TITLE : 遥かなインパール
遥かなインパール 伊藤桂一
目 次
まえがき――インパール作戦について、ほか
前章 インパールへの遠い道
一、本多挺進隊《ていしんたい》ミッション橋へ
二、サンジャックの戦い
三、カングラトンビの戦い
四、センマイ高地の戦い
五、二つの挺進隊《ていしんたい》と岩田中隊の全滅
六、ライマトルヒルへ
七、ライマトルヒルの戦い
後章 渡河点までの遠い道
一、北インパールの戦いとミッションの悲劇
二、ミッションよりウクルルへ
三、ウクルルより渡河点へ
四、渡河点付近にて
あとがき
<付図・付表 巻頭>
*インパール進攻作戦図
*インパール攻撃軍編成表
*(祭兵団)第15師団戦力表
*(祭)第15師団インパール出動編成表
*歩兵第60聯隊ビルマ方面行動経過図
<付図・付表 巻末>
*インパール北方地区犠牲者数表
*転進行動間犠牲者数表
*歩兵第60聯隊人員調査表
*歩兵第六十聯隊将校職員表
*歩兵第六〇聯隊戦友会一覧表
遥かなインパール
まえがき
――インパール作戦について、ほか
本篇は、インパール作戦についての軍事的な研究書ではなく、この作戦に参加した祭兵団(第十五師団)の歩兵第六十聯隊《れんたい》の軌跡をつとめて忠実にたどり、作戦地での戦闘の実態、兵員間の生活事情などを、記録したいと願って、まとめたものである。記述をなるべく平易にして、戦場実感、臨場感を出したいと努めた。戦記は概《おおむ》ね、戦中世代にしか読まれないが、他世代、さらに後世の参考資料にもなるよう配慮しての執筆態度であったことを記しておきたい。戦闘間における、部隊間の、また兵員間の、人間的真実の記録を、具体的に描くことに重点を置きたかった。取材や執筆の経過等については「あとがき」に詳述してあるので、それを参照していただければ幸いである。
本篇は、軍事研究書ではないけれども、インパール作戦の概略について、便宜上、少々述べておきたい。本文中でも、必要最小限は、作戦事情について触れているけれども、ここでは、予備知識を得ておいてもらえれば、と思うからである。
インパール作戦は、昭和十九年(一九四四)の三月十五日に発起され、撤退完了までにほぼ半年を要している。ビルマ北西部のジビュ山系の西麓《せいろく》を縫うチンドウィン河を渡河して、アラカン山脈(幅約二百〜二百五十キロ、標高二千乃至《ないし》三千メートル)を越えて、インド領に入り、要衝インパールを占領して、戦局を挽回《ばんかい》したいとするのが、林集団(第十五軍)司令官、牟田口廉也《むたぐちれんや》中将の構想であった。
このインパール進攻計画は、昭和十七年にすでに企図されていたが、ガダルカナルの失陥、南部ビルマのアキャブ方面の敵の反攻、日本軍の兵力や補給事情から、いったん中止されている。当時、菊兵団(第十八師団)の師団長として、ビルマ防衛の任にあった牟田口中将も、この時点ではこの作戦に反対していたが、昭和十八年にビルマ方面軍が新設され、第十五軍司令官になるに及んで、インパール進攻作戦を強硬に主張しはじめている。
これには、つぎのような事情があった。
英軍のウィンゲート空挺団《くうていだん》は、昭和十七年末に北部ビルマに侵入、飛行場適地の選定、スパイの残置などを目的としたが、翌十八年五月には撤退している。これによって、それまで、越えがたい峻嶮瘴癘《しゆんけんしようれい》の地とみられていたアラカン山脈を、大部隊でも踏破できる見通しがついたのである。
また、チャンドラ・ボースを主班とする自由インド政府の士気昂揚《こうよう》をはかるためにも、インド領内に施設地区を持ちたいとする日本軍部の願いもある。方面軍としての面子《メンツ》を立てたいのである。
ビルマ北方、及び南方の戦況も思わしくない事情下に、この作戦を決行し奏功すれば、その効果は大きい。かつて、日中戦争の発端となった蘆溝橋《ろこうきよう》で、支那駐屯《しなちゆうとん》軍歩兵第一聯隊長であった牟田口中将としては、自身の計画を実施して、インパール作戦を成功させ、敗色濃い大東亜戦争に、一応の結末をつける契機としたかった。牟田口中将の手記に「わたしは蘆溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は更に拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発《ぼつぱつ》の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳が立つ。男子の本懐としてまさにこの上なきことである」とある。
むろん、常識的には、無謀な作戦であったため、大本営も当初は反対したし、ビルマ軍内部でも、作戦の実施を危ぶむ声は多かった。防衛庁防衛研究所戦史室編・戦史叢書《そうしよ》中の「インパール作戦・ビルマの防衛」には、ビルマ方面軍司令官の河邊正三中将が、牟田口中将のインド進攻論を、壮大な意見として聞き流していた、とあるが、聞き流す、というのは、反対ではない。結局、河邊中将は牟田口中将の意見を支持するようになる。ビルマ方面軍の片倉衷《ただし》高級参謀は、インパール作戦を、まったく無謀な作戦といっているし、第十五軍参謀長の小畑信良少将は、強硬な反対論を唱え、関東軍へ転出させられる時も、あくまで自説を枉《ま》げなかった。烈兵団(第三十一師団)長の佐藤幸徳中将は「あんな構想でアッサム州まで行けると思っているとは笑止の沙汰《さた》」といっている。佐藤中将はのちに、コヒマから独断撤退している。第十八師団長の田中新一中将も、小畑少将と同意見で、牟田口中将に、作戦の無謀をたしなめている。
しかし、インパール正面の敵を一撃しない限り、ビルマ防衛は困難、という考えのもとに、大本営も同意を示し、インパール作戦が実施されることになった。
英軍の第十四軍司令官スリム中将は、ビルマの日本軍の攻撃の近きを察し、日本軍をインパール平地に引きつけたのち、攻勢に出る方針をかためている。そうしてインパール防衛のため、インパールを中心に陣地を固めはじめている。
かくして、インパール作戦がはじまり、烈(第三十一師団)、祭(第十五師団)、弓(第三十三師団)の三兵団が主力となって、作戦に従い、その結果、多大の出血を強いられて、敗退することになった。
牟田口司令官は、作戦の準備間、南方軍総参謀副長稲田正純少将に、作戦の必要性を強調し「死なねばならぬ時にはわたしを使ってくれ、アッサム州かベンガル州で死なせてくれ」といっている。稲田副長は、その時「アラカン山中の要線を占領するだけなら可能かもしれないが、アラカンを下って、アッサム州に突進するなどとは全く話にならぬ」と応酬し、内心に、牟田口中将の構想に、深い危惧《きぐ》の念を抱いている。しかし、大勢には抗し得なかった。因《ちな》みに、インパール作戦がいよいよ破局に陥《おちい》った時、牟田口司令官は、司令部の庭に祭壇を築いて、神々に祈願をしている。神頼みのほか方途は尽きたのだ。
本篇では、祭兵団の歩兵第六十聯隊の、チンドウィン渡河から、インパールへ向かう過程を前章とし、万策尽きて撤退をはじめ、渡河点に引き返すまでを後章としている。歩兵第六十聯隊のみならず、インパール作戦に参加した全部隊の戦没将兵への、せめてもの鎮魂になれば、という思いがあっての、本篇の執筆である。インパール作戦については、他日を期して、また想を改めたいと思っている。
インパール作戦出動部隊の編成表を『二つの河の戦い』(歩兵第六十聯隊の記録)から借りて、別掲させていただく。なお、編成表のほかに、作戦に参加している部隊は、左の如《ごと》くである(祭兵団関係)。
〓 歩兵第六十七聯隊(柳沢部隊)(〓及び歩兵砲中隊欠)。初動時は義集団に属し、チェンマイ=トングー道構築作業中。その後第十五軍直轄《ちよつかつ》となる。師団に帰復は昭和十九年六月。
〓 歩兵第五十一聯隊(尾本部隊。第二大隊は弓兵団の指揮下に入る)。
〓 第二野戦病院。作戦当初の激戦が一段落した五月末より六月はじめになって、ようやくサンジャックに追及。
〓 第三野戦病院。
〈地名の表記について〉
本文中の地名と、転載した挿入《そうにゆう》図類の地名とに多少の差異がありますが、これは英軍地図の邦訳、ビルマ・インド側の呼称、日本軍側の通称等が入りまじっているからです。統一が不可能ですし、また判断に迷うほどの違いでもありませんので、この点ご諒承《りようしよう》ください。
(例)「モーレイク=モーライク」「センマイ=セングマイ」「ランション=ルンション」等。
前章 インパールへの遠い道
一、本多挺進隊《ていしんたい》ミッション橋へ
昭和十九年三月二十八日の日没前である。
挺進隊長の本多大尉《たいい》は、眼下に、インパール=コヒマ道を俯瞰《ふかん》する山上の一角に立って、双眼鏡を眼《め》にあてていた。
この夜、爆破すべきミッション集落の二つの橋梁《きようりよう》が、手にとるように間近にみえる。インパールからコヒマへ、コヒマからインパールへと、物資輸送のトラックが、蟻《あり》の列のように際限もなくつづいている。一刻も早く、この橋梁を爆破したい、この橋梁を爆破するのが、挺進隊の第一の使命であり、それに奏功すれば、インパールへの補給は絶え、インパールに向けて進軍している各部隊にとって、なによりも有利な結果をもたらすはずである。
挺進隊が、インパール=コヒマ道を見下ろす山上に辿《たど》りついたのは、昨二十七日の昼である。その日の朝、朝靄《あさもや》の中を辿りつづけ、ふいに朝靄が晴れてくると、ミッション東方の山上の集落の原住民の影がいくつも、肉眼でみえた。谷を一つ隔ててはいたが、原住民の原始的な強力な視力は、挺進隊の行動を逸早《いちはや》く認めたらしく、屋根の上で手をかざしている男の姿までみえる。
「大隊長殿。発見されたようです。急ぎませんと、敵に通報されると思いますが」
挺進隊長にぴったりくっついている丸山副官が、声をかけている。丸山副官と、伝令係の平田准尉《じゆんい》は、チンドウィン河を渡河以来、大隊長の側《そば》につききりでいる。
「天に祈ろう。かれらが英軍に味方するか、日本軍に期待するか。わしは、かれらを、味方だと思うのだが」
しばし、原住民たちの様子を双眼鏡で眺《なが》めてから、大隊長はかわりなく隊伍《たいご》を進めさせ、インパール=コヒマ道を俯瞰する山上へ出て来たのである。眼下にみる道路では、コヒマ方面からインパールへ向かうトラックは、軍需物資を満載し、インパールからもどる車は、空車だが、それらの往き交う車が陸続とつづいているのだ。
道路はみごとに舗装されている。
英軍は、ビルマからアラカン山脈を越え、インパール=コヒマ道へ至るまでの道路を構築したが、そのためには原住民を酷使し、その上かれらを山上へ追い上げたのである。本多大隊長が、
「住民はわれわれに期待するだろう」
と述懐したのは、虐《しいた》げられた住民の心情を察していての、言葉だったのだ。
その大隊長は、往来する車の列を眺めながら、
「たいへんな数だなァ、副官。昨夜、前方にしきりに稲妻をみたが、あれは車のヘッドライトのせいだったのだな」
そういって、丸山副官をかえりみている。ミッションに近づきつつ、夜を徹しての山中行旅の間、行手の暗い嶺々《みねみね》の上に、稲妻がしきりなく走るのをみたが、それが、街道を行き交う車のヘッドライトが空に映えたのだ、と、わかったのだ。それほども多い、敵の物資輸送の車の列である。同時に、橋梁爆破の任務の重大さについて、思い知らされている。
挺進隊は、二十七日は、山上に堅固な複郭陣地を築くことに専心し、二十八日の深更に、橋梁 爆破を決行することになった。街道は、インパール河にそそぐ二つの支流を渡るので、相接して二つの橋梁が架かっている。これを爆破すれば、コヒマとインパールの連絡は杜絶《とぜつ》する。あとは、この地にいて、橋梁を修復しようとする敵と、交戦しつづけることになる。爆破作業が二十八日に延期されたのは、所属の音川工兵小隊が到着して来なければ、実行不可能だったからである。工兵隊は爆薬等の装備も多いので、峻嶮《しゆんけん》を越えてくる間に、本隊に遅れたのである。
チンドウィンを渡河以来の十三日間、挺進隊は、艱苦《かんく》辛酸に耐えながら、いま、ようやくに、ミッション橋梁を見下ろす位置にたどりついている。挺進隊長としての本多大尉の感慨には、いいがたいものがある。
本多大尉は、陸軍士官学校の区隊長をしていたが、昭和十九年の初頭に、軍命で、祭兵団(第十五師団)歩兵第六十七聯隊《れんたい》の大隊長を命ぜられ、内地から、はるばる、北部ビルマのピンレブにあった師団司令部に赴任出頭している。
師団長に申告を終えると、傍《かたわ》らにいた作戦参謀がいった。
「君は、六七の第三大隊を指揮するが、この大隊は今次作戦の挺進隊である。わが軍が、予定通りインパールを制し得るかどうかは、一に、挺進隊が、インパール=コヒマ間の輸送路を遮断《しやだん》し得るかどうかにかかっている。奮励していただきたい。敵は甚《はなは》だ強力である。いずれにせよ挺進隊は、南北から敵の挟撃《きようげき》を受けることは必至であろう。全員玉砕を覚悟してがんばっていただきたい」
本多大尉は、師団長の山内正文中将に向かって、
「任務の遂行に最善を尽くします」
といい置いて、司令部を出ると、大隊本部から迎えに来ていた滝野中尉の案内で、第三大隊の展開している、チンドウィン河畔のロングミンへ向かった。チーク林の中の悪路を自転車で四十キロ走った。
北ビルマの暑い陽《ひ》ざしの下を走りながら、本多大尉の脳裏に、不安と不満が一抹《いちまつ》の影を落としている。不安は、大尉が、第十五師団に対して全く無知識であること、さらに、大尉の戦闘経験だが、中国北方で討伐程度の実戦を経験し、満洲では二年間関東軍の中隊長を務め、森林戦の経験を積んだ、というくらいである。インパール進攻作戦が、多く森林戦であることは察していたので、この点には少々の自信はあったが、部下となるべき人々の顔一つ知らないというのは、一個大隊を任せられる立場として、不安だったのだ。
ロングミンの第三大隊本部へ着いた時、大隊の中隊長たちは、全員集合して、本多大尉を待っていた。本多大尉は、自分に直属する中隊長たちと顔を合わせ、かれらの出身を知って、はじめて安堵《あんど》を覚えた。高橋中尉(第九中隊)、中西大尉(第十中隊)、広岡中尉(第十一中隊)、西川《さいかわ》大尉(第十二中隊)、原田大尉(第三機関銃隊)の各中隊長は、すべて士官学校出の本多大尉の後輩であった。
「有能な将校が、これほど揃《そろ》っているとは思わなかった。心強いことだ。よろしく頼む」
本多大尉が、ひとりひとりの手を握って、いうと、中隊長たちは、口々に、
「お任せください。わが部隊は精鋭が揃っております」
といって、髭面《ひげづら》の中の眼をかがやかせた。
(これならやれる)
という、作戦への、鬱勃《うつぼつ》たる闘志の湧《わ》くのを本多大尉は覚えたが、ただ、かれらから交互に装備の事情などを具体的にきいてみると、さすがに内心の動揺を抑えかねた。
大隊砲、速射砲は四門あるが、各一門しか携行できない、という。チンドウィンを渡河することもかなりの難事だが、渡河後は、つとめて主道路を避けて、海抜三千メートル級の山岳地帯を縫って進まねばならない。どこも密林地帯が多い。本多挺進隊が、渡河地点からコヒマ=インパール道に達するまでの行程は、図上の直線距離では百二十キロだが、踏破してゆく歩行そのものの距離は、山脈の上り下りを計算せねばならないから、その二・五倍、つまり三百キロは考えねばならない。しかも、途中、敵との交戦を考慮に入れねばならない。戦いつつ、一日二十キロも進めるかどうか。砲はともかく、重機関銃も、二銃しか携行できぬという。装備としては、きわめて低劣になる。
作戦参謀が「全員玉砕を覚悟してもらいたい」といった言葉の、裏の意味が解けるように思えた。危険な地点にはまず顔を出すはずのない参謀に対して、本多大尉は、
(軽々しく玉砕などとは、なにをいうか)
と、それを不満――として、胸の奥に抱いてきた。しかも、装備の内実を知ると、あまりにも心細い。各中銃隊長は、一言の不満も口に出さなかったが、
「近く司令部で、突進隊長の作戦会議があるといわれている。その折に、少々、意見具申をしてみよう」
本多大尉は、部下幹部の心情を察して、慰撫《いぶ》するようにそういった。
今次作戦は、祭兵団のほかに、烈兵団(第三十一師団)、弓兵団(第三十三師団)が、ともに行動するので、その兵力を各突進隊と名づけて、三方より進攻する。
各兵団は、三月十五日を期して、いっせいにチンドウィン河を渡河して、ミンタミ山系に分け入り、突進をつづけて、二十五日以内に、英印軍第四軍団ほかの大兵力の集結しているインパールを陥落させる、というのが、軍司令官牟田口廉也《むたぐちれんや》中将の意図であった。インパールを陥《お》とせば、インド独立軍がこれに呼応して起《た》ち、悲局に向かいつつある日本軍の形勢が一挙に立ち直る、という見通しであった。軍の意図そのものには、勝算――という数字しかなかったのだ。
烈兵団は、チンドウィン河最上流のタマンティから、右突進隊(歩兵第百三十八聯隊第三大隊)が渡河進攻する。マウンからは師団主力、ホマリンからは左突進隊(歩兵第五十八聯隊を主幹とする宮崎繁三郎少将指揮の歩兵団)が渡河進攻する。烈兵団は、各突進隊をもって、北方の要衝コヒマを陥として、インパールへの補給路を抑えることになる。
本多挺進隊は、ロングミンから渡河して進攻する。祭兵団主力(歩兵第六十聯隊・聯隊長松村弘大佐)は、それより下流のナンカンから、右突進隊として渡河、一路インパール正面へ向けて進攻する。兵団司令部・尾本部隊(歩兵第五十一聯隊)は、さらに下流より渡河(巻頭付図1・付表1を参照)。
弓兵団は、最下流のモーレイク付近より渡河する。歩兵団長山本募少将の指揮する右突進隊は、三月八日にモーレイク地区から、攻撃前進に移っている。歩兵第二百十三聯隊、戦車第十四聯隊、野戦重砲兵第十八聯隊等を主力としていたが、祭兵団の歩兵第六十聯隊の吉岡大隊(第一大隊・吉岡少佐)は、チンドウィン河を渡河後、ミンタミ山系内で、軍司令官の命を受けて、祭兵団を離れて、弓兵団のこの山本支隊の指揮下に入っている。三月二十一日である。
第十五軍内の幾多の突進隊中、山本支隊は、もっとも多くの火力を装備していた。歩兵はわずか七個中隊に過ぎなかったが、中、軽戦車三十数輛《りよう》、速射砲八門、山砲十三門、十五榴弾砲《りゆうだんほう》八門、十加農砲《カノンほう》八門、弾薬も充分の量を持っていた。吉岡大隊は歩兵大隊として、山本支隊とともに戦闘してゆくことになる。
本多大隊長の口にした突進隊長の作戦会議は、ピンレブにある師団司令部で、まもなくに行われた。各突進隊(大隊)の部隊長が師団司令部に集合して、図上戦術をやったのである。
この作戦会議の席上で、本多大尉は、挺進隊長としての所見を述べる時、装備の弱さをはっきりと口に出している。
「交戦しながら、きびしい山中行旅をするとすれば、挺進隊のこのような劣弱な装備では、とうてい所期の目的を達し得ないと思われます」
と、いった。
山内師団長に、直接意見を述べたのだが、その場にいた岡田菊三郎参謀長が、
「挺進隊には、渡河用機舟一隻《せき》と、牛三十頭を余分に割り当てよう。それで諒承《りようしよう》してもらえぬだろうか」
と、とりなすようにいった。
いい争ってみても、軍の基本方針に大きな変化を期待できるものでもない。このことは本多大隊長にも、よくわかっている。それで、若干の配慮を得たことで、あきらめるよりほかはなかった。どっちみち、多難な前途である。大丈夫か、という不安は、ぬぐい切れるものではなかったが。
牛――というのは、馬の代用として、弾薬や糧秣《りようまつ》を運ばせるものである。将兵が各自携行する糧秣は二十五日分で、これで作戦終了まで間に合う、と計算しながらも、予備に、牛に積むのである。インパールに突入しさえすれば、爾後《じご》の糧秣は敵から奪えばよい、というのが、牟田口軍司令官の構想である。糧《かて》を敵に求む、というのは、ジンギスカンの戦法である。牛は、一牛三得といって、牛の内臓は栄養豊富であり、古来、作戦には牛が利用されてきている。牛は、運搬の役に立ち、背に積んだ糧秣を食いつくしたら、牛そのものを殺して食える。
軍司令部では、はじめは、牛よりも、羊を携行するつもりだった。
高橋隊(第九中隊)所属の速水《はやみ》少尉は、部隊がサイゴン上陸時に、選抜されて、軍司令部の、山羊《や ぎ》、羊の教育隊へ呼ばれた。速水少尉は長野の農学校の出身だったからである。当時、インパール作戦(軍ではウ号作戦と呼んでいた)の発起について、牟田口軍司令官は、ジンギスカンの故智《こち》にならい、山羊や羊を連れて山中に入り、飢えればそれを食えばよい、という考えを抱いていた。そのためには、山羊隊、羊隊を編成し、それを管理し得る兵員を養成しなければならない。
速水少尉が、メイミョウにあった軍司令部に出頭すると、一様に召集された百二十名ほどの将校に対して、軍司令官が訓示をしている。山岳重畳前人未踏の地に分け入り、これを越えるに牛、山羊、羊を連れてゆく。そのための教育が行われる、励精せよ――といわれた時、宿舎にもどった将校たちは、
「ビルマで羊飼いをやろうとはね」
といいあって、苦笑した。
山羊と羊は、司令部にはたくさんいた。これを、メイミョウからマンダレーまで移動させることになった。行程約五十キロである。メイミョウとマンダレーは、標高差が千メートルある。つまり、山羊と羊は、高原から、千メートル低い地帯へ移されることになる。
山羊隊、羊隊の将校たちは、それぞれ鞭《むち》を持たされて、たしかに羊飼い同様に、山羊と羊を追ってメイミョウを出発したが、山羊も羊も、二日目には歩かなくなった。山羊や羊は、気ままな草原の放牧なら、たのしげに動き廻《まわ》るが、軍隊式に、一定距離を強制的に歩かせられると、動かないし、動けなくなる。無理に動かすことはできない。結局、この、ジンギスカン風の企画は、だめになり、牛だけが利用されることになったのである。平地さえ歩かぬ山羊や羊が、アラカン山脈の嶮峻な道を歩くはずはないのである。この一事は、インパール作戦の成否に対する軍の考え方の不備を、端的にだが、象徴的に語っていたかもしれない。
本多挺進隊は、三十頭の牛を余分にもらったので、一律に割り当てられた百二十頭に加えて、計百五十頭の牛を率いて、作戦目標を達成することになった。牛隊の隊長は、丸木少尉にきまった。
各自二十五日分、と予定されていた米は、作戦開始時には、わずか十日分しか支給されなかった。それでもこれに銃や弾薬を加えた兵の装備は、重量にして六十キロに達する。この荷を負うて、山中踏破をすることになる。いよいよ出発の近づいた時、挺進隊へ司令部から命令が来て、
“二個中隊を抽出して、師団の予備隊として差し出されたい”
ということだった。
それで、中西大尉の第十中隊と広岡中尉の第十一中隊を割いたが、ただでさえ少い兵力をさらに割け、という軍命には、本多隊長は激しい憤《いきどお》りを覚えざるを得なかった。だが、軍命には従うしかない。残兵を率いて、死力をつくして、任務を完遂するよりほかはなかった。
丸山副官は、新任隊長の苦衷を察したのだろう、司令部へ二個中隊を差し出したあと、本多隊長に、
「祭は、もともと、非常な無理を強《し》いられてきました。後続の一部は、まだ本隊に到達していないのです」
といって、兵団の実情を話している。
祭兵団は、昭和十三年に中国の揚子江《ようすこう》岸に派遣され、武漢攻略戦、浙東《せつとう》、浙〓《せつかん》ほかの作戦を経て、昭和十八年夏に上海《シヤンハイ》に集結して、タイに転進。その後、タイ・ビルマ国境の道路補修作業、さらにビルマに入りジビュ山系内の道路作業などに従事したが、インパール作戦の発起により、作戦地へ、急ぎ発進してきたのである。
祭兵団は、上海から北部タイまででも四千六百キロの旅をしてきたし、海上輸送では敵の潜水艦攻撃を警戒せねばならず、航路も、サイゴン―内地―上海―サイゴンという、歪《ゆが》んだ形をとらざるを得ず、日数がかかっている。そのため、作戦準備不足のままに、作戦への参加を余儀なくされている。一般に大作戦に際しては相当の準備期間を要するが、祭は烈兵団にくらべると四分の一、弓兵団にくらべると極度に短い期間に、即製の態勢を整えねばならなかった。ふつう、一個兵団の兵力を一万名とすれば、祭の場合は、その五分の一、約二千ほどの兵力で、他兵団同様の行動をせねばならなかった。本多挺進隊《ていしんたい》もまた、その、不運な状況に耐えねばならなかった。
「ですが、いかなる困難に遭遇しても、ミッション橋は破壊できると信じます。兵員は、対中国戦で、戦闘には充分訓練されておるのです」
熱をこめていう丸山副官に、大きくうなずきを返しながら、本多隊長は、人事を尽くして天命を俟《ま》つ、という心境になっていた。
作戦に参加する兵隊たちの装備は、具体的にいうと、小銃弾は二百四十発を身につけ、背嚢《はいのう》に百六十発、計四百発を携行する。挺進隊は任務のため先を急ぐので、ゆっくり炊爨《すいさん》していられず、それで、淡竹の中に米を詰めた。詰め方があって、米と水を入れて、草で蓋《ふた》をして、焚火《たきび》の中に突っ込むと飯が炊《た》きあげられる。赤飯のような色になる。竹は五十センチくらいの長さにして、表皮を削って薄くする。米は一合入る。菜は粉味噌《みそ》や粉醤油《しようゆ》を水で溶いたもので我慢する。この竹炊き飯は腐りにくく、一本を三人で食う。
携帯口糧の米や乾パンは、天幕に包み、背負袋にして、背嚢式に背にかつぐようにした。十字鍬《じゆうじしゆう》(つるはし)は一個分隊に二梃《ちよう》、円匙《えんぴ》(シャベル)は各自が携行する。マッチは蝋紙《ろうがみ》に包み、食塩は岩塩をタオルに包み、タオルにしみ込んだものをしぼって飲んだり、タオルを噛《か》んで塩分を摂取したりする。食糧が尽きたらどうなるのか、ということは、尽きたその場で考えるしかない。軍自身がその方針だからである。
三月十五日の夜、挺進隊は、九時四十分に先発の高橋隊(第九中隊)が渡河を開始し、以下、続々と渡河をはじめている。渡河は、竹の筏《いかだ》を利用する者と、機舟を利用する者とにわかれた。機舟は問題はないが、竹の筏は苦労せねばならなかった。ビルマの竹は、日本の竹と違って、数十本の竹が束になって密集して生えている。竹は細くて皮肉は厚い。従って竹の中の空気の量も少く、竹自身も重く、浮力に乏しい。浮力をつけるためには、竹の束を籐《とう》で結び合わせ、筏の上に茅《かや》の束を乗せたりするが、それでも浮力がつかぬので、兵隊は、水に入り、片手で筏をつかんで泳いだ。流速は二メートルほどで、濁流である。乾季だから、流水の部分は、二百メートル前後である。筏は長さ五メートル幅二メートルほどで、兵器や機材を優先して乗せる。対岸は低い崖《がけ》になっていたが、先行上陸した者は、竹筒に点《と》もした火を、上陸地点の標識とした。地質は砂地である。月はない。星明かりの下での行動である。
対岸に渡ってからは、川沿いの道をたどる。敵の斥候《せつこう》などが通った、けもの道のような細い道が、藪《やぶ》の中を縫って、曲折してつづいている。
隊伍《たいご》は、高橋中尉の第九中隊が先発し、西川大尉の第十二中隊につづいて、本多大隊長らの一隊がつづく。上陸して歩み出せば、たちまち密林行となる。
「大隊長殿、全員無事渡河を完了しました」
渡河の世話係を命じられていた本部付の平田准尉《じゆんい》が、本多大隊長の位置に追いついてきて、報告する。本多大隊長は、渡河の前に、全員に、
「任務はきびしいが、可能の限り犠牲者を出したくない。各自助け合って、全員山嶮《さんけん》踏破できるように心掛けたい。どうかがんばってくれ」
と訓示したが、その言葉つきにも、滋味があった。本多大隊長には、参謀の安易な玉砕主義に反撥《はんぱつ》する気分もあったろう。大隊長は気質のあたたかな部下思いの人だ――という大隊長への評価は、赴任後わずかな日数のうちに、隊員にしみわたっている。前途不安な作戦に向かう隊員としては、統率者の人格と能力には、なによりも関心を持つ。満足な兵要地誌もないままに、作戦が強行されるのである。
尖兵《せんぺい》の高橋隊は、数名に山刀を持たせ、行手をふさぐ雑木を薙《な》ぎ倒し、進路を啓開しながら進んでいる。あとにつづく牛馬の便宜を考えるのである。日本軍の進攻を敵は予知しているので、山間の道にも敵の警戒兵は出没するし、それらの敵への対応も考えて進まねばならない。
夜っぴて進軍し、夜が明け、さらに進む。
その日の十時ごろに、最初の負傷者が出た。
高橋隊の尖兵長をつとめた大村少尉が、敵の仕掛けた手榴弾《てりゆうだん》利用の地雷を踏んだのである。足に負傷している。地雷の爆発音に応じて、十名ほどの敵が前方から撃ってきたが、これは応戦しつつ撃退した。英軍は、山間を敏捷《びんしよう》に歩くグルカ兵を使って、日本軍の前面に立たせるのである。グルカ兵はネパールの傭兵《ようへい》で、英軍はこれを巧みに懐柔して使ってきた。グルカ兵は山歩きの得意な剽悍《ひようかん》な兵である。
山間に、敵の分哨《ぶんしよう》の置かれたらしい小屋があり、そこで本多大隊長は昼食を摂《と》っている。
「われわれは、インドの独立のためにも戦っているのですから、グルカも本来、われわれの味方になるべきでしょう」
車座の中で、丸山副官が、いう。尖兵長を負傷させた詫《わ》びと、前進方向の打ち合わせのために、高橋中尉も、その車座の中にまじっている。
「敵は、この先の道を右に逃げましたが、右へ進むと、やがて烈の作戦区域にぶつかります。左の道をとって、アンゴーチンを越えますか」
高橋中尉の質問に、本多大隊長は即座に、そうしよう、と同意する。左正面には、のしかかるような峻嶮《しゆんけん》、アンゴーチン山の山肌《やまはだ》がみえる。密林を抜け、その先は岩山の、頂上近くの道を進むことになる。海抜千五百メートルほどの、片側は樹木の生い茂る、断崖《だんがい》の上の道である。つまり、山を横断することになる。
この道は、予想をはるかに絶した難路で、山を越えるのに、挺進隊は三日を要している。一日平均八キロ、岩肌にへばりついて辿《たど》るに似た、一列縦隊の行軍である。しかも、牛馬の世話をしながらである。
牛には、渡河の時から骨を折らされた。高橋隊は機舟、西川隊は筏、というふうにわかれて渡河したが、牛は機舟には乗れないので、舟にくくりつけて渡河させたが、十頭のうち二頭は溺死《できし》している。馬なら泳ぐが、牛は、舟につなぐより方法はなかったのだ。渡河を終えて進むにしても、速度はのろい。松明《たいまつ》で牛の尻《しり》(尾のつけ根)を焼くと、熱いのでいくらか速度は早まる。疲れると前肢《まえあし》を折って寝込んでしまう。急坂になると、さらに歩き悩む。
高橋隊の第四小隊長の速水少尉は、中隊の牛係で、牛を追うのに苦労したが、大村少尉が負傷した時、状況がきびしくなったとみて、本多大隊長に申し出て、牛を本隊に任せて、自分は小隊を率いて追及した。速水隊は二十五名、軽機関銃三梃を有していた。
挺進隊は、アンゴーチンの山道にかかってからは、岩肌の道がすべりやすく、それが進行速度にひびいた。山中には竹が生えている。眼下は谷が深く、底はみえない。水を補給するためには、三百メートルくらい下ると、谷間を流れる水を得ることもできた。そうした難行軍である。
進路上に残された、高橋隊の通信紙に書かれた連絡文をみると、三日目には、高橋隊は、本隊よりも五時間ほども、先行していた。
渡河からの四日目、三月十九日の十時を少し過ぎたころ、高橋隊の第一小隊長藤田少尉が、出発に手間どっている本部の位置へ駈《か》けつけてきて、
「大隊長殿、高橋中隊長以下十七名が戦死しました。負傷者は目下調査中であります」
と、報告している。敵の待ち伏せに遭い、包囲されて苦戦に陥《おちい》った、と、藤田少尉は簡略に事情をいい添える。
本多大隊長は、愕然《がくぜん》としたまま、言葉もなかった。本多大隊長は、あとは丸山副官に任せ、平田准尉ほか本部の兵隊若干名を率いて、急行している。
急ぎに急いで、三時間後に、交戦地区に到《いた》り着いてみると、道路上の片隅《かたすみ》に、戦死者が、中隊長をはさんで十七名並べられていた。まわりに負傷者も多く、苦痛を訴える声もあちこちにきこえる。第二小隊長松浦少尉、第三小隊長宮部少尉が、事情を説明する。このあたりは、道路が舗装されてよくなっている。道幅も広い。トラックも通れる。敵地区に踏み入ってから、道路はよくなったのだ。その代り、敵の防備態勢も整っていて、強力なグルカ兵が、日本軍を待ち伏せていたのである。
この作戦のはじまる前に、本多大隊長は師団司令部で、
「進攻の安全と効果を期するため、ぜひ将校斥候による事前の索敵が必要です」
といって進言したが、うけ入れられなかった。理由は「企図秘匿《ひとく》のため」である。しかし、企図は、敵側はとうに察している。本多大隊長の実戦体験からいえば、具体的な戦術こそが、企図を成功させる第一の条件だったのである。
尖兵中隊は、比較的軽装で先行するが、本隊は、予想外の行路難に妨げられ、五時間もの距離を置いてしまったため、高橋隊は、応援も得られず、不運に、敵の急襲にさらされたのである。
高橋中隊長戦死のいきさつについて、本多大隊長は、松浦少尉、宮部少尉から事情をきいたが、高橋隊は前夜、谷へ下りて野営をしている。高橋中隊長は、隊伍を停《と》めると必ず斥候を出す、という。しっかりした用心深い行軍をつづけてきたので、谷間でも、付近の様子を充分にさぐらせ、異常のないことを確認して大休止に入った。
夜が明け、出発になり、五百メートルほど山脚をたどると、稜線《りようせん》上の道に出た。三百メートルほど進んだ時、前方で二発銃声がした。このあたりに集落はない。道路は舗装されていたが、右手に細い脇道《わきみち》があり、両側が山になってい、前方に小屋が一つみえた。敵はその小屋の付近にいて発砲したもの、と、中隊長はみた。中隊長は、指揮班に、
「装具を下ろせ、走るぞ」
といって、先に立ち、指揮班二十名ほどを率いて、前方の小屋の方向へ走った。中隊長は、敵の分哨を攻めとる意図を持ったのだろう。勇敢な気質の人である。それで、まっしぐらに、突進した。
突撃は、第一小隊、指揮班、第二、第三小隊の順序だったが、中隊が走り出すと、両側の山から手榴弾が猛烈に投げ込まれ、あわせて前方からも激しく撃ってきた。分哨どころか、かなりの数の敵が、待機していたのである。
「谷間で、インデアンに挟撃《きようげき》されるように、弾丸にさらされました。めまぐるしく手榴弾が落ちてきました。敵は山上に陣地をつくっていました。指揮班の先頭は陣地の下を走りぬけて、前方の小屋にいる敵を駆逐し、逃げる敵を追いましたが、山上の敵は頑強《がんきよう》に抵抗しました。自分は、ふとみると、どこにも中隊長の姿がないし、声もきこえません。中隊長はどうした、と、あたりに声をかけましたが、その時にはすでに戦死されていたのです。手榴弾の直撃で即死でした。これもあとでわかったことです。われわれは、小屋に手榴弾をぶち込んで燃やし、小屋の脇にあった装甲車を焼きました。山上の敵は、前面へ下りて来てわれわれに抗戦し、約二時間後に逃走しましたが、この戦闘間に十七名の死者を出しました。われわれが遺体の処理をしている時、敵の戦闘機が一機飛来しましたが、偵察《ていさつ》に来たのか、そのまま旋回して去りました。これで敵は、日本軍の進攻の身近なことを知り、充分な防禦《ぼうぎよ》態勢を整えるであろうと思われます」
宮部少尉は、沈痛な表情で、本多大隊長に委細を報告している。
まだ、目的地にほど遠い地点で、多大の犠牲を生んだのである。痛手に耐えて、先を急がねばならなかった。しかし、大隊主力は難渋しているとみえて、待ちわびているのに後続が来ない。夜になって、ようやく機関銃隊が到着したが、大隊砲や聯隊砲の消息はつかめない。機関銃隊の兵隊たちも、上衣は血と泥《どろ》に汚れ切っている。悪路を、匍《は》うようにして登ってきたからである。機関銃隊がこの様子なら、砲隊の苦労は、さらにそれに倍加するだろう。果たして、待てども、砲隊は到着しなかった。
翌二十日の午後、進路上のはるか前方で、機関銃の発射音が数分間つづいている。
「松村部隊(歩兵第六十聯隊)は、すでにカムジョン付近へ出ているのではないか。挺進隊があとにつくようでは、どうしようもないぞ」
隊伍が整わず、動くに動けぬ本多大隊長は、道際《みちぎわ》に立って、前方をみつめながら、傍《かたわ》らの丸山副官にいう。カムジョンは、二十キロほど前方になる。
「内堀大隊(歩兵第六十聯隊第二大隊)が先行していると思いますが、将校斥候を出して調べます」
丸山副官は、ただちにその手配をする。
その将校斥候の報告が、内堀大隊が先行している、という状況を伝えたあとも、なお、砲隊は到着して来なかった。歩兵砲の中里小隊が到着したのは、その日の夜更《よふ》けになってからである。
本多大隊長は、その夜も、高橋中隊長らの遺体とともに枕《まくら》を並べて仮眠し、星を仰ぎながら、果たして緒戦の任務を遂げ得るのかどうかを疑うた。死者を葬《ほうむ》り、負傷者を後送させ、あとは文字通り、必死懸命の挺進行をつづけねばならぬ。
高橋隊が大きな痛手を受けたあたりは、集落はないが、地名はラカンクーマンと呼ばれていた。挺進隊が、このラカンクーマンを出発出来たのは、翌二十一日の早朝である。
本多大隊長は、何よりも先を急ぐため、糧秣《りようまつ》、弾薬の携行量を半減し、兵装を軽減し、行動に便ならしめた。ラカンクーマンには、野戦病院を設置してもらう手はずもととのえた。高橋隊は、藤田少尉が代って指揮をとる。
挺進隊と松村部隊は、渡河地点は別だが、山系へ分け入ったあと、それぞれのコースをたどりながら、カムジョンという小集落のあたりで、合流してしまうことになる。つまり、山系内の、峻嶮をたどりながらの道が、インパール=コヒマ道方向への、主道路へ到達してゆくのである。松村部隊本部は、渡河後、左突進隊(内堀大隊)の後方をたどって、ほぼ主道路に沿いながら進路を開拓しつつ北進し、フミネ、チャサット、カムジョンへ向かう(付図4参照)。
本多挺進隊は、松村部隊本部より北方を北進、さらに西進している時、先発の高橋隊はラカンクーマンで、多大の出血を強《し》いられることになった。本多挺進隊は、カムジョンのあたりで、主道路を西進してくる松村部隊本部と、本部に追随する予備隊(軍旗中隊)、通信中隊、歩兵砲中隊らと合流し、しばらくは同方向へ進むことになる。そうして、松村部隊本部はサンジャック方向へ、本多挺進隊はミッション方向へと別れ別れになってゆく。
本多挺進隊が、急行して、カムジョンに達した時、松村部隊本部はすでに、カムジョンに達していた。高橋隊の事故に時間をとられていた間に、左突進隊の内堀大隊も、松村部隊本部各隊も、先行してしまっていたのである。
松村部隊長は、本多挺進隊がカムジョンに達した時は、敵兵舎の中で、昼食を摂っていた。カムジョンには茅葺《かやぶき》の敵兵舎がいくつかある。ここで大休止だったのだ。
本多大尉は、松村部隊長の所在をさがして、兵舎を訪ね、挨拶《あいさつ》をし、目的地に向かって急行しつつある旨《むね》を話した。松村部隊長は、
「われわれは、福島大隊(第三大隊)を待っている。福島大隊の上陸地点はとくに密林が深くて、ぬけ出るのに骨を折っているらしい。貴隊も、充分気をつけて、前進していただきたい。ご武運を祈る」
と、励ましてくれている。
挺進隊は、急行をつづけたが、すると、左方のサンジャック方向で、銃砲声の轟《とどろ》くのがきこえた。烈兵団の宮崎支隊が、サンジャックの北方を通過して、コヒマ=インパール道へ向かっているはずだし、密林を抜け切った福島大隊もまた、サンジャック方向へ進攻して行くのである。福島大隊が、松村聯隊長のいわれるよう、行動が遅滞しているとすれば、サンジャック方面の銃砲声は、どこの部隊が戦っているのだろう? 宮崎支隊であろうか? いずれにしろ、友軍の健闘を祈りながらに、挺進隊は進んでいる。
このあたりの道路は、トラックの通れる良道である。西側はジャングルである。ただ、松村部隊の牛馬に先行されてしまったので、隊伍が道幅いっぱいにひろがってい、その脇《わき》をすり抜けて進まねばならない。道はよくても、ジャングルの底だから、非常に暗い。挺進隊は、牛馬にぶつかり、休息している兵隊の足を踏んでどなられながら、ともかく急ぎに急いだ。そのうちに日が暮れたが、休まずに進む。先行している松村部隊を抜き、挺進隊らしく、先行しなければならない。
夜の明けたころ、ようやく松村部隊を追い抜く。このころはジャングルも疎林《そりん》となり、岩山がつづき、その間を縫って進む。サンジャックが近くなったので、銃砲声がすさまじさを加えて、きこえてくる。よほどの激戦をしているように思える。
山道の角の、サンジャック方向が望見できる場所に立って、本多大隊長は、様子をみるために双眼鏡をあてる。サンジャックの山上陣地を包囲している日本軍に向けて、敵機が数機、急降下して銃撃をくり返している。山上陣地には、輸送機が物資を送り込んでいる。その様がはっきりみえる。赤、白に落下傘《らつかさん》で色わけされた荷が、陣地の上に舞い下りてゆく。それをしばらく眺《なが》めて、先を急ぐ。サンジャックとは反対になる道を進んでゆくと、ジャングルの蔭《かげ》に、烈兵団の一部が待機していた。
「こら、目立たんように歩かんか。敵機が来るぞ」
と、烈の兵隊が、挺進隊《ていしんたい》の先頭に向けて叫ぶ。あわてて、隊伍がジャングルの中に身を隠すと、どこでみていたのか、敵機が二機、上空に飛来して来て、銃爆撃をくり返して、去ってゆく。
「いよいよ前線です。日中の行軍はむつかしくなりました。自分は、サンジャックの様子をみてきます」
丸山副官はそういい、二、三の兵隊を連れて、激戦をくり返しているサンジャックの方向へ、出発して行った。
本多大隊長は、部下を、ジャングルの木蔭に入れて、憩《やす》ませている。不眠不休の旅だったし、夜行軍に移る前に、休ませたいのである。
日が暮れ、星が輝きはじめても、サンジャックの銃砲声はやまない。照明弾がしきりにあがり、すると、銃砲声がさらにかまびすしくなる。
日が暮れ切ったころ、丸山副官がもどってきた。
「サンジャックの丘陵上の敵の陣地は、非常に堅固です。烈の宮崎支隊は、攻めあぐねて、死傷続出し、兵数は半減しているといいます。サンジャックは、本来祭の通るコース上にありますが、福島大隊の遅れのため、烈が攻めたのです。まさか、これほど強固な抵抗に遭おうとは思わなかったのでしょう」
丸山副官の、ことさら沈痛な口ぶりには、緒戦からこのようなきびしい状況では、前途はさらにきびしかろう、という、懸念《けねん》が掠《かす》めているのがわかる。緊張感に責められているのであろう。
「烈の健闘を祈って、われわれはウクルルへ向けて出発しよう」
本多大隊長は、そういう。
東北へ、四十キロで、ウクルルに達する。ここから烈は北へ進んでコヒマへ、本多挺進隊は西進して、さらに山を越えて、ミッションへ向かう。烈の宮崎支隊は、ウクルルへ向かうつもりが、サンジャックの敵を放置できず、これを初陣《ういじん》の血祭りにしてゆくつもりだったのが、事志と反して、苦戦に陥ったということになるのだろう。
挺進隊は、ウクルルには夜明けに着いたが、洋風の建物が数軒あるきりの、ごく小さな村である。この作戦のために支給された地図は、英軍の地図を参照作製したもので、日本軍が調査したものではない。ウクルルにしても、地図でみれば一個の町に思えるが、実際は寥々《りようりよう》とした山間の集落でしかない。挺進隊のミッションへの進路にしても、明確な地図上の道をたどるわけではない。はっきりいえば、ウクルルからは、半ばはカンによって、山中を縫い進むのである。たぶんこの方向だ――という、あやうげな方向づけで進む。従って、行手が断崖になっていて、迂回《うかい》を余儀なくされたりする。
挺進隊は、ウクルルを出て山越えの道をたどりながら、谷間へ下りた時に、休息している。後続の砲隊を待つためである。谷間は深かったが、それでもサンジャック方面での銃砲声は、不気味に天の一方を揺るがせていた。
三月二十五日の早朝に、谷底を出て、山間の道を進んだ挺進隊は、地図にも名のない小さな集落を過ぎた。ここには十数戸の家があり、住民が十数人、道脇にいて、隊伍を見守っていた。その中から、青年が一人出て来て、手に持っていたタバコを、先頭にいた本多大隊長に差し出し、
「ギブ、ユウ、シガレット、シガレット」
といって、笑いかけてくる。
本多大隊長は、その青年に近づき、相手の片言《かたこと》に合わせて、こちらも片言で礼をいい、もらったタバコを喫《の》み、それを身辺の部下にも廻《まわ》した。本多大隊長が、ミッションへの道をきくと、西の方向を指さして、山を二つ越えねばならない、と、手真似《てまね》で教えてくれる。
挺進隊は、住民たちに礼をいって別れる。
「隊長殿、かれらは日本軍に、好意を持っておりますね。顔をみても、よくわかります」
丸山副官がいう。その通りである。圧迫と蔑視《べつし》と搾取《さくしゆ》のほか経験したことのないかれらの前に、はじめて救世的な軍隊の出現したことを、かれらは素朴《そぼく》に歓迎してくれているに違いないのである。
西進をつづけていると、海抜は高いが、水田のある地域があり、川幅五メートルくらいの川が流れている。乾季なので、水田に水はない。川の水はなぜか白濁している。地図でみると、挺進隊はいまイリル河谷をたどっていることになる。するとこの川はイリル河であろう。イリル河は、南流してインパール河に合流し、インパール河はインパール盆地へ流れ込む。
「ここからインパールへは、直線距離で六十キロあるかないかだ。コヒマ道へ出て、一気に南下出来たとすれば、六十キロでインパールに入城する」
河畔で、本多大隊長が、まわりの部下を見まわしていうと、
「ミッション橋を爆破して、コヒマ街道を封鎖すれば、インパールへの突入は可能ですね」
と、だれもが口々にいう。
「このあたりで休養して、あとは夜行軍で進もう」
本多大隊長は、大休止を命じる。
川へ向けて、数名の兵隊が小便をしている。
「お前たちの小便は、この川の水とともに、一足先にインパール盆地へ突入するわけだ」
そんな冗談をいいながら、平田准尉《じゆんい》も、兵隊たちと並んで、川へ小便をしている。
インパールは近い。わずかに六十キロである。たしかに、インパール盆地の風の匂《にお》いまでが漂って来そうな、それほど、インパールは身近に感じられたのである。
夜になって、夜行軍に移り、明けると、休養し、夜になると、進む。山間の道は、岩石まじりの、夜行軍にはきわめてつらい悪路だったが、挺進隊は、漆黒の闇《やみ》の中を突き進んでいる。闇の山路をたどりながら、行手にひらめく、しきりない稲妻をみたのは、この時である。
「稲妻が多いですね。山向うのアッサム平原は雷雨が多いのでしょうか」
丸山副官がいうよう、コヒマ=インパール道を往来する英軍のトラックのヘッドライトを、たれもが、稲妻とみたのである。
そうして、三月二十七日の朝、挺進隊は遂に、インパール=コヒマ道を眼下に見、二つの橋梁《きようりよう》の架かる、ミッションの集落をも、感慨深く見入ることになったのだ。
南のインパールと北のコヒマを、日本の地勢にたとえれば、インパールを名古屋とすれば、コヒマは飛騨高山《ひだたかやま》にあたる。それくらいの距離がある。その中間に、ミッションの集落と、インパール河に架かる橋が二つある。
ミッションは、目立つ建物といえば、赤煉瓦《あかれんが》の屋根に白壁の、尖塔《せんとう》のある、教会らしい建物一軒きりで、あとは広場に、アンペラ造りの急造兵舎が、四、五棟あるに過ぎない。ずっと奥に倉庫らしい建物がみえる。裸の兵隊が動きまわり、トラックが時折出入りする。挺進隊の布陣する山脈には、灌木《かんぼく》が生えているきりだが、山を下るにつれて、芽を吹きはじめた雑木が多くなり、遮蔽物《しやへいぶつ》となる。
ミッションを眼下にした位置に到着した時、本多大隊長は、はじめて、師団司令部に無電を入れて、状況報告をした。高橋中隊長以下の戦死以来、故意に司令部への送信を絶っていたのだ。戦略のみあって戦術を知らぬ司令部に、一挺進隊長としての抵抗があったのだ。司令部では、むろん挺進隊の安否を気遣うていたから、連絡を受けると大いに喜び、挺進隊の労を犒《ねぎら》うとともに、
“二十七日夜、コヒマ道遮断任務を決行すべし”
という、命令を発している。
いくら命令が出ても、工兵隊が到着しなければ、実行はできない。工兵隊は機材運搬があるから、先行部隊のようにはいかない。
音川工兵小隊は、二十八日の夕刻に到着した。それで、橋梁爆破は、その日の夜半に決行することになった。橋梁は、爆破するだけではない。橋梁修復に躍起となるに違いない敵に対し、その妨害を、可能の限り長期にわたって、継続しなければならない。
本多大隊長は、爆破決行を二十四時ときめ、西川隊(第十二中隊)が援護する。爆破と同時に、西川隊は、全力をもって、ミッションに駐留する敵を疾風迅雷に殲滅《せんめつ》し、その地に陣地を構築する。本隊は第二陣地まで下がって、ここに拠《よ》って、西川隊に呼応して、敵と交戦する。
本隊が布陣する第二陣地は、コヒマ街道へ向けて、草地を下り、さらに疎林のつづく一帯を利用して構築される。ミッション橋梁は、ミッションの集落をはさむようにして架けられている。つまり、二つの支流が、ミッション集落をはさんで流れ、コヒマ街道を横切っているのである。
日没を待って、西川隊は、音川工兵小隊を伴って、山上の第一陣地を出発している。
「しっかりやってくれ、頼むぞ」
本多大隊長の励ましの声に、
「大丈夫です。全力を尽くします」
という、音川中尉の力強い声が返ってくる。
機関銃隊は陣地の守備につく。コヒマ道沿いの南北一キロにわたっての地点に、一個分隊ずつが派遣される。橋梁爆破と同時に、いっせいに、大木や岩石を街道上に落とし、動きを失った敵のトラック群を攻撃して、これを捕捉《ほそく》する。あわせて、南北から反撃してくる敵を防ぐのである。
音川工兵小隊は、三十キロの爆薬を運んで来ている。切れ目のない敵のトラック、ヘッドライトの列。この間隙《かんげき》を縫って、橋梁爆破の位置に、もぐり込まねばならない。作業も敏速に進めねばならない。
爆破は二十四時だが、その爆破の少し前に、北方で激しい機銃音がきこえた。敵が撃ってきている。おそらく、妨害行動をするために派遣された分隊が、敵のヘッドライトにうつし出されて、発見されたのであろう。交通妨害は、道路の両側にわかれて行うのが効果的なので、何人かが道路を横切る時に、その人影をあやしまれたのかしれない。
もしそうだとすれば、橋梁付近の警戒が、厳重になってくるのではないか。
「状況が緊迫してきました。威嚇《いかく》射撃とは思いますが」
発砲しつつ、眼下のミッション橋を渡ってゆくトラックに向けて、丸山副官がいう。藤田少尉、田辺中尉、平田准尉など、だれもが本多大隊長のまわりに、緊張した顔をあつめる。
あたりは、星あかりだけである。
その後は、銃声はきこえない。
刻々と、時だけが過ぎてゆく。
本多大隊長以下、だれもが全身を耳にして待ったが、二十四時に至っても、爆破音はあがらない。
「警戒が厳重で、作業が捗《はかど》らないのでしょう」
「五分経過しました」
「連絡がないから、作業は続行しておるのでしょう」
そんな声々が、本多大隊長をとりまく。
午前零時を十分過ぎようとしている。
まだ、爆破の火柱はあがらない。
十分を過ぎる。
その時、あたりを揺るがせて、すさまじい火柱が天に冲《ちゆう》した。
「やった。大隊長殿、みごとに成功です」
わあっ、という声があがる。
ところが、爆破されたはずの南の橋梁上を、敵のトラックは、なおも走りぬけてゆく。橋梁が半ばねじ曲がっている状態は、ヘッドライトの明かりでわかる。おそらく爆薬の量の不足のため、完全な爆破の効果が挙がらなかったのだろう。トラックは、橋梁の手前で速度をゆるめはするが、差障なく渡ってゆく。
つづいて、北側の橋梁が爆破され、火柱があがった。しかし、北側の橋梁もまた、敵のトラックの通過を許している。
「失敗したか、無念だ。何とかならぬか。十字鍬《じゆうじしゆう》ででも叩《たた》きこわしてほしいところだ」
本多大隊長がいうと、丸山副官は、
「西川隊がミッションに突入したようです」
と、いう。西川隊は、たとえ橋梁爆破が成功せずとも、ミッションに集結している敵を、殲滅する任務は果たしたいのだろう。ミッションの集落で、激しい銃声が交錯しているが、西川隊は突入して、敵陣地を制覇《せいは》したのであろう。そのあたりの銃声はやむ。
その時、二つの橋梁が、ほとんど同時に、再び、大きな火柱を、天に噴きあげた。みると、今度は、橋桁《はしげた》が崩れて、川へ向けて落ちてゆくのがわかった。完全に爆破が奏功したのである。
「やった。橋が二つとも落ちた」
陣地では、再び叫びがあがる。
橋梁上を渡りかけていたトラックが、橋桁もろともに、川へ転落してゆくさまも、挺進隊はみとどけたのである。
山中踏破の苦しみ、多くの犠牲を払いながらも、ともかく挺進隊の任務は果たしたことになる。本多大隊長は、胸にあふれる思いに耐えて、音川小隊の帰隊を待った。
一時間ほどして、音川小隊が帰ってきた。
「ご苦労、ご苦労。よくやってくれた。音川中尉、ほんとによくやってくれた」
本多大隊長は、音川中尉の報告をきき終わるなり、その肩を抱いてゆすぶり、感激をこめて、賞讃《しようさん》する。
音川中尉は、緊張があまりに大きかったのだろう、かえって静かに落ちついていて、委細を本多大隊長に報告する。
「あの橋は、実に頑丈《がんじよう》な鉄の橋桁で、それに橋桁がいくつにもわかれていて、そのため、最初は失敗しました。橋の長さは、どちらも五十メートルあります。爆薬は、命令では三十キロ携行せよとのことでしたが、無理をして四十キロ携行しました。はじめ三十キロで失敗しましたので、あとは残りの十キロと、アンパン(破甲爆雷)を併用して、ともかく任務を完了いたしました」
報告をつづけているうちに、音川中尉の声に、こみあげてくる感動のためか、ふるえがこもる。
「高橋中隊長以下十七名の戦死も、無駄《むだ》ではなかった。かれらの霊も喜んでくれているだろう」
本多大隊長は、まわりにいる部下たちに向けてそういったが、つづけて、
「戦いはこれからである。みなで、がんばっていこう。明日からは必死の反撃が来るぞ」
と、全員に、覚悟をうながしている。
第一陣地から、コヒマ道までは、七百メートルほどある。陣地の下は急斜面になるから、すぐ真下に道路がみえるのだ。
西川隊からも、連絡がきた。
西川隊は、敵陣地を急襲したため、軽微な損傷を受けたにとどまった。敵の補給所の倉庫をおさえたので、西川隊が明け方に第一陣地に引き揚げて来た時は、戦利品の罐詰《かんづめ》類などを、しっかりと持参してきた。
三月二十九日の黎明《れいめい》が訪れてくると、敵の偵察機《ていさつき》が二機、上空に飛来し、ジャングルへの機銃掃射をくり返しながら、やがて去って行った。挺進隊は、陣地をよく整備していたので、敵機による被害はなかった。
九時ごろ、インパール方向から、数輛《すうりよう》の車が北上してきた。
「装甲車です。原田隊が撃たせてくれ、といっております」
平田准尉が、連絡してくる。
本多大隊長は、機関銃隊のみならず、大隊砲の由里小隊にも応戦を命じる。
機関銃と、大隊砲の攻撃によって、敵の装甲車隊は、運転を誤って崖《がけ》から転落した車を残して、元来た方向へ逃走して行く。
この戦闘の終わったころ、秋山中尉の指揮する聯隊砲《れんたいほう》、速射砲各一門が到着した。本多大隊長は、速射砲を第一陣地に、聯隊砲を第二陣地へ配備する。砲隊は、街道上の要所へ試射を行い、敵の反撃を迎え撃つべき態勢を、しっかりと整えている。
師団司令部からは、インパール=コヒマ道遮断成功を祝う電報が届いた。
「師団からの電文によると、敵の司令部は、日本軍の有力部隊が、コヒマ道を遮断したと思っているらしい。用心して、うっかりは攻めて来んかもしれん」
本多大隊長は、本部の幹部たちにそういったが、その言葉通り、街道は、無人のまま、ひっそりとしてしまっている。あれほどトラックが通っていたのに、嘘《うそ》のように静かだ。それでも、事情をよく知らぬトラックが時々来たが、橋のところで停まると、こちらが射撃する。すると、運転者は、車を棄《す》てて逃げ去ってゆく。
しかし、はるかなインパール方面の上空へは、大型輸送機がしきりに通うようになった。物量の空輸に狂奔しているさまが読める。いよいよ戦機のみなぎりつつあるのが、肌《はだ》で感じとれる。
インパール=コヒマ道の遮断の成功によって、挺進隊は、敵の車輛類四十輛を捕獲していた。これを師団の輜重隊《しちようたい》に引渡し、挺進隊はミッション橋梁爆破の大任を完了し、その後は師団の直轄《ちよつかつ》を離れて、松村部隊(歩兵第六十聯隊)の指揮下に入ることになった。
敵が、どのような行動に出て来るのか、その判断のつかぬまま、二日、三日と過ぎた。
ある日、丸山副官が、本多大隊長にいった。
「兵隊は、おかげで、休養がとれましたが、身体《からだ》のだるさを訴えている者が、ふえております。強行軍の疲れが出たのかと思いますが、そうでもなく、軍医は、栄養の欠如からくる、脚気《かつけ》の症状だろう、と診断しております。ビタミンの不足でしょう。渡河以来、すでに半月余りを過ぎています。軍は、二十五日間で、インパールを占《と》る計画だったのですが」
前途は多難のようです――と、その言葉までは、副官は口に出さない。本多大隊長にも、わかっていることである。
インパールには、日々、すさまじく物量の補給がつづいている。しかし、挺進隊が携行した十日分の食糧は、すでに尽きている。
ほかの部隊も、あるいは、同様の状態にあるのではないだろうか。
二、サンジャックの戦い
――その時。
三月二十三日の午前。
福島大隊(歩兵第六十聯隊《れんたい》第三大隊)の本部付の高畑中尉《ちゆうい》は、二名一組ずつの長い縦列にまじって、カムジョンからサンジャックの方向への、山間の道を急いでいた。二名一組というのは、敵機の攻撃を警戒するためである。
道路は幅三メートル弱で、右は山肌《やまはだ》、左は深い谷になっている。赤土を露出した道路は、曲り曲りに山道を辿《たど》ってゆく。蒼天《そうてん》の下、遠くに山脈がみえ、空気はまことに快いが、緊張感は刻々に増してくる。チンドウィンを渡河して、すでに八日目になる。昨夜来、夜闇《よやみ》の中を轟《とどろ》いてくる、進行方向からの銃砲声をきいている。
「爆音、爆音、敵機」
前方で、叫ぶ声がきこえ、高畑中尉は直ちに、
「右へ逃げよ」
と、指示する。左は急傾斜の崖《がけ》だが、右は、低い崖に樹木や竹が生えている。高畑中尉も、右手の樹木の蔭《かげ》に飛び込む。その奥に、大隊長の福島少佐の顔がみえた。
じきに、左手から、スピットファイヤ二機が飛来し、山脚の道を辿る隊列に向けて、銃爆撃をはじめる。敵機は、物蔭にひそむ隊伍《たいご》をみつけたいために、大胆に近接降下をする。搭乗者《とうじようしや》の頸《くび》に巻く白いマフラまでみえる。敵機はしかし、二十分間ほど、事務的な銃爆撃をくり返すと、飛び去ってゆく。
「大隊長殿、終わったようです、出発します」
高畑中尉が、大隊長に声をかけた時、連絡兵が一人、大隊本部の位置をさがし求めてきた。尖兵《せんぺい》中隊として出ている石川隊(第十一中隊)からの連絡兵で、彼は報告する。
「石川隊は前方の稜線《りようせん》を占領しました。西方のサンジャックの高地上には、数門の砲を有する有力な敵の陣地があり、烈兵団の一部がこれを攻撃中の模様です。中隊は、稜線上で敵の集中砲撃を受け、若干の負傷者を出しております」
高畑中尉は、後方の聯隊本部に、無線で事情を連絡させる。折返し、命令が打電されてきた。
“福島大隊(第九中隊欠、砲兵隊、工兵隊の一部配属)は、サンジャック付近の敵陣地を攻撃すべし”
高畑中尉は、命令を伝達し、大隊はそこから数キロ前進して、石川隊の占領している稜線にまで達した(隊伍は長い縦列となっていたし、駄馬《だば》や牛を曳《ひ》いていたから、大隊がほぼ集結し終えたのは、夜になってからである)。
稜線上からみると、西方約二キロの高地上に敵の陣地がある。高地は傾斜はかなり急で、山肌を二百メートルほどのぼりつめると、高地上に達する。高畑中尉の、双眼鏡による推察だが、山肌の上部には無数の銃眼があるから、よほど堅固に陣地が築かれているらしかった。壕《ごう》を掘りめぐらしてあるのだろう。蜂《はち》の巣のように銃眼で固めた陣地。その高地上に敵兵の姿がしきりに隠見する。高畑中尉は、日のあるうちに、こうした情況を視認している。
稜線上から、福島大隊が敵陣地へ進出して行こうとする方向には、密林に蔽《おお》われた地帯があり、その密林帯を抜けて、高地へ向かう一帯は、樹木は伐採され、鉄条網が幾重にも張られている。山脚にいたると、山上まで防衛線がつづく。そうして、敵は山上から、断続的に銃砲撃をくり返し、時に、石川隊の占領している稜線にも砲撃が来る。
敵の輸送機は、弾薬、糧秣《りようまつ》、水等を、サンジャックの山上陣地に投下している。青、赤、白のパラシュートで色分けされた投下物は、一日中、補給されている。
夜になると、烈兵団が夜襲を敢行しているらしく、彼我の銃砲声が轟き、山上陣地は全山が燃えているように火を噴いている。飛び交う曳光弾《えいこうだん》。絶え間なくあがる照明弾。無責任にみていれば、この上なく華麗な花火の風景だったが、現実にもどれば、いかにきびしい前途が待ち受けているか、ということである。
大隊は、その夜は行軍の疲れを憩《やす》めたが、翌二十四日には、高畑中尉の同僚である大隊本部情報班の浅井中尉が、部下三名を連れて、敵状と地形の偵察《ていさつ》に赴いている。浅井中尉は帰隊して来ると、敵のサンジャック陣地の防備が、尋常のものでないことを報告している。
東北方十二キロの、ウクルル方面で、一団の敵と遭遇した烈兵団の宮崎支隊は、この敵と交戦し、逃げる敵を追って、祭兵団の進路上にまで進出し、サンジャックの山上陣地へ逃げ込んだ敵を攻撃している、という。
「宮崎支隊は、勢いに任せて、サンジャックまで敵を追ったのですが、山上にたてこもられてしまうと、行きがかり上、これを屠《ほふ》らずにはいられなかったのでしょう。サンジャックは、われわれ祭の進路上の地点ですから、本来はわれわれが戦うべき敵です。われわれの進出が遅れたので、こういう仕儀になったといえましょう。サンジャック山上陣地の敵ですが、宮崎支隊に追われて逃げ込んだのと合わせて、千か二千の数が守備していると思います。烈は二十二日以来この陣地を攻めていますが、どうしても陥《お》ちず、当然、犠牲者が続出している模様です」
宮崎支隊は、宮崎繁三郎少将が指揮する、烈兵団(第三十一師団)の福永聯隊(歩兵第五十八聯隊)を基幹としている。北陸の精兵たちで、抜群の戦闘力を有している。この部隊を以《もつ》てしても、陣地が抜けないとすると、敵はよほどの防禦力《ぼうぎよりよく》を持っているということになる。
宮崎支隊が、悪戦している事情は、福島大隊にもわかっていたが、浅井中尉の報告には、生々しい現実感がある。
サンジャック――というのは、数戸の原住民の家がある程度の小さな集落だが、この集落に沿って、鍵状《かぎじよう》の山地があって、この山上を利用して、敵が堅固な陣地を構築しているのである。烈兵団は、主として西方から陣地を攻撃しているが、福島大隊は北方及び東方から攻撃することになる。内堀大隊(第二大隊)は、先行して、サンジャック高地の南方を扼《やく》することになる。
「日没を待って、前面に出て、烈と呼応して陣地を攻撃せよ、という命令が来ている」
福島大隊長は、まわりに集めた幹部将校や中隊長たちにそういい、二十四日の日没を期して、大隊の主力を前進させている。
稜線上を下り、湿地帯になっている谷間を過ぎ、さらに密林をぬけて、サンジャック陣地の前面、山脚部へたどりつくことになる。しかし、稜線上から双眼鏡でみるのと違って、実際に歩くと、相当に難渋する。密林帯は、一列縦隊になって、前の者を見失わないようにして進む。
密林帯をぬけると、傾斜が大きくなり、密生する灌木《かんぼく》につかまり、草の根をつかんでのぼる。夜陰を縫って、山上から銃弾が間断なく来る。銃弾が、プスプスと樹木にぶちあたる音がする。
大隊主力は、鉄条網が山脚を囲んでいる地点までは出たが、鉄条網を破らねば、先へは進めない。鉄条網は非常に堅固に張られている。山上陣地を攻撃するには、烈兵団との連携がなければ、同士討をする危険があり、それで大隊は、とりあえず、攻撃路をさぐるために、何組かの将校斥候、下士官斥候を出して、地形偵察を行うことにした。眼前の鉄条網は除かねばならない。
「工兵隊前へ、工兵隊前へ」
と、夜闇の中で、呼ぶ声がしきりにする。大隊の主力は、山脚に敵が掘った壕の中へ、もぐり込んで待機する。敵は夜襲を察知してか、地を掃くように万遍なく銃撃してくる。壕に身をひそめているしかない。苦戦を強《し》いられた烈の事情が、実感されてくる。
浅井中尉は、烈の事情を知りたいので、大隊長に相談して、部下数名を連れて、壕を出ている。星明かりで、物のあやめはわかる。まもなく、烈の位置をさぐりあてた。といっても、壕中で、休息している兵隊たちをみつけただけに過ぎない。その兵隊はいずれも、疲れ果てているかに思えた。二十二日以来の激戦つづきで、参っているのだろう。戦況は膠着《こうちやく》している。犠牲を多く出してきたことへの徒労感も手伝っているのだろう。呼びかけた時も、物憂《ものう》げな返事しか来なかった。
「君たちは烈だね。われわれは祭の福島大隊の者だが、ご苦労さま。戦闘はきびしいようだね」
声をかけると、そばにいた兵隊が、
「ここ三日間、物を食べておらぬのです。それで山を登るのはつらいことです」
と、いう。
「乾パンと水くらいなら、ここに手持ちがあるが、わけて食べてください」
浅井中尉は、そういって、部下の者たちのも合わせて、雑嚢《ざつのう》の中の乾パンなどを、身近にいる兵隊たちに与える。水筒も手渡す。
「すまんです。すまんです」
と、いいながら、かれらは、乾パンと水を分け合い、ここ三日間、激戦つづきで、いくら攻めても陥ちない、山上にのぼりつめても、機関銃の掃射で、みなやられてしまう、わずか十数名を残して全滅した中隊もあり、こんな状態で陥とせるかどうか心配です――などと、事情を話してくれる。
「ここは祭の進路上だから、われわれも攻撃に参加します。もっとも、支隊長閣下の許可を得ねばなりませんが。ともかく、がんばってください」
その時は、烈の兵隊たちを励ましただけで、浅井中尉は、大隊本部のいる壕へ、引き揚げてきている。
大隊長の位置には、高畑中尉(副官)、第十中隊長の宮沢中尉、第十一中隊長の石川中尉、第十二中隊長の山口中尉、軍医の前《まえ》中尉などが、顔を揃《そろ》えていた。
この状態では、日中はまったく行動できない。夜襲しかない。しかし、砲撃なら日中でも行うことができる――といった話題が語られていた。二十四日の夕刻に、山砲の東条中隊(第二十一野砲兵聯隊、四一式山砲二門)が到着している。
「夜明けとともに、山砲で、陣地攻撃をすることにしよう。砲撃なら、同士討の心配もないのだから」
大隊長は、そういっている。
翌二十五日の早朝には、敵の山上陣地から、二千五百メートル離れた台地上に布陣した大隊配属の東条中隊の砲撃がはじまった。東条砲兵中尉の指揮する山砲は、きわめて正確な弾着のもとに、山上陣地の蜂の巣の穴を、確実につぶしてゆく。ターン――と身の引き緊まる快音をたてて発射される山砲弾が、つぎつぎに山上陣地で炸裂《さくれつ》するのをみているのは、気分がよかった。
「みごとな砲撃だな。烈はまだ、聯隊砲も到着していないらしい。砲の到着を待って、山上陣地を砲撃し、それから総攻撃をかけるつもりだろう。東条中隊の砲撃は、烈の人たちを、大いに勇気づけるのではないか」
浅井中尉は、高畑中尉に、壕の中で、そう話しかけている。
数時間後に、烈の陣地から、山上陣地へ撃ち込む砲声がきこえてきた。砲兵が到着したのである。
二十五日の夜になって、福島大隊は陣を進め、敵の陣前二百メートルの地点にまで近接して、総攻撃の態勢を整えている。その夜は、膠着状態のままに過ぎたが、翌二十六日の明け方から、敵の銃爆撃が、一段ときびしくなった。壕中で、ほとんど身動きもできない。山上陣地に呼応して、ハリケーン戦闘機が何機も飛来して、銃爆撃をくり返し、山肌は、きれいに刈りとられたように、一本の樹木もなくなった。幹の太さが小指ほどの灌木まで、すべて薙《な》ぎ倒されている。銃弾は、豪雨を浴びるように壕中の将兵を襲い、土砂が濛々《もうもう》と壕へ降りそそぐ。
「中支では、いくらなんでも、これほど撃たれたことはなかったな。奴《やつ》らは、無尽蔵に弾丸が使えるから羨《うらや》ましい」
壕中で、大隊の者たちは、話し合う。
祭兵団は、昭和十三年四月に編成され、中支へ出動、歩兵第六十聯隊は、聯隊本部を南京《ナンキン》上流の蕪湖《ぶこ》に置いて、周辺に分屯《ぶんとん》している。爾後《じご》、昭和十八年四月中旬に、揚子江《ようすこう》岸を出発するまで、武漢作戦、宜昌作戦、江南作戦、浙東作戦、浙〓《せつかん》作戦など、多くの作戦に参加してきたから、銃砲声には馴《な》れているが、空中や山上から、これほどのまとめ撃ちを浴びたことはなかった。
この日は、東条中隊と、内堀大隊に続行して南のコウショウに進出した歩兵砲中隊(中隊長藪中大尉)の聯隊砲だけが、健在な砲撃を示しただけで、終わっている。いら立たしい、長い、苦しい一日が暮れたのである。
この日の夕刻、福島大隊長は、浅井中尉に命じている。
「われわれは、祭の名誉にかけても、明未明には、突撃を敢行したい。ただ、福永聯隊との同士討の危険があるから、福永聯隊長とじかに面接して、松村聯隊主力が、明二十七日未明に、全力をあげて山上へ突入することを伝えてもらいたい。福永聯隊はこれを了承されるとともに、同士討を避けるため、各隊の配置態勢を知らされたい、と、交渉してほしいのだ」
烈の、出血を惜しまない夜襲の反覆に加えて、二十五、六両日の、烈と祭の砲撃によって、敵の山上陣地も、相当の痛手と動揺はうけているはずである。攻撃するとすれば、二十七日の未明が最良の時期である。荏苒《じんぜん》と日を送れば、敵はまた、補給と陣地補修を重ねるであろう。
浅井中尉は、大隊長から命令を受ける時、大隊長が決然とした覚悟をきめていることを、その言辞のひびきの中にうけとった。このサンジャック山上陣地の攻撃は、この作戦の発起以来、松村部隊の最初の激戦になるだろう、と予想された。
松村部隊は、三月十五日、本多挺進隊《ていしんたい》の渡河地点よりずっと下流の、サバ付近で、チンドウィンを渡河している。浅井中尉は、渡河に先立って、尖兵中隊をつとめる第十二中隊長の山口中尉とともに、何度か、河を渡って、河の模様や、上陸地点の地形調査を行っている。山口中尉は、泳ぎのうまい矢部兵長を連れて三人で行動した。むろん、褌《ふんどし》ひとつの恰好《かつこう》で、万一に備えて、各自手榴弾《てりゆうだん》一個を衛生サックに包んで携行し、ほかに竹竿《たけざお》を一本ずつ用意した。竹竿は芯《しん》が抜いてあって、水に深くもぐり、これで息をしては、向こう岸へ渡った。もし敵の偵察隊に発見されたら、渡河が不能になる。それを警戒して、万全をつくしたのである。大隊長からも、企図の秘匿《ひとく》については、うるさく注意されていた。
渡河には、二時間かかっている。
渡河地点に対する、充分な調査を終えていたので、自信をもって、部隊の渡河の世話をすることができた。ただ、福島大隊は、上陸後、密林中で方向を見失ったため、遅れて、部隊本部に追随してくることになった。本部を抜いて先を急いだが、それでも、サンジャックに到着した時は、すでに宮崎支隊が山上陣地への攻撃をくり返していたのである。
(われわれが予定通り行軍していたら、われわれが先に、サンジャック陣地を攻めることになっていたかもしれない)
浅井中尉《ちゆうい》は、ある感慨を覚えながら、本部下士官ら五名を選んで率い、宮崎支隊本部のある位置へ、向かうことにした。福島大隊が布陣している位置から、西方へ一キロ余り離れて小高い丘がある。その蔭に宮崎支隊本部のあることがわかっていた。そこまでの道は、一望の草地で、岩石が露出している。
星明かりを頼りに、宮崎支隊本部へは、無事に着いた。
本部――といっても、山腹に天幕一つ張っただけのものである。天幕の中には、人影は少なかった。二、三の将校と、数名の兵隊がいるだけである。片隅《かたすみ》に、カンテラがひとつ点《とも》っている。
「祭の松村部隊から連絡のために参りました。浅井中尉です。どなたか、話をきいてください」
浅井中尉が声をかけると、天幕の中から将校が一人出て来て、
「ここには、われわれが留守をしておるだけです。部隊長殿も、支隊長閣下も、ここにはおられません。前線です」
と、無愛想にいう。
浅井中尉としては、任務は果たさぬわけにはいかない。それで、松村部隊は明未明に総攻撃をしたいこと、それについて、烈との作戦の混乱を生じさせぬよう、突撃の時間、方法、互いの陣地配備、合言葉などを打ち合わせておきたい、と伝えた。
「部隊長らは、ずっと前線に出ておりますから、連絡はつかぬと思います」
相手の将校は、抑揚のない、重い口調でいう。浅井中尉がきく。
「攻撃ですが、貴隊の攻撃計画は今夜ですか、明朝ですか」
「明未明です。部隊長は、通信隊と軍旗小隊を引率して行かれました。戦える者は、根こそぎ連れてです。しかも、軍旗は本部に預けられた。二十二日以来、死傷五百を数えます。明未明、占《と》れなければ玉砕のお覚悟でしょう」
浅井中尉は、息を呑《の》んだ。予想外に、きびしい戦況である。部隊長の心情が思いやられる。戦闘要員でない通信、軍旗小隊まで突撃に駆り出すというのは、たしかに最後の手段である。祭が、もし、これを坐視《ざし》して、攻撃を烈のみに任せるとしたら、おそらく、その恥辱を雪《そそ》ぐすべはないであろう。福永聯隊《れんたい》が攻撃をはじめたら、それに遅れず、こちらも呼応して攻撃するのが、友軍同士の儀礼であり、責任であるというものであろう。
「聯隊長殿に連絡がとれぬのでしたら、宮崎閣下と話させてくださいませんか。事は重大です。自分は一切の責任を委《まか》せられておるのです」
「そうですか。ちょっとお待ちください」
相手の将校は、天幕の中に引っ込み、連絡をとってくれた。浅井中尉は、招かれて天幕の中に入り、片隅の電話機を手にする。有線通信である。
受話器をとると、すぐに、
「貴様はだれか」
という、鋭い声がきこえた。緊張の状態そのままが、声に出ている。
「自分は松村部隊の連絡で参りました浅井中尉です。部隊は、明未明に突撃を敢行したいと思います。それについて、同士討を避けるためもありまして、具体的な打ち合わせを、お願いしに参ったのです」
「それは、要らんことだろう」
低い、投げ棄《す》てるような、つぶやきがひと声して、そのあと、はっきりといった。
「ご苦労だが、帰って、松村にいえ。武士のなさけ、というものがあるだろう。援助は要らぬ、といえ」
「松村部隊の攻撃を、見合わせろ、とおっしゃられるのですか」
「武士のなさけを知れ、といっておるのだ。福永は、本部に軍旗を預け、最後の手兵を連れて前線へ出た。わかるか。五八の名誉にかけて、敵陣を屠《ほふ》るつもりなのだ。すべては明朝にきまる。明朝、もし、敵陣地を占領しておらなんだら、おれや福永をはじめ、兵隊も全滅したと思え。そのあとは、お前らで、勝手にやれ」
「お待ちください。閣下、それは――」
と、浅井中尉がいいかけた時には、すでに、ガチャリ、と、電話は切れていた。完全に、一方的に、因果をふくめられたわけである。どうしようもない。
浅井中尉は、くぐまり込んだまま、少時、黙然としていた。こみあげてくる感情を、けんめいに抑制したのである。こみあげてくるのは、憤《いきどお》り、でもあり、より複雑な思いでもある。
相手になってくれた将校も、傍《かたわ》らに、無言で立っている。かれもまた、深刻な心情を支えかねているのだろう。
浅井中尉は、立つと、
「お世話をおかけしました」
と、相手にいって、あとをつづけた。
「連絡はだめでした。まるで、受けつけてくださらんのです。やむを得ませんので、このまま帰ります。われわれは適宜の処置をとりますが、こうして連絡に出向いて来たことだけは、ご承知を願いたいのです」
(自分ひとりで戦争をやっているつもりなのか。ここで玉砕したら、だれがコヒマを抑えるのだろう?)
