PATRONE パトローネ
仮面の少女
伊豆平成
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)伊豆平成《いずのひらなり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|ネズミからネズミへ《マウス・トゥ・マウス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そこに居ずとも報せを伝える[#「そこに居ずとも報せを伝える」に傍点]
-------------------------------------------------------
〈帯〉
恋ってムズい!
特殊状況下の恋って…長続きしないって、ホント??
[#改ページ]
〈カバー〉
事件のことならまかしとけ……でも、でも、恋のイロハは見当つかぬ。そんな護民官ルフィと元・大泥棒のワイリーが潮風かおる港町を事件解決のために駆けまわる! 今回の事件は港で起きた殺人事件。死体の第一発見者のワイリーは何故か仮面をつけた美少女に命を狙われるハメに……。それだけでも厄介なのにルフィとケンカしてしまい別々に事件に挑むことになっちまった!! 事件も二人の仲も五里霧中って感じ? 娯楽痛快捕り物帳!!
●伊豆平成《いずのひらなり》
10月6日生まれの天秤座。A型。ゲーム界唯一の秘密結社、G∴M∴L∴(ゲムル)所属の謎のメカ侍。
日本バカカード協会(http://dx.sakura.ne.jp/~yamata/bakacard/)会長。座右の銘は「メカ侍でも、生き血は赤い!」。
拙者の主な原動力はコーヒーと音楽だが、今回は「K&Y」のコーヒー豆(銘柄はマンダリン)約3.2kg(愛用の『トトロのカップ』で約620杯分に相当)と、「笑顔を忘れない」、「仮面天使ロゼッタ」、「STAND UP TO THE VICTORY」や、サントラ「JERRY GOLDSMITH・FRONTIERS」、「ムーラン」や、「特捜ロボジャンパーソン」、「スーパーロボット大戦」のソングコレクションその他の音楽から知恵と勇気を分けてもらった。
[#改ページ]
PATRONE パトローネ
Curatio vulneris gravior vulnere saepe fuit, sed justi et tenaces propositi.
Masked Girl 仮面の少女
Hiranari Izuno 伊豆平成
[#改ページ]
ルスト……。
そこに目当ての男がいるのだ。
彼女が殺さねばならぬ男が!
[#地付き]Rusto....
[#地付き]Nurai engraved the name of a toun on the heart.
[#地付き]The aimed man is there.
[#地付き]she has to kill the man by the rule of Keinoon.
[#改ページ]
[#中央揃え]PATRONE
[#中央揃え]Masked Girl
[#中央揃え]by
[#中央揃え]Hiranari Izuno
[#中央揃え]Copyright c 2001 by Hiranari Izuno
[#中央揃え]First published 2001 in Japan
[#中央揃え]by
[#中央揃え]Kadokawa Shoten Publishing Co., Ltd.
[#改ページ]
CONTENTS
プロローグ
第一章 すれちがいの序曲
第二章 |ネズミからネズミへ《マウス・トゥ・マウス》
第三章 ヴァムジェ人の設計師
第四章耳≠ニネウトスと
第五章 首都ロマヌア
第六章 四頭の獅子
終 章 レガミラの盗賊
エピローグ
あとがき
口絵・本文イラスト OKAMA
口絵・本文デザイン 滝澤孝司(META+MANIERA)
[#改ページ]
魔法も法なり 「ヴァニゲの書」
[#改ページ]
プロローグ
寄り添《そ》って飛ぶ二羽の白いハトは、迫《せま》りつつある危機に少しも気づいていなかった。
彼らは切り立った崖《がけ》の合間を縫《ぬ》うように飛んでいた。
翼《つばさ》が乾《かわ》いた羽音を響《ひび》かせるたび、荒涼《こうりょう》とした岩肌《いわはだ》が後ろへと流れていく。
訓練された二羽の伝書バト――ヴァムジェ人の船を飛び立った彼らは、休む場所のない海の上を、まっすぐ南へと向かったりはしなかった。
ロマヌア人が庭≠ニ呼ぶ内海を渡《わた》りきるには、体力を温存しなければならない。
そのために、ヴァムジェで生まれ育った高価で優秀《ゆうしゅう》な伝書バトは、本能的にロマヌアの南端《なんたん》、半島の岬《みさき》までは陸のコースを選ぶのだ。
それが命取りになるとも知らずに……。
クルルルッ!
敵だ――先頭の一羽が短く鳴いて警告を発する。
ほんの一瞬《いっしゅん》、太陽が何かにさえぎられた。
上空で待ちかまえていたハヤブサは、すでに矢のように翼《つばさ》をすぼめ、猛禽《もうきん》の中でも最速を誇《ほこ》る、あの恐《おそ》ろしい急降下に入っている。
慌《あわ》てるな、気づいていないふりをしろ――そんなふうに軽く鳴き交わし、敵の羽音が変わるまでの数秒の間、二羽は恐怖《きょうふ》をこらえた。
ブレーキと襲撃《しゅうげき》を兼《か》ねて、ハヤブサの鋭《するど》い鉤爪《かぎづめ》が嘴《くちばし》よりも前に突《つ》き出されるのと同時に、彼らは左右にパッと分かれる。
どちらを仕留めるか? 一瞬《いっしゅん》の迷いが、敵の狙《ねら》いをそらした。
悔《くや》しげな鳴き声が二羽をかすめ、ハヤブサが崖下《がけした》へと通り過ぎていく。
あいつは別の獲物《えもの》を探すことになるだろう。上昇《じょうしょう》気流をとらえて再び猟場《りょうば》に戻《もど》っても、追いつけはしない。危機は去ったのだ。
崖の上まで羽ばたいてから、ようやく警戒《けいかい》を解く。
ホッとしたハトたちが、先を急ごうと呼びかけ合ったそのとき――。
ヌゥライの投げた槍《やり》は、ちっぽけな標的の心臓をあっさりと貫《つらぬ》いていた。
少女の褐色《かっしょく》の身体《からだ》が縮んで伸《の》びたかと思うと、ハトは絶命していたのだ。
獲物をしとめた槍は、放物線の残りを描《えが》いて地面に突き刺《さ》さった。
剣《けん》のように長い穂先《ほさき》が、ギラリと光る。
彼女は、槍が空にあるうちに死の匂《にお》いを嗅《か》ぎとっていたが、|ケイヌーンの地《サバンナ》で、太ったカモシカをものにしたときのような喜びはなかった。
ヴァムジェ人の街でよく見かけた鳥……固くて、あまり美味《うま》くない鳥だ。
生き残ったもう一羽は、突き立てられた槍の上に輪を描いていたが、すぐに仲間の死を悟《さと》り、南へと飛び去っていく。
ヌゥライは、編んだ草と膠《にかわ》とで作られた部族の泥面《どろめん》――頭全体をすっぽり覆《おお》った壺《つぼ》のようなかぶりもの――に開いた二つの穴から、雲一つない青空を見上げた。
ケイヌーンの驚異《きょうい》的な視力が、豆粒《まめつぶ》ほどになったハトの脚《あし》にある小さな筒《つつ》をとらえる。
うつむいた彼女は、無言で槍を地面から引き抜《ぬ》いた。
この鳥たちにも使命があったのだ……。
砂地に残された足跡《そくせき》のように、そこに居ずとも報せを伝える[#「そこに居ずとも報せを伝える」に傍点]、あの不思議な模様を運ぶ役目が。
そして、成すべき事を成せぬまま死んだ。
この鳥は私だ――穂先を見つめながら、ヌゥライはそう思った。
戦士の試練にもしくじり、掟《おきて》を破って一族を追われ、海を渡《わた》って――誰《だれ》も来たことのないこんな北の果てを一人でさまよっている。
ケイヌーンとしては死んだも同然の身だ。
全《すべ》ての負債《ふさい》を返し、一族の掟を成すまで、ずっと……。
と、大きな羽音がした。
彼女を雇《やと》った、年老いたロマヌア人の肩《かた》当てにハヤブサが舞《ま》い降りたのだ。
「よしよし……」
ハヤブサに餌《えさ》をやって、書簡さらい(ロマヌア人はそう名乗った)が、つぶやいた。
彼が近づくと、腐《くさ》った肉の匂《にお》いが強くなる。
「よくやったな。槍《やり》でハトを落とすとは、小娘《こむすめ》のくせに恐《おそ》ろしい腕《うで》だぜ。それに言いつけ通り、しとめたのは一羽だけ……蛮族《ばんぞく》にしちゃ、物わかりもいい」
この国の言葉は、ヴァムジェ人たちも使っている。ゆっくり話してくれればヌゥライにも理解できるし、今では片言なら話しもできる。
もっとも、彼は早口なので何を言っているのか半分もわからなかった。
発する匂いから、褒《ほ》められているのだとは感じていたが。
「おい、おまえ、ケイヌラ……だったか?」
「ちがう。ケイヌーンのヌゥライ」
「そうかい、ヌゥライ。とにかくハトをよこしな」
刺《さ》さったままの槍を突《つ》きだすと、男は笑《え》みを浮《う》かべ、血まみれのハトを穂先《ほさき》から抜《ぬ》きとった。
脚《あし》の筒《つつ》を開け、小さな紙(というものらしい)を大事そうに引っ張り出す。
信じられないが、彼がハトを捕《と》るのは肉や羽根が欲しいからではない。この紙を奪《うば》うためにハヤブサを飼い、こうして人のいない荒《あ》れ果てた岬《みさき》に狩《か》りに来るのだ。
「さて、こいつをどこに売るかだな。ヴァムジェの船の手紙だ。耳≠ノでも売りゃ、いい値がつくかもしれん」
「匂い……あいつの匂いがする!」
「なんだって?」
相手が驚《おどろ》くのも構わず、身を屈《かが》めたヌゥライは、彼の手にした紙に泥面《どろめん》を近づけた。
鼻孔《びこう》をつくような腐肉臭《ふにくしゅう》を無視し、紙に染みついた匂いのみに集中する。
間違《まちが》いなく、あの匂いだ。顔も名前もわからない、あの男の匂い[#「あの男の匂い」に傍点]!
のっぺりとした泥面の奥《おく》で、すっと目つきが鋭くなる。
「教えると、約束した。船、どこいく? 教えなさい」
「ま、待ってくれ、まだそこまで読んでな……」
「早く!」
「ったく、蛮族の小娘が偉《えら》そうに……」
ぶつぶつ言いながらも、その気になればヌゥライの恐ろしい槍が、ハトにしたように自分の心臓も貫《つらぬ》けると気づいたのか、男は慌《あわ》てて紙片に目を走らせた。
「妙《みょう》だな、ヴァムジェの船がロマヌアの港に……?」
「早く、教えなさい」
「ルストに行くみたいだぜ」
「それ、どこにある?」
「知らないのか? ルストを?」
書簡さらいは肩《かた》をすくめ、鼻を鳴らしてみせた。
「街道に出たら北へ行きな。西か東かで迷ったら西を選べばいい。ロマヌアの道はな、海も陸も、みんなルストに通じてるんだ」
ルスト……。ヌゥライは街の名を心に刻みつけた。
そこに目当ての男がいるのだ。
ケイヌーンの掟《おきて》により、彼女が殺さねばならぬ男が――!
[#改ページ]
第一章 すれちがいの序曲
T
帰りじたくを終えて扉《とびら》を開けたワイリー・マイスは、通りに出るなり首を傾《かし》げた。
おいおい、なんだってこんなに嫌《いや》な予感がするんだ?
首筋に刃《やいば》を突《つ》きつけられたような、冷たい感覚……。
泥棒《どろぼう》だった半年前まで、彼――針金ネズミ≠ヘ、この「危険を嗅《か》ぎ分ける能力」に幾度《いくど》も助けられている。
けど、妙《みょう》じゃねえか? 今の俺《おれ》に何の危険があるんだ?
あるとすれば、たった今、護民官事務所の方から聞こえてくる、あの鐘《かね》の音くらいのものだ……ワイリーは、そう思うことにした。
花の女神ミトゥンの神殿《しんでん》が、夜明け前に鳴らす最後の鐘――慌《あわ》てて帰って、事務所の屋根裏のベッドにもぐり込んでも、布団《ふとん》が暖まる前に朝がきて、出勤してきた(愛《いと》しの)ベルフィード・クレニスス・ヘイズォト護民官に叩《たた》き起こされる――危険なんて、それぐらいだ。
もう、泥棒|稼業《かぎょう》はやめにしたのだから……。
隣国《りんごく》マスリックでロマヌアの悪魔《あくま》とまで恐《おそ》れられた盗賊《とうぞく》針金ネズミ≠焉A今ではルストの護民官助手だ。
錆色《さびいろ》の血族≠ノ誓《ちか》って、やましいことは何一つしちゃあいない。
まあ、護民官《ルフィ》に一つも隠《かく》し事をしていないといえば嘘《うそ》になるが……。
彼が出てきたのは、淡《あわ》い赤色の石材で作られた高い壁《かべ》に、同じ型の勝手口がいくつも並んでいる平たい屋根の建物だ。
壁の内側に共同の中庭があり、数|部屋《へや》ごとで仕切った区画を借りて何家族かが住んでいる。
ルストでは、平民層の住居としてごく普通《ふつう》のスタイルだった。
港に近く潮の香りのする一画だが、海に面した港通りとの間には木製の倉庫群が並んでいる。
建物は倉庫より低いので、屋上に上がっても海は見えない。
「ねえ、ワイリー?」
部屋の中から優しい声がした。
ふり向くと、薄手《うすで》のガウンを羽織った若い女性が物憂《ものう》げにこちらを見上げている。
女が言った。
「あなた、明日も来るの?」
「できればそうしたい……まずいか?」
声をひそませてたずねると、ほつれた髪《かみ》をゆらして女は微笑《ほほえ》んだ。
「べつに平気。いつでもいいわよ。どうせ亭主《ていしゅ》は造船所に泊《と》まりっぱなしだもの」
「そうか。じゃ、遠慮《えんりょ》なく」
「こんなことしてるって[#「こんなことしてるって」に傍点]、ヘイズォト護民官はご存じなの[#「ヘイズォト護民官はご存じなの」に傍点]?」
「いや。彼女には内緒《ないしょ》だ」
「色々と大変ね……」
造船職人(ルストでは高給取りの職種だ)の新妻は、わけ知り顔でうなずいた。
「でもワイリー、特殊《とくしゅ》な状況《じょうきょう》で生まれた恋《こい》は長続きしないらしいわよ。先月、亭主《ていしゅ》と観《み》に行った『レガミラの盗賊《とうぞく》』で言ってたの」
「何とでも言ってくれ。じゃ、また明日……」
顔をしかめたワイリーは、まずい話題になる前に踵《きびす》を返していた。
「おやすみなさい、針金ネズミ=v
ふり向かず、無言で軽く手を振《ふ》る。
背後で、静かに扉《とびら》の閉まる音がした。
ひんやりした外の空気に、ワイリーは身を震《ふる》わせた。
温暖なルストも、冬の夜明け前ともなれば、夏のそれよりはずっと冷える。
ロマヌア式の滑《なめ》らかな舗装路《ほそうろ》を踏《ふ》みしめるブーツは、自然と早足になった。
それでも薄暗《うすぐら》い路地は、ひっそりと静まり返ったまま物音一つしない。
忍《しの》び足はワイリーの本能みたいなものだった。
着古した暗い色のゆったりとした服は、針金ネズミ≠闇《やみ》の一部に変えてしまう。
腕《うで》は衰《おとろ》えていなかった。廃業《はいぎよう》していなければ、ルストでも荒稼《あらかせ》ぎしていたに違《ちが》いない。
あのとき、ルフィと会っていなければ――。
半年前、裁判のためにマスリックから護送された盗賊が、女護民官と協力して、ロマヌアの諜報《ちょうほう》機関耳≠フ恐《おそ》ろしい陰謀《いんぼう》を未然に防いだ。
そして、事件の渦中《かちゅう》で二人は惹《ひ》かれあい、恋に落ちた――と、彼は信じていた。でなきゃ、たとえ縛《しば》り首が待っていても、護民官助手なんかやらずに逃《に》げ出している。
ところがだ!
あれから半年も経《た》っているのに、二人の仲は(重傷を負った彼がガレー船の中で介抱《かいほう》されたとき以上には)ちっとも進展していなかった。
彼女は上司なわけだし、もとからガードの堅《かた》い小娘《こむすめ》な上に、中流とはいえ貴族の出だ。
いざとなると、こちらも二の足を踏む。
いつまで経っても「ルフィとワイリー」は「護民官とその助手」でしかなかった。
特殊な状況で生まれた恋は――。
「ったく、迷惑《めいわく》な筋書きだな」
冴《さ》えない顔で舌打ちする。
『レガミラの盗賊』は、最近、ルストの劇場で大流行している悲恋《ひれん》ものの歌劇だった。
彼も護民官を誘《さそ》ったのだが、「忙《いそが》しいのよ」の一言で断られている。
「行かなくてよかったぜ、くだらねえ芝居《しばい》だ……」
ワイリーは、やつ当たり気味に文句を言いながら路地を折れた。
港通りに出たとたん、空が広くなり、磯《いそ》の匂《にお》いが強くなる。
深い入江になっているルスト湾《わん》は、いくつもの港に分かれていた。
ルフィの担当区は、湾の南側にある。ここからは対岸の赤錆《あかさび》のような街並みが一望できるが、彼は景色《けしき》に目もくれず、街から海へと吹《ふ》く風を受けながら歩き続けた。
東の空がかすかに白んでいるだけで、海はまだ星明かりの中で黒く穏《おだ》やかにうねっている。
湾内で煌々《こうこう》と明かりが灯《とも》っている場所は、たった四つ――うち二つは、遠く湾の入口に見える南北の灯台だ。
三つめは、北岸の外れにある造船区画の乾《かん》ドックで、徹夜《てつや》仕事なのか、名高いルストの造船|工房《こうぼう》の一つから明かりが漏《も》れている。
「……どうも気にいらねえ」
あの嫌《いや》な予感は消えていなかった。むしろ、強まっている。
ふと足を止めたワイリーは、しつこくまとわりつく嫌な予感を無視して、四つめの明かりをぼんやりと見つめた。
「馬鹿騒《ばかさわ》ぎまで、あと三日か……」
ずっと遠く、海をはさんだ湾の中央にある神殿《しんでん》に、大海捧祭《たいかいほうさい》≠フメインとなる巨大《きょだい》な女神像が建てられつつある。足場が組まれた像は、無数のランプやロウソクでライトアップされ、真昼のようにきらめいていた。
純白のドレスに身を包んだ白い肌《はだ》の若々しい女神は、はにかんで、もじもじしているようにうつむき加減で、胸の前で手を握《にぎ》りしめている。
純愛と友愛を司《つかさど》る女神、イナの像だ。
背後にある神殿は海や川の神々を祭るものだが、四年に一度の大海捧祭≠フたび、裕福《ゆうふく》な貿易商や船主、海軍などの寄付でイナの女神像が造られる。
|水の神々《ンブツ》との仲を|友愛の女神《イナ》にとりもってもらい、航海の無事を祈願《きがん》する祭……なのだが、ワイリーに言わせれば「玉を取り合う馬鹿騒ぎ」だった。
像は見かけよりずっと軽い材質でできていて、何人もで押《お》せば揺《ゆ》らすことができる。全身に梯子《はしご》や取っ手があって、よじ登ることもできた。重心が足元にあるので、そう簡単には倒《たお》れない。あの像は、巨大な「おきあがりこぼし」なのだ。
祭のクライマックスにイナ神の被《かぶ》った花冠《かかん》に高価な宝珠《ほうしゅ》が置かれ、ルストの市民は押したり飛びついたりして、これを奪《うば》い合う。
宝珠が航海のお守りになるのはもちろんだが、純愛の女神イナの象徴《しょうちょう》でもあるので、恋人《こいびと》に贈《おく》ろうとして多くの若者が無茶をする。死人が出ることさえあった。
三日後には、あの一画にルスト内外から見物客が山のように押し寄せるのだ。
四年に一度とはいえ、担当区の護民官には頭の痛い祭だろう。
「もっと大変なのは、あんたか……」
光の中ではにかむイナ神に呼びかけると、ワイリーは目を細めた。
彼女の花冠《かかん》を起点にして、建物の屋根づたいに目に見えない線を描《えが》く。湾《わん》のカーブに沿ってぐるりと視線をめぐらせ彼は、ハッと自分が歩いてきた倉庫の列をふり返った。
目の前の路地から、くぐもった悲鳴が聞こえたのはそのときだった。
ワイリー・マイスは、自他ともに認める腕利《うでき》きの護民官助手だ。
厄介《やっかい》なことになっているのは一目でわかった。
薄暗《うすぐら》い道ばたに、男が倒《たお》れている。
酔《よ》っぱらいや行き倒れなら、事務所に連れていって介抱《かいほう》してやればそれでいい。
だが、辺りには、ただならぬ気配が漂《ただよ》っていた。はっきりそれとわかる、血の匂《にお》いも……。
と、死体(たぶん死体だ)の向こうで何かが動いた。
ワイリーは、イナ神をからかったのを後悔《こうかい》しながら目をこすった。
明かりを見つめていたせいで、夜目が効かない……。
「動くな!」
しかたなく、確認もせずに威嚇《いかく》して、彼は路地の奥《おく》へと走った。
死体(やっぱり死体だ)を飛び越《こ》えながら、チチッと舌を鳴らす。
呼びかけに応《こた》えて、すぐに錆色《さびいろ》の血族≠フ声がした。
(盟主よ……用件は何か?)
ささやくような声が、直に頭蓋骨《ずがいこつ》に響《ひび》いてくる。
都市に寄生するサビネズミは、大群になると高度な知能を有する――ワイリーは、ルストの錆色の血族≠フ恩人であり、彼らと契約《けいやく》した唯一《ゆいいつ》の人間だった。
「事件だ、ルフィを叩《たた》き起こしてくれ! 場所は……」
(不可能だ)
(現在、あの個体はルストの住居にいない)
(よって、我らはクレニッスの花≠ノ接触《せっしょく》できない)
(記憶《きおく》では郊外の母親の屋敷《やしき》にいると……)
ワイリーは息を飲んだ。
「忘れてたよ、くそっ! 今日は昼まで寝《ね》てられたんじゃねえか……」
悪態をついている間に、ようやく目が慣れてくる。
古びた倉庫の脇《わき》にもう一人、女性がぐったりと横たわっているのが見えた。流れ出した血が、舗装路《ほそうろ》に黒い染みを広げている。
その血だまりの中で、ひざまずいて女の死体をのぞき込んでいた何かが、サッと顔を上げた。
じっとこちらを見つめている、猛獣《もうじゅう》を思わせる気配。
「……この辺じゃ、あまり見かけない顔だな」
針金ネズミ≠ノしては、冴《さ》えない軽口だった。
のっぺりした顔、毛皮とボロ布に包まれた身体《からだ》、闇《やみ》に紛《まぎ》れる褐色《かっしょく》の細長い手足……。
ルストどころか、ロマヌア中探したって、こんなやつはいない。
こいつ人間なのか? まてよ、どこか辺境の蛮族《ばんぞく》で――彼がそう思ったとき、そいつは妙《みょう》な槍《やり》を構えて立ち上がっていた。
のっぺりした顔は、布を固めた覆面《ふくめん》だったとわかる。かなりの長身だ。
ワイリーは、なるべくゆっくり話しかけてやった。
「こう見えても俺《おれ》は護民官助手でね。この二人は、お前が殺したのか?」
「……匂《にお》いがした」
覆面の奥《おく》から、こもった声がした。
「はあ?」
「匂いだけだった。もう用はない」
そうつぶやくと槍を収め、ひたひたと近づいてくる。こちらを警戒《けいかい》するでもなく、たまたま帰り道がそっちだったという足どりでだ。
「おい、待ちなって……」
行く手をふさいだワイリーは、低い声で言った。
「こっちにはまだ用がある。人が二人も死んでるんだぞ」
「今、|死の神《ラノート》に知らせた。いずれ仇《かたき》は討たれる」
神頼《かみだの》みで済むなら、護民官はいらない。
この状況《じょうきょう》で犯人は自分じゃないってのか? いや、もしそうでも、こいつは第一発見者だ。護民官の聴取を受ける義務がある(じゃないと、俺がルフィにどやされる)。
ワイリーの目が、すうっと細くなった。
無手なのを強調して、だらりと両腕《りょううで》を下げる。
と、袖口《そでぐち》から一匹《いっぴき》、サビネズミが滑《すべ》り落ちた。
「あのな、俺も詳《くわ》しくは知らないんだが……なにやら規則があって、死体を見つけたやつは、護民官と話をしないといけないんだ」
「私は、ロマヌア人でない」
「だったらなおさらだ。逃《に》げる気なら、腕ずくでも連れていく」
彼が言うと、蛮族のかぶりものが、ゆらゆらと揺《ゆ》れた。
スッスッと歯のすき間から息のもれる音。笑っているのだ。
「ロマヌア人に、ケイヌーンは捕《つか》まらない」
馬鹿《ばか》にしたような口調で言うなり、不意に褐色《かっしょく》の身体《からだ》が沈《しず》み、バネのように弾《はじ》ける。
しなやかで優雅《ゆうが》な跳躍《ちょうやく》――。
「なっ……!?」
針金ネズミ≠ヘ、一瞬遅《いっしゅんおく》れて宙を仰《あお》ぐ。
信じられなかった。
そいつは、一跳《ひとっと》びでいきなり倉庫の屋根の高さまで飛び上がったのだ。
獣《けもの》のようなジャンプ、しかも俺より速いだと?!
かなりまずいな……ワイリーはそう思った。
本気で集中していながら、相手の動きに反応できなかったのは生まれて初めてだ。
だからといって、逃《に》がすつもりはなかった。
「用意しといて正解だったな」
苦笑しながら、右手に一巻きしていた針金を握《にぎ》りしめる。
ワイリーは、足を踏《ふ》ん張って衝撃《しょうげき》に備えた。手から伸《の》びた鋼線《こうせん》は、容疑者の足首を二巻きしている。サビネズミが運んだ針金のもう一端《いったん》は、向かいにある倉庫の門柱に固定されていた。
足首を頂点にして三角にたわんだ鋼線が、ぐんと直線に引き戻《もど》される。
雨樋《あまどい》に手をかけようとしていた蛮族《ばんぞく》の身体《からだ》が、ガクッと急停止した。
かぶっていた覆面《ふくめん》だけがすっぽ抜《ぬ》けて、倉庫の屋根へと飛んでいく。
「あっ!」
高く澄《す》んだ声が路地に響《ひび》いた。
ばさっと音を立てて、乾《かわ》いた黒髪《くろかみ》の束が肩《かた》に落ちる。
着地したそいつは、半ば反射的にワイリーを睨《にら》んでいた。
あどけない顔立ちの蛮族の娘《むすめ》ださっきまでの無関心とは、明らかに態度が違《ちが》った。
「よくも泥面《どろめん》を! 愚《おろ》かな……愚かなロマヌア人! 殺す!」
敵意の塊《かたまり》みたいな少女が叫《さけ》んだ。
驚《おどろ》きと恐怖《きょうふ》と怒《いか》りが混ざった声。
怒りに顔を歪《ゆが》めながらも、褐色《かっしょく》の肌《はだ》に似合いの、あどけない黒い瞳《ひとみ》は悲しげに曇《くも》っている。
「お、おい、ちょっと待て! 女なのか?!」
しかも、よりによってガキだ。ルフィより年下かも知れない。
「ケイヌーンのヌゥライ……。掟《おきて》だ、お前を殺す!」
槍《やり》が地面に叩《たた》きつけられ、針金があっさりと切断された――と、思う間もなく、長い穂先《ほさき》は彼の心臓に狙《ねら》いを定めていた。
凄《すさ》まじい殺気。
こいつは俺《おれ》より速い。おまけに、しかけはもう種切れだ――。
やられる!
その寸前、港のほうで悲鳴が上がった。誰《だれ》かが、男の死体を見つけたのだ。
大勢の足音が迫《せま》ってくる。
ヌゥライと名乗った少女の反応は素早かった。穂先を引っ込め、倉庫の屋根へと飛び上がる。
「お前、必ず殺す! 私は殺さなければならない……」
覆面をかぶったヌゥライは、呪《のろ》いの言葉を吐《は》いて姿を消した。
そこへ港の自警団が駆《か》けつけてくる。
彼らは、女の死体を見おろしている護民官助手に気づいて、立ち止まった。
明かりが灯《とも》され、路地が騒《さわ》がしくなる。
悲鳴を上げたのは、さっき別れたばかりの造船技師の若いおかみさんだった。
「驚《おどろ》いたわ。忘れ物を届けにきたら、人が倒《たお》れてて……」
「ありがとよ。おかげで助かった」
彼女が差し出した小さな滑車《かっしゃ》を受け取ると、ワイリーはホッと息を吐《は》いた。
死体に気を取られて、誰《だれ》も蛮族《ばんぞく》の娘《むすめ》には気づいていない。彼は、なに食わぬ顔で護民官助手としての指示を出した。
「死体には触《さわ》るな。それと誰でもいいから、ルフィ……ヘイズォト護民官に伝令をやってくれ。『港通りに死体が二つ転がってる』ってな。彼女は、郊外の実家にいるはずだ」
ずいぶんと厄介《やっかい》なことになった。命を狙《ねら》われるのは半年ぶりだ。それも苦手な女子供に。
ルフィには話さないでおこうと思った。
たぶん、本人の言葉通り、あの娘は二人を殺してない(穂先《ほさき》には血の曇《くも》りがなかった)。
しかし――と、釈然《しゃくぜん》としない顔でワイリーは死体を見つめた。
だったら、あの蛮族の娘は、こんなとこで何をしてたんだ……?
U
つるつるに磨《みが》いたばかりの白い踝《くるぶし》が、きゅっと持ち上がる。
「聞いたわ、たしかに殺人事件なのね? それも二人も!?」
「はい、事故ではありません。ベルフィード・ヘイズォト護民官……」
「『ルフィ』でいいわよ、フルネームで呼ばれるの嫌《きら》いなの」
「は、はあ」
広間に控《ひか》えていた伝令は、答えるたびに直立不動の姿勢をとるが、すぐに目のやり場に困ったようにうつむいてしまう。
おかしな人ねえ、とルフィは思った。
「それから……」
と、言いかけて派手なくしゃみを一つ。
濡《ぬ》れた長い髪《かみ》をまとめていた布が床《ゆか》に落ちる。
「あっ!」
事件の報《しら》せに夢中だった彼女は、ようやく自分の格好《かっこう》に気づいた。
十六歳の少女がタオル一枚で浴場からすっ飛んで来ては、伝令もうつむくしかない。
ルフィは、たちまち耳たぶまで赤くなった。
護民官の威厳《いげん》もなにもけし飛んで、つま先で跳《は》ねるように、たったの三歩で食堂との仕切りにある厚いカーテンの向こうに隠《かく》れる。
そこから顔だけ出して、彼女は言った。
「と、とにかく! 先に戻《もど》って護民官助手に伝えて。あたしもすぐ行くからって!」
「はい、護民官」
明らかにホッとした声で答えると、伝令は足早に去っていった。
んもう、あのバカネズミ! 人がお風呂《ふろ》に入ってるときに伝令なんか寄こすんだから!
無茶な怒《おこ》り方をしていると、後ろでくすくすと笑い声がする。
「あらあら……ルフィ、またやったのね?」
驚《おどろ》いたルフィは、ぴょんとふり返った。
「母さん?!」
そこでようやく、食堂が朝食の良い匂《にお》いでいっぱいなのに気づく。
猛烈《もうれつ》な勢いで動き出した腹時計の音をごまかすのに、彼女は声を上げた。
「起きてたの?」
「だって、この騒《さわ》ぎよ」
可愛《かわい》らしい声で言って、レミーカ・ヘイズォトは、ちょこんと椅子《いす》に腰《こし》かけた。食卓《しょくたく》に両肘《りょうひじ》をついて、組んだ指に顎《あご》をのせ、楽しそうに半裸《はんら》の娘《むすめ》を眺《なが》めている。
こっちまで楽しくなる人懐《ひとなつ》っこい笑顔《えがお》――その点だけだが、母はワイリーとよく似ていた。
あのバカネズミと!
ヘイズォト未亡人は、まだ若い、というより幼い感じさえするロマヌア美人だった。街の流行《はや》りものなんかには、娘より詳《くわ》しかったりする。十八の時に、名護民官《パトローネ》だった父「鬼《おに》のヘイズォト」と駆《か》け落ち同然で結ばれ、その二年後にルフィが生まれたのだ。
ここは父が死ぬ前に買った田舎《いなか》の邸宅《ていたく》で、贅沢《ぜいたく》さえ言わなければ農地からの収入で生活には困らない。それでもルフィは、忙《いそが》しい合間を縫《ぬ》ってなるべく帰るようにしていた。
「小金を持った世間知らずの未亡人が悪い男にだまされる」なんて事件は、自分の担当区でもうんざりするほど起こっていたからだ。
「ねえルフィ、あなた街のお風呂《ふろ》でもそれをやってるんじゃないでしょうね?」
レミーカが、からかうように言った。
「まさか!」
ルフィは、ムッとして答えると、もそもそと着替《きが》え始める。
食堂には、いいつけ通り着替えと装備一式が並べて置かれていた。手際のいい使用人に感謝しつつ、さっさと服を着て、髪《かみ》を整える。
鎖帷子《くさりかたびら》をつけ、ふっくらとカーブを描《えが》く胸当てをつけたところで、レミーカが口をはさんだ。
「まあ、あなた籠手《こて》をつけて朝ごはんを食べるつもり?」
「母さん、事件なのよ! そんな暇《ひま》ないの」
言いながらテーブルに目をやったルフィは、ゴクッと喉《のど》を鳴らした。
蕎麦粉《そばこ》を水に溶《と》いて薄《うす》く焼いた皮で鳥肉の薫製《くんせい》や根野菜を包んだものを、干しトマトのスープで軽く煮立《にた》てた軽食が二人分――美味《おい》しそうに湯気をたてている。
上に散らしてあるハーブが、大いに食欲をそそった。
「馬を飛ばして、日の出までにルストに入らなきゃ……」
「あらそうなの。なら、しかたないわね。私一人で食べようっと」
「んもう! いじわる!」
一旦《いったん》つかんだ籠手をガチャッと置いて、席につくルフィ。
「どうしたの? よくわからない子ねえ」
きょとんとした顔で言ってから、レミーカはくすくすと笑った。
「でも親子ね……父さんも、どんなに急いでるときだって朝ごはんは必ず食べたっけ」
そりゃ、この手を使われたら、鬼《おに》ヘイ≠セって食べずにはいられなかったろう。
父さんも、あたしと同じで母さんには逆らえなかったのかも……と、ルフィは思った。
以前ほどではないが、父のことを思い出すと少し胸が痛む。
父は彼女が正式に護民官になる少し前に、耳≠ェ起こした事件の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられて死んだ。名護民官《パトローネ》としての信用を地に落としたまま……。
半年前の事件で、ルフィは父の無実を知ることができたのだ。針金ネズミ≠フおかげで。
なのに、あのバカネズミときたら!
「美味《おい》しくなかった?」
「ううん、なんでもない」
余計な考え事はやめて、今だけは蕎麦《そば》の香《かお》りとトマトの酸味を楽しむことにする。
と、レミーカが言った。
「あなたも大海捧祭《だいかいほうさい》≠ノは行くんでしょ?」
「あたしが? なんで? あそこはマキシマス護民官の担当区よ」
「お仕事じゃなくて、お祭りの見物によ」
「う〜ん、どうかな」
運良く今朝《けさ》の事件が三日で片づいたとしても、あまり気は進まない。
「つまらないわねえ、女神様に登ってくれる殿方《とのがた》が一人もいないなんて」
「いいの!」
「あのハンサムな護民官助手は、どうなの?」
「うぐっ……」
危うく料理が喉《のど》につかえるところだった。
「知るもんですか! あんなバカネズミ!」
「ふうん、特殊《とくしゅ》な状況《じょうきょう》で生まれた恋《こい》は長続きしない……って、なにかで聞いたわ」
「『レガミラの盗賊《とうぞく》』、第一幕・第二場と、第三幕・第三場の台詞《せりふ》よ」
「まあルフィ、あなたもあれを観《み》たの?」
「戯曲《ぎきょく》を読んだの、ずっと前にね……」
ほんっとに、あんなくだらないもの[#「あんなくだらないもの」に傍点]を観にわざわざ劇場に足を運ぶ人の気が知れないわ! せっかくの朝食なのに、最後の一口はすっかり味がしなくなっていた。
V
港の朝は早い。
路地は野次馬でいっぱいだった。住人はもちろん、ガレーの漕《こ》ぎ手や仲買の商人までが足を止め、大きな木造の倉庫ばかりが軒《のき》を連ねる路地をのぞき込んでいる。
鐙《あぶみ》の上で背伸《せの》びをしたルフィは、眩《まぶ》しく光る水面に目を細め、路地の奥《おく》を見やった。
人垣《ひとがき》の向こうでは、衛士《えじ》がロープを渡《わた》して道を塞《ふさ》いでいる。
白い布が少し間をおいて二つ、それぞれの遺体にかぶせられ、その間の壁《かべ》に針金ネズミ≠ェもたれていた。ぼさぼさの濃《こ》い金髪《きんぱつ》と、鞭《むち》のようにしなやかでしまった身体《からだ》から、遠目にもすぐ彼とわかる。
蹴散《けち》らして乗り入れるわけにもいかず、ルフィは葦毛《あしげ》の愛馬をおりた。
背の低い彼女は、たちまち野次馬の中に埋《う》もれてしまう。
「通して! どきなさいってば!」
いくら背伸びをしても、なにも見えやしない。
しかたないわね……ルフィは、ため息をついた。
護民官の証《あかし》である武器、クルクス・マヌアールス――十字架《じゅうじか》のような突起《とっき》のある重たい鉄の棒――を、ベルトから引き抜《ぬ》く。彼女はこの武器の達人だが、身分を示すためにクルクスをひけらかすのは野暮だし、好きではなかった。
「護民官よ、道を開けて」
たった一言。
手にしたクルクスの効果は絶大で、あっさりと通り道ができる。馬の手綱《たづな》を引いたルフィは、難なく路地に入ることができた。
善良なロマヌアの市民であれば、護民官には特別の敬意を払《はら》う。彼らが平民の利益と権利を守るために働いているからだ。表向きは、市民に害をなす犯罪の取りしまりが主な職務だが、護民官は必要であれば身分や国境さえ無視して単独で活動できた。
「ワイリー・マイス! 人殺しですって!?」
「ああ。ごらんの通りだ、ヘイズォト護民官」
欠伸《あくび》まじりにワイリーが言った。
普段《ふだん》も眠《ねむ》たそうな目をしているが、それとは違《ちが》う。今は本当に眠いらしく、彼の碧色《あおいろ》の瞳《ひとみ》はどんよりと曇《くも》っていた。
このところ毎日これだ。
やっぱり、針金ネズミ≠ヘ、あたしになにか隠《かく》しごとをしてる――そう思うと、なぜだか妙《みょう》にイライラして、いつもの自分じゃないみたいな変な気分になる。
ちょっと、ルフィ! 今はそれどころじゃないでしょ、殺人事件なのよ!
