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太平洋戦争日記(三)
伊藤 整
目 次
昭和十九年
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五月 百田家、古賀司令長官戦死、農事、光生中学勤務
六月 北海道旅行、聯合軍ノルマンディ上陸、米軍サイパン上陸
七月 建物強制取壊し、B29、サイパン陥落
八月 テニアン島、グワム島、学童疎開
九月 食料備蓄、ドイツ危機、雑炊食堂
十月 物々交換、台湾沖海戦、米軍レイテ島上陸
十一月 田原君見舞、中学生勤労動員令、東京夜間空襲
十二月 戦時の市民生活、田原忠武君死去、ミンドロ島
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昭和二十年
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一月 米軍ルソン島上陸、華北種苗協会勤務、銀座爆撃
二月 弟薫戦死、艦載機襲来、硫黄島戦、甥嗣郎死去
三月 夜間大空襲百万人罹災、米軍沖縄上陸
四月 北海道旅行、東京山の手消失、義弟薫君結婚式、東京生活急迫
五月 ムッソリーニ、ヒットラー死す、ドイツ崩壊、家族北海道に疎開、家を売る、帝都灰燼に帰す
六月 新潮社焼け残る、弟基死去
七月 寄寓者生活、ポツダム宣言
八月 帝産航空工業勤務、新式爆弾広島投下、戦争終了
校訂者あとがき
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[#1段階大きい文字]凡例
一、本書は、大学ノート十八冊に記された、昭和十六年十二月一日より昭和二十年八月二十四日にいたる日記の全文である。
一、内容にはいささかの改変も加えていないが、著者次男、伊藤礼氏の校訂により、公表をはばかられる箇所を若干削除した。
一、目次(内容)は、各月の記述から主要な事項を選び、校訂者が作成した。
一、ノートには随所に当時の新聞の切り抜きが貼付されているが、ここにはそれを収め得なかった。
一、昭和十八年十二月末より翌年一月末までのほぼ一カ月間、満洲旅行により日記が途絶えているため、その間に書かれた紀行エッセイ三篇「旅順にて」「海鼠山附近」「戦蹟を歩いて」を補足収録した。
一、文字づかい(漢字、かなづかい)を現代風に改めたが、いたずらな統一は避け、原文のままにしたところがある。難読と思われる漢字にはフリガナを付した。
一、誤字脱字、誤記の明らかなものは訂正した。ただし、著者の思い違いと見られる箇所でも前後関係から原文どおりとした部分がある。なお、不明の文字は□として入れた。
一、日付、体温、脈搏等の表記、また句読点、作品名、雑誌名等を部分的に整理した。
一、〔 〕内の記述は、校訂者の註である。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年五月
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五月一日 晴 この日あたりから、とても暖い。明日八十八夜だという。十二天の山に山桜咲いている。
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秋山村の十二天の祭礼の由、峰岸君は手伝いに行くので、私も一緒に登り、午後二時頃までお札を包むのを手伝う。朝文さんが土産と言って、餅米を一包み(二升四合の由、貞子家で言う。)持って来てくれる。まことにありがたいが、途中調べられるようなことがあると煩いと思う。文さんはいつも何かと気をつかって物をくれるのでありがたい。
午後峰岸君に山で別れ、一旦峰岸家に寄り、葱苗とほうれん草とを一包みずつもらい、手に下げ、本庄行のバスに四時頃乗る。バスは途中で故障し、漸く夕方六時の汽車で帰京する。
福田から旧友と蘆花公園に遊ぶというハガキが来たとて、昨日秋沢、上林、一戸等の友人が蘆花公園に集ったが、福田も私もいないとて、三人で私の留守に寄っていったと貞子言う。それに出れなかったのを残念に思う。
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五月二日 晴 馬鈴薯の芽出揃う[#「馬鈴薯の芽出揃う」に傍線] 八十八夜なり[#「八十八夜なり」に傍線] 南側の畑に余播胡瓜[#「余播胡瓜」に傍線]を十二三本播く
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米海相ノックス死す。病死だという。我方の山本元帥の死と対比される。戦争の担当者は代っても、この民族の大決闘は続く。
十一時頃、電気のショートからヒューズの切れたのを直してもらいに蘆花公園の電燈会社に寄り、その足で渋谷に古本屋を訪う。喫茶店がなくなり、道玄坂のモリナガにて、怪しげな代用食を一皿とり、弁当の小豆飯を食う。十日にまた寄ることにする。
午後飯田橋下車、出社す。菊は今日荷物を出し、夕方五時半の急行で立つとのことで、上野駅へ行ったが来ていない。家に戻ると出発を伸ばして明日にするとのこと。「洋裁」という本を買って来たのを菊に贈物にする。
蔓無隠元、大根、薯、小松菜など揃って芽生えている。街路樹は芽ぐみ、美しい暖い春の日和となった。スプリングコートも着ずに出歩ける。新潮社にて窪川鶴次郎君に逢う。就職先を捜しているが、前の経歴が災いして、なかなかない。物価は高いし、閉口だという。
「大菩薩峠」の作者中里介山死す。文人、詩人たちは、仕事を終えた人から順に、昨年あたりから、しきりに死に急ぐ気配である。藤村、秋声、秋江、朔太郎、白秋、惣之助、等々数えればその多いのに驚く。芸術の大なる交替期、ある終末期なのだ。
五月三日 菊枝、今夕五時半の汽車で帰る。
米英の第二戦線展開は五月の二日という説があり、十日という説がある。東部国境の泥濘がおさまり、大西洋岸の海水がぬるむ頃、そして満潮で満月の頃という。いま月は上弦で十日頃満月となるらしい。正にその時期が来ているのだ。同盟ベルリン電やチューリヒ電やストックホルム電はしきりに、その予想を伝えている。また英米の対独空爆は、一日三千機という機数によって、執拗にくり返されている。欧洲の運命の決定時期は近づいた。
そして太平洋でも、敵はトラック島方面にまたしても来襲している。その機動部隊は戦艦空母など十数隻という。我印度作戦のインパール包囲戦は、いま一歩という所に来、インパールの真西に入った部隊などインパールの水源地を爆破した。しかしなかなかインパールは落ちない。雨期がこの地に来ようとし、雨期に入れば作戦は困難となるであろう。しかし、東亜の戦況は、欧洲でのドイツの運命ほど切迫していない。ドイツが第二戦線を打ち破ることが出来ず、万一英米とソ聯の挟撃に屈するようなことがあれば、東亜の運命も根本的に大きく変って来るものと観念せねばならぬ。目下の日本の運命は太平洋の島嶼戦でよりも欧洲で決定されつつある部分が大きいと言わねばならぬ。
今年の四月頃はきっと空襲ありとして、疎開が大規模に進められているが、いよいよ四月も過ぎ、五月となったのに、空襲の気配はない。静かだ。町は荒涼となり、食堂の行列と戸を閉ざした転廃業、休業の店の多いのが特長だ。しかし、どうもこのままでは済みそうもない。今日丸山泰治君が、五月二十五日には、どうも北方からの空襲があるらしいという噂を出版会で聞いて来た、と真面目な顔で言う。それを聞いて斎藤十一君が、それはひどいデマだね、と一笑に附していたが、私は、いや冗談ではない。流言は流言であるが、この春の気候をこのまま敵が来ずにしまうことはない。きっと、近いうち、空襲があるという予感がして来た。畑の隅に作った防空壕は、半分は私が立っても頭が支えぬほどに掘ってあるが、あとは、もう一月ほど中止して、専ら畑の手入れ、種播きに追われていた。それを夕方、五時半頃から滋にバケツで土を運び上げさせて掘り進めた。明日は、これまでに掘った七割ほどの部分に屋根をつけ、土で覆うつもりだ。そして一応今の分を完成させてから、更にもう六尺ほど深く掘って、トンネル型に安全な洞窟を掘り進めるつもりでいる。〔著者自身による防空壕の作図あり。〕
この日、菊帰る。昨日夕方社からの帰りに上野駅へ菊を見送るつもりで行き、先日の小林氏の件の時にもらった特別入場券を使ってホームに入り車中を捜したがいず、家に戻ると雑用が片づかぬので、一日延ばしたのだという。今日は送って行かぬことにして、土産にと私から洋裁の本一冊と「日の出」の五月号をやる。
菊昼前家を出、新宿辺で遊んで汽車に乗るという。貞子烏山駅まで送って行く。午前中、私は峰岸君、文さん、菊の父の川畑源吉、奈良の池田小菊、大阪の全国書房等へ手紙を書き、十時頃家を出て、かねて寄りたいと思っていた百田家へ行く。百田氏昨日から軍の用で宇品へ行っているという。船舶兵の唱歌を作るためらしい。夫人と生活の話をする。峰岸君から聞いた疎開とか月百円で暮すとかいう話は全然夫人の口に出ず、出るのは、物に困っていないという自慢話のみである。曰く、慶応普通部に通っていた暁見君は汽車に凝って、学校をやめたいというのでやめさせて、ある大きな汽車工場へ職工として入っていて、丙の配給を受けているから十分あるし、その上、近所の蕎麦粉工場に出ている職人の細君を知っていて、そこから粉類をまわしてもらっているから、毎日自家製のパンを欠かしたことがない。曰く、牛乳屋には月に五円ずつチップをやっているので、券なしで毎日きまって牛乳を持って来るが、水が多くて、使えるのは上の五分の一の部分だけである。曰く、炭の配給屋に、公定外に十円ずつ出すから持って来なさいよと言ったら時々持って来て、四五俵は余裕がある。市内では俵三十円というからその半分の値で安いものだ。曰く、魚屋や八百屋にも心附けを渡しているから配給以外によいものがあるときっと持って来る。家鴨は十五円ぐらいだが、魚屋が持って来るので、正月以来三羽ほど食べた。鶏も十五円から二十円が相場である。そんなことで、家計は夫人の手もとから出るので、三百五十円はかかるという。闇を主にする生活でも罪の軽い方であろうが、これが中流の市内生活者の生活の形であろうか。
前から関係していた出版社の厚生閣で、百田氏に専務として入社してくれと言い、そのためには五十円の株を二百株持てというのだが、それで一万円を出せば、あとは全く無資産になるし、出版業などいつ駄目になるか分らないから、夫人は出資には不賛成だという。百田氏の疎開の話もそういう前途の見とおしから出た考であろうと思ったが、私は夫人にはそのこと言わなかった。
東京新聞に、井上友一郎君が「作家生活は消滅した」という短文を書いている。いかにもその通りである。特に時流に乗っている四五の作家、尾崎士郎、火野葦平、上田広、高見順、丹羽文雄等の外、百をもって数える作家たちの消息、何を書き、何によって生活の資を得ているかということは、ほとんど分らない。雑誌「文学界」も四月号で消滅したという。転職した作家、疎開した作家、が大部分と言うべきである。昨年の秋頃まであった出版景気、出版インフレーションというものは全く影をひそめた。実業日本社へ今日「爾霊山」のうち合せに行ったが、最近は不許可になるもの多く、これまでは通るにきまっていた古典芸術に関する本も不認可が多くなったという。出版部数も最高が五千部だという。雑誌は少くなり、頁数はなくなり、小説などの為の紙面は極度に減少した。事実上文筆による生活は出来ない。昨年、一昨年あたりは、私などが文筆で生活してから無いぐらいの出版景気であった。それが急に今年は火が消えたように、前途が閉ざされてしまった。大いなる変革期の実勢が筆をとる人間の生活をゆるさなくなった。今では転職すること、疎開することを何人も恥としないばかりか、かえって一種の満足感をもって文学者たちが行っている風である。支那事変の初まったころから、私はこの度の戦争は、明治大正昭和と続いた芸術文化に休止符をうつものと、ぼんやり思っていたが、それがいよいよ昭和十九年度になって実現した形である。昭和の文学、それは過ぎた日の輝かしい花である。そして井上君が書いているように、自分は書く使命と力とを持っていると信ずる者のみが、どういう生活の中にあっても文学を考え、かつ書いて行くであろう。
実業日本社で、倉崎君と「爾霊山」を今月中に三百枚として書き上げることに約束する。
梅野悦郎君出征したとて、その妻君(今度の妻君はまだ逢ったことがない)が一昨日か挨拶に来ていたという。三十前後の知り合いの青年の応召は、いよいよ多い。最近でも奥野、松尾、梅野と続き、昨年には武智、小西、〔アキ〕等があり、学生は悉く卒業と前後して入営する。
すべての生活の波はとうとうとして戦争に集中している。戦うために戦線に行くか、でないと食糧と武器を作るために働くか、その二つしか日本人の生活はない。私の今の生活はその大きな海の潮の中にぽつんと残された危い島のようなもので、今一息潮が満ちれば忽ち、波に呑まれてしまうものだ。
街路樹のアカシア、鈴懸、銀杏等芽が開きかけ、美しい極みである。夜は家のまわりに蛙が鳴く。蠅も出る。
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五月四日 曇 鶏舎前に菜豆を播く[#「鶏舎前に菜豆を播く」に傍線] 葱苗を植える[#「葱苗を植える」に傍線]
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麦五六寸から一尺ぐらいに伸び、畑は真蒼となる。私の麦のみは五六寸に伸びたが疎らにあちこちに立っているのみである。鶏舎の前に北海道から来た虎斑の菜豆を播く。峰岸君の所から持って来た葱苗を植える。一昨年の三月からいた菊が今日からいないので、とてもせいせいする。ここ五六年家には女中のいなかったことが無い。食事する毎に、そして起きるから寝るまで家の中に他人がいるという重苦しさから解放され、何年にも無い晴れ晴れした気持である。貞子も丈夫になって台所をしているし、私は二階を掃除し、子供たちは鶏の出し入れをしたり、雨戸の開け閉てをしたり、掃除を手伝ったりする。小さい子はないのだから家の中も片づいてまことに気持がいい。「本当に、菊ちゃんには悪いけれども、家のものばかりになって、こんな嬉しいことはない」と私は繰り返して言った。家に他人のいないことが、こんなに晴れ晴れすることとは思わなかった。
午後町会長中館氏に、国債貯金(八組欠)の件の帳簿を見せに持って行き、出社。佐藤鶴吉氏の「元禄文学辞典」出たので二冊買う。一冊は峰岸君へのもの。西鶴と近松を読むために必要な本で、内容用紙ともによいものだ。
奉天の大東亜書房の矢留節夫君から出版の用で来書あり。
雛子、第一回のうち一羽は大きくなり、中雛(三十五日目)という風になる。一羽は足がすくむ病気をして直ったが、大きさはその半分しかない。第二回の五羽のうち(十八日購入)十五六日目になる方も残った二羽は元気よく育ち、目立って大きくなる。成鶏はこの十日ほど全く産卵せず。
貞子、家にある食糧を全部しらべたところ、前々から少しずつもらったのをためておいた白米や糯米の類が七升余、豆の類が四升余とかあり、一日三合ずつ補って行くとすれば四十日近くやって行けるという。思ったより多いとて、私も貞子も安心する。この頃痩せて来たので、私は十分食べている。もう一月余たてば、馬鈴薯などが先ず収穫される。それまで何とか補って行けそうだ。まことにほっとする。菊が一人減っただけでも、一合近く補給分が減るので、助かるわけである。それに私のところは、現金に困っているので、私は街上の雑炊、その他の食事を買って食うことをひかえねばならぬ。
この一週間ほど電車の往復と社での暇な時に武田祐吉博士の「上代日本文学」を読みつづけ、ほぼ終りかけている。
五月五日 雨後晴 古賀司令殉職の発表あり
在郷軍人千歳分会の訓練召集の日。この前に出なかったので、朝八時から職工服を着、雨中を江口君を誘って出かける。銃剣術は初めてなのだが、見まねで皆に伍してやる。仮標突きを突きそこなってやり直しをする。家に戻って昼食をし、午後また出かける。
夜六時半戻ると、夕刻のラジオで古賀聯合艦隊司令長官戦死の発表あり。これは重ねての司令長官の戦死にて、暗澹たる気持となる。戦況の我に不利な機から、大打撃にて、国民に悲痛の感を与えること深いものがある。後任は島田海相だという。どういう機会に古賀大将が戦死したのか知らぬが、或はトラック島を空襲でもされた機のことではないだろうか。
これだけの大事件が、これまで巷には全然流布されていなかったということは、軍機の厳重さを思わせるものでもある。
五月の節句とて、江口君から夕食に招かれる。一人子の芳郎君の節句である。赤飯に鰊を一匹、筍等。新潮の稿料五円入る。
古賀元帥の死は飛行機事故ならんという一般の評である。
五月六日 晴 葱苗[#「葱苗」に傍線]を東側の家の側に植える
朝峰岸家から持って来た葱苗を植え、風呂の水をタンクにあげて入れ、出社。雨があがって青葉出そろい、暑いぐらいの晴天。梅雨のあとに夏が来たという気配。室に梅田女史の外誰もいない。思い立って板谷真一君を鶴見東寺尾町に訪う。配給の酒があるので明日あたり板谷君を呼ぼうと言っていたところなので、今夕来ないかと誘ったが、逆に馳走される。明日板谷君、川崎君、田居君を招ぶことにする。夜、ビール壜に油を一本もらって帰る。油は貴重な品である。夜入浴、この日、タンクに水を揚げたので、胸に圧迫感あり。
板谷君の近くに薫の嫁の候補者になる娘あり、写真を借りて帰る。
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五月七日 晴 暖 南瓜、玉蜀黍、発芽[#「南瓜、玉蜀黍、発芽」に傍線] 西瓜発芽[#「西瓜発芽」に傍線]→堆肥より独り生えのもの
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朝千歳船橋に川崎君を訪い、朝食後自転車で川崎君と二人田居君を訪う。午後川崎、田居、板谷と集り、私の家の酒、田居君の持って来たウイスキイ、川崎君の持って来た竹の子、板谷家よりの油による天婦羅等々で酒宴をし、近く渡支するという田居君の送別会ともする。宴終った頃小野賢治君来る。板谷君の帰りが一番あとになり、駅まで見送りバター一ポンドを贈る。
薫と英一も夕方から来て馳走する。非常用の蟹缶、天ぷら、竹の子と人参、乾鮑、大豆、礼のつんで来た嫁菜等々。薫に写真を見せて、夜十一時となる。仕事せず。南瓜は椎の木の下などに発芽せぬところ、五六穴あり。
東京新聞に私の短文発表さる。
五月八日 晴 南瓜二度目播く[#「南瓜二度目播く」に傍線] 下肥樽に入れる[#「下肥樽に入れる」に傍線]
午前中、畑の東側の垣根ぞいに、垣根に這わせる南瓜穴に施肥し、夕刻そこに一日水に浸けておいた種子を播く。
昨年末植えた栗の木発芽しはじめたと貞子言う。
午後出社。「薄天鬼」という持込原稿を読む。礼、遠足というのに遅れたとて戻る。昨日から胸が神経痛気味である。
この頃、深夜から夜明けにかけて、月明の空一杯に飛行機の爆音である。夜間に敵襲ある予定での演習が多いらしい。
朝出がけに区役所の税務係員来り、家を買った件についての不動産収得税(先月中頃切符の来たもの)をこの十日までに(三百四円)払わないと差し押さえるという。うるさいことだが、差しあたって金の入る予定なく、夜貞子と相談して、明夜でも八島質店へ私の冬服や貞子の反物の手をつけていないものを持って行って金を作ろうと相談する。いやなことだが致しかたない。月給で暮すようにせねばならぬ。欧洲への敵の上陸はまだ無い。大きな嵐の前のような気分である。
五月九日 晴 里芋、八頭植える[#「里芋、八頭植える」に傍線]。
午前中畑。貞子が取っておいた配給の里芋十五個程と、一昨日か井上茂氏が前にやったバターのお返しとして持って来た八つ頭を四十五個程、昨年葱を植えておいた畑を耕し、下肥と堆肥をやった後へ植える。
午後出社。社から更に文学報国会にまわり、大陸文化委員会に出る。福田清人、丸山義二、井上友一郎、中村武羅夫、北条秀司、大瀧直通等の人々に逢う。帰りは田原忠武君と一緒になる。
昨夜貞子と相談して、税金の件、差押えなどとうるさく言うので、まだ着物にしない反物や貞子と私の毛皮類などを八島へ入質して金を作って納めることにする。しかし今夜家に帰ったのが七時半頃であり、午前中畑で疲れているので出るのをやめ、明朝にする。
学生生徒の通年動員の細則発表さる。一日一時間の授業というから、学業はこの一年間ほとんどしないのである。中等学校三年以上、ほとんど総ての学校は事実廃止となったようなものだ。
五月十日 雨
不動産収得税の三百四円の払込期限である。朝貞子と私の毛皮や反物などを持って出かけ、八島へ寄ったが、どうしたのか門を閉ざしている。新宿駅でその荷物を一時預けとし、渋谷の古本屋に行って見る。新潮社で捜している本見当らず、来々週あたりまた来てほしいとのこと。午後家に戻り、国民貯蓄として集った金のうち三百十円ほどを持って、松陰神社の区役所に行き金庫に払い込む。夕方新宿でドイツ映画「偉大なる王者」を見る。感銘深いとは言えず。かえって、ある女学校の戦時生活を写した写実的な文化映画に感動す。夜七時半頃また荷物を駅で取って八島へ行ったが門を閉めていて、空しく家に戻る。金のことで気持が疲れ、いやな思いをする。万一八島が商売をやめたのであれば、既に昨年末預けてある私の大島の一匹はどうなるか、また三百二三十円どうしてもいるのに、外の質屋へ突然行ってそれだけ借りれるか、など気がかりである。
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五月十一日 南強風 甚だ暖し 胡瓜五本、かきちしゃ十本苗植える[#「胡瓜五本、かきちしゃ十本苗植える」に傍線]。
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南北側の馬鈴薯五畦ほど土をよせる。この辺の方々に南瓜や西瓜の芽が塵の肥料から出ている。
午後出社の前に代田橋に下車して散髪す。今月から長い髪の理髪に五割の税がかかるとて、元来六十銭か七十銭のものが、一円二十銭とかとられる。これはうっかりしていて初めてのことなので、驚く。髪を伸ばしているということが税金の対象になるというのは、まことに変なものだ。髪を伸ばすぐらい放任しておいてもよさそうに思う。そこを出て、すぐそばの雑炊食堂で二十五銭の雑炊を一杯食う。割に豊富に米が入っている。現在雑炊は東京都で六十万食分出ているが、近いうち百万食も出すという。これは野菜不足、飯米の絶対量不足を補う唯一の方法で、学生、母親、老婆、勤人、父親に子など、あらゆる階級の人間が行列して、この炊き出しを受けている。
この日出がけに、京王電車の北村開発課長に逢う。今月一杯で京王電車は東京急行に合併されるというが、その前に、私の所の年賦の四年を十年に延長してもらえぬだろうか、とこの前の相談したことをまた持ち出して見た。バターを贈るという気持で、それが北村氏にも通じたらしい。この前の時は、とても出来ないという返事であったが、今日は、皆と相談して考えて見ようということである。二三日のうちに貞子をやって交渉させて見ようと思う。この件は、北村氏たちの仕事がいま終りとなる所なので、その便宜をはかってくれても、後にそう責任問題とならぬ限り、大して面倒なことではないだろうという私の考から出たものだ。これがうまくまとまれば、うちの経済問題の癌が解決されるわけである。
夕刻、里芋を植えた畦の片側二列に、一昨日買って来ていたかきちしゃを植える。里芋が育つのは遅いので、それまでの間この土地を使うつもりである。貞子が植えた胡瓜の苗とこれとに礼にドブ水をやらせる。
夜、毛皮と反物の荷をリュクサックにて負い、中野の八島へ行く。門を閉めているが、電燈がついているので、門を叩いて呼んで開けてもらい、少々無理のようであったが、四百円借り、ほっとする。これで差しあたっての難関は通ったわけである。四百円借りると、利子が月に八円というから、まことに高利である。
金の苦労は、まことにいやだ。物資や土地が貴重になるという目測から私は、無理をしてこの家と土地を買ったが、その酬いで金の苦労が絶えぬ。しかし国民生活の窮迫が強くなれば、何としても土地から食物を取ることが第一である。多分もとの家に借家住居をしていれば、今頃は疎開問題で、これよりももっと大きな苦労を、子供の学校やら闇の食糧買いなどでしなければならぬであろう。そう思って僅かに慰める。疎開した人たちは、配給が東京に較べてとても悪いし、それだけ買い出しが多く、それがひどい闇値で、まことに困っているという。
五月十二日 曇
午前中北側の道を西端から耕し始める。相変らず砂利多く、一間ほどで疲れてやめる。午後午睡三時間。
午後貞子外出。京王電車に寄って、馬場氏に逢ったところ、昨日北村氏から話があり、私の家の支払延期につき、何とかしようと思っていたとのこと。八千円のうち、残額六千七百円ほどあり、それを改めて五年賦にしては如何、とのことで、貞子は、大体それぐらいなら結構と言って来たという。そうすると、半年毎に八百円ほど払うことになり、現在までの半年賦千二百円よりは、余程楽になる。上役の許可を要するとは言うが、北村、馬場二氏がその気なら多分通過するであろうから、これはよかったと思う。
夕刻どうも気分が悪いので、また働き過ぎて身体をこわしたのではないかと思い、熱をはかると、六度にならぬ。どうしたのか、今日は朝から煙草をのまないので、変調しているのかも知れぬ。
京王電車の件がこれぐらいで片づくと、何だか生活の前途が明るくなるように思う。
先頃から奉天の矢留節夫君から、何か出版してはと言って来たので、そのうち少年ものの日露戦記を書きたいと言ってやったところ、出版が急に窮屈になりそうだから古いものでも原稿があったら早目という返事があったので、夜、前に出した評論集の「感動の再建」と「小説の世界」とから抜萃して一冊分、その外に「雪国の太郎」を送る。どちらかが物になるとよいと思う。
疲労感が多く、身体がまた悪くなりかかっているのかも知れぬ。しばらく行っていないセファランチンに明日は何としても行って見ることにする。
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五月十三日(土)この日古賀元帥の葬儀あり。町内で応召一名あり。今年は筍が遅れて、やっとこの頃二度食う。
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朝セファランチンに行く。二月の末以来のことである。割にすいているが、医師は応召等で減少したとて、看護婦の注射をしてもらっただけ。品川駅前にて雑炊食堂の列に加わり一杯を食う。不潔の感があるが、これを一杯食ってそのあと、社で弁当を食ったら満腹した。満腹感があるぐらいでないと、営養不足になるということに気がつく。食物は、こういう時代には腹八分目では絶対に駄目だ。質が低下しているのに量を加減されては営養不良になるのが当然である。食うということ、食わねば生存が脅かされるということは大きなことだ。そしてさもしい、あさましいことだ。街を歩く人、乗物に乗る人がみな、食えるだろうか、いや私は食った、私は食いたいという表情をあらわに見せているように思う。
先頃黄河の分岐点から西方と南方に突然行動を起した我北支軍は、新黄河を渡って南下し、京漢線に沿うて進み、南方から北上した中支軍と連絡した。この作戦の目的は明かでないが、この鉄路が南北通じたことは、有利な態勢である。
夕刻、滋と礼とに手伝わせて、三四寸に伸びた馬鈴薯に土よせをし、下水の水をかけさせる。半分ほど出来る。
夜、町会の国民貯金二百余人分の整理をし、帳簿に書き込み、また通帳に鉛筆で金額を書き入れる。これは大変煩雑な仕事で、引き受けたのを後悔している。社で菊池重三郎君が大磯から胡瓜六本、トマト五本等の苗を持って来てくれたのを、夕方暗くなるまでかかって家の縁の前などに植える。
胡瓜六本、トマト五本苗植える[#「胡瓜六本、トマト五本苗植える」に傍線]。
五月十四日(日)晴
貞子がたのんでおいた筍が手に入ったので、八百余匁の一本を楢崎家へ持って行ってやる。ついでに里芋の種子を十個ほど届ける。礼にと、本物のミツワ石鹸を一個夫人からもらう。
夕刻、滋と礼に手伝わせて、久しく放ってあった防空壕をほぼ完全に掘り上げ、板の蔽いをして見る。明日頃蔽いを完全にし、入口と梯子を作るつもりである。仕事の都合で今までこれが遅れたが、この頃何となく静穏でありながら、いつ空襲があるか分らぬという気持がするので、これが出来上らないと不安である。それでいて、馬鈴薯、玉蜀黍、里芋、鳩麦等々と畑仕事に追われ、身体も無理したくないので遅れていた。これが出来たら、次には北側の道路の開墾と、裏手の庭を鶏を入れる場所に囲い直すことが控えている。どれも早くしたいことである。
鶏は一昨日から二羽で毎日一個卵を産み出した。雛子大きい方は随分大きな中雛となり、二番目のも大分成長し、三週間近くなった。
この日昼頃、町会の貯蓄の帳簿を一応完成したので、町会長中館氏のところに持参して渡す。先月十六日に郵便局に金を入れたのに、その分の記入が通帳にしていないことを発見、驚く。
町内で応召三名あり、何れも帰還兵だという。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
五月十五日(月)晴 鳩麦の芽七分位出揃う。水肥をやる[#「鳩麦の芽七分位出揃う。水肥をやる」に傍線]
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[#2字下げ]馬鈴薯の欠いた芽を里芋の畦間に植える[#「馬鈴薯の欠いた芽を里芋の畦間に植える」に傍線]。茄子の苗を八百屋の老人十八本植えてくれる[#「茄子の苗を八百屋の老人十八本植えてくれる」に傍線]。
欧洲の第二戦線は、五月十日頃と予想されていたのだが、まだ英米は断行しない。クリミヤ半島のセバストポリを撤収した独軍は、その西方から最後の同半島撤収をして、乗船を完了した、と小さく新聞の隅に出ている。これでクリミヤ半島は完全にロシアの手に戻ったわけである。なお独軍当局は、西欧の各地への英米の空爆が最近二千機もの飛行機で連日強行されているので、第二戦線の展開は近いという予測的意見を昨日発表したという。
これで、いよいよ欧洲戦の最高潮が実現されるのである。どこに、どういう形で第二戦線は展開されるか、そしてそれと共に東方からのロシアの攻勢がどんな風に行われ、ドイツの反撃がどのように為されるか。考えて見れば息づまるような歴史上の大事件がいま始まろうとしているのだ。
印度のインパール攻略を目ざした我軍の攻勢は、同地を包囲する形になってから、もう一月ぐらいになるが、このインパールはまだ陥落せず、遂に同方面は雨期に入ったという。雨期に入れば、敵も補給に困難はするが、我方の攻勢も一頓挫するのではないかと危ぶまれる。インパールを守りとおせば、敵の成功と言うべきであろう。放送局から「旅順の印象」の稿料三十五円届く。
朝のうち、鳩麦の芽に下水をかける。道路の赤土故よく育てばよいと思う。
十時半頃出かけようとしているところへ岩淵正嘉君来る。徴用者の生活を語るのを聞く。彼は徴用者中の弱体者を訓練する訓練所の事務や指導を受け持っていて百三四十円の収入があるという。岩淵君と新宿の街で七十銭のランチを食う。ひどい野菜のごった煮と昆布を煮たもの。雑炊に劣る。
出社すると、社でスフ入りのキャラコ風の布、二反半のものを全社員に無償無切符で分けてくれる。以前に社の雑誌「日の出」の広告用の旗を作り全国に配ったものの残りという。貴重なもので、シャツ、敷布等に使える。皆大喜びする。家に戻ると貞子も喜ぶ。この節これだけのものを闇で買えば、五百円ぐらいもするのであろうと思う。のんびりした会社である。
夕刻京王の馬場氏来て、京王へ出す年賦金の支払延期願というのの書式を書いたのをくれる。ほぼ見込ありとのこと。残金七千円を五年間の半年賦という。半年毎に八百四十円となる。これまで半年毎に千二百円だったのより、遥かに楽である。しかし、それにしても毎月百二十円ほどとなり、月給だけではこれを払って行けず、原稿を書いてこの分は作らねばならぬ。しかし、これが通れば支払不可能という心配は随分減少する。万事好転して行くような気もする。新潮社の勤めも暇でのん気なまま、そういう社なのだから、当分は続いて行くように思う。
帰路烏山郵便局に寄り町内の国民貯金四月分の記入してないことを確かめると、うっかりしていて記入しなかったのだとのこと。町会長も急ぐに当らぬと言っていたし、のんきにすることにし、三組の石丸氏の分のみ記入させて持参する。八百屋の老人が茄子を植えてくれたのに夕刻水肥をやり、また馬鈴薯の芽を欠いたのを、まだ芽の出ない里芋の畦の中間に植える。これで多少の収穫を得たいと思う。
夜、馬場氏の書式によって、京王への支払延期願というものを書く。
まだ「爾霊山」に本式に取りかかれず、歯がゆいことである。
五月十六日(火)トマト十本植える[#「トマト十本植える」に傍線]
朝、貞子が欠いた薯の芽を、不成績だった莢豌豆の畦間に植える。これで、薯の芽を三間ほどの畦十本ほど植えたことになる。これだけでも三十貫ぐらいとれそうに思う。こういう風に馬鈴薯より遅い里芋とか、より早い豌豆などの畦間を利用すると、馬鈴薯は本当に植えたものの半分ぐらいを欠いた芽によって収穫出来るのではないか。また馬鈴薯の畦間に、更に時の遅れる南京豆や胡麻などを播こうと思う。
町会長の所に寄って、先日預けた帳簿を取り、通帳もなく、新加入でいて申込書もない人々の件を相談す。中館氏は町会の事務員を使ってくれとのことであるが、それはどうか。私は手紙を各組長に出して用を足したいという考であるが、結局は私の労となるであろう。
郵便局に通帳を持って行き、とりあえず先月十六日に金を預けてある四月分の記入をしてもらうことにする。明後日出来るとのこと。
京王本社に寄り、北村氏に逢い、昨夜書いた願書を出す。多分通るであろうとのこと。新しい支払期日を八月からということにしてほしいと言う。四五日中に様子が分るとのこと。
出社すると、菊池君、私のためとて、立派なトマトの苗を十本バスケットに入れて持って来てくれる。中には花の咲いているのもあり、よい苗である。
午後二時から、文学報国会に小説部会の幹事会ありとて、そのバスケットを下げて出社〔ママ〕する。横光利一、川端康成、立野信之、打木村治、中山義秀等の外、土師清二その他の大衆作家が三四人出ている。新人育成の件や、空襲時非常対策の件を話し合う。林芙美子が信州上林に疎開したことを川端康成は「あすこなら東京が占領されても大丈夫だね」と言う。皮肉のようでもある。
空襲時に張り出すポスターの文句や、そういう時の人心安定のために使う朗読作品の選定などを考えることにして散会。またそういう時の非常線通過の身分証明書を下附するというので、幹部全員にという申請をすることとなる。
夕方、菊池君に持って来てもらった苗を植える。これで苗の数、茄子二十本、トマト十五本、胡瓜十一本となる。
この頃「クレーヴの奥方」を電車の中で読む。宮廷生活の恋愛を扱ったあたり我国の源氏を彷彿せしめるが、遥かに理智的で、冷酷で、厳しい作品だ。しかも個人の栄達、国際間の戦争と和解というきびしい事情の中での恋愛の相を正確に描いて、立派な作品であり、フランス恋愛小説の典型と言うべきものだ。小説というもののあり方について改めて考えさせられる。人間の風貌の描写なく、自然の描写なく、しかも人間を感情と理智の面から解説的に描破している。
五月十七日(水)落花生植える。三十八穴[#「落花生植える。三十八穴」に傍線]
馬鈴薯の欠芽を西南道路畑の鳩麦の間に植える[#「馬鈴薯の欠芽を西南道路畑の鳩麦の間に植える」に傍線]。
朝から細雨。アノラックを着て畑に出、北側半分の薯の芽を欠き、それを西南の鳩麦の畦間に一列長く植える。鳩麦が伸びる前に薯を収穫しようとの考である。ここからも十貫ぐらい収穫されそうに思う。
午後また晴間を見て畑に出、小松菜の根本と馬鈴薯の広い畦間とに落花生を播く。下水の泥を基肥にする。
昼頃、今野竹一君より速達あり、朝谷耿三(川端儀平)君が北海道へ帰る送別会を神田の社で開くから出よとのこと。夕方出かけ、そこで川端君、川崎君、衣巻君等に逢う。倉田百三の女婿の川端君は作家志望で、著作も一二冊ある人だが、岩内附近の泊の鉱山で朝鮮人の労務者の指導をする仕事に転進するという。社の応接間で焼酎に味淋を割ったというナオシという酒が出、野菜の煮たのと、ホッケ鱈の一切ずつとで会食し、酔う。今野君に、夫人を救世団療養所へ入所させるようにしてほしいと頼まれる。
五月十八日 細雨 寒し 麦の穂出揃う[#「麦の穂出揃う」に傍線]
今年は春の雨多く、多分空梅雨だろうと言う[#「今年は春の雨多く、多分空梅雨だろうと言う」に傍線]。
里芋を馬鈴薯の畦間に四十ほど植える[#「里芋を馬鈴薯の畦間に四十ほど植える」に傍線]。
午後出社。百田宗治氏来る。二月以来初めて逢う。船舶兵の歌を作るよう依嘱され、宇品へ行って来たという話を聞く。軍人の話によると、ラバウルはすっかり包囲された形になっていて、敵も上陸出来ないが、こちらも船での補給は出来ず、潜水艦によって補給しているので、今では撤退も不可能であるという。広島の弟の薫が若しまだラバウルにいるとすれば、心配なことである。ラバウルは北方のアドミラルティ諸島、西方のニューギニア北岸、等々と包囲されてしまったのだ。万一撤退出来ず、しかも敵の包囲環がいよいよ狭められるとすると、三度、アッツ島やギルバート諸島戦のようなことが起るのではないか。今度は守備兵も多いだけ、その衝撃は大変である。台湾から原隊に帰ると報じた薫は果してこの島に戻っているかどうか。気がかりなことである。
四時頃二人で社を出、新宿の宝亭(今度一級店に指定されたところ)で三十分ほど行列した後に夕食をとる。税共二円六十四銭かで、魚が三切位のもの一皿に、肉の少し入ったシチュー様のもの一皿、パンなし、コンソメスープ一椀である。そう悪くないが量が少い。
家で夕食。貞子の説明によると、滋と礼とは二合七勺、私と貞子は二合三勺で、四人で一升の米が一日分である。その外礼は学校で七勺の給食であるが、とにかく一升の米に一合だけ米を足して炊くと、夕食は粥にすれば、ほぼ十分食べられるという。菊が一人いないだけで、とても楽だという。一合の補給ですむならば、月に三升、年に一斗〔ママ〕もあればよいことになる。とすると、馬鈴薯が百貫に甘藷が五十貫、南瓜が五十貫も取れれば、うちの食糧事情は余裕たっぷりとなる筈だが、どういうものか。
板谷真一君より、先日話のあった義弟薫の嫁の件、先方が気が進んでいるということである。薫は貞子にまかせるとのこと、貞子一二日のうちに行って見たいと言っている。
五月十九日(金)梅雨模様
朝佐藤家と八百屋とで筍を買えたので、先頃哲夫君からもらった糠の礼と菊池君の苗の礼として大きいのを一本ずつ籠に入れ、新潮社へ持って行く。菊池君休んでいるので籠ごと席へおいて午後戻る。昨年一貫目一円ぐらいだったのが、今年はどこも二円五十銭である。午後貞子筍を持って和田本町の杉沢、下宿〔薫、英一の〕、重見家へ行く。重見氏へは本棚のかわりにバターを届けるつもりでいて遅れていたところ、この日ハガキで本棚郷里で必要故返してほしいと言って来たので、貞子そちらへもまわる。夜十時貞子戻る。重見家では疎開の問題で病中の重見氏と夫人がとかく意見合わず、そのとばちりがこちらへのハガキとなった模様。バター三ポンドを届け、何事もなく落ちつく。杉沢はこの頃ずっと肝臓とかの身体の調子悪く、閉口しているという。折角横山村の農場が出来かかっているのに、そしてあんなに幸福そうにしていたのに気の毒である。また彼は農場へ行っているという。
夜貯蓄の方の帳面を整理して何事も出来ず。
五月二十日 梅雨模様 警戒警報[#「警戒警報」に波線]
里芋を埋めた横へ小松菜を二筋播く[#「里芋を埋めた横へ小松菜を二筋播く」に傍線]。
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ひとり生えの南瓜を椎の木の下の芽生えぬ南瓜穴などに移植する。根切りを五六匹見つける[#「ひとり生えの南瓜を椎の木の下の芽生えぬ南瓜穴などに移植する。根切りを五六匹見つける」に傍線]。
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インパール方面の戦況と陣地の模様かなり詳しく初めて発表さる。ここも制空権は敵にあるという。すでに雨期に入ったというから、困難は一層加わっているのではないかと心痛される。
出社。梅田女史出版部新入の挨拶として、午後三時頃海苔巻と牡丹餅とを持参して馳走す。楢崎、丸山、菊池等と食う。
夕方、雨に晴間が出たので、まだやっていなかった馬鈴薯畑に下水をやる。
夜八時頃、「警戒警報」と言って歩く者あり。但しサイレンも鳴らず、ラジオでも報知なく、放送は予定どおり行われているが、あちこちで、その警報が伝えられ、燈火管制が始まる。すぐに燈管をし、暗い中を外に出て、防空壕の屋根の板ほぼ並べてあるのを更に補って板を二重にし、そばに盛りあげてあった土で蔽う。泥縄であるが、忽ち出来上る。五尺あまりの深さなのに、まだ入るための梯子の出来ていないのがいけないが、いよいよとなれば、飛び込むことにする。
その間に貞子は飯を炊き、私はかねて持ち出すようにしてあるリュクサックやトランク、外套などを並べる。
空襲があるのならばあるべき頃なのだ。しばらく警戒報も出ず、私たちは気がゆるんで、現に家の防空壕など長いこと完成させずにおいた。
だが九時頃から、また梅雨様の雨となり、空襲がありそうにも思えぬ。
一体今度からは警戒警報は出さぬことにしたという噂があったし、また防諜上、口伝えのみにして、サイレンやラジオでは知らせぬのかも知れぬが、警報の出かたが曖昧である。
京王の北村課長寄り、返却金の期間訂正のため印鑑証明を二通ほしいとのこと。
五月二十一日(日)曇小雨
朝から滋と礼と三人で、かねて買っておいた棒材を、鋸で縦に引き割る。この作業容易でなく、午後二時頃までかかって完了す。それに薪の中から工合のよいのを捜して、梯子を作る。防空壕にも屋根に登るにも使えるものとする。
これで防空壕の出入りが出来るようになって、安心である。あとは入口の蓋を作るといいのだ。
午後一時間ほど晴間を見て祖師谷大蔵の区役所に行き、印鑑証明を二通もらう。日曜も役所があるので、これは便利だ。更にその足で、新設の千歳郵便局に行き、放送局からの「旅順の印象」の稿料三十五円を受取る。
夜空襲の支度をして寝る。
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五月二十二日(月)晴 警報下にて滋も礼も学校は休み。
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|午後二時警報解除《※》
午前中から貞子が近所で買った筍の中一本を鞄に入れて出る。先ず京王に寄り、印鑑証明を渡し、公正役場と登記所で使う委任状に捺印す。これで、かねて思っていたことがいよいよ実現することになった。ずいぶん楽になったが、それでも半年に八百五十円作らねばならず、相当に骨が折れることである。しかし、これは経済的にはありがたいことだ。それから百田家に寄り、筍を贈り、弁当を開いて、同家の昼食と席を共にして食う。午後出社。肥後和男氏より同氏著書に入れる東湖の写真が届く。外に用なし。雑談し、哲夫君より、糠を二貫六百匁分けてもらったのを紙の大きな袋に入れ、持ったりかついだりして家に帰る。
一昨日花村家の横、私の筋向いに、高橋崇という陸軍将校の若夫婦越して来る。硝子戸も出来ていないのに住んでいる。細君は鹿島組の重役の娘という。その細君が貞子に言ったことに、夫君の話によると戦争は目下本当にひどくなっていてこの七月頃には何とか段落に達してしまうのではないかと思われると言っているとのこと。夫君というのは、立川の飛行隊の研究所勤務というから、技術将校らしい。そう言えば、新聞の発表の様子がこの頃内輪になっているが、苦戦つづきのことは分る。また東条首相は過日陸軍大学での講演で、我軍は隠忍の時を過したが、いよいよ反撃に転ずる時が来たと言っているが、いよいよ反撃の決定的な戦闘が近づいて来ているのであろう。深刻なのだ。私などが推定して考えているよりもはるかに戦いの今の時期は深刻な場に直面しているのだ。
この警報と思い合せて考え直させられた。
新潮社では、敵が南鳥島を空襲したと言い、また「日の出」の編輯部では、小笠原島の父島と母島が艦砲射撃を受けたという。警報は午後二時頃解除さる。
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五月二十三日(火)落花生を二十穴ほど応接間の前に播く。鶏糞使用[#「落花生を二十穴ほど応接間の前に播く。鶏糞使用」に傍線] 二度目の落花生[#「二度目の落花生」に傍線]
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好日。午後出社す。中野好夫氏の原稿この月末までに三分の二出来る筈の約束故、この日午後、大阪ビルの日本文化中央聯盟に同氏を訪い、様子を聞く。百枚頃に達しているという。川崎昇君を銀座六丁目の大同通信社に訪う。同社の仕事もいよいよ終りになったとて、がらんとした二階の事務所で、同君は破古の整理をする。数年間の新聞雑誌の広告の仕事の中から、「新文化」とか「理想」とか、「グラフィック」とかいう今は無くなった雑誌が現われて来たり、大きな広告とかポスターとか挿入広告などという今の世の中に用のない仕事の形骸のみが続いて現われ、二人とも感傷する。
夕刻松坂屋裏のスエヒロで食事す。今月から二級店に決定したとて、税共で二円六十銭、パン一切に、シチュー、スープ、ロールキャベツ等で、先日の新宿宝亭の一級三円六十銭より遥かに内容よろしい。こういう料理店の復活で街に多少のうるおいが現われたというべきか。しかしこれも世の中が本当に楽になってのことでなく、法令の変化による一現象にすぎぬ。祖国をめぐる環境は、かえって刻一刻と急迫して来ている。
朝刊にて、昨日までの警報の内容は、やっぱり南鳥島への敵の空襲と分る。父島母島への艦砲射撃などというデマがすぐ出るのだから油断がならない。英独の相互空爆は再び盛になって来ている。第二戦線はやがて近く、次の満月か満潮時がその時となるかも知れぬ。三月十五日とか言ったチャーチルの声明が随分と遅れているものだ。英国はいよいよとなって自信を失ったのであろう。
夜町会の組長常会。貯蓄は私の組と五組、八組が目標額への不足が多く、町会長に増額せよと言われる。私は貯蓄代表の仕事の困難を縷々説明し、大体皆にそのことが納得されたようである。十一時半に帰宅す。
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五月二十四日 好日 午前中央辺の馬鈴薯に鶏糞をやる 南瓜移植す[#「南瓜移植す」に傍線]
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中野氏の件にて外出、渋谷の古本屋に寄る。
夕刻、菊池君に頂いた生姜を葱の畦に並べて植え、南西の道の畑に溝水をやり、土手の玄関寄りの辺に南瓜を三本移植す。
雛鶏三羽共元気にて、上のは中雛で大分大きい。一番小さい弱そうなのもすっかり見〔ママ〕直す。これも、もう四十日近い雛なのである。
馬鈴薯の中耕した間に、この頃土地の人たちが陸稲を播いているので、貞子に佐藤家から今日陸稲の種子をもらわせた。明日あたり播こうと思う。
五月二十五日 晴後曇 陸稲播種[#「陸稲播種」に傍線] 小松菜発芽す[#「小松菜発芽す」に傍線]
遠藤元男「日本中世史」を読み進む。
この頃柿、椎等の若葉きらきらと日に輝いて美しい。家の西北の椎の木は何れもよく根づき、新葉を出しはじめた。昨冬植えた栗の木も頂上の方に一枚ほど葉を吹いた。
朝のうち、馬鈴薯の北側から順に灰を撒き、二度目の土よせをする。すでに六七寸に伸び、蕾を持ちはじめたのが三分の一ほどある。蕾をつみながら、半分ほど土よせを終る。
午後出社。出がけ伊勢丹百貨店に南部女史を訪い、貞子に托された筍を贈る。菊から同女史に預けた衣料切符をかえしてほしいと言って来ているので、それを受取り、社で封をして送る。
月給日。二百円のうち、税金十四円、書籍の購入二十四円を引かれる。
夕刻、下肥に下水を半分割って薯の畦間に撒き、陸稲を播く。五畦ほどにて日が暮れてやむ。陸稲は一反で一石二三斗の収穫のもの。百坪近い薯畑のうち、すでに落花生、里芋等に三十坪ほど使っている故、残り全部播いても六十坪ほどであろう。五十坪として二斗ぐらいの収穫であろうか。薯は割によく出来ている故二百貫近くとれるのではないかと思う。それだけ採れれば、あと南瓜と甘藷で百貫としてもほぼ一年の補給に足る。それを貞子と何度も計算しては話し合っている。
この頃公定では三十円ぐらいにつく米一俵が五百円というのが相場だという。一升十円余である。それにしても街で一合ほどの米のついた食事(そんなものは無いが、それに相応する営養のある食事があれば)をすると一級料理店のものとして公定でも三円五六十銭であるから、一升分三十五六円となる。闇の料理はそれより遥かに高いのだから、米一升十円というのも高価ではない。そういう計算から米価の闇相場が立っているようだ。
現金収入が増加したと言っても、古い職業をかわらぬ者は、たいてい百四五十円までの収入であり、新職業についたものは賃銀統制令のため、やっぱり百五十円未満の者が多い。商人たちの闇相場の対象となる品物も少くなっているので、彼等も収入が案外に少い。そして一食分ずつの不足食糧の値がこんなひどいものだから、食事のために、たいていの人たちは困却して来ている。昨年夏は馬鈴薯は一貫目一円そこそこだったが、今夏は三円以上はするだろうという。庶民の生活難は急速に加わって来ている。
強制立ちのき、その他の疎開のために、これまでの安価な家賃の家を追われ、疎開すると田舎では配給制度が完備していないので、農家から闇値の食物を買わねばならず、そこにも生活苦が待っている。これに耐えて行くのが戦争というものの実質であるが、都市の中産階級者、下層階級者は、これまでの生活の根拠を失って、画一的な、中世時代の庶民風の存在となって来つつある。
松原寛氏からハガキ来る。先頃依頼しておいた学校への勤務について、光生中学の尾形校長代理に話しておいたから逢いに行ってくれとのこと。第二工科の方は駄目だったらしい。光生中学には、新潮社へ出る日の午前中勤務するようにしたいが、行って見ねば日取等は分らない。そこで月々相当の収入があればよいと思うが、京王への支払いにあてるほどの収入とはならないだろう。それでも文筆の方の収入が少くなって行きつつあるので、五六十円としても随分助かることとなろう。
この頃保存中の豆類が欠乏して来て、最後にとっておきの四升ほどの米に手をつけねばならなくなり、貞子は色々と工夫をし、筍を買っては、それを飯に炊き込んだりしている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
五月二十六日(金)陸稲播き終える[#「陸稲播き終える」に傍線] 馬鈴薯の芽植えしたのに薄い人糞を施す[#「馬鈴薯の芽植えしたのに薄い人糞を施す」に傍線]
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午前薯畑の土よせをする。伊藤森造君遊びに来る。明大の勤労報国隊に加わり、石川島造船所に行っていた由。宿泊所は廃業した洲崎の遊廓であるという。食事が乙級で不足がちであり、材木運びの労働から始まって、一二ケ月経った学生は船体の鋲打ちなどもしているという。食事などの待遇が悪いので、宿舎を脱出して帰らぬ学生が二三割にのぼり、それ等は放校されるという。怠業気分多く、会社側の受入状態がよくないので、これから卒業までの四ケ月を働くことになっている三年生は、不満が多いという。伊藤君は身体がやっぱり完全でないので、帰校を命ぜられた由。勤労せぬものは卒業論文を書くことになっているとて、秋声論を書く話。「仮装人物」を貸してやる。
午後、代田橋下車にて、光生中学に行く。尾形氏不在にて、戻りかけると、途中で尾形氏と松原寛夫人とが来るのに逢い、一緒に学校へ行き、新設のプール等を見せてもらう。芸術科にいた渡辺氏が教務課にいる。私は、これまで永野正人氏のやっていた二年の英語を八時間と一二年の国語を八時間ほど受け持ってほしい由。月曜から出校すること、朝八時迄に登校し、昼までにて、多分週四日になるらしい。月曜日に時間が確定するという。この頃は子供たちと一緒に六時に起きているし、家から三十分ほどで着く所故、そう困らぬことと思う。一二年の授業ならば楽であろう。永野氏は芸術科の二三年(一年は募集していない故、全生徒である)の勤労に附いて行くという。それも大変なことであろう。
夕刻昨日に続いて薯の間に陸稲を播き終える。
夜常会あり。債券貯蓄と国民貯蓄増額の件を話す。組内の加持、伊藤信次夫人など、この組の二十円の前者の分と、四円の後者の分が多すぎると言い、貞子に不平を言っていた由。それが町会からの割りあての三分の二ほどなのに、外の組では全割りあてを消化しているのである。不平を言うべきでないと納得させる程度に話し、結局私の考えていたように増額はせず、今度新規に簡易保険に入った人たちの分三十五円ほどを新規の貯蓄額として町会長に報告することに話をきめる。
発疹チフス次第に盛になり、今年に入ってからすでに三千余に達し、今年は一万人ほどになろうという。工場の宿舎、町の銭湯等にて虱の移るところが危い。これは特に知識階級人には抵抗力なく、五割位は死亡するとのこと。予防薬なく、恐るべき病気である。
敵の機動部隊が大鳥島を襲ったとのニュースあり。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
五月二十七日(土)細雨 二度目の玉蜀黍播種[#「二度目の玉蜀黍播種」に傍線] 下肥を新に樽に入れる[#「下肥を新に樽に入れる」に傍線]
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]家の東側の軒下に玉蜀黍を播く。
光生中学の収入がどれぐらいになるかと貞子と話し合う。十六時間として一時間二円であれば月百二十円になるが、そんなに出さぬであろう。その半分、五六十円ではないか、ということになる。時間給のその単価を尋ねたりすることは、し難いものである。
午後出社。夜、お茶の水の出版会報国団階上にて森少佐の航空戦様相の講話の会に丸山君と行く。薫も朝日の出版部から来ている。
この日の午後出がけに薫や英一の下宿松岡家でおカズに困っているとて、筍を三貫目リュクサックにて負って行ってやる。杉沢家に寄ったが、杉沢はこの半月程横山村から戻らぬ由。
五月二十八日(日)
午前防空演習。私が出て伝令の役を自転車でする。
午後貞子と二人、薫の嫁の件で、鶴見の板谷家に行く。持丸というその娘の家の細君に逢う。話は進みそうである。
夜十時半に戻る。滋と礼は初めて二人での留守。二人とも眠っている。
この日留守中に田原君夫妻が来て、甘藷苗を百二三十本と生姜の根を百匁ほどもらう。また児玉医師夫妻と子供たちが来て、浅利貝と貞子への下駄をくれて行ったという。
五月二十九日(月)
朝七時十五分に家を出て、光生中学へ行く。昨日書いた履歴書を尾形氏に差し出し、朝礼の時紹介される。少々照れて変な気持である。二年生の英語、週四時間宛四組分を受け持つこととなる。週十六時間である。まだ生徒に教科書が当っていない。困ったものである。三組と四組に発音符号を教える。十一時、すんでから京王電車に寄り、支払延期契約のことを尋ねる。
書類出来ている。これでよかったと思う。
午後出社。疲労する。
夕方戻ると、加持夫人が野菜当番などを別々にするとか何とかひとりで決めて、それを貞子に言ったとのこと、貞子腹を立てて泣き声を立てているので、私は花村夫人を誘い出して、加持家に行き、加持夫人に、そういう勝手なことを常会なしで決定して言いふれられては困る、と念を押す。少々腹を立てる。女を相手にばからしいと思うが、煩いことである。
五月三十日(火)苺初収穫五個[#「苺初収穫五個」に傍線]
光生中学の授業、五時間にて午後一時半まであり。その後出社。梅田女史三日ほど浜松に旅をしたとて、苺一箱と胡瓜三本とを同室のもの皆に配る。
夜出版報国団の講演会にて高瀬大佐の話を聞く。初めて、責任ある当局者より、戦争の実況につき、信頼し得る実相を聞く。其の要点は、
「大東亜戦初期には我は蓄積した航空力によって敵を圧倒した。しかし当時月産二百機であった。その後消耗して蓄積減じ生産がやっと月産四百機に達した時に、米国は大量の飛行機によって反撃して来て、今日のように我方が後退せざるを得なくなった。目下は飛行機産額は英国を凌ぎ、ドイツをも凌ごうとしているようで、上昇曲線は良い形を示している。米国は月九千機であって、その半分を太平洋にまわすとしても、我方は一機によって敵三機と対等に戦うから、敵の三分の一の機数があればよいのだが、残念ながらまだそこに達せず。しかし近い将来にその程度になる見込十分である。(とすると月産千機内外ではないかと推定される。)また輸送も我方は南方から資材を運んで国内で武器等を作り、それを更に戦線に送るのだから、輸送線はむしろ長大で危険度が高く、護送飛行機不足と相まって、随分船を沈められ、補給に困難を来していたが、最近は護送力を強め、また造船量も増大して英国を凌ぐという程度に達したので前途に一筋の光明を見る[#「一筋の光明を見る」に傍線]こととなった。
飛行機の上昇曲線が今の勢で進めば機数はぐんぐん増加するが、万一敵が空襲によって我生産力を破壊するとか、又は敵が我本土その他の重要点に肉迫して、我方が退き得なくなり、それを叩かねばならなくなって消耗を大きくすれば、この率は下降する危険がある。ニューギニア、ラバウル、ブーゲンビルその他南方の前線の我拠点を越えて敵は深く我後方に侵入し、現にホーランディアの西方などでは、我数個師が敵の後方に残されている。これ等敵に包囲された部隊は食糧を二分の一とか三分の二とかに切りつめて持久戦に出、我方の飛行機と輸送力の盛りかえすことを僅かに期待しているという形で、困難を極めた立場にある。
ドイツは英米の空爆によって、その生産力の二割又は三割が減少したとの説をなすものもあるが、大島大使などは、その損耗率が分らぬという報告を寄せて来ている。我国への米国の進出の仕方は圧倒的で、或は近いうちに、決定的な線において、最後の力を挙げて敵を押し返し、叩かねばならなくなるかも知れぬ。
現在の日本は飛行機も船も造らねば、押しつぶされる危さにあるが、しかし食糧も絶対量が足りない。二合三勺では国民への配給は不十分なので、どうしても南方の余っている米や砂糖を運ばねば足りないのであるが、しかし輸送力は武器の資材を運ぶので手一杯である。この点でもぎりぎりになっているので、ただ働く人の全力を集中することのみが、武器と食糧の不足を解決し得ると思う。」
こういう事情であれば、大学、専門学校、中等学校の生徒まで動員して工場や農村の生産を増進しようとする政府の最近の方針は至極当然のことだ、そうしなければこの急場の人力を補って行けないのだ、と私は祖国の運命について、これまでにない急迫したものを感じた。空襲もきっと近いうちにあるような気もする。また南方か日本本州の近くかで、大きな決戦が行われることも遠くないと私は信ぜざるを得なかった。
中学の授業、無理な声を出したり、白墨の粉を浴びすぎたりせぬように力をセーヴしてすると、五時間でも、昨日のように疲れはしない。
貞子今日の午後京王へバター五ポンド届け、北村、馬場、井上三氏で適当に分けるようにと言っておいて来たという。今度の分八百余円は一月ぐらいのうちにと馬場氏が言っていた由。
町会長中館氏がその家を売ったとかで、次の町会長の選任のため組長常会が五日にあるという。
五月三十一日 晴 甘藷植える[#「甘藷植える」に傍線]
終日在家、朝から麦畑の畦間を耕して堆肥をやり、土を盛り、更に灰と鶏糞をやり、盛り上げ、夕刻から甘藷苗を植える。三畦にて日暮れてやむ。塩谷の小林亭治氏より滋の学校に出す戸籍謄本来る。母へ近況報告のハガキ出す。最近まで函館の基宅にいたが塩谷へ帰った由基から知らせがあって分ったのである。
終日働いて腰が痛くなったが、元気である。藷苗は少々萎えすぎている。二百本では畑の半分しか植えられぬ。もう二百本要る。
今週から月火金土の午前中は光生中学、月火木土の午後は新潮社となり、あいているのは水曜一日、木曜午前、金曜の午後、ということになった。
夜基より、明日上京するとの電報あり。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年六月
六月一日(木)
午前中から家を出、児玉医院に寄り、筍を二本届ける。その足で杉沢家に寄ったが、まだ山から戻っていないとのこと。
昼頃大阪ビル日本文化中央聯盟に中野好夫氏を訪う。原稿まだ百十枚程度の由。宿を捜して、そこで仕事をしたいという。新潮社では適当の宿が見当らぬので中野氏に捜してもらうこととする。
午後出社。
夕刻甘藷の残りを植える。そこへ基やって来る。私の馬鈴薯を見て、八俵、約百二十貫ぐらいとれるだろうと言う。
六月二日(金)晴 暑し
光生中学は昨日から中間試験とのことで、三時間監督す。身体は楽だが、出来るだけ疲れぬように気をつける。一昨日の甘藷植えにて、身体疲れている。
夕刻基と話をする。中央気象台への出張を兼ね、結婚話がある模様。
六月三日(土)晴 暑し
今日も光生中学は試験。
基の話によると、基の嫁を母が噴火湾内の紋別(?)辺の北海道興農公社員の娘にきめた故、この月のうちにも結婚式があるかも知れぬ。それには父の十七回忌(七月十三日)を繰り上げて一緒にする故是非出席してほしいとのこと。
基は夏頃札幌へ転勤するらしい。しかし今日はじめて言ったが昨年の夏は少々胸のために発熱して四ケ月休養したとのこと。心配なことである。基この日の午後、出発。私と逢わず。夜杉沢を訪ねる。近く二人で甘藷苗を買いに行くこととなる。
六月四日(日)曇後雨 三度目の玉蜀黍播く[#「三度目の玉蜀黍播く」に傍線]
午前中玉蜀黍や鳩麦に下肥を施し、余蒔胡瓜を移植し午後は、三度目の玉蜀黍を昨年と同じ花村家寄りの垣根添いに二列播く。
午後江口清君遊びに来る。
ベルリン電報により、ローマ市民の困窮についての法王の演説を読む。ローマ市民はひどい生活をしているらしい。支那、イタリア、フランス等が目下最も惨澹たる状態にある国々のように思われる。
六月五日(月)
学校試験、午後出社。
ローマ陥落す。否ドイツ軍はローマを非武装地区として、その北方に退いた。英米軍はそれを追って市内に入ったらしい。イタリアはその首都を失った。ローマには南方イタリアからの避難者が百万も入り、百五十万の人口が二百五十万となって食糧等に困窮をきわめたらしい。
この日函館の基より電報あり。式を十四日塩谷にて挙げる故出席せよとのこと。
今手もとに金が無く、税金の遅れたのにあてようと思っていた五十円があるだけで、貞子と相談したが途方に暮れる。先頃満洲での出版の話が矢留君からあり、以前出版した本を送ったが、却下されたと送りかえして来る。彼から何ということなく五十円送った由。それは今度日露戦の子供ものを書いて彼の所から出す時の印税にあててもらおうと思う。それもまだ届かぬ。汽車賃が五六十円、法事の仕度金として母へ五十円、基にお祝として二十円、博の子供たちへ二十円、貞子の父への土産等と考えると二百円ほど必要なのだ。それに税金も遅れていて、もう払わないと差押でもありかねない。金の心配は実にいやなことだ。
夜、学校の試験答案を採点する。
ビアク島に上陸した敵に対して、我軍は強力な反撃を加えているという。ここはむしろ日本の陣地の内懐であるから、当然そうあるべき所。もしこの島で敵を圧倒出来ぬとすれば、この方面では余程彼我に戦力の差があるのだろう。
六月六日(火)夜雷雨
学校は試験終了して、新設のプール開きの祝宴あり。今頃鉄とコンクリートのプールの出来たのも、またこの日の祝いに酒数升、赤飯、鶏肉等十分に出たのも、みな松原校長の手腕であろう。少々酔う。
午後中野好夫氏を訪う。原稿進まぬ由。社に四時頃出ると突然みな社長室に来いとて、行くとボーナスを渡される。いつも七月にくれるのを今年は早めたとのこと。帰りに見ると二百円ある。二百五十円出されたうちから税金に四十円引かれたのである。明後日出発せねばならず困っていたこと故、まことにほっとする。神様の助けか、と苦笑する気持だが、まことにありがたいことだった。
政府は八日から、三歳から七歳までの幼児に米三勺ずつ増配することとした。七歳まで赤子と同量ということで、親たちはまことに難渋していたもので、これはいい政治である。
六月七日(晴)道路の玉蜀黍播種、八日[#「道路の玉蜀黍播種、八日」に傍線]。
昨日英米は遂にフランスのシェルブール辺からノルマンディ北岸にかけて上陸し、空挺隊をも降下させ、戦闘艦を集中して上陸を援護したという。この日は満四年前にドイツ軍が英仏軍を海へ追い込んで、英軍を欧洲大陸から一掃したダンケルク戦の記念日だという。遂に遂に英米は欧洲に取りついた。彼等の積極攻勢が本当に初まった。南方イタリア戦線のローマ奪取等はそれの牽制作戦であった。
欧洲の運命はそう長くない将来に、どちらかに決定するであろう。晴れて美しい新緑の東京の初夏は、のどかさそのものであるが、歴史の大きな歩みは、刻々に遠い欧洲や南洋等から、国の民族の運命に決定を与えつつある。この日明日の出発のために切符の証明書から、切符を買う件やらで、出歩かねばならぬ。心せくまま朝にこれを書きとめる。
朝九時外出、烏山局で町内の国民貯金の件、違いある由で寄る。一円金の方が不足している。薫に電話。貞子が今日一緒に、薫の嫁にと話のある持丸家の娘を見に行こうとの件。
私は世田谷税務署で五十八円の税金を払い、警察で旅行証明をもらい、渋谷に出て駅で三十分ほど列に加わって切符を買う。昨年まで札幌まで十一円ほどだったのが、二十三円となっている。私は学校の割引証により、十八円余で購入。一時頃家に戻る。米の配給昨日ある筈のが今日もなく、非常用の米を持ち出してやっと凌いでいるが、空襲でもあって何日も配給のないことを考えると怖ろしいことである。
ラジオによると、独軍はカーン地区以外の英米侵入軍のすべてを殲滅し去ったという。独軍よく戦う様子である。この勢で上陸した敵を殲滅してしまってほしいものだ。
午後家の北側の道路を半分耕して施肥す。明朝そこに玉蜀黍を播く予定である。うちの馬鈴薯は先日基が見て八俵はとれると言っていたが、一昨日か農家の老人が来て見て、まあ三俵かな、と言ったとのこと。三俵ならば五十貫も無いのだから、大変である。外に甘藷五十貫、南瓜五十貫としても半年分しか無いわけとなる。心細いことだ。
六月八日 玉蜀黍[#「玉蜀黍」に傍線] 北海道行[#「北海道行」に傍線]
早朝、裏の道の畑に玉蜀黍と小松菜を播く。朝試験成績を光生中学に届け、新潮社にまわる。午後家の畑の馬鈴薯の間にハゼ玉蜀黍を播き、防空壕に南瓜を四本移植す。
四時に家を出、五時半の汽車に乗る。車中、弁当を四人分買う。(一円六十銭。)
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六月九日 朝七時半青森、九時乗船出帆、一時函館着。二時函館発。
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沿線は北海道の春景色。桐の花咲き、虎杖、蕗の葉ひらき、ゼンマイは葉をひろげ、風は軟く、日は照り、馬鈴薯芽ぶく。藪は無造作のまま、若々しい美しさに満ち、眼をつぶって、この風景にひたり、なつかしむ。ああ、私はこういう自然の中で育ち、人生に導き入れられた。私の心のふるさとである。何も考えず、うっとりと車窓に倚り、生きていて、またここに今この季節に来たことを、なつかしむ。
時は欧洲上陸戦の最中で、カーン地区にやっと橋頭堡を設けた英米に対して、ドイツのルントシュテット元帥は予備軍を出動させて、攻撃を加えているという。ドイツの運命はどうなって行くことか。車中「戦争と平和」を読む。ナポレオンの噂をするロシアの上流社会のありさまが描かれているが、今と較べて、いかにもとうなずかれる。
この頃応召きわめて多い。我軍がこの機を利用して、どの方面かに反撃をはじめることは必定である。人の出征、死去等の消息きわめて多い。先日春山夫人が死んだが、一昨日、瀬沼君の父君死んだとのこと、平野謙君は応召という。北海道では、沢田君、更科君、小樽の部隊にいる小西君などに逢おうと思う。
六月十六日 晴
今日の十時半上野着で帰京する。八日の夕方五時半に上野発、九日夜十時塩谷着、十日は基の結婚式。日野という家から、美津子という嫁が来る。眼鏡をかけ、太り気味の娘である。十一日は七月十三日の父の十七回忌を繰り上げての法事をする。
食物は結婚式、法事を通じて、酒は多く、魚が豊富で、ホッケのカマボコ、テックイの刺身等を使い、外に私が持って行った竹の子や椎茸を使っての茶碗蒸し、餅、等々にて、私にはまことによい馳走がたっぷりとあった。博の山羊の乳を砂糖を入れて飲むのもよい。砂糖も米も豊富である。法事のあと墓参りする。
十二日札幌へ行き、沢田斉一君を映画配給所に訪う。更科君をも電話で呼んでもらって逢う。夜は沢田君と定山渓の鹿の湯に行って一泊する。
十三日、二君に別れて塩谷へ戻ろうとしたが、思いかえして、二十八聯隊の日露戦従軍の人という中村虎太郎大尉を聯隊司令部に訪う。七十近い白髪の人。二十五聯隊だという。白襷隊に加わり、十二月五日二○三で戦傷したという話。更に二十八聯隊の人として足羽という中尉を訪ねたが留守。
同日午後四時村に帰る。小林村長から招待あり。一緒に同家に行き夕食を共にし、六時頃家に戻ってから結婚式で世話になった渡辺、高橋両氏や博と酒を飲む。
十四日朝九時母と一緒に函館行の汽車で出発する。トランクの中には林檎、小豆、大豆、鱒等々で一杯である。母は昨日立った基夫婦の所へと函館に向い、私は八雲下車。貞子の伯母船橋家に二時間ほど寄り、夕方六時野田追〔当時の駅名〕駅の義父宅に着く。薫の結婚の話の進み工合を相談す。まとまりそうなら義父上京すという。
翌十五日朝野田生を出発、同日二時半乗船、夜七時青森着。その着船の少し前に、船中で警戒警報の発令を知らされる。この日の朝の新聞で敵の機動部隊がマリアナ列島のサイパン、テニヤン、グワム島等を襲ったことを知っていたが、それに関しての警報かと思う。
今朝十時半上野着。駅のプラットホームで誰かが見ている号外にて、敵が九州の北部を今暁空襲し、二十機を邀撃して、その数機を撃墜したこと、またマリアナ諸島のサイパン島に敵が上陸したことを知る。敵は欧洲への進入と時を同じくして、太平洋でも積極的に出て来た。サイパンへの上陸とは、もうすでに我方の肉体に食い入るようなことである。また九州への空襲は、一昨年の四月十八日以来はじめての内地空襲であり、いよいよ身近に敵が来た感が切となる。
杉沢が身体工合悪い故、寄居へ取りに行く甘藷苗の件を私にしてくれと、悦子さん言いに来ている。見舞がてら行こうとしていると、田居君がやって来る。彼は華北種苗の東京出張所長として先頃北京に行っているうちに、華北農具の方の仕事も引き受けて来たので、その方を、私にやらないか、という話を持って来る。新潮社に出る外の時間で勤まるし、仕事と言っても女の給仕を一人共同で使い、時間も自由だと言うし、給料は二百円あまり出せるというから、私は心動いて、やって見たいと返事をした。そうなれば光生中学の方をやめねばなるまい。
家の鶏、私が出発する前から魚粉や糠をやって食物をよくしておいたところ、四日ほど前から毎日二羽とも産んでいる由。
六月十七日 曇後雨 警戒報中
朝から寄居へ甘藷苗とりに行く。池袋から二時間もかかるので、向うに着いたら昼になる。子供づれ、夫婦づれなどにて、寄居、小川町辺へ疎開して行く人が幾組かいる。
夜七時頃帰る。苗三百本、杉沢よりスルメ十枚と、私から五円出しておく。
杉沢が注文したのだが、彼の方は不用となり、私の分である。家でしらべたら四百本あまりだと礼が言う。
六月十八日(日)警報解除、夜また警報出る。
午前中苗を植える。これで総計四百本ほど植えた。二百本近くあまる。昼食に薫と英一来て、寿司を貞子が作る。薫の嫁の話、あまり北海道へ相談せずに進めてもよいだろうと薫が言う。余った苗は北海道へ送る。
午後、田居家へ行き、隣家の明治生命へ出ているという人に頼んで、そこに勤めているその持丸という娘のことをどんな人柄か聞いてもらうことにする。
帰途、中野好夫氏を訪う。原稿進んでいない由。阿部知二氏来ている。姫路へ疎開して時々こちらへ出て来るという話。しばらく酒の出たその席に連らなっていて辞す。
夜また警報となり、何となく不安を覚え、薬や食品を詰めたリュクサックなど枕もとにおいて寝る。
甘藷南の半分植える[#「甘藷南の半分植える」に傍線]。
六月十九日(月)午後四時警報解除
新潮社に出社。八日に出発したのだから、ちょうど十日目であり、随分休んだものである。ちょっと工合が悪いほどであったが、仕事の方は相かわらず暇なので、さしたることもない模様である。
サイパンに上陸した敵を二度水際まで撃退したというが、とうとう敵は艦隊勢力によって、三度目に完全に上陸したものらしい。その後詳報はないが、もうこうなっては、これまでの例にあるように、敵はすでに確固たる足場を得たのであろう。サイパンは我南洋諸島の扇の要にあたり、この地点にはサイパン、テニヤン、グワム等の重要な島々が集中し、ここを経て内地から南方へ、南方から内地へと連絡していることが、地図を見るとすぐに分る。小笠原諸島は、サイパンから内地への中程にあたる。敵は急に、こういう日本の内懐へと飛び込んで来たのだ。まるで我方の戦力を見くびり、日本艦隊はこれでもまだ出て戦えないのか、と言わぬばかりである。サイパンは周囲六里もある島だとそこへ行ったことのある菊池君が言っている。我国としても、ここへ敵が大基地を作ることになれば、マーシャルの残りの島々から、トラック島から、大鳥島、グワム島などすべてもぎ取られる羽目になるから否応なく、艦隊決戦をするのではないか。するとすれば、敵の足場の固まらない近日中にもそれがあるかも知れない。戦争は最高潮機にいよいよ近づいて来ている。東京に警報が続けざまに出され、ことに夜十二時から朝までは、空襲管制のような厳重な燈管をせよとのこと。爆撃もきっとあるであろう。この三四日前から東京の表情がまるで変ってしまった。人はみなゲートルを巻き、乗物には暇人らしいものがほとんど見えなくなった。前々から言われていた内地の戦場化が、ここで現実のこととなって来たのだ。
「一体日本の艦隊は何をしているのだ」とか、「新聞はただ強気にわめいているが、不安になって来たね」などと新潮社で皆が話し合っている。それが目下の東京人の輿論の形であろうか。
欧洲ではフランスのコタンタン半島の東岸に上陸した米軍は遂に半島を横断して西岸に達したというから、敵の上陸当時からの目標であったこの半島北端のシェルブール軍港は敵の手に落ちたわけである。ドイツの無人飛行爆弾は強力なもので、イギリスはそのために騒然とし、ロンドンから南方はひどい損害だという。これは前大戦末期に現われたタンクにも比すべき画期的な新武器にはちがいない。しかしこの武器がこの戦争を決定するとは思えない。英米は必ず対抗策を考えるであろう。こういう発明よりも、鉄と油とアルミとの量が着々とこの戦を決定的に進めて行っている。アメリカは、まるで片手で日本を押しながら、片手でドイツを殴るような横着な戦争の仕方をしている。そこが彼等の危いところだとも思うが、とにかくそういうことをさせるのは、彼の物の力である。物の力こそ怖るべきものである。
英米がフランスに上陸して以来、ロシアはひたと鳴りを沈め、ただ北方でフィンランドをいじめつけ出し、ドイツにはまるで手を出していない。この数年間強敵ドイツを一手に引き受け、専ら第二戦線の展開を英米に望んでいたのだが、いよいよ英米が欧洲の攻勢を始めると、今度はそちらでやってくれ、と言わぬばかりの冷淡な構えに出た。ルーズヴェルトとチャーチルもロシアに対して不満を表明したという。こういう世界の大国家の間の行きさつは子供が仲よしになったり争ったりする様にそっくりそのままである。冷酷で手前勝手でまるで無邪気なぐらいである。それにしてもドイツの苦境は争えない事実だ。日本もまた東条首相は、いよいよ攻勢に出る時が近づいたと称し、先日聞いた高瀬大佐の話からも、攻勢の近いことを思わせるが、いつ、どうして、どこでそれを始めるであろう。日本のすべての軍需工場はこの六月を目標にして全能力を挙げて来たというし、予科練や特別操縦見習士官などもこの九月とかに大分多くの卒業者が出るという。こちらが攻勢に出そうな時、敵が機先を制するような形で逆に出て来たとも言える。私たちのこうして暮している東京も、近いうちに、ことによると数日のうちに巨大な敵機によって一万メートル位の上空から爆弾や焼夷弾をばらまかれるのかも知れぬ。私のところなど防空壕がどうにか出来ているからいいようなものの、空襲後の混乱など考えると、身体がひきしまるような恐怖感も味うし、またいよいよその時が来たという一種嬉しいような気持の勇み立つのをも感じる。妙なものだ。これは、私たち日本の男性の中には、戦いを好み、それにぶつかりたいという本能があるのであろうか。
とにかく敵はサイパンに取り着いたのだ。間近まで来ているのだ。子供たちは、中学二年生までは学校を休んでいる。それだけでも教育どころでないという急迫した空気がそこら中に漂うことが分る。
塩谷からの魚を入れた荷物も、野田生からの豆や粉類を入れた荷物もまだ着かない。馬鈴薯にてんとう虫とその幼虫がひどく着いているし、夜盗虫が一本に三四匹ずつもいて葉を食いあらすとて、貞子が夢中になって取ったが、もう藷は大きくなり、ほぼ成熟したので大丈夫である。思ったよりもよく出来ている。うれしいことだ。何貫目とれるかという話ばかりしている。
六月二十日 曇後雨
サイパンを中心として円を描けば、東方に大鳥島、北方に東京、西方に台湾とフィリッピン、南方にニューギニアが、ほぼ等距離の円周上にあることとなる。言わばサイパンは大東亜海の中心を占めるような位置にある。この島の奪取は敵にとっても、まさに乾坤一擲の大仕事であり、その太平洋の全艦隊を集中して、日本海軍に決戦を挑みながら、この日本勢力圏の中心を一挙に奪って、西はフィリッピンから支那へ、北は日本本土へと迫り、かたがた南方を我方から遮断しようとする作戦にちがいない。決戦である。ここを取られれば、そしてここに敵の大根拠地が出来れば我方は次第に北方と西方に退縮せざるを得なくなるであろう。またここで下手に敵が深入りして、この島を保持せんとして犠牲をあまりに多くすれば、敵の蹉躓はここにおいて起るにちがいない。東亜にも戦の山を決する時が来ている。欧洲にも来ている。そして東京もまた戦場となって、ベルリン、ロンドン、ローマ等とひとしく爆撃下に置かれる日も遠いことではない。否数日のうちにそうなるかも知れないのだ。
