DADDYFACE 世界樹の舟
[#地から2字上げ]伊達将範
ハンティング・プレリュード
夜の壮大な山肌に、幾多もの悲鳴が乱反射した。
星空を突き上げる絶叫の源は、裾野《すその》に散在する民家の集落。地図がなければ、誰《だれ》にも気付かれないと思われるほど小さな村から、断末魔《だんまつま》の声は生じ続けていた。
――第二次世界大戦中、ドイツ南部。
戦時下である、死の悲鳴は珍しくない。しかし中世を偲《しの》ばせるほど古い街並みに火の手は見えず、銃声も聞こえてはこなかった。異変と言えば辺り一帯を覆《おお》う微《かす》かな振動程度だが、それも赤子の眠りをも妨げられるかどうかの強さである。
だが、それでも何かが起きている――小さな村の中で。
――静寂は、唐突に訪れた。
少女のものらしき声を最後に、いきなり絶叫がやんだのだ。
地鳴りもピタリと収まった。
――静まり返った民家の間を、悽愴《せいそう》の風が吹き抜けた。
奇怪なことに、村には全く人影がなかった。レンガ造りの家、商店、表通り――そのどこにも、悲鳴の主たちの姿がないのである。血の痕《あと》もなければ、そもそも明かりがない。絶叫の数を考えれば、道端に死体があっても不思議ではないに拘《かかわ》らず、だ。
ただ、やはりおかしな点はいくつかあった。
まず、足下を濡《ぬ》らす水が、それだ。
村は水浸しになっていた。大雨か洪水の直後を思わせる有りさまだ。お情け程度に舗装《ほそう》された道のタイル、剥《む》き出しの地肌――すべてが湿っていた。
さらに、旅人がいたら、首を傾《かし》げただろう。
道に面した民家の軒からは、水が滴っている。店舗も同様だ。しかし屋根は乾いたままなのである。一方で頭上の辺り――高さ二メートルほど――まで、壁面《へきめん》は濡れそぼっていた。船の喫水線を思わせる跡が、すべての家屋で見て取れる。
パン屋の庇《ひさし》の端から、水滴が落ちた。
「あああ……」
風に紛れて、か細い悲鳴が聞こえた。
軒先にタルが倒れた酒屋の裏路地の奥――。いや、さらに先だ。果物屋を過ぎ、散在する民家からも少し離れた建物の前。
――幼い少女が、ぬかるんだ地面に尻餅《しりもち》をついていた。
「あああ……」
半開きの小さな口から、押し殺した悲鳴が漏れた。
まだ一〇歳にもなるまい。プラチナ・ブロンドの髪、ベージュのエプロン・ドレス――全身びしょ濡れだった。顔色は青く、唇《くちびる》は紫色だ。後ろ手で体を支える両手の中には、二つのものが握られていた。
黄金の髪飾りらしき円盤《えんばん》と、赤い小さな鍵《かぎ》である。よほど強く握り締《し》めているのだろう、小さな指の間から滲《にじ》じんだ血が、濡れた地面に広がっていく。
さらに少女の頭上からは、巨大な十字の影がのしかかっていた。
――古ぼけた教会が、目の前に建っていたのだ。
白い漆喰《しっくい》の壁《かべ》に、赤いタイル張りの屋根――なんの変哲もない。しかし今は、天辺《てんべん》を飾る巨大な十字架に、たとえようもないほどの威圧感があった。村全体を包む異様な空気のせいかも知れない。少女は指の傷も忘れて、歯を鳴らして後退《あとずさ》った。
異変が起きた。
ゆっくりと――極めてゆっくりとだが、教会の扉《とびら》が動いたのである。
「マレー……ネ……」
ドアの隙間《すきま》から、声がした。しわがれた男のものだが、老若を超えた声質だった。喉《のど》が潰《つぶ》れているかのようだ。
反応して、少女の体が、ビクンと跳ねた。
青い目が、ゆっくりと動いた。白い喉《のど》が上下する。
「ど……こ……なの……? マレー……ネ……」
今度は女の声であった。扉《とびら》の隙間《すきま》が少し広がり、奥で人影が動いた。
戦慄《せんりつ》が、幼い顔を駆《か》け抜けた。質はいざ知らず、大人の声だ。しかしマレーネと呼ばれた少女は、この状況で安堵《あんど》するどころか、さらに怯《おび》えの色を深めた。ヒッ、と身を縮《ちぢ》め、弾《はじ》かれたように立ち上がったのである。
後退《あとずさ》ったマレーネの小さな靴が、なにかを踏みつけた。
濡《ぬ》れたクマのヌイグルミ――テディベアだ。しかし少女に気付いた様子はなく、扉の隙間に視線を注いだまま、小さく呟《つぶや》いた。
「ご、ごめんなさい……! ごめんなさいっ……!」
恐怖と後悔――負の感情で今にも張り裂けそうだ。
「ごめんなさいっ……!」
最後に目を閉じて呟くと、少女は背を向けて走り出した。尾を引く涙が、月明かりを反射してきらめいていく。
小さな背中が闇《やみ》に紛れるまで、さほど時間はかからなかった。
やがて――静寂に包まれた教会から、再び声がした。
「マレー……ネ……?」
――一〇年後。春。
一匹の蝶《ちょう》が、草原の波間を飛んでいた。
微風に押され、蜒々《えんえん》と続く白峰を背に、雑草が波を作る。蝶はしばらく緑の波間を漂っていたが、やがて朽ちた木を見つけ、羽を休めた。
――蝶は知らない。それがかつて、人々が崇《あが》めた十字架の残骸《ざんがい》だということを。
もはや、廃墟《はいきょ》とすら呼べないような状態だった。かつての村は、完全にこの世から消滅していた。蝶が再び、朽ち木から飛び立った。
それでも時の流れがやむことはない――。
なぜ村が滅んだのか、誰《だれ》も知らなかった。決して語られることもない。今では、そこに集落があったと知る者すら、存在しないのである。
忘れ去られた、村の跡。
だがそれでも村を破滅に追いやった“なにか”は、胎動を続けていた。
――深い、地の底で。
時を経て、現代。
深夜――絶壁《ぜっぺき》を見下ろすようにそびえ建つ山腹の修道院へ、崖下《がけした》から、強烈な風が吹き上げた。何度となく灰色の壁《かべ》に当たっては、繰《く》り返し砕け散る。
――荘厳《そうごん》な建物だった。
壁面は、すべて石材。しかし接合面の跡はない。職人の技というよりも、長年の風雪が石の隙間《すきま》を埋めてしまったのだ。修行の家などではなく、城と言うに相応《ふさわ》しい。いや、地形から考えて、かつては実際に守りの要害――砦《とりで》だったのだろう。敷地《しきち》中央の十字架をいただいた鐘堂《しょうどう》がなければ、誰《だれ》が見ても年季の入った古城だ。
正面の大聖堂から、光が漏れている。
――長椅子《ながいす》の間に、毛布にくるまった二人の若い登山者がいた。
まず短い赤毛の方が、歯をガチガチ鳴らし、
「う〜っ、畜生! さみー、さみーよ! なんとかしてくれよ!」
「うっせーんだよ! おまえが山でパスポートなんか落とすからだろ、マヌケ! さっきのちっこいシスターが入れてくんなきゃ、揃《そろ》って凍死してたとこだ!」
金髪・ロングの白人が、両肩を擦《こす》りながら喚《わめ》き返した。
震《ふる》えながら、赤毛は大聖堂を見回した。
「……でもよ、ここってどこなんだ? ガイド本の地図にゃ、こんなトコに修道院なんかなかったはずだろ?」
天井《てんじょう》には、キリスト受胎を扱ったらしいフレスコ画。壁《かべ》でひっそりと炎を灯《とも》すキャンドルスタンドは純銀製だ。そのすべてが、古びている。相当な年代物だろう。
「うう……どうでもいいんだよ、今はそんなこと。もっと羽織《はお》るものが……」
金髪が紫色の唇《くちびる》を震わせ、辺りをキョロキョロ。
――教壇《きょうだん》横の“なにか”に、大きな布が被《かぶ》せてある。
「ったく、冗談じゃねーぜ。これだったら、イザベラとアフリカに行ってた方が……」
立ち上がって傍《そば》に寄ると、金髪は布を剥《は》ぎとった。
おかしな装置が、そこにあった。
――ぼんやりと薄緑《うすみどり》に輝《かがや》くガラス筒だ。
高さも直径も、成人男子ほどの大きさである。上蓋《うわぶた》と底面の支持具が放つのは、紛れもない黄金の輝きだった。純金らしい。鉱物としては柔らかい部類に入る金を使ったのは、酸化を防ぐためだろう、筒は液体で満たされていた。他《ほか》を古美術品と言うなら、こちらはさながら錬金術《れんきんじゅつ》の装置である。博物館向きの代物《しろもの》だ。
筒内部の透明な液体は、静かに渦《うず》を巻いている。
「……なんだそりゃ?」
後ろの赤毛も無気味がって、腰を浮かした。
唐突に、液体に変化が起きた。底面から立て続けに水泡が生じ、鉛直方向に回転する渦の中から、影が浮かび上がったのである。
――顔の映像だ。
首のない極端に太った女性の顔が、ユラユラと。
金髪男の顔が、桜色に染まった。
「おおっ、愛《いと》しのイザベラ……! マイハニー……!」
「……自分で歩けねーほど食いまくる女のどこがいいんだかねぇ?」
後ろの赤毛は、ゲッソリ。しかしすぐに眉《まゆ》をひそめ、
「……って、お、おい、ちょっと待て。どーしてイザベラの顔が出てくるんだよ? おかしいだろ? な、なんなんだよ、その水?」
「ダ……ダメェッ!」
甲高《かんだか》い少女の悲鳴に、振り返った。
――幼いシスターが出入り口に立っていた。
やけに小さい修道女だ。せいぜい小学校の高学年――昔ならいざ知らず、教会側が修道誓願を受け入れたとも思えない。見習いかなにかだろう。ブロンドの髪に、大きな碧眼《へきがん》――大人になれば美人を見込める顔が、今は真っ青だ。
「ああ……確か……ルイーゼちゃんだっけ? あのさ、この水――」
「ま、回る水だけは、ダメですっ! 見ちゃダメッ……!」
ルイーゼと呼ばれた少女は慌てて走り寄ると、カバーを掴《つか》んで、再び謎《なぞ》のガラス筒を覆《おお》い隠した。涙目になって、バッ、と手を広げ、
「あ、あの……見せちゃいけないんですっ……! 院長先生から言われててっ……! もう三〇〇年も門外不出でっ……! だからっ……そのっ……ダメです……! わたし、怒られますっ……! 見ないでくださいっ……!」
叱咤《しった》を恐れてか、少女の顔が、フニャ、と歪《ゆが》んだ。
男二人は、顔を見合わせ、ため息をついた。
被《かぶ》された布の下で、コポコポと水が回る音がする――。
二週間後――夕刻のニューヨーク。
窓からベドロー島を一望できるロフトで、三〇を過ぎたばかりに見える白人の男が、黙々《もくもく》とキャンバスに絵筆を走らせていた。
乾いた黒髪。落ちくぼんだ眼窩《がんか》、削《そ》ぎ落とされたかのような頬《ほお》。病的とも言える痩《や》せ具合だが、目付きは茫洋《ぼうよう》――ある意味で落ち着いている。しかし男を後ろから見た者は、やや顔をしかめただろう。彼の後頭部には、大きな傷があったのである。幅一〇センチ、太さ三センチほど――縫合痕《ほうごうあと》が、延髄《えんずい》の辺りを真横に走っている。
男の青いセーターに、赤い夕日の影が落ちた。
手を休め、絵描きは外の景色を眺《なが》めた。
自由の女神の足下を、廃船寸前のタグボートが通り過ぎていく。
おもむろに男は筆を置くと、パレットを手に取った。トレイの上にあけた絵の具を、ナイフで淡々と広げていく。
指が滑ったのか――パレットナイフが、手の中からスッポ抜けた。空中で回転し、袖《そで》まくりした腕に突き刺さる。
眉《まゆ》一つひそめずに、男は腕を眼前に持ってきた。
切っ先が刺さった箇所から、鮮血《せんけつ》が漏れ広がっていく。しばらく無言で見ていた男だが、やがて血を指につけ、口に運んだ。
全く陽《ひ》に当たっていないような白い喉《のど》が上下する。
「……うん、血だ。わたしは人間だ」
茫洋《ぼうよう》と、当たり前のことを、男は呟《つぶや》いた。
「……血の味によって、自己の存在を再確認している……か。変わらないな、ディーン・タウンゼント」
抑揚のない声をかけられ、タウンゼントと呼ばれた画家は振り返った。
奇怪な人影が立っていた。
――黄金の仮面をつけた、長身の男である。
中南米は石器文明の太陽王を象《かたど》ったものらしい。陽光を表した突起物が、横から突き出ている。どう見ても純金――相当な重さのはずである。異質なのは、首から下が、ただの黒いスーツという点だ。釣り合うデザインではない。
タウンゼントは、立ち上がると目を細め、
「シェピロか。同じハイ・キュレーターがわたしのアトリエを訪れるとは珍しい。なにか面白いものでも見つかったか?」
仮面の男は答えず、代わりにあるものを放った。
――ゴシップ誌である。
「なんだこれは?」
「……現存する“回る水”が、ドイツで発見された」
「な……に!?」
画家の顔に、衝撃《しょうげき》が走った。蒼然《そうぜん》と、紙面に目を落とす。
「……ドイツの最高峰・ツークシュピッツェ中腹に建つグランツホルン修道院に、三〇〇年ぶりに外部の人間が入り込んだ。イギリスからの二人の登山者だ。彼等《かれら》はそこでフレスコ画、銀の燭台《しょくだい》など、数々の美術品を目にした。その中に、望む者の顔を映し出す、奇妙な水があったという。ガラスの筒に入れられ、存在は秘密にされていた水がな」
「望む者の顔を映し出す……? では例のフレイア異伝と、ナチの情報は本当だったということか……!」
「……ロープウェイのコースから外れた天然の要害だ。普通の人間は足を踏み入れん」
一切の抑揚を排除した口調で、仮面の男は続けた。
「……タウンゼント、おまえが行って“井戸”を探すのだ。館長からの命令だ」
「ほ……う? 異端派と呼ばれるこのわたしを、直《じか》に現地に?」
顔を上げ、痩《や》せこけた画家は目を細めた。
「……井戸の確保を最優先するため、本館は既に大量の人員を送り込んでいる。究極の情報網を持つあの男が出てくるのは時間の問題だろう」
「汚いツラ、顔のない男……! ありとあらゆる軍事兵器を操り、無敵の古武道・九頭竜《くずりゅう》を使う世界最強のトレジャー・ハンター……!」
タウンゼントは、忌々《いまいま》しげにこう吐き捨てた。
「ダーティ・フェイスか……!」
「……桐古連《きりこれん》は富士《ふじ》の樹海《じゅかい》でヤツと戦って死んだ。おかげで彼が掴《つか》んだフェイスの情報も大半が闇《やみ》に葬られている。未《いま》だ正体不明の敵に当たらせるべく、館長は“ヴィタリスの魔筆《まひつ》”を使うハイ・キュレーターをお選びになった。つまり、おまえだ」
迷うことなく画家は頷《うなず》き、
「いいだろう、引き受けた。桐古を一敗地にまみれさせた男――相手にとって不足はない。わたしはさっそく現地へ飛ぶことにしよう。手配は整っているな?」
「……無論。館長への伝言は?」
「ことが成就した暁には、ティファニーで朝食をご一緒に。むろん館長の支払いで、だ」
タウンゼントの口元を、陰鬱《いんうつ》な笑みがよぎった。
仮面の男は背を向け、階段を下りていった。
画家はきびすを返すと、椅子《いす》のロングコートに袖《そで》を通した。腰を屈《かが》めて画材道具一式をケースに収め、再び立ち上がる。懐《ふところ》から携帯電話を抜くと、耳に当てた。
「……スプレイか、わたしだ。ドイツの田舎《いなか》に、禁断の井戸を探しに行く。役には立たんだろうが、ヴァッテンを呼び出しておけ」
タウンゼントは、しかし眉《まゆ》をひそめた。
「……なに? 未だにエジプトだと?」
さらに同じ頃《ころ》――別の場所でのこと。
一点の光すらない空間を、生ぬるい微風が吹き抜けた。完全な暗闇である。ただ、ときおり風の反響音《はんきょうおん》も上がることを考えると、極めて狭い場所のようだった。通路かどこか――密閉空間に近いところである。
やがて風と一緒に、呪文《じゅもん》のようなものが聞こえてきた。
「えー……知行合一《ちこうごういつ》説とは、唐《とう》の王陽明《おうようめい》が唱えた主観的唯心論で……えっと……知識と行動は必ず合一されるものであり……陽明学の一つとして……」
なにやら、気の抜けたコーラみたいな声である。
次いで、ページをめくる音がし、
「ああっ、唐じゃなくて明《みん》のヒトだった! まずいなー、これで三度目――」
「……だーっ、もぉっ! 鷲士《しゅうじ》くん、うっるさぁーい!」
なにかを引っ剥《ぱ》がす音と共に、突然、光が生じた。
暗闇《くらやみ》に浮かび上がったのは、二つの顔であった。
片方は、銀幕を飾ってもおかしくないほどの、凄《すさ》まじい美少女だった。表情は今でこそプンスカだが、メノウ石のような瞳《ひとみ》、両サイドをリボンで束ねた栗毛《くりげ》色の髪、長い睫《まつげ》が生み出す造形美は、見る者の脳裏に確実に焼きつくことだろう。着衣は黒一色の戦闘服《せんとうふく》に、左腕にはウェアラブルPC、頭には暗視装置と、ある意味で物騒《ぶっそう》な代物《しろもの》ではあるものの、彼女が身に着けると、コミックめいて見えるから不思議だ。
残りの片方は――みすぼらしい青年だった。
とにかく、みすぼらしい。
とことん、みすぼらしい。
なにはともあれ、みすぼらしい。
まず、着込んだ黒い戦闘服がみすぼらしい。背負ったリュックがみすぼらしい。腰に引っかけたアサルト・ライフルまで、なぜかみすぼらしい。いや――ハッキリ言って、服装も装備も少女と大差ないのだが、彼が身に着けると、なぜかボケて見えるから恐ろしい。原因は、どことなく緩《ゆる》んだ彼の表情にあった。
「……えっ? どうかした?」
今さらのように、青年は首を傾《かし》げた。ほえ〜、という擬音《ぎおん》が聞こえてきそうだ。
――我らが草刈《くさかり》鷲士と結城美沙《ゆうきみさ》である。
案《あん》の定《じょう》、小さい美貌《びぼう》に、青筋が浮かんだ。
「ったく〜! どうかした、じゃないでしょ! さっきからブツブツ――もぉ! 時と場所を考えてよね! 鷲士くん、緊張感《きんちょうかん》なさすぎ!」
「緊張感? 冗談じゃないよ、緊張感ありありだよ」
呆《あき》れたように、鷲士は言った。
「だって明後日《あさって》には追試なんだよ、ぼく? ただでさえバイトで出席日数危ないし、このままだとホントに留年だ。なのにさ、美沙ちゃんが無理やり――」
「だからってピラミッドの中で参考書なんか開く、フツー!?」
不信感てんこ盛りの視線を、美沙は鷲士の手元に向けた。
“東洋哲学史論・改訂版”
さらに同場所から五〇〇メートルほど直上に出れば、青い空と果てしない砂漠、そして崩れかけた聖塔が目にできたはずである。
――エジプト・アラブ共和国北西部。気分転換にはなるかも知れないが、追試前のお散歩にしては、距離が気違い沙汰《ざた》だ。
直立もままならない地下通路の中、鷲士《しゅうじ》は頭のゴーグルをつつき、
「え、でもさ、こういうのあるし。勉強は普段からの予習復習が肝心――」
「ノクトビジョンは暗闇《くらやみ》で本読むためのものじゃないのっ!」
喚《わめ》くと、美沙《みさ》は腕組みして鷲士をねめつけた。
「ちょっとぉ、もぉ、しっかりしてよ? 相変わらずボケボケなんだから〜。わたしはこっちの解析で手一杯だしさ」
と美沙は不満そうに、背後の壁《かべ》を叩《たた》いた。指の間から覗《のぞ》くのは――象形文字だ。少女の肩にくっついたライトが、ヒエログリフを浮かび上がらせていた。古代文字が、狭い通路の天井《てんじょう》から足下までビッシリだ。
「わ、分かったってば。それより、ほら、もう少しで目的の部屋なんでしょ?」
「うー、なんか不安」
疑いの眼差《まなざ》しな美沙だったが、やがて拳《こぶし》を作り、
「……ま、でも、ヘナチョコパパを一人前の男に育成するのも娘の役目かぁ! これも試練てヤツよね、うん! 美沙、がんばる!」
「育成って……あの、それが宝探しとどういう関係が……?」
「よーし! じゃ、レッツゴー!」
人の話など、九割がた右から左――四つん這《ば》いで進み始めた美沙に、ガックリ肩を落とした鷲士が続く。
幸いにも、小冒険の終わりは、すぐに訪れた。
――明かりである。通路の先が、ぼんやりと光を放っていたのだ。
小さな美貌《びぼう》に、不敵な笑みが広がった。
「途切れなき威光に包まれし広間――あそこだわ!」
床から手を離して中腰になると、美沙は光源へと走り始めた。上方へ傾斜した通路を駆《か》け抜け、目的の場所へと突入する。
――眼前に広大な空間が広がった。
入り口には下りの階段。左右の壁《かべ》まで、二〇〇〜三〇〇メートルはあるだろう。規則正しく並べられたランプが、ぼんやりと辺りを照らしていた。床と壁を見る限り――黄金。すべてブロック状だ。へこんだ部分にも、皮膜の剥離《はくり》はない。金箔《きんぱく》ではない証拠だった。装飾ならいざしらず、構材として使うことはない物質である。
「はー……! 初代エジプト王、メネス=ナルメルのピラミッドを見つけたってだけでも凄《すご》いのに、これほどの規模だったなんて……!」
娘に続いて階段を下りながら、呆然《ぼうぜん》と鷲士《しゅうじ》は呟《つぶや》いた。地下だというのに天井《てんじょう》がない。ランプの光が届いてないのだ。底知れぬ恐《こわ》さがある。
「あ、変なトコ踏まないでよね! トラップにかかったら、なに起こるか分かんないよ!」
「え、ええっ? は、早く言ってよ……」
と、おっかなびっくりに、抜き足差し足に切り替える。まず先に美沙《みさ》が床を踏み、少し遅れて鷲士も続いた。広間中央の台座まで進み、立ち止まる。
少女が顔を上げたのに連動し、肩のライトが動いた。
とんでもないものが、頭上に出現した。
――全長四〇メートルを超える、巨大な木造船である。
「なっ……!?」
エジプトのカヌーとガレー船を合体させたような形だった。大きさの割に乾舷《かんげん》が浅く、舳先《へさき》がめくれ上がった構造だ。船腹は材質のせいか赤く、両横からは何本もの巨大なオールが突き出している。
「こ、これが例の、真なる太陽の船……!?」
頭上を覆《おお》う質量に圧倒され、鷲士は呟《つぶや》いた。
太陽の船――約四五〇〇年前、クフ王が死後太陽の国に渡るために造らせたという、レバノン杉製の船である。一九五四年にピラミッドの砂の除去作業中、なぜか分解された状態で発掘され、さらに一九八七年には、日本の調査隊が対となるもう一隻も発見。前者は現在博物館に展示され、後者は現存する世界最古の木造船だと見られている。お宝と言うにはいささか趣《おもむき》が異なるが、歴史的価値ははかり知れない代物《しろもの》だ。
ただ、視界を塞《ふさ》ぐ巨大船の形は、鷲士の記憶《きおく》とは少し違う。船腹には、ヨットのキールを思わせる舵《かじ》。さらに後部には、ツボを思わせる構造の穴がいくつか。オールも、アンテナに見えなくもない。
さらに――驚《おどろ》くことに、支柱はおろかワイヤーもない。つまり、この巨大構造物は、重力に逆らって浮いているのだ。
美沙《みさ》の事前説明によると――“来訪者”の遺《のこ》した宇宙船。
「す、凄《すご》いね! 大発見じゃないか! これだったら――」
と口をほころばせて顔を戻した鷲士だが、瞬《まばた》き。
ガックリと、娘が床に両腕をついていたからだ。
「ハ、ハズレ……!」
「……は? ハズレ?」
「……ううっ、ミニチュアなのよ、これ。でっかいから、そうは見えないけどさ」
「こっ、これが……ミニチュアぁ!?」
後退《あとずさ》る鷲士《しゅうじ》を、美沙《みさ》が幽霊《ゆうれい》みたいな顔つきで見上げ、
「……同じ型のを、もう回収してるんだよぅ。去年、ナイル東岸でね。浮きはするけど、進まないの。構造も再現できなくて、今は品川《しながわ》の倉庫に放り込んでる」
「し、品川……! こ、これをですか……!」
「うう、やられたぁ……久々のスカって感じ。ナルメルが死ぬ前に、アトゥン神は……来訪者は引き上げてたんだわ。ここだったら、って思ってたのにィ〜」
「ハハハ……もうぼくにはついてけないです……」
虚《うつ》ろに笑う鷲士だったが、すぐに、
「……で、でもさ、どうして来訪者っていつもどこか行っちゃうの? 物凄いテクノロジー持ってたのにさ?」
突っ伏した美沙がため息混じりに、口を開けた。
「……あのさ、鷲士くん、マヤ・オルメカ滅亡の二五六年周期説って知ってる?」
「マヤ……? ご、ごめん、分かんないや」
「マヤってね、昔から優れた天文学を持ってたの。たとえば――金星の公転周期は、正確に五八三・九四日。んでもってマヤ人の計算では、五八四日。天文学って、高校生レベルの数学は必須だから、ある種の算術方法を編み出してたワケね。で、マヤにはカトゥン、ツォルキンって暦があって――面倒だからどんなものかは、はしょるけどぉ――その最小公倍数が、二五六年なのよ。で、問題はここから」
「う、うん」
「マヤの都市には、チチェン・イツァーってのがあるの。で、西暦六九二年、一度、そこからヒトがごっそり消えた」
「やっぱり疫病? それとも戦争かい?」
「はいはい、結論を焦らないの。それからチャカンプトンって都市が栄えたんだけどォ、なぜかこれまた九四八年、滅亡」
「はぁ」
「そしてまた、チチェン・イツァーが繁栄《はんえい》するんだけどね、一二〇四年に今度こそ完全に滅んじゃった」
「……二五六年周期だね。だったら一四六一年にも?」
「はーい、大正解。今度は、マヤパンってトコが消えました」
「じゃあ、一六九七年は? でも確かコルテスのアステカ上陸は、一五一九年だよね? 周期の前になくなっちゃった?」
「ブー。アステカはマヤ族じゃありませーん。チチメカ・トルテカ族でーす。日本人的感覚だと同じものだけど、フランスとイギリス並みに違うから要注意よ。結局、マヤがスペインに征服されたのは、ジャスト一六九七年。同年にオルメカ系文明は完全に滅亡。ま、最後のは偶然ぽいけどね。でもコルテス上陸の一五一九年ってのは、アステカ族の滅びの暦・セーアカトルの九六八年周期にはヒットしてるんだよ」
「うわ、な、なんかもう頭おかしくなりそうだ。美沙《みさ》ちゃん中一なのによく知ってるなぁ、そんなこと」
呆《あき》れと感心が入り交じった表情で、鷲士《しゅうじ》は言った。
普段なら、凄《すご》いでしょ、もっと誉《ほ》めて――を連発するところだが、ショックから立ち直れてないらしく、美沙は床に這《は》いつくばったまま、
「……マヤはどうやら、自分たちの作り出した運命暦に、完璧《かんぺき》に従ってたみたいなのね。逆説的ってゆーかさ、滅んだのが、たまたま二五六年周期ってコトじゃなくて、滅ぶ時期がやってきたから、じゃあそろそろ滅ぼうか、みたいな」
「だから……都市を捨てて? 住みやすいところを、わざわざ?」
「腐敗と停滞を恐れたんじゃないのかなァ? まあ、なにかに対する考えって、民族や文化によって、それほど違うってこと。ましてやわたしたちの相手は、正確には人間かどうかも分かんない連中だからね〜」
「どうして行っちゃったかは、分からない……か」
「……そゆこと。は〜、むなし〜。結局は収穫《しゅうかく》ナシか。帰りにアレキサンドリア図書館でも攻めてみよっかなぁ?」
青息吐息で、床から膝《ひざ》を離した。
――すぐに再び四つん這《ば》いになった。
何かを見つけたらしい。眉《まゆ》をひそめ、床に目を走らせる。
「もっとも……偉大なる船の……一隻? かの地にあり……? なによ、これ……?」
美沙が呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》き、鷲士も慌てて視線を落とした。
――世界地図が、いくつもの床のブロックにわたって浮き彫りにされていた。各地域の注釈なのか、ヒエログリフも刻まれている。
「ご、五〇〇〇年前の遺跡《いせき》に……世界地図!?」
鷲士の目は、唖然《あぜん》として呟いた。エジプトを中心にしているので違和感があるが、明らかなメルカトル図法だ。ただ、現在のものとは、少し陸の形などが違う。諸《しょ》大陸はそのままだが、太平洋には、見たこともない大きな島などもあった。
さらに――美沙が凝視《ぎょうし》する地点には、おかしなものが。
――樹《き》、である。
ユダヤ教の曼荼羅《まんだら》にたとえられる“セフィロートの樹”にも似た図が、この奇怪な世界地図に描かれていたのだ。円錐《えんすい》状に広がる枝葉、ジャガイモを思わせる巨大な塊茎《かいけい》――。高木の根っこに塊茎というのも妙な話だが、そうなのだから仕方がない。描かれた場所は、ヨーロッパの中央より、やや西寄り――今で言うドイツの辺りだ。
「な、なんなの、この木? 昔の食べ物?」
「船……だってさ。最大クラスの」
「ふ、船ぇ? だってこれ、誰《だれ》がどう見たって……」
「……だよね。おっかしいなぁ、解読間違ってんのかなぁ? シャンポリオンの用法とはずいぶん違うのは元から分かってたんだけど……大きさもヘン」
頬《ほお》をポリポリやりながら、美沙《みさ》だ。
「ヘン? おっきいんだ?」
「うん。山を三つ重ねたよりでっかいって」
「……はぁ〜? 山を三つぅ〜?」
「ちょっと待ってね、えーっと……なになに? 大切なのは……船そのものではなく……吐き出される水である……? 水が……入り口に……?」
そして美沙が立ち上がり、
「……なんのこっちゃ。船が水出してどーすんのよ?」
と首を傾《かし》げた。専門家がこれなのだから、鷲士《しゅうじ》にはサッパリである。
美沙はため息をつくと、肩のカメラを作動させ、
「ま、いいや。なんだかサッパリだけど、これはこれで収穫《しゅうかく》だわ。記録記録、っとぉ」
「あの……太陽の船は?」
「いらないわよ、そんなもん」
新たな声は、そのときにかかった。
「そっか。じゃ、おれたちがいただいてくぜ」
鷲士は蒼然《そうぜん》と振り返った。美沙が慌ててカービン型アサルトライフル・MP5Kを構え、声の方に向ける。
――中背の肥満漢が、自動小銃で武装した戦闘員《せんとういん》たちに囲まれて立っていた。
美沙が呆《あき》れたように、
「……またミュージアム? ったく、どこにでも出てくるんだから」
「へっへっへ、ナルメル王のピラミッドを追ってたら、こんな場面に出くわすなんて――おれはついてるぜ。身長一八〇半ば、痩《や》せ型、東洋人――か。なるほどね。てめえがダーティ・フェイスだな?」
デブは鷲士を目にし、厚い唇《くちびる》を笑いに歪《ゆが》めた。
――ここにもまた、新たな勘違い野郎が一人。
「ちっ、違いますよ! 絶対に違います!」
泡を食って否定する鷲士《しゅうじ》だったが、デブは訳知り顔に何度も頷《うなず》き、
「うんうん、分かるぜ。てめえ、正体不明ってのが売りだからなぁ。顔バレちゃ、立場ねえからなぁ。メンツってやつもあるし」
「はぁ? いや、そうじゃなくて! あなたたちは根本的に――」
と喚《わめ》く鷲士だったが、一斉に銃口を向けられ、押し黙《だま》る。
美沙《みさ》もライフルを構えたのはいいが、舌打ちし、
「チッ、ちょっと相手が多すぎるわね。退路はあいつらの後ろだし……」
「へっへっへ、悪いな、ダーティ・フェイス。この遺跡《いせき》も太陽の船も、ぜーんぶ、おれたちがいただく。もちろん――てめえの命もだ」
デブが部下に合図を送るべく、腕を振り上げた。
そして切羽詰まって、鷲士が足を踏み出し、
「ああっ、もう! だから、最初から誤解してるんですってば! いいですか、ダーティ・フェイスなんて宝探しは、この世には最初から――」
――カチ。
「は?」
ボケ青年の目が、点になった。音源は自分の足の裏――床下である。なにかスイッチを踏んづけてしまったらしい。美沙、肥満漢も、同時に青ざめる。
「ちょっ……鷲士くん……マジ?」
――ゴゴゴ!
即座に震動が、足下から沸き上がった。
建物全体が揺れ始めた中、デブが呆気《あっけ》にとられたように、
「トラップを……発動させた? なに考えてんだ、てめえ……! 地下五〇〇だぞ、どーなるか分かってんのか……!? 噂《うわさ》通りムチャクチャな野郎だな、そーゆー破れかぶれは、もっと切羽詰まった状態でやってくれよ……!」
「いやっ、これはですね、なんと言うか、よくある事故と言うか――ああっ!」
と鷲士が頭を抱えたが、時既に遅し。
――足下が、呆気《あっけ》なく陥没した。
広間の床と壁《かべ》を構成するブロックの結合が、解けてしまったのである。鷲士、美沙は言うに及ばず、敵の一団までブロックと共に落下を開始した。
下には、なにも見えなかった。文字通りの底なしだった。
「やーん、もう、鷲士くんのドジィ! だから変なトコ踏むなって言ったのにィ!」
「ああっ、追試が、単位がー! ぼくの大学生活がー!」
間抜けた絶叫を残し、若い父娘《おやこ》が、地下の闇《やみ》に呑《の》み込まれた――。
本事件の序章を飾る最後の重要人物は、その日――午後四時過ぎに、スラリと伸びた細い足で、成田のロビーを踏み締《し》めた。
と言っても、挑発するようなミニというわけではない。スカートの丈は普通だ。足の方が長すぎるのである。
白いパンプスがさらに踏み出す前に、小さな影がぶつかった。
小さな男の子だった。派手な照明の効いた空間が珍しいのか――はしゃいで走り回っていたようだ。少年は“足”にぶつかると、ひっくり返った。
「い……いたぁ……」
幼い顔が、一気にしぼんだ。
「……まぁ。大丈夫?」
“足”の主は、心配そうに声をかけて、膝《ひざ》を折った。ヘアバンドでまとめた長い髪は――美しいブロンドであった。
しかし金髪もさることながら、注目すべきはバレッタだろう。ヘアバンドの左端にくっついた丸い髪留めが、黄金の輝《かがや》きを放っていた。くすんだ金の台座に、三日月を象《かたど》ったガラスがはめ込んであり――中で揺れているのは液体らしい。
女性は子供の身を案じたようだが――彼女の想《おも》いは伝わらなかったようだ。
「えっ……?」
相手を目にした途端、少年の顔を、恐怖が貫いたのである。男の子は、ヒッ、と引きつけを起こすと、慌てて後退《あとずさ》り、
「マッ、ママぁ! 目が透けてる! このヒト、目が透けてるよぉ!」
「なっ……!」
狼狽《うろた》える“彼女”の眼前で、慌ててやってきた母親が、
「ダ、ダメでしょ、伸《しん》ちゃんっ。あれはね、ガイジンっていうヒトなの。ぜったいに話しかけちゃダメなのっ」
「ガイジン? ママ、ガイジンって恐《こわ》いの? 目が透けてるの?」
「そ、そうよっ。だから行きましょっ」
母親は息子の腕を引っ張ると、低頭もせずに、人込みの中に消えた。
「……ま、まあ、予想はしてたけど」
無理に冷笑すると、“彼女”は旅行ケースを引っ張って、ドアをくぐった。
細い指で、急に口元を覆《おお》った。
「うっ……!」
呻《うめ》くと、左右を見回し、
「なによ、この臭《にお》い……! これでも先進国……? どういう環境《かんきょう》基準なのよ……! おまけにあの親子っ……! 礼節の国が聞いて呆《あき》れるわっ……!」
恨めしそうに言うと、顔を上げた。
青い双眸《そうぼう》の、白人美女であった。
ブルーの瞳《ひとみ》は眼紋まで透けて見えるものだ。だから少年はああ言ったのだろうが、生憎《あいにく》と彼女に笑って済ます余裕はなかったらしい。白い肌《はだ》のこめかみに浮かんでいるのは、紛れもない青筋だ。万国共通・怒りのサインである。頬骨《ほおぼね》の高さを考えると――まずゲルマン系。ある意味でキツい美貌《びぼう》だ。
美女は大きくため息をつくと、キッ、と顔を上げ、
「……日本なんて大ッ嫌《きら》いッ!」
その割には流暢《りゅうちょう》な日本語が、夕日を突き刺した。
髪のバレッタが太陽を反射し、赤く輝《かがや》いた――。
第一章 ドイツであうあう〜
大冒険への引き金となる事件が起きた当日――病み上がりの体を、半ば引き摺《ず》りながら大学に出ると、好奇の視線がまとわりついてきた。
「おお、草刈《くさかり》か。おまえ、エジプトでバイトしてたんだって?」
「いくら金欠だからって、よく行くよなぁ」
「すっかり焼けてんじゃん。でも、疲労で入院してたらしいな」
「戻った当日に点滴打ちながら追試だろ? よくやるよ、オマエも」
そして感心と呆《あき》れがミックスされた言葉を聞くたび、彼はトレードマークと化した瞳《ひとみ》のない笑顔を浮かべ、こう答えるのだ。
「ハハハ……ちょっと違うけどね」
ボケ青年は、結局その日も、気弱な笑いで真実を隠し通した。最後の授業が終わり、教諭が去ると同時に、机にバタン。
……ううっ、そのうちホントに死んじゃうよ〜。
メガネの奥から流れた涙が、合板に水溜《みずた》まりを作った。
――草刈|鷲士《しゅうじ》。一言で言うと――いや――今や一言で表せるほど、彼を“蝕《むしば》む”事情は単純ではなくなっていた。書き示すのも面倒なほどだ。
「ダーティ・フェイス? なんだい、そりゃ?」
背後から聞こえた会話の一端が、突っ伏すヘロヘロ青年の脊髄《せきずい》を貫いた。慌てて振り返った鷲士の瞳に映ったのは、見覚えのない人物だった。
「……詳しくは言えないわ。ただ、聞いたことがあるかどうか教えて欲しいの」
少しハスキーな声が、淡々と訊《き》いた。
――白人の美女である。
背は一七〇センチ前後。腰まであるブロンドの髪をまとめるのは、白いヘアバンドだ。髪と肌《はだ》の色、上背のせいで、異様に目立つ。おまけに――目鼻立ちもすっきりした美人だ。同じ場所に白人が何人いても、目に止まるのは、まず彼女だろう。
……誰《だれ》だろ? 留学生?
「いきなり訊かれても……化粧品? あ、映画のタイトル?」
困ったように頭を掻《か》いたのは、写真部の松井《まつい》。シャッターチャンスをものにするため、テニス同好会にも籍《せき》を置く強者だ。彼の狙《ねら》うショットとは――二回生以上は誰でも知っている。ゆえに、特に女性は近付こうとしない。
白人女性はイライラしたように腕組みし、
「ある男のニックネームよ。知ってるの? 知らないの?」
「ニックネーム? さあ、聞いたことないなぁ。悪いけど」
「……そう。ありがとう」
美女はため息混じりに出口へ消え、鷲士《しゅうじ》もホッと胸を撫《な》で下ろした。荷物をまとめて、大きめの黒いボストンバッグに放り込み、自分も廊下へと続く。
……まいったなぁ、大学でもフェイスの名前を聞くなんて。この前、図書館メッチャクチャにしちゃったからなぁ。
背中を丸めて、ガックリ。
しかし、すぐに顔を上げる羽目になった。
「――あ、いたいた! 草刈《くさかり》センパーイ!」
「草刈さん、ガッコ出てきてたんですか!」
遠くから名前を呼ばれたかと思うと、あっと言う間に、周りを取り囲まれたのである。
「ほらー、やっぱりセンパイ足長いよ〜。股位置、わたしのヘソ上だもん」
「あ、ミカの言う通りだ〜。髪もちゃんと毛先|揃《そろ》えてある」
「もともと背はあるしねー、うん。スタイルもすっごくいい」
右から、須藤《すどう》、長瀬《ながせ》、宮本《みやもと》――女子弓道部の面々である。セリフこそ誉《ほ》め言葉だが、奴隷《どれい》でも値踏みするような口ぶりだ。
鷲士は汗ジトになりながら、
「あの……いったいなに?」
「あ、いえ。今度ォ、川森《かわもり》女子のコたちとコンパやることになったんですけどォ。こっちの男の人数が、ちょっと足んなくてェ」
「あっちは一流どころ揃えてるって言っててー。まあ、眉《まゆ》ツバだとは思うんですけどォ、いちおーこっちもちゃんとしたのチョイスしとかないとまずいじゃないですかぁ? ガッコとしては川森の方がメジャーだから、コネ切られちゃったら困るしィ」
「それでェ、相談してたら、草刈センパイの名前が出てェ」
そして三人は、互いに顔を見合わせると、
「ねーっ♪」
とニコニコ笑顔。鷲士は冷や汗だ。
「でもさ、どうする?」
「あ、うーん、でも川森の連中に手持ちのカードぜんぶ見せるってのもシャクだしー。てゆーかさ、もったいなくない?」
「うー、言えてる。センパイって、けっこーウチの秘密兵器かも」
と今度は三人で密談を開始する。
やがて一人が、エヘヘ、と頭を掻《か》きつつ、
「すいません、センパイ。やっぱり忘れてください」
「な、なんだか分かんないけど……はぁ」
「やっぱり、もうちょっとランク低いヒト、探すことにしますからァ。その代わり、内輪でやるときには来てくださいね? ぜったいですよ」
「麻当《まとう》センパイには、もちろん内緒で。じゃっ」
バタバタと手を振って、三人は背を向けた。
――すぐに振り返った。
「あ、そうそう、忘れてた。その部長から伝言です。ええっと――用事があるから鷲士《しゅうじ》見かけたらわたしのところに来るように言え――って」
「美貴《みき》ちゃんが? う、うん、分かった」
「じゃ、またで〜す」
ウィンクすると、今度こそ本当に三つの姿はヒトの波に紛れた。
……な、なんなんだろう、いったい?
赤みの残る頬《ほお》を掻きながら、鷲士は歩き始めた。
実は近頃《ちかごろ》、こういうことが多い。後輩《こうはい》や同級生の女のコたちに囲まれ、黄色い声でキャイキャイと。しかし、これといった特別な展開があるわけでもなく――せいぜい色目を使われて終わり。今まで女っ気とは無縁《むえん》だったのである、嬉《うれ》しくないと言えばウソになるが、やはり戸惑いの方が大きかった。
「……はぁ。女のコって分かんない」
だが彼にとって最も不可解な女性は、校舎を出てすぐ――正門の前にいた。
普通じゃない人だかり、その割に静まり返った場の雰囲気、中心に佇《たたず》む袴姿《はかますがた》の女性――。相模大《さがみだい》でこの組み合わせが意味するところは一つ。
――麻当美貴だ。
鷲士の位置から見えたのは背中だが、前に回るまでもなかった。モデル並みの長身、腰位置の高さ――影だけでも彼女だと分かる。体形が日本人離れしているのだ。これで顔がトホホならただのサギだが、その美貌《びぼう》は見る者の心を鷲掴《わしづか》みにして離さないから凄《すさ》まじい。誰《だれ》もが認める相模大のカリスマだ。
「ちょ、ちょっとごめん」
鷲士が足を踏み出したと同時に、人だかりに波が生じた。またあいつか、許せねえ、いつか殺してやる――嫉妬《しっと》の視線が背中に突き刺さる。いかにほえほえしているとは言え、自分がどう思われているか見当はつく。鷲士は身を縮《ちぢ》めながら、前に進んだ。そして――なんとか美貴と肩を並べたときである。
ブロロロロ……。
唐突に校門の前を、黒いリムジンがよぎった。
……あれ?
車影が見えたのは、ほんの一瞬《いっしゅん》――しかし窓に映っていた影に、鷲士《しゅうじ》は眉《まゆ》をひそめた。よく知っている人物だったからである。
「い、今の……樫緒《かしお》くん?」
「うん……」
ぼんやり前を見つめながら、美貴《みき》はため息。髪に手をやった。彼女お決まりのポーズ――この場合は、まいったなぁ、だ。
“事情”を知らない鷲士が青ざめたのは言うまでもない。
「あ、あの……どうして彼と美貴ちゃんが……?」
「ん……わたし、ちょっと国を離れるんだ」
「そうなんだ? 旅行?」
「……うん。麗香《れいか》とね。憶《おぼ》えてる?」
「も、もちろん。カト女時代からの美貴ちゃんの親友でしょ? 懐《なつ》かしい名前だなぁ、ファミレスのバイトやめてから会ってないんだよね、ぼく」
「その麗香が、面白い祭りがあるから見に行こうって。まあ、詳しいことはまだ訊《き》いてないんだけどね。とにかく海外に出るから、身の回りのこととか……いろいろと注意しておこうと思って、それで樫緒を呼んだんだ。なのに……」
「なのに?」
「あのコったら……あなたはすぐに道に迷うから気をつけて、とか、水が違うから胃腸には注意しろ、とか、短気だから余計な揉《も》め事に首を突っ込むな、とか、それはもうネチネチひどいんだよ。どっちが注意されてるんだか分からないって言うか」
「は、ははは……か、彼、心配性だから」
「“片割れ”に至っては、ウザイから電話でいいよって、カオすら見せようとしないし。毎日ここに来てるくせに、もう」
と美貴は大きなため息をついた。鷲士の冷や汗が、止まるはずもない。
「あの……だからどうして二人が美貴ちゃんと?」
「……どうして?」
麗女の眉間《みけん》に、シワが寄った。
「なに言ってるんだ、決まってるじゃないか。わたしはあのコたちの母――」
振り向いた美貴だったが、声を失った。
幽霊《ゆうれい》みたいに景気の悪い顔と、視線が重なったからである。
「う……うわわっ! 鷲士っ!?」
美貴はたっぷり三メートルは後退《あとずさ》った。やっと気付いたらしい。
「ど、どうしたんだ、こんなところで! なにか用!?」
「えっ? いや、さっきそこで須藤《すどう》さんたちと会ってさ。美貴《みき》ちゃんが呼んでるって……違うの?」
「あ、そ、そう。うん、呼んだ、確かに呼んだ」
慌てて衣服の乱れを直しつつ、美貴。三年連続でミス・キャンパスをかっさらう美貌《びぼう》に、鷲士《しゅうじ》は青い顔を寄せ、
「あの……やっぱり知り合い……?」
「えっ? いや、あの、その……ほら、たまに来るし!」
「そ、それだけ? 実は前から知ってたんじゃないのかい? だってあのコたち、ただの知り合いに呼ばれたからって、わざわざ来るような性格じゃ……?」
「そ、そんなこと言われてもっ……!」
鷲士は青ざめたまま、一方の美貴は赤くなった。強風が吹けば、キスもアクシデントにしてしまえる距離である。
やがてギャラリーの視線に、殺意に近いものが混じり始めた矢先、
「あ、あの……美貴ちゃんって、ひょっとして、ぼくがあのコたちの――」
「うっ、うるさ――――いっっっ!」
例によって美貴の逆ギレ爆弾《ばくだん》が、中庭に炸裂《さくれつ》した。目線の位置にある鷲士の襟元《えりもと》を、弓懸《ゆがけ》そのままの細腕が引っ掴《つか》み、
「鷲士っ、キミね、いちいち細かいぞっ! 女のプライバシーを根掘り葉掘り――感心しないな! そういうの、男らしくないんだよ!」
すると外野の一人が青い顔で、
「オイオイ、今の……根掘り葉掘りっていうほどのもんか?」
「そこっ、うるさいっ!」
噛《か》みつきかねない形相《ぎょうそう》で喚《わめ》くと、美貴は鷲士に向き直った。
「男はね、黙《だま》って構えてればいいんだ! それを細々……情けない! 答えろ、草刈《くさかり》鷲士、そんなに女の過去が知りたい!?」
「いや、そのっ……! ボクが知りたいのは、美貴ちゃんのことって言うより、あのコたちとの繋《つな》がりって言うか……」
これがまずかった。麗女《れいじょ》の美貌から、完全に照れが引いた。代わりに――青筋が。
「……ちょっと待って。今の、聞き捨てならないな」
「は?」
「美貴ちゃんのことって言うより、あのコたち……? なにそれ? じゃあわたしって、あのコたち以下の存在でしかないってこと……?」
陰鬱《いんうつ》に睨《にら》み上げられ、鷲士は、ひぃ、と身をよじった。
「い、いやっ、ぼくっ、そんな恐ろしいことを言うつもりは!」
「お、恐ろしい!? もう許せない!」
と鷲士《しゅうじ》の首をギュー。メチャメチャだ。見ていたギャラリーも、一様に青ざめた。
「毎度のこととは言え……今日も出たな、麻当美貴《まとうみき》の不条理|攻撃《こうげき》」
「もうパラノイアの域だぜ。よくもまあ、あんな揚げ足の取り方できるもんだ」
「ちぇっ。でもさー、あれって逆に考えると、草刈《くさかり》のコトバだけは一言一句ちゃんと聞いてるってことだろ」
「だよなぁ。麻当って、おれたちの扱いは道端の石コロ並みだからなー」
「……おれも首しめられたいよ」
うなだれて、しみじみ。これはこれで泣ける話である。
その間にも、美貴は鷲士の耳をねじり上げ、
「もうっ、ちょっとこっちに来なさい!」
「いたた、分かったから、耳を……!」
二つの影が、輪から抜け出し、奥の方へ。着いたのはいつもの弓道場――その裏だった。痛みに身をくねらせる青年から、美貴はやっと手を放し、
「……とにかくっ、ヒトの過去をいちいち詮索《せんさく》しないっ。いいね!」
「いてて……う、うん……」
耳を押さえるボケ青年を、なぜか美貴の鋭《するど》い視線が、上から下まで舐《な》め回した。大学一の才女は、目つきは険しいまま――しかし少し赤くなり、
「ふ、ふーん。確かに、少しはカッコよくなってる」
「は、はい〜? ど、どうしたの、いきなり?」
「……やっぱり自覚症状ナシか。ほら、あれ」
美貴はため息混じりに目を瞑《つぶ》り、脇《わき》へアゴをしゃくってみせた。
――女子弓道部の面々と、目が合った。
フェンスと壁《かべ》の隙間《すきま》から、好奇心に瞳《ひとみ》をキラキラさせ、こっちを見ている。いや――キラキラというより、ギラギラだ。
「……中澤《なかざわ》?」
鷲士相手のときとは打って変わって、妙に冷めた口調――要するにいつもの感じ――で美貴が声をかけた。
先頭のポニーテールが、瞬時《しゅんじ》に頬《ほお》を引きつらせた。
「は、はぁ〜い! 練習に戻りまぁ〜す!」
とみんなの背中を押しながら、ピュー。あっという間に姿を消した。
美貴は、ゴホン、と咳払《せきばら》いすると、
「だから、その……あんな“にわかファン”に引っかからないように。あのコたち、虎《とら》バサミと大差ないんだから。いい?」
「と、虎《とら》バサミ? あの、話がサッパリなんですけど?」
「……鈍いな、ホントに。分からない? キミを見にきたんだよ、あのコたち」
「ぼ、ぼく〜!?」
呆気《あっけ》にとられた鷲士《しゅうじ》を、美貴《みき》は横目でねめつけ、
「……ジーンズこそカルバン・クラインのスタンダード・スリムみたいだけど、シャツは黒のチト――しかもこれってアルマーニ・デザインでしょう? 髪も完璧《かんぺき》とは言いがたいけど、毛先は揃《そろ》えてるし、ラフな感じでまとまってる」
「……はぁ」
ぼんやり答えると、鷲士はシャツの裾《すそ》をつまみ、
「あの、でも、これ、あのコがディスカウント・ストアで買ってきてくれたんだけど。それにさ、カルなんとかは知らないけど、アルマーニってスーツ屋さんでしょ?」
「あのコって……赤いリボンのツインテール?」
「うん。だから間違いだよ〜」
と困ったように笑う鷲士だ。
こめかみを押さえ、美貴はため息である。
「……あのね、自分じゃ気付いてないのかも知れないけど、キミって、素材は凄《すご》くいいんだよ。もともと背は高いし、足も凄く長い。ただ、今までは、その……生活感が不必要に漂ってたって言うか……だから……でも、それもなくなりつつあって、そうなると、みんながキミの良さに気付き始めたって感じで……」
そこで美貴は、キッ、と顔を上げ、
「でも、草刈《くさかり》鷲士のパイオニアはわたしなんだからね!」
「あ、あの、やっぱりよく分からないんだけど、誉《ほ》めてくれてるの?」
ちょっと赤くなっての鷲士の問いに、美貴も照れてソッポ。
「う……ま、まあ。うん。そう」
「そ、そうなんだ……美貴ちゃん、ありがとう」
「と、とにかく! さっきも言った通り、わたし、ちょっとの間、留守にするから。だからウチの後輩《こうはい》がチョッカイ出してきても、無視するように。他《ほか》の女に気をやるなんて、絶対に許さない。分かった?」
「え、え〜っ!? そ、それって浮気はダメってことでしょ!? 待ってよ、ぼくたち、付き合ってるってワケじゃ……!?」
イヤというより、驚《おどろ》きで、鷲士は後退《あとずさ》った。
そこへ美貴が赤面しながらも詰め寄り、
「だ、だってこの前、デートしたでしょう!」
「いやっ、そうだけど! でもあれって、前の事件の退院祝いだって、美貴《みき》ちゃんも! それに関係らしい関係もないし!」
「セックスまで行かないと、関係って言わないワケ!? じゃあなに!? わたしって、通行人Aと立場は同じだってこと!?」
「そっ、そんなこと言わないけどさ!」
すると美貴は、ちょっと恥ずかしそうに顔を伏せ、
「……ほ、ほら、言葉にするのは難しくても、いろいろ段階ってあるでしょう? 確かにわたしたち、深い仲とは言えないけど……でも……なんて言うか……その……プチ付き合ってるって言うか……」
「プ、プチ付き合ってる……?」
可愛《かわい》いセリフに、ボッ、と真っ赤になる鷲士《しゅうじ》だ。
押され気味でも選択の権利は彼にあるようにも見えるが、そうは問屋が卸さない。美貴が持ち出したもの――あるヒトはそれを最終兵器と呼ぶ。彼女はハの字|眉《まゆ》で顔を上げると、ギュッ、と鷲士の手を握り、
「わたしのコト、キライ……?」
「まさか〜。うん、分かった。浮気しないから」
これだ。
ニッコリ笑って答えたものの、瞬時《しゅんじ》に我に返って、鷲士は口を押さえた。あれれ? どうして――泳がせた目がそう言っているが、もう遅い。
「そう? 分かればいいんだ」
美貴はお澄《す》ましモードで、体を離した。緩急織《かんきゅうお》り混ぜ、狙《ねら》い通りの場所に落とす。美貴が悪意のない悪魔《あくま》と呼ばれる由縁《ゆえん》である。
とどめのつもりか、美貌《びぼう》は反論を許さない微笑を浮かべ、
「最近、ドイツからすっごい美人の留学生が来たって聞いて、ちょっと心配だったんだ。キミは妙にトラブルに巻き込まれやすいところがあるし……でも、今ので安心した。じゃあ、わたし、練習に戻るから」
「いや、そのっ……今のはっ……!」
「そうそう、例のリボンちゃんから連絡があったよ。友達のうちに寄っていくから、今日は先に帰ってていいって。それじゃ。お土産《みやげ》、期待してて」
「ああっ、美貴ちゃん、ちょっと……!」
と伸ばした腕をすり抜けて、美貴は戻っていった。
ヒュ〜、とヌルい風が鷲士の頬《ほお》を叩《たた》いた。
「……バカバカバカバカ、ぼくのバカ! いい返事なんかしちゃって!」
と自分の頭を、ボカボカ。歩き出したものの、足取りは老人並みだった。
「ううっ、あのコたちのこととか、ハッキリさせなきゃいけないのに……! なのに、どうしてっ……! 彼女はゆうちゃんじゃないのに、体が勝手に……!」
未《いま》だ真実を知らない鷲士《しゅうじ》は頭を抱えた。
例のおチビさまと出会ってからというもの、環境《かんきょう》の変化が著しい――というよりムチャクチャになりつつある。「鷲士くん改造計画」「無敵パパ育成プロジェクト」――その怪しげなスキームのもと、あちこち引き摺《ず》り回されているからだ。
先のエジプト行もそうである。
樫緒《かしお》がフランスのお土産《みやげ》にと、パリのノミ市でパピルスを買ってきた。調べていくと、実は精巧な三枚重ねだということが判明、中から地図が現れた。初代エジプト王、メネス=ナルメル王が造ったピラミッドの位置を表すものだという。炭素測定の結果、地図自体は約二一〇〇年前に描かれたものと分かった。真贋《しんがん》微妙な年代だ。
歴史上、最初のピラミッドが建てられたのは、紀元前二七世紀の第三王朝期。サッカラにあるジュセル王の階段状ピラミッドがそうだと言われる。対してナルメル王は、紀元前三一世紀に、当時四二の部族によって南北に大別されていたエジプトを統一した伝説の王だ。地図を信用するなら、考古学上でも四〇〇年を遡《さかのぼ》る大発見に繋《つな》がる。
じゃあ、鷲士くん、次の土日に攻めよっか――このセリフが既に異常なのだが、樫緒の何気ない一言が、ムチャな姉に火をつけた。同じものが、まだ二枚売っていましたよ。なんですってぇ、それを早く言いなさいっ――だ。
結局トラップに引っかかり、地底湖に落下。助かったのはいいが、そこからなんと五キロも泳ぎ、さらに地上に出てからは砂漠を二〇キロも歩く破目《はめ》に。カイロで、極度の疲労のため絶対安静――と診断されただけで済んだのは、奇跡といっていい。それでも無理やり帰国し、点滴しながら追試を受けた。単位を落とすと留年確実だったからだ。
「悪気がないから、無下《むげ》に断れないんだよなぁ……」
並木道を歩きながら、鷲士は大きなため息をついた。
――あのコには悪意がない。そこが問題だ。
手伝ってくれたから、と半端じゃないギャラをくれる。ウン百億の世界だ。さすがに受け取ってはいないが、要するに鷲士を利用して――というのとは、少し違うのだ。規模の差こそあれ、一種の甘えみたいなものなのである。文句は言えても、怒れない。そして冒険は続く。加速度的に鷲士のケガも増える。
「な、なんとかしなければ……なんとか……」
鷲士は腕組みして唸《うな》った。
しかし――トラブルとは唐突にやってくるものだ。
「お、いたいた! おーい、草刈《くさかり》ィ!」
「ん?」
背後から呼び止められ、鷲士《しゅうじ》は振り返ったが、これが災いのもと。
――バキ!