ひとこと、それを問いたかった。
重い足どりのまま、浅井中尉は、夜闇《よやみ》の中を帰りはじめている。
浅井中尉は、大隊の位置へもどりながら、その時になって、つとめて抑制していた感情が、また、燃え立ってくるのを覚えた。
帰隊して報告するとすれば、
「烈の攻撃の終わるまで、黙ってみとれ、といわれました」
と、子供の使いのような、返事をせねばならない。そんな伝達はしたくない。しかし、それ以外には、返事の伝えようもない。
(烈の行動を、なぜわれわれが、黙ってみまもらねばならないのか。そのような負い目が、なぜ祭にあるのか。もともとサンジャックは、祭の進路上にある陣地ではないか。本来ならば、われわれが烈に、あんたらこそ余分な手出しはせんでくれ、と、いえる立場ではないか。烈をだまってみまもれば、サンジャックが占《と》れても占れなくても、祭は攻撃をおそれて手を出さなかった、という批判をうけかねない。武士のなさけだ、協力させてほしい、と、こちらこそいいたいではないか)
思いは、つい、ひとりごとになる。
それでいて、宮崎支隊長があそこまでいうには、いかに兵員の損耗による打撃が深いか、いかに悲痛な心情にあるかを、証明している。それを思うと、胸が痛むのである。
(宮崎支隊は、一応は師団司令部の意向を打診して攻撃すべきではないか。かりに山上陣地を占っても、そのためにさらに大きな犠牲を払わねばならないだろう。軍の方針は、当然、齟齬《そご》を来たすだろう。作戦の成否よりも、武士道の意地のほうがだいじなのか)
考え考え、悩み悩み、浅井中尉らが、本隊の位置へもどった時は、時刻はすでに、深更にいたっていた。
浅井中尉の報告を受けると、福島大隊長は、
「宮崎閣下ご自身がそういわれたのでは、やむを得ぬな」
と、いった。
やむを得ぬ、というのは、攻撃を断念する、ということでもあり、かまわずこちらはこちらで攻撃する、ということでもある。意味が重複してとれるが、浅井中尉は、大隊長の言葉の意味を察している。すでに、二十五日以来の東条中隊の砲撃では、攻撃に参加しているのである。
「宮崎閣下は、口では、そういわれざるを得なかったのでしょう。祭が手伝うことも、武士のなさけです」
浅井中尉がいうと、大隊長は、うなずき、
「予定通り、未明に、突撃しよう。各隊に伝えてほしい」
と、いった。
命令は、各中銃隊に伝達され、未明を待つことになった。攻撃がはじまれば、烈もだが、福島大隊も、想像を絶する犠牲を払わねばならないだろう。
まだ、払暁《ふつぎよう》には、かなりの時間のある刻限に、突如、山上から、異常な銃撃がはじまった。烈が、早目に攻撃を開始したのか、と思ったが、銃撃は、いままでの、いかなる銃撃よりも激しく、いわば、眼《め》もあけていられない、というほど徹底していた。遮蔽物《しやへいぶつ》のない山脚をたどって匍《は》いのぼれば、一兵も、山上には達し得ないかもしれない、と思われるほど、滅多撃ちに、撃ち下ろしてくる。銃声は夜闇を轟々《ごうごう》と揺する。照明弾はしきりなくあがり、銃声は、狂気のごとくつづいている。
「なんでこれほども、やみくもに撃つのだ? 銃声も、これだけさかんだと、波の音を聴いているようではないか」
浅井中尉は、壕《ごう》の中で、傍らにいる高畑中尉にいう。
「確実に、守る自信があれば、これほども気違いじみた撃ち方はせんだろう。奴らだってこわいのだ。烈の戦闘力は認めておるだろうし、加えて、新しい部隊が戦線参加したことも知っている。それに、サンジャックは、インパールの前哨《ぜんしよう》陣地でしかないから、全滅してまで守る必要はない。――とすると、撤退するために撃っているのだ」
こういう経験は、中支での戦闘間にも、しばしばあった。
果たして、その言語に絶する銃撃は、約四十分ほどつづくと、ふいに、嘘《うそ》のようにやんだ。まだ、夜明けにはなっていない。あたりには、なんの物音もしない。
「逃げたらしいな。そんな気がする」
浅井中尉がいうと、
「逃げたな。残弾を撃ちつくした」
と、山口中尉の声がした。敵の逃げた気配は、闇を通して、よみとれる。
「隊長殿、突っ込みましょう」
浅井中尉は、福島大隊長のいる方向に向けて声をかけ、直ちに大隊長が、
「突入する。各個に山をのぼれ」
と、命じる。
福島大隊の将兵は、いっせいに、山肌《やまはだ》をのぼりはじめた。無数の銃弾で、木という木は、根もとをわずかに残して、すべて刈りとられたようになっている。その根の部分をつかんで、匍いのぼる。銃声は、一発もしなかった。
山肌を、のぼりつづけて、山上の台地に到《いた》り着くと、そこには、敵味方入りまじった死体のほかには、実に、一兵の影もない。敵は、保有していた弾薬を撃ちつくして、一挙に撤退したのだ。乱雑をきわめた、陣地の残骸《ざんがい》だけがある。
前方へ、偵察《ていさつ》に出た下士官が、
「宮崎支隊も、向こう側から山上に達しています。山上に、敵の負傷者が、若干残っている模様です」
と、報告する。
この時、松村部隊本部は、福島大隊が布陣していた位置より、八百メートル後方にいた。松村部隊長は、あまりの銃声の激しさに、福島大隊の安否を気遣っていたが、その銃声もやみ、故障中だった有線電話がようやく通じて、電話に出ていた斎能副官から、
「サンジャックの突入に成功しました」
という報告をうけると、やっと安堵《あんど》している。そうして、部隊本部と直属中隊へ、サンジャックへの出発を命じている。
夜が明けはじめ、あたりの様子も、ようやくはっきりとみえてくる。
浅井中尉は、先頭に立って、山上陣地の点検をはじめた。堅固な掩蓋《えんがい》陣地は、みな交通壕でつながれている。烈が、攻めあぐねたはずである。あたりに散らばる日本兵の死体は、みな烈の兵隊である。山上にまではのぼり切ったが、敵の銃火に囲まれて、どうにもならず、屍《しかばね》を重ねたのである。
「悪戦苦闘の限りが、ありありとみえてきますね。あの銃火の中を、よく山上まで攻め込めたものです」
浅井中尉は、あたりを見廻《みまわ》して言葉もない大隊長に、声をかける。
「あぶないところは、すべてグルカに戦わせておる。こすい奴《やつ》らではないか」
大隊長は、つぶやき、浅井中尉をみる。
掩蓋陣地は、東条中隊の砲撃も手伝って、かなり崩されている。敵の遺棄死体は、すべて、グルカやパンジャップなどの、山岳民族かインド兵である。グルカ兵は、幅広の帽子をかぶり、濃緑の軍服に半ズボンだ。顔は蒙古人《もうこじん》に似ている。インド兵は頭にターバンを巻き、髭《ひげ》を生やしている。かれらは英印軍の傭兵《ようへい》だ。山岳民族は剽悍《ひようかん》だが、なんのために英軍に加わって、いのちを棄《す》てるのか。かれらこそ英国の桎梏《しつこく》から逃れるための戦いをすべきではないか――という思いが、浅井中尉の脳裏を走る。
かれらの死体は、全身のかくれるほど、薬莢《やつきよう》で埋もれているものが、いたるところで眼につく。つまり、死者が埋もれるほど、弾丸を撃ちつくしたのである。死体をよくみると、逃げられぬように、鎖で足を銃座の一角に縛しつけられている兵隊がいる。中国で戦っていた当時も、トーチカの中に、鎖で縛着されている兵隊がたまにいた。もっとも、共産軍でなく国府軍である。鎖を使うほうも、使われるほうも、思えば奇妙な心理である。兵隊というより奴隷《どれい》並ではないか。
山上の部隊は、退却に際し、いま撃ち終えたばかりの硝煙の匂《にお》う機関銃や迫撃砲などは、すべて放《ほう》りぱなしで逃げている。ここらが傭兵らしい無責任さであろう。
「鹵獲《ろかく》兵器だけでも、たいへんなものですね。おそらく糧秣《りようまつ》も相当残っているでしょう」
浅井中尉が、感慨をこめていうと、大隊長は、
「陣地のものは、すべて、宮崎支隊に渡そう。このサンジャック攻略に多くの血を流した、烈の鹵獲品だ」
と、いう。
その時、兵隊が、馬を一頭曳《ひ》いてきた。サラブレッドの立派な馬である。おそらく英軍の将校の乗用馬だったのだろう。なぜ馬が一頭残っていたのか。
「その馬も、渡そう。支隊長閣下が乗られるかもしれない」
大隊長は、気を遣う。
「ここに立ってみると、かれらがここに陣地を築いた意味がよくわかるな。一望のもとに周囲の状況がよめる」
高畑中尉が、浅井中尉にいう。
山上に到り着き、周辺が明るくなったために、陣地の規模や眼下の風景が、明瞭《めいりよう》になったのである。山上陣地は、尾根つづきに四つ五つ嶺《みね》があり、それがいずれも堅固に陣地化されている。容易に陥《お》ちなかったはずである。陣地の奥行が深いのだ。山下の一帯は平地だから、日本軍の動きを見通して砲銃撃ができるし、夜間でも、標定さえしておけば砲撃もできる。文字通り、難攻不落の感がある。
「サンジャックでこれほどだと、インパールの防備は思いやられるな」
「この山がもう少し高ければ、インパールがみえるのではないか。それほどの距離であるのに、インパールは、遥《はる》かに遠いところにある気がする」
大隊長を中心に、福島大隊の本部が次の嶺へ歩いてゆくと、向こうからも、烈の部隊が来る。
「福永聯隊《れんたい》長のようです」
浅井中尉《ちゆうい》がいい、福島大隊長は足を速めて進み、福永聯隊長に近づくと、互いに敬礼し、握手をしあっている。福島大隊長が、福永聯隊の健闘を賞揚しているのを、浅井中尉は傍らで、胸の熱くなる思いで、ききとっている。
三つ目の嶺へ来ると、片隅《かたすみ》に、古びて小さい教会が建っていた。山の礼拝堂である。その教会の前に、敵側の五十名ほどの負傷者が、放置されていた。一応の手当はしてもらったとみえ、真新しい繃帯《ほうたい》で腕を吊《つ》っている者もいる。かれらは一様に、放心した表情をしている。そうして、日本兵を、めずらしげに眺《なが》めるのである。
「こんな連中を相手に、これからも、出血を強《し》いられることになるのだろうな」
「向こうには、兵員も、弾丸も、糧秣も、無尽蔵にあるわけだ」
浅井中尉と高畑中尉が、話しながら、教会のうしろへ廻ってみると、山道がつづいていて、その下に、サンジャックの村落がみえる。といっても、草葺《くさぶ》きの小さな民家が、樹間に散在するだけである。ここらの民家は、総じて、床を高くし、竹を敷いているのが多い。おそらく住民は逃げ散ってしまっているだろう。しかし、こんなところにまで、教会を建てて、住民を教化するという、英国の植民的エネルギーには驚かざるを得ない。
その、眼下の集落を見下ろしながら、浅井中尉は、気易《きやす》く何でも話せる、高畑中尉と話し合っている。サンジャックの山上陣地は、ともかくも陥ちた。しかし、胸の奥に、なにやらくすぶっているものがあって、互いに、それを話し合いたいのである。この山上陣地は、つまりは敵が退却したために占《と》れたのである。祭は、死傷数十名を出しているが、福永聯隊は、六、七百の死傷を出したはずである。だが、考えてみなければならない問題はある。
「騎虎《きこ》の勢い、という言葉があるが、宮崎支隊は、力を恃《たの》んで、無理押しをしたのだろうね。無謀だったのではないか」
「宮崎支隊の戦力をもってして、これほど手こずるとは思わなかったろう。けんめいに築いた防禦《ぼうぎよ》陣地と、無限の物量があれば、グルカでなくたって、原住民だって守るよ」
「われわれは下級指揮官だが、いつでも、どうすれば部下を死なさずにすむか、を、第一義に考えてきたな。臆病《おくびよう》だったからではない。つとめて、合理的な戦いをするためにだ。おれは石臼《せつきゆう》湖で、規模は小さいが、このサンジャックの戦いに似た経験をしたことがある」
浅井中尉は、うなずく高畑中尉に向けて、語りつづけている。
石臼湖というのは、安徽《あんき》省当塗県の近くにある湖で、この湖畔に新四軍(共産軍)が出没するという情報を得て、中隊が出動したことがある。浅井中尉は、当時小隊長だったが、三十名ほどを率いて、敵の退路遮断《しやだん》をするために、目的地のずっと後方に迂回《うかい》したが、その時、行手の耕地の一角を、敵の一個分隊ほどが歩いているのを発見した。かれらは疲れた歩きぶりにみえた。
「奴《やつ》らを捕捉《ほそく》するぞ。二手にわかれよう」
浅井小隊長は、兵力を二手にわけて、敵兵を追った。敵兵は、追われる、と知ると、あわてて逃げはじめ、なかにはつまずいて転ぶのもいる。けんめいにかれらは逃げる。こちらも追う。追えば捕捉できる、と思ったのに、案外に敵兵は逃げ足が速く、そのうち小集落の樹間に姿を消している。
その小集落へ着いて、集落内を捜索したが、どこへ隠れ込んだのか、姿はない。
「おそろしく、逃げ脚の速い奴らだ。よほど恐れたのだろう」
浅井小隊長は、追及をやめ、樹蔭《こかげ》で兵員に汗を容《い》れさせていたが、すると、警戒兵が駈けてきて、
「小隊長殿、まわりに敵がいます。物凄《ものすご》い数のようです」
と、報告した。同時に、周囲から、猛烈な射撃がはじまった。銃声で、二、三百の兵数のいることはわかる。敵は、計画的に浅井隊を誘い込み、包囲して、逆にこれを、捕捉か、殲滅《せんめつ》する作戦に出たのである。新四軍のよくやる手だが、やり方がうまいので、つい引っかかるのである。
いま、浅井中尉は、自身の、その時の不覚に較《くら》べ、宮崎支隊が、サンジャックに誘い込まれたいきさつを思うのである。もっとも、サンジャックの場合は、敵の陣地を黙殺して、ウクルルに引き返して先へ進めば、それですんだのである。しかし、敵が逃げたら、追いつめたくなるのは人情だし、軍の中で名の通った武将としての立場上、その誇りにかけても、山上陣地をみすてて、引き揚げられるものでもない。石臼湖では、浅井小隊は、応戦しつつ暮れるを待ち、敵の手薄のあたりを銃声で判断し、一挙に夜襲をかけて、いのちからがら包囲網を脱出したが、小隊は五名を戦死させた。あとで、本隊が遺体捜索に行った時、五つの遺体は、樹蔭に並べられていた。
「おれの状況判断のあやまりで、五名を死なせた。そのことが、いつになっても、頭から離れない」
浅井中尉は、よく、そのことを口に出したものである。いま、サンジャックの山上にいても、それが口に出る。
「一兵も死なさず、いつでもみごとな戦闘のできるわけはない。一寸先は闇《やみ》だ。宮崎支隊にしても、気がついてみたら、思いもよらぬ痛手をうけていた、ということではないのか。こうして、山の上からみると、攻防の事情が実によくわかるな」
高畑中尉は、そういい、さらにつづける。
「もし、われわれの到着がずっと遅れたとして、宮崎支隊だけで、ここが陥ちたと思うか?」
「陥ちただろう」
と、浅井中尉はすぐにいった。
「陥ちても、さらに出血をかさねて、コヒマへ廻る兵力がどれだけ残ったろう。サンジャックの敵は、われわれを、宮崎支隊の本隊が増援に来たと思ったかしれない。それで浮き足立ったのだろう。それに、それまでの烈の攻め方をみて、陥ちるまでは攻めてくるだろう、と予想していたろう。恐怖感がある。加えて、内堀大隊が後方へ廻ったから、その情報も入手したろう。包囲される、という危機感も強まっただろう」
「ところで、もし、宮崎支隊がサンジャックへ来ずに、われわれだけが、この陣地を攻めたとして、陥とせたと思うか?」
きかれて、浅井中尉は、しばらく黙っていた。それから、重い口ぶりでいった。
「陥とせた。しかし、松村部隊も消えたかしれない。もっとも、烈のように、力で攻めたら、ということだが。といって、出血を嫌《きら》っていては、陥ちない。はっきりいえば、宮崎支隊のおかげで、われわれは助かったことになる」
いったん、言葉を切り、浅井中尉は、なおつづける。
「思えば、烈の戦いぶりは、涙ぐましいものだ。われわれだって、その場になれば、同じように、やらねばならんだろう。ただ、どう戦ってみても、相手には、無限の人量と、無尽蔵の物量があるわけだ。このサンジャックでさえ、これだけ攻めあぐねたとすると、インパールは、ここより何十倍も大きな城だろう。そこへ、全く補給も補充もないわれわれが、十指で数え得る程度の砲をたよりに、空中からはむろん無援護のもとに、その巨大な城を攻め陥とさねばならない。どうやって陥とすのだ? それでも陥とさねばならぬ。そのために、チンドウィンを渡って来たのだからな」
浅井中尉は、別に、愚痴をこぼしたわけではない。この作戦が発起された時、大砲でいえば、烈兵団四十七門、弓兵団四十九門にくらべ、祭は半分以下の装備しかないことを、暗に無念としていったのである。兵数にしても、小銃中隊は二十一個中隊で、各中隊七、八十名しかいない。従って総数千五百から千八百くらいである。兵団が完全編成だと、九個大隊で約一万を数えるから、五分の一以下の兵数でしかない。こういうことになったのは、作戦準備期間が、烈兵団や弓兵団とはまるで比較にならぬ短い日数しか与えられなかったからである。作戦出発時に、山内兵団長や岡田参謀長が「祭は師団ではなく、せいぜい歩兵団の戦力ではないか」と嘆いたことも、浅井中尉は、情報班の立場で、耳に入れている。そうした思いが、脳裏を去来するのである。
だが、サンジャックの山上においては、浅井中尉や高畑中尉にしても、行先、想像を絶するきびしい戦況が祭を見舞ってくることを、実感としては、むろん、まだ、身に覚えてはいなかった。
福島大隊が、サンジャック山地の麓《ふもと》で、攻撃準備を整えていたころ、内堀大隊(第二大隊・左突進隊)は、サンジャック山上陣地を遠く迂回して、南方から攻撃するための前進をつづけていた。
内堀大隊は、後続した聯隊砲中隊とともに、福島大隊よりも下流のサバ付近で、チンドウィンを渡河している。渡河後は、ウエマタ―タナン―フミネ―チャサット―六九九六高地―ヌンガ―コウショウ―ソクパオ―アイシャン―ラブラク―モコチン―モドブン道を、敵の妨害を排除しつつ、速やかにカングラトンビに向けて、突進するよう命ぜられていた。カングラトンビは、インパール=コヒマ道の、ミッションよりもインパール寄りに位置している。
渡河の直前、内堀大隊長は、第二機関銃中隊長の名取中尉に、
「この作戦では、機関銃も、砲隊なみの能力を発揮してもらわねばならぬかもしれんな」
と、いった。半ば冗談の口ぶりにきこえたが、おそらく本心であったろう。装備の弱体、兵数の不備がわかっているだけに、過重な任務に耐えねばならないからである。
「山岳戦ばかりですから、機関銃は砲隊なみの働きはいたします」
ご安心を――と、名取中尉は答えたが、大隊長に頼られている、と思うと、心に張合いを覚えた。
名取中尉にしても、渡河の時から、前途のきびしさは予感している。機関銃隊は、どうしても駄馬《だば》を必要とする。それで、馬は、手漕《てこ》ぎの船で兵員を渡す時、船べりを泳がせて連れて行った。船を手漕ぎにしたのは、隠密《おんみつ》行動のため、エンジンをかけられなかったためである。河幅は三百メートルほどあったが、かなりの流速があり、途中で、駄馬二頭を失った。馬が、泳ぎ疲れて、泳がなくなり、やむなく、河へ流したのである。
対岸は、急斜面で、兵隊はのぼれたが、馬はのぼれそうにない。それで、さらに下流へ移動し、傾斜のゆるい地点で上陸したが、そこらは密林地帯で、人ひとりやっと通れるだけのけもの道が、密林の中へつづいていた。
助川中尉の第八中隊は、渡河点で尖兵《せんぺい》中隊を命ぜられていたが、上陸地点で集結に手間どり、本隊に遅れて出発している。先を急ごうとして気をはやらせたためもあるのだろうが、助川隊は密林中で道を誤り、トンヘの集落の西方一キロの地点へ出て来た時、敵七、八十名の奇襲を受け、悪戦の末、助川中尉は戦死、ほかに二十名近い死傷者を出している。助川隊は、本道上に出て、ほっとした気のゆるみを衝《つ》かれて、待機していた敵に狙《ねら》われたのである。これは、内堀大隊にとっての初の犠牲であり、大きな痛手となった。前途への、暗い予感を覚えさせられることになった。
助川中尉は、陸士卒の優秀な現役将校で、名取中尉とは親しい間柄《あいだがら》であった。それだけに、みちみち、名取中尉には、助川中尉と助川隊の犠牲者たちのことが、惜しまれてならなかった。
助川中尉らを失う痛手を受けはしたが、小榎少尉を中隊長に任命し、内堀大隊は、左突進隊としての任務の遂行を急ぐため、トンヘ地区の敵を駆逐し、ウエマタ=タナン道を西進している。敵の抵抗に遭いながらも、善戦しつつ前進を重ね、タナンからは北進して、フミネ付近で印緬《いんめん》国境を越え、さらに北西進をつづけて、サンジャック方面へ向かってきたのである。つまり、本多挺進隊《ていしんたい》の南を、福島大隊の右突進隊及び松村部隊本部各隊が進み、その南を内堀大隊が急行している。
内堀大隊は、十九日に、カムジョンの手前のチャサットに達したが、ここには敵の補給所があり、粗末な掘立小屋ではあったが、数棟の倉庫が建てられていた。敵は逃走していたが、倉庫は火をかけられている。もっとも、焼け残った棟もあり、その中には、敵が残置した各種の糧秣がかなり残されていた。
内堀大隊の糧秣委員は、さっそくこの糧秣を入手して各隊に分配したが、乾パン、食パン、チーズ、バター、ミルク、ほかに肉や魚の罐詰《かんづめ》、各種タバコと、さまざまな給養物資があった。
「グルカやインド兵は、手当は多いし、待遇はいいし、それにだまされて、英軍にくっついているのだ。かれらの貧しさから考えれば、仕方がないのだろう」
内堀大隊長を中心に、大隊の幹部が集まって、一刻、英軍給養(みなはチャーチル給養と呼んだが)で休憩をした時、幹部たちは、口々にそんなことをいい合った。
内堀大隊は、チャサットでの、思わぬ給養に元気を得て、一路、サンジャックへの道を急いでいる。
内堀大隊は、ヌンガを経てサンジャックに向かう途中で、烈兵団の宮崎支隊が、サンジャック山上陣地を攻撃している情報を入手している。それがよほどの激戦であることは、彼我の銃砲声からも察しられた。
松村部隊本部からは、内堀大隊へ、
“左突進隊はサンジャック南方へ迂回し、爾後《じご》の攻撃を準備せよ”
という命令が来ている。
敵機の偵察《ていさつ》と襲撃は、渡河以来、次第に激しくなっていたし、サンジャックに近づくにつれて、容易でない戦況を予感させた。内堀大隊は、敵機による被害を生まぬよう警戒しつつ前進したが、コウショウへ近づくにつれて、前方の地形、敵状の捜索について、確かな情報を入手する必要を生じた。
それで、内堀大隊長は、名取中尉(第二機関銃中隊長)と加藤中尉(第五中隊長)に、コウショウに先行することを命じた。別働隊として行動し、地形と敵状の捜索につとめ、あわせて尖兵部隊としての部署につくことになる。コウショウはサンジャック山上陣地に南面する小集落である。
名取中尉と加藤中尉は、サンジャック山上陣地に対面する、コウショウの台地上に隊伍《たいご》を率いて到着、攻撃命令を受けた時に備えて、地形偵察をしておくことになった。
コウショウの台地上からみると、前面はかなり深い谷間になってい、その谷を越えたサンジャックの山上陣地には、敵の車輛《しやりよう》や、軍需物資の集積されている様子、また、兵員の動きまわる姿が、はっきりとみえた。ただ、敵が、南方に向けてどのような陣地配備をしているかは、草木が邪魔をしていてわからない。おそらく、充分に銃座は築いているであろう、と思われた。山上陣地まで、直線コースで一キロほどの距離である。
双眼鏡でさぐると、谷間の右手に急坂があり、それをのぼりつめたところの左手に、小高い突起が二つある。それを目印に進めば、夜間でも、敵陣地の近くまでは近接できる、と思えた。名取中尉は、斥候を出して、地形を調べさせている。
名取中尉らの別働隊に、前進命令の出たのは、二十五日の夕刻である。銃声は、しきりなくつづいている。さきに、確認しておいた地形を頼りに進み、急坂をのぼって、小高い突起地点に達している。行動間に日は暮れたが、敵陣地では、明るみの残っている限り、輸送機の物資投下がつづいていた。
命令のあり次第、山上陣地へ突き進むつもりで待機したが、山上陣地攻防の銃砲声は激しさを増すばかりである。日没前に、内堀大隊は、後方から聯隊砲《れんたいほう》をもって、約三十発山上陣地に、命中弾を浴びせて攻撃し、山上陣地からも、背面に向けて、めくら撃ちの銃砲撃がつづいている。名取隊は、この銃砲撃を冒して、山上陣地へ近接してきたのだが、この間に加藤隊との連絡が切れてしまっている。大隊本部から命令が来れば突入するよりほかないが、心配だったのは、突入した場合、宮崎支隊との同士討の生じる不安が、かなり濃くあったことである。名取中尉にしても、山上陣地の地形はまったくわからない。夜闇の中で、敵味方を、どうみきわめるのか。
名取中尉が、緊迫した時間に耐えている時、大隊本部からの伝令がきた。伝令係の下士官はこう伝えている。
「山上陣地への攻撃は、烈部隊が行うので、祭は手を引いてほしい、ということです。名取隊、加藤隊は、コウショウへ引き揚げてください」
納得できない奇妙な命令だったが、命令である以上仕方なく、コウショウへ引き返すことにする。来た時と、道を変えて、坂を下ってゆくことにする。百メートル余り下った時、前方で、
「誰か」
と、誰何《すいか》する声がした。
「祭の内堀大隊の名取中尉だ」
と、名取中尉は、隊伍の先頭にいたので答える。すると、銃を構えた兵隊が二名、闇の中から 出てきて、
「われわれは烈の分哨《ぶんしよう》です」と、いった。
インパール方面からサンジャック山上陣地へは、トラックの通れる補給路がひらかれている。もっとも、烈との交戦がはじまって以後は、山上陣地への補給は、すべて空輸になっただろう。烈はいま、この補給路を抑えていることになる。
名取隊は、山の一方から出てきたのだから、敵とまちがえられて撃たれる不安もあったのだ。部隊相互の申し合わせもない。合言葉をいわれても、答えられない。戦闘のくり返しで、殺気立っている気配は、寄ってきた烈の兵隊の言葉つきからもわかった。
烈の兵隊と別れると、その先から谷間への下山道があり、それをたどって、名取隊はコウショウへもどっている。
内堀大隊の本隊は、二十七日の朝方、コウショウに達して、ここで名取隊、加藤隊を合流させ、西進して、ソクパオ方面に向かうことになった。パンサンを過ぎ、ソクパオを過ぎ、左突進隊として、インパールへ向かうのである。
二十六日の深更、天地をゆるがす凄《すさ》まじい銃砲声を、内堀大隊はコウショウで聞いている。山上陣地の敵が、その夜のうちに撤退したことを、二十七日未明に内堀大隊長は耳にし、隊伍を整備して、撤退した敵を追及することにしたのである。この行動間に、内堀大隊は、撤退路を誤まってコウショウ地区へ下山してきた敵約百名を捕捉《ほそく》している。
百名というのは大きな数だが、かれらはみな戦闘意欲を喪失していて、発見されると易々として投降している。ふしぎなことに、満足にものを食べていない空腹の兵隊が多かった。あれだけ物資を補給していたのに?――と、大隊の者らはそれを不審に思ったが、つまりはそれだけ、烈の、出血を辞さぬ攻撃のきびしさがあった、ということであろう。
三、カングラトンビの戦い
サンジャックの陥落したあと、右突進隊(松村部隊)は、インパール攻撃のため、新たなコースを辿《たど》ることになった。サンジャックの西方五キロのラムへ到《いた》り、ラムから北上、ユーセン付近で西進して山中を踏破、インパール=コヒマ道を扼《やく》する、インパール北辺要地を占領するよう命ぜられたからである。
サンジャックからインパールへは、本道上をたどれば六十キロの距離しかないが、松村部隊としては、司令部の作戦意図に従わなければならなかった。しかし、サンジャックから西方のラムまでは、良道をたどる五キロの距離だが、ここからインパール=コヒマ道へ出るには、海抜千二百〜千八百メートルの山嶮《さんけん》を越えねばならない。しかも、山岳地帯を流れる多数の河川は、ほとんど南流しているので、山越えには、ひと山ごとに、谷へ下りて川を渡り、また山へのぼり、ということを繰り返していかねばならない。道といえば稜線《りようせん》上か、幅の狭い徒歩道しかない。本道上なら砲兵隊も繋駕《けいが》のまま進めたが、山間の道は駄馬《だば》駄牛を利用するしかない。それも、駄馬駄牛さえ通行のあやうい地形が多いから、非常な難行軍を覚悟せねばならなかった。人馬の疲労と消耗度は、はかり知れざるほどのものがある。図上距離ではわずかに五、六キロをたどるにしても、一日に一山をしか越えられないような苦労を重ねることになった。
松村部隊長の所持している英国版の十二万五千分の一の地図は、なかなかよくできていて、山中の徒歩道まで赤色の点線で示してある。これには助けられている。英印軍にしても、右突進隊(松村部隊)が、これほどきびしい山中踏破を強行しようとは予想もすまい、という見通しが司令部にはあったろう。インパール=コヒマ道を、一刻も早く抑える必要に迫られていた。松村部隊がサンジャックを発進した時点では、本多挺進隊《ていしんたい》がインパール=コヒマ道を制圧したという情報は、むろん松村部隊には達していなかった。
山中にも、原住民の集落はある。原住民たちは、みな山頂近くに住んでいた。これは酷熱を避けるためと、山頂のほうが、マラリアの被害が少いからである。山の中腹のあたりには水田もある。集落の近くはよく開墾されている。陸稲も植付けられている。ここらの原住民は、ビルマ人同様茶褐色《ちやかつしよく》の眼《め》の色をしている。男女ともに素足、半裸体である。腰巻様の白布で、男子は腰部以下を、女子は胸部以下を覆《おお》っている。男子は伐採用の鉈《なた》を必ず携行している。部隊が糧秣《りようまつ》の徴発をする時、軍票を渡すと、かれらは快く糧秣を渡してくれている。これには部隊は大いに助かっている。かれらが日本軍に好意的なのは、これをみてもわかるし、日本軍をみても逃げたりすることもない。
山中の、こうした小集落、トングー、ションベル、ヌンガ、アンガム等を経て、部隊本部は、四月二日早朝に、インパール=コヒマ道を扼する、タンガ西側の五四一七高地に進出している。
部隊本部に先行していた福島大隊は、松村部隊本部が五四一七高地に達した時には、さらに西進した地点、サタルマイナ東方の高地に達していた。ここからは眼下に、インパール=コヒマ道が望める。
福島大隊長は、この高地に達した時、直ちに、ミッション地区の橋梁《きようりよう》爆破の任務を負うている本多挺進隊と連絡をとった。本多大隊は、三月二十八日には、ミッション橋を爆破し、インパール=コヒマ道を遮断《しやだん》して、爾後《じご》、英印軍の通行を監視している。この報告を得たので、福島大隊長は、追随してきている部隊本部へ赴き、松村部隊長に事情を伝えている。松村部隊長は、
「福島大隊は、明三日払暁《ふつぎよう》を期して、インパール=コヒマ道北方の、物資集積基地を占領確保してもらいたい」
という、命令を下している。
師団司令部の方針は、松村部隊を、インパール=コヒマ道を南下した、インパール前面の要地、センマイに進出させることにあった。すでに命令も出ている。
インパール=コヒマ道を数キロ南下すると、カングラトンビという小集落がある。その西方の台地上に、敵の防禦《ぼうぎよ》陣地のあることが、偵察《ていさつ》して、わかっていた。敵は、カングラトンビ陣地へ、物資の空輸をしきりに行っている。従って、センマイへ進出するには、カングラトンビ陣地を、攻撃占領する必要があった。ここはサンジャックのような山上陣地ではなく、平地上の陣地、敵部隊の駐留地の感があった。攻めやすい、と思われた。もっとも、斥候が、この陣地に近接して 確認したのではなく、地図上の判断、及び、斥候が山上から双眼鏡で視認し、推察したものである。
カングラトンビ陣地は、密林を開拓して、そこに物資の集積をしている。陣地、というほどのものではなく、物資の集積所と、その警備隊の居住地――という程度に、福島大隊では考えていた。
福島大隊は、カングラトンビより約五キロほど離れた、本道上脇《わき》の大地隙《ちげき》を利用して、ここで待機した。カングラトンビを襲うには、周辺は密林だから、夜を待って密林中を進み、払暁前に、陣地前面に達して、突入しなければならない。
福島大隊が、大地隙内で待機していた二日の午後、インパール方面から、本道上を、戦車三輛《りよう》と、随伴歩兵四、五十名が前進してきた。敵は、日本軍の来襲を察知していたのか、夜明けごろから、空中偵察を怠らなかったが、福島大隊が布陣した地隙は深く、偵察機からの攻撃は受けなかった。
三輛の戦車と随伴歩兵が前進してきた時、福島大隊としては、これを駆逐しないわけにはいかなかった。かれらは状況偵察と、日本軍の企図妨害のために出動してきたのである。カングラトンビの駐屯隊《ちゆうとんたい》による、偵察行動と思われた。
この時、戦車は、道路の両側へ向けて、砲撃をくり返しつつ進んできた。砲弾には瞬発信管がついているから、木の葉一枚に触れても炸裂《さくれつ》する。
本道上の両側に布陣していた福島大隊の、速射砲と機関銃は、敵戦車が至近距離に達するまで待って、攻撃を開始している。戦車は大型のため、兵隊が破甲爆雷を抱いて挺身し、それをキャタピラに踏ませても、事もなく進んでくる。随伴歩兵の銃撃によって、兵隊は射殺されてゆく。先頭を来る戦車に向けて、第十二中隊長の山口中尉《ちゆうい》が、これを迎えて戦車にとりつき、天蓋《てんがい》から手榴弾《てりゆうだん》を投げ込もうとしたが、銃撃によって倒されている。半時間ほどは交戦がつづいたが、速射砲によって戦車一台が擱坐《かくざ》すると、敵は攻撃を断念し、自軍の遺棄死体十個ほどをあとに残して、引き揚げている。
この戦闘で、福島大隊には、山口中尉ほか数名の死傷者が出ている。松村部隊は、さきの助川中尉につづき、助川中尉と同期で、有能な現役将校であった山口中尉をも失ったのである。
カングラトンビは、夜襲によって、成果を挙げることになるので、それには、一応の地形、状況の偵察を行わなければならない。密林踏破の苦労は、チンドウィン渡河以来、充分に身にしみている。敵戦車との交戦の後始末、及び、斥候隊の偵察結果を待つために、福島大隊はなお一両日、カングラトンビ夜襲を延期することになった。四日の夜になって行動を起こしたが、密林に入ってまもなく、敵の集中砲撃を受けた。弾着が正確である。あまりにふしぎなので、その夜は後退したが、あとで調査してみると、密林中に巧みにマイクが仕掛けてあり、これによって敵は砲撃の標定をしたのである。大隊がなお充分な偵察の必要を感じたのは、このためである。
カングラトンビの攻撃に際しては、松村部隊とは別行動をつづけてきた内堀大隊(左突進隊・第二大隊)が、カングラトンビ集落の東方へ迂回《うかい》して、カングラトンビ陣地を俯瞰《ふかん》できる、三八一三高地を占領している。この高地には敵の一部三、四十名が布陣していたが、内堀大隊は、夜襲によってこれを攻撃占領している。この夜襲戦で、尖兵長《せんぺいちよう》をつとめた吉村少尉以下数名が戦死している。この高地の占領は五日の未明である。夜が明けると、眼下に、カングラトンビ陣地及び、インパール平原一帯が俯瞰できた。
この内堀大隊の行動に呼応して、第九中隊長粟沢中尉の指揮する第一挺進隊は、インパール西南方約十五キロの要衝ビシェンプールよりシルチャに通ずる山道を遮断する意図のもとに、行動を起こしている。きびしい山中踏破である。さらに第六中隊長伊藤大尉の指揮する第二挺進隊は、インパール西方約十キロのカンチャップ高地よりシルチャに通ずる山道を、遮断する目的のもとに行動を起こしている。これも山中の大迂回である。つまり、松村部隊は、インパールに対する、退路遮断任務を負うていることになる。
北方は、烈兵団がコヒマを扼し、南方は、弓兵団(第三十三師団・柳田元三中将)がインパールを窺《うかが》い、インパールを孤立させ、袋の鼠《ねずみ》にして、一挙にこれを屠《ほふ》る、というのが、軍司令部(林集団・牟田口《むたぐち》中将)の計画であった。本来この作戦は、一ヶ月以内にインパールを占領するのが目途であったから、祭兵団の松村部隊についていえば、ともかくも順調な、作戦行動がつづいていたことになる。カングラトンビを陥《お》とし、センマイ高地を占領すれば、インパールは指呼の間にあって、その命脈を絶たれることになる――はずであった。
そのカングラトンビ夜襲に向けて、福島大隊は、六日の夕刻に行動を起こしている。夜襲のための偵察その他の諸準備を終え、密林を踏破して、夜明け前に、カングラトンビの陣前に出ることになる。
四月七日の未明に近い刻限。
密林の中を、一列縦隊になってたどってゆく隊列にまじって、大隊本部医務室の先頭を歩いていた前《まえ》軍医中尉は、隊列が停止したまま、ずっと動かないので、
「おい。どうしたか。――逓伝《ていでん》せよ」
と、前にいる兵隊の背を突っついている。
漆黒――というよりほかない、一寸先は闇《やみ》の中の、それも道なき道を、手さぐりで歩いてゆくのである。先頭の者が方向をさぐってゆくから、あとの者は、前をゆく者に額をぶっつけそうにしながら、進んでゆく。隊列は、三度、五度と、停《と》まり勝ちに進んで来たが、今度は、停まったまま動かない。前軍医が、逓伝せよ、といっても、返事は、一向にもどって来ない。
前軍医は、不安になって、前方へ進んでみると、第十中隊(宮沢隊)の後尾のところで、前方との連絡が切れてしまっている。歩きながらに、一瞬でも、前をゆく者を見失ってしまうと、もうそれで、隊列は切れてしまう。声をかけても、前をゆく者は、自分が前の者を見失うまいとしているから、それに気をとられて、うしろの者に気を遣ってはいられない。けんめいの視力、気力を集中して進まねばならない。
(これは、ずっとあとになってわかったことだが、一列縦隊で進んできた大隊の隊伍《たいご》は、密林中で四ヶ所で切れ、それぞれが密林中を彷徨《ほうこう》する破目になり、先行した第十一中隊(石川隊)と大隊本部だけが、敵陣地に突っ込む、という、きわめて不幸な状況に追い込まれることになったのである。かりに、日中であっても、密林の中は迷いやすいのである)
前軍医は、隊列の切断を確認すると、後方にいる大隊砲小隊長の馬場中尉を逓伝で呼んだ。ここからの指揮をとってもらわねばならない。軍医の立場では、指揮はその任でない。この時、福島大隊は、つぎのような序列で、密林中を進んでいた。
尖兵が石川隊(第十一中隊)、つづいて大隊本部、第三機関銃中隊(田中隊)、第十中隊(宮沢隊)、医務室、経理室、大隊砲小隊(馬場隊)、後衛として第九中隊の原田小隊(中隊主力は粟沢挺進隊として別行動をとっている)。第十二中隊(林隊)は陽動作戦のため公道上を守備している。
隊列の先頭へ呼び出された馬場中尉は、前軍医から事情をきくと、隊列の指揮をとることを引きうけ、自ら先頭に立って、闇の中を進んでいる。馬場中尉は、杜絶《とぜつ》した隊伍と、何とかして連絡をつけたいと思ったが、闇の壁の中をたどるような状態では、いかにしても、方途が立たなかった。人間の感覚は、たとえば吹雪の中を進んでも、前方へは進まず、円形を描いて進んでしまう。正確には方向をさぐり得ないのである。
闇の中――というのは、眼をつぶっているのと同じだから、歩いていると、つい、眠ってしまうのである。それに、きびしい山中踏破をしてきたための疲れが出ている。不覚に眠ると、そこで前方との連絡が絶えてしまうのだろう。
福島大隊に、もう一つ不運だったことは、密林中を行進している時に、激しい驟雨《しゆうう》に襲われたことである。まだ雨季ではないが、雨季が近づきつつあるため、たまにスコールが来る。石川隊の第一小隊長稲原少尉は、尖兵小隊長として小隊を率い、日没前に出発し、密林中を突き進みながら、進路上の処々に、白紙の目印を、木の枝に刺して行った。この目印をたどってゆけば、隊列が途中で切れても、後続の者は、追随できたのである。ところが、その白紙は、夜になっての豪雨のために濡《ぬ》れ落ちてしまい、せっかくの目印の用を為《な》さなかった。
隊伍が、大隊長以下、密林踏破を急ぎ、一列に互いを結び合って、懸命に歩みつづければ、おそらく、あやまたずに、密林をぬけ得たかもしれない。しかし、ここに、いまひとつ問題があったのは、密林の行進間に、隊伍が何度も、休止を重ねたことである。休止は、大隊長が、中隊長集合を命じたため、中隊長はみな大隊長の位置に集まり、隊伍は、小隊長以下が掌握することになった。それに、隊伍は、休止すると、兵員は眠り込んでしまう。大隊長が、なぜ、しばしば中隊長を集合させたかというと、大隊長には、この夜襲を決行すべきかどうかについて迷いが生じ、中隊長との相談をくり返したからである。いわば、密林中の闇の中の隊列は、大隊長自身の思考の迷路の中を歩かされていた――ともいうべき状態であった。中隊長は、その大隊長にずっとつきあわねばならぬので、大隊長と行動を共にしている。
前軍医や馬場中尉が、懸命に、密林脱出、本隊追及の方途に苦しんでいたころ、カングラトンビ敵陣地の前面では、敵陣地に突入すべきかどうかについて、大隊長と中隊長たちとの、最後の相談が行われていた。
尖兵である石川中隊と大隊本部は、未明に、密林をぬけ切って、敵陣地を前にした河床道の一端に達している。この河床道は、雨季には河となるが、乾季には河床をさらしている。ゆるい傾斜で河心へ下り、河心を渡ると、また傾斜や低い崖《がけ》があって、その上の台地が敵陣地である。河床道には、ところどころ、わずかな灌木《かんぼく》が生えているきりである。河床道は、斥候の報告では、幅百メートル余りある、とわかっていたが、いまは闇の中である。その闇を透して、敵陣地のあたりの幕舎からは、点々と、灯影《ほかげ》が洩《も》れている。敵陣地は眠り込んでいるようにみうけられた。
その河床道を前にした、密林の端で、大隊長を中隊長たちが囲んでいる。突入するとしても、動かせる兵員は、石川隊と大隊本部の要員だけである。あとはまだ、密林をぬけ出て来ない。中隊長たち――は、石川中尉のほか、第三機関銃隊の田中中尉、第十中隊長の宮沢中尉、それに大隊本部情報班の浅井中尉、副官の高畑中尉などである。だれもが息詰まる緊張感の中にある。
「密林中で、思わぬ手間をとって、攻撃の予定時間が狂った。兵員の集合も遅れている。突入するのは無理な気がするが、やらぬのも残念だ。どうする」
大隊長の態度には、決意しかねている焦燥《しようそう》のいろが読めた。密林中からの迷いが、ずっとつづいている。だれも答えられない。少時、沈黙のあと、先任の石川中尉が、将校たちを代表して、意見を述べた。
「突入なさりたいお気持はわかりますが、すでに天明の直前になっております。いまから突っ込むのは無謀かと存じます。突っ込めば、戦闘中に明るくなり、おそらくわれわれは、飛、戦、砲の集中攻撃を受けることになって、甚大《じんだい》な犠牲を生まないとも限りません。それよりも、本日は、この密林中で、一日休養して、待機し、戦力を蓄え、夜になって、総員で攻撃をかけられるのがよいと思います。それがもっとも賢明な方法です」
石川中尉の意見には、将校全体をうなずかせる説得力があった。冷静に状況判断をしている。適切な方法である。石川中尉は、大隊長よりも、戦闘経験ははるかに深い。
石川中尉の、進言の正しさ、それによって、攻撃は断念されるであろう、と、将校たちは思った。
大隊長は、石川中尉の進言を、周囲の将校たちのだれもが認めているのを感じとっていたのだろう、
「断念するか、どうか」
と、なお、一瞬の躊躇《ちゆうちよ》をみせたあと、
「決断こそ、勝利につながる道だろう。命令する。大隊は予定通り、直ちに敵陣地に突入する。副官は速かに後続諸隊の誘導につとめてほしい」
と、いった。
これは、命令である。
大隊長が、突入を決断したのには、二つの理由があったろう。一つは、この一戦に賭《か》けようとする、統率者としての意識である。成功すれば、大きな功績となる。敵陣地の一角には、戦車もトラックも放置され、兵員は幕舎内で眠っているのだ。突入すれば、陣地は奪《と》れる、という名誉心への衝動がある。それと、いま一つは、石川中尉の、一点非の打ちどころのない意見具申に対する、というより、石川中尉そのものへの、本能的な反撥《はんぱつ》である。戦闘経験充分な石川中尉に対しては、階級をこえて、どうにもならぬ圧迫感を感じるのかもしれない。臆病《おくびよう》になるな、勿体《もつたい》ぶるな、断じてやるのだ――という、反撥の気勢が、突入決行の命令になったのだ。たしかに、突入が成功すれば、戦車もトラックも無傷で鹵獲《ろかく》出来、爾後《じご》の戦闘に大いに貢献する。
「高畑は、後続中隊をさがします」
高畑中尉は、伝令の平田兵長ひとりを連れて、密林の中へ引き返した。
浅井中尉は連絡係としてその場に残り、石川隊は、大隊本部とともに、先行して、河床道へ進みはじめている。
中隊長たちも、大隊長に同行した。
高畑副官は、密林の中へ引き返しながら、後続隊のたとえ一部でも、可能の限り速かに把握《はあく》したいと願っていた。夜明けが迫っている。それに石川中尉《ちゆうい》は、戦闘に対してはきわめて決断力のある人だから、進み出したら一挙に突入してしまうだろう。一兵でも多く、加勢をさせなければ――と、気をはやらせながら、密林中をさぐったが、密林の中は、暗黒の沈黙のほか、なにもない。
密林の中の、どこに敵のマイクが仕掛けてあるやもしれず、足音もだが、声をあげて、後続の隊の所在をもとめることなど、とうていできない。いら立ちながら、必死のカンをたよりに、密林の中をさぐりつづけている。
すると、どれほどの時が経《た》ってからか。おそらく、出発して、十数分しか経っていないのではないか、と思われた時に、河床道の方向で、銃声と、手榴弾の炸裂する音がしはじめた。
(待ち切れず、突っ込んだのだ)
と、高畑副官は察し、その場から引き返すことにした。銃声をたよりに、後続の諸隊は、密林をぬけ出してくるはずである。密林をぬけ出てくる隊伍に、的確な指示を与えねばならない。高畑副官は、身にかぶさる小枝をかきわけるようにして、やみくもに元来た道を突き進んだが、その間も、銃声は、ますます激しくなる。さらに砲声がまじりはじめる。砲声がまじるというのは、戦車が動き出したのではないか。
高畑副官が、元の位置へたどり着いた時には、敵陣地の台地上から、猛烈な、機関銃の掃射がはじまっていた。日本軍が、河床道を進んで来るとみての、すさまじい乱射である。陣地には、戦車が走り廻《まわ》っているらしい、不気味なキャタピラの音が、銃砲声の合間にきこえる。石川隊と大隊本部は、どのような戦闘をつづけているのかわからない。しかも、気がつくと、あたりはすでに、明るみのさしはじめる気配である。明るくなったら、突入隊はさらに不利になる。
敵陣地での戦闘の開始は、密林中で方途を失っていた、前軍医たちをも当然驚ろかせた。
銃砲声がきこえはじめたので、友軍が突入したことがわかり、あわせて、方向がはっきり認識できた。前軍医は、馬場中尉とともに、隊伍の先に立って、遮二無二《しやにむに》密林中を突進して、まもなく河床道の眺《なが》められる地点に出た。
夜が明けはじめている。
河床道に出て、南へ進みはじめると、敵陣地のいたるところから、すさまじい銃撃が来て、河床道を濯《あら》う。明るみを利して、照準も正確である。河床道には、わずかな灌木の茂みのほか、身を隠すところはない。隊伍は河床道の窪《くぼ》みを選んで、身を伏せ、弾幕の隙《すき》をみながら進むしかなかったが、その弾幕は、隙ができるどころか、ますますきびしくなる。身をさらせば、被弾するだけである。次第に身動きもできなくなる。いったいどこにこれだけの敵がいたのか、と思われるほどの、銃撃の激しさである。
突入隊の様子が、どうなっているのか、などということも少しもわからない。
前軍医は、河床道の窪みに身を伏せながら、突入隊から犠牲者が出ているのではないか、と、職務上、それをしきりに心配した。
すると、その時、前軍医の脇《わき》へ、後衛小隊長を務めていた原田少尉が寄ってきて、
「軍医殿、自分が連絡に行ってきます」
といって、返事を待たずに飛び出した。
突入隊と連絡し、大隊長の指示を得るためである。なによりも状況を知りたい。原田少尉は、河床道を突っ切って駈《か》けはじめたが、向こう側へ達する手前で、機関銃の集中射撃を浴びて、土煙の中に倒れ込んでいる。
それをみて、糸岡衛生兵が、飛び出した。小隊長を救出するつもりだったのだ。しかし、その糸岡衛生兵も、河床道の中程で、銃弾に射すくめられ、倒されている。日本兵の動きをみて、銃弾は、いちだんと激しくなる。
同じ窪みにいた馬場中尉が、
「今度は自分が出ます。突入隊が心配です」
といって、飛び出そうとする。
「出るな。出たら、やられる。みなやられたではないか。後続の援護が来るまで待ったほうがよい」
前軍医は、激しい口調でいう。この場にいるのは、医務室、経理室、大隊砲小隊、後衛小隊などで、人数が少ない。
「自分らは、黙って見物しとるわけにはいかんです」
馬場中尉は、そういい残して飛び出すと、斜めに方向を変えながら走ったが、狙《ねら》い撃ちに射すくめられて、灌木の蔭《かげ》で動かなくなった。その灌木が跡形もなく吹き飛ぶほど、弾丸が集中している。
すると、また一つ、人影が河床道へ跳ね出てきた。
「八木軍曹《ぐんそう》です」
と、まわりにいたたれかが、前軍医に教える。
「どうして出るのだ、引き返せ」
前軍医は、思わず叫ぶ。軍医としては、なによりも、無益な死傷を避けさせたい気分がある。
ところが、八木軍曹は、みていると、まったくみごとというしかない敏捷《びんしよう》な動きで、地形地物を利用しながら、みるまに対岸の崖の下にとりついている。そこは死角になっている。八木軍曹は、右へ右へと移って行ったが、さすがに台地上へあがることはできなかったのだろう、前進は断念して引き返すことにし、重傷の馬場中尉のところへ駈け寄って、馬場中尉を引きずりながら、引き返してきた。むろん、集中射撃を浴びたが、ふしぎに一弾も受けずに、こちら側の窪みにまで達している。
前軍医は、駈け寄って、馬場中尉の負傷部位をみたが、頭部貫通銃創で、まだ脈搏《みやくはく》はあるが、呼びかけても、反応はない。助かる見込みは、もはやなかった。頭部貫通では、止血の方法もなかった。
「敵陣地は、戦車が走り廻り、トーチカ内からの掃射もつづいていますので、突入隊がどこにどうしているか、さがしようもありません。救援しないと、全滅は時間の問題のように思われます」
八木軍曹は、馬場中尉に応急の強心剤の注射をしている前軍医に、早口にそれだけをいった。指揮をとるべき馬場中尉に死なれてしまっては、対処の方法もつかない。
カングラトンビ夜襲のため、大地隙の陣地を出発する時、石川隊(第十一中隊)は、石川中尉の指揮下に、稲原少尉の第一小隊(三個分隊)、沢井少尉の第二小隊(四個分隊)、それに指揮班長望月曹長の握る指揮班員を合わせて、全員で五十二名を数えた。第一小隊が一個分隊少いのは、サンジャック戦で一個分隊を損耗しているからである。
出発に際し、石川中隊長は、全員に、どうかがんばってほしい、という訓示をしたあと、沢井少尉を呼んで、
「この夜襲は、非常に重大な任務だ。覚悟をきめてかからんといかんぞ」
と、いいふくめた。
沢井少尉は、心にかけてもらっている、と思い、嬉《うれ》しかった。沢井少尉には、歴戦の中隊長である石川中尉への、全幅の信頼感がある。
いよいよ行動を起こす時、一個分隊を残置したいという中隊長の意向があり、それで沢井少尉は、森下伍長《ごちよう》以下六名を、残留させることにした。残留、といっても、道路正面に布陣して、林隊(第十二中隊)とともに、陽動作戦をとる任務につく。
石川隊は、中隊とはいっても、実質的には一個小隊余りの人員である。石川中隊長は、出発前に、所持していた恩賜《おんし》の煙草《たばこ》をとり出して、それを全員で廻し喫《の》みにした。恩賜の煙草は、通常、決死隊を編む時に支給されるものである。
石川隊は、福島大隊の尖兵《せんぺい》中隊として出発し、密林の中を着実に進み、大隊本部もこれにつづいた。ただ、密林の中は、地形が平坦《へいたん》でなく、岩石も散らばり、地隙もあり、難渋した。それに大隊長の中隊長集合命令があったりで、いつしか隊列が分散してしまい、石川隊と大隊本部だけが、先に河床道へ出たのである。そうして、河床道を突っ切り、カングラトンビの敵陣地へ攻撃をしかけることになったのだ。
河床道へ出て、敵陣地へ向かう時、石川中隊長が最先頭を歩き、そのあとへ沢井小隊がつづいた。沢井小隊のうしろに大隊長と大隊本部がつく。大隊本部は、大隊長に追随している宮沢第十中隊長、田中第三機関銃中隊長などを含めても、二十数名の人員である。
沢井少尉は、石川中隊長のうしろにつきながら、
(大丈夫か?)
という、一抹《いちまつ》の心細さを、正直に覚えた。敵は戦車や装甲車を有し、多くの兵力を用意している。サンジャックで、かれらがいかに強硬な抵抗を示したかを、身にしみて体験しているからである。
隊伍が、河床道を斜めに前進し、敵の陣地へ近づいた時、日本軍来襲の気配を察したのか、敵陣地の一方から、河床道に向けて、重機関銃の掃射がきた。やみくもに撃ってくるのだが、距離が近いのと、防禦物《ぼうぎよぶつ》がないため、本部連絡係の雀部軍曹が、胸に被弾して倒れ、口から血を吐きながら、しきりに呻《うめ》き声を発する。声を立てさせまいと思っても、方法はない。機銃の掃射はなおもつづくが、まだ暗くて、目標がみえているわけではないから、乱射である。
隊伍は、敵の陣地に近接しているので、沢井少尉が陣地を窺《うかが》いみると、夜目にも、敵のジープが何輛《なんりよう》も並んでいるのがみえる。大型のジープだが、それが空際《そらぎわ》に透かしてみえるのは、夜明けが近いからである。
石川中隊長にも、機を失しては、という懸念《けねん》があったのだろう、大隊長とあわただしい打ち合わせのあと、
「稲原、沢井、中隊は突入する」
というと、先に立って、敵の陣地へ駈け入っている。
第一、第二小隊が、つづいて突入する。陣地へ突入してみると、台地の上は、広く平坦になっていて、ジープ群は片隅《かたすみ》に並んでいる。黒々とした影がつづくのを、沢井少尉は一瞬にみた。どこかに戦車もいる、と思えた。沢井少尉は、稲原小隊が右へ走るのをみて、左の方向へ走り、部下もそれにつづく。すでに、起き出して、陣地に向かうらしい敵兵の影もみえ、それに向けて突進し、白兵戦をつづけながら進むと、行手に三角テントを張った兵舎が、いくつか並んでいる。あわてて叫び合う声があがり、どこから撃ってくるともわからぬ自動小銃の音がつづく。敵は、油断していたとみえ、算を乱して逃げ惑うさまがわかる。沢井小隊は、稲原小隊と呼応して、幕舎群に手榴弾《てりゆうだん》を投げ込み、逃げ惑う敵の影を追っては、手当り次第に刺殺してゆく。
沢井少尉は、乱戦のなかで、右足の向こう脛《ずね》を、棍棒《こんぼう》で強打されるに似た痛みを受けて、倒れた。自動小銃による右下腿骨折《みぎかたいこつせつ》盲管銃創を受けていたのだが、この時は傷の部位も深さも、よくわからない。
起き上がろうとする、沢井少尉の耳に、
「沢井小隊は大隊本部を護衛せよ」
という、大隊長の声がきこえ、つづいて、
「大隊長殿、ここに壕《ごう》があります」
という、だれかの声がきこえた。
沢井少尉は、自分が撃たれて倒れた時、直感的に、突入隊が、不利な状況に追い込まれているのを察した。周囲からの銃声が、統一のある撃ち方をはじめているし、戦車のキャタピラの轟々《ごうごう》という音と、それに、砲声がまじりはじめている。台地上で、身をさらして戦うには、限界がある。地物を利用して、応戦をつづけ、救援の到着を待つよりほかはない。
沢井少尉は、
「手近な壕にはいれ」
と叫び、自身も、壕の中に飛び込んでいる。台地上には、敵とも味方とも不明な、死体がいくつも散らばっている。
沢井少尉が飛び込んだ壕は、深さ一メートルくらいで、河床道へ向けて、鍵形《かぎがた》に掘られている。敵が陣地守備のために掘った壕の一つである。敵陣内へは攻め込んだが、陣地を制し切れず、かえって、敵陣内の壕に追い込まれる、という不利な立場になった。壕の背面は密林で、密林を背にいくつもトーチカが築かれていて、そこから敵の乱射がつづいている。物の文目《あやめ》のつきはじめた、かなり広い台地上で、勝敗のけじめもつきはじめている。明るみは増す一方だし、かりに救援隊が来るにしても、弾幕を越えて台地内に入ることはむつかしいであろう。
戦車のキャタピラの音が、不気味に軋《きし》んで迫ってくるのを、沢井少尉は壕中できいている。みると、戦車は三輛が動いている。巨大な影が動く。M3型である。突入隊が陣地へ突入した時は、戦車は、ジープ群とともに眠っていたのだが、逸早《いちはや》く敵が戦車に乗り込み、戦闘に参加してきたのだろう。戦車は、突入隊の手によって、鹵獲《ろかく》も、爆破もできたはずである。ただ、その所在の確認のできぬうちに、乱戦になってしまったのだろう。
戦車は、密林の方向から、突入隊がもぐり込んだ壕へ向けて、進んでくる。砲を撃ち、少し進み、また撃つ、というふうにして進んでくる。夜は明けはじめている。砲を撃ったあと、戦車のうしろにいる、随伴兵の動くのがみえる。壕に身を入れている突入隊は、戦車と戦うにしても、小銃と手榴弾しか、武器はないし、しかも弾薬も数に限りがある。
戦車の撃ち出す砲弾の破片創を受けて、沢井少尉は、今度は左足に負傷をした。沢井少尉が身を入れていた壕には、沢井少尉のほかに、密林に向けて右手に大隊本部の兵隊が三名いた。反対側に、本部の朝比奈曹長、その向こうに福島大隊長、大隊長の向こうに本部の下士官兵が数名いた。沢井少尉は壕の中で、それだけを識別した。自分の小隊の部下たちはどこにいるのか、各個に分散して壕にひそんだので、所在はわからない。
(このまま、全滅するのではないか)
という、きびしい予感を身に覚えている。
沢井少尉は、明るくなった周囲の状況を把握しようとして、壕から身を乗り出そうとしたが、負傷しているため、壕のへりに手をかけても、充分に顔を出せない。もっとも、顔のまわりにも弾丸が集中してくる。壕の一方にいる三人の兵隊のうち、二人はすでに壕の中に崩折れて、戦死しているのがわかった。
稲原小隊がいると思える壕からは、散発的な銃声しかきこえない。戦車が二輛、のしかかるように進んでいるから、稲原隊は全滅しているのではないか、と思えた。沢井小隊と大隊本部にしても、それぞれに同様の運命をたどることになるだろう。ただ、敵の戦車は用心深く、一挙に進んでくることをしない。砲を撃ち、進み、小銃で反撃すると、また退いたりする。あまり近寄ると、肉弾攻撃をかけられるので、それを警戒しているのかもしれなかった。
大隊長の声が、きこえた。
「突入隊が、これほどの勇戦をしておるのに、この状況が、だれにも知られず、全滅してゆくのは無念である。自分がこれから脱出して、この模様を報告したい。沢井少尉、あとを頼む」
大隊長はそういい、破甲爆雷が一個、大隊長から、朝比奈曹長の上を越えて、沢井少尉の手に渡った。朝比奈曹長は、沢井少尉の負傷した時、頭部に破片創を受けてすでに戦死している。
大隊長は、一方的に沢井少尉に声をかけておき、傍《かたわ》らにいた兵隊二人に、
「同行せよ。行くぞ」
と声をかけるなり、壕を飛び出している。
大隊長たちが、河床道の方向へ駈け出すのを、沢井少尉は、ちらとみただけである。撃ち込まれる銃弾が激しく、壕の中から身を起こせないし、負傷のため無理が利《き》かない。大隊長たちも、戦死されたに違いない、この弾幕を脱け出られるわけがない、と思えた。
戦車の、キャタピラの音が、前方から迫ってきた。沢井少尉が、懸命に身を起こしてみると、戦車の巨体が、すぐ間近に来ている。直進してくる。沢井少尉は、壕底に身を横たえるよりほかはなかった。戦車の重みで、壕が崩れ、沢井少尉は、胸の上に息のつまる圧迫感を覚えたまま、かぶさってくる土砂の中で、失神した。
後続部隊との連絡を断念して、高畑副官が、平田兵長とともに、元の河床道に引き返してきた時、河床道を隔てた敵陣地内では、さかんに銃声がきこえ、あたりにはむろん、大隊本部や石川隊の影もなかった。河床道の窪みに、伝令が一人伏せているだけである。伝令は、同じ窪みに下りてきた高畑副官に、
「あの左のトーチカから、陣地に向けて、猛烈に撃っています」
という。いわれてみると、陣地から五十メートルほど離れて、トーチカの前の壕から身を乗り出して、敵兵が機関銃を撃ちつづけている。その位置からは、陣地も、河床道も見通しである。
河床道の左方から、
「高畑、高畑」
と呼ぶ声がきこえ、声で、浅井中尉とわかった。灌木《かんぼく》の蔭《かげ》に、浅井中尉と、兵隊が一人いるのが、薄闇《うすやみ》の中にわかる。高畑副官は、そこへ行きたいと思ったが、前方陣地から撃ち出す銃弾が、あたりをしきりに濯《あら》う。切れ目のない猛射である。
敵陣地では、喊声《かんせい》と銃砲声とが入りまじり、動き廻る戦車の影がみえる。夜は、明けはじめると早く、戦車に塗られた濃緑色の彩《いろど》りまでみえてくる。戦車は、方向を、あちこちに変えて、突入隊の掃討に奔命しているのがわかる。ただ、戦車は、陣地内を廻るだけで、河床道へ下りてくる気配はない。
高畑副官は、戦況のきびしさからみて、自分も戦死するだろうと思い、すると、なによりも、預かっている暗号書が心配である。これを敵にとられてはならない。それで、身を伏せながら穴を掘り、その中に、ともかく暗号書だけは埋めた。埋め終えた時、
「高畑、高畑」
と、また、浅井中尉《ちゆうい》の声がする。返事をする。
「いま、壕を掘っている。ここで待機しよう。掘り終えたら連絡する」
という。浅井中尉のいる場所は、敵からはよくみえないらしい。灌木の蔭で、円匙《えんぴ》をふるっている兵隊の姿がみえる。しばらくして、また声があり、高畑副官は、銃弾の隙《すき》をみて、駈けて、浅井中尉の壕へ移った。形ばかりの壕である。
「突入隊は、全滅するのではないか」
と、浅井中尉は、高畑副官のゆくなり、さし迫った声でいう。
隊伍そのものが、統一を失っている。大隊本部と石川隊、それに大隊長と各中隊長が、ともども突入してしまったので、統率者がいなくなっている。他の隊伍も、まだ密林から出て来ていない。
「大隊長は無事なのか?」
「連絡がまったくないのは、銃弾に囲まれて、連絡兵が脱出できないのだろう」
高畑副官と浅井中尉が話し合っている間も、敵の陣地内では交戦がつづいたが、次第に、突入隊の抵抗の弱まってゆく様子は、銃声からの判断でもわかった。戦況を案じながら、刻々と不安の刻《とき》が過ぎてゆく。
河床道の近くへきている一輛の戦車は、天蓋《てんがい》をあけて、兵隊が顔を出し、悠々《ゆうゆう》と煙草をふかしている。すでに、突入隊の抵抗が終えかけているための、ゆとりなのであろう。
「このままでは、突入隊を見殺しにすることになるだろう」
「こちらが突入すれば、死傷を重ねるだけだろう。後続が到着したら、しかし、攻撃するしかない。もともと、夜襲以外には効果的な攻撃はできないのだが、昨夜の突入には、やはり誤算があったな」
いいようのない胸の痛みが、高畑副官にも、浅井中尉にもある。
河床道の一角に、身を潜めたまま、敵陣地内の模様を案じていた前軍医のところへ、人影が一つ、背後の密林から駈《か》け出てきた。
聯隊《れんたい》本部付の、石川中隊長とは同姓の石川中尉である。石川中尉は以前福島大隊で中隊長を務めていたので、前軍医はよく知っている。
石川中尉は、前軍医をさぐりあてると、
「聯隊本部から、連絡にきたのです。様子を知りたいのです」と、いう。
「突入隊は、苦戦している模様で、早く救援の処置をとってもらわないと、全滅すると思います。その旨《むね》を伝えてください」
「大隊砲を撃ち込むにしても、敵味方の識別がつかんでしょう。かまわず突っ込むにしても、この河床道を越えきれるかどうかです。トーチカが、ぎっしりと、こちらへ向いています」
前軍医と石川中尉が、緊迫した表情で話し合っていると、
「こちらへだれか、脱出してきます」
と、傍らの兵隊が叫ぶ。
みると、敵陣地の一角、前軍医の位置からみると、北方の密林中から、だれかが、弾幕に追われながら駈け出てくる。やられるぞ、と案じたが、うまく弾幕を避けて、みるまに、こちら側へ駈け寄ってくる。前軍医が、立って手を挙げる。近づいてみてわかった。第十中隊長の宮沢中尉である。生き残って、脱出してきたのだ。
宮沢中尉は、前軍医の傍らへ飛び込んでくると、束《つか》の間《ま》、呼吸を整える。
「突入隊は、このままでは全滅する。連絡に出ようとすれば必ず撃たれる。だれも、脱出しない。それで、自分が出てきた。トーチカの銃弾の下をくぐりながら、必死に駈けた。よく脱出できたものだ」
宮沢中尉は、先に、それだけをいい、つづける。
「突入したのは、暗いうちだったが、じきに夜が明けはじめた。敵が狼狽《ろうばい》しているうちは、われわれは面白いように敵兵を追い廻《まわ》し斬《き》り伏せたが、ふと気づくと、戦車に敵兵が乗り込んでいて、動きはじめた。逃げ惑った敵兵も、トーチカの中へもぐり込んで、こちらへ撃ち出してくる。明るみがさしはじめると、みるまに明るくなり、たちまち突入隊は不利になり、攻守所を変えた。われわれは、戦車と敵の銃撃をうけて、それぞれに、敵のつくった壕にもぐり込んで応戦をつづけた。がんばっていれば、救援が来ると思った。しかし、応戦しているうちに、救援隊の進入できる余地はない、と思えてきた。とすれば、どこまで応戦して持ちこたえられるか。時間の問題だ、と思えた」
呼吸が苦しいので、きれぎれに告げる。宮沢中尉の言葉から、事情が、はっきりとみえてくる。
「戦車は、途中で動き出したのですか」
前軍医は、なにを、どう、問うてよいかわからない。心配なのは、時を追うて、死傷者がふえるだろう、ということである。
「はじめに、戦車を鹵獲すればできたろう。だが、戦車は戦車の扱いを知らねばならん。手榴弾で、破壊しておけばよかった。結局、戦車は放置したことになる。突入した時、敵は、防禦態勢にうつりかけていたこともある。――とにかく、自分はこれから中隊を掌握します。まだ森の中から出て来ないのですか。敵陣内のことは、河床道で待機している人たちにも伝えてください」
宮沢中尉は、とり乱しながらも、密林沿いに駈け去ってゆく。
(機関銃隊の田中中尉も突入したはずだ。ほっておけば全滅の中に加わるのではないか)
と、前軍医は案じたが、どうしようもない。傍らにいた兵隊に、河床道にいる人たちに、事情を伝達してもらうように命じて、発《た》たせた。
敵陣地内の銃声は、おさまったかと思うと、また激しくなる。突入隊が、死傷を重ねながらも、必死懸命に抗戦している様子が、その銃声からもうかがえた。
宮沢中尉が伝えた敵陣地内の状況は、浅井中尉と高畑副官の待機している壕にも、伝達されている。両者は、予想していた通りだ――という、暗い表情を見合わせることになったが、後続の各隊が集結しなければ、手の打ちようはない。白昼、河床道を前進すれば、射的を狙《ねら》うように掃射される。しかし、河床道を越えるほかには、突入隊を救済する方途はない。
その突入隊にしても、砲声は消え、銃声が散発的にするだけである。突入隊の抵抗が絶えたのかどうか、察しようがない。じりじりと、いら立たしい刻が経《た》ってゆく。
さして、時間が経ったわけでもなかったが、ふいに、敵陣地内で、濛々《もうもう》と黒煙があがりはじめている。なんの煙かはわからない。その黒煙が天を焦《こ》がすにつれ、敵陣地内の物音が、刻々に低まり、じきに、まったく、熄《や》んでしまった。
「おかしい。なにをしているのだ?」
「敵は、撤退するのではないか。サンジャックと同様だ。平地での防禦戦は不利とみたのだ。密林を迂回《うかい》して攻められるかもしれぬし、暮れれば夜襲されるとみたろう」
浅井中尉と高畑副官が話している間も、黒煙はますますあがり、陣地はひっそりとしている。
すると、その時、敵機が二機、敵陣地の上へ飛来して来て、陣地の上を低空で舞い、舞いながら、しきりに銃撃をくり返し、そのまま、南方へ飛び去って行った。
あとは、深閑としている。
宮沢中尉が、密林中から、隊伍《たいご》の先頭に立って走り出てきた。宮沢中尉は前方の気配をみると、
「敵は逃げたぞ」
と叫び、叫びながら、河床道をまっしぐらに駈けはじめる。隊伍がつづく。敵からの応射は、まったく、ない。
宮沢隊とともに、待機していた浅井中尉らも、懸命に駈けはじめている。突入隊の抵抗が終熄《しゆうそく》したのだ――という、暗い不安に引きよせられて、だれもが走りつづけた。
宮沢隊をはじめ、一行が、敵陣地内に駈け込んだ時、かれらは陣地の一端で、一様に、立ちつくすことになった。
人影は、まったくない。
戦いは、すべて終わっていた。
突入隊の遺体は、いたるところに散乱し、しかも、黒焦げになって、まだ、ぶすぶすと燻《くすぶ》っている。撤退に際し、敵は、遺体にガソリンをかけて、これを焼き、さらに二機の戦闘機が飛来して、銃撃をくり返し、完膚なきまでに、突入隊を叩《たた》いたのである。遺体は、単に焼かれただけでなく、戦車に縦横に踏みしだかれた形跡が、顕著にある。
「なんでここまでやるのだ。これがかれらの戦いのルールか」
浅井中尉が、暗澹《あんたん》とした面持《おももち》で、高畑副官にいう。
サンジャック戦では、このようなことはなかったが、あれは山上陣地であり、しかも、撤退を急いだからだろう。このカングラトンビ陣地では、遺体は、被服はむろん焼け尽きているし、遺体そのものは黒焦げの上に火ぶくれもしているから、だれの遺体か、識別するのに苦しまねばならない。
「大隊長殿は、生存していられます」
陣地内の、あちこちを見廻っていた兵隊たちの中から、声があがった。
浅井中尉らが駈けつけてみると、大隊長の福島少佐は、左肩に戦車砲弾の破片を受けて重傷だったが、ともかく生存していて、さっそくに前軍医の応急処置を受けている。大隊長は、負傷の時、たまたまそこにあった壕内に転げ落ち、生きのびたのである。稀有《けう》の幸運といわなければならない。
第十一中隊長石川中尉は、台地の中央部で、頭部に被弾して戦死、まわりに十数名の部下が、散らばって死んでいた。石川隊の先頭を走った稲原少尉は、陣地の最奥部《さいおうぶ》で、左大腿部に貫通銃創を受け、その遺体のまわりに、稲原小隊の兵隊が三、四名死んでいる。
大隊長に随行した第三機関銃中隊長の田中中尉は、前軍医の案じた通り、戦車砲の直撃を受けて、山本少尉とともに戦死している。
突入隊は、ともかく全滅したのである。
あとは、死者を一人ずつ識別し、氏名を確認し、これを葬《ほうむ》っていかねばならない。それに、生存者が、大隊長のほかに、まだいるかもしれない。
戦死者の検屍《けんし》と識別には、前軍医、土屋衛生曹長のほか、本部、中銃隊の代表が出て手伝い、遺品係、遺骨係も出なければならなかった。
前軍医は、拷問《ごうもん》にかけられる気分で、検屍を行ってゆく。遺体は、一体ずつ、所属隊名と階級氏名が呼びあげられ、前軍医は負傷個所を調べて告げる。検屍を終えると、下士官が、軍刀で片腕を切り落とす。片腕を失った遺体は壕《ごう》に埋められる。片腕は焼いて遺骨にする。
こうした作業の間も、敵に対する警戒兵の配置も、怠るわけにはいかない。
重苦しい、時間だけが過ぎてゆく。
死者の識別を行っている時、
「軍医殿、この遺体は生きているようです」
という、あわてた声があり、前軍医が行ってみると、それは沢井少尉で、前軍医は手をとって診《み》て、
「おお、生きている。失神しているのだ」
と、即坐にいった。
「沢井少尉は、どこにいたのだ?」
「壕の中に埋もれて、わずかに身体《からだ》の一部が出ていたそうです。北野少尉殿がみつけました」
北野少尉は、第十二中隊で、沢井少尉と同期である。
「戦車が踏みつぶしたのだな。しかし、必ず助かる」
前軍医の懸命な手当が功を奏して、まもなく、沢井少尉はわれに返った。まわりから、だれもが、沢井少尉の名を呼ぶ。すると沢井少尉は、その場における自身の状態と、同時に、自分が失神するまでの戦闘のありさまを、一瞬にして思い返したのだろう、ふいに、激しい号泣をはじめた。そうして、それは、なかなかにやまなかった。言葉にいえぬつらさが号泣になる。
「もう大丈夫だ。沢井少尉。元気を出せ」
と、前軍医は励まし、自分もまた気力の加わる思いで、つぎの遺体に対した。
息苦しい作業は、その日じゅうつづき、夜になり、夜っぴて、懐中電燈《でんとう》をたよりに作業をつづけ、翌八日の明け方になって、ようやく、突入隊の遺体処理を終えることができた。
戦死 六十八(内石川隊四十三)
担送 四
独歩 なし
つまり、大隊長と沢井少尉のほかに、さらに二名の生存者(非常な重傷で後送途中に死ぬのではないかと懸念《けねん》された)を数えたのみで、文字通り、全滅である。
福島大隊は、インパール突入を前にして、償いがたい大きな痛手を負うたことになる。
大隊本部は、二十五名中、大隊長ひとりが生き残った。
前軍医は、終始、戦死者の検屍につきあったが、
(軍医になったおかげで、人よりも多く、なんという悲しいつとめをさせられることか)
と、深く嘆いた。
ことに、石川中尉の検屍をする時は、胸のうちで、哭《な》き哭き、その冥福《めいふく》を祈っている。前軍医は、石川中尉に対しては、格別の思いがあったからである。
兵団「祭」――は、昭和十三年に編成されて、編成後まもなく渡支、南京《ナンキン》付近の揚子江《ようすこう》岸地帯の警備につき、武漢作戦から、浙〓《せつかん》作戦にいたる、多くの作戦に出動している。その間、歩兵第六十聯隊《れんたい》は、その拠点を、安徽《あんき》省蕪湖《ぶこ》、当塗、湾址《わんし》、荻港《てきこう》等に置いていた。
昭和十六年の一月、新任の前高英軍医少尉は、蕪湖にあった聯隊本部医務室に着任したが、着任後三日目に、水陽鎮付近の戦闘で負傷した、第十一中隊長石川虎之助中尉の手当のために、現地へ出張している。それが、前軍医が、石川中尉をみたはじめである。
そのときの石川中尉の負傷は、右大腿部《みぎだいたいぶ》軟部貫通銃創で、石川中尉は、前軍医が、挨拶《あいさつ》をしてから治療をしようとすると、
「やァ、どうもご苦労さん。こんな負傷の手当に、わざわざ軍医が出張してくれたのか。すまんなァ。ヨーチンでもつけといてもらうか」
と、磊落《らいらく》に笑っていった。石川中尉負傷――の通報で、聯隊本部が直ちに軍医を派遣したのは、これはむしろ石川中尉に敬意を表することに意味があったのである。衛生兵の手当でもすむ負傷であることは、電話連絡でわかっていたのだ。つまりそれほど、聯隊にとって、石川中尉は大切な存在だったのである。
この時を境にして、前軍医は、周囲から、石川中尉の人物についてきかされることになったのだが、石川中尉は、単に一中尉の階級でしかないのに、実際には、歩兵第六十聯隊の性格そのものを、身に象徴具現していたといえる。祭――という、ごく人間味に富んだ軍隊集団の、良い部分を結実代表するものが、この石川中尉にはあったのだ。それを、周囲から、敬し愛されたのだ。たぶん、中隊長としては、支那《しな》派遣軍を通じて、十指を以《もつ》て数える中に入れたい、すぐれた人材だったといえるのである。
前軍医は、着任の翌月には、第三大隊付を命ぜられたので、第十一中隊長を務めている石川中尉とは、自然に親近感を深めることになった。軍医というのは、軍隊の中における地方人のようなもので、相当自由な眼《め》で、軍隊内部を見渡すことができる、特殊な立場を与えられている。
石川中尉が、予備士官学校の第一期生であり、特別志願をした準現役の将校――であることも、前軍医は、大隊本部へ移ってから知った。虎之助だから、通称を「虎さん」と、兵隊までが蔭でそう呼ぶのは、隔てのない親密感を示すものである。石川中尉は、軍歴のはじめを、静岡の歩兵第三十四聯隊の一員として各地で活躍し、もちろん金鵄《きんし》勲章を持っていた。実戦派の軍人だが、この人は、
――いかにすれば部下を殺さずに戦えるか。
ということだけを信条としてきている。いちばん部下を殺さぬ方法は、戦う前に、慎重な状況判断を行うことである。そうして、やれる、と決断したら、攻撃できる一瞬のチャンスに身をあずけるように挺進《ていしん》して、そのチャンスを生かすことにあった。
「敵を完全に包囲してこれを叩くな。こちらも無益な犠牲が出る。退却路をつくって、逃げるところを叩け」
というのも、石川中尉の口癖だったし、
「言に従わずとも、意に従え」
といい渡して、小隊長分隊長における、臨機の処置に期待をしていた。だから、いかなる戦闘にも、負けたことがないし、また死傷も最小限にとどめてきた。となれば、石川中尉に、人気の集まるのは当然である。その上、親分肌《はだ》で、部下の将校や下士官兵を、すべて「うちの子」と呼んで愛した。静岡の農村出身の朴訥《ぼくとつ》な模範青年を、そのまま軍人にしたような印象だったが、それでいて、よく人情の機微をかみわけている。昭和十五年一月に、静岡市で大火のあった時、石川中尉は静岡出身の部下石原巳代治兵長を呼んで「お前の家は母親ひとりだろう。きっと困っている」といって、見舞に、当時としては大金の百円を与えた。この石原兵長たちが、現役満期で十六年に除隊する時、石川中尉は、内地帰還する者全部に「惜身命」と揮毫《きごう》した書を与えている。つねに橘《たちばな》中佐を亀鑑《きかん》として来た人らしく、真に散るべきときのための「惜身命」だったのである。
石川中尉は、昭和十五年に、蕪湖の聯隊本部の幹候隊の初代の教官を務めたが、この時の教え子である浅井少尉、高畑少尉らは、第三大隊の小隊長をつとめていたので、前軍医は、折にふれて、この二人の少壮将校が、石川中尉に心酔しているさまを耳にしている。
かれらはよく、こういった。
「士官学校出の将校は、それぞれが、自分が目標として選ぶべき先輩を、実にたくさん持っています。しかし、幹候の将校には、そういう先輩はないのです。ただ、われわれは幸い、石川中尉をみています。石川中尉そのままを学べばよいのだと、ずっと思って来たし、これからもそうするつもりです。この点、ずいぶん恵まれていると思います」
昭和十七年の四月末から浙〓作戦がはじまったが、この作戦が終わってまもない十月に、それまでの第三大隊長梶山少佐が交代して、福島大尉が赴任してきた。この一事は、軍隊内部のできごととしてみれば、たぶん二、三行の聯隊命令でいい尽きてしまうことにすぎないだろう。しかし、カングラトンビで、凄惨《せいさん》にして劇的な石川中隊の全滅をみるにいたった遠因を、もしたずねるとしたら、あるいは、この、大隊長交代時に、その原点があったかもしれないのである。
福島大隊長が赴任してきた時、大隊内部の将校間に「困った人が来たな」という噂《うわさ》の流れるのを、前軍医は何度も耳にした。前任の梶山少佐は、士官学校区隊長から大隊長に転任してきたのだが、操典通りの戦闘指揮をして柔軟性がなく、実戦馴《な》れのした将校たちを困らせたが、何度かの作戦に揉《も》まれるうちに、次第に安定した指揮をとれるようになっていた。ところが、福島大隊長はその梶山少佐よりも、はるかに規格品だったのである。
といって、福島大尉が、軍人として優秀でなかったというのではない。福島大尉は、一兵卒から昇進してきた。むろん少尉候補者の審査をこえて将校になったのだが、少尉候補者の試験というのは、すさまじく狭き門である。それを同期のトップで出たのだ。年齢三十六歳。石川中尉より八歳多い。小柄《こがら》だが、がっちりして、前軍医は、はじめて大隊長をみた時、小学校の級長がそのまま大人になってチョビ髭《ひげ》を生やした、そんな感じだ、と思った。頭がよく、任務には忠実、上級者の意図を汲《く》んで絶対に服従し――となると、典型的な昇進官僚型の軍人像が出来てくる。従って、上級者の眼からみれば、一点非の打ちどころのない大隊長であり、大過のない限り進級が待っているのだった。
しかし、この人の部下になる将兵の立場になってみると、どうしても、不安と不満の情を拭《ぬぐ》えなかった。なぜなら、戦場における部隊長は、部下にとって、よき指導者、監督者であると同時に、なによりもよき庇護者《ひごしや》であってほしかった。それでなくては、安心して戦えないのだ。下級の将兵は、敵と、もう一つ、無謀で苛酷《かこく》な命令を出してくる味方の中の敵――を持っている。上級指揮官とその命令系統である。この場合、直属の上官が、人間的に深く厚い心情を持っていてくれると、下級者は、かりに、無謀で苛酷な命令によって泣き泣き戦闘をするときでも、おのずから、慰撫《いぶ》され、激励されるものを覚えるのである。
福島大隊長は、公平にみたところ、たとえ、部下に不当な犠牲を出しても、目立った功績を上げて上長の者の気に入られたい、という意欲だけに燃えているようにみえた。大隊の将兵たちは、それを、敏感に、皮膚感覚の上で読みとったのである。ただ、福島大尉にも、同情すべき余地はあった。それは、第一、第二大隊長ともに、士官学校出身の現役の少佐だったことである。それに蕪湖当時の聯隊長の倉橋大佐は、陸士の古参で、充分な戦勲を持っていたのだ。こうなると、福島大尉は、兵隊上がり――の名誉にかけても、他の大隊長には負けたくない、ある種の悲壮な気構えを固めざるを得なかったのだ。
軍医――という中間地帯にいるおかげで、前軍医少尉は、大隊長の立場も、将校や兵隊たちの立場も、同時によくわかった。そうして、大隊の空気が、大隊長の人間性の冷たさを敬遠して、かわりに、石川中隊長の人間性のあたたかさへの信頼に傾いてゆくのをみた。聯隊最古参の一人である石川中尉は、ほとんど大隊長なみの存在価値があった。自分ではともかく、周囲が、暗黙にそれを認めていたのだ。
福島大隊長にしても、何ヶ月かのうちには、自分と石川中尉との比較が、部下の間でどのようになされているかは、それとなしに悟らざるを得なかったろう。今までの梶山少佐にしても、どんな小さな討伐でも、石川中尉の意見をきかずしては、行動を起こさなかった。判断に狂いがないからである。もし、福島大隊長が、石川中尉に優越している点があったとすれば、それは、石川中尉には、進級の道が絶えていたことである。石川中尉は、少なくも二つの、大きな負い目を、その来歴の上に持っていた。
そのうちの一つは、中隊の分屯地《ぶんとんち》の一つである黄池鎮で、分屯隊長の一准尉《じゆんい》が、警備地区内の川を上下する民船から私税をとって遊興の資にしていたが、これが発覚して、准尉は軍法会議に廻され、当然、直属の上官である石川中尉にも、譴責《けんせき》の処分が来たのである。これで、石川中尉の進級序列は、師団の最下位に落ちたのだ。
