の境内で、鷲士は、|浴衣《ゆ か た》姿の少女に腕を引っ張られていた。
涼しい風の夜だった。
少女の髪と、|浴衣《ゆ か た》の背。それだけが変わらず、行き交う家族たち、店の明かり――目に入るものすべてが、流れていく。
『しゅーくん、ここ、ここ!』
少女が立ち止まり、振り返った。肩の髪が揺れる。
『そ、そんなに急がなくても……』
息を切らしながらも、|鷲士《しゅうじ》は苦笑してみせた。
……本当は、激痛で今にも倒れそうだった。
少女は、すぐに察したようで、青ざめた。大きな|瞳《ひとみ》を|潤《うる》ませて、
『あ……まだ痛むの? そうなんだ?』
これには、鷲士が青くなった。
右手に持った“|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》”を無理にバタバタ振り、
『あっ、いやっ! 腰の傷なら心配いらないよ! ほら、入院してて、体力落ちてるだけだから! もうだいじょーぶ!』
少女は、そんな鷲士を、潤んだ瞳で見つめた。
やがて一度すすり上げると、浴衣の|袖《そで》で目をゴシゴシ。どことなく強気な表情に戻ると、目の前の|露《ろ》|店《てん》から、あるものを取った。
『わたし、責任とるから!』
『……えっ?』
体力の落ち――少し悪い顔色で、鷲士は|訊《き》いた。
『しゅーくんが|怪《け》|我《が》したの、わたしのせいだし! だからわたし――責任とる!』
『せ、責任とるって言われても……』
と戸惑う鷲士の鼻先に、それは突きつけられた。
――オモチャの指輪だった。
リングに、三〇〇円の値札が張りつけてある。
『わたし、責任とるから……だから……これ、わたしに買って!』
『は……?』
|眉《まゆ》をひそめて、鷲士は、少女と見比べた。
意味を把握するのに、しばしの時を要した。
『ええ〜っ!?』
鷲士は、仰天して|後《あと》|退《ずさ》った。
『ど、どういう意味か分かってるの!? ダメだよ、そんなの! ぼ、ぼく、悪いけど、軽い気持ちでそんなことは……!』
『しゅーくん、わたしのことキライ……?』
少女の顔が、フニャ、と|歪《ゆが》んだ。その悲壮感ときたら――まともな大人なら、|慙《ざん》|愧《き》に|駆《か》られて自ら命を断ちそうなほどである。
『ち、違う、好きだ、大好きだよ! だけど……』
|鷲士《しゅうじ》は、ポケットに手を突っ込んで、視線を落とした。
握られた手の中には、キッカリ三枚の百円玉しかない。
少女の|眼《まな》|差《ざ》しは、真剣そのものだ。
『……分かったよぅ、買うよぅ』
鷲士は、肩を落として言った。
笑顔を取り戻すと同時に、少女が石畳を|蹴《け》った。
|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》の幼い鷲士に抱きつくと、
『しゅーくん、だぁーい好きっ! ぜったい、ぜったいケッコンしようね!』
『う、うん……。み、みんな見てるよ……』
ゆでダコみたいに真っ赤になりながら、鷲士は答えた――。
指輪を見つめる鷲士の口元に、|懐《なつ》かしさの笑みが広がっていく。
「おこづかい|貰《もら》ったの……あれが初めてだったんだよね。三〇〇円あれば、なんでも買えると思ってた……。だから……キツかったなぁ」
言葉とは裏腹に、本当に|嬉《うれ》しそうに、指輪を回した。
笑みが、急にしぼんだ。
「ゆうちゃん……死んでただなんて……。いくら捜しても分からないワケだよ……」
血を吐くような|呻《うめ》きだった。
『ごめんね、|鷲士《しゅうじ》くん……。ママはわたしが小さい時に、もう……』
プラスチックの宝石に、ポツ、ポツ、と染みが|穿《うが》たれていく。
――涙だ。
「だ、だめだな、ぼくは。|美《み》|沙《さ》ちゃんを見習わなきゃ……!」
上腕に顔をこすりつけて涙を|拭《ぬぐ》うと、鷲士は立ち上がろうとした。
パサッ。
ダンボールの|隙《すき》|間《ま》から、何かが足下に落ちてきた。
鈍いように見えて、鷲士は動きを止めた。
彼はビックリしたのではない。何かを感じたのだ――落ちてきた|薄《うす》|汚《よご》れたものに。見るからに歳月を重ねた、薄茶色の紙束に。
端を|紐《ひも》で|縛《しば》った、古臭いボロボロの|古《こ》|文《もん》|書《じょ》である。
“|稗《ひえ》|田《だの》|阿《あ》|礼《れ》 |私《し》|事《じ》|草《そう》|本《ほん》”
表紙に、|楷《かい》|書《しょ》で書き殴ってあった。
メガネの奥の目が、細まっていく。
「これは……?」
数時間後――|相模《さ が み》|大《だい》の図書館。
人影のまばらな書物の聖域で、|鷲士《しゅうじ》は窓際の机に着いていた。
右手側にはノートとペンケース、左手側に置いてあるのは、例の|古《こ》|文《もん》|書《じょ》だ。
しばらく文字列とにらめっこを続け、
「……分っからないなぁ。なにが書いてあるんだ?」
口を|尖《とが》らせ、不満そうに、彼は|呟《つぶや》いた。
薄茶色の紙面は、すべて漢字で埋められていた。一種の漢文――古文である。ただし、中身は表紙より達筆な楷書だった。列の間隔も一定ではない。他人に見せることを前提にしたものとは違い、一種の雑記帳だと思っていいだろう。文字通りの私本である。専門家でも、読解には時間を要するに違いない。
しかし――そそられたようで、鷲士は目を離そうとはしなかった。
やがて、頭をポリポリ|掻《か》きながら、
「でも……どうして|美《み》|沙《さ》ちゃんがこんなものを……?」
そう|呟《つぶや》いた時である。
コンコン。
目を向けた窓の向こうに、見知った顔を見付けた。
「お〜い、|草《くさ》|刈《かり》、ちょっと開けてくれ〜」
ガラス越しのくぐもった声で、ラグビー部の男が言った。
腰を浮かせて、窓を開けると、鷲士は困った顔で、
「しょーがないなー、きみも。本が借りたければ、ちょっと回ってくるだけで――」
「バーカ、そんなんじゃねえ」
ブーたれながら首を突っ込んでくると、男は中を見回し、
「なあ、ここに|麻《ま》|当《とう》来てねえのか?」
「|美《み》|貴《き》ちゃん? いや、見てないけど?」
「おっかしーな、あいつだと思ったんだが……見間違いだったか」
と深刻そうにため息をつく。
これには鷲士も、|眉《まゆ》をひそめた。
「美貴ちゃんが、どうかしたの?」
「……今日は体連の会合だったんだよ。あのバカが来ねえもんだから、来週に延期さ。半年に一度の話し合いに無断欠席されたんじゃたまんねえぜ」
「体連の会合を無断で? そりゃまずいなー」
|鷲士《しゅうじ》は、あちゃー、と頭を|掻《か》いた。
体連とは、|相模《さ が み》|大《だい》・体育会系クラブ連合のことを指す。事実上の大学内の自治組織で、もっぱら他校との|揉《も》めごとの時に出てくるのだが、グランドの使用割り振りなど、ちゃんとした活動もしている。組織のメンバーは、各クラブの部長だ。
ラクビー野郎は、ため息をついた。
「こりゃ、女子弓道部の|後《こう》|輩《はい》連中から聞き出した話なんだが……実はあいつ、ここんとこ様子がおかしいらしくてよ。|誰《だれ》がなに|訊《き》いても、|上《うわ》の空で青い顔してるってんだ。おまえ、なにか知らねえか?」
「ええっ? |美《み》|貴《き》ちゃんが?」
|驚《おどろ》く鷲士だったが、すぐにバツが悪そうに頭を|掻《か》いた。
「いや……悪いけど。いま、家の中が|凄《すご》くゴタゴタしててさ、最近は弓道部にもカオ出してないんだ。彼女とも話してないし」
「そっか。じゃ、しょーがねーな」
軽く手をあげて、背を向ける友人。
が、足を止めると、肩越しに振り返って、白い目を向けてきた。
「そう言えば――|麻《ま》|当《とう》がおかしくなったのって、あの|美《み》|沙《さ》ってコが大学に来るようになってからなんだよな。あいつ、それで悩んでんじゃねーか?」
「え……いや……そ、そんなこと……」
「|草《くさ》|刈《かり》……おまえ、あのコとどういう関係だ? まさかとは思うが――ホントに手ェ出したんじゃねえだろうな?」
「バッ、バカ、ぼくでも怒るぞ! 美沙ちゃんは――えっと――|親《しん》|戚《せき》だよ、親戚! ぼくが知らなかったような、遠い親戚!」
手を振り乱して言い訳する鷲士だった。
そうなのである。
初の対面以来、美沙は毎日のように大学に顔を出していた。今では、正門前で待ち合わせ、腕を組んで帰るのが日課になっている。どうやら、|父《おや》|娘《こ》の間を密にするのが目的らしいが、事情を知らない周りがそう見てくれる訳がない。
結局、ついたあだ名が、ペド野郎。今では鷲士は、カミングアウトしたロリコンだの、リボン少女|趣《しゅ》|味《み》だの、好き勝手に呼ばれている。そのくせ男どもの中には、美沙に取り入って、部誌の表紙を飾ってくれ、と頼むヤツもいるらしいから、勝手なものだ。
友人は、そんな鷲士を疑いの|眼《まな》|差《ざ》しで見つめていたが、
「……ま、信じてやるよ。とにかく、麻当見かけたら|俺《おれ》んトコに顔出すように言ってくれ」
じゃあな、と片手を上げ、彼は去っていった。
友人が消えるなり、|鷲士《しゅうじ》は頭を抱えて、机に突っ伏した。
「あああっ、まずい、まずいよ、やっぱり……! 父親なら父親って周りにハッキリさせなきゃ、話がこんがらがる一方じゃないか……!」
そう|呻《うめ》いた時だった。
ガラッ、と開いた戸の奥から、細い影が浮かび上がった。
話をすればなんとやら――|麻《ま》|当《とう》|美《み》|貴《き》だ。
ただし、本当に顔色が悪い。青ざめている。
「あ、あれ、美貴ちゃん? ちょうど良かった、さっきラグビー部の――」
鷲士が腰を上げた。
と同時に、美貴はガバッ。
――その場に四つん|這《ば》いになったのである。
「は?」
メガネの|双《そう》|眸《ぼう》が点になるのとシンクロし、美貴は床を這いずり始めた。|焦燥《しょうそう》に乗っ取られた|美《び》|貌《ぼう》で、右へ左へ、と目を走らせる。
「どこ、どこ? どこに行ったの? あれないと、わたし、わたし……!」
泣きそうな顔で|呟《つぶや》くと、机の下に入った。
鷲士は|眉《まゆ》をひそめながら、しゃがみ込み、
「ど、どうしたの、美貴ちゃん? 何か|失《な》くしたの?」
美貴は答えず、立ち上がった。
鷲士も、体を起こした。
彼女は今度は、机の上を探し始めた。|古《こ》|文《もん》|書《じょ》を裏返し、ペンケースをどけ――|舐《な》めるように、合板の上を調べていく。
「ない、ない……! どうしよう……!」
美貴は、小刻みに|震《ふる》えていた。|脅《おび》えだ。
「ちょ、ちょっと! しっかりしなよ、美貴ちゃん!」
青年は|華《きゃ》|奢《しゃ》な両肩を|掴《つか》み、揺さぶった。
美貴は、|呆《ぼう》|然《ぜん》とした様子で目線を合わすと、
「あ……!」
ビクン、と肩が震えた。
「どうしたの? 何か失くしたの? そうなんだね?」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……! あんなに大事にしてたのに……あんなに大事にしてたのに、わたし……!」
|瞳《ひとみ》を|潤《うる》ませ、真っ青な顔で、美貴は|呟《つぶや》いた。
今にも死にそうな様子――普通ではない。
「ねえ、|美《み》|貴《き》ちゃん! どうしたんだよ?」
|鷲士《しゅうじ》が、強く揺さぶった。
これが、女子弓道部の部長を、我に返らせた。
「な……なんだ、鷲士か……」
呟くと体を離し、美貴は小指で髪の乱れを直し始めた。この辺りの自制心は、まさに見た目通りだが、顔の青さは|誤《ご》|魔《ま》|化《か》しようがない。
「教えてよ、なに|失《な》くしたの? ぼくも探すからさ。ねっ?」
「キ、キミには別に――」
と顔を上げる美貴。
しかし鷲士の心配そうな顔を見て、視線を落とした。
「……とても大事にしてたアクセサリ、失くしたんだ。それで……」
「大切なものなんだ?」
「……他人から見れば、きっとつまらないものだと思う。けれど、わたしには命よりも大切なものなんだよ。ずっと、ずっと大事にしてきたのに……それなのに……」
悔しそうに、美貴は親指の|爪《つめ》をついばんだ。
鷲士は|頷《うなず》くと、腕をまくり、図書館を見回した。
「で――どこで失くしたか見当はついてるんでしょ? ここに来たのはいつ?」
「いや、家から持ち出した|記《き》|憶《おく》はないから」
青い顔で、美貴は首を振った。
「……は?」
「だから、家から持って出た|憶《おぼ》えはないんだよ。本当に大事にしてたから、失くすといけないと思って、マンションの|鏡台《きょうだい》の小箱に、ずっと……」
「……あの、だったらどうしてここで探してるのかな?」
引きつった笑みの青年を、美貴は、キッ、と|睨《にら》みつけ、
「マンション中探しても見つからなかったからさ!」
「は、はあ」
そして美貴は、顔を赤くして目線を外すと、
「あの、それ、本当に気に入ってて――わたしの心の支えっていうか――バカみたいに、毎日|眺《なが》めてたんだよ。だから、自分でも知らないうちに、服にでも引っかかったのかと思って、それで……」
「そのアクセサリが廊下に落ちて、ここにでも|蹴《け》り込まれてるかも知れない?」
「そ、そう、それ。可能性がゼロとは言えないだろう?」
天文学的な確率だが、すがるような|眼《まな》|差《ざ》しで、美貴は何度も|頷《うなず》いた。
|鷲士《しゅうじ》は、ポリポリ頭を|掻《か》いた。
「えーっと……と、とにかく、探してみようか。で、どんなもの?」
これが、引き金となった。
|美《み》|貴《き》は|俯《うつむ》いたかと思うと、怒りの眼差しを鷲士に向け、
「……なんだって?」
「え? いや、だから、どんなものかと――」
「キミが――キミがそれをわたしに|訊《き》くのか!?」
ガバッと顔を上げ、なぜか|美《び》|貌《ぼう》が|吠《ほ》え上げた。
|般《はん》|若《にゃ》さながらの面を、鷲士の鼻先に寄せ、
「バカッ! 鈍感! |記憶力《きおくりょく》ゼロ! どうかしてるよ、本当に! ちゃんとしてるようで、根元の部分でいつも勘違いしてるっていうか――ああっ、もう! たまにはメガネぐらい変えたらどうだ!? 見えるものも見えなくなるぞっ!」
「へ、へっ?」
鷲士の口元が、ヒクヒクと引きつった。
「あ、あの、焦るのは分かるけど、落ち着かなきゃ。落とし物したのは、美貴ちゃんで――」
「わ、分かってるよ、そんなこと! 悪いのは、わたし! だけど、その|他《ひ》|人《と》|事《ごと》みたいな態度が|癇《かん》に障るんだ!」
|天井《てんじょう》に向けて、美貴は|喚《わめ》いた。
それから、イライラしたように髪に手をやり、
「――指輪」
「えっ? なに?」
「一緒に探してくれるんだろう? だから――指輪だよ、指輪。指輪さがしてるのっ」
なぜか|口《く》|惜《や》しそうに、恨めしそうに、美貴はこぼした。
「指輪かぁ。じゃあ、形は?」
「なんていうか……オモチャみたいっていうか……キミが見れば、すぐに分かるよ……」
|興《こう》|奮《ふん》が収まったのか、鼻先を少し赤らめ、ため息をつく。
「ぼくが見れば、分かる……?」
鷲士が首を|傾《かし》げたのも無理はない。
しかし急に、ポン、と手を打つと、ブラウスの胸ポケットに手を突っ込んだ。
「なんかピンと来ないんだけど、ひょっとしてこんな感じ?」
例のオモチャ――三〇〇円の指輪だ。
美貴が|弾《はじ》かれたように顔を寄せた。
ここから先の彼女の反応は、|誰《だれ》が見ても不可解の一言に尽きた。切れ長の|瞳《ひとみ》をいっぱいに見開き、指輪とボケ|面《づら》を交互に見比べた――のは、まだいい。しかしなぜか青い顔で、美貴は妙なことを口走ったのである。
「あの……まさかとは思うけど……ひょっとして、バレてる?」
「は? なにが?」
「いっ、いや、なんでもない、なんでもないの!」
アセアセしながら手を振り乱し、|美《み》|貴《き》はクルッと後ろを向いた。冷や汗を流して、アゴに指を当てたかと思うと、首を傾げて、
「……おっかしーなぁ、どうなってるの? 持ち出した覚えはないのに……」
「どうしたの、美貴ちゃん? 探さなくていいの?」
|鷲士《しゅうじ》の問いが、|相模《さ が み》|大《だい》一の美女を青ざめさせた。
「えっと、その……うん! わたしの勘違いだったみたい! ゴメン!」
美貴は慌てて顔を戻すと、目を閉じて両手を合わせた。
拝まれた方が、|眉《まゆ》をひそめて、口を小さく開けた。
「か、勘違い〜? でも、さっきまであんなに――」
「いっ、いま思い出したの! 細かいことにこだわるなんて、男らしくないぞ! こっちが悪いって|謝《あやま》ってるんだから!」
「う、うん。そうだけど……」
首をひねりながら、頭を|掻《か》く鷲士であった。
当の美貴は、ゴホン、と|咳《せき》|払《ばら》いすると、無理やりお|澄《す》ましモード。
「そ、それより――鷲士こそ、こんなところでどうしたの? 図書館使ってるなんて珍しいじゃない?」
「あ……うん。ちょっと調べものしようかと思って」
「調べもの? どんな?」
「いや、それが――何から手をつけていいのか分かんなくてさ。ハハハ……」
苦笑しながら、机の上の|古《こ》|文《もん》|書《じょ》を軽く|叩《たた》いた。
美貴が顔を寄せ、|瞬《まばた》きした。
「|稗田《ひえだの》|阿《あ》|礼《れ》? ふーん、また随分とマニアックじゃない」
「え……美貴ちゃん、このヒトのこと、知ってるの?」
美貴は横の席に座りながら苦笑し、
「稗田阿礼でしょう? 古書記成立の鍵になる重要な官人だよ。キミらしくない、日本史の基本じゃないか」
「あ、そうか! どっかで聞いた名前だと思ったんだよねー」
「フフフ、まあ、古事記と言えば、普通は太安万侶だからね。でも、私本があるとは知らなかったな。どこにあったの、こんなもの?」
「えーっと……クライアントから、守秘義務を……」
「しゅ、守秘義務ぅ?」
|美《み》|貴《き》の白い目が、ボケ青年をねめつけた。
「……|鷲士《しゅうじ》、キミ、まさか変なバイトに|関《かか》わってるんじゃ……?」
「関わってない、関わってない。ただ、どこから説明していいのか分かんなくて!」
今度は、鷲士が手を振り乱す番だった。
美貴はため息をついた。
「……だったらいいんだけど。じゃあ、さっそく始めようか」
「え……始めるって……何を?」
「だから――現代文に訳すんでしょう? 二人でやった方が早いと思わない? お礼は――そうだね、レモンティーでどう?」
美女の|薄《うす》い|微笑《ほ ほ え》みに、メガネの奥の|瞳《ひとみ》が何度か|瞬《まばた》きした。
鷲士は、笑顔でイスに手をかけた。
結論から言うと――実はレモンティー一杯では済まなかった。
|壁《かべ》の時計が三時を過ぎた辺りで、美貴が軽く何か食べたいと言いはじめ、鷲士は外のコンビニへ何度か足を運ぶ|破《は》|目《め》になったのである。
しかし、ほとんど直感的に漢文を訳していける人間を、クレープや|缶《かん》ジュースで雇えたのだから、鷲士はラッキーと言うべきだろう。美貴の読解力は、洋の東西を問わず、|古《こ》|今《こん》の|壁《かべ》をも|曖《あい》|昧《まい》にした。|些《さ》|細《さい》な要求も、彼女なりの甘えだったのかも知れない。
図書館の机に肩を並べ、時折、口に何か放り込みながら、二人は訳を続けた。
窓から入る明かりは、いつしか赤くなっていた。
そして訳された内容は、ある意味で|驚《おどろ》くべきものだった――。
|稗田《ひえだの》|阿《あ》|礼《れ》・|私《し》|事《じ》|草《そう》|本《ほん》。
著者の稗田阿礼は、美貴の言った通り、|飛鳥《あ す か》時代の官人だった人物である。生没など、詳しいことは分かっていない。|天《てん》|武《む》天皇の命で帝皇の「日継」と先代の「旧辞」を|誦習《しょうしゅう》。分かりやすく例えれば、宮廷公認の|語部《かたりべ》――吟遊詩人のようなものだった。
そして彼がいなければ、古事記は存在しなかったのである。
日本人なら誰でも知っているこの三巻の書物は、|和《わ》|銅《どう》四年、当時の|元《げん》|明《めい》天皇の命令で、|太安万侶《おおのやすまろ》が、阿礼の|誦《となえ》を一年がかりで|編《へん》|纂《さん》したものに過ぎない。太安万侶は、言わば単なる書記である。語部など実質的には道化の扱いだった当時、書に著した太安万侶の方が大層な扱いを受けたのは、仕方がなかったのかも知れない。しかしこれが原因で、稗田阿礼は、人の|記《き》|憶《おく》に残らない人物となってしまった。古事記の序文に、その名が刻まれているにも|拘《かかわ》らず、受験で少し出るのが関の山である。
そしてボロボロの|古《こ》|文《もん》|書《じょ》は、文字通りの私本――そのまた|草《そう》|稿《こう》だった。
ぶっちゃけた話、その内容は、|暴《ばく》|露《ろ》|本《ぼん》だったのである。
|元《げん》|明《めい》天皇は、実は先代が俗世の|白拍子《しらびょうし》――当時の実質的な芸者――に生ませた子だとか、どこぞの官吏が使い込みをしているとか、そんなものだ。|弾《だん》|劾《がい》は子細にまで及び、世間に対する執念を感じさせるほどのものだった。
さらに暴露は、古事記にまで及んだ。
古事記は前述の通り、|阿《あ》|礼《れ》が暗唱した「日継」と「旧辞」により成り立っている。この日継とは、天皇一族の|系《けい》|譜《ふ》――言わば年代記であり、旧辞の方は、当時伝承されていた神話、伝説などをまとめたものだ。そして|稗田《ひえだの》阿礼は、自らが携わったこの“作品”をも、私本の中で|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》に否定した。
日継の系譜が皇族にハクを付けるためにねじ曲げられた、旧辞もすべてけれん味たっぷりに味付けされ、|口《く》|伝《でん》の真実が単なるお話に落とされてしまった――|等《など》である。
文面は、怒りそのものだった。
ページは欠けまくり、記述もグシャグシャ。稗田阿礼が、どんな人物かも分からない。しかしすべてに対する怒りとひがみ、|嫉《ねた》みが、私本を埋めていたのだ。
そしてそれは、決して他人の共感を買うようなものではなかったのである――。
「……少し疲れちゃったな」
ノートからシャーペンを離し、|美《み》|貴《き》は|頬《ほお》|杖《づえ》をついた。
「……ぼくも」
イスに背を預け、|鷲士《しゅうじ》もため息をつく。
窓から入り込んだ夕日が、床の白いタイルを真っ赤に染め抜いていた。図書館の中には、二人を除いて人影はない。遠くで、運動部のかけ声がしている。
美貴は、片手で私本のページをパラパラめくりながら、
「……ハッキリ言ってグチだよね、これは」
「うん。千年以上前の人のね」
頬をポリポリ|掻《か》きながら、鷲士。
その顔を、美貴がやんわりとねめつけた。
「もう。こんなものの訳にわたしを付き合わせて」
「ははは、ごめん。まさかぼくも、こんな内容だとは」
苦笑いする鷲士を見て、美貴も困ったように笑った。
彼女は、シャーペンの|尻《しり》で私本を小突き、
「まあ、歴史学者たちには|衝撃《しょうげき》的なものかも知れないけど? 皇族の血は途絶えてるってところとか、インドを|襲《おそ》う計画があったとか……インパクトがあるのは、確か」
「ただし――これを本当に|稗田《ひえだの》|阿《あ》|礼《れ》が書いて、なおかつ真実なら、だね」
|鷲士《しゅうじ》が言い、|美《み》|貴《き》も|頷《うなず》いた。
「ね、鷲士――この本、どこから?」
「ごめん、知り合いが持ってたんだけど、出所は聞いてないんだよ」
「じゃ、真偽のほどは不明か……」
ジーッと私本を見つめる美貴。
かと思うと、突然、大きく背伸びした。
「ん〜っ。とりあえず、わたしは少し|休憩《きゅうけい》ね」
「じゃあ、ぼくはもうちょっと」
そう言うと、私本に目を寄せる鷲士である。美貴が|呆《あき》れたような顔をした。
――すぐに異変が起こった。
「うわ、なんだろ、この染み?」
|嫌《けん》|悪《お》を|露《あらわ》に、鷲士が私本から手を離した。
|覗《のぞ》き込んだ美貴も、|眉《み》|間《けん》にシワを刻んだ。
「……血じゃないの?」
そこには茶色の|糊《のり》のようなものが飛び散っていたのだ。|微《かす》かだが、厚みもある。
「ははは……美貴ちゃん、まさか」
「あ……ご、ごめんなさい。言ってみただけだから」
しかし二人は、虫でも飲み込んだような青さで、顔を見合わせた。
「……」
「……」
「あの……先、読んでみる?」
「う、うん。わたしも、このままだと、後味悪いし」
そして二人は、再び訳に取りかかり始めた。
窓の外で吹く木枯らしが、イチョウの葉をさらっていった。
“|弱《なよ》|竹《たけ》|之《の》|鬼《おに》”
章の見出しは、極めて簡素なものだった。
なよ竹の鬼、である。
阿礼の記すところでは、五〇年ほど前の話――|太安万侶《おおのやすまろ》の死去が七二三年だから、七世紀末の出来事だろう。|飛鳥《あ す か》時代後期に当たる|頃《ころ》だ。
――都に、鬼が出た。
ショッキングな記述で、章は始まる。
当時、都は、|飢《き》|饉《きん》と疫病に|覆《おお》われていた。こののち風水と仏教に頼り、わざわざ南都に――|飛鳥《あ す か》の都は奈良盆地の北にあったため、北都と呼ばれる――|遷《せん》|都《と》したほどである。政治の中心地を変えざるをえないほど|凄《せい》|惨《さん》な様子は、想像に難くない。
|阿《あ》|礼《れ》の記述によると、道の端々に死体が転がっていたという。
死体は、老若男女、|貴《き》|賤《せん》を問わなかった。
家と家の間、道と道の角には、必ず|屍《しかばね》が積まれていた。
火葬を広げる元となった仏教が伝来して間がない頃である。|亡《なき》|骸《がら》を焼くことはタブー視され、腐敗した死体からは|蛆《うじ》が|涌《わ》いた。何か食べ物を取ろうものなら、間違いなく|蝿《はえ》の大群がやってくる。蝿は都の隅々まで|版《はん》|図《と》を広げ、付随して疫病まで|蔓《まん》|延《えん》した。
医学が未発達なのは仕方がない。だが病を治そうにも、食物がない。死んだ人間は|病魔《びょうま》の温床となり、生じた蝿が、さらに疫病を広げていく。
飛鳥の都は、滅びのサイクルに|蝕《むしば》まれていた。
事件の前兆が現れたのは、そんな頃である。
――最初に、鳥がいなくなった。
ある朝を境に、都から鳥の鳴き声が|途《と》|絶《だ》えたのだ。
スズメやツバメ、ハトの|類《たぐ》いが消えたのは分かる。食肉のためであろう。結局、飢えの欲求は何ものにも勝る。体面上、死体を焼くことは|憚《はばか》られても、鳥は陰で腹に納めれば、|誰《だれ》にも気付かれはしないと考えたのだ。
だが――その日、都からはカラスの姿まで消えたのである。
当時の人間に、ハトとカラスが同じ鳥類だという意識はない。現代のように不吉を呼ぶ邪鳥ではなく、|高《たか》|天《まが》|原《はら》の遣い――むしろ神の化身として扱われていた。ただでさえ、死体をついばむ姿を、街のあちこちで見かける。そんなものを食う者など皆無だ。
しかし、黒い鳥までもがいなくなった。
都は、無気味な|沈《ちん》|黙《もく》に包まれた。
宮廷では、一部の|呪《じゅ》|禁《きん》|道《どう》|士《し》たちが|騒《さわ》ぎはじめ、|祈《き》|祷《とう》を行った。
次にいなくなったのは、犬であった。
死体を|貪《むさぼ》り、|恐水《きょうすい》病に冒された犬たちの姿が、鳥と同様、ある日を境に消えたのである。
祈祷など何の役にも立たない証明だったが、|道《どう》|士《し》たちは、我々の祈りが天に届いたのだと|威《い》|張《ば》り腐った。確かに、街を|徘《はい》|徊《かい》する狂犬の群れは治安上の問題ではあったが。
|嫌《きら》われものの犬が消えたことを|危《き》|惧《ぐ》する者は、いなかった。何かに食われたような|残《ざん》|骸《がい》が見つかっても、だ。極端な話、民衆は飢えと病で犬どころではなかったのである。
しかし、その数日後――真の異常事態が発生した。
人の死体が、|掻《か》き消えたのだ。
道端、街角、河原――当時、石ころよりも目についた|屍《しかばね》が、|忽《こつ》|然《ぜん》と消失した。
勝手に消えるはずがないものまで、とうとう消えた。
大問題になった。
都は官・民を問わず、上を下への大騒ぎであった。捨て場所に困り、事実上放置していても、死体の山がなくなれば、話は別だ。死肉を食らう山賊か、はたまた|蝦夷《え み し》の|陰《いん》|謀《ぼう》か――宮の内側で|噂《うわさ》が|交《こう》|錯《さく》した。
そしてついに、ある名が挙がった。
――鬼である。
その噂は、都の外から入ってきたという。
最初の|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》は、名もなき幼い少女だった。
少女は、山の|裾《すそ》|野《の》で、両親と暮らしていた。
最初に死んだのは、母であった。疫病である。
次に、飢えで父親が死んだ。
少女は、ひとりぼっちになった。
|飢《き》|餓《が》と両親の死去で、娘は少しおかしくなっていた、と|近《きん》|隣《りん》の者は言う。少女は二人の|亡《なき》|骸《がら》を森の中に運び、その|傍《そば》に座り込んでいたらしい。
目に入るものと言えば、枯れた木々のみ。
何も食べず、何も飲まず――日が過ぎた。
その“奇怪なもの”が現れたのは、八日目の夜だった。
何かを|貪《むさぼ》る気配で、少女は目を覚ました。
母親の死体の上に、何かがいた。
|闇《やみ》|夜《よ》の中に、二つの赤い光が、|爛《らん》|々《らん》と|輝《かがや》いていた。
白い鬼が、そこにいたのだという。
“身の丈、一五尺を超え――”
当時の尺は、今で言う小尺である。|和《わ》|銅《どう》六年に改正される前の一尺は、約二五センチ。|鵜《う》|呑《の》みにするなら、三メートル七〇超の身長になる。
角のない鬼であった。
鬼は、母の乳房に食らいついている最中だった。上下する|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》の|隙《すき》|間《ま》から|覗《のぞ》くものは、赤黒い肉の切れ端だったという。
|脇《わき》には父親のものらしき人骨が転がっていた。
鬼が、ふと動きを止めた。
野太い首が、音もなく動いた。
赤い|双《そう》|眸《ぼう》が無気味な光を放ち、少女を見つめた。
二人の間を、|薄《うす》ら寒い風が吹き抜けた。
何事も無かったように、鬼は顔を戻した。再び|屍《しかばね》に口をつけたのだ。
少女は、逃げるでもなく、その様子を見続けた。
鬼は死体を平らげた後、森の中に帰っていったという。
――話は、それで終わりだ。
その後、少女は衰弱死し、小さな集落は疫病によって全滅した。当時、既に確認が取れない状況だったのである。しかしどこかから広まったこの|噂《うわさ》が、恐怖に|囚《とら》われた都を|覆《おお》い尽くすまでに、そう時間はかからなかった。
すべての戸という戸、門という門が閉められ、街からは人影が消えた。
時を告げる者がいなくなった通りを、|悽《せい》|愴《そう》の風が吹き抜けた。
事実上、この時点で、既に北都は死んでいたと言っても過言ではない。しかしさらに続いた事態が、朝廷を|震《しん》|撼《かん》させた。
内親王に|繋《つな》がる貴族の|屋《や》|敷《しき》が、鬼に|襲《おそ》われたのである。
夜半――|厳重《げんじゅう》な|警《けい》|護《ご》の中、“|彼《かれ》|等《ら》”は、やってきた。
鬼というより、ただの人間に見えた、と生き残りの証言がある。
最初に、門が破られた。
何事かと集まった警吏たちが見たものは、ひどく顔色の悪い、数名の街人だった。
彼等が、鬼であった。
警告への無反応、|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》、耐え難い腐敗臭、足を引き|摺《ず》るような歩き方――恐怖に|駆《か》られた警吏の一人が、矛で街人の胸板を貫いた。
血が|噴《ふ》き出した。赤黒い血であった。
相手は|微《み》|塵《じん》の反応もせず、胸から矛を生やしたまま、横を通り過ぎた。
|誰《だれ》もが、言葉を失った。
警吏たちは、狂ったように追いかけ、無気味な来訪者の群れを、後ろから切りつけた。|手《て》|応《ごた》えは確実にあった。街人たちの服は破れ、背の肉は半ばめくれた。
来訪者は、誰一人として止まらなかった。振り返りもしないのである。無視というより、警吏の存在自体を理解できないようだったという。まるで、風や雲を相手にしているような無反応ぶりだったらしい。
恐ろしいことは、さらに続いた。
切り裂かれた衣服はそのままに、下の筋肉が、勝手に|繋《つな》がり始めたのだ。治癒の速度は、|瞬《またた》く間――再生した|皮《ひ》|膚《ふ》が傷を|覆《おお》い隠した。
鬼どもは無言で石畳を通過し、邸内に入った。
追いすがる警吏たちは、泣きながら|斬《き》りつけたという。引けば死罪は免れない。だが、相手は“ヒトのかたちをしたもの”に過ぎないことが分かっている。
ある者は矛を突き刺し、またある者は刀を振り回した。
|異形《いぎょう》の者どもを止めるより、先に刃がこぼれた。
鬼がまっすぐ向かったのは、貴族の妻の寝所だった。
泣き狂う母の存在など無視し、|彼《かれ》|等《ら》は寝ていた三つ子の赤子の頭にかじりついた。竹を割るような音が聞こえた。まだ柔らかい|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の割れる音だ。
肉を食らい、|脳漿《のうしょう》をすすり終えると、鬼たちは去った。
|夜《よ》|霧《ぎり》の都に消えた死鬼を追う者はいなかったという。
この日都では、同様の事件が、すべての赤子を持つ家で起きていた。
都から、赤ん坊の姿が消えた。
|飛鳥《あ す か》の都を、|色《いろ》|濃《こ》い死の影が覆い始めた――。
|鷲士《しゅうじ》はシャーペンを握る手を止めた。
目線はノートに――|眉《み》|間《けん》には|皺《しわ》が刻まれている。
「なんか……違和感あるなぁ」
唐突に、彼は|呟《つぶや》いた。
|美《み》|貴《き》が、ヒッ、と引きつけを起こしたように、
「なっ、ななな、なになになになにっ? いきなりどうしたのっ?」
「いや……この章だけ、なんか感じが違うと思ってさ」
青い顔の美貴が見つめる中、青年はポリポリ頭を|掻《か》きながら、
「変なんだよね。この時代の書物にしては、不必要に描写も|緻《ち》|密《みつ》だし、話の展開も理路整然としてるっていうか……昔話って雰囲気じゃない」
「う、うん」
「これじゃ、まるで伝奇ものの小説みたいに――」
と、鷲士は言葉を切った。
いつの間にか、肩と肩が触れ合っている。ただし伝わってくるものと言えば、愛情などではなく――ひどい|震《ふる》えだった。
才気走る|麗《れい》|女《じょ》にも、|恐《こわ》いものはあるようだ。
「あ……ごめんね。もうやめようか?」
「じょっ、冗談でしょう? 結末を見せてもらえないホラーなんて願い下げ! この章を訳し終えるまで、キミにも付き合ってもらうよ!」
