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太平洋戦争日記(二)
伊藤 整
目 次
昭和十八年
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七月 南太平洋戦線、米英シチリア上陸、家庭農園
八月 東京空襲の予想、藤村死去、キスカ撤退
九月 イタリア降伏、防空演習、文科系大学廃止、官庁疎開大綱決定
十月 影山正治対菊池寛、緊急避難要綱、東京近県野菜持ち出し禁止令
十一月 出版業整理、ブーゲンビル島沖航空戦、防空演習、ギルバート諸島戦
十二月 カイロ会談、渡満準備
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昭和十九年
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一月 紀行エッセイ、新潮社入社
二月 マーシャル群島、闇の話、小林北一郎一家
三月 疎開者ふえる、トラック島、隣組風景、旅行制限令
四月 防空壕掘り、疎開強化、埼玉県児玉行
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一、本書は、大学ノート十八冊に記された、昭和十六年十二月一日より昭和二十年八月二十四日にいたる日記の全文である。
一、内容にはいささかの改変も加えていないが、著者次男、伊藤礼氏の校訂により、公表をはばかられる箇所を若干削除した。
一、目次(内容)は、各月の記述から主要な事項を選び、校訂者が作成した。
一、ノートには随所に当時の新聞の切り抜きが貼付されているが、ここにはそれを収め得なかった。
一、昭和十八年十二月末より翌年一月末までのほぼ一カ月間、満洲旅行により日記が途絶えているため、その間に書かれた紀行エッセイ三篇「旅順にて」「海鼠山附近」「戦蹟を歩いて」を補足収録した。
一、文字づかい(漢字、かなづかい)を現代風に改めたが、いたずらな統一は避け、原文のままにしたところがある。難読と思われる漢字にはフリガナを付した。
一、誤字脱字、誤記の明らかなものは訂正した。ただし、著者の思い違いと見られる箇所でも前後関係から原文どおりとした部分がある。なお、不明の文字は□として入れた。
一、日付、体温、脈搏等の表記、また句読点、作品名、雑誌名等を部分的に整理した。
一、〔 〕内の記述は、校訂者の註である。
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[#2段階大きい文字]昭和十八年七月
七月一日 曇 後雨 良便
午前中「八光」の小説書く。二枚ほど書いてやめる。七枚目なり。
三十日上海の共同租界をいよいよ国民政府に返還する調印をしたという。
母三日に帰るということで、急行券を買いに上野駅へ行く。今日から急行は指定売で、二日前上野駅でしか売らないのである。高谷の小母の息子病気とて、ビタスを買おうとするが、中々ない。やっと新町で入手す。母のほしがっていた急須もその近くで買う。博の土産に団扇三枚一円六十銭、菊の家へ茶碗五つ、一円三十銭等。新潮社より月評十四枚の稿料四十二円届く。局にて受けとる。代田橋にて理髪六十銭。
今度内地を九地方(北海、東北、関東、中部〔東海、北陸〕、近畿、中国、四国、九州)に分け、各地方毎に協議会を持たせ、その中心地県の知事を大臣級の人物に指名することになり、人選が夕刊に出ている。吉野信次、吉田茂、内田信也、河原田稼吉等なり。都の役員もそれぞれ任命される。今日から東京都となり、我々も都民となったわけである。鶴見の板谷真一君より土曜か日曜に遊びに来ると言い来る。
夜桃野組長報国債券十円券を一枚持って来る。今期は意外の少額であるが、それはこの祖師谷一帯が農家である為割あてが少額なのだという。市街地の方は、この三四倍になっているという。滋たち今日から学校半日だという。
七月二日 曇 小雨 やや軟
再びソロモン群島で米軍は攻勢に出た。ガダルカナルから西北に進み、我軍の航空基地ニュージョージヤ島の西方に、すぐ近接しているレンドバ島に上陸して来た。我方の守備兵もいるにはいるのであろうが、多分輸送力の関係で、我方は空軍のみは最近敵に十分対抗する程になってはいても、地方防備には十分の資材を送れないのであろう。だから、これ等の島々を十分防備することは不可能なのであろう。しかし今度は我方の基地に相接している島で、敵の基地からは随分離れているのだから、我方に策戦の地理的な利は十分ある。そこを押してやって来たのは、敵が、自己の輸送力、戦力に十分の自信を持っているか、我方の地上戦力を見くびっているかである。このレンドバ島を敵に奪われてしまうようでは、その北方にずっと続いているソロモン群島を守り切ることは我に難かしくなろう。我方の戦力の試金石である。また敵の戦力の試金石でもある。この島に上った米軍を一人残らず殺して、ガダルカナルの仇を報じ、かつ敵の戦意を摧かなければならぬ。我方に足りぬものありとすれば、多分それは船である。ガダルカナル、アッツに続いて、三つ目のこの島の上陸戦で今度こそ米軍に思い知らせなければ、国民の意気も消沈するであろう。しかし若しニューギニアやソロモン、ニューブリテンを守り難いのであれば、あまり輸送力に無理のない所まで一応立ち退いて、有利な地点で敵を迎えうつことになるかも知れぬ。そういうことがあっても本当は驚いてはならぬわけである。輸送力のせり合いで保有する戦線の境目が決定するわけである。当分この島の争奪戦が我々の注視の的で、また心配の種子である。
チャーチル強気の演説している。秋に欧洲へ上陸するか。独潜艦の通商破壊戦は全く休止状態に入り、六月の撃沈数は十万屯にすぎない。これは英米の防禦法の進歩もあるが、一面には英米の欧洲上陸を警戒して防備についているのだ、という説もある。独逸はすっかり受身になっている。
母明日出発故に、土産にと、挺子応用の釘抜き、炉煎、高谷家あてのビタス等を買いに出る。電球を三個、新宿のマツダランプで買う。伊勢丹で先月依頼した腕時計の修理したのを受け取る。十円の腕時計の修理代が四円二十銭とは驚く。京橋、銀座等にどこもビタス売切れにて、新宿はずれの新町の昨日の店で一個買う。スカボール二個買う。いよいよ薬が無いとすれば、冬の手につけるこの薬と、熱さましの為のキニーネ注射薬(これは三箱ぐらいある)と整腸用のワカマツ等があれば、どうにか夏と冬を過せると考える。日本橋角でふと赤木屋という店を見ると、銀行のようにして、大勢の人が入って債券を売り渡している。自分もいま金がないのだから、五六枚の債券を売ろうかと思う。
家に戻ると大工長谷川が来ている。庭の木戸三枚を運んで来たもの。裏の木戸と四枚、取りつけに明後日来る由。皆で五十円という。そう高くはない。ビールを貞子が出してやっている。いよいよ今日見て来たように、私の債券を売らねばならぬ。
夕刊各紙にレンドバ島戦の後報あり。敵の発表はなかなか自信たっぷりである。また読売、毎日、朝日とも支那の現状を報じている。それぞれ特色あって面白い。租界還付について国民に消極的な気持を抱かせぬ為の高等政策の現われであろうが、よいことだと思う。そのうち朝日の記事の中に、初めは重慶側は汪兆銘を裏切りだの漢奸だのと言って罵っていたが、今はその声は消えたと言っている。それは重慶の民心が東亜同体意識に目覚め、汪氏のやり方に賛意を表して来たからと書いているが、ことによれば、否、多分、重慶と南京政府とは連絡があり、日本と米英と、どちらが勝つ場合にも支那の保全をはかろうとする気脈が暗々裡にか、明々裡にか通じあっているからであろう。そうであれば、支那人はいよいよ食えない民族である。
アメリカは青少年少女の資質、品性の低下に悩んでいるという。朝日に記事あり。
七月三日 豪雨(土)やや軟
母出発の日。寒いぐらいにて、夏シャツとワイシャツに夏上着にレンコートにて歩いて汗出ず。午前中に債券を換金すべく出かける。赤木屋では貯蓄公債と弾丸切手のみ買う。その並びの住友銀行にて(赤木屋に教えられる)報国債券を売る。両方混ぜて九枚にて六十円ほどになる。これで手持九十円ほどあるが、明日大工に五十円余払えば、やっぱり薬屋、和田本町の魚屋への卵代等に不足しそうである。こういう心配をするのは、いやなことなり。物を買わぬようにしようと思う。奥野数美君から山羊の本があること教えて来る。買っておいてくれと返事を出す。この日日本橋白木屋で階段の休憩椅子にて一人の紳士握り飯を出して食っている。食堂なし。
レンドバ島は、敵が強引に上陸してしまったのだ。それを退散させることは容易であるまい。我軍はやっぱり濠洲やニューギニアをも爆撃している。一時頃家に戻り、疲れているが、四時頃、また滋と礼と共に上野駅へ母を送って行く。上野迄一時間二十分ほどかかる。汽車は混まぬようだ。英米の爆撃を受けているドイツ国内の生活の一端をうかがうに足る読売の川崎特派員の文夕刊に出ている。ちょっと面白い。事実はもっと惨澹たる面もあるにちがいない。
夜、早寝す。母がいた間みんなでやっぱり賑やかにし過ぎていて疲れたのである。母は十月の末に葡萄の期節がすめば上京するという。その折広島へ一緒に行くことに大体うち合せる。母は、子供たちや菊に十円ずつくれたり、なかなか機嫌がよい。家が気に入ったようである。よかったと思う。しかし汽車で見送って、この小さな婆さんが、自分にとっては天にも地にも変えがたい母であるかと思うと、寂しく、涙ぐましく、しっとりとした気持になる。滋は、母と丈が同じであるが、足は九・三の母より大きく、九・七である。年月は早く経って行くものだ。小樽は軍人が巷にあふれ、物資、食糧の不足で皆近村に買い出しに歩き大変であるという。また母の話によると、今年から田や畑を四段以上耕しているものは米を二割減ぜられるという。塩谷の家でも五段ほどやっている故減ぜられる由。しかし博が組合にいるので、米は事実上は何とかなって行くという。いよいよ自分も仕事をしないと生活に行きつまる。
七月四日 終日雨降る 寒し 日曜 やや軟
午前中に板谷真一君来る。配給のビール出し、昼食を共にす。板谷君ビール壜に二本食用油を持って来てくれる。帰りにビール壜一本に酒をやる。二時頃板谷君帰る。大工長谷川と植木屋秋元来る。大工は垣根の扉四枚取りつけ、秋元はセメント水槽を持って来る。前者に四十七円、後者に二十六円払う。あと私の手もとに二十円、貞子の所に二十円しか無い。困ったものである。以前の家での隣組貯蓄で作った通帳にある四十円を下そうかなど話し合う。夕方から仕事に向って、結局仕事できぬ。時局感が筆を進めさせないのである。この抵抗は実に大きい。今年になってから「幼年時代」を百枚書いたきりなのだ。こんなことでは生活して行けない。
礼、午前中に杉沢から七日雛鶏、牝五羽持って来る。底を抜いた箱に入れてやる。鶏をその箱に入れ、天気のよい日は畑にじかに出して土の中の虫を食わせ、鶏糞を落させるようにしようと考えている。子供たち鶏に夢中になっている。
今日はレンドバ島についての情報なし。
七月五日 曇 涼し 身体だるし、疲労多し、注意。
まだ梅雨明けにならず、こんな涼しさでは、私の身体にはよいので助かるが、米が不作になりそうな心配次第に濃化す。「幼年時代」の一部「八光」への十枚をやっと書く。夜までかかって三枚写す。この仕事が差しあたり一番はかどる。この作、各項目を書き出し、幼年時代の村の生活を短篇に書いて集めた形にしたい。
在重慶米空軍司令シェンノート「明年日本を爆撃したい希望である」と言ったとストックホルム電は報ず。在支米空軍は資材入手出来ず、弱体にて、次第に充実している由であるが、今年は日本空襲など出来まい。僅かにハノイや広東辺を爆撃している。そして、これからは日本空襲には気候が不利になるのであろう。日本の火山を爆撃すという珍案敵に現わる。夕刊によると、我空軍はレンドバを爆撃している。今度はこちらの基地近くだから、前にガダルカナル島で我陸上軍が被ったような休止なしの爆撃を敵に与えてやるべきだ。今度叩きつけねばいよいよ敵は自信を持つであろう。
陸軍も海軍にならい、特別飛行練習生を高専や大学卒業生から取ること発表す。一年半で少尉任官の由。志願者多いらしい。
昼、雛鶏を底のない箱に入れ、畑に持ち出して蟻や虫を食わせるのが面白く、熱中す。学校は今日休む。学校終ったこと、実にほっとする。仕事に集中すること。
夕方、滋の勉強不足なりという貞子と共に勉強しろと責め、打つ。打つことは、もうよそうと思う。子供の気持を荒していけない。
チャンドラ・ボース、ビハリ・ボース両人昭南島に現われた由。独立運動を外部から積極化するのであろう。
七月六日 曇 涼 元気なり 午睡す 良便
午前中からかかって、「八光」に発表の小説、複写をとりながら加筆して改む。夜十時出来上る。貞子常会に加持家へ夜行く。午後鶏を遊ばせたり、餌箱を礼と二人で作ってやったりする。その中休みは仕事に工合よし。
レンドバ島いよいよ激戦なり。地図を見ると、敵の陣はガダルカナル島、ルッセル島、レンドバ島(ニュージョージア島も含まる)から西方へ向い、ニューギニアのミルン湾、ブナ、ワウ、ベナベナと南方に東西にわたる。我方はそれに対して、東から言えば、イサベル島、ニュージョージア島、コロンバンガラ、ショートランド島、ビスマルク諸島、それからニューギニア北岸という風に北方に東西の線で相対している。この戦線ではどうも我軍は押され気味である。明かに敵は、この線に全力集中でやって来ている。物の量と人の数と中間基地濠洲の力とによって押して来ている。
東条首相はタイ、マライ方面へ丗日出発し、タイ国を経て、五日昭南に到着したという。元気でよく歩く人である。丗日といえば敵のレンドバ上陸の朝であるが、出発後これを知ったにちがいない。そしてこの機会に、日本はタイ国に、タイが英国から奪われたマレー聯邦北部の四州と、北方シャン州の二州とを与えた。タイは東亜諸国中の唯一の独立国であった為か自尊心高く、英米派多く、扱いにくいという噂は、南方から帰った人のよく口にする所である。この宥和政策は日本の近時の基礎方針であるが、タイ人の心を得ることであろう。
明日は支那事変六周年である。早いと言えば、まことに早いものである。欧洲の戦争も五年目である。前欧洲戦ならば、もうドイツ側の敗北が明かになった頃であるが、今度の欧洲戦は正にこれからである。これから始まろうとしている欧洲上陸戦こそ刮目して見るべきものである。
今日は仕事進み、気持よし。貞子十一時帰る。
ポーランド亡命政権首相スコルスキイ、同参謀総長クリメッキイ等は飛行機にて死亡した。英側は事故と称し、独側は、英が対ソ関係顧慮のため暗殺したのだと称している。ストックホルムから来たモスクワ電によると、ドイツはクルスク南北の線で、冬期戦以来もっとも激しい攻撃をはじめ、数ケ所でソ聯軍陣地を突破したという。この攻勢も真の大攻勢か否か疑わしい。
最初の徴用工が取られてから満期の二年になるが、期間延期になるという。これは重大なことである。常会では、西尾夫人をこの組の防火群長にしようとするが、西尾夫人承知せず。また加持夫人もならず、弱っているという。十日迄に防空壕を掘ることになった由。
七月七日 七夕なり 薄曇 涼 寝不足にて疲労感多し 良便
支那事変六周年の日なり。昭和十二年より七年目になり、大東亜戦の三年目である。最近の一年間の支那事変の戦果として、遺屍四十五万七千八百、俘虜十四万九千、帰順九万六千、飛行機二百七十機であり、我方の損害、戦死八千二百八十一名、飛行機四十四機という。今年は敵将の帰順の多いのが、従って俘虜の多いのが特色であった。
午前中「八光」の小説「神社参拝」という題にして錦城出版社へ持って行く。広瀬氏いる。近頃二三原稿集ったので、一二ケ月延びて、原稿料も掲載後なりという。米田女史、原稿紙のよい紙ありとて三光社印刷所へ行く。昔同人雑誌で西川友□〔孝か?〕君のことで迷惑かけたことのある店で、主人に逢い恐縮す。その足で蒲池君に逢い、少時喫茶を共にして別れ、帝国教育会出版部に児玉君を訪ねる。助手の今田えい子氏いて、挿絵出来たと見せられる。赤松俊子という人の絵。北海道人なりとて、よく内容を知って描いている。そこへ児玉君、表紙を持って外出から戻って来る。題の「雪国の子供」は類似の本ありとのことで、変えるため明日相談に来るという。駅の近くの家々で赤や黄の色紙で七夕祭りの支度している。それだけのことでも昔風で雅かに美しく見える。よほど殺風景に慣れているのだ。鶏の雛一羽弱っているのがある。
箪笥がどこにも売に出ていないと思ったら皆製造者から闇に流れていたのだと毎日新聞に出ている。いま残っている商売はほとんど闇である。
ピエルゴロド辺のドイツ軍の攻勢は大きいものらしい。ここはソ聯軍の突出部である。しかし去年のような大攻勢に出るには、すでに時機が遅いであろう。前の大戦の西部戦線と同じ持久戦になっているのだ。伊太利南部の空中戦はいよいよ激化しつつあるという。この戦線とレンドバ島戦とは、目下最も重大なものであろう。
各大学、専門学校から中学校までの空軍志願者は東大の九割等をはじめ、甚だ多いという。学生はいよいよ国家の呼び声に応じて、熱して来た。
ソ聯のプラウダ紙は貼付のように英米に悪口を呈している。ソ聯のみ犠牲多い戦争という変なことになったもの。飛び入りのソ聯が主戦力となっている。それにしても戦後の経営論などをしているというのは、策謀としてでも、英米が自信たっぷりの姿がうかがわれる。今度の米の配給には、麦粉や馬鈴薯で補ったので、米は大体足りている。キャベツ、胡瓜の漬物豊富。市電で見ると四谷辺の表通の店では、土間の叩きをこわして、みな防空壕を掘り、土をどこかに運び去っている。今度から、皆壕は地下にすることになったのである。
夕焼して、漸く梅雨あけの気配となる。全く、もう暑くならねば心配である。
七月八日 曇 涼 やや軟
午前中「幼年時代」を二三枚書く。
敵はいよいよ計画的な進攻作戦をはじめ、我方の基地の一つであるニュージョージア島の各所に上陸して来た。特に北端のクラ湾では激戦があった。それは六月三十日のレンドバ島以来の継続的作戦である。随分強気に出ているが、敵は輸送と戦力とに余程自信があるのだろう。ガダルカナル戦やそれをめぐっての海戦はこの西南太平洋の緒戦であったが、いよいよ今度は決戦になっている。これに負けてはならぬ。弟の薫も日本の東南にあたる島で毎日のように爆撃を受けているという手紙から推すとこの方面にいるのかと思う。もっと早く手紙をやらなかったのが気にかかる。ニュージョージアの北端クラ湾もそうだが、その湾の北にあるコロンバンガラは我方の重要基地だと新聞に書いている。この方面で沈められた敵の巡洋艦の一隻は一万屯級のヘリーナだと敵発表す。敵は今度の攻勢を「質を圧倒するに量をもってする新戦法」と称している由。怖るべきことだ。万一、日本人のこの精神力、国民総力集中の戦が、物質文化の力によるアメリカに勝てないとしたらと思うと、倫理的なものの価値を私たちは信ずることができなくなる。存在の深淵である。
うちでは金が無くなり、今日明日にでも米屋、郵便保険料などが取りに来る分はあるが、外に少しの余裕もなく心配で、いろいろ考えたが、この月末までに「幼年時代」か少女小説かを書き上げて金を作ることに腹をきめ、その間金の心配をせぬようにと、事情を書いて小樽の田居君に速達を出し五百円借用申し込む。必要の時はいつでもと彼は言っているのだが、すでに正月に三百円借り、それから彼が私や貞子の着物にする反物を、もういいものは無くなるとて持って来てくれた。その分が五百円もある。それに今度借りると千円以上になり気が重い。夜貞子と金のこと相談す。いよいよ怠けていず、無理でも何でも書くことにきめる。
午後組長桃野氏が隣家の細君に防火群長になれと強いに来ている。皆がさけていて、桃野氏に気の毒であるが、私としてもこの身体ではまだ駆けまわることはできぬ。知らぬふりをしている外ない。
七月九日 晴 暑くなる 夜小雨 下痢二回 ワカマツ四回
敵はますます出て来た。ラエ、サラモア附近に上陸し来り、内陸のワウからも進み出て来ている。我軍の輸送力は不足なのであろう。これが支那大陸だったら、決して敵の意のままに進み出させたりはしておかぬであろう。いよいよこの方面は重大化して来た。敵は我軍をここらから追い出すつもりである。しかし我軍もポートダーウィン辺への空爆では積極的である。それだけの力をソロモン方面へまわさずに使っている所を見ると、空軍では我方も余力ありという風に見える。島の戦は、戦力の多い方は、大量で目的地のみに集中攻撃をやって来るから守備はなかなか困難だという、不利な点もあるわけだ。これから後一二ケ月は敵の攻勢は続くであろう。
ピエルゴロド方面の戦闘は激化しているが、独ソとも相手の方が攻勢に出たのだと称している。
朝に楢崎勤氏夫人来る。先日の野菜の礼だとて、貝の佃煮持参、畑で貞子が豆やトマトを取ってやっている。
漸く梅雨あけ、夏らしくなる。しかしまだ本格でない。
腹をこわす。少し昨日いけなかったのに、鰊の身欠の蒲焼を食った為である。今日は考え直して、少女小説を書く。この方が早くまとまった金になろう。青野季吉氏に評論集のこと、野長瀬正夫氏に少女小説のこと、それぞれ近く原稿出来ると手紙出す。河出書房から「青春」の増刷をするとて企画届書来る。これで少々ほっとする。月末頃三百円はこの方で入るであろう。何となく元気になる。
夕方、滋と礼と三人で、畑の東隅に、前に植木屋の掘った穴を、少し掘り下げて、防空壕らしくする。明日防護団員が見に来るという。母が先日播いた豆と玉蜀黍勢いよく出る。雛子元気なり。
炭三俵配給あり。四、五、六の分なりと。ここへ移って来てから初めてである。貞子の心配減る。しかし金のことまたかえって心配になる。明日何とかして二三十円作るつもりなり。
米国のギャラップ輿論投票調査によると戦後ドイツと国交恢復の見込ありとするもの五十六%、日本とのそれは九%だという。米人一般に日本を滅してしまおうということが常識になっているのである。ノックスか誰かは、「日本を幼児のうちに殺してしまえ」と公言しているという。つまり人種的に日本人を地上の邪魔物と見る見方が一般的になっているのだ。しかし、私たちが二十歳頃からの社会政治思想の変化、軍備縮小とか、マルキシズムとか文化擁護論とかを省ると、輿論や思想というものほど、その場限りであてにならぬものはない。時と事実が総てを決定する。
七月十日 快晴 暑し 正午二十七度 軟 ワカマツ六回 入浴
午前中ナベヤ横丁の古本屋へ、あまりほしくない小説本を十五冊ほど持って行く。形のよい本は六割、よくないのは五割ということで十五円受けとる。それから先日鳴子坂下で見つけて十円で買い、あずけておいた博文館の古い「日露戦史」を受け取って新宿へ出る。新宿表通りの洋品屋、蓄音機屋、呉服屋など、軒なみに半分以上店の大戸を下している。いよいよ売るものが無いのであろう。一種の不景気が来るのも当然である。何等かの形で軍需産業か農業かに関係したものでないと収入をあげることはできないのだ。新宿の表通りがこうなるとは、絶対に考えられないことであった。
敵はクラ湾をあきらめたのか、レンドバ島の北方にあるルビアナという小島へやって来ている。この攻勢の本当の姿は、これから現われて来るもので、大東亜戦がいよいよ頂点に近づいて来たこと、殊によれば欧洲戦では米は手抜き、露西亜に当分まかせておいて、その間に日本を破ってしまおうとしているのかも知れない。それが米国の輿論なのだから。武藤貞一は読売で、米は日本の戦力の弱点が補給力にありと信じてやって来ていると書いている。多分事実に近いか。
奥野君より、山羊の飼養の実際という六円の本送って来る。今度彼は文芸主潮に出した「念仏」〔整の思いちがい。「お題目」が正しい。〕という小説に使っている永持真琴という名に筆名を決めたらしい。
ワカマツはよく利き、今朝の便はあまり悪くない。鳴子坂辺の薬屋四五軒でワカマツを捜したが無いという。これは私のような身体のものによい薬である。
夕刻田居君より速達にて一千円送った旨電報来る。依頼した倍額である。
クラ湾の戦果更に多くなる。それについて考えるのに、空戦、海戦においては我方は明かに強いのである。かえって陸上隊の人員、砲、食糧等の補給力において弱いが故に、各島々を十分に守れないのである。土木工事力つまり土木機械器具においても、我は彼に及ばぬらしい。補給消耗戦となれば、明かに我方に不利である。
米英は、東方ピエルゴロド辺で激戦をしているドイツを牽制する為、三十日以内に地中海へ第二戦線を作ると宣伝を始めた。東地中海は英、西地中海は米と分担を決定したともいう。これは、在米英系誌の通信員の文である。ドイツはソ聯の大軍を切りはなして包囲したという。またソ聯の損害は戦車飛行機とも八百台と言う。
分類所得税五十八円五十銭来る。四回だから二百四十円ほどの支払となる。それに綜合所得税が十円ほどである。これ位は払わなければならないと思う。学校の方は受取る時差引かれている。
七月十一日 曇 霧雨 軟 ワカマツ
〈米英シチリア上陸〉
英米軍遂にシチリア島に上陸す。案外早く、そして何でもなくやってのけたものだ。然し目下激戦の継続中であろう。伊太利は枢軸の弱点だ。それを英米は見のがさなかった。やっぱりシチリア島附近の空爆があんなに盛になったと伝えられたここしばらく前から、これは考えねばならぬ事であった。英米は東南岸に強力な艦隊を集中し、空軍と艦隊援護によって上陸したのだという。太平洋と地中海と時を一にして、反枢軸の攻勢は始まった。こんな重大なことが、新聞では小さく、独ソ戦線の報知の下欄に組まれている。味方に不利なことはすべて小さくという新聞の性格は困ったものである。これは英米の欧洲上陸戦開始で、大問題ではないか。太平洋戦では、集中した上陸軍は退けにくいというのが一般の形だが、イタリアではどういう事になるか。シチリア島はほとんど陸続きと言ってもいいのだから、これを防げるかどうかで、現在のイタリアにある枢軸軍の戦力は決定される。
「日本女性」より随筆の稿料十五円送り来る。五枚分なり。
午前、近所の江口清君来る。甲府にて買って来たという桃を四五個もらう。午後小西猛君来て、三時まで話す。その後自転車に、甲州街道まで乗って見る。大分うまく乗れるようになったが、自動車が来ると止って下りる程度である。田居君から金を送ったと言われると急にほしいものが、あれこれと考えられる。二階六畳間に応接用のテーブル一つ五十円位。杉沢から譲ってもらう自転車百三十円、ラジオ五十円ぐらい等。外に滋の先生への贈物十円程、滋の歯列匡正費四十円等。
午前と夜とにて少女小説八枚書く。やっと敏子、福子、君子と三人の人物の性格が定まって来たので、小説がひとりで動いて展開して行くようになった。こういう風になるまでが骨が折れるのである。淡海堂の野長瀬君に出した手紙と入れちがいに同堂の江口君から催促が来た。
夕方隣家のラジオを聞くと、シチリアへの侵入兵は落下傘部隊のみで、まだ海岸からの上陸兵は多くないとのこと。ピエルゴロドでは独軍はロシアの戦車軍を包囲、捕掴したという。
七月十二日 晴 暑し 午二十八度 ほぼ良 ワカマツ 少女小説三枚
遂に今年は反枢軸進攻の年となった。これから一二年は多分我々は受身の辛い戦争をしなければならぬのであろう。英米は、夕刊の読売の特電によると、ともかくもシチリア南岸に上陸し、相当の地域を確保したらしい。古戦場シラクサの附近である。チャーチルはほんの数日前に「秋の木の葉の散る前」云々と言っていたが、その時はもう準備完了だったのだ。何世紀経っても同じ所で同じような重要な戦争が行われる。少くとも欧洲ではそうだ。セダンは普仏戦争、前の大戦、この大戦と続いて重要な戦場であり、古代のトロイは前大戦のガリポリの対岸である。古代イタリアのシラクサはまた今大戦の決戦場である。所が太平洋だけは違う。中央アジアから東進した東洋民族の精鋭日本と、西欧から西に進んで物質文化の量的な開花をアメリカに開いたアングロサクソン族とが、これまで大きな戦らしいものの無かった人類あっての新戦場太平洋に西方と東方とからぶつかって戦っているのだ。これは壮大な戦いである。
変なハガキを二三度よこして逢いたいと言って来ている堀川君を今日来るとて待っていると山下均君来る。北海道砂川で徴兵検査を最近受け、丙種国民兵だったという。その後へ堀川君来る。中学で私の三四年後らしい。話して見ると変である。自分は三時間しか眠らぬとか、自分を人はみな非常識だというとか、方々で就職を断られた話をする。結核については色々しらべてよく知っているというので、セファランチンのことを聞くと、あれは市川で作っているという所まではよいが、後の話は、B・C・Gとツベルクリンとセファランチンとをごっちゃにしている。いつまで相手になっていてもきりがないので閉口して、自転車の稽古に外へ誘い出して別れる。山下君が小豆五合ほど持って来てくれる。堀川君牡蠣を一折くれる。七月のカキなど考えて気持悪くなり、汁に入れたが食わぬ。堀川君に茄子を十個ほどやる。
貞子セファランチンに久しぶりで行く。医者洗濯などはせぬ方がよいと言った由。青野季吉氏より返書。同氏の「心輪」についての感想を言ってやった返事などあり。私の評論集予定のとおりにてよいという。印税半額引換にくれるよう話をするとのこと。広島県の亡父の郷里にいる年とった従兄小松治郎一氏より、その娘文子〔後出文枝ともあるが文江が正しい。〕の婿として基をほしいと言って来る。基も母も反対であろう。困ったことだ。北海道へ言ってやらねばならぬ。林信一氏より夫人が亡くなったと言って来る。気の毒なことである。
田居君より小切手千円速達便にて届く。荒木かな女史より「童子の像」を買って面白く読んだと言って来、その中の一郎と二郎に運動靴を送りたいからと文数を訊いて来る。夕方、堀川君の相手でヘトヘトになったあと、自転車で少々気晴らしをする。電車道まで乗って行く。
東条首相はジャカルタからマニラへ現われたと新聞は報じている。もう帰京であろう。ドイツと日本との間に翻訳の協定成立したという。
七月十三日 快晴 暑し 南強風 ほぼ良 右胸少々圧迫あり
午前中から新宿に出る。そのついでに田居君へ金受領の電報と手紙、昨日来た東京新聞よりの大波欄のための原稿依頼に応じ、新人発見の途という出題のため一枚半の短文を頼尊君あてに送る。綜合所得税二円三十銭払う。基あて広島県の小松氏の手紙を送る。淡海堂の江口君への返書、月末までに少女小説書くとの手紙などを出す。
帝国銀行にて千円受取る。それから薬屋にて三四軒ワカマツを求めたが品切れなり。今日はお盆にて電車混雑する。なるほどお盆だったなあ、と今さら気づく。この頃京王電車では昼頃細君たちがたいてい風呂敷包みを二つ下げて野菜を買い出して戻るのが多く乗っている。市内の野菜配給はこの頃極めて少く、五人家族一日にキャベツ四分の一という程度で、どうにもならぬので、どこの家でも郊外へ闇値で買いに行くのである。百姓は闇値で現金でその方がよいから一層供出量を減らす。困ったことである。雪印バターに杉沢を訪ねたが留守。思い出して高田馬場の病院へ行く。待つ間に駅でアイスクリームのスマックというのを人だかりに入って二個買い、向いの東京パンにて昼食。飯つきランチ一円。セファランチンを滋と礼の分と三人分受取り、更に伊勢丹にて滋の先生渥美氏にワイシャツを買って上げようとして見るが無い。この間からワイシャツは品切と聞いていたが本当である。巷間、もうワイシャツは作らず、皆国民服にさせるか、立襟にさせてワイシャツなしということになるという者あり。そのシャツ部に立っていると行列を作っているので加わった。それは純綿のチヂミのステテコを売っているのである。切符を持っていたので、それを二円五十銭にて買う。
一時頃帰宅。菊は和田本町の薬屋、魚屋(闇の卵)の支払に行く。貞子は滋の歯列匡正の支払(前後二度にて八十円)、滋の先生宅へと四時頃出かける。二人とも胡瓜と茄子を方々へ持って行く。渥美先生に「童子の像」をやる。渥美氏留守だった由。貞子八時頃、菊は六時半に戻って来る。菊薬屋にて蚊とり線香(これがこの頃どこにも無くて皆困っている)を二箱もらい、もとの大家名取家から米を一升もらい、隣の中野家よりオカラ料理を一皿など、色々もらって来る。
午後滋の理科の小研究文を手伝いながら、前の家の風呂のスノコ台にて、鶏小屋を作りかける。屋根の傾斜を礼と色々考える。
夜になっても落ちつかず、仕事出来ぬ。外出すれば駄目だと思う。
南太平洋の戦争の状況一層急迫し、戦争の性格が変って土木戦、消耗戦になった、と各紙とも力を入れて論じ出した。島を持っていても、それを土木力によって要塞化し、かつそれを守るに足る飛行機と尨大な輸送力を持っていないと、維持できないのである。ムンダやコロンバンガラ島の確保困難になって来ているように思う。
七月十四日 晴 二十九度 南強風 良便 この頃雲雀の声全く聞えなくなる。真中の青空に白い雲浮き、暑し。
午前中より仕事に向うが、二三枚しか出来ぬ。疲労感多く、午前中午睡す。
ニュージョージア島に上陸した敵はムンダに向い、南北から攻撃している由大本営発表に出ている。午後薫来る。彼が海軍省や社で聞いて来たという話によると、敵は極めて理詰めの上陸策戦をするという。レンドバ島上陸の時など、一千機の飛行機を準備し、レンドバ島の上空を絶えず七十機にて、交代交代に飛んでいるという。それ故戦えば、日本空軍は一対八の損害比で米空軍を破るのだが、全体の戦争では押され気味であるという。敵は上陸用舟艇を数多く備え、損害を見越し、一挙して上陸し、上陸するとすぐ重砲を据えてしまうという。目下もレンドバからムンダの我飛行場を重砲で砲撃している由。敵の目標がラバウルにあることは敵側の公表にも出ていたが、ムンダを取られると、どうも工合悪くなる由である。ムンダの北側にも敵が上陸し、南はレンドバ、ルビアナ島より攻められているのだ。そういうことを聞いて考えるのに、敵はシシリイ島とニュージョージア島とで東西同時に攻勢に出ているのだ。日独は英米のように連絡がないのだから各個撃破の方が英米にとっては楽であろうのに、わざと同時に攻勢に出ているあたり、生産力、輸送力に自信を持っている敵のやり方が分るように思う。
朝日の夕刊によると、シシリイ島では英は戦艦六隻、以下数十隻の艦隊によって上陸軍を援護しながら更に続いて後援軍を上陸させたという。また敵はイタリア本土との間のメッシナ海峡を目標に進もうとしているらしいとも言う。独伊軍は戦艦の砲撃を避けて内陸に退き陣を敷いたという。本当は軍艦は陸上の砲台にかなわない筈であるのに、艦砲を避けて独伊軍が後方陣に拠ったというのは、解せない。海岸砲台を占拠されたことによるのであろう。また独伊空軍は英の戦艦一隻を撃破したというのが、日本空軍ならこんな場合は数隻を撃沈しているにちがいない。薫の話でも米軍と損害比一対八ということから言えば、日本空軍は世界一だという。それでいながらじりじりと退かねばならないのは、甚だ悲痛な感じがする。質において劣ったものが量によって我軍を圧倒するというのは、何としても感情的に我慢ならぬものがある。
夕刻、鶏舎の仕事をつづけ、滋の理科の報告文を見てやる。
大政翼賛会の第四回中央協力会議今日から開いている。
楢崎氏より来書、小説単行本の批評十二枚の由。薯買えたら買ってほしいと言う。学校より答案まとめて送って来る。
菊下駄屋にて、滋の先生へ十二円ほどの下駄を買って贈ったついでに私の十円の下駄を買って来る。勿論闇らしいが、柾が三四本しか通っていないのに、緒は昔のようなのがたっている。もとなら一円ぐらいの品である。驚く。はきつぶした古下駄を継ぎ歯させることを考える。明日明後日防空演習にて退避の訓練、資材の点検ありという。
薫の話では、岩上順一が警察の取調べを受けているという。いつか文芸の座談会の会の後の雑談で岩上君のような赤がかった所論がどうして通っているかという笑い話が出た時に平野謙君が「実績がないからでしょう」と配給の実績風なことを言っていたが、やっぱりあれではいけない筈である。それにしてもこういう話を聞くと、不安な気持がして一番いやだ。また中央公論が七月号を出せなかったについては、京都学派の高坂正顕の「世界史的な哲学観」の戦争論などいけなかった由。高坂、高山等の京都哲学は私には分らぬが雰囲気はいやである。一種の煩瑣理論にすぎない。当局の取締対象になっているのはそれが非国籍的という所かららしい。潤一郎の「細雪」なども悪かったのだろう。また中央協力会議で鈴木企画院総裁が企業整理は急速に大がかりにやると改めて言明しているが、印刷業も必ず大きなスクラップ化をされるにちがいない。そんなことからも、今日は自分は何となく不機嫌を抑え切れぬ。夕刊に出ている天羽情報局総裁の演説の中のグルーの日本人は殺すより外仕方なしという意見は言語道断である。こういう暴論を喜ぶような残虐なアメリカ人の血液がたしかにある。それは彼等が新世界米大陸を開拓し、土人を殺リクする間に体得し、発展させた血液である。
在支米空軍はこの頃続けざまに広東、トンキン、海防等を爆撃している。また英は独西部を、独は英のハル港やロンドン地区を爆撃している。しかし世界の注目は今シシリイ島とニュージョージヤ島に集っている感がある。
敵はアッツ島戦で霧や闇を透視するノクトビジョンという機械を使い、砲爆撃をしたという報道あり。ある新聞はそれに惑うなと言い、ある新聞は科学兵器の向上を叫び、または、それはすでに我軍の研究している所であるとも言う。それからの聯想だが、私は敵が島の奪取戦に自信を得れば、きっと北千島のどこかに上陸して来るように思う。この七八月がその危険が多いと思う。小樽辺に集った兵は千島あたりに多く行ってはいるだろうが、若し千島に敵が取っついたら本当に危機だと思う。その後キスカ島についての消息全くなし。すでに撤退したのか。
七月十五日 晴 南風 暑し 軟 防空演習 夜驟雨
朝防火群長加持夫人、石川夫人来り、私の所を対空監視に桃野組長が定めたという。菊、飛行機が来る毎に伝令に出ていたが、午後は来ても出ないようだ。一日中調布飛行場からの飛行機が飛んでいるのだから無理だ。淡海堂の少女小説五六枚書く。英一来る。玉川園にて桃を買って来たとて一個ずつくれる。その種子を南端の畑の隅へ播く。
南方にいる弟の薫よりハガキ来る。ラバウルにいるらしい(後記パラオにて病死)。軍人からのハガキ大分たまり返書出さねばならぬ。武田君、梅沢二郎君、三郎君、高島邦彦君、田中章君、それに薫である。
田居君より、千円の中五百円は重見家より買うカメラの代なりと言って来る。夜燈火管制、十三日ぐらいのよい月なり。
七月十六日 晴 暑 やや軟 ワカマツ 夜名月
今日も防空演習。この度の演習は見張と伝達と防空壕への避難のみであるが、その時間になると電車、バスは止り、通行人は避難せねばならぬ。ゲートルなしでは通さぬとか、市中は大変らしい。午前中から杉沢君遊びに来る。家にいても会社へ行っても演習に出ねばならぬのでたまらぬからというて、夕方までいる。二階で雑談、読書、午睡等をする。おかげで何も仕事できず。
中央協力会議今日で終る由。谷萩少将と田代中佐の戦況報告あり。谷萩少将の話の中に、「キスカ島奪回企図はなお執拗で空襲並びに海岸よりの砲撃を逐次積極化して来た。これに対しわが守備隊は同島を確保し敵撃滅の意気旺盛である」(読売による)と言っている。キスカはまだわが手にあったのだ。色々なデマに耳をかさず大本営発表のみを頼っているのが一番確かである。
夕刻薯畑の草をとり、豆畑に土をよせてやり、村へ帰った母から送って来た葱種子を三うね播き、鶏小屋の続きをして疲れる。貞子この月病気なしとて一昨日頃から心配している。杉沢に雛子の代十円、自転車代百三十円を払う。自転車は九月によこす由。彼の今乗っている分である。七月に入ったばかりと思っていたのに、はや半ばを過ぎた。淡海堂の仕事のみでも大急ぎでせねばならぬと思う。夕刊に退避の風俗写真が二種出ているが、これがこの頃の東京人の二種の風俗の見本である。急迫型とのん気型である。
この頃胸痛も圧迫感もほとんど無いが、畑をやり過ぎたり、自転車を過したりすると、少々感じて来る。しかし至極元気である。ただ腹がゆるみ勝なので、食物は実に毎食よく噛み、米の袋や外の粕はみな出すようにしている。あまり太らぬ。
七月十七日 晴 軟 朝自転車の掃除す 夜満月なり ワカマツ二回
貞子午前中から産科福井病院へ行く。午後二時帰る。二ケ月になっているらしいが、内科の医師の証明あればやめにしてもいいと言ったとのこと。肺門淋巴腺炎がまだ完全でないのだが、貞子はこれを最後に産んでもいいと言っている。しかしこれを機会に胸がまた悪くなったら事である。医師はこれで出血するなら子宮筋腫の疑いが出るが、そういうことにはならぬであろう、と言った由。セファランチンの医師に肺の方の証明をもらったらやめてもよいし、生んでもよい、という結論になる。
午前中仕事に向い、二枚ほどしか出来ず。午後貞子と行きちがいに外出、ワカマツを一個新町の薬屋で買い、またその近くで茶飲茶碗十個三円五銭で買う。新宿のマツダランプにて電球を五個買う。これは窮屈になるということでの買いだめである。伊勢丹でスダレを見たが安いのは無い。電車の中は、この頃続いて野菜の買い出しの女連のみ目立つ。出がけに荒木かなさんへ手紙、林信一氏へ香典五円送る。一橋新聞へ原稿料のこと思い出して催促のハガキ出す。
烏山で団扇二枚九十銭買う。
家に帰ると京王開発課の馬場君来ている。無償の定期券期限が切れたので持って来がてら年賦金の催促である。月末頃造る旨言い、雑談す。そのうち、馬場氏のいる片倉の方で馬鈴薯買ってくれるような話。数の子を一包み貞子がやる。
同盟リスボン電報によると英米はシチリア島に空軍基地を五ケ所作り、シラクサには水上機の基地を得たという。空軍に優越していることが英米をして上陸に成功させ、また軍艦の射撃をも利用させたのである。英米はすでに十五万を上陸させたという。独伊はそれに対して夜間爆撃を加えているという。毎日の夕刊に米軍の使っている金網による速成飛行場の作り方の写真と飛行機の防弾鐙の写真が出ている。こういうものが我軍を傷つける原因になっているのだ。機械、こいつを征服し、敵以上に駆使しなくてはならぬ。
しかしいよいよ金が必要になり仕事を急がねばならぬ。戦争に気をとられ、こういう仕事をしていてよいかという反省というよりは反射的な神経のため、気持がまとまらないのである。戦争にのみ神経を集中していては生活が出来なくなる。
鶏は今まで野放しに飼っている。虫を食うのでほとんど食べものはいらぬ。しかし犬や猫が心配だが、今までは追われたことはない。小屋はまだ完成せぬ。夜は蚊に食われぬよう箱に入れ、風呂敷でおおってやる。大分大きく元気になった。将来どうして飼って行くか考えてやらねばならぬ。時々昼食に自家の畑の馬鈴薯を掘って食う程度で米はどうにか間に合っている。
七月十八日 晴 日曜 やや軟 ワカマツ二度
午前中仕事。昼食後自転車にて千歳船橋の川崎昇君宅を訪ねる。二人でビール一本。自家産のキュウリ出される。彼の仕事うまく行くようになったという。先日の防空演習の話。十五、六の両日は街を歩いている人たちも完全な避難訓練をさせられ、着のみ着のままで路面に鼻がつくほど伏をして一時間以上もじっとしていらされた人がいたという。また川崎君は、喫茶店へ飛び込んだら防護団員が入って来て、客をみなテーブルの下へ入らせた由。それにこりて、十六日は外出しなかったという。
自転車で、川崎家まで三粁、往復六キロを乗り、元気なり。自転車のうまくなったのよりも、身体の元気になったのを、帰ってから大変うれしいと思う。夕食には、ナスの油いため、キャベツの味噌汁、トマト大きいのを一個ずつ、それに南瓜を一皿あり。豊富にて美味なり。烏山に来てよかったと貞子言う。貞子午後に下水の水を藷に肥料としてやったという。重見家の之《ゆき》ちゃんと文《ふみ》ちゃん遊びに来て、礼と中村君と四人で京王多摩川へ遊びに行く。滋は学校の工作とてこないだから取りかかっているヨットを、ラックを塗って仕上げ、夜は貞子に手伝わせて帆を作り、なかなか美事に仕上げる。
この日夕方から夜までかかって一日に十一枚余書き、やや速度が出て来た。もう二週間足らずだが、全力をあげてみよう。五十枚ほどになっているが、最初の十枚は書き直しを要す。淡海堂の野長瀬君より、この仕事よろしくと言って来ている。
樺太の筆谷幸太郎君より来書。恵須取に大山火事あった由。夜菊の姉、台湾の川畑清子に菊をもう少しいるように言ってくれと手紙書く。
七月十九日 曇 驟雨あり 軟便 ワカマツ一回 新町の薬屋の薬夕方
昼間少女小説九枚ほど進んだ。午後自転車にて烏山局まで行く。川畑清子に菊のことで手紙出す。清子が早く帰せと塩谷へ言ってやったのである。田居君に重見夫人のカメラの意向ハガキにて出す。
貞子、東京化研にと出かけたが、滋の学校で渥美先生に逢い、薫の下宿、下駄屋、児玉家などまわって病院へ行けなかったとて夕方戻る。夕刻礼と鶏小屋を完成す。屋根のない方を明日作らねばならぬ。
朝は畑の草を大分取る。昼頃英一友人と多摩川へ来たとて弁当食いに寄る。滋定期券を失って叱られる。渥美氏は夏休中滋が勉強に来てもよいと貞子に言った由。
地方長官会議開かれる。主なる論題は食糧とその集荷法とにあるらしい。戦況に大したものは出ていない。戦局重大化してしまうと、かえって報告が出なくなるのである。少女小説やっと一定の世界が出来、どんどん進む状態になる。いつも架空の小説はこうなる所までに骨が折れるのである。アッツ島陥落後キスカから帰った白衣の兵の談話読売にのっている。鋭く人に迫るものあり。それ以後もキスカとは往復しているのだ。潜水艦にでもよったものであろう。
学生を航空戦に呼びかける記事、講演、それに座談会、母の談話など色々新聞を賑わしている。今日はアメリカ側の学生の航空隊への徴集の詳しい記事が載っている。航空隊員を大量に速成しなければならないのである。これまであまり大事にされたと思われる学生が今度は最も重い仕事を引受けるのだ。
七月二十日 終日雨 湿気甚し 軟
午前中より仕事。其所へ十一時頃北海道十勝清水の義兄来る。嗣郎の見舞なりという。そこへ松尾一光君来る。待たしておいて義兄と昼食。義兄またこれから豊岡町の嗣郎の所へ行くとて出る。今夜新潟へ去る由。松尾君文学の話。その後に、彼の勤め先の雑誌日本の為に荏原製作所を見学して記事を書けとのこと。考えたが承諾。一度現在の工場の実状を見たい。午後鶏の世話してまた仕事。六枚目にて夕食した所へ伊藤森造君来る。彼の通学している明大文芸科の噂など。また文学談をさせられる。梶井基次郎の「桜の木の下には」等々。文学談は閉口なり。これまでイタリア全土が爆撃されたが残されていたローマは、昨日初爆撃を受けたとて記事出ている。米英の神経戦である。これまでローマは欧洲文化の重要な古蹟であり、また法王庁所在地として爆撃されなかったのだ。シシリイ島ではドイツ戦車が英の第八軍を支えているらしい。モスクワ南方オリヨール地区ではソ聯が猛烈な攻撃に出て、ドイツ軍は専ら防いでいる。去年も一昨年も夏にはドイツ軍は大河のようにソ聯内部へ侵入したのだが、今年は全然進出なく、専ら防禦である。欧洲がドイツ軍の力を吸いとっているのである。義兄の話、帯広には陸軍の大飛行場あり、清水に三十万円かで日赤の病院や健民道場が出来るという。神社を今明年にて建立する由。神社は建築制限令に入っていないが資材は勝手に集めねばならぬのだという。石と木材が出る土地なので大丈夫とのこと。
滋と礼、今日で学校は最後なり。通信簿は八月末に渡す由。義兄の話では、嗣郎の士官学校の同級生で今春卒業の者はすでに三分の一ほど戦死の模様なりという。嗣郎病気にて義兄は元気なし。しかし物事は考えようにて、病気だからこそ顔を見られるのかも知れぬなど言う。気の毒である。
ソ聯はさきにポーランド将校二万人を虐殺したが、今度はウクライナ人を大虐殺したことが発見された。米軍は百六十数機という未曾有の大編隊にて、ニュージョージアより更に北方の我基地ブーゲンビル島のブインを襲ったが、五十数機を落された。敵はいよいよ大がかりである。ムンダ附近守備の我軍は激戦を繰り返しているらしい。悪戦苦闘にちがいない。想像をする毎に、我々は国内で平和を盗んでいる気持がする。弟のハガキの「幸福でお暮し下さい」は心からそう思うのであろうが、痛く胸を刺す言葉とも感じられる。
稲作は今までの所順調と農相発表す。しかし春麦はひどい不作らしく、そのせいか薯類、豆類の増産とその食糧化が今年の食糧問題の中心をなしているように論ぜられている。薯を正式の米のかわりに配給されるのは、今年はじめてのことである。私のように子供の頃馬鈴薯を食いなれたものは少しも差支ない。
夜豪雨中を、二時頃起き、鶏を戸外から玄関前に移す。
七月二十一日 晴 時々曇
貞子セファランチン行き。鶏を小屋に入れ、門の外の下水の辺を移動させる。しかし野ばなしの時とちがって食い物不足がち。礼の取って来た小魚や米や馬鈴薯の皮を細く切ったのなどやる。この頃目立って鶏は大きくなる。名古屋コーチンのみと杉沢が言っていたが、一羽トサカが赤く大きく身体小柄で敏捷な異種のものあり。
夕刊のリスボン電によると、ムンダは包囲され、上空は完全に敵の飛行機に制圧されているようだ。ガダルカナルと同じように我方は、制空権を失い、補給に困難している。ひどい悪戦をやっている。ブイン方面を敵は積極的にまた襲っている。そう思って、新聞を見て、胸がつまるように一二時間もぼんやりしている。
夜九時からあわてて書きつづける。それまでは一日中かかって三枚、それから十時までに八枚、計十一枚書く。
松尾君より電報あり、明朝社まで来てくれとのこと。
朝日の鉄箒欄に、静岡のある中学では攻撃精神を養う為と称して毎朝登校時に校門を閉め、生徒に乗り越さしているという。日本人らしい形式的行きすぎの例である。学徒の特別訓練生の募集の体格検査は九割まで合格の由。
海軍の予備学生は一万名取るところへ、すでに志願者二万と新聞に報じている。こういう数字を出してよいかどうか分らぬが、海軍の方が早かっただけに学生の志願者が随分集ったのであろう。午後薫来る。また薫の上役八木健一郎氏の為に買ってやった野菜を朝日の使いが取りに来る。一時より三越六階の日配でドイツ映画「急降下爆撃機」の試写あるも、行かず。
セファランチンの藤井医師、貞子に出産は大丈夫出来ると思うと言った由なり。
七月二十二日 晴 暑し 二十七度半 ほぼ良便 子供等の休みとなる
朝から新宿の大陸講談社に松尾一光君を訪ね、前川武夫君にも逢う。松尾君と一緒に東横線元住吉の荏原製作所を訪ねる。小島という作業課長に話を聞く。工作機械、それも今は飛行機のクランクケースを作る工作機械を主に作っているという。工作機械が今の飛行機生産の真の隘路であるのに、五大重工業のうちに入れられず、ここは軍管理(つまり徴用制)の工場になっていないのでやりにくいとのこと。九割までは四年前からここで養成した少年工であるという。
小島氏の話では、工作機械はほんの一昨年頃までは米国あたりから輸入することのみ考えて日本で作ることに力を入れなかったので、目下不足でとても困っているという。たとえば日産自動車あたりに80台ぐらいある機械が米国のデトロイトのフォード工場では何千台も揃っているという。また真に工作機械の基礎になる精密な工作機械は、日本で出来ず、この工場では戦前スイッツルから買ったのが一台あるという。また歯車を切るとてもいい機械は、これも今のところ日本で出来ず、最近ドイツからの特殊便で入ったという。航空本部あたりがこの頃工作機械に熱心になって、やがてこれが重要視されて来る風潮であるが、少々遅きに失する、というような話。しかし少年工たちは、真剣で、乱暴なこともあるが、仕事に情熱を持っている。早く戦争に行きたいと言っている。ちょうど四年養成して一人前になった所で軍隊に入るので、痛しかゆしだという。少年航空兵や戦車兵に自分で考えて入って行くのも少数あるが、そういう募集を積極的にやればまだまだ今すぐそちらへ移りたい者が多くなるのは目に見えているので、そういうポスターは貼れぬ等との話もある。しかしこの大きな工場が五六百人の少年だけで動いていて、大きな、精巧な工作機械が次々と出来て行くのは、驚異である。小島氏は、今は日本のみでなく、各国とも、こういう少年の手や女の手で武器が作られているのが実情らしい、と言う。工場食堂で昼食。ドンブリに飯一つ、また別なドンブリには、茄子と胡瓜の味噌煮。ただそれだけである。食物を集めるのには公認の闇のようなことをして懸命にやっているという。
夕刻戻ってから畑の草をとったのを、玉蜀黍や落花生の根本に埋める。鶏大分大きく元気になる。
イタリア軍はシシリイ島の中央から次第に撤収し東北部へと退縮して行っている。昨日ヒットラアとムッソリーニが北伊の某地で会見したという。我軍は、フェニックス、カントン島辺の敵の後方の飛行基地を爆撃している。しかしムンダは苦戦のようだ。困ったことになって来た。
基から、広島の小松家の娘との話、やめにしてほしいと言って来る。留守に荒木かなさん来て、礼と滋に運動靴をくれたという。
昭南島で英の沈めた五万屯の浮ドックを我方で浮上せしめたという。将来海戦でもある時はすぐ役に立つし、これは大きな手柄なのであろう。
七月二十三日 晴 ほぼ良便 腹薬用いず、セファランチンはずっと服用中。
朝から荏原製作所見聞記を書く。午前中五枚、夕方三枚、夜五枚にて、十三枚目まで書く。こういう写生風のものは、筆に抑制を受けるにしても事実という土台があるから楽である。
午後薫の下宿先の松岡夫人来る。以前の畑のラッキョウを抜いて来てくれる。味噌が足りないとて、味噌の外に南瓜などをやったようである。菊の話では八百屋の配給所の主人、三十歳ぐらいで子供三人ほどあるのに徴用令が来て体格検査とのこと。夕方小学館の「日本少女」の編輯の戸川菊枝さん来る。来月五日迄に、小説二十枚、軍人援護問題を含め明るい作品をほしいとのこと。承諾。少女小説の話など少時する。
夕方自転車にて少し運動。滋や礼と草とり、鶏の世話。
戦況報告下火である。しかしソロモンもシチリアも戦争そのものは今がたけなわであろう。ムンダの日本軍が攻撃に出た、という簡単な敵側の発表あり。包囲されてしまって絶体絶命の反撃をしているのにちがいない。学生の空軍志願のこと、いよいよ新聞記事の主潮をなしている。朝日夕刊に、マッカーサーがフィリッピンから脱出した模様が出ている。三隻の駆潜艇によったものらしい。
貞子お産をすれば身体危険であろうが、この頃は中絶には多くの医者が反対である。貞子はしきりに不安がっている。乗物に乗ると嘔気が少々あるらしい。田原君より、文学報国会に勤めたとの知らせあり。
七月二十四日 晴 驟雨あり 夜入浴 良便
午前から荏原製作所見学報告を書きつづける。十一時頃大島豊夫人子供さん二人を連れ、青いすかしのある洋装にて、野菜を買いに来たとて寄る。貞子は児玉医師のもとへ朝早くから行って留守。菊と八百屋へやらせ、そのあと縁側にて話相手す。一時半まで。大島夫人帰ると、貞子が児玉夫人と女の子三人とを連れて来る。トマトや馬鈴薯の御馳走をする。
英一夕方来る。二十七日帰郷の由。貞子、児玉医師の所の赤沈一時間八にて悪くないが、レントゲン写真の結果を見るから二三日中にまた行く由。大丈夫だろうとの話なり。
夜十時迄に報告文二十一枚仕上げる。
読売の朝刊に、北海道はアッツ島に飛行機基地を作った米軍に狙われているので防空非常態勢をとったが、内地みな注意を要す、と出ている。滋と礼、新宿に行き、鍛練棒を買って来て縁側の柱に自分等でとりつけた。
またシチリア島では、西北岸の市パレルモからも独伊軍は撤退し、僅かに東岸のカタニアで独軍が英軍を支えている。陥落に近い状態となった。この機会にというのであろう、ロシア軍は総攻撃に移ったようである。二十二日一日で独軍の破った戦車は六百余台にのぼるという程の激戦となっている。ロシア軍はこの際独軍を大いに破り、あわよくば、中央オリヨール地区で中央突破をして、農作地ウクライナを恢復したがっているらしいとのこと。ロシアの春作は大変な不作で飢饉がひどくなっているという。どの国も内部の条件が切羽つまって来ている。こういう風になってから勝負はきまるのであろう。
南方の我空軍は、米国とソロモンとの中継基地フナフチ島を繰り返して爆撃している。敵の補給の妨害をやっているのである。
朝刊の読売と東京に田畑修一郎君が盛岡で突然死んだこと出ている。三面の一番下の端に小さく出ている。びっくりする。私と同じ頃から文壇に出て、近年仕事の質がよくなると共に寡作となり、これから次第にいい仕事をする人だろうと私など考えていた。田畑君にしてもまだまだ死にたくはなく、これから、と考えていた所であったろう。自分と同期の作家の死の最初のような気がして感慨甚だ深い。田畑君は負けぎらいであった。数年前外村繁君の作品が初めて中央公論にのり、単行本も出て、外村君が「自分は幸福だ」と言った時、田畑君は「君の幸福はまだ完全でない」と面と向って言った由。
またいつか上野の一平で尾崎一雄の「暢気眼鏡」の会があった時、田畑君は早稲田で同期の丹羽君、しかもその頃花形的な流行作家であった丹羽君に向って、何かのことから言い争い、「よし、それじゃ競争しよう、仕事の上で」と言い張った、蒼白い肩のいかつい瘠せた姿も眼に浮ぶ。またこれはもっと前永松定君が在京していた頃、私や永松や荒木巍君のスキイをしている写真が読売の文芸欄に出て、それがたまたま私たち五六人で入った酒場にあった。永松君がその写真を女給に見せびらかしていると、田畑君はそれを奪い取り、まるめてテーブルの下に衝動的に棄てた。そういう気質からか近年の仕事は凝った、なかなかいいものであった。田畑君の仕事は、これで終りになり、完成したのだ。良い点も悪い点も、それ自体、作家が死んだことによって完成し、修正も出来なく、増減も出来なくなった。その静止の姿は、羨しくもあり、また私を淋しい気持にもする。彼の作品の質は、上林暁君とも近い所があり、堀辰雄ともやや近い味のある抒情風なものであった。そうだ、私たちもやがて死ぬのだ。その気持が痛切に来る。思うような仕事をしようがしまいが、ある時病気か事故か空襲か戦争かで突然他動的に私たちの生涯は終りになるのだ。同情とか何とかの問題でなく、冷厳な、生の事実だ。私も私の友人もやがてみな死ぬのだ。
七月二十五日 曇 小雨 日曜 良便 薬用いず
昼前に田原忠武君来る。文学報国会に勤めることになり、昨日初めて出勤したという。元気になっている。しかし近頃点呼があって、その気配では九月頃召集されそうだとて、大分つきつめた気持になっているのが分る。丙種の復活組だ。昼食を共にし三時頃までいる。そのあと仕事。少女小説五枚にて第四章の終りにする。
夕刻滋と礼に畑に下水の泥を肥料にやらせ、草をとらせながら、私はもう一つの鶏小屋(屋根のない方)を作る。今日から、風呂敷にて蚊を防ぐのをやめ、鶏小屋に眠らせる。夕食後川崎昇君自転車にて来る。小野賢治君が女の子を亡くしたという。気の毒なことである。川崎君と配給品のビールを一本飲む。
朝三時半、防空演習に菊出るので、隣家の細君に呼び起されて菊八時頃までやって来た。滋、受持の渥美先生の所へ今日から習いに行く。帰りに大工の所で薪を一束もらい風呂敷にて持って来る。
この頃貞子つわり気味にて、大半寝ている。よほど眠いらしい。そして空腹になると気持悪いとて、握り飯を好んで食べている。考えると空襲下の生活にお産があったり病人がいたりするのは怖ろしいことである。
敵側発表のムンダ戦の報道を読めば、我軍の根かぎりの防禦戦の工合も分り、また敵の苦戦も分るが補給と空中防禦を失った我方の一層の苦戦がよく分って苦しくなる。再びアッツかガダルカナルのようなことにならねばよい。
七月二十六日 晴
夜十時までかかって原稿六枚しか書けず。
貞子の母より貞子に手紙。美智子用のカルチコールと母の黒羽織買ってほしいとのこと。また貞子の父から借りている二千円、少しずつでもそろそろ戻してほしいと言っている由。山際靖夫人より貞子に来書。滋の受験する成蹊高校は、副園長の某氏にかなり金を渡さねばならぬらしいと言ってよこす。いやな話だが、その人に当って見ようかと貞子言う。滋なら実力でも通りそうだから心配せぬことにしようと話し合う。貞子つわり気味で元気なし。午後重見夫人野菜買入とて寄る。午睡。夕刻、奥野数美君に山羊の本の代七円送る手紙の外、荒木女史への礼、峰岸君、乾君へのハガキ等自転車にて出しに行く。午後三時頃自転車の手入している時、裏の道路においた箱の鶏の中、雄らしい一羽犬にとられる。犬は竹をうちつけた箱をやぶったのである。三匹でやって来ていた。道路へ出しておいたのは失敗であった。夜軒下へ厳重にかこいしてしまう。夕刊にて、日比野士朗君に代り福田清人君、翼賛会文化部副部長になったこと知る。
戦況著しきことなし。ソ聯の大攻勢はオリヨール地区をのぞいて、頓挫し静って来た様子だという。あまり成功はしなかったらしく、消耗のみ大きかったのであろう。
七月二十七日 晴 暑し 軟便 ワカマツ朝食後一度
朝刊にてムッソリーニの辞職を知り、驚愕す。イタリアは崩壊に瀕しているのだ。ムッソリーニは現在のイタリアを築いた人、ムッソリーニ即イタリアであった。枢軸の片方は今や戦線から脱落しようとしている。大変である。戦う方針は不変だなど新聞は勝手な見出しをつけているが、腹が立って来る。ムッソリーニが政治をやって行けないならば、ヒットラーの立場も危いのではないか。これはこの大戦でフランスが破れた時に、内閣や議会制度が失われてペタン元帥が仏国元首となって独と和解したこと、また前大戦で独逸が降服する時にカイゼル・ウィルヘルムが帝位を去ったことを思わせる。イタリアの新首相バドリオ元帥は英米に降服するのではないか。その準備行為としての組織がえではないか、と直覚された。若しそうなれば、残るドイツ一国は破れること実に明白だ。そして日本はどうなるか。この戦争になってから今日ほど暗い思いをしたことはない。ほんの数日前ヒットラーとムッソリーニが会見したが、それはどういうことのうち合せであったのだろう。二人が逢う度に、ムッソリーニに降服しない約束をヒットラーがさせていたという巷の噂が近来あったが、それをデマであったとも言えないではないか。ムッソリーニと共に死ぬ気かと、英は度々ラジオで宣伝していたというが、まさにその宣伝に乗ぜられてしまったのである。ファッシズムが終りになったのだ。近年十年あまり、ファッシズムというものは永遠のものという感じがしていた。独裁制度は、人気とりのために外国と戦争をするが、それが無理を重ねるもととなって崩壊する、というのは戦前民主主義側の批評であった。現実がそのとおりなりつつあるというのはいやなことだ。イタリアが降服するようなことがなければよいと切に念じる外はない。そうなればドイツもやがて崩れ、日本のみ、英米の生産力の鉄火のすべてをこの島国の上に浴びねばならなくなるのだ。ロシアだって動き出すかも知れぬ。しかし、この戦争は一つの頂点に達したことだけは争われぬ。イタリアの戒厳令の条文を読むと、実にけわしいと思う。
昨日の新聞に首相と外相があい次いで参内したと出ていたし、一昨日は重臣の会合があった。何事だろうと思っていたが、それはこの事であったのだ。日本の首脳部の心痛も大変だろうし、ドイツ人、ドイツ軍人の不安も大きいものにちがいない。
午前中じっとしておれず、タバコ買いに出、ついでに新宿まで新聞を買いに行ったが、朝日(もう一部ほしいので)も毎日もない。
一日中仕事する気になれず、午後、ラバウルにいる弟薫へ今日の東京新聞を封入して手紙を書く。夕刻、畑と自転車。貞子割に今日は元気なり。
敵、二三日前にスラバヤを、我軍占領してから初めて空襲したが、二十五日、大鳥島を重爆八機で襲い、我方は体当りなどにて三機を撃墜した。我方も二機を失った。夕刊によると敵米情報局長官デーヴィスは、米国の戦力の半以上は目下太平洋に集中されていると公表したという。また米国は近く太平洋でより大規模の攻勢を行うとも公言している。支那の米空軍は次第に強力になりつつあり、我方の出撃にも応戦するようになっているようだ。
英国の株価は一せい崩落してまた上ったという。それは戦争が終るという見込を立てたが、それほどではないと見なおした為であろう。日本でも株価下落したようだ。これは戦局への弱気の反映である。ドイツでも公式には批評が出ないというが日本でも情報局関係沈黙している。
七月二十八日 晴れたり降ったり 南風 湿気多し やや軟
ムッソリーニはこれで政治的生涯が終りであろう。戦争の終結者はそれを初めた者でないというのは、不利な側によくある例だ。前の大戦でロシアのロマノフ王朝は倒れ、ドイツのホーヘンツォレルン王朝は倒れ、オースタリイの王朝も倒れた。ほんのこないだまでムッソリーニが枢軸の強力な象徴としての人物であったことを考えると、何というあっけなさ、また何という歴史の力強さか、と思う。
インデルリ駐日イタリア大使は昨日、イタリアの戦を続行する意志に変化ない旨を通告したという。しかしパリ陥落後のフランスのペタン首席もそれと同じような声明を発していたが、すぐ降服してしまった。そういう先例にならわねばよいが。イタリア人にロシア人の頑張りの半分でもあったら、と思う。昨日から米不足にて、馬鈴薯ばかり食っている。厭きた。昼頃米来る。
朝日のベルリン特電によると、ファシスト党大会で色々討議の結果、多数決でムッソリーニが皇帝に政権を返した方がよい、という決議になって、辞職したのだという。また英米の新聞はバドリオ元帥をも悪口を言っているから、この新首相が英米と親しいという観念とは遠い、と言っている。そんなことをあてにするとは心細い話である。
少女小説、割によく進み、十三枚書く。広島の小松氏へ、基が文枝嬢との縁談を拒絶したことを、知らせ、身体が完全に直っていないからだと言ってやる。学校から六月分の講座料十四円なにがし到着す。貞子元気なり。この日三十一度にて、今までの内最も暑し。
七月二十九日 前夜終夜豪雨 この日も終日雨 颱風気味 やや軟
米国側では、二十五日よりムンダ総攻撃を始めたが、日本兵の抵抗頑強にて最後の一兵まで死守するつもりらしい、と報じたこと、小さく朝刊に出ている。今頃はそれから四日目だから、ひどい戦争になっているにちがいない。
イタリアの政変は、抗戦力の崩壊ではなくて、一種の静かなクーデタであったらしい。ファシスト政権がくつがえされたのである。国王の政権把握がこの危機の中に行われたので、これは革命の一種である。戦争遂行に変りない、との声明大使館から発表さる。
昼の郵便にて、峰岸東三郎君応召、五日入隊の由手紙あり、驚く。なるほど彼はまだ三十一二歳であったから、考えうることであった。知人の青年の応召が何と多いことであろう。自転車にて、峰岸君への餞別十円、川崎君の義妹みさをさんへのお祝五円、手紙に入れて出しに行き、ついでに氷一貫目を買って来る。滋が夕方から学校のキャンプにと三日間ほど、大きなリュクサックを背負って出かける。松岡家に泊り、明朝五時に学校へ集合、秋津辺に中野区の学校用のキャンプあり、そこへ行くらしい。「日本」の松尾君へ原稿二十一枚送る。近郊の野菜買い出しは、一人二貫目までに限定されるようである。また学徒報国隊の使用細則発表あり。一学級単位一ケ月ずつにて、一円から一円五十銭まで年齢により支給、一日八時間以内という。
夕刊にファシスト党解散の報出ている。しかし何と言ってもイタリアは弱体の感じがする。チャーチルはイタリアがドイツの羈絆を受けているうちは、どこまでもやっつけると演説したという。ファシズムの崩壊はナチズムの危機を思わせ、何となく不気味である。しかしドイツではヒットラーが大総統でその上の主権者はないのだから、いよいよ崩壊するまで、ナチズムは失われないであろう。
どうも暗い戦争になって来て、昨夜は色々考えられ、それに豪雨の中に軒下の鶏が気にもなって、終夜まんじりとも出来なかった。
この日原稿九枚、書き直しをする予定の第一章十枚を除いて、全部で九十七枚に達した。予定のほぼ半分である。五日までにもう百枚書きたい。電燈の球、こないだから二度に、新宿のマツダで十二個ほど買ったが、引換球なしで売るのはこの月中というから明日あたり、もう十個も買おうと思う。電球は国内需要の三分の一しか生産されぬと東京新聞にこないだ出ていた。石鹸などのように無ければ無いですまされるものと違って、電球は絶対必要品だから、買いだめすることも仕方がない。
この豪雨では関東地方に水害があるのではないか、また江東地方の町はきっと水びたしだろうと思うが、夕刊には何も報ぜられていない。天候関係のことは新聞では出さぬようにしているのだ。関西の姫新線が二十五日から不通という。その荒の余波であろう。現金七十円ほど手もとに残っている。税金五十八円まだ払っていない。
米が不足がちなので、昼食にと南瓜を八百屋で買って補っている。なかなかよし。今書いている原稿と河出の青春の増刷で千円作って京王電車へ渡し、来月は評論集などで千円作って貞子の実家へ渡す予定だが、どうもうまく行くか危まれる。
七月三十日 晴 暑し 軟
滋がいないので、変な調子だ。
菊と礼、午前中から買物に出て、マツダの電球、六十ワット五個、四十二ワット五個を買って来る。外にスカボールザルベ四個、ワカマツ一個、ビタス一個、簾はどこにも安いものはなく、へりをつけた十二三円ののみなりという。買い遅れたのである。電球は二十個ほど余分あって十分である。スカボールをもっと買う。
前々から貞子が二度も足を運び、引越の祝儀とて金を二円包んだり、若芽を一包持って行ったりしていた風呂屋が、やっと煙突取りつけに来る。どこの家でも煙突が付かなくて困っているらしい。今日半分つけ、外の曲りから上は明後日とのこと。古いのを一本使って、十五円ぐらいで出来るという。風呂屋の手伝いして、風呂桶を直したり、土管への落ち水のスノコをはめたりする。この桶は八年目だが、もう一二年は持つだろうと言う。缶は昨年取りかえたのである。この缶で戦争中持つかどうか、と考えて見る。
イタリアの動向次第にはっきりしてくる。戦争続行だ。オリヨールを中心としての七月初めからのソヴェートの大攻勢は幸いにして独軍が食いとめている。ロシアは由来攻撃は下手だというが、ドイツも必死であろう。それにしてもムンダはどうなったか。シシリア島の英米は足ぶみをしている。今日は、どうしたのか仕事できず、夜までかかって二枚だけ。夕方自転車で、はじめて成城学園まで行った。中河与一氏の家の前を通ったが寄らなかった。貞子配給の馬鈴薯をもらいに袋を持って桃野組長の家へ行く。桃野氏は小樽、夫人は余市だという。郷党である。よく話をすれば知人が色々出て来るであろう。
朝刊にニューギニアの米軍の基地設営の模様が出ている。資材と機械とに事かかぬ敵との戦いは、まことに辛いことにちがいない。我方も何とかして、こういう方法を取るようになりたいものだ。
七月三十一日 晴 やや軟
外出日、セファランチンに行きがけ瀬沼君の所へ久しぶりなので、トマトと茄子を五百匁ずつ持って行く。家の近くで出がけの彼に逢い、一緒に病院へ行く。満洲の実の分も薬をもらう。一時頃になり、これから銀座へ出、川崎と小野賢治君が十一歳になる次女を失ったのをくやみに行こうと思っていると、病院内で偶然小野君に逢う。彼の死んだ子が死ぬ前頃に腎臓結核ということになり、ここの山田医師に診てもらったので、それから後一家ここの薬を飲んでいるという。瀬沼君に別れ、二人で銀座に出、川崎君を訪い、三人で更に板橋の小野君宅へと行く。ビールなど馳走になり、九時帰宅。九時頃になると街はほとんど真暗で、三人で戦争の話などをした後のこと故、不安になり、こんな暗い夜に、爆撃をされて東京市民が大波のように郊外に避難するような日が近いうちにあるのではないか、と考えたりする。二三年前中学に入ったと言って喜んでいた小野君の長男は、昨年の秋中学四年から海軍の飛行予科練習生に入ったという。小野君へ香典五円贈る。
夕刊に米側報道のムンダ戦記がまた出ている。いよいよ敵は爆撃を二十九日にやめて極度に我陣地に肉迫して来ているようだ。この戦争のことを、後にまた日本側の報告で我々は詳しく知ることになるだろうが、敵側の報道のみ読んでいても苦しくなるような戦争だ。
昨三十日、上海のフランス租界は中国へ引渡されたが、明一日には共同租界も引き渡されるという。平時ならば、驚くようなこの大事件も今では日常の一瑣事としか思われない。イタリアの政情不安やまず。ミラノ辺のファシズムの誕生地ではムソリーニの息子たちファシストと共産党と軍隊とが巴になって争っており、また独軍は北伊のポー河辺まで進駐したとの報もあり、混沌としている。ポルトガルやスペインの政情も不安だと報ぜられている。この前の大戦にも、終り近くなってから方々の国に革命騒ぎがあった。そういう末期的現象が欧洲に現われて来たようだ。
今日の話に小野君は、やがて敵襲は細菌戦となり、日本中にペスト菌(血清のない故に)がふりまかれる可能性があるという。いやな話だが、そういう戦術でないと日本は参らないと敵は思っているらしい、ということから、いかにもそうだという風に彼は話す。
大学、高専卒業及在校生の海軍飛行将校志願者は全国で二万人あると新聞に出ている。半分が体格検査を通るとしても相当な数である。それに引き続いて募集されている陸軍はこの十日迄締切をのばした(予定日は七月末)が、どれぐらい志願者があるだろうか。
朝に原稿二枚のみ。
二三日前の颱風は千葉県をとおり、相当の被害があったと川崎君の話。今年はすでに関西と関東と二度颱風あり。八月末の気候故、冷害の怖れはないか心配である。
安藤内相の警官表彰の言葉は大変いい。この人は立派な人だという印象を私は持っている。言葉をこういう真実の意味で使える人は現在何と少いことか。
朝鮮と台湾に今日〔八月一日〕から徴兵制施行される。これも大事件である。
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[#2段階大きい文字]昭和十八年八月
八月一日 晴 ほぼ良 暑二十度位 日曜 昨夜不眠 夜入浴
珍しく日曜だが訪客はない。午前中から仕事を続けているが、夜十時までに六枚しか出来ぬ。午後午睡す。前夜話しに昂奮したせいか、この頃外出しつけないせいか、外に出ると昂奮するのである。
昨日川崎君の義妹の婿文さんが出征と聞いて今度の召集が多いと感じていたが、今日東郷克郎君応召にて送別会四日にありと通知あり。峰岸君の来訪する日で行けないが、今度の召集はみな三十歳前後の人々である。昨日出かけ、駅への途中の道ばたからいつも座敷の見える家でも祝出征の旗あり。この春頃新婚らしく赤ん坊の声のよくしていた家なり。知らぬ人であるが、何だか新家庭の細君がそうして一人ずつ出征する夫を持っている様がうかがわれて心にしみるものがあった。
夕刻貞子と畑の草削る。今頃は草にすぐ実がつき、また延びやすくて閉口なり。午後、瀧沢敬一の「仏蘭西通信」松浦嘉一の「英国を視る」等をひっくりかえす。この前の大戦から戦後の英仏の社会がよく書かれていて共によい本である。後者の英国の戦後の社会不安など考えられることが多い。将来我々にどういう生活があるか、というのは、よく考えられることだが、先ず第一にこれから受ける空襲下の生活、それから我々の職業の行きつまり、それから子供の将来、学校を終え戦争に出るようになるか否か、(七八年後)それまで戦争が続くか、続いているとすれば、国内生活はひどい事になっているだろうが、その時には我々はどんなことをしているか。そして戦争はどういう形で終りをつげるか。そして、その後に戦後はいかなる生活があるか。これ等のこと、昨日も二友人と話し合ったし、いつも考えて見たり、予測したりすることだが、はっきりしたことは分らぬ。我々の家庭としては食糧の心配と空爆よけの工夫が差しあたっての問題で、いつも考はそこへ落ちついてしまう。またこれから後買えぬもの、茶碗だとか薬だとか、色々な鉄器類を買っておくことなどもいつも心にかかっている。長い長い旅に出る支度をする気持だ。しかし外の問題も考えても考えても終りのない重大な問題で、深刻なものがある。米国に革命が起きたりするような(日露戦時のロシアのように)ことも考えられる。夕方滋戻る。
八月二日 晴 ゆるし
ビルマ独立。対英米宣戦布告す。新聞は特輯発行。この頃大きな事件ばかり続く。朝日のみに出ている同盟リスボン電報によると「ロイターのアンカラ電は、『中立筋ではイタリア政府がアイゼンハワア将軍の条件を拒否した旨を報じている』と報じ、それと相呼応してアイゼンハワアの司令部は、三十一日午後五時、イタリアに対する威嚇放送を開始して次のように述べた。『バドリオ新内閣が遅疑逡巡した結果機会を逸しドイツは立直るに至った。反枢軸軍はかくの如き事態を容認する能わず、ここに諸兄に対し、間もなく空の攻勢は再開されるだろうと宣言する。』以上反枢軸陣営の報道に徴すれば米英両国政府が中立国を通してイタリア新政府に接近したが、バドリオ元帥の毅然たる態度に直面し開き直って再びイタリア本土盲爆の嚇し文句を並べるに至ったと解される」これが小さく目立たぬようにビルマ独立記事の横下に出ているが、大事件はやっぱり大事件で、もう少しでイタリアの新政府は米英に降服する所であったのだ。ドイツは多分軍隊をイタリアに進駐させ非常措置をとることに成功したのであろう。うまく行ってくれるといいが。どうも新政府の戦争に対する宣言が弱いと思っていたが、こんなことが裏にあったのだ。しかしドイツはイタリアをどのようにして守るか注目すべきことだ。また朝日に出ているローマ・ベルリン間の記者の電話によると、政変と聞き、ムッソリーニの身辺危しというので、ローマの近郊にいた黒シャツ義勇軍が独軍から戦車を借り受けてローマ進軍を開始し、イタリア国防軍と衝突しそうになった危機に独軍が現場に駆けつけて両者を和解させた、という事件があったという。またこの革命後すぐに民衆は街頭からファシズム的な飾りやムソリーニの写真を取り去り、これで平和が来たと皆感じ、戦争が済んだものと考えた、という。しかし四五日経つうちに戦争が済んだのでないことが次第に分って来て、また戦時気分になった、というのだから、イタリア人はみな志気沮喪しているにちがいない。米英はしかし、この革命以来歓声をあげ、もう大丈夫だと思っているだろうし、ドイツ人は危機を深刻に感じているだろう。それが両方の戦意に影響を与え、中立国を動かすという事実はまことに大きいであろう。ルーズヴェルトは、一九四三年又は四四年中には戦争を終りたいと思っている、とこの頃チャーチルと逢うために乗った軍艦の兵員に対する演説で言ったという。彼は気をよくしているのである。
午前中に東郷君へ餞別五円送る。ビタス、スカボール等買う。金が無くなる。この頃餞別やらお祝やら香典やらで三十円ほど使う。重見家では五百円受取らず、そのままあずかっているが、それを使うわけにも行かず、小説はもう百五十枚も書かねばならず、困る。
午後「日本女性」の前川武夫君がやって来て、武蔵野母子寮を参観して、その見聞記を小説風に書いてくれという。九日二時頃新宿の社へ訪ねて一緒に行くことを約束す。この頃は雑誌の記事は半分以上情報局などの指定で取扱う材料が限定されるという。おたがい、作家も編輯者も、それが義務だねと笑って話し合う。
八月三日 晴 暑し 良便(化研の黒い薬を昨日一服)
午前一枚書いている所へ峰岸、蔵西君来る。甲府入営なるも、今日東京に泊り明日出発という。ビール二本にて昼食を共にす。貞子の作った寿司、峰岸君持参の赤飯等。三時頃奥野君来る。峰岸君たち義兄の桜井氏を訪うとて四時別れる。明朝八時新宿発とのこと。奥野君と夕方まで雑談。奥野君の話本格的に小説家らしくなって来る。夜一枚。峰岸君の村では日雇は日当八円から十円位に急に上ったという。
八月四日 雨 良便
昨夜峰岸君や奥野君との話に興奮したせいか、それとも赤飯を食べすぎたせいか終夜寝苦しく、転々反側して朝に及ぶ。朝早く起き、新宿駅発八時と八時半の甲府行列車に峰岸君を捜すが見当らず。予定を変えて昨夜立ったのかも知れぬ。出征軍人十人近くあり。ホームの見送り禁止されているが、あちこちに二三人見送る。この頃特に多いらしい。ひどく疲れる。昨夜から湿気空中に満ち身体に悪いのである。荒木巍君より私の「小説の世界」の中の荒木巍論を読んでうれしかったとハガキあり。なお同君は気胸しているのだが、この二月ばかり微熱ありという。一番悪い時期故私なども気をつけ煙草(一日十本)を少し節せねばならぬ。考えれば、こういう風に元気になったこと、何とも言えずありがたい。
金が無くなり、田居君からあずかっている五百円に手がつきそうだ。河出の青春の増刷の検印もう来そうなものと思う。少女小説今日九枚進む。終日頭重し。中野家の少女たち三人遊びに来る。
我空軍しばらく鳴をひそめていたが、また積極的にルビアナ港を襲っている。大いによし。この調子を続けてほしい。一日には三度襲ったが、二日にも襲ったと敵側報ず。夕刊によりニューギニアのサラモア附近の激戦の一斑を知る。化研の下痢止薬は一日三服というも私には一日一服にて十分に利く。五日締切の「日本少女」の小説二十枚明日から書く。十日頃迄に「新潮」の小説本評十二枚、十五日迄に「日本女性」の報告小説を書かねばならず、また淡海堂の本の原稿遅れそうである。池田小菊氏より手紙来る。青野氏から話のあった全国書房の評論集は池田さんの仕事らしいこと初めて知る。昨日足立重君より「ダヴィンチの手記」の訳本送られる。また佐藤虎男君の「島に生きる」林信一氏の「我ら傷つくとも」、大原富枝氏の「祝出征」等この二三日にもらった小説本である。みな読まねばならぬと思うと気が重い。
シチリアの攻撃また始まる。ソ聯もオリヨール市郊外に接近したと特別発表を行った。ドイツは孤軍奮闘である。イタリア北部に大分独軍が入ったらしい。イタリアはアイゼンハワアの条件を拒んだという。何とも危い弱腰であるが、ドイツの手まわしがよかったので、英米の乗ずる隙が出来ず、仕方なしに戦争を続けるらしい。
八月五日 晴
午前中、新聞来ないのを取りがてら小学館の戸川菊枝氏に電話して明日午後まで小説を待ってもらう。昼頃、「日本少女」の小説五枚、夕方六枚になる。午後自転車屋にてパンクを直してもらう。小僧徴用されたとてその話のみなり。外の工場にたのんで、そちらへ勤めることにしてもらうなど言っている。この頃烏山辺では徴用が大変多いという。一日三十銭にしかならないのだからなあ、などと言っている。夜隣家花村家で常会、私が出る。勤労報国隊はこれまで各団体、各学校、等職能組合毎に組織されていたが、今度は町会毎に結成されるという。この町会二百世帯二十一組から男女合せて四十人出すのだが、桃野氏が説明して、この第四組は出さないことになったという。全くこの組には勤労報国隊に参加出来るような人がいないのである。外にこれまで怠けていた国民貯蓄を各戸一円ずつすること、それから国債八月の割あては一戸七円から十円なること等の話あり。国債は外の市内に較べて少額である。夜十時散会する。
米国や英国では戦争の前途について楽観論が多くなっているという。同盟のブエノスアイレス電による。私など敗戦国民として生活するほどならば死んだ方がさっぱりしていいと直感的に感じているが、日本人はこれが本能だから、イタリア国民と同様に考えていたら米英は誤算をする。しかし、生きていることははかないとしみじみ思う。生きていることははかないから死んでもいいとは思うが、若し子供等が生き残ったら敗戦国の国民として生活させたくはない、とこれはまたひどい執着で思う。
八月六日 晴 南風 やや軟 化研下痢止一服
午前中から大急ぎで「日本少女」の小説七枚目より書き、午後二時、二十枚「笑はぬ人」というのを書き上げる。封入して貞子に托し、田畑君の告別式に参会しようと出るが百円札にて困り、新宿の帝国銀行にて両替する。省線で行くと、石光葆、田辺耕一郎、中山省三郎、上林暁、梅野悦郎、松村泰太郎、井伏鱒二、丹羽文雄、太宰治、竹村坦、その他多くの人々参会している。田畑君は四十で死んだのに二十歳ぐらいと十八ぐらいの男の子がいる。上の子は海兵にとおったという。外から見ても気強いことだ。三時迄というのに三十分ほど遅れた。香典五円贈る。帰途上林君と吉祥寺公園を散歩す。
雑談。その池のほとりで逸見広氏に逢い三人で色々故人の噂などす。逸見君の話によると、独ソ両国はたがいに休戦の交渉中で、近くまとまるにちがいないという。ソ聯の弱り方もひどい由。上林君そういう話を人に聞かれはしないかとしきりに警戒してあたりを見まわす。老軍人らしき人近くを通り、南大将らしいと両君は言う。今朝の朝刊にて、ドイツ軍は東方ではオリヨールを撤退し、シチリア島ではカタニアを撤退したと公表す。どうもいけない。シチリアは放棄の外ない。引込み続きである。しかし我軍は攻勢に出て、しきりにレンドバの敵空軍、敵地上軍を襲っている。ムンダはやすやすと敵に渡さないだろう。
夕刻「日本少女」の戸川女史来り原稿渡す。今日は原稿に力を入れたせいか、夕方疲労を覚える。菊は午前中防空演習の三角巾の稽古、午後は桃野氏から言われて町会の麦粉の配給を手伝いに行った。馬鈴薯をもう掘らねばならなくなっている。便所もあふれていて、早く掘って施肥しなければならないし、防空壕も掘らねばならず、風呂の内側にもエナメルを塗ることを考えているが、原稿に追われて、どれも出来ない。新潮の原稿のため昨日広津和郎氏の「若き日」を読む。自伝なり。同氏のものでこんなに感心した作品はない。素直なよいものだ。今日は橋本英吉氏の「忠義」を読みかけ、これは調べたもので同氏の前作「系図」に次ぐもの。実によく経済的な面から戦国時代の武士生活をしらべている。小説化がしかし足りない。夜は日記のみ書き、仕事せず。今日は半日に十四枚書いたわけである。
今朝の朝日に米海軍当局者は、米国が戦前保有した全船舶一千一百万屯は海底に消え去った、と言った由出ている。しかし二十八日のルーズベルトの演説では今年中に一千九百万屯の船を作ると言っている。やっぱり増加してはいるわけだ。彼等の生産力は怖るべきものだ。
米艦隊がキスカの近くで味方撃ちをやったという。それよりも今、キスカにいる我軍はどんな気持で、どんな生活をしていることだろう。生きて再び日本を見れるとは一人として思っていないだろう。どうして補給しているのだろう。在支米空軍の損害はかなり大きいらしい。先頃からの我軍の攻撃の結果なのだ。在ソ聯外交団は、一昨年モスクワからクイビシェフに移ったが、いよいよ再びモスクワに引きかえすことになった。モスクワの安全感が強まったのである。昨夏、一昨夏の独逸の対ソ進撃の華々しさ、その前の夏のフランス進軍の華々しさに較べると、この頃のドイツはまことに防戦一方であって、消極的になった。あのヒットラー総統の元気のいい演説もこの冬にソ聯の進撃をウクライナで食い止めた時以来、一度も報ぜられていない。すっかり受身になったが、どうか受身の時もドイツ人の精神が崩壊せず持続するようにと祈らざるを得ない。こないだはルーマニア油田地帯が初爆撃された。ここもまだドイツ側のアキレス腱である。
東郷克郎君より餞別の礼をのべた挨拶来る。
八月七日 土曜 晴 南風
滋と礼とにて午前中、馬鈴薯を掘る。草とりや薯掘りは、子供等もいやがらず、結構役に立つ。薯は播いたのの四分の一ぐらいで、二斗ほど入る樽に一つあった。午後仕事、淡海堂の少女小説三枚しか出来ぬ。ファシストの銀行預金押収されるという。何というはかなさだ。ヒットラアがファシストをかくまうことも政治関係上今のイタリア政府への遠慮で出来ないのであろうか。麦粉は一人七合にて、三升五合ほど配給され、米が引かれるのであるという。午後鶏の世話をしながら畑に一時間ほどぼんやり鶏の小屋を動かしたり、虫を捜すのを見たりしている。風呂屋が来て煙突を作りつける。十三円というのに貞子が十五円やる。ついでにポンプも直させる。菊昼頃長谷川大工のところへ酒を持って行って薪をリュクサックに一つ持って来る。午後児玉医師の二令嬢トマト買いに来る。姉のケイ子さんは女学校の一年でおとなしいよい子。海水浴に行ったとて真黒である。夕食に魚あり。
ガスこの一日に遡って、この月から二割節約、昨年の今期に較べ四割二分の減少だという。いよいよ市中でも薪の必要が増して来るし、薪炭不足が問題になるであろう。私の所はガス無く、毎月三把ほど大工さんに分けてもらっているが、続くことであろうか。午後、風呂桶の底と底のまわり、缶の取りつけ口のまわりにエナメルをよく塗る。底のさびたバケツにも塗る。この風呂桶はもう二三年は持つだろうという風呂屋の見立てである。風呂の煙突は尋常のことでは取りつけられぬだろうと思って心配していたが、貞子の機転で、風呂屋に祝儀を引越の時にやったり、物を持って行ったりしてやっと今取りつけられ、大安心した。しかし物は弱いということで心配である。
これまでは煉炭のみでやっていたが、これからは薪でも塵でも燃やせるようになった。あとは井戸の辺に上屋が取りつけられて、飯を炊く所があればそれで住居の条件はよいのだ。前に隣家を作っていた大工が二三十円で簡単にしてくれるとて、屋根用のアスファルト紙を置いて行ったが、花村家ではそういうものを古材で頼んで八百円かかる筈という。二三十円では出来まいから、金が少しまとまって入った時に百円ほども渡して前の大工に頼もうと貞子と相談している。この頃は薪不足にて古家など、家にして売るよりは薪にして売る方が値がよいとて、こわして売却する、という話まで巷間にある。
一時野菜不足で知人の家などみな困っていたが、この頃は茄子、キャベツが豊富で、この辺では自由販売に大分残っている。塩不足で漬けものにも出来ないからだという。その為か塩を漬物用にこの八月特配するという記事出ている。
八月八日(日)晴 良便
京王電車開発課へ金をもう少し待ってほしいと手紙書こうと思っていたところ、昼頃手紙で催促状来る。形式的なものであるが、手続上困るから払い込んでほしいとの文面冷酷で実にいやな感じがした。理論的には、大して心配なことではないのだが、追い立てられているようで、生活全体の不安を覚えるのだった。眼をつぶるような気持で、馬場氏あてに、もう一週間ほどで印税の入る予定がある故、それまで待ってほしい、と言ってやる。そのせいで朝からいやな日だと思っている。午後川崎君の奎君自転車でやって来、川崎君の手紙持って来る。小野、今野、山本、川崎君など集る故、夕方第一ホテルに来いということ。諾。その後へ小西君来る。印刷業の整備はまだやらないが、小西君の勤めている印刷文化協会では、機械の調査をこの頃済ました由。やがて来るであろう、とのこと。貞子午前中から、和田本町の家の名儀を薫に代えること、レントゲンの結果を児玉医師に尋ねることなどで出かけ、まだ戻らないが、小西君と一緒に出かけ、渋谷で別れ、地下鉄で第一ホテルに行く。川崎、山本の二君来て、外の人たちはいない。夕食を共にす。今日は崔承喜の舞踏会が帝劇である日で、私の所にも前田君から招待券が出ていたのだが返した後なので、両君がその会に行くというのと別れて、八時頃戻る。烏山駅で貞子の帰るのと一緒になる。礼と滋、心細そうに駅に迎えに出ていた。毎日のようになる探照燈があちこちから夜空を射って動き、ついたり消えたりしている。
八月九日(月)
「日本女性」の前川君と、母子寮に行くことを打ち合せてあった日。この頃は毎日朝八時頃まで靄で曇っているので、今日から、薯を子供等に掘らせながら、そのあとの畑を大根を播くために耕して行く。三畦ほどする。そのあと原稿を少し書く。
朝刊にて、衣料の制限強化の発表あり。要点は、絹物についての切符が半額でよかったのをやめたこと、反物の長さを切りつめて、着尺二丈八尺を二丈六尺等にした為、男女とも袖は今までのようには出来ず、男は筒袖、女は元禄にしか出来なくなったこと、お召、縮緬等の高級品は製造をやめたこと、帯は半幅四寸五分とされたこと等である。大変革である。将来は今のような男女の袖の大きい着物が出来なくなる訳である。切符も窮屈になり、年に一反ぐらいしか買えぬだろうと貞子言う。うちでは大体足りているが、貞子がお召と帯をもう一つずつほしいと言っていたが、今朝はもう何も言わない。覚悟したのであろう。こういうこと、皆来るべきものが来たという感じである。
午後から出て前川君と母子寮に行き、牧野氏から色々説明を聞き、中を見せてもらう。ここに入っている四十組の母子は、室代月六円で、何かを習うように指導しているので、それぞれ経済的に独立する見込が立てば出て行くことになっているが、子供があまり小さいと、母が働く間子供を見てくれるものがない為になかなか出たがらないという。ここには学童館と幼稚園がついていて、子供を見てくれるので大変よいらしい。幼稚園に行くと、子供は男の客だと大喜びでみな飛びつくということで、私にもまつわりついて困るぐらい。男の大人が珍しいというその気持が哀れで仕方なかった。寮そのものは設備よく明るいし、親切に出来ているようだが、ここの四十組と外に高師等の教員になる人のための寮等では、いかにも数が足りないだろうと心配させられた。帰路前川君に別れ、杉沢家に寄り、夕食を馳走になる。自転車を彼から買う為にと渡してあった百三十円の内百円を明日返してもらうことに話をする。田居君から預った金を埋める為である。夜蚊帳の中で橋本英吉氏の「忠義」を読み終える。
この日、新宿、中野、杉並等の街路に悉く十間ほどの間隔で公共用待避壕を掘ってあるのを見る。いよいよ敵は来るか、という緊張感をひしひしと覚える。
八月十日 火 晴 良便
朝、杉沢氏を北海道興農公社新宿配給所に訪ねる。自転車のためとて氏に渡してあった百三十円のうちの百円を返してもらう。氏の世話でバター二ポンド、チーズ一ポンドを買う。アイスクリームとお菓子を馳走される。表通にて大根の種子五袋、白菜の種子三袋買う。この日朝畑を三畦ほど起した所へ播こうと思うのである。この夏は楽だったが一昨日頃から酷暑三十一度位となる。網野菊氏の「妻たち」を読み出す。相当に感心す。早くもう三四冊読んで十二日迄に新潮の原稿を書かねばならない。
朝畑にいるうちに、京王開発課の馬場氏、通りがかりなりとて声をかける。京王への支払もう一週間(淡海堂の少女小説が出来るまで)待ってもらうことにする。そう急でもないらしいが、早くせねばならぬ。しかし、その方はもう百三十枚ほど残っているし、その前に「日本女性」の母子寮訪問記十五枚と新潮の小説本評十二枚書かねばならぬ。大変である。集中してやりとおすこと。
昼食に馬鈴薯を食う。ところが朝早くたいた飯がおはちに一杯残っていて、夕食にも余るほどあるのに気づき、貞子と菊をひどく叱った。多少神経衰弱的になっている故、一層苛立って止め度がなくなる。午後曇って涼しいので、応接間前の埋穴《うめあな》を掘り、腐葉の土を甘藷や落花生にやり、かなり疲れたが、夜は元気を出して母子寮の見聞を忘れぬうちと思い、七枚迄一気に書く。思うより書き進むことが出来た。書きながら、これと、先頃書いた少年工の工場見学記と、日本少女に書いた軍人療養所の小説と、前に書いた温泉療養所の小説など合せて短篇集を出せるな、と思う。もう二三篇同種のものを書くと一冊分になるだろう。自分など、こういう仕事が少いと思っているうちに、随分書いているものだ。以前のものでは満洲の青少年義勇軍の訪問記もある。
八月十一日 晴
午前中から網野菊氏「妻たち」を読んで終え、鶏を出して遊ばせながら応接間前の穴を掘り直して防空壕にする。十日から十五日迄の間に防空壕の検査ありというので、忙がしいがやる。本当は私はもっとよく考えて、家の中の床下に掘り、それをうんと深くして戸外へ抜けるようにし、戸外へは蓋を作りたいので、それまではこういう仮のものを作るのはいやなのだが、検査に来る人たちと不愉快なことがあれば困るから、忙がしい最中陽に照らされて掘るのだ。午前から子供たちと菊は町へ遊びに行く。新宿の雪印バターへ寄らせ、クリームを食うようにさせようとして荒木、小保内君へ小説本を二冊ずつ子供に持たせてやったが、今日はクリームなかった由。それから九段、宮城へまわったとて午後戻った。その頃犬にまた鶏をとられる。鶏は昨日外へ出したらあまり喜ぶので、今日も出してやったが、やっぱりいけなかった。哀れでもあり腹も立つが、私がいけなかったのだ。午後安田貞雄氏の「蛍燈記」というフィリッピンのセブ島戦の宣伝班員の手記を読む。これもなかなかよい本である。薫昼頃来て夕方までいる。本を読むのはかどらず困る。
午後日本女性の前川君より原稿のこと速達で念を押される。そのハガキに武田憲一君が戦死したとある。びっくりし、故人のおだやかな、親愛な顔を思い出して苦しい気持がする。私の知人で、家へよく来る青年で出征して戦死したのはこの人だけである。こないだ峰岸君の出征の時に、怪我した人は知人で一人もいないと言ったが、こんなことになった。武田君はこの春出征してすぐフィリッピンへ行っていたが、そこから更に南方へまわされたのであったろうか、など考える。
先頃とって来た実のセファランチン小包にして送る。
イタリア政府の抗戦継続声明を読むと、ムッソリーニをやめさせればイタリア爆撃をやめ奪われた植民地も返してくれそうだからそうしたのに、やっぱり英米は爆撃をやめないから抗戦を続ける、というのである。これではまるで降服する意志を持っているという自白でもあり、また、弟が出て来て、君の家に石をぶつけたのは僕でなくって兄だからもうゆるしてくれてもいいじゃないか、と訴えているようで滑稽きわまる。乞食民族の本性を露骨に示した哀訴に外ならぬ。
八月十二日 晴 酷暑 昼三十二度 午後雷雨 良便
午前中安田貞雄氏の「蛍燈記」につづけて張赫宙の「開墾」を読む。満洲事変前の在満鮮農のひどい被圧迫生活を描き、それが万宝山事件に爆発する所まで、よく描いている。実に面白い。張君の佳作であろう。続いて佐藤虎男氏の「島に生きる」。これは近藤重蔵の息子富蔵が殺人事件で三宅島に流され、そこで藷を作って島の飢饉を救う話。これもまことによく書けている。佐藤君はいい作品を書くようになった。夕方これを読み終え、まだ林信一氏などの作品が残っているが、印象のよい内にと思い新潮の原稿を書き出す。明日中には書き上げねば遅くなってしまう。夜十時迄に六枚。
夕刊にて北千島に敵の重爆数機がやって来て撃退されたことを知る。いよいよ北方の本土に火がつきかけた。その記事について、朝日に東部防衛軍某参謀が語ったと書いているが、それによると、目下月産一万台というアメリカの大量の飛行機は先ず欧洲で独伊の国内爆撃に集中的に使われ、日本にはほとんど向けられていないという。それから目下爆撃は千五百粁ぐらいの所を往復してやる程度だから日本にやって来るとすればアリューシャンから千島へと、支那から九州とへが主となろう。しかし将来は二千粁、二千五百粁とその距離は延びるだろう。また目下米は基地を前進せしめることに専念しているが、欧洲戦で見ても敵は先ず基地を前進させてから今のような大空爆をやり出した。我々も今のうちに準備すべきだ、と言うことである。具体的なよい話である。加持家まで町会から届いていた鳶口の代金を滋に払わせる。二円三十銭程。あまりよい品でない。
インキ無くなり、売りにもあまり無いので、前に買っておいた大壜を初めて口切って使う。
この頃昼間じゅう上半身裸でいるので随分陽に焼けた。しかし身体は元気。下痢気味はなくなり、食物も普通に噛んでいてよい。また腹が出て来たような気持である。丈夫になった。ありがたいことと思う。
イギリスはこれまで、海運のために二度危機があった、と戦時輸送次官が言ったそうだ(切抜)が、もうそんな告白をしても大丈夫という気持なのだろうか。まだ早いだろう。戦争はこれからではないか。
八月十三日(金)三十一度 晴 良便
昨日から米にはじめて大豆がまじる。去年は玉蜀黍の入ったのを食べたが、大豆は今が初めだ。しかし一分搗きの味がいいので、子供などかえって喜ぶくらいだ。午前中林信一の「我ら傷つくとも」大原富枝の「祝出征」、等を読み、午後新潮の原稿書きつぎ夕方五時仕上げてすぐ牛込の楢崎氏宅まで持って行く。明日は印刷休みにてこの月ひょっとしたら間に合わぬという。また若し間に合わなかったら楢崎氏の手もとにあるもう二三冊を追加して翌月のせることにする。楢崎氏肴町まで送って出たが、近所に茶をのませる店一軒もなく別れる。
毎日の夕刊によると、爆撃を食う時はよほどひどい被害と思われる故、集団避難で、学校とか寺院とかへまとめて避難させる。近所の被害のない町へは入れない。入れると流言や恐怖などの原因になり、食物や傷の手当にも不都合だからと言う。そして改めて知人や親せきの所へ行かせるという。この度その方針に決定したとのこと。
本当に空襲があった時は、と、この記事を基にして想像して見る。英米は目下欧洲に専念しているし、空爆するにしても手頃な基地がないから、今年中は東京が襲われることはなく、明年の秋頃からではあるまいか。しかし来たらば無差別の住居地爆撃をやるから、旧市内のごときは大部分やられ、ことに密集住宅地は被害死傷が多いだろう。東京や朝日などで疎散の必要を説いているが、買いあさりにはあんなに熱中する市民が空襲の怖れを現実的に考えないというのは変なことだ。私等のいる郊外も、高射砲の破片などで危険になり、また避難者がやって来て食糧不安になるにちがいない。また知人の多い私の所などは何家族もおしかけて来るのではあるまいか。
それから先のことは見当がつかないが、その時を境にして文筆の収入は絶えるであろう。その時にどうするか、そのことをよく考えておかねばならぬ。空襲で米国に報復できにくいことが何より残念でならぬ。キルフラーという男が対日進軍は北方からという意見を本で述べ、その中に「われわれはあらゆる従来の戦争的論理、国際法的拘束、人道的感傷を棄てた空前絶後の空襲を日本本土に加え、人間は勿論一木一草といえども芟除するであろう」と言っていることが読売のブエノスアイレス電で報ぜられている。かかる奴を鬼畜と言うよりも、そんなに日本が怖ろしいのか、と不思議な気持がする。しかしこの戦争ではドイツもイタリアもイギリスもロシアも悉く空襲の苦汁をなめているが、アメリカのみは市民がそれをなめず、しかも大量の飛行機と爆弾とを作っては世界中にばらまいている。何とかしてアメリカ市民にこの苦汁を味わせてやりたい。それが出来ぬと死んでも死にきれぬ気持がする。
また金がなくなって田居君から預っているのに食い込みそうだ。しかし稿料の入る予定が、「八光」五十円、新潮三十円、日本少女五十円、日本女性四十円、日本五十円、等あって、入れば二百二三十円はある筈。明日日本少女の分を小学館で受取ろうと思う。そして印税は、淡海堂六百円、河出三四百円で、それを京王電車の払込みにあてる予定である。
八月十四日 晴 酷暑 夜九時にて二十八度あり 良便
朝セファランチンに行きがてら小学館の戸川女史へ電話して稿料をもらうことにする。原稿印刷所に行っていて、それがなくては会計から金が出ないかも知れぬが、寄って見てくれとのこと。セファランチンにて瀬沼君に逢う。母上の一周忌の日だという。去年の夏前に、彼の母が瀬沼のことを心配して、この夏が過ぎて秋風の立つ頃になれば直ると思いますと言っていられたが、その母上が先に逝かれた。またこの頃きまっての「はかない」という思いが切である。一時頃小学館へ行ったが戸川女史の手紙あり。金は出ないという。月曜か火曜とのこと。