警報解除となり、光生中学に出勤する。授業は始まる。警報下の様子を聞くと、三四年生のうち三分の一ほどは、警報下直ちに学校に集って防衛に従うこととなっており、集合の成績はよかったとのこと。尾形校長代理は、私たち講師も警報下でも一応登校すれば、その日の分の報酬は出すことになっているから出てほしいと言う。
在支軍は先頃鄭州と洛陽を陥し、最近また長沙を攻略した。この両作戦とも敵に大損害を与えて成功した。制空権のある戦はうまく行くものである。こういう作戦の意義ははっきりしないが、どうやら麦の収穫を目ざしての食糧獲得戦らしい。支那全土も食糧不足で、我占領地も相当のインフレーションである。田居君が最近北支から戻って、天津で長靴を買って来たのが五百五十円だという。我国の闇相場に較べて四五倍であろうか。高級煙草のチェンメンが五円だという。日本のサクラが一円だから、まあ五倍というところであろう。主として衣類と食糧不足からのインフレーションである。それを打開する道として、多分これ等の新作戦は行われているのであろう。それにまた今度の九州爆撃でも分るように、支那の米空軍基地は最新最大型のB二十九を使用出来るほど大規模のものがあちこちに出来ているので、それを制圧することも目的のうちにあるのであろう。完全に雨期に入ったインパール戦はすっかり停滞してしまった。望みなしだ。
午後新潮社へ電話して文学報国会へ行く。小説部会幹事会である。
川端、舟橋、土師、片岡等々出席。新入会員審査の件。
今日光生中学で、「任講師」という五月二十九日付の辞令をもらう。
六月二十一日(曇後晴)水 休みの日
昼前井戸の前の空地に前から持っている金網を張って鶏の遊び場とし、扉の蝶番などを修理して、そこに二羽の雛雄鶏を放す。工合よろしい。これだけの仕事も、前々から考えていながら、時間が無くて出来なかった。
昼頃英一来る。薫が今度の結婚の話を早く進めてほしい、向うでは興信所に調査を頼んだりして、薫がその調査員に逢った由。
急に貞子と相談して今日板谷君の所へ出かけることとする。午後三時半頃着く。その前にその近くで、持丸家というその家のことを近所の小店に寄って貞子が訊ねる。別に難は無さそうである。夕方板谷家で、私の持参のビール二本と彼の手製の酒とを飲んでから、板谷夫人に伴われて、近くの持丸家へ行く。その桃代という娘を私は初めて見る。美しい顔立だが手足の細いのが気にかかり、貞子の考に一致する。しかし薫は細いのがいいと言っていた由。あれでは弱そうだと貞子と私は、あまり進めたくない。
夜十時半戻ると、留守の英一は帰り、滋と礼はよく眠っている。
サイパンに上陸した敵は、次第に地歩を得て、増強しているという。我方基地が周囲に並んでいるこの島にこうして次々と揚陸するというのは、敵は、公言しているように、未曾有の大艦隊を集中し、航母の大集団によって上陸兵を援護し、制空権をこの数日間得ているから出来ることにちがいない。我方を見くびっているというか、圧倒しているというか、無謀というか、自信があるというべきか、とにかく大変なやり方である。我方の損害も相当ありという発表だから激戦の模様が一しお思いやられる。どうなることかと憂慮深いものがある。
六月二十二日(晴)独ソ開戦満三年目
我軍は敵の後方からサイパンに改めて戦車を伴って上陸し、敵を猛攻中という。これまで敵に島を攻められて、我方が取りかえしたことは一度もなく、悉く放棄するか退くかであったが、サイパンではいよいよ我方も積極戦に出ている。一度でいいから、敵を水際に押しもどして全滅させてやりたいものだ。この島の戦だけは我方に有利に終ってほしいものだ。我方がこのように積極的であると、この島をめぐっての戦は、深刻になり、敵味方ともその全力を集中し、ことによると、この島で大東亜戦の峠が分れることになるかも知れない。
朝、町会の国民貯蓄の六月分を計算して、六百五十七円余を郵便局に届ける。四谷信濃町の近藤春雄君宅に寄る。近藤君は三月に渡支したまままだ戻らぬという。母堂に願って杉沢を南大曹博士に見てもらうよう電話で紹介してもらう。午後新潮社出社。丸山君今日は川口市方面へ買い出しに行った由。近日中に丸山君の世話で新潟県から鯛が届くので、出版部だけで宴会をしようという話である。海上の決戦が近くあるにちがいないと、皆で話し合う。
夕刻杉沢家へ寄り、南博士の件を伝える。醤油が一升手に入るから明日壜を持って来いという。
独ソ開戦満三周年、今年は四年目になるという。欧洲戦はその前〔々〕年の九月からだから、ドイツはほぼ満四〔五〕年近く戦っているわけである。三年前のこの日ドイツはソ聯に侵入し、怒濤のように東進して冬にはモスクワの近くまで進んだが、漸くその頃からソ聯が盛りかえして支え、次年の夏にはドイツは南方コーカサスの麓とスターリングラードまで侵入したが、スターリングラードで破れて退き、以後次第に退縮して今では独ソ戦開始当時よりも西方に退いた場所すらある。そして長い間の懸案であった英米の西方上陸が実現し、イタリア戦線でもドイツはローマ北方に退いたので、ドイツは三方に敵を擁して、漸く苦境にある形である。支えよドイツ、その欧洲の要塞を、と声援したい気持だ。日本もまた太平洋に緬中国境に苦しい戦をつづけている。ああ、これ等戦っている国々の運命はどう決まって行くことか。
六月二十三日 晴 暑し
あらゆることが、空しいことに思われる。どのような生活の安全な計画を立てようと、男はみな一旦のお召しがあれば、家族との生活を棄てて出で往かねばならず、この戦いにおいては、海を渡っての征戦故に、戦場で戦わなくても、どこで果てるか分らないのである。自分のことばかりでなく、世上の人たち悉くの生活が、ただ以前からの生活の形の中でぼんやりと、不安を殺しながら日を送っているにすぎぬとしか思われない。
S君が社でその才智と意志とを集中してがんばっていることも、彼自身いつ応召するか知れず、また社そのものが、いつまで持続するか分らない現在においては、はかないこととしか思われない。
召集は先月末から極端に多くなり、三十六七歳の第二国民兵も多く出て行く。知人でも平野謙君、津川隆一君、それに私や貞子のかかっていた鍋屋横町の高橋歯科医も出たというし、滋の習った渥美訓導も出征した。みな三十過ぎである。児玉医師のところへ貞子が寄ったら今日ちょうど軍医志願令書とかいうものが来ており、これが来るとすぐ追いかけて召集あるものの由。折角病院の経営などがうまく行っていたところなのに、と児玉医師は言っていたという。私の手の甲の出物も冬に児玉医師の太陽燈で直してもらう予定のところ、見込みがなくなった。すべてのことに、この頃では機会をのがしたら二度と出来ぬことが多い。児玉氏は四十一歳で、第一乙種であるという。
今日午後社用で文理大の教授の肥後和男氏を訪ねる。氏はひどく悲観論で、若し日本がサイパンを守り通せなければ、小笠原も守ることは出来ないから、極めて心配なことであり、自分は原稿を書いたり印税をもらったりすることが何になるか、という気がしてならないし、仕事は少しも手につかない。浅ましいことだが食う心配ばかりである。文理大では教員が月に一升米を食堂へ持って行っておくと、それを倍にして、一食七勺ぐらいずつ昼食を出してくれるので、講義のない日でも昼食をしに毎日学校へ行っている、との話。多分附属の国民学校への配給米を教師に少しずつまわしているのであろう。
氏は、ドイツの流星弾なども花火式のもので、仏海岸への上陸をした米英軍を撃退する力はもう無いだろうし、米国は対日戦をすっかり見くびって、始めのうちは一対五倍の力でないと日本に勝てないと思っていたのが、この頃では一対三倍でいいと思っているそうだ。それに米国では鉄とアルミニウムの生産に制限を加えるほどになっているし、食物もさして統制をしていない。英国ですら遂に今までパンの制限はしなかったという。それに較べて我々は一食分ずつ不足するというひどい目に逢っているが、どうも先のことを考えると、少しも明るさは見出せない、などと語る。この頃逢った知識人のうちで一番はっきりと悲観論を口にした人であった。
ロシア側の発表によると、独ソ開戦以来のソ聯軍の損害は、死亡、捕虜、行方不明だけで五百三十万という。(傷者は含まれていない。)大変なものである。よくこれだけの損耗に耐えてドイツを国境まで押しかえしたものと、味方でないながら感心せざるを得ない。ロシア人はナポレオン戦争の時と同じように防禦戦にその力を示している。
六月二十四日(晴)麦刈る。子供二人にて[#「麦刈る。子供二人にて」に傍線]。
昨夕ラジオで聞いたように、マリアナ諸島とフィリッピンの間で我艦隊がいよいよ敵と接触した模様である。戦果も上っているが、「決定的打撃」を敵に与えるに至っていないというのは、どういうことか。敵が戦を回避したのか、我軍が回避したのか、心配なことである。この海戦の結果によっては、日本本土も大東亜の諸島も裸にされるかも知れないのだ。外電によると、敵は一千機以上の飛行機を飛ばせるだけの航空母艦群をここに集中しているようだ。何とかして、この西進米艦隊をこの辺で覆滅させ、しかも我方の艦隊勢力を保全して後日に備えるようになってほしい。海軍報道部長談によると、今が「開戦以来の最重大戦局」だというから、いよいよ日米の海上での決戦の機は来ているわけだ。我方の航空戦力の充実するのを待ってひたすら隠忍していた聯合艦隊の出撃するということは、もう我方としても退くことの出来ないところまで敵が肉迫して来たというところなのだ。
祖国の運命はどうなることか。私たちの毎日の生活には何の変りもない。光生中学の授業にも、食物の話を教員室でしている調子にも少しも変りはない。雨の少い梅雨のむし暑い日中に、雑炊食堂の列をなしている細君連や老人や子供の様子にも騒いだところは少しもない。新潮社では梅田女史も斎藤君や丸山君もどうもこの頃は眠むくってたまらぬが、面白い話はないだろうか、と一人が言う。丸山君は、軍の中枢部の人たちはとても心配しているらしい、面会謝絶で篏口令が敷かれており、聞きに行っても様子は少しも分らないが、とにかくZ旗を掲げて戦闘を開始したということだ、とか、敵の物量とか天文学的生産量とかいう言葉がこんな怖るべき結果になろうとは思わなかったね、とか話し合っている。
しかし、彼等も私たちも同様に、この現実の怖るべき危機の実相をしかと身に沁みては感じていないのだ。考えて見れば色々の怖ろしさが想像されるが、事実上は、昨日までの生活が、この内地の安穏な日々がいつまでも続くものだと思って、その考の上に坐り込んで他人の戦う様子を噂しているような呑気さなのだ。本当にこの海戦が我に不利であり、敵はその機動部隊や上陸部隊をどこへでも太平洋中持って歩けるものとすれば、小笠原島の次には日本内地に敵が取りつくかも知れず、千島を越えて、ぽっかりと北海道の一部に上陸するというような大胆不敵な作戦をもやりかねない敵なのだ。海上兵力と制空力とを持っているものは、その好む時に好む場所で集中した力でもって戦うことが出来るのだ。どうしても、いま、我方が何としてでも敵のこの有力な機動部隊を殱滅して、サイパンを恢復しなければ、祖国の運命はまことに危いものとなりかねない。
開戦以来の危機というのは、我国始まってからの最大難局にあるということである。万一日本が海上の力を失うようなことがあれば、私たちはこの島国に封鎖され、ビルマやその他南方の占領地や前線にある数十万いな数百万の兵士たちは孤立して、補給を絶たれてしまう。どうなることだろう。
(二十七日補記――この頁に貼りつけたニューギニア戦の状況〔切抜貼付〕を読むと、我軍の実状は撤退作戦であり、実に惨澹たる苦戦である。何とかして飛行機を送って、この困苦に満ちた作戦を扶けることが出来ないだろうか。この頃ラバウルの我軍のこと少しも報道されないが、薫が若しあすこに戻って行っているとしたら、どういうことになるのだろう。)
また若し本土に敵が取りつけば、私たちの生活は滅茶苦茶になる。私たちも召集されて戦うことはよいが、家族や子供たちが生活の根拠を失って右往左往するイタリア人やフランス人のようになったら、などと考えると全く怖ろしいことだ。
しかし、敵の昨年からの進攻の激しさを見ると、そういうことをも考えずにいられないような苛立たしいものを感ずる。それを私は決して口に出しては言わないが、そういう場合のこともまた考えておかねばならぬと思う。
夕刻、今日月給出る。明二十五日は日曜の故である。楢崎氏と一緒に出、本屋に寄り、村田治郎博士の「満洲の史蹟」(十円五十銭)を買い、またその近くの金物屋で革用針、キリ、南京錠等の金具類の残りの少いのをあさって五円ほど買いものをし、更に今日通知のあった岡田三郎氏の夫人を池袋に弔う。岡田氏留守で、上って近所の小母さんと話をして仏を拝す。人手が無いので夫人の亡くなる前など岡田さんが朝に一日中の食事を作り、子供を連れて文報に勤務に行っていたという。
夕刻家に戻る。この頃学校と社と、両方の勤めのせいか、足がだるくてかなり疲労を覚える。昨日英一が来て、セファランチンでレントゲンを取ってもらったところ、肺浸潤で以前よりずっと暗くなっているから気胸をしなければならぬと言った由。貞子しきりに気にしている。
しばらく鳴りをひそめていたロシアは東部戦線での夏期攻勢を始めたという。ドイツは東と南と西とからの包囲攻撃に直面しているわけである。英雄ヒットラーの率いるゲルマン民族の健闘を祈ること切である。
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六月二十五日(日曜 薄曇)最後の玉蜀黍(北海道の馬黍)播く[#「最後の玉蜀黍(北海道の馬黍)播く」に傍線]
[#ここで字下げ終わり]
日本民族全体が、いな東亜の各民族全部が、息をころしてマリアナ島周辺の日米の決戦のなり行きの情報を待っているというのが、今の状態である。アングロサクソン民族の機械文明と征服慾の怖ろしさを、私は一昨日頃から、膚に粟立つような思いで感じている。日本本州の南方の海洋の中心をなすサイパンの飛行場を敵は占領し、いよいよその飛行場の補修に取りかかっている、と今夕のラジオは報じている。敵は、その大なる航母集団とそれと本国とをつなぐ偉大な補給輸送力とによって、どこでも欲する場所にある島を奪取することが出来るのだ。だから今サイパンの飛行場を敵が得れば、そこを基地として忽ち制空権を地上基地によって確立する。すると、その周辺にある我方の島々も飛行場も、敵の飛行機の量に押されて、昼間の補給が出来なくなり、積極的な意味を持たなくなる。サイパンの飛行場を取られれば、マリアナ諸島は我方の勢力圏から失われるのではないかと思われる。そして、こういう方法で敵が更に小笠原諸島に出て来たり、フィリッピンから支那大陸に接近したりすると、その線よりも南方にある我軍は、補給が困難となり、戦う力が減殺される。私はこの一二日肥後氏の悲観論に感染したのか、最悪の場合のことが考えられてならない。万一敵が本土に上陸するようなことがあれば、我々はどんな目に逢うか分らぬし、生きていてもつまらないと思う。しかし、もっと深いところで、やっぱり神州不滅という祖国の運命を信ずる幼児が母の懐に安んじるような気持が私たちの中にある。それがあるからこそ、日本人のすべてが、こういう祖国の危機の中にあっても、市街の生活に安堵して生きていたり、窓に草花を育てたり、将棋をしたりして、安らかに暮していることと思う。何ものにも増して日本人は祖国を信じている。それ故にこそ、祖国の危機という意識が私たちの生活の根柢をおびやかす時、生きるあてもない気持になるのだ。
軍の決意は私たちの、こういう小さな安心や根拠のない不安よりも更に深刻なものであることが察せられる。中支那の我軍の出撃は食糧獲得のための戦だと思っていたが、長沙を占領した我軍が更にずっと南下して支那事変以来侵入したことのない衡山に入り、そこから五十キロの衡陽の飛行場を占領しようとしているのを見ると、やっぱりこの作戦の眼目は敵の飛行基地覆滅戦だということが分る。ことによると、ずっと南下し、支那の中央を通って広東に出るかも知れぬ。南支にある桂林、建甌等の大飛行場を占領して米空軍の基地を奪うことは、今度の本土空襲や、敵海軍の支那本土への肉迫進撃と合せ考えれば、我方の深い配慮が察せられる。支那が近い将来に我国の運命を決する大戦場となろうとしているのだ。その為に、予め我軍はその意味での重要地点を占拠しておく必要が出来ているのだ。大東亜戦の深刻な姿は、いよいよこれから現れて来るのにちがいない。支那本土に米軍の上陸する時こそ、日本の安危が決せられる時なのであろう。米軍首脳は前々から、支那本土に到着してそこから日本を襲うと公言している。最近の敵の出撃力を見れば、これは決して空言とは言われない。
それと共に必ず敵は千島北海道を北方から襲うであろう。
欧洲ではシェルブール軍港の争奪戦が始まっている。ここを英米が得れば、敵の補給は楽になり、いよいよ欧洲の第二戦線が大規模に展開されるにちがいない。
昨日、野田生と塩谷からの荷物(私が行った時に出してもらったもの)が届き、私が野田生からの二十キロのものを、滋が塩谷からの十キロのものをそれぞれ自転車で荻窪駅へ取りに行った。野田生のは小麦粉、澱粉、バター、小豆、大豆、塩谷のは鰊の燻製、背割等々である。外にそれぞれ両方から一貫目の小包が着いたので食糧は豊富になった。
夕刻、昼寝のあと、私は北側道路の東半分の台所寄りの場所に、塩谷から持って来た馬黍を五十穴ほど播いた。大形の玉蜀黍である。時期が少し遅いのと、種子が場ちがいだからうまく生えるかと気づかわれる。
峰岸東三郎君よりハガキ来る。麦は思ったよりよく出来たとのこと。七月中頃には田植が終る故、その頃遊びに来いとのこと。
田居君の華北農具の出張所の仕事をするようになればよいと思う。学校に朝早くから行き、運動場に整列して挙手の礼などをすることが、どうも私には苦手だ。授業は楽だが、こういう精神的な形式主義には参る。もっと気持の楽な仕事を、と思うと、田居君の持って来た話の具体化がよいと思う。しかし、あらゆること、すべての生活についての根柢の不安はなお消えない。一体日本はどうなるのだ。そして、この明治以後世界に類のないほどの急発展を示した武勇忠誠の大和民族は今後どういう苦難の戦いの日を送らねばならないのだろう。
六月二十六日 梅雨模様 むし暑し
午前学校、午後新潮社。楢崎家へ手製の大根二本持って行き、一時半まで雑談。学校で初めて講師の給料をもらう。二十四時間にて、四十八円。税金を引かれて四十円余である。一時間二円なることが分る。一週十六時間だから、全部出る月は百二十円ほどになる筈である。まあこれぐらいならば、相当であろう。学校に出ていることは、芸術科と同系統のことであり、新潮社の方に分っても工合は悪くないし、すでに斎藤君にも話してあるのだ。朝早いのは困るが、日取りなど工合よく出来ているので、結局これがのん気で私にはよいのかも知れない。しかし田居の話の給料が二百円以上だとすれば、それの方にも意が動くのだ。
滋気分悪いとて帰宅してから寝ている。頭痛く、七度四分あり。
六月二十七日 酷暑 真夏来るの感深し
午前学校、教室にじっとしていて汗流れる。サイパンの我軍は次第に北方に退縮し、敵は飛行場を占領した模様。今の様子ではこの島の周辺にいる敵艦隊は未曾有の大きなものと言うが、我艦隊がこれに決戦を挑むことが出来ないのであろうか。敵はみすみす地歩を固め、動かすべからざるものとなる気配である。
午後中野好夫家を訪ねて留守。三鷹の田居家に寄る。夫人麦をこなして大働きをしている。田居君、華北農具の話は、川崎君が仕事がなくて当惑しているので致しかたなく川崎君にまわしたからあしからずとのこと。川崎君が失職しているのに、その従兄の田居から私が仕事を得て、しかも収入が倍になるということもどうかと思われる。こうなるのが自然であろう。何となく私は、新潮社と学校ということに当分落ちつきそうである。
滋学校休む。夜八度四分にて頭痛するとのことで、インドラミンを注射し、氷を買って来て枕に入れさせる。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年七月
七月二日(雨)
三日ほど日記をつける暇が無かった。今日は日曜である。この年の梅雨は二三度降雨があっただけで空梅雨であったので、今日の雨を皆が喜んでいるが、少々降り足りぬ気味である。
滋は火曜日の夜から頭痛、嘔吐にて、腸チフスではないかと疑われた。西尾医師など、頭を前へ下げて痛がるのは脳膜炎の気味であるなどと言うが、そういう症状もあり、心配した。
しかし二十八日の水曜日は薫を連れて板谷家へ行き、向うの持丸家の人と逢わせる約束の日なので、貞子を残して二人で出かけた。桃代という娘、よい娘のようだが手足の細いのが気にかかるので、貞子は不賛成の気味であった。
水曜の夜滋の熱がまた三十九度にもなり頭痛を訴えるので、駅附近の古谷、緑川等の医師を訪うたが、馴染でないので何かと言って来てくれないのである。若し滋が、あの頭のいい子が、この病気で脳膜炎になり、駄目な頭になったらと思うと、怖ろしさに、脅やかされるようになる。しかし医師は、組内の西尾氏すら勤務の疲れがある模様で来てくれないので腹が立ち、よし出来るだけのことはして見せると思い、貞子が灌腸をし、私はエルスチンを注射してやり、氷をあてがった。翌朝は七度台になり、頭もだいぶ楽だとてほっとする。
木曜日光生中学なく、朝のうちに貯金通帳を局と組合から持って来る。その夜またエルスチンを注射し、私は組長常会に出る。町会長の交代で、旧町会長の中館氏も来ている。通帳を各組の人々に手渡す。貯蓄債券の方は、次回から組長にじかに組合へ持って行ってもらうこととする。これで私の手数は随分はぶける。
金曜日午前学校。この日新潮社は休みだが夜新宿のモナミでビールを飲む会ありとて出社し、夜行く。十六人ほど。ここは国民酒場らしいが、東宝の経営にて、その重役会をするという名目でチップをうんとはずんだので、飲ませてくれたらしく、一人にジョッキ三ツ半ぐらい当り、酔う。
土曜日夕刻、社の帰りに、乗っている電車が蘆花公園の踏切場で買い出しの三十ぐらいの女を轢く。右足首より切断、線路上に横たわっている様、目を蔽うべきものであったが、敵がサイパンより更に小笠原島へと北上し、同時にグワムを砲撃しつつあるこの日頃、空襲があればこういう場面はいくつも出ることなろうと思うと慄然たり。
九州爆撃は、新聞で報道されたよりも、ずっと多くの被害であるという巷説がしきりである。幸にして八幡製鉄所は無事であったようだが、波状攻撃で二時間も続いたのだという。しかし、私の考では新聞に出ている空爆の参考として出ている注意書だけでも、随分とその実状を知ることが出来ると思う。家の中の防空壕に入ったまま、家が倒れて何時間も埋められていたという話、硝子の破片の危険な話、そういうことだけでも十分である。山の中のある家で燈火を洩らしたため、そこが先ず爆撃されて、そのあとに続く敵機がつぎつぎとその同じ場所を爆撃したという話など、怖ろしいことである。
この頃、省線電車に乗ると、各所で線路の両側の家々が強制疎開の取り壊しに取りかかっているのが見える。以前平和時代においては電車の窓から、夏など蚊帳を釣った二階の座敷が見え、窓際の植木鉢や風鈴や、夕涼みの人の姿など、いかにも都会生活を示して一種の風情があったのだが、そういう線路沿いの家は悉く無住居となり、片はしから大急ぎで取りこわされて行っている。瓦をはがしにかかった家、硝子戸をはずした所から畳のない家内が見とおされる家、また二階から順に板、壁をこわし、柱のみ立っている家。道路は壁をこわした土埃に満ち、トタン板や家具や柱などを積み重ねてある。中には、太綱を二階に取りつけ、十人もでそれを引き倒そうとしているのもある。品川から蒲田、川崎、鶴見辺にかけて、三四十分も電車の走る間悉くそういう風景であり、また環状線でも上野、池袋、高田馬場、渋谷辺の線路ぶちは同様に進んでいる。この家屋取りこわしのことは、前々から新聞に出ていて学生や中学生まで引き出してそういう仕事をさせていることは知っていたが、いよいよ第何次とかの強制疎開として線路ぶちの取りこわしが、一二ケ月前から始まっている。荒涼として、都会の終りが来たような感じがする。これが大東京都の敵の空爆を避ける身仕度である。この風景を見ると、本当に戦いは我々の身辺にせまっているのだということ、この都会の生活の危険が深刻なものだということが、身にしみて感じられて来る。疎開ということも、決して、言葉とか決意とかいうものではない。否応なしに軒なみに追い立てられ、日を限ってどこかへ越して行かねばならないのだ。中には、取りこわしが始まっている家の前に家財道具を積み重ねて、やっとこれから今日越して行くという風に、白い衣服やモンペを身につけた女たちが働いているところもある。全く大変なことだ。
欧洲では、ドイツ軍は、未曾有というロシア側の大攻勢を受けて、じりじりと一都会一都会と放棄して撤退している。また西岸フランスのコタンタンの戦線では、シェルブール軍港は、その後方から遮断され、総攻撃を受けてから一週間目に、陥落した。相当に頑強にドイツ軍は抵抗したようだが、米英が一点を限って軍と物力を集中し、艦砲射撃で援助し、かつ制空権を持っているのだから、守りとおすことが出来る筈がない。これで敵軍は待望の補給港を手に入れたわけだ。敵の第二戦線展開も、ルアーブルやシェルブールという良港を手に入れぬ限りは補給が十分でないから成功とは言われぬ、というのがドイツ側の観測であったが、結局それでは今度は敵は成功したことになるではないか。全くこの種の報道戦というものは、子供の喧嘩の言い合いのようなもので、その場その場の自分の都合によって、どうにでも大口を叩いている。そしてその時に言ったことが裏がえされても後のことは知らぬふりで、また別なことで言い合うという風である。
工業大学の八木秀次学長が、新聞に投書して、ドイツの使い出した流星爆弾を味方のことと思って安心してはならぬ。いつアメリカがそれと同様のものを我方に向って使用するか分らないから、今のうちに対策を考えておくべきだと言っているが、なるほど、それもそうである。この前の大戦でイギリスが戦車を使うとドイツもすぐにそれを作った。こういう新発明の武器は必ず両方で使うようになるものだ。敵が使うと味方が使うとを問わず、戦争はこういう武器の発明使用によって一層深刻となって行くのである。
この頃は学校でも新潮社でも、話が戦争のこととなると、サイパンはどうなるか、敵は小笠原島に取りつくのではないか、いやフィリッピンに向って進み、フィリッピンで大決戦が行われるだろうとか、下手をするともうサイパンは取りかえせないのではないかとかいう話ばかりである。敵は大量の軍艦、大量の飛行機を使い、どんなことをしても決して負けないという絶対安全率を計算した上で攻勢に出ているらしいので、寡勢の我軍は、各個撃破という手段によって敵勢を削ぐことが出来ず、じりじりと退きながら機をうかがっている形のようだ。敵はいよいよ図に乗り、むしろ決戦を求めて深く入って来ているのだ。日露戦の黄海戦も日本海戦もともに我方には、各個撃破の機会であって勝利の公算があった。だが今度はそうは行かないらしい。この形勢を日本人として一人も憂えずにいるものは無いと思う。マリアナ西方の海上での我方の艦隊の一部が敵と戦ったという報道は近時もっとも国民の血を湧かせたものであったが、その実相は全く分らなかった。今日やっとその概観的な報道が新聞に出た。大本営発表によると、敵に決定的打撃を与うるに至らず、とあったが、敵はむしろ我方をその包囲圏に誘引しようとし、我方はそれに乗らなかったので、決定戦とならなかったというのが実相らしい。それにしてもこの報道は概念的で、当らず触らずで形式的で、実につまらない。国の運命が賭されている戦の相を伝えるのに何という形骸だけのつまらぬ文章だろう。もう誰もがいやがっている「敵は小癪にも」というような表現を相かわらずやっているのは、この文が検閲のために駄目になったのではなく、初めから駄目な文章であったという証拠だ。それにつづいて毎日新聞では、私や瀬沼の友の佐倉潤吾君がマドリードから敵の太平洋戦の方策や勢力を報じている。これはさすがによい文章で、この深刻な戦いの相をとらえている、「この機動部隊は絶大な力を持ちその蹂躪下にある」というのは、多分真中辺に「日本艦隊は」という文字があったのが削られたのであろう。そうだ、若し敵の勢力が絶対的に我を圧倒する量を持っていて、どういう風にしても我方がこれと戦えない、戦っても勝つという見込が立たないとしたら、一体どうなるだろう。悪夢のような恐怖を感ずる。
ああ、日本の運命はどうなって行くか。開国以来一度も外敵をして侵させなかった祖国は、絶対に負けるということは考えられない。しかし戦うことが不可能なほど戦力に差があり、敢て戦えば我方が裸になるということがあれば、一体どうなるだろう。祖国の危機である。こんなに巷間の人が悉く働き、工場が増設されて行っても、米国の大量生産方式には到底対抗出来ないのではないかという危惧を深く感ずる。
昨日か社で菊池君が、内閣が動揺していると言った。しかし東条首相兼参謀総長兼陸軍大臣は、こういう非常の時の打開が出来ねば責任問題とはなろう。しかし外に誰があるか。人が代って、国運が打開出来るような時機ではない。今内閣でも変ったならば、それこそ国内の動揺一層深くなるではあるまいか。
この頃の新聞から、今のパリの生活、ベルリンの生活、イタリアの戦線後方の姿などを切抜いて見る。どれもそれぞれに切迫した戦雲の下にあって、色々思い較べられるものがある。これ等に較べて東京はまだまだ平穏である。しかし必要量の三分の一ずつ不足する食糧への支払いは、一般の俸給生活者には、いよいよ無理になって来た。闇値では米一升十円以上、酒一升四十円以上、馬鈴薯一貫目三円五十銭位などというが、それでも中々都会にいては手に入らないのである。四円あまりかかる一級料理店の夕食でも二つ食わないと腹に満たない。五人家族で一食分には馬鈴薯でも一貫目はいるから、その値は一ケ月で百円である。そして中等学校の教員程度の月給は平均百五十円である。これではとても生活して行けそうもなくなる。結局食事を減少して営養不足に陥る外はない。在来の金持と時局産業の高額所得者が食物の闇値をせり上げ、俸給生活者の生活を不可能にして行くのである。
七月三日
岡本芳雄君の結婚式。渋谷奥沢の奥沢神社で私が仲人として挙式する。式後夜同君の間借りしている二階で、同君の集めた酒、赤飯等にて馳走簡単にあり。
七月四日 火曜日
光生中学では、七月五日から九月末日まで、四年生は軍需会社へ動員されることに命令が来た。朝その旨話が生徒にされた。この間から予定されていたことで、近いうちに三年にも動員があろうとのこと。緊張していた。二時間目の二年三組の授業をしていると、時間の終り近くなって、生徒が突然「警報だ!」と歓声をあげ、喜色満面で騒ぎ立て、制止も出来ないようになる。警戒警報が出ると二年以下は休みとなるので、何よりもそれが嬉しくて仕方がないのだ。やっと叱りつけて静まらせたが、彼等は大喜びで上衣を着(一日から上衣を脱いで授業を受けている)鞄に物をつめる。教員室でも、私たち講師(外の学校とかけ持ちの老教員や、理科系統の教員が少いので物理学校の夜学の生徒が四五人来ている)も、やれやれこれで今日は休める、というほっとした顔をしている。
グラウンドに、防火担当の四年と三年の生徒を集め、十二時間交代で、解除までそれぞれ登校して防衛すべき部署を定め、私たち講師は下級生と共に帰る。私はその足で新潮社に行く。ゲートルが無いので、靴下を上げてズボンの裾をおさえる。
社では電通から同盟系のニュースがあり、目下東京から七百キロのあたりに敵が来襲しているそうだ、という話がある。また暫くすると、同じ筋から、東京と北海道と千島を結ぶ三角形の底辺のあたりに敵と味方が空中戦を行っているとの話も伝わって来る。丸山君が内務省警保局の友人に電話して見ると、空中戦の話は本当らしいとのこと。三時まで雑談したり、この間駅の売店で買った「連鎖式養鶏法」という本を読んだりしてから帰宅する。裏の道路の玉蜀黍の草をとる。畑はどこも一面の草であって大変になっている。しかし一番広い馬鈴薯畑の間は陸稲を植えてあって草をとるのも容易でない。今年は根切り虫と夜盗虫がひどく、貞子が大分取ったのだが、それでも随分と葉を食われている。甘藷もすでに二十本ぐらい根切りにやられ、仮植してあったのを移植した。ここも草が生えて来ている。板谷君からもらって来た名古屋種の雛はどうやら元気でいる。これまで育てた白色レグホンと性質がちがうので、ちょっと見当がつかない。
夜燈管。群長の伊藤夫人と群内のあちこちの家の火の洩れるのを注意し、宵から空襲管制程度に暗くさせる。
七月五日(水)午後警報解除す 終日在宅す
この日午前中から、班長組長たち七月分の国民貯蓄を持って来る。この月は各人に通帳を返したので、それも一緒に持って来る。
終日雨となり、この頃水不足にて稲の植付にも困っている模様なので、大助かりであろう。通帳と金を持って来る農家の人たちも、今日一日中降りつづいてくれればいいと言っている。また今年は夜盗虫、てんとう虫だまし、根切虫等の被害が多いが、これは天候のせいもあるが、消毒薬が悪い代用品になってから、利かぬせいだともいう。
夕刻ちょっとの晴れ間を見て、甘藷畑の草を取り、根切りや夜盗にやられたもの五六本を仮植した分で植えかえた。里芋、甘藷、ゴマ等々みな草に埋められそうになって大変である。この頃学校と社と両方の勤めがあって畑をする暇が少いので手がまわらないのである。やっとこれだけ植えつけるのでも色々と考え、暇を利用してのことであった。
鶏を一羽ずつバター箱に入れ、底と前面を格子にして、草原でも畑でも持って歩けるようにしたいと考えて午後作りかけたが、時間がなくて中途までしか出来ぬ。
大阪の全国書房から「戦争の文学」の印税の残り百八十余円来る。これは五千印刷という話であったのが三千となり、二円の定価で、すでに昨年末に五百円借りてあり、税金を八十円か引かれたので、これだけにしかならぬ。東京急行への支払として五百円要るのだが、これでは仕様がないわけだ。しかし「爾霊山」も書かずにおり収入が減少しているので、これを使い込まぬようにして、足して行かねばならぬ。またしても金の苦労だ。
七月六日(木)晴「サイパン絶望的なり」
午前鶏の世話をし十時頃外出、溜池の興農公社に寄り、笠原技師に逢う。バターをほしくって来たというと、二ポンドの伝票を出してくれる。定月氏からも二ポンド出してもらい、四ポンド買う。二十二円余である。随分高価だが、杉沢の紹介のおかげで、こうしてバターを買えるのは、ありがたいことだ。バターをこうして買える者は東京に何人もいるとは思われない。闇値では一ポンド二十円というが、三四十円出してもほしい人が多いらしい。
この日朝刊にて、我政府は対支新声明を発し、この度の支那における新軍事行動は英米を討つ目的であって、支那人を敢て敵とするものでない旨を宣言した。またサイパンの我軍陣地に敵肉迫して彼我入り乱れて白兵戦をしているという大本営の発表あり。もうこの島の守りは絶望的らしい。とうとうこの島をも守ることが出来なかった。二三日のうちに、また全員玉砕の悲報を見ねばならないかと思うと胸が痛み、あまり考えていることもまた辛い。ああ。敵は更に進んで父島を砲撃している。
夜、貞子の話によると祖師谷ではこの頃の畑のものの相場、馬鈴薯が一貫目四円、茄子が四円、胡瓜が三円であり、いずれも昨年秋の倍である。近所の細君たちはいずれも腹を立てて、食わなくてもいいから買わないことにした、と言っている由。しかし食物不足の生活に買わずにいることは出来ない。また冬から春になると、馬鈴薯を買っておけばよかったという嘆声を皆が発するにきまっている。去年あたりは、高くてもこの辺にいれば買えると言って喜んでいたのが、今年はもうその高価を嘆くようになった。朝日新聞の論説でも触れていたが、こうして中流の俸給生活者は生計の困難に直面しているのである。私は峰岸君に麦を一俵と言って頼んであるだけで、この土地のものは買うつもりは無い。うちの馬鈴薯や甘藷や玉蜀黍でどうにかして間に合わせ得るように思っている。しかし鶏は今でも六羽いるが、杉沢から三羽来ると九羽になり、この餌が大変だと思っている。椎の木の間に植えた南瓜はほとんど駄目で、台所に近い二本と、北側の垣根附近の六七本が僅かに物になりそうである。予定の三分の一ぐらいの数しか出来ていないわけだ。こういう作物の不出来は、すぐ食糧を今の高価な闇値で買わねばならぬこととなり、大打撃だ。これから出来るだけ除草に精を出して、作物をよくしなければならぬ。
この頃机上の仕事は、この日記を書くのがせい一杯で、原稿らしいもの何も書けない。心配なことである。
今日渋谷の古本屋より、いつか頼んだ本見つかったから水曜日頃に来てくれと電話あり。
東条内閣が動揺していて、次の候補者は海軍大将末次信正だという。海の決戦がものを言う時故かも知れぬが、いま内閣が変ることぐらい危険なことはないと思う。
七月七日(晴)
満七年以前の昭和十二年の今日、北京附近の蘆溝橋畔で支那事変が始まった。十四年九月には欧洲戦争となり、十六年十二月に大東亜戦となり、それ以来でも今では二年半以上になっている。満七年間の戦時生活は、我々の日常をすっかり変えてしまった。東京には食糧、衣類が極めて窮屈となり、敵米艦隊は小笠原諸島にまで肉迫して来ている。支那大陸においては、北から南への大陸中央部南下の大作戦が行われており、ロシアはドイツ軍を圧迫して白ロシア辺を西進しつつあり、英米は北仏に上陸してパリに迫ろうとしている。
午前学校、午後出社。戦時版パンフレットの計画会議を出版部の五人でする。夕刻、支那戦線へ報道班として出発する百田氏に逢いに中野小淀の同家へ寄ったが、玄関はあくが夫人も誰もいない。不要心なことと思いながら帰る。貞子はバター半ポンド宛を手土産に滋の欠席の件の報告がてら成蹊高校へ行って、七時半頃帰る。六時頃私は飯と味噌汁を作って、子供たちと食事をした。薪の炊事ははじめてであるが、割に簡単に出来た。
今夕は七夕祭である。時局下ながら近所の小さい子のある家では竹の枝に短冊などを吊してやっているのが二階の窓から見える。荒々しい時のさ中だけにその風情がいたいたしいぐらい美しく、私もしてやればよかったと思う。
貞子の話によると、成蹊では初等科(国民学校尋常科のこと)を近く箱根辺に集団疎開させるという。また今のところは決定していないが、滋の入っている尋常科〔中学〕一年はひょっとしたら疎開させるかも知れないので、その時に疎開させるか親の所に置くかを考えておいてほしい、と言ったとのこと。校舎防衛は二年生がやり、三四年以上は勤労に出動する予定で待機中だという。こういう話は二三日前からしきりに新聞を賑わしている。児童疎開を急速に実行せよという議論や、すでに集団疎開した児童たちの生活のことなどが書かれている。
それにつけても、私が思っているよりも、もっと切迫した情勢なのかも知れないと、ふと今日思った。新潮社の著者の一人福永恭助氏はいつも楽観論、積極論であったが、今日来社して哲夫君が逢ったときは、すっかり消極的になっていて、もう駄目だ、というような調子であり、政変説まで口に出していたという。
私は漠然と、敵がサイパンや小笠原にせまったとしてもまさか本土は大丈夫だという風に感じていたが、本当はもっと深刻で、急に情勢がここらで一段と悪化し得る時なのかも知れない。
疎開ということは、私たちのいるこの田園の中のような場所では考える必要もないと思っていたが、やっぱり念のため、ふとんや衣類の多少のものを峰岸君のところへ運ぶことを更に考えた方がよいのではないか。何れにしても疎開したとて、その先での生活は刻一刻と高価なものになるであろうし、ここにいれば、配給だけを受ければ畑のもので補って行けるのだから、ここに腰を据えるのが第一番だとは思う。しかし空爆がひどくなれば、貞子と子供たちは峰岸家へやって、私と薫とでこの家に生活することにしなければならなくなるかも知れない。そういう場合のことも考えておくことに腹を決める。
毎日これまで出ていたサイパンの戦況は今日は無い。通信が絶えたのにちがいない。もうあの島での戦は事実上終っているのであろう。在留邦人も大分いるというが、それ等の人々も陸海軍人たちと運命を共にしたのであろう。ああ。
七月八日 大詔奉戴日(土)
朝光生中学で、以前芸術科の軍事教官であった柄沢大佐〔前出唐沢大佐と同一人物〕の講演あり。その話なかなか面白い。この戦争にはどうせ日本は負けるから、山の中に入って自分の食うだけの畑を耕して暮そう、まさかそういう暮しをしている者を、敵が上陸して来ても殺しはしないだろう、などと思う者は国賊である。また、どうせ日本は神風が吹いてきっと戦争には勝つのだから、自分だけ働かなくても、それには関係がない、と思っている者も国賊だ、というような話から、九州の先日の空爆の話となる。柄沢大佐はそれを調査に行って来たとかで、話はなかなか詳しい。
B二十九という今度初めてやって来た敵機はその幅が百米、長さが六十米〔幅四十三米、長さ三十米〕もあり、九州では気球を引っかけ、六センチの太さの鋼索についたトラックを千米も曳きずって、しかも自分は落ちずに飛び去ったという話。それを射落した某准尉は東条首相から軍刀をもらったが、その准尉は機関部や操縦室をいくら射っても手ごたえがないので、敵機の尾翼のつけ根をミシンで縫うように機関砲で射った所、尾翼がぐらついて敵機は落ちたのだという。またこの度の被害を昭和十七年四月十八日の東京空襲に較べると爆弾は前の時は百キロで今度は二百キロなのに、一発あたりの人間の被害が前の八に対して今度は一だという。防空の施設や心得によって損害を減少することが出来る証拠であると。またこの爆弾では直径三十尺に深さ二十尺ほどの穴が出来て土砂を吹きとばして防空壕を埋めるので、掩蓋が是非いること。壕の中には水を一升ほど持って入らないと恐怖心から喉がかわくこと、また便を催す故便器を入れておくことなど、を心得として話された。戸、障子、硝子戸はみな開けはなしにしておくのがよいという。
この日は防空サイレンの鳴奏試験がある筈であったが、今暁早く九州に敵機がまた襲来したということで、とりやめとなる。但し警戒警報は出ない。敵機の来襲が二度目になると、少しも珍しくないあたり前のことのようになって来た。東京にも近いうちに敵襲がありそうに思われてならない。
七月九日(日)胡麻移植する[#「胡麻移植する」に傍線]
畑が草だらけになったので今日は終日畑の仕事をする。昨夕から、裏の道路ぶちを五坪ほど耕す。道路の底の石を掘り出し、草を取りのけるので大分骨を折る。屋敷に沿うた道路は、あと二間ほどで終りとなる。その仕事に午前中かかり、午後は馬鈴薯の畑の真中辺に播いておいた南京豆の草を取る。草ぼうぼうに伸びていたのを見分けながら除草す。馬鈴薯の畦の間の落花生は丈ばかり伸びて失敗らしい。それから里芋に薄い腐熟した人糞をやり、胡麻の間の草をとり、ついでにそれを間引きして、今朝耕した裏の道の畑に三列に植えた。それからその胡麻と三度目と四度目の玉蜀黍にドブ水をやる。
夜常会を石川家で開く。婦人会の用にて、折れ針を集めること、乾草を作ること、衣料切符を一点ずつ献納すること等の小雑件あり。
九時に終り家に戻って入浴す。
七月十日(月)サイパン八日に玉砕の由[#「サイパン八日に玉砕の由」に傍線]
文学報国会で、今年は警報のため大会をしなかったので、この日各文学賞の授賞式をしたとて、新潮賞の件で楢崎、丸山二氏が大東亜会館のその会に出た。その会場で陸軍報道部の秋山中佐の話として伝えるところによると、サイパンは八日に戦闘を休止したという。一万とか二万とかの在留邦人がいたが、その人たちはどうなったのであろう。痛憤今さらのように心を焼かれる思いがする。
なお秋山中佐の講演には、次のような諸点があったという。我方は聯合艦隊をして敵と戦わせるに足るだけの飛行機のないのが不利の原因であること。また従って聯合艦隊は今瀬戸内海に入っている(とか、入らざるを得なくなっている)とか。また太平洋上の島々にある我部隊を移動、再編成すべきなのであるが、我方はその余裕を失った、ということ。敵は小笠原に来るかも知れず、琉球に上陸するかも知れず、台湾やフィリッピンに襲来するかも知れないが、本土上陸ということも考えられる。我々としては、もう本土に拠って敵と東方の戦はしなければならぬ。しかし支那大陸においては、我方は大々的に攻勢に出ており、印度にまで進撃する公道を大陸に建設することも出来る見込である。大体そういう話をした由。
これによって見ると、太平洋上の戦では我方は絶対的に不利で、すでに遠隔の島々に送ってある各部隊の撤収をすら行うことが出来なくなっている模様である。そして聯合艦隊が瀬戸内海に入っているらしいその話しぶりも私たちを愕然とさせるものである。フィリッピン東方で敵味方の艦隊遭遇戦があるだろうというのが私たち一般の予測で、聯合艦隊はフィリッピン辺にいるのだろうと思っていた。瀬戸内海にいるのでは、すでに日本は敵の包囲下に陥ったも同様で、敵は多分、琉球か台湾かフィリッピンに出て、近いうちに我が南方への航路を遮断するのではあるまいか。そう思うと目下行われている支那内陸の交通路を漢口から広東に打開しようとする作戦は、一つの交通路確保戦であるとも言うことが出来そうに思われて来る。太平洋上の島々の撤収不可能というに到っては、戦況は私たちが推測していたよりも遥かに悪い。心配なことだ。生活上の諸条件も今改めて考え直さねばならぬものが種々あると思う。
この日藤村文庫の「春待つ宿」の増刷出来たので、峰岸君の分もと思い二冊買っておく。
新潮社はまだ新会社発足の認可が下りないが、旧新潮社の解散を今日実行した由で、楢崎氏その他の古い人たちは多額の解散手当をもらうこととなった模様である。
夕刻畑に出て、雨が来そうなので、胡麻や甘藷の虫に食われた所を移植しておいた。
旧市内の野菜配給は極端に悪く、二日分にて二人に対して野菜五百匁というようなところもあり、ほとんどあてにならぬ由、しかも京王電車などは、先日買い出しの女が電車に轢かれて以来、買い出しと見なされる人間を絶対に乗車させず、中には怒って野菜を足もとに叩きつけ、胡瓜を目茶苦茶に割る男がいたり、女が一貫目ほどの風呂敷を手にして出札口で泣くような声を出し、赤ちゃんが乳を待って泣いているんですと嘆願しているのもあり、中にはあきらめて、甲州街道を五キロも六キロも歩いて市内の方へ戻る連中もある。
昼頃は雑炊食堂の行列多く、食物の補いは雑炊食堂のみ、外はみな金持のための闇のみ、というのが実情である。私の家も現金の支出が多い。税金、保険、英一へ渡す野田生への返金、それに京王への支払いの分の積立等で。従ってこの頃は闇の野菜はほとんど買わず、家で取れる胡瓜、トマト、豆等を食い、また夕食一食は、畑の馬鈴薯を葉の枯れたものから、次々と取って食べている。石川家でも花村家でも播いた薯の十五倍位の収穫があった計算になるという。そうすると私の所では七貫目ほど播いたのだから、ひょっとすると百貫あるかも知れぬ。毎日掘った分を記録して楽しみにしている。百貫とれれば百日分はあるわけになる。貞子はそんな計算のみしている。
七月十一日(火)下痢直る
学校、出社。
我軍はミイトキイナの敵飛行場を襲ったというが、この地はビルマ征戦の時に我軍が占領した地ではなかったのか。とすると、東方からの支那軍はここへ進入して来たわけだ。
夕刻より哲夫氏の馳走にて神楽坂の友幸というお座敷天婦羅にて海老、烏賊、野菜等の天ぷらを食う。酒も飯もあり、なかなかよい料理であった。
三日ほど前からの下痢ワカマツにて治る。但し大人用のワカマツは最後の一壜である。雄の雛二羽に板谷君から来た名古屋種の雛二羽、ほぼよく育っている。
中央公論社と改造社廃す。既往の文化の断絶という感深し。深刻なる印象。新しく生れるものは、戦火の中から甦るものでなければならぬ。
七月十二日
中野好夫氏の原稿催促がてら、薫たちの下宿にキャベツ一個、礼の原田先生の家にキャベツとバター半ポンドを届ける。帰途渋谷の本屋に寄ったが、約束の本なし。
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七月十三日 盆である。杉沢家の雛三羽来る[#「杉沢家の雛三羽来る」に傍線] 南瓜四つ雌花に交配す[#「南瓜四つ雌花に交配す」に傍線]
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街を歩く人たち墓参りか花を携えているものが多い。
サイパンについての噂のみ、しきりなり。八日玉砕したというが、その後残存の我部隊はなお北端にあって抵抗奮戦しているという情報あり。東京はいつ空襲あるか分らぬという気分になって、本気違の楢崎氏も本を買うのはやめて、疎開を熱心に考えている様子。児童の集団疎開が大問題で、たいていの母は泣きの涙でいる。児童と別れねばならないということから初めて本気に一家の疎開を考える人たちが多いらしい。
昨日杉沢家から呼びに来たので、行くと、雛が大きくなったから持って行けとのこと。外にほしい人があれば分けてやるが一羽十円だという。あまり高価なので、どうかと思ったが花村家に言うとほしいとのことで、今日午後籠に五羽入れて来る。私のは三羽で二十五円に負ける。
昨夜花村家の令嬢は夜九時頃勤めの帰りに変な男につけられて、駅からの途中の家に飛び込んで事なきを得たとて花村夫人は大心配をしたという。不徳漢がこの近くに出没し、近くの竹林に女のズロースや下駄が投げてあったことも二度ほどこの頃あるという。危険ないやな戦時風景である。
七月十四日 大暑 南瓜二つ交配す[#「南瓜二つ交配す」に傍線]
日照り続き、稲の植付が出来ない所が多いという。この冬に暗渠排水作業を全国的にした故、この旱魃にて一層水不足するのだという。不幸なことである。今年はほとんど梅雨が無く、春に雨が多くて麦作は良かったというが、水稲の水不足は全国的な問題らしい。
南瓜はよく出来ないと思っていた分も、木に登って日を浴びるようになると目立って大きく育ち、この頃つづいて実る。一番大きいのは赤ん坊の頭ぐらいになり、今日までに十個あまりも実がついている模様である。
杉沢から来た雛のために、バター箱を改造して、底と前面を格子にして草を食うようにし、また糞が自然に下に落ち、また箱ごとに持ち運べるようにする。
◎日記の書き方を改めること。
戦況は報告的なものを新聞の切抜によって編輯し、私はあまり書かぬこと。戦局の批評めいたことは避けるように努める。食物不足の話はなるべくやめ、鶏や農作物の仕事の記録を主にし、また生活の感想を主にすること。
瀬沼君の所から瀧沢敬一の「フランス通信」第四冊目を借りて来て読む。この第四冊目は、私の持っている三冊目までと違って、この度の欧洲戦開始から敗戦後にかけてのフランスの国内生活を報じている。食物不足の話、切符の話などがあって、今の日本内地の生活と照し合せて、まことに面白い。帰還兵などがあって、失業問題が発生している所は、敗れ去った国フランスと日本の戦いつつある姿との違う点である。
七月十五日
今度来た雛のために、バター箱に格子を前と底につけた飼養箱を作る。全部で鶏は九羽となる。古雌鳥二羽、但しこれは夏のことで卵を生まぬ。これは応接間前の古い鶏小屋に入れている。外に街で買った雌雛というのを育てて雄となった中雛が二羽。これは便所前に四坪ほど囲いを作って入れてある。外に板谷君の所から分けてもらった名古屋種二羽、と今度の白色レグホンの雛三羽とである。格子箱は、鶏の糞が下に落ち、同時に雛が畑の草を食っているようにという自動的な飼育のために作ったものである。また裏の便所前の空地は汲み取り口から這い出す蛆を雛が食うように、と思ってのことである。しかし共に試験的なもので結果はまだ分らない。この日便所前に一斗樽を一つ埋めて、板の蓋をし、そこから這い出す蛆をも雛が食うようにと設備して見る。
鶏の飼い方は全く頭を使うものである。九羽をまともに餌で養っては、家のものだけでも不足がちな食糧は不足が一層多くなるのみである。屋敷の周囲の生垣に竹を目を細かく刺して鶏が出れないようにしては、とも考えているが、竹が今ある二束では不足するようにも思いまた忙がしくて手がまわらぬので、やって見ずにいる。放し飼いだと虫を食べたりしてほとんど食糧がいらぬのであるが、麦や米が実った時や菜っ葉の芽の出た時など食い荒される心配もあるが、秋口に虫の多い時などのことを考えると、どうしても放し飼いが一番よいと思う。
九羽はいずれにしても多すぎる。古鶏は二年目で、それに夏場で卵を産まぬし、これから羽毛変りになるので十月頃まで産卵せぬから、つぶしてしまわねばならぬかも知れぬ。今の所、格子箱の雛には草を食ってもらい、鶏舎の鶏は小松菜をやり、外に毎日三度、魚粉を一つかみずつやっている。魚粉はもう三貫目ほどあるが、主にこれに頼っていてはあまり長続きするものとも思えない。麦は四十坪ほどで三升ほどしかとれなかったから、これは殆んど使うことが出来ない。全体として営養不良である。豆か麦があればいいのだが、今の所豆類は米の補い分しか無いので、困ったものである。しかし今年雛の名古屋種二羽と、コーチン三羽、それに雄鶏一羽はどうしても育てて行かねばならぬ。名古屋種にコーチンの有精卵を抱かせて、種を続けて行かねばならないからである。
新潮社では、戦時用のパンフレット類の計画を立てている。社では毎日のようにサイパン戦の発表がありそうなものと皆気にしている。戦局についての悲観的な意見も相当に根強いものがある。日本が負けるとは、やっぱり私には考えられない。しかし、先日、十日に秋山中佐が文学報国会の授賞式の日に、サイパンの我軍は七日に最後の突撃をしたこと、を言い、我軍は残念乍ら太平洋上での作戦機動の途を失い、兵力の運用が不可能となったという深刻な話をしたとのことが、改めて考えられる。内閣の動揺説が巷間にしきりに流布されているらしい。この危機にのぞんで東条首相でもやめるようなことがあれば、国民の動揺は深刻なものとなるにちがいない。人が変ることよりも、今の増産の途を押し進める外に打開の道はないのだから、そういう風に進んで行ってほしいと思う。
しかし「太平洋上で作戦機動の道を失った」という話は深刻である。
制空海権が敵の手に落ちたならば、我が軍の遠隔の地にいるもの、たとえば、ブーゲンビル島、ラバウル、大鳥島、トラック島の部隊等はどうなることか。補給は不可能なのか。ああ。弟薫は若しラバウルにいるとすれば、一体どういう道があるのだろう。敵の空爆を受けながら食物を節し、さりとて敵が肉迫しても来ず、撤退の途もない。考えても胸が痛くなる。何万人という我兵が、そういう風にして太平洋の遥か彼方から、故国をしのび、その最期の日をじっと待っている、と思うと、怖ろしいことだ。日本民族が開闢以来受けた試煉の最大のものである。緬印国境インパールの落ちないのも、或は補給の問題かも知れない。
その上、今年はひどい水不足で、米作の憂いが深い。昨冬、学徒などを動員して全国的に行った暗渠排水工事も、こういう水不足の年には一層不利を大きくするのみであるという。
こうして今年こそは大和民族が真の危機に直面して来ている。神州の不滅を信じ、皇兵の絶対不敗を確信することに変りはないが、苦難にいよいよ直面し、首都を空爆されることが予想されるし、欧洲における盟邦はじりじりと四囲から押されて不利を加えて来、どうしてこれを打開するか。大和民族よ奮起せよ。この時こそ、我々の力の限りを使って、その生命を全うし、祖国の名誉と運命を確保しなければならない時だ。
七月十六日(日)
午前中滋に裏の道路の黍畑の除草をさせ、私は里芋とハゼ黍(馬鈴薯の作間)と南瓜とに水をやる。ひどい暑さにて参る。
午後田原忠武君来る。夜入浴する。夕刻、名古屋種のために、格子箱を作る。
夕刻、海相兼軍令部長嶋田大将が大臣を辞し、野村〔直邦〕大将後任となったこと発表さる。野村吉三郎大将と思いちがいをする。
我国は戦局不利の時に首脳部の更迭がよくある。マキン、タラワに敵が上陸した時に、嶋田海相、東条陸相が、軍令部長と参謀総長とを兼任するようになったのだと思う。またここで首脳部が変るのは、不吉な感じがしてならない。いよいよサイパンは駄目になったということか。
日記の書き方を変えようと思うが、結局関心事からそれることは出来ない。
七月十七日 南瓜四個交配
帝都の学童四十万のうち、三年から六年までの二十万人を疎開させることになったという。集団疎開である。昨年の夏頃、東京中の児童をまとめて安全地帯に移す、などという巷説があって立ち消えになっていたが、今では、そういうことが何でもなく実行されることとなった。しかしこれは大問題であろう。これまでも疎開学園というのが市中の各学校で行われているが、これは父母の負担が毎月二十五円というので、これでは二三人も疎開する家庭では、費用を出せない家が多いのではないか、と心配する人があった。
今日新潮社で丸山氏が妻君と子供二人を郷里新潟県の能生町に疎開させることに決めたと話している。自分だけは今の家に残って自炊するつもりである。それも配給物を取ったりするのが相当困難だろうとは思うが、やって見る、という話。だから丸山氏は学童の集団疎開には子供を出さないというのである。しかし学童疎開を機に、家庭の疎開を実現することになったのである。楢崎氏もどこか近いところに疎開したいが、一人東京に残った自分がどうしてやって行ったらいいか分らない。配給、洗濯、食事、炊事と考えれば考えるだけ、困難なことばかりだという。楢崎氏は牛込区内に長く住み、東京郊外にすら出かけたがらぬ人ゆえ、この問題には全く当惑している形である。
七月十八日 南瓜四個授精
文学報国会の小説部幹事会。川端、丹羽、石川、横光、尾崎一雄、壺井栄、円地文子等出席している。改造社、中央公論社のつぶされたことについての噂話、放送局で朗読文学の放送を考えている話、電通から大東亜文学という雑誌を計画している話などあり。
夕刻ラジオにて、サイパン島守備の我軍全員玉砕の由の発表あり。かねて覚悟していたことながら、事実の重さはひしひしと心肝に徹す。
皇土防衛のため、自分のごときもお召しにあずかるのではないか、その覚悟と準備は出来ているかと省ると、ひやりとするものがある。自分の仕事も中途半端であり、妻子の後途にそなえることも十分ではない。私が出征したあとは、僅かに新潮社から月給の七八割百五十円ほどが入るだけである。
サイパン島では南雲中将以下玉砕の突撃をしたあと、十六日まで残った兵たちが海岸の洞窟に立てこもって戦っていたという。
文学報国会の席で、川端氏は、小笠原諸島からの疎開者たちが最近は横浜の宿屋や民家に割りあてで泊っている由を言う。すると円地文子氏が、大島からの疎開者は東京市中の伝通院に急に疎開して来ており、ろくに家財も持たず着のみ着のままという風でいる、と言う。いずれも本当のようであるが、大島の住民が避難して来たということに、皆はぎょっとする。大島は伊豆半島のすぐ沖に見えている島であり、その辺が危いのなら、伊豆や千葉や東京なども危険だということになる。
七月十九日(水)南瓜三個交配
午後パンフレットの相談にて新潮社に出社する。各大学でこの夏行われる講演を採用することに決定す。
朝刊にサイパン玉砕の件大きく出、なお東条首相は、兼任の参謀総長をやめて梅津大将が任命され、この春迄参謀総長であった杉山元帥は教育総監となる。これぐらいで内閣や軍首脳部の変動が落ちつくのかと思われる。
礼の学校で学童疎開の為の父兄会があり、貞子が出かける。薫の下宿と杉沢家とにトマトを持って行く。
社でも楢崎氏は、夫人が一人娘の百合子さんを手離したがらず、さりとて母子で疎開すれば、夫君のことが気がかりで困るとて、全く決断つかずに閉口していると話す。
夕方家に戻ると貞子がまだ来ていず、私が馬鈴薯を釜に入れて火を焚きつけた所へ戻って、学校の話をする。詳しいことはよく分らないが、疎開させて見てはどうか、という原田先生の意見を伝える。なお貞子が学校で杉沢に逢ったところ、杉沢はこの二十七日に一家を挙げて南部の本家のある村へ疎開するという。杉沢は八月の十日に行くという。これには私も驚いた。彼は昨年から八王子在横山村の畑に小屋を建てて、いつそこへ移ってもいいと自慢していたのであるが、やっぱり家がうまく出来ず、室は六畳一間しか無いし、井戸もまだ完成せず、八人もの家族では無理なので、南部行きに定まったものであろう。畑の作物も出来るから、この八月になれば、食うものの心配も絶対に無いと言っていたが、貞子に今日言ったところでは、畑の作物は四十羽ほど育てている鶏にやる分しか無いという。
彼はその十坪ほどの小屋の外に、本宅も建てようとして材料を集めたのだが、手間(人、つまり人に食わせる米)がないので建て上げることはあきらめ、小屋の近くに風呂場や鶏舎などを建てるという計画であったが、それも思うにまかせなくなり、思い切りのいい男だから、一挙に南部への疎開ということになったのであろう。これもまた子供の学童疎開にからんで急に決まったことであり、今の人々の生活の変化のはげしさの適例である。
それで杉沢は、今後横山村にいるが、東京へ出るような時は、私の所へ泊めてもらうから、米を持って来ておくという。また私に一升一円とかの大豆を一斗買ってくれるという。急に私のところへ親切にするようになったらしいと、貞子と話して笑う。しかし彼にすれば容易ならぬことで、その思い切りのよさに感心する。だがあんなに横山村の住居を自慢していたのに、遂にそこへ家族を移せるほどはかどらなかったのは同情される。
さて礼をどうしようか、と貞子と話し合う。学級のほとんど全部が疎開に行くらしいので礼も一緒に行きたい由。但し長野県が冬に寒いことや、給食が足りないと営養が落ちはしないか、ということが気になる。精神的には独立心も出来、集団生活にも慣れて好結果ではないかと、思うが、私は営養の心配をし、家にいるように卵やバターを食えないとすると、弱い子のこと故、故障が起きはせぬかと思う。貞子は、途中で連れ戻してもよいから一度はやって見ようと、原田先生と話して来た由。それにしても原田先生が一緒について行ってくれるといいのだが。
とにかく東京中の子供のある家庭では、どこでもこの問題でいま大騒ぎをしていることが分る。父母の負担は一人月十円というから、ずいぶん安価であり、食わせるに困る家庭では喜んでいる所も多いらしい。東京に残った両親が死ぬようなことがあれば、疎開先の子はちゃんとした家庭へ養子にやる世話までするから、などという当局者の談話まで発表され、なかなか人心の機微をつかんでいるが、この措置の非常性、時局の緊迫味は十分に感じられる。
市中の防空壕が最近増加し、また疎開家屋の廃材で掩蓋を取りつけはじめた。本当に役に立ちそうな壕が多くなり、いよいよの感が深い。
七月二十日(木)
午頃出社しようとして、新宿伊勢丹の前を通ると、角のショウウィンドウの中に、東条内閣辞任の辞が張り出されている。ぎょっとする。この戦争は、東条内閣において始められたのだから、この内閣がやりとげなければならぬように、私たち国民は思っていた。また事毎に、戦争貫遂〔ママ〕の強靱な意見を述べていた東条首相が、いまこの戦況不利の時に辞任するというのは、何となく敵に後を見せた形であり、敵は「トウジョウ、ディスミスト」などと大見出しの新聞記事で歓呼しているのではないかと思うと、何とも言えず残念なことでありかつ心細いことである。なるほど戦況は不利だが、これぐらいの不利なことが起るのは米英を敵として立った時から覚悟しなければならぬことでは無かったのか。それでは戦局は、やっぱり本当に不利なので、それに耐えずに東条内閣が退いたものとすれば、日本は正に超非常時であり、危機に直面しているらしいということが痛切に考えられて来る。いま政治家が変ったとて軍需生産が増加するわけでなく、むしろ低下するにちがいないのだし、敵に足もとを見すかされるではないか。イタリアの政変が枢軸に不利であったことなどが聯想されて不吉な感じを払いのけることが出来ない。
社でも皆その噂ばかり話し合っている。このニュースは今朝ラジオで放送し、辞任申出は十八日であったことが分り、前々から内閣の動きが巷説となっていたのは、やっぱり本当であったのだ。
それに更に驚いたことには、ドイツではヒットラーがテロ犯人の襲撃を受け、幕僚に何人かの重軽傷者を出し、自分も火傷と打撲傷を負ったという放送があったとのこと。ドイツの戦況も不利であり、東方からロシア軍はぐんぐんとドイツを追いまくって、北はバルト三国に迫り、中央部はポーランドの四分の一ぐらいまで入り込み、南部ではルーマニアのベッサラビアに入り、ヤッシイ市に肉迫している。イタリア戦線ではローマを棄てて、北仏の戦線でもじりじりと退いている。そういう最中にヒットラーの暗殺が企てられ、我国では東条首相の辞任がありとすると、どうも暗澹たる気持にならざるを得ない。戦いは遂に我に不利のみ大きくて、恢復が困難なのであろうか。
七月二十一日(金)雷雨
久しぶりの雨。畑のものがみな甦るような気配。
しかし新聞によると、東北の諸地方は豪雨のため土砂崩壊して汽車不通の箇所が方々に出来たという。旱魃に次ぐ洪水ではやっぱり困るにちがいない。
組閣の大命が小磯朝鮮総督と米内海軍大将に下ったという。そう聞くと、なるほどそうか、という安心が出来、ほっとする。この不安の時期に、一日も早く内閣が定まるようにと祈る。
今日から光生中学は学期試験である。英語の本やっと到着する。試験監督二時間。夕方田原忠武君来り、文学報国会の講演旅行のため、二十九日から六日まで、青森と秋田とに三日ずつ出かけないかという。日露戦の話をすることに決定、承諾す。
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七月二十二日(土)午前晴 午後雷雨 玉蜀黍雨風のために倒れる。四五十本起して土よせをする。
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朝試験監督二時間。出社。ひどい雷雨。事務室暗くなり、電燈をともす。
内閣ほぼ決定。米内氏海相、前田米蔵氏運通相、杉山元氏陸相、藤原銀次郎氏軍需相、石渡氏蔵相、重光氏外相、等々の外朝日新聞の緒方竹虎氏が国務相として情報局総裁となった由。夕方までに分る。
七月三十日記 青森県 浅虫温泉にて
この一週間、多忙にて日記をつけなかった。二十九日出発にて、講演旅行に出る筈のところ、二十八日出発と繰り上った。その出発前に答案を二百枚見ること、町内の国民貯金六百余円を整理して郵便局へ届けること、大根と人参を植えること、裏畑の玉蜀黍と胡麻に施肥すること、塩谷からの荷物をとること、二十五日の町会出席など、雑用があり、また学校と新潮社へも行ったり、講演原稿の整理をしたりせねばならなかった。
しかも敵のマリアナ諸島に対する攻勢は、この間に一段と深化した。新聞に掲載される地図で見ると、敵が占領したサイパンから東京までの二千数百キロの距離は、北海道から九州までの距離とほぼ等しいように思われる。つまり、本州の端から端までの近さのところに敵は地歩を得、その附近の島々を次第に占領して、そこに基地群を建設しようとしているのだ。サイパン群島中にあるテニアン島、ロタ島、グワム島、パガン島などが敵手に陥れば、その南方にあるトラック島を含むカロリン群島やら、西南方ヤップ島やパラオ諸島の我基地は次第に作戦価値を失うばかりでなく、補給も困難となるにちがいない。
二十二日夕刻子供の時間のラジオをかけると、敵軍がグワム(大宮)島に上陸して来たことが報ぜられている。敵にとっては予定の行動であり、以前の彼等の領土であったこの島に取りついたわけである。このところ敵は作戦が大体うまくはかどるだけでなく、旧領を恢復したのだから、新聞等で歓声をあげているにちがいない。飛行機なく、補給のないこれ等の島々に駐屯する皇軍の苦しい戦を思うと、じっとしていられないような気持になる。ああ。存在する島の数だけ皇軍がおり、その数だけ、こういう絶体絶命の戦が行われるかと思うと、同胞の一人として、ただ眼を閉じて祈るのみだ。
二十二日の昼頃、ひどい夕立があったが、翌二十三日の新聞によると板橋区辺では、直径一寸ほどの雹が降って、硝子破損三千枚とかいう。新潮社で翌日聞いたところによれば、社長のいる大泉学園のあたりでは、硝子が破れただけでなく、農作物は全滅に近い害を受け、南瓜、胡瓜、トマト等の葉は悉く破れたという。ほんの四五キロ離れているだけで、私たちのところに降雹のないことは、実によかった。毎日のように実って行く南瓜や、ちょうど葉をひろげた甘藷など、やられたら、大変なことである。
二十四日 月曜
敵はサイパンのすぐ南のテニアン島に上陸を企てたが撃退された。敵が上陸作戦を行う時には、数量的に必ず勝つという計算を立てて、圧倒的にやって来るのだから、これを撃退したというのは、よくよくのことである。すぐ目の前のサイパンに敵が上陸し、我軍が全滅するこの一月のあいだ、よく敵の砲爆撃に耐えて敵を砲撃しながらこの日を待っていたこの島の日本軍が、どんなに準備し、どんなによく戦ったか、推察するに難くない。
塩谷から四十キロ分の荷物を送ったと言って来ていたのが、この日渋谷駅についた旨の知らせあり。
また杉沢が先日貞子に、豆を一斗ほど買っておいてあるから取りに来るようにとも言ってある。この数日学校は試験の監督のみで授業なし。
二十五日
滋が早く帰ったので、午後二人でリュクサックを負い、渋谷駅に行く。いつものように、釘抜きや金槌を持って行って、受取るとすぐ倉庫の前で箱をこわし、中の鰊の身欠、燻製、若布、豆類等を、入るだけ二つのリュックに入れ、更に余ったのを風呂敷に入れ、筵は板を巻いて下げ、駅をどうにか通って家に戻る。小運送の便がないので、自分等でこうして運ばねばならないが、駅で大きな荷物を負うと通さないことがあるので、その心配が大変であり、気疲れする。
夜になってから、組長常会に出席する。
二十六日に、この日は一日休みなので、朝から答案を採点する。二百五十枚のうち半分ほど出来る。なお町会の国民貯蓄を整理して局へ持って行く。更にこの日の午後、この頃までに掘った馬鈴薯のあとへ、人参を一畝と時なし大根を一畝播種し、大いに働く。
馬鈴薯は貞子と子供等で大働きをして掘ったのが九十何貫かあり、また木の青いのは掘らないから、百貫以上あることは確実となった。このことは、前々から何度も家中で心配して話し合っていたことで、五十貫ぐらいという悲観説もあり、また百二三十貫と見立てた人もあったが、私たちは八十貫ぐらいであろうと言っていた。礼と滋が掘る度に秤にかけて、五貫何百とか、三貫何百とか言っていたが、とうとう百貫あることが確かとなり、家中大喜びである。私の播いたところで堆肥を沢山やった辺がよく出来ている。毎日八百匁ほどずつ、夕食には食っているが、四ケ月ぐらいはこれで補給出来るわけである。これまで本箱にしていたバター箱の本をあけて、芋を入れたところ、十五箱ぐらいにもなり、それを応接間やら洗面所などに積み上げて、なるほど百貫の芋というと大したものだと思う。滋と礼が満腹するだけ夕食を食べているのを見ると、こうして戦時にも子供を満足させて行けるのは、幸福なことだと思う。
夜杉沢家へ行く。夫人たちは二十七日に出発して、南部へ行くというので、お別れのつもりで餞別を十円持って行く。家中に荷物を積み上げ、夫人は心も上の空という風で、おろおろしている。乳呑児や二つの児や十の子をかかえて大変なことと思う。十日頃杉沢と南部へ行こうと話していたこと、報国会の旅行があるので、九月に彼が行く時に同行することにしてもらう。
この日夕刻、敵は遂に再度の強襲によってテニアン島に上陸したことが報ぜられる。大宮島とテニアン島がこうして戦火の巷となった。
中支作戦の我軍は長沙から南下して衡陽に達したのが、一月ほど前であるが、衡陽の支那軍は執拗に頑張っているらしく、まだ陥落しない。我方の報道は詳しくは出ず、ただ敵側が、度々衡陽の保持困難を報じている。ここは、支那作戦中近年の最大の激戦地となっている模様だ。
また北フランス上陸の米英軍ははかばかしく進めない模様だが、東方のロシア軍は、大変な勢で西方に迫っている。すでにワルソオの近くまで進み、その南部では、スロヴァキアとハンガリイの東方国境にあるカルパチア山脈に到着している。大変な進みかたで、ドイツ軍は、ほとんどその出発点に押し戻された形である。その中に、ドイツは、軍部の一部の陰謀による反ナチズムのクーデターが起りかけたりして、正に危機という感が深い。戦争は深刻化した。大ドイツ民族はどうなることか。中部欧洲に興ったこの強力な民族は、この戦争ではほとんど全欧洲を席捲したのだが、満五〔四〕年の戦の後次第に包囲されて苦境に陥りかけている。切にその健闘を祈る外はない。毎日新聞三十日の解説は、この東部戦線を取り上げて論じ、状態は深刻であるし、ワルソオ附近のヴィスラ河のあたりで、ドイツは反撃に出ようとしているから、近くこの辺で大会戦が行われ、これこそ独ソ戦の総決算をつける戦となるであろう、と書いている。ソ聯は開戦以来最大の兵力、最大の物量を注入して西進しているというから、この戦線の決戦こそ欧洲戦の峠となるものかも知れない。
二十七日は出社。哲夫氏不在にて、日程表を机上におき、斎藤君にあとを頼んで夕方帰る。
二十八日、学校に行き、答案と採点表を届ける。その午後四時上野駅に行き、折口信夫氏、北原政吉君と同行五時半の汽車で青森に向う。握り飯持参したが、車中、夕方と朝とにパンを一個ずつ配給される。
二十九日朝青森着、東奥日報の人と連絡し、会場の新町学校附近の宿に落ちついたが、折口氏の提案で、浅虫温泉に宿を移すこととなる。
この日ラジオは、敵のB二十九爆撃機が満洲の鞍山製鉄所と大連とを空襲し、我はその数機のうち一機を撃墜したことを知る。満洲国に対するはじめての敵機の空爆である。新京にいる弟の実一家の者は、びっくりしたことと思われる。敵機の空襲は次第にこうして度重なって行くのであろう。今度の旅でも留守中に東京が空襲されはしないかと気になったが、その時はその時のこととする。
三十日、講座第一回、旅順戦の開戦当初のこと、それから当時の乃木将軍の言行等を話す。一時間半ほど。
浅虫の宿にいると、室は海に面して、前面に丸い湯の島というのが見え、夕凪ぎの陽と夜の月が美しく、まことにのどかで、今の息づまるような日々のことから遠く離れたようにも感ぜられるが、食事はやっぱり窮屈で、朝はうどんの代用食、夕食の飯はどんぶりの盛り切りである。但し副食物に魚類色々あって賑やかな感じがするが、量は不十分である。
三十日夜北原君どこからか酒と葡萄酒を少々見つけて来、この日青森で一緒になった高崎正秀氏は酒好きの人故、喜んでいる。こういう調子で一週間つづけば、戦時中もったいないほど閑雅な旅となろう。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年八月
八月六日朝 秋田市小林旅館にて
二日朝浅虫温泉を発して夕刻秋田に到着す。前日より下痢していて元気なく、汽車中熟睡して、漸くやや恢復する。魁新報の記者自動車にて、土崎港の大きな料理店大家というのに案内し、よき酒にて馳走される。夜小林旅館に落ちつき、三日より五日まで県会議事堂にて講座を開く。聴衆よし。ここでの世話は田原忠武君である。
四日の夕刻警戒警報発令される。東京の方のこと心配である。五日最後の日警報解除される。
秋田は古風な味の残っている典雅な町であるが、米、酒の産地として著名でありながら、酒も食事も不自由にて、昼食は宿で出ず、新聞社にてうどんを二個ずつ取って宿に届けてくれる。
古本屋にて、斎藤緑雨の「あられ酒」を見つける。薬屋にて、理研のビタスを二個、その他下痢止、咳止めの薬を十円ほど合計三十円ばかり買う。田原君は咳を盛にし、顔色悪く、町を一緒に歩いていても時々気分悪しとてしゃがんだりする。胸を悪くしているらしく、気の毒である。
八月八日記
七日朝家に帰る。戦局は、テニアン、グワム両島はほとんど絶望である。「戦線錯綜」という言葉が使われているのは、もう最後の我戦線に敵が突入したということである。何という烈しいことだ。何という戦いを我が同胞はいま現にやっていることか。
帰ると、ちょうど荒木かなさんが、児童を連れて伊香保へ疎開するとてお別れに来ている。その話に、芸術科出身の高橋〔義樹〕君はテニアン島に同盟記者として行っているとのこと。この春家へ荒木さんなどと遊びに来ていて、自分の書いた小説の批評を私たちがすると羞んでいたあの丸顔で小柄な、眼鏡をかけた高橋君の顔がありありと思い出される。荒木さんは、今では人に別れるということも、みなかりそめでなく、これっ切り逢えなくなるのではないかという恐怖を覚えるという話などをする。また学校にいて、この度の学童疎開の衝に当って見ると、こんな大変な、大がかりなことが、短時日のあいだに実行出来るかどうかと危ぶんでいたのに、当局では案外に手ぎわよく、次々と指令が出て、いよいよ明後日は伊香保へ発つことになったという。なおこれに続いて、妊産婦、乳幼児、老人等の疎開があるということ。これもきっと本当であろう。学童のみを疎開させて乳幼児や老人の疎開をさせないということはないのだから。それにしても昨年頃、学童を集めて強制的に集団疎開させるという噂があった頃は、それが私たちの耳にもデマと聞えたし、新聞上でも公然と否定されていたものだが、あっという間に、こうして実現された。当局者の手筈もなかなかよろしいのだが、時の進行はそれにも増して早いのだ。
現に小笠原列島に対しては、この頃繰り返して大規模の空襲と艦砲射撃とを敵はしている。この列島附近に敵は機動部隊を持って来ていて、しきりにここを狙い、ここに本土空襲、あわよくば本土上陸の足場を得ようとしているのが、ひしひしと感ぜられる。サイパン辺から敵は西方のフィリッピンや琉球へ進むのは後まわしにして、本土に刻一刻と肉迫して来ている。日本の戦力を見くびっているのか。それともこの辺での決戦を積極的に求めているかだ。東京の、いな日本中の空気が、この半月ほどのあいだに、またぐんと変ってしまった。
落ちつけない。家に帰って見ると南瓜は椎の木の梢に大きく実っていくつもぶら下っており、玉蜀黍や鳩麦や陸稲はぐんと伸びて、豊作を思わせていて、すでに南瓜は食膳にのぼり、垣根になったものは二つほど盗まれたりしている。食生活は、私のところでは心配がない。
馬鈴薯は更に貞子の掘った分が、二十貫あって、皆で百十貫となった。まだ多少掘り残しがある。甘藷もよく繁って、葉はほぼ畑を蔽っている。だが不安はつきまとって、気持が安まらぬ。
戦局と生活とを結びつけて考えることから来る不安であろう。
今日午後、阿部知二が新潮社に来て楢崎氏と三人で話し合ったが、兵としてのお召しが、こうなれば、我々四十以上の第二国民兵でも、いつあるか分らないし、それに徴用がまたぐんと強化されるというので、我々文学者も今のままの生活をいつまで続けられるか分らないのだ。
その覚悟と支度をしなければならない。それに東京が戦場となる日のことすら予定しておかねばならない。そのことを、はっきりと腹におさめ、そうして支度の出来ることはしておくように、ちゃんと考えることだ。衣類、薬品、台所用品、寝具等を一とおり峰岸君宅へ送ること。それからここの家の中を整理して、本はほとんど包んで押入れその他のところに片づけ、少数の愛読書と、必需品とを整理して分りやすくしておくこと。つまり何時私が家にいなくなってもよいように手筈を整えることである。