鷲士から私本を奪い取るようにして、目を落とす美貴だった。
「む、昔の話なんて、ハッピーエンドに決まってるんだから……」
自分に言い聞かせるように、小さく|呟《つぶや》いた。
都に|戒《かい》|厳《げん》|令《れい》が出されたのは、事件から三日の後であった。
皇族の関係者が殺されたせいで、朝廷も重い腰を上げたのだ。
|近江《お う み》、|丹《たん》|波《ば》周辺の軍は言うに及ばず、九州の|防人《さきもり》にも|帰《き》|還《かん》命令が出された――私本にはそうあるが、無論、真偽のほどは不明だ。
街に吹く荒廃の風に、|甲冑《かっちゅう》が|擦《す》れ合う音が混じった。
東西南北の門を、兵の群れが|塞《ふさ》いだ。
首都|警《けい》|護《ご》の人員は、三万人に及んだという。実像が定かではない相手に三万――当時としては常軌を逸した動員数だ。
民家の戸は、それでも開かなかった。軍勢の雄姿を見ようという者など、いなかったのである。民は分かっていたのだ――ヒトの力が及ぶ相手ではないことを。
朝昼暮夜を問わず、陣には火が|灯《とも》された。
私語を交わす余裕のある兵はいなかったという。
異変が起きたのは、四日目の夜であった。
破られたのは北の門だった。
現れたのは、先日の死鬼の集団だったが、今度は行動が違った。向かって来た兵に対し、鬼たちは|躊躇《ちゅうちょ》なく|襲《おそ》いかかったのである。
体をなますにされながら、鬼は|兜《かぶと》ごと兵の頭に|噛《かじ》りついた。
|瞬《またた》く間に、死鬼の集団は都に侵入した。|彼《かれ》|等《ら》に、もはや区別はなかった。迫る兵を次々と食い殺し、|生《いき》|餌《え》がいなくなると、手近な民家の戸を|蹴《け》|破《やぶ》った。
なぜ、この正体不明の不死者たちが、生ける民まで襲うようになったのか――|稗田《ひえだの》|阿《あ》|礼《れ》は私本の中で、鬼は一連の行動で人肉の味を|憶《おぼ》えたのではないか、と推測している。唯一の幸いは、鬼の数が小数だったことだろう。記述によると、一〇〇人に満たなかったようだ。鬼一匹が大人一人を食らうのに一〇分かかるとして、一時間当たりの被害者数は、六〇〇人。不死者を相手にこの数字――|阿《あ》|礼《れ》は、むしろ運が良いと思うべきだと述べていた。
鬼|襲来《しゅうらい》の報を聞きつけ、実情を知らない他門の兵まで押し寄せてきたが、結果的に、それは自ら進んで|餌《え》|食《じき》になるだけに終わった。
|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄絵図が、夜の都に現出した。
もはや、立ち向かう者などいなかった。
兵、民衆を問わず、|誰《だれ》もが絶叫して逃げ回った。
事態が一変したのは、壮絶な|斬《き》り合い|貪《むさぼ》り合いが続いて、一刻半ほど過ぎた|頃《ころ》であった。
――鬼たちが苦しみ、倒れたのである。
腹を押さえ、|呻《うめ》き――単に食に当たったようだった、とある。
だが、それっきり。
死鬼の群れは、身じろぎしなくなった。本当に死んでしまったのである。
何が起きたのか分からなかったのだろう、生き残った者すら、動かなかったという。喜びと勝ちどきの声が上がったのは、しばらく後のことだった。
だが――恐怖は、むしろそれからであった。
|歓《かん》|声《せい》が飛び交う中、“そいつ”は|闇《やみ》から浮かび上がった。
――身の丈一五尺を超える、|噂《うわさ》の白鬼である。
|誰《だれ》もが、息を忘れた。
巨大な鬼は、ゆっくりと辺りを見回した。最後に、似つかぬ仲間の死体に目を落とした。
|異形《いぎょう》のものの|咆《ほう》|哮《こう》が、都を|駆《か》け抜けた。
狂ったように逃げ始めた人々に向かって、鬼は|跳躍《ちょうやく》した。
腕の一振りで、一〇人の首が、真横に吹っ飛んだ。続けて、その先を行く一〇人を、頭上から踏みつけ、|擦《す》り|潰《つぶ》した。
鬼が、またも|雄《お》|叫《たけ》びを上げた。
恐ろしいことに、この|巨《きょ》|躯《く》の鬼は、|痩《や》せた死鬼たちと性質が異なっていた。人を食らうために殺すことをしないのである。いや、|掴《つか》んで食うには食うが、無意味に殺す人の数は、その数百倍に達した。ただひたすらにくびり殺していく。
鬼は人を殺した。
殺して殺して、殺しまくった。
到着した弓兵が整列して前に出て、一斉に火矢を放った。
鬼は外見とは裏腹の素早さで、手近な民家の屋根をむしり取り、これをはたき落とした。兵たちは恐れおののいた。この巨大な鬼には、明らかな知恵があったのである。
弓兵の軍団は、飛んできた屋根に押し潰された。|矢《や》|尻《じり》の火が木材に引火し、|彼《かれ》|等《ら》は己の炎で、じきに焼死した。
見ていた兵の何人かが、これで本当に狂った。笑いながら、矛を振り回し、白い鬼に突っ込んでいったのである。
矛先は突き刺さったが、兵の力より鬼の再生能力の方が高かった。力の限り押しても、|異形《いぎょう》の筋肉が、矛を盛り返したのだ。
鬼が兵の頭部をつまんだ直後、|脳漿《のうしょう》が飛び散った。
|殺《さつ》|戮《りく》は続いた。
誰もが、絶望した。
誰もが、安らかな死を願った。
奇妙な人物が現れたのは、そんな時である。
――木こりだ。
かなり|高《こう》|齢《れい》の老人だったようだ、と私本にはある。背も曲がり、|杖《つえ》を突き――伸びた|顎《あご》|髯《ひげ》は、真っ白であった。そして背負ったものが、人々の注目をさらった。
石を削って作った巨弓である。
ただ、その大きさは異常だった。老人より大きいのだ。矢筒も同様である。弦に至っては月明かりを映したというから、おそらくは|鋼《はがね》製だ。
この奇妙な老人を目にした途端、鬼は動くのをやめた。
老人も前に出ると、微動だにしなくなった。
およそ|睨《にら》み合いというものには、対等な力関係が必要だが、なぜか高齢の木こりは、鬼の憎悪を受けても、平然としていたという。
やがて――炭化した|松《たい》|明《まつ》が、地面に落ちた。
それが|緊張《きんちょう》を破った。
最初に動いたのは、白鬼の方だった。腰を落とし、地面を|蹴《け》ったのである。
だが老人の異常な速度が、これを迎え|撃《う》った。跳びすさると、|瞬時《しゅんじ》に空中で矢を|番《つが》え、異形の怪物向けて放ったのだ。
風が空気を切り裂いた。
地上に下り立った白鬼の背中からは、巨大な|鋼《こう》|鉄《てつ》の矢が生えていた。
しかし、決着がついたわけではなかった。すぐに鬼は立ち上がると、|城壁《じょうへき》の屋根に跳び移ったのである。老人も、これに続いた。
二つの影が、|闇《やみ》の都に舞い、そして消えていった。
以降、鬼が出ることは二度となかった――。
「……あ、あれ? これで終わり? そんなぁ」
|美《み》|貴《き》が青白い顔で、嘆いた。
その|隣《となり》で、|鷲士《しゅうじ》がメガネのずれを直しながら、
「あ、でも続きがあるみたいだよ。これ、どうやら昔のインタビュー記事みたいだね。口述筆記ってやつだよ、この時代にしては珍しいなぁ」
「イ、インタビュ〜? ちょっと、ウソでしょ?」
泣きそうな顔で、美貴。物語でも|恐《こわ》いのに、これが事実だとしたら、恐怖倍増どころの話ではない。
「なんかね、この鬼を追い払ったお|爺《じい》さんから、直接話を聞いてるみたいで――名前も出てるよ。ほら、ここ――かの者、名を竹取の|翁《おきな》と語りけり――」
一拍ほど、間ができた。
読んだ本人の目が点になった。
「……は?」
「た、竹取の……翁ぁ?」
竹取の翁――早い話が、かぐや姫の義理の父である。元は木こり――竹から生まれた少女を育て、長者になった老人だ。
学内一の|麗《れい》|女《じょ》は、不信感も|露《あらわ》に、私本に目を落とした。
「あ……ホントだ。竹取の翁……」
「ねっ?」
「う、うん。でも、まだ続きがあるみたいね」
「そうなんだけど、すごく慌ててたようでさ、ここから先、記述グシャグシャ。ぼくじゃ、ちょっと読み取れそうにないよ」
「ちょ、ちょっと貸して」
|美《み》|貴《き》が、私本を受け取って、顔を近付けた。
「うわ、こりゃひどいね。文字が|潰《つぶ》れちゃってるから、適当な意訳になると思うけど――それでもいい?」
「よろしく」
「じゃあ。えーっと……なになに? いきなり翁が石弓を|構《かま》えた……と。生ぬるい風が、わたしに吹きつけて……じゃない、翁とわたしの間を吹き抜けて、だわ。ゴメンゴメン。で……突然、障子が破られて……」
美貴が、唐突に言葉を切った。
白い顔が、まず赤くなり、次に青くなったと思ったら、最後には|土《つち》|気《け》色。
「ど、どうしたの、美貴ちゃん? |唇《くちびる》……|紫《むらさき》だよ?」
「だ、だって……」
「なんて書いてあったの?」
「お……鬼が……いま……目の前に……」
そして美貴は、|震《ふる》える手で、|古《こ》|文《もん》|書《じょ》を広げて見せた。
そこには、やはり何かが飛び散ったような痕があり、以降のページは、赤黒く塗り|潰《つぶ》されていた。完全に固まっているようだ。
|鷲士《しゅうじ》は、ゆっくり|唾《つば》を|呑《の》み込み、
「それ……やっぱり……血?」
「うわーん! ゆーなぁ、鷲士のバカァ!」
|喚《わめ》くと、涙目でポカポカ|攻《こう》|撃《げき》を|繰《く》り出す美貴だった。まるで|美《み》|沙《さ》である。だが――異変はこの時に起きた。
突然、耳をつんざく小刻みな|爆《ばく》|音《おん》が生じたのだ。連動するように、図書館のガラスが、立て続けに砕けた。奥から手前――左から右へ。二人の横の窓も例外ではない。細かい結晶が、雨になって降りかかった。
「えっ? えっ? なに、なんなの!?」
「危ない、美貴ちゃん!」
このときボケ青年が見せた反応は、外見とは裏腹に実に的確だった。ジャンパーでガラス片を払いのけると、同級生を抱きしめてしゃがみ込んだのである。ガラスの粒子が、|庇《かば》った鷲士の肩に降りかかる。
やがて、|爆《ばく》|音《おん》はやんだ。
最後のガラスが、窓枠から落ちた。|沈《ちん》|黙《もく》の中で、砕け散る。
続いた音――なぜか拍手。
静かな|喝《かっ》|采《さい》が、夜の図書館に|響《ひび》き渡った。
「いや……お見事。大した反射神経だ。ただの大学生では、そうはいかない」
メガネのずれを直しながら、|眉《まゆ》をひそめて、|鷲士《しゅうじ》は顔を上げた。
白いスーツの男が、戸口に立っていた。
美しい笑顔――しかし意味深な笑い。
「おっと――自己紹介がまだでしたね。わたしはミュージアムに属するハイ・キュレーターの一人、|桐《きり》|古《こ》|連《れん》。以後、お見知りおきを、|草《くさ》|刈《かり》鷲士さん」
男は|馬《ば》|鹿《か》丁寧に、おじぎした。
一拍置いて上げた|瞳《ひとみ》に、優しさのようなものはなかった。
「いや、こう呼ぶべきか――世界を|股《また》にかける無敵のトレジャーハンター、ダーティ・フェイス」
第三章 もう一人は男のコ
空には、既に星が|輝《かがや》いている。
都内某所――|築《ちく》一〇〇年を数えるという私立カトレア女学館中等部の校舎から、小さな影が現れて、ヨタヨタしながら校門を抜けた。
「はへ〜。もう声が出ないよ〜」
|美《み》|沙《さ》である。犬みたいにベロを出して、|呟《つぶや》いた。
スッ、と後ろから人影が浮かび上がった。
「|結《ゆう》|城《き》さん、お待ちなさい」
「は、はいっ」
引きつけを起こしたように立ち止まると、美沙は慌てて振り返った。
――シスター。学園付きの|尼《に》|僧《そう》だ。
「中等部になったというのに変わりませんね、あなたは。はい、忘れ物ですよ」
「どどど、どーも」
ヘコヘコしながら紙の束――|楽《がく》|譜《ふ》――を受け取る美沙だ。
シスターは|頬《ほお》に手を当てると、深くため息をついた。
「最近、また欠席や早退が多くなってるって聞きましたけど……そんなことだから、こんな時間まで居残りさせられる|破《は》|目《め》になるんですよ? 何かあったのですか?」
「え、えーと、ちょっと家庭の方で問題が……」
困ったように笑う美沙である。
「……またですか」
と、シスターは軽く頭を振った。
「とりあえず居残りの件については、もっと別の時間に回してもらうように、わたしの方から先生方にお願いしておきます。女の子を一人でこんな時間に帰すだなんて、目に余るものがありますし」
「お、お願いしますぅ〜」
「それから|親《おや》|御《ご》さんにも、少し時間を作っていただきなさい」
「えっ? な、なんで?」
「……一度わたしの方から、あなたのお家にお伺いします」
「え――ええーっ!? シスターが!?」
青ざめる美沙の鼻先で、尼僧は|思《し》|慮《りょ》深そうに|頷《うなず》き、
「学園のカウンセラーを兼ねる者として、これ以上、放ってはおけません。あなたの家庭がゴタゴタしているのは聞いていますが、第三者の介入によって、問題が解決する場合もありますからね」
「い、いや、それはちょっと。もっとややこしくなるってゆーか……」
ひえー、と|美《み》|沙《さ》が|後《あと》|退《ずさ》った時だった。
制服の胸ポケットから、妙な音が上がった。
――ちゃ〜ららっちゃちゃららら、ちゃ〜らら〜らら〜♪
|軍《ぐん》|艦《かん》マーチ。携帯の着メロだ。
「こらこら、いけませんよ。カトレアは、学校への携帯の持ち込みは禁止――」
「ご、ごめんなさい、このメロディ、|緊急《きんきゅう》なんで!」
引きつった笑みで携帯を抜くと、美沙は背を向けた。
「ちょ、ちょっと、なによ、こんな時にっ」
|喚《わめ》きも、さすがに小声である。
が――すぐに幼い|美《び》|貌《ぼう》は凍りついた。
「……な、なんですって!?」
美沙は血相を変え、シスターは|眉《まゆ》をひそめた。
携帯から顔を離すと、美沙は|尼《に》|僧《そう》へ振り向いた。受け取ったばかりの忘れ物――|楽《がく》|譜《ふ》を、無理やりに押しつけ、
「す、すいませんっ、緊急事態! わたし、行かなきゃ!」
「えっ? ちょ、ちょっと、|結《ゆう》|城《き》さん――」
とシスターが手を伸ばした時には、美沙は既に|駆《か》け出していた。
「家庭訪問の件は、また今度!」
肩越しに喚くと、小さな背中は、あっという間に、夜の街に飲み込まれた。
|呆《あっ》|気《け》にとられていた尼僧は、やがてため息をつき、
「……どうしてああ落ち着きがないのかしら?」
夜の図書館で起きた異変は、とどまることを知らない。
白いスーツの男――|桐《きり》|古《こ》――の後ろから、さらに数人の部下が現れたのだ。黒服らは、一切の表情を見せることなく、|揃《そろ》って銃口を|鷲士《しゅうじ》に向けた。
一番後ろには、まとめ役の|頬《ほお》|傷《きず》の男――こいつも無言だ。
彼らの登場によって、部屋の空気が一気に冷え込んだ。青ざめ、しがみついてくる|美《み》|貴《き》の手を、鷲士も冷や汗を|掻《か》きつつ握り|締《し》めた。
差し込む月明かりが、敵の|美《び》|貌《ぼう》に影を落とす。
「……さすがはアフリカの小国・エルムンダを二時間で滅ぼした男。少しは暴れるかと思いきや、この状況でも動じないとは。敵ながら大したものだ」
「え……?」
|鷲士《しゅうじ》が|眉《まゆ》をひそめたのは当然である。
「失礼だが、ここ数日のあなたの行動を調べさせていただきました」
踏み出した|桐《きり》|古《こ》の|靴《くつ》の裏で、ガラス片が砕け散った。
「だが分かったことと言えば、貧乏学生のカモフラージュが|完《かん》|璧《ぺき》ということぐらいだ。あんな廃屋に住み、バイト|三《ざん》|昧《まい》――あなたがシェバの宮殿跡から発掘した宝石一つとっても、|兆《ちょう》の単位の値がつくというのに。その|貫《かん》|徹《てつ》精神は想像を絶する」
「あ、あの、言ってることが……」
と足を踏み出した|刹《せつ》|那《な》、|頬《ほお》|傷《きず》の男が|拳銃《けんじゅう》を抜いた。
「――動くな!」
ワルサーP1・ステンレス・カスタム――サル顔の三代目が使うことで有名な、P38の再生産モデルだ。構造は昔のままながら、命中精度の高さでは、現在でもトップクラスを誇る名銃である。|剥《む》き出しのバレルが定めた狙いは、鷲士の|額《ひたい》だった。
「……部下の無粋は失礼。ですが不用意に動くと、命の保証はできませんよ」
目を細めて、桐古は|囁《ささや》いた。明らかに本気――しかも冷静だ。
銀色の銃口を見つめて、鷲士は|唾《つば》を|呑《の》み込んだ。
「その貧乏学生の装い――個人的にはどこまで続くか見てみたかったのですが、|生《あい》|憎《にく》と多忙な身でして。わたしの用件はたった一つ」
そして桐古は、視線を|古《こ》|文《もん》|書《じょ》に移し、
「|稗田《ひえだの》|阿《あ》|礼《れ》私本――渡していただこう」
「えっ? ダ、ダメですよ、これは! ぼくのじゃないんだし、そもそもあなたたち、大きな勘違い――」
と慌てて鷲士が私本をシャツの下に隠そうとした|刹《せつ》|那《な》、一発の|鋭《するど》い銃声が、深夜の図書館を切り裂いた。
背後の窓が砕け、鷲士の頬に一筋の赤い糸が生じた。ツツツ、と|鮮《せん》|血《けつ》が滴ってきたのは、高音域の|残響《ざんきょう》が消えた後だった。
「……!」
鷲士は息を呑んで、傷を見た。弾丸が|掠《かす》ったのだ。
硝煙を吐き出したまま――リコイルでずれた銃口を、頬傷の男は鷲士へ戻した。
「……動くなと言ったはずです。|脳漿《のうしょう》で汚れた私本など、持って帰りたくはない」
|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めて、統領は吐き捨てた。
|美《み》|貴《き》の顔色は、青を超えて白くなった。敵の本気を肌で悟ったのだ。
敵キュレーターは、|怜《れい》|悧《り》な|眼《まな》|差《ざ》しを鷲士に固定したまま、
「|繰《く》り返すようですが、わたしも多忙な身。できれば、あなたと全面的に事を|構《かま》えるのは避けたいのです。そこで……どうでしょう? ここは取り引きといきませんか?」
「と、取り引き?」
「五億五〇〇〇万――無論、USダラーで。それでこの|迦《か》|具《ぐ》|夜《や》|比《ひ》|売《め》伝説の件からは、完全に手を引いていただきたい」
|桐《きり》|古《こ》は事務的に告げ、|鷲士《しゅうじ》は|呆《ぼう》|然《ぜん》と私本に目を落とした。
五億五〇〇〇万ドル。レートにもよるが、円に換算すると軽く六〇〇億以上。人間がこの金額を手にするためには、実力よりも運が必要である。
……こ、この怪しげな|古《こ》|文《もん》|書《じょ》が六〇〇億円? それに……かぐや姫伝説? いったい何がどうなってるんだ……?
いや……もっと|遡《さかのぼ》って、ダーティ・フェイスって?
同時刻――とある地下|駐車場《ちゅうしゃじょう》を走る、黒ずくめの小さな影があった。
「だからターゲットの区画は全面的に|封《ふう》|鎖《さ》して――そう!」
手にはスポーティ・グローブ、肩には自動小銃・L85A1。腰のインサイド・ヒップホルスターに挟まっているのは、グロック17だ。
影は走りながら、ヘッドセット・レシーバーに|喚《わめ》いた。
「与党に圧力かけて――え? クビにしちゃえ、そんな大臣! あとで|冴《さえ》|葉《ば》にも、こっちに来るように伝えといて! じゃ、また後でね!」
舌っ足らずな声でとんでもないことを言うと、人影は通信を切った。目の前の|潰《つぶ》れたような車に乗り込むと、ドアを下げ、スロットル・ペダルを|蹴《け》り込む。
黒い車体が、|唸《うな》り声を上げて急発進した――。
「金額の算出根拠は、あなたと正面から戦った場合にミュージアム側が被る予想被害額の四分の三――損はないと思いますが? 少なくとも三〇〇億までなら一時間以内に用意できます。いかがです?」
「……あ、あの、そういうワケには、ちょっと。それに、ぼく、フェイスってヒトとは、なんの|関《かか》わりもないですし……」
冷汗を流しながら、鷲士は弁解した。
桐古の|眉《み》|間《けん》に、シワが入った。
「……ふざけているのか?」
「そ、そんな!」
「ナイフから|戦《せん》|闘《とう》|機《き》まで、すべての兵器を使いこなし、|蝦夷《え み し》の古武道・|九頭竜《くずりゅう》を|揮《ふる》う史上最強の宝探し、ダーティ・フェイス。“来訪者”の|遺《い》|産《さん》を回収せんとする我々の前に、常に立ちはだかってきた男。それがあなただ。なにを今さら……!」
「あ、あれ? えっと……一つだけ当たってたりして……」
「ちょ、ちょっと――|鷲士《しゅうじ》っ!?」
青ざめたボケ青年の|袖《そで》を、|美《み》|貴《き》が引っ張った。
|桐《きり》|古《こ》は目を細め、二人を見た。
やがて彼は、白いスーツをひるがえし、
「……やれ。相手は|真《ま》|面《じ》|目《め》な話ができないようだ。わたしが手を下す価値もない」
ゾッとするような声だった。
返事の代わりに、黒服の手元で、マズルフラッシュが|炸《さく》|裂《れつ》した。
凍りつく美貴を抱きかかえ、鷲士は机の下へ身を沈めた。表情は『あわわ』なのだが、この青年、行動だけは的確だから不思議だ。頭上で、ペンケースやシャーペンが砕け散り、二人の頭に降りかかる。
美貴は涙目で鷲士を|睨《にら》みつけ、押し殺した声で、
「もうっ、やっぱり変なバイトしてたんだろっ、このバカ鷲士っ! あいつらなにっ!?」
「いや、ホントに知らないんだってば! 言ってることワケ分かんないし!」
弁解する鷲士をよそに、招かれざる集団の方から、重い金属音が上がった。振り返った二人の目に映ったのは、とんでもない|代《しろ》|物《もの》だった。
――バズーカのマズル。
黒服の一人が、肩付けにロックしている。
「もう一度|訊《き》いておこう。取り引きをする気は?」
「だからできないんですよ! 違うんだから!」
「……つまらないことを。仕方ない、殺しなさい」
美青年は、部下にアゴをしゃくってみせた。
しかし、黒服からの返事はなかった。代わりに肉を引き裂く音がして、ミュージアムの面々は、|揃《そろ》って砲兵に視線を集中させた。
ジャケットの腹部から、大人の胴回りほどもある巨大な腕が生えていた。
「……あ?」
|呟《つぶや》いたのは、当の黒服だ。困惑の表情で、自分の腹から突き出た、血まみれの巨腕に目を落とす。間を置かず、|唇《くちびる》の間から吹き出したものは、血煙だった。
無言だった|頬《ほお》|傷《きず》の男が、血相を変えて|後《あと》|退《ずさ》った。
「ま、まさか――!?」
そして|闇《やみ》から浮かび上がった巨大な顔が、砲兵の頭部を飲み込んだ。
――鬼。
あらざるものの出現を受け、空気が完全に凍りついた。
|美《み》|貴《き》が口をパクパクさせ、|鷲士《しゅうじ》まで青くなった。
|異形《いぎょう》の存在の身長は、三メートル超。天井の高い図書室にあっても、背を曲げていた。肌には一切の色素がなく、ぬめりを帯びている。私本の記述と、全く同じだ。
――なよ竹の鬼。
白い口の中で、何かが割れる音がした。男の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》が、|噛《か》み砕かれたのだ。
「うわ……わあああああっ!」
残りの黒服たちが、女のような悲鳴を上げて、SMGを向けた。銃口から立て続けに光がほとばしり、鬼の白い|体《たい》|躯《く》に穴を|穿《うが》つ。
鬼は|唸《うな》り声を上げると、|屍《しかばね》を横に振った。
死体の|一《いっ》|閃《せん》を受け、黒服たちは吹っ飛んだ。二メートルは|弾《はじ》き飛ばされ、|各《おの》|々《おの》が背中から本棚に激突する。そのまま棚ごと倒れ込んだ。
「な、なよ竹の鬼!? どうしてここが!?」
|呆《ぼう》|然《ぜん》として、|桐《きり》|古《こ》も|後《あと》|退《ずさ》る。
しかし鬼は|彼《かれ》|等《ら》には目もくれず、巨大な足を、一歩踏み出した。
――鷲士の方へと。
「……返しや」
骨まで|蝕《むしば》むような低音で、鬼は手を出した。
これで美貴の感情が完全に弾けた。涙目で鷲士にしがみつくと、
「いやぁぁぁ! しゅーくん、なんとかしてぇ!」
「だっ、大丈夫だよ! ぼくが美貴ちゃんを――」
|庇《かば》う鷲士だったが、|瞬《まばた》きして、顔を寄せた。
「え……? しゅー……くん?」
だが新たな動きが、青年の問いを中断させた。
――|眩《まばゆ》い光だ。砕け散った窓から、急に光が差し込んできたのである。
「くっ――今度はなんだ!?」
桐古が顔を|覆《おお》い隠した。
耳をつんざくエンジン音と共に、鷲士のすぐ|傍《そば》――グラウンド側の|壁《かべ》が粉々になった。何かが問答無用で突っ込んできたのだ。
そして降り注ぐ構材から頭を|庇《かば》いながら、鷲士は見た。
|徹《てっ》|底《てい》的に場違いな、新たな侵入者を。
――黒いランボルギーニ・カウンタックLP500。
「……へっ?」
鷲士の口元が、完全に引きつった。
車高が低すぎて、ブッ|潰《つぶ》れたような印象を与えるイタリアの暴れ馬は、壁の|残《ざん》|骸《がい》を|撥《は》ね跳ばしながら、車体前半を乗り込んだ時点で急停止した。間を置かずドアが|撥《は》ね上がり、コックピットから小さな人影が現れた。
影の手元で、光が|爆《ばく》|発《はつ》した。
「おらおら、死んじゃえ〜っ!」
妙に舌っ足らずな|雄《お》|叫《たけ》びと共に、立て続けに爆音が生じた。ヘッケラー&コッホ社製・L85A1――自動小銃の銃声である。
弾丸は、|揃《そろ》って鬼に吸い込まれた。と同時に、鬼の白い巨体のあちこちで、小刻みな爆発が起きた。単なるNATO弾ではこうはいかない。エクスプロッシヴ・カートリッジ――弾頭自体に爆薬を仕込んだ爆裂弾が上げた成果だ。
「グルルルル……!」
鬼は|呻《うめ》き声を上げて|後《あと》|退《ずさ》った。
しかし小さな人影の猛攻は、|止《とど》まることを知らなかった。影はL85A1の銃身に取りつけられた、もう一つの巨大な銃口に手をかけたのである。
――HG40。L85A1用のアド・オン・グレネード・ランチャーだ。文字通りの、取りつけ型|榴弾砲《りゅうだんほう》である。
巨大な四〇ミリ・バレルから放たれた火の玉は、鬼の胸板で大爆発を起こした。炎が|噴《ふ》き上がり、束の間、夜の図書室を真昼に変えた。
これには、さすがに|異形《いぎょう》の者もひとたまりもなかった――かどうかは分からない。鬼は背後へ吹き飛ばされ、|壁《かべ》まで巻き添えにして、校舎の奥へ消えてしまったからである。ポッカリと|穿《うが》たれた大穴から、パラパラ、と破片が|零《こぼ》れ落ちた。
「さっ、乗って! |鷲士《しゅうじ》くん!」
そして車のライトが、声の主を照らし出した。
服こそ今は黒一色の|戦《せん》|闘《とう》|服《ふく》だが、赤い二つのリボンと|美《び》|貌《ぼう》、メノウ色の大きな|瞳《ひとみ》は、いつもと一緒。言わずと知れたその正体は――。
「み――|美《み》|沙《さ》ちゃん!?」
自称・娘を見て、鷲士は口をアングリ。
それからの出来事は、同時に起こった。
「なっ、なによぅ! 何が起きたのよぅ!」
まず、おっかなびっくりに|美《み》|貴《き》が目を開け――。
「ちょ、ちょっとぉ、まさか女……!?」
次に青筋を浮かべて、美沙が|覗《のぞ》き込み――。
そしてサイズは違えど、二人の美女の視線が、同時に重なった。
「「ああ――――――――――――っ!?」」
叫びまでが同期した。|美《み》|沙《さ》、|美《み》|貴《き》――二人はお互いを指差しながら青ざめて、悲鳴に近い声を上げた。
「あ、あれ? ひょっとして――二人とも、知り合い?」
|鷲士《しゅうじ》の言葉に二人は凍りついた。
次の|瞬間《しゅんかん》、|揃《そろ》って首をブンブン振った。
「えっ? でもさ、いま、二人して、あーっ、て――」
「あっ、あっ、あ――っ、あなたはだぁれ〜?」
裏声で、美沙。
「あっ、あっ、あ――っ、あたしは|麻《ま》|当《とう》美貴、|草《くさ》|刈《かり》くんの同級生よ〜」
同様に、美貴。
二人とも怪しさ大|爆《ばく》|発《はつ》だが、相手はボケ青年である。
「なーんだ。ぼく、てっきり。そっか、そうだよね。同じカト女だからって、顔見知りってことが、そうそうあるワケない――」
美沙が|穿《うが》った穴の奥で、影が動いた。
三人は、ギョッとして振り返った。
|闇《やみ》の中で|紅《くれない》の|双《そう》|眸《ぼう》が|爛《らん》|々《らん》と光ったと同時に、|壁《かべ》の|残《ざん》|骸《がい》が飛び散った。鬼が立ち上がったのである。グレネードの|一《いち》|撃《げき》がさほど効いていなかった証明だ。さらに白くぬめる胸板から、ボロボロと金属の破片が|零《こぼ》れ落ちた。弾体の破片だ。
「さ、再生している……!? なんという……!」
|呻《うめ》くと、|桐《きり》|古《こ》は身をひるがえした。
「仕方ない、いったん引きます! 私本は生き残った方から奪えばいい!」
言うが早いか、ミュージアムの男たちは、|闇《やみ》に消えた。
美沙も舌打ちして銃を|構《かま》え直し、
「ほらっ、鷲士くん、乗って! そこの女も!」
「そ、そこの女ぁ? キミねぇ、わたしに向かってそんな言い方――」
|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》丸出しの美貴だが、なぜか美沙の白い目が、これを|迎《げい》|撃《げき》した。
「あは〜ん? そういうコト言うんだ? いいよ、いいよ、いいですよぉ〜? わたしってまだるっこしいの大っ|嫌《きら》いだしぃ? じゃ、正直に、おか――」
「うわ―――――――――っ!」
美貴のありったけの悲鳴が、美少女中学生の言葉を|遮《さえぎ》った。
キョトンとする鷲士の前で、|麗《れい》|女《じょ》は不自然なほど腰を低くし、
「いっ、いいですいいです、そこの女で! いやぁ、わたしなんか! アハハ!」
「じゃ、さっさと乗る! さもないと、鬼とツーショットだよ!」
「は、はいっ! ほら、|鷲士《しゅうじ》!」
「う、うん」
鷲士は首を|傾《かし》げながら、カウンタックに乗り込んだ。シフトレバーを|避《よ》けながら、運転席から助手席へ。|美《み》|貴《き》が汗ジトで後に続く。
|美《み》|沙《さ》はL85A1のマガジンを取り替えると、再びフルオート連射。鬼を|牽《けん》|制《せい》すると、きびすを返した。が――運転席の美貴を見るなり、目をつり上げたから恐ろしい。
「ちょっとぉ、どこ座ってんのよ!」
「えっ、えっ? でも、このクルマ、二つしか座席ないし……」
「うっるさぁーい! あっちいけ!」
と|小《こ》|悪《あく》|魔《ま》ならぬチビ魔王のケリを|尻《しり》に食らい、美貴は助手席――鷲士の|膝《ひざ》の上に追いやられた。それだけならまだしも、顔を窓ガラスでガチン。
「いっ……!」
鼻を押さえて、美貴は悲鳴を押し殺した。悲惨だ。
「だっ、大丈夫、美貴ちゃん?」
お人|好《よ》しの権化が、心配そうに|訊《き》いた。
見慣れているはずでも、さすがに鼻先に顔があると勝手が違うらしい。美貴は顔を赤らめて目線を外し、
「……う、うん。あの……わたし重くない?」
「えっ? そ、そんな。空気みたいだよ」
と、こっちも赤くなる。
「も、もぉ、ばか。でも……さっきはありがと。|庇《かば》ってくれて」
「いや、だって。女のコを庇うのは、男の――ぐえ!」
舌を|噛《か》んだ悲鳴だった。車が発進し、上下に揺れたのだ。
後ろを見ながら、美沙はステアリングを切り、
「はいはい! |黙《だま》ってないと舌噛むわよ、鷲士くん!」
「ろほほ……もうひゃんひゅひょ……」
涙目で口を押さえながら、鷲士。だが、すぐに真顔に――血相を変えた。ウィンドシールド越しに、白鬼の姿を|捉《とら》えたからだ。
鬼の|顎《あご》が、ゆっくりと上下した。
か。
え。
し。
や。
“返しや”
エンジンノイズに|掻《か》き消され、声は届きはしない。だが大学生の男女は青ざめた。鬼の執念を感じ取ったのだ。
しかし――これに|噛《か》みつく者が一人。
「へーんだ! 追えるなら追ってくれば!」
中庭で土煙を上げて、カウンタックは回頭。そして|美《み》|沙《さ》はアクセルを|蹴《け》り込んだ。
発進した黒い車体は、稲妻のように正門を突っ切った。車道に出るなり、無理やりのカウンター・ドリフト。フェンダーがアスファルトと|擦《こす》れ、オレンジ色の火花が飛び散った。そのまま、|闇《やみ》の街へと消えていく。
|爆《ばく》|音《おん》が遠ざかる中、鬼は足を止めた。
「グググ……オオオオオオオオオオオオオオオオ!」
|異形《いぎょう》の者の|咆《ほう》|哮《こう》が星空にぶつかり、消えた――。
「ああ、もう! このクルマ速いけど、ただでさえ視認性サイアクなのに! なんとかしなさいよ、このケツ! |邪《じゃ》|魔《ま》でそっち見えないじゃん!」
ベシッ。
「いったーい! だ、だってしょうがないだろう! こんな体勢なのに!」
カウンタックの車内で、|美《み》|貴《き》が|喚《わめ》いた。
美沙はステアリングを切りながら、鼻を鳴らし、
「ったく、二人とも無意味にノッポなんだから。ああっ、それにしてもホントに邪魔ね、このデカケツ! こういうの、安産型っていうの?」
ところが、これが不可解な答えを誘った。
美貴はキッ、と真顔になると、
「あ――安産じゃなかったもん! ぜんっっっぜん違ったもん!」
と不思議なことを言い、涙目で美沙を|睨《にら》み返したのである。
|鷲士《しゅうじ》が|瞬《まばた》きしたのは当然だ。
「どうしたの、美貴ちゃん? まるで子供生んだことがあるみたい――ぐえ!」
今度はパンチである。美貴の|拳《こぶし》が、ボケ青年の|頬《こぶし》に食い込んだのだ。
「えっ? あ……!」
なぜか当の美貴が、青ざめて鷲士と拳を見比べた。反射的にやってしまった――顔がそう言っている。そして、慌ててプイッ。
「しゅ、|鷲士《しゅうじ》、いまわたしの胸、触った!」
「え、ええっ? だって手は最初からここに――」
と自分の顔の前で、両手をヒラヒラ。
「う、うるさいなあ! 触ったって言ったら触ったんだ!」
「そ、そりゃないよ〜」
「……ギャグはそこまでだよ! 追っ手が来たみたい!」
サイドミラーを見つめる|美《み》|沙《さ》が、|鋭《するど》く制した。鷲士と|美《み》|貴《き》も顔を見合わせ、慌てて後ろを振り返る。
――カカカン!
すだれ状に差し込む強烈な光の中、ガラスの上で火花が飛び散った。
「わわわっ!?」
反射的に頭を|庇《かば》いながらも、鷲士は見た。
シルバーのBMWだ。黒服が上体を乗り出し、SMGを連射している。マズルフラッシュが裂けると同時に、こちらの車体に|閃《せん》|光《こう》が走った。
血相を変えて、鷲士は娘を見た。
「どどど、どーするの!? |撃《う》たれてるよ!?」
「ハン! よゆーよゆー! このクルマ、特殊塗料でコーティングされてるから! バズーカの|直撃《ちょくげき》でも食らわない限りだいじょーぶ!」
「あ……バズーカ……」
美貴がぼんやりと|呟《つぶや》いて、|父《おや》|娘《こ》は血相を変えて振り返った。
「ええっ!?」
――ドガン!