そう言い聞かせて軽く背伸びをしたルフィは、不愉快《ふゆかい》な気分をグッとこらえて言った。
「やけに発見が早かったじゃない」
「お前さんは、やけに遅《おそ》かったな」
「道が混《こ》んでたのよ。絵描《えか》きは、もう呼んだの?」
彼女が聞くと、ワイリーは面倒《めんどう》くさそうに顎《あご》の先で、路地の奥、海側の白い布を指した。
小さな画板と鉛筆を手にした老人が、ロマヌア式のお辞儀《じぎ》を返してくる。
「男のほうは描《か》かせた。女のほうはまだだ」
「そう……」
何の気なしに布をめくるなり、右目に細身の投げ短剣《たんけん》を刺《さ》された男の顔がのぞいた。
脳まで達していることが一目でわかる。至近|距離《きょり》で投げつけられたに違《ちが》いなかった。
吐《は》き気より先に、怒《いか》りがこみ上げてくる。
「ひどいわね……」
「ああ、そうだな」
「ルストの街なかで、二人も殺されるなんて!」
まったくもって許せない。
ワイリーが言った。
「ただ、ややこしいことになりそうだぜ」
「なにが?」
「女のほうの身元がわかったんだが……」
野次馬の中に顔を知っている者がいたと、彼は説明した。
「名前はミレッタ、ヴァムジェ商館の秘書らしい」
「ルストの市民じゃないのね?」
「そう、ヴァムジェ人だ」
どうすんだ? そんな顔でこちらを見つめ、ワイリーが黙《だま》りこむ。
ルフィは、しばらく頭の中で法律書をめくってから答えた。
「彼女がルストの住人なら問題なしよ。ヴァムジェの大使から正式の要請《ようせい》があれば、すぐにも遺体を引き渡《わた》さないといけないけど」
でも、たしかに他の国よりは厄介《やっかい》かもね……。
北方の海洋民族を祖に持ちながら、遠く内海の南岸にある都市国家――ルフィも情勢に詳《くわ》しくはないが、粘《ねば》り強い外交と巧《たく》みな通商で生きてきたロマヌアにとって、ヴァムジェが最大の商売敵なのは知っている。
新興のヴァムジェ商人たちは、通商におけるロマヌアの地位を追い落とそうと躍起《やっき》になっていて、二つの国は微妙《びみょう》な関係にあった。
「まあいいわ……ややこしいことは、検分を済ませてからにしましょ」
そう言って、ルフィは日誌とペンを手にする。
「またあれ[#「あれ」に傍点]か」
「まずは、あなたからね」
「やれやれ……」
欠伸《あくび》まじりに、針金ネズミ≠ェ男の死体にかけられていた布をめくった……。
「さ、次を始めるわよ」
今度は、ルフィが布をめくる。
あのとき闇《やみ》の中で見たのと変わりなく、ミレッタは驚《おどろ》いたように目を見開いていた。鮮《あざ》やかな赤毛の髪《かみ》が、海の湿気《しっけ》で青白い額や頬《ほお》にはりついている。
目を閉じて深呼吸をしてから、ルフィが事務的な口調で言った。
「名前は、ミレッタ、性別は女性、年齢《ねんれい》は二十代前半……」
それを書き取って、ワイリーがペンを走らせる。
身元不明の男のほうは彼が死体を調べ、ルフィが口述筆記をして、すでに検分を終えていた。商人(ルストには掃いて捨てるほどいる)と思《おぼ》しき被害者《ひがいしゃ》は、右目だけでなく所持品も奪《うば》われていて、とどめに心臓を貫《つらぬ》かれていた。
彼の遺体は、一足先にプリニウス長官の役宅へと運ばれている。規則により、不審《ふしん》な死を遂《と》げた人物は一時的に護民官の長のもとで保管されるのだ。
ワイリーは、ちらっと日誌から顔を上げた。
「彼女の服装は厚手の外出着……夜明け前に、どうしてこんなところにいたのかしら……」
ルフィが、ミレッタの服を触《さわ》ってつぶやく。
彼女の明るい灰色の瞳《ひとみ》は、手がかりを一つも逃《のが》すまいと輝《かがや》いていた。腰《こし》まである栗色《くりいろ》の髪は、いつもなら邪魔《じゃま》にならないよう一本に編んであるのだが、今は違《ちが》う。きっと、乾《かわ》かしながらきたのだろう。
また風呂《ふろ》に入ってたな……と彼は思った。
と、いつの間にかルフィがこちらを見返している。
「なんだ?」
「あなたも変じゃない? どうして夜明け前に、こんな路地を通ったの?」
「今の質問も記録するのか?」
「はぐらかさないで。大事なことよ」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》。
「夜の散歩だ。昔の癖《くせ》でね……」
「あらそう!」
小さな唇《くちびる》を尖《とが》らせて答えると、彼女は検分に戻《もど》った。
イライラした様子で、信じられないほどの早口になってだ。
「首を刃物《はもの》で左から右に切られてる、傷口からして大きな武器じゃないわ。短剣《たんけん》かなにかね。あの商人を殺したのと同一人物でしょう。背が高くて、正規の軍隊の経験があるか傭兵《ようへい》か、とにかく人殺しを仕事にしたことのある人物の可能性が……」
「お、おい、速すぎるぞ!」
筆記が追いつかない。メモはグチャグチャになりつつあった。
彼の文句を無視して、ルフィは先端《せんたん》に赤い宝石のついた検知棒≠手にする。
「傷口に魔法《まほう》の反応はなし、急所への呪《のろ》いの痕跡《こんせき》および、周囲への魔法の痕跡も発見されない、首以外に外傷は見あたらない、暴行も受けていない。たぶん彼女は、暗がりから現れた人物の正体に驚《おどろ》いた。そこを一瞬のうちに……」
「速いってんだよ!」
パン! と、日誌を叩《たた》いて彼が怒鳴《どな》ると、路地の前後から野次馬の笑い声が響《ひび》く。
ルフィが息を呑《の》んだ。
地に着いていたブーツの踵《かかと》が、ゆっくりと持ち上がる。
「……ごめん」
護民官の顔に戻《もど》った彼女が、しょんぼりしてつぶやいた。
その後はなにごともなく(犯人の手がかりは得られずに)検分は無事に終わった。
ミレッタの遺体も、担架《たんか》に乗せられ馬に引きずられていく。
それでも、ルフィは険しい顔のままだった。黙《だま》って舗装路《ほそうろ》を見つめている。
いったい、なにをぷりぷりしてやがんだ?
ワイリーは首を傾《かし》げた。
「護民官、次の仕事は? 俺《おれ》は何をすりゃいい?」
そう声をかけると、職務に忠実な彼女は、思った通り反射的に踵を持ち上げる。
「ヴァムジェの商館にはあたしが行くわ、あなたはもう一人の身元を調べて……」
「了解《りょうかい》、昼過ぎに事務所で会おう」
さっさと退散しようとしたが、甘《あま》かった。
「待って、ワイリー・マイス」
切れ長の大きな目が、キッとこちらを見上げる。
「あなたが来たとき、ここには本当に誰《だれ》もいなかったのね?」
「ロマヌア人もヴァムジェ人も、お前さんの推理した背の高い傭兵《ようへい》とやらもいなかったな」
嘘《うそ》はついていない。なにしろ、いたのは蛮族《ばんぞく》の娘《むすめ》だ。
「血だまりの中を歩き回ったのは何故《なぜ》なの? どこも、あなたの足跡《あしあと》だらけよ」
「それはだな……」
ヌゥライの足跡を消すため……とは言えない。「あの娘の目が半年前のあんたにそっくりで、どうにも放《ほう》っておけない感じがしたから」なんてこと、ルフィ本人に説明するのは難しすぎた。それに、話せば、ルフィは何をおいてもあの|蛮族の娘《ヌゥライ》を追うだろう。
命を狙《ねら》われるのは一人でたくさんだ。
しかたなく、大海捧祭《たいかいほうさい》≠フ女神像を見ていたせいで夜目が効かなかったと答える。
「本当に本当なのね?」
「錆色《さびいろ》の血族≠ノ誓《ちか》って本当だ。俺が、お前さんに嘘を言ったことがあるか?」
「う〜ん。でもね、ワイリー……あなた、なにかあたしに隠《かく》しごとしてない?」
「俺のことより、先に調べることがあんだろ」
そう言ってごまかそうとすると、ルフィはすました顔で首を振《ふ》った。
「だって、あなたが第一発見者なんでしょ? それなら、ロマヌアの市民として、あたしの聴取《ちょうしゅ》に応じる義務があるわ。絶対に質問に答えてもらいますからね」
「あっ……」
しまった、とばかりに絶句するワイリー。
言い合いでやりこめられたのは、久しぶりだった。
遺体が片づけられ、野次馬も少なくなっている。
すとんと踵《かかと》を下ろして、ルフィは言った。
「いったい夜中になにをしてるの? あ、散歩の他によ」
針金ネズミ≠ヘ意地でも嘘はつかない[#「嘘はつかない」に傍点]つもりだから、質問がややこしくなる。
「大したことはしてない」とワイリー。
「このところ毎晩じゃないの、それで昼間は居|眠《ねむ》りばっかりして」
「じ、事件と関係ねえだろが」
「要するに、話したくないってわけね」
「そうだ」
「なによ、やな奴《やつ》!」
尋問《じんもん》というより、ただのケンカだ。
護民官らしくないのは、ルフィにだってとっくにわかっていた。
いいわよ! こうなったらネズミたちに聞いてやるから……と、思ったものの足がすくむ。
本物のネズミは、どうにも苦手なのだ。
半年前の事件で、ルフィは針金ネズミ≠フ秘密を知った。しかも彼女は、マスリックの都市ヘルドアの錆色《さびいろ》の血族≠脅迫《きょうはく》し、彼らを恐怖《きょうふ》に陥《おとしい》れた初めての人間だった。
「あなたたち[#「あなたたち」に傍点]、いるんでしょ?」
ルフィは小声でささやいた。
とたんに倉庫の中からカサカサと足音がして、二人にしか聞こえない声が返ってくる。
(クレニッスの花≠諱A我らはルストのどこにでもいる……)
「な、ななっ!?」
ワイリーが、さっと青ざめた。
鳥肌《とりはだ》を立たせながら、引きつった笑《え》みを浮《う》かべるルフィ。
「お、お願いだから、姿は見せないでよ」
(肯定《こうてい》……)
ルフィは、針金ネズミ≠ェ命令する前にたずねた。
「教えて頂戴《ちょうだい》、|ルストの盟主《ワイリー》≠ヘ、昨日の夜中どこにいて、なにをしてたの?」
(他の個体の住居にいた)
(若い女の個体だ)
(盟主は、上にいったり下にいったりした)
(盟主は、針金も使った)
(女は、ヒトのつがいの片割れでもある)
(人妻)
「だまれ! そのことは話すな!」
いやなタイミングで、ワイリーが怒鳴《どな》った。
(肯定《こうてい》……)
錆色《さびいろ》の血族≠フ声がやむ。
へえ、そうだったの……。
べ、べつに……。
だから、なんだってのよ……。
ルフィは必死にそう言い聞かせたが、頬《ほお》が熱いのは、想像があらぬ方向へいった恥《は》ずかしさなのか、怒《おこ》っているからなのか――自分でもよくわからなかった。
ただ、気がついたときには、恐《こわ》い顔をして針金ネズミ≠見上げていたのだ。
「ワイリー・マイス――」
「ご、誤解だ、護民官! あんたは絶対に勘違《かんちが》いしてる! いいか、俺《おれ》はだな……」
「まじめにやる気がないなら、護民官助手をやめてもらうわよ!」
怒《いか》りにまかせた一言――。
弁解していたワイリーが、ムッとして口をつぐむ。
何やら考え込んでいた彼は、やがて、ぽつりとつぶやいた。
「……そうだな」
「ええっ!?」
驚《おどろ》いている間に、ワイリー・マイスが脇《わき》をすり抜《ぬ》けていく。
「ち、ちょっと、被害者《ひがいしゃ》の身元、ちゃんと調べといてよ!」
慌《あわ》てて声をかけると、彼は「わかった」というように手を挙げてみせた。
ルフィは少しホッとしたが、後味が悪いことに変わりはなかった。
どういうことよ?
なにが「そうだな」なの……?
[#改ページ]
第二章 |ネズミからネズミへ《マウス・トゥ・マウス》
T
いつまで待たせる気なのかしら――。
ヴァムジェの大使は、ずいぶんと腰《こし》が重いらしい。
大きな窓に寄りかかって、ルフィはため息をついた。
ルストの南にあるハザの工房《こうぼう》で作られた、透明《とうめい》で高価な板ガラスのおかげで、部屋《へや》は温室のように暖かい。ルフィには暑いくらいだ。
なのに、出された飲み物はすっかり冷たくなっていた。
ヴァムジェ入の商館は中央港の一等地にあった。彼女の待たされている執務室《しつむしつ》は、四階建ての三階で、窓からは飾《かざ》りつけを終えた女神像の巨大《きょだい》な背中が見える。
イナの花冠《はなかんむり》は首を上に向けないと見えなかった。大海捧祭《たいかいほうさい》≠ナ人々がよじ登る突起《とっき》や梯子《はしご》がはっきりわかるほど、像は近くにあるのだ。
像の回りも大きな建物ばっかりだった。中庭のある平たい屋根が軒《のき》を連ね、窓からの景色《けしき》は、赤く染まったなだらかな丘《おか》が、どこまでも続いているかのように見える。もっとも丘の上には、白っぽい洗濯物《せんたくもの》がはためいているのだが……。
この辺りは、ルストの中でも人口が集中している地域だ。公共の建物も、部屋を貸すための集合住居も、効率を考えると自然に背が高くなっていく。
ルストでは、原則として南側に何かを建てるときは手前の住居より低めに建てねばならない。
だから平たい屋根の列は、ルフィの担当区のほうへ行くに従って少しずつ低くなっていた。
遺体が発見され倉庫街は南の外れで、ここからでは見えなかった。
室内は、たくさんのペン先が紙をひっかくサワサワした音で満たされている。
オラクルス大使は、すぐにお見えになります――そう告げたっきり、数人の書記官は彼女を完全に無視して机に向かっていた。
ルフィが、化粧室《けしょうしつ》を借りて乾《かわ》いた長い髪《かみ》を三つ編みにしている間も、彼らはずっとそうしていたに違《ちが》いない。
忙《いそが》しげな書記たちから聞き出せた限りでは、ミレッタはヴァムジェ大使の秘書として働いていた。彼女はこの商館内に住まいを与《あた》えられていたので、仕事の終わる夕方以降、書記官たちは誰《だれ》も彼女を見ていない。
ミレッタはルストに滞在《たいざい》して三年になるというから、中央港に近いこの辺りで暮らす分には困らなかったろう。でも、真夜中に不慣れな南港にいたのは、あまりに不自然だ。
「なんであんなとこにいたのかしら……?」
つぶやくなり、バカネズミとのことが、ちらっと浮《う》かぶ。
馬鹿《ばか》ね、職務中よ!
慌《あわ》ててそれを頭の隅《すみ》に押《お》しやったルフィは、冷めきったヴァムジェ人の焦《こ》げ茶=\―南国産の木の実を焦がして挽《ひ》いて煎《せん》じたものでひどく苦い――を口にして、気を引き締《し》めた。
だが、いくら考えたところで答えは見つからない。風呂《ふろ》に入りたくなるだけだった。
ロマヌア人の風呂好きは有名だが、ルフィは中でも特別だ。通りに一つはあるロマヌア式の浴場でぬるめの湯にのんびり浸《つ》かれば、必ず良い考えを思いつく。
商館に出入りするヴァムジェ人たちは入浴の習慣がないのか、室内はどことなく汗臭《あせくさ》かった。安い香木《こうぼく》を焚《た》いたりしているが、そのせいでかえって妙《みょう》な匂《にお》いがするのだ。
ここへ来る途中《とちゅう》に、大きな公衆浴場があったわね、帰りに寄っていこう――彼女は決心した。
廊下《ろうか》で声が響《ひび》いたのは、そのときだった。
「……は、予定通りに進めろと言ったはずだ。金は払《はら》ってある、続けさせろ」
「だけど、僕《ぼく》には信じられません。あんなもの動くわけが……」
言い争いながら入ってきた二人が、大使の執務《しつむ》机の前にいたルフィに気づいてギョッとする。
書記官の一人が椅子《いす》をがたつかせて立ち上がり、彼らに小声で何やらささやいた。
「やれやれ、ご苦労なことだ」
日に焼けた背の高い初老の男が、わざと聞こえるように大きく舌打ちする。ヴァムジェ人が好んで着る厚手の長衣《ながぎぬ》で身体《からだ》を隠《かく》しているが、体格がいいのはすぐにわかった。どうやら、こちらが大使らしい。
散々待たせておいて失礼ね――そう思いながらも、ルフィは別の人物に目を奪《うば》われていた。
廊下で大使と激しく言い争っていたのは、彼女と同じくらいの年頃《としごろ》の青年だったのだ。それも、色白で華奢《きゃしゃ》な感じのする美形の……。
ルフィが彼に見とれている間に、机に両手をついた大使が咳払《せきばら》いする。
「ケネス・オラクルスだ」
軽く背伸《せの》びしたルフィは、顔を上げ、オラクルスと名乗った体格のいい男の目を真っ正面から見返した。彼の身体からは、この部屋《へや》と同じ、埃《ほこり》と汗の匂いが漂《ただよ》ってくる。
貴族の合議制で成り立っているヴァムジェでは、議席を金で買う商人貴族は珍《めずら》しくない。だが、彼は少しも貿易商人らしく見えなかった。
傭兵《ようへい》あがりだろうか? それで今の地位にまでなったのなら、彼は乱暴な方法で得た資金を、平和なときにきちんと運用する才にも長《た》けていることになる。
その、鋭《するど》い目つきのヴァムジェ人が、鼻を鳴らして言った。
「用件はなんだ? 言っておくが私は貴国との交渉《こうしょう》で忙《いそが》しい。なるべく手短にな」
忙しいと言っておきながら、オラクルスは明日にも首都ロマヌアへ発《た》たねばならないとか、ロマヌア政府と通商条約の交渉がある……などと、こちらを威嚇《いかく》するためにまくしたてた(隣《となり》にいる美青年が誰《だれ》なのか、紹介《しょうかい》さえしないで!)。
「事件のことは、すでにご存じのはずですが?」
ルフィは、オラクルスの言葉を遮《さえぎ》るように言った。
威圧《いあつ》的な態度をとる相手に、遠慮《えんりょ》する気はさらさらない。
恐《こわ》くて嫌《いや》な護民官になるのは、実は簡単なことなのだ(隣《となり》で青年が目を丸くしているのは気になったが……)。
ふん! と、オラクルスが、また鼻を鳴らした。
「女が来るとはな!」
「私は、ヘイズォト護民官です」
言いながらクルクスを抜《ぬ》く。それをよく見えるよう机の上に突《つ》いて、ルフィは朱房《しゅぶさ》の長い紐《ひも》が巻かれた柄頭《つかがしら》に両手をおいた。
「マキシマス護民官はどうした?」
「あいにくとミレッタは、私の担当区で殺されたので」
「くだらんな。ロマヌア人の非効率的な制度がなければ、我々のほうで調査と報復のための人員を雇《やと》うものを……」
「ここでは違法行為《いほうこうい》です」
「ルストにも、ロマヌアの法の及《およ》ばぬ場所はある。例えば、この商館の中だ」
「ロマヌアの法律をどこまでご存じか知りませんが、護民官を甘《あま》く見ていると後悔《こうかい》しますよ」
「朝から晩まで風呂《ふろ》と法律に首まで浸《つ》かったロマヌア人≠ニはよく言ったものだな」
オラクルスが、彼のいた軍隊でどれだけ偉《えら》かったか知らないが、こうまで高圧的なのは妙《みょう》だ。
これは演技だわ、なにか知られたくないことがあるのよ……。
だったらルフィ、戦術を変えなきゃ! 教本には、こういうときどうしろって書いてあった?
「我が国の国民性をご理解くださるとは嬉《うれ》しい限りです、閣下」
にっこり笑って皮肉を言うと、ルフィは紙の束とペンを取り出した。
「お手間はとらせません。彼女について二、三質問したいだけですから……」
にこにこしながら、さっき書記官たちにした質問をくり返す。
だが、ロマヌアとの交渉《こうしょう》のため先月ルストに赴任《ふにん》したオラクルスは、ミレッタが有能な秘書であること以外には、なにも知らなかった。
「商館が彼女を用意したのだ。ルスト滞在《たいざい》中の秘書としてな。可哀想《かわいそう》に……」
ただ、商館内に滞在している彼は、ミレヅタを最後に見たのが就寝前《しゅうしんまえ》だったと答えた。
「では、閣下は真夜中より前に寝室へいかれたのですね? 確かですか?」
ルフィが言うと、オラクルスは嫌《いや》な顔をした。
「一国の大使を疑うのか?」
「お許しください。非効率な、ロマヌアの護民官のすることです」
と言いつつ、こぼれんばかりの笑顔《えがお》をみせる。
鼻を鳴らした大使は、ここで初めて傍《かたわ》らの青年に声をかけた。
「アリスト、お前は寝る前に私の部屋《へや》に報告に来たな。あれはいつだ?」
「たしか……真夜中より、鐘《かね》三つは前でしたね」
「これでよろしいかな、護民官?」とオラクルス。
ルフィは、うなずくしかなかった。
でも、もし二人で示し合わせていたら……?
彼女が目をやると、線の細い青年は、ヴァムジェ風の挨拶《あいさつ》をしようと手を差し出し、にごやかに微笑《ほほえ》みかけてきた。
「ここは神殿《しんでん》のすぐ裏手で、鐘《かね》の音がはっきり聞こえますからね。ヘイズォト護民官」
「え、ええ……そうね」
握手《あくしゅ》をかわし、ルフィも笑みを返す。
他のヴァムジェ人たちとは違《ちが》って、アリストからは石鹸《せっけん》のいい匂《にお》いがした。ルストの浴場で売っているなかでも、わりと高級な石鹸だ。
そんなことを思っている内に、手の中に、たたんだ紙が押《お》しつけられていた。
ちょっと、これはなんなの? ルフィは顔色一つ変えずに、目でそう訴《うった》えたが、大使に気づかれたくないのか、青年は気づかぬふりをしている。
「あの、あなたは……?」
「アリストです。将軍……いえ、オラクルス大使の設計師をしています」
「設計師ですって? あなたが?」
たしか、起重機や海戦用の兵器といった機械の図面を引く職業だ。どうして、そんな人物を随行《ずいこう》しているのだろう?
「そこまでだ、アリスト」
余計なことを言おうとした部下を制して、大使が咳払《せきばら》いする。
彼の目からは、さっきまでのわざとらしい高圧的な態度はあとかたもなく消え失せていた。
狡猾《こうかつ》な政治家の目つき……。
「彼の仕事は機密|事項《じこう》だ。事件とは関係ない。質問には全《すべ》て答えた。ちがうか、護民官?」
「はい……」
これ以上は探りを入れられそうにない雰囲気《ふんいき》――ここは、ルストであってルストではない。
いわば、ヴァムジェの領土なのだ。あきらめるしかなかった。
「……ご協力、感謝します」
ロマヌア式のお辞儀《じぎ》をして、戸口へと向かう。
「あ、そうだわ」
ドアノブに手をかけたところで、ルフィはクルッとふり返った。
一本に編んだ栗色《くりいろ》の髪《かみ》が、扉《とびら》に当たって小さな音を立てる。
「オラクルス大使、あと一つだけ……」
「なんだ?」
「首都ロマヌアでの交渉《こうしょう》があるのに、なぜルストに滞在《たいざい》を?」
「そ、それは四頭の獅子《しし》″を……私のガレー船を改修しているからだ」
不意を突《つ》かれて口を滑《すべ》らせたオラクルスは、渋《しぶ》い顔で窓の外を指さした。
北港のはずれにある造船区画だ――ルフィは、素早く方角を見定め、建物を記憶《きおく》する。
オラクルスが言った。
「目を離《はな》すとロマヌア人はすぐにさぼるからな。雇《やと》い主が誰《だれ》か常にわからせてやる必要がある」
「なるほど。だったら、職人たちもいやというほど思い知ったことでしょうね。雇い主のヴァムジェ人が、ガミガミと口うるさい奴《やつ》だって事が……!」
精一杯《せいいっぱい》、可愛《かわい》らしい笑顔《えがお》のままでそう言ってのけると、ルフィは大使の反応を確かめもせずに勢いよくドアを閉めた。
商館を出てから、握《にぎ》りしめていた右手をそっと開く。
手の中にあるのは、四つ折りの小さな紙片……。
ルフィが大使と話している隙《すき》に、あの知的な感じのする青年が走り書きしたメモだった。
「なんのつもりかしら……」
ちょっとドキドキしたり、困ったりしながら、紙を広げる。
そこには、繊細《せんさい》な筆跡《ひっせき》で一行だけ書かれていた。
「『護民官、内密に話したいことがあります。今夜、北港の黒い鳩《はと》の店≠ノて』か……恋文《こいぶみ》じゃないことだけは確かね」
小首を傾《かし》げるルフィ。
大使のオラクルスは、明らかに何か隠《かく》している。
その部下の設計師が、あたしを呼び出した。
罠《わな》だろうか? でもなんのために? ミレッタの死と関係があるの?
どうしよう。行くならワイリーと一緒《いっしょ》のほうがいいわよね……。
そこまで考えたところで、美しいアリストの屈託《くったく》のない笑顔が浮《う》かんだ。ついでに、必死で弁解していたバカネズミの顔も……。
ルフィは、思わず口に出して言った。
「いいえ、ルフィ! あなた一人で行くのよ、絶対に!」
U
ワイリーは、商人の目玉から抜《ぬ》いてあった投げ短剣《たんけん》をつかんで、ひょいと放《ほう》り投げた。
柄《つか》に独特の彫《ほ》り細工がある。ヴァムジェ人が好んで用いる武器だ。
傍《かたわ》らの暗がりには、物言わぬ死体が二人、静かに横たわっていた。
闇《やみ》の中をくるくると回って落ちてくる細身の刃《やいば》を、彼は器用につまみとった。同時に反対の手で広げていた布にそれをくるみ、それをベルトの袋《ふくろ》にしまう。
「あんたらは、もうしばらくここで我慢《がまん》だな……」
商人とミレッタを見おろして、彼はすまなそうにつぶやいた。
遺体保管所――この地下室は、護民長官の役宅の目立たない一画にある。単なる身元不明の行き倒《たお》れなら他に引き取られるが、犯罪や魔法《まほう》がらみの亡骸《なきがら》は、一定期間ここに留め置かれることになっていた。
「んで、証拠品《しょうこひん》を持ち出すには長官の許可をもらう……っと。やれやれ面倒《めんどう》くせえな」
ぶつくさ言いながら、ワイリーは光の差す生者の世界へと階段を登った。
保管所の扉《とびら》を開けると、胸の悪くなるような臭気《しゅうき》が、さわやかな花々の香《かお》りにとって代わる。
役宅の中庭は、ちょっとした庭園になっていた。南国産の観用植物が、ところせましと植えられている。冬でも暖かいルストならではの光景だ。
クレニッスの白い花の香りがして、思わず苦笑する。
頭上から声がしたのは、そのときだった。
「よお、針金ネズミ=A昼飯をつき合わんか?」
眩《まぶ》しげに顔を上げると、明るい中庭に張り出したテラスから白髪《はくはつ》の老人がのぞいていた。
ルストの護民官を束ねるプリニウス長官に声をかけられ、護民官助手が逆らえるわけがない。
しかし、ワイリーは護民官の序列など気にしなかった。あくまでも、ルフィの助手なのだ。
彼は肩《かた》をすくめて言った。
「美味《うま》いもんを食わせてくれるんなら、つき合わないでもない」
「セグエのマリネがあるが……」
聞いただけで唾《つば》がわいてきた。
セグエは、ルストを含《ふく》む大きな湾に回遊せず居着いている鯖《さば》の一種だ。安いが美味い。
相変わらず食えねえ爺《じい》さんだ、人の好みを心得てやがる――。
「のった!」
テラスへと駆《か》け上がったワイリーは、役宅の主より早く食卓についていた。
中庭に張り出したテラスは、午後を回っても日当たりがよく、心地《ここち》よい暖かさだった。
「なにやら、厄介《やっかい》なことになっとるようだな……」
プリニウスが、口をもぐもぐさせながら言った。
ワイリーは気にもしなかった。
実に満足のいく昼食だったし、彼は証拠品の持ち出しもあっさり許可してくれた。それに、行儀《ぎょうぎ》が悪いのはお互《たが》い様だ。
「厄介だ? 身元はすぐわかったさ。あいつは自分の倉庫に行く途中《とちゅう》だったんだ……」
そう言って、セグエの最後の一切れをつまんでパンにのせ、かぶりつく。
飲みこむまでの間に、彼はわかったことを話して聞かせた。
殺された男はハテリウスという名で、小麦の仲買人だ。現場近くに倉庫を所有しているが、家族は別の都市に住んでいるらしく連絡《れんらく》はまだ取れていない。
「プリニウス、それより教えて欲しいことが……」
「まあ待て、わしが厄介と言ったのは死んだ男のことではない」
「ヴァムジェ人のことか?」
「そうだ。議会には、あの国ともめ事を起こしたくないと思っている者が大勢いる。何かあると、上から圧力がかかるかもしれん。あの娘《むすめ》が無茶をしなければいいのだが」
「まさか! いくらルフィでも、そのぐらいは心得てんだろ」
「甘《あま》いな針金ネズミ=Bもう少し、あの娘のことをわかっとると思ったが……なんだ、そういう仲じゃないのか」
ルフィを孫のように思っているプリニウスが、探るような目で見つめる。
またしても、『レガミラの盗賊《とうぞく》』を引き合いに出されそうな気配。
ワイリーは早口でまくしたてた。
「爺《じい》さん、くだらないこと言ってないで教えてくれないか?」
食後の茶をすすった老人は、ニヤニヤと意地悪く笑った。
「おやおや、ロマヌアの悪魔《あくま》が話をそらすので精一杯《せいいっぱい》とはな……」
「そうじゃない! まじめな話だ。いいか、俺《おれ》はこの半年、きちんと護民官助手を勤めてきた。ルフィを手伝って、屑《くず》みたいな悪党どもを何人も捕《つか》まえた。それでも俺は、助手をやめたとたん縛《しば》り首になるのか?」
「当然だ、お前さんの処分は決定|事項《じこう》だからな。まあ、二十五万七千五百コレクタを国庫に返せば、交渉《こうしょう》の余地はあるが」
二十五万七千五百コレクタ――二年前、耳≠ェ企《くわだ》てた陰謀《いんぼう》のどさくさに紛《まぎ》れて、ワイリーがかすめとったロマヌア政府の金塊《きんかい》だった。まともな手段では、到底《とうてい》返せる額ではない。
プリニウスは笑うのをやめて、声をひそめた。
「気をつけろよ。法廷《ほうてい》は、ルフィに一杯食わされたと思っている。チャンスがあれば、お前さんを処刑台《しょけいだい》に送ってやろうと待ちかまえとるんだからな」
ルフィがワイリーを護民官助手に任命したばっかりに、泥棒《どろぼう》の針金ネズミ≠ェ大手をふって街を歩いているのだ。ロマヌアの法廷が、これを面白いと思うはずがない。
「そうか、まずかったな。ちょいと早まったか……」
ぽつりとつぶやくと、ワイリーは勢いよく立ち上がった。
「ご馳走《ちそう》さん。お返しに、そのうち我が家の晩餐《ばんさん》にでも招待するよ」
「そいつはありがたいが……」
怪訝《けげん》そうに見上げるプリニウス。
テラスを後にしたワイリーは、階段を三段おりたところで立ち止まった。
ルフィの癖《くせ》がうつったな……。
そう思いながら、苦笑まじりにふり返る。
「もう一つ。ケイヌーンって言葉に聞き覚えはないか?」
「たしか……内海の南の辺境、ずっと奥地《おくち》に住んでいる蛮族《ばんぞく》だったか。詳《くわ》しくは知らん」
首を傾《かし》げたプリニウスは、ネウトスなら知ってるだろうとつけ加えた。
この時間なら、彼はまだ近くの浴場にいるだろう……とも。
「ネウトスか」
この仕事を始めてから何度か世話になった。長官の友人で、南方生まれの太った魔術師《まじゅつし》だ。
プリニウスは、彼の口調から妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》を感じ取ったらしく、ワイリーを見つめて言った。
「針金ネズミ=Aルフィを頼《たの》んだぞ」
「言われなくても、そのつもりだ」
爺《じい》さんは『レガミラの盗賊《とうぞく》』を知らないようだ。
少しホッとしながら、ワイリーは力強くうなずいた。
日溜《ひだ》まりの中、ヌゥライは大きな蟻塚《ありづか》のような屋根の上で、じっと動かずにいた。
日の光はもちろんのこと、下で火を焚《た》いているのか屋根そのものも暖かい。故郷を思わせる心地《ここち》よさだ。しかもありがたいことに、この暖かな建物は街のあちこちにあった。
ルストに来れば、すぐ終わると思ったのに……。
風が運んでくる匂《にお》いを探りながら、彼女は戸惑《とまど》っていた。
街路を漂《ただよ》う匂いは、複雑に混《ま》じり合って、正体のわからないものもたくさんある。
だが、自分はケイヌーンなのだ。たった二つの匂いを追いかけられないわけがない。
ごく近いところまで来ているのは確かだった。
あの死体についていた匂い……あいつは間違《まちが》いなく、この街のどこかにいるのだ。
なのに、どうして突然《とつぜん》、匂いが消えてしまうのか?
それにもう一人……弱いロマヌア人のくせに、ヌゥライの泥面《どろめん》を脱《ぬ》がせた、あのネズミの匂いの男。そっちの匂いは逆に、そこら中に漂っていた。
街はサビネズミで一杯《いっぱい》なのだ。だから、見つけられないでいる。
とはいえ、ネズミの男のほうは、通りそうな道の見当がついていた。
探すのは夜になってからだ。
と、風向きが変わって、屋根に開いた格子状《こうしじょう》の穴から湯気が漂ってくる。
その暖かさと、湯気に混じった匂いに、彼女は泥面の内側で頬《ほお》をほころばせた。
うっとりするような、良い香《かお》り――牛の乳やカモシカの肉とは違う、なにか不思議な香りだ。
立ちのぼる湯気を見つめて、ヌゥライは首を傾《かし》げた。
いったい、この建物は何なのだろう……?
「こんなとこに入る奴《やつ》は、まともじゃないぜ!」
たいして浸《つ》かってもいないのに、ワイリーはすぐに音を上げて湯船から飛び出した。
沸《わ》かしたての湯が注がれる第一|浴槽《よくそう》は、まるで熱湯だ。
ふうふう言って、大理石の浴槽の縁《ふち》に腰《こし》を下ろす。
「なんだ、ルスト生まれのくせに、だらしないな」
熱い湯の中で大きな身体《からだ》をゆすって、ネウトスが笑った。笑い声が高い天井《てんじょう》に響《ひび》いて、脂肪《しぼう》がたっぷりとまとわりついた褐色《かっしょく》の肌《はだ》がブルブルと震《ふる》える。
ロマヌアでは、どんな階層の者でも街中にある公衆浴場を利用できた。ルストだけでなく、この国の都市ならば(首都ロマヌアでも!)どこでもだ。
浴場には、温度の異なるいくつもの浴槽《よくそう》だけでなく、食事や談話、マッサージなどを楽しみ、身体《からだ》を鍛《きた》えるための、さまざまな施設《しせつ》が用意されている。
「あんたに、教えてもらいたいことがある」
ワイリーが言った。
「そうくると占《うらな》いに出ておったよ。耳≠ノ筒抜《つつぬ》けだが、構わんのかな?」
「ああ。今回は、奴《やつ》らはからんでない……と、思う」
ロマヌアが外交に長《た》けているのは、情報の収集と伝達を任務とする耳≠ェあればこそだ。この組織は、商人を主とした情報提供者によって成り立っていた。ルストで魔術師《まじゅつし》を営むネウトスは、プリニウス長官の友人でありながら、その耳≠ヨの協力者でもあるのだ。
もっとも、耳≠ェ聞き耳をたてるだけの連中でないことは、ワイリーもネウトスも半年前の事件で思い知らされていた。
「ケイヌーンってのはなんだ?」
疑問を口にすると、ネウトスは妙《みょう》な顔をした。
なにかを懐《なつ》かしむような、それでいて恐《おそ》れてもいるような顔……。
「一度だけ会ったことがある。わしは内海の向こうの小さな村に生まれ、若い頃《ころ》はヴァムジェに住んでいた。もっと痩《や》せていた、ロマヌアで魔術師の修業を始めるずっと前のことだ……」
ネウトスによれば、ケイヌーンはヴァムジェの人々と交わることなく辺境の奥《おく》にひっそりと暮らしている蛮族《ばんぞく》だった。
「血を混《ま》ぜないというだけで、交易はしている。ヴァムジェの商人たちは、危険を冒《おか》して草原の奥地に分け入り、彼らの集落で象牙《ぞうげ》や毛皮を買いつけるんだ」
「狩《か》りがうまいってことか?」
ネウトスがうなずいた。
「すぐれた狩人《かりゅうど》だ。殊《こと》に、一つの氏族に数人しかいないケイヌーンの戦士は恐ろしい。戦うときは人間の能力を超《こ》える……そう言われている」
戦士は代替《だいが》わりして受け継《つ》がれる。ケイヌーンの若者は、草原に住む獅子《しし》を一人で倒《たお》して初めて、戦士として認められるのだ。
「これには恐ろしい説があってな、戦士は自らを生《い》け贄《にえ》にして、次の戦士にその力を伝えるのだそうだ。くだらん迷信さ、わしが思うに魔法の応用だ。つまり……」
ネウトスはいつものように難解な用語を使ってペラペラとまくしたてたが、ワイリーはロマヌアの悪魔に相応《ふさわ》しい冷酷《れいこく》さでこれを完全に無視し、次の質問をした。
「野蛮《やばん》なのか? 人を襲《おそ》って食ったりとか?」
「まさか! 文化は異なるが、誇《ほこ》り高く、勇敢《ゆうかん》で誠実な人々だよ。ただし、ケイヌーンの掟《おきて》はとても厳しく、なにがあろうと彼らは絶対に掟を守るそうだ」
「掟ねえ……」
「ま、ロマヌアの法律ほどじゃないだろうがな」
ネウトスが茶化すように言った。
ワイリーはヌゥライの奇妙《きみょう》な面のこともたずねてみたが、さすがのネウトスも、ケイヌーンの未婚者《みこんしゃ》が「泥面《どろめん》」なるものをかぶることぐらいしかわからない。
「針金ネズミ=Aもしかしてあんた、このルストでケイヌーンに会ったのか?」
彼にそう聞かれて、ワイリーはうなずくしかなかった。
「女の戦士だと思う。よくわからんが、なぜかそいつに命を狙《ねら》われてる……」
熱湯に浸《つ》かった魔術師《まじゅつし》の、褐色《かっしょく》の頬《ほお》が、すっと色あせる。
「そりゃ助からんぞ、最悪だ!」
「これが最悪なら、まだましさ。つけ狙われるのは慣れてるよ」
護民官の怒《おこ》った顔を思い浮《う》かべて、ワイリーはため息をついた。
V
夕食の入った木鉢《きばち》やカゴを両手いっぱいに抱《かか》えたルフィは、護民官事務所の石段を上がり、扉《とびら》の前で立ち止まってさりげなく辺りを見回した。
事務所は、彼女の担当区のほぼ中央にある。職人や小売商が多い通りに面しているので、夕方をすぎると人通りは少なかった。
「ちょっと買いすぎたかなあ」
大丈夫《だいじょうぶ》、誰《だれ》も見ていない。
ルフィは、ひょいっと片足を持ち上げた。
ブーツの先で取っ手を下げて、押《お》し開いた扉のすき間から滑《すべ》りこむ。
がらんとした部屋《へや》の中は、西日が差しているだけで薄暗《うすぐら》い。
「ワイリーのやつ! また寝《ね》て――」
っと、怒らないんだったっけ! 出かかった文句を途中《とちゅう》で呑《の》み込む。
今朝《けさ》の彼の妙な態度は、きっとなにかちゃんとした理由があるのだ(なかったら?)。それがわかるまで、怒らないで弁解でも何でも聞く……そう決めた。
「ま、そのうち起きてくるでしょ」
荷物を置いて一息ついて、ランプに火を灯《とも》す。
書棚《しょだな》や物入れの他は、机や椅子《いす》が二組あるだけの殺風景な部屋だった。続き部屋には、湯沸《ゆわ》かし用の小さな竈《かまど》や、テーブル、長椅子などがあって、もう少し生活感がある。
あとは地下に小さな牢屋《ろうや》、屋根裏には仮眠《かみん》用の寝室《しんしつ》――こうした、中庭のない小さな事務所がルストの各地にある。護民官のそれとわかるよう、どれもみな同じ設計と施工《せこう》でだ。
何回か深呼吸すると、ルフィは気を取り直して机に向かった。
ヴァムジェ商館での調書を、日誌にまとめないといけないのだ。
秘書のミレッタのこと、オラクルスの怪《あや》しい様子、アリストのこと――右手が忙《いそが》しくペンを走らせる間に、左手は買ってきたパンに(マスリック人のように)肉やサラダをはさんでは、口へと運んでいる。
過去の記録を検索《けんさく》するときだけは、口の中のものをきちんと飲みこまないといけなかった。
本の虫≠ノ正確に単語を告げないといけないから――中指ほどの長さで栞《しおり》のように平べったい虫たちは、サワサワと素早くページの間にもぐり込んでは、必要な言葉を探し、自分たちの巣に書き写してくれる。
事務所にある巣は、図書館にあるような大型の本ではなく小さな帳面だし、虫も十|数匹《すうひき》しかいない安物だが、ルフィの仕事にはそれで充分《じゅうぶん》だった。
「ふうん。ここ五年間で同じような事件はなし……か」
いつもなら、近くに借りている自宅に帰って夕食にするのだが、今夜はこうするしかない。
このあと、アリストに会いに北港に行かなければならないからだ。
「オラクルスが隠《かく》している何かと、秘書の死は関《かか》わりがあるのかしら?」
ペンを止めて、ルフィはつぶやいた。
お風呂《ふろ》でも散々考えたのだが、答えは見つかっていない。それに、もう一人との関係も……。
そこまで考えて、彼女はワイリーに頼《たの》んでいたことを思い出した。
「被害者《ひがいしゃ》の身元はわかったの?」
屋根裏へと上がる階段を見上げて声をかけたが、返事はない。
ルフィは少し優しい声で言った。
「ねえ、ワイリー? 夕食、あなたの分も買ってあるのよ」
やはり、返事はない。
「起きなさい! ワイリー・マイス!」
サビネズミが怯《おび》えるほどの大声――それでも、屋根裏は静まり返っていた。
ルフィが立ち上がる。
無言でクルクスを抜《ぬ》いたときには、もう階段を半分ほど上っていた。
ノックもせずにドアを開ける。
寝床《ねどこ》は空っぽだった。たたんだ毛布の上に書き置きがある。
「なによ……これ?」
階段を下りながら、ルフィは手紙を広げた。
一枚目には殺された男――ハテリウスというらしい――の捜査《そうさ》報告が事細かに記されている。
ざっと目を通して、二枚目に移った彼女は息を呑《の》んだ。
[#ここから2字下げ]
護民官へ。
あんたにやめろと言われた以上、俺《おれ》はもう護民官助手じゃないってことだ。
縛《しば》り首はごめんなので、出ていくことにする。
解任を取り消すまで、会わないからそのつもりで。
まさかとは思うが、俺を捜《さが》したりするなよ。
そんな暇《ひま》があったら、ヴァムジェ人どもを調べろ。
この事件は、なにか裏があるはずだ。
[#地から2字上げ]針金ネズミ
[#ここで字下げ終わり]
「バ、バカネズミ! なに考えてるのよ!」
こんなの、あたしの追求から逃《のが》れる口実に決まってる……そう思いながらも、少しずつ不安になってくる。
落ち着きなさい、ルフィ。なにかわけがあるのよ、きっとそうよ。たぶん。そうだといいんだけど……。
ノックの音がしたのは、そのときだった。
扉《とびら》を開けると、石段を下りたところに、二人ほど護衛の兵士を連れた役人が立っている。
護衛は法廷《ほうてい》の旗印を掲《かか》げていた。
法廷からの使者が、薄《うす》い唇《くちびる》を歪《ゆが》めて言った。
「ヘイズォト護民官ですな?」
「はい。なにごとです?」
「あなたが、針金ネズミ≠解任したとの報告があったのだが」
「えっ!?」
いくらなんでも早すぎる! ワイリーと言い争ったのは今朝《けさ》のことだ。単なるケンカが、解任の事実にされようとしている。いったい誰《だれ》の仕業なの?