だが、なお雑件はついてまわる。この家は私が建てたことにして届けてあるので税務署では一万円以上かかっていると建築税がかかるから費用の内訳を書いて出せと言って来る。今日税務署に行き、買った家なることを説明したが、なお一応書類を出しておいてほしいとのこと。建築税がかかると千円ほどの支払となり、大変だ。また心配が一つふえた。
礼の学校は、いよいよ上諏訪に疎開するという。疎開地としては、温泉宿らしいからいいところにちがいない。しかし、食物の心配、病気の心配があり、また万一親子がちりぢりになって、危急の時に逢えなくなりはしないかという心配もあり、なかなか心が決まらない。疎開先でも、田舎の寺などに行く者は寒いし、風呂などにも不自由で大変だという話もある。諏訪ならば、寒いにしても温泉のこと故、凌ぎやすいから、やって見ようか、という気持になる。ひょっとして私たちが爆死するようなことがあっても、一人は残るだろうなどと考えたり、それも哀れだと思ったり、また離れ離れになった時、北海道の祖父母のところに礼が行くことなどを考えたりもする。しかし集団生活に慣れて、甘ったれたところが直るだろうから、やって見るのがいいかも知れない。明朝八時から学校で打ち合せがあって貞子が行くという。
昨日新潮社で砂糖を社員に百匁ずつ分けてくれる。一貫目二百五十円だというから、これだけで二十五円に当る。金持はそういう砂糖を何貫目も闇で買っているのが実状のようだ。百匁三十銭位の公定価だから、百倍近い闇値だ。
旅行をして、八日間で日当が百二十円と、礼を五十円ずつ二ケ所から受け取ったが、薬その他の買いもので三十円、今日昨年度第四期の税金に六十円、それに今日から半年間の烏山――新宿間の定期券に二十八円等払ったので、あと六十円ほど残っている。
八月十日記
この春漢口地区から南下して長沙を占領し、更に南下しつづけていた我軍は衡陽を八日遂に陥落させた。ここは漢口と広東の真中頃に当り、中支那敵飛行基地の根幹である。この地を取れば、支那縦断鉄道を、我軍がほとんど制したと言ってもよいであろう。一月半もこの地の攻略に費したのを見れば、支那軍もよく頑張ったのであろうが、また在支米空軍の空中補給や爆撃が相当に物を言っているらしい。それにしても、この占領の報は近時の朗報である。しかし一方で大宮島はいよいよ戦線錯綜と言うから、テニアン島と共に、ここを守る我軍の運命はもう諦めねばならないのであろう。又しても皇軍は太平洋の島上で玉砕して行く。その悲しい報に近く公然と私たちは接しなければならぬであろう。
この数日、どういうものか落ちつきを感じない。皇国の大危機の到来の感の深まると共に、私は私なりに最後の日のことを色々と考えておかねばならぬが、それがなかなか出来ないということから来る不安だ。第一に自分が応召すること。先頃までは、私たち大正十四年度の第二国民兵は、明年点呼があり、それから後に応召のことがあると考えていたが、こういう風に戦が急速度で進行して行くのであれば、必ずしもその日を待たずにお召しに接するかも知れぬ、と思われて来たのだ。
八日の朝の小磯首相の放送演説にもあったとおり、敵の本土侵冦があるかも知れぬことを、本気で考えねばならぬ時が来た。現に房州の海岸一帯、それから湘南沿岸一沿〔ママ〕に海水浴、舟遊び等が、軍事上の理由によって禁ぜられたことが、各駅に張り出されている。本土が戦場となることを覚悟するとすれば、私たちの日常生活も根本から考え直さねばならぬ。東京の近郊に家を持っていることも、北海道に疎開することも、峰岸君の児玉町へ疎開することも、悉く安全という点では十分でない。国の運命そのものが不安に曝されている時に、その国土の中に安全な場所や安全な生活などが残り得るものではない。またそういうことを考えねばならぬ時に、財産とか生活の見とおしなど立つものではない。
そんな最悪の日の為に生活を準備することよりも、私自身に召集かまたは近く行われるらしい非常動員風の徴用が来るかも知れない。それを考えることだ。それは出版編輯の技術者として来るか、文学者の資格で報道員として来るか、それとも単なる一徴用工として来るか分らないが、そういう国民全体の緊急配置換えが行われるにちがいない。そういうことの実体は予測がつかない。またひょっとしたら私のような弱体は兵として物の数に入れられず、新潮社の一社員として平穏に暮しとおせるかとも思うが、その方の望みは甚だ薄いと言わねばならぬ。危機は大波のように祖国全体をゆすぶっている。
現に世上の動きは、甚だ深刻で、児童の集団疎開に続いて、乳幼児や老人の集団疎開が行われるというし、また一方では国民学校高等科の通年動員案が文部省で確定したという。中等学校の三四年動員はもう行われていて、光生中学も四年は中島、三鷹等の飛行機工場に動員されており、先月末頃私が旅に出る前に三年生に対する動員令が届いたと尾形校長代理が言っていた。そして更に一、二年生に対しても勤労動員が下され得るように措置されたことが先頃発表された。この国民生活の厳しさはどうだ。子供もみな肉体をもって戦争の一局面を分担しているのだ。私たち大分〔ママ〕の、比較的閑業にある者に対して、根こそぎの動員が為されることは必然と言わねばならない。
但し出版編輯員は、この頃出版会を通して情報局に登録され、私たち新潮社の社員も揃ってそれを提出した。これは徴用に対する身分保証ともなっていると言うことだが、あるいは、かえって業務上の徴用がその為に組織的に行われるようになるかも知れない。
私が応召するとしても、新潮社が存続すれば、俸給の八割位は家族に渡されるという。しかし半年八百円という年賦金の支払いがあるのだから、貞子には大変な負担になると思う。そういう点、十分に考えておかねばならない。
ドイツの戦闘も容易ならぬ様相を見せている。ヒットラーに対する軍人の一部のものの反逆は未然に防ぐことが出来たが、ロシア軍は東部戦線で大攻勢を続け、毎日のようにドイツ軍が一つ或は二つの都市から撤退した報が小さく新聞に出つづけていたが、いつの間にかワルソオが危くなり、この市街の争奪戦が行われている。そして東プロシア国境までロシア軍は肉迫したという。しかも西部では、パリの西ノルマンディー半島の北岸に上陸した英米軍は、上陸後一月半ほど経った最近に至って突如南下作戦を行い、ブルターニュ半島の大部分を制圧しかけている。この半島西端のブレスト港に米軍が達したという報もある。開戦以来中立を守っていたトルコは先頃遂にドイツと断交した。ドイツは正に四面楚歌という形になって来た。
チャーチルは数日前の演説で十月までに枢軸軍は破れるであろうということを言ったというが、これまで常に戦の前途は遠いと言っていた彼にしては珍しく断定的な言い方であり、よしんば謀略であるとしても、最近の欧洲戦況を考えると、ぎょっとせざるを得ない。ヒットラーの最近行った演説はあくまで戦い抜こうとするゲルマン民族の信念を示すものであるが、その言い方は悲壮であって、四年前のドイツが常勝の道を進んでいた時の彼の演説と較べ、感慨の甚だ深いものがある。ドイツはよく戦っている。潰滅するようなことは予測されない。しかし、このじりじりと圧迫されて来ている様相は、まことに深刻だ。そしてドイツの運命は我大和民族の戦と直接に結びついている。祖国の今負うている荷は重い。国民の一人一人の肩の上にその重さが何かの形でずしりと応えて来ている。
礼の疎開の件、行先は上諏訪の温泉宿だというが、食物や病気のことを、離れていてくよくよ心配しているのは、どう考えても困るので、やめさせることに決定した。礼もその気になったようである。親子四人この家に暮すこと。
八月十一日 三十二度 暑し
家の農作の様子[#「家の農作の様子」に傍線]。陸稲に薄い水肥を施す[#「陸稲に薄い水肥を施す」に傍線]。
旅行から帰って見ると、家の畑の様子もすっかり変ってしまった。旅行前までは、東側の百坪ほどは全体として馬鈴薯畑であった。ところが、旅の前後にかけて、馬鈴薯を掘ったので、それまで畦間に植えてあった陸稲とか、里芋とか、ハゼ黍とか胡麻などが大きくなって、それぞれ立派に成長している。二毛作ということは、私は今年はじめてしたのであるが、なかなかよく出来るものだと畑を見ながら感心する。隣家との垣根ぞいには玉蜀黍、北側の道路には玉蜀黍と胡麻の移植したものなどが伸びている。それから椎の木や桃の木や防空壕の上には、南瓜が這って、二三十個も実がなっており、更にこれから大きくなる雌花がいくつも数えられる。陸稲もかなりよい勢いで、これから施肥すればよくなると思う。胡麻、里芋、落花生などもそれぞれ相当の出来であり、縁の前の五十坪ほどには、甘藷が地面が見えないぐらいに繁っている。この数日貞子と私と子供たちとで草とりをしたので大分畑が綺麗になった。また西側の道路に播いた鳩麦はほぼ四五尺になって、みな出穂し、鈴のような実をつけている。トマト、胡瓜も終り近いがまだまだ実り、十八本かの茄子は出ざかりである。地這い胡瓜は小さな実がつき出している。
以上のように家の畑はそう悪い成績ではない。馬鈴薯は昨日掘り残しを掘って見ると、約十貫近くあり、これまでの総計百二十貫である。
南瓜が三十貫、甘藷が五十貫、里芋が二十貫として、外に陸稲と鳩麦と玉蜀黍とで一俵と見ると、この一俵で三ケ月、南瓜と芋類の二百貫で八ケ月、合計十一ケ月は暮せることになる。その外に北海道と峰岸君からもらうものを加えれば、鶏の分もどうにかまかなって行けるであろう。
これは大きなことである。たとえば馬鈴薯にしても百貫を買うには、時価で五百円は要る。五百円でも、量で言ってそれだけ買うことは不可能だ。自家の畑から作物を得られないとすれば、二三千円の金を出さないと我家で必要な食物を買うことが出来ない。それも闇取引でおっかなびっくりの罪悪感につきまとわれるであろうし、大体それだけの支出を私の経済ではして行くことが出来ない。
はじめて私がこの家を見に来た時、二百七十坪というこの広い敷地を見て、直感的に、この戦争では、きっとこの土地が役立つような食糧不足が来るから、是非この広い屋敷つきの家を買おうと考えた。この広さでも多少不安はあろうが、それにしても全く土地のない市民たちに較べどんなに安全か、と思ったが、それから満二年ならずして、私たちはこの土地に依存せねば、腹一杯食うことが出来なくなっている。私の経済はこの家を離れては成り立たないから、爆撃などが多少あってもここを離れられぬと思う。畑仕事には、もっと注意深く全力を込めて当らねばならない。それなのに今、陸稲、里芋、南瓜、玉蜀黍等みな施肥すればよくなるのが分っていながら、暑かったり暇が無かったりしてせずにいる。
礼は疎開をさせぬことに決めていたが、今日学校へ行ったら、どうしても皆と一緒に疎開したいと言い出す。困ったことである。
明日は新潮社の新発足の祝賀会が三時からあって酒や餅が出るとのこと。今日は同盟通信社に谷崎終平氏を訪ね、寺西五郎氏に紹介してもらい、戦時パンフレットの敵国情報の一冊を書いてもらう約束をする。地下の喫茶室で宮西豊逸君に逢う。彼は太平洋協会に勤務。坂西志保氏のこと話し合う。
光生中学は二十日まで夏期修練で授業は午前中、私の受持の英語は休講なので、朝はゆっくりである。朝ゆっくり出来るのは、実にのびやかである。
学校の収入や、講演旅行の礼の残りなどで、いま手もとに現金二百五十円ほど残っている。昨年度の税金はすんだが今年度の第一回の税金七十円ほどが来ており、また保険料など二百円ほどたまっているし、質屋にも六百円ほどあり、更に英一に渡すべき金もあるのだが、この金は、とにかく家の年賦金用として持っていることにする。
今朝九州、山陰、朝鮮南部に深夜空襲のあったことが発表された。三度目の来襲である。今度こういうことが度重なって行くであろう。
新聞は週に三日ほど四頁で、あとは二頁ずつであるが、内容は重苦しいものがぎっしりとつまっている。
ヒットラー暗殺陰謀の裁判の記録が出ている。イタリアではムッソリーニはクーデターの為に躓いたが、ヒットラーは運よく難を免れた。しかしこういう独裁国では形勢が非となりかかると、こういうことが起りがちなのだろう。ドイツは内部的に動揺して来ている。これを機としてその動揺を抑えるようにドイツでは戦時の徹底動員計画を発表した。我国にやがて行われるという動員計画のよい参考となるように思われる。
新潮社は新発足を祝っているが、発足と共に、第二の統制、整理がやって来なければ幸である。
大宮島は我軍いよいよ悪戦苦闘となった模様で、東北山岳地帯で混戦をしているらしい。北ビルマのミートキイナからは我軍は遂に撤退した。島嶼戦でない陸戦で日本が撤退するのは支那事変以来無かったことである。ビルマの戦争は、どうも全体的に困難の度を加えて来ているように察せられる。
八月十四日記
米軍は猪突的にブルターニュ半島の付根の辺を南下して、その南岸に達したらしい。これは戦車のみの突撃で、歩兵を伴わないから、槍の穂先のみで柄がついていないようなものだと独軍側では批評しているが、ノルマンディー半島の北岸方面のみに地歩を得た切り、一時足ぶみをしていた反枢軸軍は、ここでまた改めて進出し得たわけで、敵側の成功と言わねばならぬ。米軍が占拠したというアランソンは、大分巴里に近くなっているが、先頃イタリアでローマを失い、今ここでパリを失えば、ドイツ側の旗色は一層悪くなる。また東方でのワルシャワも是非とも守りとおしたいところである。読売の杉田特派員のベルリン特電によると、ソ聯はワルシャワやカルパチア山脈を突破することでドイツの最後の抵抗線を破り、更にベルリンを狙っているのだという。今夏のソ聯軍の進出ぶりは、全く驚異的のもののようである。ドイツ民族よ、負けてはならない。ドイツの周辺は、一頃から見ると随分と狭小になって来ている。ベルリンには完全な住宅は一軒もないほどだ、と朝日の特派員が報じていたが、それほどになっているのなら、軍需工場への空襲もひどい損害を与えているだろう。
ドイツは飛行機が足りなくなっている模様で、独兵は常に敵の制空権下で戦っているらしい。困難が一層大きくなるのも無理はない。この頃の戦況は、まことに軍需生産力の戦いという相を、いよいよ露骨に呈しはじめた。
昨日の新聞紙上で、我軍が北ビルマの、ミイトキイナ、フーコン渓谷地帯から撤退したのみでなく、西北方のインパール、この春頃から、あと一里という所まで攻め込んだというこの宿命の地インパールを占領出来ず戦線をも整理して撤退したことが、大本営から発表された。我軍のインド侵攻戦は遂に成功しなかったのだ。ビルマの我軍は食糧には不足はないであろうが、兵器、弾薬、補充員等を日本から補給するのが次第に困難となるであろう。それに最近に到っては、イギリスの主力艦隊が航空母艦群と共に印度方面に出現しているという。ビルマ地区の我軍の戦はやりにくくなるにちがいない。
今日夕刻のラジオによると、今年五月の中支作戦開始以来の敵に与えた損害は、遺棄屍体六万余、捕虜三万余というから、大変な戦果である。支那事変が始まってから、上海戦、漢口戦についでの大作戦であるらしい。衡陽附近の農産地を得たので、上海あたりの米穀の値段が下落し、支那の食糧事情は余裕が出来たという。それだけでも結構なことである。
一昨日土曜十二日に、新潮社では新発足の祝賀会をした。二十年以上の勤続者五名の表彰についで、新会社が百五十万円の出版企業体として株式組織で許可が下りたことが報ぜられ、旧社長佐藤義亮の隠退〔但し九月一日正式発足の際は、名義上の社長はやはり義亮〕、長男〔義夫〕の新社長の就任と、取締役として、佐藤俊夫、道夫、哲夫の三兄弟に、中根駒十郎、小野田氏等が加わり、編輯顧問の加藤武雄、保田與重郎の二人、日の出編輯長佐藤道夫、新潮編輯長楢崎勤、出版部長佐藤哲夫、文化部門企画部長としての私、文学部長の斎藤君、少国民部長の菊池君の指名があった。以上が出版会に届けてある役員らしい。出版部の室では社員としては私が最高級のようである。これで私の立場も、形の上で確定したことであり、はっきりと新潮社の組織の一部を分担することになった。ビール、ウイスキイの外赤飯等の料理が出て、歌など皆が歌い賑やかであった。こんな立場において出版界に入り込んでしまっては、作家としての自分の立場が将来どうなるか、不安に感ぜざるを得ない。しかし今のような情勢が続くあいだ、ここに拠って生活をして行くことは、私にとっては、極めて自然でもあり、また楽であって、私を推してくれた楢崎氏に感謝せねばなるまい。この日新発足の祝いとして賞与の名で二百円をもらう。この頃はインフレーションで社員の生活が困難になって来ている為か、新潮社では何かの機会に金を呉れることが多い。
そう言えば、楢崎氏に野菜の配給がほとんど無くて困っているからと言い、頼まれて、胡瓜など一貫目ほど、近くの農家へ貞子をやって買わせて持って行ってやる。昨日は瀬沼君が息子功君を連れて野菜買いにやって来た。大工の長谷川のところで、十四になる娘が盲腸で急死したというので、今日私が香典を持って行ったら、ここもやっぱり野菜なしで困っているという。
昨日うちに野菜の配給があったが、十二銭で馬鈴薯五個である。これで四人家族の二日分の配給だから、どうにも足りようがない。私の所は胡瓜、茄子、トマト等が続いて出来ているので不自由はないが、毎日京王電車は野菜買いの細君連で一杯である。また南瓜、馬鈴薯等が畑で屡々盗まれるという。買い出しに来ても、なかなか買えないという。ことに馬鈴薯のように補食となり、貯蔵の利くものは、なかなか買うことが出来ず、今では一貫目五円とか七円とかいう値段だという。労力も大変であるが、胡瓜でも三円も出して買うのだから、経費も大変なものである。配給のみを待っていたら餓死ということもないが、営養不良になるので、皆争って買い出しにやって来るのだ。一種の社会不安にまでなりかかっている。
この問題を各新聞紙は繰り返してこの頃取り上げて問題にしている。小磯内閣となってから言論の明朗化が称道されて、新聞紙は批判に積極性を示し出したが、そうなると先ず、食生活に対する不足不満のみが表立って来る。しかしこの生鮮副食物獲得の問題を先ず何とかして片づけねば、都市生活の安定感は得られないであろう。軍需工場等がその所有のトラック等を利用して大口に買いあさりをしているということが、この頃よく非難されているが、工員に食わせねばならず、配給を待っていてはほとんど何も得られないという苦境に陥れば、生活力の豊富な連中は、何としてでも食物をかき集めるのであろう。配給と集荷が当局ではどうしてもうまくやれないらしい。今度の旅行中も青森でも秋田でも蔬菜の配給が極めて悪く、市民はみな闇値の買い出しによって生活しているとて、そのことを土地の新聞が論じていた。生鮮食糧は絶対量が不足しているのか、それとも集荷が技術的に困難なのか、深刻なことになって来ている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
八月十五日記 晴 大暑 昨夜より夜間は涼しくなる。日中は暑いが秋気のせまる気配あり。玉蜀黍実りはじめ昨日頃より五本、六本と収穫する。
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午前中より出社。午後日本文化中央聯盟に中野好夫氏を訪い、原稿半分だけでも急いでもらうよう依頼。その足で大阪ビルより銀座に出、タイムスビルの横の華北種苗の新事務所に川崎昇君を訪い雑談一時間、二時頃になって、文学報国会の小説部会幹事会に出席、尾崎一雄、湊邦三、大林清、妻木新平等出席。岡本芳雄君の入会志望書を提出しかつその作品「山襞」をも紹介して、入会を承認してもらう。滋は昨夜、礼は今日の午後、埼玉県の峰岸君宅から帰って来る。
今日の夕刊東京新聞に出た野菜配給不足についての当局攻撃は近来新聞の社説に顕れたもののうち、もっともひどいものである。食ってかかるという形だ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
八月十六日 晴 夜分は寒い。秋いよいよ来る。但し昼間は暑し。
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]四月末に播いた第一回の玉蜀黍をこの頃食う。二回目の五月末のものも近く食えそうである[#「四月末に播いた第一回の玉蜀黍をこの頃食う。二回目の五月末のものも近く食えそうである」に傍線]。南瓜三つ目のを食う。七百匁あり[#「。南瓜三つ目のを食う。七百匁あり」に傍線]。
[#1字下げ]美濃早生大根、東の落花生の隣に播き、それと並べて人参を播く[#「美濃早生大根、東の落花生の隣に播き、それと並べて人参を播く」に傍線]。
[#1字下げ]胡麻、ハゼ黍、里芋に土よせをする[#「胡麻、ハゼ黍、里芋に土よせをする」に傍線]。
昨日夕刻家に戻ると、礼の受持の原田訓導が来ている。礼の疎開のことはどうなったかという件について午後から来た由。まだ二十四歳の青年であるが、真面目で、よく礼のことを面倒見てくれる。今度上諏訪へ行けば、礼は特に自分の宿において成蹊高校受験のための勉強の面倒を見てくれるという。もっとも学校は諏訪の国民学校の校舎を午後に借りてするのだから、三十五時間が二十五時間しか出来ないが、午前中の座学でうんと補うつもりだ、と言う。私と貞子は児玉医師のところで先日撮ったレントゲンを見せて、(児玉氏は心配なことは無いと言ったが)多少警戒を要するということなので、どうしようかと決めかねているという程度に話をした。実は私は礼を疎開させないことにきめていたのだ。しかし原田君はむしろ疎開させた方がいいのではないか、本人の気分も改まるし、身体の為にもよいということをしきりに言う。特に礼に目をかけてくれるらしい。
夜貞子と相談したが、原田氏の膝元にいて毎日勉強を見てもらえるのなら、むしろ、やった方がよいのではないか、ということになり、決心を翻して、今朝は早く町会に行って転出証明をもらい、礼に持たせて学校へやる。礼は大喜びである。昨年は菊がいたので、夜は貞子が滋の受験勉強を見てやっていたが、今年は貞子一人で家事と組長の用をしているので、夜になっても、とても礼を見てやることは出来ないであろうし、原田君があれだけ熱心に、引き受けると言い、身体の件も無理させぬよう気をつけると言ってくれているのであれば、転校させて本人の気をくじいたり、新しい教師や学友と馴染めずに困るよりは、やった方がよいだろうという風に考え直したのである。集団疎開などという戦時の特別措置に捲き込まれるのは気に食わないことであり、これまでの政府の食糧対策の不成功を見ているので、食糧事情を気づかったりして、私は礼を出さないことにしていたのであるが、結局人の問題で、原田君の世話を十分に受けれれば、行かせた方がよいと思われて来たのである。
だが、いよいよ行かせることになると、改めて気候、食物、衣服等のことが心配になる。東京の児童の雪国への疎開には色々困難を伴うというが、諏訪は寒いが風と雪は無いという。また温泉宿であること、四五十人一組になり、六年から三年までが混ざっていて、中の六年生の礼たちの受持の原田君と一緒の宿だということなど、安心できる点である。
今朝のニュースによると、米英軍は、百隻の艦艇と大空軍の攻撃をもって、南仏、ツーロン軍港の東方に上陸した。第二戦線は南仏の地中海岸に展開されたのだ。ここは仏伊の国境に近いところで、一面イタリア戦線を牽制しながら、伊仏のドイツ軍の連絡を断ち、またフランスのヴィシイ政権の地帯を動揺させながら、ブルターニュ半島の付根を南下しつつある北仏の敵と握手しようというのが敵の狙いであろう。ブルターニュ半島方面の独軍は敵からの離脱作戦を行っているというから、案外に仏国においての米英軍の進出ははかどるかも知れない。東方ではバルト三国に残っている独軍を、ロシア軍は海岸に出て遮断しようとし、またワルシャワ附近の攻防戦は激烈を極めているという。
そして先頃トルコは独逸と断交したから、何時米英軍はトルコからブルガリアやギリシャに侵入するかも知れない。ドイツは詰めかけた将棋のように、次第に退縮せざるを得なくなっている。そして退縮すればするほど、敵のドイツに対する爆撃は有効となり、それに従ってドイツの軍需生産は低下して行くであろう。ドイツの戦いは、私たちの思う以上に困難なのではないか、危ぶまれる。理論的な性質の民族であるだけに、私たち大和民族のような徹底的な殉国思想は持っていないであろうから、とても駄目だということになったら、案外に早く崩壊するかも知れない。ただナチス党の組織の強靱なことが頼もしく思われる。チャーチルが公言したように、まさかこの十月までにドイツが参ってしまうということはあるまい。しかしこの冬の頃には、若し今のままの戦いが続けば随分苦しいことになっているであろう。
ひるがえって日本はどうか。敵はサイパンに水陸両用軍の司令部を進めたという。そしてルーズヴェルトはこの頃太平洋の各基地をめぐって、太平洋作戦を各司令官と凝らしたという。リスボンからの同盟報によると敵将ニミッツは、日本は距離の関係から欧洲でドイツに加えたような爆撃を加えることは出来ないが、封鎖をして食糧攻めにすると言っている由。しかし満支との連絡を断たれぬ限りは、食糧の最低量は確保出来るであろう。だが若し、敵の言うごとく、ニミッツ軍が支那本土へ届き、マッカーサー軍がフィリッピンに届くような事態が生じれば、我国は南方資源地帯と切り離されるから、軍需資源、特に石油を失うこととなり、重大な困難に直面するにちがいない。
そして、そういう事態下において、その時は支那大陸で彼我の間に決定的な大会戦が行われるにちがいない。最近ではアメリカの機械化部隊三万人がすでに支那に入っているとも言い、また支那軍をアメリカ流に訓練し、組織し直しているとも言う。いくら敵が図に乗っていても、我本土に侵冦するのは、急には出来るわけがない。敵が今の予定どおり進出して来るとすれば支那本土での決戦こそ、多分大東亜戦の最も大きな山となるであろう。
朝日のリスボン電報によると、アメリカではこの戦争はやがて遠くないうちに終結する(つまり敵が勝つということだ)という観測をするものが多くなり、軍需産業は平和産業に転換しようと計画し、また人間も平和産業へ転業しておいて失業から免れようとするものが多い。その為に敵の生産はこのところ低下するという現象が現われているのだという。いかにもアメリカ人らしい先っ走りした考えかたである。日本はどうか。そんなことを考えるものは一人もいない。それどころかこれから工場をいよいよ拡張し、徴用工を多くとり、学生生徒を勤労させるという徹底動員の組織が実現しようとしている。敵の生産組織や生産力がいくら大きくっても、こんな風ではきっと敵の国内情勢に一つの危機が来るにちがいない。少くとも大東亜戦は、そんなに早く終ることはない。彼等は大和民族というものを知らないのである。
都では政府の指示に従って、最近の野菜不足を救うため、馬鈴薯と麦粉とを、米と差し引かずに、五日分近く特配するという。一種の緊急措置である。野菜の集荷、配給では、各新聞が論ずるように、都、つまり政府の措置は悉く失敗に終った。新聞は社説欄、投書欄を挙げて、これを論じて来ていた。とうとう政府がこの処置に出ざるを得なくなった。
また先に四日分、非常食糧分として米は前渡ししてあるのだが、どこの家でだって、今頃そんな余裕を残しているところは無い。その為であろうか、非常用の米の前渡しとして、更に五日分を渡すという。だがこれも実際には、一種の特別補給となって、都民はすぐに食い込んでしまうにちがいない。そして空襲でもあった時、米の配給が遅れ、九日分も前渡ししてあるではないか、ということでは、かえって混乱が起きはしないだろうか。少くとも四日分とか五日分とかの前渡しの分だけ、配給されないとすれば、その間食わずに待っていねばならぬ家庭がいくつも出来るであろう。
危険なことだ。こういう非常食糧は町内会あたりで預っている方がよくはないか。
午後美濃早生大根を二畦ほど播く。これは去年は大分よく出来て冬のあいだとても助かったものであった。この頃になって、種子類の不足が大きな問題となって来た。東北の水害地では、米作の唯一の補いとして大根を播きたいのだが、その種子が著しく不足しているという。東京でも街頭の種子屋には大根種子はほとんど無い。僅かに蘆花公園駅近くの種子屋で大根、白菜の類を三十銭ずつ買い、一昨日は中野の十貫坂上で少し買って来た。隣組の農園は戦時農園として区に登録すれば種子の配給があるという。組の人で登録したいという人がいる由。私の畑でも種子のとれるものは、みな心がけて取るようにして行かねばなるまい。
夜日記を書いて十時半にいたる。
八月十九日(土)
礼を疎開させるとて、貞子は蒲団の手入れなどで夢中になっている。二十一日午前中に学校へ持って行くことになっている。重さは八貫目までという。
一昨日礼の中野本郷国民学校にて疎開児童の父兄会あり。先ず学校長より、疎開について話があった。「こういうことは、日本の教育界あって初めてのことでありまして、とにかく、ここまではどうにか運んで参りましたが、細かいことは、今だに分らぬことが多いのであります。宿が大体きまり、ついて行く先生方、それに寮母の方々も半分ほど決まりました」云々と。十名の教員、七名の寮母(二十歳前後の娘たち。あと半数は現地で傭い入れる由)が紹介される。それから父兄は新編成の組担任の教師の室に入って話を聞き、また戸外に出て、今度は宿舎担当の教員の話を聞きにまた校舎へ別々に入る。私は両方とも原田氏である。礼の組は以前の礼の二組に、女子が少し入れられた新しい第二組である。二十一日午前中に荷物搬入、二十二日は朝五時頃から父兄は、中野駅まで車など持ち寄って荷物運びを手伝ってほしい、ということである。これは私には出来ない。母親たち原田君に色々のことを訊ねて当惑させる。
米英軍は、はじめ上陸したノルマンディー半島からその南方のブルターニュ半島の根元の辺を遮断するように南下した様であったが、突然米国機甲部隊はアヴァランシュでドイツ陣を大きく突破し、そこから道を東北にとり、パリに指向し、オルレアン、シャルトルに侵入し、四五十キロしか無い東北方のパリに肉迫しつつある。米機甲部隊のこの進撃は目ざましい。四年前の一九四○年の春に、ベルギイとフランスの国境から突然西進して大西洋岸に達し、英仏軍を二つに分断したドイツ機甲部隊の進撃を思わせる。パリとその附近は燃料食料の欠乏で秩序を失いつつある模様で、在留邦人はドイツへ脱出したという。セーヌ湾南岸のカーンにあって東方へ進出しようとする米英軍を抑えていたドイツ機甲部隊は、シャルトル辺から北上する米英部隊に包囲されそうになり、北方セーヌ河方面に急に退却しているという。
ドイツ軍は専ら離脱作戦を行っているが、この退却ぶりは、戦線がもう定着し得なくなり、大きな総退却となっていることを示している。パリはもう近いうちに陥ると思われる。ドイツの戦争は難かしくなって来た。戦力がよほど低下して来ているのではないかと危ぶまれる。ドイツが破れたら、ということは、刻一刻と我々に重っ苦しい感じを与えるようになって来ている。
今日新潮社で全男子社員に株を与えた。私や菊池君などには株を三十株与えた。と言ってもこれは在社中株の配当金をもらうというだけのことで、議決権はなく、また退社の時は返却するという念書を入れてのことである。一種の賞与の変形のようなものにすぎない。
文学報国会から、当分、小説を主にした雑誌の批判委員会をおくから委員に加われと言って来る。本多顕彰、芳賀檀、宇野浩二氏等も一緒の顔ぶれである。
八月二十日
礼の疎開の支度とて、貞子はふとん作り、私は白布に名を書いたり、罫紙をとじてノートを作ってやったり、昨夜から多忙である。この日出来た四枚のふとんのうち二枚と学校用書籍とを一包にして、中野本郷校近くの英一たちの下宿松岡家まで自転車で届ける。出がけに、田居君、川崎のところまで行くとて自転車で寄り、門のところで話をする。ドイツはもう駄目だね、とか、そうなるといよいよ日本の戦争も困難になるし、前途は全く見とおしがつかなくなった、とか、いっそ北京あたりへ越そうかと思っている、北京は支那の町だからその中に十分の一ぐらいいる日本人を狙って爆撃することもないだろうと思う、などと田居君は言う。北京が爆撃されないというのも妙な見とおしである。ともかく祖国が重大危局に直面したという話に落ち、その先はどうすればよいのか、ということになると、おたがいはっきりせぬ。立話で別れる。帰路長谷川大工の家に寄り薪を一束つけて帰る。
永福町辺で自転車の空気が抜けたので近くの福田清人君を訪ねる。猿股一つで、畑を夫人としている。縁に腰かけ、ここでも戦局の話。おたがいに来年は点呼があって、それから後はお召しを受けると思わねばならぬということや、彼が文化部副部長をしている大政翼賛会では三百人ほどの人員のうち、毎日一人ずつぐらい応召がこの頃はあるという話など出る。彼の手作りの玉蜀黍を馳走され、空気を入れて出たが、暫く来ると、また空気抜ける。パンクした車を一里ほど押して家へ夕刻戻る。
二三日前朝日新聞に出ていた米誌タイムから転載のサイパン島の我が同胞の最後の模様を記した記事が今日読売にも紹介されていたので切り抜く。これは敵国人の眼に映った大和民族の死に直面した様相で、遠く我等の祖先が一家族、一藩、一城をあげて戦いに殉じた様子そのままである。我が戦国時代の絵巻のように美しく悲痛である。外敵に攻められて国が破れるとき、一城一家を挙げて死なねばならないのが、我民族の奉公の道である。軍人のみでなく、非戦闘員も、戦い破れた時は死ぬということが、敵国人にとっては大変な驚きであったらしい。彼等は冷酷にそれを見て描いている故に、死に直面した大和民族の心理は少しも掴めていないが、その形のみは、相当によく報道していると言っていいであろう。こうして同胞は非戦闘員の婦人、子供までサイパン島の失陥に殉じた。目下大宮島テニアン島では組織的な戦闘は終り、残存の我小部隊がなお各所で頑強に抵抗しているらしく、夜間は曳光弾が交錯しているとか、我が小部隊に敵が奇襲されて閉口しているとかいう味方と敵の報道が時々新聞に出る。これ等の島々でも大和民族はこうして散って行っているのであろう。
なお最近の敵側の情報では、一昨年の冬に撤退したガダルカナル島で、今なお我が小部隊が残存していて時々敵を襲っているという。何という生き方、戦い方であろう。あの島は相当に大きく、森林深く、そういうゲリラ戦に好都合のようであるが、それにしても我が民族の敢闘精神は、神のようでもあり、また七度生れかわって来た怨霊のようでもある。一年半以上も、何の補給なき敵占領の蛮地の森の奥に生き、敵の糧と武器とを得ては戦っているのである。ああ。
夜ラジオ放送が八時半頃にあり、今日夕方五時から一時間、六十機の敵機が九州と中国を襲い、我方はそのうち十数機を撃墜したという。今年になってから四度目の空襲で、機数は格段と多くなり、しかもまだ明るいうちにやって来たことなど、注意される。在支米空軍は次第に増大して来ているようだ。生産機構への被害が多くないようにと祈るのみである。
八月二十二日(火)陸稲出穂初む[#「陸稲出穂初む」に傍線]
一昨日午後と夜半の敵機の九州への空爆は、敵としても全力を挙げての出撃らしい。八十機来襲したうち二十三機撃墜というのは、よい率であるという。ことにその内三機は我方戦闘機の体当りだというから、防空部隊の盛な戦意のほどが窺われる。それにしても六十機〔大本営発表、最初六十機、のち八十機〕という機数の空爆は相当な被害を生じたにちがいない。東京へは何時やって来るか、という話を新潮社で皆でする。サイパンの飛行場のみでは不十分であろうから、グワム、テニアン等を完全に占領し、そこに大飛行基地を作っての後になろうから、今年の十月か十一月であろう、と話し合う。
テニアン、グワム島の島々では、なお我が生き残りの部隊の敢闘のさま、夜になると敵のうち上げる照明弾によって推定されるという。すでに組織ある部隊は全滅したので、通信力のない小部隊がなお残って敵を奇襲しているのであろう。我方はそれを救援する術なく、僅かに潜水艦か飛行機によって遠くから敵の照明弾を望見しては、これ等勇士の最後の戦いのさまを想像するのみである。色々な戦況報道のうち、この照明弾望見ということほど悲壮なものはないと思う。
敵機六十機というこれまでに無い大きな編隊で九州を空爆す。六十機の四発爆撃機の昼間爆撃を被れば、八幡ぐらいの日本町はきっと、ひどい被害であろう。製鉄所は異状ないというが、市街の惨状は多分想像を越えたものにちがいない。
外電を、よく気をつけて読むと、セーヌ南岸のカーン地区で西方から来る英米軍を支えていた独軍は、その南方から東進してシャルトルに出、そこから北進してセーヌ河を越した敵の機甲部隊に西南東を包囲され、北東に退いてセーヌ川を渡って脱出しようとしている。ここに集まっていたドイツ軍は、その主力であったらしいから、万一この部隊がセーヌ南岸で包囲捕捉されたら、在仏の独軍の力はがた落ちとなろう。この離脱作戦は相当に困難のようだが成功せねばならぬものである。
ヴィシイのペタン政府はアルサスに近い〔アキ〕に移ったという。そして仏領印度支那に関してはドクー総督に政治上の全権を委任した。全くの緊急措置である。南仏には、フランス兵が多く米英と一緒に上陸して進撃中だというから、フランスは全く混乱に陥ろうとしているのだ。ドゴール政権等の英米の支持を得たフランスの亡命政権はきっとフランスの占領地域を支配することとなろう。
西方ではこのように危いのに、東方においても、バルト三国に残った独軍は、赤軍の作った廻廊によって、東プロシアの独軍と切断され、孤立したという。そしてその孤立部隊を救うべく、ドイツ軍は赤軍のこの廻廊の中に更に廻廊を作ろうと努力しているようだ。またワルソオに対する赤軍の攻撃は一層強化され、それと同時に南方ルーマニアのベッサラビアに入った赤軍は、そこからまた新攻勢を開始したという。
この夏の初め以来、いな昨年秋の赤軍の新攻勢開始以来、赤軍は、三年前のドイツ軍がロシアに向っての大進撃をした地域の悉くを奪回し、更に西方に深く、ドイツの内部にまで侵入しようとしている。赤軍の力も大したものであるが、東、南、西の外、また西南に当る南フランスに敵を受けたドイツの苦闘は大したものらしい。どうもドイツは昨年からの英米の大空襲によって各都市をはじめ工場をきっとひどく損われているのだろう。飛行機その他の軍需生産が思うように行っていないため、戦うごとに不利に陥り、後退を重ねているもののように推定される。
八月二十七日記
甘藷蔓上げ二度目[#「甘藷蔓上げ二度目」に傍線]
[#1字下げ]蕪大根、聖護院大根、人参、縁の前と栗の木の下に播く[#「蕪大根、聖護院大根、人参、縁の前と栗の木の下に播く」に傍線]。
この四五日、日記を休んでいるうちに、急激な変化が、又しても起っている。世界の事情は激流そのままだ。二三日前にルーマニアの内閣の更迭が発表されていたが、突如としてルーマニア国王はソヴェート、米、英等と休戦条約を結び、ルーマニア軍の多くは戦闘を停止し、ブカレスト駐在のドイツ大使館の消息は無い、というから、ブカレストに於てのドイツ軍の支配力は失われているのだ。そしてドイツの援助による新しい国民政府が(多分ハンガリア寄りのドイツの支配力下に)生れたという。このことをドイツ側ではルーマニア国王と少数の側近者の裏切り、と称している。悲境にあるドイツは、この変事のために、ルーマニアの大半、つまりこの国の貴重な、油田と農産物地帯とを失って、カルパチア山脈の西方に退縮せざるを得なくなり、赤軍は機に乗じて、この国に深く侵入するであろう。
そして、時を同じくして、米英軍は、フランスの西南部サン・ジアン・ド・リュスに上陸した。またノルマンディーより急進撃中の米英軍はパリに侵入して、猛烈な市街戦を展開しているという。米英が仏国の西岸に上陸したというのは六月六日のことである。まさか、こんなに急にパリに敵が到達出来るとは思わなかった。以前に、ある中立国筋の新聞が第二戦線が展開されれば、後は短期戦だという予想を発表していて、まさか、と思っていたが、昨今の事態は、どうも、長期戦の形とは言われない。ドイツの周辺は、緊迫ただならぬものがある。今夕のラジオを聞いていると、ポルトガル、スウェーデン、スペイン等がペタン政府の承認を取消したとか、ベルリン、マドリード間の往復をしていたルフトハンザの飛行便が中止になったとか、スイスとポルトガル間の郵便は停止になったとか、ドイツ周辺の様相はこれまでとは急激に変化して来ていることが、ありありと分る。先にイタリアの崩壊があり、近頃になってトルコの対独断交があり、ブルガリアの対ソ中立が濃化し、ここに遂にドイツへの石油供給国ルーマニアがドイツに叛いた。
ドイツの戦勝の象徴のように思われていた東西両隣国の首都パリとワルソオは今や敵の手に陥ろうとしている。
ドイツは危い。そう言わざるを得ない。ドイツが崩壊することはあるまい、と私など最近まで、その非勢を見ながらも、持久力は相当にあるだろうと思っていたのだが、今では、そうも思えなくなった。ドイツの支配下にあった諸国は、もうドイツの敗北を予想しはじめ、ドイツからの離脱を策しはじめている。こうなれば、ことごとにドイツのすることが難かしくなるであろう。そして、そうなれば、あの理論好きのドイツ国民は、遂に戦う意志よりも自己の推理を信じはじめ、戦争が見込みの無くなったことを感じ始めるにちがいない。そうなれば、軍隊の力は急に失われて行くだろう。侵入する敵軍はいよいよ自信を強め、こうして戦いの秤は急に傾いて来ることとなろう。西欧人のような理論的な民族においては、大和民族のような死を超えて国難に殉ずるという奉公の心は無いのだから、致しかたのないことだ。そうなれば、英雄ヒットラーといえども、いかんともすることが出来なくなるであろう。そうして物事が次第に取りかえしのつかない所へ落ちて行かなければよいが、と私たちはただ念じている外はない。
二十三日に、学徒と女子に対する勤労令が発布された。学徒動員はこれまでの事実を法文化したもので、教員、校長をも含めて、中等学校の低学年も勤労に参加することとなり、女子は四十歳までの未婚の女性が、しかも不急職場から緊要職場への転換をすら命じられることとなった。この数日前には、学校や官庁に奉職する技術家、理科系教員等が、現職のまま緊急産業に勤務する法令が出されている。こういうことの総てが、むしろ遅きに失するぐらいである。
私自身の立場に関することでは、先に芸術科の教職を失って、それに代って得た光生中学の職も、これでいよいよ失うことが分った。学校の教員という、最も権威ある言わば安全な職も、戦いの波の中では、遂に安定していることが出来ず、国民学校の教員は疎開集団について、多勢の子供と共に雪の深い北国へ動いて行き、中学校や高等学校の教員は生徒と共に工場に入って勤労し、大学の教員もまた勤労の指揮をするのでなければ職を失う。これこそ戦争というものだ。社会のどの部分にも遊んでいる力というものが無くなるのだ。
礼の疎開はいよいよ明日となる。今日は貞子は礼の身につけるものをあれこれと手入れしている。私は、歯ブラシ、下熱剤、腹の薬、文房具類、小刀等持ちものを色々整えてやる。弁当箱や洗面器、コップまで必要なのだ。箸箱がいるというのに、どこにも売って無いので、竹を切って筒とその蓋になる筒とを合せて箸箱に作ってやる。
今日は日曜日。午後、三四日続いた雨があがったので、畑に出て、人参、蕪大根、聖護院大根等を播く。また甘藷の蔓上げをする。七月の末頃に、私の旅のあいだに貞子が一度蔓上げをしておいたというが、大分根を下していて、中には小指程の藷のなっている蔓もある。
午後ずっと夕刻まで働き、ひどく草臥れる。
夕刻半月ぶりに風呂を立てて入る。気持よし。健康に自信が出来て来て、畑仕事もあたり前にやれる。満ち足りた気持。
この頃、いつどういう事が起るにしても、その日までは日々を楽しく、明るく暮し、少しずつでも仕事をして行くことに、考をきめる。
一昨日「戦争の文学」出来、二十部、全国書房から届く。倉崎君から「爾霊山」の原稿催促あり。
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八月三十日記 陸稲出穂し出す[#「陸稲出穂し出す」に傍線] 玉蜀黍最盛期[#「玉蜀黍最盛期」に傍線] 大根類発芽[#「大根類発芽」に傍線] 礼の疎開[#「礼の疎開」に傍線]
[#ここで字下げ終わり]
礼は二十八日に出発した。古い方の大きなリュクサックに、前に送った荷物に入れなかった本や教科書や手工道具類を入れ、また薬品を各種一揃入れ、水筒と弁当を入れると、三四貫もある重い荷となった。四五日前から、疎開を遠足か何かのように待ち遠しがって、もう幾つ寝れば行けるとか、疎開すると思うと、ひとりでにこにこ笑われるなどと言っていたものだったが、いよいよ当日になると、何となく様子がひっそりとし、少し悄気ていた。貞子は、礼はもう家で出来た物は来年二月に卒業して戻るまで食べられないからとて、卵や玉蜀黍や南瓜などをこの頃しきりに食わせている。食わせ過ぎて腹をこわさせぬようにという原田訓導の話もあり、心配したが、さしたることも無かった。この日は早めに夕食をし、弁当も作り、私が送ることにして、リュクサックを背負い、礼は着物類を入れた風呂敷と洋傘や飛行機材料の束をまとめたのを持って、八時頃月明の中を出かける。貞子は、礼が家を出るその時刻まで、靴下に名を書いたり、物を揃えたりして、感傷的になる暇もなく、礼も元気で出かけた。これで当分この子が家にいなくなるのかと思うと、何でもないと思っていたことが今更大きな印象となり、私は少し感傷的になった。
新宿まわり、鍋屋横町下車で、定刻九時に五分ほど遅れて、中野本郷学校に到着。校庭には提灯が一杯につけられ、父母兄弟が整列した生徒のまわりに立ったり、声をかけたりして、提灯行列でも始まったような賑やかさである。「父兄の方は列に入らないで下さい」とラウドスピイカアで学校の教員が注意している。見ると暗がりに整列している中には、三年四年の生徒であろう、九歳か十歳ほどの小さないたいけな女生徒が、小型の鞄を下げたり、赤いリュクサックを背負ったりしているのが見える。あんな子たちを、何時までという期限もなく、手離してやる親たちはどんな気持だろうと思うと、配給の蝋燭を惜しげもなくともしてまわりに集っている大人たちの気持も哀れであった。礼は風呂敷を持ったまま列に入って行ったが、どの辺にいるのか暗くて分らない。薫が来ていて、人ごみの中でひょいと逢った。彼のいる西町の附近の子供たちが疎開するので、礼を思い出して来たらしく、朝日の週刊少国民と雑記帳を二冊持って来てくれる。しばらく立っていたが、どうせ駅までリュクサックを負って行かねばならぬので、薫に別れ、十五分ほどかかる中野駅へ行く。
九時半頃である。姉や母親らしい女の人たちが、もうここへ来て待っているのがある。出札口の前の棚にリュクサックを下し、そばにいた女の人に頼んで、駅から近い瀬沼君宅へ行き、今夜泊めてくれと頼む。そのためにと持って来た三合ほどの米を夫人に渡して駅にとって帰す。十時二十分過頃、そばにいる人たちが「来た来た」と言うので、表通へ出て見ると、高く低く提燈を赤くともした行列が鍋屋横町の方からやって来る。暗がりを歩く子供たちを囲んでの、親たちのやや殺気立ったような行列が近づいて来る。これは本郷でなく、もっと向うの新山学校だとのこと、その後に〔アキ〕学校が続き、本郷が最後に到着する。三年四年五年六年の順で、周囲の大人が多く、中々列内に入れぬのを、やっと割り込んで礼を捜し、歩きながらリュクサックを背負わせ、傘の包みを渡した。リュクサックが重くて、待っている間に気持悪くなりはしないかと気になった。駅前の広場に整列し、そのまわりを親たちが取り巻き、「××ちゃん、元気でやれよ」とか「お母さんが向うの改札口にいるからね」とか、色々な声をかける。教師が興奮して、生徒に番号をかけたり、列の間を歩いたりしている。これだけの子供を、遠いよその国で起きるから眠るまで、いや眠ってから後も二十四時間にわたって世話をするのは容易なことではない。五十人に教員一人、寮母二人と言うが、どれだけ手がまわるか。
あまり親たちが生徒のそばへ寄るので、列のまわりを町内の有志らしい連中が歩きまわりながら「あんまり皆さんがそばに寄ってまわりを囲むと気分を悪くする子供さんが何人も出て来ますよ」と注意する。
先生は生徒をその場にしゃがませる。重いリュクサックを背負ったまま礼はそれを下して休むこともせず、前かがみになっているので、私は「礼ちゃん、坐って、リュクサックを下へ下すんだよ」と三列ほど内側にいる礼に言う。礼はそれでやっと坐った。それを見て「お父さんは帰るよ」と声をかけ、少しはなれて私はまだ立っていた。礼はこっちへ顔を向けたきり分らなくなった。二三十分して、「立て」の号令がかかったらしく、生徒が立ち上ると、親たちが嬉しいとも悲しいともつかない感極まった声で「わあっ」と声を立てる。もう誰がどこにいるか分らない。
そこへ瀬沼君が来たので、私は彼と彼の家の方へ歩いて行った。
彼の家でも五年生の女の子が三日ほど前に信州の伊那へ疎開したとのこと。少し安心したような、がっかりしたような淋しい気分が彼の家にも感じられた。
八月三十一日記
欧洲の情勢は急転しつつある。ドイツの東方での蹉躓、西方での敗北は医し得ないもののように見える。今日の夕刊東京に、ドイツ当局の戦局観がDNB通信社を通じて発表された。ドイツは自国の重大な敗北を自認しつつ、なお一脈の光明として、新に戦線に投じた補充兵と新兵器(V一号の外に何があるかはドイツ側で明示していないが)の力によって、西方の戦線をどこかで定着させるという希望を失っていず、しかも、戦争開始当時より増大している地域と諸民族の数とによる力を信じるようにと布告している。
だが、反枢軸側に有利な情勢としては、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、パリが遂に陥落し、ド・ゴールの仮政府がフランスのこの首都に設けられたこと、
二、ルーマニアの叛逆についで、その南隣にあってトルコと境を接するブルガリアが、対ソ中立と対米英休戦を申し出、ドイツ軍がこの国から急速に撤退しつつあること、
三、ソ聯軍はカルパチア山脈を越えてハンガリアへの侵入を志し、またルーマニアの石油産地プロエスチでソ聯軍とルーマニア軍が合体し、独軍に不利となったこと、
四、米軍はマルヌ川、セーヌ川の北岸へ進出したこと、
五、米英はドイツの石油工場や都市を大挙して爆撃しつつあること、
[#ここで字下げ終わり]
等が挙げられる。ドイツの戦闘的精神力は続いても、こういう組織的空爆に逢っては生産力の低下は蔽い得ないであろうし、またフランスの中部、西部、ルーマニアの中央部等に取り残された独軍兵力は主戦力で、しかも相当の数にのぼるであろう。これは大きな痛手であろう。
一九三九年の九月三日に始まったこの欧洲の大戦乱は、明後日で満五年を経過し、六年目に入る。思えば長い間の戦争だ。その間英国は、この春まで主力を戦場に出さずに、アフリカ、イタリア等で僅かに戦ったのみで戦力を蓄積し、専らここ三年間はソ聯がドイツと戦って過したのだ。戦い疲れ、物質の涸渇したドイツを新鋭の戦意と尨大な圧倒的な物量とを持った米英が西と南から攻め、しかも東からは強靱な民族力の総てを挙げて反撃しつつ急進するソ聯兵が殺到し、三ケ国もの盟邦が離反しつつあるドイツは、傷つき、疲れ果てた猛獣のように苛立ち、怒りながら、最後の力をふるって敵を挫こうと猛り狂う様に似ている。
祖国日本の戦う姿も、この頃は悲壮なものとなって来た。生産増大に全民族の力と時間が集中されている。
小磯新政府が最近提示した新政策には、色々国民の日常生活に関聯したものがある。その内容は重軽様々であるが、
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一、徴用工員の収入補填額の増大。これまでは三十歳以上は年齢如何にかかわらず、収入最高保証額九十円、家族手当一人につき十円ということであったが、今度は最高(四十歳以上の者)百四十円に、家族手当一人につき十円宛となったから、子供三人と妻とのある四十歳以上の者が徴用されると、その収入はたとい少くても補填額と家族手当を入れて、百八十円となるのだという。巡査、中等教員などの収入よりややよいという程度であろうか。
二、大都市の生鮮食糧品の価格を二割から六割ぐらい引き上げ、供出を奨励して配給を多くし、東京大阪等の如きは、更にその上に随時価格を上げて、出廻りを促進し得るようにした。但し小売価値はあまり高くせず、政府が補填する由。
三、米と引換なしで五日分の馬鈴薯の配給をした。(私の家では昨日四人の五日分として四貫目配給があった。)更に五日分非常用貯備米を配り、その上、野菜不足の補いとして缶詰め、乾燥野菜等の特配を近く増大するという。(副食物の配給さえ十分なら、都市人の生活は格段に楽になり、どんなに喜ばれるか分らぬ。)
四、官吏は日曜も無休だったのを、第一、第三日曜には出勤して、外の日曜は休むことにした。
五、炭坑の労力不足を補うために、普通工場の余剰人員をそちらへまわすことにした。
六、学徒、女子の勤労を、法文化して、強行制度とした。
七、警察から発行していた旅行証明書を廃し、旅行者は前日申告制と身分証明提出とによって切符を確保することとした。
八、学徒の勤労生活に呼応し、予科士官学校と経理学校は学科試験を廃止した。
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以上のうち、一、二、五、等は重大な施策だと思われるが、その正確な実行はなお今後の結果を見ねば分らない。
最近新聞に出た諸種の記事の中から、今の戦う日本の姿を明確に語るものを四五篇切り抜いてここに貼ることとした。敵陣の中に残った我軍の最大の基地、十万もの兵が立て籠っているという(そして、弟の薫もそこにいる筈だ)ラバウルの生活相、潜水艦が敵中に孤立した遠隔の島(そういう島々が、マーシャル群島のウォッゼ島、大鳥島、ブーゲンビル島、ラバウル等太平洋上に数限りないほど出来ている。いずれも潜水艦による外交通不能なのだ。)を守る陸兵に食糧を補給する話、飛行機不足とその粗悪化とがどんなに我方の戦力を低下させているかを報じた文章、学生生徒が造船その他の軍需工場で勤労している姿、等々である。いずれも記者の扱い方で多少文飾に気障なものはありながらも祖国の戦う姿の痛切な真実のある部分を記録していることで、貴重な文献であると思う。〔切抜貼付あり。〕
三十一日午前、石野径一郎君寄る。彼は以前城東地区の国民学校に勤務したり、帝国教育会出版部に勤めたりしながら小説を書いていたが、この頃は京橋実業学校の教員をしているという。教員と言っても、今学校に残っているのは一年と二年のみで、他はみな勤労に工場へ入っているのだから、その方の話ばかりをする。その学校の生徒の入っているのは蒲田方面の日本軽属合金〔ママ〕とかいうアルミ製品の発動機の部分品を作る鋳物工場である。作業は流れ作業になっていて仕事は簡単であるが、それだけに、厭きが来て、立ちづめなので疲労多い。七時から十二時まで、十二時半から五時までで中間の休みなく、夏冬とも同様であるため、朝の出勤が苦しい。生徒たちは出勤率がそのまま学校成績となるので休むことが出来ない。労働者並の配給があることになっているのだが、この五月から行っているのに、まだ加配米の配給なく、生徒に大きな弁当を作ってやる為家庭は大変困って、家のものは雑炊食堂通いをしているという。加配米は渡っていることになっているのだが、配給所から工場に来ていない。配給所へ行くと、まだその米は到着していないと言うのみで要領を得ない。副食物のみは、工場自体が農村からの買い出しでこの頃まで豊富であったが、軍需工場の大口買い出しが非難されてからは、それも出来なくなったので、副食物の配給は全く無い。七時に工場に着く為には、家庭の主婦は四時に起きねばならぬ(家では滋の八時の学校に五時に貞子が起きている)ので、母親など辛くてもどうにかやっているが、下宿住居の生徒は下宿でそんなに早く起きてくれないので困っている。また生徒の仕事を指導する職長たちが学問がない為に生徒を統率することが出来ず、ごたごたが起るし、その工場には、明治大学の学生や外の中学生、女学生なども来ていて、全工員の八割ぐらいは学生生徒なので、各学校ごとに対立反感があって、喧嘩などが多いという。
工場の八割まで学徒だということに私は驚いたが、石野君の話によると、生徒たちがその工場に今春入ってから、入った生徒数よりも多くの職工が応召したために、今では学徒が工場の生産力を維持しているのだという。また、工員の不足、ことに学徒に深夜業をさせられない為と、材料の不足とのため、その工場は、これまでやっていた終夜運転をやめて、目下のところは、昼間の作業のみしているという。人と物の不足がそんな所まで来ているか、と驚くのみである。
また彼は、浅草辺のある親分が文学者を集めて、筋肉労働させている話をする。倉橋弥一君と石野君が世話して、青野季吉氏や外のもっと若い人が、そこに何人も行っていて、物を運ぶような肉体的な雑役をして、一日七円ずつもらっている由。批評界の長老青野氏があの白髪の温厚な風貌でそんな仕事をしているというのは、私たち聞くものの胸を痛ませるが、青野氏は特別待遇で、帳簿をつける仕事のみで日曜も休めるのだとのこと。しかし、文学者の多くが仕事を失い、変った職場に動いて行っている様を推定出来る話である。最近文学者に対する徴用が多くなるという噂があるが、中学の一二年や国民学校高等科生徒まで工場に行って働くという時に、文学者が机に向っていられなくなるのも当然のことと言う外はない。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年九月
九月一日
光生中学は二十八日から二学期が始まっていることは知っていたが、礼の疎開や何かで多忙のため顔を出さずにいたが、今日出校してくれとのハガキが来たので行って見る。
三年生は、夏休みの間にすでに工場に出動したとて、学校には一年と二年しか居ない。尾形校長代理も見えず、芸術科から来た遠藤君が校長事務取扱いで朝礼に出たりしている。尾形さんはどうしたのかと遠藤君に訊ねると、病気ということで退職されたのですが、方向転換でしょうな、と笑っている。尾形氏は日本大学の教授でもあるのだが、その方も講義はないらしい。この学校の柱石のような存在で、あの人なしにこの学校のことが考えられなかっただけ、学校は四年三年とそれについて行った中堅教員の不在とのため、まるで空家のようにがらんとしている。何人か来ていた講師も、植木老人と私と、物理学校生徒の伊藤君との三人のみであり、外に四五人の専属教員がいるだけである。もう学校という感じは無く、学校の残骸という程度である。しかも佐久間教諭が私にそっと話した所によると、二年生もこの十日には出動の命令が来ているとのこと、但しこれまで、命令が来てから実際に出かけるまで一月ほど延びる習慣ですが、と付け加える。
私が受け持っているのは二年の英語だから、もう十日も来れば用が無くなるというのである。収入は減少するが、しかしどうしたのかこの頃になって、原稿を依頼されることが割に多く、先日の林氏の雑誌、河出から出ることになった「文芸」の小説、厚生省の雑誌原稿、週刊少国民の原稿、それに「爾霊山」があり、また文学報国の批評欄の原稿もあって、かなり忙がしい訳だから、収入の方はどうにか補いがつきそうであるが、この学校が実質上無くなるということは何とも言われぬ淋しさを覚える。十四五歳の少年たち、本来ならば、のん気に遊ぶ外にこの世に用のないような少年たちが、石野君に聞いたような工場に行って働くというのだ。
私はこの七月にやっと到着して、まだ一頁もやらなかった二年の英語教科書の最初の章を生徒に教えながら、いつ再びこの生徒たちは学校で勉強することになるだろうかと考え、国家の直面した巨大なこの戦争の現実の圧力を思って暗澹とした気持になる。祖国の運命を開くために、少年たちよ、行け工場へ、という風に私は強く自分の考を直した。少年たちは、七月の時とはちがって、もう勉強する気は少しも無く、傍見をしたり、欠伸をしたり、でないとぼんやりと暑さにうだった顔をして坐っているだけだ。彼等に教えることは無意義だ。
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九月二日 晴 大分日が短くなり、六時頃に日没となる。
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礼から二度目のハガキ来る。どうやらたのしく暮している模様である。
パリの東方地区を、マルヌ河を越えて、東北方へ進む米軍は遂にベルギイ国境へ十六キロのところに達し、五年前の一九四○年春にドイツ軍が東方から突破したあのミューズ河に四つの橋頭堡を作ったという。
パリ西方でセーヌ河を渡河して北東に進む英軍は、その北方のソンム河を越え、これもベルギイ国境に近づいている。
南方地中海岸からローヌ河に沿うて北進する米英仏軍はリヨンに達し、またスイス国境に達したと称し、独軍またリヨン辺にあるという。
こういう戦況を見れば、ほとんど仏国全体は米英軍の蹂躪するところとなり、独軍の防衛陣は寸断されてしまった。
独軍側では「現在の北フランスの状況は四週間乃至三週間前の東部戦線の状況と全く同じで、当時ドイツ軍は赤軍の重圧を顧慮して相当距離を後退し、新鋭部隊と器材とをもって赤軍がドイツ国境へ到達する以前にその進軍を阻止するに成功した。フランスに於ても右のような対抗措置をとって居り、現在ドイツ軍が行っている大規模な離脱作戦はやがてドイツ軍を補給の点において著しく有利な状態に導くであろう」と称している。なるほど東部の戦線は小康を得ているが、ルーマニア、ブルガリアではドイツ軍は困難な立場におかれ、その上、スロヴァキアでまで叛乱軍が出たという。敵がベルギイに入れば、もはやドイツはすぐそばだ。ドイツ本国へ米英の機動部隊が殺到せぬうちに、何とかして食いとめること切に祈るのみである。
実業日本社出版部の倉崎嘉一君応召して佐世保海兵団に入るというハガキ来る。同君は一昨年から私の「爾霊山」の出版のことで色々骨を折ってくれていた人、かねて片眼が悪いということを聞いていたので、どうかしたら帰されるかも知れぬと思う。「爾霊山の完了を見ませんで行きますのは甚だ心残り」という文面である。
近日また応召者特に多い模様である。
春山行夫君より「季節の手帖」と、亡き夫人の香典のお返しにと茶を半斤ほどもらう。
九月三日(日)大根の間へ小松菜と小蕪を播く[#「大根の間へ小松菜と小蕪を播く」に傍線]
板谷君来る。二人でビールを一本飲み、玉蜀黍を出して夕食とする。
昼頃川崎昇君来る。先日頼んでおいた胃腸薬スパルを六個買って来てくれる。
独軍ヴェルダンを放棄して、更に東北方に退却せりという。またセーヌ、ソンム両河の間に残っている独軍を、その東方を進む英軍と西方を進むカナダ軍が共にソンム河を越えて進み、包囲しつつあると言われる。
米軍はマジノ線、つまり独仏国境に到達したと言う。
こうして独軍はフランス本土に於て、ほとんど足場を悉く失いかけている。読売の嬉野特派員がベルリン特電で今度の戦を前大戦と比較して、ドイツの立場を論じている。東西南に敵軍を控えて独軍は兵力と飛行機の欠乏に苦しんでいるというが、食糧は足りているという。(もっとも今度はウクライナを失い、ルーマニアを失ったので、今後は次第に穀物に不足するだけでなく、石油にも困るであろう。)だが、今度の大戦は、今日で満五年になり、随分長く、前大戦の四年三月以上であるが、前大戦の西部戦線のような塹壕の定着戦のないことが特徴である。独ソ戦では広大な欧露の平原で押したり戻したりして、絶えず機動戦の連続であった。今度の第二戦線もまた大機動戦である。これは飛行機と戦車が戦闘の主力をなしている今度の大戦に生じた現象のようである。それだけにロシアのような地域の余裕のある国は持久力も恢復力もあるが、フランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ノルウェイというように、小国又は中位の国は、戦争がそこに波及すると一気に国中を押しまくられてしまう。
ドイツの旗色が悪くなった今の状勢の危険もまたそこにある。去年や一昨年にドイツがロシアに侵入したような勢で若しロシアや英米がドイツ本国に殺到したら、ドイツは一気に征服される危険がある。
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九月八日夜 栗の木の西に三寸人参、稲の間の北端三畦に大蕪[#「栗の木の西に三寸人参、稲の間の北端三畦に大蕪」に傍線]
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静かに、もの思う夜が来た。秋の気配は日本の自然の中に忍び込んで来ている。有島武郎は、自殺する前の手記に「日本の秋を見て死にたい」と書いていたというが、祖国の秋を待つ気持が、今年の私に甚だ切実であった。まるで私自身がこの国の美しい秋の景色を見ぬうちに遠いところへ行ってしまうとでも言うようであった。それともまた、秋が来るまで祖国の首都が安泰であり、私たちの生活の幸福な日々が続くことを危く思う、とでもいうように。後の世の人たちには、こんな気持は、説明しても分らないこととなるであろう。二三年前、大東亜戦争の始まる以前の私には、こんなことはやっぱり分らなかったのだ。
夜電燈の下で机に向っていても、汗ばむことはなくなった。昨日から、また半月ぶりほどで、静かな雨が東京を濡らして、降っている。今日は社は休む日、学校は二時間あるのだが欠席し、朝から家にいる。滋も休みである。貞子は礼を疎開に送り出す前後から疲労が重なっているとて、朝ゆっくりする。礼がいないので、朝から家の中は静かである。七時頃に起きて、鶏の世話をし、餌には、昨夜夕食に食べた玉蜀黍のカラをやり、また馬鈴薯をやる。朝食には昨夜の玉蜀黍の残りを食い、そのあと飯と味噌汁である。滋は玉蜀黍がうまいとて、懸命にそればかりほしがる。四五本を食べている。七月に馬鈴薯がとれてからは、この春のように粥を食わなくても、米の不足する一食分は芋か南瓜か玉蜀黍で補い、鶏卵もあって、大食の滋も満足している。
朝のうちに、滋はうちと高橋家、花村家三軒の配給缶詰を酒屋へ取りに行く。一人二ポンドというので、四十五個もある。政府では、小磯内閣に変ってから食糧の緩和策を取り、配給物が多い。先頃は、五日分の主食としての馬鈴薯を米と差引かずに配り、今日は缶詰を二ポンドずつ、また近いうちに小麦粉を三日分差引なしで配るという。東京都その他の都市においての生鮮食品の不足ということは、近来の大問題であったが、それを応急に救い、その間に生鮮副食の出廻りをよくしようという考らしい。しかし野菜の配給は、公定価格の値上げを思い切ってしたにも拘らず、やっぱりよくならない。今日の配給を花村夫人が持って来たのは、二日分として小さい茄子が一人に一個ずつである。それも一個三銭についているとて、これまでに較べ倍ぐらいの値であるとのこと。これでは一食分の副食物にも足りない。いくら公定価を上げても闇の値段と競争することが出来ないのだから、外の出荷方法を強化するしか方法はないのであろう。生鮮食料の問題はまだまだ解決は出来ないと思う。
そんな話を貞子としながら、午後は、細雨の中を、子供の雨合羽を着、鉄兜をかぶって、ちょっと畑に出、三寸人参を小蕪の畦の両側に、また大蕪を三畦、陸稲の間へ、肥料なしで播く。ことに大蕪を陸稲の間へ播くのは無理のような気もするが、秋の大根や蕪の播きつけは時期を失えば駄目だというので、急いで雨の日を狙って下種したのである。
そのあと、これまで応接間においていた八箱の馬鈴薯は、日が当りすぎ、保存によい状態でないので、湯殿の隣の洗面所へ運び込む。馬鈴薯は全部でおよそバター箱に十五ほどある。九十貫ぐらいだろうと貞子が言っている。
昨日井上茂氏が、この春にやったバター四ポンドのかわりとして、馬鈴薯を十貫と小麦粉を五百匁ほど届けてくれたが、先頃は四人家族五日分の食糧として四貫目の配給があった。四人で五日に四貫目というと、一人が五日に一貫ということになる。しかし私の家では、馬鈴薯だと、一人二百匁ないと一食分にならない。つまり一人一日に六百匁である。配給される量と、実際に必要な量とは、これぐらい違うのである。
また食物のことを書いてしまった。しかし、この夏以来、私の家のものが苛々せずに暮していられるのは、こういう畑ものの収穫があって、冬の生活の目やすがつき、毎日の補食の心配がなくなったせいである。
大根を播くのは、九月の五日まで、と週報などの説明に書いてあるが、秋の気候は一日を争うように、急に夜など冷えて来るのが分る。日も短くなった。七月頃七時に日没であったものが、今は六時頃に日が落ち、しかも急に暗くなる。虫の声が暑苦しくなく、沁みるように、涼しく聞える。何やら、この日頃、私は大切なことを、思い忘れて、ぼんやりと生きて来たような焦躁を覚える。生きるということの核心は何か。私が生きるということ、そして、その生きる日は、ことによれば、明年点呼があって召集を受けるまでとすれば、あと一年だけしか無いかも知れぬという、その貴い時間を、為す所なく、無駄に送っていはしないか、感じること、見ること、生きること、そして、それを書くことを、十分に果さずにいるのではないか、という不安だ。いや、本当は、もっと深い、もっと曖昧な不安だ。何だか分らない。この忍び寄る秋の冷気の中で、何やら、若しその実体が分れば、その為に人は幼児のように泣かねばならないような、感傷の切ない模索がある。この切なさが満たされずに、そのまま死ぬようなことがあれば諦め切れないというような気持だ。
いま武蔵野に秋が来、やがて木は紅葉し、林には青い空が澄み、小川の水に映り、鳥が北から南へ渡る時が来ている。私という人間は、その中の点景にすぎない。私は生きている。私は畑を耕し、穀物を食い、歩き、空を見、また戻って行く。私はこの武蔵野の中にいる一つの生命だ。
そう思うとき、自分を自然の中の一点景なる淋しい生命と観念するとき、自然の中に没し切った西行や芭蕉のことが思われる。また人々の巷に漂うはかない生活人の実体として観念した時に、西鶴の作品や源氏物語の中の人物、それ等を描いた作家たちの突き放した態度の淋しくはあるが厳しいことが連想される。
俺はどういう存在であって、どこにおり、何を見、感じて生きているか。それを冷厳に、明確に把み取ること。それが私たち文学者の生きて行く道だ。自然の移りかわりも、巷の生活の相も、悉く淋しいが、しかし一切は必然の動しがたい巨大な理論に従っているもので、その摂理は厳しく美しい。
そういう諦観には、自己放棄によってしか私たちは到達出来ない。こうして神々の摂理は、変えがたく、美しく、お前の生活と運命の前に、必ずやって来るのだ、という生命の道の悟りを、この美しい日本の秋が、私に語りかけるのだ。秋の切なさと、美しさと、厳しさ。それが祖国の危急感の中で、これまでになく、新しいものに、おごそかなものに今年は特に思われるのだ。
盟邦ドイツの運命は刻々に危殆に瀕していると見る外ない。五年以前、一気にポーランドとノルウェーを征服し、強敵フランスを圧倒し去り、東南はギリシャの海岸に出てクリイト島を奪取し、イタリア軍と共にチュニジアからアフリカ北岸を東進して、スエズ運河の一歩手前のエル・アラメインまでロメル元帥のドイツ軍は達した。また一九四一年の夏ロシアに攻め入ったドイツ軍はコーカサスの山麓からヴォルガ河畔にまで達した。その時期の英雄的なドイツ民族の風貌は、現代のどのヨーロッパ民族も敵しがたいものに見えたのであった。
それが、昨年の秋からロシア軍の圧迫を受けて次第にロシア領を撤退し、辛うじてこの夏、ワルシャワ前面と東プロシアとハンガリア東境のカルパチア山脈の線でやや安定した戦線を保持し得ていたかと思うと、西方ではこの六月フランスに上陸した米英軍の急進撃に押されて、この一月足らずのあいだにフランス領のほとんど総てを放棄して、ライン川まで退かねばならなくなった。そして、ベルギーは敵手に落ち、オランダまた危いというのに、東南のバルカン方面では、ここ数日のうちにルーマニア、ブルガリアがその陣営から脱落し、それに続いて、よくロシアと長いあいだ戦って来たフィンランドがまたロシアに屈し、そこに駐留していたドイツ軍はフィンランドからノルウェーに撤退しつつある。何というあわただしい変貌であろう。
ドイツは今や「一村一邑を守って」祖国の最後の守備戦を戦わねばならぬところまで追いつめられた感じである。英米は独仏の国境に達して一時足ぶみしているというが、フランス領内にいた独軍の主力が四分五裂の状態に陥ったらしいことから考えれば、ドイツ軍の抵抗力はあまりあてに出来ぬとも考えられる。
若し、これが本当にドイツの敗戦のきっかけとなるのであれば、一体どういう風に戦況はなって行くであろうか。米英は南と西から独領をうかがい、ロシアは東北方の東プロシアとポーランドを狙うと同時に、ルーマニア、ブルガリア等のバルカン諸国を把握、ユーゴスラヴィアに達しようとしている。ブルガリアの如きは、これまで対ソ中立を守って来ていながら、その国境にソ聯軍が迫ってブルガリアに宣戦すると、即時に降服した。バルカンの諸邦は、今やソ聯の意のままに左右され、ソ聯はギリシャ海に足場を得るだろうと、批評家は論じている。この地は前大戦以来英国の力の大きく働いていた地方である。ここに入れば地中海の東方を支配することになるから、英国も、米国も、ソ聯勢力の侵入を喜ばぬであろう。
そしてドイツの衰退と同時に、英米とソ聯は、専らその勢力圏の拡大に力を払っているから、ドイツ本国への侵冦もまたこの三勢力の争いとなり、多分どんな犠牲を払っても、三国とも出来るだけ深く、そして早くドイツへ侵入することに努力するであろう。そのため、ドイツの受難は、一層早まり、かつ深刻きわまるものとなろう。ドイツがこの戦のはじめにポーランドへ侵入した時、ロシアは突然、破れたポーランドの東境から侵入して、ポーランド領をドイツと折半した。獲物が弱まるとなると、その肉を一片でも多く手に入れねばならないのだ。ドイツがいま直面しているのは、そういう根こそぎに寸断される危険だ。
ドイツは、奮い立って、その悲運を免れよ、祖国の光栄を保て。だがドイツは現代の戦を決定する飛行機の絶対量が足りないのだという。そして飛行機の量を誇る米英は、ドイツの陣地を突破したまま後方と連絡もせずに前進するその機甲部隊に、絶えず空中から物資を補給し、その方法によって、フランス戦線のこのような急展開をなし得ているのだという。米英が昨年頃からしている大規模な対独空爆の効果は、先ずドイツの飛行機工場を破壊するということで、大きな働きをしたものらしい。その効果が決戦の今となって、ドイツの不利を生んでいるのだ。飛行機の量の不足。それは我が国の問題でもある。小磯新政府は昨日から臨時議会を開いているが、米内海相の如きはその演説で簡明に飛行機の不足が太平洋上の我軍の戦況不利を来したことを述べている。ああ。
九月九日(土)雷雨
ブルガリアは対独宣戦布告をしたという。先頃までの同盟国であったルーマニアが対独宣戦をしたのは十日ほど前であるが、いままたブルガリアがそうなる。これはブルガリアに侵入したソ聯の要求らしい。
今朝の新聞を見ると、ソ聯大使は外相を訪れて、一時間半も会談していることが出ている。ドイツの崩壊近しと見て、国際間の情勢が急に変って来ているというのが、社での話である。日本の平和産業の株がこの頃になって急に騰貴して来ているという。それも国際間の動きの為であるという。だが、それがどういう動きなのかは、よく分らない。多分、かなり希望的な観測であろうが、ソ聯は次の敵手として米国を何よりも怖れているので、日本が米国と戦うならば、日本の尻押しをしたいにちがいない、ということを言う人がいる。しかし平和株の騰貴は解せぬことである。アメリカならば、彼等は戦争は勝っていると思っているのだから、そういうこともあるであろうが、日本に急に平和がやって来るとも思われぬ今、何が原因で平和株が上って行くのであろう。
またドイツのV一号に次ぐV二号というのは多分ガスであろうと言う。これは米英側の宣伝でもそう言っているというから、それの影響であろう。先頃実験室で研究の犠牲となって死んだ東大理学部大段助手(博士となる)の研究が完成したのは、特殊電波にのみ感応して破裂する爆弾であろう、等々、色々新兵器の出現の噂がある。前大戦であんなに使われた毒ガスは、今度の大戦では組織的には使われなかった。しかし赤十字事業もやめるというほど苦しくなって来ている独軍はあるいはこれを使い出すかも知れない。それは最後の絶体絶命の防禦兵器としてであろう。
十一日より毎月一の日に三度行われる在郷軍人の早天行事が行われることになり、その召集状が今日来る。
朝学校が一時間のみなので、十時から田原忠武君を見舞う。左肺浸潤という。蒼い顔をしていて、最近召集と徴用と両方のお召しがあった。召集の方は横須賀海兵団で、これは十四日に是非行かねばなるまい、と言う。
夕刻、成城近くの宍戸甚太郎家に行き、先日約束の人参一貫目(三円)と南瓜一貫目(三円)とを買って、七円置いて来る。
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九月十日 晴 二百十日、二十日頃、多少雨あれど、好天気続き、陸稲九分通り出穂す。玉蜀黍終り近し。応接間窓下の鶏舎バテリイ式に改造す[#「二百十日、二十日頃、多少雨あれど、好天気続き、陸稲九分通り出穂す。玉蜀黍終り近し。応接間窓下の鶏舎バテリイ式に改造す」に傍線]。
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朝から鶏舎の改造に取りかかり、古い鶏小屋を利用して、下段に竹の簀の子を張り、糞を下に落すようにし、二階に当る所に鶏を置く。この二羽、昨年の暮頃から、いつも夜は玄関に入れ、毎日運んでいて面倒であったが、これで手数がはぶけ、鶏糞も取れるようになり、安心す。但し裏のタンクの下に遊ばせてある鶏六羽はまだ小屋完成せず、夜は箱に入れておいている。
明朝から一の日毎にある在郷軍人の行事の為に貞子に巻ゲートルを作らせる。亡父の軍服を着てみて恰度よい。父の生きていたことが、ありありと感じられ、懐かしい。
午後安原俊之介君遊びに来る。四月からの新潮を見たいとのことで捜したが、三月と五月号しか無い。
欧洲ではロシア軍はルーマニアから西進してユーゴースラヴィアに達したと言うが、しかも一方米英軍は昨日アドリア海岸からユーゴースラヴィアに上陸したので、間もなく両軍は相合するという。そうなると、ギリシャやその南方のクレタ島に駐留していた独軍は退路を失うこととなる。四年前、フランスを制圧し去った独軍が疾風のようにブルガリアから南下してギリシャに入り、クレタ島を落下傘部隊で征服した時は目ざましい戦いぶりであった。今、独軍はその光栄の地を棄てて、急速に北方に退避せねばならぬであろう。チトー軍というユーゴースラヴィア内に頑張っていた反独のゲリラ部隊は、何とかして頑張っているうちに、遂に露軍や英米軍に救われることとなった。この地は英米とロシアとの勢力の接触点となろう。ギリシャがロシア軍によって占領されるか、英米軍に占領されるか分らぬが、バルカン半島は将来また難かしい外交上の問題を孕む地域となるであろう。
議会は続行。質問は形式的であるが、政府の態度真剣味多く、決戦の気分国内に満ちている気配である。
九月十一日 曇後雨 学校午前、午後出社