肩のバッグに妙な手応《てごた》えを感じたと同時に、
「ギャッ!」
甲高《かんだか》い悲鳴が鼓膜を貫いた。
慌てて顔を戻すと、女性が大の字になってブッ倒れていた。さっき教室で見かけた、例の白人の美女である。しかも鼻の頭が真っ赤だ。前にいたことに気付かず、しかも振り返った拍子に、バッグの角を叩《たた》き込んでしまったらしい。
鷲士の顔から、血の気が引いた。
「ごごごっ、ごめんなさい! すいません! 大丈夫!?」
ボケ青年の悲鳴が、空に響《ひび》き渡った――。
陽《ひ》は落ちて――夜。中央線のガード下にある居酒屋『あばんぎゃるど』からは、相模大生《さがみだいせい》たちの笑い声が、盛大に漏れ聞こえていた。
「はーい、注目! つーワケで――ドイツから相模大の教育学部にやってきた、ノイエ・シュライヒャーさんでーす!」
奥の座敷《ざしき》でトレーナーのロン毛が言うと同時に、金髪の美女が立ち上がった。高い鼻にはバンドエイド。先刻の名残だ。
「……ノイエです。一九歳です。お酒は飲めないので、よろしく」
メチャメチャ不機嫌《ふきげん》そうに低頭すると、すぐに腰を下ろす。
「あの、ごめんね、ホントに。大丈夫?」
心配そうに声をかけた鷲士を、青い双眸《そうぼう》がねめつけた。
「……大丈夫じゃなかったわよ! いったいなんなのよ! この国の人間は前見ないの!? 大人も子供もガチンガチン――それになに入れてるの、そのバッグ!? 鉛の塊!? すっごく痛かった――当たり所が悪かったら、死んでたわよ!?」
「アハハ……ちょ、ちょっと知り合いの預かりもの入れてて!」
この気弱な笑いがまずかった。
留学生は青筋をクッキリ浮かべて、鷲士の襟《えり》を掴《つか》み、
「アハハって……ヒトにぶつかってなにヘラヘラしてるのよ……! 悪いことをしたって自覚がないの……!? これだから腹が立つのよ、日本人って……! 言いなさい、おかしいのはわたしの顔……!? それともあなたの頭かしら……!?」
「ぼぼぼ、ぼくの頭です、はい!」
殺意も露骨《ろこつ》な剣幕に、鷲士は青ざめた。歓迎《かんげい》コンパやるからメンツを揃《そろ》えよう――そう呼び止められたのに、メインゲスト本人をブチのめしてしまったのだから、立場がない。ずっとこの調子である。
――ノイエ・シュライヒャー。
それが、碧眼《へきがん》猛女の名前だった。
ベルリン大で神学と教育学を専攻。既に卒業資格を得ているというから、ある種の天才である。しかし机上の知識だけでは意味がないと、大学に籍《せき》を置いたまま、ボランティアや施設での活動に従事。日本にやってきたのも、この国のすさんだ教育の様子を実地で研究するのが目的だとか。確かに美貴《みき》が心配するほどの美女だが――出会いがこれでは、万が一にも、いい関係になることはあるまい。手を握ろうとしただけで殺されるのがオチだ。
やがて身内の会話も落ち着いた頃《ころ》、今日の幹事・青木《あおき》が、
「でもさ、ノイエちゃんって、ホントに日本語うまいよな!」
「……祖母が戦後の混乱期に、この国にいたので」
目を閉じ、淡々と、ノイエ。ヒトを寄せつけぬ雰囲気だ。
今度はパソ研の後藤《ごとう》が、汗を拭《ふ》きつつ、
「あの、ノイエさん、雪肌《ゆきはだ》つーかさ、ホントに真っ白だよね!」
「……白人だから」
さらにさらに相撲《すもう》部の三船《みふね》が、慎重に言葉を選んで、
「えっと……だから、その……目が青いよな、うん!」
「……黒い方が良かったかしら?」
そして最後に鷲士《しゅうじ》が、きわめて遠慮《えんりょ》がちに、
「アハハ……でも、奇麗《きれい》だね、その髪飾り。バレッタって言うんだっけ?」
「……あなたには絶対にあげないわよ」
――ヒュ〜。
飲み屋の中だというのに、妙に薄《うす》ら寒い風が、彼等《かれら》の間を横切った。場が凍てつくとは、まさにこのことである。
やがてノイエがため息混じりに、
「……アオキさん? そろそろ話を聞かせてもらえる?」
「えっ? な、なんのことだっけか?」
「……フェイスよ。ダーティ・フェイス、顔のない男。あなた、彼についてなにか知ってるんでしょう?」
この言葉に、二人の男が凍りついた。
一人は、草刈《くさかり》鷲士。もう一人は――当の青木だ。
「う、ご――ごめん! ヘヘヘ、実はおれも大したネタ持ってるワケじゃなくてさ!」
「……なんですって?」
「えっと……ほら、ウチの図書館って、妙に新しいだろ? あれってちょっと前に、深夜にサイコ野郎が車で突っ込んできて、銃やバズーカ撃《う》ちまくって粉々にしちまったからなんだけどさ。海外じゃ有名な連中の抗争って話もあって、あとでケーサツが聞き込みに来て。そのときに刑事の口から出たのが――」
「……ダーティ・フェイス? 改造された黒いランボルに、背の高い男? その話なら知ってるって言ったはずだけど? まさか、それだけ?」
怒りを押し殺した眼差《まなざ》しで、ノイエは言った。
ああっ、すいません、ぼくが私本を持ち出したのがいけないんです――と小声で煩悶《はんもん》する鷲士《しゅうじ》の横で、青木《あおき》ははぐらかすように、
「ご、ごめん! でもさ、そうでも言わないと、来てくれなかったろ? とりあえず、今はンなことどうでもいいじゃん。パーッと――」
「……最低ね、日本人って」
静かに言うと、ノイエ・シュライヒャーは立ち上がった。
美貌《びぼう》が怒りと軽蔑《けいべつ》で染まっている。
「……連日のバカ騒《さわ》ぎに、意味があるとは思えない会話。平気でウソをつくその軽薄《けいはく》さ。あなたたち、本当に大学生? いつもヘラヘラ笑ってるのはなに? 民族的な顔面神経痛? 日本人はそれがいいのかも知れないけど、わたしはお断り。一秒たりともこんな場所にはいたくないわ。さよなら」
吐き捨てると、パンプスを履《は》き直し、出口へ。
ガラガラガラ――ピシャ!
これには、残された全員が呆気《あっけ》にとられた。
「……す、すげえな。麻当《まとう》を超えてるぜ、ありゃ」
「麻当は普段はクール――不条理|攻撃《こうげき》は草刈《くさかり》相手のときだけだからな〜。しっかしウチのガッコのいい女って、なんで尖《とが》ってるのばっかなんだろーね?」
「あれは露骨《ろこつ》に日本人に偏見持ってるよなぁ」
揃《そろ》ってため息である。
だが、すぐに顔を上げることになった。
――ガラガラガラ。
引き戸を開け、ノイエが戻ってきたのだ。碧眼《へきがん》の美女は、やはり露骨に不機嫌《ふきげん》そうに、
「ちょっと、あなた――シュージって言ったかしら?」
「ぼ、ぼく?」
青い顔で立ち上がる青年に、ノイエは重々しく頷《うなず》いてみせた。
「ハハハ、漢字読めないなら、最初にそう言ってくれればいいのに。あのね、寮《りょう》のある三鷹《みたか》駅は、三番線の電車に乗って、三分ほどで――」
と券売機からキップを抜いた鷲士《しゅうじ》だったが、振り返って凍りついた。怒りで血走った青い双眸《そうぼう》と、目が合ったからだ。ノイエはキップを受け取りながら、唇《くちびる》をひん曲げ、
「だから、なにがおかしいのよっ……!」
「いやっ、別にきみを嘲笑《あざわら》ったワケじゃなくて……!」
「漢字が読めないと、そんなに変なの……!? だいたいヒラガナとかカタカナとか……どうして表記がこんなにいくつもあるのよ! 英語もカタカナにコンバートして使うし! 先進国なら、文字ぐらい統一したらどうなの!」
「ごごごっ、ごめんなさい! 許してください!」
――総武中央線・風苅《かぜかり》町駅構内。
ノイエは、改札をアゴでしゃくると、
「ヒトの鼻を折りかけた罰――最後までエスコートしてもらうわよ!」
「う、うん。こっちだよ。あ、これは自動改札って言って――」
「分かってるわよ、それぐらい! バカにしないで!」
万事がこの調子――かけた言葉にすべて食らいつくので、たまったものではない。さすがのお人好《ひとよ》しも口をつぐみ、黙々《もくもく》とホームへの階段をのぼった。
だが――階段をのぼり切る寸前、鷲士は唐突に立ち止まり、
「あ、あのさ――」
「キャッ!」
しゃがみ込んだノイエの頭上を、鷲士の抱える黒いボストンバッグの角がよぎった。妙に辺りが静かだったせいで、風を切る音がしっかり聞こえたほどだ。
鷲士の額《ひたい》から汗が一筋――ノイエは目を細めて一段ほど後退《あとずさ》り、
「あなた……まさか……事故に見せかけてわたしを殺す気……?」
「ごっ、誤解だよ、誤解! なんていうか、その、知り合いに、護身《ごしん》用にって無理やり持たされてて! 悪意はないんだ!」
「ご、護身用? まあ、確かに撲殺《ぼくさつ》できそうな感じだったけど……でも近寄らないでっ。あなたと関《かか》わってると、ひどい目にあいそうだわ……!」
不審《ふしん》そうな眼差《まなざ》しで言い、ノイエは鷲士を避《さ》けるように前に回った。青年も刺激しないようにと、慎重にあとに続く。
夜のホームに、人影はなかった。
風苅町駅は二ホーム構成である。東京・御茶《おちゃ》ノ水《みず》方面の一番線二番線、三鷹《みたか》・国分寺《こくぶんじ》方面の三番線四番線という具合だ。そして二人は気まずいまま、三番線のホームに立った。おだやかな微風が、構内を横切っていく。
やがて鷲士が、恐る恐る、
「あのぉ……」
「……なによ」
「いえ、なんでも……」
ボケ青年は、冷や汗タラタラで、顔を戻した。
――彼はすぐに眉《まゆ》をひそめ、左右を見渡した。
他《ほか》に客の影がない。しかしホームの時計は午後九時を指していた。風苅《かぜかり》町は、大学と飲み屋を除けば、事実上のベッドタウン――この時間なら降りる客の方が多いとは言え、むしろそれだけに、本来は騒《さわ》がしいはずである。
……まさか、ね。
イヤな予感を拭《ぬぐ》い去るように、鷲士《しゅうじ》は今度こそ、
「あ、あのさ、訊《き》いていいかな?」
「……なによ、さっきから」
「いや、その……だからね、さっき青木《あおき》たちにさ、ダーティ・フェイ――」
ホーム両端の照明が、唐突に消えた。
「え……?」
ノイエが目を細め、顔を上げた。
それが合図になったかのように、動揺する金髪の美女を尻目《しりめ》に、ライトは次々に消え始めた。階段|脇《わき》、自販機の傍《そば》――闇《やみ》が周りを取り込んでいく。
最後まで残ったのは、二人の頭上の蛍光灯だけであった。
――意図的なライトアップ。誰《だれ》かの仕業だ。
「プシュー」
音ではない。闇が言ったのだ。高めの声だった。
鷲士、ノイエ、二人の顔から、血の気が引いた。
「プシュー」
またも擬音《ぎおん》を口にしながら、暗がりから人影が浮かび上がった。
――赤いニットキャップの若者である。
少しくすんだパーカー、厚いバスケットシューズ――渋谷《しぶや》や上野《うえの》の駅前には、掃いて捨てるほどいるタイプだ。背は一七〇半ば。顔もこれといった特徴がない。手にしているのは、汚れた鉄パイプである。
「プシュー」
立ち止まると、表情を変えず、若者は言った。
「おれ、スプレイ」
「は、はぁ」
「プシューっつーのが口癖《くちぐせ》でさ。まあ、スプレー・アートやってるってのもあって。ほら、廃ビルや倉庫の壁《かべ》とかに、ガーッて感じで文字がペイントされてることあるだろ? あれさ。あだ名ってワケ。名前を訊《き》くには、まずは自分からって言うし」
親しげな口調で一方的に告げると、スプレイとやらはノイエを見た。
「あんた、ノイエ・シュライヒャーさん?」
「……そ、そうだけど?」
「そっか。じゃあ、死ねよ」
――スプレイの背後で、いくつものマズルフラッシュが炸裂《さくれつ》した。
雨あられと弾丸を受け、一帯の構造物が粉々に砕けた。アルミ製のゴミ箱、柱は言うに及ばず、床のコンクリ自体が削り抉《えぐ》られていく。手前の自販機は穴だらけになり、盗難防止用ブザーが悲鳴を上げた。鉄板の隙間《すきま》から、炭酸水が漏れ広がる。
闇《やみ》に浮かぶ黒ずくめの戦闘員《せんとういん》たちの姿――彼らの仕業《しわざ》である。
「……やるじゃんか。すっげー反射神経。冗談みてー」
呟《つぶや》いたスプレイの視界に、鷲士《しゅうじ》たちはいなかった。
二人がいたのは、少し脇《わき》に逸《そ》れたベンチの陰である。
気違い沙汰《ざた》の銃声の中、呆気《あっけ》にとられたように、ノイエは敵の軍団と、自分を抱えてここまで瞬時《しゅんじ》に跳躍《ちょうやく》したボケ青年――鷲士を見比べた。
「シュ、シュージ……あなた……いったい何者!?」
「そ、そんなことよりさ、あいつらってやっぱり――」
――プルルル!
鷲士の懐《ふところ》で、突然、携帯が騒《さわ》いだ。どこぞのハイテクちび魔王《まおう》に貰《もら》った――もとい無理やり持たされた――ものだ。慌てて引き抜き、スイッチを入れる。
「もっ、もしもしっ?」
『あ、鷲士くん? わったしっだよォ〜!』
小さなモニタに顔が映ったものの、映像は一瞬で掻《か》き消えた。雰囲気をブチ壊《こわ》すほどコロコロした声が、ノイズ混じりに聞こえただけだ。
「み、美沙《みさ》ちゃん? あのね、今――」
『あれれ、電波状態悪いのかな。ま、いいや――えっと、わたしね、今タカちゃんちからの帰りなの。でぇ、ついでにコンビニ寄ろうと思って。なにか買ってく?』
「えっ? ど、どうしたの、急に?」
『だってぇ、鷲士くんいろいろ忙しそうだし。エジプトの件では入院もさせちゃったし……罪滅ぼしってワケじゃないけどさ。悪かったと思って。だからね、わたしもね、ちょっとは家のこと手伝おうかなー、なんてさ。テヘヘ』
……じぃ〜ん。
なんていいコなんだ……!
鷲士は心の中で泣いた。いや、本当に泣いていた。
「じゃ、じゃあね、タマゴ一パック――」
「なに頼んでるのよ、こんなときに!? シュージ、あなた頭おかしいんじゃないの!?」
ノイエの怒号と共に、銃撃《じゅうげき》も勢いを増した。
しかし怒ったのは、金髪の美女だけではなかった。
『ちょっ――なによぉ、今の!? 女!? 美貴《みき》ちゃん以外はダメって言ったのに――しかもシュージって呼び捨て!? こらあっ、どーゆーことォ!?』
「は? いや、今、妙な連中に囲まれてて――」
『場所は叢雲《むらくも》で――よぉーし、分かった! 待ってなさいよぉ、今行くから! 待ってないとひどいんだからね、鷲士《しゅうじ》くん!』
「いや、ちょっと聞いてよ! だから誤解だって――」
――ブツッ。
鷲士は青ざめた。じきに起きるであろう、メチャメチャな破壊劇《はかいげき》に。
そして――唐突に銃撃がやんだ。
「……出てきなよ、ノイエ。それとも、そのおかしな兄ちゃんも一緒に殺しとくか? あ、言い忘れたけど、おれ、ミュージアムだから。そのつもりでよろしく」
スプレイの茫洋《ぼうよう》としたセリフが、ノイエを動かした。
金髪の美女は、きっかり深呼吸を三回。おもむろに立ち上がると、
「シュージ、あなたは逃げてっ……!」
「え……ええっ!? ちょ、ちょっと、ノイエ!?」
「こいつらはね、一片の土器のために都市をも滅ぼす、狂的な歴史|遺産《いさん》回収集団……その名をミュージアム……! さっきのは礼を言うけど……まぐれは二度も続かないわ……! 鼻の貸しは返してもらったから、あなたは逃げなさいっ……!」
敵を睨《にら》みながらの言葉だった。本気で自分が犠牲《ぎせい》になるつもりなのだ。
――不可解なことが起こった。
「そうだな。いいよ、あんた行っても」
スプレイは頷《うなず》くと、鉄パイプで奥の闇《やみ》を指したのである。
経験上、鷲士《しゅうじ》は眉《まゆ》をひそめた。ミュージアムが、こんなまともなことを言うはずがないからである。しかし彼の疑問を、敵が勝手に解消した。
「あのさ、おれらのホントの目的って、キンパツの命じゃなくて、頭につけてるそのバレッタなんだよ」
「バレッ……タ? ノイエの?」
「まーね。でもさ、渡してくれそうにないし。交渉って手もあるけど面倒くさいじゃん? おれって、面倒なのキライなんだ。だからさ、あんた行っていいよ。人間一人殺すのって、けっこー手間かかるしさ」
生と死は等価値――あとは手間の問題。本当に命を軽んじているからこそ、口にできるセリフである。二人は青ざめた。
しかしここで足を踏み出したから、ノイエの気の強さも凄《すさ》まじい。
「……好きにするがいいわ!」
「素直じゃん。日本まで逃げた割にさ」
「でも覚悟するのね! わたしを殺してバレッタを奪ったとしても、顔のない男が――史上最強のトレジャー・ハンターが、絶対にあなたたちを倒す!」
「……プシュー。ダーティ・フェイス? 生ける伝説か?」
スプレイが目を細めた。
「わたしは、故意に目立つように動いた……! フェイスは、あなたたちより遥《はる》かに優れた情報網を持つと言うわ……! 彼はミュージアムにとっての最強の敵対者、そして唯一|拮抗《きっこう》する存在……! このことを見逃すはずがないものね……!」
これを聞いてガックリきたのが、鷲士である。ボケ青年は大きなため息をついて、黒い手袋を両手にはめた。例のボストンバッグに腕を突っ込む。
ゴソゴソやり始めた鷲士を尻目《しりめ》に、スプレイは、
「言いたいことは分かるけど、それはどうかなー。七日ほど前に、あいつはおれの下についてるデブ――ヴァッテンって名前だ――とエジプトでやり合ってる。退路作るために、また一つ遺跡《いせき》をオシャカにしやがったらしい。ま、あのデブが無事だったぐらいだ、フェイスが死んだとは思えねーけど、今頃《いまごろ》はズタボロのはずだぜ?」
「ズ、ズタボロ……!? で、でも!」
「しぶといね。じゃあ、どこにいんだよ、ダーティ・フェイスは?」
茫洋《ぼうよう》と、ミュージアムの使徒は訊《き》いた。
――返事は、ノイエの肩越しに現れた、銃のマズルがした。
「ううっ、違うけど、ホントは違うけど――いますよ〜、ここに〜」
情けない声と共に、マズルフラッシュが炸裂《さくれつ》した。
銃身は凄《すさ》まじい速度で、辺りに弾丸をバラ撒《ま》きまくった。遠くの床、ホームの屋根、脇《わき》の線路――ハッキリ言うと、ムチャクチャな狙《ねら》いだ。腕の問題である。しかし単なる偶然か、それとも敵の多さに原因があるのか、跳弾したブリットの大多数は、戦闘員《せんとういん》たちに次々に襲《おそ》いかかっていった。
「うぐっ!」
「ごふっ!」
呻《うめ》きながら倒れていく部下たちを、スプレイはぼんやりと見つめた。
「……え? マジ?」
淡々と呟《つぶや》いて、再び前を向く。
敵の目に映ったのは、右手にMP5K、左手にWz63――カービン型アサルトライフルとSMG――を構えた鷲士《しゅうじ》だった。ただし逆襲《ぎゃくしゅう》に転じたというのに、思いっきり泣いているから気持ち悪い。
「ううっ、すいませ〜ん。ぼく銃とかぜんぜんダメで、当てるつもりはなかったんです〜。なのに弾が勝手に〜」
●無敵パパ育成計画・レベル1
・銃は常に持ち歩くこと!
もともと携帯電話とも無縁《むえん》だったような人間である、そんなムチャクチャな、と鷲士も抗議はした。まあ、受け入れられていたら、こんなもの持ち歩いているわけがない。つまりそういうことである。
救われたノイエは、ポカンと口を開け、
「えっ? えっ?」
大学で自分の鼻を直撃《ちょくげき》したボストンバッグの中身が、この二|挺《ちょう》の銃――それどころか、目の前で起きた事態すら呑《の》み込めてないようだ。
スプレイが目を細め、足を踏み出した。
「……なるほどね。身長一八〇半ば、痩《や》せ型、東洋人。完璧《かんぺき》なカモフラージュで、社会に溶け込んでいるものと思われる……か。資料の通りだな。驚《おどろ》いたよ、どこに出てくるか分かったもんじゃない。上層部が殺そうと躍起《やっき》になるのもムリねーって感じ。あんた、ホンモノのダーティ・フェイスなんだ?」
「なっ……なんですって……!?」
と振り向いたノイエの腰に腕を回すと、鷲士《しゅうじ》は腰を折り、
「ちょ、ちょっとごめん! 跳ぶから!」
二人の眼前に広がっていたのは――対岸のホームだ。二車線分、七〜八メートルはある。
「あ――あなた、本気!? 冗談でしょう、あっちまで何メートルあると――」
「ああっ、ノイエ、体重は!?」
「え、ええっ!? ご、ごじゅう――」
「一〇〇キロ以下なら大丈夫! 行くよ!」
言うが早いか、重なった影が、線路の上空に舞った。戦闘員《せんとういん》たちの銃が再び唸《うな》ったが、掠《かす》りこそすれ、当たることはなかった。鷲士がノイエを抱えたまま、空中で一回転+体をひねったからである。さらに牽制《けんせい》として、MP5Kをフルオート連射した。
美しい構図――青年が泣いていなければの話だが。
「ううっ、どうして毎回こんなことにー!」
「キャーッ、おっ、落ちるー!」
しかし――ノイエの絶叫とは裏腹に、二人はタッチ・ダウン。目を閉じたままの美女を引っ張って、鷲士は階段に向かった。
――が。
「甘いぜ、フェイス。この駅、占拠済みだから」
スプレイの言葉を、前方の闇《やみ》から現れた別部隊が証明した。
――ババババババ!
「わわわっ!」
「キャーッ!」
腰を落とした二人の頭上を、何百発もの弾丸が掠《かす》めた。無駄口をきく余裕もなく、慌ててとって返す。だが反対側の階段も既に押さえられていた。ホームの半ばまで戻ったところで、やはり乱射を受けたのだ。二人は青ざめて、中央のベンチの陰に隠れた。鉛弾を受けてプラスチックの合板が吹っ飛び、金属のフレームが顔を出す。しょせん文字通りの腰かけ用――粉々になるのは時間の問題だ。
「ちょ、ちょっとシュージ、どういうこと!? あなたがダーティ・フェイスなの!? しかも簡単にあんな距離を――どうなってるワケ!?」
「ちっ、違う違う、フェイスなんて人間は実在しないんだから! それより――どうしてきみがあいつらに!? そのバレッタって、いったいなんなの?」
急に、夜の駅に静寂が訪れた。
対岸のスプレイが腕を上げたからだ。撃《う》つのはやめろ、の合図だ。
「道標《みちしるべ》さ――禁断の井戸とやらへ、のな」
「禁断の……井戸?」
ノイエはここで沈黙《ちんもく》し、訊《き》いた鷲士《しゅうじ》は眉《まゆ》をひそめた。禁断と井戸――結びつくような言葉ではないからである。
「あんたさ、回る水って知ってる?」
「え……健康飲料水かなにかですか?」
「そう思うよな。でも違う。なんでもさぁ、見る者の望む人間の顔を映し出すっつー、ふざけた水らしいんだ。ほっといても勝手にくるくる回ってるから、そんなおかしな名前がついてるらしいんだけどさ。んで、ドイツのド田舎《いなか》に、その水が湧《わ》いて出るって奇妙な古井戸があるって話なんだが、正確な場所が分かんねー」
「それを指し示すのが、ノイエのバレッタ……? でも望む……顔? どうして、そんなものをわざわざミュージアムが?」
「さあ? 上ってのは、マクドナルドもウチも大差ねえ――なに考えてるか分かりゃしねーからな。しかもおれのボスはハイ・キュレーターっつって、けっこーヤバイ系でさ。そのバレッタ持って帰んないと、まずいんだ」
のっぺりした表情で言うスプレイだ。
しかし――鷲士は青ざめた。
「あの……どうして、そんなこと教えてくれるんです?」
「だってさ、あんたフェイスじゃん。だったら生かして帰せるワケねーだろ」
彼の言葉を待っていたかのように、戦闘員《せんとういん》が、一斉に銃を構えた。万事休す――退路を完全に断たれている以上、二人にもはや逃げ場はない。
そしてスプレイは、手を振り上げた。
「じゃ、そういうことだから――」
――ボボボボボン。
鈍いエンジン音と共に、折り重なった男どもの悲鳴が聞こえ、スプレイの腕が止まった。音源は直下――駅の構内だ。
「……なんだ、今の?」
と無表情男が、足下を覗《のぞ》いたときである。
とんでもないものが、鷲士側のホーム――その北側階段から、飛び出してきた。
――黒いカウンタック・LP500改。
「なっ……!」
絶句したノイエの目の前で、イタリア製の暴れ馬は、階段手前の戦闘員《せんとういん》たちを押し潰《つぶ》して接地。夜のホームにランボルギーニ――マニアが見たら激怒しそうな光景である。シャーシとコンクリの隙間《すきま》からくぐもった悲鳴が聞こえたが、LP500はおかまいなしに突き進んだ。意図的にヒトを轢《ひ》いているのだ。
「ああっ、またムチャクチャを! ノイエ、伏せて伏せて!」
「ちょっ、なんなのよ、あれ!?」
と言い合いながらも伏せた二人の鼻先で、車両は停止。しかし破壊《はかい》は、むしろそこから始まった。リア・フェンダー近辺の装甲が沈み、四連装のガトリング・ガンが、計二門、出現したのである。
――ファイア。
機関銃の一種とは言え、ガンシップ搭載型の旋回砲――その威力は小銃の比ではない。装甲車程度なら木《こ》っ端《ぱ》にできる大口径|徹甲弾《てっこうだん》の洗礼を受け、今度は南側階段の敵たちが次々に倒れた。背後の柱、屋根までが、音を立てて崩れていく。さらに二門の砲は、狙《ねら》いを対岸のホームに定めた。少し離れた暗闇《くらやみ》で火花が飛び散り、車体|両脇《りょうわき》から排出された巨大なカートリッジが、床で硬い音と共に跳ね返る。
実際には、破壊はものの数秒で終了した。
「……マジ?」
とスプレイが見上げた瞬間《しゅんかん》、支えを失い、ホームの屋根が崩れた。ミュージアムの奇怪な若者など、膨大《ぼうだい》な質量の前には、ひとたまりもなかった。一瞬でブッ潰れ――あとに残ったのは瓦礫《がれき》の山のみだった。
粉塵《ふんじん》が辺りを覆《おお》いつくす中、二人は咳《せ》き込みながら立ち上がった。
「コホッコホッ――い、いったいなんなのよ……!」
「ああっ、なんてことを、駅が、ぼくらの駅が……!」
と鷲士《しゅうじ》が頭を抱えたと同時に、ドアが跳ね上がった。下でもがく戦闘員の後頭部を、学校指定の小さな革靴《かわぐつ》が踏んづける。
「フッ……ま、ざっとこんなもんでしょー」
鈴を転がすような声で言い放つと、人影は、肩にかかる髪を弾《はじ》いた。
――結城美沙《ゆうきみさ》の登場である。
カトレア女学館の制服――中等部のブレザーのままである。学校帰りに悪党をブッ潰しに立ち寄った――電話の様子では、そういうことだ。ただしまともなのは服だけで、右手にはプラスチック製|拳銃《けんじゅう》グロック17、肩には手榴弾《てりゅうだん》が見え隠れするリュックと、おかしな形のカービン型アサルトライフルという武装ぶりである。
「鷲士くーん、大丈夫だったぁ?」
「ぼ、ぼくたちはね、ありがとう! でも……ああっ、駅こんなにしちゃって! どーしてここまでやるの、きみは!」
泣きそうな顔の鷲士《しゅうじ》に、しかし美沙《みさ》はウインクして親指を立て、
「だいじょーぶ! どーせこうなると思って、さっき駅、買っといたから!」
ペロッ、と舌を出してニッコリ。
――シーン。
「……は? 買った? なにを?」
「だからぁ……駅よぅ、この駅! 買ったの!」
実は誉《ほ》めてもらえると思っていたのか、不満そうに、美沙。
ピンと来なかったらしく、鷲士は瞬《まばた》き。右見て、左見て――やっとアングリ。その顔が土気《つちけ》色に変わるまで、さほど時間はかからなかった。
「え……ええっ!? 買ったぁ!? 駅を!?」
「そぉーよ、JRから! 運輸省にも認可させたし――だから壊《こわ》してもいいんだもん! もぉここ、わたしのだもん!」
和製の一流アイドルなど余裕で蹴散《けち》らす幼い美貌《びぼう》が、ムチャクチャなことを言った。世の中カネと権力――普段は悪態として使われる言葉だが、ここまでくると表彰ものだ。そこらのゴミ政治家どもとは、やることの次元が違う。
額《ひたい》を押さえて、小市民はクラクラ。無理もない。
「か、買った……駅を買った……なんてことを……!」
「そっ。だから問題なぁーし!」
「……ああっ、もうっ、きみは! いくらワケ分かんないぐらいのお金持ちだからって、限度があるよ! 駅なんて買っちゃいけません!」
うわーん、と両腕を振り乱す鷲士だったが、美沙は瞬き。首を傾《かし》げて、
「はえ? なんで?」
「は? いや、なんでって言われても……」
「法律で禁止されてるワケ? 違うでしょ? だったらいいじゃん。買う人間がいて、売るヤツもいる。これって経済原理! 問題ナッシン!」
と腰に手を当て、エッヘン。
ここで反論してこそ大学生。ところがどっこい、
「え……そ、そうなのかな。確かに売春とかとは違うし、暴力団の地上げとも……」
「なに説得されてるのよ、シュージ!? このコ、なんなの!?」
だが異変はさらに続いた。
鷲士、ノイエ――二人の頭上を、影が覆《おお》ったのである。
――鉄パイプを振り上げた、スプレイ。
「悪い。まだ死んでない」
「なっ――!?」
くすんだ鉄柱が打ち下ろされるのと、振り返った鷲士《しゅうじ》が両腕でブロックするのが同時。その衝撃《しょうげき》がいかに凄《すさ》まじかったか――メガネ青年の足下で、コンクリの床が砕けた。亀裂《きれつ》が生き物のように走り、鷲士の足首を呑《の》み込む。
さらに――ボケ青年の体は、今度は背後に吹っ飛んだ。あまりの衝撃に、彼を受け止めたホームの壁《かべ》が、あっさりと陥落。乗用車に撥《は》ね飛ばされても、こうはなるまい。砕かれたコンクリの破片が、ボロボロと鷲士に落下する。
そして――ハイキックのポーズをとったスプレイが、
「あの状態で受け身? フェイスは飛んでる弾丸が見えてるって話はマジだったらしいな、よく反応できたもんだ。ホントなら上半身と下半身がバイバイしてるとこなのにさ。やっぱ、あんたスゲーよ。フツーじゃねー」
と眉《まゆ》一つ動かさず、足を下ろす。
――車の弾丸でズタズタにされたパーカーの奥から、火花が飛び散った。本来|噴《ふ》き出す血肉はそこになく、青味がかった金属が、無気味な光を放っている。中でカリカリと音を立てながら回っているのは、なんと原始的な歯車だった。
美沙《みさ》が銃を構えつつ、青ざめた。
「みょ、妙に特徴ないヤツだと思ってたら――チューン・マン!? 馬鹿《ばか》力タイプとは何度かやり合ったことあるけど、そんなに速く動けるなんて……!」
「地中海――クレタ海底の裂溝から、タロスの試作品らしいのが引き揚げられてさ。サイズが合ったんで、ドラッグでボロボロんなってた体の代わりに使ってる。よく動くんだが、原理は上の方も分かんねーってさ」
「こぉのローテク野郎ォ! よくも鷲士くんを!」
叫んで、美沙はグロックのトリガーに指をかけた。
――しかし相手はミュージアムである。
「燃えてんじゃん。でもクールにいこうぜ」
淡々と言うや否や、スプレイは呆然《ぼうぜん》と立ちすくむノイエを羽交《はが》い締《じ》めにした。喉元《のどもと》を押さえ、自分の盾にする。
「つつつ……ノ、ノイエ……」
口の血を拭《ぬぐ》いながら、鷲士もヨロヨロと立ち上がった。
スプレイは摺《す》り足で横に移動しながら、
「プシュー。定番で悪いんだけど……じっとしててくれよ。特にそっちの気合いバクハツしてるロリポップ、マジで頼むぜ。さもないと――」
「フン、さもないとぉ?」
「このキンパツ女、殺すってこと」
「あっそ」
つまんなそうに言うと、美沙《みさ》はトリガーを引いた。
――バン!
鷲士《しゅうじ》の目が点になったと同時に、スプレイのニットが吹っ飛んだ。慌てて帽子を掴《つか》んだのはいいが、こめかみから鮮血《せんけつ》が滴り落ちる。特殊素材で骨格補強はされているようだが、頭部の構造自体はどうやら生身のままらしい。
傷口に手を当て、敵は呆気《あっけ》にとられたように、
「……驚《おどろ》いたな。クールなのはおチビちゃんの方だったってか。躊躇《ちゅうちょ》ぐらいしろよ、こんなの聞いたことねーぜ」
「こっ、こらーっ、なんてことを! ノイエが人質なんだぞ!?」
「あまぁーい、鷲士くん。前回で懲《こ》りてるでしょ? こいつらが人質なんか生かしとくワケないじゃん。なんてゆーか――そっちのヒトには悪いけど、人質にされちゃった時点で、既に屍《しかばね》も同じなのよね、うん!」
ニヤリと笑うと、グロックをポッケに突っ込み、今度はライフルを構えた。コッキング・レバーのスライド音が、構内に響《ひび》き渡る。
「てなワケでェ、覚悟よろしく!」
「くそっ、ムチャクチャだぜ、セオリー通りにやってくれよ……!」
とスプレイがノイエを抱えて床を蹴《け》ったと同時に、美沙の手元で、マズルフラッシュが炸裂《さくれつ》した。問答無用である。
「う、うわーっ! 彼女、まだ生きてるのに!」
鷲士は頭を抱えた。
――すぐに眉《まゆ》をひそめた。二人をまとめて穴だらけにすると思われたブリットの雨が、しかしミサイルのようにカーブを描き、一斉にスプレイの背後に回ったのだ。
「……うっそ」
空中でスプレイが振り返った刹那《せつな》、弾丸は揃《そろ》って爆散《ばくさん》した。衝撃波《しょうげきは》が背中からチューンマンの肺腑《はいふ》を貫き、その腕の中からノイエが離れる。
「うわ、ノ、ノイエ!」
慌てて線路に飛び降りた鷲士が、なんとか留学生をキャッチ。対するスプレイは自分の驚異《きょうい》的な跳躍《ちょうやく》力が逆に働き、頭から対岸ホームの瓦礫《がれき》に突っ込んだ。コンクリの破片をいくつも弾《はじ》き飛ばし、柱の残骸《ざんがい》に激突した時点で、ようやく停止する。頭を軽く振っただけで立ち上がれたのは、やはり改造人間ゆえだろう。
「ウググ……今のは……OICWってヤツか……? なんだそりゃ、実用化されたなんて話は聞いてねーぞ……!」
「アハハハッ、ばーか! 古代サイバネ野郎なんかに、わたしのハイテクウェポンが負けるワケないでしょー! 思い知ったかぁ!」
コロコロ声の嘲笑《ちょうしょう》が、夜のホームに響《ひび》き渡った。小さな手で構えたカービンは、銃器の形はしているものの、あちこちから電子の光を放っている。
OICW――Objective-Individual-Combat-Weapon. アメリカ陸軍が長年にわたって研究開発を続けていたものの、つい先日、ロサンゼルス・タイムスに詳細をスッパ抜かれて大騒《おおさわ》ぎになった究極の対人銃である。
未来銃の代名詞とも言われるレーザー・ガンは、技術的には既に実用化の段階に入っているが、実動部隊自体は導入《どうにゅう》に難色を示していると言われる。なぜなら強力でも、その攻撃範囲《こうげきはんい》は光だけに、常に直線上に限定されるからだ。このような兵器は、正面からの白兵戦でこそ効果はあるが、現代ではそんな場面は皆無に等しい。NATO軍がよくやるように、爆撃《ばくげき》で敵戦力を根こそぎ奪い、残党狩りのために兵士を投入するのが、今のセオリーなのである。敵は常に物陰にひそんでいる。
そこで――より効率的に敵兵を殺すために開発されたのが、OICWだ。弾丸自体にある程度の軌道変更能力を持たせ、それを銃のレーザーで誘導《ゆうどう》する。ミサイルと違って自動性はないのでどうしても命中精度は下がるが、弾頭を空中爆裂型にすることによって、敵をより確実にしとめるという恐ろしい仕組みだ。敵が塹壕《ざんごう》の中にいても、銃の誘導で弾道が歪曲《わいきょく》し、敵兵士の背中で炸裂《さくれつ》するのである。逃げ場などない。
現在試作されているのは、かなりの大型だ。口径は二〇ミリと、NATOアサルトライフルの約四倍。しかし美沙《みさ》が使っているのは、完全に小型化されていた。口径も大きさも普通の小銃と変わらないのだ。実体を持たずネットワークのみで形成されるフォーチュン・テラーの天才集団だからこそ成せる業である。
「……人質を無視するチビに、ぜってー当たる弾丸か。こりゃ出直した方がよさそうだ」
フラフラしながら、スプレイは呻《うめ》いた。
一方、やっと一息ついたのが鷲士《しゅうじ》である。
「無事でよかった……ノイエ、大丈夫?」
「シュ、シュージ、それより、バレッタが……! 母の形見なのよっ……!」
目を潤《うる》ませてシャツにしがみつくノイエの頭に、黄金の髪飾りはなかった。蒼然《そうぜん》と振り向いた鷲士の目に映ったのは――スプレイが握るバレッタだ。
「み、美沙ちゃん!」
「はぁーい! ここは美沙におっまかせ!」
マガジンを入れ換え、再びトリガー・オン。
究極の命中率を誇るエア・バーン・ブリットは、廃墟《はいきょ》と化した駅で、その力を存分に発揮した。瓦礫《がれき》の隙間《すきま》をかいくぐり、柱を避《よ》けて、蜂《はら》のように敵サイボーグに襲《おそ》いかかる。背中の数センチ手前で爆散し、力を解放した。
――ドンドンバン!
「ぐわっ!」
痩《や》せたスプレイの体が、衝撃《しょうげき》で跳ねたが、銃撃は止まらなかった。続いて爆炎《ばくえん》の中から、残りの弾頭が一斉に出現し、揃《そろ》って炸裂《さくれつ》。
ところが、これがまずかった。
「ひでえ!」
短い叫びと共に、スプレイの姿が、完全に消えた。爆発の威力が強すぎてホームから吹っ飛ばされ、ガード下に転落してしまったのである。
「あ……やっちゃった」
ぼんやりと、美沙《みさ》。
リボンのツインテールが、いきなり風にさらわれた。サイボーグが消えた駅の下方から、巨大ななにかが、騒音《そうおん》と共に現れたのだ。
――戦闘《せんとう》ヘリ・AH64アパッチ。
ウェポンランチに足をかけたスプレイが、片手でバレッタを弄《もてあそ》びながら、
「やるじゃん、ロリポップ。だけど、ここはおれの勝ちみたいだな。悪く思わないでくれ、これも妹のためでさ。ま、子供は殺さない主義だから安心しな」
「妹のためぇ? 子供は殺さない? ドロボーがなにカッコつけてんの? それに――おれの勝ちぃ? 夢見るなら、寝てからにしなさいよねー」
顔をしかめて、鼻を鳴らす美沙だ。
「……おい、まだなんかあんのか」
「知りたいでしょ。実験中だけど――見せてあげる」
言うが早いか、美沙はブレザーの袖《そで》を、ブラウスごとめくった。露出《ろしゅつ》するはずの肌《はだ》の代わりに現れたのは、黒い長めのリストバンド――例の着衣型PCだ。外気に触れると同時に現れた三次元映像に、美沙はお澄《す》まし調で告げた。
「システム起動、声紋認識モード。えっとぉ、ログオン権限はアドミニストレーター。セイフティ解除。狙《ねら》いは――前方のガンシップAH64に固定」
「監視《かんし》衛星にでもアクセスしてんのか? 巡航ミサイルでも使う気なら、遅すぎだ」
「余裕だニャン――光とほぼ等速だから」
「……なに?」
瞬《まばた》きしたスプレイだが、すぐに察してコクピットの窓を叩《たた》いた。
「くそっ、逃げろ! なんてチビだ、キラー衛星にロックされちまった!」
「アハハハッ! ばーか、死んじゃえ〜!」
甲高《かんだか》い嘲笑《ちょうしょう》と共に、空が光った。
夜の雲を突き抜けて、一本の細く赤い線が、ホームと空を繋《つな》ぐように出現した。本当は衛星軌道上から照射されたものだが、光速を肉眼で追えるはずもない。音は――なかった。ノイズすら聞こえなかった。
一拍ほど間を置いて、対岸のホームが大爆発《だいばくはつ》を起こした。
想像を絶する高熱により、コンクリが沸騰《ふっとう》。その気泡が飛び散ったのだ。送電用の電線がバタバタと倒れ、マグマ化した構材と共に駅構内に沈んでいく。
ヘリはと言うと――リアローターを切断されただけで済んでいた。
「あ……まだ照準システムが甘いんだなぁ。むー」
と不満そうな美沙《みさ》だが、ヘリの後部ローターは、姿勢制御と舵《かじ》の役割を担う。ある意味でメインローターより重要な機関を失ったアパッチは、バランスを崩し、グルグルと回転しながら、落下し始めた。
そして二〇〇メートルほど漂った頃《ころ》だろうか。
――ドカーン!
前方の市街地から火柱が突き上げ、辺りを照らした。墜落《ついらく》したのである。
「フッ……ザコの消え方にしちゃ、まずまずかな」
髪を弾《はじ》いて体を戻した美沙を、青白い顔の鷲士《しゅうじ》が見つめ、
「あの……なんなんですか、今の」
「ああ、草薙《くさなぎ》のこと? あのね、鷲士くんね、スターウォーズ計画って知ってる? TMD計画の元祖みたいなシステムのことなんだけど」
「……レーガン政権の? 大陸間弾道弾を軍事衛星で撃《う》ち落とすって、アレ?」
「そっ。結局バッテリと照準装置――さらに予算の問題で、実用化には至らなかったんだけどね。設計図ウチで買い取ってぇ、ダメな部分を作り直して、宇宙に上げたの。どお? けっこー使えそうな感じするでしょ」
「……ははは。そ、そうだね」
虚《うつ》ろに答えると、鷲士は立ちのぼる火柱を指差した。
「で――あそこも買い取ってたわけ?」
「え?」
と目で追った美沙の額《ひたい》から、冷や汗がタラーリ。
幼い美貌《びぼう》が少し赤くなり、ソッポを向くと、
「し、知らないもん。美沙、悪くないもん。アパッチが勝手にあそこに落ちただけ――いけないのはミュージアムだもん」
「あれって……うちの大学じゃないの?」
鷲士のシャツを引っ張りながら、ノイエ。
「あの、だって……ヘリが時計塔に突っ込むの、見えたわよ。相模大《さがみだい》って、ちょうどあの辺りでしょう?」
「と、時計塔!? まずいよ、それって行友《ゆきとも》講堂じゃないか!」
鷲士《しゅうじ》は頭を抱えて、悲鳴を上げた。
「なになに、行友講堂って?」
「初代学長の名からとった建物で――ほら、正面に見えてるレンガ造りの! ああっ、なんてことだ! この前、図書館|壊《こわ》したばっかりなのにー!」
「それより――わたしのバレッタは!? どうなったの!?」
「フッ……そんなこともあったかしらね」
腕組みして、美沙《みさ》。目的を忘れてヘリを落としたらしい。凄《すさ》まじい。
ノイエは青ざめて、鷲士に掴《つか》みかかった。
「な――なんなのよ、あなたたち!? ヒトの鼻を折りかけるわ、わたし抱えてホームからホームへ跳び移るわ――そっちのコは車で乗り込んでくるわ、怪しげな銃使うわ――揚げ句の果てに軍事衛星!? まるでミュージアムじゃない!」
しかしこれに不満だったのが美沙である。
「じょ、じょーだんじゃないわよ、あんなカルト同然のローテクハンター集団と一緒にしないでよね! そんなことより――離れなさいよ、そこぉ! 鷲士くん、わたしってものがありながら、どういうつもり!? なんなのよぅ、その女!」
「え? いや、だから彼女はね――」
「わ、わたしってもの!? ちょっと待ちなさい、捨て置けないわ、シュージ! あなた、まさかこんな小さな子と関係を!?」
「ち、違うよ、ノイエ! 美沙ちゃんの言ってるのは、そういう意味じゃなくて!」
そこへ美沙が割って入り、バッと手を広げた。
「もうっ、近寄らないでよぉ! 鷲士くん、わたしのパパなんだからね!」
またまた――シーン。
ノイエが青ざめて、後退《あとずさ》った。
「な、なんてことなの……! パ、パパですって……?」
「う、ノ、ノイエ、理解しづらいだろうけど、実はぼくたち――」
「し、知ってるわよ。わたし、この国のスラングも勉強したもの……! 少女売春婦が、客の男たちをそう呼ぶって……!」
「はあ? いや、それこそ誤解――」
しかし――さらに話をややこしくしたのは、やはり子猫の方だった。
「フッフッフ、バレちゃったら仕方ないわね。ああ〜ん、鷲士くぅ〜ん、今日はどんなことしてくれるの? 美沙、あなたなら、お金なんて、い・ら・な・い♪」
と鷲士に抱きついて、スリスリ。鬼だ。
「やっ、やっぱり! 仮にも教育に関《かか》わる者として許せないわ! 見てなさい、シュージ! 関係機関に訴えてやる!」
「ああっ、違う、違うよ! これは美沙《みさ》ちゃんの――」
「そーよ、わたしたち愛し合ってるんだから! ねっ、鷲士《しゅうじ》くん?」
――プチ。
「うるっさぁーい! 二人とも、ぼくにもちゃんと喋《しゃべ》らせろよ!」
聞こえ始めた消防車のサイレンに混じって、ヘロヘロ青年の魂の絶叫が、風苅《かぜかり》町の夜空に響《ひび》き渡った――。
一方、夜の相模大《さがみだい》。
ヘリと共に燃え上がる時計塔の瓦礫《がれき》を弾《はじ》き飛ばして、人影が立ち上がった。
――スプレイである。
パーカーから携帯を抜いてダイヤルすると、彼は耳に押し当てた。
「……タウンゼントさん、おれッス。ええ。バレッタはちゃんと……それがフェイスのヤツが出てきやがって、妙なチビも……ええ。え? いや、まあ、確かに今の戦力じゃ。分かったッス。はい。ええ。じゃ、グランツホルンで」
電話を切ると同時に、腹部から歯車が落ちた。
やはり無表情に拾い上げると、改造人間は呟《つぶや》いた。
「……プシュー」
「え……ええーっ!? 実の……実の親子ですって!?」
大学から坂を下って数分の場所――ボロアパートの二階角部屋から悲鳴が上がり、深夜の静寂を切り裂いた。辺り一帯の民家に立て続けに明かりが灯《とも》り、ワンワン、ニャーニャー――犬猫までが喚《わめ》き出す。
「こらっ、しーっ。落ち着きなさいよ、ここドイツじゃないんだからっ。わたしこのボロ屋けっこー気に入ってるの、追い出されたらどーすんのよっ」
ノイエの口を押さえながら、美沙が耳元で喚いた。
――鷲士のアパートでの出来事である。二部屋ある中で、こっちは超ハイテクとヌイグルミが同居する角側。美沙さまの居城だ。
呆然《ぼうぜん》自失のノイエは、白茶けた顔でぼんやりと、
「ミ、ミサは中学生で……シュージは大学生……! 年齢差《ねんれいさ》は……たった九歳? 小学四年生のときにできた子供……? 神よ、なんてことなの……! 確かに本国にも、大学に赤ちゃんを連れてくるヒトはいたけれど……」
「エッチしたのは八歳のときみたいだけどねー。小学三年生かな? ちなみに美貴《みき》ちゃ――あわわ――じゃなくて、ママはもう一歳下だよ」
パパに作ってもらったサンドイッチをつっつきながら、ゲホンゲホン、と美沙《みさ》だ。
「じゃ、じゃあ、そのお母さまは……? どうなさってるの……? 教育研究のためにも、お話を伺っておきたいわ……」
「え、えっとね……し、死んだの。風邪《かぜ》で。うん、そう」
「……か、風邪?」
ノイエが、片眉《かたまゆ》を上げた。
「ま、待って、シュージはともかく……あなた、あの超巨大コングロマリットを率いるユウキの直系なんでしょう? あなたにとっての祖父母がお亡くなりになったのなら、その一人娘であるお母さんは、一族の未来を左右する重要人物のはずよ? 一〇〇人の医師団がついてても不思議じゃないわ。それが……風邪?」
「う、うるさいなぁ。カンケーないでしょ、そんなこと。だいたい、今はもう結城《ゆうき》とわたしは切れてるんだし。鷲士《しゅうじ》くん、なんか言ってよー」
と振り向いた美沙だが、大学パパの反応はなかった。
鷲士はエプロン姿。大型TVの前で、先ほどから正座したまま動かない。
映像は深夜の特番だった。緊急《きんきゅう》報道である。六時のニュースの女性キャスターが、今はリポーターだ。背にしているのは――相模大《さがみだい》らしい。
『ご覧《らん》ください! AH64、通称アパッチと呼ばれる戦闘《せんとう》ヘリの残骸《ざんがい》です! 今、この日本でなにが起こっているのでしょう!? 先日もこの大学は図書館を爆破《ばくは》される事件があり、テロの憶測《おくそく》も飛び交いましたが、今回は次元が違います! AH64というと、横須賀《よこすか》基地にも配備されている米軍のヘリコプターですが、外務省が先ほど確認をとったところ、在日米軍の部隊から失われた機体は一機も存在せず、その出所は全く不明のまま! さらに風苅《かぜかり》町駅の大破壊《だいはかい》には、なんと宇宙兵器が使われた形跡もあり――』
興奮《こうふん》気味のリポートが、延々と続く。
魂を抜かれたように、鷲士は前のめりにパタッ。動かなくなった。
「た、大変なことになってしまった……!」
「しっかりしてよ――発見されたのは、頭を撃《う》ち抜かれたパイロットの死体だけかぁ。あのおかしなチューン・マンの仕業《しわざ》ね、きっと」
画面を見ながら、美沙。神経の太さが違う。
――スプレイの行方《ゆくえ》は、ようとして知れなかった。
美沙の“命令”で動いた治安・公安当局だが、未《いま》だに発見できずにいる。フォーチュン・テラーが誇る監視《かんし》衛星・叢雲《むらくも》でさえ、追尾は不可能だったのである。熱源などの反応が普通の人間と違っていたのが、主な原因だ。直後にモードを動的に切り替えて探索を行ったが、初動の遅れが、致命的な隙《すき》を与えてしまった。
疲労の濃《こ》い様子で、ノイエはかぶりを振った。
「ああ……なんてこと……! わざわざ極東までやってきたのに、肝心のバレッタをミュージアムに奪われてしまった……!」
「んじゃ、本題に入りましょーか」
ニヤリ、と美沙《みさ》が笑い、鷲士《しゅうじ》も弾《はじ》かれたように居住まいを正した。
「そ、そうだね、まずはそれを聞いとかなきゃ。あのバレッタはいったいなんなのか、禁断の井戸……回る水だっけ……を、どうしてミュージアムが狙《ねら》ってるのか……あいつらを防ぐために、きみは日本に来たんだろう?」
ノイエは真剣な眼差《まなざ》しで、父娘《おやこ》を交互に見た。
――すぐにこめかみを押さえた。
「本物は最初から存在せずに、あなたたちが事実上のダーティ・フェイスだなんて……! これはこれで問題だわ……! 任せて大丈夫なのかしら……?」
「ふ〜ん、そぉ。んじゃやめる」
「あっ、うそよ、うそ! ちゃんと話すから!」
そして夜はさらに更け――小一時間ほどのち。
腕組みした鷲士は、重々しく頷《うなず》いた。
「……分かった。あ、いや、細かい部分は正直よく呑《の》み込めてないところもあるけど、少なくともノイエの言いたいことは理解したつもりだよ」
「そ、それじゃあ!?」
ノイエは希望に目を輝《かがや》かせ、身を乗り出した。
が――。
「あの……悪いけど、一日ほど考えさせてくれないかな」
あちゃー、と美沙が顔をしかめ、ノイエはテーブルをブッ叩《たた》いた。
「なっ――ど、どうしてなの!? 連中は既に部隊をミュンヘンに送り込んでる! 今回の現場指揮官であるハイ・キュレーター、ディーン・タウンゼントも、今頃《いまごろ》は間違いなく合流しているはずだわ!」
「ゲ……! ディーン・タウンゼント? 同じハイ・キュレーターって言っても、この前のヘボ桐古《きりこ》なんかより遥《はる》かに格上じゃん。あっちも本気みたいねー」
「そして井戸を開く鍵《かぎ》は、彼らの手に! 一分一秒でも惜しい――本当ならこれも帰りのジェットの中で話すべきようなことなのよ!? どうして!?」
「ど、どうしてって……ノイエはなにか誤解してるよ。ぼくたちは警察《けいさつ》じゃない。ましてやヒーローでもなんでもない。きみの話を聞いてると、今回は宝探しっていうより、最初から戦いが前提みたいだ。簡単には引き受けられないよ」
「既に被害者は出てるのよ!? 放っておくと言うの!?」
「……あのね、ぼくは父親なんだよ。自覚、あまりないけど」
ため息混じりの、鷲士《しゅうじ》の言葉だった。
ノイエはハッとして、美沙《みさ》を見た。一二歳の少女は肩をすくめるだけだが、ダーティ・フェイスを駆《か》り出すということは、彼女の出撃《しゅつげき》をも意味する。
碧眼《へきがん》の美女は、唇《くちびる》を噛《か》んで顔を上げた。
「じゃ、じゃあ、どうすればっ……!」
「……だから、考えさせてよ。その……悪いとは思うけどさ」
気まずそうに、鷲士も頭を掻《か》いた。
重い沈黙《ちんもく》を破ったのは、やはり美沙だった。少女は両腕を後ろ手に組むと、肩を若いパパにこすりつけながら、猫なで声で、
「ねえねえ、鷲士くぅん。美沙ぁ、行っきたいなぁ。井戸にもぉ、興味《きょうみ》あるしぃ♪」
「ねえねえって……ぼくに色目使ってどうするのさ」
呆《あき》れる鷲士だが、すぐに真顔になった。
「……あのね、美沙ちゃん。ぼくは宝探し自体は反対じゃないんだ。ぼくも施設の出だから、自分のルーツを探そうっていう気持ちは、凄《すご》くよく分かる。だけどさ、戦いはよくないよ。ケガしたら大変だろう? カタいこと言うようだけど、やっぱり――」
すると美沙は、小さな手で、鷲士の腕を取り、
「わたしのコト、キライ……?」
「まさか〜。うん、分かった、行く――」
笑顔で言う鷲士だったが、急に我に返り、
「――あわわ、きみは好きだけど、行かない! いや、行かないとまでは言わないけど、こんなことでいい返事なんかしないぞ!」
「ちぇーっ。やっぱり本物じゃないとダメかぁ。半分は血を引いてるんだけどなぁ、なにが違うんだろ? これは要研究ね」
舌打ちし、指を鳴らす美沙である。
「こら、もうっ、それ美貴《みき》ちゃんに教えちゃっただろう? ぼく、困ってるんだぞ」
「えー、そりゃそうでしょ。だって元祖はあっち――」
と、今度はおチビさまが、あわわ。
大学パパは、不信の眼差《まなざ》しで顔を寄せ、
「……やっぱり昔からの知り合い? 彼女のこと話してるときは、な〜んかきみも樫緒《かしお》くんも様子がおかしいんだよね。どういう関係なの?」
「う、うるさいなぁ。女のプライバシーを聞くなんて、男らしくないよ、鷲士くん!」
「……言い訳の仕方まで似てるんですけど」
「うっ、だからその、あれよ、あれなのよ、うん! ま、難しい話はおいといて――今日はごくろーさま。とりあえず、これでも飲んで。ねっ?」
アハハ、と彼女は背後からドリンク剤を出すと、鷲士《しゅうじ》の前に置いた。
「あ……う、うん。美沙《みさ》ちゃん、ありがとう」
ノイエを見ながら、ゴクッと一飲み。
――鷲士は、あっさりひっくり返った。
寝息を立て始めたパパを、娘は、フッ、と冷笑して見下ろし、
「まだまだ甘いわね、鷲士くん。なんだろーと、ミュージアムに好き勝手させるワケにはいかないの。連中の目的にも興味《きょうみ》あるし」
「ちょ……ちょっと、大丈夫なの?」
しかし美沙は、少し不安そうに鷲士のもとにしゃがみ込むと、
「ヤダ、でも心配になってきちゃった。どーしてこんなに簡単に引っかかるんだろ? ちゃんと大学卒業できるのかなぁ」
「……ミサ、あなた本当に娘?」
一三年前の、とある日――。
青葉《あおば》学園の廊下を歩いていた鷲士は、いきなり背中に軽い衝撃《しょうげき》を感じた。
――と思うと、手から松葉杖《まつばづえ》がなくなっていた。
振り返ると、松葉杖を抱いたニコニコ少女と、目が合った。指には少し大きめの、おもちゃの指輪が光っている。
『エヘヘ……しゅーうーくんっ♪』
『な、なんだぁ、ゆうちゃんかぁ。こまるよ、返してよ』
『ダーメ』
『もう、また〜。ゆうちゃんは、どうしてぼくにそんなにいじわるするの?』
『い、いじわるじゃないよ。ミキ、いじわるなんてしないもん』
少しフクれたものの、少女はすぐに笑い、
『あのね、わたしね、いいこと思いついたの』
『いいこと? なあに?』
『えっとね、しゅーくんはね、わたしのだんなさまになってくれるんだよね?』
『え……あ……う、うん……』
真っ赤になって、俯《うつむ》いてしまう鷲士だった。
すると少女は、耳元で囁《ささや》くように、
『だったら、わたしのヒミツ、お・し・え・て・あ・げ・る♪』
その瞬間《しゅんかん》、鷲士の足は、床から離れた。
ただでさえ軽め――加えて半年にわたる入院生活で体重が落ちていた少年の肉体は、あらざる力を受けて、風船のように宙に浮かび上がった。
『えっ? わっ! な、なにやったの、ゆうちゃん!?』
『エヘヘ。あのね、うちの一族ってね、みんなこんなコトできるんだって。ママもできたんけど、だんなさまになるヒト以外には教えちゃいけませんって。だまってなさいって。でも、しゅーくんはわたしとケッコンしてくれるから、いいの』
嬉《うれ》しそうに笑い、少女は続けた。
『わたしたち、ずっといっしょでしょ? だからね、わたしがね、死ぬまでこうやって、しゅーくんを動かしてあげる。だったら松葉杖《まつばづえ》、いらないでしょ?』
ひまわりのような笑顔に、しかし少年は震《ふる》え上がった。究極の無邪気さとは、時として究極の悪意よりも恐ろしいものだ。
『お、おろして! おろしてよー!』
ジタバタ暴れ出す鷲士《しゅうじ》の下で、少女は不思議そうに首を傾《かし》げた。
『ええ〜? どうしてぇ〜?』
「う、うわーっ!」
鼻腔《びこう》に刺激臭を感じ、鷲士は弾《はじ》かれたように体を起こした。肩を上下させながら、思い切り新鮮《しんせん》な空気を肺に送り込む。
「ゆ、夢か……!」
こめかみを押さえ、大きくため息をついた。
『い、いじわるじゃないよ。ミキ、いじわるなんてしないもん』
唐突に夢の映像がフラッシュバックした。
……ミキ……だって?
青年は眉《まゆ》をひそめた。
ゆうちゃんのゆうは、結城《ゆうき》のゆう。しかし自分は、下の名前を知らないのだ。いつも一緒にいたせいで、肝心な部分をちゃんと訊《き》いた記憶《きおく》がない。これが、今に至るまで二十余年の人生の中で、鷲士が抱える最大の後悔となっていた。姓すらも、美沙《みさ》の登場によって初めて明らかにされたほどである。自分はなにも知らない。
くそっ……どうしてもっと明確に思い出せないんだ……!