もう一つは、浙〓作戦で、金華を陥《お》とし、蘭谿《らんけい》への攻撃に移ったとき、蘭谿の外周にある山岳地帯の敵の拠点の一つ百炊尖《ひやくすいせん》――を、命を受けて占領した時のことである。ここは海抜五百メートルほどの山だが、敵を追い散らして占領はしてみたものの、戦略的にはほとんど価値のない山上陣地だった。前面にはもう一つ高聖尖という山があって、ここでは激戦が行われて他隊がこれを占領した。従って百炊尖は、忘れられ、放棄してしまってもよい陣地だ、と思って、石川中尉は独断で、部下をまとめて山を下ったのである。つまり石川流にいえば、聯隊長の「言に従わず意に従う」ことだったのだ。どうしても、それが正しいと思えたのだ。目的は、蘭谿への突入にあったはずである。本隊とともに、有意義な戦いを戦わねばならぬ、と思ったのである。ところが、この石川中尉の独断撤退は、いたく聯隊長倉橋大佐の怒りを買い、爾後《じご》、隊内で進級や異動のある際に、つねにとり残される石川中尉のことを、他の将校たちは「百炊尖がたたっているのではないか」と噂をしたものである。
だが、石川中尉が、万年中尉の中隊長でとどまっている限り、石川中隊の将兵にとっては、これは恵まれたことになった。何年も、同じ模範的な中隊長とともに、起居行動をすることを得たからである。この中隊長となら絶対に大丈夫だ――という信念通り、いかなる作戦や討伐においても、石川中隊はよく団結して、もっとも少ない犠牲をもって、その場その場を切りぬけてきたのである。――少なくも、のちのち、カングラトンビで、痛ましい全滅を喫するまでは、である。
前軍医は、軍医としての緩衝地帯にいる立場で、大隊長とも接し、将校連中ともつき合いしているうち、次第に、
(大隊長と石川中尉との間に、いつか、なにかが起こるのではないだろうか)
という、一抹《いちまつ》の気がかりを抱くようになった。大隊のほとんどの将校は、上層部の意向をうかがうことを自身の生き方の基準としている大隊長よりも、つねに部下を中心にしてしか物事を考えない石川中尉に、ますます信頼を置きはじめている。つまり、石川中尉は、将校群の先頭に立たされて、大隊長に対しているのである。むろん、軍隊は階級差によって事が決するから、まず、目に立つ争いのようなことは起きないが、しかし、眼にみえぬなんとなしの危機感のようなものは(生死にかかわる生活をしているのだから)次第に増大してゆくのである。
もっとも、こういうこともあった。前軍医が、南京へ、集合教育を受けに一ヶ月間出向いた時、他部隊に召集されている縁辺の知己と顔が合って、一夜、町で飲んだが、その時たまたま、相手が、福島大尉が豊橋《とよはし》の予備士官学校の区隊長の時の教え子であることがわかった。彼は、その時、福島大尉について、こういった。
「あの人は、ほんとに立派な区隊長だったな。温厚だし、それに慈悲深い人柄《ひとがら》なのだ。学生はみなあの人を慕ったものだ。そうか、お前はいい大隊長の下にいられて仕合せだなァ。帰ったら、どうかよろしく、伝えておいてくれんか」
なるほど――と、そのとき前軍医は、人間は、その置かれる立場によって、こうも違った評価を受けるものか、と、それを感心してきいたのである。つまり、福島大尉は、戦場外の、軍隊教育の場に置けば、教育者としてのみごとな人格を、学ぶ者たちに示したのだ。
祭兵団は、昭和十八年の五月に、警備地を鵄《とび》兵団(第六十一師団)にゆずって、ビルマへの旅に発《た》った。呉淞《ウースン》で二ヶ月間上陸訓練をしたが、この間に、福島大尉は少佐に進級している。ピカピカの襟章《えりしよう》をつけて、なんともいえぬ満足げな表情で挨拶廻《まわ》りをしている大隊長をみて、前軍医は、軍人として大隊長が喜ぶのは当然、と察しながらも、そこになにか、部下として素直にその喜びに同調できないものを覚えている。その武勲と人間性と、そして周囲からの信頼を集めながら、なお進級には縁のない石川中尉のことを、比較して思わずにはいられなかったからである。
歩兵第六十聯隊は、その後、タイのチェンマイに赴き、チェンマイからビルマ中部のトングーにいたる、道路建設作業に従事することとなった。海抜千メートルを越える山々を縫って、直線距離で約三百キロにわたる行程である。先着の工兵聯隊長は、この道路工事はいかに急いでも一年半はかかる、と断定したが、総軍は、工兵二個聯隊と歩兵一個大隊で二ヶ月もあればできる工事、という偵察《ていさつ》隊の報告を鵜呑《うの》みにして、あけくれ工事を急がせた。ろくな給養もなく、いくら急いでも、いつ終わるとも見当もつかない工事に、兵隊たちは追い廻され、次第に疲れ果てて行った。
こうした時、福島大隊長は、自ら先頭に立って兵員を叱咤鞭撻《しつたべんたつ》した。大隊長にとっては、兵員の苦労を考えるよりも、工事の進捗《しんちよく》と、それによって上司にその成果を認めてもらうことを目的としたのである。これにくらべると石川中尉は、全く逆の立場をとっていた。
「兵隊はひどく疲れていますから、その能力に合わせた、作業量や作業方式を、根本から考え直してやる必要があると思います。無理押しをしても、能率はあがらないのです」
石川中尉は、大隊長にそう進言した。中隊長たちは、ほとんど大隊長の近くに寄りつかなくなっていたし、こうした無言の抵抗ぶりをみて、石川中尉としては、黙っていられなくなったのである。すると、大隊長は、
「やる気がないのなら、やめたらよい。お前ひとりおらなくとも工事に差し支えはない。一中隊長の分際で、軍命令をなんと心得ているのか」
といって、衆目の前で、口をきわめて石川中尉を叱責した。そうして、そのとき以後、石川中尉は、いかなる場合にも、余分な意見具申はしなくなった。それをしても無益であることを、身にしみて知ったからである。
ところが、この道路工事が、まだ中途半端《はんぱ》の時、軍は、インパール作戦の発起にともなって、祭兵団を急遽《きゆうきよ》ビルマへ向かわせた。そうして祭は、まだ充分には整わぬ劣勢な兵力をもって、三月十五日の夜、チンドウィン河を渡ったのである。
いったん異郷の戦場に入ると、身辺に、ひしひしと切迫するものを感じるとみえ、大隊長は用心深くなった。ジャングル戦では、先に敵を発見したほうが勝つ――という原則があるが、それに忠実のあまり、偵察に重点を置きすぎ、大隊は、つねに遅れをとることが多くなった。その上、何かあると中隊長を身近に集め、相談をし、自らは決断をせず、中隊長同士の会議に任せる、という方法をとった。もし大隊長が、いかなる場合にも、この、中隊長たちの意見を重視する――という態度を守ってくれてさえいれば、カングラトンビにおける、無謀な突入は控えたはずであった。
けれども、大隊長は、中隊長たちが、とくに石川中尉が、必死の思いをもって、その決行を思いとどまらせようとした七日未明のカングラトンビ突入を、その時にかぎって、なぜか、別人のごとき強硬な態度で、命令したのである。
命令された以上、尖兵《せんぺい》中隊である石川中隊は、突入しなければならない。しかし、突入の機は、すでに遅きに失している。一分でも早く突っ込まねば――そう思って、石川中尉は、先に立って敵陣に斬《き》り込んだのである。初戦以来、負けることを知らぬ石川中尉も、その時には、
(これは、かつてない悪い戦いだ。ひどい犠牲を出すかもしれない)
と、血涙のにじむ思いを、敵陣内に駈《か》け込む瞬間に、身に覚えたに違いないのである。
そうした、石川中尉の心情を察しつつ、前軍医は、満目荒涼としている、カングラトンビ陣地の、戦いの跡をみつめることになったのであった。
患者たちは、夜が明けてから、後方の野戦病院へ担送されて行った。
宮沢中尉のほかには、大隊長をはじめ、中隊長全部を失った第三大隊は、いいがたい沈痛な思いの中に落ち込んでいた。第三大隊は、その戦力の半ばを失った、といってよいほどの痛手を受けたのだ。それほど、石川中尉と石川中隊の消滅はこたえたのである。
この日の昼間、前軍医が、陣地の片隅《かたすみ》で小憩し、水と乾パン少々の遅い朝食をとっていると、宮沢中尉がやってきて、つぎのような話をしてくれた。
「沢井小隊は、最後まで、大隊長の援護をしていたらしいな。おれは昨夜、沢井少尉の看護をしながら、つききりでいたが、それで、ときどき断続して話すのをきいて、ほぼ様子がわかった。おれは、全滅直前に脱出してきているので、どうしても、その後の様子を知りたかったのだ」
前軍医も、全滅の事情には、深い関心を覚えた。前軍医は、その時もなお、福島大隊長と石川中尉の、もつれ合う影のようなものを、瞼《まぶた》の奥にかんじている。この両者に、もし確執があったとすれば、その確執の解決の場は、カングラトンビ陣地の敵の戦車に射すくめられている極限の世界の中に、あったはずである。とすれば、その結末は、どうだったのか。
「沢井少尉は、大隊長と一緒に壕《ごう》の中にいたのだ。ほかに朝比奈曹長《そうちよう》と、下士官兵五名がいた。朝比奈曹長と兵隊三名が戦死し、沢井少尉は両くるぶしをやられていて動けない。敵はいよいよこちらの壕に接近してくる。この時大隊長が、沢井少尉にこういったそうだ。部隊がこれだけ勇戦しているのに、その状況を知られないままに全滅するのはいかにも残念だ。自分がここからの脱出に成功すれば、この模様が報告できる。――そうして大隊長は、破甲爆雷を、沢井少尉に渡したのだ」
大隊長が、なぜ破甲爆雷を持っていたのか。――それはともかく、自分が脱出する、といい出した、そのときの大隊長の表情動作が、稲妻のように前軍医の瞼の裏を過ぎた。そうか、わかった、そうだろう、それなのだ、おれたちが長い間いいたかったことは――という思いである。前軍医は別に、大隊長の、昇進官僚的保身術を責めたのではない。六十八体の遺体確認をしてきた前軍医にとっては、もはや、人間一個ずつの弱さも醜さも、これを改めて咎《とが》める気力は、その時には失《う》せていたのだ。ただ、思い当ることのみ多く、しきりに悲しかっただけである。
「それで、大隊長は、脱出を実行したわけだね」
と、前軍医はいった。
「下士官二名と、一緒に飛び出した。飛び出すと同時に、三名とも撃たれた。二名は死に、大隊長は、肩に負傷して、うしろの壕に転がり込んだ。脱出はできなかった。しかし、結果的には脱出できたことになる。カングラトンビからではない、このアラカン山脈からだ」
宮沢中尉は、複雑な表情でそういってから、
「それにしても、石川さんは、かわいそうな人だったな。おれは、この人は、悲しい軍神――だと思うんだ」
と、いった。
前軍医は、うなずいてから、いった。
「石川中尉は、中支で、討伐に出る時、おれが死んだらこれをかけてくれ、と部下にいって、一瓶《ひとびん》の香水をいつもポケットに入れていたそうだ。死臭をかがせたくない、というつもりだったのだ。ゆうべ、石川中尉の遺体を前にして、おれはそのことを思い出したよ。つらかった。かりに石川中尉が、いまその香水を持っていたとしても、それをかけてくれる部下は、一人もいなくなっていたんだからな」
「石川さんがこんな状況で死ぬようでは、もうこの作戦は勝てんかもしれんなァ」
宮沢中尉は、そういって嘆息した。
福島大隊が、カングラトンビへの夜襲を決行した時、松村部隊本部は、カングラトンビから約四キロほど後方に、位置していた。前面には、福島大隊の行動を阻害した密林地帯がある。
松村部隊長は、四月六日夕刻に、本道上に一部兵力を残置して、カングラトンビ攻撃に出発した、福島大隊の模様を案じていた。その成功を祈念しつつ、夜明けを待っていた。
翌七日未明に、夜襲部隊の方向から、微《かす》かに銃声がきこえてきた。
昨夜来、無線の連絡は絶えていた。
銃声は、大隊のカングラトンビ突入を教えているが、連絡がないので、様子がわからない。そこで、連絡に、本部付の石川中尉を派遣した。
銃声は、いつまでもつづき、七時ごろには、銃砲声が激しくなっているのが、微かながらもきこえてきた。
「部隊長殿。戦車砲の砲声ではありませんか」
と、傍《かたわ》らで、副官の斎能大尉にいわれ、松村部隊長は、不安のたかまってくるのを、制しきれなかった。地隙の脇《わき》の台地上に上がってみたが、密林地帯が邪魔をして、双眼鏡の視野には、何も映ってこない。
さらに、連絡将校を出した。なぜとなく、不吉な予感を覚えるのである。
不安のたかまる中へ、はじめに連絡に出た石川中尉がもどってきた。
「福島大隊長殿以下、突入隊は、全滅に瀕《ひん》している状態です。突入隊を救援するにも、地形の不利もあって、思うに任せぬようです」
松村部隊長は、その報告をきいて、あとを副官に任せ、直ちに兵力の一部を率いて、前線へ急行したが、途中、つぎつぎにもどってくる連絡将校や、伝令は、カングラトンビで、大隊長以下が全滅に瀕している、という、悲報を伝える。
松村部隊長が、カングラトンビに到着した時は、すでに、敵が撤退したあとであった。
松村部隊長は、眼《め》を蔽《おお》う惨状に胸を痛めながら、重傷の身を寝かされている福島大隊長の手をとり、その敢闘に謝しながら、委細の報告を受けている。
第十一中隊長石川中尉、第三機関銃中隊長田中中尉、大隊砲小隊長馬場中尉、石川隊第一小隊長稲原少尉、さらに第九中隊の原田少尉、山本少尉以下六十八名の死者の名をききながら、松村部隊長は、暗然として涙を呑《の》んでいる。
しかし、カングラトンビで戦いは終わったわけではなかった。
さらに、けわしい前途に向けて、進軍しなければならなかった。松村部隊長は、応急の処置として、後送される福島大隊長に代えて、副官の斎能大尉を大隊長に命ずることにし、とりあえずの大隊のまとめを、第十中隊長宮沢中尉に命じている。
翌八日。兵団司令部は、本多挺進隊《ていしんたい》を、松村部隊に配属させる旨《むね》を命じている。松村部隊の戦力の低下を案じたのである。松村部隊長にとっては、まことにありがたい戦力の補充であった。
ミッション橋を爆破し、インパール=コヒマ道の遮断《しやだん》任務に努めていた本多挺進隊は、カングラトンビ北側地区の本道上を確保すべき命を受けて、ミッションを出発している。
四、センマイ高地の戦い
内堀大隊(左突進隊・第二大隊)は、カングラトンビ東方山地内をたどって、四月六日に三八一三高地を夜襲して、これを占領している。少数の敵がいただけである。
福島大隊の、カングラトンビ陣地への夜襲がはじまったのは、その直後である。
夜が明けはじめると、はるか眼下に、カングラトンビ陣地で戦う、福島大隊突入隊の様子がよくみえた。この三八一三高地からは、カングラトンビはむろん、インパール河とインパールへの軍公路を含む、あたり一帯の景観が一望に見渡せる。
前面の南方には、約三キロの尾根を経て、センマイ高地が望める。センマイ高地は、山の団塊が三つ、重なり合うようにして望め、敵が、インパール防禦《ぼうぎよ》の最終陣地として、堅固な防禦施設を講じているものである。このセンマイ高地を占領すれば、あとは、インパールまで、わずか十キロほどの平地がつづくのみである。内堀大隊は、このセンマイ高地占領の意図のもとに、三八一三高地の占領を終えたのだが、山上から、カングラトンビの戦闘の模様が俯瞰《ふかん》できようとは思わなかった。しかも、苦戦に喘《あえ》ぐ、友軍の戦闘の模様を――である。
内堀大隊本部の古川軍医は、福島大隊の突入隊が、次第に苦戦に陥《おちい》ってゆくさまを、痛ましい思いで、みつめていた。
敵が、陣地を築いている開豁地《かいかつち》は、二百メートル四方ほどもある。そこへ、突入隊が夜襲を敢行し、銃声が入りみだれた。暗いうちは様子がわからなかったが、夜が明けはじめると、敵の戦車三輛《りよう》が円陣をつくって、突入隊を背後から水平砲撃しているさまが、手にとるようにわかる。その戦車群に対して、突入隊の決死隊が立ち向かってゆくが、砲撃されると、砲煙と土煙の中で、被弾した兵隊が、宙に跳ねあがるのがみえる。すでに、点々と、死屍《しし》の横たわっているのがみえる。
古川軍医と並んで、状況をみていた第二機関銃中隊長の名取中尉《ちゆうい》が、双眼鏡をあててカングラトンビ突入隊の苦戦ぶりに見入っている大隊長に、
「大隊長殿、このままだと、突入隊は全滅します。救援隊もいないようです。こちらで、大隊砲を撃ち込みたいところですが、敵と突入隊とが入りまじっていますから、むつかしいでしょう」
と、いった。
大隊長は、静かに双眼鏡を外すと、いかにもつらそうな表情で、名取中尉にいう。
「われわれの兵力は、わずかに三百余りだ。これでセンマイ高地を占領せねばならぬ。センマイは、サンジャックよりも強固な陣地を築いているだろう。いまは、一兵も惜しい」
かりに、大隊砲を撃ち込めば、戦車の一輛や二輛は擱坐《かくざ》させ得るかもしれぬが、戦車は、突入隊を蹂躪《じゆうりん》したあと、三八一三高地を砲撃してくるだろう。当然、センマイ高地攻撃の計画は、大きく阻害されることになる。
みていると、突入隊は、戦車群に向けて攻撃を反覆するが、まわりからの機銃掃射も受けるので、いたずらに犠牲を重ねてゆく様子がわかる。そのうちに、突入隊は、壕《ごう》の中へもぐり込んだまま抵抗をつづけることを余儀なくされ、戦車群も、陣地内を動きまわりながら、応戦する突入隊を、狙《ねら》い撃ちに攻撃しはじめている。
内堀大隊は、大隊長はじめ全将兵が、暗澹《あんたん》とした思いをもって、戦車群及びグルカ兵によって全滅させられてゆく、カングラトンビ突入隊の模様をみまもったのである。
手を束《つか》ねて、みまもった。それしか、方法はなかった。そうして、大隊のだれもが、前途に、暗い予感を覚えざるを得なかった。センマイ高地を奪取するための戦いが、いかにきびしい戦いになるかを、覚悟せざるを得なかったのである。
本多挺進隊《ていしんたい》は、ミッション橋を爆破したあと、インパール=コヒマ道の確保をつづけていた。あれほど車の往来の激しかったこの道路も、いまは寂しい街道となり果てていた。ただ、夜になると、ミッションからかなり南方に、しきりに車のヘッドライトが点滅し、自動車の動きの激しさがみてとれた。
そのうちに、日本軍飛行隊の空中偵察《ていさつ》の報告が、司令部から本多挺進隊にも通達されてきたが、それによると、敵の自動車廠《しよう》や病院その他物資集積所が、ミッション南方十キロのサタルマイナにあって、敵は、これらの施設や物資を、急遽《きゆうきよ》インパールへ移転するため、自動車群を動員している、ということだった。本多挺進隊のミッション橋爆破により、挺進隊の進出に不安を覚えたのであろう。ミッション橋爆破の、敵に与えた心理的な打撃も大きかったといえる。
本多挺進隊に、師団司令部から電文の命令の来たのは、四月三日の朝である。
“本多挺進隊ハ鹵獲《ろかく》自動車ニ乗車シテ、直チニインパール市街ヘ突入スベシ”
本多大隊長は、この命令を受けた時、原田機関銃中隊長、由里大隊砲小隊長、丸山副官などを身近に呼んで、きいている。
「インパール方向の、敵の動きは激しい。われわれの進攻を恐れて、浮足立っていると思えるかね」
返事はなかった。
ミッションから、インパール市街までは、約五十キロの距離がある。
その手前の飛行場までは、四十五キロある。
日ごと、数十機の飛行機が、インパールの上空を往来している。
松村部隊の福島大隊は、四月三日に、インパールへ向かう街道上に進出してきている。福島大隊は、敵の前線基地の一つであるカングラトンビ攻撃の意図をもって、布陣している。烈兵団の先遣隊は、この時コヒマに突入している。その情報も本多大隊長は得ている。
従って、北のコヒマ、南の福島大隊の布陣している位置とにはさまれているミッションは、現在、防備上安定している。司令部からの命令は、このミッション確保をすてて、インパールへ決死突入せよ、というのである。インパールへ近接するにつれて、街道両側の敵の抵抗は激しさを増し、ことにインパールに近い地点での防衛の火砲はすさまじいであろう。果たして、敵の砲火を撃破して、インパールへ突入し得るのか。
本多大隊長は、部下たちにいう。
「わが部隊は、ミッション橋爆破時に鹵獲した敵の車輛類約四十輛を以《もつ》て、機械化編成を為《な》し、インパールに向けて突進することになる。インパール周辺の敵状は全く不明である。道は舗装された一本の街道のみ。この道以外に道はない。進撃の方法は唯《ただ》一つしかない。装甲車一台を先頭に、トラックに兵員を乗せ、両側に向けては機銃小銃を以て射撃し、時速五十キロ以上のスピードで突進するしかない。命令はただ、突入せよ、ということのみである。命に従って行動するしかない。死力をつくして、インパール攻略の端緒をひらくのは、われわれの本懐であると考えねばならない。むろん、大隊の将兵のすべてが、生きて故国の土を踏むことはないだろう」
「われわれは喜んで、大隊長殿と運命を共にします」
丸山副官が、即坐にそういう。本多大隊長の、言外の意味も、むろん、充分に承知している。行手に待つものは、全滅しかないのだ。敵状はむろん、味方の戦況さえわからず、ただ、突入せよ、という命令だけが伝達されたのである。この作戦に出る時もらった地図さえ、十数年前に作製されたものを、大本営で急ぎ複製したものである。充分な計画――は、もともと何一つなかったのだ。
本多挺進隊の全滅は必至だが、兵団主力が、本多挺進隊の屍《しかばね》を越えて、インパールへ雪崩《な だ》れのごとく攻め入ってくれるならば――という願いは、かすかにある。
本多挺進隊は、ミッションを守備する意味を失ったので、四月六日の夜、インパールに向けて、前進移動をはじめている。攻撃するにしても、態勢を整えねばならない。
この時、松村部隊本部は、カングラトンビ北方の高地に進出していた。
本多大隊長は、兵員を地隙内に隠し、平田准尉《じゆんい》だけを伴って、松村部隊の本部を訪ねた。松村部隊との作戦協定をしておかねばならない。
木立の中の、ひとところの空地に、松村部隊長と数名の将校、それに師団派遣の参謀が一人まじって、蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》を囲んで、作戦会議中であった。
「本多大尉です」
声をかけると、松村部隊長は、
「おお、本多大尉、ここへ」
といって、自分の脇《わき》を空けてくれている。
作戦会議は、カングラトンビの夜襲のほか、インパール=シルチャ道遮断《しやだん》についての、協議がまとまりかけていた。インパール=シルチャ道というのは、インパールの南部から西方へ通じる、インパールへの補給路である。ただ、この道路を遮断するためには、山間部を大きく西方へ廻《まわ》って、シルチャへ向かう道路上へ達さねばならない。口でいうのは簡単だが、非常な難事ではある。
「シルチャ道遮断について、本多大尉はどう考えるかね」
松村部隊長にきかれ、本多大隊長は、やはり、自身の意見を述べざるを得なかった。意見を述べたかったのは、兵団の兵力装備の実態を考えたからである。賛成できない。松村部隊そのものにしても、一個聯隊《れんたい》といい条、内堀大隊、福島大隊の二個大隊である。第一大隊となる吉岡大隊は、弓兵団(第三十三師団)の山本支隊に配属されて、南方のテグノパール、パレル方面の、縦深陣地の攻撃に向かっている。各大隊の兵員も、平常時の七十パーセントがせいぜいであり、兵器の装備は三十パーセントに達するかどうかである。本多挺進隊そのものにしても、タイのランパンを発して以来、実に六千キロを踏破して、弾薬糧秣《りようまつ》不備のまま、この作戦に参加しているのだ。
歩兵第六十七聯隊の瀬古大隊(第一大隊)と北村大隊(第二大隊)は、遠くビルマ北方のシャン州メイミョウ付近に集結中で、本多大隊(第三大隊)だけが、挺進隊としてこの作戦に参加してきている。しかも、四個中隊のうち中西、広岡の二個中隊は、師団にとりあげられてしまい、わずか二個中隊で挺進してきている。それも、出血を重ねながらにである。本多大隊は、チンドウィン渡河時に、四一式山砲、速射砲大隊砲、重機関銃等の重火器の大半を残置して、アラカンの山嶮《さんけん》を越えてきた。祭師団の現有兵力はせいぜい一個聯隊程度、聯隊は一個大隊程度しかない。この現況を無視して、兵力を他に割き、残る兵力で、ただひたすらにインパールに突入せよ、というのか。
「インパールは、たしかに、われわれの目前にありますが、インパール方面は、インパールにつながる道路網が四通八達しております。敵にはきわめて有利です。反面、われわれは山地から平地へ出る隘路《あいろ》口から行動を起こさねばなりません。隘路口からの進出は、隘路口付近において、各個撃破を食う危険が実に多いものです。敵は機械化装備が完全であり、我方は昼間行動不可能な劣等装備です。南の弓兵団の山本支隊が早く隘路口に進出し、祭兵団も隘路口付近に態勢を集中すべきではないでしょうか。この際、シルチャ方面に二個中隊を割くことは、不適当と考えます」
松村部隊長は、すでに作戦意図をきめたあとだし、黙然としていたが、それは師団派遣の成瀬参謀への遠慮があったからだろう。参謀は、冷たい眼《め》で、本多大隊長をみただけである。
(参謀ごときになにがわかるか)――という思いは深く蔵して、本多大隊長は、それ以上は、なにもいわなかった。
本多挺進隊は、福島大隊が、カングラトンビを占領したあと、師団命令の通りに、インパールへ突入することになっていた。それまで、四十輛の鹵獲車輛による、準備態勢をしっかり整えねばならない。
インパールへ突入するためには、少しでも、地形を偵察しておきたい。それで、四月六日の朝、本多大隊長は、伝令の川端兵長ひとりを連れて、前方の状況視察に出向いた。
草地をたどり、松村部隊の布陣している傍《かたわ》らを過ぎると、南へ向かっている稜線《りようせん》がある。
「ここを登ると、見通しがよいと思います」
川端兵長は、そういって先に立ち、本多大隊長がつづく。登るにつれて、視野がひらける。かなり登りつめた時、
「誰か。無断で歩くな。ここは敵の射程圏内である」
と、大声で、どなる声がする。
「本多大隊長殿の視察です」
と、川端兵長が答える。
すると、東方の、木立になっている、その蔭《かげ》から、将校が出て来て、
「本多大尉殿ですか。自分は東条です」
と、いった。
サンジャック攻撃の時、有効な砲撃を加えた、野砲の東条中隊長である。このあたりは疎林《そりん》のため、人影をみつけると、敵が撃ってくる。それで、注意したのだ。東条中尉は、一門しかない四一式山砲を守って、インパール攻撃に備えねばならない。
稜線上からは、カングラトンビが見下ろせる。灌木《かんぼく》の中を、動き廻る敵影がみえる。インパール街道は、チークの並木が空高くそびえて、南東に至っている。隘路口を出たあたりに、センマイの小集落がある。木蔭に散在する小民家いくつか。集落のあたりは広闊《こうかつ》にひらけ、敵のトラックがしきりに往来している。集落の東側にあるセンマイ高地への、防禦態勢を急いでいるのであろう。センマイ高地は禿山《はげやま》で、八合目のあたりから急斜面になっている。頂上付近は、ごくゆるい起伏をもつ平地で、防禦陣地を築くには、絶好の地の利とみえた。直線距離で四キロはあろう。双眼鏡の中で、裸になって陣地構築を急ぐ、敵兵たちの姿がよくみえる。
「東条君、いま、カングラトンビにぶっ放したらどうだろうか。狼狽《ろうばい》して逃げ散るのではないかね」
本多大隊長がいうと、東条中尉は、
「撃ちたいですが、お返しがひどいでしょう。いよいよの時でなければ撃てんのです」
と、いう。
(撃てよ。おじけるな。カングラトンビに撃ち込めば、奴《やつ》らは狼狽して逃げ散るにきまっているのだ。一刻も早いほうがよいのだ。灌木林の中では、戦車だって行動は思うに任せぬ。攻め方はあるはずだ。センマイ高地にしても、早ければ早いほど有利に攻められる。そのために内堀大隊が攻めのぼっているではないか。なにを待って、弾丸を惜しむのだろう)
サンジャックを攻撃した東条中尉の経験からくる判断と、本多大尉の戦術的判断には、かなりの相違がある。本多大尉が、カングラトンビに撃ち込め、といったのは、カングラトンビとサンジャック陣地は、様相が基本的に違うからである。ミッションでは、大隊砲を二、三発撃ち込んだだけで、敵の捜索隊は遁走《とんそう》している。砲撃の効果は大きい。平地の陣地であるカングラトンビなら、攻略は完全にできる。即戦即勝すべきではないか。地隙内の天幕の中で、地図と鉛筆だけをたよりに、師団派遣参謀の意見を伺っているだけでは、時機を逸してしまうのではないか。
牟田口《むたぐち》軍司令官が、インパール作戦を発起した時、林集団(第十五軍)参謀長は、その無謀を制止しようとしたし、烈兵団長佐藤中将は、強硬な意見具申を行っている。しかし、牟田口軍司令官を説得できず、作戦は強行されている。ビルマ方面軍司令官河邊中将、寺内壽一《ひさいち》南方総軍司令官及び東条英機《ひでき》大将ですら、牟田口中将の描いた壮図に揺すぶられている。
いま、一挺進隊長の本多大尉が「カングラトンビを撃て」「センマイ高地を速かに攻撃せよ」「シルチャ道遮断は無謀な計画である、中止せよ」――などと内心で叫んでみても、なんの効果の、生まれるものでもなかった。
いま、松村部隊の当面する問題は、福島大隊の夜襲によって、カングラトンビ陣地を覆滅し占領する、ということだけである。
「福島大隊の成功を祈ろう。それによって、わが挺進隊の、突入の機が熟するであろう」
本多大隊長は、自分にそういいきかせて、東条中隊と別れて、山を下りた。
本多大隊長は、地隙内の大隊の位置にもどると、あとは、福島大隊の成果を待つのみとなった。
翌四月七日。この日の未明には、本多挺進隊は、決死突入隊としての態勢を整えている。福島大隊がカングラトンビを夜襲占領し、内堀大隊が、センマイ高地奪取の態勢を整えれば、それと呼応して、本多挺進隊も突入を決行しなければならない。一個の出城でしかないサンジャックやカングラトンビと違って、インパールそのものの防備は、徹底的に充実したものであるだろう。四十輛の鹵獲車輛を揃《そろ》えたとはいえ、兵員、装備を考えれば、本多挺進隊は蟷螂《とうろう》の斧《おの》を以て、巨敵に向かうことになるだろう。だが、事の理非成否は問題でない。インパール占領の端緒をひらくため、散ることに意義があるのである。
「銃声がきこえます。カングラトンビに突入したのでしょう」
天幕の中にいた本多大隊長に、同じく寄り添うようにして待機していた丸山副官がいう。
ややあって、平田准尉が来る。道路上へ偵察に出ていたのだ。
「夜明けが近づくので心配していましたが、うまく突入したようです。突入すれば占領はじきでしょう。夜が明けるまでには、占領できるでしょう」
平田准尉が報告し、各中隊長も顔をみせる。突入隊出発の命令を待つ表情になっている。
銃声が、絶え間なくつづいているうちに、夜が明けた。夜が明けはじめると、銃声のほかに砲声がきこえはじめた。銃砲声は、きわめて激しい。
「野砲を撃ち込んでいるのではありませんか」
大隊砲の由里少尉がいう。遁走する敵の装甲車や部隊に向けての砲撃――と、本多大尉は想像した。いつ、命令が来ても行動できるよう、改めて、各中隊長には準備を命じている。
ところが、司令部からは、突入隊出撃の命令は、いくら待っても来ず、代りに、本多挺進隊は突入を中止せよ、という命令がきた。つづいて、福島大隊が、カングラトンビ突入後、苦戦して、全滅に近い打撃を受けた、という情報が伝達されてきた。そうしてさらに、本多挺進隊は爾後《じご》松村部隊の指揮下に入り、福島大隊と交代して、カングラトンビの守備に就くよう、命じられたのである(これは、少しあとでわかったことだが、師団参謀は、福島大隊のカングラトンビ突入の失敗に驚ろき、敵の防禦《ぼうぎよ》能力と装備の充実をようやく認め、本多挺進隊のインパール突入の中止を、司令部に求めたのである)。
後退した福島大隊に代って、カングラトンビの守備についた本多大隊は、カングラトンビ集落の後方、道路の西側に陣地を築き、東方の、インパール河を越えた小丘に、丸木小隊を配備した。
敵の戦車は道路上を進んでくるので、道路上に、戦車防禦用の木材や岩石を置く。丸木小隊の位置までは三百メートルほどある。
カングラトンビ集落と陣地との間には、地隙が長く帯のようになっており、この地隙を横断して道路がある。道路には橋が架けられているが、その橋のインパール側に、戦車防禦物を設置したのである。道路のまわりは、すべて密林地帯である。
道路西側の、陣地より二百メートル前方に、谷本少尉の斥候隊《せつこうたい》が配置され、戦車の襲来を、逸早《いちはや》く通告してくることになっている。谷本斥候隊は、樹上に監視兵を登らせている。
いったんカングラトンビ陣地を撤退した敵は、必ず、反覆攻撃してくることは、わかっていた。その攻撃に備えるのに、本多大隊の兵力装備は、戦力の半減した第九中隊、第十二中隊を手兵とし、機関銃一梃《ちよう》、大隊砲、速射砲、聯隊砲各一門、それに二十名弱の音川工兵小隊しかいない。
四月九日の十時ごろ、丸木隊の守備陣地及び谷本斥候隊から、
「戦車四輛《りよう》と、歩兵を乗せた装甲車数台が進んで来ます」
という、無線連絡があった。
「威力偵察に来たのだ。つとめて引きつけて撃て」
本多大隊長は、砲隊に指示を与えている。
威力偵察にどう対処するか、これは爾後の戦闘にもかかわる重大事である。
戦車群が、陣前百メートルに達した時、戦車は双方にわかれて進んでくる。本多大隊の火砲は、この時いっせいに戦車に向けて砲撃を開始し、全弾が戦車に命中したが、戦車はびくともしない。逆に、戦車砲の攻撃は、赤松少尉の指揮する速射砲陣地を狙《ねら》い撃って、忽《たちま》ちこれを破壊している。蜿蜒《えんえん》幾百キロの山間の嶮路を、この速射砲を抱えて、いかに苦労して運んで来たか。それが一瞬に破壊されたのである。
大隊砲陣地もまた、土嚢《どのう》を吹き飛ばされている。わずかに聯隊砲が、敵戦車一輛のキャタピラを撃って、擱坐《かくざ》させている。
他の戦車は、密林中に避退したが、再び、砲銃撃をつづけながら、前進してくる。大隊ではこれを迎え撃つが、命中はしても、戦車はやはりびくともしない。本多大隊長は、肉薄攻撃の準備を命じたが、戦車群は、擱坐した戦車を牽引《けんいん》して、引き揚げをはじめている。威力偵察は終えたのであろう。
「わが大隊を、侮《あなど》りがたい戦力、と、みたのではないか」
陣地の一角で、本多大隊長は、傍らの丸山副官に、そういった。
本多大隊は、カングラトンビを守備しつつ、つづいて、センマイ高地攻撃の命令を待つことになった。
カングラトンビの守備についていた本多大隊は、四月十二日の正午ごろ、内堀大隊の大西小隊の布陣している高地(部隊では大西山と呼んでいた)の斜面に向けて、敵戦車が四輛、西側から山肌《やまはだ》を登ってゆくのを、目撃している。
(少数の前線守備陣地で、あの戦車群が防げるのか)
と、本多大隊長は、双眼鏡を眼《め》にあてながら、山地を登攀《とうはん》してゆく戦車群をみていた。
内堀大隊全体の兵数から考えて、大西山に布陣している兵員の数は、およそ見当がつく。しかも、火器は、せいぜい軽機と擲弾筒《てきだんとう》くらいしかないだろう。戦車に肉薄攻撃をするには、地の利も悪い。
大西小隊の布陣している高地は、内堀大隊のいる三八一三高地と、センマイ高地の、ちょうど中間に位置する高地で、その西斜面に大西小隊は布陣しているのである。このあたりの高地一帯は、インパールに駐屯《ちゆうとん》する英印軍の演習地で、山中には、あちこちに標的が立てられていて、高地一帯のどこも、砲撃のための標定がしっかりできている。従って、日本軍の位置さえわかれば、敵は、いつでも、正確な砲撃をすることができるのだった。もちろん、布陣している部隊を、巧みに包囲砲撃することも、である。
大西小隊は、たまたま、敵戦車隊の狙うところとなったのだが、戦車は、かなりの傾斜をものともせずに、大西小隊の陣地へ向けてのぼってゆく。敵は、このあたりの地形を熟知しているらしいさまが、その自信ありげな、戦車の進み方をみてもわかる。
本多大隊長は、進む戦車をみながら、
(内堀大隊の野砲は、なぜあの戦車を砲撃しないのか)
と、あやしんだ。
二日前、三八一三高地の内堀大隊の位置に、松村部隊の各大隊長が集合して、センマイ高地夜襲についての打合せを行っている(松村部隊本部は、内堀大隊の位置よりやや北東のチンサットという集落にあった)。本多大隊長は、その打合せの時、陣地にある野砲聯隊《れんたい》の野砲をみている。もっとも、その野砲は、聯隊砲よりも旧式の、三一式山砲で、これは一発撃てば、ゴロゴロと砲身が後退する、日露戦争当時のものである。
(なぜこんな旧式のものを運んできたのか。三八式野砲か、十サンチ榴弾砲《りゆうだんほう》が何門か運べたはずではないか)
本多大隊長は、そうした砲についての配慮のなされなかった理由を、上層部の、作戦指導の不備であるとみた。この作戦において、敵を甘くみたのである。
内堀大隊からの、敵戦車への砲撃がないので、本多大隊長は、秋山隊長に命じて、聯隊砲で援護させようとした。
大西小隊のいる西側陣地までは、約一キロ半ある。
陣地変換をしなければ、聯隊砲は撃てない。
「陣地変換には三十分かかります」
秋山隊長は、本多大隊長に返事したあと、陣地変換を急がせたが、その時にはすでに、敵戦車は、大西小隊の前面に近接していて、さかんに砲撃を浴びせ、手榴弾や小銃で、果敢に抵抗する大西小隊との交戦をつづけている。そうして、秋山隊長が聯隊砲の援護の初弾を撃ち込ませようとした時には、敵戦車は大西小隊を完全に蹂躪《じゆうりん》して、斜面を下りながら、去ってゆくところだった。
(なんという無能な師団砲兵か)
本多大隊長は、悠々《ゆうゆう》と遠のいてゆく敵戦車隊を、無念の思いで見送っている。
内堀大隊の前線陣地を守備した大西小隊が、戦車群によって蹂躪されてゆく状態を目撃して、沈痛な思いを覚えていた本多大隊長は、今度は、自隊の悲劇的な事情を、知らされることになった。
師団予備隊として、大隊から抽出派遣されていた中西中隊(第十中隊)と広岡中隊(第十一中隊)の、悲運の戦況を耳にすることになったのである。
本多大隊は、チンドウィンを渡河する直前に、中西中隊と広岡中隊を、師団の予備隊として、引き上げられている。ミッション橋爆破への、重大任務の達成と、その後の戦闘を考える時、血のにじむ思いで手放さなければならなかった二個中隊である。
中西大尉は、第十、第十一両中隊を合わせて中西部隊として指揮をとり、師団予備隊として作戦に従った。師団の兵力は、尾本部隊(歩兵第五十一聯隊)を主幹として、サンジャック=インパール道の西側に進出し、インパールをその北方高地から攻撃することになっていた。つまり、松村部隊が、コヒマ=インパール道上に布陣したのと対向して、師団主力は、サンジャック=インパール道を進んだのである。この時中西部隊は、サンジャックから西南進してインパールに向かう本道上を突進せよ、という命令を受けている。
立場は、師団予備隊という曖昧《あいまい》な呼称を与えられていても、中西大尉には、歩兵第六十七聯隊第三大隊の誇りを考える武人的気質があり、命を受けると、欣然《きんぜん》として、街道上をインパールに向けて突進している。これが、四月三日の午後のことである。この時中西部隊には、火砲は一門もなく、わずかに擲弾筒のみが、小火砲的な役割を担《にな》う、そうしたまずしい装備しかなかった(擲弾筒は最長射程距離六百五十メートル、殺傷力は大隊砲よりはるかに弱い)。
中西部隊は、インパールに近づきつつ、カメン南方の高地に進出したが、その時、敵戦車数輛が、中西部隊の進出していた北方高地に攻めのぼってきた。威力偵察《ていさつ》である。このあたり一帯は、樹木はすべて刈り取られ、みる限り草原のような見通しのよい地帯になっている。敵は、インパールの防備を考慮して、障碍物《しようがいぶつ》を一切取り除いたのである。
火砲を持たぬ中西部隊は、擲弾筒をもって戦車に対し、善戦をつづけた。ただ、擲弾筒では、戦車を擱坐させるには至らない。戦車群は、しばらく交戦ののちに撤退して行った。火砲、兵力の偵察を終えたからである。
戦車群を撤退させた中西部隊は、各自地上に壕《ごう》を掘って、陣地を整備しようとしたが、この土地は赤土できわめて堅く、なかなか掘れない。せいぜい、浅く身を隠す程度の壕を掘るだけで、日が暮れ、夜になり、夜が明けてしまっている。
そうして翌四日の朝、態勢をしっかり整えた敵戦車部隊は、背後に有力な歩兵部隊を連れて、中西部隊の陣地へ襲来してきた。火砲としては、擲弾筒しかない中西部隊は、擲弾筒と機関銃、それに肉薄攻撃による手榴弾を武器に悪戦し、のちに福島部隊の突入隊がカングラトンビで全滅したと同様、この、カメン南方高地で全滅したのである。
中西部隊は、救援も頼まなかったし、救援も来なかった。司令部は、ただ、中西部隊に、突進せよ、という命令を出したのみだった。この南方高地からインパールへは、わずかに十五キロの行程しかなかった。
中西部隊の全滅の詳報は、かなり遅れて、カングラトンビの陣地に届いた。この報を耳にした時、本多大隊長は、
「一門の火砲もなくて、どうしてインパールへ突入できるだろう。しかも、徒歩で道路上を駈《か》けてゆくのだ。師団主力の尾本部隊には、ともかく火砲が装備されている。師団はなぜ尾本部隊に突入を命じなかったのか。少くも援護か救援をさせなかったのか。司令部には、前線の事情が、何一つわかっておらんのだ。兵数二百にも満たぬ部隊に、インパールへ突入せよ、という命令が、いったいどこから出てくるのか」
と、中西部隊将兵の、悪戦全滅の場を想像し、ひそかに、暗涙にむせばざるを得なかった。
「乏しい兵力が、進むにつれて、むざんに削られてゆく。センマイ高地も、容易には陥《お》とせぬ強固な陣地ではないか」
本多大隊長は、中西部隊全滅の悲報を、大隊幹部に示達した時、沈痛な表情でそういって、まわりにいる人々を見渡した。
ただ、本多大隊の将兵の気魄《きはく》は、ミッション橋爆破以来、いささかも衰えてはいない、と、本多大隊長は信じていた。(嘆くな、戦うしかないのだ)と、自らにいいきかせている。
センマイ高地を夜襲する意図のもとに、内堀大隊(第二大隊)は、四月十二日の日没後に、三八一三高地を出発している。この時の、大隊命令の要旨は、次の如《ごと》きものである。
一、大隊は本十二日夜半を期し、センマイ東側高地を夜襲奪取せんとす。
二、第五中隊はその第一線になり、高地東北山麓《さんろく》より登攀し、本二十四時を期して、陣地の東北端より突入し、三角山高地を奪取確保すべし。
三、第七中隊は第五中隊の突入に呼応して、その左側傾斜面の一角より攻撃を開始し、第五中隊の攻撃に協力すべし。
三八一三高地には、第八中隊が残留し、攻撃部隊は、第五中隊、第七中隊、及び第二機関銃中隊の約三百名が、センマイ高地東側盆地の降り口付近の、地隙に入って集結した。
このセンマイ高地夜襲には、西側の、センマイの集落のある方向から、本多大隊が夜襲に協力することになっていた。
内堀大隊の集結した盆地周辺は、昼間は敵の戦車が巡行警戒しているのが、陣地からよくみえ たものである。
その谷間に、夜のとばりが降りてから、大隊は、一列縦隊となって、センマイ高地東北に向かい、粛々と前進した。
先発隊の第五中隊が、高地の麓《ふもと》に到着したのは、二十一時ごろである。
中隊長の加藤中尉《ちゆうい》は、先発を命じられた時、島田少尉に命じて、昼間、地形偵察を行わせている。
中隊は、命令のあり次第突入するつもりで、高地中腹の突撃準備位置まで出て、小憩した。小憩したのは、行軍間、隊列が長くなったため、隊伍《たいご》を整えねばならなかったからである。同時に、島田少尉が偵察した地形を、念のため、さらに、確認しておきたかった。
島田少尉は、小憩間に、前進して、地形の確認を行っている。この夜は月があって、偵察には便宜である。
「昼間の偵察の時と、別に、変化異状はありません。計画通り攻撃できれば、案外簡単に奪取できそうです」
島田少尉は、中隊長に、そう報告している。
加藤中尉は、通信隊出身であり、第一線の戦歴は充分でなく、それで、中支以来の歴戦経験のある、指揮班長の土田准尉《じゆんい》に、
「突入について、なにか意見はないかね」
と、きくと、土田准尉は、
「なにもありません。隊長殿のお考え通りにやりましょう。ここに勝栗《かちぐり》がありますから、夜襲成功の前祝いに、みなで分けて食いましょうか」
といって、図嚢《ずのう》の中からとり出した、いく粒かの勝栗を、一つずつ、まわりの者たちに分ける。どこで手に入れたのか。少くも軍用のものではない。加藤中尉は、勝栗をゆっくり噛《か》みしめながら、突入時期の刻々に迫る緊張感に、身を任せている。
月が、断雲を縫ってゆくほかには、あたりは草の葉ずれの音ひとつしない。
加藤中尉は、突入の命令を待ちわびていたが、すると、十一時過ぎに、第七中隊(五十嵐《いがらし》隊)が追及してきて、部署の変更を伝えられた。
「第一線を五十嵐隊。加藤隊はこれを援護せよ、という命令です」
と、伝達の下士官がいう。
(この期《ご》になって、なぜ変更になったのだろう。考えられない)
と、加藤中尉はあやしんだが、命令には従わざるを得ない。急遽《きゆうきよ》、五十嵐隊に、先攻第一線の位置をゆずることになった。
加藤中尉は、島田少尉にいって、島田少尉が偵察した敵の防備事情、とくに鉄条網の敷設《ふせつ》の模様について、懇切に申し送るよう命じた。といって、実地検証をしているような余裕はない。敵の、陣地前の鉄条網というのは、ピアノ線を利用して、これに手榴弾が仕掛けられている。ピアノ線を踏むと、仕掛手榴弾が作動し、連動して炸裂《さくれつ》するようになっている。島田少尉は、鉄条網が何層にもなっているらしい点を、ことに力をこめて説明している。第一線の突入、というのは、占領が成功すれば、一番乗りの功績になり、その中隊の名誉である。
突入の前の、急な部署変更のため、加藤中尉は、なにやら、気落ちする思いを覚えている。しかし、いずれにせよ、突入については、全力を尽くさねばならない。
「われわれも、勇戦奮闘して、第七中隊の突入を援護しよう。がんばってもらいたい」
加藤中尉は、一同の気を引き緊めるように訓示を与え、右に大野小隊、左に島田小隊を配し、突入の時を待った。第五中隊の兵数は九十名余りである。
敵陣は、夜襲には気づかぬのか、シンとしずまり返っている。突入命令が出て、第七中隊が前進をはじめた。そのあとを第五中隊がつづく。第一線を第七中隊にゆずったとはいえ、突入となれば、間髪を入れず、第七中隊に追随したいのである。
先行した第七中隊は、山肌をのぼって、突入を開始した。敵の第一線に数十メートルほどの距離に近づいたかと思うころ、ふいに、手榴弾の炸裂音が連続した。
「ピアノ線に引っかかったんです。低鉄条網のことは、島田少尉が充分注意したはずですが」
加藤中尉の傍《かたわ》らで、土田准尉が無念気にいう。
その時には、手榴弾の炸裂音につづいて、敵陣地から、猛烈な銃撃がはじまった。同時に、つぎつぎに照明弾があがる。曳光弾《えいこうだん》が宙を飛び交う。突入を阻止する、敵の懸命な掃射である。前面は、蜂《はち》の巣のように陣地の銃眼が並ぶのだから、いっせいに撃ち出されたら、身動きもできない。かれらは日本兵の夜襲をもっとも恐れるので、撃ち方も必死となる。夜襲は、隠密《おんみつ》に、一気に敵陣内に突っ込んでしまわなければ、効果はあがらない。突入前に弾幕を張られると、犠牲が多く出る。
加藤中尉は、それでも、第七中隊を援護したいために、先頭に立って、斜面を匍《は》いのぼったが、ピアノ線に足をかけたかと思うと、腹部に焼きつくような一撃を受け、思わず膝《ひざ》を突き、なお立とうとすると、今度は右肩から背にかけて、至近弾による、強烈な、打撲を受けた衝撃で、転倒した。
駈け寄ってきた一人が、中隊長を支え、
「中隊長負傷、衛生兵前へ」
と、叫んでいる。
加藤中尉は、動こうにも動けず、しかも、敵の銃声は、ますます激しさを増してくる。これ以上、兵を進ませることは、とうてい出来ない。突入は不可能である。
「土田准尉、大隊長に連絡をたのむ」
加藤中尉は、土田准尉にそう命じてから、小隊の先頭に立って、斜面をのぼってゆく島田少尉に、
「島田少尉、避退せよ」
と、声をかけた。
あたりは、敵が、切れ目なく照明弾を打ち上げるので、昼間のように明るい。夜が明けると、さらに砲撃が加わるはずである。
苦しい応戦をつづけているうちに、大隊長から、
“夜襲を中止、撤退せよ”
という命令が、伝達されてきた。前線の苦境を、土田准尉が伝えたからであろう。
各中隊は、死傷者を引きずり下ろし、急造の担架で、さらに斜面を引きずり下ろす。担架といっても、一方は地につけたまま、引きずるのである。
加藤中尉は、部下たちを督励しながら、斜面を下り、撤退を急ぐ。照明弾の明かりをたよりに、南側は戦車が出動してきたらしく、戦車砲の威嚇《いかく》砲撃がはじまっているが、むろん弾着はきまらない。至近弾が炸裂するたびに、中隊は、死傷者を収容しつつ、撤退を急ぎ、ようやく河床のある地点に達した。これを越えると、凹地《くぼち》や灌木《かんぼく》の木立がつづき、三八一三高地への、ほぼ安全な道がひらけている。
加藤中尉は、戦闘がはじまってからは、まったく無心の状態で、ただ戦う一念に燃えていて、一抹《いちまつ》の恐怖感もなかったことを、ふしぎに思っている。これは、部下すべてに共通する心情であったろう。観念の上では、すでに、死んでしまっていて、突入に専念しているのだ。しかし、一応、安全な場所に避退し得た時、はじめて、
(生きのびたか)
という安堵《あんど》と、その安堵感をゆすぶる、恐怖感が身にきざすのを覚えた。そうして、はじめて、
(第七中隊は無事に避退しただろうか)
と、他隊の安否を案ずるゆとりも、うまれてきている。
夜襲は、失敗したのであり、失敗したからには、重ねて夜襲を決行し、なんとしても、センマイ高地を占《と》らねばならない。だが、敵の防備は、一段と堅固になるはずである。
夜が明けると、敵の戦車が三輛《りよう》、盆地付近に進出して来て、撤退中の大隊へ向けて、砲を撃ち込んでくる。その砲火を避けながら、第五中隊は、大野少尉指揮の下、兵をまとめて、十三日の夕刻に、三八一三高地の旧陣地に復帰している。
第七中隊は、夜襲の折、吉村、浅田両小隊が奮戦したが、敵火力の激しさに抗し得ず、攻撃は失敗、命を得て撤退している。
この第一次センマイ高地夜襲戦で、加藤隊は持田軍曹《ぐんそう》、田中伍長《ごちよう》ほか五名、五十嵐隊は八名、計十五名の戦死者を出した。負傷者は両隊合わせて二十名近くになる。限られた兵数しか持たぬ内堀大隊にとっては、これは大きな痛手といわねばならなかった。
本多大隊長は、四月十二日夜半にセンマイ高地の夜襲を決行する、という命令を受けた時、あの時から五日経《た》つ、と胸のうちで数えた。東条中尉に、カングラトンビを砲撃せよ、さらにセンマイ高地も――と望んだのは、攻撃は早ければ早いほどよい、という戦術上の思いがあったからだ。五日たてば、五日分の補強を、かれらは行っている。こちらには、なんの補強をするすべもない。もともとこの作戦は、神速果敢に事を決する予定ではなかったのか。
インパールへ向かう道路を横切っている地隙の北側に、本多大隊は陣地をとっている。前面にセンマイの集落がある。ともかくこの集落を占領し、道路をさらに南進して、センマイ高地の背後から山の斜面を登る作戦が有利、と本多大隊長は断じた。敵の陣地は、双眼鏡でみると、四周に掩蓋《えんがい》陣地が構築され、第一線の銃眼が十個ほどみえる。西側から山へ登るには、樹木は一本もなく、かつ、山頂近くは急傾斜になっている。従って、つとめて南へ下って、多少とも傾斜のゆるいところから、山を登るよりほかはない。そのためには、背後を確保しておかねばならない。それで、センマイ集落を手中に納める。
センマイ高地を攻撃するには、地形が狭隘《きようあい》で、大部隊をさし向ければ無益に死傷者が生じる。むしろ、精鋭の一個小隊を進攻させるのが有用の戦術である、と、本多大隊長は読み、松浦小隊に、センマイ高地攻撃を命じている。小隊の兵数は三十名である。
松浦少尉は、センマイ高地攻撃準備のため、自身、二日一晩、将校斥候《せつこう》として、地形、敵状を、つぶさに調査している。
「敵の戦車のキャタピラの幅は一メートルもありますから、速射をぶち込んでも、なかなか擱坐《かくざ》しないのですね。シンガポールで敗けて以来、前面鋼板もずっと厚くしたそうです。肉薄して、戦車の中へ手榴弾《てりゆうだん》を投げ込むよりほかはないかしれません」
松浦少尉は、陣地守備の時、本多大隊長を囲む作戦会議の場で、そういったことがある。大隊長は、その松浦少尉の戦術、判断力を買って、センマイ高地攻撃の先陣を任せたのであろう。
松浦小隊は、十二日夜、陣地を出発した。
本多大隊主力は、谷本小隊の先導で進んで、センマイ集落の西端に達している。集落内には敵がいるので、大隊長は直ちに、兵員の配置を命じる。ここへは本部のほか第九中隊、第十二中隊が来ている。
本道上を、原田大尉の指揮する機関銃中隊が進んでいる。これは、松浦小隊の突入後、重火器の応援が必要になる、と、みたからである。本道上の両側には、むろん、敵のトーチカが配され、進行してくる日本軍を迎え撃つ態勢を整えている。道路上に、敵の歩哨《ほしよう》も出ている。
隊伍の先頭を歩いていた原田大尉は、道路上で、敵の歩哨とぱったり会った。なにぶん暗夜のため、よほど近接しないとわからない。日本兵は、夜行軍や夜襲が多いので、暗夜に対する眼《め》の訓練ができていて、まったくの暗夜でも、かすかに物の文目《あやめ》はわかるようになっていた。原田大尉は、敵の歩哨とぶつかった時、軍刀を抜くゆとりもないので、いきなり相手を殴り飛ばすと、敵の歩哨は、闇《やみ》の中にころがり込んだまま、懸命に逃げて、トーチカ陣地へ報告し、そのトーチカからは、やみくもに重機を撃ってきた。ここで戦闘するのが目的ではないから、原田大尉は、隊員を物蔭《ものかげ》にひそませている。
この機関銃の音を、集落の西端に布陣していた本多大隊長がきき、
「原田隊が交戦をはじめたのではないか。敵のトーチカがあるのだ。調べてみたい」
といって、竹下中尉を派遣した。
竹下中尉は、伝令一人を連れて、闇の中へ消えて行った。
かなりの時間を経て、伝令がもどってきて、本多大隊長に報告している。
「竹下中尉殿は、敵のトーチカをさぐりあてられましたが、銃眼の位置を確認されている時、気づいた敵の射撃で、戦死されました。銃声が激しく、自分は中尉殿を収容する遑《いとま》がなく、そのまま報告にもどりました。これから中尉殿を収容に参ります」
伝令が報告を終えた時、センマイ高地で、炸裂音や銃声がはじまり、照明弾があがる。松浦小隊もまた突入した様子がうかがえた。夜襲がはじまった以上、本多大隊としては、つとめて早く、街道上の、竹下中尉のさぐりあてたトーチカを攻撃し、重火器の布陣し得る態勢を整えねばならない。夜が明ければ、戦車が出動してくる。敵トーチカを占領するには、多少の照明がなければ行動できない。センマイ高地上の照明弾の明かりは、街道までは届いて来ないのである。
本多大隊長は、束《つか》の間《ま》思案したあと、伝令を案内として、第十二中隊を、トーチカの攻略に向かわせることにした。
すると、その準備中に、松村部隊本部から、無線で命令が来ている。
“内堀部隊は、本夜の夜襲を中止する。本多部隊は直ちに原陣地カングラトンビに復帰せよ”
カングラトンビ陣地に復帰せよ、というのは、センマイ集落北方の陣地は、便宜的なものだからである。カングラトンビ陣地までは、四キロ余りある。引き揚げているうちに夜が明けるであろう。しかし、引き揚げる前に、竹下中尉の遺体を収容しなければならない。当然、暗夜に交戦して、トーチカを占領することになるだろう。トーチカの位置も、なにぶん暗夜だから明確でない。荏苒《じんぜん》として時間を空費しているうちに、夜が明け、夜が明ければ戦車が出てくるだろう。
「竹下中尉の遺体は、折をみて収容しに来よう。このまま引き揚げることにする」
作戦の失敗は、撤退する、という命令をみればわかる。センマイ高地は、どうしても占らねばならぬ要害陣地だから、態勢を整えて再度攻撃になるだろう。本多大隊長は、竹下中尉の遺体収容のできぬ無念を胸に納めて、ともかく命に従って、カングラトンビまで引き返している。
センマイ高地攻撃に向かった松浦小隊は、インパール街道を進み、途中でインパール河を渡って、センマイ高地の西側にとりつき、隠密に傾斜地を登攀《とうはん》し、高地の頂上近くまで進出し、内堀大隊の動静を待つうちに、手榴弾の炸裂音がつづき、銃声が交叉《こうさ》し、あわせて照明弾があがりはじめた。
松浦少尉は、それに呼応して突入を命じ、隊伍は一丸となって、山上へ向けて駈《か》けたが、低くピアノ線に仕掛けた手榴弾網は、先頭に立った松浦少尉の足もとで炸裂し、松浦少尉の右大腿部《みぎだいたいぶ》に重傷を負わせて、行動の自由が利《き》かなくなったが、それでも匍うようにして山上を目指す。当然、すさまじい弾幕を浴びねばならなかった。どこからどう登ってみても、山頂近くの傾斜の急なのはわかっていたが、降るような銃弾を前にすると、無謀に進むことはできなくなる。
もともと敵は、標定がしっかりしているから、弾丸はかなり正確に来る。照明弾もだが、十二日の月が出て、月明かりがあたりを照らし出している。ますます不利である。
部下を、物蔭に待機させ、その間に、衛生兵が、松浦少尉の応急の手当をする。
そのうちに、内堀大隊の攻撃している方向で、銃声が衰え、静穏な気配になってきた。かりに、当面の陣地を占領していれば、背後の第二陣地からの銃撃がつづくはずだが、それもない。
(突入が不調に終わったのではないか)
と、松浦少尉は察した。
偵察《ていさつ》を出そうにも、北へ廻《まわ》るほど傾斜が急になり、行動が制約されることは、松浦少尉の事前の調査でわかっている。こちらが行動を起こさぬと、敵側の銃声も衰える。松浦小隊は、敵を牽制《けんせい》するのが主たる目的で、センマイ高地攻撃に参加しているのである。引き揚げるべき――という決断が来る。
「小隊は、撤退する。人員を点検せよ」
松浦少尉は、小隊長としての自身が指揮できねばどうしようもないし、内堀大隊の夜襲が不成功とすれば、一個小隊だけでは攻撃のしようもない。よく状況を判断し、無益の死傷を出すな――と、大隊長から、いつもいわれていることである。
松浦少尉は、小隊長以外に負傷者を出していないことを確認して、帰隊している。
センマイ北方陣地には、連絡のための分隊が残っていて、撤退してきた松浦小隊を迎えると、ともに、カングラトンビまで引き返した。
本多大隊長は、松浦少尉が、担架の上で委細を報告するのをきき、松浦少尉の負傷をいたわり、また、他に死傷者の出なかったことを喜んでいる。
「引き揚げは、好判断であった。あとは傷の治療に専念してもらいたい」
大隊長は、有能な小隊長の欠けてゆくことが残念であったろうに、声音は、やさしい。
本多大隊長は、豪快で勇敢な指揮官だが、部下に対する、こまかな心遣いを忘れない人だ、と、松浦少尉は、軍医の手当をうけながら、思っている。
松浦少尉は、昭和十七年の浙〓《せつかん》作戦のころ、上海《シヤンハイ》で特別教育を受け、プノンペンで歩兵第六十七聯隊《れんたい》第三大隊第十二中隊に配属になっている。見習士官で小隊長になり、この作戦では、ミッションの橋梁《きようりよう》爆破のあと、敵状偵察が重要になったので、何度か、将校斥候を命じられ、それで、大隊長と接する機会が多くなったのである。大隊長は、松浦少尉が使いやすいとみえて、なにかにつけて呼ばれることになった。将校斥候には、小隊の古参兵を二名ほど連れて行ったが、しまいに古参兵が、
「小隊長殿、たまにはことわったらどうですか。いいように使われてるではありませんか。自分らもそうです」
と、不平をいったことがある。
「役に立つ者ほど使われるのだ。がまんしてくれ」
と、松浦少尉はなだめる。気ごころがわかりあっているので、古参兵がそういうのである。
松浦少尉は、四月十四日に、後方のミッションにある野戦病院へ運ばれている。インパールへ近づくにつれて、死傷者がふえている。限られた兵数の隊伍が、日を追うて、戦闘ごとに、削られてゆく。それだけ、作戦の成功は苦しくなる。補充はない。ミッションに開設された野病も、充分な設備のあるわけはない。天幕を張って、患者を収容しているだけである。それでも、野病まで運ばれて手当をうけられれば、しあわせといわねばならない。死者は、鄭重《ていちよう》に葬《ほうむ》られることすら、次第にむつかしい事情になってきている。
松浦少尉は、崖《がけ》っぷちの、一人用の天幕の中に寝かされていた。同じ天幕内に、もう一人、患者がいた。カングラトンビで、生死の境から、あやうく生きのびられた沢井少尉である。松浦少尉は、沢井少尉と、互いに戦闘間の模様を語り合い、それぞれの経歴を語り合いして、親睦《しんぼく》の思いを深めている。
治療――といっても、リュパノールガーゼを交換してゆくだけである。はじめは食塩水で傷口を洗うだけだったが、傷口にしみ込んで、非常に痛かった。その点、リュパノールガーゼの交換は、ずっと楽である。傷が癒《いえ》れば、本隊に復帰したい。いつになったら歩けるようになるのか、と、その日を思いながら、治療をつづけている。
しかし、松浦少尉は、戦況の急速な悪化が、そんな安穏な予想を根底からくつがえしてしまうことを、その時はまだ、少しも考えてはいなかった。
四月十二日の、センマイ高地の夜襲は失敗に終わったので、内堀大隊は、六日後の四月十八日に、第二次の夜襲を敢行することになった。大隊長は、この第二次の夜襲に備えて、さらに綿密に地形、敵状の調査を命じたが、
「敵の防禦《ぼうぎよ》態勢は益々《ますます》充実しているようです。銃眼の数も、眼にみえてふえています」
という、斥候隊からの報告が来るばかりである。無論、鉄条網も、さらに堅固に張りめぐらしてあるだろう。兵力も、装備も、格段に劣りながら、わずかに夜闇《よやみ》の助けをかりて攻撃する事情は、どう考えても「蟷螂《とうろう》の斧《おの》か」という嘆息になるのだが、しかし、死力を賭して、絶対にセンマイ高地を占らねば、インパールには突入できない。
大隊長自身には、攻撃すれば多大の犠牲を出す、という躊躇《ちゆうちよ》がある。しかし、攻撃時期を延ばせば延ばすほど、敵の防備も充実してくる。
「大隊長殿、やりましょう。攻めない限り、占れんのです。自分のところが先発を引きうけます」
第二機関銃中隊の名取中隊長は、しきりに進言している。本部副官の安部中尉《ちゆうい》も同調する。むろん、生還の期しがたいことはわかっている。この時、大隊の兵数は三百、重機三を有している。夜襲は本来、白兵の突入を本旨とするが、敵中に突入できるかどうか、である。
十八日の夕刻、内堀大隊長指揮のもとに、夜襲、突入することに決した。大野少尉の第五中隊、五十嵐中尉の第七中隊、小榎少尉の第八中隊、名取中尉の第二機関銃中隊の編成である。前からの中隊長はわずか二名で、あとは欠けてしまっている。
大隊では、攻撃占領すべき敵陣地のうち、西北角台端の第一線陣地を「松」、つぎの第二陣地を「竹」、さらに高地中央部の中核陣地を「梅」と名づけ、夜間のため、各中小隊長間で、綿密な打ち合わせを行わせた。聯隊本部からは、要請により火砲の援護をする、という報告はあったが、夜間の近接戦では、実際上火砲は用いられない。大隊将兵の気魄《きはく》で戦うしかない。
「兵隊たちは、全員元気です。がんばっていきます」
安部副官は、大隊長を励ます。苦戦はわかっているだけに、副官は、大隊長の心中を推し量って、力づけるのである。
第二次の夜襲は、第一次の失敗を踏まえているから、全将兵が、隠密《おんみつ》行動を徹底させ、台端の松陣地まで近接しても、敵は一発も撃っては来ない。尖兵《せんぺい》の第五中隊が、敵前の障碍物《しようがいぶつ》前にとりついたのが、午前三時である。斜角四十五度に近い斜面を、二時間近くかかって登攀したのだ。巧みに鉄条網を切断して進む。月は中天に架かっていて、敵に発見されない限り作業はしやすい。
松陣地は、前哨陣地で、整備中らしく、少数の警戒兵しかいなかったので、突入隊は警戒兵を刺殺して、たちまち松陣地を占領し、つづいて竹陣地へ突進している。ピアノ線による手榴弾網があるはずだが、この時は、だれも、手榴弾による死傷を免《まぬか》れた。竹陣地も、敵は、わずかな抵抗をみせただけだったので、一気に占領している。
中核陣地である梅陣地へ向けて、鉄条網を切断しつつ近接をはじめると、この時、敵の猛烈な迎撃がはじまり、第一次戦同様、連続して照明弾があがる。銃声は、激しさを増す一方である。張りめぐらした鉄条網を切ってゆく間に、銃火は、みるまに突入隊の先頭を仆《たお》してゆく。昼間の戦闘をしていると同じで、狙《ねら》い撃ちでやられてしまう。
大隊は、聯隊本部に、五号無線で第一報を送った。それは、
“夜襲部隊は、午前四時、敵陣地に突入し、その一角を占領確保し、目下戦果を拡張中”
というものだったが、この電文を打ち終えたあたりから、彼我の様相は大きくかわりはじめている。
突入隊は、応戦しつつ、鉄条網を切断しつづけたが、中核陣地へ、いよいよ肉薄した地点で、すでに夜が明けはじめた。夜が明けると、事情はますます突入隊に不利になってくる。前面一帯からの敵の弾雨は、身をさらしていては、とうてい防ぎ切れるものではなく、突入隊は、各個に、敵の掩蓋《えんがい》の中にもぐり込むか、交通壕《ごう》を掘りひろげて、身を隠した。敵の逆襲にも備えねばならない。
突入隊第一線と、敵陣地の前面とは、実に四十メートルほどしか離れていない。悪戦の中で、夜はみるまに明け、じきに太陽がのぼってきた。
安部副官は、大隊長とともに、松陣地の斜面に、二人やっともぐれる穴を掘って、中に入った。
「飛行機です。銃爆撃をやられますね」
安部副官は、耳ざとく、天の一方の爆音を聞き分けて、大隊長にいう。じきに、数機の敵機が来て、銃撃をくり返す。飛行機からみれば、穴や壕の中に伏せている日本兵をみつけて、銃撃することはたやすい。ただ、中核陣地にあまりに密接しているところは、爆撃はできない。それで、執拗《しつよう》な銃撃をくり返す。迫撃砲は、中核陣地内から撃ち込んでくる。土砂が濛々《もうもう》とあがる。迫撃砲弾によって、掩蓋陣地の材木が燃え出し、やむなく飛び出す突入隊に向けて、銃撃が来る。突入隊は、反撃のしようもなく、身をひそめているに過ぎない。
そのうちに、戦車が、高地の東南角から姿を現わした。一輛また一輛。東南角は、斜角がゆるいので、戦車ものぼれるのである。戦車のうしろには、グルカの随伴歩兵がくっついてくる。小銃や軽機の応戦では抗し切れない。
戦車は、東北角からも、一輛また一輛と、匍《は》い上がってきた。大隊は、背部からも攻められ、戦車にはさみ討ちになってしまう。ただ、この戦車二輛《りよう》は、三八一三高地から撃ってくる友軍の聯隊砲によって、それぞれが被弾して、一輛は擱坐、残る一輛は反転して退却して行った。
東南角から来た二輛の戦車は、銃砲撃をつづけながら前進してきたが、突入隊との交戦をしばらくつづけると、これもほどほどのところで、引き揚げてゆく。突入隊の、まだ残されている抗戦能力をたしかめにきた、といった程度にみえた。
「戦車と、素手で戦うようなものですから、みていて、歯痒《はがゆ》い限りです。泣きごとをいうつもりではありませんが」
と、松陣地で、安部副官は、思わず、こぼす。
こうした、きわめて不利な抗戦が、まる一日つづいている。大小便もできない。夕方近くに、
「第一線では、相当の犠牲が出たはずです。夜襲の続行はとうてい無理でしょう」
と、安部副官はいったが、
「命令を待たねばならない」
と、大隊長は、きびしい口調でいった。大隊長としては、自分の本心は出せない。
日が暮れはじめると、敵の銃砲撃は、嘘《うそ》のように、ぴったりとやむ。かれらは、あとは夜襲に備える。大隊は、死傷者を収容し、態勢を整えねばならなかった。機関銃は、高地の一角に突出して撃ちつづけたが、おかげで二銃は破壊され、わずかに一銃が残っている、と報告がくる。
大隊長は、安部副官と相談して、聯隊本部に、つぎの如《ごと》く打電している。
“部隊は朝来、熾烈《しれつ》な迫撃砲弾の集中火を蒙《こうむ》り、さらに戦車の出現によって死傷続出し、すでに兵力の大半を失うにいたる。大隊はやむを得ず、本夜戦場を離脱し、旧陣地に復帰せんとす”
すると、聯隊本部からの返電は、
“内堀部隊は現地に留《とど》まり、センマイ高地を奪取すべし”
と、いってきた。
電文を手にしたまま、深くうなだれている大隊長の前で、安部副官はいう。
「あとのことはなりゆきです。とにかく撤退しましょう。百近い戦死、百を越える重軽傷者を出しています。今夜、夜襲を決行したら、全滅でしょう。弾薬も尽きております」
大隊長は、首を垂れたまま、
「撤退しよう。かさねてその旨《むね》、打電させてほしい」
と、いった。
安部副官は、撤退命令を徹底させ、死傷者の収容を急がせ、とりあえず、センマイ高地北方の木立のかげに、死傷者を集める。古川、坂井両軍医は、月あかりの下で、負傷者の手当に奔命し、担送できる患者は、つぎつぎに、旧陣地へ向けて運ばせる。
この死傷者の整理は、翌二十日の夜になって、やっと終了した。日中、重傷者は木蔭《こかげ》に隠し、夜になって担送せねばならなかったからである。戦死九十一名、負傷百三名が、この時の数字である。攻撃兵数三百だから、いかに大きな痛手であるかがわかる。
第二次夜襲戦で、機関銃中隊長の名取中尉は、松陣地への傾斜をのぼりながら、第一次の時、
(須走《すばしり》を思い出すな)
と、つぶやいたことを思い出した。名取中尉は甲州の出身だから、富士山麓《さんろく》の須走のあたりの傾斜地を想起したのである。四つ匍いでのぼっても、足もとがすべったのだ。
(こんな無理をして、突撃できるのか)
というのが、名取中尉の本心である。第一次の失敗で、心痛の多い大隊長の立場を思いやり、幹部たちは、第二次夜襲の命令を、平然として受け、気さくな冗談までいい合いながら、三八一三高地を出発している。内堀少佐の人間味のある人格を思い、同情したのである。本心をいえば、いまはじめて戦闘するわけではないから、事の成否の見当はつく。悪戦苦闘をどうしのぐか、それだけを、機関銃中隊長として、名取中尉も考える。
第二次は、しかし、用心をしたので、事前に敵に発見されることもない。枯草に足をとられてすべりはするが、しっかりと隠密にのぼってゆく。月が中天に架かっている。
頂上が近くなったが、敵の気配は静かである。先発の第五中隊が、鉄条網をおどり越えて突入するのを見、名取中尉は、
「ゆくぞ」
と声をかけて、一般中隊と一緒になって、松陣地へおどり込む。逃げまどう敵を、一般中隊が追って突進する。
名取中尉は、一銃は沢村少尉にあずけて残しておき、一銃は田村分隊とともに第七中隊に同行させ、自らは、機関銃を据《す》えるにもっとも有利な地点をもとめて、駈けつづけ、竹陣地の一角の、見通しのよい地点に、銃座をすえるべく命令した。ここから先は、ゆるい下り斜面になっていて、その向こうに中核陣地があり、すでに、中核陣地からも、竹陣地の後方からも、敵の銃撃がはじまっている。
銃座の位置からみると、中核陣地の前方には、厳重な鉄条網が張りめぐらされてい、陣地には左右上下にいくつもの火点があって、火を吹きつづけている。その鉄条網を切りさきながらも、死傷を重ねてゆく、一般中隊の様子がみえる。
据え終えた一銃の機関銃が、火を吹きはじめる。こちらから見通しがよい、ということは、向こうからも見通しがよい、ということである。月あかりと照明弾の明かりの下で、敵の銃火は、機関銃に向けて、いっせいにそそがれてくる。機関銃隊には「銃側墓場」という考え方がある。目立つ目標にされて、戦死してしまうからである。
じきに夜が明けはじめ、夜が明けはじめると、敵の銃撃は、すさまじさを加えてくる。敵の陣前に出ている一般中隊の犠牲は、みるまにふえてゆくのがわかる。
応戦をつづけるうちに、田村分隊から、負傷者続出のため、衛生兵を出してほしい、という逓伝《ていでん》が来る。それで、名取中隊長は、衛生兵二名を、第七中隊へ向かわせたが、弾雨下に、濯《あら》われるようにして、二名の衛生兵が二名とも負傷して、仆《たお》れ込むのがみえた。
銃側にいた二番銃手の小幡上等兵が、頭部に直撃弾を受けて、仆れ込む。
「隊長、小幡上等兵戦死」
と、たれかが叫ぶ声が、銃砲声の合間をつんざいて、耳につく。
「隊長、第二小隊長戦死です」
という声が、背後でする。
名取中隊長は、
「手近な壕を利用して、もぐり込め」
と命じた。身をさらしていたら、射的の的のように倒されてゆくのである。
明るみが増しはじめるにつれ、周囲の負傷者の呻《うめ》き声もきこえる。どこでだれがどのように負傷しているか、みわけがたい、眼《め》もあけられぬほどの銃撃のきびしさである。だれも、一歩も動けない状態に、追いつめられている。
堆土《たいど》上で抗戦していた機関銃は、槓桿部《こうかんぶ》、放熱筒に敵弾数発を受けて、使用不能になった。壕のまわりの、いたるところで、迫撃砲弾が炸裂《さくれつ》する。銃側墓場の兵隊たちも、被弾して戦死した。大隊本部や一般中隊との、連絡のとりようもなく、名取中隊長は、壕中で、吉田曹長《そうちよう》と田伏上等兵の三人で、潜んでいた。足も伸ばせない狭い壕だが、掘りひろげることもできない。銃撃の隙間《すきま》をみて、他隊との連絡をとりたいが、その銃声のやむ間がないのである。
このあたりには、木というものは、刈りとったのかどうか、一本もない。ただ、枯草には蔽《おお》われていて、戦闘中、火焔弾《かえんだん》の飛来によって、枯草が燃え、山火事のように燃えひろがってゆく。陽《ひ》が出て、陽はみるまに高みにのぼり、じりじりと、追いつめられている将兵を灼《や》く。暑さもまた、尋常のものでない。
ふとみると、カーチス三機が来て、翼の下に抱いている爆弾を数発落とし、あとは銃撃して去ってゆく。しばらくすると、同じようにやってきて、また爆撃と銃撃をくり返す。
機関銃陣地は、つとめて敵陣地に近接したため、爆撃の砲弾はすべて、陣地のうしろへ落ちた。
そのうちに、戦車が現われた。随伴歩兵は、手榴弾《てりゆうだん》を投げてくる。後方の機関銃は、これに応戦する。敵側の手榴弾は、安全栓《せん》を抜いて投げると、二秒で炸裂する。前面の中核陣地は、小高く、馬の背のような形で三、四百メートルも東へ、ゆるい斜面を持ち、そこに強固な防衛線が築かれている。
敵の銃砲撃に、ただ身をさらしているに過ぎない、やりきれない時間の中で、時だけが、実にゆっくりと過ぎてゆく。
「時間までが死に絶えているようだ。このまま、夜まで持ちこたえられるのか」
と、壕の中で、名取中隊長は、吉田曹長にいう。
「隊長殿、飯を食いますか」
田伏上等兵がいい、雑嚢《ざつのう》から飯盒《はんごう》をとり出そうとする。
「要らぬ。のどを通らぬ」
名取中隊長は、首を振り、双眼鏡で敵陣をのぞく。双眼鏡は潜望鏡式で、身を乗り出さずともよい。対物鏡をいっぱいにのばして敵陣をみると、陣地内で敵が動き廻《まわ》っているのがみえる。かれらは突入隊を完全に制圧しているための安心感がある。それがみていてもわかる。口惜《く や》しいが、どうしようもない。
双眼鏡をおさめて、しばらくたつと、
「隊長、敵襲です」
と、壕の端にいた上西上等兵がいう。つづいて、手榴弾の炸裂音がする。こちらも、身を乗り出して、近接してくる敵に、小銃と手榴弾で応戦する。敵は今度は擲弾銃《てきだんじゆう》(小銃の上部に小型の擲弾筒がついている)を撃ってくる。しばらく交戦すると、敵は後退する。白兵となって突っ込んでくる勇気はないのだ。
攻められ、応戦し、また攻められしながらの、長い長い一日が、ようやく暮れはじめると、敵の銃声はぴたりとやむ。
前面の夕闇の中から、亡霊のような人影がひとつ、よろめき出てきた。
「だれか。どうしたのか」
名取中隊長が声をかける。
「敵前に出ていた第五中隊の小山軍曹です。全員戦死しました。自分は死体の間にはさまって、動くことができませんでした」
人影はそういって、蹌踉《そうろう》とした足どりで後方へ去ってゆく。
「増援がなければ、もはや、夜襲は不能ですね。このまま夜が明ければ、明日はわれわれも全滅します」
吉田曹長が、名取中隊長にいう。
機関銃隊が、死傷者の点検と収容をつづけていると、後方から連絡がきた。
「各隊は、つとめて死傷者を収容し、三八一三高地に引き揚げよ、という命令です」
死傷者を収容する、といっても、第一線に出て戦死した兵員を収容することは不可能であろう。死んだ戦友に、砂もろくにかけてやることもできず、山を下りねばならないのだ。
「撤退しよう。負傷者を支えてやれ」
名取中隊長は、周囲にいる部下たちにそういい、重く疲れ果てた足どりで、陣地の周辺を見廻っている。
第七中隊は、兵数わずか七十二名で、松陣地へ突入したが、機関銃中隊から、機関銃一銃を有する田村分隊が配属になったことは、心強かった。第五中隊が尖兵《せんぺい》ではあったが、松陣地へ突入してからは、大隊が一丸となって攻め込み、松陣地を占《と》り、敵の応戦のはじまる弾雨の中を、竹陣地へ突入している。
先任下士官の山口軍曹は、この夜襲戦の出発前から、中隊のまとめ役として働いている。行動がはじまり、松陣地へ突入後、戦闘になってからは、まとめ役の任務は、さらに重要になった。月あかりがあるとはいえ、敵の銃撃の中を、各隊まじりあって行動することになるから、中隊の人員を把握《はあく》してゆくことなど、とうていできない。しかし、可能の限りつとめねばならない。
竹陣地まではともかく、中核陣地への突入にかかると、銃撃は待ち構えていたすさまじさになり、照明弾がつぎつぎにあがり、迫撃砲弾までが周辺に炸裂しはじめると、中隊を把握することなど、もはや絶望的である。みるまに被弾して倒されてゆく仲間たちの、叫びや呻きが、銃砲弾の音の中にきこえる。
山口軍曹は、中核陣地攻撃がはじまってから、
「隊長殿、隊長殿」
と、中隊長を呼んだ。ともかく中隊長の身近にいたかったし、中隊長の位置の確認だけはしておきたかった。本来なら、中核陣地攻撃にも、中隊長が中心にいて、部下を督励してくれねばならなかった。山口軍曹は、その指示を体して行動する。しかし、中核陣地からの銃砲撃が激しくなった時から、中隊長の姿がみえなくなった。呼んでも、答えはない。
「隊長、第七中隊長殿はどこですか」
と、山口軍曹は、ずいぶん呼んだ。しかし、中隊長をさがしてばかりはいられない。
迫撃砲弾が死体の側《そば》で炸裂すると、死体を宙に撥《は》ね上げるし、それが照明弾の明かりの中でみえる。中隊長が戦死か重傷のまま、迫撃砲弾で撥ね上げられたのではないか、と、山口軍曹は心配する。もし、被弾して失神したのであれば、さがし出して手当しなければならない。
中核陣地の手前の、鉄条網(幾重にも厳重に装着してあった)を切り破りながら前進をつづけたが、夜の明けるのが早く、銃砲撃は言語に絶してきびしくなり、地を払うような銃撃が来るので、死傷者が続出する。
山口軍曹は、やむなく、
「壕《ごう》を掘れ」
と、命じる。だれもが、円匙《えんぴ》か、円匙がなければ鉄帽で穴を掘りはじめたが、土質が固くて思うように掘れない。負傷者はふえるばかりで、あちこちで、
「衛生兵、衛生兵」
と声があがるが、衛生兵自身も負傷してしまったのか、いたずらに、衛生兵を呼ぶ声だけが、銃弾の合間を縫ってきこえる。
山口軍曹は、第七中隊が布陣しているあたりを駈け廻って、穴が掘れなければ壕をみつけてもぐり込め、と叫びながら、自身も、敵の壕をみつけて、もぐり込む。火焔弾が、枯草を燃やし、また、死体の被服を燃やしている。
山口軍曹は、中隊全体の状況だけは把握しておきたかったので、壕を飛び出しては、連絡に走る。近くの壕に、金子准尉《じゆんい》がいた。金子准尉は、壕に飛び込んだ山口軍曹に、
「中隊長と連絡はとれたか」
と、きく。
「隊長殿は見当りません。戦死されたかもしれませんが、それならだれかが教えるはずと思います。自分らは、どうすればよいのですか」
「今後の処置を、大隊本部にききにゆこう。お前はここにいて、とりあえず中隊の指揮をとれ」
「気をつけてください。後方も迫撃砲が落ちます。行かれたら、もどらんほうがいいです」
金子准尉が、壕を飛び出してゆく。
同じ壕に、宮田伍長《ごちよう》がいた。二人でみまもる。山口軍曹は、双眼鏡を眼に当てた。駈けもどってゆく金子准尉を追うように、銃弾が土けむりをあげて追う。二百メートルほども駈けつづけた准尉が、よろめいて、倒れ込み、傾斜を何メートルかずり落ちて、動かなくなるのがみえた。中核陣地からでなく、側方から撃たれたのだ。大隊は、包囲されるような形で、銃砲弾を浴びている。
「山口班長。ずいぶんやられました。中隊長以下、ほとんど全滅に近いでしょう。どうしますか」
宮田伍長にきかれ、
「このあたりに、何名残っているか調べてみよう」
と、山口軍曹はいい、二人で手分けをして調べると、山口軍曹以下七名が、近くにまとまっている。火器は軽機関銃一、擲弾筒一。配属の機関銃は別なところにいる。分散している兵員もいるはずだから、戦闘できる兵力の正確な数はわからない。しかし、中隊長との連絡もとれないのだから、仕方がない。
山口軍曹は、なお、あたりをさぐり廻って、北方五十メートルほどの壕に、名取第二機関銃中隊長のいることを認め、その指揮下に入れてもらうことにして、その壕に駈け込み報告する。
「五十嵐中尉は、戦死か?」
と、その時、名取中隊長にきかれ、
「戦死と思います。突入後、まったく連絡がとれません」
と、それだけをいって、元の位置へもどった。
戦況は、膠着《こうちやく》状態のままである。壕にもどって、山口軍曹が時計をみると、八時半を少し過ぎている。あとは名取隊長の命令を待てばよいので、少し気が楽になる。時々、双眼鏡で、銃弾の隙に、あたりをみる。インパールの方向から、戦闘機が数機、飛び立ってくるのがみえた。
その戦闘機が飛来してきて、銃爆撃をはじめる。
陽がのぼるにつれて、すさまじい暑さになる。のどがむやみにかわく。空腹のはずだが、食欲がない。乾パンを二つ三つ、辛《かろ》うじて口の中に入れる。まわりの戦死者が身につけている弾薬を集めさせるのが、せいぜいの作業である。
時間は、停《と》まったように、進まない。
しかも、限りもなく、戦闘はつづいてゆく。
弾丸を、惜しみ惜しみ使う。互いに声をかけ合い、励まし合う。
「銃声のやむ間をみて、中隊長をさがしてみたい。死体の確認ができるとよいが」
と、山口軍曹がいうと、
「自分にやらせてください。ずっと気がかりなのです」
と、宮田伍長がいう。
その時、中核陣地の東南角から、戦車が二輛《りよう》、出現してきた。随伴歩兵がかなりいる。それを山口軍曹は双眼鏡で認める。戦車は、銃砲撃をはじめるが、無理に進んでくる気配はない。
戦車は、東北角からも、やはり二輛が姿を現わしたが、これは、三八一三高地からの砲撃で、一輛が擱坐《かくざ》したので、残る一輛は引返してゆく。かれらにとっては、絶対優勢な立場があるので、攻撃を強行して、出血はしたくない気分があるのだろう。
それに、暑熱も、ますますきびしさを増す。
時間が、燃えながら緩慢に過ぎてゆく。
長い長い、重苦しい限りの一日が、それでも、いつしかに暮れはじめた。
あたりが、うす暗くなりはじめると、敵からの銃砲声は、まったくやむ。あたりが、ひっそりとする。やれやれ助かった、という思いは、正直に身に来る。