早朝五時、在郷軍人の一の日の行事に、塚戸学校へ行く。六時十分終了。帰途班長宅にて木銃を五円にて買う。
八日敵は百機をもって、満洲の鞍山製鉄所と本渓湖方面を空爆した。記録的の大機数であり、先頃の九州へやって来た八十機よりも多い。被害が少いと言っても相当の被害があったにちがいない。それに対して我空軍は、それを追いかけ、その敵機B二十九なる超空の要塞が成都に着陸したところを狙って、これを襲い、四十機を撃砕したという。重慶成都方面への我空爆は、昭和十六年以来始めてのことであるという。我方の積極的空中攻撃の声を耳にするのは快いことだ。
しかし、今日の新聞によると、我南洋のパラオ、ヤップ島等には、七日八日にわたって一千七百機が来襲したと報じられている。サイパン島、大宮島、テニアン島の我抵抗が続いているあいだは、敵は積極的に出なかったが、この数日大宮島、テニアン島などの我残存部隊の抵抗がほとんど報ぜられなくなり、これ等の島は残念にも敵手にほぼ完全にゆだねられてしまった。そして敵は更にその次に小笠原方面に出てじかに内地を衝くか、パラオ、ヤップ島へ来て、そこから台湾やフィリッピンに向うか、見当がつかなかった。その間敵は、時々小笠原、硫黄島、大鳥島、ヤップ島、パラオ島、ミンダナオ島などを空襲したり、艦砲射撃したりしていたが、遂にここに到ってパラオ、ヤップ島に集中攻撃を加えはじめた。ここへ上陸しようとしていることが明かである。こういう大規模な空爆をすると、きっとその後へ上陸戦を試みるのが、これまでの敵のやり方である。
敵の軍事評論家は日本内地を攻撃するには、大きな基地が必要で、支那大陸がそれに適当だ、と以前は論じていたというが、この頃は台湾がよいと言い出しているという。これは東日に出た佐倉マドリード特派員の敵の評論の紹介によるものである。とすると、このパラオ、ヤップへの出撃は、フィリッピンから台湾に出ようとする敵の西進戦術の新たなる第一歩をなすものにちがいない。フィリッピン、台湾、そしてそこを通じての支那大陸への侵入というのが敵の対日攻撃の予定順路となっているのだ。
臨時議会今日で終る。臨時軍事費を可決したのであるが、質疑応答には、農業増産、国民生活の改善、就中食糧増加、燃料確保等のことが専ら取りあげられている。議員も政府も、目下の都市生活者の食事情の悪化をひどく気にし、これの改善方を論じ、かつ企図していることは明かであるが、さて、実効のある措置がどれだけ果されるかは疑問だ。
一議員の、国民の最低の生活とはどういう程度のものか、という質問に答えて首相は、目下の状態を最低のものと見て、それより改善するようにはからいたいと述べている。目下の状態を最低とは私には思えないが、しかし市内の雑炊食堂に鍋などを持ち、子供を連れて行列している細君たちを見ると、いまどこでも足りない一食物を補っているあの雑炊食堂が無くなれば、庶民階級は本当に困難にぶつかり、高価な闇の食品を買いに出歩いて、生計の成り立たなくなる者が多く出るのは必定であると思う。議員の中には雑炊食堂は不合理だから廃せ、と言っているものがおり、政府も考慮中と答えたが、巷の声として警察や新聞社への投書では、これを廃されては全く当惑するというものが多いということである。毎日六十万食分ずつ出ているのだというが、この炊き出し風の食事は、今の東京の食生活の安全弁となっているものだ。
一月ほど前から、両切の煙草が煙草屋に無いので、私は煙草をほとんどやめていたが、この頃では口付も、刻みも無くなった。家にあった刻みの一袋を夜だけ煙管で吸っていたが、それも昨日で無くなった。さして淋しくない。煙草そのものも不味くなったせいか、平気でやめていられる。
隣組配給にせよとか、煙草店に登録せよとか、色々な意見が新聞に出ている。雑炊食堂をどうするかということと、煙草の配給をどうするかということ、それに生鮮食糧の配給が、公定価廃止後もちっとも増加せぬということが、この頃の都民生活の最も普通の話題となった。煙草不足は、軍隊と工場への配給の増加したせいと、生産が減少したせいとであるらしい。
十五日の毎日新聞から、雑炊食堂廃止問題反対の投書と、煙草欠乏についての記事を切り抜いて貼る。
九月十四日
大宮島、テニアン島の敵はまだ夜間照明弾によって防戦しているという。我残存部隊は今だに生きて、これ等の島で夜間の襲撃を行っている。
裏の井戸の横の鶏舎、半バタリイ式に作る。夜と雨天には簀の子の鶏舎に入れ、昼間は外で遊ばせる。
九月十五日 細雨
米英軍はこの数日、史上空前の大爆撃をドイツに対して加えているという。ドイツ敗退の徴しありとして、この機に乗じその戦力と戦意とを徹底的に破砕し去ろうというのであろう。止めの爆撃のつもりであろう。
米軍の一部隊はジーグフリード線の外廓要塞の一つを占領したという。ロシア軍は、しばらく行き難んでいた(つまりドイツ軍が防衛に成功していた)ワルソーに対する攻撃を再び開始したという。南方の戦線はルーマニア、ブルガリア等の離反のため、ブルガリア、ユーゴースラヴィア、ギリシャ等にいるドイツ軍がどんな線をなしているのか不明瞭だが北方では、大体東プロシアの国境からワルソーへ、そこからカルパチア山脈、つまりハンガリア東境へ、それからルーマニア西境へという線でドイツ軍が支えているのである。
西部の線は、フランス国内の各地に撤収不可能になった相当の部隊を残し、大急ぎで撤収した独軍は、大体自国境のジーグフリード線に拠っている。この防衛線は、一九三九年の開戦当時、フランスのマジノ線に対抗し、それよりも新しい設備をもって完成されたものであるが、その後フランス海岸の防衛のため、この線の備砲など流用していたというような新聞記事もあったから、案外抵抗力は弱いかも知れぬ。しかしとにかくこの本格的陣地に拠ってドイツは、勢いに乗じて急速進撃をし、一挙にドイツ本国を蹂躪しようとする英米の機械化部隊を防ぐであろう。この線が万一破られるようであれば、ドイツ民族の戦意と戦力とは、終りに到達したと思う外ない。
四年前フランスは東北方からドイツ軍によって国境を冒されてから四十日ほどにして破れ去った。いままた、フランスを占領していたドイツ軍は、米英が上陸してからは三月目、その大進撃開始からは僅かに一月にして、フランスの守りを失い、本国へ撤収した。現代の戦争では、フランス位の大きさの国を占領するには、一月かかればよいという原則が成立したようなものだ。この前の大戦ではこの国の東北方の四分の一ほどの攻守に四年間を費して埒があかず、ドイツ側の内部崩壊によってやっと英米仏は勝つことが出来た。フランスよりやや面積が広いではあろうが、万が一にもドイツ国内に米英軍とロシア軍が侵入するに成功したら、やっぱり一月ほどの日数によって万事休すという状態に到達するかも知れない。
十六日の朝日に、守山ベルリン特派員の、今度のフランス戦場におけるドイツ軍の大撤退についての解説が乗っている。これは米軍のアヴァランシュでの突破作戦の成功の結果であるという。新聞記事ではあるが、ドイツの運命の重大さを十分に説いたよい文章である。
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九月十七日 晴後雨 暴風[#「暴風」に傍線] 雛二羽犬にとられる 鳩麦約三升、摘み取る[#「鳩麦約三升、摘み取る」に傍線]。
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昨夜バター箱を格子作りにしたのに雛のうち食慾不振のを別にして二羽入れ、縁の前に置いて寝たところ、今朝防空演習で早く起きたら、箱がひっくり返され、蓋が落ちて二羽ともとられている。羽根がちらばっていて、何とも残念なことである。
フランス沿岸に残っていた独軍の守備している要塞ブレスト、ルアーブル等陥落したとの報が出ている。
東亜の敵戦線は次第に一定の形を統一して持ちはじめている。それに対する我軍の作戦もまたある方向を持って変化して来ていることが分る。すなわち、敵はビルマに於ては、昆明西方のビルマ国境の騰越からミイトキイナに出、レド、テンスキアに出る道か、或はミイトキーナの南方を通って、先頃我軍が奪取し損ったインパールに出る線を確保しようとしている。ミイトキーナの我軍が苦戦に陥って退いたのも、また我軍と敵がインパールを争ったのも、みなこの為の戦の一部分をなしている。これが印度から支那に通じる最短の道路であり、ビルマの北方の狭い部分を貫けばすぐに到達できるという敵側の方策を立てた所以である。これが打通すれば敵はインドに揚げた武器やインドで生産した武器を大量に支那の戦場に供給し、支那戦線を強化することが出来る。我方ではこの線を打通されればビルマが北方から脅やかされるばかりでなく、みすみす支那の敵軍を強化し、在支米空軍への補給を増して日本への空襲を行いやすくさせることとなる。どうしてもここを通させてはならぬ。最近騰越南方の龍陵で我軍が侵入した支那軍を包囲して殲滅戦を行っているというが、この方面では支那軍も米国式に機械化され、またその戦意も激しいものがあるという。空中は印度から出る敵空軍に支配されているらしく、我軍の戦闘は容易ではない模様だ。我軍の補給は南方の海を遠く迂回せねばならないのだから、根本的に不利である。
そして又中部支那では長沙方面から南下して苦戦の末に衡陽を占領した我軍は、その後そこから広東に向って真南に進むかと思われていたが、さにあらず、西南の大飛行基地桂林を目指して進み、広西省に入り、すでに衡陽、桂林の中程にある全県を占領したことが、昨日報ぜられている。桂林は、そこから西方に進めば昆明へ、西北に進めば重慶に達する要地である。まさか我軍は昆明や重慶に進むとは思われないが、差しあたって敵の飛行基地桂林を奪い、在支米空軍の活躍を封じ、それによって一つは日本への空襲を困難にし、一つは支那の我が作戦を有利ならしめようとしているのであろう。
そして米国は、パラオ、ヤップ諸島に東方海上から圧力を加えている。これ等の現象を綜合すると、大体敵は台湾の西方あたりの支那本土で、印度からの勢力と太平洋上からの勢力との合体を志して、空軍を中心に力を集中して来ており、我軍はそれを防ごうとしてビルマで戦い、また中支那の南下作戦を行い、そして太平洋上の台湾かフィリッピンで東方洋上の敵を迎え討とうとしている。それが今の彼我の態勢である。大東亜戦争の始めにはあまり地域が広いので、一体どこで集中的な戦いが行われるか見当もつかなかったが、漸く最近になって、敵の攻勢意図が具体的にこうして指示されるようになった。南支那に向って敵は東と西から迫っている。
夜暴風雨となる気配にて、この日朝から風あり、鳩麦の熟した実がこぼれやすいので、籠にもぎとる。八割ほどやったら夕方になった。それで黒や褐色に熟したのが三升近くあった。
今年は二百十日も二百二十日も平穏であったが、とうとう今日は颱風がやって来た模様である。
河出書房から、北方派遣軍の一兵士〔松村恵三郎〕の「得能物語」についての感想を述べたハガキが送って来られた。この本の出たのは一昨年の暮であるが、今頃支那にいる兵士たちに喜びを持って読まれることは、著者として喜ばしいことである。〔ハガキ貼付〕
滋一学期の成績を学校で聞いて来たとて、大喜びで玄関に入るなり言う。「僕ね平均点八十六点でね、組の中の三番で、一年生全体のうちの五番だって。」礼を来年やっぱり成蹊高校に入学させたいので、貞子はそれに影響ありとして、しきりに滋の成績を気にして勉強させようとするが、滋は勉強のしかたにむらがあって、時々試験に失敗したりしているので、あまりよい成績であるまいと、私も思っていたが、この程度ならば彼自身も励みがつきそうだし、そう悪い頭でもないらしいので、まあいいだろうと思う。二三ケ月のうちに勤労動員に出るようになっても、こういう成績が残っていれば、将来の進学にも多少便宜があろう。
先頃首相をやめた東条英機の消息、新聞に出ている。彼は燃料と竈のことを語っている。前大戦時の独逸の皇帝は、敗戦退位後隠棲して薪割りを日課にしていたことが伝えられていた。
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九月十八日 晴 久しぶりの秋晴 昨夜の強風は関西九州の颱風の余波であった。
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敵は遂にパラオ諸島のペリリュー島とアンガウル島に、またその西南で、ニューギニアの西北方に当るモロタイ島に上陸して来た。これ等の島は、ミンダナオ島の東と東南に位し、フィリッピン諸島への敵の進攻作戦の第一歩をなすものである。
十六日に発表されたものであるが、ラジオは故障がちで雑音多く、新聞また昨日から来ていないので、漸く今朝の新聞配達で知った。
今日社で菊池君の話によると、ペリリュー北方にあるサイパン本島は長さ二十哩もある大きな島だというから、ここの争奪が決定するまでは相当の日時を要しよう。しかしこれ等の島の作戦に於ても、我軍は大きな決戦を試みる気配がない。決戦はフィリッピンか、台湾か、それとも琉球か、というのが、一般人の予想である。島にいる皇軍の将兵の武運の強からんことを祈る心のみ痛切である。
欧洲に於ては米英軍は独和国境に空挺部隊を多数降下させたと言い、また独和白国境にあるドイツの町アーヘンは危機に陥ったとも言う。ドイツ側では国境地帯の要塞(ジーグフリード線)は五年前の建造であり、最近の武器の進歩に遅れたので防禦線としての価値は大きなものでなく、本当の防禦線はもっと後方にある、と公表したという。こういう言明も何となく弱気で退嬰的であり、ジーグフリード線の放棄を予定しての弁明のようで、よい気持がしない。
クェベックに会談したチャーチルとルーズヴェルトは、対独戦後米英は共同して大規模な対日戦に乗り出すことに意見が一致したと公表した。ドイツが今年中に弱体化するとすれば、対日進攻を敵が本格的にやり出すのは明年の夏から後のこととなるであろう。
ドイツはこれでもう力が無いのだろうか。コーカサスにドイツ軍が近づいた時は石油資源が手に入ると言い、ウクライナを確保している間は、そこの農産物のことを書き立て、エジプト作戦の時は今にもスエズ運河を中断するように言い立てていたジャーナリストたちは、今は厚顔にも、戦線を整理すればするほどドイツが有利になり強くなるような書き方をしている。食糧と石油の資源国ルーマニアを失い、しかも何千機もの爆撃を毎日受けて都市と生産工場を灰燼化され、敵国英の首都ロンドンは、まるでドイツに飛行機が無いかのように疎開と燈火管制をやめたと言う。そういう悲境にあるドイツが勝利の一歩手前にいるかのような書き方をする無恥なジャーナリストの筆は、全くいやな気持がする。文章とは健康な人間思考をみたすものだ。ドイツの悲境は悲境として、それをまともに扱えばいいではないか。ドイツが崩壊した時の衝撃を日本民族はどう受けとるか。その時にいよいよ勇戦して徹底的にやり抜く、という風にこれ等のジャーナリストは国民を導くことが出来るか。
この頃原稿を書こうと思っても、晩食後日記を書くと、九時過ぎとなり、原稿書けぬ。光生中学の二年生工場への出動延びており、今のところ、月三時間、火四時間、水二時間、木三時間、金二時間、土四時間という風に午前中授業があるので、家にいる時間が少く、畑への追い肥(大根、鳩麦等)も手がまわらず、それに日が短くなって、六時には暮れる。四時に退社しても家に着くと五時半となり、時間の余裕が少いのに閉口である。
この頃テーヌの「芸術と環境」(?)、それから福沢諭吉の「福翁自伝」を読む。ことに後者は著者の性格に加えるに明治維新前後の学者や政治家の生活の様相が細かく出ており、躍如たる名著である。小説とは、伝記とは、と考えさせられること多し。
「前の日も昨日も今日も生きてあり、明日の生命はおもほへぬかも」というのは、ガダルカナルで戦死した北大出身の兵の歌で、私が前に日記に書いて記憶しているものだ。この歌を日記に書いたのは、今年の春か昨年の暮かであろうが、その時とちがって最近は我身のことのように痛切である。来年の秋はこうして暮していられるかどうか。それは分らない。少くとも東京にいるとしても決戦のさ中、空爆下の惨澹たる生活の中に来年の秋頃はいることであろう。私の生活の静けさは、たまゆらの間のことのように思われ、生きる日の短かさに心が急ぐのだ。
九月二十日 晴 昨日鳩麦と大根に下肥を施す[#「昨日鳩麦と大根に下肥を施す」に傍線]
米英軍はオランダに、未曾有の空挺部隊を降下させ、独軍はそれを一応殲滅したというが、更に二次三次と続いて降下させている。オランダを征服して、そこから北西ドイツ、特にハンブルグ地区に侵入する魂胆であろう。ジーグフリード線もオランダ、ベルギイの東境では手薄だというし、またハンブルグ、ベルリン等のドイツ中枢部はこの地区から近いのである。
東方のロシア軍はリガ、ワルシャワ等で新に攻勢に出ているというが、ドイツの防禦は成功している模様で、それよりもバルカン諸国の混乱に乗じ、この方面に軍を注入している様子である。地中海方面への既得権を確立しておくには、ロシアに取ってよい機会だからであろう。ロシア軍の一部はすでにギリシャ領に入り、サロニカ目指して進んでいるという。
ニミッツは、フィリッピンへの攻勢はマッカーサーに委し、自分は支那本土と日本とへの攻撃を企てているという趣旨の放送をしている。これまでの例に依っても、敵はその公言するとおりに行って来ている。これは一種威嚇宣伝であると共に、また西洋流の公表癖によるものであろう。
「福翁自伝」を近来類のない興味をもって読む。明治維新の疾風怒濤の中に生きたこの人の生活態度には、今の私に深い共感を誘うものが多く、それに自己を語って十分に解剖的であり、日本人の普通の自伝には見られぬ具体性がある。その中に、自分の世に処しかたを述べて、「元来私が家に居り世に処するの法を一括して手短に申せば、都て事の極端を想像して覚悟を定め、マサカの時に狼狽せぬように後悔せぬようにと計り考えて居ります。(中略)トドの詰り遣傷っても自身独立の主義に妨げのない限りは颯々と遣ります。塾の盛衰に気揉むような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟を定めて、塾を開た其時から、何時でも此塾を潰して仕舞うと始終考えて居るから、少しも怖いものはない。」と言っているのは、まことに面白い。
私も私流に、いつも最悪の場合を考えて物事を予定する習いであるが、こういう時代においては、最悪の場合ということは、自分の戦死、家族の離散はもとより、祖国の興廃までも及んで来る。その点までの覚悟を万事定め、死のことを考えてその日その日を生きるよう、否ただ生きているのみでなく、一日一日を充実させて生きれるようにしたいものだ。
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九月二十一日 晴 秋冷、夜は蚊帳の中に掛蒲団を入れる。
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ビルマ北部のレド公路を敵に制御さる。
拉孟、騰越(即ち昆明よりミイトキイナ、レド、テンスキアを繋ぐ道路の怒江西岸の要点)を死守して、十倍の敵を支えていた我部隊は、今月に入って遂に全員戦死したという。こうして先に北ビルマの主要地ミイトキイナとその西北方のフーコン地区を失った我軍は、この二地区を更に失い、敵は印度より支那へのビルマ北方の通路なるレド公路を打通し、支那への補給路を開いた。敵がこの通路打開に払った犠牲は甚だ大きなものであったらしいが、これは在支米軍と支那軍とに補給するために、どうしても敵としては取らねばならぬ道であり、我方もまた譲りたくない所であった。しかし、今度の公報で見ると、この両地区の我軍は僅かに空中補給で支えていたというから、地上ではその周辺は悉く敵手にあるわけだ。これによって見るに、ビルマ北部にはかなり深く支那軍と米英軍とが東西から侵入して来ていることが分る。在ビルマの我軍は、この春から夏までの間に、西方印度のインパールを攻撃して占領が成らなかったが、そればかりでなく、ビルマ北部を支え難くなっている。遠くマレー半島の西側のこの地までの我軍の補給はよほど困難で作戦が立てがたくなっているのだ。
今となっては、敵中に深く孤立しているのは、ニューギニアの東北方ソロモン群島のブーゲンビル島やニューブリテン島のラバウルや、マーシャル群島のウォッゼ島や、大鳥島のみでない。陸上の我軍もまたビルマのような遠隔地の作戦に於ては、敵中深く取り残されて、今度の例のような全員戦死という結果となる危険がある。日本軍の全員戦死の戦闘は、この大戦においての最も卓越した精神力の具現だ。これは後世を驚かすであろう。とにかくレド公路の打開によって敵はインドから支那へと激流のように軍需物資を注入し、一層我在支軍の戦争を困難にし、また日本空襲を企てる米空軍への補給をも増大することが可能になった。そして在ビルマの我軍の戦闘は今後は更に難かしくなるにちがいない。
十勝清水から照姉が、埼玉県豊岡の陸軍病院にいる嗣郎の見舞に来ている由で、二十六日に出発したいから切符を買ってくれとハガキで言って来る。この頃は切符を手に入れるのが一層困難になって、朝の四時から駅に並ばないと買えないという。近所の江口清君が東亜交通公社に勤めているので、貞子が行って頼んだところ、二十五日か六日なら何とかなる、という話。明日私は学校が休みの滋を連れて、久しぶりでもあるし面会を兼ねて、その話に豊岡へ行くことにする。
もう私は十年近くも姉に逢わないでいるように思う。姉は変りもので、塩谷へ来て駅前で用を足しても、弟や母の所へ寄らず、豊岡まで来ても去年など私のところへ寄らない。と言って悪意があったり気まずいのでもない。去年も切符は私の所で買ってやったように記憶している。そんな風でいれば、逢わずにおたがい死ぬこともあるではないか、と言ってやりたくなる。こんな時代で、いつ逢うのが最後となるか分らないのに。
戦いというものは凄惨という言葉に尽きる。拉孟守備隊から僅かに二組生還した木下中尉、森本軍曹の話が簡単に新聞に報告されているが、まるで鬼神のような人たちだ。私なら、とてもこういう敵陣突破など出来るとは思えない。太平洋の島々に、支那にビルマに祖国の同胞はこうして戦い、生命を敵の砲火に曝し、殺すか殺されるかの一線に生きている。ああ。
九月二十三日(土)秋季皇霊祭
敵はマニラを大挙空襲した。一度日本軍によって奪われたフィリッピンを取りかえすことは、米国の反攻作戦の第一の目標であった。今、敵は次第に東方から進出して来、フィリッピン東方に近いパラオ群島のペリリュー島とアンガウル島、またニューギニア西北端にあるモルッカ島に地歩を占め、その附近には敵の艦隊も出て来て、二十二日以来フィリッピンの首都マニラを大挙空爆している。ラウレル大統領は戒厳令を敷いたのみでなく、午後のラジオ放送によると、米英に対して宣戦布告したという。我方がその独立を援助して成立させたフィリッピンもビルマも共に敵はその辺境に来り侵しかけている。東洋民族の真に苦難に満ちた建国的戦闘はこれから始まるのであろう。その戦を経ないうちは独立したと言っても真のものでなく、また独立の本当の味は、その戦を伴わぬところには無いであろう。
オランダのニーメゲンとかアルンヘムとかいう英空挺隊の降下したところは、同国中央部のやや東境に近く、ライン川が北上してこの国に入り、この辺で西方に曲折して海に向う、その湾曲部である。英軍はこの附近でライン川を越え、オランダの北方にも降下したという。この湾曲部の周辺で、今、西部戦線は大激戦が行われているという。ライン川の北方から英軍はドイツへ侵入しようとしているのである。
昨日嗣郎を豊岡の振武台病院に見舞う。胸部にカリエスを併発したと言い、突発的に熱が出て、やっぱり重態である。善良な親孝行なこの青年が、士官学校在学中その発病時に我慢をし通したばかりに身体を悪化させ、その後三年近くもこうして病臥し、その希望と幸福であった軍籍からも除かれ、ことによるとこの病から恢復出来ないかとも思われるのは、何とも言えず哀れなことである。久しぶりで姉に逢う。堅実な、やや独断的な主婦ぶりに接す。
今年第一期の家屋税四円なにがしを払わずにいたところ、急に家屋の差押手続をしたという通知が税務署から来た。それも九月八日に書類を作っている。私は不安になり、非常に悪い事態が起ったように思った。それは、この前この家屋についての不動産取得税の催促に来た税務吏が、差押を受けて競売をされれば誰の手に落ちるか分らない、というようなことを言って、私と貞子を脅かすような口吻を洩らした。悪く取れば、その吏員は差押えをしておいて、それとぐるになっている何人かに、目下闇値では大変な価格になっている土地つきで疎開向きで誰でもほしがっているこんな家を手に入れさせてやる、というような悪企みをしかねない、と私は今日通知を見ながらすぐに思ったのであった。それで貞子には、さりげなく、薪を取りに行きがてら税金の催促があったから寄って見ると言って、世田谷税務署へ行った。今日は秋季皇霊祭で、税務署には留守の吏員しか居ず、多分明後日の月曜で大丈夫ですよ、と言う。それで多少ほっとし、中野の長谷川大工の所でリュクサックにつめておいてくれた薪を背負って戻る。
名古屋種の雛一羽元気なく、食慾が無くって、別の箱に入れ、種々手当をし、米や胡麻をやったりしているが、なかなか恢復せぬ。午後じゅうその鶏を見たり、餌をやったりしていて何も出来ず。
昨夜からモンテーニュの随想録をまた読み出す。この前第一巻の初めの部分に取りかかったままやめていたのだが、最近またこの先人の仕事ぶりに、きっと私のこの日記に暗示するものが多いにちがいないと思いはじめ、覚悟をもって、この扱いにくい大型の本に取りついた。私は読書は四六判以下で電車の中か社の机上で読むに適したものだけを読むようになっていて、随想録のような厚い大型本はどうしても後まわしとなっている。身辺に、日常の生活に生きる意義を、私は見出したいのだ。我が生きる日の記録をしたいのだ。私は日露戦記を書いて、この日記を続けることが出来れば、それでこの戦いのさ中にあって生きるあいだの仕事は十分なのだ。それを如何に果すかの道を、私はいまモンテーニュに見たい。彼もまた自己の感覚から推考した人、戦乱の中に、静安の時を味い分けた人であり、そういう生活のすぐれた記録者であった。序文を読んで行くうちに、彼の生涯のことがとても興味深く思われる。
九月二十四日(日)
午前中井戸小屋の屋根を直す。台所からすぐ出たところの井戸小屋は、物置でもあり、台所の延長として洗面所でもあり、大切な場所だが、板葺き屋根が洩って雨の日は苦労するので、かねて取っておいたコールタールを塗った紙で、今日葺いて見る。紙があまり丈夫でないし、屋根の傾斜が緩いので、そう長くは持ちそうもないが、今後一年ぐらいは雨が洩らぬであろう。ここで一番仕事をする貞子は、「雨が洩らなければ極楽だわ」と言って喜ぶ。こういう仕事をする度に、こんな事をして時をつぶしていていいのか、と不安になってあたりを見まわすような気持になる。やがて間もなく、この辺のような東京郊外は、大空爆を被り、荒野となり、この家など住むに耐えぬほど吹き飛ばされるのではないか。それを今こうして懸命に修理したとて、と思うのだ。だが、まさかこんな田や畑の中にある家は、とも考えて気をとりなおす。
午後は誰か遊びに来るかと思ったら来ない。姉が明日来るというので、先日新潮社で配給された極上の障子紙で階下の六畳と八畳の縁側の障子を張る。きれいに貼れるので、気持がよい。しかし障子を貼りながらも、これでこの家の障子は戦争が済むまで貼らないのではないか。紙不足の今、二度とこうして全部を貼り替えることはもう無いだろう。そして、その前に私はお召しを受けて戦場へ行くであろうし、敵が明年末までに日本を征服すると呼号しているところを見れば、明年こそは決戦の年にちがいないから、この家やこの障子などが、こうして平和な無事な姿でここに建っているとも保障出来ないわけだし、私たちがこの家に住んでいられるということも不確かだ。難を避けて埼玉県の峰岸家などへ行くのではないか。そんなことを考えながら、しかし静かに紙を切り、桟に糊を塗り、ぴんと紙をのばして貼りつけて行く。障子貼りは僧侶などの仕事として似合うものだが、なるほど心の落ちつく、いい仕事である。今日「文芸」編輯者の野田宇太郎君から小説の催促があった。爾霊山のことを書こうとして、障子を貼りながら腹案していた。昨日は応接間の扉の金具のこわれたのを予備の金具と取りかえた。全く家にいるとこうして大工の仕事やら経師屋の仕事やら鶏の面倒やら次々と雑用に追われ、畑の仕事を別にしても多忙であって、机に向って落ちつく時間が昼間は殆んど無い。夜寝る時モンテーニュを枕もとに開いて眠り落ちるまで読み、朝は目が覚めると起きるまで読む。当分モンテーニュの世界を歩きまわることになりそうである。
昨日塩谷の母から梅干し、干瓢、若芽等の小包が届く。家の梅は遂に実らなかったし、梅干しにする梅も塩も私たちは手に入らなかったので、これはありがたい贈物であった。
九月二十五日
朝税務署に行き、税金と延滞金を払い、差押解除になる。あっけないぐらい何でもないことだ。私は恐怖心に脅えている。何という小心さ。
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九月二十七日(胡麻畑のあとに体菜と芥子菜を二坪ほど厚播きにする。)
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[#1字下げ]大根と蕪大根よく伸びて来たので間引をする。
敵B二十九はまた七十機の編隊で鞍山と大連を空襲した。我空軍はこれを迎え撃って十三機を撃墜した。敵はこの前の空襲の被害がかなり大きかったし、またその基地成都を我空軍に襲われて四十機を破壊されているにかかわらず、またしてもこの大編隊によって我方の生産地帯を空襲して来た。レド公路の打通等によりその補給に余裕が出来て来たのであろうか。被害が少いとの発表であるが、度重なる空襲に、生産の障碍が出て来ることは争われぬであろう。
オランダのライン河湾曲部に於ては、いま米英の空挺隊とドイツ軍との間に、激烈きわまる決戦が行われている。この地に降下し渡河点を抑えてここからドイツ本国に雪崩れ込もうとしている英軍と、それをむかえ撃って祖国の運命を救おうとするドイツ軍との間に、この河川と運河の錯綜したオランダ平原で、米英のフランス上陸以来の激闘が行われているという。米英側は敗れそうになる空挺隊に後から後からと補充隊員や軍需品を投下するし、ドイツ側はまた、地上の要点を占めてこの軽装備の敵を殲滅しようとしている。ほとんど今のこの激闘は、ドイツが今後当分国境を確保出来るか、それとも英米のドイツ本国侵入が成功するか、そのどちらかを決定する戦闘であるように思われる。
楢崎氏が情報局で行われた編輯者会議の席上、特に出席した技術本部の某中佐から、白金の供出について懇談があったことを話していた。その話によると、白金が我国の新兵器の大量生産に無くてはならぬもので、その中佐は、「これが決戦の手段かと思うと感慨深く」「机の上においたものを眺めた」と言い、その机上のものを作るために白金がどうしても必要なので、編輯者に、供出の勧誘に骨を折ってほしいと心から言ったという。それが我国で決戦に使おうとしている新兵器であろうとのこと。秘密のこと故人にも言われぬが、机の上におけるというから小さなものであり、多分強烈な爆弾のようなものではないかと思われた、というのが楢崎氏の話である。
これは近頃聞いた話のうち、特に確実なものであり、我方に出来た強力な新兵器らしく、印象の深い話であった。
今日の新聞に、米国の戦時情報局の意見として日本打倒が容易なことでなく、数年もかかるであろうという発表のあったことが紹介されている。なるほど日本の立場戦力をよく見た意見であり、来年末までに日本を片づけるなどというこれまでの敵国人の放言とは違ったものである。この発表された意見を読み、私は敵方の日米決戦についての詳しい考察がはじめてよく分り、これから後の太平洋の戦や祖国の戦闘力、決戦の形や、私たちの将来の生活について、大分考え込んでしまった。敵側の意見はただ意見として読むだけのことではあるが、敵側から見た祖国の戦う姿のあり方は、やっぱり我々を考の中に引き込むものを持っている。
昨日午後姉を連れて、明治神宮、宮城、靖国神社を拝し、斎藤茂吉に逢い、青山脳病院に行き三百円の寄附をし、上野に送り、家に戻ると埼玉県児玉から峰岸東三郎君とその従弟蔵西君とがやって来る。昨夜一泊し、今日は海軍省にいる二人の義兄桜井氏を訪ねるとて出かけた。三人で蘆花公園駅の近くの種子物屋で大根や菜類の種子を二円ほど買う。
銀座まで送って出て三昧堂にてゲーテの「年代記録」という自伝風の手記と、鈴木大拙の「無心といふこと」という仏教の解説とを買う。
午後町会の貯蓄の報告二通を作成し、町会長大島氏に届ける。
九月三十日
ライン川湾曲部ニーメゲンの北方アルンヘムで英国の空挺部隊は失敗し、その第一師団は全滅して残存の六百余名はドイツ軍の捕虜になったという。米英がフランスに上陸して以来最初の挫折である。戦果はさして大きくないが、ドイツにとっては重要な収穫である。ドイツ軍は、この勝利によって、オランダから北部ドイツに侵入しようとした敵軍を一応食いとめたのである。これで西部戦線の危機は一先ず解消し、国境に対峙しての持久戦に入るかも知れぬ。東部ではドイツ軍は、エストニアから撤収したが、問題のワルシャワは陥落する気配なく、この都市は烏有に帰したとは言われるものの、この方面でもドイツ軍は防戦に成功しているようだ。しかしバルカンの戦線は今大きく動いている。米英はアルバニア北方のダルマチア海岸に大挙上陸した。また東方からのロシア軍はハンガリア東北方のカルパチア山脈を越えようとすると共に、ルーマニアとブルガリアの西境から、北西方に進んでハンガリアに侵入して行っている。ダニューブ河の鉄門附近で激戦が展開されている。ギリシャ、ユーゴースラヴィア方面に出ているドイツの南下部隊は、今のうちに北方に撤収することとなるのではあるまいか。
或いは一気に崩壊するかと思われたドイツは、どうにか東西の戦線を定着させるに成功したようだ。敵のアイゼンハワア司令部など、今年のクリスマスまでにドイツを征服すると称していたが、二十八日にチャーチルは演説して、ドイツを征服出来る時はまだ分らないと言っている。彼はこの夏前に、十月までにドイツを降服させるようなことを言っていたが、とてもそうは行きそうもない。
町内の在郷軍人会の訓練が先頃から朝晩行われていたのに出れずにいたが、八百屋の主人が昨日出てくれと言って来たので、今朝五時から神社境内で一時間、銃剣術の基礎訓練をする。初めて今日出たという人が十人ほど居り、その多くは、近年この土地に移って来た知識階級人のように見受けられた。
欧洲戦の開始した一九三九年の秋だったか〔ヘスの脱出は一九四一年五月十日、独ソ戦勃発の約一月半前〕、ドイツのナチス党の副総統ヘスは飛行機でドイツを脱出して英国に降下した。当時それはナチス党への裏切りであるとか、特殊の政治工作の為であるとか、色々噂されて、本当のことは分らなかったが、昨日かの新聞に小さく、彼は英国で捕虜になっていることが英国陸相グリッグの言葉によって明かにされている。この五年間、こういう重要な人物が不可解な境遇にいたということは興味がある。
九月も末になり、甚だよい気候となった。朝夕は涼しいが日中晴れていれば〔以下空白〕
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[#2段階大きい文字]昭和十九年十月
十月一日
自伝風な小説を書きたい気持がしきりに動く。得能五郎の延長のようでもあるが、それよりももっと自己分析風で、もっと随筆的で、そして自ら結果として今の日本の生活の描写ともなっている日記風な作品にしたい。この日記もそういうものに近づけるつもりで書いてはいたが、今までのところは、戦争と戦時の国内生活が大部分を占め、人間の内面の問題とそれ等のものとの結びつきが思うように出来ない。それは到底出来そうもない。別な作品の中で私という人間、友人たち、家族、それから日常町や電車内で接する人たち、またたとえばT君にうちあけられている例の恋愛譚のようなものを書きたい。
日露戦史をも、これは、以前には明治の国内生活まで含めた小説にしたいと思っていたが、それは出来そうもないので、記録に忠実な読みものとしての戦場の話の集成として書きたい。
多分、私がこうして静かな生活をなし得るのも、明年の秋(今頃大正十二年兵までの点呼がここでも行われている)に行われる点呼の頃までで、それから後は軍務が私をも必要とするであろう。今の戦争のなり行きから、どうしてもそう思われる。それまでに、私は出来れば、日記の外に、この二つの仕事をしておきたいものだ。
今日昼頃新聞が届いたが、昨日午後、大宮島とテニアン島の我軍が共に九月二十七日頃全員玉砕したと推定されることが発表されている。小畑中将以下、その数は明らかでないが、またしても、日本の兵士は太平洋の島の上で、アメリカ兵、否むしろアメリカの工業生産力の象徴である飛行機と軍艦と戦車と爆弾とのために圧倒されて戦死したのである。大和民族がこの島国に国を建てて以来二千六百余年、このような大規模な戦も経験しなかったし、このような強力な敵と戦ったこともなかった。武勇にはすぐれ、戦って負けたという経験を持たぬ我々大和民族は、かつて蒙古の襲来をも撃退したし、また四十年前には、ロシアの軍を満洲と日本海とに撃破して、国家の運命を安泰に置いた。私たちも、こうして度々太平洋上の島々に全滅する我軍の報に接しながら、決して日本が外敵に征服されるとは信じられない。しかしこの度の戦は、これまでの歴史上にある戦とは条件が違う。日露戦においてロシアは百万の陸軍を擁してはいたが、シベリア鉄道の運輸力に制限され、二三十万の兵を満洲に送り得たのみであった。またその頃の艦隊は一度撃破されれば、一二年で補うことは出来なかった。
しかし今、アメリカは真珠湾で沈められた軍艦を一年ほどのうちに補充し、かつその上、二年ほどのうちに百隻もの航空母艦を建造して太平洋上に浮べ、我方の守備する島々を一つ一つ、圧倒的な空軍によって爆撃し、我方の戦闘力を麻痺させておいては上陸して我軍を全滅させる戦法をもって進んで来ている。また一年千万屯にものぼる船の建造力によって輸送船を大量に使い、資材や兵員の輸送を行っている。生産力と運輸力のこの巨大な量の力はこの度の戦を、敵に有利に条件づけている。太平洋の広さも敵をためらわせることは出来ない。科学に基く生産力が遂に、世界最大の海洋をも国防の障壁たらしめなくなったのだ。そこに祖国のいま直面しているこの戦争の未曾有の危険がある。
大宮島、テニアン島のみでない。いま敵が上陸して来ているペリリュー島でも、モロタイ島でも、我兵は玉砕する運命にある。それのみでなく、その後方に遠く残されているトラック島や大鳥島も、またもっと祖国に近い小笠原島も琉球諸島も、やがてそういう運命に陥るかも知れない。そして決戦は、敵の艦隊勢力と対抗するだけの我兵力を集中し得るもっと大きな島、またはもっと本土に近い島において行われるであろう。その時が来るまで、小さな遠い島々にいる我同胞の血戦と玉砕の報をいくつでも我々は耐えしのばねばならないのだ。
この頃新聞の論調には、科学思想尊重の風が顕著である。神がかり的な精神主義があまりに尊重されて来た近年の風潮への反撥が、科学戦の様相の深刻化とともに表面に出て来たのだ。こういう島々の戦いの相は、結局精神力のみでは物質と科学の力に圧倒されることを事実に於て、その度に証明しているようなものだからである。そして事ごとに飛行機が足りないからだ、飛行機を作れと、国をあげて転業した人も学生生徒も工場に働いているこの現実が、科学尊重の風を強めているのだ。ところが、指導者の言論は、どうしても精神主義であり、神がかり的な唯心論となるので、科学思潮が全体として世を風靡するまでに至らない。観念的な精神指導では、しかし国民の科学的になりつつある思考を満足させることが出来ない、という矛盾が起って来ているのだ。科学思潮を盛にすることは必要だが、科学のみが戦争を決定すると言い切ってしまえば、科学、生産施設において段ちがいに我々より進んでいるアメリカと自国とを比較して、勝てそうもないと思いはじめる危険がある。しかし国民の大多数がいま生産を高め戦力を増強してこの強敵を退ける為には、科学生産力の増強の外に打つ手がない。日本の戦時思想の矛盾がこの一点にあり、政治家、言論指導家の仕事のむつかしいのもまたここにあるように思われる。
出征中の阿部秀一君、高島邦彦君、武智肇君等からハガキ来る。外に先頃から便りのあった兵士には副島君、倉崎君等。以前に私の所へよく来た若い人たちは半分以上、いな七八割まで戦野に身をおいている。大いなる戦いである。最近また伊藤森造君が応召した。宮内寒弥君、野口冨士男君などの若い作家は海兵団に入ったという。しばらく逢わないな、と思う人はみな戦場へ行っている。そう思うと恐怖のような寂寥感のような気持が身体を貫いて過ぎる。阿部君、武智君は琉球に、高島君は濠北にいる。
十月二日
この人たちの手紙を見ると、満洲にしばらく駐屯していた武智君も、いつ召集されたかちょっと思い出せない阿部君も共に沖縄にいる。先日新潮社で、楢崎氏の知人にも沖縄へ移った軍人があると聞いた。また巷説では、琉球諸島の婦女子は悉く九州に移住して来ていると言う。どうやら琉球に我方は大きな兵力を集中しているようだ。敵もまたサイパンから多分琉球諸島へ進んで来るだろうという説が多い。どうやら我軍は、こうして大軍をこの諸島に集め、台湾、支那沿岸、九州等を基地として、この諸島に敵の主力を迎え撃とうとしている気配である。私は直覚的にそう思う。琉球で決戦は行われると。我方としてはこれ以上敵を内懐へ入れることが出来ない場所であり、敵にとっては日本本土と支那に最も近く、そして南方と日本とを遮断し得る場所でもあり、かつその広さがあまり大きくないので、艦隊勢力で占領出来る島と言えば、結局琉球諸島ということになるのである。
社で、早耳の丸山君がどこからか聞いて来たところによると、全然煙草屋の店頭に姿を見せなくなってから二月ほどになって、新聞紙の投書や社説などでやかましく論ぜられていた煙草は、いよいよ配給制度になることに決定した由。男子には区別なく一人一日六本宛というのだそうである。それも結構である。これで、食物も酒も煙草も、全く各人平等ということになってしまった。悪平等か善平等か知らぬが、結局物の不足は、そういう制度を産み出した。私も探しまわらずに煙草を吸えるものなら、また吸いはじめようと思い、いささか楽しく思っている。
前線にいる友人たちにハガキの返事書く。濠北部隊の高島君など、いつ到着することやら。
十月四日 雨 今年の秋は雨多し
モンテーニュの随筆と共に電車内では、岩波版のスタンダアルの「パルムの僧院」を読み出した。
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十月六日 雨 この月に入って以来、ずっとつづいた長雨、梅雨と同様。雄鶏や雛たち、どれも元気なく、羽を垂らしている。
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学校が二年生の軽井沢の野外訓練行で休みなので、ふだんの新潮社は午後のみ、水、金は一日の休み故、身体が楽でほっとする。
応召中の松尾一光君、石田茂雄君からハガキ来る。応召中の人たち、何も珍しい知らせもないのに、よくハガキをくれる。これはこちらからの便りをほしいからであろう。
外に、尾崎一雄、小田嶽夫、元木国雄の三人の小説家から、それぞれ、下曾我、高田市、仙台市に疎開したとの知らせを受ける。
また文学報国会から、文芸雑誌批判会用の回覧として、文芸春秋十月号、大衆文学八月号など来る。
こういう通信の状態は、実によく今の国内の生活状態、私などのような文学者をめぐる知人たちの状勢を知らせる、兵士たちのハガキと疎開の通知だ。そして文学報国会からは、しょっちゅう、やれ小説部会の幹事会だ、やれ大東亜文学賞の詮衡委員会だ、やれ随筆評論部会の会だ、という風に集会の案内がある。
昨日締切の「文芸」の小説、昨日から、「父の国」という題で広島の自然と人情を描こうとして机に向うが、雨ふりで寒く、手足が冷え、不快で書けない。明日と明後日の日曜を利用して書かねばならぬ。
昨日千葉市登戸の原民喜君から夫人逝去の通知あり。あの温和な人が、子供もなく、唯一人の頼りのようにしていた妻君に死なれては、と気の毒でならぬ。
アメリカ第一軍はアーヘン地区において、ジーグフリード線への攻撃を大規模に開始したと宣言した。ドイツ軍はバルカン半島で再集結しているとも伝えられ、またソ聯軍はユーゴースラヴィアの首都ベルグラードにせまり、そこを包囲したとも言い、またユーゴースラヴィアの反独遊撃軍をこれまで指揮して来たチトーと連絡したとも言う。ドイツ軍は多分、この東方からのソ聯軍と西方ダルマチア海岸から上陸した米英軍とに挟撃されるのを避け、ギリシャ、アルバニア方面から北方に撤収しつつあるのであろう。ドイツは西部戦線に大量の戦闘機を出撃させたという。ドイツではパルチザン戦の戦略を立て、国民にその趣旨を徹底させ、敵が国内に侵入しても、どこまでも戦う決意を示しているようだ。
昨日から「パルムの僧院」を途中でやめ、「ロビンソン・クルウソウ」を読む。これは作り話だというが、よく出来ている。具体的な生活意力の盛り上りをとらえた写実的な態度は、立派である。興味を中心とはしていても、それを一つ一つ事実という観点から納得させて行っているあたり、永久に新しい本の一冊と思う。イギリスにも偉い奴がいるものだ。クルソーの生活と自分たちの今の生活とを比較した。彼は耕地は十分に持ち、山羊肉、亀の卵、山羊乳等に不足しなかった。私たちは耕地に制限あり、肉や乳の入手は甚だ少い。しかし祖国に家族と共にいるという比較することの出来ない幸福の中にいる。私の所では洋傘四本のうち一本をなくして困っているが、彼も傘には大変困ったようである。呵々。私には、この男とか、ロオレンス・スターンとか、スウィフトなどというあたりが一番気に入りそうだ、英文学の中では。モンテーニュは遅々としてはかどらないが、これはそう走り読みにしたくもない。
とにかく書き出すこと。
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十月七日 雨風 実にうっとうしい。もう一週間も続いている。
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新聞の小さな記事に油断出来ない。不利な報道はたいてい小さく扱われているからだ。この前米英がアヴァランシュでドイツ軍を突破して南と東に急進した時の記事も小さかった。そして、それに対するドイツ軍部の批判として、いま急進しつつある米軍は戦車隊のみだから槍の穂だけが突出していて柄がついていないようなもので、何等怖るるに足りない、という意見が述べられてあった。それが遂に仏全土を席捲されるきっかけとなったのだ。
今日の新聞に小さく、「ジ線突破口拡大」として、アーヘン北方のウバッハの米第一軍の進撃を報じている。この部分で米軍が攻勢に出ていることは二三日前から報ぜられていたし、また昨日かドイツのヒムラー内相が、ドイツはパルチザン戦を開始すると言っている。この三つの情報から推測すると、或はジーグフリード線は突破されていて、ドイツは国内に敵をむかえて戦う覚悟をしているのかも知れぬ。
四五日前までは、オランダのアルンヘムで英軍空挺隊が失敗全滅したので、西部戦線はこの冬中は持久戦になるという見方が、中立国辺にあったが、米軍が向う見ずのやり方でドイツ本国へ侵入したとすれば、ここでまた形勢一変だ。それにしても、アヴァランシュの突破と言い、ジーグフリード線の突破と言い、西部戦線の功名は米軍のみがあげている感がある。
英米軍はギリシャのペロポネソス半島に上陸し、ドイツ軍は急速に撤退しつつありと言う。ドイツの今の状態は、ちょうど傷つけられて、体液の流れ出す虫が、延びていた体をじりじりと縮め、小さく丸くなるのに似ている。
最近ドイツから帰った坂戸智海という人の感想が読売に発表されている。昨日の朝日の特電によってもその国内の消息をほぼ知ることが出来る。煙草はこれまでどれほどの配給であったか知れないが、最近一日二本となったという。一週間に肉は二百五十グラム、パンは二キロ半というのは、そう不足な量でないらしい。パンは一日四百グラム、つまり日本の目方で百匁である。すると足りないような気もするが。先日どれかの新聞に、敵に占領されたイタリアでは、パンは一日八十グラムの配給だという。週で五百六十グラムである。これでは随分ひどいであろう。ドイツの五分の一にしか当らない。食糧はドイツは足りているらしい。しかし、坂戸氏の書いているように、「ハンブルグ、ベルリン、ケルン、ミュンヘン、ジュッセルドルフその他ライン一帯の工業地帯は、空爆の惨禍を免れることが出来ず、今日はすでに大部分全滅に瀕している」ということ、また朝日の衣奈特派員の文によると「ベルリンの街が予想外に壊されていることも、ローマ、パリから来たものの目を驚かし、一見してドイツの首都は滅茶滅茶にやられた、と異常な叫びをあげるのが普通である」ということなども、敵の空爆の被害の大きさを推察するに足る。しかし工場疎開地下工場の建設によって、ドイツの生産力はなお八割を持していると坂戸氏は書いているし英側の観測でも地下工場で戦闘機を作っているという意見があるが、果してそうだろうか。
昼頃出社。その頃から暴風雨気味となる。道路は川となり、川は氾濫している。暴風警報出ていて、颱風が東京の辺を今日通過するという。この颱風の熟するまでこの一週間ほど雨ばかり続いていたのであろう。横須賀線は不通、東京急行の井頭線も明大前は不通の由、滋の話。停電等の故障があるような気がして、午後三時頃退社。この日社で、下駄と草履の配給がある。一足一円ほどで安価である。社で何かと交換して手に入れたのだという。社の親睦会では今後こういう生活物資を入手して分けてくれるという。先日は障子紙十本入十二円ほどで分配があり、大変便宜を得た。大雨なので斎藤、菊池両君は休む。私も出るに及ばなかったと思う。
ペリリュー島、アンガウル島の我軍はまだ頑強に持ちこたえている。しかし、今日の新聞でその島での戦果と指揮官とが発表された。これは我方の抵抗がそろそろ絶望的となり、破局の日の近づいたせいであろうか。またしてもこの島々で、我々は貴重な将兵の何千人かを失わなければならない。ああ。
十月八日
昨夜から暴風雨となり、今朝に及び、終日風あるも、雨は上り、青空出る。
十月九日 快晴(月)
各所に出水の報。東京のみならず、関西、東北、北陸地方にも及ぶ。大分大きな颱風の通過であったらしい。
昨日から、「文芸」の小説一枚目を書きかけて進まず。昨日は夕刻山下均君が来て夜まで対談する。昨年芸術科を卒業して女学校の教員になった彼は、胸部疾患のため丙種となった。前線に行く予定を持っていない青年で、こういう人は稀である。同じ年齢で以前に胸を患った伊藤森造君など第三乙でやっぱり召集を受けた。文学の話や戦争の話。彼の弟で海軍の飛行兵をしているのがいるが、敵が小笠原辺に北上して来る時こそ決戦であるというような話をしていたという。しかし兵隊の話でもたいていは局部のことしか知らないのだから、全体の見とおしとしてはあてにならない。彼は教えている女学生の勤労出動について工場へ行っているが、行っているあいだの事務や精神的なこと、たとえば女学生が男の職工に後をつけられたとか、手紙をもらったとか、泣かされたとか、また女学生の方で心理的に崩れて行く者などもあって、そういう事件を扱う苦労は大変だという。
名古屋種の雛、長雨のうちに弱っていたが、遂に死ぬ。雄鶏はトサカに皮膚病出て、困ったものである。
十月十日
昨夜原稿五枚、今日学校を休み、午前中書いて二枚。しかし、ここまで書いた前置きの部分は、棄ててしまった方がいいようだ。ただそれだけ書いたことが本文への踏み台として役立つようだ。
アーヘンの周辺での米軍の突撃はいよいよ激しく、更に突破口をひろげたというが、ドイツ軍の抵抗また強く、大きな展開はしていない模様だ。米、英、ソ、重慶等で戦後の反枢軸聯盟案というものを作り上げて発表した。彼等の予定するようにその時枢軸というものがなければ、反枢軸などということも意味がないわけだ。
目下のイタリアの国内状態を視察した米人の感想が小さく発表された。これはひどい。戦敗国となったら、人間のまともな生活などというものは存在しないのだ。どんな目に逢っても致しかたないのだ。怖るべき話だ。日本人はこんな目に逢うぐらいなら、みな反抗して戦って死ぬであろうと今日菊池君と話し合う。
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十月十一日 曇 夜小雨 陸稲の穂を収穫し初める。甘藷二度目掘り。二百匁ほど[#「陸稲の穂を収穫し初める。甘藷二度目掘り。二百匁ほど」に傍線]
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渋谷で古本屋に寄って見る。特に面白きものなし。上野の図書館。
読売に前運通相の五島慶太の現在の日本の運輸状態についての談話がのっているが、これは、今までの常識では考えられぬぐらい率直に実情を解説したものだ。二三日前閣議の決定事項に、実相を正確に国民に知らせるという項が特にあり、発表の自由が改めて確保された機会に、新聞社が五島氏に語らせたものであろう。この談話で、私は、石炭の国内生産が減退して輸送力に追いつかれていること、また揚子江、海南島辺から鉄鉱を運ぶことも難かしくなり、更に北支から鉄や石炭を持って来ることも意にまかせない状態だということを知った。鉄、石炭の生産は国内資源のみにたよることとなり、そのために、食糧のための運輸力というものが極めて窮屈になっているということを知った。今冬に入りかけて、東京の薪炭不足が各新聞で問題にされている。私の家なども今年十八俵の配給予定のところ四俵しか来ていないということで、毎週大工のところから酒と交換の薪をもらって炊事をしているのだが、生産地には木炭が山のように積まれているのに、東京へは持って来れないのだという。しかもトラックは運転手が闇稼ぎをするため、まともの勤務には働こうとしないので動かぬとのこと。実にひどいありさまである。隘路は貨車にあるのではなく、モビイル・オイルや汽缶車にあるのだという。また人にあるのだという。五島氏は闇の話なども、なかなか突っ込んで話している。この新聞のちょうどその裏側には、敵側から見た対日戦の予想を各方面から集めた記事がのっていて、これはまた重要な記事である。その急所は、日本の戦力は孤立しても充分にあるのだから、敵側としては、日本を南方の資源から遮断し、かつ大陸に足場を得るため、フィリッピンや南支へ進攻し、かつまたその時に、日本本土と離れた所へ日本艦隊をおびき出して決戦を求めることともなれば、敵側にとって都合がよいというのである。また日本は孤立しても食糧や軍需品の集積が相当にあるにちがいないから、封鎖と空爆ぐらいでは何年たっても日本を屈服させることは出来ない、と敵は観測しているようだ。こういうものを読むにつけても、フィリッピンあたりで決戦が大規模に行われる可能性が一番大きい。敵が本土を狙うのは、それよりももっと後のこととなるであろう。まだ二年ぐらいは、たといドイツが参るようなことがあっても、日本本土が危険だという事態にはならず、今と同じ程度の国内生活が大丈夫続くであろう。そして、支那とフィリッピン、台湾辺で大きな戦が来年の秋頃に行われるようになるかも知れぬ。しかし五島氏の談話によると、どうも敵は我国内の軍需生産状態を買いかぶっているような節もある。五島氏のこの談話はその点少し喋り過ぎがあって心配だ。
アーヘンはほとんど完全に包囲され、その退路は悉く敵の砲兵の射界にあるが、ドイツ兵はなおそこに頑張っているという。これをもって見るに、この部分のドイツ国境は次第に米軍の侵入を受け、守りがたくなって来ている。ジイグフリード線は、米軍の侵冦を支えるに足りないかも知れない。この民族の最後の防衛線である堤は遂に切れるのだろうか。それと共に八日スターリンは東部戦線にソ聯軍が大攻勢を始めたと宣言した。東プロシアに対する強力な攻撃が行われているらしい。冬の前にドイツを屈服させようという東と西からの攻撃が巨大な規模をもって今行われているのだ。そういう同時攻撃の時に、チャーチルは昨日か、ソ聯を訪問したという。
やっと雨があがったと思ったら、また今日あたりぼつぼつ降り出す。何という雨の多い年であろう。
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十月十二日 曇 ハゼ黍全部収穫す 二百五十本アリ
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果して敵は昨日沖縄諸島へ強力な空襲を行った。ここが激戦の場となるという予感があった。しかしここに敵が上陸するようなことがあれば、九州は敵の手の届く所となる。その前日南鳥島に艦砲射撃を加えたのをこれは佯動作戦らしいと新聞で批判していたが、なるほど沖縄を狙ってのことだったのだ。だがこれも、今後続いてここの諸島へ上陸しようとするのか、それともフィリッピンか台湾を狙った作戦の一部なのか分らない。パラオ諸島で我軍はペリリュー、アンガウル島などまだ敵を阻止対峙している。今のところ、この辺の島嶼戦は急発展はしない。
アーヘンの独軍は包囲した米軍の投降勧告を撥ねつけた。この町はほとんど廃墟になったという。
この八日から始まったドイツに対する反枢軸国の東西南からの総攻撃は、冬の前にドイツを屈服させる企図だという。ここ一月ぐらいが、重大な時だという。ドイツはこの冬まで頑張れるであろうか。どうだろうか。そして万一ドイツが屈服したら、その後の我国の戦いは、どういうことになるのか。いくら考えても、こうだという納得できる形は考えることが出来ない。ただ我等大和民族は、どこまでも負けることなく、惨澹たる生活の中に陥っても敵を支えつづけるであろうということだけは確かだ。それが何年つづくだろう。そして、それは一体どういう生活になるだろう。ドイツが破れた後には、我等にむかって来る敵の物の力は、世界中の生産力の総量だということなのだ。一年二年三年、そうだ、大和民族のことだ。三年ぐらいはどんな敵の物量をも支えて押しかえすであろう。だがその先は分らない。多分、今のドイツの指導者が考えているような、ゲリラ戦を、我々は国内でやるようなことになるかも知れない。
今日は午後文学報国会で文芸雑誌の批判会。宇野浩二、土師清二、中谷博、原奎一郎、岡田三郎と私。
昨夜小説を夜の十二時までかかって十六枚まで書く。久しぶりで創作の中に没入した気分だが、進行は半枚、一枚ごとに休むという苦心の状態である。作品を書きつづける根気を随分失っている。
煙草は、これまで街頭で品切れがつづくと、突然値を上げることが何度も行われ、その度にまた当分は店頭で潤沢になった。しかし中級の鵬翼級が二十本七十銭ほどになり、値上げも薯類の一貫目三四十銭に較べて、これ以上高くするのは不合理という点に達した。そして今度は徹底的に品不足で、値段による操作では間に合わなくなった。朝五時から店頭に行列してやっと週に一度三四個を買える程度だという。それで隣組配給になるという。
ところが、この頃はハガキが毎日すぐ売り切れて買えないという。つまりあらゆる物品が巨大な紙幣の量に圧倒されて、紙幣から逃避しはじめたのだ。この半年ぐらいのうちに、インフレーションは深く我国の経済界を侵してしまった。
この近くの農家は、物と交換でないと野菜も売りたがらない傾向が、この頃ことに強くなったという。貨幣価値の崩壊は経済の運行をむつかしくする。賃金の定正〔ママ〕な額によって人間が働かなくなる。国民に労働を強制しなければならなくなる。自発的に人が働かぬというのは怖るべき危険だ。
紙幣に価値はないが、しかし紙幣がそれだけ軽く飛び去る傾向にもなっていて、一定の月給しか収入のないものは、やっぱり金に困っている。私のうちでも配給品や月々の町内その他の貯金や子供の学校の経費などで百五六十円はいる。その他に英一へ義父への返金として毎月渡す五十円や年五百円ほどの保険料や東京急行への返金等で、毎月もう二百円いるのだという。学校から百円ほど入り、社の俸給二百円(実は税などの差引があって百八十円)だから、百円は足りない。そして学校もいよいよ中学の下級生は今月中に勤労に出動というから、その百円の収入も無くなる。原稿料は、それでも言われたものを丹念に書けば月に百円ぐらいになるかも知れぬが、筆が重く、書くのに気づかいが多いので、あまり書きたくない。困ったことである。
今月は幸にもみたみ出版社の野長瀬君から私の「三人の少女」が疎開学童用図書として増刷四千をするというから八百円になる。これはちょうど東京急行へ払う半年分の年賦金になる。この支払いをどうしようかと考えあぐねていたところなので、これをあてようと思い、実にほっとした。
こういう事があると、私は何となく幸運がついてまわって、いよいよ困りそうな時にはきっと打開出来るように予定されているような気もする。しかし、そんな甘いことは、この非常時に決してあてには出来ない。
畑作のことを考える。今年の甘藷はとてもよく出来ているとて、今日四株ほど掘った貞子が喜んでいる。一株二百匁は確かだというから、四百株で八十貫はあることとなる。この頃まで南瓜で補食して来たが、これからは甘藷で補って行く。毎日六百匁として四ケ月分ほどあるわけだ。貯蔵がむつかしいものだから、ひょっとしたら腐らせるかも知れないが、大体一月末までこれでやって行けるであろう。そのあとは、八十貫ほど貯蔵してある馬鈴薯でやる。これで礼の分も入れて、三ケ月半ほど保つ予定で、四月末か五月中頃までは、食糧難はないことになる。来年の馬鈴薯の出るのは六月だから、その間一月ほど、郷里から何か送ってもらうか、それともうちの陸稲を一斗と見て、それでも補える。私のうちは、自分の畑で自給出来ることが、ほぼ明かだ。来年はしかし、今年の経験から、もっとうまく畑の経営をしたい。いま甘藷のついている所つまり縁側の真前五十坪は、明年春に馬鈴薯をつけ、六月初め、まだ薯を掘らぬうちに畦間に玉蜀黍をつけ、七月に馬鈴薯を掘る。八月の末、玉蜀黍が実る頃、その畦間を耕して秋大根を播くことにする。そして今年陸稲やハゼ黍がいま実っている東の方の百坪には、このすぐあとに麦を月末頃播き、明年はそこを全部甘藷畑とするつもりである。明年はハゼ黍や胡麻などは道路の畑を使うことにする。馬鈴薯のあとの玉蜀黍は短期に実るし、それに幹は燃料ともなり、また人が食べ残した固い実は鶏にやるとよい。馬鈴薯の間にこれを播くのは、どういうものかと心配しながら、実験的に今年少し縁の前にやって見たが、好成績であった。このやり方だと、馬鈴薯畑は完全に三毛作となる。里芋、ハゼ黍などをこの方法でやると、結実期が長いので、二毛作にしかならない。
肥料は灰と鶏糞と堆肥とを利用すること。
十月十三日 滋と貞子にて体菜を二畦播く[#「体菜を二畦播く」に傍線]
敵は遂に台湾に大空襲を行う。未明より十五時迄というから、未曾有の大規模なものである。我空軍は、それに対し大挙して敵空母集団を襲った。撃沈破四隻というが、まだ戦果があるであろう。決戦のきっかけがいよいよ始まった重大な気配を深く感ずる。
今日はいやな思いを重ねる日であった。社で楢崎氏が文芸日本に、私を板垣直子と並べて悪口を書いている由聞く。この雑誌では一昨年かも座談会で悪口を言われたことがあり、何とも言えず、いやな気持であったが、今度も胸が悪くなるような沈んだ気持を味う。
夜在郷軍人の警備召集の為の届出書を書くために、神社に集まる。書いて差出す時、在郷軍人の班長が、ちっとも訓練に出ませんね、と厭味を言った。次の訓練は出ようと思っているが、こういう方面からも時々変に圧迫を感ずる。それが二つ重なったので、この頃毎日小説を書こうとして書けないでいることと共に、少々神経質になっている際とて、気が沈んでならぬ。
文学界で、こうして一つの目標にされて悪口を言われるようであれば、この頃のように極右翼であるか、またはそう宣言しない限り工合の悪い風潮の続く限り、私は文学活動で目立つようなことは何も出来ないであろう。ひょっとしたら私はもうそう公けに作品を発表することなしに生を終えるかも知れぬ。とすれば、どういう態度で作品を書くか、今企てているような考えかたでよいか、それとも生きているうちは発表されぬものとして、覚悟をきめて、大胆な作品を書くことにするか、よく考えねばならない。
前に病気をした時に、こういう経験をすることは、身体にひどくこたえ、その為に病状がはっきり進んだように思った。たしかに、こういう心理的圧迫感は、胸をしめつけるように気持を狭くさせ、呼吸が内輪になりいつとはなしに胸を患うような姿勢にさせると私には思われてならない。
鏡を見ると私は朗かになり切れぬ何か、人の顔をうかがい、自ら信ずることの不足した不安な表情が漂っている。顔面の表情も健康もみな気持の左右するところである。四十歳にもなれば、心理状態はまことに鋭敏に肉体にこたえるものだ。それだけにまた、人の心の観察力、仕事の出来などは、あきらかに心に映り、本能的に理解される。生きている味がじかに、まことによく心に届く。
夕刻新橋駅上の日本軒で大東亜文学賞の詮衡委員会あり。戸川貞雄、岡田三郎、芳賀檀等少数集まる。二三の作品を読むことに相談する。洋食の定食出る。参会者少いので、二人前ずつ食べたが、それでほぼ満腹であった。鰊と帆立貝がついていた。こういう場所は席を取るのに骨が折れるのだろう。
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十月十四日 晴 北風 貞子東南畑、胡麻あとに体菜を播き終える。大根追肥[#「貞子東南畑、胡麻あとに体菜を播き終える。大根追肥」に傍線]
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私が三ケ月程前に東京新聞に書いた短文を牧野吉晴が文芸日本の巻頭において、とりあげて非難している。これは私が新潮社に在籍していることを一つの目あてにおいてのことと思われる。中央公論、改造等が無くなった今では、新潮社は文芸物出版社として最も重要な社となったのだ。この文が発表されたことに対して私はどういう態度をとればよいかを今日、夕刻雑誌が届いたのを手にして考える。亀井勝一郎君が前にこの雑誌でやっつけられた時にしたように弁解的な返書のような原稿をこの雑誌に送ることが、客観的に言って妥当でもあり、文学者としての私の当然の行為だと思う。
それとともにこういう扱い方を公式に他人によってされた文学者としての覚悟をきめること。社に対してはいつやめてもよいという態度と覚悟を持つこと。文学報国会の仕事についても同様。そしてひるまぬこと。二三年間の発表を予定せず原稿を引っ込んで書くように覚悟すること。この雑誌を手にした時は、自分の興奮した時の一番悪い心理状態で、我慢が出来ないような気持で、これでは、何かつまらぬ事で貞子や子供が自分を苛立てればすぐ腹が立ちそうだ、と心配したが、夕食後、大したことでないと次第に落ちついて、この日記を書く気持になる。
昨日からクレッシイの「支那満洲風土記」China's Geographical Foundationsを読む。記述正確にして実証的であり、ほとんどはじめて支那についての書物で現実的なものにぶつかった感じを持つ。人口過剰で農業を主とするこの民族の生存の実状を知ろうとする欲求湧き、甚だ興味をもって読む。
民族の永遠のあり方とその自然を理解することは、瑣々たる自分に加えられた非難を軽いものに思わせる。夜は次第に本格的な秋の気配で寒さを覚え、この本を持って早く八時より床に入ることにしたところ、それが幸福な感じがする。何とでも好きなように言うがいい。私はまた私の考があり、生き方がある。しかし一応返事だけは明日でも書いて文芸日本へ送り届けておこうと思う。
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十月十五日 鳩麦全部収穫、実を叩いて落す。量不明[#「鳩麦全部収穫、実を叩いて落す。量不明」に傍線]
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昨夜八時頃、旭川の師団にいる松尾一光君軍服にて来る。遺骨受領のため博多まで行く途中であるという。元気でふとっている。以前より明るくなっている様子である。軍隊生活の話、色々あり。十一時、駅まで送る。
今日日曜。この頃日中はいつも家にいなかったので、今日は鳩麦を鎌で切り取り、防火用水の蓋を縁側の隅に立てかけ、それに叩きつけて実を落す。午後夕刻までかかる。
昨日からどうも楽しくない気持。それで、自分が苛立って子供を叱ったりせぬように気をつけると、かえってふだんよりも子供にやさしくする。しかし気持が引き立たず、笑顔があまり出来ぬ。どういう態度で今度の事件にむかったらよいか、と考えてみるが、その度に気持変る。結局自然にするのが一番よいであろう。この気持の経験は、十六年の十二月に森本君から私の文について手紙をもらった時に一度持っているので、またか、と大体分っている。放っておけば、自分も相手も自然に落ちつくのだ。
しかし、これで文芸の原稿後半を書く気になれず、放っている。とても創刊号には間に合わぬ。
台湾に敵は大挙して来襲したが我方も相当大きな航空兵力によってこれを反撃、その空母群を襲っている。いよいよ決戦、という感じがし、これはこの戦争のはじめに我方がハワイを襲ったように、敵が我が防衛の中心地台湾へ来襲したのを、待っていてやりかえしたという形である。今朝の新聞では空母二隻の撃沈と発表されていたが、今日午後三時のラジオ放送で、敵の空母七隻を轟撃沈したことが発表された。大戦果である。これで我本土周辺まで肉迫した敵も相当にひるんだにちがいない。これまでの島嶼戦では大事をとって持ち出さなかった我航空兵力の集中使用が、ここに物を言ったのだ。この程度に戦争が行われて行けば、敵の空母の損害は大きいから、とても日本本土の近くをうかがうことが出来なくなるであろう。戦勢は大きく転換しつつある。
夜、原稿は放擲して早寝する。クレッシイを読む。
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十月十八日 昨日から雨 大根、聖護院蕪等に土寄せす[#「大根、聖護院蕪等に土寄せす」に傍線]。
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十五日以後、台湾東方海上の決戦の報は次々と発表され、私たち国民の胸を躍らせた。十六日の午後三時の発表では、轟撃沈は空母十隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻に、撃破は合計十九隻という数字に達し、開戦以来の大戦果となった。更にこれに加えるのに、この敗残艦隊救援にフィリッピン東方海上を北上中であった機動部隊がマニラを空襲したのに追尾して、その所在をつきとめ、これを襲ったフィリッピンの我が空軍は空母四隻の中の一隻を沈め、他を撃破した。しかもまだ台湾東方の敵の敗走部隊は我航空圏内にあるという。これを襲っている我部隊が地上航空隊のみでなく、海上部隊も加わっているという報もある。しかしその海上部隊とは、我が聯合艦隊であろうか。聯合艦隊であれば、この五十八機動部隊を更に海上に追求し、航空能力を失った残存敵艦を一隻も残らず殲滅することが出来るであろう。読売の解説によると、この五十八機動部隊を殲滅しても、更に同様の敵艦隊が三つ残っているという。それがどの辺にいるのか、我が聯合艦隊は勿論それ等別な敵艦隊の所在にも配慮していることであろうが、とにかく今台湾の近くにいる部隊のみでも全滅させたいものである。しかし今迄の戦果でも、これは、ハワイ海戦以来の大勝利で、敵方は発表にも狼狽のあとがありありと見える。太平洋上の諸島を次々と攻略され、多くの部隊を失いながらも、日本軍は、こういう地点まで敵が侵入肉迫するのを待っていたのだ。勝に乗じた敵は、その壺にはまって来て、その全勢力の四分の一以上を集中して侵攻して来たが、惨澹たる敗北に終った。我が大和民族の戦争における強味は、ここに十分に発揮された。
問題はまだつづいている。すでに台湾を敵が空襲して以来一週間になるが、まだこの戦闘は継続している。敵の敗走部隊が我が航空圏内にいるのは事実らしく、それを救援に、フィリッピン方面から来たのとは別に、新に一機動部隊を敵は持って来た。それは特設空母を主体にして制式空母一二隻と戦艦数隻を含むものと言い、我航空部隊はこれを襲って空母と戦艦各一隻を撃破したことが、今朝の朝刊に出ている。こういう風であると、敵はこの戦にまだ別な機動部隊を注入しつつあるのだから、ことによると全海上勢力を集中した大決戦となるかも知れない。敵は制式と特設とを合せて空母百隻を持っているという。今度の戦闘ではそのうち沈没と撃破を含めて二十隻位は失ったであろうが、その全力を集中することになれば、更に何倍もの力をこの戦に注入出来るわけだ。そしてまた我方にとっても地上航空兵力と海上兵力とを合せ使用出来るとなれば、聯合艦隊を出動させて、全勢力を注入する大決戦に出るかも知れない。今までに敵に与えた損害に見ても、これ以上の機会は再び来ないかも知れない。そこまでこの戦闘が進行するかどうか。それが重大な関心のまとである。大本営の公表文中には、我海上部隊出動という文字はまだ現われていない。今日か明日のうちにも、あるいは彼我海上勢力の大戦闘が、これをきっかけにして起るかも知れない。それが起れば、太平洋上の覇権の帰趨は決定するのだ。考えても身体が慄えるようなことだ。
欧洲においては、ドイツはアーヘン周辺の戦闘に大きな援助勢力を集め、その失った地域を多少恢復したという。アーヘンは包囲されているが、なお細い通路を通じて補給をなし得ている。とにかくドイツはまだ国境線を支えている。しかし、ハンガリイでの戦闘は不利であり、ロシア軍はベルグラードを包囲し、同市とハンガリイの首都ブダペストとの中間地区のセゲドを占領しハンガリイ、ベルグラード鉄道を遮断したという。そして、又してもこういう不利な状勢の中で起りがちなことだがハンガリイの政府は対ソ休戦を画策して、ドイツを裏切った。ホルティ摂政は対ソ休戦を宣言したと昨日報ぜられたが、今日は、ドイツの手が伸びたのか、それを取り消したと報ぜられ、しかも新政府が別に成立した。ドイツはこうして、たった一つ無疵で残っていたその盟邦をも失うことになった。こういうことがあると、ハンガリイ軍は戦闘意志を失い、無力に帰するであろう。
アフリカ遠征で勇名を謳われたドイツのロメル元帥は、西部戦線で戦死したという。
読売の解説によると、米国の空母勢力は制式十五、巡洋艦変造十、特設(汽船改造)六十内外であるという。特設というのは対潜水艦の船団擁護や飛行機輸送が主であるという。若しこれが今度の戦闘に加わっていず、制式や巡洋艦変造が主であるとすれば、敵の被った損害は極めて大きく、その航空母艦勢力の半ばを失ったものと言ってもよい。敵はいつどこででも日本艦隊と決戦をなし得ると前々から呼号して来たのであるから、これがその主力艦隊なのかも知れない。そうすれば、敵はそれによって日本艦隊と決戦をしようとしていた主力を失ったことになる。敵がこれを補充するには、少くとも、もう一年以上はかかるであろう。敵の海上攻勢は明かに蹉躓したのである。その補充をする間、敵が打つ手としては、新聞の解説によるまでもなく、B二十九、B三十二のような超大型飛行機で我方の飛行機生産機構、鉄工場、石油工場等を爆撃し、一方、ニューギニア北岸を西に向って進みつつあるマッカーサーの地上基地による飛行機攻撃を続行するであろう。この方面の敵はこの頃しきりにボルネオの油田バリックパパンを狙い百数十機による爆撃を繰りかえしている。こういう攻勢は目立たないが結果は怖るべきものがあるであろう。しかしこの度の台湾沖海戦によって、敵が本土沿岸に取りつくのではないか、敵の力を撃摧することが不可能ではないかというような、この頃、しきりに国民の頭に浮んだ恐怖は霧消し去った。悪夢のように国民を圧迫していたこの頃の暗い空気は一度にとり去られ、我々には戦って勝つだけの力があるという確信が、国民の胸に甦った。大変なちがいであり、夜が明けたような空気が、街上にも、人の集る事務所にも、行列の中にも漲っているように見える。
首相は一昨日宮中へお喜び言上に参内し、明後日は日比谷の国民大会に臨むと言う。市内の国民酒場には昨日から特配があると言い、また一般都民にも今月は配給酒の特配がある由。国をあげての喜びである。それにしても敵の発表は全くまごついて途方に暮れた形で、二十四時間は発表を制止したが、その後も敵方の発表はないので、専ら我大本営の発表が米国をはじめ世界中に行われているという。この気配は両方照し合せて見るのに、大変なことにちがいなく、我々が思っている以上の大戦闘が行われ、敵が大敗北を被ったことが察せられる。それで、いま私は新聞を切り抜きながら、その解説をもう一度丹念に読むと、こんなことが分って来た。つまり今度台湾を襲ったのは、敵の第三艦隊と第五十八機動部隊とである。太平洋における敵の全艦隊は、総司令官チェスター・ニミッツの下に、北太平洋にはフレッチャーの第九艦隊、中部太平洋にはハルゼーの第三艦隊とスプルウアンスの第五艦隊、南西太平洋にはキンケードの第七艦隊とがあり、この外にマーク・ミッチェルを長官とした尨大な航空母艦群である第五十八機動部隊があって、この五十八機動部隊は時々各艦隊と合体して出撃するのである。今度は第三艦隊と共に出て来たのだ。そこを我方の航空総攻撃によって徹底的に叩かれたのである。そうすると、明かに敵の航空母艦の最強勢力の集団を我方は捕捉して大打撃を与えたのであり、敵にとってはかけがえのない海上航空主兵力が失われ去ったのである。このことは、その後救援に来た敵の二つの艦隊の構成を見ても分る。フィリッピンを襲いながらその東方を北上した艦隊は「空母四隻」戦艦数隻から成ると報ぜられ、また別に東の方面から台湾東方にやって来た別の救援艦隊は「特設空母を主体とし、制式空母一二隻、戦艦数隻、巡洋艦、駆逐艦等を含む」と報ぜられていて、共に航空母艦においては劣弱な艦隊であり、これ等は前記の第七とか第五とかいう艦隊ではないか、と私には推定される。即ち敵空母の主力である制式空母群はここに潰滅し、残った三つの艦隊は航空力においてはずっと低下した力しか持っていないのだ。