スッと踵《かかと》を持ち上げて、ルフィは言った。
「なにか誤解があるようですね。今夜は殺人事件の捜査《そうさ》で取り込み中ですので、明日にでもプリニウス長官の役宅にいらしてくだされば、きちんと説明できると思いますが?」
「ほう……」
相手が自分と同じように背伸《せの》びをする。事務所の奥《おく》をのぞこうとしているのだ。
ルフィは、慌《あわ》てて後ろ手に扉を閉めた。
「明日、必ずお話しします」
「わかりました。では明日……」
あまりに不自然だ。なぜ法廷の動きがこうまで早いのか、さっぱりわからない。
彼らが引き上げたあと、ルフィは呆然《ぼうぜん》として薄暗い事務所に立ちつくしていた。
どうしよう……。
解任していないと言い張っても、逃《に》げたワイリーが彼らに捕《つか》まれば終わりだ。
「あの連中、どんな難癖《なんくせ》をつけてくるかわかったもんじゃないもの」
自分が嘘《うそ》をついては、あとで余計に厄介《やっかい》なことになる(あとがあればの話だが)。
明日までにバカネズミを見つけて、仲直りするしかない……でも、なんであたしが?! 釈然《しゃくぜん》としないが、他にいい手を思いつかなかった。
ワイリーを見つけるには、あれしかない。
意を決したルフィは、暗がりを見つめて息を吸い込んだ。
「答えて……。いるんでしょ?」
部屋《へや》のあちこちから、背筋の寒くなる、カサカサという足音がした。
屋上での作業を終え、天窓をそっと開けたワイリーは、足音一つさせずに梯子《はしご》を下りる。
造船技師のおかみさんが、こちらを見上げる気配がした。
「いつまでいるつもり?」
寝起《ねお》きだった昨日とは違《ちが》う、張りのある声だった。
迷惑《めいわく》そうな口調ではない。
「とりあえず、夜中まで寝かせてくれ……」
彼が答えたとたん、目を覚ました赤ん坊《ぼう》が部屋《へや》の隅《すみ》で泣きだした。
「すまん……」
平謝りの居候に、おかみさんがくすくす笑った。
彼女は、赤ん坊を抱《だ》き上げてあやしている。ふつふついっている鍋《なべ》をかき混ぜながらだ。
仕切りのない大きな部屋。食堂でも居間でもあり、寝室《しんしつ》でもある――ルストの借家には、ありがちな間取りだ。
「しばらく、かくまってもらえると助かるんだが……」
「さては、護民官にばれたのね?」
彼女は、こちらに背を向けたまま、クックッと笑いをこらえている。
ワイリーは不機嫌《ふきげん》そうに、どさっとベッドに寝ころんだ。
「半端《はんぱ》にばれた。ひどい誤解をしてる。最悪だ」
「いっそ、ホントのことを話して謝ったら?」
そんな、こっ恥《ぱ》ずかしいことができるなら苦労はしない。
「なんで俺《おれ》が! 冗談《じょうだん》じゃない! あいつが勝手に誤解したんだぜ」
意地を張って、ふてくされたように、ごろりと寝返りを打つ。
ややこしいことになったのは、なにもかもヌゥライのせいだった。
ケイヌーンの戦士だろうがなんだろうが、襲《おそ》ってきたところをとっつかまえてやる。
あの娘《むすめ》は犯人を見ているかも知れないし、ヴァムジェ人とも無関係ではないはずだ。
ルフィが真っ当な捜査《そうさ》をする間に、こっちはその線を……と、伸《の》びをしたワイリーは、大きな欠伸《あくび》を途中《とちゅう》で引っこめた。
カサカサッと足音がしたのだ。
子守歌を口ずさんでいるおかみさんからは見えないように、サビネズミが一匹《いっぴき》、顔を出す。
(盟主……)
「なんだ? 出てくんなって。ヌゥライを捕《つか》まえる用意をしとけ」
ふてくされた顔のまま、ワイリーは小声で叱《しか》った。
(クレニッスの花≠ノ、盟主の居場所を聞かれたが?)
「なにっ!?」
(予想通りの反応だ)
「お、おい、まさか……?!」
(解答は曖昧《あいまい》な表現にとどめている。位置を特定される心配はない)
「本当に大丈夫《だいじょうぶ》なのか? これ以上、あいつを怒《おこ》らせると……」
(盟主よ、我らは事実しか述べない。忘れたか?)
「だから心配なんだろが」
キョトンとした顔で鼻をヒクヒクさせているサビネズミを、彼は疑わしげに睨《にら》んだ。
(昨日と同じだ……)
無機質な声が、ルフィの質問に答えた。
(盟主は、若い女の個体の住居にいる)
「なんですって?!」
ルフィの声に気圧《けお》されて、小さな光の群が遠ざかった。
暗闇《くらやみ》には、無数の瞳《ひとみ》が輝《かがや》いている。集まってきたサビネズミは何匹《なんびき》いるかわからなかった。
(詳細《しょうさい》な情報を欲しているか?)
「当たり前でしょ、教えて頂戴《ちょうだい》」
(了解《りょうかい》……)
しばしの沈黙《ちんもく》の後、ネズミたちの声がした。
(盟主は、ベッドに横たわっている)
(女が笑った)
(時々、泣き声も聞こえる)
「んな! な、なによそれ?! どういうことなの?」
こんなに心配してるのに。
あんまりだ。
(それと……)
錆色《さびいろ》の血族≠ェ言い淀《よど》んだ。こんなことは初めてだった。
ワイリーがなにか命じたのだろうか? 首を傾《かし》げている間に声がした。
(それと、盟主はクレニッスの花≠ノ謝罪しないと言っていた)
ルフィの眉《まゆ》が、キッとつり上がる。
「ああらそうですか! もう知らないわ、勝手に縛《しば》り首にでもなんでもなればいいのよ!」
(クレニッスの花≠ェどうしているか教えるよう命じられているが)
(なにか伝言はあるか?)
「伝言ですって?」
イライラした口調でそう言ったルフィが深く息を吸いこんだとたん、サビネズミたちの間に緊張《きんちょう》が走った。
(注意……)
(各個体は、音波|攻撃《こうげき》に備えよ)
(過去にヘルドアの血族が二十個体はショック死している)
ルフィは怒鳴《どな》ったりしなかった。
代わりに、とてつもなく大きなため息を一つ。
やっぱり、縛《しば》り首は困る。彼女は言った。
「伝えなさい、あたしの予定はね……」
「夜中に、北港で男と待ち合わせてるだと?!」
声を上げたワイリーは、慌《あわ》てて口を押《お》さえた。対岸の港だ、夜中に会うってことは、帰りは間違《まちが》いなく朝になる。護民官のやつ、昼間ちゃんと仕事をしてたのか?
「いったい誰《だれ》に会うんだ……」
ワイリーは赤ん坊《ぼう》を起こさないように小声でつぶやいた。
(我らも詳細《しょうさい》はわからない)
顔をのぞかせたサビネズミは、三匹《さんびき》に増えている。
(クレニッスの花≠フ話を要約すると……)
(インテリ)
(若い男)
(色が白く、脆弱《ぜいじゃく》そうな個体)
「ははあ」
面白くなさそうに顔をしかめるワイリー。
ルフィの好みのタイプだ。なんとなく、そんな気がした。
(それと……)
「ああ、早く言えよ」
(……その個体はヴァムジェの出身だ)
「なんだと?」
ワイリーの目が、すっと細くなった。
[#改ページ]
第三章 ヴァムジェ人の設計師
T
夜の海を、一|艘《そう》のゴンドラが滑《すべ》っていく。
遠くの防波堤《ぼうはてい》に守られた水面は、鏡のように穏《おだ》やかで、月の光にさざ波がきらめいていた。
時折、櫂《かい》が滴《しずく》の音をたて、海からの風は少し生暖かい。
ルフィは舳先《へさき》の近くに腰《こし》かけ、膝《ひざ》を抱《かか》えたまま、じっと行く手を見つめていた。
光り輝《かがや》くイナの女神《めがみ》像を右手にかすめ、船は北地区へと入っている。
街の灯《あか》りは中庭から上に抜《ぬ》けるので、港から小高い丘《おか》へと続く斜面には、ぼんやりとした夜景が広がっていた。
疲《つか》れて歩くのがいやなときは、水上散歩も悪くないとルフィは思った。
後ろで櫂を操《あやつ》っている、口数の多い船頭《せんどう》をのぞけばだが……。
「北の港はなじみが多くてね。どこでも案内しますぜ、護民官」
灯台のほうへ回ってから岸につけてくれと頼《たの》んだだけなのに、ゴンドラ乗りは勝手にルスト湾の案内まで始めていた。
ルストは、半島の西側、大きな湾の中央にあって、船乗りたちは独特なカーブを描《えが》くこの湾を母なる海の乳房《ちぶさ》≠ニ呼んでいる――そのぐらい、彼女だって知っていた。
ルストの港が、湾からさらに入江になっているからだ。
「つまり、ここは母なる海の乳首≠チてわけで……」
「少し静かにしてくれない?」
ルフィは、ふり向きもせずに言った。
ゴンドラで来たのは、歩くのが面倒《めんどう》だからではない。オラクルスの船を確かめるためだ。
「休みなしで、作業をしてるみたいね」
造船区画を見つめて、彼女は目を細めた。
目当ての乾《かん》ドックは、ランプの明かりですぐにわかった。
掘り割りの斜面に引き上げられたガレー船は、周囲に組まれた足場に隠《かく》されていた。マストの先と舳先の飾《かざ》り――四つの獅子《しし》の彫刻《ちょうこく》――だけが、そこから突《つ》き出している。
「あれはヴァムジェ人の船ですよ」
ルフィの視線を追ったのか、ゴンドラ乗りが得意げに説明した。櫂が五段もある巨大《きょだい》な商船で、先月に入港してすぐ、あの工房《こうぼう》と契約《けいやく》して改修作業が始まったのだと彼は言った。
「なんでも、造船技師や職人たちが一人も家に帰してもらえないとか」
「先月からずっと……?」
通り過ぎていくドックを眺《なが》めながら、ルフィはつぶやいた。
ヴァムジェ人が、ロマヌアの工房に大金を払《はら》うなんて妙《みょう》な話だ。彼らの工房だって、ルストのそれに負けていないはずなのに……何故《なぜ》、わざわざここで?
何か裏がある――ワイリーの手紙の文面を思い出して、ルフィは顔をしかめた。
あたしだって彼らが怪《あや》しいのはわかってたわ!
あいつに言われたからじゃないもの!
なによ、あんな風に言えば、きっと来ると思ったのに……。
明日、法廷の役人に何て言えばいいのよ……?
「……着きましたよ、護民官」
ゴンドラ乗りの声がする。いつの間にか、船は岸に寄せられていた。
船乗りを主な客層にしている酒場や宿が軒《のき》を連ねている地域だ。
「ありがと。助かったわ」
ルフィは、ぴょんと桟橋《さんばし》に飛び移った。
帰りは歩くから待たないでいいと告げ、それでも往復分のロマヌア銀貨を渡《わた》してやる。
「こりゃどうも」
「あなた、黒い鳩《はと》の店≠チて知ってる?」
「もちろんでさ」
帽子《ぼうし》のつばをちょいと下げて、ゴンドラ乗りがうなずいた。丁寧《ていねい》に酒場までの道を教えてくれてから、彼は心配そうな声になる。
「柄《がら》の悪いヴァムジェ人やヌディ人の船乗りが集まる店ですぜ。あんなとこへ行くんで?」
「仕事だもの」
ルフィは平然とうなずいた。
「仕事だものか、やれやれ……」
ルフィが路地の奥《おく》に消えると、ゴンドラ乗りは態度を一変させてつぶやいた。
さっきまでのヘラヘラした甲高《かんだか》い口調は消え失《う》せている。目深《まぶか》にかぶっていた帽子を船底に放って、目立つ色のゴンドラ乗りの衣装《いしょう》を脱《ぬ》ぐと、下から暗い色のゆったりとした服が現れた。
「ケイヌーンの戦士とやらも、水の上は歩けねえだろ」
変装を解いたワイリーは、桟橋にゴンドラをもやいながらつぶやいた。
ルフィは全く気づいていないはずだ。ネズミたちの情報から、先回りしてゴンドラを借り受け、本物とすり替わった――針金ネズミ≠ノとっては、大した離《はな》れ業《わざ》ではない。
「どこの馬鹿《ばか》だ? こんな夜中にあんな店にうちの箱入り護民官[#「うちの箱入り護民官」に傍点]を呼び出しやがって」
顔を拝んでやる……ワイリーは憤然《ふんぜん》として、ルフィの消えた路地へと歩きだした。
異変に気づいたのは、そのときだった。
「ん? おい、どうした?」
サビネズミの気配がない。
馬鹿な!? 周りにいて警戒《けいかい》しろと言っておいたはずなのに……!?
ヌゥライだ! どうやって?
まずいと思うより先に身体《からだ》が動いていた。
後からの一撃《いちげき》を辛《かろ》うじてかわす。
槍《やり》の穂先《ほさき》が頬《ほお》をかすめ、血しぶきが飛んだ。自分の血ではない。
穂先が引っ込むとき、そこに三匹のサビネズミが串刺《くしざ》しになっているのが見えた。
背後の暗闇《くらやみ》の中、泥面《どろめん》の奥《おく》からケイヌーンの少女の声がする。
「ネズミの匂《にお》いの男よ、ケイヌーンの掟《おきて》だ……殺す!」
「だから、俺《おれ》が何をしたってんだ!」
ワイリーは、民家の赤い壁《かべ》を蹴《け》った。風を通すための石材のすき間に指をひっかけ、一気に平屋根の上によじ登る。
背後で舗装路《ほそうろ》を蹴る音がした。あのジャンプだ。
ふり返るほど馬鹿《ばか》ではない。ワイリーは猛《もう》スピードで走り出していた。
生まれ育った北の街並《まちな》みを頭に浮《う》かべながら、隣《となり》の屋根へと飛び移る。
どうする?
錆色《さびいろ》の血族≠ニの契約《けいやく》により、彼が一日に拘束《こうそく》できるサビネズミは二十四|匹《ひき》だ。
ここにいる一匹を別にすると、あと十九匹。
ヘルドアのサビネズミと違《ちが》って、ルストの錆色の血族≠ヘ前借りは認めない主義だ。
ヌゥライの気配を背後に感じる。
どうする……?
(盟主、注意せよ)
ここでようやく、袖《そで》の中に忍《しの》ばせた一匹から声が聞こえてきた。
(何者かが計画的に我らの布陣《ふじん》を攻撃《こうげき》している……すでに四個体を失った)ってことは、あと十八匹か。
「気づくのが遅《おそ》すぎるんだよ!」
ワイリーは、やけ気味に悪態をついた。
U
黒い鳩《はと》の店≠ヘ、崩《くず》れかかった倉庫のような酒場だった。
年季の入った板壁は、タールか何かで真っ黒に塗《ぬ》り固められている。扉《とびら》の上には、白い線でへたくそな鳩の絵が描《か》かれていた。とても、あの青年に似合いの店とは思えない。
でもまあ、外見で判断しちゃよくないわ……そう思い直し、扉に手をかける。
とたん、汚《きたな》い油で指がベトベトになった。
「うわ……やだ、もう!」
張りつめていた気持ちが一気に萎《な》えて、少し心細くなる。反射的に傍《かたわ》らを見上げていた。
いつもなら、碧色《あおいろ》の瞳《ひとみ》が見返してくれている辺《あた》りを。
半年前まで一人でやってたでしょ! しっかりなさい、ルフィ!
グイッと扉を開く。
今度は酒と埃《ほこり》と汗《あせ》のごちゃ混ぜになった匂《にお》いが押《お》し寄せてきた。
顔をそらし、吐《は》き気をこらえる。
ヴァムジェ語の怒鳴《どな》り声が耳に飛び込んできたのは、そのときだった。
いくつも椅子《いす》が倒《たお》れ、ガチャガチャッと陶器《とうき》の割れる音。
そして呻《うめ》き声――アリストの声だ!
「やめなさい!」
叫《さけ》ぶが早いか、ルフィは薄暗《うすぐら》い店の中に飛び込んでいた。
騒《さわ》がしくなりかけていた室内が、シンと静まり返る。全員が彼女に注目していた。
あちこちで、「女だ」とささやき合う気配――酒場でのケンカの仲裁は、いつもそうだ。
慣れたもので、その隙《すき》にルフィは素早《すばや》く状況《じょうきょう》を把握《はあく》している。
アリストは、奥《おく》のテーブルで胸ぐらをつかまれていた。つかんでいるのは褐色《かっしょく》の肌《はだ》のヌディ人、太い腕《うで》をしたガレー船の漕《こ》ぎ手だ。そいつは、もう一方の手に抜《ぬ》き身の短剣《たんけん》を握《にぎ》っていた。
店の中には同じような連中が十数人。しかも、みんな妙《みょう》に殺気立っている。
ルフィは背伸《せの》びをして言った。
「乱暴はやめなさい。私は護民官ですよ!」
「はあ、そうですか!」
わざとらしいへたくそなロマヌア語で誰《だれ》かが言って、ドッと嘲笑《ちょうしょう》が響《ひび》く。
どうしていつもこうなのよ……?
一言で済ますつもりだったのに、ロマヌア人の船乗りは一人もいないらしい。
いいわよ、虫の居所の悪い護民官をからかうと、どんな目に遭《あ》うか教えてやる……。
ため息をついたルフィは、すたすたとヌディ人のところまで歩いていった。
「ヘイズォト護民官、危ないから来てはいけませんよ!」
宙づりにされたアリストが悠長《ゆうちょう》なことを言うが、取り合わない。
どんどん近づいていって、ぐいっと上を向く。男の背丈《せたけ》は彼女の倍はありそうだった。
「彼が何をしたっていうの?」
「こいつはな、ロマヌア人みてえに石鹸臭《せっけんくせ》えんだ、酒がまずくなる」
男はニヤニヤと笑って、生臭い息を吐いた。
「いいかげんにしなさい……」と、わざと小声でささやく。
「あん? なんだって?」
相手がおどけて耳を傾《かたむ》けたところで、大きく息を(もちろん鼻ではなく口で)吸ったルフィは、想像を絶する大声で啖呵《たんか》を切った。
「いいかげんにしろっ、この腐《くさ》った魚の目ん玉が! ルストじゃ石鹸臭いのが普通《ふつう》なんだ! そっちこそ、蒸《む》れた足の裏みたいな匂いまき散らしてないで、風呂《ふろ》入って出直してきな!」
「な、なんてぇ声、出しやがる!」
引っ込みがつかなくなった男は、アリストを突《つ》き放すなり、短剣で斬《き》りかかってくる。
「馬鹿《ばか》っ!」
ルフィは、とっくにクルクス・マヌアールスを構えていた。
十字の突起《とっき》で刃《やいば》をとらえるなり、相手の勢いに逆らわず身体《からだ》を半回転させる。
何が起こったかわからないうちに、男は頭から激しく床《ゆか》に叩《たた》きつけられていた。軽く呻《うめ》いて手足をぴくぴくさせ、それっきり動かなくなる。
たっぷり間をおいて、ルフィはおもむろに口を開いた。
「……まだやる? 私は護民官よ」
気を失った男に言ったのではない。周りにいる殺気立った船乗りたちにだ。
ゆっくりと見回して一人ずつ目を合わせていくと、彼らは慌《あわ》てて首を振《ふ》り、何事もなかったかのように背を向けていった。
ルフィは、ホッと息を吐いて席についた。アリストが、呆然《ぼうぜん》とこちらを見つめている。
やだ、あたしったら、また……。
「すみません、夢中だったので、ついその……」
腐《くさ》った魚の目ん玉だの、蒸《む》れた足の裏だのと――真《ま》っ赤《か》になって、うつむくルフィ。
ところが、聞こえてきたのは、彼が懐《なつ》かしげにつぶやく声だった。
「強いんですね……まるで、あのときのケイヌーンみたいだ……」
「はい?」
顔を上げると、アリストが照れくさそうに微笑《ほほえ》んでいる。
「貴方《あなた》を見ていると、ヴァムジェに帰りたくなります」
「はあ」
遠回しに嫌味《いやみ》を言っているのかしらとルフィは思った。
「会いたい人に会えないのは、わりと辛《つら》いものです。そうは思いませんか?」
「ええ、そりゃあ……」
じゃなくて! 思わず心の底から同意しかけたルフィは、ブルッと首を振った。
「アリストさん! 私は内密の話とやらを聞きにきたんですよ」
「そ、そうでした」
彼女が咳払《せきばら》いをして姿勢を正すと、相手もようやく真剣《しんけん》な顔になる。
彼は声をひそめて言った。
「話というのは、将軍の船のことです」
「将軍? ああ、オラクルス大使のことね」
アリストが小さくうなずく。
「傭兵《ようへい》だった頃《ころ》のあだ名です。といっても、僕《ぼく》が雇《やと》われたときはもう商人貴族でしたけどね」
ケイヌーンという蛮族《ばんぞく》の土地に橋をかけるため、彼は二年前にオラクルスに雇われた。
当時のオラクルスは、船主ではなく陸路で稼《かせ》いでいたのだ。隊商を組んで南の奥地《おくち》を訪ねては、象牙《ぞうげ》や毛皮を買いつけて儲《もう》けていたらしい。
「その後、専属|契約《けいやく》をしてルストに送られたんです。ここへ来て、もう一年になりますよ」
「えっ!?」
ルフィは耳を疑った。
石鹸《せっけん》の匂《にお》いに気づいていながら、てっきりオラクルスと一緒《いっしょ》に来たと思いこんでいたのだ。
「どうして、ルストに?」
「僕《ぼく》が聞きたいぐらいですよ。わけがわかりません」
アリストは肩《かた》をすくめてみせた。
「将軍の命令は二つでした。毎日三回の入浴と、これです……」
彼は丸めた羊皮紙《ようひし》の束《たば》をテーブルの上に広げた。
と、天井《てんじょう》でガタガタと音がして、煤《すす》が上から降ってくる。
「やだ……ネズミかしら?」
顔をしかめるルフィ。
「本の虫≠ナ写した図面です、汚《よご》れてもかまいませんよ」
アリストが、ランプを紙の上に置いて言った。
(盟主……)
「どこにいるかぐらいわかってる! 今は話しかけんな!」
ワイリーは、真っ黒に汚れた屋根に飛び移っていた。
木造の古びた屋根を走る、ほんの数歩分、ガタガタと派手《はで》な音がする。
建物の中に逃《に》げる手もあるが、ここはダメだ。下に、ルフィがいる。
ヌゥライは登ってこなかった。どこからか、こちらを見張っているに違《ちが》いない。
針金ネズミ≠ヘ、女子供には手を出さない――無傷で捕《つか》まえられないなら、あの|蛮族の娘《ヌゥライ》と争う気はなかった。
となると、逃げきるしかない。
「あいつはどこにいる?」
(布陣《ふじん》からは索敵《さくてき》不能。我らは、さらに二個体を失った)
「腕《うで》のいい狩人《かりゅうど》ってわけか……くそっ、あと十六|匹《ぴき》だぞ」
(否定……残数は十七個体だ)
「おまえらとは数え方がちがうっての」
と、何者かがタールを塗《ぬ》った壁《かべ》を登ってくる気配がする。
そっちを見張っていたネズミがやられたのだ。
ワイリーは、南北に延びた通りに沿って逃げることに決めた。
「できればでいい、あいつが踏《ふ》み切るときに邪魔《じゃま》をしてくれ」
(肯定《こうてい》……)
思い切り助走をつけて、黒い鳩《よと》の店≠フ屋根を蹴《け》る。
着地点は、そこよりずっと高い位置にあったが、彼はなんとか石壁《いしかべ》の上に降り立っていた。
ルストで屋根伝いに北へ逃げれば、飛び移るのはどんどん辛《つら》くなっていく――規則により、南側に何かを建てるときは、手前の住居より低めに建てねばならないからだ。
「ロマヌアの法律が相手だ。ついて来られるか、ヌゥライ?」
にやりと笑って、ワイリーはつぶやいた。
羊皮紙《ようひし》をのぞき込んで、ルフィは、う〜んと唸《うな》った。
何かの図面なのは見当がつく。たくさん書かれている計算式はともかく、びっしりと並んでいるのは船のオールだろうか。
「これ……なんなの?」
「四頭の獅子《しし》″の図面です」
アリストが答えた。
外|枠《わく》が描《か》かれていないので、とてもそうは見えなかったが、そのつもりで見ると、ルフィにもだんだんとわかってくる。
船というより城を攻《せ》める兵器のような、複雑な仕組みの機械だ。長いオールは、いくつもの歯車やベルトによって一つに連結されていた。左右に五階層もある全《すべ》てのオールがだ。
ゴンドラから見たあのガレー船は、こんな改造を?
「この図面と完成模型の作成、改修工事の準備が、僕のルストでの仕事でした」
アリストが細かい説明を始めるが、専門的なことは聞き流すしかない。ネウトスと話すときと同じように、ルフィはわかる範囲で必要なことを聞いた。
「これって、漕《こ》ぎ手はどこに乗るんです?」
「なかなか鋭《するど》い質問ですね」
「えっ、そうなの?」
この船には漕ぎ手の乗る場所がないんですよ、と彼は言った。駆動《くどう》部分が動けば、自動的に全てのオールに力が伝わる。歯車を切り替《か》えると、訓練された漕ぎ手たちがやるように左右のオールを逆に動かすことさえできるのだ。
アリストは、他《ほか》のテーブルの客たちや、気絶したヌディ人を気の毒そうに見やった。
「将軍は、ルストに着くなり、何百人もの漕ぎ手を全て解雇《かいこ》したんです……」
店の中が殺気立っている理由が、ようやくわかった。はるばるヴァムジェから来て、いきなり外国でお払《はら》い箱にされてはたまらない。
あれれ、でも、ちょっと待ってよ……。
考えがまとまらず、ルフィは席を立った。
じゃ、大使が隠《かく》していたのは、このガレー船のことだったわけ?
小さな顎《あご》に人さし指を当てて、つま先立ちで店の中を何度か往復する(護民官がそばを通るたびに、船乗りたちは怯《おび》えたように身をすくませていた)。
なんか変じゃない? あたしは船のことなんか知らなかった。事件と関係なければ、興味ももたなかった。なのに、どうして必死になって隠そうとしたのかしら……?
なにかが不自然だ。そう感じはするものの考えはまとまらない。疑問が増えただけだ。
席に戻《もど》ると、ルフィは言った。
「あなたもヴァムジェ人でしょ、どうして機密|事項《じこう》をロマヌア人の私に話すの?」
「貴方《あなた》が信頼《しんらい》できると思ったからです。捜査《そうさ》で得た情報を他《ほか》に漏《も》らしたりしないでしょう?」
「当然です。でも、上司に報告する義務はあるわ」
「いいんですよ、こんな図面……ミレッタを殺した犯人を捕《つか》まえられるならね」
そう言ったアリストの目が、鋭《するど》く光る。
ほっそりとした青白い顔に、精一杯《せいいっぱい》の怒《いか》りが浮《う》かび上がった。
「この一年、ミレッタには世話になりました。彼女もヴァムジェに恋人《こいびと》がいるとかでね、二人で故郷の話をしたりして……」
そういえば、さっき、この人も「会いたい人がいる」とか言っていたっけ……と、違《ちが》う方へ想像をめぐらせていたルフィは、ハッと我に返って言った。
「ミレッタさんも船のことを知っていたのね!」
彼女のことを思い出したのか、アリストが悲しげに微笑《ほほえ》む。
「ええ、あのくだらない船[#「くだらない船」に傍点]は我々の間では笑いものでしたよ」
「くだらない? 漕《こ》ぎ手なしで動くなんて大発明なのに」
そう言ってから、ルフィはしまったと思った。設計師が呆《あき》れたような顔をしたからだ。
「動くわけないじゃありませんか。たしかに、オールは連動します……でもね、讃がそれを動かすんです? 命令の通りに造りはしたけれど、あの船には動力がないんです」
「そ、そうか、動力がない……のよねえ」
ルフィは曖昧《あいまい》にうなずいた。よくわからないが、動力というのは、風とか川の流れとか、馬車でいえば馬のことだろう。模型なら手で動かせるが、百本以上の本物のオールを動かすには、どうしたって漕ぎ手がいる。
でも、あの野心満々の大使が、動かない船を徹夜《てつや》で造らせたりするかしら?
「たとえば、なにか魔法《まほう》を使うとかしたらどうなの……?」
「世の中に、そんな都合のいい魔法はありません。どんな魔術師《まじゅつし》も同じ意見のはずです」
「ふうん」
あとでネウトスに聞いておこう、とルフィは思った。
「ところが……将軍に会ってからのミレッタは、あの船のことを笑わなくなったんです」
それだけではない、オラクルスが隊商で儲《もう》けていたことを知った彼女は、大使がどんな蛮族《ばんぞく》と取り引きしていたかをアリストに問いただしたという……そして、ひと月後に殺された。
ルフィの脳裏《のうり》に今朝《けさ》の光景が浮かんだ。
ミレッタの驚《おどろ》いたような顔、首筋を切り裂《さ》かれた無惨《むざん》な死体……。
短剣《たんけん》かなにかで、プロの仕業《しわざ》……。
「まさか、あなた……?」
アリストが何を考えているのかが、ようやくわかった。
「あなた、オラクルスがミレッタを殺した犯人じゃないかと思ってるのね?」
大きく見開かれた灰色の瞳《ひとみ》。
それを静かに見つめ返す、吸い込まれそうな黒い瞳《ひとみ》。
「僕《ぼく》は何も言ってません。貴方《あなた》の捜査《そうさ》に協力しただけです。大使に雇《やと》われている身だし、母国の不利益になることもしたくない。でも、これだけは信じてもらいたい……ヴァムジェにだって正義はあるんです、ヘイズォト護民官」
秘密主義な上に、回りくどくてあざといヴァムジェ人――ずるがしこさの代名詞のような風評を、このヴァムジェ人の設計師は己の正義を貫《つらぬ》くために使っている……ルフィは、そう信じることにした。
「ルフィでいいわ、そう呼んで」
彼女の言葉に、アリストがホッとしたように笑《え》みを浮《う》かべる。
「ありがとう、ルフィ。あとはお願いします」
「任せておいて」
にっこり笑って席を立つ。
もらった図面をしまったルフィは、声を上げた。
「そうだわ、あと一つだけ。この人を知らないかしら?」
ベルトに下げた袋《ふくろ》から、折り畳《たた》んだ紙を出してアリストに手渡《てわた》す。
現場で絵描《えが》きに描かせたハテリウスのスケッチだ。
「見覚えがないですね」
右目に短剣《たんけん》を突《つ》き刺《さ》された死体の絵をじっと見つめたまま、彼はつぶやいた。
「いや、わからないというべきかな。ロマヌアの商人はどれも同じに見えてしまうから……」
V
平たい屋根の縁《へり》を蹴《け》る寸前、ヌゥライは槍《やり》で足元の闇《やみ》を払《はら》った。
小さな鳴き声がして、錆色《さびいろ》をしたネズミが穂先《ほさき》に弾《はじ》き飛ばされる。
ここは、やけにネズミが多い。
さっきも、危うく踏《ふ》んづけて足を滑《すべ》らせるところだった。
その隙《すき》に、一つ先の建物にいた「ネズミの匂いのする男」が、もの凄《すご》い跳躍《ちょうやく》を見せる。彼は着地するなり、こちらに槍を投げさせる暇《ひま》を与《あた》えず、石壁《いしかべ》の向こうに消えていった。
戦士の呪《まじな》いもなしに、あんなことができるロマヌア人がいるとは、とても信じられない。
ここは、あの男の縄張《なわば》りなのだ。きっと、なにか呪《まじな》いをかけているに違《ちが》いない。
負けるものか! 思わず、泥面《どろめん》の中で笑みを浮かべる。
これが狩《か》りだったら、どんなにか楽しいだろう。いや、ただの追いかけっこなら、もっとだ。
だが、これは狩りでも遊びでもない――ヌゥライは、暗い気持ちでそう思った。
ケイヌーンの掟《おきて》……追いつめて仕留めねばならない相手は、彼女と同じ人間だ。
ヌゥライは赤い石でできた屋根を走り、高くそびえる次の屋根へとあっさり飛び移った。
ネズミが邪魔《じゃま》しなければ、とっくに追いついているのに!
だが、あの男に追いつくのは、時間の問題だった……。
試練をしくじって部族を追われても、ヌゥライには戦士の呪《まじな》いがかかっている。本気になれば、カモシカが疲《つか》れて倒《たお》れるまで追いかけることさえできるのだ。
ありとあらゆる夜遊びの店が立ち並ぶ通りを、ルフィは黙々《もくもく》と歩いていた。
どの店も彼女には興味のないものばかり(不道徳さに眉《まゆ》をひそめたりはしたが)だったから、どんどん急ぎ足になる。
夜も更《ふ》けているのに、人通りはそれなりに多かった。通行人の大半は酔《よ》っぱらいだ。大きな通りに出れば、昼の混雑をさけようと荷馬車も行き交《か》っている。
だが、港に出ては遠回りだった。ルフィは四つ角を折れ、そのまま南へと進んだ。
同じルストでも北側は不案内なので、一晩中明かりの消えないイナ神の像が目印《めじるし》になる。建物が密集しているこの辺《あた》りからでも、女神《めがみ》の花冠《はなかんむり》は明るく輝《かがや》いて見えた。
船を待たせておけば良かったと、ルフィは思った。もうすぐ真夜中。帰るころには明け方だ。
少しでもいい、寝《ね》ておかないと……。
「とうとう来なかったわ、バカネズミのやつ! 本当に縛《しば》り首になっちゃうわよ!」
文句を言いながらも、明日のことを考えると気が重かった。
ヴァムジェの大使が殺人犯かもしれず、ワイリーは姿をくらまし(それも人妻の家に!)、法廷は彼を縛り首にしようと動いている……難問山積みだ。
と、ぼんやり考え込んでいるところへ、後ろから走ってきた男の身体《からだ》がぶつかる。
妙《みょう》な気配――無意識のうちにルフィは、そいつの腕《うで》をつかまえていた。
「護民官の財布《さいふ》を盗《と》ろうなんて、いい度胸ね」
男の手には銀貨を入れた皮袋《かわぶくろ》が握《にぎ》られている。
「くっ!」
財布を落とした男は、手をふりほどいて真っ暗な路地裏へと逃《に》げていく。
「待ちなさい!」
疲《つか》れてるのに……。
後を追ったルフィは、クルクスを抜《ぬ》いて、柄《え》につないだ長い紐《ひも》の端《はし》を手に巻いた。
ビュンとうなりを上げて低く飛んだ鉄の棒が臑《すね》にぶち当たり、足をもつれさせる。
派手《はで》につまずいた巾着切《きんちゃくき》りは、膝《ひざ》を抱《かか》えてのたうち回る。
「んもう、逃げたりするからでしょ……」
「ち、畜生《ちくしょう》っ! この娘《むすめ》が護民官だなんて聞いてねえぞ!」
近づこうとしたとたん、男がわめき出す。
ルフィは、ハッと息を呑《の》んだ。
あと三人もいる! それもすぐそばに!
罠《わな》に気づいたときには、もう遅《おそ》かった……。
(残数は三個体。布陣《ふじん》の構築は不可能だ)
「あと二|匹《ひき》か……」
一匹少ない数をつぶやいて、ワイリーは赤い壁《かべ》をよじ登った。
登りきって、荒《あら》い息をつく。
路地をはさんだ隣《となり》の集合住居は三階建てだ。もうこれ以上、北へは進めそうになかった。
ヌゥライをふり切れてはいない。あの娘《むすめ》はネウトスが言った通りの化け物だ。もうすぐここまでやってくる……。
何度も深呼吸して息を整えながら、彼は言った。
「すまん、仲間がずいぶんとやられたな」
(部分的な欠損だ。盟主が心理的な負担を感じる必要はない)
袖の中から声がした直後、べつの一匹の悲鳴がワイリーの耳に届いた。最後の一匹だ[#「最後の一匹だ」に傍点]。
さらに、小さな悲鳴とドサッという落下音がする。
ようやくヌゥライが踏《ふ》み切りをしくじったのだ。だが、もう次の手を打てるだけのネズミは一匹も残っていなかった。
針金ネズミ≠ヘ敗北感に打ちのめされた。完敗だ。サビネズミたちの犠牲《ぎせい》がなければ、とっくにあの槍《やり》に貫《つらぬ》かれている。
捕《つか》まえるどころか、こっちが見つからないように隠《かく》れることさえできねえってのか?
俺《おれ》が……この針金ネズミ≠ェ!?
と、錆色《さびいろ》の血族≠フ声がした。
(盟主、クレニッスの花≠ェ危機に陥《おちい》った。護衛につけた一個体[#「護衛につけた一個体」に傍点]を使用するか?)