大振動が、車内を|襲《おそ》った。直撃こそ免れたものの、|衝撃《しょうげき》で束の間、カウタックの四輪がアスファルトから離れたのである。
「うわーっ!」
「きゃーっ!」
「だー! うるさいっ!」
一番の年下が一番冷静だから恐ろしい。美沙は|喚《わめ》きながらも、再び着地した車体を的確に操り、先刻と同じラインに載せた。
だが本当に恐ろしいのは、ここからだった。
「あンのバカどもォ〜! 思い知らせてやる!」
ヒヒヒ、と笑うと、美沙はギア|脇《わき》のコンソールを指で|弾《はじ》いた。
同期して、車両後方――リアタイア上のフレームが中に沈み、代わりに黒いパイプのようなものが現れた。
四連装ガトリング・ガン。通常は|戦《せん》|闘《とう》ヘリなどに積まれる|代《しろ》|物《もの》だ。それが左右計二門。砲身は、出現すると同時に、キリキリと音を立てて回頭した。
|狙《ねら》いは言うまでもなく――背後のBMWである。左右の砲門とも傾度が微妙に違うところを見ると、自立的に照準を定めているらしい。
「アディオ〜ス!」
|傲《ごう》|慢《まん》な笑みを浮かべて、|美《み》|沙《さ》はボタンをぶっ|叩《たた》いた。
回転を始めたと同時に、ガトリング・ガンの銃口で光が|爆《ばく》|発《はつ》した。巨大なカートリッジが機関部から排出され、次々に路上へ落ちていく。
結果は、火を見るより明らかだった。
|瞬時《しゅんじ》に敵の車両は穴だらけになった。まずボンネットが|壊《こわ》れ、ウィンドシールドが粉々に砕け散る。
少し間を置いて、BMWのボンネットが、炎と共に吹っ飛んだ。エンジンが爆発したのである。
銀色の車体は、自らが吐き出す煙に食われるかのように、姿を消した。
「アハハッ、バァ〜カ! 技術と財力が違うのよ!」
夜の街に|噴《ふ》き上がる火柱をサイドミラーで確認しながら、美沙は|嘲笑《ちょうしょう》した。大学生二人は完全な絶句状態である。
ところが、すぐに続きが現れた。その火柱の中から、またまた新たな敵車両が現れたのである。今度も銀色――ただしボルボだ。
再びカウンタックの上を火花が|爆《は》ぜた。|銃撃《じゅうげき》されたのだ。
美沙の笑いが、瞬時に引きつった。
「次から次へと、よくもまあ……!」
「ちょ、ちょっと、キミ! あれっ!」
|美《み》|貴《き》が青ざめて、前方を指差した。
赤と青の光が、視界を埋め尽くしていた。
――パトカーである。横付けに数十台。道路|封《ふう》|鎖《さ》だ。
『そこの車両、|停《と》まりなさ〜い!』
妙に間延びした声を、拡声器が増幅した。ライトの前に、いくつもの人影が見える。相当な人数がいるようだ。
「クッ!」
|呻《うめ》いて|美《み》|沙《さ》は、ステアリングを切ると同時に、ギア・チェンジ+サイドブレーキング。車体を故意にスピンターン――さらに逆ハン切って、ブレーキを|蹴《け》り込んだ。
カウンタックは、パトカーの鼻先で完全に停止した。
「出てっ、二人とも!」
「う、うん!」
ガルウィングのドアが|撥《は》ね上がり、美沙は左、|鷲士《しゅうじ》と|美《み》|貴《き》は右側から路上に降り立った。そのまま|警《けい》|官《かん》の前で立ち止まる。
「た、助けてくださいっ! ぼくたち、変なヤツらに追われてて!」
鷲士が|懇《こん》|願《がん》したと同時に、後ろでボルボが停車。
四人の黒服が現れて、三メートルほど先で立ち止まった。
「おたくら、なんか|凄《すご》いスピードでブッ飛ばしてましたね〜。なにかあったんですか?」
先頭の警官が、やる気なさげに|訊《き》いた。
黒服の一人が、妙に冷静に、
「……いや、|彼《かれ》|等《ら》が我々の会社から、社外秘の書類を持ち出したもので。身柄を拘束していただければ幸いです。証明もできます」
「う、うそですよ、うそ! あっちが悪いヤツらなんです! なんてゆーか、その、何から話せばいいのか……ああっ!」
「ほ、本当です! 彼の言う通りなんですっ!」
鷲士は頭を抱え、美貴は真っ青だ。
少し、間があった。
先頭の警官は、ボリボリ鼻の頭を|掻《か》きながら、
「……どーする? 悪いヤツらだってよ」
「悪いヤツじゃしょーがねえよなぁ」
後ろから進み出た同僚が答えた。
「そうだよなぁ。そう思うよなぁ」
「だって悪いヤツじゃなぁ。どうしよーもねーよなぁ」
二人は、ニヤリと笑って、帽子を上げた。
――メッシュ・ロングの髪に、耳にはドクロのピアス。後ろのヤツは髪こそ短いが、完全な金髪である。無論、白人ではない。
プー……。
パチン。
ロン毛のチューインガムだ。
鷲士の顔色は、|土《つち》|気《け》色に変わった。
「ダ、ダメだよ、美貴ちゃん……! こ、このヒトたち、きっとニセ警官――」
「悪いヤツはどうすりゃいいと思う?」
「そりゃオマエ――決まってんだろ」
「だな」
|頷《うなず》いたロン毛警官の腕が、|瞬時《しゅんじ》に|霞《かす》んだ。
|爆《ばく》|音《おん》が夜の街を切り裂き、人影がブッ倒れた。
――黒服が、である。
「え……ええ〜っ!? なになに!?」
混乱の極み――|美《み》|貴《き》が悲鳴を上げる中、今度は金髪警官が、銃をブッ放した。
もう一人、黒服が|昏《こん》|倒《とう》した。
残り二人。黒服たちも絶句して、辺りは静まり返った。
やがてリーダーらしきロン毛警官が、
「なぁ。先に|撃《う》ったの……どっちだ?」
「そりゃオマエ、悪いヤツらだろ。定番だからな」
「おお。おれはこの目で見たぜ、ハッキリと。先に撃ったのは、その黒服の方だ。銃は――そうだな、トカレフだった」
後ろの警官たちが、ニヤニヤ笑いながら答えた。
|鷲士《しゅうじ》、美貴、共に凍りついた。事情を悟ったのだ。
無事な黒服の片方が、息を|呑《の》んで|後《あと》|退《ずさ》った。
「ま、まさか貴様ら、ダーティ・フェイスの――!?」
再び爆音がし、そいつも吹っ飛んだ。|呻《うめ》いて、アスファルトを転げ回る。
硝煙がのぼる銃を固定したまま、ロン毛警官は目を細め、
「オレ、いまコンタクトしてなくてさ。あいつが向けてきた銃、なんだった? ライフル系に見えたんだけどさー」
「ステアーのAUGだろ、あれは」
「危なかったな、死ぬとこだったぜ」
「まー、悪いヤツってのはそんなもんだろ」
口だけ――全員の顔を占めるのは笑いだ。
一人残った黒服は真っ青になって、ボルボに戻った。|闇《やみ》に消えていく銀色の車を、警官たちは|嘲笑《ちょうしょう》で見送った。
リーダーは振り返ると、|美《み》|沙《さ》に軽く低頭し、
「ちぃーす、お|嬢《じょう》さん。お久しっす」
「あんがと、助かっちゃった。ボーナス弾んじゃうよ♪」
ニッコリと、美沙である。
警官は苦笑すると、首を振った。
「いいんスよ、カネなんか。オレら、これが楽しみで|警《けい》|官《かん》やってるようなもんだし。やっぱ悪党ってのは、理屈抜きで|殺《や》んなきゃダメでしょ」
ザーッと、|鷲士《しゅうじ》・|美《み》|貴《き》の顔に|縦《たて》|線《せん》が入った。
……ほ、本物の警官!? このヒトたちがぁ!?
「無欲だねぇ。じゃ、昇進ってのは? 刑事とかどう?」
「勘弁してくださいよ。それより|総《そう》|監《かん》が、選挙に出るときには、力添えをよろしくって。なんか|舐《な》めたこと言ってました」
「選挙? あのバカ官僚が?」
んー、と|美《み》|沙《さ》は腕組み。やがて顔を上げ、横の金髪に、
「あんた、どう思う?」
「え? 無視していいんじゃないスか? あんなハゲが議員になっても、この世はちっとも良くなるたぁ思えねーし」
「そうよねー。うん、じゃ、そうする!」
笑顔で答えると、美沙は鷲士へ振り返り、その背中を押した。
「そういうワケだから――いこ、鷲士くん!」
「え、ええっ?」
今度は二人だけでカウンタックに乗り込むと、美沙はエンジンを吹かした。それを見ていた美貴が慌てて、
「ちょ、ちょっと!? わたしはどーなるの!?」
「あ、ねえ、そこの女、希望するとこまで乗せてってくれる?」
ドアの間から顔を出し、美沙。
「ういーッス」
「さっきはありがとう。またねェ♪」
「どうもでした〜。また声かけてください」
警官たちが|揃《そろ》って帽子をとって|挨《あい》|拶《さつ》する中、カウンタックは走り去った。
「こ、こらーっ! ちゃんと事情を説明しなさいーっ!」
美貴が|喚《わめ》いたが、もう遅い。その周りを、警官どもが取り囲んだ。
プー……。
パチン。
「んで、どこまでお送りします? |渋《しぶ》|谷《や》? |新宿《しんじゅく》? あ、お|台《だい》|場《ば》もアリですけど? サイレン鳴らしてりゃ、どの道路も高速と一緒ッスよ?」
「あはは……ち、近くの駅でいいです」
引きつった笑みでお願いする美貴であった――。
同時刻、首都圏上空。
ちりばめた宝石を思わす夜景を|睥《へい》|睨《げい》し、一機のヘリが、街を横切っていた。
「どうです、フェイスの|行方《ゆ く え》は?」
後部シート――目を閉じて、|桐《きり》|古《こ》は|訊《き》いた。
「だめです。あの車、どうやら反射塗料でコーティングされていたようですね。レーダーには全く反応なし――逃げられました」
コックピットの|頬《ほお》|傷《きず》の男が言った。
桐古は|忌《いま》|々《いま》しげに|唇《くちびる》を|歪《ゆが》め、
「……さすがだ。ダーティ・フェイスと呼ばれるだけのことはある」
「あの――よろしいですか?」
「なんです?」
「ダーティ・フェイス――その由来は?」
少し、間があった。
夜景に目を向けると、桐古は|呟《つぶや》くように、
「……消えたクメール超文明の|謎《なぞ》を解き明かし、パレオ・インディアンの古代兵器を発掘した天才宝探し――しかし|未《いま》だかつて、その姿を見た者はいないのです。ヤツと戦った我々のエージェントは、ことごとく全滅。彼の属するメリー・アン――正規の宝探しギルド――にも、特徴が記されているだけに過ぎません。やがて人々は、顔のない天才ハンターに、奇妙なニックネームをつけるようになりました」
そして彼は目を細め、言った。
「ダーティ・フェイス――人前に出せないほど汚いツラに違いない、とね」
「それがあの男、|草《くさ》|刈《かり》|鷲士《しゅうじ》だと?」
「特徴は完全に一致している。特にヤツが|九頭竜《くずりゅう》の使い手だという話――あなたの|掴《つか》んだこの情報は大きい。我々も今まで知らなかったことです」
「いえ、草刈鷲士という名からたどれたのは、それぐらいでした」
「しかし九頭竜とは……厄介な」
「それが何か? 古武道の一流派ではないのですか?」
「……次元が違います。九頭竜の使い手は、地上最強の陸戦生物とまで言われている」
桐古はこめかみを押さえた。
語感の奇妙さか――頬傷の男が、|眉《まゆ》をひそめて振り返った。
「地上最強の……陸戦生物……?」
「……九頭竜の人間が最後に確認されたのは、一九四四年、|満州《まんしゅう》関東軍――|悪名《あくみょう》高き七三一部隊の一兵士でした。わたしはミュージアム本館で、戦後押収された実験フィルムを見たことがあります」
すると|桐《きり》|古《こ》は、急に肩を|震《ふる》わせた。
笑っているのだ。
「信じられますか? |九頭竜《くずりゅう》の人間はね、発射されたバズーカの弾体を|掴《つか》むんですよ。さらに戦車を|掌底《しょうてい》の|一《いち》|撃《げき》で|爆《ばく》|破《は》してしまう。水の上に平気で立ち、抜き手で厚さ一〇センチの鉄板をも貫く――あれはもう、ヒトとは呼べません。歩く兵器だ」
「なっ……? そ、そんな流派が日本に……?」
「館長のお話では、どうも武道とは根本的な部分が違うようです。|秦《しん》の時代――|始《し》|皇《こう》|帝《てい》の暴虐から逃れて|蝦《え》|夷《ぞ》地に帰化した仙人が、その始祖らしい。武術というより、仙術の一種なのでしょうね」
「だから先程も、あんなボケ|面《づら》で平然と……食えぬヤツ」
「正面からの勝利は難しい。とりあえず、彼の|隙《すき》をつく形でもう一度――それで駄目なら、別の方法を取るしかありませんね」
「承知しました。では、そのように」
|頬《ほお》|傷《きず》の男が|頷《うなず》き、ヘリは回頭。ローターの風を切る音が、|闇《やみ》の街に降り注いだ。
一方、黒いLP500は、夜の街を走り続けていた。
助手席を|覗《のぞ》けば、見えるのは肩を落とした|鷲士《しゅうじ》だ。
「トホホ……きっと|今《いま》|頃《ごろ》、メッチャメチャに怒ってるよ、彼女。今度会ったとき、なんて言い訳すればいいんだろ……?」
「へーきへーき、だいじょーぶだって! それより――本」
「あ、うん。はい」
シャツの中から、|古《こ》|文《もん》|書《じょ》を取り出して、|美《み》|沙《さ》の手に載せる。
「もう、ダメじゃん。こんなの持ち出すから、変なのに|狙《ねら》われるんだよ」
「ご、ごめん」
「あ――まさかわたしの私物あさってたとか!」
「そ、そんな! |誤《ご》|解《かい》だよ、誤解――」
と、ここで鷲士は、急に青ざめた。
「ちがーう! 違うだろ!」
「な、なぁに、急ギレ?」
「だって、さっき、銃でババーッて! あれ、ホンモノでしょ!? それに、どうしてクルマ運転してるんだよ!? 美沙ちゃんは、まだ中学一年生だよね!? その本もなに!? おまけに、さっきの白い――ああっ!」
鷲士は頭を抱えて悲鳴を上げた。|麻《ま》|痺《ひ》していた現実と恐怖が戻ってきたらしい。
「あー、はいはい、後で説明するから」
|美《み》|沙《さ》が苦笑しながらハンドルを切り、車両は、どこかのロータリーに入った。建物の入り口のところで、少女はカウンタックを|停《と》めた。
「ほーい、ついたよ」
ドアを|撥《は》ね上げ、美沙はエンジンもそのままに、外へ降りた。|鷲士《しゅうじ》は従うしかない。混乱したままで、仕方なく彼も路上に降り立った。
が――建物を見て、口をアングリ。
"Hotel Ramadan"
本館だけで地上四五階――合わせて八つの別館を持つ都内有数の超高級ホテルが、目の前にドーンとそびえていた。今にものしかかってきそうな威圧感だ。
ボケ青年は青くなった。ホテル・ラマダン――|絢《けん》|爛《らん》な世界には全く|縁《えん》のない鷲士でさえ、その名は知っている。世界の五指に入る超高級ホテルだ。この不況下で、しかも相場の二倍という料金を取りながら、集客力は日本最大。この建物の出現により、オークラをはじめとした一流ホテルは、二流に格下げされてしまったという。さらに|噂《うわさ》では、ここの最高級スイート、一泊するのに億の単位のカネがかかるとかかからないとか。
そしてガラス張りのロビーから、スーツ姿の中年紳士が現れると、美沙に向かって仰角四五度で、丁寧に低頭した。
「これはこれは――オーナー」
「は……?」
と|訊《き》いたのは、後ろの鷲士である。
「こんばんはー、支配人。クルマ、よろしくね」
「かしこまりました」
放られたキーを受け取ると、支配人自らカウンタックに乗り込んだ。|厳《おごそ》かに一礼すると、車体を|駐車場《ちゅうしゃじょう》へと運んでいく。
美沙は、んーっ、と背伸びしながら、ドアをくぐった。
小さな|美《び》|貌《ぼう》を見るなり、フロントのクラーク、ベルボーイ、全員が|揃《そろ》って頭を下げる。つまり、知ったカオなのだ。
慌てて鷲士が後に続き、押し殺した声で、
「ちょ、ちょっとっ! いま、オーナーって――」
「ん? そだよ。このホテル、わたしの」
ケロッと、美沙は答えた。
この時の鷲士の様子を知りたければ、ムンクの『叫び』を見るといい。
「わ――わたしのォォォ!?」
「もぉ、うるさいなぁ。ほら、こっちこっち」
とおチビさまに引っ張られ、エレベーターに乗り込む。
“四五階”
チーンという音と共に、密室のドアが開いた。
ホテルと言うより博物館――|麻《ま》|痺《ひ》した頭で、|鷲士《しゅうじ》は思った。
暗めの照明に、足下に|敷《し》き詰められた|絨毯《じゅうたん》。|壁《かべ》は大理石らしい。奥の戸口まで、美術品や絵画がズラッと並べられていた。そのどれもが、値段をつけるなら“時価”になりそうな|代《しろ》|物《もの》ばかりだ。
「なっ、なんなの、コレは……?」
引きつった笑みで鷲士は|訊《き》いた。
が、|美《み》|沙《さ》は何か勘違いしたらしく、
「ああ、それ? ジンバブエに行ったとき、黄金都市・オフィルから拾ってきたヒラム王の像だよ。ほら、旧約聖書にも載ってんじゃん。列王記だったかな? けど宝石と|趣《しゅ》|味《み》の悪い金ピカの建物しかなくてさー。仕方ないから、それだけ持ってきちゃった。いる? 売れば一〇〇億ぐらいにはなるよ?」
「ひゃっ、ひゃくおく……!」
「で、こっちの|樹《き》が、イラクの端の方――バビロンの空中庭園から|分《ぶん》|捕《ど》ってきたヤツ。通称トリフィドちゃん。食肉植物だから、あんまり近寄らない方がいいよ」
「バ、バビロンの空中庭園……? 食肉植物……?」
既に鷲士は泣きそうだ。
「うん。ネコぐらいなら、平気で食べるよ。このときは大変だったんだから。生物兵器化|狙《ねら》いのミュージアムのバカどもと、現場で鉢合わせちゃってさ。でもでもあいつら、全員食われてんの。アハハ、バカだよねー♪」
コロコロ笑いながら、|脇《わき》の鉢の地上版ワカメを指した。
このときの鷲士は、さながらロダンの『考える人』だった。
「あ、あのさ。ひょっとして、さっきのヒトたちの言ってた宝探しって……」
「ほらっ、入るよ」
美沙がドアを開け、鷲士は引っ張り込まれた。
シャンデリアが|燦《さん》|然《ぜん》と|輝《かがや》く宮殿みたいな部屋の中央で、ソファに腰かけていた黒いスーツの女性が、静かに立ち上がった。
――どこかで見たような顔だ。
「……お帰りなさい。どうでした?」
「ま、なんとかね。あの|警《けい》|官《かん》手配してくれたの、あんたでしょ? ありがと♪」
「仕事ですから」
軽く受け流すと、女は手に持った書類をめくり、
「とりあえず、ご不在の間に、一四件ほどアポイントメントの|要《よう》|請《せい》が。各省庁、産業界――うち一三件は、わたしの判断で却下しました」
「残りの一件は?」
|拳銃《けんじゅう》をソファに放りながら、|美《み》|沙《さ》。
「五分ほど前に。アンディ・ロバートソン氏から」
「ロバートソン? だれ?」
「上院議長――|共和《きょうわ》党が推す次期大統領候補です。我々の次世代通信デバイスについて、お願いがあるとかで」
「却下。|標準化《ひょうじゅんか》に待ったかけようって腹づもりでしょ?」
「議題にされる恐れもありますが」
「ムリムリ、そんな度胸ないって。そういう安い脅しかけてるヤツには、だったら本社を第三国に移すぞー、って言ってやれば?」
「分かりました。ではCEOと相談の後」
|頷《うなず》くと、女性は混乱している|鷲士《しゅうじ》に目をやった。
「……こちらは?」
「ほら、例の」
「ああ、はい。では、実のお父さま……?」
スーツの女史は|瞬《まばた》きした。
「……あの、すごくお若いんですのね」
「えっと、あの……す、すいません」
頭を下げてしまう鷲士である。
「申し遅れました――わたし、会長秘書の|片《かた》|桐《ぎり》|冴《さえ》|葉《ば》と申します」
「ど、どうも」
差し出された名刺に、鷲士は目を落とした。
[#ここから2字下げ]
FORTUNE-TELLER INDUSTRY
Chairman Secretary
Saeba Katagiri
[#ここで字下げ終わり]
「ふぉっ、ふぉーちゅん・てらぁ……!? あ、あの株価上昇年率二万パーセントを誇る怪物企業の……!?」
ボケ青年の目が、点になった。
そうである。この冴葉、|今《け》|朝《さ》の新聞で見た、あの女性だ。
「じゃあ、|美《み》|沙《さ》ちゃんって、ホントにフォーチュンの株主……?」
「株主? ええ、まあ。というより……」
そして|冴《さえ》|葉《ば》は、|隣《となり》の少女を指差し、
「代表権を持つチェアマン――創設者です」
「ま、ワケありで宝探しもやってるけどね」
美沙はケロッと言って、肩をすくめた。
しばらく間ができたのは、仕方ない。現実を受け入れるためには、普通、それなりの準備が必要なものだ。
そして、たっぷり一〇秒後。
「うそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
ボケ青年の悲鳴が、四五階の超高級ホテルを貫いた。
十数分後――軽く説明を受けた|鷲士《しゅうじ》は、青い顔で手をあげ、
「……と、とりあえず、だいたいのところは分かった。きみが政府の中枢に絡むほどの|凄《すご》いお金持ちで、その|歳《とし》でプロのトレジャー・ハンターだってこともね」
「どぉ? すごいでしょ、すごいでしょ?」
手を|叩《たた》いて、はしゃぐ美沙である。
鷲士は、ため息混じりに、こめかみを押さえた。
「でも……あのミュージアムってひとたち、どうしてぼくを|狙《ねら》ってくるわけ? ダーティ・フェイスって、美沙ちゃんのことなんでしょ?」
この言葉に、会長と秘書は、顔を見合わせた。
口を開いたのは、冴葉だった。
「結論から申し上げると――そのような人物は存在しません」
「……は?」
「|敢《あ》えて言うなら、我々全員がダーティ・フェイスということになります。実動隊のリーダーこそボスですが、一般にフェイスの|仕《し》|業《わざ》とされている出来事に、常に彼女が|関《かか》わっている訳ではありませんので」
「あの、じゃ、フェイスって……?」
「架空の人物だよ♪」
「そ、そんな……! じゃ、どうしてぼくが……!?」
「そ、それは話せば長いことながら――」
「……ながら?」
鷲士の真剣な|眼《まな》|差《ざ》しを受け、うっ、と美沙は口ごもった。
やがて、やれやれ、と頭を|掻《か》き、
「トレジャー・ハンターにも、ギルド組織みたいなものが――メリー・アンって変な名前だけど――あってさ。そこって規模としちゃ大したことないんだけど、情報網はまあまあだし、全世界に支部があって、加盟しとくと多少は便利になるんだ。でも、規定ってのがあってさ、写真はともかく、実名出さなきゃいけなくて……」
「そ、それでぼくの名前を!? どうして!?」
途方に暮れる|鷲士《しゅうじ》の眼前で、|美《み》|沙《さ》は、ニャハハ、と笑い、
「だってさ、未成年ダメだっていうんだもん」
「な……!」
「そのときにさ、思い浮かんだのが、たまたま鷲士くんの顔で。おまけについ最近、あのボロ屋のメモ、どっかに落としちゃってさ。ごっめーん!」
困ったように笑うと、美沙は両手を合わせた。
気まずい|沈《ちん》|黙《もく》が広がっていく。
やがて鷲士は|俯《うつむ》いたまま立ち上がると、背を向けた。
「……ぼくは……帰るよ。美沙ちゃんの荷物は……そのうち送り返すから」
「え――ええっ!? どーして!?」
「だって……きみはもう、ぼくに用はないじゃないか」
|自嘲《じちょう》気味に、鷲士は笑った。
「変だと思ったよ。きみみたいな|可愛《か わ い》いコが、ぼくの部屋に転がり込んでくるなんて、話がうますぎるもの。影武者みたいなものだっていうんなら、合点がいくさ。確かに妙にぼくのこと色々知ってるし、実の親子って持ち出すから、ぼくもてっきり――」
「あ、そこはホントだから」
「……え?」
鷲士は|瞬《まばた》きして振り返った。
「だから、親子ってのはホントだよ。あ――ちょっとちょっと、まだ疑ってたワケ? 身内でもない人間が、あんなに詳しいこと知ってるはずないじゃん」
今度は美沙がご|機《き》|嫌《げん》ナナメになる番だった。
鷲士の引きつった笑みを受け、|冴《さえ》|葉《ば》は淡々と|頷《うなず》いた。
「事実です。あなたを捜し出したところで、我々フォーチュン・テラーに利益はありませんから。これが|遺《い》|伝《でん》|子《し》|鑑《かん》|定《てい》の証明書になりますわ。検体には、お預かりしたお二人の頭髪を使用させていただきました」
「か、鑑定? いつの間に……!」
ニヒヒ、と笑う美沙を|尻《しり》|目《め》に、鷲士は書類に目を落とした。
A合致とかG合致とか、チンプンカンプンな記述が続き――まあ、それはいい。とにかく最後は、こう|締《し》めくくってあった。
“上記の結果から、二名の|続柄《つづきがら》は親子と判断するものである”
「それ、わたしたちの研究所で出したワケじゃないからね。なんなら、二人でそこらの大学病院行ってもいいよ」
ジト目の|美《み》|沙《さ》を、|鷲士《しゅうじ》はカクカクしながら見下ろして、
「じゃ、じゃあ、あの……?」
「うん、そだよ」
「ぼくが、パパで――」
「わたし、娘」
美沙は再びエッヘン、鷲士も再び頭を抱えて悲鳴を上げた。
「あぁぁぁっ! もうワケ分かんないよぉぉぉっ!」
「だからぁ、どうしてそこで|喚《わめ》くかなぁ。こーんなにかわゆぅーい娘ができて、しかもメッチャメチャな大金持ちなんだよ? 普通はさ、わーい、じゃないの?」
|呆《あき》れ返る実の娘を、青い顔が恨めしそうに見た。
「……あのね、マンガじゃないんだよ? はいそうですか、ってワケにはいかないよ。親権の問題とか、|戸《こ》|籍《せき》の手続きとか、色々やんなきゃいけないし、それからそれから――ああっ、なにからやればいいんだ?」
「じゃあさ、細かいことは抜きにして――ここで一緒に住もっ? 別に、今すぐ手続きとかやらなくてもいいしさ?」
ポンポン、とソファ――これだけで一〇〇万はするらしい――を|叩《たた》いた。
鷲士は|瞬《まばた》きすると、|弾《はじ》かれたように首を振った。
「ダッ、ダメだよ! それだけはできない!」
「なっ――なによぅ! この|期《ご》に及んでも、娘とは認めないっての!?」
美沙が腰を上げ、大理石のテーブルをぶっ叩いた。
「そっ、そうじゃない、そうじゃないって。きみがぼくの娘だっていうのは、よく分かったから。荷物を送り返すこともしないし、いつ来ても|歓《かん》|迎《げい》――出ていけとも言わない。ただ、ここには住めないよ」
「……へっ? なんで?」
すると|隣《となり》の|冴《さえ》|葉《ば》が、軽く|頷《うなず》いて、
「……高いモラルを持っておられる。良心的な方で安心しました」
「ど、どこがー!?」
「ボスの言う通りにしていたら、ただの“ヒモ”です」
「ヒ、ヒモぉ? |鷲士《しゅうじ》くんが?」
「世間一般の|捉《とら》え方ですが」
と冴葉だ。
鷲士も猛烈な勢いで|頷《うなず》くと、腰を上げた。
「そ、そういうワケで、こんな時間だし――やっぱりぼくは帰るよ。いくらなんでも、さすがにこの|歳《とし》で娘の世話にはなれないからね。ここには住めないし、やっぱり今後のことも真剣に考えなくちゃいけないし……じゃ」
「え、ええっ!? ちょ、ちょっと待ってよぉ!」
――バタン。
|扉《とびら》は閉まり、長身のボケ青年は、姿を消した。
ソファのクッションが、戸にぶち当たった。
「もぉっ! 鷲士くんのバカァ! どうなっても知らないからぁ!」
そして部屋は静まり返った。
やがて冴葉が腰を曲げ、クッションを拾い直した。
「……よろしいんですの?」
「だ、だってさ〜」
「彼は我々が作り出した虚像の人物、その原形です。敵にしてみれば、本物のフェイスがついに姿を現したのと同じこと――今後ミュージアム・サイドの|狙《ねら》いは、お父さまに集中することになりますが?」
|美《み》|沙《さ》は秘書の言葉に|瞬《まばた》き。
幼い|美《び》|貌《ぼう》が、見る見るうちに青ざめた。
三〇分ほど後――ボロアパートには、階段を一人でのぼる鷲士の姿があった。
肩をガックリ落とし、ハァ〜、と老人のようなため息をつく。
「……まいったなぁ。お金持ちなのは予想してたけど、|桁《けた》が違うよ。あそこまでいくと、劣等感も|涌《わ》かないもんなぁ」
|呟《つぶや》いて、後ろ頭をポリポリ。
正直なところ現実感はゼロだった。
……夢じゃないだろうな?
貧乏大学生の部屋に、中一の実の娘が転がり込む――これだけでも十分異常なのだが、彼女は想像を絶する大金持ちで、おまけに宝探しときたもんだ。マンガでも、ここまで|荒《こう》|唐《とう》|無《む》|稽《けい》な話はない。こうやって階段をのぼっていると、さっきまでのあの出来事が、何かの間違いのように感じられる。
ふと思い出し、胸ポケットから、指輪を抜いた。
オモチャのアクセサリを、指先で転がしてみる。
……間違いない。本物だ。
|鷲士《しゅうじ》は、指輪を軽く握り|締《し》めた。
この婚約指輪の真の持ち主――死んでしまったゆうちゃんのためにも――|美《み》|沙《さ》をいい加減に扱うことはできない。父親としての役割を果たさなければならない。
しかし、途端に途方に暮れた。
「……ぼくは何をすればいいんだ?」
社会的にも経済的にも、美沙に勝ることが何ひとつないのだ。たとえ逆さに振っても、出てくるのは、せいぜいグゥの|音《ね》ぐらいのものである。
……こ、困ったなぁ。
鷲士は腕組みして|唸《うな》った。
父親として宝探しを手伝う――というのも変な話だ。あんな白い鬼と面と向かって戦えるほど、自分に根性は――。
……あれ?
「そ、そう言えば、あの鬼の話、|訊《き》くの忘れてたぞ?」
一三〇〇年も前の本に記された怪物が、なぜ現代に?
鬼と言えば――|美《み》|貴《き》の存在もある。あの怒りんぼの彼女のことだ、|今《いま》|頃《ごろ》はクッションを鷲士に見立て、引き裂いてるに違いない。
「あとでフォローの電話を……いやいや、美沙ちゃんの存在が明らかになった以上、父親として、美貴ちゃんとの関係にもケリを……」
その|瞬間《しゅんかん》、鷲士の脳裏を、二人の|美《び》|貌《ぼう》がよぎった。
待てよ……?
なんか……すごーく似てないか、あの二人? つり上がり系の目といい、慌ててるときの対応といい……。なんか知り合いみたいな感じだったし。
鷲士の顔が、ほころんだ。
「美貴ちゃんが――美沙ちゃんの母親だったりして?」
しかし次の瞬間、肩を落としてため息をついた。
「……んなワケないよ、バカ鷲士。ぼくたちは美貴ちゃんが高等部の頃からの知り合いなんだぞ? もしそうだったら、子供のことを|黙《だま》ってるなんておかしいし――」
それから、頭を|掻《か》きむしると、
「ダメだ、頭が|麻《ま》|痺《ひ》してる。フロ入って寝よ」
ため息をついて|鍵《かぎ》を開け、ドアのノブを引いた。
――おかしな光景が、目に飛び込んできた。
月明かりの中、キッチンの硬い床に正座する、小さな人影である。
「……はい?」
|鷲士《しゅうじ》は|眉《まゆ》をひそめた。
相手は、美しい少年……らしい。
らしいというのは、その侵入者の着衣が、タキシードだったからである。黒いジャケットにスラックス――胸元は白いブラウスに、黒の棒タイという念の入れようだ。材質も、光り具合からして、ちゃんとした黒ラシャ。英国というよりも、大正時代の小さな紳士である。だが、その|容《よう》|貌《ぼう》は、服装さえなければ、美少女で十分通用する美しさだった。
美少年は、静かに鷲士を|一《いち》|瞥《べつ》した。
「……こんばんは」
「ままま、間違えましたっ! すいません!」
慌ててドアを閉め、一息。顔を上げ、表札に目をやった。
“|草《くさ》|刈《かり》鷲士&|結《ゆう》|城《き》|美《み》|沙《さ》”
「あれっ?」
自分の部屋である。
キツネにつままれたような表情で、再び鷲士は、ドアを引いた。
ここで消えていれば、まず|幽《ゆう》|霊《れい》――ある意味で話は簡単なのだが、そうはいかなかったからややこしい。
少年は、冷めた目で鷲士を見ると、
「……どこへお行きですか? ここはあなたの部屋ですよ」
「あはは……そ、そうだよね」
相手が言うんだから、間違いはない。
「……|靴《くつ》を脱いだらいかがです。|遠《えん》|慮《りょ》することはありません」
「は、はぁ。じゃ、失礼して――」
焦りながら、スニーカーから足を抜く鷲士だったが、ハッ、と我に返ると、
「ちがーう! きみ、|誰《だれ》なんだ!? ここでなにしてるの!?」
「……姉さまを連れ戻しに来ました」
少年は、冷淡な表情を崩さず、言った。
鷲士の表情が、一気に固まった。
「姉……さま? ということは……美沙ちゃんの……弟くん?」
無言で|頷《うなず》く少年。
途端に鷲士は、やや寂しそうな顔になった。
「……そ、そっか。うん、そうだよね、仕方ないよね。だってゆうちゃんとは、あれっきりだったんだし……きみの母さんが、別のヒトを愛しても不思議じゃない。じゃあきみは、ぼくにとっては義理の――」
「義理……ですって?」
少年は敏感に反応し、目を細めた。
次の|瞬間《しゅんかん》、|美《び》|貌《ぼう》が高々と|吠《ほ》えた。
「失礼な! 母は確かに激情の方ですが、たかが会えないからといって、二心を抱くような愚か者ではありません! なんというヒトだ、あなたは自分が|娶《めと》るつもりだった人間のことも信じられないのですか!」
「えっ? で、でも――」
「我々は|双《ふた》|子《ご》――ぼくはその弟です」
「はぁ」
ボケ|面《づら》で、|鷲士《しゅうじ》は|相《あい》|槌《づち》を打った。
すぐに青ざめた。
「え――ええっ!? ふ、ふたごぉっっっ!?」
「……|結《ゆう》|城《き》|樫《かし》|緒《お》と申します」
美少年は型通りに一礼すると、音もなく立ち上がった。
切れ長の|双《そう》|眸《ぼう》に、冷たい|嫌《けん》|悪《お》をにじませて――。
第四章 迦具夜比売伝・異聞録
「じゃ、じゃあ……きみはぼくの……実の息子……!?」
夜の自室――硬い床の上を、|鷲士《しゅうじ》は|後《あと》|退《ずさ》った。
確かに、造形は|美《み》|沙《さ》と|瓜《うり》二つだ。あのおチビさまが男装すると、目の前の少年のようになるだろう。しかしそれでも|双《ふた》|子《ご》という気が、鷲士はしなかった。
――雰囲気が、あまりに違いすぎる。
それは、ノリや物腰といった素振りだけではなかった。伝わってくるモノが、常人のそれとは、どこか少し違うのだ。
そして月明かりを受けた美少年は、皮肉っぽく|唇《くちびる》を曲げた。
「……人を所有物のように言うのはやめていただけますか。ぼくはあなたの血を半分だけ受け継いでいるにすぎない。それはさほど意味のないことだ」
冷淡に言い放つと、|樫《かし》|緒《お》は戸口に目をやった。
美少年は|眉《み》|間《けん》にシワを寄せ、絶句したままの鷲士に視線を合わせた。
「……姉さまをどこにやったのです?」
「え? あ、うん、彼女なら、自分のホテルだよ」
「ホテル? ラマダンのことですか?」
「そ、そう。あのでっかいの」
|鷲士《しゅうじ》は慌てて|頷《うなず》くと、例によって気弱な笑顔を浮かべた。
「と、とにかくさ、座りなよ。せっかく会ったんだし……あ、お茶でも入れようか。なんにする? って言っても、コーヒーとお茶しかないんだけど――」
「……ウソだ」
「えっ?」
「……あなたは、ウソをついている」
|樫《かし》|緒《お》は|冷《れい》|徹《てつ》な|眼《まな》|差《ざ》しで、若き父親を見た。
「……ぼくは先ほど、ホテルには電話しています。しかし支配人によると、姉さまは、あなたを追いかけて出ていったという話でした」
「あれっ? そ、そうなの?」
「ホテルからここまで――姉さまなら楽に追いつける距離です。それなのに、帰ってきたのはあなた一人。おかしいと思いませんか?」
「え? そ、そうだね。うん、二人で捜しにいかないと」
「……お|戯《たわむ》れを。姉さまを、どこへやったのです?」
樫緒が一歩、踏み出した。
「……|狙《ねら》いはなんですか? 金品ですか? 地位? 名誉?」
「そ、そんな! |誤《ご》|解《かい》だよ! ぼく別に――」
「いったい、何が望みなのです? 一二年間もほったらかしにしておいて――どうして今さらぼくたちの家庭を引っ|掻《か》き回すんですか?」
「待って、待ってよ! それは……!」
「姉さまの方から、押しかけてきたから? 娘が父に会いたがるのは当然のこと。まさか、そんなのが言い訳になると思ってはいないでしょうね? あなたに罪を問うとしたら――それは存在そのものだ!」
鷲士は絶句し、完全に言葉を失った。
そして樫緒は、|口《く》|惜《や》しそうに言った。
「いえ……引っ掻き回すような家庭など、元からありはしなかった。あなたのせいで、ぼくたちの家は最初からバラバラだ……!」
「あ、あのさ……」
「若い母親に子供たち……そう言えば、聞こえはいいかも知れない。しかし、これがどういうことなのか、あなたに分かりますか? 赤ん坊に、小学生の母親。ぼくたちが物心ついたときにも、まだ中学生だ。しかも……その目がね、死んでるんですよ。あなたと引き離されたショックで」
「……!」
「姉さまのように、終わり良ければすべて良し――そういう考えは、ぼくにはできない。ぼくは絶対に忘れない――あの|頃《ころ》の母さまの顔を! ぼくはあなたを許さない!」
吐き捨てて、息子は父に向かって足を踏み出した。
――パリン!