拳《こぶし》の腹で、額《ひたい》を叩《たた》いた。
「悪夢でも見ましたの?」
落ち着いた澄《す》んだ声と共に、目の前にコーヒーカップが出現した。
「あ……ど、どうも。いい夢というか悪い夢というか……ははは……でも久しぶりに彼女にも会えたから……いい夢かな?」
目覚めの原因は、恐らくこの香り――鷲士《しゅうじ》は受けとり、口をつけた。火傷《やけど》しないように飲み込みながら、顔を上げる。
薄《うっす》らとシャドウの入った切れ長の双眸《そうぼう》と、視線が重なった。
「さっ、さささ、冴葉《さえば》さん!?」
「おはようございます、ミスター・ダーティ・フェイス」
「ちょ、ちょっと!? か、勘弁してくださいよ!」
「分かりました――では鷲士さんと」
メリハリのきいた美貌《びぼう》が、しかし抑揚なく頷《うなず》いた。
後ろへ流した長い髪、大きなイヤリング、黒いスーツの上下――いつもの姿。どちらかと言うと派手な装いの部類に入るはずだが、雰囲気は澄んだ湖面を連想させた。少女っぽさが残る美貴《みき》、ノイエと違って、こちらは完全な大人である。
――片桐《かたぎり》冴葉。フォーチュン・テラーの会長秘書だ。
ただ、彼女は先端企業にいながら、実質的には政治家の秘書と同レベルにある。決定権を持つのが美沙《みさ》なら、冴葉は細かな部分を指揮する立場だ。会長の美沙、まだ面識がない謎《なぞ》のCEOに次ぐ、ナンバー3が、この片桐冴葉なのである。
緊張《きんちょう》のせいだろうか、妙に寒気を感じて、鷲士は体を揺すった。
「な、なんか寒くありません?」
「そうですね、少し緯度《いど》が北寄りですので」
淡々と言うと、壁《かべ》を指した。
エナメル地のような黒いロングコートが引っかけてある。
「耳を押さえていただけます?」
「は? さ、冴葉さんのですか?」
「……いえ。ご自分の」
「すすす、すいません!」
と謝《あやま》ったと同時に、冴葉がとんでもないものを手に持った。
――SPAS12。イタリアはルイジ・フランキ社が開発した、ポンプ及びセミオートマチックの二重作動方式を持つ軍事用のショットガンである。
「は?」
「――失礼」
軽く低頭すると、ポンプをスライドさせ、冴葉はSPASを構えた。
――バン、ガシャン、バン、ガシャン、バン!
きっかり三発分の散弾が、黒いコートに吸い込まれた。ただ、貫通することはなかった。いくつものベアリング弾が、床で跳ね返る。
最後に一回ポンプをスライドさせて空薬莢《からやっきょう》を排出し、冴葉《さえば》は銃を下ろした。
「み、耳が〜!」
と目を白黒させる鷲士《しゅうじ》に、冴葉は淡々と、
「地球で最高の強度を誇る構造分子、カーボン・ナノチューブに特殊コーティングを施し、繊維《せんい》化したものを素材に使用しました。極地戦用の生命維持電装を織《お》り込んであります。右手首のボリュームを右に回せば、電熱によってインナーの温度を上昇――左に回せばベルチェ素子によって逆に作用します。ただ、後者は少し強力なので、使用にはご注意を。実験では被験者の三人が全員凍傷にかかってしまいました」
「は、はぁ」
「服の発電は、超薄《ちょううす》型シリンダーと、静電気吸収によって行われます。鷲士さんが常に動いていれば、半永久的にバッテリが落ちることはありません。南極でも赤道直下でも、体感的には常春《とこはる》のはずですわ。ただ、機構の性質上、意図的に静電気を発生しやすいようにしてありますので、ヒトや電子部品に触れる際には、十分注意してください。左前腕部は、ウェアラブルPC化されていますが、これはあくまで緊急《きんきゅう》用だと思っていただいてけっこうです。服の電子部品と電波干渉するので、有効通信|範囲《はんい》を大幅に縮小《しゅくしょう》せざるをえませんでした。ハッキリ言うと携帯以下です。どうぞ、袖《そで》を通してみてください」
「あ、はい。わあ、ちょっと重いけど、確かにあったかいですね。凄《すご》いなぁ。コタツが服になったみたいですねぇ」
「次に――これをどうぞ」
と脇《わき》にはさんでいたものを、鷲士に放った。
手袋である。裏側の部分に、指先から甲にかけて、関節ごとに、板のようなものが張りつけてあった。甲虫《かぶとむし》の背中のように見えなくもない。
「あの、これは?」
「機能的にはただの手袋です。やはりカーボン・ナノチューブ製ですが、甲のタイル部分はダイヤモンドを織《お》り混ぜた衝撃《しょうげき》吸収素材にしました。意図的に滑りやすくしてあります。これは完全にあなた専用です。手で弾丸を弾《はじ》くときに使用してください」
「……あ、あの、冴葉《さえば》さん、ちょっと?」
「なんでしょう?」
動きを止め、冴葉は顔を上げた。やっと察した鷲士が、恐る恐る、
「あ、あの、冴葉さんが来たってことは、フォーチュン・テラーが全面的に動き出したってことなんでしょうけど……ぼく、まだ行くとは言ってませんからね」
「おっしゃる意味がよく分かりませんが」
「だってドイツですよ、ドイツ? ぼく、パスポートも持ってないし――」
「ご安心ください。移民局には話を通しました。既にあなたは、ドイツ連邦共和国の市民権を持ってますわ。パスポートは不要です」
「し、しみんけん〜? いつの間に……!」
「選挙にも行けます。それに――」
「そ、それに?」
冴葉《さえば》は、壁《かべ》のボタン――こんなボタンはなかった――をグーで殴った。
ガコン、と派手な音を立てて、壁が裂けた。正確にはカーゴ・ハッチが開いたのだが、事情が分かってない鷲士《しゅうじ》にはそう思えたのだ。
「――もう着いてますので」
「……は?」
当初、鷲士はボケ面で首を傾《かし》げた。
が――間抜けた顔が青く染まるまで、さほど時間はかからなかった。長身|痩躯《そうく》の青年は、慌てて外に飛び出した。
視界全体を、だだっ広い空間が埋めた。
足下の白線を見るまでもなく、滑走路だった。遥《はる》か前方にランチと連結されたジャンボ旅客機が、数機ほど見える。横の建物はターミナルだろう。上部に繋《つな》がっているのは電車の高架らしい。行き来する車両が目に入った。
騒然《そうぜん》と、鷲士は振り返った。
自分の部屋だと思っていたのは、巨大な輸送機だった。
全幅六七・八八、全長七五・五四メートル、空重量で約一七〇トン。空飛ぶ兵器庫の異名《いみょう》を持ち、無着陸で地球を四分の一周できる鋼鉄《こうてつ》のクジラ。
――ロッキード・マーチン・C5ギャラクシー。
「なっ……!」
さらにもう一度振り向いて、鷲士は手近の大きな建物に目をやった。
庇《ひさし》のところには、次のようにあった。
"FLUGHAFEN-FRANKFURT-MAIN"
フランクフルト・マイン国際空港である。
腰砕けになり、鷲士は膝《ひざ》をついた。
「そ、そりゃないよぉー!」
コート姿の青年の哀れな悲鳴が、滑走路にこだました――。
フランクフルトから南南東に二五〇キロほど下った地点には、アルプスにまたがって、ドイツの最高峰・ツークシュピッツェがそびえている。
海抜二九六三メートルと、火山国の日本人には少し拍子抜けする高さだが、目にした者は山の禍々《まがまが》しさに圧倒され、まず畏怖《いふ》と感嘆の声を漏らすという。富士《ふじ》山のように、なだらかなコニーデ――円錐《えんすい》型火山――ではなく、ツークシュピッツェは絶壁《ぜっぺき》の複合体だからである。足腰にかかる疲労以外には高さを認識する手段がない火山とは違い、麓《ふもと》に行けば天然の崖《がけ》が垂直に頭上を覆《おお》うのだ。視覚的な高度は、富士山を遥《はる》かに上回る。
さらに西側の中腹――切り立った崖の端には、観光客も滅多《めった》に訪れぬ古ぼけた修道院が、ポツンと建っていた。
――グランツホルン修道院。
そして建物の傍《そば》には、一風変わった人物がいた。
イーゼルを置き、黙々《もくもく》と絵筆を走らせる、画家らしき男がそうである。
――妙に痩《や》せこけた男だった。
彼の横には四〇も半ばのメガネをかけた修道女がいたが、笑顔で話しかけられているというのに、見ようともしない。眼前のアルプスから目を離さず、黙々と絵を描き続ける。
一方、修道院の窓からは、小さな顔が見え隠れしていた。
犯人はまだ幼い修道女――背が低いせいで、爪先立《つまさきだ》ちしても、やっと窓に顔が出せる程度なのである。アゴを窓枠にひっかけてるようにして、少女は画家をじっと見つめた。その口元がほころんでいる。
「……ルイーゼ?」
声をかけられ、慌てて少女は体を戻した。
二〇歳《はたち》ぐらいのシスターが、廊下の奥からやってきて、
「あらあら、またなの。窓|拭《ふ》きの途中で――おさぼりさんなのね、ルイーゼは」
「あ……いえ……その……」
「フフフ、そんなに、あの絵描きさんが気になる?」
クスクス笑いながら、シスター。ルイーゼと呼ばれた少女は真っ赤になると、俯《うつむ》いてしまった。小さな仲間の頭を撫《な》でながら、しかし修道女は微笑《ほほえ》み、
「……いいのよ。お亡くなりになったお父さまも、仕事の合間に絵を描いておられてたんでしょう? 本当は画家志望だったと聞いているわ」
すると少女は、嬉《うれ》しそうに顔を上げた。
「あ、あのっ……イーゼルに向かってたのを憶《おぼ》えてて……背中がよく……それでお父さんって呼ぶと……だっこしてくれて……」
「フフッ、じゃあ、わたしから頼んであげましょうか? ルイーゼをだっこしてあげてくださいって、あそこの画家さんに?」
「そっ、そんなことっ……」
とまたまた赤面し、プシュー。俯いてしまった。
苦笑するシスターだったが、外を見ると汗ジトになり、
「……でも、よく平気でいられるわね、あの絵描きさん。近年の異常気象で、九月にしては下でもかなり肌寒《はだざむ》い――しかもここは山だというのに。やっぱりあれなのかしら? 芸術家には変人が多いって言うけど、彼もそうなのかしら?」
と何気なく、顔を戻した。
ふくれっ面のルイーゼと、目が合った。
「あ、ウソよ、ウソ。画家に悪いヒトはいないわ」
すると――少女はニッコリ。
年上のシスターは、ため息混じりに苦笑した。
「……エルネストさんが持ってきてくださったお紅茶、まだ残ってたでしょう? いれて持っていっておあげなさいな。もちろん、副院長の分も忘れずに、ね」
「は、はいっ!」
ルイーゼは、嬉《うれ》しそうに頷《うなず》くと、パタパタと足音を立てて廊下に消えた。
――窓の外では、一方的な会話が続いている。
やがて副院長が、笑顔を崩さず、
「……あの、聞いておられます? 繰《く》り返すようですが、ここは立ち入り禁止になっておりまして。遠慮《えんりょ》していただきたいのですが?」
額《ひたい》からは、冷や汗が滴っている。ただの作り笑いだったようだ。
男の方は、やはり筆を止めなかったが、やっと口を開いた。
「……近いうちに消えてなくなる定めの風景。描き留めておきたくてね」
「消えて……なくなるですって? なんのことですの……?」
「それに……この山は国有地のはず。ならば、きみたちに来客を拒む権利はないはずだ。敷地《しきち》内部ならいざ知らず……少し黙《だま》っていてくれないか」
「な……! で、ですが、わたしたちは……」
「……禁断の井戸と、フレイア異伝を守る義務がある……かね?」
淡々と言い、画家はシスターを一瞥《いちべつ》した。
「い、井戸……ですって? どうしてそれを……!」
修道女の顔を、戦慄《せんりつ》が駆《か》け抜けた。画家の腕を掴《つか》むと、彼女は無理やり引き摺《ず》り立たせるように、
「い、行って! 行ってください! ここはあなたたちの来るようなところでは――」
しかしシスターは手を止めた。
――画家の頬《ほお》に、赤い筋が走ったからだ。
修道女の胸のロザリオが、男の顔に引っかかったのである。画家の痩《や》せこけた頬から、鮮血《せんけつ》が滴った。
「あ……!」
副院長が口元を押さえ、絵描きは無言で、傷口に指を伸ばした。
指先に付着した真っ赤な液体を目にするなり、男の顔を、衝撃《しょうげき》が駆け抜けた。
――男のパレットナイフが、空気を切り裂いた。
中年シスターの喉《のど》から噴《ふ》き出した鮮血は、空中で弧を描いた。
くずおれる中年の修道女などには目もくれず、画家は自分の血を指で口元に運んだ。筋が浮かぶ喉が、静かに上下する。
そして――男は呟《つぶや》いた。
「……うん。血だ。血の味だ。わたしは人間だ」
「ひ……!」
正門前で立ちすくむルイーゼの手から、トレイが落ちた。ポットと三つのティーカップが地面で砕け散る。一つは一緒に飲もうと思って用意した自分のカップだった。
やってきた若いシスターも、硬直した。
「まさか……あれがノイエの言ってた……!?」
中年シスターの痙攣《けいれん》が終わると同時に、ゴツゴツした岩の陰から、一斉に人影が立ち上がった。揃《そろ》って黒い戦闘服《せんとうふく》姿――手に持っているのは自動小銃である。彼等《かれら》の中心にいたのは、美沙《みさ》と鷲士《しゅうじ》がエジプトで戦った、例の肥満漢だ。
「へっへっへ……タウンゼントさん?」
「……回る水を確保しろ、ヴァッテン」
呼応して、ヴァッテン――黒ブタ――がニヤリと笑った。
呆然《ぼうぜん》と、ルイーゼは後退《あとずさ》った。
「そ、そんな……! 画家さんなのに……画家さんなのに……!」
ボロボロと、涙が落ちていく。ささやかな夢を壊《こわ》された少女の涙であった。
「……来なさい、ルイーゼ!」
幼い修道女の腕を取ると、シスターは大聖堂に向かった。回る水が封入された装置の横を通り、教壇《きょうだん》に立つ。後ろを向くと、右|脇《わき》の壁《かべ》にかかる蝋燭《ろうそく》立てを引っ張った。
ゴゴゴゴ……。
鈍い音を立てて、壁が裂けた。隠し扉《とびら》だった。
暗い空間が現れたと同時に、冷たい風が、ルイーゼの頬《ほお》を叩《たた》いた。
シスターは首飾りを外すと、ルイーゼの手を取り、強く握らせた。
「あなたはお行きなさい、ルイーゼ!」
「で、でもっ、わたしっ……!」
「この“フレイアの小鍵《こかぎ》”を奪われたら、世界はあいつらの思い通りになってしまう! リッター村の惨劇《さんげき》を繰《く》り返させるわけにはいかないの! 外に出れば、ロープウェイの傍《そば》――街に下りたら、エルネストのお爺《じい》さんを頼りなさい! さあ!」
「で、でも……シスターっ……!」
口をパクパクさせるルイーゼだ。
すると――年上の修道女は、緊張《きんちょう》の汗にまみれた顔で、微笑《ほほえ》んだ。
「本当の妹ができたようで嬉《うれ》しかったわ、ルイーゼ。あなたも大人になれば分かる――未来へなにかを繋《つな》ぐということが、いかに難しくて面倒なことか。だけど――同時になによりも大切だということが」
一人の人間としての正直な言葉だった。
「……ノイエによろしくね。さよなら」
それを最後に、壁《かべ》は閉まった。幼い少女がなにか言おうとした刹那《せつな》、壁越しに銃声が聞こえた。爆音《ばくおん》の中に混じる悲鳴はシスターのものに間違いなかった。ルイーゼは動かなかった。動けなかったのだ。
やがて――辺りが静まり返った頃《ころ》、少女は背を向けた。歩き出したルイーゼの顔は、涙でクシャクシャになっていた――。
第二章 ミーミルの井戸
「――以上の理由により、まずはガルミッシュ・パルテンキルヒェン――ここから三〇キロほど南下したところにある街です――に行き、ツークシュピッツェ山の中腹へ。回る水とフレイア異伝を今に伝えているという、グランツホルン修道院に向かいます。修道女たちの身の安全を確保したあとに、水のサンプリングを行い、可能ならば現地で性質を分析。その後、禁断の井戸本体の情報を追ってください」
地形図のホログラフィを背に、片桐冴葉《かたぎりさえば》は言葉を切った。
「ここまででご質問は?」
美沙《みさ》とノイエは、冴葉の視線を追って振り返った。肝心の鷲士《しゅうじ》はガックリと肩を落とし、ぼんやりと窓から湖を眺《なが》めている。
――ドイツ。
正式国名は、ドイツ連邦共和国。北はバルト海と北海の海岸から、南はアルプス連峰までを国土に持つ、ヨーロッパの大国だ。
国家の原形は、西暦八四三年にまで遡《さかのぼ》る。民族大移動後に定着したゲルマン諸侯《しょこう》がフランクに制圧され、東フランク王国が誕生《たんじょう》。これがドイツの骨格だ。さらに分裂・併合の末、神聖ローマ帝国からプロシア、ドイツ帝国に。しかし第一次世界大戦に敗れ、今度はワイマール共和国になったものの、戦後|賠償《ばいしょう》による経済の破綻《はたん》が、国家社会主義ドイツ労働者党――すなわちナチスの台頭を許してしまった。アドルフ・ヒトラーを総統にいただく第三帝国――神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に続くため、こう呼ばれる――は、誰《だれ》もが知るところだ。
そして一九四五年、連合側に再び敗れて占領。ところが同時期に始まった東西冷戦に巻き込まれる形で、四九年には、西側・自由主義体制のドイツ連邦共和国と、東側・社会主義体制のドイツ民主共和国に分割されてしまった。
しかし半世紀近い年月を経て、一九九〇年、西ドイツが東を併合し、ついに統一――今のドイツ連邦共和国が誕生する運びとなる。
現在、首都はベルリンにあり、国土面積は約三六万平方キロ。日本が約三八万平方キロだから、実は意外と小さい。八三〇〇万の人口を持ち、住民は主にゲルマン系だが、歴史の中でケルト人やローマ人、スラブ人と混合しているので、総ドイツ人というべきかも知れない。西欧らしく、やはり宗教はキリスト教なのに、世界的に見れば少数派のプロテスタントが多数を占めるというから、これも独特な点だ。
……ああ、こんなことになるなんて。
鷲士《しゅうじ》はうなだれ、ため息をついた。
ここはフランクフルトから二〇〇キロほど南東に進んだ地点――シュタインベルガー湖の傍《そば》に建つキャビンのリビングだった。澄《す》んだ湖面に、写真でも見たことのない美しい山並みが映り込んだが、心を晴らすには至らない。
『北欧神話の……フレイア異伝だって?』
昨晩のボロアパート――眉《まゆ》をひそめる鷲士に、ノイエは頷《うなず》いてみせた。
彼女は、次いでポテチをつっつく美沙《みさ》に目をやり、
『あなたは北欧神話って……分かる?』
美沙は鼻を鳴らした。
『はん、誰《だれ》にそんなくだんないこと訊《き》いてるワケ? 要は「散文のエッダ」でしょ?』
『まあ、その歳《とし》でそんなことまで! あなた、偉いわ!』
と嬉《うれ》しそうに、ナデナデ。日本はボロクソにけなすくせに、ヨーロッパの文化が浸透しているのは嬉しいらしい。
『神話はともかく……あの……なんなんですか、それ?』
『……シュージ、あなたそんなことも分からないの? それでも大学生?』
『い、いや、文学部ってワケじゃないんで……』
凄《すご》い差別を感じたが、鷲士は引きつった笑みで誤魔化《ごまか》した。
『仕方ないヒトね。じゃあ最初から話すわ。そもそも現在、一般的に北欧神話と呼ばれているものは、一二世紀|中頃《なかごろ》に――』
そしてノイエは語り始めた。
冷徹《れいてつ》な隻眼の魔神《まじん》オーディン、酒飲みバイキングの化身とも言える雷神トール、ピエロ同然のトリックスター・ロキ、豊穣《ほうじょう》を司《つかさど》る双子《ふたご》のフレイ・フレイア兄妹神――彼等《かれら》の名は、誰《だれ》もが一度は耳にしたことがあるだろう。強烈な個性を持つ神々が衝突《しょうとつ》や旅を享楽的に繰《く》り返し、巨人族と戦う物語――これが俗にアスガルド神話、アース神話などと呼ばれる、北欧神話の簡単な概略だ。
起源をたどれば、紀元前のスカンジナビアにまで遡《さかのぼ》るという。神々の性格が一人一人ハッキリ差別化がなされているのは、各部族の神を、当時にしては珍しく、ほぼそのままの形で取り込んだからだと思われている。神話の骨格が成立したのは、一三世紀。サクソ・グラマティクスが記した九冊にわたるデンマークの歴史書『デーン人の事跡』と、詩人であり政治家でもあったスノリ・ストルルソンが著した教本『散文のエッダ』――この二作が、原典だ。
北欧神話の中では、神々は二つの神族に大別される。オーディン、トール等をはじめとしたアース神族と、フレイ・フレイアの双子を主神にいただくヴァン神族だ。前者は天神の直系とされ、後者はむしろ巨人族寄りの一族だった。
アースとヴァン、これらの二大神族は、共同で巨人族にあたることが多いため、時として混同されるが、あくまで政治的な同盟関係にすぎなかったようだ。アース神族が始めた侵略によってヴァンの領土は奪われ、フレイアはオーディンに人質に取られている。もっとも、神話が高度な政治的部分を含むのは、北欧神話だけではない。この神話の珍しさは、極端に退廃的な部分にある。
まず主役級のオーディン。彼からして、知識と色と死を追求する貴族の神である。彼は冥界《めいかい》の言語であるルーン文字を読み解くため、物語の主な舞台で天空と地上を繋《つな》ぐ世界樹《せかいじゅ》ユグドラシルに、自らの体を槍《やり》で貫いた状態で九日九晩も吊《つ》るした。欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばないのだ。さらに暇になると、己のヴァルハラ宮殿で、不死の戦士エインヘルヤル同士を戦わせ、酒宴に酔う。飽きてくると、使いである鷲《わし》とワタリガラス、そしてヴァルキューリの娘たちを派遣し、勇敢な戦士を連れてこさせ、また戦わせる。
雷神トールのような一部の例外を除けば、北欧神話の神々には常に死の影がつきまとう。ロキに至っては、意図的に仲間内で揉《も》め事を起こし、神々の殺し合いを見物と洒落込《しゃれこ》む。幻想的に語られる叙事詩の側面を持つ一方で、ヒトはまるでゴミのように扱われ、そして神々の退屈しのぎに殺されるのだ。
このような退廃思考は、北欧神話の究極的な終末思想が原因であるとされる。神々は最後の戦い・ラグナロクにおいて滅亡は免れないことを悟っており、死を少しでも有利に迎えるために、日夜通して体を鍛《きた》えたり、勇猛な戦士を徴兵しているという。しかし死が確実なことが分かっていれば、あとは刹那《せつな》的に楽しむしかあるまい。
結局、神話の中で、彼等《かれら》は強大な邪狼《じゃろう》フェンリルと世界蛇ヨムンガルド、そして炎の国からやってきた謎《なぞ》の死神・スルトによって、皆殺しにされてしまう。天と地は滅び、最後に残ったのは、スルトと世界樹だけだったのだ――。
『ただ、世界樹の中には、リーヴとリーヴスラシルという一組の男女がいたの。彼等はスルトが去り、再生された世界で、新たな生活を始めた。彼等の子供たちは、やがて全世界に広がり、今の人類は、みんな彼等の子孫だと言われてるわ』
『はーい、ちょっと補足ね』
と美沙《みさ》が投げやりに手を上げ、
『スルトによって滅ぼされた大地は、結局、海の中に沈んじゃうワケ。でも、スルトの放った炎は決して消えなくて、海底でも燃え続けて悪しきものを完全に焼き尽くした。で、海水が引いて、一組の男女が世界の始祖となる、と。まあ、この辺りはよくある洪水伝説の一つとも言えるかな?』
『あ、ノアの方舟《はこぶね》とか、その辺りだね。なるほどー』
ノイエは驚《おどろ》いたように、
『ミ、ミサ……あなた、本当に博学ね。ラグナロクは知ってても、その結末まで知っている人間は、意外と少ないのに。ヨーロッパでさえも、世界が滅んで終わりだと思ってるヒトが多いものよ。素晴らしいわ』
『ま、フツーはそんなもんでしょ。日本人だって、浦島太郎《うらしまたろう》は玉手箱開けてジジイになって終わりだと思ってるヤツがほとんどだし』
『ええっ!? 続きがあったのかい!?』
しかし鷲士《しゅうじ》の声は無視された。美沙《みさ》は肩をすくめて、
『とにかく、そのフレイア異伝ってのぉ、聞かせてよ。話はそれからね』
『あの……浦島……』
『そうね、ミサ。あなたの言う通りだわ』
ノイエは真面目《まじめ》な顔で頷《うなず》いた。
『……これから言う話は、バイエルン州の中でも、一部の地域で口伝《くでん》として知られているにすぎないわ。草の根の民間伝承とでも言うべきで……わたしの歳《とし》で知っている人間は珍しいぐらいね』
『ふーん。続けて』
『物語は、フレイアという人間の奴隷《どれい》の少女の視点で語られているわ。そしてこの異伝の中では、世界を滅ぼしたという死神スルトは、救国の大英雄なのよ――』
“ヴァン神族は、ただの人間だった”
これがフレイア異伝の中核である。二大神族の片翼《かたよく》を、いきなりただの人間に貶《おとし》めているのも珍しい。しかも、実質的な奴隷だったようである。ただ、異伝と言っても、前回のような私本という形で存在するわけではなく、ある種の詩編として今に残っているだけで、細部は曖昧《あいまい》を極めるという。ノイエの話では、遡《さかのぼ》ること約三五〇〇年ほど前――紀元前一五世紀|頃《ごろ》。ゲルマン人どころか、その大元であるガリアの支配さえ及んでいない時代――ケルト人が住んでいたとされる頃よりも、数世紀も前の話である。
――とにかく詩編を解釈すると、次のようになる。
フレイとフレイヤ――双子《ふたご》の兄妹は、ヴァンと呼ばれる農耕民族として生まれた。有力者の子供だったそうだ。しかし物心つく前に、国――理由を伏しながらも、なぜかノイエは現在のドイツ南端だと言い切った――はアスガルドの神々によって制圧され、双子は奴隷たちのまとめ役的な存在にさせられた。ただ課せられる労役は全く一緒だったというから、見せしめのように扱われていたのだろう。
“神は昔、空の砦《とりで》から来たれり――”
空の砦――この言葉がどこを指すのかは分からない。アスガルドとは本来アースの砦という意味だが、ではアースがどこかというと、それは世界樹《せかいじゅ》ユグドラシルの麓《ふもと》というだけで、やはり場所の特定などできはしないのである。起源を遡《さかのぼ》れば、スカンジナビア周辺のどこかなのかも知れないが、異伝は北欧神話起源の定説をも覆《くつがえ》す古さだ。とにかく空の砦からやってきた神々から、ヴァン族が受けた仕打ちは、常軌を逸したものだった。
このときの様子を、ノイエはアウシュビッツにたとえている。
神々はたまに奴隷《どれい》を連れていき、体に手を加えたというのだ。四肢《しし》を切られたり、逆に加えられたり――は日常茶飯事。全く別の怪物に変えられることも少なくなかった。年端《としは》も行かない子供すらも巨大なキマイラにされ、仲間のもとへ戻される。彼等《かれら》は皆、長く生きることはなかった。失意のうちに死んだ。
神々は己の魔術《まじゅつ》――これがどういったものか、今となっては知る由もないが――を、ヒトで試していたらしい。神はときには病疫の種を故意に蒔《ま》き、冷静な目で、ヒトが死ぬさまを観測した。逆らえば、魔術の武器によって殺される。労役と病疫が重なり、奴隷は健康な者を探すのが難しいほどになった。
やがて真の悲劇《ひげき》が、ヴァン全体を覆《おお》った。
――子供が生まれなくなったのである。
直接的ではなかったが、神の行いの影響《えいきょう》だった。しかし神々は嘲笑《あざわら》った。おまえたちは増えすぎる、だからちょうどいい、と。
我慢の限界を超えた兄のフレイが、怒り狂って剣を取った。しかしオーディンの霊槍《れいそう》グングニルによって胸を刺し貫かれ、息絶えた。
ヒトは家畜も同然だった。いや、牛やブタの方が、まだマシに扱われる。
希望もなにもなく、むしろ死を願う日々。
涙など、既に涸《か》れていた。フレイアはぼんやりと生きた。
そして蹂躙《じゅうりん》されて十何度目かの冬が訪れた。
――そんな中に、男はやってきた。
いや、正確には運ばれてきたのだ。雪の中に、男は倒れていたという。
助けるように命じたのは、フレイアだった。情けではない。単に労働力の確保と、子を作る能力を持つ新しい血を求めたのだ。しかし期待してはいなかった。投げやりな意向だった。男は虫の息だったが、介抱の甲斐《かい》あって、やがて立ち上がれるようになった。
男は筋骨隆々とした、見上げるような大男だった。髪は伸びるがままに任せ、背には巨大な黒い大剣、腰にも優雅な曲線を描く真紅の剣。異国の人間らしく、見たこともないような飾りを、マントの下に色々と身に着けていた。
剣を除けば、ほとんど黒ずくめ――フレイアは便宜上、男をスルトと呼ぶことにした。黒き者という意味である。男も、嫌《いや》がりはしなかった。
しかし――彼がフレイアの期待に応《こた》えることはなかった。
スルトの目は、半ば死んでいた。村人が歩く死者とたとえたほどである。さらにありとあらゆる部族の言葉を話すにも拘《かかわ》らず、無口。必要なこと以外、ほとんど喋《しゃべ》ることがない。彼が村の女を抱くこともなかった。触れようともしない。
物珍しさでスルトに近付く者も、やがていなくなった。男は孤独になった。しかし困っている様子もなかった。
フレイアがスルトに興味《きょうみ》を抱くようになったのは、さる事件がきっかけだったという。ある日――川の傍《そば》で一組の若い夫婦がケンカを始めた。最初は言葉でなじり合い、やがて掴《つか》み合いにまで発展した。しかしどちらともなく謝《あやま》り、最後には肩を寄せ合った。それを見ていたスルトの口元に、薄《うっす》らと笑みがよぎったのだ。
フレイアは謎《なぞ》の男に話しかけるようになった。スルトは完全には復調しておらず、無口なのは相変わらずだったが、次第に彼のことも明らかになった。
スルトは死の国――北方――の、さらに果てからやってきたという。ヒトの住める場所ではないはずである。さらに、彼はいくつかの魔術《まじゅつ》も使った。身に着けた道具で、指も触れず呪文《じゅもん》も唱えずに火を起こす。とにかく不思議な男だった。
彼から感じる潜在《せんざい》的な力強さに、なにか期待していたのかも知れない。それとも純粋な恋だったのかも知れない。とにかくフレイアは、男に抱くように頼んだ。
しかし――彼は断った。
辱《はずかし》められたフレイアは怒り、口をきかなくなった。ノイエは、単に痴話喧嘩《ちわげんか》のレベルだったのだろう、と言っている。村から放り出せばいいのに、そうしなかったからだ。しかしスルトの体も癒《い》え、彼は村を出ることに決めた。
事件が起きたのは、男が旅仕度を整えていたときだったという。
神々の使い――エインヘルヤルの戦士たちが、銅の馬――ある種の機械のことらしい――に乗り、アスガルドで使う奴隷《どれい》を狩りに来たのである。
事情を知らない男は、通り過ぎようとした。
そのとき、ある女が斬《き》られた。かつて川でケンカしていた、例の妻であった。病気を患っていた夫を、連れていかないようにと、戦士たちに頼んだからである。
呆然《ぼうぜん》と立ちすくむ男の腕を、駆《か》けつけたフレイアが引っ張った。早く逃げなさい、神々の使いに勝てるはずがない――と。
――なぜかこの一言が、スルトを豹変《ひょうへん》させた。黒衣の剣士はエインヘルヤルどもの前に出ると、腰の剣を抜いた。
勝負は一瞬《いっしゅん》でついた。
絶命したのは、神の戦士の方であった。馬上に槍《やり》という圧倒的優位な状態にも拘《かかわ》らず、エインヘルヤルどもは鎧《よろい》ごと叩《たた》き斬《き》られた。一〇〇本の槍を使っても貫けぬはずの鎧であった。さらに逃げた残りの戦士たちは、天から降った炎に、生きたまま焼かれた。スルトの呪文《じゅもん》の叫びに呼応し、空が裂けたのだという。
フレイヤは、スルトを激しく非難した。殺せぬはずの戦士たちを殺した。このままでは、きっと神々がやってくる――と。しかし事情を知ったスルトの怒り狂いようは、言葉にならないほどだったという。彼は村人を集めさせると、威圧的に言い放った。
“これから半日の間、家に籠《こも》り、戸を閉じよ! さもなければ、汝等《なんじら》の身にも災いがふりかかるであろう――”
この旅の男は、自分たちとは根本的に違う存在である――そう感じたヴァンの人々は、震《ふる》え上がって、言う通りにした。スルトは馬にも乗らず、たった一人でアスガルドへ向かった。フレイアも家に戻り、戸締《とじ》まりを終え、さらに耳を塞《ふさ》いだ。
間を置かず地が震え始め、天も唸《うな》り声を上げた。まるで天地創造のようだったという。そしてその状態は、スルトの言った通り、半日続いた。
人々は、不安な時を過ごし――やがて静寂が訪れた。
最初にフレイアが外に出たとき、世界は破滅していた。
異伝のこの部分は、論理的に成立しえない。世界が滅亡したのなら、内も外もないはずだが、ノイエは、世界の解釈が今とは全く違ったのだろうと言った。とにかくアスガルドと支える大木ユグドラシル――それらは地に落ち、倒れ、燃え上がっていた。突き上げる炎は、空の雲すら焼いたという。呆然《ぼうぜん》と立ちすくむフレイアの前に戻ってきたスルトは、足下に二つの首級を放り投げた。魔神《まじん》オーディンと、雷神トールの首であった。
神々を滅ぼしたスルトは、川に薬を流した。水を飲んだ人々の体からは、毒素が消え、みんな元気を取り戻したという。
圧政から解放されたフレイアたちだが、途方に暮れた。神々の世界の消滅――それは社会体制の完全な崩壊《ほうかい》を意味する。特に紀元前である、不安が広がったという、ただそれだけの理由で、即滅亡に繋《つな》がりかねない。
しかしスルトは言った。
“おまえたちで新しき世をつくり、広げるがいい。この世には果てなどない――”
彼の言葉が、どこまでの意味を含むのかは知る由もないが、やがてスルトの旅立ちのときがきた。フレイアは泣き喚《わめ》いて、とどまってくれるよう頼んだが、彼が頷《うなず》くことはなかった。どうやら、なにか大きな目的があって、旅を続けているようだった。しかし――地を耕して一緒に暮らそうと頼んだとき、スルトは初めて笑った。人々を極限の圧政から救った大剣士は、礼を言われる立場でありながら、なぜか何度も何度も頭を下げたという。
そしてスルトは村をあとにした。やがて――スルトが去り、三回目の春が来た頃《ころ》、人々に新たな希望が芽生えた。
――若夫婦の間に、双子《ふたご》の子供が生まれたのである。
人々は二人に、リーヴとリーヴスラシルと名付けた。スルトの教えを守ったヴァン民族は再び繁栄《はんえい》し、人々は永久に平和に暮らしたという――。
『……なんか単なる英雄譚《えいゆうたん》って感じ。で、回る水ってのは、どこに出てくるワケ?』
美沙《みさ》が白い目をノイエに向け、鷲士《しゅうじ》もうんうん頷《うなず》いた。
ノイエはため息混じりに、続けた。
『……最後まで聞いて。スルトを忘れられなかったフレイアは、彼の思い出を追い求めるあまりに、アスガルドの跡地に足を踏み入れたの』
『おー、それは新展開。んでんで?』
『そこには壊《こわ》れた神々の道具が転がっていたけど、彼女には使い方が分からなかった。でも廃墟《はいきょ》の中に一つの井戸があった。回る水の井戸ね。フレイアが覗《のぞ》き込むと、水は彼女の想《おも》いを反映し、スルトを映し出したというわ』
『望む者の顔を、水が? でもなんかイマイチねぇ。北欧神話の方にも、そんなおかしな水のコト、出てないし。ま、こっちもハンターだからさ、ザルな情報でも信憑性《しんぴょうせい》があれば乗り出すけど……これはちょっとなぁ』
と美沙は、少し不満顔だった。
うっ、と引いたノイエだが、すぐに身を乗り出し、
『と、とにかく! フレイアはスルト見たさに井戸の近くに村を作り、毎日のように覗き込んだ。そこに映るスルトが、今どうしているかを思い浮かべながらね。結局、フレイアは一生独り身だったそうよ。フレイアの異伝は、これでおしまい』
『結ばれないのか、ちょっと哀《かな》しいお話だなぁ。で、その井戸の鍵《かぎ》になるのが、バレッタってワケだね? でも、どうして水をミュージアムが狙《ねら》うの?』
今度は鷲士《しゅうじ》が首を傾《かし》げ、美沙もうんうん頷いた。
するとノイエは、少し慌てたように、
『そ、そんなこと、知らないわ! あいつらは狂的な歴史|遺産《いさん》回収集団――伝説上のものならなんでもいいんでしょ! それにミュージアムは、かなりの人数を投入してるわ! 今分かっているだけで、五〇〇人もの工作員が既にドイツ入りしてるもの!』
『ご、ごひゃくにん〜!? 顔を映す水に!?』
『と、とにかく! わたしは話したわ! あなたの返事を聞かせて!』
そして睡眠薬を経て――現在に至る。回る水のことも分かった。しかしミュージアムの動きが大袈裟《おおげさ》すぎる。どうも裏があるような気がしてならないのだ。
ノイエは、なにかを隠している。それが気にかかる。
「……鷲士《しゅうじ》さん、ここまででご質問は?」
冴葉《さえば》が重ね訊《き》き、ボケ青年を我に返らせた。
「あ――すすす、すいません! 聞いてませんでした!」
「ガルミッシュ・パルテンキルヒェンから、グランツホルン修道院へ、です」
「グ、グランツホルン修道院って? そこにも水があるんですか?」
「その件に関しては、ノイエさんから」
頷《うなず》いて、碧眼《へきがん》の麗女《れいじょ》が口を開いた。
「なんと言えばいいのか……グランツホルンは、異伝を伝える小さな組織の中心地のようなもので……水の一部が貯《たくわ》えられているわ。ミュージアムの動きを察知したのも、彼等《かれら》よ。わたしも……関係者ということになるのかしら」
「異伝を伝える組織……? じゃ、じゃあさ、どうしてバレたの? ミュージアムに、水の存在がさ? 関係者に、内通者がいたってことかい?」
するとノイエはため息混じりに、
「……山で遭難しかけてた二人のイギリス人を泊めたのよ。そこから、ね。わたしのおばあさまが、揉《も》み消しをはかろうとしたんだけど、その……院長が、やけに潔癖《けっぺき》な方で。お金の力に頼るのはよくないし、沈黙《ちんもく》を誓った彼等の言葉を信じよう、と」
「はぁ。でも裏切られちゃったっての? あっまーい」
「権力は使うべきときに使うものなのですが――ちなみにシュライヒャー一族はバイエルンでは名の知れた富豪です。デパート経営――大地主でもありますね。昔から、ある日本の企業とも繋《つな》がりがあります」
「へー。確かに、ノイエってお嬢《じょう》さまっぽいとこあるしね。そうだったのか」
「企業ねえ。どこ? 名前は?」
「お聞きにならない方がよろしいかと」
「……なによぉ、言いなさいよ。わたしフォーチュン・テラーの会長だぞぉ〜」
うがぁ〜、と両手を振り上げる美沙《みさ》に、秘書は咳払《せきばら》いしてみせ、
「結城《ゆうき》グループ――しかもその中心母体である結城海運です。一〇〇年以上前から一族の長レベル間での交流があります。現在、結城側の代表を務めているのは――」
「……次期総帥」
「ご賢察《けんさつ》」
怜悧《れいり》な美貌《びぼう》が頷《うなず》き、ちっこい方は露骨《ろこつ》に不機嫌《ふきげん》になった。鷲士《しゅうじ》は苦笑いだ。
「……フン、結城《ゆうき》とつるんでるようじゃ、ロクな商売してないわね。仮にも教会なら、確かに頼ろうとは思わないかも――まあいいや、次いこ、次」
「では次に、我々の真の目標である井戸の位置ですが、これはノイエさんもご存じではありません。ただ、昔、リッターと呼ばれた村のどこかに存在するという話があるだけです。そのリッターの村の所在はというと――」
画面地図のバイエルン州全体が赤く染まり、次の文字が現れた。
"UNKNOWN"
美沙《みさ》が眉《まゆ》をひそめた。
「なにそれ、どういうこと?」
「リッター村は、二次大戦中に忽然《こつぜん》と消えています。なにがあったのか分かりませんが、村が存在したという形跡すら、今では掴《つか》むことができません。ただ、海外に散らばる高齢者《こうれいしゃ》の数人に、戸籍《こせき》の前住所という形で、記述が発見されました。戦後の混乱期に、村についての全資料を、意図的に消されたが可能性があります」
「え……公文書をですか?」
「ヤだ、なんか気持ち悪くなってきたわね。ナチ? それともミュージアム?」
「可能性は両方について言えます。ナチが秘密実験の証拠隠滅を謀《はか》ったか、既に井戸の情報を掴んでいたミュージアムが他人に漏れるのを防いだのか――しかし、現段階では、どちらも確証がありません」
「衛星からは? どーだったワケ?」
「ノイエさんの話では、村はこれから向かう予定のガルミッシュ・パルテンキルヒェンの近くにあったそうです。そこで探査衛星でスキャンをしましたが――結論を言うと、無駄《むだ》に終わりました。ツークシュピッツェ山の裾野《すその》は、現在、草原と化しており、消えてしまった村跡を建物の起伏で確認することは不可能です。また熱源反応も調べてみましたが――」
「滅んでりゃ、生活反応もない――でしょ?」
「ええ。そこでドイツ軍に命じ、飛行機から超低空の金属探査を行わせました」
「軍に命じて……行わせた……? 凄《すさ》まじいわね、あなたたちって……!」
ポカン、と口を開けるノイエを意に介さず、冴葉《さえば》は手を叩《たた》いた。
「その結果が、これです」
映像が切り替わった。地図が拡大され、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンを内角の中心、ツークシュピッツェまでの距離を半径に、角度九〇度ほどの地域が扇形に塗り潰《つぶ》された。青いイチョウの葉っぱが重なったようである。
「地中に含まれる鉄鉱成分の可能性を除去し、金属反応があった地域です。約八〇〇平方キロになります。ただ、鉄のヘルメットがあれば、引っかかるレベルなので」
さすがのチビ魔王《まおう》も、肩をすくめて天を仰いだ。
「なにそれ、草の間に消えちゃった井戸を探すため、八〇〇平方キロもさまよえっての? 絶望的って感じ。見つけたら鉄アレイだった、じゃシャレんなんない」
「その辺りは、グランツホルンの方々の協力を得られれば、なにか分かるか、と。が、修道院への通信手段はないようですし、我々からの接触も現段階では行っておりません。ミュージアム側に察知されたら、シスターたちにも危険が及びますので」
冴葉《さえば》は言葉を切ると、バインダーに目を落とした。
「フレイア異伝の信憑性《しんぴょうせい》は、現在地形及び地質と照らし合わせる形で調査中ですが――ミュージアム側の動きから見て、心配する必要はないでしょう。敵側の故事に対する知識は、残念ながら我らの比ではありません。こちらのデータによる推測は、結果が出しだい、追ってお話しする予定です」
「じゃ、まずはガルミッシュ行きってことかぁ。注意事項は?」
「一つ、とてつもなく重要なことが」
映像を消し、全員に向き直ると、冴葉は続けた。
「ミュージアムの人員投入規模が異常です」
「ああ、そのこと。知ってるわよ、五〇〇人――」
「いえ、現在確認されているだけで、その一〇倍――五〇一四名にのぼりました」
一瞬《いっしゅん》、部屋は静まり返った。
「ええ〜!?」
鷲士《しゅうじ》、美沙《みさ》、ノイエ――三人の悲鳴である。
「大半はアメリカ・ヨーロッパ各地からの入国という形をとっていますが、その審査《しんさ》は形だけにすぎません。単にオンラインで調べただけで、偽造されたパスポートであるとの結果が出ました。CEOからの情報です」
「ど、どういうことなの、ミス・カタギリ?」
「この国の上層部――閣僚クラス――が、ミュージアムと何らかの関《かか》わりを持っていると見ていいでしょう。しかしこの様子では、その荷担者は、彼等《かれら》の恐ろしさをまるで分かっていないようですが」
「神よ、なんてこと……! エルネストさんのおっしゃってた通りだわ……!」
ノイエは両手を握り締《し》め、額《ひたい》を押しつけた。顔が真っ青だ。
「エルネスト? どなたです?」
「あ……ああ、ジャン=ミッシェル・エルネスト――グランツホルン修道院の関係者です。祖母の代からお世話になっているお医者さまでもあり……若い頃《ころ》は、国境なき医師団のメンバーだったとか。独自の情報網を持っておられる方で、今はミュンヘンの郊外に住んでおられますけど……?」
「……ミュンヘンですか」
冴葉《さえば》は頷《うなず》いて、バインダーを閉じた。
「わたしはいったんミュンヘンへ戻りますので、そのときにできるようなら、お会いしてみましょう。保護《ほご》すべき人物のようですし」
「あれれ? ギャラクシーのトコじゃなくて?」
「ええ。ミュンヘンでは、現在“オクトーバー・フェスト”が開かれています。そのイベントを見るため、ギレスピー首相が来ているとか。移民局の不穏《ふおん》な動きについてはもちろん、今後のこともありますから、少し圧力をかけてくるつもりです」
「OK、じゃ、話は終わりね」
ヒョイ、と美沙《みさ》が立ち上がる。
「最後に――敵は五〇〇〇人規模だということを忘れないでください。どういう配置になっているのか現在も追跡調査中ですが、街を占領できる人数だということを念頭に」
「……なんか、ホントに組織戦って感じですね。どうなることやら」
鷲士《しゅうじ》もため息混じりに立ち上がる。
――異変が起こった。
冴葉のスーツが、けたたましく鳴ったのだ。携帯のコール音だった。冴葉は例によって淡々と電話を抜き、耳に押し当てた。
「わたしよ。……ええ。……タイフーン? ドイツ空軍もなの?」
目を細めると、冴葉は顔を上げた。
「ボス」
「なぁに? またミュージアムに動き?」
「ええ。視力がいちばんいいのはあなた――外になにが見えます?」
「外ぉ?」
トコトコトコ、と美沙はベランダに出た。
――すぐに振り返った。
「タタタ、タイフーン! タイフーン戦闘機《せんとうき》! 突っ込んでくる!」
と血相を変えて、全力疾走。ソファの前で止まると、足踏みしながら、脇《わき》のリュックと銃に腕を通す。
「えっえっ?」
呆然《ぼうぜん》とする鷲士の前で、彼等《かれら》は、
「敵にこの場所はバレてたってワケね! ここは別行動ってパターンでしょ!」
「分かったわ! じゃあ、合流場所は、ガルミッシュの登山鉄道駅! ミサ、シュージ、場所は知ってるわね!」
「は? ちょ、ちょっと――」
「OK! じゃ、登山鉄道駅で!」
「ではお気をつけて――準備が整いしだい、こちらも動きますので」
と女性三人は、頷《うなず》き合うと、部屋を飛び出した。
「待ってよ!? いったいなにが――」
と振り返った鷲士《しゅうじ》の目に、とんでもないものが飛び込んできた。
――ユーロファイター2000・タイフーン。
ヨーロピアン・ファイター・エアークラフト計画のもと、ドイツ、イギリス、スペイン、イタリアが共同で開発した、クローズド・カップル・デルタ翼《よく》の全天候型|戦闘機《せんとうき》だ。美沙《みさ》の愛機F22ラプターと並ぶ性能を持つが、現在は試作機を調整中で、実戦配備はなされてない。機体は湖面スレスレを飛び、一直線にキャビンに突っ込んできた。
「なっ――!?」
鷲士が背を向けたのと、機体ノーズがベランダの手すりを吹き飛ばしたのが同時。
爆発《ばくはつ》は、すぐに訪れた。
まず窓という窓が一斉に吹っ飛び、爆圧に耐えきれず壁《かべ》そのものが炸裂《さくれつ》した。噴《ふ》き出してきたのは、生き物のように蠢《うごめ》く、火柱だった。地響《じひび》きを思わせる衝撃《しょうげき》と轟音《ごうおん》は、そのあとでアルプスを走り抜けた。
炎が湖面に反射し、映り込む月を掻《か》き消した。
禁断の井戸をめぐる戦いは、始まったばかりだった――。
同時刻――ミュンヘン郊外。ローゼンヘイム市へ続く街道から、山側に逸《そ》れた場所――杉に囲まれた場所には、寂れた一軒家が建っていた。
――リリリン。
昔ながらのベル音が邸内に鳴り響き、リビングから家政婦が顔を出した。エプロンで手を拭《ふ》き、階段|傍《そば》の電話を取る。
「はいはい、もしもし、こちらエルネスト先生の――あらあら! 久し振りね〜! 分かったわ、ちょっと待って」
おばさんは耳を離すと顔を上げ、思い切り息を吸い込んだ。
「せんせー! 電話ですよ〜!」
しばらく、間があった。
「やっかましいわ! 急患なら、街の病院に頼むように言え! シトロエンの機嫌《きげん》が悪くて話にならん! ダメじゃダメじゃ!」
――二階から声はすれど、顔は見えず。
家政婦は呆《あき》れたように、
「違いますよ、グランツホルンからです! ルイーゼちゃんですよ、ルイーゼ!」
「……なぁにィ?」
ドタドタドタ、と足音を響《ひび》かせ、二階手すりの隙間《すきま》から、老人が顔を出した。
――頭頂部が禿《は》げ上がり、頬《ほお》もこけている。
「ルイーゼ? 本当か!」
「公衆電話からだそうです! 切れても知りませんよ!」
老人――エルネストは、弾《はじ》かれたように階段を駆《か》け下りた。ガウン姿である。家政婦の前で立ち止まり、慌てて受話器を奪い取る。
「もしもし、ルイーゼかい? わしじゃ、エルネストのおじいちゃんじゃよ〜」
声をかけたときには、好々爺《こうこうや》の顔つきだった。
夜の街――とある通りに面した電話ボックス。
幼い修道女が、しゃがみ込んで電話に囁《ささや》いた。
「……あ、あのっ、わたし……です」
大きな瞳《ひとみ》で、不安そうに辺りを見回す。
「なに……!? そうか、みんなは……? そ、そうか……!」
エルネストの顔に、不安の影が広がっていく。
少し考え込む素振りを見せたあと、老医師は再び受話器に口を寄せ、
「とにかく、ガルミッシュは危険じゃ! あの連中は、既にその街に大量の人員を送り込んだ可能性がある! ルイーゼ、カネは……? そうか! わしのことは既にバレとると考えた方がいい、こっちから動くのは……そうじゃな、ミュンヘンに来れるか? よし! 今はオクトーバー・フェストの最中じゃ、明日、ヴァイエンシュテファンのテントで――そうじゃそうじゃ、ルイーゼは賢《かしこ》いな! うむ、気をつけるのじゃぞ!」
言うと、老人は受話器を置いた。
しかし――エルネストは動かない。
「あの……先生?」
「……マーガレット、明日からは来んでええぞ。しばらく家を空けることになりそうじゃ。戻ってきたら、わしの方から電話するよ」
短く言うと、老人は階段をのぼった。重い足取りで自分の部屋に戻ると、机の前で立ち止まり、引き出しを開けた。汗を流しつつ、中のものを掴《つか》む。
――銀色のリボルバーだ。
「五〇年前の悲劇《ひげき》……繰《く》り返させるわけにはいかんのじゃ……!」
呻《うめ》くように言うと、老医師は、銃を机に置いた。
「ノイエよ、ダーティ・フェイスはまだ来んのか……?」
さらに深夜を回った頃《ころ》――グランツホルン。
占領された修道院前の敷地《しきち》には、異様な光景が現出していた。
――磔《はりつけ》である。
手足を縛《しば》られた五人の修道女が、金属の杭《くい》に括《くく》りつけられていた。少し離れた位置から彼女たちを照らすのは、四柱の巨大なライトだ。地肌《じはだ》を埋めるように、パイプやケーブルが走っており、それらはすべて中央のコンピューターに繋《つな》がっている。
事情を知らない人間なら、映画の撮影だと思ったかも知れない。あちこちに銃を持った見張りや、白衣を着た科学者風の男たちまでいたからである。
「わ、わたしたちをどうするおつもり?」
中央の杭に縛られた老シスターが、震《ふる》えながら声を放った。
呼応するように、逆光の中から、痩《や》せ細った影が浮かび上がった。
――ディーン・タウンゼント。
「……これは院長。なに、ちょっとした実験に付き合ってもらうだけだ。回る水の有効性に関する実験をね。被験者は……あなたたちだが」
「なっ……!」
老女の顔を、戦慄《せんりつ》が走り抜けた。
タウンゼントは目を細め、笑みを浮かべた。冷たい笑いだった。
「どうした? ヒトの顔を映すだけの水……恐れることはないはずだ」
「それは……その……」
「もっとも、我々の質問に答えていただければ、その限りではない。わたしが訊《き》きたいのは、フレイアの小鍵《こかぎ》を持ち出した、少女の行方《ゆくえ》についてだ」
ミュージアムの絵師は、言葉を切った。
老女は汗まみれになりながらも、視線を背けた。
タウンゼントは、苦笑して背を向けた。
「いいかね? 実験はなにもあなた方でやる必要はないのだ。ミュージアムには、死を恐れぬ者はいくらでもいる。たとえば、そう――そこの男、前に出ろ」
「アイ、サー!」
戦闘員《せんとういん》の一人が、前に出て不動の姿勢をとった。
「ミュージアムのために死ねるか」
「アイ、サー!」
「それが無益なものであっても?」
「もちろんであります、サー!」
「よし。では自分の足を撃《う》て」
「どちらの足でしょうか、サー!」
「左にしよう」
「イエッサー!」
叫ぶなり、男は肩付けに自動小銃を構えた。マズルを向けた先は、己の左足――その大腿部《だいたいぶ》であった。
――ドドドドド!