「山口班長、どうしますか。名取隊長に連絡してきますか」
宮田伍長が、話しかける。敵から、撃たれる不安だけはなくなったのだ。
すると、そこへ、後方の夕闇《ゆうやみ》の中から、人影が二つ、近づいてきた。
「七中隊の者はおるか」
と、先に立った声が、いう。
「いるぞ」
と、山口軍曹が答える。
「だれか。おれは中隊長だ」
中隊長? おかしい――が、中隊長の声である。どこから出てきたのか。
「自分は山口軍曹です」
と、とにかく返事をする。
「中隊は、いまから、攻撃する。生存者を集めよ」
と、中隊長は、いう。
「生存者など、いくらもおらんです。攻撃はことわります」
「これは、中隊長の命令である」
「中隊長は、おらんです。戦闘間に、部下をほったらかして行方をくらます中隊長は、中隊長ではないでしょう。暗くなってから出てきても、命令などきく気はないです」
その時、もう一方から、名取中隊長が近づいてきた。いい争う気配に、気づいたのであろう。
「五十嵐中尉か。貴様、いままでどこにおったのだ? 山口軍曹以下七名は、やむなくおれの指 揮下に入っておる。貴様がおらんでも、第七中隊はみんなよく戦ったのだ。いまごろのこのこ現われて、心にもない強がりをいうな。それならなぜはじめから突入せん。恥を知れ」
五十嵐中尉の返事はきこえない。黙って、引きさがって行き、闇の中に消えて行った。うしろについて行ったのは、当番兵である。
「山口軍曹、中隊をまとめよ。夜襲をするなら、聯隊《れんたい》命令が来るだろう。いずれにせよ、兵隊に休息をとらせておいたがよい」
名取隊長の指示で、山口軍曹は、高山伍長を後方の大隊本部へ連絡に出し、第七中隊の兵員をまとめて、歩哨《ほしよう》のほかは休ませることにする。――といっても、まとめるほどの生き残りもいな かったのだ。
山口軍曹は、土の上に寝転ぶ。土も冷えはじめている。中天に月が出てい、満天に散らばる星が、なにごともなかったかに、美しくきらめいている。頭はぼんやりしていて、考えもまとまらず、感動もない。また夜襲がはじまれば、死んでゆくだけである。その覚悟だけはできている。ただ、胸の一部で、くすぶっている思いがある。中隊長への憤《いきどお》りである。
(なにが攻撃だ。数えるほどの戦力で、やる気もない攻撃を口に出すとは、なんという卑劣な考えだ)
気が立って、眠ることもできない。
かなりの時間がたって、高山伍長がもどってきた。
「班長、大隊は三八一三高地に撤退するそうです。第七中隊は後衛をつとめよ、といわれました」
生存者より、死傷者のほうがはるかに多いのだから、死者を収容するゆとりなど、あるはずもない。それが、いかにもつらい。
山口軍曹は、撤退する隊伍の最後尾につくつもりで、七名が一団となって退《さ》がってゆくと、途中で、二名、三名と、負傷者が、支え合って退がってゆくのがみえた。
三八一三高地の西側の山裾《やますそ》を縫って、インパール河が流れて来ている。山口軍曹は、撤退の途中、第七中隊の者がいれば声をかけて、インパール河のほとりで、いったん集結した。この河の水を、岸辺にへたり込んで飲んだが、渇《かわ》きに渇いていたのどには、いいようもないうまさである。水筒にも補給をする。
この河のほとりでは、負傷者の手当もし、人員の点検もして、三八一三高地への引き揚げを終えたのは、二十日の夕刻近くであった。
第七中隊は、戦死者三十五名。負傷者二十名で、戦死者だけでも、夜襲突入時の半数に達している。戦い得る生存者は、中隊長以下、わずか十七名になっていた。
内堀大隊そのものも、二度にわたる夜襲の失敗で、その戦闘力を、ほとんど失うに至っている。
十九日の夜半、死傷者の収容は部隊幹部に任せて、内堀大隊長は、安部副官を伴って、三八一三高地より三キロ程東北方にある、チンサットの松村部隊本部へ赴いた。
安部副官は、沈痛をきわめた表情で状況報告をする大隊長の言葉を、自身も胸を痛めながらきいている。目的を果たせず、しかも多大の死傷者を生んだ責任を、大隊長は痛感しつつ話す。
(大隊長の罪ではない。だれの罪でもない。あれだけ善戦したのだ。流血のかぎりをつくしたのだ)
と、安部副官は、胸のうちで、声にならない叫びを、叫びつづけている。
松村部隊長は、内堀大隊長の労をねぎらってくれただけで、ほかにはなにもいわなかった。その聯隊長の傍《かたわ》らで、成瀬参謀は、腕組みをして立っていた。
帰りみちで、安部副官はいった。
「センマイ高地にとどまって敵陣地を奪取せよ、という命令を出させたのは、成瀬参謀だそうです。聯隊副官代理の竹ノ谷中尉からききました。うしろにいて、命令さえ出せば、事が運ぶと思っているのです。自分は、あぶないところへは、決して出て来ずにです」
「愚痴をいうてはならぬよ、副官」
大隊長は、月あかりの中で、副官をかえりみて、いう。
(泣いておられるな)
と思い、安部副官は、憔悴《しようすい》しきって、足もともやや覚束《おぼつか》ない大隊長を、支えながら歩いている。
黝々《くろぐろ》とつづく山々の稜線《りようせん》。その行手の、闇に包まれた、どう攻めても難攻不落のセンマイ陣地が、遠くしんしんとしずもっていた。
五、二つの挺進隊《ていしんたい》と岩田中隊の全滅
福島大隊(第三大隊)が、カングラトンビで大きな痛手を受け、内堀大隊(第二大隊)が、センマイ高地を攻めあぐねて出血を重ねているあいだに、まったく別な方向で、二つの挺進隊が、それぞれに戦果をあげている。
インパールへの連絡路を遮断《しやだん》するために派遣された伊藤挺進隊(第二大隊・第六中隊)と、粟沢挺進隊(第三大隊・第九中隊)の二個中隊である。
伊藤挺進隊は、コヒマ=インパール街道を四月六日に横断して、山中に入り、翌七日の夕刻には、敵地に深く入り込んでいた。インパールの西方三十キロ程の地点に、ハオチョンという小集落があるが、伊藤挺進隊は、ハオチョンからインパールへ向かう途中の、橋梁《きようりよう》爆破と、インパールへ送る水の水源池の破壊を、主たる目的としていた。目的達成後は、ハオチョンを守備して、インパールに向かう交通を遮断することが任務である。
伊藤挺進隊は、井沢小隊を先発とする主力のほかに、装備としては、土田少尉《しようい》の指揮する機関銃の桑原分隊、及び、相沢曹長《そうちよう》の指揮する工兵一個分隊が配属されていた。
山中に分け入ってからは、つとめて敵との接触を避けて、四月十一日の夜には、ハオチョン東方三キロの、橋梁付近に達していた。この地点から東方へたどりつめると、インパールにいたる。
本多挺進隊がミッション橋梁を爆破した時とは違って、ここはインパールにごく近いので、あまり目立つような爆破を行うよりも、橋梁が古びて朽ちて自然に崩壊したようにみせかけたほうがよい、ということになり、主として井沢先発隊が行動して、夜のうちに、橋梁を支える張綱を切断して、橋梁を落とした。このあたりの橋は木橋だが、一応トラックの通過は可能である。
橋梁破壊を終えた井沢小隊は、橋畔に身をひそめて朝を待った。
朝方、インパール方面から、英人将校の指揮する一隊がやってきたが、橋梁が落ちているのをみて、隊伍《たいご》は動揺する。約二十名ほどの一団である。
この時、井沢少尉は、隊員を二手に分けて、一方はインパール側を遮断するように、配置していた。橋の手前で、立ちどまり、動揺する敵の一団に向けて、井沢少尉の、
「撃て」
の命令とともに、全員が敵の隊伍を射撃する。インパール側の退路を絶たれているので、敵は谷間へすべり落ちて逃走を図ったが、谷間も隊員が配置されているので、射撃する。英人将校をはじめ、グルカ全員を射殺し、井沢隊は、かれらの所持していた武器弾薬等を、一切鹵獲《ろかく》している。
翌日の夜半、伊藤大尉自ら先頭に立って、井沢小隊の爆破班、高山軍曹の救護班を加えて、橋梁よりさらにインパールに近い、カンチャップの水源池を急襲している。
水源池には、むろん敵の警備隊がいたが、夜襲に弱い敵は、挺進隊が突入すると、たちまち狼狽《ろうばい》して逃げ散り、なんらの抵抗もしなかった。爆破班は、破甲爆雷をもって、給水タンクや機関部を悉《ことごと》く破壊して、インパールへの水源を潰滅《かいめつ》させている。
伊藤挺進隊は、その後、ハオチョンに駐在して、出没する敵や、水源池修復に来る敵を襲い、一ヶ月間、インパールへの交通を完全に遮断している。その守備ぶりだが、たとえば香川少尉は十名ほどを率いての偵察《ていさつ》行を、鹵獲したインド兵の服装に変装して行い、五十名ほどの敵と遭遇した時、彼我の距離が十メートルになるまで物蔭《ものかげ》に待機し、これを奇襲して、潰滅させている。敵は、奇襲にも驚いたが、服装が同じなので、同士討かと思い、日本兵と識別するのに手間どって、混乱を深め、自滅したのである。香川偵察隊からは、一名の死傷も出ていない。
こうした任務が、予想以上にみごとに果たせたのは、挺進隊の努力の結果であることは当然だが、いま一つ、この土地に多く住む原住民のアラカン族の協力も手伝っている。原住民は、敵状捜索、道案内、食糧の補給など、すべてに献身的に協力してくれている。日本軍が、周辺のいたるところで、敵を捕捉《ほそく》撃滅してゆく状況をみて、久しく虐《しいた》げられてきた民族の立場で、日本軍に非常な親近感をもったためであった。
伊藤挺進隊は、五月上旬に、部隊本部から、帰隊せよ、という命令を受けている。
この時、伊藤隊長は、
「これだけ戦果をあげ、かつ要地確保をつづけておるのに、これを放棄して帰るのは、いかにも残念である」
と、身近な幹部や、隊員たちに洩《も》らしている。
しかし、伊藤隊長は、センマイ高地戦で、本隊が、いかなる苦境に陥《おちい》っているかについては、具体的にはまだ、事情を知らなかった。まして、本隊復帰後数日のうちに、そのいのちを奪われる苛酷《かこく》な戦闘が、自身に見舞って来ようとは、むろん、予想もしていなかった。ハオチョンでは、赫々《かつかく》たる戦果をあげているのだから、センマイ高地の、暗澹《あんたん》たる戦況については、想像もつかなかったことであろう。
*
粟沢挺進隊(第九中隊)は、軍旗中隊であるため、挺進行動に移る時、原田小隊に軍旗を任せて、福島大隊長の麾下《きか》に置き、伊藤挺進隊につづく、第二挺進隊として、出発している。福島大隊が、カングラトンビで、大隊本部や石川中隊全滅の悲運に見舞われる、その前日の出発である。
粟沢挺進隊の任務は、インパール西側高地の発電所の爆破と、そこよりさらに南下した交通路、ビシェンプール=シルチャ間の、吊橋《つりばし》の爆破である。四月五日の夜半、粟沢挺進隊は、軍旗と別れて出発、ミッション北方から西へ、イラン谷地に分け入っている。
粟沢挺進隊は、粟沢中尉指揮の下に、松田小隊、中菅小隊を主力に、工兵第十五聯隊《れんたい》から爆薬携行の一個分隊、及び五号無線の分隊が配属されていた。総員わずか六十名である。
イラン谷地を過ぎると、草木を伐開しながらでないと進めない、山岳地帯ばかりがつづく。第一目標の五六二六高地までは、上り道がつづき、そこからは南下をはじめて、さらに海抜の高い七八五一高地に向かっている。
この七八五一高地に達するまで、まる二日かかっている。山頂にいたると、積雪があり、烈風にもさらされることになった。標高千五百メートルである。平地は酷暑であるのに、山頂はこの寒さである。薄着をしてきているし、寒さのため、どうしようもないので、追われるようにして先を急ぎ、山を下って、河床道をみつけて、そこを南下してゆく。
谷間で露営をしたが、炊爨《すいさん》の煙を出さないために、竹を折り曲げて屋根をつくり、その中にもぐり込んで、火を焚《た》いた。燃料は竹の葉である。このあたりの竹は、ビルマと違って、一丈ほどの高さの竹が、一本ずつ生えている。それを折り曲げ、結び合わせると、簡単な竹囲いができるのである。竹の葉というのは、燃しても煙が出ない。
山中を通った時、山の上には必ず原住民の集落があったが、原住民は日本軍には好意的で、村長を呼んで英軍の様子をきくと「昨日までイグリー(英軍)がいた」などと、状況を教えてくれる。
山肌《やまはだ》に、英軍の陣地のある地点もあり、傾斜地を利用して、全体に鉄条網をめぐらしているのが、双眼鏡でみてとれた。戦闘が目的ではないので、こうした地点は、隠密《おんみつ》に通過してきている。
行軍はずっと、英軍作製の、司令部から支給された、十二万五千分の一の地図を頼りにしている。幹部は首から磁石を吊って、位置をたしかめながら歩く。英軍の地図は、小さな集落まできちんと名が入れてあり、正確だった。
英国は、こんな山間にも、ゆきとどいた植民政策をしているので、部落ごとに争いをさせるような工作を、こまめに行っているのが、挺進行動で瞥見《べつけん》して歩く、小集落の様子をみてもわかった。集落毎《ごと》の争いがあるため、各集落は、相手に攻められぬよう、集落のまわりには鹿砦《ろくさい》を組んで、敵の侵入を防ぐようにしている。
集落には必ず井戸があり、主食は陸稲や南瓜《カボチヤ》などをつくり、酒はドブロクをつくる。住民はほとんど裸で、女は腰のまわりに、短い布をつけているだけである。腕や頸《くび》に、貝殻《かいがら》を連ねた装飾品をつけている。家は床を高くしてつくる。ただ、生活状態は悪い。家の前で住民と話をしていると、ピチピチという小さな物音がする。みると、将校用の革脚絆《きやはん》に、無数の蚤《のみ》がとびついてくる、その物音だったのである。
「あのノミは、イナゴぐらいにみえましたね」
集落を出て、松田中尉は、粟沢隊長に話しかけて、驚きをかくせない顔で、そんな冗談をいったものだった。
山間の道は、伐開しながら通らねばならぬところが多い。ここらの原住民の男は、みな、腰に鉈《なた》(原住民はダーと呼ぶ)を吊っているが、生活上必要だからである。
けもの道では、ふいに、熊蜂《くまばち》の大群に襲われて、難渋したこともあった。巣のあるのを知らずに、踏み込み、伐開するので、熊蜂が怒り、集団で襲ってくるのである。逃げても逃げても追ってくる。刺されると、顔面が大きく腫《は》れる。痛みのために、思考能力まで停止してしまう。
こうした苦労を重ねながら、出発以来五日後に、ハオチョン西方の台地に達した。
「あの下にみえるのが、ウクバンビではありませんか」
台地上で、松田中尉がきくと、粟沢隊長は、双眼鏡を眼《め》にあてたまま、
「松田中尉。あの部落の向こうから敵が来る。四十名位いるな。手を振っている。こっちがわかったのだ。友軍と思っているのだろう」
と、いう。
松田中尉は、とっさに決心して、
「尖兵《せんぺい》に出ます。あとは頼みます」
といって、軽機一分隊を含む少数で、物蔭を潜行して台地を下り、先にウクバンビの集落に入り、敵の隊伍《たいご》のやってくるのを待った。かれらは、指揮官が英軍将校、あとはグルカ兵だから、指揮官を倒せば、動揺して戦闘力を失うのである。
松田中尉は、英軍将校を先頭とする隊伍が、ごく間近に来るのを待って、将校を狙撃《そげき》させて倒し、狼狽して四散する敵を軽機で撃ち、さらに隊伍を率いて、逃走する敵を追って行った。グルカ兵は逃げ足が早く、とうてい追い切れない。
松田中尉らが、ウクバンビへもどって来ると、粟沢隊長が、労をねぎらってくれ、
「この将校の図嚢《ずのう》の中に、こんな書類があったぞ」
といって、紙片を渡す。読んでみる。
“六十名乃至《ないし》九十名の日本軍が山地を南下中。本夜、カンチャップ方面を通過する模様”
と、ある。
行動はすべて察知されている。なぜわかったのか。
「この書類を持ちながら、われわれをなぜ友軍とみて手を振ったのでしょうか」
と、松田中尉がいうと、
「こっちも手を振り返したからではないか」
と、粟沢隊長がいい、まわりの者も笑った。
日本軍の南下に対する、自軍の捜索隊と思い込んだのかもしれなかった。グルカ兵は、遠くからみると、カウボーイのようにみえる。そんな帽子をかぶっている。日本軍とはまるで違うのだが、陽《ひ》の反射もあり、自軍とみまちがえたのだろう。
しかし、情報が完全に敵側に洩《も》れている以上、油断はできない。粟沢隊長は、先を急がせて、河床道に沿って、南下をつづけている。時には、腰まである水を渡らねばならなかった。工兵分隊は、頭上に火薬を乗せて水中を歩いた。隊伍の中には、無理な山中行旅を重ねたため、熱病や下痢で悩んでいる者も何人かいる。
「落伍した者は、すてて行かざるを得ない。爾後《じご》の処置は自身で判断せよ」
粟沢隊長は、出発に際してそういった。任務を重視せざるを得ないからである。幸いに、落伍者はまだ一人も出ていなかった。むろん、死傷者も出ていない。
このあたりの原住民はナガ族で、日本軍には協力的である。日中は河床道をたどり、夕方に山頂の集落で露営をすると、米や、その他の食糧をもってきてくれる。道案内も快くひきうけてくれる。もっとも、かれらが、ご馳走《ちそう》といって出してくれる料理は、蛙《かえる》を串刺《くしざ》しにして焼いたものである。
山上から双眼鏡でみると、カングラトンビ=インパール道を、敵の車輛《しやりよう》がしきりなく通過してゆくのがみえる。インパールの市街も、双眼鏡でみれば、いまにも近づけそうにみえる。
インパール南方の、弓兵団(第三十三師団)の作戦区域と覚しいあたりから、殷々《いんいん》と轟《とどろ》く砲声がきこえてくる。インパール包囲の態勢は、すべて整っているかに、この山上にいると、想像できるのである。
粟沢挺進隊は、四月十二日の夜明けに、火力発電所を急襲して、少数の警備隊を駆逐し、設備の重要部分を悉《ことごと》く破壊して、直ちにつぎの目的地へ向けて発進している。
「こんな調子でゆくと、わが隊だけで、インパールへも、難なく突入できそうな気がしますね」
高橋軍曹は、隊中もっとも精悍《せいかん》な下士官だが、そんな冗談を松田中尉にいう。
インパールの南に、ビシェンプールという村がある。その村へつながる西方山地の道に、吊橋が架かっている。挺進隊のつぎの目標は、この吊橋の爆破である。
四月十七日の夕刻、山上の集落へ着いた時、粟沢隊長は部隊本部へ、無線で、現状報告と、吊橋爆破後の行動の指示を仰いだ。すると、思いがけない命令がきた。
“吊橋爆破は、弓兵団よりも挺進隊が進出せるため、第九中隊の現任務を解く。聯隊主力方面の状況悪化せるにつき、急遽《きゆうきよ》現在地より反転、帰還すべし”
「何ということだ。目標地点を眼の前にして、このまま帰還できるか」
粟沢隊長は、憤懣《ふんまん》やる方ない言葉を吐いたが、命令には従うよりほかはない。ビシェンプールへ向かう吊橋の破壊は弓兵団に任せるとして、隊伍をまとめて、引き揚げることになった。
粟沢隊は、四月二十二日の早朝に、カングラトンビ西方の高地にまで、引き返している。眼下には、街道を往来する敵の車の列がみえる。実に活発に行動している。
「部隊がいるなら、奴《やつ》らの車輛は、これほどわが物顔には通れんでしょう。戦況がよくないというのは事実でしょう」
松田中尉は、粟沢隊長にそういい、一応、カングラトンビへ行くつもりで、山を下りてゆく。むろん、夜行軍である。山を下り切って、カングラトンビに近づくと、夜闇《よやみ》の中を、風に乗って、いやな匂《にお》いが漂ってくる。
「屍臭《ししゆう》ですね、隊長。だんだんひどくなります」
松田中尉は、そういう。
かなりの数の、死体を処理したための匂いである。ここらは山間で空気は澄んでいるから、それだけに、屍臭はよく嗅《か》ぎとれるのである。挺進隊《ていしんたい》は挺進行動に専念していたから、カングラトンビ辺の戦況はわからない。福島大隊が、多大の犠牲を出したこともわからない。
隊伍は、カングラトンビ集落の間近に来て、様子を窺《うかが》うと、目前に、小さな小屋がいくつか並んでいる。小屋にしては形がおかしい。なおよくみると、数輛の戦車であった。
本隊へ復帰してくる間、本部とは無電で連絡をとって、本隊の位置は確認している。挺進隊は、カングラトンビ=インパール道を、匍匐《ほふく》して向こう側の密林内へ渡り、山中をたどって、翌四月二十三日の未明に、山間のエクバンに着いている。ここは内堀大隊の布陣していた三八一三高地より、少々後方になる。
粟沢隊長は、エクバンのやや東方に位置する、チンサットの部隊本部へ、帰還の報告にゆく。
松村部隊長は、挺進隊の果敢な行動とその戦果を賞揚してくれたあとで、粟沢中尉に、チンサットのさらに東方になる、五二二〇高地の守備を命じた。部隊では、そこを、便宜上、粟沢山と呼ぶことになった。
粟沢隊長は、帰隊して、カングラトンビでの悲劇も、センマイ高地夜襲の不調も、耳にした。しかし、粟沢隊そのものは、任務を完遂したので、意気軒昂《けんこう》としている。
粟沢隊長は、その日のうちに、五二二〇高地の守備についたが、その粟沢隊長も、隊員たちも、その後まもなくの、苛烈《かれつ》な戦闘の中で、生命を失うことになる。
* *
伊藤挺進隊、粟沢挺進隊が、山中深く分け入って、インパール西方の道路遮断《しやだん》や、橋梁《きようりよう》、発電所の爆破に奔走している時、第一大隊(吉岡大隊)から師団司令部予備隊として派遣されていた第三中隊(岩田隊)は、師団司令部の位置するカソム南方の山間で、敵の山上陣地を攻めあぐね、出血を重ねていた。カソムは、サンジャックから、やや南に進んだ地点である。
四月十五日の午後に、師団の管理部の兵隊数名が、馬糧にする草を刈りに出た時、敵の一隊から撃たれて、逃げもどっている。司令部は、それで、第三中隊に、出撃して、この敵を掃討するよう命じている。
命を受けた岩田中尉《ちゆうい》は、中隊を率いて、第一線に出ている尾本部隊(歩兵第五十一聯隊)と師団司令部の中間のあたりまで、道路上を進んだが、この時、西側の山上から狙撃されて、高安上等兵が戦死し、藤原一等兵が背に負傷している。
中隊は、物蔭《ものかげ》で、暮れるのを待って、日没時に、山へ向けて前進をはじめている。夜襲によって、敵陣地を奪取するつもりである。第一小隊の滝山分隊が尖兵となり、岩田中隊長は滝山分隊とともに先行し、敵前五、六十メートルまで近接して、突撃の機を窺った。
すると、夜襲の気配を察知したらしい敵は、迫撃砲を撃ちはじめた。夜闇の宙を裂いて、しゅしゅ、と、砲弾の尾翼の旋回音がきこえ、一弾の炸裂《さくれつ》した直後に、
「千野准尉《じゆんい》、戦死」
という、声があがった。
中隊長の傍《かたわ》らにいた竹中衛生上等兵が駈《か》けつけてみると、千野准尉は首筋に、迫撃砲の破片創を受けて、戦死していた。
山上では、敵兵のさわぐ声がきこえる。夜襲に備えよ、といっているのだ。
竹中上等兵が、中隊長のところへもどってくると、中隊長が、抜刀し、左手で階級章と認識票をむしりとって、竹中上等兵に渡し、
「これをもっていてくれ」
と、いった。
竹中上等兵が、先頭を切って斬《き》り込むつもりの中隊長の決意をさとった時には、中隊長は、
「行くぞ」
と、あたりに声をかけるなり、走り出した。
行手で、自動小銃の銃声と、手榴弾《てりゆうだん》の炸裂音がつづいた。竹中上等兵が走り出すと、
「衛生兵前へ、竹中前へ、中隊長負傷」
と、叫ぶ声がする。銃声はしきりである。竹中上等兵が、声の方へ駈けつけてみると、物蔭に、数人に囲まれて、中隊長が倒れていた。
「隊長殿、いま手当します」
竹中上等兵が声をかけると、
「やられた、腹だ、腹だ」
と、中隊長はいう。しっかりした声である。
あまりに敵の銃火に近いので、竹中上等兵は藤岡衛生兵と二人で、そこから二十メートルばかり、中隊長を抱えて避退し、手当をする。
月あかりだから、物の文目《あやめ》はわかる。腹部から腰への貫通銃創である。止血剤を打ったが、止血剤でとまるような出血でないことは、みていてわかった。ただ、中隊長のしっかりしているのが頼みである。
水をくれ、というので、水筒の口をあてがって飲ませると、中隊長は落ちついて、いう。
「突撃をしたら、石垣《いしがき》があった。石垣の上に陣地のあることは、斥候《せつこう》の報告できいていた。しかし、この石垣が高いのだ。よじのぼった。そこを真上から自動小銃で撃たれた。身体《からだ》が、ふわっと宙に浮いて、落ちて、一瞬に力がなくなったのだ」
中隊長の手当を終え、中隊長と同じく石垣をのぼり、重傷を負うている滝山分隊長の手当を手伝う。吉田伍長も負傷をしている。
この間も、突撃と交戦がつづき、時間の経《た》つごとに死傷者がふえてくる。はじめに、千野准尉戦死、ときいた時、竹中上等兵は何となく時計をみたが、午前二時であった。
中隊長重傷のため、攻撃も捗《はかど》らず、持久戦の撃ち合いとなり、そのまま時が過ぎてゆく。
いつしかに、夜が明けはじめ、明るみがさしはじめると、敵の猛烈な迫撃砲の攻撃がはじまった。敵は弾薬を無尽蔵に持っている。数門の迫撃砲の撃ち出す弾丸は、抛物線《ほうぶつせん》を描いて、散開している岩田隊に向けて落下する。夜闇に、壕《ごう》は掘ったものの、身動きもできない。
「竹中、竹中、隊長殿が」
近くで、藤岡衛生兵の呼ぶ声がし、竹中上等兵が壕を出て、藤岡衛生兵のいる壕へ行ってみると、寝かされている中隊長は、すでにこと切れていた。まだ体温の残る手を握り、竹中上等兵は、
「隊長殿、隊長殿」
と呼びかけたが、もはや、返事はない。
中隊長を失った第三中隊は、山麓《さんろく》へ後退して待機し、命令を待った。
司令部からは、八田少尉が、中隊長代理として、派遣されてきた。八田少尉は、中隊の兵数七十のうち二十が欠けている状態をみて、犠牲者の多いのに驚いたが、司令部からは、
“再度攻撃せよ”
という命令が来ている。八田少尉は、
「岩田中隊長の弔い合戦である。何としても山上陣地を攻め占《と》る。苦しいだろうががんばってほしい」
と、訓示をしている。
サンジャック戦で鹵獲《ろかく》した十サンチ榴弾砲を、この日は対向する山脚に据《す》えて援護射撃をする、という通達もあった。一門の十サンチ砲ながら、突入隊にとっては、心強い援護であった。
その日は、暮れるのを待つ。
夜半、突入隊は山上陣地へ向けて進撃をはじめ、山腹にあった鹿砦《ろくさい》は難なく越え、山上陣地に迫る。
中隊は、右より指揮班、第一、第二小隊の順に展開して、命令を待つ。前面陣地で話す敵兵の会話のききとれるほど、近接している。
「手榴弾を投げて突撃」
という命令が、伝達されてくる。
八田少尉が先頭に出て、手を振る。それを合図に、各個に手榴弾を投げて、突入する。
竹中上等兵は、数歩駈けた時、右肩に強い打撲を受けた感じで、倒れ込む。右肩に手をあててみると、ぬらぬらと血があふれ出ている。息もできぬほどの痛みがはじまる。
「藤岡、藤岡」
と、衛生兵を呼ぶ。応急処置を頼みたかった。しかし、藤岡衛生兵を呼ぶ声は、迫撃砲弾の炸裂音と、銃声によって消されてしまっている。銃声や砲弾の落下は、昨夜に倍して激しい。どれほどの者が陣内に突入し得たか。残りは、銃弾に射すくめられて、陣前三十メートルほどのところから動けない。
味方の十サンチ榴弾砲が、どの程度効果をあげたのか、まったくわからない。銃声は、ますます激しさを加える。
八田少尉が、竹中上等兵のところへ退《さ》がってきた。
「竹中はやられました」
と、いうと、
「おれもだ、腹をやられた、いかんな、無念だが」
そういい、八田少尉は、その場に倒れ込みしばらく悶転《もんてん》しながら、動かなくなった。竹中上等兵がにじり寄った時には、虫の息になっていた。
竹中上等兵の左に、第一小隊長中井少尉と、連絡下士官の木村伍長がいたが、中井少尉は手榴弾をまともに受けて、
「天皇陛下万歳」
と叫んで、死ぬ。
「中井小隊長、戦死」
木村伍長が叫び、さらに、
「三枝曹長《さえぐさそうちよう》戦死」
と、叫ぶ。
竹中上等兵は、
(全滅だ)
と、思い、自身の重傷も忘れて、あたりを匍《は》い廻《まわ》り、藤岡上等兵、尾竹兵長、粂野上等兵、浦上上等兵ら、みな死傷してしまったのを確認した。中隊指揮班は、ほとんど死傷してしまっている。
「撤退せよ、撤退せよ」
と、だれが叫ぶのか、その言葉をよりどころに、半ば転落しながら、麓《ふもと》へたどってゆく。
麓に、綏靖《すいぜい》隊が三十名ほど、応援に来ていた。綏靖隊というのは、傷病途中の者を集めて編成した、師団の予備隊である。
竹中上等兵は、綏靖隊に、中隊の事情を話し、死傷者の収容を頼んだ。
竹中上等兵は、ミッションの野戦病院に、ジープで運ばれ、翌日、第三中隊のこまかな事情を耳にしたが、七十名編成の中隊は、わずか数名を残して、あとはすべて死傷している。その戦力は無に帰したのである。
この第三中隊のほか、さきにカングラトンビでの第十一中隊、センマイ高地での第五中隊、第七中隊と、有力な中隊が続々と全滅してゆく。
第三中隊の本隊である第一大隊(吉岡大隊)は、インパールを南方から攻囲するために、山本支隊(弓兵団隷下《れいか》)に配属されて、戦っている。
その、第三中隊の本隊である吉岡大隊は、どのような運命をたどりつつあったのだろうか。
六、ライマトルヒルへ
弓兵団(第三十三師団)は、インパール北方の、烈兵団(第三十一師団)と祭兵団(第十五師団)に対向して、南方から、チンドウィンを渡河、主力を以《もつ》てビシェンプール方向に、また一部をもってインパール前面の要衝パレルをめざした。パレルは、もっとも強固なインパールの防衛拠点だが、そのパレルを守って、山間各所に、防衛陣地が設けられている。
弓兵団中の山本支隊(山本募少将指揮の歩兵団)は、チンドウィンを渡河後、パレルをめざして北進し、パレルに通じる本道の入口、タム、モーレに到《いた》って、敵の頑強《がんきよう》な防衛線と遭遇し、これと交戦している。この交戦間の三月二十三日以降、山本支隊は第十五軍の直轄《ちよつかつ》となっている。
祭兵団の松村部隊(歩兵第六十聯隊《れんたい》)の吉岡大隊(第一大隊)は、聯隊を離れて、南方よりチンドウィンを渡河、モーレ東北方を行動中、山本支隊の指揮下に入るよう命ぜられている。山本支隊が、タム、モーレの敵との交戦に手間どっていたためもある。吉岡大隊は、爾後《じご》、山本支隊隷下《れいか》として、パレル攻略のための各戦闘に参加し、作戦の終了時まで、勇戦をつづけている。
陸軍における部隊の建制というのは重大な意味を持つが、インパール作戦では、部隊の建制を無視し、混成転用するという事例が、各方面に頻発《ひんぱつ》している。このために、悲劇を生じたり、問題を生む因子となったりした。吉岡大隊もまた、その例外ではなかった、といえよう。吉岡大隊は、インパール作戦発起以前も、師団直轄となることが数度に及び、たまに聯隊に復帰していても、聯隊を離れて行動することが多かった。大隊の運命といってしまえばそれまでだが、思えば、大隊としての孤独な道を歩み、それだけに、より多くの辛酸をなめている。
師団は、インパール作戦の初動時においては、吉岡大隊を、師団直轄として、師団の左側支隊として進発させ、作戦の経過に従って、師団主力に合流させる考えがあった。師団直轄にしろ、山本支隊に入るにしろ、要するに吉岡大隊には、自聯隊の軍旗の下で戦う、ということは遂にできなかった。
吉岡大隊は、山本支隊の隷下に入って以後、モーレ、シボン、シタチンジャオ、ランゴール、さらにライマトルヒルと、パレル防衛線上の強固な諸陣地と、悪戦に悪戦を重ねて、際限もなく、出血を重ねてゆくことになった。
*
歩兵第六十七聯隊から挺進隊《ていしんたい》として出動し、ミッション橋を爆破し、以後歩兵第六十聯隊に配属された本多大隊(第三大隊)や、サンジャック、カングラトンビ戦で多大な痛手を受けた福島大隊(第三大隊)、また、センマイ高地攻略戦で無残な犠牲を重ねつづけることになった内堀大隊(第二大隊)――などと遠く離れて、吉岡大隊(第一大隊・吉岡少佐〈第三中隊欠〉)は、三月十五日の夜に、タウンダット南側地区よりチンドウィンを渡河して、ミンタミ山系にわけ入っている。聯隊の指揮下を離れたのである(巻頭付図1参照)。
“吉岡大隊は、兵団の左側支隊となり、ミンタミ山系を経て、すみやかにカバウ渓谷《けいこく》ミンタ付近に進出し、タム方向に対し、兵団の左側背を掩護《えんご》したる後、概《おおむ》ね尾本部隊(歩兵第五十一聯隊)の突進路に併行して、その南側地区をインパール平地東北角高地に向い突進すべし”
右が、吉岡大隊に出された、聯隊命令である。
(聯隊とともに、軍旗の下で戦いたかった)
吉岡大隊の将兵たちは、命令を受けた時、一様にそう思ったが、軍命ではやむを得ない。兵団のうち、チンドウィンを最下流で渡河突進して、インパールを南側より攻撃する使命を課せられたのである。
チンドウィンの渡河には、他大隊も、細心の注意と苦労をして隠密《おんみつ》行動を図ったように、吉岡大隊も、渡河地点の地形、敵状をつぶさに調べるために、将校斥候を何度も派《つかわ》している。炭焼の経験者を集めて炭まで焼かせたのは、渡河直前の炊飯に、焔《ほのお》をあげさせぬためであった。敵機は、連日、チンドウィンの河上を、河面《かわも》すれすれにしきりなく飛来していた。日本軍の渡河の動静を、予感しているもののごとくにである。
渡河は、工兵隊の折り畳み用の舟艇が利用できたので、竹の筏《いかだ》は用いなかった。先発は佐藤中隊(第四中隊)である。
先頭の舟艇の舳先《へさき》にいて、佐藤中隊長は、上陸目標地点であるタウンダットの南方で、合図の 懐中電燈《でんとう》の点滅するのを眺《なが》めながら、いよいよ作戦に向かう緊張感を覚えていた。傍《かたわ》らには、指揮班の北村兵長が、ぴったりとくっついている。灯《ひ》の点滅をしてくれているのは、先行している工兵隊である。
舟艇群が接岸すると、先発小隊からつぎつぎに川に飛び込む。岸とはいえ、水深は胸元まである。水をかきわけて上陸する。
ミンタへは、山道をたどって、ほぼ五日の行程である。山道は狭く、しかも急峻《きゆうしゆん》である。馬牛部隊は、本隊とは行動できず、北方を迂回《うかい》してミンタへ向かっている。このあたりは、山道は遮蔽物《しやへいぶつ》がない。敵機の偵察《ていさつ》があれば物蔭《ものかげ》にひそむ。十二万五千分の一の地図では、山道も河床道も区別がつかない。川に妨げられると、水中を跋渉《ばつしよう》して進む。師団からは、早く行け、という無電命令ばかりがくり返される。司令部は地図をみているだけだから、山中踏破の実感は少しもわからないのだ。
吉岡大隊は、渡河地点のタウンダットの集落に集結していた敵の警戒兵たちを撃破し、ミンタミ山系に入り、朝食のあと、山岳地帯を西進している。断崖《だんがい》絶壁にぶつかると、草の蔓《つる》で綱を編み、それを頼りによじのぼる、という苦労まであった。このあたりは、野象の棲息《せいそく》地帯で、野象は、時によって、人間を襲うのである。
大隊が、山間の集落ミンタへ着き、三月二十一日の朝を迎えた時、新たな兵団命令が届いている。
一、山本支隊は目下タム付近において有力なる戦車、砲兵を有する敵を攻撃中なり。
二、吉岡大隊は、すみやかにモーレ付近に突進し、敵の退路を遮断し、山本支隊のタム付近の攻撃を容易ならしむべし。貴隊は爾後、山本支隊に協力すべし。
山本支隊は、山本少将の指揮する弓兵団(第三十三師団)の突進隊で、歩兵四個大隊、重砲、戦車の一部を配属し、弓兵団主力と分離して、カレワ=モーレイク=タム道に沿う地区を行動し、インパール東南方の主要隘路《あいろ》口である、パレル要塞《ようさい》の攻略を目的としていた。
この付近は、インパール防衛線になっているので、いたるところに、敵の陣地がある。タムは、吉岡大隊の駐留しているミンタより、ほぼ一日行程の南方に位置するが、その間の山岳地帯にも、敵の拠点が散在する。
「これで、われわれも、いよいよ本隊を離れることになるのだ。張り合いはないが、六十聯隊らしい、いい戦いをしよう」
吉岡大隊長は、各中隊長を集めて、自身の感懐を述べたが、これはむろん、大隊の将兵全員の心懐でもあったろう。他兵団へ配属させられる、というのは、正直にいって、嬉《うれ》しくない命令である。しかし、インパールを攻略する、という至上目的のためには、すべてをかえりみず、作戦の成功に尽くさねばならない。
弓兵団(第三十三師団・師団長柳田元三中将)について少々付記すると、同兵団はつぎのような軍の命令によって行動を起こしている。
一、師団は極力企図を秘匿《ひとく》しつつ作戦準備を整備し、χ日一斉《いつせい》に行動を開始し、一部を以て、ヤザギョウ=タム=パレル道に沿う地区を、主力を以て、トンザン=チッカ=インパール道を、インパールに向かい突進せんとす。
χ日は三月十五日とするも別命す。
山本支隊は、この命令にもとづく、右突進隊として、さきにチンドウィンを渡河した地域のチン高地に布陣していたが、そこから北進を開始して、インパールへ向かうことになった。そうして、途中、タムの敵部隊と交戦することになったのである。
山本支隊は、歩兵はわずか七個中隊に過ぎなかったが、軽戦車二十数輛《りよう》、速射砲八門、山砲十二門、十五榴弾砲《りゆうだんほう》八門、十加農砲《カノンほう》八門を擁していた。三個師団の多くの突進隊中、もっとも充実した火力を持つ突進隊であった。これにくらべると、吉岡大隊は、第三中隊を欠いた三個中隊の編成である。兵員は約一千名。山砲は旧式のものわずか一門、それに工兵隊が一部配属されているに過ぎない。
山本支隊が遭遇している敵は、タムの山岳地帯に、強固な陣を敷いているのであろう。吉岡大隊は、それに、背面より、攻撃をしかけることになった。
吉岡大隊長は、タムへ向けての進発に際して、つぎのような命令を出している。
一、山本支隊は目下タム付近において、有力なる敵を攻撃中にして、同地の敵はシボン方向に退却の徴《ちよう》あり。
二、後藤中隊は尖兵《せんぺい》中隊となり、すみやかにモーレ北方地区高地に向かい突進すべし。
三、佐藤中隊はクンタンより分進し、シボンに突進し、敵の退路を遮断すべし。
右の命令のうち、モーレは、タムの北方に位置していて、モーレ北方にも、敵の強固な陣地のあることがわかっていた。モーレよりずっと北方にクンタンがあり、ここから道は西へ向い、その道はシボンを経て、はるかにインパールに向かう。タムの敵は、山本支隊の攻撃に耐えかねて、タム陣地を離脱して、北西進して、シボンを経て、インパール方面へ逃走する見通しがある。佐藤中隊は、クンタンで本隊と別れて、この逃走する敵の退路を遮断することになったのだった。
吉岡大隊の主力は、ミンタから南下し、クンタンを経てタムへ向かっている。
吉岡大隊長は、身近に真崎機関銃中隊長、荒居少尉《しようい》、指揮班の兵隊たち若干名と、本道上を、先頭に立って前進したが、クンタンを過ぎてまもなく、ふいに、行手の樹林帯の中から、敵戦車六輛がつぎつぎに出現した。戦車群は、戦うのではなく、タムへ向けて全速力で退去してゆく。
「あの戦車群は、タムへ行って、本隊と合流するのだろう。部隊が先にタムへ行き、戦車群はここに残置されていたのだろう。モーレからタムのあたりは、敵の部隊が充満しているのではないか」
退去してゆく戦車群をみながら、吉岡大隊長は、そういった。
クンタンからタムまでは、十二キロの行程である。モーレはタムの手前、三キロの地点にある。尖兵中隊を命ぜられた後藤中隊(第二中隊)は、本道上を、モーレに向けて進んでいる。モーレとその先のタムには、敵が密集していると予想される。クンタンで佐藤隊と別れた大隊の兵力では、よほどきびしい戦闘を強《し》いられるに違いなかった。
その後藤尖兵中隊は、三月二十二日の昼には、モーレ北方の防衛線、二二〇六高地の敵陣地を攻撃する態勢を整えていた。二二〇六高地は、本道の西側になる。防備はむろん堅固だが、斥候隊を出して、できるだけ地形、防禦《ぼうぎよ》状態は調査した。
ここらの高地一帯は、鬱蒼《うつそう》としたジャングルに蔽《おお》われている。視界はほとんど利《き》かない。陣地へ向かう樹林帯一帯には、厳重に鉄条網が張りめぐらされ、しかも、張った鉄条網は雑草で蔽いかくされている。手の込んだ偽装が施されている。
「鉄条網だらけですから、突入には苦労をすると思います。暮れるのを待たず出発し、充分時間をかけて、突入したいものです」
将校斥候をつとめた竹村少尉は、中隊長にそう進言している。
中隊は、夕刻早目に出発、慎重に雑草を分けて山肌《やまはだ》をのぼり、鉄条網を越えて進む。鉄条網に手榴弾の発火装置の仕掛けられていないのが、なによりだった。
苦労をしながら、ともかく、第一の防衛線だけは越え得たが、つぎの防衛線にかかった時には、すでに、敵の察知するところとなって、やみくもに、猛烈な銃撃がきた。機関銃と自動小銃の弾幕が、樹林帯を薙《な》ぎ払うようにくる。
攻撃は、むやみに張りめぐらされた鉄条網に災いされて、捗《はかど》らず、突入が思うに任せぬうちに、中隊長後藤中尉、小隊長竹村少尉戦死、分隊長以下も死傷相つぎ、攻撃は、樹林帯の中で頓坐《とんざ》してしまった。
後方の、大隊本部へは、無線で戦況を連絡する。
大隊本部は、本道上を、二二〇六高地の近くへ来ていたが、大隊長は、後藤中隊の苦境に陥《おちい》っ ているのを救援すべく、不破中隊(第一中隊)を進発させている。
すさまじい銃砲声(砲声は迫撃砲である)のこもる中、不破中隊は、後藤中隊の右翼に展開して、樹林帯を攻めのぼったが、敵の銃火は、なんとしても激烈で、抗しがたい。
不破中隊は、第二防衛線に迫るまでに、小隊長西川少尉及び並川少尉ともに戦死、さらに死傷続出して、攻撃は頓坐している。
結局、大隊命令で、この夜襲は中止になった。両隊は、撤退している。
これは、戦闘間に、師団から派遣された桑原参謀が、大隊本部に到着し、
「大隊はモーレ攻撃を中止して、兵員をまとめ、シボンへ向けて前進してはどうか」
という意見を述べたからである。
師団に入った情報では、敵の主力は、すでに、タムからシボンに移動しはじめている、ということだったのだ。
「タムの全兵力がシボン陣地に合流すると、きわめて強力になる。インパールへの道は、ますますきびしくとざされることになる。少しでも有利に戦いを進めるべきだ」
という参謀の意見に、大隊長も従っている。
吉岡大隊は、しかし、このモーレ北方二二〇六高地戦で、三十余名の死傷者を出している。ことに幹部将校の戦死の多いのは、それだけ勇壮に先に立ったということだが、大隊の痛手もまた大きい。
祭兵団のどの突進隊も、戦いのごとに、それでなくとも乏しい兵員を失いつづけ、戦力を弱めながら、なおきびしい戦況へ向けて突進して行かねばならない、インパールまでは――という宿命の道を歩まされているのだが、吉岡大隊もまた、そうした運命にさらされてゆくことになるのか。もともと吉岡大隊は、聯隊長《れんたいちよう》の松村大佐が、もっとも頼りにしていた大隊で、これが、別働隊となって本隊を遠く離れる時、聯隊長はいかにも落胆した表情で、吉岡少佐の手を握って、その健闘を祈ったものである。
吉岡大隊は、三月二十二日の夜に、モーレ東南地区を出発し、翌二十三日の午後、シボン東方高地に到着して、佐藤中隊を掌握している。ともかく、一日ずつインパールへ近接はしてきている。
シボン東方高地から望見すると、シボン付近を占領している敵の機械化部隊、歩兵部隊などの動きが、よくわかった。シボンの集落へ入るには、道は一筋しかない。東側の斜面は急峻《きゆうしゆん》で登攀《とうはん》できず、夜陰にまぎれて、一列縦隊で、断崖下の道をたどって、シボンへ突入するよりほかはなかった。
大隊が、シボンへの突入準備を整えている時、山本支隊へ連絡に出ていた平田中尉がもどって来て、
「大隊長殿、シボンの夜襲は中止せよ、という命令です」
と、伝えた。
タム、モーレ付近の敵はすでに退却し、シボンの敵も退却の徴がある。従って吉岡大隊は、攻撃目標をシボンから北へ転進して、シタチンジャオ方面に向け、同地付近の敵を攻撃すべし、ということだった。
この命令を受けたあと、桑原参謀は、
「善戦を祈る」
と、いい置いて、師団へ復帰してゆくことになった。センマイ高地を攻めあぐねていた内堀大隊本部へ来て、兵員を苛酷《かこく》に督励することしか知らなかった師団参謀と違って、桑原参謀は、よく状況をみながら、つとめて有利な戦闘の指導を行っている。
ここで、クンタンから分進して、さきにシボンへ向かった佐藤中隊の状況に触れておかなければならない。
クンタンから西進をつづけてきた佐藤中隊は、根岸小隊(第二小隊)を尖兵として、山間を隠密に前進中、はるか左方の本道上を、敵の大部隊が、シボン方向へ後退してゆくのをみかけた。タム、モーレ方面から、撤退してきた部隊とみた。
「たった一個中隊では、捕捉《ほそく》のしようもありませんな」
中隊長の傍《かたわ》らで、指揮班長の横山准尉《じゆんい》が、無念そうにいった。
尖兵の根岸小隊は、シボン北方高地に達した時、そこを守備していた敵から攻撃を受けた。敵は少数だったので、小隊はこれを撃破して、この高地を占領している。
後続の中隊は、無事に北方高地に達した。
根岸小隊に追われて敗走した敵は、シボン北方高地に集結していた日本軍部隊への、反攻を意図したのだろう、佐藤中隊長が、各小分隊長、指揮班長らを集めて、シボン夜襲についての指示を与えはじめた時、不意に、空を割いて迫撃砲弾の、すさまじい集中攻撃がはじまった。迫撃砲弾は、尾部の羽根が旋回して飛ぶので、風を切る音を発し、威圧感がある。これが集中してきた。
迫撃砲弾は、高地一帯に降りそそぎ、そのうちの一弾は、擲弾筒《てきだんとう》分隊のまん中に落ち、隊員たちは濛々《もうもう》とした土煙の中に吹っ飛び、一人は、三間も離れた枯木の幹に引っかかった。即死の状態で、垂れ下がったのである。
中隊長は、直ちに、後方への避退を命じている。しかし、横山准尉は、
「隊長殿、がんばりましょう。弱みをみせてはいかんです」
と、いった。迫撃砲弾は、ますます落ちつづける。
「このままでは全滅する。責任はおれがとる。戦闘はここを守備するだけではない。退《さ》がれ」
中隊長は、全員に向けて叱咤《しつた》し、中隊は、各個に陣地を撤退して、東へ、後方五百メートルの高地へ移動した。中隊長は、後方高地への撤退指示もしたが、砲弾の炸裂音《さくれつおん》の激しさのために、隊員だれもの耳に届いたかどうか。四散するに似た撤退である。
後方高地へ撤退したあと、佐藤中隊長は、敵状をさぐるために、数組の将校斥候を出した。北方高地を奪回したかったからである。
指揮班からは、指揮班長の横山准尉と北村兵長が、一個分隊を護衛として、捜索に出発している。
北村兵長は、隊伍《たいご》の先頭を歩いた。
もし敵と遭遇したら、自分ひとりはどうなってもよい、あとの者は無事に退がらせよう、と思い、臆《おく》せず、先へ進んだ。
北方高地へ百メートルほどに近づいた時、北村兵長は、敵兵たちの靴《くつ》の跡をみつけている。土に印された靴跡は、日本兵のものと、はっきり区別できる。北村兵長は、横山准尉を待って、
「准尉殿、敵は、このあたりまで来ております。この靴跡は新しいです。いまのいま、歩いたみたいです」
と、いった。しばらくは様子をみるつもりで、傍らの竹藪《たけやぶ》の蔭《かげ》に、斥候隊は身を潜める。
すると、その時、眼《め》の前へ、インド兵二名が歩いてきた。話しながら、通り過ぎる。距離は五メートルもない。
「撃ちますか」
と、北村兵長が、声を低めてきく。
「よそう。後方に部隊がいると思う」
と、横山准尉は、いう。
「自分が様子をみてきます」
北村兵長は、そういい置いて、高地のまわりを迂回《うかい》し、北側の稜線《りようせん》上から偵察すると、月あかりの中に、かなりの敵兵の動くのがわかる。百名くらいはいるようにみえる。
それだけを確認して、横山斥候隊は、帰隊している。
他の斥候隊も、帰隊し、シボン北方高地一帯が、完全に敵手に陥《お》ちていることを報告している。
佐藤隊は、敵の、退路遮断《しやだん》の任務を果たすために、態勢を整えねばならなかった。北方高地占領後に受けた、迫撃砲の猛攻撃によって、明石軍曹《ぐんそう》、椋本軍曹、森津兵長、楠部上等兵、藤田上等兵、中口上等兵、宇野上等兵らを戦死させ、木村少尉以下十数名の負傷者を出している。中隊は、きわめて深い傷を負ったことになる。なかでも、擲弾筒分隊が筒もろともに全滅してしまったのは、戦力上、大きな痛手となった。
佐藤中隊は、待機中に、大隊がシボン攻略のため、モーレ付近から反転してくるという連絡を受けた。大隊とともに、シボン夜襲が決行されるであろう、と、佐藤中隊長以下は覚悟を新たにした。
大隊は、四月二十三日の午後に、シボン東方高地に達し、佐藤隊を掌握している。ただ、シボン攻略は、支隊命令によって中止となり、シタチンジャオへ向かうことになった。シタチンジャオは、シボンよりも、さらに北方の、インパールへ向かう山間のコース上にある。むろん、行手に待つのは困難だけであろう。
吉岡大隊は、シタチンジャオへ向かう時、北方の山地を踏破してゆくことを考えたが、山地は馬の背のようになっていて、道と呼ぶべきものはない。駄馬《だば》も軽戦車も行動不能である。シタチンジャオへの移動に際し、山本支隊長は、軽戦車三輛《りよう》の配属を、指示してくれている。軽戦車を装備に加えることは心強かったが、道がなければ戦車は動けない。
吉岡大隊は、それで、クンタンまで引き返し、ここで軽戦車三輛を掌握して、不破隊を尖兵中隊として、クンタンから、ラムロン、ドライブンを経て、シタチンジャオに向かうことになった。
山道は、幸い、両側とも密林になっているので、対空遮蔽《しやへい》には良好である。しかし、進むに従って、道は嶮《けわ》しく、しかも狭くなり、戦車の通行は不能になった。後方から、戦車の進行不能、という連絡が来ると、
「もともとなかった装備だ。帰ってもらおう」
と、吉岡大隊長は、淡々としていい、側近の者たちを、かえりみる。
「それにしても、曲折の多い、インパールへの遠い道でありますな」
と、副官の四方少尉《しようい》がいった。
だからといって、大隊の士気が衰えたわけではない。チンドウィンを渡河した時から、将兵の心はただ、インパールに向いている。
戦車を帰したあとは、山道を進んで、大隊が、シタチンジャオ東南二キロのカンパンという小集落に到着したのは、四月十日の朝である。
このあたりの集落には、チン族やクキ族が住んでいる。かれらの集落はすべて山頂を切りひらいて、家屋が密集している。男女ともに、ほとんど裸体に等しいみなりをしているし、だれもが入墨をしている。竹細工をつくる技能をもっていて、どの家にも材料や製品が置いてある。製品を売り歩いて、生計の助けとしているのであろう。高度二千メートルくらいの耕地で、陸稲をつくり、それを食糧の一部としている。野菜のほかは落花生をつくる。原始的な素朴《そぼく》な暮らしをしていて、日本軍に対しても、警戒心を持たなかった。
シタチンジャオは、道路の西側の五二四〇高地に敵の陣地があり、道路を扼《やく》し、陣地周辺には厳重に鉄条網を張りめぐらし、鹿砦《ろくさい》もいたるところに構築している。
敵はすべて、高地の陣地内にたてこもっているので、大隊は、シタチンジャオの集落に進出し、十四日の夜、敵陣地に向けて、夜襲を敢行することにした。敵にくらべ、兵力も装備も劣弱な大隊としては、夜襲をもって、敵陣地を屠《ほふ》るしかない。これは吉岡大隊のみならず、インパール作戦にかかわった兵員すべての、苛酷な戦いの姿勢、ということになる。それでも、行手を妨げる陣地を奪い、前進を重ねて、インパールへの突入を図らねばならない。
大隊長は、不破隊には、本道の西側五二四〇高地の敵陣地の攻撃を命じ、佐藤隊には、本道上を北方に進んで、北方に位置するシタクキ集落からの、敵の救援攻撃を阻止させることにしている。大津隊(第二中隊)は予備隊として、大隊長が掌握する。
不破隊は、夜半に、喜多見小隊を先頭にして、五二四〇高地へ向けて進発、鹿砦を突破し、敵の陣前にいたって、手榴弾《てりゆうだん》を投擲して鉄条網の爆破を意図したが、同時に企図も発覚して、敵の銃砲火を浴びることになり、喜多見少尉は戦死し、小隊は死傷続出して、攻撃は頓坐した。
大津隊の寺口小隊が、第一線に応援に来た。不破隊は、寺口小隊の応援を得て、さらに攻撃を続行したが、火網を突破しきれず、遂に夜襲は失敗している。
この戦闘開始とともに、敵の反撃もきびしさを増し、夜っぴて敵の火焔弾《かえんだん》の洗礼を浴びつづけ、夜が明けると、数機の戦闘機が銃爆撃をはじめる。シタチンジャオの集落は、みるまに、灰燼《かいじん》となって、その姿を消滅させてしまった。
吉岡大隊長は、主力をいったん北方のシタクキ方面に集結させ、態勢を整備し、十八日の夜に、かさねて五二四〇高地の夜襲を意図している。
一般に、鉄条網を切りひらくには、鉄線鋏《ばさみ》を必要とするが、大隊には、鉄線鋏がなかった。このため、夜襲を決行するには、機関銃の援護射撃のもとに、強襲するよりほかはなかったが、敵の応戦も激しく、しかも、敵は陣前に地雷を敷設《ふせつ》し、地雷原の行手にさらに鉄条網を張りめぐらし、手榴弾をはじめ、重火器の火網は、眼もあけられぬ激しさである。それに、西方五キロの山中の、サイボンにある砲兵陣地より、正確に測定された野砲弾がしきりに飛来し、大隊はいたずらに出血を重ねるのみで、この夜襲もまた失敗に帰している。兵力、装備ともに、あまりに劣弱であっては、いかに気力をふるいたたせても、物理的に、勝てるわけがなかった。センマイ高地を攻めあぐねた内堀大隊(第二大隊)同様の苦戦を、吉岡大隊もまた強《し》いられたことになる。
吉岡大隊主力が、五二四〇高地の第一次夜襲を決行した時、別働隊となってシタクキ方面に向かっていた佐藤隊は、シタクキの山上にある敵陣地の背後に迂回行動をしていた。断崖《だんがい》絶壁の多い、急峻な山岳地帯を、しかも隠密《おんみつ》に敵陣地の背後に廻るのは、容易の業ではなかった。山間を難行している時に、はるか南方で、激しい銃砲声がきこえはじめた。
「本隊の夜襲がはじまったようです」
と、指揮班長の横山准尉が、中隊長にいう。
「遅れをとったか。これほどの難路でなければな」
と、中隊長は無念がり、そのあと、暗夜を必死に急行して、ともかくも、夜の明け方には目的地に到《いた》り得たが、その時には、銃砲声もやみ、深閑とあたりは静もっている。
「隊長殿、夜襲は失敗したと思います」
横山准尉がいうと、中隊長は、黙然とうなずいたあと、
「わが隊は、陣地を攻め取りたい」
と、いい、鑓《やり》少尉を呼び、攻撃のための斥候を命じた。敵陣地が、鉄条網を張りめぐらしていることはわかっている。中隊長は、鉄条網の開口部をみつけるために、斥候を出したのである。中隊長は、鉄条網を突破できれば、昼間攻撃を敢行するつもりだった。
鑓少尉が、数名の部下を連れて、斥候に出て間もなく、明け方の静寂を破って、地雷の炸裂する爆発音が二発、三発とつづいた。
「地雷にやられました。自分が救援に出向きます」
横山准尉はそういうと、指揮班の北村兵長ほか数名とともに、中隊が集結していた西側の低地を飛び出した。
山をのぼって、敵陣地に近づくと、樹間を縫って、鑓斥候隊が引き揚げてくるところだった。先頭に立つ鑓少尉は、横山准尉に、
「地雷が、びっしりと埋められております」
と、沈痛な表情で報告する。地雷の誘爆で、分隊長の戦死のほか、三名が負傷している。
佐藤隊は、昼間攻撃を断念し、本隊の夜襲に呼応して、十八日の夜に、夜襲を以《もつ》て敵陣地を抜こうとしたが、地雷をさぐりながらに潜行するのに時間がかかり、あやまって地雷を踏むと、その爆発音に向けて、銃砲火が集中してくる。結局、本隊同様に夜襲は失敗に終り、死傷者を収容して、西側の谷間に撤退し、本隊の指令を待って、シタチンジャオに引き返した。山本支隊からの、新しい命令が出ていたからである。
シタチンジャオに集結した吉岡大隊は、山本支隊より、つぎのような命令を受けている。
一、支隊はシボン付近の敵陣地を奪取、続いて主力をもってテグノパールに進出し、ライマトルヒル東方四五六二高地の敵陣地を攻撃中なり。
支隊は右の陣地を奪取後、遅くも四月二十九日までに、パレル地区への進出を企図す。
二、吉岡大隊はシタチンジャオの攻撃を中止し、支隊の企図を容易ならしむるため、遅くも四月二十九日までにランゴール(パレル東北方十キロ)に進出して、同地を確保すべし。
夜襲はすべて成功せず、態勢を整えつつあれば新しい命令が出る。吉岡大隊は、死者は、埋葬地点を控えてこれを葬《ほうむ》り、重傷者は衛生隊に任せて、シタチンジャオから山間を五キロ南下したレイタンクキで別れ、本隊は、ここからは山間の細道上を西進して、バルボン、クディクノーを経て、ランゴールへ向かうことになった。この道は、ライマトルヒルを経て、パレル方向に向かう、山本支隊のコースの北方になる。
どこも、山道ばかりである。地図上は道になっていても、通れない場合もある。兵要地誌の知識を頼りにしているわけではないから、難行軍になる。山を上り、山を下りの繰り返し、または密林中を手さぐりでたどり、時には河床道を磁石一つを頼りに進む。
佐藤隊は、この行進間、尖兵《せんぺい》になっている。
鑓少尉は、数名の部下とともに、つねに斥候として、先に立って行動している。
「斥候は自分にお任せください。馴《な》れておりますから」
と、鑓少尉はいったが、シタクキ陣地捜索の時、身近な分隊長を死なせて以来、表情がきびしくなっている。
その鑓斥候隊は、バルボン付近で、西方のサイボンの砲兵陣地からやってきた、一個分隊の敵斥候隊と遭遇した。
さきに、敵斥候隊を発見した鑓斥候隊は、密林中で、巧みにこれを包囲して交戦を開始し、後続の中隊主力と荒居大隊砲小隊の協力を得て、敵の斥候隊を全滅させている。指揮をとっていた英人将校は捕虜にした。部下は戦死させても、自分は生き残って捕虜になるのが、英軍の指揮官である。
「こいつから装備をとったら、木偶《で く》みたいなものぞ」
と、兵隊たちはいった。大隊がシタチンジャオを夜襲した時、サイボンの砲兵陣地からの砲撃で痛い目に遭っている。鑓斥候隊はそれを知っているので、いささかの無念を晴らしたことになる。しかし、佐藤隊もこの交戦で、中村、猪狩両伍長《ごちよう》を戦死させた上、数名の傷者を出している。敵の遺棄死体をしらべると、応戦した敵兵の自動小銃には、いずれも一発の残弾もなかった。捕虜のイギリス人将校は、自分を助けたいので、知る限りの情報は提供した。ただ、大隊は、その情報を活《い》かして使う方途を持たなかったのである。
鑓斥候隊を先頭にして、佐藤隊は尖兵中隊をつとめ、二十六日には、クディクノーに達した。
ここでは、密林地帯を抜け、まぶしい陽《ひ》ざしを浴びながらの、山頂の道をたどる旅となった。さわやかで気分はよいが、その代り、対空警戒を厳にしなければならなかった。
ここからは、鑓斥候隊のほかに、根岸准尉の斥候隊、大津隊からは寺口斥候隊も出て、敵状捜索に万全をつくし、このおかげで佐藤隊は、尖兵中隊として、二十八日の夜半には、ランゴールに到達し、同地の西側高地を占領し、陣地構築を急いだ。大津隊は南方稜線上に位置し、吉岡大隊は、ランゴール攻略の態勢を整えたのである。
「インパール攻略は、四月二十九日の予定であった。いま、われわれは山本支隊の一翼として、インパールへ迫りつつある。四月二十九日のインパール入城は果たし得ないが、諸子とともに、奮励して前進をつづけたい」
吉岡大隊長は、各中銃隊長に訓示を与え、その訓示は部下将兵に伝達された。
ランゴールは、インパール盆地を、眼下に遠望することのできる地点である。ここにおいて天長の佳節を迎えることは、吉岡大隊将兵の感慨一入《ひとしお》のものがあった。二十九日の夜が明けはじめると、吉岡大隊長は、部下将兵とともに、はるかに東方を拝して聖寿の万歳を奉唱し、あわせて、インパールへ向かいつつある松村聯隊長《れんたいちよう》以下将兵の、健闘と武運の強きを祈ったのである。
敵の反撃のはじまりだしたのは、二十九日の午後になってからである。
佐藤隊主力の前方五百メートルの小山を占領していた木村小隊へは、まっ先に敵歩兵が攻撃をし向けてきたが、これを撃退し、そのまま夜になると、吉岡大隊の布陣する一帯に、断続して砲撃がはじまった。眠らせない作戦ではないのか、と思われるほど、間断なく、撃ってくる。
三十日の朝が明けると、敵機が二、三機、爆撃と銃撃をしに、一定時間を置いては、繰り返しやってきた。西方前面の小山に布陣していた根岸小隊から、連絡がきた。
「朝からずっと、インパール方面からパレル方面へ、敵歩兵部隊及び牽引車輛《けんいんしやりよう》部隊が、続々として南下中です」
という、報告だった。パレルの防備を固めるためであろう。高地一帯からは、パレルの飛行場に離着陸する飛行機の様子も、手にとるようにみえるのだ。いままでの、先のみえない山間での陣地戦と違って、いよいよインパール攻略戦がはじまっている、という実感がある。
五月一日、敵は、吉岡大隊の陣地へ向けて、全面的な砲爆撃をはじめだした。砲撃の間は壕内《ごうない》に待避するが、砲撃も一定時間をおいてははじまるので、砲撃の切れ目には、陣地の補修、付近の集落での糧秣《りようまつ》収集、採集した籾《もみ》を壕内で米にする作業などがつづく。虱《しらみ》退治も日課の一つで ある。チンドウィン渡河以来、糧秣の補給というのは一度もない。携行糧秣の尽きるまでには、インパールへ入城している予定のもとに、作戦が開始されたからである。
五月になってからは、日を追うて、敵の砲爆撃が熾烈《しれつ》さを増してきた。布陣している高地上の樹木は、一本残らず吹き飛び、見通しがよくなったので、敵歩兵の攻撃もさかんになってきた。
大隊主力を追及していた不破隊は、クディクノーを過ぎた地点で、敵の有力部隊と衝突し、激戦を繰り返し、本隊追及が不能になっている――という報告が、大隊へ届いている。進出してくる敵は、後方をも侵しはじめているのである。
五月七日になると、十数機の爆撃機が、反覆飛来し、陣地一帯に爆弾の雨を降らせた。加えて、重砲、戦車砲、高射砲二十数門が火を吹きつづける。高射砲は、本来は上空を撃つものだが、水平に撃ってくる。すると、壕の上で炸裂《さくれつ》する。高射砲弾は、重砲弾とは爆発音が違うので、高射砲弾を浴びるようになると、壕は、上部を遮蔽《しやへい》しなければならなくなった。こうした砲爆撃の中を、敵の歩兵五、六百名が、各部隊陣地へ肉薄してくる。
敵の一部は、遂に、木村隊の占領していた小山を突破し、さらに佐藤隊正面に向かってくる。敵の主力は南の谷地を経て、大津隊、大隊本部側背に迫り、その一部は北方の谷地へ廻り、大隊は次第に包囲されてゆく。
ことに、大隊前面に布陣していた佐藤隊は、戦況凄惨《せいさん》をきわめて、死傷続出するにいたった。本来なら、吉岡大隊のランゴール進出に応じて、山本支隊はパレル攻略のため進出して来なければならない。しかし、支隊主力が、パレルに近づいている気配はまったくない。吉岡大隊は、孤立し、このままでは全滅しかねない。
“佐藤隊は極力第一線陣地を維持し、主力は陣地を撤退し、改めて反撃を企図する”
大隊長の指示により、佐藤隊は前線陣地を死守し、その間に大隊は後方の無名集落へ退き、佐藤隊も夜を待って陣地を退いた。
この戦闘間に、第二中隊長大津中尉は壮烈に戦死。永島軍医中尉も戦死。ほかに三十一名の戦死者を出し、木村少尉以下多数の負傷者が出て、大隊は、大きな痛手を負うたことになった。
大隊は、膚接して攻撃してくる敵と戦いながら、十日には、クディクノーにまで後退している。この時には、敵は、インパール方面のみでなく、砲兵陣地のあったサイボン方面からも、河床道を伝って進出してきていたし、そのため、負傷して後送されつつあった患者たちも、容赦なく襲撃され、かれらは戦闘力がないため、徒《いたず》らに犠牲を重ねることになった。グルカ兵は、衛生隊も何も区別なく攻撃してくるし、指揮する英軍将校も、それを制止しなかった。
吉岡大隊が、漸次《ぜんじ》、敵の包囲に陥《お》ちつつある時、支隊からは、新たな命令が届いている。
一、支隊主力は依然ライマトルヒル東方四五六二高地の敵を攻撃中なるも、敵頑強《がんきよう》にして戦況の進展を見ず。
二、吉岡大隊は現陣地を撤し、ひとまずテグノパールに至り、補給を受けたるのち、ライマトルヒル北方地区に進出し、同高地の敵を攻撃すべし。
大隊は、よって、十三日夜に、兵力をクディクノー東側に集結させ、河床道を東南進して、テグノパールに向かった。
テグノパールへは、山中行旅約三日の行程である。河床道を中心に、山間を縫って進むしかない。テグノパールからは、本道上を西進して、山本支隊が苦戦しているライマトルヒルに達することになる。ここに敵は、大きな山岳陣地を築いている。インパールを守る強固な拠点の一つである。その行手に、パレルがある。パレルは、敵のインパール防衛線の最終陣地である。ライマトルヒルは、その最終陣地を守る陣地である。これを奪《と》らねば先へ進めない。
ランゴール周辺で、相当の犠牲を払ったとはいえ、ライマトルヒルを陥とせば――という、吉岡大隊長以下の意気込みには、衰えはない。しかし、そのライマトルヒルで、言語に絶する惨澹《さんたん》たる苦闘悪戦に見舞われようとまでは、行進中の将兵の、だれもが予想しなかったことであった。
ランゴール東方高地の第一線で、佐藤隊が善戦していた時のことだが、それまで、つねに斥候隊長として先に立っていた鑓少尉が、疲労の極みに悪性のマラリアに冒され、戦闘間も、壕の底で喘《あえ》いでいた。
「鑓少尉、後送の手配をとった。無念だろうが、引き揚げてくれ。あとはわれわれがやる」
佐藤中隊長は、壕中の鑓少尉に、半ば命令の口調でそういい、後退を促したが、それでも少尉は、首を縦には振らなかった。三月十五日のチンドウィン渡河以来、鑓少尉は、つねに中隊の先頭に立ち、第一線の小隊長として、また斥候隊長として、激務に激務を重ねてきた。マラリアは、ランゴール東方高地占領前に発していたが、後送を肯《がえ》んぜず、なお小隊を指揮して戦い、力尽きて壕中に身を横たえることになったが、それでも、後送を承知しようとはしなかった。
五月七日に、敵の大反撃のはじまった時、猛烈な砲撃下に、鑓少尉は意識を失い、そのまま、伝令に背負われて、後送されて行った。
「がんばって、生きのびてください、小隊長殿」
と、壕中から、小隊員たちは、痩衰憔悴《そうすいしようすい》し切った小隊長の痛ましい姿を見送った。もはや、余命いくばくもないと思われる姿を、悲痛な祈りをこめて見送ったのである。
同じ、ランゴール東方高地でのことだが、中隊指揮班の北村兵長は、仲のよい小西上等兵と一緒に、壕を掘った。二人一緒に入れる壕である。死なばもろともに、という思いがある。
付近の、原住民の集落へ、籾の収集に行くのも、二人で連れ立って行った。収集してきた籾は、指揮班で分け、自分たちの分は、鉄帽に入れ、十字鍬《じゆうじしゆう》の柄《え》や、立木を切った棒で突いて、精米した。案外簡単に精米できる。
「こうやって、毎日、ご馳走《ちそう》を食べながら、休養できるのはありがたいな」
籾を突きながら、小西上等兵はそういった。
ご馳走、というのは、谷間の流れから捕ってきたタニシと、バナナの幹の中のやわらかなところをまぜて、粉味噌《みそ》で味をつけて煮たものである。こんな食べものも、結構たのしいのだ。
食事を終えると、
「一服するか」
といって分け合うタバコも、野苺《のいちご》の葉を飯盒《はんごう》に入れて焚火《たきび》で乾燥させたものである。紙は「作戦要務令」などを裂いて用いる。本は袖珍版《しゆうちんばん》だから小さく、紙はタバコを巻くのに恰好《かつこう》である。味はともかく、タバコを喫《の》んでいる気分にはなる。
もっとも、こうした生活も、いく日ももたず、五月になってからの敵のきびしい反撃がはじまり出すと、状況は俄然《がぜん》一変する。敵はオートジャイロで、たんねんに陣地偵察《ていさつ》をし、そのあと、充分に観測を終えた砲撃がくる。
この砲撃の下で、瀬戸、三輪、加悦などの仲間が戦死し、増田軍曹《ぐんそう》以下十数名の負傷者が出ている。
猛烈な砲爆撃にさらされはじめてからは、もはや、糧秣の収集どころではなくなった。壕中にとじこめられ、食事もとれず、攻撃の絶えるのを待つしかなかった。ランゴール東方高地へは、友軍の砲兵隊が支援に来る、という話だったが、噂《うわさ》のままに過ぎている。
五月六日の、二十数機の爆撃機による反覆爆撃のあった時は、北村兵長と小西上等兵は、壕中で抱き合って、なんとか無傷でしのいだ。
大隊が、後方へ撤退するときまった時、佐藤隊は、高地へ残留して、大隊の撤退を援護することになった。大隊は、七日の未明に、撤退をはじめている。
佐藤中隊長は、大隊の撤退をみまもりながら、状況を判断し、
「佐藤隊は、あと三十分で撤退する。準備をせよ」
と、いいわたした。
この時、北村兵長は、薄明かりの陣地の片隅《かたすみ》に、小山のように積まれている小銃をみて、
「隊長殿、これらの兵器をどうしますか」
と、問うた。兵器が山積みになっているのは、死傷者がそれほど多かった、ということである。といって、撤退は、身一つで行うしかない。
「どうしようもないか。任せるから、適当にやれ」
中隊長はそういった。適当に、というのは、軍隊が使う便宜用語である。
「三八式歩兵銃殿。ありがたく存じました。おゆるしください」
北村兵長は、兵器の山にそういって、ちょっと頭を下げ、あとは、猛然として、小銃を分解して、谷間へ投げつづけた。分解、というのは、銃身の先を持って、立木の根方に叩《たた》きつけて、折り曲げるのだ。兵器をこわすのは胸の痛む行為だったが、詫《わ》びつつやるしかない。兵器の山の中に、軽機関銃が一梃《ちよう》まじっていた。その軽機だけは、こわさずに、これからの戦闘を考えて、携行することにした。
「あと、十五分で出発する」
中隊長の声が、あたりを圧する。
その時、数発の迫撃砲弾がまわりに落ち、一弾は、指揮班の近くに落ちた。
その直後、小西上等兵の、
「やられた、やられた、北村」
という、悲痛な声がし、北村兵長が駈《か》け寄ってみると、倒れ込んだ小西上等兵の胸全体が血に染まっている。抱き起こして、上衣をめくってみると、胸に大きな破片創がある。肉がもぎとられて、穴があいている。砲弾の破片が、胸の奥に突き刺さっている。血はすさまじい勢いで噴きつづけ、みるまに北村兵長の膝《ひざ》を濡《ぬ》らした。あまりの出血の多さに驚き、とにかく頭を上にして寝かせると、すでに小西上等兵の顔色は、紫色に変じている。
身近には、衛生兵もいない。衛生兵は、最前線の負傷者の収容撤退のため、全部出向いてしまっている。北村兵長は、小西上等兵の持っている繃帯《ほうたい》包をほどき、応急処置をした。
「北村、北村、水をくれ、水、水、水をくれ」
小西上等兵は、声をふりしぼって叫ぶ。ふりしぼっても、かすかな、断末魔の声である。水をやれば助からない。しかし、やらなくても助かる傷ではない。北村兵長は、覚悟をきめて、水筒の水を口にあてがってやる。小西上等兵は、水を飲むと、つぶっていた眼《め》をみひらいて、思いのほかしっかりした声になって、北村兵長にいう。
「北村、おれはここで死にとうはない。一緒に連れてってくれ」
「連れてってやるとも、安心せい」
「こんなところでは死ねんぞ。死んだら、愛子が泣く。かわいそうや」
「心配すな。すぐに退《さ》がるぞ」
前面の小山にいた一隊も、退がったらしい。
中隊長以下、みな、撤退の態勢になっている。北村兵長は、中隊長の側《そば》へ寄って行ってきく。
「隊長殿、小西は助からんです。水をやったら、一時的には元気になっとります。連れてってくれ、としきりにいいます。連れてってやりたいのですが」
中隊長は、ちょっと首をかしげてから、
「お前の判断に任そう。適当にやれ。お前と小西が最後尾になってしまうぞ」
許可――は、しているのである。
北村兵長は、小西上等兵が、いままで伝令として仕えていた矢川曹長のところへ行き、
「曹長殿、小西が死にかけております。ひとこと、声をかけてやっていただけませんか」
と、いった。小西が、胸部の重傷で、助かりそうもない、と、いい添えた。曹長が、あわてて、小西の様子をみにきてくれる、と、北村兵長は思った。しかし、曹長は、
「モサ公には、弾丸が当たるのよ」
と、とりあわず、そのまま、山を下りる一同について行こうとする。
(人でなし、貴様……)
うしろから、殴りかかりたい思いを必死に耐えて、北村兵長は、小西上等兵のところへ行き、
「背につかまれ、がんばれよ。山を下りれば、衛生兵が来るからの」
そうして、小西上等兵を背に負い、右手に軽機を提げて歩き出す。北村兵長は、自分と小西との二つの背嚢《はいのう》を、腹の前に巻きつけている。歩きにくいが、懸命にがんばって、撤退してゆく中隊の、最後尾について行く。
「すまん、すまん、すまんの。愛子、愛、愛子」
かすれた声で、恋人の名を呼ぶのを、北村兵長は背にききながら歩みつづけたが、五十メートルほど歩き、道へ出る手前で、背がふいに重くなった。その重みに、足をとられ、仰向きに倒れた。立ち上がってみると、小西は、動かない。脈をみた。とまっている。ありありと死相がみえ、瞳孔《どうこう》も反応がない。
すると、三、四名の者が、うしろから駈け下りてきて、
「北村、どうした、すぐうしろに敵が来ている。早くせんと、やられるぞ」
といって、駈け去ってゆく。
もはや、なんのゆとりもない。
北村兵長は、念仏をとなえながら、小西上等兵の右手首を切りとった。
山の上に、敵兵の影がみえた。追ってきたのだ。
北村兵長は、軽機で、応戦した。敵は、驚いて、山上へ逃げ込む。その隙《すき》に、小西を下の道へ運び、道脇《みちわき》の小穴に遺体を入れ、形ばかりに土をかぶせた。
あとは、小西上等兵の小銃と右手首を持って、懸命に中隊を追って走る。
駈けつづけて、中隊の後尾に追いつき、
「敵がそこまで来ているぞ。急がないと、あぶない」
叫びながらに、なお走りつづけると、中隊長のうしろ姿が眼についた。さらに駈けて、中隊長に追いつくと、
「隊長殿、小西は死にました」
と、報告した。
「死んだか。そうか。小西もか。ずいぶん死んだな」
と、中隊長は、実に悲しげな眼で、みかえる。
傍《かたわ》らに、掘立小屋があり、みると、担架が置かれて、その上に遠藤兵長が寝かされている。重傷なのだ。
「自決します。手榴弾《てりゆうだん》をください。お願いします」
遠藤兵長は、まわりに呼びかけている。
まわりには、鳥居衛生兵長、久保田軍曹、松宮伍長の三人がいた。この状況では、とても担架は運べない。どうすればよいかを、相談していたのだ。
「敵が来るぞ。すぐそこに来ている」
と、北村兵長がいった時、後方から、喊声《かんせい》をあげて、三、四十名一団の敵が追ってきた。
北村兵長は、軽機を腰だめで、二、三連射応戦してから、
「山へ逃げるんだ、谷には敵がいる」
と、鳥居衛生兵長らにいって、自分は北側の山へ向けて駈けのぼりはじめた。久保田軍曹らが、山でなく、谷間へ向けて逃げるのを、北村兵長はちらとみた。呼びとめようもない速さで、かれらは谷間へ逃げ込んでゆく。
「谷はだめだ、敵がいる」
むなしく、叫び残して、山上へ登りつめると、根岸准尉《じゆんい》が、散兵線を敷いて、敵を迎撃する態勢を整えていた。
「遠藤兵長を、運べなかった」
鳥居兵長は、衛生兵らしく、山麓《さんろく》から撃ってくる敵に向けて、無念げにつぶやいている。
北村兵長は、小西上等兵の背嚢を外し、その中から真新しい靴下《くつした》をとり出して、右手首を入れ、腰にしっかりと結びつけた。どこかで、焼いてやらなければならない。焼く時は、飯盒の中へ入れて焼くのだが、焼いても、持ち帰れるのは、小指だけである。信管を入れる空罐《あきかん》におさめる。小西上等兵の遺品は、ふだん使っていたスプーンだけを選んだ。これは、もし生きて帰れたら、遺族に届けるためである。
彼我の銃声をききながら、北村兵長は、胸のうちで(小西よ、成仏《じようぶつ》してくれよ)と唱えながら、小西上等兵の背嚢を土に埋めた。
佐藤隊は、さきのシボン戦に倍する犠牲を出している。
久保田軍曹、中西伍長、松宮伍長、加悦、小西、小西、小西(三名同姓)、大山、佐藤、西村、大畑、尾崎、久世、安田、田中――などの上等兵の戦死者、ほかに行方不明者もいる。これに負傷者を加えれば、正直なところ、これからの戦いについての、戦力のほどが思われるのである。
吉岡大隊は、ランゴールより撤退して、テグノパールに一時集結、次の攻撃目標に向けて、五月十八日の夜十時に出発している。
テグノパールからライマトルヒルへの道は、嶮《けわ》しい山道をたどることになった。道に沿って電話線が一本通っている。この電話線を手さぐりでたよりにしながら、まっくら闇《やみ》の中を、数珠《じゆず》つなぎになって、一歩一歩、山道を上り下りしながら進むのである。
明け方まで歩き、大隊が小休止をしていた時、突如、迫撃砲弾の空を裂く音がして、田村軍医の腰を下ろしている坂道のほとりに落ちた。田村軍医は、あやうく身を伏せたが、砲弾の落下地点にいた伝令の竹内一等兵が、
「軍医殿、竹内、やられました」
というので、軍医が駈け寄って調べてみると、肩のあたりの肉と骨が、ぐしゃぐしゃになっている。竹内は、
「胸です」
と、いう。
この傷ではとても助からぬぞ、と軍医は思ったが、よく調べてみると、肋骨《ろつこつ》は大丈夫で、右腕の上膊骨《じようはくこつ》が砕けているのだ、とわかった。薄くらがりの中では、よくわからなかった。それで、腕のつけ根を、駆血帯で締めあげて止血する。
この介護の時、軍医は(もう一発来る)と脳裏にひらめくものがあって、竹内一等兵を抱いて位置を変えようと考えた刹那《せつな》、次の一弾が身近に落ち、田村軍医もまた大腿部《だいたいぶ》に破片創を負うている。敵の砲弾は、一発撃った時は、少しして必ずもう一発、同じところに来る。軍医は、竹内の負傷に気をとられて、この、二弾連続のことを一瞬忘れていたのだ。
この時の砲撃で、軍医のうしろにいた中西衛生兵は、腹部に重傷を負い、そのまま息が絶えた。きびしい戦況のつづいてくる間、衛生兵が、いかに介護に献身したかを知るだけに、田村軍医は、痛恨をこめて、葬《ほうむ》られる中西に手を合わせている。
まだ、夜の明け切らぬ山道の一角に、あたかも、しっかりと観測をしたかの弾着があったのは、すでに、敵は、防衛のための、レーダーを、実戦に応用していたからである。
田村軍医らは、患者収容隊の手をかりて、崖《がけ》を必死に匍《は》いのぼって、糧秣《りようまつ》輸送のトラックの通る道まで出ることになった。担架にのせられてゆくゆとりはなかった。竹内一等兵は兵隊の背に負われ、田村軍医は兵隊に片手を引かれ、片手は木の根をつかんで、匍いのぼりつづけた。
七、ライマトルヒルの戦い
吉岡大隊は、ランゴールからテグノパールまで引き返して来た時、ここではじめて、わずかばかりの、弾薬と糧秣《りようまつ》の補給を受けた。おかげで、久しぶりに、飯盒《はんごう》飯を炊いて、飯の味をたのしむこともできた。
五月十八日の夜、テグノパール付近を出発した吉岡大隊は、翌十九日の朝には、ライマトルヒルの北側地区に進出している。この途中、田村軍医中尉《ちゆうい》以下数名の死傷者を出したが、ともかくも、攻撃目標地点を眼前にしたのである。
このあたりは、どこも丘陵地が折り重なっている地形だが、眼前にみるライマトルヒルは、高山の頂を望むに似て、大隊の前面に屹立《きつりつ》している。ここへ到《いた》るまで、何度か、夜襲による山岳地攻撃をくり返してきたが、このライマトルヒルは、従来になく、もっともきびしい戦闘が展開されるのではないか、と思われた。攻撃に先立ち、吉岡大隊長は、何組もの斥候《せつこう》を派遣して、敵状、地形を偵察《ていさつ》させている。
ライマトルヒル(五一八五高地)――は、最頂部に、堅固な陣地が構築されていて、陣地周辺には、鉄条網が張りめぐらされ、鉄条網の背面には、トーチカが連続して築かれている。高地は、南は敵の砲兵陣地のあるサイボンを経て、パレルに至る道路に面している。大隊は、道路の逆方向、高地の西北角から、陣地攻撃を決行することになった。
夜襲は、二十日ときめられた。
各中隊より一個分隊が抽出されて、大隊砲小隊の荒居少尉の指揮下に入り、荒居小隊は突入部隊の誘導をする。そのあとに不破隊(第一中隊)、佐藤隊(第四中隊)、旧大津隊(第二中隊)がつづいて、前進、行動に移っている。
ライマトルヒルの北側部も、いざ出発してみると、想像を絶する急斜面で、突入部隊は登攀《とうはん》に手間どり、荒居小隊が敵陣前に到着した時は、すでに夜が明け初めていた。鉄条網は四周に堅固に張りめぐらされている。この鉄条網に妨げられているうちに、敵は、夜襲の気配を察し、手榴弾《てりゆうだん》や重火器の猛射がはじまる。荒居少尉は右腕と胸部に負傷し、この日の夜襲は失敗に終わっている。夜が明けてしまっては、無益な犠牲が出過ぎるのである。
ただ、この夜襲を行ったため、敵陣地の模様を、かなり知ることができた。このライマトルヒル(五一八五高地)は、パレルに至るまでの縦深陣地中の最高峯であり、天然の峻嶮《しゆんけん》を利用している。迫撃砲をはじめ、自動火器を配置し、点々と掩蓋《えんがい》を設け、交通壕《ごう》をもって、掩蓋や陣地内の連絡ができる。パレル防衛の最重要拠点らしい堅固さである。
この陣地を攻めとらねばならぬ吉岡大隊に、その日、豪雨が見舞ってきた。断続してつづく雨季のはじまりである。山中で仮眠していると、雨は容赦なく降りつづいて、隊員の全身を濡《ぬ》らし、山蛭《やまびる》は巻脚絆《まききやはん》の中へはいり込んでくる。あまりの痛痒《つうよう》さに眼《め》を覚ますが、また眠り込んでしまう。大隊は、谷地で待機して、次の攻撃の機会を待った。
五月二十三日の夜、暮れるを待って大隊は、ライマトルヒル陣地へ向けて出発している。これまでに、さらに敵状を調査したし、また、鉄条網破壊と、掩蓋爆破のために、工兵隊の一部が配属されてきている。支隊は、吉岡大隊の夜襲に際し、山砲、野砲の協力砲撃をすることになり、夜襲による攻撃は二十四日三時、砲撃は、その攻撃の前に、陣地への制圧砲撃をする、なお、陣地占領後、敵の逆襲のはじまった場合は、日章旗を振れば、援護のため、本道上より砲撃をする、という約束まで出来ている。これによって吉岡大隊は、勇躍して、ライマトルヒル陣地へ向けて、登攀を開始している。吉岡大隊は、大隊とはいっても、正規の編制でいえば、一個中隊ほどの兵力しかいない。かなりの兵力を、ここまでの過程において、削られてきている。
この日も、夕景近くに豪雨が見舞ってきたが、隊伍《たいご》が出発すると、幸いにも、雨はぴったりとやんだ。敵は、まさかこの雨中に夜襲もあるまい、と、油断しているはずであった。それかあらぬか、隊伍が、不破隊、佐藤隊、旧大津隊の順序に匍匐《ほふく》前進し、敵陣地の西北角に到り着いても、敵陣地からは、なんの物音もきこえなかった。あたりの草の葉のそよぎがきこえるほどの静寂である。
その静寂を裂いて、突如、友軍の支援砲撃がはじまった。敵陣地のいたるところに砲弾がぶち込まれ、照明弾が上がり、砲弾の炸裂《さくれつ》する破片は、身を伏せている突入隊の頭上を飛ぶ。