「もちろんだ。状況《じょうきょう》を知らせろ」
(肯定《こうてい》……)
こういうときだけは、ネズミたちも正確な情報を伝えてくる。針金ネズミ[#「針金ネズミ」に傍点]≠ェ、長年、彼らを泥棒稼業《どろぼうかぎょう》に使っていたせいだ。
話を聞くなり、ワイリーは、いてもたってもいられなくなった。
「言わんこっちゃない! ヴァムジェ人なんぞに鼻の下をのばしてるから……」
人の心配をしている間に、裸足《はだし》のヌゥライが舗装路《ほそうろ》を走るヒタヒタという音が迫《せま》ってくる。
泥面《どろめん》の下は、あんな哀《かな》しげな目をした少女なのに……呪《まじな》いみたいに強力な刺客《しかく》だった。
くそっ、考えろ、ワイリー・マイス!
あいつをふり切って、ルフィを助けるには、どうすりゃいい?
名案は、すぐに浮《う》かんだ。
一つずつ片づけるのはまず不可能だ。だったら……。
一か八かやってみるしかない。
屋根の上で息を殺し、ヌゥライが獣《けもの》のように跳躍《ちょうやく》してくる瞬間《しゅんかん》を待つ。
路面を蹴《け》る音――今だ!
ワイリーは、彼女めがけて飛び降りていた。
空中で、相手がギョッとするのが、はっきりとわかった。
とん! と、その肩《かた》に着地し、さらに向こうの屋根へとジャンプする。
さすがにヌゥライも反応できなかった。蹴《け》られた勢いで路上に叩《たた》きつけられている。
「待ってろよ、護民官!」
まんまと敵をやり過ごし、これまでとは逆に屋根の上を南へと急ぐ。
もうネズミも残っていなかった。
「ちゃんとついてこいよ。ケイヌーンの戦士……」
後ろを気にしながら、ワイリーは走り続けた。
暗闇《くらやみ》から突《つ》き出された剣《けん》が、ルフィの喉元《のどもと》でピタリと止まった。
さらに背後に二人……。
誰《だれ》だろう? さっきのヌディ人たちの仕返し? まさか! 彼らはクルクスを初めて見たくらいだ、こんな待ち伏《ぶ》せはしない。
剣を持つ手が、月明かりに白く光っていた。顔は下半分を布で覆《おお》っているのでわからない。
「紐《ひも》を下に落とせ」
女みたいな声だ。
「いやだと言ったら?」
「こちらも、ロマヌアの護民官を殺すような危険を冒《おか》したくないが」
声と同時に、背後で剣を抜《ぬ》く音がした。訓練された動き。
だめだ、紐を引っ張っても、クルクスが手に戻《もど》る前にやられる……。
そう思ったとき、足元でチチッと鳴き声がして、心臓が止まりそうになった。
冷《ひ》や汗《あせ》の量が一気に倍になる。
三人の刺客《しかく》より一|匹《ぴき》のネズミのほうが怖《こわ》いなんて。
落ち着きなさい、ルフィ……。
静かに深呼吸してから、彼女は言った。
「わかったわ」
朱色《しゅいろ》の頑丈《がんじょう》な帯紐《おびひも》が彼女の手から離《はな》れ、ブーツの先に蛇《へび》のようにうねる。
「か、勘弁《かんべん》してくれ、護民官! 知らなかったんだ!」
膝《ひざ》を抱《かか》えていたチンピラが、よろよろと立ち上がった。落ちているクルクスを見て怯《おび》えるように後ずさりし、路地裏の闇へと走り去る。
襲撃者《しゅうげきしゃ》が、冷たい声で言った。
「新型ガレーの設計図を出してもらおう」
「なんのこと?」とルフィ。
「護民官、あの船のことは忘れろ。生きて帰りたければな」
「オラクルスの手下なのね?」
「話すつもりはない。全《すべ》てを忘れろと言っている。設計図を渡《わた》せ」
そうまでして、動かない船の設計図が欲しいわけ?
相手は剣《けん》の間合《まあ》いから踏《ふ》み込んで来なかった。うっかり近寄って隙《すき》ができるのを恐《おそ》れている。
それに、護民官を殺すのが得策ではないことも承知していた。そうなれば、ロマヌア政府が徹底《てってい》した捜査《そうさ》を開始するからだ。内部の争いを超《こ》えた、容赦《ようしゃ》のない調査を。
三人は無言で待っていた。
長い沈黙《ちんもく》の後で、ルフィは言った。
「……いやよ。誰《だれ》が渡《わた》すもんですか」
「勇ましいことだな」
言葉と同時に、剣が繰り出される。
が、ルフィはそれより先に動いていた。いくらなんでも図面と心中するつもりはない。
といって、大切なアリストからの預かり物を手放す気もなかった。
ここで死ぬとしても、とにかく最後まで頑張《がんば》る――それが、ルフィの選択《せんたく》だった。
辛《かろ》うじて切っ先をかわした首筋が、ひりひりと痛む。
最後のチャンス……祈《いの》るような気持ちで、ルフィは右脚《あし》を思い切り後ろに蹴《け》り上げた。
ぶんと音がして、ブーツの踵《かかと》が空を切る。
背後の敵は怯《ひる》みもしなかったが、かまわない。目的は別にあった。
さっきのサビネズミが足に巻いておいてくれた紐[#「足に巻いておいてくれた紐」に傍点]が、ぴいんと張った。
クルクスが勢いよく路面を滑《すべ》ってくる――これさえあれば! 届いて! あと少し!
ガッ!
舗装路《ほそうろ》に火花が散った。
腹這《はらば》いになって、手を伸《の》ばしたルフィの目前……。
剣をふりかぶった敵が、クルクスを踏みつけていた。
そんなっ! しくじった!?
ぎゅっと目をつぶるルフィ。
どこかの神殿から、真夜中を告げる鐘《かね》が聞こえる。
「そこまでだ……」
冷たい声が響いた。
背後からも、脇腹《わきばら》めがけて二本の剣が突《つ》き出される。
ワイリー・マイス! 心の中で叫《さけ》んで、ルフィは奥歯《おくば》を噛《か》みしめた。
母さん、ごめん――鳴呼《ああ》、あたしは女神《めがみ》様に登ってくれる殿方もいないまま死ぬんだわ!
三人の上に、バサッと何かが降ってきたのはそのときだった。
「なっ!?」
人の形をした黒い塊《かたまり》が、彼らの頭上を通り越し、サワサワと音を立てて着地する。
厚みのある影法師《かげぼうし》のようなものは、ズルズルと路地を駆《か》け抜《ぬ》けていった。
なにあれ? 黒い……服?
死を覚悟《かくご》していたルフィは、緊張《きんちょう》の糸が切れたのか、ぼんやりとそんなことを思う。
うつ伏《ぶ》せに転がった彼女の頭上で敵の悲鳴がしたのは、さらにその後だった。
「わっ、こいつ!?」
「まずい、見られたぞ!」
さっきの影《かげ》を追って、何者かが脇《わき》に飛び降りてきたのだ。
「……ゥライの邪魔《じゃま》……するな……どけ!」
よく聞き取れない、くぐもった声。
得物と得物がぶつかって、派手《はで》な金属音が響《ひび》く。
うつ伏《ぶ》せのまま、じりじり手を伸《の》ばしたルフィが、踏《ふ》みつけられたクルクスの柄《え》をつかむ。
「くっ、しかたない……退《ど》け!」
リーダー格の声が響いて、周りから三人の襲撃者《しゅうげきしゃ》が一斉《いっせい》に飛び退《の》いた。
だめ! 逃《に》げてしまう! 捕《つか》まえないと……!
クルクスを手にして立ち上がるが、すぐにペタンと尻餅《しりもち》をついてしまった。
路地には、もう誰《だれ》もいない。三人の襲撃者も、飛び降りてきた謎《なぞ》の人物も。
ルフィは、足に力が入らないのを情けなく思いながら、フウ〜ッと長いため息をついた。
生きているのが信じられなかった。
自分がしくじったあとに何が起こったのかも、どうやって助かったのかもよくわからない。
わかるのは一つくらいだ。
「来てくれると思ったのに……」
ぽつりとつぶやく。
あたしには、サビネズミ一|匹《ぴき》よこせば充分《じゅうぶん》ってわけ?
へたりこんだまま、無理やり怒《いか》りを燃やす。
その力が手足に行き渡《わた》ってくるまで、ルフィは、ずっとそうやっていた。
W
海面が震《ふる》えるくらいの大きなくしゃみ――危うく、ゴンドラから落ちそうになったほどだ。
「くそっ、呪《のろ》われるようなことはしてないんだがな……」
櫂《かい》を操《あやつ》っていたワイリーは、鼻水をすすってつぶやいた。
(理解不能。単なる迷信だ)
(盟主は風邪《かぜ》をひきかけているに過ぎない)
ゴンドラを岸壁《がんべき》近くに寄せているので、港をうろついている錆色《さびいろ》の血族≠フ声が届くのだ。
これより沖《おき》へ出れば、ルストに住むのサビネズミの密度は希薄《きはく》になり力は及《およ》ばなくなる。
ネズミたちが自分の独り言に反応するのに慣れているワイリーは、彼らを無視して、白み始めた東の空を見上げた。
上半身は裸《はだか》で泥《どろ》まみれ、漁師みたいに下着一つで潮風にさらされている。ゴンドラ乗りの衣装《いしょう》はあるが、全身が下水道のヘドロまみれでは、羽織《はお》るわけにもいかない。第一|浴槽《よくそう》でもなんでも、喜んで浸《つ》かりたい気分だった。
「ようやく朝か……」
冴《さ》えない格好で、針金ネズミ≠ヘつぶやいた。
あそこでルフィが頑張《がんば》ってくれなければ――思い出しただけで背筋《せすじ》が寒くなる。
本当に、ぎりぎりだった。
真夜中の鐘《かね》が鳴って日付が変わるなり、今日の契約《けいやく》分の二十四|匹《ひき》に自分の服を操《あやつ》らせ、ヌゥライをペテンにかけた。ルフィの無事を確認してから、ワイリーは下水路に隠《かく》れたのだ。
「さてと、明るくなる前にお客に降りてもらうとするかな……」
また派手《はで》にくしゃみをすると、彼はわざとのんびりした口調で言った。
せまい船底には、手足を縛《しば》られた男が転がされていた。ルフィの財布《さいふ》を盗《ぬす》んだ小悪党――つき合いはないが、知らない顔ではない。
ゴンドラまで戻《もど》る途中《とちゅう》で、ちょっとねぐらを襲《おそ》ってさらってきた。
「針金ネズミ=I 何しゃがんだ!」
虚勢《きょせい》を張った声。
ワイリーは肩《かた》をすくめた。
「逮捕《たいほ》しただけさ。まあ、護民官に引き渡《わた》すのも可哀想《かわいそう》だ、ここで降りていいぞ」
「おい、ここで……って?」
「ルスト生まれだ、泳げるだろ。素直《すなお》に質問に答えれば、縄《なわ》をほどいてから降ろしてやる」
「て、てめえ、まさか……!?」
男は首を回して、揺《ゆ》れる水面を見つめた。薄暗《うすぐら》い岸壁《がんべき》までは、それなりの距離《きょり》がある。
「教えろ。あの三人は何者だ?」
「知らねえよ。顔も隠《かく》してたし……」
「そうかい。残念だったな、今すぐ降りてくれ」
縛ったままの足首を持ち上げる。
「ほ、本当なんだ! あの娘《むすめ》の財布をとって逃《に》げるだけで五百コレクタだっていうから……」
どうやら嘘《うそ》はついていないらしい。
足の縄をほどいてやってから、ワイリーはつぶやいた。
「情けねえ奴《やつ》だな。たかが五百コレクタで、ヴァムジェ人のいいなりか」
「はあ? なにを言ってる、あいつらはロマヌア人だよ」
「なにっ?」
ワイリーの手が止まった。
ふてくされたような顔で、男が縛られた手を差し出す。
「間違《まちが》いねえよ、あんなヴァムジェ人がいるもんか」
「そんな馬鹿《ばか》な!」
ロマヌア人が、どうして護民官を襲う?
ルフィのやつ、色男のヴァムジェ人から、いったい何を渡されたんだ? 会って話したほうがいいかもしれない……うん、これは意地を張っている場合じゃないぞ。
「必要があるんだ。ルフィに会わないといけない。しかたないぞ、これは職務だからな……」
嬉《うれ》しそうにうんうんとうなずいたワイリーは、自分に言い聞かせるように口に出して言った。
「おい、針金ネズミ=A早くほどきやがれ!」
気まずそうに咳払《せきばら》いするワイリー。
「いいことを教えてくれたな、釈放《しゃくほう》だ」
「ヘヘヘ……」
両手を突《つ》きだして、男がにやにやと笑った。
「あんた、もしかして、あの護民官といい仲なのか? まるで『レガミラの盗賊《とうぞく》』……」
「やっぱりやめだ。手の縄《なわ》は自分でほどけ!」
そう言うと、ワイリーは容赦《ようしゃ》なく男を水の中に叩《たた》き込んだ。
[#改ページ]
第四章耳≠ニネウトスと
T
四つの獅子《しし》の頭を船首にもったガレー船が、ひっそりと出港の時を待っていた。
舷側《げんそく》から突《つ》きだし、ずらりと揃《そろ》った五段の櫂《かい》の列――それが、キイッと小気味よい音をたてて動き出す。両舷側の全《すべ》てのオールが、一|分《ぶ》の狂《くる》いもなく波間に突き刺《さ》さり、角度を変えて水をかいて引き抜《ぬ》かれる……そのための精密な動きをくり返す。
キィッ……キィッ……初めはゆっくりと、最後には、熟練の漕《こ》ぎ手たちが死にものぐるいで海戦の場を駆《か》け抜けるときのような勢いで……。
やがて動きは止まり、柔《やわ》らかい布が、ガレー船の上|甲板《かんぱん》に積もった埃《ほこり》をそっとぬぐった。布は、さらに船首像へと移り、獅子の頭がゴシゴシと磨《みが》かれる――。
「上出来だ……私が見込んだだけのことはある」
四頭の獅子≠フ完璧《かんぺき》な模型を掲《かか》げて眺《なが》め回し、オラクルスが満足げな笑《え》みを浮《う》かべた。
アリストは、にこりともせずに船尾|楼《ろう》を見上げる。
朝日が眩《まぶ》しくないのは、乾《かん》ドックの周囲に組まれた足場に帆布《ほぬの》が張られているからだ。
二人は、本物の四頭の獅子″の上甲板に立っていた。
「褒《ほ》めているのだ、もう少し喜んだらどうだ?」
「ようやく仕事が終わった。それだけです」
「変わった奴《やつ》だ」
「でなければ、この若さで設計師などしていませんよ」
いつものように答えた彼は、大事なことを問いただす決意を固めた。
オラクルスは、まだ模型を眺めていた。よほど気に入ったのか、蛮族《ばんぞく》の言葉で何やら模型を褒め称《たた》えている。
「将軍、少しお話があるのですが?」
「かまわん。下で聞こう……ここは人目があるからな」
上甲板は、食料や水の搬入《はんにゅう》の最中で騒《さわ》がしい。
模型をなにやらいじりながら、大使は先に立って階段を下りていった。
新しい四頭の獅子≠ヘ、上甲板を下りても通路が一本あるだけだ。
中央通路の下と舷側、五段のオールが並ぶ広い空間は、複雑で巨大《きょだい》な機械に占《し》められていた。
船室や船倉は、その空間の下層にある。
全ての工事は終了《しゅうりょう》し、今は出港の準備が進められているのだ。
オラクルスの指示で、操舵《そうだ》室にはヴァムジェで生まれ育った羅針虫《らしんちゅう》が装着されていた。餌《えさ》の油で満たされたガラス容器に入った細長い針のような虫は、正確に故郷の方角を指す。
物資の搬入さえ済めば、この船は、いつでもヴァムジェに向かえるのだ。
「もう一息だ。あとは、明日のロマヌアとの交渉《こうしょう》しだい……」
「出港準備なんか、無意味ですよ」
雇《やと》い主の言葉を遮《さえぎ》って、アリストは言った。
水に浮《う》かべるのは簡単だ、乾《かん》ドックに船を繋《つな》ぎ留めている鎖《くさり》を外せばいい。だがその後は?
風が吹《ふ》けば、のろのろと帆走《はんそう》できるかもしれない。動かないオールをぶら下げて……。
ルストの造船技師たちも、船の改修には、ずっと異を唱えていた。当たり前だ。いくら金を積まれても、無意味なものを造るのは苦痛でしかない。
「船は動かないと何度も言ったはずです。所詮《しょせん》、私は無名の設計師、恥にはなりませんが……」
「くどいな。話というのはそれか?」
「いえ、ちがいます……」
彼はオラクルスの右手を見つめた。政治家でも商人でもない、戦士の手を。
「……貴方《あなた》の短剣《たんけん》を見せてください」
「なんだと?」
「草原でケイヌーンの娘《むすめ》を助けるのに、獅子《シンバ》めがけて投げた……あの短剣ですよ」
「き、貴様……まさか、気づいていたのか?!」
将軍が初めて動揺《どうよう》した。
ここは強気に出るしかない――。
「ハテリウスとかいう商人の目に刺《さ》さっていた短剣《たんけん》、あれはあなたのものでしょう? ヴァムジェの投げ短剣の柄《つか》に、同じ模様はありませんからね。貴方が二人を殺したんだ!」
なくしたとか、盗《ぬす》まれたと言われればそれまでだ。一気に白状させるしか……。
「あの二人を殺した? 気づいたというのは、そんなことなのか」
なぜかオラクルスは、安堵《あんど》の笑《え》み浮かべていた。
間違《まちが》いない、この男がミレッタを殺したのだ。
「僕《ぼく》は、ヘイズォト護民官に知らせるつもりです」
「あの女は、この船の中までは手出しできん」
そう言って、オラクルスは鼻を鳴らした。
「私を守るために、他《ほか》ならぬロマヌア政府が圧力をかける……でないと、ヴァムジェの主張する交易権と中継《ちゅうけい》基地の数が倍になるからな。それに……」
声が低くなる。
「……お前は、護民官には会えない」
逃《に》げられないとでも? 上|甲板《かんぱん》にはロマヌア人たちが大勢いるのに?
アリストは、チラッと背後の階段を見やった。
と、どこかで歯車の切り替《か》わる音がした。オールに力を伝えるシステムの一部が、船内の動くはずのない[#「動くはずのない」に傍点]昇降機へと切り替わる。
「そんな馬鹿《ばか》な?!」
「動くと言ったろう?」
オラクルスが声を上げて笑った。
まさかと思いながら、彼は設計図を思い浮《う》かべた。
しまった、たしかこの装置は……!
「完全ではないので出港はできんが、それももうすぐ――」
言葉の途中《とちゅう》で、アリストの立っている床《ゆか》が開く。
悲鳴を上げて船倉の牢獄《ろうごく》へと転げ落ちていく彼の耳に、将軍の声が響《ひび》いた。
「まだ殺しはせんよ、アリスト……おまえは必要だからな!」
U
身体《からだ》はくたくたに疲《つか》れているのに、考えることが多すぎて眠《ねむ》れそうにない――。
そんなとき、ルフィのとる行動は一つしかなかった。
事務所で日誌をまとめてすぐ、彼女は、なじみの浴場に駆《か》けこんでいた。
「ふう、こういうときは熱いお風呂《ふろ》に限るわね……」
と言っても、さすがに第一|浴槽《よくそう》は熱すぎる。
第二浴槽の注ぎ口のそば――それが、ルフィの限界だ。
もちろん、ロマヌアの公衆浴場のマナーに従い、布一枚、身につけてはいない。
たっぷりの熱い湯の中で、手足を伸《の》ばす。
浴槽に入る前に、身体は湯女《ゆな》に洗い流してもらっていた。
「これで、きっと良い考えが浮かぶわよ……」
そう信じて、鼻歌を口ずさんだりしてみる。
でも、今朝《けさ》は、いつものようにはいかなかった。
どうしても、クルクスを踏《ふ》みつけられた、あの瞬間《しゅんかん》を思い出してしまう。
情けない気分だった。
浴槽の獅子《しし》が吐き出した湯が目にはねて、瞬《またた》きする。
ルフィは、ぽつりとつぶやいた。
「あたし……弱くなったのかな……」
ワイリーが助手になってから、薄々《うすうす》そう感じていた。
一人のころは、どんなに危い目に遭《あ》ってもそれが当たり前(護民官だもの!)と思っていたのに。怖《こわ》いなんてちっとも思わなかったのに……。
なのに、昨日は違《ちが》った。どうして? ワイリーが来てくれるって思ってたから?
よくわからない……。
じっと熱い湯に浸《つ》かっていると、冷えた身体に心地《ここち》よく温かさがしみこんでくる。
くよくよしないの、ルフィ……それどころじゃないでしょ!
負けるもんか……。
「あたしたちは、耳≠ノだって負けなかったのよ!」
勢いで、ザバッと立ち上がったルフィは、あっと声を上げた。
馬鹿《ばか》ね。今は、そのワイリー・マイスが、いないんじゃないの……。
ついでに、法廷の使者に会うことを思い出して、顔をしかめる。
客もまばらな早朝の浴場で広い浴槽《よくそう》を独り占《じ》めしているのに、気分は重くなるばかりだった。
どうして法廷は、ワイリーとのケンカをあんなに早く知ったのかしら?
アリストの推測が正しいとしても、なぜオラクルスは、あの二人を殺したの?
それに、動かない船の図面を護民官を襲《おそ》ってまで取り返そうとしたのは……もしかして、船が動くとか? でも、どうやって?
わからないことが多すぎる。
「あともう一つ、バカネズミは今どこで何をやってるの……!?」
もう錆色《さびいろ》の血族≠ノ聞くのは、たくさんだ(教える気ないんだもの!)。
深々とため息をついて、浴槽の縁《ふち》に腰《こし》かけるルフィ。
「護民官!」
年老いた風呂《ふろ》の管理人の声がした。浴場の外からだ。
「助けとくれ、鬼《おに》ヘイの嬢《じょう》ちゃん!」
悲鳴に近い。
「なんなの? やだな、もう……」
口ではそう言いながらも、ルフィは大理石《だいりせき》の床《ゆか》を滑《すべ》りもせずに走っていく。
危ういところでレミーカの言葉を思い出し、素《す》っ裸《ばだか》ではなく脱衣場《だついじょう》でタオル地の長衣をひっかけてから……。
「どうしたの?」
管理人の老婆《ろうば》が、女湯の入口にへたり込んでいる。
「ああ、護民官、あの気味悪いのをなんとかしておくれよ」
指さす先には、奇妙《きみょう》な面をすっぽりかぶった|蛮族の少女《ヌゥライ》がいた。
目の粗《あら》い布と毛皮を身につけ、見たこともない長い槍《やり》を手にしている。
彼女は、浴場に足を踏《ふ》み入れようとしては尻込《しりご》みするのをくり返し、表通りに立ったまま、困ったように仮面をゆらゆらさせていた。
通りかかる人々は、蔑《さげす》むような笑《え》みを浮《う》かべるか、完全に無視して過ぎていく。
「ひどいわ……!」
ルフィは怒《おこ》った。
山積みの難問のことも忘れ、パッと表通りに飛び出していた。
長衣だけでも気にしなかった。今は護民官ではない――クルクスは個人用の棚《たな》に預けてある――ただのロマヌア人の女の子だ。しかも、風呂好きの。
「ルストへようこそ」
褐色《かっしょく》の手をそっとつかむと、少女はビクッとして驚《おどろ》いた。手首についた角《つの》製の飾《かざ》り輪が、ぶつかり合って音をたてる。
にっこり微笑《ほほえ》むと、できるだけ優《やさ》しい声で言った。
「ルフィよ。あなたは?」
「あ……ヌゥライ」
「ロマヌア式のお風呂《ふろ》に……え〜と、ここに入りたいんでしょ?」
仮面が縦にゆれ、少女が小さくうなずく。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。案内するわ、ヌゥライ」
ルフィは彼女を半《なか》ば引きずるようにして、浴場の入口をくぐった。
「なんだね、追っ払《ぱら》ってくれると思ったのに……」
と、老婆《ろうば》が渋《しぶ》い顔をするのも構わず、ヌゥライを連れて奥《おく》へと入っていく。
脱衣場《だついじょう》でようやく手を離《はな》すと、ルフィの手のひらは赤茶色く汚《よご》れていた。
ヌゥライの腕《うで》や指が、血まみれなのだ。
「あなた、どこか怪我《けが》してるの?」
彼女の言葉に、仮面が横にゆれる。
「……ちがう、これはネズミの血だ」
「サビネズミを殺したの?」
「しかたなく。でも、掟《おきて》は破っていない。きちんと食べた……」
食べた? ルフィの顔色が変わった。
「き、来なさい! あなた、絶対に身体《からだ》を洗わなきゃダメだわ!」
「私は、この良い香《かお》りが何なのか知りたくて来た……だけ」
「石鹸《せっけん》のこと? え〜え、いくらでも使わせてあげるわ。まずはここで服を脱《ぬ》いで」
「服を、脱ぐ……?」
ルフィはうなずいた。
「その、かぶってるやつもね。そういうきまりだから。まずいの?」
「泥面《どろめん》をとるのは危険……掟がある」
もうもうと湯気の立ちこめる浴場を珍《めずら》しそうにのぞいたヌゥライは、この奥に未婚の男がいることはないかと、やけに真剣《しんけん》な口調で聞いた。
ルフィは、何度も首を振《ふ》ってみせる。
「あのね、ここは女湯よ。結婚してようがしてまいが、男性は一人もいません」
「女だけ?」
「でなきゃ、あたしも来ないわ」
「女だけ……裸《はだか》……泥面も、とる……」
つぶやきながら首を傾《かし》げて考えこむヌゥライを見て、ルフィは吹《ふ》き出していた。見た目はこんなに違《ちが》うのに、あたしと同じ……そう思ったのだ。
「なにが、おかしいか?」
「今、頭の中で『掟』をずらっと並べて、自分が背《そむ》いてないか考えたでしょ」
ヌゥライがうなずく。
「なぜわかった? 呪《まじな》い師か……?」
「ちがうわよ。あたしもよくやるの、ロマヌアの法律を相手にね」
くすくす笑いながら、ルフィは言った。
「どう? あなたの言ってたのは、この香《かお》り?」
専用の小さめの浴槽《よくそう》に、贅沢《ぜいたく》な香料入りの石鹸《せっけん》を入れてかき混ぜる。いつも使っている石鹸ではヌゥライが納得《なっとく》しなかったので、ちょっと奮発したのだ。
二人が浸《つ》かったぬるめのお湯は、たちまち柔《やわ》らかくてきめの細かい泡《あわ》でいっぱいになる。
「よい匂《にお》いだ」
ヌゥライは目を丸くした。くんくんと鼻を鳴らして、しきりと匂いを嗅《か》ぐ。束《たば》をほどいた黒髪《くろかみ》も泡まみれだった。
温かい泡の中、優《やさ》しい気持ちで微笑《ほほえ》みながら、ルフィは遠く南方から来た少女を眺《なが》めていた。
無表情な仮面をとったヌゥライは、とても人懐《ひとなつ》っこい感じがする。身体《からだ》つきはルフィより幼いくらい。だが、手足は強靭《きょうじん》で長くしなやかだ。
それに、素顔《すがお》の彼女は意外なほどお喋《しゃべ》りが好きだった。身体を洗ったり、湯船に浸かったり……と、ロマヌア式の入浴を教える間も、二人の会話は弾《はず》み、ルフィは珍《めずら》しい異国の話をずいぶんと聞くことができた。
ケイヌーンという部族の出身で、人を探しにルストへ来たこと。獅子《レーオ》を倒《たお》す試練にしくじって、戦士になれなかったこと……。
彼女が少しはにかんで、「獅子にやられて死にかけたとき、助けてくれた男を探している」と言っていた。しかも「きっと素敵《すてき》な人なんでしょうね」とルフィが答えたときには、困ったようにうつむいていた……まったく、うらやましい限りだ。
気がつくと、黒い瞳《ひとみ》が真《ま》っ直《す》ぐこちらを見つめていた。
「この泡で、身体の匂いが消える」
そうね、と上《うわ》の空で答えたルフィは、ぼんやりと高い天井《てんじょう》を見上げる。
こうしているうちに、さっきは少しもまとまらなかった考えが、一つにつながってくるような気がした。入浴の間だけとはいえ、徹夜《てつや》明けの頭が論理的に働き始めた感触《かんしょく》……。
ミレッタ、オラクルス、アリスト――ヴァムジェ人にばかり気をとられて、自分は大事なことを見逃《みのが》していたのではないか……?
どんどん泡の中に沈《しず》んでいくルフィ。
しばらくして、小振《こぶ》りな鼻の頭についた泡をぬぐったルフィは、ようやく我に返った。
いけない! あたしったら、ヌゥライをほったらかしに……。
「ねえ……あの泥面《どろめん》は、いつもかぶってないといけないの?」
声をかけると、彼女のほうも何やら考えていたらしく、慌《あわ》てて泡の中から顔を上げた。
「そうだ。若い女の戦士は、妻のいない男に素顔をさらしてはいけない」
「ああ、それでさっきあんなことを……でも、もし見られたら?」
「男を殺さねばならない。掟《おきて》だから」
ずいぶんと身勝手な規則ねえ、とルフィは思った。
「戦士は身体《からだ》に呪《まじな》いをかける。私は祖父にかけられた。身体が壊《こわ》れるかもしれない危険な呪い……だから、掟は厳《きび》しい」
「ふ〜ん」
答えてから、ハッと息を呑《の》む。
ちょっと待って! 身体に魔法をかける[#「身体に魔法をかける」に傍点]ですって?
そうだ! きっとそうだ! それなら辻褄《つじつま》が合う!
「あなたのおかげよ、ヌゥライ! 一つ謎《なぞ》が解けたわ……いいえ、もしかして三つかも!」
叫んだルフィに、いつものように裸《はだか》で浴槽《よくそう》を飛び出す元気はなかった。
代わりに出たのは、とてつもない大|欠伸《あくび》だ。
ヌゥライが、歯のすき間からスッスッと笑いを漏《も》らす。
「ごめん……」
頬《ほお》を染めるルフィ。
気づいたことを確認するのは、ひと眠《ねむ》りしてからでも遅《おそ》くはなかった。
プリニウスの役宅に遅《おく》れて行ったところで、死体は文句を言わないだろうから……。
なんでだよ? どうしてあいつが、護民官と一緒《いっしょ》にいるんだ……?
真新しい服に身を包んだワイリーは、慌《あわ》てて男湯の入口にある|水の神々《ンブツ》の像に身を隠《かく》した。
ヘドロを落として着替《きが》えてこいと、おかみさんに追い出され、ひと風呂《ふろ》浴びたついでに、絶対に来るはずのルフィと、偶然[#「偶然」に傍点]、顔を合わせようと待ちかまえていた[#「顔を合わせようと待ちかまえていた」に傍点]ってのに!
思ったとおり、欠伸を連発しながらルフィが女湯から出てきた。だが、彼女と仲良く連れ立って歩いているのは、あのケイヌーンの女戦士ではないか!
しかもだ。耳を澄《す》ますと、ルフィは「泊《と》まるところがないなら、あたしの部屋《へや》に来るといいわ」などと言っているのが聞こえてくる。
「ったく、どこまでお人好《ひとよ》しなんだか……」
文句を言いながらも、とりあえず、ルフィの元気そうな姿にホッとした。どうせ、困っている|蛮族の娘《ヌゥライ》に親切心から声をかけたのだろう。いかにも彼女らしい。
一瞬《いっしゅん》、あとを尾《つ》けようかとも考えたが、ヌゥライの槍《やり》に目をやって考え直す。
「やっぱ、だめだ。どっちもまともに俺《おれ》の話を聞いてくれないに決まってる。護民官に言いわけすりゃ、その間にヌゥライに殺されちまうし……といって、ヌゥライを捕《つか》まえようとすりゃ、クルクスでぶん殴《なぐ》られて……」
完璧《かんぺき》な布陣《ふじん》。
最悪の取り合わせ。
だめだ……直接会うのはあきらめるしかない。
がっくり肩《かた》を落として、二人を見送るワイリー。
少女たちは、楽しそうに話しながら人混みに消えていった。
ひと眠《ねむ》りしてから、事務所の日誌を読むしかない。ルフィに、あいつが事件の関係者だと書き置きしてもいいだろう。
「しかしまあ、ヌゥライの鼻が利くのは、間違いねえな。高い石鹸を使って正解だった……」
石鹸の香《かお》りをふりまいて像の陰《かげ》から出てくると、ワイリーは言った。
昨日の晩なら、この距離《きょり》で確実に見つかっていたからだ。
V
南国産の薬木クレニッスの白い花から、もぞもぞと花アブが顔を出した。
小さな虫は、暖かな日差しの中、役宅の中庭に立った三人の周りをブンブンとうるさく飛び回り、やがて一人の頬《ほお》の上で小休止する。
バチッ! と大きな音が響《ひび》いた。
冷たい目をしたロマヌア法廷からの使者は、薄《うす》い唇《くちびる》をピクッとひきつらせて、つぶれたアブを芝に放り捨てた。護衛から布きれを受け取ると、彼は粘液《ねんえき》で汚《よご》れた頬と手をぬぐう。
「ドミテスくん、昼食を一緒《いっしょ》にどうかね?」
プリニウス長官がテラスから声をかけても、彼はにこりともしなかった。
「せっかくだが、饗応《きょうおう》は遠慮《えんりょ》させていただきます。あなたと私は、特別親しい友人ではありません。ヘイズォト護民官と会う約束がある……ここにいる理由は、それだけです」
「うちのルフィも頭が固くてな、あんたみたいにならんかと心配だよ」
プリニウスは嫌味《いやみ》を言って、顔を引っこめる。
大体の事情は、彼らから聞き出していた――でなければ、ここに入れはしない。
法廷の狙《ねら》いが針金ネズミ≠フ首なのはわかっているが、すでに縛《しば》り首と決まってしまっている以上、プリニウスにできることはないのだ。ルフィに賭《か》けるしかない。
やれやれ、ワイリーのやつめ。あれほど気をつけろと言ったのに……。
役宅に、少女の軽やかな足音が響いたのはそのときだった。
二階からテラスに入ったルフィは、法廷の使者たちに気づいていない。真《ま》っ直《す》ぐに歩いてくると、プリニウスの前に立って言った。
「長官、遺体を再検分したいのです。許可をいただけますね?」
「かまわんが、その前に昼飯でもどうだね」
「いえ、あの……急いで調べたいことがありますから……あとで、ぜひ!」
料理の並んだテーブルに目をやってから、ルフィは大きな声で言った。結構です、というように手を振《ふ》って、中庭へと駆《か》け下りていく。
大声を出したのは、腹が鳴ったのをごまかすためらしい。いくら頭が固くても、ルフィがドミテスのようになることはないと、プリニウスは少し安心する。
それにしても、少しでも時間を稼《かせ》いでやろうと親心で申し出たのに……困った娘《むすめ》だ。
「ヘイズォト護民官、こちらの用件を先に済ませてもらえんかな?」
テラスの手すり越《ご》しにドミテスの声が聞こえる。
心配そうに下をのぞくと、遺体保管室の扉《とびら》を開けたルフィが、法廷から来た三人に気づき、やけに丁寧《ていねい》にロマヌア式のお辞儀《じぎ》を返していた。
「プリニウス、お嬢《じょう》さんなら心配いらんよ」
背後で、聞き覚えのある声――ネウトスだ。ルフィの後について現れた汗《あせ》だくの魔術師《まじゅつし》は、当たり前のように食卓についていた。
「昼飯のほうは、私が引き受けるとしよう。食い道楽のプリニウス長官の献立《こんだて》には、大いに興味があるからな……」
さあ、ここからが正念場よ……。
お辞儀を終え、ゆっくりと頭を上げたルフィは、ドミテス――とプリニウス長官が呼んでいた使者――に微笑《ほほえ》みかけた。
「お待たせしました」
「針金ネズミ≠ェいないようだが?」
「連れてきていません。彼を助手に任命した護民官に、説明の機会は与《あた》えられないのですか?」
「もちろん、与えられる。ただし手短に願おう」
意地の悪い目つきで、法廷からの使者が彼女を見おろしていた。
もしかしてワイリーの処分を決定したのは彼なのかしら……ちらっとそんなことを思う。
自然とつま先立ちになると、ルフィは胸を張って言った。
「ワイリー・マイスを解任した覚えはありません。彼が出頭できないのは、事件解決のため、隠密裏《おんみつり》に行動するよう指示を与えたためです」
「どうかな……我々は、あなたが護民官助手をやめろと宣告したという情報を得ている」
「誰《だれ》がそんなことを?」
「あなたに情報源を教える必要はない」
「偉《えら》そうに言わないで。裏取り引きがあったから、公《おおやけ》にできないだけでしょ」
「私を侮辱《ぶじょく》するつもりか!」
ドミテスが叫《さけ》ぶなり、護衛の二人が前に進み出る。
ルフィの眉《まゆ》が、グッとつり上がった。
「やかましいっ! あたしが知らないとでも思ってるの!? この……」
啖呵《たんか》を切りかけたところで、テラスから大きな咳払《せきばら》いが聞こえる。プリニウスだった。
「ヘイズォト護民官、少し落ち着きなさい」
「はい、長官……」
上司に感謝しながら、軽く息を整える。
ルフィは、検知棒≠取り出した。
先端《せんたん》についた魔法《まほう》を感知する赤い宝石で、おもむろに地下の保管室を指す。
「今から、これを使ってハテリウス氏の遺体を再検分します」
灰色の瞳《ひとみ》が、挑《いど》むようにドミテスを見据《みす》えた。
自分の身体《からだ》に魔法を……ヌゥライが教えてくれたのだ(あの子、まだ寝てるのかしら)。
あの小麦の仲買商は、巻き添《ぞ》えで殺されたのではない。べつに理由があった。
でなければ、ドミテスたちがワイリーとの仲違《なかたが》いを知るはずがない……。
「公式に立ち合いますか? あなたが、どうやって情報を得たか説明できると思いますが」
推測だけのはったりだ。ただ、自信はあった。
「その必要はない」
案の定《じょう》、相手は怒《いか》りを無表情の仮面に隠《かく》し、取り引きに応じるというようにうなずいた。
「二日後だ。明後日の正午きっかりにルストの法務局に二人で出頭し、解任が事実無根であることを証明したまえ。ロマヌアの法廷は、それで納得《なっとく》する」
「ご理解いただけて幸いです」
ルフィが、丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をする。
と、ドミテスが初めて感情を露《あら》わにした――楽しそうに笑《え》みを浮《う》かべたのだ。
「ただし、その間にワイリーが単独で見つかれば、我々の拘束《こうそく》と尋問《じんもん》を受けることになる」
「そんな!」
「解任していないのなら、問題ないはずだ」
彼は勝ち誇《ほこ》ったように言い放つと、護衛を引き連れて去っていった。
たった二日か……。ルフィは、ため息をついた。
と、テラスから拍手《はくしゅ》の音がする。
「まあまあだ、ルフィ。五分五分の取引だったな……いったい、どんな魔法を使った?」
プリニウスが上機嫌《じょうきげん》で言った。
食事を終えたネウトスが、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「そいつを、これから調べるのさ。なあ、お嬢《じょう》さん?」
「わかってるなら早く来て、こっちよ!」
保管室を指してルフィは言った。
そう、肝心《かんじん》なのはこれからだ。たしかにドミテスは気にくわない男だったが、所詮《しょせん》、彼らは踊《おど》らされているに過ぎないのだから……。
検知棒≠手にしたルフィは、ハテリウスの左耳に赤い宝石を差し入れた。
半年前、馬の耳にそうしたように……。
あのときは、任務中の彼女の馬の耳に魔法がかけられ盗聴《とうちょう》されたのだ。耳から耳へと音を伝える魔法が使われた、初めてのケース――しかけたのは、耳%熾狽ナ陰謀《いんぼう》を企《くわだ》てた人物だ。
「反応がないわ。右かしら……?」
宝石には何の変化もなかった。魔法がかけられていれば、光を放つ……。
どんな魔法《まほう》も、絶対にごまかせない。使えば必ず、独特の痕跡《こんせき》が残る。調べようによっては、登録された痕跡から、どの魔術師《まじゅつし》がかけたかも特定できた。
ロマヌアで魔法が容認されているのは、法律で厳《きび》しく管理できるからなのだ。
薄暗《うすぐら》い保管室の隅《すみ》に立っていた、ネウトスがうめいた。
「うっぷ……ひどい臭《にお》いだな、昼飯を済ませておいて良かったのか悪かったのか……」
「そのくらい我慢《がまん》して。しっかり調べてよ」
ささやいたルフィは、右耳に検知棒≠突《つ》っ込む。とたんに、パアッと赤い光がハテリウスの耳の穴を照らした。
「やっぱり!」
被害者《ひがいしゃ》の検分では傷口を調べるのが普通《ふつう》だ。無傷の耳を調べたりはしていなかった。彼は自《みずか》らの耳に魔法をかけていたのだ。
「ふむ……たしかに、あの魔法だ。この男が聞いたことは誰《だれ》かの耳に伝えられている」
宝石の明かりに目を細めて、死体をのぞきこんでいたネウトスが言った。
立ち合っていたプリニウスが、アッと声を上げる。
「つまり、この男は……」
「そうです、ハテリウスは耳≠フ一員です」
ルフィが言った。
間違《まちが》いない。彼は耳≠フ一員だった。ネウトスのような協力者とは違う、ロマヌアのために非合法な諜報《ちょうほう》活動や陰謀《いんぼう》工作を実行する耳≠フ工作員だ……。
あの半年前の事件のあと、耳≠束《たば》ねるロペス・マリオルトは、この魔法を正式に採用し、部下たちに利用することを思いついたのだろう。
痕跡を特定しようとしても無駄《むだ》だとルフィは思った。相手があのマリオルトなら、ルスト以外の土地で魔法をかけさせているはずだ。
「耳≠フ狙《ねら》いはヴァムジェの新型ガレーでした。ミレッタがなぜ、そして、どんな情報をハテリウスに漏《も》らそうとしたかはわからないけれど、彼は殺され、任務に失敗した……」
ハテリウスを通して音を聞いていた人物は、ルフィとワイリーがこの件の担当であることを知ったのだ。
「あたしたちがケンカしているとき、すでに野次馬《やじうま》の中に耳≠ェいたのよ……」
殺人事件の捜査《そうさ》を攪乱《かくらん》するため、ルフィのあの一言を法廷に密告したのだ。
針金ネズミ≠縛《しば》り首にしたい法廷側は、当然、耳≠ニの裏取引に応じる。その上、ワイリーが本当に姿を消してしまったから、ややこしいことになった。
「ありそうな話だ。耳≠ノとっても、ワイリーは消しておきたい人物だからな」
プリニウスが言った。
針金ネズミ≠ヘ、半年前(さらには二年前)に耳≠ェ起こしたスキャンダルを知る、数少ない生き証人なのだ。
「ハテリウスが耳≠セとわかれば、他《ほか》にもいくつかの謎《なぞ》が解けます……」
ルフィは説明した。二人を殺したのは、オラクルス大使にほぼ間違《まちが》いないこと。耳≠ェ狙《ねら》うからには、ガレー船四頭の獅子《しし》″は、アリストの図面通りに動くということ……。
「ネウトス、あの船が本当に動くかどうかについても、あなたの意見が聞きたいんだけど?」
彼女が言うと、ネウトスは突《つ》き出た腹を押《お》さえて、派手《はで》なゲップをしてみせた。
「ここで話す必要はないだろ? たまらん臭《にお》いだ。私は一刻も早く出たいんだがね……」
嫌《いや》そうな口ぶりで言いながらも、彼の目線は一点に注がれていた。
ハテリウスの右耳に……。
まさか?!