流しのグラスが、いきなり砕け散った。
|鷲士《しゅうじ》は青ざめて、グラスと美少年を見比べた。原因は分からない。しかし|樫《かし》|緒《お》の挙動が、何らかの|影響《えいきょう》を及ぼしているのは間違いないようだ。
……こ、このコはいったい?
「さあ、姉さまを出しなさい。さもなければ……!」
「わ、分かった、言い訳はしないよ! でも信じて、ぼくは|美《み》|沙《さ》ちゃんを利用する気なんてないんだ! だってきみらは、ぼくにとって血を分けた家族――」
突然、鷲士の背後で、ドアが|爆《ばく》|発《はつ》した。
「ななな!?」
木製の戸は炎と共に|壁《かべ》に激突し、粉々に砕けた。煙が一気に部屋を満たし、父と息子は口を押さえて、|膝《ひざ》を折った。
樫緒は|忌《いま》|々《いま》しげに鷲士をねめつけ、
「ゴホッ……! いったいなんの|真《ま》|似《ね》です……!」
「し、知らない知らない! ワケ分かんない!」
ブンブン首を振る鷲士の|額《ひたい》に、唐突に赤い光が|灯《とも》った。
――レーザー・ポイント。
赤い点は、次々に増え、正確に鷲士の顔に|狙《ねら》いを定めた。
やがて煙が晴れ、侵入者の姿を|露《あらわ》にした。
黒い|戦《せん》|闘《とう》|服《ふく》に身を包み、赤外線暗視装置で顔を|覆《おお》った男たちである。レーザー・サイトを備えた自動小銃を肩付けに|構《かま》え、|揃《そろ》って鷲士に向けていた。
「なっ……!」
そして侵入者たちの間から、白いスーツの男が進み出た。
「ダーティ・フェイス――私本を渡してもらいましょうか」
ミュージアムのエージェント・|桐《きり》|古《こ》|連《れん》は、|陰《いん》|鬱《うつ》に命じた。
樫緒は|嫌《けん》|悪《お》も露に立ち上がりつつ、
「……あなた、こんな得体の知れない連中と|関《かか》わりを?」
「まっ、まさかっ! 一方的に勘違いされてるだけだって!」
アセアセと手を振り乱す|鷲士《しゅうじ》だ。
部下の一人が顔を上げ、
「……殺しますか?」
「いや、フェイスのバックボーンは|未《いま》だに全くの|謎《なぞ》。ここで殺してしまうと、万が一本人が持っていなかった場合、私本の|行方《ゆ く え》が分からなくなってしまう」
|桐《きり》|古《こ》が|忌《いま》|々《いま》しげに|唇《くちびる》を曲げ、鷲士を|睨《にら》んだ。
ボケ青年は、う、と|後《あと》|退《ずさ》った。
「ミスター――最後の忠告です。我々の提示した条件を|呑《の》みなさい」
「だっ、だから違うんですってば! 私本もここにはありません! ダーティ・フェイスなんて架空の人物なんですよ!」
「架空の……人物?」
桐古は目を細めた。
「……なにを言い出すかと思えば。永遠に航海を続けるはずだったマリー・セレスト号を、カナダの港に寄港させたのは何者だ? タッシリ・ナジェールの地中から、身長五メートルを超える人骨を|誰《だれ》が発掘した? 実在しない人間に、五〇〇人を超える我々のエージェントが再起不能にされたというのか?」
「そ、それはその……!」
殺意の宿る|瞳《ひとみ》を向けられ、鷲士はどもった。
……い、言いたいけど言えない!
そうなのだ。弁解は楽にできるが、してしまうと今度は敵の|狙《ねら》いが|美《み》|沙《さ》に切り替わる。この超人的お人|好《よ》しに、そんな|真《ま》|似《ね》ができるはずもない。
小さな影が歩み出て、|緊張《きんちょう》を|破《やぶ》った。
「……お待ちなさい」
少年の声が|凛《りん》と|響《ひび》き、居合わせた全員が視線を集中させた。
「|樫《かし》|緒《お》くん……!」
「……あなたたちの間にどのような問題があるか、ぼくは知りません。しかし今は家族の問題を話し合っている最中だ。ここは引き取っていただきましょう」
異常に冷めた|瞳《ひとみ》を、少年は桐古に向けた。
目付きが根本的に違う。道端の石コロを見ているような冷たさである。銃に|脅《おび》えている様子は|微《み》|塵《じん》もなかった。元から意に介していないのだ。見た目は美沙と|瓜《うり》二つでも、この少年、やはり中身は全くの別物らしい。
なぜか急に寒気に|襲《おそ》われ、鷲士は体を|震《ふる》わせた。
「また子供? |呆《あき》れた男だ、いったい何の――」
と、吐き捨てかけた桐古が、|眉《まゆ》をひそめた。
白いスーツの男は、|呆《あっ》|気《け》にとられたように、
「……これは|驚《おどろ》いた。|結《ゆう》|城《き》グループの次期総帥ではありませんか」
|訝《いぶか》しんで、|樫《かし》|緒《お》は|片《かた》|眉《まゆ》を上げた。
「……何者です?」
「ニューヨークはサザビーズ主催のパーティーで、一度。まあ、礼を交わした程度にすぎませんが――この顔、|憶《おぼ》えておいでで?」
「……|誰《だれ》が他人の家に土足で上がり込む|輩《やから》の顔など」
火に油を注ぐような答えに、|鷲士《しゅうじ》は青ざめた。|美《み》|沙《さ》並みの尊大さだが、質が違う――相手を怒らすのが姉なら、こちらの言い方が買うのは、まず根深い殺意だ。
やがて|桐《きり》|古《こ》が、|唇《くちびる》をひん曲げ、
「フ……ン。とことん人を食った連中だ。だがミスター・フェイス、これでやっと納得がいきましたよ。あなたの無尽蔵とも思える財力の源、我々の|諜報《ちょうほう》部も出所を|量《はか》りかねていたというのが正直なところですが――なるほど、結城グループが後ろ|楯《だて》についているなら、|辻《つじ》|褄《つま》も合うというもの」
「あ、あのぉ、さっきも言ってましたけど……結城グループって?」
おそるおそる|訊《き》く鷲士を、|鋭《するど》い視線が貫いた。
「……何のつもりだ? 今さらしらばくれて、あなたに何の得がある?」
「い、いや、このコに会って一〇分も|経《た》ってないもんでっ……!」
慌てて答える鷲士だ。
桐古は用心深く、目を細めた。彼にとって目の前の大学生は、組織が総力を挙げて追っている最強の敵――無理もない。
やがて“敵”の真意を量りかねたのか、桐古は、
「ミスター――まさか結城化成をご存じないとは言わないでしょうね?」
「あ、洗剤とか|石《せっ》|鹸《けん》作ってるトコですよね」
「では、結城地所はどうです?」
「不動産屋でしょ? ぼくには|無《む》|縁《えん》ですけど」
「|結《けっ》|構《こう》。続いて、結城エレクトロニクス」
「ビデオやテレビ――パソコン」
「ならば、結城生命は?」
「生保会社ですよね?」
「では、結城銀行」
「えーっと、ムーディーズの格付けで、AAAとかいう話を……」
鷲士のニコニコ笑顔が、次第に|強《こわ》|張《ば》り始めた。
桐古は|軽《けい》|蔑《べつ》の態度で、
「よくご存じではないですか。では最後に――|結《ゆう》|城《き》重工は?」
「ブルドーザーとか、ショベルカーとか? 違いましたっけ?」
「それは表向きにすぎません。知る者は多くないが、ロッキードなどの許可を受けて|戦《せん》|闘《とう》|機《き》を現地製造したり、また独自技術で戦車や|艦《かん》|艇《てい》なども建造している。相手こそ自衛隊だが、その役割は立派な|兵器廠《へいきしょう》に|他《ほか》ならない」
「あ、あのそれってひょっとして……?」
「ひょっとしなくても、あなたの思っている通りです。|三《みつ》|井《い》、|三《みつ》|菱《びし》、|住《すみ》|友《とも》と並ぶ旧財閥系の巨大コングロマリット――かつ、バブル|崩《ほう》|壊《かい》後も唯一、世界的な|躍《やく》|進《しん》を続ける存在。それが結城グループではありませんか。今さら無関係とは言わせませんよ」
ミュージアムのエージェントは、吐き捨てた。
|樫《かし》|緒《お》が|眉《まゆ》をひそめ、|鷲士《しゅうじ》を見上げた。
「……まさか知らなかったと言うおつもりですか?」
「アハハ……おつもりです」
「ミスター・フェイス、わたしには分からない。この状態でシラを切って、あなたにどのようなメリットがある?」
「だから、本当に知らなかったんですってば!」
鷲士は|喚《わめ》いて、足を踏み出した。
戦闘員が|揃《そろ》って銃口を上げ、ボケ青年を|怯《ひる》ませた。
「まあ、今さらあなたの意図などどうでもいいのですがね。ぐずぐずしていると、またなよ竹の鬼が来てしまう」
「なよ竹の……鬼? やっぱり、あの本に出てきた?」
「鬼? クッ、とぼけるのもいい加減にしなさい、我々の情報網を|舐《な》めているのか? ハッキリ言ったらどうです、あれは鬼なんかじゃない。かぐや姫が残した不死の妙薬を飲んでしまった一三〇〇年前のヒトだ、と!」
|桐《きり》|古《こ》が声を荒げ、鷲士は息を|呑《の》んだ。
「かぐや姫……? ヒト……!? あれが!?」
「……まだそんなことを」
そして桐古は、部下に向かってアゴをしゃくった。
「仕方ない、まずは足を|狙《ねら》いなさい。いかに極限の|破《は》|壊《かい》|拳《けん》|法《ぽう》の使い手と言えど、下半身が動かなければ、子供と同じだ」
言い放って、桐古は手を振り上げた。
「危ないっ!」
鷲士は背を向けると、息子を抱き|締《し》め、身を伏せた。一方の樫緒は、|眉《まゆ》をひそめ鷲士を見つめた。話と違う――表情の|薄《うす》い顔がそう言っている。
白いスーツの男は、容赦なく手を振り下ろした。|撃《う》て、の合図だ。
|樫《かし》|緒《お》を抱き|締《し》めたまま、|鷲士《しゅうじ》はきつく目を閉じた。
が――。
聞こえるはずの銃声は、|響《ひび》いてこない。
無言の静寂が、部屋を満たす。
鷲士は、おそるおそる振り返った。
|戦《せん》|闘《とう》|員《いん》たちが、焦りながら短機関銃のコッキング・ボルトを上下させていた。
「な、なにをしている? 日本支部はこれだから……!」
そして父親の腕の間を、樫緒がすり抜けた。立ち上がり、ジャケットの|裾《すそ》についた|埃《ほこり》を、ポンポンとはらっていく。
「あ、こら、危ないって!」
「……あなたに|庇《かば》ってもらう|憶《おぼ》えはありません」
美少年は淡々と告げ、敵に視線を向けた。
「それに――こんな直観物理の暴力に頼るような愚か者どもが、ぼくをどうこうできるはずがない。それこそ無駄な心労というものです」
「……言ってくれる」
|桐《きり》|古《こ》が恨めしげに|呟《つぶや》いたと同時に、戦闘員はSMGを放棄し、今度は|揃《そろ》って|拳銃《けんじゅう》を引き抜いた。その|目標《もくひょう》は――樫緒の|額《ひたい》である。
「……愚かな。今度引き金を|搾《しぼ》れば、|爆《ばく》|発《はつ》するのは己の手だと思いなさい」
「どういう|類《たぐ》いの脅しですか、それは? だが面白い、まずはきみに|餌《え》|食《じき》になってもらうとしましょうか。目の前で死体になれば、とぼけた宝探しの態度も、少しは変わるかも知れない。さあ、やりなさい!」
「……子供相手に!」
|吠《ほ》えると、鷲士はメガネを外した。
この時の目付きは、ボケ青年のものではなかった。鷲士の名の通り、|獲《え》|物《もの》を追う|鷲《わし》を思わせる目付きだった。
鷲士が外見とはかけ離れた速度で踏み込むのと、トリガーが落ちるのが同時。|爆《ばく》|発《はつ》は、直後に起こった。
ただし――男たちの手の中で。
爆音が、部屋を引き裂いた。
「グワッ!」
|戦《せん》|闘《とう》|員《いん》たちは悲鳴を上げ、血まみれの腕を押さえた。
立ち止まった鷲士が見たものは、床で青白い火花を散らす、銃の|残《ざん》|骸《がい》だった。樫緒の宣告通りになってしまったのである。
「な、なにごとだ!? なにが起きた!?」
血相を変えながらも|桐《きり》|古《こ》が銃を抜いたのは、本能的な動きだろう。そしてその銃口を、彼は|樫《かし》|緒《お》の|額《ひたい》にロックした。
|徹《てっ》|頭《とう》|徹《てつ》|尾《び》落ち着いた少年の細い指が、トン、とマズルに触れた。
「……次は心臓を止めます」
ここで格の違いを悟らないものは、サル以下だ。
桐古は青ざめて、目を細めた。
「|結《ゆう》|城《き》が“来訪者”と血を交えた者の|末《まつ》|裔《えい》という|噂《うわさ》、本当だったか……!」
ミュージアムのキュレーターは、スーツの|裾《すそ》をひるがえした。だが戸から出て行く間際、|鷲士《しゅうじ》を|睨《にら》みつけて、言った。
「……あの少女といい、その少年といい、あなたの周りには|驚《おどろ》くほど優秀なスタッフが|揃《そろ》っているようだ。この辱め、わたしは決して忘れませんよ。次は本気――“ハイ・アート”でお相手する」
「こ、こら! あなたね、激しく勘違いを――」
鷲士は手を伸ばしたが、もう遅かった。
消えた白い主を追って、黒服たちまでも、|闇《やみ》に溶けて消えた。
が――折り返すように、車のエンジン音が。
――ブロロロ、バタン!
――カンカンカンカンカンカン。
――ガチャッ!
「ハァハァ、鷲士くん、無事!? 追いかけてる途中で、ミュージアムの別の部隊と鉢合わせちゃってさ! ブッ|潰《つぶ》すのに、ちょっと手間取っ――!?」
|美《み》|沙《さ》だ。しかし彼女はキャストを目にするなり、とんでもない行動に出た。フライト・ジャケットから|拳銃《けんじゅう》――グロック17を引き抜いたのである。
向けた相手は、なんと|双《ふた》|子《ご》の実弟・樫緒だ。
「な、なんであんたがここにいるのよっ……!」
「姉さま……! 良かった、捜しましたよ……!」
それでも樫緒は、|嬉《うれ》しそうに顔をほころばせた。
しかし姉は、鼻を鳴らして毒づいた。
「捜したぁ? ハンッ、捕まえに、の間違いじゃん!? なんの用!?」
「……そんな。ぼくはただ、一緒に帰ろうと」
樫緒が困ったように言い、足を踏み出した。
なぜか美沙は、ヒッ、と|後《あと》|退《ずさ》り、
「だ、だーれが戻るもんですか、あんな家っ! 帰ってあのクソジジイに伝えるのね! 結城はわたしがブッ|潰《つぶ》す! どーせあいつの差し金なんでしょっ!? フォーチュン・テラーが|上《う》|手《ま》くいってるのが悔しいんだ? でも、もう遅いんだから!」
「え……? い、いえ、これはぼくの独断で……その……おじいさまは……」
「な、なによ!?」
「お、おじいさまは……一族の|恥《はじ》|曝《さら》しなど……捨て置け……と」
「……捨て……置け……?」
|美《み》|沙《さ》は赤面すると、顔を伏せた。自分を恥じたのである。
再び上げた|双《そう》|眸《ぼう》は、涙と憎しみに染まっていた。
「帰れっ……! 帰れよぉ……! ここはわたしが見つけた自分の居場所なんだ……! あんたたちなんか大ッ|嫌《きら》いっ……! 帰れっ……!」
「……それは……できません」
|樫《かし》|緒《お》は、|哀《かな》しそうに言った。
同時に、美沙の足が、床から離れた。あらざる力を受け、体が浮き上がったのだ。服の端々から上がる青白い火花は、超物理の力が現実世界に干渉する余波だった。
「ちょ、ちょっと、二人とも!?」
|鷲士《しゅうじ》は割って入ったが、何かができるはずもない。
そしてこの時、美沙が見せた|脅《おび》えは、普通ではなかった。手足をバタつかせ、顔面は|蒼《そう》|白《はく》になり――完全なパニック症状だ。
「ヤ、イヤァァァッ! やめて、やめてよぉ! ヘンなことしないでぇ! わたし、あんたたちの人形じゃないんだからぁ! 下ろしてェェェッ!」
悲鳴を放つ|美《み》|沙《さ》を、|樫《かし》|緒《お》は弱々しい笑顔で見上げた。
「……帰りましょう、姉さま? ね? ただでさえバラバラな家族なのに、姉さままでいなくなったら、ぼくは、ぼくは――」
「やっ……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
美沙は絶叫すると、ずれた焦点で、銃口を樫緒に合わせた。
「なっ!? ちょっと、美沙ちゃ――」
|鷲士《しゅうじ》が止めようとしたが、時既に遅し。
――バンバンバン!
立て続けに三発の銃声が、ボロアパートの一室を引き裂いた。
ゴクリ、と|唾《つば》を|呑《の》み込み、鷲士は樫緒に目をやった。
三発の弾丸は、美少年の鼻先で止まっていた。超物理の|障壁《しょうへき》が、弾を停止させたのだ。だが力は残っているらしく、弾頭は青い火花を散らしつつも、回転を続けた。
「ね、姉さま……!」
これが、|緊張《きんちょう》を解いた。樫緒が力を止めたのだ。
落下する少女の体を、慌てて鷲士が抱きとめた。鉛の塊も、床で跳ね返る。
美沙は荒い息を|繰《く》り返していたが、やがて言った。
「バケモノっ……!」
「え……?」
「あんたなんか、あのクソジジイと一緒よっ……! 意にそわない者を、そうやっておかしな力で|捩《ね》じ伏せる……! この気持ち悪いバケモノっ……!」
「ば、化物……」
樫緒は途方に暮れたように|呟《つぶや》いた。
やがて少年は背を向け、出口の前に立った。
「ご|不興《ふきょう》を買ったようなので、今日は帰ります。でも――」
と上げた顔に、何かがブチ当たった。
――床に落ちたのは、美沙の|拳銃《けんじゅう》だった。
グロック17の|構《こう》|成《せい》パーツは、大半がプラスチックだ。空マガジンを|装《そう》|填《てん》した時点で六二〇グラム――しかしそれでも弾丸を込めれば、重量は一キロ近くになる。そんなものが当たればただでは済まない。
|俯《うつむ》いた樫緒の髪の間から、一筋の液体が流れた。
――|鮮《せん》|血《けつ》である。
「あ……!」
当の|美《み》|沙《さ》は|一瞬《いっしゅん》青ざめたものの、すぐに弟を|睨《にら》みつけて|喚《わめ》いた。
「に、二度と来るなぁ! 今度この辺りで見かけたら、巡航ミサイル|撃《う》ち込んでやる! ぜったいぜったい、本気なんだからっ!」
|樫《かし》|緒《お》は無言のまま、一礼した。
|闇《やみ》に消えた小さな背中を、|鷲士《しゅうじ》は|呆《ぼう》|然《ぜん》としたまま見送った。かける言葉が見つからなかったのである。
今度こそ、真の静寂が、部屋を満たした。
やがて、美沙が腕の中から飛び下りると、
「え、えっと……しゅ、鷲士くん、だいじょ――」
――ゴチン!
美沙の目から、火花が飛び散った。鷲士の|拳《こぶし》が、頭にヒットしたのだ。
「なんてことするんだ、きみはっ!?」
鷲士は、高々と|吠《ほ》えた。姉弟の尋常ではない争いを見て、ボケ青年も、さすがに少しキレてしまったらしい。
美沙はその場に座り込むと、頭を押さえて、足をバタつかせた。
「い、いったぁーい! 鷲士くん、本気で殴ったぁー!」
「本気ィ!? 本気ってゆーのはなぁ、こーゆーのをゆーんだ!」
|喚《わめ》くと、鷲士は足下の鉄の塊を手に取った。
――グシャ!
鉄片が指の間からこぼれ、床に落ちた。
このヒョロヒョロ青年のどこにそんな力があるのか――敵が残した銃の|残《ざん》|骸《がい》は、今度こそ本当の鉄クズになってしまった。残りを、背後にポイ。
美沙の顔が、先程とは別の意味で青くなった。
「は、はへ〜? しゅ、鷲士くん、いま――」
「鷲士くんじゃなーい! なに考えてんだ、きみは!? 実の弟くんだろ!? もし弾が当たってたら、ケンカじゃすまなかったんだぞ!?」
「あ、当たりゃしないわよ、あんなの! 見たでしょ? あの変なチカラで、パパーッとなんでも片付けちゃうんだから!」
「変な……チカラ?」
「それに――ワケも|訊《き》かずに殴るなんてサイテー! バカァ!」
涙目+|膨《ふく》れっ|面《つら》で、美沙はなじった。
普段ならここで引いてしまうところだが、今回はさすがに事情が異なる。鷲士は|眉《まゆ》をつり上げて、娘の視線を受け止めた。
「いさかいはしょうがないさ! きみたちは微妙な|年《とし》|頃《ごろ》だし、|双《ふた》|子《ご》ってことが|却《かえ》ってイライラを募らせるのかも知れない! でもね、家族の間でピストル振り回すなんて、ぼくは絶対に許さないぞ! てゆーか、そんなの当ったり前だ! ゲンコツ入れるのに、ワケなんているもんか!」
当初、|美《み》|沙《さ》は強気な表情で、|鷲士《しゅうじ》を|睨《にら》んでいた。
が――。
「ふぇ……うわあああああん!」
「あ、あれっ?」
「グスッ……なによぅ、鷲士くんのバカァ! ウチの事情なんて知らないクセにィ! 一緒に住もうって言ったのに、あっさり逃げちゃったクセにィ! 自分だけ、ほえほえ大学生やってたクセにィ!」
泣き|喚《わめ》くと、美沙は手近なものをポイポイ投げ始めたからたまらない。
「ご、ごめん! 確かにぼくも言い過ぎ――ぐえ!」
「バカバカバカァ! なにが、ぐえ、よぅ! 鷲士くんなんか大っ|嫌《きら》い! もう一生ぐえぐえ言ってればいいのよぅ! わあああああん!」
「い、いやっ、だからね、|謝《あやま》るから――ぐえ!」
結局、その後しばらくの間、鷲士はぐえぐえ言う|破《は》|目《め》になったという。
夜空の月は、ボロアパートにも|別《わ》け|隔《へだ》てなく、光を注いでいく――。
「……来訪者」
「えっ?」
「来訪者。来たりて|訪《おとな》う者。太古の昔に、どこかからやってきて、去っていった人々。それがウチらの……|結《ゆう》|城《き》の祖先なんだってさ……」
小一時間ほど後――ホットミルクが入ったカップを両手に|掴《つか》み、立ちのぼる湯気をぼんやり見つめながら、美沙が|呟《つぶや》いた。
「どこかからやってきて……去っていった……?」
鷲士は戸惑ったように|訊《き》いた。
娘はノロノロと|頷《うなず》いた。
「……バベルの塔とか……アトランティスとか……そんなの作った連中らしいよ。どうやら人間じゃなかったみたいだけど。その中にも、|出雲《い ず も》の辺りに渡ってきた連中がいて……現地の村人とくっついて……それが結城家のはじまり」
ミルクから上がる湯気が、美沙の顔をよぎっていく。
「……ミュージアムってのも、表向きこそ学術的な歴史|遺《い》|産《さん》回収集団なんだけどね。昔、フェニキアの辺りに、来訪者たちの製造物を集めた大博物館があって……その管理者たちの|末《まつ》|裔《えい》が母体になった組織みたい。世界に散らばったすべての遺産は、我々に所有権があるって……メチャメチャなことやってる」
「はー……。来訪者ねえ……」
|呆《あっ》|気《け》にとられたように、|鷲士《しゅうじ》は|呟《つぶや》いた。
何から何まで、全く|縁《えん》がなかったことばかりである。理屈では分かっても、感覚的に理解できないのだ。
「あ、じゃあ、|樫《かし》|緒《お》くんのあの力はご先祖さまの? |美《み》|沙《さ》ちゃんも?」
「……あのコはね。でも……わたしはサッパリ。だいたいそんなのがさ、ライフルなんて使うと思う?」
美沙は弱々しい笑顔を浮かべた。
少女は両手を後ろにつくと、|天井《てんじょう》を見上げた。
「……鷲士くんも聞いてたでしょ? アイツとの話。わたし……そういうの全然なんだ。一族の中じゃ、思いっきりカス扱いなんだよね……」
「カ、カスぅ? きみがぁ?」
鷲士は|露《ろ》|骨《こつ》に|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になった。
「笑っちゃうぐらい|凄《すご》い言われようだったよ。あいつは樫緒にすべて吸い取られて生まれてきたんだとか、樫緒を|輝《かがや》かせるための搾りカスだとか……。同じ顔してるのにさ、もう扱いが全然ちがうんだ。樫緒は……先祖返り起こしてるらしくて。帰先|遺《い》|伝《でん》ってやつ? |双《ふた》|子《ご》なのに、なんか納得いかないよね……」
「み、美沙ちゃん……」
「揚げ句の果てに……わたしは|黙《だま》って言うこと聞いてるだけでいいって。あのコは|庇《かば》ってくれるんだけど……お情けみたいで頭に来るし……」
「それで……家出を……?」
美沙は|頷《うなず》いた。
少女はどこか|脅《おび》えたように、鷲士を見た。
「……わたし……ここにいちゃ、ダメかなぁ? もうホテルで一緒に住もうなんて言わないから……ダメ? 鷲士くんも、わたしのこと|鬱《うっ》|陶《とう》しいって思う? わたし、やっぱり出ていかなきゃダメなのかなぁ……?」
泣き|腫《は》らした、幼い|瞳《ひとみ》。
鷲士は微笑して、首を振った。
「……出ていけなんて言うわけないじゃないか。だってぼくたち、親子だろう?」
「え? そっ、それじゃあ!?」
「んー、でもね、ぼくにも条件があるぞ」
「な、なになに!? やるよ、わたし! やる!」
身を乗り出して、|美《み》|沙《さ》は|訊《き》いた。
そして|鷲士《しゅうじ》はニッコリ笑うと、人差し指を立てて言った。
「|樫《かし》|緒《お》くんに、|謝《あやま》ってくること。これがぼくの条件」
美沙はカーッと赤くなると、プイッ。
「ヤ、ヤぁっ! それだけは絶っっっ対にヤだっ! わたし、悪くないもん! 謝りになんかいかないよっ!」
「どうして? 彼、きっとすごく傷付いてるぞ?」
「フ、フンだ! いいのよ、あんな冷血クン! あいつね、わたしにはそうでもないけど、|他《ほか》のヒトには、すーごく冷たいんだから! あっ、あの様子だと、あのコ、鷲士くんにもひどいこと言ったでしょ? そうでしょ?」
「あはは……ちょ、ちょっとだけど」
「ほらぁ、やっぱり! あのコも、たまには傷付けばいいのよ! そうすれば、他人の気持ちも少しは分かるようになるって! わたし、行かないからねっ!」
|膨《ふく》れっ|面《つら》で、美沙はソッポを向いた。
鷲士は困ったように笑って、娘の髪を優しく|撫《な》でた。
「……彼はね、きっとすごく家族を大事にしてると思うんだ」
「え……?」
「いや……してるんじゃなくて、大切にしたいのかな。うちの家族は最初からバラバラだって言ったとき、彼ね、すごく|哀《かな》しそうなカオしたんだ。きっと理想の家族像みたいなものがあって……だからぼくにも、キツいこと言ったんだと思う」
「あ、謝ってこなきゃ、わたし……追い出されちゃうの?」
ハの字|眉《まゆ》で、|美《み》|沙《さ》は父を見上げた。
鷲士は苦笑しながら首を振った。横にだ。
「えっ? えっ? そ、それじゃあ――」
「……頼むよ。ぼくからのお願い」
美沙は困って、泣きそうな顔をした。
だが――やがて|叱《しか》られた子供がよくやるように、鷲士のシャツを|掴《つか》むと、
「……行く」
「ホント? じゃあ?」
「……行くよ。謝ってくればいいんでしょ。だから……一緒にいて」
少女は|唇《くちびる》を曲げ、しかしギュッと鷲士の胸にしがみついた。
この若い親子が、本当の意味で|絆《きずな》を実感した|瞬間《しゅんかん》だった。
|山《やま》の|手《て》線内から少し離れてはいるものの、東京ドーム五〇個分。
こんな冗談みたいな私有地があるから、世の中は分からない。
広大な|敷《しき》|地《ち》の大半を埋めるのは、生い茂る|樹《じゅ》|木《もく》である。真ん中がポッカリ空いて見える理由は、そこに建物があるからだ。
ヨーロッパの古城を思わす屋敷が、|闇《やみ》|夜《よ》にライトアップされていた。
――東にそびえる塔から、光が漏れている。
「あ――ここにもサインをお願いします。そうそう――あ、ここも。いやぁ、さすがに坊ちゃんは優秀でいらっしゃる」
ホテル・ラマダンを上回る|豪《ごう》|奢《しゃ》な部屋で、|禿《は》げ上がった小太りの男が、顔一杯に汗を|掻《か》きながら、机の書類を指差した。
しばしペンを滑らせると、|樫《かし》|緒《お》は顔を上げ、
「……|今《いま》|芝《しば》」
「は、はいっ! なんでしょう、樫緒さま!」
「……ぼくを優秀と言ったな」
感情のない|双《そう》|眸《ぼう》に見つめられ、男は凍りついた。
さらに大量の汗を|掻《か》きながら、今芝は猛烈な勢いで何度も|頷《うなず》き、
「そ、そりゃあもう! 樫緒さまは頭もいいし、なんでもこなしてしまいますし――なによりもお美しい! 坊ちゃんのようなコは見たことがありません、はい!」
樫緒は無言で、男の話を聞いていた。
やがてまた、淡々と、
「……今芝」
「は、はい!」
「……ぼくが好きか?」
一気に空気が冷えた。
男は質問の意味を|量《はか》りかねたのか、しばらく間を置いて、
「もっ、もちろんですとも、坊ちゃん!」
「……なら、もっと|傍《そば》へ」
「は?」
「……男女問わず、好きな相手には近寄りたいもの。違うか?」
今芝の|喉《のど》が、ゴクリ、と鳴った。
むくんだ足が一歩踏み出し、|僅《わず》かだが、男は少年に近付いた。
――だが、それっきり。
肥満した体は、肩を揺らすものの、次の足を出そうとはしなかった。
今芝は青ざめて、自らの足を見下ろした。|踵《かかと》が|絨毯《じゅうたん》に張りついてしまったかのように、足は動かない。意志より、肉体が樫緒に近付くのを恐れているのだ。目の前の少年が異質な存在であると、本能が拒絶する。
|今《いま》|芝《しば》は泣きそうな顔で、|樫《かし》|緒《お》を見た。
美少年は、やはり淡々と、
「……もういい、下がれ」
「わわわ、わたしどもの会社との取り引きは――!?」
「……今まで通りだ」
渡された書類を受け取ると、デブは逃げるように|扉《とびら》まで走った。真っ青のまま低頭し、戸を閉めもせずに廊下へと転げ出る。
何事もなかったように、樫緒は顔を戻した。
無言の時が、|滔《とう》|々《とう》と流れていく。
やがて少年は、おもむろに顔を上げ、|美《び》|貌《ぼう》を戸口へと向けた。
――同じ顔の持ち主が、そこにいた。
「……どーも」
「姉さま……!」
樫緒は口元をほころばせ、ソファから立ち上がった。
ドアから背中を離し、|美《み》|沙《さ》は白い目で、
「勘弁してよね。あんた、あんなのにも愛されたいワケ? 今芝っていや、あの二流家電の社長――エンコーやってるようなブタ野郎でしょ?」
「……姉さま」
なぜか真剣になった弟――いつもだが――に、美沙は冷や汗で|後《あと》|退《ずさ》り、
「な、なぁに? まだ怒ってんの?」
「……姉さまのご苦労はお察しします。しかしあなたが思っているほど、ぼくは愛情や尊敬を享受してはおりません」
「う……。わ、分かってるよ、そんなの……」
「……ならばいいのですが」
樫緒は|頷《うなず》くと、再び|微笑《ほ ほ え》みを浮かべ、
「……しかし、よく|屋《や》|敷《しき》の|警《けい》|備《び》|網《もう》を突破できましたね」
「ま、まあね。こんな時間に執事の|山《やま》|岡《おか》さん起こすのも|可《か》|哀《わい》|想《そう》だったし。それにあんなザルなトラップをスルーできないようじゃ、クノッソスの迷宮は一メートルも進めないわ。あたしを|誰《だれ》だと思ってんの?」
美沙はエッヘンと胸を反らした。
少年は|嬉《うれ》しそうにクスクス笑った。
「……では、ご用向きをお|窺《うかが》いしておきましょう」
すると美沙は、カッ、と赤くなってソッポ。
「さ、さっきは少し言い過ぎたかな、って思ってさ。|謝《あやま》りにきてやったんじゃない」
「……ふむ。しかし|詫《わ》びを入れようという態度とも思えませんが」
しれっ、と答える|樫《かし》|緒《お》である。
「あ、あんたねー。どうしてそーゆー言い方するかなぁ」
「フフフ、冗談ですよ。では痛み分けということでいかがです? ぼくの方にも、多々反省するところがありましたので」
「よ、よぉーし。じゃあ、握手」
「喜んで」
同じ|容《よう》|貌《ぼう》を持つ二人は、歩み寄って、手を握り合った。
ニギニギ、ニギニギ。
腕を放すと、|美《み》|沙《さ》はソファを指差し、
「んじゃ、ほら、そこ座って」
「は?」
「い、いいから、座んなさいってば。あんたのことだから、どーせさっきのキズ、ほったらかしなんでしょ?」
ポン、と背中を押すと腰かけさせ、美沙は弟の前髪を上げた。
|額《ひたい》の右上――毛の生え際に、赤い筋があった。裂傷をカサブタが|塞《ふさ》いだ|痕《あと》だ。周りが少し|腫《は》れている。
「……バカ。炎症起こしてるじゃん」
「……大丈夫ですよ」
「そーゆー問題じゃないの」
と腰のポーチからガーゼと消毒液、そしてテープを取り出すと、チョイチョイチョイ、ペタペタペタ。
「……あの」
「なによ」
「……染みるんですが」
「男のコは我慢すんの」
樫緒は|瞬《まばた》きした。
「……知りませんでした。そういうものですか」
「そういうものなのよ」
最後にガーゼを|貼《は》っつけて、|治療《ちりょう》エンド。
「はい、おしまい」
樫緒は|眉《まゆ》をひそめて、|額《ひたい》のガーゼに手を当てた。姉の処置はともかく、違和感が気に入らないらしい。
「なによぅ!」
「……い、いえ。ありがとうございます」
「じゃ、じゃあ、これで|謝《あやま》ったのと同じだからね。わたしこれで帰るけど、|誰《だれ》か|他《ほか》のヒトから|訊《き》かれたら、ちゃんとそう言ってよ?」
道具を戻すと、|美《み》|沙《さ》は背を向けた。
これには|樫《かし》|緒《お》が|呆《あっ》|気《け》にとられ、
「帰る……? ちょ、ちょっと待ってください。どういうことです? ここへ戻ってきたのではないんですか?」
「ここへ? じょ、じょーだんっ! だーれがこんな家っ!」
美沙はブルブルブル、と首を振った。
「では……何のために?」
「だ・か・ら。謝りに、よ!」
「それだけ……? では、あの男のもとへ帰るというんですか?」
「あの男って……あのねー、|鷲士《しゅうじ》くんて、わたしたちの実の父親だよ? ゴロツキのトコに戻るバカ女みたいな言い方しないでよ」
「……|誰《だれ》があんな男、父親などと」
弟は|忌《いま》|々《いま》しげに吐き捨て、姉は|呆《あき》れ顔だ。
「……ぼくには分かりません。あの男に何があるというんです? あんな荒屋では、あるのは負債が関の山でしょう? 違いますか?」
「……ああ? なによ、それ?」
一気にケンカ腰――美沙は振り返った。
「じゃあさ、この家に何があんのよ? 堀を回ってるだけでフルマラソンになる|敷《しき》|地《ち》? 一枚売っただけで死ぬまで遊んで暮らせる|壁《かべ》の絵? 寝言でも国を滅ぼせるような権力? そんなもんね、運と力さえあれば、誰だってゲットできんのよ!」
「だから、あんなみすぼらしい男からでも、父親の愛情が欲しいと? 笑止な、それではただのファザー・コンプレックスではないですか」
夜半に姉を訪ねたぐらいである、常人よりも情は深いはずだが、売り言葉に買い言葉――樫緒は皮肉っぽく言い放った。
これがまずかった。
「……悪い?」
「え……?」
戸惑う少年を、姉の涙目が|睨《にら》みつけた。
「ファザコンで悪いか、バカッ! だっていなかったんだからしょうがないじゃん!」
「あ……! いえ、その……」
|樫《かし》|緒《お》は慌てたが、もう遅い。
「バッカみたい……! しょせん、完全無欠の樫緒くんには、わたしの気持ちなんか分かるワケないもんね……! あんたやっぱサイテーよっ……! |鷲士《しゅうじ》くんが|謝《あやま》りにいけって頼むから来てやったけど……来るんじゃなかったっ……!」
「え……? あの男が……頼んだ……?」
完全に予想外の顔――樫緒は|呆《ぼう》|然《ぜん》と|呟《つぶや》いた。
そして|美《み》|沙《さ》は背を向けると、吐き捨てるように、
「じゃあね、次期総帥! 愛情否定してんだから、わたしがどうなろうが、もう関係ないでしょ? あのアパートには二度と来ないで! さよなら!」
「ま、待ってください! すみません、謝ります! ですから――」
と伸ばした手の先で、ドアが音を立てて閉まった。
それっきり、少女が戻ってくることはなかった。
樫緒は顔を押さえ、大きなため息をついた。やがて顔を上げ、
「……あの男が……謝れ……?」
少年の整った|容《よう》|貌《ぼう》は、明らかな戸惑いを見せていた。
同じ|頃《ころ》――深夜のコンビニ前。
開いた自動ドアから、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうな長身の|麗《れい》|女《じょ》が、買い物袋片手に現れた。
――|麻《ま》|当《とう》|美《み》|貴《き》である。
|眉《まゆ》を怒らせ、|爪《つめ》を|噛《か》み噛み、深夜の街を歩いていく。
「……ったく、しゅーくんたらっ……! いつの間にあのコと……! てゆーか……いったい何がどーなってるんだ……?」
その“しゅーくん”自身がサッパリなのだから、カヤの外にいる美貴に分かるはずもないのだが、とにかく怒っているから仕方がない。
そして――彼女が引き|摺《ず》る影を、踏み|締《し》める足が一つ。
「……|草《くさ》|刈《かり》鷲士の女だな?」
抑揚のない男の声だ。
顔を赤らめ、しかし怒ったように、美貴は振り返った。
「しゅうじぃ〜? あんなヤツ、もう知ら――」
が、三年連続ミス・キャンパスは、息を|呑《の》んだ。|額《ひたい》に押しつけられたものの冷たさに、|怯《ひる》んだのである。
――Cz75。旧チェコ・スロバキア製ながら、|未《いま》だに世界一と言われるコンバット・ハンドガンである。
|闇《やみ》からミュージアムの手先――|頬《ほお》|傷《きず》の男の顔が、浮かび上がった。
「|陳《ちん》|腐《ぷ》な言い方で悪いが……一緒に来てもらおうか」
|美《み》|貴《き》の細い|喉《のど》|元《もと》が、ゆっくりと上下した。
この状況で、彼女に、否、が言えるはずはなかった。
翌朝の|美《み》|沙《さ》は、窓から見える太陽のように、ニコニコと明るかった。
ボロアパートの食卓――まだ半分寝ぼけて目をこする|鷲士《しゅうじ》を前に、彼女はフライパンとおたまを、楽器代わりに|掻《か》き鳴らした。
「どんどんどん、ぱふぱふぱふ〜! 第一回、親子会議ぃ〜!」
「……はぁ」
|欠伸《あ く び》して、目をこする鷲士である。
深夜、ブンむくれで帰ってきたと思ったら、朝の三時過ぎまで弟のグチを連発。聞かされていた方はたまらないが、当の本人はケロッと早起きだから恐ろしい。
「ふあぁ……。で……いったいなに……?」
「なにって――だから、第一回親子会議だってば!」
「親子会議……? いいけど、|樫《かし》|緒《お》くん、いないよ?」
メガネをかけて、鷲士は言った。
娘は、若い父親を見たまま、|瞬《まばた》き。
「美沙ちょーっぷ!」
――ゴキン!