フルオートで発射された弾丸は、戦闘員《せんとういん》の大腿骨を木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に粉砕した。筋肉|繊維《せんい》が細切れになったのは言うまでもない。左足は切断されて宙に舞った。
「ウギャアアアアッッッ!」
噴《ふ》き出す鮮血《せんけつ》が、闇夜《やみよ》で弧を描いた。バランスを崩して倒れた男の腿《もも》から血はビュウビュウと流れ続け、シスターたちの顔面は蒼白《そうはく》になった。狂気の沙汰《さた》であった。
「押さえつけろ」
タウンゼントの指図によって、別の戦闘員らに、男は手足を掴《つか》まれた。そして続いた画家の行動は、奇妙という他《ほか》はなかった。彼はコートの胸元を広げると、なぜか一本の小筆を抜いたのである。インナーに挿《さ》してあったのは、数十本もの絵筆だった。
「第二七番筆……銘はトルキアの乙女《おとめ》……これにしよう」
呟《つぶや》くと、彼は毛先を、もがく男の足に押しつけた。
血を吸った刹那《せつな》、毛先が光った。ホタルのようだった。
膝《ひざ》をつくと、タウンゼントは目を細めた。画家の顔であった。
「とくとご覧《らん》あれ――我がハイアート」
その瞬間《しゅんかん》、腕が霞《かす》んだ。
――恐ろしいことが起こった。
タウンゼントの筆先は凄《すさ》まじい速度で動き、次第に空中に像を作っていった。足の絵だ。なぜか絵の具――鮮血《せんけつ》――は、空中から垂れることはなかった。そしてそれは、傷口に癒着《ゆちゃく》し始めたのである。
「なっ、なんてことなの……! その筆は、まさか……!?」
呆然《ぼうぜん》と呟く院長の目先で、奇妙な“創作”は完了した。
画家の腕が静止したとき、筆の下に存在したのは、血まみれの新たな足であった。
自らの偉業を誇ることもせず、妖画家《ようがか》は老婆《ろうば》を見た。
「……一九世紀末のロンドンに、ヴィタリスという名の画家がいた。吃《ども》るクセがある気弱な青年だったそうだ。彼が描く絵は、構図といいデッサンといい取るに足らないもので――実際に一枚の絵も残っていなければ、正確な名も分かっていない――しかし、ある特徴があった。彼が描いた絵は、すべて厚みを有し、生き物は魂を持ったというのだ」
タウンゼントはコートに絵筆を収めながら続けた。
「彼は食事に事欠くほどだったので、請《こ》われればなんでも――しかも安価で描いた。肉屋の看板がクックルーと鳴き、酒場の壁《かべ》から抜け出た女が踊り出す。おかげで彼は有名になったが、不幸なことに、そのスピードが速すぎた。財と名声、そしてそれらを使う知性を築《きず》く前に、宮廷に呼ばれてしまったのだ」
冷たい風が、痩《や》せ細った画家の髪を揺らした。
「ヴィタリスは王女に命じられ、御前で虎《とら》を描いた。ただ、学のない青年は虎というものを知らなかった。そこで彼は“想像の虎”を描いた。目が四つで足が六本、尻尾《しっぽ》が二本で背中にはコウモリに似た翼《つばさ》が二枚――まあ、キマイラだな。見かけは狂獣《きょうじゅう》だが、ただ、性質は大人しかったそうだ。しかし、ここで問題が起きた。王女のスピッツが、虎に噛《か》みついたのだ。虎が足を軽く振っただけで、スピッツは頭を吹き飛ばされて死んだ」
淡々と言いながら、タウンゼントは、院長の前で止まった。
老齢《ろうれい》のシスターの体は、小刻みに震《ふる》えていた。
「気弱な青年はすくみ上がった。処刑されると思ったのだろう。頭も弱かったというから、彼が感じた恐怖は察するに余りある。そしてヴィタリスは意外な行動に出た」
「な……なにをしたのです……?」
「壁《かべ》に描いたのだよ。一枚の扉《とびら》をな」
タウンゼントの口元に、陰鬱《いんうつ》な笑みがよぎった。
「扉の向こうには二つの太陽と石の山並み、草木一本も生えぬ荒野が広がっていたという。そして彼は、自分のお気に入りの筆を一本だけ掴《つか》み、扉の中に逃げ込んだ。ご丁寧に、扉を閉める間際に、ノブを白く塗り潰《つぶ》してな。それがヴィタリスの目撃《もくげき》された最後の姿となった。戻ってくるほど度胸がなかったのだろうな」
「で、ではその筆は、やはり……!」
「ヴィタリスの魔筆《まひつ》――彼がこの世界に遺《のこ》した五七本に及ぶ筆のセットさ。日記によると、灌漑《かんがい》工事の手伝いをしていた時に、貝塚の中からケースと共に出土したそうだ。もっとも、魔筆と言えど長い時には勝てないのか、今では描いたものが著しい速度で劣化するようになってしまっているがな。オーパーツというにはオカルトじみているうえ、なぜかこの筆は、自分とヴィタリスにしか使えない――わたしがハイ・キュレーターの中でも異端派と呼ばれる由縁《ゆえん》だよ。ちなみに虎の方は四八年後に天寿をまっとうしたらしい。骨は現在、我々ミュージアムの所蔵になっているがね」
タウンゼントは淡々と頷《うなず》くと、部下に命じた。
「痛みが取れるわけではない、時が来れば加筆した足も消える。騒《さわ》ぐようなら殺せ」
「はっ!」
揃《そろ》って首肯すると、戦闘員《せんとういん》たちは男を連れていった。
「――というわけで、無理にあなたたちを使う必要はないわけだ。幸か不幸か、我々にとって修道女の命など、ゴミクズも同然――生死などどうでもいい。小鍵《こかぎ》を持つ少女も、時間をかければ探し出せる。ただ、無駄《むだ》な手間は省くにこしたことはないのでね。わたしとしては、合理的な提案をしているつもりなのだが?」
しかし院長は答えず、呆然《ぼうぜん》と、
「……ああ、エルネストさんの話を信じていればよかった……! ではやはりあなたが無から有を創《つく》り出すと言われ……ザ・クリエイターの異名《いみょう》を持つハイ・キュレーター……」
「ディーン・タウンゼントと申します、シスター」
丁寧に、画家はおじぎした。
「でもどうして……! わたしがその名を初めて聞いたのは、子供の頃《ころ》よ……! それなのにあなたは……まるで青年のよう……!」
「……おしゃべりがすぎたようだ」
髪を下ろすと、妖画家《ようがか》は向き直って目を細めた。
「……答えを聞こう。さもなければ、あなたたちは己の願いをかなえる代わりに、最も大切なものを失うことになるが?」
「ああ……! ではすべて知っていて……!」
俯《うつむ》いた老シスターの顔に、絶望の陰が差した。
「断っておくが“ミーミルの井戸”はいずれ必ず探し出す。少女の行方《ゆくえ》は?」
「……お好きになさい」
顔を上げ、苦渋に満ちた表情で、院長は言った。
「……ある者の願いを受けて井戸からあふれ出した水は、かつてリッターの村を襲《おそ》い、全住民をこの世から消し去った。その悲劇《ひげき》を、再び繰《く》り返させるわけにはいきません。それにわたしたちには、まだ希望がある」
「希望ってさ、こいつのこと?」
茫洋《ぼうよう》とした声と共に、あるものが、タウンゼントの足下に転がった。
――黄金のバレッタだ。
闇《やみ》から現れたのは、部下の肩を借りたスプレイだった。
「……おまえか。遅かったな」
「ども。ちょっと心臓|潰《つぶ》されてるもんで」
と半壊《はんかい》した自分の胸を指す。
「そ、そんな、バレッタが……! では、ノイエは……!」
「安心しなよ。キンパツはフェイスの野郎と一緒だ。この国に戻ってる。明日には、ガルミッシュの方に着いてるはずだ」
「戦闘機《せんとうき》一機突っ込ませた程度ではどうにもならんか。小鍵《こかぎ》がヤツの手に渡っている可能性を考えると、全力で叩《たた》くこともできん」
忌々《いまいま》しげに吐き捨てると、タウンゼントは再び老シスターを見た。
院長は青い顔をしていたが、言を翻《ひるがえ》すことはなかった。
「……答えは同じです。わたしたちは、秘密を守るために存在しているのですから。少しでも希望が残っている限り……いえ、たとえ残っていなくとも、手助けになるようなことはいたしません」
「結構だ。では水の実用性を、あなたたちで検証させていただくとしよう」
頷《うなず》くと、タウンゼントは指を鳴らした。
白衣の男が頷《うなず》き、コンソールのスイッチを押した。
ガラス筒に繋《つな》がる装置の底部から、泡が生じた。接続されたパイプに無色透明の液体が流れ出す。水は分配器を通ると、八本のホースに分かれ、シスターたちを括《くく》りつけた鉄柱へと突き進んだ。
「ああっ、院長! 水が、水がこっちに!」
「主《しゅ》のことを考えるのです、シスター・アマンダ! 主とその御国のことを!」
老シスターが叫んだ瞬間《しゅんかん》だった。
――金属柱の先端が開き、水が噴《ふ》き出した。
シスターたちの変化は、水を浴びたと同時に始まった。体全体が、ぼんやり光り始めたのである。蛍光色のペンキをかけられたようだった。
見詰めるタウンゼントの顔は、やはり画家のそれだった。
「水の成分に変化は?」
「H2O――やはりただの水です。センサーの数値上は全く差異がありません」
後ろの白衣が、モニターを見ながら答えた。
「……光っているのにか」
冷笑して、タウンゼントは額《ひたい》にかかる髪をはらった。
「主《しゅ》よ、主よ……!」
「天にまします我らが神よ、願わくば、我ら子羊の魂を――」
――異変は、一瞬《いっしゅん》で起こった。
シスターたちの体が、目が眩《くら》むような閃光《せんこう》を放ったのである。
次の瞬間には、修道女たちは消えていた。いなくなったのである。縛《いまし》めるべきものを失った柱のベルトが、少し遅れて、地面に落ちた。
ただ、例外が一人。
ソバカスの残る右端のシスターがそうだ。
「そ、そんな! ではわたしの信仰は……!」
戸惑ったように辺りを見回す彼女の前に、おかしなものが降ってきた。
――一枚のエプロン・ドレス。
「ハハハ! 信仰の砦《とりで》グランツホルンと言えど、例外はいるか! しかしドレスの対価に、きみはなにを支払った?」
タウンゼントが嘲笑《ちょうしょう》した直後だった。
シスターの口から、血が噴《ふ》き出した。
壊《こわ》れた人形のようだった。呻《うめ》く間もなくシスターはうなだれ、動かなくなった。
処刑場を、悽愴《せいそう》の風が吹き抜けた。
やがて――タウンゼントは肩越しに振り返り、
「どうだ?」
「七人については揃《そろ》って特異点の発生を。別の次元に飛ばされたようですね。最後の一人については空中の原子変換を確認しました。ただ、厳密《げんみつ》に測定するためには、密室での再実験が必要かと思われます」
「やはり源は水か」
「ええ。推測にすぎませんが――原子間に存在する素粒子という形で、水分子に特殊な機能を持たせているのかも知れません。物質の形で性質を与えてしまうと、毒性を持つのかも。こればかりは観測不可能です」
「……しかし識閾《しきいき》下の願望までも顕在《けんざい》化させてしまうとなれば、実用性には疑問を抱かざるをえんな。現状では使い物にはならない……か」
妖画家《ようがか》は目を細めて呟《つぶや》くと、スプレイに振り返り、
「……時間の無駄《むだ》は避《さ》けよう。寝ろ、心臓を描き直してやる」
「どーも」
スプレイは軽く頭を下げると、パーカーを脱いで横たわった。歯車や青味がかった液体が行き来するガラスパイプ、駆動《くどう》ベルト――不条理なほど原始的な構造が露《あらわ》になる。
タウンゼントは、やはりコートを開くと、
「第一四番筆――銘はドワーフのヒゲでいくか」
「ふざけた名前ッスね。マジに大丈夫っスか?」
スプレイは淡々と訊《き》いた。
その首を、タウンゼントの骨ばった長い指が掴《つか》んだ。
呻《うめ》く改造人間を、画家は陰鬱《いんうつ》な双眸《そうぼう》で睨《にら》み、
「……いいか、忘れるな。今やおまえの体となっているプロトタイプ・タロスだが、サルベージされたときには頭部と心臓がなかった。本来なら、高さ二メートル、幅五メートルに達する外部動力原を引き摺《ず》らねば、おまえは寝返りすら打てんのだ――ミュージアムのロスト・テクノロジーをもってしてもな。それを動けるようにしてやっているのは、このわたしだ。侮辱は許さん」
「ぐぐ……すいません、タウンゼントさん……」
呻いて、スプレイは押し黙《だま》った。
タウンゼントは無言で筆を取った。壊《こわ》れた胸部に満ちる液体を絵の具に、自分の手のひらの上で、またもや筆を霞《かす》ませた。
数秒後――出来上がったのは、膨伸縮《ぼうしんしゅく》を繰《く》り返す、機械じかけのリンゴを思わせる代物《しろもの》だった。まさにザ・クリエイター。創造主の異名《いみょう》を持つだけはある。
「……ども」
既存の心臓を外し、スプレイは新品を受け取った。素早くパイプを繋《つな》ぎ直して蓋《ふた》を閉め、パーカーに頭を通して立ち上がる。
妖画家は数歩進むと、腰を屈《かが》めてバレッタに指を伸ばし、
「おまえの装甲を破壊《はかい》したのは、最新兵器を駆使する小娘の方か」
「あ、いや。やっぱフェイスです」
「……なに?」
黄金の髪飾りに指が触れる直前、タウンゼントの動きが止まった。彼は眉《まゆ》をひそめて、肩越しに振り返った。
「どういう状況だった?」
「いや、まあ。頭上から鉄パイプ攻撃《こうげき》で動き固めて、着地と同時に腹に蹴《け》り入れたんス。たぶん、そのときに。実はこっちもワンパン食らってたみたいで」
「……おまえの拳《こぶし》と足、そして胸部の装甲は、チタン合金で作り直したはずだ。素手でチタンを砕く、生身の人間が存在するというのか?」
「ヘロヘロな感じの野郎だったんですけどね。近寄らせたら、ヤバいのはチビじゃなくて、あっちの方ですよ」
「厄介《やっかい》な男め……! 九頭竜《くずりゅう》という古武道、一筋縄《ひとすじなわ》ではいかんようだな……!」
顔をしかめて、タウンゼントは吐き捨てた。
突然、部下の一人がやってきて、画家の耳元で、なにか囁《ささや》いた。
タウンゼントは頷《うなず》いてバレッタを拾い直すと、
「ヴァッテン!」
呼ばれて建物の方から、慌てて肥満漢がやってきた。脂ぎった顔に下卑《げび》た笑いを浮かべ、
「は、はい、タウンゼントさん、なんでしょう?」
「……おまえは手勢を連れ、街に下りろ。残った地区の占拠だ」
「ヘヘヘ……任してください!」
小走りで去っていく肥満漢を尻目《しりめ》に、妖画家《ようがか》は改造人間に向き直り、
「……ミュンヘン行きの列車に、修道女らしき姿の子供が乗り込んだらしい。あのブタでは話にならん、スプレイ、おまえがあとを追え。小鍵《こかぎ》は任せる」
「え……でも、フェイスはこっちに近付いてるんでしょ?」
「わたしが相手をするさ。どちらにせよ、今度はリッター大惨事を引き起こした老婆《ろうば》も探さねばならん。それに……妹のためを思うなら、功を上げておくことだ」
スプレイは束《つか》の間、目を細めた。妹という言葉に反応したのだ。
「……分かったッス。じゃ」
軽く頷くと、青年は山道を下る道へと歩き始めた。
が――途中、突然に立ち止まると、
「おれの元の体をボロボロにしやがったのは、てめえだろうが……! ええ? ガリガリな絵描きのおっさんよ……! ユーリのためじゃなきゃ、誰《だれ》がこんなこと……!」
のっぺりした顔に、初めて感情が生じた。
場所は戻って――シュタインベルガー湖の湖畔。
細々と燃え続けるキャビンの残骸《ざんがい》から、人影が飛び出してきた。
「あちゃちゃちゃちゃ!」
鷲士《しゅうじ》である。彼は飛び跳ねながら、体を被《おお》う火の粉をはたき落とした。最新技術が投入された機械式コートでも、全身をパックしてくれるわけではないようだ。
やがて一息ついて中腰になると、顔を上げ、
「美沙《みさ》ちゃ〜ん?」
――シーン。
「ノイエ〜? 冴葉《さえば》さぁ〜ん?」
返事はない。先に行ってしまったのだろう。冴葉やノイエはともかく、美沙が大人しくやられるはずがない。ため息混じりに鷲士《しゅうじ》は惨状に目を戻した。
疲労の濃《こ》い顔が、さらに青くなった。
「……ああっ、ダメだダメだ。やっぱりヤメさせなくちゃ、宝探しなんて。こんなこと続けてたら、そのうちあのコ、大ケガしちゃうよ」
が、視線を落とし、
「……でもなー、あっさり言いくるめられちゃうんだよなー。なんでなんだろ? 一二歳で宝探しやってるコを説得する本って、どこかに売ってないかなー」
ある意味、見上げた親バカぶりだが、さすがに今は事情が事情だ。肌寒《はだざむ》さに震《ふる》えると、彼はコートの襟《えり》を合わせた。
「と、とにかく――登山鉄道駅だっけ? に向かわないと」
顔を引き締《し》めて、左右を見渡す。
「えっと……ガルミッシュなんとかって……どっち?」
あっけなく、鷲士は途方に暮れた。
“場所がぜんぜん分からない!”
何の予備知識もなく、眠らされて連れてこられたのである。秘宝や登山鉄道駅がどうとかいう以前に、自分の居場所すらも分かっていなかった。
「思い出せ、思い出すんだ、鷲士……! ドイツについて、なんでもいいから……!」
ドイツ……正式国名、ドイツ連邦共和国。
人口は……ええっと……首都がベルリン。
……。
「ああっ、ぜんぜんダメだ!」
鷲士は身悶《みもだ》えた。大学生と言っても、しょせんはこんなもんである。
……あ、でも待てよ? 確か、南下するって、冴葉さんが……!
さんざん左右を見回した揚げ句、鷲士は、足を踏み出した。とにかく、ここにいては始まるものも始まらない。
――三歩も進まないところで、鷲士は急に腹を押さえた。顔をしかめながら、あてた手を目の前に持ってくる。
指先に付着するのは、ぬるりとした液体だった。
――鮮血《せんけつ》だ。
「それで、単衣《ひとえ》――EF2000の方は?」
ヘリの後部シートで書類を見ていた片桐冴葉《かたぎりさえば》は、眉《まゆ》をひそめて顔を上げた。
ドイツ・南部上空である。
前部座席の、メガネ+三つ編み女性が振り返った。
「あ、はい。どうやらドイツ空軍にもミュージアムの手が伸びているようです。スポークスマンの話では、機体はドイツ軍のものではない――でもパーソナル・ナンバーを、ウチの監視《かんし》衛星が捉《とら》えてますから。部隊も特定済みです」
膝《ひざ》にのせたノートPCと見比べて、部下――単衣《ひとえ》は言った。
西《にし》単衣――主に空母ライトニングで通信士官を務める冴葉の部下だ。といっても、フォーチュンは、動的に人員配置を変える組織なので、上司である冴葉が動けば、彼女たちもくっついて回るという仕組みである。
「ミサイルを使わなかったのは、恐らく実験飛行中の事故に見せかけるつもりだったからでしょうね。ミュージアムは、そんな小細工はしない。だとしたら、機を飛ばす判断を下したのは、きっと政府内部――映像には?」
「もちろん、動画で」
「……プレッシャーをかける材料には使えるわね。何枚か現像しておいて。それで……首相とのアポイントメントは?」
書類を膝の上に伏せ、冴葉は髪を掻《か》き上げた。
すると単衣が困ったように、
「えーっと……それがその……」
「たらい回し?」
「いえ、秘書のところまでは話が通るんですけど……相変わらずで。ただ、不審《ふしん》な命令は多岐にわたることから、内通者の権限は相当上か、と」
「首相自身の可能性ね」
「はい。考えたくないですけど」
「……ありえるわ。こちらに従う一方で、敵にも便宜をはかる。しょせんは日和見《ひよりみ》の連立が生み出した小物――裏で小銭を稼《かせ》ぐしか能のない男よ」
軽く受け流して、怜悧《れいり》な女史は命じた。
「それより――少し急いでくれる? 早めにホテルに戻って、少し眠っておきたいわ」
「あ、そうですよね――お願いします」
単衣に頼まれ、隣《となり》のパイロットも首肯する。
夜のアルプス上空で、ヘリは大きく回頭した――。
翌日は季節外れの寒気団が、未明からヨーロッパ全域を覆《おお》い尽くし、やけに冷え込む朝となったという。防虫剤の臭《にお》いが染みついたコートやセーターを引っ張り出し、顔をしかめながら袖《そで》を通す――ほとんどの家庭で、そんな光景が見られた朝。
そして――南部のとある山中。
地面を埋め尽くす枯れ枝を、黒いスニーカーが踏み砕いた。続く赤黒い滴が、落ち葉に染みを穿《うが》つ。
「ううう……」
腹を押さえて呻《うめ》いたのは、鷲士《しゅうじ》だった。顔が真っ青だ。
――あてた指の間からは、血が滴り続けている。
「ハァハァ……今回は……本当に……ハァハァ……まずいよ……」
息も絶え絶えに、鷲士は呟《つぶや》いた。
血が止まらない。
どうやら先のキャビン爆発《ばくはつ》で掠《かす》った木片が、腹部を切り裂いていたらしい。内臓には達していないようだが、血管の何本かは確実に切断されている。
……調子がよければ……北か南かぐらい……分かるのにな。
“九頭竜《くずりゅう》の人間は、地磁気を識別する”
鷲士の使う謎《なぞ》の古代|戦闘術《せんとうじゅつ》・九頭竜の拳士《けんし》は、およそ人間と言える存在ではない。ありとあらゆる肉体器官を制御下に置く。九頭竜は意図的に自らの心臓を止められるのだ。さらに電流のプラス・マイナスも、指先の感覚で察知するという。痛覚や血液の流れも同様である。意図的に遮断《しゃだん》可能だ。本気で戦い始めたときの九頭竜はゾンビも同然――肉体が物理的に損壊《そんかい》するまで、常に一〇〇パーセントの力を発揮する。
ただ、これらの超人的能力も長時間は持続しない。どこまで行っても地はヒトなのだ。単にエネルギー総量の問題である。通常の人間の一〇〇倍食えるわけではないので、常人以上のことをした場合、比例して体力を消耗する。エネルギーの蛇口が広いだけで、タンクの大きさは変わらないのである。
今回のような状況の場合、短期間なら出血を止められるものの、あとは集中力が続かなくなる。そこに残るのは――感覚が鋭《するど》いただの人間だ。
……あーあ。ひどいや。
口元が、笑いに歪《ゆが》んだ。
最初は、無性に腹が立っていた。個人的な怒りだ。冗談じゃないよ、どうしてぼくが。子供のやることに付き合うのも限界だ――。しかし、歩いているうちに高ぶりは和らぎ、父親の側面が顔を出す。ああ、あのコ大丈夫なのかな、ケガしてないかな――。甘いかも知れない。しかし以前、手伝うと言ったのだ。一方的に否定はできない。
……でも彼女の実家って、いったい?
美沙《みさ》のことを考えると、必ずその疑問に行き着く。
結城《ゆうき》グループ。旧財閥系で日本最大の複合企業体。結城の名を知らない人間は、日本人と言えないだろう。結城の事業展開はそれほどまで多岐にわたり、また巨大だ。しかし逆に人間像が見えてこないのである。
結城で鷲士《しゅうじ》の知り合いと言えば、美沙を除けば樫緒《かしお》だけだ。姉と同じ容姿を持ちながら、中身は全くの別物。冷静沈着――鷲士にこそ突っかかってくるが、ゾッとするような雰囲気を身にまとう。美沙の話では、力の強弱を除けば、一族全体が彼のような感じらしい。
……来訪者の末裔《まつえい》……か。
ますます謎《なぞ》は積もる。
自分のルーツ探し。それが美沙が宝探しをする理由だ。だが逆に考えると、結城という家自体が大きな謎そのものと言えなくもない。
ゆうちゃんも、今思えば、確かに不思議な力を使った。
「フフフ……風邪《かぜ》で死んだ……だもんなぁ……」
鷲士は歩きながら苦笑した。
ハッキリ言って、異様に怪しい。鷲士も信じてはいない。それでも深く追求しないのは、正確な答えを、鷲士自身が聞きたくないからだ。
彼女は……ゆうちゃんは……ひょっとして……!
「ハハハ……ぼくって……バカだよなー……イテテ」
枯れ木を踏みながら、彼は肩を揺らした。
ゼロに等しい希望にすがる自分がいる。だから結城のことには、あまり触れない。そのせいだろうか……親子と言うには、美沙と自分は、ちょっと変だ。
……もっとしっかりしないと。ぼくは。
やがて森が開け、鷲士はなだらかな丘陵に出た。
疲労の色が濃《こ》い顔に、笑みが射《さ》した。
――小さな村が見えたのだ。
「そこそこ……運はいいみたいだ……ヘヘ」
口元をほころばせると、体を引き摺《ず》って鷲士は緑の丘を下った。車道に下りると、ヨロヨロと足を引き摺りながら、街に入った。
不思議な感覚に、鷲士はとらわれた。
――石の村だ。
建物の大半が石製なのである。白塗りのものもあれば、聖書の一場面をフレスコ画で描いた壁《かべ》もあった。店のライトなど細かい部分は、電気によるもののようだが、さもなければ、まるで三〜四世紀前の街並みである。書物でしか知らない西欧の村に、突然迷い込んだような錯覚《さっかく》に、鷲士《しゅうじ》は襲《おそ》われた。
アスファルトの道を、手押し車の老婆《ろうば》が横切っていく。
「あ、あの……すいま……せん」
息も絶え絶えに、鷲士は手を上げた。
かむりの下から老婆は一瞬《いっしゅん》こっちを見たものの、慌てて行ってしまった。
「あ……」
ぼんやりと、鷲士は自分の腕を見た。
指先から肘《ひじ》に至るまで、血まみれだ。逃げるのも無理はない。
また、しばらく歩いた。
人影が見当たらない。車も一台通っただけである。きっと周辺交通路の末端にあるような村なのだろう。人口も少なそうだ。
……誰《だれ》でもいい。とにかく、病院を教えてもらわないと。
そう思って、交差点で顔を上げた。
道路対岸のパン屋が、目に入った。出入り口のガラス戸から、長細いパンの入ったバスケットが見えたのだ。幸いにも、店はやっているようだ。
「よい……しょ」
感覚がなくなりつつある半身を引き摺《ず》って、前に進んだ。
――おかしなことが起きた。
激しい勢いでパン屋のドアが開き、二人の人間が外に出てきたと思ったら、口喧嘩《くちげんか》を始めたのである。片方は、赤いショールの矍鑠《かくしゃく》とした老婆。片方は、白いコック帽を被《かぶ》った小太りの中年男。客と店主のいさかいらしい。凄《すさ》まじい調子で言い合っているが、ドイツ語なので鷲士にはサッパリだ。
道路の向こうからは、骨董品《こっとうひん》のオート三輪がやってきた。
ケンカは長引きそう――そして鷲士が声をかけようと、手を上げたときである。
急に老婆が、後退《あとずさ》った。パン屋に文句を言いつつ、道路を渡ろうとしたのだ。三輪が店舗《てんぽ》前を通り過ぎようとした瞬間に、だ。
「く……あぶない!」
叫んで、鷲士は地面を蹴《け》った。
重傷でも九頭竜《くずりゅう》――先日ホームで見せた跳躍《ちょうやく》力で、鷲士は老婆の腰を抱き取った。背後のブレーキ音を耳に、歩道に倒れ込む。
しかし――鷲士の中でも、なにかが切れた。
急速に意識が薄《うす》れゆく中で、鷲士《しゅうじ》が感じ取ったのは、脇腹《わきばら》への蹴《け》りであった。救ってやった老婆《ろうば》が、激昂《げっこう》しながら足蹴《あしげ》にしてきたのだ。
ひ……ひどい……なぁ……。
最後に苦笑して、鷲士は意識を失った。
一方、場所は北に戻って――ミュンヘン。
中央駅から一キロほど南下した地点にあるテレージエンヴィーゼは、凄《すさ》まじいまでの人出で賑《にぎ》わっていた。
ドイツ最大の祭り・オクトーバー・フェストの会場である。
地元のビールメーカー・ヴァイエンシュテファンのテントの片隅では、小汚い恰好《かっこう》をした幼い修道女が、一人。
――シスター・ルイーゼ。今となっては、グランツホルン唯一の生き残りである。
ルイーゼは、不安そうに辺りを見回した。テントと言っても、ロースクールの体育館ぐらいの大きさである。通るのは、民族衣装を着た大人たちや、さもなければ家族連れの観光客。みんな他人だ。
「先生……」
ルイーゼはすすり上げると、トボトボ歩き始めた。
「……お酒くさい」
哀《かな》しそうに呟《つぶや》いて、少女は辺りを見回した。どだいこんな大きさのテントで一人の人間を探すなど、大人でも無理というものだ。そしてテントを出て、会場の中央部――女神バヴァリアの像にさしかかろうとしたとき――少女の頭上を、影が覆《おお》った。
目の前にいたのは、狩人の扮装をした、大柄の男だった。
「……こんにちは、小さなシスターさま。顔色が悪いね」
男は淡々と言うと、ルイーゼの頬《ほお》に触れた。大人の手だった。
――指はすぐに、修道服の襟元《えりもと》をさぐった。
「ヒ……!」
少女の顔に衝撃《しょうげき》が走った。駆《か》け出したのは、当然の反応だった。
「待て!」
背後から伸びる手を頭を引っ込めて躱《かわ》し、ルイーゼは走った。中世の村娘の扮装をした女性たちの横、営業マン風の一団の傍《そば》を抜け、女神像の前へ。
突如腰に強い衝撃を受け、ルイーゼは倒れた。蹴《け》られたのだ。顔面を地面に強打し、小さな鼻から血が流れ出す。
「あううう……」
ボロボロと泣き始めた少女に声をかけることもなく、男はしゃがみ込むと、少女の体をまさぐり始めた。フレイアの小鍵《こかぎ》を探しているのだ。
が――救世主は意外な形で現れた。
「……おい」
涼しげな声が背後からかかり、男は無言で振り向いた。
――野太い首に、爪先《つまさき》がめり込んだ。パンプスの一撃《いちげき》であった。
男は女神像の土台に頭をぶつけ、仰向けに倒れた。だが、救世主は容赦しなかった。パンプスは、今度は喉《のど》を踏んだのだ。しかも、かなり強く。
「……公衆の面前で女のコを襲《おそ》うか。バカはドイツも日本も変わらないな」
「ぐぐぐ……」
男は呻《うめ》いた。ゴキゴキと喉から音がする。パンプスの主が、あと少し足に力を込めれば、喉仏ごと気管は潰《つぶ》れてしまうだろう。
咳《せ》き込みながら顔を上げた少女の鼻先に、ハンカチが出現した。
軽く低頭して立ち上がったルイーゼは、あとで次のように言っている。
“女神かと思った”
ただし救世主は和製だった。
麻当美貴《まとうみき》――和洋を超越した美貌《びぼう》の持ち主は、ぼんやりと見詰めるルイーゼに薄《うす》く微笑《ほほえ》みかけると、流暢《りゅうちょう》なドイツ語で訊《き》いた。
「キミ、大丈夫? ケガはなかった?」
ルイーゼがコクコク頷《うなず》いたのは、言うまでもなかった。
第三章 全能の水
北も南もアルプスに囲まれたドイツ南部の小さな村の一角では、今、ちょっとした騒動《そうどう》が沸き起こっていた。
村の名はオーバーアマガウ――OBERAMMERGAU――という。
人口は約五〇〇〇人。驚《おどろ》くほど少ないとは言えないが、行政区画としては、まあジリ貧の域だろう。郊外の小高い丘から見渡せば、村がスッポリ視界に収まるレベル――絵葉書など、写真の構図としては抜群の素材というところだが、悪く言えばその程度。石造りの家が作り出す街並みは、ドイツ国内でもかなり珍しいのに、交通の便が悪すぎて――鉄道の終着駅だったりする――立ち寄ってくれる観光客もそう多くない。名物と言えば、一〇年に一度、村人が総出で行うキリスト受難劇《じゅなんげき》ぐらいで、普段は静かな村だ。
そこに、騒動が起こった。
村の少年たちは、目的地の郊外へ走りながら、口々に言った。
「あのガミガミばあさんが、ついにやっちまったってさ!」
「痩《や》せっぽちの東洋人を血まみれに?」
「まずいんじゃないの、それ? 観光客?」
「いや、荷物持ってなかったから、ホームレスだろうって、シュトスんトコの親父《おやじ》が。パンくださいって寄りかかってきたところへ、蹴《け》りだってさ」
「うわ……鬼だな」
彼等《かれら》の目的地である郊外の一軒家には、すぐに着いた。少しバロックの入った、二階建の小さな屋敷《やしき》といったところだ。少年たちは、ドアの脇《わき》にある小窓から、我先にと内部の様子を窺《うかが》った。
階段下の突き当たりの部屋から、二人の人物が出てきたところだった。
「いやはや……凄《すご》いな、あの青年は」
そう言って額《ひたい》の汗を拭《ふ》いたのは、白衣の小太りの医者である。
もう一人――屋敷の主人らしきシワシワの老婆《ろうば》が、眉《まゆ》をひそめ、
「ハ、ハッキリ言いな、ミハイル。あの男……もうダメなのかい?」
「は? い、いや、違うよ、マレーネ婆《ばあ》さん。逆だ。わたしはね、あの青年の治癒《ちゆ》能力に驚いているんだよ」
医者は部屋を見つめながら言った。
「あんたも見ただろう? 血を拭いて抗生物質を投与しただけだというのに、呼吸が落ち着いた途端、血が完全に止まってしまった。柔らかいが、バネのある筋肉――脇《わき》と肩内側にも触れてみたが、筋肉の付き方が、常人はもちろん、スポーツ選手とも少し違う。あれは特殊な鍛《きた》え方をしている証拠だ。呼吸も一分間に八回――あれが噂《うわさ》に聞く東洋の“センニン”ってヤツなのかも知れんよ。構造は我々と一緒だが、体の使い方が明らかに違う。不思議だ。いったいなんなんだい、彼は?」
「知るわけないだろう、わたしがそんなこと」
と老婆《ろうば》は鼻を鳴らした。
「とにかく、大丈夫なんだろうね? わたしが訊《き》きたいのは、そこだ」
「ああ。いちおう縫《ぬ》ってはおいたがね、ただ、その必要があったかどうか怪しいもんだ。夕方になる頃《ころ》には、もうピンピン動き出しとるかも知れん」
「フ……ン。そういうことなら、もうあんたに用はないよ。ほら、出て行きな」
と出口を指して、シッシッ。
小太りの医師は、呆《あき》れたような顔をしながらも、
「それはいいけど……ちょっとまずいよ、マレーネ婆《ばあ》さん。どうしてあんなこと」
「なんだい急に。あんなことって?」
「だ、だって、パンの耳をくれって来た彼を、持ってた日傘《ひがさ》で串刺しにしたんだろう? おまけにベルニの親父《おやじ》に車で轢《ひ》かせようとしたって、シュルツのヤツが」
「……この馬鹿《ばか》たれ!」
喚《わめ》くや否や、傍《そば》のホウキを手にとって、マレーネは振り上げた。
「わっ、婆さん!?」
「気安くババア呼ばわりすんじゃないよ! あんたが教会の屋根にのぼったっきり下りられなくなったとき、誰《だれ》が助けてやったと思ってるんだい!?」
「よ、よしてよ、三〇年も前の話だよ!」
「ハン! わたしにとっちゃ、昨日も同じさ! あの行き倒れはね、バカなベルニがわたしを轢き殺そうとしたところを、救ってくれたのさ! 腹の傷は最初から負ってたんだ! 確かに最初は強盗かと思って踏んづけたけど……傘で刺したりするもんか! なのに、この泣き虫ミハイルと来たら! 命の恩人を疑うような真似《まね》を!」
「うわ、いたた! 分かった、ごめんよ!」
「申し訳ありません、マレーネさん――だろ!」
「も、申し訳ありません、マレーネさん! じゃ、ぼくは行くよ! なにかあったら、病院の方へ! 今日は八時までいるから!」
慌ててドアのところまで行くと、医師はノブを掴《つか》んで飛び出した。
「うるさい! 用があったら、夜中の二時だろうが遠慮《えんりょ》はしないさ! ついでにそこのガキども連れておいき!」
彼女が喚《わめ》くと同時に、子供たちの顔も引っ込んだ。辺りが静まり返ったのを確認し、ホウキを戻して、老婆《ろうば》は部屋に入った。
ドアを開けた途端、体を起こす東洋人と目が合った。
「えっと……グーテン・ターク……でいいんでしたっけ?」
オドオドと、鷲士《しゅうじ》は手を振った。
一瞬《いっしゅん》、眉《まゆ》をひそめたものの、老婆は言った。
「……大人しく寝てりゃいいんだ、日本人。車に轢《ひ》かれそうになったところを助けてもらったのは感謝《かんしゃ》してるけどね、やり方がなってないんだよ。揚げ句の果てに、血まみれでブッ倒れて……どっちが助けたのか分かりゃしない」
ボケ青年は、呆気《あっけ》にとられた。
しわくちゃの口から出たのが、流暢《りゅうちょう》な日本語だったからである。
「おおお、お婆《ばあ》さん! 日本語|喋《しゃべ》れるんですか――うわ、いてて!」
「バカ。腹に深さ二センチ、長さ五センチのキズを負ってるんだ、動くんじゃないよ」
「つつつ……す、すいません。じゃ、遠慮《えんりょ》なく」
ペコリと頭を下げて、再び布団《ふとん》の中に潜《もぐ》る鷲士だ。
「で……あの、ここ、どこなんですか?」
「あたしの家さ。オーバーアマガウって、チンケな村のね。あんたはどっから?」
「さ、さあ?」
「さあ? なんだい、そりゃ?」
「えっと……でっかい湖があったところから。ちょっと地名まで分かんなくて……そこでケガしたんですけど」
「でっかい湖? シュタインベルガーかい? 呆《あき》れたね、何キロあると思ってんだ。それじゃブッ倒れて当然だよ」
鼻を鳴らしたマレーネだが、重病人を一瞥《いちべつ》すると、
「……フン。で、どうする日本人。なにか食えるかい?」
「あ……すいません。なにかいただけるんですか? だったらぼく手伝い……いたた!」
「……これだから日本人てヤツは」
煩悶《はんもん》する鷲士を見て、老婆は、ため息混じりに天を仰いだ。
「いいかい、あんたは大人しく寝てるんだ。今、シチューをあっためてきてやる。ちょっと来客中だから、時間はかかるかも知れないけど、用事があったら大声で叫びな。また流血|騒《さわ》ぎになったら、なに言われるか分かったもんじゃない。いいね? もうしばらくは、動き回ろうなんて考えるんじゃないよ」
「は、はい。お手数かけてすいません」
頭を下げる鷲士に頷《うなず》いて、老婆は再び部屋を出た。階段の傍《そば》を通り、今度は奥のリビングへと足を運ぶ。
質素な居間には、逆光になった客人の影があった。窓際のソファに腰かけている。その隣《となり》のソファには、燕尾服《えんびふく》姿の高齢《こうれい》の老人がいた。
部屋に入るなり、マレーネは体を震《ふる》わせた。
「……間違いない。あんたのおかげで、部屋の温度が二度は下がってるね」
「な、なんですと!? こちらはもう二時間も――」
片言のドイツ語で執事らしき老人は喚《わめ》いたが、言葉を止めた。隣の人影が、無言で手を上げたからだ。黙《だま》れ、口を出すな――の合図だ。
そして影は口を開いた。
「……朝食をとってないとの仰せなので、我々は二時間待ちました。お返事は?」
少しハスキーだが、流暢《りゅうちょう》なドイツ語だった。
マレーネは皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「ハン、こっちはパン屋の前で、傷だらけの行き倒れを拾って大変だったんだ。なんか死にかけててね。お返事はもちろん、朝食どころじゃなかったのさ」
「……お疲れさまです」
「そう言えばあんた――手伝うどころか、顔すら出そうとしなかったね。ここにいたっていうのにさ? あっちでのドタバタ、聞こえなかったなんて言うんじゃないだろうね?」
少し間を置いて、影は答えた。
「……この瞬間《しゅんかん》にも世界のどこかでヒトは死んでいます。残念ですが、それをいちいち悲しむような感情を、ぼくは持ち合わせていないもので」
「呆《あき》れたね……! 同じ家で死人が出かねない場合でも、指一本動かす気は起きないってのかい……!」
老婆《ろうば》の顔は、露骨《ろこつ》な嫌悪《けんお》に歪《ゆが》んだが、影は気にも止めなかった。
「……道徳について論じるため、ドイツへ来たのではありません、マダム。ぼくはズィルト島の土地売却を、約束通り履行《りこう》していただくために来たのです」
「……死人が出そうなのに知らん顔、揚げ句の果てに商売の話! どうかしてるよ、あんたたちの一族は! まだガキだってのに、ゾッとするね!」
そしてマレーネは、こう吐き捨てた。
「これだからイヤなのさ、ユウキの人間は……!」
「……どう思われようと結構。しかし一族同士の約束は守っていただきますよ、マレーネ・シャライヒャー夫人?」
結城樫緒《ゆうきかしお》――鷲士《しゅうじ》の実の息子にして、日本最大のコングロマリットの次期総帥は、美沙《みさ》と同じ美貌《びぼう》に少しも感情を表すことなく、静かに立ち上がった。
鷲士、樫緒とも、互いがこんなに近くにいるとは、まだ知らない――。
時間は前日の夕刻まで遡《さかのぼ》って――ミュンヘン空港。
麻当美貴《まとうみき》が、友人・宮前麗華《みやまえれいか》とドイツの地を踏んだのは、実は鷲士《しゅうじ》たちより遅かった。単に民間航空の接続の問題である。
「よぉーし、やっと着いた! 遊ぶわよぉ〜!」
ソバージュ・ロングの美女が、ロビーを出たと同時に、うーん、と背伸びした。
――名を宮前麗華。
美貴と同じくカトレア女学館付属の出身で、やはり某企業体の令嬢《れいじょう》だ。相模大《さがみだい》へ鞍《くら》替えした美貴とは違って、現役のカト女大生である。ただ、お嬢さまには、世間と外れすぎて少し感覚がおかしい者や、財に任せて遊び惚《ほう》ける者など、いくつかのタイプが存在し――美貴を前者とすると、麗華は間違いなく後者だ。
その後ろで、ため息混じりに、
「……面白いところって言うから楽しみにしてたら……ドイツか。凄《すご》い期待外れ。詐欺《さぎ》に遭った気分で、こういう感じなんだろうね」
髪に手を当てながら、美貴がこぼした。
麗華が、不満そうに振り返り、
「なにを偉そうに。ったく、これだから常軌を逸した大金持ちは〜」
「キミだってそうだろう」
「ごじょーだん。美貴のトコはさ、異常なのよ。カト女がエリート校だって言っても、ミュンヘン来て期待外れなんてほざくの、あんただけ」
「そういうもの?」
「そういうもの。ほら、さっさとタクシー止めな。こっちは誰《だれ》かさんみたいに、一度|憶《おぼ》えた言語はベラベラ喋《しゃべ》れるってワケじゃないんだから」
「……通訳か、わたしは?」
そして――。
「ほらほら、あれがフラウエン教会だってさ!」
「……知ってるよ」
「おお、これが噂《うわさ》のオリンピック公園!」
「……前も同じことを言ってたような」
「やっぱり夜はバイエルン州立|歌劇場《かげきじょう》よね!」
「あ、このオペラ、前も観《み》た」
とまあ、こんな感じで女子大生二人はドイツの夜を楽しんだ――少なくとも片方は。彼女たちがホテルに戻ったのは、午前一時を少し回った頃《ころ》だった。
シャワーを浴び、黒い下着のままベッドで大の字になると、麗華《れいか》は背伸び。
「あーっ、面白かった! やっぱいいわ!」
「……まあまあかな」
「うるさい、明日は目的のオクトーバー・フェスト! まだ行ったことないんでしょう? 朝からガンガン行くわよー、あんたも覚悟しときな!」
「……それって、面白いの?」
俯《うつぶ》せで頬杖《ほおづえ》をつきながら、美貴《みき》。こっちの下着は白だ。
麗華は体を起こすとニヤリと笑い、
「うふふ――ヒ・ミ・ツ♪」
「……女が女相手にやっても気持ち悪いだけなんだけど。会場へは、中央駅の4番線でいいんだっけ?」
「そっ。テレージエンヴィーゼ。舌|噛《か》みそ」
「期待してるよ……ほどほどに。じゃ、電気消すね」
肩をすくめると、美貴はシェードに手を伸ばした。
「え〜、もう? もっと話しましょうよ〜」
「どうせ明日は朝からだろう? 寝るの」
カチリと音がして、すべて真《ま》っ暗闇《くらやみ》へ――。
――ドン、パン!
――パンパン、ドン!
翌朝のテレージエンヴィーゼの空は、見物客と参加者の歓声《かんせい》、そして花火の音で、埋め尽くされていた。
ここが、オクトーバー・フェストのメイン会場である。一六日間もの期間中、全世界から約七〇〇万人もの人間を呼び寄せる、怪物的なお祭りの中心地だ。ドイツ一どころか、世界一と言っていい規模である。
起源は一八一〇年――ルートヴィヒ一世の結婚祝賀会に遡《さかのぼ》り、催しは一〇月最初の日曜日から逆算して、二週間前の土曜日から始まる。元々が宴会から発展したものなので、酒飲んで騒《さわ》いで――民族的な側面もあるにはあるが、今では実質的なビール祭りだ。テレージエンヴィーゼの会場には、地元をはじめとした世界各地から、最低でも五〇〇〇人規模を収容する巨大なテントが一四〜一五も建てられ、期間中はビール約六〇〇万リットル、ソーセージは四〇万本が消費されるという。体質的に滅多《めった》に酔わないドイツ人も、この祭りでは自ら進んでへべれけになるほどである。
会場の象徴・女神バヴァリア像|傍《そば》の小さな出店から、唐突に女の笑い声が上がった。
――日本語で、である。
「死ぬまでしゅーくんを動かしてあげるぅ〜? アハハ、なにそれ、ブキミー! そりゃ、鷲士《しゅうじ》さんだって引くって〜!」
麗華《れいか》だ。ジョッキでビールをグヒグビやって、プハー。
横では、グラスに口をつけた美貴《みき》が、ちょっと赤面してねめつけ、
「う、うるさいなぁ。あのときはそう思ったんだっ」
とゴクゴクゴク――喉《のど》が上下する。
ジョッキを置くと、美貴は視線を落とした。
「……だって彼が足引き摺《ず》るようになったの、わたしの責任だし」
「なにそれ? 単なる罪悪感?」
「ち、違う! そんなことない! 確かにゼロってワケじゃないけど、単なる罪悪感で子供まで作るもんか! わたしは彼を愛してたし、今でもそうなんだ!」
イスを倒して立ち上がった美貴を見て、麗華はニヤニヤ。皿《さら》の上のソーセージにフォークを突きたて、
「はーいはい、ごちそうさま。あんたもこれ食って落ち着きな。ほーれ、ミュンヘン名物の白ソーセージだよ〜、おいしいよ〜」
「ううう、うるさい! どうせわたしは、バカですよ!」
美貴《みき》は赤面すると、プイと、顔を背けた。
「……だいたい、どうして朝からビールなんだ?」
「だって美貴がさ、パーッて騒《さわ》いで、酒でも飲みたい気分て言うから」
「……それでドイツまでわざわざ? 確かに言ったけど……もう」
ため息をついて、再び腰かけ直す美貴である。
「おまけにさ、このビール――ヴィースンビーアって名前らしいけど――期間中しか飲めないんだよ? ほら、飲みな飲みな」
「飲んでるよ」
「ああ、うまい! で、聞いてもらいたいことって?」
「あ……うん」
美貴は顔を伏せ、
「実は……最近さ、彼、モテるんだ。それで、ちょっと」
「鷲士《しゅうじ》さん? ふーん、ま、今さらって感じだけど」
「え……どういう意味?」
「だってさ、ファミレスでバイトしてた頃《ころ》は、鷲士さん、けっこー人気者だったじゃん。制服のベストも似合ってたし。素材は文句なしでしょ」
投げやりに答え、麗華《れいか》はソーセージをはむはむ。
すると美貴はショックを受けたように、
「そ、そんな風に思ってたの? 初耳」
「ま、私服に戻ると、ビンボー丸出しなのがアレだけどね。で、それがまたどーして? 相模大《さがみだい》だとさ、あんたの影響《えいきょう》もあって、鷲士さんからきしでしょ? なんでいきなりモテモテくんになっちゃうワケ?」
「モ、モテモテってワケじゃないけど……実はね……」
――日は少し遡《さかのぼ》り、迦具夜比売《かぐやひめ》伝・異聞録事件から、数日後のこと。
美貴は久し振りに美沙《みさ》を青山の某喫茶店に呼び出すと、通りが見える席で、丸テーブルに厚めの封筒を置いた。
『なぁに? これが呼び出した理由?』
と封筒を覗《のぞ》き込む美沙である。
――札束だ。三束で、計三〇〇万円。
テーブルに戻すと、娘は白い目を向けてきた。
『……なんかさぁ、意図が不明で気持ち悪いんだけど? なんのつもりか知らないけど、わたし、こんな小銭じゃ買収なんてされないからね。どーせ鷲士《しゅうじ》くんの寝顔かぁ、さもなきゃおフロ入ってるトコ盗み撮りしろって――』
『あ、あのねーっ。自分の母親、なんだと思ってるんだ、キミは?』
美沙《みさ》は、チュー、とストローをくわえたのち、
『んとね、七歳でエッチしちゃうような母親』
『うぐ……!』
恨めしい思いで、美貴《みき》は自分の分身を見た。一気に弱点を突いてくる、とんでもない娘である。おかげで頭が上がらない。
『あ、愛があったもん。今もあるもん』
『そーだね、双子《ふたご》分のね』
『な、なんでそんな言い方するんだ!? 美沙はわたしのこと嫌《きら》いなの!?』
『ヤ、ヤダ、なに涙目になってんの?』
『だって、だってさ……グスッ……美沙は、わたしに会うと皮肉ばっかり言うしさ。樫緒《かしお》は樫緒で、なんか冷たいしさ。二人とも、ほとんど会ってくれないし、わたしひょっとして、ホントにキミたちに嫌われてるんじゃないかって……グスッ』
『バ、バカねー、ちょっとからかってるだけじゃん? 樫緒ちゃんは、えっと、あいつ元からあんな感じで、ヒトの心よく分かってないっていうか、悪意はないのよ、悪意は。ホントにもぉ……しよーがないな、ほらぁ、これでカオ拭《ふ》いて』
差し出されたハンカチ――当然ベルサーチ――で、涙を拭《ぬぐ》い、
『……じゃあ、美沙は、わたしのこと好き?』
『そりゃあ、う、うん。だって美貴ちゃん。実のママだし』
『ホントに? 愛してる?』
『あー、はいはい。愛してる愛してる。愛してるからさ、とっとと本題に入ってよぅ。わたしこー見えても、平日は忙しいヒトなんだから』
世話の焼けるおかーさん、とため息混じりに、美沙。
嬉《うれ》しかったので、美貴はニッコリ笑い、
『そっか。エヘヘ……美沙、ちゃんとわたしのこと、愛してくれてるんだ』
『……だからぁ、本題。帰っちゃうぞ』
『あ、うん。だから、そのォ……うん。このお金でさ、しゅーくんに服でも買ってあげてくれないか?』
『……はぁ?』
眉《まゆ》をひそめた美沙の前で、美貴は恥ずかしそうに、
『だ、だってさ、みんなしゅーくんのこと、ボロクソにけなすんだ。ビンボーくさいとか、カネのなさが漂ってるとか――ひどいと思わない?』
『だから、いい服着せてやれって?』
『う、うん。いちおう』
『……バッカみたい。ほっときゃいいじゃん、そんな外野。オトコ見る目がないだけの三流どもでしょ? 施設の出だし、ビンボーなのは鷲士《しゅうじ》くんのせいじゃない。てゆーかさ、そもそも美貴《みき》ちゃんがおカネ出すのって、筋違いだよ』
『筋違い? どうして?』
美貴は首を傾《かし》げた。
『だってさ、ぜんぜんカンケーないじゃん』
『ど、どこが!? ちゃんと血が繋《つな》がってるでしょう!?』
『うん。わたしと樫緒《かしお》とはね。でも、美貴ちゃんと鷲士くんは他人でしょ。鷲士くんと血縁《けつえん》関係にあるのは、この世にわたしたち双子《ふたご》だけ』
美沙《みさ》はあっさり肩をすくめた。
固まった美貴の手からティーカップが落ち、床で派手に砕け散った。
『な、なにそれー!? ずるーい、卑怯《ひきょう》!』
『うわっ! ちょ、ちょっと、落ち着きなよ!』
『なんでー!? おかしいよ、そんなのー! ヘン! わたし、キミたちの母親だぞ!? それなのに……なんでっ!?』
『いや、だって……美貴ちゃんと鷲士くん、血が繋がってたらまずいでしょ! ケッコンしてるワケでもないし!』
『そ、そうだけどォ……!』
座り直した美貴だが、娘をねめつけ、
『……うー、でもなんか許せない。わたしより彼に近い人間が、この世にいるなんて。ずるいよ、そんなの』
『あ、あのねーっ。子供なんだから当たり前でしょ。ったくぅ、鷲士くんのことになると目の色変わるんだから。ムスメに嫉妬《しっと》してどーすんのよ?』
『わ、わたしはしゅーくんの一番じゃなきゃヤなんだっ!』
ところが本音に答えたのは、美沙の白い目だった。薄情娘《はくじょうむすめ》はあっさり席を立つと、
『付き合いきれない。じゃ、そーゆーことで――』
『あっ、待って待って! ひどいよぉ!』
美貴は慌てて、美沙の小さな腕にしがみついた。他人――特に部員たちには絶対に見せられない姿だが、このときは場合が場合だったのだ。
『なぁに? まだなんか用?』
『だから! おカネ、持っていってよ!』
『無駄《むだ》だってばぁ。鷲士くん、その辺りすごーくカタイんだから。娘からなにか貰《もら》うワケにはいかない、なんて言っちゃってさ』
『じゃ、じゃあさ、キミの会社の試供品だとかなんとか! やりようはあるだろう!?』
とギューッ。
美沙《みさ》はため息をついて、テーブルの封筒と美貴《みき》を交互に見比べた。
『……分かったよぉ。でも、あんま期待しないでよね』
「……はあ。それで鷲士《しゅうじ》さん、いい服着るようになったの? んじゃ自爆《じばく》じゃん」
呆《あき》れたような親友の問いに、美貴は顔を赤らめ、
「う……だ、だって美沙ったら、彼にアルマーニだぞ? スーツしかデザインしてないと思ってるような人間にさ? 女って目ざといんだ、ウチの連中が黙《だま》って見てると思う?」
「アハハ、でも鷲士さんらしいよねー。あの辺のランクになるとさ、肌《はだ》ざわりで分かりそうなもんだけど。まさにボケ倒し」
「ディスカウントショップで買ってきたって美沙のウソ、頭から信じてるみたい。もう、ヒトのよさは一三年前と変わってないんだから」
少し不満そうに、フォークで皿の料理をツンツン。
「でさ、どうすればいいと思う?」
「ビンボー人に戻せば?」
「あ、無責任。それはイヤ。解決になってないよ」
麗華《れいか》はため息をつくと、頭をポリポリ掻《か》き上げ、
「だってさ、あっちには美沙がついてるんでしょ? だったら大丈夫よ、きっと。あんた以外の女を近付けるとは思えないんだけど?」
「う、うん。美沙も取り持ってくれるつもりではいるみたい」
「ほれほれ。まあ、あのコに任せるとムチャクチャになる恐れもあるけどね〜。ケタとタガが外れてるってゆーかさ」
「あ、でも可愛《かわい》いとこもあるよ。なんていうか……しゅーくんのいいところを、わたしに必死になって売り込もうとしてるっていうか。そんな必要ないのにさ」
「いいとこ? どんな?」
「しゅーくんが、実は拳法《けんぽう》の達人だって、美沙が」
ジョッキに口をつけた麗華の動きが止まった。
「……は? ケンポー?」
「クズ流って変な名前の」
「ク、クズ流ぅ?」
「そう。クズ流。バズーカの弾|掴《つか》んだり、水の上に立てるんだって」
美貴は頷《うなず》いた。
「……ま、まあ、両親を必死になってくっつけようとしてる子供の行動っていうか……でもネーミングが最悪だわね。クズはないでしょ、クズは。ウソだってバレバレじゃん」
「今どき拳法《けんぼう》っていうのもねー。わたしか弓道やってるから、つり合いを取ろうと思ったんだろうけど、ちょっと」
「ま、でも可愛《かわい》いじゃん。子供っぽいってゆーか」
「でしょう? こっちが聞き流してるとね、あの子ムキになるんだけど、そこがまた可愛いっていうか。エヘヘ」
テーブルに寝そべって、はにかむ美貴《みき》だ。
――この思い込みが、美沙《みさ》から不信感を買いまくる原因の一つになっているのだが、当の美貴さまは知る由もなかった。
が――ミス・キャンパスの眉間《みけん》に、突然、シワが刻まれた。
「なに? どうしたのよ?」
と麗華《れいか》も視線を追った。
人ごみを走る幼い修道女――それはいい。しかし死に物狂いに等しい少女の表情と、後ろに続く狩人の扮装をした大柄な男に、二人は眉《まゆ》をひそめた。
「親子……って感じじゃないよねぇ?」
麗華が呟《つぶや》いたときであった。アーチャーのベストがめくれ、懐《ふところ》のものを露《あらわ》にした。
――ショルダー・ホルスターである。
懐の拳銃を目にしたと同時に、美貴はテーブルを跳び越えていた。一切の躊躇《ちゅうちょ》もなく、二人を追いかける。
女神像の前に着いたとき、少女は押し倒され、その体を男がまさぐっていた。
美貴の顔から、感情が抜け落ちた。
「……おい」
異様なほど冷めた声で、美貴は言った。
振り向いた男の首めがけて、美貴の長い足が霞《かす》んだ。喉《のど》をパンプスの爪先《つまさき》に直撃《ちょくげき》され、男は吹っ飛んだ。台座に頭から激突し、地面に倒れる。しかし美貴の行動は止まらなかった。狩人の傍《そば》に歩み寄ると、喉を踏みつけたのだ。容赦などかけらもない。
「……公衆の面前で女のコを襲《おそ》うか。バカはドイツも日本も変わらないな」
「ぐぐぐ……」
美貴は男を踏みつけたまま、少女にハンカチを差し出した。少女は体を起こすと、ぼんやりと救世主を見つめた。
「キミ、大丈夫? ケガはなかった?」
少女は、コクコク頷《うなず》いた。
「はぁはぁ……なにやってんのよー、美貴、あんたは! 樫緒《かしお》くんから揉《も》め事に首を突っ込むなって言われてんでしょーが!」
やっと追いついた麗華《れいか》が、肩で息をしながら喚《わめ》いた。
しかし美貴《みき》は、足にさらに力を込め、
「酔っぱらい同士のケンカとはワケが違う。子供に手を上げるなんて許せない。こういう状況に首を突っ込んでこそ、大人。だろう?」
「うわ、またそーゆー理想論を……! 急に大人ぶるんじゃないわよ、この前まであんたもわたしも一九だったでしょ!? それに……父親とかだったらどーすんの!」
すると美貴は瞬《まばた》き。少女に顔を戻すと、ドイツ語で、
「こいつ……お父さん?」
「ち……違いますっ! 悪いヒト!」
「ほら。悪いヒトだって」
とギリギリ。パンプスを男の喉《のど》に食い込ませて、懐《ふところ》から拳銃《けんじゅう》を抜き取った。ゴミでも扱うような手つきで、後ろへ放る。相手の顔は、既に土気《つちけ》色だ。
「ちょ、ちょっと、美貴!? 死んじゃう死んじゃう!」
「フ……死ねばいいんだよ、こんな変態。麗華おかしいよ、どうしてこんなヤツの命の心配なんかする?」
薄《うっす》らと微笑《ほほえ》んで、美貴。敵と見れば一切の容赦なし――結城《ゆうき》の血がもたらす冷酷さだ。
サーッと音を立てて、親友の顔から、血の気が引いた。
「バ、バカ! あんたがそうだから、双子《ふたご》もあんな極端な性格になっちゃうのよ! もうちょっと親の自覚持たんかーい!」
「ムッ。なにそれ」
「美沙《みさ》はやることなすことムチャクチャだし、樫緒《かしお》は他人なんか石コロぐらいにしか考えてないし! ぜーんぶあんたが原点なのっ! そんなんだとね、また鷲士《しゅうじ》さん引くわよ! ケッコンなんて、絶対に無理ね!」
今度は、美貴が青ざめる番だった。
「え……ケッコンできないの? 困る、困るよ、それは!」
束《つか》の間、美女の足から、力が抜けた。
一瞬《いっしゅん》の隙《すき》をついて、下の男が動いた。すり抜けて、バックジャンプ。しかし戦いを挑むほど体力がなかったのか、即座に背を向け、人ごみの中に消えた。
「あーっ! 逃げられた!」
「ほっときなさいって!」
麗華はホッとため息。美貴は屈《かが》み込むと、少女の髪についた埃《ほこり》を落としながら、
「キミ、ホントに大丈夫? ケガはなかった?」
「あ、あ……ありがとうございますっ」
と丁寧にペコリ。
「でも、どうしたの? 迷子……なワケないよね。キミ、名前は?」
「ル、ルイーゼ。ルイーゼ・シュライヒャーっていいます。えと、あのヒト、その、悪いヒトたちの一人で……その……修道院が襲《おそ》われて……」
「しゅ、修道院が……襲われたぁ!?」
と後ろで麗華《れいか》が後退《あとずさ》った。美貴《みき》も呆気《あっけ》にとられたが、すぐに真顔に戻り、
「よく分からないけど……どうする? 警察《けいさつ》行く?」
「ダ、ダメですっ! あ、あの、エルネスト先生の話では……警察よりもっと上に……仲間がいるって……!」
「警察より……上だって?」
「ほら〜、なんか凄《すご》いことになりつつあるって感じ〜。もう行きましょうよ〜」
「うるさい、麗華――ルイーゼ、エルネスト先生って?」
「わしのことじゃよ」
と麗華の後ろから、低い声が告げた。
シワくちゃのソフト帽を目深《まぶか》に被《かぶ》り、フロックコートにヘシアンブーツ――まるで昔の喜劇《きげき》の主人公だが、この祭りなら逆に目立つまい。
慌てて振り返ろうとした麗華だが、
「――動くな! 定番で悪いが、動けば撃《う》つ!」
この一言で、凍りついた。腰に押しつけられているのは……銀色のリボルバーだ。
「み、美貴ィ〜!」
「……バカ」
「エ、エルネストせんせいっ……!?」
「シッ。ルイーゼ、大丈夫じゃったか? こっちに来るんじゃっ」
トタトタ、と走り寄ったルイーゼは、しかし老医師の腕を引っ張り、
「ダ、ダメッ! このお姉さんたち、わたしを助けてくれたんですっ……!」
「う……」
汗ジトになって、エルネストは、美貴と麗華を見比べた。
「い、いや、信用できん! そっちの髪の短い女の方はともかく……こっちの派手な女はいかにも怪しい! 助けずに放っておくように言って、らしい行動を取る――もう一人を信用させるためのサクラかも知れん!」
「……凄《すご》い理屈」
と呆《あき》れたように、美貴。込み入ったドイツ語会話は分からない人質は、
「み、美貴ィ、なに言ってるの、このジイさん!? 早口で分かんない〜!」
「キミが派手だから怪しいって。麗華のせいだぞ」
「ちょ――な、なによ、その言いがかり!?」
ため息をつくと、美貴《みき》は髪に手をやり、
「で――どうするつもり? わたしたちを撃《う》って殺す?」
「う……と、とりあえず、わしと一緒に来てもらおう!」
一台の赤いライトバンが、クラクションを掻《か》き鳴らしながら会場から飛び出したのは、数分後のことだった。観光客が転がるように避《よ》け――実際に何人かはコケた――店先のラックを薙《な》ぎ倒された屋台の親父《おやじ》が、怒号を轟《とどろ》かす。
だが――最もうるさかったのは、車内の麗華《れいか》だった。
「ギャー! 死ぬゥ、鞭《むち》打ちになるゥ!」
「う、うるさいなぁ! だからペーパードライバーだって言ったじゃないか!」
美貴が不機嫌《ふきげん》そうにステアリングを切った。
後部座席のエルネストは、揺れる銃口を押さえつつ、
「くそ、やっぱりわしらを殺す気じゃったか! そうなんじゃな!」
「なっ! お爺《じい》さんだと思ってたら! ちょっと失礼だぞ! イヤだって断ったのにハンドル握れって言ったの、あなただろう!」
「うわ、前を見んか、前を!」
「うるさいな、わたしに命令していいのはこの世に一人だけだ! 見てるよ!」
ふてくされ気味に、ハンドルを回す美貴である。対向車がクラクションを鳴らして、横をよぎった。数秒遅かったら、正面|衝突《しょうとつ》だ。
やがて――車窓の景色の大半を緑が覆《おお》い始めた頃《ころ》、美貴が言った。
「……あのさ、お爺さん」
「な、なんじゃ!」
「どこに行くワケ?」
「当分はまっすぐ――目的地はオーバーアマガウじゃよ!」
すると助手席の麗華が眉《まゆ》をひそめ、
「オーバー……え? なにそれ? 地名?」
「オーバーアマガウ――木彫りと石の街並みで、そこそこ有名な村だよ。メインストリートの家々にはフレスコ画が描いてあるって。ガイドブックの端に載ってた」
「おお、さすがカト女の人間データベース、一度見聞きしたことは絶対に忘れない。双子《ふたご》もそうなんだから、やっぱ結城《ゆうき》一族って特殊よね〜」
「どーいたしまして」
「お、おまえたち、勝手に喋《しゃべ》るんじゃない! こっちには銃があるんじゃぞ!」
とリボルバーを再び持ち上げる老医師だ。
しかし――ため息をつくと、美貴《みき》は言った。
「……あのね、お爺《じい》さん。麗華《れいか》はともかく……わたし、そういうのには当たらないから」
「……なんじゃそれは? 日本流の脅しか?」
「あ! そうか、あんたも使えるんだっけ! 樫緒《かしお》と同じアレ!」
ポン、と手を叩《たた》いて、麗華だ。しかしすぐに口元を引きつらせると、
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! だったら、どうして最初から使わなかったのよ!? わたしだったら撃《う》たれてもよかったワケ!?」
「つ、使いたくないんだよ。しゅーくんにあんなに恐《こわ》がられるとは思ってなかったから。それにね、樫緒みたいにわたしの力って強くないの」
「えーい! 勝手に喋《しゃべ》るなというに!」
喚《わめ》く老人に、美貴は肩をすくめて、
「撃鉄《げきてつ》……っていうんだっけ? 上げてみれば分かる」
「……なんじゃと?」
眉《まゆ》をひそめて、エルネストはハンマーに指をかけた。
――撃鉄は動かない。
老人は青ざめると、両手で握り直した。既に二人のことは頭になかったようだ。エルネストは力の限り、撃鉄を引っ張った。しかしビクともしない。両手首の筋がくっきり浮き出ていることからも、本気だと分かる。
「ス、スミス&ウェッソンのステンレスモデルじゃぞ……!? 錆《さび》つくはずがないものが、どうして動かんのじゃ……!」
「だったら、弾は出ないね」
「き、貴様、なにをした!?」
「意外と早く信じるんだね。じゃあ、今度は窓のハンドルをやってみようか」
「う――ま、回らん!」
「じゃあ、今度はドアの取っ手」
「な、なんじゃ!? 開かんぞ!?」
蒼白《そうはく》になると、エルネストは呆然《ぼうぜん》と、前部シートを見つめ、
「ま、魔女《まじょ》か、おまえさん……!?」
「ん……空気が分かるっていうのかな」
「空気が……分かる?」
「そう。目で見るっていう感覚、指先で触れる感覚……それと同じようなレベルで、離れたところのものを、感じることができるんだ。視覚でもなければ、触覚とも違う……ほら、事故で手足を失ったヒトが、ないはずの部分が痒《かゆ》くなるってこと、あるでしょう?」
「わ、わしは医者じゃぞ、あれは脳神経のニューロンが、欠落した信号を穴埋めしようと隣接《りんせつ》する感覚回路に手を伸ばすから起きる現象じゃ。いわば神経のオーバーロード、単なる錯覚《さっかく》にすぎん」
「たとえだよ、たとえ。詳しい理屈はわたしも知らない。だけど、感じたものを、ある程度までは自由に動かせるんだ。手でなにかを押すみたいにね」
美貌《びぼう》が苦笑した。
老人はガタガタ震《ふる》えながら、
「ちょ、超能力者……!? 本物の!? きさま、やっぱりミュージアムか!?」
「ミュ……ミュージアム!?」
叫んで、美貴《みき》は振り返った。
「うわっ、こらっ、美貴、前!」
「麗華《れいか》、黙《だま》って! ミュージアムって、あの頭のおかしいギャング団でしょう!? 古本欲しさにマシンガンやバズーカ撃《う》ちまくる! あんなのと一緒にしないで!」
美貴は忌々《いまいま》しげに吐き捨てた。
脅えて十字を切るルイーゼの手を握ると、エルネストは恐る恐る、
「……連中と戦ったことがあるのか?」
「い、いや、戦ったって言うより、巻き込まれたって感じで――」
――ドン!