ルフィとプリニウスが視線で問うと、耳≠フ協力者のはずの彼は、無言でうなずいた。
W
役宅での出来事を日誌に書き終えたルフィは、慌《あわ》ただしく護民官事務所から走り出た。
夕方まではまだ間があるが、午後も遅《おそ》い時間。
ワイリーの行方《ゆくえ》はわからずじまいだった。屋根裏で錆色《さびいろ》の血族≠スちに聞いたが、彼らは「盟主は、クレニッスの花≠ノ会いたいようだが、生命の危険を感じて近寄れないでいる」などと言うばかりなのだ。
「あと二日しかないのよ……出てきたら、ぶん殴《なぐ》るぐらいじゃすまないんだから!」
ネズミたちの言葉どおりになりそうなことをつぶやいたルフィは、通りで待っているネウトスの二頭立て馬車に飛び乗った。
「アリストとかいう設計師の言うことは、全くもって正しいよ……優能な人物のようだな」
四頭の獅子″の図面を眺めていた魔術師《まじゅつし》が、羊皮紙《ようひし》を丸めてよこす。
ルフィは素早《すばや》く辺《あた》りを見回してから、袋《ふくろ》にしまい込んだ。昨日の夜に襲《おそ》ってきた三人が何者かはわからない。用心に越《こ》したことはなかった。
ヒュッとネウトスの鞭《むち》が鳴って、馬車が動き出す。金がないとよく愚痴《ぐち》をこぼしているわりに、馬車も馬も中々のものだ。彼の巨体《きょたい》が乗っても軽やかな走りに変わりはなかった。
ネウトスが、プリニウス長官の役宅から事務所まで乗せてくれたばかりか、四頭の獅子″の乾《かん》ドックまで送ってやろうと言い出したのは、ルフィがガレー船の動力のことを聞いてしまったからだ。魔法《まほう》のことを話して聞かせるのは、ネウトスの趣味《しゅみ》だった。
「動力だって? 雷《かみなり》を落とすだの火の玉を撃《う》ち出すだの……そういう無茶《むちゃ》なサービスを要求する輩《やから》と同じだな。世の中、そんなに都合のいい魔法などあるわけがない」
「さっきみたいに、死体の耳が腐ってしまうまで音を伝えたり[#「死体の耳が腐ってしまうまで音を伝えたり」に傍点]はできるのに?」
「魔法の本質は関連づけることだ。思ったり念じたりではない」
原則だの原理だの、力の働く方向性だの、例によってよくわからない説明が続くのを、ルフイは、じっと我慢《がまん》しなければならなかった。
ネウトスには悪いが、馬車にゆられながら、ぼんやりと頭に浮《う》かんでくるのは二つ――ワイリーとオラクルスのことばかりだった。
もとはと言えば、あいつが悪いのよ……夜中に……何やってんだか……。
素直《すなお》に船を調べさせるかしら……断られたらあきらめろなんて、長官も弱腰《よわごし》なんだから。
「おほん! 可能性があるとすればだ……」と、ネウトス。
ヴァムジェの大使だからって、人を殺して逃げのびるなんて……許せない……!
あたしたちって……『レガミラの盗賊《とうぞく》』の台詞《せりふ》って……本当なの……?
「あ〜、お嬢《じょう》さん? そろそろ聞いたほうがよくはないかね? もし船を動かせるとすれば、の話をしとるのだが?」
「ご、ごめんなさい!」
ルフィは背筋《せすじ》を伸《の》ばした。いつの間にか馬車は止まっていた。辺《あた》りは、荷馬車や担がれた輿《こし》などでひしめきあっている。港の通りを北へ向かう途中《とちゅう》で渋滞《じゅうたい》しているのだ。
目の前には、ようやく完成したイナ神の像がそびえていた。この混雑は、みんなが祭の前に仕事を済ませたいから――当日は馬車や輿の乗り入れが禁止されているのだ。
急いでるのに!
ルフィは手を額にかざして西日を遮《さえぎ》り、前方を見やった。
当分、動きそうにない。
「歩いたほうが早いわ。ここで降りてもいいかしら?」
「まあまあ、話を聞いておきなさい……」
そう言って、ネウトスは懐《ふところ》から何やら取り出した。全く同じ木製の人形が二つ……手や足が、金属の輪でつながれていて自由に動くようになっている。
彼は呪文《じゅもん》をささやき、簡単な手振《てぶ》りをする。それから、片方の人形をルフィに放った。
「つまり、こういうことだ」
ネウトスが、自分の人形を手で支え、御者《ぎょしゃ》台の脇《わき》に立たせる。
と、ルフィの手の中にあった人形までが、すっくと立ち上がっていた。
「ええっ!」
彼が手で操《あやつ》って、てくてくと歩かせると、もう一方はルフィの手を飛び出し、勝手に御者台の上を歩き始めていた。
「すごい……!」
「これは手で動かせる人形だからできることだ。あの船を動かすには、もう一|隻《せき》同じものを用意して何百人もで漕《こ》がねばならん。大した魔法ではあるが……意味はないな」
しかし、この比率を……と、ネウトスが言いかけたとき、ルフィは馬車を飛び降りていた。
昨日の今日だ、いかにルフィといえども、北港からの帰りが夜遅《おそ》くなるのは嫌《いや》だった。
「ごめん! その話、あとで必ず聞くから!」
蛮族《ばんぞく》の秘術がどうしたと話している彼を残し、ルフィは馬車の合間をぬって走り出していた。
湿《しめ》っぽい床板《ゆかいた》に座《すわ》ったきり、アリストは死んだように動かなかった。
転げ落ちたときに打った肩《かた》や膝《ひざ》がズキズキと痛んだし、船底に近い船内の牢獄《ろうごく》には明かりがほとんどない。それに、体力には自信がなかった。
オラクルスの指示で設計したこの区画は、船倉ということになっているが、明らかに捕虜《ほりょ》なろどを運搬《うんぱん》するための牢獄《ろうごく》だった。入口は中からは開かない作りになっている。
喫水線《きっすいせん》ギリギリに、小さな明かり窓があるだけだ。はるかな高みに……。
せまくて暗い場所が怖《こわ》いわけではない。ただ、生きて故郷の地を踏《ふ》めないのでは……そんな気がしていた。ヴァムジェに帰ったら、もう一度、あのケイヌーンの地を訪《おとず》れてみたかった。
闇《やみ》の中で、だんだんと心が内側に向かっていく。
閉じこめられている現実よりも、ケイヌーンでの記憶《きおく》のほうが鮮明《せんめい》になっていく。
将軍に誘《さそ》われ、こっそりとケイヌーンの女戦士の狩《か》りを見物にいった……。
少女が、獅子《シンバ》に槍《やり》一本で挑《いど》むと知ったときの驚《おどろ》き……。
獅子の爪《つめ》にひっかけられて、跳《は》ね飛ぶ少女。
それでもよろよろと起き上がり、槍をかまえる!
「加勢してやろう」という将軍の声。うなずく自分。
投げ短剣《たんけん》が、狙《ねら》い違《たが》わず獅子の目にズブリと突《つ》き刺《さ》さる。
驚いた少女が、獅子の最後の一撃《いちげき》に、ばったりと倒《たお》れて……。
介抱《かいほう》している自分に、うわごとのように彼女は言ったのだ。「なぜ、助けた?」と……。
元気のいい声が、船の外から響《ひび》いたのは、そのときだった。
「あたしは護民官よ!」
ルフィだ! 現実に引き戻《もど》されたアリストは、そろそろと立ち上がった。
「通しなさい、このクルクス・マヌアールスが令状代わりだわ!」
「それはロマヌアでの話だろう。これはヴァムジェ大使の船だ。国家の機密上、部外者の立ち入りを禁ずることができる。ロマヌア政府の正式の令状でもあれば、話はべつだが……」
「だったら、オラクルス大使を呼んできなさい! 商館で、ここにいるってきいたのよ!」
「大使|閣下《かっか》は、首都ロマヌアへ向かわれた。明後日まで帰らんよ」
牢獄のちょうど真上に渡《わた》し板がある。
彼女はそこで、オラクルスの衛兵たちと押《お》し問答しているのだ。
「ルフィ! 助けてください!」
精一杯《せいいっぱい》声を張り上げる。だが、声は外へ響かなかった。
あきらめずに叫《さけ》ぼうとしたとき……すぐそばの暗闇《くらやみ》で、もの凄《すご》い咆吼《ほうこう》が轟《とどろ》いた。
獅子《シンバ》だ! この牢獄に獅子がいる!?
何か頑丈《がんじょう》なものを、獅子が乱暴に叩《たた》く音がした。暗くて気づかなかったが、どうやら牢獄の反対側の隅《すみ》に檻《おり》があるのだ。
獅子はいつまでも吼《ほ》え続けて、アリストの声も勇気も消し飛ばしてしまった……。
「あの声は……!?」
「大使の飼《か》っている獅子だ。安心しろ、頑丈な檻に入っている」
数人の衛兵たちは、ルフィを見おろして、にやにやと笑った。
渡《わた》り板が傾《かたむ》いているから、背伸《せの》びもできない。斜面の下に立ったルフィにできるのは、にらみ返すことぐらいだ。
獅子《レーオ》ぐらいなによ! ヌゥライを連れてきてやればよかったわ……。
ルフィは本気でそう思った。
船内に踏《ふ》み込めそうにはない。しつこく抗議《こうぎ》していたのは、少しでも様子を探るためだった。
明らかに、出港準備は整っている。
工房《こうぼう》の職人たちは一人も見あたらなかったし、解雇《かいこ》されなかった水先案内人や水夫も、甲板《かんぱん》のあちこちで、のんびりと西日を眺《なが》めている。
大使が戻《もど》り次第、ヴァムジェに向けて出港するつもりだろう。
オラクルスがほくそ笑《え》んでいるのが見えるような気がした。
あいつは、あたしが手出しできないと知ってる。
のうのうと帰国するつもりなのだ……ルストで二人も殺しておいて!
今すぐにオラクルスに突《つ》きつけられる証拠《しょうこ》はない。絶対に手に入る自信はある……だが、もし間に合わなかったら? アリストに顔向けできない。
ふと不安になったルフィは言った。
「設計師は、どこ?」
「船の説明をしに、大使と首都ロマヌアに行ったんだろ」
ヌディ人の衛兵が言うと、べつのヴァムジェ人がうなずいた。
彼らは知らないだけだ、嘘《うそ》はついていない……そう思った。
「もういいわ!」
ルフィは踵《きびす》を返すと、獅子のうなり声が響《ひび》くガレー船をあとにした。
X
「いい子だから、起きるんじゃねえぞ……」
ようやく眠《ねむ》った赤《あか》ん坊《ぼう》を、そっとベッドに降ろすと、小さな毛布をかけてやる。
ワイリーは、軽くため息をついた。
明るい内に一眠りさせてもらった礼とはいえ、針金ネズミ≠ェ、居候先《いそうろうさき》で子守《こもり》とは、なんとも冴《さ》えない。
「今夜はもう、屋根に登らないのね?」
おかみさんが言った。
「ああ、そっちの用事は全部終わった」
こんなことを思いつかなければ[#「こんなことを思いつかなければ」に傍点]、護民官に誤解されることもなかったし、ヌゥライにも狙《ねら》われずに……そう思うと、逆に意地になっていた。二日後が楽しみだが、あいにく今はそれどころではない。
「帰るの?」
「わからん。護民官が謝《あやま》って、助手に戻《もど》ってくれってんなら戻らないでもない」
「無理してるわねえ」
「幼なじみってだけで、迷惑《めいわく》かけちまったな。旦那《だんな》にも宜《よろ》しく伝えてくれ……」
ワイリーが言うと、彼女は顔を曇《くも》らせた。
「どうかしたのか?」
「変なのよ。今日で工事は終わりだって聞いたのに、帰ってこないから……」
まさか、ヴァムジェ人どもが造船技師たちを……?
一瞬《いっしゅん》、嫌《いや》な予感がしたが、顔には出さない。
「あいつのこった、どっかで飲んだくれてんだろ」
「ならいいんだけど……」
「飲みすぎで死ぬのはまずい。もし、明日の夜になっても帰らなかったら、護民官事務所へ知らせてくれ」
そう言って笑いかけると、彼女の顔にもようやく笑顔《えがお》が戻った。
「わかった。じゃ、気をつけてね、針金ネズミ=v
屋根の上や、壁《かべ》の陰《かげ》にヌゥライがいないかを確認しつつ、ワイリーは護民官事務所へと近づいていた。日の暮れかかった路地には、いくらでも隠《かく》れ場所がある。
事務所の中だって、安心はできなかった。
「ルフィのやつ、『ちょうど助手がいなくなって、ベッドが空いてたのよ』なんて、ヌゥライを屋根裏に泊《と》めたりしてねえだろうな?」
律儀《りちぎ》なルフィに限ってそんなことはないと思うが、ケイヌーンの女戦士と鉢合《はちあ》わせするのだけはごめんだった。
むしろ、護民官が一人で事務所に残っててくれるのが、一番ありがたいんだが……。
(盟主、ヌゥライは布陣《ふじん》の内部にはいない)
錆色《さびいろ》の血族≠フ声がした。あれからずっと、契約《けいやく》分のサビネズミたちはワイリーの周囲に散ってヌゥライを警戒《けいかい》しているのだ。特定の個体の識別はあまり得意ではないが、ヌゥライやルフィのような強烈《きょうれつ》な個体は、すぐに憶《おぼ》え、本能的に警戒する。
「ルフィは、どこにいる?」
事務所にいるとの答えを期待して、ワイリーは聞いた。
(クレニッスの花≠ヘ……)
(自宅だ。べつの個体と一緒《いっしょ》にいる)
きっと、ヌゥライだ。
ルフィに会えないのは残念だが、事務所へ行くには都合がいい。
警戒を解いて早足で歩き出したワイリーは、危ういところで一本手前の道を曲がった。
壁にへばりついて、じりじりと事務所のほうをのぞく。
「なんだ……あいつらは?」
前の通りに、見慣れない連中がうろついていた。心の底でヌゥライを警戒《けいかい》していなければ、気づかずに事務所まで行っていたところだ。
(あの個体群は、正午|辺《あた》りからこの通りにいる)
(定期的に交代し、護民官事務所への出入を調査している)
(クレニッスの花≠ノよれば、盟主の頸部《けいぶ》の動脈や気道を圧迫《あっぱく》したい一団らしい)
「そうか、ロマヌア法廷の……くそっ、人気者だな。次から次へと俺《おれ》を狙《ねら》ってきやがる」
(不可解なり。人気者とは?)
(逆説的用法か?)
「だまってろ、考えてんだから」
ネズミに、あの馬鹿《ばか》でかい日誌を持ってこさせるか? いや、気づかれる可能性が高い。
どうしたものか……。
しばらく考えていたワイリーは、錆色《さびいろ》の血族≠ノ命じた。
「いいか、机の上にある本の虫≠ノ、昨日と今日のページを複写させろ。んで、あいつらの巣の紙を破って持ってきてくれ」
(肯定《こうてい》……)
しばらくすると、たたんだ紙をくわえた一|匹《ぴき》めのネズミが到着《とうちゃく》する。
「よ〜し、これで、ルフィの調査報告は全部わかるぞ……」
今ごろ、事務所の机の上では、サビネズミの声に反応して、サワサワと本の虫≠スちが日誌の上を歩き回っているはずだ。
事務所を見張っているドミテス(ルフィの日誌によると、そういう名前らしい)の部下たちを尻目《しりめ》に、日誌の写しは一匹また一匹とワイリーの手元に届けられ、メモはたちまち山のようになった。
「さすがは護民官だ。教本通りというかなんというか……」
地図を丸ごと暗記できるほどの記憶《きおく》力の良さは、ルフィの特技だ。日誌には、わかったことがびっしりと書き連ねられ、さらに多岐《たき》にわたった推測が添《そ》え書きされていた。
ざっと読んで、ヴァムジェ人たちのことを把握《はあく》していく。
「見ろ、ケイヌーンだ。大使のやつぁ、あの蛮族《ばんぞく》と関《かか》わりがある。やっぱり、ヌゥライから聞き出さないきゃならんぞ、護民官……」
ワイリーは目の前にルフィがいるような気分になっていた。
それにしても驚《おどろ》いた。耳≠ワでからんでいようとは!
こいつらのせいで、事態がややこしくなっているのは間違《まちが》いなかった。
よってたかって、俺を縛《しば》り首にしようってわけか……。
「人気者はつらいぜ、ホント。意地でも、二日後の正午までに護民官助手に戻《もど》ってやる。仲直りなんてなあ、その気になりゃ簡単だ」
苦笑まじりに、ワイリーはつぶやいた。
「たぶん……な」
[#改ページ]
第五章 首都ロマヌア
T
浴場の屋根の上で、ヌゥライは日の出を待っていた。
背後の山々から太陽が顔を出すまでには、まだ、ほんの少し間があって辺《あた》りは肌寒《はだざむ》い。
それでも、彼女の腰《こし》かけているドーム状の屋根は、室内の蒸気で暖められ、ゆらゆらと陽炎《かげろう》が立ち昇《のぼ》っていた。
昨日は久しぶりにぐっすり眠《ねむ》ることができた。ルフィは、ねぐらに招いて毛布や長椅子《ながいす》を貸してくれた。あの娘《むすめ》は、良いロマヌア人だ。
ここなら、誰《だれ》にも見られない――ヌゥライは、そっと泥面《どろめん》を外した。
ふんふんと自分の腕《うで》や足の匂《にお》いを嗅《か》ぐ。まだ、かすかに石鹸《せっけん》の香《かお》りが残っていた。
この街の人間は、大半が、この匂いをさせているのだ。ルフィは、彼女が石鹸の香りに惑《まど》わされていたことを教えてくれた。
今日こそは! 立ち上がったヌゥライは、風に顔をさらし、鼻を利《き》かせる。ケイヌーンの戦士の呪《まじな》いが、嗅覚《きゅうかく》を何倍にも高めていく……。
「見つけた!」
ついに、彼女の大切な試練の邪魔《じゃま》をしておきながら、命を救ってくれた、あの男の匂いを嗅ぎ当てたのだ。
槍《やり》を手に、ヌゥライは屋根を滑《すべ》り降りた。
方角を探《さぐ》っているうちに、日が昇って風向きが変わる。とたんに匂いはしなくなった。
間違《まちが》いない。あの男は、海辺のどこかにいるのだ……。
戸口の前に、鏡代わりのサビネズミが一|匹《ぴき》……。
軽く髪《かみ》を撫《な》でつけると、ワイリーは言った。
「どうだ? 少しは、殴《なぐ》られないで済みそうに見えるか?」
(理解不能……)
(攻撃《こうげき》の防御《ぼうぎょ》に、体毛の処理と繁殖《はんしょく》期の植物が必要なのか?)
「まあな。その意見にゃ、おおむね賛成だ」
ため息まじりにつぶやくワイリー。
道ばたに床屋《とこや》がいたので、髭《ひげ》の手入れをした。手には朝の市場で買ったばかりの花束《はなたば》だ。
護民官を相手に? 馬鹿《ばか》まる出しだ……。
「本当に、ヌゥライはいないんだな?」
(肯定《こうてい》……)
(この扉《とびら》の向こうに、個体ヌゥライは存在しない)
ルフィが間借りしている集合住居は、護民官事務所より南のゴミゴミした下町にあった。
番地は聞いていたが、来たのは初めてだ。共同の門から中庭に入ると、庭の全周にぐるっとテラスがあって、二階に個々の住居の玄関《げんかん》がある。もっと北なら、四階や五階建ても珍《めずら》しくないが、この高さが制限いっぱいなのだろう。
ドミテスの部下たちは、ルフィの自宅まではマークしていなかった。
ネズミが姿を消すと、ワイリーはドアを叩《たた》いた。しばらくして、中から声がする。
「どなた?」
「護民官、俺《おれ》だ……」
「ええっと、どなたでしたかしら?」
やな奴!
「ワイリー・マイス! 要するに、あんたの護民官助手だ」
「あらまあ」
あっさりとドアが開いた。
ギョッとするワイリー。
顔を出したのはルフィではない。もっと年上の、おっとりした感じの美人だった。
結い上げた栗色《くりいろ》の髪《かみ》と人懐《ひとなつ》っこい笑顔《えがお》――ルフィが大人《おとな》になって、護民官の顔をしなくなったら(まずあり得ないが)、きっとこんな感じだろう。
「……あんた、誰《だれ》だ?」
「ごめんなさい、この辺は物騒《ぶっそう》だっていうから、私ったらてっきり……さあ、どうぞ」
「へっ?」
柔《やわ》らかい物言いなのに、なんとなく逆らえない。気づいたときには、手を引かれて部屋《へや》の中に入っていた。
明るく、きれいに整頓《せいとん》された室内。間仕切《まじき》りのない大きな部屋だ。隅《すみ》のほうには厨房《ちゅうぼう》まがいの竃《かまど》と流しもついている。料理の最中だったのか、湯気が上がっていた。
護民官の姿はない。
「初めまして、針金ネズミ≠ウん。ベルフィードの母、レミーカ・ヘイズォトです」
彼女は深々とロマヌア式のお辞儀《じぎ》をした。今どき、国王の前でもしないような本式のやつだ。
育ちの良さを感じさせるおっとりした雰囲気《ふんいき》はともかく、優《やさ》しい眼差《まなざ》しや、愛くるしい笑顔は、ルフィにしっかりと受け継《つ》がれていた。
顔を上げたレミーカが、娘《むすめ》とそっくりに微笑《ほほえ》む。
「こ、こりゃ、どうも……」
どぎまぎしながら、お辞儀を返す。
って、鬼《おに》ヘイの嫁《よめ》さんかよ!? なんで、ここに……?
「あなたのことは、ルフィに色々と聞いてるわ。街で見かけたこともあったし」
「そうですか」
気まずいのはワイリーだけらしい。
レミーカは、にこにこしながら長椅子《ながいす》を勧《すす》め、彼の手にした花に嬌声《きょうせい》を上げた。
「素敵《すてき》な花ね! これを、ルフィに?」
「あ、いや、他意は……というか、日頃《ひごろ》の感謝のしるしといいますか……」
わけのわからない言いわけに、くすくす笑ってうなずいた彼女は、花束《はなたば》を受け取った。
「私も、殺風景《さっぷうけい》な部屋《へや》ねって思ってたのよ。待ってて、お茶を淹《い》れますから」
「はあ……」
ぎこちなく長椅子に腰《こし》かける。後ろの書棚《しょだな》には、書物がきちんと並べられていた。意外にも、戯曲《ぎきょく》や叙事詩《じょじし》の写本ばかりだ。その中に薄っぺらい『レガミラの盗賊《とうぞく》』の戯曲があって、ワイリーはハッと息を呑《の》んだ。棚の上に、サビネズミが遠慮《えんりょ》がちに座《すわ》っている。
竈《かまど》に向かうレミーカの後ろ姿を確かめ、彼は小声で錆色《さびいろ》の血族≠罵《ののし》った。
「とんだ恥《はじ》さらしだぜ。ルフィじゃなくて、お袋《ふくろ》さんじゃねえか!」
身なりを整えて、花束を手に上司を訪ねる、もと泥棒《どろぼう》の護民官助手……くそっ! 最低だ!
(我らは嘘《うそ》はついていない)
(盟主は、個体ヌゥライはいるかと質問したはず)
「おまえら……わざとやってんじゃないだろな?」
呻《うめ》いたワイリーに答えず、ネズミたちはサッと隠《かく》れてしまう。
いつの間にか、お茶と砂糖|菓子《がし》がテーブルに出されていた。レミーカは、向かいにルフィの書き物机用の椅子を運んで腰かけている。
「どうかしました?」
「い、いえその、ヘイズォト夫人は、郊外《こうがい》にお住まいだと聞いてたもので……」
「明日はお祭りでしょ。朝早く行かないと、いい場所をとれないもの」
子供みたいに瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせて、レミーカが言った。
たしかに大海捧祭《たいかいほうさい》≠フクライマックスは、午前中で終わってしまう。夜明け前(下手《へた》をすると今日の夕刻)から中央の港には見物人が集まり始め、早朝に花冠《はなかんむり》に宝珠《ほうしゅ》を置く儀式《ぎしき》があって……女神《めがみ》像に人が群がる奪《うば》い合いは、昼頃に最高潮に達するのだ。
ワイリーは失礼にならないよう、サッと部屋を見回した。
「で、護民官はどちらに?」
「あらまあ、ルフィは明日の朝まで帰りませんよ」
「ええっ!? どこへ行ったんです?」
レミーカが小首を傾《かし》げる。
「昨日の夕方、首都ロマヌアへ行くって、馬を飛ばして……」
全《すべ》てのメモに目を通していたワイリーはピンときた。
オラクルスを追ったのだ。
しかし、交渉《こうしょう》会議の場に顔を出してどうするんだ? それとも、俺《おれ》が忍《しの》びこむ以外に、あの船に入る奥《おく》の手があるとか?
いや待てよ……ルフィのやつ、あれを証拠《しょうこ》にするつもりだ!
「やるな護民官。たしかに、あいつらにも少しは働いてもらわねえとな。ロマヌアのために」
つぶやきながら湯飲みを手にすると、茶を口にふくむ。
レミーカが面白《おもしろ》そうにこちらを眺《なが》めていた。
「どうやら、あなたとルフィは、いい相棒みたいね」
「はあ。彼女には感謝してますよ。なにしろ命の恩人だ」
「ふうん。あの子も、あなたは命の恩人だって言ってたわ。ところで」
と、彼女はからかうような笑《え》みを浮《う》かべた。
「ワイリー・マイスさん、あなたはイナ女神《めがみ》の像に登らないの?」
いきなりの質問に、咳払《せきばら》いする。
「興味はありますよ。なにしろ、あの宝珠《ほうしゅ》は五万コレクタはしますからね」
女神像に登るのは愛する人のためという純粋《じゅんすい》な者ばかりでなく、四年に一度の大金を狙《ねら》うだけの輩《やから》も多い。奉納金《ほうのうきん》の回収のため海軍から派遣《はけん》された猛者《もさ》だの、貿易商の雇《やと》った泥棒《どろぼう》だの……色々と参加理由はあるのだ。
「泥棒の血が騒《さわ》ぐってわけ?」
「多少は。けど、だからってあんなものをよじ登るのは、どうも……」
面倒《めんどう》だから、とでも答えとこうか……そう思いながら茶をすする間に、うんうんとレミーカは勝手に納得《なっとく》してうなずいた。
「そうね、誰《だれ》かのために頑張《がんば》ってるのが大勢に知られちゃうのって、照れくさいものね」
なっ……なんで、わかるんだ?!
危うく茶を吹《ふ》き出しそうになって、ワイリーは必死にこらえた。
「ましてや、その誰かさん本人に知られたりしたらもう、こっ恥《ぱ》ずかしいったらなくって……」
か、勘弁《かんべん》してくれ!
こらえた茶が気管に突入《とつにゅう》し、激しくむせるワイリー。
きょとんとした顔で、レミーカが言った。
「まあ、慌《あわ》てて飲むからよ、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「し、死ぬかと思いましたよ……」
玄関《げんかん》の扉《とびら》が開いたのは、そのときだった。
(警告! 警告!)
錆色《さびいろ》の血族≠フ声が響《ひび》く。
「あら、おかえりなさい。ヌゥラ……」
レミーカが、おっとりした口調で言いかけたときには、幾《いく》つものことが、ほとんど同時に起こっていた。
「何故《なぜ》、ここにいる!?」
叫《さけ》んだヌゥライが素早《すばや》く槍《やり》をかまえ、針金ネズミ≠ノ投げつける。
ゴッ! と、空を裂《さ》いて飛んだ穂先《ほさき》が届く寸前、ワイリーは長椅子《ながいす》ごとひっくり返った。
「くそっ!」
彼は、槍《やり》が椅子に突《つ》き刺《さ》さるより早く、窓へと走っていた。中庭ではなく表通りに面した大きな鎧戸《よろいど》を乱暴に開け、窓枠《まどわく》に足をかける。
「し、失礼します、ヘイズォト夫人!」
軽く頭を下げ、ワイリーが窓から外へと消える。
と、思う間もなく、同じ窓枠に槍を抜《ぬ》いたヌゥライが飛びついた。
「ルフィの母、さらばだ。私は用ができた!」
彼女も、あっさりと二階から飛び降りてしまう。
残されたレミーカは、しばらく呆気《あっけ》にとられていたが、首を傾《かし》げてつぶやいた。
「なんだか、みんな忙《いそが》しいのね。ルフィと、いい勝負だわ……」
U
首都ロマヌアは、ルストの東南、すぐ隣《となり》にあった。
ルフィには馬を飛ばせば四半日もかからない距離《きょり》だ。
夜中に着いた彼女が、宿でひと眠《ねむ》りして起きると、ちょうどいい時間になっていた。
山あいの盆地《ぼんち》に造られたロマヌアの都は、計画的で整然とした街並《まちな》みを持ち、建物のほとんどが荘厳《そうごん》で巨大《きょだい》な石造り――そんな印象がある。都市としての活気は明らかにルストのほうが勝《まさ》っているが、気品となるとこちらが上だ。
ルフィの考えでは、首都ロマヌアで何より優《すぐ》れているのは国王の居城があることでも、政治の中心ということでもなかった。なんといっても温泉があることだ。この街の公衆浴場からは、一筋の煙《けむり》も上がらない。ロマヌア式の浴場とは、全《すべ》てここの温泉を模倣《もほう》したものだった。
威厳《いげん》に満ちた街を、ルフィは議事堂へと向かっていた。
見栄《みば》えより機能を重視するロマヌア人の都とは、とても思えない。通りを歩くだけで、意味の無い威圧感に押しつぶされそうになる。だが、これは必要な機能なのだった。ロマヌアを訪《おとず》れた異国からの使者を萎縮《いしゅく》させたり、落ち着きをなくさせるための……。
「オラクルスには通じそうもないけどね」
彼女はつぶやいて、宿を出るとき羽織《はお》ったマントの襟《えり》を合わせた。
ここはルストよりずっと肌寒《はだざむ》い。温泉以外は、あまり好きな街ではなかった。父が査問に呼びだされたときのことを思い出すからだ。
議事堂の門まで来ると、道ばたにヴァムジェ人の輿《こし》が控《ひか》えていた。
数人の兵士が門を守っている。
ルフィはクルクス・マヌアールスをかざした。
「捜査《そうさ》中です。通してください」
門番たちが、サッと左右に散って、すぐに門が開く。
丘《おか》の上にそびえる王城で同じ事をしても、王の寝室《しんしつ》まで行ける――本来、護民官とは、そういうものなのだ。もっとも、普通《ふつう》はやらないし、相手によっては後で捜査《そうさ》に正当性があったかどうかで訴《うった》えられることもある。
でも、これ以上、早い方法は思いつかなかった。これは賭《かけ》なのだ。
巨大《きょだい》な議事堂の入口もあっさりとパスし、ルフィはオラクルスの居場所を聞き出していた。
議会が召集《しょうしゅう》されているわけではなく、会合は小|部屋《べや》で行われているらしい。
石の廊下《ろうか》を進むブーツの音が、コツコツと高い天井《てんじょう》に響《ひび》いた。
「待っててね、アリスト……」
小声でそうつぶやく。
いいわね、ルフィ、オラクルスと会っても怒《おこ》っちゃだめよ……目的は他《ほか》にあるんだから! 扉《とびら》の前で、彼女は自分に言い聞かせた。
「ヴァムジェごときに……」
「いや、しかし今の話が本当なら……」
「そのガレー船を、わざわざルストで竣工《しゅんこう》したというのか……」
サワサワと、本の虫≠ェ歩くような音が室内に広がっていく。
「なに、ロマヌアにはまだ街道が……」
「馬鹿《ばか》な、海路での減益を概算《がいさん》してみろ……」
無念そうな、議員たちのささやき声。
心地《ここち》よい響きだ……と、オラクルスは思った。
一ヶ月の猶予《ゆうよ》を与《あた》えてはいたが、いくら考えても結論は一つしかない。ロマヌアは、彼の提示した条件を飲むしかないのだ。「四頭の獅子《しし》≠ニ同じ、漕《こ》ぎ手なしのガレーが何|隻《せき》も造られればどうなるか?」そう脅《おど》せば、この有様《ありさま》だった。
「しかし、オラクルス大使……この譲歩《じょうほ》は、貴国の新型ガレーの性能が事実ならばの話だ」
「承知している。四頭の獅子≠ヘ、確実に漕ぎ手なしで帰国するだろう」
ロマヌア商工議会の代表者の言葉に、オラクルスは平然とうなずいた。
たとえロマヌアの海軍が妨害《ぼうがい》しても、四頭の獅子≠ヘ絶対に逃《に》げ切れる。こちらは、漕ぎ手を休ませる必要がないのだから……。
結果として、これまでロマヌアに独占《どくせん》されていた港にヴァムジェの商館が建ち、貿易船は安い関税で商売ができるようになる。小競《こぜ》り合いも、戦争も起こさずにだ。
ヴァムジェ側は、五年後から四頭の獅子″と同じ船を、ロマヌア一国にのみ優先的に売却《ばいきやく》する取り決めとなっていた。もちろん、アリストの言う通り、同型というだけでは、ただの動かない船にすぎないのだが……。
これで間違《まちが》いなくヴァムジェはロマヌアに追いつく。本国も満足するだろう。
ケイヌーンとの交易を始めて三年、ようやくここまでこぎつけた。あとは、生贄《いけにえ》さえ手に入れば、四頭の獅子″は完成する。明日か? 明後日か……?
そのとき。
バン! と大きな音を立てて、密室の扉《とびら》が開かれた。
「お騒《さわ》がせして済みません!」
ほんの少し踵《かかと》を持ち上げて、ルフィは室内を見回した。
議事堂のミニチュア、対面式の階段状の石段に、議員たちが並んで座《すわ》っていた。
オラクルスは中央の通路に立っている。そばには秘書官と通訳がいるだけだ。
クルクス・マヌアールスを目にしても、議員たちは顔色一つ変えなかった。ルフィの幼さや性別をささやく声が広がっていく……酒場でケンカの仲裁をするときとそっくりだ。
「ルストのヘイズォト護民官です。殺人事件の捜査《そうさ》中で……護民官の権利を行使します」
「なんという国だ!」
オラクルスが、わざとらしい怒声《どせい》を上げる。
かまわず、ルフィは彼に聞いた。
「あなたの設計師は、どこです?」
「アリストか? 彼ならルストに残っている」
まさか! やはり船に閉じこめられているのか? でなければ、もう殺されて……?!
血が頭に上りかける。
ルフィは針金ネズミ≠フ笑顔《えがお》を思い浮《う》かべた。彼の首が危ないのを放ってまで、遠出してきたのだ。ここで台無しにはできない。
と、一番下の段に座っていた議員が立ち上がった。
商工議会の代表として、この場を牛耳《ぎゅうじ》っているロマヌア側の大物――ロペス・マリオルトだ。
王の親族でもあり、そして耳≠フ長でもある。
「クレニッスのお嬢《じょう》さん……殺人事件の容疑者が、この中にいるとでも?」
「はい、マリオルト閣下《かっか》」
ルフィは、彼に意味ありげな視線を送って言った。
「……オラクルス大使は、小麦商のハテリウスと、ヴァムジェ商館の秘書ミレッタを殺害した疑いがあります」
「無礼な! 証拠《しょうこ》でもあるのか?!」
怒鳴《どな》る大使と、その顔色をうかがうロマヌアの議員たち……。
ざわめきが大きくなる。
彼らを無視して、ルフィはマリオルトを見つめたまま、力強くうなずいた。
「ええ。一つだけ、確実な証拠があります……証人がいるのです」
そうでしょ! あなたも知ってるはずよ!
マリオルトは眉《まゆ》一つ動かさない。
オラクルスが、不敵な笑みを浮かべて言った。
「よかろう、証人とやらを呼ぶがいい。今なら交渉の内容も修正もできる[#「交渉の内容も修正もできる」に傍点]からな」
「いかん!」
「や、やめたまえ、護民官!」
「これ以上、事態を悪化させてどうする……」
「出ていきたまえ!」
議員たちから、矢継《やつ》ぎ早《ばや》に非難の声が上がった。
なによ! 取り引きで損をしなければ、人殺しなんか平気ってわけ!?
怒《いか》りをこらえて、ルフィは言った。
「今ここで証人をお見せするわけにはいきません……」
見せられるわけがない。その人物を見つけるために、ここに来たのだ。
「では、何の用があってここへ来た? ヴァムジェとロマヌアの友好を乱そうというのか!」
こちらを怒らせようという意図がみえみえのオラクルスの声。
「わからないの、オラクルス? あなたは絶対に逃《に》げられない! そう伝えにきたのよ!」
「どうかな? ここにいるお歴々は、ロマヌア人の君より、むしろ私の味方のようだが?」
「絶対に許さない! 覚えときなさい!」
オラクルスの挑発《ちょうはつ》にのったふりをして詰《つ》め寄る。
ほら! どうする気? 早く返事をしなさいよ[#「早く返事をしなさいよ」に傍点]、マリオルト[#「マリオルト」に傍点]!