鷲士の頭を|直撃《ちょくげき》したのは、フライパンの端だった。まさに看板に偽りあり。ボケ青年は、涙目で頭を押さえた。
「いっ……! ちょ、ちょっと、それ、チョップじゃないよっ! ちゃんと手でやってよ、手で! インチキ反対!」
「ふーんだっ! あのコの話なんかするからよっ! いーい? この部屋で、樫緒って名前は禁句! ぜったいぜったい禁句! 今度あのコの名前出したら、罰金一億円だからね! これ決定!」
「そ、そんなムチャクチャな。だって彼、実の――」
「なによぉ!」
「……い、いや、いいです、とりあえず。それで?」
「え、えーっとね。だから……その、親子の間を親密にする案……ての? それをさ、一緒に考えようかと思って」
|頬《ほお》を少し赤らめ、エヘヘ、と美沙だ。
鷲士は首を|傾《かし》げた。
「|構《かま》わないけど……でもさ、ぼくらは十分に仲いいでしょ?」
「そ、そうだけどォ。なんてゆーか、父と娘って感じじゃないんだよぅ。なんか頼りないお兄ちゃんができちゃったってノリで」
「た、頼りないって……。そ、そりゃまあ、|威《い》|厳《げん》なんてないのは認めるけどさ。でも、それは仕方ないんじゃないかなー」
「えー? なんでなんで?」
|美《み》|沙《さ》は身を乗り出し、不満そうに|訊《き》いた。
「だ、だってさ、|年《ねん》|齢《れい》|差《さ》が九歳なワケだよ? 威厳って、|歳《とし》の開きに負うところも大きいからね。将来、きみが結婚するとして――ひょっとすると、ダンナさんがぼくより歳上って可能性もあるんだ。おまけにぼく、まだ学生だし」
「むー、じゃあじゃあ、どうすればいいの? このまま?」
「そうだねー、うーん」
頭をひねる|鷲士《しゅうじ》だ。やがて、彼は|閃《ひらめ》いたように、ポン、と手を打つと、
「じゃあね、ぼくにやって欲しいことってある?」
「鷲士くんにやって欲しいこと……?」
「うん。ぼくたちずーっと会ったことなかったんだし、美沙ちゃんの中にも、父親の理想像ってのがあると思うんだよ」
「それ、鷲士くんがやってくれるの?」
「まあ、できる|範《はん》|囲《い》で、だけどね。もちろん、努力はするよ」
「理想の父親かぁ。うーん」
今度は美沙が|唸《うな》る番だった。
やがて人差し指を立てると、
「とりあえず――大原則! 優しいパパ!」
しかし鷲士のニコニコ笑顔を見ると、赤くなって、手を引っ込めた。
「そ、それは合格点……よね、うん。鷲士くん優しいし……」
「ハハハ……ヒトに強く言えないだけって話もあるけど。|他《ほか》には?」
「他に? えー、ちょ、ちょっと待ってよぉ」
美沙は困ったように目を閉じて、首を|捻《ひね》った。
すぐに放り出した。
「あー、ダメダメ! いきなり言われても、やっぱり出てこないって。我ながら具体性に欠けるってゆーか――今日、ガッコでタカちゃんにでも|訊《き》いてみようかな? あ、でもあのコ、ファザコンって感じじゃないし。んー」
「じゃ、ぼくは、顔洗って新聞っと」
頭を抱える美沙を|尻《しり》|目《め》に、鷲士は苦笑しながら立ち上がり、玄関へと消えた。
あっさり戻ってきた。
「あれ? どしたの?」
青白い顔でたたずむ|鷲士《しゅうじ》の手には、一枚の紙が握られていた。すぐに察し、|美《み》|沙《さ》は紙を奪い取ると、文面に目を落とした。
[#ここから3字下げ]
|麻《ま》|当《とう》|美《み》|貴《き》を|拐《かい》|取《しゅ》セリ。
夕刻の|樹《じゅ》|海《かい》にて待つ。
――なお、私本をお忘れなきよう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]|桐《きり》|古《こ》
「ま、まずいよ。美貴ちゃん、関係ないのに……」
|呆《ぼう》|然《ぜん》と|呟《つぶや》く鷲士である。
対して美沙は、不敵な笑いを浮かべ、手紙を握り|潰《つぶ》した。
「……やってやろーじゃん!」
「以上の例から、ミュージアム側が約束を守ることなどありえないという事実が証明されたと思います。従って、麻当美貴さんを救う最も効率的かつ安全な手段としては、まず指定された現地に赴き、しかる後に小人数で|急襲《きゅうしゅう》――」
バインダーから顔を上げた|冴《さえ》|葉《ば》は、|眉《まゆ》をひそめた。
「どうかなさいまして?」
「……トホホ。いえ、別に」
肩を落としたままで、鷲士は答えた。
|脇《わき》のスモークガラスから見えるのは、立体交差だ。首都高――湾岸沿いを走る黒いリムジンの中に、|彼《かれ》|等《ら》はいた。加えて、窓から顔を出せば、|先《せん》|導《どう》している何台ものパトカーと白バイが目に入るはずである。
|隣《となり》の美沙が、不満そうに|壁《かべ》を|蹴《け》り上げた。
「ちょっとぉ、もっと飛ばしなさいよ!」
仕切りのウィンドウが下がり、前方座席から、シワシワの|痩《や》せた老人が顔を出した。
「は、ははっ! それがその、渋滞ばかりは、いかんともしがたく……」
「ああ? なにほざいてんの? あんたそれでも副総理? 国家公安委員長も兼務してるんでしょ? なんとかしろよォ!」
「い、いや、ですから、その!」
「だいたい、なんであんたが来るかなー。わたしが呼んだの首相でしょ? ったく政治屋は選挙過ぎると公約も恩も忘れて――あんたたち、あれ? また野党に戻りたいワケ? てゆーかさ、根本的に|舐《な》めてない?」
――ガツン。
小さな|踵《かかと》が、再び仕切りにヒットした。
老人は真っ青になると、|弾《はじ》かれたように携帯を耳に当て、
「――も、もしもし! そっ、そうだ、わしだ! なにをしとる、こっちがもっと速く進めるように――なに? ジジイが先の横断歩道で? バカモン、そんなジジイひき殺せ! 今すぐに殺せ、この|瞬間《しゅんかん》に殺せ!」
副総理が|唾《つば》を飛ばしながら|喚《わめ》く中、再びウィンドウがせり上がり、老人の狂気も声も|遮《さえぎ》られることになった。
再び静かになった空間で、|冴《さえ》|葉《ば》が、
「あの……続けてよろしいんですの?」
「え? あー、いいのいいの。ふんぎりがついてないだけだから。あいつら、フェイスは|鷲士《しゅうじ》くんだと思ってるから、どっちみち、一緒に行かないとまずいし。ねーっ? だから説明に移っちゃってよ」
ケラケラ笑いながら、鷲士の背中をぶっ|叩《たた》くから|恐《こわ》い。
冴葉は|頷《うなず》くと、再びトホホな男に向かった。
「では、我々の今回のターゲットについてですが――簡潔に説明するためには、まずあなたの知識がどの程度かを調べる必要があります」
「は、はぁ。どうぞ」
「では――鷲士さん、かぐや姫をご存じ?」
「……は?」
鷲士の目が点になった。
「ですから、かぐや姫、です」
「い、いや、直接的な知り合いってワケじゃないですけど、お話ぐらいなら……」
「|結《けっ》|構《こう》。じゃ、かいつまんで、わたしに説明してくださる?」
「えーっと、木こりのおじいさんが切った竹から女のコが生まれてきて――成長すると都でも大評判の美人になったけど、貴族の求婚も無理難題を押しつけて事実上断り――結局は月から遣いがやってきて、一緒に帰っちゃった、と」
鷲士は、ポリポリ|頬《ほお》を|掻《か》いた。
「えと、竹取物語のことですよね? でも、詳しいことは、ちょっと」
「ああ、いいんです、ご存じならば。問題は、最後のところ――かぐや姫が月に帰る間際の部分です。|憶《おぼ》えておいで?」
「あ、何か残していったんでしたよね。永遠に水が|涌《わ》き出る|柄杓《ひしゃく》と、あとは確か――」
「確か?」
美人秘書は、目を細めた。
「確か――不死になる薬、とかなんとか」
「お、ちゃんと知ってるゥ。日本人してるじゃん」
ニヤリ、と|美《み》|沙《さ》だ。
「でもそれ、|帝《みかど》が焼いちゃったんだよね? 月に一番近い山で? それが不死の山、つまり|富《ふ》|士《じ》山の由来って説を、どこかで。違ったっけ?」
「たいへん|結《けっ》|構《こう》です。では、これをご|覧《らん》ください」
パン、と|冴《さえ》|葉《ば》は、手を|叩《たた》いた。
突如、目の前に映像が出現し、貧乏大学生をたじろがせた。
「えっ? えっ?」
――ホログラフィ。立体映像である。光源は|天井《てんじょう》に空いた三つの穴だった。そこからの映像が重なって、三次元に見せているようだ。
空中で結像したのは、腐ったいくつもの木の破片だった。
「あ、あの、これは?」
「柄杓、です。一三〇〇年を経て、もう見る影もありませんが」
「はぁ」
最初の反応は、まずこんなもんだろう。
次の|瞬間《しゅんかん》、|鷲士《しゅうじ》はこれ以上はないというぐらい、目をひん|剥《む》いた。
「え、ええーっ!? だってだって、あれって伝説じゃ……!?」
「事の起こりは、三ヶ月前に|遡《さかのぼ》ります。聖カトレア女学館の奉仕活動――ボスが|山《やま》|梨《なし》の農村に行ったのが始まりでした」
「ほ、奉仕活動で農村?」
「小学部の|頃《ころ》からやってるよォ。ほら、ウチって筋金入りじゃん? お|嬢《じょう》さまにモノを作る苦労を教える、ってお題目みたい。|高《こう》|齢《れい》|化《か》が著しい農家の方々に奉仕して――とかなんとか。やらされる方はたまんないけどさー」
美沙は肩をすくめた。
「ま、そこのお|婆《ばあ》ちゃんに、私本もらったからいいけどね」
「家に語り継がれた|口《く》|伝《でん》――年寄りの話に|興味《きょうみ》を持ってくれた少女に、お婆さんはお礼がしたかったんでしょうね。きっと善意の方です」
冷めた横目で、|冴《さえ》|葉《ば》は|主《あるじ》を見た。
美沙は、うっ、と|唸《うな》り、
「な、なによう、その目ェ。わたし、ちゃんとご奉仕したよ。|他《ほか》のコの三倍は働いたんだからね。雑草抜いたり、|鍬《くわ》持って、えいやーって――」
「……事後は、ちゃんとお礼を」
「はいはい、分かってますって。ったく、マジメなんだから〜」
「性分の問題ですわ」
軽く受け流すと、|冴《さえ》|葉《ば》は再び|鷲士《しゅうじ》に目を向けた。
「――失礼しました。その農家のお|婆《ばあ》さんから|譲《ゆず》り受けたのが、これ――我々とミュージアムが“|稗《ひえ》|田《だの》|阿《あ》|礼《れ》私本”と呼んでいるものです」
冴葉は指を振った。
途端に、空中の画像が切り変わった。|木《き》|屑《くず》から、ボロボロの|古《こ》|文《もん》|書《じょ》へ。
「あ……!」
「保存状態が良かったせいで、さほど傷みはありませんでした。炭素測定により、約一三〇〇年前のものだと証明されています」
「じゃ、やっぱり本物……!?」
「ええ。さらに|血《ち》|糊《のり》で閉じられた私本の後半を透過スキャンした結果、かぐや姫――|迦《か》|具《ぐ》|夜《や》|比《ひ》|売《め》の残した宝の隠し場所が|露《あらわ》になりました。|青《あお》|木《き》ヶ|原《はら》|樹《じゅ》|海《かい》・|富《ふ》|士《じ》|山《さん》|麓《ろく》の北西部に広がる巨大な地下|空《くう》|洞《どう》が、そこです」
「でも、失敗しちゃったんだよねー。|柄杓《ひしゃく》の|残《ざん》|骸《がい》回収した時点で、あいつと鉢合わせ」
|美《み》|沙《さ》がため息をついたと同時に、さらに映像が変わった。
白い|異形《いぎょう》の上半身が、静かに回転した。
――なよ竹の鬼だ。
息を|呑《の》む鷲士の前で、冴葉が続けた。
「ご存じの通り、これが私本に著された鬼だと思って、ほぼ間違いありません。ボスが持ち帰った肉片の細胞を分析した結果、|構《こう》|造《ぞう》自体は未知のものでした。が、おぞましいことに、その|遺《い》|伝《でん》|子《し》の塩基配列は――」
「は、配列は?」
「九九・九九パーセントまでヒトと同じものだったのです」
「……!」
青年の青ざめた|額《ひたい》から、一筋の汗が落ちた。
「少なくともこの鬼は、遺伝子のレベルから見る限り、ヒトと断言していいでしょう。オランウータンよりも我々に近い存在です」
「そう言えば、|桐《きり》|古《こ》ってヒトも、そんなことを……! 鬼も、返しやって……! 人間だから言葉が分かるのか……!」
「この鬼には、様々な|謎《なぞ》があります。なぜヒトを食うのか、なぜこのような体になってしまったのか、さらには、私本の最後に出てくる竹取の|翁《おきな》とはどういう関係だったのか――とにかく我々が地下|空《くう》|洞《どう》に穴を開けたせいで、鬼は現代に|蘇《よみがえ》ることになってしまいました。どうやら私本の血の|匂《にお》いを|嗅《か》ぎつけ、追ってくるようです」
「恐らく、今回も出てくるでしょーね、やっぱり」
|美《み》|沙《さ》は|唸《うな》った。
|冴《さえ》|葉《ば》は|頷《うなず》きながら、
「今回のミッションにおける重点は二点。まず、|美《み》|貴《き》さんをこちらに取り戻すこと。これに関しては、現場指揮者――お|嬢《じょう》さまに従ってください」
「は、はあ」
「もう一点は、不死の妙薬を、なんとしてでも奪取すること」
「ええっ!? そんなものまで取りにいかなきゃいけないんですか!?」
「不死の妙薬などがミュージアム側の手に渡ったら――そんなことまで説明しなければなりませんの?」
「それに、鬼は通常火器だと倒せないみたいなんだァ。ミサイルの雨って手もあるけど、死にませんでした、じゃ、ただのギャグだしぃ。不死の薬を分析すれば、必然的に、倒す手段も見つかるでしょ?」
そして女性二人は、返事を待った。
|鷲士《しゅうじ》は、ゾンビみたいに顔を上げ、
「……お手柔らかにお願いします」
「|結《けっ》|構《こう》です。では、ご武運を」
冴葉が頷くと同時に、リムジンが停車し、|父《おや》|娘《こ》は外に出た。
いつの間にやら港だ。それはいい。だが|埠《ふ》|頭《とう》の|傍《そば》に停泊しているモノを見て、鷲士は完全に凍りついてしまった。
大海原を|往《い》く鉄の城。波を|掻《か》き分ける|要《よう》|塞《さい》。
――ミニッツ級|航《こう》|空《くう》|母《ぼ》|艦《かん》である。
視界を埋め尽くす巨大船は、ネイビーブルーではなく、フラットブラック一色だった。故意に色を変えてあるらしい。
|舳《へ》|先《さき》――上甲板の下の辺りには、ギザギザ文字で、こうあった。
[#ここから3字下げ]
LIGHTNING LADY
[#ここで字下げ終わり]
東京の内湾――それも漁船に混じって、|戦《せん》|闘《とう》空母だ。非常識を通り越し、もうムチャクチャな光景である。たとえ実際に目にしても、常人ならば疑うのは港湾関係者の裁量ではなく、まず自分の頭だ。
「なに固まってるの? ほら、いこ!」
なすがままに引っ張られ、|鷲士《しゅうじ》は桟橋から、一気に飛行甲板へ。
だだっぴろい鉄板平原に出るやいなや、足下を重い振動が走り抜けた。甲板の下で、何かが動き始めたのである。間を置かず、それは姿を現した。
――F22ラプター。
エレベーター・デッキと共にせり上がってくる黒い機影を見て、鷲士の顔は、|土《つち》|気《け》色にまで変わった。|唇《くちびる》は紫色だ。
|脇《わき》に立つフライト・オフィサーに、|美《み》|沙《さ》が手を振り、
「ねえ、準備は?」
「OKです――ボス」
ヘルメットを|被《かぶ》った要員が、親指を立てて返した。
そして脳が停止した鷲士が、ぼんやりと、
「あ、あのさ……念のために|訊《き》くけど……」
「ん? なになに?」
「|戦《せん》|闘《とう》|機《き》まで|操縦《そうじゅう》できるなんて……言わないよね……?」
「余裕だニャン」
とネコパンチの|構《かま》えな美沙である。
鷲士は、|弾《はじ》かれたように|喚《わめ》いた。
「いっ、いやだーっ! そんなのいやだーっ! 絶対にいやだーっ! 船に乗ったのも初めてなのに、最初に乗る飛行機が戦闘機だなんて!」
「そうなの? 良かったじゃん、自慢になるよ」
「良かったって――そんなのムチャクチャだよ! |樹《じゅ》|海《かい》なんて、クルマで行けばいいじゃないか! だっていま中一でしょ!? 去年まで小学生でしょ!? それなのに――ああっ! だいたい、ニャンってなに、ニャンって! 日本語はちゃんと使おうよー!」
鷲士は頭を抱えて|悶《もだ》えた。
ニャンだろうが何だろうが、この際、どうでもいいはずだが、パニックを起こしている人間など、まあこんなものだ。
その首根っこを、美沙が|掴《つか》んだ。
「もうっ、ミュージアムが指定してきた|座標《ざひょう》は、樹海の奥なんだよ? クルマなんかで、間に合うワケないでしょ。さっ、行くよっ!」
と、無理やりF22のタラップをのぼらせ、座席にポイ。自分も後部座席に乗り込むと、機体をカタパルトまで移動させながら、ハーネスを着けていく。
やがて、ラプターの向きと|発《はっ》|艦《かん》ラインが重なった。
美沙は|拳《こぶし》を突き出し、親指を立てた。
フライト・オフィサーが|頷《うなず》いて、
「Goodluck, to comeback!!」
信号旗が、一気に振り下ろされた。
「ギャー! 人殺しー!」
と|鷲士《しゅうじ》が|喚《わめ》いたが、遅過ぎである。
カタパルトが|弾《はじ》けるのと、F22がアフターバーナーを全開にしたのが同時。そして黒い機体は海上に出ると、上昇してループ。雲の間に消えていった。
そして数十分後――|青《あお》|木《き》ヶ|原《はら》|樹《じゅ》|海《かい》・北西部。
頭上を|塞《ふさ》ぐ木木の間から、GPSの|誘《ゆう》|導《どう》で|帰《き》|還《かん》していくF22を見上げながら、鷲士は|呆《ぼう》|然《ぜん》と|呟《つぶや》いた。
「ああっ……! どうしてこんなことにっ……!」
「ほらっ、男のコがウジウジしないっ! いくわよ、鷲士くん!」
半ば|美《み》|沙《さ》に引き|摺《ず》られながら、トホホ青年の姿は、森に飲み込まれた。
第五章 DADDYFACE――THE NINEHEAD-DRAGON
太陽は半ば落ちかけ、|樹《じゅ》|海《かい》も朱に染まりつつあった。
白いスーツの男が、まず腕のロレックスに目を落とし、次いで顔を上げた。赤い太陽を、目を細めて見つめる。
――|桐《きり》|古《こ》|連《れん》。ミュージアムのハイ・キュレーター。
「そろそろヤツも現れるでしょう。準備は?」
応じて、少し離れた黒服の一団から、|頬《ほお》|傷《きず》の男が進み出た。
「電子地雷は、既に埋め終わりました。ですが――」
「あなたも心配性ですね。なんです?」
桐古は|片《かた》|眉《まゆ》を上げた。
「いえ、ヤツが果たして来るのか、と」
「大丈夫でしょう。|謎《なぞ》に包まれていたヤツの人物像も、これまでの接触で見当がついた。あの男は甘すぎる」
冷淡に、|桐《きり》|古《こ》は言った。
だが、すぐに目を細め、
「いや……あのオドオドした態度も、最強者の余裕なのかも知れない。現にフェイスは、|未《いま》だ無傷だ」
「……我々は勝てるのでしょうか?」
「今度はこちらにも“ハイ・アート”があります。たとえまた鬼が出ようとも、神を滅ぼした古代技術の前には、子供も同然だ」
苦笑して、桐古は|傍《そば》の黒いケースを|叩《たた》いた。
|頬《ほお》|傷《きず》の男も|頷《うなず》いて、
「では、こちらも部下の配置にかかります」
「今度ばかりは、ミスは許されません。気を引き|締《し》めさせておきなさい」
「はっ。では」
一礼して、頬傷の男はきびすを返した。
「うわー、ザコが多いなぁ。さすがに今度はマジみたい」
ゴーグルを|覗《のぞ》きながら、|美《み》|沙《さ》は|唇《くちびる》をひん曲げた。
敵の集団から数百メートル離れた位置に、二人はいた。足場の悪い高台の陰から、敵の様子を|窺《うかが》っていたのだ。
|鷲士《しゅうじ》が青白い顔で、美沙のジャケットを引っ張った。
「ねっ、ねっ、どうするつもりだい?」
「そうねぇ――とりあえず、鷲士くん、ゴー」
ゴーグルから顔を離すと、前を指差し、娘は言った。
鷲士の目は点になった。
「ちょ、ちょっとちょっと!?」
「あっ、こらっ、シッ! もうっ、向こうが振動探査やってたらどうすんのっ? 一発でバレバレだよっ?」
「ゴ、ゴメン。ゴメンってば」
しゃがみ込んで、ヒソヒソ言い合う|父《おや》|娘《こ》である。
「でもさ、一人で行けなんてムチャクチャだよっ」
「じゃあ、親子まとめて|襲《おそ》われろっての? それこそムチャっ。ここはまず鷲士くんが先行して、わたしがバックからフォローってパターンね。|美《み》|貴《き》ちゃんの姿が確認できたら、なんとか|隙《すき》作ってよ」
「な、なんとかって――美貴ちゃんが来てる保証もないんだよ?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。ま、策は打ってあるし――とにかく鷲士くんは、あいつらを|攪《かく》|乱《らん》してくれりゃ、それでいいの。OK?」
「ぜんぜんOKじゃないよぉ〜」
|鷲士《しゅうじ》は肩を落とし、泣きながら答えた。
しかし娘は、素直に応じてくれるほど、良いコではなかった。
「というワケで、よろしく! ガンバレ、男のコ!」
「え? ちょっとちょっ――」
皮のグローブをはめた小さな手が、青年の背中をどついた。
――足場の悪い場所で、バランスを崩したら、どうなるか?
「そんなムチャクチャなぁっっっ!」
ボケ青年は、悲鳴を上げながら、坂を転げ落ちる|破《は》|目《め》になってしまった。天地がひっくり返り、ゴロゴロゴロ。
最後に石に頭をぶつけ、鷲士の体は止まった。
「いっ! つつつ……!」
涙目で顔を上げた鷲士だが、すぐにギョッとすることとなった。なぜなら、目の前に自動小銃を突きつけられたからである。
「……おい、見つけたぞ! フェイスだ!」
|歩哨《ほしょう》の|戦《せん》|闘《とう》|員《いん》が、森に向かって|喚《わめ》いた。
この状態で、逃げられるはずもない。
ワラワラと別の部隊が群がってくる中、鷲士はガックリ肩を落とした。
「トホホ……」
「任せたからね、鷲士くんっ……!」
|美《み》|沙《さ》はMP5Kを腰のストッパーに引っかけ、さらに|狙《そ》|撃《げき》用ライフル、カール・ワルサー社製WA2000を|掴《つか》んだ。
戦う準備を整えた小さな影が、茂みの中に消えた。
数分後――敵陣のド真ん中には、白いスーツの男と対面する、ボロボロのスタジャンを着込んだ青年の姿があった。
|桐《きり》|古《こ》は目を細めて、鷲士を見た。
唐突にその右腕が|霞《かす》み、鷲士の|頬《ほお》で音を立てた。
――平手打ちである。
「いっ……!」
顔を押さえてうずくまる大学生を、桐古は|軽《けい》|蔑《べつ》の|眼《まな》|差《ざ》しで見下ろした。
「……この|期《ご》に及んで|徒《と》|手《しゅ》|空《くう》|拳《けん》とは。なんのつもりです? 我々を倒すのに、拳銃一丁も必要ないと言うのか?」
「そ、そんな……! いたた……!」
|唇《くちびる》の間から、血が流れた。口を切ってしまったのだ。
|桐《きり》|古《こ》は|憮《ぶ》|然《ぜん》と顔を上げると、
「……それで、私本は?」
「ここに」
|頬《ほお》|傷《きず》の男が、ボロボロの|古《こ》|文《もん》|書《じょ》を手渡した。
敵キュレーターの顔は、簡単にほころんだ。
「おお……! これぞ|稗《ひえ》|田《だの》|阿《あ》|礼《れ》が記したとされる秘本……! 一三〇〇年前の|遺《い》|産《さん》……! 歴史的価値は計り知れない……!」
丁寧な手付きで表紙をめくり、目を通していく。
やがて、|鷲士《しゅうじ》は、恨めしそうに血を|拭《ぬぐ》い、
「や、約束ですよ……! |美《み》|貴《き》ちゃんを……!」
「見た目は本物――しかしそれだけで信じるほど、わたしもお人|好《よ》しではありません。分析するまで、待っていただく」
そう言うと、桐古は背後の部下に、私本を渡した。黒服が丁寧に受け取り、設置された金属のケースに放り込む。一種の分析装置らしい。
桐古は、今度こそ本当に|嬉《うれ》しそうに苦笑した。
「フッ、しかしこんな形で、あなたを下すことになろうとは。正直、拍子抜けですよ。戦って倒す自信もあったのですが」
「……ぼくなんか倒しても、なんの自慢にもなりませんよ」
「ご冗談を。ダーティ・フェイスと言えば、生ける伝説。そのあなたを破ったとなれば、裏の世界は|大《おお》|騒《さわ》ぎになりますよ」
「くっ、もうっ! だからそこが違うんですよ、そこが!」
鷲士は立ち上がると、頭を|掻《か》きむしって|喚《わめ》いた。
スタジャンの|襟《えり》に、何かついている。
――隠しマイクだ。
『まだそんなことを。|呆《あき》れた男だ』
『……もういいですよ。そんなことより、はやく美貴ちゃんに会わせてください』
レシーバー越しに声を|捉《とら》えながら、|美《み》|沙《さ》はスコープに目を合わせた。
――カール・ワルサー・WA2000。
ドイツの対テロ|警《けい》|察《さつ》の|要《よう》|請《せい》を受けて開発された、板のような形が特徴的なスナイパー・ライフルである。装弾数は六発だが、美沙のものは改造してあるらしく、カートリッジが収まるべき機関部には、弾薬メタルリンクが接続してあった。
電子スコープ越しの映像は、サーモグラフ――温度差表示である。隠しマイクと連動しているのか、|鷲士《しゅうじ》だけは緑色だ。|美《み》|沙《さ》は小まめにモードを切り替えながら、実映像の障害物と、敵の位置を確認していった。
やがてレシーバーから、
『……結果が出ました。材質は犬のものを用いた皮紙と推定。炭素測定では、一三〇〇年前のものと確認されました。本物です』
『おお、では……!』
『約束ですよ。|美《み》|貴《き》ちゃん、こっちに返してくださいよ〜』
ノイズ混じりの情けない声で、鷲士が言った。
「さーて、そろそろね……」
|呟《つぶや》くと、美沙はトリガーに指をかけた。小さなアゴをストックに載せ、必殺のタイミングを待つ。
が――。
『残念ながら、あの女――美貴さんでしたか――は、ここにはおりません。もっとも、もとから生かして返すつもりもなかったが』
「……言うと思った」
|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めたものの、美沙が引き金から指を離すことはなかった。
「え……ええっ!? そんな、話が違うじゃないですか!」
鷲士は青ざめて|後《あと》|退《ずさ》った。
黒服たちの銃口が、|揃《そろ》って彼の頭部を|狙《ねら》った。
「だから言ったでしょう、拍子抜けだ、と。まさか本当に交渉が成立すると思ったのではないでしょうね? この業界では人質交渉など有名無実――当然のことだ。世界最強の名が泣きますよ、ダーティ・フェイス?」
|桐《きり》|古《こ》は、皮肉っぽく吐き捨てた。
しかし――泣き|喚《わめ》いてもおかしくないこの状況で、鷲士は深々とため息をついた。
「……いい加減にしませんか、こういうの」
「……なんですって?」
「ぼくは……本当にダーティ・フェイスなんかじゃない。いや……そんな名前で、ぼくの姿を持つ宝探しなんて、元からいやしないんだ」
「ハッ、この|期《ご》に及んでも、か! 分からない、わたしにはあなたが分かりませんよ。そんな下らない|嘘《うそ》をつくメリットなど、どこにもないはずだ。何度も言うように、既に調べはついているんですよ?」
「……あのですね、あなたがぼくをフェイスだと思ってる根拠ってなんです? ギルドから手に入れた紙切れ一枚だけじゃないんですか?」
「な……に?」
|桐《きり》|古《こ》の顔から、急に笑みが消えた。
指で|頬《ほお》を|掻《か》きながら、鷲士は続けた。
「ただの大学生を演じてるって言ってましたけど――そりゃそうですよ。だってホントに大学生なんですから。だいたい、そんなにお金持ってたら、もっといい部屋に住んでます。カモフラージュが|徹《てっ》|底《てい》してる? じゃあ、ぼくはなんのために宝探しなんてしてるんです? ただのお宝マニア?」
「い、いや、しかし――」
「分からないとか、メリットないとか――ないですよ。違うんだもの。だから最初に戻りますけど――もしギルドに登録されてる情報がウソだったら?」
「す、すべてが……偽りということに……!?」
桐古は、自分の言葉に顔色を変えた。
|鷲士《しゅうじ》は答える代わりに、ため息をついた。
キュレーターは絶句していたが、やがて、ハッ、とし、
「い、いや……しかしあなたは、私本を持ってきた! それは取りも直さず、あなたが本物のフェイスだという|証《あか》し!」
「えーっと……引っ越しの荷物に紛れ込んでたんですよ。だから……その……本物が責任を感じて、少し手助けしてくれてるだけの話で」
「本物が……別にいるだと!?」
「あの、だからぼく殺しても、あなたにはなーんのメリットもありませんよ。また顔のない宝探しが現れるのは、絶対に保証できますから」
しばらく、間ができた。
次の|刹《せつ》|那《な》、桐古は|凄《すさ》まじい勢いで、|拳銃《けんじゅう》を鷲士の|額《ひたい》に押しつけた。
「あなた……! では、いったい何者なんです……!」
「くくく、|草《くさ》|刈《かり》鷲士、二十一歳! |相模《さ が み》|大《だい》の三回生です! あのっ、免許とるほどお金ないんで、身分証だったら、アパートに保険証が!」
「では、本当に別人だと……!」
「そっ、そうなんですってば! 最初から言ってるでしょ!?」
青ざめて、鷲士は答えた。
やがて、桐古が銃を下ろした。ミュージアムの男は、半ばヤケクソぎみに空を仰ぎ、天高く|哄笑《こうしょう》した。
「……ハッハッハ! またしてやられたというわけですか! よりによって、ただの学生を身代わりに使うとは! やってくれる!」
「じゃ、あの、そういうワケで、|美《み》|貴《き》ちゃんの居場所は……?」
「答えてあげなさい!」
目を閉じて、|桐《きり》|古《こ》は声を上げた。
後ろの通信装置が、ノイズ混じりの返答をした。
『……|江《こう》|東《とう》区の、メゾン・ルージュというマンションです。この女、どうしますか?』
「わたしの指示を待って、殺せ! 生かしておく必要などない!」
「え……ええっ!? そんな!」
「もしもーし? 今の、聞こえた?」
|美《み》|沙《さ》はWA2000の|狙《ねら》いを定めたまま、レシーバーに|囁《ささや》いた。
ヘッドホンから返ったのは、少年の声だった。
『……メゾン・ルージュですね。いまコンピューターで場所を確認しました』
「どお? 跳べそう?」
『……あの人の位置なら、近付けば分かりますから。さほど心配する必要はないでしょう。いざとなれば、自分でなんとかすると思いますし』
「じゃ、任せたよ。急いで!」
『……あの』
「なによぅ!」
『約束通り、休戦ですよ』
「わーったから! もうっ! ちゃんと助けてよね!」
『……承知しました』
ノイズを|響《ひび》かせ、通信は途切れた。
「ま、待ってくださいよ!? そんなのおかしいですよ、どうしてなんです!? だって関係ないって分かったじゃないですか!?」
「……確かに。ですが、どんな|繋《つな》がりであれ、フェイスの関係者など生かしておくことはできません。敢えて言うなら……ついでだ」
「つ、ついで……!」
再び|拳銃《けんじゅう》を向けられ、|鷲士《しゅうじ》は|後《あと》|退《ずさ》った。
「まったく、ハイ・アートまで用意したこちらがバカに思えてくる。あの女性は、後ほど送り届けますから。一足お先にどうぞ」
桐古の親指が、ハンマーを上げた。
鷲士は、冷や汗を一筋。息を吸い込むと、思い切り叫んだ。
「ね、ねえ、もういいよね!? 逃げるよぉ、逃げるからね!」
「いったい|誰《だれ》に……!?」
戸惑って、|桐《きり》|古《こ》。しかしすぐに察し、
「――そうか、フェイスか!」
桐古が吐き捨てたと同時に、|爆《ばく》|音《おん》が森をつんざいた。
|鷲士《しゅうじ》の眼前で、|拳銃《けんじゅう》が吹っ飛んだ。足下に落ちた銃のフレームには、長いライフル弾が突き刺さっていた。|美《み》|沙《さ》が|狙《そ》|撃《げき》したのだ。
「ツツ……くそっ、どこだ、どこにいる!?」
腕を押さえて、桐古は辺りを見回した。
爆音は、さらに上がった。後ろから|駆《か》け寄ってきた黒服が、同時にブッ倒れる。足を|撃《う》ち抜かれたらしい。
「おのれ、ダーティ・フェイス……!」
「フンフンフン〜♪ 殺さないだけマシだと思ってよね〜♪」
鼻歌混じりに、美沙はトリガーを引き続けた。
――スコープの中の人影が、次々に倒れていく。
動揺した黒服たちが森に向かってSMGを乱射する中、|桐《きり》|古《こ》は絶叫した。
「クッ、応戦するのはやめなさい! 音源の方向が分からない! このままでは、ヤツの思うつぼだ!」
しかし|銃撃《じゅうげき》がやむ気配はなかった。顔のない無敵のトレジャー・ハンターの伝説が、部下たちの正常な判断を狂わせているのだ。
そんな中、|鷲士《しゅうじ》はソロソロと|後《あと》|退《ずさ》った。
「じゃ、じゃあ、ぼくはこれで……」
引きつった笑みで言うと、|弾《はじ》かれたように背を向け、疾走に移った。
これをハイ・キュレーターが見逃すはずはない。
「えーい、地雷だ! 電子地雷のスイッチを入れろ!」
|美《み》|沙《さ》は小まめにスコープのモードを切り替えながら、|狙《そ》|撃《げき》を続けた。
が――トリガーを引く指が、急に止まった。
スコープの画面に、急にポツポツと赤い点が出現したのである。|眉《まゆ》をひそめて、幼い|美《び》|貌《ぼう》は顔を上げた。
「ヤダ、こんな時に|壊《こわ》れちゃったとか?」
汗ジトになって、再び|覗《のぞ》き込む美沙だ。
その顔色が、|瞬時《しゅんじ》に変わった。
「まずっ! あれ、地雷なんだわっ!」
体を起こすとライフルを引っ|掴《つか》み、美沙は|蒼《そう》|然《ぜん》と立ち上がった。茂みの間を|掻《か》き分けて、戦場へと突っ走る。
「逃がすな! あの男を逃がすと、フェイスは何をしてくるか分かりません!」
桐古の絶叫を背に受けながら、鷲士は走った。|彼《かれ》|等《ら》に従えば、最終的には殺される――その事実をやっと理解したらしい。
そして横の茂みから、急に影が飛び出してきた。
――美沙である。
「鷲士くん、ダメッ! そこから先はヤバいよ!」
「あっ、こら! 出てきちゃ危な――」
「ああっ、もうっ! ダメだって言ってるのに!」
美沙は横からダイビング・ジャンプ。抱きつかれた鷲士もバランスを崩し、一緒になって茂みへ突っ伏した。
倒れた拍子に、美沙の肩からバンドが外れ、WA2000が宙に舞った。|緩《ゆる》やかな放物線を描いて、草の間に落下。
その|刹《せつ》|那《な》、|地《じ》|響《ひび》きが、辺りを|駆《か》け抜けた。
地面が|爆《ばく》|発《はつ》したのだ。ライフルが埋めてあった地雷の信管を|叩《たた》き、作動させてしまったのである。吹っ飛ばされた土くれと雑草が、二人の頭上に降りかかった。
上げた|鷲士《しゅうじ》の顔が、さらに青くなった。
「えっ? えっ?」
「あいたた――地雷が埋めてあるのよ、この辺り!」
「じっ、地雷ぃ!?」
「ちょっと甘く見てたみたい。あいつら、なかなか手が込んで――わっ! もう来た!」
背後を見た|美《み》|沙《さ》が、血相を変えて立ち上がった。腰に引っかけてあったMP5Kを腰だめに|構《かま》えたのは――いい。が、細腕でコッキングボルトを引っ張った際のタイムラグが、致命的な|隙《すき》を生んだ。
――バン!