夕方、二三日前から思いついていた甘藷の蔓を一尺ぐらい切ったのを六本、二畦にして植えて見る。肥料は乾した草かなり多く使う。百日で藷になるというから十一月中旬までかかるわけだが、少し遅くなっているけれどもこの方法でよければ、来年は大々的にやって見たい。夜暑さと疲労とで、原稿一枚のみでやめる。
独軍オリヨールより撤退し、目下ハリコフに頑張っているが、これも包囲されかかって困難な戦いである。また米英はローマを爆撃した。住居地をひどく傷めたらしい。瀬沼の話によると、先頃の英米のハンブルグ爆撃には、先ず第一隊の飛行機が爆弾を落して行き、その次のが石油を撒き、第三隊が焼夷弾を落して行き、ハンブルグは全く焼野原になってしまったという。
そんな話のあと神田を歩いていると、歩道の片隅にそれぞれ隣組の人たちらしいのが出て公共用の防空壕を掘っている。実感のせまるものがある。ムンダの我軍は二月近くなっても頑張っている。キスカも頑張っている。それ等の実状を知りたい。夜金のことで少々くよくよする。
八月十五日(日)雷雨終日 良便 また春頃のように腹の張って来る感じ 健康なり 朝早生大根を四畦播く
この日貞子のこと相談に児玉医師を訪ねようとしていたが雨にて見合せる。午後、もと塩谷の教員をしていて、いま誠文堂編輯部にいる阿部〔アキ〕君来る。新刊の「海の愛情」という本を持って来、文学報国会に入りたいから、小説部の選衡委員会あてに、本の推せんのハガキ出してくれとのこと。よもやまの話。出版者たちのいんちきな抜け道がまだ沢山あるということを聞いて驚く。またこの頃は原稿出来てから不許可になるものがかなりあるから、出版の交渉の時によく約束して印税を前取りした方がよい、などという話を聞く。
夜、「母子寮」十五枚迄書き上げる。
ムンダ戦の模様敵側の発表新聞に出る。敵は苦戦だというが、味方はもっとひどいであろう。精神力でやっているのだ。ガダルカナルも敵は屡々苦戦と称していてとうとう勝を占めた。今度はどうなるか。我方も島づたいに補給路があるらしいが、敵の方はもっとよい補給の法があるようだ。全く、どうなることかと気が気でない。
八月十六日 前日より続いて雷雨断続す ほぼ良
前夜より終夜豪雨である。播いたばかりの大根の種子流されたかも知れぬ。午前日本女性の原稿を読み直し、午後晴間を見て新宿に届ける。夕方また降る。鶏一羽元気なく、何も食わず、黄い糞をする。死ぬかも知れぬ。哀れでもあり、また五羽いたのが段々と減って、遂に三羽になったが、この上減っては淋しいことだ。
夜しばらくぶりにて淡海堂の少女小説にとりかかり六枚書く。
夕刊によると、敵の爆撃機七機はボルネオ東南海の石油産地バリックパパンを襲う。我方占領して初めてのことである。欧洲では初めてオースタリアに敵機入り、ウイン郊外の飛行機製作所を襲ったという。またエドワド・ヘルなる英人が日本人鏖殺論を口にしている。彼等の人種感を端的に示しているものである。ドイツ軍はどうやら東方戦線で総退却をなしているようだ。遂にハリコフにソヴェート軍が入り、市街戦をしているという。夏期にこんなにソヴェートが進出することは、驚くべきことで、二三百万も捕虜を出し、その戦車や飛行機を数限りなく独軍に破壊されて、国内深く退いたソヴェート軍のこの大きな反撥力はまことに怖るべきものである。それにしてもドイツはまさに危機である。それに乗じて英国は西海岸上陸を宣伝しはじめている。我々も明年はまことに辛い戦争をしなければならぬような気がする。
京王電車にもう一週間年賦金の支払延期を求めて馬場氏あて手紙を出した。大急ぎで書き上げねばならぬ。いよいよ筆がはかどって来たのであと一週間で百枚ほど書けそうに思う。
八月十七日 晴 良便
朝から外出、(この頃白の麻夏服に、開襟シャツを着、パナマ帽をかぶる。白いズック靴は白い粉がないので汚れたままである。)先ず児玉医院に寄り、久しぶり(一年ぶり)に児玉医師に診てもらう。よく聞くと右肺尖に少々の呼気延長が残っているが、これならもう心配ないとて、頼んでも血沈も取らぬ。貞子の件、たいてい今のままでやっても大丈夫だが、ただ授乳だけはやめるようにした方がよかろうとのこと。そういう話を聞くと、大丈夫だというのも本当でないようで心配になって来る。折角ここまで直って来たのに、このことで貞子の健康が崩れたら一家暗闇となる。そこを昼頃に出て、小学館へ電話すると、戸川さんは原稿料が出ているから来てくれという。水道橋下車、アテネフランセの前の今野君の新事務所を訪ねる。正月に彼の家へ行って以来である。彼の所は今度会社組織になり、(資本二十万円)その専務取締役となった由。自動車修理業も資材人員の乏しい為と先々の合同問題があって容易でないなど。あとは友人、川崎、田居、小野、朝谷、衣巻君たちの噂である。三時頃小学館に行き日本少女の稿料二十枚分六十円受取る。
田居君が小樽からいよいよ引き上げて来ているらしいので、省線で三鷹へ行く。彼は外出中だが尚彦君もと子ちゃんなど夫人と共にみないる。待っている所へ田居君戻って来る。林檎酒ホッキ貝の乾物などが出て夕食を馳走になる。カメラは私の分を彼はほしいらしい。困ったことだ。あれは譲りたくないのだ。しかし、あずかっている五百円は使ってもいいなどいうので、使いそうでいよいよ困ったことだ。京王電車の方をもう一週間待たせてあるが、その方に充当するようになりそうで、早く原稿を書かねば、とあせる気持である。彼は庭つづきの土地を百五十坪と離れた所にも百五十坪買い、長い間の願望だった果樹園や畑をいよいよ本格的にやるのだと大分乗気である。何不足ないと言った家庭のありさまである。私の家と土地の件いよいよ困ったら肩がわりしてくれるという話、彼がいるので私も気強い。自転車のチューブがこの頃パンクばかりして役に立たず困っているというと、それでは取っておきだが一つ譲ってくれるという。思わず遅くなり、帰ると十一時である。
八月十八日 晴 播いた大根の芽出そろう 硬便
米軍はニュージョージアで足ぶみしていると思ったら、またガダルカナルに船団を組織して、もう一つ西北方のベララベラ島に上陸して来た。艦船や人員の損害は最初から見越して、それだけ多く持って来てどかんと揚陸し、あとは飛行機と重砲とでじりじりと島を占領するという典型的なやり方。これで三度目の敵の進攻である。夕刊によると、その上、独伊軍はシチリアから撤収した。撤収そのものは成功だったらしいが、四十日ほどしかシチリアを守ることが出来なかったのだ。ドイツが参らねばよいと、それのみ念ずる。若しドイツが参ったら、いま欧洲に集結している敵主力を我々のみで引き受けねばならぬ。敵のほんの一部である今の南方の攻撃をすら持てあまし気味なのだ。
夕方松村泰太郎君が多田裕計君外一人を連れ、蘆花公園まで来たからとて立ち寄る。また戦争の話、それに松村君は創元社にいるので出版界の話が出る。文学類の本は今度はなかなか出せそうもない、ということである。そうだ、戦争の情況から言えば、これまでの出版界はゆるやかに過ぎた。いよいよ出版審議会というのを作って今度は許可をなかなか下さないことにしたらしい。私たちの生活も、少量の月刊雑誌の収入に頼らねばならなくなりそうだ。
貞子夕方から重見夫人に、東中野の医者へ連れて行ってもらう。その医師の息子が成蹊高校へ入る時に重見君が骨折ってやった人で親しいのだという。今夜は重見家へ泊る由。また重見家ではこの頃本を整理したので、一間四方ぐらいの本棚をくれるから運送屋をよこしてほしいと言っている由。重見家でも田居君へ行っているカメラは引伸機付七百円でないと売らぬという。
中支戦線の田中章君からハガキ来る。また峰岸東三郎君は先日応召したが即日帰郷になり、家へ帰りにくいので、信州辺を旅行して戻ったとて手紙来る。彼のような第二国民兵から応召した今度の人たちは支那の守備兵にまわされるのだという。それには彼は不適格であったが、内地の守備隊に改めてとられるかも知れぬとのこと。返書書く。
この日昼頃鶏が一羽弱って死にそうになる。花村夫人の智慧でナンバン水を飲ませたら元気になったが、しかしどうも心配である。
仕事二枚しか出来ぬ。午後風呂場の蛇口こわれてこれまで長いこと洩って困っていたのを、ハンダ付けして見る。初めての仕事で、どうにかついたがそれでも細く一筋洩っている。同盟報として小さく、ファシストの指導者たちは大部分ドイツへ亡命したと出ている。あ、そうだったのかと思う。朝日のベルリン特電にハンブルグの大空襲の様が出ているが凄いものだ。またローマは非防備都市宣言をしたが英米はそれを相手にせぬらしい。欧洲の空爆のことが伝わってから、この三四日毎日のように新聞には都市人口疎散のことが出ているが、これは近く当局から何か命令で実践されることになる前提かも知れぬ。工場の疎散が先決要件だというが、もっともである。しかしこれは容易に出来ることとは思われない。明日から防空演習、燈火管制だという。
八月十九日 晴 朝夕やや涼し 良便
菊八時から防空演習に出る。十時頃貞子帰る。重見夫人と東中野桜山の酒井病院に行って話したところ、そういう弱い人はやっぱりやめた方がよい、しかも一日も早く、と言った由。貞子あまり進まないが明日行くことにきめる。午後また菊防空演習。一、二、三、四組合同で家の前の空家の屋根に登ったりしてやっている。夕方までかかる。今月はこれで終りらしい。貞子重見家に厄介になった由。貞子の方、一週間入院で二百円かかるらしい。淡海堂の方を急ぎ、今日は午前と午後と夜にて十三枚書く。あと百枚残っているが、京王に待たせてある火曜日までに間に合うかどうか。心配である。これは約束どおりなら、一円五十銭から八十銭で五千部分は原稿と引換故八九百円は入る予定である。夜河出の飯山君に印税前借したいこと、淡海堂の野長瀬君に八百円引換にほしいこと手紙書く。
八月二十日 晴 湿気多し 良便 だるし
朝田居君と約束の化研へ行く。九時半、田居君父子来ていたが、すでに初診患者二十人を越して締切ったとて、今日は駄目。日を改めて来ることにして尚彦君は家へ、私と田居君は、神田今川橋のそばのビルの四階にある彼の新事務所へ行く。よい室である。紙業の某会社の留守事務所なりとて、女事務員が一人編みものをしている。そこに休んでから銀座の明治製菓で昼食。パン一切に野菜と蟹が少々ついて一円。量不足なり。あと彼は電気笠、庭のしおり戸などを買う。新宿で別れる。この日河出と淡海堂への手紙を出す。家に戻ると礼七度七分位の熱ありとてねている。元気だが風邪気味らしく、喉が赤い。インドラミン二グラム注射し、貞子が灌腸してやる。貞子の入院これで延びるだろう。
新聞には大した記事はないが、数日前からチャーチルとルーズヴェルトがカナダのケベックにて会談をしている。ロシア側の参加しないのを英米はしきりに気にしているが、英、米、ソ共にもうこの戦争に勝ったつもりで、戦後の欧洲処理のことやら、またフランスに英米が作る筈の第二戦線のことなどで意見が一致しないらしい。
昨日の参謀本部の某中将の新聞発表の談話によると、ドイツはこの一年ほどかかって、飛行機の規格を全部新しいのに取りかえる整備をやっており、いよいよ全国的にその整備が出来るところまで来たらしい。これは独の対英空襲で英の飛行機に敵せなくなってから、新規格を採用することになったのだという。これが完了して、新型の大量生産が緒につけば、戦争そのものに有利なばかりでなく、大規模の対英空襲を初めるらしい。それにしてもその規格変更の変り目であるこの秋から冬が独の危機だという。それを越せば、独も頑張るであろう。近時独空軍の振わないのは、もう英米機に叩かれて起き上れないのかと思っていた私は、この記事によって、ほっとした。
そう言えば今度の支那の米空軍基地を襲った我陸軍の飛行機は、戦爆ともに新型だという。新聞発表の写真で見ると、爆撃機はドイツが対英爆撃に使ったハインケル型によく似、尾翼の縦の羽根が二枚になっている。ドイツの工作機械でも日本に流入しているのではないかなど、素人考をする。こないだ見た荏原製作所にもドイツから最近入ったという工作機械があったが、随分ドイツとの間に船の行き来があるものらしい。
この日疲れていたが、夜九時までかかって十一枚書く。第一章の書き直す筈の分をのぞいて、百四十四枚目、これからが大変である。
八月二十一日(土)雨 良便 湿気多し
今日から滋が学校へ行く。礼、朝七度位だったが、午後になり三十八度五分も熱を出す。緑川医師へ頼みに行くと、二三日留守といい、近所の勤めている医師である西尾氏は夜まで帰らぬというので、駅の向うの久保医師へ来診を乞う。夕方六時頃来る。暑気あたりだろうとのこと。礼は両方の膝にもおできが出来ていて、膝と股が痛いとて可哀そうである。それで貞子が附き切りで看病す。菊は二度も氷屋に行ったりして大変だ。夜雨の中を私が薬をもらって来る。心配ごとは次々と絶えないものである。この分では貞子の入院も遅れている。久保医師貞子の牛乳をもらう届けを書いてくれるということで、明日町会へ用紙をもらいに行くことにする。
原稿、そういうことに中断されて十枚より出来ない。いよいよあせっているのだが容易にはかどらぬ。
八月二十二日 雨後晴 良便(日)夜入浴
朝川崎昇君奎君を連れ自転車で、棒鱈の乾物を二枚届けてくれる。先日逢った山本勝巳君からの到来物だという。まあ上れというのに、朝食前だとて急いで去る。ちょうどその後から降って来て、ぬれたにちがいない。この頃卵もなく、コナゴの佃煮もなく、魚の配給もなく、野菜ばかりで貞子が次第にやせて来て心配故、早速その鱈を朝食に食べる。
礼は薬のせいか八度位になり、午後は七度五分位になる。かなり元気で、足のおできも貞子がしぼってやったので泣いたが、後は楽になる。
午後、川崎君、小野賢治君と自転車で来る。ビール二本を三人で飲み酔う。ビールも薄くなったが飲む方も酔いやすくなったのである。私の自転車がよければ、三人で三鷹の田居家まで行こうと誘われたが、私のうちのは、いくら修繕してもパンクばかりして駄目なのでやめる。
新聞にレンドバ空戦一ケ月という座談会記事が出ている。こんなに強い我軍も、敵がムンダ上空を絶えず三四十機で守っているというのでは、制空権は常に敵にあるのだから、我空軍も地上軍も惨澹たる戦争をしているわけだ。
この日朝に五枚、夕刻から夜にかけて十三枚、計十八枚書く。三人の女主人公たちが、一緒に畑を耕すところまで来た。あとはもう見とおしが出来たので楽だが、どうしても毎日二十枚は書けない。
八月二十三日 晴 軟便 昼三十一度 暑し 夜は涼しく、久しぶりにてシャツを着る。
島崎藤村昨夜半死去の旨新聞報ず。七十二歳。脳溢血だという。大きな存在が失われたのである。詩人の死ぬもの昨年から与謝野晶子、北原白秋、佐藤惣之助、萩原朔太郎、そして今日本近代詩の産みの親藤村が死んだ。
大きな時代の変化は文学の世界にも行われているのだ。私は昨日|偶《たまたま》藤村の「分配」を読んでいた。
藤村は明治五年生れ。私の父と同年であった。父が生きておれば、だから今年七十二歳になっていた筈である。今頃生きていて、時々東京へ来たり、広島へ行ったりしているようだったら、どんなにいいだろう。藤村の長男は三十九歳だというから、それも私と同じ年だ。藤村の葬式は二十六日青山であるという。私など行く必要はない。しかし少年時代に鈴木重道君に藤村詩集を教えられて以来、随分私にとっては深く知った詩人であった。しかし、私には小さくても私の魂、私の心情がある。他の作家のあり方を追い求めるよりは一日でも自分のあり方から自分の道に徹したい。すべて、他人のことにあまり立ち入ることはならぬ。私自身の生活にも自分の眼や心の届かぬ節々が残っているのに、よそ見どころではない。潤一郎の「猫と庄造と二人の女」を読む。上手だ。描き上手だ。この作家にとっての文学は実に絵を思わせ、その手法においてはトルストイをしのばせる。
我軍七月下旬キスカから撤退したとの報出る。それから十五日迄は米軍は連日無人島を砲爆撃しつづけ、十五日に上陸したようである。全然敵に知られずに巧妙な撤退をしたのだ。よくこれまで待ち、そして上手に撤退したと、実にほっとする。
原稿、午前中八枚、夕方までに九枚書く。こんなにはかどるのは珍しいが、いつも私は作品が終りに近づくに従って早く書けるのだ。今夜十枚ばかり書くと二百枚になる。それに第一章を書き直して十五枚と、そのあと、もう少し書くと二百五十枚に達して、その辺で終るようにできる。筋の運びも楽になり話題も多くなって書きやすい。魚粉工場のことを書き出してから運びがよくなった。
礼、ようやく平熱となる。
この夏は、日中も夜の仕事のあいだも、上半身裸体ですごしたが、今夜はじめて涼しくなり、シャツを着ている。
キスカ島に上陸した米軍は、あれほどの厳しい包囲と監視とを、どうして日本軍が潜って脱出したか神秘だと言っている。しかも谷萩報道部長の談として、今夕の各紙にのっている話によると、我軍の方は、我艦隊入港の時のみ、急に米軍の哨戒機がいなくなり、波は上陸してから一年一ケ月来はじめての静かさになり、その所のみ五米の高さに晴れた。しかもアッツ島の沖を通る時、兵士等十数人の眼に、小舟に乗って日章旗を振っている日本兵が見え、万歳の声も聞えたので、その兵たちは、アッツ島は再び我方で占領したとばかり思っていたという。そういう不思議なことがあった。これは実に日本的な伝説である。
また我軍がいない八月八日には攻撃の米機はキスカ島でかなりひどい高射砲撃を受け、不時着した機も出たと報じているから、いよいよ、神秘的なことである。それにしても十五日余も無人の島を砲爆撃したということは、戦争の中に芝居ありという感じもする。後世語り草となるような事件である。
米英ケベック会談の最中に、駐米ソ聯大使リトヴィノフ免職となる。これは会談に大きな影を投じたという。スターリンの欧洲戦線即時展開の要求は随分気短だという。どうも新聞によると英米は、即時西欧に兵を上陸させることをしないので、ソ聯の不満は大きいようである。ソ聯はそれでも強引に夏期攻勢を続けている。ハリコフの独軍は包囲されかかっているというが、まだ落ちないようだ。むしろ逆に包囲しているとも言う。ことによればソ聯は対独単独休戦というようなことでもするのではないか、というのが枢軸側のこの頃の希望的観測で、新聞にも時々それが出ている。
昨日入浴した時に菊に訊ねると、石鹸の配給は、五人家族で三月目に三個、つまり月に一個である。だが家では月に二個はどうしても必要らしい。それでいて、入浴は週一回なのだ。貞子の所にあった十個ほどの石鹸はもう一個しか余裕なく、あとは、森本と瀬沼からもらった秘蔵のアルボース石鹸が半ダースあるという。私の室に十二三個あるが、これは大事に使わなければならぬ。一個十銭の石鹸がこの頃は三円もするという。全く一個たった十銭だったのだから、百個も買っておけばよかったと思う。しかしその頃はみすみす無くなって配給になるのが分っていながら、気がとがめてそんなことはできなかった。私などのような者は、せいぜいが一ダースぐらい買っておいて、すぐ耐乏生活に入らねばならないのだ。昨日川崎君の話では三円の自転車チューブが十五円から二十円だという。また田居君から分けてもらうのはチューブとタイヤで四十円とかいうことだから、こういう配給品の闇値は随分上っているわけだ。私の所でこの頃買ったものは、電球が二十個ほど、それに手につけるスカボールザルベが十個、オゾが十個ほどである。これは無ければ本当にこまるもののみだ。配給制度そのものが不完全なのだから、いよいよ窮乏しても、そういう細部のことで当局の庇護をあてにすることはできないので、ある程度は自衛的な買いおきをしなければならない。
それにしても十個や二十個多く石鹸や電球を持っていたところで、二年三年とその余裕は続くまい。いよいよその先戦が続き、爆撃でも受けて生産が渋滞したらひどい生活をしなければなるまい。しかし心のどこかには、そういうひどい生活をも徹底的に味って見たいという気持もある。それは覚悟が出来ているからというよりは一種の糞度胸に似た気持だ。人間とは不思議なものだ。
明日で、京王電車の馬場氏に乞うた余裕が切れるわけだが、どうせ、遅れただけの利子を払うとすれば、八月一杯と勘定するだろうからと考えたら、夜になってから、のん気になり、二枚しか書けなかった。それでも今日は二十枚書き、この作品続稿中の最高記録となった。九時半寝る。タバコ、金鵄を十二本喫った。仕事は、いくら急いでも、もう三日かかる。
八月二十四日 晴 暑し 三十一度位 軟
礼はほぼ平熱だがまだ元気なく、食慾なし。ハリコフの独軍撤退す。独軍は退縮しているが、ソ聯の損害も極めて大きいという。
午前中仕事、原稿六枚書く。まだ二百枚に四五枚足らぬわけである。菊午前中に和田本町に行く。もとの家主名取家の令嬢が死んだというので、香典二円持参。病気とのみ聞いてあすこにいた七年間に、ほとんど一二度しか姿を見ず、絶対安静をしているということで、結核だった由だが、やっぱりいけなかったらしい。名取氏は七十歳ぐらい、細君も目下肝臓病にて重く臥しているというし、あとには二十二三歳の令嬢一人のみで心細いことであろう。私たちの借りていたあの家に今いる薫にも二円出すよう包みを菊に持たせてやったという。その折、菊が聞いたのでは、隣の中野夫人が、柴を十把(一把二円二十銭、木の枝を集めたものらしい)私の家のために買って、あの家の裏においてあるとのこと。助かる。
この頃は月に三回ぐらい菊が大工長谷川の所へ行ってリュクサックにつめて運んでいる。これは酒と交換であるから、当分続くであろうが、薪の蓄えはないのだから心細いのである。柴を和田本町から運ぶのも大変だが、田居君か杉沢から自転車が来たら滋にでも運ばせるか、と考える。
この朝十和田操君帰還のハガキ彼の郷里から来る。もう三年も満洲から仏印、ジャバと彼は軍務にあった。なつかしく、逢いたい。明日あたり上京するらしい。
河出の飯山君と淡海堂の野長瀬君とに、今日行くと手紙出してあるので、午後出かける。淡海堂の原稿はまだ出来ないが、出来たら野長瀬君との約束どおり引換に八百円ほど受けとれるかを確かめるためである。
渋谷から地下鉄で日本橋下車河出に寄る。「青春」の増刷は、二千か三千と思っていたところ五千ということで七百五十円受取る。大変助かる、と飯山君に言う。二人で外に出、近くの千疋屋で冷しコーヒーとフルーツクリームを食べる。その表へ出た所で大江勲君に逢う。ジャバから戻って初めて逢う。帰還した連中は、この頃絶えず鉱山や工場を全国あちこちと訪ね歩いて講演をさせられているという。多忙で疲労して全く参っているが、軍からの指令であり、かつ聞く人がみな喜んでくれるので、へとへとになっても歩いているという。病気とはいいながら、私などのんきに暮しているものだと思う。飯山君また出版の窮屈になる話をする。
この日河出から七百五十円受けとったので、田居君から借りて残っている四百円と合せると、京王電車の支払いに足りる。全くほっとする。今日が待たしてある期限だから、馬場氏が家へ来るかも知れぬ。金の方の心配を今日のうちに片づけようと、その足で東神田の捜しにくい所で淡海堂へ行く。野長瀬君父君の不幸にて帰郷、江口隼人君は満洲へ旅行中にて来月の初めにならないと様子が分らないとの話。がっかりする。しかし野長瀬君が来れば、面倒はないらしいし、とりあえず京王電車へ渡す分があるので安心する。帰途五時すぎ、家で六時になる。ラッシュアワアで混雑甚し。
夕刊によると、ソ聯のプラウダ紙は西欧戦線展開の要求を明白に述べたとてその内容と、それに対する英米の反響とが詳しく出ているので、それを切り抜いて貼っておく。夜疲労して仕事出来ず、日記のみ書く。
明日大東亜文学者大会の第二回があるが、私は行って見ないつもりだ。
敵は濠洲から長距離二千二百キロもあるボルネオのバリックパパンをこの頃度々空襲している。石油油田のある地だからであろうが、この距離二千余キロは今の重爆機としてはなかなかよくやる、というところらしい。千五百キロ往復が普通の標準だという。これに対して我方もポートダーウィンやその附近のバチェラー、ブロックスクリーク等を屡々襲っている。
キスカが解決したので北方の心配は一つ減ったがムンダは果してどうなるか。ムンダへの補給路に当るベララベラ島に敵が上陸したのだから、一層苦戦しているにちがいない。
朝日の朝刊にこの頃続いて、三四日前全国的に徴用になった重要産業の社長たちの座談会が出ているが、その中の一人富永能雄(この人は実業家らしいが、時々評論の筆をとる人だ)が、敵アメリカは産業設備が巨大であるにかかわらず、開戦するとすぐ、三交替制で昼夜休みなく造船その他の工業を急いでいるが我国は設備が貧弱でいながら、いまだに交替制が出来た造船所はない。こんな風では、とてもこの火急の需要に応じられなくなる、という心配がある、と慨嘆している。このことは前にも何かで読んだ。これは全く大変なことだ。そんな風な産業界の実情は何とかしてくれないと物質上のことで戦争が無理になるのではないかと心配になる。同じ座談会で浅野某氏が、三交替制を実施するには、工員の宿舎の設備と交通の便とを先ずはからなければならないのだが、宿舎用に使う材木の配給は次第に減少して来て、とてもそういう設備が出来そうもない、また交通機関の問題も改善されない、と言っているが、これでは本当に何か根本的な解決を講じないと、掛け声ばかりの増産で、いよいよ補給力、戦力の敵味方のひらきが大きくなるばかりであろう。もっとも二三日前の新聞に博多の製鉄所では設備の四分の一は三部交替制、四分の一は二部交替制、二分の一は昼間のみの勤務になっているという。
回覧板によると、八月から十月までの米の端境期のあいだ、馬鈴薯、甘藷、乾パン、麦粉、うどんなどが、度々米のかわりに配給されるという。今が一番食糧不安の時になっているのだ。今年は天候順調で平年作の見込だとのこと。この近所の陸稲は、ちょうど今穂が出て来た。二百十日前後に暴風雨がなければよいと、祈る気持になる。去年の豊作の後をうけてこれ位だから来年の今頃は多分もっと窮屈になるだろうと思われる。うちではこの頃玉蜀黍を畑から取って食べほぼ一食分ぐらい一週ほどあった。
八月二十五日 晴 軟 ワカマツ服用三回
貞子、児玉医師にとってもらったレントゲン写真を持ってセファランチンへ行く。その後から私も外出、京王電車へ年賦金支払に寄る。延滞金は、日歩四銭になっているという。私はうっかりしていて、毎半年に千円宛払うのだと思っていたが、八千円を四年間に払うために半年毎に千百十六円ほどを払うのだと分る。なるほどそうであったと気がつく。迂濶な話である。延滞利子を加えて千二百三円になるのに、私は千百五十円ほどしか持っていない。馬場氏を待たせておいて、伊勢丹裏の雪印バターの配給所へ行き、神田の配給所にいる杉沢に電話をしてもらって新宿事務所の金百円借りる。彼には先月自転車代の先払として百三十円やっておいたのだが、二百円受けとったから七十円の借りになった。馬場氏にそれを払い、京王の二階で昼食をして、目黒鷹番町の十和田君の所へ行く。ちょうど在宅。髪白くなり、ざん切りにて、満二年間にすっかり変った。しばらくすると森本忠君も来る。夕刻まで三人で、戦地の話、内地の話などをする。今日は大東亜文学者大会の日だが、私も森本忠も行かないわけ。しかし十和田君から前線戦地の話を聞いて、とても充実した半日を味い、会へ行くよりもよかったと思う。聞いているあいだに涙が何度も出そうになって困った。
英米のケベック会談の結論が夕刊に発表されているが、対日戦略を主要議題にしたという発表である。しかし本当は彼等にとっては、これからの対独戦が大変であろう。しかし生産力の余力をもって東亜でも対支援助やビルマ進攻を策して来ることは必然である。敵は我海上交通を狙っているのだ。また夕刊に国内日常生活品の配給の闇や横流れのことが取り上げられている。これは取締にも困ることであろうが、地下足袋のことなどは、一年一足の筈が三年に一足しか来ないというのは、それでは三年間だまってそのままになっていたのかと、先日の朝日の鉄箒欄への学生の投書から、急にあわて出した役人に問いつめたくなるような問題である。
下痢気味だが日中ワカマツ三服、夕刻は貞子セファランチンで私のために下痢止を作ってもらって来たので、それを飲む。
ベルリンの大規模爆撃は相当なものであるらしい。国内生活攪乱が戦争の重要な手段となったのだ。今日留守中に田居君が寄ったという。
八月二十六日 終日雷雨夜に及ぶ やや良 朝菊と大根白菜五六畦播く
昨日まで仕事と金の苦労で心の休まる暇がなかったが、淡海堂の方が月一杯ということになったので、一日ゆっくり休むことにする。原稿二行ほど書いて、それでやめる。午前中午睡する。午後松尾一光君来て、夕方まで雑談。
松尾君が今日中島飛行機製作所へ雑誌のことで訪問し、雨に降られてそこにいた間に、そこの総務部長という人が、戦況はもう処置なしというぐらい我方に悪くなっている。生産力が間に合わないのだと言った、とのこと。それは、南方戦線のことを言っているにちがいなく、当然飛行機の生産力の不足を言っているにちがいない。こちらは今までの米軍の反攻を持てあましているのに、敵はいよいよ、これから対日進攻に力を注ぐと言っているのだから、今の倍位も敵が戦力を増して来たら、危機になるにちがいない。新聞記事の面では、危機ということは感じはまだ出ていないが、南方の今の戦線を我方が維持できるか否かという境目まで来ているのにちがいない。参謀本部や内閣の人たちの苦心、心痛は大変なことであろう。敵は東南の島から島への進攻とビルマ進攻を策しているらしい。
大本営発表を見ると、我軍はムンダ北方で戦っている、と新しい形の戦況発表をしている。ムンダは放棄したらしい。これは多分ニュージョージア島を引き上げる前提にちがいない。この頃新聞の記事を見ていると、敵は攻勢に出る前には、きっと日本軍の強いこと、勇敢なことを報じた記事が同盟や各新聞の海外記事となって現れている。それは日本軍は強いにちがいないが、それについての記事の発表は何だか敵の謀略にかかっているように思う。
昨日森本君の話ではキスカの撤退を新聞社では七月末に知っていたが、敵がその後もキスカ攻撃を続けているので、それがすむまで発表を中止していたのだという。それにしては日本の防諜はうまく行っている。そういういい所もあるのだ。
夜、臨時常会で桃野氏宅へ行く。行く道三町ほどの間草しげって露多く、近所の夫人たち困惑す。私は浴衣に長靴で裾をまくっていたのでよかった。
九月中頃までに慰問袋を各家庭一個ずつ作ること、九月末までに町内から出た兵に送る慰問袋を組内で二個作ること。その他防空演習はますます強化されること、附近に二三人組になっている不良がいて町会長中里氏宅へ入ったりしたから注意すべきこと等々。その後で桃野氏は、昨日聞いた海軍報道部員の秋山中佐の戦況の話をする。戦況は目下我方の不利で全く大変である。ニュージョージア方面では敵は全制空権を持っていて、我方は僅かに一日のうち二十分又は三十分間、空中戦によって、その上空を支配し得るにすぎない。それで補給不可能である。飛行機不足が根本の弱点なので、これはロシア辺に知れては困るが、今は戦車の部分品の製作をやめて、飛行機部分品製作に集中している程である。しかしこの受身の戦も、南方資源の利用の増大と共に解決する筈であるが、戦は全く苦しいのが実際なのであるから、国民はそのことをわきまえて、我ままをやめ、各自の立場で全力を尽すべきこと。なお空襲は必ずあるが、日本の家族制度や経済事情から言っても地方分散ということもそう出来ないのだから、いよいよ敵が来たら、死ぬ覚悟で自分の家を守るつもりになってほしい。そういうような話であった、という。これによると地方疎散は結局実践できないので、積極的には行わないことになったように解釈される。この日戦況不利の話のみ聞く。十一時帰る。夜じゅう雷鳴し、かつ雨降る。
八月二十七日 雨 良
終日雷鳴。細雨模様。朝夕は涼しく、秋の気配あり。午後庭の草とる。
独軍はハリコフ戦以後平均五十キロ後退したという。やがてキエフ――ドニエプロペトロフスクのドニエプロ河まで後退するのではあるまいか。そこまで退くとウクライナ穀倉の半分を失うことになる。北伊ミラノの空爆の惨禍の記事昨日、今日と出ている。全市の住宅の六割五分は住むに耐えなくなったという。記事を貼りつける。
淡海堂の今井という編輯者から来書、金は三十一日に払うがなるべく少くしてくれとのこと。返事出さず。
塩谷の母から梅干を送った由。家では去年のがまだ残っており、今年は峰岸君に買ってもらったので三四升漬け、それも出来ている。ラッキョーも前の家の畑に出来たのを古い汁に漬けて出来ている。
八月二十八日 降ったり晴れたり、秋空の如し。やや良 風邪気味 夕方インドラミン
塩谷よりの梅干二貫目ほど着く。弟の所は組合に出ているので、割に塩が豊富らしい。こちらではこの夏は野菜が豊富で、茄子か胡瓜はいくらでも買えるが、塩が配給では少いので、やっとその日その日の漬けものをどうにかして行けるだけで、貯蔵するほど漬けることは出来ない。私の所ではやっと梅干を少し作ったが、それ以外に余裕はないという。
昼頃、小野賢治君、香典のおかえしとて茶を持って来る。二三時間雑談する。もう朝夕は涼しく、雨が降ったり、急に晴れたりする様は、完全に秋である。小野君が帰ってしばらくすると、小西猛君やって来る。坊主頭になっている。三ケ月の教育召集を受けて、今夜旭川に立つのだという。しかしその期間終了すると、そのまま本当の応召になるかも知れぬので、覚悟はしているという。小西君の属している印刷文化協会では、教育召集のあいだは俸給はそのまま、本召集になると、妻帯者は三分の二、独身者は二分の一の俸給になる由。小西君は前から縁談のあった人と正式に婚約し、式はあげずに、妻帯者として勤先に届け出た由。半官的な統制会でありながら、応召者の待遇はあまりよいとは言われない。この頃は私の知人の三十歳前後の応召者が多い。小西君は小樽市立中学で私が三年教えた人。三十一歳かである。餞別五円贈る。これから勤先の壮行会があるとて、すぐに去る。
昼間から身体だるい。喉が痛い。この頃、暑かったり、急に涼しかったりするので、裸で昼寝していて風邪をひいたようである。仕事に差支えては困ると思い、インドラミン3CCを注射し、オキシフルで含漱す。
夜貞子、菊を連れて、東中野の医師を訪れ、十時頃帰る。貞子瘠せて来るので、どうも心配である。
八月二十九日(日)晴 良
朝刊全部を埋めて、アッツ島の勇士に対する感状、その戦闘状況の詳細、戦死者の名等が出ている。北海道、東京、樺太等多く、なお少しずつ日本全国にわたって出身県名をあげてある。塩谷からは津崎君という私などの知らぬ青年が出て死んでいる。母の話では村から五人ぐらいアッツで死んだ人が出ていると言っていたが、一人である。正式発表以外の噂は信用しないことだ。その全部の氏名や出身地を発表しているのは、朝日新聞のみである。
風邪気味ほとんどよくなったが、午後シャツ一枚で二時間ほど午睡してまた少し悪い。貞子も風邪気味でねている。
夕方英一北海道から帰ったとて寄る。饅頭や家で焼いたせんべい持参にて、滋と礼は大喜びでいる。
仕事午前三枚。あともう三十枚ほどである。家と土地の金をやっと払ったせいか、この二三日すっかりのんびりしている。しかし今やりかけている仕事を早くせねばならぬ。網野菊女史より、新潮での本の批評の礼来る。雑誌新潮、文学界など到着す。
私も次の大きな仕事である「爾霊山」に早く取りかかりたい。その前にはしかし、評論集をまとめ、「幼年時代」を残り半分早く書かねばならぬ。
八月三十日 晴 良
喉の痛いのはほぼ直った。午前中から仕事に向ったが二枚ほどしか進まない。この仕事は私の気に入らぬものであったので、実に抵抗を感じ、骨が折れ、ちょっと無□〔理か?〕のない気持になると、ちっとも進まない。「幼年時代」や「得能」などはそうでなかった。野長瀬君に頼まれた時、少女小説だから楽ですよ、と言われ、そうかな、とも思ったが、私にとっては、仕事の内容が自分の存在からじかに発したものでないと力を集中することが出来ぬ。だから本格的なものほど集中出来て割にはかどるが、知らぬ作り話を書く時ほど苦しい上にはかどらぬ。これまでに一番苦しくいやだったのは「典子の生きかた」であったが、出来は悪い。この作品はやっぱり出来が悪いだろう。この前に出した「童子の像」は自分では走り書のつもりで気に入らない出来上りだったが、事実を写したので、すらすらと書けた。そしてかえって好評であり、昨日の網野さんの手紙にも面白いので他人にもすすめていると書いてあった。自分の資質に従うことを第一とし、事実に従うことを第二にせねばなるまい。
イタリアの前ファシストの動静が少しずつ新聞に出る。ムッソリーニはドイツに入ったとか、ムッソリーニ夫人はスペインに現われたとか言われていたが、女婿チアノ伯は今までローマに軟禁されていたらしく、逃亡した由今日の新聞に出ている。二三日前に前の党書記長ムチ氏が逃走せんとして射殺されたことが出ていた。これが革命というものであろうが、ファッシズムの政治の永続性を信じていた私には、はかなく哀れな感じがする。昨日か来た新潮に佐藤朔氏がスイスの新聞で見たパリのこの頃の生活を書き、読書が、しかも戦前の書物が愛読されているというが、日本でもそうらしい。古いキングや講談倶楽部や新青年などが古本屋で引張凧だと言い、電車の中で本を読む者も多い。しかしそれよりも目立つのは、新聞を皆が先を争って買って読む夕刊の出はじめの三時四時の頃のありさまである。日本はフランスと違い、生きて自ら戦っているのだ。なお昨夕刊によればドイツでは衣類の切符は無効になり、空爆被害者にのみ衣料が供給されているという。やがてそれが日本にも行われることのような気がする。
午後田居君夫妻信彦君を連れて来る。二時間ほど、二階で雑談す。
今日貞子病院へ出かけようとしていたが、それでお流れとなる。今日昼食は家の畑の玉蜀黍ですます。美味なり。
田居君金を貸すから、千円位で出来るなら屋敷のまわりの土留の石垣をしたら如何という。したいのは山々である。この近くでは私の家のみが土留なしだから雑草はびこってみっともないのである。しかし野田生の義父よりの借金二千円も返さねばならず、そう金も使いたくないので、もう少し考えることにする。
ドイツの東部戦線では、ソ聯軍の急進撃が続いており、重大化しているという。心配なことである。英米は対日攻勢を呼ばわっているが、案外それは嘘で、急に北仏かイタリア本土辺に上陸するのではないか。
八月三十一日 晴れたり曇ったり 涼し 午後腹部怪し
朝、馬鈴薯のあとの畑に畝を三つ作る。昼頃から仕事。三時迄に七枚、鶏の話を終りまで書く。あとは最後の章と最初の章とが残っただけである。
淡海堂の今井君へ五日頃行きたい由ハガキ出す。武田憲一君の父万吉氏に悼み状と香典二円送る。林了氏博士になった由。祝いのハガキ出し、かつ「童子の像」を一冊送る。岩佐東一郎君より、文芸汎論に原稿書けと言って来る。返書に十和田君の歓迎会のことを世話してほしいと言ってやる。日本女性の「母子寮」の校正昨日来ていたので、今日返送す。学校の遠藤孝氏より、福田清人君大政翼賛会に入って出講出来ないので、文学史の講座を受け持つようにと言って来る。週一度以上は身体に無理だと断り状を書く。欠席がちの生徒を相手に喋るのは神経が疲れていやである。
夕刻寝ころんで藤村の「寝覚め」(旧の「新生」)を読む。昔出版当時に十八歳の頃読んだのと大変ちがう。しかし昔分らなかったことが今では身にしみてよく分る。だが何という説明不足の、口の中でぶつぶつ独り言を言っているような作品であろう。藤村その人の日常を知らないと理解できない筋のみだ。小説として欠点も多いし、不十分なものである。しかし、この読ませる力、告白の油汗のようなものに引きずられる。何という不器用な作家であったのだろう。あの詩人としての自由奔放なところと全然ちがった姿である。私はこの作品を正面きって読むのは、どうも気が重かったが、今日ふと読み出していいことをしたと思う。私も来年は四十歳だが、これは四十歳にならねば分らない作品だ。半分近くまで進む。
夕刊によると、文化学院ともう一つ何とかいう女学校が閉鎖を命ぜられた。文化学院は、所謂もっとも自由主義的な学校であった。私がいつか喋りに行った所、前列にいる女生徒が私の顔を写生しているのには驚いたものであった。芸術科なども、きっとこれから警戒することであろう。
明日は震災記念日であり、第二次欧洲大戦勃発記念日だ。ニューギニアのサラモアの我軍反撃に出て敵を撃退したらしい。大変な戦であろう。敵側の情報でほんの二行ほど出たこの戦争は、去年の春新聞全紙を埋めて出たシンガポール戦よりももっと激烈な苦戦にちがいないのだ。それにしても、この報はこの戦区での我軍の進出という珍しい報知である。敵の優勢は分っているだけに、どれだけの犠牲が払われているかと心が痛む。ムンダから北方へ移ったニュージョージアの我軍はその後どうしたろう。二三日少しも報知出ない。
婦人会の名流女性等銀座街頭に出て、長袖を切れという紙片を通行人に渡したとて写真出ている。短袖四割、長袖六割の見当だという。しかし上流人に限って闇のものを買い溜めしているのだから皮肉なことだ。夕方畑の玉蜀黍の枯れたのを三うね抜き、草をとる。最初に播いた大根かなり育ち、一度貞子がすぐった。
[#改ページ]
[#2段階大きい文字]昭和十八年九月
九月一日 良
夕方七時警戒報出る[#「警戒報出る」に傍線]。夜間涼味加わる。これまでは丹前を腹にだけのせて寝たが、昨日頃から肩まで着なければ寒い。
第二次欧洲戦開戦四周年、大震災二十周年。小樽の入舟町へ下りて行く、道の石壁の上に張り出された大震災の報知を読んだ時は、私は十九歳で高等商業学校の生徒であったが、あれから二十年経ったわけだ。そして今東京は空襲の前夜にあり、第二の震災同様の被害を予感しているのだ。
航空機製作用工作機械を大増産する緊急処置がとられることに閣議決定したと報ぜられる。この前に荏原製作所へ訪れた時あすこの技師が、近いうちに当然そうならなければならぬと言っていたが、やっと今そうなったのである。今朝発表されたニューギニアのサラモア附近の戦闘情況によると飛行機の損失は我方の一に対して敵は三であり、また東京新聞によると昼間は敵の航空機や潜艦に狙われて補給出来ないので、補給は潜水艦によることもあるという。それほど我方の飛行機は不足しているのだ。
西村伊作氏は学校をとりつぶされた上に、不敬罪で起訴された。
朝大根畑の四畝だけ草を削り、垣根ぞいの草を抜く。鶏蚊にやられたらしく、鶏冠や眼の辺に黒い疵が出来ていたが、この頃元気になる。大豆にたかる黒い甲虫を毎朝笠にはらい落して百匹ぐらいずつ、ここ一週間ほどやっていたが、それがよかったのであろう。一度死にそうになったのも、かなり元気で、尾が立って来た。
原稿午後三時迄に七枚(第一章)を書く。そこへ石橋京策君来る。和田本町以来半年ぶりの人である。彼の勤めている大日本婦道実践報国会より彼が編輯して出した婦人手帖というのを持って来てくれる。戦争の話。夕刻石橋君が帰ってから、昨日作っておいたタバコ石鹸液を大根の葉に吹きかける。利くかどうか。牛肉の配給あり。堅い肉が一人四切ほど。今月から私の家が配給当番にて菊は忙がしい。
七時ちょっと前、夕食中、警戒警報鳴る。その頃湯が沸いて入浴す。警戒警報はこの春以来久しぶりである。夜九時、群長の加持家の前で、見張番の相談。私の家は九時――十一時迄。その後は朝五時迄は一時間半宛。その間だけ眠らずに時間が経過すれば逓伝の要なく、就寝してよいということになる。ラジオによると、南鳥島(東京より二千キロ)まで敵機襲来し、まだやって来そうだ、と言った由。今度はじめて、ラジオは警戒の状況を報告するようになったらしい。大変いいことである。二階から見ると、方々真暗で、夕方曇っていたが、やがて星空となった。
空襲の場合、私の所では外の無蓋防空壕に入らず、階下八畳に皆が集ること、外への警戒には私が当ることなどをきめる。シャツにズボンのままで寝る。二階三畳の書斎にて、夜、藤村の「寝覚め」フランスへ渡った辺から読みつづける。
九月二日 曇 雷雨となる やや軟
欧洲戦の開戦以来のことを考えて見ると、一九三九年九月一日ドイツはポーランドに侵入、これを征服した。三日英仏はドイツに宣戦した。翌一九四○年四月にはドイツはデンマーク、ノルウェーを占領、ノルウェーの英軍を駆逐した。それにすぐ続いてフランス、オランダ、ベルギーに侵入、ベルギーを降伏させた。英軍はダンケルクから本国に引き上げた。六月にはイタリアが参戦した。そしてフランスのペタン内閣は降伏した。この間にソ聯はポーランドの東半とルーマニアの東国境に侵入占領した。九月日独伊三国同盟成立。十月独軍はルーマニアに進駐した。一九四一年三月独軍はブルガリアに進駐、四月ギリシャに進攻して同地に上陸していた英軍を撃退し、クレタ島を占領した。同六月独軍は突如ソ聯に進入し、レニングラード、モスクワ近くまで迫ったが、冬期に入り、ソ聯の反攻成功して独軍はやや後方に退いた。
十二月八日日本は英米に宣戦し、独伊は米に宣戦した。翌年春にかけて日本はフィリッピン、マレー、ビルマ、蘭印、等を占領した。一九四二年の夏独軍は南方ロシア深く侵入して、コーカサス方面とスターリングラード市に入ったが、冬期又もソ聯の反撃を受け、翌四十三年一月末スターリングラード、コーカサス方面を放棄し、ウクライナへ退いた。この年の八月米軍は日本の占領したソロモン海域に反攻して来、翌四十三年春までかかって、ガダルカナル島を占領した。四十二年夏には独軍はイタリア領リビアからエジプトに侵入したが、その年十一月米軍が西アフリカのアルジェリアに上陸するや、長駆退いて仏領チュニジアに入った。四十三年五月独伊軍はチュニジアを撤退し、アフリカを英米軍にゆだねた。七月十日英米軍は南イタリアのシチリア島に上陸して来、七月二十九日ムッソリーニは政権を放棄し、ファシズムは終焉した。この頃から、ローマ、ベルリン、ハンブルグ、ミラノ等が米英のはげしい空爆を受けるようになった。七月からソ聯軍の夏期攻勢が始まり、八月四日独軍はオリヨールを、二十二日ハリコフを撤退した。八月十七日独伊軍はシチリアを撤退した。独軍が対ソ聯戦に熱中していた二年間に米英は生産を拡大し、飛行機、船舶を充足して優勢を得、対独伊戦に有利な状況となり、守勢から攻勢に移った。独逸は次第に受身となっているのだ。以上が最近までの欧洲戦の概要であるが、日本にとっての目下の決戦場は南太平洋ソロモン群島のニュージョージア島、ベララベラ島などである。今朝の新聞にニュージョージア島方面を視察した我参謀の談話が出ており、この激烈な南方戦線を彷彿たらしめている。敵の巨大なる鉄火にむかっているのは大和民族の血液である。まことに、これは国運そのものを賭している戦だ。その上に、昨夕からの我南鳥島への敵の攻撃が始まり、敵が本州へ真直に肉迫して来ることが明かとなった。昨日まで、私などは、敵は支那かアリューシャンから段々とやって来るであろうから東京が空襲を受けることは、明春頃まではないだろうと考えていたが、今日からは、そういうことは全く考えられない。日本全土が敵の砲火に面している感ひしひしとして来た。だがそう思うと、かえって、心持が引きしまり、元気になるのは不思議のようだ。
朝七時から九時迄私の家が見張番ということで加持家の前のベンチに腰かけ新聞を読んでいると、桃野氏(町会の防衛長でここの組長)が自転車で来、見張は大変で疲れてしまい、仕事が出来ぬから、各自の家で受持時間だけ行う、ということになり、戻った。
貞子は病院行は断念したとばかり思っていたが、今朝になり、急にまた病院へ行くと言い出した。気持が絶えず変るのであろうから、気のむくままにさせることにした。貞子結局雷雨のため出られず。もうよせばいいのにと思う。
終日雷雨にて、夜になっても止まず、家の近くで大砲のような雷鳴を聞くこと数度。昨年には、ここから三町ほど離れた金沢という家の応接間に落雷、附近の人たちが来て消火したという。私の家は附近で唯一の二階家であるから、雷鳴がひどいと気持が悪い。夜電燈消えて、二時間もつかず。夕刊には、さして変った報知はないが、警報解除されぬ。今日は敵は南鳥島へは来なかったのであろうか。
原稿六枚ほど書き、あとは午後から夜までかかって「寝覚め」を読み終える。それに続き、同じ場面を紀行文に書いた「欧洲戦争」を読む。前者の晦渋な重厚さは意志的に作られたものであることが、後者の説明的な明確な記述から分る。よほど態度を慎重にして、絶えず世間に向わずにいられなかった人であるが、それと共に頑固、強情、熱中等の性格の強さもまた合せ持った特異な作家である。明治以来この人のように「行儀」によって文章を律し、それによってまた自己の激しい性格をも律した人はなかったであろう。暗い、強いものをあまり内側に持ちすぎ、こういう「行儀」を通してしか自己表白出来なかった。しかも自己表白をせずにはいられなかった。何という人だ。
これまで出版の不許可は七パーセントであったが、今月から審査を厳しくして三十パーセントを不許可にする。良書でも不急のものは許可しない、と新聞に出ている。こういう記事がしばしば新聞に出るが、私たちのこれから先の生活もどうなることかと考える。
新潮九月号の評論十二枚の稿料として三十六円到着す。
九月三日 朝雷雨 後晴 ほぼ良 警報解除[#「警報解除」に傍線]
[#1字下げ]検温午後五時 六度五分[#「六度五分」に傍線]
南鳥島に襲来した敵機は空母数隻から発したらしい百六十余機であるという。まだ警報の解かれないのを見ると、敵はこの島を奪取する目的でまたやって来る気配ありと見ているのか。この島から東京までは二千キロである。目下濠洲からの敵がボルネオ辺を襲っているのは二千二百キロ程の距離を往復しているが、万一南鳥島が敵の手に渡るようなことがあれば、本州一帯は空爆距離に入る。敵がニュージョージア辺へやって来るように大挙上陸したら、我方にそれを撃退するだけの兵備がこの島だけでなく、大鳥島や小笠原島あたりにあるだろうか。これは重大緊要の問題である。本土防衛のため、この島を絶対失ってはならない。
この頃は、連日雷雨はげしい。昨日も府中の方で畑にいた人が二人、省線電車に落ちて、中の人が三人も死んだという。空爆がわりに雷爆とでも言う所か。昨夜も終夜雷鳴し、その度に私の家は硝子がビリビリと揺れて鳴る。ひどい気候である。しかし昨日の二百十日は颱風はやって来なかった。
貞子、菊を連れ、病院に出かける。
午後二時頃警報解除となる。昨日上野動物園では獅子、虎、の類の猛獣を殺した由新聞に出ている。いよいよ東京も修羅の巷になる気配あり。
昨日はしかし南鳥島に敵が来なかったようだ。夕方四時から、菊防空演習のため町会事務所に行ったが六時になっても戻らず、私が炊事をし、ウドン煮込を作り、御飯の補い兼おかずにして、七時半に出来た所へ菊かえる。貞子がいないので、子供は淋しそうである。午後鶏小屋を動かしているうちに鶏の一羽足の皮をすり剥き、オゾと絆創膏にて手当してやる。鶏が大きくなり、止り木に止ると羽根が屋根に当ってこすれ汚れるので、止り木を少し低くしてやった。原稿三枚ほど。
何となく身体が熱っぽくだるいように思い、久しぶり(この家へ越してから初めて)検温する。五時に六度五分だから、異状ないわけ。
この頃は不摂生という点では毎日煙草を十本位喫うことと、食物に良いものがないこと。卵なし。肝油は腹に悪いのでとらず、バターとらず、牛乳なしである。
九月四日 晴 やや軟
今日来た「文芸日本」に戸川貞雄氏が山本有三と岸田国士の作品を非日本的だと言って手きびしく非難している。この種の論難はこの頃到る所で眼につくことだ。山本、岸田と二人は、どちらかと言えば文芸春秋系だ。戸川氏は目下文学報国会にあり、その会は文芸春秋系の人が多いのだが、その文芸春秋、文学界系統に明確に反対の立場をこの頃主張しつつある文芸日本に原稿を書き、座談会に出て、文学報国会そのものについての批判をもしている。とにかく目下のところ、文芸日本はもっとも国粋的な文学者を集め、一般文壇を畏怖させている。時代が時代故、攻撃を受けるような弱点を持っていない文学者は極めて稀である。文芸日本の人たちの言は次第に強く広く行われるであろう。そして文学そのものもまた、変って行くにちがいない。私のように過去を西欧文学に多く学んだ者の立場などは、そういう渦の中では、はかない極みである。事は善悪理非というよりも、時の勢と人の勢である。こういう風潮が文壇の内部に行われ、外部からは出版の拘束が加わる。さて私はどこまで作家として生活して行けるだろうか、と時々考える。と言ってもそれで非常に淋しいというわけでもない。私などかなり長いあいだものを書いて来た方だ。黙らねばならないなら黙ることもいいと思う。しかし、やっぱりこれからの精力を傾けての仕事として、日露戦争記を書いて見たい。そして、私はそれを旅順、黒溝台、奉天と書きつづけながら極く内輪に、もう十年ほど作家生活が出来るような気もする。それ以外には私の生活はない。一風潮毎に心を騒がしたり、筆を折ったりしていては、生命がいくつあっても足りない。室に坐って、書くこと、毎日毎日書いて行くこと。それが私の生きる道だ。
英軍は遂に南イタリアに上陸した[#「英軍は遂に南イタリアに上陸した」に傍線]。昨年十一月にアフリカ西岸に上陸してから、これまで英米軍は大体順調にイタリア本土までたどり着いた。しかし、これから北へ進むに従って本当のドイツの力にぶつかり、立往生するにちがいない。
貞子いないので、子供たち寂しそうだ。今日昼頃赤坂へ行きチーズ二ポンドを買い(稲子氏からの券で特別に買えたもの)菊に、貞子の所へ届けさせた。貞子元気だという。
九月五日(日)雷雨後晴 軟 伏見博英伯戦死の報、沈痛の極也。
ルーズヴェルトの側近者の一人で、その顧問と言われる某ホプキンスは、「この戦争は一九四五年に終ると思うが、ロシアが戦争から抜ければ、更にもう五年かかる」と言ったとて、アメリカでは新聞記者がハルに問いつめたりしている。これが彼等の計算であろう。欧洲戦のイタリア上陸までは、昨年暮のアフリカ上陸から彼等の計画は順調に行っているようだ。ドイツがどうなるかは、ちょっと見当のつかぬ所があるが、もう二年経って日本がイタリアのようになるなどとは絶対に考えられない。日本の産業施設、生産機構はまだ緒についたばかりという感じだ。日本の生産組織は遅れていて歯がゆいが、その生産量の増大するのは、これからだということが、私のような素人にもはっきりと感じられる。もう二年経った時こそ日本が強くなる時だと思われる。
しかしこの冬、ビルマの雨期あけ、緬印国境では、これまでにない大戦争の始まる気配がある。陸戦も海戦も共に行われるであろう。英軍は印度から、米軍はニューギニアと濠洲から東亜に迫って来るのだ。
今日午前中から「三人の少女」最後の章にとりかかり、夕方までに八枚に達す。最後の三四枚に来て、しめくくりを考えあぐねる。夕方四時頃から畑に出、先日耕して畝を作ったところへ人糞をやり、白菜四畝、菜豆一畝、ホウレンソウ一畦、小蕪一畦を播く。
伊藤森造君の母より、鱒燻製二枚、ノシイカ五袋小包にてもらう。
米に不足し、夕食は代用食のうどんにてすます。
今年の夏から秋にかけては実にひどい雷雨続きだ。しかし、今頃に多い颱風の気配のないのは、ありがたいことだ。昼頃隣の花村家から西瓜を半分もらう。今年になって初めての西瓜である。西瓜はなかなか手に入らないのである。闇値では一個五六円もするのだという。公定価だと一個一円ぐらいか。
空襲時郵便貯金の非常払い下げの方法新聞に出ている。動物園の猛獣は殺し、街上には十歩毎に防空壕を掘り、これでいよいよ空襲対策が一とおり出来た。新聞によると一昨夜またベルリンを襲った英機は二十分間に一千トンの爆弾を市内に落したと言う。ドイツ側は、その英機の内二十六機を撃墜した由。イタリア本土は、案外簡単に英軍に蹂躪されるような気がする。
九月六日(月)曇 やや軟、辛うじてワカマツ等にて保っている。
昨夜九時までかかって、「三人の少女」を書き上げる。この日十六枚、総計二百七十枚。予定より二十枚多い。主として七月の初めからであるから、約二ケ月を費した。しかしこの春の四月からこの作品のみに向っていながら筆が進まなかったのであるから約五ケ月をその間に経過した。届け書を書き、章の数字を入れ、読みかえし、序文を書き、枚数を書き入れ等に朝十時迄かかる。
仕事の気分のだれぬうち、評論集をまとめようと思う。
十時より淡海堂に出かける。野長瀬君は父君死去にて十日頃でないと戻らぬ由、今井君という人に原稿渡す。向うでは八百円支度していた。ちょうど私の予定していた金額である。受けとって、ほっとした。本屋の支払い方から見て、出版界はそうつまっていないような気がする。
神田駅のそばの北海道興農公社の配給所によると杉沢がいる。先日の礼を述べ、二百円渡す。内七十円は借金の分、百三十円は自転車代である。車はこの月末によこすという。いよいよ十月でアイスクリームは姿を消し、今後は横須賀にアイスクリーム工場が出来、海軍で使うという。それが本当だと話し合う。
杉沢は来月から八王子在の横山村の養鶏場に引込む由。クリームを御馳走になり、二人で新宿に出、彼が投資している永野商店で、駄菓子を分けてもらう。切符外なり。三百匁、一円五十銭。三時半頃家に帰り、子供等に菓子分けてやる。夕方までかかって、手紙書く。鱒の燻製をもらった伊藤森造君の母に礼状、また武田憲一君の父君から礼状と憲一君戦死の模様を伝えられたのに対して返信し、故人のことを原稿六枚書いて、父君の手紙をつけて、学校の「新芸術」の編輯者永野さんに送る。野長瀬君あて、くやみ状を書く。今日出先で高倉新一郎「アイヌ政策史」幸田成友「江戸と大阪」等十五円ほど買う。
夜はぼんやりして何もせず。この春四月からかかっていた少女小説を書き上げ、まことにほっとして落ちつく。手もとに五百八十円あり。この内貞子の病院百五十円、届け出の遅れていた家屋取得税が三百円等と考えると、いくらも残らない。実に金がいる。困ったことである。
イタリアの英軍次第に進む。なおファシストの外相だったチアノ伯は一旦逃げたが、捕えられたという。
大島豊氏夫人より、代用食になる芋か南瓜をまとめて俵でほしいがと言って来る。だがそのつてはない。
九月七日 曇 小雨 軟
一昨日頃から米一升ほどしかないのに、次の配給は十二日という。代用食として配給のうどんが十把ほどある。それを昨日も二食くらい食べ、一食を米にしている。味気ないことだが、腹に満つれば結構としなければならぬ。
菊を朝から病院へ様子を見にやる。貞子元気ないという。一時頃帰る。座ふとん二枚に綿屋で綿を入れるよう貞子が先頃頼んであったのを菊に取らせたが、十四円五十銭という。相当な闇値である。貞子のところへ病院の払いとして百五十円持たせてやる。座ふとんは十枚になり、常会をするに足りる。
朝刊によると、米軍は、ニューギニアの我方の基地ラエ、サラモアと、ニューブリテン島とを結ぶ地点、ラエの東方のホポイに大挙上陸した。あくまで敵は積極作戦である。我陣地の後方へ後方へとまわるこのやり方は、我方の補給力不足、制空力不足を見くびっているのである。我陣地は、これで、本拠のニューブリテン島辺と、ラエ附近と、ニュージョージアと三つに切断され、我方の内ふところ二ケ所ベララベラとホポイとに敵が食い込んでいる。困ったことである。富永中佐がその状況を説明して、やっぱり我方の補給力、物質力の不足に帰している。悲痛な話である。それなのに我言論界の徒らなる精神主義は将兵の血を一刻一刻と流させているのだ。〔それなのに……以下はノートでは著者によって抹消されている。〕
昨日夕刊から読売に、日本楽器社長の川上嘉一なる人の我国の生産機構改良と現状への批判論がのっている。この議論まことに痛切である。作業の昼夜交替を今までやらなかったというのは、何ということであろう。川上氏のこの文章は日本の現産業施設の欠陥を最も鋭くついた代表的のものと思い、切り抜いておく。こういうこと鈴木企画院長とか岸商工大臣の責任なのだろうか。それとも昼夜交替の作業をするだけ材量が無かったというのであろうか。人間の数ならば、まだまだ日本には余裕がある。しかも開戦満二年に近いのだ。
組長桃野氏昼前に、農耕姿で寄り、配給のバケツを取りに行ってくれという。組内に一個で抽籤する筈とのこと。なお常会は、今特に会議事項がないので、しばらく延期するという。今月は私の所の当番である。貞子が留守故、ちょうど助かった。
今日から評論集の支度にと、日露戦記類を一とおり読むことにする。
午前中桃陰の「旅順閉塞」を終り、大月隆仗の「兵車行」にとりかかる。「爾霊山」のためもあり、ノートにて場面の描写の索引を作っておくことを考える。
二時頃になり、学校から戻った滋と礼を連れ、新宿に行き、雪印アイスクリームの配給所にて、クリームを荒川氏にもらって食べさせる。町の食堂にて、私などは時々食べるが、子供たちはそれを食べる機会なく、昔のようにドライアイスが無いので、家へもらって帰ることも出来ぬ。十月からは世上にアイスクリームが無くなるというので、特に昨日たのんでおいたのである。子供たち美味なりとて喜び、おかわりして四五人分も食べる。それから東中野の酒井病院へ三人で貞子を見舞う。少しやつれているが元気なので安心する。十日頃退院したいという。
最近になり、戦局は急速調で進行して来た感が深い。これは、日本やドイツの力が弱まったからでない。味方の力はむしろ増大しているのだが、敵の戦力、主として物質生産力が急に増大し、敵の海運は独逸の潜水艦の脅威を退け、ぐんぐん伸びて来たため、敵の攻勢に力が加わったのである。日本の西南太平洋戦線、独ソ戦線、イタリア半島戦、みなぐんぐん急速度で高潮に達して来た。この勢で英米が戦場の主人公的立場を取れるか、それともやり過ぎて、やがて立ち直ったドイツや日本にひどい目に逢う、どちらかの、一応の結末に達するのは、そう遠いことでなく、ここ半年のうちだと思う。本当の勝敗は、更にその後になるであろうが、英米の生産力が戦場に顕現しての一つの波がいま試験される時となっているのだ。
ここへ越して以来、昼も夜も、この辺一帯の上空は飛行機の音、夜は数本、時には数十本の探照燈が東京の周辺から空を照している。今夜もまた轟音しきりに頭上にしている。朝からかかって、「青春」の検印五百枚を押す。
九月八日 雨後晴 南風強し
朝菊に牛乳を持たせて、貞子の所へやる。その間独居して鶏の世話をしたりしながら、「兵車行」について索引を作りながら読んで行く。これは一面評論集の中に入れる「明治の戦記文学」の為でもあり、かたわら「爾霊山」の本式の準備である。「日常生活」「兵器」「服装」「上陸」等とに分けて、各頁数を索引に書き込むのである。こういう風にして外の本も一とおり索引をつくれば、日露戦の百科辞典様のものが出来る。
午後菊と入れかわり外出し、代々幡に下車、大島家により、薯を買う伝手が目下無いことを夫人に伝える。夫人の話によると、公定六円ぐらいのものが、俵去年は八円、今年は十六円ぐらいであるという。その足で三鷹に行き、田居家を訪れる。丁度小樽からの引越荷物が届いたということで、家中修繕やらで、ごったかえしている。出がけに私は千三百円借用の覚書様のものを持って行ったので、彼にそれを見せ、この頃の私の財政状態を説明し「爾霊山」が出来る頃まで借りていたいと言うと、彼は、まあ期限など心配するなとのこと。いずれその証書に印を押して改めて彼に渡すつもり。なお彼に私のカメラの質券を見せると(三百円のもの)それを出して、十月の支那旅行に使うからというので、質券を渡しておく。金のあるところでは何でも手に入るらしい。米も三四斗庭先で乾しており、彼の所には、西瓜とか梨とか色んなもの闇値で売りに来るという。また裏手に百五十坪ほど土地を買い足したというから五百坪ぐらいの土地を家のまわりに持っているようだ。それでもやっぱり、文学をやりたいと洩らす所など、人の心とは一度染ったものから終生脱け出せないものらしい、など考える。
夕方別れを告げ、駅で買った夕刊を電車で読むと、毎日に航空本部の飯島という大佐が、敵の都市空襲の模様をかなり詳しく書いている。火と鉄と燐と石油とを空中からふりまくようなものだという。東京に敵機が届くようになったら、防空どころか一面の焼野原となるにちがいない。今の爆撃はこの大戦当初のものとは全く違い、本当に徹底的なもののようだ。英国のコヴェントリイがやられた時でも、この小都会が工場もろとも焼失して、飛行機の部分品が出来なかった為、二年間は、イギリスの飛行機はほとんど言うに足りない生産額であったという。日本でも若し、名古屋とか、立川とかがやられたらそういうことになるのではないか。怖るべきことである。とすれば、それの分っている当局は、何としてでも内地が空襲されるようなことを防ごうと努力していることが分る。また同盟報によると、ソ聯発表では独の今夏の捕虜は二万五千、死傷百万と言い、独側発表ではソ聯の損害は戦死捕虜合せて百七十五万と発表している由。独ソ戦線では、両方とも捕虜が少く、決定的な戦果をあげられなくなっているらしい。消耗戦なのだ。それでいて英米も西欧に上陸して巨大な第二戦線を作るだけの自信はないらしい。しかし、あまり放っておくと、ソ聯が戦線を離脱する(ウクライナを取りさえすれば)危険も多分にあるようだ。英米の焦躁の原因はそのことにあるようだ。そういう色々なこと、朝日の夕刊に詳しく出ているので、それも切り抜いておいた。南伊カラブリア半島の戦況も読むべきものである。
今夜は何ということなく、気が滅入って仕方がない。金のことは、田居君からの借は当分払わなくてもいいだろうし、野田生も年内に千円も払えばよいと思い、心配はないのだが、家のことなどに煩わされて、徒らに金の配慮に追われている思いがひしひしとし、憂鬱である。仕事に没入するようにして、静かな暮しをしたいと思う。貞子明日私に寄ってくれと言った由。退院するのかと思う。
夜入浴す。この日菊に薬屋をまわらせたが、ビタスもワカマツも無いという。なお今月から陶器は破損したもの(三分の二)を持って行かないと売らなくなったという。
九月九日 晴 暑し やや良 イタリア降伏[#「イタリア降伏」に傍線] 夜九時二十六度にて、真夏の如し。
朝東寄畑の草をとり、新しく二畦作ってそれを埋める。そのあとへ菊もまた二畦へ腐った草を埋める。午前中「兵車行」の索引を作り、午後一時までかかる。病院へ行こうとして出ると、駅で岩淵正嘉君に逢う。私の家へ行き、出たと聞いて追って来たのである。彼は徴用されていた工場で、初めは倉庫で運搬をしていたが、この頃は寮の事務員にされ、やや身体が楽になったという。最近徴用されるのは三十歳から三十五六歳までの者が多いという。京王ビルの二階の喫茶部でパラランチをとり、カルピスを飲み、しばらく話して別れる。もう三年ぐらいは徴用されていることになりそうだから、三十五六歳でないと世間人に戻れないと言って彼笑う。なかなか元気なのに安心する。
東中野の病院へ三時過に着く。貞子元気にて明日または明後日退院する予定だという。院長に逢う。この頃の知識人がみなそうであるように、爆撃の予想に、恐怖感をいだいていて、「アリューシャンの方からも、また五十隻もの航空母艦からも飛び立った敵機が東方からよせて来、西の方は支那の敵基地からも寄せて来るようになれば、えらいことになりましょうなあ。しかし幸なことには、欧洲のように敵基地が近くはないから、何日も続けてのべつやって来る、という風にはならんでしょうなあ。」そんなことを酒井博士は言っている。
別れを告げ東中野駅へ来ると売店に朝日の夕刊が出ているので、何気なく買うと、「イタリア無条件降伏」と出ている。ぎくりとする。この降伏は三日に調印したのを八日に発表したものである。実にイタリア民族は駄目だという感と、いよいよこの戦争も大きな峠に来たが、ドイツはどうなるか、という危惧とがこもごも湧く。こういうことがあると、中立の諸国やドイツ、日本の勢力圏にある弱小民族の動揺が出て来てやりにくいことと思う。どうも報道というものはあてにならない。たとえばイタリア本土上陸は予定の事だから、イタリア人は英米が上陸してもあわてず落ちついて、むしろ敵をおびき寄せて叩こうとしている、というような報道文をいやというほど私たちは読まされているが、その後で、その当のイタリアが何でもなく降伏してしまうのだ。そういう記事の文飾に、文学者である私までが頼るのだから情けないことだが、どうしても味方に都合よく考えたいという衝動があるからだ。それでいて、それとは反対に、自分だけの直覚で戦争の事態を冷静に正確に読みとろうとする衝動もある。そちらの方が、たいていの場合あてになる。ことに欧洲戦についてはそうだ。そういう感じからすると、ドイツは正に危機であるにちがいない。敵国のイギリスですら一九四一年頃のドイツのロンドンや外の各地の大空爆を耐え忍んだのに、イタリアは、ミラノやローマが空襲されると、すぐにへこたれてしまった。大体イタリアはエチオピア戦で土民を相手に空爆などした時の外、戦争に勝ったということは、まるで無いのだ。アルバニアの国境ではギリシャ軍に破られて、辛うじてドイツのギリシャ侵入に救われ、アフリカでは、散々負けたのがドイツのロメル将軍の援助でどうにか戦った。しかし結局負けで、それ以後チュニジア、シチリア、カラブリア半島と、抵抗らしい抵抗もせずに逃げ出してばかりいた。民族もこういう温暖な地で、古い朽ちた文明の番人のような生活をするようになると芯から腐敗して来て、よしんばムッソリーニのような人物が出て組織を与えても立ち直ることは出来ぬものらしい。
開戦の翌年におけるフランスの脱落と五年目におけるイタリアの脱落とは、この戦争の大事件だが、共にそれはラテン民族である。
在伊のドイツ軍の運命はどうなるか。そして北伊が英米の手に落ちた時は、ドイツの中心が敵の手の届くような所に置かれることになるが、それをドイツは、どうさばくか。この機会に東方のソ聯は一層攻勢に力を入れ、退きつつある独軍を深く追うであろうし、英米は勢に乗じて、フランスの南部か西部にでも上陸するかも知れない。ドイツにとっての危機、ひいては日本にとっても重大な形勢が生れる危険があるわけだ。
今日など歩きながら、生きて日本の国土にいればそれが我々の幸福なので、私などの家や土地のことなど、どうなっても大差ない、という気持がし、かえって覚悟がきまったような感じである。
省線渋谷から赤坂に出、バター三ポンドとチーズ二ポンドを買う。切符では、もうバター七ポンドとチーズ六ポンド取れるのだが、この春に出してもらった切符で古いもの故、これぐらいで勘弁してくれとの話。納得し、それをまた新宿の雪印クリーム配給所の荒川氏に話し、冷蔵庫にあずかってもらう。
夕食はうどんに家の畑の大根葉のひたしもの。礼、頭が痛いとて早寝す。
九月十日 曇
朝刊はイタリア降服のことで埋められている。各方面からイタリア非難の声と、日独不敗の覚悟とが、改めて述べられている。むしろ独逸の弱点を取り去ったと言うべきか。朝一時間あまり、大根畑と里芋畑の草をとり、新しく二畦起して、草を埋める。そのあと、安川忠治著「血煙」の索引を作りはじめる。それをしながら、この評論集より前に、書きかけの「幼年時代」を早く書いた方がいいのではないかという考が浮んで来る。それが順序だという気持。
十時頃、今日は朝六度七分あったという礼を休ませているので留守番にして、(菊は買物に外出)病院に出かけ、ついでに南瓜三つを鞄に入れ、大島豊氏のところへ持って行く。在宅にて、本の話、戦争の話など。葡萄や梨が出、なかなか物が豊富らしいと考える。大島氏などが加わっている言論報国会の例会に軍部の人が来て言ったところによると、独ソ戦では、戦力の比は、ソ聯二に対して独は一で、どうしても独は押されている由。またその無限の武器補充力は謎だという。戦場には腕が片方の負傷兵まで出て戦っているという。しかし南太平洋では、我軍は八倍の敵と戦っている。八倍はやっぱり無理で、あの方面は多分後退しなければならないが来年になったら、こちらの生産増加によって、一対五位の兵力にして、断然こちらの一によって敵の五を破る自信があると話したとのこと。ソ聯がドイツを破ったのに日本がアメリカを破れないという法はない、と聞いていて、本当だ、日本は大丈夫だと思う。
十二時頃病院に行く。退院とのことで、新宿へ自動車を捜しに出る。昼になり、寿司屋の前に二十分ほど立って行列に加わり、寿司を食う。米はうどんが半分まざったもの。それに海苔巻少しと、あとは貧相な貝をのせたものだけ。一人前五十六銭。二人前をとったが不味でのどに入らぬ。燃料不足で茶のおかわりは出来ぬと書いてある。この頃腸チフスが流行している由で、一層気持悪い。自動車はなかなか無い。やっと一台見つけ(勿論コーライトを焚いたもの)公定では駄目なりと分っているので、相場はどれぐらいかと聞くと、新宿から烏山までは普通十円でしょうね、という。もう二三円出すからとて約束成り、東中野に寄り、院長に挨拶して、トランクと風呂敷をのせ、三四十分かかって家の近くの県道まで来る。十三円払う。
礼、夕方に胸と背中痛いという。熱は一時は六度九分、夕方四時六度七分。多少肋膜の気あるのではないか、しばらく休ませることにする。
夜加持夫人が来て、女では防空群長は無理だから代ってくれという。私は、去年からの病状を話して、セファランチンのことなどを言い、とても群長はつとまらないが、隊員としてなら加わりたい。それも身体の調子を見て、とて辞退す。夕刊にムッソリーニに対するクーデタのことが出ている。また北伊でファシスト政権が成立したというが、滋の話によると、今日午後のラジオでは、ムッソリーニは某所でバドリオ政権に逮捕された由。英米軍はナポリに上陸し、独軍と戦っているという。イタリアの内情は混沌としているらしく、はっきりしたことは、少しも分らない。
九月十一日 曇 小雨 ほぼ良
久しぶりで、貞子が家にいるので、セファランチンに出かける。瀬沼君に逢う。元気だが相変らず血痰あるという。注射、実の薬、礼と滋の薬をもらい、皆で十五円ほどかかる。イタリアにおける独軍の活躍新聞記事が出ている。軍艦を数隻沈めたという。フランスの時にもそうであったが、軍艦の帰趨がこういう時に問題となるのである。鳥取市に地震。一万戸のうち四千戸全壊というから大地震である。ふだんならば、新聞全紙を埋める大事件だが、極く目立たぬようにしか扱われぬ。午後二時帰る。
ドイツ軍はローマを占領したという。中部北部では、ドイツ軍は機敏に立ちまわったようだ。この戦争当初のような電撃ぶりだ。イタリア国王やムッソリーニはどうしたのか。
礼が休んでいるのに、滋も風邪気味だとて、七度二三分あり、声がかれている。貞子も身体がしっかりしないのか、不機嫌である。夕食に言い合いして、子供ら心配そうな顔をしている。いやなことである。
夕刊によると、独軍はローマを占領、それ以北のイタリアは独軍の手に帰し、バドリオ新首相は逃亡したらしい。しかしイタリア皇帝の消息分らぬ。また久しぶりに、ヒットラーがラジオで演説し、その内容のっている。主としてイタリアの裏切りについてである。シチリアでも戦っていたのは、ほとんど独軍のみであったという。こうしてイタリアは二三日のうちに消失してしまったも同様である。
鳥取市では一万戸の内、半数近い四千戸が全壊、外に半壊多く、焼失二百戸(これは割に少い)死者千余というから、大地震である。空襲と同様である。
九月十二日 曇(日)ひどい下痢
寝不足にて気分悪し。午前十一時頃百田宗治氏来る。下の八畳に通して話す。代田辺まで来たので寄ったという。この春二人で埼玉県の峰岸君宅へ旅行して以来のことで、色々の話。市内に下駄がないので、この烏山の駅のそばで聞いたら、筋が七本ぐらい通っている柾で、あまりよくない緒の立ったもので十三円とのこと。ちゃんとした柾の下駄は三十円ぐらいが相場だが、ほとんど無いので、その十三円のものを買って帰るという。下着類に困っていて、最近越後の長岡辺まで買いに行くという話など。ビール一本を出し、昼食がわりに玉蜀黍を出す。私はほとんど絶食してワカマツを飲んでいる。午後田居尚君、子供と二人、自転車で来る。百田氏、田居君と久しぶりの話。午後は貞子起きて来て、割に元気にて客の相手をしている。夜早寝。ムッソリーニがドイツの落下傘部隊に救出されたという。劇的なことばかり毎日連続している。
瀬沼君は来ず。「日本」と「日本女性」から計百五十円ほど小切手来る。家に目下金が五百円ほどあるわけ。そのうち、野田生へ二百円ほど送ろうと思う。外に新築の財産取得税三百円ほど、今年の所得税の第一回六十円、裏の炊事小屋の分百円、生命保険料二百円等々の入費予定があり、やっぱり金が足らない。
九月十三日 晴 やや良
この日午後実業日本社の倉崎君「爾霊山」の原稿のこと催促に来る。色々な戦争の話をし、この頃は市内は空襲の予想ばかりを皆が話し合っているが、ここなら大丈夫ですねと笑う。私の作品十月末頃に半分ほど出来る予定と言う。彼の社ではこの頃小説類の出版の約束解約したものが多い由。また雑誌の統合ある由。
今夜家で常会とのこと。朝から軒燈を玄関の内側につけ代えたり、下の八畳に洋画二枚ほど飾ったり、茶の間に父の写真をついでに飾ったりする。貞子も元気で、障子を張ったり、花をいけたりして忙がしそうである。今月は配給当番で菊も、麦粒や色々なものを配ったり取りに行ったりして多忙である。私は昨日便所の戸車がいけなくて、とても外れやすいので取りかえた。昔のいい車の取っておきをつけ、甚だ滑りよくなった。
夕方から電車で新宿の一駅手前の新町まで行き、蚊やりを焚く台の外、気の利いた湯呑茶碗十個八円五十銭にて買う。もとならば一個二十銭ぐらいのものであろう。その外予備の七輪と目皿、それから偶然金物屋にあった風呂竈の目皿の鉄のを二円十銭で買う。これは前から予備を一つほしいと思っていたものであった。こんなことで大体自家の生活必需品は一とおり揃ったような感じだ。まだラジオが古いのこわれたままで、これは買わねばならぬものである。
七時から常会。組長と花村氏と私の外細君連みな集る。慰問袋の件、防空団の群長補助員三名の件等。私も補助員になるよう言われたが、今度からはじめて出るのだから平団員ということにしてもらう。貞子仕事に気がまぎれたせいか、落付いて来て、ほっとする。
ムッソリーニ救助の報やバドリオの細工や、バドリオ政権と国王がシチリアのパレルモへ逃げ出したことや諸報紛々である。
九月十四日 豪雨後名月
食事に注意していて、腹はほぼよい。ワカマツは実に私に利く。
北千島に再び敵機来た由。我軍はその半数を撃墜した。次第に本土の周辺の騒々しさ厳しい調子となって来る。近いうちに南鳥島か大鳥島辺がまた敵に狙われるかも知れぬ。
評論集の中の「明治の戦記文学」を「日露戦記の研究」と限定し、「兵車行」の批評より始める。夕方までに五枚目。この調子だと、原文を引用しながら早く書けるように思う。これを百五十枚ほど書き、つづけて、昨年からの時評的な文章をまとめて百枚位にし、出来るだけ早くこれを書き上げること。そして「爾霊山」か「明治の末」にすぐ取りかかりたい。
滋四時六度八分、礼七度二分。礼の方は風邪気味でもなく元気でいてのこと故、肋膜気味か。
九月十五日 晴 この頃毎朝霧深し 雷鳴無くなり、秋空らしくなる。
[#1字下げ]腹ほぼよし。滋(四時)六度七分、礼七度二分。
午前中仕事、二枚しか進まぬ。午後三時頃田原忠武君と北原〔アキ〕君来る。共に今度の文学報国会の会紙「文学報国」の編輯員である。北原君は数日前の卒業式で芸術科を卒業した由。年は私ぐらいであろうか。田原君は以前より元気になり、お喋りをする。近いうち同紙に文芸時評を書けとの話、あまり気が進まないが、出来ればと引き受ける。
二人の帰りかけに大工長谷川君、薪を一把持って来てくれる。酒との交換である。長谷川君の戻った後へ、この春迄隣家大島家を作っていた大工が寄る。かねて裏の炊事場の屋根がけを頼んでおいたのである。寒くならぬうちに、やりましょう、と模様を見て帰る。
滋はよいようだが、礼は相変らず熱ひかず。しかし元気で騒ぐので困る。昨日今日、暑さはげしく、夏のようである。
伊太利のムッソリーニ救出や、サレルノにおいての独軍の米軍撃退等にて新聞は賑やかである。第一回の都会議員の選挙は昨日発表されたが、旧市議、旧府議等多いようで革新的気分に乏しいということ。鳥取の震災の報、色々出ている。下痢はほぼ直り、便はよいが、相かわらず食物は粕を吐き出し、油を避けて、ビオフェルミンを用いている。
読売に川崎特派員のローマ脱出記がのっている。当時の模様を伝えて面白い。ムッソリーニ失脚はほんの十日ほど前のように思ったが、すでに六十日にもなり、その間ムッソリーニは絶えずあちこちと場所を変えて監禁されていたという。イタリアの戦線はサレルノ附近が主で、そこで破れた米軍や英軍を、南方から進む英米軍が救い得るかどうかということが問題なのであるらしい。今後イタリアはどうなるか、ムッソリーニは何をなし得るか、ほとんど見当がつかない。しかしドイツの戦力はまだ相当強力なことだけは明かである。
九月十六日 曇 雷雨模様 良
[#1字下げ]礼七度一分、滋六度五分。
午前中「兵車行」評執筆。十二枚目より。
午後一時から、隣組の防空演習に初めて出る。かねて今の群長の加持夫人から群長を代ってくれと言われていたのだが、病後故平団員にしてもらっているのだ。梯子訓練とバケツ操作。他はみな女ばかり。夕方から夜にかけ原稿を書きつづけ、九時に、十八枚目にて書き上げる。
那須辰造君より来書。十和田操君の歓迎会は十九日二時から片瀬の柏屋旅館で句会として開く由。
私の「少年工員」の載っている「日本」到着す。
夜は涼しく楽である。満洲の実あて、セファランチンの小包を作る。
新聞によると牛込に初めてデング熱患者が六名発生した由。こういう南方の病気が追々と入って来るのであろう。イタリアのナポリ南方のサレルノで独軍は米英軍を水際に追いかえし包囲したという。大損害を与えたようだが、敵もまた増援しているというから、どういう結果になるか。
九月十七日 曇 良
[#1字下げ]礼、七度。滋は今日から学校。朝十時迄応接間の本を片附けて、分類して包む。
外出。代田橋より鍋屋横町にて下車、歯科医に寄るが、急ぐのでやめ、東京パンにて昼食。それから渋谷にて例の古本屋に寄る。古本屋を捜して歩くことも、次第に気にかかって、のんびり出来なくなりそうである。空襲があったらどうするかというような話。
ソロモン方面での激戦は相かわらず続いているが、ブインでは六十機敵機を落して我方は五機の損害である。日本のいい戦闘機が行っているにちがいない。この頃家の上空でも首が細くて長い速力の素晴らしい戦闘機がよく飛んでいる。ああいうのが多く行っているにちがいない。サレルノの激戦では、米軍は半ば逃げ出し、残ったのが水際に頑張って来援軍を待っているらしい。
九月十八日 曇 夜入浴
[#1字下げ]礼、四時、六度九分。
朝応接間の本を全部包み終える。小説本と洋書を、引越の時大分包んだのだが、やっぱり今になってもこの二種が一番多い。それを片づけ、私の大テーブルと椅子を滋用に、今迄の滋のテーブルと椅子を礼用にと並べて、この室を子供の勉強室にする。寝台は階下八畳にのべておくことにする。家中が片づいたようで、心持よい。貞子一昨日頃から、えらい勢で家の外や中を片附けている。今日は、布の破れた籐椅子を張りかえて綺麗にした。貞子は相かわらず肥れないでいるが、全く健康者の気持らしい。これが本当なら結構なことだ。貞子が元気だと家中が明るくなる。
午後一時から防空演習。四時になり、隣の第三群の江口君宅へ焼夷弾落下の想定で、この群からも六七人応援に行く。皆なかなか勇敢に水をかけている。私は見張をする。夕方町会事む所まで、講評を聞きに皆で行く。花村夫人の話によると、この頃千葉県へ甘藷を買い出しに行ったが、なかなか売らず、やっと知り合いの家から一貫目一円五十銭で二貫目ほど買って来たという。(公定は五十銭ぐらいか。)この附近でも一貫目二円ぐらいだという話である。貞子が家の馬鈴薯を整理したところ、無疵で保存にたえるものは、石油箱に一杯しか無く、あとは畑に少々残っているのと、日常用のものを樽に少し入れてあるきりという。玉蜀黍は終りになったから、いよいよ甘藷のみがあてである。これは貞子がさぐって見たところ、細い苗を使った方でも片手にのせて一杯ぐらいのが二本はついているというから、かなりの出来であろう。苗数は二百二十五本だから一二ケ月の補食になる分はあるのであろう。
九月十九日(日)曇リ 雨勝 今日から麻服をやめ、灰のポーラーにする。
十和田操君の歓迎句会があるので、小林北一郎氏の見舞にも寄ろうと杉沢家に朝九時頃立寄ったが、横山村へ行っているとて留守であった。小田急にて藤沢下車。途中日曜で買い出しに行く連中若干あったが、しかしあまり混むという程ではない。駅々には買い出しは利敵だ、というようなポスターが貼ってある。藤沢から辻堂で下りるべきを茅ケ崎まで行ってしまい、時間の都合悪くなったので、小林家へ寄るのは見合せて、鵠沼海岸の柏屋旅館へ行く。十和田、城、福田、那須君など来ている。遅れて、八十島、高祖、岩佐の諸君が来、句会となる。なごやかで、こういう時局に珍しく楽しい。夕食には、刺身、煮魚、野菜煮、フライ等、よい魚を揃えて分量も多く、ビール五本、ウイスキイ(但しA・B・Cというもの)三本など、豊富なり。仲間の某俳人の親戚なりとて、親切にしてくれたらしい。それで会費は六円。安価であり、久しぶりの御馳走であった。私は途中で下痢止を買い、それを用いながら食べた。夜九時閉会。家へは十一時着。幸い雨の間を歩いて降られなかった。
明日航空記念日だとて、新型の戦闘機(鍾馗)爆撃機(呑龍)偵察機(新司令部)の発表があった。十和田君は南方にこの頃上昇力の素晴らしい戦闘機が来たと言っていたが、それはこの鍾馗であろう。
独軍は東部戦線では、遂にコーカサスにたった一つ残っていた橋頭堡ノボロシースク軍港からケルチ半島へと撤退し、またドンバス方面ではブリアンスクを撤退した、と発表。損害は少いようだが、一体どこまで撤退するのであろうか。欧洲の大爆撃は今の所中休みの形で、パリなどが時に空爆されている。独軍の防禦が十分になったからであろうか。サレルノの戦争はまだ結末に至らないようだ。福田君に聞くと、日比野士朗、里村欣三、柴田賢次郎君等は北千島、占守方面へ徴用されて従軍しているという。
今日行きの小田急線の中で、隣に坐った工場主らしい男は連れに、空爆の予想からこの頃自家の家財を半分田舎へ送ったが、その送賃は台車一台四十円で、運送屋に頼んだ荷造賃が三百六十円(闇値の由)で合せて四百円かかった、などと話していた。そういうことをしている人が今多いのであろうと思う。
九月二十日 曇 小雨
午前中仕事三枚。(「血烟」評)午後睡くなり、午睡四時迄。そのあと近所の翻訳家江口清君の所へ遊びに行く。鶏舎など見せてもらう。上って話をしている所へ、石橋君が来たとて迎えが来る。石橋君武者小路実篤を訪れた帰りとて、四方山の話。藤村の死後遺族が財産について争いがあるという話。それから近く徴用が大がかりにあり、一区から一万人ずつ出ることになるだろうという話。(そう言えば江口君も、ぼんやり家にいると世間体が悪いし、徴用されるかも知れぬから、文学報国会へ入りたいということ。また昨日福田君の話では、今年末に、宿屋や酒場や食堂などの給仕などの男性はすべて転業させて女子で補うこと、また女学校を出たばかりの年頃の女性は報国隊という名目で一年または二年間徴用することに決定したなど言っていた。これは翼賛会の方の話だから事実であろう。)また石橋君は、この頃金持は、東京の十里四方は空爆されて焼野原になるというので、金持はみな田舎に逃げ出すことばかり考えている。これは実にけしからんと言っている。到る処に、この頃は空襲の話がそういう風に行われているらしい。また作家たちがまた南方に大勢出かけるという。これは朝日、毎日、読売等の新聞社の報道員という形だという。近くビルマ国境で大作戦が行われる前提であろう。大東亜戦の始まる前のような空気になっているようだ。今日は航空記念日で、読売に南方の航空戦績の表が出ているので切り抜いた。
九州、四国、中国地方は颱風に襲われ、各線の汽車は不通となり、宮崎県など電信電話不通で様子が分らないという。同方面は今年二度目の颱風禍である。関東辺も昨日頃から天候極めて不安定で晴れたと思えばすぐ雨になったり、雲足が早い。颱風の周辺はいつもこういう天候である。米作の損害は大きいことであろう。関東は幸いに、昨年も今年も颱風には襲われずに済んでいる。鳥取など震害に次いでの風害で、気の毒なことである。
夜十時迄に、原稿六枚目。
米国のウォール街では戦争の終局が近いという観測から株価が低迷していたが、戦争の前途遼遠ということが分って、また株価が上ったという。日本では株式市場はこの頃すっかり低迷続きで、当分続きそうだという。これが商業者の戦争観であろう。とにかく敵が間もなく勝つにきまっていると考えているのは事実だ。
独軍はサレルノから撤退し、その北隣のナポリに拠ることになった。英米の援軍がサレルノに包囲された米軍を救援したためである。
昨日頃から家ダニが出て、はびこり、閉口している。階下にいる子供たちは、前からやられていたが、私はこれまでほとんど被害なかったが、今日一日で大分刺され、六七匹もとった。
九月二十一日 雨 終日北強風吹き、寒し。やや良
敵は我占領地ギルバート諸島に来襲。機数の多いのが近時の空襲の特徴である。独軍サルヂニア島から撤退したと発表。これは英米の邪魔を受けなかったらしいから、自主的な戦線縮小である。ちょっと解しかねる作戦だ。敵に空軍の基地を与えるようなものであろうに。
私も兵役が出来ることになった。四十歳までの国民兵を召集し得ることに規則改正になったのだ。一昨年からか、昭和六年以降の第二国民兵の再検査をして、最近はそういう人で出征する者も多かったが、今度はそれ以前にも遡ったのである。私は、明後年一月には満四十歳になるので、それまで一年半ほどの間、兵役義務があるわけだ。身体に本当に自信があれば、とそれにつけても弱いことが省られ、心細いことと思う。
午後、八畳の東角の落花生に土をかぶせ、一時頃外出、自転車屋に自転車を持って行って、チューブを取りかえてほしいのだがと相談すると(田居君の方は私から断ったのだ)この頃は需要者から申し出て配給を受けるようになっているので明年正月頃になるだろうとの話。とりあえず修繕を依頼し、車をおく。郵便局で五十円の小為替を四枚作る。また小為替を五円作って、父を失った野長瀬正夫君あての手紙に入れる。新宿駅に出、住友銀行で大陸講談社の小切手二枚で百五十四円受取る。伊勢丹でスカボールザルベ二個買う。バスで鍋屋横町下車、高橋歯科院で、先日抜けた金歯をはめてもらう。近所の文具店で罫紙二百枚(半ピラ)を二円で買い、筆三本を一円五十銭で買う。金物屋に寄り、大きな斧を八円五十銭、水道の蛇口を二円八十銭、古本屋で小笠原長生の「撃滅」(日露海戦記)を一円八十銭、また細工用小刀を一円等買物し、バスで代田橋に出、理髪す。
夕方六時帰宅。そこへ帝国教育会出版部の児玉二郎君、「雪国の太郎」の校正持って来る。定価一円五十銭位で五千部印刷するという。夜仕事出来ず。午前中に三枚ほどしただけ。児玉君、印税の残り二百五十円必要ならばすぐ送るというので、来月の初め頃ほしいから取りに行くと言う。留守に松尾一光君立ち寄った由。
買物に町を歩けば、いよいよ物がない様子が目立って来た。新宿の大食料品店三福は廃業の紙を貼っている。文具店に、紙類はほとんど見えず、糊は容器引換のはかり売。今年の春頃までは品質は悪くても沢山出ていたのに、書翰箋など全くなし。僅かにあった罫紙が紙は少しよいにしても一枚一銭とは高価極る。菊が昼間烏山の下駄屋へ行ったら、その下駄屋では配給が年に五十足しかなくなったから、もう下駄屋をやめたいと言っていた由。
アイルランドのダブリンでは、まだ抗英をやめず、ヴィクトリア女王像を撤去したという。英国の方針もここでは特別なのであろうが、どこまでもやりつづけるアイルランド人は面白い。
オリザニンの発見者鈴木梅太郎博士昨日死し、詩人児玉花外また昨日瀧の川の養老院で死んだという。詩人のみ実に多く死ぬが、小説家は死なぬ。
南太平洋では、しきりに我方も攻勢に出て、ガダルカナル島やニュージョージアのムンダやニューギニア等の敵陣を爆撃している。ビルマ方面の戦争の予想記事が次第に多くなった。
九月二十二日 晴 昨夜北強風にて、夜寒く、丹前の上に毛布を重ねる。便やや良 少々風気味 夕方オキシフルうがい三度
ようやく天候恢復し、秋空となり、富士がはっきり見える。雪はなく、黒い姿である。支那の航空戦増々激しくなる。西日本空襲をこうして我方は防ぎ止めているのだ。
午前中「雪国の太郎」を校正し、「あとがき」を書く。
午後身体だるく、風邪気味のようで何もしたくない。菊が外出したので、烏山で見ておいた遮蔽幕を買わせ、まだ取りつけていなかった、二階の階段上の窓、応接間の窓、不完全であった湯殿の窓などに取りつける。
原稿書かず。午後自転車屋へ行って見たが、まだパンクを直していない。夕方滋の話では、杉沢が自転車を取りに来いと言っていたと健ちゃんが言っていたが、滋は忘れて乗って来なかったという。とにかく明日あたりから、どちらかが乗れることになろう。
自分たち古い国民兵も兵役関係が生じたが、自分はもう一年半ほどの期間で満四十歳になり、それは消える。それまでの間に応召することはほとんど無いようにも思うが、しかし召集があることとして覚悟をしなければならぬ。今度からの徴用はかなり大組織のようだ。今日午後東条首相はその件で演説するという。
英、独、ソ等のように本当の大がかりの徴用をしなくては、とてもこの戦争はやって行けるものでない。日本の国内がこんなに労力の余裕があるのは、組織がまだ出来ていないからだ。しかし朝刊によると、ある職業への男子の就業禁止と女子徴用とが大がかりにこれから行われることに閣議決し、首相の演説もその事についてであるという。どうにか組織が出来て来たのであろう。私なども、文学報国会員として徴用されるならば、ある程度の待遇をされるであろうが、単なる国民として徴用されるようなことになると、どういうことになるか分らぬ。これまでの所、徴用は小学卒業者か中等学校卒業者、然らざる場合には、特殊技術者であった。しかし今度大きな組織が出来るとすれば、そういう制限も、年齢(四十五歳迄というが、実際は三十五歳頃までが多かった)の制限も変ることであろう。
考えて見れば、私の生活はあまり静かにすぎる。しかし、私の仕事のためには、この静かな生活が必要なのだし、また今の健康状態では、毎日の出勤は出来そうもない。だが、きびしい戦争の現実は自分のこの静かな生活をもう長くはゆるしておかないという予感がする。
今の私の家の生活には、三つの方角に弱所がある。一つは経済的に文筆生活が行きづまる心配、一つは空襲の心配(しかしこれはほぼ心配するほどのことはこの土地には無いと思う。)もう一つは徴用又は召集によって、家の経済が保てなくなる心配である。目下のところ、第一のものが、いつも心に重くかぶさっている。貞子に義父あて二百円送らせたが、義父からと田居君からの借金の外に京王電車への年二千余円の年賦支払いがもっとも大きな負担となっているのだ。
回覧板にて、町会事務所の阪川牧場で、今夜から十日間、毎夜七時から九時迄銃剣術の稽古があるから、男も女も老人も子供も出るように、と言って来る。世田谷区内の在郷軍人分会の主催らしい。家では行かないことにし、加持夫人が夕方誘いに来たが断った。こんなことは、行きすぎである。
独軍は、いよいよロシア軍に対して弱化したようだ。スモレンスクが包囲されそうになっている。やがてここからも撤退するのであろう。それに加えるに、ソ聯の得意とする冬期戦はこれからである。またチャーチルは議会の演説で、イタリア戦線は第三戦線と言うべきもので、第二戦線は別であると言った由。或は近くフランス西岸への上陸戦を始めるのではないだろうか。ドイツはそれに耐えられるであろうか。心配なことである。
菊鍋屋横町からシジミ貝を買って来て、久しぶりに食べる。小さいがうまい。この頃魚の配給少く、週一度位。
九月二十三日 晴 良便
朝刊に国内態勢強化策が発表された。女子で代り得る十七種目の職業への男子の就業禁止と、法文科系統の大学の徴兵猶予が無くなったのと、官庁や官立工場等の地方疏散とがその主目のようである。
女子の就業は徴用とせず、通勤を主にして、勧誘の形をとるようである。
文部省の説明によると、法文科系の大学は事実上、業を廃することになるらしい。従って高等学校や予科も理科系統に変更されるのであろう。これは大変革にちがいない。専門学校は残るが、徴兵猶予は無くなる。また大学の併合整理も行うと言明している。たとえば商科大学はやめるにしてもその予科はどうなるか。教員の養成機関は文科系統でも残置するというが、そういう形ででも商科大学の実体を残存させるだろうか。これはこの戦争が長いと思われるだけに大問題となるであろう。
午前中東側の畑に、遅播き大根を五畦播く。貞子や菊も出て手伝う。畑に出ても暑くなく、快適の気候である。礼も元気で外に出るが、顔色蒼く、本当でない。午後六度八分だという。そこへ桃野組長来る。生菓子の配給とて、菊電車にて成城学園まで取りに行く。羊カンにカステラ風の所が少しついた甘い菓子が一人一個ずつである。
原稿に向い、二枚ほど「血烟」評を書いたところへ、山下均君来る。芸術科をこの九月で卒業して、日大の学部の国文科を先日受験したが、駄目らしいと言う。君は新聞を読まないのか、大学の文科はみな無くなったのだよ、と言うと、この二三日読んでいない、と言い、新聞を見せると驚いている。山下君は身体が悪いので、兵役や徴用のことを考えない為、のん気なのである。夕方まで戦争についての雑談をする。戦争の話も「ここだけの話だが」という内緒話はたいていあてにならず、また将来の見とおしは今のようでは誰にも分らぬ。共通なことはドイツが参って来たが、どこまでドイツが持ちこたえるかを気にする点だけである。山下君から聞いた噂では東条首相が湘南地方かに大変立派な別荘を作ったというので、それがこの頃専ら巷の噂だそうである。しかし私は初耳で知らない。山下君アパートで自炊しているが野菜が配給では不足で、近くの室にいる細君たちが買い出しに行って持って来たのを分けてもらうので大体間に合っている由。夕方滋が中野の杉沢の家から自転車に乗って薪を(大工の所から)一束持って来る。この車は乗り心地よい由。
私の所で銃剣術の稽古に出ないとて、評判が悪いという。菊は出たがっているのである。関西の水害は小さくしか報道されないが死者が各県にわたって多いのから見て、大水害である。稲作はひどい打撃を受けているにちがいない。困ったことである。飢饉的なこととなれば、全国的な食糧不安だ。
夕刊に柴田賢次郎君の北千島の敵機来襲の報道文が出ている。さすがになかなかよく書けていると思う。
九月二十四日 晴(秋季皇霊祭)
[#1字下げ]この頃急に涼しく、夜は掛け蒲団に丹前を重ねている。少し涼しすぎる。それでいて蚊帳もまだとることが出来ぬ。昼はシャツと職工服。
貞子が八百屋に、前から頼んでいた馬鈴薯のことを、今日また話したところ、八百屋では陸稲と馬鈴薯を作ったところ、四畝以上は供出することになり、どちらかを出さねばならない。それで陸稲を取っておき、馬鈴薯を供出する為に、よその家から買った。公定は三円五十銭(一俵)だが、それに十円足して払った。今の所、一俵の値は二十円迄はしないが、それに近い値らしいから、それでよければ、どこかへ話して、そのうちに買ってくれる、と言った由。ひどい闇値である。私の所など、畑をもっと丹念にやれば家の代用食の分は十分出来るのだから、来年は気をつけて、時期を失わぬようにすると考える。それから、先ず夏に馬鈴薯、次が玉蜀黍、次が南瓜、次が甘藷、という順で代用食を食べるようになるが、私の所では、南瓜を作らなかったので、今頃不足がちで困っている。来年は、二十本ある椎の木に一本ずつ南瓜を這い上らせて作ろうと家の者で話し合う。
午前中、礼の先生原田氏、それから乾直恵君が来る。
関西の水害はいよいよ、大きな被害だということが分って来た。平時ならば損害や農作物の状況など詳しく出るのであろうが、今は小さく死者、行方不明者等だけが出るのみだ。関西の凶作は動かせないことになった。
夜までかかって、「剣と筆」の索引を作り終える。昨夜「血烟」評を書き終えた。十六枚ほどである。
九月二十五日(土)晴
[#1字下げ]この頃涼しくなり、下痢止を使わずに良便である。蚊帳二階は今夜から用いぬ。
セファランチン行。混雑している。瀬沼君に逢い、ムーランルージュを見ようと彼が言うのを、やめさせる。伊勢丹七階食堂で昼食のあと、うちへ連れて来る。彼は初めて来たのである。附近の林道を散歩すると、彼は、しきりにいい所だと言う。夕方白菜を摘んで彼の土産にし、夕食を共にす。貞子も朝から私と一緒に出て、山際家や渥美先生の所や松岡家などに寄り、五時頃戻る。松岡家からおこわをもらって来て、皆で夕食にそれを食う。菊は夕方五時頃から花村家の娘と梨を買いに、調布の方に行き、暗くなって七時頃戻って来る。一貫目二円ぐらいの梨(二十世紀)が五六円もしているというが、菊は二円五十銭ぐらいに安く買って来る。公定一円二十銭のは二円で買ったという。あちこち物を贈らねばならないので、入用なのである。一昨日買ったのは山際、松岡、原田家などへ少しずつ持って行ったのである。貞子、寒くなって身体の調子の崩れないうちに、滋が成蹊を受験する件で、成蹊の教師の所二軒ほど、梨を持って行きたいと言っている。菊に着物を買ってやることになっているが、菊は夏のうちにスカートやワンピースなどを買って、切符は十点ほど(足袋などの制限切符のみ)しか残っていず、それもこの頃落してしまったとて困っている。足袋やなどを家のもので心配してやらねばならないのだ。
九時頃瀬沼君を駅まで送って行く。菜の外に梨二個ほど持たせ、「戦争と平和」「先史時代への情熱」などを貸してやる。
九月二十六日(日)曇
敵はいよいよ積極的に出て来て、ニューギニアのニューブリテンとの海峡に面したフィンシハーヘンへ上陸して来た。先日上陸したホポイの更に東方で、ニューブリテン島の真向いである。ラエ方面の我軍はこの為めにニューブリテンから切断されることになる。巡洋艦三隻、駆逐艦二隻を我航空部隊は撃沈したが、これは大きな戦果ながら、敵にすれば単なる棄石に過ぎないのであろう。そんな小艦など、数ケ月もすれば、何隻もすぐに揃って製産出来るという目あてがあってのことなのだ。ソロモン方面のコロンバンガラ辺は我軍が頑強に抵抗しているので、敵はニューギニア沿岸沿いに北上して来る方針になったらしい。我軍はひょっとしたら、ニューブリテン、ソロモン方面から撤収することになるのではないか、とも危惧される。
そして次第に十月の雨期あけから、ビルマ方面に戦いが展開される気配あり、また敵はオーストラリア西北方からチモール島方面へも出て来そうである。敵の大東亜周辺の包囲力は次第に強められて来ている。その真中にあるフィリッピンではラウレルが大統領予定者として選任されたという。戦と共に日本の内面育成も急にはかどっているのだ。