「ヘイズォト護民官!」
ようやく、マリオルトが止めに入った。
耳≠フ長《おさ》の冷徹《れいてつ》な目が、じっとルフィを見つめる。
彼は、なだめるような口調で言った。
「君の言わんとすることはわかった[#「君の言わんとすることはわかった」に傍点]。権利の行使に正当性があるのは認めるが、我々の立場も考慮《こうりょ》し、ここは引き取ってもらえないだろうか?」
「わかりました。あなたがそうおっしゃるのなら……」
そう言って、略式のお辞儀《じぎ》をする。
ここでの目的は遂《と》げたのだ。ルフィは、あっさりと引き下がった。
あとは待つだけだった。
V
正午を告げる鐘《かね》。
ミトゥン神殿の前には、市場が立っていた。
あと丸一日か……ワイリーは、ちらっとそんなことを考える。
その間に、ヌゥライが迫《せま》ってきていた。
窓を飛び降りてから、何度もふりきったのだが、そのたびに先回りされる。
戻《もど》ってレミーカに仲裁を頼《たの》むという手も考えたが、とっくにあきらめていた。
ヌゥライがおとなしく話を聞く保証はない。なにしろ、他人の家にいた客に、いきなり槍《やり》を投げつける女だ。
通行人でごった返す広場をかき分けて、ワイリーは走った。
顔見知りの花売りの娘《むすめ》や、土産《みやげ》物屋の小僧《こぞう》が目を丸くして二人を見送る。
この界隈《かいわい》は事務所の目と鼻の先だ。知り合いが多かった。
ルフィがよく昼飯を買う総菜屋の店主や、立ち話をしていたワインの仲買人も「あの護民官助手、|蛮族の娘《ヌゥライ》に手を出して怒らせたか……」という顔で笑っている。
笑い事で済んでいるのは、ワイリーがヘラヘラと笑いながら逃げているからだ。
これなら、殺されかけているようには見えない。単なる追いかけっこだ。
大騒《おおさわ》ぎで逃げれば、誰《だれ》かが自警団や衛士を呼びかねなかった。ヌゥライは彼女なりに(蛮族にしては珍《めずら》しいほど)気を遣《つか》っているが、追いつけば、ためらわずに俺《おれ》を殺す……誰かが止めに入れば、きっともっと死人がでる。
ワイリーにしてみれば、見せ物小屋で猛獣《もうじゅう》を相手におどけてみせる道化の気分だった。
「護民官助手ってのは辛《つら》い仕事だな……ったく!」
最初は針金を切られ、二度目はサビネズミの犠牲《ぎせい》で何とか逃げのびて――針金ネズミ≠ニもあろうものが、みっともない話だ。
「今度こそ教えてやる。ケイヌーンの戦士だろうが、ルストじゃ俺に勝てないってことをな!」
ワイリーは洗濯《せんたく》場へと走った。
川から汲《く》み上げられたきれいな水が、大きな石の水槽《すいそう》に注がれ、溢《あふ》れ出している。その下の洗い場では、何人もの屈強《くっきょう》な洗濯女たちが、衣類を山と積んで仕事をしていた。
ワイリーの目当ては、さらにその向こうだ。
「すまん! 通してくれ!」
泥《どろ》だらけのブーツで洗濯物の上を走り抜《ぬ》けると、たちまちご婦人方の非難の声が上がった。
無数に振《ふ》り下ろされる洗濯棒と、太い腕《うで》からくり出される拳固《げんこ》の雨……。
二、三発食らいながらも、ワイリーは汚水《おすい》が流れ落ちる大きな排水路へと逃げた。
ヌゥライは、ためらうことなく追ってくる(ちゃんと洗濯物を飛び越《こ》えてだ)。
「あの馬鹿野郎《ばかやろう》を、とっつかまえとくれ!」
「槍《やり》で尻《しり》を突《つ》いてやりな!」
バシャバシャと水をはね上げて走る二人の背に、洗濯女たちの罵声《ばせい》が飛ぶ。
溝《みぞ》のどん詰《づ》まりまで来たワイリーは、さらに地下へと流れる排水口へと飛びこんでいた。
ヌゥライが迷わず追ってくるよう、鉄格子《てつごうし》の上げ蓋《ぶた》を開け放したまま……。
進めば進むほどヘドロの臭《にお》いが押し寄せ、鼻が利《き》かなくなっていく。
ヌゥライは顔をしかめた。
これでは、あいつを追いかけられそうにない。
足の裏や指の間がぬるぬるして気味が悪かった。滑《すべ》りやすくて走れない。
広くて薄暗《うすぐら》い洞窟《どうくつ》……。左右には、幾《いく》つもの小さな入口が開いている。嫌《いや》な感じがした。
「どうした、ヌゥライ? 俺を殺すんじゃないのか?」
「くっ!」
声のした狭《せま》い穴へと飛びこんで槍《やり》を構えるが、あいつの姿はない。奥《おく》は真っ暗だ。
槍を振《ふ》り回せない、狭くて暗い洞窟《どうくつ》……どこまで続いているのだろう?
こんなところにくるのは初めてだった。
ケイヌーンの戦士が決して抱《いだ》いてはならない感情が、じわりとこみ上げてくる。
また、わぁぁんと反響《はんきょう》して声が聞こえた。
「ワイリー・マイスは獅子《レーオ》じゃない。ネズミのやり方でやらせてもらうぜ……」
間違《まちが》いない! あいつは、この奥にいる!
背中を屈《かが》め、槍を低く突《つ》きだして、ヌゥライは慎重《しんちょう》に走りだす。
洞窟は、どんどん細くなり、天井《てんじょう》も低くなって、息が詰《つ》まりそうだった。
それでも、闇《やみ》の奥からは、ワイリーの声が途切《とぎ》れることなく聞こえてくる。
妙《みょう》だった。あの男は、なぜ逃《に》げもせずいつまでも喋《しゃべ》っているんだろう? そう思ったとき、穂先《ほさき》が固いものに触れ、ヌゥライは慌《あわ》てて立ち止まった。
洞窟は瓦礫《がれき》に埋《う》もれて終わっている。馬鹿《ばか》な! 行き止まり……?
「どうした、ヌゥライ? 俺を殺すんじゃないのか?」
ワイリーの声が、あるはずのない洞窟の奥から聞こえた……。
と、何|匹《びき》ものサビネズミが、足元を駆《か》け抜《ぬ》けていく。
「呪《まじな》い……?」
ヌゥライは、自分が身動きの出来ない闇の中にいるのを思い知らされた。
ただでさえ狭い壁《かべ》が、グイグイと迫《せま》ってくるような気がして、冷《ひ》や汗《あせ》が止まらない。
まずい……。
そう思った。ケイヌーンの戦士が抱いてはいけないもの、それは……。
「やっぱり、こういうとこが苦手なんだな、ヌゥライ」
突然《とつぜん》、真後ろから本物のワイリーの声がした。
獣《けもの》のように叫《さけ》んで槍を真後ろに突き上げたところで、ヌゥライは意識を失っていた。
戦士の呪いによって何倍にも増幅された恐怖[#「何倍にも増幅された恐怖」に傍点]のせいで……。
「油断した。穂先だったら、死んでたぜ……」
ワイリーは、腹をさすってぜいぜいと荒《あら》い息をついた。ぬるぬるした床《ゆか》に足を投げ出す。
胃の中のものは、あらかた吐《は》き出してしまっていた。
槍を使えなくしてからが一苦労と思っていたのに、ヌゥライは泥面《どろめん》を震《ふる》わせて倒《たお》れている。
錆色《さびいろ》の血族≠スちに自分の声色《こわいろ》をまねさせて、相手をおびき寄せる――昔《むかし》よく使った手だが、予想以上の効果があったらしい。
(個体ヌゥライは過度の恐怖《きょうふ》により硬直《こうちょく》している……)
(我らの個体が天敵に襲《おそ》われた時の状態だ)
「会ったのが屋根の上や公衆浴場ばかりだったんで試《ため》してみたが……まさか、こんなことになるとはな……」
彼は、ぼそりとつぶやいた。
なんてこった! 二度と女子供は傷つけないんじゃなかったのか、ワイリー・マイス?!
(盟主、急がないのか?)
錆色《さびいろ》の血族≠ェ怪訝《けげん》そうに訊《たず》ねた。
「急ぐ? なんで? こいつはもう……」
(制御《せいぎょ》している)
(もの凄《すご》い精神力だ……)
(個体ヌゥライの完全回復までの推定所要時間は、およそ二時間……)
「へっ?」
ワイリーは、ケイヌーンの戦士を見おろした。
ネウトスが彼らを怖《おそ》れていたわけが、ようやくわかってきた。こいつはたしかに怪物《かいぶつ》だ……。
「また暴れられると厄介《やっかい》だな。事務所に運んで、事情|聴取《ちょうしゅ》といくか……」
辛《つら》そうに立ち上がったワイリーは、やれやれとばかりに一息入れた。
担ぎ上げたヌゥライは、驚《おどろ》くほど軽かった。こいつは何も悪いことはしていないのに、縛《しば》らないといけない……そう思うと、嫌《いや》な気分になる。
(疑問……盟主の住居には、あの個体群がいるが?)
「あれはもう大丈夫《だいじょうぶ》だ。手強《てごわ》いかもしれないが、頭の固い連中だからな……」
ワイリーは、こともなげに言い切った。
「針金ネズミ≠見過ごしたというのか!?」
ドミテスの言葉に、報告に戻《もど》った部下たちはうなずくしかなかった。
彼らは、言われたとおりの仕事をしたのだ。
事務所に戻ってきた針金ネズミ≠ノ、どんな任務についているかを聞き、ヘイズォト護民官の言葉と食い違《らが》っていることを理由に捕縛《ほばく》する、それがドミテスの指示だった。
「しかしワイリーは、命令で隠密《おんみつ》任務についていたと答えたのです……」
「あれでは、言いがかりが使えな……いえ、捕縛の理由がありません」
ワイリー・マイスは重要参考人らしい蛮族の女を連行して現れ、「隠密行動の成果でね[#「隠密行動の成果でね」に傍点]」と言って、事務所に入っていったのだ。
「あの状況《じょうきょう》で手を出すと、公務の妨害《ぼうがい》をしたと訴《うった》えられかねません」
部下たちには、捜査《そうさ》中の護民官助手に手出しする勇気はなかった。
「ヘイズォト護民官は、確かにワイリー・マイスと接触《せっしょく》していなかったのですか?」
「間違いない! 耳≠ゥら得た情報だぞ……」
ドミテスは、薄《うす》い唇《くちびる》をかみしめてしばらく考えていたが、やがてフウッと息を吐いた。
「あきらめよう。今回は見送りだ」
相手は針金ネズミ=A尻尾《しっぽ》をつかむ機会はいくらでもある……そんな顔つきで、彼はこうつけ加えた。
「ただし、この判断は明日の正午までは保留とする」
W
「う〜ん、いいお湯だわ。悔《くや》しいけどルストにはこれがないのよねえ……」
白く濁《にご》った湯をかき混ぜると、ルフィは大きな声で言った。
入浴中の貴婦人たちが、顔を見合わせて苦笑している。それを横目に、ルフィは無粋《ぶすい》なルスト生まれの小娘《こむすめ》のふりを続けた。
浴場の造りはルストと同じだったが、湧《わ》いてくるお湯は惜《お》しげもなく浴槽《よくそう》の縁《ふち》から溢《あふ》れて次の浴槽に注ぐような、けちくさいことはしていない。硫黄《いおう》の匂《にお》いのせいか、出る前には冷水ではなく香料|風呂《ぶろ》に浸《つ》かるところも、他のロマヌア式の浴場とは異なっている。
あんなことしたら、せっかくの効果が薄《うす》れちゃわないかしら……?
お湯の中で身体《からだ》をさすりながら、ルフィはそう思った。不思議なことに肌《はだ》は本当にすべすべになっている。
「そっか、顔にも……」
お湯をすくって、ぴたびたと顔を叩《たた》きだすルフィ。
湯あたりしそうになってフウッと息をついてから、声を出さずにアッと口を開ける。
これは演技でしょうが! 本当に温泉を楽しんでてどうするのよ!
「悪いのはマリオルトよ、あたしがここにいるってわかってるくせに、遅《おそ》いんだから」
もちろん、彼が女湯に入ってこれるわけがない。
耳[#「耳」に傍点]≠ニ取り引きする[#「と取り引きする」に傍点]からには、できるだけ危険を減らしたかった。ここなら、誰《だれ》か女性を寄こすしかないし、当然、裸《はだか》での交渉となる。
少し焦《じ》らして困らせてやれば、あちらも本気で取り引きする気になるだろう。そう思って、長湯をしているのに……。
こっちは、すぐにルストに戻ってワイリーを探さないといけないのだ(悪いのはあっちですからね!)。それに、オラクルスだって、とっくにルストに引き上げている。急がないと逃《に》げられかねなかった。
証人を手に入れても、問題はどうやって出港を差し止めるかだ――。
「ワイリーがいたらな……」
ルフィは、ぽつりとつぶやいた。
オラクルスが四頭の獅子《しし》″にどんな魔法《まほう》をかけたか知らないが、陸|揚《あ》げされたガレー船であることに変わりはない。針金ネズミ≠ネら、わけもなく忍《しの》び込めるはずだ。
「ん? ちょっと待って……」
今、ひっかかるところがあった。なにか……。
湯の中に沈《しず》んでいくルフィ。だが、答えは出てこない。代わりに何故《なぜ》か――ああいう、あやあやなもんは嫌《きら》いなんだ――と言っているワイリーのしかめっ面《つら》が浮《う》かぶ。
「そうだ。あいつ、魔法《まほう》が苦手だったっけ……」
ふふっと微笑《ほほえ》んだルフィは、すぐに『レガミラの盗賊《とうぞく》』の台詞《せりふ》を思い出し、ため息をついた。
たしかに錆色《さびいろ》の血族≠ヘ嘘《うそ》をつかないけれど、全《すべ》てを語っているわけではない。わからないことは、ルフィが勝手に想像で埋《う》めたのだ(ネズミごときの話を真《ま》に受けて!)。
ええっと、若い女の個体の住居にいたのよね(いただけかもよ)、あとはベッドに横たわってた(う〜ん、状況証拠《じょうきょうしょうこ》だけで疑うのはよくないわ)とか……。
ルフィは、湯の中で何度も首を振った。
ワイリーがあたしに隠《かく》し事をしたときは、いつもちゃんとした理由があった。今回も、きっと何かわけがあるのよ(たとえ『針金を使った』り、『上や下に行った』りしてても!)。
「のぼせたの? ベルフィード・ヘイズォト護民官……」
背後から低く押《お》さえた声がする。
いつの間に!?
ふり返ると、広い浴槽《よくそう》の反対側に黒髪《くろかみ》の女性がいた。湯船には二人きりだ。
彼女は、浴槽の縁《ふち》に軽く肘《ひじ》をつき、くつろいだ様子で湯の中に肢体《したい》を伸《の》ばしていた。怖《こわ》いぐらい鋭《するど》い目線でこちらを見つめている。
ルフィは、サッと元の姿勢に戻《もど》って背中を向けた。取り引きの前から[#「取り引きの前から」に傍点]、相手に優越感を与えることはない[#「相手に優越感を与えることはない」に傍点]。本当に、どうしてこう耳≠フ女性ってのは艶《なま》めかしい人ばかりなの?!
「黒ウサギ≠諱Bこの件の責任者……それで要求は?」
「二人を殺した犯人を知っているはずよ。見てはいないでしょうけど……」
言いながらルフィは、背伸《せの》びの代わりに湯の中で足の親指を突《つ》っ張らせる。
ハテリウスは死体になっても聞き耳を立てていた。死ぬ間際《まぎわ》だって当然、仲間がその音を聞き取っていたはずだ。
「粉屋≠フ耳は、私につながっていた。二人を殺したのは、間違《まちが》いなくオラクルスよ」
「ミレッタは、どうしてあそこに?」
「新型ガレーの秘密をロマヌア政府に警告したい……と、耳≠ヨの協力者に相談してきた。粉屋≠ェ接触《せっしょく》したけれど、聞き出す前に尾行《びこう》してきたオラクルスに殺されてしまった……」
ミレッタの喉《のど》を裂《さ》いた後で、彼はハテリウスの目に短剣《たんけん》を投げつけたのだ、と黒ウサギ≠ヘ説明した。
ルフィは言った。
「証人として、あなたに法廷に立ってもらう……それがこちらの要求よ」
「大使が承知しないでしょ。耳にかけた魔法《まほう》は、ルストでは非登録よ。合法ではないわ」
「あっ!」
ルフィは短く叫《さけ》んだ。べつに黒ウサギ≠フ言ったことに驚《おどろ》いたのではなかった。
さっきひっかかったことが何なのか、ようやくわかったのだ。咳払《せきばら》いを一つすると、彼女は言った。
「ええと、そっちは問題なしよ。非登録なんてこと、オラクルスは知らないんだから」
「なるほどね……だったら、その代わりに四頭の獅子《しし》″の捜査《そうさ》に我々を同行させなさい。それがこちらの条件よ」
ルフィは、しばらく考えてから聞いた。
「なんで、耳≠ェ?」
「オラクルスの計画を妨害《ぼうがい》するのが、我々の任務だからよ。それに仲間を失ってもいるし」
選択《せんたく》の余地はない。
ゆっくりと黒ウサギ≠フほうを向いて、ルフィはうなずいた。
「いいわ、手を打ちましょう」
明日の朝、耳≠ニ協力して船の出港を押《お》さえ、臨検《りんけん》してオラクルスを逮捕《たいほ》する……。
手はずを整えると、ルフィは浴槽《よくそう》から飛び出した。
「待って、いくら護民官でも、あの船に乗り込むのは難しくない?」
「手はあるわ。実はね、さっき思いついたの……」
ルフィは、彼女の右耳を見つめて言った。
X
「なるほど、掟《おきて》か。それで、俺《おれ》を殺しに来たわけだ」
望まなくてもしかたなくってとこか。今の自分と同じ気分かもな……。
そんなことを思いながら、ワイリーはつぶやいた。
(完全回復まで、あと二、三分)
(質問は今のうちだ、盟主)
「あのな、こんなことを俺が好きでやってると思ってんのか?」
(嗜好《しこう》性ではなく必要性の問題では?)
「うるさい、黙《だま》れ!」
一喝《いっかつ》すると、サビネズミの声はしなくなった。
手足を厳重に縛《しば》られ事務所の椅子《いす》に座《すわ》らされたヌゥライが、虚《うつ》ろな目をしてうつむいている。
ゆっくり質問すると、朦朧《もうろう》とした状態の彼女は自分が何故《なぜ》ルストに来たかを話してくれた。
ここまでの錆色《さびいろ》の血族≠フ口ぶりからすると、恐《おそ》らく本人の意志とは関係なくだ。
「言っておくが、俺は、あんたをこんな目に遭《あ》わせたくはないんだからな」
「なぜ殺さない?」
キッと顔を上げたヌゥライ。泥面《どろめん》の奥《おく》の目には、生気が戻《もど》っていた。
「それが針金ネズミ≠フ掟だからだ」
不機嫌そうに言い放つと、ワイリーは投げ短剣《たんけん》を机の上に突《つ》き立てた。
「ヌゥライ、おまえの狙《ねら》いは、こいつの持ち主じゃないのか?」
彼女はしばらく黙っていたが、やがて首を振《ふ》った。
「わからない。ただ……今朝《けさ》、船を嗅《か》ぎ当てた」
「そいつも殺すつもりなのか? 自分を手当してくれた男を?」
「ケイヌーンの戦士は掟を守らねばならない……」
事務所の扉《とびら》を叩《たた》く音がしたのは、そのときだった。
ワイリーが、素早《すばや》く机に刺《さ》さった投げ短剣をつかむ。
「誰《だれ》だ?」
「私よ、針金ネズミ=v
息を吐《は》いて、ワイリーが短剣をベルトに収める。
顔を出したのは、造船技師のおかみさんだった。縛《しば》られたヌゥライに驚《おどろ》いたものの、彼女は何も聞かなかった。
落ち着いてはいるが、ひどく顔色が悪い。
「あなたは夜まで待てって言ったけど、やっぱり心配で……」
「おい、まさか、まだ!?」
彼女はうなずいた。
「工房《こうぼう》の職人は一人も戻《もど》ってない。工事が延期になったって聞かされたわ」
「そうか」
短く答えたワイリーは、すうっと目を細めた。奥歯《おくば》が軋《きし》む音。
ヴァムジェ人どもめ! ルフィ、悪いが先に始めさせてもらうぜ……。
紙を机に叩《たた》きつけると、乱暴にメッセージを書きつけた。
「明日の朝まで、ここにいられるか?」
「ええ、子供は預けてきたから」
「よし。だったら、護民官が来たらこの手紙を渡《わた》してくれ。ご亭主《ていしゅ》は俺《おれ》が何とかする」
「わかったわ。でも、この人は……?」
「何もしないでいい。逃《に》げようとしても手出ししなければ、危害は加えないから……」
ワイリーはそう言うと、ヌゥライに向き直った。
「匂《にお》いで気づいてんだろ? ここはルフィの仕事場だ。待ってりゃ、彼女がほどいてくれる」
行ってくる――と、飛び出したワイリーは、戸口に手をかけて立ち止まる。
ふり返ると、おかみさんが怪訝《けげん》そうに彼を見上げた。
「どうしたの?」
「言い忘れた。くれぐれも、ルフィに余計なことは話すなよ[#「余計なことは話すなよ」に傍点]」
「こんなときに笑わせないでよ……」
彼女は弱々しく笑ってうなずいた。
[#改ページ]
第六章 四頭の獅子
T
盟主の行動を理解することは不可能なのか――ルストに住む全《すべ》てのサビネズミの脳を統合した知性体、錆色《さびいろ》の血族≠ヘ、その一部を使って長いこと演算をくり返していた。
半年前に針金ネズミ≠ェルストに戻《もど》ってからずっとだ。
この日の夜になって、ようやくその答えが出ようとしていた。
ちくせき《ぼうだい》最古の都市に生まれたときから蓄積してきた知識は膨大でも、彼らは全てを理解しているわけではない。ヒトが持つ「心」とやらを理解するのは困難な作業だ。
それでも、ルストの錆色の血族≠ヘ盟主のために考え続けていた。延々と、飽《あ》きもせずに。
ルストの盟主≠ェ良き伴侶《はんりょ》を得て繁殖《はんしょく》し、後代を産み育てることは、ルストのサビネズミにとっては重要な事柄《ことがら》だった。
(クレニッスの花≠ニ盟主の会話を仲介《ちゅうかい》する際、意図的に情報を操作した)
(我らの判断は正しかったのか?)
(あと少しで解は求められる……)
(ならば思考を集中すべきだ)
(集中せよ……)
とたん、ルスト中のネズミというネズミが一匹《いっぴき》残らず動きを止めた。猫《ねこ》から逃《に》げていたものも、残飯を漁《あさ》っていたものも皆《みな》、鼻先さえピクリともさせずに硬直《こうちょく》して、一体化する。
(解は求められた)
(ついに……ついに理解した……)
(肯定《こうてい》。我らの判断は正しかった)
全神経を集中して色々と考えた末に、サビネズミたちは誤った結論を導き出していた。
(なるほど。盟主は『クレニッスの花≠ニ、常に特殊《とくしゅ》な状況《じょうきょう》にありたい』のだな)
(『レガミラの盗賊《とうぞく》』なる文献《ぶんけん》によれば)
(この結論を、本人に確認せよ……)
集中を解いた錆色の血族≠ヘ、すぐに盟主を見失ったことに気づいた。
どのサビネズミも、ワイリー・マイスを発見することができなかったのだ。
たった数分間の空白のうちに、彼は完全にルストから消え失せていた。
(あり得ない……物理的に不可能だ)
(徹底《てってい》して捜査せよ)
遮断《しゃだん》する直前、港にいたのはわかっている。
だが、この短時間で盟主が沖へ出られるはずがなかった……。
どうせもう敵には気づかれている。
チチチッと舌を鳴らしてから、ワイリーは声を上げた。
「おい、どうした? いないのか?」
いくら呼んでも、錆色《さびいろ》の血族≠ゥらの返事はない。
二人のヴァムジェ人が、上|甲板《かんぱん》から階段を下りてくるのが見えた。
こっちはまだ、歯車と巨大《きょだい》なシャフトの迷路にいるというのに!
暗くなるまでドックに隠《かく》れていたのが無駄《むだ》になった――少し前に起こった奇妙《きみょう》な出来事を思い出し、ワイリーは短く舌打ちした。
ドックの足場から四頭の獅子《しし》″の船腹へと飛びついたとき、服の袖《そで》につかまっていた連絡《れんらく》用のネズミが、突然《とつぜん》、身体《からだ》を硬直《こうちょく》させて落ちていったのだ。わけがわからなかった。
ネズミはドックの底に激突してキイッと最後の悲鳴を上げ、甲板からヴァムジェ人が下をのぞきこんで――三段目のオールにぶら下がったワイリーは、突《つ》きだされたオールの合間から船内へ滑《すべ》り込むしかなかった。
「返事をしろ、ネズミたち……」
もう一度呼んだが、彼らは答えない。
船は空間に比してサビネズミの数が多い。すぐに一定の密度に達して小さな錆色の血族≠ェ生まれる。ましてや、一ヶ月も陸にあったのだ。ルストのサビネズミがいるはずなのに……。
「おいおい、まさか……!?」
ワイリーは嫌《いや》な予感がした。
この船にはネズミが一匹《いっぴき》もいないのだ。その意味するところは、ひとつ……。
と、ヴァムジェ人の声がした。
「あそこだ!」
二人の兵士がランプをかざし、廊下《ろうか》の手すりに身を乗り出して、こちらを指さしている。
ルフィの日誌で、船内の様子は把握《はあく》していた。船倉は、この複雑な機械の下にあった。
あの廊下まで行けば……突きだした細いシャフトの上を歩き出すなり、短剣《たんけん》が飛んでくる。
ヴァムジェ人|傭兵《ようへい》が、狭《せま》い船内で使う飛び道具――ハテリウスの目に刺《さ》さっていたのと同じ投げ短剣だ。
「くそっ!」
バックステップを踏《ふ》んだワイリーは、歯車を支えている柱に隠れた。
カツッ! カツッ! と、乾《かわ》いた音。
細身の短剣が、次々と柱に突き刺さる。
「やめろ! 作動に支障が出たらどうする!」
ゆっくりと船尾《せんび》の階段を下りてきた初老の男が、大声で一喝《いっかつ》した。
「で、ですがオラクルス様、侵入者《しんにゅうしゃ》が……」
「だったら、なぜ指示通りにしない!」
「それは……」
兵士が何やら言いわけしている。
この隙《すき》を見逃《みのが》すワイリーではなかった。素早《すばや》く歯車をよじ登り、クランクの上を一気に走って、ひょいと廊下《ろうか》の船首側に降りる。
通路は思ったより広く、長い得物を振り回しても何かにぶつかる心配はなかった。もっとも、こっちの得物はハテリウスの目に刺《さ》さっていた短剣《たんけん》だけで、あとは針金ぐらいしかないが……。
それでも、ワイリーは三人のほうへとじりじり進むしかなかった。下層への階段は、廊下の中ほどにしかないのだ。
おいおい、どうする気だよ、ワイリー・マイス?
見つかるのは予定になかった。ここは逃《こ》げたほうがいい――経験と勘《かん》が、そう告げている。
しかし。自分でも気づかないうちに、彼は目を細めてオラクルスを睨《にら》みつけていた。
「やれやれ、こりゃまた、とびっきりの悪人面だな……」
こいつが、あの可哀想《かわいそう》なミレッタを殺したのだ。こいつのせいで俺《おれ》はヌゥライに追われ、縛《しば》り首にされかけ、ルフィにも誤解されて、ネズミにも見放された船に忍《しの》びこむ羽目に……。
「ヴァムジェの大使だな?」
ほう、とオラクルスが眉《まゆ》を上げた。
片手で船の模型を抱《かか》え、もう一方で剣を構えている。
「私の船と知っていて、忍びこんだのか?」
「うちの護民官が世話になってるんでね」
じりっと半歩、間合いを詰《つ》める。右手を背中に回し、いかにも奥《おく》の手がありそうな顔つきをしてみせる。袖《そで》の中には、もうネズミはいないのにだ。
兵士を押《お》し分けるようにして、オラクルスが前に出た。船尾《せんび》から船首まで、廊下の長さはかなりある。まだ剣の間合いには遠い。怖《おそ》れることはなかった。
「ヘイズォトの助手か?」
「針金ネズミ≠セ。造船技師をどうした?」
言いながら、もう半歩。
ちらっと足元に目をやる。ワイリーは、床《ゆか》にあいた不自然な隙間が気になっていた。
オラクルスが、にやりと笑う。
「技師か……この地区の護民官にさえ気づかれていないのに、よくわかったものだ」
「他《ほか》にも色々と知ってる。あきらめな将軍[#「将軍」に傍点]、おまえを追ってケイヌーンの戦士が来てるぜ」
かまをかけたのに、相手は顔色一つ変えなかった。
ワイリーがヌゥライの恐《おそ》ろしさを語るなり、声を上げて笑いだしたくらいだ。
「すると貴様も、あの娘の素顔を見たのだな? これは面白《おもしろ》い……」
「面白いだと?」
「餌《えさ》は多いほうがいいからな」
日に焼けた頬《ほお》を歪《ゆが》ませてつぶやくと、オラクルスが模型の内部に手を入れる。
小さな歯車の回る音。床に走る小刻みな震動《しんどう》……。
馬鹿《ばか》な!? どうやって動かした?
警戒《けいかい》はしていたから、驚《おどろ》きや疑問を感じても身体《からだ》は動く。
ワイリーは、落とし穴が開く前に床《ゆか》を蹴《け》っていた。
思ったとおり、背後の長い範囲《はんい》の床が縦に傾《かたむ》き、斜面《しゃめん》に変わっている。後ろに飛び退《の》いても、そのまま転げ落ちていただろう。
まずは手すりに乗り、さらに前へと――。
「ふん、こそ泥《どろ》のやりそうなことだな!」
「な、なにっ?!」
しまったと思ったときには身体は手すりを放れ、宙に舞《ま》っている。
目の前に、オラクルスがいた。
こちらの軌道《きどう》を見越《みこ》してダッシュし、着地点に待ちかまえて剣《けん》を突《つ》きだしている……。
「くっ!」
鋭《するど》い切っ先が皮膚《ひふ》を裂《さ》いた。
剣は、そのままワイリー自身の重みでズブズブと筋肉に食い込んでいく。
「畜生《ちくしょう》め……いいとこなしか……よ」
「痛いか? だが、急所ではない。しばらくは死なんよ。生きた餌《えさ》のほうがいいのでな」
耳元で、オラクルスがささやいた。
身体を離《はな》すと同時に、彼を斜面に蹴りこむようにして剣が引き抜《ぬ》かれる。
「ぐはっ!」
突かれたときの何倍もの痛みが、右腿《みぎもも》に走った。
急な斜面に落とされ、痛みに朦朧《もうろう》としながらも、ワイリーは傾いた床にしがみついた。
「馬鹿な奴《やつ》だ、オラクルス……」
「負け惜《お》しみか」
「いいや、護民官が来れば、怒《おこ》ってすごいことになるぞ……少なくとも、マスリックのときゃ、そうだった」
今回だって、きっと……そう信じると、少しは苦しみが薄《うす》らいでくる。
ふんとオラクルスが鼻を鳴らした。
「出港の邪魔《じゃま》をするようなら、あの護民官にも死んでもらう」
「やってみろ、絶対にぶっ殺してやる」
ここから針金を投げられるだろうか? いや、無理だ、踏《ふ》ん張りきれない。流れた血で、ぬるりと足が滑《すべ》った。いいところを見せようとすると、いつもこれだ――みっともない!
「ここでルフィが助けに、ってのは虫が良すぎるな……」
ワイリーは自嘲《じちょう》気味に笑いかけて、すぐに顔をしかめ、苦痛に喘《あえ》いだ。
もう限界だ。鉄の匂《にお》いのする斜面を、ずるずるともがきながら滑り落ちていくしかない。
「餌が増えた。明日の朝には出港できそうだな」
高みから、オラクルスの笑い声が響《ひび》いた。
あの野郎《やろう》、またあの模型をいじってやがる――落ちていく途中《とちゅう》、ぼんやりとそう思ったとき、真っ暗な船倉の床《ゆか》に叩《たた》きつけられていた。
衝撃《しょうげき》と失血のショックで、意識が遠のいていく。
「まずいな、護民官が……来ちまう……」
倒《たお》れたまま、ワイリーは低い声で呻《うめ》いた。
U
もうじき、大海捧祭《たいかいほうさい》≠フ朝がくる……。
夜明け前のルストは、活気づいていた。
どの家にも祭りの灯《ひ》が飾《かざ》られ、海に通じる道はどこも明るく照らされている。湾《わん》に注ぐ川や運河も、明かりを灯《とも》したゴンドラでいっぱいだ。
気の早い屋台も出始めていて、辺りには干した果物《くだもの》を甘《あま》く煮た菓子《かし》や、焼き栗《ぐり》といった、食べ物の匂《にお》いが漂っていた。
うきうきした見物客のざわめきは、山の手から港の中央へ、海岸にある水の神々の神殿《しんでん》へと向かっている。
葦毛《あしげ》に乗ったルフィが人々の流れを横切ると、すぐさま衛兵が文句を言いに飛んできた。
「ごめんなさいね、急いでるの」
ルフィは済まなそうに、クルクスを抜《ぬ》いて見せた。
「隣《となり》の馬車もですか?」と兵士。
「顧問《こもん》の魔術師《まじゅつし》よ。お願い、事務所に戻《もど》るにはここを通らないと……」
「わかりました。お通りください」
祭も見られないなんて可哀想《かわいそう》にという顔で肩《かた》をすくめると、彼は通行人をさえぎって道を開けてくれた。
ルフィの葦毛とネウトスを乗せた馬車は四つ角を過ぎて、港を迂回《うかい》する道へと入る。
首都ロマヌアからとって返したルフィは、真っ先に彼を連れ出していた。四頭の獅子《しし》≠捕《と》らえるには、魔術師の協力が不可欠なのだ。
「じゃ、頼《たの》んだわね、ネウトス。ぐずぐずしてると耳≠ニの約束の時間になっちゃうわ」
「お嬢《じょう》さんは、どうするんだ?」
「事務所によって、他《ほか》にも色々と準備があるのよ」
おまけに正午までに法廷《ほうてい》に行かないといけないし。バカネズミと一緒《いっしょ》にね!
事務所に寄る時間が惜《お》しいが、ワイリーが帰っているかも知れないし、錆色《さびいろ》の血族≠ニ話すには、あそこのほうが都合がいい。
「魔法の件はいいのかね?」
ネウトスが咳払《せきばら》いをした。
一足先に北地区へ向かう彼は真《ま》っ直《す》ぐ、ルフィは右へ……分かれ道が迫《せま》っていた。
「あ、そっか。ええと……船の模型だったわよね?」
走りづめだった葦毛《あしげ》の首を優しく撫《な》でてやりながら、ルフィは言った。
御者《ぎょしゃ》台から身を乗り出し、魔術師《まじゅつし》がうなずく。
「そうだ、模型に注意しろ。ほれ、昨日の人形だよ。船を動かすには、あれが唯一《ゆいいつ》の魔法だ」
「アリストが模型を作ったって。でも、同じ大きさの船が必要なんでしょ」
「南の奥地《おくち》の部族に似たような呪《まじな》いがある。それなら、力を反復させ増加できるんだ」
彼らはそれを戦士にかけるのだ、とネウトスは言った。
「主従の二つに分けてではなく、一人の戦士にかけるんだ。どうなると思う?」
ルフィは首を傾《かし》げた。
「自分で自分を動かすってこと?」
「どんな力でも何倍にも高められる。恐《おそ》ろしい戦士だ」
与《あた》えられた力を反復し、何倍にも――オラクルスがその呪いを知っているのなら、模型でガレー船を動かすこともできるかも知れない。
「いずれにせよオラクルスは、今話した奥地の部族、ケイヌーンと関わりがあるはずだ」
「ケイヌーン?!」
ルフィの目が見開かれた。
ネウトスが、平然とうなずく。
「ルストに戦士がいるんだろ? ワイリーが命を狙《ねら》われてるそうじゃないか」
「ええっ!?」
ルフィの目が、さらに大きくなる。
ヌゥライが? ワイリーを狙ってる?
「なんだ、聞いてないのか? あんたらにしては珍《めずら》しいな。まさか、本当にケンカを?」
「し、してないってば! ケイヌーンのことも何かの間違《まちが》いよ」
「ならいいんだが……」
ネウトスが疑うような目線を向ける。
気づかないふりをして、ルフィは考えこんだ。あのときヌゥライはネズミを殺したって言ってたわ……もしかして、ワイリーが出ていったのも?
乗り手がぼんやりしていても、馬が道を憶《おぼ》えている。葦毛はきちんと丁字路を右へ曲がった。
後ろで、魔術師が太った身体《からだ》を苦しそうにねじ曲げる気配がする。彼の馬車は、真《ま》っ直《す》ぐ進んでいるからだ。
「早く来てくれよ、私一人でヴァムジェ人どもを相手にするのは……」
「わかってる!」
ルフィはふり向かずに答えると、馬を急がせた。
「ワイリー! いないの!?」
思わず泣きそうな声を上げて事務所に飛びこんだルフィは、素早《すばや》くクルクスを抜《ぬ》いた。
ただならぬ雰囲気《ふんいき》――来客用の椅子《いす》がバラバラに壊《こわ》され、ロープと木片が散乱している。
ワイリーの椅子《いす》でうつらうつらしていた若い女性が、ハッと顔を上げた。
「ヘイズォト護民官!」
彼女には見覚えがある。たしか、担当区内に住んでいる造船技師の奥《おく》さんだ。
こっそり深呼吸してクルクスをベルトに戻《もど》す。ルフィの踵《かかと》が、少し持ち上がった。
「どうしました?」
「大変なんです、ええと、なにから話したらいいのかしら……」
などと言いながらも、彼女は昨日のことを順序立てて話してくれた。
聞いているルフィの顔が、どんどん険しくなっていく。
どうやら、ネウトスの言ったことは本当らしかった。しかも、造船技師まで……!?
「許せないわ、オラクルスの奴《やつ》……」
ルフィは低い声でつぶやいた。
「ワイリーも、そんな風に言ってました」
「それで、護民官助手はヴァムジェ人の船に行くって言ったんですね?」
彼女はこっくりとうなずいた。
可愛《かわい》らしい女性だが、徹夜《てつや》と心労とで、せっかくの美貌《びぼう》が台無しになっている。
「|蛮族の娘《ヌゥライ》も、あなたが来る前に出ていくと言って、椅子を壊《こわ》して……」
ヌゥライは、彼女に伝言を頼《たの》んでいた。「ルフィ、私はケイヌーンの戦士だ。掟《おきて》を守らねばならない」、そう伝えてくれと。
「あと、針金ネズミ≠ゥらはこれを……」
「えっ?」
な、なんなの……? 手紙を受け取ったルフィは、ゴクッと唾《つば》を飲んだ。
さあルフィ、早く読んで!
心の中で自分を励《はげ》ますが、ちっとも勇気が湧《わ》いてこない。
やっぱり、本気で助手をやめるとか……?
馬鹿《ばか》ね、時間がないのよ! 目をつぶって一息ついてから、思い切って四つ折りの紙を開く。
ルフィは、ゆっくりと目を開いた。
[#ここから1字下げ]
親愛なる護民官へ。
ルフィ、助けてくれ!
ヴァムジェ人の船に乗りこむ手は、もう思いついてんだろ?
俺《おれ》は探りを入れて、朝までに戻るつもりだった。
なのに、あんたがこの手紙を読んでるってことは、かなりやばい。
ヴァムジェ人かヌゥライのどっちかにやられてる。まあ、死んじゃいないとは思うが。
やれやれ、小娘に助けを求めるとは、俺も弱くなったもんだ。
けどな、頼《たよ》りにしてるぜ護民官。昼までにゃ、死んでも法廷《ほうてい》に顔を出さないとな。
あ、そこの奥さんに、あんたから礼を言っといてくれ。
なにかと世話になったんでね。
[#地から2字上げ]護民官助手の針金ネズミ
[#ここで字下げ終わり]
読み終わっても、ルフィは唇《くちびる》を噛《か》んでじっと立ちつくしていた。
怒《おこ》っていいのか笑うべきなのか……なにか言おうとすると、涙《なみだ》が出てきそうだった。
とにかく――あのバカネズミ、どうしてサビネズミで知らせないのよ!