「キャッ!」
悲鳴を上げて、美沙は父親の上に倒れ込んだ。
鷲士は真っ青になって、彼女を抱き起こした。
「いたた……! 痛いよぅ、鷲士くん……!」
いつもの威勢は鳴りを|潜《ひそ》め、少女は涙目で訴えた。右前腕を押さえた指の間から滴っているのは、真っ赤な|鮮《せん》|血《けつ》だ。
鷲士の顔に、本物の|衝撃《しょうげき》が走った。
「な、なんてことを……!」
「……あのときの小娘か? ガキが、チョロチョロと……!」
美沙を|撃《う》った張本人――|頬《ほお》|傷《きず》の男が、二人をロックしたまま吐き捨てた。男は部下の黒服たちにアゴをしゃくると、
「連れてこい! 抵抗すれば足を撃て!」
「ははっ!」
男たちが低頭し、親子を取り囲んだ。腕を|掴《つか》み上げ、無理やり立たせる。
美沙は身をよじり、鷲士は|俯《うつむ》いたままだ。男たちは少女からSMGを奪い取ると、有無を言わせず、頭のレシーバーまでむしり取った。
二人は、|頬《ほお》|傷《きず》の男の前まで、引っ立てられた。
「……銃撃がやんだ。スナイパーは小娘だけか。どうします?」
「本物のフェイスは、来てもいないというわけか。仕方ない、身動きとれないように|縛《しば》っておきなさい。人質が三人もいれば、ヤツも考えを変えるかも知れない」
後ろの|桐《きり》|古《こ》が、|忌《いま》|々《いま》しげに言った。
異変が起きたのは、その時だ。
『……もしもし? そこに|桐《きり》|古《こ》という名の愚か者はいますか?』
通信装置のスピーカーから、異様に落ち着いた少年の声が言った。|鷲士《しゅうじ》を除いた全員が、|蒼《そう》|然《ぜん》と視線を集中させた。
「その声……|結《ゆう》|城《き》の|御《おん》|曹《ぞう》|司《し》……? なぜ……!」
ぼんやりと、桐古が|呟《つぶや》いた。
『……ああ、昨晩の無礼者か。人質とは、|下《げ》|衆《す》な|輩《やから》のやりそうなこと――|美《み》|貴《き》さんは、ぼくが無事に助けました。戦いは正々堂々となさい』
「な、なに……!?」
「ご、ごめーん、|樫《かし》|緒《お》ちゃん! こっちがヘマっちゃった!」
動揺を隠せない桐古の背後から、|美《み》|沙《さ》が情けない声を上げた。
しばらく間ができた。
やがて、やはり落ち着いた声で、
『……そこに、あの男はいるのですか?』
「あの男? 鷲士くんのこと? いるけどさ〜」
『……ならば、心配する必要はないでしょう。ぼくも後から伺うつもりですが、それまでは彼に頼っていれば、問題はないか、と』
「ええっ!? ちょ、ちょっと――」
『……|九頭竜《くずりゅう》と呼ばれる|蝦夷《え み し》の古武道をご存じですか?』
唐突に樫緒が言い、桐古、|頬《ほお》|傷《きず》の男、両名が凍りついた。
美沙は混乱したように、
「くず……え? なにそれ、分かんないよ〜!」
『後学のためにも、見ておいて損はないでしょう。では』
「こ、こらーっ! お姉さまがピンチに陥ってるってのに――」
――ブツッ。
無情にも、あっさり通信は|途《と》|切《ぎ》れた。
美沙は|呆《ぼう》|然《ぜん》とし、やはり別の意味で呆然と、桐古・頬傷の両名が振り返った。
「く、九頭竜だと……? では、やはりこの男は――」
答えは、鷲士を囲んでいた部下たちが、体でした。
唐突に空中に吹っ飛ばされた男たちを、桐古は|呆《あっ》|気《け》にとられたように見つめた。黒服どもは無気味なほどあっさり、宙に浮いた。だが最もワケが分からなかったのは、飛ばされた男たちだろう。彼らは五メートルほど上空から、夢でも見ているような顔付きで、地上に立つ|痩《や》せぎすの青年を|凝視《ぎょうし》した。
「えっ、わっ――なになに?」
おっかなびっくりに、美沙が辺りを見回した。
その横で、|鷲士《しゅうじ》がメガネを外し、
「……きみは下がって」
「しゅ、鷲士くん!? いったい――」
「下がりなさいっ!」
「は、はいっ! お、怒んないでよぅ……」
|美《み》|沙《さ》が慌てて|後《あと》|退《ずさ》ったところで、空中の男たちが、バタバタと落下してきた。地上五メートル――民家で言えば、三階の高さである。受け身をとったところで、|衝撃《しょうげき》は内臓を貫く。黒服どもは、地面の上でのたうち回った。
「もうアタマに来た……!」
メガネを|懐《ふところ》に収めながら、鷲士は足を踏み出した。
「クッ! 死ねっ!」
ザコの一人が立ちはだかり、銃を|構《かま》えた。
――黒服には、鷲士が消えたように見えたはずだ。
実際には想像を絶する速度で踏み込み、異様に低く腰を落としたのだ。鷲士の頭部は、この時、黒服の|膝《ひざ》の位置にあった。青年の右腕が、束の間、|霞《かす》んだ。
次の|瞬間《しゅんかん》、ザコは、既に天高く|撥《は》ね飛ばされていた。
「|九《く》|頭《ず》・|右竜翔扇《うりゅうしょうせん》……」
ぼんやりと、ハイ・キュレーターは|呟《つぶや》いた。
|頬《ほお》|傷《きず》の男が、目を細めた。
「なんですって?」
「え……? ああ、九頭竜とは、おかしな武術でしてね。|攻《こう》|撃《げき》と返しの技が完全に右半身と左半身に分かれているんですよ。右の攻撃を総じて右竜、左の返しを左竜。詳しくは知りませんが、女性の使う女竜という系統もあるようです。今のは、右竜翔扇――敵を空中に|弾《はじ》き飛ばして身動きできないようにし、技を|叩《たた》き込む基本型だ」
|桐《きり》|古《こ》は引きつった笑みを浮かべて、鷲士を|睨《にら》んだ。
「ハハハ……! |騙《だま》されるところだった! やはりあなたがフェイ――」
「……違うって言ってるだろう!」
鷲士が、高々と|吠《ほ》え上げた。
その目付きは、名の通り――|獲《え》|物《もの》を追う|鷲《わし》そのものだった。
「ハッ、なにを今さら! その技は九頭竜そのもの――」
「……いえ、本当に違うのです、きっと」
|頬《ほお》|傷《きず》の男が、|主《あるじ》を|庇《かば》うように前に立った。
「な、なにを言い出すのです、あなたまで!?」
「フェイスが九頭竜を使うというデータはなかったはずです。その|蝦夷《え み し》の古武道の名が出てきたのは、|草《くさ》|刈《かり》|鷲士《しゅうじ》という青年を調べてのこと」
「……まさか! では、我々はハズレを引いた揚げ句――」
「ええ。伝説の|拳《けん》|法《ぽう》の使い手を、自ら敵として呼び込んでしまった」
部下の言葉に絶句し、|桐《きり》|古《こ》は敵になった青年を見た。
「……あなたたちは……おかしいですよ……!」
鷲士は吐き捨てて、さらに足を踏み出した。
「人が|貰《もら》った本を奪うため、人質をとって、子供を|撃《う》つなんて……! 去年まで小学生やってた女のコだぞ……? 自分の欲望を満たすためなら、何をしてもいいのか……!? それが大人のすることか……!?」
「力こそすべて! いい|歳《とし》をした学生が、なにを|世《よ》|迷《まい》|言《ごと》を!」
「力……だって?」
ピシ、と鷲士の|額《ひたい》に青筋が浮いた。
「ぼくは、暴力は大|嫌《きら》いだ……! でも、もう許さないぞ! じゃあ、その力ってのを見せてあげますよ!」
腰を深く落として、鷲士は|構《かま》えた。|拳《こぶし》は作らず、小指のみを曲げた手刀――大陸の|蟷《とう》|螂《ろう》|拳《けん》にも似たバトル・スタンスだ。
そしてこれが|戦《せん》|闘《とう》開始の合図となった。
「三分だ! 三分だけ、ヤツを止めろ! 後はわたしがハイ・アートで相手をする!」
桐古が腕を振ったのを皮切りに、立て続けの銃声が森を引き裂いた。残りの部下が、鷲士に向けてSMGをフルオート連射したのだ。
「鷲士くん!? 逃げてェッッッ!」
美沙が叫んだが、無駄な心配に終わった。
恐ろしいことに、ただの一発も当たらなかった。鷲士は、軟式のボールを|避《よ》けるような軽い素振りで、首、手、足だけを動かし、雨のように降りかかる弾丸を|躱《かわ》した。|掠《かす》りもしないのである。
これには撃っている男たちの方が顔色を変えたが、銃はすぐに|沈《ちん》|黙《もく》した。モノにもよるがSMGの連射性能は、平均毎分八〇〇発程度。対して装弾数は三〇発が相場だ。フルオートで撃っていれば、実は三秒も持たないのである。
鷲士は真正面にいた男に|狙《ねら》いを定め、踏み込んだ。
戦闘員は、マガジンを換装するヒマはないと悟り、銃を投げ|棄《す》てた。取った構えは、ボクシングの、アップライト・スタンスだ。ストレートを|繰《く》り出した。
――勝負は、|一瞬《いっしゅん》でついた。
何が起こったか、分かった者はいまい。鷲士の|傍《そば》には、戦闘員が倒れていた。上半身と下半身が別々の方を向いている。
“|九《く》|頭《ず》・|左竜輪剄《さりゅうりんけい》”
合気道にも似た流し技の一種だった。ただ、九頭竜の場合、向かってくる力の作用点を|完《かん》|璧《ぺき》に把握し、その方向を変える。成人男子のパンチ力が二〇〇キロ強。それは形を変えて、本人に|襲《おそ》いかかることになるのだ。
「パ、パンチを流して、|腰《よう》|椎《つい》を外しただと……!? 上半身の回転運動を根こそぎ別方向へ変えたのか……! 信じられん、いったいどういう技の体系なのだ……?」
真っ青になって、|頬《ほお》|傷《きず》の男は|呟《つぶや》いた。
|鷲士《しゅうじ》の背後で別の男が弾倉を換え、コッキングボルトを引いた。
次の|刹《せつ》|那《な》、黒服の短機関銃は、手元で|爆《ばく》|発《はつ》した。鷲士の放った指弾――指先で|弾《はじ》いた単なる石コロ――が銃の機関部に命中したのだ。武道というより、戦国時代の侍や忍者が用いた実戦術だが、この場合は|桁《けた》が違った。
さらに別方向から銃声がし、鷲士は腰を|屈《かが》めて|避《よ》けると、音源に目を向けた。
三メートルほど先の木に隠れて、黒服が|銃撃《じゅうげき》してきている。
鷲士は目を細めると、敵に背を向けた。正面の|樹《じゅ》|齢《れい》一〇〇年は超えているであろう巨木に向かって、骨法の|脛《すね》|折《お》りに似たローキック。
直径二メートルはありそうな大木が、無気味なほどあっさりヘシ折れた。
支えを失った木は、ゆっくりと倒れた。
――隠れながら銃撃を続ける黒服をめがけて。
「う、うわ――」
倒れた大木の|地《じ》|響《ひび》きに、黒服の悲鳴は|掻《か》き消された。それっきり、銃声もやんだ。そして鷲士が頬傷の男へ足を踏み出したとき、もはや立ち向かおうとする部下はいなかった。
「ば、化物か、貴様……!」
頬傷は|呻《うめ》くと、|拳銃《けんじゅう》を捨て、ナイフを抜いた。両手を広げた|構《かま》え――マーシャル・アーツが組み込まれた、コマンド暗殺術だ。
男は|摺《す》り|足《あし》で右に動いた。
「おれは今まで一〇〇人は始末して、この地位に就いた! ここでおまえのような得体の知れん男に負けるわけにはいかんのだ!」
「そんな恥ずかしいことを偉そうに言うな!」
突き出されたナイフを、鷲士は五分の見切りで|躱《かわ》した。まず左腕――左竜の技で、敵の|肘《ひじ》間接と、肩間接を一緒に外す。さらに一層深く踏み込み、正拳。
相手は、恐ろしい吹っ飛び方をした。
放物線すら、描かなかった。地面と平行に、頬傷の男は後方へスッ飛んでいった。まず一本目の杉に激突、これをヘシ折った。しかしそれでも止まらず、続けてもう一本も|薙《な》ぎ倒し、|凄《すさ》まじい|騒《そう》|音《おん》を辺りに|響《ひび》かせた。
最後に三本目――巨木を|叩《たた》き折り、|頬《ほお》|傷《きず》の男の体は、ようやく止まった。
「グググ……本当に……ヒトの技か……?」
|呻《うめ》いて、殺し屋は|悶《もん》|絶《ぜつ》した。
辺りは静まり返った。近付く者は、|誰《だれ》もいない。
やがて上がったのは、拍手の音だった。
「す――すっごぉーい、|鷲士《しゅうじ》くん! かっくいい、メチャメチャつよぉーい!」
腕の傷も忘れ、|美《み》|沙《さ》ははしゃいで手を|叩《たた》いた。
やがて、動けない男たちの背後から、
「|九《く》|頭《ず》・|右竜徹陣《うりゅうてつじん》――見事。あなた、相当な|手《て》|練《だ》れですね? |鎧《よろい》はおろか、敵陣そのものを貫く突きを、こうもあっさり決めるとは」
|桐《きり》|古《こ》|連《れん》が、両手に何か抱えて、姿を見せた。
大型のライフルである。
ただし――色は黄金。インド・オリエント風の装飾が浮き彫りにされていた。高価そうな|代《しろ》|物《もの》だが、ハッキリ言うと――。
「今度はオモチャ? あんたってヒトは……!」
「フッ、この“ブラマダッター”を見て、感じるところはその程度ですか。どうやらあなた、本当にフェイスではないようだ」
桐古がコッキング・ボルトらしきものを引っ張ると、黄金の小銃から、耳障りな異様な高音が生じ始めた。
「時にあなた、キュレーターとは何かご存じですか?」
「……美術館や博物館の学芸員のことでしょ」
「その通り。絵画や彫像などの管理を行う人員のことです。では、オーパーツとは?」
「オー……パーツ?」
|構《かま》えを解かずに、鷲士は|眉《まゆ》をひそめた。
「Out of Place Artifacts ――略してオーパーツ。場違いな加工品という意味ですよ。我々はハイ・アートと呼んでいます。あなたもピリ・レイス地図や、ホンジュラス水晶|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の話ぐらいは聞いたことがあるでしょう。前者は氷に|覆《おお》われた南極の図形を中世に描き抜き、後者に至っては現代でも作るのは困難な|代《しろ》|物《もの》だ。それらは測定によって本物と識別されたにも|拘《かかわ》らず、歴史との不整合性を唱える下らぬ学者どもによって、|黙《もく》|殺《さつ》されてしまう」
それから苦笑すると、
「だが、ミュージアムは別です。我々は、固定観念に支配された歴史などには、何の|興味《きょうみ》もない」
|桐《きり》|古《こ》は黄金銃のトリガーに指をかけた。
|鷲士《しゅうじ》は動かない。
「|我《われ》|等《ら》の組織においてハイ・キュレーターとは、このオーパーツを専門に扱う高等要員を指します。わたしもそうです。特にこれは、一九二九年にモヘンジョ・ダロの|遺《い》|跡《せき》で発見された未完成品を、わたしが直にチューンしたもの――“来訪者”の残した超技術の結晶に|他《ほか》なりません」
「それで? そんな遺物で、またヒトを傷付けるんですか?」
「バカが……! では古代兵器の威力、身をもって思い知るがいい……!」
不敵に吐き捨てて、桐古は銃を|構《かま》えた。
|美《み》|沙《さ》が血相を変えて叫んだ。
「ヤ、ヤバいよ、鷲士くん! あれ、ケタが違うから!」
「え……?」
鷲士が肩越しに振り返った|刹《せつ》|那《な》、黄金銃・ブラマダッターのマズルに、光が集まり始めた。バチバチと音を立てて、銃身が帯電していく。
鷲士が地面に|蹴《け》りを入れたのと、桐古がトリガーを引いたのが同時。
直後に、光が|炸《さく》|裂《れつ》した。
鷲士の蹴りを受けて、地面がめくれ上がった。畳返しならぬ、地層返しだ。しかし危機を察したのか、若き|拳《けん》|法《ぽう》使いは、慌てて身を伏した。
頭上を、赤い光の柱が通過した。
――一種の荷電粒子砲であった。
土の|防《ぼう》|御《ぎょ》|壁《へき》など、|瞬時《しゅんじ》に蒸発した。あまりの高熱に原子結合を解かれたのだ。粒子の柱は生い茂る木々を触れるたびに消滅させ、夕刻の空へと消えていった。
数秒後――鷲士はおそるおそる顔を上げた。
彼の背後は、|更《さら》|地《ち》になっていた。草も|樹《き》もないのである。
「どうしました、ナインヘッド・ドラゴンの|闘《とう》|士《し》よ? すべてを焼き尽くす焦熱荷電粒子、止めてみてはいかがです?」
「アハハ……え、|遠《えん》|慮《りょ》しときます」
さっきまでの勢いはどこへやら――ヘロヘロ笑いを浮かべると、鷲士は慌てて美沙のところまで舞い戻った。
「にっ、逃げよう! ねえ、どっち!?」
「え――ええっ? 元はこいつら片付けて、あっちに行く予定だったけどぉ」
「分かった、こっちだね!」
と鷲士は娘を背に担ぐと、彼女が指した右手の奥へ向かって、泡を食って走り出した。
美沙がビックリして、ポカポカ。
「バ、バカッ! さっきも言ったでしょ! この辺り、地雷が――」
「だいじょーぶだいじょーぶ! へーきだから動かないでよ!」
|喚《わめ》くと、|鷲士《しゅうじ》は、さらにスピードを速めた。その先は――少し前、WA2000が吹っ飛んだ地雷原である。
「ああ、もうっ、ヤダッ! なに考えてんのよぅ!」
|美《み》|沙《さ》が目を閉じて、鷲士の背中に顔を押しつけた。
が――。
「地雷が……作動していない?」
そう|呟《つぶや》いたのは、部下の一人だった。
鷲士は美沙を背負ったまま、ホイホイと森の奥へ走っていく。
「クッ、このままでは日本支部の名折れだ!」
「行くぞ!」
鷲士が逃げ出したことに勇気付けられたのか、妙にやる気を出して、黒服たちは立ち上がった。武器を取り直して、走り出す。
|射《しゃ》|撃《げき》ラインを|塞《ふさ》がれ、|桐《きり》|古《こ》が動揺した。
「なにをしている、|邪《じゃ》|魔《ま》だ! 相手は|九頭竜《くずりゅう》の使い手、水の上に立てる魔人です! もしあなたたちが、踏み込みでもしたら――」
立て続けの|爆《ばく》|音《おん》が、彼の声を|掻《か》き消した。
|絨毯《じゅうたん》爆撃を食らったように、地面が次々に吹っ飛んだ。それだけ、地雷を踏んだ人間がいたということだ。|呆《ぼう》|然《ぜん》と、桐古はその様子を見つめた。
やがて風が吹き、土煙が消えた。
あとには、地面で|呻《うめ》く部下たちの姿だけが残った。
「なんというバカどもだ……! これで動ける者はわたし一人に……!」
しかし|手《て》|駒《ごま》を失っても、桐古は|諦《あきら》めようとはしなかった。彼は必要なものをリュックに詰め込むと、きびすを返した。
「私本が手に入った以上、条件は互角。不死の妙薬を|掴《つか》むのは、わたしだ……!」
吐き捨てると、白いスーツ姿が、森の中に消えた。
その|頃《ころ》、都内某マンション一室――。
|麻《ま》|当《とう》|美《み》|貴《き》が、手のロープを解きながら、室内を見回した。
フローリングの床には、人事不省に陥った三人の黒服たちが転がっていた。白目を|剥《む》き、口からは泡だ。窓ガラスも散乱している。
彼らを見て、美貴はため息をついた。大学では見せることのない顔――やたらと砕けた表情である。
「……派手にやったねぇ」
髪に手をやり、振り返る。
冷めた|双《そう》|眸《ぼう》と、目が合った。
――|樫《かし》|緒《お》である。こちらも妙に白い目を、|美《み》|貴《き》に向けた。
「な、なぁに? 最近わたし、キミタチに怒られるようなことしてないと思うけど?」
「……昔、あなたから教わった言葉です。人に何かしてもらったら?」
「あ――あ、ありがとう、助けてくれてっ!」
「……よくできました」
お|澄《す》まし顔で|頷《うなず》く樫緒を、美貴は汗ジトで見つめた。
「こ、ここはもういいからさ、しゅーくんのトコ行ってあげて。あのコも一緒にいるんでしょ? ねっ?」
「……みんな、やけにあの男を買っておられますね」
少し不満そうに、樫緒は言った。
すると美貴はニッコリ笑って、樫緒の頭に指を伸ばした。親しみ――というより、愛情を込めて、クシャクシャクシャ。
「分かってるくせに。血の|繋《つな》がりって、それなりに大事」
樫緒は少し顔を赤らめて、美貴を見つめた。
コクリと頷いた少年の表情には、|歳《とし》相応の幼さがあった。
戦いから数時間後――夕暮れの太陽は山並みに隠れた。
|樹《じゅ》|海《かい》を|覆《おお》うのは、星空と月だけになった。だが細やかな光すらも、木々に覆い隠され、地面には下りてこない。
その|闇《やみ》の中を、ズバ抜けて若い|父《おや》|娘《こ》がさまよっていた。
「あ、あの……本当にこっちで合ってるの?」
スタジャンの|襟《えり》を合わせながら、|鷲士《しゅうじ》。冬場の森――ヘタをすれば、凍死してもおかしくない状況である。
|美《み》|沙《さ》は、ギクッ、としたかと思うと振り返り、
「ア、アハハハ! で、でもさ、さっきの|凄《すご》かったね! バッキバキにあいつらやっつけちゃってさ! 鷲士くん、ムチャクチャに強いじゃん!」
「え? う、うん、まぁ。長くやってるからね」
顔を赤らめ、鼻をポリポリ|掻《か》く鷲士だ。
「でもさ、さっきは、マジにカッコよかったよ〜! いつもあんなノリでやってれば? モテモテくんだと思うけど?」
「そんな〜。いつも|誰《だれ》かを殴ってられないよ〜」
「……い、いや、別にそういう意味で言ってるんじゃないんだけどな」
ハハハ、と青い顔で、|美《み》|沙《さ》。
そして|鷲士《しゅうじ》は、キョロキョロ辺りを見回しながら、
「それより――行き先なんだけど」
「あ、あのさ! どうしてケンポーなんてやろうと思ったの?」
「え? ど、どうしてって言われても……」
だが美沙は、なぜか異様に思い詰めたような顔で、鷲士を|凝視《ぎょうし》している。
青年はため息をつくと、少し寂しそうに笑った。
「……ゆうちゃんが学園から連れてかれた日……ぼくね、実はすごく抵抗したんだ……。ゆうちゃんを放せーって、おっきな黒服の人たちにさ。いま考えると、そんな権利、ぼくにはなかったのにね」
「え……? で、どうなったの……?」
「……一発殴られただけで、立てなくなっちゃった」
「それで、あのとんでもないケンポー?」
苦笑しながら、鷲士は|頷《うなず》いた。
青年は顔を上げ、遠くを見ながら|呟《つぶや》いた。
「強く……なりたかったんだ、本当に。大切な人を守り抜ける力が……欲しかった。なにものにも負けない強さがあれば……なんてね」
それから乾いた笑いを浮かべたかと思うと、
「ハハハ……でもあーんなキビシー修行だとは思わなかったけどねー。空手か何かと思って弟子入りしたら、なんか全然違ったし」
「後悔してるの?」
「んー……でもさっきはきみを守れたから、よし」
苦笑いで、鷲士は娘の頭を|撫《な》でた。
美沙は|瞬《まばた》きしながらも、少し顔を赤らめた。
「で――美沙ちゃん、話は戻るけどさ、ここはいったいどの辺り――」
「あああ、あのさ! ママとのなれ|初《そ》めは!? なんだったの!?」
両手をワタワタと振る美沙の顔を|覗《のぞ》き込むと、鷲士の|額《ひたい》から、汗が一筋。
「なんか……さっきから話、はぐらかそうとしてない?」
「オ、オホホホ……な、なんのことかしら?」
「あの……実は……迷ったとか?」
「うっ……! バ、バレたか……!」
フフフ、と無理やり笑って見せる美沙だった。
「バ、バレたかって――そりゃないよ! ここ富士の|樹《じゅ》|海《かい》だよ!? 迷ったら出られないからって、自殺の名所になってるぐらいだよ!?」
「だ、だってしょーがないじゃん。PDAとかレシーバーも取られちゃったし、肝心のコンパスだって――ほら、これ」
ヒョイ、と方位磁石を突き出した。
コンパスの針はフラフラしたままで、決して一方向を指すことはなかった。
|鷲士《しゅうじ》の目が、点になった。
|樹《じゅ》|海《かい》周辺の岩石には、微量の磁力成分が含まれている。かつてのマグマ――火山岩のなれの果てだ。特徴のないフラクタルな地形と相まって、分け入る登山者を惑わす最大の原因が、これだった。
またもや鷲士は、頭を抱える|破《は》|目《め》になった。
「ああっ、こりゃ本格的にまずいよっ……! こんなところで迷子だなんて……ここはぼくが父親として、父親として……! でもいったいなにすればいいんだっ? うわー、もうワケ分かんないよー!」
「はいはい、まあ、なんとかなるよ、きっと。ホラ、いこ」
もはや慣れてしまったらしく、|美《み》|沙《さ》が|袖《そで》を引っ張った。
森の奥を見た途端、|美《び》|貌《ぼう》の|眉《み》|間《けん》にシワが刻まれた。
「ちょ、ちょっと鷲士くん、あれ!」
「ああっ、困ったことに――え?」
鷲士はメガネのずれを調整して、目を細めた。
――木々の間から、光が漏れている。
明らかに人工的な光――ぼんやりと、小屋のようなものが見える。ヘロヘロ青年の顔は、面白いほど簡単にほころんだ。
「い、家だよ、あれ! やった、|誰《だれ》か住んでるんだ! よーし、ちょっとお|邪《じゃ》|魔《ま》して、もし良かったら、一晩泊めてもら――」
「コラ! 待って、待ちなさいったら!」
慌てた美沙が、腕を|掴《つか》んだ。
「どうして? だってだって、あそこに――」
「バカね、怪しいと思わないのっ? |樹《じゅ》|海《かい》のド真ん中に民家だよ? そんなの、聞いたことないよ。前に|叢《むら》|雲《くも》でスキャンしたときには、あんな家、絶対になかったんだから。ちょー怪しいってばっ」
「ええ? でも……」
困ったように、民家と娘を見比べる鷲士である。
この時、彼の目に留まったのは、美沙の腕の包帯だった。応急処置を施し、既に血も止まってはいるが、誰の目にも痛々しい。
根っからのお人|好《よ》しは、娘の傷を看過できなかったようである。
「じゃあさ、こうしよう? とりあえず様子を|窺《うかが》ってみて、大丈夫そうなら中に入れてもらう。ダメだったら、逃げる」
「うーん、ヤっバい橋だなあ」
「大丈夫だよ、きっと。それに危険なことするなら、こういうことでしよう」
|鷲士《しゅうじ》は|美《み》|沙《さ》の手を取ると、返事も|訊《き》かずに歩き始めた。
おチビさまは、ため息混じりに嘆いた。
「もう。どーなっても知らないよぉ」
「ほほぉ、東京から植物の採取にのう。珍しいのう、わしゃてっきり、死に切れなんだ自殺志願者が迷い込んできたのかと思うたよ」
「ははは……まだ死ぬ気はないです」
「カップルっちゅうには、|歳《とし》が少し離れとるしのう。ほら、ささ、飲みなされ。少しキツいかも知れんが、体があったまるでな」
苦笑すると、老人はとっくりから、鷲士の湯|呑《の》みに酒を|注《そそ》いだ。
――少し茶色がかった粘性の液体。ドブロクである。
「うっわー、コテコテ」
|覗《のぞ》き込んだ美沙が、うへぇ、と舌を出した。
少女の肩に巻いてあるのは包帯だ。ちゃんと手当てしてもらったのである。とりあえず、痛みはなくなったらしい。
苦笑しながら、老人は自分の茶碗に入れた分を飲み干した。仕方ないので、鷲士もおそるおそる口をつける。
そして美沙がお茶をすすりながら、
「でもさぁ、おじいちゃん、こんなトコで土なんかこねくり回して、寂しくないの? だってトモダチも来れないでしょ?」
「フォフォフォ……妻が死んで、気が抜けてしもうての。あとは、好きなことをやっていこうと決めたんじゃ。ここなら、|誰《だれ》にも迷惑はかからんしのう」
老人は楽しげに体を揺すった。白い髪に、胸まで伸びた|顎《あご》|髯《ひげ》――着込んだ分厚いはんてんがなければ、まるで和製の仙人だ。
――|瀬《せ》|川《がわ》|泰《たい》|造《ぞう》。
それが、老人の名前だった。
自称・世捨て人。この掘立小屋の主だ。
世間では少しは名の知れた陶芸家だったらしいが、夫人に先立たれ、自ら俗世との|繋《つな》がりを断った。そういう意味では、本当に仙人である。今はここの土を使って、焼き物を作っているらしい。裏手には、自給用の小さな畑と、|窯《かま》があった。
「じゃあ、わしはちょっと」
|瀬《せ》|川《がわ》は腰を浮かすと、場から中座した。
|鷲士《しゅうじ》はニコニコして|美《み》|沙《さ》を見た。
「大丈夫だったでしょ? 優しそうなヒトで良かったね」
「……あやしぃ!」
美沙がジト目で廊下を見つめ、鷲士は天を仰いだ。
「どうして? ミュージアムの人間だったら、いまごろ銃でババーッて――」
「確かにィ、電気とか全く使ってないし、明かりはランプだし――生活反応としては小さいかも知んないけどさ、裏に窯だってあるし、|監《かん》|視《し》衛星に引っかからないってのは、絶対におかしいよ。だってずーっと見張ってたんだよ?」
「じゃあこの家、|誰《だれ》が建てたの?」
「う……。よ、|妖《よう》|怪《かい》とか……そんなの」
苦し紛れに、美沙。鷲士は苦笑した。
「妖怪でも、優しくしてくれるなら|大《だい》|歓《かん》|迎《げい》だよ。違う?」
「もぉ、そーゆー問題じゃないよぅ!」
美沙が、うがー、と両腕を振り上げた時だった。
その背後から、陽気なしわがれ声が。
「――風呂が沸いたでな。入ってあったまりなされ」
鷲士は|瞬《まばた》きして、まず美沙に目をやった。
娘は思いきり、首をブンブン振った。イヤッ、の合図だ。
肩をすくめて、鷲士は立ち上がった。
「じゃあ、ぼくが。ホント、どうもすいません」
風呂|桶《おけ》はヒノキ――かどうかは分からないが、木製だった。ただし手製らしく、造り自体はいい加減だ。なんとか水が漏れない程度である。
鷲士は湯船の外で、頭を洗っていた。
「フンフンフン〜♪ でもラッキーだったなぁ。後は明日になったら、おじいさんに帰り道を教えてもらって、と」
――コンコン。
背後で、誰かが戸をノックした。
「はーい」
「ねえねえ、鷲士くん、いる?」
木の板越しに、美沙が|訊《き》いた。
「いるよ〜。あったかくて気持ちいいよ〜。|美《み》|沙《さ》ちゃんも後で入りなよ〜」
「えっと、んじゃ、いま入る」
「……は?」
|呆《あっ》|気《け》に取られた|鷲士《しゅうじ》が振り返ると同時に、戸が横に滑った。
湯煙の中に、まだまだ幼児体型の裸体が、ぼんやりと浮かび上がった。|手《て》|拭《ぬぐ》いで前を隠してはいるものの、メチャメチャに際どい。
「ちょっ――ちょちょちょ!?」
「あっ、見るなァ、鷲士くんのエロォ! あっち向いててよっ!」
「ごごご、ごめんっ!」
慌てて背を向けた鷲士の後ろで、美沙は|手《て》|桶《おけ》を使って何回か湯を浴びた。それから体を隠すように、いそいそと湯船にドボン。
「ふぅ〜。いい湯じゃ〜」
傷を負った腕は出しているものの、はにゃーん、と|恍《こう》|惚《こつ》の顔付きだ。
これには鷲士が|呆《あき》れた。
「いい湯って……ぼく入ってるのに」
「ムッ。なによぅ、わたしと入るのはヤだっての? 世間にはねぇ、娘とオフロ入りたくてウズウズしてる父親がいっぱいいるんだから」
「い、いや、そういう問題じゃ……」
美沙は赤くなって、プイッと顔を背けると、
「だ、だってさ、あのおじいちゃんと二人っきりなんて、ヤだもん」
「あれ? 美沙ちゃんて、人見知りするんだ?」
「そ、そーゆーんじゃないもん! 怪しいから信用できないだけだもん!」
「あはは、そーかぁ。うん、美沙ちゃんがねぇ」
|嬉《うれ》しそうに笑いながら、鷲士は頭の泡を流した。
それを見ていた美沙は、風呂の|縁《ふち》に|頬《ほお》|杖《づえ》をつき、
「……でも、ホントにすごいね、その傷」
「え……?」
「話は聞いてたけどさ。まるで刀でバッサリやられたみたい。それ、ママを|庇《かば》った時についた傷って、ホント?」
「ん……随分昔の話だけどね」
苦笑して、鷲士は|頷《うなず》いた。
「……ゆうちゃんは、きみ以上に人見知りすごくてさ。プライドも高くて……学園のコはもちろん、先生たちにも打ち解けなくて。いつも一人だったんだ。おまけに……こういう言い方は悪いけど……自分の|可愛《か わ い》いの、鼻にかけるようなとこもあって」
「あー、分かる分かる。根性腐ってるから」
「ホントは、ただの強がりなんだけどね。で……山へ遠足に行ったときにも、一人で別行動とるもんだから、迷子になっちゃってさ。ぼくが見つけた時には……今にも|崖《がけ》から落ちそうになっちゃってて」
「あ……聞いたよ。ママ助けた代わりに、|鷲士《しゅうじ》くん落ちちゃったんでしょ?」
静かに鷲士は|頷《うなず》いた。
「……枯れ木の株に、背中から。半年ほど入院してたっけ」
「へっ? は、はんとしぃ〜?」
引きつった笑みを浮かべる|美《み》|沙《さ》の|額《ひたい》から、冷や汗が一筋。
「な、なにそれ? ウソ、知らない、そんなの」
「|松《まつ》|葉《ば》|杖《づえ》なしじゃ、二度と歩けないだろうって言われてたからね」
鷲士は苦笑しながら、|脇《わき》|腹《ばら》をトントンとついてみせた。
――背中よりは劣るが、切ったような跡がある。
美沙は息を|呑《の》んだ。
「そ、それ、まさか……!?」
「……うん。貫通したんだ。背骨と内臓をやって……まあ、その時に病院に連れていってくれたおじいさんが、ぼくの師匠だから、世の中って分からないけど。結局、退院した後も、うまくバランスとれなくてさ。修行するまで、いつも片足は引き|摺《ず》ってたっけ」
「う、うはぁ……」
口をポカンと開け、感嘆する|美《み》|沙《さ》だった。
「……で、でもさ、なんとなく、分かった」
「え? なにが?」
「ママが“しゅーくんしゅーくん”って連呼してた理由。わたしのナイトさま・王子さま・ご主人さま――とかなんとか。そのときはアブナい女だなー、とか思ってたけど……ふーん、そんなことがねー」
腕組みして、一人でうんうん|頷《うなず》く娘である。
「あ、でもさ、そのあとはもう、ベッタリでしょ?」
「トイレまでね。来ないでいいって言ってるのにさ。こう、こんな感じで手を握られて、ウルウルした目で見つめられると、断りきれなくて」
|鷲士《しゅうじ》は困ったように笑いながら、頷いた。
唐突にその|瞳《ひとみ》から、|想《おも》いが滴った。
――涙だ。
美沙が真っ青になり、気付いた鷲士は、慌てて顔をすすいだ。
「あ、あのさ、鷲士く――」
「……ごめん、父親らしくないね。先に上がる。外で待ってるから」
最後に頭に湯をかけると、タオルをとって、鷲士は戸を滑らせた――。
|蝋《ろう》|燭《そく》の明かりのもと、|枕元《まくらもと》に装備をバラ|撒《ま》いた美沙は、深々とため息をついた。
「……はう〜。けっきょく、残ったのはこれだけかぁ」
――固形栄養剤。
――消毒スプレー。
――|拳銃《けんじゅう》、ベレッタ・M93R。
――コンパス。