正にアメリカのもって頼みとした太平洋上の空母集団は海底に葬られた。西太平洋の主権は明かにこの戦で我が大和民族の確保するところとなったのである。ここにおいて、小磯首相の談話発表もよろしい、国民大会もよろしい、配給酒三合の特配もよろしい。私は正に正確に戦果を理解した。私は納得した。元冦の役そのもののように、一挙に敵を覆滅したのだ。私は正確さを欲する。私は生きた自分の生命で、ものの実相を確認することを欲する。確認せずして感激することは私には出来ない。私のこの認識方法がどのような批判を被ろうとも、これを私は変えることは出来ない。日本は負けない。日本は忍耐した。日本は同胞の血が何千何万と太平洋上の島の上に流れるのを耐えて来た。そして無駄にその飛行機を飛ばさなかった。敵は、ルーズヴェルトの第四回大統領選挙を来月七日に控え、花々しい戦果を誇ろうとして猪突し来って遂に一敗地にまみれた。と新聞は評しているが、正にそうだ。私はそれを信ずる。そういう無邪気な動機というものが案外に強力に支配するのが人間の世界の現実だ。これで、敵米国は太平洋上で再び日本を破ることは出来ないであろう。敵はひるんだ。ここに改めて一年か二年を費して航空母艦群を建造して敵が寄せて来るとしても、我方もまたその間に力を補い充たして待つであろう。戦って死ぬ外に敗れることを知らぬ日本人のこの戦争における自信はいよいよ動かすことが出来なくなった。三日か四日のあいだに行われたこの戦は、半年を費してロシアに攻め込み、スターリングラードで一敗地にまみれたドイツのような失敗を米国に喫させた。あまり短時日なので信じがたいほどの決定戦が行われたのだ。サイパン、テニアン、大宮島のみならず、アッツ、ギルバート、クエゼリン、ルオット等の島々に玉砕した人々にこの事実を知らせたいものだ。それは出来ないのだ。ああ。ラバウルの将兵には、どんなに嬉しいことであろう。
今度の戦闘の余波を被って、那覇市は空襲と強風のため灰燼に帰したと言う。台湾を襲う前の、もっとも力の充実していた十二日の敵航空兵力によって、八時間にわたり、百機から二百機で五回の空襲を受けたのだという。その惨状が思いやられる。死傷二百名というから、この方は大したことはない。先頃ハガキをよこした阿部君も武智君もこの島に駐在しているが、怪我はなかったであろうか。
今日の朝刊により、十月一日から満十七歳以上のものは兵役義務があることに定められ公布された。但し戦場への実際の召集は、いよいよ危急という際までは無いという。つまり兵籍の整備拡充ということであろう。
煙草は来月一日から隣組配給ということに確定、公表された。男の成年男子一日六本という予定である。この二月ほど手に入らないのでやめていたが、配給となれば、一日六本ずつたのしく喫むことが出来る。但しやめていることも出来ると分って一つの安心を得た。
今日街を歩くと「白金応召」「白金を決戦に役立てよ」「白金で新兵器を作れ」等の小型ビラが、百貨店や銀行や街角のすべての思いついた場所に一面に貼ってある。そのビラでハッキンという文字を現した貼り方をしたのもある。昼頃相変らず雑炊食堂の前には、子供づれの老人や鍋やおむしを風呂敷に包んだ女などが行列している。午後四時になると入浴道具をかかえた人々が新潮社前の湯屋の前に群れて待っている。これは一度に大勢入れるから行列はしていない。その少し先では八百屋に行列している。新宿の伊勢丹の飾り窓には六尺四方ぐらいの日本画に、敵航空母艦群の沈没の様を描き、手前の一艦の燃える甲板から海の中へ落ちて行く米兵を数十人描いたのが飾られている。署名はないが、ちゃんとした絵だ。装飾部にでもいる画家が感激して一夜で描いて飾ったものであろう。何人もの人が足を止めてそれを見ている。一人の青年が「気持がいいなあ」とひとりごとを言いながらそれを見ている。ああ国民全体が喜んでいるという感動をひしひしと私は受けた。その歩道には掩蓋つきの防空壕が五間おきぐらいに造られている。また牛込辺では防火用水の溜池を作る為というので、歩道の四角なセメント板をはがしている。しかし街に休むところが無い。喫茶店というようなものが、新宿を歩いても見当らない。通る人は男も女もみんな申し合せたように小型の鞄を肩から下げている。私もまた軍用の革の書類入れをぶら下げ、それに弁当と本を一冊とハガキや原稿紙を入れて歩いている。
二十四日伊豆の大仁温泉へ出版部で行くことになる。戦勝祝も兼ねて秋の旅行ということになったのだ。旅が窮屈な今ではあるが、それだけにまた楽しいような気もする。
十月十九日(昨日からまた雨)
敵米国のこの第五十八機動部隊については、今年の七月二日(四日の私の日記にある)〔日記ノート七月四日に貼付〕に毎日の佐倉リスボン特派員がマリアナ諸島西方の海空戦について書いた時に次のように報じている。「最近攻撃に当っては、日本主力艦隊との決戦に備えて米最大最強力の機動部隊たる第五十八機動部隊をもって迫った。この機動部隊については廿三日初めて米海軍が発表したが、六ケ月前に編成され、中将ミッチェルこれが指揮をとり、真珠湾以来就役した大型空母廿二隻の大部分を中心に、空母、戦艦、巡洋艦、その他多数を配し、千機以上の飛行機を発着せしめ、食糧燃料予備飛行機その他一切の補助艦を携えて、自給自足で基地より遥か離れて行動し得る、という。(中略)米海軍当局は民衆の不満危惧の念を抑えるために第五十八機動部隊について発表した時『この機動部隊は絶大の力を持ち(日本艦隊[#「日本艦隊」に傍線]という字削除か)その蹂躪下にある』と豪語している」これによって見ても敵の空母勢力の主要なものは、この一戦によって失われたと見てよいであろう。後には戦艦その他の海上勢力と輸送用の特設空母等があるわけだ。
昨日は大本営発表なし。新聞の報道によると、来援した敵の機動部隊は機関の停止した破損艦を鋼索によって東方又は南方に索引〔ママ〕し、その上空を艦載機によって護っている。そして敗走部隊はこれ等破損艦を来援部隊にゆだねてひたすら敵空軍の勢力圏へと逃走しつつあるという。次第に敗残の敵は我が航空圏を脱しつつあるのであろう。
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十月二十日(金)晴 午後家にいて陸稲の穂をしごいて採取、三畦[#「午後家にいて陸稲の穂をしごいて採取、三畦」に傍線]。貞子縁の前へホーレン草を播く
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敵は遂にフィリッピンにやって来た。しかもニューギニア方面に近いミンダナオ島を飛び越して北方のルソン島との中間にある多島海の中のレイテ湾に進入して来た。船団を率いる艦隊であるという。フィリッピンにおける戦は、こうして、いよいよ始まるのだ。三年前の昭和十六年十二月の開戦当時、日本軍はフィリッピンに上陸し、この島の米軍を翌年の春には駆逐した。軍司令官マッカーサーは潜水艦でオーストラリアに逃走したが、その彼がいま米軍を率いて日本軍と戦うために来たのだ。台湾沖海戦は、この上陸作戦に対する大きな予備牽制作戦でもあり、かつ我方の航空力を消耗させて、上陸戦の安全を確保し、合せて内地からの援助を妨害しようとしたものであろう。それにしては、敵はその最強力な空母集団を失うという極めて大きな犠牲を払いはしたが、しかし、フィリッピン作戦そのものは、この場合、我方の航空力の消耗があるので、敵に有利となっているかも知れぬ。心配なことである。
だが、フィリッピンの作戦は、敵にとって決して容易ではない。サイパン島や、ガダルカナル島やアッツ島のように、本土から切り離されてはいないのだ。沖縄、台湾と島づたいに、戦闘機ですら容易に到達するし、島々の距離は短いから、補給も容易であり、島も大きなものが多いから陸地戦が主となる。即ち我が陸軍の力量が十分に発揮される条件をそなえている。隔絶した島の戦でこそアメリカに幾度か名を成さしめたが、陸上の戦闘で日本陸軍が本格的に敵に面するのは、これから後のフィリッピン戦争であろう。しかしこれ等の戦地に飛行機を送れるということは、一面で我方の飛行機の消耗を誘うことになり、いよいよの決戦のための予備が不足するようなことがなければよい、と心配でもある。台湾沖航空戦では戦果も多分我方で確認したよりも大きいであろうが、我方の未帰還三百十二機という損失もまた驚くほど大きい。これによってもこの戦闘の規模の大きさを推察することが出来る。我方が出動数の五分の一を失ったとしても、千五百機ほど出動したことになる。果敢な若き飛行兵五百名が海上に散ってまた帰らないのだ。祖国は御身等の血により護られている。この航空戦は、いまフィリッピンで始まりかけている大決戦の前奏曲となるものであろう。敵将マッカーサーは、その宿願の地フィリッピンに遂に手を伸ばした。敵が成功するか、日本がその力を発揮して敵を海へ追い落すか、これが多分大東亜戦争の本当の山となるであろう。
十日ほど前から、今年の雛、残った雄の二羽も、白色レグホン一羽と名古屋種一羽も顔面やトサカに皮膚病が出来て、きたならしくなり、これでは到底育たないだろうと悲観していた。しかし本によって調べると、これは鶏痘というので、営養が衰えねば治る見込があるとのこと、スカボールを塗布して手入れをして来たところ、古い腫物から黒く固まって治りつつある。雌二羽は片目をやられて中々直らない模様だが、死ぬことはないらしい。そしてこれは若鶏に特有の病気だというから二羽の成鶏は、隔離もしてあるし、うつらぬであろう。何とかして治して育て、名古屋種に白色レグホンの卵を抱かせて、うちで雛をかえさせたいと、念願にしている。育雛は、駄目になると仕事が一年遅れてしまうし、今年でも雛を手に入れるには板谷君や杉沢を大分煩わしたのだから来年は一層事情が困難となろう。特に二羽のうち、一羽を先日死なして一羽残った名古屋種のみは助けたい。これがいないと卵を抱く鶏がないのだから。
昨夜、雑誌文芸日本あて、牧野吉晴氏の原稿への返書として四枚を書き、今日送る。自分はもとより頽廃せる思想に憑かれたる不潔な者なりと公然と、自己の罪とがを言い立て、ただ出来れば今手がけている日露戦記を果すことによって自己を潔斎したい念願であるという趣旨である。これを書いたのは、何とかこういう文に答えておかないと、自次〔ママ〕の仕事が、人を怖れてでもいるように萎縮して駄目になる危険があるからである。
文芸の小説、今日一月遅れにてよいから書けと催促あり、行きちがいに私からその旨を野田君に言い送ったところであった。野長瀬君から言って来た少国民文学の小説今日締め切りだ。疎開のことを書こうと腹案す。東京新聞の頼尊君から月末までに時評を三枚と言って来る。藤村の「東方の門」評を書こうと思う。文報の大東亜文学賞のために「棉花記」等三四作を読み、その印象を各一枚ぐらいにて書き送る。厚生文化の原稿も二月遅れたが書くつもりである。原稿思いがけず多く書かねばならなくなっているのが意外なほどである。
明朝はしばらくぶりで、暁天動員に出てみるつもりである。
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十月二十二日 南の道路の畑に、莢豌豆二列、体菜二列、高菜一列半播く[#「南の道路の畑に、莢豌豆二列、体菜二列、高菜一列半播く」に傍線]。
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米軍は遂にレイテ島に上陸した。颱風の中を敵はやって来たというが我方空軍の攻撃が報ぜられていない。気候のせいもあるだろうが、先頃の航空戦においての損傷が大きく、今動かす予備機が不足しているのではないか。若しそうだとすれば、ある点で敵の企図が成功しているわけである。
今日は日曜で瀬沼か誰かやって来ると思ったが、誰も来ず、近所の江口君が自分の畑への行きがけに寄り、貞子甘藷を五百匁ほど掘ってやった。江口君彼の勤めている東亜交通公社発行の英文の日本紹介のパンフレットを九冊持って来てくれる。金持のアメリカ人が日本観光に来た頃の遺物であるが、贅沢な本だ。日本の彫刻、日本の郷土玩具、日本の建築、日本の紋章等、写真又は彩色画入りの美しい本である。新潮社の本と交換にしてくれとのこと。
米国海軍長官フォレスタルは、米国の海軍勢力が非常に増大した結果、太平洋にいる四つの艦隊のうち、第三、第五の両艦隊は各単独で日本の全艦隊と決戦し得るものであると言明した。それが本当とすれば、日本の艦隊勢力は、非常に尨大なものだということを私たちはよく耳にするが、さほどではないのか。ちょっと心細い感じである。それにしてもこの言明は敵の最大の航空母艦集団第五十八機動部隊が壊滅したので、米艦隊が弱体化したという印象を世界に与えることを怖れての、ことさらの言明にちがいない。こういう敵の政治家たちの言明というもの、たいていはその動機があからさまに推定されるので、子供の強がりと同様なものであることを、度々感じる。今度もまたそうである。それにしても私は、空母の勢力こそ米国がずっと大きいにしても、戦艦勢力は彼我大差ないようにぼんやりと考えていたが、そうではないらしい。今なお敵の艦隊勢力が我の二倍以上あるというのが事実なのであろう。
その上、イギリスの東洋艦隊というのも戦艦八隻又は十隻に空母四隻又は五隻と言い、相当強力のもので、これがビルマ南部とスマトラの間に並んでいるニコバル諸島をこの頃襲って来ている。祖国のための不安の念は尽きない。
昨夜から、文芸の小説は中休みして、少国民文学のため、礼の疎開に取材した少年読物を書きはじめた。
十月二十六日記
二十三日午前前夜よりつづけていた「少国民文学」の小説「節夫君の疎開」十七枚を書き上げて郵送し、貞子の支度した礼へ送る毛布や冬着類を小さな行李に詰め、客車便で送る。客車便は寝具はとらぬということで毛布が入っているのが難関であったが、着物類として受理してもらう。
二十四日朝出社、出版部のもの、台湾沖戦勝を兼ねて秋の旅行に伊豆の大仁へ出かける。ホテルに一泊し、二十五日夜帰る。哲夫氏の心づかいにてバター、柿、魚等の土産あり。
今朝の新聞にて、昨日発表のフィリッピン沖の艦隊戦闘の大本営発表を知る。我方の艦隊が出動したというのは、よくよく敵の航空兵力の低下したのを見定めてのことか、または、いよいよ艦隊同士の決戦期がやって来たのであろう。敵のレイテ湾上陸部隊への補給の部隊を狙って、我方も次第に動き出したのだな、と考えていた。そして午前中私は二階でぼんやりしていた。そのあいだに、隣の高橋夫人が階下へやって来て、立川の航空部隊の技術将校である高橋氏は、昨日頃から、しきりに戦果を気にして、家に戻るとすぐ発表がないかないかと夫人に尋ねている旨を貞子に話したそうである。そしていよいよフィリッピンで決戦が始まり、特にお勅語をたまわったので、フィリッピンにいる部隊は全員戦死の覚悟でいる由。上層部の人たちは、戦況が今に入るか入るかと、仕事も手につかぬほどにしているという。その話と今朝の発表とを思い合せると、いよいよ、敵の上陸を邀え撃って彼我の間に艦隊決戦がはじまっているらしく推測された。これが日米戦の最大決戦かと思うと、今さら、我にとっても敵米国にとっても、フィリッピンは重要な地点であることがうなずかれる。
この日社へ出ると、営業部の太田氏、今日出版会で海軍報道部の高瀬大佐の講演を聞いて来たとて、出版部に来て、意気込んで話す。聞いているうちに、席にいた哲夫君、丸山君、楢崎君、私、ともに興奮して、手に汗を握るように意気込む。みな歓声をあげんばかりになり、立って室を歩きまわる者もある。太田君も興奮して話す。それの要点は次のとおりである。
敵のこの度のレイテ湾上陸は、日米戦のいよいよの決戦であり、この上陸地点から敵を追い出せば、我方の勝であるが、追い出せなければ負けである。追い出すことが出来れば、ガダルカナルの戦闘のようなもので、その後は我方は敵を追撃して行くことが出来る。(追い出せなければ、敵の支那本土への上陸を抑止出来なくなるという意味で我方の極度の不利を生ずることを指すのであろう)どうか、是非ともそうありたいもので、これまでの所、我方の作戦は工合よく運んでいる。この度の台湾沖航空戦は、この比島作戦と相互聯関のあるものだ。第五十八機動部隊が、大半を失うまで、三日間も台湾東方の洋上に頑張っていたのは、軍事的に見れば全く馬鹿らしい作戦であるが、同時作戦というものは、こういう場合に一方だけ戦場離脱をすることが出来ないものなのだ。そしてまた比島上陸の部隊も、五十八機動部隊の損害如何にかかわらず、その出動目的に向って突進せざるを得ないのである。台湾に来襲した艦隊の勢力はその全勢力の三分の一に当るもので、これは大半を壊滅させることが出来た。敵の比島作戦は、敵側としては十一月七日に行われる大統領選挙が済み、政局が安定してから行う予定であったらしいが、日本の比島軍備が急速にはかどる模様を察して急いで行うことになったものである。今の比島周辺の戦局を敵は米海軍未曾有の危機なりと称している。今までに明かになった戦果は、今朝の新聞に出た昨日の発表の外に、航空母艦六隻の轟撃沈がある。というのである。
それでは今朝聞いた高橋夫人の話以上のことだ。いよいよ彼我の艦隊の大会戦が、敵の比島上陸をめぐって始まったのである。太平洋の運命は決定する。この一二日のあいだに決定するかも知れぬ。私たちはこの話を聞いて、胸をわくわくさせ、今度こそ、敵を水際に追いつめて、水の上か底かの外逃るる方法のない破目に陥らせ、敵の艦隊を東洋の海底に葬り去るようであってほしいと、ひたすらに祈る気持となった。
三時、同盟に原稿「アメリカ通信」のことで寺西五郎氏を訪ねたところ、目下比島ではその中央の海峡と、北方の沿岸と東方の沖とで三つの海戦が行われているが、我方の戦艦が一隻沈んだが、敵に与えた損害は随分と大きく、敵方も大分狼狽しているということである。
日本はいま、その運命を賭した最終決戦に臨んでいる。これまでの重っ苦しい受身の戦から、ここで大きな勝利によって脱け出てほしい。開戦以来、勝利の報に喜び、玉砕の報に悲しんだが、しかし今日ほど興奮して戦争に直面した感動にまき込まれたことはない。帰途電車の中でも、この決戦の結果について思慮して心の休まることはないのだった。街の空気も、四時頃に町の辻や駅の売店に現われる夕刊の東京新聞に集る人の足の早さ、売子に金を差し出す一刻を争う気配に、ただならぬものがあった。しかしまだ大部分の市民はこの真の決戦到来を知らないもののようであり、ただ台湾沖航空戦につづいての比島の海戦ということで気が立っているという形であった。
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十月二十九日記 家の前に二列の体菜と一列の小松菜を播く。甘藷を一畦掘る。約四貫五百匁[#「家の前に二列の体菜と一列の小松菜を播く。甘藷を一畦掘る。約四貫五百匁」に傍線]。平均この程度故、十三畦で六七十貫であろうか。あと八畦残っている[#「。平均この程度故、十三畦で六七十貫であろうか。あと八畦残っている」に傍線]。
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二十六日以来、比島の戦争のことで次々と放送を待ち、新聞を待つ気持のみに追われて過した。レイテ島上の制空権は我方の手中にあり、湾内へは我方の艦隊が夜襲をして、敵に損害を与えたが、我方もまた戦艦を一隻失った。相当の損害である。これとは別にフィリッピンの東方海上で海戦が行われ、敵の空母八隻と巡洋艦三隻その他を沈めたが、我方もまた空母一、巡洋艦二等を失った。大海戦が、比島の周辺で戦われたのである。しかしどうもその後、戦果拡大せぬところを見ると、この海戦はこれで一時中絶の形となったらしい。そしてレイテ島には敵三ケ師が上陸し、飛行場二ケ所はその手中に帰した模様である。そこに敵は艦載機を着陸させたが我方に急襲破壊され、今のところは制空権を失っている。それは一つには、敵の空母の損害が大きく、近海に空母を持って来れぬことによるのであろう。しかし、手に入れた飛行場を完備すると共に、島づたいにここへ敵は尨大な飛行機を注入し、比島上空で飛行機の消耗戦を我方に強い、その数によって、結局制空権を手に入れるようなことがあるかも知れぬ。もっとも、比島は我方から自由に飛行機の補給が出来るのだから、我国の生産力のある限り、前線に飛行機を注入することが出来る。だからこの島の制空権の争奪戦は、日米のここへ集めうる飛行機の数の戦となるかも知れない。大丈夫だろうか。万一ここでもなお敵の飛行兵力を圧倒出来ねば、とても敵をこの島から追い出すことは出来ないであろう。これほどの空母の消耗を敵に与えたのだから、敵の海空軍は弱体化したにちがいないが、ニューギニア方面からマッカーサーが補給する陸上機は、海軍力と関係なく数を増すことが出来るから、心配なことである。マッカーサーと言えば、彼はすでにレイテ島に上陸して、盛に宣伝戦をラジオ等でやっているという。昨日の朝刊にて、我方は自ら敵艦に突入する目的をもって出発する神風特別攻撃が出、敷島隊、大和隊、朝日隊等の隊を作り、現にこの戦闘で敷島隊というのは、五人でもって空母一、巡洋艦一を沈め、空母一を大破させている。帰還しない目的の飛行機を作っているということは、一月ほど前から度々耳にしていた。先日も隣の高橋夫人が、貞子にそういう飛行機が沢山あることを言っていた由だが、みだりに口にすべきことでないので黙っていたが、遂にここに姿を現わした。日本民族の至高の精神力の象徴である。これで日本が勝てぬようならば、人間の精神力というものの存在の拒否となり、人類は物質生産力による暗黒支配の中に入るとしか考えられない。否日本人は、この精神力によって戦いとおすにちがいない。このことは、はじめて今発表されたが、多分世界を色々な意味で戦慄せしめていることであろう。日本人の行動の極点である。これまでにあった自爆機は、帰還する力のないものの玉砕であったが、今度こそは、出発から、いな平素の訓練から自己を爆弾そのものと定めている人たちが現われたことなのだ。この話を新聞で読み、豊田長官の布告した感状を読み、私はからりと日常の執着を自分も脱し得たような気持となった。我々は、いよいよとなったら、何事も顧みず死ぬことが出来る。形あるもので何も惜しいものはない。戦時の生活もまた終局にこのことを覚悟すれば、かえって平静、明朗ですらあり得ると直感した。我々芸術家もまたそれを理解する。目的を果すこと、美を創り出すことに、生命を惜みはしない。我々もまた。
二十九日午後、鈴木忠直君、子供を連れて野菜買いに来る。貞子中野へ行き、礼の受持の原田先生がちょうど家に戻っていたのに逢い、色々話を聞いて来たという。食物もどうにか不足というほどのことなく、礼は元気でいるという。
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十月三十日 雨 風邪にて昨日からインドラミン二本
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実に雨の多い年だ。一日晴れて降り、二日晴れてまた降るという風で、雨ばかりの秋である。身体のため実によくない。一昨日は雨の中を短靴で歩きまわって足をぬらしたのが原因で喉を痛めたのだ。
敵は比島沖の海戦を勝利なりとし日本艦隊を破ったが故に比島上陸が可能となったと号しているという。しかしアメリカ人は日本の発表の軍艦マーチを耳にして不安に駆られているという。レイテ島内の敵の軍艦や汽船はまた増大しつつあるという。そのままにしておく外に方法はないのか。或は我方の飛行機の損害が意外に大きく、一時攻撃力を失っているのかも知れぬ。今なのに。今敵に根拠地を作らせたら、取りかえしつかなくなるのに、と残念至極である。
昨日貞子が高橋夫人から聞いたところでは、やっぱり我方は飛行機が足りないため、敵を徹底的にやっつけることが出来なかった。自爆未帰還は千機以上もあり、内地の飛行兵力を注入してしまった。敵もそのことを知っているので、或は内地への空襲が今後増大するかも知れぬ、とのこと。切角の大戦果にもかかわらず、このままずるずると敵がここに根拠地を造営してしまったら、あとは大変なことになるだろうに、と考えると居たたまれぬ気持である。
今日も戦果の発表はないようだ。
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十月三十一日 インドラミンの注射三本で風邪ほぼ直る。今日秋晴れなり。
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昨日の新聞来ず、今日一緒に届いた。それによると、敵はレイテ湾にまた一個師を揚陸し、合計四個師の兵力となった。更に今日の新聞ではレイテ湾内の輸送船は五十隻に達し、巡洋艦、駆逐艦等十数隻いるという。次第に敵はその力を増しつつある。制空権は今のところ、我方にあるらしいが、それにしても、この敵をみすみす撃退することが出来ずにいるのは、どういう訳なのであろうか。今日午前学校、午後新潮があった。その後夕方文学報国会へ新聞の原稿を届けに寄ったが、その三ケ所で、みんなが同じようにこのことを論じ合っている。ある者は、我方の飛行兵力が先日来の戦闘のため損害多く、大がかりの攻撃が出来ないのだと言い、ある者は、敵をうんと寄せつけておいて、袋の鼠にして一挙に叩こうとする作戦だと言い、あるものは二階に上らせておいて梯子を取ってしまうようなやり方をしているという。敵はしかし相当の海上兵力をも集中しているのに、それを叩きつけることが出来ないのは、歯がゆい極みである。しかし先日の台湾沖海戦以来巷の議論は多く強気であり、近いうちにレイテ湾から敵を一掃出来るものと信じている。否信じたがっている。あれだけの敵をやっつけ、あれだけの味方の損害を出したのだから、当然そういう我方の優勢への転換が起ったのだと、思っている。
しかし私は高橋氏の言うことが本当ではないかと思う。台湾沖で三百余機を失い、比島の海戦で百余機を失い、その損失は五百に近い。基地に戻っても再び戦闘に出られない飛行機もそれぐらいあるであろう。とすると、千機の損失となる。これはまことに大きなものだ。日本は今月産三千機ぐらいはあるだろうが、前線ですぐ使えるように整備されたものは、そう多くある筈がないかも知れぬ。
敵もまた比島の海戦を大勝利なりとしきりに宣伝しているようだ。この比島上陸戦は、敵にとってはこの戦争の最大の眼目であったのだから、それを大統領選挙前にするというのは、一種のお祭りのような騒ぎであろう。従軍記者を百名も送ったり、現地放送をしたり、記事の速報をしたり、実に大がかりの宣伝をやっているという。
レイテ湾の敵の運命はどうなるか、心配なことだ。
今日午後また戦果の発表あり、どこかで空母四隻を沈めたとか言っているという滋の話である。
東京新聞に、ラバウルとその周辺の島々にいる我軍の様子が、同地滞在の報道班員によって報ぜられている。もはや故国から輸送船をやることも出来なくなったあの太平洋の直中の島に○○万の皇国の将兵がいるという。二桁の数字だから、少くとも十万以上にちがいない。大変なことだ。戦争が終るまで、否我軍の反撃が奏効してラバウルに再び我艦船が入るまで彼等は自給自足の隔離生活をそこでして頑張るというのだ。巨大なるロビンソン・クルーソーの群である。食糧、武器その他自給しているというが、いずれにしても大変なことだ。しかも彼等はみな比島の戦を聞いて欣喜雀躍したにちがいない。ああ、こういう遠隔の地に残された味方もいるのだ。この戦は一体どうなって行くのだろうか。
午後文学報国会へ原稿「文学者の今の生活」を届ける。文学者が日常生活において倫理的にどういう処置をして行かねばならないか考える要あると述べ、それにつづいて、先頃の牧野吉晴の文を引いて自分の心境を書いた。その時岡田三郎氏が、週に三日間ほど報国会へ来て、雑誌や単行本や原稿の送られて来るものを読む仕事をする人はないだろうかという話から、何なら私が来ようか、ということを口にしたところ、それはよいと思うから中村氏に相談してみる、ということになった。学校の方は、まだ二年生は勤労に出動しないが、それも間近だと思うので、かねて何か収入の道を考えていたので、これがきまれば、朝は楽だし、それに仕事も自分に合うものなので、結構だと思う。新潮社の方との連絡もこの仕事なら好都合であろう。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年十一月
十一月一日 晴
午前学校、昼頃床屋にいて髪を刈っている時、警戒警報出て、すぐ続いて空襲警報となり、遠くに高射砲の音がする。金を払って出て、そこの横町にある木の下の無蓋の防空壕に入る。私ひとりで誰もいない。たしかに空襲警報である。空は青く晴れて雲ひとつ無い。防護団員の服装をした男が、植込みの向うで、畳を持ち出して、そこの防空壕の上にのせてやっている。いよいよ、敵は来るのか、先日高橋氏の話として、敵は南方の戦で我方の飛行機の損害の多いのを知り、本土の防衛手薄と思っているから、空襲あるかも知れぬとのことがあったが、それが本当になりそうだなどと考えている。味方の飛行機が時々一機二機と五百メートルぐらい上空を飛びまわっている。しかしいつまでたっても、敵機らしいものが見えず、また高射砲の音も今ではしない。その防護団員がそばに来たので、「空襲ですね」と話しかけると、「ええ、しかしみんな道路を歩いていますよ」と言う。こうしているよりも早く家へ帰らねば、と思ったので、表の甲州街道へ出てみる。表通りは人影はない。あちこちの軒下に、防護団員やら退避している通行人たちが立っている。街を横切る者が時々いる。それは舞台を横切るように大急ぎに、敵機をおそれるというよりは、防護団員に叱られはしまいかと怖れるような姿で走って行く。街道をトラックが、いつもよりもすさまじい速力で走って行く。それが何台もつづく。しかし中には悠々と道を横断して行く者がいる。私もそれにならって、道を横切り駅の方へ行く。駅のあたりに人影はないが、電車は次々と来ては止り、その度に五六人ずつ下りて急ぎ足で家並の間へ消えて行く。駅前の橋のところの店でラジオが何か音楽を奏している。老年の紳士がそれを聞いているので、私もそこへ行く。すると、急に音楽が止まって、「只今関東地区に空襲警報が発せられました」と言って、それっきりラジオは止まる。
その頃から、駅の前に二人三人と人が来て、電車に乗り込む模様なので、私も定期券で構内に入る。プラットホームには十人ばかり人がいて、空を見たり、あたりを見たりしながら電車を待っている。電車は変りなく運転している模様で、やがて新宿方面からやって来たのに乗った。乗客もしきりにそとを気にして、停車するごとに外の様子をうかがっているが、何事もなく烏山駅に下車して家に戻った。
隣家の花村夫人、私の所で貞子が外出し、高橋家でも外出していることとて、三軒を見張っていましたとて、私の来たことを喜ぶ。そのうち、解除となって、滋も貞子も夕方戻って来る。貞子は中野の薫たちの下宿先にいて、あわてて畳を出して壕にかぶせるやら、お握りを作るやら、大騒ぎをしたという。夕方組長常会あり、台湾沖空戦の感謝貯金の話あり。
夜九時頃また警戒警報出る。身支度して寝る。
今日から煙草配給あり、十日分としてキンシ、ヒカリ等六個。
神風特別攻撃隊の記事、史上無比にして、世界にその類例は無いもの。同隊出発の時は、整備員は、地上に伏して顔もあげ得ぬという。さもあろう。さもあろう。日本は戦う。日本ほど美しい戦いぶりをしたものは、人類あって以来かつて無かった。ああ、祖国日本よ。国民はみな祖国の神聖さを守り、そのためには、生命を捧げようとしている。
この頃の南方の戦闘に衆に先んじて敵に突入し、身をもって日本武士道の範を示した三人の武人、台湾沖空戦の有馬少将、神風特別攻撃隊の関大尉、ニコバル島の英空母撃沈の阿部中尉の三人についての新聞記事を集めてみた。年齢のせいか有馬少将の家族にあてた文、手紙の立派さ、武人としての人間生活についての反省の美しさにもっとも心をうたれる。日本人は美しい。
十一月二日
昨日の空襲の話を高橋夫人が貞子にしたところによると、高橋氏は立川の航空機工場で午すぎに、同所の高空にきらきらと光って、しきりに旋回している飛行機あり、はてなと思って見ると四発で味方のものとは違う型なので、敵機だな、と思った途端に、附近の高射砲がうち出したという。立川辺の偵察に来たものらしく、写真をとったのだろうという。また氏の話では、サイパンから来たらしいが、どうかすれば今のB29の能力でサイパンから来るのでは、爆弾を積めないのではないか、ということである。
今日新潮社で中根氏の話によると、研究社の小酒井氏の牛込の邸の庭に、昨日不発の高射砲弾が落ち、軟い地面だったので、地下五尺ほど入って爆発し、一間ほどの直径の穴となったが、建物等の被害なかったという。しかし一時は附近では不発の爆弾でないかと大騒ぎであったという。危険なことだと話し合う。また銀座方面では、高射砲の破片で負傷した人があるという。
私も今度はこういう時鉄兜をかぶって出るようにしようと思う。また大型の手さげ鞄を持ち歩くようにして、いざという場合それを背に乗せれば、多少の役目をするだろうと思う。
岡田氏より電話あり、文学報国会に夕方行く。同所での読み役の仕事を受け持つ話、大体私のこと決定したが、もう一人、人がほしいし、仕事を始めるのは、少し後になるという。上林暁君を私が推すと、それがいいならばまあ考えておいてくれとのことである。
東京新聞より原稿催促あり、「文芸」の野田君よりも、五日まで待つから小説書くようにとの電報あり。
夕刊によると、チャーチルは、ドイツを攻め落すのは明年夏までかかり、その後日本を降服させるには、更に一年半を要すると言っている。これは敵の立てた物量的戦略論である。日本の男がみな、神風攻撃隊となったら、一年半どころか一世紀半を費しても、日本を征服することなど出来ないことを、彼はさとらねばならないであろう。
レイテ湾内の五六十隻の敵の船は、我攻撃により、みな沈んだり、坐礁したりしていることが分ったという。しかし、なお敵艦は十余隻在泊しているという。その外にレイテ島の戦闘の模様、少しも報告が乗っていない。ただ新聞記者の推測的記事のみ。何かこれは、我方で新しい攻撃の準備中かも知れぬ。それとも単なる中たるみの時期なのか。心配なことである。
警戒報は今日十時頃解除となる。
先月頃から、私の附近の家々、一昨年頃以来建った家のみが多いので、それの建築税の調査があった。書類の届けを出させ、それから税務署の役人が来て家を見たり、建築に費した費用についての契約支払書等を閲覧したりするのであった。隣の花村家など庭や玄関あたりを立派にしたためか一万二三千円のものを二万五千円と評価され、税金を二千五百円も払うようになった。私のところ家は建てたのでなく買ったのであるが、私が建てたことに届けてあるのだ。それと売買契約書等を見せ、家が九千三百五十円であることを了解してもらった。建築税は一万円以上の家は、その費用のうち五千円かを基礎控除してその余りに二割を課すというから、二万円に見られると三千円の税となり、実に高額なものである。私の家も買った値の外庭の木や垣根などに千円近くかかっているので心配したが、大体に家は粗末に出来ていることが役人に解ったと見えて、今日税務署へ行って書類を見せて説明したところ、この税はかからぬこととなった。電車会社への支払もあるし、こんな高額の税(一万円に見られると一千円かかるわけである)はとても払えないので、貞子と一緒に心痛したが、これで先ず一安心した。花村家など二千五百円か払うことになり、閉口しているという。今年の春不動産取得税というのが四百円かかって来て、困却し、質屋でやっと工面して払ったが、その質はまだ出せずにいて、その方の利子のみでもこの月に七十円払わねばならず、そのため、今月は英一へ渡す分の金が無いのである。私は本を見ると買いたくなるから、本屋には立ち寄らぬようにしている。以前は煙草に毎日一円ほどかかっていたが、煙草も配給となり、一日分は三十銭ほどに定まった。毎日私の使うのは電車賃と夕刊代とのみである。
十一月三日(明治節)雨 またしても雨である
神風隊出発の日の写真新聞に出る。ここに拝するは人にあらず、神人の姿である。ああ。我空軍はレイテ湾の敵巡洋艦四隻を撃沈し、三隻を撃破した。制空権はなお我にあり、我空軍は敵空軍の基地になっているモロタイ島の飛行場を夜襲している。敵はレイテ島北方のサマール島にも移動し、また新に一個師がレイテ島の南岸に上陸している。そして敵は次第に西方に進出しようとしている。我地上軍には、増援部隊が到着したという。息づまるような比島の戦局推移である。神風隊の戦死を無駄にしてはならぬ。上陸した敵を今度こそ、海の中へ一人残らず追い落さねばならない。
支那大陸では、敵の空軍基地桂林へいよいよ我軍が届き、その北部の停車場に突入したことが、外国電報によって報ぜられている。この方面の作戦は間違いなく着実に進行している。
今日も雨。この秋は、秋晴れというもの五日と続いたことがなく、一日晴れて二日降り、二日晴れて一日降るという風に雨の連続である。東京の秋の美しい日和という毎年のきまった天候が、こんなに崩れたことは、東京に住んでから十五年になるが、経験したことがない。
一昨日の敵機の偵察から考えるのに、七日の米大統領選挙前に、きっと敵は東京空襲をすると思う。サイパン辺の基地は少いから大部隊は来れないであろうが、宣伝の為にでも、きっとやって来る。大統領選挙の模様は、ルーズヴェルトは二十七州で選挙人投票二百四十九を得、相手のデューイは二十州で二百四十七票を得ていて伯仲であるという。ルーズヴェルトの当選に間違いないと思うが、しかし選挙戦の景気づけに、比島上陸とか東京空襲ということは恰好の題目になるにちがいない。きっと空襲がある。
家にいて原稿紙に向う。
十一月四日 午前中晴、夕刻より南風にてまた雨。
レイテ湾に入っている敵の艦船を、我神風特別攻撃隊や航空部隊が連日攻撃していて、巡洋艦、戦艦等を撃沈破しているが、しかもなお敵艦船がこの湾頭に群らがっているというのは、どういうのだ。我海上部隊は出撃せぬ。敵の公言しているように、比島沖の海上の戦闘で我方の損害も相当にあり、その結果大事をとるに到っているのであろうか。制空権が我にある現在、海上部隊の出撃は我に有利な筈であるが。敵は七十隻もの船をレイテ湾に沈められていて、なおその軍艦を退避せしめず頑張っている。正に強引という外なし。もっともっと我方の航空力による大攻撃をこの敵艦上に加えられぬものか。敵の基地が完備すれば、二時間にして比島上の制空権は敵の手にうつると書いていた新聞が二三日前にあった。或は我方の飛行機が足りぬのではないか。心痛のことである。この機を遁せば、敵の基地は動かしがたいものとなるかも知れぬのに。
支那では桂林は陥落近い様子である。北停車場は我手に入り、南方にも我軍が突入したという。この桂林攻撃は、補給の長い、大規模な進攻戦であるが、我方の報道はほとんど新聞で目につかぬほど控え目であった。
サイパン島、テニアン島を我空軍襲う。二時間にわたる爆撃というから、これは相当の大攻勢であり、敵の東京空襲を先制破摧したものであろう。七日までに東京空襲ありとの私の予想はこれで消えた。多分我軍は小笠原から出かけたのであろうが、それにしても長大な海上航空戦である。
戦の相はことごとく、息づまるばかりとなって来た。
昨夜電報入り、今日末弟基、函館より来る。勤務先の気象台の用にて出張という。途中弘前に寄り、林檎を三貫目買って来てくれた。林檎などこの節ろくに見たこともないが弘前にては闇値で一貫一円二十五銭という。まるでただのような値である。輸送力不足のため、産地の品物が動かないためであろう。
朝学校、昼すぎに、昨日書いた原稿「東方の門の問題」三枚半を東京新聞社に届ける。
夜基と話す。塩谷の弟博は、この秋過労で少し身体をこわして二十日ほど休んでいたという。母も完全ではないらしく、時々腹を痛める(胆石)ようだが、弟の妻が四人の子をかかえて畑に出られぬので、見ていられず畑をしているらしい。そういう基も胸で二三年療養した後に結婚したばかりであるが、夜寝てから数度大きな咳をしている。どこもかしこも心配なことである。貞子も夜は後片附やら繕いもので、十一時頃まで起きていて、朝は滋の登校の支度に五時に起きるので、この頃過労のためか、神経質でひどく腹立ちやすくなり、胸や背中が痛いと言っている。どこの家も力一杯でやっと生活しているのだ。戦時に当然のことであろうが、母、弟たち、貞子など、どの一人が倒れても身内に暗いかげが漂うのだ。
今日中野の質屋八島へ利息七十円送る。この月の学校での収入の全額である。五百五十円ほどに対する五ケ月分の利息である。これも早く出さないと利息に追われて閉口である。原民喜君へ夫人死去の香典五円を手紙に入れて送る。更科源蔵君明五日、練馬の彫刻家舟越保武氏宅へ来るから逢いたいと言って来る。七日に基が発ち、その日から更科君は私の所へ来ることとなろう。
今明日中に麦を播かねば、この附近では時期を失するのだが、昨日の休みが雨で今夜また雨となり、明日の日曜も危いことである。文芸の小説、昨夜三四枚書き足したのみで半分位にしかならず、夜基が早く寝たあと机に向ったが、ペンは捗らず。
十一月五日(日)晴 麦播きはじめる[#「麦播きはじめる」に傍線]
基、朝から豊岡の嗣郎の見舞にと弁当を持って出かける。私は東南畑の黍殻を除いて麦を播きはじめる。今まで出たらめの畦幅であったが、甘藷のごとき畦幅が狭くてよく出来ない傾向があるので、この麦から、畦幅を二尺三寸ほどに定め、明年の甘藷に都合よいように畦幅を定める。麦播きの準備として里芋を掘る。百株ほどにて十貫足らずなり。午前中働いているうち、警戒警報出る。つづいてすぐ、空襲警報となる。町内の貯金を持って来た宍戸甚太郎氏と一緒に縁に腰かけて模様を見ていたが敵機の姿見えず、退避もせずにいるうちに解除となった。東の畑半分ほどに畦を作り、その三分の一ぐらいに麦を播いて夕方までかかる。
疲労していたが、先月以来言われている「文芸」の小説今日までということなので、夜、基が早寝したあと、原稿に向い、二十三枚ほぼ書き上げ、十一時となる。もっとも今夜書いたのは五枚ほどにて、それ以前は先月に書いたもの。広島紀行記の半分である。題「父の像」。後も書いておかねばならぬ。
十一月六日 麦播く[#「麦播く」に傍線] 基帰る 里芋掘る[#「里芋掘る」に傍線]
学校。今日から時間表変り、明日から、火曜から木曜まで毎日午前中四時間の授業あることとなる。三原教諭、私に配給の皮靴を一足まわしてくれるという。滋が靴を一足はきつぶし、いま私の旅行用の編上靴をはいていて、余裕はないし、私も全然新しいのは二足しかなく、外はみな穿き疲れているので、この話大変ありがたい。明春から礼も中学生でまた靴の心配である。学校で月収を百円もらうよりも、この一足の靴の方がありがたいほどである。
そんな話をしている最中、二時間目に警報が出、急いで電車で家に戻る。この頃つづいての空襲なので様子を見、大編隊で来る模様もないので、麦播きをつづけ、昨日畦を作った東畑の半分に、堆肥をやり、播き終える。十二時頃解除となり出社する。そのとき、日本橋の河出に原稿を届ける。野田君留守。小説を一篇書き上げてほっとする。
この日、昨日、町内の第十六組の荒井氏の庭に落ちた高射砲弾の破片を箱に入れて回覧して来る。厚さ一寸、幅二寸四方にて、ふちは斧の刃のようであり、重く怖るべきものだ。これが落ちたら、屋根はつき抜けるだろうし、鉄兜も用をなさぬであろう。戦慄すべきものだ。防空壕の屋根を直さねばならぬ。空襲警報の時外にいるなどということは、してはならぬ。
夜舟越家に寄る。鶴田知也君も来、四人で特配の酒やビールを飲み、なごやかに話し合って愉快であった。夜十一時帰宅す。
十一月七日 晴 落花生掘る[#「落花生掘る」に傍線]
午前学校。十二時半頃学校を出、社へ行こうとして、新宿角筈で電車に乗ると警報。急いで京王線に戻って乗ると、西参道駅で退避ということで下車させられる。東の方に極めて高く、東京市の真上できらきらと花火のように高射砲弾が炸裂している。敵機がそこにいるのだ。大急ぎで近くの公共防空壕に入る。この日長谷川大工の所から薪を持って来ようとしてリュクサックを手下鞄に入れていたが、それを反対にリュクサックに鞄を入れて、頭にのせる。その辺に不注意に立ち動いている者が多く、不用意な人々と思う。私は壕の中に新聞紙を敷いて腰を落ちつけ、弁当を食う。一台B二十九らしい大型機西北方へ高く飛ぶ。そのうち電車が動き出したので、幡谷まで行く。そこでまた退避。ガス会社の出張所に入って腰かけている。敵機らしいもの、長く飛行機雲を曳いて、今度は東南へ飛ぶ。高射砲を撃っていない。そのうち、中野行のバスが来たので、長谷川家へ行き薪を背負って、家に戻ると、解除となる。
今日はアメリカでは六日、明日は大統領選挙だ。今日あたり来そうだと思っていたが、入ったのは一機らしく投弾した模様もない。
社は休む。午後麦播きの準備として、東畑の落花生二十株ほどを掘る。やや見るべき成績である。
寝不足がつづき、畑仕事に、学校と社と空襲と薪運び、という風に仕事が多いので疲労する。
比島の戦いはいよいよ激しいらしいが、我方は敵を一挙に殲滅するだけの空軍力と海上兵力を出動させることが出来ぬらしい。しかし敵も後方基地から戦闘機を飛ばすことが出来ぬらしいし、タクロバン飛行場などに持って来るものはみな我方に叩かれるので、制空権を得られず、ともに苦戦している。今の所また我方は制空権を持っているようであるが、上陸した敵を追い出すことは容易には出来まい。
東京辺はこの数日の偵察的空襲につづいて、きっとこの二三日中に相当な空爆を受けるであろう。恐ろしいとは思えず、かえって待っていたものが来る感で、勇み立つような気持がする。敵は昼頃に来ることにほぼきまっているようだ。
レイテ湾敵艦船の写真新聞に出る。数えると、なるほど七十隻ほどのものである。こういう風に大挙してやって来ては、急にそれを追い出すことも出来ないであろうが、敵方も補給には大いに困難することとなろう。いずれにしてもこれは大東亜戦の山であり、今度は国民もこの島の戦況にまことにじりじりしている。
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十一月八日(曇後雨)麦播く。東畑中央部広幅播き[#「麦播く。東畑中央部広幅播き」に傍線]
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午前学校、午後帰宅して細雨の中を、スキイ用のアノラックを着て、麦播く。十日までに播かねば時期を失するのである。昨日までの場所、東畑の南半分は、この辺の播き方に従って、堆肥をやり、その上に土をかけて麦を播き、また土を掩ったが、今日は、この頃また新聞で推称されている広幅薄播き法に従い、鍬二つの幅、約七寸に、下肥を薄めて施し、それのしみ込んだ所に、なるべく薄く播き、その上に堆肥をやり、土をうすくかけて、軽く踏みつけた。あと三分の一ほどはまだ陸稲の藁を刈っていないので、これは明後日あたり、また播く予定である。今日は二時半からかかり、五畦ほどで日が暮れる。播けるだけ、道路畑にも悉く麦を播き、縁側前の馬鈴薯畑のみ残すつもりである。食糧事情はいよいよ悪くなり、北海道からの輸送も利かなくなるから、何としても麦を出来るだけ収穫せねばならぬ。今年の春、畑の三分の二、百坪余に馬鈴薯を播いたので、この冬はどうにか凌げそうである。思い切って収穫を多くするように努めねばならぬ。畑を少しも遊ばせぬように気をつけることだ。
今日は空襲があるかな、と思っていたが、無い模様だ。昨日侵入した敵機は二機だという。はじめ私がちらと見たあの高射砲は、みな届かず、敵機の下方で炸裂していたのだという。後に見た時は撃っていなかったが、それは、届かないので撃たないのだという。学校で、この春まで、東京附近の高射砲隊にいた友坂教諭の話によると、昨日の敵機は一万二三千メートルの上空を飛んでいたという。東京の周辺には、高射砲陣地が二重に囲繞して出来ており、その砲数は三千ほどである。そしていま三重目の陣地が出来かかっているという。敵機はそれでは、ああして悠々と飛行出来て何の危険もないのだ。戦闘機は一万二千の上空へは到達出来ないのだという。とすると昨日見た帰路の敵機は、何の危険なく、日本の首都の上空を飛翔していたのだ。飛行機雲を白く曳いて飛んで行ったあの様子は、よほどの上空だったのだ。幅が百米もある大きな飛行機だから、あのようにはっきりと見えたのであるが、あれは亜成層圏を気密室の中に敵兵を入れたまま飛んでいたわけなのだ。
とすると、敵はきっとやって来るにちがいない。我方の砲も飛行機も届かぬ高空から東京都を、そしてその周辺にある工業地帯を思うように爆撃することが出来るのだ。若し日本の工業地帯がこの敵によって空爆されれば、我方の生産力は落ち、国民の生活は乱され、戦力低下は必ず来る。これは国のためにまことに憂慮すべきことだ。防ぎようがないというのは、何ということだ。まるで不合理なことのように苛立たしい腹立たしいことだ。
それから更に友坂君の話によると高射砲弾は演習時に注意して射ってもその三割は不発弾であり、急いでやる時は五割もの不発弾が出るのだという。とするとそれが地上に落ちて爆発する危険は随分と大きく、我々の防空はむしろこの高射砲弾を避けるようにせねばならぬという。そして今のところ、高射砲弾は八千メートル迄しか標準の照尺なく、その高さは一万五千米位には届くが、そういう高度での命中は殆んどないのだという。
これは容易ならぬ話である。敵はサイパン辺の基地の準備さえ出来れば、好む時にやって来て、日本の工業地帯の好む所を破壊出来るのだ。日本の最大の弱点が、こうしていま敵に曝露されることとなった。必ず敵は大挙して東京を空襲するであろう。
遠藤教諭の話によると、昨日の空襲時、新宿で高射砲弾の破片のため死んだ人があるが、それは破片のため戦闘帽と頭蓋とを一度に削り取られた即死であるという。私は警戒警報の時急いで新宿を去り、京王電車で西参道まで来て退避させられたが、新宿で遅れてまごまごしていれば危険なことであった。
今後新潮社へ出る時など、よほど注意しなければなるまい。
明日文学報国会で文芸雑誌の批評委員会あり、夜「文芸」創刊号や「日本文学者」九月号などを読む。
十一月九日 晴
我方の航空隊は七日朝サイパン島テニアン島の敵基地を襲い、大型機二十機以上を爆破したという。そこに集結していた大型機は四十機あったという説明だから、少くともそれぐらいの機数で東京を空襲する可能性は今後毎日あるのだ。
今日は午前学校、午後新潮社に顔を出し、それから大阪ビルに中野好夫を訪ねて原稿を少し受けとり、二時少し前に文学報国会に届く。本多顕彰、中谷〔アキ〕、原奎一郎と私の四人で文芸雑誌批評の座談会をする。
この日一時頃、また敵機が来はしないかと、気になり、電車内でも、社でも、今か今かと思った。麹町辺にいることは危険のまん中にいるようで落ちつかない。鉄兜を背負い、頬と首とを蔽うように出来るスキイ帽をかぶって歩いている。文学報国会で聞いた話によると、出版社博文館主大橋進一氏宅に高射砲弾が落ちて爆破し、附近の硝子をみな破り、庭の石や木を吹きとばし、大きな松の木が附近の家の屋根に乗っかったりして大騒ぎであったという。またここでの話では昨日の敵機は九千五百米の高さであり、熊谷の北方まで飛翔して偵察をして行ったという。
昨日、老人六十五歳以上の者と国民学校二年以下の幼児の疎開が企図されていること発表になる。都民税二円以下の家庭では、そういう人間一人について二百円、二人以上は各百円宛の補助金が出されるということである。
朝明大前駅の売店で買った産業経済新聞に、モスクワ発同盟通信電報の、十一月六日ソ聯の第二十七回革命記念日のスターリンの演説の要旨が載せられている。これは外の新聞にも載っていたが、実に注目すべき内容を持っている。ドイツの敗北が近いということ、ソ聯軍のためドイツ側は百三十個師の軍を失ったこと、ソ英米の共同作戦が成功し、その共同体制にゆるぎないこと等を述べた上、日本とドイツを侵略国なりとし、こういう侵略国を将来企てる危険から封じて武装を全く解くべきことを論じている。この頃の我国の巷説では、ソ聯は米国の強大化を怖れて日本に味方しそうだ、ということをよく聞くが、これを読むと決してそんなことはない。むしろソ聯は、隙と機会があれば日本をも敵としようとするものと断定してよい。ただ、対独戦で英米が数年間ソ聯を独力でドイツと戦わせた逆を行き、対日戦では英米をして疲れるまで日本と戦わせて、いよいよとなるまで機をうかがって静観しようとするであろう。ソ聯にその隙を与えない為には英米を破摧せねばならない。万一形勢がいよいよ日本に非となれば、東方に対する自国の安全保障の為にでも必ず北方から侵入して来るにちがいない。怖るべきことだ。この戦には、甘い考など、どこに対しても抱くことは出来ない。よくよくの場合のことまで考慮に入れておかねばならぬ。それにしても今フィリッピンで米軍を破り、我国の優位を保持することが、すべてのことの根本である。
支那大陸では桂林の周辺は我手に帰し、その占領は間近に迫ったようであるが、ビルマの周辺の敵軍は、この一日を期して総攻撃を始めたという。この地の戦は我方の困難を極めたものとなるであろう。
今日田原忠武君の夫人芳枝さんから手紙が来、田原君は大変病重く、医師はあと半月ぐらいでないかと言っている。そして当人はしきりに私に逢いたがっているというから、手紙のことを言わずに一度寄ってくれとのこと。哀れである。田原君は実父母を知らず、今の父君の家に養われて人となり、今年春結婚したばかりであった。私の所によく遊びに来、私が特に何もしてやれないのに慕っていてくれる。人となり冷淡な私に対してこういう気持を抱いていてくれること、おろそかに出来ない。
明日麦まきもせねばならぬ故、学校は休み、午前に畑仕事をして、午後見舞に行こうと思う。
十一月十二日(日曜)曇 麦播きほぼ完了す[#「麦播きほぼ完了す」に傍線]
ルーズヴェルトは大きな差をもって、政敵デューウィーを破り、四度目の米国大統領当選確実となった。このこと予想したとおりである。
我軍は南支那の敵の大空軍基地桂林と柳州を占領した。この作戦は順調にはかどり、遅滞することがなかった。今年の春一軍は中支那の長沙方面から南下し、一軍は広東から西北進してこの大作戦を完了した。この作戦によって日本軍ははじめて支那大陸を縦に貫通し、南方に達する陸路を開き、非常の時の輸送路を陸上に得、同時に桂林以東の支那東部にある敵の飛行基地を制圧することが出来た。
政府は全国に防空壕を更に整備することになり、特に都会の中心地、駅附近には車馬の通行の差支ない限り、出来るだけ多数作り、掩蓋には街路樹を使用する命令を出した。いよいよ切迫した手段である。
昨日社で聞いた話によると、社のある牛込の矢来町という狭い区域だけでも高射砲の破片や機関砲の弾丸が六ケ所落下し、社のすぐ裏の家にも高射機関砲弾が落下して、トタン屋根を貫き、畳に射さって止まったという。
敵機B二十九は昨日九州を八十機で襲い雲の上から盲爆したという。八十機の超大型機の空爆の被害は相当ひどいものであろう。思いやられる。民衆の被害もさることながら、ようやく今の戦力の高さにまで達した我国の生産組織が破壊されることは、実に怖ろしいことだ。
比島占領当時の我軍の司令官であった本間雅晴中将が新聞に発表している談話によると、上陸した五個師をすぐ殲滅出来るなどという甘いことを考えてはいかぬ、そして目下比島の空軍力は五分と五分であり、今のうち一機でも多く飛行機を送って制空権を取ることこそ緊要であると言っている。あれほど我方に有利の地点にありながら、空軍力が五分五分というのは、まことに歯がゆい次第である。愚図愚図していれば、我方不利になるのではないか。
一昨日、学校を休んで一日中かかり、東畑の北半分の残った所に畦を作って麦を播き、今日は朝からかかって、北側の道路に、広幅薄播き法により播き終える。西道路の畑にも一筋播くつもりだ。これ全部がすめば麦畑はおよそ百五十坪に近くなり、一段歩五俵と見ても、二俵半ぐらいの収穫が予定される。これによって来年の春の食糧を確保せねばならぬ。北海道からの馬鈴薯種はまだ来ず、今年はどうかすれば送ってもらえぬかも知れぬので、上半期の畑収穫として主に麦を目標とせねばならぬ。残っている縁の前の畑五十坪を馬鈴薯にあてておく。もし馬鈴薯が来なければ、そこには南瓜を播くつもりである。
一昨日午前中に麦を播いて午後田原君を見舞う予定だったが、麦播きに夕方までかかったので、夜出かける。見舞として、佐藤信衛の「岡倉天心」私の「戦争の文学」の外に、先頃基が持って来た林檎を五つ持って行く。夜で街は暗く道が分らないので、自転車で行った道をとおり、井ノ頭線浜田山から真暗い夜道を三十分ぐらい歩いてやっとたどり着く。衰弱していて元気なく、毎日熱は三十八九度あり、今度は直らないような気もするなどという。一月ほど前私が行った時阿佐谷駅まで送って来たのなど、無理だなとは思ったが、我慢性のない人故、安静が出来ないのである。枕頭で一時間ほど話をし、また同じ暗い道を戻って来る。今年になってからも小林夫婦と長男の盈君、原君の夫人がそれぞれ結核で亡くなり、今また田原君も危い。結核は我々日本人のすべてに取りついた病気だ。スターリンはいつか、日本人は戦争に負けなくても結核に負けると言ったそうだが、戦時下、この病気の蔓延は甚だしいものがあろう。田原君は本好きで、歴史関係の本は随分よく集めており、将来そういう方向に進もうと考えているようだ。あれだけの本を集め、人生の将来のことを色々予定している若い人が死ぬということ、まるで不合理のような気がするが、何とかして危機を脱させたいものだ。しかし病気と分っていながら秋田までの旅をしたり、歩きまわったり、じっとしていれない性格故、この病気では、不利な人である。彼の養父田原要氏、夜道を途中まで送って来てくれ、医者がもう一月ぐらいしか持たないというが、駄目かも知れぬなど話す。気の毒で返事も出来ないような気持であった。
いま夜七時の放送で、中華民国政府主席、汪兆銘氏が名古屋の病院で逝去したことを知る。対支政策上の一打撃である。
昨日私の留守に、近所の井上茂氏甘藷を六貫目ほど貫三円五十銭で持って来てくれる。どこからか手に入ったものの余りであろうが、ありがたい。甘藷は普通七円とも五円とも言う。時には十円もするという。うちの甘藷は十三畦のうち今残っているのが五畦で、二十貫ほどであろう。よそへやったり、甘いので私たちが食べ進んだりして、十二月一杯持つ筈のが、やや心細い形となった。井上氏に分けてもらって、それで十日ほど分あり助かるわけである。なるべく一月から、貯蔵の馬鈴薯を食べはじめるようにしたいと思っていたが、とてもそうは行かず、十二月中頃から馬鈴薯に手をつけねばなるまい。とすると、それは八十貫しかないから、六百匁ずつとしても三月中頃までしか持たず、その後は補食となるものが無いのである。麦のとれる七月までの三月あまり困ることとなる。
この頃はしかし東京市民に、月のうち麦粉四日分とか大豆三日分とか甘藷三日分、という程度に時々米と差引なしの特配があって助かるが、こういうものは量の知れたものである。どうして春の食糧不足を切り抜けるか、困ったことである。野菜配給は二日間に一人あて小蕪一個という程度である。今年も春に困ったが、七月からは馬鈴薯で一月、南瓜で一月、玉蜀黍で一月、甘藷で二月という風に凌いでやって来た。その間に北海道の私の家や貞子の家からも豆などを送ってもらった。しかし輸送はいよいよ窮屈となり、今後はほとんど送ってもらうものがあてにならないのである。ことによれば冬のうちに一度北海道まで食糧運びに行かねばならぬかも知れない。
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十一月十五日(水)昨朝より降霜甚し[#「昨朝より降霜甚し」に傍線] 麦、最初のもの漸く芽を出す[#「麦、最初のもの漸く芽を出す」に傍線] 甘藷埋める[#「甘藷埋める」に傍線]
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昨日と一昨日の大本営公表にて、それぞれ戦艦一隻をレイテ湾にて我神風特別攻撃隊が撃沈したこと発表さる。
特別攻撃隊のこれまでの戦死者名とその戦果と、まとめて発表さる。後世このことは大和民族の精粋の発揚として人類戦史の上に比類なきものとして永く記憶されるであろう。尽忠敢死の人々のこの大いなる戦いにもかかわらずレイテ島の戦ははかばかしく捗っていない。敵はなお次々と兵力と物資を輸送しながら、湾頭には数十隻の汽船と十数隻の軍艦を浮べているという。日露戦においても、旅順閉塞隊が犠牲多き戦いをしているあいだはむしろ戦果が挙らぬ困難な時期であった。比島の戦もまたこの困難な時を経て一陽燦として我民族の勝利に結果することを期待し信ずる。それを信ずることなしに、この花と散って行く忠勇の人々の魂を鎮めることはできないであろう。
こうして大いなる聖兵たちの敢死が日夜つづいているあいだも、我々の生活というものは悲しいかな雑然あくせくとして、その日その日の計に追われ、せかせかと俗塵にまみれ、心を洗い、気を鎮める時の少いことを、怖ろしくも悲しくも思うが、しかし人間の生きて行くこと、国民の生存して行くことは、戦時においては、このような雑然さから免れないことなのであろう。
〈この頃の生活〉
この頃、日夜多忙を極め、寸暇なしというさまである。
日曜日は終日かかって麦を播き終え、ほっとしたら、案の定、昨朝、今朝から本格的降霜となり、朝畑一面に白い。この霜の前に麦を播いたことは、その収穫の二三割増加となるという。しかも甘藷はまだ五畦、二十貫あまりは掘らずに畑においてあり、家にも十貫目ほどあるので、どうしても畑の甘藷の約半分十貫目を埋めて貯蔵しないと腐らせる憂がある。しかし月曜は午前執筆、午後出社、火曜午前学校、午後出社。やっと今日、午後社が無いので、それに取りかかる。
しかも家には金が無くなり、日常の経費にも困るので「三人の少女」の増刷分の印税を前借しに行こうとして暇なく、漸く昨日出社後、中野好夫へ原稿催促に行った足で、みたみ出版社に寄り、一昨日出しておいたハガキによって野長瀬君に依頼中の前借をする。五百円受領のうち、税金六十円を引かれ、四百四十円受けとる。
月曜日は、午前中学校に行けなかった。というのは、「新潮」の原稿、今年度文壇の総評というのを書くため、日曜の夜から取りかかり、まだ読んでいなかったものを雑誌をあさって読んだり、内容を考えたりしてその夜を過し、月曜朝は学校を休んで書き出し、午後二時にやっと書き終えて出社し、楢崎氏の室へ届けた。これで先月少国民文学小説十五枚を書いてからこの月の初め頃から、東京新聞に三枚、文芸の小説二十三枚、文学報国に六枚、新潮に十六枚と、合計六十余枚の原稿を書いた。外になお厚生省の雑誌に厚生文学についてと、朝鮮の金融雑誌に湯浅克衛君から頼まれた十枚と、二十枚ほど書かねばならず、久しくそのままになっている「爾霊山」も取りかからねばならぬ。今日は学校を十二時半に終えてから、貞子当番になっているので、隣組の為の浴衣地を渋谷の東横百貨店で買って来る。家に二時半に着、三時から大急ぎで甘藷貯蔵用の二尺五寸に四尺で深さ三尺ほどの穴を南西畑の角に掘り、一時間かかり、四時から甘藷を掘りはじめ、五時には暗くなるので、大急ぎで穴に入れ、選択もろくに出来なかったが、十貫ほど埋めた。十二月末頃に掘って食うものだから、大して心配もないであろう。
夜は町会の貯蓄部総代としての仕事にとりかかり、先日の台湾沖記念貯金千何円かの報告と、隔月の国債貯金の報告とを書き上げる。疲労する。三人分の働きをしている。身体の調子幸によし。昨日は社でビールを飲む会があり、新宿モナミ地下室へ出かける。一人ビール三杯ほどと洋食二皿ほど出、会費五円、外に社で七円宛の補助ありという。闇の酒、闇の料理であるが、社では時々こういうことを行い、営養不良の際とて、誘われればやっぱり出かけるのである。酩酊する。
実に多忙である。明日は午前学校、午後社。その間に前から心にかけていた百田家の留守宅に野菜を届け、また野菜不足を嘆じている楢崎家へも届けねばならぬ。しかも家の畑の甘藷まだ三畦ほどを掘り上げ、防空壕をすっかりやり直し、鶏小屋も作らねばならぬ。鶏舎不足にて、今年の雛はまだ箱に入れて飼っているので、運動不足のため成育出来ぬありさまであるが、そこまで手が伸びない。外に分葱の苗を植え、豌豆を播き、大菜〔ママ〕ももっと播かねばならぬ。
ドイツはV二号という、一号よりも大層大きなロケット砲弾をイギリスやオランダへ撃ち出した。その偉大〔ママ〕は驚異的であるという。しかもこの種の武器は、落ち目にかかった戦局を挽回する力がないらしい。
十一月十六日 雨
朝から細雨。昨夜埋めた甘藷穴の上に、竹を棒杭と桃の枝とにかけて渡し、それに合掌形に、玉蜀黍の幹を寄せかけて屋根とする。
学校、午前中あり。午後出社の途中百田宗治家留守宅に甘藷五百匁と蕪とを届け、楢崎家に蕪を届ける。玉蜀黍の粉の米に混ったのをふるったのを一袋もらう。鶏の餌としてなり。
社へ田居尚君より電話あり。四時頃から出かける。川崎君もいる。田居君と二人省線で帰りながら、話を聞くに、彼はいま東京出張所長をしている華北種苗の天津出張所長として渡支するかも知れぬので、そのあとを引き受けぬか、ということである。新潮社をやめて専門にかかってもらってもよいし、また週に二三日、暇を見て事務所へ寄り、書類を見るだけの嘱託としてでもよい、ということ。学校は生徒が近く工場に出動するので、無くなるが、文学報国会でも週三日ほど出ないかという話があるのだが、と言うと、いや、それをやりながらでも、書類を片づけるぐらいは、女の事務員を使っているからやれるだろうから、やって見てくれとのこと。もっとも彼の渡支は年度変りの春まで延びるかも知れぬとのこと。著述の収入減少していて、どうしても新潮社の外に何か収入を持たねばならぬ折なので、その程度のことならやって見ようと約束する。
一昨年の秋、この家と土地を買うとき、八千円も借金をして、しかも手もとにあった五千円を全部支出し、将来文筆の収入の減少することは見えすいているのに、と心配であったが、また将来インフレーションの来ることはきまっているから、金銭の借は返すのが楽になるだろうとの漠とした予想を立てたのであった。果して文筆の収入は減少し、出版は殆んどなくなったが、今春から勤務二つをして、どうにか凌いで来た。しかし貞子の実家への返金としての毎月五十円の英一への金は出せても、半年毎に東京急行への八百円はとても目算が立たず、この半年は催促がないのをよいことにして、だまっているだけである。若しこの話と文学報国会の話がきまり、二百円ほど入れば、収入は今の二百円(実収入は百七十円程)と合せて、月三百六七十円となろう。すると、百七十円で生活し、余の二百円で借金を返したり、年額五百円余の保険金をかけたりして行けるようになるかも知れない。八千円という借金は大きい。高をくくったが、こんなに多くの月収があるとしても、辛うじて目算が立つという程度である。金銭の心労を何とかして片づけ、机に落ちついて向いたいものだ。
夜滋の買って来た夕刊東京新聞を見ると、中学二年生と国民学校高等科の一二年は、いよいよ勤労動員令が十六日に発せられたという。私の光生中学の勤務も、これで終りとなった。片方が始まりそうな時は片方が失われる。この頃私の生活は、いつも奇妙に、一つが駄目になると別の方にきっと何とか血路が開かれる。新潮社入社の時もそうであった。こういう私生活の条件の変転につけても、我々日本国民は、この後どのような生活をし、どのような経験をしなければならないかと、思いまどうことが多いのである。国家の運命の打開されぬ限り、国民の運命など風前の灯そのものである。光生中学の方は、学校でどういう処置に出、私のような嘱託講師をどう扱うか、とにかく授業の終るまで出て、その様子を見ようと思う。この頃なじんで愛情の湧いて来た生徒の多いあの二百人の二年生の少年たちが、これっきり勉強をやめて、運輸と通信の業務に動員されるということ、国家危急の時と言え、痛々しく、哀れなものを切に感ずる。
中学一年にはこの際は動員なしというから滋は、当分は勉強出来るわけである。
レイテ島に敵は更に二個師団を揚げ、七師団となった。我方も相当の大部隊を無血上陸させたという。この島で彼我陸軍と空軍の決戦が近く行われる気配濃厚だ。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
十一月十九日(日)晴 麦、半分程出芽[#「麦、半分程出芽」に傍線] 甘藷最後の二畦掘上[#「甘藷最後の二畦掘上」に傍線]
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[#2字下げ](十七日晴、十八日雨)
相かわらず一日おきの雨天にて、雨がちであるが、晴れた日は無風にて暖く、もっともよい気候である。
十七日学校にいるとき、二年生に対する出動令が学校に届いた。武蔵野町の中島飛行工場へ入るというのである。但し日は何時からか分らず、翌日中島教諭等が行って打合せて来たところによると、二十四五日からとなるであろうということである。今度の動員で中島のこの工場だけでも千二百人かの学徒を受け入れることになっているという。学徒勤労隊というものは、正式の工員の補助としてのように私たちは考えているが、決してそうではなく、ある種の工場では学徒隊が工員の大部分を占めているという。今日石野径一郎君が、新潮に小説を紹介してほしいという話で来たが、彼が都立京橋実業の教員としてついて行っている大森の東京軽合金製作所〔ママ。前出十九年八月三十一日〕など、工員の八九割までは各学校から来ている学徒隊であり、そのために学徒隊の取り扱いは大変重要なことになっているという。学生たちは、賃銀を増してやるというような扱いかたが出来ないので、主として精神的な満足を与えるようにせねばならない。たとえば、先頃行われた総蹶起大会でも学徒たちは、その宣誓をする時に、工場主に対してするというようなことは絶対にしたがらず、各引率の教員が壇上に立ってその宣誓を受けることにしたという。また彼等の実技を指導している職長とか班長とかいう工員たちが無学であるため、生徒等に馬鹿にされ、実に扱いにくいとこぼしているという。しかし、何かの新聞の社説で読んだところによると、文部省では、一種の秀才教育案を立案中であるという。これは出来のよい生徒学生のみを集めて、勤労から免除し、学業に専念させるということのようである。国家のためという勤労精神に燃えていると石野君の話に聞く学徒たちが、一部の生徒のみ勉強させるというこういう案に不安を感じはしないかという心配もある。
この頃巷に色々な浮説が行われていて、にがにがしいことと思う。私など自分で新聞の報道を丹念に読み、それによる判断で大局は頭に入っているように思う。しかるにそういう浮説を口にする人々に限って、新聞を注意して読んでいず、あっちの言うこと、こっちの言うことと、いつも心を動かされている模様である。しかし、時として、たとえば東条内閣辞職の時のように、そういう巷説のとおり世の中が動くこともあるので、油断できない。
その一つは、この二十日前後に敵の空襲が東京附近に対して行われるという説。これは先頃の敵の偵察ぶりから見て、今頃が敵の来そうな時だという推定によるもののようで、常識的な説であり、それだけに、あたりそうな気もする。
しかし、軍人から出た説として電車の中で聞いた話によると、先頃から我方では発表はないが、天気さえよければ、必ずサイパン周辺の敵基地を空爆しており、しかもその飛行機は小笠原を中継として東京辺から行っているのだという。
もう一つ、これは眉唾ものながら、我方はいま精鋭部隊を準備してサイパン島を奪取しようという計画を立てており、十五日頃の話で、ここ一週間か十日のうちに、サイパン奪取を行うというのである。これはちょっと信じがたい。そのためには我方は大きな機動部隊をこの附近に持って行かねばならぬであろうし、また大量の航空機を集中し、非常に大きな冒険、彼我海上決戦を行うという戦闘を経てからでないと不可能であろう。しかし反面、東京、大阪、名古屋等の我軍需工場に敵の空襲なからしめる為には、どうしてもサイパンを奪取せねばならぬように、我々素人にも考えられる。ドイツが今のように弱体化したのはその軍需工場を空爆された為であるという。内地の工場を叩かれることは、実に怖ろしいことにちがいない。さて、それで、この巷説が実現するかどうか、私は危みながらも、そうあってほしいと思う。若しそうなれば、太平洋の戦勢は一変するであろう。もう一つは対ソ関係が悪化しているとの説である。先日のスターリンの演説は我々を神経質にしたが、これはそういうところから生れた説のようである。これはしかし、日本の立場がよくなれば姿の消えて行く説にちがいない。
今日午前中、甘藷の残っていた二畦半ほどから十貫目ばかりを掘り出した。降霜、降雨等のため損う心配があるからである。昨日は甘藷が四貫目ほど配給になった。これで先日井上氏の分けてくれたのと合して、二十貫ほどの甘藷がいま家にあるわけであり、今後一月分は足りる。とすると埋めてある分は年末になってから掘って食えるから、多分正月の初め頃までは甘藷で補食をして行けるであろう。そうするとその後馬鈴薯を食べるとすれば、大体予定のとおり食糧事情は運べるかも知れぬが、それにしても来年の五月頃には、馬鈴薯も無くなって、その時から、馬鈴薯の取れる六月迄が困ることと思う。
昼頃石野君来る。午後二時、千歳船橋に自転車で行く。川崎君は留守で、夫人から鉄兜二個を十七円にて分けてもらう。その戻った足で三鷹の田居家へ行く。小野賢治君来ている。
田居君は、来年三月頃渡支することにほぼ定まっているが、ことによれば、その前に旅行の形式で渡支するかも知れぬということであり、その節は、よろしくたのむと言う。大体やれるつもりだと私は答えたが、しかし新潮社の方に、そういう仕事をしていることが分れば、かなり気拙くなりはしないかとも思われる。だが出版業というものも、今でもすでに相当仕事が減少しているのであるから、来年にでもなれば、どういう変化が起るか予想つかず、確実な半官的仕事として華北種苗の方に席を得ておくことを考えておいてよいと思われる。これは私流の大事のとりかたであるが。
十七日在郷軍人分会の町内班で、銃剣術の段級を持っていないものの訓練が二十日迄あるということで、その夜六時半出かける。ひどく寒い夜であった。十余人来ている。二十一日から一週間ほど一般の訓練があり、その準備として行うのだという。私と外二人は、上手にて、多分三級から五級の間にはきっと入る故、以後二十一日迄は出席しなくてもよいとの判定を受ける。級を取っておけば、その後は普通の訓練のみに出ればよいので楽になるという。私はこの秋から時々暁天動員にも出て、一とおりはやる気で積極的に気を入れてやって来ていたので、人より進歩が早かったのであろう。
フィリッピン沖海戦の大略が、報道班員手記として十八日かの新聞に発表される。その概略は分るが、しかし、これでは物足りない。この大きな戦いの様相を、もっと具体的に知りたいものである。それにしても、近来の新聞報道としては、出色の文と言ってよろしいであろう。
敵が本土上陸でもしたら竹槍でもってやるのだと班長が言う。ドイツでは、二三日前の報道によると、六十歳から十五歳までの男子悉くを集めて突撃隊員というのを編成してゲリラ戦の準備をしているが、それは「服装も武器もまちまちであり、街は廃墟に等しい惨澹たる情景」であったが、ベルリン市中の行進では「意気まさに天を衝き、烈々たる殉国の気魄は当るべからざるものがあった」と言われている。これによって見ても、ドイツはいよいよ最後の時が来た感が痛切である。我本土に敵上陸というようなことがあれば、我々はみな竹槍をもって、突撃するにちがいない。私は木銃を持って並ぶと、何ということなく本気になり、人一倍元気が出るのである。血のなすわざだ。民族の血は正に私の肉体の中に純粋に、熱く流れている。私もまた尚武の民、大和民族の一人である。
昨夜ラジオで、「敗戦国の現状」という話を聞く。イタリアでは、米英軍のために、農作物の三分の一を取り上げられ、残りの三分の二を、一千二百万の人民に分配するのだが、その外になお六七百万の人民がいて、(それは農民のことか)それには配給切符は当らぬという。パンは一日三百グラムであるが、それも中々手に入らず、強盗や匪賊は横行して、男子の九割は失業し、みじめな生活ぶりだという。先頃シシリ島のパレルモでは全市民が暴動を起し、軍隊が出てやっと鎮圧したが、ボノミ首相は、若し英米のイタリア管理委員会がもっと注意してくれなければ、全イタリアが暴動化するかも知れぬと言っているという。またルーマニアでは前政治家が六百人も逮捕され、フランスでは、パリやマルセイユで、ドイツと協力したというかどで死刑になるものが数百人に及んでいるという。正にフランス革命当時のような騒ぎであり、しかも食糧、薪炭の大半は英米軍隊に徴発されて、国民の生活は極度に悪化しているという。敗戦国の内情は怖るべきものがあるようだ。何が足りない、何がほしいと言う訴えが毎日新聞の投書欄に出せるということなど、日本人の生活はそれだけから言っても幸福極るものと言わねばなるまい。戦い抜く外に国民の生きて行く道は無い。この自明の言を改めて噛みしめてみる。戦い抜く、それは唯一の大和民族の道だ。
市内ではガスの取締厳しくなり、ガスを止められる家が多く、寒さに向っている時なので、困っている。私の所などガスなしなのに、四月以来木炭三俵が配給されたきりである。引越前から大事にとっておいた十俵あまりの炭は、昨年冬中に使い込んで、いま二俵しか残っていないという。この冬は炬燵の火を入れるのにも困るような気がする。
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十一月二十一日 雨 雷雨なり 夜久しぶりで入浴
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独仏国境での米英軍の総攻撃が始まった。そのことを朝日の社説で次のように論じている。
「西ヨーロッパ開戦以来すでに五年三ケ月を閲し、本年も余すところ、僅か四旬となった。いまや敵アイゼンハワー麾下の反枢軸軍は、北はオランダ、リンブルホ州のヴェンロー附近より、南はフランス東部のベルフォール要塞附近にいたるきわめて長距離の戦線にわたって、ドイツ本土に対する総攻撃を開始したようである。リンブルホはドイツとオランダ、ベルギイ、ひいてはフランスとの交戦に際し、地理上自然の歴史的通路に当っており、またベルフォール関門に接する上部アルザスはいうまでもなく独仏間作戦上の歴史的舞台である。ふたつながらベルリンを指向し、また後者は南ドイツをも狙う含みを有するのであって、歴史的大会戦正に始まれりとの感がすこぶる深い。あるいはその結果いかんによっては、欧大陸の運命が、相当長き期間にわたり決定されるやも計られないのである。ここ短時日間の大戦闘こそ、吾人が手に汗を握りて刮目し、盟邦ドイツのため切にその戦勝を祈りてやまざるところである。
「ドイツがいやしくも大国として栄え、また欧洲新秩序に貢献せんとするものなる以上、今般の大会戦には、是非とも打勝たなければならぬこと、自明の理である。独本土の銃後国民の精神状態も、はたまたその食糧状態もともに、前回大戦中独軍最悪の日と言われた一九一八年八月八日、ならびに同年十一月十一日の休戦の頃に比し、遥に良好にして心強き状態にあるは、疑なきところである。前大戦大団円の上記三ケ月間に於て、ドイツが遂に休戦を求むる状態の醸成された原因にいたっては、ルーデンドルフ将軍等によって、主として国内事情に帰せしめられ、これに対し故フォッシュ元帥等は、同年七月十五日より十一月十日にいたるフランス戦線における戦況にこれを求めている。両説の何れが当るやは別として、少くとも今日に於ては、主戦場における大戦闘の経過そのもののみによって、大勢の決せられるとするも、決して過言ではあるまい。今日の場合ドイツ四囲の情勢に照し、上記オランダ中部より上部アルザスに到る蜿蜒たる線状戦線が、わが盟邦にとり当面唯一ともいうべき主戦場と見られるのであって、まことに乾坤一擲の概あり、そこにまさに、ドイツ全戦力がよく集中、投入せられ、勝機をはらむものであること、万疑いなきところでなければならない。」