ドイツ軍はスモレンスクを撤退した。南方ではドイツ軍はドニエプル河辺に退きつつあり、この河の線では停止してソ聯を押しかえすだろうという新聞の観測である。ロシアは絶望的に食糧不足で、米国からは主として食糧が送られていると米国側の通信が報じている。しかもウクライナは今年は奇蹟的な豊作で、ドイツの方の収穫は大変多いという。ドニエプル河の線に止まれず、若しドイツがキエフを失うようなことになれば、それこそ本当の危機だと言う外はない。しかしドイツの潜艦はこの春以来全く活躍をやめていたが、最近新鋭艦をそろえて大西洋で一挙に十二隻の駆逐艦を沈めたという。今度の潜艦戦が成功すれば、それはドイツの一威力となるであろう。新鋭艦は大型、高速だという。
九州方面の水害の実情は、次第に数字が増して来ている。大分県の分だけ今日の「東京」にやや細かく出ているが、ひどい損害であることは動かせぬ。汽車混雑を救うために、鉄道省では座席交替制を採用した。いい案だと思う。文科系の整理は専門学校にまで及ぶという。明治、法政、中央、専修等は廃合されるらしい。私の行っている芸術科も多分どこかたとえば日大の文科というような所へ統合されるにちがいない。学校へ行って見ないと分らないが、おそらく、文科系の各学校では文部省の細案が決定するまで、仕事が手につかぬという状態であろう。世の中で、これ以上安全な職業がないと考えられていた教師たちのことだから、妙な気持がすることであろう。私など学校の方は、もう縁のないものと考えねばならぬ。明朝二十一組からの出征見送が神社であり、菊が中野へ行って留守なので、その廻状を昼頃自転車で持ってまわる。杉沢から来た自転車は三日目になるのにチューブの空気が脱けず、新しいチューブはいいものだと思う。
午後川崎昇君の所の奎君自転車で来り、三時に友人たちが田居の宅に集るからと伝う。奎君滋たちと一時間ほど遊んで帰る。二時頃出がけに自転車屋に寄る。今日やっておくから明日あたり取りに来てくれとのこと。田居家へ三時半頃着く。会は中止でその旨昨日速達したとのこと。しかしそれが着いていないので、板谷真一君が来ている。田居君は小樽の店の残務をまかしておいた店員が応召したので、その事務の引きつぎに行くのだが、切符は今日買えず、明朝になったという。まあ集っただけで、と言っている所へ川崎君が来、四人でサントリイのウイスキイを一本飲む。時局談に文学談。田居、板谷、川崎三君ともやっぱり小説を書きたいという志を棄て切れないらしい。話がはずむ。
川崎君の話によると、この夏前に除隊して帰っていた今井田勲君は、またこの頃応召したという。実に応召が多い。我々のような四十前後の者にも兵役が延長になったのは、国内防衛兵が大量に必要になり、その為だという。そう言えば、この夏頃から三十歳以上の第二国民兵が多く応召しているのは、そういう方面へまわすのが目的であろう、などという話。
九時辞去、十時半帰宅す。
各大学の卒業式昨日あったとのこと。文科系統ではこれが最後の卒業式となるわけだ。
九月二十七日(月)雨 静かに降る冷たい秋雨 良便 寒し 黄シャツに職工服、その上にレンコートを着る。
ハンブルグ爆撃の詳報を兼ねて、対空防備心得の記事が各紙に出ている。それによると戸外の壕は屋根なしの方が出入に便だという。しかし、私はやっぱり屋根をつけたものを掘ろうと思う。昨日川崎君の話では、横穴は、深さを先ず十五尺(径三尺)に掘り、そこから人の背の高さに掘って行くといいとのこと。それも考えねばならぬ。
ムッソリーニの新政府成り、日本はその「イタリアファシスト共和政府」を今日正式に承認したという。
食糧は、配給では、どうしても足りない。私の所など滋の外はみな少食で二杯ずつしか食べないのだが、それでも正式配給のお米を御飯に炊くと、二食半ぐらいしかない。しかし今年の春から家の畑の馬鈴薯、峰岸君などからもらった麦粉、家の畑の玉蜀黍と順に食べるものがあったので、主食についてはほとんど闇のものを買わずに食って来た。これからは二百五十本ある甘藷で当分凌げるが、明春頃は、きっと主食の欠乏で苦労するだろう。しかし一般の家庭では、どうしても買い出しに行かなければ食えないのが実情である。それでいて買い出しについてはやかましく新聞などで言い、白眼視している。これは悪い形式主義で、自分の家の食べものを考えて見れば分ることなのだ。買い出しに出る家庭には同情しなければならないのが本当だ。金持は商人の方から闇で物を持ち込むので、そういう苦労もほとんどないのだ。
先日北千島を爆撃した米機十八機の内九台は我軍にうち墜されたが、七台はカムチャッカへ着陸して収容されたという。これは口惜しいことだ。ソ聯は米側なのだから、前線の人たちは切歯しているにちがいない。
午後午睡す。甚だ寒い。寒暖計では十九度だというが、雨のため手先など冷えて元気が出ない。ショーロホフの「静かなるドン」をはじめて読む。開巻先ずトルストイ系統の描写法が目立つ。何か参考になるかと思うが、読みつづける暇があるかどうか。
九月二十八日 晴 南風 暖くなる
朝日に畑中特派員のモスクワ情報が出ている。一昨年の独軍の進撃がモスクワ近郊までせまった時以来、外交団も政府もクイブシェフに移っていたが、先頃またモスクワに帰還した。そのモスクワの現状を次のように述べている。「モスクワの中心地には、依然として曾つてのドイツ軍の猛爆のあとを止めており、モスクワ大学は修理中であるが、商店の飾窓を護っていた砂嚢は取りのぞかれ、磨かれた硝子窓が見られ、家々の正面のペンキは新しく塗りかえられている。モスクワ大劇場はすでに爆撃による破損の修理を完了し、九月二十六日には蓋を開け、愛国的オペラ『イワン・スザーニン』を上演する予定である。その他の劇場も殆ど皆既に開場しており、戦前同様人々を魅惑している。モスクワ市民は現在皆苦しい仕事に従事し、忙しい日々を送って戦争遂行に最善を尽しているにも拘らず、夜毎うすら寒いモスクワの市街は娯楽を求める人々で埋められている。この頃殆んど毎夜モスクワでは大砲が、赤軍が逐次白ロシアやウクライナの都市を奪還してゆく功績に対する礼砲を発射している。ラジオニュースは通常午後七時から八時迄の間にあり、その頃は退出時刻なので、町の拡声機の周囲には多くの人が群がっている。また家々の窓や露台や舗道や公園では例の礼砲の美しい花火を人々が眺めている。モスクワは今前線から遠く、空襲の危険もなく、町の街燈は灯が入れられているが、戦前のように明るくはない。市内の通行は夜半以後はまだ許されていないが、人々は空襲に対しては安心しており、当局では空襲の警告を何時も発するのに困難を感じている程である。勝利に対する楽観的な気持は随所に漲っており、当局では機会ある毎に希望的観測によって戦争遂行の努力を減じないようにと警告している。人々は赤軍の勝利にも礼砲にも次第に馴れて来たようである。此の頃モスクワでは冬支度が始まり、市内では貨物自動車が住宅や事務所に燃料を運び、広場では集積された燃料のかたわらに、群集が配給を待っており、モスクワ市民はあらゆる手段をつくして寒気の襲来を防ぐに懸命である。秋も終りに近づき、地下鉄にはモスクワ市民が群がり、私有の菜園や郊外の集団農場で、穫れた馬鈴薯や野菜を積んだ貨車が見受けられる。これ等の菜園は当局の割りあてた人員によって夏の間にモスクワ市民が栽培したものである。当局は、以前モスクワへの旅行者の出入を禁止していたが、現在では外国人を含めたあらゆる人々がモスクワから百キロ以内の地を特別な許可なしに旅行することが出来る。これによって市場の予備の豊富なことも肯ける。政府の食糧配給機構の外に、最近新しく『営利』料理店が開かれ、そこで人々は食事をすることが出来るが、値段は市場よりも安い。最近モスクワ新聞の報ずるところによれば、大学や工業専門学校の志願者は定員の倍に達し、特に工業専門学校や医学校は民間の受けがよいと言われる。また紙の不足によって新しい出版が困難になり、書店は帝政時代の書物まで商って、ぼろい儲けをしている。書店には歴史、宗教、児童文学に関する書物や聖書が見られ、売行も盛である。また当局は系統的に歴史の講演を行い、帝政時代のスウォロフ将軍やジョン(?)王等が演題になっている。また市街の壁に貼られた新聞は熱心な読者達を惹きつけている。世界最大とも思われる尨大な戦利品の展覧会がこの夏から開かれている。モスクワ市民は一般に、最近の赤軍の勝利のために希望に満ちているが、何処か万事に神経質なところがあり、外観が整然としているにも拘らず、緊張した空気が市街からも市民からも感ぜられ、日々のニュースはソ聯にとり有利ではあるが、市民が戦争の終熄を願う気持は根強いものがある。」
これは、ソ聯当局の検閲を経たことが明かであり、出来るだけ明るい面のみを取り上げてはいるが、現在のモスクワの生活をかなりよく窺わせるに足る。こんな詳しい報道文が出たのは珍しいことである。それもソ聯の戦線が目下甚だ有利になっているので、検閲が楽になったせいであろう。
朝晴れているので、私と貞子とで、胡麻を切り取り、壁際に立てかけて乾かす。これなら一升も取れようか、と思うほど、よく出来ている。菊は、花村夫人とまた梨を買いに行く。三貫目ほど買い、阿部、清水等滋の入学の件で世話をかけている人たちに贈るのが目的だ。よそへ物を贈るのに苦労をする。食べるものも、着る物も買えないからである。目下街上で自由に買えるものは本と薬ぐらいのものである。それとて、よいものは無い。自転車屋へ行く。こないだから頼んである古い車は、前の方のチューブがどうしてももう修理出来ない由。後のみ直し三十銭というのに五十銭払い、押して帰る。そのあと、思いたって家の届出をするために、祖師谷大蔵駅近くの区役所派出所へ自転車で行ったが、ここでは受けつけず、松陰神社のそばの区役所まで行かねばならぬ由で戻って来る。「文学報国」一号と三号着く。私の所へは手落ちで来なかったのが、先日田原君がその原稿を頼みに来て分ったのだ。菊、梨を二貫目四円で買って来る。その中から半分以上もよそへやると言って別にすると、礼が涙を浮べて怒る。食う物に不足がちな時だから哀れになり、私の分や貞子の分も礼にやって納得させる。
うちの斜前にある建て直しの古家が、この頃二万円に売れたという。まだ窓や玄関のまわりなども出来ていない形だけの家である。土地は二十七円ぐらいで二百坪ほどだから六千円足らず、家は古くて二十五坪ほどである。四五日前からその家を石鹸水のようなもので洗う人間が五六人ほど来ている。そういう商売があるらしい。洗い屋とでもいうのであろうか。
今日烏山の町の糸屋で昼すぎから糸を売り出すとて、朝の八時から二十人も並んでいるという。切符はあっても買えないことが多いものなので、皆懸命なのである。こんなものは隣組配給にすべきものだ。うちでも仕方なく、菊が昼頃戻ると昼食後すぐ買いにやった。しかし買えなかった由。
官庁の疎開策の大綱決定し、発表された。地方の大きな都会にでも移るのであろうか。また博物館の重要美術品も地方に移されているという。空襲対策の進捗は、空襲がいよいよ身近に来たことを思わせる。
この頃また、何となく不安を覚える。こうしてペンをとって机に向っていていいか、それで生活が出来て行くか、またそれで戦時下に正しい仕事をしているか、という二つの反省からだ。しかし、やっぱり自分にはペンをとって書く外に生活はないし、今あわててあちこちと心が動くようでは覚悟が出来ていないのだ。どうしても「旅順」ものを書いて、それで最後まで頑張って行く外はない、と考えなおす。何とかしてこの評論集を早く切り上げ、「幼年時代」を残り半分書き、旅順を更に半分ほど書いて、年末頃、向うへ行き、その事実にぶつかって書かねばならぬ。歴史小説にして私小説風にこの作品を書くことに腹をきめる。
英軍はトルコの西岸伊領ドデカネーゼ島の北方のレロ島に上陸し、独軍の空爆を受けている。どうやらこの方角へ手をうつらしい。この前の大戦で勝利の鍵を得たのもギリシャ上陸戦であった。それを再びやろうとしているのではないか。記事は小さいが注目される。ドイツはクバン橋頭堡からすっかりクリミヤ半島へ退いたのだと思っていたら、まだ頑張っていたのだ。クバン方面のケルムイクからこの頃撤退したとのこと、夕刊に出ている。三井は出先の支店長が山西省で涜職事件を起し、軍にとっちめられている。三井は元来商人で三菱や住友のように工場をやっていないから戦時には弱いし、考えかたもいけないのだ、というのが、一昨日板谷君の言っていたことだが、どうもそういうところがあるのだろう。米軍は国内指導者に、今年こそ戦争は困難となるとか、ドイツや日本が崩壊するようなことはないとか、しきりに言い出している。イタリア崩壊の一時期が過ぎて見ると、ドイツや日本の強固なことが改めて分って来たのであろう。
夜、久しぶりで入浴す。夕方二十六度。再び夏のような暖かさである。しかしもう秋だ。滋、今日は勤労奉仕というので、鎌を持って行ったが、親指を深く切って来る。疲れたとて早く寝る。来年は中学受験だから身体をこわすのが何よりもいけないと何度も言っているのに、すぐ無理をするのである。二学期級長になったので、号令をかけるため、いつも声をからし、うがいさせているが、心配なことだ。
今日原稿一枚午後に書いただけ。
着いた「新創作」の随筆欄に野口冨士男、楢崎勤の二君がこの頃の本飢饉について書き、宮内寒弥君が、文学に志した友人の戦病死のことを書いている。共にこの頃の文学者生活の一面を示していて面白いので、〔ノートの〕裏表紙のところに貼りつける。
九月二十九日 細雨 良便 これでもう便の心配なし
軍需省設置、商工省、企画院廃止となり、更に来月二十五日から三日間臨時議会を召集するという。大変革であるが、こういう色々なこと、どうも一年か二年ずつ世論より遅れている感じがする。積極的な意味から言えば、国内の生産は今後は食糧と武器であり、消極的に言うと、商業というものの廃止である。軍需増産は、これでうまく行くようになるのだろう。北千島米機来襲の写真が各紙に出ている。港の状態や船のいる模様など写しているが、なかなか思い切った写真を出すようになったものと思う。もっともこれぐらいのことは、敵にはつとによく知れているだろうから、国民に知らせるのは当然でもある。
今日ふと考えたが、満洲行はこの評論集が出来たらすぐに決行することにする。そして出来れば、「幼年時代」もまとめ、それで若干の金をつくる。十月中頃か末頃までに準備を整え、広島まで母と同行し、その足で奉天の実の所に直行すれば、宿の心配もなしですもう。そこから更に手配してもらって旅順に行く。そして帰る。そうすれば、案外この旅行は簡単に費用もかからずに済むような気がする。そして「旅順」を書くのは、その後にする。その方が印象もはっきりしていて良いにちがいない。また季節も早いほど凌ぎやすいであろう。
正午頃思い立って、「世界に告ぐ」(ヤニングス主演のブーア戦映画)を見に本郷座へ行く。細雨の中を傘をさして出る。その前にあった文化映画「北の健兵」は十勝岳においての雪中陸軍部隊の活躍で、スキイが主である。美しい。胸がつまるような美しさだ。軍隊の本格的スキイをはじめて見るが、滑降はほとんどみな直滑降で、回転滑降はない。そういう精神なのであろう。その兵たちの懸命な躍進や列をなしての滑降を、かつて三四年前の冬友人の山内君と二人でのぼった十勝岳の火口のあたりから、頂上、それに上ホロカメットク山からの鋭い尾根など、わくわくするように切なくこたえる。そこで懸命に戦闘訓練している兵士たちが、なつかしく尊く思われ、涙が眼に浮ぶ。それに続いてのニュース映画には、海軍機関学校の卒業式が映された。卒業する若々しい少年のような候補生たちが、挙手の礼をしながら在校生の前をとおり、個人毎に挨拶する。その時、両方とも感情のせまるものがあるのだろう。見送る在校生の一人が涙を流しながら「しっかり頼むぞ」と言っているのが、クローズアップで出て来る。そして、マイクロフォンには、低いぼんやりした囁くような生徒たちの訣別の言葉が入っている。「さきに行ってるぞ」「しっかりたのむぞ」「元気でおれ」「あとから……」など、そのマイクロフォンの近くにいた学生たちの言葉が入った。これは何とも言えない感動を与える場面であった。私の隣に坐っていた帝大生も、近く征く自分の身にひき較べてらしく、鼻をかみ、泣いていた。私も涙が流れた。ああして若人たちは、立ち別れ、前線に行き、すぐに戦うのだ。戦って死ぬことしか、あの年若い軍人たちは考えていないのだ。これがその若人たちの顔であり言葉なのだ。何という尊い、清らかなものをこのフィルムは記録したことか。それに較べると、あらゆる外の映画の感銘など薄いものだと思った。果してそれに続いた「世界に告ぐ」は、そう悪い出来でもないのに、作りものの感が多く、ほとんど心を動かされなかった。日露戦争のことを書くのに参考になるかと思ったが、そういうことはなさそうだ。私も身体がもとのように自信があったら、ああいうスキイ部隊について行き報道員としてぐらいの仕事は出来るのに、としみじみ思う。今日は行きの京王電車と省線とつづいて一時間近く立っていたら、映画館に入ってから気持が少し悪くなり、椅子の上に胡坐して眼をつぶっていたら、次第に直った。大して腹をこわしもしなかったのに、夏のあいだに大分身体を弱めている。三四日前から食事毎にハリバ肝油球を二つずつ食べているが、これから身体を作らねばならぬ。もう一度あの十勝岳の斜面を、あんな直滑降でなくても回転しながらでも滑れたら、この上ない生き甲斐だと思う。スキイこそは、軍隊のものとしてこそ、もっとも美しく立派だと思う。読売にこの頃続いて出ているキスカ島撤退将士の談話、これまた切々として胸をうつもの多し。
夕刊に、敵国に諜報をした尾崎秀実等が死刑になると出ている。国民の汚辱だ。帰りにお茶の水駅のそばの眼鏡店で、今かけているのと同じ眼鏡を作らせる。十円七十銭。滋の分は、本人が来ないといけない由。客の大学生たちと、学校の文科系統廃止のことを店の主人が話し、「私の所も学生がいなくなれば痛手ですよ」と言っている。今日はアッツ島の山崎部隊の合同慰霊祭が札幌で行われ、全遺族がそこに集っている日だ。滋は今日弁当のオカズ入れと洋傘を失い、うんと叱られた。再び入手出来ぬものばかりで本当に困る。朝、広島の小松治郎一氏あて水害の見舞状を出す。また帝国教育会出版部あて「雪国の太郎」の校正を返す。「八光」の小説(十枚)の稿料五十円小切手にて届く。河出書房から「青春」の検印紙四十枚程来る。印刷して余計製本でもあったのであろう。野長瀬君から香奠の礼状来る。父君を失ったので東京を引き上げ、郷里で農業をすることも考えているという。
九月三十日 晴
自分の生活の目的は何か。素晴らしい庭園や座敷を作ることではない。立派な服を着ることでもない。美しい生きた作品を書くことだ。家や衣服に金を使い、そういう金のために骨を折ることは、無駄だと思う。それでいて今のような時は特に将来あまり家族をひどい目に逢わせぬために、住居や衣類や食物についての配慮をしなければならない。どのような人にとっても家族にある程度の生活を与えることは、義務となって来る。昨年以来私はそのことに随分心を使った。しかし、それが一とおり出来たこの頃は、それ以上のことは、自ら心の外に去ってしまった。私の心は、もう昨年の夏以来の家の件についての雑事から離れるべき時だ。事実また私の心は新しく出発しようとしている。私の家はこの隣組の中では一番構わないやり方である。垣根は伸び放題、畑の手入れは不十分、家の中の調度類は乱雑になっている。私がもっと几帳面に立ちまわれば、玄関前の庭は美しく手入れが届くであろうし、畑も垣根も綺麗になり、土手や庭に芝を植えることも何でもなく出来るだろう。しかし私は絶対必要なことだけして、あとはぼんやり坐ったり寝たり、外出したりしている。そうしないと、私の心は育たない。私はぼんやりしていないと心の集中が出来ず心の養いがとられないのだ。こないだ加持家へ行ったら、加持氏が梯子にのぼって庭の黄楊の青い小さな実をしきりに落し、「これがつくと葉の艶が出ないそうで」と言っている。それを聞いて、そんなにまでしなければ、庭を美しく出来ないものなら庭は怖るべきもので、人間の一番よい心くばりを必要とするものだと思った。私がそんなことをしたら、文学の仕事はエッセンスをそれに抜かれてしまうにちがいない。また同時に植物でも精力は一定のもので、美しさを作るには、その精力を一点に集中する外ないのだ、と改めて感じた。このことは畑をやっていても、肥料や雑草とりや、手入れや間引などについて、いつも感じることだ。それを感じる毎に芸術もそれと同じだと思い、集中できない自分の時間、注意、精力等のことを怖しく思う。仕事に集中しなければいけない。仕事が多すぎてはいけない。外のことには盲目にならなければいけない。そして時をかけ、材料を醗酵させ、無駄花を出さぬように、一つの仕事に精力の全部が開花するようにしなければいけない。今年の私は、その点駄目であった。少女小説、今度の評論集は、精力の喪失である。早くこの仕事を通りすぎることだ。
大学院制度が出来、国家の補助で研究員を置くことに決定したという。東京及び各地の官立綜合大学、外に東京商大、東京工大、東京文理大、私学では早稲田と慶応にその研究員を置くという。この外の地方の単科大学や東京の私立大学は除外されているわけだ。人数は一期二期(年二回選定の意味か)合せて七百五十人というから、相当の数である。学者の養成機関は官設としてはこれでいいので、外は実務家や技師を作れば大学の使命は果せるであろう。
明日からこの町内の祭だという。寄附二円十銭の外、酒の配給があれば一家二勺ずつ寄進することになっていたが、この月はまだ無いようだ。今日菊が中野へ使に行ったので、代用食の甘藷用の袋や米の通帳を各戸から私が集めてまわる。留守が二軒あって、午前と午後と二度自転車でまわり、午前中には八戸分の袋を道のわきの草原に落したりして心配した。木綿布の袋など今落したら代りが無いからである。見つけた時には実にほっとした。これで今月の当番の仕事は終りとなる。
貞子は一昨日刈り入れた胡麻を乾すのに、大騒ぎしている。元気で食事の支度などもしている。この健康で冬を越せたら結構なことだ。菊は今日髪結いに行き、新しい塗下駄を買い、明日一日出る休みを遊ばれるのでにこにこしている。夕刻、隣家との境に残った黍殻を半分ほど引き抜き、束ねて畑に立てる。貞子午前甘藷畑の隅を掘ると、大変よく出来ていて、百匁位のが二本と細いのが一本とあり、二百五十匁平均として二百二十五本だから七十貫ぐらいはとれることが分る。美味であり、家中大喜びで昼食と夕食に食う。しかし、まだ太るらしいので、あまり掘るのは惜しいと言っている。夕食には、八月の中頃私の播いた早生大根、それから白菜、それに甘藷に、配給の豆腐と自由販売の鯨肉少々あり。この分なら畑をもっと大事にして懸命に作ろうと皆で話し合う。甘藷は闇値では二円五十銭ぐらいするから、収穫量は二百円ぐらいに相当する。滋失った洋傘、学校にあったという。礼は元気だが、どうも顔色が悪く、今日午後七度一分の由。暫く休ませねばなるまい。午後松尾一光君が来て二時間ほど座談する。雑誌そのものも統合されそうだし、編輯員などは徴用されるというから、年末頃はどうなっているか分らないが、独身だから、まあのん気にしている、という話。
夜仕事に向う。ソ聯軍はドニエプル河に迫り、西岸に橋頭堡を作ろうと猛攻撃をしているという。だが独軍に有利なことは、漸く秋雨の季が来て戦闘が困難になるということである。この河から西方は湿地帯で、守る側に著しく不利になる故、どうしても独軍はこの線でソ聯軍を食い止めねばならぬという意見が各紙に出ている。
英米の対独空爆が暫く無いのは、ドイツの夜間戦闘機がよい性能を発揮し、空襲しにくくなった為だという。また南方戦線激化の見込でそちらに使う目的で英米が飛行機を出さないのだとも言う。潜航艇戦でも独逸に有利な情報が伝えられている。ドイツはどこまでやるか。それがこの冬期間の問題である。サレルノ方面の南伊戦は停滞気味で大した戦闘は無いようだ。
帝国教育会出版部の児玉二郎氏から「雪国の太郎」は定価一円七十銭に内定と言って来、校正の催促来る。印税は残額三百五十円あることとなる。
芸術科から速達来る。「拝啓、仲秋の候愈々御清康の段慶賀候。陳者今般情報局より発表に相成候国内戦時体制強化、法文学系統学校教育停止令に就き種々御心配の向も有之事と存候も本学に於ては文部省の詳細なる指令有之迄予定通り授業継続と決定致候。但し時局の要請に依り午後に種々の錬成を施行する為左記の如く御出講度賜此段得貴意候。」授業は月曜十一時から十二時迄二年の実習、一時から二時迄一年の実習である。
五日開始だから、私の講義は十一日からだ。それまで学校が存続するかどうか、あやしいものである。
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[#2段階大きい文字]昭和十八年十月
十月一日 細雨
朝日新聞に国民座右銘というのが発表された。これはその言葉を吐いた人々の生き方の裏うちがあって、どれも味いがある。私として心に残ったものは、(一月―三月の間)
「初心忘るべからず」        世阿弥元清
「松の事は松に習え、竹の事は竹に習え」  芭蕉
「如何でか劣るべきと思いて一度打ち向えば最早その道に入りたるなり」         山本常朝
「鈍刀の骨を切る必ず砥の助に由る」    空海
「只臨終の夕までの修行と知るべし」  上島鬼貫
「道に当りて死を厭わず」       宮本武蔵
「功の成るは成るの日になるにあらず」  蘇老泉
フィリッピン大統領予定者ラウレル等飛行機で昨日到着の由。
アメリカの下院議員某等二三名は、南太平洋の戦線を見てまわった後に、「反枢軸はまだこの方面に主戦力を集中していないが、将来輸送力は増大されるだろう。しかしこの戦線は著しく困難だから、一九四五年末までに対日戦が終るとは思われない」という感想を発表している。これは、先頃米大統領の側近者ホプキンスとやらが、この戦争は一九四五年には終了すると言ったのに対して否定的に言った言葉であろう。今年は一九四三年だから、明後年までに日本を征服できないというのであろうが、それまでにアメリカの方が国内から崩壊しなければ幸である。日本人は今の程度の生活なら五年でも十年でも堪えるが、アメリカは損害が多くなれば、多分国内から非戦論が湧き出すであろう。
そうだ、アメリカを崩壊させるには、もう四五年あるいは十年もかかるであろう。〔アメリカを……以下はノートでは著者によって抹消されている。〕そうするとその頃我々はどういう生き方をしているであろうか。私も筆で生活出来るのは、どうも来年一年がせいぜいのような気がする。借金の件の心配さえなければ、二百円ぐらいの月給でどこかに勤めてもいいようにも思う。多分やがて、やむを得ず、そういうことになるであろう。この戦争は先が長い。長い間の戦時生活に耐えられるように、身体や生活の条件を作っておかなければいけない。その点をもっとよく考えることだ。
昼頃町会の事務所から、恩田、窪田、両夫人、石川家の女中などと代用食の配給甘藷を組内にリアカーで配るのを手伝う。私は自転車で自家のを運んで来た。この甘藷は五人分十五キロで一円六十六銭だから、一貫目四十五銭程にあたる。今日は米が無くなったので昼食にしたが、美味である。しかし腹がすぐ空いて困る。午後二階六畳の庇の上に出来た鼠の巣を見つけ、十匹ほどの身動き出来ない子と巣とを取り去って、庭の隅に埋める。家の事を手伝っていると仕事が何も出来ない。困ったことである。
菊は午後から、近所の女中たちと三人で、新宿へ映画を見に行った。午後山車のかわりに大太鼓を子供たちが引き出し、叩きながら私の家の方へもまわる。寄附が出たので、町内をまわるという形であるが、ここは田や畑の間のあちこちにしか家が無いのだから、御苦労なことだ。
礼は午後七度二分あるという。医師に見せねばならない。今日から八畳に寝台を伸べて寝させているが、なかなか静かにしていない。
独軍はサレルノを撤退し、北方の山地に拠ったという。これからナポリ平原での戦争が始まるのであろう。
今秋、大学高専等を出た陸軍特別操縦見習士官たるべき青年たちは、一日各地の飛行学校へ入隊した、と夕刊に出ている。また陸軍では船舶兵という兵科を新設した。これまでは工兵の一部が小舟艇を運転して海軍のような戦闘をしていた。そういう兵たちの外に、輸送船の船員等の役目も、これらの兵がやっていることだろうと思われる。「日本」到着。私の「日露戦挿話」がのっている。
今年の秋は寒いという。どうもそうらしい。この頃、天気も雨がちだが寒い。私は開襟シャツに毛のチョッキを着、上に職工服を着ている。それで足には靴下でもはきたいぐらいである。まだこの頃も家ダニが出て困っている。
十月二日 冷雨
南太平洋の九月中の戦果発表される。
座右銘集(四月―六月)より抄出。
「高く心をさとりて俗に帰るべし」    芭蕉
「まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし」                道元
「妄りに人の師となるべからず。又妄りに人を師とすべからず」              松陰
「万事にかえずしては一の大事なるべからず」
[#地付き]兼好
「格に入りて格を出てはじめて自在を得べし」
[#地付き]芭蕉
今度徴兵猶予が停止になった文科系統学校の在学生については、特別に急いで十月廿五日から十一月五日迄に検査をし、十二月一日に入営させると発表あり。この学生たちは、もう一年乃至三四年は入営しないものと半月ほど前までは思っていたのが、急にこのように決定したのだ。思いのあわただしいものがあるであろう。軍では特に展墓、帰省の為も考え、本籍地で検査させることにしたという。入営は忽ち戦線への出動を意味するのだから深刻なものがあろう。
午前大島豊氏夫人、野菜を買いに来たとて立ち寄る。夫人の話によると、明大あたりは、学校が無くなるというので、職員は不安がっていること甚しいという。大島氏は、日大、法大、明大等へ行っているが、その中日大のみは残るということで、職員も平静だという。しかし生活を切りつめねばならないのだが、それが出来なくって心配ですと夫人の話。最近の学校問題では、知識階級間の心的動揺、変化の大きいことが、種々推察される。知識階級層の生活転換の決意は立ち遅れているのだ。昨日から甘藷のみ食べているので、午後自転車で米をとりに行くと、配達と行きちがいであった。
午後伊藤森造君来る。明大文芸科に在学中であったが、適齢で猶予が無くなったので、来月検査を受けることになったとの話。彼は前に結核をやり、今はおさまっているという程度なので、不合格になるとも思うが、しかし今度は、開放性結核患者で目下菌を出している者と伝染病者の外は入営させると新聞に出ているから、病弱者でも入営させて事務などを取らせるのではないか、など話していた。なお帰されても学校は廃校になるということだし、一体どうなるでしょうね、と心細そうな口調である。入るにしても今書きかけているアイヌの伝説に取材した作品は書き上げたい、と言う。明大では、陸軍特別操縦見習士官や海軍の飛行将校に応募したものが八百人あり、入隊したものは二百人だという。文学者の養成所である文芸科からも十七人とか入った由。学生たちはそうと腹をきめると勇敢である。
夕刊の読売報に、サンフランシスコ・エギザミナーの記者の報じた米側のアッツ島の最後の戦争記が出ている。山崎部隊の最終突撃のすさまじい凄惨な、そして美しい戦いぶりが手にとるように分る。彼等米人はここで日本人の戦争の仕方に戦慄したにちがいない。山崎部隊のように戦えば、この戦に破れるということは、絶対に考えられない。独軍はナポリ市を破壊して更に北方に撤退した。ドニエプル河の中流は秋の雨期に入ったが、南部クリミヤ半島の北方では赤軍の猛攻勢がなお続いているという。クリミヤ半島を孤立させて、これを奪取する目的であろう。
都、区役所では土曜の半日勤務を終日勤務とし、日曜は午前中だけ勤務することになったという。大変革である。休日は交替でとるものらしい。これは、あの非能率的な役所にとっての大きな精進である。
十月三日 雨
昨日終日雨、昨夜終夜雨、今朝また雨、午前中強雨、北東の風、午後北西の風となり晴、夜風は南西となる。夕焼。
夜から、階段の下の柱の所に雨洩りす。本所方面は水が出ているにちがいない。今度は関東地方が洪水禍にならなければよいが。利根川周辺の田畑など、そうでなくてもこの秋は雨が多くて増水しているだろうから、この雨で氾濫したりするのではないか。食糧のことは心配である。戦争前、支那事変の中頃までは、我々が農作のことを心配するなどいうことは考えられもしないことであった。
朝刊は九時頃来、ぬれている。農林省と鉄道省逓信省を廃し、農商省と運輸通信省を十一月一日より始めると出ている。今日の正午頃よりの東海道関東地方への暴風雨警報が出ている。十時頃風は東南に変り、暖くなり、風強まる。
座右銘集、七、八月の分より。
「荒地は荒地の力を以て開くべし」  二宮尊徳
「まことの外に俳諧なし」      上島鬼貫
「おろかなる者は思う事多し」    松尾芭蕉
この外に、穎原退蔵氏が東京新聞に書いている芭蕉についての記事の中より
「さればこのみ言葉を力としてその細き一筋を辿り失うことなかれ」            芭蕉
独ソ戦線、クリミヤ北方のメリトポリ地方は激戦となり、独軍の発表によると「今夏の東部戦線で未だかつて経験せざる激戦を展開」しているという。中部ドニエプル河方面では、ソ聯軍はとうとう一部分西岸に上陸したという。独軍もこの線では絶体絶命的な防戦をしているという。昨夜の友森大佐の放送演説によると、今度の学生の徴兵検査では「受験者の殆ど全員が入営(応召)を命ぜられるはずである。すなわち体格等位の甲種乙種の者は勿論のこと、丙種の者も現に病気のため止むを得ない者の外は、入営延期者(理科、教員系統の者)以外のものの全員を入営させるはずであり、入営しない者の中には徴用される者もあって、受験学生諸君の全員が直に決戦に参与し、思う存分の御奉公の出来る途が講ぜられている訳である。」という。学生の満二十歳以上の者は存在しなくなる訳だ。国内悉く決戦の気配である。その勢は大波のようだ。
私は仕事を続ける。評論集と「旅順」の準備として、「鉄血」の索引を読みながら作って行く。索引を作りながら読むと、細部がよく分って、すでに二度も読んだこの本が、新しい本のように思われて来る。この本の著者猪熊敬一郎氏はこの本を書いてすぐ死んだらしい。序文に「余命は尚夕陽の如き乎。楽天の詩に曰く『夕陽限りなく好し、然れども黄昏なるを如何せん』と。予は一剣一誠の武人にして、幸にも日露の役に従軍し、旅順奉天の各戦に丹心を試むるを得たり。凱旋の後不治の病を得、今や二十九歳にして一生を了せんとし、此書を遺す。知らず、予が余命の夕陽の如き乎。将また秋風戦ぐ夕の野の如き乎。明治四十四年八月、猪熊敬一郎識。」心から吐き出した美しい序である。内容また一段と他の戦記に較べて、よし。
「鉄血」の索引、夕方に出来上る。
礼午後七度一分。春からセファランチンを飲んでいるのだから、この薬が利くのであれば、結核にはなっていないことと思うが、顔色はやっぱりよくない。
十月四日 晴 西北強風 富士よく見ゆ。まだ降雪なし。
独軍当局は、独ソ和平説は、ソ聯と英から出ているもので、ソ聯は英米に第二戦線を作らせようとして英米を脅かしているのだという。福田君から聞いた日本も工作しているというのは外務省筋のことだし、嘘ではあるまい。そういう謀略戦の姿が、イタリア崩壊後多くなって来ている。我々としても日本人がそういうものにあやつられるのは警戒せねばならない。だが実際各国政府において、この種の手段は、盛に使用されているのであろう。伊藤森造君の話だと、前の駐ソ大使で松岡外交に一役持った建川将軍が明大に来ての講演で、「日ソが戦うということは絶対にない。私が言ったと公言していい」と喋った由。日本が独ソ和解を希望しているのは事実だが、今のソ聯としては、和解する以上にドイツを圧服したい希望が多いであろう。我北支軍当局は、対重慶全面和平説を否定し、そういう言論を取り締ると言っている。汪兆銘が先日の公表で重慶の反省を求めたのなどから推して、支那の一部には、そういう希望的観測があるのであろう。昨日の風水で川崎、本所方面には数百の浸水家屋あり、千葉、仙台方面には倒壊家屋もあったという。しかし関西方面のような大きな被害ではないようだ。
ムッソリーニの女婿チアノは、新しいファッショ政権によって告訴されるという。三四年前に、ニュース映画で見た時、いやな感じの男だな、と思ったが、この男は自分の義父であり首領であるムッソリーニを裏切り、しかもバドリオ政権からも睨まれて逃げまわっていた。遂にこういう結末になった。
「文芸日本」十月号来る。影山正治氏相かわらず、文芸春秋一派を文壇幕府なりとて攻撃を集中している。亀井君の同氏あて返書など、現在の文学思想について、自ら語る所多し。影山氏の言明快で一途である。悪い印象は受けない。〔影山氏の……以下はノートでは著者によって抹消されている。〕が、文芸春秋や文学報国会の主な人たちはこれには困るだろう。いずれにしても文学の思念は今や変る。私など現在の文学を理論づけうる立場にはもういない。ただ古き父祖の戦闘のあとを、一二の小説に具体化し、それによって新しき何かを掴むだけの精神力があれば、と念じるのみである。作品に沈潜することしか、私の自らを救う道はない。影山氏のこういう繰り返しての攻撃に応えるように、十月号の「文芸春秋」で、菊池寛が、「自分達の忠君愛国振を誇示するために、他人を便乗よばわりする者が、まだ絶えない。この危急存亡の時に際して、ただ便乗意識だけから便乗している不心得者などは、日本人に一人もいるとは考えられない。その便乗意識の中にも、二割や三割の忠誠な精神は、宿っていると思うのである。たとい、便乗でしたことでも傍がそれを真実なものとして認めれば、彼等もやがて、真実なものとなり得るのである。」と言っている。これは菊池寛流の実践的な感じの強い言葉で、また一種の風格がある。しかし、時代は移っている。菊池寛の言い方には、昨日的な抵抗の匂いが漂っているのを否めない。私なども、過去の自分の態度をそのまま是認することはとても出来ぬ。
ドイツは食糧が記録的な増産だという。昨年度に較べて農産物は三分の一増であり、パンの割あても増加する、とゲッペルス宣伝相が言っている。また英米が大規模な空爆を中止したのは、天候のせいもあるが、独空軍の進歩のための大損害にもよるものであり、近く、必ずドイツは報復的空襲を英国に対して行う、と公言している。期して待つべし。
午後自転車にて煙草買いに出たついでに、三鷹の田居君宅まで行って見る。田居君は北海道行をやめ、京都に行っていて一昨日か戻った由だが、今日は外出留守。夫人より乾貝柱百匁ほどもらい、帰る。途中道よく田園風景はよろしいが、三鷹附近には航空機会社その他の工場が大分並んでいる。
礼、午後七度二分あり。
静岡、神奈川、茨城、埼玉等の各県にも少しずつ水害あった模様。水溜りになった待避壕で幼児二人溺死したという。
「鉄血」についての批評文を今日から書き出す。「新潮」のハガキ回答出し、埼玉県の峰岸君に金曜頃遊びに行くとハガキ出す。
十月五日 晴
朝から礼を連れ、化学療法研究所へ行く。混んでいる。レントゲン写真をとり、今年五月の写真と見較べて診察してもらう。これまでの症状を言ったのだが、写真には、どこにも病気の模様はないとのこと。子供にありがちの疲労熱とでも言うべきものか。とにかく、安心す。なお赤沈やツベルクリンの結果もあり、二三日後にまた来ることにする。
礼と寿司(漬物四、コハダ四ぐらいにて一人八十銭)を食い、次にそばのかけ(不味甚し、ダシを入れてないのだ、十三銭)を食い、二時頃帰る。帰途新宿にて、柿の木を五円五十銭(税がその上に一円五十銭)で心祝いに買い、秋播きの菜類の種子六袋(六十銭)を買う。家に戻ってすぐ、菜を播く前に、葱の苗の植えかえをする。八畦にする。(その前に柿を縁の南方に植える)つづいて、黄色く枯れた玉蜀黍を抜いて畑の中に塚様に立て寄せる。菜は播けず、明日にしようと思う。
夕方、近所の江口清君、子供を抱いて寄る。文学報国会に勤めようとしたが、経費不足のため断られた由。「急迫して来ましたね、もう我々がのんきに勤められる所はないですね。工場にでも入る外ありません」と彼は言う。なお彼の所には、文学報国会から勤労奉仕団に加わるよう言って来た由。私の所には、何も言って来ない。
今日はかなり身体を使ってもあまり疲れず、この頃腹はこわさず、何でも、特に油ものを食っているから、腹がふとって来た。元気になって来たのであろう。
夜九時少し前、原稿に向っていると、近くの烏山国民学校にある警報が、「ブウウ……」と鳴り出す。「そら警報だ」と家中で、遮蔽幕をさげ、支度する。南鳥島の件以来、警戒警報も実感が籠っていて不気味である。しかし、まだ今夜すぐ東京が現実に空襲されるような気はしない。それでも、段々やって来たぞ、という、身体が冷たくなるような、それでいて武者ぶるいするような、来て見ろという敵愾心も湧く。また敵は南鳥島辺にでもやって来たのだろうか。
同盟電に林語堂が英米を非難した「涙と笑いとの間」という近刊本の内容が紹介されている。彼は少し前に米国の汽車事故で死んだと報ぜられていたが嘘だったのだろうか。
警報が鳴ってから十五分もすると、遠くで「解除」と言って歩く声が聞える。何かの間違いのために出た警報であったのか。
座右銘より、
「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うる勿れ。只一燈を頼め」            佐藤一斎
「心なしと見ゆる人もよき一言はいうものなり」                     兼好
(九月―十月分)
十月六日 曇 北風寒し
九月中に敵潜艦を六隻沈めたと発表あり。輸送力こそ今の日本の血管である。
座右銘より、(十一月―十二月分)
「天地正大の気粋然として神州に鍾る」  東湖
「古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ」                 芭蕉
昨夜の警報は誤報で、東京急行の電線が切れて警報の電線に触れた為だという。
米の闇売は、売る方のみ罰せられていたが、今後は買う方も罰せられる由。昨日貞子の話では、組内の某夫人が子供が多くて食糧不足なので、この辺の奥の農家へ米を売ってくれと頼んだところ、一升四円だという。十倍近い値である。それでも仕方ないので、反物を持って行ったりして、その米を買って来た由。またその隣の某家の女中は、自分の郷里では五十円で米が二俵買えると言っている由。だが貞子が笑って、汽車賃が往復で四円かかる千葉県下だそうだから、それを一度に四升ずつ目立たぬように運ぶとすれば二十回で汽車賃が八十円になるから、随分高い米になると。
南独のフランクフルト市が爆撃された。三十八機を墜したというから、撃墜一割と見て四五百機での大爆撃らしい。やっぱり英米の対独爆撃は続けられるのだ。独軍はナポリから撤退したのに続き、今度はコルシカ島からも撤退した。徐々に手足を引っこめて、欧洲要塞の中に籠るという感じである。十月末の日附で国民登録がまた行われる。今後は半年毎に行うという。徴用は四十五歳までと言われていたが、発表を見るとやっぱり満四十歳までである。
ビルマの前線各地やアンダマン諸島、スマトラ西岸に敵の偵察的飛行が多くなって来ているという。会戦の前兆である。今夏からしきりに報ぜられているカルカッタ地方の飢饉はいよいよひどくなり、数千名の死者が出ている。世界のあらゆる場所で、あらゆることが起りつつある。
芸術科から、昨日十月五日より十一月三十日迄、講義なし。在学生の徴兵のための予備訓練をその間行うのだという。在学生には適齢前のものも半分か三分の一はいる筈だが、全体として、そういう処置となったのだろう。その期間が終る頃には、学校の整理統合も決定するであろうから、事実これで学校は無くなったのである。全くこの一二年、学生に文学、特に小説について話すことは、心が重いことであった。少し寂しいが、これですんだという解放されたような気持もある。
アメリカの海相ノックスは「欧洲戦は今始まったばかりで、これから反枢軸は大犠牲を払わねばならぬ」と言っている。敵ながらこの言は本当で、ドイツが本当に英米を手許に引き寄せて戦うのは、これからであろう。そういう意味では大東亜戦争はまだ本格的には始まっていない。前哨戦の程度である。これから後、明春あたりから、或いは欧洲の方が一段落してから東亜には真に凄惨な戦が起るだろう。日本の実力はその時になって真価を発揮するであろう。
朝自転車にて蘆花公園まで行き、途中「光」を二個買い、種物屋で体菜の種子三袋、そら豆の種子一合などを買う。
午後三時頃久しぶりで薫来る。少時話して後、私は葱の苗をとったあとの縁側の前面の畑四坪ほどに、人糞を施して、体菜二袋、高菜二袋を播く。冬のものだから厚く播いた。夕食は薫への馳走とて配給の魚の外に砂糖を使って汁粉を作る。この頃は砂糖を料理に使わず、月に二三度に集中して甘いものを食べることにしている。
夜滋、先生の所へ受験の予習とて出かける。十時までに六七枚「鉄血評」を書く。学校より、また速達にて変更を言って来る。十一月末まで、午前中のみ、軍事に関係ある講座だけ開くとて、私には金曜の朝二時間報道文学を講義せよという。戦場に行く気でいる青年に向って今さら報道文学の講義でもあるまい。出ない方がおたがいによい、と考える。夜十時滋を駅まで迎えに行く。
東京新聞に、統計的に研究した戦時生活の内容が出ている。この表に出たよりも闇の生活費はずっと多いとは思うが、面白い研究である。上流の生活は、もっとずっと闇関係が多く、「闇」が「上流生活」の実質だと言っていいであろう。
十月七日 薄曇 一昨日から痔が出ていて困る。
午前原稿を続ける。朝のうちに、中支戦線の田中章君に手紙を書き、学校へは、身体工合が完全ではないから一月ほど休みたいとハガキを出す。阿部保君に電話し、午後貞子と本郷西須賀町に阿部君を訪ねる。滋のことで成蹊高校の松岡氏に紹介してもらう件である。いつでも同行してくれるとのこと。夕方帰る。英一来ている。汁粉を馳走するというので呼んだのである。
ソ聯軍の攻勢も遂にドニエプル河の線で停止し、過去四日間戦線には変化がないという。ソ聯はそれを秋の泥濘期のせいにし、ドイツ側は、まだ泥濘期にあらず、独軍の後退戦略が終り、ドニエプル川の線を維持することになった為であると反駁している。いずれにしてもこの線で両軍は冬をむかえるわけである。
フィリッピンは十四日に独立宣言をすることに決定した、と夕刊に発表している。その機会に国名も改めるらしい。フィリッピンというのは、スペイン領の時代スペイン国王の名によって付けたものらしい。我国では昔はルソンと呼んでいた。
朝桃野組長が公債通帳というのを持って来る。家は五円宛、公募の度に入ることとする。
十月八日 晴後雨
朝から埼玉県児玉の峰岸君の所へ出かける。烏山から八王子迄京王電車で行く。この沿線は、初めて乗るので、注意して周囲を見て行くが、ほとんど田園風景のみで、軍需工場的なものは見当らない。調布の西方にあるという飛行場も、電車からは少しも見えず、田と畑と農村の藁屋と立木のみが続いている。この沿線は空爆の目標になるまいと思われた。八王子で九時発の汽車に乗り、十一時半児玉着。出迎はないが知っている道を行く。晴れて気持よし。峰岸君宅にて、土産の昆布、梨を出し、梨を田舎へ持って来るのはどうもと言って笑うと、梨は隣村まで買いに行かねばならないのだから、有難く頂きます、という。鶏舎に私の所と同じような鶏が五羽いるので、鶏の話をすると、この辺では養鶏専門家は禁止になって、売り出されたので買ったという。養鶏専門家がいると、どうしても闇で雑穀を買うので、鶏の数は作付段別に比例しただけしか保有出来なくなった由。養鶏場に、養鶏組合から人が来て、公定価値で容赦なく「鶏をもらいますよ」と買って行くのだという。農家に対する取締りは、最近しきりに強化され、何を何段何を何段と割あてどおり耕作しないと、勤労奉仕団の人間を持って来て、組合が勝手に耕作し、小作料を持主に払うようなことを実行することになっている。農家では肥料の割あてが少いので、それによって、少い畑を播きつけて実収の割をよくしたがるのだが、今度はそういうことが出来なくなるという。そして、これは公然とではないが口伝えに言って来る指令によると、こういう命令耕作は今年だけだからと称しているとのこと。差当り冬麦の耕作はぐんと増されている由。農家としては米麦よりも野菜の方が採算上有利なのだという。こういう話を聞いて杉沢のことを考えたが、彼は八王子の南方に畑を六段買い、小屋を建てて養鶏を専門にするのだと計画しているが、作付指定やら養鶏数比例やらでは、養鶏も出来なくなるのではないか。彼にこの話を知らせてやらねばならぬ。
また峰岸君の義兄桜井氏は海軍省へ出ているので、海軍系統の戦争の話も聞く。海軍の若い軍人たちは、米国を空襲したがって、我々は帰って来ることなど考えてはいないのだから、是非実行させてくれと言っている由。全く敵に空襲されるのを待っているのは情けないことだ。その人たちにすれば、何としてでも敵を空襲したいにちがいない。アメリカは空襲されないとなかなか参らないように思われる。何とかして空襲を西海岸の方だけでもよいからしてやりたいものだ。
ある高官が講演に来て隣村の峰岸君の親戚の宅へ泊ったそうだが、その折の打あけ話に、ドイツは明年夏で参り、ロシアは明年冬には参ってしまう。そして日本は明年夏には、アメリカの今年の夏頃と同等の飛行機生産額(月産七千機位か)に達するし学生からの乗員もその頃に揃うから、その時に一挙に決戦を行い、戦争の勝負をつけてしまう。この戦争はもう五年も十年も続くと思う人があるかも知れないが、そんなことはない。明年一年の辛抱だ、と言った由。この話は大変面白い。私たちの見る所でも欧洲戦は次第に峠に近づいて来ている。日本の飛行機生産力がそんなところに達して来ているというのは、驚異だが、それが本当なら、対米英の決戦では必ずこちらが圧倒してしまうことが出来るであろう。しかしそれまでに日本の工場地帯を空襲されなければよい。それが心配なことだ。
それにしても、明年でドイツとロシアが参るというのは怖るべきことだ。米国の陸軍船舶委員の決議にも、今欧洲に船舶を集中すれば、ドイツに大打撃を与えうると言っている。ドイツはやっぱり危いのであろうか。残るのは日本と英米とである。その間の決戦がこの戦争の終局戦となるのだ。そう思うと身ぶるいが出るような感じがする。
だが、そういう話のあとで、その高官は、実は、と言い、その家の女の子を女中にほしい、と言ったという。かなり高給を出すから是非ほしい。それもその女の子に一週間に一度ぐらいずつ家へ戻って食物を運んでもらうのが目的だという。家族十人もあって、どうしても子供たちの食物が足りないし、身分上家の近くで闇買いも出来なく、本当に困っているからと、懇願したとのこと。全くそれが本当のことであろう。私の家でも三食のうち一食は配給以外のものを食わねばならず、幸い畑があるので凌いでいると言うと、峰岸君も、あの畑があれば実にいいですね、と言う。それでもどうしても食料に困るようなことがあったら、先生だけお仕事を持って滞在しにここへ来るといいですよ、と言って笑う。昔は文士は温泉などに出かけて滞在したものだが、これからは農村に滞在するということになるかね、と二人で笑い合った。
また、峰岸君の親戚の、寺院十二天では、昔から弾丸よけの御符が出ていたが、この戦以来効験あらたかで、この寺(山の上に神社のような本尊があり、下に大きな寺あり)に月極めのお参りをしている人には一人も戦死者なく、またその山の周囲の部落にも一人もないという。月極参拝者が二万人もあって、寺では財産が十万円も出来たという。そのせいであろうか、近いうちに私の外に五六文学者を招待して、御馳走したいと言っている由。それは、その寺を何とかして、もっと有名にしたいかららしいと峰岸君が笑いながら説明する。松茸の出る頃がよいと言う。それは結構なことで、皆喜ぶだろうから、計画が決定したら人を集めて見ようと私も言った。
峰岸君はまた自分はどうも農業を本式にやれるだけの身体でもないし、本を読むことが専門の仕事がしたいので(彼は児玉の農学校卒業者である)、文検を受けて中等学校の国漢科の教員になりたいと思う、と言う。彼はどうしても農業を楽しむ気持になれないらしい。この頃は外の職業から農業に転換する人が多いのに、こういう人もいるのだ。
夕方四時の汽車で発ち、雨の中を、夜九時頃家に着く。
新聞からニューギニアのホポイの敵陣地爆撃とドイツの極北地方の戦線との記事を切り抜く。後者は報道が少いので珍しい記事である。
この日朝刊にて、関釜連絡船「崑崙丸」の沈没を知る。生存者一割余である。台湾行の船は二度沈められたが、関釜間の船は初めてである。記事は小さいが、この事件の与える衝撃は大きい。関釜間は国内の大きな公道だから、ここを脅やかされるのは困ることだ。青函連絡にはまだ被害はないが、北海道への往復も安全とは言えないであろう。
夕刊の独軍の発表によると、この夏の赤軍の損害は二百万にのぼるという。しかもなお、赤軍は一時停滞したかに見えた攻撃をまた始めて、ドニエプル川の中洲に上陸し渡河しようとしているという。ソ聯は多分開戦以来一千万以上の兵を失っているのだ。しかもまだ積極的戦力を失っていないように見える。西欧洲の戦局は華々しく取上げられるが、今度の大戦の実質は三分の二ぐらい独ソ間に戦われたと言っていい。それに較べると日本などまだ全然消耗していないと言っていいであろう。
十月九日 終日雨
六・七の両日大鳥島に敵軍艦飛行機等来襲の報あり。欧洲方面の軍艦の余力は太平洋にまわって来つつありとのことで、これは警戒を要することだ。独空軍はロンドンを大挙空襲した。これはかなり大規模なものらしく、ロイター電によると「七日夜の爆撃は一九四一年五月十一日夜の爆撃以来の猛烈なもので、死傷者も少からず、ロンドン全市は爆弾の炸裂で震動した」とのこと。これはハンブルグ等の爆撃の報復戦にあたるものか否か。
内閣改組、寺島逓相、鈴木企画院長去り、首相は商工相を兼ね、岸商工相は次官となる。このままの形で軍需省が作られるのであろう。
東京新聞は他の新聞より一頁多いので、雑記事が豊富である。腕時計を買えないとか、袋貼りをさせられて困るとか、投書への返事が出ているのも世相を語るものである。
終日雨、午後午睡す。今年は雨が大変多い。峰岸君の話だと埼玉辺は稲の収穫はかなりよいが、中国九州等では著しい不作にちがいないから、食糧事情は、もっとずっと窮屈になるだろうとのこと。雨につけ、風につけ我々にも亦それが気にかかる。
礼はツベルクリンの反応も出ず、レントゲン写真でも故障がないのに、相かわらず午後は七度一、二分ある。元気でいるが、困ったことである。
夜常会。豪雨中を長靴で石川家まで出かける。空地に冬麦を作れ、という話やら、国債貯金という制度が出来、郵便貯金よりもよい率で(但し割増金抽籤なし)預金出来ることとなった話など。この組(十軒)に番傘が一本配給になったというので、籤を作って行く。桃野組長に当る。古新聞の蒐集は期日を過ぎたので、この度は行わぬこととなった。雑談に卵が旧市内では四十五銭、この辺でも駅近くの養鶏家では三十五銭、少し遠い所の養鶏家では知人に限り二十五銭で売るという。
夕刊によると、ドイツは、軍官党合同の重大会議を開いたという。いよいよドイツ軍にとっての受身の大会戦が切迫している空気がありありと感ぜられる。東よりロシア、南より米英が欧洲要塞に迫って来ているのだ。ロシアは疲れてはいるが、野獣のように牙をむき出している感があり、英米は新鋭で、戦争物資の量によって、ひた押しに押して来るという形だ。
十月十日 雨(日)
一昨日からの雨なおやまず、午前雷鳴も少々あり。風はないが、下町方面ではまた出水騒ぎであろう。終日降雨、畑も道も水にあふれているが、ここは高いので差障りない。
我軍コロンバンガラ島とベララベラ島より転進した旨公表される。ニュージョージア島からは、この前ムンダ附近の陣より撤退したと公表された時に去っていたのであろう。コロンバンガラ島には敵は上陸せず、その後方のベララベラ島に上陸したのであるが、この方法は、北方で敵に近いキスカ島を差しおいてその次のアッツ島に上陸して来たやり方と同様で、敵としては成功した方法である。ソロモン群島は、次第に南方から敵の手にゆだねられて来ている。敵はいよいよ図に乗るにちがいない。物資生産力に負う戦力のことが痛感される。しかし、ガダルカナル島は昨年夏から今年春まで持ち、ニュージョージア辺の島々は今年春から十月まで持った。それぞれ一区画を半年の間支えていた日本軍の精神力は、敵も持てあましているようだ。やがてこちらの生産力が目標に達すれば、我軍の退縮はなくなるであろう。日本兵士の精神力を信じているからこそ、私たちは、こういう報道にも驚かず、今に見ろ、と思っていられる。この信頼の念が私たちの心から消えない限り、日本は磐石である。
ドイツ軍もまたコーカサスの最後の橋頭堡タマン半島から去って、クリミヤ半島へと退縮した。昨夕刊に出たヒットラー総統の訓示も苦渋に満ちている。自国の頽勢を自認しながら、あくまで戦おうという気魄を感ずる。ドイツ国民がこれについて行ければよいが、と思う。新イタリア、ファシスト政府は首都をローマから撤し、北方の都市(多分ミラノか)に変更したと発表した。米英は、間もなくローマを占領するであろう。ドイツはもっと北方で抵抗するつもりらしい。
今日発表された東京都の予算では、工場の周辺の家屋の整理、渋谷、蒲田等の駅前広場の拡張、横穴やトンネルによる避難壕と物資貯蔵等が計上されている。官吏の仕事としては、中々早手まわしである。私も鶏小屋構築をし、その次に穴を掘ろうと考える。在英米空軍は、八日、ドイツ西北岸のブレーメンを空爆した。ドイツ側は三十八機をうち落したと公表しているが、米側の公表は損害四十三機とあり、かえって数が多い。海上に墜ちたのもあるのか。損害は平均一割と見られているから、飛行機数は四百機ぐらいか。損害数を多く発表することは、間接に空襲規模の大きさを誇示することにもなるわけだから、油断は出来ないが、中絶しているように見えた英米の対独空爆は、フランクフルト、ブレーメンと最近数日のうちに、また続行されている。ドイツの昨日発表の特別会議で、空爆を避ける為奥地に各戸二間の小避難住宅を建設すると計画を発表しているから、空爆続行は避けられないとドイツ当局も観念しているのであろう。対ロンドンの大規模空襲が二三日前に行われたが、これが将来続行されるようであれば、そこからまた一つの希望が湧くわけだ。
詩人東郷克郎君(猿田栄君)先頃応召したが満洲にありとのハガキ、来る。すぐ返書す。
今の私の頭の中では、日露戦は二つの作品に分けられている。一つは「旅順」で、これは二○三高地戦を中心とした乃木大将やその周囲と前線の兵卒の戦いとを相並べた実録風の作品である。これは五六百枚でまとめること。もう一つは、千枚以上にもなる長篇小説として、旅順から奉天にかけての戦局の各方面を描き出すと共に、戦前の東京の生活、それから町田、広瀬、副島、田中等の軍人の露都でのロシア将校との生活と、戦争の臭の近づく露都のありさまなどから、奉天戦後のロシア軍の潰走に終るものである。その間にアイルランド人マッカラーを配し、また主要人物については「得能物語」の桜谷のような人物を一人と、真に日本人らしい青年将校を一人配さねばならぬ。これは三冊ぐらいに分割して本にすること。いま評論集のために日露戦記類を開いているのは、その作品の実質を私の内部に醗酵させるために、うんと役立っているように思われる。こないだ中この仕事を無駄だと思ったが、そうではない。また父の戦争体験談や、小樽市立中学に勤めていた頃、吉田校長寄贈の同校図書室にあった日露戦記類を繰り返して読んだことなどの印象がいつの間にか私の内部に根を下して育って来ていることも感ぜられる。
今日朝から机に向い、日記をつけたあと原稿を書いたが、三枚目で進まず、夜になる。一昨日来の長雨に、雷鳴と東の風加わり、陰うつである。
一昨日留守中に来た石川清君(得能ものの装幀家)に持参の最中の礼を書き、峰岸君にもらった麦粉と胡瓜の礼を書き、文学報国会から来た勤労報国隊申告書に書き入れをする。田原君から「文学報国」に時評五枚ずつ三度書くかと念を押して来る。「笑はぬ人」という私の作品ののった「日本少女」届く。
夕食後、机のそばにあった諏訪三郎氏の「鬼怒十里」を手にして読む。鬼怒川辺のあちこちを歩いた紀行文集である。二時間ほどのうちにほぼ読み終える。随筆と言え、いたる所、今の戦争の影が落ちている。現代のあらゆる書は、この戦争の影から離れることが出来ない。
雨風の夜、一家揃って夕食に談笑し、特に大きな心配というほどのことなくして暮しているのは、ふと考えれば、何というありがたさ、幸福さかと思う。夫を戦野に送っている妻もあり、子が戦死した老夫婦もあり、そういう家族には、こういう雨風の夜が特に淋しいことであろう。我儘な願いを持ち過ぎてはいけないのである。
このノート、これで十冊の終りに達す。一年十ケ月のあいだに十冊書いたのである。この冊は八月十日からであるから、丁度二ケ月で一冊となった。このあと、もう七八冊は買ったのがあるが、それではあと一年半しか書けない計算になる。それまでにこの戦争は終るであろうか。終らぬにしても、その頃、どういう生活が私たちを待っているであろうか。分らぬことばかりである。
昨日貞子塩谷の母へ赤いチャンチャンコを作って、小遣と共に送る。十月十六日が母の六十歳の誕生日なのである。
新聞、官庁の男の給仕は、なくなり、みな女になるという。駅の出札、改札も女になるのである。事務系統の仕事を志願する女が、陸軍省にも沢山来ていると、これは薫が先日していた話である。
〈気候・身体〉
この頃雨のみ多く、からりと晴れた日は続かない。この月の中頃から、北風になるとそういう日が続く、と峰岸君言う。
夏のチヂミのズボン下に、上衣はワイシャツ一枚、それに毛の薄いチョッキと青い職工服、ズボンは古い合のものを用う。雨があって寒い今日のような日は、更に上にレンコートを、昨日あたりからは、スプリングコートを出して着ている。
身体は元気だが、寒い日は一時間おきぐらいに小便に行く。これだけは、以前とちがった異状だと思う。足袋はまだ用いず。
〈貞子〉
貞子はこの月に入ってから、ひどい元気で朝も早く起きて、子供等を世話し、料理や裁縫をして終日働いている。「子供たちが小さい頃のように働いている」と自分でも言っている。つまり病気以前の状態に戻っているのだ。これで冬を越せれば、もう女中なしでもやって行けるだろう。私が外の用を足せばいいわけだ。そうなれば経済的にも月に五十円はちがうであろう。しかし冬を越して見ないと、本当かどうか分らぬ。
十月十一日 雨やむ 朝薄曇 昨夜八時迄に東京の浸水家屋一万二千戸の由。
久しぶりで杉沢仁太郎氏来る。数年間彼が引受けていた北海道興農公社のアイスクリームの東京市内の配達は、十月から市販せぬことになり、請負をやめた由だが、最近は興農公社でクリームを軍需会社へ入れることになった。所が会社ではそれを社員に分けるのに手数がかかり、困っているので、杉沢はそこに目をつけ、今までのクリーム小売人を集めてその仕事をさせ、それを彼が一手にそれぞれの会社から請負うことにした。それで月に四千円ぐらいの収入になるという。そのためか大変元気よく、私の所に塩鮭を一箱(二三十本入、五六十円か)公定価で分けてくれるという。彼のように物を動かす人間の所には、食品でも酒でも何でも豊富に入るのに驚く。こないだ田居君の所で聞いたのではサントリイのウイスキイ七年のは五十円、十二年は百円ぐらいする由だが、その七年のを近く一本公定価で分けてくれるという。これは滋の受験の件の方にまわすと貞子が喜んでいる。なお鮪のハムを毎月買えるよう取りはからってくれるとて名刺を持って行った。明日北海道へ行く由。塩谷の母に、甘藷を食べがてら月末頃上京するよう言伝を頼む。彼は例によって私の鞄を借りて行く。月に四五千円も収入があるのに、鞄だけは買わないらしい、と貞子と私と笑った。しかし杉沢氏のおかげで、味噌はまだあり、ダシも残り少いがあり、鮭が二三十本も入るとすれば、全くありがたい事だ。彼の横山村の小家は、約束した大工が面倒がるので、彼は最近半坪大の波形スレート板を四十枚手に入れたから、それで自分の手で建てるという。埼玉県の養鶏制限の話をしてやると、そういうことも考えねばならぬから、百羽ぐらいの養鶏に止めたいなどと言う。隣の花村家でも、炊事用の外屋をどうしても大工がやってくれぬとて、とうとう花村氏自身、買いおきの古材で毎日大工仕事をやり、柱組みをし出した。そういうことが、あちこちであるのだ。
独軍クバン橋頭堡から撤収したことを公表した。またアドリア海岸のイタリア東岸のテルモリに米英が上陸したのは二三日前であるが、ここはローマの真東に当る。つまりイタリアはローマから南方の半分がほぼ英米の勢力圏となったのだ。この線で独軍は真面目な抵抗を示していないから、もっと北方まで退縮するであろう。
午前十一時から、外出。家に金が無くなったので、金を取るためである。玉川電車で松陰神社前の世田谷区役所に行き、建物の取得届けをする。これは三月頃京王電車から用紙に書き入れしたのをもらっていたのだが、税金をすぐ納めねばならぬとしても金が無いので、届けを延引していたのである。先頃から心せいていたものである。難かしいこともなく受理された。その足で五反田駅前安田銀行で「八光」の原稿料五十円の小切手を換金す。帝国教育会出版部の児玉君に電話しておき、二時頃神田に出て、印税の残り二百五十円を受取る。
神田でそのうち、百円を小為替に組む。野田生へ送るのに足す目的である。新宿雪印バターにて、かねて冷蔵庫にたのんでおいたバターとチーズを一ポンドずつ受取る。神田の古本屋で志賀重昂の「大役小志」を十五円で売っている。代田橋の古本屋で志賀重昂全集八冊を十五円で売っていたのを思い出し、帰途その古本屋で八冊を買い、抱えて帰る。
靖国神社大祭近づき、各地からの遺家族、徽章をつけて歩いているのが、神田辺に多く見える。婦人会の白い襷をした女や、軍関係の案内人がまた多く見られた。この日渋谷駅前で東京パン二階に上り、八十銭のランチを食べたところ、厚さ五分ぐらいのパン一切に、直径二寸ほどのカマボコ様のもの一個に、中位の甘藷三分の一ぐらいの分量を小さく切ったのを煮たのや、そのまた半分ぐらいの分量の南瓜を揚げたのがついているだけ。三人分もあれば、自家で食う一食分に当るだろうか。しかも食物不足の為らしく、家庭の老人風の男や、孫を連れた老婆や子連れの母などが、行きずりの勤人や学生に混って列を作ってはその切符を買い、人が食べている後に立って席の空くのを待っているという様である。市内方面では食糧不足を、こういう食堂や蕎麦屋などの切符なしで食べられる食物によって補っているさまがよく分る。切符制以外のこういう食物が一種の調節弁をなして食糧不安を救っているのだ。夕方家に戻って聞いたところによると、今日菊が花村夫人と二人で、祖師谷二丁目の方まで、あちこちと農家を訪ねて馬鈴薯を買いに行ったが、五軒もの家で素気なく断られ、やっと六軒目に老爺がいて三貫匁売ってくれたが、一貫目一円三十銭だったという。公定の三倍程であろうか。そういう所を見ると、東京に近い郊外の農家から、闇値でも藷類を買うのは楽なことでないらしい。私の所では、甘藷を掘るのを、なるべく遅らせるために、今の所どうしても何かほしいのである。もう少し買いたいと貞子は言っている。
この三日間の各地の水害の模様発表された。流失家屋や死亡者は少いが、田や畑埋没、冠水が随分多いから、作物の被害は相当あるにちがいない。関西の大水害に較べれば、些細なことであろうが、どうやら結局今年は凶作ということになるのではないだろうか。静岡県で田畑埋没二百四町歩、冠水四百五十町歩、千葉県で冠水四百町歩、という。冠水すると米は発芽して駄目になると峰岸君が言っていたが、これは私にはよく分らぬが、かなりの被害なのであろう。
志賀重昂の「大役小志」描写が細かくて生彩あり。旅順戦しか従軍しなかったらしいが、これはいい記録である。
ビルマの前線モンドウに敵小部隊上陸して来て殲滅される。これは大会戦の始まる前徴の偵察戦であろうか。雨期あけというから、やがてこの方面が重大戦場となろう。朝日夕刊に猪熊、向井両画家のビルマ前線談が出ている。戦地をしのぶに足る。夕刊に、南太平洋前線にいる米人クラーク・リーというA・P特派記者の日本の戦力評が出ている。生産力、輸送力、民族団結の状況等にわたって日本の戦力をかなり重視した批判である。敵の一部にはこういう見方もあるのだろう。事実大東亜の生産組織を早く立派にすることこそが急務だ。敵も日本に戦力の蓄積をゆるさぬようにする目的らしく、かなり積極的に出ている。しかし目下の所は日本攻撃は第二義的にされているのだから、敵の主戦場欧洲でドイツがどこまで持ちこたえるかによって、大きな変化が太平洋に生じて来るのだと思う。
今日出征兵多し。京王電車で一人、玉川電車で一人、同車し、烏山駅で一人見た。そして家に戻ると、鹿島組の常務が娘のために買ったという前横の未完成の家の手入れをしている大工が、出征することになったとて貞子に挨拶しているところであった。町で出征の旗の並んだ家も数軒見た。時々波のように、かたまって出征がある。この夏峰岸君たちの応召の頃が一しきり多かったが、その次がまた始まったのである。
十月十二日 晴 無風 よい秋の日である
今年度の米収穫第一回予想は六千三百三十万石と発表さる。平年作の量という。しかしこれは九月二十日現在で関西風水害の当日のことである。被害はその後数日間に増加したのだから、実収はこれより少いと思わねばなるまい。
北支共産軍の討伐、九月以来行われていたとて結果発表さる。一ケ月の中に遺棄死体八千七百、捕虜四千五百というから大きな戦争と言わねばならぬ。しかし敵の武器は著しく弱化しているらしい。南太平洋海軍航空兵の生還記を新聞で読む。こうして戦い、海を越えて生還する兵もあり、海で死ぬ兵もまた多いのだ。同じ日本人でありながら、私たちの生活の平和さはどうだ。ありがたいと思わねばならぬ。
日用品の入手難や不便不合理について、東京新聞で当局の官吏の返事を掲載している。男の下駄は闇でないと入手出来ず、傘は隣組十軒に対して一本ぐらい時に配給という程度、塵紙は家ではこの二ケ月程全然入手出来ず、新聞紙で代用している。しかし、それでも、どうにか間に合ってはいるわけだ。菊は先日半日立っていたが縫糸を買えず、今朝七時から糸を買うとて、編物を持って行列に立って三時間ほどで買う。縫糸が足りなくて、つくろい物が出来ないのだという。昨日街を歩いて考えたことだが、自分の顔の表情がおだやかに過ぎ、外の男たちとは違う。電車の中などみな軍需会社か役所にいる人たちに見え、何か緊張した表情になっている。精神的に緊張する表情になっていて、しかもそれが身体を動かすという方向に集中し、細かな表情や情操が失われている。私などの仕事は、たとい内容が戦記物であっても、心を静かに沈めていなければならないので、その為か自分の顔が萎縮したような表情に意識される。それから国民服が目立って多くなり、工員風の国民服型の労働着が一番多い。また中年以上の背広を着た男でも、中折帽は少く、戦闘帽か国民帽が多い。私の鳥打帽など少々有閑的に思い較べられる。たまに着物に角帯の男などいると、いかにも目立って反時世的だ。神田で蒲池君の八弘書店に寄ろうとするとこの一月来ないうちに、すでに引きはらっていて、店はない。どうしたのか。この頃出版屋の整理合同が始まっているというから、或はそういうことになったのか、それとも他に店を移したのか。
畑――朝から「鉄蹄夜話」の索引を作り、午後二時迄に四分の三程に達す。この仕事、ひどく頭を煩雑に使うものだが、大分慣れた。そのあと畑に出、今月上旬迄という冬菜類、小松菜や高菜などを四五坪播いて夕方になる。先に施肥してホーレン草を播いたが駄目だった所を掘り返したので、早くはかどる。貞子里芋を掘っている。一株に十三四ずつ出来ていて豊作だという。
夕刊に「我海軍航空部隊はニューギニア島ラエを二回にわたり急襲、港湾其他の軍事施設に爆撃を加え五ケ所を爆破炎上せしめた。敵対空砲火は熾烈であったが我方損害なし」という文が、読売に「南太平洋○○基地特電十二日発」として出ている。うっかり読んでいたが、気がついて驚いた。ラエはついこないだ敵がホポイやフィンシハーヘンに上陸する迄、我方の大きな基地であった。それがいつの間にか、我軍はラエから撤退し、敵陣となっているのだ。我軍がはじめニューギニア東北岸に上陸したのはこの地点らしく、一時はここから進撃して、スタンレー山脈を越え、南岸の敵基地ポートモレスビーが見える所まで進んだという。
私は、いつからとなく、このラエが守られている限りは、ラバウル方面の我根拠地との連絡も確実だと思っていたのだ。それがいつか、この地は西北のベナベナとか、西方のファブバとかいう敵の新基地に包囲された形となり、果ては敵がここを飛び越して、その東方のホポイやフィンシハーフェンに上陸してから、とうとう我軍は守り切れず撤退したのだ。勿論その南方のサラモアも敵手にゆだねられているであろう。何とも残念なことだ。ソロモンやニューギニア方面では昨年末のガダルカナル戦以来、敵が進撃上陸して来た地点で我方で奪還したものはない。ラバウルのあるニューブリテン島は次第に孤立して来た。じりじりと我軍は下っている。我軍は押されているのだ。飛行機と輸送船の不足からであろう。よほどの大増産をしないと、今のこの方面の敵を押し返し、ビルマを守りとおし、なお将来の敵の大攻勢に備えるということは難かしい。
夕刊によると、官吏の減員、官庁の疎開、大学や専門学校の整理はいよいよ実行にとりかかると言う。内外の事態は急迫している。
また夕刊によると(ストックホルム十一日同盟電報)ロシア軍は遂にドニエプル川を渡り、キエフを南北から包囲しかけている。ドイツ軍は、この一線、ほとんど現在のドイツの戦力の試金石とも言うべき所を守れないのであろうか。独軍はしきりに今年の撤退を自主的なものと称しているが、それにやや信を置きがたくなって来た。こういうドイツを放置したまま、日本軍は満洲国境にあって、じっとしていていいのか、という気持になって来る。案外近いうちに満ソ国境で何かが起るのではないだろうか、とも思われる。
女子供を銃剣術の稽古に引っぱり出すのは行きすぎだ、と新聞の投書にあったが、昨日からまたその呼出しが回覧板であり、仕方なく菊が昨夜岩佐高女の校庭へ七時から九時まで出た。家でもこの頃貞子が元気で働いているからいいものの、菊は朝から糸買い、八百屋の行列、魚屋の行列、昨日は馬鈴薯の買い入れと、牛乳の証明もらいに区役所行などと、ほとんど戸外の仕事に全部の時間を取られる。午後少々の時間に家中で畑をするのだ。時間も身体も余裕がないのだ。防空演習はとにかく、銃剣術だけは、よしんば訓練になるにしても精力と時間の貴重さを知らぬやり方だ。金持の有閑令嬢か有閑夫人のみを選択してやるのなら、意味があるだろうが、私の家では貞子が弱くって菊をおいているのに、その女中は外を歩くのに一杯で、貞子が家中の仕事を一日中やっているぐらい今の東京では女が忙がしいのである。
旧市内では糞尿汲み取り人が一月も来ない所が多く、各戸とも困っている由。都長はその問題解決のために委員会を組織したというが、これも人手不足と、労働者が怠慢になって、碌に働かぬせいであるらしい。これは二三年前から、定期的にむしかえされる問題だが、なかなか片附かないのである。
昼に来た芸術新聞に、書物の企画が出版会を通る内輪話がのっている。これは全く笑いごとでない。私たちの仕事と生活が、こういう機構に依存しているということを、怖ろしいと考える。私にはまだ不許可になった本はないが、多くの作家の本がそういう目に逢っているのは、事実らしい。
十月十三日 曇 東風 昨夕下痢す、ジルベロイド用う。(バターの取りすぎなり)
学校整理案の細目要領発表さる。私立の文科系大学は相当数専門学校に変え、しかも収容人員は半分ぐらいとするという。また従って合併等も行われる。高等学校の教育は続けるという。そうすると将来は、文科系の大学は官立のみという風になることであろう。毎年四ケ月間は学生は勤労することになるという。また官吏を二割五分減員、翼賛会は四割減員という。それを以て見ても今度の国内整備は大変革であり、及ぶ所は更に更に大きくなることが予想される。官庁の地方疎散というのは、今日の発表を見ると、差当りは主に研究所とか学校とか印刷工場とかいうものであって、中枢官庁そのものは動かぬようである。
また朝刊で空襲の救護と緊急避難要綱が発表された。今度は避難の訓練を、警視総監からの発令で実行するという。その時の携帯品なども出ている。また携帯出来ぬ大切なものは穴を掘って、埋めておくようにと指示されている。
この頃新聞の案内欄を見ていると、(特に朝日に多い)旧市内の邸宅の売りに出されるものが甚だ多く、また地方へ「都心へ二時間」とか、「畑つきのもの」とかいう条件の売家を求める広告が目立っている。市内の大きな邸宅は工員の宿舎になることが多いのであろう。繁華街の店などは商売がほとんどないので、カーテンを下している所が多いが、そういう所も次第に住宅化されるらしい。売家は多いが、貸家は欠乏していて、三間ぐらいで五六十円という程のようだ。四五年前の三倍ぐらいである。官庁の第一次疎開計画によると、東京帝大法文系が移転することになるらしい。だが、それは実質的にはもう存在しないようなものだ。
先日の関釜連絡船の沈没では加藤鯛一という代議士ともう一人何とかいう代議士が死んだ。その他東京の人が大分死んでいる。その後内地から満洲方面行の客は、資格の制限による乗船指定制となっているが、満鉄でもそれに軌を合せて、日本内地向旅客の制限を始めた。それによると、(イ)軍務のため旅行する日満軍人軍属、(ロ)応召者、(ハ)公用の官吏、国家目的を有する公用特殊会社員等以外の不急旅客には連絡乗車券の発売を停止する、というのである。これでは旅行停止というのに等しい。こういう重大なことは割に小さく取り扱われるので気をつけねばならぬ。私も来月あたり渡満するのは難かしいことになりそうである。仕事の捗り方も今の所では、はかばかしくない。出版の方も、急に甚しく窮屈化するかも知れず、あらゆることに予測を立て難くなった。
貯蓄券というものが、五十銭の小額から十円迄出来、買い物や遊興客の支払いに抱き合せて買わせるようになるという。贅沢な生活面への新税とも言うべきものであろうか。
近時米国の飛行機生産量が計画量に達しない原因について、米の軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは、ニューヨーク・タイムスに評文を発表している。(ブエノスアイレス発同盟電)その中に、色々原因を挙げた末に「然し生産遅滞の最大原因は最近労働者の間にみなぎり始めた戦局の前途に対する根拠なき楽観である。即ち彼等は既に欧洲の戦はほぼ片づいたとし、対日戦においても勝利疑いなしと信じはじめている。然しながら彼らは反枢軸空軍が如何に重大な損耗を受けているかを知らないのだ。例えば欧洲本土に対する爆撃において反枢軸重爆撃機の損害は非常に高率というわけではないが、然しその損耗率は徐々ながらも確実に増加している。更に事故による損害および作戦による損耗を合すれば、その喪失高は現在の戦闘による損害の倍にもなろう。かくて一月に十回以上の大爆撃を敢行するとすれば、第一線機は二ケ月から四ケ月毎に全く新しい飛行機と交替させねばならぬ」と言っている。以て敵国民間の戦局の見とおしと、敵の欧洲飛行機爆撃戦の一斑を知ることが出来よう。彼等のドイツ観測も危いものだが、日本の戦力観は、日本の力を工業力のみから理解している為に甚だ安易である。今に本当の日本の強靱さを悟ることになるであろう。それにしても日本の戦時組織化は遅れていた。今やろうとしているぐらいの組織変更を、何故大東亜戦開始すぐに行わなかったのだろう。順序があってすぐには出来なかったのだろうか。あの時に行えば、勝利感の中でまた極めて行いやすかったであろう。今になって行うのは、戦局不利の際だから、少々暗い感じを伴うという損がある。
午後田原忠武君来り、「文学報国」の「今日に生きる喜び」という欄に二枚の短文書くよう言わる。「文芸時評」は書きにくいので、返事せずにおいた所とて、ちょうどよい。
十月十四日 晴 ジルベロイドよく利き下痢止る。
東久邇宮盛厚王殿下と照宮成子内親王殿下の御結婚の儀、昨十三日あり。昨日風邪気味で寒気がし、朝から煙草不味。夕方念のため、インドラミンを注射し、オキシフルにて含漱し、早寝をする。今朝ほぼよし。昨日など一時間おきに小便五六回あり。本当ではないと思う。
我海軍航空部隊は十二日未明、印度のマドラス港及セイロン島を空襲した。我が海空軍は昨年四月セイロン空襲で英空母ハーミイスを撃沈したが、今度の空襲はそれ以来一年半ぶりのことである。マドラス攻撃は初めての由。緬印国境戦の一先駆であろう。敵もマウントバッテンを司令官としてこの方面に兵力を集めているが、そのすぐ後方のカルカッタ附近は未曾有の飢饉であるという。ビルマでは米があまっているのに、日本にも持って来れなければ、印度人を救うことも出来ない。これが戦争だ。今日はフィリッピン独立の日であり、靖国神社招魂祭の日である。
昨日田原君の話に、文学報国会にやって来る教員をしている文学者たちは、みな不安がって落ちつきがないようだという。また勤労報国隊をつのった所、ハガキ回答が来たが、どうも文学者には病人の多いのが目立つという。しかしまた中には「少々老骨ながら」と進んで志願する六十余歳の人もあり、急に病気なりと申し立てる人もあるという。
昨日は「鉄蹄夜話」の索引の残ったのを作り終え、夜は寝ながら、ヤン・ヘイの「前線十万」という本を読む。前大戦時の英軍キッチナア部隊員の作品。桜井少将の訳。英人特有のユーモアあり。彼等の戦争意識が、かなりよく分る。
午前十一時、「鉄蹄夜話」の評を六枚迄書いたところへ、田居尚君自転車にて来る。私の写真機を彼が出すと言って質札を渡してあるが、期限が切れているからと注意する。彼は、じゃすぐ明日にでも出すからと言う。学校の整理で、彼の甥の仲川君も来年の受験をひかえ、全く入営の覚悟をし、その上で獣医学校など一二受けて見るとの話など。おたがいに生活の静けさをありがたいと思わねばならぬなど言い合う。彼はこの月初め渡支の予定だったが都合でやめてよかった、と連絡船沈没のことを言う。
昼食後二人で自転車にて蘆花公園に行く。木茂りて暗い。少々陰鬱すぎる気味。その途中の庭師の家の前に彼は赤い庭石を見、帰途立ち寄って値段を聞く。三鷹の田居家まで届けて三つで三百五十円とのこと。相当の値段だと思う。そのついでに私は、そこにあった棒材の値段を訊ねると、やっぱり公定でないと断って、一本七円から十円という。長さは三間ほどもある。台所のさしかけを作るには是非要るので、買いたいと思う。
夕方貞子の話では、午後近所の農家で馬鈴薯を四貫、一貫目一円二十銭で買ったという。またその家では卵を一個十五銭で分けてくれたという。これは、ちょっと驚くほど安い。いい家を見つけたと話し合う。一日分の乾パンが配給された。バタをつけて食うと大変美味である。
夜「鉄蹄」評を十二枚まで書き、更に「文学報国」のため、二枚の原稿「ある日のこと」を書く。九時頃まで、近くの高女校庭で銃剣術の稽古を受けている女の子たちの声が聞える。菊はしきりにそれに行きたがっているが過労になるといけないというので貞子がとめている。
十月十五日 晴 無風 あちこちに見える欅の大樹の葉少しずつ色が変って来る。秋は深まる。
昨日あたりから、家の上を赤く塗った複葉で、すぐそれと分る練習機が三機編隊で飛んでいる。ここは調布飛行場の東方五、六キロにあたるので、そこから飛び立ったものである。今年の夏頃までに入隊した学生の飛行見習士官たちが多分飛んでいるのであろう。その時の志願飛行兵たちに続いて、今度は法文系の学生の適齢者全部が入隊する。いずれ飛行隊に一番多く入るのであろう。学生が主体となって日本の空を守るのだな、という気がひしひしとする。新聞によるとこの頃各大学で入営者の壮行式が行われている。
一昨日から作ってある煙草液を白菜と大根の畑にかける。白菜には青虫が沢山ついていて、貞子が二三日かかって虫をとる。そのあとへ石鹸を混じた煙草液をかけるのである。ついでに、もう遅いかとも思うが、小松菜と高菜を幅広く、一畦播く。手押の噴霧器を使うのは、大分疲れるものである。それがすんで家に坐っていると江口清君来る。都役所を夏にやめてから、しきりに職を探していたが、文部省に入ることになりそうだという。二割五分も官吏を減員するというのにね、と彼自身がびっくりしたような言い方である。仏語の出来る人が入用らしいのだ。彼はしきりに徴用の話をして、徴用は困るからと言う。たとえば我々がいま軍需工場に進んで入るにしても、仕事は人事課とか厚生課などで、その主な仕事は地方へ行って工員や女工員を募集するのだが、これは地方の職業紹介所員と何とかうまく折合をつけねばならないので、とても困難でいやな思いをしなければならぬことが多いという話。また工場にいても工員の気が荒いので、配給などで下手なことをすると殴られることなどあるという話などを、彼は知人の軍需会社に出ている人から聞いて来たとて話す。また彼は、自分は商業学校を出てアテネフランセに入ったのだが、アテネは学校として認可を受けていないので、学歴は中等学校であり、かつ年が三十五なので、徴用を受ける可能性が多いのだと言う。私は彼と学歴年齢等が少しちがうせいか、そういう心配をほとんどしていないが、彼の話を聞くと、なるほどと気の毒にもなる。評論家の古谷綱武君の所に徴用が来て、彼はあわてて翼賛会にいる友人に相談に来た由。江口君に日本風俗史と薪用の鋸を貸してやる。
昼食後、文報の評論部月例幹事会ありとて出かける。この会に出かけるのは、当初以来である。その前に近藤春雄君の所に寄り、大陸開拓文化会から満洲派遣員として行けないかと様子を訊ねに寄る。彼は留守。銀座で川崎昇君を大同通信社に訊ねる。通信社の合同がいよいよ行われるが、彼は大同から常務(?)としてその新社に入る筈という。そういう重役でないと、三月迄に転職しない限り、厚生省への届け書によって一括してどこかへ徴用されるのだと言う。彼は四月には満四十歳になって徴用の期限が切れるのだが、それでも駄目だ、という話。どこへ行っても徴用や就業禁止の話である。街を歩いても茶をのむ所がなかなか無い。やっと耕一路(?)に寄ってちょっと話す。プリン風の菓子とジュース。今頃にしては気の利いたことである。別れて三時半頃文学報国会に行く。春山行夫、私、それに芳賀檀の三人の委員が集り、河上徹太郎君と会う。特に議題はない。春山君ひどく痩せ、糖尿病になっているのだという。しかし相かわらず元気で色々な仕事、特に彼のやっている海外宣伝や外地向通信原稿を作る半官半民の仕事の話。渋谷で別れる。近く遊びに来るという。あなたの方は空襲の危険は少いでしょう、僕はこの頃ちっとも使わない文学系統の蔵書をどこかへあずかってもらいたいのだが、などと彼言う。彼の本を預るには、ちょっとした家が一軒ぐらいいるだろう。「文学報国」編輯部に原稿を届ける。
この日外出していて、ひどく疲労を覚え、また夕刻五時頃熱っぽい。畑をしたりして休まずに外出したせいか、とも思うが、しかしどうも身体の調子は微熱の続いた昨年の春に似ている。完全ではないのだ。昨日あたり風邪気味になって、すぐ直ったこともその一つの現われだ。毎夜九時半頃まで仕事することと、煙草を十五本ぐらいずつ吸うのがいけないと思う。午後横臥して夜は早寝ということにせねばならぬ、と思い出す。これでは満洲行どころではないだろうか。夜それでも湯がわいていたので入浴、安眠す。
錦城出版社の広瀬照太郎氏から、八光の原稿は、十一月掲載の由と、それから書き下しの約束の長篇を書いているかと訊ねて来る。この前逢った時私ははっきり約束したとも思っていなかったが、向うはその気だったらしい。
十月十六日 曇
ニューブリテン島の我根拠地ラバウルに敵機二百来襲す。いよいよこの方面の我本拠ラバウルが敵の狙う所となって来た。深刻な段階になって来た。その大本営発表と同時に、今度の臨時議会提出案として、軍需会社の企業を政府がじかに強力に取締り、生産責任者の任免権を政府が把握することになると発表。これは株主の意向、利潤の多いのを狙う傾向を阻止して生産力を高める為らしい。そういう方面には深い影響があるだろう。兵役の服役が四十五歳まで伸ばされる案も出る。
一日おけば、どういう変化が我々の生活に現われるか分らない。この条令によって、私も四十五歳まで兵役義務があることになるようだ。それまでは常にお召があることとして毎日を生きねばならないのだ。〔それまでは……以下はノートでは著者によって抹消されている。〕昨日は川崎君と、おたがい四十歳に近づいたが、四十になると兵役も徴用もないとすると、年寄りの役立たずに扱われるようで変なものだと話し合った。またどうも近いうち兵役は四十五歳まで延ばされるらしい、またことによると十八歳からも兵を採るらしいなど予想して話し合っていたが、夜が明けると、もうその四十五歳まで皆兵が実現されることになっている。刻一刻が巨大な波の動きをもって変る時代だという感が深い。私の身体は役立たずだなどとは言っていられない。いつ召集があるか分らないという覚悟、つまりいつ自分の文学生活が終るか分らないという覚悟をして、いま考えている作品を書き上げることを第一に考えねばならない。
防空のための疎開が政府から今度は強制的に実施されることになる案も提出されるという。
フィリッピンの独立宣言当日の写真記事などが多い。随分賑やかにやっているようだ。
今日は、靖国神社大祭で御親拝ありという。毎祭きまってのことだから、雨が降るかも知れぬ。
独軍はアゾフ海北岸のドニエプル下流の湾曲部にあるサボロージェを撤退したと公表。クリミヤへ独軍が退くと、忽ちソ聯軍はクリミヤに上陸して追跡して来ている。サボロージェ辺をソ聯に取られると、クリミヤの北方の地峡が危険になるのだから、クリミヤ半島も独軍は守りがたくなるのではないだろうか。憂うべきことだ。
十一時頃、錦城出版の広瀬氏あての手紙を書き、外出。招魂祭当日とて人出が多い。伊勢丹七階で、食事。大分待たされたが、人参と浅里貝のカキ揚げ三個と汁一椀に、麦と馬鈴薯の飯が私の家の量では一杯分ぐらいで一円の日本定食というもの。これでもここは内容のいい所である。食後一階の薬品部でスカボールザルベ二個とテラポール軟膏二個を買う。テラポール軟膏は痔によく利く。私のは三日ほどつけて、今ではほぼ直っている。それで念のため買っておくのである。
信濃町の近藤君宅へ行く。在宅。満洲行の件相談すると大陸開拓文化懇談会には、五人分の経費があって、その内、湯浅君、円地女史等三人が出かけ、二人分まだ予算がある故、私の方にまわすよう取りはからってくれるとのこと。いよいよこれでは行くことになって引込みがつかなくなりそうだが、一体昨日考えたような自分の身体の調子で行けるのだろうか、と改めて考える。しかし近藤君には、よろしくとたのむ。しばらく喋ってから二人で四谷見附に出、裏通りの小さな喫茶店で、時局の話など。彼はこの頃軍人と近づきになっているが、近く印度作戦が始まるらしいと言うことを聞いたと。これは、マレー進撃当時のような大作戦であるらしいと。濠洲方面では積極的に出ず、印度を抑えてしまえば、それでこちらの勝ということになるようだ、というのが近藤君の観測である。ニューギニアやソロモン群島方面では消極的に深刻な戦況を聞いている時故、うれしくなる。しかし日本軍の力はゆるがぬものであるが、飛行機と船の量がその作戦を行うだけあるのか、どうか。それがあるなら、まことにこれはいい話である。
貞子、昨日の入浴がたたったとて、朝からインドラミンの注射をし、寝ている。留守に、近所の井上さんという(石川清君の友人だという)人が国民登録の下調査に来た由。また山下均君来て塩を少々くれたので、甘藷と大根を二本ずつ上げた、と貞子の話。
十四日午後ドイツのフランクフルト東方八十哩にあるシュワインフルトを空襲した米爆撃機は、四百機のうち百三十九機を撃墜された。米軍は編隊の外囲に空の巡洋艦と称して爆弾を少しも積まず機関砲三十門を備えたものを配すという厳重な防備であったが、独空軍はまた極めて強力な機関砲を備えつけ、それが有効であったばかりでなく、モザイック戦術というのを採用したという。これは米空軍を分散させては撃墜する方法らしい。欧洲本土に米機が現れるや否や連続して攻撃を加え、また独軍は敵を分散させる為にロケット煙幕弾をも使用したという。この戦で独側の損害は戦闘機十七機だという。この四割に近い撃墜というのは独側の防空充実の証拠として心強いことである。ルーズヴェルトは十五日の新聞会見で「米空軍が毎日こんな損害を受けてはやり切れない」と言ったという。これは最近の新記録である。これまでは撃墜は一割というのが相場であった。またアメリカの飛行機戦理論家のセヴェルスキイは、ドイツ空軍は必ず目下対英大空襲の準備をしていると考えられ、その対英空襲はよほど大規模の徹底的なものにちがいないから極めて警戒すべきことである、とアメリカン・マーキュリイに論文を書いている由。空襲する方も防ぐ方も、たがいにその力をせり上げて行っている。ハンブルグに加えられたような、否もっと大きな徹底的空爆をロンドンに加え、ロンドンを地上から抹殺してやるといいのだ。
キエフ攻防戦はいよいよ重大化し、ソ聯は同市を北方と東南方から力攻している由。ソ聯はすでに冬で、ウラル地方やヴォルガ上流は降雪しているという。冬来る。この冬は、大きな勝敗の別れ目となるような気がする。夜「鉄蹄夜話」評十七枚で書き上げる。
十月十七日 小雨 朝雷鳴あり(日曜)神嘗祭 終日細雨
皇軍ビルマ作戦の一部であろうか、ミートキーナより東面して重慶軍に向って攻撃を開始した。先ず重慶軍を叩いておいてから西に向って印度へ入る、という順のような気がする。またアッツ島を海空軍が爆撃した。何となく積極的な気配がある。
午前、甘藷の葉が一週間程前から赤くなって来たので、応接間の前の辺から掘り始める。苗の間が近かったためか一本で二百匁程しかない所あり、これでは全部で五十貫程度で、予想の半分である。それでも今後二ケ月間の補充食として役立つであろう。昼食はその藷にてすます。
午前中より「肉弾」の索引にとりかかり、夜八時半に完了す。貞子風邪とて、今日も寝ている。インドラミン注射す。
「肉弾」はやっぱり日露戦記中の代表的な傑作である。類書から図抜けている。この頃は戦争の悲惨を書くことが自由でなく、その点「肉弾」のように自由には書けないであろう。
今夜と明朝新聞は祭日につき休刊なり。
十月十八日 晴 無風 礼は午後七度三分あり。元気よし。
貞子朝から気分悪いとて寝ている。昨日も今日も、朝強力メタボリン、夕方インドラミンの注射をする。メタボリンはもう四五本しか無い。
すでに十月も十八日となった。あわただしく、何かに追い立てられる感が強い。年の暮もやがて来るであろう。文筆生活も長くは続けられぬという気配を時に強く感ずる。仕事をその為か、何となく急ぐ気持。評論集の原稿やっと八十枚である。急いでもこの月一杯はかかるであろう。来月には満洲へも行きたいし、出来れば行く前に「幼年時代」も書き上げたい。今書いている評論集は引換に印税半額を受取る約束で、差しあたり宛に出来る収入はそれしか無いのだが、果して、今のような出版情勢で、本屋はその金を払ってくれるであろうか。心もとないことである。
しかし、満洲行の覚悟は次第に固まり、それを機会に、「旅順」ともう一つの長い日露戦の小説との腹案をするのが楽しい。それが将来自分の全力を注げる仕事となるのだ。
朝気持が落ちつかぬ。昨夜と今朝新聞の来ないせいか。自転車で出て煙草を烏山で買い、蘆花公園の方から家へ帰る所を、一昨日〔ママ〕田居君と訪ねた植木屋に呼びとめられる。気短かの歯ぎしりしているような男で、近く庭石や木の税が三割から十割に上るから、石を早く買うなら買ってくれとのこと。あの人に逢ったら話しておくと答え、話をしているうちに、あの折見た棒材を買おうか、ということになり、彼の家へ行く。四間ほどある太いのが十二円、三間ほどのが十円という。それを二本ずつ買い、リアカーを借りて家へ持って来る。四十五円払う。売るのに大威張りである。彼の話によると、竹も売ることを禁止されていると。近く販売統制組織が出来る為とのこと。竹なら買えるだろうから、それを使って台所の外の小屋がけをしようと思っていたのに、もう何もかも買えなくなってしまう。買いおきのいい板を使うのは惜しいが、それを使ってやるつもりにする。この棒材を運ぶのに汗をかき、少し疲れ、午後二時間ほど午睡す。(ふとんを敷いて。)
広島の小松治郎一氏より水害見舞の返書。さしたる被害はなかったという。基が文子さんとの結婚の話を断ったのも、さして気にかけていないような文面。遊びに来いとのこと。満洲行の折に寄りたいものである。
午後、白菜と大根に煙草液をかける。後で播いた菜類も芽を出して来る。野田生の義父より、乾鯖三十枚、煮乾二連程送って来る。野田生への返金三百円為替にしてあるのに貞子まだ送らない、気にかかることである。
夜、朝やりかけの原稿「肉弾」評五枚迄書く。
昼間、二三日前からの「前線十万」を読み終える。英人風のユーモアはあるが描写では「西部戦線異状なし」に遥かに劣る。文学というほどのものにあらず。「肉弾」にも遥かに劣る。
読売に、イタリアの現状のことが特派員の電話で出ている。その混乱の状を推定するに足る。
十月十九日 晴
この頃日が短くなり、五時を過ると暗くなる。朝は五時半頃に夜が明けるようだ。銀杏、欅がやや黄ばんで来る。
服装、夏シャツ上下の上に、毛のチョッキ、職工服の上着。朝夕はその上にスプリングを着て室に坐っている。貞子大分元気で恢復期に入った模様。
朝十時頃地震あり。硝子戸が鳴るぐらい。これぐらいの地震がこの頃月に一二度はあるようだ。地震のようなものすら、平時と違った不安を人に与える。
身体少しだるく、煙草不味。風邪の前兆かも知れぬ。
昼食に菊が家の甘藷を掘ったのを食う、美味なり。食後、応接間の前の豆畑を掘りかえし、油菜、白菜、つまみ菜を幅広く一畦播く。時期は十日ほど遅れているが日当りよく風の当らぬ場所故育つかも知れぬ。なお早く播いた縁側の菜畑の芽の出ぬ所へ油菜を播き足す。(左半分)
午後曇って来る。前横の家の石門が出来上る。戸袋など新しく取りつけ、よい家になる様子である。「肉弾」評朝から続ける。山下均君よりやや感傷的な四枚の手紙来る。青年には時代の不安がまた一層大きく響き、心のやり場のない事があるのであろう。
夜原稿二十二枚目に達す。加持夫人来り、明日塚戸学校である防空の指導訓練に看護の方の見習として出てほしいとのこと。二十三日に、その当番の粕谷夫人が出られぬので、その代理にとのこと。三時から出ると承諾す。
独機のロンドン爆撃、英機のベルリン爆撃が報ぜられている。
十月二十日 晴 暖し 貞子大分元気 ホルモンの注射
貞子、野田生の義母あて手紙を書き三百円為替にて送る。その郵便を出しながら烏山に行き金鵄一個を買う。朝刊によると入営する高校や専門学校の生徒たちには、明年九月卒業又は修了の証書を今出すという。一学級飛ばせるわけである。そして帰還後補習をさせて次の学級へ入れるという。学部は原級に止める由。七月から十月にかけての在支空軍の戦果、敵の百二十四機の損害に対し我は四十機、三対一である。相当の犠牲であるのを見れば、敵の空軍も充実して来ているようだ。南支陸空軍司令官中園中将機上で戦死の由。この戦争では将官の戦死が、山本元帥以下大変に多い。これまでの戦争とは違う所である。
貞子の言うところによると、生活費は、先月も今月も菊の給料やら梨や芋を非公定で買ったのを入れても百五十円で上って行きそうだという。私が棒材を四十五円で買ったのを除くと、日常生活では米、野菜、魚等で買うものが少く、あまりかからないようになって来たらしい。大体特にほしいものの外、日常の買いものは配給以外にはないのである。百五十円以内で暮し、よけいな金は使わぬように生活を整理して行けるのは、将来の生活のために結構なことだ。その外に京王への年賦という大口があるのだから、生活費全体としては相かわらず大きいのである。
手もとの金百円ほど。但し税金百二十円未払あり。これは評論集の印税をあてる筈。塩谷の母函館の弟の所へ来ている由。満洲の実十一月上京という。共に手紙来る。代議士も応召することになったら、この三四日のうちに三人も代議士の少尉が出征する由。いずれも五十歳前後であろう。一月ほど前小説家の中谷孝雄君が応召したというが、彼は四十五六歳で少尉の筈である。これは今各方面であることだろう。年とった将校や第二国民兵などは、或は国内防衛軍としてお役に立つのであろうか。昼までに「肉弾」評書き上げる。二十六枚。これまでの合計百十枚に達す。続いて「斜陽と鉄血」の索引にとりかかる。
三時頃身仕度をして、防空の救護訓練に出かけようとしていると、明大文芸科の平松恵という学生が大島豊氏の紹介状を持って来る。文学の話をしたいという趣である。入営する学生故、かえってそういう話をしたいのであろうか。やむを得ない訓練故、断って立話をし、表の県道まで話しながら歩く。折角のこと故、暇があったら、また改めて、ということにして別れる。訓練は塚戸学校の附近のシート会社の草原で、この附近四町会の各群から、防火、退避、救護と一人ずつ出るので、私は救護の講習を受ける。三時から、暗くなる六時迄。話上手な警官が来て指導する。眼の繃帯、肩の三角巾繃帯、頭の繃帯などをした揚句、骨折の副木あての操作に、私と附近の三人と四人が呼び出されて模範操作をする。私の相手は看護兵上りとのことで上手である。やって見ると、なかなか興味も湧くことである。
夕刊によると緬支国境の我軍は敵の背後に迂回して、一万七千の支那軍を包囲したという。この支那兵相手の戦争は、甚だ巧妙に作戦が行われていて胸がすくような気持である。
しかし、欧洲での独軍はいよいよ、本当に形勢日に非なりという状態である。ドイツ軍は遂にドニエプル川の線を守り切れず、ソ聯軍はクレメンチューグから川を渡り、大突破口を作って南下しはじめたという。ソ聯の戦闘力こそ真に驚くべきものだ。これはクリミヤ半島にいる独軍を遮断する作戦である。独軍の危機だ。もうどこでも独軍はソ聯軍を支えることが出来難くなっているように見えるが、これは武器不足のためか士気の頽廃か。後者であれば、大変なことである。