以上、四点ですべてだ。今後に役立ちそうなものはなかった。ないよりはマシだが、ほとんど気休めである。
「うう、ショック。ちゃんと準備しとけば良かった」
たたんでおいたジャケットの間に道具を放り、モゾモゾと|布《ふ》|団《とん》の中にもぐり込む。
障子に、影が映った。
「……お|邪《じゃ》|魔《ま》するよ」
戸を開けて、老人が顔を出した。
|隣《となり》で寝そべっていた鷲士が、慌てて正座し、頭を下げた。
「きょ、今日はホントにありがとうございました。色々していただいた上に、寝床まで用意してもらって」
「フォフォフォ、まあ、困ったときはお互いさまっちゅうしの。こっちも、久し振りにヒトと話ができて、楽しかったわい」
「あの、明日のことなんですけど、お願いばかりで|恐縮《きょうしゅく》ですが、できれば……」
「分かっとるよ、うん。山の機嫌をみて、下まで案内するつもりじゃ」
「重ねがさねすいません。助かります」
「フォフォフォ、じゃあの。|蝋《ろう》|燭《そく》は、ちゃんと消すんじゃぞ。危ないからの。なんかあったら、|遠《えん》|慮《りょ》のう起こしに来なさい」
「ありがとうございました。おやすみなさい」
|鷲士《しゅうじ》が再度頭を下げたと同時に、戸は閉まった。
「あの……明かり消すよ? いい?」
「う、うん……」
少しイヤそうながらも|美《み》|沙《さ》は|頷《うなず》き、鷲士は炎に息を吹きかけた。
狭い部屋を、|闇《やみ》が|覆《おお》い隠した。
鷲士は大きく息を吐くと、横になった。少しボーッとして、|天井《てんじょう》を|眺《なが》める。
「やっぱり……帰るの?」
「だって、道具もなにもないんじゃ仕方ないだろう?」
「そ、そうだけどぉ……なんとかなるよ、きっと。だから、ねっ?」
顔を起こすと、鷲士は美沙を見た。
「……美沙ちゃんは、どうしてそんなに宝にこだわるの? だって、もうあんなにお金持ってるじゃないか?」
「ひ、一つは……結城の家を|叩《たた》き|潰《つぶ》すため」
|拗《す》ねたように、美沙は言った。|樫《かし》|緒《お》はともかく、どうやら|曾《そう》|祖《そ》|父《ふ》との確執は、並々ならぬものがあるようだ。
「じゃあ、もう一つは?」
「えと……笑わない? 聞いても笑わない?」
なぜか闇の中で顔を赤らめ、美沙は言った。
「笑わないって。なに?」
「えっと……自分のルーツ探しってゆーか……」
「ルーツ……探し? それって、来訪者の足跡をたどるって意味?」
「う、うん。そんな感じ……」
恥ずかしそうに小鼻を|掻《か》くと、美沙は天井を見つめた。
「……やっぱりさ、知りたいじゃん? 鷲士くんのことは、ママに聞いてたからよく知ってたけど……自分の根幹が何なのかって……さ。すんごい大昔に、世界中の文明を|激《げき》|震《しん》させたような連中が、どうして去っていっちゃったのか……どうして人間とくっついて、わたしたちみたいなのが生まれたのか……とかね」
「……気にしてるの? 一族の中で自分だけ違うってこと」
「え、ええっ?」
赤くなって、少女は|鷲士《しゅうじ》に視線を戻した。やがて言いづらそうに、
「そ、そりゃあね。コンプレックスないって言ったらウソになるけどォ……」
「うん?」
「……でも、笑ってやりたいって気持ちの方が強いかな?」
「笑ってやる?」
「そっ。わたしのフォーチュン・テラーに比べれば、来訪者なんて言っても、しょせんこの程度よ――なんてさ」
|美《み》|沙《さ》は、エヘヘ、と笑ってみせた。
……それは少女なりの強がりだったのかも知れない。
再び|天井《てんじょう》を見つめると、美沙はため息混じりに、
「……ま、目的上、ミュージアムの連中といつもかち合うのがアレだけどね。それがわたしが宝探しを続ける理由」
鷲士も転がって、天井を見つめた。
「そういうことなら……ぼくも手伝おうかな」
「えっ!? ホ、ホント!?」
「た・だ・し、今回は、まず帰ること。このまま|洞《どう》|窟《くつ》まで行くなんて危ないよ。ちゃんと準備を整え直さなきゃね」
「え〜!? ここからすぐだと思うんだけどな……」
「それに、|美《み》|貴《き》ちゃんにも|謝《あやま》らなきゃいけないし。ガマンガマン」
苦笑する鷲士に、美沙は不満そうな顔で返した。が、|枕元《まくらもと》に|頬《ほお》|杖《づえ》を突くと、すぐに思い出したように、
「あ――美貴ちゃんて言えばさ、彼女とはどこで知り合ったの?」
「み、美貴ちゃん? そんなの聞きたいの?」
「ま、まあね。父親とのお付き合いがある人間のことは、ムスメとして、ちょっと。やっぱ気になるじゃん?」
アハハ、となぜかアセアセしながら、美沙は笑った。
少し困ったように、鷲士も笑った。
「うーん……実際のところ、男女の付き合いって感じじゃないんだよ。|他《ほか》のヒトよりも、会話が多いってぐらいで」
「い、いいから。出会いは?」
「……カト女の|傍《そば》に、ファミレスあるの、知ってる?」
「うん、タカちゃんとよく行くもん」
「そこでバイトしてたときに、店の前で、彼女とぶつかって。|美《み》|貴《き》ちゃんが、まだ高校三年生の|頃《ころ》だよ。ぼく、凍りついちゃってさ」
恥ずかしそうに、|鷲士《しゅうじ》は鼻を|掻《か》いた。
「凍りついた? どして?」
「……ゆうちゃんかと思ったんだ。大きくなったら、あんな感じなのかな、なんてさ。だからね、ゆうちゃんって声かけちゃって」
「こ、声かけたの? そしたら?」
「なんかビックリさせちゃったらしくてさ。違いますっ、て強く言われて、それっきり」
「は、はい〜? 違いますぅ〜?」
|呆《あき》れたように言うと、|美《み》|沙《さ》は後ろを向いて、ツメを|噛《か》んだ。
「あのバカ女……! それが原因でこんなややこしいことに……!」
「え? なに?」
娘は慌てて振り返ると、手を振り乱した。
「わっ、いやいや、なんでもない! で、でもさ、それがきっかけで、少しは仲良くなれたんでしょ? よ、良かったじゃん!」
「……でも、イヤだよね、そういうの。きみたちはさ」
「は、はえ?」
青ざめて|瞬《まばた》きする美沙の前で、鷲士は少し寂しそうに笑った。
「……もう彼女とは会わないようにするよ。|樫《かし》|緒《お》くん、怒りそうだしね。やっぱり父親は、そういうのちゃんとしておかないと」
「い、いや〜、そんなの、気にする必要ないと思うけどなァ〜。てゆーか、ホントにそんなことになったら、わたし殺されるかも……」
アハハ、と引きつった笑みで、美沙は言った。
鷲士が首を|傾《かし》げたのも無理はない。
「どうして美沙ちゃんが殺されるの? |誰《だれ》に?」
「え――あわわ! えっと、その――あ、そうだ、これから|洞《どう》|窟《くつ》に行かない!? やっぱり、ミュージアムの連中に先を越されるかも知れないし!」
「……そんなことにはならないんじゃないかな」
真剣に、鷲士は言った。
戸惑う娘の前で、青年は続けた。
「ミュージアム、鬼、そしてぼくたち――。でも、まだ|関《かか》わってる人間がいる」
「え……ええっ!? な、なにそれ!?」
「……そのヒト、かなり強いよ。ミュージアムの人間とは、根本的に違う。|黙《だま》ってようと思ってたんだけど、実はきみに初めて会った日――」
言い終える前に、|鷲士《しゅうじ》の腕が|霞《かす》んだ。
次の|刹《せつ》|那《な》、鷲士の|拳《こぶし》は、|美《み》|沙《さ》の鼻先に現れた。さらにその指は、いつの間にか、おかしなものを|掴《つか》んでいた。
――白い矢だ。
「なっ、なに? 手品?」
キョトンとする美沙を鷲士が抱き寄せた|瞬間《しゅんかん》、部屋を|轟《ごう》|音《おん》が駆け抜けた。|天井《てんじょう》が抜けたのである。頭上から影が落ちてくるのと、鷲士が後ろへ飛びすさるのが同時。そして|粉《ふん》|塵《じん》の舞う中で、影はゆらりと立ち上がった。
――|瀬《せ》|川《がわ》|泰《たい》|造《ぞう》。
「……この距離でわしの矢をとめるとは。思った通り、|蝦夷《え み し》の|妖《よう》|拳《けん》|法《ぽう》の使い手か。|平《へい》|安《あん》の世には|途《と》|絶《だ》えたと聞いておったが……厄介な」
「ややや、やっぱりミュージアム!?」
美沙が慌てて荷を拾い、|拳銃《けんじゅう》を|構《かま》えた。
老人は|片《かた》|眉《まゆ》を上げ、
「ミュージアム? 笑わせよる、おまえたちこそ、あいつらと大差ないわい」
「……やっぱり、あの日の矢は、あなただったんですね?」
「いつ気付いた?」
「最初から。ただ、気の質が違ったので、ひょっとしたら勘違いかなって」
「……|練《れん》|気《き》の質を見分けるか。昔の|噂《うわさ》は本当だったようじゃのう。大陸から渡ってきた仙人の技を伝える者どもか。このまま帰っておれば良いものを」
瀬川は吐き捨て、矢を構えた。
巨大な石の弓だった。瀬川の身長が一五〇センチ弱――持ち主より大きいのだ。かすかな星の光を反射したところを見ると、弦は金属らしい。この弓で殴られただけでも、間違いなくヒトは死んでしまうだろう。
鷲士は|眉《まゆ》をひそめた。
……あれ? おかしいな?
この老人に面と向かって会ったことなど、絶対にない。にも|拘《かかわ》らず、なぜかどこかで見たような――既視感にも似た妙な感覚に、鷲士は|捉《とら》われた。
しかし今は事情が事情だ。鷲士は軽く頭を振って、|懸《け》|念《ねん》を追い払った。
「やっぱり、あなたもぼくたちを|狙《ねら》うんですか? だったら、どうして親切にしてくれたんです?」
「美術館の連中と戦っておった場所に、わしもおった。そこのお|嬢《じょう》ちゃんを、後ろから|鉈《なた》で切れるぐらいの距離にな」
「う、うそ……」
|美《み》|沙《さ》が青くなって、息を|呑《の》んだ。
「私本は|奴《やつ》|等《ら》の手に渡り、すぐにおまえたちを殺す理由はなくなった。わしはあいつらのような殺人鬼とは違うでな、家に招き入れて様子を見たのじゃよ。|大人《お と な》しく帰れば良し、さもなくば――とな。そしておまえらは、妙薬への思いを断ち切れなんだ。ならばわしとしては、|屠《ほふ》るしかない」
「おじいちゃん、あんた……番人の一族!?」
「番人? まぁ、似たようなもんじゃな。なんにせよ、もうおまえたちを生かして返すわけにはいかん。まずは、お嬢ちゃんからじゃ」
|瀬《せ》|川《がわ》は弦を引き絞った。
その|瞬間《しゅんかん》、|爆《ばく》|音《おん》が室内をつんざいた。
最も|驚《おどろ》いていたのは、当の美沙だった。彼女は、|呆《あっ》|気《け》にとられたように、手の中の|拳銃《けんじゅう》を見つめた。|緊張《きんちょう》で、トリガーを引いてしまったのだ。
「あ……」
我に返った美沙は、老人を見た。
瀬川の腹には、|拳《こぶし》ほどの血の染みができていた。
「あ、あんたが悪いんだからね! わたしを殺すみたいなこと――」
少女は、すぐに絶句する|破《は》|目《め》になった。
恐ろしいことに、血の染みが|縮小《しゅくしょう》しはじめたのである。そして間を置かず、|僅《わず》かに血の付着した鉛玉が、床の上に転がった。
老人はなぜかため息をついて言った。
「……ムダじゃよ、お嬢ちゃん。そんなもの、|直撃《ちょくげき》を一〇〇〇発食らったところで、痛くも|痒《かゆ》くもない。いや……昔は痛みがあったが、今ではチクリとも感じん」
「ま――まさかあんたも鬼!?」
「……フッ、鬼か。本当に鬼になっておれば、どれだけ楽だったか」
老人が疲れたような笑いを浮かべたと同時に、さらなる異変が起きた。
小屋全体を揺るがすような振動と共に、|壁《かべ》が吹っ飛んだのである。そして|微《かす》かな星の光を背に、巨大な|異形《いぎょう》の影が、姿を現した。
――なよ竹の鬼である。
|鷲士《しゅうじ》が美沙を|庇《かば》うように立ち、瀬川は舌打ちした。
「お、おまえというヤツは……! |未《いま》だに血肉を求めるというのか!? わしがいったいどれだけの苦労を――」
だがそこまで言った時点で、老人は言葉を切った。
鬼が見下ろしているのは、|鷲士《しゅうじ》と|美《み》|沙《さ》ではなかった。|瀬《せ》|川《がわ》だ。
「おまえ、まだわしのことを……!?」
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
耳をつんざくような|咆《ほう》|哮《こう》を上げ、鬼は老人めがけて腕を振り下ろした。
「クッ! 何年|経《た》てば気がすむ!? 恨みも永遠というわけか!?」
床が抜ける中、瀬川は外見とは裏腹の速度で|跳躍《ちょうやく》。鬼の頭上を越えると穴から外へと消えていった。
鬼は振り返ると、言葉にならない声を上げ、老人を追って姿を消した。
静まり返った部屋の中で、二人はしばらく|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
「い、いったいどうなってるんだ……?」
青年の言葉で、美沙が我に返った。少女は鷲士の腕を引っ張ると、
「こんなとこでボケッとしてる場合じゃないよ! これがおそらくラスト・バトル――わたしたちも追わなきゃ!」
「ええっ!? で、でも危ない――」
「なに言ってんの! あの調子だと、この事件が解決するまで、わたしたちずっと追われることになっちゃうよっ? また関係者が誘拐されでもしたら……!」
「う……わ、分かったよ」
数分後――鷲士と美沙は、|山《さん》|麓《ろく》に開いた|洞《どう》|窟《くつ》を|覗《のぞ》き込んでいた。入り口に、|微《かす》かに二人の影が落ちている。
「わたしが前に来た洞窟……! やっぱりここに何かあるんだわ……!」
傍らで鷲士が目を閉じた。
青年はすぐに顔を上げ、
「……確かに、気配がある。全部で三つ、一つは瀬川さんのだよ」
「ど、どうしよっか?」
言い出しっぺの美沙が、不安そうに|訊《き》いた。前回はSMGに|手榴弾《てりゅうだん》、加えてF22とフル装備だったのに対し、今は効かないのが分かっている|拳銃《けんじゅう》一丁だけ。さすがに|尻《しり》|込《ご》みしてしまうようだ。
「じゃあ、やめる?」
「ヤ、ヤダ! 行く!」
突き抜けた意地っ張り――美沙は足を踏み出した。
|凄《すさ》まじい|地《じ》|響《ひび》きが、足下を|駆《か》け抜けた。洞窟の奥で、何か|爆《ばく》|発《はつ》したらしい。さらに時折、凄まじい|閃《せん》|光《こう》が上がった。
そして|爆《ばく》|音《おん》に混じって、聞いたことのある声が。
「――クッ、どういう体の構造をしてるんです!? いい加減に死にな――なに!? う、うわああああああああああああああああああぁぁぁ……」
|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》の悲鳴が、洞窟の|岩《がん》|壁《ぺき》に乱反射した。
連動するように、フラッシュもやんだ。
|唾《つば》を|呑《の》み込んで、父娘は顔を見合わせた。
「あの声……確か|桐《きり》|古《こ》っていう……?」
「光は……ハイアート? 黄金のライフル?」
二人は|瞬《まばた》きした。
|美《み》|沙《さ》が|弾《はじ》かれたように走り出し、慌てた|鷲士《しゅうじ》が、後を追った。
「あ、危ないよ、美沙ちゃん! 迷ったらどうするの!?」
「先越されたら意味ないじゃん! それにへーきへーき! へーきだよ! わたし、一度通った道とか、絶対に忘れないタイプだから!」
とトントン、とこめかみをついてみせた。
言い切った通り――美沙の|記《き》|憶《おく》と方向感覚は、|完《かん》|璧《ぺき》の一言に尽きた。最悪の足場を、まるで|縄《なわ》|張《ば》りを行き来する猫のように、|敏捷《びんしょう》に|駆《か》け抜けていく。
「ね、ねえっ! きみが追ってるってことは、あのかぐや姫も、実は来訪者の一人だったってわけ!?」
「たぶんね! かぐや姫宇宙人説って、たまにTVとかでやってるじゃん!」
「ええっ? じゃあ、来訪者ってエイリアン!?」
「分かんない! だから調べるんでしょ!」
「そ、そうだよね」
一方の鷲士も、顔こそヘロヘロしているものの、娘の後を一センチの狂いもなくトレースした。美沙のそれが才能なら、こちらは|未《いま》だ|謎《なぞ》に包まれた古代|戦闘術《せんとうじゅつ》の修行の成果と言うべきだろう。
天然の迷路を走り続けて数分後――唐突に、美沙が止まった。
「うわわっ!」
慌てて、鷲士も急ブレーキ。肩で息をしながら顔を上げ、
「はぁはぁ――どっ、どうしたの?」
「こっちの道、前なかった……」
目を細めて、美沙は右手の奥を指した。
凹凸の激しい岩壁の中で、そこだけは違っていた。入り口が真円なのである。石には違いないが、明らかに人為的に手が加えられた跡――|誰《だれ》かが通路を作ったのだ。
美沙は用心深く銃を抜くと、静かな足取りで、新たな穴の方に進み始めた。無言――本気の|証《あかし》である。放っておけるはずもなく、|鷲士《しゅうじ》も後に続いた。
洞窟は、かなりの勾配差があった。坂なのである。
しばらく登っていると、やがて先に、ぼんやりと赤い光が見え始めた。
「あ……」
小さく|呟《つぶや》いて、|美《み》|沙《さ》が足を速めた。
その背中が、フッ、と消えた。
落差で見失ってしまったらしい。鷲士も慌てて先に進んだ。
美沙は、すぐに見つかった。通路の出口に出ていたのだ。
彼女の前には、|膨《ぼう》|大《だい》な空間が広がっていた。
――広大な地下|空《くう》|洞《どう》だった。
「うわぁ……」
思わず鷲士は、感嘆の息を漏らした。
東京ドームどころか、街一つがスッポリ収まってしまうだろう。暗さのせいもあるが、|天井《てんじょう》も端もまったく見えないのである。全く底知れない――ある意味で雄大、ある意味で異様な光景だった。
少し先の地面全体が、ぼんやりと赤く光っている。さっきの光源らしい。まるで自ら発光する|紅《くれない》の花畑――鷲士はそう思った。
すえたカビの|臭《にお》いが、生温かい風に乗って、|鼻《び》|腔《こう》を|叩《たた》く。
「ね、行こ……」
美沙に|袖《そで》を引っ張られ、鷲士は坂を下りていった。
やがて、光源の元に着いた。
光の中に、大の字になって、何かが横たわっていた。ヒトだ。
|弾《はじ》かれたように美沙が銃を|構《かま》え、鷲士が先におそるおそる近寄った。
――|桐《きり》|古《こ》|連《れん》である。
ミュージアムのハイ・キュレーターは、目と口を大きく開けて、事切れていた。白いスーツも、今は真っ赤である。ぽっかりと|抉《えぐ》られた腹には、詰まっているべき内臓がなかった。傍らの黄金銃だけが、傷一つない。
「や、やられてる? その傷――鬼?」
美沙が顔を背けて、辺りを見回した。
鷲士は息を|呑《の》みながらも、腰をかがめた。地面全体を|覆《おお》う|謎《なぞ》の光――その正体を確かめたかったのである。
青年は地面に顔を寄せ、目を|凝《こ》らした。
「キィ!」
突然、光が鳴き、波打った。|驚《おどろ》いて、鷲士は反射的に体を起こした。
「む、虫!?」
彼が|呟《つぶや》いた通り――光の正体は、発光する管状生物の群体だったのである。
「や、やーん! なにこれ!?」
|美《み》|沙《さ》が|歳《とし》相応の悲鳴を上げ、|鷲士《しゅうじ》に抱きついた。管の一つが鳴いたと同時に、あちこちからギィキィという耳障りな合唱が生じ始めた。茎にも似た個体の胴が、グネグネと立て続けに波打っていく。
「……これがおぬしらが追っておった至宝よ。|驚《おどろ》いたか?」
|闇《やみ》の中から浮かび上がった影が、淡々と呟いた。
|瀬《せ》|川《がわ》|泰《たい》|造《ぞう》――不死の老人である。
鷲士は目を細めると、美沙を自らの背に回し、間合いを取った。
父親の影から、美沙が|喚《わめ》いた。
「じょ、じょーだんっ! これが不死の妙薬だっての!?」
「……その管状生物は、地面に生えておるときこそ群体……言わば動的なサンゴのような存在じゃ。しかしいったんヒトが飲み込むと、粒子状になって細胞の一つ一つに入り込み、イントロンを含めた|遺《い》|伝《でん》|子《し》構造を書き換えてゆく。その目的は、極めて単純――ヒトの不死化じゃ。いわば、生物的ナノ・ロボットよ」
二人は、ポカンと口を開けた。
老人は苦笑した。
「ジジイが遺伝子など持ち出すのはおかしいか? わしには時間が腐るほどあったでな、一つ一つ|憶《おぼ》えていけば|難《なん》|儀《ぎ》なことではないぞ。生き抜けたなら、その一匹を持ち帰ってみるがええ。|蟲《むし》の|蛋《たん》|白《ぱく》|質《しつ》を構成しておる分子結合パターンは、この星には存在せん。あの女――|迦《か》|具《ぐ》|夜《や》|比《ひ》|売《め》の連れが残していったものじゃ」
「な、なにそれ? これ、地球外生物って言うつもり!?」
「かも知れんし、連中が作り出した人造生物かも知れん。わしら生物も突き詰めれば、蛋白質分子によって構成されたロボットにすぎんからの。そんな質問は意味がない――|訊《き》くだけ|愚《おろ》かというものじゃ」
フォフォフォ、と|好《こう》|々《こう》|爺《や》の笑いを浮かべる瀬川に、鷲士は息を|呑《の》んだ。
「あ、あなた……いったい何者なんです……!?」
|謎《なぞ》の老人は苦笑すると、問いには答えず続けた。
「……今から約一三〇〇年前、時の帝は蟲を無気味に思い、わざわざ|祭《さい》|壇《だん》を設けて、伝説通りにこれを焼き殺した。しかし不死というのは|魅力《みりょく》らしくての、後をつけていたある|老《ろう》|婆《ば》が、|密《ひそ》かに肉の切れ端を回収し、大事に育ておったんじゃ」
「後をつけてた……老婆?」
「迦具夜の育ての母親――|翁《おきな》の妻じゃよ。まぁ、|口《く》|伝《でん》では、優しいお婆さんの扱いじゃが、実際の人物像は違ったというワケじゃな。|迦《か》|具《ぐ》|夜《や》のおかげで貴族の列席に加えられた夫妻は、清貧時代の|憂《う》さを晴らすように勝手し放題――そりゃあ人間も変わるわい。特にシワシワになったババアが、不死と聞いて|黙《だま》っておれるはずがない」
|瀬《せ》|川《がわ》は肩をすくめた。
「そ、それで? おばあさん、この虫、食べたの?」
「食ったよ。そりゃあ、ボリボリとな」
「じゃ、じゃあなに!? 現代にも、かぐや姫のお|婆《ばあ》さんが生きてるっての!?」
|美《み》|沙《さ》の問いに、老人は険しく目を細めた。
「……|蟲《むし》は万能ではない。|遺《い》|伝《でん》|子《し》の全面書き換えには、大きなリスクを伴う。適合できる人間は、|驚《おどろ》くほど少ないんじゃ」
「じゃ、じゃあ、死んじゃったんですか?」
すると瀬川は、ゆっくりと首を振った。
「死にはせなんだ。ただ、姿形が全く変わってしもうたんじゃ。そしてそいつに、おぬしらは何度も会っておる」
「何度も……会ってる? ぼくたちが?」
「まさか――なよ竹の鬼!? そうなのね!?」
|呆《ぼう》|然《ぜん》と娘を見る|鷲士《しゅうじ》だったが、瀬川が|頷《うなず》いたため、目をひん|剥《む》いた。
「あ、あれが……かぐや姫に出てきたお婆さん!?」
「……耐えられんかったんじゃよ。いや、中途半端な適合ぶりだったと言うべきか。ヒトが用いるべきではなかった」
女房は京へ舞い戻り、手当たり次第にヒトの血肉を求め始めた。それのみが、体中に走る痛みを抑えるのだという。
さらに老婆は、仲間を増やすべく、蟲を街人に食わせた。彼らは姿形こそ人間のままだったが、思考能力を失い、しばらくすると|自《じ》|壊《かい》して死んだ。変化に耐えられなかったのである。彼らが|稗《ひえ》|田《だの》|阿《あ》|礼《れ》私本の中で語られる、ヒトの姿を持つ鬼だ。
ただし老婆の夫――竹取の|翁《おきな》だけは別だった。
狂った女房に深手を負わされた翁は、自らも寄生虫を飲み込んだのである。
「ちょ、ちょっと待って! じゃ、竹取の翁は? そんな昔のお|爺《じい》さんも、|未《いま》だに生きてるってワケ? 鬼になっちゃったの?」
瀬川は、静かに首を振った。
「……ジジイは、鬼にはならなんだ。唯一の適合者だったんじゃよ」
シーンと、辺りは静まり返った。
特に|鷲士《しゅうじ》は、息をするのも忘れた。
「そうか……! あなたのその弓……なんかデジャヴみたいな感覚……そういうことだったんですか……!」
「え? なになに? どゆこと? |鷲士《しゅうじ》くん!?」
「し、私本に……あったじゃないか……! 都の鬼を|撃《げき》|退《たい》した木こりの姿……! 胸まで伸びた|顎《あご》|髯《ひげ》に、背より高い弓……!」
「え、ええっ!? ちょ、ちょっとちょっと、まさか!?」
「|稗《ひえ》|田《だの》|阿《あ》|礼《れ》はこう書いてた……!」
「その者、名を……」
「竹取の|翁《おきな》と語りけり……!」
そして|唖《あ》|然《ぜん》とした二人の視線を受けた老人は、静かに|頷《うなず》いた。
「今から一三〇〇年前――おぬしらの想像を絶するほど病んだ時代――わしは、そう呼ばれておったよ」
「やややややっ、やっぱり!」
どもりまくりの鷲士の目の前で、伝説の翁は、|忌《いま》|々《いま》しげに|唇《くちびる》を曲げた。
「あの日、|竹《たけ》|藪《やぶ》の中――石の揺りかごから出てきた赤子を拾ったせいで、わしの人生は取り返しがつかんほど|壊《こわ》れてしもうた。その時に犯した過ちが、わしを今日まで……! この一三〇〇余年、わしの得た結論は、生こそ地獄ということじゃよ」
そして竹取の翁は、矢を|番《つが》えた。
凍りつく二人を|睨《にら》み、翁は言った。
「わしと女房――もう名前も思い出せんがのう――そして、|迦《か》|具《ぐ》|夜《や》との間の真実! それを探ろうとする者を、生かしてはおけんのじゃ!」
老体からは想像できないほどのスピードで、翁は跳びすさった。
空中で、弦が|爆《は》ぜた。翁が弓を放ったのだ。
|額《ひたい》めがけて飛来してくる影を、|霞《かす》んだ鷲士の腕が|叩《たた》き落とした。矢は|岩《がん》|盤《ばん》の上で、硬い音を立てた。
鉄の矢である。かつて自らの妻――白鬼――と京で相まみえた時に使用した武器を、翁は鷲士に用いたのだ。
突然、大|空《くう》|洞《どう》を振動が走り抜けた。
まるで|地《じ》|震《しん》である。|天井《てんじょう》から、|剥《は》がれた岩がボロボロとこぼれ落ち、彼らの頭上に|襲《おそ》いかかった。鷲士、翁、共に辺りを見回す。
やがて|闇《やみ》の奥から、|擦《す》り切れた|遠《とお》|吠《ぼ》えが聞こえてきた。
「あいつめ……! わしごとこの場所を闇に葬るつもりか……! なんという……!」
暗闇を睨んで、翁は吐き捨てた。
「しゅ、鷲士くん、どうするの!? なんかもうここ、ヤバい感じだよ!?」
「|美《み》|沙《さ》ちゃん、きみは逃げて!」
飛んでくる矢を|躱《かわ》しながら、竹取の|翁《おきな》からは視線を外さず、|鷲士《しゅうじ》は叫んだ。
|驚《おどろ》いたのは|美《み》|沙《さ》である。
「な、なに言ってんの!? 戦い、|嫌《きら》いなんでしょ!? 一緒に行こうよ!」
「そうしたいけど……このお|爺《じい》さんは本気だ! 引けば殺される! ぼくを殺した後は、間違いなくきみを|狙《ねら》うよ! そんな|拳銃《けんじゅう》なんかじゃ、絶対に勝てっこない!」
「だ、だからって……相手は死なないんだよ!? 鷲士くんがムチャクチャ強いのは分かったけどさ、不死の人間と戦うのはムボーだよ!」
「それでも! それでもだ!」
矢をはたき落とし、鷲士は絶叫した。
「それでも、きみだけは逃がさなきゃ! よく分からないけどさ――それが父親ってものだろう!? それぐらいは、ぼくにだってできる!」
「しゅ、鷲士くん……!」
「一三年前のあの夜――ぼくたちは幼かったから、子を作るって意味が本当に分かってたとは言いがたいけど――でも、ぼくとゆうちゃんは、愛の|証《あかし》を望んだんだ! 実家で何があったか、ぼくは知らない! でもきみたち|双《ふた》|子《ご》は、本当に望まれて生まれてきたんだよ! それだけは忘れないで! きみは自分の存在に、絶対の自信を持っていい!」
「わたしの存在に……絶対の自信……?」
|呟《つぶや》いた美沙の|瞳《ひとみ》から、涙がこぼれ落ちた。
|美《び》|貌《ぼう》が、フニャ、と|歪《ゆが》んだ。
「ヤ、ヤダよぅ! どうして、どうしてそんなこと言うの? やっぱり勝てるって思ってないんでしょ? わたし、そんなの絶対にヤダッッッ!」
「違う違う! えと、その、ほら――か、|樫《かし》|緒《お》くんもいずれ来るんだよね? だから先に外に出て、彼を待っててよ! あのコの力があれば、かなり有利になる!」
「樫緒……ちゃん?」
美沙は途方に暮れて、鷲士と通路を見比べた。
やがて少女は、さんざん迷った揚げ句、コクッと|頷《うなず》いた。
「わ、分かった。行くよ、行く! 樫緒ちゃん、連れてくるから! それまでぜったい負けないでよ! お願いだよ! 美沙、一生のお願い!」
「ハハハ――ご期待にそえるよう頑張ります!」
「もう、バカッ! じゃ、行くね!」
ためらいながらも、美沙は背を向けた。やはり離れたくないのか、トタトタと子供っぽい走りで通路に向かっていく。
それを老人が見逃すはずはなかった。
「フン、|父《おや》|娘《こ》とはの! しかし悪いが、見逃すワケにはいかんのじゃ!」
弦が|唸《うな》り、巨大な二本の矢が弾丸を上回る速度で放たれた。|狙《ねら》いは老人の告げた通り――|美《み》|沙《さ》だ。
矢は音を立てて、肉を貫いた。
――|鷲士《しゅうじ》の右腕と、左の|脇《わき》|腹《ばら》を。
|叩《たた》き落とせる距離にない――|咄《とっ》|嗟《さ》にそう判断した鷲士が、横っ跳びで、自分の身を|犠《ぎ》|牲《せい》にしたのである。
「ガッ……!」
口から漏れそうになる悲鳴を、鷲士は|唇《くちびる》を|噛《か》んで押し殺した。ここで声を上げれば、美沙が立ち止まってしまう。
やがて|目《め》|尻《じり》の中から、美沙の背中が消えた。通路へ入ったらしい。
「グググ……」
|呻《うめ》いて、鷲士は|膝《ひざ》を折った。
急に|咳《せ》き込んで、|吐《と》|血《けつ》した。顔が|土《つち》|気《け》色――表情も変わった。
「こ、これは……! 毒矢……!?」
「|熊《くま》を楽に一〇匹は殺せる量――即死してもおかしくない。さすが|九頭竜《くずりゅう》の男よ。じゃがどうする? 返しのために、矢は抜けまい? なんせ|鋼《はがね》じゃからな、木のように折るワケにもいくまいて。毒はおぬしの体を|蝕《むしば》み続けるぞ?」
「ぬ、抜けないなら――|斬《き》ります」
「……なに、斬る?」
と|眉《まゆ》をひそめた|翁《おきな》の眼前で、鷲士は刺さった矢へ向けて、手刀を|一《いっ》|閃《せん》させた。
スパ、スパ――カランカラン。
|鋼《はがね》の矢は|呆《あっ》|気《け》なく切断され、岩の上に落ちた。続いて、二本の矢尻を抜いていく。それを後ろに放ると、鷲士はヨロヨロと立ち上がった。
「う、|噂《うわさ》に|違《たが》わぬ化物ぶりじゃな。どういう体の|鍛《きた》え方をしておる?」
翁は冷や汗を流して、|後《あと》|退《ずさ》った。
「九頭竜――その名を初めて聞いたのは、|鎌《かま》|倉《くら》に幕府があった|頃《ころ》じゃ。|蝦夷《え み し》との戦いが激化した頃に、ちらほらとな。当時、既に使い手は絶えたという話じゃった。|周《しゅう》の時代、我欲の限りを尽くしていた仙人どもを|屠《ほふ》るために作り出された、対仙術・仙術。九頭竜の人間は、文字通り空中すら踏破するという。あの噂、本当なのかのぅ?」
「し、師匠なら……。あのヒトが、そこにあると仮定した架空の階段を登るのを、一度だけ見せてもらったことがあります……」
「そうか。やはり生かしてはおけんの」
あっさり言うと、翁は腰に腕を回し、両手に|鉈《なた》を握った。次の|刹《せつ》|那《な》、小さな体は、地面を|蹴《け》った。頭上から|襲《おそ》いかかったのだ。
しかしイン・ファイト――接近戦では、|鷲士《しゅうじ》に分があった。交互に振り下ろされた|刃《やいば》の間を|縫《ぬ》うように、青年の体が|懐《ふところ》に入り込む。
左の|掌底《しょうてい》が|完《かん》|璧《ぺき》に決まったと同時に、鷲士の左腕から緑の火花が|迸《ほとばし》った。
――老人の小さな背中が|爆《ばく》|散《さん》した。
[#ここから3字下げ]
|九《く》|頭《ず》・|左竜雷掌《さりゅうらいしょう》
[#ここで字下げ終わり]
ヒトの体には、気道というものがある。文字通り、気が流れる道――中国|拳《けん》|法《ぽう》や、インド密教などは、この巡りをコントロールして、奇跡的な技を行うという。だが九頭竜は、さらに一歩進み、科学的な|捉《とら》え方をする。個々の細胞が持つ微量の生体電流を呼吸によって腕の一点に集中させ、敵にぶつけるのだ。
今までの技を武術とするなら、こちらはもう立派な仙術だった。
「おごっ……! ぐふ!」
大量の血を鷲士に吐きかけ、竹取の|翁《おきな》は吹っ飛んだ。放物線を描いて、遠くの|岩《がん》|盤《ばん》に激突する。|壁《へき》|面《めん》を伝って、その場にくずおれた。
その時、強烈な振動が、大|洞《どう》|窟《くつ》全体を|襲《おそ》った。
|天井《てんじょう》の|鍾乳石《しょうにゅうせき》が次々に落下し、鷲士の足下で砕けた。岩盤そのものが|剥《はく》|離《り》し、地面で砕け散る。一三〇〇年を経た地下|空《くう》|洞《どう》が、崩れ始めているのだ。
そして進入口の|壁《かべ》に、突然、|亀《き》|裂《れつ》が生じた。
「あ……!」
鷲士が|呟《つぶや》いた時には遅かった。
|縦《たて》方向に割れた岩盤は、地滑りを起こした。|摩《ま》|耗《もう》の砂煙を巻き上げながら、通路は地底に沈んでいった。出る手段が、完全になくなってしまったのだ。
「な、なんてことだ……! 出口が……!」
|呆《ぼう》|然《ぜん》とする鷲士の背後で、再び気配が動いた。
「観念せい! もうおしまいなんじゃよ!」
言うまでもなく、竹取の翁が立ち上がったのである。