砲撃のつづくなかで、工兵隊は鉄条網を破壊する。突撃路がひらかれる。
砲撃がやむと同時に、不破隊長が、白刃《はくじん》を振りかざしてまっ先に、
「突っ込め」
と、叫んで、傾斜を駈けのぼる。隊伍がつづく。
狼狽《ろうばい》しながらも応戦する、敵の火砲の弾幕を縫って、不破隊は突き進み、まず突角陣地を占領した。陣地は、最頂部へ向けて、階段状に築いてある。上部の陣地からも、銃撃がさかんにくる。手榴弾、曳光弾《えいこうだん》、照明弾、自動火器の火花が交錯して、花火がもつれ合うような光景を呈する。その弾幕を縫って、佐藤隊が、不破隊を超越して突き進み、さらに次の陣地を占領している。その佐藤隊を超越して、旧大津隊が敵の右翼の拠点に向かい、猛射を浴びながらも、遂にこれを占領している。
工兵隊は、果敢に、掩蓋爆破に協力する。敵のうち揚げる照明弾は、あたりを真昼の如《ごと》く明るませたが、これによって助けられたのはむしろ突入隊である。敵兵や、掩蓋の位置が明瞭《めいりよう》に浮かびあがり、それに向けて、攻撃をつづけ、白兵戦をくり返し、きわめて有利な戦闘のあげくに、吉岡大隊は、五一八五高地一帯の敵陣地を、完全に占領している。
突入隊は、夜襲が成功したので、いくらも犠牲者が出なかった。敵は一兵残らず逃げ散っていたので、壕内には遺棄された兵器弾薬のほかに、タバコや罐詰《かんづめ》が多数散乱していた。満足には補給を受けたことのない突入隊員たちは、天にものぼる心地で、タバコを喫《の》み、コンビーフやミルクの味を、心ゆくまでたのしんだ。
壕内で、空腹を満たし、新たな力を得た隊員たちは、敵の、来たるべき反撃を覚悟し、それに応戦する態勢を整えねばならなかった。しかし、突入隊は、夜の勝者は夜明けとともに敗者になる――という夜襲の宿命が、吉岡大隊に、あまりに無惨《むざん》に見舞って来ようとは、その時には、まだ、予想していなかった。
大隊は、夜明けまでに、敵の逆襲に備えて、陣地を補強し、各隊の配置を整備している。
やがて、夜が明けはじめた。
高地上の陣地からは、パレル平野が一望出来、テグノパール方面も眼下に望める。すばらしいパノラマが四周に展《ひら》けているのだが、しかしここは、敵中のまっただ中に孤立している陣地である。
夜の明けるまでに、吉岡大隊長は、各隊の陣地を視察して、親しく声をかけている。
「六十の名誉にかけて、陣地を死守してもらいたい、頼むぞ」
大隊長が、六十の名誉にかけて、と、強く言葉をかけたのは、配属部隊は、通常、所属になった本隊と比較されるから、本隊に負けてはいられない、という誇りをだいじにするからである。それでいて、しばしば、きびしい場面に追いやられることが多い。それを、しのぎしのぎ勇戦して、配属部隊の名を汚さぬために尽瘁《じんすい》することになる。
夜が明け、十時をかなり過ぎたころに、敵の砲撃がはじまりだした。この砲撃は、三十分間つづいて、やむ。
大隊長は、さらに各隊を激励するつもりで、部下数名とともに各陣地を視察したが、この時には敵のグルカ兵は、夜襲の折に吉岡大隊がそうしたように、陣前近くに迫っていて、数発の手榴弾が投げ込まれてきた。
大隊長たちは、近くの凹地《くぼち》に身を伏せる。すると、その手榴弾攻撃を合図として、今度は、敵の、全火力を動員したと思われるすさまじい砲撃が見舞ってきた。砲弾のスコールを浴びているに等しい。全山は、みるまに形を変える。一弾は、凹地に伏せている大隊長の近くに落ちて炸裂し、大隊長は、爆風で宙に吹き上げられたまま、地に落ちるとともに、西側の斜面に転落していった。
砲撃の激しさのため、壕に伏せている突入隊員たちは、頭を上げることもできない。まわりから、敵兵の喊声《かんせい》がきこえ、それは次第に近づいてくる。自動火器を乱射し、手榴弾を投擲《とうてき》し、陣地奪取に向けて、敵の突撃がはじまっているのである。
第一線の陣地を守備する隊は、迫ってくる敵兵に向けて、手榴弾を投げ、軽機を腰だめで撃ち、これを撃退する。いったん撃退しても、再び迫ってくる。敵の兵数は、突入隊とくらべて、無限に多い。突入隊は、攻撃をうけるごとに、死傷者を出す。荒居小隊の機関銃は、敵の反覆攻撃を阻止すべく火を噴きつづけたが、敵の砲撃もまた照準が正確で、掩蓋も、塹壕《ざんごう》も、一個所ずつ、狙《ねら》い撃ちの砲弾を浴びて、破壊されてゆく。
中心陣地にいた大隊副官の四方少尉は、部下に命じて、日章旗を振らせた。支隊が、約束してくれたように、砲撃によって、敵の攻撃を食い止めてほしかったからである。
日章旗を持った兵隊が、壕の外へ出て、懸命に日章旗を振りつづけたが、友軍の援護の砲撃は来ない。
「約束ではないか。砲兵隊はなにをしているのだ」
四方少尉は、双眼鏡を眼に当てて、友軍の位置のあたりをみつめる。その眼鏡に、大きく、敵機が十機ほど、支隊の砲兵陣地の上を舞っているのがみえた。
「砲兵陣地が爆撃されておる。無念な」
四方少尉は、そう叫んだまま、その場に倒れ込んでいる。至近砲弾の破片数個が、四方少尉の全身を貫き、即死させたのである。
大隊長負傷、大隊副官戦死、あとは、各中銃隊が、いかに善戦して、支隊の援護砲撃のないままに、陣地を死守し得るかどうかである。
パレル方面寄りの、高地北側の掩蓋と壕に布陣していた不破隊は、不破隊長自ら陣頭に立って、迫ってくる敵兵に手榴弾を投げつづけて応戦、撃退させつづけたが、反覆攻撃を受けつづける間に、自らも被弾し、さらに、迫撃砲の直撃弾を受けて、壮烈に戦死している。
機関銃中隊は、不破隊の前面に位置して、敢闘したが、機関銃陣地は、とくに敵の砲銃撃の目標になる。中隊長真崎中尉も、陣頭に立って指揮し、敵の攻撃を撃退しつづけたが、銃手も弾薬手も戦死するし、中隊長自ら銃手となって応戦をつづけ、遂には、敵弾を浴びつづけて戦死した。機関銃の小隊長村田少尉もまた戦死し、不破隊、真崎機関銃中隊は、それぞれが、みるまに兵員を削られてゆく。
佐藤隊の佐藤中隊長は、敵の逆襲がはじまるとまもなく、戦況の容易でないことを予想した。なによりも、敵の砲撃が正確に目標を狙ってくる。佐藤隊は、大隊本部の位置する掩蓋の南側の掩蓋を中心に守備していたが、陣前で、中隊を指揮している時に、大隊本部へ連絡に出ていた加藤兵長がもどってきて、
「大隊長殿負傷、谷間へ転落」
と、報告をした。
佐藤中隊長のいる壕の中に、大隊本部付の谷川衛生見習士官が来ていた。佐藤隊の負傷者を診るために派遣されてきているのだが、あまりの砲撃のきびしさと、続出する負傷者のために、着任して間もない谷川見習士官は、なにをしてよいかわからぬ状態である。
「谷川見習士官、頼むぞ、何としてもがんばらねばならぬ」
佐藤中隊長がそういった時、付近に一弾が落ち、中隊長は爆風の中、土砂に埋もれながら伏せたが、起きてみると谷川見習士官の姿がみえない。砲弾の直撃を受けて、五体は四散したのである。
「谷川、谷川、谷川」
と、佐藤中隊長は、思わず虚空《こくう》に向けて叫ぶ。
そこへ、不破隊の分隊長が飛んで来て、
「佐藤隊長殿、不破隊長が砲弾の直撃を受けて戦死しました」
と、報告する。つづいて、機関銃中隊の分隊長が来て、
「真崎隊長、砲弾を受け、戦死」
と、報告する。
悲報しきりだが、嘆いているひまはない。
「よし。いまから吉岡大隊の指揮は第四中隊長がとる。大隊は現在地を死守する。一歩も退《ひ》くな。あくまでも死守すると伝えよ」
佐藤中隊長は、連絡にきた分隊長らにそれを伝え、傍《かたわ》らにいた根岸小隊長に、
「根岸、いよいよ最後かもしれぬな。最後の一兵まで、ということだ」
と、声をかける。
「そうです。最後の一兵までです。勇戦しましょう」
根岸小隊長の、力のあふれる声をきき、佐藤中隊長が陣地内を見渡すと、その時、大隊本部掩蓋の位置から、本部の兵隊たち数名が、陣地をすてて、山を駈《か》け下りはじめている。大隊長の負傷、副官戦死で統率を失ったからだろう。しかし、佐藤中隊長は、四方副官の戦死を知らない。
「四方、何をしている。兵隊を逃がすな。死守せよ、死守せよ」
絶叫したが、銃砲声にまぎれて、声のとどくはずもない。
佐藤中隊長は、右方の台地で応戦している機関銃分隊のところへ飛んで行き、分隊長の松村軍曹《ぐんそう》に、
「分隊長、目標、山から逃げる大隊本部の兵、その頭上を撃て」
と、命じた。脅して、翻意させたい。
分隊長は、直ちに、佐藤中隊長の意図を察し、銃手を押しのけて自ら銃身にとりつき、
「目標、逃げる本部兵の頭上、撃て」
と、自らを叱咤《しつた》して、撃ちつづけた。
味方が全滅に瀕《ひん》しつつある状況下で、銃身の方向を変えて、味方の頭上を撃つのである。
「泣くな。もうよい。こういうこともある」
佐藤中隊長は、泣き泣き機関銃を撃つ、松村軍曹の肩を叩《たた》き、自陣へ引き揚げる。
大隊本部の兵らは、谷間へ姿を没した。
戦闘は、惨烈の度を加えるばかりである。
反覆される砲撃と、敵兵の攻撃のため、死傷もまた重なりつづける。
「根岸、十名位は健在でいるか」
中隊長は、壕へもどってくると、応戦に遑《いとま》のない、根岸准尉《じゆんい》に声をかけた。
「隊長殿、四方副官が戦死したと連絡が来ました。大隊本部は総崩れです。砲兵隊の支援のない限り、まもなく大隊は全滅します。全滅してもかまいませんが、パレルさえ奪《と》れずに、こんなところで全滅してよいのですか。それを考えながら戦っております。佐藤隊も戦闘員十名足らずです。全滅するのは、あと数分です。支隊主力は、われわれの苦戦を傍観しているだけでしょう。大隊長代理として、隊長殿、撤退の命令を出してください」
大隊全部の兵力を計算しても、三十名程度だろう、と、佐藤中隊長は読む。全滅すべきかどうか。大隊本部の兵が、懸命に日章旗を振ったのを、佐藤中隊長はみている。支隊の砲兵陣地が敵機の目標にさらされたことも、諒解《りようかい》はした。万事休したのだ。
機関銃中隊から、連絡がきた。
「機関銃はすべて破壊されました。生存者十名もいません。やむなく、寺口隊の位置へ後退して合流しました」
報告をきき、佐藤中隊長は意を決し、
「根岸、撤退するか」
と、問いかけた時、同じ指揮班にいた加藤兵長が、
「隊長、自分が突っ込みます。その隙《すき》に山を下りてください。お願いします」
そういい残すと、とめるすべもないうちに、加藤兵長は壕を飛び出し、まっしぐらに、敵に向けて手榴弾を投げながら、突っ込んでゆく。銃剣一つだけを頼りの、必死懸命の突撃である。あまりの苦戦に、激情が、無謀な発進をよび起こしたのだ。加藤兵長は、中支の戦場にいたころから、つねにさかんな戦意を持している兵隊だった。
佐藤中隊長は、加藤兵長の身を以《もつ》てする要請にこたえ、涙を呑《の》んで、大隊に撤退を命じ、各個に、陣地を脱して、谷間へ後退することになった。
佐藤中隊長は、大隊長代理として、全員の撤退をみまもったが、自身も、頭部にかなりの負傷をした。撤退間に、酒向曹長、鈴木軍曹も戦死した。
佐藤中隊長は、谷へ下りる道をたどるうち、頭部の負傷のためか、足もとがもつれ、よろめきながら傍《かたわ》らの樹木にとりついて、辛《かろ》うじて身体《からだ》を休めた。すると、先に谷間へ下りかけていた北村兵長が中隊長をみつけ、のぼってくると、
「隊長殿、大丈夫ですか」
と、声をかけ、様子をみ、
「頭の出血がひどいです。手当します」
といって、その場で応急処置をする。角野、大島といった北村兵長の同年兵も、心配して引き返してきて、手伝う。四人が、ひとかたまりになった。
「北村、ずいぶん死んだな」
と、中隊長がいう。
「みんな死にました。矢川曹長もです」
と、北村兵長はいった。矢川曹長は、小西上等兵の重傷の時、見舞ってやってくれ、と北村兵長が頼んだのに「モサ公はやられるのよ」と、冷たくいってとりあわなかった曹長である。北村兵長は、矢川曹長に、憎しみの想《おも》いを抱きつづけてきたが、その曹長の死を真近にみている。
ともかく、みんな、死んでしまったのだ。
北村兵長は、佐藤中隊長を、背に負うて、山を下った。下りながら、いった。
「陣地を去る時みますと、グルカが、大隊の重傷者を、つぎつぎに刺し殺していました。だから、陣地には、生存者はいないはずです。英軍将校は、グルカの暴行をとめるべきでしょう。ひどい奴《やつ》らです」
大隊は、攻撃発起地点に、大隊砲小隊二十名ほどを、予備人員として、残置している。一つには、砲のほか、兵器を持たないからである。この大隊砲小隊の兵員を加えても、大隊の生存者は、わずか五十名でしかないことが、谷間へ下りてみて、はっきりした。
佐藤中隊長は、大隊砲小隊長の吉田中尉に命じて、戦死傷者の収容と、人員の点検を命じた。大隊長は、すでに、担架によって後送されていた。
ライマトルヒル(五一八五高地)の、吉岡大隊の死傷者は、つぎの如くである。
戦死=不破大尉、真崎中尉以下一〇三名
戦傷=吉岡大隊長以下一〇八名
大隊はいま、二個小隊そこそこの兵力を抱えるだけの姿となり果てている。
佐藤中隊長は、大隊長代理として、山本支隊長に、戦闘状況及び現況を報告せねばならなかった。電話で連絡する。
支隊長は、支援できぬまでも、吉岡大隊の戦闘ぶりは、双眼鏡でみていてくれたはずである。残存兵力五十名という現況が、なによりも陣地争奪の死闘を証明している。
しかし、情況を一通り報告したあと、支隊長は、冷酷な反応しか示さなかった。一言のいたわりの言葉も発さず、はじめに、
「貴官は現役か、予備役か」
と、問うただけである。
「自分は予備役陸軍中尉、歩兵第六十聯隊《れんたい》第四中隊長であります」
と、答えるしかない。
無念の思いが、こみあげてくる。死者への、一片のいたわりさえないのか。それが指揮官というものなのか。
支隊長は、さらにいう。
「吉岡大隊の戦闘状況は、テグノパールでみていた。佐藤中尉は残存兵力をもって、本夜、ライマトルヒルの夜襲を再興すべし」
ほとんど全滅に等しい痛手を受け、残存兵力三十名になり果てた大隊に、もう一度夜襲せよ、というのである。なんという命令か。予備役と現役に、いかなる相違があるのか。予備役だから、ろくな指揮もできなかった、というのか。これほどもきびしい戦闘のつづいている状況下に、指揮官が予備役か現役か、ということぐらいしか考える頭を持たない支隊長なのか。なんという情無い指揮官のもとに、戦い死んでゆかねばならないのか。ライマトルヒルで第一線の将兵が、いかに奮戦して屍《しかばね》の山を築いたかを、眼《ま》のあたりにみてほしかった。自分はまったくの安全地帯にいて、いわば、高見の見物をしていただけではないか。それが現役の指揮官というものなのか。
一瞬の間に、すさまじい思いが、佐藤中隊長の脳裏を去来する。
「自分は、予備役の一中隊長です。支隊長でも参謀でも、どなたか第一線に来て、戦闘指揮をしていただきたい。自分は六十の名誉にかけて夜襲は決行します」
返事はきかず、電話を切った。
傍らで、耳を澄ませていた吉田中尉がいう。
「隊長殿、大隊砲にも無疵《むきず》の者が二十名います。夜襲に同行します」
「ありがとう。気持は嬉《うれ》しい。しかし、大隊砲には小銃はあるのか? 弾丸があるのか? 君たちが参加する必要はない。だが、山本支隊に配属されている以上、命令は守らなくてはならぬ。われわれは全員死ぬが、われわれがいかに善戦したかを、せめて六十の聯隊長殿には伝えてくれ。あとはよろしく頼む」
日が暮れはじめると、ライマトルヒル一帯の嶺々《みねみね》は、闇《やみ》の中に姿を没しはじめる。
佐藤中隊長以下、全兵力二十九名だった。
出発準備をしていると、支隊から電話があった。
「前命令は取消す。吉岡大隊は、戦死傷者の収容を終えたのち、兵力をチャモールに集結、爾後《じご》支隊予備隊とする。まことにご苦労であった」
電話機を置いた時、佐藤中隊長は、しばし落涙をとどめ得なかった。なんの涙であったのか、あまりに複雑な心境である。
連絡係将校の平田中尉が、正式の命令を持って来たのは、二十四日の夜更《よふ》けである。
大隊は、可能の限り、手をつくして死者を収容し、死者を葬《ほうむ》り、不破大尉以下の英霊に深い黙祷《もくとう》を捧《ささ》げて、新任地へ赴くことになった。
佐藤隊指揮班の北村兵長は、つとめて中隊長の身近にいたい、と心掛けていた。ランゴールの高地で、敵の猛烈な砲爆撃をうけて以来、佐藤隊も、他中隊同様、中隊とは名のみの乏しい兵力で、互いに支え合いながら、インパールへのきびしい戦火の道を進んできたのである。
ライマトルヒルの夜襲の夜も、谷川のほとりの岩の蔭《かげ》で、野生のバナナの葉を岩に立てかけて、その葉蔭で雨をしのいだのだ。
「アッツ島にくらべれば、まだしのぎよいということかな」
と、佐藤中隊長が、北村兵長や、また、傍らで同じようにバナナの葉をかぶっていた今西兵長に声をかけている。人員が削られるほど、中隊は家族的になる。アッツ島玉砕の報は、行動間、だれからとなく、兵員の間に知れわたったし、それは前途に、暗い予感を抱かせることになった。
ライマトルヒル攻撃の、その当日のことについて、いま少し触れると、隊員たちは、野生のバナナを切り倒して、幹の中身を刻んで塩で揉《も》んで、それを食した。携行糧秣《りようまつ》がないので、バナナの幹の中身を常食としていたのである。だれもが、それに不平をいわず、かえってその味を賞《め》でた。生きていてこそ、味わえる味だからである。
ライマトルヒルの敵陣地に向けて、谷間を出発した時、北村兵長は、佐藤中隊長のうしろにぴったりとついて、隊伍《たいご》に従った。
敵の陣前に迫り、工兵隊が鉄条網を破壊している間の、息づまる時間の闇の中で、中隊長が、ふと振り向いて、うなずき、北村兵長もうなずき返している。
支隊の、支援砲撃のあと、陣地への突入がはじまった時、佐藤隊は、根岸小隊がまず突撃に移り、つづいて指揮班が、佐藤中隊長につづいて突入している。
山肌《やまはだ》を駈けのぼる時に、鳥居兵長が倒れ、つづいて木村上等兵が倒れるのを、照明弾の明かりの下で、北村兵長はみた。鳥居兵長も木村上等兵も、駈けよってはみたが、出血多量で、だめだ、ということだけはわかった。どうしようもなく、みすてて駈け出すと、すぐ前で、軽機の銃手の左近田上等兵が倒れた。みな同年兵である。左近田も、声もなく即死している。その左近田の軽機を持って、北村兵長が駈けつづけると、
「ジャパン、ジャパン」
と、グルカ兵の、おびえる声がきこえ、かれらは左へ左へと逃げる。北村兵長は、それを追って駈け、軽機を腰だめで撃つ。
あかあかと照明弾に照らし出されている敵陣地へ向けて、さらに駈けて、掩蓋《えんがい》を一つ過ぎ、二つ過ぎ、銃声を侵してなおも駈けつづけると、
「北村、深追いをするな」
と、呼ばれた。
そこで、立ちどまって振り向くと、掩蓋の脇《わき》に、根岸准尉の顔がある。
「北村、敵はみな逃げた。今夜は心配ない。ここにいいものがある。持ってゆけ」
と、根岸准尉はいう。准尉のいる、コンクリートで固めたトーチカの中には、敵の遺棄した罐詰《かんづめ》類が、たくさんあった。北村兵長は、
「いただきます。隊長が心配ですから」
といって、ポケットに入れられるだけ罐詰類をもらい、山頂へのぼってゆくと、山頂の掩蓋のあたりに、佐藤中隊長たちのいるのがみえた。
「戦利品です」
北村兵長は、ポケットから罐詰類をとり出して、指揮班の者でわけて食う。敵兵は逃げ散って いて影もなく、照明弾だけはつぎつぎにあがり、銃撃は断続してつづくが、宙を裂く弾丸の音がきこえるだけである。敵は、ライマトルヒルは放棄したが、周辺の嶺々には敵の陣地がある。
塹壕《ざんごう》の中で、突入隊は、つぎつぎにみつけた糧食を、心ゆくまで味わっている。
ここまでは、勝利の美酒に酔っていられる時間であった。
夜明けとともに、まわりの様子があきらかになると、山頂全体が陣地となっているのがよくわかった。交通壕は、くまなく掩蓋に通じ、掩蓋にはみごとな銃座ができている。塹壕の二十メートルほど前方には、鉄条網が張りめぐらされている。陣地の周辺は、樹木はすべて切り払われ、砲撃のための観測目標であろうか、枯木が三、四本、点々と残っているのみだ。
敵の砲撃は、まずパレル方面から来たが、あとは、砲銃撃が入りみだれ、敵歩兵の逆襲がさかんになったので、山上一帯は混戦状態になる。
掩蓋の中で、北村兵長は軽機を角野兵長に渡し、自分は小銃を撃ちつづけて応戦する。物蔭から隠見するグルカ兵の顔が、はっきりみえるのだ。応戦の限りをつくし、敵が退くと、しばらくは静まるが、再び攻撃が来る。それを撃退すると、さらに、より激しい攻撃が来る。死傷者は、その度に続出する。
「角野、しょせん、この塹壕が墓場だな」
北村兵長は、銃声の合間に、角野兵長といい合う。掩蓋も壕も、砲撃のごとに崩れ、しまいには、鉄帽で土を掘り出して、壕の補修を行わねばならなかった。
幸い敵は、弾薬を残置していたので、手榴弾《てりゆうだん》も相当の数があり、これを壕に運び込んで態勢を整える。
「北村、末期《まつご》の水だ、飲むか」
声がして、みると、佐藤中隊長だった。水筒を差し出している。のどがひりつくほどだった北村兵長は、礼をいって水をもらう。まさに甘露の味である。
「みな飲め、水筒は棄《す》てろ」
いい残して、中隊長は、指揮をとるために、壕の中を、死傷者をとび越えて去ってゆく。
応戦をくり返すうちに、右手の小高い陣地で撃ちつづけていた機関銃分隊が、迫撃砲の直撃をうけて、分隊長以下、重機もろともに吹き飛んでしまった。
「手榴弾がしっかり要るぞ。集めてくる」
北村兵長が、銃声の止《や》む間をみて、交通壕をたどって中央部へ進みかけると、壕も、壕のまわりも死者ばかりである。いつのまにこんなに死んでしまったのか。
死者の持つ、日本製の手榴弾をも、かき集めるようにしてもどってくると、加藤兵長が佐藤中隊長に報告している。
「第一中隊全滅です。本部もです」
中隊長の、悲壮な表情をみながら、北村兵長は元の位置に急ぐ。また、耳を聾《ろう》せんばかりの、砲銃撃がはじまっている。
その銃砲声のさなか、中隊長の、
「加藤、加藤、出るな」
と、叫ぶ声がきこえ、つづいて、
「各個に退《さ》がれ、作戦発起地点へもどれ」
と、中隊長をはじめ、根岸准尉《じゆんい》の声もきこえる。
「撤退援護を、やれるだけやろう」
北村兵長は、角野とともに、身のまわりの手榴弾を投げつづけ、大島、寺西、吉岡、三戸といった仲間が、陣地を飛び出して退がるのをみて、角野と呼び合って壕を出た。
弾幕の中である。
北村兵長が、傾斜を駈け下りながらみると、角野は、軽機を肩にかつぎ、一木一草もない山肌に、尻《しり》をつけて辷《すべ》っている。一瞬、遊んでいるような姿にみえた。大した奴《やつ》だ、と感心しながら、北村兵長は駈《か》け下りたが、すべって転び、鉄帽が木の根に引っかかって、首を吊《つ》った恰好《かつこう》になった。急いで鉄帽を外して、駈け下りる。敵の、どこからともしれぬ銃弾で、眼下のバナナ林のバナナの葉が、スコールを浴びているように揺れている。そのバナナ林の中へ駈け込む。
角野も大島も、無事に下りていた。
三人で、健在を喜び合い、途中で負傷している者がいるかもしれない、みにゆこう、といって、北村兵長が先に立って、また、傾斜地をのぼりはじめ、頭部に負傷している佐藤中隊長をみつけたのである。
中隊長を介護しながら、もどってきた出発地点には、マラリアのため戦闘に参加できなかった山田軍曹《ぐんそう》、中島軍曹、垣内上等兵の三名が残っていた。マラリアは高熱に冒されるため、歩行も満足にできなくなる。その三人のまわりに、突入に参加した者らの装具が置かれていた。もはや、装具の持主は、ほとんど帰っては来ないのである。
北村兵長は、中隊長が、支隊と通話しているのを傍《かたわ》らできいた。通信の斎藤隊が、有線通信で山本支隊と連絡がとれるようにしてあったのだ。連絡の用事があるかもしれぬ、と思い、北村兵長は、電話の位置へ行って、中隊長の傍らで、何気なく、電話機を洩《も》れてくる声をきいたのだ。すると、
「なぜ死守しなかったのか? 全滅だといっても、貴様ら生きておるではないか」
という、激しい声がきこえる。沈痛とも、悲痛ともいいようのない中隊長の顔色をちらとみて、北村兵長は、その場を遠のいた。
(ひとりも生き残るな、ということなのか)
だれももどって来ず、装具だけがむなしく並んでいるさまをみつめながら、北村兵長の眼《め》にも、無念の涙はにじんでくる。
その日の夜襲がとりやめになり、つぎの日の朝、明けるのを待って、北村兵長は負傷者の収容に出向いた。マラリアを押して山口軍曹も出てきたが、それでも全員で六名である。
途中で、虫の息の吉岡上等兵をみつけたが、吉岡は、北村兵長らをみると、
「来てくれたんか、ありがとう」
と、いったきり、息を引きとった。腹部の重傷である。まわりは岩場で、穴は掘れない。小指を切りとり、バナナの木を切り倒して、かぶせて、これだけのことしかしてやれぬ、ゆるしてくれ、と、詫《わ》びつつ祈るしかなかった。
バナナ林の尽きるところで、山頂陣地をみると、グルカどもが、口笛でも吹くような恰好で、陣地の修理にいそしんでいるのがみえた。みているよりほかはないのだ。
別な道を、引き返してくると、山口上等兵の倒れているのがみえた。胸に貫通銃創を受けている。まだ大丈夫だ。木を二本切り、ゲートルで、急造の担架をこしらえ、それに乗せて運んだ。
佐藤中隊長、北村兵長、角野、大島、西村といった指揮班仲間が、後発として残った。他の者は、新しい集合地点へ向けて、出発している。
支隊本部のあるチャモール(テグノパールの少し東)に、吉岡大隊の残存隊は到着し、そのまま支隊の予備隊となった。大隊とはいえ、一個小隊ほどの兵力しかない。これは支隊長にもわかるはずである。
佐藤中隊長は、大隊長代理として、ライマトルヒル攻防の委細を、直接、支隊長に語った。支隊長は、一応の報告をきき終えると、
「貴隊は、ランゴール撤退の時、支隊より支援した野砲隊の撤退を援護することなく退いている。これはなぜか」
と、詰問の口調でいった。
もし、野砲隊が支援に来ているのなら、ランゴールで、なぜ一発だけでも、支援の砲撃をしてくれなかったのか。へたに撃って、敵からの返礼砲撃を受けるのがこわかったからではないのか。
のどもとへ出かける言葉を、佐藤大隊長代理は耐えて、
「申し訳なく存じます」
とだけいって、頭を下げた。さらに、佐藤大隊長代理は、大隊長が負傷し、全滅のほかない戦況をみて、支隊長の許可なく撤退したことを、詫びた。あの戦況下では、到底支隊本部に連絡することなど不可能であり、その事情を説明した。
支隊長は、うなずいてきき終えてから、その時、また、
「貴官は予備役の中隊長か」
と、きいた。予備役では、ろくな指揮もとれず、判断もできなかったろう、という言外の意味が読める。もっとも、予備役のおかげで、佐藤中隊長が、深く敗因を追及されなかった、といえるかもしれない。
山本支隊長は、隷下《れいか》部隊が夜襲の時、損害が少いと「まじめに攻撃をやったのか」と、指揮官を面詰することで知られていた。
しかし、戦闘間と日常とをきちんと区分けしていて、佐藤中隊長との戦闘にかかわるいきさつがすべて終わると、ふいにやさしい表情になり、部下に命じて、タバコ「興亜」を三箱持って来させ、
「貴隊には、ご苦労をかけた。こんなものしかないが、これで部下をいたわってほしい。一日も早く戦力を回復して、また第一線にもどられるよう願っておる」
と、いった。
佐藤中隊長は、その好意に礼を述べたあと、
「委細を、松村聯隊長《れんたいちよう》に報告しておきたく思いますが」
というと、
「わしからもよろしく、と、つたえておいてほしい」
と、いった。まるで別人と話しているような、おだやかな口ぶりであった。
吉岡大隊は、チャモールで、少量の塩の補給を受け、女竹をうすく切って入れた塩汁と、一日に飯盒《はんごう》の中蓋《なかぶた》に半分ほどの米をたよりにしばらくの休息の時を過ごした。この間に、マラリア患者や負傷者の復帰する者もいて、大隊の兵力は三十名ほどになっている。
吉岡大隊が、命を受けて、再び第一線の任務についたのは、六月十一日である。すでに雨季のさなかである。パレルへ向かう本道をたどり、テグノパール西北方約一キロの、四五六二高地に布陣した。大隊ではここを浅間山と呼んだ。ライマトルヒル(五一八五高地)に対向する位置だ。
前面の山地には、敵の強固な陣地があり、砲撃は、不定期に見舞ってくる。昼夜を問わず、自動火器の狙撃《そげき》がある。少しでも身体《からだ》をのぞけると、きまって数発の狙撃弾が来る。佐藤中隊長が、もっとも信頼していた平田中尉も、砲弾を腹部に受けて戦死している。佐藤中隊長は、平田中尉とは、昭和十四年に兵団が渡支して以来の深いつきあいがあり、平田中尉の死んだ日は、壕の中で、黙然として涙を流した。
夜になると、谷を隔てた向こうの陣地から「佐渡おけさ」「東京音頭」「荒城の月」などのメロディが、風に乗って流れて来る。敵側の謀略である。そうして必ず「きみらは軍閥の犠牲になってむなしく戦死させられる。かわいそうだ」といった、アクセントのややおかしい宣伝放送が流れてくる。
ただ、谷間を越えて、攻めのぼっては来ないのだ。また、大隊も、谷間を越えて、敵陣地へ夜襲をかけることもなかった。あまりに兵力が少な過ぎるのである。
この陣地守備の間、北村兵長は、中隊長と同じ壕で生活した。人員が少いので、ほとんど毎日、歩哨《ほしよう》に立たなければならない。夜は、よく豪雨が来る。壕の中が、みるまに洪水《こうずい》になるほどの雨量である。ただ、スコールが来ると、敵の襲ってくる懸念《けねん》はなくなる。それで、壕にもどって、中隊長とともに、壕の水を汲《く》み出すのである。ただ、北村兵長にしても、平田中尉戦死の折は、中隊長を慰める方途がなかった。
この、浅間山(四五六二高地)滞陣中にも、マラリアの発病や負傷で、後退する者があり、大隊の兵員は、いつのまにか、また、二十名ほどに減っていた。
吉岡大隊二十名は、浅間山の陣地を出て、アイモールクーレへ向けて、前進するよう命令を受けて、六月二十三日に出発することになった。
その前日、テグノパールにある糧秣《りようまつ》の集積所まで下って、吉岡大隊は糧秣の支給を受けている。塩干魚、乾パン、塩、粉醤油《しようゆ》などの補給があり、これは久しぶりのご馳走《ちそう》であった。ゆっくりと眠り、元気を回復して、新しい任地へ発《た》ったのである。
ただ、出発の直前に、佐藤中隊長は、マラリアによる悪寒《おかん》、高熱を発し、同時に、重なる疲労のためか、寝たきり動けなくなった。マラリアに対しては、キニーネがあるだけだが、対症薬としてはさしたる効果もないし、それに体力を大きく消耗させての発病だから、どうしようもない。マラリアは、悪寒と、四十度を越す高熱が、交互に来る。連日に発作の来る熱帯熱という症状である。弱い者は死んでしまう。
北村兵長は、谷間から水を汲んできて、生地《きじ》の色もわからなくなった汚れたタオルで、中隊長の頭を冷やしたが、マラリアの熱は、発作のおさまるまでは、冷やしてみても直接の効果はない。それでも、看護に専心していると、その時、木村少尉が、伝令の有田上等兵を連れて、大隊へ復帰してきた。
木村少尉と有田上等兵は、さきのシボン戦で、小隊がほとんど全滅した時、ともに負傷して後送されていたのである。それが、もどって来たのだ。木村少尉は、中隊長の腹心の小隊長である。
「おお、木村少尉が復帰した? ほんとうか」
まだ発作のつづいている中隊長は、北村兵長から報告をきくと、寝かされている天幕の中で、むっくりと起き直って、心配顔で帰隊の申告をする木村少尉に、
「木村少尉。よく帰ってくれた。そうか、有田もか。心強いな。積もる話がある。まア、ここへすわれ」
中隊長は、天幕の隅《すみ》に腰を下ろす少尉と、ひとしきり、少尉の病状や、佐藤隊の経過などを話し合った。まるで、発作のことなど忘れてしまっているような、昂奮《こうふん》ぶりである。よほど嬉《うれ》しかったのだ。
だが、中隊長のマラリアは、軽快しなかった。一時は、木村少尉復帰のこともあって、気力をとりもどしたが、アイモールクーレへ向けて、山間の道をたどりはじめてからは、衰弱が増し、遂に倒れ込んで歩けなくなった。
アイモールクーレは、パレルの東北側にある高地で、浅間山とテグノパールの中間点から北上して、さらに西進する山間の登り下りの道を、一両日たどらねばならない。
北村兵長は、中隊長を背負って歩き、角野兵長、大島一等兵らが、装具を持って助けてくれたが、中隊長の症状はよくならない。道が、西へ向かうとアイモールクーレ、東へ向かうとシタチンジャオ方面になる三叉路《さんさろ》のところで、
「北村、ご苦労だが、隊長を連れて後方へ退がれ。大隊が進攻してきた道へもどれば、後送の便もあるだろう。このまま無理をすると死なれてしまうぞ」
木村少尉は、北村兵長を呼んで、地図をひろげて、退路の方向を指示する。大隊の指揮は木村少尉がとってくれるから安心である。中隊長にも、その思いがあって、病状が進行してしまったのだろう。
中隊長は、発作のくり返しのために弱り果て、意識も朦朧《もうろう》としていて、話も通じない。
「後退します。お任せください。隊長殿は自分が責任をもってお世話いたします」
北村兵長は、木村少尉にそういい、仲間の者たちとも挨拶《あいさつ》をかわして、ひとりで中隊長を背に負うて、シタチンジャオの方向へ、山道をたどることになった。シタチンジャオからは、わかっている道である。しかし、単身、重病の中隊長を背負って、果たして、敵にみつからずに、無事に後送の任を果たすことができるのだろうか。もし、敵にみつかれば、中隊長とともに死ねばよい、と、覚悟はしているが、なんとかして中隊長を助けたいのである。
山間の道を、東へ、半日ほどたどり、小さな集落にたどりついた。ここで中隊長を休ませたかった。すべては運任せである。原住民が敵に通じていれば、それで終りである。天に祈るしかない。
集落は、ナガ族の集落らしかった。ナガ族は、日本兵に対しては親切である。集落には、原住民は数人しかいなかった。手真似《てまね》をまぜて、病人をたのむ、というと、かれらは、村長の家へ連れて行ってくれ、よごれた毛布の上に、中隊長を寝かせてくれ、水を汲んできて飲ませてくれ、薬草の煎《せん》じたのを飲ませてくれる。マラリアは、原住民もかかるから、手当法も、かれらなりに知っているのだろう。とにかく、休養させることが先決だと思い、北村兵長は、少量の食事をとらせ、薬草を飲ませたあとは、病人を静かに眠らせた。昏睡《こんすい》状態のまま、それから二日半、中隊長は眠りつづけた。
中隊長が、昏睡から覚めて眼を開けた時、北村兵長は、あたりを見廻《みまわ》して驚いている中隊長に、ここまでのいきさつを、かいつまんで話した。大隊と別れる時から、中隊長はまったく意識がなかったのである。
「木村少尉はどうしたか。こうしてはおられぬ。追及しなければならぬ」
中隊長は、戦況を案じ、部下の安否を気遣い、自分のことは忘れている。起き上がろうとするが、その力がない。
北村兵長は、中隊長をいたわりながら、なお説明をつづけ、中隊長の体調の回復を待って追及したい、と伝えると、
「前線の様子を、みてきてくれぬか。隊長も近く追及すると、木村少尉に伝えてくれ。いますぐ連絡に行け。おれは大丈夫だ」
中隊長は、そういって、きかない。
「連絡には、明日行きます。今日一日、隊長殿の様子をみてからです。二日半の昏睡から、いま覚められたばかりでしょう」
北村兵長は、中隊長を納得させ、午後から夕刻までに、原住民のこしらえてくれた粥《かゆ》を食べさせる。ニンニクがあったので、それをすりつぶして飲ませたりした。そうして、その日は眠らせ、つぎの日、夜が明けると、中隊長は、ずっと元気になっている。マラリアもおさまっている。それで、連絡に出てみることにした。
今度は、中隊長を背負って歩くのではなく、単身軽装で歩くのだから、道も捗《はかど》り、隊伍《たいご》と別れた三叉路のところまでは、二時間足らずで来た。
西進して、一時間余り経《た》つと、行手に、人の声がきこえた。味方とも敵ともわからない。しばらく物蔭《ものかげ》で耳を澄ますと「小隊長殿」と呼ぶ声がきこえる。木村少尉たちがいるのである。それで、急いで寄ってゆくと、右手のジャングルの中に、木村少尉以下の、大隊の者たちが集まっていた。
一同は、北村兵長をみると、まわりに集まってくる。
「隊長が死んだのか」
と、まず口々にきくのは、その心配ばかりをしていたからであろう。一同は、体調を回復しつつある中隊長の様子をきくと、安心して、今度は口々に、北村兵長の労を謝す。
木村少尉は、北村兵長と同年兵だが、幹候出身である。色の黒い、台湾生まれの、素朴《そぼく》な人柄《ひとがら》である。
「北村、うまいものとてないが、ゆっくり休んで行ってくれ」
木村少尉は、そういう。
朝方、集落を出たら豪雨に見舞われ、全身ずぶ濡《ぬ》れである。北村兵長は、褌《ふんどし》一つになって、濡れた衣服の水をしぼり、角野兵長、大島一等兵らと、中隊長の話をしつづける。
「あと二、三日で、連れてくる。おとなしく寝ている人ではない。今朝も、まだ足も満足に立たぬくせに、集落を出る、といってきかないのだ」
杉村曹長、西村上等兵、有田一等兵、吉川一等兵、吉村一等兵ほか、なじみの顔が、北村兵長をとりかこむ。わずか二十名の大隊は、支隊からの、パレル攻撃の命令を待っているのである。
大隊も、たったこれだけになってしまったのか、という思いと、まだこれだけ健在な仲間がいるのだ、という思いとの、複雑な感情のままに、北村兵長は、濡れた衣服をまた着込む。
大隊が、健在でいることを、早く中隊長に報告してやりたい。
しばらくの、寛《くつろ》ぎの時のあとで、全員と固い握手をかわして、北村兵長は、また、中隊長の許《もと》へ、もどってゆくことになった。
集落に到り着き、委細を報告すると、中隊長は、キニーネの服用をつづけたので、黄濁している眼を潤《うる》ませて、
「そうか。みんな元気でおってくれたか。早くなおして、ともに戦いたい。そうか、よかった」
中隊長は、ひたすら、北村兵長の報告を待ちわびていたのだろう、大隊が健在でいると知って安心したのか、話しながらに、深い眠りに陥《お》ちている。
雨季は、雨が降ったりやんだりの、くり返しである。翌日は、雨はやんだが、まわりの山なみに、重い雲だけは立ちこめている。
西の方、その山なみの向こうで、遠雷の轟《とどろ》くに似た、砲声がきこえはじめた。砲声は、午後一ぱいきこえつづけて、夕方になってやんだ。パレルへの、攻撃がはじまったのではないか。
砲声がきこえはじめると、中隊長は、さすがに耳ざとく目を覚まして、
「北村、大隊が戦闘に参加しているのではないか。大丈夫かな」
と、しきりに、きく。
「二十名では、攻撃するなら、夜襲しかないでしょう。壕の中で、敵の無駄《むだ》撃ちを眺《なが》めているのですよ」
北村兵長は、杖《つえ》を突いてでも前線へ出向きたそうな中隊長を、なだめる。
北村兵長が、中隊長をなだめ切れず、前線へ向けて追及することにしたのは、その二日後である。熱が出なくなってからは、回復も早かったし、歩行についても心配はなくなった。それに、小集落にとじこもっていて安心、ということもない。原住民に親切にしてもらった、というのは、運がよかった、というに過ぎないのである。
中隊長と北村兵長が、集落を発ち、一同と別れた三叉路を過ぎ、木村少尉以下が休息していたジャングル内の地点へ来ても、だれの人影もみえなかった。
「先をみてきます。隊長殿はここにおってください」
北村兵長は、中隊長をその場に残して、先へ進む。進むにつれて、キナ臭い匂《にお》いが、風に乗って流れてくる。砲弾で樹木の焼かれたあとの匂いである。しばらく歩くと、小集落があったが、砲撃を受けたらしい、惨澹《さんたん》たる光景がみえる。樹木も、十数戸の民家も吹っ飛び、地面のいたるところが、砲弾の落下によって掘り返されている。
あたりを見廻したが、しかし、戦死者の遺体はみえない。ここに遺体がないのは、先に進んで、夜襲を決行したのだろうか。状況はまったくわからず、ただ、焼跡の匂いだけが、不気味に残っているだけである。どこを見廻しても、やはり、人影はない。
わずか二十名の大隊である。滅ぶべき時には、他愛《たわい》もなく滅んでしまうのだろう。どこかで滅んでしまったのだろうか。
北村兵長は、事情はわからないながらも、前方へ向けて、深く頭を下げ、そのまま引き返す。
元の場所へもどり、中隊長に委細を報告すると、
「一緒に戦い、一緒に死にたかった。おめおめと後退せねばならなかった、自分の身の上が悔まれる」
といって、しきりに嘆く。
「隊長殿は、失神状態でしたから、戦うより先に死んでしまわれたでしょう。ここで待てば、だれか、生き残って、もどってくるかしれません。待ちましょう」
北村兵長は、そう思い、砲撃された小集落まで進み、崩れ残った家の屋根にのぼって、時々、まわりをみた。かなり、眺望《ちようぼう》がきくのである。
つぎの日の朝方、その屋根の上でみていると、後方から、人影が二つみえた。日本兵である。
下りて、近づいてみると、同年兵の広田上等兵と谷口一等兵である。二名とも、負傷して後送され、再び、前線へもどってきたのである。それにしても、よく、ここへたどりついてくれたものだ。
「広田! 谷口!」
「北村か。ここにいたのか」
互いに、抱き合うようにして喜ぶ。
復帰してきた二名は、中隊長に帰隊の申告をする。大隊が、全滅か、少なくも、それに等しい痛手をうけているに違いないその時に、たとえ二人とはいえ、中隊の有力な人材がもどってきたのである。二人に敬礼を返す中隊長の、病みやつれた頬《ほお》に涙が光って落ちている。
「隊長以下四名に充実しました。パレルへも、インパールへも進攻できますよ」
北村兵長はそういい、その時は、互いに、たった四人の、吉岡大隊の健在ぶりを信じあったのである。
この日、暦は、すでに、七月一日を教えている。
後章 渡河点までの遠い道
一、北インパールの戦いとミッションの悲劇
六月十六日の夜、宮崎支隊(烈兵団の宮崎部隊・宮崎少将の指揮する歩兵三個大隊基幹)へ、連絡のため、宮崎支隊の守備地であるマラム方面に向かっていた松村部隊(祭兵団歩兵第六十聯隊《れんたい》)本部情報班の竹ノ谷中尉《ちゆうい》は、この作戦に参加して以来、もっとも重苦しい、不安な心情を抱いていた。歩む足が、つまずき勝ちになるほど、先へ先へと急ぎたい思いに駆られている。
宮崎支隊からの連絡将校西田中尉は、夕刻に、松村部隊本部の位置していたハインポーク高地を訪ねてきて、驚くべき内容の通報を、ほとんど事務的に伝えている。むろん、連絡将校にしても、連絡事項を事務的に伝達する以外には、いかなる感情も用意し得ていなかったろう。つまり、精神的な余裕をもっていなかった、ということである。宮崎支隊そのものも、ぎりぎりに追いつめられた事情下にあったはずである。
ハインポーク高地は、作戦発起後逸早《いちはや》く、本多挺進隊《ていしんたい》が進出して、コヒマ=インパール道に架かるミッション橋梁《きようりよう》を爆破したが、そのミッションより数キロインパール寄りの、コヒマ=インパール道東側の高地である。
宮崎支隊の守備しているマラム高地線は、ミッション北方四十キロほどの地点で、コヒマ=インパール道の東側を侵している。
竹ノ谷中尉は、ハインポークの部隊本部へ、連絡のため西田中尉が訪ねて来た時、付き添って、松村部隊長のいる幕舎へ案内した。連絡将校の伝達する連絡の要旨も、その場で耳にしている。
つぎのような、内容である。
一、烈兵団は、弾薬、糧秣《りようまつ》共に欠乏し、もはや作戦を継続することが不可能となったので、独断で作戦を中止して既に転進を開始した。
二、宮崎支隊は、コヒマ=インパール道を南下し、逐次要点を占拠しつつ、敵の進撃を阻止している。
三、現在における敵の進撃状況並びに部隊の抵抗能力から判断すれば、敵のミッション付近進出は数日後と予想せらる。
右の通報は、松村部隊の、まったく予期しない、寝耳に水の内容であった。つまり、烈兵団はコヒマから独断撤退しつつあり、敵の進出を支えられるのも数日中と思われる、という、一方的な通告である。
松村部隊の各大隊は、悪戦しながらも、作戦放棄については、一兵たりといえども、みじんも考えたことはない。もし、烈が、コヒマの抵抗線を放棄し、撤退したとすると、敵はコヒマ=インパール道を、怒濤《どとう》の如く南下してきて、インパール方面から北上してゆく部隊と、たちまち手を結ぶであろう。当然、松村部隊の防衛線は崩壊せざるを得ない。
松村部隊長は、きびしい表情のまま、
「竹ノ谷中尉、直ちに同行して、宮崎閣下に直接事情をうかがってきてほしい。もし、コヒマが崩れると、祭は、さらに惨澹《さんたん》たる状況になる」
と、傍《かたわ》らにいる竹ノ谷中尉にいった。
竹ノ谷中尉は、自隊内の打ち合わせもあり、西田中尉には先に帰ってもらい、自分は、夜になって、伝令要員として山田曹長《そうちよう》、及び行李班《こうりはん》から兵員二名を護衛として出させ、鹵獲《ろかく》していた自動車で、部隊本部を出発している。
部隊長が、さらに惨澹たる状況、といったのは、現在までに、すでに、松村部隊隷下《れいか》の各大隊はいずれも、惨澹たる状況下にさらされているからである。竹ノ谷中尉は、本部情報班に身を置いていただけに、各大隊が、いかなる悪戦を強《し》いられ、出血に出血を重ねて、なお、インパール突入への夢と、使命感を棄《す》てずにいるかの事情を知っている。
マラム高地への、コヒマ=インパール道を急ぎながら、竹ノ谷中尉の脳裏を去来するのは、コヒマ=インパール道を敵に奪還された場合の、いっそうの惨状である。
烈が撤退し、敵が進出してきた時、祭は敵中にとり残されることになる。その時、果たして、いかなる戦いの方途が残されているのか。
この二ヶ月ほどの、隷下各大隊の、敢闘しつつも、戦力を著しく消耗しつつある状態が、竹ノ谷中尉には、あまりにもよくわかっていた。
四月上旬ごろから、松村部隊がインパール北部で接触した敵は、英印軍第十七師団の約一個聯隊であったが、五月中旬には軍の移動があって、英印軍第五師団の第百二十三旅団が交代してきている。
内堀大隊が、センマイ高地で戦った敵は、英印軍第十七師団の部隊である。日本軍の積極的な攻撃の絶えた五月十日ごろからは、敵はインパール=コヒマ道打開に、重点を志向して、全面的な攻勢に移りはじめている。
松村部隊は、五月中旬までには、火砲――聯隊砲や速射砲を、ことごとく失ってしまっている。砲爆撃と対戦車戦のためである。従って、敵側の重砲、戦車、戦爆機を計算に入れて考えてみると、その戦力比は、一対二十にもならないかしれなかった。極言すれば、零と無限大との戦いともいえたろう。
こうした戦力の不均衡の中で、前線部隊は、不撓《ふとう》不屈、言語に絶する困苦に耐えて、精神力だけをもって、戦闘を継続してきている。後方の軍司令部は、前線部隊の苛酷《かこく》な窮状は無視しつづけている。むろん、後方よりの補給は絶無である。
戦況がきわめて悪化した六月十二日に、軍司令部から、山内師団長宛《あて》に、
「右突進隊は後退の線を報告すべし。爾後《じご》の後退は軍の認可を受くべし」
という命令が来ている。つまり、後退はすべて軍の認可を受けよ、ということである。
これに対して山内師団長は、
「右突進隊は十数倍の敵の攻撃を受けあり。小隊、分隊の陣地撤退移動等きわめて微妙なるものあり。また認可を受くる間に全滅する如き場合等、独断後退せしめざるべからざる場合多かるべく予《あらかじ》め承認を乞《こ》う。――右突進隊は当なく唯《ただ》、敵を拒止しあり、今や戦力の限度に達しあり。ついてはなお保持せしむべき時日、最大限後退せしめ得べき地点、及び烈の一部増援等に関する企図を承り度《た》し」
と、返電している。これは、師団長個人の考えを軍に訴えたものであるが、軍よりもはるかに前線事情を知る師団長の苦衷の情が、この短い電文にも自《おの》ずとにじみ出ている。
松村部隊が、実質二個中隊以下の戦力となった時も、なお軍は、現陣地の固守を要求してきている。前線部隊は、竹槍《たけやり》装備で敵戦車と戦うに似た事情下に、最善を尽くして、陣地保持につとめた。そうして、インパール=コヒマ道の確保をつづけている。
センマイ東側高地の夜襲を重ね、その夜襲毎《ごと》に失敗し、出血を重ねてきた内堀大隊(第二大隊)は、大隊とはいえ、兵員の実数は、すでに一個中隊を欠くほどになっている。
内堀大隊の、三八一三高地における防衛線は、防禦《ぼうぎよ》担任正面約三キロである。つまり、三キロの正面を守備する必要がある。一般に一個大隊が担任できる防禦正面は、一キロ内外である。地形が有利なら、一・五キロを防衛する。内堀大隊の場合は、一個大隊の四分の一の兵力で、しかも二個大隊分の防禦正面を支えねばならなくなっている。当然、防禦線は、いたるところ手薄になる。均一な兵力の配備は不可能なので、緊要地点に兵力を配備し、次等以下の地点は手を抜き、かわりに、隣接陣地からの火力と、予備兵力を以《もつ》てする逆襲とによって、敵の攻撃を制圧するよりほかはなかった。
その内堀大隊の守備する三八一三高地への、敵の攻撃が活発になったのは、五月初旬を過ぎてからである。
五月十三日の午前、内堀大隊陣地は、敵の迫撃砲による猛烈な集中射を浴びはじめ、その猛射のあと、敵の歩兵部隊が侵入してきて、陣地の西側の一角を占領している。この時はいったん撃退したものの、翌十四日の攻撃で、西側の一角は占領され、敵は陣地を築きはじめている。敵は、内堀大隊の兵力、火器の実数を読んでいるので、大胆不敵に侵入を試みてくるのだ。
翌十五日には、三八一三高地の西北方約一キロの地点エクバン高地に、敵がとりついてきて、陣地を構築している。しかも、グルカ兵たちは、上衣を脱いで、悠々《ゆうゆう》と作業をしている(付図25参照)。
この高地は、一ヶ月近く前は、砲兵聯隊の主陣地だったのだが、兵団命令で、砲兵聯隊はサンジャック方面へ撤退して行っている。このエクバン高地の後方一・五キロのモドブンに、松村部隊本部が位置していた。つまり敵は、傍若無人に、部隊本部と内堀大隊の間へ、割り込んできたのである。
内堀大隊は、前面と背面の双方から、敵の攻撃を受けることになったが、エクバン高地の敵を掃蕩《そうとう》する兵力の余裕など、あるはずもなかった。
松村部隊長は、軍旗小隊から、三島中尉を長とする二十名を抜いて、エクバン高地に割り込んできた敵を、撃退させんとしている。三島中尉は、部隊が在支当時からの歴戦の経験があり、
「夜襲には馴《な》れております。必ず奪取してみせます」
と、部隊長に、笑いながら快活に答えている。竹ノ谷中尉も、その時の、三島中尉の力のあふれた表情を、たのもしくみまもったものであった。
三島小隊は、その夜、夜襲をもって、エクバン高地をいったん奪取したが、なにぶんにも兵力が少な過ぎ、これを侮《あなど》る敵の反撃に遭って、防戦中、三島中尉は頭部に貫通銃創を受けて、惜しくも戦死している。せっかく占領したエクバン高地も、三島中尉以下兵員の半数を失って、奪い返されている。
(風に、草が薙《な》ぎ倒されるように、みんな死んでいった)
と、竹ノ谷中尉は、エクバン高地の夜襲の失敗した時、情報班の立場で、この作戦開始以来の悲痛な状況を、改めてかえりみている。
三島小隊のエクバン高地奪回が失敗した時、夜明けとともに、内堀大隊は、南方の敵の本陣地のほか、エクバン高地よりも砲撃される破目になり、応戦しようにも、火器もなく、弾薬も尽きている。この砲撃下に、第六中隊の小隊長広沢少尉以下数名が戦死し、負傷者もふえている。
松村部隊長は、エクバン高地を奪還しない限り、内堀大隊の全滅の危機はますます深まると思い、サタルマイナ東方タンガ(五四一七)高地を守備していた伊藤挺進隊長に、エクバン高地奪還の命令を与えている。
伊藤挺進隊は、聯隊の別働隊として、四月中旬、西方のインパール平地とシルチャ平地を遮断《しやだん》する軍の意図を、完全に果たしている。伊藤挺進隊は、要衝ハオチョン峠を隠密《おんみつ》に占領したあとは、インパールへの補給路を抑え、通行する敵を粉砕し、二週間にわたって任務を継続し、軍命によって、本隊へ復帰してきたものである。松村部隊長は、エクバン高地奪回を遂行し得る兵力としては、いまは伊藤挺進隊を頼るよりほかはないとみた。
五月十六日、松村部隊長は、タンガ高地から伊藤中隊長と主力を招致し、明十七日、夜襲を以て、エクバン高地を奪還してほしい、という命令を発した。
「この窮地を救い得るものは、いまは貴隊よりほかにはない。善戦してほしい」
と、松村部隊長は、命令――ではあるが、懇願の思いをこめて、伊藤中隊長にいう。
伊藤中隊長は、三島中尉同様、
「ご安心ください。全力をつくして奪還します」
と、いう。
その伊藤中隊長に、竹ノ谷中尉は、三島小隊の戦闘の事情を、知る限りは、話した。伊藤中隊は、タンガ高地に、香川少尉以下十数名だけを残留させて、出てきている。
「敵は、エクバン高地へ、駄馬《だば》やトラックを利用して、弾薬や糧食を運び込み、陣地を補強しています。しかもこれを白昼堂々と行います。これを見守るしかないのは、まことに無念です」
エクバン高地に向けて、双眼鏡をあてながら、竹ノ谷中尉は、伊藤中隊長に、敵のそのような行動を、黙視するしかない事情を語っている。エクバン高地を砲撃する火砲は一、二門しかない。しかも、弾薬が欠乏している。かりにエクバン高地を砲撃すると、その発火点に向けて、猛烈な反撃の砲撃が集中してきて、火砲そのものをも失うのである。
松村部隊の戦闘力としては、もっとも精強を集めた伊藤中隊は、内堀大隊の陣地内で諸準備を整え、十七日の日没時に行動を起こし、内堀大隊の最左翼陣地より、稜線《りようせん》伝いにエクバン高地へ向かい、陣地に近接して機を待ち、夜半、敵の虚を衝《つ》いて突入している。
敵陣地の前線にいた守兵は、不意を衝かれて、驚いて四散し、伊藤中隊は第一線陣地を抜き、つづいて第二線陣地をも奪取した。第三線の陣地を抜けば、エクバン高地を占領できるのだが、敵も、日本軍の夜襲作戦には馴れているので、第三線陣地はことに強固に有刺鉄線を敷き、陣地内には強力な火器を装備していた。伊藤中隊は、第三線陣地を抜くためには、陣地内よりの敵の自動火器と手榴弾《てりゆうだん》の防禦の弾幕をかいくぐって、突入しなければならなかった。しかも、至近距離での火力戦で応戦しているうちに、もともと夜襲戦だから、弾薬を多く携行してきていない。火器も乏しく、弾薬も尽き、突入しようにも敵の応射がすさまじい。敵陣では、指揮する英人将校もグルカ兵も、必死の防戦である。夜襲隊の火力が弱まってくると、今度は逆襲に転じてくる。
この攻防をくり返していると、火力も地の利も頼めない伊藤隊は、次第に苦境に陥《おちい》り、伊藤中隊長は額に手榴弾の破片創、小隊長影山少尉は左上膊《ひだりじようはく》ほかに手榴弾の直撃による爆創を受け、いずれも重傷だった。さらに中隊幹部も大半、兵員も損傷を重ね、翌十八日の天明には、遂に戦闘を断念して、戦場より離脱するのやむなきに至った。
伊藤隊の夜襲は、完全に失敗し、隊員の大半は戦死傷し、勇戦を謳《うた》われた伊藤隊も、残存兵力は、タンガ高地を守備する、香川少尉以下のわずか十数名となった。
エクバン高地から撤退を余儀なくされた伊藤隊は、重傷者を後送したが、その途中で、伊藤中隊長、影山少尉も死去している。
「伊藤大尉、影山少尉、ともに、後送中に戦死されました」
竹ノ谷中尉が、入手した情報を部隊長に伝えた時、部隊長は、沈痛をきわめた面持《おももち》で、
「あれほど有能な人材はいなかった。無念である。泣くにも泣けぬ」
といったが、無念、というのは、エクバン高地を奪還する企図をつづけようにも、まったく方途の尽きてしまっている、その思いがまじっている。
伊藤大尉は、現役出身の最先任の中隊長であっただけに、部隊長の言辞にも、真率な嘆きのにじむのを、部隊長の身近にいて、竹ノ谷中尉は犇《ひし》と身に感じるのである。
伊藤隊の夜襲失敗を機に、敵の攻撃は、ますます、きびしさを加えてきている。
ともかくも、インパールへインパールへと、進攻の意図をもって行動してきた松村部隊も、防戦しつつ、次第に悲境に陥ってゆく運命を予感せざるを得なくなった。インパールは、日ごとに遠のきつつある。
伊藤挺進隊《ていしんたい》とともに、ビシェンプール=シルチャ道遮断と、橋梁《きようりよう》爆破の重要な任務を帯びて、西方山地へ分け入った粟沢挺進隊(第九中隊)は、反転命令を受けて本隊復帰をしたあと、チンサット東方高地の確保を命ぜられ、守備についていた。チンサットは、内堀大隊本部の三八一三高地から二キロほど東北方にあたる。粟沢隊は、チンサットの東側高地に陣を敷き、部隊ではここを粟沢山と呼んだ。この高地は以前、聯隊《れんたい》本部の太田准尉《じゆんい》の予備隊が守備していて、太田山と呼んでいた。粟沢隊が、この陣地守備についたのは、四月十九日である。
ここらの地質は、岩盤ばかりで、陣地構築の壕《ごう》を掘るにも、円匙《えんぴ》や十字鍬《じゆうじしゆう》では、なかなか受けつけない。いくらかは太田隊の掘った壕が利用できたが、泣きたい思いで、岩盤を削って壕を掘る。ただ、陣地周辺に多少の樹木はあった。陣地は中心に中隊長と指揮班、北方に中菅隊と八木分隊、南に松田隊を配し、四月中には陣地整備を完了している。中隊の装備は重機一、軽機二、擲弾筒《てきだんとう》一である。
五月二日の朝方、松田中尉が、粟沢山の陣地周辺を視察しながら、南方の四九五〇高地に眼《め》をやると、その高地が、粟沢山にかぶさるようにみえてくる。向こうのほうが、ずっと高いからである。それに、その高地で、林中隊(第十二中隊)が、全滅に近い損害を受けて撤退した、という情報が、耳になまなましく残っているからである。
「この粟沢山だけは、何としても守らねばならない。必ず守りぬいてみせる」
と、松田中尉は、決意をかため、同時に、いずれ予想を絶する砲爆撃を受けることになろう、と覚悟をしている。
翌日の夕刻、敵の曳光弾《えいこうだん》による試射がはじまった。四日の未明、松田中尉は、夢に出てきた白装束姿の母親に起こされ、尋常でない周囲の静かさから、直感的に、敵の攻撃の迫っていることを悟った。
起きて、中隊長に報告し、各小、分隊長に、応戦態勢をとることを命じた。果たして、夜が明けるとともに、インパール飛行場から、つぎつぎに飛び立つ飛行機がみえた。
「来るぞ。全員壕にもぐれ」
松田中尉が命令してまもなく、戦爆編隊の十二機が、粟沢山の上空に飛来した。一機に二個ずつ爆弾を持っている。その爆撃とともに、野砲、山砲、臼砲《きゆうほう》二十門ほどが発射する砲弾が降ってくる。陣地はみるまに畑のように掘り返される。集中砲撃は三分間つづいて一分休み、また三分間つづく、という周期を繰り返す。敵の歩兵は南の四九五〇高地方面から前進してきて、陣前二百メートルまで迫ってくる。三百名ほどの数である。かれらもまた重軽機や擲弾銃を撃ってくる。
これに中隊は応戦する。陣前に迫ったグルカは「ヤマー」と叫びながら突撃してくる。それを手榴弾で薙ぎ倒す。英人将校は、軍刀を抜いてグルカ兵を叱咤《しつた》する。
敵味方、必死の攻防は二時間つづき、敵はようやく攻撃を断念して、援護射撃を頼みつつ、死体を収容して、後退している。
松田中尉は、この日の午前の爆撃のあとの砲撃を、一平方メートル当り三発の割で弾着がある、とみた。陣地一帯はすべて掘り返され、樹木もみな根こそぎ吹っ飛ばされ、倒された樹《き》の幹は弾痕《だんこん》による無数の爪跡《つめあと》状の傷がつき、無残な姿をさらしている。
午後の砲撃は、午前にもましてすさまじく、陣地全体は鳴動しつづけ、押し寄せてくる敵を、中隊の将兵は果敢に撃退したが、日没になって、粟沢中隊長戦死、しかも、壕中に死体は埋もれている、ということが確認された。
松田中尉が、現場へ出向いてみると、高橋軍曹《ぐんそう》らが壕を懸命に掘っている。やがて、壕の中で、背を屈《かが》め、両手両足を組み、座禅の姿で息の絶えている中隊長を、掘り出した。傍《かたわ》らに、当番兵の中西兵長も、中隊長に添うような恰好《かつこう》で絶命している。
安居衛生伍長《ごちよう》が、両名の片腕をジャックナイフで切り落とし、遺骸《いがい》は壕の中に埋めた。
「中隊長、よくがんばられました。あとは自分らで守りますから、ご安心ください」
松田中尉は、深く中隊長に黙祷《もくとう》し、中隊長の片腕を抱えて、自分の壕にもどっている。中隊長の遺体の側《そば》には図嚢《ずのう》があり、松田中尉がそれを開けてみると、挺進行の折に入手したタバコ(スリーキャッスル)が三箱あった。中身を調べてみると、外装はそのままなのに、中のタバコは巻紙も破れてバラバラになっている。つまり、それほど、爆風が激しく、そのための、壕を襲った土砂の圧力もすさまじかったのである。中隊長も中西兵長も、外傷が見当らなかったので、爆風で内臓が破裂したための死、と思えた。
中隊長は、前日、松田中尉に、
「挺進隊の時は張り合いがあったな。動き廻《まわ》るのは面白い。陣地を死守するというのは、動けんのでつらい。おれが死んだら、ビスケットの罐《かん》で骨を焼いて、持って帰ってくれよ」
と、いわれた。わずかばかり残っていた砂糖をわけてもらった。同じ壕で、遅くまで話し、翌未明に、自分の壕にもどって行った。そうして、その日に、戦死したのである。
夜は、山の上に、冴《さ》え冴えと月が出た。
「いい中隊長だった」
なによりも凜々《りり》しい勇気があった、模範的な挺進隊長だった時を回想し、松田中尉は、ひとり壕中で、中隊長を偲《しの》んでいる。
翌六日も、野山砲、臼砲の砲撃はつづいた。
八木軍曹の布陣していた北方の陣地は、粟沢中隊長が戦死した二日後、敵の斥候隊に発見されて以来、集中砲撃を受け、佐野、大八木、藤井、山下、岩本、吉村ら全員が戦死し、分隊長の八木軍曹だけが、重傷のまま生き残った。八木軍曹の負傷は、迫撃砲の破片創である。夜になって、第三大隊医務室の担架で運ばれ、前軍医の応急処置を受け、モルボン高地からミッションの野戦病院へ送られることになった。本部で、同年兵の馬淵兵長に会い、寝たまま小便をさせてもらい、少々話し合って、別れている。
敵の攻撃は連日つづいたが、粟沢陣地は、松田新中隊長のもとに、頑強《がんきよう》に抵抗をつづけた。敵も、陣地を陥《お》とせぬと断念したらしく、五月中旬からは、砲爆撃も遠のいた。しかし、この間の中隊の犠牲は大きかった。大隊砲小隊の小笹中尉、山本軍曹、本多軍曹ほか死傷続出し、中隊は六十余名のうち、約半数を失っている。
この松田山(旧粟沢山)陣地は、命令によって、六月十日の二十四時に転進している。実に五十日間を守りぬいた。この陣地は、前方側背に敵を受けているので、壕外に出て用を足すにも、敵の狙撃《そげき》対象となった。
戦闘もだが、食糧事情が悪く、米は日にひとにぎりの配給であり、塩をなめない日は二十一日間つづいた。完全な雨季に入ったため、壕は水びたしになる。火種は衣服を裂いて紐《ひも》にしたものを用いて絶えぬようにした。栄養失調がひどく、仲間の顔が識別できぬほど、容貌《ようぼう》も変わってしまう。その上、数限りもない虱《しらみ》が、身体《からだ》中を匍《は》い廻って悩ませる。この虱退治も、並大抵の苦労ではなかった。
虱をとっていると、遠く南方で、弓兵団が撃っているらしい砲声がきこえてくる。
松田中隊長は、部下たちにいう。
「弓も善戦している。あきらめるな。われわれは山上にいるが、本多大隊は道路上でがんばっているではないか。この陣地が陥ちれば全戦線が崩壊する。最後までがんばろう」
夜になると、敵の、謀略宣伝がはじまる。
「壕の中の兵隊さん、壕の上に出て、ゆっくり休んで聞いてください。みなさんは食べものに困っています。上官なんかほっといて、みなさんの持っているタオルを振っておいでください。ここにはおいしいチョコレートもパンもあります。私は石川隊の捕虜になった兵隊です。いまはよい待遇をされていますから、心配しないで来てください」
宣伝文句には動かされないが、宣伝の前後の、山間にひびく「急げ幌馬車《ほろばしや》」や「佐渡おけさ」のメロディは、さすがに耳をくすぐってやまない。
松田中尉が粟沢山の陣地で、四九五〇高地を眺《なが》めながら、林中隊の全滅に等しい状況を思いみた――というのは――林中隊が、四九五〇高地を守備した時のことである。
第三大隊(福島大隊)のカングラトンビ戦以後、聯隊は、カングラトンビ東方高地一帯を占領確保することを意図し、その中心となる四九五〇高地の拠点確保を、林第十二中隊長に命じている。
この当時、第三大隊では、粟沢山を第九中隊、中央部のモルボン付近を第十中隊(宮沢中隊)、最左翼の五五二一高地を第十一中隊(中隊長代理小山少尉)が占領し、本部は第十中隊の後方鞍部《あんぶ》に位置し、第三機関銃中隊(中隊長代理宮下中尉)は本部の前面から粟沢山にわたる間に陣地占領をした。林中隊は、聯隊本部直轄《ちよつかつ》となり、粟沢山南方三キロの四九五〇高地の守備についている。
第三大隊は、福島大隊長の時、カングラトンビ戦で多大の痛手を受け、大隊長重傷、中隊長をほとんど失っている。しかし、新任の斎能大隊長は、中支以来の戦さ上手であり、大隊の将兵ともなじみが深く、当然、その人柄《ひとがら》に信頼感があって、隊内の気風は充実していた。
四九五〇高地の守備についた林中隊は、四月二十五日から敵の猛攻にさらされた。この高地は各陣地から孤立している。中隊は善戦敢闘をつづけたが、敵の銃砲撃はすさまじく、守兵わずか二十名になった。
二十七日に、林中隊長は中隊の玉砕を覚悟し、戦死者十二名の遺体、並びに重傷者の後退を聯隊に要請したが、「死守せよ」という回答しか得られなかった。
林中尉は、いったんは玉砕を覚悟したが、この陣地は到底明日一杯はもたない、とすれば今夜撤退しても、明日全滅するよりも、少くも効果がある、せめて、いま動ける者だけでも、将来に備えて助けてやりたい、独断撤退することで、自分がどのような処罰を受けようと甘受しよう、と決意し、動ける者が一団となって、暗夜の斜面をころがり下りて撤退している。
これは、まことにやむを得ぬ仕儀であり、大隊本部付の浅井中尉、副官の高畑中尉は、林中尉の労をねぎらったが、林中尉は翌日の夜、新たに五五二一高地の守備を命ぜられた時、浅井中尉と高畑中尉に、
「お世話になった。おれは行ってしまうが、あとをよろしく頼む」
と、いい残して、残兵を率いて、五五二一高地へ向かっている。
林中尉が、撤退事情を聯隊本部へ報告に行った時、松村部隊長の傍らに、師団から派遣された成瀬参謀がいた。林中尉に「死守せよ」と厳命したのは成瀬参謀である。そのため、部隊長はやや当惑した表情で撤退時の報告をきいたが、なにもいわなかった。林中尉が帰りかけると、成瀬参謀があとを追って呼びとめ、林中尉の頬《ほお》を、鉄拳《てつけん》で数度打ち、よろめいては耐えている林中尉を、きびしく叱責した。
林中尉は、この時、死を決意したはずである。この時の様子は、竹ノ谷中尉も、身近にみていて心を痛めている。
浅井中尉らも、林中尉の態度で、その心情を察してはいたが、どうしてやることもできなかった。
五五二一高地の守備についた林中尉は、敵の波状攻撃にさらされる間、善戦して、隊員たちとともに、よくその攻撃に耐えたが、五月六日に戦死している。前軍医は林中尉を検屍《けんし》して「脊柱《せきちゆう》部穿透《かんとう》性骨折盲管砲弾破片創」と死因を記したが、部下の者にきくと、林中尉は、いかなる弾雨の中でも、敢然、自らの小銃と手榴弾をもって応戦し、壕内に身を潜めることはしなかった、という。
浅井中尉は、自殺としかいいようのない、林中尉の死に方を耳にした時、純粋に責任感を完遂した林中尉の死に涙するとともに、戦場における、高級指揮官と下級青年将校との間に介在する、宿命――というにはあまりに深刻な問題を、考えずにはいられなかった。
林中尉は、敵を恐れて撤退したのではないことを、自らの死をもって、いいひらいたことになる。ただでさえ兵力の乏しい事情下に、あたら惜しい仲間を死なせてしまった、と、浅井中尉は高畑中尉と話し合ったものである。
五月十八日の夕刻、エクバン東側高地の敵陣地からは、迫撃砲の攻撃がはじまりだした。そこから、わずか一・五キロしか離れていない松村部隊本部も、迫撃砲の攻撃で、突出陣地にいた暗号班長の田中中尉は戦死し、部下の死傷もつづいている。
翌十九日には、内堀大隊のみならず、内堀大隊の西方、カングラトンビより二キロ北方のコヒマ=インパール道東側に布陣していた本多大隊も、迫撃砲による砲撃のほか、空中よりは六機の爆撃機による爆撃を受けはじめている。ことに内堀大隊は、腹背よりのすさまじい攻撃を受けるため、まったく行動の自由を失うことになった。敵中に孤立してしまっている。
本多大隊は、爆撃のほかに、戦車と、戦車に膚接して侵入してくる約百名の歩兵を相手に戦わねばならなかった。戦車に対しても、手榴弾のほかには、対戦車火器はなにもない。手榴弾では、戦車と戦おうにも、戦う前に、歩兵の狙撃によって倒されてしまう。
「防衛線を退《さ》げよう。このままでは、内堀大隊も本多大隊も全滅してしまうだろう」
松村部隊長は、側近の幹部を呼び、玉砕して任務を放棄すべきか、玉砕を避けて任務を継続すべきか――を、慎重に研究、検討し、その結果、防衛線を後退することにして、新配置による防衛線を指示している。これによって、インパール攻略戦は、攻めるのでなく、あきらかに防衛の形に変ってきた。やむをえぬ、なりゆきである。
この指示にもとづき、内堀大隊は、部隊本部が位置していた後方のモドブン高地線に、本多大隊は、これに連繋《れんけい》する本道上の大地隙の線に、それぞれ現陣地線を後退して、守備につくことになった。この後退にしても、夜陰に、隠密《おんみつ》に決行しなければならない。
三島小隊、伊藤中隊ともに、エクバン東側高地奪取に失敗したころ、戦況の不振に苛立《いらだ》った軍司令部(林集団=第十五軍・牟田口廉也《むたぐちれんや》中将)は、祭兵団の師団長山内正文中将を解任している。山内中将は病中であったが、新師団長が着任するまでは、その任務を継続することになる。
山内師団長解任とともに、祭兵団と対向して、インパール南方より、インパール攻略に専念しつつあった弓兵団(第三十三師団)の師団長柳田元三中将もまた、その戦況の不振を咎《とが》められて、解任の命を受けている(後任は田中信男少将だったが、申送りの際に柳田師団長は「戦況は刻々に不利にして師団の全滅は時間の問題」と述べている。戦死傷、戦病あわせて七千を数えたので、これは真率な実感である)。
「責任はすべて第一線にある、ということだ。司令部は、ただ、無謀な攻撃命令だけをくり返し、弾薬や糧秣《りようまつ》の補給にも眼をつぶっている。最後には、素手をもって、インパールへ突入してゆけということか。兵団長閣下のマラリアは重く、生命もあぶないときかされているのに、なんということか」
竹ノ谷中尉から、山内師団長解任の命令をきかされた時、松村部隊長はそういったが、それを悲痛な呻《うめ》きのように、竹ノ谷中尉は耳にしている。
情報班としては、他聯隊《れんたい》の戦況も、ほぼわかっていた。インパール東北方約十五キロの地点、ナンシム付近の三八三三高地を攻撃占領していた尾本部隊(歩兵第五十一聯隊)は、占領はしたものの、敵戦車群の襲来によって多大の損害を受け、同高地を撤退して、その後方のイリル河谷左岸高地線に撤退し、専《もつぱ》ら、守勢に転ずるよりほかない状況下にあった。
師団長の更迭《こうてつ》は、こうした、戦況の膠着《こうちやく》、というより、敗勢を、一方的に咎められたためである。
後方の軍司令部と前線の兵団との、ことに幕僚間は、感情のもつれが次第に表面化していて、遂には、兵団長としては屈辱この上ない、残酷な解任命令を受けることになったのである。前線の幕僚部は、戦況不振の実情もかなり理解はしているので、全滅を避けての後退も諒承《りようしよう》し、軍司令部への、事情報告も怠ってはいない。しかし、五月中旬から下旬にかけての戦況は、もはや、兵団長の更迭を以《もつ》てしても、好転できるものではなかった。
松村部隊長にしても、無念の思いを、側近の幹部たちに洩《も》らすよりほか、方途はなかったのである。
内堀大隊、本多大隊が、モドブン高地線へ後退したことは、しばらくの間、敵に気づかれなかった。隠密行動の効果である。
敵は、二十二日の午後、旧陣地を攻撃してみて、はじめて日本軍の陣地線の後退を知ったが、急速な追尾をしてくる気配はなかった。敵はもともと、自軍の損傷をつとめて少くするために、慎重に攻めてくる。
それと、ようやく、雨季の気配が濃くなってきていた。
一日のうちに、数時間、豪雨が来る。そのあとの二、三時間は好天になり、むし暑くなる。豪雨の見舞う天候が三、四日つづくと、あとは両三日、快晴の日がつづく。降雨の時は、敵からの砲爆撃も絶える。
ただ、新陣地線の構築を急いでいる部隊は、豪雨のごとに、雨水が壕内《ごうない》に溜《た》まるので、それを汲《く》み出すのに骨を折る。汚水を飯盒《はんごう》で汲み出す。雨に濡《ぬ》れた衣服は、乾くまもなくまた濡れ、不衛生のために下痢やマラリア患者が続出する。糧食も満足にないため、戦火による死傷が、病気による損耗にかわってゆく。
松村部隊が、センマイ高地攻撃を狙《ねら》いとして進出してきたころは、月に二、三度は弾薬、糧秣の補給があった。弾薬は、たとえば山砲弾を、馬一頭が十二発を積み、せいぜい二十頭ほどで隊伍を組んでくる。しかも、重畳たる山岳地帯を越えてくるのである。輸送隊の苦労もたいへんなものだが、数十発の山砲弾の補給を受けても、その数は、敵から一回の攻撃に見舞われる弾丸数よりも、はるかに少い。真に、雀《すずめ》の涙ほどの、貴重な弾薬、ということになる。
糧秣については、主食は現地で賄《まかな》え、といわれているから、たまに、塩や粉味噌《みそ》の配給が、わずかばかりあるだけである。
ただ、こうした補給も、後方へ、敵の勢力が浸透してくるに従って、次第に、間遠になってきている。
各部隊では、糧秣収集班を組織して、各陣地よりはるかに離れた、行程二日三日とかかる遠方まで出向いて、村落にある米を集めてくることになった。手近なところにある村落には、収集できる主食はなかった。
野菜類も、採集しつくしているので、野草をもって間に合わせることになる。ワラビは案外に味がよかったし、雨後になると、キノコが採れた。竹ノ子もあったが、これは日本内地のものと違って、アクが強く、それに調味料もないので、わずかに飢えを満たすだけのものでしかなかった。兵隊たちは、三人寄れば、昔食べた故国の食物の話をしながら、自身を慰め、まずしい前線の食べものを食したのである。
内堀大隊の第八中隊は、モドブン高地の陣地を守備していた。この中隊の駒井小隊へ、第二機関銃中隊の一分隊、相馬伍長《ごちよう》ら六名が配属されていた。
敵の砲撃が一段落した、五月下旬のある日、
「機関銃、糧秣受領に一名出せえ」
という声が、中隊指揮班からきこえた。
高地の一角に機関銃を据《す》えていた分隊員らは、顔を見合わせて、
「めずらしいな、たしか糧秣受領と聞こえたな」
と、それぞれが自身の耳を疑いながらも、吉田一等兵に、糧秣受領を頼んだ。吉田一等兵は、天幕を携行して、高地の中ほどの、指揮班の位置へ行く。かれらが耳を疑ったのは、糧秣受領など、絶えて久しくなかったからである。敵中に包囲されているような状況下にいつ、どこから糧秣が補給されてきたのか、ふしぎである。
「いったいなにをくれるのかな。米を少しばかりかな」
と、仲間同士いいあっているうちに、やがて、吉田一等兵が帰ってきた。天幕は行く時と同じに手に提げているが、物を包んできた様子はない。
「吉田、糧秣受領に行って参りました」
吉田一等兵は報告はしたが、何も持参していない。分隊長の相馬伍長が、
「糧秣は何だったのだ?」
ときくと、吉田一等兵は笑って、ポケットから粉薬の包みのようなものをとり出して、分隊長に渡した。
一同が、その粉薬の包みをひらく、分隊長の手もとをみつめる。あけてみると、包みの中には、小豆粒ぐらいの白い粉が入っている。
「全滅に備えての毒薬かな」
相馬分隊長が、吉田一等兵にいうと、
「塩であります。たったそれだけが、六名分です」と、吉田一等兵はいう。
いかに塩が貴重であるか――が、その時、分隊員一同の胸を満たした。忘れるほど長く、塩を口にしていない。問題は、この小豆粒ほどの塩を、六名でどう分けるかである。
いろいろな意見が出た。
「小指に唾《つば》をつけて少しずつなめてはどうか」
「小指の大きさと唾の工合で、先になめた者が得《とく》をするではないか」
「木の枝で妻楊枝《つまようじ》をつくって、それに唾をつけてなめればよい」
「いや、それよりも、包み紙の上で塩を六等分して各自がなめればよい」
「それでは配分が公平にいかない」
話がなかなかまとまらず、一人が、
「早くせんとお祭太鼓がはじまるぞ」
という。お祭太鼓は、敵からの砲撃のことである。そのうち一人が、
「塩湯をつくって分けよう。そうすれば量がふえるし、分けやすい」
といい出し、話がまとまっている。
それで塩湯をつくることになったが、一人が塩湯係、それに監視が一人つき、ようやく飯盒の掛盒一杯の塩湯が出来、それを均等に分け合った。
だれもが、それぞれの飲み方で飲む。しばらくみつめてから少しずつ飲む者、半分一気に飲みあとはたしなむ者、はじめからなめるように飲む者。しかし、だれもが、ひと口ごとに、なんともいえぬ満足気な表情をする。そうして飲み終えるにつれて、だれもが「元気が出てきた」「膝《ひざ》がしらがしゃんとしてきた」などと口に出している。塩の味など、まるであるはずもない塩湯の中に、一同はみな、この上ない美味と、それによる生きがいを覚えていたことになる。
山の麓《ふもと》には、人の背丈ほどもある茗荷《みようが》に花が咲いていて、その花を食べることもできた。水べりで芹《せり》が採集できれば、これもなによりの食物であった。こうした状況下では、一匙《ひとさじ》ほどの塩でも、得がたい滋養だったのである。
新陣地線に向けて、敵の積極的な攻撃がはじまり出したのは、五月三十日からである。内堀大隊の正面には、戦車三台が近接し、しきりに砲弾を浴びせている。
六月に入ると、戦車の攻撃が眼《め》にみえて激しくなった。内堀大隊、本多大隊ともに、数台の戦車を相手にすることになった。本多大隊は、地隙を利用して陣地を築いているので、本道以外は深いジャングルに蔽《おお》われている。それで敵戦車は、攀登《はんとう》路をつくりながら、前進をつづけてくる。本多大隊は、大隊砲一門を有するに過ぎないので、火砲をもって戦車と戦うことはできない。
内堀大隊の最前線を守備していた井沢小隊は、突入してくる敵戦車群と戦い、井沢少尉《しようい》以下守備隊十数名は玉砕した。戦車群は、内堀大隊主陣地に向けて進んで来る。
東条砲兵中隊も、唯一《ゆいいつ》の山砲を以て戦車を急射し、一台を破壊すると、急遽《きゆうきよ》、陣地を移動しなければならなかった。それをやらぬと、逆に集中射を浴びるからである。
松村部隊本部は、モドブン高地の稜線《りようせん》上、北方三キロの地点に移動して、全般の指揮に任じていたが、情報班に入る情報は、刻々に危機感をたかめてゆくばかりである。報告書を届ける竹ノ谷中尉は、部隊長にさしむかうごとに、胸の痛むのを禁じ得なかった。
「斎能大隊への敵の攻撃も熾烈《しれつ》ですが、守兵は頑強《がんきよう》に抵抗をつづけている、と、最前線の松田中尉より報告が来ております」
竹ノ谷中尉は、松田山(粟沢山)の健闘の模様を、部隊長に話す。部隊長には届かないこまかな事情を、竹ノ谷中尉は耳にしているからである。
六月五日、六日、ともに豪雨がつづいた。
雨になると、敵の攻撃はやむ。この間隙《かんげき》を利用して、各陣地は整備に専念する。
五日の夕刻、たまたま雨がやんでいたが、その時、松村部隊長のところへ、後方からの思いがけない慰問品が届いた。林集団(軍司令部)の兵站《へいたん》監高田清秀少将からの贈り物である。当時、昭南でつくられていた日本製の煙草《たばこ》「興亜」と、日本酒の一升瓶《びん》二本であった。高田少将より松村部隊長宛《あて》の私信も添えられている。高田少将は、松村部隊長と旧知の親しい間柄《あいだがら》である。南方へ転進の時も、サイゴンで同じ宿舎に泊まっている。高田少将は、輜重兵《しちようへい》界の権威である。高田少将は、苦闘をつづける松村部隊を激励慰撫《いぶ》するために、使者に命じ、小型自動車によって、コヒマ=インパール道を南下させ、部隊本部をさぐりあてて、届けさせてくれたのである。
「なんという、ありがたい贈り物だろう。みんなで頒《わ》けよう」
松村部隊長は、竹ノ谷中尉に命じて、タバコは全将兵に均等に分配させ、酒は、量が少ないので、水筒に入れて、各大隊長に届けさせるように命じた。たとえひと口ずつでも、のどを潤《うるお》してほしかったのである。タバコは一人三本くらいずつは配布できた。兵員の数がいちじるしく減少しているため、三本宛わけられるというのは、嬉《うれ》しくも、また悲しい隊内事情というべきであった。
いま一つ、松村部隊にとって嬉しかったのは、第三中隊長代理広瀬少尉が、部下六十四名を率いて、部隊に復帰してきたことである。
第三中隊は、作戦当初に、吉岡大隊(第一大隊)の所属を離れて、兵団の予備隊として司令部と行動を共にし、サンジャックの西南方カソム付近にいて、出没する敵と交戦をくり返していた。この交戦間に中隊長岩田中尉戦死、中隊長代理八田少尉戦死、ほか死傷続出して、いったん中隊は全滅したが、残存者に加えて、傷病者の復帰、綏靖《すいぜい》隊よりの転属等で、曲りなりに、中隊らしい陣容を整えたのである。
兵団司令部は、尋常でない松村部隊の戦況を察して、中隊長代理藤井中尉の指揮する新編第三中隊を、松村部隊に復帰させたことになる。
兵力の損耗を重ねるしかない現況であってみれば、ともかく一個中隊四十五名の復帰は、何にもまして部隊長を喜ばせている。
「ありがたいことだ。よう来てくれた。悲境にありながらも、みな最善をつくしている。ともに戦ってほしい」
部隊長は、広瀬少尉に、親しく声をかけ、幕舎内で、悪戦に喘《あえ》いだ岩田中隊の実情をきき、六日新たに着任した藤井中尉に中隊長を命じた。また、センマイ高地攻略の挫折《ざせつ》、それ以後の部隊の戦況についても、率直に語っている。
「どこで戦っても、どこもかもが前線、という事態になるだろう」
と、部隊長は、悲壮な感慨をこめて、いう。
七日に、天候が回復すると、敵の攻撃はさらに激しく、敵機六機が爆撃をくり返し、本多大隊正面へは、攀登路の開設の進行に伴って、数輛の戦車が進んでくる。一門の大隊砲と一銃の重機しかない本多大隊は、応戦のしようもなく、兵員の肉薄攻撃をくり返しながら出血を重ね、それは、夕刻、戦車群が行動をやめるまでつづいた。戦車群は、夜になっても、撤退はしない。本多大隊の戦力をみくびっているので、夜明けとともに、陣地を蹂躪《じゆうりん》しつくす意図をもっている。
本多大隊長は、やむなく、その夜のうちに、後方五百メートルの小地隙の線へ、陣地を移した。