時も時とて、モスクワでは、初めての反枢軸の三国会談が開かれた。英のイーデン外相と米のハル国務相とがわざわざモスクワへやって来ての会談で、重みは専らソ聯側にある。しかも南亜首相スマッツが、チャーチル等と会談のあとで、反枢軸は明春欧洲の西方に戦線を開くと公言した由。それを英側の対ソジェスチュアだと解した新聞評が出ている。ヒットラー総統大本営では、先頃の会議に続いて、再び重大会議を開いたという。ドイツは遂に戦い疲れてしまったのであろうか。一昨年か、ドイツのフランス征服の映画「勝利の記録」の中でフランス代表と停戦協定を行って、例の前大戦の停戦記念の汽車から出て来たヒットラーが、日光のふりそそぐ野を歩いて来ながら、手を振って踊るように喜びの表情をしたのが、まざまざと眼に浮ぶ。ヒットラーはソ聯と戦いを始めるということで見とおしを遂に誤ったのだろうか、それとも、ドイツ兵たちは、フランス征服から四年目(戦争開始のポーランド進軍から五年目)に亙って、戦に倦んだのであろうか。この戦でよしんばドイツが破れても日本人はどこまでも英米と戦い抜くにちがいないが、それは、惨澹たる戦いとなるであろう。ドイツを勝たせねばならない。たとい効果は薄くっても、今こそロシアを撃って、ドイツを救うという手をうつべき時ではないのだろうか。朝日鉄箒欄に碑衾国民学校長が、児童の体位が十五年以後次第に低下していることを統計的に示して出している。たしかに配給量では不足なのだ。その不足を不足と言わないことが政治か、不足と明言することが政治か、難かしいことである。
十月二十一日 昨夜から雨、今年は雨がまことに多い。
チャンドラ・ボースは今日昭南市に印度仮政府を作り、同時に英米に宣戦するという。大東亜戦の一情景である。すでにフィリッピンは独立した。ビルマはその前に独立した。こういうアジア各民族に独立の誇りを与えた事は、日本の政策の成功である。これはやがて来るべき英米の反撃に我方の大きな力となるだろう。
朝日は昨夜の鉄箒欄に児童営養問題を出して、食糧が配給では絶対に不足だという実状を示したが、その反響を怖れるように今日の朝刊では、買い出し部隊の不徳を論じている。その中で、この十七日に栃木県で買い出しの抜きうち取締りをした時の統計をあげている。検挙数は千五百三十件、そのうち米の買い出しが八百九十二件である。総量三十二石、一人当り三升五合である。栃木一県だけでこんなに米を買う人が入っているとすれば、千葉、神奈川、静岡、埼玉等を含めたら大変な数と量に達するであろう。語るに落ちるようなことで、食糧は不足なのだ。昨日の碑衾校長の文ではないが、着るものは何でも構わない。食べものは少国民には十分にやりたいものだ。買い出しが不徳とか不徳でないとかいう問題ではない。子の瘠せ細るのを見すごしていられる者はないのだ。
十一時頃山際靖氏夫妻来る。山際氏のような美学者も、僕のような文学者も段々世間に用がなくなったと話し合う。山田わか女史の所にいる人だとて、旭川の義兄の妻にという三十二歳の女の写真を夫人が持って来る。昼になり、うちの甘藷や山際氏持参のパンなどで昼食。夫人の話によると市内の国民学校などでは、下層階級の子供たちは、営養不良のため、体操などをさせると倒れる子が大分あるので、そういう子に、学校で味噌汁の給食をしてやっている所がいくつかあるという。何とかなる家庭から野菜とか金とかを集めてやってやる由。市からも補助があるのであろうか。夫人の話を聞くと、昨年頃まで外米配給の時は、外米は八割も炊きぶえするからよかったが、今の一分搗きの米は二割ぐらいしか炊きぶえせず、やっぱり三分の一は量において減少しているのだから、実際不足なのだという。山際氏は、この頃も芸術科へ行っているとのことで、学校の話を聞く。やっぱり講師たちは出て来ないので、教務にいる連中だけで、午前中誰か一人が講義するという形で授業をしたり、しなかったりだという。学生の出ているものも四五十人ということ。入営は全学生の半数だという。初めは当然学校はやめになるということであったが、今では何とか打開の道をつけるべく、軍の情報関係の教育をする学校として生かそうと、松原科長が奔走中であるという。山際夫人の知人に近衛の中隊長で日露役に出た人があり、小田原にいるとのこと。研究をよくしている人だというから、その内紹介しようなどという話が出る。
山際氏に甘藷と大根を一貫目ほど土産に贈る。
塩谷の弟より送ったという荷物二十四キロの箱、渋谷駅についたという通知あり。この前は運送屋にそこから送らせて三四円もかかった。京王電車は貨物を送らないので困るのである。近所の小林家では、荷物が来ると主人が女中を連れて駅に行き、箱をこわして、中味をリュクサックで運び、箱の板や釘は別に持って来るという。運送屋もなかなかやって呉れないし、大きい箱は電車に積ませないから、家でもそうしようか、と話し合っている。
午後煙草を買いがてら自転車で出て、莢豌豆とホーレン草の種子を買って来る。蘆花公園の大きい竹屋では太い竹が沢山並べてあったのが、今日はほとんど無くなっている。統制で売り止めになったので、その前に処分したのであろうか。怖れをなして売るかどうかを訊ねる気にもなれずに帰って来る。麦の種子を種子物屋に訊ねたが、それは私の所では売りませんとのこと。農家でないと買えないのであろう。
「斜陽と鉄血」の索引を続ける。
京城の吉崎武郷という高校の生徒から、文学をしたいから指導してくれとの手紙来る。京城にいる村上広之氏に紹介してやる。村上氏から文学の話を聞かせるように、と考えたのである。番地を見ると村上氏と同番地である。おやおやと思う。
夕刊によるとクリミヤ半島北方、クレメンチューグ附近では独軍が反撃して大会戦となっている。これが多分独ソ間の実力上の決定戦となるのではあるまいか。
ニューギニアのフィンシハーフェン地区で日本軍が攻勢に出ているらしいことが、リスボン電から推定される。空軍力、輸送力が間に合えば、ここで敵を叩きのめす時期だ。時あだかも、今日は学生の入営の壮行式が、大規模に外苑で行われたという。数万の学生が、この度入営して、兵となり、将校となり、就中空軍に参加するであろう。華々しいことであり悲壮なことである。その写真を見ていると、日本は負けはしないという感がひしひしと湧いて来る。
千葉県では明日から、葱一本も芋一つも畑からじか売りはしないという。買い出し問題の一つの結論である。他県もそれに習うことになるのではあるまいか。それがいいと思うならどの県も断然実行して見ることだ。そうすれば、それによって帝都が飢えるか否かの実状が分るであろう。
ラバウルに行っている弟の薫から、夕刻手紙来る。薫の養父である広島の小松家の娘文枝と、基との結婚の件で通知した返書。基の方から断ったのが気に入らぬらしく、何とかまとめてほしいとのこと。薫はその手紙の中で、生きて帰れるとは思わぬと言っていて、書き方も性急であるが、フィンシハーフェン附近の戦闘には、或は彼も加わっているかも知れぬ。私の六月廿四日の手紙を八月三日に、七月廿八日のものを九月十四日に受けとったというから、ソロモン方面まで割に早く着いているのだ。彼の手紙は九月二十日付である。二重の和封筒に白い小型の用箋を使い、万年筆らしいペン文字で書いている。どうやら最前線ではないらしい。或は何か部隊本部とでもいうような所にずっといるのであろうか。色々な事情で百日ほどどこへも手紙を出さなかったとも書いてある。それはどういうことか分らない。手紙はちゃんと受けとっているから、ニュージョージア島やベララベラ島のような第一線にいたとは思われないのだが。
しかし、激戦地の南方戦線のことだから、本当に生還は期していないのであろう。基の件、この手紙をまわしてやらねばならぬ。夜薫へ返書書く。原稿紙に細かく三枚、各枚八百字見当のもの。
十月二十二日 晴 夕刻雷雨 貞子風邪全治す
明日の防空演習の予行ということで、朝八時半加持家に各家から一人ずつ集る。明日の演習からは、「訓練空襲警報!」などと呼ばないこととなる。私は今後ずっと見張員ということになる。楽な仕事である。明日は私の家に不発爆弾落下の想定をするという。緊急避難、というのを今度から稽古するという。(滋は運動会とて寿司を作る。)バケツ操作の練習後、私は加持家前の角に一人用の壕を掘る。
昼食後菊と渋谷駅に行き、塩谷よりの箱一個受取る。近所の小林家の主人の真似をして、金槌釘抜等持参してその場で箱をこわし、中味はリュクサックと風呂敷に包み、箱板筵等はまとめて持って帰る。京王電車は荷物の配達をしない上に箱のままだと電車に持ち込めず、運送屋に頼むと法外の金をとるからである。中味は、するめ二束、昆布、鰊身欠、数の子、白子等である。開けるのを見ている構内の人夫たち「在る所には在るものだなあ」と歎声を発す。全くこういうものが宝物に見えるような時になった。そう言えば京王電車にて野菜買い出しの女たちこの頃また多く、目立つ。組長桃野氏が、どこからかハムを百匁ほど一円で買ってくれたとて夕食に出る。珍しい。貞子応接間の前にホーレン草を短く四畦ほど播く。夕刻、雷がひどく鳴り、雨降る。滋の帰っての話によると、中野の東京高校附近で落雷あり、電柱二本倒れて燃えたのを見たという。今年は雨多く、かつ雷の多い年である。
大根、早く播いたのは、大きくなり、毎日食べていて美味である。早生種の大きくなったのが、まだ七十本あると貞子言う。
私は身体の調子よくなって来た。秋に入って下痢しなくなってから油類を取り、ハリバをのみ、条件がよくなったのである。今日など午前は演習、午後は荷物をリュクサックにて運び、疲れを覚えない。
夕刊によると、フィンシハーフェン方面の我軍は、敵を圧迫して進出している。我が南北両軍が合体したというのは、南方ラエ方面にいた我軍が脱出し得たことではないか。数ケ月以来の激戦をしていると言うから、後方輸送の比較的有利らしいこの地で、我軍は決戦をいどむことになったのかも知れぬ。それにしても敵側の発表のみで、もどかしいことである。
帝国教育会出版部で私の「雪国の太郎」の世話をしてくれていた児玉二郎君工場に徴用されたとて挨拶の手紙来る。どの人が明日にはどういう立場になるか、まるで分らない世の中となった。児玉君は真面目ないい人であったが、労働者としてやって行くのは、これまでの仕事が仕事故骨が折れるであろう。
昨日自転車で煙草買いに出て、両切がなく、朝日を一つ買って来たが、今日渋谷へ出ながら見てもどこにも無い。読売には、今度の議会の増税を見込んで買いだめをする者が多く、煙草が品切れになった、と書いている。時々、これまでも品切れになると、煙草はその度に値が上り、そしてそのあとはまた出るという風だ。買いだめよりも、煙草屋が売り惜みをしているのではないか。そう言えば、この三四日、朝八時頃から自転車で出るのに店をしめている煙草店が多い。
午後から、「斜陽と鉄血」の索引、八分どおり出来上る。
十月二十三日 晴 夕刻風邪気味でうがいをしたが、夜は元気。
果然朝刊にて我軍のフィンシハーフェン地区の戦闘発表さる。ラエ転進も始めて、公式に発表された。十六日以後激戦になっているという。ここで一つ記録的な勝利を得れば、やがて我方の飛行機生産の増大によって全般に有利となるきっかけが生じよう。九月一日以降のこの方面の飛行機損害比、我四十九に対し敵は百六十四、一対三である。敵損失率の低下は憂うべきことだ。
朝自転車で煙草買いに出、烏山で朝日一つ、金鵄一つを買う。
九時から防空演習に出る。一人入りの見張壕を掘って、そこに草をしき、タバコと新聞を持ち込んで、群長夫人の指示により「敵機襲来」とか「西尾家に焼夷弾落下」とか呶鳴るのである。十一時頃、田居君が来宅したとのことで、壕のそばに呼んでそこに坐ってもらい、話をする。田居君、私のカメラを質屋から出して来た由。三百円の五ケ月分で利子を三十円もとられたという。彼は重見家のカメラが気に入らないので、私のをどうしても譲ってほしいと言う。彼から来ている大島の揃その他の衣類五百円と、今度の三百三十円と合せた八百余円をその代金にしようとのこと。承知す。彼からの借りもそれで大分軽くなったわけである。重見家のカメラ早く返さねばと言うと、明日でも届けさせようとのこと。昼食を共にす。彼が二時頃帰ると、そのあとへ杉沢氏来る。二十日に北海道から戻って来たとて、郷里の話色々。
北海道の戦時状況は一段と緊張して、驚くべきものがあるという。小樽は就中、軍事地帯なので、あの天狗山の下に穴を作って緑町の奥に飛行場が出来ている、という。あっというような話である。手宮公園の方には兵営が並び、市内の目ぼしい建物はみな軍の使用する所だという。(田居君も、余市の登の彼の兄の土地に飛行場が出来ていると言っていた。)また飛行場は、支笏湖、千歳、トマコマイ等各方面に出来ている由。青函連絡船は、客が上甲板に出れるようにしているが、(前には出さないと聞いていた)行きには飛行機、帰りには駆逐艦が護衛したと。また函館辺で、二千屯級の汽船が舵をやられたのが曳航され、駆逐艦に護衛されているのを見たという。北海道興農公社の黒沢会長がこの頃樺太へ行った話を聞いたところ、その時は一週間、船は大泊から出航出来なかった。それは宗谷海峡に敵潜艦が出ていたからとのこと。その後に出た第一船で黒沢氏は帰道したが、その時は、皆、浮きを胸につけ、眠ってはいけないと注意されたという。その時船員が申し渡すのに、皆さんの生命は大丈夫だと思うが、若し船が雷撃された時は、泳げる者は百メートルぐらいを出来るだけ早く泳いで船から離れること、しかしその後は泳いではいけない、三時間内には必ず味方の軍艦が救いに来る筈だ、と言ったとのこと。どうも、えらいことになった。しかし敵は決して日本に敵前上陸なんかやれはしない、と杉沢は強く言った。そう言えば、彼は、前々からの強気の随一人だが、この頃北海道辺では、敵の上陸を怖れるような話でも行われているのだろうか。東京でも時としてそんな浮説を行う者がある。困ったことだ。
独ソ国境クレメンチューグ南方、クリミヤ北方の戦は、赤軍の進出を独軍がどうにか押さえているようである。しかし独軍の危機が去ったのではないようだ。
杉沢は言葉を改めて、北海道は米は豊作で、道内で食うには余るぐらいだという。しかし、都会地での食料統制は厳重を極め、塩谷村など村から一貫目の野菜も持ち出せなくなっているので、村にいる者はよいが、町の者たちは不足がちで困っている由。彼は札幌への手土産に、やっと葡萄を三貫目許可を特別にしてもらって持ち出したという。弟は、やっぱりそれを取り締る役目で、やりにくくて厭だと言っている由。
母は、基に嫁をとる迄は、どこへも行かないと言っていた由だから、上京しないのではないか、と思われる。弟は何と都合したのか、私の所へ南瓜を五貫目か送った由。この方はまだ届かない。今後は北海道から物を送ってもらうことなど全くあてにならぬ様子だ。杉沢は今日から数日かかって、横山村の畑へ小麦を播きに行くとて身仕度をし、鍬をかついでいる。ついでに私の家の分に種の小麦を一升ほど都合つけて来てもらうように頼む。
午後から夜にかけて津野田少将の「軍服の聖者」の索引をつくる。この乃木軍の奉天戦記は同じ著者の「斜陽と鉄血」に較べて落ちる。よく読むと奉天戦では後備第十五聯隊が大潰走をしたり、第二十五聯隊の聯隊長が捕虜になったりして、第三軍の不利な面が多い。これだけを記録風に書くことは、面白くない結果になるので、これはどうしても、別個のロマン風の作品とすることを考えること。
夕刊にて、埼玉県も千葉に引きつづいて、野菜の個人持ち出しを全面的に禁止した旨出ている。東京都民の本当に困る時が来そうだ。朝日で某営養学者が、十二三歳の少年には六百グラムの米が必要だと述べているが今は、基本量が三百二十グラムに、子供への割増を加えても四百グラム以下である。
今日貞子と、家の畑の生産高を計算して見る。毎日藷類を一食分一貫目食べるとすると、甘藷が五六十貫(今年の成績)で二ケ月、馬鈴薯二ケ月、玉蜀黍で一ケ月、南瓜で一ケ月、それに小麦を一ケ月分と見て、総計で七ケ月分の一食の量は自家で作れる概算になる。それ以上のものは、他から買い入れねばならない。私の所の畑は百五六十坪あってこれぐらいだから、普通の大きさの庭しか持っていない家のことは推して知るべしである。近県が個人持込みを禁止したら、都としては、何とかして野菜の配給をうんと、倍位も増加せねば東京都民は餓えることとなるだろう。
チャンドラ・ボースの作った印度仮政府を我国は承認して、援助をすると公表。
十月二十四日 曇(日曜)朝十度 寒し
朝からいつもの合服の上にスプリングコートを着、「軍服の聖者」の索引を作って行く。午後二時頃出来る。午後になってから、もといた和田本町の薬屋の細君、友達と二人で仙川まで野菜を買いに来たが、何も買えなかったとて寄る。二三日前から貞子が近づきになっている佐藤という近くの農家へ菊をやって何か買わせた様子。そうしている所へ、大工長谷川来る。野菜を買いに来たとて、薪を二束持って来てくれる。貞子酒を一本出してやると喜ぶ。話相手をし、薪不足で困ることなどを言う。そこへ、江口君来る。文部省に翻訳の方の仕事で嘱託として勤めることになり、給料は百円ほどで安いが、これで先ず差しあたって工場への徴用はのがれたと語る。そんな話を聞いているのも変なものである。江口君と散歩がてら、麻袋を持って芋でも買えたらと畑の方へ行って見たが、芋はどこも売らぬという。まだ供出前で掘らないのだとのこと。一人の農婦大根なら売るということで、江口君四本、私が二本買う。三本で一円である。二人とも高いのに驚く。(家に帰って聞くと、配給では普通大根は一本十二三銭についているという。)それでも「売ってあげる」と言われて買ったのである。江口君と二人で、どうも高いものを買わされて恥しいから家の者には、二十銭ぐらいだと言おうか、とて笑う。
その間に貞子は、家の隣の畑に来ている吉岡という農夫に話して、馬鈴薯を分けてもらうことにしたという。その農夫が言うのに、供出は、一俵正味十四貫で三円七十五銭だから全く引き合わないので、供出の残りをいくらか高く売って利益を得たいと思っているが、取り締りに引っかかるのはいやだから、近所の知人にだけお分けするので、よそには秘密にしてほしい。いくらでも高く買うという人はいるが、値段にも程ということがあるから、一貫目一円ずつで私が持って来てあげましょうと言った由。菊が佐藤という農家から買って来た甘藷は二貫目で、一貫目一円八十銭だという。これでも公定の四倍である。私と江口君とでは、あちこちと歩いて、四五人の農夫にかけ合っても甘藷は買えなかったから、やっぱり近所の知り合いが大切だということになる。何だか最近になって、急に食糧事情が急迫したようで、人は顔を合せるとその話ばかりしている。
夜、近藤君の話のあった大東亜省から満洲行の旅費を下附してもらうために、履歴書三枚書く。書きながら明日から開かれる議会で、官庁の補助金を出しているこういう会は多く打ち切りになるというから、この金も出ないことになるような気がして仕方がない。
そのあと、近藤君に言われた朝鮮の某誌のための原稿として、由上氏の「鉄蹄夜話」の朝鮮の部についての随筆を七枚目まで書く。
独軍はメリトポリを撤退した。これは、アゾフ海北方の都市で、クリミヤ半島へ入る鉄道の通っているところだ。クリミヤ半島の頸部はその西方に残っているが、半島は次第に守り難くなるであろう。
間違って配達された毎日夕刊にイングの「英国の将来」という本の梗概が出ている。イングの前著「英国論」は翻訳で読んだが、この稿もちょっと面白い。彼等の国家観は、まるで遠い星の世界の人の考のようだ。スエーデンなどを理想国家とする考は近年の西欧によくあるのだ。
十月二十五日 曇 手の甲にまた吹出物がする気配あり。スカボールザルベを朝夕つける。貞子元気で甘藷を掘ったり、白菜の虫をとったりする。
この頃夜十時までには寝、朝六時に起きる。日中は机に向う。生活の形は静かである。しかし私とてそのうち応召して戦死せぬとは限らず、また空襲などで家がこわれることだってあり得るし、怪我人が家族に出来ぬとも言われない。文学作品の出版も心細いことだ。幸福とは何か。それを考えること屡々である。
私一人の身ならば、どんな山間に住んでもよいし、仕事がなければ国民学校の教員になってもよい。また応召することも結構であり、身体にもう少し自信があれば、どんな生活も喜んで迎える。しかし病弱の妻と弱い子とをかかえて、その家族を安らかにさせて行くには、今のような生活が大体続けられれば、それに越したことはない。
年に二千円ぐらいの特別収入があって、この屋敷の年賦をあと四年ほどで済ませ、その外、女中を一人おいていられるぐらいの経常費だけの月収が必要なのだ。やっぱりこの生活形式を続けることに経済的にはつとめながら自分の仕事に精力を集中していい作品を生まねばならない。しかも周囲は狂瀾怒濤、いつ何が起るか分らない。最後の幸福の形を考える。この美しい自然(私の家のまわりだけでも日本の自然の美しさは十分味える)の祖国が安泰であること、この自然の中に生きていること、その二つだな、としみじみと思う朝だ。
敵側発表によると、フィンシハーフェン北方のソム河を渡って、我軍は橋頭堡を作っているという。進撃、積極作戦である。島よりも、こういう陸続きの所が、我軍に有利なのであろう。ドニエプル河方面の独軍は必死に反撃して、ソ聯の進撃を食いとめている。イタリア中部では独軍はまだ撤退作戦を続けている。英米はローマ附近に上陸しようとしている、とリスボン電は報じている。ローマはいずれ敵側の手に帰するであろう。
敵米のルーズヴェルトは流感にかかったという。またストックホルム電では英国の飛行機産業人口の約四割は婦人に占められていることを報じている。
埼玉、千葉両県の野菜買い出しが禁止されたため、廿四日の日曜日には東京から買い出し部隊が茨城県下に殺到、この日古河駅では買い出し客が二千人以上あり、各列車とも野菜列車の観を呈した、ということ、毎日の夕刊に出ている。これでは県の責任供出が危くなるので、茨城県でも何等かの対策に出るだろう、という記事である。
今日は貞子に手伝って家の甘藷を掘っている時、貞子が言うには、私がこの夏、一つの試みとして、馬鈴薯を掘った後の畑へ、八月の十五日に、甘藷の枝の伸びたのを切って舟底植えをしたものに、中ぐらいの細さの薯が大分出来ているようだとのこと。何故さぐったのかと怒ると、畦の土が崩れたのを直した時に見たのだという。これは、面白いことである。八月に入ってからでは遅いとは思ったが、やっぱり出来た。若しこれで普通の半分量でも藷が出来るとすると、私の家では、馬鈴薯と甘藷の二毛作が出来ることになる。普通に植えた甘藷が五十貫として、馬鈴薯のあとで二三十貫もとれれば、食う藷はよそからあまり買わずに凌いで行けるのではあるまいか。馬鈴薯は七月末にこの辺では掘るから、来年は、今年の成績(十一月の初めに掘るとして)によって、このやり方をもっと早く大規模にやろう。今年など馬鈴薯のあとの畑は大根を播いたが、これは、少し播けば自家用に足りるので、大分畑を遊ばしてあった。夕刊によると埼玉県の某氏は甘藷作りの好成績で表彰されたが、それは一株(舟底植であろう)一貫三百三十匁平均、最低一貫目、最高一貫六百匁だとのこと。私の所の舟底植えはまだ掘らぬが、古い植え方では一本二百匁平均だ。
午後三時、「日露戦余談」十四枚書き上げ、夕食まで午睡す。夜それを書き写して、「評論集」に入れることとする。午後細雨になり、腰が冷える。
十月二十六日 晴 臨時議会今日から始まる 入浴
午前中昨日書いた随筆のうち十一枚を書き写して、評論集の原稿に加える。早い昼食をし、一昨日か書いた履歴書と昨日の原稿を持ち、外に野田生あてに送るカルチコール二十五本入の小包や、貞子の書いた手紙などを出しがてら、近藤君の所へ出かける。里芋を包んで土産にする。彼は留守にて、夫人に履歴書と原稿を托す。時間が余ったので、お茶の水で郵便を出し、一枚五銭という高価な、このノートと用じ形と質のフールスキャップの小型の紙を五打買い、上野図書館へ行く。科学博物館と美術館の間の広場は人が入れぬようになっている。高射砲陣地らしい。
図書館で前から考えていた日露戦記を読もうとして先ず、目録を書き写す。邦文のものおよそ七十冊、英仏文のもの三十冊(但し海戦や概略史は除く)あり。これを一とおり読むのは大仕事だと思う。その中で宿利重一氏の「旅順戦と乃木将軍」が先ず私の仕事に一番近いように思われ借りて一読す。資料豊富にしてよく出来ているが、戦略の方が主であり、前線の戦況を二○三高地中心に描く私の仕事と抵触しないであろうが、資料の点では羨しい豊富さである。
夕刻帰宅す。夜入浴。この二三ケ月塵紙というもの使ったことなし。新聞紙で間に合わしている。
夕刻、隣組内の粕谷家の主人(三十二歳)が応召して、明朝見送りをするとのこと。新婚早々ここへ越して来てまだ半年ぐらい故、若い夫人が哀れなことである。しかし、今の世の若い夫婦すべてには、これはいつ来るかも知れぬ運命なのだ。そう言えば、今日上野で乗車しようとすると、その電車から海軍軍人に抱かれた遺骨と遺影が六体続いて出て来る。みな脱帽す。その写真には、二十歳ばかりの若々しい青年の笑いを含んだ顔が大きく映っており、あっと胸をつかれるようであった。その写真の顔は、あまりにも若々しく幸福に満ちていて、並んでいる白い箱の包みの中にその人の遺骨があるとは、とても思われず、それが痛く心を刺した。一家揃って夕食しながら、自分の家は、何という安らかさかとしみじみと思う。貞子この頃買うものがない為か、百円ぐらいで暮せそうだ、と言う。
新潮の楢崎氏より、十二月号のために「今年の記憶に残った作品」という批評文十四枚を書くようにと言って来る。
官吏の減員は更に二万六千名で計四万一千名という。政府の決意の程を、これによっても知ることが出来る。
フィンシハーフェンの戦闘更に我方に有利に展開している模様である。一度米英軍をここらで徹底的に叩きつけねばならない。そうすれば、ほとんど応召と応徴と生産増強のみに日を送っている国民がどんなに励み甲斐があるか知れない。
朝刊によると、男子の商業学校はすべて工業学校に転換させるという。これは明年度入学の生徒からだとのこと。実験室の設備のないものは、工場へ実習にやったり、または工場の実技者に教員を嘱託したりするという。それの出来ない学校は農業学校か女子商業に変更させ、女子商業は拡張し、女学校と中学校は現在のままだという。中等学校から、専門学校大学と理科系のみを増加して行くのである。数年後の日本は工業立国となり、技術者が国内に氾濫することとなるであろう。しかも私設の小工業は無くなって行くのだ。国家の経営したり監督したりする工場が全国各地に出来、その工業生産力は真に巨大なものとなるにちがいない。アメリカ、ドイツ、ロシアを凌ぐような大工業圏を東亜に作ることとなろう。こういう思い切った施設の転換に気をつけてみると、日本の国力の増大は、ここ三四年のうちに刮目すべきものがあろう。これまで、私立学校の商科や法科のみが普通の学校であり、また都市に群居する小商業者や手工業者のみが工業生産者であったという社会状態は、すっかり変ってしまうのだ。子供たちの教育のことも、それを考慮に入れて将来を考えねばならぬ。国が大工業国となることと、資源を確保すること、それが現代の強力国家の条件である。そして、そうなる為に日本の社会は根本から変るのだ。
十月二十七日 晴 昨日陛下議会に臨幸
朝五時半、私が眠っているうちに貞子、粕谷氏の見送りにと出かける。昨夜入浴したためか風邪気味なので、貞子に行ってもらう。帰っての話に、粕谷氏は四年程前に支那事変にも出征しており、これが二度目だという。これまでは瓦斯マスクを作る会社に勤務していた人だという。朝食後暖くして室にこもり、手に陽をあびるように机をおいて仕事に向う。
貞子は、薫の所の着物の手入れや家の掃除などをしてやるとて、菊をつれて和田本町に出かける。礼と私が留守である。
朝刊に首相、海相の施政演説や戦況報告がのっている。特に目ぼしいことはないが、フィンシハーフェン北方のマダンという海岸の我陣地近く敵がせまって来て、対峙していることを戦況報告の中で知る。また東京新聞には、兵役法中の年齢改正の件で、那須兵務局長や富永次官と議員との質疑応答がのっているが、それによると四十五歳まで兵役を延期するのは、特別な技術を有する者を主眼として防衛防空に召集する、ということである。また十九歳の者も召集するようになる見込だ、という答も見えている。しかし戦局がうんと険悪になれば、五十歳までも召集するであろう。防空法は、改正され、疎開を主にして、一層強力なものとなったようだ。その中に「一定の区域を指定し、その区域内に居住する者に対し、転居又は退去を命じ得る」という項目があり、東京において、その区域とは区を指すという。これは、大事である。たとえば京橋区の居住者に転居又は退去を命ずる、というような風に、いざという場合には、危険な区を空っぽにしてしまうような処置もするにちがいない。そういうことになるのは、多分大規模の空爆の連続する時であろう。時々刻々、外形は今のままでも、眼に見えない所から、生活は根こそぎ変って行っているのだ。そして、すわという時に、それがどかんと現実のこととなる。またそうして行かなければ、この戦争をやり通せないだろう。
菊が頼んでおいたのか、午後に石川家の女中が配給の魚と野菜を取って来てくれる。魚が三十六銭に野菜は二十五銭とかいう。魚は鰯が十尾ほど、野菜は甘藷二百匁と菜が少々。その外町会からの配給とて、スルメを二枚(十四銭)持って来る。毎日これぐらいの配給があったとしても副食物は月に二十二三円であろう。それに味噌醤油酒等が五円、米が十四キロを四つとして二十円ほど、あとは女中給料二十円、子供の通学費十円、配給外の野菜等を二十円買ったとしても百円ぐらいで生活が出来るように思う。なお外に簡易保険十円、新聞代六円、公債五円、税金平均五円等を見ねばならない。
大根に油虫がついて、遅い方のはうまく育ちそうもない。手でつぶすが、またすぐに着く。煙草汁をやるが、それもあまり利き目なく、昨日はためしに真中の二畦に、石油に混じた殺虫剤の残ったのを霧吹きでふりかけて見た。強すぎるかとも思うが、それで様子を二三日見ようと思う。早生のは早く育ったので、よく育っている。
午前も午後も身体の具合悪いのか、何も仕事出来ぬ。帯の結び目の下の辺が冷えて困る。午後蒲団を敷き、眠る。夕刻やや恢復し、スプリングを羽織って原稿に向う。「斜陽と鉄血」の批評文である。
土浦駅構内で列車の衝突あり、百数十名の死傷者があるという。
中野正剛氏が自殺した。中野氏は東方会を組織して数万という会員を集め、ファッショ党のように制服として黒シャツを着せ、一時は相当の勢力であったが、翼賛会成立後政治結社禁止から次第に政界に影が薄くなった。一昨年か、毛利浪子女史に誘われて国技館で東方会の演説会があり聞きに行ったが、国技館一杯の入りで大変な人気だと思った。同会の三田村代議士やその愛人毛利女史のことなど色々思い出される。平時ならば中野氏の死は大事件であろう。また平時ならば中野氏は自殺するような羽目に陥らなかったのではないか。直接理由は分らないが、演説の時の印象では、話は上手だが少し神経質で線が細すぎると思われた。しかも土浦駅の椿事も中野氏の死も今では小さなことにしか響かない。国家の運命が秤にかけられていることに比すれば、あらゆることが小さく、はかない。
今ではソロモン方面の我最前線となったブーゲンビル島のブインには連日二百機近い敵機が襲来している。その撃墜数の比較的少いのを見れば、我方の機数が足りないのだ。この空襲を連続して行った後に、彼等はまた、必ずどこかへ上陸して来るのであろう。心痛のことである。
独軍はドニエプル河の屈折部の東端にあるドニエプルペトロフスク市を撤退した。その後方の鉄産地クリオイログの守備にその部隊は加わるという。遂にドイツ軍はドニエプル河の線を守り切れなかった。今や来ろうとする冬、去年も一昨年もソ聯軍を利した冬は、今度は、どういう変化を両軍に与えるであろうか。
議会での海相の答弁によると、船の増産は予定を越えている由。心強いことである。飛行機はどうか。飛行機の増産に、今日本の運命がかかって在るという気配だ。
貞子が夕方和田本町から戻っての話に、薬屋の知人の家に来ている派出婦が、その家があまり食糧に困っているので、日光の奥の自分の村に帰って、米や薯などをうんと背負って来たが、新宿駅でつかまって、二日間拘留されたという。その家の人は、「もうどんなに困っても買い出しはしない」と言っているとのこと。
十月二十八日 曇後晴 身体恢復す
朝田居君来る。重見家のカメラ返してくれとて持って来る。彼の隣家は明治生命に勤めているが、同社は熱海辺へ移るという説があるとのこと。
一昨日石油乳剤をかけた大根の葉は、にじんだように油がしみ、工合が悪いようだ。腐らなければよいが、と気になる。朝刊に議会の質問や応答色々あるが、ほとんど形式的に議員の顔を立てているように思われる。妙なことだ。しかし安藤内相が、先ず重要工場の周囲の民家から疎開を初める。しかもそれは初めは懇談的にする、と言明している。早期実行の気配がある。首相は、女子の徴用は家族制度を破壊する憂ある故行わぬと言明。東京新聞に、某軍需会社重役の子である国民学校の一年生が、闇の菓子を学校に持って来て徒党を作り、それに加わらぬ子を皆で殴打した事件が横浜にあった、と報じている。闇ということなしには、暮せない実状が、子供の心に与える影響は怖るべきことだ。軍需会社重役などということが加わると、一層それがこまった話になるわけだ。
田居君の所家の内部の造作の直しをしているが、その大工は、これまで日当七円であったのが、十一円にしてくれと言うとのこと。その理由は、食物が足りないので、時々、田舎まで、汽車賃をかけ、仕事を休み、しかも値の高いものを買いに行くから、経費がかかって困る、ということだそうだ。仕方がないだろう、と彼は笑っている。金のある者は万事に考が楽だ。
午後松尾一光君来る。「日本」の十二月号に、「十二月八日の感激」という感想文を五六枚書けとのこと。十二月八日が三度目にもうやがてやって来るのだ。すでに開戦満二年になろうとしている。その間、何という変化だ。まだ余裕はあるあると思っているあいだに、国内生活は目立って窮屈になり、やがて男は、兵士か工員か農夫のみしか見られぬぐらいになりそうな気配である。松尾君は二十七歳だが、この頃中野の在郷軍人会に加入すべく届け出に行ったところ、これまで召集を受けたのは何回かと聞かれ、一回だと言ったところ「一回ですか、一回ですか」と驚いたように尋ねたそうだ。松尾君たち年配の者は、たいてい戦地にいるか、でないと二度三度と応召しているという。同君の郷里旭川から弟君が来て、最近また松尾君と同年の兵は沢山召集され、ほとんど残った者はない、と言った由。松尾君は身体を悪くして兵営から帰されたのだが、その属した隊は、その後ノモンハンで全滅したためか、彼には召集が来ないのだろうという。「どうも来そうな気がしない」と彼は言っている。
最近徴用が極めて多いためか、徴用されぬうちに進んで工員になる者も多いという。松尾君の姉の家に間借りをしている靴工あがりの男が中島飛行機へ、紹介もなしに申込んだところ、朝早くだったが、すでに前に六十人の申込があり、六十番で受理され、月収は八十円ぐらいだという。徴用工は採られて早々二三ケ月は訓練を受け、その間は妻子ある者でも月二十円の報酬、その後は月六十円だという。
フィンシハーフェン地区で我軍は更に前進したようである。嬉しいことだ。ラエ方面の我軍は、「ラエ北方の地区に撤収した」と発表されていたが、これはどうやらまだ孤立しているように思われる。この部隊がフィンシハーフェン地区の我軍と合体するまでは、激戦が続くのではあるまいか。
評論家の古谷綱武君徴用され、工員として入って、二三日たつと呼び出され、「今後は職についていろ」と言われて帰されたと、松尾君の話。古谷君は徴用されたので善後策を翼賛会にいる友人に相談しているということを江口が言っていたが、そういう方面から手をまわして帰してもらったのであろうか。また文士でも葉山嘉樹は、昨年頃まで信州の山村に引込んでいたが、その村の人たちと一緒に満洲に移住したし、伊藤永之介は郷里の秋田県に引込んだ。文士は田舎にいても仕事が出来ぬということはないが、これまではこういう風にわざと引込むことは無かった。子供の教育という問題がなければ、どこにいても構わないわけだ。私なども子供の学校のことがなければ、小田原辺か房州の山の中あたりへ移ってもいいと、此処へ引越す前には、よく地図を開いて空想したものであった。文士の生活にもこれから様々な変化が起って来よう。
今日松尾君と戦局の将来を論じているうちに、もう満二年も戦を続けたらアメリカ国内にはきっと厭戦気分が漲り、それが戦争を我方に有利にさせることになるだろう、という見通しでは一致した。それにしてもドイツの頑張りがそれまで続くようにと祈らざるを得ない。
十月二十九日 晴 臨時議会終る 礼この二三日、六度七八分が続いていて元気である。
果して敵は、ブーゲンビル島とベララベラ島の中間にあるモノ島という小島に上陸して来た。我海空部隊は、そこに来襲した敵の巡洋艦一隻を撃沈したという。この小島は、比較的平坦で、飛行場を作りやすいというから、我基地ブインの南方六十キロ、という鼻先に、敵の飛行中継地をみすみす作らせるようなもので、何とも残念至極である。
文学報国会主催、情報局で開催の時局懇談会というのは、今日一時半からのところ、十二時半からになったと、昨夕電報来る。
昨夜までに「斜陽と鉄血」の評十六枚目に達す。午前中仕事を続行しようとしたが、天気がいいままに思い立って、自転車で外出、隣組内の恩田家からリアカーを借り、蘆花公園の竹屋に行き、篠竹を二束(各五十本ほど)五円で買い、家へ運んで来る。リアカーにその荷をつけたら重くって足でふむとかえって疲れるので、手で押して家に戻る。朝から重見夫人が来ている。田居君から戻った写真機を、色々詑びを言って返す。重見夫人米を一升以上も持って来てくれる。どこからか手に入ったのであろう。重見氏は肺患が結局全快するという所まで行かず、十一月で東京高校は休職になるという。休職になると俸給は一級上って、その三分の一を支給されるのだという。夫人が婦人子供服などで稼ぐから、それでもどうにかやって行けるだろうと、貞子に言っていた由。気の毒なことである。寝て読む本とて、小説本を一本贈る。夫人は、何か英語のもので翻訳があったら紹介してくれと言うが、英語の翻訳ものは、たいてい出版不能だから、差しあたって心当りはないが、何かの翻訳の機会があれば考えておいてやることにする。
十一時に早昼を食べ、情報局へ文報主催の時局懇談会があるので行く。各部会の幹事三十名ほど出ている。同局の磯野対外報道課長、林企画課長、井上文芸課長の話あり、それぞれに、新聞紙に出てる以上の詳しい話があり興味が多かった。就中、磯野氏の話に、独ソ和解のデマが、それを希望するハンガリイのような厭戦国からも、またそれを希望せざるトルコのような中立国からも、またそれを極度に怖れるアメリカ辺からも出ていたが、一月ほど前スターリンが、ドイツと和解するようなことはないと明言したので、一応解消した、と言ったのは面白いことだ。なお普通、動員は人口の一割であるが、ドイツではスターリングラード戦以後八千万の人口から一千万の兵を動員している。またソ聯の受けた損害は、昭和十六年五百万、十七年五百万、今年三百万と言われているが、しかもなお、ドイツの予想に反して後から後からと兵員を繰り出す力は、巨大なもので、ドイツの「英米と戦う前にソ聯を片附ける」という予定は狂った、ということ。なおドイツの撤退作戦の踏み止まる線は、大体現在のドニエプル河だと思われるから、この線からドイツが更に目立って退くようなことがあれば、独ソ両軍の力の比重の真価が現われたものと考えねばならぬ。この東部戦線の戦いは、有史以来もっとも巨大なもので、ちょっと常識では考えることも出来ない大きなものであるという。なお、林氏がそれに続いて、アメリカは生産力が頂上に達したことと、明年十一月三日の大統領改選を控えて、どうしてもそれまでに大戦果をあげねばならないから、今年末から明年にかけて戦争は激化すると覚悟せねばならぬ、と言ったが、これは平凡なことながら真実味が多い。また井上氏の話の中に、アメリカでは、航空機工業の三十三%が婦人の手で営まれているし、科学者の動員も至極順調に大規模に行っている。英米とも婦人の動員は、甚だ積極的で、アメリカ如きは、今年中に千二百万の未婚、既婚(十六歳以下の子供なきもの)婦人を動員するという。そういう話を聞く毎に日本の人的組織化はまだ立ち遅れて歯がゆいことと思う。東条首相は昨年は、アメリカは航空機の材料に困って木を使っているようなことで窮迫してきたと言ったり、今度は婦人徴用は日本の家族制度に反するから行わないと言ったりしているが、何だか少々歯がゆく思われぬこともない。婦人を収容するだけの工場施設の余裕のないことでなければ幸である。会が四時頃終り、福田君、春山行夫君、田辺耕一郎君とそこを出、喫茶店で一休みし、更に福田君と二人で朝日に十和田操君を訪ねる。薫にも逢う。三人で夕食に野菜うどん定食一円というのを日劇の地下室で食う。暗い銀座へ出て、更に大豆製のコーヒーを飲み、今度は福田に別れ、十和田君と、青山師範駅の同君の家へ寄る。夕食を馳走され、十時家に戻る。十和田君マレーで買って来たという英国製の縞のハンカチくれる。
貞子朝風邪気味とてインドラミンを注射したが、夕刻ほぼよいと言う。この調子では、今年は貞子は思ったほど丈夫でないかも知れぬ。
この頃都電には、工員優先券という乗車券があり、それを見せると満員の時も早く乗れるという。東京新聞に出ているが、そういうことをしているのかと驚く。なお都電乗客は昭和十二年に較べて昨年は二倍半以上、本年は三倍であると。しかも資材労力不足で車輛は増加出来ず、バスの如きは減少しつつある由。朝夕の混雑は殺人的だという。
この日情報局の会で中野正剛の自殺のこと話題となり、色々のデマが飛んでいるらしいことを知る。しかし、情報局の人たちは、詳しいことは言おうとしないで、ただ、その頃右翼団体が二つ検挙された、とだけ言い、あとは想像にまかせる、とのこと。帰途福田君に聞くと、翼賛会に入っている情報では、拓大の学生が何人か東条首相を加害しようと企図し、それが未然に発覚して捕われ、中野氏なども関係ありと見られて拘留されていた由。その為だろうとのこと。なお朝日で薫に聞くと、大体福田君の話のとおりであり、検束されていた中野氏は臨時議会になったので、検束を解かれたが、自宅へ戻っても憲兵が二人隣室に泊っていた。そして中野氏が自刃した時は、隣室のその二人は気がつかずにいたので、血がすっかり出きって、実に真蒼な死体となって発見されたという。なお腹を切ったのに刀がよく切れず、苦悶して這ったりしたらしく、そばの籐椅子などにも血の手形がついていた由。そういう事情であれば、大体うなずける。でなければ、この大戦の終りを見ずに自殺することなど、普通には考えられることでない。
十月三十日 晴
また台湾航路船沈められる。この線では三度目の被害だと思う。死傷者の少いのが何よりだ。午前中、昨日の日記を書いたあと、「斜陽と鉄血」評続け「軍服の聖者」までにて十九枚で終る。これで初め志した日露陸戦記の主要なものの概評終る。百三十八枚。あとは今年の戦争文学作品の評を一とおりまとめて一冊とすること。
朝刊にて麦の買上値段を約三割上げたこと、大麦三十円四十五銭、小麦四十五円七十五銭となったことを知る。米価に比して小麦の値は六割が普通の所これで八割に当る、と石黒農林次官は述べている。また米の販売価格、石当り四十三円から四十六円に上げたので、一升当り三銭余で、配給では一升米は五十銭になったのだという。(米の買上価格は石当り六十二円五十銭の由)国家負担は随分まだ大きいわけである。今が小麦の播き時であることから、春麦の増産奨励の意を汲みとれるわけだ。滋昼に杉沢からとて麦の種子一升ほど持って来る。
礼が昨日から鶏小屋を作るのを楽しみにしていて、今日は昼になると、「鶏小屋を作るんだ作るんだ」と貞子たちに言っているので、午後礼を相手に仕事を初める。応接間の西南向窓下に四尺幅で七尺の長さを竹を並べて囲って行く。八分どおり出来た三時頃、近所の井上氏来る。かねて貞子が頼んでおいたことだが、馬鈴薯を買ったから、三貫目分けてくれるとのこと、それから近所の同氏知人の老松さんへ小麦の種子をもらいに行くから一緒に、ということで一緒に出かけ、老松家の細君に畑を見せてもらったり、麦の播き方を習ったりし、一升の種子を収穫で返すということでもらい、井上氏に三合私が七合もらう。井上氏は石川清君の先輩で画家とのこと。「私は人に何かお役に立つことをしてやって、すぐお返しに物をもらうというようなことは嫌いな性分ですから、そういう性質を御承知おき下さい」と切口上であるが、妻君は女学校の先生ということで、子供はなく、律気そうな、少し変った人である。
鶏小屋のやりかけを、礼は一人で懸命にやって大体作り上げ、鶏を入れて見たとのこと。きれいに出来上って、私も嬉しいことだ。来月卵を生むという鶏三羽を、一尺五寸に二尺ほどの、もとの家の風呂場の台を利用して作った籠二つ続けて並べたのに入れて、これまで育てて来たので、窮屈で見る方がつらいほどであったが、自分の仕事のくぎりが着かぬうちは、こういう工作仕事に手を出す気持にならず、これまで放っておいたのである。今度の小屋では、十羽ぐらいまでは飼うことが出来るであろう。将来もっと鶏をふやし雄もおいて、鶏の家族にしたいと思う。
夕刻英一来る。英一たち日大歯科の学生は、こないだ駅へ荷の積卸し手伝いに行ったという。夕刊にて、日支条約改訂して、同盟を結び、戦時が済んだ後には、支那の領土から完全に我方は撤兵するという条約を交換した旨発表。議会後に発表を延期していたのであろう。或はこの件など、中野正剛一派の現内閣に反対した理由かも知れぬ。これで支那事変そのものの解決の方途は、条約としては決定したのである。大東亜戦以前にこういう条件を結んだら、国民はさぞ煩いことであったろうが、南方諸国家独立慶祝気分の今では、かえって目出度いことに思われる。
イタリアの前外相チアノは妻の父ムッソリーニを裏切ったこと発表される。ムッソリーニが失脚する頃から行動不審で、ムッソリーニに対して反対投票をしたりした。しかも彼はバドリオ政権からも罪人扱いされて逃げまわっていた。いつかニュース映画で見た時の印象から、軽々しい才子と直感されたが、人はその性格を隠し切れるものでなく、それに左右されることが如何に大きいかを考え、怖ろしいことと思う。独軍、アゾフ海北方のメリトポリ辺で更に西方に退いた模様だ。
旭川に入隊している小西猛君から初便り。その中に八冊の同人雑誌が近く一冊にまとめられる由を聞いたと書いている。彼に、旭川にいる貞子の兄の小川正美を訪れるように言ってやる。時勢の緊迫は刻一刻出版の面に現われる。昨日田辺耕一郎君は、婦人公論が六十四頁になり、連載小説はみな中止になった由を言っていた。かれこれ考え合せ、うなずかれることである。滋が本屋から、改造と中央公論を持って来た。後者の里村欣三の「北千島にて」を寝ながら読む。昨日、劇評家岡鬼太郎氏死す。徳田秋声も重態の由。
モスクワでの三国会談は満足すべき結果に達したとルーズヴェルトは公言している。気になることを言う男だ。
十月三十一日 晴 北風 富士は六合目辺から上、真白くなる。朝七度
日曜日なので家中朝寝す。滋の国民学校は明日から九時始りとなる由。午前鶏小屋を見ているうちに手出しをしたくなり、扉のところを礼と編んで作る。そのうち貞子や子供たちの相手をして午後は、甘藷を掘る。都から配給された太い大きな苗を、舟底植にしたのを掘ったが、五本ほど植えた一畦は、これまでの短い苗よりも出来が悪いぐらいで、すっかり悲観する。太いのが一つと、あとは指のようなのが五六本ついているだけ。つづいて、八月中頃に植えた遅い舟底植えの所を掘る。これも同じような出来であるが、これは致しかたない。これまで自家のもの三分の二近く掘ったが、二十貫ぐらいだという。そうすると、あと十貫ぐらいしか無いだろうと、貞子悲観する。
しかし、この半月近く、家の甘藷を毎日昼に食べたため、いつとはなく米が残って来て五六日分の余裕がある由。なお十一月、十二月、一月の三月間は、米のかわりに甘藷の配給が特に多くなり、しばらくは甘藷攻めに逢う気配である。
この頃家に金は三十円しかなく、菊に二十円やると、いよいよ心細い。目下入って来る金のあてと言えば、評論集をまとめて、それと引換に四五百円本屋から受取る約束の方だけである。それも、まだ五十枚ほど書かねば、約束の枚数に達しない。薫に貸してある百円ほどの内から、二三十円明日あたり貞子が取って来るというが、どうか。こういう風にして、次第に、私の文筆生活も、現実の面から窮屈になって行くのではないか、という気もするが。
家の隣の畑で麦播きしている。一段ほどの畑を五六人がかりで、一人が肥料を播き、後から種子を播き、最後に踏みつけて忽ち半日もかからずにすんでしまう。その季節になったらしい。重見家の長男|之雄《ゆきお》君、写真機の残った附属品取りに来る。甘藷を馳走する。野田生の義母より、鰯の開いて乾したのを、七八十尾送って来る。先日の私の母からの送り物に続いて、営養のあるものが入り、うちは当分食物の心配がないという形である。ありがたいことだ。
新聞紙のうち、朝日と読売が来月から一円三十銭に値上げされるという。二十銭の値上げか。
英国がその南岸に、兵や飛行機や輸送船を大量に集め、英仏海峡の掃海を前より頻繁にしているが、それは西欧に上陸しようとの企図かららしい、とドイツ側で発表している。事実となって、案外近いうちに現われて来るのかも知れない。ロシア側からの米系通信によると、独軍は極めて勇敢であり、最後の一発を発射し終えるまでは退かない由である。また一昨日の磯野情報官の話でも、独軍の装備は一昨年頃より少しも悪くなっていず、むしろ良くなっている。それなのに、ソ聯軍に対してずっと退却し続けているのは、独ソ間に何か密約があるからではないかと米英側では疑いの目で久しく見ていたという。そういう点から考えて、独軍は決して精神的に頽廃しているのではないらしい。とすれば、我々はなお盟邦ドイツを信頼し得るというものだ。
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[#2段階大きい文字]昭和十八年十一月
十一月一日 晴 初霜白く降る 甘藷、里芋掘り上げる。礼午後、七度七分。
昨夕方貞子、便所の掃除をちゃんとしないとて菊を叱ったところ、菊が大きな声で泣き出し、こんな家になんかいないと口走ったりして、貞子も興奮していた。困ったことである。午後、菊は礼と口喧嘩していたが、その時から、苛々していたらしい。
二三日前に菊が近所の女中たちのことを貞子に喋り、小林家の女中は、春頃帰ると言い出したところ、それまで三十円だった給料を四十円にするからとて引きとめられたが、この頃は徴用が来そうでおっかないから(東条首相が女子徴用をせぬと言ったことを知らないのであろう)逃げてでも帰りたいと言っているとか、石川家の女中は、自分の悪口を奥さんがあちこちへ行って喋るから帰りたい、と言っているなどと喋っていたとのこと。そして自分は、帰らない、来年は畑に西瓜を作るなどと言ったりしていたが、やっぱり毎日八百屋や魚屋でその連中と逢って喋っているうちに、女中たちは、主家で自分がいなければ困るのだという気持から増長していて、帰ってやる、とすぐ口にするような気持になるのであろう。この頃の家庭現象の一つだ。貞子は、菊がいなくても家の中のことは一人でやれる。ただ寒い日に一時間も二時間も八百屋などで待っているのが困るだけだが、帰るなら帰してしまおうと言う。しかし私は、風邪を引きやすい貞子が冬に向う今になって毎日台所仕事をするのは気になる。それで今朝、食事の時、菊に、近所の女中のお喋りなど聞いて調子に乗るな、とたしなめ、正月には一度帰してやるからと先手を打って言い渡しておいた。正月か二月頃までも置けば、あとは春になるから、何とか貞子も切り抜けて行けるだろう、という考からである。女中の給料三年前頃には五円から七円止りであったが、今は二十円から三十円が相場だ。
朝畑が真白で、いよいよ冬来るの感あり。畑の始末を早くしなければならぬ。新聞は各紙とも、社告を出し、一紙以上取っている家では今後更に他紙を採ることは出来なくなり、移転の場合は証明書を配給所からもらって新しく採れる、と言っている。新聞を多くとれないという定めは、二三ケ月前から耳にしていたことだ。
独軍当局は、東部戦線での反撃の決意を示した戦況説明をしている。今の線でこの冬の戦線を持ちこたえるようにと、切に祈る気持である。また便電によるとイタリア戦線では米英が積極攻撃を開始したという。
今日から、いよいよ軍需省、運輸通信省、農商省が創設された。
この頃家への訪問者が少い。また原稿の注文も単行本以外は少くなった。あらゆるものが息をひそめて、この大転換期の気配に耳を澄ましているという風に思われる。私は、このままおちついていられるかどうか、今が一つの腹の据え時という感じもする。午後二時迄に、評論集の原稿「戦争の文学」前に新潮に書いたのを直しながら、「朝暮兵」評を一気に八枚迄書く。二時半から畑に出て、菊にも手伝わせ、甘藷を全部掘る。都で奨励して苗を分けてくれた舟底植というもの、長い苗一本で一貫目ぐらいは出来る筈のものが、全然駄目なもの多く、よく出来た所で二百匁ぐらいである。場所を広くとっているのだから、これでは引き合わない。肥料も畦の作り方もよいのだが、何故出来ないのか分らない。旧式の植え方の方は皆大体よく出来ている。
甘藷は総計で二十七貫だとのこと。予想の半分しか出来なかった。これでは馬鈴薯でもよほど買っておかないと、十二月頃から食糧不足に陥りそうである。困ったことだ。この二十七貫でも、家では大助かりである。大根は美事な出来で、毎日のように一本ずつ、おろしたり煮たりして食べている。里芋はこれまでの総計で四貫目とれたという。落花生を今日二株掘ったが、割によく出来ている。これももう掘らねばならぬ。
やっと晩秋の、よく晴れた暖い昼となり、畑にいて気持がよい。
夕刊により、東条兼摂軍需相、岸信介同次官、八田嘉明運通相、山崎達之輔農商相の任命を知る。かねて予想していたままである。軍需省に現役の陸海軍人が多く局長などになっている。これが大きな変化である。
洲崎の遊郭が軍需工場の宿舎に全部年末から変るという。ここにも時代の波がある。一昨日は熱海の温泉宿が多く転廃業する由報ぜられていた。大きな料理店などで、そういう宿舎に変ってもよいものがまだまだ都下に沢山あるように思う。司法省で闇撲滅の各方面権威の懇談会が開かれたが、この経済事犯には上流の人間が多いと発表される。上流人もたしかに良くない所がある。五十円かの昼食を会員組織で食べていた連中の名を公開しろという投書が司法省に多く来ているとのこと。しかし児童の平均体位が次第に低下するというのが配給による生活の実状であるということを考えれば、金のある者が何としてでも営養を採ろうとあせるのも当然のことか。中野正剛の葬儀には、頭山満、広田弘毅、岡田元首相等、右翼系の政治家が多く参列して盛大であったという。
家庭用のガス、冬に向って二割五分増加された。珍しいことである。ガスのある家庭では、ほっと一息という所であろう。これまでは縮小のみが続いていたが、これは石炭の増産が間に合って来たことも原因であろうが、また市内の家庭が燃料不足でひどく困っている実状に応じたことでもあるのだろう。午後ずっと畑で働いても、私は元気である。
ムッソリーニの女婿チアノ伯は、ムッソリーニを裏切ったかどで捕われ、目下ヴェローナの獄に入れられているという。ファシスト党の裏切者たちは裁判され死刑にされるというから、チアノもその刑を受けるだろう、とイタリアからの通信は報じている。
函館にいる母と野田生の義父の所へ小包で甘藷を送る。禁止品である。郵便局の女事務員は「やかましいのですよ」と笑っていた。
十一月二日 晴 霜
昨夜からの原稿を「軍艦島」評へ書き進み、十三枚目に達す。午後畑に出て、麦を播こうとしたが、その前に抜いた甘藷の茎を片づけようとして、今朝の新聞にその葉柄を食える話が出ていたのを思い出して、葉柄を採取す。礼が面白がって手伝う。ソーメン箱に半分程も葉柄をとるのに、三時間ほどかかる。これを煮て水洗いして乾して保存するとのこと。こないだ田居君の所へ知人の細君が来て、甘藷の茎を食えるからとてもらって行った話を聞いた時は笑っていたが、忽ち自分もそれをするのだ。食うものの窮屈さが次第に強まることは、目に見えているので、何でも保存する気持になる。人間は冬に向う今、本能的に食物を集めたくなるのであろうか。塩谷の弟から煮乾しのダシと干瓢が小包で来る。
仕事この頃、毎日午前と夜規則正しく進む。現代の作品評になってから、自分の言葉も豊かになり、所を得た気持で楽しい。仕事は少しずつ毎日それに対する習慣を養うようにすることが大切だと思う。それに以前は春頃に仕事がはかどったが、この頃は年とったのか、秋がよいようである。
三時頃、数日前から見ようと思っていた今週のニュース映画を見に出かける。ついでに、質屋で金をつくることや、本屋、瀬沼家へ寄ることなど同時に果そうとするのだ。合のフラノ服にスプリングを着、鞄に田居君から買った大島を二反入れ、また瀬沼家へ土産の大根を一本入れる。新宿駅で四時すぎ夕刊を買い、朝日ニュースへ行くと、行列で二三十分待たされる。外の文化映画はつまらないが、ニュース映画には、昨年の十月二十五日か、南太平洋で我海空部隊が敵の空母集団を攻撃したのを、撃沈されたホーネットから敵が撮影した映画が出るので、皆、それを見ようとして来ているのだ。それが始まる。高射機関砲の絶間ない射撃の弾が空中に一面に黒く浮いている中を、黒い鳥のように、また白い羽虫のように我飛行機が襲いかかるのが見える。中に一機光る火を吹いて海に落ちて白く水煙をあげるのまで見え、その我飛行機に絶えずおそわれながら、敵空母は、右に左にと、大きくうねりながら走る。その度に海が左に右にとぐらっと傾いて行く。やがて我水雷が命中すると、敵の飛行甲板にあった飛行機はポンポンポンと弾みをつけて浮き上りながら甲板の端へ動いて行き海へ落ちかかる。それを敵兵がおさえようとしている。火事になり、甲板一面煙に蔽われて見えなくなるが、その中を敵の高射砲は絶えず光りながら弾丸をうち上げ、兵たちは右往左往してホースを引っぱって火を消そうとする。火が消えて再び甲板が見えた時は、甲板には何もなくなり、艦は機関を破壊されて停止している。まわりの海が動かぬままである。敵の戦艦が一隻向うを走っているのが見える。それに続いてこの空母は沈んだのである。この映画はたしかに凄じいものである。あのようにして、我兵たちは敵艦上に殺到し、そして死んだのだと思うと、何ものにも更えがたい現実の迫力に圧倒される。
それに続いて学徒出征の会の日の映画、一人一人映される学生の顔が美しく、これも切ない映画である。何を見なくても、今後は毎週ニュースだけは見なければならぬ。この世界の生きた印象を映画以上に与えるものはないことがよく分る。
出ると夜。中野の質店へ行く。いつもの老母、奥様はどうしましたと、貞子の弱いことを知っていてか話しかけ、息子が死んだと言う。いつも蒼い顔をして、山のぼりや写真が好きだと言っていた一人息子が死んだとて語りながら、涙を拭く。そんな話を聞くと、金の苦労など、こんなことは何でもないと思われて来る。二百七十円ほどの大島で百五十円借りる。出て、近くの古本屋に寄り、かねて見つけておいた「日露戦争実記」を買う。三十冊ほどで十四円に負けてくれたが、これは揃っていないのが疵である。しかしこれだけでも手に入ったので、ほっとする。瀬沼君は留守。田中西二郎君上京して逢いに行ったとのこと。大根を出すと喜ばれる。この頃、二日分の野菜が甘藷五六本だけで、漬けものがなく困っていますとのこと。潤一郎論、彼に手伝ってもらった原稿の校正刷を渡し、私の直した所を見てもらうように頼み、なお彼の買っておいてくれた白髪染を受けとる。貞子の母に送るものである。八時帰宅。菊の掘った落花生三十株ほどで、殻つきのままで一斗五升ほどあり。正味六七升だろうか。
夜の街は真暗で、防空壕があちこちにあり、危っかしくて仕方がない。駅のあたり、野菜の煮込み、おでんの屋台に人が群がって、それを食いあさっているが、いかにも飢えている感じで、佗しく見える。
夕刊にて三国会談の結果を英国で発表したのが出ている。敵は少々景気よさそうなのが癪にさわる。
十一月三日 明治節 晴 霜 好日 貞子扁桃腺炎
午前中、原稿続け、十九枚目に達す。午後、菊と二人で、家の縁の前に麦を播く。六七十坪の所故、ちょっと骨が折れた。花壇は片づけてしまい、一面に畦を作り、堆肥を少しずつ施し、種子を礼に播かせる。礼は大喜びで播いたりふんだりする。そこへ田原君来る。「文学報国」の私の原稿一号遅れた由。彼と話しながら、麦播きを終り、上って喋っている所へ、春山行夫君が鑓田研一君と二人でやって来る。鑓田君の所、上北沢に近く、私の所からもそう遠くない。畑作りの話、出版の窮屈になる話等。五時頃になり、菊は甘藷を出す。六時近く、春山、鑓田二氏が帰ってから、田原君と子供たちと夕食す。麦を播いてしまったので、ほっとして、夜は田原君と八時迄雑談。
貞子昨日ちょっと外出したら扁桃腺をはらして、今日は寝ている。やっぱり本当の調子ではないようだ。
鑓田君の話に、莢豌豆と空豆はもう遅いから、一夜水に浸してから播けとのこと。明日播かねばならぬ。
フィンシハーフェン附近の戦では我軍は大戦果をあげ、また次の作戦の準備中という。ラエ附近から後方の山地へ退いた我軍は、その後どうなっているのか。
今日は明治節故、滋にニュース映画を見にやる。その足で明治神宮に友達と参拝したとて、夕方戻って来る。河出書房の飯山正文君応召し、横須賀海兵団に入団するとの挨拶状。小西君、児玉君、飯山君と、知っている青年が次々と応召しまたは応徴する。青年が目に見えて少くなって行く感じである。
十一月四日 曇 麦播き[#「麦播き」に傍線] 貞子扁桃腺にて寝ている。但し元気である。
雨になりそうなので、朝のうちにと思い、畑に出、白菜、蕪、大根等、春までに採り入れるものの畦の南側に麦を播く。先日麦の種子をもらった老松家の主婦から聞いたやり方である。この方法だと、同じ畑に、麦の出来る頃畦間に甘藷を植え、秋にそれを取り入れた後にはホーレン草など冬から春迄のものを播き、その次には馬鈴薯次に大根類という風に、二毛作半ぐらいに回転する集約農法である。殆んど畑全部の三分の二、百坪以上も麦を播いたわけである。これで、どれぐらいの収穫があるか、と楽しみである。なお、からし菜とホーレン草を合せて二坪ほど厚播きする。その上貞子に言われて、薤を二畦、長く植える。
平野謙君より移転通知。京城の村上広之氏より、来鮮の折は逢いたいとの返事あり。
昨夜鶏小屋の辺に物音がすると思っていたら、犬が来て、篠竹を一本食い折り、中へ入ったのであった。しかし鶏の寝小屋へは入れず、目的を達しなかったらしい。今朝その竹の折れ目から鶏が出たので驚く。篠竹では不安である。横浜の北原政吉君の所から金網をもらわねばならぬ。竹で一応補修をしておいた。
独軍は次第にドニエプル下流で反撃に転じ、クリミヤ半島北部の頸に当るメリトポリの西方やその北方の鉄産地クリオイログの北方でソ聯軍を圧迫している。クリミヤ半島にソ聨軍上陸し、一部は撃退され、一部は包囲されているというが、これはどう転じて行くことであろうか。
アメリカ東部の炭坑夫五十三万は、ルーズヴェルトの調停を聴かず、遂に罷業をはじめた。大統領は罷業を禁じ、炭坑を接収するというが、どういうことになるか。
飯山正文君へ挨拶状を書き、餞別十円同封す。同君には、「得能物語」の原稿を書く間、それから出版事務等、色々厄介になった。若い細君と子供がいるらしいが、あとはどうするのであろう。
「戦争の文学」書き進め、夕方二十七枚に達す。戦争が文学の贅肉、贅想を削り去り、文学を健康に甦生させた項まで来て、あとは夜にする。
菊に湯をわかさせていたので、いつかハンダ付けして失敗した湯殿の水道蛇口の洩りを、電線用のテープで止めて見る。
夕刊に、米国の開戦当初の事情、特にその軍備の不十分なことを告白したマーシャル参謀長の報告が出ている。彼等は政略上は悪辣でありながら、完全に日本軍の奇襲を受け、半年間は手も足も出なかったのだ。
夕刊によるとアメリカの炭坑夫は一日一ドル五十セントの昇給で就業することになったという。彼等の平均収入は分らないが、支那事変前頃は、米の労働者は月百ドルぐらいで生活していたように考えられるから、これは月にして四十五ドルの大増収で、やっぱりインフレ気分なのであろう。
夕方入浴。蛇口の修理はやっぱり駄目である。古い破れた蛇口が取れないので、買いおきの新しいのと取りかえることが出来ない。入浴。この頃燃料節約の意味で、十日目ぐらいに一度である。甚だ気持よし。この夏までは入浴すると、一種の疲労感が翌日に残ったが、この頃はそれもほぼ消滅した。昨日、今日と二日続いて半日ずつ畑でかなり働いてもあまり疲れを覚えない。夜、国民青壮年登録の届け書を持った役員の人来る。私と菊との分記入して渡す。昨日田原君の話に、この頃満洲から帰った人の話では、先月頃、関釜連絡船は乗客過剰で、内地へ来る人間が釜山の埠頭に何百人もつづいて筵を敷いて野宿していたり、また金のある者はひどく混雑する宿についているが、そうして毎朝埠頭に並んで順を待ってもなかなか乗れず、一週間も十日も待つ者があったという。その後乗船指定ということになったらしい。また極く最近、大瀧重直君が大東亜省から依嘱されて満洲へ視察に行くことになり、金をもらったが、東京駅で指定券を買おうとすると、旅行会に行けと言うし、旅行会に行くと運通省に話せという風で、みな責任回避をしていて切符が手に入らず、三日も無駄にあちこち歩いた末に腹を立てて、もう金は返して旅行をやめると、文学報国会に来て言っていたという。私の方の近藤君に頼んである大陸文化懇談会の方も、金が出ることになったとしても、そんな風で切符は買えないのではあるまいか、と心配になる。もう三四日で、評論集の原稿がまとまったら、近藤君の所へ様子を聞きに行って見ようと思う。
八月十五日に、枝を切って移植した甘藷を五株掘り上げたが、これは中位の太さのものが二本ずつぐらい出来ていて、外に細く長いものが四五本もついたのがあった。それを見ると、この方法は、もう二週間も早く行うと、もっと好成績であろうと考えられた。土盛りを、本当の舟底植の半分位の狭いものにしたが、市で配布したのより、比較的好成績であった。
十一月五日 晴 北風 貞子恢復す 莢豌豆、ソラ豆を播く[#「莢豌豆、ソラ豆を播く」に傍線]。
今日から東京で大東亜会議を開く由、突然朝刊に写真入りで出ている。満洲国張景恵総理、中華民国汪精衛院長、タイ国のワンワイ・タヤンコン殿下、フィリッピンのホセ・ペ・ラウレル大統領、ビルマのウー・バー・モウ首相、外に自由印度仮政府首班としてチャンドラ・ボースが一度に揃った。壮観である。これは大東亜建設以来初めてのことで、大東亜解放の意気甚だ揚る貌で、結構至極だ。
滋は今日遠足にて靖国神社参拝という。市内の方面へ歩いて行く遠足はこれまで無いことであったが、郊外行きの電車が混雑するので、精神的方面も考えて、こういう遠足を実施することとなったのであろうか。
出版業の整備要項が発表された。書籍出版業二一六四のうち、この一年間に出版活動をせぬもの四四九、割当五千听未満で一○○○等を整理して、二百の出版業者を残すという。かねて、そういう噂は聞いていたが、閣議決定となったから、急速に実現することであろう。小さい出版業者はたしかに多く、今まで一度も整理がなかったのだ。
出版業の整備などを聞いて、また自分の仕事を反省するが、ここで私が、一昨年頃から準備していた日露戦争の作品を懸命に書いて出版できないとすれば、作家としての自分が駄目なのであるか、出版会の審査が駄目なのであるかのどちらかだ。それまで心配しては作家として生きていられないから、それについての不安は抱かないこと。また私の仕事がはかどり、出版が認可されても生活出来ないような時勢となる、というような、いよいよの場合は、何でもして働くこと。そのために、身体にもっと気をつけ、ただ一つの悪習慣たる煙草を、出来ればやめること。
午後、昨日から水に漬けておいたそら豆と莢豌豆を播く。これで秋の播きものは全部終る。
滋遠足に行ったと思っていたところ、一時頃帰って来る。友人とふざけていて眼鏡をこわしたとのこと。この子はしょっちゅう眼鏡をこわし、今は私のとっておきの眼鏡を貸しておいたのに、それもまたこわしたのである。それから遠足に途中まで行ったが目まいがしたからとて戻って来たとのこと。眼鏡のないせいであろう。
江口夫人来り、馬糞を一俵三円で買えるがいらぬかとのこと、大変いい肥料だというので一俵買うことにする。菊は近所の佐藤という農家で、甘藷を二貫目で三円六十銭に買って来る。
旭川の義兄より来書。先頃貞子が後妻にと、写真を一葉送ったが、よく知った人を責任をもって推せんしてほしい、というような文面である。これは貞子が、山際夫人の持って来た写真をそのまま送ったもので、義兄の言い分が尤もである。
夕食後、「日本」への原稿「十二月八日三度来る」を五枚書く。この秋の日本の自然の美しさの印象を中心にする。それから続いて「戦争の文学」書き続け、三十四枚となる。
家には、目下馬鈴薯十五貫ほど、甘藷もそれぐらいあるという。甘藷は腐りやすいので、早目に食べ、米を貯えるようにすると貞子言う。目下米五六日分の余裕があるらしい。
十一月六日 曇 午後南風強くなり、晴、暖くなる。体重十三貫弱[#「体重十三貫弱」に傍線]
ブーゲンビル島附近の三十一日から二日にかけての大戦果発表さる。敵はこの大損害を受けながらも、ブーゲンビル島西側のトロキナ岬とハモンとに上陸した。これは今後この島においての、空陸の大戦争の展開を意味する。しかし、二日の戦闘で、ラバウルの我軍が一度に敵機を二百以上撃墜したことは、日本の航空戦力の大きな充実を語るものだ。これはソロモン戦の大転換期となろう。航空兵機総局長遠藤中将は「こんどの大戦果は航空決戦場における量の威力をはっきりと示したものだ。飛行機工場に対してはいよいよ近く廿四時間三交替制を採用させる」と言っている。やっと、三交替制が実施される時が来たのだ。増産はいよいよ実現する時期に達した。日本の戦力が増大すれば、一方でドイツとの戦いが本格化しつつある米英は一種の窮境に追い込まれるであろう。どうか、この増強された戦力によって、ブーゲンビル島の戦闘で敵を圧倒し、上陸した敵を殲滅してやりたいものだ。
昨日で三日続いて半日ずつ畑をしたせいか、昨夜は寝苦しく、盗汗あり。三度も小用に起きた。こんなことでは、まだまだ駄目。毎日の出勤のある仕事などにつけぬ。もうしばらく身体をいたわらねばならない。身体は全体として肉がついて来てはいるが、本当の健康体とは言えぬ。
夕刊にて、またまた、ブーゲンビル島沖の大戦果発表さる。軍需省新設、国内総力集結宣言の直後であり、かつ大東亜会議の最中、意気甚だ上り、会議そのものが希望に満ちているのと相照応して、この一年来の戦局不利の曇が一挙に拭い去られ、大東亜戦開始当時のような明朗な気分が国内に漲るのがありありと感ぜられる。空母を撃沈したのは、昨年の十一月二十六日の南太平洋海戦以来のこと。かつ今度は空母二隻、巡洋艦四隻を一挙に沈め、しかも我方は十四機の雷撃機だけでそれをやったという。戦争はアメリカ人が強いか、日本人が強いかを、眼のあたり見せつけられた感あり。新聞には、飛行機の量さえあれば必ず勝つ、と各方面の人士の感想をのせ、かつ職場の人たちが意気軒昂としている様子、また大東亜会議の昼食の卓でそれが公表され、拍手が一斉に湧いた、と述べられている。これこそ、まことに歴史的な場面と言うべきである。今日、夕刊は珍しく朝日も読売も四頁で、会議と戦果の記事を満載している。ラバウルの空中戦について、敵側の兵の体験談が短く同盟通信で出ているが、その兵士等のなまなましい談話の終りに、「そして大部分は再び帰って来ない」という嘆声が続いているように感ぜられる。
一昨年十二月から昨年春にかけての日本の進軍は、まことに「日本は戦う」という感じであったが、いま東亜の各国の元首が集っている席上で華々しく報ぜられたここ数日の戦果には「大東亜の民は戦う」という印象がある。東亜の各民族にそれぞれ戦闘の場所を早く、かつ有効に与えて組織化せねばならぬ。これまでの日本は組織においてはどうも上手ではなかったようだ。
今日久しぶりの化研行きに、礼と二人で出かける。瀬沼君と逢う。彼も経過良好にて赤沈七、レントゲンで見ると肋膜の癒着がはなれて来たという。山田医師は休みなので看護婦に注射だけしてもらう。礼は先月にとった赤沈は三で、良好の由。相かわらず軽い咳をしているので瀬沼君のすすめにより「チミツシン」という鎮咳剤を買い、夕食から飲ませる。この薬ブロチンに似て、甘く、刺戟性は神薬という古い薬に似ている。
化学療法研究所は、今までの高田馬場から高輪に移転する由。
この日化研で体重をはかる。ズボンとワイシャツ、下にうすいシャツ上下をつけて、十三貫と百匁ぐらいである。思ったより軽い。今年春頃からすると、二三百匁痩せている。食物のせいだろうか。
午後原稿三十八枚に達す。三時頃眠くなり午睡二時間。身体少し悪い。今日夕方から食事時に滋に読本を二章ずつ読ませ、その内容を試験することにする。もう中学の入学試験までは四ケ月ほどしかないのであるが、滋の先生は工作が好きで、飛行機や船ばかりを作らせていて心配になるし、夜その先生の所へ勉強に時々やっていたが、寒くなったので、行くのはやめさせねばならぬ。朝出がけに雑誌日本の原稿、昨夜書いたものを届ける。
独軍の発表によると、今年の夏期攻勢の赤軍の損害は戦死傷百五十万、捕虜百五十万で、計三百万だという。こういう尨大な数字に我々は少し慣れすぎたが、実に大戦争である。その半分と見ても、三分の一と見ても、戦慄すべき人間の殺傷である。独軍の損耗も少いとは言え、これの何分の一かに当ることを考えれば、西部ロシアの原野で一昨年の六月から行われているこの戦争に比すべきものは、この地球上にかつて無かったことが分る。南部のソ聯軍は独軍の好防にはばまれて足ぶみの感であるが、中部では、独軍がよく先月以来保持していたキエフ市を、ソ聯は東北南の三方から包囲して攻撃しはじめたという。独軍はクリミヤのケルチ市を先日一旦ソ聯軍に奪われたが、また奪回した由。
そういえば、フランクフルト附近の爆撃で大損害を受けた後、英米は対独空爆をあまり行っていないようだ。イタリア戦線も少しずつ動きがあり、独軍は二都市を放棄したという。
今日は煙草市中に無く、朝から吸わず、帰りに烏山駅前で六十五銭の敷島を見つけて買う。煙草一個が五十銭以上だと、さすがに高いと思う。来月議会での増税の値上りを見越して販売店で売惜みをしていると、各新聞に投書が多い。
大東亜会議の総結論である共同宣言、今日会議場で発表され、新聞に出る。少し概念的であるが、これは一種の示威であるから、こういう形のものでいいのであろう。
十一月七日 曇 北風強し(日曜)
曇って不愉快な日である。午前中烏山へ煙草買いに行ったが、いつもの店しめている。
自転車で塚戸学校の前で朝日を買い、その足で小田急の千歳船橋に川崎君を訪う。在宅。味醂をうすめた酒というのを出される。こないだ彼の言っていた大正初年に出た蘇峰文選を借りる。日露戦の輿論の一斑を知るためである。樺色の躑躅を一株もらう。
彼の所でも庭木を掘りかえして、しきりに畑を作っている。私が来月頃渡満すると言うと、彼も第一書房の尻押しにて満洲に出版社を作る計画ある故渡満したいと言う。十一時頃帰る。帰りは向い風でひどく疲れ、午後蒲団を敷いて寝る。どうも疲れ方が多いし、それに今日また川崎夫人に痩せたと言われ、身体の調子が悪いようで気になる。
横になるとすぐ、瀬沼茂樹君、昨日約束したとおり、野菜買入れにとてやって来る。彼の家では、この春頃まで水戸附近の細君の実家から野菜類を送ってもらっていたが、出荷統制でそれが全く出来なくなり、本当に困っているという。菊が、今朝佐藤という農家で、甘藷を一貫目一円八十銭と蕪を八十銭ほど買って来ておいたのを渡すことにする。しばらく話してから二人で蘆花公園に散歩。紅葉しかけた楓など風情があるが、暗い日なのでぱっとしない。瀬沼君、シャンプーを土産に持って来てくれる。
夕食に魚があるので、瀬沼君と食を共にする。
瀬沼君の勤先では、この頃徴用される人が多い。それも今年の九月二十何日かから、徴用は学歴に関係なくすることになっており、現に拓殖大学出が一人、早稲田の本科を出た学士で三十五六になるのが一人一職工として徴用されたという。徴用は中学程度の学歴の者までと考えていた私は、驚いた。我身のことでも心をきめておかねばなるまい。
先日徴用された帝国教育会出版部の児玉二郎君から葉書来る。「去月二十二日入寮以来毎日元気にて訓練に従事致しております。昨日から工場に行って実務の基礎訓練をやっております。高熱重筋作業ですが、はたで見ているほどつらくはないようです。いずれにせよ大いに頑張るつもりです。」と文面にある。あの篤実な物やわらかな文学好きの青年が、高熱重筋の作業をしていると思うと、時局の重さを痛感する。
キエフの独軍は撤退した。それが小さく新聞の隅っこに出ている。昨日の南海の戦果や大東亜会議などの為に目立たないが、これは相当重視すべきことのようだ。ドイツは死守する筈のドニエプル河の線から、じりじりと追い立てられている感じがする。
朝日に出ている同盟の海外電報によると、米国では戦争の結果を楽観する者多く、軍需株は先の見込なしとしてこの頃ずっと値下り気分であったが、今度のブーゲンビル戦で日本の勝利が報ぜられると、戦争はまだまだ片づかぬという観測が多くなり、軍需株は急に値上りをはじめたという。日本の株界の様子を新聞で見ると、それとは違う筋からであろうが、昨日頃から株価が上っているようだ。これは、我国の方の事情はともかく、米国の民衆がこの戦争をどれぐらいに考えているかを推察する材料となる。彼等は日本を知らず、日本人の今の盛なる決意を知らないのだ。彼等が負けない限りこの戦争は終ることではない。
先日応召した組内の粕谷氏は即日帰郷を命ぜられたという。
夜九時半迄に「戦争の文学」四十三枚目に達す。
十一月八日 晴 後曇 この数日霜なし 欅の葉七分どおり落ち、麦の芽の出た畑もあり、また、これから藷を掘って麦を播く人もある。
大詔奉戴日。昨日日比谷で行われた大東亜結集国民大会と、神宮外苑での明治神宮国民錬成大会との写真記事で新聞はまた増頁している。記事豊富で賑やかだが、ふと朝日の海外電報に小さく、「ベルリン特電六日発、六日独軍当局はクリミヤ半島への陸路連絡が遮断された旨発表した。しかし同半島の独軍は依然外界との連絡を海路により保ち、武器、軍需品、食糧の供給を受けつつある事実が附言された」と出ている。これは困ったことになった。独軍はクリミヤ半島の頸部を保持出来なかったのであろうか。その独軍戦力の弱化を裏書きするように、ソ聯のスターリン議長が景気よい演説をしている。第二十六回革命記念日というから、社会主義革命以後もうソ聯は二十七年にもなるのである。一昨年の初夏、独軍は、ポーランド中央部の独ソ境界を破って突然怒濤のようにソ聯領深く進撃し、秋にはモスクワ、レニングラードのすぐそばまで迫った。モスクワは東南方から包囲されかかり、ソ聯政府は東方のクイビシェフに移ったぐらいであった。だがその冬ソ聯はよく持ちこたえ若干押しかえした。昨年夏独軍は南方へ大進出をし、スターリングラードを一時占領し、コーカサスの北麓へも侵入した。だがソ聯は冬に入るとまた反撃して、スターリングラードの独軍を包囲殲滅した。以後独軍は国内に非常時態勢を敷き、大動員をして戦力を蓄積しつつある。今年の夏ソ聯は攻勢に出、秋に至って、ドイツ軍は撤退戦術を行い、ソ聯に大きな損害を与えながら、ドニエプル河の線まで退いた。先日情報局の磯野情報官の話にもあったように、ドニエプル河クリミヤ半島の線を固守出来るならば独軍の戦力にゆるぎはないのであるが、そこを守れなければ、今度は独軍は自ら欲せざる退却をしていると解さなければならぬというが、キエフを失い、クリミヤが危いというこの頃の様子では後の方の如く解釈する外はない。対ソ進撃のまだ盛だった頃、独軍側の報道では、「ソ聯の兵士は理窟に合わぬ戦闘をし、最後まで頑張るので、手におえない」という独軍の兵士の感想を伝えた言葉が記憶に残っているが、結局そのソ聯兵の「理窟に合わぬまでの抵抗」が物を言い、戦局をソ聯に有利にしていると考えられる。戦争は理窟で勝てはしないのだから、ソ聯の兵士の闘う心理は軽視出来ぬものだ。最近の英米のイタリア戦線や対独爆撃をスターリンが「第二戦線とは見做し得ない。これは本格的な第二戦線ではないが、第二戦線の種類に属すものというべきである。」と言っているのは、英米の対独戦に対するソ聯の要求、不満、希望を微妙に表現したものである。ドイツと最もよく戦ったものはソ聯だという立場をスターリンはどこまでも主張しているのだ。
この頃の煙草不足について、新聞の投書欄に小売店の売惜みであるという投書が多く、専売局の役人は、売り出しの量は減らしていないと返答を出している。ところが今日の東京新聞に、小売店の立場から、配給が事実上半分ほどに減っているという投書が出ている。前の専売局の返事は多分政略的なもので、今頃になると、煙草の量が事実上毎年減少するのではないだろうか。米は今頃が端境期だというが、煙草もそうなのではあるまいか。
読売夕刊ブエノスアイレス電によると、敵米国の朝野には最近「ラバウルへ、ラバウルへ」という掛声が切実なものとなり、太平洋戦に民衆は力瘤を入れているという。また米海相ノックスは、「この戦争は一九四九年までかかる」と公言した由。もう六年かかるというのだ。ノックスの戦争についての予想は、戦前にはたしか「三ケ月で日本海軍を全滅させる」ということであったように記憶しているが、今度はひどく延期したものだ。一九四九年が五十年でも、日本人は頑張るが、アメリカの女たちが、それまで戦時生活に耐えるかどうかが甚だ問題であろう。
米国はしきりにアルゼンチンを脅迫し、英国はトルコ外相をカイロまで呼びつけて脅かし、共に中立を放棄させて参戦させようとしている。英国はバルカンに足がかりを得たいのであろう。
読売の波長欄に面白いことが出ていた。それは今度来た大東亜各国代表はホテルに泊らず、富豪連の大邸宅に分宿しているということだ。これはよい思いつきだが、一面今の富豪連の大邸宅が割宛配給の都民生活とは完全に別世界をなしていることの証明でもある。全く今頃宿屋やホテルに泊めて海外の賓客に配給の野菜などを食わせては、たまらない。これは誰の思いつきか、なかなか機宜を得ている。各国代表の気分がよいのは、この特別宿舎の待遇によること多い、と新聞も書いている。
「戦争の文学」夜九時半に四十九枚に達す。記録風小説の件を述べて鴎外の歴史ものと、宇野浩二の近年の作風に言及しようとして止む。
午後「雪国の太郎」の検印五千枚のうち三千五百枚ほど押す。礼にも手伝わせた。礼は昨日あたりから熱いよいよ無く、六度六分程度であるが、なお軽い咳をしている。貞子、昨日は元気で働いていたが、今日また風邪気味とて、インドラミンを注射し、昼間じゅう寝台にいる。どうも弱いくせに強気だからいけない。
十一月九日 雨 炬燵を入れる
朝から「戦争の文学」の稿を続け、「青年将校」評を最後として、六十七枚にて終る。昼のうちに十八枚書いたわけである。これで前に書いていた「日露陸戦記考」と合せて二百五枚ほどになり、青野季吉氏から今年の二月言って来た枚数に達した。しかし、原稿を揃えているうちに「日露陸戦記考」には、最初に総論風のものを附けねばならないように思われて来る。十枚ほどそれを明日でも書こうと考える。原稿一くぎりで、ほっとする。
冷雨降る。今年の秋は好日少く、寒い。風が強く吹くかと思うと雨になったりして不愉快な気候だ。いつもならば、今頃はよく晴れた無風の日が続いているのである。
夜常会の通知あり。防空訓練の話ありとのことで、紙と鉛筆を持って来いという。この頃米に甘藷を刻んだのを混じて炊いているが、美味で食が進み、困ったことだと笑っている。そのせいか、やたらに腹が張り、放屁してばかりいる。どうも自分の顔色が良くないし、肥らない。今朝の読売に、理研の営養研究家井上兼雄という人が、男が今の満員電車に乗って出勤し事務をとるには千六百カロリイ必要だが、今の配給では千四百カロリイで二百カロリイの不足だ。これで十三貫ぐらいの体を維持するのであると。ところが女は十一貫の身体を維持するのに、千二百カロリイだから、配給では二百カロリイ余るから、これを男にまわすと良いと言っている。これで腹七分目の程度の満腹感の由。また魚類や豆類のような「優良蛋白質」を二十五グラム食べねばならないが、魚の一回分がそれに当る。それが週に一度の程度だと困る、というのだ。大体ここらが今の食糧事情の正味のところであろう。満腹感からすると七割しかない、というのが実状だとすれば、野菜買い出しに皆が出かけるのも致し方ないことであろう。
今夕刊来る。それに、十一時に海軍矢野報道部長談として、「我軍は目下ブーゲンビル島辺で大戦果をあげつつあり、後報を待て、」と出ている。こんな戦果の予告は未曾有のことだ。きっと大海戦、日露戦の黄海の戦か日本海の戦のような、決定的な海戦が行われているにちがいない。胸が躍ってならぬ。遺憾なことは、ラジオがこわれていることだ。
七時少し前に常会に出かける。窪田家へ行くのは初めてである。私が一番早い。男の子が二十歳位から五歳ぐらいまで五人もいる家で、賑やかだ。七時のニュースを聞かしてほしいと言うと、〔ニュース番組を〕だしてあげます、と子供さんたちが言う。花村氏、恩田氏、加持夫人、石川夫人など揃ったところで、ニュースを聞く。戦艦三隻撃沈一隻大破、巡洋艦二隻、駆逐艦三隻撃沈という大戦果である。心の躍るのを禁じ得ない。我方は専ら雷撃機を用いたようである。我軍は常に海戦、空戦に勝つのに、飛行機と船の不足で島を取られる。戦は国内生産力の戦なのだ。敵がブーゲンビル島の附近へこういう大艦隊を持って来るというのは、不用意というより、よほどの強気、そして我方を見くびっているのだ。果然ブーゲンビル島の争奪戦は大戦争となった。敵は二ケ所に上陸している陸兵を生かすために、まだまだ積極的に出て来ることであろう。あるいは、この島の占領のために海軍の主力を注ぎ込むことになるであろう。まことに敵も必死、我も必死である。
常会では、加持夫人が身体がよくないので防空群長をよしたいと言う。大体この新住宅地へ家を建てて移って来たような人たちは、みな弱い人であるらしく、どこの家にも病人がいるが、中で丈夫そうな加持夫人に防火群長の役が当っていたのだが、どうしても出来ないという。附近の農家の人たち、時間の観念が無いのか、防空演習の打合せ会など、きっと夜の十一時、十二時になる。そういうことに耐えられないらしい。そして私にやってくれと言う。私も今の身体では、冬に向うのに、夜長時間外出したり、徹宵の指揮などしたら、重くなるにきまっている。その旨を言い、「去年の三月には、卵大の浸潤が二つあって、やっとそれがこれまでに治って来た所」だ、と断る。すると、桃野組長は、花村氏を名差す。花村氏もこの夏から黄疸にかかり、勤めを休んでいるが、この頃ずっと元気で、家の裏手の小屋など一人で作ったほどであり、その後勤めはやめたのか、家にいる。皆が、それでは花村氏にと言い、どうやら、あまり厭でもない模様で、花村氏に落ちつく。昼間花村氏留守の時は、私と加持夫人とが群長代理になる。そして、新しく粕谷夫人が副群長として南方に離れている同家附近の四軒の指図をするということで落着する。それに続いて、今度から隣組配給になった障子紙を分配す。二種類あって、籤で分ける。私は悪い方が当る。半巻だから、障子二本分しかなく、切貼り用である。更に、こないだから新聞に出ていた缶詰の分配。一人二個ずつというから、大変な数である。こんな豊富な食糧の配給は、隣組はじまって以来のことである。運送の仕事を知っている恩田老人が、東京中にこれだけずつ配給するには貨車何十輛も要ると言ったが、いかにもそうであろう。これは軍貯蔵のもので、その貯蔵期間が満了して次のものと入れかえることになった為に、便法として都民に分けるものだという。私の所、蟹三個、鮭七個で合計四円四十七銭払う。外に隣組費五十銭、町会費一円、国民貯金一円等払う。
桃野氏の話に、企業整備の進行と共に、工員徴用はこの十二月一月にかけて徹底的に行われ、ほとんど軒並みに徴用されるであろうとのこと。窪田家でも、今度海兵を受験して落ちた息子さんがいて、徴用されはしないかと桃野氏に相談していた。加持夫人の知合の薬屋の使用人は、徴用令が来るとすぐ、郵便局の事務員となった、という話など。薬屋の店員は殆んど皆無だとの話。そうだ、都の人間が軒並み徴用という程にならねば、この戦争をまかなって行くことは出来ない筈だ、と私も思った。教員なら徴用されないというから、私はこれまで徴用のことを深く考えなかったが、自分のことも、もっと考えねばならぬと思った。
十一時帰って寝たが、茶が利いて眠られぬまま、考えて見ると、これはどうしてもどこかへ勤めなければならない、と思われて来た。仕事の方は「爾霊山」を先ず書き、その為の旅行も急いでしてしまう。そのあとは、本を出すことをあまり慾張らず、こつこつと「奉天」を書いて行くこと。そして平凡な勤人として戦時下の生活をすること。妻と子の生活を守るためには、そうしなければならぬ。また私の書くもので、この戦時下に出版して意義のあるものは、この二作で尽きる。そのあとは、後の日の為に自分を養う方がよい。私がどこか確実な所に勤めていれば、たとい出征することがあっても、妻子は生活して行けるであろう。出征の留守宅に月給を出すような所へ勤めること。そして、私は板谷真一君の行っている三井の飼料会社を思い出した。先頃逢った時、事務の方の人がいると彼の言っていたことを思い出した。こういう考は、いじけているだろうか。否、私は、一人前の労力をその軍管理の生産機関に提供して、平凡に、こつこつと心を養い、自分の筆を荒さぬように、冬のあいだの樹木のように控え目にしかも強靱に時を過さねばならない。自分や妻子のことのみ考えすぎるようで気怯れがするが、私は眠れぬままに、ひたすらそんなことを思いつづけた。この巨大な戦争は、病弱な私でも、きっと戦線に立つところまで行くにちがいない。ロシアを、ドイツを考えれば、それは明白だ。今の東京の自分の生活ののびやかさに騙されてはならない。私のいない時の家の生計を何とかして成り立つように計らっておかねばならない。明年か、明後年か知らないが、私たちのような老兵が戦線に立つ時がきっと来る。そこまで行かずに日本がこの戦争に勝てるわけがない、と今日聞いた海空戦などから考えて、私は三四時も眠れず、北風が窓をガタガタ鳴らすのを聞いていた。
十一月十日 曇 貞子一昨日からまた風邪で寝ている。
夜があけて見ると、昨夜の考が、すこし行きすぎのように思われる。礼が新聞に飛びついて万歳と言っている。朝日がカーテンをとおして壁に当っている。雀が囀っている。まことに静かだ。しかし、私は昨夜の考をやっぱり本当だと思う。口先ばかり、これまで、大戦争だ、長期戦だと言っていたが、私は本当にその激しい長期戦のために身支度はしていない。
父の戦場のことを書けば、私の筆の仕事は、それで一応終りとするのが、正しいように思われる。文人としての私は戦時にふさわしい存在でない。それを強いて戦時に仕事を続けるのは、世間をも自分をも傷めて行くだけである。平凡な一勤労者となり、働き、妻子の生活を考えてやることこそ、私にふさわしい時になった。そう思いながら地図を出し、鶴見の板谷君の工場までの道をしらべ、電車が混むひどさを聞いたまま思い浮べたりする。
そして、勤める前に、満洲と父の郷里広島を見、「爾霊山」を書き上げること。上野の図書館の文献を写すこと。先ず今日は「新潮」の原稿を書き上げ、明日は近藤君の所へ行って満洲行の件を確かめること等。
また近いうち、板谷君の所へ行って、相談すること。身体をいたわり、生活を整理しながら、その方へ次第に進むことに考をきめる。
各新聞に、大戦果の報を大きく掲げ、古賀聯合艦隊司令長官の写真と、先日の第一次ブーゲンビル航空戦に戦死した雷撃隊の指揮官納富大尉と昨日の指揮官でやっぱり戦死した清宮大尉の写真、経歴をかかげている。ともに少年のような初々しい顔であることが心を刺す。朝日の昨日夕刊の解説によると、敵がソロモン群島やニューブリテン島を奪おうとするのは、この辺の大きな島でなければ、敵が今後展開しようとする航空機の大侵攻戦を行い得る大基地を作れぬからであると。その北方の南洋諸島は小さくて、そういう大航空力の基地たり得ないのだという。このこと深く考うべきことである。我方は、そうだとすると、なおさらこの群島を失ってはならないのだ。
清宮大尉のこと、夕刊によく出ている。こうして若い頭のよい一青年は生い立ち、皇国を護るとて南海に死んだのだ。その写真の笑顔が美しく、切ないことだ。
昨日夕刊に、ナチス党二十周年にヒットラーがミュニッヒのレーヴェン・ブラウ酒場(多分そこは党成立の記念の場所である)で演説をしたこと、その要旨と共に出ている。読んでみると、やっぱり、この演説をした人は天才であるとの感を深くする。人の心を把握する力は、素晴らしい。言葉の効果を完全に使っている。独軍が東方戦線で危機にある時なのに、これを読むとドイツは大丈夫だという気持になってしまう。個人の信念と才能とが国民を指導し、人を信じさせる力は偉大なものだと思う。この戦争は、十九世紀以来の民主的社会思想の表現した「人間の弱点の正当化」という、人とは弱いものなりとの観念を踏み破り、意志の力、人格の尊厳、人間の美しさにこの上ない価値を見出して来ている。
午前「新潮」の原稿書こうとして進まず、「雪国の太郎」の検印を押してしまい、郵便局へ行く。楢崎氏にも原稿もう一日待つよう願う速達を出す。この頃自転車の後のチューブ空気が洩るようになり、乗る度に空気を入れねばならぬ。自転車に乗るのは、スキイをする気持に似て楽しい。煙草は甲州街道にも、どこの店にもなく、昨日敷島を買ったずっと田舎の塚戸学校前まで行ったが無い。煙草をよす機会だとも思う。昨夜の常会の話では、煙草は十二月の議会でまた倍にも値が上るという。これまでは鵬翼二十本入五十銭、朝日二十本入四十五銭などいうのが、割合に手に入りやすい標準であった。その辺の田舎道をとおると、風呂敷やリュクサックに野菜を買い入れて背負った女たちが多い。買い出し部隊である。茨城県もまた買い出し部隊を持てあまし、八貫目までゆるした移出を、二貫目に制限したと新聞に出ている。この頃京王電車でも大きな荷物の客は乗せなくなったという。
ドイツの宣伝相ゲッペルスは、先頃から繰り返して、ドイツがロシアに破れれば、全欧は赤化する、その他の問題は小さいことだ、と専ら英国と妥協する底意のある議論を述べている。ドイツも苦しいのであろうが、一種のマキアヴェリズムのようで気になることだ。
夕刊によると敵米国の海軍長官ノックスは、日本の大本営発表の戦果に対しては全然沈黙を守り、新聞記者から「貴下は目下の海空戦は戦争と認めないのか」と突込まれたという。日本の大本営の発表は、それでいて彼等の新聞にのっているのだから、そして民衆はそれを信用しているらしいから、なお滑稽である。各新聞が、戦況発表の米当局の検閲に非をならしているという。一体アメリカはどうして、こういう風に、戦況の発表を、いつもいつも誤魔化そうとするのであろう。イギリスの方が遥かに卒直で、かえって発表を信頼させ、上手である。マレー沖で二戦艦を沈められた時も、チャーチルは、我々は戦争のやり方を変えねばならぬ、と言ったりした。この輿論を変に人工的に支配しようとする所にアメリカの政治上の弱点がある。彼等は、まるでルーズヴェルトが次の期の大統領に打って出る景気づけのために戦争をしていると言った風であり、少しでもその人気を傷つけることは頬かぶりで通そうとしているような印象を与える。民衆に対して極端に弱い政治機構のようだ。こういう風に、戦い、そして死ぬる自国民を政争の宣伝のために利用して汚辱するような国が、持久戦に勝てるとは思われない。真実を包まなければ、おさえて行けないようなうるさい民衆を、いつまでも盲目にしておける訳がない。アメリカは弱い構成を持った国家である。しかし彼等は軍艦をも、飛行機をも次々と巨大な量で生産し、それによって圧倒してしまうことに力点をおいている。彼等には戦争は、大きな土木工事か、損失や広告費のかかる企業のように思われているらしい。収支償わず、破産しそうになっていても、平然として見せ、競争相手が倒産して企業の独占権を手に入れるまでは金を注ぎ込まねばならないと思っている風がある。彼等にとっては、この戦争は企業なのだ。しかし我々にとっては民族の興廃の生命がけのことである。日本人の総てが生産組織を完成して、それに入り込んでしまえば、この戦争は必ず我に有利になると思われる。アメリカはなお戦艦を十四五隻、航空母艦を十隻ほど持っており、最近はイギリスが地中海から戦艦四隻その他を印度方面にまわしているという。西南太平洋と印度洋との両方で、大激戦がこれから展開されるような予感がする。
十一月十一日 曇 貞子ほぼよし まだ寝ている。
大破の敵戦艦は撃沈との発表あり。更に万歳なり。出動した敵戦艦四隻、空母二隻を南海に沈め去ったのである。ハワイで沈めた敵艦の一部を、敵は半年ほどかかって引き揚げたが、今度はそうは行かないであろう。この後敵がどう出るか興味深いことだ。古賀司令長官に勅語が下された由、夕刊にて知る。これは太平洋戦争に一段階を画した大戦果であった。敵はなお発表をぐずついている。時期を失したのである。隠蔽も出来ず、日本の発表に追随も出来ないのであろう。
新聞でも言及しているが、日本の火薬は、先頃発明賞をもらった某少佐の作ったもので、特によいものらしい。敵もハワイ戦後軍艦の防禦力を増したらしいが、この美事な戦果には、爆発力の素晴らしい火薬が物を言っていること確かである。日露戦の下瀬火薬のような威力であろうか。
朝、自転車で煙草買いに出、方々をまわって、敷島を二個買う。そのあと、新潮の「本年度印象に残った作品」という稿を続け、四枚目に達す。
午前十時頃、吉川江子さんと松原一枝さんとが来る。吉川さんはしばらく小説も書かず、荒木さんたちとも遊びに来ず、どうしているのかと思っていたが、隣組長を父君にかわってやり、忙しいという。女の作家たちが、今はかえって文学に専念するによい立場におかれてあるように見て、熱心である。四国の黒文字飴というのを一壺もらう。
午後三時間ほど午睡。昨日も、一昨日も午睡。よく眠る。毎日バター、ハリバ肝油球をとり、セファランチンを飲んでいる。だが顔は段々と痩せて来ているように思われるが、こないだ数日つづけて畑をしたのの疲れが残っているのか、と思う。手の甲の吹出もの出て来、スカボールザルベをつけているが、次第にふえて来る。気持悪い。夜原稿を続ける。十一時迄に九枚。
飯山正文君から餞別の礼状。目下郷里の信州にあり、十四日十時に幡ケ谷出発という。私の所へよく来た青年四五人のうち、今年に入ってから、小西君、飯山君は応召、児玉君は応徴。残ったのは田原君と、帰還兵の奥野君、岡本君などである。
十一月十二日 晴 貞子まだ風邪気味なりという
朝原稿を書きつづけ、昼に出来る。昼食後、原稿を持って、新潮社へ行く。ついでに「文芸」の本年度の印象作の回答も出す。原稿を受付に渡し、赤城神社境内に楢崎氏を訪う。どういう知り合いか、年若い警官とむかい合って碁をしている。中耳炎気味なりとて湿布をしている。夫人と食物の話など。近いうち甘藷を買うように頼まれる。楢崎家では非常食のために厳重な食物統制をしたり、広島から小包などで馬鈴薯を一貫目、二貫目と送らせて貯蔵したりしているという。どこの家でも本気になって非常の時の食糧の心配をしていることがよく分る。私の所など近所で買えると思って、のん気に過ぎはしないかと考えた。
十一月十三日 晴 礼病気 胃を悪くしたらしく吐き、風邪気味。
朝から礼吐いたりして寝ている。便はよいようだが、胃が悪いのであろう。この頃肝油やバターを取りすぎたのであろうか。貞子も寝ていて、家中うっとうしい。この土地冬は寒いとのことだが、どうも貞子はこの節よくない。
読売にソロモン方面の戦争の解説のっている。いずれ軍部から出たものであろうが、要をつくし、敵の戦略の概略も分る。今の激戦につづいて、どういう戦争となるか、心配でならない。ラバウルを守れるかどうかによって、日本の生産力の現状を知ることが出来ることになるのだ。補給に勝ちさえすればよいのだが、とそれを念じるのみである。
「新潮」の原稿、とても書きにくい。それを終えたので、ほっとした気持。日露陸戦記考の序文を書いて、早く持って行かねばと思うが、今日はぼんやりして仕事に手がつかぬ。
旭川に入営した小西猛あてのハガキ戻って来る。見ると嵐隊を小田隊と見あやまっていたのである。手紙を書いて、義兄への紹介名刺と共に送る。また画家の武智肇君しばらく音沙汰なかったところ、応召して満洲の東安にいるとてハガキ来る。驚く。どの人も軍務である。返書を書く。そう言えば、町を歩いても電車の中でも、青年の姿が目立って少い。学生も今度の応召のため、急に少くなって来ている。学生の徴兵猶予停止のため、本郷や早稲田の学生街には、下宿屋の空室が多くなり、古本もまた随分売りに出ているという。
午後、礼の薬買いがてら郵便出しに出かける。薬屋でジャスターゼとワカマツとアスピリンを買う。茶の紙袋を持って行って、焙じ茶を買う。入れものがないと茶を売らないのである。そのついでに、自転車で仙川の駅から至誠会の病院の方をまわって帰る。礼昼間じゅう眠り、また時々吐く。夕方水飴とジャスターゼをやり、メタボリンを注射す。
夕食には配給の鯖あり。
夜、「日露陸戦記考」の序を書くために、田山花袋集を出して「一兵卒」を読もうとし、ついでに外の作品を読み、面白くなってやめられぬ。「山荘にひとりいて」「孤独」等、作者の四十五六歳頃に、芸者のことを色んな方面から書いた作品を読む。「孤独」は一人の男が、ある芸者と別れて後次々と色んな芸者と相知るが、どの女にも満足出来ず、遂には呼んだ女と寝ることが出来ないような寂しさに襲われる話。こういう風に、こういう途に生活をつきつめる生き方が真剣に為されていた時代があったのかと思うと、まるで地球上にあり得ない話を聞いたような感じになる。そういう時代が日本にあったのだ。それなのに、今は、今朝の新聞にも書いてあるように、ブーゲンビル方面に大軍を集結しているアメリカは「よし日本軍の二倍三倍の消耗を行うとも最後に残るのはアメリカであると考え、彼の誇る量の戦闘によってわれの消耗を強い」結局日本の戦う力を尽させた上で必ず勝とうとしている。その戦争の意識が国民の一人一人に、着るものに、食べるものに、見るものに、隙間なく響いて来ている未曾有の国難時代だ。花袋の描いた世の中は、何という遠さだ。ほんの三十年ほど前のことなのに、何世紀も昔のこととしか思われない。