鉄板付きの鉢巻《はちま》きを、グッときつく巻き直す。
捜査《そうさ》というより、捕《と》り物《もの》になりそうだ。
勢いよく事務所を飛び出そうとしたルフィは、戸口に手をかけて急停止した。
「いけない、忘れてた!」
ふり返ると、帰り支度をしていた造船技師の奥《おく》さんが小首を傾《かし》げる。
「なにか?」
「あの……うちの護民官助手と顔見知りなんですか?」
「同じ北地区の下町育ちですよ。幼なじみってやつ」
「ははあ」
そうですか、だけど、それで、だから……と、ごにょごにょ言っているルフィに、彼女は、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「あのね、護民官……針金ネズミ≠ェ、あなたに隠《かく》していたことは今日中にわかるわ」
「ええっ!? それ、いったい何なんです?!」
「ごめんなさい。今のは忘れて。ワイリーに口止めされてるんだったわ」
「そんな!」
いいわよ、絶対に聞き出してやるから……と、ルフィは思った。
もちろん、生きている本人[#「生きている本人」に傍点]から直《じか》にだ!
V
轟《とどろ》く蹄《ひづめ》の音。朝靄《あさもや》の向こうで、赤い石の壁《かべ》が飛ぶように過ぎていく。
激しく上下する鞍《くら》の上で、ルフィは息を飲んだ。
馬を飛ばす彼女の耳に、錆色《さびいろ》の血族≠フ声が響《ひび》いたのだ。
(クレニッスの花≠諱j
思わず身をすくませたルフィは、どうやっているのかと首を傾げた。
たぶん、馬の速度を計算し、走る先々に待機したネズミが小間切れに声を発しているのだ。
(緊急《きんきゅう》事態だ……)
「ワイリーでしょ! 彼は無事なの?」
こちらの声が届くか心配で、つい大声になる。
幸い、北の港へと大きく迂回《うかい》する通りはがらんとしていた。
(盟主がルストから消失した)
「し、死んだってこと?!」
キュッと心臓をつかまれたような痛みが走る。
錆色《さびいろ》の血族≠ヘ、人が死んでも、そのぐらいの表現をしかねないのだ。
(否定……死亡を確認してはいない)
「おどかさないでよ!」
(だが、消えた。走査しても見つからない)
ルストを出ていなければ、錆色の血族≠ノ探し出せないはずがない。
「ヴァムジェ人の船は? 調べたの?」
(サビネズミは、沈没《ちんぼつ》する船舶《せんぱく》には近寄らない)
ルフィはため息をついた。
「あのね、針金ネズミ≠ヘ人間なの。サビネズミじゃないわ!」
(否定。盟主が、我らのいない船に乗る可能性はゼロに等しい)
四頭の獅子《しし》″が沈《しず》むですって? そりゃ、サビネズミの本能と錆色の血族≠フ理性とで出した結論だもの、信憑性《しんぴょうせい》はあるでしょうよ。だけどね……。
「いいから聞きなさい。彼はあの船にいるの! 理屈《りくつ》じゃないわ、あたしにはわかるのよ!」
どうせまたドジを踏《ふ》んだに決まってる。
「助けに行って! あなたたちなら簡単でしょ」
(拒否《きょひ》する)
(盟主がいるという確証もなしに、沈む船に近寄りたくない)
「この石頭! わかったわよ! すぐに証明してやるから覚悟《かくご》なさい。ワイリー・マイスがいたら、船に乗ってもらいますからね!」
(肯定《こうてい》……)
「言ったわね! 約束したわよ!」
ルフィが怒鳴《どな》ると、気合に答えるかのように葦毛《あしげ》の馬が軽く嘶《いなな》き、さらに加速した。
四頭の獅子″のマストが、朝靄《あさもや》に見え隠《かく》れしている。
乾《かん》ドックは、もう目の前だった。
褐色《かっしょく》の素足がドックの石畳《いしだたみ》を蹴《け》る。
ヌゥライは垂直に近い船腹を一気に駆《か》け上がっていた。霧《きり》の中に現れた船縁《ふなべり》に指をかけ、音もなく甲板《かんぱん》に転がる。
自分の素顔を見た二人の男を殺す……違《ちが》う! そうじゃない! 彼女は槍《やり》の柄《え》を握《にぎ》りしめた。
掟《おきて》を守ってケイヌーンの地に帰るだけ、考えるのはそれだけ――ケイヌーンの戦士にかけられた呪《まじな》いで、集中力を何倍にも高めていく。針の先よりも鋭《するど》く。心を研ぎ澄《す》ませて。
でないと、いざというとき迷うとわかっていたから……。
危険な匂《にお》いを嗅《か》ぎとったのは、そのときだ。嗅ぎ慣れた草原の匂い――。
「獅子《シンバ》? ここに獅子がいるのか!?」
「誰だ!?」
思わず立ち上がったヌゥライに、どこからかヴァムジェ人|傭兵《ようへい》の声が飛んだ。
霧《きり》の中を足音が迫《せま》ってくる。
「そこでなにをして――」
言葉が終わる前に、無造作に槍を逆にして突いた。
胸板を突き上げられた兵士は、何が起こったのかわからないうちに悶絶《もんぜつ》している。
こいつの来たほうに入口があるはず……ヌゥライは、兵士を飛び越《こ》えて甲板《かんぱん》を走った。
思った通りだった。もう一人、背の高いヴァムジェ人が階段を上がってくる。
「動くな!」
獲物《えもの》の骨まで貫《つらぬ》く鋭《するど》い穂先《ほさき》が、偉《えら》そうなヴァムジェ人の胸当てに突き刺《さ》さった。
肋骨《ろっこつ》の隙間《すきま》、心臓の上の皮膚《ひふ》をわずかに傷つけて、槍が止まる。
「答えないと、お前は死ぬ。この下に、ケイヌーンの戦士を助けた男がいるか?」
低い姿勢のまま上目づかいに見つめ、ヌゥライはヴァムジェの言葉で言った。
玩具《おもちゃ》の船を抱《かか》えた男が、怯《おび》えた顔で何度もうなずく。
「いる、いるとも」
「どこにいる!?」
穂先を気にしながら、男は叫《さけ》んだ。
「お、教えるから殺さないでくれ!」
お前は死なない、ケイヌーンの戦士は約束を守る――言葉と同時に槍が抜《ぬ》き取られる。
怯えたふりをしていたオラクルスが目を開けたときには、ヌゥライは船内に消えていた。
「ケイヌーンか……ふん、誇《ほこ》り高く強いが、純真すぎる」
演技をやめ、胸の傷を軽くなでた彼は、満足げな笑《え》みを浮《う》かべた。
ケイヌーンの戦士が罠《わな》にかかったのだ。ついに四頭の獅子《しし》≠ヘ完成した。まだ数人の護衛が乗っているだけだが、今この瞬間《しゅんかん》に出港したいくらいだった。
胸を突かれた傭兵が息を吹《ふ》き返し、よろよろと起き上がってくる。
「ぼやぼやするな、ドックの係留を解く準備をしろ」
彼の命令にうなずいてから、部下は言った。
「あれが、将軍の怖《おそ》れていたケイヌーンとは……」
「侵入者《しんにゅうしゃ》は放っておくよう命じたはずだ」
「もうしわけありません、つい……」
「だが、もうその必要はない。他《ほか》の者にも伝えろ。今から船に侵入した者は、容赦《ようしゃ》なく殺せ」
と、タイミング良く蹄《ひづめ》の音が響《ひび》く。
葦毛《あしげ》の馬に乗った少女が、乾《かん》ドックへと向かってくる。
「たとえ、侵入者がロマヌアの護民官でもだ」
そうつけ加えると、オラクルスは喉《のど》の奥《おく》で、くっくっと笑った。
最低の船の中でも最悪の場所だな――鉄|格子《ごうし》の向こうで喉《のど》を鳴らす雄《おす》の獅子《レーオ》を横目に、ワイリーはそう思った。
「設計師、俺《おれ》はどのくらい気を失ってた?」
部屋の隅《すみ》にしゃがんでいたアリストが、生|真面目《まじめ》に考えこむ。
「落ちてきたのは夜中で、気づいたのはついさっきです……かなり経ってますね」
「あんたがいなきゃ、あのまま死んでたな」とワイリー。
彼の右腿《みぎもも》は包帯で止血されていた。
現場で指図しているうち、いつの間にか医者のまねごともするようになったと話したアリストが、どのみち、ここから逃《に》げられないですけどねと言って苦笑する。
二人は、飢《う》えて目をギラギラと光らせた獅子を盗み見た。
「ほんの少し寿命《じゅみょう》が延びただけですよ」
「あきらめるのは早いな。俺にはわかってきたぜ、オラクルスが何をしたいのか……ってな」
傷ついた右脚《みぎあし》を投げ出していたワイリーは、ゆっくりと立ち上がった。
手の中では、長い針金の端《はし》を引き出しては折り曲げ、指に巻き、何か細工をしている。
彼は目をこらし、薄《うす》暗い室内を見回した。入口と言えるのは、天井《てんじょう》から落ちてくる例の斜面《しゃめん》だけだ。鉄格子の向こう、獅子《しし》のいる側にしか扉《とびら》はない。明かり取りの窓を見上げると、朝日が差し込んで光の筋ができていた。
手が届けば、あそこから抜《ぬ》け出られるんだが……。利き足の傷はかなり深く、飛んだり跳《は》ねたりが出来るかどうか怪《あや》しいものだ。
「そろそろ、護民官が来ちまうな……」
ワイリーは、ぼそりとつぶやいた。
「あなたは何者で、彼女の何なんです?」
アリストの言葉に苦笑し、しばらく考えてから肩《かた》をすくめてみせる。
「さあな。それがわかってりゃ、こんな苦労はしてないよ」
「じゃ、もう一つ……さっきから何してるんです?」
「これか?」
折り曲げた針金の小さな塊《かたまり》を、残りの長い部分にぶら下げると、ワイリーはくるくると振《ふ》り回し、明かり取りの窓めがけて投げた。四角い光をくぐって、塊が外に出ると、彼はもう一方の端を建材に巻いて固定した。
「登るんですか?」
「無理言うなっての。これはだな……」
教えてやろうとしたとき、カタカタと歯車の軋《きし》む音がした。
徐々《じょじょ》に、鉄格子が上がり出す。
「やっぱりな。こっちも、そろそろじゃないかと思ってたぜ!」
舌打ちして、ワイリーはつぶやいた。
模型だ!
馬上からルフィが目配せすると、先に着いていたネウトスが微《かす》かにうなずいた。
岸からガレー船の船縁《ふなべり》に渡《わた》された長い橋――港から巨大《きょだい》な溝《みぞ》に引き上げられた四頭の獅子《しし》″の上|甲板《かんぱん》は、溝の岸よりずっと高い位置にある。
長い板を使って、岸側の端《はし》を奥《おく》にずらしてはいるが、それでも急角度だ。
その斜面《しゃめん》を登りきったところに、オラクルスが立っていた。船縁に足をかけ、片手に小さな船の模型をいじっている。
「何の用だ、ヘイズォト護民官? 今朝はずいぶんと取り巻きが多いな」
挑発《ちょうはつ》にはのらず、ルフィは黙《だま》って馬を降りた。
「いるんでしょ、ワイリー……」
誰《だれ》にも聞こえない声でつぶやくと、不安げに船首から船尾《せんび》まで視線を巡《めぐ》らせる。
オラクルスたちの死角、橋の下で何かが朝日にきらめいている……あった! 灰色の瞳《ひとみ》が、アッという間に生気を取り戻《もど》す。
「お待たせ!」
彼女は、元気|一杯《いっぱい》の足取りで黒ウサギ≠ノ歩み寄った。
ネウトスのほうは歩き回る気はないらしく、耳≠フ女に軽く会釈《えしゃく》をすると、用意してきた厚い本を二冊、どっこいしょと足下に置いた。
剣《けん》を帯び、ぴったりした衣服に身を包んだ黒ウサギ≠ェ、ルフィの耳元でささやく。
「遅《おそ》かったわね」
「ちょっと、寄るとこがあったの」
ルフィは早口で答えた。今は耳≠ノかまっている暇《ひま》はない。
「よし、始めるぞ」
黒ウサギ≠ェ、二人の部下に低い声で命じた。どこかで聞いたような口調だ。
ルフィが首を傾《かし》げている間に、目立たない風貌《ふうぼう》の二人の男が左右に分かれ、幅《はば》の広い板の両端を上がっていく。
甲板に緊張《きんちょう》が走った。十人ほどのヴァムジェ人|傭兵《ようへい》たちが、得物に手をかける。
「踏《ふ》みこめばどうなるか、わかっているんだろうな?!」
オラクルスの一言で、二人は目に見えない壁《かべ》にぶつかったかのように立ち止まった。指示を仰《あお》こうと、指揮官をふり返る。
「しかたない。ここは退《ひ》いて――」
「なに言ってるの、行くわよ」
ルフィは黒ウサギ≠連れて、ずんずんと橋を上がっていった。
甲板まであと一歩というところで、ハッとして衝撃《しょうげき》に備える。
「気をつけて!」
ガクン、と大きく船体がゆらいだ。ヴァムジェ人が船を固定している鎖《くさり》を何本か外したのだ。
耳≠フ三人も、なんとか板の上でバランスをとっていた。
すかさず甲板《かんぱん》から嘲笑《ちょうしょう》が響《ひび》く。
「もう出港だ。あきらめるんだな」
「くっ……」
悔《くや》しげに唇《くちびる》を噛《か》むルフィ。
「ミレッタは、ケイヌーンのことを知ってたのね?」
「かも知れんな」
満足げに笑《え》みを浮《う》かべて、オラクルスが言った。
ミレッタは、戦士の呪《まじな》いが危険だと知っていたのだ。アリストにも知らせず、ガレー船の情報をロマヌアに漏《も》らしてでも計画を止めようとした。
耳≠ネんかじゃなく、あたしたちを頼《たよ》ってくれていれば……。
「護民官、なんとかするんじゃないのか?」
黒ウサギ≠ェ、男みたいな口調でささやく。
ルフィは小さく首を振《ふ》った。目はオラクルスを悔しそうに睨《にら》んだままだ。
「奥地《おくち》での交易も、アリストをケイヌーンに同行させたのも、全《すべ》て計画の一部だったのね?」
喜びに顔を歪《ゆが》めて、彼は言った。
「この船にケイヌーンの呪いを施《ほどこ》すのに三年かかった」
「じゃ、魔法《まほう》はあなたが!?」
「他《ほか》に誰《だれ》がいる? 呪いを会得し、戦士をおびき寄せる策をしかけるのに二年かかった」
「あらそう」
この場に針金ネズミ≠ェいたら、きっと及第点《きゅうだいてん》をくれたでしょうね……。
ルフィは頬《ほお》を緩《ゆる》めた。
「ぼやぼやしてんな!」
ワイリーは、アリストの襟首《えりくび》をつかむなり、右足を引きずって部屋《へや》の壁側《かべがわ》へと急いだ。
ガリガリと音を立てて上がっていく鉄格子。
音を嫌《きら》ってか、鼻に皺《しわ》を寄せた獅子《しし》も、部屋の奥へと飛びすさる。
格子が開いてしまえば、あいつは真《ま》っ直《す》ぐに俺《おれ》たちを襲《おそ》ってくる。
アリストが言った。
「将軍は、船のことを秘密にしたいんですかね……」
「ちがうな。もっと別の理由がある」
秘密を隠《かく》すのに、いちいち設計師を獅子に食わせる馬鹿《ばか》はいないし、技師や職人をさらう必要もない。殺せばいいだけだ。
ヴァムジェで造ればいい船を、一年も前から設計師を住まわせてルストで改修したのには、意味があったのだ。
鉄格子の下をくぐれると獅子が気づくまでに、どのくらい暇《ひま》があるか考えながら、ワイリーは言った。
「ヴァムジェだと、船ができる前に、あの娘《むすめ》に見つかってしまう。だからロマヌアのルストを選んだ。オラクルスは時間を稼《かせ》いだのさ」
碧色《あおいろ》の瞳《ひとみ》は、獅子《しし》ではなく、じっと扉に注がれている。ケイヌーンの戦士は、自らを生贄《いけにえ》にしてその力を伝える――ネウトスの話を思い出していた。
「あの娘って?」とアリスト。
「あんた、ケイヌーンの娘を介抱《かいほう》したことがないか? 覆面《ふくめん》を脱《ぬ》がして……」
「な、なんで、わかるんです?」
「俺《おれ》たちが、ネズミ取りのチーズだからさ。やれやれ、針金ネズミ≠ェチーズの役とはな」
しかけが動き出したのは、ネズミが罠《わな》にはまったから……。
そっと扉が開く。
かすかな物音に気づいた獅子が、のそりと動いた。
「ヌゥライ! 獅子《シンバ》だ! 気をつけろ!」
ワイリーは、自分たちを殺しに来た少女に向かって叫《さけ》んでいた。
「あの魔法《まほう》をかけられるのは、私だけだ」
オラクルスが重ねて言うのを待ってから、ルフィはクルッと踵《きびす》を返した。
栗色《くりいろ》の髪《かみ》が大使の鼻先をかすめる。
「今の聞いたわよね?」
「な、なに?」
耳≠フ三人が呆気《あっけ》にとられる。
ルフィは、軽くため息をついてから言った。
「ネウトス、あなたにも聞こえたでしょ?」
「ああ、聞こえたとも。オラクルス大使は『自分で船に魔法をかけた』そうだな」
ドックの岸に陣取《じんど》った魔術師が言った。
「だからなんだ?! 魔法がどうした? 私の船だろうが!」
オラクルスの問いには答えず、ルフィは船縁《ふなべり》を検知捧≠ナ触《ふ》れた。
先端《せんたん》の赤い宝石が、まばゆい光を放つ。
「ネウトス!」
「わかっとるよ」
魔術師は呪文《じゅもん》を唱え、両手の小指で目蓋《まぶた》をなでた。光の中にある魔法の痕跡《こんせき》を読むためだ。
「さてと、以下の痕跡を検索《けんさく》しろ……」
彼が痕跡を分類する用語を告げると、厚い本から本の虫≠ェサワサワと這《は》い出した。
数百|匹《ぴき》の虫たちが、もう一冊のほう――ルストに痕跡を登録している魔術師の名簿《めいぼ》――へと、一斉《いっせい》にもぐっていく。
「該当《がいとう》件数なし! 該当件数なし!」
甲高《かんだか》い声が、すぐに響《ひび》いた。
ルフィの視線を受けたネウトスが、ゆっくりとうなずく。
ふり返った彼女は、丸めた羊皮紙を取り出した。
「大使、出港は認められません。この船を犯罪の証拠《しょうこ》として没収《ぼっしゅう》し、あなたを拘束《こうそく》します」
「馬鹿《ばか》なことを!」
ルフィは羊皮紙を広げて見せた。
「正式の令状よ」
鷲《わし》と獅子《しし》の証印……紛《まぎ》れもなくロマヌア政府のもの。魔法《まほう》の違反《いはん》に関する令状だ。
首都ロマヌアで思いつき、手に入れておいたものだった。管轄《かんかつ》が違《ちが》うために議会の圧力もかかっておらず、護民官としての主張は、すぐに認められた。
「貴国ではどうか知りませんけどね、非登録の魔法|行為《こうい》はロマヌアでは重罪なの」
痕跡《こんせき》を登録せずに魔法を使えば、誰《だれ》であろうと即刻逮捕《そっこくたいほ》される。魔法をかけた対象が証拠として押《お》さえられるのも当然のこと。たとえそれがガレー船でもだ。
「この船が、あなたの違反行為の対象なのは、今の検査からも明白です」
「ぬううっ……」
「造船所の職人が行方《ゆくえ》不明なの、船内を調べて」
ルフィは、耳≠フ三人に目配せした。
黒ウサギ≠ェ無言で促《うなが》し、部下と共に甲板《かんぱん》へと乗りこむ。
獅子の咆吼《ほうこう》と、少女の悲鳴が響《ひび》いたのは、そのときだった。
今のはヌゥライの声?! それも、ワイリーの合図があったところから!?
気をとられた隙《すき》に、オラクルスが突《つ》っ込んできていた。
「生意気な、小娘《こむすめ》が!」
腹を狙《ねら》ったブーツの先を、辛《かろ》うじて両腕《りょううで》で受ける。
傾斜《けいしゃ》に足をとられたルフィは、そのまま橋を転げ落ちていった……。
恐《おそ》ろしい吼《ほ》え声。
ケイヌーンの戦士に飛びついた百獣《ひゃくじゅう》の王が、たてがみを震《ふる》わせて前足をふり上げた。
殴《なぐ》ってはつかみ、つかんでは引き寄せて、のしかかり、急所を咬《か》み千切ろうとする動き……暗闇《くらやみ》に閉じこめられた獅子は、飢《う》えて気が立っていた。
不意をつかれ、反応の遅《おく》れたヌゥライが、必死に体をかわす。
獅子の一撃《いちげき》がかすめ、泥面《どろめん》に爪《つめ》がひっかかった。頭から引っ張られる。
ヌゥライが、短い悲鳴をあげた。
「た、助けないと……!」
飛び出そうとするアリストを止めて、ワイリーは怒鳴《どな》った。
「泥面を脱《ぬ》ぐんだ! やられるぞ!」
ほんの一瞬《いっしゅん》だけ迷ってから、ヌゥライが泥面に見切りをつけた。長い脚《あし》を抱《かか》えるなり、左右のつま先をそろえて獅子《しし》の顔面に蹴《け》りを放つ。
後ろにのけぞった猛獣《もうじゅう》が、泥面《どろめん》をグチャグチャにしている間に、蹴った反動でヌゥライは二人のいる側へと転がっていた。
驚《おどろ》いたのはアリストだ。
「やっぱり、君だったのか! どうしてここに?」
「わ……私は……」
黒い瞳《ひとみ》を曇《くも》らせて、ヌゥライが槍《やり》をかまえた。
少女と猛獣の両方を警戒《けいかい》して、ワイリーは針金を手にする。
嫌《いや》な予感がした。どうにも妙《みょう》だった。
果たして獅子《レーオ》ごときで、ケイヌーンの戦士が殺せるものだろうか? もし俺《おれ》がオラクルスなら、こんなヤワな罠《わな》はしかけない……。
彼が考えている間に、設計師がヌゥライに駆《か》け寄っていた。
「ほら、あのときのヴァムジェ人です。憶《おぼ》えてませんか?」
「私は……私はお前を……」
ヌゥライが、絞《しぼ》り出すようにつぶやいた。困ったように目を伏《ふ》せてうつむく。手が白っぽくなるほど槍を握《にぎ》りしめて、額には脂汗《あぶらあせ》が浮《う》いている。
目を蹴られた獅子《しし》が、首を振《ふ》って大声で吼《ほ》えた。
ワイリーは下水路でのことを思い出し、アッと声を上げた。
「待つんだ、アリスト! その娘《むすめ》は……」
「えっ?」
ヌゥライの手をとったアリストが、ふり返る。
とたん、槍を落とした女戦士は膝《ひざ》を折って床《ゆか》にへたりこんでいた。飛びかかってくる寸前の獅子の姿を、虚《うつ》ろな目で見つめている。
ワイリーにはわかっていた。
アリストへの感謝や好意と、掟《おきて》への使命感とのせめぎ合いが限界を超《こ》えたのだ。
ケイヌーンの戦士は、力を何倍にも高められるのではない。際限なく高まりかねない力を[#「際限なく高まりかねない力を」に傍点]、常に制御し続けている[#「常に制御し続けている」に傍点]のだ。
掟が厳しいのは、制御《せいぎょ》を乱す心の動きをさけるためだし、戦士の呪《まじな》いにも生贄《いけにえ》など必要ない、それは単に戦士の数を一定に保つため――。
うなり声と共に、鋭《するど》い牙《きば》と爪《つめ》とが迫《せま》る。
呆《ほう》けたままの彼女はピクリともしなかった。
「ヌゥライ! 目を覚ませ! 逃《に》げろっ!」
叫《さけ》ぶが早いか針金の輪を投げるが、間に合いそうにない……。
「やめろ!」
落ちていたケイヌーンの槍をつかんで、アリストが獅子に立ち向かっていた。
重さによろけながらも、でたらめに槍を突《つ》いて突進《とっしん》を妨《さまた》げる。
彼は、あっさりと槍《やり》ごと弾《はじ》き飛ばされたが、のしかかろうとした獅子のほうも、前足に針金を食い込ませ、動きを止めていた。
「よくやったな、設計師……」
「彼女の試練に手を出してしまったことを、まだ謝ってない。死なれては困ります」
苦しげに息をついて、二人は視線を交わす。
ワイリーは、船の建材に引っかけた鋼線を背負って、渾身《こんしん》の力で引いた。
踏《ふ》ん張った右足の傷口が開き、見る見るうちに包帯が赤く染まる。痛みで目がくらんだ。
どんなに必死に頑張《がんば》っても、相手が暴れたらそれまで――一瞬《いっしゅん》のチャンス!
「可哀想《かわいそう》だから、ひと突《つ》きでしとめろよ!」
「わ、わかってます!」
アリストが、獣《けもの》の心臓を狙《ねら》って得物を構える。
槍が突きだされた。
あと一息というところで、床《ゆか》が大きく縦にゆらいだ。船が波に向かって進むときのように。
「なっ!?」
ふわっと足が宙に浮《う》き、手元が狂《くる》う。穂先《ほさき》は床板に深々と突き刺《さ》さっていた。
次の衝撃《しょうげき》で、全員が船尾《せんび》方向へと倒《たお》される。
もとから四つ足の獅子《しし》をのぞいては……。
油断した!
橋に頭を叩《たた》きつけられ、危険な角度の傾斜《けいしゃ》を転げ落ちながら、ルフィは奥歯《おくば》を噛《か》みしめた。
強く打ちつけられたせいか、頭がぼうっとなっていた。
船上では、耳≠ニヴァムジェ人とが剣《けん》を交える音が響《ひび》いている。
オラクルスが何やら部下に命令して――。
「大使が逃《に》げるわ! 護民官、ここは私たちに任せて……」
黒ウサギ≠フ声だ。
そうはいかない! この船には、アリストもヌゥライも、ワイリーも乗っているのだ。
「だめよ! あたしが行かなきゃ……」
転落の途中《とちゅう》でもがく間に、べつの衝撃が襲《おそ》った。
板が、たわんで跳《は》ね上がる。船縁《ふなべり》に固定した端《はし》が外れ、大きく板がねじれる。
「う、うそでしょ!?」
船が動いてる? そう思ったときには、斜面から放り出されていた。ドックの石畳《いしだたみ》に落下して、グチャと音をたてる自分の姿が目に浮かぶ――と、気づいたときには、何か柔《やわ》らかいものの上にドサッと着地していた。
「勘弁《かんべん》しとくれ、お嬢《じょう》さん! やれやれ、こんな運動は久しぶりだよ」
ネウトスだ! ドックの縁《ふち》に立って彼女を抱《だ》きとめた魔術師《まじゅつし》は、荒《あら》い息をついていた。
「ありがと、魔術師さん」
礼を言って、ネウトスの腕《うで》から飛び降りたルフィは、ガレー船を見上げた。
足場が崩《くず》れて、そこら中で何かが引きずられたり落下しては、大きな音をたてている。
そして、船底と石畳《いしだたみ》の間で丸太が転がる音――四頭の獅子《しし》″は、ずるずると溝《みぞ》を滑《すべ》り始めていた。あのままヴァムジェまで逃げるつもりなのだ。
鎖《くさり》は全《すべ》て外され、幾《いく》つもの巻き上げ機がガラガラと音をたてる。凄《すさ》まじい回転で軸《じく》が折れ、巻き上げ機そのものが弾《はじ》け飛ぶたびに、船の滑る速度が増していった。
どうする? どうすればいい?
「そうだわ、あなたの魔法《まほう》で、あたしを船へ……」
「何度も言っとるだろうが。そんな都合のいい魔法はない」
「ああもう!」
ルフィは、さっさと葦毛《あしげ》にまたがった。
「どうする気だ?」
「決まってるでしょ、船に追いつくの!」
乗り手の気持ちを察したのか、葦毛は嫌《いや》がりもせずに船を追って走り出す。
「頼《たの》むわよ、泳げとまでは言わないから……」
ルフィは、瓦礫《がれき》の雨の中へと馬を突《つ》っ込ませた。溝の縁《ふち》に沿って走らせて船に追いつく。
紐《ひも》を手に巻きつけ、クルクス・マヌアールスを抜《ぬ》いて、ギュッと握《にぎ》りしめる。
いつもなら、これですぐに勇気が湧いてくるのに……。
クルクスを失って死にかけたときの恐怖《きょうふ》が、フラッシュバックする。
あなたは護民官なのよ! 弱くなったですって? 馬鹿《ばか》言わないで! ワイリーは足に怪我《けが》をしてるのよ。そうでしょ、ルフィ! あの針金細工のネズミ[#「あの針金細工のネズミ」に傍点]、右足がねじってあったもの[#「右足がねじってあったもの」に傍点]!
気合をこめて放ったクルクスが、甲板《かんぱん》へと消える。
ぐいっと紐を引くと、十字の突起《とっき》が船縁《ふなべり》にひっかかった。ビクともしない。
紐を間にはさんで、馬と船とが併走《へいそう》していた。
(……盟主が中にいるという証拠《しょうこ》は?)
突然、錆色《さびいろ》の血族≠フ声がした。
「絶対にいるわよ! 針金細工を見たでしょ!」
(肯定《こうてい》。我らは約束を守る。あの船に契約《けいやく》分の個体を乗せよう)
「当たり前よ! って……どうやって?」
怒鳴《どな》ったとたん、ルフィは腰《こし》が抜けそうになった。
馬の上に、サビネズミがいる!
(動揺《どうよう》するな)
(心理的|影響《えいきょう》が大きいのは承知している。しかし、他《ほか》に方法がない)
彼らの提案は、おぞましい内容だったが、海までの距離《きょり》を考えると議論している暇《ひま》はない。
選択《せんたく》の余地はなかった。
「か、勝手にしなさい!」
ネズミたちを待って、ルフィは船へと飛びついた。船腹を蹴《け》っては、紐《ひも》をたぐり寄せていく。
いつもより身体《からだ》が重く感じられた。実際、サビネズミニ十四匹分重い[#「サビネズミニ十四匹分重い」に傍点]。
(感謝。我らは先に行く)
身体の上を、ザワザワッと小動物の駆《か》け抜《ぬ》ける感触《かんしょく》。
ルフィは悲鳴を上げた。ネズミたちは猛《もう》スピードで紐《ひも》を伝い、次々に甲板《かんぱん》へと消えていく。
「もういやっ! 今日は人生で最悪の日だわ……!」
鳥肌《とりはだ》は、しばらく消えそうにもなかった。
登りきらないうちに、ゆれ方が変わる。舳先《へさき》ではね上がった水|飛沫《しぶき》が、身体に降りかかった。
船が海に出たのだ。
歯車の音がして、五段分の巨大《きょだい》なオールが海面に差し込まれる。
船縁《ふなべり》まであと一息というところで、すぐ上の甲板に誰《だれ》かが近づいてきた。
息を殺そうとしたルフィは、ホッと息を吐《は》く。ここからでは手だけしか見えないが、それですぐに誰だかわかったからだ。
「私よ! 引き上げて!」
叫《さけ》んですぐ、ルフィの目が大きく見開かれた。
すっと伸《の》びた白い手が、クルクスを船縁から外す。
「そ、そんなっ……!?」
クルクスと共に放り出された彼女は、落下の途中《とちゅう》でオールにしがみついた。
つかまったとたん、オールが一糸乱れぬ動きで漕《こ》ぎ始める。だめだ、とても登れない……。
「くっ!」
オールから手を放し、落ちていくルフィ。
だが、まだあきらめてはいない。
飛びつくときにここを選んでいなければ、終わりだったろう――針金細工を目当てに、彼女はクルクスを放った。
暗闇《くらやみ》に吸い込まれた十字架《じゅうじか》が、窓の縁《ふち》に引っかかる。
「無事でいてよ。ぶん殴《なぐ》るぐらいで許してあげるから……」
ぶらさがったルフィは、目の前でゆれている針金細工のネズミに軽くキスして言った。
[#改ページ]
終章 レガミラの盗賊
T
溝《みぞ》を滑《すべ》っていたときの丸太の震動《しんどう》が、いつの間にか波の音に変わっていた。オールを漕《こ》ぐ機械の音が響《ひび》いている。
「オラクルスの野郎《やろう》、船を動かしやがったな……」
ワイリーは、ひどく打った顎《あご》と傷口が開いた右足の痛みをこらえて立ち上がった。
気を失っていたのは、ごく短い時間だろう。
最初の衝撃《しょうげき》で針金が切れて、彼は壁際《かべぎわ》まで飛ばされていた。
あとの二人は……?
と、船倉の中央、鉄格子の降りていた辺りで獅子《しし》のうなり声がした。
死んだように横たわっているヌゥライ――。
それを、槍《やり》一本でアリストが守っていた。
彼はヌゥライが襲《おそ》われるたびに、自分のほうに獣《けもの》を引きつけたのだろう。
華奢《きゃしゃ》で生っ白い(ヴァムジェ人のくせに!)設計師が、槍を杖《つえ》にやっとの思いで立っていた。
血まみれの右腕《みぎうで》は折れてねじ曲がり、だらりと垂れ下がっている。
それでもまだ、目は死んでいなかった。もう、息も絶え絶えなのに。
「将軍は……この娘《むすめ》を殺すために……僕《ぼく》を利用して……僕は……」
「アリスト、お前……」
半年前、自分もルフィのために同じような事をした――ワイリーには、彼がどんな気持ちでいるのかが痛いほどわかった。
荒々《あらあら》しく吼《ほ》えた百獣《ひゃくじゅう》の王が、全体重をかけてアリストにのしかかっていく。
投げ短剣《たんけん》を抜《ぬ》く暇《ひま》さえなかった。
「ヌゥライ!」
ワイリーは叫んだ。
掟《おきて》を守るか、想《おも》いを貫《つらぬ》くか……二つに一つ。
動けなくなっていたヌゥライは、とっくに答えを出していた。
褐色《かっしょく》の肢体《したい》が、しなやかに起きあがる。
襲いかかろうとしている猛獣《もうじゅう》より何倍も速い動き。
彼女は、設計師の手にした槍を一緒《いっしょ》につかんだ。
急所へと狙《ねら》いを定め、凄《すさ》まじい力で得物をくり出す。
長く鋭《するど》い穂先《ほさき》が標的の喉《のど》に食いこんだ。いくつかの管を切り裂《さ》き、あっさりと延髄《えんずい》を砕《くだ》いて背中側へ抜ける。ビクビクッと獅子の身体《からだ》が痙攣《けいれん》した。
槍《やり》を引き抜《ぬ》くと、前足で殴《なぐ》りかけた姿勢のまま尻尾《しっぽ》の先まで硬直《こうちょく》してから、糸の切れた操り人形のように、ぐにゃりとして床《ゆか》に転がる。
ケイヌーンの戦士らしく、ヌゥライは高まる興奮を制御《せいぎょ》した。
それでも、フウッと長いため息がもれる。なにしろ獅子《シンバ》をしとめたのだ。
一人で、ではなかったけれど……。
彼女は血みどろのアリストを軽々と抱《だ》き上げていた。
「死ぬな! 死んではいけない!」
「そうでしたね。あなたに殺されないと、掟《おきて》とやらが――」
「ちがう! 私は……」
ヌゥライは口ごもったが、すぐに顔を上げた。
「命の恩人に、礼を言うために捜《さが》していた。もう一度会いたいと思っていた……」
「僕もですよ」
アリストは、そこからはロマヌア語ではなく、ケイヌーン族の言葉で、たどたどしく言った。
「私、名前、アリスト。あなたは?」
「ヌゥライよ……」
彼女も自分の言葉で答える。
見つめ合う二人。
「あのな、特殊な状況《じょうきょう》で生まれた恋《こい》ってのは長続きしないらしいぜ……」
針金ネズミ≠ェ、咳払《せきばら》いをして言った。
ケイヌーンの言葉はわからないが、雰囲気《ふんいき》は伝わる。
さっきより大きな咳払いをしてから、ワイリーは言った。
「おい、俺《おれ》のほうはどうすんだ?」
言っておいて、すぐに後悔《こうかい》する。
アリストの手当をしていたヌゥライが、おもむろに槍《やり》を手にしたからだ。
「お前は、戦士の素顔を見た。ケイヌーンの掟を守らねばならない」
「ちょ、ちょっと待て! ずるいぞ、なんであいつは良くて、俺は……?」
「アリストは、ケイヌーンで私の夫になる。さっき二人でそう決めた。掟は破られていない」
「なんだそりゃ!? そんなのありかよ!」
ワイリーは、アリストに目をやった。味方をしてくれそうな設計師は気を失っていた。生きてはいるが、相当な重傷だ。
片足を引きずって、唯一《ゆいいつ》の扉《とびら》へと走る。あと数歩の距離《きょり》。
ヌゥライが槍を構える。
明かり取りの窓からルフィの声がしたのは、そのときだった。
「ワイリー・マイス?」
「ルフィ……!?」
驚《おどろ》いたヌゥライが、ハッと動きを止める。
ワイリーは、扉《とびら》の前にたどりついていた。
「ヌゥライやアリストもいるの?!」
「ああ、みんないる。ずいぶんと遅《おそ》かったな、護民官」
「なによ、偉《えら》そうに! いいこと、一回しか言わないからよく聞いて……」
何か他《ほか》に心配事があるときの口調だ。
はるか上空の光の中から、ルフィが口早に続けた。
「彼らを二十ほど連れてきたわ[#「彼らを二十ほど連れてきたわ」に傍点]。その扉《とびら》の鍵《かぎ》も開けさせたし、技師たちが閉じこめられた場所も探させてるから」
「さすがだな」
「怪我《けが》は? 大丈夫《だいじょうぶ》なの?」と、心配そうな声。
「ああ、平気だ」
彼は、やせ我慢《がまん》して答えた。
「じゃ、前|甲板《かんぱん》で落ち合いましょう」
窓の外で、クルクスを振《ふ》り回す音がする。
ヌゥライを警戒《けいかい》しながら、ワイリーは言った。
「ルフィ、耳≠ニ組んでるよな? あいつらの人数は?」
「三人組よ。どうして?」
「言い忘れていたことがある。黒い鳩《はと》の店≠ゥらの帰りに、襲《おそ》ってきた連中はロマヌア人だ……どうも嫌《いや》な予感がする」
「ありがと。でも、なんで店の名前まで知ってるのか、あとで必ず聞きますからね!」
やれやれと、苦笑している暇《ひま》はなかった。
素早《すばや》く部屋《へや》を出て、扉に閂《かんぬき》をかける。こんなもの、すぐに破られるだろう。
「俺を追っかけるのは勝手だ! けどな、アリストが大事なら、ちゃんと担いでこい。この船は、お前さんと同じ呪《まじな》いで動いてる……やばいことになりそうなんだ!」
扉|越《ご》しにそう怒鳴《どな》ってから、階段を上がっていった。
(盟主……)
機械の騒音に紛《まぎ》れて、錆色《さびいろ》の血族≠フ声がした。
階段を登りきると、中央の廊下《ろうか》で待っていた一匹《いっぴき》が、ワイリーを見上げる。
彼が手を差し出すと、ネズミは飛び跳《は》ねて袖《そで》の中へともぐった。右足を引きずって廊下を走りながら、袖をのぞきこむ。
「王族が来たのか?!」
(肯定《こうてい》。この船はルストの血族の領域から、逸脱《いつだつ》する可能性がある)
サビネズミの群れ全体が一つの知性を得るには、王族ネズミが必要不可欠だった。もっとも、見た目は他《ほか》のネズミと何の変わりもないのだが……。
「造船技師たちは?」
(発見し、解放した。盟主の声色と名前を使用して船外に誘導《ゆうどう》したが……問題ないか?)
「ああ、みんなルスト生まれだ、岸までは泳ぎ着けるさ」
義理が果たせて、少しホッとしながらも首を傾《かし》げる。
一人も見張りがいなかったのか……?