これによって見ても、いま冬に向わんとして英米の始めた総攻撃が大戦闘を展開していることが分る。
しかも一方ロシアは東方で、ブダペスト周辺で強烈な攻勢に出、またここに別個の冬期大攻勢を開始したことが報ぜられている。悲境にあることが確実視され、その国家の運命が我等によっていたく憂慮されているドイツのよき戦いぶりを祈ってやまない。
そして東方太平洋においては、米軍のフィリッピンのレイテ島に対する兵力、軍需品の集中はいよいよ積極的となり、我軍また相当の大部隊をレイテ島に揚げて迎えうたんとしている。十九日の読売紙に大本営の広石陸軍報道部員と浜田海軍報道部員のこの戦の解説が出ているので切り抜いておいた。またある権威筋の言明によると、今月中にレイテの敵を追い落す可能性が十分であるという。しかし敵の輸送船集中はつづいており、我方は今日の大本営発表によっても、神風攻撃隊その他の空軍によって専らこの輸送船を攻撃していることが分る。しかし何となくその攻撃ぶりはひどく無理をしているように見える。やっぱり飛行機が足りないらしい。心配なことである。一度敵がこの島の上の基地にその空軍力を集めて我方から制空権を奪えば、敵は全フィリッピンの空を制し、ひいては安全に支那へ手を届かすことが出来るのだ。そうなれば我方は南方との交通を遮られ、敵は支那軍に大補給をすることが出来るのだ。どうしても、今、このレイテで敵を拒み、追い返さねばならない。レイテ島上の戦は我が祖国の運命そのものにつながっている。
今日午前九州に七八十機の空襲があったという。東京も警戒気味で、社ではその話のみで仕事も手につかぬ様である。
光生中学二年の出動は二十九日とほぼ定まったらしい。二年生落ちつきを失って勉強に身が入らず、特に出来のよい子が、騒ぐ気配強く、授業はしにくい。騒ぐのを叱るので疲れる。
今日はあらゆる新聞がガスの消費規定で、猶予なしにガスを停止している今度の措置を論じている。薪炭の配給が予定の四分の一も来ないでいて、しかもそういうことと連絡なくガスを止めるのは、いくらガスが軍需用として必要でも、配慮が足りないというのだ。都下のガスを引いた家庭の四割はガスを停止されるという。薪や木炭が全然手に入らず、暖房どころか、米を炊くことも出来ない家が方々にあるらしく、これは、やがて近いうちに、一層大きな問題と化しそうである。困ったことだ。
うちで二週間目ぐらいに湯を沸かしたので、隣家の花村氏宅へ入りに来ぬかと言ったところ、喜んで来て、言うには今年は八月以来、勤め先の近くで入ったことが一度あるきり、今日で二度目だという。隣家も風呂はあるが大きなタイル張りで燃料が要って困るので、この頃は沸かさないのだという。風呂へ毎日のように入っていた日本人が、この頃では、こんな程度の人が多くなった。もっとも花村氏夏は水浴びをしていたというが、それにしても八月以来二度目というのは、よくよくのことだ。
しかし私など二週間ぐらい入らなくても何とも思わぬようになっており、こういう生活に随分慣れたものだと思う。
函館の弟基から来書、塩谷では皆多忙で手がまわりかねる故、雪があまり深くなく薯穴を掘り出せる今のうちに取りに来てほしいとのこと。ことによれば、種子用の馬鈴薯をとりに近いうち北海道へ行かねばならぬかも知れぬ。貞子も三四年帰っていないので、こういう世の中故、いつ父母に逢えなくなるかも知れないから、連れて行ってやりたいが、家の留守、それに、空襲があるかも知れぬこの頃の気配が気になるので、覚束ないことである。
十一月二十三日(木)新嘗祭 分葱、豌豆[#「分葱、豌豆」に傍線]
午前中、分葱の苗を二百本ほど桃の木の附近に植える。時季が遅れて心配であるが、これまで麦播きと薯掘りなどで手がまわらなかったのだ。豌豆の種を貞子が近くの老松家でもらって来たので、それを朝に水につけ、夕方道路の西南畑に播く。これで今年の播くものは一とおり終ったのである。
午後自転車に蕪と甘藷をつけて、荻窪に野長瀬君を訪れる。先日の印税前払をしてもらった礼の気持である。「三人の少女」は疎開学童用に四千刷る上に、特配をもらったのでもう四千刷るという。意外なことであるが、これで大分助かる。先日受けとった四百四十円かは、これまでの金の不足、それに、貞子の歯医者や、義弟への支払やら、その他の雑用に使って、もう無くなりそうである。東京急行への支払、税金、保険、質等に千五百円ほど入用であり、外に貞子が北海道へ行くと言っているからその旅費も要るので、金はいくらあっても足らぬほどであるが、とにかく、もう千円あまり印税が入るのだから、大分楽になる。
夜在郷軍人の訓練に江口君と出る。二十八日迄練習があり、二十九日は銃剣術の段級審査があるという。私は四級ぐらいは取れそうな組に入れられている。
原稿の書かねばならぬのが残っているが、気分を変えるため、モンテーニュを読む。第一巻の半分頃で次第に面白くなる。モンテーニュは死という問題を繰りかえして考え論じている。四百年も前に生きていた人の言葉のようでなく、この頃の日本人の中の少し西洋くさい人間というような感じがするが、それにしてもこんなに死ということにこだわるのは、やっぱり西欧人のせいであろうか。
野長瀬君の友人が昨日陸軍省の報道課で聞いて来たところによると、もう一月ほどでレイテ島の敵を追い落せる見込であるという。是非そうあってほしい。そうならなければ、比島の戦は敵に優位を取られて困難となり当然我方の南方把握が出来がたくなるであろう。この一月のうちが、大東亜戦争の運命を決定する時なのだ。刮目して戦の結果を待とう。
十一月二十四日(金)東京へ敵空襲七十機あり[#「東京へ敵空襲七十機あり」に傍線]
光生中学で、四時間目の英語の授業をしていた時、十二時十分頃、警報が鳴り出し、生徒を退避させた。十二時二十分頃京王電車明大前から乗車して、桜上水近く来ると、空襲警報となり、その駅で下車して附近の無蓋壕に退避した。私は冬のオーバーに、頬蔽いのついたスキイ帽をかぶり、鉄兜を持っていたのでそれを上からかぶった。「あれだあれだ」と言う声に見上げると、六機編隊で西北吉祥寺辺から、東南品川方面に向って敵機が飛び、我方の高射砲弾の音がし、上空で炸裂していた。高射砲弾が危いと思い、私は、女の生徒や、中学生や、勤人らしい男たちとそこに蹲んだ。薄く雲が出ている中を、敵機も、我方の戦闘機も白く雲を噴いて飛んでいる。我方の飛行機も幾台か見えたが、敵機のいるあたりで戦っているのが見えない。敵機は大きい故、かなりはっきりと形が見えるが、よほどの高空を飛んでいるので、その高さまで我方の飛行機は達しないようにも見えた。後でラジオの解説によると九千から一万メートルの高さであるという。
一時間ほど退避していてから、また電車が動こうとした時、急にまた退避の鐘がなり、今度は南方から東北に向い、敵機六機が編隊を組んで飛び去って行くのが見え、その辺一面に黒く我高射砲弾が何十となく炸裂しているが、敵機は落ちもせず、隊も乱さず飛びつづける。
それが去ったあと、駅でラジオが状況放送をしているのを聞くと、敵の第五次編隊がいま飛んでいるのであり、更に伊豆方面から敵機が侵入するかも知れぬ、敵は東京附近の某方面に爆弾と焼夷弾を下して、被害が多少あると言っているとのことである。暫くして動き出した電車に乗って家へ帰ると、貞子と滋が防空壕に退避している。それが二時頃だが、それからも敵機の編隊が入ったらしく、高射砲を撃つ音やら、ずしんずしんという大きな爆弾らしい音が北方に聞えた。三時ごろ、解除となる。その頃市内から戻った江口君の話によると、中島飛行機工場が爆撃されたという発表が町の辻に出ていたという。そのせいか、消防自動車が西方へと走って行く音が何度も聞えた。
夜、神社で郷軍の銃剣術の練習を、七時から八時半頃までする。二十八日まで夜の訓練あり、二十九日は段級審査であるという。江口清君と誘い合せて行く。大分慣れ、私は上手な方の組に入れられる。
文学報国会の諏訪三郎氏より来書、華文で出す「大東亜文学」のために「日本文学の現状」という原稿十五枚を二十八日迄に書けとのこと。
光生中学は二十九日に生徒入所にて、二年の授業は明日中までということ。そして私には残った一年生に四時間地理を教えないかという話がある。しかし今日の中島飛行機工場の被害が特に大きければ、生徒の入所も延期になるかも知れぬ。
夕方六時に、今日の敵機は七十機内外が十数の編隊に分れて入って来たとの放送があった。夜在郷軍人の分会の訓練の時の噂では、北方の中島飛行機に爆弾三発落ちて、一つは命中し、大被害ありとのこと。また南方京浜方面に大きな煙が上り、被害あるらしく、その外東方にも遠く煙が上ったから或は本所深川方面の工場が爆撃されたかも知れぬという話があった。この後数日は今日の被害の話がつづくであろう。
しかし七十機もの侵入ということであるが、私は身近に爆弾も焼夷弾も落ちるのに接しなかったせいか、割にあっさりした印象しか受けずにいたが、若し今、東京附近の飛行機工場に大きな被害があれば、我方の戦力は目に見えて低下するであろう。それがもっとも憂うべきことである。マリアナ辺の小群島の飛行場から、こうして七十機もやって来ることとなれば、この空襲は今後繰り返される危険があり、軍需生産の方が心配でならない。先日噂に聞いたサイパンの奪回は、実現しないのか。先日から、二十日前後に敵の空襲があるという巷説があったが、遂に今日実現した。しかし敵は工場のみを狙い、市街の盲爆はしていないから、都民のあるものは、まだ本当の空襲の怖ろしさを知らないのだ。
昨日の新聞が今日来て、それにレイテ島の戦況始めてやや詳しく出ている。我方は中央の高地に拠り、敵は東方平原と北端の平原、南東端の両方に進出している。しかし我方は増援隊到着して、次第に敵を圧しているらしい。
十一月二十六日(日)晴
昨日学校で最後の二年生の授業というのをする。しかし中島飛行機工場の被害の程度により或はまだ授業が続くかも知れぬので、特別な話はせず、ふだんと同じように授業をする。
三時間目が終った時、つまり十一時二十分に、警報鳴り、生徒は戸外運動場の壕に退避す。私は空襲となり電車が止らぬうちにと急いで明大前駅に出て家に戻る。この日、危険な正午前に戻るよう朝早く中野の歯医者へ行った貞子も戻っている。敵は八丈島辺を北上中とのラジオの放送があったが、その後、敵は逆戻りしたとのことで空襲とならず。この日薄曇りであったので、予定を変更したのであろう。
午後一時、解除となり、出社する。社で被害の話を聞く。
専務佐藤俊夫氏の宅の庭の向う十間ほど離れた所に二百五十キロの爆弾一個落ちた。それは、そこから十五町ほど離れた中島飛行機工場を狙ったのの、それ弾で附近に七発落ちたのだという。直径一間、深さ一間ほどの穴をあけ、閉めてあった洋間の窓硝子は全部破れたが、開放してあった日本間の硝子は破れなかったという。夫人と子供は壕の中に入っていたが、壕はひどく揺れ動いたという。その一軒おいて隣の家では、眠っている赤子を座敷に残し、妻君と子供と女中が壕に入った。赤子が泣き出したので、女中が赤子を取りに座敷へ上った時、壕に直撃弾が落ちて、妻君と子供は即死し、赤子と女中は助かったという。また附近では一弾で三軒の家が吹き飛んだのもあったという。荻窪の中島工場は寄宿舎がひどくやられ、牛込の楢崎氏の隣家の女学生は、そこへ働きに行っているが、その日は野宿したとて昨日戻って来た由。この工場を狙って、高空から敵はやたらに爆撃したが、工場そのものに命中したのは三発であるという。
五反田から荏原の方にかけての被害は大分多い由。
しかし、一番怖ろしいのは、工場が多く爆破されることだが、その損害の程度は分らない。新潮社での皆の話は悲観的で、このようにこちらから敵を墜すことが出来ないのに、敵が高度から我工場を爆砕することが重なれば、我方の軍需生産力ことに飛行機の生産が低下して、次第に前線への補給が窮屈になり、ドイツのように退縮せざるを得なくなるのではないか。どうしても、敵の基地であるマリアナ諸島を奪還してもらう外はない、というような話であった。
今度の空襲の被害は郊外の工場を敵が狙ったため、郊外居住者に多く、市中には高射砲弾の落下もあまりなかったという。専務など、こんな風ではまたもとの市内へ引越す外はないなどと言っている。しかし一とおり郊外の工場地帯を爆撃してから市内の盲爆を始めるであろうと皆話し合う。
こうして、久しく予期されていた敵の東京空襲は始まったのである。案外自分など被害の状況を目撃していないので、精神的な動揺も覚えないが、旧市内に勤務している時間に空襲があると怖ろしい、と江口君などは言っている。空襲がある正午頃に、市内にいることは、やっぱり心配である。一刻も早く郊外へ、自家の近くへ戻りたいという焦躁を覚える。
今日は晴れているので、きっと昨日来かねた敵機が来るぞと言っていると、案の定午後一時半頃になって、敵は一機帝都上空に侵入したとて、警戒警報が出る。高射砲も撃たず、空襲警報ともならなかった。昨日の被害の偵察にやって来たものらしい。私は鶏の餌を刻んでいたが、それを途中でやめて、職工服の上にアノラックを着、煙草、財布等をポケットに入れ、ゴム長を穿き、読みかけの「日本歴史」や座蒲団などを壕の入口に運んでおいて、更に鶏の給餌をつづける。
解除になってから、江口君、柿の木をくれるというので、一町ほど離れた彼の畑まで掘りに行き、縁の前に植える。夕刻、防空壕を作りかえる準備として垣根の杭を十本ほど抜く。一昨年夏に立てたもの故、下方の腐ったものもある。二十三日から昨日、今日と続いて〔ママ〕、夜は在郷軍人の銃剣術の訓練あり。大分慣れて来る。
昨日国民図書刊行会(以前の帝国教育会出版部)から来書。疎開学童用として私の「雪国の太郎」を五千部刷る由。思いがけないことである。本の再版など無いものとばかり思っていたところ、疎開学童用として、「三人の少女」八千部「雪国の太郎」五千部を刷るわけである。税金を差し引いて、前者から千二百円、後者から七百円ほどの収入があるわけである。これで、私の経済的な窮境(東京急行への支払、質、保険料等)はどうにか打開出来そうである。またしても思いがけないことから、私は助かる結果となった。ほっとする。しかし今来月のうちに大空襲があり、印刷など出来ないこととなれば、こういうあても外れる訳だから、まだ安心は出来ないのだ。
夜ラジオを聞いていると、我軍の航空部隊は比島方面で積極的に出ており、敵の飛行兵力が減退しているらしい。いい傾向である。制空権さえ敵に渡さなければ、地上の我軍が敵に押されるなどということは絶対に考えられない。一月ぐらいでレイテ島の敵を追い出すという話が、こうして実現しそうになることほど我々に希望を持たせるものはない。是非そうでなければならない。新聞の解説によると、
「敵空軍中継地たるモロタイ島に対するわが積極作戦、ペリリュー島所在皇軍の奮戦により、比島南部に対する敵陸上機の来襲が低調化し、曾つて一地点に百機内外、数地点に同時攻撃を行うにしても三四十機だった敵機が、十九日ダバオ、バゴロド、セブ三ケ所で延四十二機、廿二日はダバオに十六機、二十三日セブ、ダバオに丗機、二十四日にはダバオだけで丗七機という如くその威力を減じ、レイテ敵飛行場の使用制限と共に制空権下の戦闘を目論むアメリカ戦法は重大転機に直面するに至った。現在レイテ島にある敵航空兵力は二百五十機乃至三百機であるが、我が航空部隊の活躍に阻まれ、その活動は極めて制約され消極的である」というのである。
しかしアメリカ人の癖として、一方がうまく行かないとなると、急に他の方で大がかりに積極的なことを初めるから、またどこかに大挙して上陸して来るかも知れない。油断が出来ない。だが今日のラジオによると、我空軍はルソン東方にある敵機動部隊を襲って相当の損害を与えているし、また敵の後方基地なるモロタイ島などに対しては空爆を行っている。これは我空軍への補充が十分についたことを語っているので、実に明るい話である。どうかこの勢いで、レイテ島に足をかけた敵を海上へ追い落してしまいたいものだ。国家の運命は、正にこの戦いにかけられている。
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十一月二十八日(晴)火 最後十二日に播いた麦漸く発芽す。北側の道路等[#「最後十二日に播いた麦漸く発芽す。北側の道路等」に傍線]
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昨二十七日は曇って細雨が降っていたので、今日は空襲はあるまいと皆噂していた。私は学校のない日(授業は一昨日で無いとのことであったが、当分来てほしいとのこと)なので、朝西荻窪の中野好夫家へ原稿の件を確かめに行く。すると中野氏留守。夫人が近所で防空演習に出ているので話をしていると、そこへ打木村治君現われ、その近くに住んでいるとのこと。彼の言うのに、この辺は東に中島の荻窪工場あり、西に三鷹の同工場があって、その両方を敵は狙い、三鷹の方が被害が大きかった。そこは七棟焼け、三百人ぐらいの死傷者あり、ということが、この辺に特に多いその工場に勤めている人の口から伝わっているとのこと。現に打木君の宅なども、その時は大変な地ひびきがして、いよいよ東京の大規模空襲が始まったと覚悟をした由。また比島附近に敵は機動部隊を持って来、我方はこれを攻撃している。消耗が大きいことであろう。
礼の学友の渡辺君の母から、貞子が近く諏訪へ行くならば蜜柑を届けてほしいと言って来ているので、この日十二時頃、私は出社前に、そこへ行く。三番町辺でその家を捜しているうちに、細雨の中に警報鳴る。この辺は危険と思い歩いて麹町四丁目に出、新宿まで都電に乗る。いつもならば、警戒警報から十分ぐらいで空襲となるのに、この日は一時間も間があり、京王電車で桜上水まで来た時に退避させられる。ラジオで敵は目下爆弾、焼夷弾にて雲上から盲爆している故退避しているようにと言っていることが伝えられる。低い雲の下、地上四五百米の辺を我方の戦闘機が時に見えるのみで、敵機の様子は少しも分らない。やがて退避不要となり烏山まで戻るとまた退避となる。
家に戻り、貞子と隣家花村家の壕に三十分ほど退避し、三時近く解除となる。今日聞いたところでは、東京、東海道、近畿と分散して四十機ほど入って来たとのこと。渋谷近くの東郷神社に落下、その附近の建物が破壊され、また原宿駅前の大きなアパートが全焼し、江東方面では学校その他数ケ所に被害あり、近いところでは幡谷附近に落下弾ありという。そう言えば私たちが花村家の壕に退避している間にも、遠くに爆弾らしい地響きあり、消防自動車が何台も何台も走って行ったが、これは幡谷または原宿辺に駈けつけたものであろうか。
今日も午前、中野家に寄り、昼頃牛込で古本屋に寄る。こんな所あまりうろついてもおれず、来年四月頃までは来ないと、古本屋と話をし、大急ぎで社に行く。今日は晴天だが空襲なし。二時半社を出、渡辺家に寄る。蜜柑を百八十個、三貫目近いものをあずかり閉口す。それを携げて銀座に出、田居君に逢う。彼は今日これから米を買いに行くのだという。どういう筋かと尋ねると、大東亜省の役人にて、妻君を田舎へ疎開させ、帰る毎に田舎から米を持って来、また東京では妻君の分も配給を受けているので米があまるからだという。その値段はというと一升十円にて、「高くはない」と田居君が言う。大東亜省の役人が米の闇売りをするというのも世相の一つであろう。
夜在郷軍人分会の訓練あり。昨夜は雨にて休み。明日は段級の審査ありて、朝から出ねばならぬ。私は島沢という青年と組にて教官動作というのをすることになり、二人とも四級を申請するのだと佐藤班長の指示あり。じゃ一つ四級を取りましょうと島沢氏と笑って話し合う。
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十一月三十日記 夜間爆撃を受ける[#「夜間爆撃を受ける」に傍線] 貞子礼の所へ行く
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昨二十九日は在郷軍人分会の銃剣術段級審査会あり、直突三本の教官動作と試合とをする。教官動作というのは、二人の片方が教官の立場で相手に自分の胸を突かせるのである。それを交互にやってから、試合となる。三百名余りの審査に夕方までかかる。銃剣術の型はこれで昨年頃から合せて十日ほど習っているが試合は初めてであり、相手の島沢君も同様とのこと。両方とも相突きを何度かやって後、私が一本突いて勝つ。要するに剣道の試合のようなものである。私たち二人は、班長の考で四級を希望して受審したのであるが、多分それぐらいには入るらしい。五級というのが最低である。
この日朝から快晴にて暖く、今日は空襲がありそうだ、審査も昼までしか行われぬだろうなどと、皆が試合を見ながら話し合っていたが、遂に空襲なく終る。大本営発表によると、先日以来しばらくぶりで、二十七日夜と今日二十九日未明にサイパン島の飛行場を空襲して大きな損害を与え、我方も七機の犠牲を出したということ、(とすると先日聞いたような毎日のようにサイパンを襲っているというのは本当でないわけだ)そのおかげであろうと考えた。
貞子今夜十一時半の汽車にて諏訪の礼のところへ逢いに行くとて、忙しく藷飴の饅頭を、子供の数だけ五十作り、八時頃家を出る。衣類や食物等を持ち、それに渡辺君の母君から預かった蜜柑を持って新宿駅まで送って行く。プラットホームに着くと、昔中野にいた頃近所に住んでいた細君が七つか九つぐらいの子供を二人つれてやっぱり面会に行くのだというのに逢い、同行することとなる。空襲があるから小さい子を置いて行けず、連れて行くのだとのこと。外にその仲間の女の人二三人あり、いずれも食物らしい荷物をいくつも持ち大変なことである。
十一時近く家に戻り、床に入ると間もなく、警報のサイレン鳴る。この頃から雨となり、寒い。いやな奴だ、とうとうアメリカの奴夜の空襲を始めたな、と思いながら、起き出した滋と二人、オーバーを着たり、その上から防雪衣を重ねたりして支度する。十分ほどして空襲報となる。先日来、正午頃にきまって敵がやって来るので、結局昼間はこちらも勇ましい気持になり、寒くもないし、結構だが、夜やって来られては、これからの寒夜にいやなことだねえと皆が話し合っていた。中には、夜なんか来たらふとんを被って起きずにいた方がましだ、そのまま死んでもいいよと言う者もあり、私も同感であったが、いざとなるとやっぱり、何が始まるか分らないという気持で支度をする。二百円ほどある現金を身につけたり、証書類の包みを滋に持たせ座ぶとんを壕の中に持ち込んで、そこにある箱の上に敷いて腰かける。また気がついてシャベルと鍬を持ち込む。
月あかりがあるので、あたりの模様が大分分り、さほど不安ではない。私はゴム長靴をはき、鉄兜をかぶっている。滋が言うのに、空襲警報が出たのは十一時二十五分頃だから、お母さんの汽車出たかなあ、とのこと。汽車は十一時二十五分頃故、汽車が新宿を出たかどうか心配になる。新宿駅はともかく危険区域である。駅で待避しているかも知れないね、それとも中野あたりまで行ってそこで待避になっているかな、と話し合っているうちに、来襲警報の鐘があちこちで鳴り出す。遠くで蠅がうなるようなかすかなエンジンの音が聞え、やがて、重い鉄の道具でも地に置くようなずしんずしんという爆音が遠くにする。それと混って、ボンム、ボンムとゴム毬を押しつぶすような音を立てるのは高射砲である。初めはそれ等の爆音が東方に遠く、旧市内の方角に聞え、それが次第に東北方に移って行き、音が大きくなる。どれが爆弾で、どれが高射砲かよく分らないように一聯の爆音となって聞える。そのあとはしーんとなる。敵の一編隊が爆撃して去ったという感じになる。自分は地の底へしゃがんで、それを聞いている。雨がしとしとと降り、土を盛った掩蓋のどこからか、たちったちっと滴る音がする。眠くなる。両手をポケットに入れ、足を時々置き直す。解除のサイレンが鳴るかと思うが、二時間もたっても鳴らない。まだ敵が去らないのであろう。そのうちに、また飛行機のエンジンの音がかすかにしたかと思うと爆弾と高射砲の音が聞える。段々近くなって、いよいよこの辺まで来るか、と思っているうちに、音が絶える。その後また暫くしても解除にならない。寒いのに眠くなり、惨めな、いやな気持がする。あたたかい蒲団の中で、ぐっすりと手足をのばして眠りたいと痛切に思う。壁によりかかれば土なので、外套がよごれるから、それも出来ない。
滋がしきりに身じろぎし、鉄兜をがたがた言わせたり、リュクサックを動かしたりしている。「もう大丈夫だよ、お家へ帰ろう」と言う。自分もそう思う。しかし、そんな我慢のなさを子供に教えて、この後子供がそういう癖がついて空爆を軽く思ってはいけないと思うので、「もう少しだ、もう解除になるよ」と言ってじっとしている。しかし、それから一時間近くたっても解除にならないので、さすがに私も痺れを切らし、「もういいだろう、家に入ろう」と言って家に戻る。
壕を出てみると、ちょうど新宿の方に当って、真赤な火の手が見える。大きな火事となっている。あれが空爆なのだと思い、貞子は汽車で行ったのか、それとも退避しているのかと気にかかって仕方がない。すぐラジオのスイッチを入れさせてみると、すぐに「目下新たなる敵の編隊は東南方より来襲中である」と言っているのが聞える。「そら又だ」と言って、再び座蒲団やシャベルを持って、びしょびしょ降っている雨の中を壕へ戻る。今度は、また爆音が大分近く、ここの北の方角に当って聞える。その後二十分ほどして、空襲解除の信号がボーと鳴り出した時は、甦ったような気がした。家に戻り、蒲団の中へ着物のまま入ったが手や足が冷えていて、なかなか眠れない。時計がその時三時を報じた。三時間半もの長い空襲だった。今度壕から出しなに見ると、新宿の方角に当る火の手は、薄くなったが、前よりも拡がっているように見える。滋は「あれじゃ渋谷の方角だ」と言う。そして「お母様はきっと中野あたりで退避になったかも知れないね」と気にかけている。
蒲団に入ってやっとうとうとしかけると、思いがけず、また大きく警報が鳴り渡る。いやだ、もう起きるのは全くたまらないと思う。軒に雨のしたたる音がする。自分ひとりなら、この辺は危険もないことだから、このまま糞度胸で寝ていたい。しかし滋がそんな態度を空襲に対して取るようなことになると危険だと思い、十分ほどして空襲警報が鳴った時に思い切って起き出し、滋を起す。滋はやっと眼がさめ、「警戒警報がないのに空襲になったのかしら」と言いながら支度をする。ラジオが、「新たなる敵機が房総半島方面より侵入中」と言う。またしても冷たい寒い壕の中へ入る。今度は爆音後割に早く解除になる。五時近い頃であった。
それっきり、二人ともゆっくり朝寝しようと言い、十時すぎまで眠る。十一時頃食事の支度をし、滋は夜の空襲の時は午後一時登校というので出かける。私は一時頃出社。新宿駅あたりは変ったことないが、社に出て聞くと、神田が大変だという。駿河台下から小川町にかけての電車道の宮城寄りのあたりが大半焼け落ちており、芝の浜松町の辺も大分焼けたという。同盟から入ったニュースとしては、江東の方を除いても二千五百戸全焼し、罹災民は一万五千あるとのこと。神田のこの辺は裏街が込んでいるのに、事務所や疎開した家が多く、夜は住民が割に少いので、防火に当る人が足りなかったという。また敵の編隊は次々に火の手を目標にして投弾し、大きな照明弾を何度も下しては、かなり低空から狙って爆撃していたという。そうなればあの辺の木造建物はたまったものではない。みな急に恐怖に襲われたように、もうこうなれば東京の半分ぐらい焼野原になるのはすぐだ、とか、こうして夜の空襲が十日もつづいたら精神的に皆参ってしまうとか言っている。東中野で防空班長をしている斎藤君の話によると、三鷹の中島工場に対する先日の空爆など、正確なもので、工場の真中に落ちて、残った建物は二三棟しか無い程度に破壊され、機械は今しきりに疎開させつつあるとのこと。誰も彼もが空襲の話で仕事など出来ない。道夫君は妻子を秋田の田舎に移すと言い、哲夫君は今日伊豆へ疎開させたと言い、専務は子供等を松本へやるなどと言い、騒然たるさまだ。社は三時退けとなる。
文学報国会の岡田三郎氏から電話あり、先頃話のあった文報の読み役の仕事を一日頃から始めてくれないかとのこと。明日打合せのために行くと返事す。光生中学、二十五日以後行っていない。一年生の授業を三四時やれとのことだったが、文学報国会を手伝うとすれば、それもほとんど出来ないだろうと思う。
夕方高橋夫人来て二軒分の飯を炊いてくれ、おかずも作ってくれる。夜も雨。滋と、枕もとに外套や鉄兜等を支度して早目に寝る。
昨日夕方、文学報国会の大東亜文学編輯の三田氏という人、私の原稿の催促にやって来る。三日までに送ると約束する。
昨夜の空襲で東京都民の生活は、更に一段と深刻に変った感がある。昨夜の経験から、空襲されたら、ほとんど今の東京の建物では抵抗出来ず、焼かれ殺されるのみだということが心に刻み込まれたのだ。
すでに東京の街には、あらゆる店に品物が無い。僅かに薬屋と本屋が店を開いているが、それも目ぼしいものはみな業者が匿して陳列してはいないのだ。喫茶店や酒場は、統制会などの事務所となり、靴屋と看板があっても靴はないし、呉服屋と書いていても自由に買える布はない。腰かけて茶をのむ所はない。私など、いつ水びたしの壕へ飛び込んで伏せてもいいようにスキイ服に防雪衣をつけ、スキイ靴で歩きたいと思うぐらいである。東京都は戦場となったのだ。中学生や女学生の働きに行っている軍需工場は、絶えず空爆される危険に直面していて、親たちは不安がっている。
本当は軍需工場の爆撃が国家にとって怖るべきことなのだが、人心を攪乱するのには、昨夜のような寒い雨の降る夜に、その住宅街を空爆することぐらい効果のあることは無いだろう。敵はたった二十機だというが、この度はまことに成功したわけだ。こういうこと、みな多分スパイによって敵側に解るから、東京都内の空爆は今後一層激化するにちがいない。しかも昨夜敵は一機も撃ち落された模様がないのだ。
サイパンを敵の手にゆだねているうちは、これは避けられないことだ。出来るならば、何とかしてサイパンを取り戻さねばならない。でないと日本はその銃後の戦力を日一日と消耗して、戦えなくなる危険がある。
憂うべきことだ。真に憂うべきことだ。
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[#2段階大きい文字]昭和十九年十二月
十二月一日(金)雨
昨日高橋夫人の作ってくれた飯の冷たいのに、電気ヒーターで豆を煮てあったのを暖めて食べ、滋は休みなので、私は十一時頃永田町首相官邸の崖下の文学報国会へ行く。岡田氏、徳田一穂氏、長田恒雄氏、中村武羅夫氏等に逢う。今後月水金はここへ来ることに約束する。岡田三郎君から、神田日本橋辺の被害地の話を聞く。被害地は茅場町に始まって三越本店の向側の本石町辺から、須田町の南方の辺で神田に続き、小川町と神田橋の中間が広く焼け、一ツ橋の学士会館の裏手まで及んでいるという。昨日は全然その辺に人を寄せなかったが、今日は行けば見られるという。
この日、朝は曇りであった。二十九日の夜空襲の始まった頃から降り出して、三十日一日降りつづき、やっと今朝やんだのである。もう晴れるだろう、冬の雨はそう長いことはないと思い、傘なしで、オーバーの上に、鉄兜と軍用鞄とを十文字にかけて出かけたのであった。報国会を二時頃に出て、銀座の数寄屋橋から神保町行きの電車に乗る。三越の裏手に来かかると、本石町方面の電車道の辺に白い煙が立ちのぼって霞んでいるのが見えたが、新常盤橋や鎌倉河岸の辺に来ると、電車道のすぐわきが、茫々とした一面の焼野原で、兵士らしい人が多数焼あとを取片づけている。残っているのは、壁や瓦の累積らしい堆土のみである。白い煙が一面にその辺に立ちこめていて、向うの方は霞んでよく見とおせない。所々にコンクリート建てのビルディングが、焼け残って立っている。神田橋まで来ると、小川町に向って右手はずっと向うまで何物も残っていず、ただY・M・C・Aの大きなビルのみが立っており、それも頂上の辺が焼けたのか、木組だけとなっている。かつて私の「チャタレー夫人の恋人」を出版した健文社はその近くにあったのだが、全焼した。そのもっと東方の裏町にあった南明座も焼けてしまった。そこから更に電車道を越えて、錦町の方も焼けひろがっている。
これだけの部分が敵機が通りながら落した焼夷弾のため一瞬に火の海となり、住民は恐怖心に駆られて退避する外なかったという。またこの辺は小さな事務所が多く、それに疎開したものもあって、住民が少いので、消防に手がまわらなかったのだという。こういうことも、話に聞いたのみでは実相は分らない、自分の眼で見てそうと確かめて、はじめて納得が出来る。ただ雨中を敵機が飛びながら弾を落しただけで、これだけの住居群が一刻のうちに失われ、住民は棲家なしになる。怖るべきことだ。戦争そのものが東京の都民の日常生活を駄目にするところまでやって来たのだ。私たちも、よくよくの覚悟をしなければならない。こんなことが、明日にも、いな今夜にも自分自身の生活の上にやって来るかも知れないのだ。
家を焼かれても、身一つになっても、自分が生きており、生活する元気を失わないようにしっかりと腹をこめておくこと、そして出来るかぎり手持の品物を今のうちに峰岸君の方なり、杉沢の方なりに動かしておくこと、そんなことを考えながら、焼あとから程近い神保町の蒲池君の宅を訪れる。彼は八弘書店という出版屋を今のところに構えて、その後統合となってもそこに腰を据え、二階の書斎に一万円も出したと称する国文系の蔵書をおいて、述作をしていた。よくこの街中にこうして落ちついていると思っていたが、こうなっては一体どうしているだろうと思い声をかけると、妻君が階下の店さきで、衣類や蒲団をひろげて、懸命に荷造りしている。「本当にどうなるかと思いましたの、今となっては、こんなことを始めても遅いのですけれども」と言いながらも、真剣に手をやすめずに片づけている。二人の男の子がそのまわりで遊んでいる。「いま主人が出さきから電話をよこしまして、もうすぐ帰るそうですが、何でも今日また敵が来るらしく、もう飛び立っているとかいうことですから」と妻君が言う。まさか、とは思いながら、もう夕方だし下手に市中にいるうちに警報が出て動けなくなってはと急いでそこを出て電車で家に戻る。
夕刻貞子が諏訪から帰っている。礼は元気にて心配ない由。
十二月二日
この頃毎日のように海軍の神風攻撃隊、陸軍の特別攻撃隊の体あたり攻撃がレイテ湾内の敵艦船に対して加えられている。敵味方とも制空権の争奪に必死となっていることが報ぜられ、また敵のもっとも近い中継基地であるハルマヘラ島近くのモロタイ島では、我方が積極的に出て逆上陸したという。神風隊や特攻隊の連続出撃はその度に我々の心をうち、襟を正さしめ、戦勝を念ずる祈りの気持を深からしめる。これによって日本の運命が開かれぬということはない。これらの軍神のうちには学生の入隊兵も多く、二十七日の十機をもって十艦撃沈破の戦果をあげた八紘飛行隊員は十人のうち七人が、二十歳前後の学徒出身者であるという。日本の若い時代の精粋がここにその心と肉体のすべてを燃焼して敵を撃っているのだ。生きておれば、よき次代の建設者となる人々がこうして死ぬことによって、一層よき祖国の未来を望み見ているのだ。
しかしこういう自爆機の連用の様子から察するに、飛行機の量の不足があるのではないかと気にかかってならない。
昼頃学校へ行く。二年生は出動してもう居ない。一年の地理を八時間持ってくれとの話であるが、文学報国会のこともあるので、それでは多すぎると、四時間にしてもらう。火曜日午前中である。しかしこれも気持の負担となり無理なのではないかと思うが、まあ一二週間出て見ようと思う。
社で文芸の野田宇太郎君に逢う。
夕方のラジオによると、我陸軍の特別攻撃隊員は、四機のグライダーにて、レイテ島のドラッグとブラウエンの飛行場に降下し、敵に大きな損害を与え、それが偵察機によって認定されたという。これは今までに無い新たな攻撃法であり、我軍において始めてグライダーを使用したことを知る。勿論生還出来ない決死行である。七日分の食糧の外多くの爆弾や手榴弾を身につけて飛び立ったというその兵たちのことを思い、レイテ島の決戦はいよいよ切羽づまって来たことを痛感する。出来得る手段の悉くをこの島に投じているのだ。この島の帰趨によって日米の戦いの勝負の見とおしは着くと新聞は報じている。比島の航空最高指揮官の富永中将も今日の新聞で談話を発表しているが、それは、
「真の決戦は今この戦場をおいて二度と再びあり得ない。」という言葉に始まっている次のようなもの〔切抜貼付〕だ。軍の首脳部の決意もこれによって推すことが出来るばかりでなく、我々の常識もまた同じ所に帰着している。どうしてもこの島で勝ってもらわねばならない。我々が二晩や三晩空襲のため眠れないことや、数千戸の住宅を焼かれることなど、考え直せば祖国の運命の賭けられているこの戦場の重大さを思えば何物でもないと言い得る。
今日帰りに阿佐谷に上林暁君を訪れ、文報の仕事を私と一緒にやり、新人原稿を読む気はないかと話してみた。考えておくと言っているが、断りたい気配であった。彼らしい文学者の意地で、どこまでも勤めまいとの考らしい。それもまた尊重すべきことと思い、強くはすすめなかった。
十二月三日 晴(日)七十機来襲す
午後二時頃より四時近くまでに十編隊にて各七八機ずつ来り、ここから見えるのでは吉祥寺辺と荻窪辺に大きな火災起る。
滋の学校は中島工場のすぐそばなので、夕刻遅い帰りを心配していると、やっと五時半頃戻り、中島工場と西荻窪の駅やその附近が爆撃され、中央線は不通になった、との話。滋は興奮して面白そうに見たことを話すが、私と貞子は今日は大分心配し、あの学校のすぐそばの工場がああして度々狙われるなら、学校も危険だから、いっそ滋を北海道の貞子の父母の家へ疎開させようかなど話し合う。滋が戻っての話に、今朝の新聞にも出ていたとおり国民学校や中等学校の低学年の授業は、空襲の時刻を見はからって適宜短縮することとなったので、滋たちも時間短縮になるかも知れぬとのこと。午前中位になるとよいと思う。
夜、「大東亜文学」と「文学報国」の原稿に向う。
午前川崎昇君遊びに来て、華北種苗の仕事をすることは賛成だとの話。萩を一本持って来てくれる。
今日は敵七十機のうち、十五機を墜したという。これぐらいはいつも撃墜してやりたいものだ。今日は工場のみを狙ったらしく、市内方面には火の手見えず。
十二月四日(晴)降霜特に甚し
中央線は阿佐谷、荻窪の中間を爆撃され、不通となり、バスにて連絡しているという。今日十二時近く文学報国会に出勤、一時間ほどいて午後新潮社に行く。出版部の編輯室は四階の日当りと見晴しのよい室へ移っていて甚だ快適である。「日の出」編輯長の佐藤道夫君は西武線の関町とかにいるが、そこは先日の空襲にも敵機の通路にあたり附近に被害があったところだが、昨日は至近弾のため、台所が全く滅茶滅茶となり、戸袋はこわれ、住めないようになったので、大泉の社長宅に移ったという。西武線鷺の宮の専務の家の近くにもまた被弾あり、桜台の副社長宅近くも被弾ありとのことで、社はその話で持ちきりである。即ち中央線の北側一帯の郊外地域は、その近くにある中島系の飛行機工場を狙ってやって来る敵機のこぼれ弾を浴びるのである。
敵機は冬空に美しい白い姿を浮き出させている富士山を目あてにして伊豆半島から入って来、丹沢や秩父の山につき当ってから、中央線に沿うて右折し、逆戻りするような形で帝都の上空に入り、爆撃を加えてから東方銚子沖辺で海上に遁走するのだという。
また新聞にも書いているが、二十四日、二十七日、三十日、三日、という風に敵は二日おきにやって来る。これは整備に二日ぐらいかかるからであるという。そうすると、今日と明日は来ず、明後日水曜日に来て、土曜日に来るという順になるであろうか。しかし一昨日など、途中まで来て戻ったという情報もあること故、それもしかとはあてにならぬ。
欧洲の西部戦線で米英が大攻勢に出たとの報があってから一週余になるが、さしたる戦線の変化は起らず、むしろアーヘン地区などでは独軍は反撃に出ている。米軍は弾薬不足に陥って、攻撃の続行が難かしくなったとアメリカの陸軍長官スチムソンは新聞記者に語っている。また彼は対日戦に言及して日本の飛行機の補給を抑止することが急には出来ないから、レイテ島の米軍の損害は当然だ、と言っている。B二十九による東京空襲は、日本の飛行機生産の破壊を狙っているのにちがいない。レイテ島の戦況もその後変化の起ったことが報ぜられていないが、敵は東方からのみではなく、北方と南方の両翼から大きく包むように進出して来ている。そればかりでなく、この島の西南側の海にまで敵の魚雷艇は出没して我方の補給路を邪魔している。敵は毎日百隻ぐらいの輸送船をレイテ湾に動かしているという。これではまことに容易なことではない。
二十六日夜には我方の空輸グライダーは決死の兵数十名を敵飛行場に強行着陸せしめた。これは実に勇壮無比な切り込み戦術であるが、その実効は戦況を変化させる程度のものではあるまい。相つぐ神風隊や特別攻撃隊の出撃も敵を摧き終えないとすれば、比島の戦は、国家の運命を賭したものでありながら、いよいよ困難になって来ているのではないか。心配なことである。心配なことである。この島から敵を一兵も残さず追い払ってこそ国の運命は開かれて行くことが出来るのだ。是非どうしてもそうあってほしい。新聞記事と地図とを較べて見て行くと、どうもレイテ島で我方は西半分の中央部に次第に退縮して行っているのではないかと思われ、不安でならない。
田居君の方の華北種苗の仕事を手伝うことは、大した面倒な仕事でないと思うが、しかし新潮社に対しては少し工合が悪いように思われる。文学報国の方の仕事とは社業とも連絡があり、今日も話をして何でもなく了解してもらったが、華北種苗の方はそう簡単には行かないような気がする。この件よく考えること。
十二月六日(晴)敵一機昼間侵入す
昨日は野田生の義父から催促のあった小ドラム缶を送り出しに、朝筵で包んで中に、貞子が土産として落花生と里芋を少々入れたのを、吉祥寺の駅に出す。昨日から、ラジオにて、駅の手荷物、小荷物の受付個数制限を始めたと言っている。先日の神田焼失についで、三日の爆撃にて、急に疎開したり、手まわりの品を田舎へ送ったりする人が多くなり、鉄道では受け附け切れないのだという。吉祥寺駅へ十時頃下りると、二十人ぐらい小荷物の窓口に並んでいる。一時間近くかかって、やっと出す。切符を持っているものは、二十キロまで一個、切符なしの小荷物は十キロまでである。内容は何かと問われて子供の衣類と言って通った。先日来これを送ろうとして心がけていたが、駅の窓口が難かしいような気がし、また疎開の人々で、制限があるのではとても出せないように思われ大儀であったが、これでほっとした。西荻窪に下車すると、そこの荷物受付口には四五十人の列が並んでいた。一昨日の爆撃で、この辺は、ともに中島飛行〔機工〕場が近いので大分被害があるような風に聞いていたが、西荻窪の通りにはそういう痕が見えぬ。中野家で聞いたところによると、同家の裏手二十間ほどの所に爆弾落ち、大分土煙をあげ、同家では額縁が落ちた。また駅への途中の裏手ところどころ三四個の爆弾が落ちて、火事にはならないが、多少被害あったという。しかし人死のことは聞かない。昨日まで不通であったという荻窪と阿佐谷との中間で、架空道路が線路の上に出来かかっていた所を空爆されたとて壊れており、その附近の家は壁が落ち、戸が飛び、瓦が崩れているところが数軒見え、中には一丈ほどの檜葉の木が根こそぎ屋根に乗っている家があった。そういう被害家屋には人が住んでいないように見受けられた。
社に着くと、道夫君が来ていて、そのひどい体験を語る。同家は荻窪の北にある中島飛行機の更に北の裏側から一キロ半ほど離れ、西武線の井荻に近いところであるが、先日も敵機が真上を通ったが、一昨日はまた同じコースでやって来て、ちょうど目の上七十度ぐらいになったので、五人の子供たちを壕の中に入れ、自分も最後に蓋をして入った時、ヒューッという音がして、ドドドドと続いて爆弾が近くに落ち、壕の中はグラグラと揺れ動き、爆発の度に閃光と爆風が壕内に入って来たという。いよいよ静かになったので、外へ出て見て驚いたのは、どうにか家の形をなして残っているのは、自分の家とその隣三軒と合せて四軒のみで、あとは隣組十軒ほど全壊しており、あちこちから、助けてーという悲鳴が聞えていて、耳を蔽いたいようであった。すぐ近くの道路では陸軍軍曹が一人、片足が切られて倒れておった。また一軒おいて向うの家では老人夫婦がいたが、二人ともどこかへ吹き飛ばされたのか行方不明となり、附近には二三十人の死者がある模様で、あちこちで家が倒れ、畑に大穴や土山が出来ていた。道夫君の夫人は足をくじいておったので、道夫君自身一月ほど前から病みがちであったが、子供を負い、妻君を助けて父君のいる大泉まで歩いて行った。途中で若い女性が見かねて手を貸し、乳母車を貸してくれたので、どうにか行きつくことが出来た。あとで家に戻って見ると、台所は滅茶滅茶となり、硝子窓は全部こわれ、壁は破れ、ひどい様になっている。それでも手を入れれば住めないことはないが、もうこの家は怖ろしくって住む気がしない。早速明朝秋田の田舎に妻子を送り届け、自分はその家を中島あたりの寮にでも貸して、どこかへ間借りをして暮したい、と痛切な顔をして言った。
また社長佐藤義亮氏はもう老人で出社しないのだが、井荻の更に北方の武蔵野線の大泉に住んでいるが、その辺でもあちこちに爆弾が落ち、ひどいのは子供が吹き飛ばされて木の枝に引っかかって死んでいたのがあったという。社長も怖毛をふるい、社のある牛込からここへ疎開したのであるが、更に今度は哲夫君の家族の行っている伊豆修善寺辺へ疎開することに子息たちの相談がきまったという。
これ等の話の印象は深刻である。武蔵野線や西武線沿線の郊外は皆争って疎開した人々が多いのだが、そういう時は、近くの中島工場など危険だとは考えても旧市内よりはまあこっちが安全だと考えたのに、敵はこのところ数回は晴天で昼間やって来ると、きっとこの工場を狙っていて危険きわまりない区域となってしまった。
今日は午前から文報に出かける。新人育成部の原稿昨日からかけて二十通ほど読んだが目ぼしいものなし。十一時出て、三時に退出する。夜に入って雨。何という雨の多い年か。こんな初冬の晴天にきまっている時でも二日おきぐらいに雨が降る。これは私の考では欧洲の戦争での弾薬の爆破のせいかまたは南方での戦争の爆弾のために、気象条件が変って来ているのだと思う。
電車の中や社などでデマを聞くこと多し。ひどいのは、近所の人で区役所で聞いて来たというのに、敵の有力な機動部隊がうろついているのがあるから、東京附近に敵が上陸するというのである。これは先日聞いたサイパン奪回の噂と共に、もっとも出たらめな話である。
外に、こちらの飛行機が敵機の高さに届けないとか、飛行機が足りないとか、いま高空用の過給器を作っているから、それが出来ればすぐ敵をみな撃墜出来るとかいうことである。
中で本当らしいのは、今日偵察目的らしい敵機が一機やって来たが、今日明日にきっと大きな空襲があるということである。これは十二月八日の開戦記念日を期して敵が宣伝のため、大がかりにやって来る。それも先日の傷手を被っている後だから、多分夜やって来るであろうというのである。
二日おきに敵がやって来るという噂は、大体正しく、今日はその来るという日で、文報にいるとき正午頃に来たが、しかしたった一機で帝都に入りもせずに去った。これでは空襲とは言えない。
この頃街頭の風俗を見ると、男はオーバーの上に、小型鞄と鉄兜を十文字に肩から下げて戦闘帽をかぶり、ゲートルをつけている者が一番多い。女でもズボンかモンペに鉄兜を下げているのが多い。その兜にも色々あって、竹で鉢のように朝顔型に作ったものもあれば、中では味噌こしと同じような細かい竹の編細工で縁の所だけ鉄兜風にそらしたのを被ったのがあった。また昔の武士の用いた兜の簡単なのをものものしく背中に背負った紳士があった。社の菊池君の見たのでは、アルミの小型の鍋をかぶりその取っ手に紐をつけて顎にむすび、大真面目で歩いていた中年の紳士がおり、行きかう女の子など顔を真赤にして笑をこらえていたという。とにかく街頭の人はみな武装をして歩いているというのが、この一週間ほどの東京風俗である。
侵入した敵機に体あたりをして撃墜した沢本軍曹等の人々は特別攻撃隊で震天制空隊という由。東京の空も遂に体あたりの勇士たちによって守られているのである。沢本軍曹という人、埼玉県共和村というから峰岸君の村の人である。南方の体あたり戦の勇士関大尉以下、こういう勇士が祖国を守って身を挺しているのに、白金を隠匿して罪に問われるような悪人が相かわらず巷に絶えない。前者も日本人であり、後者も日本人である。戦時世相の中に花のような人と泥のような人とがいる。ああ。
夜峰岸君へ手紙を書く。十二三日に訪問する予定。
今日文報へ朝日の記者が来ての話に、神田の焼失区域の中には出版屋の外、紙屋、印刷屋、製本屋が多い。この頃は大日本印刷のような大きな印刷屋は主として紙幣を刷るのに多忙を極めていて、書物は神田辺の小さい印刷、製本屋によってやっていたが、今度の火事で半分ほどそういうものが無くなったから、出版業は大分行きつまるとのこと。
新潮社でも、幹部級の間に内密にそういう話が出ている気配を昨日私は感じた。現に社の製版屋が焼けて、挿絵の類、表紙の類の版はみな失われたという。そうでなくても紙の不足や企業整備や金属供出のため出版は窮屈になれるだけ窮屈になって来ていたのだが、今後市内が更に焼かれるようなことがあれば、出版、印刷等はほとんど不可能になるかも知れない。考えておくべきことである。
レイテ島は雨天にて全島泥濘化のため、両軍とも作戦に極めて困難しているという。しかし、敵の艦船は島の西南側のオルモック海に入って来て、そこで補給したり、我艦艇と戦ったりしている。同島は北方、南方と両翼に敵の力が伸び、我方は西方に圧縮されつつある形勢で、どうもよくないような戦況である。この島も遂にこうして守り難いのであろうか。しかし万一この島を失えば、敵はこの島に、飛行基地を作ってその余裕ある航空兵力によって全比島の空を制し、容易に支那大陸に手を届かせる憂がある。正に危機である。何としてでも、是非何とかしてレイテ島を守りとおしたいものである。このこと成らなければ、祖国は一大事である。形勢はじりじりと深刻化して行きつつある。
十二月七日(木)
果して敵は兵員をレイテ島西岸のバイバイに揚陸した。そして新聞の報ずる所によると敵兵はすでにこの島に十五万の兵力を有しているという。我軍は東北南の三方に敵を控え、中央の高地とその西方海岸で戦っている。敵の海上兵力またこの島の北と南の海に侵入して来つつある模様だ。憂うべきことだ。この島の戦がまさにこの日米決戦の峠に当っているのだから、この島の戦況は細かなことでも一つ一つ大きく気持に響いて来る。国民全体の気分としてはサイパン、テニアン等の玉砕が続いた頃に較べて、このレイテ島の戦に希望をつないでいるだけ、士気は盛であるが、万一あれだけレイテ島の戦が日米間の決戦なることを吹き込まれた上で、この島の戦が不利ときまったら、今度は絶望的な気分が国民の間にみなぎるのではないかと危ぶまれる。
朝新聞を見ながらここまで書いた。そして早目に出て田居家へ寄り、そのあと出社しようと思っていると、そこへ自転車で田居君がやって来た。そして彼の華北種苗天津出張所長としての赴任の件は、四月と思っていたところ一月十日に赴任せよ、後任を推薦せよとの電報が来たとて、後をやってくれとのこと。多分二年ぐらいの間であろうが、一日おきに、事務所へ顔を出して女の子を監督していてくれればよいという。二百円ぐらいの月給にして申請したいとのこと。そして彼は、私が借りている千円ばかりの借金を、その中から毎月百円ずつ返してほしいとのこと。百円ずつは多いと思ったが、賛成する。田居は商人としてきたえられていて、そういうこと抜け目ない。そんな話をしているところへ、川崎昇、杉沢仁太郎両君が来る。杉沢とは久しぶりである。いつものとおり杉沢の農園の自慢話にて、そのうち杉沢が鶏を一羽食おうとのことでうちの雄鶏を一羽彼が料理して昼食を共にする。杉沢が荷物があれば預かってやるとのことで、近いうち、何個か運ぶことにする。
そのうち、午後二時頃か、大きな地震が来る。激しくはないが揺れ方は大きく、舟に乗っているように、三分間ぐらいも、ぐらぐら揺れ、皆戸外へ出る。
来た客のうち、川崎君も田居君も、敵の機動部隊が近海にいるので、今日明日には大挙艦載機による空襲があるだろうとの噂をする。この話はいたるところにはびこっているらしい。開戦記念日にかけて敵の大空襲があるということは、新聞でも予想記事として書いているし、川崎君の子供の行っている十二中では今日から三日休みだという。国民学校も三日は休むという。滋も今日は空襲の翌日故午後から学校のある日だが、休ませる。不服そうな顔をしている。
午後五時のニュースを聞いていると、我軍はレイテ島の敵のすべての飛行場に落下傘降下と強行着陸をした、と報ぜられ、あっと息をのむ。いよいよ日本の攻勢が始まった。なるほど、こういう手があったか、胸がどきどきし、手を握りしめる。この感動の気持は、私には日米開戦の時以来はじめてのことだ。これまで戦争についてのどういう勝報、悲報もみな国の運命にじかには届かないという余裕があったが、この報のみは、真珠湾攻撃と共に、国の運命にじかに結ばれている。これはまさに乗るかそるかの瀬戸際の一撃だ。敵飛行場を封鎖すると共に地上の我軍の攻勢も始められたであろう。落下傘兵というだけに必ず成功するとは言えず、危険極まる戦法だが、これによってのみ敵の空からの補給をおさえて、この島の戦勝を作り出すことになるかも知れぬ。決戦の中の決戦はこうしていよいよ最高潮に達して来たのだ。
その報にわくわくし、滋など、すごいぞ、すごいぞ、と言っているうちに警報が鳴る。何というせわしい日だ、と言いながら大急ぎで夕食をして支度する。これまで夕刻の空襲というものはなかったが、敵は変な時間にやって来たものだ。今日は大空襲かなと言いながら支度をすると、案外に二三機が伊豆から入り静岡方面に焼夷弾を落したという。
九時頃解除となり、夜中二時にまた来襲。今度も東京に入らず、茨城方面へ二三機が入って遁走したとのこと。退避せず、着込んだまま寝ている。
十二月八日 大東亜戦満三年記念日
降下部隊につき、新聞の報ずるところによると、「今次降下着陸部隊は落下傘降下が大部分を占め、一部が輸送機により、強行着陸を決行したもので、有力強大な大部隊である」と説明されている。大きな作戦の一部であるにちがいない。なお後続部隊も六日夜、ブラウエン南北飛行場に落下したという。この部隊を輸送した新原揮人部隊〔ママ〕の語るところによると「途中悪気流と東北風の風雨に悩まされたが、天佑か敵戦闘機の出撃もなく、悠々敵地上空を進む我編隊はレイテ脊陵山脈と同じくらいの高度をとっていたため、めざすブラウエン飛行場を指呼の間に迫った瞬間、左方の山陵から敵機関砲のもの凄い砲火が編隊に向って真横から水平に注がれて来た。二本の滑走路が眼下に見えた時、周辺の地上砲火の火網が火のスコールとなって機の周辺に炸裂して来た。友軍機の先制猛爆撃による敵燃料集積所の火焔と思われる火柱が数本、あたり一帯は火の海だ。敵は周章狼狽、高角砲高射機関砲を総動員した。この火網陣に加うるにレイテ湾内に碇泊する数十隻の敵艦よりもわが編隊に向け集中する弾雨は、さすがに物量を誇る敵だけに自分も今迄あれほどの火網に包まれたことはなかった。わが神兵達は悠々自若、機内で携行の夜食をとったあと、敵飛行場の真只中に一兵また一兵、美しい花を開いて降下して行った。薄暮せまるブラウエン飛行場上空で自分は神兵達の健闘を祈念しつつ次の任務のため高度をぐっと上げて基地へと向った。」
この大胆不敵というか、絶体絶命というか、この戦いの結果、レイテの戦局が我方に好転することをこそ国民は願っているのだが。
敵の東京の工場地帯爆撃はさして効果を上げていないようだ。敵側の報道によると、リスボン同盟電として、敵の第二十一爆撃隊幹部将校の談として「B29による東京爆撃は主として試験的なものであった。目的は飛行機工場その他一定の爆撃目標を選定し精密爆撃によってこれを破砕するにある、しかるに以上四回の爆撃はこの目的を果すことが出来なかった。第四回の爆撃は某工場の爆撃を目的とし四回のうちでは一番効果の挙った爆撃だったが、しかもなおその結果は満足すべきものではなかった。若干の命中弾のあったことは確かだが、目標を破砕したということは出来ない。」とのこと。
現に中島工場を狙った爆弾が井草駅近くばかりでなく、武蔵野線の練馬駅や大泉駅という四五キロ離れた辺に沢山落ちている。荻窪を狙って西荻窪に落ちたなどは近いぐらいである。あれが精密爆撃というのであれば、言うに足りず、かえって目的の工場よりも、ずっと離れた所の住民たちが危険だという恐怖心を起させる効はあった。結局あの高度からでは敵は狙う目的を果せないことは明かだ。かえって神田日本橋辺の焼夷弾による夜間爆撃が効果あった方だろう。
昨日も一昨日も少数機しかやって来れなかったのは、敵機の損害が先日の空襲で大きかったせいであろう。
今日は敵来襲の噂の最も高い日で、現に今日など正午に、敵機が来ないのに警戒警報を出したので、街上には人影少く、男も女も鉄兜をかぶった防空服装をし、警防団員があちこちに屯していた。東部軍情報も、朝来敵の情勢に警戒すべきものありと言っている。やっぱり敵の機動部隊が待機していたのは事実らしい。正午には東部軍情報として「南方の敵についての新たなる情報なきも、警戒中である」と言っていたが、三時頃の東部軍情報で「敵機の大空襲の見込が無くなったから、警報解除にする」と言ったそうである。しかし今夜あたり、或はやって来るかも知れぬ。
敵が積極性を失った原因は昨日早暁の我航空隊のサイパンアスリート飛行場の襲撃が敵の機先を制して大効果あり、準備機の多くを破砕したためであろう。
敵も開戦記念日に東京大空襲を行いたかったのであろう。今夜でも或はやって来るかも知れない。
昨日の地震は駿河湾沖に震源地あり、名古屋から静岡、沼津にかけて被害あり、諏訪では火事があったという。礼のことが心配である。礼の宿は三階建だというから、被害があれば怖ろしいことであろう。
午後早目に家に戻り、先日から心にかけていて出来なかった爆発品、酒精や揮発油、グリセリンの類二十本ほどを箱に入れ、桃の木の下に埋める。
今日は開戦記念日、レイテの攻防、東京空襲と、戦は日本民族の身辺にまざまざと痛く感じられるようになった。
文学報国会で諏訪氏に逢い、「大東亜文学」の原稿催促され、明日までに届けると約束する。
この日朝児玉医師夫人と圭子さんの二人自転車にて、荷物を預けに来る。コーライトを二袋持って来てくれたという。同家からの預りものはこれで蒲団二組、大型支那行李一つ、大型トランク一つとなる。街を歩いても荷造りをしている家、馬車で積み出している家、防空壕を掘ったり、手入れしたりしている人々の姿のみ眼につく。
事務所ではどこも仕事がはかどっていない。文学報国会の編輯室では八人いるべきところ、朝十一時半頃に、室長の岡田三郎氏と私の二人のみ、一時半に新潮社へ行くと、出版部長は社長の疎開の用件で伊豆へ行き、専務は自家の疎開で松本へ行ったと言い、斎藤、菊池、梅田三君欠席、私と丸山君の二人のみ。三十分ほどいて私も早目に家に戻る。電車に乗っていてもいま空襲警報が鳴るかと気が気でない。乗りものは大変すいている。
文学報国会の新人育成の原稿読み、愚劣な少年少女の手記のみ多いが、二十篇に一篇ぐらい興に乗って読める作品が出て来てたのしい。
十二月十日(日)晴
日本民族の運命はフィリッピンの中央にあるこれまで何人の注意も惹かなかった小さいレイテ島に賭けられている。戦いの秤は我方に傾くように見え、また敵方に傾くようにも見えて、日一日と変貌し、その度に激しさを増して行っている。アメリカは、欧洲戦への補給をも犠牲にして、この東亜の一角に、その戦力資材を注ぎ込み、マッカーサーすら、レイテ島の一ケ月の消耗はニューギニア戦の一年半以上のものであると言っているとのこと。我方もまた神風隊、特別攻撃隊が相ついで出撃し、身をもって祖国を守り抜こうとし、物質的にも戦力のすべてを傾けてこの島の優位を確保しようとしているのだ。朝起きて新聞を待つ毎に、夕方の報道をラジオで聞く毎に、戦果はどうかと、待ち望む気持である。
昨夕は、高千穂降下部隊と力を合せて、レイテ島中部の敵の主要飛行場のあるブラウエンに我地上部隊が突入して、その南北両飛行場を占領したとの報があり、先ずこれで、とほっとした途端に続く報道では、レイテ島西方の我が方の最大の補給基地と思われるオルモックの南方十キロのアルブエラに敵一個師が上陸したと報ぜられた。すでに一昨日の大本営発表で、レイテ島の西側カモテス海に入って来た敵の輸送船団は八十隻から成っているということを知っていて、毎日のように神風隊や特攻隊やその他の飛行隊が、四隻五隻と沈めてはいるが、八十隻一度に入って来たとあっては容易なことでないと心を痛めていた。それが案の定このアルブエラへの上陸となったのだ。ここは、中央山脈を越してブラウエンの西裏に当っている。この山脈とその東麓ブラウエン地方で戦っている我軍は背腹に敵を受けることになるのだ。沈めても沈めても、その沈められる数を予定して、それ以外のものでもってなお我が軍を圧倒し得るという計算を立てて敵が尨大な戦力量をこの島に注入して来ていることが手に取るように分る。
敵のこの島の北端マナガスナスに迂回した部隊は我方に後方を遮断され包囲されて苦境に陥った。東方平原の諸飛行場には我が落下傘部隊が降下してその主要飛行基地ブラウエンを奪った。しかも敵は南西の裏側にまわって、我軍の背後を脅かして来ている。敵はこれまで推し進んで来た太平洋諸島での有利な戦の帰結をこの島で得て、支那大陸に手をのばして日本を南方から遮ろうとし、日本はそれをさせまいとしてこの島から敵を追い落そうとしている。敵はこの頃機動部隊をこの方面に出動させずに、その損害を整備し新攻勢を始めようとしているらしいとの解説が出ているが、東京に向おうとする機動部隊が本州の近海にいるというのは、それと関係があるのではないか。敵は我方の飛行隊を本州に牽制しようとし、またはそれ以上に新たに大胆な上陸を本土に近い地点に試みて、牽制作戦でもあり進攻作戦でもある新作戦を企てているのではあるまいか。比島の攻勢はマッカーサーの指揮するところで、ニミッツは別方向に進攻する予定ということは敵の公言しているところだ。
昨夜も敵一機侵入して信越方面の高山の上を飛翔して去ったという。この一機二機の侵入は、敵側報道によると気象観測のためだということである。
私たちもこの頃では警報が出てもすぐ窓や戸を開け放したり防空壕に入ったりせず、ラジオの情報に従い、一機または二機というときは、服装だけ上着、ズボン、外套、アノラックという風に身につけたまま蒲団に入っている。夕方だと階下の六畳を雨戸の外障子にも黒い遮蔽紙を下げて完全に光を防ぎ、そこに坐っていることにしている。
昨朝、杉沢中野からの帰りだとて寄り、昼まで居る。私は田居君へ届ける華北種苗へ出す履歴書二通を書き、自転車で真北の吉祥寺に出、成蹊高校に寄り、一昨日から休みかどうかを確かめる。ここは中島工場に近いため、一時頃、何となく不安を覚え、こんな所に滋を毎日通わせているのは、親として考え直さねばならないと感じた。その帰り田居君宅に寄り、雑談。火木土の三日、午前中華北種苗へ寄ることにする。この日新潮社を休む。
夜「大東亜文学」の原稿を書きかけている時、警報にて、やめ、寝る。
(後記)「大東亜文学」のための「現代の日本文学」十三枚十一日午前に文学報国会に届ける。
十二月十二日(晴)火
この三四日敵機は、一二機の少数機によって毎夜のように東京附近に侵入して我々の安眠を脅かして行く。
今月の五日頃までは敵機の入って来るのは、たいてい正午から午後一時頃か夜中の一時頃ときまっていたが、それが次第に不規則になって、午前中にやって来て見たり、夕方八時頃に来たり、色々となり、この三四日は夜間一二機でやって来ることにきまっている。少数機の時は、こちらでも高射砲を撃たぬこともある。敵は気象観測と偵察と神経戦とを兼ねてやって来るようである。
夜はまだ激しい冬の北風の季節とはならないが、霜が降って相当寒いので、戸をあけて防空壕に退避するのも、風邪を引いたりして、かえって危険なので、ラジオのアナウンスで「少数機にして後続部隊なし」というときは、燈火が洩れぬように階下の六畳と二階の三畳の私の書斎とを暗幕で遮蔽して仕事をしており、深夜だと服を着込んでまた寝ていることにしている。後続部隊があるという場合は大空襲であるから、防空壕へ入ろう、ということに相談した。
たとえば今日など夕食をすましてほっとして炬燵に入っている七時頃に、警報がボーと鳴り出す。ラジオにスイッチを入れると、やがて放送の歌がブーブーという警笛の音に消され、「関東地区、信越地区、東北地区、警戒警報」とアナウンサーが言い「復誦」としてもう一度言う。それからまた前につづけて音楽の放送が続き、しばらくしてからまた警笛が入って「東部軍情報、東部軍情報、敵少数機は伊豆半島より北上しつつあり」と言う。やがて、しばらくして、警笛が三度出て「敵機は西方より帝都上空に侵入しつつあり」と言ったかと思うと、戸外の遠近で、大きく、断続する空襲警報が鳴り出す。そしてラジオではまた警笛が出て、空襲警報と言い、そこで音楽はやみ、つづいて「東部軍情報、帝都上空に侵入せる敵機は焼夷弾を投下しつつ東南方に退去しつつあり」と言う。私は炬燵を下に入れた机から立って二階の六畳の電球を消した室の東窓から遠く市内の方を見ると、新宿の辺に当って空が低い曇り空が一ケ所燃える火を赤く反映しているのが見える。燃えているな、と思う。するとまたラジオが、「敵は東南方の海上を逃走しつつあり。焼夷弾のため一部に発生せる火事は速やかに制圧されつつあり」と報じ、その後四五分して空襲警報解除のサイレンが長く高く戸外のあちこちに響く。そういう順序で、夜中でも空襲がラジオで報ぜられている。
敵はきっとこのような神経戦をつづけて我方の生産力を低め、またその損害を出来るだけ少くしてやれる戦法を研究し、やがて大挙して空襲にやって来るにちがいない。
今日から華北種苗に出勤する日なので、朝、十時半頃銀座の事務所へ行ったが誰も来ていない。しばらくして、その室を共同で借りている華北農機具の平沢氏が出勤、つづいて川崎君が来る。田居君は今日来ないというので、十二時頃三人で焼あと見物にと地下鉄で三越前に下りる。三越の向側からぼうぼうと焼あとはひろがり、焼あとには、金庫のみがあちこちに店舗のあった所の目印になるように立っている。木造の家屋は焼夷弾の落ちた場所どおり帯状に焼けており、ただ鉄筋コンクリートの高層建築のみがあちこちに残っている。日本橋から神田駅附近、小川町のあたりから駿河台下まで焼あとについて歩き、駿河台下で二人に別れる。その途中日本橋本石町で昼食時、都民食堂となってこの頃は雑炊をやめ、蕎麦を売っている蕎麦屋があって、行列もあまり長くないので、三人はその行列に並び、蕎麦を食う。一杯十八銭である。美味ではないが、珍しく小綺麗にして食わせる店で、三人はそれを喜び、二度行列して二杯ずつ食べた。川崎君など蕎麦好きな人だが、この春以来初めてだと喜ぶ。
レイテ島では、ブラウエン飛行場の東方サンパブロ飛行場も我高千穂降下隊が占領しているとの報がある。それが事実ならば、その更に東方の海岸に近い敵拠点ドラッグまではもう一歩だ。ドラッグに出れば我方は敵を南北に両断することとなる。なお目下のところ、制空権はほとんど完全に我にありとのこと。戦況は都合よく発展している。是非この島では勝たねばならぬ。こういう戦況のよき発展が一部のことでなく、島全体とその周辺海上で進行しているのだといいが。
ここまで書いて来て九時二十分、先刻の敵機が去ってから一時間ぐらいにしかならぬのに、また警戒警報が、戸外の空一面に鳴り出す。気ぜわしなく、小刻みに、意地悪く、敵機はやって来る。
「敵らしき少数機東南方海面より本土に近接しつつあり。東部軍情報終り、以上。」といまラジオは報ず。――九時三十分。
こういう立て続けの空襲は初めてである。少数機とは言うものの、これは一種の大空襲にいつ変るかも知れず、何となく不安な気配である。
これではとても仕事は出来ぬ。日記を書くことと、何か本を読むことがせいぜいのところである。
「敵少数機は房総方面に進みつつあり。只今から電波管制のため放送を中止しますが、ラジオのスイッチは切らないでおいて下さい。」――九時三十五分。
「敵は目下房総方面上空を旋回中なり。」――九時四十五分。
東方で高射砲や爆弾の音があちこちに、ドガン、ドガンと続き、曇った空の中がその度にパッパッと光る。東に当って敵機の投下した照明弾らしい光が二つ、ふらふらと落ちる。線香の火が消えそうになりながら落ちる形に似ている。照明燈は、曇りのせいか用いられぬ。その時ラジオで、
「敵は京浜地区に侵入し、我高射砲は射撃を開始せり」との東部軍情報あり。――十時五分。
しばらくして、空の中に飛行機の爆音聞え、高射砲がかなり近いところで鳴り出す。これは危いと思っていると、次第に爆音は去り、砲音も消える。
「敵機は帝都南方に爆弾、焼夷弾を投下して後東南方海上に逃走しつつあり。」――十時七分。火の手は見えぬ。
空襲警報解除。――十時十分。
「敵の夜間来襲は依然執拗を極めつつあり、防空必勝の決意を望む。」――十時二十分。
今夜はまだ敵はやって来るであろう。
「関東地区、信越地区、東北地区、警戒警報解除」――十時二十五分。
十二月十三日(水)北風 暁雪降る
昨夜の空襲についで、今暁また少数機帝都に侵入す。五時少し前なり。起きず。
朝から家を出て、文学報国会に行く。新人の原稿四五篇読み、これまで三十通読んだ中の目ぼしいもの三篇を、上田広、福田清人等の委員あてに送る。
報国会の諏訪三郎氏(小石川大塚坂下町)の宅は昨夜の空襲にて、一軒おいて隣に爆弾落下、その家は全滅し、諏訪氏宅もひどく襖建具等こわれて散々だという。氏は今日休んでいる由。また池袋雑司谷にも敵弾落ち、岡田三郎氏の姉の家の隣は危く消し止めたという。雑司谷から大塚辺を焼かれたのが、昨夜遠く東方に見えたあの火であったのだ。
正午すぎ昼食を終えしばらくすると警報鳴り、近くの黒須組ビルの地下の、高さ四尺ほどの床下に退避す。コンクリート建にて頑丈なもの故、いささかも心配ない場所である。そこのセメントの太い柱の間に筵を敷き、隅にラジオを据えつけて、近所の隣組の女たちが、モンペに防空頭巾に鉄兜といういでたちでバケツを一つずつ持って入っている。ラジオのブザーが鳴ると、「情報」と一人の女が甲高く言い皆が耳を澄ます。高射砲が鳴り出す。するとすぐに「みんな伏せるだけの場所をとって」と命令する。一人二人の男子が戸外の土嚢のかげにいて周囲を見張っている。緊張し、元気よく、真剣さが、私たちを撃つようだ。ここは首相官邸の崖の下故、もっとものことながら、訓練もよく出来ているが、大変な意気込みである。そこは窓なく、僅かに格子になった三尺四方の扉が一つあり、その外側に土嚢を築いておいてある。一人の女がその扉のそばにいて人の出入り毎に開閉してやっている。
情報を聞いていると、敵機の編隊は次々と伊豆半島から入り、主力は静岡地区にありという。東京上空には四機だけ入っているとのこと。
一時から三時頃までかかる。静岡地方は地震にやられたとて、大井、天龍の鉄橋故障して、東海道線は七日の地震以来不通にて、それだけでも相当な戦力の障害なのに、またこの空襲では大変な痛手であろう。静岡浜松辺には工場が多く出来ている故、そこを狙って敵は侵入しているのだ。
報国会は風かげになりさほどと思わなかったが、今日は強風にて、夕刻家に戻って聞くと、荻窪方面に当って長時間煙が立ちのぼり、大火災のあるのが望まれたという。
夕食後室に坐り、考えるのに、これから吹きつのる冬期の西北風に風上に焼夷弾を落されたら、東京はこの冬のあいだに大半焼けるにちがいない。昨夜も今日も侵入して来た敵機は二機とか四機とかいう少数なのに、火はなかなか燃えさかって消えがたい。毎日を勤めに追われてうかうかとしていずに、ここで防空対策を自分の家庭に関して深く考え直し、早速何等かの手段にとりかからねばなるまい。
これまで私はこの家に引越し、一応疎開を予め実行し、畑もあるので食糧不安の点もさしたることなしとて安心していたが、荻窪や井荻辺が空爆され焼かれるという状態では、その真南に当るここも決して何時までも安全だと言えない。いざとなって混乱状態の中で、身動き出来ぬ始末となりかねない。先ず何とかして杉沢のところへ荷物をいくつか運ぶこと、峰岸君宅へも運んでおくこと等を考えねばならない。火災保険も生命保険も期限が過ぎたまま放ってあるが、保険金を払い込んで復活させておかねばならぬ。勤めを少し休んでも思い切って、それ等のこと、この四五日中に何とか片づけることと考をきめる。
急ぎの原稿、新潮正月号のための短い文と文学報国の文芸時評とあり。いずれも気持の負担だ。その上実業日本の秋葉和夫君からも「爾霊山」についての催促があるが、これはとても急には間に合わない。
我南支軍は桂林西方で中支軍と連絡したが、最近仏印から南支に侵入した我南方派遣軍とも連絡がつき、支那大陸の南北打通ははじめてここに完成した。我方の陸上主動脈がこうして出来、将来、米軍の東方と西方よりの侵入に対して備えることが出来た。
レイテ島の戦況はブラウエン、サンパブロ等の陸上では我方優勢のようであるが、島の東西北という風に敵の艦艇が縦横に周辺に活躍しているらしく、我方は航空機でそれを攻撃しつづけている。どの程度に我方に有利なのか、補給はどうなっているのかもっと確かなことを知りたい。公報のみでは細かいことが分らず、焦躁を感ずる。
この頃、家にいるとき、スキイ用の厚地古ズボンに職工服の上着を着、ゆっくりと楽に出来ているスプリングコートを羽織っていたが、それでは背中が寒いので、今日思いついてスキイ用の大型アノラックの裏に羊毛を縫いつけて日常上着の上に羽織っていることとする。自分で、綿糸で、それを縫いつける。
十二月十七日(日)晴
三日ほど日記をつけなかった。
十四日夜は、文学報国の文芸時評七枚を書き、あとは地図を見たりして炬燵にすごす。十五日は新潮社の宿直。楢崎勤氏と二人の組。外に島田、安田両君の常宿者がいて、四人で四階建のビルディングを防衛するというのだから、大して安全な構えではないが、副社長をはじめ三十名近い男子社員で月二回ずつ当ることになっている。
先日の日本橋神田方面を焼かれた時は、小さな事務所が多いのに宿直者が足らなくって、消火に手が届かなかった為、各事務所の宿直員を増すよう警察から厳しい達しがあった為だという。その日社は私は休みの日だが文学報国会に出る日なので、三食の弁当と毛皮を貼った防雪衣を持って夕方社に着き、近くの楢崎氏の疎開したあとの留守の老婆のところで、夕食をし、社に戻って一階事務室で電気ヒーターにあたりながら新潮の校正を手伝ったり、雑談をしながら九時まで起きており、その後ビルの裏に続いている旧佐藤社長邸(今は偕行社別館として軍人が多く宿泊している)の一室に、固い木綿の蒲団をかぶって寝る。
十三日に静岡名古屋地区に八十機の来襲あって以来、十四日の明け方に少数機侵入したきり、十五日は昼夜来襲なし。十六日も昼夜敵機来ず、珍しいことである。この十日あまりのうち、こうして二日も続いて夜敵の来ないのは初めてである。しかし十五日の夕方、ラジオの解説で、敵がこの頃少数機でしばしばやって来るのは、あらゆる時間にあらゆる方角から誘導機の侵入訓練をするのが目的であるから、必ず近いうちに大空襲、しかも二十四時間空襲があるから注意するように、と言っていた。そういう嵐の前の静かさのような気がせぬことも無い。先日の荻窪方面の黒煙は中島工場に煙幕を張った煙だという。
しかしこの三四日間にフィリッピンの戦況は一段と凄烈なものとなって来た。レイテ島の米軍は敵の東岸戦線の中央部にあるブラウエン、サンパブロの飛行場を奪取され、制空権を奪われたが、その前後から戦況打開の準備を進めていたらしく、同島西岸の我方の補給基地オルモックへ強行上陸を行って来た。オルモックでは彼我激しい攻防戦を行っているという。そして八十隻から成る輸送船団という奴が、とうとう十五日にはミンダナオ、ボルネオ、パラワンの三島に囲まれるフィリッピン南部のスール海に入って来て、そこから北上し、ルソン島マニラ湾のすぐ南にあるレイテ島と同じ位のミンドロ島というのに、一個師を上陸させたという。この八十隻の輸送船団という奴は先日から報ぜられているのだが、その一部が、レイテ西岸のアルブエラやオルモックに上陸し、更に一部がミンドロ島に上陸したものと思われる。この船団と護衛艦隊のうち、二十五隻を我方で撃沈破したということだが、敵は更に小船団であとからあとからと補充をしているらしいから海上で全滅させることは困難の模様だ。しかもこの船団への我方の攻勢を牽制するために、敵は久しぶりで機動部隊をフィリッピン近海に持って来、十四、五両日は八百機でもってフィリッピンを空襲している。これでは我方の航空兵力は不足して来るであろう。こうして比島全域が激戦場となりつつある。今ではレイテ島だけの問題ではない。敵の物資戦力は全フィリッピンに蔽いかぶさって来るようだ。特別飛行隊の兵たちは、この敵に対して肉体をもってぶつかって行っている。私たちの身体と同じ血の流れている人々のこの悪戦死闘の報は、血を逆流させるようだ。落ちつけ落ちつけと私は自分に言い聞かせる。自分には自分の仕事がある。初めは記録するつもりで書き出したこの日記が、今では私の生涯の最も重要な仕事であることが分って来た。私はこの中に、日本民族の美しさ、苦しみ、戦う姿、生活の諸相を後の世の人々のために書き留め、この時代の日本人の真の姿を伝えようと思う。私も戦場にやがて行くであろうが、その日まで私は書きつづけようと思う。
東京都民の空襲下の生活は、刻々に変って来ている。それを現わした新聞記事を四五枚切り抜いて貼りつける。外食食堂で食事出来ぬこと、映画館閉鎖のこと、電球不足のこと、警報下の盗人のこと、戦争保険のこと。