アメリカは、ブーゲンビル沖の敗戦をひた隠しにし、「ブーゲンビル島周辺で海戦は行われなかった」と言ったり、「空母が一隻日本軍の攻撃を受けたが少しも損害が無かった」と言ったりしている。しかも彼等の軍部の意向を示すように、エー・ピーの一記者は「南太平洋戦域における諸種の兆候から判断すれば、日本本土を最終目的とする三方面からの対日反攻作戦は極めて切迫しているようだ。反枢軸軍は南方を日本軍の手からもぎ取ると同時に、日本本土攻勢への新たな足場を確保するため既に協同攻勢の最後の準備段階に入っている。反枢軸軍は過去数ケ月間打撃力を集結して来た。中部太平洋戦域のニミッツ軍と印緬戦域のマウントバッテン軍は、南太平洋戦域におけるマッカーサー軍の主力作戦と緊密な協同の下に、近く全面的な攻勢を開始するであろう。」と言っている。だが、これは文章の調子に乗りやすい新聞記者の理想論で、下院議員のジョージ・ウーランドというのが、下院でした演説には「日本の空軍力は質量ともに強化され、乗組員の訓練計画は生産増強と歩調を合せて促進されている」と警戒している。アメリカ人は、自動車や鉄道や土木機械によってアメリカ大陸の原住民を駆逐して開拓した経験から、今度は船と砲と爆弾とで東洋の島々や、そこを守る日本兵を「開拓」しようとしているのかも知れない。しかし日本民族の戦う精神と働く力とは、それでは「開拓」されないことを、やがて覚るだろう。アメリカというのは面白い国だ。現実第一主義でありながら、しかも宣伝と韜晦を極度に頼るところもある。
敵の対日進攻路としては、今激戦の続いているソロモン方面よりも、東方からじかにやって来る敵が大鳥島や南鳥島などに取りつくのが遥かに怖ろしいことだと思う。また万一ビルマが敵手に落ちて、支那の敵空軍の補給が十分になるようなことがあれば、それもまた重大事である。兵の戦う力そのものには少しの不安もない。生産力のみが、航空機と船との増産のみが、敵をおしかえすことが出来るのだ。
夕刊にて、本年度の東京の疎開実施方法発表される。本年度内にこれだけでも実現するとすれば、相当の大事業である。東京の面目は急速変化して行くであろう。敵機来襲の憂いの多い来年四五月迄に、相当規模の疎開を実行しなければ、疎開ということも掛け声のみで役に立たなくなるかも知れぬ。昨年の春に小規模の空襲があって以来、来る来ると言いながら、今年は遂に来そうもない。ここ一年半は空襲はなかったが、その間にこちらの準備は、都民の演習のみ相当進歩したが、実質的に工場や民家の疎開は、まるで行われず、やっとこれからするというので、心細い話だ。
十一月十四日 晴 霜 麦の芽播いてから十二日目に細く頭を出す。夕刻、鶏小屋の前に三浦大根というのを一畦半播く。一月遅れているから物になるかどうか。
朝刊にて第三次ブーゲンビル海戦を知る。今が、今こそ日米決戦の真只中なのだ。今が日米の戦の鍔ぜり合いである。力の押し合っている頂上である。アメリカがその船と飛行機の量でラバウルを攻略出来れば、敵にとってこの後の戦闘は、都合よくなるであろう。日本はまたその物質の不足を血と肉で補うことが出来て、次の大増産が間に合うまでラバウル一帯を守りとおすことが出来れば、アメリカをそれだけ消耗させて、今後の戦争を我に有利に展開出来るであろう。そしてこの戦は、端的にはブーゲンビル島が日米のいずれの手に帰すかで決定されるであろう。今朝の大本営発表では、今度は我空軍は敵の艦隊主力を捕捉しながら、スコールにはばまれてそれを潰滅させることが出来なかった。しかし、まだまだ、ブーゲンビル島の支配権を争う必死の争闘は続くにちがいない。敵は我飛行場を空爆し、特に時限爆弾を落して飛行場の使用を阻止しようとしているとのこと。そしてブイン等の飛行場は我方で使用出来なくなっているとのこと。この空軍の受身の戦は不利だ。こちらから敵の基地を空爆するぐらいでないと、さぞ戦争はしにくいことと思う。どうなるか、本当に今続いているブーゲンビル戦はどうなるだろう。それによって西南太平洋の勝利の秤は、日本か米国かに傾いて行くのだ。怖るべきことだ。何としてでも勝たなければいけない。
朝、京王の幡ケ谷駅で飯山正文君を見送る。駅前に十時から十一時近くまで待っていると、髪を切った飯山君が帽子をかぶらず、一群の人に見送られながら来る。色白く愛嬌のある飯山君の顔が、今日は眼鏡のみ目立って、とげとげしい顔になり、表情がきつくなっている。別人のようである。同じアパートの女の人たち大勢の外に、張赫宙君が見送って来ている。私は飯山君と電車で新宿へ出ると、若い女の人が新宿駅で彼を待っている。私は東京駅まで送ると言ってついて来たので、三人で電車に乗ったが、私がいない方がよかったらしいと思った。東京駅で二人をおいて別れる。飯山君は昭和十年度の第二国民兵で、目下十二貫しか無いから、ひょっとしたら帰されるかも知れぬが、入団すれば多分飛行場の地上勤務員になるだろうとのこと。また飯山君に、張赫宙君の所へ徴用令状が来ていることを聞く。報道班員としてのものか、それとも工場行か分らないので、訊ねに行くと言っていた由。河出書房にも徴用が三人も来ており、その一人は三十九歳の編輯員だという。また飯山君のいるアパートは軍需工場の寄宿舎として買われたので、彼の細君は立ちのかねばならず、その実姉のもとに身をよせることになった等の話を電車の中で飯山君に聞く。到る所で、生活の落ちつきなどというものは地を払ったような世の中になっているのだ。
午後田原忠武君来る。いつか預っていた見合用の写真返してほしいとのこと。彼はいま千葉県の我孫子の近くの農家の娘と縁談あり、近々その家まで出かけるとのこと。その娘の家は、山や畑があり、湖のそばで舟もあるから、若しその娘をもらったら、魚釣りに行きましょうなどと彼言う。楽しい空想ではあるが、おたがいに明日はどうなっているか分らない日常故、何となくはかない感じである。話しながらたがいに、そのはかなさを噛みしめている。江口君から馬糞一俵届けられる。三円の謝礼を持って行って渡す。
夜になって四町ほど離れたところにある都立十二中の生徒の盛な合唱の声と目茶苦茶に叩く太鼓の音が聞える。陸海軍の飛行隊その他に入る上級生の送別会と思う。二三日前菊が近所の佐藤という農家へ甘藷を買いに行った時、そこの主婦が、十二中の生徒が飛行兵になる送別会をするのに、特別に甘藷を二俵売ってあげた、と言っていた由だが、それが今夜なのであろう。中学生の声は、騒然として殺気立っているようで、夜が静かなため、はっきりと聞える。先ず「富士の白雪ノーエ、」という古い歌、私たちも中学生の時、運動会の応援などで教師をいやがらせるように歌ったあの古い歌が、ぐるぐるまわって、「娘島田はノーエ」とか「三島女郎衆はノーエ」などと続く。その後は、デカンショ節だが、文句を知らないと見え、すぐ乱れて途切れる。それから、彼等が小学校で習ったのであろう「しょしょしょじょ寺、」という童謡、それから「踊り踊るなら、チョイト東京音頭」という俗謡等々。二時間ほど続いて、九時に終る。二十歳前の中学生が、こうして戦場に行き、祖国を守る門出の歌かと思うと、力のやり場に困るような目茶苦茶の歌いかたが甚だ痛切に聞える。私は、海軍兵学校の生徒がよく歌うという「泣くな歎くな必ず帰る。桐の小箱に錦をそえて、逢いに来てくれ九段坂」という歌を思い出し、涙が湧いて困るのであった。白頭山節とかいうこの歌は、何という思いのすべてを籠めた歌であろう。尽忠愛国の心の隅には、哀別離苦のこの切々たる心情のあふれるものがある。日本の航空部隊は、ただ機械のように自爆したり体あたりをしたりするのではない。征く人たちはすべて父と母とのある人の子であり、人を愛し、人に愛される肉身と命を持っている青年である。ああ。
「戦争の文学」の序論四枚迄書いて、十時になる。
礼は吐き気失せ、元気で粥など食べているが、小さい咳まだ続いている。
十一月十五日(月)貞子ほぼ恢復す 礼恢復す
今朝またブーゲンビル第四次航空戦の発表あり。昨日発表の十一日昼間に続いて、今度は十三日未明、三時に行った戦闘である。いまは月齢十七日ぐらいで、三時には月の光があることと思うが、我雷撃戦争の奮闘は凄じいものである。今度は空母と戦艦一隻を捕捉して大破というから、ほとんど沈めたものと思っていいであろう。我損害も極く少く、二機である。新聞の解説によると、敵はブーゲンビルに上陸させた部隊に補給し、かつ制空権をその方面で手に入れるために、執拗にやって来るので、飛行機の補給を兼ねて空母を持って来るのだという。さすがに敵も飛行機の補給が苦しくなっているのであろう。マッカーサーもその点を告白するように「南太平洋では日本軍はその飛行機を急速に補充し得る有利な点を持っている。更に日本軍は他の戦線であまり空軍力を必要としないのでこの西南太平洋にその空軍力を集結し得る利点を持っている」と言っている由。敵は太平洋を横切って飛行機自体が飛んでは来れないのかも知れず、我軍は多分戦闘機ですら島づたいに戦線に飛んで行けるのであろうか。
しかし、それにしても怖ろしく物惜みをしない米軍の戦法だ。戦艦などを惜しんでいては進撃作戦は出来ないというのであろうか。今になって考えると、一昨年の暮に我方から撃って出てこの南方諸島を占領せず、開戦を去年の夏頃まで延期などしていたら、我軍はひどく不利になり、手も足も出なくなったであろう。日露戦の時も早い開戦によって我は利を得たが、今度もそうであり、特にハワイの敵艦を破摧したことが、今こうして島を三つ四つ取る敵にこの犠牲を費させることが出来る原因であったのだ。さすがの敵も戦争を隠してはおけずこの方面で「反枢軸側の航空母艦並に軍艦数隻が損害を受け、死傷者を生じた」という曖昧極まる発表をしている。
敵はこれだけの犠牲を払っても、なお何としてもブーゲンビル島を取るつもりであり、我方はその敵をつかまえては叩きつぶすつもりだから、この島がどちらの物かに決定する迄は、このような規模の戦争が、まだまだ続く。凄じいことだ。国と民族の運命が、こうして刻一刻とこの海面で決定されつつあるのだ。
米洲諸国との抑留民交換船、インドのゴアで交換して、昨日横浜に到着す。第二次の交換船である。一千五百名帰来したのだという。
昨日に続き「戦争の文学」序を書き進め、十九枚となり、それを、序とせず、初めの部分の原稿とする。これで全部出来第一部「戦争の文学」八十枚、第二部「日露陸戦記考」百四十枚ほどで計二百二十余枚となる。
朝出来た原稿を揃えてノンブルを打っていると、桃野氏と井上氏来る。共に町内の役員である。私に附近の防火群四つを合せた防護班の副班長をせよとのこと。井上氏がこの第一班の班長である。班長は警察署の訓練なども受けに行くということであるが、副班長はその責任はなく、ただ班長不在時に代理をするとのこと。私は家にいるので、どうしても何か一つ役を負わされるらしいので、楽な仕事であれば引受けてもよいと思っていたが、まあやって見ましょうということになる。今夜事務所で早速集りがあるという。
その時、階下で、北海道八雲から貞子の伯父伯母船橋夫妻が来たと告げる。一年ぶりぐらいである。桃野氏たち帰ってから話をする。去年たった一人の娘をなくしてから、直接の係累がない身分なので、今度も関西旅行をしての帰り。但し今度の旅行には昼食を食えなかったりして、困ったこともあるという。スルメ一束、煮乾し等の土産をもらう。かねて東京へ移りたいと思っていたが、空襲の心配や食糧不足等の話を聞くし、家など高価になったということを聞くので、当分延期したいなどと言う。
午後電話で朝日新聞の薫を呼び出し、英一と一緒に伯父等に逢いに来るようにと伝う。夕食後町会事務所まで、真暗なところを四五町行く。私は早く帰るつもりで、着物に二重まわしで行った。ところが、町内の群長など大勢集っていて、ポンプ操作、看護法の訓練が始まった。こんな風に度々夜間に来て訓練をしなければならないのなら、これは困ったことを引き受けた、と後悔する。早目に抜け出して戻ると薫、英一も来て、夜十時過まで話し、薫も英一も泊る。夜入浴してから寝て盗汗気味。
買い出し部隊の問題、東京新聞に、種々の面から取り上げられている。
十一月十六日 曇 夜細雨
今朝未明三時頃、南方にひどく大きな爆音がし、硝子が今にも破れそうにびりびりと鳴り響いた。その後の新聞には何もそのことを報じたものはないが、相当の遠距離で何か大きな爆発があったのにちがいない。何か大きな事件でなければよいが。
伯父夫婦、今日は成田山へ参詣し、夜は日暮里の知人宅に泊って、明日帰るという。甘藷を蒸して弁当に持たせ、外に少々土産とする。北海道では出来ないものなので、珍重するのである。
伯父を送って出ながら、鞄に原稿を入れ、新宿駅で別れ、東京急行線の経堂に青野季吉氏を訪う。青野氏の宅へ訪れたのは初めてである。白髪だが、肥って元気によく話す。最近一月ほど奈良に滞在、東大寺の千二百年記念祭の式を見て来たという。奈良は気候の変化の少い場所で、それ故に古建築美術などが保存出来た。気候の変化の多い所では、古いものはみな傷むという話など。そういう話をしている青野氏の容貌は以前よりもずっと滋味があり、彫刻のような顔になって来ていると思った。この頃久しぶりで、よい人に逢い、実のある話を聞いたと感ずる。一時間ほどいて原稿を渡して帰る。青野氏印税の半分か三分の一ほどはすぐ出るよう全国書房の方へ話をつけてくれると言う。先程質屋で作った百五十円はもう四十円しか残っていず、その金が早くほしいのだが、そんな風にも言えず、よろしくとのみ頼んで別れる。青野氏の話によると、工員として徴用された古谷君は、工場で二三日働いたが、どうせ働くなら、戦線に従軍したいという願が文学報国会をとおして聞き届けられ、今自宅で待機中という。帰ってから、大阪の全国書房のその計画を担任している池田小菊女史に、原稿を青野氏に渡した旨の手紙を出す。そのついでに自転車屋に寄り、修繕の出来ている車を受け取る。自転車の修理、パンクは三十銭ときまっているのだが、見ているとたいてい五十銭を払っている。私のはナットの取りかえなどで五十銭というのに一円渡す。そうしておかないと次の時に早くやってくれないのである。
今日は原稿が出来て、渡したあとのことで、大変ほっとした気分。金の心配は残っていても、とにかく一仕事済んだという気持はのびのびしている。いよいよ日露戦記のための図書館通いを始めねばならない。予定より半月遅れている。
夕食後、考え直し、貞子とも相談の上、昨夜のような夜の訓練にいつも出ねばならぬようであれば、副班長は出来ないから、と井上家に行って、井上氏に話す。井上氏は夕方六時なのに、今警察での訓練から戻った所だと言い、夫人も勤め先の女学校から今戻った所だという。一時間ほど話しているうちに、結局群長よりも気持も身体も楽だし、訓練にもそう几帳面に出なくてもいいだろう、というようなことでやっぱり引き受けることとなる。昨夜訓練を受けに来ていた加持夫人は桃野氏に私を群から引き抜かれては困る、今度また花村氏が群長をやれない場合は加持夫人がしなければならなくなるからと言い出し、桃野氏は困却した結果、今朝花村氏を訪ねて念を押し、花村氏が大丈夫自分がやると確認したので、桃野氏は喜んでその足で井上氏の所へ来ていたという。なかなか面倒なことである。それでは明日は、私がまた花村、桃野、加持三宅を訪ねて、一応挨拶をし、了解を得ておこうということにする。
今日読売新聞に、米英の軍略を論じた記事が三四まとめて出ており、面白いので、要点を抜く。第一に米国の空軍理論家セヴェルスキイは、超巨大機による対日空襲が実現近しと論じて「航空工業の進歩は、近き将来に今の『空の要塞』を小人の如く見えさせる如き巨大な飛行機を産み出すであろう」と言い、またそれが出来れば「アメリカより日本を、グリンランドよりドイツを襲撃し得ることになり、中継基地はその価値を失うから、前進基地獲得のための犠牲多き戦闘は不必要になって来よう。かかる思想が有力化していることは最近のマッカーサーの声明によっても明かだ。マッカーサーはその声明の中で島づたいの飛石作戦の不合理さを認め、日本本土攻撃のための全面的強襲を推奨したのである」と言っている。南太平洋軍の司令官マッカーサーが今の自分の行っている戦法を不合理だと言い、もっと直接の打撃を日本に加えうると考えていることは注目を要する。
そうかと思うと英週刊紙「ロンドン・ニュース」の論説者フォールズは「今の米英には世界の各地で大作戦を行うような兵力は無い。地中海に集めている兵力を分散させれば、反枢軸軍は破綻するであろう。従ってビルマ作戦は兵力集中の原則から言って非常に無理である」と言っている。またインド軍総司令官オーヒンレックも「ビルマ地方に対し新攻勢をとるには新たな兵力と軍需器材とが必要である。現状においてビルマ方面の日本軍に対し攻勢をとることは困難であり、印緬両国の国境線は安定していると言わねばならぬ」と言明した由。
このビルマの反攻が出来ないという二つの意見には、どうやら謀略くさい所もあるが、またそれが真実だと思われる節もある。米側の発表でも、ドイツ軍は少しも弱体化していず、その兵力は一九三九年の三倍に達していると言っている。また東亜の戦線への敵の輸送線はまことに長大でそれだけ敵に不利なことも事実故、ビルマ反攻は容易なことでないというのが真相かも知れぬ。
ドニエプル湾曲部でソ聯軍はまた大攻勢をはじめたという。ドイツ軍は頑強に防戦しているというが、ここに大きなソ聯の力が冬を迎えて加えられるとすると逆睹すべからざる結果となるかも知れぬ。ブルガリアの首都ソフィアは初めて米英に爆撃され、婦女子の被害ありという。これもイタリアの攪乱に成功した手を英米がまた用いている例である。
今年春の中学入学についての疑獄発表される。大変なことである。筆記試験をやめ内申制度と口頭試問とにして以来の弊害の累積したものである。重大な問題である。滋は成蹊高校の尋常科へ入れたいのだが、そこを受けられないような区域別試験となるかも知れず、心配なことである。貞子に言われ、荒木かな女史あて、受験指導について智慧を拝借したいと手紙書く。
十一月十七日(水)晴 暖し 莢豌豆の芽出る 麦よく出揃う
朝桃野氏を訪ね、昨日の井上氏との話を報告して、まあどうにかその副班長というのをやって見ることにする。粕谷夫人、昼間の群長代理をしてくれると桃野氏に確約したとのこと。帰りに加持家にそのことを知らせに寄る。夫人いず、老母に話を伝え、なおその点花村夫人にも伝う。これでこの件はどうにか落ちついたわけである。桃野家では昨日女子生れた由。桃野家の畑など見まわり、しばし雑談す。防護団や町会に関係していると、地元の農家と連絡が出来るので、種子、肥料とか野菜を買うのに便利をするという話などあり。家に戻ってから、午前中にと、信濃町の近藤春雄君宅へ行く。本物のコーヒーにアメリカ製のミルクを入れたのを出され、なかなか上流の家庭には退蔵の物資があるのに驚く。満洲行の件、湯浅克衛と円地文子両君の渡満のため旅費下附の手続をしているが、両君はそれが間に合わず、朝鮮のみを視察して戻った故、その旅費をまわすか、又は満洲国大使館にとってある旅費も出るから、どちらかを間に合わせようとのこと。二十日過にまた来訪することを約して、昼になったので帰る。家で甘藷の昼食。この頃は自家産の甘藷品切れとなり、佐藤家や吉岡家から一貫目二貫目と菊が買って来て食べている。この頃一日おき位に魚を家中の者が一切ぐらいずつ食える。この辺は農家が多いし、それ等の農家からは配給所が遠いので、買いに来る者が少く、当りがいいのである。ありがたいことである。
京王電車の中で買い出しの白菜や葱を背負っている細君たちの会話をそばで聞く。
「どうしても配給のものを煮ると漬けものが無いし、漬けると煮物が無い。今日十五銭ほど配給があるかと思うと、翌々日の配給には三十銭という位で、晩になってさて何を今日は食べようかと思うと何も無いことがあるので、本当に困りますわ。どうしようかと夢にまで見るぐらいですの。今日など蘆花公園の農家へ行くと、頭から、今日は駄目だよ、と言うんです。まあそう言わないで、とこちらが下手に出るものだから、ほらこんな悪い品物を、相当いい値段で売ってくれるのですよ。そうして段々と高く売るようになって来ているようですわ。」
鶏はもう成鶏となり、荒々しくなった。この月末頃産卵するのだというが、まだ鶏冠が伸びない故、もっと遅れるかも知れぬ。卵は近所で買えないので、この鶏が頼りである。午後暖いので、前から考えていた鶏小屋の模様変えをする。寝小屋を、竹矢来の中に入れ、二つ重ねて高くし、風も当らぬよう、板をぶっつける。夕刻一とおり出来たので、自転車で川の辺まで散歩す。自転車に乗り歩くのは快適である。「爾霊山」にそろそろ取りかからねばならない。
奉天の実に、大体十二月十日頃こちらから行きたいと予定を報告のハガキ書く。近藤君の話だと、満洲の旅行は、防空服装でないと汽車に乗せないとのこと。女の着流しした連中は乗車を拒絶されて閉口するという。
朝刊に第二次ブーゲンビル戦の敵戦艦撃沈の様相が詳しく出ている。これはこの戦争中でのもっとも大きな記録の一つとなろう。やっぱり戦艦を沈めるというのは容易なことでなく、第一次攻撃、第二次攻撃、第三次攻撃と三度にわたって繰り返しての雷撃でやっと沈めたのである。我空軍の勇気、技術がその戦果の根本をなしているが、敵が防禦に特に力を入れていることで有名な戦艦を四隻も沈めるというのは、我方の飛行機、水雷、爆薬等が優秀であるのにちがいない。しかもマッカーサーの司令部では、十一月に入ってから海戦は全く行われていないと公表している。だが、そうは言っても、この数日ブーゲンビルやラバウルへの敵の反攻は、立ち消えのように音をひそめてしまった。秘し隠すだけその傷手の程が思いやられる。
藤原銀次郎、無任所大臣となる。今年春以来彼は重点産業査察使として各方面の産業を視察し、特に鉄、石炭生産の隘路を打破して名声がある。能率生産の専門家故、今の飛行機大増産に役に立つ人物であろう。先頃の中園中将の戦死につぎ、富永中将がまた飛行機事故で死ぬ。将官の戦死が少しも珍しいことでなくなった。この度の戦争は日露戦などでは、考えられなかったような危険が軍司令官や師団長の身にまで及んでいる。
十一月十八日 晴 暖
第五次ブーゲンビル航空戦あり。またまた大戦果にて、空母三隻、巡洋艦級四隻を沈めた。何故、沈められても沈められても敵が出撃するのか。上陸した米軍の基地を我軍の攻撃から守る為か、それとも上陸地に基地を作るまでの輸送力の保護の為らしい。夜間には大輸送をして大至急上陸地に空軍基地を敵は作っている。我軍はまたそこを夜間爆撃しているが、目下ブーゲンビル島の昼間の制空権は敵手中にあるのではないか。そうだとすると、敵は必ずやこの島の空を支配して、この前のガダルカナル島戦やニュージョージア戦のように地上の我軍に爆弾の雨を降らせて、島をやがて乗っとるのではないか。しかし目下のところはまだ基地が出来ていないらしいが、この島の制空権をめぐって、多分近いうちに未曾有の日米航空戦が開かれるであろう。そして都合悪いことには、この島はニューブリテンから四百キロもあるのに敵の占拠しているコロンバンガラやベララベラ等からは、その半分位の距離で、航空戦は敵に有利である。万一ブーゲンビル島を我軍が確保出来ねば、ニューブリテン島は、ブーゲンビルとニューギニア両島の敵基地から包囲攻撃を受け、極めて我軍に不利であろう。日本の飛行機生産が目下のブーゲンビル確保を為し得る量に達しているか否か、それがこれからの戦争で分るであろう。そのいよいよの決戦段階に次第に近づいているのだ。敵は軍艦をうんとここで沈められたが、軍艦の犠牲においても基地を作らねばならないと、敢然として出撃して来ている形である。ブーゲンビル島はどうなるか。本当にこの島の戦が日米の決戦のようなものとなった。
読売に、この島の上陸軍に対する敵の補給とこの海戦との関係の説明が出ている。これは具体的でよく分るものだ。とにかく、何としてでもブーゲンビル島を守り通さなくてはならない。
朝押入れの鼠穴を修理し、ついでに玄関と床下とをつないでいる空隙も板でふさぐ。これで室内には鼠が出られなくなる筈である。
十時半頃より、アルミの弁当箱に甘藷入り御飯と配給の鮭をつめさせたのを持って上野図書館へ出かける。ノレガアドの「旅順戦記」その他三四冊に眼をとおし、夕方五時に及ぶ。今日は本の閲覧表を差し出してから本が出るまでに一時間半もかかる。人手不足だと館員が言いわけをしていた。夕刻小雨、風出て公園の枯葉を音を立てて吹き散らす。公園内は燈火なく、夕闇の中ですさまじい風景である。
「雪国の太郎」見本一冊出来て来る。絵がよく出来ているので、気に入った。
新潮社に電話したが、楢崎氏は留守であった。
先日来、徴用の話のみ多く聞いている。小売業者、理髪、染物、その他の自営者は多く徴用されているが、この頃は事務員、編輯者等知識階級人の工員への徴用も多く、到る処にその例を聞く。たとえば講談社などは五十人も徴用されて仕事に差支えているという。しかし働くことは工場で増産に加わる点、誰にとっても現在異存はないであろうが、徴用員への報酬が月六十円以内というから、生活費に足らず、その点でみな徴用されると困ると誰もがいうのである。せめてこの倍位の収入がないと一家を持っている者は、生活が成り立たない。今日滋が和田本町の方で知人の橋爪夫人と逢ったところ、株屋につとめていた橋爪氏(四十一歳で、高商卒業者)が徴用されてどこかへ行っているので夫人は困っていると話した由。四十一歳で徴用されるというのは変だが、と思うが、多分満四十歳になっていないのだろう。
今日菊が、いつも行く農家の佐藤家へ甘藷を買いに行ったところ、もう甘藷は売るのが無くなったから駄目だと断られたという。多分非常に貴重視されている甘藷は、もう冬用に保存して、売らなくなったのであろう。私の所、自家のや買い入れた甘藷をこの一月ほど食べて節米したので、今の所一週間分(と言っても毎日二食として)米の余裕が出来たという。私たちへの配給の米は一日分二合三勺であるが、陸海軍の兵へは十分に食べさせているために六合何勺とかであるという。軍人の食べるものが足らなくては戦争どころでなくなるから、これは当然のことである。一般国民の二合三勺は、何としても足りないのが実情であるが、これは現在の食糧事情では致し方ないことなのだ。私の所など多少畑があるのだから、我儘は少しも言うべきでなく、畑作りに懸命になることを第一としなければならない。
今暁四時、徳田秋声が七十三歳で死去した由、夕刊に出ている。藤村、朔太郎、白秋等に続いて、又大きな星が一つ消えた。時代はこうして、大きく変って行く。
日本の自然主義運動に携った人のうち、花袋、藤村、独歩、秋声と世を去り、残ったのは正宗白鳥一人となった。この時期の人たちより古い人では幸田露伴が存している。
十一月十九日 曇 寒し
十七日未明の敵空母集団の撃滅についで、その朝我航空隊は、トロキナ沖に補給の為にやって来ていた敵の輸送船団を、荷上げする前に襲って戦果をあげた。敵は三十機をもって船団を警戒しており、更に我航空隊が爆撃を終える頃百機をもって我を襲ったという。制空権はどちらの手に帰することとなるか。それがこの島の戦局を決定するのである。
北風吹いて、いらいらと寒い日。図書館行きをやめ炬燵入れる。午後、理髪に代田橋の店へ行く。この店は割に叮嚀だが、どこの理髪屋も汚くなり、不親切になった。頭を洗ってくれなくなった。新宿に出、明治製菓でコーヒーを一杯飲む。暖い飲みものというだけのこと。それから思い立って淀橋の百田宗治氏宅へ行く。在宅にて、生活資料の話。この辺は隣に日高駐伊大使家などあり、資産家多く、その為か、近所の魚屋が、あらゆる食品を闇値でこの辺一帯の家庭に入れている。家鴨の肉、林檎、乾魚、砂糖、卵など不自由はないが、高価なので、生活費がかかって困るという話。どうやら郊外の私たちよりはたっぷり食品が手に入るようす。これでは市内へ買い出しに来なければなりませんねと私は笑ったが、これが目下の東京の屋敷町の生活の内情であろう。そう言えば、この日前から知り合いの火災保険屋が来て、貞子がその国民服を見てほめると、布地が入用なら切符なしの品物を一万円ぐらいも手持ちしている店を知っているから紹介するし、靴でも家具でも売ってくれる所を知っているから紹介するなど、べらべら言い出した。一種の闇の仲介業をしている様子である。金がないから、そう突込んで相手になれないが、そういう闇の品はまだまだ東京に満ちている様子である。私たちはここへ来てから専ら切りつめた生活をして、何ものにも手を出さないが、そういう筋を相手にしていると、物は不自由しないが金はいくらでもかかるのであろう。つまり地下的インフレーションの進行した状態だ。夜、青野氏と池田小菊氏へ手紙を書き、印税前借を急ぐ事情を報じて配慮を願う。松尾一光君の小説原稿読む。才気あり。その感想手紙に書く。
読売特派員が二年ぶりに見たベルリンの生活事情を述べている。ドイツ人はまだまだ頑張れると、本当に気強く思う。そう嘘は書けるものでない。また米国の内情を報じた外電、米軍は専ら人命の喪失を怖れている戦法だという。南海の戦の損害をひた隠しにしている理由もそれが大いにある。敵の最大の弱点はこれだ。この点を利用すべし。
十一月二十日(土)晴
キエフ西方のジトミールは十四日ソ聯軍が占領をしたが、十九日に到って独軍は奪還した。この夏以来ソ聯の急進撃が始まって以来初めて記録された頓挫である。独軍はドニエプルの線を死守すると自らも言い、世評も定まっていたが、ソ聯軍は勢に乗じて河畔のキエフを奪い、ジトミールまで入ったが、独軍はここにジトミールの奪回をして、その健在を知らしめた。これは多分独軍の反撃態勢が漸く整って来て、その進撃の始まった大きな徴候の一つなのであろう。クリミヤの独軍は半島に孤立して、海上からの補給を受けており、目下の独軍の陣地には多くの不備があるが、それを自軍に便利な所まで独軍はもう少し進撃して陣地の編成更えをせねばならないであろう。独軍はまた地中海ドデカネーゼ諸島中のレロス島をも奪還した。独軍は健在である。過去の独軍の戦闘ぶりに比すれば、これ等の成功は言うに足りないものではあるが、この夏以来の急激な東部戦線の収縮で、あるいは独軍はもう駄目なのかという印象を私たちは誰も持った後であるだけに、この勝利は大きな安堵を私たちに与えた。独軍はなお、欲する時には戦場の主人公たるの実力を有しており、英米等の地中海の進撃等に対抗する為に東方を退縮したのだというその戦略も確信を持っての行動だったことが分る。たまたま、これがブーゲンビル海戦の我勝利と相呼応してのことなので、大変明るい気分になる。独軍は健在であり、我は真珠湾以上の海軍の勝利を太平洋で記録している。負けはしない。負けはしない、この勢でアメリカを押し返してやれ、と思う。
家の金二十円余しか無くなり、貞子が心配している。米屋が米を持って来るかも知れず、また馬鈴薯を約束している吉岡が来るかも知れず、栗の木を持って来るという植木屋も心配だ、と言っているところへ、植木屋がリアカーに中位の栗の木を運んで来る。平気な顔をして植えさせているが、気が気でない。値段は江口君の話では八円だと言っていたが、植えてから、十円に税金が三円だとて十三円払う。昼頃、印税をもらおうとして楢崎氏の宅に電話すると、徳田秋声の葬儀でそちらへ出向いているとのこと。今夜通夜だと分る。一穂君とも知り合いだから、行かねばなるまい。明日は日曜だし、いよいよ困ったことだと思う。
夕方伊藤森造君来る。在学生の入営で、検査は第三乙になったが、来月早々入営するのだという。明大文芸科二年だが、彼は結核で以前に三年程病臥していたので、今度も丙種ぐらいだろうと思っていたのだが、思ったより以上に扱われて兵として入るという。こんな人まで今度は兵営生活をしなければならない、と思うと時局の緊迫がひしひしと身にせまるようである。コナゴの佃煮を土産にもらい、旗に名を書き、金がなくて困っている所だが、前々から交際のある人故、餞別に五円包む。別に貞子のところから有金をさらい、伊藤君を送りがてら、香典を三円作って、本郷の徳田邸に行く。月なく、街上は真暗であり、表通りはみな店々が戸を立て、僅かに二階の室から洩れる明りを頼りに防空壕に落ちぬよう車道の隅を歩く。本郷の通りは以前は夜店で賑やかであったが、今は、野菜煮込みのおでんを売る屋台が三つほどの外、珍しくたった一つ本屋の屋台がある。暗い中を人通りが割にあり、ぶつかりそうで困る。大学正門前から暗い路次を入り、交番で訊ねて行く。明りが洩れ、人が多勢室内につめている。久保田万太郎、岡田三郎、豊田三郎、川崎長太郎、窪川鶴次郎、野口冨士男、北原武夫等の人々に逢う。一穂さんに挨拶し、香典をそなえる。一時間ほど窪川、北原、豊田君たちと火鉢をかこんで話をする。
北原君言う。「文学は休止だね。いま文学が役に立っているということも、一種の宣伝としてであり、本当の文学がそのままで立っているのではないし、そういうものとしては認められてもいない。文学者が仕事出来ないというのは本当だ。」
窪川君「文学者をもっと有効に使わないといけない。情報局なんかで、もっと文学者の使いかたを考えねばいけない。」
誰かが、「今頃荷風などはどうしているのだろう」と言うと、北原君が知っているように、「書いている。発表するということではないが、仕事をしている。」それを聞いて、皆はっとしたような顔になる。
それから出版の窮屈になった話。ついで寺崎浩君が、死んだ田畑修一郎君のことで、
「田畑君の選集が一冊として春陽堂から出ることになったが、果して許可が出るかどうかは問題だ。」
「駄目だろうね。編輯や再録ものは全部駄目だそうだからな。」
これから、我々文学者がどうして生活して行くか、という話題のすぐそばまで話が来ているが、そのことには誰も口を出さない。怖れてでもいるように。
帰りに秋声氏の書斎を見せてもらう。奥にある六畳の離れ。そこに野口君や船山君など、前からこの家に出入りしていた人たちが三四人坐って酒を飲んでいた。
こんなに何人もの文学者と逢って話をし、その人たちの顔を並べて見るというのは珍しいことで、もうこんなことはそうないであろうと思った。
十一月二十一日(晴)
朝、急に隣から、今日九時から防空演習をすることになったと言い伝えあり。
貞子菊に手紙を持たせて薫の所へやる。百円ほど貸してある内先頃三十円持って来たが、またすぐいるとて返してやった。今日十円ぐらいでもほしいからとて言いやったのである。私は身支度して加持家へ行き、そこで群内の細君たちと一緒に近くの岩佐高女校庭へ行き、他の三つの群と一緒にポンプと担架の操作を訓練受く。昼までかかる。桃野氏と井上氏指導す。家へ帰ってから聞くと、薫の所からは五円来ただけだという。困ったことだ。午後約束の荒木女史の外に、芸術科で荒木氏と同期だった山中君と高橋君来る。山中君は某油脂会社へ勤めているという。山中君は〔アキ〕〔ヴィリエ・ド・リラダン。一八三八―八九〕の「トリブラ・ボノメ」などというフランスの象徴派の小説を読んでいる。荒木、高橋両君は現在のこの非常時に直面して文学をもすべてをも考えたいという。私もそれに賛成す。夕刻まで話す。荒木女史来週から土曜日毎に滋を教えに来てくれるという。
夜、中野の杉沢家へ出かける。渡満のため、旅費を借りようと思っていたのだが、目下の火急の入費もあり、それを早目に借りようとしてである。所が暗い中を一時間半もかかって行ったのに、静岡に行っているとて留守である。
十一月二十二日 晴
まだ金の心配。大阪の全国書房からの金なかなか急には来ないだろう。それまでを何とかしてつながねばならぬ。朝鞄に十冊ほど本を填め、ことによったらそれを売ることにし、外出。新潮社へ電話すると、原稿料すぐ出るとのこと、安心す。それから四谷の近藤君宅へ行って、大陸文化懇談会の渡満旅費が出るかを聞く。月末頃出る筈とのこと。この方も安堵す。来月十日頃出発したいからとて更に念を押して頼む。その足で新潮社へ行くと、まだ金が出ていない。近くの楢崎氏宅へ行くと、楢崎氏電話で聞いてくれる。所が今日は朝から重役連中が特別会議で午後まで続けていて金を出すどころでないという。何か重大事件が社内にあるらしい。楢崎氏が金が入用なら持って行けと言うまま、本を買うのだからとて二十円借りて帰る。赤面至極のことだ。金については、ふだんから慎重にしないと、こんな恥かしい思いをする。昨日速達にて、芸術科在学の塩谷宗之助君外数名お別れに来宅するとのこと、急いで二時過ぎ帰宅すると、五人で来ている。配給の酒など出して夕刻まで談話。旗に署名し、元気づけ、駅まで送って別れる。家庭も、学校も、どこもかしこも暴風のように時局の風は吹きさらしているのだ。巨大な時代の風だ。
明日は本格的訓練のある日。今日もこの群だけの訓練があったが菊のみを出して、私は出られなかった。
十一月二十三日 晴 霜
中部太平洋の敵司令官ニミッツは、先頃から、近く中部太平洋のギルバアト、マーシャル群島方面で日本に打撃を与えると公言していることが新聞に出ていたが、果然今朝刊によると、敵軍は、戦艦、空母等の兵力を集中してギルバートに上陸して来た。ブーゲンビル、ニューギニヤ戦と相呼応して、更にラバウルの遥か東方から、敵は新攻勢に出て来たのである。この方面はニミッツの担任で、その麾下に相当の兵力、艦船を持っているものらしい。このところ、イタリア戦線は全く停頓して、ローマなどすぐ陥ちそうでいてなかなか陥ちる気配はないが、米は専ら太平洋で我各基地の奪取に力を注いでいるのだ。ギルバート諸島は珊瑚礁で出来た小島の連続らしいが、こういう小島は戦略上、敵の攻撃に対して守り易いものかどうか、またその価値がどういうものか、私にはよく分らない。しかし空爆されれば、飛行機の少い守備では必ず大打撃を受けるだろうし、またこちらに飛行機が多ければ、守る方が有利だろう、などという推定が出来る。実際はどうなのか、今日の発表のみでは分らないが、敵がすでに上陸して来ているというから、或は我方に不利になっているのではないか。心痛極まることである。
今日は世田谷、中野、杉並等の各区の防空演習日である。井上氏から呼び出しが無いうちは、群の方を手伝うつもりでのん気にしている。朝五時頃、隣家の花村家で訓練空襲警戒中に燈火が洩れるとて、誰かに呶鳴られている。午前中現示班が赤旗を持ってあちこち自転車でまわっているのが見えたが、この辺には弾が落ちない様子なので、防雪衣にスキイ帽といういで立ちで、畑に人糞をやる。麦の畦の間に、細い筋を造って、そこに菊に撒かせる。あちこちで、ポンポンという音がして、爆弾落下とか焼夷弾落下という声がしたり、白い煙が上ったりして、演習しているのが聞える。昼近く、杉沢氏来る。大本営の某少将と前から知り合いだったところ、この頃その人から何か仕事を手伝ってくれと言われ、食糧の買い出しに静岡の方へ出張していたという。いよいよ大本営の仕事を手伝うことになったのか、と笑い合う。満洲行のことを話して、日露戦の文献を抵当という形にして五百円ばかり借りたいというと、承諾す。これから帰って群長として防空演習に出るのだと彼も急いで帰る。
午後、あまりのん気にしていても悪いような気がするので、自転車で町会事務所の指導班に出かける。阪川牧場の事務所前の広場に、ベンチを出し、役員の土地の農夫たちや、桃野、井上等の諸氏と雑談しているが、本部からは何の指示もない。三時頃、あまり退屈なので、一度家まで戻って、また畑仕事をしていると、訓練空襲警報が出る。あわてて駆けつける。そこで指導班の中に交り、例の現示用の赤旗を持って町内の西の田圃の間や林をくぐり抜けて、あちこちの農家の庭先をぐるぐるまわり、その中の一軒の庭先で花火のような擬砲音に点火爆発させ、発煙筒で煙を出させ、焼夷弾落下の想定で防火訓練を行う。農家の女たちや青年たち、元気よく、水を運び、屋根に梯子をかけ、水をふり撒く。とても熱心で懸命であり、見ている方が感動する。何人かの人が集まって懸命に一つの仕事をするということは美しいものだ、と思う。そうしているうちに、向うの至誠会病院の方で爆音がするので、そちらへは防衛本部から来て現示しているらしいと、いうことで、ここの訓練に井上氏が講評をし、私たちはまた病院の方へ駆けつける。行って見ると、そこでも演習だ。この演習の現示は、私たち町内の指導班の外、区内の防衛団からも出され、また警察からも出るというので、なかなか大変なのである。今年の春頃には、農家の連中はみな不熱心で困ったがこんなによくなったと井上、桃野氏たちは口々に喜んで話している。あれに較べると、私たちの群などは、まだ駄目だと思う。この辺は都内では空襲の危険の少い所で、旧市内から疎散して来る目的地なのだが、それでもこれぐらいにするのだから、旧市内は随分徹底した訓練をしていることであろう。誰の胸の中にも戦局の急迫が、今こそ本当に納得が行ったのであろう。
夕方一旦家に戻ると、「日本」の松尾一光君来ている。南方行の青年を訓練する天沼の某訓練所へ泊りがけで行って、その記事を書かないか、とのこと。満洲行が切迫しているし、泊りがけというと予定よりも暇どるので断る。雑談して、松尾君帰ってから、また出かける。八時頃から訓練空襲となり、燈管を見まわりに出かけたが、あちこちの烏山や粕谷の方で音や叫び声がして演習をしているので、この真暗がりでは困難だろうが、ここでも一つやろうということになり、県道沿いのところで現示する。皆寝ていはしないかと心配したのに、忽ちあちこちから飛び出して来て、三群ほど集り、ポンプまで引っぱり出して演習となる。私は赤旗を立てようとすると、私をめがけてバケツの水をかぶせ、ズボンをぬらす。井上氏も提燈を持っていて水をかぶせられる。暗いので、現示の場所がよく分らないのだ。そこへ第二群と第四群の応援が来る。第四群は私の方の群だが、「第四群応援四名」と声をかけているのは、正に隣家の花村氏だ。来月から群長をやることになっているのだが、これまで一度も訓練に出たことがないのに、どうしてなかなか立派なものである。来たのは花村夫妻、家の菊、粕谷夫人などである。この演習も熱心にやったとて桃野氏は講評でとてもほめる。こういう暗夜こそ本当に空襲がある可能性が多いのだが、これまでは夜の訓練はこの辺ではしたことが無く、初めてであった。
すんでから、私たちは町会事務所に集り、炭火にあたりながら時間の十時迄雑談。その間に農家の人たちの話を聞き、ここは本当は農村なのだということがよく分る。知識階級や勤人は私たちのいる分譲地に住んでいる二三十軒のみで、あとはみな古くから住んでいる農家ばかりだ。この指導班員でも私と井上氏と桃野氏の外はみな昔からの土地の人である。そのうち誰かが寄附したものらしく、甘藷と甘酒とが出され、最後にこの事務所のある阪川牧場からとて牛乳一合ずつ出される。こんな豊富な御馳走の出る指導班は今の東京にはあるまいと誰かが言って笑い合う。十一時帰る。
十一月二十四日 曇 寒し インドラミン注射
ギルバアト島戦の戦果発表される。ここに於てもまた我海軍雷撃隊の勲功が顕著である。まことに、日米の戦争を決定するものは、飛行機であり、しかも我軍に於ては雷撃隊である。ハワイに戦艦を沈めたのも、マレー沖に英戦艦を沈めたのも、ブーゲンビル海戦を決定したのも雷撃隊であり、今またその殊勲に接す。敵の重工業の総力を集結した大艦を、我は数十機の飛行機によって一瞬に海底に葬る。これ以上の壮快な戦闘があろうか。しかもなお敵は上陸して来て、次々と我軍を爆撃しているらしい。この島の戦闘は外電によっても、敵も慎重に構えており、我方の発表もまた慎重である。戦闘の帰趨が未だ明かになって来ていない証拠であろう。この島は東経百八十度で、ミッドウェーと同じ経度にある。我国からは余程の遠方である。補給に負けるようなことがないようにと念ずること切である。
菊朝に自転車で和田本町の大工長谷川のところへ薪を取りに行き、十二時に帰る。初めてのことながら行きは四十分であったという。帰りは薪崩れたとて、二時間かかった由。
私は満洲から帰ったら、明春からは、自炊するつもりで女中なしでやろうと決心する。金や着物の心配をしながら、よその娘に恩に着せられるような暮しをしているほどいやなことはない。二月末頃までは、何とかして引きとめておかねばならぬが。昼食後菊を連れ、一昨日か野田生の義父から送られて渋谷に届いている馬鈴薯を受け取りに行く。日本通運の倉庫でその叺をあけ、中味の八貫目の芋を二つのリュクサックに填めて背負って帰る。種子にする芋はどうしても北海道のものでないといけないので、これは明春まで保存して播くのである。証明をもらうとこのように送れるのなら、もっと送ってもらおうと貞子が帰ってから言う。叺は別に巻いて持って帰る。これで明年はよい時機を失わずに薯を播けるだろう。
帰るとすぐ、芸術科二年の秋山秀夫君という学生、入営するからとて旗に字を書いてくれと持って来る。学校でよく見覚えていなかったが、素直な子供のような学生であり、こんな学生が戦争に行くのかと思うと、胸が苦しくなる。夕方まで話をし、旗に署名し、駅まで見送る。夕食後杉沢との約束により、金を受け取りに出かける。日露戦の資料の書目五十冊ほど主なもののみ書き、証文代りとする。行くと、急用にて千葉県の鵜原に行ったとて留守、細君から金を五百円受け取って戻る。電車の中で、風呂帰りの女や男、風呂の話をしている。一人は明大前の風呂へ行った戻りと言い、別な女は桜上水まで行って入浴したという。烏山の人たちである。烏山の風呂は小さく汚くって入りたくないというような話。駅を四つも電車に乗って入浴に行くのである。自家のものは缶がこわれているとか、燃料が無いとか、色々話し合っている。なるほど入浴ということも大変難かしくなっているのだ。昨日寝不足だし、夕方寒くって喉が痛いので、念のためインドラミンを注射して出かける。
この頃は時々夕刊を夕方に配達せず、翌朝一緒に持って来るようになった。今は市内各所で、手不足を口実にして、こんな配達の仕方になっているというが、私の所など、ラジオが無いので、こんな風では、全く分らない事が多くなり、困ったことだ。
十一月二十五日 晴
図書館と新潮社へ出かけるつもりで午前中に出る。家の登記の件で京王電車本社へ寄ると、防空演習中なので、その足で牛込肴町下車。そこでもやっぱり防空演習中。どの家の前にも防空服装の女たちが立ち、黒い襟の防護団服を着た役員が見張っている。歩くのが何か悪いようだ。やがて現示の赤旗の自転車が来て、私は路上の壕に飛び込んだりした。赤城神社境内楢崎家に寄り、これも防空服の夫人に二十円を戻し、礼にと持って来た白菜と大根を贈る。夫人から海苔を二帖もらい恐縮する。原稿料四十円を受取る。更に新潮社に寄り、楢崎氏に礼を言い、都電にて上野図書館に至る。乃木大将の日記の要点を書き写し、旅順戦記の資料とする。図書館の奥の方に、これまで知らなかったが、食堂があるのを発見、そこで六十銭の定食を食う。飯は一膳半くらい、それに春雨という海草を煮たのが一椀、汁一つである。その後に持参の弁当を半分食べて満腹する。そこの二階で十銭のコーヒーを飲み、そこで朝日を買って喫煙、やや快適の感あり。世ばなれて静かなこの図書館の奥になかなか良い所があるものと思った。夕刻までに原稿紙十五枚ほど書き写して帰る。京王電車ひどく混雑す。
この日、図書館、美術館、その他各所のビルディングにてスチーム用の鉄管を供出すべく路上に持ち出しているのを見る。石炭節約と鉄供出との両方から行っている事なのであろうが、大きなコンクリート建物の内部は、これからの冬に全く暖房なしでは、随分身体にこたえることであろう。ことに最近はそういう事務を取っているのに女子が多いから可哀そうである。また街上、電車内に勤めの女子を多く見かける。上野駅の出札、改札、アナウンス等みな女子がしている。それ等の女子は洋服にやや太目のズボンを穿いているが、それが当り前で少しも目立たなくなった。そう言えば一般の家庭の女たちも洋服まがいの簡単服にズボン又は着物にモンペという服装が半分、着流しが半分という程度になっている。男には和服で外出するものは殆ど無い。最近になって、こういう生活面の形式の変化は特に目立って来た。また到る所で徴用の話を聞き、四十歳以下の男子はみな徴用される覚悟をしている。特に最近になってそれが多く、東京都の四十歳以下の男子の半分ぐらいが徴用されたような印象を受ける。しかし本当はまだ少いであろう。それだけ工場の収容力が増大したとすれば、喜ばしいことだ。新聞には、あからさまに数字は出ないが、徴用援護とか徴用工の覚悟というような題名の記事が多くなって来ている。そうだ、この徴用が多くなったということは、一面では市民の生活に不安を与えているが、他面では、いよいよ国民の総力を集めるということが掛け声だけでなく本当に実践される時期になったという覚悟を各人に与え、一般人の表情、態度などを目立って変えてしまった。これまではどうしても金や暇のある職業や地位にある者がいて、歩いていてものん気そうな表情が目についたが、今では学生は多く入営したり、飛行兵を志願したりし、一般人召集また多く、残ったものは徴用というのが原則となった。国民皆が直接戦力を支えているという事態が現実化した。もっと早く、多分日米開戦すぐにこういう風に運ぶことが出来るほどに組織化していたら、もっとこの戦争は楽であったろう。私ももう一年は応徴の資格があるわけ。それに応ずる覚悟が次第に自分の内側にも熟して来ている感がある。
今日は朝刊に徴用工の、それ以前の収入との差額補給の事情が発表されている。それによると、これまでは、その差額は各工場で補給されていたのだが、この六月に厚生大臣を会長として徴用援護会というのが出来て、その仕事を専門にしている。その会では徴用工の収入を、十八歳未満は四十円、廿歳までは五十円、廿五歳迄は七十円、丗歳までは八十円、三十歳以上は九十円とし、同時に家族一人につき十円の手当を支給する。それ故、丗歳以上の応徴工で家族五人あり、前収入が百五十円というものは、その徴用工としての収入が七十円であれば、更に七十円を支給されて、百四十円の収入になる、という風になっているらしい。私が若し応徴すれば、百二十円の収入である。それではとても暮せないが、そういう基準があれば、これまで話に聞いていた月六十円というのよりは良い条件なので、そういう場合は何とかしてそれに従った生計を立てねばならないであろう。ただ私の身体に無理な仕事で無ければよい、と思うことである。
私はこれまで、自分は身分上徴用は受けないものと思っていたが、何だかこの数日、そうとは限らないと考えられて来た。工員としては今の私の身体ではとても駄目だから、或は今のうちに、身体に適した仕事で徴用されないようなものを捜すのがいいか、とも考えたりする。また、しかし、そんな仕事がやすやすと見つかりはしないであろうから、やっぱり今のまま原稿を書いて、いよいよ徴用されるまでじっとしていようか、とも思う。どうやら後の方になるのではあるまいか。絶えず心が動いて定まらぬ。ともかく街上に出るや否や、あらゆる男の表情には「もう我々は戦場へ行くか工場へ行くかどちらかをしなければならない」という意識がはっきりと現われている。まことに、これこそ大東亜戦争下の東京人のありかたである。敵は東から南から我軍の守る海上の島々に決戦をいどんで来ている。国内の工場は人間を腹一杯に吸収して生産に全能力を挙げてかかっている。祖国よ、負けてはならない。私もまた筆を取る身の冥加に「爾霊山」を書いて、無事に世に送り出したいものである。また、この人類あって以来の大戦乱の中の生活体験を述べ記すという仕事をも、命があったら果したいものである。
夜入浴。入浴はこの頃一週間か十日目にしているが、入浴をゆっくりするのは極楽にいるような気分である。こういうことが生きていてのもっとも楽しいことになったのを思えば、数年前に較べ生活は質素極まるものとなっているのだ。
十一月二十六日 晴
午前中に家を出、京王開発課に寄る。先日ここの北村課長や馬場氏が私の家に寄って、保存登記をしようという話があったのだ。馬場氏に委任状を渡すことにし、近いうちに印鑑証明をもらって来ると約束する。なお今度の私の年賦支払期はこの月末になっているが、例によって二ケ月ほど延期してもらいたいと頼む。利息がつくということで難なく承認。一月末に千二百円程作って渡さねばならぬ。目下私の手もとに五百二十円あるが、税金三期分で百八十円、日本生命への私と貞子と滋の分に百四十円払うと、あと二百円しか無い。それだけあれば年を越すまで一月余の生活は出来るだろうとの貞子の話。大東亜省から出る六百円で今度の旅費をまかなうのは少々無理だが、何とかしてそれで間に合せるとして、目下交渉中の大阪の全国書房からの印税が五百円だけ余裕が出来る予定である。それに「爾霊山」を書いて五六百円を実業日本社から取るとしても一月の生活費に二百円を見ると、やっぱり京王への支払には三四百円足りない。困ったことだ。何か無理でももう少し仕事をしなければなるまい。
明日からの全都綜合防空訓練に参加する為に、戦闘帽を買おうと思い、伊勢丹と三越を見る。どれもひどい出来で四円ぐらい。三越に十二円とていいフェルト地のものがあるが少々高く、どうしようかと躇う。伊勢丹にて配給品の手袋を皆が列を作って買っているので、丁度切符を持って来たこととて一足で三点の切符を出し二足買う。一足九十八銭。外にもう一つ薄い人絹製のものを一円三十銭で買う。手袋ばかり三つも買って、と思うが、物を見ると無くならぬ内に、とつい手が出る。薬品部で、テラポール軟膏、硼酸軟膏、小児用ワカマツ、スカボールザルベ等を買う。これも念の為なり。
省線で日本橋に出、春秋社を捜して宿利氏の「旅順攻囲戦と乃木将軍」〔書名前出と異るがママとする。〕を尋ねたが品切にて一部もない由。一時頃図書館に行き、先ず六十銭の定食を食う。私ともう一人としか無い。今日は弁当持たず。神保氏の「旅順従軍手記」の日記を三分の一ほど書き写して夕方四時までかかる。
奈良の池田小菊氏より来書。印税の件半額は至急に送ると言って来る。青野氏よりも大丈夫だとハガキ頂く。安心す。奉天の実、二十三日に奉天出発、一日に東京着との予定故、東京で是非逢いたいと手紙来る。私は十日頃出発の予定故、そのとおりになるだろう。
独軍はいよいよ攻勢に出、ジトミールからキエフに向って途中の二三の都市を攻略したという。万歳である。この時になってのドイツのこの戦闘ぶりが、どんなに日本にとって力になるものであるかを身に沁みて感ずる。ところが、それに負けていず、露軍も北方で攻勢に出て、ゴメル市に突入したという。またしばらく絶えていた対独空襲が始まりイギリスは二十二、三両日にわたり六百機によって、ベルリンを空襲し、相当の損害を与えたという。「ハンブルグ程ではない」とドイツ側では言っているが、英国の堕された飛行機は二十九機というから、これは英米側の成功である。この報は小さく出ているが、これも相当の大事件である。ドイツ側ではしきりに報復爆撃をすると言っている。東京へも、何時か分らないが、必ず大挙やって来るにちがいない。この二三日前から昨年春に東京を襲った米機搭乗員の爆撃手記が発表されている。当日の空からの東京は、地上から見ていた私たちの経験と照応して、いかにもとうなずかれる。あんな風に家屋の密接している市内が大爆撃を受けたら、本当にひどいことになるだろう。ぞっとするようなことだ。
今日菊が群長加持家へ呼ばれて行ったところ、群内の人たちが皆来ていて、珍しく羊カン等を御馳走になったが、二十三日の演習についての群長の不平を散々聞かされた由。加持夫人が群長をやめるお別れの会であろう。私の家で私と菊が訓練空襲警報中に畑をしていたこと、石川家の女中が戸をしめて眠ってしまっていたこと等一番ひどく言われたという。それを聞いて滋と礼は怒っているが、どうも加持夫人の方が正当で、私の所少々楽にやっていたわけであった。気をつけなければなるまい。
十一月二十七日 晴 綜合防空訓練日
朝七時迄に町会事務所へ行くというので早起し、スキイ服の上に薄いアノラックをつけ、靴に短いゲートルをつける。阪川牧場内の事務所へ七時半頃行く。桃野氏、佐藤彦次郎氏、関根、吉岡登等の諸氏、カーキ色の在郷軍人服をつけてやって来る。八時半頃訓練空襲となり、私の群の加持家と石川家の間で先ず訓練をする。加持夫人は大分上達していて、熱心に指揮していたが、芽を出したばかりの野菜が踏み荒され、気の毒であった。それから私たち指導班十名ほどは、旗を立てて自転車をつらね、あちこちと現示しては演習をさせ、桃野氏が講評して行く。空襲が十一時頃すんでから家に戻って昼食、事務所でも誰か農家の班長の寄附らしく、芋が出たりして、満腹である。農家の人たちの話、なかなか面白い。そういう点、この人たちと接することは、私にはよいことである。何代も前からこの土地に住みついた人たちには、言葉も表情も考えかたも、きまったものがあり、それがみな深く根を土地に下しているのが分る。町内の各方面の人たちの防火訓練は、とても熱心で上達している。水をかけ合っているので、身体中水びたしになっている人などもあり、バケツで十回以上も水をかけてへとへとになる人もある。私たち指導班の方が遥かに楽で手持無沙汰だ。私など自分でやってもなかなかあれぐらいには出来ないと思う。
群長が一番難しい。群長のやること。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、爆弾の現示ならば、みな地に伏させてしまう。(副本の準備を前々からすること)
二、敵機が上空にいるあいだは防火活動をしないこと。(これは今度からの新訓令)
三、焼夷弾ならば、あまり指示物に近よらせぬこと。
四、被害毎に伝令を町会へ出すこと。それを復唱させること。隣群へ応援を求めにやること。
五、水槽の場所を指示すること。
六、ポンプを通路におかぬこと。
七、不発爆弾ならば、全員避難を仮定指示すること。
八、鎮火したならば直に水の補給。
九、負傷者の手当を手配し、それを手当所まで誰かを附添わせて運ぶこと。
十、整列させ、員数を調べること。
十一、指導係長に挨拶し、経過報告をすること。
[#ここで字下げ終わり]
以上が私が群長をする場合に心得べきことである。
なお、先日からよく分らなかった点について井上さんに訊ねると、訓練空襲警報になっても敵機来襲中でなければ防空壕に入らなくていいというのである。(しかし実際の空襲警報になると、敵機が来なくても、先ず高射砲の試射を行うから退避しなければならないのである。)先日、私が畑をしていたことは、この点では訓練の方則に外れているわけでなく、加持夫人の勘ちがいである。
午後にもう一度訓練空襲となり、それがすんで家で夕食して帰ってから、夜は牧場事務所の十五畳敷ほどの応接間に大火鉢を入れ、皆椅子に腰かけて雑談する。その間に、牛乳や甘藷が出され、夜半近くには関根さんという班長の所から米が出、牛島という鶏屋から卵が出て、卵ドンブリをたらふく食う。近来こんなに飽食したことはない。人々の話を聞いていると、去年で一段五俵ぐらいとれた田から、今年は三俵しか取れないから、来年は随分食物の窮屈さが強まるだろう、という。
またこの辺では米は一俵百円とか百二十円とかするという。それでも欲しい人が多いだろうが、とても手に入らないらしい。糯米はその倍もするらしい話である。
また世田谷管内にあった大きな養鶏家百四十軒が七十軒になった。それは飼料の配給が遅れ、最近やっと九月分の配給をもらう程度なので、ト切れた時に不良の代用飼料をやると、何千羽という鶏が一度に十日も続けて少しも卵を産まなくなるため、損害がかさみ、維持できないのだとのこと。それで鶏を肉に売ってしまって養鶏をやめてしまう人が多い由。卵が公定七銭なのに闇で三十銭とか四十銭とかいうのはその為であろう。私は前々から夜は訓練に出られないと井上、桃野氏などに言っていたのだが、風邪ひきの人が二三人も居り、また関根さんという喘息持の爺さんも徹夜するので、遂に帰る機会を失い、椅子にもたれ一睡もせずに夜を明かした。病気以後の大事件である。昨日から首筋が寒く、喉が少し赤いので、朝からうがいをし、朝夕に一本ずつインドラミンを注射し、また夜は大きな防空衣に懐炉を入れたりしていたが、どうも腰が冷え、工合が悪い。
台湾の新竹、二十機の敵機によって爆撃されたという。在支米空軍の仕業らしい。昨年頃に襲われて以来、久しぶりのことである。
朝暗いうちに五時頃空襲となり、残った飯に卵汁をかけて皆が朝食とし、また三ケ所程訓練して帰宅。
十一月二十八日 曇 日 午後五時六度六分 朝夕インドラミン注射
朝からはっきりと風邪だと分る。帰宅後寝ている。二三時眠ると、午後は荒木女史が来て滋に教えている。私はちょっと挨拶して二階に寝ていると、そこへ田居君、石川清君等来る。田居君の隣に某軍需工場主が居り、徴用を受けるのが心配なら、その令状が来てからでは無理だから今のうちに私の工場で何か役についていては如何と田居君に話した由。工場も近いという。夕方田居君が帰ってから、これは、ことによったら、私もそういう工場で工合のいい仕事があったら勤めていてもいいな、などと考える。石川君、野菜が本当に何も無くなって妻君に頼まれたので野菜買い出しに来たという。近所の農家で小蕪を買ってやる。田居君の話ではこの頃京都へ行ったが、田居君の義母の家は御所近くで町の中の為食糧には本当に困っていて、朝は水のような薄い粥、昼は代用食で晩に御飯という程度の由。また最近田居君の書生翠さんが日曜に白菜を買いに出たら、道で警官の監視隊につかまり、公定で買い戻されてしまったという。これは東京都内のことだから、最近の傾向であろう。しかし警官も公定で買い戻しをするだけで、それ以上はやかましく言わない由。食糧不足が分り切っている故、それ以上の厳罰にすることも出来ないのであろう。一昨日か配達に来た米の配達員が、今の配給の米は、二食分なのだから、そのつもりで加減して食べてもらわないといけない、と言っていた由。専門的に見てもそうなのだから、買い出しは不都合だなどと言わないで、その不足分を大根でも白菜でもいいから補う途を当局で考えてくれないといけない。糞尿の汲み取りも、度々問題になっているのに、やっぱり解決しない。瀬沼君の所でもあふれて流れ出しているというし、中野西町の薫たちの下宿松岡家では、汲み取りの人夫が、仕事の間じゅう「こんなに垂れやがって」とか何とかあてつけらしいことばかり言い、心附けを強要するような態度に出るので、準備していたが、腹を立てた主婦がやらなかった所、少ししか汲まずにやめてしまったという。新聞の投書に、ある町会では握り飯をやることにしたが食糧不足故、それが出来ないとの主婦の訴が出ている。まことに難かしいことである。闇の値段があまりに一般化した為、役所の仕事のように支払いの手加減出来ない所では、結局こういう問題の解決が出来ないのである。重慶の物価は公然と天文学的になっているらしいが、東京の闇物価もまたかなり高くなって来ている。布類や贅沢品はどんなに高くっても一般人は買わなければすむのだが、どうしても一食ずつ食料が不足するのに野菜がぐんぐん値上りをし、かつ買い出しに旅費をかけたり心附けをやったりするのでは、生活は随分困難になっていることと思う。しかも一方では、徴用が多くなり、個人の収入は減少する傾向にある。二三日前に公定価格による物価表が新聞に出ていたが、支那事変の初まった昭和十二年七月を百として、最近は二百三ぐらいになっている。闇の指数を入れたら三百以上となろう。今までが、戦争初期の景気で少し楽すぎた人が多いだけ、本当に戦時生活の困難を国民が味うのは、これから後のことだろうと思われる。
ギルバート諸島の戦闘はどうなっているか、我方の発表なく不安である。
十一月二十九日 曇 少雨 南風 朝夕インドラミン注射 午後六度六分
ギルバート諸島の米軍は開戦以来の損害を被ったと敵側がしきりに発表している。これは事実その損害が大きいのであろうが、それにも増して、最近のブーゲンビル島沖の損害を隠蔽して注意を転換させる為でもあろうかと考えられる。それにしても敵が上陸したというのに、その後の我戦況が発表されない。アッツ島の時も我方の守備が不利になると、はたと我方の発表が無くなり、敵側の発表のみ多くなった。敵は有利な戦果のある時はその損害を大袈裟に発表する習慣を持っている。そういう所を見ると、タラワ島等の占領について敵は成功の目算が立ったのであろうか。我軍はここで海戦を行わない方針らしいから、敵に大損害を加えたのちは引き揚げる方針かとも思われる。心配なことだ。狭い島を守って、制空、制海権が敵手にありとすれば、全滅を覚悟して我軍は戦っているにちがいない。敵側の発表によって、僅かに我方の守備や奮戦の様子を推定しているのは苛立たしいことだ。第二のアッツ島にならねばよいと、それのみを祈る。敵ブーゲンビルで再び攻勢に出、二十二日は二百機で来襲、ブインの我地上軍は三十二機を撃墜したという。
風邪気味なお抜けず。注射して寝ている。熱の出ないのはインドラミンのせいであろうか。鼻つまるだけにて喉はほぼよい。午後原民喜君来る。森一氏に頼んである同君の創作集の原稿、先頃から返すよう催促してあるのに返事がない。もうそういう作品集の出版は出来ないのだから、返してくれればよいのだが、或は森氏は徴用にでもなって不在なのかとも気づかわれる。近いうち行って取り返して来ると原君に約束する。原夫人肺患中のところ、この頃糖尿病を併発して、千葉医大病院に入院しているという。
ドイツはよく戦う。ドイツはまだまだ大丈夫だ。
ドイツ軍は作戦がはかどりキエフ北西方のコロステンという町を占領した。イギリス軍は三度ベルリンを爆撃したという。この度の英軍の行っているのは画期的な大空襲のようだ。
寝床の中で「浮生六記」を読み出す。家庭生活の描写、静かで心に沁みるものがある。この二三日、原稿何も書かず、静養の気持で、静かに暮している。今日熱はないが、念のため、朝夕に注射し、身体の条件をよくしておこうと考える。
滋が一昨日学校の退避訓練で杉沢家に一時退避したところ杉沢がいて、ダシの粉末鰯五貫目を三十七円で買ってやるから、ほしかったら金を持って来るように、と言った由。これは公定価格だという。先日千葉県へ行ったというから買ったものであろう。とにかく、それを持っていれば、外の物と交換も出来るし、安価なのだから、量は多すぎるが買っておこう、と貞子と話し合っている。白菜を買い入れ時で、公定一貫目五十銭位のものを一円ほどで買えるような所があるというが、塩が無いので、漬けられないと貞子は心配している。先月漬け物用の塩の特配があったが、今月は無いとのこと。十、十一月分として酒一升配給さる。酒は平均月に四五合、それにビールが二本ほどで、これはかなり豊富なものである。半分は薪と交換するのに毎月大工へやっている。
十一月三十日 晴 北風 夕刻六度五分
十一月も終りとなる。風邪気味抜けず。日記を書く外、臥床す。但し熱はなし。注射せず。
朝刊により、ギルバート沖第二次、第三次航空決戦の大要を知る。敵空母五隻を沈めたのだが、その戦場はいずれもギルバート島西方の海上である。そしてマキン島、タラワ島の我軍の通信は絶えたが、タラワ島では尚戦闘継続中で、我空軍は敵を爆撃しているとのこと。これは敵の大進攻作戦である。敵はギルバート島に我軍が接近するのを防ぐため、その西方に進出しているのだ。ノックスが二三日前言ったとおり、これは日本本土を目指す進撃戦にちがいない。ソロモン、ニューギニア方面の戦闘と呼応し、更に最近空襲の多くなって来たビルマへの英軍の反攻とも遥かに応じて、敵は太平洋正面から、無理矢理に日本へと肉迫しようとしている。これこそ日米戦の決戦である。太平洋上の各島で日本は守り、米国は攻め、大血戦がこれから継続するにちがいない。敵は生産力の頂上にあって、莫大な消耗を怖れずに今その勢を集中しており、日本は生産力の頂上を更に半年か一年後に控え、また将来の南洋資源の利用を目指して、出来るだけ消耗を少くして持久戦に出ようとしている。有史以来未曾有の決戦が、日に夜を継いで行われている。何という凄惨な、また壮絶な時代に私は生れ合せたことであろう。アメリカ大陸に人類あって最大の物質文明を樹立したアングロサクソン民族が、亜細亜を植民地として支配するか、それともアジアの精鋭殉国の思想に凝り固まった大和民族が十億のアジア各種属を率いて、東亜細亜を守りとおすかという民族の宿命的な決闘の只中に私たちは生きている。私は今朝朝刊の大戦果を読んでいて、これでもう日本は勝つ、と直感的にそう思った。太平洋の真只中にある二三の小島を取るために、敵がこれだけの消耗をしなければならないのならば、敵はとてもこの戦争をやり切れるものではない。
物を作るのは米国人が上手だろうが、戦闘では日本人が世界に冠絶している。日本の戦のやり方は、今の日本としてはこれが最上の戦闘法であり、それが成功しているというべきだ。
日本がどこまでもこれ等の島々を守ろうとするならば、敵と同様空母集団による艦隊を出して、海上決戦を挑むのであろうが、今までのやり方では、そうではない。島々を餌として敵の海上機動勢力を消耗させる方策に出ている。ブーゲンビル沖の消耗についで、ギルバート島沖でまたこれだけ消耗し、両方で十七隻もの空母を失うということは、アメリカにとっては極めて大きな損害である。敵は今夏頃特設空母を合せて四十隻の空母を有すると言い、今年中に百隻に達すると、その空母勢力を呼号しているが、それが文字どおり出来るとしても、今のような消耗戦には耐えられるものでない。日本は後退するに従って補給力を増し、いよいよ後退出来ない一線に達した時は、こちらの機動部隊を出して、敵と海上に決戦するということになるだろう。その時に行われる海上艦隊の決戦こそが、日米海上勢力の勝敗の別れ目であろう。だが、日本のこの受身の島嶼戦の頑強さは、そこまで来ないうちに敵を疲労させ、敵の内部崩壊を導く可能性がある。「これで勝てる」と私は今朝そう思った。これまでは私は、「日本はどこまでも戦う」とだけ考えていて、勝つとも負けるとも考えなかったが、今朝はそれが変って来た。しかし私のこの直感が事実となるには、なお時を待たねばならぬ。米人もなかなか進取的な種族だから、何とかして軍需品を増産して、まだまだやって来るにちがいない。しかし彼等は物質と理論を信頼している。私たちは理論で戦っているのではない。彼等は理論上戦えない時が来る。それが米の危機だ。日本の戦力は、今の徴用状態を見ると、やっとこれから全国民を工場に集中する所になって来ている。とすると明年の春夏頃から、うんと生産が増大することとなろう。そうなれば、敵の反攻は、とても今までのような進捗ぶりは続けられるものではない。この頃はどの人も、明年あたりで勝敗がつく、と言っている。先頃峰岸君の所で聞いたのもそうであり、昨日来た原君のような人でも、そう言っている。これは日本の指導層が、日本人の噂好きを利用して、一種の内緒話という形で国民士気の昂揚を狙って流布させている意見のようだ。朝日にいる薫まで、来年の日本の飛行機生産量は大したもので、アメリカ人がそれを知ったら戦争をやめてしまうだろう、などと言っている。私は明年で戦がすむとは思えない。まだまだ三四年は続くと思う。しかし種々の徴候から考えても日本の生産力がこれから、急に増大することは確かだ。今までも日本を持てあましているアメリカは、来年はひどい目に逢うこととなるだろう。そうなると敵は無理でも日本本土の生産力の中心である東京、大阪、名古屋辺を空爆せねばならなくなり、東京空襲は明年春頃から実現性が多くなる。その覚悟でいなければならぬ。それにしてもタラワ、マキン島の我軍は、この度の戦闘では全滅するにちがいない。皇国のため、民族のための貴い犠牲である。いま秋から冬にかかる時の美しい富士の見える日本の国土は、その人たちの血によって護られているのだ。一昨日頃から、家にいても、あちこちで入営応召を送る万歳の声が日に何度も聞える。烏山、粕谷あたりの学生入営兵たちであろう。この組からも窪田家の子息が、近く米沢の聯隊に入るという。
ギルバート作戦についての敵の指導者の言を東京新聞で読む。
米海軍作戦部長キング「我々は日本に対し新たなる海空軍兵力を以て攻撃を加えるであろう。ギルバート諸島に行った米国艦隊の攻撃はその前触れにすぎない。」
ルーズヴェルト大統領「此の海戦の勝敗如何は、今後に於ける濠洲並に同方面水域に散在する諸群島に対する米国軍需輸送路を確保し得るや否やの分岐点である。」
海軍長官ノックス「日米戦争始まって以来の最も大なる海戦である。此海戦は単なる両艦隊の遭遇戦でなく大機動戦である。予は結果を予断しないが、米国の敗北を予言するものでは決してない事は勿論である。」
以上のうちノックスの言葉によると艦隊決戦を敵は挑んでいるらしいが、我方ではそれに応じていず、航空兵力によって戦っているもののように推定される。敵のこの方面の空母陣は十数隻だと敵側で称しているがそれは半減したものと思われる。それと我方がこの群島を失うのとは、いずれが重いであろうか。私の考では遠隔きわまる諸島を餌にして敵艦隊を潰滅させることが出来たのは、日本にとっては有利だと思う。しかし敵にして見ると、補給力が旺盛なのであるから、物質の犠牲が多くても島を手に入れるのは勝利だと思っているかも知れない。ただ敵は人命の損傷を極めて怖れているから、人命の損害があまりに多い時は躇い出すことと思われる。敵のある海兵師団数千名が数百名に減じたというから、我陸上軍の戦闘がいかに凄絶極るものであるかが、まざまざと分るようだ。
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[#2段階大きい文字]昭和十八年十二月
十二月一日 晴 好日 風邪直り気味 痰出る
ギルバート群島マキン島の敵巡洋艦等を我航空隊撃沈破す。マキン島はすでに敵手にゆだねられ、我守備軍は全滅したのかも知れぬ。ああ。こういう危機感の中にある今の季節の東京郊外の美しさは心に沁みるようだ。この国土に生を享け、この大非常時に会す。書斎の西窓より、雪で真白くなった富士の厳しい美しい姿を見ていると、自分が生きて祖国の首都の一隅にいるということの味いが一滴ずつ味い分けられるようだ。
礼はすっかり元気で、一昨日頃から自転車に乗ることを覚えたが、過激になりそうなので、禁じている。まだ時々軽い咳をする。学校へそう行きたいとも言い出さず、貞子のそばにばかりまつわりついている。甘えていて、いつまでも幼児のようだ。明春まで休ませたものかどうかと、貞子は心配しているが、こういう時代に学校が一年ぐらい遅れたりすることは何でもない。健康で生きていることが第一故、明春この土地の学校の五年生へ改めて入れよう、と私は言っている。
ブーゲンビル沖第五次航空戦の航空部隊の戦いの状況が新聞に出ている。新聞通信員の文はどうも概念的でよくないが、なおその壮烈な攻撃の実状を推定することが出来る。我軍の戦況発表の正確さは疑う余地がない。
朝日の特電によって、ベルリン空爆の実状の一端を知る。それによっても、これが相当に徹底した空爆であり、市の中心部がほとんど烏有に帰したことを察するに足る。
要点を写せば「二十三日夜朝日新聞のベルリン支局が焼け、我々は着のみ着のままで、ベルリンの多くの市民と一緒に街上に抛り出された。二十五日に仮の宿に落ちつくことが出来た。同盟通信支局、読売支局、毎日支局も同様失われた。この度は二十二日から六日まで、五日間の連続爆撃であったが、敵側はなお最後の大爆撃を揚言している。この五日のうち二十二日は小雨交りの闇夜で、独軍の防空活動には不利であった。二十三日も闇夜であったが、ベルリン市街は余燼収まらず、市内各所に上る火の手は敵に好目標を与えた。その為め敵の狙いは相当正確であった。しかも独軍の防空活動は闇夜に阻まれて、威力を発揮出来なかった。この二日の来襲機は三百五十と五百五十、撃墜機数は二十九と二十九で独軍防空陣としては成績不良であった。この二晩以外の日には、敵はさしたる活躍はできなかった。この二晩に投下された爆弾の量は、ハンブルグ空襲の一週間に投下された爆弾量の三分の二を越えるという程である。二十四日の朝ベルリンの主要交通機関は部分的に停止せざるを得なかった。街上には燃え尽した電車、自動車の残骸がいたるところに見られ、目抜の通ではあちこちの建物が煙を吐いており、その間を荷物をかついだ市民が続々と避難しているという有様であった。老人子供はすでに避難させているので、残っている市民は行動の活溌な者だけであり、若い女の活動が特に目立った。二日間の大爆撃のためベルリンの姿は一変してしまったが、当局の手配もまた頗る周到である。一例をあげれば従来ベルリンで働いていたものは立退くことを禁止されている。一週間目の今日で交通通信その他は大体復旧した。二十三日にはわが大使館附近に爆弾の雨が降ったため、大使館はほとんど使用に耐えぬぐらいになった。満洲国公使館、陸軍武官官邸はいずれも焼けてしまった。新聞支局は各社とも全滅したが、通信員の生命には別状なかった。丸焼、半焼を合せると百に近い邦人被害者が出たが、われわれは元気一杯で市民と協力して防火に努めた。ゲッペルス宣伝相は『独国民の気分は一時的に変えることが出来るが、態度は決して変えることが出来ぬ』と今回に示された独国民の燃え上った抗戦意識と敵愾心とを賞揚している。二十四日旅行から帰った大島大使は破壊された大使館の前に佇んで『これこそ国家総力戦の姿だ』と感慨を洩らした。」
大体以上によっても、その徹底的な空爆の様子を窺い知ることが出来る。やがて東京にもこういう空爆が加えられるにちがいない。この頃、外に掘ってある防空壕へ蔽いをつけた方がよいか、それとも階下八畳の畳をあげて床下に別に壕を掘ろうかと、考えてみている。
チャーチル、ルーズヴェルト、スターリンの三人が、カイロで会談しているとの説がしきりに流布されているようだ。これはありそうなことである。
最近に欧洲ではしきりに和平説(つまりドイツの降伏申入れ説)が出ているという。多分南伊戦線の停滞またはベルリン空爆等から出た説であろうか。それとも、枢軸か反枢軸の何れかの側の謀略宣伝であろう。それに関して、米国務長官ハルは「和平説は虚報である。かかる説は反枢軸諸国に自負の念を生ぜしめ、戦争努力を弛緩せしめるものである」と公然と否定した。また独側報道によると、この流言は米国筋から出て英通信社によって世界中に撒きちらされたものであるが、独外務省代弁者は「これはベルリン空襲が独官民に対し甚大なる衝動を与えたと世界に信ぜしめんとする英米側の手であるが、実際のところベルリン爆撃は従来もかかる効果を持っていなかったし、今後も持つことはないであろう」と言った由。宣伝第一主義のアメリカのやりそうなことである。
一昨年十二月八日真珠湾で我空軍が撃沈した二万九千屯の敵戦艦オクラホマは最近浮揚したという。満二年を費して浮べることが出来たのである。殆ど新に建造すると同様の月日をかけたのだが、まだまだ手数をかけねば使用出来ないであろう。マレー沖に沈めた英国の二戦艦を我方で浮揚して復活させるということは出来ないものか。抜け目のない日本人のこと故、案外私たち国民の知らぬ間に、それぐらいのことはやっているかも知れない。
今日満洲から実が上京するという予定日。
昨日奈良の池田小菊氏より、印税の半額を電報で送らせたとハガキ来たが、今朝五百円砧局あての電信為替来る。この金は今春の約束故、今では受けとれぬかとも思ったが、とにかく来たわけである。陸運新報という、陸運協力会なるところで出している雑誌から随筆を十枚書けと言って来る。こういう官の団体又は半官の団体から出している雑誌に時々寄稿を求められる。一般の雑誌からの寄稿を求めることはこの頃少くなっている。次々と締切に追われて短い原稿を書くという習慣は、ほとんど無くなり、ここ十年余りの日常と変って来た。単行本の仕事をゆっくりと運べるのは、仕事の手順としては落ちついていられるのでよろしいが、単行本による生活というものも明年上半期ぐらいまでのことであろう。菊、杉沢からダシの魚粉五貫目を自転車で運んで来る。そのついでに野菜を児玉家へも届けたところ、児玉医師夫人自転車で遊びに来る。
十二月二日 晴 北風 朝霜甚し
今朝またしてもギルバアト諸島の航空戦果発表。敵は更に航空母艦二隻と外二隻を失った。この群島の海戦で敵の失った空母は合計七隻であり、これにブーゲンビルで失った空母五隻、戦艦四隻等を加えると、その喪失量は巨大なものである。その外に多くの巡洋艦を沈められ、また撃破と我方で発表した空母や戦艦等でも後に沈んだものが何隻かあるだろう。多分最近のこの二つの戦闘で米国はその戦前の二倍に増強したという海軍実戦力の三分の一は失ったことと推察される。しかもなおギルバート諸島周辺に空母を持って来ねばならない所に、敵の急所があるのだろうが、素人の私にはその理由がよく分らない。地図で見るとマキン、タラワ両島のすぐ北に我がヤルート諸島が連なっており、ギルバート諸島の西方にはナウル島がある。これ等の基地からの我方の空襲が、絶えずあるのに、敵の後方基地は、我方のこれ等の島との距離よりやや遠いかと思われる南方のエリス諸島があるのみである。そこで、ギルバート諸島の制空権を確保する為には、その島上の飛行基地が使えるようになる迄、どうしても空母を持って来ねばならないのであろう。空母からの飛行機で制空権を確保しながら一刻も早く島上の基地を作ろうと敵は焦り、しかも我軍は、狭い島上に残った陣地のある限り、三十日現在で、タラワ島の如きはまだ敵と戦いを続けている。我軍が戦っているということは生きているということだ。敵側の色々な短いニュースは、この島上での我軍の戦闘を窺わせるものが色々とある。しかし悲しいかな、敵はほぼ各島上に優勢を得てしまい、我軍は救い得ざる状態となってしまった。アッツ島のような事件が、この群島の幾つもの島の上で行われているのである。刻一刻と同胞は、これ等の島の上で護国の鬼と化して行っている。日本民族にとっての戦慄すべき日々が、この二週間ほど絶え間なく続いているのだ。
敵米国はブーゲンビルの方の海戦の損害をひた隠しにしているが、抜け目のないアメリカのジャーナリストは、ブーゲンビル戦における「将官の損害」という題目で、その大きな打撃をすっぱぬいた。すなわちユーピー電は、ブーゲンビルに上陸以来米陸軍将官は戦傷死、行方不明、捕虜を合せて三十名にのぼり、海軍将官は戦死三、戦傷二、飛行機事故二で、計七名にのぼると報じている。空母五隻、戦艦四隻沈没という事実とこの将官喪失の数とはほぼ合致している。しかるに敵側はブーゲンビルでは巡洋艦一隻しか失っていないと公表している。皮肉なことだ。
ニューヨークのデイリイ・ニュース紙は、降服ということを知らぬ日本軍を破るには、東京とその近郊を毒ガスによって壊滅させる外ない、と社説で論じているという。これを我々大和民族が記憶しておかねばならない。何ということを公然と言い出すのであろう。これは歴史に書き留めておかねばならないことだ。彼等はアングロサクソン以外は人間でないとでも思っているのだ。そんなことをし始めたら、彼等の子弟は、太平洋の島々の上で、逆に毒ガスで次々と死ななければならない事となるだろう。ここに至って、東京が毒ガスで襲われると言っても、私は不思議なことに、大して驚きも怖れもしない。戦争の生む危険を一つ一つ遁れまわっていて生き残ったとて何になる、という気持なのだ。私だって、死ぬことを何よりも怖れていたら、わざわざ敵潜艦の出没する海峡を越え、病気の直り切らぬ身で厳冬の満洲まで行きはしない。何か意義のあることをしようと思う時は、生命の危険など、さして考えぬものだ。そんなに意地汚く生き延びたとて生命の価値が増すものではない。敵がガスで襲うなら、その時の東京をこの眼で見たいものだ。幸福とは何か、ということを改めて考えさせられる。家族が散り散りになって、誰か一人生き残るというよりは、むしろ、ある時まで皆で楽しく暮し、そして死ぬならまた皆で死ぬのもいいではないか。私は人に先んじて所謂疎開をして、この地に来たが、これで空襲への準備は人並みに果した。これ以上ガスまで怖れて逃げまわることは出来ない。私自身もいつの間にか、大分気持が変って来ているのだ。ぎりぎりの所まで来ると、自分の考が、古来からの日本人の、「城を枕に一族揃って死ぬ」という古典的な考えかたになって来るのだ。面白いことだ。
それにしても、新聞紙上で公然と東京を毒ガスで攻めるなどと言い立てるのは、今度のギルバートの損害を敵が大きく発表した為に、アメリカ人が若干ヒステリイ気味になっていることの証拠だ。敵の発表によると損害は三千七百というが、これぐらいの損害でヒステリイを起したり、それでもって日本軍は破りがたいと考えたりするところ、敵のこの戦争についての考はかなり甘いものだ。アメリカ人にとっては、日本は、爆弾と砲弾と毒ガスとを使えば、アメリカ兵は大して殺さずとも征服できると考えられていたらしい。自分は機械の後に隠れて、トラクターで荒地を耕すようにして日本を征服できると考えているのなら、彼等はまだまだこの戦争の実体を知ってはいない。今に今度の敵発表の十倍も百倍もの損害を被って、米国人ははじめて、どういう敵に彼等が直面しているかを悟るようになるであろう。日本人はアメリカン・インディアンでもなく、またニグロでもない。東洋はアングロサクソン民族のために神が作ってくれた植民地ではない。その事実を覚るまで何年でも攻めて来るがいい。
鶴見祐輔が東京新聞に書いている「米国の対日観の動揺」によると、本年初頭ギャロップの輿論調査では対日戦が明年を以て終ると考えるアメリカ人は六人に一人あったが、今年八月の同調査では十四人に一人の割合に減じているという。つまり、今年八月には、アメリカ人十四人の中に一人は、日本が明年中にアメリカに降服するものと考えているというのだ。面白いことだ。来年の八月のギャロップの調査の結果を何とかして知りたいものである。こういうことの一つ一つが後の世になったら、大変興味深い事実となるであろう。
カイロで会談しているのは、チャーチルとルーズヴェルトとスターリンだと思っていたところ、今日の新聞によると、スターリンは加わっていず蒋介石が加わっているらしい。そして公表されたその決議では「日本からその太平洋上の島嶼を悉く剥奪して日本を農業生産による三等国に陥れてしまう」ということであるそうだ。決議はどういう風にしても彼等の自由である。しかしその会談の留守のあいだに米海軍の被った莫大な損害をどうして補うかをルーズヴェルトはこれから考えねばならないであろう。また彼等は何とかしてスターリンを会談に引き入れたいとこの前々から考えて画策しているらしいが、今度もスターリンは出ていない。スターリンは英米の政略をどうやら信用していないように見える。面白いことである。ドイツの戦力をある程度抑えることが出来た今となっては、一層スターリンは傲然と英米に対している風に見える。
ギルバート戦やブーゲンビル戦の戦果はまことに大きい。しかし敵の戦力について注目すべきことは、米軍は上陸しようと企図した島には、必ず何とかして上陸してしまっていること。これは重大なことである。敵の空母、飛行機、上陸用の舟艇その他準備の砲爆撃など、敵は十分に戦力となる資材を有していることがうなずかれる。これが、今度の戦闘の種々の状況の中でも最も心に重く応えて来る事実だ。やっぱり事は空軍と輸送力にかかわり、それはそのまま国内の軍需生産力の反映なのだ。血によって生産力の償いをするという日本のこの悲痛な戦争事情は一体いつまで続くのであろうか。私たちの作品の出版のための紙などもう作ることはない。石炭も材木もみなそちらに回してほしいものだ。
今日、朝のうちに、自転車で、阿佐谷の杉並区役所に行き、印鑑証明を二枚もらい(京王電車にまわすもの)、また税金の切符のうち、世田谷と杉並とで重複しているものを調べてもらう。杉並の方で発行の分は取消になっているという。
自転車で帰る途中田原君に逢う。同君の父は炊事をしていたところ、ガスを使いすぎて、とうとう止められ、困っている、など立話をする。昼頃帰り、午後は小田急の砧局まで、全国書房よりの電信為替五百円を受け取りに行き、帰途、田上義也氏の宅を訪れる。捜しまわってやっと見つけ、夫人と話す。初対面だが、頭のいい、生活の内容をよくわきまえている人だという印象を受ける。貞子が札幌在住中から尊敬していた人である。田上氏はこの頃建築の仕事をやめ、木材会社に関係して飛行機の資材となる材木の研究に携っているとのこと。圧縮強化木材による、飛行機体製造のことが最近論じられる。大量生産の一方途である。田上氏もそれに関係しているのであろう。弱い夫人は、数年前から夜のうちに朝食を作っておき、女学生の娘さんたちは朝に起きるとそのまま食べて登校し、夫人はゆっくり朝寝する習慣を守っていて、そのせいか次第に健康を取り戻したという。私の家でも菊がいなくなれば、冬の間丈でも是非そうしたいと考えた。
実はまだやって来ない。多分上京はしているのだが、多忙なのであろうか。風邪気味ほぼ直ったが、まだ痰が出、朝夕喉が少し痛い。自転車を乗りまわすのは爽快である。仕事は何もせず。赤木俊君より現代文学の原稿の催促を受けるが、書く気になれず。承諾しなければよかった。私の原稿の載った「新潮」届く。七十四頁しか無くなっている。
十二月三日 曇後晴 礼、夜中より吐瀉、下痢、但し熱なし。少々過食の為か。
男子は満四十五歳まで徴用を受けることに規則が改められ、公布された。明春一月その改正年齢の四十歳から四十五歳までの年齢の者の臨時登録がされるという。工員の不足がこういう処置を取らせることになったものとすれば、軍需工業は更に一段と拡張されていることが分る。兵役年齢と徴用年齢が同じになったのだ。四十五歳以下の閑人はやがて街上から姿を消すであろう。前大戦の時ですらフランス国内では青壮年の姿が見られなかったという。大東亜戦満二年になるのに、街上に閑人の姿なしとは言えない日本は、余裕があったと言うべきか、組織が遅れていたというべきか、とにかく満二年にしてこういう制度が出来たのだ。
「爾霊山」第一枚目を書き直すこと三度で、一応二枚目まで来かかっていたが、今日また朝から寒いので炬燵を入れ、改めて第一枚目から書き出したが、また書き直し、やっと午食時に、二枚目の終りまで来る。こういう調べた内容を盛る作品は、あちこちと配慮し取捨に迷うところ多く、なかなか進めないのである。
貞子元気にて台所の板を揚げ、風呂用の煉炭を取り出してあとを片附けている。引越当時十三俵あった炭が七俵しか無いという。その後の配給の炭の外に六俵も費ったのである。但し風呂用の煉炭は五十個ほどあるから、週に一度として一年分はあるという。枯草や薪をも併せ使えば、二年ぐらい風呂は沸かせるであろうか。それまでに戦争が済むであろうか、と事毎に戦争と生活とを合せ考える。考えざるを得ないのだ。
礼は朝吐瀉止り、元気だが、食物をほしがって貞子を怒らせてばかりいる。
夕刻、赤木君に、渡満準備等で多忙のため、「現代文学」の原稿は書けないと速達で断り状を出し、青野、池田氏などへの礼状、それから全国書房から来た出版届書式への書き込みをしたもの等を出しに出、そのまま自転車で、小田急千歳船橋駅に行き、川崎家へ寄って見る。川崎君も渡満したいと言っていたが、どんな都合になっているか、と思ってである。夫人も奎君もみな留守にて帰る。家に帰ると、近藤春雄君から「マンシユウユキキマツタ アス九ジコイ」と電報あり。いよいよ確定したと思い、何となく、ゆったりと安心する。
思い立てば、いつの間にか物事は実現されて行き、怖ろしいことのようでもある。夜、参謀本部の日露戦史の二○三高地戦のところを、附図と引き較べて読んで行く。句読点なしの片仮名の文語体で、とても読みにくいもの、前には何度も読んで、その戦況の運びが具体的に分らなかったが、今夜はその気になって注意力が集中するせいか、よく理解出来る。二十八聯隊第五中隊は東北正面に十二月五日攻め込んだものとばかり思っていたところ、西南砲塁に突入していることも分り、かつ十一月三十日頃からのその所在地が山麓のここ、そことよく指摘出来る。地図に数字で書き入れた各隊の位置を理解出来るようになったせいである。なるほど、こうしてよく読むと、この戦史は正確詳細で完全に出来たものである。附図二枚を今度の旅に携行することにし、別封に入れる。
十二月四日 晴 北烈風
朝顔を洗っていると、台所の方の戸口から実が入って来る。今朝東京へ着いたとのこと。元気である。戦闘帽に協和服、大型トランクを下げている。朝食を共にし満洲の様子を聞く。連絡船では、七時間のあいだ絶対に浮きを胸に固くつけさせるので、息苦しくなり、食事中など不自由で困ったという。向うでは、米は前から配給だが、味噌醤油がこの頃から配給になったとのこと。諸物価は、内地の三倍だということ。闇の物の値もほぼそれぐらいであるらしい。旅行者は、こちらの居住証明を持って行って切符をもらわないと、全然食事が出来ないが、内地と違って切符さえあれば、外食は自由に出来るという。また汽車旅行の弁当は、食堂車などすぐに売り切れるので、あてに出来ず、みな弁当を何日分も持ち、水筒持参で来ているという。実はあまり深く考えずに二日分の弁当を持って来たが、すぐ不足し、同行の所長は七日分の弁当を、握り飯、海苔巻き、折り詰めなどに区別して、またおかずも用意して来たので、その裾分けをしてもらったという。しかし内地へ来てからの九州や関西方面の宿屋では、どうにか食物にはあまり不自由しなかったという。
九時迄という近藤君の電報なので、朝食後すぐ、私だけ出かける。信濃町の近藤家で聞くと、今度の渡満の旅費補助は大東亜省系の大陸文化振興会から出ると思っていたところ、そちらの方は事務の都合で出ず、満洲国大使館の方から出ることになったという。先日八雲から来た貞子の伯母からもらったするめを十枚近藤君宅に贈る。二人で麻布の大使館に行き、浜崎事務官に逢う。快活な若々しい人。松村英一氏と一緒に行くことになるらしい。大使館の広い応接間は立派だが、マントルピイスに火なく、烈風の日のことで寒さはひどい。金は六百円用意してあるが、文学報国会に対して差し出す形式になっている故、報国会からの受取りがいるという。近藤君から報国会のその係りの高橋君に電話してもらってあったのだが、今日はまだ高橋君出席していないとのこと。挨拶のみして、二人は外に出、溜池のちょっとしたレストランで昼食、梅級店ということで、一円五十銭、税共で一円九十銭の昼食は、バタなしのパン二切、鰯の丸干しのフライ二匹、鰈の切身一つと野菜とをつき合せたものそれに代用コーヒー一杯である。量不足だが、内容はさして悪くない。梅級というのは、上級のものらしく、先日上野図書館の食堂の六十銭の昼食は竹級とあったが、それが中級のものであろう。そのためか、このレストランは、大して混んでもいず、また列も作っていなかった。この頃外出が少いので、こういう事情にも疎くなっているのだ。
そこを出て、一時頃近くの文学報国会へ行く。高橋君がいて、明後月曜日に大使館へ、受取などを持って一緒に行ってくれるという。文学報国会での事務が面倒になりはしないかと、私はひそかに心配していたが、近藤君のはからってくれたとおり、すらすらと片づくのでほっとする。近藤君は、文学報国会内にある大陸文化振興会の委員長という資格で面倒を見てくれたのであるが、私は、この会の前身である大陸開拓文芸懇話会の設立員として前に渡満したりしているので、色々円満にはからってもらうことが出来た模様である。文学報国会で聞いたことによると、先頃募集していたこの会の勤労報国隊はいよいよ組織されたので、近く五日間ぐらい農村へ手伝いに行くこととなった由。それもこの会員には虚弱者や年寄りが多いので、仕事の選択には委員等が頭をひねっており、結局麦踏み程度のものとなるだろうという話。世田谷では私の近くから小田急の辺にかけて一つの班が組織され、私、中河与一氏、中村地平君、等十名等が指名されている。五日間も泊りがけで農村へ行くというのは、渡満に較べれば大したことでないが、かなり心身を労することにちがいない。
外に出て、虎の門の晩翠軒喫茶部に寄る。相変らず営業しているが出来るものは、昆布茶に、百合根の蒸したの一皿。前者十銭、後者三十銭。
そこで近藤君に別れ、近藤君の名刺をもらって、東京駅の北方に、東亜交通公社の某課長を訪ねたが留守。切符依頼の件である。この一月ほど前から大陸行の船便の指定や寝台券の売り出しは極めて窮屈で、まともに駅へ行っては、ほとんど買うことが出来ないのである。この切符の都合によって出発は決定されるわけである。
そこから日本橋に出、日本生命をあちこちと番地によって捜したが、結局高島屋の六階にあることが分り、そこで、私(三千円)と貞子と滋(各二千円)の生命保険の支払いが遅れていたのを復活手続きをして半年分支払う。三人で百三十七円ほどである。ついでに、今年設定された戦時傷害保険という国家保険に私が入る。内地在住は千円について一年に五円の保険料で極めて安価であるが、外地行というので、倍額の十円。最高額の五千円ということにして、五十円支払ってすぐ明日から有効との証書もらう。
海上の万一を懸念してである。更に時間があるので、有楽町堀端の第一生命に寄り、これは五千円の一年分、百八十円ほどを支払う。外に帝国生命に入っている二千円を加えると、これで私の身体には一万五千円の保険がついていることとなる。今日のみで三百六七十円も払い、金が心細くなる。
そこから市電と京王電車で帰宅五時。実と一合の酒を飲み、夕食をする。実は東京に十日ほどいてから、北海道に渡って、年末までに帰満する予定だというが、私はなるべく出発を遅らせ、実は早めて、出来れば同じ頃に渡満しようと話し合う。今朝実の旅行証明書を菊が町会に届けたところ、すぐ今日の米の配給から増加してもらったという。夜入浴。
新聞にベルリン空爆その後の詳報、タラワ島等における我軍死闘の状況更に続いて発表さる。独ソ間のキエフ方面は、冬期に入り膠着状態という。
十二月五日 晴 朝寒冷甚しく、五六分も凍り、ポンプはタンクへ入らなくなっている。今年初めての寒さである。但しこの日終日晴れて無風、気持よし。
朝思い立って、こないだから心がけていた鶏小屋の保温装置として、小屋の内側に筵を張りめぐらす。思ったより簡単に出来る。それに続けて、井戸のポンプと鉄管に藁を巻きつける。午前中かかって出来あがる。これで渡満後も一応、家事で心配なことはないわけである。貞子この数日元気なので、前から行きたいと言っていた成蹊高校の清水教授宅へと挨拶に行くというので午後同行する。滋の受験の件である。実も一緒に外出す。吉祥寺の成蹊学園前の前から折れて清水家に寄る。清水氏留守で夫人に逢い、昆布一束、鰊の身欠等を贈る。その足で三鷹の田居尚君宅へ行く。畑など見せてもらう。私の譲った写真機で田居君の写した写真を見せてもらう。私の所に残っている引伸機具其他と自転車のチューブとタイヤ一揃とを交換したいと私が言うと、彼も承諾す。そうすれば彼の写真機類も揃い、私の方はもう一台の自転車が活用出来て便利となる予定。彼は今月売掛金の最後の回収に北海道へ行きたいと言う。夕刻戻ると、菊は今朝貞子に言われたので、近所の佐藤という農家から甘藷を二貫買って来てあり、また自由販売時間に小鰊を一人あて二匹ずつ買って来てある。そのため夕食は賑やかである。実夕食に帰らず。京城の金融組合とかの雑誌から、近藤君の手をとおして送った十二枚の随筆の稿料七十円届く。
最早旅心しきりにて、その支度に気がせくため、何となく落ちつかぬ。
米海相ノックスは、ギルバート方面の自軍の損害の多いことを言い開くために、度々陳弁しているが、昨日の新聞によると、タラワ島の砲爆撃にはベルリンの空襲以上の爆弾が狭い島の上に集中されたという。しかも我軍では米国の輿論を一変さすような損害を敵軍に与えているのだ。その壮絶な戦闘は長く歴史に残るものにちがいない。だが悲しむべきは、その体験者たる我軍は一人も或は生き残っていないという事実である。またノックスは十一月中に十二隻の空母を完成したと号している。これはブーゲンビルやギルバート方面での我軍の撃沈した敵空母の損害を隠蔽しかつ、生産力による勝利を喧伝する為であろう。ノックスという男は、ああ言ったり、こう言ったりして戦争の辻褄を合せることに専心しているなかなかのやり手である。しかし敵が空母を飛行機同様の消耗品として、その大量生産に力を注いでいることは近時の特色であり、その生産力への自信もあるからこそ、空母群を惜し気なく前線へ駆り出していることがうなずかれる。
先頃から中支那洞庭湖西方地区で、我軍は重慶軍への進攻作戦を行っていることが報ぜられていたが、その中核地常徳の占領と共に綜合戦果が発表された。この地区の重慶軍は装備もよく、随分抵抗したらしいが、遺棄死体一万八千余、俘虜三千三百余、我方の戦死五五六というから、これは、一つの大きな戦争である。支那内地でのこの種の戦争は、半年毎、三月毎という風に、各地方で行われている。この重慶軍の抵抗は目下の日本にとって、随分大きな負担であるにちがいない。
なお外電の報ずる所によると、チャーチル、ルーズヴェルトとテヘランあたりで会談したスターリンは最近モスクワに帰還したという。では、三者の会見はやっぱり事実であったのだろう。英軍はまたベルリン空襲を行った。廃墟の上に、更に重ねての爆撃は、惨憺たるものがあるであろう。
十二月六日 曇 寒し 昨夜一時から朝まで何故か不眠。実帰宅せず
文報高橋君と打ち合せあり。十時頃出かける。途中京王の開発課に寄る。先日印鑑証明を届けたが、登記はまだ税務署の価格決定してからとのこと。私の家は七千円に届けてあるが、多分八九千円に見積られるだろうとのこと。一万円以上になると建築税というのがかかるが、それ以下で済むよう税務署の了解を得てあるとの話。それでも不動産取得税というのが、相当にかかるらしい。多分三百円ぐらいとかいう。
麻布材木町の満洲国大使館前に行ったが約束の高橋君も松村英一氏も見えないので、暫く散歩してから入って訪うと、すでに二人は中で浜崎事務官と話をしている。松村英一氏と初めて逢う。五十五歳というが元気のよい人である。大使館としては、私たちの出発は都合によって一月になってもよく、切符の指定を得られる時にすることと相談。私たちへの満洲国政府からの招聘という形の証明書は、近く作って郵送してくれるということ。私は十二月、松村氏は一月にしたい意向らしい。同氏主宰の短歌雑誌が統合問題にかかっている為とのこと。向うで逢えたら逢いましょう、ということになる。私の名刺は評論部常任幹事という肩書で文報で作ってくれる由。浜崎氏より出された金六百円を受領す。溜池で松村氏に別れ、高橋君と附近のレストランにて昼食。高橋君には徴用令状が出ているとのこと。また張赫宙君も徴用を受けたとのことだったが、いよいよ体格検査だという。文学者は報国会会員全部で四千人もおり、文報でもそれを一般人と区別して扱ってもらう手続きをするわけには行かぬので、今後次第に徴用される者は多くなるだろうという。高橋君も平気で、なあに、そちらへ呼ばれたら行って何でもやりますよ、と言っている。この頃はほとんど男たちはみなそういう気持に落ちついてなっているのだ。