行く手に転がっているヴァムジェ人|傭兵《ようへい》の死体に気づいて、ワイリーは歩を早めた。
耳≠ヌもめ、なにか始めやがったな……。
U
四頭の獅子《しし》″は、海面を滑《すべ》るように進んでいた。
鍛《きた》えられた漕《こ》ぎ手でも、海戦の最中に一度か二度出せればいいような猛《もう》スピードでだ。
ルスト港の防波堤《ぼうはてい》が、ぐんぐんと近づいている。
船内では、回転をオールの動きに変える機械の群れが複雑に絡《から》み合い、うなりを上げていた。
オラクルスの手にした模型の小さな動きが、反復して何倍にも高められ、呪《まじな》いで関連づけられた巨大《きょだい》なガレー船を動かしている。
ケイヌーンとは何と愚《おろ》かな一族なのだ……彼は、そう思った。これほどの魔法《まほう》を持ちながら、戦士ごときで満足している。対象を二つに分け、時間と金をかければ、こんな素晴《すば》らしい結果が得られるのに!
この魔法に戦士の生贄《いけにえ》が必要なことを、彼は長年のケイヌーンとの交易で知っていた。ヌゥライは獅子《しし》に食われたのだろう。その証拠《しょうこ》に、船の制御《せいぎょ》は上手《うま》くいっている。
ヌディ人の護衛を連れ、彼は船尾《せんび》へと後退していった。あとは、邪魔《じゃま》者を排除《はいじょ》するだけ――甲板《かんぱん》では、護民官の部下たち[#「護民官の部下たち」に傍点]との戦いが続いていた。
敵は意外に強く、長い剣《けん》を振《ふ》るって、じりじりと甲板の中程まで迫《せま》ってきている。
「たった三人だ、くい止めろ! 殺せ!」
オラクルスの命令で、全《すべ》てのヴァムジェ人|傭兵《ようへい》が、ロマヌア人との間に立ちふさがり、壁《かべ》を作った。充分《じゅうぶん》な距離《きょり》をとって、十数人が一斉《いっせい》に投げ短剣を抜《ぬ》く。
無数の刃《やいば》が空気を裂《さ》いて飛んだ。
と、ロマヌア人の男が、迷いもせずに腕《うで》を広げて立ちはだかる。そのままの姿勢で、全身に短剣を受け、黒服の女の盾《たて》となったのだ。
なんなんだ、こいつらは……? 本当に、ヘイズォト護民官の部下なのか? あるいは、あのミレッタと接触《せっしょく》していた耳≠ニやらの……?
寒気を憶《おぼ》えたオラクルスは、もっと恐《おそ》ろしいことに気づいた。
傭兵たちが囲んだ敵は、二人だけだった!
「もう一人はどこだ? 船内に入られたのか!?」
「まさか。ちゃんと見張りが……」
そう言いかけたヌディ人の護衛が、両足の膝《ひざ》から下を切り飛ばされて床《ゆか》に転がる。
後部甲板の階段に隠《かく》れていた敵が、剣を薙《な》いでいた。
「オラクルスは、慎重《しんちょう》にやれ!」
傭兵《ようへい》たちの壁《かべ》の向こう、立ったまま死んでいる男の陰《かげ》から、黒い服の女が叫《さけ》んだ。
うなずいたロマヌア人が、剣を片手に持ちかえて斬《き》りかかってくる。
オラクルスは反射的に突きを放っていた。剣先が、隙《すき》だらけの脇腹《わきばら》に吸い込まれていく。
相手がわざと突かせたのだと気づいたときには、腕《うで》の中で模型がピシッと音をたてていた。
甲板《かんぱん》の中ほどに、細めの短剣が突き立てられている。
「や、やめろ!」
「ヴァムジェ人め、思い知れ……」
無表情だったロマヌア人が、脇腹の痛みに脂汗を浮かべながら、にいっと不気味に笑った。
短剣を、ねじりながら勢いよく引き抜く。
模型の上甲板の大半が、ひび割れてめくれ上がり、粉々に弾け飛んだ。
オラクルスにだけはわかっていた。あの女の命令通り、こいつは慎重にやったのだ。
なぜなら、オールや駆動部《くどうぶ》は全く傷ついていなかったから……。
防波堤《ぼうはてい》を過ぎて、船はルスト湾に、母なる海の乳房《ちぶさ》≠ヨと出ようとしていた。
舳先《へさき》に四つ並んだ獅子《しし》の向こうには、内海が広がっている。
ふり向けば、ルストの街が遠くに赤い錆《さび》のように広がっていた。大きく湾曲した港の中央に、ぽつんと白い巨大《きょだい》なイナ神の像が見える。
なんて速さなの! 朱色《しゅいろ》の帯紐《おびひも》をたぐり寄せながら、ルフィは思った。
「早くしないと振り落とされるわ……」
鏡のように穏《おだ》やかな港の中でさえ、船腹を登るのはかなり無謀《むぼう》な行為《こうい》なのだ。
スピードこそ凄《すご》いが、きちんと操舵《そうだ》がされていないことは、素人《しろうと》のルフィにもわかった。
きっと、まともな水夫が一人もいないのだ。
それどころか、オラクルスも操舵ができない状態にあるとしたら……?
耳≠フ三人は……黒ウサギ≠ヘ、何をしているのだ?
あと一息というところで、またしても船縁《ふなべり》に人の気配を感じて息を飲む。
細長くて鞭《むち》みたいにしなやかな腕が差し出されると、ルフィは手首をつかまれて、力強く引き上げられていた。
「ワイリー・マイス!」
「久しぶりだな、護民官」
いつもの、人懐《ひとなつ》っこい笑顔。
ルフィは意地になって笑うのをこらえていた。
あなた馬鹿《ばか》じゃないの、ルフィ? 会わなかったのは、たったの三日なのよ!
いくら言い聞かせても、頬《ほお》がほころんでしまう。毎日顔を突き合わせていた半年間より、この三日間のほうが、ずっと長く感じられたのだ。
他に誰《だれ》もいない。ヴァムジェ人傭兵も耳≠煬纒剥b板にいるらしく、船首は静かだった。
風の音が、オールの騒音《そうおん》を吹《ふ》き流している。
「オラクルスを止めないと!」
「もちろんだ。けど、その前にだな……」
船縁《ふなべり》に腰《こし》かけていたルフィを押《お》しもどして、ワイリーが妙《みょう》な口調で言った。
手も握《にぎ》ったまま放してくれない。
しかたないわね……。ルフィは軽く目を伏《ふ》せて、そっぽを向いた。
「わかったわよ! え〜っと、あたしのほうにも、少しばかり誤解があったみたいね」
「あ? ああ、まあな」
まあな、ですって?
「なによ! あなただって謝ることがあるでしょ。勝手に出ていって」
「いや、今はそれどころじゃなくてだな……」
「えっ?」
顔を上げると、ワイリーが、ちらっと脇《わき》に目をやった。
傷ついて眠《ねむ》っているアリストを帆布《ほぬの》にくるんでいたヌゥライが、こちらに近づいてくる。
「アリスト……!?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。あいつはな[#「あいつはな」に傍点]……」
ワイリーが、船縁からひょいと彼女を抱《だ》き上げた。
「な、何するのよ!」
恥《は》ずかしいやら、膝《ひざ》の裏と脇の下がくすぐったいやらで、じたばたするルフィ。
咳払《せきばら》いを二回してから、ワイリーが言った。
「よく聞け、ヌゥライ! 俺《おれ》もこいつと結婚してる……どうだ、わかったか」
「ええっ?! あ、あああたしが、なんで、あなたと!?」
「し〜っ! 芝居《しばい》だ、護民官。こっちは命がかかってんだ、少しは協力してくれ」
「あっ」
混乱した頭で、ルフィはケイヌーンの掟《おきて》のことを思い出す。
「ルフィ……本当か?」
ヌゥライの黒い瞳《ひとみ》に見つめられて、ルフィは三回ぐらい咳払いした。
「ええっと、その……まあ、そうと言えなくもないような気もしないでもない……かな」
わけのわからないことを言って、こっくりとうなずく。
槍《やり》を立てて、ヌゥライが息を吐《は》いた。
「よかった、誰も殺さないですむ」
「顔を見られるのが、そんなに困るのか?」とワイリー。
「わからない。でも、どのみち泥面《どろめん》はなくなってしまった……」
あたしと同じなのよね……うつむいたヌゥライを見て、ルフィはそう思った。
理不尽《りふじん》なことは許せないけれど、きまりは守るべきだと思ってる――そのせいで、この娘《むすめ》も、いつも損ばかりしているのに違《ちが》いない。
「あのね、掟《おきて》とか法とかってのは、臨機応変に考えるものよ。ロマヌアでケイヌーンの掟を守るのは無理だし、破ったって、誰《だれ》も咎《とが》めやしないわ」
「それをあんたが言うとはね、護民官」
「うるさいわね! いいから早く降ろしなさいよ、さもないと……」
クルクスでぶん殴《なぐ》られる前に、ワイリーが慌《あわ》ててルフィを降ろす。
じっと考えていたヌゥライが、プッと吹《ふ》きだした。
スッスッと笑いながら、うなずいてみせる。
「草原に戻《もど》るまでは、このままでいてみよう」
「やれやれ、ようやく一つ片づいた……」
ワイリーが、心底ホッとした口調で言った。
「さ、大使を捕《つか》まえて、ルストに戻るわよ。でないとあなた、縛《しば》り首になっちゃうもの」
あともう一つ残ってるけど……と、ルフィは心の中でつぶやいた。
甲板《かんぱん》に恐《おそ》ろしい震動《しんどう》が走ったのは、その直後だった。
「な、なんだ!?」
「わからない。けど……」
ルフィとワイリーは素早《すばや》く目配せするなり、舳先《へさき》へと走った。
「こい、ヌゥライ!」
「こっちよ!」
アリストを抱《かか》えて、ケイヌーンの少女が二人を追いかける。
三人が伏《ふ》せるのと同時に、嵐《あらし》で船体が裂《さ》けるときのような、もの凄《すご》い音がした。
上甲板の中ほどで、分厚い甲板が見えないナイフか何かでえぐり取られるように[#「見えないナイフか何かでえぐり取られるように」に傍点]、メキメキと内側から外へ裂けていく。
次々と板がめくれて、空高く弾《はじ》け飛んだ。
しまいには、巨大《きょだい》なマストまでが切断され[#「切断され」に傍点]、小枝か何かのように放物線を描《えが》いて落下した。
津波《つなみ》のような水柱が、船のはるか後方で上がる。
破壊《はかい》された甲板には、ヴァムジェ人|傭兵《ようへい》が集まっていたが、彼らは、木材の大きな破片と共に舞《ま》い上げられ、船上から消え失せていた。
中部と後部の甲板があらかたなくなって、下にあった中央の廊下《ろうか》とオールを動かす機械群が、ふたを開けたようにむき出しになっている。
ルフィは、ネウトスの人形の魔法《まほう》を思い出した。
「模型よ! あれに何か起こったんだわ!」
「らしいな。ヴァムジェ人を一気に倒《たお》すのに利用したんだ。見ろ、オールは無傷で動いてる」
「耳≠フ仕業ね。この船を、ケイヌーンの魔法を何かに利用するつもりなのよ……どうせ、ろくなことじゃないわ」
ヌゥライが、立ち上がって言った。
「人でなく、物に戦士の呪《まじな》いをかけても決して操れない。制御《せいぎょ》の秘密は、強い心にあるのだ。二つに分けても同じこと。いずれ一つに戻《もど》ってしまう……」
彼女の指さした先、半壊《はんかい》した船尾《せんび》の楼閣《ろうかく》に、オラクルスがいた。剣《けん》を杖《つえ》にして立ち上がろうとしている。もう一人、耳≠フ部下だ。
彼らが目指しているのは、中央の通路に落ちている模型だった。
「あの男がこうなることは、わかっていた。三日前に|死の神《ラノート》に知らせてある」
「だめよ! ロマヌアじゃ、神様に任せるわけにはいかないの!」
叫《さけ》ぶが早いか、ルフィは中央の廊下《ろうか》へと走り出す。
「言うと思った……」
後を追おうとしたワイリーが、不意に立ち止まる。
彼は一緒《いっしょ》に行こうとしたヌゥライを押《お》しとどめて、投げ短剣を渡《わた》した。
「お前さんは、アリストとここにいろ。ちょいと頼《たの》みがある……」
V
広い通路に、数百本のオールの動きが轟音《ごうおん》となって溢《あふ》れていた。
針金ネズミ≠ヘ歯を食いしばり、右足を高く上げて走った。
それでも、ルフィにはなかなか追いつけない。
船尾までは、まだかなりあった。四頭の獅子《しし》″は嫌《いや》になるほど巨大《きょだい》な船なのだ。
ワイリーは、袖《そで》の中にいるサビネズミに声をかけた。
「おい、他《ほか》に生き残ってる人間がいるか?」
(ルスト、デタ……フクザツ、シツモン、カイトウフノウ)
いつもの錆《さび》色の血族≠ニ違《ちが》う、ぎこちない声。
たった二十四|匹《ひき》で考えてやがるのか――舌打ちして、彼は言い直した。
「この船に、死んでいない人間は何人いる?」
(シチ……ニン……)
七人か。やっぱりな……と、ワイリーは思った。
だが、ネズミどもがこの調子では、とても聞き出せそうにない。
オラクルスと耳≠フ男が、切り結びながら船尾の階段を降りてくる。
ルフィが、クルクスを抜《ぬ》く。三人と模型との距離《きょり》は、ほぼ同じ……。
「護民官! 気をつけろ! あと一人どこかにいる! 敵が……」
ワイリーが声を上げると、彼女はふり向かずにクルクスを振《ふ》って叫んだ。
「耳≠フ指揮官よ! 黒ウサギ≠ェ、どこかにいるわ!」
どこだ? どこに隠れている? なにを企《たくら》んでやがるんだ……?
騒音《そうおん》の中を走りながら、ワイリーは甲板《かんぱん》の残骸《ざんがい》に目を走らせる。
妙《みょう》なことに気づいたのは、そのときだった。
さっきまで、船尾にルストの港が見えていたはずなのに、今は水平線しか見えていない!
「馬鹿《ばか》な!?」
立ち止まってヌゥライたちをふり返ると、ルストが見えた。
真《ま》っ赤《か》な錆《さび》の丘《おか》を背景にして、真正面にぽつんと白い女神像の頭が見える。いつの間にか、船は針路を変えていた。四頭の獅子《しし》≠ヘ、全速力でルストの中央港に突《つ》き進んでいたのだ。
落ち着け! 落ち着くんだ、ワイリー・マイス! うまく質問しないと命取りだぞ……。
「答えろ……あの模型に最後に触った人間は男だったか[#「あの模型に最後に触った人間は男だったか」に傍点]?」
袖《そで》の中から答えが返ってくるなり、ワイリーは走り出していた。
むき出しになった階段を回って、三人が狭《せま》い空間になだれこむ。
模型は階段の裏、通路のどん詰《づ》まりに転がっていたのだ。
すぐ後ろで、アリストの設計による巨大《きょだい》な駆動部《くどうぶ》がゆっくりと回転している。船尾《せんび》の甲板《かんぱん》がめくれたせいで、丸見えになっていた。
ルフィは、オラクルスと耳≠フ部下との斬《き》り合いの中に飛びこんでいた。
「やめなさい! 大使は逮捕《たいほ》するのよ!」
いくら叫《さけ》んでも、青白い顔をした耳≠フ男は、オラクルスへの攻撃《こうげき》の手を休めなかった。
「渡《わた》すものか! 私の船だ! これは……これは私の……!」
オラクルスのほうも、うわごとのようにそうくり返して、血走った目で剣《けん》を振《ふ》るう。
止められるだろうか?
できないことじゃない――クルクスを握《にぎ》りしめたルフィは、必死に集中した。
ガツッ!
二つの剣をほぼ同時に受けると、攻《せ》め合う双方《そうほう》の力を利用しつつ、身体《からだ》を沈《しず》め、ねじる次の瞬間《しゅんかん》、ぶつかり合った二人が床《ゆか》に倒《たお》れ、二本の剣もクルクスで床に押《お》さえつけられていた。
うつ伏《ぶ》せに寝転《ねころ》がったまま、ルフィは息を吐《は》いた。
「やった!」
「――そうね、この状況《じょうきょう》なら、きっと無敵のクルクスの達人を出し抜《ぬ》けると思ってたわ」
行き止まりのはずの通路の奥《おく》から声がした。
「えっ?!」
反応する暇《ひま》もなく、床に押しつけたクルクスごと右手を踏《ふ》みつけられる。
と同時に、剣が突きだされていた。
「薄汚《うすぎたな》いヴァムジェ人! 乗りこむのに苦労したお返しよ」
左胸を貫《つらぬ》かれたオラクルスの身体が、ビクッと痙攣《けいれん》する。
黒ウサギ≠ヘ、駆動部の窪《くぼ》みの中に隠《かく》れていたのだ。模型で、指を入れて回す部分に。
彼女は楽しそうに笑って言った。
「この船はルストへ向かっている。ヴァムジェ人の船が、祭で賑《にぎ》わうルストへ突っ込むの」
「な……なんですって!?」
「ヴァムジェを武力で打倒《だとう》したいロマヌア人は大勢いる。彼らは、きっかけを欲しがってるわ」
マリオルトは承知しているのだろうか? とても正気の沙汰《さた》とは思えなかった。
「大海捧祭《たいかいほうさい》≠諱I どれだけの人が集まっているか、わかってるの!?」
初めから、そのつもりで……?
耳≠ネんかを信用した自分が馬鹿《ばか》だった、そう思っても叫《さけ》ばずにはいられなかった。
「よくも……よくもだましたわねっ!」
「あら、初めて会ったとき[#「初めて会ったとき」に傍点]に忠告したはずよ。『この船のことは忘れろ』ってね」
憎《にく》らしい笑い声。
やっぱり、あのときの!
「おい、そこの女! これがないと困るんじゃないのか?」
ワイリーの声に、黒ウサギ≠ェ息を飲む。
「い、いつの間に……!」
「返して欲しかったら、ルフィを放しな」
ガレー船の模型から針金の輪を外して、ワイリーは言った。
甲板《かんぱん》がはがされたあと、これはすでにこの女の手にあったのだ。船の針路を変更《へんこう》し、ルフィをおびき出すために、わざと転がしておいた……。
「もう一度言う。護民官と交換《こうかん》だ」
「信用できないわね」
「あんたとはちがう。俺は、うそは言わない主義でね。ほら、投げるぞ!」
ワイリーは、手すりの向こうに模型を投げた。
手すりに飛びついた黒ウサギ≠ヘ、機械の群《むれ》に巻き込まれる寸前で、模型を受け取める。
「こ、壊《こわ》れたらどうする気よ!」
その隙《すき》に跳《は》ね起きたルフィが、こちらに走ってくる。
二人は素早《すばや》く視線を絡《から》ませた。ルフィも気づいていると、すぐにわかった。
そう、模型は転がされていたのだ。誰《だれ》も駆動部を回してはいなかった。それなのに、船は動き続けている。ということは……。
ワイリーは、片手を上げてヌゥライに合図してから言った。
「俺は女子供には手を出さない。一応、忠告しとくぜ。その模型は、捨てたほうがいい」
相手は忠告を無視した。手すりに寄りかかって船の針路がずれていないか確認し、細身の短剣《たんけん》を模型の通路に差し込んだ。ルフィとワイリーのいる辺りだ。
「ホホホ! 吹《ふ》っ飛ばしてやるよ!」
舳先《へさき》から一直線に飛んだヌゥライの投げ短剣が、模型を貫《つらぬ》いたのはそのときだった。
二つに分けても一つに戻《もど》るー高められて行き場を失い、模型に逆流していた力が爆発《ばくはつ》した。
吹っ飛んだ黒ウサギ≠ヘ、信じられないという顔で手すりの向こうへと落下していった。
悲鳴は、歯車に巻き込まれ、すぐに消え失せる。
だが、船は止まる気配も見せず、イナ神の像めがけて進んでいた。
大海捧祭《たいかいほうさい》≠フ真《ま》っ直中《ただなか》へ!
W
神殿《しんでん》の天辺《てっぺん》から伸《の》びたクレーン宝珠《ほうじゅ》をしずしずと運んでいく。
のような橋を渡《わた》って、イナ神殿の巫女《みこ》が純白の布をかぶせたやがて花冠《かかん》の上に宝珠が置かれ、布が取り除かれると、地上の群衆がどよめいた。
女神像に捧《ささ》げられた宝珠は、まばゆい光を放っている。
完全な球体に磨《みが》き上げられた宝珠には、何ヶ月もかけて光を放つよう魔法《まほう》がかけられていた。
どこへ転がってもわかるようにだ。
神殿前の港は、ぎっしり人で埋《う》めつくされていた。見物客ではない。そこは、イナの像に群がろうという参加者たちの指定席だった。
退屈《たいくつ》な儀式《ぎしき》が、まだしばらく続く……祝詞《のりと》を唱えたり、寄付金への礼が述べられたりして、ようやく「玉を取り合う馬鹿騒《ばかさわ》ぎ」が始まるのだ。
クレーンが外されるまで像には登れない。風で像がゆれ、宝珠の位置が変わることもある。
転がる宝珠の動きを見逃《みのが》すまいとして、参加者の目は像の頂上の光に注がれていた。
見物客たちは、もっと外側から取り巻くようにして見守っている。像の上での攻防《こうぼう》が楽しめる周囲の高い建物の上が、彼らの特等席だった。
「やっぱり来てないのかしら? ルフィも、針金ネズミ≠ウんも……いないわね」
他《ほか》の全員が宝珠に釘付《くぎづ》けになっているときに、レミーカ・ヘイズォトは参加者と見物客の群を眺《なが》めてつぶやいた。
「いかがですか、ヘイズォト夫人。なかなかの特等席でしょう?」
傍《かたわ》らで忙《いそが》しげに部下に指示を出していた中年の男が、頬《ほお》をほころばせる。
「ええ、とっても。ありがとうございました。マキシマス護民官……」
レミーカは微笑《ほほえ》んだ。ここは警備のための見張り台だ、祭の様子が一望できる。
マキシマス護民官に会えたのは、イナ神の加護のおかげ――彼女はそう思った。
彼は、かつて鬼《おに》ヘイの部下だった。夫の悪評を信じていない、数少ない友人だ。
「あら……」
髭面《ひげづら》のマキシマスの向こうを見つめて、レーミカは訝《いぶか》しげに目を細めた。
「なにか?」
「船だわ、ほら」
港の外から真《ま》っ直《す》ぐ、こっちへ進んでくる一隻《いっせき》のガレー船があった。
海にはゴンドラ一隻たりとも浮《う》いていてはいけないはずだ。
この祭が終わって初めて、ルストの船乗りと|水の神々《ンブツ》との仲がとりもたれたことになる。それまでは、港に船を出すことは禁じられていた。
それなのに……。
「近頃《ちかごろ》は、不信心な人がいるのね」
レミーカは、のんきにつぶやいた。
マキシマス護民官の顔からは、血の気が引いている。
「そんな悠長《ゆうちょう》な! あれは……突《つ》っ込んでくるつもりですよ!」
「護民官、市民を避難《ひなん》させますか?」
部下の衛兵が、やはり青ざめた顔で言った。
マキシマスは、像の下の参加者たちを見おろした。
「どうやって避難させる? あれだけの群衆だぞ。恐慌《きょうこう》状態になったら……」
「マキシマス、まずはあなたが落ち着いて。大丈夫《だいじょうぶ》よ。きっと、イナ神が助けてくださるわ。彼女のお祭りですもの」
レミーカが言った。
舳先《へさき》の四頭の獅子《しし》が、イナの女神像に牙《きば》をむく――凪《な》いで鏡のように穏《おだ》やかなルスト港を、ヴァムジェ人のガレー船が無粋《ぶすい》に突き進んでいた。
オールを動かす耳障《みみざわ》りな騒音《そうおん》は、止まる気配も見せなかった。
船尾《せんび》の楼閣《ろうかく》に集まった四人に残された時間は、ごくわずかだった。
ヌゥライでなくても、白い像の頂部にイナ神殿《しんでん》の巫女《みこ》が宝珠《ほうじゅ》を置いたのがわかる。
女神の花冠《かかん》が、光を放っていた。
「この機械を、壊《こわ》すってわけにはいかないの?」
「だめです。今からオールを壊しても、間に合わないでしょう」
ルフィが聞くと、アリストが帆布《ほぬの》の担架《たんか》に横たわったままゆっくりと首を振《ふ》った。彼は辛《つら》そうで、すぐに朦朧《もうろう》とした眠《ねむ》りに引き込まれそうになる。
たった四人。しかも一人は重傷だ。舵《かじ》も、黒ウサギ≠ノ壊されていた。
なのに、船は動き続けている。
「とにかく、手はあるはずよ。このままじゃ、何百人も死傷者がでるわ」
「この船を無難に止める方法があるとすれば、一つだけです」
半身を起こした設計師が指さしたのは、舳先の向こうに迫《せま》ったイナの女神像だった。
「このまま、あれにぶつけるしかない。あれは、何ヶ月もかけて、魔法《まほう》で重心を地下にずらしてあるから……」
「だって、祭の最中なのよ? 像の周りには大勢の人が……!」
どうしよう……。
ルフィは、ちらっと相棒に目をやった。
針金ネズミ≠ヘ、さっきからずっと黙《だま》ったきりだ。
馬鹿みたいに真剣《しんけん》に、女神像を見つめている。
「どうしたの、ワイリー・マイス?」
「像の周りにいる連中さえどけば、船は無事に止められるかも知れない……そうだよな?」
「ええ」と、アリスト。
舌打ちするワイリー。
「気に入らねえ……」
「当たり前でしょ! こんな状況《じょうきょう》を誰《だれ》が」
「ちがう。手はあるんだよ。ただ、こんな状況で、それを使うのが気に入らなくてな」
「えっ!?」
どういうつもり? そんな目で、ルフィがじっと見守っている。
ワイリーはレミーカ・ヘイズォトに言い当てられた通りの感情を隠《かく》し、平静を装って言った。
「ヌゥライ、ここから槍《やり》をあの像の辺りまで投げられるか?」
今にも船が突《つ》っ込むとはいえ、槍を投げるとなると絶望的な距離《きょり》だ。
少なくとも、ロマヌアの競技選手ならば。
だが、陸地を眺《なが》めたケイヌーンの少女は、スッスッと不敵に微笑《ほほえ》んでうなずいた。
「簡単なことだ。全力を出せば」
「じゃ、こいつ[#「こいつ」に傍点]を生かしたまま女神に届けてくれ」
人には当てるなと念を押《お》し、破りとった袖《そで》を素早《すばや》く針金で槍にくくりつける。
ワイリーは、大急ぎで袖の中のサビネズミに命じた。
「四頭の獅子《しし》″の血族よ、新しいルストの二十四匹[#「新しいルストの二十四匹」に傍点]に『珠《たま》を盗《と》れ』と伝えてくれ」
(コウテイ……)
槍の重さと船の速度を確かめたヌゥライが、陸地との距離と落差を見定める。
彼女の視力なら、像の前にいる一人一人でさえ見分けられるはずだった。
全身が縮み、勢いよく伸《の》びる。
シュッと音をたてて、槍は山なりに飛んでいった。
力を出し切ったヌゥライが気を失って倒《たお》れこむのを、ルフィが抱《だ》きかかえる。
ワイリーは言った。
「これでよし……と。おまじないはおしまいだ。マキシマスが馬鹿じゃなけりゃ、像の前は、がら空きになるはずさ」
「だから、どうしてそうなるのよ?」
「ほら、護民官、いいから衝撃《しょうげき》に備えろって!」
早口でそう言うと、彼はさっさとアリストを抱《かか》え、船尾楼《せんびろう》の壁《かべ》に背中をつけて座りこむ。
ルフィは、ぎりぎりまでつま先立ちして何が起こるのかを見届けるつもりらしい。
やれやれだ。イナ神がこんなに意地悪だとは知らなかったぜ――。
ワイリーは、ため息をついた。
大きな弧《こ》を描《えが》いて海を越《こ》えた槍が、像の脇《わき》をすり抜《ぬ》けて神殿《しんでん》の壁に突き刺《さ》さった。
サビネズミは女神像にも神殿にも住んでいる――とにかく、ルストの錆色の血族≠フ領域に、知らせが届けばよかった。
彼らは、すぐに行動を起こした。
ルストの盟主≠ェ、こつこつと何ヶ月もかけて、街中にしかけて回った、こっ恥《ぱ》ずかしい目的を成功させるためにだ。
花冠《はなかんむり》の上で自由に転がっていた宝珠《ほうじゅ》が、なぜか不意に[#「なぜか不意に」に傍点]クレーンの上にポンと跳《は》ねた。
神殿《しんでん》の屋根へと転がった光を追って、群衆が港から動いていく。
宝珠は止まることなく、神殿から隣《となり》の建物へ、さらにその先へと転がっていく。
ワイリーの作った通り道を順調に……。
建物が順に低くなっていくルストの街を、南へ南へ……。
倉庫の屋根を滑《すべ》り、ネズミたちが掃除《そうじ》した雨樋《あまどい》を伝い、隣の塀《へい》へと落ちて……。
離《はな》れた建物の間には、目立たないように針金のつり橋が作られていた。
目ざとい一人が、「南だ! 珠《たま》が街の中に入ったぞ!」と叫《さけ》ぶと、群衆は女神像をそっちのけにして、あっちだこっちだとわめきながら、屋根を見上げて南へと走っていく。
あとには女神イナの像だけが、ぽつんと残っていた。
「信じられん! いったい何が起こったんだ?」
港から神殿にかけてを封鎖《ふうさ》するよう命じてから、マキシマス護民官が呻《うめ》いた。
「ほらご覧なさい。純愛の女神が、一途《いちず》な気持ちを裏切るわけないのよ」
近づいてくる巨大《きょだい》なガレー船に眉《まゆ》をひそめてから、レミーカが言った。
X
それぞれがヌゥライとアリストを抱《かか》え、二人は寄り添《そ》って衝撃《しょうげき》に備えていた。
「ねえ、ワイリー。あれが、あたしに隠《かく》してたことなの?」
「そうだ」
「女神イナの宝珠を手に入れるために、毎晩、街中の屋根に登ってたことが?」
「……そうだ」
「宝珠の行き着く先は――」
岸壁《がんべき》と船の衝角とがぶつかる。
激しい衝撃。
「――あの、おかみさんの家なのね」
「ああ」
「呆《あき》れた……なによ、泥棒《どろぼう》みたいにこそこそと!」
「悪いかよ。あいにく俺《おれ》は、こそこそやるのが好きなの。泥棒だからな」
「泥棒はやめたんでしょ」
「元泥棒でもだ」
四頭の獅子《しし》″は、止まらなかった。
自らの重みで、船底と石畳《いしだたみ》とを粉々に砕《くだ》きながら、陸へと乗り上げていく。
勢いは少しも衰《おとろ》えていなかった。
船体が、縦に横に小刻みにゆさぶられる。
残っていた甲板《かんぱん》が、ガラガラと崩《くず》れて機械に巻き込まれていった。
ワイリーが腕《うで》を回して頭をかばってくれる。
「どうだい、お嬢《じょう》さん。このあと生きてたら、『レガミラの盗賊《とうぞく》』でも観に行くってのは?」
「馬鹿《ばか》ね――」
「肯定《こうてい》か? それとも否定か?」
「返事はこうよ――」
ルフィは、針金細工のネズミにしたときよりずっと優しく、彼に返事をした。
オールが折れて吹《ふ》っ飛び、恐《おそ》ろしい勢いで回転しながら飛び散って、地面に突《つ》き刺《さ》さった。
舳先《へさき》の獅子が、イナ神の心臓めがけて突き刺さる。
ヴァムジェのガレー船は、完全に陸地に乗り上げていた。
女神像が、大きく傾《かたむ》いて衝撃《しょうげき》を受け止める。
水の神々の神殿《しんでん》が、女神の背中に押《お》しつぶされて派手《はで》に崩れ落ちた。
野次馬《やじうま》や、マキシマス護民官の配下が駆《か》けつけるまでの短い時間。
四頭の獅子″に、しばしの静寂《せいじゃく》が訪れていた。
二十三|匹《びき》の錆色《さびいろ》の血族≠ェ、船尾《せんび》に顔をのぞかせる。
(質問がある。盟主は、クレニッスの花≠ニ常に特殊《とくしゅ》な状況《じょうきょう》にありたいのか?)
キスの邪魔《じゃま》をされた恋人《こいびと》たちは、キッとネズミたちをにらみつけると、声をそろえて言った。
「やかましい、だまれ!」
(肯定……)
ネズミたちが姿を消す。
二人は顔を見合わせて笑った。
「それにしても、ひどい船旅だったな」
「ほんと……」
「ま、いいことも、いくつかあったが」
「あら? 例えば?」
ルフィが少し期待して聞くと、ワイリーは、すっとぼけた顔をして答えた。
「そうだな……少なくとも、俺の縛《しば》り首は延期みたいだ」
正午までには、まだかなり時間があった。
Y
「それで、ヴァムジェ人どもとは、どうなった?」
数日後、いつもの浴場の第一|浴槽《よくそう》に現れたプリニウスを待ち受けていたネウトスが言った。
「どうもならんさ。まあ、交渉《こうしょう》は白紙に戻《もど》ったらしいが。全《すべ》ては、オラクルスの独断だったということだろう……よくある話だ」
ロマヌア側としても、耳≠ェからんでいたことを表沙汰《おもてざた》にはできない。あまり強くは出られなかった。痛み分けというところか。ルストの市民にとっては、迷惑《めいわく》な話だ。
神殿《しんでん》や港の復旧には、ルストの実力者であるマリオルトから巨額《きよがく》の寄付が寄せられていた。
プリニウスは、じっと友人の太った顔を見つめて言った。
「ケイヌーンの娘《むすめ》と設計師は、あんたのところにいると聞いたが?」
ネウトスがうなずく。彼はミレッタの埋葬《まいそう》もかって出ていた。
「同郷のよしみでな。そうそう、ヌゥライなら女湯におるよ。風呂《ふろ》好きのケイヌーンか……草原に帰って苦労するだろうに。アリストが回復したら二人で南へ帰るそうだ」
「耳≠ノ報せたのか?」
「まさか! さすがに、今後の協力は断らせてもらった。プリニウス、私はな、すっかりお前さんとこのお嬢《じょう》さんのファンになってしまったよ」
「大した護民官だよ。最悪の事態を考えれば、ルフィはよくやった。本人は、あのときオラクルスを確保していれば……と悔やんでいたがね」
ヴァムジェ人の思惑はもとより、耳≠フ陰謀《いんぼう》も失敗に終わっている。
ガレー船は使い物にならないことが判明し、大海捧祭《たいかいほうさい》≠フ事故で死んだロマヌア人は一人もいなかったのだから。
もっとも、耳≠燒@廷も、ますますあの二人を目のかたきにするだろう。何をしかけてくるか、わかったものではない。
ネウトスが言った。
「お嬢さんは、落ちこんでるのかね?」
「いや、どちらかといえば、浮《う》かれとるというべきだな……あれは」
そう言うと、プリニウスは面白《おもしろ》くてたまらないというように呵々《かか》と笑った。
[#改ページ]
エピローグ
「おいおい、ここで急に主人公が変わっちまうのかよ? あの盗賊《とうぞく》はどうすんだ?」
第三幕、第三場の最初の台詞《せりふ》を聞くなり、ワイリーが少々大きな声で文句をつけた。
二人の四方に座った観客が、申し合わせたかのように顔をしかめ、馬鹿《ばか》みたいに歯の間から息を吐《は》いて、人差し指に吹《ふ》きかける。
「いいから、座りなさいってば! ワイリー・マイス……」
ささやいて彼の袖《そで》を引っ張ったルフィは、ぐにゃっと柔《やわ》らかくて温かいものを握《にぎ》りしめる。
彼女は、劇場中に響《ひび》くような悲鳴を上げた。
観客ばかりか、役者たちまでが迷惑《めいわく》なカップルを見上げたほどだ。
二人がうつむいて腰《こし》を下ろし、咳払《せきばら》いの波がおさまると、ようやく舞台《ぶたい》が進み始める。
ルフィは、ささやいた。
「もう! こんなときまで、ネズミなんか連れてこないでよ!」
「話をそらすなっての。なんなんだ、この筋書きは?」
「だから言ったじゃない、面白《おもしろ》くないわよって」
架空《かくう》の都市レガミラで、悪逆非道の盗賊が、権力者の地位にまでのし上がっていく――という粗筋《あらすじ》なのに、半分も終わらないうちに唐突《とうとつ》に彼の恋人《こいびと》へと話が移ってしまうのだ。
盗賊は、第三幕より先には登場しない。端役《はやく》の市民たちの台詞の中で、彼が縛《しば》り首になったことが軽く触《ふ》れられるだけ……。
なぜなら、彼女と別れてしまったからだ。
もちろん、例の理由で。
「ぜんぜん納得がいかん。みんな、こんなもんのどこが面白いんだ?」
「あら、自分の上司[#「上司」に傍点]と意見が合うってわかっただけでも良かったじゃない」
「まあな、護民官」
観客たちは知らないだけなのだ……くすくす笑いながら、ルフィは思った。
なにしろ彼らは、本物の盗賊(じゃなくて、元|泥棒《どろぼう》だけど)を相棒に、特殊《とくしゅ》な状況《じょうきょう》とやらに放りこまれたことなんか、一度もないんだから。
そりゃあ素敵《すてき》な恋ができるのよ。
ネズミさえいなきゃね!
[#改ページ]
あとがき
――緊急連絡《きんきゅうれんらく》! 緊急連絡! 午前三時二十三分、ルスト港南地区で事件が発生しました。ヘイズォト護民官は、至急、現場に急行してください。
――追加連絡! 本編を読む前に付近を黙読《もくどく》中の読者は、速やかにプロローグに急行してください。
……と、お久しぶりでございます。謎《なぞ》のメカ侍《ざむらい》、伊豆平成(いずのひらなり)です。
ご縁《えん》と機会がありまして、なんと、ルフィ&ワイリーの続編を書かせていただきました。
これもひとえに皆《みな》々様のおかげ……本当に、ありがたいことです。
では、例によって本編に関連した話をいくつか――。
精進が足りませんで、「続編って難しいなあ」と、いつも思ってしまいます。前作がうまくまとまっているときほど、再び彼らで話を転がす力をどこから持ってくるか……なんてところで苦しんでしまって。こういうときのお手本は、いつも「エイリアン2」や「ターミネーター2」です。テーマやモチーフを手本にするってことじゃないですけどね。
あと、このお話では、古代ローマ的な事柄《ことがら》や雰囲気《ふんいき》を色々と拝借していますが、あくまでファンタジーです。だからルフィたちは、平気でトマトだのジャガイモ(今回は食べてないか)だのも食べています。とくにトマトは、ロマヌア人の食文化において、オリーブと同じくらい重要な気がします。きっとそうに違《ちが》いありません。トウモロコシは……なくてもいいかな。
今回もイナ、ンブツという二柱の神様が出てきますが、前巻と同様に、「カナン(http://www.toride.com/~denkow/ca/canan.html)」という架空《かくう》の神話から拝借しています。
最後にお礼をば。毎回お世話になっております小笠原さん(ご迷惑《めいわく》をおかけしました。もうもう、本当に……言葉もありません)、イラストのOKAMAさん(これまた、ご迷惑をおかけしました。素敵《すてき》なイラストとアドバイスありがとうございます)、今年で二十周年を迎える信州大学SF&ミステリー研究会の皆《みな》様(今の私があるのはこのサークルのおかげです)、執筆中の私にギンコバをくれたNさん(でも、あれって眠《ねむ》くなるね、なんか)、そして、プロットで苦しんでいる私にパワーをくれたMさん……この本ができたのは、皆様のおかげです。
本当に本当に、ありがとうございました。
[#地付き]「メカ侍でも、生き血は赤い!」伊豆平成
[#改ページ]
底本
角川スニーカー文庫
PATRONE パトローネ 仮面《かめん》の少女《しょうじょ》
著者 伊豆平成《いずのひらなり》
平成十三年六月一日初版発行
発行者――角川歴彦
発行所――株式会社角川書店
[#地付き]2008年5月1日作成 hj
底本のまま
・!? ?! ?!
・ほうしゅ ほうじゅ
・かかん はなかんむり