この日、本多大隊の苦戦の間に、駄馬《だば》を有する百数十名の敵は、地隙を利用しながら、本多大隊右翼、西北方二キロのサイツに進入している。これを放置すれば、コヒマ=インパール道の一部は、敵手に陥《お》ちてしまうのである。
松村部隊長は、新しく着任した藤井中隊長に命じて、これを本多大隊の右側背の掩護《えんご》のために、サタルマイナ方面に派遣している。本多大隊が崩壊すれば、コヒマ=インパール道も、敵手に陥ちる。
本多大隊は、本道の西方を守り、その西北方のサイツに敵は侵入している。藤井中隊は、本多大隊の後方、本道上のサタルマイナから、サイツに進出している敵と、交戦をくり返すことになった。
内堀大隊には、東条中隊の山砲一門だけが残っていた。虎《とら》の子《こ》の一門である。飛行機による爆撃、戦車砲の砲撃、さらに、こちらを侮《あなど》って近接してくる歩兵と戦いながら、山砲は、有効に、戦車を擱坐《かくざ》させねばならなかったが、戦車は、傾斜地を攀登してくるので、死角が多く、なかなか照準をきめがたい。絶対に一発必中で倒し、しかも、秘匿《ひとく》陣地を敵の砲兵陣にさとられてはならない。こうした、むつかしい条件下で、それでも、東条中隊長は、一門の山砲をもって、きわめて的確に、敵の戦車を一発必中に擱坐させ、内堀大隊の懸命の防衛に協力している。
しかし、八日には、敵機十機が内堀大隊上空に飛来し、爆撃をくり返し、あわせて戦車もまた五台が、第一線陣地前に来ている。山砲をはじめ、内堀大隊の一門の大隊砲も、戦車を狙っては擱坐させたが、当然、戦車群の集中砲火を浴びることになって、東条中隊の山砲は、山砲と、山砲隊員もろともに、大半は死傷している。作戦発起以来、善戦の限りをつくしてきた東条中隊の命運も、ここに尽きている。
内堀大隊は、東条中隊長の戦死、中隊の全滅に等しい状況とともに、火砲による抗戦力をまったく失い、そのため敵戦車の、第一線陣地への侵入を許さざるを得なくなった。
第一線陣地の第六中隊第三小隊長香川少尉以下二十数名は、ほとんど死傷している。辛《かろ》うじて第二線陣地を支えながらに、日没にいたっている。日没だけを頼りの、きびしい防衛戦である。
この日、敵兵五、六十名は、本多、内堀両大隊の陣地の中間に潜入してきて、松村部隊本部の前方わずか二百メートルの凹地に進出し、これを占拠、内堀大隊と部隊本部との連絡を遮断《しやだん》している。傍若無人としかいいようのない態度である。松村部隊長は、本部要員及び軍旗小隊をもって、この敵の撃退を策したが、交戦中に日没になっている。戦場は、彼我入りみだれる錯雑の様相を深めはじめた。
本多大隊西方サイツ方面より侵入した敵は、サタルマイナに接近して、一集落を占拠し、本多大隊の背後を脅《おび》やかしている。ただ、本道へは出られない。藤井中隊が対峙《たいじ》しているからである。しかし、戦車が増援してくれば、形勢はたちまち敵に有利になってくるであろう。
かりに、このままの態勢を持続しようとすれば、一両日中に、全守備陣地は崩壊して、兵員は玉砕し、当然、コヒマ=インパール道も敵手に陥ちる。本道をあくまでも守備するための、残された方法があるとすれば、現陣地死守の軍命を放棄して、後方に適宜の抵抗線を求めるしかない。そしてそれは「いかなる事態に立ち至るも、インパール=コヒマ道を開放せざるを要す」という、軍より与えられた任務を、忠実に守ることになる。つまり、軍の意図を、どう解釈して、敵との対応に処するか、である。判断のむつかしいところである。
決断を迫られた松村部隊長は、各大隊の連絡将校を集めて、つぎの要旨の命令を下している。
一、部隊は明九日及び十日の夜闇《よやみ》を利用して現陣地を撤退し、サタルマイナ北方地区よりタンガ高地にわたる要線を占領して、依然現任務を続行せんとす。
二、斎能大隊は明九日まず患者及び火砲、弾薬等を後送、爾余《じよ》の大隊は明後十日夜現陣地を撤し、五四一七高地及びタンガ高地を占領して敵の反撃を阻止すべし。
三、本多、内堀両大隊は十日夜現陣地を撤退し、本多大隊はサタルマイナ北方道路を含みその東方高地線に、内堀大隊は本多大隊に連繋《れんけい》し道路(含まず)以西地区に、それぞれ陣地を占領して敵の反攻を阻止すべし。但《ただ》し患者は明九日夜後送すべし。
右の命令では、内堀大隊と本多大隊との守備地が入れかわっている。これは、内堀大隊は、センマイ高地の夜襲を重ねて来て以来、兵員の損耗あまりに多く、戦力も低下していて、敵の主攻の予想せられる本道両側地区の守備を任せるには、どうにも負担過重の虞《おそ》れがあったからである(因《ちな》みにセンマイ高地夜襲戦及び三八一三高地付近で、内堀大隊は戦死者だけで百八十八名を出している)。
本多大隊は、対戦車戦にもっとも馴《な》れているし、しばしば偉功を樹《た》てている。このたびは、内堀大隊と守備地を変更するのが、戦闘指導上有利と、松村部隊長は考えたのである。
部隊の新陣地は、現陣地から、約五キロ後退することになる。この後退も、巧妙隠密《おんみつ》に行わねばならない。敵にさとられれば、後方へ先廻りされるし、また、撤退とともに追尾されて、思わぬ痛手を負うことになる。
九日も、夜が明けると、敵の攻撃がはじまっている。サタルマイナで守備しつつ、コヒマ=インパール道を侵さんとする敵と、藤井中隊は、懸命に交戦している。その敵の守備する集落には、二機の輸送機が飛来して、物資を投下しはじめている。藤井中隊は、その光景を眼前にみせつけられることになる。敵がいかに日本軍の戦力を侮っているかは、その物資投下の様子をみてもわかる。ほとんど相手を意識しないかにみえる。
その日の夕刻、兵団から、次の要旨の電報が届いた。
“松村部隊は、状況真にやむを得ざるに至れば、適時敵と離脱し、後方要線を確保して、依然現任務を続行すべし”
右の命令は、撤退をはじめる直前に、届いている。
松村部隊長としては、現陣地を死守すべきか、一時撤退して策を練るべきかについては、深い考慮を重ねている。撤退に決断はしたものの心残りもある。兵団からの叱責《しつせき》や処分を覚悟しての、後方への撤退であったのだが、そうした折、まことに好機というべき時に、兵団の命令を受領したのである。
九日の夜からの撤退、十日は朝から豪雨が降りしきり、敵の攻撃がないので、陣地の移動には便宜だった。といっても、各大隊とも、敵の重囲に陥《おちい》っている状態である。ことに本多大隊は、交戦しながら移動してきている。敵はすでに本道上に進出してきていたので、本多大隊は、交戦のあと、東方へ大きく迂回《うかい》しつつ、後退している。
松村部隊が、六月九日に陣地変換をするに先立って、斎能大隊本部の百瀬准尉《じゆんい》は、松田山(旧粟沢山)より五キロ北方の五四一七高地の確保を、部隊長より命ぜられ、機関銃、大隊砲、行李《こうり》から選出した十五名の混成小隊を指揮して、九日の薄暮に、高地へ向けて出発した。
出発に際し、部隊長は、
「成功を祈る」
と、短いが、熱のこもる激励の言葉を贈り、日本酒と玄米少々を支給してくれている。
「必ずご期待に添います」
百瀬准尉は、その言葉を残して、勇躍出発、カモシカの出没する山中を徹宵《てつしよう》踏破して、午前三時に、目的地に到着した。
天明を待つため、大休止をしていると、隊員たちが、
「小隊長殿、携帯糧秣《りようまつ》の玄米を食べさせてください。死ぬと食べられませんから、先に、食べときたいのです」
と、いう。半ばは冗談だが、どこかに懸命なひびきがある。
「よし、心残りのないよう、みな食べてしまえ」
百瀬准尉は、携帯させている玄米を、全部食べさせてしまっている。
夜が明け、五四一七高地を偵察《ていさつ》すると、手前の南方稜線《りようせん》に約百名の敵が陣地を構築中で、後方に迫撃砲の陣地がある。稜線上に駄馬が多くみえるのは、物資を運搬中なのであろう。正午ごろまで様子をみていると、東方の稜線にも約八十の、駄馬を有する敵がみえはじめた。こうなると、この高地は、三方に敵が存在することになる。
百瀬准尉は、暮れるのを待って、もっとも強力な、高地南方の敵を攻撃しようと決心した。陣地には五名を残留させ、小銃手十名を連れて、午後八時に出発した。
南方稜線上の、敵の前線陣地の鉄条網は一条なので、容易に破れた。第二線陣地には、鉄条網は二条の上、鹿砦《ろくさい》も組んである。第一線、第二線とも、数名の監視兵がいたが、これをみな倒して第三線陣地に近接、この時、迫撃砲弾が身の廻りに落ちはじめたが、屈せず、突入して、白兵戦の末、陣地を占領した。敵は、かなりの人数による夜襲と思ったのか、四散してしまっている。
かくして、百瀬隊は、兵員一名を負傷させただけで奏功した。逆に敵は、十七名の遺棄死体と、軽機、拳銃《けんじゆう》等を遺棄している。
敗勢にある松村部隊にとっては、これはみごとな奇襲効果というべきであった。この戦果によって、第三大隊主力は、無事に五四一七高地に布陣し得たのである。
松村部隊が、敵の攻勢を支えかねて転進せざるを得ないのは、一対二十、あるいは零対無限大の兵力差の故《ゆえ》である。しかし、敗勢に陥りながらも、こうした百瀬小隊の、壮快な戦果は、いたく友軍の士気を鼓舞している。
六月十一日には、夕刻までに、各大隊とも、新陣地の配備を終えている。
この日、第三大隊長福島少佐の後任に、古北《こきた》大尉が着任してきた。大隊長代理をつとめていた斎能大尉は聯隊《れんたい》本部に復帰し、ここに新たに第三大隊は、古北部隊として任務についたのである。
斎能大尉が、松村部隊副官として本部に復帰した、といっても、本部には、部隊長のほか、幹部は、藪中大尉と竹ノ谷中尉がいただけである。
松村部隊長が、後退して新陣地を選んだのは、一つには、地形がきわめて有利だったからである。戦車の行動を制扼《せいやく》し得る、狭隘《きようあい》な山地に布陣している。ことに西方はジャングル地帯である。かりにこちらが対戦車火砲を有していたとすれば、充分な戦闘と、その効果をはかることが可能であった。ただ、自隊には、わずかな大隊砲と、重機のほか、これという火器もない。
十二日には、左翼のタンガ高地が敵襲を受け、撃退はしたが、第十中隊の第三小隊長芦川少尉は、腹部貫通で戦死、ほかに数名の死傷を出している。
十三日以降、敵は、コヒマ=インパール道を中心とする攻撃のため、陣地を整備し、ことに砲兵陣地を整備して、十五日の午前から、松村部隊の新陣地へ向けて、猛烈な砲撃を集中しはじめている。砲撃に加うるに飛行機による爆撃、さらに戦車と戦車に随伴する歩兵の攻撃と、一挙に、松村部隊の新陣地を蹂躪《じゆうりん》せんとする勢いで、攻めたててくる。
内堀大隊正面の、ジャングル地帯を通過して、陣地の間隙に約八十名の敵が侵入してきている。これは、あまりに日本軍を侮り過ぎた行為だった。内堀大隊は、この敵の侵入を知ると、ジャングルを利用して敵を奇襲する計画を樹て、傷病者は陣地守備、動ける兵隊は敵を撃つべく、機を失せず反撃に転じている。油断し切っていた敵は、交戦の遑《いとま》もなく、実に五十余の遺棄死体を放置して遁走《とんそう》している。内堀大隊としては、久しぶりに、溜飲《りゆういん》のさがる戦果であった。これは特例にしても、本多、古北各大隊ともに、それぞれに、敗色にめげぬ戦果をあげている。
十六日になると、敵の攻撃は、さらに激しくなる。道路上には戦車数輛《すうりよう》が襲来し、戦車の援護下に、トラックで鉄板を運搬してきて、破壊された橋梁《きようりよう》の修理をしはじめている。大隊砲と重機で、その工事を妨害すると、戦車の集中砲撃が来て、大隊砲も重機も沈黙を余儀なくされる。内堀大隊正面では、敵歩兵が、ジャングルを縫って侵入し、内堀大隊の将兵は、陣前で、これらの歩兵と交戦して撃退している。戦況の錯雑は、後退した陣地でも、かわりなく深まってゆく。
部隊本部は、ハインポーク高地に位置して、藤井中隊を予備隊として把握《はあく》していたが、サタルマイナ後方(北方)のケーテルマンビに敵が進出してきたので、松村部隊長は、藤井中隊を、この敵を撃退させるために派遣している。
六月以降の激戦つづきで、各大隊は、弾薬もほとんど尽きてしまった。補給は、五月中に、わずかばかりあっただけである。部隊を追及してくる復帰者や、退院患者が、少々の弾薬を携行してくるのを、あてにしている実状となっている。糧秣となると、いっそうきびしい欠乏状態にあり、はるか遠くの山地に分け入って、主食をみつけてこなければならなかった。糧秣さがしは、北方の烈兵団経理部からも出ているので、徴発区域の縄張《なわば》り争いまで生じるほどになっていた。糧秣の取得に対しては、友軍とも相争わねばならぬほどの事情にさらされている。
――こうした、すべてが深刻化してゆきつつあった六月十六日の夕刻に、なんらの予告もなく、烈兵団からの連絡将校が来訪して、思いもよらぬコヒマ方面の、きびしい戦況と、烈の独断撤退を知らされたのであった。
(――烈兵団が撤退すれば、祭はとり残されて崩壊し、あえて戦えば全滅するしかない)
宮崎支隊長に、真偽をただしにゆく竹ノ谷中尉の脳裏を去来するのは、この思いだけである。本部情報班として、甚《はなはだ》しい敗勢にある部隊の事情はよくわかっている。松村部隊が崩壊してゆけば、その累《るい》は、当然、他の聯隊にも及ぶであろう。
一刻も早く宮崎支隊長の許《もと》へ、と思ったのに、自動車は途中で故障をして、動かなくなった。やむを得ず、一行は歩く。コヒマ=インパール道の深夜の道は、ほかには人影はない。
明け方に、道路脇《わき》に歩哨《ほしよう》が二名立っていたので、きくと、宮崎支隊から出されている歩哨で、本部は、山間の道をのぼりつめたところにある、という。
「山道を、二、三里は歩きます」
と、歩哨はいう。
ここらは、起伏の多い山容の、稜線上に、けもの道といいたい細径《ほそみち》しかない。公道を外れると、山間の様相はきびしくなる。
教えられた道を、実に三時間余りもたどりつめて、ようやくに、木立の蔭《かげ》にある、宮崎支隊の本部をさぐりあてた。途中途中に、兵隊の影があるので、方向はわかった。公道の登り口からの標高にすれば、五百メートルくらいを、のぼりつめてきたのである。
本部、とはいっても、支隊長を中心に、数名の幹部がいるのみである。本部要員の兵隊たちが、あたりにいくらか散らばっている。そうした気配をみても、死傷の多さが、支隊を痩《や》せさせているのがわかる。みんな極限の状態にある。
マラム――といっても、集落らしい集落があるわけではない。集落はすべて山上にあるのだが、竹ノ谷中尉が見廻《みまわ》しても、人家のようなものはみえない。部隊は、コヒマから撤退しながら、マラムの線まで退《さ》がってきたのである。本隊は、公道を守りながら、敵と交戦している。どこまで敵を支えられるか、ということである。
木の下で、竹ノ谷中尉は、宮崎支隊長に、松村部隊から連絡にきたことを告げる。宮崎支隊長は、肩に小猿《こざる》を乗せていた。ずっと、小猿を愛玩《あいがん》しながらの戦旅を、つづけているのである。
自動車が故障し、歩いてきた、というと、
「ご苦労であった。いま、飯を炊《た》かしておるから、食ってゆくがよい」
と、いたわってくれる。
そのあと、竹ノ谷中尉は、支隊長から直接戦況をきかされたが、それは、西田中尉の報告と、さしてかわらなかった。ただ、宮崎支隊長自身の言葉には、おのずから、きびしい実感がこもる。
「現在地を二十日までは支えよう。カロンで二日、従って、ミッションへは、二十二日か三日に着くことになろう。ミッションで松村部隊と合流することになろう」
宮崎支隊長の言葉をききながら、宮崎支隊がミッションに到着するには、今日を入れて少なくも五日ある、と、竹ノ谷中尉は計算した。
宮崎支隊長と対していても、コヒマ寄りの公道方面からは、激しい銃砲声がきこえてくる。どこも悪戦をつづけているであろう様子が、ひりひりと読みとれる。
竹ノ谷中尉一行は、本部で、昼食をよばれると、支隊長に礼をいって、帰途につく。
「松村部隊長に、よろしく伝えてくれ」
と、単に形式ではない、重い心情のこもった支隊長の言葉に、竹ノ谷中尉は、ふと、こみあげるものを覚えた。指揮官である部隊長同士のつらさを思いやったのである。
公道近くまで下って、日暮れを待つ。
日中は、公道上を歩けない。敵の偵察機がつねに飛来していて、銃撃を加えられる。
「よく休んでおけよ。歩き出したら猛烈な強行軍になる」
竹ノ谷中尉は、一行にそういったが、薄暮になって出発すると、気がはやるので、飛ぶように歩く。
部隊本部までは、四十キロの行程がある。
夜っぴて、不眠不休で歩きつづけ、翌十八日の昼に、ハインポークの松村部隊本部に帰着した。非常な急行軍のため、護衛兵はとっくに落伍《らくご》し、山田曹長《そうちよう》だけが、辛《かろ》うじてついてきていた。
竹ノ谷中尉は、宮崎支隊長から、食事をよばれながらも戦況をきいたが、それをまとめて、松村部隊長には、つぎのような報告をしている。
一、宮崎支隊は、マラム高地線で、敵機械化部隊と交戦している。
一、現況から察し、ミッション付近撤退まで、なお三、四日は敵を阻止し得るであろう。
一、敵の圧迫を受け、遂にコヒマ=インパール道を開放するのやむなきに至れば、ひとまずマヤンカン(ミッション東方十キロ)に兵力を集結し、後図を策する予定なり。
松村部隊長は、竹ノ谷中尉の報告をきき、自らは、十八日夕刻、兵団から届いた電報、
“松村部隊は状況やむを得ざるに至れば、ミッション付近に後退し、依然現任務を続行すべし。宮崎支隊と密に連絡すべし”
を伝え、
「これは、兵団に、三、四日は現地点で敵を支えられよう、と、打電した、それへの返事である。弾薬、糧秣の尽きていることは、兵団もわかっておる。ミッションが最後の抵抗線になる。問題は、ミッションの野戦病院の患者を、山上の安全な地点へ、つとめて早く移さねばならぬことだろう。わが部隊も、宮崎支隊も、ミッションを守り切れぬかもしれぬ」
そこで、と、松村部隊長は、言葉を改め、
「竹ノ谷中尉は、明日、ミッションへ赴き、カラパール付近に本部位置を設定するための、先遣隊となってほしい。井上高級軍医が同行する」
と、命じた。カラパールはミッションの少し手前(南)にある。
敵の攻勢は、十九日から二十日にかけて、一段ときびしさを増し、二十日の夜、松村部隊長は、各大隊長に、抵抗線をミッション付近に置くことを連絡した。内堀、本多、古北各大隊ともに、公道の東側五七九七高地線に兵力を移動させることになった。ミッションに開設している第一野戦病院は、施設と患者を速やかに東側の五七九七高地に移し、爾後《じご》、サンジャック方面に転進の準備をするよう、命じた。
翌、二十一日午前中に、各大隊は、所命の如《ごと》く、陣地を移動し終えたが、ところが、正午を過ぎるか過ぎぬかに、内堀大隊の第一線は、突如、北方コヒマ方面より進撃してきた敵機動部隊から、砲撃を受けはじめた。
内堀大隊は、まだ、新陣地に着いたばかりで、塹壕《ざんごう》さえ掘っていない。敵機動部隊は、砲撃の模様から察すると、二、三キロに迫ってきている。つまり、宮崎支隊の抵抗線を突破して、ミッションへ進撃しつつあるのだ。
宮崎支隊の戦力ならば、悪くても、二十三、四日くらいまでは、敵を支えてくれるだろう、という見通しが、松村部隊長にも、部隊幹部にもあった。直接、宮崎支隊長に会った竹ノ谷中尉にしてみれば、いっそうである。小猿を肩に乗せて飄々《ひようひよう》としながらも、宮崎支隊長には、全軍中に名のある部隊長らしい信頼感の持てる人、という思いがあった。しかし、敵の進撃がこれほども早いとすれば、宮崎支隊はすでに、コヒマ=インパール道の防衛を放棄して、東方山地への撤退を開始しているのであろう。松村部隊としては、宮崎支隊が防衛線を放棄するなら、せめて連絡くらいは欲しかったのだ。
松村部隊もまた、抵抗線をすてて、コヒマ=インパール道の遮断《しやだん》を断念して、撤退すべきか。撤退するにしても、すでに敵は眼前に来ている。内堀大隊は、北方へ向けての抗戦の態勢をとりはじめ、ミッションの野戦病院は、患者の救出に狂奔しなければならなかった。患者の救出は、まだ、その半ばも終えてはいない。ほとんどは重傷者であり、山上への搬出には、限られた衛生班では、よほどの手数がかかる。
「部隊長殿。野病が撤退を終わらぬうちに、敵は北方の陣地線を突破してくると思います」
内堀大隊からの連絡兵が、カラパールの部隊本部へ、悲痛な連絡を伝えてきている。
翌二十二日の正午には、松村部隊陣地の北方十キロの、高地稜線上のマヤンカンへは、既に敵が侵入したという情報が入った。そこは宮崎支隊の集結予定地である。松村部隊長は、松田中尉に命じて、第九中隊を、この敵に備えるために派遣している。
この日の午後には、コヒマ方面から、戦車数十輛を先頭に、貨車百輛以上が、堂々として進撃してきた。七五ミリ野砲級の威力をもつ戦車砲の集中砲撃を浴びては、松村部隊のあるかなきかの火砲では、応戦のしようもなかった。内堀大隊は、最後の重機まで破壊されている。敵機動部隊は、無人の境を行く如く進撃をつづけてくる。ミッションで、いかにして、この敵を防衛できるのか。松村部隊は、コヒマ=インパール道防衛のための、もっともきびしい状況下に、立たされることになった。
敵が、コヒマ=インパール道を突破して、ミッションを奪還する前後の模様についての、いくつかのできごとを、具体的に記しておかなければならない。
ミッション集落の木立の中には、第一野戦病院の患者収容所があり、また聯隊《れんたい》本部経理室があり、少々南に離れて、竹ノ谷中尉らが設営中の、聯隊本部があった。ミッション集落の東側を、コヒマ=インパール街道、その東側をインパール河が流れ、そこから東は五七九七高地へ向かう傾斜の深い山道になる。
経理室は、約三トンの白米を集積していた。
六月二十一日の昼過ぎ、栃平主計曹長は、中西主計中尉《ちゆうい》から、
「敵が本道を突破してきている。とうてい支えきれまいから、明日はミッションへ攻め込んでくるだろう。急いで、可能の限り、米の搬出処置をしてほしい。おれはいま、本部へ連絡に行ってきたところだ」
中西主計中尉は、業務整理があるらしく、あわただしく自室へ去っている。
栃平主計曹長は、敵が来襲して来るとすれば、経理室としては、折角苦労して集めた米を、むざむざと失いたくはない。それで、市原軍曹、浦川伍長、小森上等兵、佐々木上等兵ら七名で、米の搬出にかかったが、小人数では捗《はかど》らない。それで、病院の傷病兵で、動ける者十五名ほどを頼んで手伝ってもらうことにしたが、病人では、背負袋や略帽(戦闘帽)に米を入れて、細々と運ぶくらいのことしかできない。栃平主計曹長は、東側山腹を百メートルほど登った地点で、ここならまず安全ではないか、と思い、そこへ、夜の更《ふ》けるまでに一トン余りを運び上げた。山腹は急坂なので、思うに任せず、これだけ搬出するのが精一杯であった。夜は米を守ってその場所でみな仮眠した。
二十二日が明けた。夜明けとともに、敵戦車は、ミッション北方の曲り角に進出してきて、野戦病院の患者収容所のあたりを、三十分にわたって砲撃している。そこが野戦病院と知って、あえて砲撃しているのである。
戦車隊の砲弾は、野戦病院のみでなく、栃平主計曹長らの頭上を越えて、山頂のあたりへも落ちつづける。戦車は、刻々に数を増し、数を増すにつれて、松村部隊の集結している五七九七高地への砲撃がさかんになる。友軍陣地もまた応戦する。戦車砲は口径七五ミリで、野砲級の威力がある。ミッションから五七九七高地までは、わずか一、二キロの距離しかない。五七九七高地に布陣する日本軍を、殲滅《せんめつ》する意図を持つもののように、すさまじい集中砲撃をつづけてやまない。
松村部隊も、第一線の大隊砲、重機関銃ほか、あらゆる兵器をもって、最後の応戦に懸命の力を傾けた。敵歩兵は、砲撃の援護のもとに、五七九七高地への、山腹を攻めのぼってくる。山上陣地では、これを何度か、死力を賭して撃退している。
松村部隊は、すでに北方十キロのマヤンカン高地の占領されていることを知っている。マヤンカンは、宮崎支隊がコヒマ撤退後に、集結する予定地である。そのことは竹ノ谷中尉がきいている。しかし、戦況は、一挙に悪化を重ねてゆきつつある。
この二十二日の戦闘で、松村部隊は、残余の火砲を破壊され、かつ、弾薬をつかい果たし、多大の出血を強《し》いられた。残る手段は、山中で遭遇する敵と交戦しつつ、やむなき撤退の道をたどることしかなかった。
敵の攻撃は、日中一ぱいつづき、日没時にいったんやんだが、さらに八時ごろからまたはじまった。山上を猛射して、松村部隊の息の根をとめてしまおうとする気勢がうけとれる。コヒマ=インパール道を打通させた勢いに乗っている、その気魄《きはく》が、すべての砲弾にこめられているかに思えた。
この日六月二十二日の夜、もはや秩序ある抗戦力を失った事情下にある松村部隊に、兵団司令部から、
“松村部隊は、爾今、敵との接触を避け、適時ミッション付近の陣地を撤して、宮崎支隊と連絡し、その指揮下に入るべし”
という無電命令がきた。
刀折れ矢尽きた感の、部隊への、兵団としての指示である。これによって、撤退してゆくことは可能になったのである。
思えば、三月二十八日、本多挺進隊《ていしんたい》がミッション橋を爆破して、コヒマ=インパール道を遮断した時から、八十六日目になっている。
この日の、日中の、猛砲撃のはじまった時だったが、栃平主計曹長の位置へ、本部の安東中尉が山腹を下ってきて、
「あとで、軍旗小隊が米をとりにくる。それまで確保していてほしい」
と、それだけを伝達すると、また、山道をのぼって、もどって行った。
栃平主計曹長らは、砲撃戦の盲点のようなところで、日中ずっと待機した。ただ、いくら待っても、軍旗小隊は来ず、すでに敵戦車群は、ミッションに向けて続々と進んできて、ミッション集落内に入り込んでいる。ミッションは完全に占領されてしまっている。
栃平主計曹長が眼下をみると、本道上にクレーン車がやってきていて、前日、患者を撤退させるために架けられたインパール河の仮木橋に、運んできた鉄板を載せて、たちまちに形のよい橋を完成させてしまっている。
川を越えた東の山側には、そこまで運ばれてきたままの担架が、三十ばかり、木蔭に乱雑に置かれている。担架の上の病者のほかには、人影はない。担送者は、担架を運び切れず、山へ逃げたのであろう。あの担架の患者たちはどうなるのだろう、と、栃平主計曹長は心配したが、方途はない。野戦病院の患者で、捕虜となって、運ばれて行った者も多いだろう。それも痛ましいことだが、救う方途はない。
栃平主計曹長のところからは、眼下の光景はよくみえる。放置された担架には、重傷者が寝かされている。かれらはどうなるのだろう、と思ってみまもっていると、グルカ兵が数名、道の上で、タバコを喫《の》みながら雑談していたが、そのうち二、三人が、担架の列の上に、容器で水を掛けはじめた。どこもかも灼《や》きつく暑熱である。おそらく、病者のために、水を掛けてくれているのだ、と、曹長がほっとした思いでいると、つぎの瞬間、担架が火を発して燃えはじめ、みるまに黒煙があがって、あたりが焔《ほのお》の波となった。かれらが担架にかけたのは、川の水ではなくて、トラックに積んであったガソリンだったのだ。患者らは、うめき、叫び、もがき苦しんだであろうが、声は、曹長の位置までは届いてこない。まさに地獄の様相である。
「なんというむごいことをする。お前ら、人間か」
栃平主計曹長は、思わず叫んでいる。
重傷の患者は、かりに自決しようと思っても身体《からだ》はきかない。それに、野戦病院に、手榴弾《てりゆうだん》や拳銃《けんじゆう》のあるわけもない。かれらは無抵抗のまま、非情な焔の中に焼かれてしまったことになる。栃平主計曹長らは、正視するに忍びない無残な光景を目撃したことになる。
栃平主計曹長は、いくら待っても軍旗小隊が来ないので、市原軍曹に、
「本隊の様子をみてきてくれ。それによって脱出しよう」
と、命じた。
脱出――といったのは、本道上に敵があふれていれば、山上にも敵が侵入してきているはずである。人ごとではない。こちらも殲滅される目に遭うのだ。それに本隊も、撤退をはじめているかもしれない。
まもなく、市原軍曹がもどってきた。
「山の上には、いたるところに、敵がいるようです。本隊の様子はわかりません。われわれも、速やかに撤退すべきです」
市原軍曹は、緊張した表情で、早く撤退しよう、という。こうなっては、軍旗小隊を待つ必要はない。栃平主計曹長は、全員に、余分な装具はすて、できるだけ米を持つように、と指示し、山腹をのぼることにする。
すでに、夕闇が迫りはじめている。空も暗澹《あんたん》と雲にとざされている。よくない予感ばかりが胸に兆《きざ》す。山腹の道をたどると、あちこちに、患者の倒れているのが眼《め》についた。病院をぬけ出て、自力で山をのぼりはじめたものの、疲れ果てて、倒れたのである。かれらは、みな、木の枝を杖《つえ》にしている。その杖を持つ気力もなく、栃平主計曹長たちを、ただ、うつろな眼でみつめ、見送る。それを、どうしてやる方法もない。
山腹の途中で、本道をふり返ると、本道上には、ぎっしりと、敵のジープやトラックが詰めかけてきている。数えきれぬほどである。栃平主計曹長らは、無念の思いに耐えて、暮れ尽きる山腹の道をたどった。
ミッションの野戦病院に対する、敵の不当な砲撃について、いま少し記しておきたい。
栃平主計曹長が、グルカ兵たちが、患者を焼殺する光景を目撃した時、栃平主計曹長よりさらに山をのぼった地点で、同じく、経理室の中西主計中尉もまた、野戦病院が砲撃にさらされる光景をみている。ただ、焼殺の場面は、木蔭に邪魔されていて、焔と黒煙をみるにとどまった。いずれにしろ、撤退の遅れた不運な患者たちが、犠牲になったのである。
六月二十一日の昼過ぎに、公道西側の経理室にいた中西主計中尉は、経理室へ駈《か》け込んできた兵隊から、本道北方の曲り角に戦車が来ていて、発砲された、と報告を受けた。
(まさか。北方はまだ烈が支えているはずだ)
中西主計中尉は、耳を疑ったが、兵隊のいう曲り角は、北方四キロの地点である。偵察《ていさつ》に出ていて、戦車に遭遇したのだ、という。
烈は、二十三日までは、カロン辺で敵を支え、爾後、漸次《ぜんじ》抵抗線を退《さ》げて、ミッションへ来るときいている。しかし、もし敵戦車が先に来てしまったとすると、烈はどこへ行ってしまったのか。経理室は、部隊本部からは何の連絡も受けていない。戦線が錯雑しているためとも考えられるが、これほど戦車が接近しているとまでは、部隊本部も知らないのではないか。
中西主計中尉は、兵隊の報告をきくと、そのまま、後方の部隊本部設営位置へ駈けつけ、竹ノ谷中尉に、報告した。
「糧秣《りようまつ》の搬出を急がせてください。患者の救出が、思うよう捗らぬらしくて、これが心配です。われわれも集結地点へ移動します」
竹ノ谷中尉は、烈の独断撤退の確認に行っただけに、感慨は一入《ひとしお》であったろう。
「愚痴をいうわけではありませんが、烈はもう少しがんばれなかったのですか。あるいは、もう少し早く撤退の事情を知らせてくれてもよかったのではないですか。これでは、自分だけ撤退して、あとは知らぬ、というに等しいではありませんか。もはや、われわれには、この事態を救済する、なんの方法も残されていないでしょう」
中西主計中尉は、竹ノ谷中尉に、
(泣きごとでしかないのだろうが)
と思いつつも、それだけをきいてもらい、あとは、経理室に引き返すと、栃平主計曹長に命じて、米を、早急に、できるだけ多く、東側山地に運ばせることにしたのだ。
この日、野戦病院には、内堀大隊の坂井軍医ほかの軍医たちが、道路の東側に患者を運ばせていたが、患者は多く、担送手は少ない。
「歩ける者は歩いて、東側へ移れ」
軍医らは、悲痛な命令を出したが、歩ける患者なら、みな、前線に復帰するか撤退している。歩けないから野戦病院にいるのである。
中西主計中尉は、業務整理を終えて、夕方に経理室を出発した。書類のほかに、背負袋に三十キロの米をつめて背負ったが、ここ連日の身体の不調も手伝って、背負袋につめた三十キロの米 の重みは、山道にかかるにつれて、急速に身にこたえてきた。山腹を、喘《あえ》ぎ喘ぎのぼったが、夜になると、疲れが重なって動けなくなり、山道をかなりのぼったあたりで、そのまま眠り込んでしまっている。伝令二名が付添っていたが、ともに眠り込んだ。
二十二日の早朝、中西主計中尉は、敵機の爆音で目を覚ました。みると、敵機が数機、ミッション上空に来て盲爆している。搬出しきれぬ患者が、まだ野戦病院にいるはずである。爆撃のほかに、戦車からの砲撃もはじまる。ミッションを容赦なくたたいて、攻め込んでくるつもりであろう。
「むごいことをする。英軍らしい非道なやり方ではないか」
中西主計中尉は、胸のうちでつぶやき、糧秣はともかく、患者をすべて山上へ搬出させ得なかったことを、この上なく無念に思った。時間の余裕も人手もないままに、なんの抵抗力もない患者だけが、犠牲にさせられる。
中西主計中尉は、山腹をのぼりつめ、本部の位置へたどりつくまで、この眼でみた、野戦病院砲撃のさまが、その身にまつわりついていて離れなかった。
中西主計中尉が、本部の位置へたどりついた時、部隊は陣地整備を急いでいた。戦車砲の攻撃を受けはじめている。応戦しなければ撤退できない。無条件に撤退せよ、という命令は出ていない。現任務を続行せよ、という命令に従わなければならない。
中西主計中尉が、背負袋を下ろして、松村部隊長に、ミッション撤退の前後の模様を話して、前線陣地へもどってくると、途中で、内堀大隊の安部中尉に出会った。
安部中尉は、中西主計中尉に近づいてくると、
「中西、経理室に米が集積されてあったそうだが、どれくらいあったのか」
と、きく。
「二、三トンはありました」と答える。
「そうか。それならいまからとりにゆけ。経理室が、それだけ米を集積しながら、なぜ配給しなかったのか。怠慢だろう。われわれは毎日、草を食べて戦ってきたのだ」
安部中尉は、けわしい眼をして、みつめてくる。
安部中尉が、きびしく詰問する口調になったのには、それなりの理由がある。
二十日の夜半に、ミッション東側高地へ移動せよ、という聯隊命令を受けた時、内堀大隊は、ジャングル内に展開していたので、隊伍《たいご》をまとめるのに骨が折れた。それに、本道を挟《はさ》んで西方の丘に有力な敵がいて、つねに、日本軍の退路を襲う態勢をとっている。
山間の間道を迂回してゆけば一応安全だが、時間がかかりすぎる。むしろ、運を天に任せて、敵陣の真下を通り、本道を一気に北上してゆくに如《し》くはない。
安部中尉の進言に、大隊長も同意し、隊伍をまとめて出発したが、その時は、すでに夜明けに近かった。大隊は、本道上を堂々と通ったが、敵の意表を衝《つ》いた行動であったので、敵にはまったく気付かれなかった。
夜が明けてから、ミッションに着き、五七九七高地への急坂をたどっている。
大隊は、急行して、五七九七高地に到着したが、その時には、敵の戦車は早くも、ミッションに向けて迫りつつあったのだ。
大隊は、高地へ着くなり、南下してくる敵戦車と交戦することになった。ミッション奪回を企図する偵察戦車のあとには、強力な戦車隊が犇《ひし》めいて、攻め寄せてくるはずである。
翌二十二日には、夜明けとともに、ミッションにおける攻防戦がはじまっている。戦況は時が経《た》つにつれて、激しさを増してくるはずである。防衛の前線に立つ内堀大隊の陣地視察の途中、安部中尉は中西主計中尉をみかけて、耳にしていた噂《うわさ》を、口に出したのだ。きびしい口調になったのは(われわれは草を食って悪戦苦闘していたのに)という思いからである。
中西主計中尉には、安部中尉の憤《いきどお》りはよくわかった。ただ、米を運ぶ方法も、人手もなかったのである。経理室は、遠い地方へ、糧秣集めに歩き廻らねばならなかった。これも汗と泥にまみれての苦しい仕事である。
中西主計中尉は、いう。
「運んで来い、とおっしゃれば運びます。その前に、敵を追っ払ってくれませんか」
かなしい、売り言葉に、買い言葉である。こちらは、いつ終わるともしれぬ作戦に備えねばならなかったのだ。
経理室では、遠藤高級主計が、竹ノ谷中尉が宮崎支隊長と面接して帰隊してくる前日に、去来川《いきがわ》主計少尉、松尾軍曹《ぐんそう》ら三十名とともに、イラン谷地(西方)の奥へ、糧秣収集に出向いている。戦況が一変したため、一行が帰隊できるのかどうか、あぶなくなっている。これまでも、遠藤高級主計を長とする収集班の必死な努力で、聯隊はどれほど助かっているかしれない。それをわかってもらいたい。経理室には経理室なりの苦労と、作戦への配慮があったのだが、前線部隊には前線部隊としての主張があるのだった。
どちらも、力の限りを尽くしてきたことに、かわりはないのだが。
野戦病院そのものの事情は、つぎの如《ごと》くであった。
ミッションに野戦病院が開設してあったとしても、薬品や繃帯《ほうたい》材料などは、ほとんど底をついていた。あまりにも負傷者が多く、かつ、補給もなかったからである。
井上高級軍医が、聯隊《れんたい》本部から命じられて、患者を後方に退《さ》げるため、伝令二名を連れて、野戦病院に向かったのは、六月二十日の朝である。
雨は降りしきり、道も川も一切水びたしになっていた。方向さえわからない。夕方になって、ようやく野戦病院をさぐりあててみると、独歩患者隊は前日に出発していて、重傷患者が百四、五十名残されていた。工兵隊が数名、本道上を警戒している。
様子をきいてみると、北方からの砲声が近づきつつある、ということだった。この日は、薬物はないながらも、診察をしてまわるうちに暮れてしまった。
翌二十一日、井上高級軍医は、松村部隊本部がミッション東側五七九七高地に移動をはじめている、という情報を入手したので、工兵隊に命じて、氾濫《はんらん》しているインパール河に、渡河のための架橋作業をさせている。対岸へ渡らねば、東側山地へ赴けない。できる限り重傷患者を助けたい。
工兵隊は、岩と岩の間に、板を渡し、急造の橋をつくり、患者が川へ落ちぬように、竹と綱で手すりを張る。この橋を、救護班の兵隊と工兵隊員とで、重傷患者を、支えたり、背負ったりして、渡すのである。これは非常に時間のかかる作業だった。日暮れまでに、さして捗《はかど》らなかった。井上高級軍医は、徹夜で渡河作業をつづけることを、全患者に通達している。
夜間の作業は、さらに捗らなかったが、そのうちに二十二日の夜が明ける。夜明けとともに、事情は急速に悪化した。北方からの砲声が近づいてくる。しかも、敵機の爆撃がはじまっている。この時には、井上高級軍医は、患者たちを山上へ向けて急がせ、自身も急坂をのぼっていた。戦車砲の砲撃もはじまり、患者らの脱出は、統一も秩序もない、悲惨な光景を露出することになった。むろん、運び出された担架も放置されている。
井上高級軍医が、山腹をかなりのぼりつめて、眼下を振り向いてみると、その時、北方から一番先に、サイドカーで走ってきた先発隊の隊長らしいのが、南方から進んできた戦車から下り立った将校と、道路上で、固い握手をかわしている。そのさまが、手の形までありありとみえた。これは、敵にとっては、コヒマ=インパール道打通の感激の一瞬であり、日本軍にとっては、いいがたい痛恨の一瞬だったのである。
しかし、その無念の思いも、束《つか》の間《ま》のことである。続々と進撃南下してきた戦車群は、ミッション集落内へ侵入、また、道路に砲列を敷いて、五七九七高地に布陣している日本軍に向けて、一斉《いつせい》に砲撃をはじめている。山上への道を、逃げ惑うている患者たちも、弾雨下にさらされてしまう。
井上高級軍医は、灌木《かんぼく》の間を縫って、山上をめざしたが、その山上の一角から、敵歩兵が狙《ねら》い撃ってくる。山上へも、敵の一部が廻っているのである。やむなく、木立の中に身をひそめて、夜を待つことになった。
井上高級軍医は、翌二十三日の朝に、ようやく山をのぼって、撤退する部隊の最後尾の、第六中隊にめぐり会った。もはや、患者も救護班もバラバラになっている。北方のマヤンカンの方向で、殷々《いんいん》と、砲声が空をふるわせていた。山腹に置き去りになった多くの患者の安否を気遣いつつ、井上高級軍医は、隊伍のあとについて進むよりほかはなかった。
師団衛生隊は、第五挺進《ていしん》救護隊が、松村部隊と行動を共にして、前線各地の戦闘での患者搬送に奔命し、第六挺進救護隊は、弓兵団山本支隊に配属された吉岡大隊とともに行動している。しかし、本隊そのものが寡少《かしよう》の兵力で作戦に従事したと同様、衛生隊もまた、少ない兵力をもって、救護に献身してきている。
ミッションが敵手に陥《お》ちた時も、第一野戦病院には、衛生隊の一部が、患者救護に当たっていた。
担架中隊の島田上等兵らは、六月二十二日の朝まで、ミッション野戦病院の患者搬送のため、夜を徹しての作業をつづけてきていた。衛生隊は飢餓に耐えながら、反覆担送をくり返していたので、心身ともに疲れ果てていた。それでもさし迫った状況下に、任務に精励していたが、夜が明けるとまもなく、敵機が飛来して銃爆撃を開始、さらに戦車群が、機銃を乱射しながら突進してきた。
もはや、担送など、とうていできない。
「患者を隠し、担送兵は早く山へ登れ」
と、だれかがどなっている。
島田上等兵らは、川を渡った山ぎわの樹林間に、十いくつかの担架を隠して、山の中腹まで懸命に逃げた。
この時には、戦車は、ミッションに侵入していて、担架をみつけると、本道上に運んで並べている。担架に寝かされている患者のうち、将校をみつけると、それをトラックの上に運ぶ。捕虜として調べるのだろう。残りの担架は?――と思ってみていると、グルカ兵たちが、担架にガソリンをかけて、一人がしゃがんで点火する。一瞬道路に火焔《かえん》が走り、うわァァ、という悲鳴があがった。
焼殺である。島田上等兵らは、山の中腹で、
「やめろ、やめろ」
と、思わず叫びつづけている。
英印軍は、その時は、山上へ向かう患者群に向けて、戦車が遠慮なしに機銃弾を浴びせはじめていた。戦車砲もまた、山上陣地に向けて、砲撃を開始している。
この時、栃平主計曹長よりも、ずっと間近な位置で、島田上等兵らは、焼殺の現場を目撃したのである。
衛生隊は、兵器は持っていないので、この惨劇を、悲痛にみまもるしかなかった。
島田上等兵らは、ミッションをあきらめ、山上陣地に到り、山上陣地の患者の担送任務に従うことになったのである。
六月十九日に、野戦病院の独歩患者が、撤退のために出発したが、その隊伍の中に、第三大隊(当時の福島大隊)の沢井少尉《しようい》がまじっていた。カングラトンビの戦いで、福島大隊長を除くと、ひとりだけ奇蹟《きせき》的に生き残った石川隊(第十一中隊)の沢井少尉は、野戦病院で、重傷の身を療養していたのである。
この沢井少尉と、同じ幕舎に、隣り合わせで、本多大隊の松浦少尉も入院していた。両者は、つれづれに、互いの身の上を語り合ったりしている。松浦少尉は、センマイ高地夜襲戦で、戦闘間に重傷を負うている。
ただ、両者にとっての立場の違いは、独歩患者隊が東側高地に向けて撤退する時、沢井少尉は、杖《つえ》を突き、独歩患者として、曲りなりに歩行できるほどにはなっていた。しかし、松浦少尉は、独歩患者の隊伍に加わるには、傷が重く、回復も遅れていた。
沢井少尉は、切ない思いで、松浦少尉に別れを告げたが、松浦少尉は、
「自分は大丈夫です。いよいよとなれば、地面を匍《は》ってでも、渡河点まではゆきます。がんばって追及します。あなたこそ元気に行動してください」
といって、励ましている。
互いに、善戦し、辛うじて生きのびている身であるだけに、別辞を述べるにも、いいがたい感慨がこもった。
沢井少尉は、独歩患者隊の一員として先に出発し、松浦少尉は、そのあとで、五七九七高地までは、担送してもらっている。敵の戦車隊が、野戦病院を砲撃しはじめた時には、松浦少尉は、撤退の途についていた。むろん、担送者のいるはずはない。傍《かたわ》らで、助けてくれる者もいるはずはない。杖をたよりに、休み休みに、隊伍のあとを追うだけである。
「自分は、あなたが無事に渡河点に行き着けるよう、せめてそれだけを祈りながら歩きます」
と、いい残してくれた、沢井少尉の言葉だけが、松浦少尉を支えてくれている。
二十二日の、ミッションの攻防戦のつづいていた時、内堀大隊の名取隊(機関銃中隊)の田伏上等兵は、戦車砲弾の破片を大腿部《だいたいぶ》その他に受けて、まったく歩行の自由を失った。
田伏上等兵は、名取中隊長の当番兵として、中支以来、つねに中隊長の身辺にいて、いわば肉親以上の親しみが通い合っていた。センマイ高地戦以後も、ともに戦い、支え合ってきた間柄《あいだがら》である。
松村部隊は、二十三日の早朝に、五七九七高地を出発して、撤退の途についたが、名取中隊長としては、田伏上等兵を連れて行ってやりたかった。しかし、それを口には出せない。ほかにも負傷者がいるからである。すると、部下たちが気を遣って、急造の担架をつくり、田伏上等兵を乗せて、撤退の途についている。
ところが、しばらく歩くうちに、担架を担《かつ》いでいる兵隊たちが、栄養失調と飢餓のため、力がつづかず、ふらふらになっては倒れ込み、そのたびに担架は地に下ろされる。担架兵は何もいわないが、もはや担ぐ限界のきていることはわかっている。このままでは、共倒れになってゆくし、行先の交戦状況も考えねばならない。どうしようもない。
名取中隊長は、担架のほとりへ寄って行き、田伏上等兵をみつめて、
「田伏よ。わかるな。みんな倒れかけていてもう運べぬ。すまんが、自力で歩いてくれ」
それだけいって、あとはつづかない。
田伏上等兵がいった。
「担架に乗せられる時、自分は辞退しました。乗せられていても、辛《つら》くてどうしようもなかったのです。ご安心ください。田伏はこれくらいの傷では参りません。自力で必ず追及します」
田伏上等兵は、明るい表情で、かえって中隊長を慰めるように、いう。
名取中隊長にとっては、田伏上等兵を置き去りにするのは、身を切られるようなつらさだったが、田伏上等兵自身の力強い言葉は、身にしみてありがたかった。
この作戦に出発する時、機関銃隊は九二式機関銃六銃を携行していた。重機関銃は通常、駄馬《だば》二頭に兵器弾薬を積み、戦闘になれば、重機関銃は四人で分解搬送し、四人で弾薬を運搬する。重機関銃は銃身が二十八キロ、脚が二十七キロある。名取隊は、センマイ高地の夜襲戦で、銃も失い、兵員も死傷し、その後の戦闘によって、さらに犠牲を重ね、いまは二十名足らずの兵員で、わずかに一銃を擁しているのみである。名取隊は三個小隊の編成だが、いまは一個小隊の兵力さえもない。
名取中隊長としては、田伏上等兵を、何とかして連れて行ってやりたい。しかし、田伏上等兵を連れて行けば、この先重傷者の出た時、それも担送してやらねばならぬ。それを思うと、涙をのんで、ここで別れねばならなかった。
深い、重い、心残りのままに、せめてその手を握って励ましてやるだけで、名取中隊長は、田伏上等兵と別れている。
六月二十一日に、内堀大隊の佐竹曹長《そうちよう》は、当番兵の大谷上等兵とともに、ミッションまで退ってきた。本隊の出発に遅れて、追及してきたのである。
ミッションは、戦況の危機化と、野戦病院の患者の撤退のために、とり込んでいたが、経理室には米があった。佐竹曹長は、大谷上等兵とともに、靴下《くつした》に米をつめて携行した。
山上へ向けて出発したのは、夜になってからである。先を考え、米を炊《た》いたりしていたからである。山へは道のない山肌《やまはだ》をたどったが、傾斜がきびしく、
「まるで富士山を登っているようだな」
と、佐竹曹長は、大谷上等兵に語りかけたものだった。佐竹曹長は富士山麓《さんろく》の生まれである。身体《からだ》は慢性に疲れているから、ひと晩歩いて、七合目までしか登れなかった。患者たちにとっては、よくよくきびしい登り道であったろう。
夜が明けると、まもなく、飛行機の銃爆撃がはじまる。さらに、ミッションへ向けて、戦車の驀進《ばくしん》してくるのをみることになった。五七九七高地に向けての、戦車群の砲撃のはじまる山道を、登り切れない患者たちが右往左往する、そのさまをも、佐竹曹長は、山上陣地の一角から、痛ましくみまもった。
佐竹曹長は、第八中隊の所属だが、二対一の確率で、第九中隊に行ったかもしれなかった。佐竹曹長は豊橋の歩兵第十八聯隊から、祭の歩兵第六十聯隊へ移ってきている。昭和十八年に曹長に進級した時、新たに所属をきめることになり、話し合え、ということだったので、もう一人の曹長と相談して、ジャンケンできめることにした。勝った者が先にきめる。第八か第九か、何《いず》れかの中隊にきめるのである。このジャンケンで佐竹曹長は負け、第八中隊の所属となった。ところがこの作戦間、第九中隊は、センマイ高地の戦いで、大西小隊をはじめとして、全滅している。
いずれは死ぬ運命にしても、ともかくここまでは、第八中隊に所属したために、生きのびてきたのである。敵戦車砲との乱戦の中で、佐竹曹長は、そんなことを考えた。
五七九七高地では、
「烈の独断撤退のために、祭がこのような惨澹《さんたん》たる目に遭う」
というのが、その惨澹たる状況の中での、将兵たちの心情であったが、佐竹曹長は、烈兵団の身になってみて、
(烈の師団長は、人道的にみて、たいした決断力を持った人ではないか)
と思う気持が、胸のどこかにあった。
だれが悪い――というより、戦局の、当然のなりゆき――に、思えたのである。
(これは、のちにわかったことであるが、ミッション攻防戦及び、野戦病院への砲撃などで、日本軍の出した犠牲は、戦死、戦病死をあわせて、二百三十七名に達している)
二、ミッションよりウクルルへ
インパール作戦が、事実上頓坐《とんざ》し、惨敗《ざんぱい》の結果となっているのに、軍から第一線師団に、作戦中止の命令が届いたのは、七月十日である。
なぜ発令が遅れたかの経過について、防衛庁戦史室編『インパール作戦』には、つぎのような記述があるので参照したい。
六月二十五日 ビルマ方面軍司令官河邊中将コヒマ=インパール道打通を知り作戦を断念。
六月二十六日 十五軍より方面軍に中止意見具申。
六月二十九日 方面軍よりマニラの南方軍に重大転機を書類持参で報告のため飛行機で出発。
六月 三十 日 南方軍より大本営に意見具申。
七月 一 日 上奏。
方面軍参謀マニラ南方軍着。
南方軍より方面軍の作戦中止意見を大本営に報告。
大本営作戦中止認可。
七月 二 日 南方軍作戦中止をビルマ方面軍に下令。
七月 三 日 午前二時三十分右命令を河邊軍司令官受領。
七月 五 日 方面軍より十五軍へ中止下令。
七月 十 日 十五軍より各師団へ中止下令。
実際にコヒマ=インパール道が奪還されたのは六月二十二日だが、ともかく、六月二十五日から七月十日までには、十六日間を要している。この時点では、前線部隊は、分秒刻みで出血を強《し》いられるような悲境に立たされていたのである。そうした実状が、後方には、ほとんど伝わっていなかったろう。もっとも、前線は前線で、やむなき撤退を重ねざるを得なかったし、さきに独断撤退を実施した烈兵団主力は、七月上旬には、すでにタナン・ミンタ地区に集結している。前線を遠く脱出して、渡河点に近い位置にいたのである。
祭兵団では、七月三日に、新師団長柴田卯一中将が着任し、部隊の惨状は無視して「ただちにインパールに向かい攻撃再開」を主張して、師団幕僚に譲らず、翌日はウクルルに現われて、六月下旬コヒマ=インパール道上、ミッションの死闘からようやく脱出してきた松村部隊に対しても「もう一度インパールを攻撃するのだ」と叱咤《しつた》している。軍はこの日から十日も前に、作戦中止の手続きをとっているのに、である。いかにも乱脈な作戦指導ぶりである。祭のみならず、弓もまた同じ運命にさらされている。
公平な見方をすると、インパール作戦に従事したわが軍の実質戦力は、各方面とも四月下旬(ミッション崩壊の二ヶ月前)に、すでに攻撃能力が限界に達していたとされる。そうして六月二十二日のコヒマ=インパール道打通に伴う瞬間を以《もつ》て、部隊の戦力は急速に下降する。松村部隊は、二十二日の一日中、戦車砲の砲撃にさらされたため、二百をはるかに越える犠牲を出している。烈兵団の独断撤退の決着を、多大の出血によって処理し、満身創痍《そうい》の撤退行に移ったことになる。
任務第一主義を信条とする祭は、いかなる状況下においても、最後まで任務を遂行することを当然の義務として、戦い、やむなき撤退間においても、任務への責任を忘れたことはなかった。もっとも、戦力をつかい果たした状態では、責任を果たすにも、おのずからな限界があり、思わぬ悲劇にも見舞われつづけることになったが。
松村部隊は、進攻時の兵数二千四百名を数えたが、進攻、撤退間をあわせて、戦歿者《せんぼつしや》は千五百五十名に及んでいる。実に六十五パーセントが死歿したことになる。配属の本多大隊等でも、三百名を越える死歿者を出している。
これほどの犠牲を出していながらも、ミッション東側五七九七高地を出発以後、松村部隊は、軍旗を中心とする隊伍《たいご》を編んで、悲壮な撤退行をつづけている。むろん、任務第一主義の責任をも果たしつつ、である。
松村部隊の総兵力は、六月十九日までは、約八百を数え得た。これは後方機関を含めての人数である。しかし、二十二日の戦車砲の攻撃等によって、その三分の一ほどを失うことになった。ここでは、独歩できない負傷者は、まず、戦死者とみなさなければならない。
松村部隊の撤退時、五七九七高地には、担架が二百ほど搬送されて来ていたが、部隊は「必ず迎えに来る」という口約束だけを残して、出発している。
ミッションの第一野戦病院を、脱出し得た独歩患者は約二百いる。六月十九日に出発した患者隊である。脱出出来ず、公道上で焼殺されたり、自決したり、敵の砲撃によって絶命した者は、百五十名にも及ぶであろう。
その、痛ましい記録の刻まれているミッションを離れて、撤退の途についた松村部隊の、撤退間のできごとのいくつかを、みてゆきたい。
松村部隊が、五七九七高地を出発したのは、六月二十三日の夜が明けてからだが、打ちつづく豪雨のため、だれもがずぶ濡《ぬ》れである。隊伍は、東方山地を、ケリン、アイシャンに至り、アイシャンからは北へ、ヘニアンへ向かいたいのが、とりあえずの撤退の目標となっていた。アイシャンまでは十キロ、ヘニアンまでは十五キロ、ヘニアンから東方のウクルルまでは二十キロの行程だが、これは直線距離だから、山間を曲折登降するとなると、ずっと遠い、苦しい道のりとなる。
むろん、行路が、順調であるはずはなかった。
二十四日の朝には、隊伍の尖兵《せんぺい》となっている古北大隊(第三大隊)の第十一中隊が、敵と接触している。アイシャンにはすでに敵が入っていて、集落台地上の陣地から、尖兵中隊へ向けて、自動小銃で撃ってくる。第十一中隊は、カングラトンビで全滅した石川隊で、後任の小山少尉《しようい》が、中隊長代理をつとめていた。
松村部隊長は、小山少尉に、前面の敵を撃退せよ、と命じている。銃声で、少数の敵と判断できたからである。
攻撃前進には、伊藤伍長の分隊が先行することになった。伊藤分隊は、装具を山の中腹に置き、発進した。伊藤分隊が突撃に成功したら、山本伍長の分隊が、後続することになっていた。
指揮は、小山少尉がとる。
ところが、攻めはじめてみると、敵の火力が、予想外にすさまじかった。引き寄せておいて、一挙に撃つ戦法である。小山隊には、むろん、充分な火器も、弾薬もない。地形地物を利用して、敵陣地に肉薄してゆくのだが、猛烈な火力のため、兵員はつぎつぎに被弾し、遂に小山少尉、伊藤分隊長ともに負傷し、他にも死傷者が出る。
攻撃は、頓坐した。
部隊長は、戦闘中止を命じた。
薄暮になるのを待って、小山少尉を救出した。やっと、それだけができたのである。重傷の伊藤分隊長には、辻伍長が手榴弾《てりゆうだん》を渡した。むろん、他の重傷者にもである。動けぬ場合は、自決するよりほかはない。これは、撤退に移った時からの、おのずからのきまりである。手榴弾を渡す者も、受けとる者も、暗黙に、涙をもって別れを告げることになる。
アイシャンで、敵との無理な交戦を避けた松村部隊は、いったんケリン集落まで三キロほどを後退し、そこから山間の、ジャングルを伐開しながら、進むことになった。細いけもの道は、時にジャングルの中に埋もれてしまっている。断崖《だんがい》部は攀登《はんとう》し、急峻《きゆうしゆん》は上り下り、ひたすらにヘニアンをめざすことになる。
この、ケリンへ引き返す途中、小山少尉は、担架の上で、
「部下を多く死なせて申し訳ない」
と、泣いている。
近くにいた、大隊長の古北少佐(作戦間に進級)が寄ってきて、小山少尉の手をとって、慰めてやっている。
負傷した分隊長の伊藤伍長の親友であった山本伍長は、隊伍が引き返す時、後方で、手榴弾の炸裂音《さくれつおん》を、数発きいている。伊藤伍長をはじめとする重傷者が自決したのである。山本伍長は、同年兵の伊藤伍長が、つねに、いかに勇敢で、部下思いであるかを、よく知っている。分隊長は、分隊員よりも、先に負傷し、先に死ぬべきである、だから分隊長だ、という信念を、伊藤伍長は牢固《ろうこ》として持っている。なにをやらせても、有能な存在だった。山本伍長には、そのことへの思いがあったのだろう、つい、
「見習士官から少尉になりたての、こんなちょっぽい将校をかつぐより、下士官ひとりをかつぐほうが、ほんとうだ。伊藤がどれほど役に立ったか考えてみろ」
と、口に出した。亡《な》き戦友を思うての、泣き泣きの言葉である。
小山少尉の、担架の傍《かたわ》らにいた街《ちまた》軍医が、それをききとがめて、
「何をいう。そんなことをいうと、この軍刀で叩《たた》き斬《き》るぞ」
と、いった。
すると、山本伍長のうしろにいた辻伍長が、
「おう。斬れるものなら斬ってみい」
と、いい返した。辻伍長は、同輩の伊藤伍長に、自ら手榴弾を渡している。経験の深い下士官は、新任の中隊長代理の指揮の未熟を知っている。将校と下士官との、微妙な対立感情が、これらの言葉の裏側にはあったろう。
小山少尉の担架は、終始、山本分隊の九人が担手《たんしゆ》となった。
(これはのちのことになるが、小山少尉は担送の途中で死去、担手となった者たちも死に、山本伍長と辻伍長だけが生き残った)
アイシャンの敵は、松村部隊を追尾しては来なかったが、かわりに、進行地点に向けて、執拗《しつよう》に迫撃砲の集中射を浴びせてきた。砲撃のため、部隊本部の片口少尉が戦死している。
翌二十五日の夕刻、松村部隊はヘニアンに到着している。ここは、宮崎支隊が撤退してきて、必ず集結するに違いない、有利な地形を持っている。松村部隊長は、ヘニアンで、兵団の命令通り、宮崎支隊の指揮下に入るつもりであった。
しかし、ヘニアンに着いてみると、そこには一兵の影もなかった。住民も一人もいない。宮崎支隊は、ヘニアンを単なる通過点として、さらに東方に撤退して行ったか、それとも別なコースをたどったのか、わからない。松村部隊は、その日はヘニアンに宿営し、部隊長は兵団司令部に、事情を無線で報告している。
ヘニアンに宿営した、といっても、糧秣《りようまつ》はひどく欠乏している。日ごとに、籾《もみ》をさがしながらに、撤退をつづけねばならない。遠藤高級主計とともに、西方山地に出向いた糧秣収集班は、むろん行方不明のままである。本隊の撤退事情さえ知らぬのではないか。
「部隊長殿。インパールへ向けて、この山地をたどって来た時は、どこの集落にも住民がいて、頼めば籾を都合してくれましたね。いまは、住民はおろか、犬や鶏までいません。われわれにしても、このような姿で渡河点へ引き返してゆくことになろうとは、あの時は夢にも思いませんでした」
みすぼらしい一民家の土間で、部隊長とさしむかいながら、斎能副官は、しみじみとそういう。嘆いているわけではない。戦いの勝敗の運命についての述懐である。
「いつも、念頭を離れぬのは、患者の後送が思うに任せぬことであった。ことに重傷者は、搬送しようにも担架兵がおらなかった。力尽きて、行き倒れになる者もあとを絶つまい。それを思うと、なんとも胸が痛む」
松村部隊長は、あきらかに嘆く。嘆くしか方法はないのである。野病の患者は、雨季の天候の悪化に伴い、マラリア、アメーバ赤痢、栄養失調等のため、状況は悲惨の一途をたどっている。健康な兵隊を付添にして、患者の集団を渡河点へ出発させても、後送は思うに任せず、内堀大隊の坂井軍医少尉の指揮する患者隊は、行方不明になったまま、連絡がつかない。そうした事態が、部隊長の脳裏に去来するのであろう。
松村部隊が、進路上に、宮崎支隊の兵員数名を認めたのは、ヘニアンを出発して三日目である。様子をきくと、宮崎支隊は、マラム付近の陣地を敵機械化部隊に突破されてからは、まったく組織的抵抗力を失い、各部隊個々に小抵抗を為《な》しつつ後退、ウクルルを目標に転進中である、という。
「支隊長閣下は、司令部とともに、この先を東進中です。山道です」
と、兵隊はいう。
松村部隊長はそこで、竹ノ谷中尉を呼んで、護衛数名をつけて、宮崎支隊長への連絡に行かせている。
数日後、竹ノ谷中尉一行は、部隊へ復帰して、つぎのような情報を伝えている。
一、宮崎支隊は、マラム付近の戦闘後、まったく各隊との連絡を失し、未《いま》だに部隊の状況不明なり。やむを得ず途中逐次隊伍を掌握しつつ、とりあえずウクルルに向かい転進中なり。
二、松村部隊は、引続きウクルルに向かい転進すべし。
「宮崎閣下は、お元気な様子であったか」
部隊長がきくと、竹ノ谷中尉は、
「さすがに憔悴《しようすい》のいろはうかがえましたが、しっかりとしてはいられます」
と、答えている。
指揮系統が崩壊――といってしまってよいほどの打撃を、宮崎支隊もまた、蒙《こうむ》っている。
松村部隊は、爾後《じご》、図上には道もない稜線《りようせん》上を、谷間の流水部をたどり、断崖の登降をくり返しながら、ウクルルへ向けてその重い歩を進めている。あえて山間をたどるのは、敵の眼《め》を避けるためであり、また、途上で、糧食を補いたいからである。
ミッションからウクルルまでは、図上の直線距離でいえば、五十キロもない。
しかし、その間に、南北に流れる多くの山塊は、深い谷を挟《はさ》む。そのため部隊は、断崖の登降をくり返さねばならない。しかも、谷間の流れは、雨季の水をあつめて奔流となっている。
川を渡る時は、丸太を二本渡して渡れるようにしたが、みるまにふえる水は渡した丸太の上を越える。先に渡った者はともかく、あとに渡る者は、水かさが股までもくる。流されぬために、両岸の木から木へわたした藤蔓《ふじづる》につかまり、あやうげな中腰で渡ることになる。転落して川へ流されたらおしまいである。みているよりほかはない。人はともかく、馬は渡れず、もっとも深い谷の谷川を渡る時は、先頭の本多大隊は、最後に残った五頭の馬を、涙をのんで射殺した。
地図でみると、こうした谷越えは、ウクルルまでに十ヶ所を越える。谷間と山頂との比高差が千メートルほどあるものは、五ヶ所もある。比高差千メートルというのは、内地でいえば比叡山《ひえいざん》の最高部よりも高い。つまり、ミッションからウクルルへは、比叡山を五度以上越えてゆくほどの、辛労があることになる。それも、糧食尽き、患者を擁しての旅である。その上、行手に侵入している敵の眼を、警戒しつづけねばならない。
松村部隊は、本多大隊を前衛とし、古北大隊を最後尾として、軍旗を守りながら、草木の生い茂る断崖の道を、踏みわけながら進んでいる。
前軍医は、最後尾の古北大隊とともに歩いた。傷病のため落伍した者たちを、力づける役目を負うている。
部隊のたれもが、一の谷と呼んだ、ミッションを出て以来の、もっとも深い谷を越えた時、山ののぼり道をたどっていると、道脇《みちわき》に、坂井軍医が腰を下ろして休んでいた。坂井軍医は、部隊本部についていたが、疲れて、すわり込んでしまったのだろう。先をゆく中西主計中尉が、様子を問うている。
前軍医も、足をとめ、
「疲れましたか。われわれが最後尾です。あとにはだれも来ません」
と、声をかけると、坂井軍医は、
「道はわかってます。少し休んで、あとから追及します。先に行ってください」
と、思いのほか、平静な口ぶりでいった。
少し笑っている。痩《や》せ切って、飄々《ひようひよう》と歩いていたのだが、だれもかも疲労しつくしているので、大丈夫だ、といわれれば、信ずるよりほかはない。かりに、坂井軍医が歩行不能になったとしても、前軍医も、中西主計中尉も、坂井軍医を支えてゆく体力も、気力もない。
「この道は、あと三キロで、マヤンカンから東のヘニアンに通じる道に出ます。そこまで行けば歩くに楽です。しっかりついてきてください」
前軍医は、そういい、坂井軍医と別れて、中西主計中尉とともに歩き出したが、振り向いてみると、坂井軍医は、塑像《そぞう》のように動かない。
「あの人はあのまま死ぬだろうな」
と、前軍医はいった。
「自分もそう思います。ふっと、息の切れるようにして、死なれるでしょう。そう丈夫な人じゃない。ずいぶん無理をなさったし」
「無理は、中西中尉にしても同様でしょう」
と、前軍医はいう。
中西主計中尉は、四月のはじめごろから、糧秣収集のために、必死懸命な努力を重ねてきている。前軍医は、それをよく知っている。
部隊本部―遠藤中尉(ミッション西方地区)
第二大隊―中西中尉(カソム付近)
第三大隊―去来川少尉(本道西方地区)
右が、聯隊《れんたい》物資収集班の編成で、班長は二十名前後の兵員を擁して、山間に分け入って、主として籾を収集したのである。中西主計中尉の行動したカソムは、本道の東方地区である。
食糧を集めるには、山上にある村落の村長に交渉して、軍票を渡して、籾をわけてもらうことになる。軍票といっても、インパールが陥落したら支払うという約束で、いわば約束手形のようなものを、収集班長の責任で渡すのである。この一片の紙でも、結構、籾をゆずってくれるほど、原住民は素朴《そぼく》だった。
コヒマ=インパール道を境として、東方には主としてクキ族、西方にはインド系の原住民が住んでいたが、西方地区は米は少く、牛や乳脂を食し、ときに豚を飼育した。クキ族は米を主食とし、ニラなどの野菜を栽培している。中西収集班は、戦局がまったく安定するまでには、かなりの米を、ミッション西方に集積している。松村部隊が、悪戦をつづけながらも、少なくも餓死する者が、撤退開始までには一名もいなかったのは、ともかくも物資収集班の功績によるものであった。
(これはのちのことになるが、部隊本部収集班の遠藤高級主計中尉は、遂に本隊に復帰することがなかった)
その中西主計中尉は、道をのぼりながらに、
「物資収集の時ですが、原住民の長《おさ》と、言葉はまったく通じないのに、話がきちんと通じたのですよ。こちらの一念が、言葉の不備を補ったのですね。ほとんど言葉が通じてるようなぐあいに、うまくいったのです。いま思うても、ふしぎなことです」
と、それを、しみじみといった。
松村部隊が、大きな痛手を重ねつづける前、四月上旬ごろは、二千名ほどの兵員を数えた。一人一日の定量を米四合とすれば、毎日一トン以上の白米の補給をしなければならない。物資収集班は辛酸を重ねて、毎日一トンくらいの米は収集しつづけたが、戦局のきびしい推移につれて、定量は、半分、三分の一、五分の一と減らさざるを得なくなった。それでも北インパールでの三ヶ月にわたる死闘の間、辛《かろ》うじて飢えを免《まぬ》かれたのは、蔭《かげ》に物資収集班の尽力があったからである。ミッション野戦病院の悲劇に見舞われた時、経理班に二、三トンの米はあった。中西主計中尉は、その米をなぜわけぬ、と安部中尉に責められたが、経理班としては、この先どこまで戦いがつづくのかを、つねに考慮して、米の配給を考えねばならなかったのだ。
しかし、いま、渡河点へ向けて、敗走のほか方途のなくなった峻嶮《しゆんけん》をたどりながら、中西主計中尉は、何一つ愚痴をいうでもない。敗走路では、もはや、いかにしても、糧秣らしい糧秣を収集することはむつかしいであろう。手の及ぶかぎりは、さきに集めつくしたし、しかも先に敗走してゆく部隊が、われ勝ちに、口に入りそうなものは手に入れてゆくであろう。隊伍《たいご》は隊伍同士、身を寄せ合うようにして、渡河点への道を、急がねばならない。とはいえ、山中を彷徨《ほうこう》しているとしかいいようもない現在、司令部からは、まだ、作戦中止の命令は伝達されてはいないのである。司令部は、なお、インパールへ向けて攻撃を続行せよ、という命令を強制している。
「籾を提供してくれたクキ族やナガ族には、いつか恩を返してやりたいと思いますね。これがいまの自分の実感です」
中西主計中尉は、そういう。物資収集に奔命した人の、これはしぼり出すような声であろうと、前軍医には察しとれた。
クキ族やナガ族は、日本の神社にみられるように、高床式の家に住んでいる。それまでに食べた野獣の頭骨を家の出入口に飾っている。その数の多いほど自身の勢力の誇示となる。
中西主計中尉は、そんな話をしてから、いう。
「ただ、驚くのは、地面の土がみえないくらい蚤《のみ》のいたことです。どの家も、籾を精白した時の糠《ぬか》をそのままに放置するので、それを繁殖場として、蚤が無限にふえるのですね。もっとも、自分らはぞっとしますが、かれらはまったく関心を示さない。蚤には免疫《めんえき》なのです」
中西主計中尉は、深刻な話をしているのだが、深刻そうには話さぬし、前軍医もまた、それを面白く聞くのである。気分をしめらせぬことが、戦況不利の場合を切り抜ける、なによりの知恵なのである。
本多大隊の速水少尉は、ミッションの野戦病院から、辛うじて山上へ担送された時、伝令兵の山下上等兵が、終始心配してついていてくれた。山をのぼるには、四人の担送兵が必要である。
担送してもらう途中、速水少尉は、担送兵のだれがいうともなく、
「重い人やなあ」
という声を、申し訳なくきいている。
担送兵は、ミッションに派遣されている衛生隊の者だが、かれらもまた、担送任務に疲れ果てているのである。
山上からは、真暗闇《まつくらやみ》の中を、山下上等兵の肩につかまって、よろめくようにして歩いた。
二日二晩、水のほかは、なにも口にしていない。
ようやく、民家を一軒たずねあてたが、家の中は、がらんとしていて、口に入れるようなものは何もない。家の隅《すみ》に、甕《かめ》の中に酒らしいものがあるのを、山下上等兵がみつけて、
「ドブロクのようです」
と、いう。
匂《にお》いを嗅《か》いでみ、舌にのせてみると、ドブロクに違いはない。
「死んでも、もともとです。自分が先に飲んでみます」
といって、山下上等兵は先に飲み、
「少尉《しようい》殿、元気出ますよ、いい味です」
といって、甕を渡した。
たしかに、五臓六腑《ぷ》にしみわたる、栄養と美味をきわめた酒の味である。
「ありがたい、天の恵みだ」
速水少尉は、甕のドブロクを、山下上等兵とわけて飲み、どっと見舞ってくる酔いと疲れのために、前後不覚に眠り込んだが、翌日、眼が覚めてみると、ドブロクの効果で、体力がかなり回復している。
当面の目的地が、ウクルルにあることをきいているので、ふたたび、山中の道をたどりはじめている。
速水少尉は、五月下旬、ケーテルマンビで負傷している。負傷した時、爆風に飛ばされて穴の中に落ち、同時に、やはり爆風に倒された大木が、穴の上にかぶさってきて、身動きもできなくなった。全身が、しびれていて、動けない。しかも、胴から下は土に埋もれている。眼を上げると、敵機が上空を旋回して、しきりに爆弾を投下している。
夕刻に、兵隊が山をのぼってきて、やっと掘り出してもらったが、それまでは、敵の陣地から撃ち出す機銃弾の激しさのために、眼もあけられぬ状態だった。それに、断続的に、迫撃砲弾が降ってくる。
穴から掘り出してもらった時には、背骨の一部が、背から突き出ていた。むろん、歩行は不能である。担《かつ》がれて、山を下り、そのまま、ミッションの野病へ運ばれたのである。
病状は、その後も、癒《い》えてはいない。けれども、傷を負うて撤退しつつある者は、ほかにもたくさんいるのだ、と、速水少尉は思い、自分で自分を鞭撻《べんたつ》している。
松村部隊の第三大隊の第十中隊長宮沢中尉は、ミッションでの戦闘間に、榴弾砲《りゆうだんほう》の破片を大腿部《だいたいぶ》に受け、重傷を負うている。貫通銃創のため、まったく歩行はできない。
負傷者が、撤退に際して、いかに困難な目に遭わねばならないかを、中隊長である宮沢中尉はよく知っていた。宮沢中尉は、心配する部下たちに、
「心配するな。自分はあとから追及する。置いてゆけ。大丈夫だ」
といったが、部下たちは、担送する、といってきかなかった。
ただ、冷静に考えた場合、担送は無理なのである。
この時、第三大隊の兵員は、八十名しかいなかった。しかも、全員が、疲労の極みにある。渡河点まで撤退してゆくにしても、途中には南北に重畳たる山塊が横たわっている。身一つでも、越えることができるかどうか疑問である。その上に、敵のパラシュート部隊が、前途を扼《やく》するように降下したという情報もある。交戦しながらの撤退となるであろう。
一人の傷者を担送するには、四人の担送兵が必要である。担送能力の限界は五百メートルである。五百メートル担送したら、担送兵は交代しなければならない。担送をつづけるうちに、担送者の体力はさらに減耗してゆく。
「担送は無理だろう。置いてゆくしかあるまい」
大隊の幹部の考え方は、宮沢中尉には同情しながらも、現実は現実として、認識せざるを得なかった。
しかし、大隊付の浅井中尉だけが反対した。
「宮沢中尉は、少なくも中隊長である。中隊長を置き去りにして、中隊の兵員がどうして撤退できるのか。中隊長をすててきた、と、恥じずにだれに向かっていえるのか」
浅井中尉は、大隊本部の情報班にいたから、ここまでの戦局の大要を、しっかりとみてきている。サンジャックの戦闘で、烈の宮崎支隊と交渉したころからの、惨澹《さんたん》たる苦戦ぶりをみてきている。サンジャックで、高言を吐いた宮崎少将は、祭を置き去りにして独断撤退している。しかし、われわれは違う。可能の限りは、傷者を助けたい。中隊の指揮官として、最善をつくしてきた宮沢中尉を、この期《ご》に及んで、置き去りにすることはできなかった。担送する兵隊たちの、任務の苛酷《かこく》はよくわかっている。だが、ここで兵員を鞭撻せねば、終生、みじめな記憶を負うてゆかねばならぬのではないか。
心を鬼にせねばならぬ。
浅井中尉は、第三大隊が責任をもって、宮沢中尉を担送することを申し渡し、担送兵を適宜に交代させては、道を急がせた。
一般に、動けない傷者には、手榴弾を渡してゆくのが、しきたりになっていた。傷者は、自決するもよし、また、死力を賭《と》して生きのびてゆく方途をさぐってゆくのも、その人の体力と気力の如何《いかん》に任されている。自決するにも勇気は要る。途中、倒れたままに眠り込み、そのままに息を引きとってゆく者もある。夜の雨がその屍《しかばね》を洗ってくれる。
宮沢中尉にしても、担送されることを、しきりに辞退している。
「お任せください。中隊長をみすてるようなことは決してしません。自分は最後まで力をつくします」
津田軍曹《ぐんそう》は、中隊の古参軍曹だったが、そういって、中隊長を元気づけ、ミッションから、先に立って、担架の一方を支えている。
宮沢中尉は、担送されるのがつらいので、担架の上で、泣きつづけた。
宮沢中尉の負傷は六月二十二日で、コヒマ=インパール道の防備が崩壊した日である。
大隊本部の馬淵兵長は、作業隊を指揮して、宮沢中尉の担送任務に従ったが、宮沢中尉は担架の上で、青ざめ切った顔をして、小さな身体《からだ》を折り曲げて、手を合わすような恰好《かつこう》をしている。なにものかに祈らざるを得ない心境のようにみえた。
担架兵は、だれも、日焼けと汗と垢《あか》とで、だれがだれか見分けのつかぬほど、よごれている。髯《ひげ》も髪も伸び放題である。荷といえば背負袋ひとつである。その背負袋の中には、一粒の米も入っているわけではない。疲れ果てても、なお、しっかりと隊伍だけは守っている。隊伍をしっかりと組まなければ、傷者の担送などとてもできない。いつ交戦状態になっても、それに対応してゆくためには、一個大隊八十名は八十名の態勢をとるしかないのである。
松村部隊は、松村部隊長以下が、よろめきながらの行軍をつづけていても、しかもなお軍旗を中心にして、その隊伍は乱さなかった。隊伍を乱さぬことによってのみ、兵員相互が自身を支え得たのである。
隊伍の先頭を、浅井中尉を中心に、二名ほどで、邪魔になる樹木の枝を伐採してゆく。
「担架など、とても担げん。もうやめさせてくれ。おれはほうり出すぞ」
という声が、宮沢中尉の担架をかついでいる一人から発せられるのを、馬淵兵長はきいている。力の限界を越えたための、叫びである。
すると、その兵隊を、だれかが打擲《ちようちやく》する。頬《ほお》を叩《たた》く音がする。ひっぱたいてやるしか、この場合、方法がないのである。だれもが同じ心情なのだが、ただ、それを口に出さないだけなのである。
「兵長殿、井上はまだついて来ます」
と、作業隊にいる一人が、馬淵兵長に向いていった。
山道での、小休止の時である。
隊伍のうしろで、
「おうい、待ってくれんか。なにか食うものをくれんか。おれも一緒に連れてってくれ。置いてゆかんでくれ」
と、しきりに、声をかけてくるのは、第九中隊の井上兵長である。
井上兵長は、コヒマ=インパール道崩壊のあとの戦闘で、両足に負傷し、ミッションを臨む五七九七高地に移動していた第一野戦病院へ送り込まれた。野病では、患者を送り込まれても、もはや収容能力がない、といって拒否している。それを、付添いの街《ちまた》軍医が、無理に頼み込んで入院させたが、いよいよ撤退の開始された時、野病は、井上兵長をみすてて、辛うじて動ける患者だけを選んで出発している。重傷者が、各自の意志で、本隊を追及せざるを得なくなったのは、どうしようもない、きびしい現実の事態の故《ゆえ》である。井上兵長もまた、ひとりの歩行不能者として、本隊のあとについたのである。
井上兵長は、両膝《りようひざ》にボロ切れを巻き、背中に飯盒《はんごう》だけをくくりつけ、四つ匍《ば》いになって、隊伍のあとについてきた。隊伍そのものも歩度は遅いから、四つ匍いでも、なんとかついて来られるのだ。そうして、隊伍に呼びかけては、助けを求めている。井上兵長は、あるいは、なぜ中隊長なら担架にのせられ、兵隊なら四つ匍いで歩かねばならないのかを、その差別を、無念に思っているのかもしれなかった。
馬淵兵長は、ある時、小休止の時だったが、匍い寄ってきて、宮沢中尉の担架を、うらめしげにみている井上兵長の眼《め》をみたことがある。
「運命だ、仕方がないのだ」
と、馬淵兵長は、胸のうちで、そうつぶやいたものである。ほかに、いう言葉はない。
井上兵長の四つ匍い行軍は、しかし、翌日、翌々日と、どこまでもつづいてくる。四つ匍い行軍というのは、のぼりはよいが、下り道になると、バランスがとれない。下りの傾斜にかかると、井上兵長は、飯盒の柄《え》を口にくわえて、ダルマを落とすように、ころがってゆく。飯盒が岩石にぶつかる、ガチャンガチャンという音をたてながら、とまるところまでころがり落ち、そこからまた四つ匍いで隊伍についてくる。
二十四日の午後、馬淵兵長は、谷底に、馬の死体らしいのがあるのをみつけて、
「あれは馬の死体だ。肉が食用になるかもしれんぞ」
と、いうと、担架はその場に停止してしまい、兵隊たちは、谷底へすべり下りてゆく。もし、食用になるとすれば、飢餓の状態から、一時的には救われる。しかも、それは肉なのである。
下へ下りた兵隊たちは、上に向けて、しきりに手を振る。
「大丈夫です。食べられます」
と、いっている。
かれらは、馬の肉を、あちこちと切りとって、谷底から上がってくると、それを作業隊の食糧にすることにしたが、生肉では食べづらいし、といって、焼くにも煮るにも材料がない。せいぜい表面を焙《あぶ》るくらいだが、燃料とすべきものは、防毒面についているゴムの残片くらいしかなかった。
「消毒して食え。食ったあとで川の水を飲んでおくとよい。それでないと、便秘をして困ることになる」
馬淵兵長はそういって、肉の表面を焼いて、それを食べさせることにした。これは、作業隊にとっては、よほどのご馳走《ちそう》だった。担架をあずかっているので、一般の隊よりも、はるかに疲労度が大きいのである。
「これでやっと元気になった。食当りして死んだとしても、あきらめはつく」
と、隊員たちは口々にいいながら、死馬の肉をたのしんでいる。
その休止時に、井上兵長が、山道の草をかきわけながら、匍いのぼってきて、
「なにを食うてるんですか、自分にもくれんですか」
といって、近づいてくる。
馬淵兵長は、井上兵長を招いて、消毒した肉をわけてやる。井上兵長は、両手でその肉をうけとったが、両手の掌《てのひら》は、痛ましく血みどろになって、皮膚が破れている。しかし、井上兵長自身は、もはやその痛みにも麻痺《まひ》しているらしく、もらった肉に、必死の形相で食らいつくのである。
「井上兵長に水をやれ、水をやれ」
といって、馬淵兵長は、井上兵長に、隊員たちの水を与えて飲ませる。肉を食べ、水を飲むと、満腹になったのか、井上兵長は、草叢《くさむら》に、ころんと、亀《かめ》の子のように転がって、他愛《たわい》なく眠り込んだ。
「井上兵長も、もう、限界ではありませんか。みていてわかります。どうしようもないですね」
隊員たちは、みな同じ思いなのだろう、死相をみせている(としか思えない)衰え切った井上兵長の顔かたちをみやりながら、いたましげな眼を見合わせている。
井上兵長に同情するかれらにしても、明日の運命はわからない。明日、力が尽きて、倒れ込んだままになる運命が、待っているかもしれなかった。
「自分は、担送には反対ですよ。将校も兵も、公平に、苦楽をわかち合ってこそ、ともに戦えるのではないですか」
第十中隊長代理の井尻中尉が、浅井中尉にそう不満を述べたことを、馬淵兵長はきいている。この作戦への出発時、井尻少尉は第二小隊長だったが、作戦間に中尉になり、宮沢中尉の負傷のあとで、中隊長代理を命じられている。
「宮沢はあくまでも担送してゆく。余分な口出しはするな」
と、浅井中尉はいった。
どちらにも、悲しい理由があり、第三者の介入はできない。だれもが、耐久力のぎりぎりの場に身を置いて、物をいっているのである。
井上兵長は、つぎの日には、遂に、隊伍に追尾しては来なかった。
あの草叢の中で、夢をみながら、そのいのちを終えてしまったのではないか、と、作業隊員たちは、それを、小休止の折の話題とした。
この日、隊伍の中で、一人の死者が出た。
宮沢中尉に、担送されて撤退せよ、とすすめた津田軍曹である。
急坂をたどりつめていた時に、前方の左側を支えていた軍曹が、のめり込み、動かなくなった。担架はよろめいてとまる。近くの者が様子をみると、津田軍曹は呼吸をしていない。
前軍医が、呼ばれて、駈《か》けつけてきた。
津田軍曹は、甚《はなはだ》しい過労のために、心臓の発作で、倒れるとともに死んだのである。