朝刊によって、またブーゲンビル沖の航空戦を知る。しばらくこの方面には大きな戦闘なく、敵も重ねての損害に閉口した形かと思ったが、こうして直ぐまた艦隊を揃えて攻め上って来るのだ。敵の呼号する今年中に百隻の空母を揃えるという案は、本当なのかも知れぬ。だとすると空母群による海上決戦という大変革が初まっているのだ。そうでなければ、こんなに米国が積極的に空母戦に出る訳がない。ルーズヴェルトは明年が第四回目の改選期なので、明春にかけて、大きな戦果を得て国民を納得させる必要があってしきりに攻勢に出ると新聞に書いているが、いずれ人間のすることだから、そういう簡単な推定が或は当っているのかも知れぬ。その焦慮で敵は傷手を負いつつあるのだ。こうなれば、もう文学者は筆をとって、などいう生活が日本国内でいつまでも許されてはいられないのが本当である。さて、とまたしても私は心が動いて考え込む。
一人になって、銀座裏に川崎君の事務所を訪うが不在。東亜交通公社へ行こうとして東京駅下車して、駅内のその社の出張所で、気がついて船指定のことを訊ねると、「目下は軍人軍属しか関釜連絡には乗れないことになっています」と四十過ぎの男の事務員が言う。それで私は「たとえば満洲国政府で招聘した特殊な用件を帯びたものは、乗れないのですか」と言うと「それならば多分乗れるでしょう。でもその証明書が必要ですが。」「ええ、証明書があればたいてい大丈夫ですか?」「大丈夫です。四日前に売り出しています」と答える。それでは思ったほど窮屈ではない。実の話では先月は軍の輸送が特に多かったのでひどく混んでいたが、今では大分緩和されているということであったが、そのとおりであった。安心する。これならば、その小林とかいう旅行課長に逢えば、寝台をとってもらえるかも知れぬ、など考える。昨夜気づいたのだが、日大講師という証明があれば、満支は四割引の運賃になるので、それをもらわねばならない。その前にすぐ近くなので、実業日本社を訪う。出来れば倉崎君に逢って印税の一部を前借して家へ念のため残して行きたいと思うのであった。だが留守で逢えず。省線で池袋に出、学校に午後四時頃寄る。石門寺氏その他の教務の人たち相かわらず事務をとっている。病気は如何ですと休講の件に見舞を言われて困る。学校統合のこと、まだいずれとも決定せぬが、いよいよという日まで腹をきめて待っているのですよ、と石門寺氏笑って言う。受付の女事務員に話して身分証明書と割引券五枚をもらう。
五時帰宅。この日朝新宿の街で、実の細君への土産に満洲では全く無いというので、カネボウのバニシングクリーム二個、資生堂の粉白粉一個を買う。四円ばかりである。
目下旅費六百円の外、私の手もとに四百円、貞子の所に百円あり。そこから税金百八十円、ラジオ七十円等を払うと、やっと年を越せるぐらいの金があるか無いかであろう。前の予定では年を越して、五百円ほど余る筈であったが、心細いことである。ラジオはどうしても買わねばならぬ。戦況を早く知るばかりでなく、空襲でもある時はそれだけが頼りとなるものだし、それに次第に品薄で早く買わないと、手に入らなくなりそうである。
十二月七日(火)雨後晴
渋谷にて例の古本屋に寄る。
朝刊にてマーシャル方面に敵艦隊が来攻し、我はその航空母艦等四隻を撃沈破したと発表あり。いよいよ敵は、我委任統治領に入って来た。但し、ここには敵は上陸せず、艦隊のみの来航だったらしい。しかし、この方面の小さい群島への来攻は警戒を要する。どうやら敵はギルバート諸島を完全に制圧占領した勢いに乗じ、その北方の我が基地を襲ったものである。それを見ると、ソロモン方面とはちがって、島が小さいだけに、敵は上陸するや否や忽ち島を占領してしまい、上陸までの損害は甚大でもその後はソロモン方面のジャングルに蔽われた大きな島とちがって割に手早く進めることが出来るものらしい。それ故敵が損害を顧慮せずに進むとすれば、この方面ではこれまでよりも進攻が早くはかどるという目算が敵に出来たのではないか。心配なことである。敵はノックスが言っていたとおり、艦隊の決戦を求め、我方がそれに応ずるまで、ぐいぐいと積極的に出ている形である。しかし、この辺の統治領は、もう前大戦後委任されてから二十余年になり、日本の根が深く下ろされている所だ。守備は一層厳重であり、連絡もよいことだから、ギルバートのように上陸占領ということが数日のうちに出来るということは、敵にも考えられないであろう。それにしても、マーシャル群島というと、本当に敵は我領土へ肉迫して来た感が深くなり、ぎょっとする気持である。我方の航空戦力が、もう少し強くなれば、敵といえども、今後はこれまでのように進めなくなるだろう。それを待つ気持が痛切である。今や祖国へひしひしと敵の手が迫ったのだ。朝出がけに、世田谷区役所へ寄り、今年の税金二期三期の分をまとめて払う。分類所得、綜合所得で合せて百二十余円である。
また朝刊に、ブーゲンビル南端の我が基地ブインの飛行場の様相を報じた文が出ている。凄まじいものだ。敵の制空権下に我方も飛行機で往復していたり、むかえ撃ったりしている。その情景惨たること、ひしひしと心をうつ。この記者の文は文学的で名文である。このブインは守りとおせるか。それとも敵の上陸したこの島の中西海岸のトロキナを撃滅し得るか。ここにも焦眉の危機がせまっている。太平洋の中央部から西南部にかけてのこの島嶼戦こそは、人類あって以来の壮大な戦闘で、独ソ間の東部戦線と比すべき決戦場である。
我空軍カルカッタを急襲す。ビルマ戦線も次第に近頃多事になって来ている。やがて、この方面にも大きな戦闘が始まるきざしであろう。
昨夜も実は帰らず。友人の所に泊っているのであろう。夜薫来る。
夕刻、小学館の「日本少女」の戸川菊枝女史来る。少女小説十五枚を十六七日までに書けとのこと。出発前に書いておくことを約束する。
百田宗治氏が先頃渡満したい意向を洩らしていたので、高橋君から聞いたことを知らせ、早目に文報までその旨申し込むようにとハガキを書く。青野氏より礼状への返事ハガキあり。「日本」の原稿五枚の礼十七円小切手にて届く。この数日旅立ちの準備で、あちこちと、毎日のように鞄を持って出歩き、日記を書く外に何も仕事ができない。もうあまり余裕がないから、少女小説と随筆を書くだけが精一杯であろう。また残っている準備としては、予防注射、情報局への面会、町会の居住証明、名刺を作ること、セファランチンへ行くこと、原君の原稿を取り戻すこと、嗣郎を見舞うこと、土産物を買うこと、実業日本で金を作ること、等々である。
十二月八日 開戦満二年の日 晴
この二年間のことを顧ると、その変化のはげしさには、感慨の深いものがある。最初の日本の進撃の目醒ましさは、私たち国民としても全く予想の外であった。そして日本はその半年のあいだややそれに酔いすぎた感があった。その後の米国の反撃は、その生産力から推定すれば予測したとおりであるが、それに応ずるに、日本は戦意のはげしさを持ってしているものの、生産力が伴わないので、じりじりと押され気味でいる。そして戦力増強という態勢が、最近になって、この半年前ぐらいから、日本にも漸く整えられて来ているのだ。町々の店は表戸を閉じ、小商工業者は転業し徴用され、知識階級人もまた何等かの転換に直面している。国内は工員と兵士と農夫とのみになろうとしている気配だ。大いなる時の経過であった。
朝かねて考えていた豊岡の陸軍病院に甥の嗣郎の見舞にと出かける。この日人出割合に少く、買出し部隊も武蔵野電車に見えず。二時間かかって豊岡に着く。その附近の陸軍航空士官学校のあたり一帯上空には練習機の赤い機体がいくつも飛びまわっている。嗣郎病臥二年になって、胸部は漸くよくなり、夏すぎから平熱だったとて、とても元気に明るくなっている。よかったと思う。但し痔をやっていて、この一月ほど七度二三分の熱があるという。この頃の市民生活のことを話してやる。二年間もこんな世間と離れた所にいると、よく分らないらしい。それでも近いうちまた航空士官学校に戻れると当人は喜んでいるが、胸部疾患だから、まだなかなかであろう。彼の同期生は今春卒業したが、戦死したものもすでに相当あり、中には前線へ行く船をやられて死んだものもかなりいるという。石鹸を二個もらって帰る。彼の所へはメーテルリンクの「蜂の生活」を買って行ってやった。この本、行く途中電車で読んだが、実に面白い。蜂の性質、能力、理解力等を、著者はあたたかい愛情でよく描いている。ここに平穏なる田園の生活あり、という感じがし、私も蜂を飼いたくなった。だがこの「青い鳥」の著者は、この大戦の独軍侵入をさけてアメリカに着のみ着のままで上陸したというニュースを一昨年か聞いたが、その後はどうしていることか。第一次大戦以前に名を鳴らしたこの文人のことが、改めて考え出された。
夜常会あり。防火群長のことまだ決定せず、加持夫人はやめ、花村氏は昼間勤めに出たために出来ず、粕谷夫人は若くて出来ないと辞退し、皆困る。それで私は副班長をしばらく休み、半年ばかり群長をしようと言い、花村氏にも手伝ってもらうことにする。その後は抽籤とし、二人一組で半年ずつ群長をやろうと、私が言い、皆賛成したが、久保田夫人のみ、自分は赤子があって出来ないと言い出す。みんないやな顔をする。だがそれでは久保田家は最後にまわす、ということにし、明年上半期は私と花村家、下半期は窪田家と今度越して来た伊藤信次家とでやることになり、決定する。帰途細君連久保田夫人の悪口を言う。隣組のことは、どうも難かしいことである。
この夜帰ると実が来ている。友人の所を泊り歩いていた由。満洲から移って来た友人から総毛皮裏の外套を譲り受けたとて持って来て見せる。
この日、大東亜戦以来の陸海軍の米英に与えた損害は、それぞれ、廿七万七千、十二万二千と発表される。それに対して我方の損害は十五万九千で、これもまた大変大きい。日露戦争全体の死傷は今ちょっと分らないが、奉天戦だけだと、我死傷は七万人である。それに較べ、大東亜戦はまだ緒戦とも言うべき時なのに十六万近くの損害ありとすれば、いかにその規模が大きく、戦況が苛烈であるかが分る。
電車の停留場などに、都民回覧板というものが張り出されている。前からあった試みかも知れないが、今度のものは、内容が目立っている。空襲を予想してその時の都民の生活必需品のことを知らせたものである。何となく、本当にもう近いうちに、東京都に大空襲のある感じが湧く。先ず食糧についての安心を与えるために、一ケ月分以上の食糧準備ありと知らせ、また罹災家族には即刻五日分の食糧を配るというのである。それから飲み水についての殺菌薬投入のこと等、詳細を極めている。以前ならば、こういう告知は都民に不安を与えるというのでむしろ隠すような事柄であるが、それをかえって大きく告げ知らせているところは、いよいよその時が切迫したということを知らせて、都民に、覚悟をうながし、地方疎散や荷物分散の処置を取らせるためにも役立たせる、という気持からかも知れない。
この日満洲国大使館から私を招聘したという公文の証明書送られて来る。
十二月九日
都民回覧板というもの東京新聞の記事欄に出ている。
タラワ島上陸戦のこと、また敵側報道として火焔放射兵が日本軍の邀撃に潰滅した模様が出ている。ブーゲンビル海戦の方面のことは、ひた隠しにしているのに、このギルバート方面のみ次々と発表するのは、敵の占拠が確立したためであろうか、それとも自軍の損害を、勝利のための必然の犠牲として悟らせる為か分らないが、事実上、敵はこの戦闘が相当こたえているのでもあろう。
朝から実とセファランチンへ行く。品川へ病院が越してから初めてである。今度は高輪病院といい、以前の三倍ぐらいの大きさであるが、相かわらず満員である。二人ともレントゲン写真をとってもらう。山田医師は、私が満洲旅行をしてもいいかと言うと、あなたは大丈夫です、と答える。大谷藤子女史来ている。この夏以来初めて逢ったのである。矢田津世子さんが相かわらず良くないので、その薬をとりに来てやっているのだとのこと。文学や文壇人の話、林芙美子氏は、信州上林に家を借り、そこへ荷物を送ってしまって、いつでも避難できるようにしてあるとのこと。段々私たちも生活は楽でなくなるだろうが、これまでもそう楽な暮しではなかったのだから、大した変化なしにやって行けるでしょう、というのが大谷さんの考えである。
実と品川駅前の食堂で行列に加わり、一円二十銭の箱弁当の昼食を食う。内容、肉、魚等あってよろしい。しかし私たちを含めて五十人ほど入ると、もう店を閉めて売り切れだという。配給が少いのかそれとも名儀だけ商売をして、他は闇に流しているのではないか、という疑いすら持たされる。午後東京駅で下り、東亜交通公社へ近藤春雄君の名刺によって小林という旅行課長を訪ねる。言下に「大東亜省の近藤さんですか、そんなら存じておりますから、××君、よろしく取り計らって上げてくれ」と言うので、早速女事務員が親切にしてくれる。私はあまりそれが早速なので、耳を疑うぐらいであった。この頃は急行券を買うために十時というのに前夜から徹夜して並んでいると言われるぐらいなのに、これはまた、あっけないことである。女事務員は内地の急行の寝台は、ここへ二つしか配当されていないので、それだけはお世話出来るかどうか分りませんが、内地の特急券、それから関釜の乗船券、釜山からの寝台券と間ちがいなく揃えてくれるとのこと。こんなに簡単に出来ると思わなかったので、まことにほっとする。出発の日はと問われ、実と同じ頃にしたいので、十二月の二十五日ということにしてもらう。予定よりも十日の延期である。二十日すぎ、また、交通公社から私あて手紙で知らせをするという。本当にこれで行くことになったのだなあ、と思う。外に出て、表に待っていた実に言うと、実も驚いている。近藤君は今の運輸通信省大臣の八田氏の甥だが、或はそのせいで近藤君の名刺は利き目があるのかと実と話し合う。実と別れ、実業日本社に倉崎嘉一君を訪う。在社。どこの建物もスチームは屑鉄として表に積み重ねている時のこととて、二人とも外套を着て話す。「爾霊山」は大東亜戦開始の頃からの倉崎君との約束でここから出すことになっていたのである。漸く渡満の手筈になったことを告げ、原稿はまだ書けていないが、旅費補助の意味で印税の内から少し借りたいと言う。五百円ぐらい出せるでしょうと倉崎君の話。ここも思ったより楽に話が進み、ありがたいと思う。なお、この出版についての約束大分前のことなので、どんな条件であったかを忘れたので倉崎君に尋ねると、一割二分で五千部刷る約束故、それだけは払うとのこと。二円の本だと千二百円の印税となるわけである。月曜日三時にまた来ることにし、二人で銀座で茶を飲んで別れる。土産にと、またこの日クリームを二個買う。
これで大体出発がきまったので、この二三日前からのことから、日記風に書き出し、紀行文的な小説にしようと考える。そのため、この日記は、以下休むこととするかも知れない。
夜書斎に炬燵を入れ、こないだから買いだめた煙草、カイロと灰、靴下や手袋等の旅の用具をそろえて、リュクサックにつめる。それでもまだまだ雑用が残っている。注射、原君の原稿取戻し、振替換金、等々である。
夕方近藤春雄君より速達にて、この旅行について関係者、私、松村英一氏、近藤君、大使館の浜崎氏等で一夕食事をしては如何とのこと。明朝打ち合せに行かねばならぬ。近藤君にはまことに世話になる。彼はまた世話好きでもある。
今月の初め頃から、法文科系の学生の入隊が多く、日の丸の旗を斜に学生服の上にかけた学生をよく見かける。二三日前には、東京駅前で慶応の学生が、入営の友人を真中に円陣を組み、「陸の王者慶応」という応援歌を歌い、はては肩を組んで踊りながら輪にまわったりしている群が二つあった。遅れるも先だつも、二十歳の青年たちはみな、兵となり、御召に応じて前線に行くのである。涙なしには、彼等の姿を見ることが出来ない。今日はまた横須賀海兵団に入る人たちが多いとのことが新聞に報じられてて、電車の窓から顔を並べて出した学生の写真が出ている。その度に私は、あの海軍兵学校生徒が歌うという「泣くな嘆くな必ず帰る、桐の小箱に錦をつけて、逢いに来てくれ九段坂」という歌が思い出されてならぬ。この痛切さが、あらゆる青年たちの、父に母に、姉妹に、愛人に抱かれている巨大なる時代の真只中に私たちはいる。私の組の窪田家の息子さんもこの十五日に米沢の聯隊に入るために出発だという。
十二月十日 晴
毎日出ていて、今日は休みたいのだが、近藤君から速達が来ていることとて、朝出かける。奉天の某書店への近藤君外二人の原稿が出来ているが、郵送だと一月もかかるというので、私に持って行ってくれという件、それからその書店の東京支店が私と松村氏、近藤君などに御馳走したいから都合如何とのこと。先日来の事情を話し、礼を言い、出発が二十五日になったことを告げる。ついでに実の切符について東亜交通公社への紹介状をもう一枚書いてもらう。実と私との出発の時を一緒にしてもらうようにと思ってである。正午辞し、水道橋下車、学生街なら食堂が多いと思って三崎町辺に行くと、なるほど軒並みの食堂に二十人ぐらいずつ並んでいる。三十九銭で丼に一つの飯と煮込みと汁のついたものが出る。それを食べて、次に少し離れた食堂で同じような内容のもの四十五銭で食べる。学生たちも二ケ所ぐらい食べて満腹するらしい。一食分ではとても駄目である。この頃は学生の文科系の人たちが応召したから割合に豊富に食事が出来ると食堂の中で学生らしい青年が話し合っている。いかにもそういう風に見え、この一角は目下の東京で外食が一番楽に食べられる所である。
市電で大塚氷川下に行き、森一君の宅を捜す。貧民街のような長屋に彼の住居があり、入口の所には細君が内職しているらしい紙の材料があった。留守故、細君に、前々から催促している原民喜君の原稿を返してくれるよう伝言をたのむ。森君の関係している鬼沢という書店は到底今度の整理をのがれることは出来ないであろう。森君は生活は楽でないらしいが、原君の原稿をどうしているのか、ちっとも知らせてくれないので不安だ。
省線で新宿へ下車、住友銀行で雑誌日本の稿料十七円五十銭の小切手を換金す。マツダランプ売店に寄り、渡満の証明書を見せて手動の電燈をほしいと言ったところ、十一月の中に軽金属類の発売禁止令で全く扱わなくなったとのこと。残念至極と思う。以前にも軍人か防護団員にしか売らないので買えなかったのである。また省線で渋谷へ出、三軒茶屋まで玉電に乗り、この前にその辺でラジオを売っていたところを捜す。二つ三つ並べているが、古いのと交換でないと売らないと言う。しかし、その店にある古い三球式のを四球に改造して明日迄に五十円ぐらいで作っておこう、と言う。約束する。
京王電車に出、杉沢家へ行こうとすると、田辺耕一郎君に逢う。一緒に代田橋から鍋屋横町までバスに乗り、文壇人の噂など。田辺君も、我々の生活は一体どうなるのだろうと、深刻な顔をする。同君の話によると、近く文学報国会では、会員の転業の斡旋をはじめるという。徴用がますます多くなりそうな時故、生活を守るために、それに先んじて転業をする文学者が相当に出るだろう、と同君は言う。別れて杉沢家へ寄る。夫人に先日の魚粉の代三十円を払って話していると、杉沢帰って来る。八王子在の彼の畑にいよいよ物置きを建てはじめて、向うに行っているとのこと。なお彼は材料が何とかすれば手に入るので、明年は無理をしても住宅を建てたいと思っているとて計画書など見せる。六時になり、別れ、帰宅す。菊は今日朝から隣家の細君に伴われて、八王子の北方所沢辺の東秋留というところまで甘藷を買いに出かけたが、甘藷四貫目と麦粉を二貫目買って来たという。その辺は電車賃が二円ほどかかるけれども、甘藷は前には六七十銭今度は一円であまり高くないし、いくらでも売るらしく、方々に買い出しの人が行っているという。駅から遠いほど安く、山を一つ越すと十銭ほど安くなるという。ところが帰途交番の前で腕章をつけた男につかまり、何という家から買って来たか言わないと警察へつれて行く、とか、そんなに背負って恥しくないかとか言われ、本当に怖しかったという。(翼賛壮年団員か何かであろう)ところが、そこへお巡りさんが来て、いいよいいよ、どうせ足らないんだから、とかえって取りなしたという。花村夫人がもう決して来ませんからと謝ると、お巡りさんは、また来てもいいよ、と言ったので、花村夫人はほっとした為に泣き出したという。菊も足がぶるぶるして本当に怖しく、もう二度と行かない、と笑って言っている。
朝刊にて中学の入学試験方法を変え、口頭試問だけでなく筆記も加味し、また綜合して各区毎に試験委員会を作り、生徒を志望校に配るという方法にする由、出ている。しかし私立学校等は当分それと別になる由。
十二月十一日(土)
セファランチン行き。実は満鉄支社へ寄るとて途中で別れる。この日高輪病院はあまり混雑していないので、昼頃にすむ。私は昨年のレントゲンと較べると今度撮ったレントゲンは、肺門部の陰翳が小さくなっていて、心配はない。満洲旅行も大丈夫だという。実が待っていても来ないので、彼の分のことを山田医師に尋ねると、この春の分よりかなり良くなって来ているとのこと、注射薬、錠剤を混ぜ三月分の、実の薬を山田医師が分けてくれる。写真も貸与してくれる。奉天の竹内という病院への紹介状ももらう。やがて実が来たので、一緒に東亜交通公社へ出かける。小林課長に実の件を話し、近藤君の紹介状を見せて頼むと、何とかしてくれるとのこと。ほっとする。「雪国の太郎」を同氏に贈る。乗船のこと、これまでは汽車から乗ってすぐ出帆であったが、今度からは前日に乗船し一夜仮泊して朝に出帆となった由にて、私等の出発二十四日となる。実は船は二等がなく、三等だとのこと。また小林氏は出先の支社あて色々紹介状を書いておいてくれる由。
そこを出、中央郵便局で朝鮮からの振替七十円を受取り、さて、どうしようかと話し合ったが、私は思い立って板谷真一君を訪ねることにし、二時頃だが、それから鶴見へ行く。東寺尾町というもの広くって分りにくい。今出来かかっている第二国道を二キロも歩いて、やっと捜しあてる。彼の「文芸主潮」発表の作品について私が「新潮」で書いた批評の礼を言われる。三井の配合飼料会社の試験場のこととて、あちこち見せてもらう、鶏が多い。外に兎、鼠、カナリヤ等。褐色の美しい名古屋種の鶏を見る。それを一番やがて分けてくれるとの由。夕方になり、無理に引きとめられて、馳走になる。配給の酒、板谷君の手製の酒などが出、夫人が北海道からこの頃持って来たという筋子を出される。筋子を食うのは一年ぶりぐらいであろうか。九時頃板谷君に送ってもらい、先月か新設された新子安駅から帰る。この日話の間に、私は、明春頃どこか私で勤まりそうな事務を世話してくれと板谷君に頼む。板谷君は、軍管理の工場というとあまり物々しいから、この会社の保谷工場のような軍監督という程度の会社で適当な仕事を見つけてくれるという。「あなたが勤める気持になりましたかねえ」と彼は驚いたような調子で言う。私は「いや明年になれば私などの使う紙は無くなりますよ、本当に頼みます」と言う。そう言っているうちに、本当に勤めなければならないという気持になって来るのは妙なことである。私の満洲行きについては彼は賛成し、三年も前から、その日露戦の作品のことを聞いていたが、是非やってくれなど言う。板谷君は省線の中で海軍の一将校が部下と「やっと十二月になったね。これで当分空襲はないな。四月まではまだ大分間があるからなあ」と言っているのを聞いたという。そうすると、季節的に、十一月までは危険が多分にあったのであろう。留守に荒木女史が来、滋に教え、また手袋を一足指定生産品とて、よい品のものを呉れたという。この日貞子菊と出て、伊勢丹で南部女史に頼み、指定生産の銘仙を各一反ずつ買った。十六円ほどで、一般の品物に較べ半値だという。数が少く行列したとのこと。
十二月十二日(日)晴 北風
朝実が眠っているうちに、近所の井上茂氏を訪ね、今度私が群長代理を半年間やることになったと了解を求め、副班長の方も出来るだけやるからと言う。同氏も了承する。絵の話、旅行の話など。帰りに氏手作りの人参を四五本もらう。家に戻ると辻堂の小林北一郎氏より、母君死去の通知あり、九日午後二時とのこと。驚く。高齢であったが丈夫な人のこと故、こんなに急にとは思わなかった。十三四歳の二ケ年同家に寄寓していたあいだ「ひとしさん」と言われて色々世話になったこと思い出し、あの人もこの世にいなくなったかと、考えながら大急ぎでモーニングに着かえ出かける。実が横浜に、今度一緒に来た工場長を訪ねるというのと同行する。うまい工合に品川ですぐ汽車に乗り、二時間で辻堂に下車、少々道に迷いながら訪れると、ひっそりとして訪者なく、数年前から病床にある主人北一郎氏は、げっそりと痩せ、不精髭を生やして寝ている。死者のことよりもこの病人の急変に驚く。最近腎臓を侵され、今度は駄目だと思う、とか、母君が前々から一日でも二日でも北一郎より前に死にたいと口癖のように言っていたとか聞かされ、涙が出そうになる。この人、村での幸福な人で、何不自由なく育ち、学校も秀才で小樽商業、小樽高商、東京商大と順よく卒業し、保険会社で部長になり、四十歳頃までは、不足なく暮して来たのに、今は経済的にも困っているらしい。ちらと見たところでは、去年まで本が一杯だった書斎が空になっていた。同家に寄寓していた頃から私は弟のように扱われ、親しんでいた。十五年程前に同氏の妹との縁談を私が断ってから、あまり往来しなかったが、近年は氏と同級の杉沢氏と一緒に時々訪れていた。村の子供時代に一緒に遊んだことなど、夢のように思い浮べられる。仏前に拝し、香典をそなえ、二三十分話しているうち、暗くなる。去年頃までは療養法に気をつけ、窓を開けることなど励行していたが、この頃は、空気のよい悪いなどよりも、ひっそりと引き籠っていたいとて、窓も戸も皆閉めている。また氏はこの頃石井鶴三の「宮本武蔵挿絵集」を見たいと思って買ったが、その絵が今の自分の気持にはどぎつ過ぎて見ていられなかった、など言う。顔をしかめて咳をする様、昔の秀麗な顔だちがみな失せ、暗澹として、息をのむ。セファランチン、昨年私が知らせてから後に、鎌倉の某医師から手に入れて家中で飲んでいるが、医師との往来がないので、自分は子供の分量を飲むが強すぎるのか発熱して困るのでやめているという。私は、子供の分量と言っても○・一ぐらいだろうから強すぎる。私が今飲んでいるのが○・一である。それは更に二分の一とか四分の一とかにし、一日おき二日おきに飲むべきものだ、と言うと、それならまた飲んで見ようかなど言う。私は、瀬沼君の話を引いて、こんな時代には健康な人とて何時死ぬか分らず、病気の人の方が長く生きられるかも知れないのだから、幸不幸の区別はつきませんね、と言うと、僅かに笑い、私の「得能物語」の中に描かれた杉沢氏の姿が面白いなどと興ずる。母君は八十九歳にて、多少風邪気味であったが、誰も知らぬうちに眠りながら亡くなって、本当の老衰であった、との話。大往生にて、母が先に立って、これで安心したと氏は言う。私はなつかしさに、もっと話していたかったのだが、病人は疲れるようだし、子供さんも病気らしいので、夫人の引きとめるのを辞し、六時近く帰る。子供さんにと「雪国の太郎」を贈る。帰途車中で商科大学の学生がいたので、母校の様子を聞くと、今度の学徒入営で、本科生は十分の一の百人程となったが、授業しているとのこと。二時間半にて帰着。家中早く寝る。寝てすぐ実来る。森一君より原〔民喜〕君の原稿送って来る。
この日、菊朝早くから滋を連れ、伊勢丹に行列して白足袋を四足買って来る。これは良い品であった由。足袋は制限切符があるのだが、ほとんど手に入らないのである。こういうものは町会の配給にしてくれるといいと皆が言っている。
十二月十三日 晴 北風
今日は実業日本社に倉崎君を訪れる日である。だがこの頃手紙の雑用など残っているので午前中から片づけ、日記を書く。この二三日戦況に変化なし。敵はブーゲンビルから更にニューブリテンを強襲しようとしている気配ありとの記事あり。
敵側がこの戦争の現段階をどう考えているかということを知るために、朝日の夕刊から敵側や中立側の観測を拾う。
チャーチルは、最近「我々が戦略上大なる失敗を犯さぬ限り一九四四年(明年)は今次大戦を決定する年となるであろう。」と言った。敵は少くとも欧洲戦については楽観し始めている。中立国某軍事評論家は「一九四四年は対日戦を決定する年となろう」と書いた。
最近の米英新聞は政府の情報を基礎として「欧洲戦争はある程度政治的段階に入った」と勝利の日の近いことを匂わせている。
また中立国のある筋では、欧洲戦については相当思い切った断定をする者も「対日戦はいつまで続くか分らない」と言っている由。
夕刊の毎日新聞を買ったところ、森正蔵という論説委員が、現地から通信を寄せ、米軍の食糧や武器の補給の豊かなことをしきりに論じ、我方の現地の補給の困難さ貧困さを論じている。私たちは傍観者となってはならぬ。しかし日露戦においても、我軍は補給の不足のために勝利を決定的にすることの出来ない戦闘を重ねた。今また戦線はこのような困難に面していながら国内は組織が不十分であり、また遊休の物や人の多いことは、私たちのじかに見ているところだ。増産はすなわち戦いであるということを、痛切に感ずる。あの巨大な物資生産力を持っているアメリカと戦うのに、開戦後直ちに現在のような工員徴用を行えるぐらいの組織と設備を持っていなかったということは、政治の貧しさか資源の貧しさか分らないが、遺憾きわまることであった。
午前中に、原君あてのハガキと原稿小包、池田小菊女史あての本の礼と短評の手紙、満洲国大使館の浜崎事務官あての手紙と「雪国の太郎」の小包等を支度して出かける。出がけに、東京新聞の頼尊君来り、年末の「今年度の小説本の批評」という文を三枚半宛三回書けと言う。二人で作家の転業のこと話しながら新宿まで出て別れる。和田本町にいた時、開戦の日の夜来て、開戦についての文学者としての感想を書けと言ったのもこの人であった。そのことを話し合って、ちょっと感慨あり。市電にて須田町下車。倉庫のようにがらんとなっている万惣に寄り、小林氏に頼まれた西瓜糖を求める。医師の証明なしで売る。サイダー壜一本五円に壜代一円というのを二本求める。こわれ物なので持って行ってやろうと思う。贅沢な人たちは、これを買って食用にしているという。実業日本社へ行き、倉崎君に逢う。四百円前借する。まだ原稿を見せていないのだから、これは倉崎君の特別のはからいであろう。しかし、その後で倉崎君、部数は五千と申しましたが、それより少くなりそうだと言いにくそうに断る。致しかたない。三千として、九百円程の印税だとのこと。倉崎君から、社用の白鳥の「根なし草」寺崎浩の「家族」等借りる。批評の為なり。売切れの由。
夕刻六時に、組内の窪田家の子息、青山学院生が応召するとのことで急いで帰り、桃野、井上氏等と同家前に集る。近所の夫人連多く、桃野氏が挨拶し、駅まで送って行って、万歳を三唱して別れる。窪田夫人のやさしい物ごしが目につき、前に防空演習の時に一緒に話したことのあるその子息の、まだ子供子供した顔が、心にこたえる。集った夫人たちの談話に、ある人は息子が航空母艦に乗っていると言い、ある人は弟の帝大生が昨日入隊したと言い、戦いに縁のない家庭というものがほとんどないことがよく分る。この日の夕食、自由販売とて、掌ほどの鰈が皆に一枚ずつ、配給の煮豆の甘いのが一皿ずつあり。外に実が市内で買って来たとて珍しく蒸し鮑が五六切ずつあり。これではまるで正月のようだとて皆喜ぶ。林檎の配給があったが、これは取っておいて明日ということにする。実は今日浅草へ行ったところ、店々に貸家や閉店が多いので驚いたという。浅草ならずとも、新宿辺でも真昼も大戸を下して店を閉しているのが半数はあるだろうか。転業、疎散、工員住宅への改造、徴用による商売不能、品不足による臨時休業等のため表通りは開けていない店が、目立って多くなった。
実は十五日の汽車の切符手に入り、帰省して、二十一日迄に上京することになったと言う。夕刊にムンダの高射砲隊長の東元中尉の日記発表さる。凄絶、魂をゆすぶるものである。事実に即するよりも大いなる文章の道はない。
十二月十四日 晴
朝自転車で烏山のラジオ屋に行き、ラジオを買おうとするのだが、真空管がないとか、卸から小売値段で買っているとか言って売らない。先日の渋谷のラジオ屋のは、古いのを直すというのが気に入らず、新しいのをと思うが、なかなか買えそうもない。十二月になってからは、全然入荷が無いという。そうなると高くても何でも買いたくなり、是非にと言うと、それでは正月にでもなったら、また寄ってくれとのこと。あてにならないことながら、宜しくと言って出る。
午前中に、西瓜糖を二本鞄に入れて出かけ、水道橋下車、例の学生街で昼食をし、東京駅一時五十分発にて、三時頃辻堂下車、小林家を見舞う。小林氏今日はやや明るい顔で、訪来と西瓜糖のことをとても喜び、元気よく、色々昔話などする。五時頃夕飯を強ってということで、よばれる。雑煮が出る。田舎から母君の見舞にと送られたものだという。セファランチンも飲みはじめている。「僕も丈夫になりたいなあ」としみじみと言うのを聞くと、哀れで仕方がない。「いや生活さえ出来れば、こういう時代には、丈夫な人が幸福か病人が幸福か分りませんよ」と言うと「僕なんか、その生活の方もあやしくなって来たのでね」と笑う。西瓜糖の金を払うというので、壜代のことは言わず、十円受けとる。これが無いと尿の出が悪くなり、むくんで危篤的な状態に陥るのだという。大変この病気には利くものらしい。礼にも買って飲ませようと思う。夫人も顔色悪く、しきりに咳をし、六年生の長男も微熱があるとかで学校を休んでいるという。「私の所も同じようなものですよ」とは言ったが、この家族のこと気になって困る。六時過ぎ辞す。辻堂の北方で高射砲隊が巨大な探照燈を照し、号令して夜間の演習をしているのが、手にとるように聞える。汽車は買い出しの人たちにて混雑甚し。その人たちのリュクサック、風呂敷、鞄等、網棚や通路に満ち、内容は甘藷、蜜柑、白菜等である。小林家を見舞ったので、ほっと安心する。
夜寒さを背中に感じ、風邪気味。この頃毎日出歩いていて疲労はさして感じなかったが、やっぱり多少過労か。警戒を要す。深夜起きて、オーバーを二枚かけ、やっと眠る。
車中正宗白鳥の「根無し草」という自伝小説を読む。何者をも信じないというこの作家の思想は牢固として変らない。その凡俗的虚無観が今では珍しく思われる。
近所の人に言われ、組長の証明をもらって、礼に果物の病人用の配給をもらった由。毎日のように果物をもらえるとのこと。今日は林檎五つと蜜柑五つとかもらう。それで三四日分らしい。こんなことなら、もっと早く申し込めばよかったと貞子が言っている。この頃は魚も多く、野菜の配給も潤沢で、全くありがたいことだ。しかし滋の聞いて来た話によると、もといた和田本町では、配給をしていた魚屋が徴用になり、細君では出来ないので、魚屋をやめ、近所の人たちは遠い店まで買いに出ているとのこと。ここの魚屋や八百屋がそういうことにならねばよいが、と話し合う。
ブーゲンビル方面であまり敵は積極的に出ないようだ。トロキナ岬等の上陸地に飛行基地を専心整えており、それが完成するのを待って、島上の制空権を手に入れ、我方を圧迫してから、更に前進する、といういつもの方法に出るのであろう。静かであれば静かであるだけ心配なことだ。しかし敵もあのような莫大な軍艦の損害には、かなり閉口しているだろうから、急には積極的に出られないものと思われる。
十二月十五日 晴 暖
朝喉痛く、オキシフルの含嗽をする。外に異状なく、暖い無風の日なので、思い立って、垣根の正木に尿を施す。尿があふれて、こないだから気になっていたのである。鶏は、この十日ほどの間に鶏冠が目立って赤く大きくなり、産卵も真近いことと思われる。楽しい気持である。午後実北海道へ出発とて、貞子は握り飯を三食分十個作る。二人で二時に出、日大前で別れ、渋谷三軒茶屋で例のラジオ屋に行ったが留守で分らないとのこと。その近所のラジオ屋の飾り窓にも四球で七十余円というのを並べてあるが、言を左右にして売らない。風邪気味を気にしながら夕刻戻る。
日本少女の小説そろそろ締切故、書かねばならない。これから出発まで、準備の雑用の外に、この原稿と、東京新聞の原稿とあり、多忙である。
いま手もとに千百七十円ほどあり。ラジオ七十円、私の絣の質出し百六十円、などまだ出費予定あり。随分この度金を集めたので、覚えているだけでも、杉沢五百円、全国書房五百円、大使館から六百円、実業日本社から四百円等外に原稿料も多少あり。二千余円のうち、何に使ったのか、すでに半分は無く、心細いことである。
夕刻大工長谷川来る。かねて約束の水槽の蔽いと神棚を持って来て取りつける。薪のことがあるので貞子気をつけて、酒を一本つけたりしてもてなす。隣家を作っていた大工から手に入れた板で井戸の小屋がけのことを頼むと、正月十日すぎにやりましょうと言う。薪も多く出来ないが、何とかして間に合せましょう、と言う。今日の分、十七円というのに、二十円支払う。薪も一束持って来てくれた由。
十二月十六日 雨
午前中から雨となる。風邪気味だが、さしたることはない。炬燵を入れて午前中ぼんやりしている。昨夜インドラミンを注射したが、それでほぼよいのかと思う。
朝日夕刊投書欄に北海道帝大出身のある軍人の手帖に残っていた歌をその友人が投書したというもの出ている。その友人というのも樺太にいる一兵士である。
「前の日も昨日も今日も生きてしが、明日といふ日はおもほへぬかも」(死の五日前)
「我はしもガダルカナルに死せんとす、うまし日本の父母よはや」(戦傷、死の直前)
「朝露の消易きいのち消なば消よ、天つ日の本勝たしめたまへ」(同)
無名の兵のこの三首の歌、充実して美しき命に満ち、歌人が生涯をかけても到達し得ぬ高さに到っている。読んでいて涙ぐむ。北大出身とあれば、ことさら身近い感じがする。作者は、はるかに北方の祖国を、父母をしのびつつ死んだ。その死は祖国のためであったが、しかもこの三首は芸術家の生涯を賭するに足る立派な出来である。兵の文学として最上のものと思われる。死せる人よ、君の歌はたしかに私の心底に響き届いた。君の歌こそは、日本人が死ぬときの純粋の声である。
昼近く石川清君来る。知人の徴用の話。前に石川君が使われていた伊勢丹の広告部の主任が徴用になり、何とか外へ入れないかと頼まれ、石川君が、今出ている工場の親工場に話して、防護団長と事務を少しやることにしておいたが、それの手続のすむ前に呼ばれて、中島飛行機へ入ってしまったということ。その他彼のいる町内の八百屋が徴用になったり、副町会長が徴用になったりしているとのこと。また中には徴用されそうになってから、実際呼ばれるまで間があるので、その間にどこかよい所へ勤めようと運動する者もあれば、中にはある洗濯屋など同業者三十名ほどを誘い、集団的に進んで転業するものもあって、そういう話で騒然としているとのこと。石川君の家、また野菜が無くなって、今日は井上氏のところへ来て、とっておきの馬鈴薯を分けてもらって来たとのこと。私の家でも葱を少々分けてやる。
夜、「日本少女」の原稿を催促の電報あり、久しぶりで原稿にとりかかり、十枚を十時迄に書く。
十二月十七日 晴
朝小説を書きつづけ、正午十五枚にて仕上げ、持って外出、神田神保町下車して小学館への途中戸川女史に逢って手渡す。原稿料留守宅へ送るように頼む。この日出がけに井上茂氏来り、今夜群長会議ありとのことで早目に帰り、帰途三軒茶屋のラジオ屋に寄る。二三日前から烏山やその他渋谷辺のどこのラジオ屋に行ってもラジオを売らぬ故、いつか話した古い三球を四球に変えたのでもと思ってである。前のものはすぐ売れたとて、別な同じ手のものを買う。五十円払う。ラジオ屋は入荷少いが、新品を売る時は古いのと交換し、その古い方に手入れをして、もとはただのもので四五十円を儲けるという仕方をしているらしい。
夜真暗い道を町会事務所まで出かける。明後十九日に月例訓練をやれとのこと。新しい指導方針等を書いた注意書をもらう。こういう会で何か質問はないかというが、発言するといやがられることを知る。岡本芳雄君留守に来る。
十二月十八日(土)
明日の訓練のこと組内に朝のうち言って歩く。
昨日あたりから正宗白鳥の「根無し草」につづいて岡本芳雄君の「山襞」を読む。面白い。この人の作品格段の進歩で、美事である。岡本君あてハガキ書く。午前中ラジオを据えつける。よく入る模様。礼は大喜び。
午後高橋亜夫君に連絡すべく文学報国会に行く。同会から派遣したという名刺を二百枚作ったのを受けとる。同君、田原忠武君と情報局文芸課に行く。井上司朗課長より陸海軍の報道部あての紹介名刺をもらう。
同課の佐伯郁郎君と久しぶりに逢い、今度隣町内に私が来ているので、待っていたが来ないですね、と笑う。同君からも新京の保安部の人たちへの紹介をもらう。陸海軍報道部はここにあると思ったところ、それぞれ陸海軍省にあるのだという。出直さねばならぬ。帰途田原君と旧アメリカ大使館の近くのレストランで夕食。地下鉄で帰る。その混雑ぶりは、はじめて接する猛烈なもので、子供が泣くやら扉がしまらぬやらで大変であった。留守に伊藤森造君来た由。召集ないから餞別戻すなど言っていたとて貞子笑う。明日の訓練のこと考えたり、旅立ちの支度をしたりして落ちつかぬ。
午後ラジオにて、敵軍がとうとうニューブリテン島の西端に上陸し来ったことを知る。我軍の勇猛な反撃も、交通不便なこの島の端では、あまり実効ないらしく、航空部隊の大活躍にかかわらず、一部の敵はともかくも陸地に辿り着いたらしい。そういうことにならねばよいがと、私たちが前々から念じ、敵が前々から呼号していたニューブリテンへの上陸を、敵は無理矢理に為しとげた。これから後この橋頭堡を敵は拡大して飛行基地たらしめようとするだろうし、我はそれを叩きつぶそうとしての、激戦が島上に展開されるであろう。物量が物を言うということもたしかに怖るべき現実である。ラバウルにいる薫はどういうことになるか。彼の妻や子等はこの報にどんなにか心を痛めていることか。今度の旅の帰途寄ってやらねばならぬ。
この日入浴。
十二月十九日(日)
朝から支度して、私の裏にて現示、うまく行かぬ。しかし曲りなりにもやっていると、そこへ桃野、井上、二氏の外警官も見まわりに来る。有機連絡というのがうまく出来ず、粕谷、恩田等の人々到着せず。その後粕谷家の門の側で行う。こちらで思うように群の人たち動かぬが、女たちのこと故仕方なし。岡本芳雄君正午頃から来ている。二時頃まで作品の話、戦地の話、その後荒木かな女史来る。夕方まで滋を教えてもらう。夜は商大予科生の米倉喜一郎君という人来る。文学をやりたいとのこと。私も以前ほどそういう青年を持てあまさず、工合よく雑談してやれるようになった。この人二三日前にも留守へ来たらしい。仕事はかどらず。早く小説類を読んでしまわねばならぬと思うのだが。
一昨日頃からリュクサックの中に、箱を入れて、こわれ物を保護し、また腰かけられるようにする。その中へ、薬、注射器、インドラミン、煙草、手まわり品、等を詰めている。かなりの重さになる。それにまだ食糧が加わるから、相当の荷物となるだろう。
ブリテン島の戦況、敵側の情報等出る。この辺の戦闘は漸く味方に不利で、考えると胸が苦しくなる。どういうことになるか。国難来るの感いよいよ深い。
競馬禁止となる。この頃まで京王電車でも、競馬新聞を懸命に見ている連中をよく見かけ、当節として一番にやけた有閑風なその姿が眼についていた。競馬禁止もまた遅すぎたぐらいである。
英国には流行感冒が盛になり、患者が国内に満ちているという。前大戦当時のインフルエンザ流行を思い出し、ぞっとなる。営養不良が何よりいけないということだが、我国に入って来ては大変である。これは戦争につきものの病気らしい。
十二月二十日 晴 喉痛し 朝夕インドラミン 含漱
朝から喉が変で、困ったことだと思う。軽いものだが、この頃喉をすぐやられるのは身体が完全でない証拠である。
午前中起きていて張赫宙の「浮き沈み」を読む。朝鮮役中の小西行長のことを書いたもの。日本、朝鮮、支那の文献にわたり、当時のことよく分る。面白いが、小説としてはいい出来でない。午後床に入り、二時間ほど眠る。夜また読みつづける。外に池田小菊氏の「奈良」の読みのこしたものを読む。
夕刻のラジオでギルバート諸島のマキン、タラワ両島の我軍全滅の発表を聞く。かねて、そうとは思っていたことながら、あるいは一部生還出来たかとも思っていたが、軍人三千、軍属千五百全員玉砕とのこと、ああ。国難の相いよいよ、身近く感ぜられて来る。ニューブリテンに敵上陸と、このギルバート玉砕の報と重なり、国内に重苦しい圧迫感がみなぎって来た。この敵を押し返すところまで我方の軍需生産力の高まるのはいつであろうか。それを思うと、じりじりして来てならない。
英一、野田生の父に言われたとて、この頃作った外套の代金三百円を私の方から出してほしいと貞子に言って来たが、とてもそんなに出せないので、貞子に百円持たせてやる。この日貞子朝から出て、箒屋に寄り、どうしても売らないというのにねばって竹箒を買った由。一本五円という。桶屋によって、春に頼んだ盥のことを言ったら、この頃木がちっとも入らないし、台所の方で食物が足りないと少い製品を持ち出しては野菜を買うという風なので、本当に困ると打ちあけて言った由。軍の方からの仕事はかなり入っているが、その外には材料がないのだという。箒屋もまた野菜を持って来てやると匂わしたら、もう一本いいのを作っておくと約束した由。小商工業の生活は行きつまりになっていることが分る。
十二月二十一日 晴
交通公社より、切符手配したとの手紙来る。午後出がけ近藤春雄君宅に寄ると留守、家の前で令嬢に「雪国の太郎」を贈り、チーズ半ポンドを夫人へと贈る。交通公社に到り、私の分のみ下関までの寝台券を買える指図書をもらう。東京駅に持って行くが明日発売とのこと。河出書房にて小川正夫君に逢い、徳永直の「光をかかぐる人々」をもらい、喫茶店にて雑談し、後、神田の帝国教育会出版部に寄り、「雪国の太郎」を二冊買う。八弘書店に蒲池君を訪う。留守。夕刻帰る。
この日も朝夕インドラミン、鼻少々つまり、喉ほぼ直る。気ぜわしくなり落ちつかぬ。二十四日朝十時に乗車と定まる。実この日北海道から戻ると言っていたが来ず、心配す。証明書がないと下関行の急行券を買えないのである。
夜実来る。
十二月二十二日
朝実と東亜交通公社に寄り、それより東京駅同案内所にて切符、寝台券等全部まとまり安心す。二人で九段下辺にて革類など色々買う。錦城出版社に寄り米田女史より「右大臣実朝」をもらい、八弘書店に蒲池君を訪う。同君企業整備中のところ、今朝徴用令状来たとて陰うつにしている。「実朝」を読みながら歩く。
十二月二十三日
明日出発となり、あわただしい。昼頃実のチッキ出すのを手伝い、それから近藤君宅に寄る。第一ホテルにて私を待つとのことにて行ったが時間すぎていて逢えず。そこで昼食、陸軍省報道部にて難波君に秋山中佐を紹介され、関東軍の長谷川中佐への紹介をもらう。渋谷警察に行き旅行証明書をもらおうとすると不要とのこと。夕刻近藤君の宅に寄る。預る原稿は本屋が私の宅へ届けるという。
夜、本年度の小説本の批評十枚書く。色々の物の支度にて一時までかかる。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年一月
[#1段階大きい文字] 旅順にて
旅順に来てから四日目である。小さな(私の目にはそうとしか思えない)美しい湾に面したこの古い町はひっそりと静まりかえっている。町の真中にそびえている白玉山の記念塔から見ると晴れ、曇る海に湾の水色が澄んだり濁ったりするように変る。その水色には何だか引き込まれるような魅力がある。これは単なる古いものの美しさではない。その海に周囲の山肌が注がれた血と魂の凝ったものが今なお漂っていてあらゆるものが、自然でないのである。自然でないものが自然の形をとった時の力と言うようなものらしい。戦蹟視察のバスは雪のために出ない。私はホテルで作ってくれたパンと林檎のお弁当をリュクサックに入れ、ゲートルを巻きスキー手袋にステッキを握って、一昨日も昨日も山を歩きまわった。古い戦史地図を頼りに自分の父の属した歩兵二十八聯隊が二○三高地へ突撃する前に露営していた海鼠山のかげの地隙を探したり、二○三高地の麓から攻撃路を登って見たりした。海鼠山の記念碑の辺では、褐色の野兎が飛び出し私を驚かした。今日は街を見て歩いた。ここが露領時代の市営ホテルであったとか、これが露清銀行であったとか、そういう建物のさびれたがっくりした風貌には滅びた異国の建築の心が感じられた。私はもう暫くここにいたい。じっとホテルに坐っていて見たり、あてもなく歩いて見たりするだけでいい。私はひとり物も言わずにここで暮していると自分は昔この町の山かげの堡塁へ殺到して死んだ多くの兵士たちの心のかりの現われのような気もして来る。私は自分を失いそうになる。雪は次第に消える。今年は特に暖かいと言うが五日前にいた奉天の寒さとは格別の差がある。「内地と同じです」と土地の人はやっぱりなつかしさを込めて言う。内地、ああ内地、ここにいて内地は戦場だと切に思う。ここにも戦時を思わせるきざしが無いのではない。しかし過ぎた日の戦の疵がここでは痛切なのだ。それが人を過去へと呼ぶのだ。ここにいて静かにしていると心は自ら祈る気持になっている。ここで昔祖国の運命が開かれたという大いなる事実に手を合せる心になる。
[#1段階大きい文字] 海鼠山附近
私は二人の中学生を追い越して、爾霊山高地に向う三間幅のなだらかな道を登って行った。一昨日降った雪のために戦蹟めぐりのバスは出ないのであるが、来て見ると、その日だまりの道には、ほとんど雪が残っていない。爾霊山は赤坂山と並んで、旅順港の北西部に立ちはだかり、北風を通さないのである。新市街の西北端から、低い岡のあいだを、一里ほど農家や林檎園に沿って迂廻しながら進む道は、そのために暖く気持がよい。道の左正面には、写真で見覚えのある頂上がやや中窪みの爾霊山の姿が次第に大きくなる。旅順の市街から遠望した時には、小柄ながら山という感じであったが、こうしてその麓まで来て見ると、大柄な丘という程度に感じられる。私よりも先に登った人たちを乗せて来たのであろう。山の麓に小さい満洲馬につないだ馬車が待っている。見ると爾霊山の頂上のあたりを、人が二人歩いている。その人が五六十歩も歩けば、その頂きの端から端まで歩いてしまう、という程度に、麓から眺められる。
旅順市内から登って行く道から見ると、爾霊山は左手に、附近の丘からぐんと抜きん出て立ちふさがっており、その右手には、一段と低目の赤坂山が連なっている。道はその赤坂山の横腹にそって、両方の山の間の峠になった所へ進んで行く。峠に近づくと、真向から寒風が吹きつけた。旅順の暖かさは、奉天や新京に較べて、土地の人の言葉を借りると「まるで内地のよう」であるが、それでも一月上旬の北風は服を透して身体に滲みとおる。その風に身体をおしつけるようにして峠に着いた。そこには、二間四方ほどの石造の小屋が二軒建っている。一軒は写真屋で、一軒は土産物屋らしいが、両方とも扉を閉ざして、人の気配がない。道は小屋の前で左折して、爾霊山の背面、つまり旅順市街側を切り開いて山頂へ登って行っている。右手には赤坂山へ登る、細い道がある。私は二軒の石造小屋の背面から、峠の向うを見た。そこには、地図や戦史で馴染になっている海鼠山がある。海鼠山は爾霊山高地よりもやや低く、赤坂山と浅い谷を隔てて、右手の赤坂山の向うに、長めに続いている。ああ、海鼠山だ、と私はひとりうなずいた。谷を隔てて、赤坂山との距離は一町ぐらいのように見える。私はかねて考えていたとおり、海鼠山の方へ峠を下りて行った。だが爾霊山へ登って行くような広い道は、ここには無く、僅かに三尺幅の道が海鼠山の麓から左手の向うの大頂子山方面に続いているが、それも二三寸の雪に埋もれている。私はその道の右上方の斜面を横切り、浅い谷を越えて、海鼠山の西端部を登って行った。明治三十七年の九月二十日に第一師団がこの海鼠山を占領した。以後ここを根拠として爾霊山の攻撃を行った。そして十一月の末には第一師団は爾霊山と赤坂山の戦いに全滅した。十一月末第七師団が代って、この両山を攻撃し、十二月の五日に爾霊山を完全に占領した。その間、海鼠山は我方の根拠地であった。私はその攻撃路を辿って、海鼠山から爾霊山の正面を登ろうと考えていたのである。斜面には一間ほどの高さの松がまばらに植えてある。その間には棘のある痩せた灌木が這っていて、靴やゲートルに引っかかった。爾霊山の北側のこの辺一帯は、屏風の外のようなもので、風は厳しく、雪が解けていないのである。雪の下は、砕けた岩がごろごろしていて、足もとが悪い。リュクサックを負い、杖をついて、私は登って行った。あたりには全く人の気配がない。松の間を通る風の音ばかりである。爾霊山は、戦蹟視察のバスが通っていて、あすこまでは毎日のように視察者がやって来る。しかし一歩峠を越した海鼠山附近は訪れる人がないのであろう。
突然、私の足もとから、何かが飛び出した。褐色の兎である。一散に山巓へ駆けあがり、岩かげに見えなくなった。この静けさはどうだ、と私は話しかける相手がほしくなった。人気のない山の気配は、私には息苦しく思われた。
山の肩のあたりへ近づくと、雪は薄くなった。その辺には岩片を掘りかえしたような、直径四五尺の凹みがある。明かに砲弾の炸裂した痕である。見ると、その穴は、そこら一面、一間おき、十尺おきに並んでいる。その先には壕がある。二三尺の深さしか無い。地面は岩盤で、そこをどうにか掘り下げ、岩片を前に並べた壕である。この静寂の中の、弾痕と壕とは、四十年を経ているのだ。この山で、黒い服を着た日本軍が、戦い、おめき、突撃し、血を流した時から、四十年の時が経っているのだ。明治三十八年に生れた私は、この正月で四十歳になり、しかも祖国は今、再び国の運命を賭した絶体絶命の決戦の只中にある。遥かな虚空を星がめぐるように、四十年の時の経過の意識が、私を眩暈させた。
この壕を這い、敵弾を浴びた海鼠山の戦闘の様を描いた猪熊敬一郎氏の「鉄血」の文章を、私はなまなましく思い出した。猪熊氏は第一聯隊の小隊長として出征し、後旗手となり、この聯隊の全滅後、ほとんどただ一人の無事であり得た将校であった。氏は戦後病に斃れんとしこの著に自ら序して言っている。
「余命は尚夕陽の如き乎。楽天の詩に曰く『夕陽限りなく好し、然れども黄昏なるを如何せん』と。予は一剣一誠の武人にして、幸にも日露の役に従軍し、旅順奉天の各戦に丹心を試むるを得たり。凱旋の後、不治の病を得、今や二十九歳にして一生を了せんとし、此書を遺す。知らず、予が余命の夕陽の如き乎。将また秋風戦ぐ夕の野の如き乎」
これは私の愛読の書である。私はこの序文が好きだ。日本人と生れ戦い、それを記録して若く死んだ人の、生命の漲りあふれた文である。
この海鼠山の東北端につながって、第一回総攻撃当時の我軍の陣地に近い場所に、一段低くなった小さい山がある。それを第一聯隊の兵士は鉢巻山と名づけていた。その山を明治三十七年の八月二十一日に占領したのだが、そこは海鼠山から、すぐ眼の下に見下される。その山で過した守備生活の惨澹たる有様を、猪熊氏は書いている。
「先ず第一に為さなければならぬ仕事は宿営地である。側射を受くる為頻々死傷者を生ずるので止むなく海鼠山に対し堤防を造るのであったが、悲しい哉海鼠山は我が鉢巻山よりは高く、敵は我を瞰射するの好位置にある為め、此の堤防も余り用をなさない。更に敵の逆襲に備える為には散兵壕も造らねばならず、後方連絡の為には交通壕も造らねばならぬ。数日来の戦によって生じた累々たる死体も埋葬しなければならぬ。しかもこれらの作業は昼間は敵弾の目標となる故、行うことが出来ない。(中略)
夜間のみの仕事とて死体の埋葬は殊に困難であった。山は全く岩石から成っているので、深く掘っていたらば一つの穴にも多大の時間を要する。砲弾に砕かれたものは誰の死体やら全然判らない。仕方がないから死体を打ち重ね、浅い穴を掘って石片にてこれを覆うばかりである。しかも死体のあり次第、其の位置に適宜に埋めるので鉢巻山の半面は皆墓地になってしまった。此の墓地の間にまた穴を掘って我等は幕営生活を営むのであった」
しかもそれが夏のことであるから、どんな幕営生活であったか、著者の詳説をまつまでもなく推定される。更に飲食物については、
「八日の間唯麺麭計りである。水? 水は一滴も飲めぬ。交通壕の完成せぬ為、糧食は辛うじて麺麭を送り来るのみ。水気のない麺麭を食えば平常でも渇くのは当然である。しかも水は一滴も得られない。山麓に僅かに雨水の瀦留している所があるけれども、全く敵前に暴露しているので出れば必ず敵弾が集中する。それ故飯盒一杯の水を得るのは容易ではないのである。一口の生水は実に人間一匹の生命と取換えっこをしなければ得られない。予の口中は全く荒れて物の味いは少しも分らなかった。給養の粗悪斯くの如くであるから、下痢患者と夜盲症は日一日と増加した」
その後は後方から飯を炊いて送ることになったが、夜間ひそかに送るので二日分を一度に炊くため、翌日には腐敗し、かつ死体にたかる蒼蠅がその飯にもたかるのであった。そういう生活を送ること一月の後に、海鼠山の攻撃が決行された。私はその鉢巻山を見たいと思っていたのだ。この書によると、海鼠山の攻撃は九月十九日から始まっているが、その日は占領出来ず、二十日の朝に持ち越した。二十日の朝、我軍は「死傷全体の半ばを過ぎ」るぐらいの損害を受けて、この山を占領した。損害は大きかったが、戦闘は割合に順調に進んだ。猪熊氏は書いている。
「此の戦闘は要塞戦としては平凡な感があるが、此の海鼠山は我が攻囲軍に取っては最も有利なる地位なのである。蓋し、此の山上からは旅順港内を展望し得るので、敵の軍艦を撃沈するには唯一の観測台である」
普通爾霊山の頂上を占領して、初めて我軍が旅順港内を展望し得た、と言われているが、海鼠山頂からも、港内の展望は、かなりよく出来るのだ。この山を得て初めて我軍は旅順港内を見ることが出来たのである。ただ、港の中央部辺が椅子山に隠されている。海鼠山を我軍が占領して後は敵艦は、そのかげに隠れたので、それを撃つためには、爾霊山を占領しなければならなくなった。それにしてもこの山の占領は、我方の利点となった。
私は猪熊氏の文章を思い出しながら、その岩を無理に掘って作った浅い塹壕を越えて、山の頂きの平地に出た。そこも一面の砲弾穴である。私が歩くに従って塹壕は続いている。それは巨大な蛇が這うように、海鼠のような形に長く横たわっているこの山の頂上の周囲をうねうねと取り囲んで続いている。旅順港に面した斜面は、そこから急に椅子山の方に向って落ちて行き、その遥か下方に、満人の小さな小屋があり、山羊の一群をその谷合で飼っているのが見える。私は山頂の東北端に近く立っている記念碑の下を過ぎて歩いて行った。長い頂上の端まで来ると峰続きの鉢巻山が丸く小さく足もとに見下された。あすこから、こういう風に、この山へ攻めて来て、と私は風に向ってその斜面に立っているうちに、胸が苦しくなり眼に涙がにじんで来た。
[#1段階大きい文字] 戦蹟を歩いて
爾霊山高地の戦蹟視察は、旅順市内から登って行って、山頂に達し、そこから外側の日本軍の攻撃路を俯瞰するようになっている。これは、この山ばかりでなく、東鶏冠山北堡塁でも松樹山堡塁でもほぼ同様である。旅順市内に視察者たちは泊るのであるから、こういう順路が視察には便利であり、乗物の都合もまたそれに従っている。
しかし、私には、この視察順路はどうも逆のように思われた。日本軍が、遼東半島の頸部にある南山を攻略してから、半島を西南に下って、その終末部にある大拠点の旅順港を悪戦苦闘の末に陥落したのであるから私たちの視察の路もまた、その順に依らねばならないものと思われる。
だが、総攻撃の当時に日本軍が駐留したあたりは、旅順港外廓の赤土の畑と地隙の連続に過ぎず、乃木将軍の司令部のあった柳樹房ですら、小さな部落で視察の足だまりとするに足らない。だから、旅順に迫って行った時の日本軍から見た旅順要塞の相貌を知るには、大連から旅順に行く汽車の窓によって、そのおよそを推察するのである。
ことに柳樹房から先、竜頭から、汽車が要塞正面の二竜山の下の辺につき当るようにして右折し、松樹山と水師営の間を抜けて旅順市街に入るあたりは、白襷隊の進攻路に沿っているのであるから、胸にせまるものがある。
この進路から見ると、旅順の正面の諸要塞、つまり松樹山、二竜山、盤竜山、東鶏冠山等の山々は、極くなだらかな、裾を遠くまで引いた丘としか見えない。また竜頭のあたりには、これ等の要塞のある丘と極く似通った丘が連続している。それで旅順正面の諸要塞がなだらかな丘に過ぎないということを知っていた私などは、これ等の丘が眼に入った時に、それを要塞の山々と思いあやまって胸を踊らせたものであった。
けれども汽車がもう一度その丘をうねってまわると、再び似たような丘が前方に連らなって現われる。それ等の丘には、頂きの辺に、それぞれ、将棋の駒のような記念碑が建っているので、ああこれが旅順の本要塞であった、と気がつくのである。
また、その少し前頃から晴れた日だと、右手に二里ほど離れて、頂上が双児形になった爾霊山高地が遠望される。第三軍司令部のあった柳樹房から、正面要塞の斜面を登って見たいというかねての願いを、私は実現する暇がなかった。厳冬の雪路で病後の私の身では、無理であった。
しかし、私は爾霊山高地では自分に出来る範囲で、日本軍の進攻路に沿って歩いて見た。雪のためバスの出ない日に私は旅順市街の宿を出て、二里ほど歩き、爾霊山と赤坂山の間の鞍部を越して、その外廓の海鼠山にのぼり、更にそれを下りて、その外廓の大頂子山の麓のしんかんとして人気のない松林の間に爾霊山攻撃部隊の宿営地のあとを捜した。詳しい戦史の地図によると、その頃の各部隊の露営地を、ここ、かしこと推定することが出来た。そこから私は戻って、海鼠山の麓の低い丘を越え当時の進撃路の塹壕に沿って爾霊山の麓に達し、爾霊山の斜面を登って見た。
それだけの簡単な行為が、ある言いがたいものを私に覚らせた。その道を通ってこの山を攻撃した人たちの息づまる気魄が、その道のほとりに、鬼気のように漂っているのが感じられ、私は圧倒された。祖国を守るとて、この道を通り、一足毎に生命をかけ、血を流して私たちの父祖は戦ったという感動を、私は肉体の上に消しがたく受けた。
一月二十八日
満洲と広島の旅から戻ったのは、一月二十五日の昼頃である。家に戻ると、二三日前から、新潮社の楢崎氏から手紙が来て、頼みたきことがあるから旅から戻ったらすぐ顔を出してほしいとのこと、その外に同社の長沼氏も訪ねて来ていた由。用件は言わないが、急いでいる模様とて、貞子が萩の永松定君と広島の小松家とに電報をうたせた、と言っている所であった。そのうち菊は帰って来て、小松家への方は局が分らなくてうてなかった、ということであった。午後から行って見ようと言って炬燵へ入りながら、一体何の用かと考えたが分らない。その時ふと、ひょっとしたら新潮社へ勤めないかということではないだろうか、と考えた。原稿依頼の時とあまり様子がちがうからである。しかし、まさか、新潮社へ勤めよなどということではないような気もする。ちょっと考えられぬことだからである。午後出ようかと思っている所へ田居尚君、自転車でやって来る。午後ずっと旅行の話やら、友人の噂などをして夕食を一緒にし、夜になってから、彼自転車をおき、私の外套を着て帰る。
翌二十六日朝、貞子がこの頃買いおきの人参一貫目を持って、とりあえず楢崎家へ行く。十一時頃となる。ちょうど社から戻ったとて楢崎氏がいて、実は今行われている出版界の企業統整で、新潮社は三四の書店の権利を買収し、株式会社として歩み直すのに当って、内部組織も変えてこの月のうち当局へ届け出ねばならず、そのため私を企画の方の担当者として入ってほしいと言う話とのこと。年末頃から誰か適当な人で毎日という程でなくても時々出社して多少実務にも手を貸すような人はないかという話があり、楢崎氏は問われるままに私の名をあげておいたところ、中村氏も賛成して、いつとはなしに、社内中で私をあてにしていたとのこと。しかし本当を言うと、と楢崎氏がうちあけるような調子で、社内には外部から新しく人の入るのに賛成しない人もあるのだが、と少々内情を聞かしてくれる。そういう話を聞くと、ただ対外的に私など新しい顔ぶれを並べるだけの意味とも取れ、それに出版がこれまでと違って本の一冊ずつが特配をとれるようでないとやり難くなっているなど聞き、これは容易な仕事ではないと怖気づく。しかし、かねて何か職業についていることを必要と思っていた際で板谷君には旅の前にも依頼し、奉天から履歴書まで送っておいたりしたのだから、新潮社ならば勤め先としてそう変でもない、などと思い直し、大体その気になる。給料は元来安い所で、多分百五十円からあまり上へは出ないだろう、との楢崎氏の話。楢崎家で餅を馳走になり、一緒に社へ行って佐藤俊夫さんという〔社主の〕二男の人に逢う。話は楢崎氏のと同じようなことで、明日午後二時、中村氏も来る故、また詳しく話をし、確答するということにして、辞す。一旦家に帰ったが、板谷君からも留守の間に「何とか希望に添うようにしたい」とハガキが来ているので、鶴見の板谷君を訪ねる。特別に配給になった酒を五合携える。彼もちょうど家にいて、私が新潮社のことを言うと、実はこちらも話が大分進んでいる所だ、と言う。板谷君のいる三井系の配合飼料会社では保谷の工場に経理の方の上席者がいなくって、ちょうどほしい所なので、それとなく私のことを持ち出し、重役が大分乗気になっている所だ、もう一息という所で、今日はちょうど重役が私の履歴書をもらってくれと言い出したところだという。私も考がつかず、しばらくだまっていたが、どうも新潮社の方は先へ行って企画で行きつまりに面して、特配がとれなかったりすると身を引かねばならぬことになりそうだと思われ、板谷君の方には自分からも頼んであったこと故、こちらの方がよいように思われてならない。板谷君も、いっそ出版などと全く縁のない仕事にしばらく従って見ては、と言うし、その気になり、新潮社を断ることに心をきめて帰る。夜十一時となる。しかし来月から毎日保谷へ通うとすると、朝八時ということで相当に早いし、自分の時間がなくなったりして、これがまた問題だ、と考え込む。だがこの非常時の生活を切り抜け、私の身にどういう変化(徴用、召集など)があっても、家族の生活に目安がつくということから、この仕事につこうと腹をきめ、貞子にも帰ってそう話す。
翌二十七日、午後に行くことだったが、断ること故午前から楢崎家に行き、実は旅行前から何か仕事をと頼んでおいた方(そのこと昨日も一応楢崎氏に言ってはあった)が急に話がはかどり、義理もある故、そちらへ行くことにして新潮社は断りたい、と言うと、それは困った、とのことで電話で話し合って、私の言ったとおりを説明していた。とにかく社へ来てくれとのことで社へ行き、新潮編輯室で大分待ったが、重役たちが相談中とのことでなかなか終りにならぬ。社で席をとってあるとて飯田橋の大松閣に行き、うどんや菜っ葉と蛤との不味な昼食をして戻る。私がその間に自分の気持を楢崎氏にうちあけて、企画などいうことは今の出版情勢では行きつまるにきまっているし、とてもやって行ったりその責任を負ったりすることは出来そうもない、と言うと、楢崎氏は、それは思い過しで、そんなに君に責任を持たせることはなく、ただ多少の新しい風が入ればよいのだ、それに新潮社は割に長くいる人が多いのを見ても分るように冷酷なところではないから、君としても今半年か一年でもいる気持になった方がよいのではないか、とすすめられる。道で川崎昇君に逢い、相談したいのだが楢崎氏の前なので別れる。そのうち、私の気持はまた次第に新潮社の方へと傾いて来る。出勤時間も自由だということなど、保谷の八時出勤に較べ身体にもよいことが考え合される。徴用の問題は気になるが、文学報国会の方の常任幹事などいうことから、まあ大丈夫だろうと考えたりする。
社へ戻ると俊夫氏が来て、そういうお話なら、私の方へは週に一度か二度半日ぐらいでもよいから来ることにして相談に乗ってほしい、と言う。届出の日が差しせまっているし、外の人も急には思いつかないらしく、大分困っている風である。私は、それでは、私として両方へ席をおくことはとても出来ないから、それではこちらへ勤めさせてもらうことにして向うは断る、と腹をきめて言う。出勤は週に四日ほどにしてもらいたい、と言うと、俊夫氏は、それで結構で、時間も午後なら午後だけでよいと言う。それから私は企画の困難な今、その方の責任を負って行けそうもないことも考えてこちらを一応断ったと言うと、その点は心配なく、のん気に、やって来てくれ、と言うことで、私もほっとする。社長室に行き、長男の義夫氏に逢う。義夫氏は俊夫氏と相談して、それでは給料は二百円では如何というので、私は結構です、と言い、早速情報局へ提出するので簡単な履歴書を書いてくれとのこと。また新潮の室へ戻り、それを書いて出し、その時、今度出版部長として新任する筈の四男の哲夫氏に紹介される。三十四五の人。私は企画部長ということになるらしい。
そのあと、風邪をひいて工合悪いらしい楢崎氏と話しながら、出社するという中村氏を待っていたが来ないので、私は四時少し前に辞し、改めて板谷君の所へ断りに出かける。板谷君の顔を見るのが、気の毒で辛いが、強いて行く。彼は実験室にいて、早速その話を私が切り出すと、それは少々困った、実は今日また話が進んで履歴書をいよいよ出そうかと思ったが、まあもう一日と思ってまだ出さずにおいたが、それでは、新潮社へ行きますか、僕は大分こちらの方の話を進めていたので残念だが、しかし一面君のためにはその方がよいかも知れないなど機嫌よく話す。彼の家へ行き、昨日持って来た酒を彼が酒精を用いて倍量にしたのを二人で飲み、私も酔う。何だかこの話が昨日からなのにもう一週間もかかっているように思われ、これで一応片がついたと思うせいか酔う。こんな事件のあとで二人ともかえって急に親密になったような気がする。
今日(二十八日)は、ほっとした気持で、広島や永松の所へハガキで挨拶を書き、留守中の郵便を整理し、日記を書く。
この丁度一月の旅行の間に東京は更にけわしくなっているようだ。省線のガードの秋葉原あたりの迷彩も施されたし、夜二晩続けて歩いても、十二月までのような探照燈の操作は見られない。警戒がきびしくなった風だ。新聞の中は議会の記事が主だが、敵のラバウル方面とマーシャル方面への空襲の激化は一層危機の切迫の感がある。広島にいる弟の薫は、関節リウマチスにて台中の病院まで来ていて、帰還するかと思っていたのに、快癒してまた前線へ戻ると広島で聞いて来たが、どうなることか。これからのラバウルへ戻るというのは死地に入って行くようなものだ。社会面では疎開のことがしきりに論じられ、議会では労務調整と徴用の適正配置が論じられている。
ドイツ軍はこの一月のあいだに目立って撤退し、中部辺においては、すでに旧ポーランド国境を越して深く湾入した戦線となった。この二三日、北方レニングラード西方でソ軍が攻勢を続け、独軍は、昨日は一つ、今日は二つという風にその附近の都市からの撤収を発表している。東部戦線がこうしてドイツ軍に不利なばかりでなく、英米はしきりに今春欧洲西海岸へ上陸すると呼号している。現に数日前の新聞を見ると、チャーチルは公然と「今年の三月十五日以前に欧洲は史上未曾有の戦乱の巷となるであろう」と公言している。イタリア戦線では英米は昨年末以来あまり進まず、漸く最近になってローマの南方に新しく上陸したのであるが、|これ《ママ》ローマの防衛は難かしくなるだろうと思われる。戦争は枢軸に不利である。しかし欧洲戦は五年目に入って、ドイツはこの前の大戦に較べなお頑強にやっている。対独空爆は、この頃もなおベルリン、フランクフルト等と続いて大がかりに行われているが、ドイツもまた対ロンドン爆撃を続行している模様。但しドイツの対ロンドン爆撃は、かねてドイツ側が呼号していたベルリン空爆の報復と言われるほど大組織のものかどうかは疑わしい。今東部戦線には急に大変化は起らぬであろうが、英米の欧洲上陸による第二戦線にドイツがどこまで耐えるかによって、今年の欧洲戦の山は決定されることと思う。そして、それがまた大東亜戦に直接に響くところが大きいと思われる。
一月二十九日(土)
朝からセファランチン等へ行こうと思い、傍ら就職の件を知らせに田居家へ行く。田居君の置いて行った自転車に乗り、かねて口約束してあったタイヤ、チューブと交換のつもりで、写真の引きのばし機を積んで三鷹へ行く。二十分ほどにて到着。まあまあということで上げられ、昼食に林檎や藷など馳走され、彼の着て行った外套を着て、田居家に別れを告げた時はすでに三時すぎで、家へ帰るのも中途半端になった。結局銀座に出、大同通信に川崎君を訪う。ちょうど彼がいて、今度の就職の話をする。五時頃一緒に帰ろうとすると、虎の門で地下鉄全線不通とのこと、省線新橋に戻り、ひどい混雑の中をやっと乗り、山手まわりにて新宿に出る。いよいよの場合はこんな風であろうなどと話しながら、新宿に下り、「暫」に寄る。こんな所で酒をのむのは昨年の秋、瀬沼君とここへ来た以来である。この日十二三円しか持っていず、暫にて銚子一本ずつ出て、料理あり。心配して川崎に十円渡したが、どうやら一人前九円ほどらしい。それから川崎が、昔十二三年前「ユリシイズ」の出版記念会の日に寄った紅蝙蝠と言った武蔵野館の地下室に、当時いた女給が二人ほどまだいるから寄ろうと言って、そこへ寄る。嘘のような気持でついて行くと、なるほど見覚えのある女がいる。四十近いものごしだ。今昔の感にたえず。三姉妹と言い、ここと言い、案外こういう所の顔ぶれ変らぬのに驚く。今は内部の様子が変り、人影少く、倉庫のようながらんとした感じのところに、寒々と客が坐り、大根の漬けものを肴にして銚子四本ほど出し、十六円というのに、川崎が二十円おいた様子である。
こういう所十二三年前には、歓楽の巷という風で、女たちは飾り乱れ、酒と肴に奇を競い、考えうる限りのことが行われていた。今は僅かにあやしげな薄い酒を出し、女給の知り合いの客のみ入れて辛うじて業をつづける有様となった。川崎はある宵よそで酒にありつけずふとここに立ち寄ったが断られ、戻ろうとすると、その歩く後姿に見覚えがあると女給が言い、改めて呼びとめられ、酒を出されたので、その後また一度来たのだという。今は「紅蝙蝠」とは言わず、何とかいう時局がらふさわしい名に変っている。この場所に遊び、女とたわむれ、モダニズムを語り、文学を志すと称していた無数の青年たち、それから友人の奥村君、近藤君、衣巻君、吉行君等々のことが思い出される。それ等の人々の若い日の幽鬼が、おぼろにここに出入りするのが眼に見えるようだ。しかしこの春にでも大空襲があれば、ここなど跡かたもなくなるだろうと思うと、しみじみとあたりを見まわす気持がまた新である。
一月三十日(日)雨
外出して、佐伯郁郎君など訪ねたいと思っていたが雨にてやめ、午後モーニングを着て出かけ、桃野組長宅へ留守中世話になった挨拶に寄る。留守にて井上茂氏宅へ行くと、桃野氏もいる。近く私たちの四組は二つに別れる様子にて、そうなると、私に組長がおしつけられるらしいとの桃野氏の話。私は、群長だけで勘弁して頂きたいと言い、四時別れを告げ、目黒雅叙園に田原忠武君の結婚式に出る。千葉県木下在の農家の娘をもらったのである。田舎から赤飯や酒など豊富に持って来て、なかなか食事の内容豊富であった。母君を喪ってから長いこと父君と自炊にて不自由をしていた田原君もこれで安心であろう。
一月三十一日 晴
満洲で厄介になった人々へ礼状をハガキにて書いて出す。
新潮社入社の件で中村武羅夫氏に挨拶に行こうと思い出かける。まず信濃町に近藤春雄君を訪い、渡満につき世話になった礼を言い、土産に奉天で買ったよい紙のノートを五冊贈る。喜ばれる。彼は来月北支へ旅行するという。宇野千代の「日露戦聞き書き」を借りる。文学報国会に寄り、高橋君に逢う。「文学報国」の論説委員と、大陸文化振興の委員とを引き受けてくれとの、かねての話に念を押さる。前者の委員会が来る三日の午後五時から晩翠軒にありとのこと。昼になり、その近くで三四軒食堂を捜したが、どこも売り切れや休業にて食事できず、そのまま新橋駅に出、中村氏宅の辻堂への切符を買おうとすると、この頃は予定の枚数を売ると汽車の乗車券は売らぬとのことで売切れで乗れず。大船辺まで横須賀行の電車で行き、その先でまた汽車にしようと思い、電車にて保土谷に下車して見たが、やっぱり汽車には乗れず、売切れとのこと。仕方なく電車で戻り、午後四時家に着く。空腹なり。ちょうど塩谷の母から鰊の燻製を四五十送って来てあったので、それを食う。夜入浴して、日記を三日分書く。滋の入学校を決めねばならず。都立は今年から綜合的な試験をするとのことで、都立ならたいてい入れそうだが、すぐ四年後に控えている上の学校の入学難を考え、かねて貞子がそこの清水教授などと逢っている成蹊高校の尋常科にしようか、都立にしようかと思いまどう。大体しかし成蹊を思い切って受けさせて見ようと言い合っている。
夜北風強し。この頃例の冬の北風よく吹き砂埃ひどし。井戸は凍って水道の蛇口がこわれ、水をその度にバケツに汲んで使っている。冬のさ中であるが、私には満洲旅行のあとのせいか、さほどこたえぬ。貞子も元気である。菊は兄が十日に入営で帰そうかという話があったが、本人は帰るよりもむしろ、ここから工場かどこかへ働きに出たい風なので、貞子は東京高校に給仕の口ありと重見家で聞いて来たので、そこへ出そうか、と言っている。そうすれば、朝晩だけでも貞子が助かるわけである。
家の年賦金の支払いを、四年間というのを、十年ぐらいに延ばしてもらうよう京王へ頼みに行こうと思っている。差しあたって二月中に千二百円ほど作らねばならぬが、これは心当りなく弱っている。
明日は何とかして切符を早目に買い、辻堂に行き、中村氏を訪ね、同時に小林北一郎氏を見舞おうと思う。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年二月
二月一日 昨夜より北風強く、黄塵飛び、酷寒なり。
朝マーシャル方面へ、敵艦隊来襲との大本営発表あり。またこの辺の島に敵が大挙上陸戦を行うのではないか、と感じられる。またラバウル方面の空襲も敵は盛にやっている。亜成層圏飛行(七八千米より一万米まで)の新飛行機を敵は始めてこの方面で使ったという。その高高度で敵と戦える我飛行機があるかどうか、と気になる。
朝起きるとすぐ身支度をして、新宿駅に行き、二三十分並んだ末に、やっと辻堂往復の切符を買い、品川にて乗車。昨日にこりて握り飯を持って出たのだが、品川駅で丁度よく駅弁当を買い、それを食う。寒い風にて懐炉を入れて来てよかったと思う。辻堂にて中村邸を一時間半もかかって、やっと捜し出すと、今朝東京に出かけたということ、土産の燻製を女中に渡し、兵金山の小林家に行く。妻君も胸を悪くしたとのことで、すっかり衰えている。顔が小さくなり、絶えず咳をしている。前に来た時から咳をしていて気になっていたが、いよいよそうなのか、と子供の顔の蒼いのまでが気になってならぬ。主人は寝たきりなのに、気の毒なこと。全く途方に暮れているらしい。困ったことだ。杉沢に逢い、相談して、年よりの女中でも捜してやると話し、土産に昨日買った「新しい中世の美」という本を置く。「不同調」の創刊号を土産にもらう。ここは、野菜も生魚も自由販売のため、かえって全く物が手に入らず、僅かに以前買っておいた馬鈴薯と葱とにて毎日をしのいでいるという。(東京の配給は不備だ不足だというが、それにしても少しでも配給のあるのは有難いとしなければなるまい。)いよいよ金も無くなったから、この家と土地とを売って、それで暮さねばならぬが、さてどこへ行くというあてが無い、と言う。そんな話を聞くと、こちらが苦しくなるので、かえって快活に笑顔でいる外ない。これから中村家へ行くのだと言って二三十分で辞したが、どうしたらいいのか、ということを考え、すっかり私も滅入ってしまった。
小林家ばかりでなく、この頃、主人が病気でいる家は真実困っている。前に東京高校の教授をしていた重見氏も三年ほど前から胸を悪くして学校は遂にやめたが、この頃疎開のことがやかましく言われて来てから、今のうちでないと東京を引き上げることが出来なくなりはしないか、ということから郷里の岡山県に移ることにしたとて準備中だという。細君は、五年と三年になった男の子の学校のことを考え、居残りたいというので、意見が一致せず困ったことだと言っている。
半月一月のあいだに人の生活身の上がどう変るか見当のつかない激変の時代になってしまった。蒲池歓一君は第一書房の伊藤君の世話で店の権利を(年四千ポンドの紙の割あてとかいう)を五万円で売ったが、その手続のすんだ日に徴用の令状が来て、立川の中島飛行機会社とかに入っている、と一昨夜福田君が言っていた。出版社の首脳者は徴用されぬように、という建言をした一人であったらしいが、出版をやめた途端に徴用になったわけである。それにしても四年前に彼が伯父さんから二万円とかを出してもらって始めた出版業だが、なかなかよい値に売れたものだ、と福田君が言っていた。
駅で読書新聞を買うと、その報告欄に、淡海堂に昨夏渡しておいた少女小説の「三人の少女」が三月初めに本になる旨が出ている。その印税が多少入るであろうことが考えられる。それにいま全国書房からの「戦争の文学」の校正を急がせられているから、それの印税の残りと、また実業日本からの「爾霊山」の印税の残り等合せて、或は家の支払いの分が出来るのではないか、と考え、多少見当がついて来た。新潮社に勤めることは、文学者としての私の立場を、決してよくはしない。食えなくなっても、徴用されても、最後まで文学者として居るということが本当だ。しかし今の私としては、この戦乱の中で、国の要求する文学と自分の書くものとを合致させて、文学者として生き抜くことは私には出来ない。私は文学を小さく自分の中に圧縮して暫く生きようと思う。そして「爾霊山」以後は、こつこつと、奉天戦に取材した長篇小説を書いて行きたい。時間の点から言っても、出版の便を得る点から言っても、その仕事にとっては、新潮社に席をおくことは、悪いこととは思われない。
夕刊の外電によると、敵は「これまで太平洋上で組織されたことのない大艦隊によってマーシャル群島を攻撃中」だとある。よほど大仕掛けの攻撃を加えているらしい。またしても、この群島で敵に名をなさしめ、我は一歩を退かねばならなくなりはしないか。すぐにそういう予想が私たちの胸に起きるようになった。ソロモン諸島戦、アリューシャン戦、ギルバート群島戦から悪い聯想が湧くのを抑えることが出来ない。敵はまた「目下米国は二十三隻の戦艦を有し、その中十隻は最新鋭艦である」とも呼号している。敵の海軍の勢力は、三月、半年と著大なものになって行きつつあるらしい。生産の量、物質の量が、戦争を決定して行くとは考えたくない。しかし、我がその敵の物量に押されて、じりじりと退き、血を流し、船を失っている事実は動かすことが出来ぬ。
二月二日
昨日の貴族院予算総会で、島田海相は「戦闘は激烈に継続中」であると発表し、マーシャル群島はどうなっているかという国民の焦慮に僅かに答えた。敵がその後退かず戦を継続中というのは、よい知らせではない。敵がどこかに取りついたという事にちがいない。マーシャル群島は委任統治領とは言え、我領土にちがいない。戦前からの日本領土に敵がとりついたのは、これが初めてである。まだ日本艦隊は出撃しないのか。出撃する機でないのか。敵側も、日本艦隊が健在の間は油断ならぬ、艦船の消耗をあまり大きくしてはならぬ、と論じている。
国民学校の父兄会があるとのことで出かける。二時からというのを午前中に出、その前に翼賛会文化部に福田清人君を訪ね、部長の高橋健二氏から成蹊学園のことを聞いてくれとの貞子の話なので、寄ったが、二人とも留守。大東亜会館に会があって行ったとのこと故、そこへ行ったが、そこで開かれている翼賛壮年団の会場に二人は見えず。そこを出、帝劇の裏手の食堂で三十銭の雑炊を食う。この日はこの前に有楽町駅前でパンランチという、三角形のパンの薄片にカレーうどんをかけたの(五十銭)を二皿食い、外にその近くで六十銭のパンランチを一つ食ったので、四人分食べたことになるが、それでどうにか満腹である。大劇場の食堂は一月で廃止となったので、帝劇の食堂は大衆の雑炊食堂に転換したもののようだ。初めたばかりのせいか、客少く、これは量も豊富である。あちこちと食べあさって見ると、まだ帝都には昼食のものはあるという感じだが、それも十二時前でないといけないし、二円ぐらい食べないと満腹出来ぬということが分る。家では、とっておいた馬鈴薯も次第に無くなり、どうしても一食分は足りないのだから、私はなるべく外で食うようにせねばならぬ。広島県下の親戚を歩いていた一週間のあいだは、満腹という以上に色々なものを食わされ、満洲旅行の疲労も、その食事と休養で大分恢復していた。そのせいか、ここへ、戻ってからも痩せたとは言われず、また毎日出歩いていて疲労もしない。しかしそろそろ休養せねばなるまい。大きい外套の襟の毛はとったが裏毛はつけたまま、外出時には懐炉を入れて歩いているが、この一二日乾いた寒風がひどく、東京は冬のさ中である。
東神田の淡海堂に寄り「三人の少女」の進行を聞こうとしたが、野長瀬君等留守。学校に行き、受験について、学校長や受持の渥美訓導の話があり、詳しく長い話で五時頃になる。帰途、西町の靴屋に寄り、菊のほしがっている靴の件をたのむ。留守だが細君の話で、この頃靴修理は券で割り宛てとなり、古い得意とは離れてしまった、と言う。菊の靴、何とかなるらしい口調。しかし新品だとすると六七十円はするのではないかと思う。満洲でもいい靴はそれぐらいの値であるから、闇値と言ってもまだ内地は物価が安いと言わねばならぬ。その足で杉沢へ寄る。留守。細君に、小林家のことを話し、四日の午後また来て相談したいから、と言いおいて帰る。
二月三日
午後外出、翼賛会に福田君を訪ね、高橋氏に紹介してもらう。よく説明してくれ、それぐらいの成績であれば、見込ありとの話。受験番号などきまったら知らせてくれと言う。辞して、日劇地下室でラバウルを映したニュース映画を見る。これは昨秋見たキスカの映画に較べられる感動的な写真であった。中位の山に囲まれた美しい細長いラバウルの港が全部映し出される。旅順港の三四倍はあろうか。建物はあまり見えず、木蔭にバンガロウがあり、兵士たちの自給の野菜畑や、大きな茄子などが写される。上空を三台の哨戒機が飛びまわっている。やがて通信隊の活動の場面が出、「敵機四十、××より東北方に向う。高度八千」という報告が大声に伝えられる。港内で軍艦一、汽船三隻ほどが白い航蹟を残して電光形に走り、回避運動を初める。それから、空の雲の断れ動く間に味方の戦闘機が三機ずつ編隊で出陣して行く。やがて、点を並べたように敵機が雲の間から現われて来、空爆を始める。湾の向う岸のつけ根の辺に、高い白い布のような水柱が立ち上って、その尖が三つに咲いたように分れる。そのあたりが敵の狙う場所らしく、その向うの山の下の陸地に爆煙が十も二十も並んで、もくもくと吹き上る。その辺に飛行場か工場でもあるのか。湾内には、先刻の軍艦と汽船が見えず、これは外海へ出たものと見える。坐礁したらしい汽船が一隻岸近くにじっとしている。草花の咲いている野原の中に陣を敷いた高射砲が、兵を四五人そのまわりに乗せたまま、ぐるぐると回転し、砲身を上げて敵機を狙っている。「六十度」とか「五十度」と言っている声が聞え、砲身が引込む拍子にぱっと発射する。その向うにある二連装の高射砲も続いて発射する。空が映され、ちぎれ雲のように高射砲弾の並ぶ空を、薄ぼんやりとした姿の敵機が二三十機並んで、飛んで来る。砲弾はなかなかあたらないのか、落ちもせず、飛び去ろうとする。飛び去って行く。当らないのか、と手を握るような気持で見ている。そのうち、今まで何もいなかったと思われる薄曇りの空から、黒い飛行機が一つ、模型飛行機が落ちるように、ひらひらと傾いたり旋回したりしながら一台落ちて来る。カメラがそれを追う。もう意志のないただの物になったという風に、落葉のようにまわりながら、その敵機はずっと落ちる。雲を幾段も横ぎり、やがて水平線を越え、山を背景にして、まだまだ落ちて行く。どこまでも落ちて、まだ下に届かない。そのうち、やっと海面に達したのか、ぱっと水煙が立ち、水中に没してしまう。見ている客が、「はあっ」と一度に言う。またもっと大きな敵機、多分四発の爆撃機が山の上で落され、これは高度が低いと見えて、ぐるぐるまわりながら、黒い林に蔽われた山の斜面に、どしんと音を立てるようにぶつかって、そこから白い煙を上げるのが写される。こんな風に写真を見せたりするのは果してよいかとも思うが、しかし感動する。これがラバウルである。弟の薫も汽船に乗って、敵機や敵潜航艇に襲われながらあの港に入って上陸し、その少し南方のポココとかいう所に駐在していたらしい。台湾で病癒えてまた戻ったというが、あの港の、ああいう敵襲の中に身をおいている弟のことが、切なく、きりきりと思われた。
そこを出てから、虎の門の晩翠軒に行く。「文学報国」の編輯委員と論説委員との初会合である。中村武羅夫氏に逢う。辻堂の家を訪ねたが逢えなかったことを言い、よろしくと挨拶する。食物は、飯は全く出ないが、質量ともになかなかよろしい。寒いので皆外套を着ている。この頃の宴席の風俗である。
村野四郎、藤田徳太郎、塩田良平、高田保、石川達三、戸川貞雄、福田清人、等の知人の顔あり。遅れて情報局の井上課長、佐伯郁郎氏等来る。二人に渡満についての世話になった礼を言う。食後、編輯についての座談会あり。
福田、佐伯君等と帝都線にて帰る。村野君、薬の話をする。理研重役の同君は、ビタスが無ければ買ってくれるとのこと。論説委員としては一年間「文学報国」の論説を交代して書いて行くのが仕事だという。
二月四日 細雨 暖くなる
そろそろ新潮社へ顔を出さねばなるまい、と考える。
京王電車への支払いが重荷なので、四年賦払いを、八年とか十年に直してもらうよう話に行こうとして、この頃ずっと考えていたが、そういう話に出かけるのが気重くて行けずにいた。しかし今度登記したり、担保登記したりする手続をいま開発課の馬場氏の手でしているので、その前に是非、と思い、この日午前中に同課へ寄る。
北村課長は留守、馬場氏に、自分の収入の減少した訳を話し、相談すると、どうもこの土地建物を年賦にしたのは今になって見ると随分ゆるやかな条件であったという意見が出ているから、それを更に延ばすのは難かしくはないか、と首をかしげる。明日また来ることにして辞す。この件、私の生活の経済的な癌となりそうに思う。私の家ぐらいの位置で、畑が半段もあるというのは、今疎開の騒ぎの中で誰でも欲しがる絶好の場所であるから、うっかりすると強制執行をされはしないかという気がかりがある。しかし万一の場合は、警視庁の生活相談所あたりへ頼めば、年賦延期など簡単に解決できることと思い、腹はきめているものの、何とかしておだやかにこの件を片づけておきたいと思う。
十二時近くなり、食事をしようと思い、神田の学生街が豊富なのを思い出して行ったが、並んでいる途中までで売切れで食えず、電車で帝劇裏食堂へ雑炊を食いに行く。十二時半頃なのに、ここも売切れ。仕方なく有楽町駅前の薄いパン切れのパンランチというのを食う。並び直して二人分食べて、飯一膳分ぐらいしか無い。
午後三時頃杉沢家に寄る。私が来たら待っていてくれと言ったとのこと、子供たちの相手をしていると、杉沢帰って来る。ウイスキイが出て、お汁粉の夕食を馳走されながら、小林家の話など。明日行こうと思って、彼は飴や、バターや、カルピスや、腸詰めなど大分集めたとて見せる。彼の所には、これは不足というものが無いらしい。十二月に彼が行った時小林氏が黒砂糖を食って死にたい、と言ったとて、彼は黒砂糖を東京中捜したが無い。それで知り合いの大本営の松永大佐に話をしたところ、鹿児島から取り寄せてくれると言ったこと等。また彼の家の飯に小豆の粉砕したのが入っている話から、その出所を語る。大分前に彼が一度だけ逢ったことのあるある食料品屋が、杉沢が横山村の母屋の建設工事をしている所へひょっとやって来た。細君に地図を書いてもらって来たのだという。そして、自分は本当に困却していて、誰に助けてもらおうかと考えに考えた結果あなたの所へ来たのだから、何とかしてくれと言う。どうしたのかというと、その男は、以前にも何百俵かの雑穀の闇取引をして罰金を二千円とられたことがある。ところが、その当時から品川のある倉庫に小豆粉を二千俵匿しておいた。ところが倉庫番が弁当の箱にその粉を入れて持ち帰ったのを偶然警官に調べられて、その品物のことが露顕した。今になってはその品物を品川の海へ持って行って棄てたいのであるが、そんな大量のものを動かせば、かえって事が荒立つ。そして、いずれ検挙されて裁判になると、罰金を一万六千円か取られた上に半年は入牢しなければなるまい。この急場になって、誰に相談しようもなく困った揚句杉沢を思い出してやって来たのだ、と言ったという。杉沢にその小豆粉をやるから、何とかしてこの場を救ってもらいたいと言う。それで杉沢は、大本営の東京防衛司令部の例の松永大佐に話をしてそれを寄贈して受け取ってもらった。一方警視庁の官房主事の某氏を知っているので、それから品川署に話してもらって検挙は見合せさせたという。そして全部を寄贈してから、杉沢は松永大佐に願って自分の飯米用として一俵を分けてもらい、食べているのだ、と笑って話をした。いかにもこの時局下の、この特色ある人物杉沢仁太郎の面目躍如たるものがある。更に彼は、近くバターが市販禁止になる。今ではバターは闇値では最高一ポンド五十円もする。また売り出しの日に未明から店に並んで買う時はその席次料が普通十円だという。公定は三円四十銭かであるが、それが近いうち四割更に課税されて、五円に近いものになるというので、彼は、三十箱買うという。一箱には五十ポンド入っているから、五千円ぐらいになろう。そのうち三箱ほど私に分けてよこすから、それと引換に食糧品を手に入れることを考えろ、と言う。また地球ウイスキイとかいうのを十本ほど分けてよこすから、それも農家で薯とでも交換せよ、と言う。ありがたいことだが、その金額が相当になるので、また大変だとも思う。
彼はまた小林家では、細君の方が先に死ぬかも知れないし、長男の十四になるのも寝込んでいる。健康なのは九つの次男のみだが、あれを君の所で引き取って育てないか、と言う。ひょっとして近いうち小林氏でも死ねば、そうしてやらねばならないと思い、私も賛成する。明日一緒にとにかく行って、万事うちあけた話を聞こうということになる。細雨の中を帰る。彼がちょうど持って来たバター半ポンドのを四つ分けてもらい、持ち帰る。京王への支払のこと、余程彼に相談しようと思ったが、自分の手でやれる所までやってからでもよい、と考え直して黙っている。
彼の所、八王子在の横山に六畳と八畳の小屋が出来たが、八月までに母屋を建てる予定で、材料は全部集めたという。そして夏に越したら女学校三年の悦子さんを預ってくれとのこと。帰ってから小林の次男のことを貞子に言うと、可哀そうだから、それなら引きとってもいいと賛成してくれる。
二月五日 曇、但し辻堂は晴。
杉沢との約束で、私は、貞子の買いおきの人参を一貫持って出かける。出がけに京王の開発課に昨夕のバターを携げて寄る。北村課長は、調布附近の例の遊覧場京王閣を軍の方に使ってもらう話で外出中とのこと。馬場氏が言うには、課長は私の話を「難かしいのじゃないかなあ」と言っていたとのこと。また改めて二三日中に私は来ると言い、馬場、井上氏に各半ポンド、課長にと一ポンドバターを贈る。この話はしかし、或は私の思うように運ぶのではないか、という気もして来る。また支払金が延びていて、いよいよと言う際は耳うちをしてくれるようにと馬場氏に頼む。何となく、大して難事ではないと思われて来る。
雪印バター新宿配給所で杉沢と逢い、彼が今朝買わせておいたという辻堂行の切符で乗車、一時頃辻堂に下りると、私はすぐ帰りの切符を買うことになる。四五十人並んでいる。杉沢は私と彼の荷を持って先に行き、私は列に加わる。三四十分も待たせてから、やっと売り出す。東京は売り切れ、と二三人前の人が買えなかったので、私は高円寺行を二枚買う。今日は杉沢が小林家の財政のことや色々突込んで話をしているのだから、私はむしろ遅れた方がよいとも思い、ゆっくり行く。今日は小林氏も割に元気だが、主人は身動きも出来ず、細君はやっと起きて来たという風で、顔は幽霊そのままで絶えず咳をしている。そして奥には長男が寝ているとて、咳が聞える。杉沢の持って来た飴などを皆で食べながら、杉沢が私に小林家の生計のことを言う。私は顔をあげられぬ気持である。杉沢は例の調子でずばずばと、小林家では百円から百五十円で暮せるが、それもこの五月頃までしか生活費が無くなっている。家と土地を売れば一万五千円ぐらいになると思うが、北海道の村で村長をしている義弟からは、こちらへ来ても家はないし困るからそちらで何とかするようにとしか言って来ない。仕方がないから五月から後は杉沢が生活費を出すこと、そして小林氏が死んだ場合二万円の保険金のうちからその金を返してもらう、という条件など、彼ははっきりと言う。義弟の村長とて余裕のある訳はないから、全く杉沢にそうしてもらう外ないのである。私も結構だと思いますと言う。また私の所にあずかるという次男は、小林氏の幼時にそっくりの顔で、私が入る時家の前でひとり遊んでいたが、どうも顔色があまりよくない。多少感染しているのではないかとも思われた。その子のことを杉沢は言い、君が喜んで引きとる、ということを伝えたところ、小林君としては、夫人の姉が代々木にいるので、そこと相談した上で決めたい意向だという。小林氏も語をついで、整さんの所へ引きとってもらった方が本人にとっても幸福だと思うが、しかし今の所では家中で元気なのはあの子ばかりだから、使い走りをするにしても、火を起すにしても、あれがしているのだから、その点も考えねばならないという。全くそのとおりで、悲惨極まる状態である。ここの家では、目下食べるものよりも何よりも人手が必要なのであるが、杉沢と私もその点を車中話し合って来たが、これは何ともならない事なので、塩谷の村長の方から誰か身内のものをまわしてもらうよう杉沢から手紙を書こうということになった。しかし、小林氏の話では、人手もこちらへまわすような者はいないと村長から言って来ている由。全く困ったことである。村長にしても寡婦になって子供のある義妹の世話を二人も引き受け、自分の子供もみな弱いのだという。月給とて知れたものであろうし、とても余裕はないのだ、と小林家から帰りに杉沢が言う。そのとおりにちがいない。小林氏が病臥してから四年間、村長の方でも出来ることはして来たのであろうが、今では策が尽きたのであろう。代々木に夫人の実姉がいるということなど私たちには初耳であるが、およそ普通の勤労者の家庭で主婦が家をあけられる余裕は今はどこにも無いし、それに開放性の結核患者が三人もいるこの家へ手助けに来るのは自殺のようなものである。実の姉がいたとて、ほとんど寄りついていないことは、小林家の様子からもすぐに分ることだ。私の所の菊などをちょっとよこすことも考えられぬことではないが、こんな結核の巣の中によその娘を投げ入れることは出来ないし、第一私の所へも落ちつけぬ子をここへまわすことは当然本人が承知する筈もない。
一時間ほどいて、二人で帰りの車中、あの家をどうすべきかということに、二人とも途方に暮れていた。
療養所へ入れることは、どうだろう、という話になったが、病人が三人もいるのだし、費用が大変な上に、この頃は入所を希望してから半年も一年もした後でないと入れないようになっていると聞いていたので、私は無理だろうと思った。しかし救世軍療養所の児玉医師と私のところは親しいのだから、明日でも私が行って聞いて見よう、ということになった。杉沢も乗気で、若し入所出来れば、あの家と屋敷を売れるのだから、今一万五千円位の現金が出来る。それだけあると、三人で月に五百円としても、三年ぐらいの療養生活が出来る。ああして放っておいて、若し細君が全く身動きの出来ないということになれば(しかもどうもそれが近いうちで、どうかしたら細君の方が先に死ぬのではないか、と杉沢が言う)全くあの家へは手の施しようが無くなるから、今のうちに何とかして、児玉さんに頼んで入れてもらうように計らおう、ということになった。経済の方がそうなら私は見込十分と思ったので、そんなら、今日二人でこの足で訪ねて見ようと言い、彼もすっかり元気になる。若し何なら療養所にバターを配給させるようにしてもよいと言う。気がついたのだが貞子は、崔承喜の舞踊研究所の事務をしている私の旧友の前田君からの招待状で今日出かけたが、私の分の切符で児玉夫人か誰かを誘うと言っていたから、ひょっとしたら児玉家へ寄っているかも知れないのである。杉沢と二人五時頃中野六丁目の児玉家へ寄ると、案の定、夫人は貞子と出かけたとのこと。隣の薬屋で療養所に児玉氏のいるのを確かめ、以前私のいた和田本町の近くの療養所へ行く。寒い医務室で児玉氏に逢い、事情をうちあけて頼むと、案ずるより生むが易いという言葉そのままで、児玉氏も、それはひどい、その家は肺病の巣ですね、その長男はもう駄目だと思うが、次男を何とかして救わなければ、と言い、考えていたが、今急には一つしか病床はあかないが、近いうち、三つ明けるようにしましょう。主人丈でも先に移しましょう。但し運搬がねえ、と言うと、杉沢が、いや運ぶのは自分の方の自動車かトラックで何とかして持って来るから、と言うと、児玉氏も、それさえ出来れば申し分ありませんと言う。私も心から安堵する。杉沢も喜ぶ。まあ慣れるまで一人用の室に入れると、一日四円宛だが、広い室へ移れば二円五十銭だという。それぐらいなら予定より安いので、杉沢もよかったと言う。児玉氏は、そのうち都の方からの無料患者の委託の扱いにしてあげられるとも言う。そして更に言うには、その主人など多分もう長くないでしょうが死ぬにしてもここで死んだ方がよいので、この頃では普通の所では棺桶もすぐには間に合わない始末だから、死ぬのも容易でないのですよ、と言って笑う。私と杉沢は、これでほっとし、私が一両日中に向うへ行ってその相談を決めることとする。それから杉沢の新農園や疎開の話になり、彼は児玉氏に、いよいよ非常の時には、是非整さんの所まで来なさい、そうすれば私が八王子の方から食糧は自転車で運んでやるから、と言う。児玉氏も全く自宅は危険区域だし、いよいよとなれば郷里の桑名まで家族は戻せそうもないし、考え込んでいる所だ、など話す。そう言えば、貞子は、疎開問題がやかましくなってから児玉夫人がよく遊びに来るようになったなど言ったことがある。私の所など、東京が大空爆を受けると、きっと知人がどっとやって来るにちがいない。その時食糧のことは大問題だが、やっぱり杉沢の才覚にまつ外ないように思う。もっともそういう避難者用として隣組長のところに、燃料と食糧が蓄えられている旨が、先月の常会で桃野氏から話があったという。四月頃には、空襲は必至だといい、疎開運動は、この輸送の窮屈な中にも大々的にこの頃行われ出している。その時のことを本気で考えねばならない。多分そうなると、私の文筆の方の収入は無に帰し、出版など中絶となるにちがいない。新潮社は大出版社だから月給は出すであろうが、そうなると月給をもらうあてがあるということは大きな事実となって来る。