私自身も家に対する一万円の保険は今年一月で料金切れのまま放ってあり、家財に対する五千円の保険もこの八月で切れていた。昨年渡満の時に私の身体に五千円戦争保険をつけたが、それもこの頃切れた。金が無いので、気にしながらも延びていたが、昨日みたみ出版社の野長瀬君から「三人の少女」の印税二百五十円ほどを前借したので、丸の内の桂興業という代理業者に寄り、家屋一万円、家財一万円、についての戦争、地震、火災保険をかけた。料金は百二十余円である。外に家族四人について五千円ずつ戦争傷害保険をかける。この分は安く、四人で六十円であった。しかし外に生命保険、私の分一万円、貞子たち二千円ずつの支払がまだ放ってあり、年末にその分として四百円近く払わねばならぬ。外に質屋に六百円ほど入れてあり、東京急行への支払千円もある。とても金は足りない。年末の収入としては、月給、新潮社の二百円、文学報国会の百円(?)、華北種苗の百円、文芸の小説稿料百円、新潮五十円、新潮社のボーナス四百円等と見て、千円ほどもあり、相当多額の収入であるが、東京急行の分だけはとても払えそうがない。もっとも「三人の少女」はもう四千刷り、「雪国の太郎」は五千刷るから正月か二月には千五百円ほど余分の収入があるので、それを宛てることに予定している。しかし東京はいつ焼野原となるかも知れず、そうなるとこの印税は入らぬであろうし、新潮社そのものの存在も危くなると考えねばならぬ。
経済的には、そういうところに私たちの生活があるわけだ。
日曜日なので午前中三畳間の机の下に炬燵を入れて新聞を読み、日記を書き、午後、寒風の中を畑に出て、聖護院大根と聖護院蕪とを、葉を切り、逆さにして埋める。葉は貞子が漬けものにしたり、乾して鶏にやる為である。大根は四十株ほど、蕪もそれぐらいあったが、半分は畑におき過ぎて割れ目が入り腐りかけているのもある。空襲等のため起居あわただしく、畑のこと手が届かないでいたのである。これでいよいよ今年度の農作物の収穫は終ったのである。昨年までは北海道や峰岸君のところから豆とか馬鈴薯とか送ってもらっていたが、今年は運輸が一層不便になって、そういうものも来ず、自家産の作物だけで補いをしなければならぬ。甘藷の埋めてあるのが十貫ほどと、馬鈴薯の箱へ入れてあるのが八十貫ばかり、それにこの少しの大根類で春まで凌げるかどうか分らないが、まあこれでやって見るのである。
この頃の生活では、貨幣価値の低下ということが、ひどく目立って来た。街頭の店には空襲以来一層閉鎖しているものが多く、一杯の茶も飲めぬ。事務所では茶を出す習慣がまだあるが、新潮社や文報の事務所でもガス制限のため、以前のようにふんだんに茶を出さなくなった。男が鉄兜と布鞄を両肩にかけ、戦闘帽にゲートルで歩いているのは前にも書いたが、女もほとんど男と同じような戦闘服装をし、防空服にモンペかズボン、それにオーバーを着、綿入れの防空頭巾を下げている。靴は損じたものが多く、きれいに磨いている靴などほとんど見かけず、布の靴の汚れたのや破れかけたのが目立って多くなった。
貨幣は配給物や税金貯金等の支払の外は、正常価値で行われず、悉く闇値である。街頭で買うものが無いのに金の値が維持されるわけはない。夕方街に行列があれば、それは夕刊買いにきまっている。東京新聞のみであるが、それも四時頃に売り出し、十分か二十分のうちに売り切れてしまう。しかし私など現金を使うのは、乗車賃と新聞を買う時のみである。煙草も配給になり、本か薬でも買いあさらなければ、何も買うものが無いのである。
郊外電車など、窓は破れ、網棚は破れ、戸はよく閉まらないのが多くなり、硝子や床は掃除が届かないので、塵だらけである。俸給生活者の給料は色々な手当てで次第に上って来てはいるが、今の闇値、米が一升二十円とか、甘藷が一貫目七円とか、酒が一升百円短靴一足三百円などというものはとても買えるものではない。たとえば新潮編輯部で十五人ほどの中、二百円とる私の給料が一番高いということでもっても分るように、たいてい百円から百五十円までの収入なのである。そういう俸給を取る人たちの手で市役所や税務署の事務、電車、通信、輸送等が円満にどうにか行われているということだけでも、よく行っているという外はない。配給では誰も暮せないのである。しかし東京はこの頃食料品の配給が外の都市に較べて、ずっとよくなっている。疎開して行った人たちは油、麦粉、魚、肉等の配給が全く無く、野菜でも悉く闇値で買わねばならないので、戻って来るということをよく耳にする。地方の小都市では本当に米味噌の外何一つ配給がないという。私の近所の農家でも酒(それも配給のもの、月に三合位)か布を持って行かないと薯類は売ってくれない。
戦争だ。これが戦争の生活だ。
国の中に余っているものは何も無くなったのだな、としみじみと思う。炭は今年の秋に入ってから三俵配給になった。それに手持ちの二俵を加えて、どうにか二月末まで炬燵に使えるだろうと貞子が言っている程度である。毎週一回、私は酒と交換の薪をリュクサックに一つ長谷川大工のところから運んで来る。それを背負ってバスや電車に乗る時、長い薪がリュクサックの上につき出ているのなど、まことにみっとも無いが、私が思うほど周囲の人は目を欹てない。風采などということは、ほとんど考えられなくなっている。私自身でも、雑誌に原稿を注文されたり、文報で委員会を開く手続をしたり、新潮社で新刊の案を立てたりする毎に、そんなことをしていていいのか、と不思議に思うぐらいだ。今一月のうちにでも東京は敵の焼夷弾に焼かれてしまうかも知れず、いつ爆弾で家がけし飛ぶかも知れないのに、よくそんな先々の計画など立てるものだ、と思う。せまっている危険のことは気にかけながらも、日常の習慣というものは怖ろしいもので、毎日これまでやって来た仕事に取りついていると何となく安心が湧くのである。それにまぎれているだけである。それよりも荷物を送れるうちに一個でも多く荷物を地方に送るとか、防空壕を整理するとか、そういうことをした方がいいのだが、大半の人は、昨日は江東が焼けたそうだとか、一昨日は神田が焼けたなどという噂をしながら、自分の家についてはさしたる手配もせずにいるのが多い。文報でも本郷の真中にいる徳田一穂氏や大塚にいる芳賀檀氏など、色々考えるが行く先が見当らなかったり、人に交渉するのが面倒だったりして結局動きがとれないでじっとしているのだ、と言っている。そういうものなのだ。私などはよほど先々と考えて手配をする方の人間だが、それでいて、杉沢や峰岸君のところへ荷物を送ろうと思いながら、まだ手がつかずにいる。もっとも仕事が多くて、それに取りかかる暇のないのにもよるが。その勤務にとりつかれて日を過しているということでは、外の人たちと同じことだ。しかし何となく、不安な雰囲気が市内に満ちて来ている。
文学報国会の委員会が毎日のようにあるのだが、十人のうち二人か三人しか集らず、流会となってしまうものが多い。仕事にはあまり身が入らず、勤人は休んだり、早く退けたりする。空襲があると、その日は、その時間からもう何も出来ないのである。一面俸給では人を強制する力が目に見えて減っているし、重要工業部門でない市内の事務所は仕事が実質的には以前の何分の一かになっているので、そう多忙でもないのだ。だからそういう勤人の仕事ぶりは一層とりとめのないものになって来ている。それでいて工場方面は火の出るように忙がしいにちがいない。そして空爆の危険もそういう方面では一段と多いのだ。その差が次第に大きくなって来ているのが、今の東京生活の実相だ。
ヨーロッパの戦況は、さして発展していず、ドイツがよく頑張って東西南三方の敵を支えていることが分る。しかし米軍はフランス東部国境でライン川に達したと言い、またロシア軍はハンガリアの首都ブダペストに迫っていたが、そこを遂に包囲して市内に侵入し、市街戦が行われているという。春が来るまでヨーロッパは天候が悪いというから戦況には急な変化が起らないかも知れぬ。
十二月十九日
昨日文学報国会に行っていると、十二時十分過ぎ頃、警報が出、すわとみな身支度した。数編隊、東南方洋上より北上中との東部軍情報で大分緊張したが、やがて敵編隊は中部軍管区の名古屋地区に攻撃して行き、東京には侵入しなかった。今夜の大本営発表によると、七十機のうち、十二機撃墜、二十機に損害を与えたとのこと。昨夜半、一機東京附近に侵入したが、何等為すところなく退去したという。今朝在支米空軍三四十機九州大村附近を空襲したという。
昨日「新潮」の原稿「藤村の文体について」六枚を楢崎氏の机まで届けておく。今日昼頃新潮社出社。一時に外出して銀座の華北種苗事務所に田居君を訪ねる。田居君の天津出張所長としての赴任は四月にしてほしいと目下交渉中にて、そうなれば、私が嘱託となるのも三月からということになる由。私も新潮社、文報と仕事が二つあるので、この上の仕事は種々気持の負担に思われ、気が重い折だから、遅いほどよいと思い、その旨言う。彼は笑って、「おや、厭になったのかね、申請はしてあるのだよ」と事務日記を開いて見せる。どうせ雑事のことだ、どうでもよいと思う。その足で大阪ビルに中野好夫を訪ね、原稿を急がせ、新潮社に戻ると、社長室に呼ばれ、賞与をもらう。三百五十円のうち、税金を引かれ、二百九十七円である。
雑用や金銭についての心づかいなどした後にきまって起る侘しい気持で家に戻る。何を書くべきかを、又しても思いめぐらす。自分の生活内面に取材した人間描写の作品をどうしても書きたい。そしてそれと共に戦争を描いたものとして、記録に忠実な日露戦記をどうしても書かねばならぬ。これは今更資料あさりをやめ、手もとにあるこれまで集め、ほぼ整理したものを中心にして、ためらわず、日課として毎夜書くこと。雑文雑件の手紙類はなるべく事務所で片づけることにし、鞄にその支度をして持ち歩くようにする。妙に淋しく、気持が引きしまり、筆とる身の生き方を反省し、一日も無駄にしてはならぬと思い、心を定める。
勤務の仕事というものは、何という平凡な苦労のないものだろう、とこの頃度々考える。新潮社では、皆と雑談したり、原稿の催促に週に一度出向いたり、新企画の相談に乗って返事をしていればそれで済むのである。何の心配や不安もない。文報の仕事また投書の新人原稿を読み、記録を取っておけばよいので、少しも人間の心意の集中的な努力を要しない。こういうことが世間に無数にある勤め人の生活内容なのだ。それに較べれば、作家の生活とは、何という苦しい、努力に際限のない、怖ろしいものだろう。そういう生活のみ十五六年も続けて来た間の息苦しさ、また努力の美しい疲労と願望が、しみじみと思われる。勤め人として過す生活など、眠っているような、死んだような生き方である。それの中にはまり込み、自分の創造力の弾力と集中力とを失ってはならない、と本気になって考える。実に大多数の人間は、数字を引き写したり、伝票を書いたり、通知の手紙を書いたりするという雑用の奴隷となって、半睡のうちに生涯を終えるのだ。社の老社員たちの、こまごまとした、味気ない、眠ったような様子を思い、慄然とする。生活の中に眠りこけるな。雑用の中に自分を埋没させるな。生きて見、感じ、そして書かねばならない。
一昨日は、欧洲の戦線は持久戦の模様で、春まで動きがないだろうと書いた。というのはドイツ軍は、今以上反枢軸軍を自国内に攻め入らせずに持ちこたえるだろうという意味であったが、今朝の新聞に、ドイツ軍は攻勢に出て、ベルギイ領内に再び進出したと報ぜられていたが、今日午後三時日比谷公園の角で行列をして買った夕刊東京新聞に、ドイツが大攻勢に転じた旨が報ぜられている。英米軍の戦線を、激戦場アーヘンの南方で突破して、三十三粁も前進し、マルメディを占領した、というのである。マルメディはベルギイの東北境にあり、アーヘンの西南に当る。全く意想外のことである。正直に言って今のドイツに、この攻勢を行う力があるとは誰一人信じていなかった。この突破戦についてルントシュテット元帥が全軍になした布告において「言うまでも無く諸氏は一切が賭けられていることを痛感するであろう」という言葉を読む。ドイツはその最後の力をここに集中して西部の英米軍突破の作戦に出ているのだ。しかし飛行機において、英米の四に対しドイツは一しか持っていないという。この突破戦の成功を心から祈らずにいられない。盟邦の悲壮な戦いぶりだ。
我軍は特別攻撃隊をもってミンドロ島の敵艦船を攻撃しているという。詳細は分らない。苛立たしいことである。この島へ襲来した敵の戦法は大胆不敵である。敵の評論家ハンソン・ボールドウィンの論評を読み、なるほどと敵の戦法についてうなずくところあり。それにしても我方は飛行機が足りないらしい。飛行機が。
社の「日の出」の坂本君が最近フィリッピン従軍から帰った浅見淵君から聞いたところによると、先頃台湾沖海空戦で、フィリッピンの我軍の飛行機はほとんど消耗して無くなり、基地にいる人々は、もう駄目かと思っていたが、突然その時日本から一千機の大編隊空輸が行われ、全員歓呼の声をあげたという。そしてそれによって比島沖海戦をしたという。小磯首相はその後、三百機五百機の補充が次々と出来ればよいと演説して、所要飛行機の単位を暗示した。しかし目下フィリッピンでは百機の余分があれば、敵を追い落せると称しているという。その百機が物を言うような切羽詰った状態で我軍は戦っているらしい。
ところが、東京の中島工場への敵機の空襲あり、また四五日前の名古屋への空襲について、「日の出」の渡辺君が、矢野参謀が情報局での編輯者会に為した演説を聞いたところによると、名古屋の三菱重工業は先日の空襲で全滅したが、その後急速に恢復して八十パーセント復元したという。中島と並んで我国最大の飛行機工場たる三菱重工業の損害は甚大なものらしい。八十パーセントの恢復というのは、少々早すぎるが、とにかく、両飛行機工場が繰り返して二度ずつ爆撃されれば、生産低下は争えないであろう。フィリッピンの決戦を思い、心の痛むことである。
それかあらぬか、今夕藤原銀次郎は軍需大臣をやめ、吉田茂が代った。病気のためとは言うが、軍需生産低下の責を負ってのことではあるまいか。ことごとに生産と戦争のことがからまっており、我々国民の心は安まらない。形勢が悪い度に大臣が変るという我国の習慣は何とかならないものか。こんなことは、敵に自信を与え、その勢をつのらす心理的原因となり、大臣を変えることによっての政治の改善以上の損害があると、私たち文学者には思われてならないのだ。
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十二月二十日(水)この数日寒気厳しく、毎朝井戸凍りつく。
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昼頃敵一機侵入。昨夜半一時頃も一機侵入焼夷弾を落したという。文学報国会行き。
ミンドロ島の敵は、河原に鉄板を敷き、急設飛行場をつくり、すでに戦闘機を飛ばしているという。この二三日前から毎晩のニュースの時にフィリッピン戦の解説がある。レイテ島では敵味方陣地交錯し、混戦となっているという。読売新聞の解説を切り抜いて貼る。
ドイツの西部戦線での攻勢が発展して米英軍を海岸まで押しまくるという夢のようなことが実現しないものかと空想する。昭和十六年の冬、モスクワ近くまで進んだドイツ軍を、全く思いがけなくロシア軍は押し戻し、それ以後攻勢に転じて、ドイツを今日の悲境につき落した。そのような奇蹟的戦勢の転換が今度はドイツによって起されるのではないか、と空想するのである。
しかし客観的に見て、とてもそうなりそうな気配はない。社の丸山君など、この攻勢は蝋燭の消える前の輝きのようなものでなければよいが、と言う。言われて私はぎくりとした。若しそうであったら、それから後は暗黒の日がやって来るのだ。この譬えは何となく切実な怖ろしいものである。
質屋八島から廃業するから年末までに質物全部出してほしいとの通知が来る。六百円ほど入れてあるので、また苦労が増したわけである。
文学報国会で募集した新人の小説生原稿というもの、九十余篇あり、いずれも愚劣のもの多く、五十篇ほど読み、うんざりする。それにしてもものを書きたい人が実に多く、その大多数は下らぬこと、人の真似しか書けないのである。書く仕事の困難なこと、真の創作の神聖さを改めて考え直す。文学報国会を二時半に退け、近くの北海道興農公社に寄り、笠原技師に逢ってバターを二ポンド分けてもらう。先日は稲子支店長から二ポンド分けてもらった。貞子が礼の入学について成蹊の教師を訪ねる手土産とする為である。杉沢のおかげで、バターがこうして入手出来るが、バターは世間では貴重無比なものとして、ほとんど食べられる家はないという。税金がついて六円足らずの一ポンドが世間では五十円もしているとのこと。
日記を書き、しんしんと冷える静かな夜に、寝ようとしていると、突如警報のサイレンが空一杯に響く。この頃一二機の少数機侵入には少しも驚かなくなっている。数編隊による大空襲だと戸をあけたりしなければならないので、先ずラジオにて軍情報を聞く。「敵少数機南方海上より本土に接近中」といま言う。なあんだという気持になる。空襲に慣れたのである。
昨日頃からLady Chatterley's Loverの仏訳を出し、英文と対照して読む。この作品を改めて読みたくなり、同時にフランス語の稽古もするつもりである。楽しい。
十二月二十二日(晴)
この冬でも壊滅するかと案ぜられたドイツ軍の西部戦線での急進撃ほどこの頃私の心を明るくしたものはない。実に全世界の予想を破ったこのドイツ民族の力には敵米英が狼狽しているらしい。ドイツ軍は米軍がジーグフリード線に突入した白蘭仏国境のアーヘンの南方で百キロの線にわたって突破戦に出、今夜のラジオ放送によると、リエージュ南方まですでに五十九キロ突入してなお前進中であり、アイゼンハワー司令部の公表でも、これを食い止めることが今のところ不可能だと称している。これがきっかけとなって米英軍が急に崩壊するとは思われないが、こうして新しい持久戦となるだけでもドイツが破れないことが明かになれば、ドイツと日本の戦意がどんなに強くなるか、その影響は心理的に言っても大きなものにちがいない。
そして私はこんなことを考える。この度の欧洲戦において、食糧と武器の補給がつづきさえすれば、どの民族もその本国を敵に破れることがなかなか無いのではあるまいか。好例は、ロシアの対独戦の盛りかえしであり、またイギリスのドイツの空爆に耐えたあの頑張りである。支那でさえも重慶に引っ込んでから、ともかくこの四五年戦いつづけている。ドイツは食糧に不足はないという。また武器生産においても千万人という捕虜を有効に使っているらしい。ベルリンもロンドンも共に焼かれるだけ焼かれてしまったというものの、生産力というものは案外に根強いもののようだ。そして、こういう状態でドイツが頑張ると、いよいよ長い持久戦となり、米英はもう欧洲戦の結末が近いと称していたこと故、その考えかたを改めねばならなくなる。勿論日本は米国の生産力が太平洋という長大距離によって相殺されるところまで退けば、破れ去るということは敵といえども考えられなくなる。そうなると戦はどこまでも続き、国民の勇気と忍耐力の続く方に戦勝の率が多くなる。こういう考えかたが成立するのではあるまいか。そう思うと、前途に大きな光明を見るような気持がする。
あれだけドイツに侵攻されたロシアが立ち直ったということは、前々から私の考の力となっていたことであるが、いままたドイツが立て直るとなれば、これは味方陣営のこと故一層力づけられることだ。
今日滋が休日。それに昨日で試験もすんだ後なので、遊びがてら二人で八王子在の杉沢家に行く。林檎箱に紙を張ったのに、木綿や絹物の衣類を入れ、六七貫の重さのものを、滋と二人棒を通して、一里ほどの道を担いで行く。杉沢不在。
岩手県からまだ戻っていない由。六畳の座敷と八畳の板の間にゴザを敷いたのとの二間に、子供三人と夫婦と老婆と小保内君と七人が暮していること故、まことに乱雑で狭い感じであるが、食物が豊富で空襲の心配をせぬことは、人に羨まれる点である。行く途中警報が出ていたが、誰もそんなことを問題にしないので様子が分らない。夕方家に戻ってから貞子の言うところによると、中部地区に幾編隊もの敵機が入って来たという。ラジオによって夜聞くと、百機の敵が主として生産地帯を狙い、我方はその十機以上を撃墜したという。先日のこの地区への八十機侵入から四日目である。大体それぐらいの間に、敵は百機内外の整備が出来るようになったらしい。次第にサイパン島方面の敵基地は強化されて来ている模様だ。
実業日本社の秋葉君、留守に来て、「爾霊山」の原稿を催促していたという。
東海道線は二十日から開通したという。先頃の大地震は随分大きな損害を与えたものらしい。礼に小包を十五日頃送ったのに、まだ着かないという。東海道線の不通のため中央線がひどく輻湊しており、二十日までは、軍公用以外のものは甲府以遠の汽車に乗れなかったという。
十二月二十五日記(曇)
ドイツの進撃は衰えを見せない。ちょうど、三〔四〕年半以前に、昭和十五年春、独白仏国境を破って、ミューズ河畔のナミュールへ突進したように、今またナミュールから数キロという所に突破口の西北端は達し、その西南端は独仏国境のセダンの附近に到達しているという。もっともこれまでは天候不良で米軍は飛行機をほとんど使えなかったが、晴天が来て空中戦が多くなったというから、今後は多少ドイツの進撃力も鈍るかも知れない。しかし今次の欧洲戦の特色は、どの戦野においても前大戦のように塹壕戦が長びくことはなく、戦車と飛行機とによる突破戦で局面が急転換している。だからドイツの突破戦が成功すれば、案外に、三年半以前と同様英米軍を両断して(前には英仏軍であった)英軍をベルギイと北仏に圧迫し、再びダンケルクの海岸へ英軍を追い落せるかも知れないのだ。しかし前の時は英軍はまだ戦力充実していなかったが、今度は相当補給力がある。また前には仏蘭西軍は自国にあって種々有利な補給条件にあったが、今度の米軍は物量が豊富とは言え長大な大西洋を横切っての補給に依存し、しかも他国で戦っているのだから、ひょっとしたら、かえって強大を謳われている米軍がその根拠の弱さを曝露することになるかも知れない。この数日ドイツの反撃戦はいたるところの話題となり、日本国内に大きな明るさを投じている。
アメリカ軍はこの数日夜間の少数機による空襲と偵察とを兼ねたような来襲を繰り返している。一昨日は夜九時半に一機、朝方の三時半と四時半に各一機という風にやって来、昨夜は二時半頃から五時頃まで数機で北関東から中部方面をうろついている。その間じゅうラジオの軍情報は敵機の動きを報じ、警戒警報をつづけている。うるさい。家では床の中でうとうとして半ば眠りながら聞いている。旧市内の連中は眠れずに起きて待機しているので、睡眠不足となり風邪気味のものが多い。まったくの神経戦である。
十二月二十七日(水)
昨日小田原線にて藤沢に出、そこから大磯に行き菊池重三郎君宅を訪う。その朝烏山駅にて江口清君に逢うと「とうとう来ましたよ」と声が少しきつく、外套の帽子をかぶって蒼白い顔をしている。「何が?」と徴用か召集かと思い訊き返すと、「召集ですよ、横須賀海兵団に一月四日に入ることになりました」と言う。とうとう江口君に来たのだ。二人でよく私の座敷や彼の書斎で話をする毎に、その日の覚悟と支度をしておかねばならぬと言い合っていたが、三十六歳の江口君に先にお召しがあったのだ。人事でない。自分のうかうかと過していた近頃のことが、しきりに反省される。慰めるということも、激励するということも、こうして親しくしていると、かえって出来ず、残る家族、母君と夫人と一人の幼児とのことを話し合う。菊池君が小田原へ私を連れて行き、その近郊の栢山というところで鯉四百匁(九尾)を、また小田原の西方の海岸で蜜柑を二貫目買ってくれる。その鯉の大きなのを二尾、今朝貞子に江口家へ届けさせる。
今日、正午、七十機ほどの敵、七編隊となって帝都へ来襲、中央線沿線の飛行機工場を襲う。新潮社の四階屋上からそれを見ている。味方戦闘機三機の墜落、敵一機の墜落、いずれも見るものを興奮させ、一同騒然となる。味方機の墜落を見るのは、胸に痛し。この観戦記別に書く予定。
滋のこと心配していたが、無事に家に戻っているのを見てほっとする。
十二月三十日(晴)
昨日で、新潮社も文報も仕事を終える。
隣家の花村夫人四五日前から肺炎気味にて重態であり、貞子はそれを見舞ったり、これもまた病気で実家に帰っている高橋夫人の用を代ったり、家の用をしたりして年末の多忙さの中を切りまわしていたが、とうとう今朝から風邪だとて臥ついてしまう。私も先日小田原へ行った時風に吹かれて寒いと思ったが、それ以来風邪をひいたらしく、昨日から咽が痛い。しかし朝起きて、雑炊を作る。
昨夜など敵機は一機ずつで四度も来、関東東北部を旋回中という情報についで、京浜西部へまわったとか、信越方面へ行ったとか、また帝都へ戻って来て、焼夷弾を落したと、うるさく神経戦を行っている。一機が退散したかと思うと別な一機が入って来て、またあちこちと飛びまわって、どこかへ焼夷弾を落す。高射砲が鳴る。ラジオをかけて情報を聞きながら寝ているのだが、いつの間にか寝入ってしまう。そしてまた目をさますと、新しく警報が空一杯に響いてまた敵機が近接中だとの情報が出る。うつうつして、一晩中眠ったのか眠らないのか分らぬように過してしまう。それでも私たちは大体この辺が安全地帯だと思っているから眠ることも出来るが、よく焼夷弾を下される旧市内の人たちは、寝込むのも不安であろうし、さりとて毎日のことだからそう起きてもおれないし、大変なことと思う。こうして生産阻害を敵は行い、気象観測や偵察をも兼ねてやっているのだ。
一昨日夜、田原忠武君宅から、同君亡くなった由電報あり、また芳枝夫人の手紙来る。田原君はしきりに私に逢いたがっていたという。同君の私を思ってくれる気持の深いこと前々から特別なものがあり、私も先月見舞った切り気にかかっていたが、その後は空襲や勤務等に時間をとられて、遂に見舞えぬうち、亡くなった。同君は無闇やたらに文学書、歴史書を買いあさる癖があり、相当の蔵書家であった。数年前には牧憲吉の名前でムーラン・ルージュの新宿座で脚本を書いていた。相当舞台にのせられたものがあった。そして今春私が満洲から戻った時に目黒雅叙園で結婚式があり、私は福田君と出て、祝辞を述べた。人生は彼にとっては、すべて前方に、未来にあった。
しかし夏に文学報国会の講演会で私が秋田に行っていた時、ついて来た彼は、相当に病が重く、終夜ひどい咳をしていた。それでも彼は養生ということは殆ど考えず、歩きまわって本を買って持ち歩いていた。本さえ買えば、未来、それを読んで仕事をする未来の健康な日は来る、と信じてでもいるようであった。またこの秋応召して横須賀海兵団に入り、病気のため一週間後に返されたとて臥床していた時も、私が行くと、一キロ余もある阿佐谷駅まで送って来て古本屋へ入って本を捜したりした。まるで不養生で、安静ということを知らず、病気を怖れぬ人であった。自分で大分前から結核を患っていながら、一昨年頃から私にも嫁をさがしてくれと言いながら、病気のことは少しも言わなかった。それは隠すというよりも病を怖れない生活のためであろう。昨朝彼の家に寄る。火葬場の都合にて、二日後でないと焼けないとのことで、まだ骨もなかった。香料、榊を具え、父君夫人と話をする。父君は長年陸地測量部に勤めて退いた人、一昨年妻君に死なれ、養子の忠武君に先立たれ、孫もないので全くの天涯孤独なりと言う。しかし、何か悟り切った風があったが、若い夫人が亡き忠武君が私のことや勤務先のことや隣組のことなどうわごとに言ったりした様など説明しながら泣くのに接し、心動いて、私は何ものかに対して怒りのようなものが込み上げるのを押さえかねた。これほどの淋しい人々を後へ残して死なねばならないほどの病気をしながら、田原君は不養生であった。これもしかし生前よく言って聞かせたりしたのだが、結局そうなるのも彼の性質、天性であった。人は生きることも死ぬことも、その性質によっておよそ定まっているような気がする。そして戦争のさ中では、病で人が死ぬこと、あとに残った人が泣くこと、淋しがることのすべてが、何というはかない、影のうすいことかとまた考えさせられた。人は死ぬ。この大戦争の結末を見もせずに、人々は死に急ぐ。小林夫妻が死んだのも、田原君が死んだのも、すべて結核による。結核。ああ、この病ほど日本人の生活を内側からこわして行くものは無い。
十二月三十一日
ミンドロ島への敵の補給船三十隻を、我特別攻撃隊その他は迎え撃って、そのほとんど全部を撃沈破した。その経過がこの一二日の大本営発表に見られる。戦力はいまこのミンドロ島への敵の新攻撃を摧くことに集中されている。我空軍の補給は十分に近いのであろう。
一方レイテ島の戦場は敵にとっても味方にとっても二進も三進も行かぬ膠着戦となったように見える。戦は国の運命を担って重く強烈に続けられながら、十九年は去ろうとしている。
昭和十九年も今日で終りである。私は風邪気味で痰が出、鼻がつまるが元気なので炊事をしている。昨夜新潮社宿直。珍しく敵機の来襲なし。楢崎氏と安眠す。今朝塩谷の母へ手紙を書き、こちらの安全なことを報じ、正月の小遣として五十円送る。郵便局の事務で気づいたことであるが、淀橋局のような二等局でも一日の為替組み数を五十枚と限定している。また千歳烏山のような三等局では、為替の用紙が無くなったと言い、為替を組むことが出来ない。小包は一二等局のみとなり、それも受付個数の制限が来ると締め切る。ハガキは二枚とか三枚とかを限って、朝に売り出し、予定分だけ売り切れると終りとなる。七銭切手も同様である。そういう風だから通信事務は一種の麻痺状態に陥って来ているのである。汽車の制限もいよいよ強化され、東海道線、中央線等の遠距離の切符は軍用と公用の者しか買えず、疎開学童への面会も、これ等の線では不可能となっている。昨日野田生の義父からハガキが来て、種薯を送る為包装して用意してあるのだが、北海道から内地向けの荷物発送は中止となっており、小包もまた受けつけないので、何一つ送ることが出来ぬ由である。幸い、英一が、公用という名で切符を買える人に頼んで切符を手に入れ、昨日北海道へ戻ったということだから、上京の節に薯は何とかして持って来てくれるかも知れぬ。交通、通信は共に極めて不自由となり、次第に各地方とも孤立経済しか営めなくなる。また千葉県野田町へ疎開している楢崎氏の話を聞くと、田舎の町では米の配給が子供の加配もなく、学校給食もないので子供一人当り一日一合余ほど少い。その上油の配給、酒の配給は東京の三分の一程度しか無く、魚の配給、海苔とか豆腐とかの配給は全然無いし、炭や薪の配給がないので、その不自由さは言語に絶し、東京へ戻る人のみ多いという。戦時生活という言葉はよく前から使われていたが、いよいよその真の姿を露骨に示して来た。しかも東京は毎夜のように空襲があって、あちこちを焼かれ、人は不眠に陥る。三十日の夜も浅草蔵前辺、柳橋辺が大分焼けたということである。昨年まで私たちのいた中野西町辺にも二ケ所爆弾が落ち、その一つは電車道に面した歩道に落ち、土やセメントを吹きあげ、数軒の家の硝子戸を破っている様を私は一昨日夕方見て来た。その近くの八島質店が、空襲が激しくなって来たので廃業をするから、品物を全部出してくれということで、年末に入った金の中からその四分の三に当る五百七十円ほどを持って行って、やっと質を全部出して来た。その帰途に見て来たのである。(いま午後九時半、また警報が空一面に響き渡って来た。)
今日から正月の六日迄、特に疎開しない人の衣料疎開だけを大きな駅で扱うというので、その申請を私は朝社からの帰りに新宿駅でする。十時すでに四百人ほど並んでおり、その後につくと、実に進行が遅く、午後二時にやっと申請を受けつけてもらう。しかし明日の午前中に荷物を蒲団と行李と二つ持って行くのは、一人では出来ないし、貞子は風邪で寝ているし、滋は学校があるというから、どうも私ひとりではやれそうもない。今日寒風の中風邪気味でいて四時間も立っていたので、何だか疲労し、こんなにまでして衣類や蒲団のために動きまわらねばならないかと思うと、腹が立って来て、そんなこと、するものか、という気持になる。
夕方はそれでもお年とりだというので、暖い飯を炊き、滋の好きな甘藷をその上にのせて蒸し、配給の塩鮭三切れを焼き、貞子が水につけておいた数の子を洗い、新潮社で先頃配給された薤を出し、それだけをテーブルに並べ、二階六畳の貞子の寝ているそばに私と滋とが運んで行って食事をする。また明朝のお雑煮の汁として、人参と大根とを短冊に切ったのを煮ておく。貞子は炬燵を入れた蒲団に坐り、私はふだん着の洋服に毛皮を張りつけた防雪衣を着、滋はカーキ色の学校の訓練服のまま、お年とりをする。
そのあと茶碗類を洗い、それから家の中を掃除する。餅は昨日配給ののし餅が一枚半来たのを、滋が切ったが、金網が無い。長谷川大工のところからもらって来た太い針金で滋が八時までかかって渡し網を作る。いま九時、(敵機が一機伊豆半島から北上し、西方から京浜地区に入って来た、と東部軍情報はいま報じている。高射砲の音はしない。)
これが十九年の年の暮である。(敵は一部に焼夷弾を投下したという。今日は曇っているので、敵機を捕捉出来ないのであろう。そう言えば、たった先刻この四五行前を書いている時、空に随分低く大きな爆音を聞いたが、それが敵機であったらしい。)
隣家の高橋大尉、重箱に一つ、お煮染めを持って来てくれる。貞子は七度五六分の熱にて寝ている。夕方貞子にエルスチンを注射し、私もする。そして二人ともアスピリンを飲む。
今夜もまた何度も繰りかえして、敵はやって来るかも知れない。
ドイツ軍の西部戦線における進撃は、北西部はミューズ河の手前の線で、西南部はフランス国境セダンの東方で停止したようである。それだけの力しか無かったらしい。どうも残念なことである。これで一応しかし西部戦線の危機は去り、ドイツの防禦線は安全なものとなったのなら、それだけでも、この攻撃の成果があったと慰めるべきか。
この戦争当初のように一気にフランスを横断して大西洋岸に達するというような花々しい突破戦を予期する方が無理かも知れない。しかも東方から進むロシア軍は、遂にハンガリアの首都ブダペストを大半占領し、更にその西方に進出して来ている。
フィリッピン戦線は更に、一層激化し、我々日本人としては、何ともこれを評することが出来ぬ状態となって来た。レイテ島の西北海岸一帯はこれまで敵の上陸が無かったが、遂にそこの二つの港サンイシドロとパロンポンの二ケ所に敵は上陸して来た。もうこの島の沿岸のすべての港に敵は取りついてしまった。我軍は島の中央部に頑張っているが、敵味方の陣地が縞のように交錯してしまっているらしい。敵も苦戦らしいが、我々国民は、敵の上陸のみを知らされ、我方の上陸や補給の工合が分らないので、不安の気持がいよいよ強くなるばかりだ。しかも敵は一昨日あたりから、更に新上陸のミンドロ島へ三十隻の輸送船で補給に近づき、我方はこれを三隻、四隻、五隻という風に沈めつつあることが、毎日続いて発表されている。一昨日の議会開院式に、その点について米内海相は「今日迄の我航空機増産の経過は、各方面関係当事者の非常なる努力により、幸に漸次向上しつつあるが、緊切なる戦局の要請は日々倍加する一方であって、当初我が掌中に確保して居りました比島方面の制空権も、時に彼我伯仲となり、最近においては、動もすれば敵の手に委ねることすら無しとせざる実状であり、敵部隊をしてスール海に入らしめ、十二月十五日には遂にミンドロ島に上陸せしむるに到りましたことは、最も残念に思う所である」と述べている。これが実状なのだ。これをどのように説明し直したとて粉飾したとて実状は変るものではない。特別攻撃隊や神風隊の神のような行為をもってしてなお敵の近接し来るのを防ぎ切れないのだ。何ということだ。比島の戦はもはやレイテ島を舞台としたその第一期は過ぎたと言わねばならないらしい。不利なのだ。たしかに敵はじりじりとその地歩をこの群島に得つつあるのだ。
この頃の新聞記事の報道が、はっきりと言い得なかったことを米内海相がその演説で述べたと私には思われる。祖国の危機は、徐々にこの群島の戦の経過の中に現われて来そうである。ああ。
(追記)正月になってからヒットラーのドイツ国民に対する演説と軍に対する布告が二日つづいて報ぜられる。ドイツの今の戦争状態を、ドイツ国の政治軍事の責任者がどのように考え、かつ解説しているかということに興味がある。久しぶりにヒットラー流の理論展開を、その非勢の時に読み、なるほどと思う。非勢の時には、その形においてのヒットラー流の表現の鋭さがある。彼は一個の卓越した文章家でもあると思う。(一月三日)
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[#2段階大きい文字]昭和二十年一月
昭和二十年 皇紀二千六百五年 西暦一九四五年
一月二日(晴)
大晦日に新宿駅で四時間も立って疎開荷物の申告をした時にはそうとも思わなかったが、元旦に起きて見ると、いよいよ風邪が正式になって来ている。しかし貞子の方はもっと本格の風邪なので、やっぱり私が起きる外ない。滋と餅を焼いて雑煮を作り、滋を学校に出したあと、貞子が階下の寝台に、私は二階六畳に蒲団を敷き、防雪衣のまま寝ている。二時間ほどして訪問客の声に起き出ると田居尚君である。自転車で来たのである。蒲団をあげて二階に招じ、配給の酒二合を電気ヒーターで温め、高橋家から昨夜もらった煮物を皿に出し、餅を焼いてもてなす。彼は年末から北海道へ旅行をしたが、吹雪で汽車が埋められ、船は遅延を重ね、満員で立ったきりで身動きも出来ず、青森で一夜を止った車中に明かし、そこから上野まで二十何時間かかかったなどという話をする。そして華北種苗の天津出張所長に赴任の件、四月まで延期したいと思っていたところ、それが出来なくなり、いよいよ一月末に赴任する故、あと私が嘱託として出張所長代理をすること宜しくたのむという。私もどう考えても二つある今の仕事の外にもう一つ、という訳なので気は重く、それでは畑をしたり、また原稿を書くことも、余裕が無くなるように思うが、今の経済状態では、税金も保険料も払えない始末だし、第一田居君に千円余の借金があるのだから、引き受けざるを得ない。のん気にやってくれと彼が言い、私ものん気にやって見ようと答えた。しかし、月曜は午前文報、午後新潮社、火曜は午後新潮社、水曜は午後文報、木曜は午後新潮社、金曜は午後文報、土曜は午後新潮社という風だから、華北種苗が加わると相当に多忙となるのである。
しかし、もう一度考えれば、今は疾風怒濤時代のさ中であり、いつ東京が焼野原となるか分らず、人の生命も生活の安穏さもあてにならぬ時であるから、平常並の安全率に基いて考を定めることは出来ない。私は私風の大事のとりようで、とにかくこの仕事を引き受けておくことにする。これは周囲の条件、金の不足と、新潮社の勤務の暇なことにも依るが、自分の性格の現われなのであろう。私は昔から二途をかける癖があった。高等商業や商科大学の学生でありながら文学に熱中し、小説を書きながら評論をやり、文学者生活をしながら大学の講師をしていた。それが今度は出版社、文学報国会に勤めながら、統制会の出張所長代理をする、ということになった。こんなことでは、念願の文学作品を大成するのに妨げとなることは必至である。しかし私は「得能物語」等の作品で、文学者を描きながら、それと並べて一人の恋愛失敗者を描き、かつまた戦争場景を描いた、作品の上にまで私の性癖は現われるのだ。現にいまも、私は、今の生活に取材した私生活的物語を企てているが、その中にある別な人物を軍人として、また恋愛者として描き、それによってこの時代を作中に彷彿たらしめようと思っている。上林暁君のように作品も私小説一本で行き、生活も巷の一文学者としてのそれを貫こうと徹することは私には出来ない。しかし私は、この日記の如きも、私生活と戦時国内風景とを併せ記録することで、一つの型を作っているという自信は持っている。性格に従って行く外はあるまい。
十二時頃田居君が帰ろうとしている頃、川崎昇君来る。二十歳頃から知り合った三人がこうして、私は四十一歳となり、両君は四十二歳となり、同じように友人として一室に会し、少量の配給酒を口にして戦争と祖国の運命とを語る。それにしても三人とも死にもせず、殺されもせず、無事で過して来たことよと祝し合う。今年は門松を売ってもいなかったし、私の所でも松の枝をつけることも、風邪にたたられて出来なかった。両君宅でも同様だという。滋へのお年玉として田居君五円、川崎君十円をおいて行く。
今日もまだ貞子しっかりせず、私は痰が出るだけで、昨夜したキニーネの注射が大分利いて、元気である。滋は昨日午後は友人宅へ、今日は旧師宅へと遊びに行く。
三十一日の夜は三度一機ずつ敵が侵入し、やっぱり旧市内は焼かれたところがあるという。昨夜は敵機来らず。今日の昼頃は危いなと言っていたが、今日も敵機来らず。炊事をし、日記を書くのみ。しかしこれで五六日間貞子を私の休みの間に休養させることが出来るであろう。今日安田火災海上から、一家四人分の各五千円の戦時死亡傷害保険証券来る。十二月十六日附桂興業扱貞子が一六四八二一番、礼が一六四八二二、滋が一六四八二三、私が一六四八二四番である。
一月三日(晴)
午後七時四十分、今臨時報道にて、今日の午後敵九十機が大阪名古屋方面に来襲したことを知る。撃墜は十七機、撃破は二十五機、我方体当り三機、未帰還二機という。敵は焼夷弾によって住宅区域に多少の害を及ぼしたが、工場地区には殆ど被害なし、という。
東京は三十一日夜に三機侵入したのみで、三十日も、一日、二日も敵機がやって来なかった。今日あたり来そうな日だと思っていたが、果して来襲して、関西地区へ侵入したのである。昨日も今日も東京は風のない晴れた日で、よい正月であった。
今日は滋と二人で一日炊事をし、また午後は隣組の魚(鱈一人一切)を配給し、家事に暮れる。江口清君明日応召にて、午後暇を見て餞別を持って行く。来客あり玄関にて立話をする。八時東京駅集合にて、五時二十分の始発電車で烏山を出るという。私は滋が学校ありて朝の炊事をするので、送れない由を言い、元気にて帰還されるよう祈ると別れ告げて帰る。
私の風邪は次第によく、元気だが貞子は、微熱あり、頭痛して、はかばかしく良くならぬ。
一月九日記
三十一日から貞子が寝ついたので、私も風邪ながら、そのあと、滋と二人で炊事をして過す。インドラミン、エルスチン等を注射し、アスピリンを飲む。それでも配給物があったり、新聞を高橋家まで取り次いだり鶏に給餌したりして日に一度は外出し、また炊事で水を使うので、私ははかばかしく良くならず、咳と痰がまだ続いている。六日から始まる勤務先は、どれもハガキを書いて三四日休養させてもらう。
そのあいだに、重大なことは、比島の戦況がいよいよ深刻化し、敵は三つの機動部隊、三つの大輸送船団(その第一にルソン島西側のリンガエン湾に入ったものは、百隻の上陸用舟艇を持ち、第二番目にミンドロ島西側を北上しつつあるものは百五十隻の輸送船団であるという。)をもって、ルソン島西側に北上して来ている。我方は特別攻撃隊等によって航空母艦三隻、戦艦又は巡洋艦等四五隻を撃沈したが、それで怯むような敵の勢ではない。敵は台湾沖にも第三十八機動部隊というのを持って来て、数百機で台湾に空襲を行っている。戦勢はいよいよその極点に達しようとしている。我軍は満を持して待機している形だ。
こういうこと総て、思ったより早く出現して来る。敵がレイテに取りついたのも、まさかまだフィリッピンに入って来ないだろうと思っていた時であったし、ミンドロ島に上陸した時も私の予想より早い進攻であった。またルソン島への来攻も、ミンドロ島の敵陣営がもっと完成してから、少くとももう二三ケ月後のことのように思われていたのに、既にルソン島沖に、敵は出現して来ている。敵の進攻は急である。息つく隙もないように敵はやって来る。しかも東京や名古屋の飛行機工場の空襲による被害はまだ恢復していないであろう。敵はその機を狙っている。我方の航空力がレイテ島なりミンダナオなりで集中的に尽され、我方の予備が失われた頃に、更に大きな艦船と航空力をもって来襲する、という敵のやり方。我方の力をある一点に牽制しておいて、そこに尽させ、そして疲労した我方へ更に新しい力をもって迫って来るのだ。何とも残念なことながら、こういうやり方では、軍需生産力の不足している我方は不利だ。
ドイツも生産力は不足なのにちがいないが、受身の時には、専ら受動的に守勢をとりつづけ、年末近く国境からの反撃で、英米の戦線を混乱させ、中部の突出部に米軍が反撃すると、その部分は受身になりながら、今度は南部戦線で、再びマヂノ線を破ってフランスへ進入して行っている。もうドイツの攻勢は衰えるか、もう力が尽きるかと思っているのに、どこまでも積極的で、米英軍は混乱しながら後退している模様だ。これは、ドイツの崩壊を昨年のクリスマスに予定していた敵にとっても意外なことであろうが、ドイツ国民にとっても、よほど思いの外のことであろう。この攻勢のはじめに、ルントシュテット元帥が出した軍布告に「諸君は一切がここに賭けられていることを知るであろう」とあったが、それが本当だったのだ。ドイツの現在の総力を集めての大攻勢なのだ。やっぱり私が二三ケ月前に考えたように、強力な国民と軍隊は、いかに不利となっても、その本国の国境に至っては頑強に戦うものなのだ。
工場を山間や地下に疎開させ終ったというドイツは、まだまだこれから頑張るであろう。それに食糧も不足していないとのことだ。第一次の欧洲戦五年つづいて長いと思われたが今度はもう六年もつづいている。日本もドイツも、これからその本当の戦いに入ろうとしているのだ。戦況の推移は、日米戦においては、サイパン以後、欧洲においては英米のフランス上陸以後、まことに迅速であった。しかしまた逆の変化も先年のロシア本国や欧洲の現在のように起るのだ。戦勢の変化が激しく大きく起る、ということが、今の大戦の特徴だ。日本は太平洋の半ばを得て後に失った。ドイツはロシア本国の半ばを得て失い、フランス全土を得て失った。しかし、英米もまたフランスを得たが失うかも知れない。アメリカもフィリッピンを得ても失うかも知れない。大きく、予想しがたい変化が起る。これは大量の武器の力が前大戦時よりも極端なまで働く為であろう。だから生産力が整わぬときは、後退が大きく行われるが、生産の恢復がして武器の相当量が蓄積されると、その側がまた反撃戦を花々しくやるのだ。
今日午後、米機三四十機東京侵入、各地を爆撃した。私たち三人は壕に退避したが、その間の寒さのため、私の風邪はまたぶりかえしたらしく鼻がつまって困る。
一月十日(晴)
アメリカのルーズヴェルト大統領は議会に長文の教書を送ったとて、その要旨が新聞に報ぜられた。ルーズヴェルトは、明かにフランス戦線における米英軍の蹉躓を認め、ドイツの戦力がいまだ十分に大きいことを説いている。
そして今日(私は昨日の退避中に風邪を引きかえしたらしく、気分よくないので寝ているが)は、ラジオの報ずる所によると、ルーズヴェルトはチャーチルと共同声明を発して、昨年末十二月におけるドイツ潜水艦の大西洋における強力な攻勢によって見ると、ドイツを屈服させることは、近い将来に期待できないと言っているとのことだ。二人の共同声明というのは、これまでにあまり見ないことで、重大な声明であるにちがいない。昨年春頃からドイツの潜水艦の活躍は、ほとんど見られなくなっていたし、二三日前のルーズヴェルトの教書にも、ドイツの潜水艦戦を封じたことをもって反枢軸国の成功の基としている。それを否定するような共同声明をここに出したのは、米英がドイツの戦力を、最近にいたっていかに大きく見直したかを示し、かつ、フランス戦線においては、米英の海上輸送力が戦力の根本となっているという認識を国民に与える必要があるのであろう。それにしてもドイツは電探機による米英側の対潜水艦戦法によって一時はばまれたのだが、またそれを越える手段を見出して敵の輸送線を脅かしはじめたのであろう。
全世界が、ドイツはこの冬には崩壊すると考えた。少くとも新しい一九四五年の春には参ると推定した。東京の巷の人々の推測もそれであった。しかしドイツは盛りかえした。戦争は決して簡単には終らない。ヨーロッパ人のような物質文明と人間尊重の思想とに完全にひたった各民族も、この激しい国家総力戦を勇敢にやり抜いて六年目に達している。文明も思想も、戦うという民族団結の本能を変えはしない。それどころか、新式武器として古人の夢想もしなかった飛行機、爆弾、ロケット砲、戦車、機関砲という残虐にして強力なあらゆる手段を用い、全地球上を戦場として戦いがこうして何年も何年も続いていることを考えると、思想とか文化というもの悉くは幻のような仮の姿であって、爆薬と砲弾と鉄とこそは人間生活を一時代毎に一層残忍なものに変えて来ているように感ぜられる。昔のように戦いが厭だと言って僧院にかくれることも出来なければ、中立を標榜しても役に立ちはしない。戦争そのものの兇暴な力は、あらゆる人間あらゆる国家をその暴風の中に捲き込む。戦線から遥か離れた都市は爆撃され、焼かれ、生活物資は窮乏して求める由なく、全国民が同じように足りない食糧で我慢しながら、その母国と民族の運を血と鉄の暴風の中で守るために空爆下の工場で働き、沈められやすい船で輸送し、戦線の泥にまみれて戦っている。この巨大な戦争の波が地球を蔽いつくしている様はどうだ。そしてあらゆる民族の戦う姿のうち、一番徹し切ったものこそ日本民族の特別攻撃隊員である。戦うことと死ぬことの合致、国のために自己を棄てる諦念の美しさは、人類の戦いということがある限り、これが極点であり、これ以上のものはあり得ない。精神的に日本人は戦争というものを征服している。しかし戦争そのものは、なお物質によって決定される。形において、量において、勝と負とが現われて来る。怖るべき点はそこにある。しかもその形と量に祖国の運命がかかっている。
小磯首相は先日の談話で、レイテの戦況は必ずしも我方に有利ではない、戦いは比島全域に拡大したと言明した。レイテが決戦場だ、天王山だという指導者たちの屡々の声明を私は危惧した。レイテが不利となれば、国民は悲観に陥りはしないかと怖れたのであった。敵はすでに比島の制空海権を得たように思われる今、改めてこの戦況を国民にどうして納得させるか、問題であると思う。むしろ、比島を失えば、支那大陸に戦い、次には満洲にそして本土にと、我方はどんな不利な立場となっても最後まで戦い抜くということを予め納得させるのが本当ではないか。レイテで破れれば戦争は敗だなどという某々指導者の言葉など、今にして思えば、危険きわまる言葉であったという外はない。
一月十一日(曇)実に久しぶりに曇って雪模様である。
アメリカ人は、とうとうフィリッピンの主要島たるルソン島に上陸して来た。三年前に我軍に追われたマッカーサーは指揮官として再び、彼等の領土と目している比島に戻って来た。満三年と一月以前の昭和十六年十二月八日我軍が南下してこの島に上陸したその同じリンガエン湾である。この湾はその南方マニラへ鉄道を通じ、広い自動車道を通じているリンガエン市の面している大きな湾で、北西に向って開いている。敵は南東方からルソン島やミンドロ島の南西を通り抜け、第一船団は百隻内外の上陸用舟艇から成る船団で強力な艦隊に護衛されており、更にその後から、百五十隻の輸送船から成る第二梯団が沖合に待機しており、更にその南方に同数位の第三梯団が待機しているという。我方は航空兵力によって、そのうち戦艦、空母、輸送船各々数隻を沈めたが、この四百余隻の艦船は結局海上に於て殲滅し得るものではない。飛行機が足りないのだ。特別攻撃隊員は「せめて敵の船の数だけの飛行機が我方にあれば」と切歯して言っているとのこと。悲痛極まる話である。台湾沖航空戦や比島沖海戦のように、我方の大編隊が翼を連ねて敵艦隊を襲い、その大半を撃沈するというような戦いはやれないのか。レイテ島の戦いの間に、我方は航空兵力を失ってしまい、眼前に敵の大船団や艦隊を見ながら、それを如何ともし得ないのか。
いま五百機の飛行機が我方に無いのであろうか。月産二千機とか三千機と号していた我方の航空工業はどうなっているのか。敵B29の東京名古屋の飛行機工場の爆撃による被害が、それだけの飛行機を補う力もなくなるほど大きいのであろうか。今こそその機会なのに。今こそ一機をもって一艦を一船を沈めれば、敵の来攻兵力の総てを太平洋に葬り去ることが出来るのに。その飛行機が我方に無いらしい。機会はいま日本を見棄てつつある。今日でもまたしかし大挙我方の出撃が行われるかも知れない。しかし敵の補給力の巨大なことを考えると、これは、もうどうしても敵と我方の陸軍とが、比島の陸上で勝敗を決するところまで行くであろう。そこにまた勝利を予想することが出来る。我方の補給距離が敵のそれに較べて四分の一ぐらいしか無いのだから、戦力が輸送距離の自乗に比例するという公式のとおりに行くものであれば、我方ははるかに有利なわけである。しかし飛行機の数で圧倒され、制空権を、従って制海権を失えば、とてもこの公式どおりの戦力比による戦闘は出来ないであろう。昨日の毎日新聞の解説によるとレイテ島の戦はガダルカナル島の戦の再現であるという。ということは、制海、制空権が失われ、我方は補給なき戦いをしているということなのだ。比島全体がそういう戦況になるのではないか。これが杞憂であってくれればよい。
ここまで戦勢が来れば、もう慌てたって考え込んだって無駄である。ルソン島上で敵の主力を迎えて決戦を、しかも大規模な陸上決戦を行うのを待つばかりだ。我方の海上艦隊はちっとも出撃する気配が無いが、それは一つには制空権の無いところで海上決戦が行い得ないことにもよるであろうし、また一つには、先頃の比島沖海戦においては「敵に与えた打撃は大きいものであったが、我方の損害また尠からず」と米内海相が言っているとおり、我方の艦隊勢力の相当に大きな部分が補充修理を待たねばならなくなっているのであろう。これこそ敵の予期するところなのであろう。即ち損害を受けることが如何に大きくても、それによって日本の戦力を失わせることが出来れば、別に新たな補充をし、それによって戦勢を転換させる、というきまった手なのだ、しかしこの補充による勝利という奴は、きっとある限度に来て蹉躓するだろう、と私には考えられる。敵の進出距離があまりに大になり、その生産力をもって補い得ない点が、きっとこの戦ではどこかで始まるにちがいない。それはフィリッピンか、台湾か、支那大陸か、或は我が本土かも知れない。その時が我方の勝利の時だ。私は信ずる。その日がきっと来ることを。自国の近くで戦う日本と、世界最大の海洋太平洋を越えてやって来るアメリカとが、その力の平衡に達し、やがて秤の重さが我方に傾く一点のあることを。
レイテ島は決戦場だと、あのように我方の指導者は繰り返して言っていたが、しかし軍の最高首脳部では、比島の戦が我に不利となることを予め予想し、そのための手をうっておいたと思われぬこともない。それは昨年の夏から冬にかけて行われた南支那の縦断進攻戦、桂林奪取戦だ。これによって我陸軍は、北から支那大陸を南下縦断し、仏印、泰、マライ、ビルマに届く陸路をともかくも獲得してある。鉄道は南支那と仏印間で切れているが、しかしここに大きな物資輸送路が出来ている。このことは、将来の戦争の状態を予想する鍵となる。これによって我方は南方の占領地との連絡を、比島戦況の如何にかかわらず確保することが出来る。
まだまだ日本の戦う命脈は断たれていない。
この頃の東京の街路の汚れたさまを説いた文として、雑誌から左の一文を拾う。筆者は法学博士織田万氏である。
[#1字下げ]文芸春秋十二月号、織田万「街路の清潔保持」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
前略「今ここに街路の不潔さ加減を一々証明する必要もあるまいが、試みにその一二を挙ぐれば、全部に亙って歩道も人道も破壊され、到る処に大小の凹みが出来、日中でも動もすれば蹴躓き、夜闇にはうっかり歩かれず、雨天には水溜りに足をつきこむと言ったような始末であって、不潔さは言うまでもなく、危険千万である。それに待避壕の掘立は防空設備上是非もないとして、その造作が余りにも粗末であり、片端から崩れかけ、塵土がそこら中に散乱する上に、食料の不足を補うため、街路の上に、野菜畠を作らせるのはよいとしても、その周囲には瓦礫や塵芥が堆積し、中には雑草が莽々と生茂っている処もある。街路の両側には立派な疎水溝も放水口も出来ているが、放水口の芥留の鉄具は取外されたままになっていて、待避壕や野菜畠から崩落ちた泥土も、街路樹の落葉も、沿路の家々から掃出された塵芥も、残らず流れ込んでしまうか、さもなければ、積み重なって、疎水溝を埋めてしまい、その上に尺余の雑草が生いかぶさっている処さえまま見受けられる。かかる場所が雨天にはその界隈一面に洪水氾濫の状を呈することは言うまでもない。又放水口にあらゆる塵芥が流れ込んだ結果、下水道を塞いでしまうことにならぬとも限らぬが、普通の下水道ならばまだしも、尿屎をも放射する下水道が塞がった場合には厄介至極であろう。」下略。
[#ここで字下げ終わり]
滋一昨日自転車で、この月分の醤油を配給所へ取りに行ったが、壜を落したとて一升全部を失う。一月醤油なしの食事をしなければならない。貞子が大いに叱りつけ、滋も悄気ている。今の生活では配給品を失えば、外に補いようがないのだ。この月は塩と、これも足りぬがちの味噌とで過すわけである。
貞子暮から寝込んでいたが、十二三日目で昨日から働き出す。家の中が綺麗に気持よくなる。レグホンの雛元気を失い、羽根を垂らしているので、昨日、米や胡麻をやり、家の中に入れ、唐辛子を食わせたりしたところ持ち直す。
一昨日の昼間爆撃で、滋の学校はグランドその他に七発の爆弾を見舞われた由。附近の民家で倒れそうになったものや、硝子を全壊したものが数軒あり、学校の硝子窓も相当破壊されたという。しかしこの頃ずっと、滋の学校は三時間で午前中授業という風に空襲対策をしているし、大きな爆撃はきまって午後なので、そう不安を感じなくなった。
昨夜は一機ずつ、午後八時、夜中の一時、朝方三時という風に侵入し、伊豆から入り、関東西部から東京に侵入する。私の家の少し北方、中央線辺に沿うて東京に向うので、その度に高射砲がこの近くで激しく撃ち上げられ、家は鳴動し、硝子はびりびり鳴る。次第にその音が東方に遠くなり、やがて敵機が焼夷弾を市内に落して去る。高射砲が鳴るあいだ寝たまま蒲団をかぶっている。しかしこの辺に高射砲の破片が落ちたということは、聞かないから、そう危ぶむこともないのであろう。しかしこの寒空に敵機来襲で待機し焼夷弾を落され、そらと消したり、家や家財を焼かれたりする人たちのことを思うと、何とも言えない気持になる。
私の風邪もほぼ治癒したが、今日は曇って寒いので大事をとって家にいる。「少国民文化」から原稿の催促にと女の編輯員が午後にやって来る。
夜雪となる。親子三人、ハゼ黍を煎て夜茶菓子とする。
この頃の新聞雑誌から、税金、交通、学徒勤労、街上風景等についての文を拾い、日記にはりつける。
又ノートの終り目に来る。一冊にて二ケ月の記入を為し得るわけである。あと一冊しか同様のノートは無い。その後は別な用紙を考えねばならぬ。
一月十三日
出社。中野好夫氏の原稿二百三十枚まで受領。
今日の朝日新聞の鉄箒欄に次のような投書が出ている。実に、現在の日本人の焦躁感をよく表現した一文である。正にこの文のとおりである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「飛行機増産が叫ばれてすでに久しい。然るに今もって飛行機が足りないのは何故だ。敵撃滅の絶好の機会を目の前にしながら飛行機の足らぬために見逃してしまうとは何という口惜しいことだ。毎日の新聞を読みつつ口惜しさに歯を食いしばらずにいられない。飛行機増産のためにはあらゆる点で優先的措置が講ぜられたではないか。しかもなお飛行機が足りぬというのは一体どういうわけなのか。『もっと努力しなければならぬ』、『一層努力せよ』と掛声かけられる。むろん、いくら努力してもし過ぎるということはない。努力に限度なし、だから掛声をいよいよ激しくして工員を励ますのも結構であるが、そんなことだけで飛行機増産ができるのだろうか。一体、どこがいけないのか。当局者は具体的に遠慮なく言ってほしい。生産低調の原因になっている点があるなら、何も歯に衣を着せる必要はない。かけ値なしのところをハッキリ明示して貰いたいのだ。それによって何でもやる覚悟だ。ただ努力せよ、努力が足りぬだけでは困る。飛行機が足らぬ。飛行機を造れと国民を激励する時代はもう過ぎた。くどくどしく言う必要はない。戦況がすべてを物語っている。私は生産低調の原因は外国かぶれの経済機構にありと断言する。物量を恃む敵ならこんな機構でもよかろうが、我国の実情で最効率を発揮するにはこのままではいけない。利潤を追い、資材を横流しする悪徳を残るくまなく払拭すれば、国民はほんとに総蹶起するだろう。ハッキリ言う。『国の現情においては一分でも儲けることはすでに悪徳だ。』」(憂国生)
[#ここで字下げ終わり]
この文は結論に来て、少し上ずっている。しかし、何故、どのくらい飛行機が足りぬかと国民のすべてが焦躁し、憂慮しているのは事実だ。三百機か五百機の飛行機がいま、リンガエン湾に浮んでいる敵の艦船を沈めるために無いとは、何ということだ。日本の生産力はそんな頼りないものなのか。飛行機工場が爆撃されてから、やれ地下工場やトンネル工場を作るために委員会を設置した、とか、京浜地方一帯の工業は、緊急に分散疎開する必要があるなどと騒ぎ立てるのは、何としても後手後手にまわっている当局のやり方を、国民に歯がゆく思わせる。そんなことを、今頃騒ぎ立てるような、お先真暗なやり方で、国の運命を決する軍需生産をやっているのか。国民は悉くいま不安がり、危惧の念に満たされている。
一月十六日記〔空白〕
一月十七日記
この一週間、多忙を極め、漸く少し落ちつく。十四日の日曜は宿直であるが、その日は前日頃から田居からの電話が屡々新潮社へ来ているので、田居家へ出向く。彼はかけちがって私の所へ来ているとて留守。ちょうどこの日は田原家で故人の二十日祭をするからと招待されているので、三鷹の田居家を辞し、一時すぎ荻窪の田原家へ着く。福田清人、武川重太郎両君が来ている。酒料理が出、二時間ほど座にいてまた三鷹へ戻る。田居君に逢い、月末の彼の出発まで余すところ、いくらも無いというので、明月曜、後任者の私を紹介するため、大東亜省農林課、その他へ紹介するとて、出張所で逢う約束をし、四時頃辞し、家に戻って弁当を携え新潮社に行き、天野君と宿直す。神経が立っていて眠れず。敵機来らず。翌日は朝社を出、時間が早いので、万世橋から神田末広町へ行く。
一昨日文報で聞くところによると、みたみ出版社が三十一日夜の敵の空襲で焼けてしまっているとのこと。元佐久間町へ行って見ると、なるほど元佐久間町から黒門町の辺、二三百戸焼けてしまっている。一応片づけられてはいるが、水道の水があちこちで洩れていたり、金庫がぽつんと立っていたり、中には二三ケ所硝子屋の倉庫あとと見えて、緑色の板ガラスが層をなし、そのまま焼けて融け合って残っているところもある。みたみ出版社のあとに移転先とて魚住町十一とある。カバンにいつも私が持ち歩いている市内地図で見ると、すぐ近くなのでそこへ行ってみると、普通のしもた屋で硝子戸の中は三坪ほど以前店でもしていたあとらしい土間で、その奥に汚れた畳が敷いた二室ほどあり、人気なく、声もかけずに戻る。編輯長野長瀬君の所へ見舞を出しがてら、私の再版物「三人の少女」等のことがどうなるのか問い合せようと思ったが、忙しさにまぎれ、今だに果せずにいる。こういうことが、きっと起るにちがいないと昨年末から思っていたが、果してそうだ。こうして毎夜のようにやって来る敵機のため、最近でも、浅草辺、柳橋辺、江戸川区辺が大分焼けているという。神田の焼あとを見ても、その近くでは、やっぱり何やら役にも立たぬ売れ残りの雑貨を並べた店があったり、二階家に蒲団が乾してあったり、歩道で鶏を飼っていたりする風景があったりして、平気で住んでいるように見受けられる。疎開ということも、交通の不便、荷物輸送の困難、田舎への疎開者の配給の極度な不足と野菜等の闇値の高価、疎開先での収入の減少等の顧慮のため、出来ない人が多く、半ば運まかせで東京に住んだままの人が大部分なのだ。余程資力のある人か、田舎に親もとのある人でないと、今となっては、毎夜敵機の焼夷弾に脅かされながらも、身動き出来ないのである。そして空襲というものもまた次第に珍しくなくなり、自分自身がやられない限り、まあ何とかなるだろうという気安さを与えるようになった。東京が一夜にして灰燼になる、というような予想をしていたのが、何だこれぐらいのことか、という気休めをも与えている。しかし、こうしてじりじりと、少しずつ東京の住宅は焼かれ、私たちの仕事の上では、印刷工場、紙の倉庫等が失われて行き、次第に荒野のようになるのであろう。
そんなことを考えながら、都電で銀座に出、華北種苗の出張所で田居君と逢い、彼と二人で大東亜省に行く。先ず地下室の食堂で食券で食事する。天丼で割に量あり、五十銭である。ここは大東亜省の職員やその他この建物内の附随団体の人々が米を持って来て、券をもらっているのだという。田居君は一升十円とか十五円とかで闇の米を買い、省内の知人に頼んで券にしてもらったのだという。まだ百枚ほどある故、私に実費で譲ってくれるとの話。ここは、文学報国会にも近いし、便利である。食後四階の農林課に行き、蘆野という係の人や外二人ほどに紹介してもらう。大体のんびりした世ばなれたような役所の空気が分り、のん気なことと思う。新潮社の空気も、戦時中とも思えないほどのんきな所だが、ここなども、まさにそれに近い。文学報国会が一番殺気立っているような気がする。文士の日常生活の方が、役人などよりは、ずっと活気もあり、神経質で、能率的なものである。このことは、昨年、新潮社へ出るようになってから、事毎に感じている。事務というものは、携るものの精神のほんの一部しか奪わないが、文士は、日常その生活、精神の全部を仕事に注いでいるので、随分精力的であり、またそれだけ神経質なのだ。
更に田居君と茅場町の日本種苗配給統制会に行き、二三の人に紹介される。この二ケ所と、外に農商省とが主な交渉先であるとのこと。こうして、私は、何ということなしに、次第に、華北種苗協会東京出張所長代理伊藤整氏というものに変貌して行く気分となり、何となく物珍しいような、それでいて、本務外のことに入ってしまったという不安さとをおぼえる。しかし、まあ、大した仕事ではないのだから、のんびりやろう、という気持になる。それが十五日のこと。夜家へ戻ると、今野竹一君から夫人が亡くなったとの電報あり。五六年前からの病人であった。暗い中を阿佐谷の同家へ行く。川崎昇君その他多くの人がいる。
十六日は新潮社出社。中野氏の原稿ほぼすんだので、印刷にまわっている。二時頃社を出、日本文化中央聯盟に中野氏を訪い、その後の分二十枚ほど受領。その足で文学報国会に三時頃顔を出す。今日は小説部会幹事会で、私にも通知があったのだ。出ると、横光利一、石川達三、尾崎一雄、土師清二、大林清、打木村治等の人々出席。読み局員として、新人育成の原稿のこれまでの経過を報告する。
なおこの日は朝のうちに家を出、中野小淀町の百田宗治氏を訪い、半歳の報道班員としての在支中の感想を聞く。物価の高い話、色々な報道班員、高見順、安田貞雄、里村欣三、その他の人々の噂などあり。百田家では相かわらず、周囲のブルジョア連中のつき合いをして、闇物資の商人を出入りさせ、何でも物はあるという。今日なども牛肉が大分入っているから、百匁十五円なら少し分けてやってもいいと夫人言う。私は笑って相手にならず。この夫人の見栄坊も無邪気なことながら困ったものと思う。昼になり、弁当を食べて食卓を共にしたら、筋子を出して私にも一切分けてよこす。筋子など、私は一年も食べたことが無かったが、こんな日常生活と縁の切れたものを食べると、神経にこたえるようで、ちょっと落ちつきを失う。
さて、今日十七日は、今野家の告別式だと思い、午前中から出かけると、明日であったとのこと。川崎君と二人、告別式の案内標の指差形の紙を電柱に貼るのを手伝いながら駅に出、そのまま市内に向う。種苗出張所に行くと、同じ事務所にいる華北農機具協会の平沢氏が、正月に行っていた信州から戻ったとて顔を出している。農機具の方はこの平沢氏と川崎昇君の二人、私の種苗の方は私と河西嬢との二人という、二組がこの事務所に同室しているのである。階下は毎日新聞の広告扱い屋で、主人と女事務員二人との三人である。銀座裏の並木通の静かな小さな事務室で、いい場所だが、今は二三年以前とちがって、喫茶店も食堂もほとんど附近には無くなっていて、昔の夢の名残りのような侘しい町の裏にすぎない。銀座にあんなに多かった酒場、喫茶店はみな店を閉じたが、ただ歌舞伎座通りに近い河沿の門という喫茶店のみは今もやっていて、昔銀座の茶店によく集ったような連中がいくらかそこに来ては、夢でも追うようなはかない表情で、つまり最も非戦時型の表情で、一日七本あての配給煙草を惜しそうに吸っているという川崎君の話。そこへ一度行って見たいと思っている。
平沢氏と話をしていると、田居君がひょっこり出て来る。しばらく話をし、明日は一緒に同郷の友人今野君宅へ告別式に出向いて、そのあと二人で農商省へまわる約束をし、私は別れて文報へ行く。岡田氏に逢う。文報の九州支部設立の件で明後日出発するという。新人生原稿の件十二月迄の百篇辺までの報告を一応まとめて提出するということに話がきまる。岡田氏は急行券が買えず、女事務員が今朝五時に東京駅に並んだが、売り切れて買えず、明朝三時半から並んで買うという。それでいて公用旅行という情報局の証明がありながらのことだから、汽車旅行はいよいよ窮屈になったのだ。北海道方面にたった一本残っていた上野青森間の急行は先頃廃止されたし、その方面への切符は上野、新宿等の三四の駅でしか一般には売らなくなっている。数年前にはソ聯では汽車に乗る為に、三四日前から駅に坐り込んで待っているということを新聞で読んで驚いたことがあったが、日本もそうなって来たのだ。明日あたりからは公用と私用との切符の売り口を区別するというが、いよいよそうなれば、実質上公用でなければ汽車に乗れないということになる。いな、もっともっと旅行は困難になるであろう。
この数日のあいだに、フィリッピンに上陸して来た敵は、いよいよ橋頭堡をかため、地歩を得て我軍の陣地に迫って来ている。しかしまだ今のところは陣地の構築と輸送の補充とに集中している模様である。やがて彼我とも準備の成るに従って大きな会戦が行われるであろう。我方の飛行機は、敵の陸上機や艦載機に圧迫されているらしく、制空権は敵の手にあるようだ。これは地上戦にも不利であろうが、またその上、我方の補給が妨害され、戦力に影響するところが大きいにちがいない。
敵の機動部隊は人もなげに、台湾の西方海面に現われたりして比島の周辺のあちこちに游弋している。ここでもまた昨年のビルマ戦線のような敵制空下の苦しい戦が続くにちがいない。そう言えば、敵側はビルマの西方海岸のアキアブ方面から攻勢に出て、海岸づたいに上陸戦を始めて来ている。この方面は主としてイギリス軍である。比島が現在のような状況であれば、ビルマ戦線への我方の補給は更に一層困難である。
十二日から突然ロシア軍が東部戦線全体にわたっての冬期総攻撃を始めた。これはこの戦争の運命を決定するような大規模な戦闘であると新聞は論じている。ドイツの危機はルントシュテット攻勢によって一応克服されたようであったが、米軍がドイツ軍のアルデンヌ突出部に対する反対攻撃を強力にやり出してから、ドイツの進撃は足ぶみとなり、撤退した部分も相当にある。そして、昨年の秋から東部戦線は、大体平穏であって、ただハンガリイの首都ブダペストに対してロシアの攻撃が行われ、最近ではこの市にいるドイツ軍は包囲に陥り、ドイツは西方からその包囲を解こうとして努力していたようであったが、その努力が実を結ばぬうちに、東部戦線全体にわたっての怒濤のようなロシア軍の進撃が始まったようである。又してもドイツの危機が迫って来たという感が深い。西部戦線のルントシュテット攻勢に「全力が賭けられている」とその将軍自身が言明し、相当の成功を収めたものの、それは決定的な反撃というには、割に終りかたがあっけなかった。それに相当の戦力を消耗した直後、ロシアが半年の準備を終えて攻勢を始めたのだから、ドイツは正に窮境に陥ったという外ないであろう。新聞は状勢の緊迫をしきりに伝えている。
フィリッピン戦線も我方に有利とは言えず、欧洲でまた米英やロシアが有利だとすると、我々日本人は暗い気分に陥らざるを得ない。この現在の情勢は重大である。ドイツは苦しいにちがいなく、日本もまたいよいよ戦争の峠に来かかって苦しい最中となった。しかし日本の方はまだ敵の補給源から遠く離れ、かつ本国は空襲があるだけで、敵の侵すところとなっていないが、ドイツは東と西と南からジリジリとその立っている場所を狭められて来ている。地図を開いて見ても胸が圧迫されるような気がする。
政府は緊迫した事態下に、五重点施策を急速に実行することとなり、防空、軍需増産、食糧増産、勤労態勢強化、物質の戦力化という目標をかかげた。そのことにつき、十五日の読売に航空兵器総務局長酒巻中将の談話が発表されたが、これは軍部が政府に対し国民に対して何を望んでいるかを端的に、かなりきびしく示していて、現在もっとも適切な発言であると思う。国民皆働という合言葉で徴用制度の強化されることは疑いない。しかし勤労学徒や応徴工員たちが、しばしば新聞の投書欄に、工場に入ったが何も仕事を与えられないので不服だということを書いている。ある工場では予備員として勤労者の配給をともかくも受けてだけおく、というやり方をしているらしい。それにまた、ひょっとすれば、現在なお、材料や器具が十分でなく、人手にだぶつきが出来がちな部面があるのかも知れない。
敵機は先日の名古屋地方の昼間空襲で聖域伊勢外宮に爆弾を投下した。これはわざと狙ってしたことらしく、実に無礼であり、卑劣なやり方だと思う。連日新聞はそれを取りあげて論じている。日本軍は先年南京に入った時も中山陵に対しては、特に敬意をはらった。アメリカ人はそういう戦いの上での礼儀をわきまえないのだ。
一月十八日(晴)
ドイツ軍ワルシャワを撤退す。ソ聯軍の大規模冬季攻勢は成功裡に進行中らしい。ドイツ民族よ、戦い抜いて祖国を守れ。
一月二十日(晴)種苗と新潮社
昨日京阪地方にB二十九約八十機侵入。地上に若干の損害ありという。敵は今のところ専ら中部と関西を狙っている。
比島の戦況は、新聞が色々と強気に書くにもかかわらず、決してよくない。敵はリンガエンからルソン中央の平原をマニラに向って南下しつつあり、最近の報道ではアグノ河を越え、パニキに達したという。そのパニキというのを地図で見ると、リンガエンとマニラの間の約四分の一の地点に当る。敵はその狙うマニラまでの距離の四分の一をすでに進出したのである。思ったより敵の進出は早い。そして敵はまたリンガエン附近の飛行場で、小型機を使用しはじめたという。そうすると制空権も漸次に敵手に陥ることとなろう。
敵の艦隊は南支那海に入って、その艦載機で比島、台湾、海南島、昭南等を襲いつつある。我方は陸上基地は多く持っているのだから、飛行機さえあれば、艦載機を主とする敵空軍を圧迫することは容易なのであろうが、それがどうしても足りないのだから、敵に制空権を奪われ、奪われてしまうと、もう我方の飛行機は空爆や空中戦のため損耗して無に帰してしまうのだという。この数日我方の飛行機の活躍も伝えられなくなった。不利なのにちがいない。比島には日本人すべてのもっとも信頼の厚い山下奉文将軍が司令官として指揮しているのだが、こういう状況では比島戦が不利に赴きつつあることが深く国民の心に応えて来て消しがたい印象となる。
今日新潮社で丸山泰治君が、数日前警視庁であった編輯者会議で矢野参謀から聞いて来た話というのを聞く。矢野参謀は、我軍は飛行機が足りなくて極めて不利であることを率直に語り、かつ我聯合艦隊の八割は、昨年末の比島沖海戦で損害を被り、目下動けぬ状態にあるという。(この話はよそでも巷説として聞いた。それによると彼我とも艦隊に大損害を受け、この月一杯に修理して出動する目標で極力急いでいるということである。)飛行機なく艦船なくしてどうして比島という島国の戦を有利ならしめ得よう。そして目下のように政治家、役人、企業家等が国のために働くという精神が薄くては、この戦争にはとても勝つことが出来ぬと熱した口調で語ったという。敵は目下三千七百隻の船舶の橋とでもいうべきものをもって、ハワイから、また濠洲から絶えず兵員武器を続々と比島に注入しつつあるという。また敵は次には山東半島の青島に上陸しようとしているという。この話は深刻である。現状のままでは、とてもこの戦に勝てないと、矢野氏ははっきりと言ったとのこと。
また丸山君が陸軍省の嘱託をしている木村毅から聞いた話としては、比島の戦は百中の九十八までは負けであると木村氏が言ったとのこと。そして一部には、マニラ享楽、ビルマ地獄、ジャカルタ極楽と言われるぐらい現地の中でも比島では日本人は享楽生活を追いすぎ、戦にそなえるところが少なかったという。そして比島にある我軍は、思ったよりも少く数個師にすぎないという。マライ地方にいる我軍は極めて多いので、そういう方面と連絡するため、いま大急速調で南支から仏印を通っての鉄道の連絡をはかっているとのこと。しかし仏印は、フランス本国がソ聯と同盟を結んだ結果、ひどく扱いにくくなって来ているという。
こういう話はみな、巷の説と言うべきものであるが、ただ矢野参謀の話は疑うことが出来ないので、私は深い印象を受けた。戦争であるからには勝つかも知れぬし、負けるかも知れぬ。あらゆる場合のことを我々は考えておく必要があるわけだ。そして陸軍報道部員という責任ある立場の一軍人の見方がここにあるわけだ。勿論「現状では」と条件がついており、その裏の意味は現状打破の革新的精神であるにはちがいない。しかし、機構、国家制度の実質というものは、決して簡単に動かすことが出来ないのであるし、こういう革新的意見が、情勢の悪い時に多く出るということは、それだけ国内の動揺の根拠ともなる。
これは軽々しく口にすべきことではない。祖国はいま、我々が考える以上に大きな危険に直面している。
明朝五時半から一時間在郷軍人の分会査閲の準備訓練あり、当分続くのだという。大寒の最中の朝五時半というのは辛い。だが江口君の応召のことなど合せ考えると、出来るだけ出ておきたく思う。
昨夜田原忠武君の追悼記一枚半書いて、今日文学報国の印刷所なる読売別館に届ける。今日毎日新聞の井上武夫という人留守に来て、北海道版のため、北海道文化人の任務という原稿を二枚書けとの置手紙あり。
今日田居君から大東亜省食堂の食券百枚を譲り受ける。彼一升十円の米を買って預けたのだという。一食七勺故、一食分七十銭として、この月の種苗の俸給の中から七十円を支払う。これで今後三月ほど私は昼食を持って出なくてもいいわけである。
一月二十五日
多忙である。この数日、漸く、三重の、四重の生活に追われる。自分には勤務として、新潮社、文学報国会、華北種苗の三つがあり、外に本職なる文筆の業あり、家の農事養鶏また一人前に近い仕事である。昨日など、朝七時起床、八時鶏の餌として馬鈴薯の皮を三十分あまりかかって刻み、鶏の雛を箱に入れてあるのを玄関から出して、玄関を掃除し、さて外出すれば、文学報国会に寄って読んだ原稿の調査紙を届け、一月の新人育成委員会の報告文を書き、それから銀座の種苗出張所に電話して田居君と打ち合せ、大東亜省の食堂で二人集って昼食をし、出張所に行って暫く事務上の相談をし、一時頃別れて新潮社に向うが、その前に社用で大阪ビルに中野好夫氏を訪ねて彼の新著の題を相談して「アメリカ人」と決め、社に行き、社から出て午後四時半神田の学士会館地下室で中野氏と会食する、という風である。こういう目まぐるしいような生活を私は少し面白いとも思う。どこでも大して忙しい用があるというのではないが、自分が出頭して報告文を書いたり、人に逢ったりしなければ、やっぱり片づかぬものがある。なるほど事務家の多忙さというのはこういうものか、と考えて見る。あまり慣れない身体と頭の使いかたのせいか、この頃夜中十二時頃から三四時間も目がさめて眠れない日が二三日続く。一昨年身体を悪くした時も不眠に悩まされたので、また過労で身体をいけなくしているのかと心配しても見る。しかし少々神経衰弱というのが本当のところらしい。