前軍医が、死亡を確認した。
道脇《みちわき》のどこかへ、埋葬しておかねばならない。形ばかりに埋めるのである。津田軍曹は、自分の発言に、死をもって責任をとったことになる。
津田軍曹の埋葬をしている時、馬淵兵長が、前軍医に、
「宮沢中尉殿の拳銃《けんじゆう》です」
といって、拳銃を渡した。
馬淵兵長は、
「宮沢中尉殿は、これで自決されるおそれがあります。自分はずっと気をつけていました。津田軍曹が死んだときき、泣き泣き、拳銃をさぐりはじめましたので、あぶない、と思い、とりあげました。まだ、泣いておられます。ひとことなにか、いうてあげてください」
と、それだけを、伝えている。
前軍医は、沈痛な表情のまま、
「気をつけてくれて、ありがとう」
と、それだけをいった。
前軍医にしても、それ以上、なにをいい得ただろう。
ミッションからの、撤退前後のことについて、なお触れておかねばならないことが、いくつかある。
ミッションを見下ろす五七九七高地にあった第一野戦病院は、六月二十四日の夕刻に、栗山衛生見習士官を輸送隊長として、独歩患者約二百名がまとめられた。
患者輸送隊は、なるべくは安全なコースをたどる必要がある。東方へ向かい、サンジャックへ行き、そこからコウショウ、ラング、ナンペシャと南下をつづけ、フミネを経て、トンヘへ向かうことになっていた。トンヘは、すでに渡河点に近い場所である。ただ、蝸牛《かぎゆう》の歩みに似た患者輸送隊にとっては、気の遠くなるほどの、はるかな道のりである。
それに、このコースは、渡河点へ向かう重要路の一つだから、患者輸送隊が、遅い速度で通るころには、先行部隊が通過している。コヒマから撤退してきた烈兵団もまた、このコースを通過してゆく。従って、このコースにおいて、糧秣《りようまつ》の補給のできる見通しは、まったく考えられない。
一つだけ望みがあるとすれば、フミネまで行くと、祭兵団の糧秣集積所のあることがわかっているので、そこまで到《いた》り着けば、糧秣の補給が受けられる。患者たちも、いくらかは元気を回復できるのではないだろうか。それが、栗山輸送隊長の、見通しであった。
(これは、のちのことになるが、フミネの糧秣集積所は、先行撤退した烈兵団の兵隊たちによって襲われ、糧秣はすべて奪われている。患者たちにしても、途中の悪路のために、つぎつぎに脱落してゆき、最終の地点トンヘに到着できた者は、わずか七十三名を数えるにとどまった)
松村部隊本部経理室の長谷川伍長《ごちよう》は、ミッションの北方十キロの、コヒマ=インパール道を遠望できるマヤンカンの集落に、杉林兵長、井上上等兵と三名で駐留していたが、六月十八日の午後に、衛生隊に護送された、比較的元気な独歩患者が到着した。約五十名ほどで、これらの独歩患者は、栗山見習士官の患者隊より先に、第一野戦病院を出発した者たちである。長谷川伍長は、マヤンカンに集積してあった米を、患者たちにわけた。一人あて一升ほどの米が交付できた。戦局の悪化から考えると、保管している米は、有効に使用してしまいたかったのである。
部隊本部経理室からの連絡も、ここ数日、まったく絶えている。状況のよいわけはない。今後の行動の指示だけは受けたかったので、それで、ミッションまで行くことにし、長谷川伍長は井上上等兵とともに、ミッションへ引き返した。
ミッションでは、部隊の撤退準備が進められていた。聯隊行李《れんたいこうり》の今村准尉《じゆんい》以下数名は、重要書類を携行して、すでに反転中であることを、長谷川伍長は、根岸曹長や栃平主計曹長からきかされている。
「自分らは何をすればよいのですか。マヤンカンには杉林兵長がひとり残っています」
長谷川伍長が根岸曹長にきくと、
「別命あるまで、マヤンカンで待機したらどうか。撤退がはじまったら連絡を出す」
と、根岸曹長がいう。
長谷川伍長が、井上上等兵とともに、マヤンカンまで引き返したのは、二十二日の未明である。ここの糧秣集積所は、粗末な小屋が一つあるだけで、集積されている糧秣も、ほとんどない。長谷川伍長ら三名は、糧秣小屋で、戸外の雨の音を聞きながら、夜明けを待った。
「遠藤高級主計の収集隊は、撤退までにもどって来るでしょうね」
と、杉林兵長は、きく。ひとりで留守をあずかっていたので、だれよりも心細そうで、人のことまで気になるのだ。
コヒマ=インパール道を、ここ数日は烈部隊が支えるので、敵がミッションに来るとしても、二十四、五日であろう、と、長谷川伍長はきいてきている。遠藤収集隊も、それまでに、部隊に帰着すればよいのだ。
三人で、雑談したり、うとうとしたりしているうちに、夜が明けはじめた。
すると、近くで、人声や、銃剣の鳴る音がする。三人が、起きて、小屋の外へ出てみると、眼の前の山道を、数名の兵隊が、東へ向けて急ぎ足で歩いてゆく。しかも、後方からも、三々五々と、兵隊の影がつづいてくる。
「あんたらはどこの部隊だ?」
と、長谷川伍長は、兵隊のひとりに問いかけた。どの兵隊も、痩《や》せ果て、衰え果てた様子にみえる。
「自分らは烈の五八です。敵はすでに麓《ふもと》まで来てます。烈は全部、独断で撤退を開始中です」
いわれて、長谷川伍長らは、愕然《がくぜん》とする。
その時、戦車のキャタピラの音がきこえはじめていた。本道を、ミッションに向け、進んでいるのだ。そのミッションの方向では、爆撃機が爆撃を開始しているらしい爆弾の炸裂《さくれつ》する音と、砲声とが、遠雷のようにきこえてきた。
予想外に早い敵の襲来のため、ミッションで動顛《どうてん》している部隊の様子が、眼にみえるような気がする。
「山上へのぼってみよう」
と、長谷川伍長はいい、装具はすべて身につけて、山上にあるマヤンカンの集落をめざした。ここは、むろん、糧秣収集で、二度三度と訪ねている。
集落へ行ってみると、集落のまわりには障碍物《しようがいぶつ》がたくさん並べられ、緊張した表情の村長が出てきて、
「早くここから立ち去れ。いまにイングルジーがやってくる」
と、いう。手真似《てまね》と土語で教えてくれる。
村長――といっても裸同然の服装で、腰に前掛様の布をまとっているだけである。ただ、日本兵には好意を持っていて、心配してくれているのだ。
山上からは、ミッション方向の模様が、よくみえた。空中を乱れ飛ぶ敵機、急降下してゆくさま、銃砲声とその谺《こだま》。
長谷川伍長らのまわりにいる住民たちは、男はみな手にダー(山刀)や槍《やり》を持っている。村を守ってグルカ兵と戦うつもりなのだ。
長谷川伍長は、引き返してミッションへ行くべきかどうかを考えたが、もともと撤退が意図されているとわかっているので、相談して、ウクルルへ向かうことにした。烈兵団の兵隊たちにまじり合うようにして、マヤンカンを出発した。その日のうちに、山二つを越えて、日暮れ方、小集落の近くで仮眠しようとしたが、その小集落に向けて、榴弾《りゆうだん》が数発飛んできて、炸裂している。
「烈の撤退部隊に向けて、めくら撃ちをしているのでしょう。も少し先へ行きますか」
井上上等兵が、いう。すると、杉林兵長が、
「いま一つ山を越えると、ここらでいちばん高い山の上に、部落があります。自分は以前、遠藤主計と、ここらを歩き廻《まわ》ったので、かなり地形を知ってます。フミネまでは、およそ見当がつきます」
というので、尾根伝いに歩いて、杉林兵長の案内する部落へ行った。
部落に近づくと、ここも、部落の外に住民が監視に出てい、やはり村長が出てきて、
「落下傘《らつかさん》で降りたイングルジーが、この部落の隅《すみ》に休んでいる。部落には入るな。東へ行くとよい」
と、手真似と土語で教えてくれる。
長谷川伍長らは、ここらにまで敵の手が及んでいるのかと驚いたが、村長の忠告に謝して、さらに山道を歩いた。
山中で仮眠して、さらに歩きつづけたが、折り折りに、敵の偵察機《ていさつき》が頭上を掠《かす》めるのは、烈の敗走兵を追うのであろう。その日一日、歩きつづけて、ようやく、敵の追尾からは逃げ得た、と思えた。地図がないので、正確な地点はわからなかったが、
「イリル河の上流と思います」
と、杉林兵長はいう。
そのあたり、濁流の渦巻《うずま》く河を前にして、峡谷の底がかなり広く、あちこちに、撤退中の人影がみえる。烈兵団の兵隊たちのほかに、松村部隊の独歩患者が十数人集まっていたり、さらに柳沢部隊(歩兵第六十七聯隊)の重松主計中尉の一行がいた。長谷川伍長は、重松中尉とは、顔見知りの間柄《あいだがら》だった。長谷川伍長は重松中尉に挨拶《あいさつ》をし、
「マヤンカンから、ずっと山中を彷徨《ほうこう》しています。本隊にはぐれておるのですが、同行させていただけませんか」
と、頼んだ。重松中尉も、一隊を率いて糧秣収集に行動中、戦況悪化のため、本隊に帰りそびれているのである。
その日は、河畔で野宿をする。
翌《あく》る日、河を渡り、ウクルルへ向かう山道をたどっていると、途中で、独歩患者の一隊に追いついた。それが、さきにマヤンカンで、米一升ずつを配付した、衛生隊に護送されている患者隊だった。
長谷川伍長は、衛生隊を指揮している経理下士官を覚えていた。それで、今度は、この衛生隊に合流して進むことにし、重松中尉に礼をいって、別れた。長谷川伍長らは、これでともかく、松村部隊の一部に加わって、行動することになった。
その日は、山上の集落で一泊。久しぶりに民家で寝たが、猛烈な蚤《のみ》の攻撃に遭う。しかし疲れ果てているので、蚤の痒《かゆ》みも気にならずに眠る。
「あと、山一つ越えれば、ウクルルです」
と、朝方、経理下士官が教えてくれる。
ウクルルへ行けば、ともかく原隊に復帰できるであろう。山の向こうのウクルルに、仕合わせが待っているとはとうてい思えないが、原隊復帰できる、というのは、ささやかな仕合わせではある。
この山上の集落のあたりからは、道幅が少し広くなった。牛車(ノアー・レイ)も通れる道幅である。もっとも、あたりが密林地帯であることにかわりはない。しかも木々は雨にいたぶられて、さびしい湿気を醸《かも》している。道幅が広いとはいえ、ひどいぬかるみ道である。ただ、その道は、まちがいなくウクルルには達している。
ウクルルは、撤退してゆく部隊の、重要な地点になっていたが、しかし、ここは廃墟《はいきよ》の村である。日本軍がインパールへ進攻してゆく時、ここを通過したあと、敵機の爆撃がくり返されて、民家はほとんど焼きつくされた。
衛生隊とともに、長谷川伍長らが、ウクルルに達した時は、烈部隊が先に通過して行ったあとなので、付近は荒らしつくされ、むろん、ひとつかみの籾《もみ》の入手もできなかった。村の周辺には、わずかばかりの畑地もあったが、作物らしいものはなにもなかった。
(ウクルルまでゆけば、糧秣の補給を受けられるかもしれない)
と、それを夢にまでみる思いで、期待して来たのだが、廃墟の村は、霧雨の中で煙っていただけである。雨が上がると、数機の敵機が、飛来してきて、機関砲弾を執拗《しつよう》に浴びせてくる。
それでも、ウクルルは、撤退路の重要地点であるため、撤退部隊は、みなここへ集まり、一見、山の中の宿場のように、兵隊の姿がみえる。そうして、思い思いに、樹間に天幕を張って設営したり、独歩患者らは互いに支えあって、退《さ》がって行ったりする。人影はにぎやかだが、何となく(この世の終わりの村)といった風景である。
長谷川伍長たちは、ウクルルにおいても、松村部隊の所在がつかめず、カソムに師団司令部があるので、そこへ行けば部隊の所在の見当がつく、と思い、杉林、井上と話し合い、三名で、カソムへ向かうことになった。カソムは、サンジャックよりずっと南にあり、一昼夜かかる。
しかし、カソムに着いて、ジャングルの中の師団司令部をさがしあててきいたが、松村部隊の消息はわからなかった。音信は五日間絶えたまま、という。やむなく、また、ウクルルに引き返すことにした。ウクルルに近づく三叉路《さんさろ》のところまで来ると、ジャングル内に野戦病院が設営されていて、道路ぎわに、古びた靴《くつ》がずらりと並べてある。
「戦死者のものだ。使ってくれ、という意味だろう」
長谷川伍長はそういい、三人とも、爪先《つまさき》の出るようなボロ靴になっていたので、だれを拝むともなく古靴を拝んで、自分たちの靴と、とりかえてもらった。拝まずにはいられない、気分だったのだ。
その日は、三叉路の近くに、象を持っている祭の輸送隊がいたので、同じ場所に仮泊させてもらうことにした。ただ、このころから、杉林兵長の弱りが目立ちはじめている。
「明日は少し、食べものをさがそう」
長谷川伍長は、井上上等兵にそういい、翌日、山間の道に分け入り、途中で子供に出会ったので、道案内を頼んだ。どこかの村落をたずねたかった。
ところが、道の途中で、子供の足が、少しずつ早くなり、かなりの距離ができると、子供は駈け出した。逃げたのである。仕方なく、尾根みちをたどりたどり歩くと、霧雨の晴れ間に、民家がいくつかみえてきた。よかった、と思い、気負って近づいてゆくと、人声がきこえる。
「おーい、おーい」
と、呼びかけた。原住民に、安心させるためである。すると、民家群の中から、いきなり数発の銃声がきこえ、行手の山道に、グルカ兵たちの姿がみえた。敵が入っていたのだ。
長谷川伍長は、井上上等兵とともに、山道を逃げつづけて、ようやく元の位置にもどってきた。三叉路には、師団の経理部が来ていたので、敵に撃たれた事情を報告しておく。松村部隊のことをきくと、やっと連絡がとれ、ウクルルに向かっている、という。長谷川伍長は、本隊に、一刻も早く合流し、途中の経過を報告したかった。
ただ、杉林兵長は、ウクルルに引き返す体力気力もないようにみえたので、本道を先に撤退するようにすすめて、別れて、二人だけで、ウクルルへ向かった。やはり、本隊へ合流できるときまると、ほっとした安堵感《あんどかん》を覚えるのである。
ミッションから撤退をはじめた松村部隊の先発隊となった本多大隊は、大隊とはいえ、二個中隊になっていたし、兵員もまた五十名ほどに減少していた。
ミッションを撤退する時も、野戦病院にいて、山上陣地へ到り着けぬ者には、手榴弾《てりゆうだん》を渡した。これは、どの大隊も、やむなく、こうした手段をとったものである。
松村部隊の先発隊となって進んでいる時も、本多大隊長は、身辺の幹部に向けて、
「負傷者たちは、どのようになったろうか。あの場で、ともに死んでやりたかった、という思いが、ずっとつきまとってきて、つらいものだな」
と、いった。これは、大隊長のみならず、だれしもの思いであったろう。
平田准尉《じゆんい》は、終始大隊長の側近に身を置いてきたが、まめな性分なので、ウクルルへ向かってくる途中、密林の中へわけ入っては、食糧の足しになりそうなものを、よくみつけて歩いた。なかでも、もっとも腹の足しになったのは、カメレオンの肉である。
樹幹にいる一匹を、はじめてつかまえた時、これはまことによい獲物《えもの》、と思って食べてみた。白身の肉で、皮を剥《は》いで、そのまま、所持している岩塩を、調味料として食べる。別に身体《からだ》に異常を生じなかったので、大隊長にすすめた。
「なんの肉かね?」
と、大隊長がきくので、
「カメレオンです。いい味です。お気に入ればまた捕ります」
と、平田准尉はいった。
「カメレオン? トッケーではないのかね」
と、傍《かたわ》らで、副官がいった。
「木の上に、するするとのぼって行って、眼玉をキョロキョロと廻します。体長一尺ほどの大きさです。カメレオンと思います」
「まァ、カメレオンでもなんでもよいが、これはうまい肉だ。ありがとう」
と、大隊長は、素朴《そぼく》に礼をいう。
トッケーというのは、大トカゲで、体長はやはり一尺ほどである。
平田准尉は、カメレオンを捕って、それを、この山間踏破を生きのびるための食糧と考え、密林の中を、さがしまわった。カメレオンは、敏捷《びんしよう》な生きものなので、これを捕るための道具を考えた。針金を焼いて、川漁をやる時のヤスのようなものをつくり、先を曲げ、刺さると抜けないように、かえしもつける。こまかい細工だったが、器用につくったのである。これに、木の柄《え》をつけ、カメレオンをみつけると、こっそりと忍び寄って、そのヤスを首にひっかける。つかまえると、首のところから皮を剥ぐ。皮はすぐに剥げる。皮を剥ぐと腹中の臓物が一緒に出てしまう。残った肉を岩塩で食うが、なかなかの美味である。気をつけてさがすと、案外にうまくみつけることができた。
爾来《じらい》、平田准尉は、カメレオンを、大隊長をはじめ隊伍《たいご》の者たちに頒《わ》けるのを、仕事とした。隊員たちは、谷間で採れる食べられる野草を、主たる食糧としていた。平田准尉は、カメレオンのほかに、民家で、土間の隅にほうり出されているニンニクをみつけては、これをなによりの食糧、というより栄養源として所持した。むろん、大隊長をはじめ、隊の者たちにも頒けた。ニンニクは、飢えても、活力を持続するのに役立ったのである。
本多大隊が、センマイ高地とカングラトンビの中間に陣を敷いていた時、敵の猛攻を受け、一隊が攻め込んで来て、乱戦となった。敵は、大隊の反撃を受けて、敗走した。いくつかの遺棄死体があったが、平田准尉が調べてみると、なかに、英軍の制服を着た下士官の死体があった。リュックを背負っている。リュックの中を調べてみると、携帯口糧にまじって、手帖《てちよう》にはさんだ家族の写真があった。女房と子供と三人で撮った写真である。
(うちへ帰りたかったろうに)
と思い、その死をあわれんで、平田准尉は、自分のもぐり込んでいた蛸壺《たこつぼ》の中に死体を入れて、土をかけて葬《ほうむ》った。自分がもし戦死した時、敵のだれかが、自分をあわれんでくれて、埋葬してくれればありがたい、と、その時思ったものである。
本多大隊は、そのあとで陣を退《ひ》き、コヒマ=インパール道の崩壊とともに撤退してきたのだが、平田准尉の頭のどこかに、死んだ英軍下士官の記憶がしみついている。敵もまたつらい戦いをしているのだ、と、そんな思いを抱きながら、密林の中を、カメレオンをさがして歩いたのだ。平田准尉のカメレオン狩りの着想には、苦境の中で、なお己れを持する精神のゆとりがあったからかもしれない。
ウクルルに向かっていた松村部隊は、携行していた三号無線機が故障していたため、兵団司令部との連絡が、まったくとれなかった。司令部は、サンジャックにあると思われたが、連絡がとれなければ、戦況の報告のしようもない。
山中踏破の苦労を重ねながら、松村部隊は、六月三十日に、ウクルル西北方二十キロの地点にあるソラルに着いた。小集落である。
部隊本部情報班の竹ノ谷中尉は、周辺の事情をさぐって、南方二キロのパタン、東北方五キロのトロイに、すでに敵の一部が侵入していることを知った。敵は、当然、松村部隊の行動径路を知っているはずである。もはやさしたる火器も保持していない実情も、よく知っているはずだが、ふしぎに、迫撃砲一発さえ、撃っては来ない。
「攻撃して来ない。みまもっている、という様子だが、どう思うか」
松村部隊長が、側近の幹部にきくと、斎能副官が、
「祭が、あれほど善戦したことへの、儀礼ではありませんか。そう考えたい気がいたします。見守る、というより、見送る、という感じかもしれません」
と、いう。
「敵に、いたわられる、ということかね」
と、松村部隊長は、自身に向けてうなずくように、首をかしげながらに、いう。
「部隊の、指揮官によって、考え方も違うのではありませんか。司令部付近では、なにかと交戦がつづいているように思われます」
と、竹ノ谷中尉が、いい添える。
「いずれにせよ、傷を少なくして、ウクルルに到り着きたいものだ」
と、部隊長はいう。
ウクルルまでは、両三日の行程である。
ソラルを出発した翌日、とある小集落で、道脇《みちわき》の密林から、二名の下士官が、部隊の前面へ出てきて、
「松村部隊でしょうか」
と、先発隊にきく。
この二名の下士官は、兵団司令部から出された連絡者だった。兵団では、無線連絡が杜絶《とぜつ》しているため、松村部隊が敵の包囲に陥《お》ちたのではないか、と、案じたのである。コヒマ=インパール道の崩壊を考えれば、当然、推察できることではあった。それで、通過地点と思われるあたりに、連絡者を派遣したのだ。
松村部隊長は、連絡下士官たちから、兵団司令部、ことに岡田参謀長がいたく憂慮しているという事情をきき、現在までのいきさつを説明して、それを岡田参謀長に伝えてほしい、と頼んでいる。つまりは、松村部隊は、残存兵力をもって隊伍を編み、堅実に、目的地に向かっている、という実情を、である。
この時、連絡者は、松村部隊への命令を伝えているが、それには、
“松村部隊は、宮崎支隊の指揮を脱し、とりあえずウクルル南方三叉路付近に兵力を集結すべし”
と、あった。部隊として、元の兵団の隷下《れいか》に復したのである。
連絡下士官によって、兵団司令部周辺の戦況もわかった。それは、まことに緊迫し憂慮すべき状況であった。兵団主力の尾本部隊(歩兵第五十一聯隊《れんたい》)と柳沢部隊(歩兵第六十七聯隊)は、インパール=サンジャック道の中間地区において、辛《かろ》うじて道路の両側要地を確保しているに過ぎない。要地周辺の諸集落は、ことごとく敵の手中にあり、両部隊は、ほとんど敵の重囲下にあるといってよかった。しかも、兵団司令部との後方連絡路は、すでに侵入した一部の敵によって遮断《しやだん》せられている。両部隊は従って司令部とは分断され、孤立して苦戦をつづけている、という。
「わが部隊も、参謀長をいたく心配させてしまったが、われわれもまた、尾本、柳沢両部隊のことが心配でならない。もはや、相助け合うて戦う、といったことのできる状況ではなくなってしまったが」
松村部隊長は、側近の幹部たちにそう洩《も》らしたが、むろん、だれも同じ思いである。友軍の健 闘を祈らざるを得なかった。
戦況は、たいそうきびしさを加えつつあったが、松村部隊は、ほとんど敵の攻撃を受けることなく、七月三日に、ウクルルに到着している。
部隊長は、斎能副官を、司令部へ連絡に赴かせた。司令部はこの時、ソクパオを離れて、ルンションに来ていた。ここはウクルルより東南十キロの地点である。
斎能副官は帰ってくると、部隊長に、
「参謀長閣下が、たいへんに喜ばれておられました。松村部隊は、三叉路に位置するように、ということです」
と、いう。それで、ウクルルより少々南の、三叉路に本部を置いている。三叉路は、東はルンション、西はラムへ向かう、道路の交叉するところである。松村部隊はラム付近の戦況を案じつつ、三叉路の守りについた。
ウクルルの北方には、敵の一部が侵入してきていたが、この敵を、師団直轄《ちよつかつ》の輜重《しちよう》第十五聯隊の清水隊(輓馬《ばんば》第二中隊)が支えていた。追及者も含めて百名ほどの兵数である。
師団はウクルルに、撤退してくる隊伍のために、野戦倉庫を設置するつもりで、吉田主計中尉と倉庫要員を派遣したが、集積する糧秣《りようまつ》は、現地で調達するよりほかはなかった。しかし、輜重隊から出た糧秣の徴発隊の報告によると、敵の出没に災いされて、到底収集作業などできない、ということで、結局、野戦倉庫は名ばかりのものとなった。
松村部隊長は、七月三日のうちに、部隊の整備を終え、周辺の警備の配置も、一応、終えている。あとは、司令部の命令を待つのみである。
翌四日の午後、先に解任された山内兵団長に替った、新任の柴田卯一中将が、着任初の仕事として、松村部隊の視察に来ている。山内兵団長の解任は、インパール攻撃の遅滞を、軍司令部が咎《とが》めたからである。当然、柴田兵団長には、無能――と暗に烙印《らくいん》を捺《お》された山内兵団長に替る、期待が寄せられていたはずである。
柴田中将は、華中方面の戦闘その他で、部隊長として、しばしば感状を授与されている。勇猛果敢で知られた闘将である。柴田中将自身にも、戦局の、起死回生を図りたいとする、さかんな意志はあったろう。
柴田兵団長が、幕僚と護衛兵を連れて、ウクルル南方の松村部隊本部を訪ねて来た時、松村部隊長は、小さな民家の土間で、軍旗を傍《かたわ》らにして、兵団長に対した。
松村部隊長が、挨拶《あいさつ》のあと、
「松村部隊の、作戦発起以来の行動、インパール北方地区での戦闘の詳細、また、この間のわが方の損害などについて、ご報告申しあげたいと思います」
といって、地図をひろげかけると、柴田兵団長は、それには見向きもせず、
「そのようなことは、いまさら聞く必要がない。新たな気迫をもって、インパール攻略を意図するのが先決ではないか。いまのうちに兵を休息させておくがよい」
と、それだけをいい残すと、それ以上には、民家にとどまることさえ煩《わず》らわしい、といった様子で、引き揚げてゆく。各部隊へ、視察と、同様の激励をしに廻ってゆくのであろう。
柴田兵団長は、いかにも闘将らしく、眼光は炯々《けいけい》と輝いている。顔の下半分を掩《おお》いつくすほど鬚《ひげ》が生えている。口辺を蔽《おお》った髭《ひげ》は、両端に大きく伸びて、その先端は耳に達している。両手で、耳殻《じかく》の上に、眼鏡の柄みたいに掻《か》き上げられるほどである。風貌《ふうぼう》はまさに猛将なのだが、隷下聯隊長の意向をまったく耳にしようとしない、というのは、どういう考えなのであろうか。風の如《ごと》く来て、風の如く去ってしまったのだ。
柴田兵団長の去ったあと、松村部隊長は、しばらく黙然と、部下の用意した木椅子《いす》に腰を下ろしていたが、
「敵を知り己れを知る者は百戦殆《あや》うからず、と孫子は教えている。敵状も、自軍の実情も知らずして、いかにして全軍の指揮をとられるおつもりなのか」
と、まわりにいる、本部の幹部たちに、つぶやくともなく、そういっている。
だれも、言葉もなかった。
松村部隊長は、ミッション東方の五七九七高地を出発する時、部隊の重要書類である、兵籍、戦時名簿その他を駄馬《だば》に積載して、本部付の今村准尉を長とする小行李《しようこうり》を編成して、出発させている。
ところがこの小行李は、途中で本隊に合流することもなく、また、部隊がウクルルに到着しても、その姿はみえない。
「道に迷うはずはないと思います。あるいは事故かと思いますが、捜索に出向きますか」
と、竹ノ谷中尉が部隊長に意見具申をすると、部隊長は、もう一日待ってみよう、という。
翌四日は、柴田兵団長の視察があった。
この日の夕刻、小行李今村隊の兵員の一人が、ウクルルの部隊本部へ到着した。兵隊は、部隊本部へ来て、部隊長や幹部に、つぎのように報告している。
小行李は、六月二十九日に、トロイ部落の西南のジャングル内で休憩した。書類箱を鞍《くら》から下ろした。ところがこの部落には敵が潜入していて、急襲された。敵兵は二十名ばかりだったが、こちらは七名のみで、兵器も充分でない。駄馬は銃声に驚いて狂奔逸走し、そのため書類箱を積載もできず、やむなく物蔭《ものかげ》に書類箱を隠して、隊伍は四散した。
「自分は一行と連絡のとりようもなく、ひとりだけで帰隊いたしました」
兵隊は、申し訳なさそうにいう。
「敵中で、日中、警戒兵も出さず、荷を下ろして休憩し、しかも、荷を捨てて逃げるとは何事か。かりに逃げても、機をみて現地へ引き返し、たとえ書類の一部でも、携行して来るのが、ほんとうではないか」
部隊長は、兵隊を叱責《しつせき》したが、兵隊を叱《しか》ってみても仕方がない。
むしろ、責任を痛感したのは、直接書類保管の任にある斎能副官だった。斎能副官は、書類を奪還したいので、所要の人員を出させてほしい、と、部隊長に申し出ている。
部隊長も、それを諒承《りようしよう》して、本部付の西中尉が、下士官兵八名ほどを引率して、小行李の兵隊を道案内に立て、引き返すことになった。トロイというのは、部隊が宿泊したソラルの東北約四キロの地点にある。
その三日後に、今村准尉が、兵一名を連れて、悄然《しようぜん》として、部隊本部へもどってきた。
むろん、准尉が、いかに自身の責任を痛感しているかは、その態度をみても、部隊長にはわかる。周囲への手前もあり、きびしく叱責はして、その上で、
「今村准尉を、当分の間、重謹慎に処する」
と、いい添えている。
准尉は、頬《ほお》を伝う涙をそのままに、
「この上は、中隊へもどしていただき、奮戦して、必ず名誉を挽回《ばんかい》いたします」
と、いった。
部隊長は、准尉に、中隊復帰を命じている。
「今村も、よく働いてくれたのだが、不運であったというべきだろう」
と、部隊長は、今村准尉を見送ったあと、傍らの斎能副官をかえりみて、いう。斎能副官もまた、辛《つら》さに耐えて、うなだれる。
西中尉の一隊は、出発後、いく日たっても、帰隊して来なかった。西中尉の一行の中の兵一名が、負傷の身をもって帰隊してきたのは、七月八日の午後である。
兵隊は、目的の部落の、書類箱を隠匿《いんとく》したジャングル内に入ったところ、敵は、日本兵が引き返してくると想定したものか、待機していて、一行はジャングル内で包囲されている。交戦となった。
「西中尉殿をはじめ、全員戦死しました。自分は中尉殿より、報告のため帰隊せよと命じられ、帰隊して参りました」
すでに、書類箱もまた、敵の手中に陥ちているはずである。
部隊長は、書類箱の奪回を断念せざるを得なかった。あとは、つぎなる使命に向かうしかない。部隊長は、新たに患者隊を編成して、これを出発させた。身軽になるためである。
兵団から、弾薬、糧食が少々支給されたので、これをもって装備を整え、新たな命令を待つことになった。インパールに向けて進撃せよ、と命じられれば、兵を進めねばならない。松村部隊は、一個聯隊とはいえ、その兵力は五百を大きく割っている。しかも、満身創痍《そうい》といってよい。残るは、軍旗を守ってゆく、精神力だけが頼りである。
松村部隊が、ウクルルに到着する以前、六月末、ソクパオの司令部にいて、岡田参謀長は、山内兵団長の病状を案じていた。山内兵団長は、日々に衰弱が加わるのみで、終日臥床《がしよう》し、むろん歩行はできない。兵団長を後送させるのが上策だが、ジャングルを潜行脱出させることになるので、これも容易でない。心配である。
すると、兵団長が、
「後事は参謀長に託したいから、善処せよ。兵団長は後方へ移動したい」
という旨《むね》を、参謀長に伝えてきた。
岡田参謀長は、兵団長がいわれる以上、一刻も早く退去してもらい、病状の回復を祈りたいので、早速、その手はずをとっている。
兵団長を撤退させるとすれば、岡田参謀長が、兵団長代理として、新兵団長の着任を待つことになる。
岡田参謀長は、兵団長代理として、戦線の整理を考えておく必要があった。戦況が逼迫《ひつぱく》している。六月三十日には、北方からの、迫撃砲や重機関銃の激烈な音がきこえている。トングー(ソクパオの西北方八キロ)の輜重兵中隊の戦闘のように思えた。その砲銃声は次第に東方へ移動するかに思えた。もし、輜重兵中隊が敵に押されてしまうと、ソクパオは、背後(北方)を遮断されることになる。
七月一日にも、砲銃声はつづいている。山内兵団長が、ただごとでない戦況を知り、撤退の意を伝えたのは、そのためである。
岡田参謀長は、戦況を考え、兵団長を先に、後方のルンションへ搬送させている。
七月二日になると、砲銃声はさらに近づいてくる。敵が、後方のラムを制圧して本道上に出てくると、司令部はむろん、尾本、柳沢両部隊も、ますます敵の重囲に陥ちることになる。といって、両部隊を東方に移動させれば、これは軍命令のない退却を意味することになる。
岡田参謀長は、司令部付の今岡参謀の意見を徴しつつ、つぎのような作戦上の処置を考えている。
「司令部、綏靖《すいぜい》隊、工兵聯隊は本七月七日夜ソクパオ付近本道上出発、司令部はルンション西南方に到り、綏靖隊はラム及びツシェン方向に対しサンジャック付近に陣地占領、工兵聯隊は綏靖隊及び砲兵隊の陣地占領に協力、後ルンション西南方に到り兵団直轄。
砲兵聯隊は二門を現在地に残し、柳沢部隊に配属、爾余《じよ》は、火砲、弾薬、器材と馬匹を分離し、前者は自動車に積載、本夜出発ラム付近強行通過を覚悟しつつサンジャックに到り陣地占領。差当りラム及びツシェン方向に対し火力準備、馬匹は別に追及」
――以上の外、ソクパオ起点の通信網を撤して、新司令部起点の通信網を構成、特にウクルル及びサンジャック間は電話を設置する。
岡田参謀長は、諸隊を出発させたあとで、今岡参謀とともにソクパオを出て北上したが、ラム丁字路には異常はなかった。つまり、敵はまだ、公道上には達していなかった。
しかし、司令部のあとに、電話網を撤収しながら通信隊が北上してきた時には、道路上に出てきた敵と交戦することになり、遂には、ラム付近はすべて敵手に陥ちている。これによって兵団は、司令部と、ウクルルに在る松村部隊、及び遅れて到着した宮崎支隊と、南方の柳沢、尾本両部隊とに、分断されてしまった。柳沢、尾本両部隊は、いちだんときびしい、敵の包囲網に陥ちたことになる。
柳沢部隊(歩兵第六十七聯隊)は、六月十日に、サンジャック=インパール道の、兵団司令部のあるソクパオ西南方の地点、四二四一高地を夜襲攻撃している。高地の一角は占領したが、敵の火線に阻《はば》まれて、攻撃の続行ができなかった。
兵団は、当初、四二四一高地と公道を隔てて対向する三六三六高地の攻略を企図した。しかし、柳沢寛次聯隊長は、この企図に反対して、先に四二四一高地を奪取せよ、と進言している。なぜなら、四二四一高地は攻めるに易《やす》く、占領後は三六三六高地をも制圧できる、と強調したが容《い》れられなかった。従って先に三六三六高地を攻撃することになったが、この攻撃は、友軍の火砲を有効に使えず、夜襲によって高地の一角は占領したものの、爾後の攻撃が進展しなかった。
この時になって、兵団は、四二四一高地の奪取の重要性を悟ったが、時、既に遅く、敵は四二四一高地に防備の完璧《かんぺき》を期したので、柳沢部隊が夜襲を行っても、敵陣地からの猛射を浴びて死傷続出したのである。
兵団は、そこで、尾本部隊(歩兵第五十一聯隊・聯隊長尾本喜三雄大佐)によって、六月二十一日に、四二四一高地の夜襲を命じている。尾本部隊は、夜襲によって、陣地の一角は奪取した。つづいて、占領区域を拡充すべく意図しているうちに、六月二十二日の夜が明けたのである。
そうしてこの日、ミッション付近の戦況が急変した。コヒマ=インパール道が敵に奪回され、松村部隊はミッションをあとに、撤退を余儀なくされる。宮崎支隊は、この数日前に、マラムをすてて独断撤退している。このため、全戦線が崩壊し、兵団は、尾本部隊の四二四一高地の攻撃を、中止させざるを得なくなった。
爾後、柳沢、尾本両部隊ともに、勢いを得て山間にあふれ出てきた敵によって、その包囲下にとじこめられることになる。両部隊とも、作戦発起以来敢闘善戦をつづけながらも、大勢の赴くところ、防戦に遑《いとま》ない状況に追いつめられることになった。
岡田参謀長が、今岡参謀とともに、ルンションの新司令部に着いた時、ちょうど、田中副官が、新任の柴田兵団長を、案内してきたところであった。新兵団長の一行は、ジャングルの樹間から出てきたのである。田中副官は、はるばるとビルマのメイミョウまで、新兵団長の出迎えと案内のために、派遣されていたのである。
司令部の位置、といっても、樹下のひとところで、岡田参謀長は柴田新兵団長に申告し、各部隊の状況説明をしようとしたが、新兵団長は、
「余分な説明はよい。きいても仕方がない」
といって、一切耳をかさなかった。
「せめて、概略を」
と、岡田参謀長はいったが、柴田新兵団長は、それもうけつけない。
現在、兵団隷下《れいか》の部隊には、一個中隊わずか二名という中隊をはじめ、一個中隊十数名という中隊が多い。もし、二、三十名を数えられれば、有力な中隊といえるのである。機関銃は大隊で二銃を所持していたが、いまでは一銃もない大隊もある。こういう事情に一切耳をかさずに、いかなる作戦を強行しようというのだろうか。なんという我儘《わがまま》な兵団長か。
昼時になり、岡田参謀長は、兵団長とともに昼食を摂《と》った。その間、少しでも、と思い、隷下部隊の勇戦ぶりについて触れようとしたが、うるさげに首を振られる。参謀長としては、林集団(軍司令部)の、前線の事情をまったく知らぬ観察の誤りを指摘し、あわせて新兵団長自身も、その誤りを先入観としていることを指摘しようとしたが、戦況については、とにかく、まるで、耳を傾ける気《け》ぶりはなかった。
参謀長が、新兵団長と話し合っている時、そこから二百メートルほどの樹間に、山内兵団長の担架が休息していることがわかった。そこで、新旧兵団長の引継ぎが行われることになり、岡田参謀長、田中副官、今岡参謀も同行する。
前兵団長は、幕舎の中にいたが、もはや頭をもたげることもできない重態の様子である。
新旧兵団長は、引継ぎ――といっても、挨拶の黙礼を交わすにとどまったが、岡田参謀長は、これがいよいよの別れになると思い、旧兵団長に、深くいたわりの言葉を述べている。山内中将としては、軍司令部の作戦指導、また、自身への処置について、鬱屈《うつくつ》する不満も多かったはずである。多くの将兵を死傷させた痛苦も深かったはずである。岡田参謀長はその心情を思い、涙をもって、別れの辞を述べている。
旧兵団長は、撤退出発をするので、岡田参謀長をはじめ、司令部一同はそれを見送った。
「われわれの想像するより、ずっと重態です。内地の土を、お踏みになることができますかどうか」
旧兵団長と別れてもどる時、今岡参謀は、沈痛な声で、参謀長にささやいている。
岡田参謀長は、山内旧兵団長の担架を見送るについて、参謀部の将校一名に、東京まで随行を命じた。旧兵団長への、せめてもの志であった。
参謀長が、新司令部にもどって、幕舎内に休息している新兵団長に、旧兵団長を見送ったことを伝えると、新兵団長は、
「参謀長、直ちに作戦を開始したいと思うがどうか」
と、いった。
無謀きわまる発言に思えたが、新兵団長はそのつもりでいるのであろう。といって、参謀長としては、むげに、とても作戦開始などは、とはいえない。叱咤《しつた》されるだけであろう。
「作戦開始については、各部隊との連絡を充分にとらねばなりません。しばらくのご猶予《ゆうよ》をいただきたいのです」
参謀長が、ともかくそういうと、新兵団長は、
「では、それまでに、柳沢部隊を視察しよう」
と、いう。
「柳沢部隊へは、途中のラム付近に、かなりの敵が来ております。本日は、サンジャックの視察にとどめておいてください」
参謀長は、子供の機嫌《きげん》をとるように、いう。
その日は、なだめて、サンジャックの視察をしてもらい、翌日、ウクルルへ赴いて、松村部隊ほかの視察をすることになったのである。
松村部隊長が、その常識を疑わざるをえないほどの新兵団長の傲慢《ごうまん》な態度に、胸に痛手を受けざるを得なかったのは、この時の視察によるものである。
この、ウクルル視察の時は、前線の視察を終えた桑原参謀が参着していて、ともに新兵団長に従ったが、司令部へもどったあとで、桑原参謀は、岡田参謀長に向かって、こっそりと、こういっている。
「松村部隊の、ある中隊長が私に訴えましたが、なんという兵団長だ、人をバカにするにもほどがある、幕僚は、兵団長を軟禁して、参謀長に指揮をとらせたらどうですか、というのです」
中隊のほとんどが死傷している中隊長、それも、交代に交代を重ねてきた中隊長の、憤《いきどお》りをこめた悲痛な言葉は、おそらく、兵団全体の気持を代弁するものであったろう。
岡田参謀長は、隷下各部隊が、いかに勇戦敢闘してきたかを、よく知っている。たとえば兵団直轄の衛生隊にしても、作戦の蔭の力となって、戦務に尽瘁《じんすい》し、辛酸をなめている。衛生隊は、中佐を隊長とし、担架中隊二個、車輛《しやりよう》中隊一個、それに衛生部員で編成されていた。
衛生隊は、尾本部隊の三八三三高地の戦闘による全患者を担送し、ソクパオにおける二度の夜襲戦の全患者を収容、つづく四二四一高地における柳沢、尾本両部隊、及び対戦車戦に敢闘した鈴田部隊(師団高級副官鈴田正忠中佐指揮の二個中隊)の全傷者の担送等、作戦発起以来、任務の遂行に遑なかった。むろん、松村部隊の作戦地への援護と患者担送にも活動している。
これらは、岡田参謀長の指示のもとに行われてきたので、参謀長には、その働きぶりの実情がよくわかっている。後方で、図上戦術ばかりをくり返している軍の上層部には、なにもわかってもらえないのである。
その岡田参謀長は、新兵団長の暴走を案じながら、桑原参謀に、作戦主任を命じている。桑原参謀は、前線の事情にももっとも詳しいし、中隊長が不満を訴える程、兵団幕僚としては、信頼されている存在だからである。
「自分としては、前兵団長の意図を大事にして、作戦ほかの計画を練るつもりです」
と、桑原参謀はいった。
桑原参謀が、作戦主任を命じられた翌七月八日に、林集団(軍司令部)から、新攻勢をとるについての命令が来た。
命令の要旨は、兵団主力を、柳沢部隊の占領している地域に集結させ、行動を起こしてインパールに突入せよ、というのである。
軍司令部からの無謀な命令は、いまにはじまったことではないが、現在の装備と兵力を以《もつ》て、インパールへ突入せよ、と命じるのは、悲しいが、その効果は幻想である。
といって、参謀長が嘆いてはいられない。命令は命令である。全滅しても、インパールへの突入を図らねばならない。
「桑原参謀の意見をききたい」
と、参謀長は、幕舎内で、さしむかって、桑原参謀の意見をきいた。
「宮崎支隊をウクルルから南方に退け、ルンション北方、東西の線に陣地を占領します。同時に、松村部隊をウクルルから西南方に移動させ、ラムの敵を攻撃、これを撃攘《げきじよう》してラム、サンジャックの線を占領します。これによって、尾本、柳沢両部隊は敵より離脱できます。両部隊は、宮崎、松村両部隊の後方に集中させます。柳沢部隊配属の野砲二門は、携行不能と思いますので、非常処分をします」
宮崎支隊は、軍命令で、祭兵団の指揮下にあるので、全部隊を巧みに動かして、前線に孤立している尾本、柳沢両部隊を後方に収容しようとする案である。つまり、新兵団長の意図と逆を行う。
「独断撤退と、解されはせぬか」
と、参謀長がいうと、桑原参謀はつづける。
「尾本、柳沢両部隊を、現況のまま放置できぬことはわかっております。ただ、命令がなければ退却はできません。それで、無理な態勢を持続させているのです。今度の軍命令こそ、両部隊を救出する絶好の機会です。両部隊をいったん敵と離脱させ、その上で兵団は西南進して新攻勢の途につく、と説明すればよいのです。従って、これは命令違反ではありません。命令実施のための準備行動です。それに、情勢は必ず急変しますから、爾後の問題も自然に解決しましょう。大丈夫です」
参謀長は、桑原参謀の明晰《めいせき》な処理方針の案に感心したが、新兵団長に、その理屈をのみ込ませ得るかどうかが問題だった。しかし、説得するよりほかはない。言葉巧みに、意をつくして、参謀長は、新兵団長に桑原案を諒承《りようしよう》させている。
その翌日に、宮崎支隊の主力が、ルンション北方に退《さ》がってきている。
宮崎支隊長は、兵団司令部へ来て、新兵団長に挨拶《あいさつ》をしている。岡田参謀長は、幕舎内で、宮崎支隊長をもてなしながら、桑原参謀と相談したことを話し、さらに、
「この計画にかかる前に、つづけて軍司令部から、パレル方面に進出し、インパールに向けて攻撃前進せよ、という、まるで違った命令が出ています。朝令暮改もいいところです。軍司令部は何を考えているのでしょう」
というと、宮崎支隊長は、
「軍は、まだそんなことをいっているのですか。気違いだ。何もわかっておらぬ。岡田君、あんたが軍参謀におなりなさい。そして、立て直すんです。気違いどもにやらせておいたら、何をやるかわかったもんでない」
と、激しい言辞でいう。
その言葉をききながら、軍の威信地に堕《お》ちている実情を、岡田参謀長は実感している。
七月六日には、兵団陣地の右翼線を固めていた宮崎支隊の前面に、南下してきた敵が現われ、攻勢がはじまり、砲声が轟《とどろ》きはじめている。
七月六日、七日にわたって、松村部隊は、ラム付近の敵に対し、二回の夜襲を決行したが、敵陣を完全に奪取することはできなかった。従って、尾本、柳沢両部隊の退路は、依然として開くことができない。
宮崎少将は、この時、中将に進級している。
同時に、兵団長として、方面軍内の他戦場に赴くこととなり、軍命令によって、指揮下の烈の一個大隊を率いて戦場を去った。
祭兵団は、烈の残る二個大隊をもって、右翼線を固めることになった。同時に、尾本、柳沢両部隊を撤退させるについて、何らかの方策を樹《た》てねばならなかった。しかし、この方策については、事、志と違って、思わぬつまずきも、いくつか生じている。
ラム付近に、かなり強力な敵がいる以上、微弱な兵力しかない兵団としては、無理な強行はできなかった。それで岡田参謀長は、つぎのような作戦の指示を与えている。
一、砲兵隊はサンジャックに二門を残置し、これを松村部隊に配属、その他は特別分解の上、臂力《ひりよく》搬送で、万難を排しナンペシャに後退。
右のナンペシャは、ウクルルより七十五キロほども東南にあたる地点である。
(これは、のちのことになるが、祭兵団が渡河点まで撤退することになった時、兵団司令部は、ウクルルからルンションへ。ここで道は東西にわかれて、東はマオク、カムジョン、チャサットを経てナンペシャに至る。むろん山間の悪路である。西は、サンジャックに向かい、サンジャックからは南下して、コウショウ、パラン、サコック、モーレン、チャカップ、パチンを経て、ナンペシャに至る。ほぼ東路と相似た距離である。これは松村部隊のたどったコースである。山間部を二手にわかれて、迂回《うかい》しつつ渡河点へ向かっている。ナンペシャは、つまり、東西の南下路の合流点になり、道はここから東進してフミネに至り、フミネから南下してタナンへ、タナンから東進してトンヘに至る。トンヘはすでにチンドウィン河畔である。ここより少々南下したタウンダット付近で、兵団はチンドウィンを渡河する)(付図35参照)
けれども、七月九日の時点では、軍司令部からは、むろん撤退命令は出ていないし、祭兵団としても全力をつくして、最善の態勢をとらねばならなかった。
岡田参謀長の指示は、さらにつぎの如《ごと》くである。
二、松村部隊は、サンジャックの綏靖《すいぜい》隊及び残置砲兵を併せ、その地付近及びラム東方一帯の現占領線を確保、まず尾本部隊の撤退を容易ならしめ、以後戦線を撤し後退する。撤退時に火砲は非常処分をする。
三、柳沢部隊は日没後、隠密《おんみつ》に戦線を撤去、まずサレイコン高地付近占領、尾本部隊の本道以南への撤退を容易ならしめ、のち該高地を撤し後退、南下。
四、尾本部隊は日没後隠密に戦線撤去、カソム東西適宜の地区よりサンジャック=インパール道以南に移り後退。
五、烈の二個大隊は現在線確保、のち後方へ。
右の指示が、的確に行われると岡田参謀長は期待したが、実際には、柳沢、松村部隊が、ともに過早に撤退したため、憂慮すべき事態が生じている。参謀長としては、柳沢部隊が、敵の本道東進をサレイコン北方隘路《あいろ》で抑え、松村部隊がラムの敵の反転本道西進を監視牽制《けんせい》し、この間に尾本部隊を本道以南に移すにあった。
ところが、命令の伝達に疎漏《そろう》や脱落があったためか、命令が発令した通りに行われず、結果として、柳沢、松村両部隊が撤退し、尾本部隊のみが、本道以北の敵中に、ますます深く孤立することになった。
岡田参謀長が、事情が好転しないため悩んでいると、この時、軍司令部から新たな命令がきた。その命令は、ルンション東南方の山地を右翼とし、サンジャック付近を経て西南方へ大きく半円形を描く陣地を占領して、背正面から進撃してくる敵を陣前に破摧《はさい》せよ、というものである。
「これは、軍としてはじめての守勢命令ですね。猫《ねこ》の目のように命令がかわります。軍司令部の狼狽《ろうばい》ぶりを眼《め》にするようですが、とにかく、作戦の大転換ではあります」
桑原参謀は、岡田参謀長に、そんな意見をいったが、参謀長としても同感であった。ただ、少 なきに過ぎる兵力で、とても命令のような防禦線《ぼうぎよせん》など、できるものではない。
「この命令は、この作戦を終結する前提のものであろうね」
と、岡田参謀長は、桑原参謀にいう。
そうして、その命令を、柴田兵団長に伝えた。
「これは、退却するということではないか」
軍の昏迷《こんめい》は、そのまま、兵団長にも通じる。
兵団長は、頭を抱えて、俯《ふ》せている。
参謀長には、それ以上、何もいえなかった。新兵団長としての、インパール進撃の幻想も、ここに終止符を打たれたことになる。
この時、烈兵団の主力は、すでに遠く、チンドウィン河の西方地区に向かい、大退却中であった。
また、祭兵団に配属されていた烈の二個大隊も、主力の撤退に刺戟《しげき》されていて、兵団の意向を無視して、独断撤退に移りはじめた。
岡田参謀長は、その気配を察して、極力翻意《ほんい》を促しはしたが、大隊長らは、
「食なき地域には踏みとどまり得ない」
ということを理由として、撤退をつづけている。
「撤退というより、命令を無視しての、敵前逃亡でしょう。なにが烈か。劣るという字の劣でしょう」
と、兵団の幕僚たちは、烈の配属大隊の行動に憤ったが、戦線離脱をしてしまった以上、どうしようもなかった。残る方法は、あとを追って、引きとめるしかない。
岡田参謀長は、今岡参謀に、
「ともかく隊伍《たいご》を捕捉《ほそく》して、帰隊を説得してほしい」
と命じ、今岡参謀は、わずかな従者を伴うて、撤退した烈の二個大隊を追っている。
今岡参謀は、烈の敗走部隊を追いながらも、自分が、前線視察を終えて、ウクルルの近くまでもどって来た時、道脇《みちわき》の洞穴《どうけつ》の中で休憩していた、兵団司令部の給養係の久木大尉《たいい》に呼びとめられた時のことを思い出した。サイゴンへ来る輸送船の中でも、雑談をし合った仲である。作戦発起以来は、持ち場も違うし、多忙に追われて、顔の合うこともなかった。
雨が降っていて、今岡参謀は洞穴の中に入れてもらい、身体《からだ》をくっつけ合うようにして、しばらく話したのである。
今岡参謀は、久木大尉に、
「元気なようだね」
と、挨拶を返し、洞穴内に入れてもらうと、
「レイテ沖で大戦果をあげた、と、軍司令部からいってきているようだね。士気を鼓舞するつもりなのか。馬鹿な」
と、憤懣《ふんまん》を洩らした。兵団が上海《シヤンハイ》からサイゴンへ向かってくる時でさえ、わずかに海防艦一隻《せき》が護衛についたのみである。哨戒機《しようかいき》の影など、まるでみえなかったのだ。
「参謀、白髪《しらが》がふえましたね」
と、戦帽を脱いで、汗と雨水を拭《ふ》く参謀に、久木大尉は声をかける。
「兵隊が死ぬたびに、白髪はふえる。とめどなく、ふえつづけた」
何という無謀な作戦か、と、今岡参謀は思う。前線の惨状が眼に残っている。インパールのマニプール王国とビルマが戦った時、進攻したビルマ側が必ず負けた、という歴史上の事実が残っている。すべて、千メートルを越えるアラカン山脈の補給に悩んだからである。
この作戦に出発の時、今岡参謀は参謀長に、軍司令官は蘆溝橋《ろこうきよう》はおれがはじめたのだからこの作戦もおれが勝って戦局を収拾する、といわれましたが、どうお考えですか、ときくと、参謀長は、敗《ま》けるのはわかっているじゃないか、しかし命令だからやるよりほかはない、と、苦渋のいろをうかべて、いわれたものだった。
山嶮《さんけん》を越えるため、野砲をやめて、三一式山砲に代えている。だが、この旧式の山砲は、戦車を直撃しても、そのキャタピラさえこわせなかったのだ。進撃を開始して三日目には、牛はみな弱りはじめて、歩行不能になり、やむなく、糧秣《りようまつ》弾薬を負わせたまま、谷に棄《す》てた。駄載《ださい》している糧秣弾薬を、分担してかつぐほど兵隊に余力はなく、また、その時点では、牛を殺して食うに忍びなかった。従って、隊伍は、一歩ずつ悲劇の中へ歩み入ってきたのだ。その歩みは、いまもつづいているし、この先も、さらに深刻につづくであろう。
「君はひとり旅かね」
と、今岡参謀がきくと、
「部下を三名、先にウクルルに行かせています。私はくたびれたので、少々息を入れておるのです。これからフミネの、祭の糧秣集積所へもどって、撤退部隊への糧秣支給の仕事をやります。撤退部隊がフミネまでもどってくれれば、まァなんとか生きのびて、チンドウィンを渡ってくれるでしょう」
そういったあと、久木大尉は、
「こんなものでよろしければ」
といって、図嚢《ずのう》の中から、軍用の、小さな羊羹《ようかん》を一本とり出して、今岡参謀に渡している。
めずらしかった。なんとも美味であった。
「よくこんなものがあったね。なんとうまいものだろう」
というと、久木大尉は、
「バンコクで製造させた羊羹です。インパール入城後の、祝宴の時に配給するためのものです」
と、いう。
「せつない味だな、そうきくと」
「ここだけの話ですが、この羊羹が一箱だけ届きました時、給養係としては、公平にわけたいので、将校には半本宛《あて》、下士官兵には五人に一本宛の割で分配しています。その羊羹も粗製の急造品ですから、暑熱と湿気にいたんで、ぐるりは腐り、中心のわずかな部分に甘みが残っているきりです。参謀は長く前線視察に身を置いていられたから、いまこれをもらって美味だとおっしゃるのです。この羊羹は、師団長には、特別に三本差しあげましたが、師団長は、配当が少ないといっておこられ、管理部の主計が交代させられています。恥かしい、悲しい話ですが」
参謀は、その話に落胆を覚えて、首を垂れている。
「師団長には、別に、オートミルが十罐《かん》とどいています。好物ですからね。これも、私が、バンコクで特に準備させたのです」
「前線では、兵隊は、草を食って戦っておったよ。食糧どころか塩もない。いくら請求しても、塩の輸送機は来なかった。兵器も弾薬も食もなく、それでもかれらは戦っている。久木君。君だからいうが、おれは、生きてはこのアラカンを出るつもりはない。それでなくては、かれらを督励できるわけがないからだ」
「よくわかっています」
「どうも、しめっぽい話にばかりなるね」
「いい話は、アラカンの中にはありませんよ。いい話は、メイミョウにありましたね。軍司令部には桜が咲いていて美しかったです」
「そうだ。あそこは内地と同じ景色だった。松が生えていたな」
「私はメイミョウで、ひと晩だけ、軍司令官気分になりました。将校クラブになっている料亭に、軍司令官直属の菊丸という女がいて、同僚が口説いてくれて、やっと抱けたんです。明日は作戦に出て、二度と生きてはもどれない、といってくれたんで、情をかけてもらえました」
「ほう。すると君も、生きてアラカンを出るわけにもいかぬな。女に合わせる顔があるまい」
冗談とも、本気ともつかず、そんな話をしたことを、今岡参謀は思い出している。
しかし、その時から、ほんのわずかの間に、さらに状況は悪化している。作戦部隊の最精鋭の烈兵団までが、戦線を独断撤退している。いい分はあろう。それもわかる。だが、いい分は、祭にだって、あり余るくらいあるのだ。
(これも、のちのことになるが、今岡参謀は、はるかに遠くフミネに到って、ようやく烈の一個中隊を捉《とら》え、さらにチンドウィン河畔まで到ったトンヘで、大隊主力を捉えている。捉えはしたが、戦線復帰については、いかにしても、翻意させることはできなかった。今岡参謀は、軍には、その経過を報告するにとどめた。それ以上、なにをなし得たか)
三、ウクルルより渡河点へ
烈兵団が独断撤退し、祭兵団がウクルル周辺で、なお軍命令を守って悪戦をつづけているころ、弓兵団もまた、祭同様に、すべての攻撃は頓坐《とんざ》して、もはや作戦を継続する力を失い切っていた。弓兵団もまた、作戦発起当時に比して、その兵力を十分の一に激減させていた。
ただ、軍司令部は、体面上、作戦を打ち切れず、弓兵団の山本支隊が攻撃中のパレル要塞《ようさい》に対し、祭兵団を転進させて、協力させてこの要塞を陥《お》とそうと、企図している。パレル要塞は、インパール東南約五十キロの地点にある。
作戦の企図はなし得ても、それを実戦に移すことは、まったく不可能になっていた。机上の空論を樹《た》てたにとどまっている。祭兵団にしても、現状をいかに収拾して、敵と離脱して行けるかを考えるほかには、作戦の方途は立たなかった。
軍司令部としても、空論は空論として、それを認めざるを得ない事態になってくる。軍司令部は、遂に、最後の望みを託したパレル攻略を断念して、祭、弓両兵団に対し、とりあえずチンドウィン河畔への転進を命じることになった。祭兵団が、軍司令部から、作戦中止の命令を受けたのは七月十日である(祭兵団が、この時からチンドウィン河畔に達するには、山中行旅の辛酸を嘗《な》めながら、なお、二ヶ月弱の日子《につし》を要することになるのである)。
松村部隊の配属になって、ともに悲苦を頒《わ》け合ってきた本多大隊は、七月五日に、松村部隊の配属を解かれている。
松村部隊長は、幕舎に本多大隊長を呼び、配属部隊としての、長期にわたる善戦の労を、衷心より謝した。本多大隊は、ミッション橋爆破以来、つねに最前線に立って、勇戦を重ねてきている。松村部隊長としては、いかなる謝辞をつくしても、つくし切れない思いが、その胸にあったはずである。
松村部隊は、サンジャック西方六キロの、ラム付近の敵を撃破して、ルンション、サンジャックを右翼とする兵団の陣地線に兵力を収拾して、後図を策することになった。撤退もまた、容易の業でない。
兵団司令部の桑原参謀から、松村部隊長に電話のあったのは、七月九日である。その要旨は、つぎの如《ごと》くである。
一、第一線の尾本、柳沢両部隊は、敵の重囲に陥ちていて、サンジャックに転進することは不能である。従って、血路を拓《ひら》いて、山道を利用して撤退させる。
二、松村部隊は現陣地を脱して、サンジャック、コウショウ、レイシ、サコックの線を確保し、撤退する第一線部隊の収容につとめてほしい。(付図35参照)
この連絡により、松村部隊長は、十日には、コウショウ、レイシ、パラン、サコックの、南下するための要点を確保させている。
部隊本部は、レイシとパランの中間のレイチングに置いた。松村部隊長は、道脇《みちわき》に立って、任務地に赴く部隊の隊伍《たいご》をみまもった。
この時、雨はすさまじく降りしきっている。
松村部隊長の眼前を、南下しつつある隊伍の将兵は、雨に濡《ぬ》れつつただ黙々と行軍して行く。その、もはや敗残部隊としかいいようのない姿のあわれさよ。
(作戦発起の時の、あの颯爽《さつそう》たる勇姿はどこへ行ったのか。部隊長は、ただ、涙に耐えて、諸子らをみまもるしか方途はない)
松村部隊長は、胸のうちで、そうつぶやく。
兵隊たちはみな、顔色は青ざめ、眼《め》には力なく、頬《ほお》は痩《や》せこけ、頭髪はむろん髭《ひげ》も伸び放題で、乞食《こじき》としかいいようはない。無帽の者、原型をとどめぬほどの破帽を頭にのせた者、敵兵の帽子をかぶっている者。衣服はむろんぼろぼろである。襦袢《じゆばん》や袴下《こした》も身につけず、破れた服の隙間《すきま》から汚れた皮膚がのぞいている者。水のしみた破れ靴《ぐつ》を穿《は》いている者、片方しか靴のない者、まったく裸足《はだし》の者、足先にボロを巻いて靴の代用としている者。片脚だけ脚絆《きやはん》を巻いている者。病中とみえ竹の杖《つえ》を突いてよろめき歩く者。朦朧《もうろう》とただ歩いているだけとしか見えぬ者。なかには小銃も剣もなく、背負袋と飯盒《はんごう》のみを持っている者……。
(われらは中支戦線において、いかに赫々《かつかく》の武勲を挙げて来たか。その戦歴は戦史の上にこの上なく誇り得るものである。しかし、この作戦の発起以来四ヶ月。その間、渾身《こんしん》の力をつくして戦ってきた。そのための結果が、このように無残な、敗者の姿になったのである。まさに、刀折れ矢尽きている姿だ。しかし、諸子らが、いかによく戦ってくれたかは、知る人のみが知ってくれるであろう)
松村部隊長は、雨水と涙をもって頬を濡らしながらに、敗兵の歩みゆく姿をみまもっていた。
松村部隊長は、十二日に、兵団から、無電で左のような命令をうけている。
一、柳沢部隊は南方に向かい撤退中なり。砲兵部隊はサンジャック付近で、二門の火砲を非常処分し、サンジャック以東地区に撤退中なり。
二、尾本部隊は、なお敵の重囲に陥《おちい》りたるものの如く消息不明なり。
三、松村部隊は尾本部隊を捜索し、これが救出につとむべし。
松村部隊長は、兄弟聯隊《れんたい》の苦境を見殺しにはできず、とりあえず、二組の将校斥候《せつこう》を派《つかわ》して、様子をさぐらせた。
尾本部隊の、包囲されている地点は、松村部隊本部より十キロ以上離れているとは思えなかったが、消息はつかめなかった。部隊長は、再度、さらに三度、捜索隊を出している。しかし、それでも、尾本部隊の消息はつかめなかった。
しかし、五日目の、十七日の午後三時に、ようやく、尾本部隊から兵団司令部へ報告する、無電を傍受することができた。発信場所は、松村部隊最右翼陣地コウショウの北三キロの谷地からである。
尾本部隊長は、手兵わずか二十名とともに、軍旗を奉じて、ジャングル内に身を潜めつつ、惨澹《さんたん》たる苦労の末に、敵の重囲を脱して、友軍の収容陣地内へ達している。
「軍旗が安泰であって、なによりである。木の根や雑草、昆虫《こんちゆう》を食っての脱出行という。敵中で、隊伍も分散したのだろう」
まず軍旗を脱出させるために、尾本部隊全員が力をつくしたことは、おしはかられる。ほかの隊員たちも、無事に、重囲を脱してくれただろうか。
松村部隊長を中心にして、部隊本部の幹部たちは、語り合ったが、なお、愁眉《しゆうび》をひらき得ない眼を、みかわしたのである。
松村部隊は、兵団主力の撤退終了とともに、自隊としては、敵地に残存する友軍を収容しつつ、南下を図ることに全力をつくさねばならなかった。いかに傷ついているとはいえ、為《な》すべきことは為し、敗残なれども、なお、日本軍の隊伍としての、軍旗を捧持《ほうじ》した最善の形をとりたい。敗れて潰走《かいそう》するのではない。秩序ある撤退である。態勢をとり直し、渡河後、さらに新たな作戦に資する気魄《きはく》を失ってはならない。それを祭の心意気とすべきではないか。
七月十八日には、松村部隊長は、部隊本部を、サンジャック南方三十キロ(直線距離)のチャカップに移し、北方のラング、モーレン、カンピチン、モーリング、ソルデの各要地を占領させた。これらの集落には、住民の姿はまったくみえない。籾《もみ》を入手しようにも、手だてはない。籾があったにしても、住民はそれを巧みに隠匿《いんとく》して、山中へ逃亡している。部隊は、飢えに飢えを重ねながらの撤退をつづけねばならない。
このあたりは、標高千五百メートルの山岳地帯である。集落はすべて山頂にあり、集落に通じる道路も山の稜線《りようせん》上にある。松村部隊としては、この稜線上は絶対に確保して、撤退してくる友軍の安全を期さねばならない。
傷病者は、隊伍に遅れて、よろめきながらの撤退をつづけてくる。それらの者をも、可能の限り、渡河点まで、送り込んでやりたい。この撤退路にも、敵の先遣部隊の小部隊は出没しはじめているし、敵機の飛来にも備えねばならない。敵機は、日本軍を発見すると、必ず銃撃を加えてくる。銃撃のみならず、集落に焼夷弾《しよういだん》を落として、民家を焼いた。日本兵が宿営しているとみるのである。
雨季は、かわらずつづいているため、日の目をみることは、めったにない。ぬかるみ道を、雨に濡れながらの撤退が、ミッション以来、一ヶ月近く、ずっとつづいている。病者も続出している。マラリアとアメーバ赤痢がもっとも多い。これらの病者は、ここ一ヶ月ほどの間に、百数十名の多きに達していたし、患者を優先して後送させたあとの兵力は、各中隊とも、実に十名をも数えなかった。一個分隊にも達せぬ兵員である。
ただ、尾本部隊が、軍旗ともども敵地を離脱し得たことと、第三大隊の森本大隊長が手兵若干名を連れて本道上にたどりつき、松村部隊の傘下《さんか》に加わったことは、せめてもの心強さであった。もっとも、脱出者たちは、無残に疲れ果てていて、ほとんどの兵員は、兵器さえ所持していなかった。尾本部隊は敵の重囲の中で、一時、部隊の組織を解体し、各兵各自に脱出するよう命じ、部隊長は軍旗を守って離脱したのである。状況が、いかにきびしかったかがわかる。
七月二十三日。松村部隊本部の竹ノ谷中尉《ちゆうい》は、兵団司令部からの電文を読み、一時、わが眼を疑った。その電文は、司令部の糧食欠乏甚《はなはだ》しいため、応分の補給を考えてほしい、という要請である。
「一般に、補給というのは、司令部から隷下《れいか》部隊へ向けて行われるものですが、これでは逆です。われわれでさえ、糧食の欠乏甚しい事情です」
竹ノ谷中尉の、いかにも当惑した表情に向けて、部隊長も、うなずいて、いう。
「古来の戦史を通じ、稀《まれ》なる奇現象というべきだね。――といって、このような要請をされるのは、よくよくの事情の故《ゆえ》であろう」
「司令部が、兵団長まで、一日二回の少量の粥食《かゆしよく》を摂《と》っているというのですから、事情は察しられます。参謀長閣下には、なにかとご心配をしていただいておりますし」
「任せよう。努力してもらいたい」
部隊長はそういい、司令部の窮状を救うため、竹ノ谷中尉は部隊長の意を体して、各大隊に連絡し、血のにじむような米六百キロを集めて、カムジョンにある司令部へ搬送させている。これは兵員各自から、四日分を供出させたものである。
岡田参謀長からは、謝意をこめた電報が届いたが、松村部隊としては、供出した分の糧秣《りようまつ》の補充を考えねばならなかった。今後部隊がチンドウィン河畔に達するまでには、少なくも十日分の糧食を必要とする。部隊長は、行き着くのに一両日もかかる南方の山深い地の集落、ロングヤン、ブンゲといったところへ、糧秣の収集隊を送り出している。収集隊といっても、兵員そのものが少ないのだから、部隊の大半が、糧秣集めに動くことになる。
兵団は、軍命令によって、チンドウィン河畔への、撤退がきまっていた。兵団主力は、東方の道を南下して、フミネ、カバウ河谷、タナンを経て、河畔へ出る。松村部隊は、西側のコースをたどり、パチン、ヌガプルム、ナンペシャ、メイテイ、カンパットを経て、タナンに到る。もっとも、糧食を収集しながらの行程である。
(松村部隊が、タナンに達し得たのは、予定をはるかに遅れた、八月五日である。松村部隊長は、レイチングの路傍にいて、雨の中を撤退してゆく部下将兵の、痛ましい敗残の姿をみて泣いたが、そこからタナンへ到り着くまでの道々、路傍には、次第に、傷病者たちの、力つきて倒れ込んでいる姿を、みかけることが多くなった。撤退路をたどりながら、遂に力尽きて、行き倒れた兵士らの姿である。ことに、双方の撤退路が合流するナンペシャ以南の道は、烈の撤退路でもあり、路傍の様子はことにひどかった。
歩む力を失って、路傍にすわり込んだままの兵隊が、点々と眼につく。激励の言葉をかけながら、通過してゆくよりほかはなかった。
行き倒れた兵隊の、口もとに蠅《はえ》がたかっているのは、すでに死の寸前に在る者である。樹下に天幕を張って、数名の兵隊が寝転んでいる。近づいてみると、半数はすでに死に、残りの者は死にかけている。口をきく気力もない。あたりに屍臭《ししゆう》が漂っている。なかには、路傍で、すでに白骨になっている死体もある。雨と湿度と高温で、腐敗が早いのだ。
「みるに忍びぬ。この者らにとっては、渡河点までが、どんなに遠い道のりであったことか」
路傍の死者には、いちいち頭を下げ、部隊長自身も、重い足どりのままに、渡河点への道をたどっている)
松村部隊本部の栃平主計曹長《そうちよう》は、ウクルルに着いた時、部隊命令で、象輸送隊に同行して、サンジャックを経てフミネに赴くことになった。この象輸送隊は、経理班の長谷川伍長《ごちよう》らが、ウクルル南方の三叉路《さんさろ》で出会った象輸送隊である。この輸送隊は、フミネ=ウクルル間の、糧秣輸送に従事していた。
栃平主計曹長は、部隊がサンジャックに赴くに先立ち、象輸送隊と行動を共にしてフミネまで退《さ》がり、部隊の指示を待つように、ということであった。フミネには、祭兵団の糧秣集積所が設置してあるので、連絡のあり次第、糧秣を象に乗せて、指示地点にまで運んでくることになる。
栃平主計曹長は、西村一等兵とともに、象輸送隊にくっついて行った。象輸送隊は、象五頭に、兵隊は数名つく。象を扱うのはビルマ人である。象は、象だけを雇うのではなく、象と生活しているビルマ人の家族そのものと交渉して、かれらの象に、輸送すべき物資を運んでもらうのである。従って、積載量もきまっていて、象の背の両側の鞍に、百キロ麻袋を一つずつしか乗せられない。象は身体《からだ》が大きい割に、背に物を乗せる力は案外に弱いためもある。
象は一見頑丈《がんじよう》そうだが、マラリアにもかかる。マラリアにかかると、そのまま動かなくなる。すると象使いのビルマ人は、象の背に乗せてある家財道具等一切を下ろし、象をその場に放置し、象が動けるようになったら、連れてゆく。病象が、飼主にほっておかれたままに病気がなおると、行き場がないので野象になる。野象は、飢えた兵隊に撃たれて、食用になることもある。ただ、象の肉は、あまりうまくなく、冷凍の鯨肉のような味がする。象は体重が重いから、倒しても、その肉は、上のほうしかとれず、あとは禿鷹《はげたか》の餌《えさ》になるだけである。
象は、歩きながら、たまに放屁《ほうひ》をする。その音は、高度二千メートルくらいで飛来する、飛行機の爆音と同じくらいの大きさなので、兵隊が敵機の爆音とまちがえて、ジャングルに駈け込んだりする。
象は、のそりのそりと歩いているようだが、一緒に歩いてみると、かなりの速度である。悪路も急坂もおかまいなしに、一定速度で歩き、ときどき地響きを立てるほどの糞《ふん》をする。その量も多く、象のしっぽにつかまって夜道を歩いていると、糞につまずいて引っくり返ったりする。
象輸送隊の兵隊たちから、そんな話をききながらの行軍は気やすかったが、栃平主計曹長たちが、泊まりを重ねて、ようやくフミネの野戦倉庫に着いてみると、倉庫長の重松中尉から、
「倉庫には、みるべき荷はもはや何もない。数日前、撤退してゆく烈の部隊に襲われ、力ずくで、糧秣はすべて奪われた」
と、いわれた。
寝耳に水の報知である。わずかな数の倉庫守備者では、どうしようもなかったらしい。
梅干だけがいくらか残っている――ということだったので、栃平主計曹長は、部隊長への土産に、梅干をいくらかもらって引き揚げることにした。空の倉庫にいても仕方がなかった。
松村部隊の第二歩兵砲小隊の桑原軍曹は、六月下旬に、輜重《しちよう》第十五聯隊の部隊本部と行動を共にして、ウクルルに近い道路脇《わき》の一角で、天幕露営をしていた。草木を叩《たた》く雨の音にまじって、ときおりトッケーの声をきくばかりである。
すると、表を通る大勢の声と、物音がきこえる。昼間は前線への輸送隊や、患者輸送などで人が通るが、夜間に人の通るはずもない。
桑原軍曹が、何事かと思って、天幕の外に飛び出ると、あたりはまっくらのはずであるのに、明るい。みると、先頭に松明《たいまつ》をかざした一団の隊伍が歩いている。一見、野盗の群をでもみるような思いがした。
道幅三メートルもないその道一ぱいに、兵隊たちが、銃を天秤《てんびん》にかついだり、杖を突いたり、肩を貸して負傷者を支えたりして、フミネの方向へたどってゆく。松明は、防毒面のゴムの部分を、木の股《また》にはさんで燃している。夜間は、敵機の偵察《ていさつ》を警戒して、灯火制限もされているのだが、隊伍は大っぴらに松明をかかげて、後方へ去ってゆく。
「貴様ら、どこの部隊だ」
桑原軍曹がきくと、
「烈です」
と、いう。
「烈? どうして撤退するんだ? いつ撤退命令が出たんだ? 祭はまだ前線にいるぞ。だれの命令だ?」
問うても、かれらは答えずに、歩んでゆく。
桑原軍曹は、一人の伍長の肩をつかんで、さらに問いただす。
「師団命令です。われわれは糧秣がなくて、もう戦えんです。とにかく、糧秣のあるところまで退がります」
「馬鹿者《もん》。糧秣のないのは貴様らだけじゃない。祭も同様だ。貴様らが勝手に撤退したら祭はどうなる。祭を見殺しにするのか。こら、はずかしくはないのか」
どう叫んでみても、一団の兵隊たちに、通じるわけはない。かれらは、黙々と通り過ぎてゆき、あとは、再び、闇《やみ》の占領する夜となった。
七月になって、輜重聯隊に転進命令の出た時、桑原軍曹らも、輜重聯隊とともに、雨中のぬかるみ道を、フミネにまで下がった。しかし、フミネの祭の野戦倉庫には、一粒の米、一匙《ひとさじ》の塩、ひと握りの野菜もなかった。
「糧秣は、烈の撤退する兵隊が、みんなさらって行ったんです」
と、倉庫係の兵隊はいう。
松明を、あかあかとつけた一団を、桑原軍曹は思い出し、痛憤の情を新たにしている。
部隊本部経理室の長谷川伍長は、ウクルルで、本部に合流し、それまでの委細を報告したが、新たに、各個に撤退してゆくよう、部隊副官斎能大尉からの指示を受け、杉林兵長の待っている三叉路まで引き返すことにした。そこで三者揃《そろ》って、サンジャックを経て、撤退をつづけることになる。
その三叉路へ引き返す途中で、長谷川伍長は、両足を負傷しているため、四つ這《ば》いになって撤退をつづけている兵隊と会った。きくと、烈――だという。
「サンジャックまで、あと、どれくらいですか」
と、彼はいう。心細げな表情だが、懸命の様子である。
「夕方には着ける。元気を出して行ってくれ」
と励ましたが、胸がつまった。言葉をかけてやる以外に、なにができただろう。
長谷川伍長は、夕刻前に杉林兵長と合流し、撤退してくる本部を待とう、と相談した。長谷川伍長は、杉林兵長の病状が心配だったので、指示に従って引き返してきたのだが、今後の行動としては、やはり本隊に同行したかった。
しかし、その日も、その翌日も、本隊は、長谷川伍長らのいる地点へは、姿をみせなかった。ただ、夜半に、本多大隊の一部が、通過して行ったきりである。
朝方、象が一頭、退がってきた。
同年兵の山田上等兵が、一緒についてきている。様子をきくと、サンジャック付近の戦闘で、今西兵長戦死、木村上等兵両足負傷、よって、木村上等兵を象に乗せて撤退してゆくところだ、という。
象の背に、木村上等兵が乗せられている。四つ這いで歩いていた烈の兵隊にくらべると、まだしも木村上等兵は運がよかったのである。
しかし、長谷川伍長が、木村上等兵に声をかけても、ほとんど反応はなかった。象の上で、力が尽きてゆくのではないか、と思われた。うつ伏せになって、あやうく揺られてゆくだけである。
山田上等兵は、
「聯隊《れんたい》は、間道に入って、撤退をつづけた模様だ。待っていても、ここへは来ないぞ」
と、いう。
仕方がないので、山田上等兵と行動を共にする。途中で、師団の経理室と会い、今度はこれと行動を共にする。本道上のぬかるみ道に、小止《こや》みなく雨が降っている。本道上を南下しはじめてまもなくの、マオクへ着く途中の道脇に、烈兵団の傷病者の一団が、ゆるい傾斜地に倒れ込んで動かない。みると、すでに遺骸《いがい》になっている。
この本道は、フミネに向かう東の道で、マオク、カムジョン、チャサットを経てフミネに到り、フミネからはタナンへ一路南下する。隊伍は、病者か、病者でなくても衰えの深まった者ばかりだから、いつとなくバラバラになり、結局は、各個に撤退してゆくことになる。撤退の遅れた烈の兵隊と、まじり合うようにして、一緒に歩いていたりする。
本道は、カムジョンからはフミネまで下り坂になるので、歩行はいくらか楽になる。道は、ジャングルの中を縫うかと思うと、一面野原ばかりになる。敵機の来襲がしきりなく行われるので、つとめて夜行軍をつづけることになる。
長谷川伍長は、道脇のジャングルの中で仮眠中、草を踏む足音がして、目覚めると、その足音が逃げてゆく。枕《まくら》もとに置いた背負袋がない。その中には、わずかながらも、いのちをつなぐための米や岩塩が入っていた。
「泥棒《どろぼう》だ、装具を盗まれた」
長谷川伍長はそういい、井上上等兵とともに、逃げ去った盗人を追ったが、相手は三人で、おそろしく足が早く、みるまに樹間に姿を消してしまった。
「食糧は、わけ合って食べればいい。フミネまで行けば、なんとかなるはずだ」
井上上等兵は、長谷川伍長を慰めるようにいう。行倒れになって、道脇で死んでゆく兵隊もあれば、慓悍《ひようかん》な山賊のように、人の物を掠《かす》めてゆく兵隊もいる。
(ひとさまざまか)
大切な荷物も、盗まれてしまえば、あきらめはつく。ともかく、こうして生きてはいるのだ、と、自分にいいきかせるのである。
長谷川伍長らは、いく日目かの朝方に、フミネに着いたが、期待していた食糧は、野戦倉庫にはなかった。長谷川伍長らは、水飴《みずあめ》少々と、しめった煙草《たばこ》をいくつか、倉庫監視の兵隊からもらっただけである。
フミネからタナンへ南下してゆく道は、途中に、行き倒れている兵隊たちの姿をみることが多くなった。烈か祭か、たしかめるすべもない。死者をみても、次第に無感動になってゆく。その気持をつらく悲しく思うが、どうしようもない。
タナンへ近いあたりで、草むらの中にすわり込み、石仏のように動かない兵隊の姿をみて、どこか見覚えがあった。長谷川伍長が近づいてみると、部隊本部功績室の藤本上等兵だった。
長谷川伍長は、相手に呼びかけ、
「こんなところにすわり込んでいてはだめだ。一緒に退がろう」
と、すすめたが、藤本上等兵は首を振るばかりである。患者輸送隊から脱落し、どうやら、覚悟をきめてしまっているらしかった。長谷川伍長らにしても、人を支えてゆくだけの余力はない。
励まして、立ち去る時、
「いまは、これを頼みにしているんだ」
といって、藤本上等兵は、手榴弾《てりゆうだん》をとり出してみせた。
長谷川伍長らは、昼過ぎにタナンに着いたが、タナンはまったくの無人集落だった。それでも、ここも、ジャングルの中の宿場のように、天幕を張った下で休止している患者たちが、いくつか眼《め》についた。ここでめぐり合って、手をとりあって仲間同士の無事をいたわり合う者たちもいた。長谷川伍長も、松田上等兵、山本一等兵らが、比較的元気に患者隊にいるのと会って、互いに励まし合っている。
しかし、ここからは東へ、山間の道をたどることになる。氾濫《はんらん》する川を越え、嶺々《みねみね》を越え、チンドウィン河に近いトンヘまでの、死生を分けるきびしい行程がつづくのである。
松村部隊本部の太田准尉《じゆんい》は、行李班《こうりはん》の山田一等兵の世話になりながら、ミッションの野戦病院を出て以来の、撤退行をつづけていた。
太田准尉は、五月十七日、伊藤挺進隊《ていしんたい》がエクバン高地夜襲を決行する時、部隊長に命ぜられて、行李班十五名を率いて、別働隊として夜襲に加わることになった。太田准尉は軍旗小隊長をつとめていたが、そのあとで部隊本部のあったチンサット東方高地(太田山と呼ばれた)の守備を命ぜられている。予備隊三十名を率いての守備だったが、この高地を守るには兵力装備が少な過ぎ、敵機や迫撃砲の、間断ない攻撃にさらされて苦戦した。それで部隊本部は、挺進行を終えてきた粟沢中隊に、守備交代を命じたのである。
太田准尉は、本部へもどると、今度は、伊藤中隊のエクバン高地夜襲に動員されたわけだが、この時、伊藤隊長をはじめ多くの死傷者が出たのに、太田准尉の一隊は、太田准尉だけが大腿部《だいたいぶ》等に重傷を負い、部下は一兵も損傷がなかった。太田准尉は、歴戦の経験で、無益には兵を出させなかった。もともと行李班は、戦闘任務には適しないのである。太田准尉は、小隊長として、自分ひとりが重傷を負うことによって、行李班十五名を救っている。
その時、行李班の一員だった山田一等兵は、部隊長の許可を得て、太田准尉に付き添って、当番兵として、ミッションの野戦病院へ赴き、以後、撤退行に、ずっと付き添って世話をしてくれている。いわば、山田一等兵は、太田准尉のエクバン高地戦での行李班全員の恩義を代表して、太田准尉に尽くしていたことになる。太田准尉が行李班を率いて攻撃した地点は、鉄条網の防備がきわめて厳重で、強行して突入をはかれば、戦闘経験の劣る行李班は、全員が死傷したのである。太田准尉は、単身、鉄条網の突破可能の地点をさぐりさぐりするうち、敵の掃射を浴びて重傷を負うたのである。つまり、指揮不能になり、伊藤隊の撤退とともに撤退し、夜明けからその日一日じゅう、傷の痛みに耐えて山中で日暮れを待ち、帰隊したのである。
太田准尉は、杖を突いての、辛《かろ》うじての撤退行だったが、幸い、フミネで、顔見知りの輜重隊の下士官がいて、輸送用のトラックに乗せてもらうことが出来、山田一等兵とともに、本道を南下しつづけることができた。
松浦少尉と別れて、独歩患者隊に加わっていた沢井少尉は、フミネを過ぎるころには、連れがなく、ひとり歩きになっていた。隊伍を組んでいると、敵機に狙《ねら》われやすく、当然、散り散りになって行動するようになったのである。
独歩行をつづけているうちに、幸い、足は少しずつ楽になってきた。ただ、道は、降雨のため、ところによっては川のようになっている。飛行機の爆撃のため、掘り返されているところもあり、そこに水がたまり、道脇の木の根を踏んで歩いたりすることにもなった。タナンからトンヘへの道は、ことにひどく、路傍の死者の眼につくことも多くなった。
歩きぶりが、よろよろしていると、うしろから、見知らぬ兵隊が押してくれる。押してくれるのは親切だからではなく、どの程度体力があるかをためすのである。よろめいたまま倒れ込むと、抵抗力のない身から、所持している糧秣《りようまつ》などをさらってゆく。つまり、大っぴらな山賊まがいの行為で「烈の兵隊がやる。祭は残って戦闘しているのだから」と、これはフミネで、兵隊に教えられたことである。
沢井少尉の場合は、押されて倒れるような心配はなく、ともかくも、独歩行で、渡河点に近い野戦病院まで到り着いている。
沢井少尉を見送り、あとに残った本多大隊の松浦少尉は、五七九七高地までは担送してもらったが、あとはひとり旅となった。
足の傷は、化膿《かのう》がひどく、これで終わりだろうと、覚悟をきめざるを得なかった。曲りなりに独歩患者になれた沢井少尉を、改めて羨《うらや》ましく思ったものである。
崖《がけ》っぷちの、一人天幕の中に、置き去りにされたのを、衛生兵が繃帯《ほうたい》交換をしてくれたりしたが、部隊が撤退してしまうと、そのあとを追って、行ってしまった。むろん、当番兵もいない。
松浦少尉が、なぜ助かったか、というと、衛生隊の援護があったからである。衛生隊は、五七九七高地へも来てくれて、たぶん、最後の撤退者とみなされる松浦少尉を、担送してくれたのである。衛生隊はよく組織されていて「一人でも多く助けよ」というのが、かれらの信条のようだった。
尾根づたいをたどりたどりに撤退し、七月十日に、フミネに達している。ウクルルからは、ルンション、マオクを経て、本道上を来たが、この道は自動車も通れる、比較的曲折の少ない道である。フミネには、野戦病院があったが、むろん医薬品もなく、また野戦倉庫には、一粒の米もなかった。