突然、車体が大きく揺れた。天井《てんじょう》部分がへこむ。さらに前方のアスファルトを、影が覆《おお》った。上空に何かいる証拠だ。
「くそっ、な、なんじゃ!?」
「麗華、上っ!」
「う、うん!」
窓を開けると、長い髪を押さえて、女子大生は顔を出した。
すぐに、目が点になった。
真上――それも三メートルほどの位置に、ヘリが飛んでいたからである。さらに身を乗り出したところ、麗華の双眸《そうぼう》は、おかしなものを捉《とら》えた。
――ルーフの上で膝《ひざ》を折る、赤いニットキャップの男だ。
男は茫洋《ぼうよう》と麗華を見つめると、言った。
「よぉ。おれ、スプレイ。あんたは?」
「……はぁ。あたし、宮前《みやまえ》麗華」
ぼんやり答えると、白ちゃけた顔で、麗華はもそもそと体を戻した。
美貴が正面から目を離さず、
「なんだった!?」
「う、うん。ヘリが一機と……」
「なに、ヘリじゃと!?」
「それと……パーカーにニットの妙な男。なんか日本人みたいよ。スプレイだってさ。まいったわ、自己紹介されちゃった」
「男!? どこに!?」
「えっと……うん、この上」
と麗華《れいか》が真上を指したときである。
再び激しい揺れが、今度は轟音《ごうおん》を伴って、車内を覆《おお》った。麗華、ルイーゼ、エルネストはもちろん、運転席の美貴《みき》までもが、天井《てんじょう》を見た。
――腕だ。青白い手刀が、ルーフを突き破っている。
「なっ……!?」
老医師が少女を抱き締《し》めたと同時に、破壊《はかい》が始まった。まるでカッターのように、腕がバンの屋根を切り裂いていったのだ。芸もなにもない――だが、それだけに余計に恐ろしい純粋な力業である。
五秒もせずに、車体前方の屋根は切り取られた。合金の板が後方に落ち、派手に火花を飛び散らす。
太陽と共に天井から顔を出したのは、妙に表情の薄《うす》い青年だった。
「どーも」
――改造人間・スプレイ。
老医師が銃を上げるよりも数倍速く、チューン・マンが蹴《け》りを繰《く》り出した。ボロボロのスニーカーが狙《ねら》ったのは、車体のダッシュボードだった。
――バキバキバキ!
一見不可能にも見える行動を、古代のオーバーテクノロジーが可能にした。ダッシュボードの安っぽい構材はもちろん、合金製のエンジン部分まで、スプレイの足は突き抜けてしまったのだ。破片が飛び散り、電子部品がショート。
エンジンはあっさり火を噴《ふ》いた。
「じゃ、まあ、そういうことで。このクルマ、停《と》めた方がいいぜ」
とスプレイが足を引き抜き、跳び退《すさ》る。
「うわっ、なんてやつ!」
「キャ〜ッ、美貴美貴ィ!」
「あ、あ、あ、あ!」
「ルイーゼ、伏せるんじゃあっ!」
車輪がロックし、アスファルトにゴム痕《あと》を描いて煙を噴き上げた。バンは車道を外れ、脇《わき》の木に激突した。衝撃《しょうげき》で粉々に砕け散ったフロンドガラスが、雨あられと、四人の頭上に振りかかかる。美貴が朦朧《もうろう》とした顔つきで頭を振りながら、
「つつつ……み、みんな、出るんだ! いつ爆発《ばくはつ》してもおかしくない!」
「よ、よし、分かった! ルイーゼ!」
「は、はい、せんせいっ……!」
「いたた……もう、こんなのヤダァ! 美貴《みき》のバカァ!」
と全員が外に出て、横一列に並んだと同時。
――凄《すさ》まじい爆炎が、空を突き上げた。
衝撃《しょうげき》で四人とも吹っ飛ばされ、草むらに倒れた。頭上を破片と爆風が駆《か》け抜ける。火は木と草にあっさり引火し、急速に辺りは炎に包まれた。
最初に立ち上がったのは、やはり美貴だった。
「ゴホゴホッ……! みんな大丈夫!?」
しかし美貌《びぼう》はすぐに蒼白《そうはく》になった。視界を、銃器で武装した男たちが埋めていたからである。中心にいるのは、例によってやる気のなさげなスプレイだ。
一番うるさいのが、呆然《ぼうぜん》と後退《あとずさ》り、
「ヤ、ヤダ……! こいつらが……例のギャング……!? てゆーかさ、軍隊ってゆーか特殊部隊ってゆーか……完全にそっち系じゃないっ……!」
「おい、ミキとやら……なんとかできるのか……?」
息を呑《の》みながら、エルネスト。
「……知覚|範囲《はんい》内にあるものは、すべて制御下における……! 空間をスポイルしたり、ビルを倒すことはもちろん、他人の脳の神経回路を操ることだって……!」
「おお、では!?」
「……わたしのクールな息子くんなら……の話だけどね」
「……は? なんじゃと?」
唖然《あぜん》とする老医師に、美貴は汗ジトになって振り返り、
「悪いけど、わたしの力が及ぶ範囲って、目標一つが限界なんだ。見えない手が一本あるだけって感じで……しかも、そんなに細かいことはできない」
「で、では……なにか? あの馬鹿《ばか》力の男を押さえつけても……!」
「取り巻きに撃《う》たれると、終わりってこと」
ヒュ〜、と呑気《のんき》な風が、彼等《かれら》の間を横切った。
「……プシュー。これも妹のためでさ。ま、子供は殺さない主義だから、そっちのチビは助けてやる。悪く思わないでくれよ」
淡々と言うと、スプレイは背を向けた。同時に、部下たちがトリガーに指をかける。
麗華《れいか》が弾《はじ》かれたように、美貴の襟元《えりもと》を掴《つか》み、
「ほらぁ〜! あんたが余計なことに首突っ込むからァ〜!」
「う、うるさいなぁ、仕方ないだろう! わたしは絶対に間違ってない! ルイーゼみたいなちっちゃいコが酷《ひど》い目に遭ってたら、また首突っ込んでやる!」
吠《ほ》える美貴《みき》に、麗華《れいか》は後退《あとずさ》ってクラクラ。
「ああっ、このバカは……! 樫緒《かしお》か美沙《みさ》でもいてくれれば……!」
「ミ……サ?」
瞬《まばた》きして、スプレイが振り返った。
「おい、ミサって……リボンにツインテールの、あのムチャクチャなチビのことか」
「そうだけど……どうしてキミが、あのコを?」
訝《いぶか》しんで、美貴。が、ハッとすると、
「ま、まさかあのコになにかしたんじゃないだろうな!?」
「なにか? 冗談だろ、ガトリングガンとOICWでボコボコにされたのはこっちだぜ。とどめに衛星軌道上からビームでドカンだ。ワケ分かんねーよ。誓ってもいいが、おれじゃなきゃ一〇〇回は死んでる。あのガリガリ絵描きにはバカにされるしよ」
「え……衛星軌道からビームぅ?」
「あんた……よく見たらメチャクチャ似てるな、あのロリポップと」
スプレイは目を細めた。
やがてチューン・マンは背を向けると、
「……殺すのはヤメだ。フェイスと戦ったときに使えるかもな」
「では……お認めになるのですか、ギレスピー首相?」
「まさか。そんなことは絶対に言わんよ、ミス・カタギリ」
某ホテルの一室で、少し太り気味の中年男が、苦笑しながらイスから立ち上がった。大きな窓から下のパレードを覗《のぞ》き、勿体《もったい》ぶったように顔を戻す。
――場所は戻って、再びミュンヘン。
正面の椅子《いす》に腰かけているのは――冴葉《さえば》だ。彼女を守るように、数人の武装した兵士が直立不動。その脇《わき》に、不安そうな部下の単衣《ひとえ》という配置だ。
首相はため息混じりに机に手をつくと、
「彼等《かれら》はね、学術調査が目的なんだよ、カタギリくん」
「……五〇〇〇人もの調査団?」
「まだ世迷言《よまいごと》を。二〜三人というところだろう? 繰《く》り返すが、それは入管の失態でわたしとは関係のない話だ。ま、百歩|譲《ゆず》って、わたしの責任が問われることになったとしても――どう考えても外相の職務だが――それはあくまでドイツ国内の問題だよ。いくら巨大とは言え、国外の、しかも新進企業の秘書ごときになにか言われる必要はない。違うかね?」
「それで……彼等はなんと?」
「フッ、数千年前に落ちた巨大な宇宙船の残骸《ざんがい》を探すんだとさ」
肩をすくめて、バカにしたような笑み。
単衣《ひとえ》が、ポカン、と口を開け、冴葉《さえば》が眉《まゆ》をひそめた。
「宇宙船……ですって?」
「ユグドラシルという名のな。連中の話ではアルプス自体が、数億年前、宇宙船団が落ちてできた地面の“あばた”にすぎんらしい。そして唯一|墜落《ついらく》を免れたユグドラシルも、一人の男によって、大地に叩《たた》き落とされた――ムスッペルの死神、魔剣《まけん》レーヴァティンを振るうスルトの手によってね」
ギレスピー首相は、椅子《いす》に座り込むと、肩を揺すった。笑ったのだ。
「連中は、妄想癖《もうそうへき》の激しいカルトにすぎんよ。NASAの資料とやらまで持ち出して、いろいろと説明してくれた――不整合地形とかなんとかな。彼等《かれら》の話では、月すら人工物ということになってしまう。頭がおかしいとしか思えん。アスガルドの神話を、あそこまで科学的解釈のもとに語る連中を、わたしは初めて見たよ」
ハッハッハ、と笑いながら葉巻に火をつける。
単衣は青い顔を、上司の美貌《びぼう》に寄せた。
「キャ、キャプテン、不整合地形って、まさか……!」
「ええ。天体物理学の見地から、NASAが数年に一度発表する文章……。でも、宇宙船というのは、聞いたことがなかったわ」
「やはりミュージアムのセントラル・アーカイヴ……?」
「……ええ。独立も冷めやらぬ一七八四年のニューヨークに一隻の国籍《こくせき》不明の貨物船が、密《ひそ》かに入港した。秋の夜だったというわ。酔っぱらった船員の一人が、ある売春婦に語った。積み荷は、小山のような白くブヨブヨした物体――それを維持するために、首を切り落とされた四五〇体もの屍《しかばね》が使われている、とね」
「売春婦から話を聞いた医者が描いたのは、巨大な脳だった……!」
「取り付けられた小箱を通して話しかけると、その物体は、ありとあらゆる質問に答えたそうよ。真実は闇《やみ》の中だけど」
そして冴葉は手元に目を落とすと、立ち上がってデスクに書類を置いた。
「……この写真の人物に見覚えは?」
「ああ。例の学者たちと一緒にいた人物だ。言葉は交わさなかったがね。これが?」
と首相は、紙の束を指で弾《はじ》いた。
――ディーン・タウンゼント。
ただ、写真は白黒で、ひどく色あせていた。どこか街中で撮ったもののようだが、背景が映画のセットなみに古びている。
「この写真は、我々が極秘に入手したもの――場所は約七五年前のワシントンです」
「七五年前……だと?」
「この男は、歳《とし》をとりません。少なくとも、外見上は。さらに、ケガを負った際には、流れ出た血を舐《な》めて、自己の再確認をしているような人物です」
「ハ……ハハハ! なにを言い出すかと思えば! フォーチュン・テラーがオカルトをも研究しているという噂《うわさ》は本当だったらしいな! この男が吸血鬼だとでも?」
「いえ、ヴァンピールのような特性は持ち合わせていません。体力的には常人と大差ありませんし、日光に対する耐性も同様です。ただ、この男は、後頭部に大きな傷を負っています。そして七八年以上前の記憶《きおく》がないとか」
「記憶……喪失? それとどういう関係が?」
「ホルモン異常によるテロメアの無限分裂か、それとも他《ほか》になにかあるのか――捕らえてみなければ分かりません。問題は、あなたが常識では判断できないような相手と結託している点にあります。情報をよこせとは無理に言いません。でも……手は引いていただかねば」
冴葉《さえば》は言葉を切り、相手の出方を待った。
「……用事が済んだら、帰ってくれんかね? 例の写真は軍にも回しておく、わたしはパレードに出なくてはならんのだよ」
ギレスピーは、鼻を鳴らした。
しかし首相は、急に下卑《げび》た笑いを浮かべると、単衣《ひとえ》の傍《そば》に立った。腕を伸ばすと、ほどよい形の彼女のお尻《しり》を、撫《な》で回す。
「キャッ――な、なにするんですか!?」
「フフフ、もっとも、きみが朝まで付き合ってくれるというのなら、その限りではない。腹を割って話すのは、ベッドの上と限定しているものでね。ここだけの話だが、わたしはバタくさいきみのようなコが好みなんだ」
「なっ……!」
涙目になって睨《にら》みつける単衣の視線を受け流し、ギレスピーは冴葉を見た。
「どうかね?」
「やめておきますわ」
冴葉が指を鳴らすと同時に、部下が動いた。あっという間に中年男を取り押さえると、手足を縛《しば》り上げ、猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませたのだ。
「んー、んー!」
絨毯《じゅうたん》の上でもがく首相を、冴葉は冷徹《れいてつ》に見下ろし、
「こうなってしまった以上、あなたには、まだ色々と訊《き》きたいことがありますので――ただ、ボスの判断も仰がないと。一緒に来ていただきます」
ツークシュピッツェ山麓《さんろく》――。一機のガンシップが、微速で草原の上を飛んでいた。緑の絨毯に落ちる影が、生き物のように波打っていく。
「反応はなし……か」
開け放たれたカーゴ・ルームで、タウンゼントは呟《つぶや》いた。骨の浮く指の間から、黄金の光が漏れている。
――ノイエのバレッタだ。
「……本当に共鳴するようなものなのか?」
妖絵師《ようえし》は不審《ふしん》そうに、隣《となり》でノートPCを睨《にら》む部下に訊《き》いた。
部下は頷《うなず》いて、
「間違いないと思われます。バレッタの内側に刻まれている模様は、それ自体が、超高度なナノ・テクノロジーによる分子回路プリント――その構造は、本部セントラル・アーカイヴのデータと完全に一致しますので」
「……数千年前の分子プリントに、本部のアーカイヴ……か。我々ミュージアムの母体となっているという万博博物館とは、いったいなんなのだ……?」
すると男は、呆気《あっけ》にとられたように、
「サー、あなたでもご存じないのですか?」
「……それが分からんのだ。訊こう訊こうと思いながらも館長の前に出ると忘れてしまう。まるで頭にモヤがかかったようにな。七八年以上前のことを思い出そうとすると、やはりこうなる。理由は……分からん」
タウンゼントは、こめかみを押さえて呻《うめ》いた。
「では、いまだ記憶《きおく》は……?」
「……ああ。今でもハッキリと憶《おぼ》えている。わたしの脳裏に最初に焼きついた映像は、通りの向かい――レストランの曇《くもり》ったガラス越しに映る、ロココ調の青い花瓶だった。しとしとと嫌な感じの雨が降る日でな、フランスの田舎《いなか》町でのことさ。だがそこにいたるまでのことは、まるで憶えていない。なに一つ思い出せないのだ。ただ、そこで館長と出会い、請《こ》われるままに現在に至る。なぜかわたしの体は、あの日のままだ。年をとることもなく、些細《ささい》な病気とも無縁《むえん》で――」
唐突にベルが鳴り、画家は携帯を引き抜いた。
「わたしだ……そうか、やはりシュライヒャーの一族が……ほう? では、わたしが直々に出向かねばならんな。分かった、準備を整えておけ」
最後に頷《うなず》くと、タウンゼントはコクピットに叫んだ。
「いったんガルミッシュに戻れ! 傷を負ったフェイスらしき男が、オーバーアマガウのシュライヒャーの家に担ぎ込まれた! わたしはそっちに向かい、可能なようなら一気に決着をつける! 井戸探索はおまえたちで続行、追って小鍵《こかぎ》を持ったスプレイが到着するはずだ! わたしが戻るまで、ヤツの指示に従え!」
パイロットが頷き、ラダーを動かした。
大きく回頭するヘリの影が、草原に落ちた――。
数時間後――。
シャワー室から出て髪を拭《ふ》いていたスプレイは、部下からの一報を受け、珍しく唇《くちびる》をひん曲げた。
「……ああ? 今度は現場へ出てこいだぁ? 話が違うじゃねーか、なんでおれが井戸なんか探さなきゃいけねーワケ?」
「そ、それが……命令に反するなら、次の心臓はないものと思え……と」
「……あのガリガリ野郎が、か」
視線を落として、彼は呟《つぶや》いた。
「……分かったよ。着替えるから、ちょっと待ってろ」
「例の女どもとジジイはどうしましょうか? 署の方で拘束しておりますが」
「ほっとけ。こっちは小間使いじゃねーんだ、小鍵《こかぎ》が欲しけりゃ、ガリガリが勝手に取りにいくだろ。尋問までやる義理はねえ」
「は、はぁ。では」
一礼すると、黒ずくめの戦闘員《せんとういん》は出ていった。
やがて髪を掻《か》き上げると、吐き捨てた。
「……あのガリガリ野郎。いつか殺してやる」
その街で南を向けば、どこにいようと、ドイツの最高峰が拝める。
ガルミッシュ・パルテンキルヒェン。
――ツークシュピッツェの麓《ふもと》に存在する街。
ドイツ・アルプス観光の基地と言えるようなところであり、人口は約三万人と大都市に比べて少なめだが、夏は登山、冬はスキーにと、客足が途絶えることはない。国際会議場の傍《そば》にカジノがあるなど、面白い側面もある。ちなみに、この舌を噛《か》みそうな名前の由来は、単に二つの街が合体したためにすぎない。路地を挟んで西のガルミッシュ、東のパルテンキルヒェンという具合だ。
バーンホーフ通りに面した雑貨屋のカウンターには、俯《うつむ》いた老婆《ろうば》の姿があった。
暗い店舗《てんぽ》だった。カーテンは半開き。狭い店内の棚と壁《かべ》には、ケトルやタワシ、パンにキャンディ・バー、ミトンに子供用の肌着《はだぎ》――生活用品が片っ端から敷《し》き詰めてある。ただ、売り上げはトントンか、さもなければ赤字。商品に動かされた形跡がない。
老婆《ろうば》は俯いたまま動かない。寝ているのかも知れない。
――カラン。
ドアが鳴り、二人の客が、店内に影を落とした。
老婆《ろうば》は、無言で顔を上げた。
ヘアバンドをした金髪の若い女と、ツインテールの東洋人の少女。
――ノイエと結城美沙《ゆうきみさ》である。
「……いらっしゃい」
老婆は少し口元をほころばせた。
美沙はキョロキョロしながら、ノイエのブラウスを引っ張り、
「ねーねー、なんか食べもの買ってかない?」
「あ、ええ。でも困ったわ、わたし、ユーロもマルクも小銭程度しか持ってないのよ。こんなに早く帰国することになるとは思ってなかったから……」
頬《ほお》に手を当てため息をつくと、ノイエはカウンターに声をかけた。
「あの……ここ、カード使えます?」
「ああ、使えますよ。でも、ちょっと説明書を読まないと……」
老婆は笑うと、カウンターの下に手を伸ばした。
すると――少女は苦笑した。
「銃出すんだ? この状態だと、レミントン? それとも、ドイツのHK512? とにかくショット・ガンでしょ?」
老婆は凍りついた。
ノイエは――無言である。老婆を凝視《ぎょうし》している。
すると老婆は、片手で口元を押さえ、
「ホホホ。ここはアメリカじゃないんですよ、銃なんて――」
次の刹那《せつな》、彼女が構えた銃は、しかし火を噴《ふ》くことはなかった。
――バババ!
爆音《ばくおん》を上げたのは、美沙の拳銃《けんじゅう》・M93Rが先だった。フルオート連射だ。老婆は壁《かべ》に叩《たた》きつけられると、後頭部から鮮血《せんけつ》と脳漿《のうしょう》を噴き出し、床にくずおれた。
ピクピクと痙攣《けいれん》を繰《く》り返す死体を、美沙が鼻を鳴らして見下ろし、
「S&Wの1006? 舐《な》めてくれたもんね」
「な、なんてこと……! 本当にホムンクルス……!」
老婆の足を見て、ノイエは口を押さえた。
――根だ。老婆の膝下《ひざした》は、植物の根を思わせる構造だったのである。びっしりと生えた根毛が押し込まれていたのは、緑色の溶液が入ったバケツだった。
入り口まで戻ると、美沙はカーテンの隙間《すきま》から外を窺《うかが》いつつ、
「消耗戦で連中がよく使う手だよ。支部付きの黒服ザコ系はともかく、バトルのときに出てくる下っ端は、ほとんどそんな感じ。身体能力は常人以下で、知能も低いから、銃専門になっちゃうワケ」
「で、でも血が……!」
「七〇パーセントが硝酸――加えて細胞構造も持ってないの。人間どころか、実は生物でもないんだってばぁ。撃《う》つと血だけは豪快《ごうかい》に流すから、心臓に悪いけどね。ウチの研究チームに言わせると、巨大化した細菌みたいなもんらしいよ」
「さ、細菌!? これが!?」
ノイエは、青ざめて後退《あとずさ》った。
「血みたいに見えるそれも、油圧で体を動かすために流れてるにすぎないらしいしー。全体がおかしな結合してる蛋白《たんぱく》質の塊だってさ。わたし、その辺のことはあんま詳しくないから、今度タカちゃん――うちのCEO――にでも訊《き》いて」
「ミュ、ミュージアムのロスト・テクノロジー……! 噂《うわさ》どころじゃないわね……! まさかここまでとは……!」
美沙《みさ》は振り返ると、ため息混じりに、
「こんなのは、しょせんザコザコ。厄介《やっかい》なのは、ディーン・タウンゼントだよ」
「……ザ・クリエイターね?」
「そっ。描いた絵を動かすってバケモノ絵描き。あいつらに関するウワサって、悪い部分だけは当たってること多いのよねー。やんなっちゃう」
と膨《ふく》れっ面《つら》でブー。ある意味、余裕だ。
青い顔のノイエは、髪を掻《か》き上げ、深呼吸。やがて、
「……でも、どうするの? シュージは来なかったし、街には、人影がないし……」
「あー、あっちの通行人も、きっとホムンクルスでしょうねー。さっきと動きが同じ。つまんないTVゲームみたい」
再びカーテンをめくり、美沙。
街は異様なほど、静まり返っていた。
車が通らない。通行人がいるにはいるが、一〇分も経《た》てば、同じ道行きを繰《く》り返す。店も開いてはいるものの、どこかおかしい。
代わりに上空を飛び交うのが、何機ものヘリだ。ただ、これは街の監視《かんし》と言うより、山麓《さんろく》側との間をひっきりなしに往復していたから、輸送目的だろう。
「やっぱり……もうこの街は……?」
「完全に占拠されてると思うよぉ。五〇〇〇人って数字のほとんどが、ここに投入されてるみたい。だからどこかに、連中のベースがあると思うんだけど……」
「街の人は……どうなったと思う?」
「基地に捕らえられてるか……さもなきゃ……うん」
「だったら、まだ生きている可能性はあるのね?」
「まあ、ね。ゼロとは言えないと思う」
頷《うなず》く美沙《みさ》だったが、ハッと顔を上げると、わたわたと手を振った。
「ちょ、ちょっとぉ、本気!? 話が違うでしょ! 登山鉄道駅に行くには、ここを通らなきゃいけないから、隠れて鷲士《しゅうじ》くんを待つって……!」
「……わたしは、あなたぐらいの歳《とし》の頃《ころ》、グランツホルンにいたの。この街には知っている人たちが大勢いる。少しでも可能性があるなら、見捨ててはおけないわ」
「いや、だからって……!」
「シュージを待ってどうするの? ここが占拠下にある以上、南にあるはずのリッターの村跡も、完全にミュージアムのテリトリーよ。なにをするにも、これ以降は、連中の本隊と戦うことになる。違う?」
「いや、まあ……そぉだけどぉ」
と腕組みして、またまたブー。
やがてちっちゃい方は片眉《かたまゆ》を上げ、
「でも……言ってる意味分かってるの? 南もやつらに押さえられてるってことは、グランツホルンは、もう……」
「……修道院には妹がいたのよ! まだ一〇歳の! だから……お願いよ!」
ノイエは両手で顔を覆《おお》うと、しゃがみ込んだ。
重い沈黙《ちんもく》が、店内を覆い尽くす。
やがて――美沙が不機嫌《ふきげん》そうに言った。
「……この通りに面してて、視界がよくて、でっかい建物は?」
「え……?」
「だから! 通りに面してて、視界がよくて、でっかい建物!」
「じゃ、じゃあ!?」
笑顔になると、ノイエは立ち上がった。
「え、えっと……国際会議場に、市庁舎に、警察署《けいさつしょ》ってところかしら?」
「会議場かぁ。面積的には文句なしだけど……占拠を考えると、連中が真っ先に潰《つぶ》すべきは治安機構よね。だったら、基地は署かな?」
外を見ながら、美沙はOICWのコッキングレバーを引いた。
「んじゃ、裏路地の方から案内よろしく」
「え、ええ。こっちよ」
ノイエの先導《せんどう》に任せ、二人は外に出た。すぐに店の裏手に回ると、すえた臭《にお》いの漂う建物と建物の狭い空間を進む。
「あのさぁ、最初に言っとくけど」
「ど、どうしたの?」
「街のヒトが生きてるって証拠……ないからね」
「……ええ」
「妹さんに至っては、捕まってるかどうかも分かんない」
「……ええ。禁断の井戸になにか起これば、命を捨てる――それがバレッタを受け継ぐシュライヒャーのさだめ。ただ、妹はまだ子供だから……」
俯《うつむ》いて、ノイエ。
美沙《みさ》が立ち止まって、頭をポリポリ掻《か》いた。
「えーっと……んじゃ、そろそろ、聞かせてもらおーかなァ。ホントのトコを」
金髪|麗女《れいじょ》の足も止まった。
「な、なんのこと?」
すると美沙は腕組みし、チチチ、と指を振った。
「まずその一――おねーさんの態度は露骨《ろこつ》に怪しい! これは鷲士《しゅうじ》くんだって分かる」
「う……!」
「その二――あのさ、ミュージアムってさ、ワケ分かんない骨董品《こっとうひん》手に入れるために色々やる連中だけどぉ、それって一般人から見たときの話で、わたしたちからすると、とんでもない代物《しろもの》だったりするのよね。それが今回は、最初から大人数。しかもさ、狙《ねら》われた教会側にもジリ貧の組織があって、それを守ってる」
「だ、だからそれは――」
「とどめの三――異教のさ、しかも異伝を今に伝えてるってのが納得いかないんだぁ。宗教が伝説をバクるのは珍しくないけど、ローカライズが基本。なのにそのまんま。神社がキリスト教の伝承守ってるようなもんでしょ。それはなぜか?」
幼い美貌《びぼう》が、ズイ、と一歩詰め寄ると、
「グランツホルンは、フレイア異伝を変えることができなかった――回る水が、とんでもなく危険な代物《しろもの》だったために!」
「なっ……!」
「わたしの見立てだと、B・C兵器クラスになりうる代物ね。いや、ミュージアムが本気になってるのを考えるとぉ、もっと上かな。ヤバすぎて、それが異教の言い伝えであろうとも、改変することができない。間違った情報が後世に悲劇《ひげき》をもたらす可能性があったから――と。違う?」
ノイエは目を伏せた。美沙の理屈が正しい証拠だった。
再び上げた碧眼《へきがん》を、少女の冷めた眼差《まなざ》しが貫いた。
「……ネタもちゃんと話さずに、他人にゃ命かけろって? ふざけてんの? 鷲士くんになにかあったら、グランツホルンだかシュライヒャーだか知んないけど、あとでミュージアムごと皆殺しにしてやるからね」
「……!」
ノイエの顔に衝撃《しょうげき》が走った。
彼女は背を向けると、大きく深呼吸し、
「……あなたは……願いをかなえてくれるものがあるとしたら……なにを望む?」
「願いを……かなえてくれる?」
「ただし、最も大切なものと引き換えにされるわ……無理やりに」
振り返ったノイエの顔には、恐怖に近いものが混ざっていた。
「かつてオーディンと呼ばれた存在は、己の片目と引き換えに、その水をすすり、未来を見通す力を手に入れた。あなたなら……分かるでしょう?」
「ミ、ミーミルの井戸……!? マジで……!?」
――ミーミル。アスガルドの賢神《けんじん》。
だが現代に伝わるミーミルは極めて曖昧《あいまい》な存在と言わざるをえない。そもそも『散文のエッダ』を記したスノリ自身が、解釈を統一しきれていないのだ。
文中の『ユングリング・サガ』においては、ミーミルは二大神族の休戦の際に、アスガルド側から差し出された人質ということになっている。対して、ヴァン神族側が出したのは、主神親子のニヨルドとフレイ。釣り合いのとれない人質交換に、ヴァン神族の怒りは次第につのっていき、やがて彼等《かれら》はミーミルの首を切り落とし、アスガルド側へ送り返した。しかし冷徹《れいてつ》な魔神《まじん》オーディンは、薬草を使って防腐処置を施し、首だけになったミーミルを傍《そば》に置き、作戦|参謀《さんぼう》として重用した、とある。
だがエッダの別の物語では、ミーミルは世界樹《せかいじゅ》ユグドラシルの水源“知識の泉”を守る、賢《かしこ》い巨人族ということになっている。オーディンは自慢であった美しい目をくり貫いてミーミルに渡し、その隙《すき》に水を一すすりして、未来を見通す力を得た。
さらに――ミーミルとは意志を持つ井戸だったという説もある。これは最も大切なものと引き換えに、水を通して知識を授けるといった内容だ。
ミーミル自体は、神話中においても、大した存在ではない。問題は水だ。『ユングリング・サガ』を除く諸説《しょせつ》に示されているように、大切ななにかと引き換えに、水は知識を授けるということになっている。かつてアダムとイヴは知識の木の実を食し、楽園を追われた。これと同様の逸話は、ミーミルにまつわる伝説以外にも、世界各地に転がっている。
だが――それが知識ではなく、願望をかなえるものだとしたら?
呆気《あっけ》にとられる美沙《みさ》に頷《うなず》いて見せると、ノイエは再び歩き始めた。
「……正確な異伝はこう。アスガルドを滅ぼしたスルトは、いくつかの機械と、二つのものをシュライヒャーの祖先……フレイアに残した。バレッタと小鍵《こかぎ》よ。バレッタは井戸を呼び出すためのもので、小鍵は、これを止めるためのもの。もちろん、意味は分からないわ。井戸そのものが、ある種の機械だったのかも知れない」
「はえ〜……一気にマジじみてきたわね。小鍵ってのもあったんだ?」
「茶化さないで、わたしも真剣に答えてるのよ――とにかく、最初に井戸を開けたのは、フレイアだった。彼女は命とも言える美しい髪と引き換えにして、スルトを手に入れた」
「は?」
「スルト。作ったのよ。水が、スルトをね。井戸水は、願いを現実にかなえてしまう力を持っていたのよ」
「な、なんですってぇ!? 魔神を作り出したっての!?」
「スルトやオーディンがどんな存在だったのかは伝わってないわ。神の定義なんて考えたくないもの。とにかく、フレイアはスルトと暮らし始めた。しかし当然のように、別の人間が続いた。ヴァンが壊滅《かいめつ》し始めたのは、ここから」
「バタバタ……死んでいった?」
息を呑《の》みながら、美沙《みさ》。
立ち止まってノイエは頷くと、今度は足を速めた。
「広大な土地、輝《かがや》く財宝、理想の男女――しかし彼等《かれら》は望んだものと引き換えに、もっとも大切なものを失い始めた。自らの命、恋人、家族――挙げていけば、きりがないわ。さすがにフレイアも危機感を持ち、スルトに彼等を止めるように頼んだ。しかしフレイアのスルトは、なにもしなかった」
「戦うスルトじゃないもんね。ただ、フレイアと暮らすためだけのスルト」
「そう。ここで初めて、フレイアは己の愚かさに気付いた。水が作るのは、単なる虚像。現れるのは本物ではない。結局フレイアは、小鍵《こかぎ》を用いて井戸を閉じ、賢《かしこ》き双子《ふたご》――リーヴとリーヴスラシルに、それぞれ小鍵とバレッタを託した。その後、フレイアは、毒を飲んでスルトと共に死んだそうよ」
「え……! んじゃ、シュライヒャーって……!?」
「わたしたちは、バレッタを受け継ぐリーヴスラシルの末裔《まつえい》……本当かどうかは分からないけどね。リーヴの家系は長い時を経て、小鍵の管理を組織化した。のちのグランツホルンよ。幸いなことに、両者の間で争いは起きなかった。教えが徹底《てってい》してたからでしょうね。ところが、問題が半世紀前に起きた――」
「それが……リッターの村ってワケ?」
「そう。井戸があった場所」
とノイエは青い顔で頷《うなず》いた。
「バレッタを持つシュライヒャー一族は、誘惑を退けるため井戸から離れ、しかしグランツホルンは危機が起きたら即時に対応するため、リッターを見下ろせる高台に拠点を置いたの。しかし戦争が、当時のシュライヒャーの当主夫妻――わたしの曾祖父《そうそふ》と曾祖母にあたるわ――の命を奪った。残された幼いおばあさまは、知り合いに連れられ、リッターの村で過ごすことになった」
「そこでなにか起きた? だから村がなくなっちゃった?」
「ええ。誰《だれ》かがバレッタを使ったんでしょうね。大戦の最中、村はこの世から消滅したわ。グランツホルンは、ナチの目を恐れて徹底《てってい》的な証拠隠滅を謀《はか》った。ただ、おかげでなにがあったのかも分からなくなってしまった。院長も、わたしには話してくれなかったわ」
「院長?」
「……わたしの母以降、シュライヒャーの女は、幼い頃《ころ》はグランツホルンで過ごすのが慣例になってしまったの。理由は知らないから、訊《き》かないで」
「ええーっ!? それじゃ、おねえさんって元シスター!?」
化物に襲《おそ》われたかのようなアクションで、美沙《みさ》は後退《あとずさ》った。
ノイエは赤くなって振り返ると、
「な、なあに、その反応!? そんなに変!?」
「い、いや、潔癖《けっぺき》症なのは納得いったけど、愛が足んないような……。鷲士《しゅうじ》くんのことボロクソに言ってたし」
「じ、自覚を促すのも、愛よ!」
「んじゃ、そーゆーことにしとこぉ。とりあえず、そのバアさんがキーね」
「……もう。とにかくおばあさまは、子供だったのよ。なにか知っているはずはないわ。本人もそう言ってたもの――あ、着いたわ」
ノイエは立ち止まり、前を指した。
通路の隙間《すきま》から、巨大な庁舎が見えている。
「んじゃ……はい」
と美沙は拳銃《けんじゅう》・グロック17を渡した。
受け取ったノイエの喉《のど》が鳴った。息を呑《の》んだのだ。
「スライドストップもセフティも外してあるから、気ィつけて。服とかにトリガー引っかかると、それだけでアウトだから」
「ま、街の人を救うため、街の人を救うため……! 神よ、お許しください……!」
と念仏のように唱えて、十字を切る。
美沙はOICWをバッグに突っ込むと、
「いい? 正面から入るけど、一回ブッ放したら、あとはオーラスまでバトル続きだと思ってね。こっちも再度、冴葉《さえば》と連絡取るから。いくら電波にスクランブルかけても、それは内容を隠すだけで、わたしたちがここにいるってことはバレバレ」
「わ、分かったわ」
頷《うなず》き合って、二人は裏路地を抜け出した。道路を渡って階段をのぼると、正面の大きなガラス戸を押して、足を踏み入れる。
「あのぉ、ちょっと訊《たず》ねたいんですけどぉ――」
と美沙《みさ》が手を上げた瞬間《しゅんかん》、いくつもの銃口が、二人の頭に押しつけられた。
出入り口の両脇《りょうわき》に、既に敵が控えていたのである。さらにカウンターの奥には、アサルトライフルを構えた戦闘員《せんとういん》が何人も。
顔を動かせないノイエが、手を上げて横目で、
「ミ、ミサ、こういう場合は……?」
「と、とりあえず、大人しく従いましょお〜」
ニャハハ、と汗ジトで笑う美沙であった――。
第四章 魔少年vs妖画家
美沙《みさ》とノイエが危機に直面している頃《ころ》、山を隔てて――と言っても実は直線距離で二〇キロほどだが――北東の村に、鷲士《しゅうじ》はいた。
オーバーアマガウ郊外――シュライヒャー邸。
キッチンには、二つの影があった。
草刈《くさかり》鷲士と、家主のマレーネ・シュライヒャーである。
「ふんふんふんふ〜ん♪」
鼻歌を歌いながら軽快に体を揺らし、タマネギを剥《む》いていくのは、老婆《ろうば》でなく、なぜか鷲士の方だった。ピンクのエプロンに、手には包丁。
呆気《あっけ》にとられたように、マレーネが、
「あ、あんた……日本人のくせに、やけに手慣れてるね」
「ハハハ、学園では年長組が食事作ることになってましたから。バイトでも、役に立ってるんです。裁縫《さいほう》とかもできますよ〜」
「学園? 全寮制の学校にでもいたのかい?」
「え? えーっと、保護《ほご》施設っていうか、なんていうか……」
鷲士は顔を上げると、困ったように笑った。
「……孤児院の出なんです、ぼく」
「そ、そうだったのかい……。悪いこと訊《き》いちまったかね」
咳払《せきばら》いして、マレーネは視線を床に落とした。
鷲士は苦笑し、首を振った。
「よしてくださいよ〜。どこの国にも、必ずいるじゃないですか。まあ、ちょっと運が悪かったとは思うけど――あ、これはどこへ?」
「こっちの鍋《なべ》に。そうそう。次はニンジンを頼むよ」
おたまで鍋を掻《か》き回し、老婆。やがてマレーネは、遠い目をして呟《つぶや》いた。
「……病弱でねえ」
「は?」
「フ……娘の話さ。死んで五年になる。絵描きのダンナと知り合ったのが、病院だったぐらいだからね。二人目の娘を産んで五年目で……。あとを追うように、ダンナも翌年に逝っちまってさ。なにも揃《そろ》って天国に行くこともあるまいに」
「お婆《ばあ》さん……」
鷲士《しゅうじ》は包丁を置いた。
「せめて四〇までは……と思ってたんだけどね。二人の孫が哀れでさ。歳《とし》の割によくできたコたちで……特に上の方がね、息抜きを知らないコになっちまって。勉強もスポーツもこなすんだけど……無理させちまったんじゃないかってさ……」
「……」
「バ、バカだね、変な顔おしでないよ! ほら、ニンジン!」
視線に気づき、赤面してマレーネは喚《わめ》いた。
「あ……す、すいません」
鷲士も顔を戻し、包丁を上下させる。
――すぐに我に返った。
「……じゃなくって! こんなことやってる場合じゃないんですよ! ぼく、早くガルなんとかの登山鉄道駅に行かなきゃ!」
「アホかい。ったく、これだから日本人は。ガルなんとかじゃない、ガルミッシュ・パルテンキルヒェンだろ。いいかげん憶《おぼ》えな」
老婆《ろうば》はボケ青年を睨《にら》みつけ、
「……だいたいパスポートもなしに、どうやってドイツへ来たんだい。ユーロやマルクはもちろん、トラベラーズ・チェックもカードも持ってない」
「だから、それは!」
「政府を動かせるような大金持ちの娘? ハッ、バカにおしでないよ。九歳のときにできた子供だなんて、誰《だれ》が信じるもんかい。ったく、日本人てヤツは。あんたの話にはね、リアリティがなさすぎるんだよ!」
「……ううっ、ホントなんですってばー」
ガックリ肩を落として、トホホ。冗談みたいな鷲士と美沙《みさ》の年齢《ねんれい》差が、今回は完全に裏目に出た。まあ、娘本人がいたところで、まず信用されまい。
「ほら、とっととニンジン切りな! ちゃんとわたしの手伝いをすれば、電車賃ぐらいは出してやろうって言ってんだ。ありがたく思うんだね」
アゴでしゃくって促しながら、しかし老婆は眉《まゆ》をひそめ、
「……でも、あんた本当に傷口はなんともないかい?」
「えーっと……血流と筋肉を、ある程度なら思い通りにできるって言うか。さすがに、まだ治っちゃいませんけど、これぐらいは大丈夫です」
呆気《あっけ》にとられていたマレーネだったが、やがて気持ち悪そうに、
「……ついてけないよ、日本人には。東洋の神秘なら、よそでやっておくれ」
「あの……だから草刈《くさかり》鷲士って名前なんですけど。シュージ・クサカリ」
「ううう、うるさいね! 日本人に名前なんかいらないよ!」
喚《わめ》く老婆《ろうば》を、鷲士《しゅうじ》は汗ジトになって見つめた。
「えっと……日本人に偏見持ってません?」
「ハン! わたしはね、昔日本にいたことがあるんだよ! ある事情で、ナチに追われててね! でもサムライの国に憧《あこが》れを抱いてたわたしの幻想は、日本に着いたその日に、呆気《あっけ》なく打ち砕かれた! 日本人は、差別はするわ、勝手に恐れるわ……! さもなきゃ、ヘラヘラ笑って頷《うなず》いてるだけ……! 気持ち悪いったらありゃしない……! 近寄ってくるヤツと言ったら、世間話は最初の三分だけで、あとはカネのことばかりさ……!」
「いやっ、ぼくに言われても……! ビンボーですしっ……!」
マレーネは俯《うつむ》くと、悔しそうに、
「……それでも日本人を信用したわたしは、しばらくすると、一文なしになっちまった。まだこっちも子供だったからね、寸借詐欺《すんしゃくさぎ》ってヤツさ。役所に泣きついても、リベート代わりに身に着けたアクセサリを要求されて、たらい回し。揚げ句の果てに、では善処します、と来たもんだ。それでもなんとかつてをたどって、昔っからウチの一族と繋《つな》がりがあった日本の大富豪を頼ったんだけど……こいつがまたどうしようもなく冷たいヤツでね。今でも忘れないよ、あの目は……!」
老婆は顔を背け、鼻を鳴らした。
「……そいつの曾孫《ひまご》が、今この村に来てる。五〇年前の約束を果たせ、とさ。気持ち悪いぐらい似てやがってね、冷たいところなんか、まるでコピーさ。同じ部屋にいるだけで、震《ふる》えが止まんなくなっちまう」
「あ、じゃあ、午前中のお客って……?」
「ああ。午後にまたお伺いします――また来るってさ。ったく、日本人づいてるよ、ここんところ。ほら、あんたも手を動かしな、手を!」
「日本人|嫌《ぎら》いになったのは仕方ないかも知れませんけど……でも、こんなことやってる場合じゃないんだけどなぁ」
トホホー、と仕方なくトントン包丁を動かす鷲士だ。
が――やがて思い出したように顔を上げ、
「あの、そういえば、リッターの村って、知ってます?」
「……リッターだって?」
老婆の腕が止まった。少し遅れて、ギョロ、と目が動いた。
「……リッターだって?」
再び訊《き》いた。声は、どことなく掠《かす》れていた。
「あ、はい。なんか昔にあった村らしいんですけど、結局、そこに行くのが目的みたいなこと言われたんで、念のために。知ってます?」
「……さあ、知らないね」
顔を戻すと、妙に落ち着いた素振りで、再び鍋《なべ》を掻《か》き回し始める。やがて顔を上げ、さっきまでの調子で、マレーネは喚《わめ》いた。
「ほら、さっさとおし! まずは治療代《ちりょうだい》分、しっかり働いてもらうからね!」
同時刻――別の場所。
そこからは、なぜか縦《たて》線の入った壮大な連峰が見渡せた。
ちなみに縦線とは――鉄格子のことである。
「……どこだろう、ここ?」
外を眺《なが》めながら麻当美貴《まとうみき》が、どことなく眠たそうに呟《つぶや》いた。
答えたのは、床であぐらをかくエルネスト老医師だった。
「……ガルミッシュ・パルテンキルヒェンじゃよ。行く予定だったオーバーアマガウから、二〇キロほど南西に行った街じゃ。おまえさんが見とるのは我が国の最高峰、ツークシュピッツェというわけさ」
「もうサイアクって感じ。せっかくの絶景も事情が事情じゃ、ブルーな気分に拍車かけるだけじゃない。あーもう、日本に帰りたーい。富士《ふじ》山の方がいー」
と天を仰いで、泣き言な麗華《れいか》だ。
壁《かべ》の椅子《いす》にチョコンと座ったルイーゼが俯《うつむ》き加減で、
「あ、あのっ……ごめんなさい……おねえさんたち……。その……わたしが……」
するとエルネストはニッコリ笑い、
「ええんじゃよ〜、ルイーゼは気にせんで」
「……おいおい。じーさん、そりゃわたしと美貴のセリフでしょーが。言うにしてもね」
その美貴がため息混じりに振り返ると、
「で、お爺《じい》さん、ここどこなの?」
「ああ? さっきも言うたように――」
「……そうじゃなくて。街の名前はわたしだって分かる。ここが、ガルミッシュのどこかってこと」
「脇《わき》に見えとるのが、ヴィスラーのスキー・ショップ――眺めと鉄格子を考えると、警察署《けいさつしょ》の留置場じゃろうな。入れられたことないから知らんがの」
「冗談でしょ、そりゃぜったいケーサツの厄介《やっかい》になったことある顔だって」
「……少なくとも、この街ではないわい」
ギロ、と麗華を睨《にら》む老医師だ。彼は立ち上がると、一番の美女に目を向け、
「で……どうなんじゃ、ミキ・マトウ? 錠《じょう》ぐらい、開けられるんじゃろう?」
「錠はね。なんてことない。問題は、外の見張り」
と正面――通路側――の鉄格子から見える戦闘員《せんとういん》たちを睨《にら》みつける。
全身黒一色で自動小銃、さらに顔にはゴーグルだ。表情が全く分からないことに加え、微動だにしない。無気味だ。
「……なにか連中にトラブルでも起きないことには」
「しかし、さっきよりは減ったな。あのスプレイとかいう、妙にのっぺりした若造も、どこかへ行きおった。ルイーゼと小鍵《こかぎ》には手を出さんままな」
とルイーゼの胸元を指差す。
――ネックレスの先には、赤いくすんだ鍵がぶら下がっていた。子供の親指ほど――普通の鍵よりも、一回り小さい。
美貴《みき》が首を傾《かし》げながら、
「赤い……金属? ふーん、珍しいね。でも、これがそんなに大切なものなの?」
コクコク一生懸命頷《いっしょうけんめいうなず》くルイーゼである。
「とにかく、じゃ。連中になにかあったのかも知れん」
「お爺《じい》さん――なにかって?」
「いや……だからその、誰《だれ》かがこの街に乗り込んできた、とかじゃな。敵の出方が分かれば苦労せんよ」
忌々《いまいま》しそうに、エルネスト。横の麗華《れいか》が、頭を掻《か》きながら、
「あーあ、あのスモール人間核弾頭がいてくれればなぁ」
「なんだそれ?」
「美沙《みさ》に決まってんでしょ、美沙。母親に似て、すんごいトラブルメーカーだからね。あのコがいたら、なんてゆーか、こう――」
「そんなに都合よくいくワケないだろう。もっと建設的にいかなきゃ」
髪に手を当て、美貴はため息だ。
が――。
「ヘヘヘ……また会ったな、フェイスの助手のおチビちゃんよ」
留置場から、廊下を隔てた正面玄関。戦闘員《せんとういん》たちの間から、黒い服を来たデブの巨漢が出てきて言った。警棒《けいぼう》で己の肩を叩《たた》きながら、偉そうに鼻を鳴らす。
当のチビは、いきなり美少女モード。手を後ろに組むと、体を左右にフリフリ、可愛《かわい》い感じのニッコリ笑顔で、
「あーっ、この前のおじさんだぁ。前は訊《き》く暇なかったけど、お名前は?」
「フッ……見る目があんじゃねえか。よく聞け、このおれは、今回ドイツの南部を任されてるフリードリヒ・ヴァッテンってもんだ。憶《おぼ》えときな、のちのハイ・キュレーター――組織の大幹部さまよ」
「ゲ……おいおい、フリードリヒってカオかぁ……?」
「ん? なんか言ったか?」
「あ、ううん♪ なんでもないよぉ♪」
とニコニコ。呆《あき》れたようなノイエに、アゴをしゃくると、
「あのね、こっちのおねえさんが、ちょっと訊《き》きたいことあるんだって。いい?」
「え……ちょ、ちょっと、ミサ!?」
「フ……ン。いいだろう。どうせ街の連中はどうなったか、だろ?」
「……! そ、そうよ……!」
緊張《きんちょう》で表情を強《こわ》ばらせ、ノイエは頷《うなず》いた。
デブ男――ヴァッテンは、警棒《けいぼう》を正面のガラス戸へ向け、
「ねえちゃん、外を歩いてるあの男――見えるか?」
「……ええ。あなたたちのホムンクルスでしょう」
「あれだ」
眉《まゆ》をひそめる碧眼《へきがん》の美女に向かって、ヴァッテンは続けた。
「分かんねえかな? くくく、あいつらやこいつらの材料になってんだよ! ベビーフードみたいに、グチュグチュに溶かされてな!」
「なっ……!」
「知らなかっただろ? こっちは一ヶ月以上前から、このガルミッシュでいろいろやってたんだよ。でも、さすがに人手が足んなくてな」
「……この街を押さえれば、南はやり放題だもんねぇ」
妙に冷めた双眸《そうぼう》で、美沙《みさ》。後ろ手で組んだ腕の指先が、せわしなく動いている。
――ウェアラブルPCだ。
「ま、どこにあったか分かんねえ幻の村探すには、それぐらいしねえとなぁ。こっちは別にテロリストやフツーの犯罪者じゃねえ、街の人間生かしといてもしょうがねえだろ? 人質なんていらねえんだからさ」
「な、なんてことを……!」
ノイエは、涙でうるみ始めた青い瞳《ひとみ》で、敵を睨《にら》みつけた。
「では、グランツホルンも……!」
「ああ、あっちを潰《つぶ》したのはおれじゃねえ。ハイ・キュレーター直々《じきじき》さ。生き残りは回る水の実験に使われてな、結局は全滅したそうだ。なんでも、中の一人は自分の命と引き換えに、ワンピースを出したそうだぜ。笑っちゃうよなぁ」
自分の腹を叩《たた》いて、ヴァッテンは体を揺らした。
ノイエの中で――なにかが切れた。
「う、うわああああああああ! よくもルイーゼを!」
スカートから抜き出したグロックは、デブの頬《ほお》に押しつけられた。しかし――ノイエに向けられている銃の数も、一|挺《ちょう》や二挺ではない。
「ヘヘヘ……こ、この状況で撃《う》つか?」
「よくも妹を……! あなたを殺して、わたしも死んでやる……!」
青い瞳《ひとみ》が、憎悪に血走っている。
が――歳上《としうえ》の元シスターを止めたのは、美沙《みさ》だった。
「やめときなさいって。こんなブタ野郎殺しても、まーったく意味ないしー」
「な、なんだと、このガキ!?」
「あのねぇ、ミュージアムって、ヒエラルキーの縛《しば》りが強烈で、権力はほとんど上に集中してるの。ハイ・キュレーターをブッ殺さない限り、こんなブタいくら血祭りに上げてもぉ、また代わりが出てきて、永遠の繰《く》り返し」
「ミ、ミサ、じゃあどうすればいいの……!?」
すると美沙は、再びロリモードに戻り、
「エヘヘ……あのね、ホムンクルスたちの工場って、ここにあるの?」
「そ、そうじゃねえ。工場があるのは、国際会議場だ。そこの地下で、冷凍保存した死体をベビーフードにして……知らねえよ」
「ふーん、国際会議場かぁ」
と泳がした大きな瞳が、今度は壁《かべ》の市街地図を捉《とら》えた。背後で、指が動く。
やがて――美沙は、笑顔で言った。
「じゃあ、まずは国際会議場から行ってみよー!」
署から少し離れて、バーンホーフ通りとヴォン・ブルグ通りの交差点の左手側には、市庁舎の倍以上ある巨大な建物がそびえていた。
――急に雲が赤く染まった。
間を置かず、東の空を割るように出現した赤い糸は、建物を斜め上空から貫き、さらに背後のクアハウスまで串刺《くしざ》しにした。
一瞬《いっしゅん》、間があった。
唐突に敷地《しきち》にある構造物という構造物が一斉に爆発《ばくはつ》し、大地を揺るがした――。
「う、うわっ! なんじゃ、地震《じしん》か!?」
「せっ、せんせいっ……!」
「み、美貴《みき》ィ! 揺れてる揺れてる!」
「うるさいな、分かってるよ!」
キラー衛星のレーザービームによって爆発した国際会議場の衝撃《しょうげき》は、地面を駆《か》け抜け、署全体を大きく揺らした。
直立不動だった戦闘員《せんとういん》たちが弾《はじ》かれたように銃を構え、通路の奥へと消える。
老医師の顔に、希望の笑みが射《さ》した。
「……な、なんだか分からんが、チャンスじゃ! おい!」
「任せて!」
美貴《みき》が叫ぶと同時に、錠前《じょうまえ》が、カチャンと音を立てた――。
「な――なんだ!? なにが起きやがった!?」
呆然《ぼうぜん》と辺りを見回すヴァッテンを、徹底《てってい》的に冷めた美沙《みさ》の双眸《そうぼう》が貫いた。
「ばぁーか、起きたんじゃなくて、ここではこれから起きるのよ、このブタ野郎。美沙さまを怒らせた罪――命で贖《あがな》ってもらうわよ」
「な、なんだと!? てめえ、黙《だま》って聞いてりゃ――」
と美沙に伸ばした腕を、肥満漢は唐突に止めた。
「……焦げくせえ。いったいなんの臭《にお》いだ?」
鼻をピクピクさせて振り返った彼は、奇妙なものを見た。
――天井《てんじょう》から降りた一本の赤い光。接点である床のタイルが、ジリジリと焦げている。異臭のもとが、これだ。
呆気《あっけ》にとられ、ヴァッテンは光の出所を追った。
赤い糸は、床と同様に天井にも穴を穿《うが》っていた。
「な、なんだ? 二階から……? いや……建物を……貫通してやがるのか……?」
「まっ、まさか……あれって風苅《かぜかり》町駅を溶解させた……!?」
とノイエが、息を呑《の》んで後退《あとずさ》ったときだった。
ブラウスの裾《すそ》を、美沙が引っ張り、
「おねーさん、伏せてっ!」
――突然、真紅の閃光《せんこう》が、部屋を埋め尽くした。ビームの直径が瞬時《しゅんじ》に膨張《ぼうちょう》し、受付中央の床を爆発《ばくはつ》させたのだ。美沙、ノイエが伏せると同時に、正面のカウンターが付け根から外れ、取り囲んでいた戦闘員たちを薙《な》ぎ倒した。ロッカー、机、床のタイルにブロック――設置されたすべてのものが、衝撃《しょうげき》で外側へと吹っ飛んでいく。
カウンターの机をフェンス代わりに、美沙はバッグからOICWを抜くと、身を乗り出して部屋の中央に向けた。
「アハハッ、バーカ、死んじゃえ〜!」
フルオートで撃《う》ち出されたエア・バーンブリットが、戦闘員たちの手前で、立て続けに爆散した。黒い影が、次々に倒れていく。
だ・が――。
「……あれれ。止まんない」
「な、なに!? どうしたの、ミサ!?」
髪を押さえ、目を白黒させながらノイエが喚《わめ》いた。
「いや……ビームがちょっと」
と美沙《みさ》は目の前を指した。
赤いレーザービームは、まるで酔っ払いのように蛇行の往復を繰《く》り返していた。そのたびに天井《てんじょう》や壁《かべ》がスパスパ切り落とされ、下に落下する。超高熱のレーザーである、建築《けんちく》用のカッターより遥《はる》かにタチが悪い。
「コントロール……できていないの……?」
「えーっと……壊《こわ》しまくってたから、建物の電波状態が劣悪になってるみたい。衛星とのリンクが切れちゃった」
ニャハハ、と美沙だ。
一方、やっと廊下に出た美貴《みき》は――。
――ミシ!