欧洲でも英米の対独空爆は続行されており、最近数回でベルリンへだけでも五千トンの爆弾を降らせたと英側はいう。ベルリンの市街は或はもう無に帰しているのではないか、と思われる。それに対してドイツの報復爆撃も本格化し、しばしばロンドン空襲をしている。ドイツ軍の発表によれば、近時の対英空襲は大規模のもので、二十七日の如きは、七百五十機によって、一千トンの爆弾をロンドンに降らせ、各所に大火災を起させたが、その時の損失は二十三機に過ぎなかった由である。一昨日あたりもまたこの空襲は続いている。
夕刊にて、米軍は遂にマーシャル群島中のクエゼリン、ルオット両島に上陸して、目下我軍と激戦中と発表あり。敵機は大分やっつけたが、この度は敵の戦艦や空母を我方で沈めていない。敵の上陸作戦が巧妙になって来た為か、圧倒的勢力で敵がやって来た為か。いずれにしても目下刻々と大激戦が、遥か東南方の群島の上で行われているのだ。祖国の運命はどうなって行くことか。破れ去ったり、降伏したりすることは絶対に考えられないだけ、それだけ、敵の全力を受けて立つ祖国の悲壮な姿が、じりじりと胸にせまるものがある。
私は昨日の夕刻から喉が痛くなり、扁桃腺の気味で、今日はポケットにうがい薬の小壜を入れて出たのだが、杉沢の手前そうも含漱できなかった。昨夜はアルバジルを飲んで寝、夜中に熱がありそうなので、起きてインドラミンを注射したが、アルバジルの反応で唇や陰部が脹れて、終夜気持悪く眠れなかった。旅行から戻ってから十日あまりの間、家にいたのは一日だけで、いよいよ疲労したのである。これをこじらしては大変だ、と私は小林氏のことなど考え合せ、今日は早速寝る。インドラミンを注射し、咽を焼き、アスピリンを一錠飲む。夜中少々発汗。
二月六日(日)晴
小林家へ行くのは明日にし、終日暖くして、炬燵に入り、二日以後の日記を書く。
午後大工長谷川来る。正月に長男横須賀海兵団に入隊した由。餞別の礼を言われる。リアカーに薪四束、裏の差しかけ用の細い柱六本、等の外に、屋根用として古いリノリウム、その外に葭簀に巻いて、太い針金の金網を三坪ほど持って来てくれる。これはかねて鶏小屋が犬にやられて駄目なので頼んでおいたもの。貞子酒を一本つけてねぎらう。細君が今日は産気づいているからとて、荷物をおいただけで帰って行く。
明日から新潮社に顔を出そうと思う。
夜杉沢、横山村よりの帰りとて寄る。小林家についての諸事の運びの手筈相談す。家を売却する件など、一応代々木にいる姉という人に頼み、そこで出来ないという時に我々の手ですることとなる。私がその家へ行って見ることとする。
二月七日(月)(十二日記)
新潮社の今度の新組織が情報局の承認を得て、いよいよ仕事をはじめることとなれば、私の所へ出社するようにとの通知がある筈だが、すでに月も変ったこと故、顔を出そうと思って出かける。午後辻堂へ行こうと出がけに切符を買おうとしたが、売切れだった。二階に上り、新潮編輯室の楢崎氏のところをノックしたが返事が無いので、社長室に行く。社長〔前出。社主の長男のこと。後出の副社長〕に中根駒十郎氏を紹介される。この社の大番頭の中根氏は六十歳ほどの温厚な紳士である。それからまた「日の出」の責任者である佐藤家の三男に紹介される。「日の出」についても、何かお気づきのことは言って下さい、という話やら、疎開の話などが出る。社長は父君の佐藤義亮氏の宅が東大泉の大泉師範のそばにあるので、とりあえずそこへ居を移すことになっているという。いよいよの場合は新潮社の実体はそこに置かれることになるだろう、などと、考えながらその話を聞く。あなたの所の烏山は、と社長は陸地測量部の地図をひろげて、ここなら安全なところですなあ、もっと先になると調布の飛行場があって危険になるが、と言う。私の出社は、やっぱり認可が下りてから、多分月中頃からということになるでしょう、と社長は四男の哲夫氏を呼んで相談してから言う。
そこを出てから新潮の室で楢崎氏と雑談し、バターを買ってやる約束などをしてから別れて出、十二時頃なので、北町停留場のそばの蕎麦屋に細君連の後に並んで立って、蕎麦を四つ食う。玉子蕎麦というもの、一杯二十銭で、麦粉を薄く揚げたようなものが乗っている。四杯を二杯に移しかえて食うと、さすがに満腹する。これで今日は珍しく満腹できる昼食にありつけたわけである。朝持って出たお握りは子供へと思い、ポケットに入れておく。小林家へ持って行こうと思い、朝玉葱三つと青い菜を一握り包ませたのを結局持って帰る。
二月八日 大詔奉戴日
新潮社へ出社するようになる前に小林家の方を片附けたいと思い、この日は九時頃から家を出て、新宿の京王側出口の汽車の切符売場に並んでいる。駅員と警防団員が出て来て、訓練空襲警報だと言い、列を作っている私たち五六十人の者を駅の前から、陸橋の向うまで追い立て、しゃがんで低い姿勢をさせる。私は気を利かして、道の向側の石段の下に避難し、やがて「解除」となると、早速そこから飛び出して、うまい工合に早目に切符を買った。切符を買うと先ず安心なので、久しぶりに芸術科へ行って見る。芸術科は今度の大学統合で結局残ることになったと、三四日前に来ていた薫が言っていたが、どんな工合になっているかと思ったのである。石門寺、永野、遠藤等の専属の助教授連中が事務室にいて、私の顔を見ると、珍しそうに話しかける。松原科長も出て来て、「やあ、たまには出て来たまえよ」などという。旅行前に寄った時に較べると、皆の調子が明るい。永野氏の話によると、まだ文部省の方は確定したというわけではないが、残ることは確かだという。この学校と性質上似ている明大の文芸科など、もう確定し、学生も募集しているとのこと。先生も健康が恢復されたら出講して下さい、というので、一二日分を割りあててもらうことにする。新潮社の方は四日出勤故、なるべくそちらへ出る日の午前中に学校を済ますようにしたい、と考える。この学校も十二月は千葉県へ、暗渠排水の工事の作業に行き、正月は東京市内の某工場へ勤労に行っていて、やっとこの五日から授業を始めたところだという。今日は大詔奉戴日の式があるが、いつも同じ顔ぶれで学生もつまらないだろうから、ちょうど来たついでに是非式へ顔を出してほしいというので、二階講堂の式に参列する。男の学生五六十人と女学生が十人ぐらいしかいない。
昨年の文科系学生生徒の徴兵猶予廃止によって年末に相当多数の学生が入営した為である。また十二月頃に、適齢が満十九歳に引き下げられたため、今年秋には相当入営者が出来るわけであろう。しかし一方では中学が四年制になるから、入学者の年齢も低下して増加する見込もあるらしい。松下という新顔の教師が式後日露戦についての講演をした。学校の小使室で、昼の弁当(一円四十銭)を食う。
一時頃目白駅から乗り、二時半頃に辻堂の小林家に着く。杉沢と相談した療養所入所の話を小林氏にする。小林氏は喜ぶでも悲しむでもなく、僕は、それじゃそこへ入れてもらう、と言う。しかし家中がこの家をあけ、それを居抜きのまま売るようにしたらいいだろうという杉沢の話をそのまま伝えると、夫人は、癇にさわったらしく、「それじゃ、私はもう直らないというのでしょうか」と、つきつめた顔になる。私は、はっと思い、杉沢がそう言ったのだが、しかし必ずしも家財は売らなくても、どこかに預けておけばよいでしょう、と言うと、夫人はやっぱり考え込んで、自分が療養所に入るのには賛成出来ないという風であった。小林氏もそれに気がついて、夫人のいない折に「いや、あれも入った方がいいので、いずれ私からよく話をします、今日はとにかく急なことですから、とりあえず私だけ入れてもらいましょう」と言う。小林氏にとっては、とにかく突然の話故、こういう返事をしただけでも立派な態度だと思った。しかし小林氏は、自分は身動きが出来ないのだから、家からこのままそっと持って行くようにはからってほしい、また時々自分は呼吸困難になるから、その時の為にエフェドリンとかいう薬を一服医者からもらって来てほしい、等と言う。乗物は興農公社のもので、乗用車とトラックとがあるが、どうやらトラックにそのまま運び上げて運ぶ方がよいと思われる。夫人も奥で子供さんたちとそのことを話し合って来たらしく、やがて現れた時は、それでは私もそこへ入れて頂きますが、家の中の始末にも随分ひまどると思うから一月ぐらい待ってほしいなどと言う。私も、奥さんが先ず直らなければならないのだから、まだあなたは病気が新しいから今のうちに入所して安静されたら半年ぐらいで健康を、恢復されると思いますから、と分るようにすすめた。小林氏の話では、夫人が特別立居が大儀そうに見えるのは、胸の方もあるにはあるのだが、今痔を悪くしているせいもある、とて、夫人を余程悪く思い込んでいた私と杉沢の考を少し訂正するようにと話しかける。なるほど、そう聞けば夫人の方はそう急に入所することもないであろう。
この話、小林家にとって是非そうしなければならぬものでありながら、切開をする医師のように、言い進めるのが残酷に思われてならぬ。言わばこれで小林家の家庭というものは、一応解散するわけだ。夫人の身になれば、何とも言われぬ悲痛なものにちがいなく、私としても、どうも言いにくいことである。また家を売るについては、夫人の親戚でやってほしいと言うと、小林氏は、夫人の兄という人は東京にいるが、足が悪いので、とてもそういうことは頼めない、と言う。そのことは、いずれ杉沢と相談することにして、夕刻辞し去る。
その足で、中野駅から児玉家に寄ると、まだ病院から戻らぬとのこと、更に杉沢家に行く。杉沢は明日箱根へ行くついでがあるので、小林家へ寄るという。小林夫人の気持を伝えておく。更に引き返して児玉家に寄り、戻っていた児玉氏に逢う。室は一人分とっておいたが、運悪く、外の事務員が他の人を入れたので、近日中には是非あけておくという話。疎開の話やセファランチンの話をし、セファランチンの文献など見せてもらって、十時近くまで話してから家に戻る。夕食を食いそびれ、朝家を出る時昼食にと持って出た握り飯を暗い夜の町を歩きながら食う。
今年度の衣料切符の割りあて、今朝の新聞に発表される。これまで都市百点、地方八十点であったのが、今年はその差が無くなり、三十歳以下は五十点、三十歳以上は四十点である。先頃から、今年は衣料切符は出ないという巷の噂がしきりであったが、とにかくこれだけ出た。しかし一挙に半分以下の点数で、着物一枚を買うと、外には何も買うことが出来ないであろうし、また足袋又は靴下は年二足というから、これでは事実上、修理用の布を買って行けるだけであろう。衣服の新調ということは戦争がすむまで考えられなくなった。学童服を滋や礼に配給されるのを手に入れるだけが、新しい着物の買入れとなる、と貞子が言う。衣の生活は急に半分以下に切りつめられるのだ。
昨日牛込北町の蕎麦屋に行列していて、並んでいる細君たちの話を聞く。
「浅ましいことになりましたわ。お蕎麦を食べるために、こうして行列を作ったり、押し合ったりするんですものねえ。」
「買い溜めは敵だ、とか、贅沢はするなとか言われて、私たちはちょうどお金もないし、着物を買わないようにしていたら、こうしてもう何も良い丈夫なものは無くなるし、切符では少ししか買えなくなって本当に困っていますけど、こうなって見るとあれですね、以前贅沢をしてうんと買った人たちが良い目に逢うんですものねえ。」
「ほんとね。これから先、どうしてやって行けるでしょうねえ。」
「疎開、疎開って、金持は田舎に家を買うので、とても、べらぼうに田舎の家の値段が上っているんですってね。私たちなんか、とても疎開など出来ないんですって。」
「それにあれですわ、いざ空襲となったら、こんな家の立て込んだ牛込あたりは、下手に逃げ出そうものなら、荷物はあるし、踏み殺されるにきまっているから、穴の中にじっと入っているのが一番ね。」
「でも上から落ちて来るでしょう。焼夷弾ならまあ消せるかも知れないけど、爆弾じゃ、ただもうだまっていて死ぬばかりでしょうね。」
「そうね、その時はその時のことね。」
こういう会話を、あるいは時局を認識しないとでも批評すべきか。しかし中下層のものは、事実上、一家離散の覚悟でないと、疎開も出来ないのだ。この話には、痛切なものがある。日本の女性らしい淡々としたあきらめの気持も感じられるが、それだけに悲痛な響がある。市内では毎日一食ずつ補うに、次第に外食の内容が悪くなるから、どうしても金がかさむし、闇の野菜を買出しに行くので生活費が多くなる。月給でやって行くのが苦しくなる。それに今では表通りの店で商売をどうにかやっているのは薬屋と本屋ぐらいのもので、外は店を閉じて、たいていは工場で働いているから、収入は多いと言っても限定されていて、闇の食料の値に追いつけないのである。配給食物の不足、これが戦時の国民生活の最大の、そして根本的の急所である。
二月九日 晴
朝滋に学校へ行く前に杉沢家に寄らせ、療養所の室が駄目になったこと言うようにする。
私は、この二三日前から、あるいは、この祖師谷も空襲下には家を壊されるとか、食糧不安などで生活不可能になりはしないかという万一の場合を考え、その時はどうしても埼玉県児玉郡|吉田林《きたばやし》の峰岸君の離れを借りなければならぬと考え込んでいた。あの村の少し先の方には少年飛行兵の養成のため飛行場が新設されたが、そんな飛行場が空爆の目標になることは先ずあるまいし、それに峰岸君の所にいれば第一に食物の不安がないから、どうしても、と思い込んでいた。ことによれば誰かがあの離れを借りに行ったのではないか、と思うと、この朝、じっとして居れなくなった。それで九時頃貞子にその用で出掛けたいと言うと、貞子も自分も一度見ておきたいということで、大急ぎに支度をし、十一時に八王子発の八高線の汽車に間に合わせるように、京王電車に乗ったが、それに遅れる。八王子市内を二人で歩き、食物がないので、やっと甘酒をミルクホールで見つけて、五六杯飲み、また瀬戸物を少し買う。一時の汽車に乗り、三時半に児玉駅に着。峰岸君は近くの山へ行っていたが驚いて帰って来、私がまだ満洲から戻っていないと思っていたなど言い、色々ともてなす。夕食に白米が何とも言えずおいしい。食後の話に、峰岸君の方から「先生のお家のあたりは大丈夫ですが、でも疎開問題はないのですか」と言う。それで「実は、万一を慮って、そのことでお願いに来ました」とて事情を述べ、この離れはいよいよの場合に借りたいから、外へ貸さずにおいてほしい、というような話や近いうちに大切な本や蒲団を二組ほど送るから保管してほしいなど頼む。峰岸君は快く承諾してくれる。また春の休みには、子供を一週間ほど泊めてもらうことなど依頼する。六時の汽車で帰っても夜中になるので、泊る。貞子は子供たちが淋しがっているだろうと心配する。父と母とが家を留守にしたのは、これが初めてだからである。もう大きいのだから、そう心配したほどのことはない、と私がなだめる。ここを借りることになれば、先ず安心だと思う。客用の蒲団二組の外に急に使わない布類や本など、ここの土蔵に保管してもらって、東京が混乱した時は貞子と子供たちをここへよこして、私ひとり家に残ることなども考えられる。翌朝は、風の名物のこの地に珍しい無風の晴天なので、峰岸君の親戚の蔵西君がやっている十二天山に登る。戦死傷よけの神社とて、近時大繁昌の所で、村から一里余の八百米ほどの山の峰にある社である。貞子も元気で登る。前々から蔵西君が、この山の麓に山荘を建ててやるから来て住まないかと言っていたが、今日も笑い話に、戦後は一つ建てますよ、などいう話が出る。四時の汽車で、鞄に麦粉や馬鈴薯などをつめてもらい、児玉駅から帰る。夜九時帰宅。子供たち大喜びをする。貞子も四年前に寝込んでから初めて汽車旅行をしたとて、とても嬉しげであった。貞子の健康の恢復した証拠にもなり、いい小旅行であった。また家では暮前から買いだめておいた馬鈴薯がいよいよ無くなったところであったが、これで当分は補給出来るという見込みになり、その方も安心である。家の近くでは、甘藷は一貫目五円、馬鈴薯は三円余もするというのだから、十二月頃の倍の値である。峰岸君へは、室の予約代として今後毎月十円送り、今度の厄介をかけた分として十円送ることにする。峰岸君には満洲の実からもらって来た地下足袋を一足贈り、とても喜ばれる。これで私たちの最後の隠れ家、乃木大将の所謂「逃げ込みの本丸」が出来たわけだ。
この日児玉医師より療養所の室があいたとの知らせあり。
二月十一日(金)
朝滋に療養所の件杉沢へ報じさせる。
七日締切の新潮の原稿十枚まだ書けていないので、朝から外に出て、楢崎氏に電話をする。新潮社で楢崎氏の宅につないでくれ、明日まででよいかと言うと、明〔々〕後月曜の朝までに必ず、ということ。ついでに、明日天気だったら私の所へ遊びに来ないかと誘うと、来るとのこと。
夜、少閑の気持。満洲旅行以来、実に多忙を極め、まだ実や、関東軍の長谷川報道部長などに礼状を出していなかったので、夜それを書く。
午後田居君が尚彦君を連れて自転車で来る。三人で、千歳船橋の昇君を訪ねる。川崎君は仕事の広告扱業が、ほとんど暇になったのか、近所の堤君の工場に細君連中を半日ずつ集めて、仕事をさせようという計画をしている。家庭労力の集中としてこの頃論議されていることで、面白いと思う。それが成立したら家の菊も通わせるなどと話し合って帰る。蕪を一貫目ほどもらい、自転車につけて来る。
二月十二日(土)
礼の誕生日のお祝とて、貞子は、私が広島から持って来た糯米を使っておはぎを作っている。午後近所の江口清君が来ているところへ、杉沢来る。アイスクリーム原料の乳粉に砂糖の入ったのを持って来てくれる。杉沢と江口君とに、ボタ餅と乳粉湯を出す。杉沢氏は、バターが近く値上りするとて、三十箱買っておいたから、値が上ったら私に一箱か二箱分けてくれるとのこと。一箱は五十ポンド入っていて、一ポンド四円としても(現在三円四十二三銭)二百円である。バターがあれば薯などと交換も出来るからありがたいが、その金をつくるのが心配である。痛し痒しであるが、何としてでもこのバターを買っておきたい。これまでは彼は時々買ってはくれたが、毎月たのむという訳にも行かず、この三四ケ月はあまりバターを食べていない。療養所の件を話し、十四日には、上屋つきのトラックを杉沢が支度するから小林氏を運ぼうということになる。そのため今夜児玉医師を訪ね、一緒に行ってくれと頼むことになる。重病人のこととて、途中が不安だからである。杉沢は途中で病人が死んでも仕方ないと言うが、貞子の意見で医師を頼むことにする。夕方杉沢氏が帰ってから昨夜書きかけの原稿を大急ぎで仕上げる。八時頃原稿が出来たので、楢崎家、児玉家へのボタ餅を持って、先ず児玉家へ寄る。児玉氏はすでに寝ていたが、夫人が出て来て、明後日辻堂まで児玉氏同行の件承諾、ほっとする。その足で杉沢家に寄る。十時近くであるが、待っていてくれた。そして、言うには、今辻堂の小林家から「ニウインミアワセタ スグオイデコウ」という電報が来た、とて見せる。多分親戚の人とでも相談した結果、躇うことになったのであろうが、ああしていても一家全滅するばかりだから、入院するように、明日杉沢が行って相談する。私の方では明日児玉氏に逢い、やめたとは言わず、自動車の都合で延びたと言っておくことに話がきまり、別れを告げた。楢崎家行はやめ、新宿から京王電車で、しかもやっと十時半の終電に乗って帰る。その頃都電を終電の赤電車が走っている。随分早く切り上げるようになっているものだ。今の東京で、十時は深夜である。風寒くこたえる。この頃の多忙な様を考え、よく身体が持っていると思う。
二月十三日 日
朝児玉家に寄り、診察中の児玉氏に逢い、辻堂行が延びた話をして了解を得る。昨夜杉沢からことづかったチーズ二個を贈る。児玉夫人も心配してくれて、何なら知人の医師が由比ケ浜に療養所を営んでいるから、そこへ入れてはどうか、など言う。辞して牛込の楢崎家を訪う。留守にて、老婦人にボタ餅を渡し、新潮社にて楢崎氏に逢う。原稿を渡し、雑談し、多忙で原稿を書く暇もなく、旅から帰ってから原稿を書くのはこれが最初だ、と言って笑う。旅順戦追憶記「海鼠山附近」十枚。
バターが手に入りそうだと言うと、十ポンドでも二十ポンドでも是非入手したいとのこと。いくらか取ってあげられると約束する。出版会からの決定がまだ無いらしく出社の話はない。少々私は焦る気持で、早く勤めたいのだが、丁度小林氏のことで多忙なので、それもよいと思う。昼近く辞す。この日は社長などに逢わず。
この頃現金が手もとに無くなり、二十円ぐらいしか持っていない。幸い「三人の少女」が近刊になる由出版新聞に予告が出ていたし、先頃淡海堂に行った時編輯の田中君が五千印刷すると言っていたから、もう二百円受けとれる筈である。野長瀬君あて、金をほしいと昨日言ってやってあるので明日あたり行って見ようと思う。こないだから、一二度京王電車の開発課に寄り、家の年賦を十年ぐらいに延ばしてもらうよう頼んであるのだが、北村課長はいつも外出していて逢えない。この件を何とか片づけたいと思う。
家の裏や玄関わきの椎の木が、葉が目立って黄色く霜枯れて来た。旅行前に私がやった下肥が強すぎたのであろう。水をやらねばいけないとこないだから思っていた。またうちの小麦も葉に勢がなく、黄色くって、近くの畑のどこよりも工合が悪いので、これも溝水でもやって勢をつけねばならぬと、しきりに思っていたが、その暇なく、やっとこの日の午後、椎の木の根本に、それぞれバケツで三つぐらいずつ水をやった。
二月十四日 月
小林家の件どうなったかと、朝杉沢家に寄る。小林氏は、前からかかっていた医者に、このまま医師が付きそわずに東京まで運ばれるのは危険だと注意されたので、あの電報を出したのだという。児玉医師が来ると言うと、入院に賛成したとのこと。杉沢は小林氏を叱りつけたらしい。しかし小林氏にも無理はない。明後十六日トラックの都合よいということで運ぶことに決めたという。杉沢、運転手二人と専大学生の小保内君とが朝からトラックで行き、私は医師を連れて後から行くことにする。私は杉沢家を出てすぐ児玉医院を訪れ、その件を相談した。氏はよろしいとのこと。なお私は、家族の為のベッドの空きがないかと訊ねたところ、ちょうど女患者の分が一つあいているとのこと、それではついでだから夫人も子供たちも連れて来てはどうかと私が言うと、児玉氏は、子供等はコロニイへ入れておくなり何なりするから、それがよいだろうということになり、私はまた杉沢家に戻って、そうすることに相談を決す。昼食を杉沢家ですまし、二人一緒に外出、私は省線にて浅草橋に下車、東神田十番地の淡海堂に行く。野長瀬君帰郷にて不在とのことで、専務の田中君に話し、印税の残額二百円受領す。新宿に戻り、一昨日頃から駅前の運動具店で見ておいた野球のミットを二つ買う。一つ十六円なり。馬皮のよいものを使っている。三枚とれるので、この二足あれば、とにかく手袋の丈夫なものが一足作れると思う。無駄づかいのようであるが、こういう良い皮をこんな値段で手に入れられるのは、外にない。きっとこれが安い買いものであったことがやがて分る、という自信があった。ついでに棚の中から純綿製のベースを見つけて二つ買う。一つ九円なにがしである。これは中味を抜けば子供や女持ちの丈夫な手提鞄になるもの。しかし両方で五十何円かを支出し、少し金高が大きかったかなと心配になる。しかしこの頃は何でも昔製の品を見ると、本能的に飛びついて買う癖が出来ている。町の店々にあるこの頃の製品はみな形のみで、質が極めて悪く、使用に耐えぬからである。街頭の露店で目の細かい木棉の鰯網を三尺買う。夏に礼が魚をすくったりするのに使いたがるからである。外にやっぱり街頭で新式の木製の組立床几を買う。この頃の混雑する汽車旅行には便利な品だからである。しかし或は私が満洲旅行で使ったように、リュクサックの中へ箱を入れておいて、それに腰かけるのがやっぱり一番よいかも知れぬ。これで今日二百円受取った中から、すでに百七十円ほどが無くなる。
二月十五日(火)
在宅。日記を十日頃までの分、やっと書いたり、麦畑に下肥をやったりする。
二月十六日 晴
小林氏を運ぶ日。朝貞子は、ひょっとしたら小林氏は運ぶ途中死ぬかも知れないし、それに、若し下の子の明さんを家へ預るとすれば、小林氏は私の顔を見ておきたいにちがいないから、私も一緒に行くと言う。朝八時頃二人で出かけ、新宿駅に並んで、九時半から売り出す第二回の汽車の乗車券(第一回は午前四時)で辻堂行を三枚買う。伊勢丹の前に来ると、店を閉じている。どうしたのだろうと貞子と話し合ったが、それは、今朝刊に物品類の間接税の大幅引上があり、定価の変更からと、やがて分った。今度の増税は、三割位だったものが五六割、六割位のものが十割という風に、ほとんど禁止的な増税である。布類、衣服類など先日発表の切符の減少に加えて今度の増税だから、私たちは買うという考はもう持てなくなった。
そんな話をしながら、中野本町五丁目の児玉医院に着く。午前で診察が終るとすぐ三人で中野駅に駆けつけ、東京駅発十二時五十分の汽車で二時頃辻堂下車、兵金山まで歩いて行く。小林家に着くと、もうトラックは来ており、縁側をあけ、荷物など庭にちらかり、運転手たちは庭に焚火をしながら待っている。先ず箱形のトラックの中にふとんを五六枚敷き、私たち五人で小林氏を寝たまま運んで行く。重病の人のこと故、その間にもどうかなりそうで心配でならない。更にその横に、これはまた幽霊のような夫人を横たえさせ、反対の横には顔色の悪い長男の盈君を坐らせ、更に手まわりの品物や炭箱などの間に私と杉沢がやっと坐り、病気の巣の中に坐っている息苦しさをひしひしと感じながら、扉を閉め、トラックが動き出す。中は前方に一尺四方位の小窓があって僅に外光が刺すだけ。児玉医師は運転手二人と前部に乗っている。トラックはかなり揺れる。私たちの坐った真中の谷底のようなところに寝ている小林氏が、眼を閉じてじっとしていると、どうかしたのではないかと、私はぎょっとしてのぞき込む。夫人も心配そうにじっと氏の顔を眺め、やがて小林氏がかすかに表情を動かすとほっとした顔になる。その夫人自身が、やっと車の動揺にたえて、ふとんに倚りかかっているという様なのに、その横にいた明君が、横浜辺から酔って、気持が悪くなったとて嘔く。洗面器を杉沢が持ってやったり、実に惨澹たる様で、私も品川辺から気持悪くなり、やっと我慢している。
渋谷辺までに二時間半もかかり、それから先が実に長く思われた。とても皆が無事では着けないような気持になって来たが、運転手たちは、容赦なく車を走らせ、代田橋から方南町に入り、夕刻やっと療養所に着く。玄関から運搬車で小林氏を先ず運び入れ、そのあと、ふとんを山のようにまた運搬車で運んだりして、真暗な六時すぎにやっと皆が落ちつく。小林氏は一人室、その棟つづきの一人室に盈君と明君とが一つのベッドに寝ることになり、夫人は大勢の患者の室に入る。夫人は、あのメリンスのふとんだとか、この枕だとか、細かいことを言い立てて皆をまごつかせる。とにかく小林氏に異状なく運べてよかった、と何よりもそのことを、杉沢、児玉氏と喜び合う。小林氏は「疲れた」と言い、私を省て「整さん、この恩は一生忘れません」と言う。私は暗然となる。また「僕はもっと早くから、こうすればよかったと思っていた」とも言う。この日私は運転手たちがいやがるので、一番小林氏の身のそばにいて、物の出し入れから、小便の世話までしてやった。今日は何事もいやな顔はしまいと腹をきめてかかっていた。不潔だなどという心配より、いやな顔をしまいという気持で自分を引きしめていた。
貞子と小保内君は汽車で帰った。皆が落ちついてから、どうかしたら私が引き取ることになっていた明君を、児玉氏にたのんで診察してもらう。児玉氏は、診て「ラッセルが聞えます。ザーザー言っている。やっぱり淋巴腺の辺がいたんでいる」と言って、これはとてもあなたに引き渡せる子ではありませんと断定する。哀れでもあるが、さて病気と決まれば、うちの子供と一緒に置くことも出来ない。この子、利口そうで、はきはきして、元気もよくなり、可愛らしい故一層哀れでならない。父は病重く、母も悪く、兄も病に負けた風にぼんやりして、誰に愛撫されるというでもなく、二年生になっているのに、学校にも行っていない。九歳にして、すでに悪い運命は重くこの子の肩に食い入っているように思われる。そのうち、すっかり元気になったら小父さんの家へ行こう、と言うと「うん」とうなずく。暗い中を杉沢氏とトラックに乗り、同家の玄関で挨拶して帰る。
杉沢氏は小林家の米、薯、醤油等をトラックで自家に運び、白米など二斗もあるから、君は半分持って行けという。運転手に薯を半分もやったりする。どうも米をもらうのは悪いように思い、後で、とて別れる。この日、杉沢バターが今度の増税で値上り決定し、三円四十何銭かだったのが三円九十銭になった故、約束の一箱を渡すという。私は滋の入学についての使いものにする故二箱(百ポンド)ほしいと言う。彼承諾す。興農公社の新宿配給所で明日渡すという。
二月十七日
貞子朝から出て、新宿配給所に寄り、杉沢に私が来ることを告げ、それから療養所へ見舞に行く。私は朝三鷹の田居家に寄り、バター二箱の金を借りてから新宿へ行くことにして田居家へ寄ったが、田居君留守で、そのまま新宿に出る。
興農公社の新宿配給所へ行く。杉沢がいて、バターを二箱出してくれる。私は田居にまわすのだから三箱にしてくれと言うと、彼は「整さんもなかなか商売人になったなあ」と笑いながら、三箱出してくれる。そこの留守の人の細君に保管をたのみ、明日取りに来ることにする。杉沢と、小林夫人の兄に当る板谷家を原宿の穏田に訪ねる。金持だということで、立派な住宅街の一区画に住んでいる。杉沢が、小林一家の療養所へ移った話を、例の乱暴な口調で説明すると、五十すぎの年恰好で片足無いとて炬燵に坐ったなりの板谷氏は、初めは脅迫されるのかというような警戒した顔をしていたが、やがて話が分ると、大変感謝して酒など出して馳走する。この家は樺太で酒造業をしていたとて裕福らしい。小林家へは、千円とか五百円とかと、もう長いこと補助のしどおしでいる話や、足が悪いし、自分も去年胸を病んだので、見舞に行けずにいたなどと話す。
マーシャル諸島方面の戦闘の詳報なく、ただ時々群島中の各島に敵機が来襲したとの非公式の報告が出ている。クエゼリン環礁等に上陸した敵はどうなったのか、島を占領したのか否かも分らぬ。こういう風だと我々の判断はどうしても悲観的に傾く。先日田居君と川崎君を訪れた時、同君の話によると、クエゼリン環礁は、戦前のアメリカの全艦隊を収容出来るような天然の良港だが、敵側はすでにそこを占領して基地化しつつあると公表しているとのこと。そう聞くと、多分そうだろうと思われて来る。この日夕刻療養所に寄る。小林氏も細君もベッドに落ちついて安心した様子。杉沢から預っている二百円を会計に渡し、私が保証人として捺印する。中文館発行の「歌舞伎図説」を取って来てくれと頼まれる。
二月十八日(金)
新潮社からまだ出社の命なし。出版会の認可が下りないのであろうか。これまで他の認可の下りた社で資格を云々されたものがあるとは聞いていないから、新潮社の新組織に対しても認可は下りると思われるが、今月出社しないでいて月給をもらわないと、大きな損をするような気がしたり、またひょっとして新潮社のこの勤務がふいになると、とてもよい理想的な勤め先を失ったようなことになるとも思われて、何となく、焦る気持である。週四日、午後から出て、月給二百円というのは、今の私にとっては、それ以上を望めない良い条件である。月給でどうにか生活をし、文筆の収入で京王の年賦を払って行ければ、経済的に破綻せず、やって行けると思う。また完全でない私の健康にとって半日ずつ四日の勤めは、最上のものである。
この日午前から菊を連れて新宿に行き、バターの箱の十貫目もあるのを二人で一つずつ京王の駅まで運び、菊に烏山駅前に預けさせ、私は新宿に待っていて二つを運ばせる。あとは菊が自転車で家まで運んだ。
そのあと配給所で井上君という半島人の文学好きの社員と話をし、近所の食堂から彼のとってくれた丼飯を馳走になる。午後家に戻ると田居君来る。二箱分、三百九十円を彼に出してもらい、明日彼の分一箱は私の所へ運んでおくことにする。私の借金は前に千円ほどあり、これで千百九十五円となる。田居君、北支種苗協会の東京駐在員に正式になって、年一万円ぐらいの予算で事務所を開くという。その協会の常務理事が東京に来て大東亜省の役人たちを一夜招待したが、その費用は一人当り八十余円だが、大したものは出なかったという。その理事は半日の自動車賃に百円払ったという。滋の入学先を決定する相談のある日なので田居君と一緒に出て、中野鍋屋横町の本郷学校に行く。母親たち三四人のあとから、渥美先生と相談し、予定のとおり成蹊高校の尋常科を受けることに決定、第二次の折は青山学院とする。身体もいいし、成績もいいから、大抵大丈夫だと思って、一番安心していると渥美氏言う。嬉しくなるが、本当に入ってくれれば、これで大学までは心配がないこととなる。
その足で杉沢家に寄り、病院の方の様子を報告し、バター二箱の代金を払い、上らずに辞去する。彼は明日頃より横山村の農場へ行っているというので明日か明後日そちらへ私も行って見るという約束をする。その村に、彼は私のために畑を一段歩借りてくれるという。これはまことに有難いことなので、行ってそこを確かめたいのである。
なお杉沢は小林家の米や薯や醤油などを自宅に持って来ていて、私に半分くれるというのだが、私は、療養所の食事が不足らしいからとて米は辞退し、薯をもらうことにする。「米は、それではとっておこう」と彼も言う。
二月十九日(土)
果然敵はトラック島に来襲した。昨日夕刻の発表だが、朝刊にて初めて知る。これは大変である。トラック島は我内南洋の中心地で、ラバウルの真北に当り、マーシャルとフィリッピンの中間にある。若し敵がここへ上陸したならば、ラバウルは中断して孤立し、放棄する外なく、そこから本土へは一千八百浬で飛行機が十時間で到着する。ここから敵が西進してフィリッピン等に達すれば、南方の共栄圏東印度諸島は我手から失われ、日本は資源から切り離されてしまう。敵は調子に乗っている。凄じい勢で進攻して来る。敵は十分な艦船と飛行機を整備して余裕たっぷりという形だ。日本はどうなるのだ。開戦以来こんなぎょっとした事は無い。戦況は急迫して来た。
考えうるあらゆる危急の場合を考えねばならない。日本はこのまま圧倒されるのか。否、断じてそんなことがあってはならぬ。
しかし、生活とは変なものだ。この国家危急の日にも、私たちは、子供の入学がうまく行くことを念じたり、預けてあるバターが無くなりはしないかと心配したり、服装を気にしたりしている。午前中菊と二人で新宿へバター一箱を取りに行き、電車に積ませてから、私は町を少々歩いて家に戻る。
来月から組が二つに分れ、私に四組の組長をやれ、と桃野氏が言っている。貞子の仕事が多くなって行くし、困ったことだと思うが、組の中には外に適任者としては加持夫人ぐらいしか無いし、この人は専ら避けているから、難かしいと思う。
二月二十日(日)曇
午前中家にいて、午後祖師谷二丁目の佐伯郁郎君を訪ねようとしていると、伊藤森造君来る。彼の在学している明大文芸科は、今度の学校統合で残ったが、文科系の学生は半分にされるし、満十九歳で入営する者も多く、学校の経営が困難になって来ている由。また彼の話によると、この正月頃小樽に帰ったが、小樽や北海道の各地では発疹チフスが流行していて恐慌状態になっているという。この病気には適薬がなく、すでに小樽では二千人も死んだという。虱が伝播させる病気なので、風呂へは怖しくって行けず、映画を見に行く時や汽車に乗る時もポケットというポケットに樟脳やナフタリンを入れていないと安心出来ないという。怖ろしい話である。この前の欧洲大戦の時に塹壕病として大流行したものであるが、すでに戦争病として我国に入って来たのだ。何でも東部の釧路から旭川に伝わり、そこから小樽に入ったというから、軍隊の多い所に発生しているわけだ。これは容易ならぬことだと思う。満洲旅行中に私も大きな虱が一匹シャツについていて、驚いたことがあったが、東京に万一入って来たら、何とも怖ろしいと思う。
また先頃はしきりに流行感冒のことが新聞に出て、過労を避けよとかマスクをしろという記事があったが、児玉医師の話によると、正に流感の患者が東京に発生していたので、現に氏も三四人手がけ、その中の一人は死んだという。しかし幸なことに大してひろがらずにおさまったから、もう春も近いし、今年は大丈夫の由。前大戦ではこれで死んだ者が欧洲では二千万もあり、戦死者より多かったという。日本にこれが大流行をすれば或は戦争に負けるかも知れず、また今欧洲や米洲に流行しているこの感冒が日本に入らなければ、それだけできっとこの戦争には勝つ、というのが、朝日新聞にいる薫の話である。万一これが流行して来れば、当局では薬を軍隊や重要産業部門に重点的に配り、学校は閉鎖し、流行地域は封鎖して、その外の土地との交通も阻止する予定でいるという。戦時の病気の話はまことに戦慄すべきものである。私は幸い、キニーネ剤の注射薬を買いだめているが、虱予防のため樟脳類を買っておかねばならないと思う。
夜防空群長会議あり、町会の事務所に行く。二十二日午前九時から十一時迄防空演習ありとて、今度は室内でも演習をするようにという話あり。そのあとで近所の園芸学校の教員を中心に農業の話。組長の桃野氏は自家の三百坪位の庭一面に麦を播いたところ、農会から何人かで調べに来て成績上と記帳して行った由。供出させられるのではないか、と心配していた。庭園の農作まで調査されるようになって来たらしい。供出ということはないだろうが、或は多少配給から差し引かれるのではないか、など皆が言う。私の麦は大変不出来のせいか、百坪近く播いたのだが、そういう調査は受けなかった。
この日貞子成蹊の清水教授を訪ね、バターを贈り、帰途田居家に寄って写真機を借りて来る。滋を写してやるためである。受験に必要とのこと。
二月二十一日
午後、八王子在の横山村に杉沢家の農場を訪ねる。麦よく出来ている。麦ふみを手伝う。十二坪ほどの小屋が出来上っている。杉沢の所へ江馬〔後出江間とも〕さんという人が一緒にいて、やっぱりここへ土地を少々買い農業をする由。
杉沢家の本邸はこの七月までに出来る予定だという。杉沢の畑の谷の向うに見える五反歩ほどの畑を、江馬氏が半分、杉沢が半分借り、その中から私に一反歩作らせてくれるという。二年ほど放棄してあるというから、耕作は少し骨が折れるが、思ったよりよい畑である。夕刻、杉沢の友人串田家に寄り、夕食を馳走される。杉沢は家を建てる材料などみな集めているので、急にはかどるらしく、またその残った材料で江馬氏の八坪ほどの家も出来るという。しかし品川で飲食店をしていたという五十ほどの男、しきりに杉沢に土地を買うことや家を建てることを相談している。この人は材料を持っていないので、数日前都内での建築禁止令が出たこともあり、とても建てられないだろうと私は思いながら聞いていた。掘立小屋を建てなさいよ、と杉沢が忠告していた。こうして食糧確保と疎開熱に憑かれた人たちが、ここに杉沢を頼って集って来ている。私もその一人であろう。杉沢は私に、供出の責任のない作物である玉蜀黍とか大豆とかを作れという。一段歩作れば、私の所では自宅の半段と合せて、ほぼ補食に十分と考えられる。早くあの畑にとりかかりたいと私が言うと、杉沢は大丈夫だから急ぐな、と言う。
二月二十二日
午前中防空演習。二時間の予定の所、後の一時間は町内の戦没者の告別式に出るので、一時間のみ。久保田家に焼夷弾落下と想定し、初め二三人の女性に屋内に空バケツで操作させ、次に屋外から水をかけ、次には隣家から水を運ぶ操作をし、その後爆弾落下、全員伏せをし、後久保田家夫人と幼児を避難させ、家を掘り出す操作のため、鋸、鍬等を持ち来る稽古をして止める。今度は面白く運ぶことが出来た。そのあと、町内西端の告別式に参列す。
午後、町に出、淡海堂に寄ったが野長瀬君留守。蒲池君を神保町に訪ねたが留守。小林氏のために、牛込の中文館へ行く。歌舞伎図説は三月末でないと出来ないとのこと。それまで小林氏が生きていてくれればよいと思う。そこの編輯の人から三日ほど前に出版会から、第二次の認可が下りたと聞き、多分新潮社もその組の筈と、考えて、社に行く。三日も前なのに私に知らせないとは怪しからぬ、といささか腹を立て、先ず新潮の室に入り楢崎氏に、認可が下りたのですか、と訊ねると、楢崎氏は、ああ、ちょうどあなたに挨拶しなければいけないと、哲夫氏と話し合っていたところですと、電話で哲夫氏を呼び出す。楢崎氏は認可のこと何も言わなかったが、哲夫氏が入って来て、一昨日認可が下りましたと言う。そして二十四日頃から出社して頂くつもりですという。私は少々向っ腹で、一体今月の月給はどうなるのですか、と訊ねた。すると哲夫氏は、いやその件も私は兄に話して今月から出してもらうようにしてあると言う。私は、礼を言い、こんな時代故、何かの都合で仕事のない月があっても月給はもらわないと困りますからねえ、と念を押しておいた。出勤は週四日で、日どりはどうでもよいこと、午後から出ること、机もきめること等決定。二十四日は学校があるので、二十五日から出ることに話し合う。その日月給を出すという。なお出版部には、菊池重三郎、斎藤十一、丸山泰治、それから長沼氏などで五人の由。私は企画部の主任となるという。楢崎氏と二人の時、バターの話をし、五ポンドしか分けられないというと、楢崎氏は、それでは中村氏には話をしてないから、それを全部私がもらおうと言う。これで勤めのこと決定してほっとする。今月の月給をもらうことは、残ったバター一箱の代をすぐ払えるので助かる。
この日〔二十一日〕永野海軍軍令部長辞して島田海相兼任し、参謀総長辞任し東条陸相の兼任となる。こういうことは、日露戦にも例が無く、国難の最高潮時に達したことが、明らかに知られる。自分が雑事に多忙を極めて日を送っていることが心もとない。深刻に考えるべき一刻一刻が経つのに。
芸術科より、二十四日二時から「満洲の経済と文化」につき特別講演をせよと言って来ている。
夕刻新潮社からの帰りに、六時頃病院に寄る。夕食もすんだ頃で病院内は、この頃の節電の為真暗である。小林氏の室に寄り、貞子が児玉医師の証明をもらってやっと買った体温計を渡し、また今日中文館で聞いた歌舞伎図説の出版の遅れる話をする。小林氏は病院の食物不足の話をし、杉沢が薯や米をみな自家に運んだり、外の人に分けてやったりしたことを言い、角立たぬようにそれ等を返してもらってくれと言う。実は杉沢は私にも呉れるとて、白米や薯のことを言っていたのであるが、私は米だけは辞退し、菊をやって醤油と薯をもらっている。それを返さねばならない、と考える。また話しているうちに、扉を外からこつこつと叩くものがある。「こら誰だ」と小林氏が言う。開けて見ると、それは、明君である。私がこないだ本を持って来てやると言っていたので、私が来たのを知ると待ち切れないらしい。私は鞄から少年倶楽部の古いのや週刊少国民を出してやって、お兄さんと二人で見なさいと言うと、にこにこしている。それから、夫人と明君との室へ行く。夫人は、コップが無いとか、小沢さんという留守をたのんだ人に何を盗まれたとか、針箱が無いとか、それから杉沢家へ行っている食料品のことを、くどく何遍も言い、すぐ明日にも米や醤油などを返してほしいと言う。病院の食事が足りないがちで、昼には水のような粥を出されて喉に通らないなどと言う。蒲田にいる姉が見舞に来たらしいが、それをはっきり言わずに、二三日前に杉沢と小保内君とが運んでやった荷物のうち不足したものを並べ立てる。こういう非常の時に、何から何まで手抜かりなく運ぶということが不可能であるという話を言ってやっても、納得出来ぬらしい。そして、明を早く引き取ってくれないか、と言う。先日児玉医師が明君はラッセルが聞えるから、とても私の所に引取らせるわけには行かないと言っていたので、私は、はっきり返事をしなかった。明君は可愛らしい少年でまことに可哀そうではあるが、私の所にも子供がいるし、貞子が明君を引き取ることはよく考えれば、夫人の実の姉や兄が東京にいて見れば、私たちがすべきことでないのではないか、と言い出している折だからである。近く私は辻堂へ行って転出のことと、医師への支払のことなど片づけてやると約束し、医師への支払の分として十円受取る。また杉沢家にある米その他のものは明日午前中に菊に運ばせると約束する。こうして、療養所に入って見ると色々不足やら不満が出て来、それがいつも見舞っている者に押しかぶせられることになる。そして親切にするということが、その人たちの不平や不満の対象になる。それが人生だと思う。どうも杉沢や私たちが今度はこの夫人などに悪く思われることになる番ではないか、など考え憂鬱になる。夜九時頃家について夕食をする。
二月二十三日 晴
昨日から滋風邪にて、昔やっていたような深い咳をしている。注射や服薬をさせる。
麦畑の手入れをする。先日、昨年末に江口君の世話で買っておいた馬糞をやったのだが、今日は、サクを切ってやる。やりながら、隣の農家でやっている畑を見て、なるほど南側の根のわきを削って次の畝の北側へ盛ってやるのは、根を暖めると共に、日光をまともに浴びるようにして葉も暖めてやるのだな、と気がつく。そういうことに、もっと早く気がつかねばいけないと思う。農家の人のすること、ちゃんと理窟に合っているのである。私の麦は薄播きのせいか、ほそぼそとして勢がないが、何とか手入れをしてよくして行きたいと思う。
この日の朝菊を自転車でやり、私の所へ杉沢がよこしていた小林家の醤油や小豆を戻し、同時に杉沢家にある白米、醤油、小豆等を病院へ運ばせる。貞子も外出して、児玉家へ寄る。小林家の明君の身体の様子を児玉氏に確かめる為である。午後貞子が戻っての話によると、やっぱり児玉氏は明君は少くとも半年は治療せねばならぬとのこと、明君は可哀そうだが、貞子はほっとした面持でもある。こういう食うものは人数が多いほど不足量が多くなり、着るもの穿くものは手に入らぬという時に、病気がちの子が一人でも家に来るというのは主婦の立場としては大きな負担であるのも無理が無い。
一昨日か杉並区役所へ、京王電車の開発課で家の登記をする為に世田谷に寄留しての印鑑証明が必要だとのことで、杉並の寄留証本をたのんでおいたので、この日菊がそれを取って来る。
昨朝刊――米機動艦隊トラック島に来冦す。飛行機百二十機、輸送船十三隻、巡洋艦二隻等、我方は空前の損害を被る。敵は積極的である。ラバウルの次はトラック島だと、敵は前から盛に呼号していたが、突如としてマーシャル群島に上陸し、その勢を駆って、我方の後方深く、要衝のトラック島までやって来た。戦争は急変したきざしがある。我方の艦隊は出撃しないのか。それにしても、我方は飛行機、空母等が足りないので、出撃し得ないのであろうか。または敵艦隊をおびき寄せようとしているのであろうか。思い合わされるのは、先日峰岸君のところへ行った時、彼の義兄桜井氏が海軍省の通信の方に下士として勤務しているが、桜井氏と仲のよい某通信参謀が、日米の海上決戦は輸送力の釣合上、小笠原島辺になるだろうと言い、またその参謀の住所は横須賀であるが、全く内緒で荷物を桜井氏の弟の蔵西君の寺へ送って預ってもらっているという。そういう場合のことまで我々は考えておかねばならぬ、というのがこの頃の私たちの常識でもある。
トラック島に来襲した敵は、そのまま上陸するつもりではなかったらしい。しかし勢に乗じて、この島への上陸戦をも敵が近いうちに行わぬとは言われない。若しこの地点を敵に取られたら、その真南にあるラバウルはどうしても守り切れるものでない。またここから西方のグアム、フィリッピンと敵が進めば、我国は南方と切断される。そのことが悪夢のように屡々考えられる。敵将ニミッツは、米軍はフィリッピンを経由して支那大陸に軍隊を送り、そこから日本を攻撃する足場を得ねばならぬ、と称している。だが敵がそれを為し得る以前に、日米の主力艦隊は海上で大決戦を戦うにちがいない。それがこの大東亜戦の頂点となるだろう。敵のこの中断作戦が成るか、それとも乾坤一擲の我艦隊の邀撃戦が成るか、大東亜戦争はじりじりと海上決戦という大詰に近づきつつある。決戦は四月の予定だったが飛行機増産の都合上六月に延期だというのが巷の説であり、ほぼ正しいように思われる。欧洲の第二戦線もその頃だろうか。
二月二十四日(木)
朝自転車にて世田谷区役所砧派出所(祖師谷大蔵駅)に行き、寄留届、印鑑証明をもらい、ついでに兵役の復役届を書いてもらう。
午後学校に行く。生徒十名程に「満洲旅行談」として旅順戦の話と旅の印象を話す。永野正人氏より謝礼として十円を受取る。学校は理科系に転換する予定にて、そうなると映画科、写真科、造型美術科の三つとなり、兵役延期の特典を得られるだろうとのこと。昨年末に文部省で発表した大学専門学校の統合は、これまでの所命令的には殆んど行われていない。但し文科系は収容定員を半減されているので、廃校するか合併するかしないと経営が成り立たないという実状にあるという。芸術科がこれを機会に理科系に転ずる予定にしたのは、その点もあるという。但し教授内容は理科のものが多少増加するのみで、これまでと大差なく、新学期には私にも一二時間受け持てとのこと。滋の咳いよいよ本格的になり、受験日も近いのに心配なことだ。
二月二十五日
朝バターを鞄に入れて出かけ、京王開発課に寄り、馬場氏に三ポンド渡し、適宜に分けてくれと言う。北村氏は不在。代金は後に受取ることとする。その足で池袋駅に行き、滋の湿布にする糾霊根の店を捜して買う。(一箱五円)
午後新潮社に行く。その前に楢崎家に寄り、バターを五ポンド渡し、二十円受取る。一円は先頃持って来てやった人参の代として無理に夫人がよこしたもの。初めて出版部の室に入り、長沼、斎藤、丸山、菊池等の同室の人に紹介され、それから哲夫氏の案内で社内の各室に挨拶にまわる。調査室(校正室)には「先生に学校で習いました」という青年あり。芸術科にいた学生であろう。どうもぎごちない感じながら、やっと社員になった形。出版部の室に戻り、夕刻四時半頃、皆について月給をもらう。税金として七円を引かれ、百九十三円受取る。
二月二十六日(土)
この日朝刊に、ルオット、クエゼリン両島の我守備隊六千五百名の全滅の公表あり。いよいよ凄絶な戦況となった。皇族の出であられる音羽侯爵も海軍大尉として戦死遊ばされる。敵は太平洋の島々を蔽って肉迫し、西へ西へとやって来るのだ。同時に三月早々から、非常措置として政府は、女子挺身隊の強制配置、中学生以上の勤労強化、享楽面の閉塞、疎開の急速徹底等を決定、実施することとなる。日に日に事態は緊張して来る。滋など中学へ入っても、勉強などあるいは十分には出来ないようなことになりはしないかとも思われる。あらゆるものが急歩調で進行しはじめた。
滋は発熱せず、咳のみだが、下手に昂じてラッセルでも聞えるようになると困る。受験のこれまでの努力がふいになる危険に面している。この子の生涯を決定すると思われていた受験のことも今日頃の国家事情から言えば、はかない泡をとらえることのようにも思われる。しかし心配なことだ。
午後新潮社に出社。特に仕事というほどのことなく、社主たちの疎開移転で社内がそわそわしている。日本思想家選集の編輯を差しあたって私が受け持つことになりそうである。その中の亀井君の「親鸞」が出来たとて、斎藤十一君が一冊くれる。雑談して、ストーブに当り、夕方帰る。
昨夕第一班の井上班長が家に来て、二十八、九日は、警戒管制の練習をし、一日の朝には警官立合で防空資材の点検をするということを伝えてほしいと言った由。
二月二十七日(日)
朝自転車にて、隣組内に昨夕の井上氏の言葉を伝えて歩く。そして更に祖師谷大蔵駅近くに佐伯郁郎君を訪れる。前々から一度訪ねたいと思っていたのである。訪満の折に世話になった礼にバターを一ポンド進呈し、井上課長にも一ポンドことづてる。雑談の間に敵艦隊がトラック島よりも更に内地に近いマリアナ諸島に来襲した由を聞く。近く発表になるだろうとのこと。正午頃辞して、更に千歳船橋駅に川崎昇君を訪れる。五丁目町会にいるということで堤家の事務所に行く。話をしているうちに、川崎夫人が来て、北海道から沢田斉一〔郎〕君が来たと礼が自転車で知らせて来たからということ。川崎家へもバターを一ポンド進呈し、急いで自転車で戻る。
沢田君、親戚の子が東京で死んだので葬式をしに来た帰りだとて、よく話をする。彼の司っている巡回映写班の話、無電駅においての列車映写を初めて彼が行った話、北海道は全道各地に飛行場が出来ていて、十分のそなえとなっている話等。積極的な性格の彼らしく、話に面目の躍如たるものがある。地下足袋やゴム靴を手に入れてくれるという話。
夕方彼が帰るとて駅まで送って戻ると、井上氏と家の前で逢う。先日から貞子がバターを薯と交換してくれる所がないかと井上氏に話していたところ、夫人の勤めている青年学校の教員が、四ポンドほしいと言い、その代り七月頃から麦と薯とで返すと言っているとのこと。そのことを決めてくれたことの礼など言っていると、井上氏は、謄写版で印刷したものを渡す。それは二十八、九両日は夕方に翌朝の御飯を炊いておいて朝には火を使わぬことという注意書きである。回覧にもなるから私は群内を歩かなくてもいいが、急に事態が緊迫している感じが濃厚であるから、よろしくとのこと。
夕食の直前、桃野氏より窪田家の前で臨時常会をするとの伝言で大急ぎで行く。薄闇の中で桃野組長(町内の防衛指導係長)は興奮した面持ちで、今朝電報で警察の呼び出しを受けて行ったところ、署長など昨夜は一睡もしないとてひどく緊張している。明日、明後日は甚だ緊迫する故、朝食分を夕方作ることの外、非常持出の貴重品などを揃えておくようにと言い、念を押す。警察ですることになっていた防空訓練の諸行事の予定は悉く取りやめとなって実戦的な準備に集中している位だから、皆さんもよろしくとのこと。
聞いていて、これは容易ならぬことだ、と思う。佐伯君の話もあり、敵機動部隊が相当に本土に肉迫している感じがひしひしとして来る。しかし子供たちに不安を与えてはならぬので、夕食を済ませてから貞子と二階で相談し、食糧の外、持ち出す衣類や膚着など、二つ三つの包みを整理し、私たちも子供たちもすぐ着れるように枕もとに外套などを揃える。十一時近くまでかかって、現金、証書類、米、缶詰め、下着、外套、アルコールやグリセリン類を整理して縁側に並べて寝る。夜空襲があったら、応接間前の壕の上に畳を置いて入るという予定を言い渡して寝る。
まだ警戒警報も出ないのだが、これまでのどの警報時よりも真剣に考えられるのは、戦況等にもよるし、この頃ずっとやかましく毎日のように新聞で論じられている疎開の話などによって、空襲が現実味をもって考えられるからである。寝てからも、知人の子供たちが明日にでもあらかじめ避難して来たら先ず食糧が心配だと話し合う。
二月二十八日 昨夜何ごともなし
朝から、畑の東南隅に新しく防空壕を掘りはじめる。一尺七八寸の狭い幅で五六人は入れるように細長く、七八尺も掘り、上に渡すために、垣根の支柱を一本おきに抜いて十本集める。午後までかかってやっていると、午後突風ひどくなる。その頃田居君が遊びに来る。聞くと三鷹の方には、ちっともそういうせまった空気はないとのこと。しかし加持夫人が午前中に立ち寄って話したことによると、今朝から駅の向うの甲州街道は疎開の荷をつけた牛車やトラックが続々と西方へ動いて行き、盛な風景である。また加持家でも知人から行李を二つ預ってくれと言われたりしているとのこと。田居君にそういう話をしてやる。夕方近く彼が帰ってから、更に掘り、四尺位の深さになってから、板類を捜して蔽いとする。半分ほど蔽いが出来て土をかけかけて、あまり砂塵がひどく、それに夕闇となって来たのでやめる。
この日午後新潮社へ出社の日であるが、こんな状況なので休む。勤めて早々のことで気になるが、空襲でもあったらと思うと、帰って来るのが容易でないと思い、やめる。加持夫人と相談して、組内夜十時から二時間ずつ警報下は交代で起きていることにする。夕方、今度六組となる五軒の方へもそのことを言い伝えに行く。
二月二十九日 今年は閏年
午前中から社へ行こうとしていると奥野数美君来る。応召とのこと。一昨年の秋四年間の北支駐在から除隊になり、帝大図書館に勤務していたのである。覚悟がよく出来ていると見えて、今度行ったら軍務のことは何によらず尻込みせず十分に尽すつもりであると元気よく話をする。心掛けが洗われたように美しく、いいなあと思う。餞別五円包み、持参の国旗に署名す。昼頃帰るというので送って出て、新宿の京王電車の東京パン食堂で一緒に昼食をする。明朝十時にお茶の水出発にて津田沼に入隊するという。
社に行く。日本思想家選集を大体私が受け持ち、差しあたり文理大教授の肥後和男氏の「藤田東湖」の原稿を四月中に書き上げさせるよう催促することとなる。哲夫君が一冊、斎藤君が一冊受け持っている。出歩くのが気に入らないが、そんなことぐらいしか当分仕事がなさそうなので、明日私が行くこととする。
滋の風邪大分よし。咳なおあり。
夕刊にて、情報局発表として、三月五日よりの高級料理店、高級劇場、待合、芸妓、の廃休業、女子挺身隊制度の強制化つまり女子の徴用の実施等の具体案発表される。大事件である。しかしこれまで目の敵にされたこれらの施設が無くなるのは結構だと思う。なお官庁は無休となり、日曜に交代に二週一度の休みが出る由。緊急態勢の大躍進、国内生活の未曾有の変革である。急歩調である。心がひきしまる感が深い。どんな変化も一日にして実現しうる時代なのだ。
[#改ページ]
[#2段階大きい文字]昭和十九年三月
三月一日
朝家にいるうちに九時半となり、奥野君を見送るため慌ててお茶の水に駆けつけたが間に合わず。残念なことだ。外に何人かの応召兵あり。一しきり今また応召する人が多いのだと思う。心残りだが、昨日大分話をしたからと自ら慰める。電車にて文理大に行ったが肥後氏は休み。電車内で、これまでに出来ているその原稿を拾い読みする。あまりよい原稿と思われぬが、まあ、この程度のものか、と考える。池袋から要町の肥後氏宅に行く。夫人が出て来て、出張中だと言う。原稿を渡し、要点を名刺に書いて伝え、来週水曜午後に学校の方へ行くと言いおく。池袋で三十分ほど行列して雑炊粥を食う。
その足で吉祥寺に行き、昨日から貞子にやかましく言われていた入学試験用の写真のこと聞くと、必要だとて台紙をくれる。今春はどこでも写真を使わないということであったが、ここだけは高等学校の尋常科故必要と思えば勝手にそう言うのであろう。今朝、先日貞子が田居家から借りて来たカメラで滋を五枚ほど写しておいたので、とにかくそれを自分で現像することとする。だが試みに三鷹駅前の写真屋で、写真をとってもらいたいが何日かかるかと言うと、一月だとのこと。ひどい話である。先頃田原君の結婚写真は六十日かかると聞いた。写真の資材が少いのに写す人が多く、それにこういう店の主人は外に出て勤めるようになっている為であろう。急に不安になる。現像薬や印画紙など二年も使ったことなく、みな古いものなのでうまく行かないかも知れず、すでに今日から願書を受理しているので、貞子も滋もやきもきしているのだ。これはうっかりして手ぬかりをした。田居家に寄る。梨を出される。夕方まで雑談して戻る。夜不安だが思い切ってM・Qなどを出し、タンクで現像をして見ると、案外にうまく出来る。しかし引き伸ばしの機械は田居家へやってあるし、取って来ても自信がなく、川崎君の弟の佐藤重雄君に頼もうと思う。
三月二日
朝来、烈風で家の中は十分もすれば忽ちひどい砂塵に埋まる。思い切って自転車で川崎家へ朝に行く。重雄君いる。印画紙が無いので、それがあればしてくれるとのこと、今日午前中に成美社へ届ける約束をして、ひどい向風に砂埃の中を戻り、印画紙と薬をそろえて鞄につめ、出かける。九段下の成美社に届け、新潮社へ十一時頃行く。昨日の肥後氏の件を哲夫君に報告し、近く刊行される日本文学辞典の改訂版の下見の分を三四十頁分担する。午後情報局の時局懇談会があるので、十二時頃出かけ、肴町で三十分立って待った揚句海苔巻寿司にありつき、その向の家でアンミツというものを久しぶりで食う。烈風の中に女たちと行列する。二時から情報局に「文学報国」の編輯と論説の委員集り、井上課長、〔アキ〕課長から時局談を聞く。後者の話、面白し。当局の戦局観として面白く聞く。ドイツは東部で予想外に強力なロシアの攻撃に直面し、守勢となって難戦しているが、まだまだ食糧武器が十分故、心配はないということ。昨年秋から英米は外交攻勢に出、目下フィンランドを脱落させ、スペインやトルコを味方にする工作をしていること。英米の第二戦線は六月頃の見込だとのこと等。大体知っていることながら、当局の見方として聞くと、またはっきりと理解される。
帰路春山行夫君と一緒になり、彼の生活の話を聞く。細君が病気なので滋養物を買うので、とても金がかかり、昨年など月に七百円も要ったという。麦を食う(彼自身も糖尿病にて、すっかり痩せ、悪い顔色をしている)ので、それを田舎から買って来る話や、闇のルートが二つほど彼の家に入っていて、それだと魚は一貫目三十六円が相場だということ、平目一匹を十八円で買った話、卵が五十銭であったが、この頃は一円〔二円?〕に三つでも思うように入らない話など。その為めにあった金も昨年中で使ってしまった、という話など。なるほど配給で病気の人がやって行けないとすると、ひどいインフレーションの生活をしなければならないのだな、と病気ということと、今の生活とに恐怖を感ずる。私の所など薯を少々手に入れる骨折だけで、ずっと安くすんでいるので有難いことと思う。彼も疎開を考え、甲府へ行こうと思っているが、本が多くて大変なのと、病気の妻君をどうして連れて行くかということで弱っているという。この頃は月々の経費も計算せず、行きあたりばったりに暮している由。
滋の風邪直り、咳をせず。小林家の転出の用を果すため辻堂へ行く暇のないのが気にかかっている。鶏は三日に四個位ずつ卵を産んでいるが、小屋が不完全なのに金網で造ってやれぬのが気がかりである。犬にとられたら事だ。礼と滋には、その度に卵を食べさせられる。毎日粥だが、バターと卵があれば、どうにか健康を保たせて行けるであろう。魚の配給のあてに出来ないこの頃、この二つが我家の食生活の最大のより所となった。板谷君の所へ、いつか見た鶏の雛をもらいに田居君と行く相談をする。
成蹊六十人募集の所(一日から七日まで受付)すでに五十八名とかになっている由、新聞の各学校志願者数の表に出ている。
この日、新潮社で「日の出」編輯長の道夫氏から、最近敵戦艦、空母等を五六隻も沈めたというニュースがあり、近く発表される筈だと聞く。だが情報局の会では別段の話が無かった。デマであろうか。それとも当局がわざと伏せているのであろうか。重大なことのありそうな気配であるが。
三月三日 雛祭 勤めは休日
疎開の具体化ますます進められ、街上でトラック、牛馬車が疎開荷物を運んで市外に赴くのをよく見かける。今朝の新聞では、今日から東鉄の各駅で小荷物の受付を停止し、またこれまで手荷物が一人二個であったのを一個に制限すると出ている。これは疎開策に反することのようであるが、実は疎開の荷物が各駅に殺到し、始末がつかなくなって来た為らしい。また東京都内と限定しないのは、買い出しの連中が、小荷物や手荷物の托送を乱用するので、全面的に管内にこの制度を実施することとしたのであろう。疎開の荷物は証明づきで貨車輸送をするらしいが、掛声の割にまだ少く、各区で二百とか三百という程度らしい。今荷物を運び出しているのは、比較的余裕のある人々であろう。また荷物を地方に送っても、自分たちは都内で生活しなければならぬ条件にある人が多いから、荷物の割合に人は動いていないのだ。疎開区域の建物の取りこわしには、人夫の外に学生生徒も動員し、その破壊材の一部をトラックの燃料に使用することを、住宅営団の長谷川という工事班長が提言している。毎日各新聞には疎開問答というような小欄が設けられていて、相談口調で説明している。都民税二円以下のもの、軍人遺家族、転業者等には疎開の援助金が五六百円下附される。しかし七百万とか八百万とかいう都内の人々が、本気に疎開することになれば、今の運輸力ではどうにもならないであろう。また、今でも荷造材料に不足して、材料は自給とか、荷造は簡単にとか言われ出している。疎開政策なども、政府のやり方は、後手後手とのみまわっている感がある。昨年末頃になってから急に言い出しているが、本当は企業整備の問題のやかましくなった一昨年頃から、それと同時に進行させるべきことであったのだ。工場の疎開は表立って論ぜられぬので分らないが、どの程度に行われているか。重要工場を空爆に曝すようなことは、どんな意味からも避けねばならないのだが、多分充分には行っていないのではないか。市街の破壊よりもそれが心配なことだ。いずれにしてもこの四月頃東京の市街は爆撃されるにちがいない。
しかし、最近になって、総ては急速調で進められている。私など昨年のうちに無理にこの家へ移っていたから、ほぼ安心していられるが、一昨年秋、この家を買う時に、私が、「ここなら空爆にも安全だ」と言ったことを、田居君など滑稽なことに聞いていたとこの頃彼は告白している。そんな気分が一般であった。先々と分っていることも、新聞などでやかましく書き立てる迄は、本気になって考えない、というのが人情である。
この日、朝、滋の写真のこと心配なので、起きるとすぐに、自転車で川崎家へ行く。引き伸しは大変よく出来ている。ほっとする。印画紙など買っておいてよかったと、本当に思う。まだ五六袋あるのを大事にしなければいけない。現像薬や定着薬も当分使えるだけはある。写真屋はあてに出来なくなったのだ。礼を言って、早速家に戻る。
先頃から気にかかっていた小林家の転出を片づけるため、辻堂に明日の土曜日午前中に行こうと思い立ち、朝十時頃新宿駅裏口に並ぶ。百人位も前に並んでいたので、十二時近くなって、やっと切符を買う。その時列の中にいる青年がそばに立っている老婆と話しているのを聞く。
「今日切符を買いましてもあなた、今日はもう半日しか無いから出かけられないので、明日参りますんですよ。」
「僕は汽車には乗らないんです。手荷物にして田舎へ荷物を送るに切符を買っているのですから、二枚も三枚も買わねばならないんですよ。」そんな話をしながら、大分春めいて来たとは言いながら、膚寒い陸橋の上の風に吹きさらされて二時間も立っているのは、辛いことだ。小林家のためにこういうことをしてやっても、どういう訳か小林夫人など当り前のことのように思っている風がある。しかし、自分としてはやるだけのことはやって、向うの人の気持はあてにせぬことに心をきめる。幼時から親しんだ小林氏への心づくしの気持がすめばそれでいいのだ。
三四日前税務署からこの家は(京王から買ったのでなく、私が建てたことにして届けてある)建築税がかかる予定故、契約書類を提出してくれと言って来ている。そうすると建物が一万円以上に評価されているわけである。九千円ほどで買い、馬場氏も一万円以下だから建築税は付かぬ筈だと言っていた。しかし次第に建物の評価規準が上っているのでそういうことになって来たのであろう。その相談に、京王電車を訪ねたが、誰も開発課にいない。二階の東京パン食堂の行列に加わって八十銭の定食を食う。足りないのでまた並んでもう一つ食いやや腹を満たす。ここは比較的楽に食事の出来る所である。済ましてからバスで鍋屋横町に行き、本郷国民学校に渥美先生を訪い、成蹊に出す願書を見せる。尋常科卒業を初等科修了と直される。
家に戻ってから、滋に成蹊を一度見せておくのもよいと思ったので、二人で出かける。三時迄受付というのに三時半頃着いたが、受けつけてもらう。八十三番である。六十人定員の所であるが、志願者は百名位になるかも知れない。滋の様子自信ありげであり、荒木女史、渥美先生も大丈夫だろうと言ってくれるので、私たちもほぼ安心している。夜文学辞典を通読し、二三誤植と発音の誤りを書き出す。
政府は更に決戦の措置として都市学童に七勺の昼食を給すること、疎開を急速に大規模に実行すること、空地利用を徹底化することを閣議で決定、発表した。学童給食は大英断で、将来の国民の体位確保にもっとも役立つであろう。疾風のような変革が国内に渦を巻いて吹きまくっている。
三月四日 土
朝貞子が起きて玄関へ出るとすぐ、「大変よ、小林さんが亡くなった」と言う。「キタイチロウシス コバヤシ」という電報、昨夜知らぬ間に配達が投げ込んで行ったものらしい。しばらく病院を訪ね得ずにいるうちに、とうとう小林氏は亡くなった。茅ケ崎から運ぶ時に、医者があと一週間かそこらだ、と言っていたというが、すでに二十日近くも持ったわけである。あの人が亡くなったのかと感慨の深いものがある。運ぶ日に児玉医師が診察する時見たが、ほとんど骨そのものとなっていたのだ。しかし療養所に入ってから案外元気だったので、或はもう暫く持つかとも思ったが。中文館の歌舞伎図説を見て死にたいと言っていたが、とうとうそれもかなわなかった。こういう急迫した時代の荒々しい空気に耐えられないように、この人も世を去った。新潮社からも今日午後出社されたしとの電報朝に来る。貞子と朝食後出かけ、先ず療養所へ寄る。夫人もこの一週間ばかりのうちに、げっそりと衰え、ことに昨日からの気持の変化のためか、起き上ることも出来ないと言う。死相が顔に現われているように思った。(上の子も助からぬ、と児玉医師は言う。)屍体安置室に入れば、白布をかけた屍体二個あり。右側が小林氏で、顔の白布をめくると、目を閉ざした細面の小林氏は、鬚も剃ってあるためか、まるで青年時代の面影そのままの安らかな相をしている。拝して夫人の室に戻り、夫人を慰める。夫人はすでに起上れず、対面もしなかったらしい。昨日の朝、看護婦に喉が痛いと言っていたが、やがて息苦しいと言うので、看護婦が医者を呼びに行った間に亡くなっていたという。ちょっとの間のことで死相は極めて安らかであった由。この人の少年時代、青年時代がありありと眼に浮び、これが人間の一生かと、万感のせまるものがある。夫人と同室に寝ている明君、元気で、しかし怒ったような顔をしながら胸の上に本を開いて見ている。可哀そうに、と思う。この子の父は死に、母はまた病に臥れ、兄も死のうとしている。
貞子は児玉医師宅へ、私は杉沢家へ行く。留守で、杉沢氏は児玉家にいるとのことでそちらに行く。杉沢は昨日悦子ちゃんが迎に行き、夜戻って、すぐ病院へ行って見た由。
杉沢は小林夫人に対してしきりに腹を立てている。夫人が、杉沢が家財を運ぶ間に食糧や家具などをどうかしたと考えて、そんな不満を人に洩らしたものらしい。骨を折ってやって変な目で見られるぐらい厭なことはない、と言う。それも尤もである。しかし杉沢も小林家の食糧は入院すれば直ちに不要のものと勘ちがいして、それを人に別けてやったりしたのは、少々やり過ぎであったが、小林夫人もまた愚痴っぽくて困った人である。それはそれとして、差しあたりどうするかということになり、児玉家の知人の金持で中井さんというのが小林の家を買ったが、その登記がまだ済まないから、相続してからでは面倒になるので、死亡届を延期して、登記を済ましてはどうか、というのが杉沢の意見であったが、診察中の児玉氏がそこに顔を出して、死亡届を延期することは保険会社の方などうるさいので決して出来ない、とのこと。それではやっぱり相続後買入れということに決定する。
杉沢と二人、療養所へ行く。そこには小林夫人の実姉、姪、甥等が来ている。その人たちに向って杉沢が以上の事情を説明する間に、私は事務所との間を何度も往復して死亡診断書、埋葬許可証願等の書類を整える。杉沢はその間に夫人の姉という中老の婦人に、夫人の親戚が冷淡だということをそれとなく言っている。書類が出来てから、私は杉沢家で昼食を馳走され、二人でこの件を話し、私たちは小林氏自身に対するよしみでこうして骨を折って来たが、氏が亡くなり、あとに夫人とその実兄、実姉がいるのであれば、以後は大した手出しの要がないであろうということに意見が一致した。そこへ塩谷の村長をしている小林氏の義弟亭治氏から、杉沢あての手紙が来て、杉沢の労を謝し、末の子が丈夫であれば自分が引き取って育てると言って来ている。明君も可哀そうだが、それが順当なことであろう。着るもの穿くものまで何等余裕のない今、私の家でこの子を引き受けることは、考えて見ればどうしても無理である。
私は昼食後、新宿駅で杉沢の名で小林亭治氏あてに「キタイチロウ三ヒアサシス スギ」と電報をうち、二時頃になったので、とりあえず新潮社に顔を出す。電報が来ている以上何か重大な用かと思ったのである。今夜六時から富坂の富士…という支那料理屋で出版部の初顔合せの会(高級料理店で食う最後の機会という意味でもあるとのこと)があるという。辞典の校訂原稿を哲夫氏に渡し、夕方を約束してすぐ社を辞し、杉並警察に行き、埋葬の許可と木棺の切符とを出してもらい、療養所の用をしつけているという中野警察前の津の国屋という葬儀屋に行く。ちょうど、今朝死体安置室にあった多田さんという死者の身寄の人も来ている。葬儀屋は、この頃はガソリン不足のため二つの棺を一車で運ぶことになっているという。変なことだと思うが、棺さえも今月から切符になったからよいが、その前は手に入りがたかったという時代のこと故、多田さんの身寄りの学生と若い女の人と相談して、一緒にしてもらうこととする。中等という最下等にして、葬儀屋への払が六十円、火葬場への払が四十一円となっている由。明後六日午前十時納棺、午後一時半に火入れの由。万事よろしくと頼んで、小雨の降る中を傘なしで歩いて杉沢家に来て、報告する。貞子も児玉家からの帰りとて一緒になる。私は杉沢家で傘を借りその足で更に療養所に行き、夫人に葬儀の件を報告する。二人一緒の車という点で夫人は考えるように眼をつぶっていたが、やがて仕方なさそうに「それも賑やかでいいでしょう」とて同意す。まことに気の毒であるが、致し方ない。夫人は明日電話で親戚に伝えるという。
もう夕方五時である。何という忙がしさであろう。貞子は、滋の入学試験が十四日故、明日の日曜にはどうしてもかねて頼んである阿部保君に成蹊の松岡副校長の所へ面会に連れて行ってもらいたいから、今日のうちに阿部君と連絡してくれと朝から言っている。死んだ人も気の毒だが、子供の一生のことだからと念を押す。それに新潮社での初顔合せという会も、夕食のこともあり、高級料亭での最後の食事でもあり出席したい。
電車でごとごと暗い街上を揺られ、富士…に着いたのは七時頃である。この日菊池氏は徴用令状を受けたとて出席せず。同氏は四十四歳というが、同氏が出版会への届けに私たちと同じように名をのせているので、若し出版会の方からこの人の徴用の免除をなし得ないとすれば、私なども考え直さねばならぬ。赤い支那酒、日本酒、麦酒等かなり沢山に出、料理も多く、また哲夫氏持参の白米のお握りもあって十分である。女中の配慮で牛のロース百匁五円の割で皆が分けてもらうこととする。私はその席の間に阿部君の所の呼び出し電話を六度も七度もかけても出ず、結局八時頃皆がそこを出て、これから牛込の哲夫氏宅で夜明して飲むというのだが、私は玄関で早く出て外の闇に身をかくし、電車で本郷追分から更に暗い路次を入って行き、うろ覚えの道をたどって、ちょうど寝ようとしている阿部家を起し、玄関でその件、明日吉祥寺駅で十時過に待ち合せることと約束し、やっと家に戻る。九時頃本郷辺は闇が一面におおい、たまに電車が明りをつけて走るのみであり、暗澹たるありさまである。東京の夜は悉く変貌した。何という多忙の一日であったことか。
夜、明日は成蹊の清水教授と松岡副校長に逢うので、久しぶりに入浴す。
政府は決戦非常措置として、大都市における学童二百万人への七勺ずつの給食と、空地利用の徹底的実行と疎開の急速実行要領を、細目にわたり詳細に発表した。官庁、銀行、諸統制会、営団等の日曜休みの廃止なども大きなことである。また旅行は強度に制限し、疎開で送る品物にも制限を加えるという。しかし同時に各新聞社から発表された夕刊の発刊休止も大事件である。毎日六頁(月金四頁)のうち二頁廃止である。夕方にほっとした気持で夕刊を見ることも出来なくなったと思うと、まことに佗しいことである。これは毎日じかに身にこたえることだ。
三月五日
皇軍は緬印国境で七千の英軍を殲滅したという。しかし太平洋方面の不安は何とも言えず、日ましに強まる感が深い。
朝吹雪、一二寸の雪。寒し。滋のことで貞子と私とは、八時前から吹雪の中を外出す。吉祥寺駅を出た所で貞子とはぐれ、吹雪の中を鞄と傘を持って歩くと両手の指が冷たく痛くなり、腹立たしくなって来る。その上清水家が分らず、雪の中を二三十分もうろうろする。やっと捜すと貞子が先に来ている。清水〔護〕氏には初めて逢う。学校の様子など聞き、三十分ほどで辞す。貞子は高橋健二氏宅へ寄り、私は駅で阿部君を待つ。阿部君構内に待っていたとて、十一時近くに、やっと出逢う。ひどい雪の中で気の毒至極だが、成蹊の横の松岡家を一緒に訪ねる。学校へ行っているとて、更に学校へ行き、漸く松岡氏に逢う。試験が厳重で昨年は教師の子供も落第するほどであったなどという話。しかし昨年も願書は百三通か集ったが本当に内申書を出したのは八十名で、その中から六十名とったから案外試験の率は楽だという話など。十五分ほどで辞す。持参のバター三ポンドを贈る。
吉祥寺駅で阿部君と別れ、家に戻る。寒さと、長靴に入る雪のため苛々してひどく疲れる。午後炬燵を入れて日記を書いていると、岡本芳雄君来る。「山襞」の批評の礼を言う。学芸社というもと彼の勤めていた本屋の主人に引っかけられて一万円の不渡小切手の責を負いそうで困っているという話。なお彼が昨日、フィリッピンへ飛行機を空輸しているある軍人の部下から聞いた話によると、トラック島は敵に占領されたという。一昨日か「日の出」の道夫氏に聞いた大戦果の話と連絡があるのではないか、ともふと考えた。敵の空母が二十隻も来たという。一隻五十機として千機も襲来したのでは、珊瑚礁の島などとても守り切れるものでない、と岡本君が言う。この話が本当なら、大変である。ラバウルに戻ったと思われる広島の薫など、とても助からぬかも知れぬ。そう言えば先日の井上文芸課長の話によると「敵はラバウルの我高射砲陣地が沈黙したと称しているが、我軍は洞窟内にこもって、大胆不敵に敵の来襲をじっと待っているのです」と言ったが、これはあとで考えれば容易ならぬ事態だ。この頃ラバウルでは前のように何十機という敵機撃墜の報はなく、時に二機三機という報のみであるが、これは我方の飛行機が飛ばず、地上砲火のみに依るものらしい。そうとすると、すでにその地上砲火も終滅してしまったというのか。ラバウルの最後の時は近づいているのだ。あるいは撤収戦に移っているのかとも考えられる。
そして、トラック島に敵が上陸したというのが本当とすれば、グワム、フィリッピンと敵が真直に西進して支那に達するのも案外早いのではないか。若し、万一そうなって南方から切断されたら我国は最後の戦をしなければならぬ。しかし、その前に海上決戦がきっとあるだろう。
「海軍は決戦に自信たっぷりだと聞いたが」と私が言うと、岡本君は「いや最近まではそうだったそうですが、この頃は、その自信がないとも聞きました」と言う。尚彼は軍需会社に身をおいている為かよく知っていて、今の飛行機戦は要するに電波兵器戦で、この点において、我国は理論上も製作上も遥かに敵に遅れていて、目下のところ、こちらで敵機を電波で発見する前に、必ず敵機に発見されるようになっている。敵の電気測定はまことに正確で、暗夜でも敵の電気による測定での高射砲はよく命中するので、最近は夜の空襲もやれなくなった、と言う。心細いことである。岡本君は別に激しもせず、当り前のように静かに語るので、一層無気味である。トラックに敵上陸が本当だとすれば、政府のこの数日来の火のついたような種々の緊急措置特に火急の疎開実施策等は、なるほどとうなずかれることである。或は先日警察の方で急に緊張した時が、その日であったのではなかろうか。
文学報国会の幹事連中に対して海軍報道部の栗原部長から明日戦争の解説をされるということだが、その時にでもこの件は発表されるかも知れない。これがデマであればあるで、今時こういう噂の発生は警戒を要し、事実ならばまた国家千年の運命の岐路に私たちが直面しているわけである。自分と家族のことを言えば、改めて、私たちは食糧のこと、疎開のことを考えねばならない。杉沢の横山村の本宅は昨日地鎮祭だというが、今建っている六畳の間のついた小屋を借り、例の一段歩の畑も借りれれば、大変よいと、改めて考えたりする。
夕刻まで雪やまず。深い所は四五寸に達し、高足駄で貞子はやっと午後二時頃家に戻った。(五日夜記)
多忙極まる上に、国家の運命、国民生活の前途の不安等にて、落ちついて仕事をすることが出来ない。
板谷君、小松治郎一氏等からバターの礼来る。板谷君逢いたいとのこと。
三月六日 晴 暖 雪どけの道 地久節
朝雪やんでいる。しかし三四寸も積っている。小林氏の葬儀の日。モーニングを着、重いスキイ靴を穿き、幡谷からバスで鍋屋横町に下車、角の花屋で二円五十銭ほど花束を作り、歩いて行くと杉沢に逢う。一緒に彼の用のある安田銀行に寄り、それから療養所に到る。夫人はますます顔色悪く、重そうである。盈君と夫人が同室、明君はその向いの一人室であるが、近くコロニイに移るという。明君は元気だが、盈君はどうも顔色が悪い。
納棺だとの知らせで、すぐ裏の安置室へ行く。多田家の人たちも来ている。多田家の屍者は二十歳過ぎたばかりの青年である。白く蝋のように痩せ、こわばった手を組み合せた死人を、二人の白布に身体や顔を包んだ男が、甲斐甲斐しく棺に移し、詰めものをし、顔の所のみあけて蓋をする。次いで小林氏の番となり、同様に棺の底に移し、まわりを花を切って埋め、杉沢の意見で、すぐ釘をうつ。親戚としては蒲田にいる夫人の実姉の息子という二十四五の青年が一人立ち合う。三人で石で釘をうちつける。子供たちには、なるべく死人の顔を見せぬ方がよいと、私も杉沢も言う。この白衣の人たち、葬儀屋かと思ったが、そうでなく病院の人たちだとのこと。宗教的な信念からでもあるのだろうか、注意深く、よく扱ってくれたのに感服する。私たち三人は一礼して夫人の室に戻り話をしていたが、夫人が疲れそうだというので向の明君の室に移り、出棺の十二時まで雑談をし、私は杉沢の持参の握り飯を一つ分けてもらって食う。明君元気でいるが体温表を見ると、やっぱり三日目ぐらいに七度一二分になっている。
十二時過自動車が来たとのこと、安置室から療養所の裏門を通り、棺が二つ重ねられたまま看護婦や明君盈君その他多田家の縁者、私たちが見送る中を行く。多田家から一人と、杉沢とが前部に乗って行く。私は夫人の甥と歩いて、その後から堀の内の火葬場へ行く。一時半火入れとのことであったが、杉沢が心附を十円やった為とかで、もう缶に入れてあった。茶屋で一時間も待つと、済んだとのこと。二階で骨を拾う。簡単であっけなく終る。小林さんもとうとう、こういう骨になってしまったかと、私と杉沢とは割合に明るく、人生の転変、人の一生などいうことを話し合う。療養所には寄らず、三人は青梅街道に出、中野郵便局裏の真宗の西教寺に行き、骨をしばらく預ってもらうことにし、読経してもらう。杉沢の所へ昨夜塩谷の小林村長から入電あり十五日頃上京するとのこと。杉沢家では畑の方へ蒲団を送って余分のが無い故、来たら私の所へ米をよこすから泊めてくれとのこと。承知す。また杉沢は横山村の小坪の小屋の半分の土間を早速板敷きにして四月か五月には一家引越す故、その頃から悦子さんを私の所へ預ってほしいとのこと。承諾す。
新宿で別れて、午後三時頃になる。新潮社へ行く。この頃碌に社にいないので、少々気詰りである。一昨夜私が見えないので、皆で大騒ぎをして捜したとか、その後席を変えて大いにやったなどいう話。日本文学辞典の次の部分を五十頁ほど見ることになる。私がモーニングの下にスキイ靴をはいているとて皆で笑う。市街はすでに乾いて来ているが郊外の舗装していない所は、ひどい泥濘である。しかし今日は嘘のように日が照って暖く、杉沢氏ではないが「雪が降って、小林を送るにいい日」であった。死者も雪の中を逝って郷里へ帰ったような気がしたであろう。ほんの二週間ほど前まで辻堂のあの家の八畳に寝ていて、何かと気をつかったり、私に戦局の話をしていたりしたのが嘘のような気持がする。更に昔、村のあの大きな柳に囲まれた大きな家の奥の室で、私たち年下の子供を集めてカチカチ山の幻燈会をしてくれたことや、また高商の生徒の時、野球の選手をして、スマートな姿でバットを持って歩いていた姿など、絵のように、ありありと私の眼に浮ぶ。印象の深い人であった。
夕刻新潮社を出て新宿まで戻り、ふと夕刊を買おうと思い、オーバーのポケットから四銭つかんで出したが、いつもの場所に売っていない。おやと思って歩いているうちに、ああ、そうだ今日の六日から夕刊が出なくなったと気がつき、何とも言われぬ寂しさを感ずる。私にとっては芝居が無くなることも、料理店が無くなることも、大して響かない。しかし夕方、家に帰る電車の中で、また夕食のあとの炬燵の中で読む夕刊は、まことに生活の一日の最も重要な一点であり、私の生活の中味でもあった。食事が出来ないよりも寂しい思いである。しかし幸にも私は新聞を三種とっており、また、先日情報局へ行った折に、春山君と二人、井上文芸課長に頼んで最近出はじめた「よみうり戦時版」を取れるよう紹介状をもらって読売本社へ申し込んでおいたから、四紙入ることになる。それが日常生活の文学による消化の糧であり、また今の戦時生活についての判断の一つの基ともなる。
新潮社で、また、先日小笠原諸島沖で、我方が敵の空母十数隻を沈めたのは本当だというニュースを聞く。家に戻ると滋が、今日町へ頭を刈りに行って聞いて来たらしく、小笠原島で敵の戦艦を数隻沈めたんだって、と言っている。この噂は巷に広く流布されているものであろう。事実なのだろうか。それとも先日の警戒についでのデマなのであろうか。
ドイツの対英爆撃も盛であるが、英米もまた相かわらず続いてドイツの各地を空爆している。両方とも正式に爆撃戦に入ったのだ。基地や工場をやられて参る方が、また損害(これはドイツ側は少く、英米は多いらしい)が多くて持ち切れなくなった方が、徹底的にやられることになるであろう。この頃の空爆は単位が千機程度で一定の場所を狙って繰り返し爆撃するものらしいから、その被害は惨澹たるものであるにちがいない。日本はいつから、敵の空爆を被るだろうか。空爆を受けたら混乱に陥って食糧不安になるだろうと皆そのことを心配している。
児玉夫人は一昨日貞子に大型トランクを一つ預ってほしいと言っていた由。いざとなれば、私の所には、薫と英一をはじめ、児玉家やその他の知人やその家族が押しかけて来そうな気がして、その時にどうしようか、と思い、心配なことである。
今日の朝日新聞にニューギニアのラエ附近にいた我軍が、海上の交通を遮断されて、仕方なく、ニューギニアの山地を四十日もかかって越えて北岸に出た時の記録駒子少佐という軍人の体験談として発表している。ラエからの転進は、昨年の秋頃どうなることかと、私は地図を案じてもっとも気にかかっていた作戦であった。タラワ、マキン、マーシャル諸島などの玉砕戦も凄じいものであるが、この密林突破行の記録は別な意味で惨澹たるものである。
「頼るべき海上連絡は飛行機と艦船の圧倒的多数を頼む敵の手によって制圧せられ、制海、制空が敵側に確保されるにいたって、全く孤立無援となった。我々の最大急務は補給線の開拓であった。海上に求むべき補給線をも敵の機動力の圧力のために、我に飛行機と船の数が不足する為にやむなくジャングルの中に求めねばならなかった。九月上旬からジャングル越えの転進が始まった。戦う気力と火の玉と燃える敵愾心を持ちながら飛行機が足らぬということで、戦友の屍と共に死守した陣地を離れる気持は筆舌に尽し得ない。兵隊はみな泣いた。ジャングル越えが始るとともに、われわれは新たなる敵ジャングルと戦い、生きること自体が如何に困難であるかを体験した。暗黒の大陸といわれるニューギニアにはさぞかし猛獣や毒蛇が棲息しているだろうと想像したのであるが、ラエ西方からサラワケットの峻峰を越えて、ニューギニア北岸へ辿り着くまで、約四十日の間、動物と名のつくものには、たった一度野豚に出逢っただけである。野生の動物さえ棲息しない程、食物も何も無いところで、深海の底のような、超高空の成層圏のようなのがこの方面のジャングルである。兵団長も参謀も兵隊と同様に背嚢を背負った。マラリヤと死闘二ケ月、消耗し切った体力には米六升、銃剣、眼鏡、着換えシャツ一枚という軽装も重かった。自動車も自転車も馬さえも用をなさぬこの地帯では、ただ原住民の足跡を頼りに、それの無い所では磁石に従って盲目徒歩をするばかりである。昼は僅かに日光が落ちるだけ、夜は全く暗黒で鼻をつままれても分らない。こんな所を膝までの湿地帯を渡り、雨と降る滴にぬれて、年寄の兵団長も、若い兵隊と共に七十五センチの歩幅に刻んで、いつまで続くか分らぬ行軍をするのだ。初めの十日ほどは糧秣も割合に続き、地形もよかった。それからサラワケットの峻峰にかかった二週間は全くの地獄であった。糧秣もなくなった。六升ばかりの米がそんなに何日も続くものではない。米を食べぬ日もあった。小指程の細い小芋を集め、名も知らぬ草の芽を取ったりして食べた。木は湿っていて燃えないので、炊事も出来ない。米を食べない日が幾日も続いた。マラリアで真黄になった顔は、下痢と飢餓で頬骨が現われ、目は窪み、血が通っているとは思われぬ形相に変って行った。絶壁にさしかかると気力のある者が攀じ登って縄を下げた。体力が衰え、木の枝のように痩せ細った腕は身体の重みがこたえて、綱を登り切ることが出来ない。中途で落ちては岩角に頭をぶつけて最期をとげたものもある。岩のない所はべとべとの赭土だった。十歩登っては二十歩滑り落ち、身体の平均をとることさえも出来ずに谷底にころころ転げ落ちて、それっきり上って来ない者もあった。マラリア患者や負傷者の重態の者も山を越すことが出来なかった。こんな地形とこんな体力では、全員がそれぞれ一つの命を支えることすら必死の力を必要とするのである。それでも、少しでも歩行の出来る者は互にかかえ合ってジャングルに踏み込んだが、湿地帯の中にごろごろ倒れる者も出来た。松葉杖を突いてぼろぼろの服をまとって、必死の形相をして追及して来た負傷者もあった。歩行不能の傷病兵は手足が少しでも動くものは自分の手で自決した。手も足も動かぬものは静かに眼ばかり大きく開いて「しっかり頑張ります」と覚悟を見せた。こんな状態を銃後の親、兄弟や妻子に見せたら、何と言って泣くであろう。同胞が見たら何というであろう。一目でいいから見せて、これで飛行機が一機でも余計に出来るというなら見せたいと思った。地獄とか阿修羅とか、あり来りの言葉は通用しない。生きる者も死ぬ者も極めて静かだった。自分も重要書類を焼いて幾度か最後の覚悟を決めた。富士山より高いサラワケット頂上は霜こそ降らなかったが、われわれには厳冬のような寒さだった。汗と雨に濡れたシャツ一枚の寒さに、ここでまた相当に倒れる者が出た。頭の上に、眼の前に敵を控えて砲煙弾雨のうちに散るならば、幾万の英霊が一度に護国の鬼と化そうとも、それは戦場の常であるが。
サラワケットの嶮を越え、北岸の〇〇〔マル二つ〕に着いたのは四十日目の十月下旬であった。ここでわれわれは糧秣の補給を受け、細々ながらも補給線開拓の目的を達した。昨日も今日も数人また数人とジャングルを抜けて、この世のものとは思えぬ姿で主力の位置に辿り着いた。そして糧秣を涙と共におし頂いた。ジャングルとの戦に打ち勝って、よく主力と共に集結し得た者は、○分の一に過ぎなかった。敵の飛行機と船舶の数に物を言わせる攻撃に対して反撃するには、我にも飛行機と船舶による強大な補給が必要である。我々はここに二月ほどいたが、案の定ここでもまた敵の爆撃や艦砲射撃が日とともに猛烈になって来た。
そして一月中旬のある夜である。海岸の椰子の蔭に兵団長閣下を真中に自分と副官が左右にかばって伏せの姿勢で艦砲射撃を避けていた。あたり一面所きらわず落下する砲弾に頭から砂をかぶった。途端に自分は負傷した。真っ暗で様子も分らないが、息づかいが荒くなるので隣から声をかけられた。翌夜、闇の波間に大発からひっ張り揚げられるように艦に収容され、後送された。」
この記録は、南海に漂流した多くの兵たちの手記にも増して凄惨である。森と山とを越えて来ることが出来ず脱落した多くの兵たちのことを思うと、何とも言われぬ気持になる。これが戦争である。ああ、国内の私たちの生活は、まるでこの記事を読むと、この世のものとは思えぬほど静かで、平和と豊かさに包まれていると思う。これが戦争なのだ。
四日の政府の非常措置の記事の学童給食のくだりを読み直すと、この給食は陸海軍の援助によるものであり、来年度から酒造米を減少してこれにあてると言っている。多分今年度は軍の用米の一部を学童にふりあて、明年からは酒用の米をうんと減らしてこれにあてるのであろう。またこの給食の施設は非常時の炊き出しの設備たらしめるとも書いている。空襲は来る。ドイツは連続して、この一二ケ月各都会を痛爆されているらしいが、東京などはそうなったら、一挙にして烏有に帰すであろう。しかもそれが分っていながら、まるでそれを来世の話でもあるように他人事に見なしている都民が多い。色々な事情で疎開の出来ぬものは、自分自身を欺いて、まさかここには、と思い込みながら日を送っているのだ。私の所など大丈夫かと、この頃は毎日机上に地図をおいては眺めている。杉沢の小屋があいたら、そこに私の本を運んで図書館にしようと今日私が言った。私の蔵書で図書館を作ることは前からの杉沢の希望でもあったからだ。彼は快諾し、私はその時は小屋の六畳を仕事部屋として使いたいと言っておいた。そういう都合に行って、あの六畳と八畳の板じきの小屋を使えると、まことに工合がいいのだが、などと考える。あすこならば、私は東京へ通うことも出来る。
しかし疎開のため、東京附近の各地の空家空間等は調査中という。埼玉県は寄居以東というから峰岸君の所は調査区域外であるが、これから旅行を強力に制限するようになると、児玉ではどうしても往復に不便だ。やっぱり杉沢の畑だと、私の借地も一段あり、一番都合よいのだが、と考えられて来る。しかしいずれにしても悦子さんを私の所で預るとすれば、万一の場合には、杉沢家を自然に頼ることとなるわけである。
昨冬は病気のために大事をとって行かなかったが、それまで毎年あんなにも楽しみであったスキイに、今年は行く気持になれない。昨年の夏からの情勢の緊迫が私の気持と生活とをすっかり変えている証拠である。畑をすること、家族と衣類とを安全な場所に置くこと。それのみが今の私の関心事である。小林家の用も済んだら、しかし、「爾霊山」に取りかからねばならない。
今日は長い日記となった。
三月七日 曇 小雨 数日前から梅咲きはじめる。雲雀時々鳴く。今日雷鳴あり。
京王電車への支払いが十一月末までのを延ばしているし、杉沢へバター一箱の代百九十円を払わねばならない。金のこと、旅行から戻るとすぐ心配になっていたのだが、「爾霊山」はまだ少しも手をつけていず、小林家の件と新潮社への勤めのこととで、この一ケ月は全く何も出来なかった。先月から月給が入るから、その日の生活には心配ないものの、これ等の大口の支払いは、その間ずっと心の重荷になっていた。実業日本社からは倉崎君の骨折りで四百円前借しているから、いま原稿を書き上げてもあと二三百円しか受けとれない。(増刷を別にす)そして、奉天戦の作品は、うんと暇をかけるつもりだから、急には纏められないし、纏めたくもない。とすると金の入るあては、「戦争の文学」の前借の残り、四五百円と「三人の少女」の残り(二円で五千部として)二百円である。先月の初め頃「三人の少女」の印税の残り二百円を受け取りに淡海堂へ行った時、田中という専務が、あの本は一割で一万部の約束だが、初版は五千部しか刷れなかった、と言ったので、野長瀬君との約束が一万部であったことを思い出した。それならば、何とか野長瀬君にたのめば出してもらえるかも知れない。しかし野長瀬君が旅行をしたりしているうちに、出版業の企業整備がはじまり、淡海堂は外の数社と合同し、移転して、みたみ出版社と変った。それを口実にして断られれば何ともならないが、初めの約束通りならばもう千円受けとれる訳である。それだけあれば、何とか恰好が着く。十日ほど前から、そのことを考えていたが、万一この件が駄目になると、私の経済は行きつまってしまうので、怖ろしいようで交渉に出かけるのが億劫であった。京王電車はもう少しぐらい伸ばせるにしても、好意でバターをまわしてくれた杉沢の方に義理が悪くなるので、今日思い立って、神田、元佐久間町十、というその事務所へ午前中に行く。運よく野長瀬君がいて、そのことを、再版の先払という形で払ってほしいと言うと、淡海堂の会計に話して見るとのこと。明日午後一時に来ると約束する。出来そうな工合なので、実にほっとする。野長瀬君が今度も編輯長なので、工合がいいわけであろう。「三人の少女」は校了になったということで、数日前から検印紙が送って来てあり、菊に印を押させておいたが、まだ少し残っているので、明日届けることにする。話のついでに「爾霊山」を書くことを言い、日露戦を子供向きに書いて見たいと言うと、それはすぐやってほしいと野長瀬君言う。二人で十二時頃外に出、私はこれから食事をするのだと言うと、彼は外食券を六枚出し、三枚を私にくれる。彼は外食者でないが、どこかで手に入れたものらしい。水道橋下車学生街の食堂へ行く。角の大きな一軒が廃業したらしく、茨城県へ移転したとの張り紙が出て店を閉じている。どの店もたいてい売切れとなっているが、一軒長く列をなしているのがあり、それの尾につく。歩いて行って見ると、最近流行し出した雑炊食堂である。丼に一つ二十銭。少し足りないので、もう一度並んだが、売切れて二度目には当らず。
一時半頃新潮社に行く。辞典の校閲をしてみたが、菊池、斎藤君たちもストーブで雑談をして何もしていないので、その仲間に加わる。例の未発表の戦果の噂。専務の俊夫氏も来て加わる。小笠原島の沖二百浬とかの所へ、敵空母群が来襲し、我方は小笠原諸島をはじめ、木更津、横須賀等から数百機の大群でそれを襲い、十六隻かを撃沈したという話である。その夜など横須賀工廠の徴用工たちは夜中に叩き起され、その出発を見送ったが、これまで見たこともないほど多数の飛行機が飛び立って行ったという話。しかし妙なことに、この噂は、巷の人々が次々と口伝えしているだけで、内務省とか、情報局などに関係している連中は、少しもその事に触れないという。どうもその辺が変だという。斎藤君が新太陽社の津川君に昨日聞いたところでは、新太陽社の一員がこの噂をたしかめる為に一昨日か横須賀へ行って雷撃隊の隊長に訊ねたところ、艦種は分らないが、四十三隻撃沈したと言った由。また下士官に訊ねたところ、こちらの損害は四百機だと言ったという。そんな話を聞くと、数はともかく、新太陽社の人が行って聞いたという点などいかにも真実らしい。しかし、どうもデマだと思われる節もあり、こんなに広がった噂がデマであれば、それは余程悪質のものだ、と皆の意見が一致する。専務は、しかし、こないだの警戒はよほど深刻なものだったらしく、三井系の連中など家財はともかく、身体一つでも疎開しなければいけないとて、随分急に地方へ分散したという話をする。またあの風の強い日には、丸の内方面の勤め人は、みな空襲の噂で早退けをしたとのこと。警戒警報が出ないのは工場の生産力に大きな関係があるからで、今度はきっと、じかに空襲警報が出るらしいとも誰かが言う。横須賀鎮守府の某参謀を義兄に持つ楢崎氏は、やっぱりその噂は聞かぬが、しかし目下第何号とかの戦闘警報(?)が出ているから、暫く横須賀へ来ないようにと楢崎夫人へ言って来ている由。私もためしに薫に電話をかけて見たが、薫は戦果の噂は知らなかった。
私は更に成蹊高校に電話して、六十三番の内申書が届いているかと念を押すと届いている由。またついでに聞くと、願書は九十一通出ているが、三時現在までに内申書の届いているのは、八十一通とかとのこと。定員六十余名であるから、楽でよかったと、喜ばしく思う。
夕方雨に降られながら戻ると、貞子は、菊の姉から、家の用をするために戻ってほしいと菊あてに言って来た由を聞く。貞子は悦子さんが来て、女の子同志の扱いが面倒になると困るから、この機会に菊を戻したいと言う。貞子がその気なら私も賛成だと言う。この月末位に、機を見て、帰そうと相談をきめる。
今日は金のこと見とおしがつき、そのあとは少年ものの日露戦記を書くことにしたので、当分経済的な心配が軽くなり、久しぶりで安らかさを心の底から覚える。函館にいる基と母にあて、近況を知らせる手紙を書く。
三月八日(水)
成蹊は、今朝の発表によると、昨日三時迄(締切日)にて内申書の届いたのは、八十四名だという。そこから六十名とるのだから、滋はたいてい大丈夫だと思う。滋も自信ありげにしている。よかったと思う。
今日は新潮社を休む日だが、野長瀬君の所へ金を受けとりに行かねばならない。それに昨日重見夫人が私の留守にやって来て、近く病気の重見氏や子供たちと郷里の岡山県へ疎開するので、本棚を分けてくれると言っていた由。それを今日朝のうちに見がてら重見氏を見舞に行こうと貞子と二人、バターを一ポンド持って出かける。重見氏は炬燵に坐り、ポケット・オックスフォド・ディクショナリの復刻版の校正をしている。割合に丈夫そうに見えるが、この人も動けばすぐ駄目になる程度の進んだ結核である。戦争の話、英文学の話、何か楽しみに読んでいるものは、と聞くと、ディッケンズを読んでいるとのこと、私もピックウィック・ペイパズを読みかけたが難かしいのでやめていると言うと、重見氏は、あれは初めの二三頁が難かしいので、あとは楽だなど言う。この頃文芸評論を書いている麻生種樹氏は重見氏の同級生の由。十一時頃になり、書斎の本立を見せてもらう。厚い板の重い立派な棚である。それを二つ揃えてと、梯子も分けてもらうことにする。
その本立の長い外板だけを二枚風呂敷に包んで持って出る。重い。四五貫はあろう。烏山に下車すると、児玉夫人が自転車でやって来るのに逢う。先日から児玉家では私の所に、大形トランク一個と蒲団一組とを預かってくれと言っていたが、今日病院の男の人にリアカーで運ばせて来て、今帰りだとのこと。もう一度家まで戻ろうと言い、貞子が誘うが夫人は帰ると言い、二人立話している。私は、今日午後二時に文理大に肥後和男氏を原稿の用件で尋ねることに先週肥後夫人と約束してあり、一時にはみたみ出版社に野長瀬君を訪ねて金を受取ることになっているので、昼食もとらず、板をおいて出かける。縁側に児玉家の荷物が置いてある。