「じゃが、やるのう! 昔は時代の節目節目に本物の|妖術士《ようじゅつし》を見かけたもんじゃが――現代でおぬしのような人間と相まみえようとは! |興《こう》|奮《ふん》する、興奮するぞい!」
|紅潮《こうちょう》した顔で、翁は|嬉《うれ》しそうに笑った。
内臓はカラッポ――|穿《うが》たれた大穴から、背後が透けて見える。背骨すら、粉砕されてしまったのだ。それなのに、翁の足は揺るがない。見かけは人間でも、既に体器官の利用方法まで変わってしまっているようだ。
鷲士の顔に、絶望の影が差した。倒したと思ったのだ。
竹取の|翁《おきな》は、悠々と歩きながら、離された間合いを詰めた。その間にも、肉体は猛烈な速度で再生していく。
「どうした? |蝦夷《え み し》の|妖《よう》|拳《けん》|法《ぽう》にも、不死者を倒す技はないかの?」
「残念ながら……と言いたいトコですが、実はありまして」
口の端から血を滴らせながら、|鷲士《しゅうじ》は苦笑した。
「……|驚《おどろ》いた。さすがは異界の存在を抹殺するための|戦闘術《せんとうじゅつ》。して、その方法は?」
「……四肢を切断して、一〇里四方に引き離す」
「フォフォフォ! 愉快なことを言う子じゃ!」
やがて、翁は立ち止まった。
その距離、一・五メートル。一歩踏み込めば、あってないような間合いだ。
再び|鉈《なた》を両手に|構《かま》えた老人に、鷲士は声をかけた。
「最後にぼくから……二、三……いいですか?」
「なんじゃ?」
「か、かぐや姫は……月に帰ったっていうのは……本当なんですか……? 彼女の一族は、月に住んでたっていう話は……真実なんですか……?」
「……分からんのぉ。おぬし、宝や神秘などに命を|賭《か》ける|類《たぐ》いの人間ではあるまい。それを知ってどうする?」
「……か、彼女の……先祖かも知れないんで……」
鷲士は|脇《わき》|腹《ばら》を|押《うめ》さえて、|呻《うめ》いた。
老人の顔に、|衝撃《しょうげき》が走った。翁は|弾《はじ》かれたように、|塞《ふさ》がれた通路を見た。
「ば、|馬《ば》|鹿《か》な……! |訪《おとな》い人が、ヒトとの間に子を成したじゃと……!?」
「お、訪い人……? 来訪者……? じゃあ、やっぱり……?」
「……さあの。事実はわしにも分からん」
顔を戻し、老人は言った。
「あのゾッとするほど冷たい……そして美しい連中は、光る船に乗ってやってきて、|迦《か》|具《ぐ》|夜《や》を連れ去っていった。確かに夜空から下りてきはしたが、その故郷が宇宙かどうかなど、今となっては、永遠の|謎《なぞ》じゃよ」
そして翁は、遠い目付きで|天井《てんじょう》を見上げ、
「ふふふ……空飛ぶ島や、背中に|翼《つばさ》を持つ連中……木こりをやっておった|頃《ころ》は、たまに|竹《たけ》|藪《やぶ》の間から、そんなとんでもないものを見かけたものじゃ。現代を生きるおまえさんたちには、想像がつかんかも知れんがの」
「そ、空飛ぶ島……? 背中に翼……!?」
|驚愕《きょうがく》する鷲士を、老人の真剣な|双《そう》|眸《ぼう》が|捉《とら》えた。
「……あのお|嬢《じょう》ちゃん、うまいこと言って逃がしおったの。しかし……|訊《き》いておきたい。おぬし、本当にわしに勝てると思っとったのか?」
少し考えて、|鷲士《しゅうじ》は言った。
「……ちょっとだけ」
「ちょっと……か。おまえさん……本当にええヤツらしいのう。|勿《もっ》|体《たい》ないのう、おぬしのようなお人|好《よ》しも殺さにゃならんとはのう」
老人は疲れたように、頭を軽く振った。
対して鷲士は、|土《つち》|気《け》色になった顔で、ニッコリ|微笑《ほ ほ え》んだ。
「……でも負けるつもりがないというのも、本気ですよ。ぼくにも、やっと家族ができたんです……|可愛《か わ い》い子が、二人も。やれるだけやらなくちゃ」
そう言うと、鷲士は腰を|屈《かが》めて、あるものを引き抜いた。
――赤い管状生物。ヒトを不死に変える、|謎《なぞ》の寄生虫。
一三〇〇年を生き抜いた老人を、動揺が貫いた。
「ふ、不死になるつもりか!? 無駄なあがきを! させん、させんぞ!」
顔をどす黒く染め、|翁《おきな》は一気に踏み込んできた。
引くどころか、鷲士も踏み込んだ。純粋に足の長さの差――先に間合いを詰めたのは青年の方だった。
だがここからの鷲士の行動は、不可解なものだった。
彼は普通に|正《せい》|拳《けん》を出すと、手の中の赤い寄生虫を、翁の口に放り込んだのだ。異様な|攻《こう》|撃《げき》に老人が|怯《ひる》んだところへ、おまけの裏拳をアゴに一発。これといった大技は出さず、素早く跳びすされる。
|呆《あっ》|気《け》に取られたような翁の|喉《のど》が、勝手に鳴った。裏拳の成果だ。
老人は、無気味なほど青ざめた。
「な……なんちゅうことをしてくれたんじゃ……!」
「……適合か、不適合か……何が|影響《えいきょう》しているのか、ぼくには分からない。でも寄生虫とはいえ、ある意味で薬……飲み過ぎは……良くないですよね……」
|片《かた》|膝《ひざ》をついて、鷲士は言った。
そして異変は起きた。
老人の左目が、ボコ、といきなり|膨《ふく》れた。異常な速度だった。目玉は|眼《がん》|窩《か》から飛び出すと|拳《こぶし》ほどの大きさになり、バチンと音を立てて破裂した。ボタボタボタ、と白い溶液が、|未《いま》だ揺れ続ける地面に|零《こぼ》れ落ちる。体液の中では、何か小さな蛆のような生き物が、大量にのたくっていた。
「ウギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
絶叫して、翁は顔を押さえた。
だが|破《は》|壊《かい》は、既に体のあちこちで始まっていた。
続いて|袖《そで》と|裾《すそ》の間から、茶色いゲル状の物体が落ちてきた。|翁《おきな》の足下で、こんもりと山を作っていく。筋肉|繊《せん》|維《い》と|皮《ひ》|膚《ふ》組織が溶解した成れの果て――その間で、やはり|蛆《うじ》に酷似した|蟲《むし》たちが、無気味にうねった。
数分後――竹取の翁は、|膝《ひざ》を折った。
もはや、以前の面影はなかった。そこにいたのは、|高《こう》|齢《れい》の老人ではなく、ところどころに肉がこびりついた人体標本――ゾンビであった。
だが老人は、なぜか笑っていた。
「フォフォ……フォ……やっと……死ねる……この意識を……とめられる……! こうなってみると……心地|好《よ》い……ものじゃな……」
そして最後に顔を上げると、竹取の翁は言った。
「……た、頼む……! あの本だけは……私本の後半だけは……読まんでくれ……! あれを読まれると……わしは……わしは……!」
声はそこで途切れた。声帯も溶けてしまったらしい。
間を置かず、老人は前のめりに倒れた。骨と岩が当たる硬い音がした。
――竹取の翁が、一三〇〇年を行き抜いた人間が、絶命したのだ。
|鷲士《しゅうじ》は目を閉じて、低頭した。|黙《もく》|祷《とう》だった。
彼は|覚《おぼ》|束《つか》ない足取りで、|桐《きり》|古《こ》の|傍《そば》までいくと、腰をかがめて死体の|懐《ふところ》から顔を|覗《のぞ》かせている私本を手に取った。
|桐《きり》|古《こ》の血がついているものの、傷みはさほどない。
「……宝を守ってたんじゃ……ない……? 竹取の|翁《おきな》は……おじいさんは……これを……読まれたくなかった……?」
唐突に、|鷲士《しゅうじ》は|膝《ひざ》を折った。
|咳《せき》と同時に、地面に血が飛び散った。
青年は泣きそうな顔で、しかし無理やり笑った。
「フフフ……こりゃ……ダメだ……! 出入り口を新しく作るほど……もう……体力は……残ってないみたい……だよ……!」
そして鷲士は、天井に向かって|微笑《ほ ほ え》んだ。
「ゆ、ゆうちゃん……! ぼく……きみのところに……行けるかな……?」
が、力を失いつつある体に、巨大な影が落ちた。
|朦《もう》|朧《ろう》とした表情で、鷲士は顔を上げた。
――なよ竹の鬼の赤い|双《そう》|眸《ぼう》と、目が合った。
巨大な鬼――元老人の妻は、身動き一つせず、鷲士を見下ろした。
鷲士も微動だにしない。勝てる見込みなど、万に一つもなかった。
先に動いたのは、鬼だった。ただし|攻《こう》|撃《げき》をしかけてきたのではなかった。鷲士には指一本触れることもなく、|脇《わき》を通過したのだ。
「え……?」
そして振り返った鷲士の双眸に、忌まわしい光景が飛び込んできた。
かつての夫の|骸《なきがら》を踏み潰す、鬼の姿だ。
「オオォ……! オオォ……! ウウゥ……!」
鬼は泣いていた。涙を流していた。|慟《どう》|哭《こく》しながら、夫の|屍《しかばね》を|打擲《ちょうちゃく》し続けた。
鷲士は絶句した。
単なる殺意や狂気などでは、骨に|鞭《むち》|打《う》つことなどできまい。恨みだ。二人の間に何があったかは不明だが、鬼はかつての夫を、想像を絶するほど恨んでいたに違いない。死体をも辱めなければ気が済まないのだ。
しばらく身の毛もよだつ行為を続けた後、鬼は骸を担いで、鷲士の前で止まった。
かつて人間であった者は、無言で、手を突き出した。
「え……? あ……!」
慌てて、鷲士は私本を巨大な手の中に載せた。
それが、最後だった。地底|空《くう》|洞《どう》を|覆《おお》う振動が強くなる中、鬼はやはり鷲士に戦いを挑むことなく、背を向けた。
――巨大な背中が、徐々に|闇《やみ》に覆われていく。
オオオオオオオオオォォォォ……。
オオオォォォオオオォォオォ……。
オォオオオオオォオオオォォ……。
人外の声――しかし|哀《かな》しみに包まれた声が、|岩《がん》|壁《ぺき》に乱反射した。
「……心配は無用です。もはや二度と鬼が現れることはないでしょう」
手負いの青年の|隣《となり》で、淡々とした少年の声が|呟《つぶや》いた。
|瞬《まばた》きして、|鷲士《しゅうじ》は振り返った。
「か、|樫《かし》|緒《お》くん……!? ううう……どうやってここへ……!」
「……私本はコピーを読ませていただきました。もっとも、未解読の部分は、自分で直読みする|破《は》|目《め》になりましたが。鬼の真の目的とは、私本やヒトの血肉などではなく、|翁《おきな》への|復讐《ふくしゅう》だったようですね」
「ふ……復讐……? で、でもどうして……?」
「翁は毎夜のように、|己《おの》が養女――|迦《か》|具《ぐ》|夜《や》|比《ひ》|売《め》を抱いていたそうです。私本の続きに、その独白が|綴《つづ》られていました。伝説など真っ赤なウソ――あの老人は、あらざる|美《び》|貌《ぼう》を持つ義理の娘に、身も心も|溺《おぼ》れてしまっていたというのが真相らしいですね」
「迦具夜比売を……抱いてた……? そ、そんな……!」
|唖《あ》|然《ぜん》とする父親を|尻《しり》|目《め》に、美少年は|飄々《ひょうひょう》と続けた。
「|嫉《しっ》|妬《と》に狂った妻は、不死者となって翁を殺そうとしたようですが、それもままならず、あのような姿に――。翁はかつての自分の行為が私本によってさらされるのを恥じ、また鬼は、私本を頼りに、かつての夫を追い詰める――。思えば、これは鬼ではなく、迦具夜比売が仕組んだ復讐|劇《げき》なのかも知れません」
そして樫緒は、肩をすくめた。
「……もっとも、迦具夜比売の正体については、最後まで|謎《なぞ》でしたが。来訪者とは、いったい何者なのか……ぼくには、どうでもいいことですけれど」
「そ、そりゃないよ……! だって、だって家族だろう? それなのに……!」
血色の悪化した顔で、訴える鷲士である。
そして彼を、樫緒の真剣な|双《そう》|眸《ぼう》が見つめた。
「……形だけの家族など、そんなものですよ。この現代に至っては、恋人、親子、師弟……およそありとあらゆる|絆《きずな》というものが|形《けい》|骸《がい》化しています。こんな話、珍しくもなんともありません。違いますか?」
「ち、違うよ……!」
息も絶え絶えに、鷲士は|喚《わめ》いた。
「い、いや、確かにそうかも知れない……! カラダもココロも……すべてお金で買える世の中になりつつある……! でも、ぼくは違うっ……! 絆って……そんなに簡単なものじゃないだろう……? ぼくの家庭は、絶対にそんな風にはしないぞ……!」
重傷のくせに、妙に力を込めたセリフだった。
|樫《かし》|緒《お》は|瞬《まばた》きした。
次の|瞬間《しゅんかん》、美少年の口元を、フッ、と笑みがよぎった。
「……その|目標《もくひょう》、ぜひ達成していただきたいものですね――お父さん」
「えっ……?」
|鷲士《しゅうじ》は瞬きした。彼は顔をほころばせ、
「い、いまさ、お父さんって……」
「さあ、目を閉じてください。原子透過は、ぼくにとっても少し厄介ですから。角膜が|岩《がん》|盤《ばん》に引っかかっても知りませんよ」
「げっ、原子透過ぁ……!? ちょ、ちょっと待って、きみって……」
「あ、それからもう一つ」
相変わらずの|澄《す》まし顔で、樫緒は振り返った。
「ななな、なになに!?」
「ここで死んでも、母さまには一〇〇パーセント会えませんので、念のため。と言うか、どこで死んでも同じことです。命は無駄になさらぬよう」
「……は?」
「では、跳びますよ。目を閉じないと知りませんよ」
「う、うわー! やっぱりワケ分かんないよぉぉぉっ!」
鷲士の絶叫が合図だった。
二人の姿は、一瞬にして|掻《か》き消えた。あらざる力によって、通常の空間をスポイルしてしまったのである。
後には、ひとけのなくなった広大な空間と、赤い|蟲《むし》の平原が残った。
やがて|天井《てんじょう》が完全に抜け、|紅《くれない》の地面に落下した。
一三〇〇年前のすべてが、ここに消滅した――。
エピローグ
翌日――都内の某病院の空は、快晴に恵まれた。
雲一つない突き抜けた青さが、頭上を|覆《おお》い尽くしている。中庭には、|車椅子《くるまいす》の患者や子供たちのじゃれ合う姿があった。
そして外科病棟の廊下。
入院患者や|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》に交じって、三つの人影が歩いていた。
「――ってワケでさ、マジにヤバかったんだから! ねっねっ?」
まず、|結《ゆう》|城《き》|美《み》|沙《さ》。
「……少なくもと、安全だったとは言いがたいですね。あの後に起きた|地《じ》|震《しん》のおかげで、|洞《どう》|窟《くつ》は陥没。観測所の辺りまで被害が及んだといいます」
次に、結城|樫《かし》|緒《お》。
「ちょ、ちょっと!? しゅーくん、ホントに無事なんだろうね!? だからあれほど宝探しなんてやめろって言ったのに――もうっ!」
と、なぜか|麻《ま》|当《とう》|美《み》|貴《き》が、涙目で美沙ににじり寄った。
少女は、アハハ、と汗ジトになって手を振り乱した。
「だ、だいじょーぶだってば! 医者のセンセも、二週間で退院できるって言ってたし! てゆーか、あれ、ハンパなことじゃ死なないって! 想像を絶する|鍛《きた》えられ方だって、センセも|驚《おどろ》いてたんだから! ねっ?」
姉の目配せを受け、弟くんは肩をすくめた。
|双《ふた》|子《ご》を見比べた後、美貴はこめかみを押さえて、深くため息をついた。
「……と・に・か・く。今後、しゅーくんを妙な事件に巻き込まないこと。分かった?」
「は、はーい! 分かりましたっ!」
「それから……返して」
ムスッ、と手を突き出す美貴だ。
美沙は|嫌《いや》そうにしながらも、ポケットから出した物を、|麗《れい》|女《じょ》の手のひらに載せた。
――三〇〇円の指輪である。
「良かった……! なくしたのかと思ってた……!」
口元をほころばせると、両手でそっと握り|締《し》め、|額《ひたい》を押し当てる。
次に顔を上げたときは、恨めしそうな表情だった。
「もうっ、大切な指輪は断りもなく持っていくし、しゅーくんといつの間にか顔見知りになってると思ったら、一緒に住んでて、しかも宝探しを手伝わせてるなんて……。ホントに|美《み》|沙《さ》は勝手なんだからっ……」
ところが、これがまずかった。
敏感に反応した美沙が、ジト目で|美《み》|貴《き》をねめつけたかと思うと、
「か、勝手ぇ〜? ちょっと待ちなさいよ、なにほざいちゃってんの? そーゆーまともなことは、自分を律してから言ってよね! もとはと言えば、|誰《だれ》かさんの行動が、こんなややこしいことの原因になってんだよ?」
「わ、わたしの行動?」
「聞いたんだからねっ、|鷲士《しゅうじ》くんに。ゆーちゃんなのって|訊《き》かれて、美貴ちゃん、否定しちゃったでしょ!」
「う……!」
美貴の顔が、|瞬時《しゅんじ》に青ざめた。
そこで、|樫《かし》|緒《お》が|不《ふ》|審《しん》そうに|片《かた》|眉《まゆ》を上げ、
「待ってください。その話は初耳ですよ――母さま?」
疑いの|眼《まな》|差《ざ》し×2を受けて、|麗《れい》|女《じょ》は冷や汗タラタラで|後《あと》|退《ずさ》った。
母さま。ママ。母親。
――そうなのである。
|麻《ま》|当《とう》美貴。しかし|戸《こ》|籍《せき》に登録されている名は、|結《ゆう》|城《き》美貴。彼女こそが、鷲士の言う“ゆーちゃん”であり、美沙&樫緒の|双《ふた》|子《ご》を生んだ実の母親だった。やはり祖父――双子にとっては|曾《そう》|祖《そ》|父《ふ》――との確執の末に|屋《や》|敷《しき》を出て、現在はマンションで独り暮らし。麻当とは、交通事故で死んだ両親――|婿《むこ》養子に入った父方の旧姓である。
とても二児――しかも二人とも中学生――の母親とは思えない美女は、アセアセと腕を振り乱し、
「だ、だってだって、最初はしゅーくんだなんて思わなかったんだよぅ! あんなに背が高くなってるなんて想像できなかったしっ! だから、そのぉ……はやりのストーカーか何かかと思って!」
「……は〜ん。鷲士くんはすぐに気付いたのに? あれだけギャーギャー|騒《さわ》いでて、本人目の前にして分かんなかったんだ? なーにが|絆《きずな》なんだかねぇ」
「あう〜、だってだって……」
「んで? それからファミレスに入り浸ってたんでしょ? 鷲士くん目当てにさ? なんで|未《いま》だに隠してんのよ?」
「……しゅ、しゅーくん、何度も会ってるのにさ、二度とわたしがゆーちゃんだって話、振ってくれなかったんだもん」
人差し指をツンツン突き合わせ、美貴。
これには、|双《ふた》|子《ご》も|揃《そろ》って口をアングリ。
「……な、なにそれ? |撃《う》ち殺すわよ?」
「……ま、待ってください。ではタイミング逃したのが、今も続いてると? そうおっしゃるのですか?」
「う、うん……」
消え入りそうな声で、|美《み》|貴《き》は|頷《うなず》いた。
これには|美《み》|沙《さ》も|樫《かし》|緒《お》も絶句してしまった。
最初に動いたのは、やはりクイーン・オブ・トラブルメーカーだった。
「……は〜。もう信じらんない。わたし、ちょっと行ってくるわ」
髪を|掻《か》き上げながら、美沙が先に歩き始めた。
「ちょ、ちょっと!? 美沙っ、どうするつもり!?」
「あのねー、今さらタイミングとか、恥ずかしいとか、そんな間柄じゃないでしょ? わたしたちより歳下の時に、子供二人も作ってるくせにさ。わたし、まだるっこしいのって大っキライ。ホントのこと話してくる」
「ダ――ダメダメ! ぜったいダメ!」
慌てて娘の前に|立《た》ち|塞《ふさ》がると、異常に若い母親は、イヤイヤをした。
「どうしてです? 父さんは|天《てん》|涯《がい》|孤《こ》|独《どく》――ぼくたちのことを好意的に思ってくれているようです。あなたがその母親だという事実を知ったところで、喜びこそすれ、さほど問題があるとは思えませんが?」
「だ、だってしゅーくんって、あんなクソマジメな人間だよ? 妙に|潔《けっ》|癖《ぺき》っていうか、ガンコっていうか――どうして今まで黙ってたんだっ、なーんてことになったら、わたしもう死ぬしかないよー!」
「あ……それはありえるかも。|鷲士《しゅうじ》くん、物腰はソフトだけど、確かにすっごくガンコ」
「……脅してどうするのです、脅して」
三人は、|揃《そろ》ってため息をついた。
やがて|美《み》|沙《さ》が顔を上げ、
「あ、でもさ、マジヤバだってば。鷲士くん事情知らないからさ、わたしたちのために、|美《み》|貴《き》ちゃんとは決着つけるみたいなコト言ってたよ?」
「ええっ!? なにそれ!?」
美貴は青ざめて、|後《あと》|退《ずさ》った。
――いきなり泣き始めた。
「うわーん、そんなのヤダよぅ! わたし、しゅーくんじゃなきゃヤダぁ!」
メソメソ、シクシク――まるでこっちの方が子供だ。
|樫《かし》|緒《お》が、これはダメだ、と言わんばかりに頭を振り、
「……だったら、デートにでも誘ってみたらいかがです? 正体を明かすのは|憚《はばか》られる、しかしそのままだと|縁《えん》を切られる……ならば時が熟すまで、こちらのペースに巻き込むしかないでしょう」
「え……?」
|瞬《まばた》きして、美貴は顔を上げた。
「うん、樫緒ちゃん、ナイス! さすがわたしの弟! 使えるよ、それ!」
「ええっ? だ、大丈夫かな……?」
「アタマで考えてるだけじゃ、何も生まれないよ! ホラ、行った行った!」
背中を押して鷲士の病室の前まで行くと、美沙はドンと突き飛ばした。
|躓《つまず》きながら病室に入ってしまった美貴は、|目《め》|尻《じり》で振り返り、
「あん、もう。美沙ったら、やっぱり勝手……」
「あれ? 美貴ちゃん? 見舞いに来てくれたんだ?」
ベッドの上で、鷲士が体を起こした。
美貴は|弾《はじ》かれたように、顔を戻した。
「しゅしゅしゅ、鷲士! えと、そのォ――いきなりでアレだとは思うけど、今日はお願いがあって来たんだ!」
「お、お願い? う、うん、いいけど?」
「じゃあさっそく――わたしとデートしよう! デート!」
「……は?」
|鷲士《しゅうじ》の目が点になった。
が――今回は彼の対応も違っていた。
「あ、あの……悪いけど……|美《み》|貴《き》ちゃん。じ、実はさ、ぼく――」
その腕を、美貴が取った。
彼女は|潤《うる》んだ|瞳《ひとみ》で鷲士を見つめて、言った。
「わたしのコト、キライ……?」
「まさか〜。うん、分かった」
笑顔で答えたものの、ハッとして、鷲士は慌てて口を押さえた。混乱したように、目を泳がす。どうしていい返事をしてしまったのか、自分でも分からなかったのだ。
「ホント? じゃ、退院した週の日曜、空けとくんだゾ!」
「え、いや、その……」
「わーい! やった、デートだよ、デート!」
まるで別人のようにはしゃぐ美貴を、鷲士は引きつった笑みで見つめた。
そして二人の様子を、ドアの|隙《すき》|間《ま》から見ていた|美《み》|沙《さ》が、押し殺した声で、
「うわ、ひっさーん。あれをインプリンティングってゆーのね……!」
「……インプリンティング? 鳥ですか?」
|瞬《まばた》きして、|樫《かし》|緒《お》。
「子供の|頃《ころ》にもさ、鷲士くんあれやられると、自分でも気付かない間に、いい返事しちゃってたみたいなんだ」
「……既に反射行動化しているというわけですか。哀れな」
美沙は肩をすくめた。
やがて|頷《うなず》き合って、二人はドアを開いた。
結局、この日から退院するまで、貧乏大学生の病室からは、なぜか笑いが|途《と》|絶《だ》えることがなかった。|傍《そば》を通る者は、必ずと言っていいほど様子を|窺《うかが》ったという。
そして一ヶ月後――。
星をちりばめた夜空のもと、とある国道の工事現場に、掘削機を扱う鷲士の姿があった。
ヒトの寝静まった深夜である。ドドド、という振動だけが、辺りに|響《ひび》き渡る。鷲士はヘルメットの隙間から流れる汗を|拭《ぬぐ》い、作業を続けた。
やがて|隣《となり》の中年が、タオル片手に、
「がんばるなぁ、兄ちゃん!」
「ええっ!? 聞こえませーん!」
「がんばるなーって言ったんだよ! この前まで入院してたのに、一週間連続だろ!? |近《ちか》|頃《ごろ》の大学生にしちゃ、根性あるぜ!」
「ハハハ――子供がいるんですよ! 二人も!」
「学生でか!? おお、いまどき珍しいな! 何歳と何歳だ?」
「えっと――一二歳! |双《ふた》|子《ご》です!」
「……あ?」
おっさんは機械のスイッチを切ると、|惚《ほう》けたように|訊《き》いた。
その|刹《せつ》|那《な》、|脇《わき》の作業車が、炎を|噴《ふ》き上げた。いきなり|爆《ばく》|発《はつ》したのだ。|衝撃《しょうげき》でおっさん、|鷲士《しゅうじ》の二人は吹っ飛ばされ、自分たちが掘った穴に落下した。
中年作業員は、しかめっ面で後頭部を押さえ、
「つつつ……な、なんなんだ、いったい!? ガス管でもやっちまったか!?」
「いてて……さ、さあ?」
目をグルグル回しながらも体を起こし、鷲士は外を|覗《のぞ》き見た。
――とんでもない連中が、そこにいた。
黒い|戦《せん》|闘《とう》|服《ふく》に、ノクト・ビジョン、さらには自動小銃を|構《かま》えた武装集団が、炎越しに何かを探していたのである。
「どうだ!? 見つかったか!?」
「いえ、死体が一つもありません!」
「さすが顔のない男……! 我々に気付いていたのか……!?」
彼らの属する組織とは――今さら語る必要もあるまい。
鷲士は青ざめて、顔を引っ込めようとした。
|嫌《いや》なほどうまい具合に、戦闘員のスコープと、目が合った。
「……いたぞ! ダーティ・フェイスだ!」
「だから違うっていうのに!」
|喚《わめ》いて穴から跳び出すと、慌てて鷲士は全力疾走に移った。間を置いて二台のジープが後ろから現れ、深夜の国道にマズル・フラッシュを|撒《ま》き散らす。
そして――小さな攻防が続く中、アスファルトに、巨大な影が落ちた。
やがて|轟《ごう》|音《おん》と|地《じ》|響《ひび》きが道路を貫き、|甲《かん》|高《だか》い声が、青年の名を呼んだ。
「鷲士くん! これっ!」
「えっ?」
と放られて来たものを、鷲士は慌てて受け取った。
ステアー・TMP。小型のサブ・マシンガンである。
青ざめて顔を上げた鷲士は、さらに目をひん|剥《む》くことになった。
|美《み》|沙《さ》だ。
いや、それはいい。ただ、彼女が乗っているものがいただけない。
|翼《よく》|幅《ふく》二三・七二、全長二六・二九メートル、自重約二〇トン。黒一色のC20・ガルフストリーム――元はビジネス用に開発された超音速の軍用輸送機である。その前部ハッチから、娘は体を乗り出していた。
ランディング・ギアを出して併走する輸送機に、|鷲士《しゅうじ》は|喚《わめ》いた。
「ちょちょちょ、ちょっと!? いったいどうなってるの!?」
「説明はあとっ! 応戦して、応戦!」
「お、応戦って言ったって!」
片耳を|塞《ふさ》ぎながら、鷲士はTMPをジープに向けた。トリガー・オン。
ジープのボンネットで、小刻みに火花が走った。
――代わりに、バズーカ弾が飛んできた。
「え……? うわわわわ!」
悲鳴を上げて速度を上げる鷲士の後ろで、路面が|爆《ばく》|発《はつ》した。|木《こ》っ|端《ぱ》|微《み》|塵《じん》になったアスファルトの破片と共に彼が吹っ飛ばされたのは、当然の成り行きだった。しかしゴロゴロ転がりながらも、なんとか立ち上がって、再びガルフストリームと並ぶ。
「鷲士くん、ほら、こっち!」
「うわーっ、どいてどいて!」
悲鳴を上げながら、ダイビング・ジャンプ。ボケだが、運動神経はいいのが救いだ。鷲士はうまく、C20に飛び乗った。
ハッチを閉めるやいなや、ガルフストリームはギア収納。機体の横にくっついた双発のジェットエンジンを全開にし、上昇を開始した。
「はー……た、助かった……」
「ご無事で何よりです」
と淡々と告げたのは、フォーチュン・テラーの会長秘書――|冴《さえ》|葉《ば》だ。
|絨毯《じゅうたん》の上で、鷲士は慌てて低頭した。
「あ、か、|片《かた》|桐《ぎり》さん。どうも」
「さっそくですが――今回のあなたの任務は、アマゾン川を|遡《さかのぼ》り、モケーレ・ムベンベが生息する地域を探り出すと共に、その発生源である古代設備を――」
「……は?」
メガネの奥の目が、点になった。
冴葉は、バインダーをめくる手を止め、
「モケーレ・ムベンベです。日本ではUMA――未確認動物――と呼ばれていますが。その正体は現存する恐竜・水竜と予想され――ご存じない?」
「い、いや、そういう問題じゃなくて……!」
その横で、|美《み》|沙《さ》がニャハハ、と笑いながら、
「ほら、わたしたちが動いてても、ダーティ・フェイスの“本物”が日本にいると、また周りに迷惑かかるしさ。だから――ねっ?」
「だ、だってぼく、バイト途中――」
「無論、報酬はお支払いします。我々は企業――トレジャー・ハントによって回収される古代テクノロジーは、|莫《ばく》|大《だい》な利益も発生させますので」
「で、でも、大学の単位も――」
「だいじょーぶ! 単位の一〇〇や二〇〇、わたしが買ってあげるから!」
「か、買うって……そんな!」
|唖《あ》|然《ぜん》とする|鷲士《しゅうじ》を|尻《しり》|目《め》に、娘はパイロットに笑いかけると、
「んじゃ、そーゆーことだから! ブラジルまでゴー! ノンストップでブッ飛ばしちゃってよね!」
「アイ、サー」
パイロットが|頷《うなず》き、機体はさら上昇を始めた。
そして鷲士は、目を閉じて叫んだ。
「……ぼくはダーティ・フェイスなんかじゃないんだってばー!!」
ボケ青年の悲鳴も、しかし上空五〇〇〇メートルでは、|誰《だれ》にも届くはずがなかった。
|草《くさ》|刈《かり》鷲士。|天《てん》|涯《がい》|孤《こ》|独《どく》の学生でありながら、実の娘との出会いにより、やがて本当に世界最強の宝探しになってしまう恐るべき青年。
人は彼を顔のない男――ダーティ・フェイスと呼ぶ!
あとがき
わたしは冷淡な人間のわりに散歩が好きで、ほとんど毎日のようにポケポケ歩いているんですが、たまに奇妙なモノに出会う時があります。
土手の中腹にポッカリ空いてる穴などがそうです。
直径は約二〇センチほど。石を放り込んでも、音ははね返ってきません。肩をすくめてその場は通り過ぎるのですが、歩いてるうちに、想像が|膨《ふく》らんできます。実は宝を隠した縦穴なんじゃないか、いや、地底世界へ通じてるのかも――。
実際、そんな空想とは|無《む》|縁《えん》な|代《しろ》|物《もの》だと分かっていても、やけに気にかかる。で、後日、同じ場所へ行ってみると、|葦《あし》が密集してて、もうあとの祭りです。真実は永遠の|謎《なぞ》――それどころか、あの場所にあの穴があったという事実を知っている人間自体が、この世にわたし一人という可能性もあります。
しかし――最初に穴を見つけた時に、|莫《ばく》|大《だい》な人員とカネをつぎ込んでいれば、ひょっとしたら本当に金銀財宝や地底世界を発見できていたかも知れません。こんなことを考えるわたしは相当なアホです。そしてアホが書く小説が上品なワケがありません。ポテチでベタベタになった指で、ページをめくって下さい。アホが喜びます。
んでもって、今回のビジュアリスト、|西《に》|E《し》|田《だ》画伯。残念ながら今のところお会いしてはいないのですが、HPを見ると、なぜかポリゴンもガリガリでした。実は|密《ひそ》かにレンダラー。わたしのトコと違って検索かければ一発なので、インターネットにアクセスできる方は、|覗《のぞ》いてみてはいかがでしょう?
最後に――一本の作品に対する|膨《ぼう》|大《だい》な仕事量に感銘を受けたビジュアリスト・西E田氏、疲労で別の生物になりつつあるバイオエディター・|峯《みね》|健《けん》|司《じ》氏、及び、デザイン、校正、印刷、営業――この本の出版に携わった|全《すべ》ての人々に感謝を。
――無論、手にとってくれた貴方にも。
読後の感想、お待ちしております。
次回作は、わたしにしては珍しく、すぐにまたこいつらが暴れる予定です。
二〇〇〇年一月一三日
[#地から2字上げ]|伊《だ》|達《て》|将《まさ》|範《のり》
[#地から2字上げ](B.G.M APOLLO FOUR FORTY "LOST IN SPACE")
[#改ページ]
このテキストは、
(一般小説) [伊達将範] DADDYFACE.zip ORrCNA8JDK 29,859,577 d2feea12faf27c52019277c8bb987b0f
を元に、OCRと手入力それぞれでテキストを作成し、両者をMMEditorのテキスト比較
機能で比較して差異を照合修正して作成しました。
画像版を放流された方に感謝。
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192行
少女が傲慢な嘲笑を放ったと当時に、
当時に → 同時に
1086行
ラクビー野郎は、ため息をついた。
ラグビー野郎
1188行
ブラウスの胸ポケットに手を突っ込んだ。
貧乏を絵に描いたような鷲士がブラウスを着るのは違和感がありすぎ。
1217行
古書記成立の鍵になる重要な官人だよ。
古事記
1462行
異形の怪物向けて放ったのだ。
異形の怪物 "に" 向けて
1812行
カウタックの四輪
カウンタック
2202行
――胸元は白いブラウスに、黒の棒タイという念の入れようだ。
「棒タイ」ではなく「ボウタイ=bowtie(蝶ネクタイ)」ではないか。
挿絵はすべて蝶ネクタイになっている。
3079行
「くくく、|草《くさ》|刈《かり》鷲士、二十一歳! |相模《さ が み》|大《だい》の三回生です!
大学は武蔵野市か三鷹市あたりにあるようなので、「三回生」ではなく「三年生」と呼称するのが通常でしょう。
3282行
敵の|肘《ひじ》間接と、肩間接を一緒に外す。
肘関節と、肩関節
3962行
素早く跳びすされる。
跳びすさる。
3982行
――竹取の翁が、一三〇〇年を行き抜いた人間が、絶命したのだ。
一三〇〇年を生き抜いた
4068行
少なくもと
少なくとも
4243行
パイロットが|頷《うなず》き、機体はさら上昇を始めた。
さらに
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