顔を上げたミス相模大《さがみだい》の目に映ったのは、ビームによってなますにされ、今、まさに落下せんとする天井の構材であった。
「うっそ……!」
「いてて……畜生!」
煙の中から、机を跳ね飛ばして立ち上がったのは、黒ブタ――ヴァッテンだった。首をコキコキ鳴らして、署内を見回す。
部下は全滅――しかもチビと金髪の姿もない。
「外に逃げやがったか……! あのガキども、絶対に逃がさねえ……!」
吐き捨てると、床の銃を拾おうと、彼は振り返った。
突き進んでくるレーザーが、太った体を凍りつかせた。
「お、おい、おれは将来ハイ・キュレーターに――」
それが彼の最期のセリフだった。
濁《にご》った瞳《ひとみ》の網膜に、レーザービームの光が焼きついた――。
そして――美沙とノイエが、正面の階段からジャンプしたと同時。
とどめの大爆発《だいばくはつ》が、署を襲《おそ》った。
ガラスというガラスが粉々に砕け散り、火柱を噴《ふ》き上げた。それでも止まらず、壁そのものが爆散し、隣《となり》の建物まで薙《な》ぎ倒す。署の屋根に至っては道路を飛び越し、対岸に立ち並ぶ複数の商店をまたがって押し潰《つぶ》した。
破壊《はかい》された柱が重さに堪えかねたのだろう、じきに建物は内側へ向かって崩れ始めた。辺りへ破片を撒《ま》き散らしつつ、自らが吐き出した粉塵《ふんじん》に呑《の》み込まれていく。
数十秒後――美沙《みさ》が咳《せ》き込みながら、顔を上げた。
「ゲホゲホ――おねーさん、生きてる?」
と体中にまとわりつく埃《ほこり》を叩《たた》き落とす。
しかし――答えはない。
「おねーさん? 生きてるなら生きてるで、死んでるなら死んでるで、とにかく返事――」
しかし美沙は軽口を叩くのをやめた。
完全に瓦解《がかい》し、粉塵に包まれた署を、ノイエが見つめていたからだ。
「ルイーゼ……。可哀想《かわいそう》な子……。シュライヒャーの家に生まれたばかりに……!」
青い双眸《そうぼう》から流れた涙が、埃まみれの頬《ほお》に筋を作った。美沙も目線を落として、ポリポリ頭を掻《か》く。
――ガタッ。
粉塵の奥で影が動き、美沙は瞬時《しゅんじ》にOICWを構えた。
「ゲホッゲホッ……」
咳き込みながら現れたのは――小さな修道女。
呆気《あっけ》にとられたように、ノイエが彼女の名を呼んだ。
「……ルイーゼ!」
「え……? おねえちゃん……?」
顔を上げて瞬《まばた》きし、首を傾《かし》げる本人だ。背の高い姉が駆《か》け寄り、幼い妹を抱き締《し》めた。
「ルイーゼ、ルイーゼ、ルイーゼッ……! もうっ、心配させて……!」
「お、おねえちゃん、どうしてここにいるの? どうして泣いてるの?」
ちょっと状況が呑み込めてないルイーゼだった。
そしてさらに影は続いた。
「ツツツ……ん? そこにおるのはノイエか!?」
「エ、エルネスト先生!?」
つまずきながら現れた老人の肩を、ノイエが支えた。
「先生、どうしてここに!?」
「ゴホッ――そりゃこっちが訊《き》きたいわい。おかしな日本人の女二人と出会ってからというもの、災難続きでな」
「ゲホゲホ――なに言ってんのよ、じーさん! そりゃこっちのセリフよ!」
と煙を掻き分けて出てきたのは――宮前麗華《みやまえれいか》である。
美沙は汗ジトになって後退《あとずさ》り、
「ゲ――麗華おばちゃん!?」
「み、美沙《みさ》ぁ!? なっ、なんだか分かんないけど――そ、そうか、このバクハツ、あんたの仕業ね!? そうでしょ!?」
「そ、そーだけど、どーしておばちゃんが?」
「どーしてって訊《き》かれても――とりあえずあんたねぇ、いくら母親の知り合いだからって、おばちゃんて呼ぶのやめんかーい! まだハタチなんだぞ!」
「えー? だってそーゆーもんでしょ?」
イヤそうに、美沙。
「うるさい、姪《めい》にだっておねーさんて呼ばせてるのに! わたしは麗華《れいか》おねーちゃん! いいわね! 今度からおばちゃんって呼ばれても無視するわよ!」
「あー、はいはい、おねーちゃん」
と投げやりに答える美沙だったが、ハッとして、
「あ、じゃあさ、やっぱりウチのガミガミ大魔王《だいまおう》と――」
「……悪かったなぁ、ガミガミ大魔王で」
影の中から、仏頂面《ぶっちょうづら》の美貌《びぼう》が、最後に姿を現した。
――麻当美貴《まとうみき》である。
彼女は体の埃《ほこり》を払うと、こめかみを押さえてため息をついた。
「……誰《だれ》か事情を説明してくれる? できれば……ウチのおチビちゃん」
唐突に、影が彼らの頭上を覆《おお》った。
巨大な輸送ヘリである。後ろのカーゴスペースから顔を出しているのは、フォーチュン・テラーの会長秘書――片桐冴葉《かたぎりさえば》だった。
「グランツホルンは我々で制圧しました。現在、敵の本隊は、ツークシュピッツェの裾野《すその》に移動しています。ただ、状況が分からないので、下手《へた》に攻撃《こうげき》できません」
「OK! とりあえず、修道院に向かいましょ!」
美沙は親指を立てて、ニッと笑った。
ツークシュピッツェ――ミュージアム・テント。
街を眺《なが》めていたスプレイが、目を細めた。
「さっきのビーム――例のロリポップがマジに動き出したな。グランツホルンとも連絡とれなくなっちまったし――バトルも佳境ってとこか?」
しかし瞬《まばた》きすると、
「……どうでもいいか、別に」
ニットキャップを目深《まぶか》に被《かぶ》り直すと、チューン・マンは後ろの部下に喚《わめ》いた。
「ヘリとバレッタを貸せ! ガリガリが戻る前に、なんとか見つけ出すぞ!」
夕日が、小さな村を赤く染め抜いた。
――オーバーアマガウである。
ドルフ通りの北側に面した小さなホテル、アルテ・ポストから、一風変わった出《い》で立ちの少年が姿を現した。
タキシードにベスト、スラックス――その上には、インバネス付きのハーフコート。ドイツというより、一世紀ほど前のイギリスが相応《ふさわ》しい服装だ。ただ、その上にのった顔が似合う場所は、美沙《みさ》を銀幕とするならば、こちらは美術館というところだろう。
――結城樫緒《ゆうきかしお》である。
少年は車道に停《と》まった古めかしい黒いミニに乗り込むと、ドアを閉めた。
「……やってください、山岡《やまおか》さん」
「はっ、坊っちゃま」
運転席の痩《や》せこけた老人が頷《うなず》いて、ギアを入れた。油で撫《な》でつけた頭髪もチョビ髭《ひげ》も、見事なまでに真っ白である。
結城家の筆頭執事――山岡|銅介《どうすけ》。
「坊っちゃま」
ハンドルを静かに回しながら、山岡が声をかけた。
「……なんです?」
「ご不便をおかけして申し訳ありません。腰を痛められぬようお気をつけください」
「……仕方ないでしょう。シュライヒャー夫人は、結城一族を毛嫌《けぎら》いしているようだ。リムジンで乗りつけて、さらなる不興《ふきょう》を買うのは避《さ》けたい」
目を閉じ、淡々と少年は答えた。
「ですが、稲嶺《いなみね》たちを置いてきたのは、ちと。なにか起こったら、この山岡、お館《やかた》さまに合わす顔がございません」
「彼等《かれら》こそ、結城の暗部の象徴。連れていくのは愚の骨頂です。それに――」
「それに――なんでございましょう?」
「――力を武器にしていてあの程度では、いてもいなくても同じことだ。いや、直観暴力に頼るような輩《やから》は、むしろ邪魔《じゃま》だと言っていい」
バックミラーを覗《のぞ》いていた老人は、汗ジトで青ざめた。
やがて――筆頭執事は、ため息混じりに、
「坊っちゃま、僭越《せんえつ》ですがこの山岡、首を覚悟で言わせていただければ――」
「……あなたを首にする気はありません。姉さまになにをされるか分かりませんからね。だから言わなくて結構。心についての言葉は聞き飽きました」
「は、はあ……ではそのように」
釈然としないながらも、老人は再びギアを入れ換えた。
カーブを、小さな車体が曲がっていく――。
「うーっ! 働いたぁ〜!」
シュライヒャー邸――ソファに身を沈めるようにして、鷲士《しゅうじ》は背伸びした。少し眠たげな顔つきだ。
……まいったなぁ。
と頬《ほお》をポリポリ。
結局、料理、洗濯《せんたく》――屋根の修理までやってしまった。
歩いていった方がよかったかも知れない。オーバーアマガウからガルミッシュ・パルテンキルヒェンまでは、電車で行くと約一時間だそうだ。山手《やまのて》線のように五分ごとに停《と》まる路線とは違って、相当な距離だというのは容易に想像できるが、ここで過ごした時間を考えると、道半ばまで、既に行けていた可能性もある。
……美沙《みさ》ちゃん、大丈夫かな?
脇《わき》のメック・コートに改めて袖《そで》を通し、左腕部分に触れてみる。
――黒い特殊|繊維《せんい》に、瞬時《しゅんじ》に蛍光色のキーが浮かび上がった。どこに射光部があるのか、ホログラフィでOS画面まで現れる。
「ど、どうなってるんだろ?」
汗ジトで鷲士は首を傾《かし》げた。機械=硬いもの――古い概念から離れられない典型的なローテク人間である。
画面を睨《にら》み、しかし鷲士は微動だにしなかった。
「で、電子メールの使い方もよく分かんないんだよね……」
これだ。
異変は、静かに起こった。
ボケ青年の背に、無音で人影が重なったのである。物音一つ立てない。映り込む影は、なにか長い棒のようなものを構えていた。
――カチリ。
気付いた様子もなく、いきなり鷲士は絨毯《じゅうたん》を蹴《け》った。クッションと背もたれが爆発《ばくはつ》し、羽毛とスポンジを撒《ま》き散らしたのは、直後のことであった。痩《や》せた体は、テーブルを飛び越して空中回転。そこでやっとボケ青年は驚《おどろ》いた。
――相手がマレーネだったからである。
「お、お婆《ばあ》さん!?」
鳩《はと》が豆鉄砲食らったような顔で、鷲士は暖炉の前に着地。後退《あとずさ》った。散弾銃に弾を込め直したマレーネが、それを追い詰める。
「動くんじゃないよ、日本人! 楽に死にたいならね! これでもオクトーバー・フェストの大会じゃ、シュッツェンケーニッヒ――射撃王《しゃげきおう》――のメダルを貰《もら》ったこともあるんだ! 一発であの世に送ってやる!」
「ままま、待ってくださいよ、だからどうして!? タマネギとニンジンの切り方、そんなにまずかったですか!?」
「……ああ? なに言ってんだ、ふざけた男だね」
片眉《かたまゆ》を上げたものの、老婆《ろうば》はすぐに照星《しょうせい》に狙《ねら》いを合わせ、
「病人ゴッコは終わりだって言ってんのさ! ええ? ミュージアムの手先め!」
「……はあ」
いったんは相槌《あいづち》を打ったものの、鷲士《しゅうじ》は別の意味で青ざめた。
「は、はあ〜? ミュージアムぅ〜? ぼくが〜?」
「ハン、誤魔化《ごまか》すんじゃないよ! 普通の旅人から、リッターなんて名前が出てくると思ってんのかい!」
「いやっ、だから、それは!」
宝探しなんて言ったら、もっと怪しまれるから――。
しかし老婆はジリジリと間合いを詰めながら、
「言い訳はね、もっとマシなの用意しとくもんなんだよ! パスポートもカネもない、揚げ句の果てに、九歳差の娘? 馬鹿《ばか》におしでないよ!」
「本当なんですよ! ドイツには、ノイエって子と――」
「……ノイエだって!?」
急に老婆の双眸《そうぼう》に、殺意に近いものが宿った。
「そうか……! そこまでバレてるってことは、あの子はもう……!」
「い、いやっ、まだ生きてると思いますけど! ぼくより先に逃げたんだし! そもそも彼女に呼ばれなきゃ、こんな遠いとこまで来ませんって!」
手を振り乱す鷲士である。
マレーネは眉《まゆ》をひそめた。トリガーにかけた指が、少し緩《ゆる》む。
「あの子に……呼ばれた? ノイエが、あんたを?」
「あのぉ……ひょっとしてお知り合い?」
鷲士も冷や汗を流しつつ訊《き》き返す。
「……わたしの孫さ」
「マ、マーゴ? えっと、ちょっとドイツ語は」
「……アホ、バカ。ポストに名前が書いてあっただろうに。わたしはマレーネ。マレーネ・シュライヒャーってんだ」
「シュライヒャーって……ええっ!?」
ズササ、と大袈裟《おおげさ》に鷲士は後退《あとずさ》り。
「そ、そっか、戦後の混乱期にいたって、昼間も……! てことは、あなたが彼女の日本|嫌《ぎら》いの原点なんですね……? 凄《すご》い偶然だなぁ……」
「よ、余計なことお言いでないよ! それより――ノイエが連れてきた? あんた、自分がなに言ってるか、意味分かってんのかい!?」
「え……意味ですか?」
首を傾《かし》げる鷲士《しゅうじ》に、老婆《ろうば》は喚《わめ》いた。
「あの子が連れてきたってことは、あんたがダーティ・フェイスってことだろう!」
「う……そ、それはなんと言うかですね、正解のようでいて、実は最初から間違っているというかなんと言うか」
「……なんだいそりゃ。やっぱり怪しいね。あんたいったい何者なんだ?」
青筋を立て、ノイエの祖母は再び銃を構えた。
ひぃ、とボケ青年は身をよじった。
「くくく、草刈《くさかり》鷲士、二一歳! 結城美沙《ゆうきみさ》と樫緒《かしお》って可愛《かわい》い双子《ふたご》の子供がいるんです! 撃《う》たないでくださいっ!」
この言葉に、マレーネが反応した。
老婆は目を細め、ショットガンを下ろすと、
「結城……樫緒? 待ちな、あいつの父親だって……?」
「あ、あれ? 彼のこと知ってるんですか?」
「知ってるもなにも、今朝《けさ》方ここに来てた富豪《ふごう》の曾孫《ひまご》ってのは――」
窓が木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に砕け散った。
前触れもなしにだった。ガラス片が雪のように舞い、へし折れた窓枠が、立て続けに白塗りの壁《かべ》へ突き刺さる。瞬時《しゅんじ》にマレーネの間合いに踏み込んだ鷲士が、コートでカバー。黒い機械|繊維《せんい》の上で、いくつもの破片が跳ね返った。
パラパラパラ……。
「なっ、なにが起きたんだい!?」
と上げた老婆の顔が、瞬時に青ざめた。
――虎《とら》が、そこにいたからである。
「ななな!?」
鷲士も呆気《あっけ》にとられて、後退《あとずさ》った。
肩の高さは鷲士の胸元まで――身長に至っては、尾まで含めなくとも、青年の一・五倍はあるだろう。
しかも――赤いのだ。黄色と黒の縞《しま》模様ではなく、赤と黒だった。
赤虎が、鷲士を睨《にら》んで吠《ほ》えた。牙《きば》が、大人の前腕部ほどもある。
――サーベル・タイガー。
「こっ、このバケモノ! 動物園にお帰り!」
ショットガンが火を噴《ふ》いたと同時に、赤い影が霞《かす》んだ。獣《けもの》が躱《かわ》したのだ。そして虎《とら》が頭上を覆《おお》ったと同時に、今度は鷲士《しゅうじ》が動いた。一歩踏み込み、まず右手の突きでアゴを砕く。ついで左手の掌底《しょうてい》を、虎の鳩尾《みぞおち》に向けて突き上げた。
手のひらを腹に受けた途端、虎は全身の毛を逆立てた。毛穴という毛穴から体液――水滴が噴き出し、空中で大きく痙攣《けいれん》する。
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九頭《くず》・左竜雷掌《さりゅうらいしょう》――。
[#ここで字下げ終わり]
特殊な呼吸法によって己の生体電流を加圧し、瞬間《しゅんかん》的に敵に叩《たた》きつける仙術系の技――予備知識のない生身の存在は、これでまず確実にやられる。肉体という名の精密回路を、完全に破壊《はかい》されてしまうからだ。
しかし――虎は着地すると束《つか》の間体を震《ふる》わせただけで、また瞬時に窓のところまで飛び退《すさ》った。
が、またしても、鷲士とマレーネの顔に衝撃《しょうげき》が走った。
赤虎が戻った場所――つまり窓の残骸《ざんがい》の上に、いつの間にか、長身の人影が立っていたからである。
「……気に入らん」
ゾッとするような声で、影が言った。
「……気に入らんな」
影は怒気をまとって、足を踏み出した。
老婆《ろうば》が再び銃を構えたが、それを制す形で、鷲士が一歩前に出た。散弾銃など恐らく役に立たないと、肌《はだ》で感じたのだ。
な、なんだ、このヒト……? 気の形が変だぞ……?
「恐《こわ》がるはずのないものが恐怖した……わたしの虎《とら》が。脳を精密に描いていなかったというのに。気に入らん」
男は、指になにか持っていた。
――筆だ。
「どうやら、ただの自己満足だったようだ。失敗作は……速やかに破棄しなければ」
男の腕が、霞《かす》んだ。筆でサーベル・タイガーの頭部を撫《な》でたのだ。
奇妙な光景が、そこに出現した。
虎の顔が、突然、ぼやけたのである。三次元の物体が、二次元に塗り潰《つぶ》された。
――突然、体躯《たいく》全体が厚みを失い、砕けた。割れたステンドグラスに似ていた。バラバラになり、床に小さな山を作る。乾燥《かんそう》した絵の具の残骸であった。
「ヴィ、ヴィタリスの魔筆《まひつ》……! じゃあ、おまえさん……!」
息を呑《の》む老婆《ろうば》を一瞥《いちべつ》すると、鷲士《しゅうじ》を睨《にら》み、影は言った。
「わたしの名はディーン・タウンゼント――お初にお目にかかる、ダーティ・フェイス」
妖画家《ようがか》は、暗い眼差《まなざ》しで、会釈した――。
一方、ツークシュピッツェ山麓《さんろく》の上空――。
飛び交う十数機のヘリ――その中でも最も低空を飛行する機体のコ・パイロット席に、ニットキャップの青年の姿があった。
スプレイである。
「……ぜんぜん反応ねーな。このブロックで見つかんなかったら、最初っから狙《ねら》いがズレてたってことだせ」
と手の中のバレッタに視線を落とす。
――異変が起きた。
細工中央のガラスが、ぼんやりと光り始めたのである。
「……なんだ?」
青白い光であった。さらに明滅とまではいかないが、強くなったり弱くなったり――生きもののように、脈動を繰《く》り返す。
突然、光が弾《はじ》けた。強烈な閃光《せんこう》を発したのだ。フラッシュがコクピットを埋め尽くす。
「くそっ、これが反応ってヤツか!?」
顔を伏せながら、スプレイ。
次第に閃光は弱まっていき、代わりに、新たな光景が出現した。
――光の道標《みちしるべ》だ。バレッタから放たれた光が一本のレーザーになり、草原の一点を指し示したのである。レーザー光は、草の間に吸い込まれた。
「……あそこか。おい」
チューン・マンがアゴをしゃくり、パイロットが頷《うなず》く。
だが、異変は止まったわけではなかった。
バレッタの表と裏の接合部が、突然、裂けた。パシバシ、と音を立てて、アンテナらしきものが突き出してくる。
「……ああ? おい、ちょっとまて」
もう片方の手を、スプレイが髪飾りに伸ばしたときであった。
――ゴゴゴゴゴゴゴ!
山並みを、突如、激しい地鳴りが覆《おお》った。草原に亀裂《きれつ》が入り、土塊《つちくれ》が噴《ふ》き出す。地雷を立て続けに爆発《ばくはつ》させたかのようだった。中心地は、光が呑《の》み込まれた場所だ。レーザーでポイントされた地域を中心に、地割れが広がっていく。
「おいおい、話が違うぜ……! ここまでやれとも言われてねえ……!」
慌てたスプレイが、発光部を手で覆《おお》った。
が――レーザーは途切れなかった。改造された手の甲を突き抜け、光は揺れる地面を指し示し続ける。
「か、貫通しやがった? ただの光じゃねーのか」
「サ、サー! あれを!」
地面を指して、パイロットが叫んだ。
粉塵《ふんじん》の間から、なにかが浮かび上がってくる。遺跡《いせき》のような影だ。
「リッターの……村? マジか?」
しかし、さらに地震《じしん》は悪化した。ツークシュピッツェを構成する絶壁《ぜっぺき》までが、次々に剥離《はくり》し始めたのだ。巨大な質量を持つ岩の塊が、立て続けに崖下《がけした》で砕け散る。地面にいたっては岩盤《がんばん》そのものが割れたらしく、土の間から顔を出した。地中から噴《ふ》き出した石塊に貫かれ、ヘリの一機が、空中で爆散《ばくさん》する。
急に、地鳴りは止まった。
そして粉塵の中から――ついに村は姿を現した。
朽ちた壁《かべ》の残骸《ざんがい》、腐った柱の数々――しかし中央通りの石畳や、家々の土台は、それがかつて、近代的な集落であったことを、如実に物語っていた。
リッター――二次大戦中に忽然《こつぜん》と消えた謎《なぞ》の村。
恐ろしいことに、村は、ほんの先端にのっているにすぎなかった。まるで巨大なモグラが通ったかのように、大地が盛り上がっていたのである。村を終端に、北に約五キロ、幅一キロほどの面積が、大きく隆起している。文字通り急造の丘だ。
「な、なんだ……? 下になにかある……? しかもメチャメチャでけーぞ……!」
スプレイは呟《つぶや》いて、目を落とした。
手の中のバレッタは、まだ光を放ち続けている。
そのとき、一機のヘリが、リッター上空に移動した。スプレイ機のCRTに、転送されてきた映像が映し出される。
――粉塵の隙間《すきま》に映る石畳と、建物跡の数々。中央通りだ。
スプレイが、マイクを掴《つか》んだ。
「……そのまま直進してみろ。グランツホルンの連中が大昔に建てたっつー教会の残骸があるはずだ。ミーミルの井戸は、教会の中にあったらしい」
ヘリは微速前進を始め、映像も動き始める。
やがて石のタイルが途切れ、しばらく土だけが見えていたかと思うと、唐突に奇妙なものが映った。
――朽ちた十字架だ。
「止まれ!」
やや遅れて、機体がホバリングに移行。映像も停止する。
CRTに映った十字架を指でなぞりながら、スプレイが、
「よーし、間違いねー、この辺りだな。とりあえずこれだけ分かりゃ、おれの仕事は終わったと思って――」
――さらなる異変が、彼等《かれら》を襲《おそ》った。
急にバレッタの光が強くなったのである。レーザーの先は、もちろん村の地面だ。さらに連動するように、地中の中から、音がした。
――カチリ。
地面から前触れもなく、水柱が生じた。直径だけで数十メートル――凄《すさ》まじい勢いに、調査ヘリは対応できなかった。水に呑《の》み込まれたのだ。
「ヤベ、まさか……!」
水を浴びたヘリが発光し始める様子は、スプレイ機のコクピットから、ハッキリと見てとれた。それは、回る水を浴びた修道女たちのと同じ光であった。
――変化は、唐突に起こった。
アーミーグリーンのヘリが、一瞬《いっしゅん》で黄金の機体に変わってしまったのだ。恐ろしいことに接合部は一切なし――ローターが回るはずもない。
黄金のヘリコプターは、水柱の中に落下した。
「マジかよ……! じゃ、この水は……!」
地面からあふれ始めた水の勢いは、異常という他《ほか》はなかった。瞬《またた》く間に村全域を覆《おお》い、さらに先ほど作られた隆起に従って、ツークシュピッツェの裾野《すその》全域に広がり始めたのだ。まるで決壊《けっかい》したダムのようだった。
土、草――ありとあらゆるものが、水に呑み込まれていく。
蒼然《そうぜん》として、チューン・マンは振り向いた。
「この場から離れろ! キャンプの連中にも伝えるんだ! ミーミルの水が、バカみたいにあふれ出しちまったってな!」
一方、グランツホルンへと向かう輸送ヘリの中では、奇妙な睨《にら》み合いが続いていた。
――麻当美貴《まとうみき》と結城美沙《ゆうきみさ》の間で、である。
美貴はため息をつくと、頭をポリポリやり、
「……まあ、だいたいのところは分かったけど。でも、どーしてキミが?」
「そりゃ、わたしたちが世界最強だからじゃん?」
「もうっ! 危険だからやめなさいって言っただろう! おまけに……キラー衛星? 信じられない、わたし、そんなこと許した憶《おぼ》えないぞ! キミは限度ってものを知らなさすぎるんだよ! だからこの前のときだって!」
「や、やめて!」
そう言って美貴《みき》を制したのは、ノイエだった。
「……確かに危険で無茶かも知れないわ。ミサとは知り合いみたいだけど……でも彼女のおかげで救われた人々の数は、今まで一万や二万じゃきかないのよ? 現に、あなただって。ルイーゼを救ってくれたのは感謝《かんしゃ》してるけど、ちょっと言いすぎ――」
「う、うるさいな! 部外者は黙《だま》ってて! キミには関係ない!」
睨《にら》みつける美貴である。
これが碧眼《へきがん》美女をも不機嫌《ふきげん》にした。皮肉っぽく口の端を歪《ゆが》めると、
「……噂《うわさ》通りね、ミキ・マトウ。相模大《さがみだい》一の冷血女。シュージを奴隷《どれい》代わりに使って、好き勝手のしほうだいだとか。フン、お似合いだわ。あんなお人好《ひとよ》しでもなければ、誰《だれ》があなたのような女と――」
ノイエは急に言葉を切った。
妙に真剣な顔で、美貴が見返してきたからである。
「な、なによ?」
「キミ……本当にお似合いだと思ってる?」
「え、ええ。だけど、それは――」
すると――美貴は急に口元をほころばせ、
「そ、そっか! そうか、うん! うんうん! 見る目あるね、キミ!」
とノイエの手を握ると、もう片方の腕で、相手の肩をバンバン叩《たた》いた。メチャメチャ嬉《うれ》しそうである。
「いやあ、キミとはいい友達になれそうだ! あ、知ってるかもしれないけど、わたし女子弓道部で部長もやってて、学内では色々と顔がきくから! なにか困ったことあったら、いつでも言ってきてよ!」
「は、はぁ……?」
戸惑ったノイエの視線を受け、美沙《みさ》はため息混じりに、肩をすくめた。
「……おかーさん」
「えっ?」
「だから……おかーさん。実はこのヒトが、わたしのママなの。ホントは結城《ゆうき》美貴って名前なんだから」
「え……ええっ!? 母親ですって!?」
呆然《ぼうぜん》と、二人を見比べるノイエだ。
「い、言われてみれば確かに……凄《すご》くよく似てるけど……でも待って、確かお母さまは風邪《かぜ》で亡くなったって、あなたは……?」
「どこかのバカが、色々と信じらんないヘマやってさぁ。本当のこと言い出せなくなってるって状況なんだ。ホント、困るよねー」
ノイエは頬《ほお》を押さえると、クラクラと壁《かべ》に手を突き、
「な、なんてこと……! わたしとルイーゼより歳《とし》が近いのに……親子?」
と横の妹と、顔を見合わせる。
「あ……じゃあ、シュージは……? 彼はこのことを……?」
「ううん、だから知らないよ。ホント、かわいそぉ。どっかのバカのおかげでさぁ」
バカ、という部分に必要以上に力を込めて、美沙《みさ》。
ママは赤面してソッポを向くと、
「い、今はキミのことだろう! いい? わたしは、これでも母親なんだ! もう今後、二度とこんなことは――」
「……ふーん。わたしのことを理解しようって気はないワケね」
「べ、別にそうは言わないけどさ」
「いいよいいよ、いいですよぉ。だったらわたし、自分だけ草刈《くさかり》って名字に変えて、もう二人の件からは手を引かせてもらうから」
と美沙は、あっかんべー。
美貴《みき》は汗ジトになって肩越しに振り返り、
「な、なにそれ? どういう脅し? バカだなぁ、そんなことできるワケないじゃないか。わたしとしゅーくんがケッコンしなけりゃ、キミは――」
「はいはい、バカはどっちかなぁ。わたしと樫緒《かしお》と鷲士《しゅうじ》くんは血が繋《つな》がってるってコト、もう忘れてんのかなぁ?」
ハンマーでブッ叩《たた》かれたような衝撃《しょうげき》が、美貴の美貌《びぼう》を貫いた。
彼女は泣きそうな顔で、娘の足にしがみついた。
「ズ、ズルいー! なにそれー! わたしだけ結城《ゆうき》止まりってこと!?」
「ま、元から鷲士くんは、法律上でも認知しようとしてんだけどねー。わたしがそれをはぐらかしてるだけってゆーかぁ。うん、草刈《くさかり》美沙ってのも悪くないわね。ゴロもいいし。そーだ、樫緒にも薦《すす》めてあげよっかな?」
「そ、そんなぁ! ひどいひどい! わたしがキミたち生んだんだよ!? なのにどうしてわたしだけ仲間外れなの!? 不条理だ!」
これにはシュライヒャー姉妹が汗ジトになったが、脇《わき》の麗華《れいか》が手を振った。放っときゃいいのよ、いつものことだし――投げやりな表情が言っている。
やがて美沙が、芝居がかった動きで、
「フッ……この体には、鷲士くんの血が半分流れてるのよね。いやーん、あったかーい」
と自分の肩を抱いて、クネクネ。悪魔《あくま》だ。
やがて美貴《みき》が俯《うつむ》くと、美沙《みさ》の体をギュッと抱き締《し》めた。
「……美沙、美沙……わたしの可愛《かわい》い美沙……大きくなって……」
とチュッチュッチュッ。キスの雨を降らせてゆく。
これにはさすがに、された美沙も赤くなった。
「ヤ、ヤダ、やめてよぉ、人前で。冗談だってば、仲間外れになんかしないから。鷲士《しゅうじ》くんが変なのとくっついちゃっても困るし。ねっ?」
しかし――美貴はとんでもない行動に出た。娘の腰元に手を回すと、ベロン。ジャケットの下に着込んだ戦闘服《せんとうふく》を、一気に引き上げたのである。
ちなみに――娘はノーブラでした。
ロリプニな白い体が露《あらわ》になった。絹よりもきめ細かで柔らかそうな肌《はだ》、まだまだペッタンコに等しい胸、先にくっついた桜色の二つのポッチまでも――だ。ロリコンでなくても、男なら吸い寄せられてしまうだろう。
美沙が慌てたのは言うまでもなかった。
「ちょちょちょ!? 美貴ちゃん!?」
「フフフ……可愛い……」
妖艶《ようえん》に微笑《ほほえ》むと、美貴は後ろから覆《おお》い隠すように、娘のムネに手を回した。壊《こわ》れものを扱う手つきで、やんわりとモミモミ。
「ヤ、ヤダ……! いったいなんの……んっ……!」
ジタバタしていた美沙だったが、ほどなく体から力を抜いた。いや、抜けた、という方が正しい。指のタッチが、それほど繊細《せんさい》かつリズミカルだったのだ。
「や……ん……! い……いま痛いんだから、そっと……」
「フフフ……分かってる。こっちだって元は少女」
ノイエ、ルイーゼ、麗華《れいか》――三人は絶句だ。
やがて満足したのか、美貴は感触を確かめるように手のひらを見つめると、薄《うっす》らと唇をほころばせ、
「胸もふっくらしてきてるし……もう大人だよね……」
さらに今度は首筋を啄《ついば》みながら、美貴は、
「あ……あのさ……お願い聞いてくれる……? わたし……欲しいものがあるんだ……」
「はぁ……はぁ……えっ……?」
「キミの……血」
「……はえ?」
顔色を変えて、美沙は慌てて体を起こした。
美貴はフッ、と寂しげに笑うと、しなを作って目線を外し、
「……わたしとしゅーくんて、実は血液型が違うんだよね。彼がAOで、わたしがBO……。だからね、彼がわたしを庇《かば》って背中をケガしたときも、輸血できなかったんだ……。あんなにお願いしたのに、ダメだって……」
「ま、まさか……もしもーし?」
「でも……キミたちはO型。わたしと彼の子だもんね。だから……こういうこと。キミの体から輸血すれば……わたしの体にしゅーくんの血が流れて……。うふふ、ねっ、分かるでしょう?」
とニッコリ。
――笑顔はときとして狂気に通ずる。
幼い美貌《びぼう》から、完全に血の気が引いた。
美沙《みさ》は背を向けると、わたわた四つん這《ば》いで、
「たっ、助けてぇ! おかーさんが狂ったぁー!」
「あ、こら! 待ちなさい! もう大人なんだから、献血できるだろう! わたしだけしゅーくんと仲間外れなんて願い下げ! ウフフフ、フフフフ! これでやっとわたしにも、キミたちと一緒の血が!」
小さな背に、目がイッちゃっている美貴がすがりつく。
慌てたのが麗華《れいか》である。親友を後ろから羽交《はが》い締《じ》めにし、
「こらーっ、やめんかい、このサイコ女! 実のムスメ殺す気か! ほら、美沙、今のうちに前の部屋に逃げなさい! ノイエ、あんたも手伝って!」
「え? えっ、ええ! ミキ! 落ち着きなさい!」
こちらも泡を食って、押さえにかかる。
と、そのとき――機体前部と繋《つな》がる部屋のドアが、唐突に開いた。
現れたのは、冴葉《さえば》とエルネスト医師であった。
「非常事態です、みなさん、窓の外をご覧《らん》になって」
「水が――ミーミルの水が、ついにあふれ出しおった!」
老医師の声で、全員の動きが止まった。
次の瞬間《しゅんかん》、女性軍団は、弾《はじ》かれたように小さな窓に集中した。我先にと、下から横から首を押し込む。
そして――全員が息を呑《の》んだ。
先ほどまで草原だった場所を、水の波が押し寄せ、通り過ぎた。
「ええーっ!?」
全員の声が、空にこだました。
彼等《かれら》は、いつの間にか、巨大な湖の上を飛んでいたのである。既にガルミッシュ・パルテンキルヒェンなど水没してしまったのか、視界の片隅にも入らなかった。
さらに少し遠く――異様なものが、湖面を突き破って現れた。
――竜《りゅう》だ。
西洋のドラゴンと言うより、中国の竜に似ていた。角の生えた巨大な蛇である。水面に出ているのは、三つのリングの半円――つまり背中だけだったが、全長だけでざっと数百メートルはあるだろう。
唐突に、ヘリの隣《となり》を、巨大な影が横切った。宙返りし、山の彼方《かなた》へと飛んでいく。
――翼長《よくちょう》十数メートルはある鳥だ。
まず美沙《みさ》がぼんやりと、
「……海の底の竜? ヨムンガルド?」
「今の鳥は……? フレスベルグ?」
そう呟《つぶや》いたのは、ノイエである。
美沙が蒼然《そうぜん》として、振り向いた。
「早くグランツホルンへ向かって! ドイツ当局にも最大級の圧力かけて、バイエルン全域の住民を避難《ひなん》させなさい! ソッコーでやんのよ!」
「……おっと。遅れましたが、シュライヒャー夫人にもご挨拶《あいさつ》を。虎《とら》の粗相は、のちほど部下に直させますので」
妖画家《ようがか》は、重々しく腰を折って低頭した。冷めきった瞳《ひとみ》に、言葉分ほどの優しさはない。
マレーネは息を呑《の》んで後退《あとずさ》った。
「……ザ・クリエイター、ディーン・タウンゼント……! ヴィタリスの魔筆《まひつ》を用いて、時間限定とは言え、無から有を生み出す男……! まさかあんたが出てくるとはね……! 噂《うわさ》には聞いていたけど……!」
「フェイス、貴様……手を抜いたな? どうして一撃《いちげき》で殺さなかった?」
目を細めて左に動きながら、タウンゼントは言った。
対する鷲士《しゅうじ》とマレーネは、息を呑みながら右へ。間合いを取る。
「は、反射的に虎《とら》さんのアゴ砕いちゃったんで、二発目は、少し。殺しちゃったら、可哀想《かわいそう》じゃないですか?」
「可哀想……だと?」
今度はタウンゼントが眉《まゆ》をひそめる番だった。
次の瞬間《しゅんかん》、画家は体を揺すった。笑ったのだ。
「ほう。では、桐古《きりこ》は虎以下だったというわけか。先日の山梨《やまなし》南部を襲《おそ》った大|地震《じしん》――その地中から、ヤツの死体が発見された。腹には大穴が空いていたそうだ。あの男の死について、なにかきみなりの見解があれば聞いておきたい」
「あ、あれは鬼が!」
「やめたまえ。いくら自信過剰で頭の足りない男――おかげでヤツが掴《つか》んだ情報は残っていない――だったとは言え、鬼に負けるとは思えん」
忌々《いまいま》しげに、彼は吐き捨てた。
そして鷲士の肩越しに、マレーネが鼻を鳴らして、
「で、でも残念だったね! ここにはバレッタも小鍵《こかぎ》もない! 骨折り損もいいとこさ!」
「ああ、悪いが、バレッタも小鍵も既に我々が入手済みだ。ここに来たのは、あなたの証言を取るためでね」
「バ……バレッタも……小鍵も!?」
「安心したまえ、きみの孫娘――長女は、その男の手によって救われている。現在は行方《ゆくえ》不明だ。ただ、次女は押さえた」
「クッ……! じゃあ、ルイーゼは……!」
「……言ったはずだ。証言を取りに来た、と。大人しく答えてもらおう」
「しょ……証言だって? さ、さあ、なんのことかね」
なぜか、老婆《ろうば》は顔を背けた。
さらにタウンゼントは足を踏み出しながら、言った。
「……今から五〇年以上前の話になる。ツークシュピッツェの麓《ふもと》をうろついていた二体のゾンビーを、我々は捕獲《ほかく》した。ミッテンヴァルトの近くだ。この意味は分かるな? 残念ながらこのことは、グランツホルンの人間も知るまい」
「なっ……!」
マレーネの顔に、本物の衝撃《しょうげき》が走った。
震《ふる》えて後退《あとずさ》り始めた老婆《ろうば》を追い詰めるように、妖画家《ようがか》は、
「回る水との関連性を見いだすために、半世紀もかかったがね。我々は単に噂《うわさ》や伝説だけを頼りに、ここまでやりはしない。水の機能にも、いささか疑問が残る。だから……マレーネ・シュライヒャー、きみの証言が必要なのだよ」
黒い腕が、マレーネに伸びた。
そこへ立ち塞《ふさ》がったのは――当然、鷲士《しゅうじ》だった。
「な、なんだか分からないけど……あなたたちの勝手にはさせない!」
「……分からないなら引っ込んでいろ!」
妖画家の腕が霞《かす》んだ。
残像と化した手元から、巨大ななにかが現れ、二人に襲《おそ》いかかった。鷲士はマレーネを抱き寄せ、バックジャンプ。少し遅れて、床が抜けた。タウンゼントが放ったものが、破壊《はかい》したのである。
着地した鷲士たちが目にしたのは、奇妙な存在だった。
――輪郭だ。
獣《けもの》の形をした、絵の具のアウトライン。ただそれだけである。先ほどのサーベルタイガーより少し大きいが、およそ物理的と言える存在ではない。二次元の輪っかだ。
「な、なんだいこりゃ……!」
「ストリング・ビーストとでも言おうか……わたしの習作だと思ってくれたまえ。もちは悪いし、出来にも難があるが、戦闘《せんとう》力は本物だ」
「う、薄気味《うすきみ》悪いんだよ!」
喚《わめ》きながら、老婆がトリガーを引いた。
爆音《ばくおん》が部屋をつんざき、ビーストが背にした白い壁《かべ》が吹っ飛んだ。
だが――それだけ。
散弾が、中空になっている輪郭の内側を通過したのだ。どう見ても物理に従っている存在ではないのに、こういう部分には適用されるらしい。
「言っておくが、やるだけ無駄《むだ》だ。銃は通用せん。さあ、どうする?」
「えっと……じゃあ逃げます!」
「……なに?」
と眉《まゆ》をひそめたタウンゼントの前で、鷲士は老婆を抱えて跳躍《ちょうやく》。ビーストと妖画家の頭上を飛び越えると、破壊された窓から、姿を消した。
戸惑ったように、タウンゼントは外へ出た。
老婆をおぶったボケ青年の背が、見る間に小さくなっていく。
「くっ、ふざけたヤツめ……! あれが世界最強と呼ばれた宝探しの姿か……!」
吐き捨てると、彼も地面を蹴《け》った――。
「お坊っちゃま、もうじきシュライヒャー邸でございます」
ステアリングを切りながら、山岡銅介《やまおかどうすけ》が言った。
返事はない。
ルームミラーに映る後部座席の少年は、口元に手を当て、眉間《みけん》にシワを刻んでいる。
「あの……樫緒《かしお》さま? 調子でも?」
「ん……ああ、いや、そういうことではありません。ただ、少し」
樫緒が軽く手を振った。絵になる動きだった。
「お気になることですか?」
「……ええ。どうも知人が近くにいるような……そんな気がするのです」
筆頭執事は、ミラーを見ながら瞬《まばた》きした。
「というと、美沙《みさ》さまですか? それともお嬢《じょう》さま――美貴《みき》さまでしょうか? お二人にはわたしもしばらくお会いしていませんので、できれば……」
「……いや。なんと言えばいいのか……この感覚は……」
と樫緒が何気なく外に目を向けたときだった。
――泡を食った人影が、横を猛烈な速度で駆《か》け抜けていった。そしてその人物は、樫緒がよく知る人物だったのだ。
ため息混じりに、樫緒はこめかみを押さえた。
「……山岡さん、今の人を追ってください」
「は?」
「……父です」
黒いミニは、足回りのトラブルでも起こしたようにスピン。向きを一八〇度変えると、猛スピードで、人影を追いかけ始めた。
「おおお、お父さまですと!? ではではでは、あの!?」
車はすぐに人影――つまり鷲士《しゅうじ》とマレーネに並んだ。
樫緒は窓を開け、気だるげに、
「……なにをしているのです、こんなところで」
「え? わ、わわっ! 樫緒くん!?」
走りながらも、鷲士はのけぞった。
「そ、そうだ、早くきみも逃げて! 悪いやつが追ってきてるんだ! 危ないよ!」
「……またですか」
目を閉じて首を振った樫緒だが、すぐに不審《ふしん》の眼差《まなざ》しを向け、
「……まったく、あなたという人は。父親の自覚がなさすぎる。どういう経路でドイツにいるか知りませんが、姉さまの教育や身の回りの世話はどうするのです。そもそも……あなたの言うことは、抽象的すぎる。まるで要領を得ない」
「いや、その、ドイツに来たのは、美沙《みさ》ちゃんに睡眠薬で眠らされてで! 悪いヤツっていうのは――ああっ! そんなこと言ってる場合じゃ!」
「……姉さまが?」
片眉《かたまゆ》を上げ、樫緒《かしお》は眉間《みけん》にシワを刻んだ。
「……ぼくがとりあえず同居を認めたのは、あの気性の激しい姉さまが、あなたの言うことには多少なりとも従っていると思えばこそ。父親なら、危険なことを娘にさせるべきではないでしょう。だからあなたは――」
「ぼっ、坊っちゃま!」
山岡《やまおか》が叫んだと同時に、奇怪なものが、頭上をよぎった。
――ストリング・ビースト。今度は鳥だ。輪郭鳥は上空で一回転すると、急降下を開始。嘴《くちばし》が狙《ねら》ったのは――鷲士《しゅうじ》とマレーネだ。
「クッ! 悪いけど、お婆《ばあ》ちゃんよろしくね!」
言うが早いかドアを開け、無理やりマレーネを押し込むと、鷲士は停止。コートの裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、上空めがけて構える。
「……おや、シュライヒャー夫人」
「あ……ああ、結城《ゆうき》の御曹司《おんぞうし》かい。お世話さま」
ぼんやりと、マレーネ。動揺のせいか、目の焦点がずれている。
「まさか……父がご迷惑を?」
「父……? ああ、あのおかしな若いの、そんなこと言ってたっけね……」
「ぼ、坊っちゃま、停《と》まらずとも、よろしいので?」
スピードを落としつつ、執事が振り返った。
「……構わないでしょう。敵がどのような人間なのか知りませんが、仮にも九頭竜《くずりゅう》。負けるとは思えません」
すると、急に老婆《ろうば》が表情を取り戻し、
「じょ、冗談じゃない! 停まっておくれ!」
「……行けと言ったのは本人ですが」
「バ、バカッ! 分かんないのかい、今朝《けさ》方ウチに運び込まれた死にかけの行き倒れが、あの若いのなんだよ! 腹に凄《すご》いケガしてるんだ!」
「……なんですって?」
眉《まゆ》をひそめて、樫緒は車内のバックミラーに目をやった。
正拳《せいけん》を繰《く》り出した鷲士が、輪郭鳥を消滅させたところだった。しかし痩《や》せた青年は、すぐに倒れた。後ろからやってきた四足|獣《じゅう》に、背中から一撃《いちげき》を食らったのである。輪郭だけにすぎない足が、鷲士《しゅうじ》を踏みつける。なんとか逃げようとしているようだが、敵が二次元の存在であるため、うまくいかない。攻撃が貫通してしまうのだ。
それでもなんとか一撃を与え、鷲士は飛び退《すさ》った。
青年は、あっさり膝《ひざ》をついた。
押さえた腹から、なにか滴っているが――車からは分からない。さらに、後ろから来た別の人影が、鷲士に向かって足を踏み出した。
少年の美貌《びぼう》に珍しく表情ができた。呆《あき》れたのだ。
「ぼくたちを逃がそうと……? なにを考えているんだ、お人好《ひとよ》しにもほどがある……!」
「銃はないのかい、銃は! あんたが行かないなら、わたしが――」
とドアにかけたマレーネの手を、樫緒《かしお》が押さえた。
少年は執事に向かって、ため息混じりに、
「……一〇分です。山岡《やまおか》さん、一〇分待ってください。問題を片づけてきます」
「は、ははっ! それでこそお坊っちゃま!」
と嬉《うれ》しそうに、執事は車を止めた。
老婆《ろうば》は戸惑ったように、
「ちょ、ちょっと待ちな! 相手は、描いた絵を動かす男だよ!? 武器もなにも持ってないあんたが行ったところで――」
「……描いた絵を動かす? 普通の絵を描いていればいいものを」
その瞬間《しゅんかん》、樫緒は消えた。
なんと少年の姿は、車中から掻《か》き消えてしまったのである。
「フッ……どうやらキャビンへの攻撃の際に腹へ傷を負ったというのは本当らしいな、ダーティ・フェイス。血が止まらんようだが?」
両膝《りょうひざ》を折った青年を遠くから見下ろし、タウンゼントは嘲笑《ちょうしょう》した。
「だから……フェイスじゃないんですってば……!」
鷲士は荒い息を繰《く》り返して、腹部から腕を抜いた。
手は血まみれ――指の間から、血が滴っている。今朝《けさ》方に比べても、明らかにひどい。どうやら暴れすぎて、傷が悪化したようだ。
彼の前に、輪郭の獣《けもの》が立ちはだかった。闘牛《とうぎゅう》のように右前脚で地面を引っかき――跳びかかるぞ、の合図だ。
「くっ……!」
鷲士が無理に立ち上がるのと、ストリング・ビーストが地面を蹴《け》ったのが同時。しかし青年には、運がなかった。足が滑ったのだ。痩《や》せた体が横へ傾《かし》いだ。
結果を見る前に、タウンゼントは背を向けた。
「顔のない男――噂《うわさ》に聞くほどではなかったか」
しかし――。
――パラパラパラパラ。
軽いものが立て続けに地面に落下する音がし、妖画家《ようがか》は眉《まゆ》をひそめて振り返った。
絵の具の残骸《ざんがい》を前に、黒衣の少年が立っていた。
自らの血溜《ちだ》まりで、尻餅《しりもら》をついた鷲士《しゅうじ》は、
「か、樫緒《かしお》くん……!? 逃げろって言ったのに……!」
「……そうしたでしょうね。あなたがまったくの他人ならば。ぼくの主義に反する」
憮然《ぶぜん》と言い放つと、樫緒は振り返り、
「……不条理だ。どうしてぼくがあなたの心配をしなければいけないんです? だから信用が置けないんだ。立場が逆でしょう、立場が。これだから……!」
「すすす、すいません……!」
「では、下がって。傷口は治しましたので」
「……は? 治した?」
慌てて鷲士は、シャツをめくった。
血で濡《ぬ》れてはいるものの、その元である傷口がない。奇麗《きれい》なものだ。
若きパパは、別の意味で青くなった。
「うっそ……!」
「ぼくに見えている範囲《はんい》で、神経と筋肉、血管を繋《つな》いだにすぎません。残念ながら医療《いりょう》の知識は持ち合わせていないので、ひょっとしたら間違った結合をしているかも知れない。事後には病院へ行くことをお薦《すす》めします」
「ま、間違った結合ぉ? ハハハ……あ、ありがとう……!」
頷《うなず》くと、樫緒は敵に向き直った。
タウンゼントは目を細めながら、
「……結城《ゆうき》の次期総帥? これは驚《おどろ》いた、フェイスのバックについているのが――」
「黙《だま》りなさい。何者かは知らないが、大方この前の桐古《きりこ》とかいう輩《やから》の仲間なのだろう。ならばぼくが言うべきことは一つ」
「ほう?」
「……この場から去れ。さもなければ息の根を止める」
悽愴《せいそう》の風が、樫緒の前髪を揺らした。
返ったのは――笑い声だった。
「フフ……ハハハハハ! 来訪者と血を交えし一族――ならばむしろ我々に近い存在ではないか! 面白い、では名乗っておこう! わたしは――」
「ああ、口上《こうじょう》は結構。始めていい」
「……なに?」
「倒す者の子細など知ってしまったら、寝覚めが悪くなる。面妖《めんよう》な芸を使うのだろう、早くやってみせなさい」
高圧的な、それでいて気だるげな言い方であった。
「げ、芸……! わたしの絵がか……!」
タウンゼントの顔が、どす黒く染まった。
痩《や》せこけた顔に怒りも露《あらわ》に、妖画家《ようがか》は足を踏み出した。
「ふざけた小僧め……! いいだろう、ならばこのヴィタリスの魔筆《まひつ》の恐ろしさ、その身をもって思い知るがいい……!」
言うなり、その右手が霞《かす》んだ。
残像と化した前腕部から、新たな怪物が生じ、少年に襲《おそ》いかかった――。
第五章 いちばん大切なもの
「あの子……消えちまったと思ったら、あそこに……! 驚《おどろ》いたね、結城《ゆうき》ってのは、いったいなんなんだい……!」
車のリアガラスから戦いを見ながら、マレーネは呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた。
そして執事の山岡《やまおか》が、自慢げに、
「我が主たる結城は、古《いにしえ》の神の血を引く由緒正しき家系。ただの名家とは――」
『緊急《きんきゅう》放送をお伝えします! 緊急放送をお伝えします!』
突然、ラジオが喚《わめ》いた。
眉《まゆ》をひそめて山岡が覗《のぞ》き込み、マレーネも振り返る。
『たった今、バイエルン州全域に、洪水|警報《けいほう》が発令されました! 該当地域でランドシュット以北にお住みの方は、警察と軍の誘導《ゆうどう》で域外に、それより南にお住まいの方々は、軍、もしくはNATOの救出部隊が向かうまで、高い建物の最上階に避難《ひなん》していてください! ガルミッシュ・パルテンキルヒェン南部の地下|岩盤《がんばん》から大量に噴出《ふんしゅつ》した毒性の強い水が、既にミッテンヴァルトまでを水没させています! 繰《く》り返します、水の毒性は、大変なものです! 決して触れないように――』
「な、なんてこった……! ミュージアムのやつらが井戸を開けちまったんだ……!」
土気《つちけ》色になった顔で、老婆《ろうば》は呻《うめ》いた。
「ふざけた小僧め……! いいだろう、ならばこのヴィタリスの魔筆《まひつ》の恐ろしさ、その身をもって思い知るがいい……!」
言うなり、タウンゼントの右手が霞《かす》んだ。
残像と化した前腕部から、新たな怪物が生じ、少年に襲《おそ》いかかった。
――輪郭だけの悪魔とでも言おうか。
ヒトのフォルムを基本に、頭には牡鹿《おじか》を思わせる二本の角《つの》、背には翼《つばさ》、腰には尻尾《しっぽ》――。アウトラインだけの絵が、頭上から樫緒《かしお》を狙《ねら》った。
しかし美貌《びぼう》の冷めた眼差《まなざ》しは崩れなかった。
「……くだらない」
少年が呟《つぶや》くと同時に、絵は青白い火花を散らし、空中で砕け散った。まるで電撃《でんげき》を食らったかのようだった。パラパラと路上に落ちていく。
「なっ……!」
「……理屈は分からないが、輪郭内に生じた特殊な力場で動いているだけの代物《しろもの》か。では何をやろうが同じことだ。ぼくには通用しないと思え」
少年は抑揚のない声で告げた。
うしろの鷲士《しゅうじ》は、引きつった笑みを浮かべつつ思ったー。
……こ、こっわー!
「クッ、ならばこれではどうだ!?」
今度は両手で魔筆を抜くと、妖画家《ようがか》は目に追えないほどの速度で滑らせた。
動き続ける腕の間から、魔獣《まじゅう》が次々に現れた。鳥の群れ、大小の四足獣から始まって、さらにキマイラまでもー。構造こそはいい加減だが、少なくとも輪郭だけは本物である。絵は正面、頭上、さらにカーブを描いて背後から、少年に襲《おそ》いかかった。
が――。
「……愚か者が」
――パシパシパシ!
まるでシャボン玉のようだった。樫緒が目を閉じたと同時に、すべての絵という絵が、一瞬《いっしゅん》で破裂したのである。ただ、輪郭だけに、爆発《ばくはつ》にも勢いがなかった。乾いた絵の具の切片と化して、地上に落ちる。
タウンゼントは呆然《ぼうぜん》と、
「て、手も触れずにすべて……? まさかこれほどとは……!」
「フ……自己模倣の極みですね。無理もない」
美少年の口元に、酷薄《こくはく》な笑みがよぎった。
「なん……だと?」
「……世に明暗あらば、ヒトは明るみを望むもの。奇怪な絵筆を用いようとも、その才が本物ならば、秘密結社などには身をゆだねず表舞台に立ったはず。違いますか?」
「わ、わたしには才能が……ないと……ほざくのか……! 才とはアーティストにとって命より大切なもの……! 言うに事欠いて、貴様……!」
妖画家《ようがか》の顔が、真っ赤に染まった。激昂《げっこう》の赤だった。
そして樫緒《かしお》が、足を踏み出した。
「……では今度は、こちらからいきますよ」
同時に、タウンゼントの体が光り始めた。コートの端々から、青白い火花の塊が、まるで綿埃《わたぼこり》のように飛び散っていく。
だが――それだけ。
何も起きなかったのである。
「……おや?」
樫緒は片眉《かたまゆ》を上げて、自分の手に視線を落とした。手のひらを開いて――また閉じる。怪訝《けげん》そうに顔を上げ、妖画家を見た。
今度はタウンゼントが苦笑する番だった。
「……くだらんのはどっちだ? こけ脅しとはな。どうやらある種の超能力者……だが防戦はできても、攻撃《こうげき》ができんのでは話になるまい」
しかし樫緒が返したのは、おかしな質問だった。
「あなた……心臓はどこにあります?」
「……おかしなことを。心臓は一つ、ここに」
「では、肺は? 内臓はどこにある?」
「……この体に、に決まっているだろうが。なんのつもりだ? 時間|稼《かせ》ぎか?」
唇《くちびる》の端を歪《ゆが》めて、ディーン・タウンゼント。
これには鷲士《しゅうじ》も首を傾《かし》げた。
樫緒の表情は珍しく戸惑いを物語っていたが、軽く頭をふると、
「……仕方がない。こういう方法はできれば取りたくなかったが……面妖な相手ではやむをえないな」
呟《つぶや》いて、彼は顔を上げた。
冷めた視線が見つめていたのは――隣《となり》に建つ、五階建ての古いビルだ。
鷲士の顔から、血の気が引いた。
「あの……か、樫緒《かしお》くん? まさか?」
「ハハハ! 念でビルを倒壊《とうかい》させるサイキッカーなど聞いたこともない! できるものならやってみせてもらおう!」
胸をそらして、タウンゼントが笑ったときであった。
――ピシ!
ビルの中腹を、凄《すさ》まじい亀裂《きれつ》が走り抜けた。ヒビの間から、樫緒の力の証明である、ライトブルーの火花が飛び散っている。間を置かず、凄まじい振動が辺りを覆《おお》い始めた。フラつく鷲士《しゅうじ》の足下が、大きく上下する。
妙に静かに、ビルは砕けた。
まるで往年の米国アニメだった。倒れる先は――妖画家《ようがか》だ。
「ばっ、馬鹿《ばか》な……!」
「超能力とは、物理制限を超えた力のことなのだろう? だとしたらそれを行使するのに、なぜ体積や重量の大小に左右されなければならない? もし制限を受けるなら、その時点で真の超能力とは言えない……そうは思いませんか?」
「きっ、貴様……何者だ……!?」
「ぼくを超能力者と言ったのは、あなただ。この力を姉は“樫緒の世界”などと奇妙な言い方をしますけどね。知覚|範囲《はんい》で思い通りにならないものはないからでしょう」
少年は背を向けた。
「……さようなら」
「おおおおおおおおおおおおおおおお!」
タウンゼントが絶叫したと同時に、彼の頭上で、壁《かべ》の構材が裂けた。
――縦横《たてよこ》三メートルはある巨大なコンクリ片が、画家の胸板に突き刺さるのを、鷲士はハッキリと見た。
あとは雪崩《なだれ》と同じだった。へし折れた鉄筋や鉄パイプなどの構材が、粉塵《ふんじん》と共に一斉に降りかかり、視界を埋め尽くす。
青ざめて、鷲士はヨロヨロと立ち上がった。
「ちょ、ちょっと……あのビルには……?」
「……ヒトがいないのは、確認済みです。言っておきますが、お父さんを助けるためにやったことですよ」
「い、いや、だからって……その……」
「……無論、弁償《べんしょう》はします。なんの問題もないと思いますが」
ため息混じりに、鷲士はこめかみを押さえた。
「きみたちって……やっぱり双子《ふたご》なんだなぁ。よく似てるよ」
「そんなことより……ヒトになにかしてもらったら?」
「は? あ、ああ……うん。ありがとう、また助けられたね。ホントに……感謝《かんしゃ》してる」
困ったように笑う鷲士《しゅうじ》だった。
「……よくできました。では行きましょう」
と息子が先に歩き始めたときである。
前方の軽自動車から、礼服姿の老人が転がり出て、
「ぼ、坊ちゃま! さきほどラジオが洪水|警報《けいほう》を! ミッテンヴァルトとガルミッシュ・パルテンキルヒェンも既に水没してしまったとか!」
「……洪水? この天気で?」
と樫緒《かしお》が見上げた夕刻の空は、少し曇《くも》っている程度だ。
「大使館にも既に問い合わせてございます! ツークシュピッツェの麓《ふもと》で地下|岩盤《がんばん》が裂け、常軌を逸したほどの地下水が流れ出しているとかで! しかもかなりの毒性を持っているらしいですぞ! 触れただけで死に繋《つな》がるそうです!」
「……ふ、触れただけで死に繋がる水!? たっ、たいへんだ!」
とフラフラな鷲士が、慌てて樫緒を担ぎ上げた。
「な、なにをするんです?」
「洪水だよ、洪水! はやく逃げなきゃ! えーっと……ああっ、どっちがどっち!?」
と息子を抱えたまま、フラつく体で行ったり来たり。
――異変が起きた。
鷲士の視界の端――ビルの残骸《ざんがい》の中から、人影が立ち上がったのである。
ボケ青年は唖然《あぜん》と立ち止まり、
「そ、そんな……!」
「……やはり」
となぜか樫緒が呟いて、背中から降りる。
タウンゼントは埃《ほこり》を払うと、陥没した胸から流れ出る鮮血《せんけつ》を目にし、顔色を変えた。
「な、なんだ、この傷は……! なぜ、痛まん……!?」
「あんな破片を食らって……まだ……!? に、人間じゃないのか……!?」
樫緒を庇《かば》うようにし、呆然《ぼうぜん》と鷲士は後退《あとずさ》った。
しかし大学生の言葉に最も反応を示したのは、妖画家《ようがか》本人だった。痩《や》せこけた男は、血を拭《ぬぐ》った指を突き出し、
「だっ、黙《だま》れ! 言うな! これを舐《な》めてみろ! わたしは人間だ!」
「な、舐めろって……と、とにかく今はあなたと戦ってるヒマはありませんよ! ガルなんとかの地下から水があふれ出して、大洪水になってるんですから!」
「な……! だ、大洪水……だと?」
眉間《みけん》にシワを刻むと、タウンゼントは携帯を抜いた。
「……そうだ、わたしだ! きさまら、まさか井戸を……ああ。なに!? ヴァッテンが倒された……? では小鍵《こかぎ》は奪われてしまったというのか!? バカが、では……! スプレイはなにをしていた!? クソッ、今すぐに戻る!」
地面に携帯を叩《たた》きつけると、妖画家《ようがか》は親子を睨《にら》みつけた。
「……どうやら決着は持ち越しになりそうだな。だがミーミルの水を支配するのは我々だ。ガルミッシュの海で待っているぞ……!」
彼はヴィタリスの魔筆《まひつ》を抜くと、残骸《ざんがい》の壁《かべ》に奇妙なものを描いた。
――ドアだ。
鷲士《しゅうじ》と樫緒《かしお》が呆気《あっけ》にとられている最中《さなか》、タウゼントはノブを引いて、奥に消えた。妖芸というより、まるでマジックだった。戸を閉める間際、絵師が取っ手を塗り潰《つぶ》したのは言うまでもない。あとには、奇妙な絵だけが残った。
少年が片眉《かたまゆ》を上げ、
「……面妖な。絵描きよりも奇術団に入るべきだ」
呟《つぶや》きながら、少年もまた、携帯電話を抜いた。ポンポンポン、とボタンを押していく。鷲士はソワソワしながら覗《のぞ》き込み、
「あ、あの、どこへ? 洪水が――」
「……姉さまへ、ですよ。どうせ近くにいるのでしょう? ならば、なんらかの対策は命じているはずですので」
気だるげに、樫緒は耳に押し当てた――。
大型CRTには、水没した村跡が映っていた。
――リッターである。
村が揺らいで見えるのは、大量の水を、いまだ排出しつづけているからだ。たまに入る電子ノイズが、映像を途切らせる。
青い水底の光が、無表情なスプレイの顔に映り込んだ。
「……やっぱりだ。下になにかあるな。しかも動いてやがる」
改造人間の目は、村そのものより、周りの地面に注がれていた。
――リッターと共に現れた丘陵に、である。
形状だけ見れば、閉じた傘《かさ》にも似た起伏だ。しかしあまりにも巨大すぎた。加えて水の底という状況もある。調査は困難を極めるだろう。
――バン!