神田元佐久間町の「みたみ出版社」へ行く。野長瀬君の同僚の営業部の人が召集だとて、旗に署名させられる。小野政方君に紹介される。野長瀬君、今日のところは三百円しか出ないが、明日頃またもう少し何とかするとのこと、多分もう二百円ぐらい作るという意味らしい。バターを一ポンド持って来たのを贈る。急いで文理大へ行くと、二時半で、十分ほど前に肥後氏は帰ったとのこと。空腹で池袋の同氏宅へ行く。謹厳な紳士である。原稿はもう五十枚出来ているが自信を失い、多忙でもあり中絶していたが、四月中頃までに書き上げるとのこと。辞して池袋駅近くで、寒天に黄粉をかけた蜜豆風のもの二十銭のを三つ食い、また外に野菜煮込みとて、人参とごぼうの生煮えのものを一皿三十銭で立食する。そういう食物は捜すとあることに気がつく。うがい薬のシセドリンというのをやっと一壜見つけて買う。
この日、朝刊にて、学生生徒の生産への動員緊急措置案が発表されている。学生も中等学校や高等学校、女学等の生徒も、その時間の大部分は、それぞれ専門の分野に勤労し、授業は日曜日にもするという。官庁の日曜執務はすでに行われている。文理大の前の電車の中で、学生の会話に「ひどいことになったなあ、今年は授業はほとんど無いね」「一年早く出ればよかったなあ」「穿くものと食うものが大変だよ」云々。
家に戻ると峰岸君が来ている。米を一升二三合と麦粉を持って来てくれ、また自家織の鼠色の絹を一反持って来てくれる。
夜常会。いよいよ五組が二つに分れる最後の会とて、貞子出て行く。峰岸君と話をする。私の家の麦はやっぱり薄播きで、あまりよくないとのこと。これだけの麦をよく作れば二俵ぐらいはとれるのだが、と言う。それでもこの頃は暖いので大分麦も元気よくなって来ている。峰岸君は今日来る時駅に巡査が出ていたので、馬鈴薯も持って来たのだが、それはおいて来たとの話。無理なものは持って来ないようにと頼む。今日留守に田居君が来ていた由。
三月九日 晴
峰岸君泊る。午前中話している所へ田居君来る。子供の受験の話。都立(田居の尚彦君は都立十中を受ける)は綜合試験制だが割に志願者が少い。しかし、成蹊がこんなに少い志願者しかないのなら、尚彦にも受けさせたかった、という話など。また田居君の甥の仲川翠君が高師の体練科を受けているが、そこに知人があったら、発表の日を聞いてほしいとも言う。その後で田居君は、実は北海道種苗協会の会長に逢うので、それに話をして種子として稲黍という粟のような穀物を二石ほど買おうと思うが、それについて贈りものにするのだから、バターをもう一箱(五十ポンド)杉沢から買ってくれないかとのこと。公定で払った外に、杉沢へ玉蜀黍を一俵贈呈してもよいとのこと。私は明日、この前のバターの金を払いに杉沢を横山村へ訪れるので、その時に話してやることにする。また玉蜀黍の種子一俵四十円で買えるから分けてくれるとのこと。何だか仲介業でもしているようで変な気がするが、食物不足の折、大変ありがたいことと思う。三人で昼食。田居君自転車で帰る。
午後峰岸君と新宿に出る。京王の前にある金物屋に陶器の竈が並んでいるので、買おうとすると、来月入る分の予約になら応ずるとのこと。それに書こうとしていると、しかし一つ余ったのがあるがすぐ持って行ってくれるなら売るとのことで、十四円八十銭払ってすぐ買い、峰岸君に半分持ってもらって、駅近くの荷物預り所へ預け、二人は紀伊国屋に入る。峰岸君は知らぬ間に、私の「小説の世界」を買う。あれはよい本でないから、と言い、赤面する。茶を飲んで別れ、新潮社へ行く。この頃書き上げて青少年読物として出すことになっていた太宰治君の「雲雀の歌」というのが不許可になったとて、騒いでいる。斎藤君が出版会へ行ってかけあったが、駄目だとて戻る。肥後氏の件哲夫君に報告し、日本文学辞典の校訂をし、英語や英語の発音を少し訂正して渡す。出てから、文理大に都電で行き、夕方人のいない受付で試験発表が十七日だとの告示を見、ハガキを書いて田居君に投ずる。なおその足で追分に阿部保君の家を訪ねる。阿部君夜学ありとて留守。夫人に先日の礼を言い、バター一ポンドと、これも杉沢に買ってもらったコナゴの佃煮を少々贈る。外に出て、近くの寿司屋で外食券を出して、ちらしを食う。これは分量も多く、味もよかった。
広島の薫の嫁宗子さんからバターの礼と忠君の写真が来ているので、返事を書く。野長瀬君から、二百円を明日送る旨、また残金五百円は来月五日に払う旨速達あり。五百円ぐらいしか取れないと思っていたので助かる。しかしこの頃、急迫の噂が飛んでいるし、また京王への支払に千二三百円いるので、奈良の池田小菊氏に「戦争の文学」の印税の残り半分(五百円)を送ってほしいと手紙を書く。それが来れば、一先ず経済的な問題を切り抜けることが出来るわけだ。
三月十日 雨(金)
新潮社の休みの日なので、杉沢の横山村の畑へ行こうと思っていた。バター一箱の代百九十円を払い、借りてくれるという畑の件がどうなったかを確かめるためである。だが朝から霖雨、午前中に江口清君遊びに来る。文部省の嘱託をやめて東亜交通公社へ勤めることになったので、その中間に休んでいるという。
昨日鴎外全集中の端本「〔アキ〕」ののっているのを持って来てくれたので、礼に朔太郎の「新しき慾情」を一冊贈る。これまではしきりに徴用を怖れて、そのために文部省に安い給料で入ったりしたが、もう徴用されたらされた時という気持で、今度のところに勤めることにした、気持が変って来たという。しかし今年は屋敷内はもとより道路の三分の一幅を畑にしようと思うが、この頃はどこも日曜なしで、月二日しか休めないから、そんな暇も無さそうだと言う。それに較べれば、私の勤務など天国のようなものである。
午食後、落ちつかぬし、畑の件が気になるので、思い切ってスキイ靴をはき、リュクサックを負って出かける。出来れば八王子で瀬戸物を少し買って来ようと思った。しかし雨の中を二時間かかって杉沢の農園に着くと、江間さんと二人自炊している彼が、まあ晩飯でも食べて行けというので、腰を落ちつける。畑の件ほぼ確定し、この十五日頃から耕作にかかれるという。二年ほど作っていないので起すに骨が折れるから、一日二円五十銭も出せば、やがて近く専修大学の試験のすむ小保内君が来るから起させてやると言う。三円ずつ出すからとて頼む。一年分の一段の年貢代として十円渡す。安いものだと驚く。なお杉沢は、いま少し待てば、雑木林と半分ずつになっている畑を四段ほど二千円ぐらいで買えそうだから半分を譲ってくれると言う。是非と頼む。そこに四畳半ぐらいの小屋を掘立てで作っておけばいい、自分の家を建てた材料の余りをまわしてやるとも言う。ありがたいことだ。大丈夫かと念を押すと大丈夫だという。悦子さんを預ることになって以来、彼はしきりに私の家の生活のことを考えてくれる。いずれにしても、この人のお蔭で随分と私は助かっている。そういう小屋が出来て、二段歩の畑があれば、と楽しい空想にふけるが、しかし万一それが出来なくても借地がここに一段あれば、私の自宅の半段とで食糧不安は先ずのぞかれる訳で、嬉しいことだ。ここへ週に二日耕作にやって来ることも楽しい。雨の日にやって来た甲斐があった。また彼は、先頃話していたウイスキイを十本ほど十円ずつで譲ってくれるつもりで、確保しつつあるという。これもやがて食物と交換出来るものなので、是非、と頼む。江間さんから葡萄苗を二本、杉沢から、鳩麦の種子を五合ほどと、向日葵の種子を一握り分けてもらう。ともに鶏の餌をつくるためにほしかったものだ。七時半に家に着く。野長瀬君から二百円速達で送って来る。組が別れてからの初常会があるとのこと、その足で伊藤信次氏宅へ行く。細君連中が揃っている。昨日から加持夫人が一人でとりしきって、常会の場所を花村家にして見たり、また伊藤家に変えたりして駈けまわっていたと貞子から聞いていた。私は組内では多少暇のある唯一の男性なので、群長か組長を引き受けねばならないと思っていたが、貞子は月番の時に歩いたり運んだりしなくてもいいというので、組長を引き受けた方がよいという意向である。ところが加持夫人がしきりに画策して、一人で会を切りまわそうとし、私に群長をやらせ、組長は伊藤信次夫人にさせようとしきりにすすめている。私は勤めがあって群長は出来ないから加持夫人が組長か群長になるといいと私が言い、皆がそれに賛成しても、それはどうしても出来ないと夫人は拒む。それでは私を組長にと言う人が多いのだが、それには気づかぬ振りをして、私に群長を押しつける。どうも私の所が組長になるのが、気に入らぬらしい。それで私もつむじを曲げ、今度から勤めが出来たので、昼間の訓練が出来ないからとて群長を断る。すると、外の人たちは私に組長を加持夫人に群長をと皆が言うと、それは出来ないと又しても言う。それでは投票しようと皆が言うと、色をなして、私は投票から抜けますと言う。しかし結局組の両端から二人ずつ組んで組長と群長をということになり、私が組長、伊藤信次夫人が群長ということに皆が一致してしまった。加持夫人は不服そうであったが、それに服した。困った女である。才女だが、細工をし過ぎる。一体自分が組長になりたいのか、それとも群長にも組長にもなりたくないのか分らない。明かなことは、私を組長にしたがらず、専らそれを邪魔していたということである。私は群長をしてもよかったのだが、その加持夫人の小細工が癪にさわって、組長の方を引き受けてしまった。いい気味だと、おかしく思う。戦時隣組風景の一つであろう。夜十一時迄かかる。ついでに慶弔寄附等の規定を定める。
田居君が、玉蜀黍を一俵贈る故、バターをもう一箱公定で譲ってほしいとの件、杉沢に伝えたが、杉沢はバターを月に二十ポンドしか取れなくなったから、この頃大本営の食堂経営を引き受けている長野氏に粟を渡せば、そちらから出すよう話そうかとのことだった。また杉沢の話では浅川駅の金物屋に金の製粉器があるとのこと。買いに行きたいと思う。
夜薄く雪降る。
三月十一日 晴 一時雨
一昨日哲夫君と相談した件、中野好夫氏に「アメリカの長所と弱点」という風の原稿を頼むために西荻窪の同家へ行く。疎開のためらしく、しきりに家から筵に包んだものを青年が自転車で運び出している。中野氏承諾す。但し西川正身氏がアメリカ研究では詳しい故合著にしたいとのこと。考えることにして別れる。駅前にて、野長瀬君から先日もらった外食券でちらし寿司を食う。昨日の話を伝えに田居家に寄る。留守。夫人がいて餅が北海道から来たとのことで三切豆餅を馳走される。新潮社に二時頃行く。田居君から電話あり、明日落ち合って板谷君のところへ行く相談をする。松尾君からも電話があったという。彼から頼まれていた原稿のこと忘れていた。書かねばならないが、この頃は何という多忙さだろう。哲夫君に中野氏の件報告。道夫氏が、先日来の大戦果の報は悉くデマであった由を聞く。どうも重慶、上海と伝わった敵側の作為的デマを、短波受信機を持っている株屋などが聞き伝えたものではないか。困ったこと、警戒せねばならぬことだと話し合う。
滋の試験三日後にせまり、貞子は、高橋健二氏が紹介状を書いてくれた成蹊の国語の教師を明日はきっと訪ねたいと、いきり立っている。私は大丈夫だとは思って来たものの、これで落ちたらと思うと、急に不安になって来る。
板谷君より来書。かねて頼んでいた雛は、結局軍からの依頼で成鶏にせねばならないので駄目になったが、近く雛がまた入るので、それはきっと譲ってくれるとのこと。
最近の私の忙がしさの中味は、どうも自分の農園設計のことに集中しているようだ。
三月十二日(日)曇
貞子朝から高橋健二氏宅へ行く。成蹊の教師へ紹介してもらうというのである。
朝から外套の上にリュクサックを負い、杉沢に聞いた粉砕機を買おうとして、先ず京王電車で八王子に下車、先日行こうと思った瀬戸物屋に寄り、非常用にと思い、大形の安い茶呑茶碗(一ケ五十銭)を十個、西洋風の耳附皿(一個七十銭)を五枚、特大型のコーヒ茶碗(五十銭)を四個買う。ついでに金物屋をたずねたが製粉器はない。浅川駅へ行き、昨年夏に鉄カマドを買った店に寄ってたずねると、ハンドルの無いのが一個だけある。それを十円(九円というのを)おいて買い、近く入荷するとのことで一個取っておいてもらうことにする。すでに一時頃になり、田居君が待っていると思い、急いで三鷹へ行く。田居家から貞子の出て来るのに逢う。高橋氏不在にて同夫人の話によると、やっぱり高橋氏がこの前紹介してくれた教師には逢っておいた方がいいだろうとのことで、それに滋の写真を持って来たから、それを清水教授にも見ておいてもらうとのこと。そんならそういう風にしてくれと、別れて田居家に着く。朝から来るという私が遅いので田居君ややじりじりしている。杉沢へ話したバターの件を報告し、長野氏と逢ったらいいだろうということになる。二人で出かける。リュクサックは田居家におく。二時間近くかかり、四時少し前に鶴見の板谷宅に到着する。三人で板谷君の酒と田居君持参のウイスキイで楽しく酔って話をする。板谷君が会社の重役に私のことを話したところ、私がうち切ってもらうことにしてから、向うで是非と言って来て、板谷君は困った揚句、私が報道班員として徴用になったと言っているとて、三人で大いに笑う。川崎昇君が失業し、また徴用になりそうなところへ来ているというので、板谷君の会社へ入れてもらうことに話をし、私から昇君に交渉することとなる。洗濯剤の資生堂のセンタックス(消毒剤として軍用にする為に板谷君の会社へ大量に入れているもの)を五百匁位もらい、夜十一時頃帰る。板谷君から分けてもらう筈の雛は、軍の依嘱で成鶏まで育てることになったので、もらえないとのこと。次の雛となると、また六七十日遅れるようだ。
貞子の話に、今日清水教授と逢ったところ、滋の内申書のことをよく知っていて、その内容が大変いいので、多分大丈夫だ、というような話をしてくれたとのこと。貞子も私も喜ぶ。また今日滋が受持の渥美先生の宅へ行ったところ、少し滋に試問をして見て、君は大丈夫だ、太鼓判を押すと言った由。滋も元気よくしていたとのこと。これで通ってくれれば、もう高等学校入学時の心配はないことになる。しかし戦争だ。これから四年か五年戦が続けば滋も戦争に出ることになるわけだ。明後日は試験故、貞子は明日、高橋氏の紹介してくれた教師のところを、バターを手土産にして訪れると言っている。
ラバウル北方のアドミラルティ諸島のロスネグロス島に、二月二十九日敵が上陸した。形勢は、実によくない。先月末の頃の特別警戒は、この攻撃の折に出されたものであった。ラバウルの運命はほとんど極わまったものだ。敵は図に乗り、強襲を継続しているのだ。
三月十三日(月)
満洲から戻って以来刈っていなかった髪を刈りに、代田橋の理髪店に行く。理髪屋は、主人の外はみな女ばかりになった。明後日で、集金人や事務補助者や外交員の就業が最後的に禁止される。昇君なども外交員としてその禁止範囲の仕事をしている。
いよいよ明日から滋の試験である。床屋を出てから、昼食は外食券でしようと思うのだが、一時頃のこととて、どこも売り切れと休業の札を出している。市街は一段とさびれ、本屋と薬屋以外、店という店は板戸をおろし、閉店している。曇って寒い日。新潮社出版部の室は、こっそりと大型ストーブを焚いているので、暖い。今頃こういう事務室は東京に無いであろう。中野氏の「アメリカ論」の件、結局、中野氏一人で書いてくれと頼むことになる。明後日頃私が行くと約束する。
数日前はあんなにデマに騒いだのに、今日など、昨日の敵のロスネグロス上陸という重大な報道を少しも問題にしていない。人の心って妙なものだ。空騒ぎはするくせに、本当に大切なものは、案外にぼんやりとすましている。
菊池君が先日徴用令が来て検査を受けたが、その検査場になった工場が佐藤俊夫さんの夫人の兄が重役をしている会社だとかで、免除になった。今日は長沼君に令状が来ている。「来ました」と当人も外の連中もひとごとのように思っているが、大問題だと思う。出版界の整備、新発足が完了すれば、編輯者は徴用免除とする規定が出来る、と皆が言っているが、誰一人として確たることを出版会に尋ね合せたものもいない。私には差し当り徴用は来ないにしても、そんな噂をあてにして、皆のんきにしている理由が分らない。長沼君が免除にならないとしたら、問題は深刻になる。私は今の勤めは時間の点から言って自由なので気に入っているが、ここに勤めていて徴用されぬという保証がないならば、早手まわしに考え直さねばならぬ。
貞子午後から出たとて、夜九時に戻って来る。滋が運動着がないとか、パンツがどうしたとかと心配してめそめそしている。腹が立って来る。貞子の話によると、明日は筆記試験が二時間あるという。滋には、滋ちゃんのような子は大丈夫入るそうだと言っているが、心配そうに声をひそめて、成蹊では筆記試験をとてもするんですって、と言っている。
昨夜の寝不足で、十時に寝る。
松尾君、「祖国日本」の原稿とりに昨日来ていたが、とても書いていられない。明日は弁当を持って私がついて行く筈。
夕刻食事前に縁の前の畑の土よせをする。多少よくなって来たが、それでも近所の麦畑の中で一番見劣りする。
そろそろ馬鈴薯をまかねばならない。滋の試験をすまさぬうちは気が落ちつかぬ。
国民学校生徒によって疎開する家庭を調査したところでは、疎開予定の家庭は、二十パーセントぐらいだという。外のものは、もうしたくても、そういう伝手も財力もないものである。各駅に持ち込んだ疎開の荷物は山をなしているという。疎開したもの、しようとしているものは、近いうちに大爆撃があると言うし、しない者は、敵の現在の基地からではとても欧洲のような組織的な大空爆は出来っこないと言っている。私の防空壕は屋根が半分出来たままで放ってある。
三月十四日
滋の成蹊受験の日。弁当や魔法壜を持ち、八時半定時なのを、七時に出かけ、八時過ぎに学校に着く。受付番号六十三番と交換に五番という受験番号となる。午前中滋は、五十分ずつ二度の筆答試験あり。数学は、難かしい計算問題を二十題も出されて、一題半は手をつけられずに残したという。滋と同級の十六歳の今井君という少年も一題半を残した由。隣に坐っていた一番という子は、三題を残したという。そのうちに父兄の面会あり。その室へ行くと、清水教授と松岡副校長の外にもう一人いて、滋の健康、通学距離の外に、どういうきっかけでここを受験させたかと言う。重見氏、高橋健二氏等の名を挙げる。午後は体操の試験あり、二時頃細雨の中を帰る。滋は学校の渥美先生へ報告にと行く。緊張していたせいか、がっかりして動くことも出来ない。夜になり、滋は答案に8番と書いて出したと言う。それは試験官が、紙に受験番号を、たとえばこういう風にと言って8と書いたのを、ついそのまま書き写したのだとのこと。試験官が、番号は受験番号を書くのですよ、と三枚目の時は特に滋に注意したという。それを貞子が私に言い、夜中にそれが気になり、若しかして無効答案になっていはしないかと気が気でない。あけ方まで眠れず。試験というものにすっかり脅かされている形だ。
三月十五日
朝早く起き、自転車で、吉祥寺に清水教授の宅を訪れる。しかし出かける前に貞子が滋を心配させぬようにして訊ねたところによると、席は一番から順になっており、試験官がその番号順に答案を集めて来たことや、一時間目のを集めて、二時間目に、滋に注意したことなどが分る。多分試験官が直しておいてくれたことと思えるようになった。清水教授に逢ってその旨を言うと、それは多分何でもないことと思うが、念のために調べておこうとのこと。ほっとして戻り、田居家に寄る。しばらく雑談して家に戻り、貞子に言う。
午前中に組内の女子勤労調査をしてまわり、午後新潮社へ行く。出がけに、中野好夫氏を西荻窪へ訪れたが、不在。新潮社としては、中野氏一人で書き、概論よりも各論風のものをほしいこと、印税一割三分、一万部、一円三十銭等のこと名刺に書いて夫人に渡して社に行く。
この日朝、決戦非常措置策のうちの、旅客輸送制限の具体案発表される。これはまた大きな変化を我々の生活に与えることだ。百キロ以上の乗車には証明書が必要であること、急行列車や手荷物の廃止等、重要な条が色々含まれている。疎開が盛にすすめられているが、しかし百キロ以上のところに疎開したら東京へ自由に往来出来なくなるわけだ。もう私たちは現在の住居にいて、その附近だけで何とかしのいで行く外はない。北海道から母が出て来たり、私たちがまた行ったりも出来なくなる。孤立経済の時が来たのだ。塩谷の弟博からうずら豆を二升ほど送って来る。これも助かる。しかしこういうことも次第に無理なこととなろう。
馬鈴薯を播く時が来ているのだが、どうもその暇がない。夕方家に戻ると貞子が今日礼の成績の件で中野の学校へ行き杉沢家へ寄ったら、杉沢家に塩谷から北一郎氏の義弟で村長の小林亭治氏が来ているとのこと。すぐ出かける。夕食を共にする。小林氏のあと片づけのこと色々と相談す。
三月十六日 昨日頃から、外套が邪魔になるぐらい暖い。
朝早く出て杉沢家に行き、三人で、小林氏の辻堂の家を買った中居〔前出中井〕家、児玉医師、原宿の板谷家等を訪れ、戻って杉沢家で昼食後、中野の寺から先日預けた骨を受取って蒲田の村山家へ行き、正覚寺に骨を葬り、夕方ひどい混雑電車の中を戻る。小林氏を家に伴い、入浴し、泊める。
矢田津世子氏死んだ旨新聞に発表あり。
三月十七日 暖い 貞子と菊とで南の方に、馬鈴薯を半分ほど播いた由。
朝小林氏と早起きして、中野に中居家を訪れ主人の正躬氏に逢う。家の売買の登記等を片づける為に、小林氏は中居氏の定期券を借りて辻堂へ出かける。私は杉沢家に寄る。小林氏の保険の金を取る為の診断書を昨日児玉医師に頼んでおいたので、私が寄ったがまだ朝には出来ていない。杉沢そのことを怒る。夕方までに書かせるからとて彼をなだめ、バターを五ポンド届けてやる。また林了氏へも五ポンド届けることにして、預る。中野好夫氏宅へ行き、出版の件承諾を得る。下落合に林氏を訪れ、英一が歯科から医科へ転じたいという希望をのべる。今の所その制度はないが、卒業後医科の本科へ入るよう骨を折ってくれるとのこと。小林氏のことを話すと、その家をほしかったと、しきりに言う。疎開の為である。そこひを患っていて、人の顔がぼんやりとしか見えないと言う。卵サンドイッチを馳走される。午後出社、中野氏の件を報告、次の出版として日本外戦史とかゲルマン民族史のようなものをすることを相談し合う。社から朝日の十和田君と薫に電話す。夕方療養所に寄り、児玉医師から診断書を受取り、杉沢家において帰る。夜小林氏来ず。
三月十八日(土)冷雨
新潮社出版部の相談会ありとのことで朝から出かける。哲夫氏、菊池氏、斎藤氏、長沼氏、楢崎氏、丸山氏、それに私である。斎藤君からとして古典の影響を扱った叢書(保田君提案らしい)私からとして日本外戦史、丸山氏からとして国学者伝等の提案があったが、差しあたっては、勤労青少年向の叢書を産業報国会との提携により、また恤兵部用の読物叢書の二つが大きな仕事として進められることとなる。恤兵部の仕事は、年四十万ポンドを獲得している大きなもので、主として新潮文庫の復刻であり、産報の方のものは、これからの書き卸しが多い。
午後雨の中を、楢崎家へ遊びに行く。氏の話によると、印刷用紙は次期は八割減となっているという。整備したばかりの出版界に新しい大打撃だ。雑談の中に、横山村に一段歩を借りる話をすると、自分に五十坪作らせてくれとのこと。また氏から軍で使うパンク用のゴム布と粘着剤をもらう。これは実にありがたい。ここ六七年も使った長靴がいたんで来ているので早速使うことになる。夕刻社に寄って帰る。
貞子が杉沢へ寄ったら来てくれとのことで、小林氏の件がどうなったかと思い夕食後杉沢家に寄ると、家の売買も完了し、保険金も取れたとて、二人とも喜んでいる。これで家と保険とで二万円ほどの金の始末がついたわけである。明日は箱根宮の下の大和屋ホテルへ遊びに行くから同行しないかとのこと。約す。小保内君いる。
夜ひどい雪となり、小保内君と帰る。京王線は屡々立往生し、二時間もかかって十一時すぎにやっと家へ着く。雪三四寸も積る。小保内君自転車のタイヤがあるからとのこと、取りに行く約束をする。新潮社に月曜日休むとハガキを出す。
三月十九日(日)
朝神田に出、雪印バター配給所で小保内君からタイヤをもらう。古い破れたもの一本だけにて、あまりありがたくないが、持って来た小説本を五冊贈る。
中野に戻り、杉沢とうち合せて、新宿駅に三人会し、一時半に新宿発の小田原線で箱根に行く。箱根は初めてのこととて渓谷の美しさに目をみはる。宿で湯に入っては雑談し、杉沢の畑の話、郷里の村の話などあり。
杉沢、横山村に私のために山林つきの二段歩の畑を買うようにはからってくれるが、それが買えたら、そこに四畳半ほどの小屋を建てるよう材料の点で助力してくれるとのこと。それが実現すれば、こんなありがたいことはない。何とかして実現したいものだ。
三月二十日 雨
雨が降っているので、午後晴間を見て、戻る。省線の切符を買えたので、私は辻堂に一人下車し、こないだから心にかかっていた小林家の転出や医師の払いなどを片づける。町会長が転出の雑件を片づけて明日速達で小林夫人あて届けてくれるという。医師二円五十銭、電燈二円など払い、貯金通帳二百円ほど記入のものも受け取り、夕方家に戻る。
この数日間、毎日駅で切符を買う長い行列が出来ており、自由に百キロ以上の旅の出来るのは、今月限りであり、またその内に疎開の荷を運びたい人が多いので、中には、前の晩から立っている人もあるという騒ぎである。汽車の切符はとても我々の手に入らないので、この転出をどう片づけようかと思っていたが、幸にも今日、宮の下から東京駅までの切符を買うことが出来たので、これを片づけられ、実にほっとする。宿賃は三人分として杉沢が四十五円ほど払ったので、私の分をということで二十円出したが彼は受けとらなかった。小林氏と私は馳走されたわけである。
明日は滋の入学試験の発表の日であるが、家に戻ると貞子が声をひそめ、実は昨日高橋健二氏から手紙が来て、極く内緒だが、滋が良い成績で入学した旨を知らせて来たとのこと。貞子も私もほっと安心する。当り前のことのようにも思えるが、これまでの心配を考え、将来のこの子のことを考えると、まことに喜ばしいことで、滋にも知らせたいのだが、それは出来ず、落ちたら次の青山学院を受けようと夕食に話をする。
小林村長は明朝出発とのこと。
三月二十一日 晴 暖し 梅は真盛り
貞子と滋と三人で八時に家を出、学校へ行く。滋は朝からわくわくして落ちつかぬ様であったが、校門を入って左手の掲示板を見ると「あったあった、五番があった」と歓声をあげる。本当に嬉しいのにちがいない。滋と同級で、よく出来る今井君という子が一緒に受けたのだが、身体が弱いせいか不合格となる。八十八名中七十二名合格した。この学校をと狙った私の考はよかったと思う。受付に行き、そこにいた松岡副校長や清水教授に逢い、挨拶をし、そこを出てから高橋健二氏を通じて話をしてもらってある、飛田教授宅、山西教授宅、高橋健二氏宅へと挨拶に寄る。貞子は礼のことで原田氏に逢いに中野へ行き、私は滋と二人、新井薬師に渥美訓導を訪れて報告し、礼を述べる。工業学校などの試験を通った同級生が四五人集っていて、みな楽しげにしている。人生の最初の難関を突破したうれしい盛りの時である。私は近くの上落合に矢田津世子氏宅を訪ね、氏の兄君に逢い、香料三円を具えて辞し、古本屋で滋のためと思い、斎藤氏の英和辞典を買い、外に将来子供等のために揃えようと思う理科系の本の一部分として十六円の土木工学ポケットブックというものや、伊藤正徳の「世界大海戦史考」など、二十五円ほど本を買う。古本屋は、この頃まで本が不足して困っていたのだが、この本屋など買い入れを停止したと貼り紙している。疎開で本を売る者が急に増加したものらしい。家具類なども、今までは不足で極めて高価であったが、これから当分は巷に氾濫するのではないかと思う。
新潮社へ寄る。春季皇霊祭にて休んでいる。滋に教えてくれていた荒木かなさんの家を捜して、伝通院附近の同家に寄る。家中留守。名刺に書いて隣家に托す。水道橋駅で偶然川端康成氏に逢う。元気だとのことだが蒼い顔をしていた。新潮社へ週に半分ほど行っていると近況を告げると「それはよかった」と言う。慰められている形か。
家に戻ると、貞子も滋も礼も戻っていない。三時半頃、板谷君が氏の出ている会社へ川崎を入れてはという話があったのだが、多忙で今まで行けなかったので、思い立って自転車で出かける。在宅中で、その話をすると、彼がこの十五六年やって来た広告取扱業も全く仕事がなくなっており、それに近いうちに更に新聞用紙は減って、毎日二頁となるらしいし、困っていた所だとて、早速板谷君に逢って見ようと言う。滋の入学の件報告する。同家の奎君や田居家の尚彦君たち都立を受けたのは、明朝発表だとのことで不安がっている。二人とも通ってくれないと気の毒をするわけだ。
今日留守中に杉沢が悦子さんを連れて来、定月君という興農公社の知人の身内が芸術科を受けたいとて一緒に来たという。また鈴木忠直君が本を返しがてら来たという。彼には満洲へ旅立つ前から逢っていない。逢って近況を語りたい。一昨日は留守中に山下均君、伊藤森造君が来ていたという。
滋のことが片づいて、先ず安心である。しかしまだ、畑のこと、菊を帰すこと、小林夫人がこの月中に死にそうなこと、等々、色々雑件が前にひかえている。何という多忙さだろう。箱根で久しぶりに体重をはかったら十二貫百匁しかなかった。
明日防空演習ありとのこと。三月中は私が群長の筈だが、伊藤信次夫人に頼み、私は組内にその旨を自転車で言い伝えて歩く。
今日あたり、街中を、荷物を積んだ疎開のトラック、馬車を幾台も幾台も見かける。敵の海上反攻はちょっと中休みの形だが、しかし小林村長の話によると、昨年の秋頃から北海道では、ソ聯に対する警戒が特に強くなり、小樽から乗船する兵士も半分は樺太方面に向っているとのこと。また、日本海面の積丹半島あたりでこの半年間に十隻も船を沈められているが、その潜水艦はどうも沿海州辺に基地を持っているように疑われることなどを聞く。しかも日ソ中立条約はこの三月で満期になるのだという。このことのみは、私はうっかりしてこれまで気がつかなかった。これは大変なことである。新聞はそれについては一行も書いていないが、重大なことである。欧洲東部戦線は目下泥濘期の筈なのに、ソ聯軍の攻勢は着々と進み、ソ聯とルーマニア国境に近いブグ河を赤軍は突破し、中部辺では、旧ポーランドの中央部近くまで赤軍が侵入している。ドイツ軍の重大危機である。それに西方から英米は上陸することを宣伝しており、英米の対独空襲はいよいよ激しく、千機二千機という機数によって続けられている。ただドイツの対英空襲もかなり大規模に行われていて、ドイツ戦力の健在を語っている。しかし情勢はよくない。極めてよくない。
日本では、やっとこの四月から航空産業が全部二十四時間運転になるという。遅いことだ。まことに歯がゆいことだ。
松尾君の「祖国日本」の原稿書けず。
三月二十二日 晴
礼のアデノイドを取りに近くの至誠会病院へ連れて行く。午後に手術するとのこと。吉祥寺の田居家へ行く。途中太宰君に逢う。田居君は親子とも留守。学校へ入学試験の発表を見に行ったらしい。
午後新潮社へ行く。哲夫君の話によると、かねて噂のあった出版関係の責任者に徴用免除の登録をする件が決定し、出版部としては部長の哲夫君の外、文学部の斎藤君、学芸部の私、児童部の菊池氏の四人がその登録をすることになると、私と斎藤君としかいない所で言う。届けをするに印が入用とのことで渡しておく。その旨を書いた出版会の会報を見せてもらう。外に「日の出」と「新潮」の編輯長として俊夫氏と楢崎氏、また営業部で、「日の出」と「新潮」と出版とのそれぞれの責任者ということで計九名は登録することになるという。実現して見るまでは分らないが事実であるらしい。翼賛会から電話があって出ると、福田清人君で、高橋健二部長の話によると滋君は二番で入ったそうだ、お目出度うと言う。二番と聞いて、私はうれしくなる。そばで応答を聞いていた斎藤君もお目出度うと言う。
私の出社せぬ午前中に秋沢三郎君が社へ訪れて来たという。先日十和田君から話のあった就職のことかと思うが、彼が上海に渡ってから三四年逢わないので逢いたい。退社してから本郷追分に阿部保君を訪ねて、玄関で滋のことを報告し、礼を言う。よかったと彼も喜んでくれる。夕刻駒込片町に秋沢君の新居を捜す。新婚の若い細君といる。米が豊富にありとて、夕食にライスカレーを馳走される。
友人の話など色々とする。彼は出版社に勤めたいらしいが、それは徴用などがあって駄目故板谷君の社のような所はどうかとすすめる。彼、上海から持って来た洗濯石鹸を一つくれる。家へ戻って、滋が二番だと言うと、滋も貞子もひどく喜ぶ。しかし入学後この成績を持ちつづけられるかと心配になる。礼は午後貞子と行って手術した由。
三月二十三日
朝畑に芋を播く。予定地の三分の一はすでに貞子が播いていたので、私は残り三分の二を播く。川崎君が奎君を連れて来て、十二中に入ったと言う。お目出度うという。
食後和田本町の療養所に寄る。転出の件の報告をし、貯金通帳を渡し、医者への払いと電燈料の払いの残金を渡す。夫人極めて悪い様子。この頃は毎日強心剤を注射しているが、昨日など深い底の方へ落ちて行きそうなので、本当に死ぬのではないかと思った、子供があるから、まだ暫く死にたくない、とか、私が悪いもので盈が泣いてばかりいると、そばに寝ている盈君のことを言う。悲惨極まる話である。私の所の滋は入学して目出度いなど言っているが同じ年の盈君は先日父を喪ったばかりなのに、今また母に死別しようとし、しかも自分も恢復できぬ程重いのだ。私は夫人の苦しげな様子よりも盈君の心持を推して涙が出そうになったが、強いて、「盈君が元気を出さなければいけないのだよ」と言う。おだやかにうなずいている顔も哀れである。昨日よそから到来した十一切れの餅のうち明君と三人分として六切れ持って来たのを差し出す。夫人は御飯が少しも喉を通らないのですと言い、とても喜ぶ。そして実は炭が無くなり、この餅を焼けば、そのあと困るからとのこと。何とかしようと約束する。しかし、炭はいままことに稀少で私の所にも余裕はない。杉沢家でもそうだと思う。困ったことだ。もう夫人は四五日しか持たないのではないか。二人の様を見ているのも苦しい。しかもそこから出て行くのも苦しい。
社へ二時半頃着く。私たちの登録の件、明日哲夫君が出版会へ行ってするという。
四時頃板谷君が新橋駅から電話をしてよこす。川崎君の就職の件である。昨日川崎君が板谷君を訪れて依頼したらしい。大体決定したとのこと。二人で夕方から千歳船橋の川崎君の宅へ行く。夜まで三人で話し合う。
夜家に戻りながら、なぜこんなに多忙なのかと、考え込む。そして、いや今は世の中がひどい勢でゆすぶられており、弱い病人は死ぬし、強い若人は戦争に行くし、都会人は職を失い、また得、そして疎開するとか、食料を捜すとかで、大変な混乱が起っているせいだ。そのため、私はその中の何かに絶えず引っかかって動かされていて休まる暇がないのだ、とさとる。
礼は手術の後のこととて寝ているが、経過よし。
三月二十四日 晴
社を休む日、朝自転車で蘆花公園の竹屋へ篠竹を買いに行く。家の垣根を細かく編んで鶏を放し飼い出来るようにするためである。しかし竹はあんなにあったのに、ほとんど無い。竹の尖の細い所だけ百本ほど集めたのがたった一束あり、それを十円という途方もない値で買って帰る。
そのあと、家の横の三間幅の道を耕す。空地耕作がやかましく言われて、この無用の、車というものの通らぬ道を、近所の人がみな耕しているので、私も始めたのだが石が多くて捗らず、一坪ほどしか出来ないうち昼になる。
午後組長会議の年度変りの総会が神社の社務所である。出席する。結局町会長以下多く重任ということに決定、四時に戻る。今日、十日ほど前に義父の送った馬鈴薯が渋谷駅についているという知らせあり、私は菊と夕刻すぐ、リュクサックを負い、出かけ、叺をあけて、八貫目の薯をリュクサックに入れて戻る。畑の残っている所は、昨年馬鈴薯を播いたのであるが、種子が来たので、連作でも構わず、肥料を多くして、明日播こうということに貞子と相談する。そうすると畑の半分は馬鈴薯、半分は麦である。そして七月初めには、全部に甘藷を植えることとし、トマトや菜は極く少しつけることとする。主食に力を入れるのである。滋と礼の通信簿を滋が持って来る。滋は全優。礼は体操のみ良上。
夜入浴。明日は滋の卒業式。滋は答辞を読むとて、一昨日頃からかかって、文章を直してもらっていたが、今夜は最後の清書をしている。
三月二十五日(土)馬鈴薯播く[#「馬鈴薯播く」に傍線]
滋の卒業式が午前にあり、午後一時には、成蹊の初めての父兄の学校への顔出しのある日。貞子がその両方へ行くこととなる。私は午前中東北部の畑の麦を引っくりかえして、二年連作であるが、そこに馬鈴薯を播く。人糞、塵穴の堆肥、灰等をかなり豊富に施して、小粒の北海道薯を半分に切ったのを植える。
午後出社する。俊夫氏が出版部の室へやって来て、今度出版社の用紙割あてが八割減になったことは、大削減で、全く大変なことだと愚痴を言う。聞いていて、丸山、斎藤、長沼等の諸氏少々しょげながら、部長を元気づけるように話しかける。十五人もいて忙がしかった営業が、今では二三人でも暇だとかいう話などあり。さすがの新潮社も今度の用紙の減配には大分困っていることが分る。
夕方家へ戻りながら、出版社にこうしてのんきに、いつまでも居るわけには行かないだろうと考える。板谷君の会社の重役がしきりに私をほしがっていると言っていた話などを思い出す。板谷君の会社は、私の月給は百八十円位になると前に言っていたが、手当て等で倍になると川崎の話の時には言っていたが、そうとすれば、随分よい条件である。今のうちに、そういう軍需会社へかわっておいた方がよくはないか、などとしきりに考える。だが新潮社ののんきな気分も悪くない。週に三日も休むとか、午後のみ出社という条件など、なかなか無いことである。夜、あれこれと考えてよく眠れず。
この日新潮社で、どこからか鰯の燻製を手に入れたとて、一人に一貫目を六円で分けてくれる。私には外に哲夫氏から六百匁ほど割りあてあり、大量に買うことが出来た。夕刻鈴木忠直君宅へ寄る。この頃毎日居残りがあるとのことでまだ帰っていない。元気だという。しかし先週私の所へやって来たのは、着物、彼の洋服を少し預ってくれとの件だという。少々ならと夫人に言い、バターを一ポンド渡し、石鹸にかえてほしい旨を言う。質屋八島より期限の案内があったので、帰路寄ったが、門を閉めていた。
三月二十六日(日)
滋入学のお祝とて、貞子朝から支度をしている。田居君の尚彦君が入学出来なかったらしく、やって来ないので、川崎君の奎君も呼べず、結局、杉沢家の謙一君、荒木先生、外に滋の友人で及第した大友君、〔アキ〕君などを呼ぶことになる。
朝三四日前から急がせられていた近くの斎藤邸から桃の木を買って運ぶ話となり、近くの恩田老人をたのみに行き、滋も動員して、かなりの老木二本を掘り出し、リアカーで運ぶ。斎藤氏が来て植えるのを手伝ってくれる。枝ぶりなどよいが、少々老木に過ぎるかも知れぬ。しかし二本で十五円という安価さであり、畑の西南と鶏小屋の前とに植えると眺めるとしても大変よい。十時頃それがすむと、江口清君来る。先日ラルースの小辞典の旧版のものを持って来てくれたのだが、要らなければ持って帰ってもいいという話。芋一貫目をかわりの意味で進呈する。午後杉沢氏が謙一君を連れてやって来る。小林家の保険の金をとってほしいという件、畑を借りるのが駄目になった件など。畑の件は実に残念だが致しかたない。こういう話はあてに出来ぬものである。しかし実のところ、万一新潮社をやめて、日本配合飼料会社に勤めるようなことになれば、八王子まで行って耕すという余裕もないわけだし、家の畑だけでも完全にやるには私の手にあまるかも知れないのだ。杉沢が種子薯に困っていたから、馬鈴薯を半分近く三貫目ほどやる。
お祝いの馳走は、白米の海苔巻きと、ゴマのお握りと、プリン風の菓子と林檎である。夕刻更に馬鈴薯を植える。
文学報国の論説原稿催促に女の編輯者来る。明日届けることにし、夜、書きにくい原稿を四枚書く。
三月二十七日(月)暖し まだ朝は降霜す 朝から半鐘による訓練空襲警報あり
礼が先日アデノイドを取ってから、声が変だというので、この日至誠会病院へ連れて行く。まだ少々喉に疵がある由。家に戻って、菊がこの頃少しも貞子の言うことを聞かないので、叱りつけて、あやまらせる。何となく、そういうこと、とげとげしくていやなことだが、時々は致しかたない。朝烏山局にて八島の利息十七円二十五銭を為替に組んで送る。本屋に寄り、私あて来ることになっている新古典全集と文学界を訊ねたが来ていないとのこと。世田谷区役所に寄り、これも前から気になっていた復役届の用紙をもらう。昨夜塩谷村長小林亭治氏に手紙を書いて、北一郎氏夫人の近況を知らせ、滋の学校に出す戸籍謄本と復役届の件をたのんだのだ。この頃真昼でも電車はひどい混雑である。地下鉄で虎の門に下り、内閣印刷局直売所で、文部省関係のパンフレット類を五円ほど買う。二十冊ほどあり、中に面白いもの多し。西晋一郎の国民道徳論などその一つである。江口君からこの売っている場所を聞いたのだ。読売別館の旧報知社に寄り、校正部に原稿を置く。
出社す。別に用はない。雑談し、斎藤君と、支那の現代知識人を研究した本を書ける人はいないか、などという話をする。小林亭治氏あての手紙に復役届を書いて同封す。
滋は入学したら峰岸君の所へ遊びにやると言っておいたのだが、この頃は疎開と四月からの旅行制限でとても切符を買えまいと思っていた。だが、今日思い切って八王子まで買いに行ったところ、買えたとて、明日滋は礼と二人三四日行くことになる。
夜また訓練空襲警報。私が見まわらずにいたところ、この組の中の西尾、鎌田、隣の花村家など、あかあかと灯がもれていたとて見まわりの桃野、井上氏に注意される。私の群長は今月限りなので、私は見まわる気がしないのである。夜滋、私が昼間買って来た踵用の皮を使って自分と礼の靴の踵を直す。
日記を三日分書く。
私は社からの戻りに、出刃庖丁、玄関の戸のベル、細工用の小さい鋸、バネになる針金の螺旋などを買う。金属類はすぐに無くなりそうで見ると買わずにいられぬ。また草削りの柄にもなると思い、固木の空襲用具のトビ口を一本買って戻った。
「三人の少女」製本が出来て、十五冊届く。峰岸君あてに早速一冊を持たせてやる。この日、文学報国会小説部会の総会があったが、私は出ず。
夕刻、貞子と菊の耕した畑に馬鈴薯の残りを植える。
三月二十八日 雨 子供たちは朝、埼玉県の峰岸君宅へ行く。
今年の春は雨が多い。下痢す。冬中着て寝ていたシャツを脱いで寝て腹を冷やしたらしい。雨降りなので、午前中、階下の炬燵に寝ていて眠る。この頃雑用が多く、疲れも出たらしい。午後出社前に池袋要町の肥後和男氏を「藤田東湖」の原稿催促に訪れる。まだ旅行から戻らぬ由。二時頃社に行く。ストーブを囲んで雑談す。哲夫君、色々話をしているうちに、私、「日の出」の渡辺君、長沼、丸山君たちの前で、社の方針が一定しないことを洩らし、俊夫氏が消極的で、紙が八割減ではやって行けないとか、出版部を解消するといいとか言っているのは困る、自分としては軍方面と連絡を取ってあくまで積極的にやって行きたいと思い、目下副社長の長男の諒解を得るに骨を折っているし、また近く軍関係者を呼んで自宅で酒宴を開く用意などもしている、と語る。社内の首脳者の意見が違っていることが、やっと分った。次男の俊夫氏は消極的で、四男の哲夫氏は積極的なのであるが、哲夫氏の立場はそう強いものではなく、前には上海に行って金を使いすぎて軍人との交際を禁ぜられたこともあったという。また私たちの徴用免除の登録をすると言って哲夫氏が私の印を預ったのは先週の金〔水〕曜日であったが、今だにその結果の報告のないことも、社の首脳部がその手続きを押さえているからのように思われる。
こんな風では、ここに長く私のような自由勤務的立場で席をおけるとは思われない。出版の企画など少しも積極的にはかどらぬのもそういう空気の反映であろう。とにかく、もう一月か二月いて私はよすことを考えねばなるまい。出版用の紙の配給など、今より豊かになるとは決して思われないのだ。それよりも私は新潮社に席をおいているうちに、健康をもっと完全にし、自家の畑の仕事を片づけながら、「爾霊山」を書き上げることを考えた方がよさそうだ。
また哲夫氏が海軍評論家の福永恭助氏から聞いた話として、欧洲の第二戦線は四五月のうちに必ず実現し、その成功不成功がドイツとイギリスの運命を決定すること、また米国の太平洋艦隊司令官ニミッツが二月末大艦隊を率いてカロリン諸島まで押しよせたのは、この第二戦線実現の前に日本艦隊と決戦してそれを潰滅させる意向であったが、日本側が巧妙にこれを避けたこと、また第二戦線の展開と呼応して、どうやら日本はソ聯に侵入するようになるらしいこと、また目下の緬印国境での日本軍の侵入は政治的に英国を脅かしているものなること、等を聞く。対ソ戦が初まるとすると緊迫感は一層強まるであろうし、空爆もあるのではないか、と皆で話し合う。
私は新潮社はいつやめてもいいという腹をきめ、きちんと約束の日は出社するように続けることに覚悟する。
夜子供たちがいないので家の中は、まことに静かである。
三月二十九日 北風 晴
下痢直らず、不愉快である。午前中炬燵で眠る。粥と梅干の食事で、頼りない。菊午前中中野の大工の所へ薪を取りに行ったが、無い由。杉沢の所からバター箱をこわしたものを一箱持って帰る。杉沢家で出産あった由。また児玉夫人に逢ったところ、療養所で小林夫人がもう駄目なぐらいになっている由。午後、畑に出、小松菜一畦、時無大根一畦半、蔓無隠元二畦等を播く。この日何も仕事せず。
鶏この頃ほとんど毎日二個産卵す。一羽は喉の羽毛がとれて来ている。手当てをせねばなるまい。近頃また鶏泥棒多く、老松家、石丸家等でもとられたという。私の所では夜箱に入れて玄関に入れておくのだが、それも不便故、南の縁の下を利用して鶏を入れるようにしたいと思う。
印度へ侵入した我軍はインパール平地へ入り、怒濤のように進撃しているという。敵もしかし、さる者で空輸部隊をミイトキーナ南方のカーサに降下させ、そこに飛行場を作ったりしたが、これは我軍が包囲攻撃して、殲滅近いという。この対印侵入戦は思ったよりも大作戦となった。太平洋方面は静穏になり、巷の噂によるとニミッツも古賀司令官も上陸しているとのことである。チャーチルは三月十五日以前に欧洲上陸戦を行うと言っていたが、それは実現しなかった。しかし、近いうちにそれをやると、英国側では機会ある毎に公言している。
この世界大戦の峠が、いよいよ近づいたという感じが切実である。イタリアでは英米軍が少しも振わないが、東部戦線ではソ聯軍の進軍がどしどしはかどり、すでにドニエストル河を越え、ルーマニア北部に入ろうとしている。一体ドイツは持って行けるのか、対独爆撃も少しも弱らずに続いているし、心配なことである。日本としても、ドイツが参るのを見すみす放ってはおけまい。そうするとやっぱり我国の対ソ戦は実現するのだろうか。
三月三十日 曇 下痢治らず(アイフ、ジルベロイド、クレオソート丸)雛三羽買う[#「雛三羽買う」に傍線]
午前中、門の南側の道路を耕す。更に半坪ほどを耕したが、石を多く入れてあるので骨が折れる。午後雨気味となる。滋と礼とから寄せ書きのハガキが来る。一人前の旅をしているつもりらしいとて、貞子うれしげに笑う。滋が無事志望の学校に入り、この休みに遊びに行けたことは、当人も嬉しいであろうが、私たちも、考え直してもよかったとつくづく思う。
午後出社。何ということなく、もう何時やめてもよいという気持である。しかし原稿をまとめるならば今のうちという気持で焦る感じもある。
新宿の街上で、ゲートルを切符なしで売っている。糸の太い、目の荒い弱そうなものだが、値段は十二円という。ひどい高価であるが、滋の学校で早速使うもの、どこを捜しても無いらしいもので困っていたところなので早速買う。また鶏の雛を売っている。雄三十銭、雌七十銭と言うが、多分雌というのも雄であろう。しかしだまされたと思い、雌というのを三羽買う。紙の袋に入れ、下痢どめにと腹に入れていた懐炉をその袋に入れてやる。新潮社へ持って行く。ピイピイと啼くので、神経質な斎藤君など苛々した顔をする。四時頃早目に帰り、前から考えていた写真の焼付箱に電燈(二燭光)をともして中に入れてやる。暖いので元気になる。中の一羽は元気で米の粉を食うが、あとの二羽は元気がないので、口をあけて食わせてやる。見ていると面白くって飽きないが、気になって何も出来ぬ。
三月三十一日 晴 下痢ややよし 夜入浴
朝桃野氏酒の切符を持って来る。町会長や副町会長が決まらないとて、組長の会が一昨日もあり、今日もあるとのこと。桃野氏への義理のような形で神社横の集会所まで行く。決まらぬうちに辞す。十一時頃、先日杉沢に頼まれている小林氏の保険金のことで外出、児玉医師で診断書をもらい、第百徴兵生命保険(高島屋前)へ行き、三時頃受取る。カユ腹の昼抜きで気持悪くなり、その近くのモーリで、イルカの肉と里芋という四十五銭の料理を二人前とり、噛んで固いのを吐き出す。
その足で翼賛会へ行き、高橋健二氏に先頃来の滋の入学の件の礼を言い、福田君に逢い、礼を言い、友人の話などをする。福田君、翼賛会の内部にも面白くないことありとて、こぼす。近いうち旧友集ってピクニックをしようという相談をする。夕方杉沢家へ寄ったが留守で、金は家へ持って帰る。
礼一人で今日帰って来る。明日から学校があるせいである。とても面白かったとて田舎のことを話す。滋は三日頃までいる由。
今日の新聞に、明日からの旅行制限のこと、学童給食のこと、また中等学校の三年以上の生徒が工場へ一年中出動するに決定した件などが出ている。どの一つも実生活上の大事件である。中等学校と言っても実業、工業の学校が主で、中学校生徒や高等学校生徒はもっと勉学に力を入れさせる方針らしい。しかし時局が更に切迫すれば、そういう区別もいつまで存続出来ることか分らない。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年四月
四月一日 晴 暖 下痢直る
日ソ漁業協定が成立した。それもこれまでのような一年ぎりの暫定的なものでなく、五年を限っての安定性のあるもので、日本人所有漁区も確保されるもののようだ。そのかわり、日本は北樺太にある石油利権と設備をソ聯に譲った。これは、譲歩のようであるが、一応成功したものと言うべきだ。対ソ開戦説が巷に流れている今、この取りきめが成立したのは、日ソ間の外交状態の安定していることを覚らせて、北辺の心配をのぞいたまことによいものである。
写真の焼付箱で飼っている雛子は、元気よく、弱かった一羽もすっかり恢復し、ひとりで餌をつついて食べている。可愛らしい、美しい明るい雛の巣だ。今日から、日光にもあてるように応接間の窓ぎわへ、更に大きな箱に入れたまま置いてある。二燭の電燈を使っているのだから、二十四時間使っても、五十燭の電燈を一時間つけるほどしか電燈を使わないわけである。これが成功すれば、今後好きな雛を持って来て育てられることになり、楽しい希望となった。
午前中杉沢家に寄る。女子産れている。杉沢氏に二千三百余円の保険金を渡す。砂糖入りのコーヒーを一缶もらう。珍しいものである。
出社。「日の出」の小林君という三十三歳の第一補充兵の人、出征とて、応接間で壮行会をする。この頃出征兵が極めて多い。四月は出征の多い月だというが、ただならぬ気配である。大日本印刷(?)などでは南方の地図を大量に印刷中とのこと、それは大作戦の徴だという。副社長そのあとで私に、自分の引越もすんだから時々室へ遊びに来るようにと言う。その席で長沼辰雄氏がいよいよ徴用になり、蒲田の新潟鉄工場というのに入ることになり、祖母へ面会するとて郷里に戻っていることを知る。私たちの徴用免除の登録の話は、その後どうなったのか、哲夫氏は私の印を預ったまま、まだ返してよこさない。同室の斎藤君は、朝から私と顔を合せていながら、この二つの件を知らせない。午後出版部の者、哲夫氏、菊池氏、丸山氏、斎藤と私が室で、長沼君の仕事のあとを分担し、四月から六月までの仕事を急ぐ打合せをする。私は中野好夫の原稿、九州の大塚氏の原稿、文理大の肥後氏の原稿を受け持つこととなる。新潮社ではこの一月のうちに八人もやめた者があるという。応召徴用も含めてであろうが、かつて百人もいたのが今は五十人位だという。新潮社はまだ所謂新発足の声明も出さず、株式会社への変更も実現せず、用紙減少に対する案も確定せずにまごついている様子だ。しかし、今日の空気で、私はよすことは当分延期しようという気になった。それに菊が近く帰るとすると、朝や休日に私がしてやる家の用や畑仕事も随分大切であり、収入の不足は原稿を書いて補って行くようにした方が、一家のことがうまく行きそうだ。こういう時代になると、家の用をうまく片づけて過労からの病気を防ぎ食物の補給を保って行くというのが、生活の第一条件だから、新潮社の勤務条件は、随分大きな利点と言わねばならぬ。
礼は今日から六年生で、学校では給食があったという。飯は茶碗に山盛一杯程度。それに味噌汁が一杯だという。礼は食器を持って行かないので当らなかった由。
私は社からの帰途、色紙かけを買おうと思って伊勢丹に寄った。一月ぶりぐらいで入ったこの大百貨店が、がらんどうでほとんど品物というほどのものはなく、巨大な空虚な倉庫のようにわびしく見えるのに驚いた。もうほとんど商売はしていず、いつ明け渡してもいいという棄て鉢の様子で、その中のあちこちでエレベーターやエスカレーター等の装置を外す工事が行われており、凄然たる感がある。都市生活の終末を眼のあたり見る感である。色紙かけは二十三円という高価なものしかないのでやめ、家で盆が不足気味なので、大きな矩形の盆を十五円ほどで買って帰る。また帰途牛込の古本屋で、東郷平八郎全集の第一巻の伝記(四円)と明治四十五年出版の「農蚕業大全」という本を買う。
今日から葉書が三銭になり、封書は七銭、速達と書きどめは各々二十銭となった。「文芸」の木村徳三君から、新聞小説についての感想を七枚五月号に書けと言って来る。私の原稿掲載の「文学報国」届く。大きな生活の変化が何事でもないように、毎日次々と出現している。激流の中に生きている一日一日だとしみじみ思う。
朝と夕刻、道路を掘り、三坪ほどになる。
四月二日 雨(日)
終日炬燵を入れて家居。疲労感ありて、もの憂し。
函館にいる母より五十円、基より十円、滋へお祝として送って来る。一昨日か、沢田斉一〔郎〕君より五円、旭川の義兄より十円もらっていて、大分お祝いが多い。
四月三日 晴 神武天皇祭 下痢治る
朝から防空壕を掘り進める。出来上りかけていた蔽いをとりのけて、深さを増して肩までとし、幅も増して、中で自由に動けるようにする。地層は赤土にて固く、よく出来る。掘り上げた土を、鶏舎前の古い防空壕に菊に運ばせて埋める。もっと深くし、頭を越すぐらいの高さにしようと思う。
滋、昼頃埼玉県から戻る。峰岸君より葱、人参、牛蒡等を、文子さんより餅、菠薐草等をもらい、リュクサックに負うて来る。峰岸君よりの手紙によると、十五日頃桜が満開故遊びに来いとのこと。
夕方壕掘りをやめる。疲れたが、元気である。夕方梅の枝を刈り込む。
四月四日 晴
梅は終り頃となり、すっかり春めいて暖い。スプリングコートを着て出る。吉祥寺の田居家に寄る。尚彦君も目出度く都立十中に入ったとのこと。田居君は留守。先月末から夫人は北海道へ、田居君父子は京都へと旅行していたという。出がけ烏山の本屋で永井威三郎博士の「作物栽培各論」の上巻と「緬羊飼育相談」を買う。両方で八円余。後者は杉沢氏に贈るつもりの本である。
昼頃西荻窪に中野好夫氏を訪う。原稿を急がせる用件である。留守。名刺に書き置いて出る。一時頃社にて、餅の昼食。日本文化中央聯盟に電話し、中野氏と連絡し、五月二十日迄に二百枚書いてもらうことに、ほぼ話つく。九州の大塚英雄氏にも原稿催促の手紙を書く。徴用になった長沼君の机に、今度入った藤本さんという若い女性、専務の姪という人が坐る。哲夫氏の話では新潮社の新発足は十五日頃になるので、それまでは積極的の仕事は出来そうがないという。
雑誌類から、鳩麦その他の栽培法の記事を写し取る。
この日の朝、広島の薫の嫁宗子さんへ疎開の件についての礼状を書き、非常の際はよろしくと言ってやる。峰岸君へ滋と礼とのことで礼状を書き、十四五日頃遊びに行くと言い、離れの借賃や先日峰岸君が持って来てくれた布や子供たちの礼として五十円を封入して送る。
電車の中で先頃から読みつづけている「ブッデンブロオク一家」は最終の第四冊目となる。その描写の着実、精巧なさまに今さら感心する。傑作にちがいない。写実の心は、この頃私の中から失われかけているが、その強力な芸術性は改めて考えられるものである。
畑に玉蜀黍、鳩麦、春菊等を早く播きたいと思うが暇なし。
昨日田原忠武君より、七八日頃千葉県の木下にある夫人の郷里へ遊びに行かぬかとの手紙あり、先頃の結婚式でも夫人の実家の人たちから言われていたこととて心動く。社から電話すると六日、七日が休めるから一緒に行こうとのこと。承諾す。帰路鍋屋横町の金物屋で、カマドの目皿とキセルとを買う。鍬は売切なり。明日はみたみ出版社の野長瀬君を訪い、印税の残金五百円を受取る約束の日である。大阪の全国書房の印税について池田小菊氏に頼んだ手紙の返事はまだ来ない。京王への支払いがあるので気にかかることである。
鶏の雛、三羽ともうまく育っている。中の一羽下痢気味で、余程棄てようと思ったが、木炭粉を飯に混ぜてやって直したら、すっかり元気になって区別がつかぬ程である。三十日に買ったのだから、六日目である。
夜都新聞の短文書こうとして出来ず。
四月五日 晴
午前中滋を相手にして防空壕を深く掘る。頭が掩蓋につかえぬ程度にする。まだ三分の一ぐらい残っている。滋を連れて、淀橋警察の近くの帽子屋に寄り、帽子を捜したが無いので、児玉医師からもらった救世軍の帽子を直すように頼み、滋の古帽子の庇を午後までに取りかえるように頼み、滋はそこから吉祥寺の学校へ定期券申込に行く。弁当に餅を焼いたのを持って、昼前頃から神田元佐久間町のみたみ出版社に野長瀬君を訪う。印税の残金五百円を受取るためである。緒方久君も来ている。この人、中村武羅夫氏の世話になった人だとのこと。午後二時頃まで待って、税金差引き四百五十五円を受領す。その間に田原君と電話で話をし、七日朝に上野発で木下へ同行することにし、今夜田原君が私の所へ寄るという。金が入るとすぐ物を買いたくなる癖が出て困る。まだ所得税など六十円程払っていないし、京王電車への払いもあり、外に保険料があり、また数日前に建物の不動産収得税として三百円の切符が来ていて、困るのだが、それでも鋸、鍬などは、今のうちによいものを買っておきたいと思う。先ず銀行の近くで、純絹の腹巻を八点八円で買う。これは下痢がちな私にとって大切なものである。松坂屋に寄り、茶托様の塗菓子皿五枚、田原君への祝の菓子器、灰皿等二十円程買物する。
新宿下車、淀橋の帽子屋で滋の帽子を受取り、鍋屋横町の金物屋に寄ったが、戸を閉めている。五丁目の街頭の古道具屋で、立派な大鋸を十二円で買い、六丁目の金物屋で万能鍬を二十二円で買う。そこの主人に鋸を見てもらうと、大変よい品物で、二十円以上の相場のものと言う。
家へ戻ると、田原君と薫が来ている。夕食を共にする。薫の和田本町の畑は森田の小母さんや橋爪夫人などに貸してあって、そのままにしておけば取りかえせそうもないので、薫にやるようにと言うが、自分でやろうとしない。明日私や菊などで行って耕してしまうことにする。
四月六日(晴)
朝から薫、滋と鍬をかついで行き、自転車で来た菊と四人で畑を耕し、あり合せの豆や菜類の種子をまいてしまう。そのあとで貞子が菊に言いつけた中野家のひき臼で、豆と米を粉にするのを皆で手伝う。また薫の借家の件私の名儀を彼のに書きかえることも、私が大家に行ってまとめてやる。厄介な弟である。
午後出社する。日本文学大辞典出来ている。楢崎氏と附近の本屋をまわり小野玄妙の「仏教の美術と歴史」(十二円)外、滋の将来のためと思い科学書を三四冊等三十円程本を買う。こんなに金を使ってはいかんと思いながら、どうせ京王への払いには足りない、とやけ気味でもある。そう言えば数日前に馬場氏が登記をしてくれたが、その費用四十円前渡しておいたのが更に三十円不足しているとのこと。また京王は今度東京急行に合併したというが、私たちの年賦の件はどうなるのか、昨日そのことで馬場氏が来たらしいが逢えず、心配である。日本文学辞典のために、朝日の調査部で文士の生死等を調べる用があり、月曜に調査の〔アキ〕君を連れて森本忠君を訪れることとなる。
四月七日(金)
上野駅で九時、田原夫妻と逢う。夫人がやっとのことで今日の切符を間に合せてくれたという。百粁以内は警察の証明がいらぬというが、今日に間に合せるには前日に駅へ申告せねばならず、理由などをうるさく尋ねられたとのこと。
昼頃木下着、小雨となる。夫人の姉の嫁ぎ先の家で昼食。来たことをすぐ後悔する。景色のいい利根川べりの美しい小さい町であるが、よその家でこの節食事するというのは、馳走があればある程負担を強く感じ、食いに歩いているようで苛々して来る。こういうことよさねばならぬ。
午後夫人の実家へ行く。ここでも親切にしてくれるが、つき合いの薄い人たちと世間話などしながら食事するために来ているようで苦しい。泊る。明後日の日曜の朝まで居ようということ。困ったことをしたと後悔すること切であるが、今となっては逃げ出すことも出来ぬ。雨で散歩も出来ぬ。
四月八日 雨
今日も雨で、食べては話をして炬燵に入っているのが、窮屈でならぬ。午後三人で三つ駅向うの成田へ行く。成田不動は俗悪な社風である。ただ木彫の浮彫の五百羅漢を面白く思う。靴に水しみ、寒く、それに食べすぎての下痢あり。夕方寒風の中で駅に立っていて苛々し、私はこのまま東京へ帰ると言い出すと田原君、それでは自分の気持が済まぬとてしきりにとめ、結局また木下に下車、泊る。
四月九日 また雨
下痢直らぬが、やけの気持で普通に食事している。午後三時に帰る。蒸した甘藷、菠薐草等土産物をもらう。ありがたいが、こういう旅はこりごりである。夕方戻ると、昨朝早く小林北一郎夫人は療養所で死んだとて、電報あり。また杉沢家から悦子君が来ていたとのこと。葬儀は明後日一時にするということ。夜疲れたので出かけず。雛子三日の留守のうちに大きくなっていて驚く。滋は一昨日入学式にて、明日から授業あるという。
小林家はこれでいよいよ、二人の子供だけが残ったのだ。哀れなことである。
放送局から、大東亜各地の印象という題で七八枚のものを書けと言って来る。
四月十日
朝家の西側の道路を耕し、砂利を取り出す。骨の折れる仕事であるが、この側に六尺幅として十間故、十坪出来、北側には十五坪出来る。かなりの場所故早く耕して鳩麦を播かねばならぬ。午前中杉沢家へ寄る。杉沢八王子に行き明日昼頃来るとのこと。塩谷の小林村長や板谷家等へは杉沢から知らせたという。その足で療養所へ行く。盈君しょんぼりしている。附添の老婦人から死者の臨終の話を聞く。
朝三時頃から危篤となり、六時少し前に瞑目したという。明君は風邪気味でコロニーにいるというので、そちらへ行って見る。庭園内に平家の普通住宅あり、掃除もせぬ畳の上にふとんを敷きっぱなし、二十歳ぐらいの青年と二人で一室である。服は破れ、靴下は脛のみとなり、哀れなさまである。涙が出て来る。目をくりくりさせて元気でいるのが一層哀れである。盈君は十四故、色々なことが分るらしいが、病弱とて気力なく静かにしているが、この子は、ぴちぴちしてなかなか不幸にも負けない顔をしている。父なく母なくてもこの子は育って行くであろう。塩谷村へ行って、彼の父が育ったように、私や杉沢が育ったように育つであろう。そしてその上で、我身の本当の悲しさが分るにちがいない。
朝日に行き、森本忠君に逢い、文学辞典の件で風間氏のことを依頼す。
午後出社。風間君は私の名刺を持って、森本を訪れることとなる。
疎開を一段と強化し、疎開区域等は更にはっきりと指定し、都心居住者の疎開申告は今月で一応打ち切り、それだけを大至急疎開させるという。学童の集団疎開は行わないと前には声明していたが、今度は考慮中だという。
この頃、百粁以内も前日に駅に申告せぬと安心して翌日切符を買えなくなった。また定期券の乗り越しは禁止され、朝夕は、定期通勤者でないと乗せぬ路線があちこちに出来た。ハガキも三銭に上ってから、二枚とか五枚とかしか売らない郵便局が多いし、またこの月始めから十日までは小包郵便は引受けを停止している。それでいて野菜の配給は一人五匁とか十匁という程度であり、魚は十日も来ないのだから、大変な窮屈さである。各都市、各町村が配給のみによって封鎖経済を営まねばならぬというのが実情である。しかも配給が悪い。その上、都心にいるものは疎開疎開と言って、追い立てられる気持で落ちつくことも出来ないのである。生活の不安がこんなに昂じたことはない。街の雑炊食堂が補食の目的で増設されるというが、八百万の都会に、六十万人分の昼食を給したとて、各人一食分の不足を補えれぬのは目に見えている。雑炊食堂の前には、十時過から行列が続いている。幸い私の所には野田生から豆や麦粉など少々届いたり、子供が峰岸君の所へ行ったりして、どうにか補いをつけているが、副食物の不足は蔽うことが出来ない。今年の畑の作物の出る六月末までは苦しい食糧事情なのだ。
四月十一日
杉沢の友人定月氏の知人が日大芸術科を受けたいと言っていたので、そのことと、先日薫の話によって、芸術科が映画と写真を含んだ工科専門部となったことの次第を聞きに学校へ行く。石門寺君が悄気たさまで、定員が二部で百名しかとれないこと、教員の内容もすっかり変ること、ただ工科になった為に受験者は多く、多分二千人にのぼるだろうなどと言う。これで、十年間馴染んで来たこの学校とも私は別れるわけである。あらゆるものがとうとうと戦時生活の波に洗われ、押し流されている。教育がこんな風であれば、旧のまま残る部門など外にありようがない。出版関係の仕事とて、いつまで続くものか分らない。すべて戦の渦の中に巻き込まれて行く。大した感傷とてなく、こんな変化をも、そうですか、と簡単にうべなうところに、漂い流れている我々の生活の相があるとも言える。何事にも、どういう話にも、私たちはもう驚かなくなっている。
昼頃杉沢家に行き、私は持参の弁当を使う。杉沢と出かけようとしているところへ小林村長から電報あり、十一日出発とのこと。
療養所に行き、小林家の親戚の板谷、村山等の人々と共に納棺、火葬等に行く。三十二三日前に小林氏を焼いたところで、今日は夫人を焼くのだ。骨あげをし、それを村山母子に托して蒲田の寺へ届け、小林村長のため分骨をとる。その後私と杉沢は中野駅近くで運送屋に小林家の荷を送る相談をする。疎開者でないと地方へはどんな荷も送れぬとのこと。それでは疎開の形にすることにし、私が区役所へ行くこととなる。電文で宿の手配を頼んで来たので、中野駅前の「みよしの」という宿へ行く。米がないと泊めぬとのこと。二十日からは靖国神社の遺族が泊る故、それまでに立ってほしいとのこと。共に承諾して約束する。
夕方家に戻ると神戸の生田博君が今日あたり寄るとの便りが甥御からもたらされていたが、今日は来ない。
夜「文芸」の評論、「小説と新聞」七枚を書く。東京新聞のための短文も封入して共に明日送ることとする。
四月十二日(晴)
朝道を更に耕し、北側も少々やる。隣家の老人が、そこの土を取ったりするので、一応手をつけておいた方がよいのである。この側を更に、家のない隣畑に沿うて伸ばそうと思う。
独軍オデッサを撤収す。これで中南部では、独軍は全く露領から退却し去り、僅かにクリミヤ半島に一部が残って抗戦しているだけだ。ドイツ軍の撤収は計画的ではあるらしいが、しかし事実上、遂にロシアの国土から追い立てられたとの印象は大きい。十六年夏以来一昨年あたりまでの対ソ侵入の華々しさが、まるで嘘のようだ。
政府は米穀の供出が完了し、一○○・○九パーセントに達したと公表す。また大都会居住者の野菜等の不足を補うため、緊急処置をとり、野菜を一貫目七銭値上げするとか、大豆、鰊等を特配するとかいう手をうつことを宣言した。配給は輸送と値段とのためにうまく行っていないのだ。東京内から出て行って買って来ることも出来ず、東京都民はただ飢える外なくなったのだ。
京王電車に寄り、登記料の残り三十一円と、今期の払千百余円の内金として三百円を払う。中野五丁目郵便局で子供等の貯金七十六円ずつ、百五十余円を下す。滋の授業料、英一への渡金(野田生の義父への返金の分)等に百三十円ほど入用の為である。
肥後和男氏宅に寄る。留守だが、原稿は四月中に書くとのこと。午後出社。夕刻道路を耕す。
四月十三日(曇後雨)
朝道路を耕す。西側の道は、あと二間ほどで石を全部掘ることになる。そのあとはシャヴェルで耕すのだが、これは楽である。この側が一間幅として十坪、北側が十五坪の畑となる。北側を更に東方に伸ばして行けば更に二十坪は自分の畑となろう。それに先日から南方一町ほどの所にあるこの分譲地の人のほとんど通らぬ土のいい道路を耕そうと思って見当つけている。この分譲地は家が少く、縦横に三間あるいは三〔誤記?〕間の道を開いてあって、夏は人の通る細道の外、みな草原となるのだから、この頃はどこの家も、家のまわりだけは耕しており、道路を耕やそうではないか、と言い合っている。しかし、なかなかよその方の道路までは誰も手が伸ばせずにいる。今のうちだ。今のうちに、あいている道路を一本か二本畑にすると、五十坪や百坪位の畑が出来るのだ。私は、今日にも明日にもと思ってそこを狙っているのだが、まだ自分の家のまわりを耕さぬうちに、よその道にまで手を伸ばすのはどうかと思い遠慮している。もう一日か二日で家のまわりは出来るから、それがすんだら脱兎のように、その休閑路に取りかかるつもりだ。食糧不足、野菜不足で買い出しなどで騒いでいながら、この近所の人たちは、道路を耕すと言っても三尺幅か二尺幅に申訳だけやっており、芝生もはがさぬ家が多い。しかし今年は更に一層ひどい食糧事情となるのが眼に見えているのだから、私はもう五十坪でも百坪でも畑をほしい。耕しさえすれば、使用権のようなものが出来て、永久使用出来るし、地代もいらぬのだから、こんな有利なことはない。空地耕作をしても麦を作ったりすると、段別や出来高を調べ、あるいは配給から差し引かれるなどと心配している人が多いが、十日の東京新聞では、そういうことは全然なく、登録さえすれば、かえって肥料や種子を配給されるとの当局の言葉が出ている。横山村の杉沢のところに一段歩を借りて、出かけて耕作するよりも、ここにいて家に近く、肥料の自給も出来る土地を百坪ぐらい持っている方が、むしろ強味である。私は自家の畑百五十坪の外に、出来ればもう百五十坪ほど道路を耕して、一段歩の畑を持っていたい。しかし、離れたところの道路耕作は、初めたら一気に電光石火でやらぬと、その道のそばの畑を耕している(多分持主でなく、附近の農家なのだが)連中に入り込まれてしまう。明日か明後日の天気のいい時を狙い、子供たちも動員して、どしどし開墾しよう。しかし道路には、京王電車で、かなりよく砂利を入れてあるので、耕すのは実に骨が折れる。身体をこわさぬように気をつけねばならぬ。
午前中に杉並区役所へ行き、小林家の子供たちの北海道への転出を、疎開の扱いにしてもらうべく交渉する。でないと荷物を送ることが全く出来ないのだという。疎開の扱いは、出来るらしいが、ついでに奨励金をもらおうとすると、それは療養所に入っているものは世帯と見なさないから不可能だと言う。しかし、事実上、外に生活の根拠というものがなく、そこに全部生活しているのだから、世帯にちがいないではないか、と私は珍しく強硬に食ってかかり、暫く相手になった。区役所の吏員などというもの、杓子定規で冷酷なものだと思い、腹が立った。
児玉医院に寄り、療養所と世話になった看護婦たちへの礼の件を相談する。療養所へ五十円、婦長と看護婦へ二十円ぐらいか、ということになる。杉沢家へ寄ったが、まだ杉沢も小林村長も来ていないので、その足で出社。その途中、新宿のバス停留場のそばで、硬質陶器の鍋を二枚(二枚で二円九十銭)とベークライトの吸物椀(一枚一円四十銭)五枚を買う。共にこの頃にしてはめっけものである。
社にて楢崎、哲夫氏、道夫氏、〔アキ〕等と雑談、また戦争の話。我軍はインパール北方四キロまで迫ったという。これは印度のアッサム、ベンガル路をおさえる作戦で大変な成功だという。この辺を押えれば、支那への物資輸送が極度に減り、在支米空軍の活力が涸らされることになるという。太平洋は目下平穏になっているが、敵もこれ以上日本の勢力圏へ突入することは難かしいもののようである。昨日か新聞に出ていたニューヨークタイムスの社説によっても、太平洋戦を敵が持ちあぐねている様子が分る。戦争の本体は航空戦であり、しかも陸上基地からする飛行機によらねばならぬ。そのために、敵は太平洋と印度とから、何とかして支那大陸へ入ろうとしているらしいが、共にその野望が急速に実現される見込はない。それ故差しあたっては、欧洲でドイツを叩き伏せ、その後東洋に向おうとする気配になっているらしい。またこの頃の巷説では日本はドイツから潜水艦を二百隻買い入れたという。日本の在来の潜水艦は対軍艦戦のもので、敵のラジオロケーターに発見されやすい大型のものだが、ドイツのは小型で有利なのだという。
夕刻杉沢家に寄る。村長はまだ来ていない。
夜雨となる。珍しく魚の配給あり。鰈一切ずつ。大根入りの雑炊を食う。鶏三日続けて各々一個ずつ産み、それから一日休んでまた二日ぐらい続けて各一個ずつ産むという調子。雛子は大きくなり、焼付箱では無理なぐらいとなった。食べものは御飯に、魚粉、野菜の葉、それに私が道路を耕しては毎日のように拾い出す白い根切りのような虫である。
塩谷の弟から馬鈴薯等十貫目ほど送ったというが、荷を運送屋に預けたのが二月末で、それが塩谷で汽車に積まれたのが三月末、この頃弟からの案内で菊が渋谷の日本通運へ問い合せに行ったところ、到着している筈だが荷が見つからないとのこと。多分寒さと暖かさとの交替する時期故、薯などは腐ってしまったにちがいない。そしてこういう荷物の行方不明はこの頃屡々あるのだという。送る品も内容が禁止品のことが多い故、それが盗まれたまま出て来なくても泣き寝入りになるのだ。折角親切にしてくれたものがこんな風だから、今後は物を送るということは、やめた方がいいと思う。そうすると一層自分の畑を懸命にやることが大切となって来る。
四月十四日
朝桃野氏来る。前の第四組が、五組と別れることになっての鉄兜、薬品、諸経費の分割の相談あり。
貞子歯が悪いとて午前中に、中野の歯医者へ行く。ついでに英一にやる五十円を持って行く。私は南側の道路を花村家との境まで石を取り去る。骨を折った。菊に、塵穴の近くに四斗樽を埋める穴を掘らせ、樽を二人で埋める。肥料を腐らせる為である。
私の仕事の終り頃、田居君来る。川崎君がこの頃健康すぐれないとの話、心配なことである。今野家の家庭問題の話を聞く。今野君に同情す。貞子帰り昼食を田居君と共にし、午後出社。哲夫君は社長宅に行って留守。楢崎氏と神楽坂散歩。高橋誠一郎氏の「アリストテレース」、市村恵吾の「フランソア・ラブレエ」、プリーストレー織田正信訳の「英国の小説」等十円ほど買う。本屋に寄ると買いものをして困るが、どれもよい本で気に入る。坂下の珈琲店にて、渋谷の古本屋の主に逢う。また来いとのこと。「ブッデンブローク一家」読み終りかかっているので「アリストテレース」にかかろうと考える。帰途、滋が入学前に指導を受けた荒木かな女史を小石川金富町に訪う。雑談。スルソ枚とバター二ポンドを礼として差出す。中野へ来て、滋のために剣道の竹刀を買おうとしていて、湯浅克衛君に逢う。近く朝鮮水原の父君のもとに疎開するという。また山田稔氏と立話し、英一も通りかかって逢う。
杉沢家に寄ったが、小林氏はまだ来ていない。田居君がズックの生地をくれるというので謙一君の鞄を借り寸法をとる。中野駅近くの運送屋により、小林家の荷物の件を少し待たせる。
夜新潮の原稿として西晋一郎の「国民道徳大意」の評を二枚書く。
町内の国民貯蓄の金と書類を貞子、町会長から引きついで来る。貞子疲れているとて元気ない。菊は帰ると言うし、困ったことである。野田生の義父から英一への金として、もう百円渡してくれと言って来る。急には出来そうもないが、返金故、何とかせねばなるまい。
この頃の駅や汽車の制限強化で、色々な苦情が新聞紙上を毎日賑わしている。私鉄で朝夕に定期以外の客をひどく制限する所があり、定期の乗越禁止と共に、市民にとって、もっとも不便なことなので、遂に今日の新聞に、五島新運輸相の視察談がのっている。
隣組の配給品の報告書が出ている。珍しい統計だが、今までこういうものが出なかったのが変なことだ。今の物価で月額一人九円というのでは、とても配給だけでの生活は出来ない。この頃また京王電車などでは、野菜を買い出しに歩いている細君連の姿が目立っている。いたる所副食物不足の声が都内に満ち、交通不便の嘆声と混じて、一種の生活不安となって来ている。
四月十五日 入浴 南瓜下種[#「南瓜下種」に傍線]
まだ桜が咲かぬ。閏年であるが、こんなに遅れるものか。気候も不順で暖いかと思えば、すぐ雨となったり、寒い北風が吹いて、まだ今夜など炬燵がいる。
午前中、畑の東南の穴から去年の甘藷蔓の腐ったのを掘り出し、玄関の前の左右の椎の木の下の辺に、あちこちと、十四ほど穴を掘り、それを埋め、その上に、人糞、灰、魚粉を加えて南瓜を播く。一穴二本ずつである。裏手の塵穴のまわりの六つほどと合せて、合計二十穴となる。これだけをよく作れば、六七十貫の南瓜が得られ、少くとも二月は補食とし得るであろう。菊がその間に、裏手の道路を、一間幅に隣の麦畑の方まで耕して行った。
午後出社。今日、出版会で新潮社の新発足の内容への認可が下りる日だという。外の社もそうなのだろう。社員の配置や内容についても、認可が下りるらしい。徴用免除の件も、その後でないと埒があかぬと言っていたのは、このことであろう。私は、そういうこと社内で決定が遅れているのだと思っていたが、そうではなく、出版会の事務が捗らなかったのである。また八割減と言って皆で心配していた割宛用紙も、四割減という程度に落ちついたとのこと。その決定を聞かぬうちに四時頃帰る。
夕刻西尾家の南方のあいている道路を耕していると、隣の二組の組長の農家佐藤氏が来かかって、ここは、まだ京王に売ることになって登記がすんでいないし、ここは草を刈る要もあり、また畑をするに不便だから耕さないでくれとの話。顔見知りとて喧嘩にもならず、世間話にまぎらして帰る。向うもおだやかに言っていたのでよいが、少々いやな思いをする。しかし私の家のまわりは、すでに三十坪ほど耕してあるから、約百八九十坪の畑となった。私の身体では、これで十分で、これ以上は肥料を運んだりすることで無理になるかも知れぬ。
夜ラジオで南瓜の作りかたの話を聞く。町会貯蓄部の国民貯金をしらべ三百三円三十銭を烏山局へ預金することとする。
四月十六日(日)桜咲き出す 朝ひどい霜あり
朝自転車にて、烏山局へ行き、三百三円三十銭を預け入れる。隣組の人員を魚屋、豆腐屋のためとて調査し、ついでに綜合所得税を納めている家を調査、後者は窪田家十五円、伊藤信次家二十円、私の所二円五十銭である。これは年三千円以上の収入のある家のことである。午前自転車にて川崎家へ行く。留守なり。貞子は歯科医へ、滋は竹刀を昨日買ったのを取りかえについて行く。礼は日曜なのに午前中授業受けに行く。
午後、私は田居君との約束あり、三鷹へ行く。削り昆布紙袋に一つ持って行く。玉蜀黍二升をもらう。また滋の鞄用のズックをくれる由。
五時頃戻ると瀬沼君来ている。先日やったバターの礼とて、石鹸一つ、練り歯磨粉一つ、外にシャンプー数個を持って来る。野菜をほしいというので、菊を二三軒歩かせたが、無いとのこと。またその間に小林亭治氏が塩谷から来たとて、杉沢の畑の方へ行くついでに寄ったという。
夜、塩谷の弟、野田生の義父、旭川の義兄、等に滋のことや食品を送ってくれたことへの礼を書き、外に高橋健二氏へも滋あての万年筆の礼、また奈良の池田小菊女史へ全国書房の印税の催促状を書く。塩谷の弟が一月前に出したという箱一個、小豆、馬鈴薯等届く。馬鈴薯は惜しいことに半分近く腐れかかっている。夕刻その馬鈴薯を食う。白く崩れるようにて、本場のなつかしい味がする。また小林氏の土産の鰊の開き、それに配給の薄塩鰊などを食う。今日から配給の米、大豆粕を三割ぐらい混入す。
四月十七日(月)高橋誠一郎の「アリストテレース」を読み続ける。
昨朝、町会長が来て、町内への貯蓄債券の割りあてが多い故、区役所のその係りへ行って、阪川牧場の分である四割ほどを減らしてもらってほしい、と貞子に説明していた。朝小林氏が寄るかと思っていたが、私は町会長宅へ行って、もう一度説明を聞き、その足で出て、区役所に向う。昨日頃から、滋の一学期分の授業料八十五円を払い込まなければ、と貞子と相談しているのだが、少し金が足りないし、それに月給日までは一週間もあるので、困っている。私は月給日まで待たせたいと思うのだが、貞子は一日も早くしないと、催促されるようなことがあれば、滋が可哀そうだと言う。それでこの日私は出がけに「三人の少女」の新刊本五冊の外小説類を五六冊まとめ、鍋屋横町の古本屋へ持って行く。店を閉めているので裏手にまわると、主人は徴用されそうなので、この頃勤めに出ているとのこと。本をおいて帰る。満洲の実から滋あてに来たお祝いの二十円を郵便局で受け取り、手持の八十円に足して振替で学校へ払い込む。その足で区役所に行く。説明を聞き、帰る。向うの課長も私の町内のこと知らぬ新任にて、説明しようなく、挨拶に行ったようなものだ。明日区役所にありという貯蓄部総代の会の説明文書をもらう。貯蓄部総代が徴用令状を受けるようなことがあれば、この課で免除ということに骨を折ってくれるとも言う。
出社。肥後和男氏よりハガキあり、原稿出来たので二十一日の午前中に取りに寄ってくれとのこと。承諾の旨返書を出す。
夕刻杉沢家へ寄ったが、二人とも家にまだ戻らぬという。夕食頃なので、一旦家に帰ってから食後改めて出かける。杉沢氏のみいるが、十時まで待って小林氏来ず。帰る。明日小林氏を私の所へよこすように言い、また子供を療養所から引きとって後に宿につくというので、中野駅前の「みよしの」をもう一度私が確かめることにす。
四月十八日(火)遅い馬鈴薯[#「遅い馬鈴薯」に傍線]を縁の前に播く 雛五羽、二度目買う[#「雛五羽、二度目買う」に傍線]。
朝畑に、塩谷の弟から来た馬鈴薯を縁側の前に播くつもりで、菊と二人で耕し、私は畑の穴から堆肥を運ぶ。播くことは貞子にまかせて、昼近く家を出、古本屋にて、金を十六円受取り、宿に行き、十九日から二十一日まで泊ることに話す。靖国神社の臨時大祭があり、二十二日にはその遺族たちが泊るので、二十二日までにあけてくれとのこと。杉沢家に寄り、その旨を伝え、弁当を食べて出社。この頃さすがに杉沢家でも米が潤沢でないので、食事を馳走になることは遠慮なのだ。杉沢はそうでもないが、細君が大分客に食事を出すのを不快に思っている様子だ。
夜、小林氏来る。配給のビール一本を二人で飲む。塩谷では鰊を三千石も取り大漁だという。この頃これだけ取れると、二十万円にもなり、随分村のためによいのだという。小林北一郎氏の形見とて、お召のものらしい袴をもらう。北一郎夫人が亡くなる前に、私と杉沢に形見として袴を渡してほしいと、蒲田の姉君に言っていた由。
この日、新宿でまた雛子五羽[#「雛子五羽」に傍線](三円五十銭)を買って来る。雛子をよく売っているのは養鶏家が成り立たないので、廃業するもの多いせいであろう。
四月十九日 雨(水)
小林氏は蒲田にある荷物を、中野の運送屋まで運ばせる用件とて、雨の中を出かけ、午後三時頃帰る。結局親戚の者の出ている靴会社のトラックがこわれていて動かず、運べなかったとのこと。その頃風呂を立てて入れる。杉沢の所には風呂はなく、町の風呂にも自由に入れないので、喜ぶ。午後四時、二人で子供たちを療養所から宿へ連れて行くために出かけると、少し前に杉沢が来て運んで行ったとのこと。杉沢家に寄り、ビール二本を三人で飲み、やっとこれで小林家の件も片づいたと話し合う。一月の末以来、私も杉沢も、そして当の村長もこの事件のために、暇のすべてをとられたようで多忙な日を送り、私など新潮社の方のこともあって、ほとんど仕事というものをしていない。
夜になってから、中野駅近くの宿に行く。盈君と明君とが寂しそうにして待っている。昼間は窓から駅前の模様を見て、明君など映画のようだと言って喜んでいた由。思えば二月に一家がトラックで療養所に入り、それから二ケ月のうちに父と母とを失い、この兄弟は、こうして義理の叔父に連れられて、見たこともない父の故郷へ帰って行くのだ。室にトランクや玩具や本などがあるのも哀れである。私は八時頃、宿を出て、昨年私の家の引越しをしてくれた笠原運送店に寄り、主人に小林家の蒲田の荷物の件を頼み承諾されたので、その旨宿に知らせる。村長は、それはよかったとて喜ぶ。
四月二十日(木)
出社。午後三時頃ひけたので、杉沢家へ寄って見ると、小林村長も来ている。盈君用にと、女下駄に黒い緒を立てたのと、外に二人に靴下を貞子が繕ったのを贈る。切符が手に入ったという。これも杉沢の骨折りである。明日杉沢家で弁当の握り飯を作り、私が宿まで持って行ってやることにする。汽車は午後五時半とのこと。療養所への礼としては、小林家から五十円を所全体に出し、看護婦と婦長には、十円ずつの外、バターと鰊の開いたのを十枚ずつ、児玉医師へはバターを三ポンド等とのこと。杉沢が子供を人力車にのせて出る時は所員一同見送って、なかなか盛だった由。礼の仕方もよかったのであろうが、それよりも、二ケ月のうちに父母二人ともを失った二人の孤児に対する所員一同の同情は篤いもので、看護婦などは、盈君の寝巻を縫ってくれたり、炊事をしてくれたりして、実によくしてくれたという話である。
昨日からかかって、放送局に頼まれた原稿の「大東亜の印象」の一篇たる「旅順の印象」の原稿七枚を書く。
今年は南瓜の大増産運動をしていて、東京都でも各戸に、塀や立木や石崖等を利用して南瓜を作れと、新聞、ラジオ、回覧板等あらゆるもので宣伝している。私の家の二十本もよく出来るといい。
四月二十一日 晴(金)
朝原稿に手入れをし、それから肥後家へ行く。十一時頃である。肥後氏急用にて外出したとて夫人から原稿をもらい、新潮社に届ける。すでに一時頃で、原稿を放送局へ持って行く暇がないので速達にて出し、貞子が作っておくことになっているおかずを取りに家に帰ろうとすると、京王電車が停電にて笹塚までしか行かない。二時間もかかってやっと家に着くと、三時である。大急ぎで杉沢家に寄ってお握りを持って出たのが四時半である。汽車は五時であったか五時半であったか分らないが、もう一刻を争う。中野駅から急行電車で上野駅に着くと、五時半の汽車の発車十分前で、やっと間に合い、ほっとする。これが間に合わないと、小林氏たちは、ほとんど食事なしで塩谷まで行かねばならぬわけであった。盈君は胸が随分悪いのだというが割に元気であり、明君は、例のむっつりした、利かぬ気らしい顔で眼を光らせている。いよいよ二人は北海道へ行くのだ。どうか元気で育ってくれと祈る気持で二人を見る。
家に戻り、やっとこれで小林家のことが終ったと、しみじみと感慨の深いものがある。北一郎氏の顔、夫人の顔など、ありありと眼に残っているのに、もう二人の子は孤児となって、まだ雪の残っている北方へ去った。あの二人には、将来どういう運命が待っていることか。盈君は助からぬと児玉氏が言っていたが、明君はしっかりしたところの見える児故、成人してくれればよいと思う。
夜組長常会あり。今年は、貯蓄債券は三倍(隔月三十円宛)国民貯金は五倍(毎月五円)ということになる。外に会計報告などあり。一時頃家に帰る。
四月二十二日 晴 玉蜀黍播く[#「玉蜀黍播く」に傍線]
午前中、畑の北側と東側に一列に畦を切り、堆肥と下肥と灰とを施して玉蜀黍を播く。午前中家にいられるというのは、まことに幸福だ。この勤めはありがたいが、何となくこのありがたさが、長く続きそうもないような気もする。
午後出社。用なし。菊池、丸山二君は外出、私と斎藤君と哲夫君と三人。桑田女史は明後日で社をやめ、かわりに日の出編輯部から梅田女史が入ることとなる。女の子の勤めは、一年ぐらいですぐに変るものらしい。
昨日から、大きい方の雛が二羽足がなえてうまく立てない。日光浴のさせ方が足りなかったのであろう。夕方になり、小さい雛のうち、一羽が駄目になる。だまって椎の木の根本に埋める。今日両方とも日光浴をさせたが夕方急に寒くなり、電気をともしてやらなかったせいであろう。
麦に土をよせる。麦は実に悪い出来だが、最近どうにか持ち直して来た。手入れをして、とにかく育てる所まで育てて見ようと思う。
欧洲の第二戦線はまだ始まらない。ある者は五月十日頃と言い、あるものは六月と言う。ドイツ軍は僅かにクリミヤ半島に止まっていたが、すでに陸路を遮断され、しかもセバストポリに退いて辛く支えている。第二戦線の始まる時がドイツのこの大戦における運命の決する時であり、また日本の運命に大変化の起る時となるであろう。
印度へ侵入した我軍はインパールを包囲したが、まだ陥落はしない。しかし敵の機動部隊はスマトラ島北方のサバンを襲撃した。海上では敵は積極的に出ようとしている気配である。
今日から、武田祐吉博士の「上代文学」を読み出す。小型だが、内容はなかなかよい本だ。この頃本をよく読めるようになり、電車でも社でも読書がはかどるのが楽しい。
四月二十三日(日)晴 雷雨あり 大根と小松菜の間引
午前中よい天気だったが、昼頃雷雨となる。朝のうち時無大根と小松菜の初めての間引をする。昼頃岡本芳雄君来る。以前梅原龍三郎氏の女中だった女と結婚するので、媒酌人になってくれとのこと。六月末だという。
午後田居夫妻が子供連れで来る。夕方まで居る。川崎家へ寄った帰りだという。
明朝は在郷軍人の訓練があるつもりで早寝す。
奈良の池田小菊氏より代筆の返事あり、狭心症で寝ているとのこと。全国書房の印税検印と引換にしてくれるとのこと。但しまだ出版認可が下りていないという。
四月二十四日 晴
朝五時から塚戸国民学校で在郷軍人の訓練があるとのこと、先頃復役届をしたのだから出ねばならぬ。四時半頃ひとり起き、ゲートルをつけて自転車で行ったが誰もいない。帰って通知を見ると昨日であったのを忘れていたのである。私たち大正十四年の第二国民兵は今年は点呼なく、昭和四年五年兵までだから、そう厳密に出なくてもよいわけだが、気になる。
午前中、雛を遊ばせながら家の西南の砂利を取った道をシャベルで耕し、半分位に達す。ここを早くやって鳩麦を播く予定。
全国書房に印税のあと半分を早目に送ってくれと依頼状を書く。外に岡本君の出版のことで蒲池君への礼状、函館の熊井氏へ滋の入学を報ずる手紙、満洲の実への礼状などを書いたのを持って昼頃出社。隣席の桑田嬢がやめるという挨拶。叔父の家で理髪を習ったので、自家に帰って開業するため、改めて理髪学校に入るのだという。理髪はほとんどすべて女の仕事となった。代りに梅田嬢来る。中野好夫氏に電話したが留守。
夕刻、小さい雛がまた一羽死んでいる。雛に哲夫氏から分けてもらった糠をやりすぎたので営養不良になったらしい。大きい雛は一羽足が片輪だが、御飯で育てたせいか元気でいる。小さい方はもう一羽も駄目らしい。
「上代文学」を読みつづける。良書である。
米国のキング作戦部長は、太平洋におけるその対日攻勢と建艦の進捗とを誇示した報告を公にした。我方の受身でいる現状はいつになったら盛りかえせるか。一昨年の四月十八日に受けた空襲以来東京は敵機に襲われていないが、今はその季節なのだ。この頃防空壕を早く完備したいと思うが、畑仕事に追われてはかどらず、畑の中に板など放ったまま掘りかけにしてある。気にかかってならぬ。
明日が月給日だが、今日は貞子に五円をやり、私の手もとには七十五銭しかない。金の入用なことが出来はしないかと思い、びくびくしている。町を歩くと路傍で麻糸、ゴム紐、靴の底金、電球などを売っている。食堂の前には行列がある。この頃は物さえ見れば金を惜しげなく使う癖がついているため、金を持っていないということは、まるで不合理なことのように寂しい。
貞子は、私が先頃浅川でやっと見つけて来た粉砕器で、国から送って来た豆類や田居君に分けてもらった玉蜀黍などを粉砕して米にまぜて炊きはじめた。私は先頃から少々節食していたらひどく瘠せて来たので、この頃は遠慮なく食うことにした。そのせいか身体の工合は大変よくなった。峰岸君へ、月末頃行くとハガキを出す。
昨日近松秋江死す。「別れた妻」「黒髪」など一連の身をもってする告白痴愚の名作を書いたこの作家は晩年には恵まれること少かったらしい。しかし作家は作品に自己を移し、そこに生命を育てておく外はない。立派な作家の生涯と言うべきである。作家としてその生を賭す以外に私たちの生活はない。仕事をせねばならぬ。よそから見てどんなに寂しげな生き方でも、自ら信ずるに足る内容を持たねばならぬ。信ずることを書き、そしてひとり寂しく死ぬることこそよい。
四月二十五日
今日の朝日のベルリン電報(守山特派員発)に、欧洲の第二戦線は五月十日頃という予想が多いこと、そして英米の上陸が行われれば、西部戦線は決して前大戦のような持久戦ではなくして、ほとんど急激な即決戦になるということが書かれてある。これは衝撃だ。私の予想しなかったことである。米英の西海岸上陸の成功するか否かによって、欧洲の戦局は終結するというのだ。果してそうだろうか。或はそうかも知れない。「大西洋岸に待機するドイツの将兵たちは、過去五年にわたる善戦苦闘の最後の締くくりをなすものが自分たちであることを知っている。だから若し今上陸作戦が行われるならば米英軍は完全に準備された張り切った独軍の鉄壁に挑みかかるわけだ。その結果は何人も知らない。ただ予想し得るのは、新西部戦線は決して前大戦のごとき長期対陣の陣地戦とはならず、驚くべき短期戦で終るだろうということだけだ。」そう書いている。若しこの観測が正しいとすれば、今や刻々に欧洲の運命の決定する時が近づいているのだ。ドイツが東部戦線でじりじりと退きながら、その余力を集中して英米をフランスの沿岸で殲滅すれば、勝利はドイツに輝くが、若し英が怒濤のようにフランス、ベルギイを越えて東に進めば、ロシア軍の西進と相まってドイツの運命は風前の灯となるであろう。第二戦線切迫の予想として新聞に挙げられていることは、スエーデンやポルトガルなどへの英国からの飛行機連絡がほとんど絶たれ、英国がその国内事情を少しも洩らすまいという態度に出て来たこと、また英米の対独爆撃が最近交通の要点と飛行機工場に集中されて来たことなどが挙げられている。ドイツが万一駄目になれば、米英の戦力は専ら東亜に集中されるにちがいない。ドイツが参るか勝つか、それとも持久するか、それはそのまま日本の運命にじかにかかわることだ。今年は決定的な年である。この春から夏にかけて、大ドイツ国の運命が定まるのだ。
今日天皇御親拝が九段にあり、学校は休み。金もないので昼少し前に出かけ、出がけに渋谷駅前の古本屋に寄る。留守。駅前の東京パン、明治製菓等の店々全部とり壊され、火事場のあとのようになっている。駅附近の建物疎開である。東京都の姿は一日一日と変って行く。それらの店でよく茶を飲み、菓子を食べたりしたことも夢のようである。雑炊食堂前に人が長い行列をしているだけで、この間まではあったコブ茶を一杯飲ませる休み場も見当らない。社も半日の由、室で弁当を食べ、給料をもらって帰る。来月から、新潮と日の出を四部ずつ、私のため取っておいてもらうよう名護屋女史に頼む。
朝のうち先日来石をとりのけた西南道路の畑をシャベルで耕し、半分程に達す。
夜常会を雨中花村家で行う。貯蓄債券は、各戸(隔月)二十円で、昨年度の倍額、国民貯金は四円宛毎月で、昨年度の四倍引受と決定す。町会の組長常会で決定したのは、前者が三十円、後者が五円ということであった。
四月二十六日 晴(水)
社休みの日。貞子、菊が月末に帰郷するので土産ものなど買うとて、歯医者へ行きがてら菊と二人で外出す。終日家居して、西南の道路を耕し終え、施肥す。明日鳩麦を播くつもりなり。明後日児玉の峰岸君宅へ行こうと思う。貞子夕方来て、杉沢へ寄ったところ、杉沢が小林氏の荷物のこと聞きたいし、それに菊の切符も買ってもらわねばならぬので、明日朝に寄ってくれとのこと。夜九時前に、疲れたので寝る。貞子児玉医師に逢ったところ、私がこの頃痩せて来たようだから働き過ぎないようにと注意されたという。この三四日、気をつけて食べるものを多くしている。とかくこの頃は遠慮して食をへらしがちだったのがいけなかったと思う。もっと太らねばいけない。今は十二貫前後しかない。板谷真一君より、川崎昇君を同君の社に入ってもらおうとした件、板谷君が考えただけの給料を社で出さないので駄目になったと言って来る。田居君の話によると川崎君は「友人への義理で履歴書を出すのだ」と言っていたというから、この破談はかえってよかったと思う。
四月二十七日(木)西南の道路に鳩麦を播く
杉沢が小林家の荷物の件で逢いたいと言うので、朝から出かけ、小林氏出発の日の前後のことを話す。彼肝臓を痛め、やや憂鬱そうで、横山村の農場の小屋を完備して移転することも急には実現しそうもないという。昼に小豆飯を馳走される。午後板橋二ノ五に石川彦治氏宅を訪ね、菊の旅行証明書を出して、菊の切符と私の本庄迄の切符のことを頼む。駅と連絡ある人にて、いつでも切符が手に入る一種の闇屋にて、杉沢の知人である。その足で池袋に肥後家、西荻窪に中野家を訪う。社用なれど共に留守なり。実業日本の倉崎君に電話す。来週水曜訪ねると約す。
夜バター二ポンドを持って代々木山谷に松原寛氏を訪う。留守。学校の講座のことを頼むつもりであった。
四月二十八日(金)雨 雨が極端に多く、寒かったり暖かったりして不順なり。
町内の貯蓄債券の金を私の所へ持って来る日にて、朝から続いて客あり。二十一組のうち、昼頃までに、八と十八組以外は集まる。六七千円の金を預っているわけで、貞子不安がる。その帳簿を作り、一人ずつ記入するのに骨を折る。午後、出社し、少年少女文庫六冊を社から買う。滋と礼にと、旭川の姪貴美子に贈るものである。夕方ひどい雨の中を板橋に行き、私の切符を入手する。夜町会の預金の帳簿を整理し、浅原六朗氏にハガキ、松原寛氏に手紙を書く。
明日峰岸君を訪う予定。
大阪の全国書房から「戦争の文学」はまだ認可が下りていないので、あと半分の印税を今前払いすることは出来ないと断って来る。この月、菊の旅費や月給などのため、出費多く、すでに二三十円しか金がない。心細いことである。
町内の国債貯金は第八組と第十八組の外は全部集る。この二組が来ないので預けに行くことが出来ず、貞子不安がる。風呂敷に包んで押入の蒲団の中にしまいこむ。
四月二十九日 晴(土曜 天長節)
敵はニューギニア北岸の中央部まで侵冦して来て、二ケ所に上陸した。その積極性はいよいよ加わって来ている。しばらく平穏であった南海にまた新しい動きが加わって来た。
峰岸君を訪おうとして、朝のうちに、前々から考えていたように蒲団を一組、同君宅へ送る。絹のもの一組、風呂敷で包み、筵で荷造りをして、自転車で荻窪駅まで持って行く。荷造りをしているところを、貞子がそばから口を出して、ああだこうだと言う。煩くなって癇癪を起し、箒でぶつ。自分の気の短いのを困ったものと思うが、苛々すると、とても我慢出来ない。貞子がそれでも笑っていてくれたのでよかったが、いやな思いである。正午頃、和服に薄いインバネスを着て、赤羽駅に至る。一時八分発の汽車、天長節と明日の日曜とを控えて満員、本庄まで二時間半立ちづめである。本庄駅にて、児玉駅行のバス故障で出ず、三時頃から六時まで待っても駄目なので、一里半の道を歩いて行き、日暮に峰岸君の家に着く。今日着くと思って、児玉駅に出たという。土産に鰊の開きを七枚ほどと子供の本などを贈る。二人で夜文学の話など。今度の内田農相の米の供出報奨のことを、峰岸君は、大変よい政策だと言っている。これなら農民も懸命にやると。
峰岸君の話に、百田さんから来た手紙によると、百田さんは、児玉町に家か部屋を見つけてもらって、町役場などに勤め、月百円ほどで生活し、月に一二回上京するというような生活をしたい、と言って来た由。そんな風に生活も切りつめねばならなくなっているのかと、感慨の深いものがある。上京したら早速訪ねて見ようと思う。暁見君は工場に勤めていると書いて来た由だが、前々から学校が嫌いな児なので、結局慶応の普通部を中退してしまったものらしい。町で生れ町で育った百田さんが、そんなことを考えるのは、よくよくのことであろうと峰岸君と話し合う。児玉町には空いた家など、もう見当らないので、その旨を言ってやったところ、百田さんから、幸い沼津に家が見つかったと返事があったという。
先月滋たちが世話になったので五十円送っておいたが峰岸家では御両親からも峰岸君夫妻からもその礼を言われる。
四月三十日 晴 雷雨となる 児玉にて
朝晴れているが、昼頃ひどい雷雨となる。蚕の準備とて、峰岸君のところでは、母家の煤払いをしている。そのあいだ、私は離れで「爾霊山」の原稿を書き、五枚に達す。夕刻自転車を借り、本庄駅へ行き、到着していた蒲団を運んで来る。疲労しているようなので、出来るだけゆっくりと走らせる。
夜、峰岸君と話のついでに、貞子と相談して来た件を切り出す。今月と来月二月、豆類を二貫目ずつ分けてほしいという件である。峰岸君は、いま自家でも米に馬鈴薯を入れて補っているぐらいで、麦がとれるまでは一年で一番苦しい時で、とてもそんな余裕はないという。私もこういう話を切り出すのは、いやで仕方ないのだが、やむを得ぬ。それでは、麦がとれたら半俵か一俵を確保してほしいと言うと「一俵ですか?」と驚いた顔をしたが、麦の方は出来るだけは必ずとっておいてくれるとの返事。それから麦刈り時は忙がしいという話になったので、私は、三日ぐらいきっと手伝いに来る(六月十日頃)と言うと、彼は笑っていた。親しい間でも、今のような時代に食料のことを頼むのは、何とも言えずいやなものである。豆のことは、それでは北海道から、どうか心配せずに、と私は出まかせに言った。
隣家の、以前私の所へ女中に来ていた峰岸文さんの所へ、この前子供が餅をもらって来た礼にと、鰊五枚、白粉、洗粉などを持って行く。顔を出すのもものほしげでいい気持がしない。私は、こんな思いをするなら、どんなに骨を折ってでも、自家の畑をうんと手入れをしてよく作り、補給を外に求めないことが何よりだ、と痛切に感じた。峰岸君と笑い話に、うちは、馬鈴薯と甘藷とで少くとも百貫で百日は補給し、玉蜀黍で一ケ月補給し、蕎麦で二ケ月、麦で一ケ月、それから鳩麦で二ケ月、南瓜で二ケ月補給すれば、ほぼ一年分は大丈夫ある筈だと言うと、彼も、あれだけの畑があれば、それが出来る筈だと言う。
峰岸君の蔵書で九鬼周造の「折にふれて」を面白く読む。