ここで、水筒に残っていた水を飲んだ。水は必ず沸かして飲め、といわれていたが、かわきに耐えかねて、飲んだ。すると、三十分も経《た》たぬうちに、烈しい腹痛と排便感が見舞ってきた。アメーバ赤痢である。アメーバ赤痢は、症状のひどいのは、二分間に一回ずつ下痢をするが、松浦少尉の場合は、それほど重くはなかったが、それでもその日以後、日に二十回くらいの下痢に悩まされた。身に傷があるので、下痢はよほどこたえるのだ。
足の繃帯の上に蠅《はえ》がとまり、卵が蛆《うじ》になると、蛆は弾丸の抜けた傷口の奥へ匍《は》い込んでゆく。蛆は膿《うみ》を食べるので、ある意味では傷口の掃除をしているのだが、そのときの痛みはきびしい。このあたりでは、蠅の種類によるためか、蛆に毛が生えている。特別上等なのだろう、と、松浦少尉は思った。
フミネでは、しかし、半分腐った握り飯をもらえたし、衛生隊のみつけてくれた煎《い》り米を、鉄帽で砕いて食べた。たとえアメーバ赤痢があっても、食べられるものは食べて、行動しなければならなかった。
前線の、どこか遠くで、砲声が、かすかにきこえはじめていて、
「動ける者は、一歩でも退《さ》がれ」
という、だれの命令ともわからぬ命令が、伝達されてきている。
松浦少尉は、烈兵団の一人の将校とともに、衛生隊に担送されて、渡河点への撤退行をつづけている。衛生隊は、一つの担架に、六人ついていてくれた。この点、松浦少尉は、重傷患者ではあるけれども、あるいは、恵まれた患者であったといえたかもしれない。ともかく、トンヘの、第二野戦病院までは、運んでもらえたのである。
撤退をつづけていた兵団給養係の久木大尉は、フミネを発《た》って、かなりの道のりを来たころ、疲れて、道脇に腰を下ろしているうち、いつのまにかうとうとと眠ってしまったが、だれかが激しく叱咤《しつた》する声で、目が覚めた。
みると、同行の軒田軍曹《ぐんそう》が、眼の前で、ぬかるみの中に土下座をして、頭を下げつづけている兵隊に向けて、どなりつづけている。
「貴様らには、一粒の米もやれん。帰れ、貴様らのおかげで、祭の前線では、何百という兵隊が死んでゆくんだ」
どなっている軒田軍曹の声が、次第に弱まってくるのは、相手の反応がないからだろう。土下座した兵隊は、ただ頭を下げつづけるだけである。
「何事かね、軒田軍曹」
と、久木大尉が、きく。
「烈の兵隊だそうです。准尉さんの当番ですが、その准尉さんが倒れたきり動けないんだそうです。准尉さんは、もう六十だそうです」
「六十? なんでそんな年寄を作戦に出させたのかね」
軒田軍曹が、一粒の米もやらない、といっているのは、フミネの兵団の糧秣集積所を、烈の一二四聯隊の一部が襲ったからである。かれらは警備兵の制止もきかず、威嚇《いかく》射撃を加え、糧秣のほとんどを奪って、渡河点方向に向けて撤退している。
その恨みが、軒田軍曹にはある。
といっても、いま、老准尉のために、土下座して頭を下げつづけている、朴訥《ぼくとつ》な当番兵には罪はない。その兵隊自身、痩《や》せに痩せ、眼だけが生きていて、ミイラのようである。この兵隊と老准尉が、渡河点まで到り着ける、という可能性は、もうないのではないか。
久木大尉は、そう思った時には、立ちあがってい、軒田軍曹に命じて、二人で一食分に足りるほどの米を、土下座の兵隊にわけてやった。彼が身につけていたのは、飯盒《はんごう》と帯剣だけである。
「自分も、あの兵隊の気持が、わからんわけでもなかったのですが、つい」
と、軒田軍曹は、いう。
久木大尉は、わかっている、というように、うなずいただけである。だれが悪いわけでもないのだ。こういう運命が、見舞ってきただけなのだ。
久木大尉と軒田軍曹が、撤退をつづけてゆくと、前方に、七、八名の一団がいて、中に、担架を一つ支えている兵隊たちがいる。その一団は、おそろしくのろのろと歩いていたが、久木大尉らが追いついた時、担架兵の一人が、つまずいたように前のめりになり、担架を地に投げ出すとともに、兵隊自身も動かなくなった。
仲間のひとりが寄って行き、
「こら、勝手に休んではならん」
と、呼びかけたが、つづけて、
「死んだんか」
と、つぶやくと、一瞬、放心した眼になって、その場へさしかかっていた久木大尉をみた。
久木大尉は、地にのめり込んで、息の絶えてしまっている兵隊をみつめた。ほかの担架兵は、というと、まったく無感動な表情で宙をみている。かれらは初年兵であろう、かれらは課された任務に忠実に従い、死によって、はじめて、その任務から解放されるのである。なぜ、死ぬ前にやめないのか。なぜ、死ぬまで担架にくっつくのか。
その一団を、追いぬいて歩きはじめた時、
「烈の兵隊ですね。烈もひどいものですね。よくもあそこまで撤退せずに頑張《がんば》っていたものですね」
という軒田軍曹の口ぶりには、烈もまたよくやったのだ、という思いがにじんでいる。
(烈のあとで撤退してくる祭は、もっとむごい姿を野にさらすだろう、烈でさえこの始末だ)
と、久木大尉は、自問自答する。
久木大尉は、自分が、安徽《あんき》省蕪湖《ぶこ》県の貨物廠《しよう》で、物資の調弁班長を務めていた、昭和十八年の春を思い出している。貨物廠は揚子江《ようすこう》のほとりにあった。蕪湖は江南米の集散地で、町並も、戦火の厄《やく》を免《まぬ》かれていて、賑《にぎ》やかなたたずまいだった。どこもかも江南の水景に恵まれた、眺《なが》めのよい土地であった。このアラカンの山奥のきびしい風景とくらべて、なんという相違だろう。
しかし、よくない運命の兆《きざ》しは、すでに、その時にはじまっていたのだ。南方移動の噂《うわさ》がしきりだったが、それだのに、軍の上層部は、それをひたかくしにしていた。
久木大尉は、新任の参謀長をつかまえて、きいた。
「行先を教えていただけませんか。職責上、どうしても知る必要があります」
問いつめると、参謀長は、絶対に口外するな、という条件のもとに、南方移動の計画を話してくれた。久木大尉は、その趣旨に関する物資、被服、糧秣、携行資材、軍資金等、調弁班長としての職責を全《まつと》うするために、多忙に追いまくられ、上海へ移駐の直前に、やっと、南方派遣金銭処理要項――を、まとめて、提出したほどである。
ところが、その上海では、大量の防暑衣袴《いこ》を発註《はつちゆう》作製せねばならなかった。つまり、これから南方へ参ります、ということを公開したわけである。なんのための企図秘匿《ひとく》だったのか。それに、ジャングル戦を想定して、長柄《ながえ》の鋸《のこぎり》や鎌《かま》、竹槍《たけやり》の先に剣を付した奇妙な道具(どう考えても兵器とはいえぬもの)なども作製した。そうしてそれらは、実際上、なんの役にも立たなかった。
役に立たなかった、といえば、サイゴンに上陸し、バンコクに駐留していた時、一千個の火焔《かえん》放射器を作りかけていたことだ。かきあつめた一千万バーツの軍資金のうち、百五十万バーツを、この火焔放射器のために費《つか》え、といわれた。あれは、滑稽《こつけい》というしかない兵器だった。鉄の円筒に圧搾《あつさく》ガソリンを入れ、火をつけて飛ばす、すると小さな火を吹いて十メートルほど飛ぶ。こんなものでだれと戦うつもりなのか、と思えた。一千個の予定を、百個に削減させるために、自分はどれほどの苦労をしたことか。
まだある。船釘《ふなくぎ》十隻《せき》分。トラック二十台。サムロウ(更生車)二百台。牛鞍《ぎゆうあん》三千。牛の足金三千(これはいわば犬に靴を穿《は》かせるような愚かな着想であった)などは、なんのために必要だったのか。シャン高原を越えて、ビルマに入ったものさえ一台もない。すべて、バンコクの倉庫に眠ったままに終わったのだ。
これらは、ほんの一例である。作戦準備の繁忙と、有用とすべき軍資金を、無用のことに費消されてゆく憤《いきどお》りと心労にたえかねて、経理部長の武部中佐は、遂に拳銃《けんじゆう》自殺をしてしまっている。
思えば、祭兵団は、バンコクから北上してチェンマイに集結し、シャン高原を道路構築しながら進み、メーホーソンを経てビルマに抜けることになっていたのに、急遽《きゆうきよ》、マンダレー=ウントウ間の線に進出せよ、という軍命令を受けてからは、山中の一千キロを越える強行軍に喘《あえ》がねばならなくなった。そして、そのあとに、インパールへの進撃作戦が待っていた。われらは歩きに歩き、なんのいいこともなく、アラカンの山脈中を彷徨《ほうこう》して、いまや、惨澹《さんたん》たる最期《さいご》を遂げようとしつつあるのではないか――と、そんな悲痛な回想、前途への思いが、久木大尉《たいい》の脳裏を去来するのである。
久木大尉は、フミネにいた時、アメーバ赤痢が悪化して、一週間余り寝込み、松谷上等兵の世話になりながら、休養していた。
アメーバ赤痢の症状は、はじめ、ふいに激しい腹痛がくる。血のまじった下痢をする。そのあとは痛みと下痢のくり返しで、症状は次第にひどくなる。前線では、日に下痢八十回以上は休養、八十回以内は戦闘可能、という区分をした、ときいている。
久木大尉の一行は、兵団の金櫃《かねびつ》を預かって、八名ほどで行動していたのだが、途中、欠けていった者もあり、フミネでは、軒田軍曹と松谷上等兵が残り、あとの者は、金櫃を護衛させて、先に渡河点へ向かわせた。司令部からの命令を受けていたからである。
松谷上等兵は元気で、チャサットの師団の軍医部へ、久木大尉のための薬物をもらいに行ってくれている。山道六、七キロを行きもどりする。松谷上等兵は、薬品のほかに、途中で、竹ノ子や野菜まで仕入れてきている。
薬は、エメチンとメタポリン、それにかなりのヤテミンをもらってきた。
「ヤテミンか。ずいぶんくれたな」
と、久木大尉がいうと、松谷上等兵は笑って、
「ひとり死んでくれたんで百人くらい助かる、と、高橋大尉殿がいわれました」
と、いった。
妙な返事なので、きいてみると、軍医部の崎ヶ瀬中尉がモヒ中毒で死んだが、所持品を調べてみると、大量のヤテミンがあった、というのである。このアメーバ赤痢の特効薬を、中尉は、自分ひとりで隠し込むようにして、人には渡さなかったのだ。どういう心理だったのか。それを咎《とが》める思いはないが、ただ、わびしい気がする。
久木大尉は、アメーバ赤痢の症状の安定を待って、フミネを発ったのだが、フミネで寝込んでいる間に、戦線の様相は、一段と悲愁の感を深めている。フミネから、渡河点に近いトンヘまでは、山道三十キロほどである。
フミネから、山路へかかるまでに、川を三つ渡らねばならなかったが、いずれも砂底の急流で、深さは胸までもある。久木大尉は病後のため、何度か流されそうになるのを、松谷上等兵に支えられて、三つの川を渡ってきた。撤退をつづける傷病者は、この川を渡り切れるのか。
三つの川を渡り切ったあと、疲れを休めるために、とある竹藪《たけやぶ》のほとりへ行くと、そこに焼けたトラックの残骸《ざんがい》があり、兵隊がひとり死んでいる。死んでいる兵隊に、久木大尉らが眼《め》をやると、その兵隊が、ゆっくりとした動作で、手招きをしている。
一瞬、久木大尉は、ぎょっとして足をとめている。
「生きてます。呼んでるんです」
と、松谷上等兵がいう。
久木大尉は、その兵隊の傍《かたわ》らへ寄って行き、なにか訴えかけるので、耳を寄せると、
「ミズ、ヲ、クダサイ。モウ、三日、倒レタママデス」
と、いう。
かれは、自分の腰の水筒をゆびさす。
久木大尉は、空になったままのその水筒をぬきとって、松谷上等兵に命じて、川へ水を汲《く》みにやらせた。久木大尉が、松谷上等兵から水筒をうけとり、水を飲ませてやり、その水筒を、兵隊の腰にもどしてやっていると、
「向こうで、火を焚《た》いている兵隊がいますよ」
と、松谷上等兵がいう。
濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》の衣服を、少しでも乾かしたかった。
それで、久木大尉が竹藪の中へ行くと、兵隊が三名、焚火をしている。竹を焚いているので、煙はあまりたたない。しかし、異様なのは、焚火を囲んでいる三人の兵隊は、いまのいま倒れているのをみてきたあの兵隊同様に、ただぼんやりと、すでにこの世の者でないような顔かたちで、焚火をみていたのである。亡霊――のようにみえたのだ。
「お前たちは、こんなところで何をしているのだ。早くトンヘへ退がるがよい。がんばってそこまで行けば、もう渡河点ではないか」
すると、少しして、ひとりが、かすれた声でいう。
「自分らは、トラックの、残骸監視を命じられております」
「あんな焼けトラックを、なんのために監視する? 早く撤退せよ。食うものはあるのか」
「草を食べております」
「もう命令は守らんでもよい。早く撤退しなさい」
「撤退しようにも、もう歩けんです」
衣服を乾かす気もなくなり、三人の兵隊を励ます言葉だけを残して、久木大尉らは、歩き出す。
「あのトラックをほっといて歩けば、トンヘまで着けたのではありませんか。ふしぎな兵隊ですね」
と、松谷上等兵は、いう。
「命令の解除がないから、ああして命令通りにしているのだ。命令を解除すべき上官は死んでしまったのだろう。従って、かれらは死体となっても、焼けトラックを守るのだ」
あれも烈の兵隊、烈の気質である。
かれらのみではない。兵団長の命令がなければ、烈は全員、コヒマで死んだであろう。
山道にかかると、赤土がぬかるみになっているため、甚《はなは》だ難渋する。傷病者のまともに歩ける道ではない。山また山の嶮路《けんろ》を越えて、久木大尉らは、山の狭間《はざま》の竹藪の蔭《かげ》で、その日は泊まった。
翌日、野営地を出発して山道をたどっていると、ぬかるみの中に、兵隊がひとり倒れている。起き上がろうとしているが、起き上がれない。泥《どろ》が、とりもちのように兵隊にねばりつく。そういうふうにみえる。
松谷上等兵が、支えて起き上がらせようとしたが、立つ気も尽きているのか、やっとすわり込むと、そのままで、
「班長は先に行ってます」
と、いう。
実に悲しげな、顔と口ぶりで、いうのだ。
「班長が先に行っているのか。お前も行かねばならんだろう。元気を出せ」
「自分はもう駄目《だめ》です。自分がここに倒れていたことを、班長に知らせてくれませんか。お願いします」
彼は、そこまでは、かなりはっきりと意思表示をした。ところが、つぎに、その班長の名をきいた時、それまでで、ふいにがっくりと来たのか、いまいったことは忘れてしまったように、まったく無表情に、久木大尉をみるのである。かさねて班長の名をきいてみたが、やはり反応はない。
人間は、いちばん先に、感情が死んでしまうのかもしれない。松谷上等兵が、ひと握りの米をさし出したが、彼はふしぎに、見向きもしなかった。おそらくこの兵隊には、飢えよりも、さらに重大な、なにか、があったのだ。この地点までは、班長が彼を支えてきたのか、それとも彼が班長を支えてきて、その先はだれかに代ってもらい、彼はとり残されてしまっているのか。いずれにしろ、傍観者でしかない久木大尉には、事情の察しようもなかった。
久木大尉らは、その兵隊を、道脇《みちわき》に寄せてやった。ぬかるみに顔を埋ずめて死なせるにはしのびなかったからである。
その日は、歩み出してから、雨が次第にひどくなり、昼までにいくらも歩けなかった。山を三つ越えただけで夕刻になり、疲れ果てて、早目に野営をした。
その翌日。歩み出してから、路傍の死体が、急にふえはじめているのがわかった。おそらく、山路を、一両日はどうにか歩んで来たのが、道がいよいよ嶮《けわ》しくなるにつれ、遂に力尽きては斃《たお》れていったに違いない。小止《こや》みもなく降りつづく雨に濡れそぼちながら、久木大尉らは、死体をみかけると、立ちどまり、拝んでやって、先へ進んだ。ほかには、どうしてやることもできないのが、つらかった。
山をひとつ越えてきたとき、
「ここまでで、三十人近くは死んでいましたね」
と、松谷上等兵が、重い口調でいった。
雨は夕刻までも降りつづき、疲れはさらにひどいので、木立をみつけて天幕を張り、倒れ込むようにしてしばらく憩《やす》み、残していた飯を食べて、なにもかも忘れて眠った。その場所には、先行の兵隊たちも憩んでいたのか、近くに二つばかり天幕もみえた。
翌《あく》る朝、雨はやんでいた。ほっとして、ぐるりを歩きながらに、近くの天幕のほとりに行ってみると、天幕の中はわからないが、そのぐるりに、何人かの兵隊が、思い思いの姿で寝込んでいる。シン、としてかれらは動かない。動かないはずであった。かれらは、とっくに死んでしまった兵隊たちで、なかには半分溶けてしまっているのもまじっている。蛆《うじ》が食いつくしてゆくのだ。
炊爨《すいさん》用の水を汲んできた松谷上等兵に、久木大尉が、
「飯はいい。どこかで炊《た》こう。先に出発しよう」
というと、松谷上等兵は、
「大尉殿も、あれをみられたのですか」
と、すぐに納得した表情になった。彼も食欲をなくしていたのだろう。それで、久木大尉らは、そのまま出発したのだが、それからの行程にみる眺めは、前日よりも、はるかに凄惨《せいさん》をきわめていた。牛馬もまじえた路傍の死者の列が、進むに従って数を増してくるのだった。
今日で四日目になる。曲りなりにも健康でかつ食物をもっている久木大尉らでさえ、なお山の中を、せい一ぱいの気力で彷徨している。戦い疲れ、傷つき、食もない兵隊たちが、この山々を越えきれなかったのは当然だろう。こうなることはわかっていたはずではないか、と、また、久木大尉はむなしい思いを、胸に、くりかえしよみがえらせたのだ。いまさら解答の出ない問題であっても、やはり、考えずにはいられなかったのである。
夕刻までに、百をはるかに越える路傍の屍《しかばね》を数えながら、久木大尉らは、その日の泊まりの場所を求めていた。
ここなら、と思う場所は、人もそう思うらしく、竹を敷いて兵隊が寝ていた。寝ていた、とみたが、たいがいは死んでいたのだ。
竹藪に沿って、寝場所をさがしていた時、竹を敷いた上にすわり込み、じっとうなだれている兵隊をひとり、みかけた。その兵隊のほとりに、ふたりの兵隊が寝ていた。
すわり込んでいる兵隊は、死んでいるにしては少し姿勢が無理に思えたので、その傍らを過ぎる時、久木大尉は声をかけてみた。
「どうしたんだ。この兵隊たちは死んでるのか?」
兵隊は、顔を上げて久木大尉をみ、うなずき、また首を垂れた。似ている――と、久木大尉は思った。いままでみてきた、死に直面している兵隊たちの、ある共通した姿勢に似ている、と思えたのだ。さらにつきつめて考えてゆくと、かれらはほとんど、年次の浅い兵隊のようなのだ。生き残っているこの兵隊にしても、泥や垢《あか》まみれになっていながらも、やはり兵隊としての稚《おさな》さを感じるのだ。久木大尉は、子供にさし向かっているような、いじらしさを覚えてきた。
「ここにすわっていたって仕様がないぞ。がんばって、トンヘまで退がるんだ。もう一息ではないか」
すると彼は、また久木大尉をみて、素直にはうなずくのだが、話の通じた気配も、立ちあがる様子も、まったくない。
「この二人は、お前の隊の者か」
「そうです。今朝までは生きていました。この二人を置いて、自分だけ先に行くことはできません。それに、もう歩けないのです」
「歩けんことがあるか。米を少しやろう。いいか。この二人はもう死んだんだ。いくら付き添っていても、生き返りはしないんだ」
説得しても、無意味だ、ということは久木大尉にもわかっていた。彼はうつむいたまま、うなずきはするのだが、それは儀礼であって、口では、つぶやくように、
「自分もここで一緒に死んだほうがいいです」
と、いうばかりである。
すでに彼は、死んだ仲間たちと、同じ世界に住みついてしまっているのだろう。彼には、退くということ、退いて生きのびるということ――の意味も価値も、わからなくなってしまっている。
それでも久木大尉は、彼に少々の米を与えて別れた。
次の朝、久木大尉らは、目が覚めてから、靴《くつ》を盗まれていることに気がついた。久木大尉の革脚絆《きやはん》もやられている。靴は、ぬかるみばかりを歩いているので、寝る前に手入をして、天幕の奥に置いたのだ。いつ盗まれたものか、まるで気がつかなかった。
(敏捷《びんしよう》な奴《やつ》もいるものだ。参って、死にかけている連中ばかりではない)
久木大尉は、複雑な感慨を覚えた。兵隊の強弱は、撤退に当って明瞭《めいりよう》になった。久木大尉がここまでにみかけたところでも、やはり兵隊らしい軍装をして、銃も弾薬も持って、退がってゆく者たちもあった。ごく剽悍《ひようかん》な者は、一匹狼《いつぴきおおかみ》のように、自身の生きのびるための工作を、獣の意識で果たしてゆくのだろう。フミネからタナンへ、タナンからトンヘにいたる、この最後の山脈を越え得るか得ないかに、生きるか死ぬかの命運が賭《か》けられている。四周の重畳たる赤土の山肌《やまはだ》に、久木大尉は、苛酷《かこく》をきわめた、淘汰《とうた》の場をみる思いが、いまさらにして来たのである。
「裸足《はだし》で歩くか。そのうち靴が手に入るかもしれない」
久木大尉らは、まだ苦笑し合うだけのゆとりをもっていた。
しかし、山道を上り下りして、いくら歩いても、靴は遂に手に入らなかった。満足な靴は、必ずだれかに脱がされていた。路傍の死体は、きのうよりもはるかに多く眼につきながら、久木大尉らは、どこまでも裸足のままで、歩いたのだ。
その日は二度、敵機の銃撃にさらされた。二度目は、執拗《しつよう》に追われて、ぬかるみを匍《は》って、付近の竹藪《たけやぶ》に逃げ込んだ。
しばらく休んで、また元の道に出る途中、朽木の根に背を凭《もた》せて、考え込んでいる兵隊をみかけた。銃撃が来ても、動きもしなかったらしい。言葉をかけてみても、同じようなことのくり返しにすぎまい、ということは久木大尉にはわかっていた。だが、そのままには立ち去れなかった。久木大尉は、立ちどまり、言葉をかけた。
「トンヘはもうすぐだ。元気を出すんだ」
彼は、喘《あえ》ぐような呼吸をしていたが、それでも久木大尉をみて、
「ご心配をかけます」
と、いった。
(この兵隊はしっかりしている)――と、その時、久木大尉はそう感じたのだ。少なくもそれは挨拶《あいさつ》の言葉になっていたのだ。
「歩けんのか?」
「もう歩けません」
「米をやろう」
久木大尉がいうと、彼はあきらかな喜びをみせ、ひとにぎりの米が上衣の胸のポケットに入れられると、何度も礼をいった。反応のあるのが、久木大尉には救いだった。まだタバコがあったのを思い出して、一本つけてやろうか、というと、やはり、たいへんに喜びの情を示すのだ。ただ、タバコは、口元へもっていってやっても、ごく弱く一口か二口吸うともなく吸っただけで、あとは首を振る。その様子をみていると、生きられんな、という気もしてきた。
「どこの兵隊だ?」
「祭の、行李《こうり》です」
それで、久木大尉には、この兵隊が、上海での補充兵だとわかった。兵団は、上海で、約五百名を現地召集して、ほとんどを行李隊に廻《まわ》している。未教育の老兵が多い。戦闘どころか、タイ・ビルマ国境のシャン高原を越えてくるだけでも、体力の限界にきていたというべきだろう。
「上海で、なにをしていたんだね」
「同文書院にいました」
同文書院大学の小使ではないか、と、久木大尉は察した。しかし、違っていた。彼は、久木大尉がたずねると、
「教授です」
と、いった。
そしてそれが、彼の発した、最後の言葉だったのだ。それを答えた時の彼の眼に、ごくかすかな、かがやきのこもったのを、久木大尉はみたと思った。その直後に、彼は、心臓麻痺《まひ》を起こしたのだ。
しばらく行って、松谷上等兵が、立ちどまって、いった。
「大尉殿。あの同文書院の先生の靴は、穿《は》けますよ」
久木大尉も、立ちどまり、ふりむき、考え、また元通り歩み出しながら、答えた。
「夕方にはトンヘに着く。はだしで歩いたほうがいい」
――その時まで、久木大尉がみてきたのは、ほとんど烈兵団の兵隊たちであった。
祭は、さらに遅れて、より飢え、より疲れ、より傷《いた》み、よりよろめきして、この撤退の道をたどってくるはずである。そうして、フミネからのこの山筋だけでも、いったいどれほどの屍の山を築くことだろうか。
黙々と、暗い思いに耐えて、久木大尉は歩いた。先行している健脚の松谷上等兵は、背にしている大荷物を苦にする様子もなく、久木大尉を振り向いて、励ますようにいった。
「大尉殿。トンヘでは魚が釣《つ》れそうですよ。魚が食いたいですね。着いたらすぐ、自分が釣ってみます」
*
松村部隊長は、タナンを過ぎて、東方へ進むにつれ、道路脇の死傷者が、次第に多きを数えてゆくのに、深く心を痛めた。
傷病者は、タナンへ至る途中でも倒れたが、タナンから先では、支えに支えてきた気力も体力も尽き、遂に道脇にへたり込んだ部下将兵が、その数を増したのである。道路上のいたるところに死者がいて、屍臭《ししゆう》が漂っている。松村部隊がタナンを通過して、インパールへ活溌《かつぱつ》な歩を進めたのは、思えば三月十八日のことである。爾来《じらい》、五ヶ月に近い月日の間に、なんと状況が変り果てたことか。しかも、戦いに戦いつくしてきた将兵たちであるのに、こうも無残に。
「この地で死んでゆく者の骨を、せめて、いつ拾いに来てやれるのか。それができるのか。それを思うと、針の筵《むしろ》の上を歩いて撤退してゆくような気がする」
松村部隊長は、小休止のごとに、側近の、藪中大尉《たいい》や竹ノ谷中尉に向けて、しみじみと述懐する。その部隊長を慰める言葉もない。
八月七日に、松村部隊は、タナン東方十キロの一〇一九高地に到着したが、この時兵団から、つぎの要旨の命令を受けている。一〇一九高地は、チンドウィン河へ、数キロの地点である。
一、兵団はミンタミ山系東側地区に兵力を集結しつつ、逐次タウンダット付近よりチンドウィン河を渡河し、次期作戦を準備する。
二、松村部隊はタナン付近の要地を確保して、敵の追尾を阻止し、兵団主力のチンドウィン渡河を援護すべし。
右の命令だけをみると、有力な部隊に、敵との交戦、渡河部隊への援護を命じているかにみえるが、松村部隊の兵力の実体は、信じがたいほど乏しかった。ウクルルからタナンへ、タナンからミンタミ山系を縫って一〇一九高地へ達するまでにも、かなりの兵力を失っている。
たとえば、第三大隊(古北大隊)についていうと、第九中隊は幹部兵とも二名、第十中隊五名、第十一中隊三名、第十二中隊十二名、合計して二十二名に過ぎない。大隊砲小隊は砲を失っているが、それを合わせても大した人数にならない。
第二大隊(内堀大隊)も、総兵力百二十名に過ぎない。しかも内堀大隊長は、マラリアとアメーバ赤痢のために、いちじるしく体力を消耗し、チャカップまでは隊伍《たいご》とともに来たが、遂に大隊の指揮を先任中隊長に任せ、自らは部下に支えられて、別行動をとるしかなかった。
しかし、それでも、松村部隊は、全力をつくして、兵団の撤退援護に協力しなければならない。
松村部隊長は、タナン東方一九五五高地に古北大隊を配置し、内堀大隊を予備として、命令に従うこととした。
古北大隊長は第九、第十、第十一各中隊の残存総兵力十名を以《もつ》て一単位部隊を編成し、これと第十二中隊の十二名を第一線に配置し、機関銃一銃を陣地の骨幹として、最高地点を確保し、追尾してくる敵の攻撃に備えた。乏し過ぎる装備は、気力をもって補っていかねばならない。
撤退部隊にとって、幸い――というべきであったのは、敵の追尾が、部隊長の予期したほど急ではなかったことである。そのために、遅れて、三々五々、追尾してきた兵員が、守備態勢の中に加えられた。これは、せめてもの心強さであった。
タウンダットの渡河点までは、患者の足をもってしても、二日ほどの行程である。患者たちを先に後送させることも、松村部隊の、主要の任務であった。渡河撤退する、ということは、命令通り、次期作戦に備えるためだからである。
内堀大隊長の身を案じていた松村部隊長のところへ、内堀大隊長が後送される前の挨拶に来たのは、別れて三日後である。当番兵に支えられ、自身は竹の杖《つえ》を突き、いかにも衰え果てた身ぶりで、よろめくようにして、道脇の部隊本部の幕舎を訪ねてきた。松村部隊長は、内堀大隊長の両手を握りしめて、戦闘間におけるその労を謝し、病状の回復を祈らざるを得なかった。
「早く元気になってほしい。ビルマの戦場で、またともに手をとりあって善戦しよう。健在を祈る」
その激励の言葉にも、血のにじむ思いがある。痩《や》せ細って見る影もない髭面《ひげづら》に、それでも微笑をうかべて、内堀大隊長は、
「お先に撤退させていただきますが、早く元気になって、部隊に復帰できるようつとめます。部隊長殿もお元気にて」
多くを語っている遑《いとま》はない、それだけをいい残して去ってゆく内堀大隊長の、あやうげな足どりを見送りながら、松村部隊長は、黙礼するように、うなじを垂れている。
(これは、のちのことになるが、内堀大隊長は、メイミョウの兵站《へいたん》病院までは到り着いたが、九月九日に病歿《びようぼつ》している)
松村部隊長に、別辞を述べて、病躯《びようく》を支えて撤退して行った部隊幹部は、内堀大隊長のほかに、通信中隊長の峯尾中尉、小山、沢田、樫原各少尉、細溝獣医少尉、真柄衛生見習士官等であるが、この人らも、渡河後、まもなくに死去している。下士官兵においては、さらに大きな数の犠牲をみることになった。
一九五五高地の守備についていた古北大隊は、八月十三日に、追尾してきた敵の前線部隊の攻撃を受けはじめ、これに応戦している。この高地は、タナンからトンヘへの渡河点を扼《やく》する重要な陣地である。兵団の撤退が終了するまでは、死守しなければならない。
守兵といえど、五体健全の者はいない。すべて病者だが、己れを鞭打《むちう》って、追尾してくる敵と戦い、これを撃退せねばならない。ただ、敵も、山間の嶮路《けんろ》をたどってくるので、大部隊ではない。しかし、その敵は、刻々に、ふえてゆく。守備に立つ部隊は、糧食も尽き、一日の食事は、ひと握り六勺《しやく》ほどの米を、重湯に近い粥《かゆ》にして啜《すす》りながら戦うしかなかった。戦況のひまな時は、全身に湧《わ》き満ちた虱《しらみ》をとらねばならない。
傷病者を多く抱え、緩慢な速度の撤退渡河をつづけねばならぬ兵団が、それを完了するには、かなりの日子を要する。
古北大隊は、八月二十五日までは、一九五五高地を守備したが、敵の兵力が漸次《ぜんじ》増加し、左翼方面からの包囲攻撃を受けはじめると、いかにせん支え切れず、五百メートルほど退いた新高地線に布陣して、なお、撤退部隊の援護につとめた。内堀大隊長を失った旧内堀大隊の残存兵力もまた、古北大隊に呼応して、追尾してくる敵と戦う。
八月二十七日になると、敵の迫撃砲や重機の砲銃声が、ようやく、さかんに山中にこだましは じめた。兵力が増加してきたのである。しかし、まだ撤退行はつづいている――。
第三大隊付の前軍医は、松村部隊本部が、タナンからトンヘへ移り、一〇一九高地付近に位置した時、命を得て、部隊本部付として、第三大隊を離れた。
タナン=トンヘ道の南側のジャングル内に、竹組みの小さな掘立小屋が点々と建てられ、屋根には携帯天幕を張り、地上五十センチぐらいに、丸竹を張った床ができていた。
前軍医は、この竹の床の上に身を横たえた時、これほど寝心地のよい床で寝るのは、作戦発起以来はじめてのことだ、と、この五ヶ月の、惨苦の日々を思いやった。軍医として、可能の限り力は尽くしてきたと思うが、なんとしても、薬物の不足だけは、薬物を以て補うよりほかはなかったのだ。
前線にいたころ、大隊本部から前線へ電話をしたことがあったが、どうしても通じない。事故ではないか、と心配したが、翌日になってようやく連絡がつき、きいてみると、電話機付近にいた者は、すべてマラリアの発熱中で、電話の応対に出ることができなかった、という。当時でさえ、そうした事情である。
いま、トンヘには、第二野戦病院が開設されていて、約二千名の患者を抱えているが、死者病者が入りまじって、降りしきる雨の中に、収容されているのである。満足には食餌《しよくじ》もなく、むろん薬物もない。
前軍医は、部隊本部付に着任した翌日、第二野戦病院を視察している。病院は、トンヘ集落から五百メートルほど離れた、竹藪やチークの密林内にあったが、チンドウィン河へ向けて、ゆるい傾斜になっているその傾斜面に、患者たちは寝かされている。高いほうを枕《まくら》にして、各隊ごとに寝かされているのだが、前軍医が様子をみて廻ると、比較的元気な者はともかく、息も絶え絶えの者も多い。むろん、死者もまじっていて、屍臭が雨の中に漂っている。
雨水は、傾斜面を伝って容赦なく流れるから、アメーバ赤痢の患者を水びたしにした水は、そのまま傾斜の下部にいる患者を浸してゆく。患者は、動くことも逃げることもできずに、その汚れた雨水を浴びつづけねばならない。なかには、上半身を携帯天幕で覆《おお》っている者もいるし、寝ている両脇に溝《みぞ》を掘って、雨水が流れるようにしている者もいるが、多くは、寝かされたまま、死の時を待っているかにみえた。
毎日、何十人かが、力尽きて、死んでゆくのである。
「せめて、死者の埋葬はできぬのですか。いくらなんでもあわれです」
前軍医は、視察のあと、病院側の軍医にそういった。
病院側の軍医は答えた。
「おっしゃる通りです。ただ、死体を葬《ほうむ》る穴掘りのための兵力がないのです。薬物も衛生材料も、もう使い果たしてしまいましたし、患者たちに、粥を支給してやるのがやっと、という状態です」
その粥も、米のスープといえるほどのものでしかないことを、前軍医もよく知っている。元気な者は、女竹の竹ノ子の茹《ゆ》でたものが食える。病院側も、大半の者が、マラリアや栄養失調に耐えている。つまり、なにをすることもできない、きびしい現実だけがある。
タナンからトンヘまでの道筋を、だれもが白骨街道と呼んだ。それほども多くの行き倒れの将兵たちの姿を、前軍医もしっかりとみてきている。道脇の竹藪の中から、禿鷹《はげたか》が飛び立ったりしたのは、屍肉を啄《ついば》んでいたのであろう。生地獄だ――と、思わざるを得なかった。その白骨街道のターミナルというべきが、この、トンヘの野戦病院ということになる。眼の前に、チンドウィンの流れがある、というのに。
部隊本部には、部隊長のほかに、斎能副官、藪中大尉、竹ノ谷中尉、山田中尉らがい、軍旗は、佐久間少尉が捧持《ほうじ》していた。軍旗もまた、渡河の時を待っている。軍旗を無事に捧持してきていることは、部隊長以下の何よりの心の支えとなっている。
松村部隊は、八月末に、トンヘから、渡河点であるタウンダットへ撤退したが、この時、佐久間少尉は、アメーバ赤痢の重い症状のため、任務が果たせず、前軍医が代りに軍旗を捧持して、渡河点へ向かっている。
前軍医は、トンヘを撤退する前日に、また野戦病院をのぞきに行った。病死者の始末のことが気になったからである。すると、幸い(というにはあまりに悲しいが)死者はすべて、埋葬されていた。患者も、担送患者の一部は、大発(大型発動機艇)で後送されている。
新高地線に布陣していた古北大隊は、大隊長以下わずか二十数名となっても、追尾してくる敵と果敢に戦いつづけ、おかげで、第二野戦病院もまた、敵に蹂躪《じゆうりん》されることから免《まぬ》かれた。
八月末には、病院の近くにまで敵が出没しはじめたが、陣地線を退いて古北大隊は敵の進出を防ぎ、病院は撤退を急いだ。十数名の、担送も不可能の意識不明の患者は、師団司令部の許可を得て、モルヒネを用いて安楽死させ、埋葬を終え、夜陰に乗じて、古北大隊に援護されつつ、撤退している。
四、渡河点付近にて
トンヘへ向けて、部隊本部を撤退させる時、松村部隊長は、兵団司令部に向けて、次のような電報を打っている。
一、逐次兵力を増加せる敵は、二、三日来その行動頓《とみ》に活溌化《かつぱつか》し、我が第一線に対する攻撃も真面目且《まじめか》つ積極的となれり。
二、我が第一線は頑強《がんきよう》にこれを阻止しあり。なお二、三日は優に阻止し得る見込。兵団主力の渡河を促進せられたく。
兵団司令部は、トンヘから南方二キロほどの地点にあったが、電報を打った翌日、八月二十八日の朝、成瀬参謀が部隊本部を訪れて、岡田参謀長自筆の書翰《しよかん》を、松村部隊長に渡している。
その要旨は、つぎの如《ごと》きものである。
一、只今《ただいま》より出発す。(〇三:〇〇)
二、砲兵射撃は払暁《ふつぎよう》より午後二時乃至《ないし》三時頃迄威嚇《ごろまでいかく》的に実施す。射弾三百発の予定なりしも、通過部隊の為《ため》装薬を炊事用に抜き取られ三十発となれり。
(爾後《じご》、火砲は処分す)
三、明夜、舟艇は最大限にトンヘに至らしめ、御希望に副《そ》い度《たく》、細部は成瀬参謀に連絡せられ度し。
四、衷心より撤退の成功を祈ってやまず。終始困難なる任務に服せられ恐縮なり。軍に感状を請求する意嚮《いこう》なり。
松村部隊長は、成瀬参謀から、兵団主力の渡河進捗《しんちよく》の状況、渡河点、渡河のための集結地、渡河材料の状況などをきき、渡河についての細部事項を打ち合わせた。
一、患者は本日没後トンヘ付近に集結せしめ、同夜中に舟艇に乗船してタウンダットに向かい下航せしめる。これがため舟艇少なくも三隻《せき》を日没後トンヘに到らしめる。
二、部隊は日没後秘《ひそ》かに敵と離脱し、本部、旧内堀大隊、古北大隊の順序にまずトンヘに、爾後チンドウィン河右岸沿いにタウンダットに到る。
三、タウンダットに到る途中の河川渡河の為に若干の舟を準備する。最後の部隊通過とともにこの舟を引き揚げる。
四、部隊主力のチンドウィン河渡河は明二十九日夜と予定する。
右の予定は、順調に実施せられている。
トンヘからの患者の舟艇によるチンドウィン河の下航、また各隊も、日没後に撤退を開始して、二十九日払暁には、トンヘとタウンダットの中間の部落に到っている。夕刻までには、渡河点のタウンダットに集結した。
その日の夜半、部隊は、数隻の舟艇に便乗しつつ、チンドウィン河を渡河して、対岸に上陸している。
松村部隊長は、渡河の時、舟艇の舳先《へさき》に立って、いいがたい感慨をもって、河面《かわも》に眺《なが》め入った。過ぐる三月十五日の渡河以来約半年、勇躍して渡河したチンドウィンを、いまは、敗残の身をもって渡らねばならない。ただ、夜闇《よやみ》の中にふくらんでいる渺茫《びようぼう》たるチンドウィン河だけは、かわりなく、悠揚《ゆうよう》と流れつづけている。
チンドウィンのみが、われらのいまの姿をあわれんでくれるであろう――と、松村部隊長には、そう思えたのである。
各隊の、渡河前後の模様について、少々触れておかねばならない。
*
旧内堀大隊(第二大隊)第二機関銃中隊長の名取中尉《ちゆうい》は、チンドウィン河渡河点の近くで待機している間も、つねに、ミッションで別れてきた田伏上等兵のことを考えていた。中隊を生かすために、みすてざるを得なかったし、また田伏上等兵自身、自力で撤退できるといい、逆に励まされるようにして別れてきたのだったが、それにしても、心残りでならない。いつも脳裏にそのことがある。
(田伏は無事に、この困難な長い道のりを、匍《は》いつづけて来られるのだろうか)
と、思うのである。トンヘにある第二野戦病院に、田伏がいるかどうか、それだけが気がかりになっている。
ここまでの途中、タナンからトンヘまでの道は、ことにすさまじかった。道のまん中に、半ば白骨化した兵隊の死体が仰向けに転がっていたり、露営のため道脇《みちわき》の竹藪《たけやぶ》の中にもぐり込むと、すでに先客がいた。それも、白骨化した兵隊たちが、骸骨《がいこつ》が帽子をかぶり、靴《くつ》を穿《は》いている姿で、並んでいたのだ。もしや田伏もこのような姿で?――と、そうした場では、ことに案じられたものである。
旧内堀大隊は、千名を越える人員でチンドウィンを渡河していったが、渡河点近くでは、四十名あまりに激減していたし、なお、一人二人と病状が重くなって、後退してゆく者も絶えない。
生残りの者たちは、竹藪の中に、竹を使った小屋をつくって、ひまがあると虱《しらみ》をとる。また、食べものの話ばかりをして、日を送った。食餌《しよくじ》は、一粒の米を最大限にふくらまして食べるように、工夫をして炊《た》く。雑草をまぜて、煮えると、水を加え、さらに煮えると水を加えして、これ以上になると溶けてしまいそうな、米粒と雑草入りの粥《かゆ》を、つとめて長い時間をかけて食べる。そうして、食べ終えると、すぐに空腹になる。
その空腹に耐えて、古北大隊とともに、追尾してくる敵を迎え撃たねばならなかった。
兵団主力からはじめる渡河の終了までは、執拗《しつよう》に追尾してくる敵を、支え切らねばならなかった。
第三機関銃中隊の畑兵長は、マラリアの高熱に耐えて、トンヘの野戦病院まではたどり着いたが、病院とは名ばかりの凄惨《せいさん》な状態を眼《め》にして、暗澹《あんたん》とした気分になった。ここで入院しても、なんの治療も受けられぬし、救出される見込みもない。できれば自力で、とにかくチンドウィンを渡河したかった。
チンドウィン河は、病院のすぐそばを、濁流滔々《とうとう》として流れている。対岸まで一千メートル以上だろうか。対岸には部落があって、木の間に家々の屋根がみえ、水墨画のように霞《かす》んでいる。美しい眺《なが》めだ。あの部落へ行き着けば、なにか食べものを手に入れることもできるだろう。しかし、チンドウィンを渡河する方法があるだろうか。
畑兵長は、疲労を回復させるために、竹ノ子や、水辺に生えている草を食べて、三日間休養した。幸い、マラリアの発作はおさまった。さらに幸い――だったのは、この時に、同じ中隊の村田伍長《ごちよう》、北村上等兵、山野上等兵、井口一等兵が、連れ立って、野戦病院に到り着いてきたことである。むろん、かれらも、痩《や》せ衰え、マラリアを背負っていて、難渋しつつ、ここまでたどりついてきたのである。
「われわれで、なんとか、チンドウィンを渡る方法はないのか。身体《からだ》がこう衰弱していては、泳ぐのはとうてい無理だ。流れも速い。舟をみつけるしかないな」
畑兵長は、めぐり会った仲間たちと、渡河についての相談をかわしあい、舟をみつけるしかないと結論して、一団となって、チンドウィンの河岸のジャングルの中を歩いたが、どこまで歩いても、民家も舟の影もない。それに、ジャングルの雑木を押し分けるようにして歩くのは、疲労が加重し、その作業で倒れてしまいそうである。断念して、また野戦病院へ引き返したが、このままじっとしていては、餓死するよりほかない、という危機感に責められる。
「筏《いかだ》をつくろうか。爆撃で壊れた民家の木材を集めればいい」
だれかがそういい、一同は、筏つくりをすることにした。竹の筏は、とうてい使用に適せぬことは、作戦発起時に経験済みである。それで、民家の古材を集めてきて、それを通信用の電線で結び合わせ、別にオールをつくり、筏一艘《そう》をつくったが、古材がしっかりと雨水を吸い込んでいるので浮力が弱く、仲間五人を乗せると沈みそうである。そこで、もう一艘、小さい筏をつくり、四人と一人に分乗し、小さな筏は大きな筏に結びつけた。
渡れそうな気がした。夜更《よふ》けを待って漕《こ》ぎ出した。
ところが、漕ぎ出してみると、流水の力は意外に大きく、筏を漕ぐ、というより、ただ流されつづけるだけである。対岸へ漕ぎ進めるどころか、流されつづけて、二時間もたったころ、河中に大きな渦巻《うずまき》があって、それに巻き込まれた。そのはずみに、うしろに曳《ひ》いていた小さな筏の結び綱が切れて、井口一等兵の乗っていたその小さな筏は、四人の乗った筏を離れて、みるまに遠のいてゆく。互いに呼び合ったが、どうしようもない。小さな筏は、夜闇の中にじきに消えてしまった。
ただ、その大きな渦巻地点を過ぎると、流れはかなりゆるやかになり、なんとかオールで漕ぎ進めることができた。村田伍長と山野上等兵がオールで漕ぎ、畑兵長と北村上等兵は水に入って筏につかまり、泳ぎながら筏を対岸に向けて押す。体力がないので、たいへんな苦労だが、生きのびたい一心である。
懸命に筏を進めていると、対岸の景色が、夜明けの薄あかりにみえはじめてきた。夜が明け切ると、敵機の偵察《ていさつ》がはじまる。それまでに、なんとかして対岸に到り着きたいと思い、さらに必死の努力を重ねていると、筏は鈍い物音をたてて、大きな流木にぶつかって停止した。豪雨に流されてきた巨木が、川底に横たわっている。その木にぶつかって、筏は動かなくなった。しかし、対岸へは、あと五十メートルほどに近づいている。
畑兵長と北村上等兵は、水泳には自信がある。体力はいちじるしく消耗していたが、五十メートルならば泳げぬこともあるまい、と思い、励ましあって、水に入り泳ぎはじめたが、水流は思いのほかに速い。かなり流されたが、それでも岸の葦《あし》草につかまって、ともかく対岸へ泳ぎ着いた。葦は玉蜀黍《とうもろこし》くらいの丈があって、密生している。その茎につかまりながら、対岸へ歩く。葦から手を離すと、足は水底のぬかるみにはまり込む。ようやくに岸の陸地へ上がった時は、全身は葦の葉で傷だらけになっている。褌《ふんどし》一つの裸に素足である。この恰好《かつこう》で、四時間もかかって、岸の部落をさがしあてた。筏が流木にぶつかった時からは、すでに七時間くらい経過していた。
畑兵長と北村上等兵は、部落で、いぶかしがる人々に、手真似《てまね》をまぜて説明して、やっと、舟を出してもらえることになった。四十歳くらいの男子二人が舟を操ってくれる。このころには、敵機が、折り折り川の上を舞ってくる。敵機が近づくと、舟は葦むらの中に入って隠れ、ようやくに、筏の位置にまで達することができた。
ところが、筏はあっても、人影がみえない。筏の上には、四人分の装具が載っているだけである。
畑兵長らは、大声で呼ぶ。すると、かなり下流で、それに答える声がきこえる。村田伍長だった。村田伍長は、岸辺の葦につかまっていたが、村田伍長を救出した時、山口上等兵のことをきくと、水に流された、という。筏の上でかれらは、敵機の執拗な銃撃にさらされ、水中に逃げて、岸へ泳いだが、山口上等兵は水泳ができぬので、遂に、水流に呑《の》み込まれてしまった、という。
このようにして、三人だけは、辛《かろ》うじて、自力で、チンドウィンを渡河し得たことになる。
古北大隊(第三大隊)が、カバウ谷地の一角、タナンへ到着したのは、八月五日である。
松村部隊主力(といっても二百名にも満たない)が、軍旗を捧持《ほうじ》して、ともかくも隊伍を編んで撤退し得たのは、なによりであった。
タナンでは、三日ほど、大隊は休養して、虱をとり、いずれ追尾してくる敵との戦いに備えて、体力気力の充実を図らねばならなかった。チンドウィンを渡河するまでは、苦しい戦いがつづくことになる。
この地区には、ブヨが多く、それはケシ粒ほどの小ささだが、それが髪の間からも食い込んできて血を吸う。兵隊たちは、気も狂わんばかりの痒《かゆ》さに悩まされた。
古北大隊が、命を得て、タナン山頂の駄馬《だば》道を扼《やく》して展開し、敵の追尾に備える布陣をしたのは、八月九日からである。敵の偵察機の飛来が頻繁《ひんぱん》になり、追尾してくる敵の動静が感じとれた。
大隊の布陣している前面のジャングル内で、猿《さる》の大群が奇声をあげて騒ぎたてたのは、八月十三日である。つづいて、銃声がきこえ、しばらくして大隊本部の位置へ、歩兵砲の太田小隊長からの伝令がきた。敵の斥候《せつこう》らしい数名が現われ、これを撃退した、という報告である。
翌十四日には、太田小隊前面に、敵の少数の威力偵察隊が出現し、太田小隊は、これと交戦して撃退している。威力偵察のあとには、火器を保有する部隊がつづいてくる。
古北大隊本部付の街《ちまた》軍医は、戦闘がはじまれば、死傷者がふえる、しかし、それを介護するについて、薬物も資材も尽きていることを、いまさらに嘆かざるを得なかった。マラリア治療のためのキニーネ、アテブリン、プラスモヒン、またアメーバ赤痢へのリマオン等の薬物は、とうに使い果たしてしまっている。下痢に対しては、竹や木を焼いた炭を粉末にしたもの、あるいは鉄帽で米を搗《つ》いた時の糠《ぬか》をビタミン剤として与える、といった、わびしい施療を、ずっとつづけてきている。マラリアも、連日発熱する悪性の熱帯熱である。アメーバ赤痢は、下痢をくり返すと、全身衰弱の末に、痔核《じかく》、脱肛《だつこう》を生じて、歩行も困難となる。
負傷者の傷は、毎日繃帯《ほうたい》交換をしなければならない。それでもすぐ化膿《かのう》してしまう。毎日繃帯交換できるような状態は、せいぜい北インパールで戦っていた間だけのことである。負傷者のあまりの多さによって、ミッションの第一野戦病院でも、みるまに医薬品は尽きていったのだ。傷は、化膿すると、すぐに蛆《うじ》がわく。傷口からは悪臭を発する。繃帯の上にしみ出てくる膿《うみ》に、蠅《はえ》が執拗に群がってくる。蠅は、膿をなめ、卵を産みつける。卵は数時間で蛆となり、繃帯を通りぬけて、傷の奥まで侵入してゆく。繃帯交換の時は、繃帯をとり去ってから、傷の中の蛆を一匹ずつ、ピンセットでつまみ出さねばならない。これがひと仕事である。傷の中の膿をすっかり取り去ってから、オキシフルで充分に傷口を消毒し、リュパノールガーゼをつめて繃帯する。翌日もまた同じようになっている。高温多湿の中、携帯天幕で雨露をしのいでいた山間の陣地では、こんなお粗末な手当しかできなかったのだが、そのお粗末な手当さえ、できなくなる日が、実に、思いのほかに早くやってきたのだ。
いま、渡河点に近い山中では、生き残った者だけが、渡河点を守ってどこまでも戦う、と覚悟し、ほかにはなにも考えない。死生のことは問題でない。最後の一兵になるまでも、がんばって、渡河点を守る戦いに殉じなければならなくなっている。まさに、ぎりぎりの、最後の戦いである。
栄養失調症は、脚気《かつけ》とみられていたが、これは組織蛋白《たんぱく》の欠乏により、膠質滲透圧《こうしつしんとうあつ》の変化によって体液が組織中に移行し、そのため全身にいちじるしい浮腫《ふしゆ》をもたらす。全身にむくみが来て、眼もあけられぬほど顔面もふくらみ、足も腫脹《しゆちよう》して靴《くつ》を穿《は》くにたえない。しかも、いったん靴を脱ぐと再び穿くことはできず、裸足《はだし》で歩くとたちまち足が傷つき、歩行不能になる。もっとも、栄養失調症状のまったくない兵隊は、一人もいなかったろう。戦死のほかに、こうした戦病によって、いかに多くの兵力が削られてきたことだろう。これらの病気は、二つ重なって併発することがあり、そうなるともはや手を尽くす方法はない。
「われわれはいわば、グルカの国の為《ため》にも戦っているのだが、英軍に操られているそのグルカに追われるとはな。かれらには、英国の植民政策の実体がわからぬのか。ジャングルの山猿同様ではないか」
古北大隊長は、本部の幹部に向けて、そんな心情を洩《も》らすことがあったが、だれにも通じる心情であった。追尾してくる英印軍といっても、少数の英軍将校や下士官は、グルカ兵のうしろに隠れているのだ。
北インパールで戦っていた六月上旬に、古北少佐が第三大隊長として赴任してきてまもなく、敵襲があり、これを撃退して、夕刻に陣前を視察した時、敵の遺棄死体が一つあった。この時、街軍医は、古北大隊長について歩いていたのだが、遺棄死体は、まだ若い英軍兵である。
「軍医、この兵隊は、少年のような顔をしているではないか」
と、大隊長はいう。
「胸を撃たれております」
と、街軍医が、死体を調べてからいうと、大隊長は、傍《かたわ》らに咲いていた名もない草花を折りとって、その少年兵の死体の胸のところに置いてやる。
「埋めてやりたいが、そのひまもない。これでがまんしてもらうことにしよう」
といって、遺体に会釈《えしやく》をして、その場を去った。その時の大隊長の人間らしいぬくみを、街軍医はずっと忘れないでいる。
このあたりの山猿の群は、グルカ兵が来ると、人影におびえて騒ぐ。部隊では、猿の騒ぎによって、敵の動静を知ることが多かった。グルカよりも、まだしも山猿のほうが、インド独立に協力していることになる。
古北大隊長の話をきく幹部といっても、健在なのは、機関銃中隊長篠原中尉、歩兵砲小隊長太田少尉、街軍医、勝亦曹長《そうちよう》、土屋衛生曹長、大槻軍曹、山岡軍曹などである。山岡軍曹は第九、第十、第十一の三個中隊を指揮している。つまり、それほど、兵数が減少し切っているのである。
八月十八日には、猿の騒ぎを合図に、英印軍は、迫撃砲を撃ち込んできた。有力な部隊が増補されてきたのである。英印軍の攻め方は、綿密な偵察を行ったのちに、充分な火力をもって攻撃を開始する。白兵戦を挑《いど》んでくることはない。夕刻になると、攻撃はやみ、後退して露営する。この戦法のおかげで、兵力寥々《りようりよう》たる第三大隊も、なんとか敵の攻撃を支えられる。もしかれらが、死力を賭《と》して殺到してきたら、いかに善戦しても全滅のほかはないだろう。しかし、それにしても、弾薬に糸目をつけぬ、迫撃砲の攻撃はきびしかった。わが方は弾薬を惜しみ惜しみ、擲弾筒《てきだんとう》と小銃で応戦するのである。この間に、歩兵砲小隊長太田少尉は戦死している。太田少尉は、わずか数名しか残っていない部下の先頭に立って、敵の先発隊と果敢に交戦をつづけてきた。英印軍の攻撃は、当然、日を追うて激しさを増す。八月二十日に、部隊本部から、擲弾筒弾十数発と若干の小銃弾が補給された。たったこれだけの補給でも、前線では驚喜した。だが、結局は焼石に水である。部隊本部もそれを察して、八月二十五日には、後方陣地に移動するよう、命令を出している。
古北大隊は、この命令によって、後方陣地である一九五五高地東方五百メートルの高地線へ移ったが、この間に、篠原中尉も戦死している。
この新高地線の守備につく前に、街軍医の診断によって、戦闘継続不可能とされた者は後送し、残存兵力によって守備態勢を整えた。この時の、古北大隊の兵力はつぎの如くである(この中には後送される者も含まれている)。
大隊本部
将校大隊長及び軍医 二名
曹長以下 六名
第九中隊 兵のみ 二名
第十中隊 下士官以下 五名
第十一中隊 下士官以下 三名
第十二中隊 将校以下 十二名
第三機関銃中隊 准尉以下 十名
大隊砲小隊 下士官以下 五名
総計 四十五名
かつて、三月十五日にチンドウィン河を越えた時は、大隊の兵力は七百を越えていた。いまは兵力は、十分の一にも満たないし、みな半病人である。むろん装備においても、話にならぬほど貧弱である。
古北大隊本部の勝亦曹長は、タナン防衛線一九五五高地では、部隊本部をはじめ各隊との電話連絡のため、壕《ごう》の中にいても、電話機を引き込んでいた。壕といっても一人用のタコ壺《つぼ》である。このあたりは竹藪《たけやぶ》が深く、その間に巨木が天を覆《おお》って密生し、蔓草《つるくさ》が木の幹にまつわりつき、昼尚《なお》暗いジャングルの様相を呈している。竹は、周囲数メートルの株立ちになっている。竹が束になって生えているのだが、その竹株の蔭《かげ》にタコ壺を掘る。
タコ壺の中で、勝亦曹長は、
(雨季でなければ助かるのだが)
と、考えざるを得なかった。雨が降ると、雨水は、容赦なくタコ壺の中に流れ込んでくるから、腰まで水に浸《つ》かることになる。日没になると、水を掻《か》い出して、壕壁にもたれて仮眠する。眠る、といっても、命をしぼるような戦闘への焦燥感《しようそうかん》と、飢餓感とに耐えながらである。ことに飢餓感は胃の腑《ふ》を刺す。しかも飢餓感は満たされることがない。思えば飢餓感は、ずっと以前、モルボン高地で戦っていたころからつづいている。
あのころは、竹ノ子と野草を主食とした。竹ノ子は、竹の株のまわりをさがすと、小さなのがのぞいていた。野草は、ジャングルの切れ目の日のあたる平地に生えていた。この草はホーレン草に似ていて、兵隊たちはジャングル草と呼んで親しんだものである。もっとも、そのまま食うのではなく、石油罐《かん》などで茹《ゆ》でて、灰を入れてアクを抜いてから食した。むろん、味噌《みそ》も醤油《しようゆ》も岩塩さえもない。野草のままの味を、むさぼるように食したのだ。もし、少量の岩塩でもあれば、この野草は、天来の美味に思えたのだが。
いま、タナン守備の陣地にいても、壕の底で眼《め》をとじると、眼前に去来するのは、飯碗《めしわん》に盛り上げた炊《た》きたての白米の幻である。夢ともうつつともつかず、食餌《しよくじ》に対する執念が脳裏を占め、そうして夜が明けると、また、その日の、すでに勝つすべのない、危い防衛のみの戦闘がはじまる。飢餓にさらされ、兵力も武器も乏しければ、どう力んでみても、戦いの効果はあがらない。かつて揚子江《ようすこう》岸で戦っていたうちは、なんと活溌《かつぱつ》に、連戦連勝して戦いつづけていたことか――と、そのことが、これも幻の中のできごとのように思い出されてくる。
ただ、守備についていてありがたいのは、敵は、この作戦の進攻時に、日本兵の戦力のあり方を知らされたため、みだりには近接してこないことである。たとえ小銃一発ずつでも応戦しつづけていると、正面から突入してくる心配はない。
ある日、雨があがっていたので、勝亦曹長は、各陣地の見廻《みまわ》りを兼ね、敵状視察のため、前面のジャングル内を歩いていたが、すると、頭上を、数十匹の猿の大群が渡って来、一樹に群れて、また遠のいて行ったが、みると、その樹はマンゴーの木で、実がびっしりと実っていて、猿の群がその木のマンゴーを採ったおかげで、振り落とされたマンゴーの実が地上のいたるところに落ちている。拾って食してみると、なんともすばらしい味であった。桃に似て、甘酸《あまず》っぱい味だが、全身がふるえるほど美味である。飢餓が満たされる喜悦感を伴う。
曹長は、マンゴーの落ちている実を拾って、各陣地の兵隊に分け、かつ、猿の群が来れば、また、マンゴーの実が落ちるだろう、と教えた。一時の飢えをしのぐには、何よりの贈り物である。マンゴーの木は高く、体力の尽きている兵隊には、木にのぼる力はない。猿が落としてくれる実を拾うのみである。敵との交戦間、たまたま猿に教えられたこの一本のマンゴーの木、マンゴーの味への思いは、終生身に残るだろう、と、勝亦曹長には思えたのである。
ただ、戦況は、きびしさを増す一方である。
八月十八日から積極的になった敵の攻勢は、二十日から二十五日にかけて、いちだんと激しさを増してきた。迫撃砲をはじめ、機関銃と自動小銃による攻撃である。敵は、はじめ右翼方面から攻撃してきたが、日本軍はなにぶん弾薬が欠乏しているので、射撃で応酬することができない。降雨のため衣服も靴も濡《ぬ》れ放し、竹ノ子と野草を食べ、さらにジャングルの瘴気《しようき》に痛められては、もともと少ない兵力が、さらに削られてゆく。タナンの防衛線についた時の大隊の兵数は、ここ十数日のうちに半減して、二十数名を数えるのみとなった。
八月二十五日になると、左翼方面での敵の攻勢がきびしくなり、第十二中隊は集中砲火にさらされ、擲弾筒弾を惜しみ惜しみ使って応戦はしたが、そのうち、グルカ兵の話し声が身近にきこえるほどになった。日本軍の防備を、完全に侮《あなど》っているふうにみえた。
英印軍が、日本軍陣地を包囲しつつ前進し、タナン=トンヘ道路上へ出ると、古北大隊は高地上に孤立してしまうことになる。といって、敵の攻勢を阻止しようにも、その手段は尽きかけている。
勝亦曹長は、壕の中で部隊本部に電話で悲境を連絡し、兵力や弾薬の補給を要請したが、部隊本部には、その要請にこたえる余力のあるはずもなかった。
部隊本部も、こうした事態を憂慮し、捨てておくわけにもいかなかったのであろう、八月二十五日の夜になって、現陣地より五百メートル東方へ移動するよう、命令を出している。古北大隊は、一寸先もみえない闇《やみ》の中で陣地を撤し、集結して、移動している。
敵が、古北大隊の移動に気づいたのは、二十七日である。敵は、銃砲撃をつづけながら、新陣地へ近接してくる。
この日は、雨があがって、薄陽《うすび》が差していた。
勝亦曹長が、稜線《りようせん》上の一角から、陣地前面百メートルほどの凹地《くぼち》をみていると、グルカ兵の一隊が近づいてくる。その群の中へ、擲弾筒の榴弾が一発落ちた。グルカ兵は悲鳴をあげて四散したが、しばらくすると、また近接してくる。日本軍陣地に、連続して撃ってくるほどの弾薬のないことを、かれらは知っているのである。
敵の、従来にない猛烈な攻撃は、翌二十八日にはじまった。敵は迫撃砲による支援のもとに、竹株を伝って、じりじりと迫ってくる。こちらは弾薬が乏しいので、隠見する敵影に向けて、一弾一殺の小銃の引金を引くしかない。それでも攻め込んできたら、尽き切った体力で、白兵で戦うしかない。
しかし、敵は、慎重な攻め方を持して、白兵攻撃まではして来ない。日本軍に、防衛の限界の来ていることは、充分に察しているから、攻めを必要以上には急がないのだ。かわりに、迫撃砲弾だけは、遠慮なく見舞ってくる。
勝亦曹長は、電話で部隊本部に、陣地の保持がすでに限界に来ていることを伝えた。
古北大隊は、タナン東方一九五五高地の守備についた時、つぎのような命令と指示を受けている。この時は、斎能副官が、直接陣地へ来て、古北大隊長や本部の幹部たちの前で、部隊本部の要望を伝えたのである。
その要旨は、
一、古北大隊は、陣地を堅持し、敵の追撃を阻止し、部隊主力のチンドウィン渡河を掩護《えんご》してほしい。
二、チンドウィン河畔のトンヘ付近には約二千名に及ぶ患者が集結しており、工兵隊の舟艇は全力をあげてこの患者の輸送にあたっているが、昼間は空襲のため行動ができず、一日の輸送能力には限りがある。この患者全員を下流タウンダットの対岸に渡河せしめるには、少なくも八月末日までかかる見込みである。
三、従って、古北大隊は、八月三十一日まで、現要地を確保しつづけてほしい。
――と、いうものであった。
勝亦曹長は、副官から依頼を受けた時の、古北大隊長の沈痛な表情をよく覚えている。古北少佐は、タンガ五四一七高地で、大隊長として赴任してきている。謹厳な古武士のような人柄《ひとがら》である。爾来《じらい》二ヶ月、敗色を深める大隊の士気を、よく支えてきている。
しかし、その悪戦苦闘の守備も、八月二十八日をもって、玉砕以外に、部隊本部の要請にこたえる術《すべ》はないか、と思われた。
勝亦曹長は、壕内で、電話機を抱くようにして、刻々の戦況を、部隊本部に連絡しつづけている。有線通信だから、敵が陣地の背面に廻ったら、電話線も切断されてしまう。
古北大隊が、玉砕やむなしと覚悟した八月二十九日の早朝に、部隊本部から電話があり、副官が、直接大隊長に伝えたい命令がある、という。勝亦曹長は、大隊長を呼ぶ。
命令は、撤退命令であった。命令は、
「古北大隊は本二十九日日没後、現陣地を脱し、トンヘ西方の部隊本部位置に集結せよ。チンドウィン河渡河については集結後指示する」
というものであった。
この時、古北大隊長は、街軍医と勝亦曹長を身近に呼んで、
「いま、この命令を部下に伝えると、動揺して、敵の攻撃を支え切れなくなる心配がある。この命令は、この三者のみが承知しておき、最後の一日を死力を賭して戦い抜こう」
と、いった。戦場心理の把握《はあく》の微妙さ。南京《ナンキン》攻略以来、歴戦の経験ある大隊長らしい、と、あとで、街軍医と勝亦曹長は話し合ったものである。
この日は、英印軍の攻撃のはじまる午前十時過ぎに、めずらしく、後方陣地から、日本軍の野砲の砲撃がはじまった。これは撤退援護のためである。
「友軍の砲撃とは意外です。せめて、ここ数日、敵陣地に向けて撃ってくれたら、と思いますね」
街軍医に話しかけられ、勝亦曹長は、
「数発の残弾を処理したのです。砲撃をするということは電話できいていて、大隊長殿にも報告はしましたが、半信半疑のご様子でした。でも、久しぶりの友軍の砲声は耳ざわりがよいですね」
と、答えている。
友軍の砲声に元気づけられ、この日一日、大隊は、陣地守備に最善をつくした。
午後は、煙るような雨になった。
長い一日が、ようやく終わって、日没になると、大隊長は全員を集めて、撤退命令の出たことを伝え、長期にわたる死闘の労苦を謝して、残兵ひとりひとりの手を握っている。
勝亦曹長は電話で、部隊本部へ、隊伍《たいご》がいまから出発することを伝えている。曹長は電話機を背に負い、電話線を手繰りながら、隊伍の先頭に立つことになる。患者の輸送は、思いのほかに速やかに捗《はかど》り、すでに渡河の終えていることも、きいていた。
雨のジャングルの、暗い闇の中を、隊伍は一列になって、前の者の帯革をつかんで、黙々と歩む。部隊本部の位置まで十キロ余。十二時過ぎに到着している。
道路上に待機していた松村部隊長は、古北大隊長の手を握って、声をつまらせて、その労苦を謝している。
古北大隊をふくめた松村部隊が、渡河点であるチンドウィン河畔に達したのは、八月三十日の午前三時である。
この作戦の進攻時に、本多挺進隊《ていしんたい》(歩兵第六十七聯隊《れんたい》第三大隊)は、山嶮《さんけん》を急進して、コヒマ=インパール道に架かるミッション橋を爆破したが、その本多大隊の後衛として、平田准尉《じゆんい》は、第十二中隊の残存者六名を率いて、ウクルルから本道をたどり、フミネを経て、比較的元気に行動してきた。途中、敵機の偵察《ていさつ》や銃撃、英印軍の追撃部隊の動静にも敏感に反応、対処してきたが、こうしたことのできたのは、それだけの体力を存していたからである。その体力は、民家でニンニクをさがし、あわせてカメレオンを獲《と》って、その肉を栄養源としてきたからである。ことにニンニクは、軽くて荷にならず、しかも効能は大きかった。破壊され、荒らしつくされた民家にも、さがせば、ニンニクは思いのほかによく入手できたのだ。
ウクルルからの撤退路では、道脇《みちわき》に、多くの、行き倒れた死者をみた。道脇の水たまりや窪《くぼ》みのところに、ふしぎに死者が集まって、折り重なって死んでいるのを、よくみた。死者が、死に近い人たちを呼び寄せるのではないか、と平田准尉は思い、胸を痛めた。
死者は、だれも、靴《くつ》を穿《は》いていなかった。靴は、撤退をつづけてゆく者に、その所有が移ったのである。もっとも、靴――といっても、靴の形をしているもの、といったがよい。ぱっくりと口のあいている靴を、縄《なわ》で縛って用立てていられれば上等であった。靴は、どんな破れ靴でもその役目をした。山道は、裸足《はだし》では、とうてい歩けるものではなかった。
ぼろぼろの服、髪は伸び放題、髭《ひげ》だらけの兵隊たちは、ほとんどの者が杖《つえ》を突いて歩いていた。
平田准尉は、雑嚢《ざつのう》の中に、かなりの量のニンニクを持っていたので、途中で、道づれになった兵隊たちには、それを与えてきた。道づれ、というのは、ひとりで歩くのは心細いとみえ、平田准尉が数人の兵隊と行動しているので、仲間に加わってきたのである。祭も烈も区別なく、ともに行動してゆく者は仲間にした。一人でも多く渡河点まで連れて行ってやりたい、と思う。遅れれば、アラカンの山の中に、置き去りにされてしまう。
本多大隊は、先発挺進隊として、この作戦に従った。いまは、殿軍となっている松村部隊の無事な撤退を祈りながら、自身も撤退行をつづけている。本多大隊は撤退に際して、松村部隊の配属を解かれはしたが、アラカンの山中を、ともに戦った同族意識に強く結ばれている。本多大隊に、過分の賞讃《しようさん》を惜しまなかった松村部隊長の期待に、充分にはこたえられなかったことを残念に思う。せめては松村部隊長以下の御健闘を祈るのみ――と平田准尉は思うのである。
本多大隊も、出発時は、たとえば西川隊(第十二中隊)は百九十四名を数えたが、この撤退路を退《さ》がって行きつつあるのはわずか六名である。平田准尉は、その六名を率いているのである。その六名が、いつしか二十名ほどになっているのは、途中で、自隊も他隊もかまわず、拾ってきたからである。この二十名の中には、ふしぎに、弓兵団の者もまじっていた。連絡に来たまま、はぐれはぐれて、平田隊に合流したのである。
タナンからトンヘへの山間をたどる時は、とくに猿《さる》が多かったので、猿を撃てば、飢えを満たすのに助かる、と、そう思って、猿の群をみかけると、平田准尉は、小銃を向けたことがあったが、ふしぎに、撃てなかった。尾の長い、黒い猿である。猿は、群の中のボス(親分)たる者が、警戒するように、平田准尉の隊伍をみまもる。それも、前面の、木の枝にぶらさがりながらみまもる。狙《ねら》って撃てば、充分に命中する距離を置いて、平田准尉が照準をし、引金を引こうとすると、その直前に、猿は木の枝から手を放して、下の枝へ落ちて逃げる。
それを何度かくり返すうちに、
(なんという利口な動物だ。殺意を感応するのだな)
と、平田准尉は思い、猿を撃つことは断念して、カメレオンがみつかれば、それを獲ることにしたが、カメレオンは、風土が変ったためか、撤退を重ねてくるに従って、その姿をみることが、少なくなった。アラカン山脈の中に、折り折りにみつけることのできたカメレオンを、
(あれは天の恵みであったのかもしれない)
と、平田准尉は思ったものである。
平田准尉は、途中で拾ってきた者たちをも含めて、本多大隊平田隊と名乗って、タウンダットの渡河点から、チンドウィンを渡河している。
渡河点では、河中へ桟橋《さんばし》を出して、乗船の便宜をはかっていた。しかし、桟橋は不安定に揺れるので、乗船者は、ロープを伝って桟橋を渡り、鉄舟に乗った。鉄舟は二隻《せき》をつないで、上に板を渡して、兵員をその上に乗せたが、増水期の河水の揺れもあって危険なので、板のまわりに杭《くい》を打って、ロープの柵《さく》をめぐらせ、兵員が河中に落ちるのを防いだ。鉄舟をつとめて有効に使用して、渡河を早めようとしたのである。
八月三十日の夜明け近くに、全員の渡河が終了している。
松村部隊は、渡河に際しても、部隊本部、内堀大隊、古北大隊の順序に、隊伍を乱さず、正々として、渡河を行った。
古北大隊は、最後の鉄舟に乗って渡河をしたが、古北大隊のあとには、もう、松村部隊の将兵はいないのである。死者と、死者の魂を、アラカンの山中に置き去りにしてしまっている。
「大隊は、二十二名か」
と、古北大隊長は、身近にいる勝亦曹長《そうちよう》にきいている。
この夜は、星明かりが、わずかに水面を明るませていた。
「二十二名です。最後の、生き残りです」
と、勝亦曹長はいう。作戦発起時には、大隊の兵数七百を越えていたのだ。
交わし合う言葉に、おのずと、悲痛の思いが通い合う。
(みんな、よく戦い、そうして、みんな死んでしまった)
というのが、アラカンと別れるについての、古北大隊長の、勝亦曹長の、渡河する者すべての人たちの、正直な感慨であったろう。
アラカンの山中に置き去りにした人たちの骨は、いつか拾いに来てやらねばならない。それは、いつの日のことになるだろうか。チンドウィンを渡ったビルマには、さらに新しい戦いの日々が待っているのである。
古北大隊二十二名の乗船を以《もつ》て、松村部隊の渡河が終わっている。
古北大隊長は、鉄舟の船尾に立ち、星明かりの下のアラカンの山々に眠る、無数の死者たちの魂に向けて、
「諸子よ。松村部隊後衛古北大隊、ただいま渡河します。諸子らの無念を胸に、われら今後も、なお善戦することをここに誓います」
と、心の奥でつぶやき、瞑目《めいもく》し、深く深く、頭を垂れている――。
あとがき
本篇をまとめるについては、作戦当時、松村部隊本部に所属されていて、戦後、部隊史をまとめるについて、その中心になって仕事をされた、竹ノ谷秋男氏にもっともお世話をかけてしまった。竹ノ谷氏自身からの取材も多いが、戦友会関係の、個人または団体として話をきく機会への斡旋《あつせん》についても、ずいぶん骨を折っていただいた。写真や記録等の資料及びインパール慰霊行のビデオテープにいたるまで、ゆきとどいて配慮を煩《わずら》わしたことについて、まず謝意を申しあげておきたい。
歩兵第六十聯隊《れんたい》の部隊史としては、
『二つの河の戦い』(歩兵第六十聯隊の記録・ビルマ篇)
『インパール作戦の回顧』(元祭第七三六八部隊長・松村弘)
の二書があり、本篇をまとめるについての主要な記述は、ほとんど右の二書に拠《よ》っている。
『二つの河の戦い』は『江南の雲』(中国篇)と姉妹関係をなす部隊史で、両書とも、竹ノ谷氏を中心とする編纂《へんさん》委員会でまとめられている。編纂委員は、竹ノ谷氏のほか、
有本勝蔵 依田忠雄 佐藤政義 大浦良三 前 高英 街 忠 浅井 哲 馬淵祐一
右の方たちが参加されている。本篇をまとめるについて、私は、右の方たちに、個別に取材のお世話になっている。ただ、右の方たちのうち、松村弘、佐藤政義、大浦良三、街忠、浅井哲の五氏は、すでに故人である。佐藤氏は作戦当時、吉岡大隊の中隊長としてライマトルヒルの戦いに健闘された方、前、街両氏は軍医、その他の方たちも、戦後、戦友会の世話人として尽瘁《じんすい》されてきている。とくに浅井哲氏は、ビルマ、インパール方面の慰霊行には、各兵団をまとめられた慰霊団の団長として、何度か現地に赴かれている。
『インパール作戦の回顧』は、歩兵第六十聯隊長、松村弘氏のインパール作戦の記録である。記事及び図面に、種々お世話になったことをここに謝したい。
また、作戦経過及び作戦に関する図面等については、
『戦史叢書《そうしよ》・インパール作戦・ビルマの防衛』(防衛庁防衛研究所戦史室編・朝雲新聞社刊)
右の書に負うところが多かった。
また、歩兵第六十七聯隊に関連して、
『岡田榮蔵編集・歩兵第六十七聯隊文集第一巻・噫《ああ》独り〓 我唯《ただ》一人』(ビルマ篇・中国篇・会員名簿)(発行六七会)
右の書では、本多大隊に関する記述について、負うところが多かった。
松村部隊に配属された右の歩兵第六十七聯隊の本多大隊については、
平田哲夫 速水 博 松浦春浪
右の諸氏に、こまごまと事情をうかがうことができた。以上、あわせて謝意を述べたい。
右の書の中で、当時、本多挺進隊《ていしんたい》の隊長であった本多宇喜久郎氏は、挺進隊の行動を「散り果てし若櫻」という長文の記録にまとめられているが、その第六章に「インパールは攻略可能であった」という記述がある。長いので、その文章の、冒頭の部分を、少々ぬき出しておきたい。
『若《も》し「サンジャック」―「インパール」道に、歩兵十二ヶ大隊(祭兵団の全力及安兵団の一ヶ連隊)各火砲五十門を集中し、これを四月五日前後に集中攻撃させていれば、敵は少くも九十%以上潰滅《かいめつ》し得たであろう。嘘《うそ》と思うなら英軍司令官に聞いて見るが良い。私は少くもそのように判断していた。然《しか》るに愚将の作戦たるや何ぞや。即《すなわ》ち弓兵団は牽制《けんせい》兵団、祭兵団は主攻兵団、烈兵団は「ディマプール」進攻兵団なるに拘《かかわ》らず、主攻兵団たる祭兵団は追取刀で泰から駈《か》けつけたばかりの、準備も出来ていない不完全六ヶ大隊、而《し》かも一ヶ大隊(六十連隊吉岡大隊)を山本支隊方面へ抽出、本多大隊を挺進隊とし、僅《わず》かに祭兵団長は四ヶ大隊の突進能力しか持たず、その四ヶ大隊すら、北方戦線に廻《まわ》され、後日到着の六十七連隊北村部隊(一ヶ中隊欠)が「サンジャック」―「インパール」道の突進力としての主攻であった。弓や烈は完全編成、準備万端滞りなく、この点からしても遥《はる》かな「ハンディキャップ」が当初からあったのである。このハンディキャップを計算に入れれば、三ヶ大隊の実力が祭師団ではないか。徒《いたず》らに地図に鉛筆で書いた態勢ばかりが良くても、空元気だけでは戦に勝てないのだ。重点主攻兵団方面に兵力を集中発起するのが兵法の初歩である。それが最も手薄にして而かも最も広域に分散させたのは誰なのだ。英将が名将になれたのは、我が軍司令官及その側近が勇なき凡将であったからに外ならない』
つねに前線に立ってきた指揮官らしい無念の情は、右の短文からも察しとっていただけよう。
祭兵団は、もっとも苛酷《かこく》な条件下に悪戦し、もっとも悲劇的な経験を重ねることになった。もちろんそれは、インパールへ向かった他兵団においても同様だが、祭の場合はとくに、準備不充分のための悲劇である。私が竹ノ谷氏からもらった地区別の戦没者一覧表のうち、センマイ高地では百八十八名の戦死者の、階級、氏名、出身地、戦死地点がこまかく記されていて、それをみていると、戦闘時の模様が、髣髴《ほうふつ》と浮かんでくる気がする。あなたたちは、なぜこうも懸命に戦ったのか、戦わねばならなかったのか、そうしてそうまでして戦った人たちの、戦いと死の意味が、どうして戦中世代の私たちにしかわかってもらえないのか、という、痛切な思いが、一戦記作者の私の胸に去来する。しかし、それでも、私は私なりに、インパール作戦についての、死者への鎮魂の記録を、書かないわけにはいかなかった。
本篇をまとめるにあたり、「日本ビルマ文化協会」の常務理事原眞一氏からは、取材のほか「日本ビルマ文化協会報」の綴《つづ》りをいただいた。
長谷川米男氏からは、撤退時の詳細な話をきいたほか「祭六〇会々報」の綴を拝借した。
佐竹与三郎、太田俊男両氏からは、舞阪の宿で、一夜お話をきき、真野(旧姓勝亦)義夫氏からは、沼津松原の波音を聞きながら、主として渡河点での体験をきかせてもらった。
浅井哲、高畑長治郎、松田寿直、沢井敏里、北村晋、山口鉄之助、名取久男、前高英氏らには、何度かお目にかかって話をきいている。
右の方々のほか、お世話になった方々の名を、順不同のままに記して、謝意を述べさせていただきたいと思う。
藪中謙二 安部政寿 浜田〓次 安居重助 筒井友之 畑 育美 栃平星一 中西長兵衛 栗山泰次郎 青山源次郎 加藤新平 古川牧一 重松 守 吉田友愛 津田正澄
右の方々のうち、沢井敏里氏は、カングラトンビ戦での奇跡的な生き残りの方だが、本篇をまとめる前に亡《な》くなられた。ライマトルヒル戦を熱心に語ってもらった北村晋氏も亡くなられた。佐竹与三郎、松田寿直、浜田〓次、筒井友之、中西長兵衛、青山源次郎、加藤新平、重松守、吉田友愛ら各氏も今は物故者である。名取久男氏が機関銃中隊長として、心残りのままに別れた田伏潤太郎氏は、辛酸をなめながらも渡河点に達し、現在もお元気である。
チンドウィンを最終に渡河した古北大隊二十二名については、戦後の事情を含めての詳細な調査を、戦友会の筒井友之氏が行っている。左に一覧表を掲げさせていただく。二十二名の最終渡河部隊は、その後のビルマでの戦闘、及び戦後の年月の中でも死去され、この戦記のまとめられた時点で、半数に減っている。戦後の年月の経過をも併せ考えて、ほろんでゆく戦中世代について、いまさらの感慨を覚えてならないのである。
なお、戦友会の集まりの折の取材では、なにぶん出席者が多く、個別的に取材するのと違って、断片的にお話をきいたまま、お名前をきき忘れた方もあると思う。お詫《わ》びを申しあげる次第である。
また、本篇の記述について、月日、場所、登場者の所属と階級、行動地の距離など、私としては不安な点も多く、それで草稿を一応、竹ノ谷氏にみてもらい、補訂していただいた。しかし、なにかと不備の点もあるやに思われるので、大方のご教示を得れば幸いである。
本篇では、作品の性格上、煩雑《はんざつ》を避けるために、登場者にはフルネームを用いなかった。登場者が多く、ゆきとどいてはわからなかったためもある。それで、巻末に、作戦発起時の「歩兵第六十聯隊将校職員表」を収録して便宜とした。これは元聯隊長松村弘氏の『インパール作戦の回顧』に拠ったものである。
ほかに、戦友会関係の団体一覧表も付載させていただく。これは旧版のものは、年月の経過のため、かなり変動があり、それで竹ノ谷秋男氏によって調査し直してもらったものである。
なお、歩兵第六十聯隊が、慰霊祭法要、遺骨収集慰霊行の行事を、現在も重ねていられることは、ここに改めて記すまでもない。これは、祭兵団のみならず、今次大戦にかかわったすべての兵団に通じるものである。
私は今日まで、軍隊や戦場生活の実態、下級将兵の人間的真実を、戦場小説の形で書いて きたが、それらの記録も、戦中世代の消滅とともに、歴史から忘れられてゆくような気がす る。しかし、それはそれで仕方のないことで、私としては、最善をつくして、自身の信念のもとに作業をつづけてゆくより仕方はない。この一巻『遥かなインパール』は、一個聯隊の軌跡をたどることに、紙数のほとんどは尽きてしまったが、筆者の意のあるところを、多少とも掬《く》んでいただければ幸いである。
終りに、少々私事に触れさせていただくと、私は昭和十三年の一月から三年十ヶ月の大半を、騎兵第四十一聯隊の一員として、中国山西省の戦場で暮らした。さらに、昭和十八年の春から三年間を、鵄《とび》兵団(第六十一師団)の歩兵第百五十七聯隊の一員として、中国の安徽《あんき》、江蘇《こうそ》両省で暮らした。終戦は上海《シヤンハイ》である。
二度目の出動の当初、私たちの聯隊は、揚子江《ようすこう》岸の町蕪湖《ぶこ》に聯隊本部を置き、各地に分散して守備についたが、これは前任の、祭兵団の歩兵第六十聯隊の任務地を、そのまま引き継いだものである。従って私たちは、各警備地で、一定期間歩兵第六十聯隊の人たちと共同生活をし、申し送り申し受けの行事をすませて、外地へ発《た》つ祭部隊を見送ったのである。もちろんその時には、祭部隊が単に別な警備地に赴くものと思い、前途の多幸を祈るにとどまったが、その部隊がビルマへ赴き、インパール作戦で深刻な苦しみを味わうことになろうとは、まったく思いみなかった。
私たちが、警備地を申し受けた歩兵第六十聯隊の、インパール作戦及びその後のイラワジ会戦等については、すべて戦後に知り、深い感慨を覚えたことである。ここで多くを記すつもりはないけれども、この一篇をまとめるについては、筆者としての、祭部隊へのいいがたい思いがある。
既述した諸書のほか、参考にさせていただいた資料類を、左記に掲げて、謝意を表させていただくことにする。
*『インパールの山とイラワジの河』(祭第十五師団経理部戦記・戦友会ナメマス会刊)
*『痛恨の山河』(第十五師団衛生隊の軌跡)
*『インパール作戦』(磯部卓男著・丸ノ内出版刊)
*『防人《さきもり》の画信』(田畑敏雄作品集・千彩会刊)
本書は、新潮社出版部の佐々木信雄氏との約束で進められてきたが、その時から、七年余の年月が経ている。出版事務については、同編集部の宮辺尚氏に、一切お手数をかけている。あわせて、ここに謝意を述べさせていただく次第である。
(〒176東京都練馬区桜台六ノ十八ノ十四の自宅にて・著者)
この作品は平成五年二月新潮社より刊行され、平成七年八月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
遥かなインパール
発行 2001年9月7日
著者 伊藤桂一
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861118-7 C0893
(C)Keiichi It 1993, Coded in Japan