突然、背後のドアが開き、逆光の影が、床に落ちた。
「……ああ、タウンゼントさん」
と振り向いた青年の胸倉を、骨ばった指が掴《つか》んだ。有無を言わさず廊下に連れ出され、そのまま引きずられていく。
「ちょ……どうしたんスか、ダンナ」
と訊《き》いたところで、彼は外に突き飛ばされた。
妖画家《ようがか》は、スプレイの背後を指差しながら、
「……なんだ、これは?」
スプレイは振り返った。
――船の右舷《うげん》には、相変わらず奇怪な光景が広がっていた。
広大な連峰の裾野《すその》を埋め尽くす湖面、視界をぼかすような深い霧《きり》。その後ろに、水を裂いて進む竜《りゅう》や、巨大な鳥の影が映っていた。
甲高い獣《けもの》の鳴き声が、一帯をつんざいた。
――彼等《かれら》が立っていたのは、全長二〇メートルほどの巨大クルーザーの甲板だった。あらかじめ用意しておいた船――現在は村跡の直上に泊めてある。
「えっと、これは……」
と戻した頬《ほお》が、派手な音を立てた。
タウンゼントの平手打ちだった。拳《こぶし》ではなく、だ。ある意味、男にとっては殴られるよりも屈辱的な仕打ちである。
バランスを崩しながらも踏みとどまったスプレイの口から、液体が流れた。
――赤い鮮血《せんけつ》である。
「……いて」
無表情に、スプレイは血を拭《ぬぐ》った。
妖画家は怒りを押し殺した表情で、部下を見下ろし、
「誰《だれ》がミーミルの井戸を動かせと言った……? 揚げ句の果てに、小鍵《こかぎ》を持つ少女を逃がしたそうだな……! 満足に留守番もできんのか……!」
「……バレッタが勝手に動いたんスよ。小鍵だって、おれのせいじゃないでしょ。現場に戻れって言ったのはタウンゼントさん、あんただ。場所が分かったんだし、あとはこの水を持って返れば、それで……」
「クッ……脳ミソはないのか、貴様!」
タウンゼントはスプレイの襟元《えりもと》をねじり上げ、
「なぜバレッタと小鍵に分けられていたか、見当がつかんのか!? 巨大な力とは、それを起こし、かつ終息させることができてこそ、初めて支配下に置けたと言えるのだ! それなのに――見ろ、この状況を! 今や有利なのはフェイスの方だ!」
「……じゃあ、おれ、もうやめますよ、ミュージアム」
口の中で舌を動かしながら、スプレイは言った。
妖画家の手から、力が抜けた。呆気《あっけ》にとられたのだ。
「やめる……だと?」
「なんかもう、ワケ分かんねーし。怒られる理由も、いちいち納得いかねーっつーか。命令も誰《だれ》か殺せとか、そんなのばっかりだ。別に命は大切なんてアホなこと言う気はねーけど、いい加減ウンザリだぜ。だからやめさせてもらいますよ。んじゃ」
軽く低頭すると、スプレイは背を向けた。
「貴様というヤツは……! 待て、そんなことは!」
伸ばしたタウンゼントの指先で、光が空気を切り裂いた。
――スプレイのバタフライ・ナイフである。
唇《くちびる》を歪《ゆが》めると、チューン・マンは腰を落とし、
「言ったろ、てめえに使われるのはウンザリなんだよ……!」
「ほ……う。本気というわけか……」
目を細めると、タウンゼントは右手で筆を抜き、もう片方の手で、ナイフを抜いた。
「……毛先が乾いているな。誰か!」
「はっ!」
傍《そば》にいた歩哨《ほしょう》が前に進み出た。
「ミュージアムのために死ねるか」
「はっ!」
「では死ね」
ナイフが水平に滑り、歩哨の喉《のど》をパックリ切り裂いた。妖絵師《ようえし》が噴《ふ》き出す血に絵筆をつけると同時に、部下が倒れる。
タウンゼントは酷薄《こくはく》な笑みを浮かべて、足を踏み出した。
「いいのか? 貴様の心臓は、言わば架空の心臓。場合にもよるが、一週間ももたん。こんな湿度では、せいぜい三日が限度というところだ。わたしから離れればおまえは死ぬぞ? ストリートで暮らしていた自称アーティストに、寝場所と力を与えてやったのは誰だ? 恩を忘れたのか?」
「……麻薬でヒトを飼い殺して、まだ恩着せようってか。無名でもよかった……好きな絵が描けて、食ってけりゃ、おれはそれでよかったんだ」
「ほう……初めて聞く話だな。おまえにも夢や希望があったのか」
妖画家は苦笑で返した。
「……悪かったな。宝にもおかしな結社にも用はねーよ。一生あんたにくっついてるぐらいなら、死んだ方がいい」
「結構。では……妹のためとやらのお題目はどうなる?」
唐突に、青年の足が止まった。
やがて彼は目を閉じ、苦笑すると、
「ユーリだったら……あいつだったら、やめろって言うだろうな。最初からそう思ってた」
「フ……既に死んだニグロの小娘がか? シンナーと麻薬中毒で……絶命する前後は三歳程度の知能しかなかったというのに?」
タウンゼントの口元を、笑みがよぎった。軽蔑《けいべつ》の笑いだった。
改造人間の眠たげな目蓋《まぶた》が、初めて開ききった。
「……この野郎!」
踏み込んだ刹那《せつな》、ナイフを握るスプレイの腕が霞《かす》んだ。
妖画家《ようがか》の肩から脇腹《わきばら》までが、パックリ裂けた。まるで日本刀の袈裟斬《けさぎ》り――チューン・マンだからこそ可能な一撃《いちげき》だった。
噴《ふ》き出した鮮血《せんけつ》は、スプレイの顔に飛び散った。
「グ……ハッ……! こ、この馬鹿《ばか》力だけが取り柄のブリキ男め……!」
タウンゼントは血を吐いて後退《あとずさ》った。
――無気味なことが起こった。
まず鮮血の噴出《ふんしゅつ》が、前触れもなくピタリと止まった。呆気《あっけ》にとられたように、当のタウンゼトとスプレイが、患部に目を落とす。しかしさらに異様な事態は続いた。今度は、傷口が治癒《ちゆ》し始めたのである。しかも――服ごと。
「……ああ? なんだそりゃ?」
ぼんやりと、スプレイ。
数秒もたたないうちに、傷口はなくなっていた。
「服まで直ってる……? 勘弁してくれよ、聞いたことねーぞ、そんなの……! いつも同じもん着てるから変だなとは思ってたけどさ……!」
と呻《うめ》きながら、顔についた返り血をパーカーの袖《そで》で拭《ぬぐ》った。
チューン・マンの顔に衝撃《しょうげき》が走った。
彼は震《ふる》える指先で、敵の血がついた唇《くちびる》をなぞると、
「マ、マジ……!? だったらおれは、今まで……!?」
タウンゼント張本人も青ざめて、指先に付着した鮮血を、またもや口に運んだ。
喉《のど》が上下した後、妖画家《ようがか》の顔に、引きつった笑みが広がった。
「……み、みろ。血だ。血の味だ。わたしは人間だ。人間に決まっている!」
タウンゼントが声を上げた瞬間《しゅんかん》だった。
――スプレイは口から血を吐いて、片膝《かたひざ》をついた。
床にしたたる赤い液体を目にし、スプレイは戸惑ったように顔を上げた。自分の身に何が起きたのか、理解できなかったのである。
妖画家は嘲笑《ちょうしょう》に唇を曲げ、チューン・マンを見下ろし、
「……おまえは脳細胞を維持するため、肺と内臓の一部だけは元のまま――生身だ。それが仇《あだ》となったな」
「グググ……な、なにしやがった……?」
「フフフ……わたしは天才だということだ。その事実を思い知りながら死ぬがいい」
宣告して、タウンゼントは絵筆を振り上げた。
しかし――スプレイにもプライドはあったようだ。
「じょ……冗談じゃねーぜ、このガリガリ野郎……! あんたの手にかかるぐらいなら、おれはこうするよ……!」
スプレイは頭を振りながら背を向けると、自ら甲板を蹴《け》ったのである。チューン・マンの体は弧を描き、水面に落下した。
ミーミルの湖に、小さな波紋が広がっていく。
目を細めて、妖画家《ようがか》は船べりに歩き寄った。
「……ふむ。では水が何を生み出すか、わたしが見てやろう」
数秒後――影が静かに湖面に現れた。
――改造人間スプレイは、既に動かなくなっていた。息絶えたらしい。
「……つまらんヤツめ。空中で既に死んでいたか」
ゆっくりと水流に押され、遠ざかっていく部下の死骸《しがい》に吐き捨てかけると、タウンゼントは振り向いて叫んだ。
「フェイスの一味は、井戸を停止させるために、必ずここに戻ってくる! 気を抜くな、最後の決戦はもうすぐだ!」
部下たちは、弾《はじ》かれたように持ち場へと消えた。
やがて――人影のなくなった甲板で、タウンゼントは膝《ひざ》をつき、
「……わたしは……わたしはいったいなんなのだ……?」
ツークシュピッツェ中腹――グランツホルン。
救出されてきた人々でごった返す中庭を、強烈な風が吹き抜けた。降下してくる輸送用ヘリのツイン・ローターが巻き起こす風であった。避難民《ひなんみん》が下がってできた広場に、騒音《そうおん》と振動を伴って、黒い影が着陸する。
ヘリからは、新たに救助されてきた人々が、転がるように降りてきた。ある者は大きく深呼吸、またある者は知人を見つけて手を握り合う。
――ハッチを見つめていたシュライヒャー姉妹の顔が、唐突にほころんだ。
「お、おばあさま!」
「おばあちゃんっ……!」
地面に足を下ろしたばかりのマレーネも顔を上げ、笑みを浮かべた。
「ノイエ! ルイーゼ! 無事だったんだね!」
互いに駆《か》け寄り、抱き締《し》め合う三人の青い瞳《ひとみ》から、涙がこぼれる。
やがて――人波が途切れた頃《ころ》、長身|痩躯《そうく》の青年が、ハッチから顔を出した。
――草刈鷲士《くさかりしゅうじ》である。
「鷲士くん!」
小さな人影が、輪の中から飛び出して叫んだ。
「あ、美沙《みさ》ちゃん! 無事だったんだ!」
と広げた腕の間を、ツインテールのおチビさまはあっさりスリ抜けた。タイミングを狂わされたボケ青年の背後に回ると、顔だけ出して様子を窺《うかが》う。
「み、美沙ちゃん? ど、どうしたの?」
「シッ! 変態吸血女よ!」
「だ、誰《だれ》が変態吸血女だっ、もうっ!」
と人ごみの中から、美貴《みき》が出てきて喚《わめ》いた。
鷲士が呆気《あっけ》にとられたように瞬《まばた》きし、
「あ、あれ? 美貴ちゃん」
「や、やあ。無事でなにより」
ちょっと顔を赤らめ、ゴホン、と咳払《せきばら》い。髪に手を当て、さり気なく乱れを直す。その後ろから麗華《れいか》が顔を出して、手を振った。
「どーもー、鷲士さん。お久しぶり」
「あれれ、麗華ちゃんまで? あ、そっか、美貴ちゃんが言ってた例の旅行先って……ドイツだったんだ?」
「ま、まあね。それより……こらっ、美沙、離れなさいっ」
恐《こわ》い顔をする美貴に、その美貌《びぼう》を受け継ぐ少女は、べーと舌を出して返した。ギュッ、と鷲士の首に腕を回すと、チュッチュッチュッ。唇《くちびる》でホッペタを啄《ついば》みまくった揚げ句、ゴロゴロと頬《ほお》ずりだ。
「あ……ああーっ!」
と悲鳴を上げる美貴など無視して、美沙は甘ったるい声で、
「……鷲士くぅん、無事でよかった。美沙、嬉《うれ》しいな♪」
「み、美沙ちゃん……! そんなにぼくのこと心配してくれてたんだ……! うんうん、ぼくも嬉しいよ、きみもケガなくてよかったね……!」
感動の鼻声で、鷲士もギュー。
これに我慢ならなかったのが、美貴さまである。
「ゆ、許せない……! わたしの目の前で彼にあんなことっ……!」
「うわっ、またあんたは! ムスメムスメ、ムスメのやるコト! 相手は父親!」
青筋立てて足を踏み出す美貴を、慌てて麗華が引き止める。
さらに鷲士《しゅうじ》の後ろから、不機嫌《ふきげん》そうに樫緒《かしお》が顔を出し、父娘《おやこ》をねめつけた。
「……人前でなんです。はしたない」
「おー、美少年、わが弟よぉ。んじゃ、あんたにも♪」
と美沙《みさ》は自らの片割れの横に立ち、チュッ。
ボッ、と面白いほど真っ赤になって、冷徹《れいてつ》な少年は後退《あとずさ》った。
「ね、姉さま!? ぼ、ぼくたちは双子《ふたご》ですよ!? 姉さまの気持ちはありがたいですが、し、しかし――」
「なにうろたえてんの? あんた、ミュージアムのハイ・キュレーターを撃退《げきたい》したっていうじゃない。だからごほーびよ。よしよし、いいコいいコぉ♪」
笑顔で弟の頭に手を伸ばし、なでなで。
「ご、ごほうびですか……」
と樫緒は複雑な表情である。
少年の美貌《びぼう》に、いきなり頭上から影が落ち、彼は顔を上げた。
「そ、そっか。キミでもいいんだよね。双子だもんね」
とニコニコ作り笑いで、美貴《みき》が言った。
「……は?」
「あのね、だからね、わたしにキミの血――」
――ゴン!
美貴《みき》は笑顔のまま、その場にブッ倒れた。後ろには、OICWを振り上げ、荒い息で肩を上下させる美沙《みさ》――ストックの一撃《いちげき》であった。
樫緒《かしお》が呆《あき》れたように、
「ま、またケンカしたのですか? しかし今のはやりすぎ――」
「うるさいっ! 弟守るのもお姉ちゃんの役目! この女の口から血って言葉が出たら、今後は容赦なくやっちゃいなさい! いいわね!」
「やれと言われても……は、はぁ……」
と樫緒が眉《まゆ》をひそめて頷《うなず》いたところで、護衛《ごえい》を引き連れて、人ごみの中から、新たな人影が現れた。
――片桐冴葉《かたぎりさえば》である。
「関係者は、大聖堂へお集まりください。我々に残された時間は多くありません。作戦会議を始めたいと思います」
十数分後――ブリーフィングには参加しなかったルイーゼは、湖畔と化してしまった斜面の水際に一人座り、霧《きり》の湖を見つめていた。
大きな目が、涙に濡《ぬ》れている。
「……みんな」
小さくすすり上げ、呟《つぶや》いた。
この修道院で生活していた彼女にとっては、帰還《きかん》はある意味、酷だったのかも知れない。シスターたちのことを思い出してしまうのだろう。
ルイーゼは水際に目を落とし、少し後ろへ下がった。
――水かさは、今も増している。
グランツホルンの位置は、海抜約八〇〇メートルほど。そこが水に飲まれかけている。実際の地上高度を差し引いても、眼前に広がる湖の深度は一〇〇や二〇〇を下らないだろう。異様な水量だった。
幼い修道女は、膝《ひざ》を抱えて顔を埋めた。
……そうやって、どれくらい経《た》った頃《ころ》だろうか。
何かが繰《く》り返し岩に当たる音がし、ルイーゼは顔を上げた。
死体が、波打ち際の岩に、引っかかっていた。
「ヒッ……!」
ルイーゼはのけぞって、ずり下がった。その死体に、見覚えがあったからだ。赤いニットキャップ、薄汚《うすよご》れたフード付きパーカー。
――改造人間スプレイ。
キッ、と唇《くちびる》を噛《か》むと、ルイーゼは立ち上がった。
この男は、年上のシスターたちを殺した敵の仲間だったのである。少女は、傍らの小石を掴《つか》むと、怒りの涙目で投げつけた。
石が、スプレイの額《ひたい》で跳ね返った。
「う……う……」
死体と思われたスプレイは、しかし顔を歪《ゆが》めた。生きていたのだ。
青ざめて、ルイーゼは後退《あとずさ》った。背を向け、小走りに坂を上がる。
が――じきにその足は止まった。
肩越しに、スプレイへ振り返る。
放っておけば死ぬかも知れない。だがもし意識を取り戻したとしても――彼は死ぬ可能性が高かった。水に浸《つ》かっているからだ。生き延びたとしても、彼は少なくとも、望むものと引き換えに、最も大切なものを失ってしまうだろう。
もしかしたら……他人が死ぬ可能性もある。
ルイーゼが、そこまで考えていたかは分からない。だが彼女は、よくも悪くもシスターだったようだ。
幼い修道女は、哀《かな》しそうな顔をしながらも、きびすを返した。
「ひとが死ぬのは……もうイヤ……」
――大聖堂。
半ば破壊《はかい》された広間には、事件の関係者が集まっていた。
グランツホルン側のノイエ、マレーネ、エルネスト、さらにフォーチュン・結城《ゆうき》サイドの美沙《みさ》、樫緒《かしお》、美貴《みき》、麗華《れいか》――そして鷲士《しゅうじ》。
教壇《きょうだん》の壁《かべ》に投影されたホログラフの隣《となり》では、ノイエが真剣に、
「……と、以上が、フレイア異伝の正確な内容になります。当院にも水はありましたが、それは祖先が、もしものときにと備蓄していたもので……残念ながら逆に敵に利用され、ここを滅ぼす結果となってしまいました」
孫娘の目くばせを受け、マレーネも頷《うなず》く。
冴葉《さえば》が言葉を引き継ぐように、
「北欧神話中、ミーミルの泉――もしくは井戸――に関する記述は、実際問題、ゼロに等しいのです。また、さきほどお話ししたように、解釈の統一もなされておらず、オーディンの目と引き換えに、彼に知識を与えたという記述があるにすぎせません。これはスノリの『散文のエッダ』、サクソの『デーン人の事跡』、タキトゥスの『ゲルマニア』にも共通します。情報量が少なすぎて、神話に対しての整合性は判断できませんが――問題は水が接触した者の願望をかなえてしまう点にあります」
美沙《みさ》が頷《うなず》いて、
「じゃあさ、水の物理的な性質については?」
冴葉《さえば》が首肯すると同時に、映像が切り替わった。現れたのは水分子の立体CGだった。空中で静かに回転を続ける。
「これが回る水――ミーミルの水と呼ばれるものの組成図です」
「H2O……? ただの? マジ?」
「……わしらが昔、ここにあった水を調べたときも、そうじゃったよ」
顔をしかめて、エルネストが呻《うめ》いた。
しかし――冴葉が手を叩《たた》くと、映像に複数のドットが加わった。水素・酸素原子よりも、遥《はる》かに小さなものが、原子間にこびりつく。
「物質としての性質は、ただの水分子――ただし原子の隙間《すきま》に、複数の未知の素粒子を確認しました。スケールとしては、ニュートリノの二分一程度ですわ。したがって実際の重量は、理論上、ただの水分子より重いはずです。といっても、兆トン単位の超純水と同体積で比較しての話ですから、意味はありませんが」
「ニュ、ニュートリノより小さいじゃと……!? それじゃ分かるはずないわい……!」
「あの……冴葉さん、いいかな?」
遠慮《えんりょ》がちに、美貴《みき》が手を上げた。
「なんでしょう?」
「でも結局はただの水ってことでしょう? 物体としての性質を決定付けるのは、やっぱり分子構造なんだから。ヒトの願いをかなえる力なんてないんじゃないの?」
「分子単体では、です。これをご覧《らん》ください」
冴葉がスクリーンを指すと同時に、さらに新たな水分子が現れた。球体の原子トライアングルが、次々に結合を繰《く》り返し、やがて一定量で停止する。
そのとき、原子間の素粒子同士を繋《つな》ぐラインが発生した。結合子の間をかいくぐり、次々に繋がっていく。まるでクモの糸だった。
やがて――変化が完了したとき、スクリーンに文字が現れた。
"WATER OF THE MIMIR"
これには、美沙が瞬《まばた》き。
「なになに? 待ってよぅ、別の物質になっちゃうワケ?」
「というよりも、新たな“機能”が加わると思ってください。一定量集まり、そこへヒトが近付くと、未知の素粒子同士が、ある種のエネルギーラインを形成するのです。必要量は、推定では約三五〇ミリリットル――ジュース一本分が目安ですわ。ただ、作動原理については全く分かっておりません」
会長秘書は、向き直ると続けた。
「水の性質は、大まかに分けて三つ。一つ目は鉛直《えんちょく》方向――つまり重力面に対し、右回りに回転する特性を持っている点。素粒子の影響《えいきょう》だと思われます。永久機関に転用できる可能性をも示すものですが、今は考慮《こうりょ》すべき要素ではありません」
「んじゃ、二つ目は?」
「ヒトの望むものを映し出すという点です。他者の顔だけではありません。モノ、場所――これと言った制限はないようです」
「え……じゃ、じゃあ、どうして顔なんて……?」
と首を傾《かし》げた鷲士《しゅうじ》の疑問を、老婆《ろうば》が解消した。
「神格化する必要性があったんだよ……時の権力に対してね。なんでも映りゃ、ただの不思議な水だが、イエス様のご尊顔が現れるとなれば……分かるだろ?」
「最後に、水にじかに接触すると――。もう説明の必要はありませんね。望むものと引き換えに、最も大切な何かを奪われます。しかも恐ろしいことに、水は識閾下《しきいきか》――つまり無意識の段階まで遡《さかのぼ》り、想像・願望を現実に顕在化する特性を持つようですわ。触れてしまえば最後、回避《かいひ》する手段はありません」
「さっ、最悪じゃないの。そんなのが湖になっちゃってるワケですか?」
と麗華《れいか》が青い顔で、外を指した。
呆れたように、汗ジト美沙《みさ》も瞬《まばた》きだ。
「ちょい待ち。じゃあ、あれ? 夏の暑い日なんかに、ああっ、アイス食べたいよー、って考えて、自分が一番大事なヤツだったら……」
「アイスバーと引き換えに命を落とすでしょうね」
「あ、あのぉ……それってまるで役にたたないんじゃ……?」
鷲士の問いに、冴葉《さえば》はあっさり頷《うなず》いた。
「もともとが人間用ではないのか、根本的に用法を間違っているのか――ただ、作った者たちに関しては容易に想像できます。驚異《きょうい》的なテクノロジーを持ち、かつて世界の文明に激震《げきしん》をもたらした存在――」
「ら、来訪者……!」
「おそらく」
小さな会長の呟《つぶや》きに、冴葉は首肯した。
「アスガルドの神々が、彼等《かれら》だったかどうか――むしろ質の低さから、単にテクノロジーだけを用いたただの人間だったように思えますが――現在ハッキリ言えるのは、水が人類には危険しかもたらさないということです。猛毒と大差ないどころか、第三者に危害を及ぼす点から考えると、それ以上ですわ。なぜスルトが、こんな危険なものを後世に遺《のこ》したのかも分かりませんが、とにかく水の危険性を頭に入れて、これからの話を聞いてください」
美女の言葉に、全員が緊張《きんちょう》の面持ちで頷《うなず》いた。さらにスクリーンが、現在湖になっている辺り全域の地形図を映し出す。
「現時点――我々の目標は、井戸の機能を停止させることにあります。伝承ではフレイアの小鍵《こかぎ》を用いることになっています」
「……これです」
とノイエが、妹から預かった小鍵をみんなに見せた。
「ただの金属に見えるのですが、スキャンによって分子回路プリントを確認しました。小鍵は機能していますわ。そして村の現在位置がここです」
湖の中心地点に、赤いマークが灯《とも》った。
美沙《みさ》が顔をしかめて頭を掻《か》き、
「くっそー、で、ミュージアムの船が村跡の直上にいるってワケね?」
「はい。ただ、問題がいくつか」
「問題? これじゃなくて?」
「井戸の位置まで――既に水深が四〇〇メートルを超えているのです。海洋ならば、深海に属する深度ですわ」
淡々と、黒スーツの秘書は告げた。
これには全員が青ざめ、絶句した。とても潜《もぐ》っていける距離ではないことが、みんな分かったからである。
「……状況は最悪です。直上で敵が待ち受けているのは水を制御下に置くため――我々から小鍵を奪うためですわ。一方この水圧は、人間に耐え切れるものではありません。深海探査艇では動きが遅すぎる、仮に潜水艦《せんすいかん》を投入したとしても、水流に逆らって井戸にたどり着ける可能性がゼロに等しいのです。さらに、事前――もしくは同時にバレッタ奪回をもやる必要もありますので」
すると鷲士《しゅうじ》が瞬《まばた》きし、
「え……どうしてバレッタ……あ、そうか!」
「ええ。起動装置が敵の手にある間は、同じことの繰《く》り返しになってしまいますので。さらに相手はディーン・タウンゼント。データから察するに、この男は――」
「……人間ではない。違いますか、片桐《かたぎり》女史?」
無言だった樫緒《かしお》が、静かに口を開いた。
全員の視線が交錯《こうさく》する中、美貌《びぼう》の秘書は頷き、
「樫緒さんと鷲士さん――お二人の話を聞いて、懸念《けねん》は決定的なものとなりました。疑う余地はありません。この男の履歴《りれき》は、先にお渡しした書類の通りですが――気になる点が」
「気になる点? なになに?」
「この男、ヴィタリスの魔筆《まひつ》を用いながらも、後半の逸話を知らないようなのです。さらに後頭部には、大きな傷痕《きずあと》があるとか」
「戻ってきたヴィタリスの……アレ? 待ちなさいよ、だったらあいつ……!?」
美沙《みさ》は青ざめて息を呑《の》んだが、鷲士《しゅうじ》は首を傾《かし》げた。ヴィタリスに関する逸話など、聞いたこともないからである。
少女の問いに、冴葉《さえば》は首肯で返した。
「……かも知れません。あの魔筆を使えるのは、ヴィタリスとタウンゼントのみ。ならばすべての説明がつきます。しかし繰《く》り返すようですが、この男を倒したところで、井戸へ近付く手段がありません。水の質量が膨大《ぼうだい》すぎて、草薙《くさなぎ》の荷電粒子砲でも効果はないでしょう。核ミサイルという手もありますが、万が一、井戸のシステムを破壊《はかい》してしまったら、取り返しのつかない事態に陥る可能性も出てきますので」
「取り返しのつかない……事態ですか?」
「あれだけの水量を備蓄するのはナンセンス――井戸は一種の合成システムってことね?」
「ええ。止まればいいのですが、逆に暴走してしまったら――。さらにその一方で、長引けばミュージアム側の増援が来るのはほぼ確実です」
「じゃ、じゃあなに? 手段はないってワケ? そんなぁ」
珍しく、美沙は途方に暮れた。
薄目《うすめ》だった樫緒《かしお》が、姉の様子を目にして、ため息をついた。仕方がないな――口にこそ出さないが、そんな表情で目蓋《まぶた》を閉じる。
異変は、直後に生じた。
――ゴゴゴ!
突如、足下を凄《すさ》まじい振動が駆《か》け抜けた。キャンドルスタンドが倒れ、生き物のように壁《かべ》にヒビが入る。ステンドグラスが割れ、床で砕け散った。ホログラフィも途切れ、長椅子《ながいす》すらも根元から外れて、次々に倒れていく。
麗華《れいか》が青ざめ、辺りを見回しながら、
「なっ、なになに!? こんなときに地震《じしん》!?」
「ああ、神よ……! どうして我々にこんな試練を……!」
とノイエが両手を合わせ、目を閉じたときである。
バン、と音を立てて、唐突に正面のドアが押し開かれた。現れたのは、冴葉の部下――単衣《ひとえ》だった。
「ボ、ボス、キャプテン! 水底からとんでもないものが! 震源はリッター村跡の直下、何かとてつもなく巨大な物体が浮上しています!」
大振動の影響《えいきょう》は、むしろ湖面に最も強く現れた。
――津波である。
荒れ狂う波は、巨大な手となり、ミュージアムの船を大きく揺らした。さらに甲板にいた戦闘員《せんとういん》たちを薙《な》ぎ払い、波間に飲み込んでゆく。
キャビンへの入り口で、水飛沫《みずしぶき》から顔を覆《おお》い、タウンゼントは呻《うめ》いた。
「ば、馬鹿《ばか》な、どうなっている!? 計算では水が三五〇〇年分の堆積物《たいせきぶつ》を洗い流すまで、あと数日はかかるはずだ! これでは話が違うぞ!」
「不用意な起動で、回路がショートしてしまったのかも知れません! 五〇年前の事件が影響《えいきょう》を及ぼしていることも考えられます!」
壁《かべ》によりかかって、研究員も喚《わめ》き返す。
突然――水底から光がさした。
まるで太陽が下から昇ってくるようだった。波を押し破るように、巨大な気泡《きほう》が次々に現れて、湖面で弾《はじ》け飛ぶ。
――ガゴン!
ひときわ大きい衝撃《しょうげき》が、船を襲《おそ》った。何かが船腹に激突したのだ。船室の窓という窓が一斉に砕け散り、生き残った船縁《ふなべり》の歩哨《ほしょう》たちを貫いていく。
さらに――唐突に、船体が裂けた。
「なっ!?」
跳びすさりながら、タウンゼントは出現したものを見上げた。
甲板を貫いて現れたのは、巨大な枯れ枝だった。樹皮《じゅひ》がないところを見ると、正確には根とでも言うべき代物《しろもの》なのかも知れないが、鋼《はがね》製の船腹を貫通する代物に変わりはない。キャビン、船尾――いたるところで爆発が起こった。戦闘員が吹っ飛ばされ、水面に消えた。機関を串刺しにされた揚げ句、燃料に引火してしまったようだ。
やがて――“それ”は湖面を真っ二つに引き裂き、この世に現出した。
横倒しになった萎《しな》びた老木。
ただし、スケールが神話じみていた。
全長約五〇〇〇メートル、全幅一〇〇〇メートル――見た目こそ倒れた朽ち木だが、その雄大さは想像するに余りある。枝の間から流れる水は、さながら滝を思わせた。一つの地形にたとえても過言ではない。
さらに謎《なぞ》の巨大樹は、いくつもの奇怪な付属物を身につけていた。
根の付近には、塊茎にも似た金属の球体が放射状に配されている。その一つ一つが、コンビナートで見かけるタンクの数倍はあった。朽ちた幹の中腹部では、スペースコロニーのローリングベルトを思わせるリングが静かに回転を続けていたが、木自体との接合面はない。表面に彫られているのは、エルダー・ルーンに酷似した文字である。すべてのパーツがキロ単位で構成された、何者かの手による構造物であった。
さらに異変は、それだけにとどまらなかった。
湖面を覆う光が、変化を始めたのである。赤、橙《だいだい》、黄色、緑、青、藍《あい》色、紫――そしてまた色の循環を繰《く》り返す。表面全体がプリズムと化したかのようだった。水面だけではなく、色までもが波打っていく。
大木と見紛うほどの根の間から湖を見渡し、生き残った妖画家《ようがか》は呟《つぶや》いた。
「こっ、航行プログラムが作動し始めている……!? なんということだ、バレッタは機関部を起こすだけではなかったのか……!」
一帯を濃《こ》い霧《きり》に覆われているとはいえ、山にも似た圧倒的なシルエットは、グランツホルンからもハッキリ確認することができた。
――まるで急造の島である。
もともと普通の状態なら、グランツホルンは、リッターの村を見下ろせる位置に配されている。それだけに、視界の三分の一は、影に塗り潰《つぶ》された。実際、ヘタな小島などより遥《はる》かに巨大なのは間違いない。
崖《がけ》から異様な光景を目にした面々は、絶句。言葉を失っていた。
最初に呟いたのは、ノイエだった。
「あ……あれは……ユグドラシル……? な、なんてこと……! ミーミルの井戸は、本当に世界樹《せかいじゅ》の根にあったのね……!」
「……水に木……? も、もしかして、ナルメル王のピラミッドで見た……?」
青い顔の鷲士《しゅうじ》が、娘の袖《そで》を引っ張った。
湖面の超大木から目を離さず、美沙《みさ》も頷《うなず》き、
「……う、うん。最も偉大なる船の一隻、かの地にあり……! 大切なのは船そのものではなく、吐き出される水である……!」
「やっぱり! じゃ、じゃあ、あれ……本当に宇宙船!? 木なのに!?」
「コンセプト自体は、そう驚《おどろ》くものでもありません。NASAをはじめとした宇宙開発機関に属する研究者の中には、遺伝子《いでんし》改造を施した木を主体とする循環《じゅんかん》型の恒星間移民船が、将来は主流になると唱える者もいますので」
さしもの冴葉《さえば》も、しかし冷や汗を流しながら呟いた。
来《きた》るべき大宇宙航海時代――しかしここで問題になるのは、スターシップの速度性能などではなく、実は食料や酸素などの備蓄方法だとされている。
極端な話、別の恒星へ行く技術は、既に確立されているといっても過言ではない。ポンコツでもロケットさえついていれば、一回|噴射《ふんしゃ》しただけで、機体は永遠に飛び続けるからだ。どこかに激突でもしない限り、真空の宇宙空間では、スピードが落ちることはない。問題は、乗る人間をどうやって生かしておくか、にある。酸素や食べ物を現地で調達できるほど、星々の海は甘くはない。疑似的な世界を船内に作る必要がある。
そこで登場するのが、木――植物だ。
先端科学の結晶ともいえる鋼《はがね》の船から、樹木《じゅもく》へ――この常軌を逸した発想転換は、机上の理論の段階でありながら、既存の宇宙船とは比較にならないほどの効率を示した。生物と対になる植物は二酸化炭素を吸い、酸素を吐き出す。クルーの排泄物《はいせつぶつ》は養分だ。動物性|蛋白《たんぱく》をとる場合は、家畜でも飼えばいい。星々の間に浮かぶ大木は、いわば疑似的な地球である。完璧《かんぺき》に近い循環《じゅんかん》環境は、それ自体で一つの完結した世界になりうるのだ。
無論、大気圏の確立や、推進方法など、様々な問題は山積している。しかし既存の船では限界が見えている以上、いずれは木が宇宙に浮かぶ日が来ると主張する者は少なくない。
宇宙船が根本的に抱える“完結した世界の再現”――これをもっともメジャーな形で先取りしたのが、北欧神話のユグドラシルだという。そのため、ユグドラシルの名が冠せられた宇宙船の設計図は、数多く存在する。
そして――娘の秘書は、唾《つば》を飲み込み、
「ただし、この規模は異常です。樹木船は宇宙で育てるのが前提と聞きますし。この質量では浮上できないどころか、大気圏を離脱するときに燃えつきてしまう可能性が――」
「はーいはい、理屈はそこまで! 相手は来訪者――考えてもしょーがない! でも、たった一つだけ確実になったことがあるでしょ!」
「確実になった……こと?」
鷲士《しゅうじ》が眉《まゆ》をひそめ、全員の視線が、少女に集中した。
美沙《みさ》は汗ジトではあったものの、ニヤリと笑い、
「とりあえず、水は止まって、井戸も浮上した……! だったらさ、攻めるのは今しかないじゃんか……!」
数分後――一機の大型ヘリが、霧《きり》を引き裂きながら湖上空を通過した。水上の影が、あとから機体を追いかけていく。
――強襲《きょうしゅう》作戦用ヘリコプター・MH53Eシードラゴンだ。
「どうやら、ギレスピー“元首相”の言っていたことは本当だったようですね! 敵はミーミルの水はもちろん、その元となるユグドラシルまで支配下に置くつもりだったようです! だから小鍵《こかぎ》も必要なんですわ!」
カーゴルームで、冴葉《さえば》が叫んだ。
「ギレスピーって……ボコボコにしてやったあのブタ野郎の!?」
と眉をひそめて、対面に座る美沙も喚《わめ》き返す。
無人の大聖堂――床の隅で影が動いた。
パンツ一丁で手足を縛《しば》られた、青痣《あおあざ》だらけのギレスピーである。
「んん〜、んん〜!」
口の猿轡《さるぐつわ》が、悲鳴すら上げさせない。
もちろん犯人は美沙《みさ》。スタッフのお尻《しり》を触ったという理由で足蹴《あしげ》にした揚げ句、議会と連立与党に圧力をかけ、解任してしまったのだ――。
「詳細は事後に! 水の正確な利用目的は未《いま》だに不明ですが、変化を開始しています! おそらくは航行用に使われる何らかのリアクター源――とにかくユグドラシルが動き出せば、一帯はただでは済まないでしょう!」
「クッ――ブッ潰《つぶ》しても、あんな得体の知れない連中には渡せないわね!」
「そ、それはいいけど――いや、よくもないけど――分かる! で、でもさ!」
と鷲士《しゅうじ》が喚《わめ》き、美女と美少女が振り返った。
「でも――どうして、おばあさんまで乗せちゃったんだよ!?」
完全武装したボケ青年は、わたわたと手を振った。
機体に乗っているのは、鷲士、美沙、冴葉《さえば》――数名の狙撃兵《そげきへい》と、そしてなぜかマレーネ。さらに祖母を心配して、ノイエまで隣《となり》にいる。
「うるさいよ、ダーティ・フェイス! わたしは見届ける必要があるんだ! リッターの唯一の生き残りとして、この事件の終焉《しゅうえん》をね!」
「ああっ、もう! だから違うんですってば!」
「シュージの言う通りよ、おばあさま! 危ないわ、最後の決戦になるのよ!?」
と袖《そで》を引っ張るマレーネの腕を、老婆《ろうば》は払いのけ、
「どうせここは安全なんだろ! 心配おしでないよ!」
さすがに呆《あき》れた鷲士だったが、すぐに眉《まゆ》をひそめた。
――敵の言葉が、脳裏をよぎったのである。
「……そういえば、タウンゼントってヒト……おかしなこと言ってましたよね? ミッテンなんとかの裾野《すその》で、二体のゾンビーが発見されたとか……そんなこと」
「ちょ……な、なにそれ? そんなの初耳!」
「二体の……ゾンビー……?」
「う……!」
鷲士はもちろん、美沙とノイエの視線を受け、老婆は青ざめ、目を伏せた。やはり、何か知っているのだろう。
「あの……何か関係があるんですか? 五〇年前の事件と?」
「お、おだまり! 今さら降りろってのかい? 言ったろ、あたしはこれでもシュッツェンケーニッヒなんだ、ザコの始末ぐらいできるさ!」
と傍《そば》のラックから自動小銃を取って、コッキング・レバーを引いた。
――突然、シードラゴンを、大きな振動が襲《おそ》った。
衝撃《しょうげき》で中の木箱が崩れ、ボケ青年の頭を直撃。ぐは、と呻《うめ》いてフラついたところへ、バランスを崩した美沙《みさ》が突っ込んできた。二人して壁《かべ》にブチ当たり、ズルズルと床にくずおれる。先に起き上がったのは、パパをクッションにした美沙だった。
「つつつ……こらぁっ、なんなのよぉ! 敵の襲撃《しゅうげき》!?」
「ええ……分かったわ」
レシーバーに耳を当てていた冴葉《さえば》が、静かに立ち上がった。
「ユグドラシルの早期|警戒網《けいかいもう》――ヨムンガルドたちが、攻撃をしかけて来たようです! 我々は制空権を確保するため牽制《けんせい》に回ります、降下チーム――ボスと鷲士《しゅうじ》さんは、準備を整えてください! 作戦を開始します!」
全員が緊張《きんちょう》を顔にみなぎらせ、窓に目をやった。
眼下には、中心から真っ二つにされたような巨木が横たわっていた。三五〇〇年前――スルトと呼ばれる謎《なぞ》の死神と戦った際の傷痕《きずあと》であった。ただ既にヘリが高度を下げているため、全容は視界に収まりようがない。木の前方では、スペースコロニーのリングに似た構造物が、静かに回転を続けている。根の辺りには削り取られたようなスペースがあり、ガラクタに似た構造物が散在していた。
リッターの村跡――名残である。かつては土中にあった根が水を吸って起き上がり、平地だった村をジャングルの一集落に見せていた。
後部ハッチが開ききると同時に、美沙が立ち上がり、
「これが、今回のラストバトル――さっ、行くわよ、鷲士くん!」
「う、うん……」
と娘の横に立った鷲士に、さらにノイエが並んだ。碧眼《へきがん》の元シスターは、錆《さ》びたようにも見える小鍵《こかぎ》を、青年の鼻先に持ってきて、
「あなたには無理のさせ通しだったけど……これが最後。お願いよ」
「……まあ、頑張ってみるよ」
鷲士は困ったように笑うと、指を伸ばした。
――鍵は、掻《か》き消えた。横から現れた手が、かっさらったのだ。
犯人は――マレーネだった。
「井戸の正確な位置を知ってるのはあたしだけ――先に行くよ、ダーティ・フェイス!」
「お、おばあさまっ!?」
孫娘の伸ばした腕は、宙を引っかいた。
マレーネが、ハッチを蹴《け》ってジャンプしたのである。まだ地上まで一〇メートル以上――老体に鞭《むち》打つどころの話でない。手近な枝に跳びつけたのは、奇跡と言ってよかった。全員が青ざめる中、老婆《ろうば》の姿は、巨大な根毛の間に消えた。
鷲士《しゅうじ》は髪を押さえながら呆然《ぼうぜん》と、
「な、なんて無茶な……! 敵がどこに隠れてるか分かんないのに……!」
「しゅ、鷲士くん、わたしたちも!」
「う、うん! 助けないと!」
頷《うなず》き合って、父娘《おやこ》も枯れ根にジャンプ。こちらは両方とも抜群の運動神経――うまく跳び移ると、ポールを滑る要領で下りていく。
「では、ご武運を!」
強風の中で冴葉《さえば》が喚《わめ》いたと同時に、またもヘリが大きく揺れた。
ヨムンガルド――その頭突きである。首をここまで伸ばせるらしい。さらにハッチから、赤黒い肉の塊のようなものが差し込まれた。
――竜《りゅう》の舌である。
「ノイエさん、下がって!」
叫ぶと同時に、冴葉はショットガンを構えた。さらに同乗していた狙撃兵《そげきへい》が、アサルトライフルを向ける。
立て続けの爆音《ばくおん》が機内を埋め尽くし、大量の鮮血《せんけつ》が壁《かべ》に飛び散った。鼓膜を引き裂くようなうなり声と共に、舌が戻っていく。
冴葉は蒼然《そうぜん》と振り向くと、レシーバーに叫んだ。
「急速上昇――旋回して、一時的に空域から離脱! 距離をとったら、ヨムンガルドの頭部にロックしてミサイルを発射しなさい! 急いで!」
「ああっ、なんてこと! 始まっちゃった!」
ユグドラシルの後方で小刻みな爆発が生じ始め、グランツホルンの絶壁《ぜっぺき》から見ていた美貴《みき》が、悲鳴を上げた。
「えーい、くそっ、やっぱりマレーネとノイエは行かせるんじゃなかったわい!」
「ちょっとォ、鷲士さんだいじょーぶなワケ……?」
とエルネストと麗華《れいか》も青ざめる。
彼等《かれら》の後ろで、樫緒《かしお》がため息をついた。
「……放っておけばいいのですよ、母さま。九頭竜《くずりゅう》は異界の者共を屠《ほふ》るべく古代に成立した妖拳法《ようけんぼう》。あの程度では死にません。姉さまも大丈夫でしょう」
「もうっ、キミまで! だってクズ流なんでしょう!?」
「……はぁ。確かに九頭竜です」
「た、確かにって――樫緒、分かってるの!? クズ流だよ、クズ流なんだよ!?」
「ええ。九頭竜ですが……なにか問題が?」
「???」
「???」
見つめ合って、同系統の美貌《びぼう》を持つ母と息子は、揃《そろ》って首を傾《かし》げた。相手の反応が理解できなかったからである。
しかしすぐに美貴《みき》が、樫緒《かしお》の上着を引っ張り、
「と、とにかく! 行ってあげてよ! キミがいればぜんぜん違うんだから! ねっ?」
しかし息子は、あっさり背を向けた。
樫緒は、修道院に戻りながらこう言った。
「……やめておきますよ。あの奇怪な大木を引き揚げてあげただけで十分……それも姉さまの窮状《きゅうじょう》を見かねればこそ。見えざるものを動かすのは、神経を使います。ぼく少しは休ませていただきますので」
ハーフコートをはためかせ、少年は建物の奥に消えた。
残った面々が青ざめたのは、言うまでもない。
「鷲士《しゅうじ》くん、こっち!」
「う、うん!」
根幹部まで下りるやいなや、美沙《みさ》が走り出し、鷲士もあとを追った。
二人の眼前に広がっていたのは、鬱蒼《うっそう》とした濡《ぬ》れた枯れ木の森だった。
――世界樹《せかいじゅ》ユグドラシルの根である。
目の前にそびえる根の平均高さは、約五メートルほど。ヘリが直接井戸の近くへ降りられない原因だ。この一本一本が、実は根毛にすぎない。
――パンパン!
――ドドドドド!
轟音《ごうおん》が上がり、上空を何発もの弾丸やミサイルが通過していく。
「あ――見えてきた! きっとあそこがそう!」
巨大根毛の垣根が、急に開けた。
二人の眼前に、水圧で圧壊《あっかい》した小集落が広がった。
――五〇年前に滅んだ村・リッター。
「ここが……!」
鷲士は、呆然《ぼうぜん》と辺りを見回した。
動くものは、なに一つなかった。
そこにあったはずの街並みは、土台が少し残っている程度だった。壁《かべ》などどこにもない。その土台も、半ば土砂で埋まっていた。本当なら、店や民家があったはずだが、判別できる要素は、なに一つ残っていなかった。これはすべて土に埋まっていたもの――ミーミルの水が、堆積物《たいせきぶつ》を洗い流してしまったのだろう。
足首まで浸《つ》かる水の中、二人は足を進めた。
頭上を走る世界樹《せかいじゅ》の枯れた根が、村の死に現実感を添える。木漏《こも》れ日のように注ぐ光が、足下を流れる水に反射してきらめいたが、それは命の輝《かがや》きと言えるようなものではなかった。全体が濡《ぬ》れているにも拘《かかわ》らず、乾いたように感じる場所。
――ない。
なにもない。
ここではすべてが死んでいる。
「ギャアアアアアアアアアアアア!」
悲鳴が、濡れた樹林を切り裂いた。血相を変え、鷲士《しゅうじ》は地面を蹴《け》った。間違いなく、老婆《ろうば》のものであった。
現場には、すぐに到達した。
薄《うす》い水膜に被《おお》われた石畳の終端には、建物の土台が残っており――敷地《しきち》の中心にあるノズルのようなものに覆《おお》いかぶさるように、老婆が倒れていた。
背中には、爪《つめ》の痕《あと》。傍らの輪郭獣《りんかくじゅう》にやられたのだろう、老婆は血まみれだった。
「お、おばあちゃん……!」
やや遅れてやってきた美沙《みさ》が、口元を押さえた。
老婆の握った小鍵《こかぎ》は、ノズルの台座に差し込まれかけていた。
――これがミーミルの井戸らしい。機構自体は、まだ止まってはいないようだ。
「ああ、なんてことだ……! どうしてこんな無茶を……!」
「……まだ分からんのか。この老婆が、惨事唯一の生き残り――しかしお前たちは、そのことを疑問に思わなかったのか?」
マレーネを冷徹《れいてつ》に見下ろし、傍《そば》のタウンゼントが呟《つぶや》いた。
「なんだって……?」
「この教会に小鍵を持つシスターが常駐《じょうちゅう》していたのは、我々も知っている。だが、なぜ修道女が死んだのに、一人の小娘だけが生き残った? どうして一人だけなのだ? グランツホルンの教えを受けたシスターに小鍵を使う余裕があったなら、村人を水に触れさせはしまい。ましてや自分が水を使うことは絶対にないはず。なのに修道女も死んだ。仮に――仮にだ、誰《だれ》かの望みと引き換えに、村人全員が犠牲《ぎせい》になったのだとしても――その概念から、なぜマレーネ・シュライヒャーだけが除外されるのだ?」
これには、ハッとして美沙が青ざめ、
「ま、待ってよ、それじゃ……!?」
「大切か大切でないか――そう問われたとき、自分を含んで考える人間は多くはいまい。たとえ同じ集団に属していたとしても、だ」
すると――老婆《ろうば》は弱々しく顔を上げ、
「フフフ……ミュージアムに言われるのは……業腹《ごうはら》だけど……間違っちゃいない……! だから責任を……とったまでの……ことさね……!」
「なっ……!」
「……やはりな。ミッテンヴァルトのゾンビー二体――あれは貴様が生み出したものか」
タウンゼントが、淡々と呟《つぶや》いた。
呆然《ぼうぜん》と、鷲士《しゅうじ》は老婆に目を落とした。
「よ、よく聞きな……フェイス……! かれこれ五〇年以上前……リッターの村を……滅ぼしたのは……こ……このわたしなんだよ……!」
無理やり笑った老婆の口元から、血がこぼれた――。
――第二次世界大戦中・リッター。
村の子供たちに、いちばん大切なものはなにかと訊《き》かれたとき――マレーネは、母から貰《もら》ったテディベアを掲げて、こう言った。
『んとね、このクマさん! このクマさんがいちばんだいじ!』
――じゃあ、いちばん大切なヒトは?
しばらく頭をひねると――マレーネは笑った。
『みんな! マリアも、ミッヒも、ジークも! ここのヒト、わたし、みーんな大好き! だって……よそもののわたしにも優しくしてくれたから! だからね、わたしね、この村のヒトたち、みんな大切だよ!』
満面の笑みにつられ、居合わせた子供たちも笑った。
マレーネ・シュライヒャー。
このとき、九歳――。
「よく……憶《おぼ》えてるよ……。あれは……身重だったシュナイダーの……おふくろさんに……娘が生まれた日のことだった……。みんな……シュナイダーのうちに……集まっててね……。ドンチャン……さわぎさ……! わたしは……その隙《すき》に……ここへ……教会へ……一人で来たんだ……!」
苦痛に朦朧《もうろう》としながら、マレーネは言った。
「わたしは……か……家族が欲しかった……! バレッタを追う……ナチに……両親は……殺されて……! だから……なくすものなんて……なにもないと……思ってた……! テディベアと引き換えに……二人が帰ってきてくれるなら……それで……!」
「ミッテンヴァルトのゾンビーは、マレーネとオウム返しに繰《く》り返すだけだった。じきに腐って滅んでしまったがね」
冷淡に見下ろしながら、タウンゼント。
マレーネの瞳《ひとみ》からこぼれた涙が、血の海に広がっていく。
「小鍵《こかぎ》のありかは……知ってたから……二つを用意して……わたしは井戸を開けた……! 噴《ふ》き出してきた水を……わたしは全身に浴びちまった……! 水は瞬《またた》く間に……村の表に流れ出して……! わたしは死に物狂いで……なんとか水を止めた……!」
血の塊を吐いて、老婆《ろうば》は痙攣《けいれん》を繰《く》り返した。
「……ゲホッ、ゲホッ……教会から出たわたしは……家々を訪ねたが……村には……もう誰《だれ》もいなかった……! 恐《こわ》くなって教会に戻ったとき……そこに両親がいたのさ……! 銃弾を全身に食らった……死ぬ寸前の父さんと母さんがね……!」
「記憶《きおく》に焼きついたトラウマを、水が物体として顕在《けんざい》化させてしまったというわけか? ハッ、お笑いだな!」
タウンゼントは苦笑した。
憎悪の瞳《ひとみ》で妖画家《ようがか》を睨《にら》みつけると、老婆は再び鷲士《しゅうじ》に顔を戻し、
「わたしは逃げたよ……! 結局……日本に渡って……ユウキに借りを作ることになっちまったけどね……! 大人になって帰国したわたしは……結婚して……娘を生んだ……! 幸せだったけど……どうしても村のことが……気になってね……! シュライヒャーと……グランツホルンは……よっぽどのことがない限り……接触しないってことになってたんだけど……娘を無理に……修道院に入れた……!」
老婆は咳《せ》き込むと続けた。
「フ……おかしなもんだよね……! やっと幸せを手に入れたのに……何かが壊《こわ》しに来るような……そんな気がしてさ……! 自分から……昔に近付いちまうのさ……! ハハハハ……でも……やっとこれで……ガハッ!」
大きく痙攣したマレーネの口から、大人の拳《こぶし》ほどの血塊が吐き出された。
「お……おばあさん!? マレーネさん!?」
と鷲士が血相を変えて、足を踏み出したときだった。
――ガコン!
突如、足下を振動が走り抜けた。足場が傾き始める。
蒼然《そうぜん》と振り返った鷲士と美沙《みさ》が目にしたのは、停止したコロニーベルトだった。スラスターが火を噴《ふ》いている。さらに足下の水かさが、急速に増し始めた。ユグドラシルが、立ち上がろうとしているのだ。
「し、姿勢制御……!? ヤバいよ、鷲士くん! まだプログラムが動いてるみたい、ユグドラシルは飛び立つつもりなんだわ!」
「飛び立つ? 潜航《せんこう》と言え、潜航と」
屈《かが》み込んで、タウンゼントは水に手を伸ばした。
黒い手袋の間から、ミーミルの水がこぼれていく。
「……これは本来、空間に穴を空けるためのものだ」
「空間に……穴……?」
「望む世界を引き寄せるのだよ。この水がな。イメージング・リアクターとでも言おうか。ヒトの願望をかなえてしまうのは、単なる誤作動にすぎん。空間をスポイルして、ここから一気に銀河の中心へ移動するのはもちろん――我々の研究班は、時間をも超えることができるのではないか、と言っている」
「じ、時間をも超えるですって!?」
幼さの残る美貌《びぼう》が顔色を変えたが、異変はこのときに起きた。
「――ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ! ゲホゲホッ!」
美沙《みさ》は急に咳《せ》き込んで、膝《ひざ》を折った。
銃を撃《う》つどころの話ではなかった。OICWから手を放し、体を曲げて、喉元《のどもと》と胸を押さえる。小さな肩が、何度も上下した。
「みっ、美沙ちゃん、美沙ちゃん!? いったい――ガハッ!」
強烈な違和感が、鷲士《しゅうじ》の喉を突き刺した。娘に手を伸ばし、自分自身も片膝《かたひざ》をつく。喉の奥から、液体が込み上げ、青年は口を押さえた。
――鮮血《せんけつ》だ。薄《うす》い水面に、ポタポタと滴り、赤い染みを作っていく。
これには、本人より美沙が青ざめた。
「ゲホ、ゲホッ……しゅ、鷲士くん!?」
しかし妖画家《ようがか》は、二人のことなど気にもとめないように、
「最後の戦いは華々しくすべきだったのかも知れんが――詰めでしくじるのは避《さ》けたかったのでね、悪いが最も確実な方法をとらせてもらった。もう動けまい。まずはユグドラシルを停止させねば……」
妖画家は、痙攣《けいれん》を繰《く》り返すマレーネに指を伸ばした。
――狙《ねら》いはバレッタと小鍵《こかぎ》。
突然、頭上で爆発《ばくはつ》が起こった。ミサイルか何かだ。水を吸って膨張《ぼうちょう》しただけの腐った根毛が次々に砕け散り、教会跡目がけて降り注ぐ。
「……フェイスの部下か? 花火好きなヤツらめ……!」
片手を上げ、頭を庇《かば》うようにしながら、タウンゼントは吐き捨てた。
が――妖画家は眉《まゆ》をひそめた。
降り注ぐ木片の中に、人影を見たからである。
「オラオラオラオラァ!」
――鉄パイプを振り上げたスプレイ。
「き、貴様!? 生きていたのか!?」
小鍵《こかぎ》を掴《つか》もうとした妖画家《ようがか》の腕を、スプレイの鉄パイプが直撃《ちょくげき》した。さらに着地したと同時に獲物《えもの》を捨て、パーカーから銃を引き抜く。
――ベレッタ・M93R改。本来はスリーバースト・モードまでしかないものを、フルオート連射にした美沙《みさ》のカスタム銃である。それが二|挺《ちょう》。
「オラオラオラオラァ!」
SMGにも属する機関拳銃《きかんけんじゅう》の至近弾を受け、タウンゼントの体が小刻みにはねた。コートが穴だらけになり、血煙が吹き荒れる。立て続けに空薬莢《からやっきょう》が排出され、足首を覆《おお》う水の中に落ちていった。妖画家が絵筆を抜こうにも、一切の隙《すき》を与えない。
「グッ、ガッ、ハッ! ス、スプレイ、グッ、貴様!」
「うっせーんだよ! ユーリを侮辱したヤツは絶対に許さねえ!」
感情を剥《む》き出しにしたチューン・マンの怒りがいかに凄《すさ》まじかったか――スライドが後退した拳銃を投げ捨てると、今度は腰に引っかけていたショットガンを構えた。
――オリン・COW・コンバット・ショットガン。板型のフォルムを持つブルバップ型の散弾銃。ただし、こちらもフルオート可能な代物《しろもの》だ。
スプレイがトリガーを引くと同時に、マズルフラッシュが炸裂《さくれつ》した。爆音《ばくおん》が鼓膜をつんざくたびに、タウンゼントの着衣に十数個の穴が穿《うが》たれる。散弾の成果だ。
「うう……グググ……! お、おのれ……!」
さらにスプレイはショットガンを放ると、今度は肩から吊《つ》っていた、昔のドラム・マシンガンにも似た銃を構えた。
――アームスコー40ミリMGL。
アパルトヘイト時代に、南アのアームスコー社が開発した、対人用リボルビング式グレネード・ランチャーである。暴徒|鎮圧《ちんあつ》とでも言うべき代物で――個人戦に使う火器ではない。しかしスプレイは、一瞬《いっしゅん》たりとも躊躇《ちゅうちょ》することなくトリガーを引いた。
なにかスッポ抜けるような銃声と共に、妖画家の背中が爆発した。
「グハァァァッ!」
「うるせえ! 黙《だま》って死ね!」
スプレイの喚《わめ》きに従ってシリンダーが回転し、次々に榴弾《りゅうだん》が放たれた。通常の鉛玉とは根本的に違い、爆弾を至近距離で撃《う》っているようなもの――本来なら、スプレイ側もただではすまないはずだが、チューン・マンの足に、よどみはない。
やがて――。
「これが最後だ、このファック野郎! 地獄に堕《お》ちろ!」
叫んで、スプレイはトリガーを引いた。
爆音《ばくおん》と共に、妖画家《ようがか》の体に大きな穴が空いた。そのまま吹っ飛び巨木にぶち当たると、タウンゼントは動かなくなった。血が、水面に広がっていく。
スプレイは近寄ると、元上司を見下ろした。
殺害というよりも、人体の破壊《はかい》に等しい有りさまだった。肺部から腰部にかけて、大穴が穿《うが》たれている。背骨など砕けて影も形もない。手足も、辛うじて皮一枚で繋《つな》がっているという状態だ。息の根など、聞こえるはずもなかった。
スプレイは腰を折ると、ボロボロになったタウンゼントのコートから、ノイエのバレッタを引き抜いて、きびすを返した。
彼が立ち止まったのは――美沙《みさ》の前だ。
少女はなんとか銃を構えようとしたが、銃身が定まらない。
「ゲホゲホ……な、仲違《なかたが》い……!? しかもそれって……ウチの銃……! ゴホッ……あんたまさか……グランツ……ホルン……ゲホッ……を……!?」
「……やるぜ。持ってけ。ついでにこれも」
スプレイが放ったものは、美沙の足下に転がった。
――バレッタと、携帯型の酸素ボンベである。
「なっ……ゴホッゴホッ……なんのつもりよっ……!」
「……ルイーゼってチビに、借りができちまってさ。恨み晴らすついでに、オマエらを助けに来たんだよ。そのボンベ使いな、修道院にあった高山病用のだが、喉《のど》がスッキリするぜ。あのオッサン、毒ガスを描きやがるんだ」
「ど、毒ガスを……描く……?」
不審《ふしん》そうな眼差《まなざ》しの美沙だったが、鷲士《しゅうじ》がハーネスに口をつけたのを見て、自らもボンベを使用した。小さな胸が上下するたび、顔色が元に戻っていく。
スプレイはマレーネを肩に担ぐと、小鍵《こかぎ》をまたもや美沙に放った。
呼吸の落ち着いた鷲士が立ち上がり、戸惑ったように口を開いた。
「あ、ありがとう、助かった。お婆《ばあ》さんは?」
「虫の息だが、まだ生きてる。なんとかなるかもな」
「そっか、よかった……! で、でも……どうして?」
目を細めて、スプレイが振り返った。
チューン・マンは、ニッチキャップを目深《まぶか》にかぶり直すと、
「……伝染病がどーこーゆー理由でよ。火葬にされちまってさ。でも……骨がよ、まるで砂なんだよ。麻薬|漬《づ》けになってて……親に捨てられたらカネなくなって、トルエンさ。いつも嬉《うれ》しそうに笑ってたから、面白いヤツだって思ってたら……違ってたらしい」
「まさか……妹さん……!?」
スプレイは静かに頷《うなず》いた。
「……血なんか繋《つな》がっちゃいなかったけどな。宿なし同士……一緒に暮らしてた。その小さいユーリを……ヤツはバカにした。コトバとはいえ、ライン越えちまったら、あとは相手が誰《だれ》だろうが、命のやりとりしかない。そんだけ」
「じゃ、じゃあ、妹さんのためって……!」
「ユーリのレジャーランドって……悪くねーだろ?」
スプレイは苦笑した。
鷲士、美沙、絶句。
だが――確かに存在証明にはなるかも知れない。ある少女の名を冠したレジャーランドを造る――それがスプレイが、ミュージアムにいた最大の理由だった。
チューン・マンは、さらに美沙を抱え上げた。
「あっ、こっ、こらっ、なにすんのよ! まだ信用したワケじゃないんだから!」
「うるせーな、ユグドラシルは沈みかけてる、おまえの足じゃ逃げ切れねー。フェイス、おまえは?」
「大丈夫、なんとか」
と立ち上がったものの、既に足場は四五度は傾いていた。世界樹《せかいじゅ》が立ち上がりかけている証拠――この区域が水没するのも時間の問題だ。
「バ、バカね、だったら小鍵《こかぎ》で――」
「いや……世界樹はこのまま行かせよう、美沙《みさ》ちゃん」
鷲士《しゅうじ》は、静かに首を振った。
「ええつ!? ど、どーゆーこと!?」
「……こんなものがあったら、また争いが起こるのは確実だよ。標的になるのは、バレッタと小鍵の持ち主……シュライヒャーのヒトたちだ。ノイエ、ルイーゼ、そしてお婆《ばあ》さん……こんなに一生懸命《いっしょうけんめい》なヒトたちを、戦いに巻き込んじゃいけない。標的は……ぼくだけで十分だ。神話は、神話のままにしておいた方がいい」
「で、出たぁ、鷲士くんの必殺技・いいひと……!」
スプレイの肩に担がれ、美沙は天を仰いだ。
「だから……ね?」
「もうっ、バカッ! トレジャー・ハンターがお宝放り出してどーすんのよぅ! なんだかワケ分かんないじゃない! ただでさえ、今回は予算使いまくりなのにー!」
「……ごめん。穴埋めはするからさ。だから……頼むよ」
鷲士は、困ったように笑った。
……バカだとは、自分でも思う。しかしこういうスタンスで生きているのだから、仕方がない。嫌《きら》われるのは覚悟の上の言葉だった。
が――喚《わめ》くと思われた少女は、ポッと赤くなると、目を伏せた。若き母親を未《いま》だに魅了《みりょう》しつづける青年の笑顔は、実は娘にもしっかり効くのだ――例のわたしキライ攻撃《こうげき》が、鷲士に対する最終兵器と化しているのと同様に。
やがて美沙は頬《ほお》は赤いまま――しかし恨めしそうに顔を上げ、
「……う〜。今回だけだからねっ。鷲士くんのお願いだから聞くんだからねっ。美貴《みき》ちゃん相手だったら、ぜったいに無視なんだからっ」
「は? どうして美貴ちゃんが出てくるの?」
と鷲士が首を傾《かし》げると、美沙は「あわわ」と口を押さえ、
「と、とにかく! そうと決まったら――ほら、行けぇ、チューン・マン!」
「……ごめん。ありがとう、美沙ちゃん」
「方針は決定したらしいな。じゃ、この枝からのぼっていこうぜ。上には、おれを乗せてきたヘリが待ってるはずだ」
そう言って、スプレイは垂直に生えた、根の一本に足をかけた。地面が四五度になっている以上、こっちも逆から見れば四五度である。
だが――異変は続いた。
「ま、待て……! 逃がさんぞ……!」
呻《うめ》きながらも、ハイ・キュレーターが立ち上がったのである。恐ろしいことに、腹部の傷は既に消えかけていた。穴だらけのコートも一緒に、である。
妖画家《ようがか》は、しかし呆然《ぼうぜん》と己の体を見つめ、
「クッ……どうなっている……? あれだけの至近弾を食らいながら、なぜ死なん……?」
そしてまたもや血を口に運び、呟《つぶや》いた。
「血の味だ……! これぞ人間の証《あかし》……! それなのに、なぜ……!」
「……それ、あんたの定番だけどさ。ちょっと訊《き》いていいか?」
「死が確定している裏切り者のブリキ男か。なんだ?」
「あんた、他人の血、舐《な》めたことあんのかよ?」
「な……に?」
妖画家の顔を、衝撃《しょうげき》が貫いた。
「だから、他人の血だよ、他人の。でなけりゃ、どーしてそれが血だって分かる? 確か記憶《きおく》喪失のまま七八年も経《た》ってるんだろ? その間、他人の血を舐めたコトねーのか?」
「貴様……何が言いたい……?」
「じゃ、一つ教えてやるぜ。人間様はよ、油絵の具って呼ぶんだよ! てめーが血だと思い込んでるモノのことをよ!」
タウンゼントを睨《にら》み、スプレイは吐き捨てた。
震《ふる》えながら、絵師は手袋に包まれた両手に目を落とした。
「あ、油絵の具……!? わ、わたしが……絵だと……!?」
「だ、だから……死なないのか……! 命が元からないから……!」
呆然《ぼうぜん》と、鷲士《しゅうじ》も呟《つぶや》いた。
「絵……わたしが……絵……!? 馬鹿《ばか》な……! そんな馬鹿な……! ならば……いつ……誰《だれ》に……!? ヴィタリスと……このわたしにしか……魔筆《まひつ》は使えないはずだ……!」
力なく、タウンゼントは後退《あとずさ》った。
次に上げた顔は、狂気にまみれていた。
「クッ、わ、わたしの身の上については、あとで館長に問いただしてやる! 今はむしろこの体は好都合! バレッタと小鍵《こかぎ》を回収し、帰還《きかん》するのみ!」
叫んで、タウンゼントは、懐《ふところ》に手を差し込んだ。
――妖画家の顔色が変わった。彼は青ざめて、コートを開いた。
丁寧にスリットに差し込まれているはずの魔筆は、しかし砕け散っていた。筆先はバラバラになり、柄はヘシ折れ――とても使える状態ではない。
「な、なんと……! では先ほどの銃撃《じゅうげき》は……!」
「クルーザーであんたの血を浴びたとき、正体は分かったからな。動き回って喋《しゃべ》る絵相手に弾|撃《う》ちまくるほどアホじゃない、目的は筆だったんだよ」
スプレイは鼻を鳴らした。
しかし――改造人間は、すぐに顔色を変えた。
タウンゼントが、一本――ただ一本だけだが、無傷の筆を抜きとったからである。
「おい、マジか……!」
「……残念だったな、スプレイ。筆は一本あればいい。絵の具も……ここにある。おまえが教えてくれた最上の絵の具がな」
言うなり、妖画家《ようがか》は己の左手首に噛《か》みつき、これを引きちぎった。噴出《ふんしゅつ》する鮮血《せんけつ》を目に、タウンゼントは笑った。
「ハハハ! 行くぞ、フェイス、スプレイ! おまえたちは生かして帰さん!」
「ちょ、ちょっと! こら、改造人間!」
と肩の美沙《みさ》が青ざめて、ニットをポカポカ殴った。
「お、おお。フェイス!」
「あ……ああ! 逃げよう!」
最初にスプレイが弾《はじ》かれたように木を駆《か》け上がり、鷲士《しゅうじ》が続いた。
スプレイは改造人間、鷲士は九頭竜《くずりゅう》の使い手――二人の超人間が死に物狂いで走っただけあって、枝の終端は、思ったよりも早く見えてきた。
先でホバリングしているのは――SH60Bシーホーク。水上|警戒《けいかい》と物資輸送などを主目的とするヘリコプターだ。サイドハッチから顔を出しているのは、ルイーゼである。その後ろには冴葉《さえば》機――シードラゴンも控えていた。
「なんとか間に合った! 先に行くぜ!」
「行って行って! 二人同時はムリっぽい!」
スプレイは頷《うなず》くと、木を蹴《け》った。
ところが鷲士《しゅうじ》の頭上を、ストリング・ビーストが通過した。意地でも行かせないという、妖画家の決意を表すものだった。狙《ねら》いはスプレイである。
「ああっ、自信ないけど――仕方ないっ!」
喚《わめ》いて、鷲士も枝を蹴った。ただし直上から、やや斜め前に逸《そ》れただけの角度で。
プテラノドン――翼竜《よくりゅう》――を想起させるビーストの嘴《くちばし》が、スプレイの背中を抉《えぐ》ろうとした刹那《せつな》、翼《つばさ》を鷲士の左手刀が一閃《いっせん》した。
“九頭左竜《くずさりゅう》・閃刀《せんとう》”
気を込めた手刀の一撃《いちげき》――物理的側面に訴える右竜・徹陣《てつじん》や、左竜・雷掌《らいしょう》などとは違い、むしろ九頭竜の本筋である「対仙術・仙術」的な技である。手刀とは言っても、敵の気による攻撃を相殺するためのもので、防御的な性質が強い。だが逆に言うと、敵が気の塊にも似た存在である場合、その効果は絶大である。
――このバクチは、鷲士に大当たりをもたらした。
ビーストは、スプレイの背中で、完璧《かんぺき》に霧散《むさん》した。砕け散ったのだ。
一方、チューン・マンはシーホークのカーゴルームに跳び移ることに成功した。転がって壁《かべ》に激突するが、すぐに美沙《みさ》と共に立ち上がる。
――今度は、彼等《かれら》の鼻先で、鷲士《しゅうじ》が重力に捕まった。もともと、輪郭獣《りんかくじゅう》を撃退するための跳躍《ちょうやく》――角度も距離も足らなかったのだ。
「しゅ、鷲士くん!?」
「う、うわーっ!」
コートに包まれた長身|痩躯《そうく》の影が、水面目がけて落下。しかし、青年はメガネを外すと、神妙な顔つきになり、深呼吸。やがて水に激突する瞬間《しゅんかん》、一度だけ宙返りし、両足から光り輝《かがや》く湖面に激突した。
「ヤ、ヤダぁ! 鷲士くん、だめェッッッ!」
絶叫すると、美沙はしゃがみ込んだ。
無情の風が、少女のリボンをなびかせていく。
だが――。
「し、信じらんねー……! やっぱあいつバケモンだな……!」
隣《となり》のスプレイが、トントン、と美沙の肩を叩《たた》いた。
おそるおそる顔を上げた少女は、とんでもないものを見た。
――水上に立つ、黒いコートの青年である。
「しゅ、鷲士くん……!」
背後に控える冴葉《さえば》機のハッチから、ノイエも呆然《ぼうぜん》と、
「す、すごい……! 本当に水の上に立っている……!」
鷲士の両足から、二つの波紋が広がり続けていく。気を放ち続けることで、水側の表面張力を変えているのだ。
“九頭竜《くずりゅう》・蓮華歩舟《れんげほしゅう》”
「なにしてるんだよ!? ぼくは大丈夫、みんな早く離れて! 枝が突き刺さる!」
注意を引くために手を大きく振りながら、自分も世界樹《せかいじゅ》から離れるように湖上を走り始める。もうやけくそだ。
二機のヘリも、揃《そろ》って発進。回頭して、鷲士を見失わない程度の距離を保ちつつ、起き上がる世界樹から離れた。
だが近距離にいた彼等《かれら》には、物体が起立していくと言うよりも、単に景色が動いている程度の実感しかなかったはずだ。横倒しの巨木構造物が自らの力で立ち上がっていく様子は、ある種の神々しさを伴ってはいたものの、スケールが余りにも桁《けた》外れなため、とても視界に収まりきるものではなかったからである。
やがて――枝の間から大量の水を滴らせ、ユグドラシルは動きを完了した。
振り返った鷲士《しゅうじ》の眼前に出現した光景は、驚《おどろ》くべきものだった。
――地球史上最大の植物が、湖面上空に全貌《ぜんぼう》を現したのだ。
直立したユグドラシルの幹の高さは、なんとツークシュピッツェの約二倍にも達した。頂上部が、ドイツ最大の山を遥《はる》かに上まわっているのだ。枝の長さは数百メートルから、部分によってはキロ単位。この一本だけでも、ジャングルを形成できる。恐ろしいことに、大半が枯れきっている中で、緑の芽を出している枝もあった。
全体のシルエットは、メネス王のピラミッドに描かれた図そのもの――巨大な塊茎にも似た金属タンクをぶら下げた、円錐《えんすい》形状の高木だ。根の部分と湖面には、僅《わず》かな隙間《すきま》がある。ユグドラシルが、空中に浮かんでいる証拠だ。幹の中腹部で静かに回転を続けるコロニー部分は、考えようによっては、天使の輪に見えなくもなかった。
霧《きり》の中とはいえ、究極とも言うべき質量は、一般人に毛が生えた程度の青年を圧倒するには十分なものだった。
「うっはー……! こ、こりゃすごいや……!」
「……再生を続けていたのだよ、土の中でな。見ろ、この生命力を。まさに世界樹――生命の源と呼ばれるに相応《ふさわ》しい」
蒼然《そうぜん》と振り返った瞬間《しゅんかん》、鷲士の口から、鮮血《せんけつ》が噴《ふ》き出した。
ヨロヨロと後退《あとずさ》った大学生は、しかし自分の体を見て、血相を変えた。
――傷だ。攻撃《こうげき》を受けたのではなかった。袈裟斬《けさぎ》りの形で、傷を描かれてしまったのだ。飛び退《の》いたタウンゼントは、背後の流木に着地した。
「フフフ、発想の転換というヤツだ。傷そのものは躱《かわ》しようもあるまい。反応も移動速度も極端に落ちている――水の上に立つのは、多大な消耗に繋《つな》がるようだな」
高らかに笑うと、妖画家《ようがか》は再び跳躍《ちょうやく》した。
鷲士は両腕でブロック。しかし筆に撫《な》でられた途端、メックコートの袖《すそ》が、パックリと裂けた。下から顔を出した白いものは骨だろう。肉ごと断ち切られてしまったらしい。ヒット・エンド・ラン――タウンゼントは、すぐに離脱した。
鷲士は苦痛に顔を歪《ゆが》め、後退った。
拳法《けんぽう》は、下半身が命。それは九頭竜《くずりゅう》も一緒だ。だが、こんな不安定な足場では、たとえ突きを打ったとしても、決して致命傷にはなるまい。ましてや相手は、事実上の不死の化物――意思を持つ三次元の絵画だ。打つ手がない。
鷲士は目を細めて、口の血を拭《ぬぐ》った。
筆さえなんとかできれば……!
「ハハハ! これで終わりにしてやるぞ、生ける伝説をな! 死ぬがいい、フェイス!」
タウンゼントが空中で、絵筆を振り上げた。
――爆発《ばくはつ》が起き、画家の腕は、肩から吹っ飛んだ。
絵筆ごと波間に沈んでいく腕を呆然《ぼうぜん》と見つめ、タウンゼントは顔を上げた。
妖画家《ようがか》の双眸《そうぼう》に映ったのは、ヘリのカーゴルームからOICWを構えた美沙《みさ》だった。究極の命中率を誇る弾丸が、威力を発揮したのである。
「き、貴様……! この小娘……!」
妖画家の着地方向にいたのは、当然――鷲士《しゅうじ》だ。
「終わるのは――あなただ!」
鷲士は軽くダッシュすると、空中回転。爪先《つまさき》から宙に舞うと、足首と足首の間に、タウンゼントの首をはさんだ。
――ボギリ!
“九頭双竜《くずそうりゅう》・顎《あぎと》”
突きは不可能と見て、投げ技に持ち込んだのである。頸骨《けいこつ》をヘシ折られた妖画家は、水上に散らばった流木の一つに背中から激突した。鷲士は体をひねって、着水。足首まで浸《つ》かったものの、さらに踏み出し、なんとかバランスをとる。
そして降下したヘリから、美沙が身を乗り出し、
「しゅ、鷲士くん、早く早くっ! さもないと、ゾンビ野郎と一緒に、どっか別の場所に飛ばされちゃうよ!」
「わ、分かってる……!」
鷲士は体から力を抜き、不安定な足取りで、足を踏み出した。
「……待て! まだ終わってはいない!」
銃声が背後で生じると同時に、鷲士は振り返りざまに、手袋をはめた腕を一閃《いっせん》させた。カキン、と硬い音を立てて、銃弾が湖面へ消えていく。
タウンゼントは、構えた拳銃《けんじゅう》のトリガーを引き続けた。鷲士が扇状に腕を振るたびに、指先から火花が飛び散る。冴葉《さえば》に貰《もら》った特殊手袋のおかげ――ブリットを弾《はじ》いているのである。もちろん普通の人間に使える代物《しろもの》ではない。
すぐに全弾が尽き、妖画家は拳銃を投げ捨てた。
タウンゼントは、肩の傷口を押さえながら、
「かつて来訪者――来たりて訪《おとな》う者たち――の船団は、一斉にこの地帯に激突したという。なにがあったのかは知らん。戦いがあったのかも知れん。だが落下した船の大半は凄《すさ》まじい大爆発《だいばくはつ》を起こし、地形を削りとった。ただ一隻――このユグドラシルを除いてな」
そして彼は残った腕を広げ、
「見ろ、この究極の船を! 井戸があったのは、ウートガルズと呼ばれるブロック――北欧神話においてはムスペルヘイムやヨーツンヘイムと呼ばれたセクターの複合体だ! アスガルドとは、あのコロニーに他《ほか》ならない! さらに上へのぼれば、壊《こわ》れたブリッジ――ギムレーが見えるはずだ! 三五〇〇年前――魔神《まじん》スルトとの戦いにおいて、一度は大地に叩《たた》き落とされながらも、世界樹《せかいじゅ》はまだ生きている! これは言わば、生きた神話なのだ! 水を用い、時間から時間、次元から次元へ――それを貴様たちは、行き先も分からん旅に出そうというのか!?」
「あなたたちがいる限り……ね。もう決めたんだ」
遠い目で、青年は告げた。
するとタウンゼントは叫んだ。
「……ならばわたしは、全力で阻止しよう! 館長に会って自分のことを訊《き》くにも、手土産《てみやげ》が必要だ! そして周りには、想《おも》いをかなえる水がある!」
青ざめた美沙が、慌ててレシーバーを引っ掴《つか》み、
「き、聞いた、今の!? どーする、ここでまた筆があいつの手に戻ったら……!」
平行して飛ぶシードラゴンの冴葉《さえば》も、唇《くちびる》を噛《か》み、
「か、回避《かいひ》手段がありません……! ここでどんな攻撃《こうげき》を出しても、あの男をミーミルの水に落としてしまうだけ……! タウンゼントの絶命を望むしか……!」
流木の上の妖画家《ようがか》は、唇の端を歪《ゆが》めて笑った。
「元より家族も愛人も持たぬ身、失って困るようなものなど何もない。忌々《いまいま》しいが、大切なヴィタリスの筆も、貴様|等《ら》にすべて壊《こわ》されてしまった。お気に入りと言えば、フランスの骨董《こっとう》屋で買ったヌーヴェルバーグのグラスだが……それとて、消えたところで困る代物《しろもの》ではない。あるのかどうかも分からん命など、言わずもがなだ」
だが――鷲士《しゅうじ》だけは、違う反応を見せた。
お人|好《よ》しの大学生は、目を細めると、軽く頭を振り、
「……やめるんだ。ぼくはあなたが失うものは見当がついてる。出そうとするものもね。あなたは、本当の意味ですべてを失ってしまう」
「……それはどういう脅しだ?」
冷笑すると、タウンゼントは手袋をくわえて、吐き棄《す》てた。残った隻腕を振り上げ、妖画家は絶叫した。
「ミーミルの水よ! わが願いをかなえよ! 何を奪おうとも構わん――いま一度、究極の魔筆《まひつ》を、ヴィタリスの筆をわたしに!」
――骨ばった腕が水面に沈むと同時に、湖面から強烈な光が生じた。
ミーミルの水がタウンゼントの願いに反応したのである。光が一帯を包み、鷲士は反射的に顔を覆《おお》った。頭上でヘリが蛇行《だこう》し始める気配があり、味方陣の女性たちの悲鳴が、耳をつんざいていく。
やがて――光が弱まり始めたと同時に、笑い声が聞こえた。
「ハハハ……ハハハ! 見るがいい、フェイス! 水の力を!」
泡《あわ》立つ水面を突き破るように、それは現れた。
――古ぼけた、小さなトランクである。
鷲士《しゅうじ》が目を細めた先で、タウンゼントは口を笑みに引きつらせ、トランクの蓋《ふた》を開けた。笑顔は、さらに狂気を帯びた。
ヴィタリスの全五七本に及ぶ魔筆《まひつ》が、そこにあったからである。
片手で掴《つか》めるだけ掴むと、妖画家《ようがか》は再び立ち上がった。
「ハハハ! どうだ、わたしは賭《か》けに勝った! この筆さえあれば、貴様|等《ら》など!」
「しゅ、鷲士くん!? なにしてるの、逃げてえっっっ!」
頭上のヘリで、美沙《みさ》が絶叫する。
が――。
鷲士は哀《かな》しそうな顔をすると、背を向けた。逃げるというより、妖画家との戦いを放棄したのである。相手にしなかったのだ。
「な……!? 待て、どこへいく!?」
「あなたは……もう天才じゃない。筆は使えない」
束の間、辺りは静まり返った。
次の瞬間《しゅんかん》、タウンゼントは蒼然《そうぜん》と魔筆を振り上げた。
だが――しかし。
「か……描けん!」
悲鳴に近い呟《つぶや》きを、妖画家は放った。
美沙、ノイエ、ルイーゼ、スプレイ――絶句。
タウンゼントの額《ひたい》から、大量の脂汗が流れた。しかし、絵筆は動かない。指先が、わなわなと痙攣《けいれん》を繰《く》り返す。まるで見えない腕に、からめ取られたかのようだ。
「い、いや……こ、これは筆が悪いのだ……! そ、そうだ、きっと……!」
震《ふる》える声で言うと、妖画家は絵筆を投げ棄《す》て、トランクから別のものを抜いた。再び空中に何か描こうとするが――手が動かない。
「こ、これは気に入らない……! 指触りが悪い……!」
放られた筆が、水面を漂っていく。
真っ青な顔で、タウンゼントはしゃがみ込んだ。トランクに腕を突っ込み、
「これも……駄目《だめ》だ……! これも……これも……! よくない……! これも駄目……これも……! これも……これも、これもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれも!」
タウンゼントは唐突に立ち上がると、絶叫した。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
居合わせた全員が、青ざめた。
妖画家《ようがか》は、力なく両膝《りょうひざ》をついた。ゾンビーも同然だった。落ちくぼんだ眼窩《がんか》にはまる双眸《そうぼう》には、以前のような覇気《はき》は微塵《みじん》も残っていなかった。
タウンゼントは震《ふる》えながら、焦点の外れてしまった視線を鷲士《しゅうじ》に向け、
「お、おまえは……これを知っていて……?」
鷲士は頷《うなず》いて答えた。
「オーバーアマガウ村で……あなたは樫緒《かしお》くんに言った……」
『わ、わたしには才能が……ないと……ほざくのか……! 才とはアーティストにとって命より大切なもの……! 言うに事欠いて、貴様……!』
風が一帯を吹き抜け、水面を揺らした。
タウンゼントはガックリうなだれた。
「……な、なんということだ……。才能が……わたしの才が……。命より大切な……画家としての資質が……」
ガタガタと震えるタウンゼントに、戦意は残っていなかった。
だがすぐに顔を起こすと、弱々しく笑い、
「そ、そうだ……! な、ならば再び水に……!」
と手を湖面につけた。肘《ひじ》から先が、水に沈み込む。
だが……何も起こらない。
湖は光らず、風のみが、水面を揺らしていく。
「う……失うものが……本当になくなったと……? 深層意識の願望を……勝手にかなえるような水すらも……わたしを……見捨てたのか……」
「……」
鷲士は答えない。
やがて、タウンゼントは病人のように弱々しく顔を上げ、
「わたしは……わたしはなんなのだ……?」
代わりに答えたのは、頭上の美沙《みさ》だった。
「……ホントかどうか知らないけどさ……一九世紀末のロンドンをうろついてた、おかしな絵描きの話があるよ。昔……ある事情で太陽が二つある世界に住んでたっていう、ヘンテコな絵描きの噂《うわさ》」
「な……に……?」
「その世界には、でっかいトカゲみたいなのがウヨウヨしてて……たぶん恐竜《きょうりゅう》のことだと思うけど……彼は襲《おそ》われるたびに、体の一部を失ってちゃった。あるときは手、あるときは足、あるときは目……たまんないよね。でも彼は描いたものを動かす不思議な筆を持ってたので、食われた部分を、絵で代用した。こっちに戻ってきたときには、頭の一部を除いては、みんな絵だったらしいよ」
「頭の一部……だと?」
「後頭部がうまく描けなかったのよ……見えないからね。笑っちゃうでしょ」
唇《くちびる》を笑みの形に曲げたものの、美沙《みさ》は真っ青になっていた。
「絵の部分は、歳《とし》をとらない。だけど、唯一生身の後頭部だけが腐ってく。二〇〇歳以上だったらしいからね。だから……絵描きは、道行く人に、自分の後頭部を描いてくれるようにと頼んだけど、みんな気持ち悪がって相手にしてくれなかった」
「それで……それで絵描きは……どうなったのだ……?」
「ロンドンで誰《だれ》からも相手にされなくなった絵描きは、意気消沈して、フランスに渡ったらしいよ。その後の消息なんか誰も知らないけど……その様子だと、どっかの芸術家に描いてもらったみたいね。ついでに頭の中身までいじくられてさ」
そして美沙は深呼吸すると、目を閉じて、
「……でしょ? 驚異《きょうい》の天才画家……ヴィタリスさん?」
唖然《あぜん》として、タウンゼントは己の後頭部に触れた。
掻《か》き上げた髪の隙間《すきま》から、大きな傷痕《きずあと》が見えている。
「ヴィタリス……? わ、わたしが……ヴィタリス張本人だと……!? では、あいつが……館長が……わたしを……!? 馬鹿《ばか》な、そんな馬鹿な……! ミュ……ミュージアムとは……いったいなんなのだ……!?」
――ガコン!
凄《すさ》まじい振動と光が、辺りを襲った。発生源はユグドラシル――幹が沈み始めている。光の源は、湖面全域である。水面が大きく上下し、鷲士《しゅうじ》の体も揺らいだ。
「く……空間移動が始まりかけてる!? 鷲士くん、津波が来るわよ、乗って!」
ハッチの壁《かべ》を掴《つか》み、美沙が手を伸ばした。
が――反応はなかった。
青年は腰を少し曲げると、ぼんやりと水面を見つめていたのだ。
彼は、夢遊病者のように水へ手を伸ばすと、
「こ、この水さえあれば……また……ゆうちゃんと……!」
「なっ……! 鷲士くん!?」
「シュ、シュージ!?」
美沙とノイエが唖然とする中、鷲士は悔しそうに、
「おばあさんの気持ちが……ぼくにはよく分かる……分かるんだ……!」
「ば、馬鹿《ばか》なことを考えるのはやめなさい、シュージ! なにが起こるか分かってるの!? なくしてしまうのよ!? いちばん……いちばん大切なものを!」
「……命なんかいらないんだよ!」
涙目で顔を上げ、鷲士《しゅうじ》は絶叫した。
「しゅ、鷲士くん……!」
「いつも、いつも考えてた……! 毎日だ……! 高校を卒業したら、ゆうちゃんに会いに行こうって……! もう彼氏がいるかも知れない、ゆうちゃんは美人だ……! でも、でもあんな引き離され方したから、一目会えたら、それでって……! でも、ぜんぜんダメで……一年浪人して働いて……探偵《たんてい》さん雇っても行方《ゆくえ》は掴《つか》めないって……! 美沙《みさ》ちゃんの話だと……死んだっていうじゃないか……! そりゃないよ……!」
「た……探偵……? それで浪人……? うっそ……!」
美沙が青ざめて、口を押さえた。
「ぼくより……年下なんだぞ……! 彼女が可哀想《かわいそう》だよ……! それに……ぼくみたいに頼りない人間より、ゆうちゃんの方が、ちゃんと親らしく――」
「……このバカッ! お人|好《よ》しもいい加減にしなさい!」
ノイエの本気の怒号であった。
呆然《ぼうぜん》と顔を上げた鷲士を、透き通った碧眼《へきがん》が睨《にら》みつけ、
「自分で分からないの!? あなたが自らの命を最も大切にしてる!? バカッ、そんな人間がわたしたちを助けるわけないでしょう! あなたが失うのは、自分の命じゃない! 双子《ふたご》そのものよ!」
「あ……!」
「ううん、ミサとカシオの命だけじゃすまないかも知れない! ミキ、サエバ……もしかしたら、わたしたちすらも! 失うとは、そういうことなのよ!?」
「そうだよ……フェイス……!」
ルイーゼ・美沙機のハッチから、息も絶え絶えにマレーネが顔を出した。
「ううう……わ……わたしの気持ちが……分かるなら……わたしが言いたいことも……分かるね……? リッターを……繰《く》り返すのは……やめな……! そんな後悔に……引き摺《ず》られるのは……わたし一人で……たくさんだ……!」
「お、おばあさま……!? では……!?」
孫娘に、祖母は頷《うなず》くと、
「自分の……夢と引き換えに……もっとも大切なものを失う……こんな馬鹿な話が……あるかい……! ミーミルの水なんて……いらない……! 回る水で……十分なんだよ……! だから……分かるね……フェイス……!」
「……回る水……か……」
呟《つぶや》いて、鷲士《しゅうじ》は水面に目を落とした。
――そこには、笑顔の少女が映し出されていた。美沙《みさ》とよく似た、しかしリボンはなく、もう少し幼い感じの少女。
鷲士の口元を笑みがよぎった。
「……そうだね。いまはあのコたちのこと……考えないとね」
「そ、そーよ! それに……えっと……ああっ、死んじゃったら、天国に行こうが地獄に堕《お》ちようが、ママには絶対に会えないんだからっ! だから早くっ!」
やけくそ気味に、美沙が喚《わめ》いた。
だが――これがまずかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ? 前も樫緒《かしお》くんが似たようなこと言ってたけどさ、それって逆に考えると、ゆうちゃんはまだ――」
と顔を上げた鷲士の片足から波紋が消え、ズブリ、と水面下にめり込んだ。予想外の言葉に精神集中が半ば解けてしまったのだ。
痩身《そうしん》の青年は、大きくバランスを崩した。
「え――うわわっ!」
「キャー! しゅしゅしゅ、鷲士くん!」
と美沙が目一杯伸ばした腕目がけて、鷲士はダイビング・ジャンプ。なんとか娘の手を掴《つか》むと、二人してシーホークに転がり込む。
事態の終末は、二機のヘリが急上昇すると同時に訪れた。ユグドラシルが、急速に湖面に沈み始めたのである。
毎秒一〇〇メートルほど――すぐに根は隠れ、幹も水の中に消えていった。単純に考えると、根が湖底にぶち当たった時点で、沈降は止まっているはずである。ミーミルの水は、既に別の空間に繋《つな》がっているらしい。建造年すら定かではない驚異《きょうい》的な科学技術が、不可能を可能にしているのだった。
――急に、視界を閃光《せんこう》が埋め尽くした。湖面が強烈な光を放ったのだ。凄《すさ》まじい風が下方から巻き起こり、ヘリを大きく揺らした。
やがて――全員が目を開けたとき、すべてはなくなっていた。
世界樹《せかいじゅ》は、ミーミルの水ごと消えてしまったのである。あとには、大きく抉《えぐ》れた、地面だけが広がっていた。
美沙が呆然《ぼうぜん》と息を呑《の》んで、
「な……なくなってる……! 行っちゃったんだわ……!」
「フフフ……終わった……ね」
血まみれのマレーネが、息も絶え絶えに、しかし嬉《うれ》しそうに笑った。
鷲士《しゅうじ》が微笑《ほほえ》みながら、娘の肩をポンポンと叩《たた》くと、
「……帰ろう、グランツホルンへ。樫緒《かしお》くんたちも待ってる」
美沙《みさ》はちょっと赤くなって、ポリポリ頭を掻《か》くと、コクピットへと喚《わめ》いた。
「ああっ、もおっ! 収穫《しゅうかく》はゼロだったけど――帰投するわよ! わたし、こんなド田舎《いなか》で無駄《むだ》な時間使ってるヒマないんだから! とっととやってちょーだい!」
最高司令官の指示を受け、二機のヘリが大きく回頭した。
二つの影が、壮大なアルプスの山並みに消えた――。
しかし――結論から言うと、実は無駄なハンティングではなかった。
ミーミルの水は既にサンプリングを終え、一定量は確保してあったし、バレッタの構造を調べていくうちに、なんとユグドラシルの設計図だと思われる、おかしな配列の構造分子が現れたのである。
ミーミルの水は、フォーチュンの研究班によって解析が行われ始めたが、コンピューターの計算によれば、原子間に存在する大量の未知の粒子とその相互作用を解き明かすには、この調子で科学が発展したとしても、二〇〇年はかかるという。
謎《なぞ》の分子の解析には、推定年数すら出てこない。一〇〇〇年以上になると、こっちの文明が予測できないため、算出には意味がないそうだ。
だが――バイエルン一帯の復旧に数十兆円も使う破目になったというのに、美沙は終始ニヤニヤし通しだった。
親指ほどの大きさなら、真空状態で育成可能な草を作る目処《めど》がついたからだそうだ。フォーチュンの名を冠した木が宇宙に浮かぶ日が来るのも、そう遠いことではないかも知れない。少なくとも……会長はやる気十分である。
そして数日が経過した――。
エピローグ
晴れた朝――ミュンヘン総合病院の自動ドアをくぐる、青年の姿があった。
赤いニットキャップ、薄汚《うすよご》れたパーカー、肩にはショルダーバッグ――青年は、何気なく顔を上げると、朝日の眩《まぶ》しさに手をかざした。
――改造人間・スプレイ。
「……待ちなさいよ。挨拶《あいさつ》ナシ?」
振り返ったチューン・マンの双眸《そうぼう》に、幼い美貌《びぼう》が映り込んだ。
美沙《みさ》である。
「……なんだ、ロリポップか」
「バーカ。なんだじゃないわよ、このローテク野郎。ルイーゼから聞いたわよ。あんた、もうもたないんだって?」
背を向けかけたチューン・マンの動きが止まった。
「……どーすんの、これから」
「……別に」
「なによそれ? ったく、ホントに無気力人間ね」
「……面倒くさいのキライなんだよ。死ぬ前に酒池肉林ってタイプじゃねーし、もともと悪事働くほど小まめでもねーし。適当に歩いて……くたばるだけさ」
相変わらず淡々と言うスプレイに、美沙はため息。頭をポリポリやりながら、ポケットからあるものを引き抜くと、改造人間に向かって放り投げた。
眉《まゆ》をひそめて受け取ったスプレイの顔に、衝撃《しょうげき》が走った。
――青銅の心臓である。
「こ、こいつは……!」
「フェイクなんかじゃない――感謝《かんしゃ》しなさいよね」
「マジか……! ど、どこでこれを……!?」
「クレタの海に潜《もぐ》ってんのは、別にミュージアムだけじゃないってこと。てゆーか、地中海なんかトレジャー・ハントの基本中の基本でしょ」
イヤそうに言うと、次いで美沙は人差し指を立て、
「でも……あげるには条件があるんだ」
「じょ、条件?」
「今までさ、あんたが悲惨な目に遭わせた人間の数だけ、これからは人助けしなさい――最低でもね。これ、あのコの頼み」
「あのコ?」
スプレイの目は、美沙《みさ》がアゴで指した方向を追った。
自動ドアの向こうに、心配そうな顔のルイーゼが立っていた。
「あいつ……!」
「生きてたら、今度はいいこといっぱいしてくれるかも、とかなんとかさぁ。あのコのお願いがなきゃ、あんたなんかブッ殺して体だけラボに送ってるところ。でも憶《おぼ》えときなさい、ルイーゼ失望させるようなことしたらっ……!」
「……分かったよ」
苦笑して、スプレイは、ルイーゼに頷《うなず》いてみせた。
ガラス越しの少女の顔から、少し緊張《きんちょう》が抜けた。
「……借りは、いつか必ず返す」
目を閉じると、青年は再び背を向けた。
「ちょーっと待ったァ! 一つ質問!」
「……あ?」
「あんた、日本人でしょ? 本名、なんてーの?」
すると、スプレイは立ち止まった。
彼は遠い目をしたあと、口元に笑みをよぎらせ、
「……スプレイさ」
肩をすくめて、改造人間は足を踏み出した。やがて――正門を抜ける寸前、振り返らずに一度だけ手を振り、
「……フェイスによろしくな。あばよ」
スプレイの背が、朝の街に飲み込まれ、消えた――。
「……今回は納得できません」
傍《そば》を通り過ぎていく観光客たちのうっとりとした視線を受けながら、凄《すさ》まじい美貌《びぼう》を持つ少年は、腕組みして唸《うな》った。
――ズィルト島・ヴェスターラントの海岸。
ドイツ最北端に位置し、面積はわずか九九平方キロ。人口も九〇〇〇人たらずで、本土との交通の手段は鉄道しかないのに、実はドイツ人には人気の高い高級リゾート地だ。先日までとは打って変わって、勢いを盛り返した夏の日差しが、砂浜を照りつける。
一仕事終えたフォーチュンの面々とシュライヒャー一家、美貴《みき》&麗華《れいか》の女子大生コンビ、そして樫緒《かしお》と執事の山岡《やまおか》は、海岸にやってきていた。せっかく暑くなったんだから、また初秋の肌寒《はだざむ》さが来る前に、ビーチで遊ぼう――美沙と麗華の提案であった。
「……やはり納得できません」
ビーチなのにタキシード――樫緒《かしお》が繰《く》り返して唸《うな》った。
山岡《やまおか》の押す車椅子《くるまいす》に腰かけたマレーネが、呆《あき》れたように顔を上げ、
「まだ言ってんのかい。ったく、ユウキはしつこいね」
「だから……どうしてここの持ち主が父になるのです? 約束が違う」
「ハン。ユウキに譲《ゆず》るとは言ったけどね、わたしは、ユウキのグループに売ってやるって約束した憶《おぼ》えはないよ」
「しかし、父は草刈《くさかり》です。結城《ゆうき》ではありません」
「ミサはユウキだろ。残念だったね、だから保護者《ほごしゃ》に譲ったのさ」
老婆《ろうば》は鼻を鳴らし、樫緒はため息である。
「あんたの曾祖父《そうそふ》には、えらく世話になったからねぇ。足下を見まくってくれたし。ま、こっちもそれなりの対応をとらせてもらったってワケさ。帰国したら伝えておくれ――シャライヒャーの当主が、昔は世話になったって言ってたってね」
「……やはり納得できません」
憮然《ぶぜん》と、樫緒は唸った。
その背中を、ドン、と押しながら、
「ジジイに一泡《ひとあわ》吹かせられれば、こっちはそれでいいんだよ。あんた、姉さんとは仲いいんだろ? どーせユウキにゃ変わりないんだ、文句はほどほどにして、ホレ、あのコたちと一緒に遊んで来な!」
振り返ったものの、議論は無駄《むだ》だと悟ったのか、渋々と樫緒は波打ち際へと向かった。その様子を隣《となり》で見ていたエルネストが苦笑し、
「おまえさんも極悪じゃのう。ノイエとルイーゼが似んことを祈るよ」
「うるさいね、あんたはわたしの体をしっかり診《み》てりゃいいのさ」
そしてマレーネは、山岡に振り返り、
「あんた、文句は?」
「む……小生にとっては、樫緒さまも美沙《みさ》さまも大事な家族のようなもの。お館《やかた》さまには申し訳ないですが、あなたの判断に意見を挟むつもりはありませぬ」
「分かってんじゃないか」
と老婆《ろうば》がニヤリ。
一方、波打ち際では、揃《そろ》った水着の美女たちが、波と戯《たわむ》れていた。
ブラック系のワンピースをまとった美沙に冴葉《さえば》。ノイエはライトブルーの片吊《かたつ》りタイプ。フリル付きのルイーゼ、麗華《れいか》は紫のビキニという具合だ。
最後に――白のハイレグ・ワンピース、美貴《みき》。ノイエと麗華に比べ、胸のラインが薄《うす》く見えるのは、単に上背のせいだろう。ただ、一番の美女の美貌《びぼう》は、少しばかり曇《くも》っていた。心配そうに、離れたパラソルを見つめる。
傘《かさ》の下には、包帯のお化けが、ビーチチェアに横たわっていた。
実は――これが鷲士《しゅうじ》である。無理がたたりすぎて、この始末。全身の裂傷、打撲、骨折。普通の人間なら安静どころか何度も死んでいるはずだ。
「ちょっとぉ、少しはサービスしたげなさいよ。鷲士くん、今回、いいことちっともなかったんだから」
と美沙《みさ》が肘《ひじ》で、美貴《みき》の腰をツンツン。
「う、うん。でも……」
「ムスメの言う通り――いいじゃないの、せっかく水着になったんだからさ。カラダ、売り込んでくれば? チャンスでしょーが」
と麗華《れいか》が肩をすくめる。
するとノイエが、美しい金髪を掻《か》き上げ、
「じゃあ、わたしが行ってこようかしら?」
「え……ええ〜っ!? ちょっと、キミ!?」
後退《あとずさ》る美貴に、ノイエはお澄《す》まし顔で、
「まあ、ナイトとしては少し頼りないけど、実力は本物だわ、彼。なにより、知人のために体をはる自己|犠牲《ぎせい》精神には、見習うべきものがあるし。あの気弱な笑いは、性格のせいもあるのだろうけど、人間関係を円満にしたいって気持ちの表れでしょう? それでいて、いざというときには、潔《いさぎよ》く前に出て戦う――サムライよね、うん」
「あらら、ライバル出現? タッパはともかく、スタイルじゃもう負けてるしねー」
と麗華が肩をすくめて苦笑する。
「ううう、うるさいっ。で、でもノイエは、ここに留《とど》まるんだし――」
「あら、誰《だれ》がそんなこと言ったのかしら? 確かに、おばあさまが完全に回復するまでドイツにいる予定だけど、それがすめば日本に戻るわよ。ちゃんと正規の手続きを踏んだ留学なんだもの、学ぶべきものは、ちゃんと学ぶつもりです。おばあさまも了解済み――フォーチュンの近くにいるのは安全でもあるし」
「ちょ、ちょっと!? ノイエ、キミ、そんな真面目《まじめ》な……!」
と悲鳴を上げた美貴を、美沙とノイエが睨《にら》みつけた。
「……こっちは湖での鷲士くんの独白聞いちゃってるからさぁ、美貴ちゃんの煮えきらない態度、マジでイライラするのよね」
「……同感だわ。シュージが可哀想《かわいそう》。死んだはずの誰かさんと会うために、命をかけようとした彼の愛に、あなたが報いてるとはとても思えない」
「だよねぇ。なんかオクトーバー・フェストでの話からしても、鷲士さんって、あんたのために人生ジグザグってゆーかさ。おお、悲惨」
「あうう……! わ、わたしは、わたしは……!」
と非難の視線を浴び、ヨロヨロ。
その背中が何かに触れ、美貴《みき》は慌てて振り向いた。
「あ……か、樫緒《かしお》! キ、キミはわたしの味方――」
「……納得できません」
例によって冷たい眼差《まなざ》しで、少年は若き母を見つめた。
「う……!」
「このおかしな人間関係が、結城《ゆうき》の業務にまで影響《えいきょう》を及ぼし始めている。馬鹿《ばか》馬鹿しい、どうして我々ほどの列強一族が、こんな些細《ささい》なウソに振り回されなければならないのです? あなたは実の母さまです、お味方はしましょう。しかし――ここまで話を引っ張ってきた張本人として、せめて努力は示すべきでは?」
「は、はい……頑張《がんば》って来ます……」
あうう、と手を上げ、美貴は回れ右。重い足取りで、鷲士《しゅうじ》の傍《そば》まで歩み寄った。
――ミイラはうなされていた。
「うーんうーん、水はもうイヤだ……病院に戻りたい……」
美貴は深呼吸を三回。カウチの横に両膝《りょうひざ》をつくと、鷲士の腕に手を回した。しかも――自分の胸を押しつけるようにして、だ。
これで、ボケ青年が目覚めた。
「ん……? ああ、美貴ちゃ――うわわわっ!? いてて!」
「あ、こら、動かなくていいって」
「で、でもでも、ムッ、ムムムッ、ムネが、そのっ!」
アセアセの鷲士を見つめていた美貌《びぼう》は、しかしため息をつくと、そのままの姿勢で彼の肩に頬《ほお》を寄せ、
「……バカ。弱いくせにムリしちゃって。ごほうびだから……いいの」
「ご、ごほうびって……! い、いやっ、だって、それは、あれで、その!」
「……わたしのこと、キライ?」
潤《うる》んだ瞳《ひとみ》に見つめられ、鷲士は自動的に笑った。
「まさか〜、うん、分かった。じゃあ、このままで――」
だがボケ青年は、急に我に返った。言い訳をするでもなく、包帯だらけの顔で、まじまじと美貴を見つめる。
脳裏を、数日前の記憶《きおく》が切り裂いた。
『そ、そーよ! それに……えっと……ああっ、死んじゃったら、天国に行こうが地獄に堕《お》ちようが、ママには絶対に会えないんだからっ!』
やがて――鷲士《しゅうじ》は口ごもりながら、
「あ、あのさ、美貴《みき》ちゃん、ちょっといい?」
「え……どうしたんだ?」
と美貴も顔を上げる。
「ちょっと……訊《き》きたいことあるんだけど。とってもとっても……すごく大事なこと。ぼくの人生を左右するような……大切なこと」
「人生を左右……するような?」
これでピーンと来たのか、美貴はすぐさまその場に正座。目を輝《かがや》かせ、
「わ、分かった! なんでも訊いて! わたし、ちゃんと正直に答えるから!」
「あ、ありがとう。えっと……前にも一度訊いたんだけど……」
「う、うん!」
「………」
「………」
「………」
「………」
「ごっ、ごめんっ! やっぱりダメだ、恐《こわ》くて訊けないよ!」
これだ。
「え……ええ〜っ!? そんなぁ! 覚悟したのに!」
「なんとなく……分かってはいるつもりなんだけど……でもダメだ! ごめん! 今度も否定されたら、ぼく、さすがに再起不能だよ!」
と逃げるように顔を背ける。
美貴《みき》は髪に手を当て、ため息。しかし――なぜか嬉《うれ》しそうにクスクス笑うと、
「ま……いっか。フフフ……気持ちが通じてないってワケじゃないものね」
「み、美貴ちゃん?」
「んー、じゃあね、訊《き》きたくなるまで――バスト攻撃《こうげき》の刑だ!」
と今度は、意図的に挑発するように、ギュッ。
少し潰《つぶ》れた谷間を目にした鷲士《しゅうじ》の顔が、包帯の上からでもそうと分かるほど、ボッ、と真っ赤に沸騰《ふっとう》した。
「ちょ――美貴ちゃん!? いくらなんでも――いたた!」
「身をよじるからだよ。だからこれ、刑ね」
「だ、だって、当たってるって! その……ムネのなにが!」
「んー、なにって……なにかなぁ?」
「いや、だから……うわ―――――――っ!」
重傷のボケ青年の嬉《うれ》しい悲鳴は、その後数時間の間、ヴェスターラントのビーチに響《ひび》き渡り続けたという――。
さらに数日後――場所は日本に戻って、湘南《しょうなん》の某レストラン。
静まり返った店内中央の丸テーブルには、テキストとにらめっこしながら唸《うな》る草刈《くさかり》鷲士の姿があった。横のガラス戸からは、海が見えている。
「えーとえーと、これが売掛《うりかけ》金と借入金の貸借《たいしゃく》対照表で、それからそれから、こっちが例の賃貸契約の楽観に対する――」
「……楽観ではなく、借款《しゃっかん》です」
冷めた目で、対面の樫緒《かしお》が訂正した。
広い店内で、客の入りもまずまず――なのに静まり返っているのは、客の大多数が、樫緒を見てうっとりしているからである。
大学パパは、引きつった笑みを浮かべると、
「あの、だからどうしてぼくが……?」
「……知れたこと。お父さん、あなたもいずれは結城《ゆうき》の列席に加わる身。ヴェスターラントの件もありますし、今後また結城の業務にも影響《えいきょう》が出ないとも限りませんので。この辺りで、帝王学も多少は学んでもらわねば」
「は、はい〜? 帝王学ぅ〜?」
「ぼくと姉さまの父であるということは、そういうことです。今さら嫌《いや》とは言わせませんよ」
「いや、でも……まだ大学も卒業してないし、美沙《みさ》ちゃんの無敵パパ育成計画とやらで死にかけてるんですけど……」
汗ジトの鷲士《しゅうじ》を、息子の冷めた視線が貫き、
「そのために、湘南《しょうなん》まで来ているのです。姉さまは未《いま》だに結城《ゆうき》を毛嫌《けぎら》いしている、家の件で父さんに接触したとなれば、なにを言われるか分かりません」
「そんな、接触って……ぼくたち親子なんだし」
「いずれは、結城銀行か、結城家電か……とにかく近いうちに、子会社の一つを指揮してもらうつもりですので。その程度ならぼくの裁量でなんとでもなりますし、シュライヒャー一族の全員と個人的に繋《つな》がりを持つ人物なら、周りも歓迎《かんげい》するでしょう」
「ゆ、結城銀行!? ちょ、ちょっと待ってよ、ぼくは――」
と鷲士が席を立ったと同時に、爆音《ばくおん》が店内を埋め尽くした。
――店の出入り口が爆破されたのである。さらに、どこかから発生した煙が、恐ろしい速度で床を走り、店内を満たしていった。
「なっ、なんだぁ!? テロか!? カルトの襲撃《しゅうげき》か!?」
「いやぁぁぁっ! たすけてぇ、おばあちゃん!」
客たちが血相を変えて騒《さわ》ぐ中、何本もの赤いレーザー光が生じ、店内で交錯《こうさく》した。煙の中から現れたのは、毎度おなじみ――頭部をゴーグルで覆《おお》い、レーザーポインター付きの自動小銃を構えた、黒ずくめの武装集団だった。
これには、樫緒《かしお》が不機嫌《ふきげん》そうに立ち上がり、
「……さすがに呆《あき》れる。この組織には学習能力がないのか?」
と踏み出しかけた少年の手を、鷲士が掴《つか》み、
「だだだ、だめだよ! 危ないってば!」
だが、必要以上に声を荒げたのがまずかった。
中の一人が、若すぎる親子に向くと、
「……いたぞ! ダーティ・フェイスだ! 殺せ!」
「ああっ! だから違うんですってば!」
と喚《わめ》いた傍《そば》から弾丸が雨あられと押し寄せ、鷲士は樫緒を抱くと、慌てて身を伏せた。一帯の壁《かべ》が穴だらけになり、照明が立て続けに床で砕け散る。
しかし――異変は、とどまることを知らなかった。
いきなり前触れもなく、海側のガラス戸が一斉に吹っ飛んだのだ。砕け散ったガラスは、なぜか店内に向かって降り注ぎ、鷲士のスタジャンに降りかかった。つまり外にも、なにかいるのだ。
「つつつ……こ、今度はなんです?」
まず樫緒《かしお》が顔を上げ、鷲士《しゅうじ》も浮上してきたものを目にし、凍りついた。
「うっそ……!」
――マクダネル・ダグラス、AV8Bハリアー2改。
イギリスのBAeと共同で開発した垂直離着陸型|攻撃機《こうげきき》である。通常の戦闘機《せんとうき》とは違い、ヘリのようなホバリングも可能な、戦闘用航空機の異端児だ。本来は単座だが、例のラプター同様、タブルシートに改造されている。
操縦桿《そうじゅうかん》を握っている人物は――言うまでもない。
「二人とも、そのまま伏せてて〜!」
間延びした舌ったらずの声が聞こえた刹那《せつな》、二五ミリバルカンが火を噴《ふ》いた。
直撃を食らった戦闘員たちは、倒れるどころか壁際《かべぎわ》まで吹っ飛ばされた。さらにバルカンは壁どころか、床にも大穴を空けた。対人用の小銃などとは、口径の桁《けた》が違うのだ。数秒も経《た》たず、小ぎれいなレストランは、廃墟《はいきょ》と化した。
唐突に、店舗《てんぽ》全体が傾いた。どうや土台をも粉砕してしまったらしい。奇跡的に助かった客たちが、奇声を発して逃げ惑っていく。
「さっ、二人とも乗って!」
キャノピをはね上げ、美沙《みさ》が叫んだ。
「ああっ、もうっ、今度はなに!? どーしてこうなるの!?」
と鷲士が叫んだ傍《そば》から、再び自動小銃の機関音が響《ひび》き渡った。ハリアーのノーズで立て続けに火花が飛び散り、跳弾が次々に床に突き刺さる。
振り返った鷲士の双眸《そうぼう》が捉《とら》えたのは――新たな敵部隊だった。
「撃《う》て! ヤツを行かせるな!」
「うわっ、もう! 違うってゆーのに!」
顔を戻すと、樫緒を抱えたまま、鷲士は跳躍《ちょうやく》。AV8Bの機首に跳び移ると、装甲を蹴《け》って今度は宙返りし、後部コクピットにスッポリ足を入れた。
キャノピを下ろすと、ハリアーは回頭。スピード上げ、ループ上昇を開始した。
狭い操縦席《そうじゅうせき》の中、美沙はシート越しに振り返ると、
「ヘヘヘ、危なかったね。間一髪ってヤツ?」
「……いえ、むしろ一番危険だったのは、この機の攻撃――」
「そっ、それはともかく! 今度はなにが起きたのさ!?」
「あ――そう、それよ、それ! 実はさ、本物の始皇帝《しこうてい》陵の場所が書いてあるってゆー、司馬遷《しばせん》の『裏・史記』が見つかってさ! 今度のは三巻セットだったんだけど、こっちが頭の二巻押さえちゃったもんだから、連中キレ気味なのよね!」
興奮《こうふん》気味にまくしたてる美沙である。
「……なんかいつもキレてる気がするんですけど」
呆《あき》れたようにため息をつくと、鷲士《しゅうじ》はこめかみを押さえ、
「と、とにかく、どこかあいつらに見つからないような場所で降ろしてよ。ぼく、八時から夜のバイトだし、樫緒《かしお》くんも――」
「……お願いします。ブラジルの鉱山で問題が出たとかで、大使と接見しなければ」
しかし美沙《みさ》は、そこで「うん」と頷《うなず》くほど甘くはなかった。
少女は、母親|譲《ゆず》りの長い睫《まつげ》をパチクリさせると、
「アハハ、なぁに言ってんの? そんなよゆー、あるワケないでしょ! このまま日本海まで突っ切って、ライトニングに着艦《ちゃっかん》――中国直行よ!」
「ちゅ、ちゅうごくぅ!? じょ、冗談じゃないよ! このまえドイツに――」
しかしワタワタと手を振るパパを、美沙の鋭《するど》い眼差《まなざ》しが貫いた。
「そのドイツの埋め合わせするって言ったの、鷲士くんだよね? ね?」
「そっ、それは……!」
「面倒だから、樫緒、ついでにあんたも来なさい。チカラばっか使ってるから、生っ白いったらありゃしない。お姉ちゃんが鍛《きた》えてあげる!」
「……ほ、本気ですか?」
青ざめる男性陣に向かって、少女はニッコリ笑って頷くと、再び体を戻し、
「んじゃ、フェイス・チーム――大陸目指して、レッツゴー!」
スロットル・レバーを引っ張る腕には、微塵《みじん》のためらいもなかった。
猛烈なGを受け、目を回しながら、鷲士は叫んだ。
「だから――ぼくはダーティ・フェイスじゃないんだってばー!」
黒い攻撃機《こうげきき》はボケ青年の悲鳴を撒《ま》き散らしながら、雲の間に消えたという――。
草刈《くさかり》鷲士。天涯孤独の学生でありながら、実の娘との出会いにより、やがて本当に世界最強の宝探しになってしまう恐るべき青年。
人は彼を顔のない男――ダーティ・フェイスと呼ぶ!
あとがき
今回は本文にページ使いまくったせいで、あとがきを書く余裕がありません。よってこれをもってあとがきの代わりとさせていただきます。別にあとがき苦手だからとか、小説ばっか書いてたからネタがないとか、そんなこととは全く関係ありません。ええ、本当です。残念だなぁ、書きたかったなぁ、まともなあとがき。
――関係各位、読者の方々に感謝を。
ではまた、次回作でお会いしましょう。
[#地から2字上げ]二〇〇〇年四月二一日
[#地から2字上げ]伊達将範《だてまさのり》
[#地から2字上げ](B.G.M Elwood "Dead lock")
37行
小さな指の間から滲《にじ》じんだ血が、
滲《にじ》んだ血が、
275行
鷲士の目は、唖然《あぜん》として呟いた。
目は口ほどにものを言い?
376行
最後の授業が終わり、教諭が去ると同時に、机にバタン。
大学で「教諭」?
1139行
ママもできたんけど、
ママにもできたんだけど、
1184行
――左に回せばベルチェ素子によって逆に作用します。
Peltier deviceなので、ペルチェ素子
1221行
騒然《そうぜん》と、鷲士は振り返った。
騒然 → 蒼然
1244行
アゴを窓枠にひっかけてるようにして、
ひっかけてる → ひっかける
1387行
1425行
フレイヤ
他の部分は「フレイア」になっています。
1494行
戦後の混乱期に、村についての全資料を、意図的に消されたが可能性があります」
消されたが → 消された
2032行
マレーネ・シャライヒャー夫人
4577行
シャライヒャーの当主が、
この2箇所以外は「シュライヒャー」
2097行
麗華《れいか》だ。ジョッキでビールをグヒグビやって、プハー。
グヒグビ → グビグビ
2397行
フロンドガラスが、
フロントガラス
2502行
我々ミュージアムの母体となっているという万博博物館とは、いったいなんなのだ……?
「万博博物館」はもしかすると、「万物博物館」などの誤植ではないか?
4200行
チューン・マンは、ニッチキャップを目深《まぶか》にかぶり直すと、
ニットキャップ
4432行
体の一部を失ってちゃった。
失ってっちゃった。
4722行
例のラプター同様、タブルシートに改造されている。
タブルシート → ダブルシート