昨日朝滋が、学校が四日間休みになった(高等科の入学試験のため)ので、前々から楽しみにしていた埼玉県児玉の峰岸君のところへ遊びにやる。バター箱に非常用として原稿紙五百枚、鉛筆十本、薬品一揃、庖丁一、茶碗八個、御飯蒸し一個等を入れ釘づけにして、持たせてやる。
議会再開され、討議しきりにあり。何故に飛行機が足りぬか、ということが、あらゆる新聞の社説でも、議会の討議でも論じられている。ある議員が言っているが、日本の飛行機生産額は世界第二位だと称されている。それなのに、何故今、この絶好の、そして国家存亡の機に当って攻撃用の飛行機が足りないのか。分らないことだ。飛行機生産の能率は近時ずっと上昇して来ていると政府側でも公言している。それなのに現実の問題として比島の戦線では我方の飛行機の活動が思わしい程度に達していない。軍でも「生産は作戦所要数に達しない」と公言している。何故なのだ。やっぱり、常に「我方の被害僅少」と発表されているものの敵B二十九の我飛行工場の空襲の被害が相当に大きく、そのために生産停止だと思う外ない。飛行機工場の疎開がされていなかったのだ。東京の中島、名古屋の三菱重工業と中島、という風に、飛行機の主要工場は集中されたままその時々の緊急増産の声に追われて、疎開することも出来ず今まで作業をつづけて来て、遂に敵機の餌食となり、肝腎の比島決戦に我方に飛行機が無くて、敵の海空軍のため制海制空権を奪われて、陸上部隊も孤立するという悲境に陥ったのだ。何ということだ。
巷の説は悉く悲観的である。悲観的ではあるが、その場所が本土ではないということから、まあそのうちに、何とか盛りかえすだろうという気休めも感じている。しかし現実はそういう気休めで解決されぬ。比島戦が駄目なら台湾も守り難く、台湾が守り難ければ、沖縄、小笠原も守り難く、敵の支那沿岸上陸を封ずる術を失う。そして比島の戦いは本土の攻防戦の雛型でもあるから、本土の危険がやがてやって来るということになる。気休めどころではない。比島戦を失うということは、大東亜戦を失うということになりそうだ。
戦況は良くない。二十二日には海軍の神風特攻隊数機が台湾沖で敵の機動部隊を捕捉して空母戦艦等数隻を撃破した。我将兵は少数の飛行機によってなお勇戦奮闘をしている。しかし敵はやって来る。三千五百隻という尨大な艦船による橋を、サイパンから、ニューギニアから比島にかけ渡し、それを伝ってやって来る。我決死隊に沈められる量を予定し、それ以外の量によって十分に作戦出来るという絶対の力量を持って攻めて来ている。まるで敵は軍隊ではなくて機械である。戦闘ではなくして無限の生産力の展開である。肉体をもって相争うには、あまり巨大なる鉄と火薬の量の誇示である。鉄の波であり、殺人器械の行進である。
そして一方ロシアはまたドイツの戦力を圧倒してポーランドと東プロシャを席捲し、これまた怒濤のようにドイツの東部国境に肉迫して来ている。ベルリンへの進軍をロシア側では呼号している。ドイツは辛うじて西部国境の米英軍の攻勢をルントシュテット攻勢によって一応撃摧したが、すぐそれにつづいてこのロシア軍の東方からの進撃を受け、支えかねて、ポーランドを放棄し、毎日五つも六つもの都市を撤収して国境へと退きつつある。ドイツ側は国境でロシア軍は頑強な抵抗に遭遇するであろうと声明した。だが果してどうか。ロシア側はこの度の攻勢を最終攻勢たらしめ、米英が西方国境で蹉躓したこの機会に、一挙にドイツ本土を屠ろうとしているような凄じい進みかたである。どうなることだろう。どうなることだろう。
二三日前の新聞で、国民皆働体制樹立のため、徴用機構の強化が発表された。細目は分らないが、それと共に新しく企業整備も行われるらしいので、あれこれと思い煩うことが多い。不眠はそのためでもあるように思う。
B二十九は七十機で又しても昨日名古屋地方を襲った。そのためかこの一週間ほど東京へは夜間の敵機の偵察もなく、安眠出来て、皆少し息ついている形である。
一月二十六日 埋めた甘藷掘り出す 鶏舎完成す
二月一日に行われる東京地区在郷軍人分会の検閲のため、二十一日から毎夜六時から七時迄町内の神社境内で銃剣術、敬礼動作、射撃姿勢等の下稽古あり。私は二十一日、二日と出て、今夜また出る。
今日はどこの勤めにも出ない日と定め、晴天無風であったので、一日かかって家事をする。甘藷の埋めたのの三分の二約六貫目を掘り、つづいて前々からやりかけている新しい鶏舎を応接間南側に完成する。これまで箱に入れて育て毎夜箱ごと玄関に運んでいた昨年の雛を、今日から鶏舎に放つ。出窓下に格子床にした半坪の屋根つきの部分を作りその東側に一坪の地面の運動場を作る。これまで箱で育て運動不足であったのと、馬鈴薯の皮を細かく刻んだのを主食とする飼料が良くないのと、夏の長雨に鶏痘にかかったのとの為に、ひどく発育遅れ、やっとこの頃鶏冠が出て来たぐらいに発育が悪かったが、これからは陽も十分当るし運動もするので、多分発育がよくなって行くことと思う。これが二三ケ月前からいつも心にかけていて、しかも十二月から手をつけたまま完成することが出来ずにいた。都合三日かかって完成した。格子床の格子に細竹を使ったので鶏の滑るのが失敗であったが、外は大体意の如く出来た。応接間の出窓の板をはがすと卵をすぐ取れる所に巣箱を取りつけたのなど、会心の点である。
いま夜十時、久しぶりに敵機一機帝都に侵入す。いま西方よりこの地区の上を通りつつあり。あちこちで「敵機来襲」を叫び、半鐘が鳴り、かすかに敵機の爆音聞ゆ。ここを通り市内に入って投弾するのが夜間敵機の定まった通路となっている。いい気持のものではない。
二三日前、久しぶりに光生中学に寄ったところ、宮地教頭が、また週に二三日学校へ出ないか、という話があった。とても今の状態ではと断ったが人不足で学校も閉口しているので、ほんの当座でよいから講師として席をおいてくれないかとのこと。今日また宮地氏より来書、来校を求めて来る。
再開された議会では色々な審議あり、その中で八木技術院総裁が、新兵器の出現によって敵を撃滅すと説いたこと、また小磯首相が、比島の戦を失うならば、次第に戦況は困難な状態になると説明したのとが、注目すべき応答であった。
この頃内閣更迭がしきりに巷間に流布されていたが、それは各方面の検討の結果、現在の政府の方針でやり抜けるという見通しがついたので、内閣は持続に決定したとの説に変って来た。
ロシア軍の進撃はまことに凄じい。すでにシレジア地区ではドイツ国内に侵入した。このままドイツ軍を押し切って、ベルリンにまで到達するのではないか、と手に汗を握るような気持がする。ヒットラー総統は東部戦線にあって指揮しているという。東プロシアでは前大戦にヒンデンブルグ将軍がロシアの大軍を殲滅して典型的な包囲殲滅戦と称された史蹟タンネンベルヒをも放棄してドイツ軍は西北方にと退いている。ロシアが欧洲を席捲しそうだ。米英が西方で蹉躓した後を受け、ロシアはドイツの主力の西に向っているこの瞬間を利用して、自己のみの力によって欧洲を征服しようとしているように見える。少くとも今の進撃の素晴らしさから言えば、この大戦の陸上戦ではロシア軍がもっとも頑強精鋭であると称されても致し方ないであろう。
この十日間酷寒、例年になく、畑にて麦の枯死するところ多く、昨朝の如き零下四度という。畑、井戸、台所、庭園等のあらゆるもの凍りつき、土が盛り上って何日も解けることが無い。雨も雪もなく、ひどい冬である。
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一月二十七日 晴 朝室内零下四度 酷寒なり 爆弾の洗礼受く
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昨夜中、三度一機ずつ敵機は帝都に侵入した。久しぶりのことである。ラジオをかけ放しにして聞いていたが、そのうち眠ってしまって、三度目など解除になったのも知らずにいた。高射砲も近くで硝子窓がビリビリ鳴るように撃っていたが、その度に蒲団を頭まで被る程度で気休めのようなものである。この辺は安全地帯だと思っているからであるが、起きて退避するほどとも思えないのだ。毎日のように朝の室内温度が零下四度とか五度とかになり、ほとんど北海道の郷里のような寒さである。雨も雪もなく、空気は乾燥して風邪ひきの人が多い。滋は三日前から児玉の峰岸家へ遊びに行っていたが、昨夜戻る。餅や炭などをリュクサックにつめて来る。峰岸家ではみな風邪をひいていた由で、うつったろうと言っていたが、果して今朝頭が痛いと言い出したので、寝せておく。
十時半、田居君と約束した板橋の帝国種苗協会へ行くと彼が来ている。華北種苗の北沢副会頭のためとて同社から大根、小蕪、ホーレン草等の種子を四五貫二人で分けて提げ、銀座の事務所に来る。いよいよ田居君の離京も間近となったので、事務引継をする。十二月末現在で千三百円ほどの現金あり。一月以降三月迄の経費一万余円はまだ到着せず、その千三百円にて一月の諸経費を支払い百四十円余ある計算となる。出張所長印、会計帳簿、事務用諸書類等なかなか煩雑である。一時すぎその仕事の最中警戒警報鳴り出したが、机上に現金や書類を一杯ひろげていることとてそのまま続ける。そのうちに空襲警報となる。戸外に鐘が鳴り、「退避! 退避!」と叫ぶ声がする。高射砲があちこちで、どがんどがんと撃ち上げられ、ヒューヒューと頭上で飛行機の飛び交う音がする。事務室のラジオはこわれており階下にもラジオがない。それで情報がよく分らないが、これまでは敵が昼間にやって来て狙うのは、工場地帯に限られていたので、ままよ、ここらはせいぜい高射砲の破片ぐらいが落ちるだけだと、二人は事務を続けている。受領証に捺印したり、文書の説明を受けたり、机上に一面に仕事をひろげてやっている。しかしあたりは段々騒がしくなり、「あっ敵機が落ちる」「あれが敵機だ」「いや小さいから味方機だ」などと退避せずに見ている者があると見えて、声が聞える。
そのうちに、ズシンと近い所に大きな地響きがした。そらっと机の脚もとに伏せる。続いて二つ三つ少し離れた辺にも落ちる音がした。事務所の向い側でガチャンと硝子の割れて落ちる音がし、急にあたりがしーんとなる。空中のブーンという飛行機の爆音が不気味に聞える。床に伏せながら、敵はこの銀座を狙っているぞ、すぐ次の爆弾が来るにちがいない。何という馬鹿なことだ、華北種苗などという縁もない会社の事務引継に立ち合ったりしていて千円かそこらの金のことで命を落すかも知れぬ立場に陥るなんて、と強い悔を感ずる。今か今かと思った二三分が長い間に思えたが、そのあとどうやら爆撃が無いらしいと分って、二人立ち上ってほっとし、にやりと笑う。本当は笑う所の話でない。
「退避するか」「うんしよう」と話し合うが、これで敵機も去ったらしいからと、早目に片づけてしまうことに話が決まる。大急ぎで机上を片づけ、二人とも肩から下げ鞄を下げて出て見ると、すぐ北の方二町ほどのところが通りをはばんで一面に煙が籠め、赤い火が見える。燃えているのだ。立ってそれを見ている防空服装の男や、鉄兜をかぶったまますくんだような恰好をしている女や、「見ていないで、おいこら手を貸してくれ」と叫びながら走って行く警防団服の男などある。煙は猛烈な勢いで街を埋め、見とおしが利かない。
「いや危なかったね」「本当だ、空襲を馬鹿にしていてはいけないよ」「とにかく行って見よう」と言いながら二人は歩いて行く。燃えているのは、事務所から百米ほど数寄屋橋寄りのマツダビルの隣、それからその近くの昼夜銀行の辺、それに左方二百米ほどの帝国ホテルの裏手である。以前ジャパンアドヴァタイザーのあったあたりで、省線のすぐそばである。非常線が張られていることは後に分ったが、私たちの事務所は、その線内なので、誰も止めるものがない。歩いて行くと、火元まで行かぬうち、事務所から五十米辺で小さな事務所風の二階家が、刀で真中から割られたように表の壁が裂けて二つになっている。水をかけたあとがあり、硝子が割れているが、燃えた様子はない。これは焼夷弾か高射砲弾の破片でやられたのであろう。そのあたりから人道も車道も氷の砕けを撒いたように硝子の屑が一面に散らばっており、歩くとざくざくと鳴る。周囲の家々は悉く硝子が吹き飛んで盲目が眼をあいたように窓が黒く残っている。火元の少し手前にある七階建の細く高い電通ビルディングは、まことに見事に一枚残らず硝子が吹き飛び、がらんどうの感じで立っている。私たちの事務所はこの裏手に当り、爆風にまともに当らなかった故硝子がこわれず、その向い側の硝子が破れただけですんだのであった。燃えている煙の下をくぐって人々が右往左往している。
そこの十米近くまで私たちが近づいた時、警防団服を着けた男が二人で担架を運んで来る。「おい、見ろ」と田居君が言うので見ると、すでに息の絶えた四十ぐらいの女の人である。痩せた蒼白な顔も髪も埃におおわれ、硝子片が食い入ったような疵が数ケ所ある。その後から、男が二人腕を組み合せて、これも防空服の元気な顔色の男を運んで来る。左脚をやられていて、足首から下は大きく繃帯している。その男は太った大男なので、運搬者は重そうに「おい、誰か手を貸してくれ」とそこらに立ちすくんだようにそれを見ている者に言うが誰も手を出そうとしない。まるでそんな怖ろしいものに、とか、かかわりになりたくない、とか言ったような表情で誰もがじっとしている。抱かれている怪我人は、その時にやりと笑ったようであったが、それは私の気のせいかも知れない。
そこまでは元気で見物の気持で歩いて来た私も、これは「見物」なんかするような生やさしい場所でない、怖ろしい惨事がいま起っているのだ。もう何人もああいう怪我人や死人が運び出されたであろうし、まだあとから続くにちがいない、と思い、進めなくなった。田居もそう思ったのか、「戻ろう」と言ってどんどん新橋の方へ戻り出した。私もついて行く。事務所の裏手まで来ると、又しても高射砲が鳴り出し、「退避!」という叫び声が起る。私たちは、そこの狭い路次の二階が突き出たようになっている軒下に立って、せめて高射砲の破片だけでも多少防げると思って、しばらく待っている。いざとなればそこに伏せるつもりであった。今度やって来た敵の編隊はこの辺には何事もなく去ったらしい。百米ほど歩いて新橋に来ると、一面に人々が濠端に立って、いま私たちの出て来た燃えさかる火事場の方を見ている。早目に電車に乗ろうとして新橋駅に入ると、切符売場や改札口にそれぞれ百人ほどの行列が出来ていた。駅員がそこへやって来て「只今空襲警報が解除になりましたが、故障のため、暫く電車は動きません」と言って歩く。じゃ地下鉄はと思ってその階段口へ行くと、鉄の扉が下りていて、これもなかなか動きそうがない。省線や地下鉄は線が一本だから、どこかに故障があれば、全線が麻痺するのだ。いま三時半頃だが、四時頃になれば解除と勤め人の帰りとで、郊外への電車がどれも急に混雑するし、それにこうして省線も地下鉄も不通となれば、ここから二十キロも離れた郊外に住んでいる私たちはひどい目に逢う。ことに田居君は弁当を食べていないというので、「家へ帰れるだろうか」と心配し出す。まあ都電は線が多いから、どこかでそれに乗ることにして新宿か渋谷かを目指して歩こう、と寒風の中を二人は歩いて行く。文部省の近くで都電が一台止っている。それに乗り込むと、車掌が「電気がとまっていて動かない」と言う。見ると、同じ事務所の華北農機具にいる川崎昇君が立っている。「やあ、ここにいたのか」と三人で、どうしたら早く家へ帰れるかを相談する。結局都電線路に沿うて歩くこととし、溜池から、今は無人となっている今日の敵機の本国アメリカ大使館の白い建物の下を通り、六本木へ出る。すると都合よく、渋谷から来た都電が一台あって、そこから折り返し渋谷行として発車したのに乗って渋谷に出、何の故障もないらしい郊外電車の帝都線でそれぞれ家に戻った。川崎君の話によると、大東亜省に行っていて、そこの四階から見ていると、燃えているのは、数寄屋橋辺の銀座を東端として、神田、小石川、牛込と覚しいあたり五六ケ所に見られたというから、今日は敵は東京都内の居住地を主として狙い、爆弾と焼夷弾を併用したことが分る。
これまでの五六回の大爆撃では、東京市内を狙ったのは十一月末頃の神田日本橋を夜間空襲した時のみであり、外は昼間に荻窪や吉祥寺の中島工場をのみ狙っているのであったが、その後最近の数回は名古屋や大阪地区を狙っていた。そして今日久しぶりでの東京来襲では敵は方針を変えて市内爆撃を始めたのだ。これは敵としては至当のことで、これからは強い北風が吹く時期であり、ふだんの年でも一番雨量が少くて乾き切っている大火事の多い季節なのだ。
こんな調子で夜間に数十機で空爆されたら東京市内は数回にして大半焼け落ちるのではないかと思う。
種苗の事務所も、その狙われる市内の真中の銀座にあるのだから、いつ焼けるかも知れず、また爆撃される危険にも直面しているわけである。近く本社へ赴任する田居君と、道々その旨を話し合い、危急の際、つまり事務所が爆撃された場合は、私の宅を使用するということに本社へ行ったら了解を得ておいてほしい、と依頼する。重要な書類も家へ運んでおかねばならぬと思う。
こうして華北種苗東京出張所長代理としての私の第一日は敵の空襲によって洗礼を受けたわけである。
家へ戻ると、今日はどうしたのか、この辺に高射砲の破片の落ちた所多く、現に家の前の道路へも、カチッと鋭い音がして落ちたという。この隣組や近所の組のあちこちへも大分落ちたという。
ロシア軍は遂にダンチッヒの東方フリッシェス・ハフでバルト海岸に出、東プロシアを孤立させた。これで東プロシアは海上、それもロシア海軍力の及んでいる危険な海上によってのみ母国と連絡し得ることとなったのだ。中部のシレジア方面ではロシア軍はブレスラウに迫り、同市には砲弾が落下しているという。ブレスラウはドイツ国境から五十キロ入ったところにあり、大体ワルソー、ベルリンの中間に当る。その真北に当るボーゼンはドイツ国内ではないが、これもワルソー、ベルリンの真中より少し西に寄っており、ここにもロシア軍は届いている。つまりこの総攻撃を始めてから二週間にして、ロシア軍はワルソー、ベルリン間の中頃まで約三百キロを一気に進撃したのである。あとベルリン迄は三百キロ足らずしか無い。ドイツはどこで立ち直るであろう。大波のようなロシア軍をどこで食い止めるであろう。
一月三十日
昨夜新潮社、宿直、楢崎氏と二人。
今朝七時に社を出て、八時半代田橋の光生中学に出勤、午前中四時間一年生の漢文を教える。日本外史、正行《まさつら》忠節の項、山陽の名文、理詰めの整然たる行文の中に人間の姿の躍動するあり。
ルソン島の米軍はリンガエンよりマニラへの距離の三分の二に当るクラークフィールド飛行場附近までその先鋒を進めて来た。我軍は夜間切込隊などを動かしてはいるが、まだ大反撃に出る模様なし。隣の大島大佐の話によると、某中将の説として我軍はこの平原の東方と西方の山地に拠り、中央平原をマニラに向って南下する敵を十分に引き寄せてから一挙にこれを粉砕する予定らしい、という。そうであれば前途に光明を見ることが出来るが、光生中学の宮地教頭が中島工場で聞いた話としては、すでにフィリッピンは制海、制空権とも敵に奪われ、しかも敵の一個師は、その火力猛烈にして我十五個師の火力に相当するものであるという。この島の戦もまたこれまで米軍を相手としてどの島の戦場でもそうであったように困難なものとなりそうである。
議会における議論でも、すでに南方から燃料を運べないという前提に立って、国内産石油、日満の人造石油、松根油等で航空機燃料を補う計画を立てているということが出ている。アルミニウム、鉄等についても同様のことが述べられている。すでに事実上、我国は南方の資源地帯から絶縁されたのである。最悪の条件において今後この戦をつづけねばならなくなっているのだ。
ドイツもまた本当に崩壊の危機へ直面して来ている。今夜のラジオ放送によると、ロシア軍は東方からベルリンへ百五十キロの地点まで肉迫して来ており、ドイツはこの敵を全線で食いとめるか、それともたとい首都ベルリンを犠牲として放棄しても一地点に力を集中して反撃に出るか、とにかく最後の決戦が目の前に迫っているということが述べられている。ドイツ在住の同盟記者の報告である。ドイツの心臓部のすぐそばまでロシア軍は目ざましい勢で進みつつあり、ロシア側では「ドイツの戦線は崩壊した」という表現すら用いているという。先月の西部戦線のルントシュテット攻勢で、ドイツは予想外の力を示し、米英仏の軍を相当に窮地まで追い込んだのだが、それが蝋燭の燃え落ちる前の輝きのような働きであったのかも知れぬ。駄目なのかも知れぬ。大いなる力を持った欧洲中原の民族ドイツは三十年前と同様、またしてもその野望を果すことが出来ず破られるのかも知れぬ。今度の大戦で示されたロシア民族の力は偉大だ。大ドイツ民族の強靱な戦力を食いとめ、それを押し戻し、首都ベルリンに進入することになるのは、スラヴ民族にゆるされる栄誉となろうとしている。
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[#2段階大きい文字]昭和二十年二月
二月二日 朝降雪二寸位あり
二十七日に銀座の爆撃あり、その翌日頃は尾張町一帯は縄張りをして立入禁止であったが、昨日頃からほぼ交通を許している。ふだんよりも人通り多く、あちこちに立ちどまって災害のあとを見まわっている人が、冬の晴れた昼頃には多い。東京の都市生活の中心であったこの一帯を、敵機は特に狙って空爆したものと思われ、被害は相当なものである。銀座四丁目、尾張町の角の交叉点に大型爆弾が落ちて直径六七米の大穴をあけ、品川上野間の都電と地下鉄とを破壊してしまった。そしてその十字路にあった交番は吹き飛び、角のビヤホールから、筆墨の老舗鳩居堂一帯は灰燼となり、コンクリイト建の本建築を残して、木造の家屋店舗はあるいは焼かれ、或は破れ、硝子を失い、羽目板を奪われ、歯が欠けたように無に帰している。向角の服部時計店の大建築の後方から、松屋の向の教文館の間の一帯も烏有に帰している。五丁目の、私たち仲間の青春の日の思い出の残っている酒場スリーシスターの一帯もまた焼け落ちて、この辺であったと、僅かに焼けあとにその場所をしのぶことが出来るのみとなった。昭和十六年頃、大東亜戦の始まる前後は、まだ私たち、川崎、福田、衣巻、田居等はこの店に集っては何とかしてビールなどを飲むことが出来た。その頃笑い話に、そのうち銀座のこの辺一帯は木端微塵に吹き飛ばされるよ、と言い、そうね、などと店主の米子さんが笑って答えていた顔つきまで思い出すことが出来る。その店も昨年頃からやめてしまった形跡であったが、一月ほど前に川崎の話では米子さんはまだあの家に住んでいるとかのこと、ひょっとしたらこの空爆で怪我でもしているのではないかと、人ごとでなく思い出される。二十七日に私と田居君とがいた種苗の事務所の一町ほど先に焼夷弾の落ちたあとがあると私がその日見たのは、実は不発の爆弾で、翌日掘り出したとのこと。私たちの生命はじかにその爆弾で危険に曝されていたのであった。ぞっとする。それが爆発していたら、当然私と田居君は、まともに硝子を顔に浴びて、大負傷を免れなかった筈である。
有楽町の駅ではガード下のトンネルに駅長の指導で多数の乗客が退避したが、そこを襲った爆風のため、多数の死傷者を出したと言い、また朝日新聞の向側の泰明小学校では、三人の女教員が死んだと言う。当日外出していて帰着せぬものは申し出るようにと言うことで、申し出た縁者は、日比谷公園に運んである数百人の屍体を検べさせられるという話などを聞く。死者およそ三百人と言われるが、巷説故定かならず。
こういう銀座の災害あとを見てまわるのは、男は戦闘帽に巻ゲートル、それに鉄兜と下げ鞄とをつけるという、この頃の東京人の典型的な服装をした連中であるが、それが、半ば心配げな、半ば面白そうな物見高い顔つきで、そら、とうとう銀座がやられたぞ、という表情をしながら、ぞろぞろと歩きまわっている。
去年の秋から冬、サイパンが奪われ、東京に敵機が侵入するようになってからは、銀座の町など幻のように思われるのであった。昔の銀座のような楽しい都市生活の内容はすでに無くなっていたが、それでもまだ、銀座の形だけでも残っていた。それが本当に残っているのではなく、ただ見る者の心に過ぎた日を偲ばせるための形象としてあるのであり、何時我々の視界から失われるか分らない、という感じを抱かせていた。とうとうその日が来たのだ。すでに何分の一かの銀座は失われた。そしてコンクリートの壁に七階か八階までも爆裂の痕をなすりつけられた百貨店や、焼け残って、一枚の斑点だらけの壁と黒い柱とのみ残った店舗や、三四日経ってもまだ煙のくすぶっている硝子とセメントと灰との焼けあとなどの続いた風景が、かえって当然なことのように見えるのも、私たちの心理的な予想が、すでに早くから出来ていたせいかも知れない。
今日は午前中事務所に行き、河西嬢と事務の打ち合せをする。北京から電報二通来ている。一月から昼食代として毎日一円宛受領すべきことと、四月からの予算書を作って田居君に携行するように、との指令である。二人相談して、会計帳簿は河西君が持ち歩いて保管すること、古い受送通信文はまとめて私の家へ運ぶこと、その他の重要書は私が保管すること等を定める。
十二時半頃文学報国会に行く。上田広君も今月から読み局員として加わり、私と豊田君と三人になる。上田君に逢いたい旨手紙を出す。家では貞子も滋も風邪気味で、昨日は私は在郷軍人会の査閲があるので休んだのだが、結局査閲に出れず、家事を一人でせねばならなかった。一昨日は田居君と種苗に落ち合い、大日本種苗配給統制組合、大日本種苗協会等を訪ね、華北向種苗発送の模様を尋ねた。
二十七日に昼間空爆あり、二十八日夜に一機か二機帝都へ入って焼夷弾を敵は落したが、その二十八日の被害が大きく、本郷団子坂辺では千軒もの家が焼けたという。この頃北風吹きつのっているから、火災が大きくひろがるのであろう。
今日は、ちょうど敵機の侵入しそうな日にあたり、私など大分警戒していたが、遂に敵は来なかった。昨夜、珍しく降雪、二寸ばかりも積ったので、気象条件が悪かった為か。今夜、つい今しがた(午後九時)敵一機が東京に入り、投弾して去った。明日あたりは、きっと東京か名古屋辺がまた空爆されることと思う。
フィリッピンの敵の進み方は意外に早く、ルソン平原を南下した敵は、もはやその先鋒がマニラ湾の北岸に近づき、マニラから七十粁の距離に達したという。この平原で我方は真剣な反抗戦をしないつもりかも知れぬ。四年前〔ママ〕の今頃、日本軍が、今の米軍と同じようにこの平原を南下した時は、米軍は野戦を避け、この平原から退いて、マニラ西北方のバターン半島に拠って半年のあいだ日本軍を食いとめた。或は今度は日本軍も同じ戦法に出て、バターン半島か、それとも東方の山地に拠って、そこで敵を迎え撃つ予定かも知れぬ。しかしこのマニラの戦いは、我々はもっと強い防禦的な戦闘が起るものとばかり思っていたのに、ただずるずると敵に押されて退いているようで、力の入れ場もなく、歯がゆいことと思う。
それにしてもドイツの運命はもっと急だ。ロシア軍は広い範囲でオーデル河に到達し、もっとも進出した部隊はベルリンに四十キロの地に迫っているという。ドイツ政府は重要機関をすでにベルリンから退避させたという。ロシア軍の後方に残ったドイツ軍は、地方住民と共にゲリラ戦に出るという。これをもって見てもドイツ軍は、退却してここまで来たのではなく、方々で戦線を分断突破され、組織的な防禦戦をする暇がなくなって破れたことが分る。即ち、はっきり言えば、東部戦線は崩壊したこととなるわけだ。ベルリンは保衛し難いであろう。オーデル河は、ベルリンとドイツの東部国境との真中位にある大河であるが、今は酷寒時のこととて、河川は悉く凍結して防禦の役に立たぬのだという。雪に慣れ、寒さに慣れたロシア軍にとっては、こういう時期こそ絶好の攻勢条件を与えるものなのであろう。ロシア軍の進攻速度は少しも鈍っていないという。十二月頃までは西部戦線の英米軍の進み方が華々しかったので、或はドイツは西方から崩れるのではないかと憂慮されていたが、その方向はルントシュテット攻勢によって辛くも食い止めた形であった。しかしその隙に、数ケ月の攻勢準備を終えたロシア軍が、大波のように一挙に東方からドイツの中枢部に攻め込んで来たのだ。ベルリン迄の距離百五十キロが、翌日には百キロとなり、七十キロとなり、遂に四十キロとなった。とてももうこのロシア軍をせき止めることは出来なさそうだ。ベルリンを放棄するとして、その後は、どこまでドイツは持ちこたえるであろう。
ドイツ軍の戦勢は非であり、日本は南方占領地帯との海上通路をすでに実質上失ってしまった。戦争の前途は暗い。あれこれと、侘しいことを思い煩う日が多い。そういう自分を叱り、自分に与えられた仕事を、一日も一刻も貴重なりとして、精力的に、果敢になして行くことをまた思う。
昨日実業之日本社の秋葉和夫君来り、「爾霊山」の原稿遅くも二月中ということで催促す。
台湾公論社の編輯者来り、月末までに評論を三十枚書けと言う。だが、台湾はいつどうなるかも知れぬという今、ただ名目的なそういう雑誌があるからとのことで、原稿を書くなどということ、無意味だと思う。
二月八日 雪 三寸程
多忙さのため、数日、新聞切り抜きも出来ず、日記も書けなかった。その多忙さは、たとえば今日など、八時四十分代田橋の光生中学に到着、午前中四時間漢文を一年生(いま中学校で授業しているのは一年生のみである)に教え、十二時半学校を出て、新潮社に行く。新しく発足する新潮文庫の第一回に入れる作品として、藤村の「夜明け前」漱石の「草枕」鴎外の「阿部一族」火野葦平の「麦と兵隊」康成「雪国」等の決定を相談したのは一昨日であったが、それに加えて丹羽文雄の「海戦」を入れることに相談成る。私は中野好夫の「アメリカ人」の校正を届け、カットの相談をする為に二時半社を出、大阪ビルの日本文化中央聯盟に中野氏を訪ね、校正を渡す。その足で近くの銀座六丁目の種苗事務所に寄る。田居君は北京から来ている柳氏に逢うため千葉へ行っているとのこと、大東亜省の蘆野氏より電話があったとのことで連絡すると、北京の大使館で除虫菊の種子五百キロがほしいのだが、華北種苗にその仕事をしてもらいたく、農商省に連絡しておく故、農商省側と相談し、産出県へ出張して集めてほしいとのこと。明日でも田居と一緒に伺うと答う。その後三時すぎ、永田町の日本文学報国会に寄り、新人育成委員会の候補原稿を委員へ送る事務を三十分ほどですまし、五時家に戻る。我ながら大変なことである。考え込む。
田居君は十一日渡支することに決定、その準備であちこち駆けまわっている。昨日は事務所に、小野賢治、川崎昇、板谷真一、山本勝巳、私など旧友がそれぞれ食物や酒を持ち寄り、送別会をする。川崎君は濁酒二升(朝鮮人の密造で一升二十円とのこと)、板谷君は手製の合成ウイスキイ一瓶、小野君は乾鰯二十尾、山本君は水産会社にいるので缶詰五六個、私はするめと大豆の煎ったの等。これでなかなか楽しく、午後四時頃から六時過まで、飲み、かつ酔うことが出来た。
そういう席でも、すぐ話題になるのは、ルソン島の戦争の不利なこと、我軍がほとんど大きな抵抗をせずに敵のマニラ近接をゆるし、すでに敵はマニラ市の外部に侵入したということについてである。皆悲観論のみであるが、しかし、この後は戦争がどう変化して行くか、日本の運命がどうなるか、ということになると、誰も確たる見通しはつかない。田居君は、爆撃下の東京に妻子を置いて、今頃支那へ行ってもいいのか、という者がいれば、いや、北京天津は東京よりも空爆される危険は少い、というものがいる。しかし、それも分らない、いよいよ危くなれば日本へ帰ることも出来なくなるかも知れない、と田居が言う。とにかく誰も明日の我々がどうなるか分らない。だが、戦争は凄じい勢いで捗っている。我々四十を過ぎた男たちも、或はいつ本土の危険を防ぐために沿岸防備に召集されるかも知れないし、或は東京の中で爆死するかも知れない。だが、そういうことを予定して毎日を過すことは出来ないから、やっぱり仕事は仕事として、毎日片づけたり、田居君のように天津出張所長として栄転すると言えば目出度いこととして、家族を置いて外地へ行く、ということになる。こういうことは、今のような生活条件が二年三年と続くという予定の上にのみ立てられることである。だが戦争の今の進みかたでは華北種苗のような対支事業など、いつ終りになるかも知れず、銀座にあるこの事務所も、次の週の東京爆撃で吹き飛ぶかも知れないのだ。明日のことは分らない。ただ考えかたの惰性に従って、今日まで続いたことの続きとして、明日の生活を計画している。これは個人のみでなく、政府もただそうやっているような感じがしてならない。
悪い噂が巷に満ちている。
今日文報で聞いた話では、レイテ島の我軍は全然壊滅したという。そう言えば、ルソン島の戦況に気をとられて私たちも注意しなくなったが、この一月ほど、あれほど喧しかったレイテ島の戦況の報道が新聞にすっかり出なくなった。十日ほど前には、レイテ島は全員玉砕した、という噂を聞いたが、今日文報での話では、レイテ島の我軍は、後方へ迂回した敵のため食糧弾薬を悉く奪われ、全滅になった、という。また敵側の報道では、同島の日本軍は餓死的な状態で三十万も捕虜になった、と敵は放送している由。たとい餓死状態になろうと数十万もの日本軍がおめおめと捕虜になるなどは、私には考えられないことだ。だがこの報道の沈黙は怖ろしい。サイパン全滅の前、グワム全滅の前に、それぞれ長い間の報道の沈黙があった。又してもそれではないか。
レイテで破れれば、この戦争は敗けだと、あんなに当局が断言し、特別攻撃隊の相ついでの突入によって敵の艦船数十隻を沈め、斬込隊によって敵の飛行場を奪取したり、降下隊によって反撃したりした、あの花々しいレイテ島の戦は、やがて全島を敵に包囲上陸され、敵が更に北上して、ミンドロ島、ルソン島に上陸すると共に、ぱったり消息が絶えてしまった。レイテ島に上っている数十万の我軍は、一体どうなったのか。いやそれも大変だが、比島の首都ルソンの戦況はもっと焦眉のこととして、毎朝の毎夕のラジオと新聞に我々の注意を惹きつけている。今夜のラジオによると、敵は北方から市中に突入し、我軍は一戸一戸に拠ってこれを邀撃し、火災と敵の爆撃の中で、凄じい市街戦が展開されているのだという。そして新聞解説によると、我軍は大体において、ルソン平原では大規模の抵抗をせず、東方の山地に拠って、ゲリラ的な出血戦術を行うことになっているらしい。苦しい戦争だ。現代の日本切っての猛将軍と言われる山下奉文大将をもってしても、戦闘資材、制空力、制海力の不足はどうにもならないのだ。比島の中枢部はこうして敵手に帰そうとしている。敵はもう支那へ手を届かせることも、台湾空爆の基地をここに作ることも自由なのだ。
こういう戦勢は鋭敏にいまの東京都民に反映している。人々はあまり戦争のことを口にしなくなった。しかし、数人集って談戦争のこととなれば、これではとても戦争は難かしい、一体どうなるのだろう、と人の言い出すのを待っている形になる。あまりひどいことは自分の口から言いたくない。そして出来れば、何か明るい希望を抱きたい。それが誰でもの気持だ。
内閣更迭の噂もしきりである。小磯内閣更迭の話が、十二月末、議会開会前から噂にあったが、一度はなくなった。しかし今日明日で議会は一とおり議案の審議が終って休会になるが、その時に内閣は総辞職するだろう、という噂がまた出て来た。ここでまた内閣でも変れば、いよいよ日本は行きつまって、誰が出てもうまくやれないということを、まざまざと敵に知らせるようなものだ。だが、我々国民にはいつもはっきり分らない何かの理由で、また内閣が変るかも知れない。
決戦非常態勢の確立とか、国民皆働の強行とか、強力政治の実施とか、色々な政治への要望が議会期〔ママ〕を中心として新聞上で論ぜられている。政府も非常時態勢を確立したいと言っている。しかしその政府がいつ総辞職するか分らぬとあっては、まことに心細い限りだ。
ドイツはまた一段と危い。オーデル河の線まで一挙に進入したロシア軍は、突然やって来た暖気のため渡河不能となり、一方ドイツ軍の防禦にはばまれて、この四五日、キュストリン、フランクフルトを結ぶベルリン東方四十キロの線で足ぶみしているように見えたが、今日の新聞によると、いよいよオーデル河を数ケ地点で強行渡河し、橋頭堡を作ったので、また猛烈な攻撃を始め、一気にベルリンを占領しようとしている由。新聞報道は次々と危機せまる様相を報じている。曰く、百万の避難民が東方からベルリンに流れ込んで、食糧配給が減少した。曰く、ベルリン市民の立ち退きは禁ぜられた。曰く、三日には二千機の重爆によって米軍はベルリンの大空襲を行った。曰く、全都はいま防塞と化しつつある等々。その上、西部戦線では米軍はまた総攻撃を始め、漸く頽勢を盛りかえしてドイツ軍を圧迫しはじめているという。暗澹たる報道のみである。
隣家のT夫人が夫君の言ったことを洩らしたところによると、いまは、飛行機よりも、石油の不足で困っているのだという。先頃は、三月頃までの燃料しか無いと言っていた由だが、先日の話では必要量の六分の一しか燃料はなく、その方面の人は悲観的な見解を持っているとのこと。この話には、私はぎょっとした。これは何人にも言うべきことではない。しかし事実であろう。怖るべきことだ。二三年前には南方の石油資源を開拓するため国内の石油採掘用具をうんと南方へ送ったとのことを聞いたが、いまははや、南方の油源から断たれる立場になり、薯類によるアルコールだとか、松の根から取るガソリンだとかによって国内産の燃料を確保しようとしているらしい。油の不足は怖ろしい。
更に文報の職員二三名と話していると、その人たちは、東京に生活していると、空爆が激化すれば配給があてにならなくなり、飢餓に直面すると思われるとか、こういう風に空襲による火事が多くては、いつ裸一貫になるか分らない。米は一日量の半分しか配給されないから、今でも闇値では一升二十円もするが、近いうちに百円にはなるだろう、とか、砂糖はもう台湾からは入らないという見込みで闇値が暴騰し、昨年秋には一貫目二百円ほどだったのが、今は六百円している、などという生活不安の話のみをしきりに耳にする。その人たちは文学的な空想癖が一般人よりも多いためか、最悪の場合のことを考えるらしい。無理もないのだ。百五十円前後が目下俸給生活者の標準収入だが、それではとても闇の食物を十分には買えず、しかも買わねば飢餓に面するのだ。
二月十四日 晴
薫戦死の電報、広島県安佐郡|狩留家《かるが》なる彼の妻豊島宗子より電報来る。ラバウルにいると聞いていた故、敵地深く、あの島の要塞に、百里もの長さのあるという洞窟防空壕の話を今日二新聞で読み、どうしているかと思っていたところ、この悲報にて唖然とす。
薫は十歳の頃、我々兄弟の中から一人離れて、父の郷里広島県の山県村にて従兄小松治郎一に育てられて人となり、長じて豊島家に入り、今一子忠を残す。彼二十歳の時、塩谷にて父の葬式に彼はやって来て逢ったが、その後は遂に逢うこともなく、昭和十七年応召して満洲に行き、後そこから南方太平洋のラバウルに移駐し、一度は神経痛を患って台湾まで戻って入院していた。その頃私は、昨年の一月彼の家に寄り、宗子と忠とに逢ったが、遂に彼は台湾からまた原隊に戻り、それっきり音信なく、今日死去の報を受けた。三十七歳である。夜広島あて弔いの手紙を書く。肉親に縁の薄い彼を思い、胸痛む。我等兄弟の中から、こうして薫が先ず大東亜戦に散った。ああ。塩谷の母や、広島なる彼の妻の胸中を察し、幼児の彼の面影を偲び、悲痛なる感慨あり。
昨夜新潮社宿直。
今朝より大東亜省支那局農林課に係りの蘆野氏を訪い、華北合作社用の除虫菊を北京大使館あてに送る件につき相談する。農商省に行き石井技師に逢い出荷助力方を依頼したところ、希望の三百キロ(六石余)は出ぬが二石程度なら出せるとのこと。また大東亜省に行き話す。
北京本社に、就任の挨拶状、資金送付依頼の件、手紙を書く。天津出張所田居君あて(田居君十一日東京発、十五日天津着の予定)打ち合せの手紙出す。昼食する時間を失うほど多忙である。
二月十六日記
今日終日関東地区に敵艦載機の反復波状来襲あり。延千機に及ぶ。
敵は戦艦、航空母艦を含む強力なる艦隊にて我が小笠原諸島中の硫黄島を今朝より砲爆撃中なり、と大本営より夕刻発表さる。
朝七時、起き出そうとしていると、警報鳴る。珍しいことと思う。敵機は朝に来るにしても、これまでB二十九は、午前九時か十時頃までは来ない習慣である。また大編隊の来襲は午後一時か二時頃ときまっており、それも昨日約六十機にて名古屋地区に来襲したばかりであるから、その後三四日は大空襲のない筈である。それで午前七時の警報とは変だぞと、先ず思う。すると、ラジオの東部軍管区情報が「敵小型機数十機東方海上より関東東部に近接しつつあり」と報ずる。そら艦載機だ、と先ず思う。
昨日東京の各新聞は一斉に艦載機来襲の危険あることを報じていた。
一月のルソン島への敵上陸の頃から、比島西方南支那海を遊弋しながら、比島、台湾、仏印、マライ等を空襲していた米軍の機動部隊は一月末頃から姿を消し、その基地、多分ハワイかミッドウェーあたりへ引き上げ次の作戦の準備中であった。その頃までには敵は比島の制空権を得、地上基地も設定して、陸上戦をほぼその欲するような形に進めていたので、機動部隊の役割は一応済んだのである。それで次期の作戦として敵は機動部隊によって我内地の生産、軍事力破壊を狙い、本土に近いどこかの島を狙って来襲するかも知れぬ、という旨の警戒的報道が、諸新聞に出ていたのである。これは軍の提供した情報だったのだろう。
やっぱりその頃、十三日であったか、新潮社で情報に通じた人の話によると敵は硫黄島を狙っているが、若し敵がこの島を手に入れれば、B二十九のみでなく、B二十五等の中型爆撃機来襲可能となり、東京は毎日のように数十機の敵機の空爆を受けることとなろうから、その時は荷物のみならず、人の疎開も混乱のため不可能となるであろう、だから今のうちに荷物の疎開だけでもやれるだけやっておくのがよい、ということであった。いかにもそうだ、と私は思った。しかし多忙のため、前々から考えていた小荷物としての荷物の発送もやれずにいた。
そして思ったよりも早く、今朝敵の機動部隊から発した艦載機が関東地方を襲ったのである。
長く曳く警戒警報につづいて、二三分後には短く切れて繰り返す空襲警報が鳴り渡る。ラジオの情報が「敵数編隊は関東北部及房総地区に侵入中」と言うのを聞きながら、大急ぎでこの頃着けているワイシャツと二重ズボンを身につけ、古い上着と職工服を上に着た後、更に毛皮を裏に張った大型アノラックを着、スキイ手袋に身をかためる。
すぐ持てる洋服類、外套、靴、現金、証書類を箱やリュクサックや鞄などに入れて縁側に持ち出し、窓や硝子戸を開け、ラジオを防空壕の方に向け直し、貞子が手早く起した火はコンロに入れて畑の中へおき、湯をかける。昨夜から朝食用にと火なしコンロに入れておいたおじやの鍋を出し、縁側に腰かけて三人して大急ぎにおじや二杯ずつをかき込む。
防空壕の中に大切なものを運び、箱の上に敷くために藁を運び、いつでも飛び込めるようにしたが、敵機はなかなか現われて来ない。
情報を聞いていると、敵機は千葉、茨城等の県下の我が飛行場、軍事施設を空襲していること、また今日の敵機はB二十九と違い、低空から銃爆撃をすることがあるから注意すべき旨が報ぜられる。今日は曇りがちだが、所々に青空が見え、来襲する敵機にとっては都合のよい天候のようである。敵は二十機三十機と後から後からと来襲し、房総半島から入って来たり、伊豆から入ったり、静岡地区に入ったり、関東東北部へ来たりしていた。その間に時々二三十分間隙があり、午前十一時頃、午後二時頃と二度空襲警報解除となった。十時頃にはこの辺の上空を敵機が通り、我戦闘機と見分けられぬながら、急降下の音がしきりに頭上の雲の中でしたり、また東方の旧東京市の上空には一面に高射砲弾が打ち上げられていた。この土地の周辺の高射砲陣地も、ぶんぶん、どんどんと撃ち上げていた。三人とも防空壕に入り、じっとしている。午前十一時半隙を見て、六畳間に戻り炬燵をかけ、暖まりながら昨夜作っておいた弁当と今日畑の中においたコンロで暖めた大豆を煮たのとで昼食をとる。
しかしその後は次第に情況に慣れ、今日来襲の敵機が主として飛行場を狙っているので、この辺に侵入することはあまり無さそうだと分る。それで私は退屈でもあり寒くもあるので滋と二人で、玄関傍の大きな梅の枝を刈り込む。二人とも木に登り、徒長枝の太いのを鋸で切ったり、木鋏で切ったりして大方刈り込み、そのあとでは、生け垣の正木を刈り込んだ。空襲日の方がかえって家の雑用がはかどるのも妙なことである。
午後三時頃になってまたこの京浜西方地区に敵機が侵入し、周囲の方々の高射砲が唸り出したので、二十分ほど退避した。やっぱり敵機はそれとは見分けがつかないのであった。新宿方面に焼夷弾でも落ちたのか、煙の上るのが見えた。午後四時頃、夕食の仕度にかかり、煙を立てるのは憚かられたが、しかし暗くならぬうちならよかろうと思い、薪で飯を炊いた。煙らぬように焔をよく立てたが多少煙も出た。その間も敵機は十分おき二十分おきに各地へ侵入して来、飛行場や軍事施設を襲っている模様であった。
夕方五時すぎ、六時近くまで敵機は来襲を繰りかえしていた。
午後六時、艦載機の来襲は漸く終りとなり、遮蔽カーテンを下げ、ふだんのように六畳茶の間の炬燵の上に丸テーブルの脚を折ったのを乗せて、食事をする。飯の中に五徳を入れ、その上に金網を乗せたいつものやり方で、馬鈴薯、里芋等を煮て補いとし、外に人参、里芋等の味噌汁、大根の煮物、それに非常用として貞子は麦粉で蒸しパンを作る。
七時のニュースの前に当局から空襲について注意あり、低空から銃爆撃すること、機動部隊がなお本土の近くにいる故明日も来襲の危険あること、また運通省より、都合により当分、東京、横浜地区へ下車し又はそこを通過する汽車の切符は軍公用以外発売せぬこと及び省線電車の切符発売停止が伝えられた。勿論東京から出て行く切符も制限されるのであろう。隣家の花村氏は、午前十一時頃一度空襲解除となった時、のん気にも勤めに出て行ったが、省線には乗れぬとて戻って来た。しかしその後様子を聞くと、軍公用の人のみ、三十分おき位にまとめて乗車させ、一般の乗客は乗れぬ模様だと言う。
とにかく、これが、東京に初めて加えられた十二時間波状爆撃の実相である。
私たちのところは、割に平気であったが、多分霞が浦とか館山とか木更津などの飛行基地は繰り返しての敵襲によって相当の損害を被ったことであろう。そして七時の報道で、硫黄島を今朝来敵の有力艦隊が艦砲射撃し、上陸の気配あることが報ぜられる。果してそうであったのだ。敵の関東地区来襲は、その攻撃の牽制でもありまた我が航空軍力の破壊を狙ったものでもあったのだ。こうして敵アメリカは比島上陸戦に一応成功するや、今度は台湾や琉球は後まわしにして直接日本本土に肉迫せんとし、先ず前進基地をマリアナ諸島から半分も日本内地に近づいたところにある硫黄島を手に入れようと試みて来ている。
東京は今日から後、いよいよ敵の常時空襲下に陥るであろう。
それにしても今日のように終日反復空襲を受けつづけているというのは、近海にいる敵の機動部隊を攻撃する我が雷撃機がいま内地にないために敵が悠々と腰を据えているためなのではあるまいか。歯がゆい口惜しい極みである。
今日は予定では、私は種苗の事務所へ行き、大東亜省と農商省とへ除虫菊の件で出向き、また渋谷の古本屋へもいつかの約束の地図を取りに行かぬと、この二十日頃古本屋は長野県下へ疎開してしまうと言っていたので、それも気にしていた。また文学報国会へも行く予定の日であった。どれもみな駄目になったが、そうなって見れば、空襲がかえって私に一日の休息を与えたようなものである。
しかしこうして東京では交通も仕事も麻痺状態に陥っていることが分るのだ。今日は朝七時からであるから、よほど早い勤め人や工員の外は、たいてい勤めに出る直前で、在宅していた人が多いであろう。
二月十七日
朝七時少し前から敵機は房総半島から侵入した。昨夜一夜は平穏に眠ることが出来たが、また朝から敵襲である。昨日よりは落ちついて退避したが、今日は東京周辺を狙っているらしく、午前十時頃、この附近高射砲陣三四ケ所の凄じい発射音の中を四五百メートルと思われる低空を敵らしいずんぐりした黒い飛行機が三機五機と斜に突っこむように、北の方荻窪辺、西の方調布飛行場辺を飛びまわっていた。ずしんずしんという高射砲音、タタタタという機関砲らしい連続音、それに爆弾の音らしい音、防空壕の入口に肘をついて頭だけのぞかせて見ると、空には一面に投げつけたような高射砲の爆発煙が浮いている。その間を縫うように小型の敵らしい飛行機は非常な速度で西方へ翔け去る。そして真北に当る荻窪辺には黄色い爆煙が二ケ所大きく立ち登りひろがる。また中島飛行機工場が爆撃されたのだ。調布の飛行場もやられたらしい。
隣の高橋大尉夫人が昼頃敵機の切れ目にやって来ての立話に、昨日高橋氏は立川の研究所で、退避せずに研究を続けていたが、突如機関砲の掃射を受けたという。しかし怪我人は出なかった由。またスパイが居る実例として夫人が言うには、十日の太田の中島工場爆撃の時は、ちょうど我方は新鋭の陸軍戦闘機を多数揃え、いよいよそれを出動させるという前であったので、沢山並べておいた所をやられ、大部分焼かれたという。敵はスパイによって、そういう我方の事情をよく呑み込んでいるらしいという。
今日は午後一時頃、数十機が東京西南部を襲ったのを最後に、敵の来襲は絶え、平穏となった。
そうすると、急に気抜けしたようで疲労感が大変深い。身体じゅうこわばったようで、思うように動かぬ。防雪衣をつけたまま炬燵で一時間ほど眠ってしまう。
夜になって九時頃、B二十九二機伊豆より侵入。いま一機は帝都に入り、高射砲の音あたりに響き渡る。
省線電車は当分切符を発売せぬというから、定期券による外、郊外から省線によって往来する人は足どめを食うこととなった。
二月十八日 晴 暖し 雲雀鳴く 敵機来らず
春の近い感じ。麦に施肥す。
日曜日で空襲もなく、昨日一昨日に較べ嘘のような静かな日である。
朝のうち、隣町内粕谷八十に北沢濶氏を訪う。華北種苗の副会長であった人、来月中頃まで滞京とのこと。バター半ポンド贈る。四五日前に杉沢が来て泊った翌朝、彼と一緒に赤坂の北海道興農公社を訪い、彼の顔で八ポンド、私の分として三ポンド、計十一ポンドを入手した。これは主として礼の成蹊高校の入学試験について知人の教師たちを貞子が訪う時の手土産用として買ったものである。この頃は一ポンド公定六円足らずのバターが闇で四十円もする、という話を聞く。
昼頃家に戻り、階下の八畳間の南側と北側にバター箱を並べる。北側のは馬鈴薯などのまだ入っている箱、南側のは本を詰め、この室を空襲時の防空室とする。更に玄関の遮蔽幕を外してこの室の南側につける。これを下げ雨戸を閉めれば夜間電燈をつけてもいられるわけである。一応箱による爆風よけも出来、夜など敵機の来襲多き時はここに家族一同寝れるようにする。
種苗事務所の河西嬢来る。二日出所出来なかったから連絡に来たとのこと。貞子と初めて逢う。
夜入浴する。入浴する間じゅう敵機の来ないのを喜ぶ。あらゆる日常生活が空襲によって左右されるのだ。
近所の話を聞くに、一つおいて新宿寄りの駅の上北沢には敵機が十六日に落ちて燃え、昨日まで残った銃弾がはねて危険で人が近よれなかったという。また反対側の隣駅仙川には、高射砲陣や工場があるためか、爆撃され、昨日あたり多くの人が出て後片づけをしていたという。今度の敵の襲撃は方々を細かく狙っているらしい。高橋氏は昨日は立川の航空研究所にいたが敵十数機がそこを狙って機銃掃射をくりかえし、味方には一機も飛び立つ飛行機がないので敵のなすにまかせ、大分死傷者が出たという。昨夜は高橋氏は夫人に遺言をした由にて、夫人少々悲しげな顔をして貞子に言っている。地下壕を作れ、横穴を掘れ、これからは終日壕内の生活をすることが多くなろう、と新聞はしきりに書き立てている。空襲の仕方も変り、防空方法も変って来たのだ。かくて次第に一歩一歩東京の、いな日本の生活は厳しくなる。戦争そのものが生活をひしひしと取り囲んで来た。
二月十九日 薄曇り B二十九来襲
午前九時家を出、大東亜省に寄ったが、係りの蘆野氏不在。種苗事務所にて、河西嬢を相手に、本社あて手紙三通、電報二通発送す。
大東亜省食堂にて昼食し、牛込新潮社に行く。昼頃よりラジオにて敵機近接の報ありという。午後三時B二十九約百機帝都に侵入する。
銀座の爆撃にこりて、早速社の待避壕に入る。約一時間のうち、敵六編隊ほど帝都に入る。四時社の五階屋上から見ると、日本橋方面、本所方面に大黒煙立ちのぼっている。敵機は新宿辺に一機味方の体当りにて墜ち、浅草方面に一機高射砲弾命中して空中分解して落ちたのを人々見たという。帰途京王線の明治神宮裏手にてなお敵機らしいものの燃えている煙見え、担架にて怪我人を運ぶのを眼にうつす。
家に戻ると、貞子、今日空襲の時に、近くにひどい轟音がして、思わず昨日私がバター箱に本を詰めたのや馬鈴薯を詰めたのを並べて囲った八畳の間に滋と伏せたが、一分ほどの間ひどい地震のような動揺がした。貞子は「滋ちゃん何だろう?」と言うと滋は「地震だよお母さん」と答えたという。隣家の夫人は外を歩いていて近くの露天壕へ入ったが、土が崩れて頭からざらざらとかぶったという。どこか近いところへ爆弾が落ちたのだろうと思われる。
二月二十日 敵硫黄島へ上陸す
昨日のこと、ここの北方六百米ほどの烏山の町に、爆弾が落ち、家が二軒ほど崩れたという。爆弾は十個ほど落ちたとのこと。それはここの北方二粁のところにある岩崎通信機工場を狙って外れたものだという。また西南二粁にある金子の航空機工場を狙ったらしく、その附近にも投弾されたという。
烏山の落下点の附近は土が畑土で柔いせいか、今日通って見たが、どこに落ちたともよく分らず、硝子の破れた家も無い。しかし六百米ほどの距離でそんなひどい地響きがするというのは、改めて爆弾の威力について考えさせられるものがある。この附近には大して軍需工場はないということで、私たちは安心していたが、子供はよく知っているもので、前から岩崎の無電通信機工場と金子の航空機工場のことを口にしていたが、敵はいよいよ、そういう大して目立たない工場までも狙って空爆するようになって来たのだ。この祖師谷も今後は空爆を繰り返して受けると思わねばならぬ。
今朝七時、警報鳴り、すわ艦載機の来襲ということで急いで身支度した。情報によると、今朝七時、東方海上に敵機らしきものを認め、機動部隊の接近する怖れあり、とのことであったが、やがて九時解除となる。おだやかならぬ気配が漂っている。
九時家を出、銀座の種苗事務所に寄る。河西君来らず、あちこちに手紙を書き、電話し、大東亜省にも連絡す。正午河出書房に野田君を訪ね、昨夜書いた「文芸」の新刊評二枚を渡す。「文芸」正月号はやっと見本が出来たという。いま二月二十日だから、ひどい遅延である。こういうことも驚かなくなった。むしろ、いつまで文芸雑誌など出して行けるか、という気持がするぐらいである。
二時頃新潮社、外出して大阪ビルに中野氏を訪ねて、校正の件相談し、三時文報に行く。小説部会幹事会というのに、二十人近い幹事のうち出て来ているのは、幹事長横光利一の外、尾崎一雄、妻木新平、私と四人である。文報小説賞の話が出る。横光氏、岩倉政治の作品と私の「父の像」など候補たるべきものと言う。読み局員として私と豊田君など下詮衡に当ることにほぼ定まる。
その話をしているうちに、三時の報道で、米軍がいよいよ昨朝から硫黄島に上陸を開始して我軍と激戦中であるとの知らせあり。先日の艦載機来襲の時から、敵はこの島を狙っているのであったが、いよいよ始まった。木の生えていない、周囲四里ほどの台地風の岩山で水は一滴も湧かないというから、我方の補給が絶えれば、とても長く支えることは出来ないであろう。この島が敵手に落ちれば、これまでサイパンから二千四百キロを飛んで来襲していた敵機はちょうどその半分千二百キロのところに中継地を得ることとなり、補助タンクをつけると戦闘機の護衛も可能になり、東京空襲は一層激化するのだという。この島の占領は米軍の我本土侵攻の準備作戦であると、新聞は論じている。
帰途電車の中で、これまで根本的には考えなかった家族の疎開のことを本気になって考える。
貞子に滋と礼とをつけて北海道の貞子の家か私の家にやればいいのだが、それでは私ひとり残って配給物をとることも出来なくなる。どうすべきかを考えながら家に着くと、今日の昼英一が来て、薫君の嫁の候補者が見つかったと言っていた由。英一の友人の許婚の妹で良い娘だとのこと、貞子が逢って見てよさそうならば、その子にきめてやろうという話をする。そしてその話は急に進め、三月頃礼の入学が決定したら、貞子と滋と礼は北海道に疎開させ、薫と嫁と英一とがこの家へ来るようにすれば、それでよいではないか、と貞子に相談すると、それはよさそうだという。
最近世上は戦争について悲観説流布し、敵の本土上陸をしきりに予想するもの多い。とにかく敵の硫黄島上陸は、サイパンから本土までの半分の近接であるから、差し当っては世上大いに騒ぐであろうが、いつもの例のように、それも上陸がきまってしまえば、また当分何となく、当り前のことのように落ちつきが出来る。敵も次期作戦準備のため一二ケ月は平穏にしている。その間に、多分三月か四月の頃、ちょっと平穏になった折を見て、疎開しようということにほぼ貞子と話を定める。
文報の会では、我海軍の損害の大きいことがしきりに言われる。比島沖の海戦の結果、我海軍は大損害を受け、すでに艦隊と称するほどのものがなくなり、豊田聯合艦隊司令長官は東京にいるとか、陸奥は瀬戸内海で事故のため沈没し、その後に出来た四万屯とか七万屯とかいう最新鋭の大戦艦大和、武蔵等も失われてしまったとか、様々の話あり。こういう巷説も当らぬとは言えないのである。数ケ月前から我方では風船に爆薬をしかけて高層圏に飛ばしアメリカを爆撃する計画中だとの、ちょっと信じがたい風説があって、それを作っているのは、国技館とか日本劇場とかいう大きな建物だと言われていたが、昨日の新聞で、正にそれらしいものがアメリカに昨年末頃から度々落下して火災や爆発を起していると出ている。本当だったのだ。巷説は必ずしも嘘でないことが多いと思わざるを得ぬ。
二月二十一日
ルソン島の我軍はマニラ市まで敵の侵入を許し、専ら退避のみをしていたが、いよいよ敵がマニラ市街に入ったこの頃、急に東方の山地からマニラ市の北方に進撃し、敵の後方を脅かし、一部は市内に頑張っていた味方と連絡して、マニラ市の周辺の要地を占領しつつある。ここに初めて山下奉文将軍の真剣な反撃が現われて来たのだ。しかし制空、制海権が敵手にあるこの戦いは随分と無理なものにちがいない。成功してほしいと切に祈る気持である。成功してほしい。かつて我軍がマニラの西方バターン半島から進撃し、急襲して奪ったマニラ湾入口の要塞島コレヒドールに、今度は逆に敵が上陸して戦っている。その上、この島によって扼されていたマニラ湾に敵は侵入した。敵はマニラの北から南から、そして西方の海上から押し寄せ、我軍また東方の山地から反撃に出ている。マニラ市は、そして我軍の比島における戦はどうなる。
いまの東京都民の関心は、しかし、マニラよりも硫黄島の戦に集中している。硫黄島に敵が上陸すれば、一月ほどのうちに、敵はきっと飛行場を整備し、今までの距離の半分の近さから連日我本土を空襲して来るにちがいない。三月四月になったら東京はひどい廃墟と化してしまうであろう、これは誰しもがいま東京で言い、かつ考えていることだ。
渋谷の例の古本屋いよいよ店を仕舞う。
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二月二十二日 朝来大雪 寒気相当にて、ほぼ夕刻七八寸に達す。
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午前光生中学、午後新潮社。新聞による硫黄島戦の模様は凄惨至極である。社の丸山君、昨日情報局にて陸海軍報道部員の話を編輯者会議で聞いたという。陸軍ではマニラの戦況を報じ、同市は南方より敵一個師、北より二個師にて攻めて来ているが、我軍は数個大隊が市中に残って抵抗しており、最近敵の側背から攻勢に出た我軍もまた僅かに数個大隊であるという。我軍は大砲等は相当に有しているが、馬、牽引車等の機動力を持っていないので、大きな作戦を積極的にすることが出来ないでいる。なお在留の邦人二万は同島北端のバギオ附近に集結しており、同地は食糧の十分なところであり、当分心配はないとのこと。敵一個師の火力は大体我が七個師のそれに相当すると。同島の制空権、制海権は全く敵の手中にあって、南方との船の往来は一隻もなくなっているとのこと。硫黄島の戦況は大体新聞発表と同様であるとのこと。
海軍の報道部員は、海軍としては全く国民に対して申しわけないと思っている。比島周辺の海戦で我海軍の受けた傷手は深いものであるが、「艦隊が全く無くなったというのではない。」目下艦船は修理中であるから、やがてそれが成った暁には、敵に目に物見せるつもりである。目下飛行機生産が意の如く行われていないのは事実であるが、これは軍需工場企業家が悪質であり、かつ工員もまた教養不足から来る質の低下を来している傾きがある。決して希望的観測を持ってはいけない。編輯者各位は軍の上層部、政治家、企業家の覚醒をうながすよう大いに努力してほしい、というような話であったという。我々が思ったより現実はもっと悪いらしい、とその話を聞きながら皆で言い合う。こういう話をしながら、出版部の室の空気は、数日前とはうって変って、絶望的な空気が漂っている。これはこの社ばかりでなく、今の東京の知識階級の集るところは総て同様である。たとえば光生中学の教員室に於ても、そういう空気が重苦しく漂っているが教育者という立場から軽々しくそれを口にせぬ。しかし出版社のような元来思考や発表の自由な職業人に於ては、思考の変化は急であり、むしろ先走る位であるから大変敏感に反応が現われるのだ。
大磯の海岸に住んでいる菊池君などは、最近同地方の海岸に於ける我軍の防備は大変神経質になって来ているので、自分も最悪の場合に備えて家の始末や疎開等のため一週間ほど暇をとって懸命にやって見ようと思う、と言う。千葉から茨城の海岸一帯の防備態勢の深刻さについても巷説をよく聞く。日本中は極めて暗く神経質な気分になっている。
しかしこの硫黄島の戦いが何れかの形で結末がつけば、またその態勢に慣れ、暫くの無関心状態が戻って来るであろう。その時に私の所では疎開のことを本気になって進めることにしよう、と貞子と話し合う。
礼はいよいよ明後日朝中野駅着で疎開先から戻って来るという。半年前の昨年八月末に諏訪に行って、その後貞子が十一月末に一度面会に行ったきりで、私や滋は一度も逢う機が無かった。
欧洲戦線は暫時の小康状態にある。ロシア軍はオーデル河とフランクフルト南北の線に達して、足ぶみし、補給を待って次の攻勢開始を企図している模様だ。
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二月二十六日 再び大雪一尺五寸程 午前中電車不通
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昨日B二十九と艦載機との聯合により、関東及東京に大空襲あり。
二十三日は大東亜省にて蘆野氏と相談の結果、除虫菊の収買は日本の統制会に委托とす。上野山家を訪ね、夜帰るとすぐ、また中野駅近くの鈴木忠直君宅に行き泊めてもらう。夕刻電報あり、甥嗣郎豊岡の陸軍病院にて死去、葬式は二十四日十時という義兄よりの便りである。朝五時半中野駅に疎開より同級生たちと戻った礼をむかえる。六年生にて中等学校に進む者のみである。元気だが、相かわらず小さく見え、頼りない感じである。それでも半年の疎開を無事に終えて戻って来たことは喜ばしい。凍った雪道を学校まで歩いて、校庭に解散式をする。薫が来てくれていたので礼を托し、私は七時池袋駅にかけつけ、十時豊岡着、病院にて義兄と逢う。二十三日午前一時死去にて、北海道十勝からかけつけた義兄は朝六時頃到着して間に合わなかった由。嗣郎は素直なよい子で、陸軍士官学校に入ったことは一家の喜びと誇りであったが、航空士官学校を卒業間際に肋膜炎となり、結核に全身を侵され、満三年の病院生活の後二十三歳で死んだのである。長男でもあり、義兄は諦め切れぬ顔で、めっきり老けて見える。
葬式の後トラックにて二里ほど離れた火葬場に行く。田舎の町では珍しく設備のよい火葬場、洋風に白く塗り廻廊をまわした待合あり。火葬がこの頃は東京では十日も待たねば出来ないというのに、ここは割にこんでいず、それに先日の空襲にて立川飛行場の犠牲者の火葬の時配給された重油があったので、十二時頃から始め、一時すぎに骨となる。骨を拾って病院に戻れば、義兄の兄前掌典の星野輝興氏が来ている。三人で始末を終え、ひどい、全く初めて経験するような混雑した武蔵野電車で池袋まで戻る。省線で七時頃上野に向う途中警報出る。上野駅で見ると浅草の方に二箇所、焼夷弾のためか火の手が上っている。十時の汽車で義兄を送る。昨日来の右往左往にて疲労して家に戻る。
二十五日朝艦載機来襲の報にて一同緊張して防空の支度す。敵機は千葉茨城方面の飛行場と軍施設に集中していて、延六百機の来襲というがこの辺は静かであった。午後雪降り出す。二時頃それに加えるにB二十九駿河湾を経て山梨より東京に侵入しはじめる。雪の中で雲上から盲爆するらしいとの情報で、防空壕の雪をかき出し、一同そこに退避す。頭の上を、特有のブウンブウンという爆音を立てて幾編隊も続いて市内に向って行く。高射砲、高射機銃の音に混って爆音らしい地響きを伴った音が近くでも遠くでもする。情報によると敵は焼夷弾、爆弾を併用して火災が起きているというが、降雪のため望み得ず。一時間にもわたり、百三十機が東京の市街を爆撃して去った。寒さと雪とのため、ただこうして退避していても惨めな気持だが、家を焼かれ、死傷する人々のこと思うと、どんなだろうと推測される。
夜に入りそのまま、ひどい降雪となり、今朝になるとやっぱり大雪にて先日の雪の消えたあとに新しく一尺五寸程積っている。滋や礼と共に家のまわり雪を除ける。朝警報あり、また艦載機来襲の気配とて子供等も学校休む。B二十九の百三十機というのは、これまでの七八十機という標準に較べて倍近いものである。これは米軍がサイパン島の外にグワム島の基地も完成して使用し出した為であろう。
昨夜、前々から考えていたルースリーフのノート紙を使い、メモをとるように短いスケッチを集めて小説を書くよう、下げ鞄の中にうまく紙を厚紙にはさんで入れて支度し、書き初める。これは机をちゃんと拡げずとも、事務所でもどこでも目立たぬよう随時に書いておけるようにする為である。三四枚書いて見るが、ノート紙に一行おきで、よい工合である。このルースリーフ紙は千枚ほど良い紙のあるうちに買っておいたので、これから主として作品はこの紙によって書くつもりである。この日記のノートより少し小型で一頁に三百字ほど入る。裏表で六百字、つまり原稿紙の一枚半に当る。人物、事件についてメモをとり、それを後に類別して整理すれば、体験や見聞のメモがそのまま作品となるのだ。こうして先ず平穏に生きていること、自由な時を持ってものを書けることが、何となくあまり長いとは思われない。その上、日常はあちこちの勤務や家庭の雑用で腰の落ちつかぬことが多いので、この形式の書き方によって、時を、生活の内容を失わぬよう書いておくことが、何よりのことである。万一の場合はこのノートとペンだけでも身につけていれば、外の家屋も書物も着物も悉く失っても生きる目あては、即ち失われないでいるということになる。
市内の様子も気になるし、新潮社や文報の俸給も出ている日なので午後雪の中を、つぎの当った長ゴム靴を穿いて出かける。快晴にて静かな日なり。
同日夜書く。
新宿から省線電車にて東京駅に向うのに、途中どこにも爆撃のあとを見ぬ。やがてお茶の水を過ぎると、ガード下の須田町の交叉点の東北角が新しく焼け落ちている。そして神田駅に着くと、「焼けている、焼けている」とて車内総立ちとなる。神田駅ホームに下りると、高架線となっているこの駅のホームの西側も東側も一望遠くまで焼き払われ、まだ燻った煙が立ちのぼっている。壁や柱や金庫などがあちこちに、四五尺の高さに残っており、紙のようにその間に散らばっているのはトタン板である。あちこちに、コンクリート建ての本建築の建物だけが、細長い箱を立てたように残っているが、その壁や窓際なども外側の火事に焼けこがされたり、内側が焼けて火を吹き出したりして、黒ずんでいる。沢山の人が虫でも蠢くように、焼けあとに動きまわっている。それは歩きまわっている人、何かを掘り出している女、見物に歩いている人、二三人連れ立って説明している人、しきりに石のようなものを運び集めている人、シャベルで灰のようなものをすくっている人、等さまざまである。東の方は両国の近くまで焼けているように思われる。北の方は、大きなコンクリート建物の列のため見えなくなっているが、物知り顔に喋っている男の話によると、神田駅から上野駅まで焼けあとは続いており、松坂屋百貨店が残っただけだという。豊島町で焼け出されたという老婆が一人立っていて、「あなた焼夷弾が雨のように降って来ますんですよ。とてもああなったら消せるものではありません。上の娘の夫が防衛召集で出ておりますし、子供がいて心配だというので、下の娘を連れて来て泊っていたのですが、それでも下の娘はうちに落ちたのと隣に落ちたのとは消しましたが、あなた向いの家に落ちたのが燃え出して、手がつけられなくなりました。全く着物一梱でも蒲団一枚でもああなると出した人の方が勝ちですよ。そう申してはすまないことですが、何一つ無くなってはその日から困るのですからねえ。私は三人の孫の手を引いて病気の上の娘と、やっとのことで近所の建物疎開あとの空地まで逃げました。水道の水は出ないし、あたりは一面に火の海だし、焼け死ぬのではないかと思ったほどでした。」
新橋駅に下車する。神田、日本橋辺は路面電車はほとんど通っていない。銀座辺の街路はまだ雪が多く、町の人が出て雪よけをしている。ああして一日にして何キロ平方も焼かれるというのに、同じ町続きに、こうして人々が暮し、窓に物を乾したり、炊事したり、表の窓を直させたりしているのを見ると、一体何を考えているのだろう、と思う。危険だと思わないのだろうか。神田が一日にして焼かれたら、日本橋や銀座はその日のうちにも物を運び出して疎開してしまわないのが、変に思われる。焼かれ、爆撃されるのを、ただ待っているようなものではないか。
事務所で河西君と打ち合せをし、二時過ぎ新潮社に行く。月給日が一昨日とのことで、月給を会計からもらおうとすると、副社長が一昨日から出社していないので、多分明日になるだろうとの小田野老人の話である。誰も事務をとっていず、空襲の話をしては茶を飲んでいる。空襲対策の非常用出版物に文芸物を各社でこの頃大増刷したが、新潮の分は、神保町の日本書籍配給会社に届けたところ、そのまま焼かれ、数万部が烏有に帰したという。副社長の出社せぬのは、その件とも関係があるかも知れず、また老齢の社長の疎開を急いでいるので、その方の用かも知れぬ。
とにかく、東京は雪と空襲とのため、交通も事務も渋滞して一種の麻痺状態である。多分軍需生産もそれに近い状態にあるのではないかと思われる。
昨日私の留守に大成出版社の西野君という人、私の小説集を出版したいとて家に寄った由。また産業大学生の小田君という人、前から手紙をよこして小説の原稿を読んでほしいと言っていたが、原稿を持って来て置いて行ったという。
この数日本気になって疎開のことを考える。この家は目下の状態では東京都として安全な場所にあるが、将来敵の上陸作戦などもあることを考えると、どうしてもこのままでいることは不安である。いよいよの場合には身一つで八王子在の杉沢の所へでも避難するとしても、荷物だけでも出来る限り疎開しておきたい。埼玉県児玉の峰岸の所ではいつでもその離れに来るようにと言っていてくれるが、そこは北方一粁のところに飛行場が出来ている。杉沢の所は、十坪の家で余裕はない。北海道の弟のところは近くに義兄の借家があいているとのことだが、冬期の生活条件などを考え、また交通が不可能となった場合等の不安があり、貞子の家もまた同じことで遠すぎる不安がある。今のところ、結局は、この家にいよいよとなるまで一家揃っていて、夜具や衣類の余分のものを出来るだけあちこちに送って分散させようと思う。そんなところに落ちついているが、夜など地図を開いて、あれこれを考えているうちに何も仕事出来ず、三四時間は経ってしまうという有様である。
二月二十八日
風邪気味。深く、臭い痰が出、夜熱に浮かされ、朝七度六分あり。インドラミン注射。先日の雪まだ消えず、東京市中はあちこちに雪を積み上げていたり、また路上一面に融けた雪が流れて靴をぬらし、皆難渋す。
朝熱あるも侵して出、郵便局に町内の国民貯金を六百七十四円納入し、光生中学に寄り、一年生の漢文の試験問題を作る。昨日、上野山氏子息が日大二中を受験するとて、紹介してもらいに松原寛氏を訪れたが、今日また光生中学の宮地教頭と二人で松原校長宅へ行く。座談暫く。職員の手不足にて、私にも講師でなく教諭になれと言う。午前中しか自由な時間はないというと、それでも結構で、今持っている週八時間の授業を倍になる程度にやってくれればよいとのこと。講師になる時は、こちらから願ったことなので、厭とも言えず、まあ出来ることはやりましょうと返事す。しかし毎日午前中全部を学校にとられては、これから後畑をするようになると、時間がなくて困るし、この頃何となく疲労感が深く、風邪をひきやすいので、過労になりはしないかと心配する。断らねばならぬ。
昨日新潮社にて大成出版社の西野君に逢う。百二十枚程度にて、私が「新潮」に書いた「子供暦」のような作品は出来ないか、とのこと。「子供暦」は前に五六十枚書いて放棄してある作品の一部なので、ではあれを生かして書き足して見ようと約束する。
午後種苗事務所に行く。事務所空爆を受けた時は私の自宅で事務をとりたいと先頃言ってやっておいた所、そういう時は種苗配給統制会内に移るようにとの指令あり。三時頃文学報国会に行き、岡田氏と新人育成の件について打ち合せる。
夜また注射して寝る。今日新潮社宿直なるも発熱したので電話して丸山君に変ってもらう。
二十五日の空襲では、神田駅の両側のみでなく、上野から御徒町辺は東方隅田川まで焼け、外に本郷の上富士前の辺、神田神保町附近、四谷本村町、赤坂の三聯隊附近等が焼かれたという。神田駅附近の様子のみでも茫然となる程なのに、その上に各区に少しずつでも焼かれたところがあるとなると、今後百機以上で敵がやって来る時は、損害が多いと思わねばならぬ。
しかし最近欧洲では、米英は二千機でベルリンを空爆し、死傷三万と言い、それも二三日間をおいてまた昨日も繰り返してやっている。大変なことと思う。荻窪の中島飛行機、立川の日立製作所、等は十七日の艦載機の急降下爆撃でひどい損害を受け、ほとんど操業停止にて、中島の損害は、それまでB二十九に四回爆撃された分より今度の一回の方が大きいぐらいだとのこと。中島はそれまで重要機械のみの疎開を行っていたが、今度は全面疎開をすることになり、光生の生徒などもその引越の手伝いが主だという。
硫黄島の戦況激烈凄惨を極め、報道を読むに耐えぬ思いをする。マニラ市守備の我軍も旧城内の一廓に圧縮され、コレヒドール島また通信絶え、なお島の中央高地に我軍奮闘の状を遠望し得るのみとのこと。戦況いずれを向いても困難を極める相のみにて、心を痛ませる。
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[#2段階大きい文字]昭和二十年三月
三月五日 昨夜より雪 二寸ほど
二十八日から風邪気味であったが、一日に強いて外出したりしたので、発熱し、昨日まで、三日寝ていた。
昨朝B二十九百五十機、初めて朝のうちから東京爆撃をする。これまではいつもB二十九の来るのは午後であったが、今後は午前中もその危険が加わったわけである。この前もそうであったように、雪もよいの天候を狙って来て雲上から盲爆し、今度は本郷、巣鴨の辺が大分焼かれたとのこと。
長い間の雪がやっと消えかけたところにまた降り、道はぬかるみ、凍り、何人も皮靴は濡れて乾くひまなく、風邪になるもの多いという。もう二週間も、ひどい泥濘がつづき、雨とちがって溜った氷や雪が流れないため、あちこちに深い氷まじりの水たまりが出来、不愉快この上もない所へ、空襲である。
その上昨夜は、つづいて、B二十九が、十機もつぎつぎとやって来て市内の方々へ投弾したという。眠ることも出来ず、旧市内など待避していれば、足は濡れ、寒さは身にしみ、惨めな思いをするばかりである。
私はつぎはぎでもゴム長靴があるので助かる。
今日は、種苗事務所に行き、統制会にまわり、輸送等の事務についてうち合せをする。二月分の会計と事務の報告もせねばならず、また多忙である。
その上、近いうちに、学校の暇を見て北海道へも行こうと思っているので、一層気持がせく。
二三日前より、米軍は硫黄島で対日放送をし出したらしく、これまで小さくやっていた妨害放送が、大きくなり、夜間は全然放送を聞けぬことがある。放送もあてにならぬようなこととなれば、いよいよ東京の防空生活は不安が加わってくる。
ドイツは食糧配給を更に制限し、その結果前大戦の最終年の配給と同じぐらいになった由。米軍はライン河を渡りかけ、ケルン市には米軍が侵入した。ロシア軍は次の攻勢準備のため今の所足ぶみしているが、ドイツは、もう末期の状勢が内外とも明瞭となって来た。
三月七日 病状現る
この一週間ほどの風邪、ただの風邪と様子がちがう。右胸の深いところに何かつかえるものがあり、黄色い痰が後から後からと出て来る。
八度五分ほども熱が出て、アスピリンを飲み、キニーネを注射すると、発汗して、翌日は六度台となる。鼻や咽には異状なし、どうも、以前の胸部疾患の再発と思われる。
そう思って昨夜も寒気がし七度八分位の熱で臥床し、発汗したが、今日は終日床にいるうちに、血痰が出た。おや、と思い、痰を見ながら割合に平気でいる。しかしそうなのだ。昨年末頃から痰が出て、私は時々身体が熱っぽく、これはよくない、と思うことが屡々であった。昭和十七年、大東亜戦の初めに、私はレントゲンに翳が出で、微熱がつづいて半年臥床していたが、その後どうにか持って来たものの、昨年秋頃からの過労がたたってまた再発したのである。
勤めを四つ持つということなども無理であったのだ。少くとも学校はやめ、外の新潮社、文報、種苗はみな午後のみで出来るのだから、午前は家で休養ということにして、また半年か一年療養を主とした生活をしなければなるまい。
それにしても、昭和十七年頃には、まだ滋養物やビタミン剤や肝油などもあったが、今は営養となる程のものが何も無い。空襲はあり、雑用が家庭内に多く、生活は不安で落ちつきがない。不利な時に病気再発となったものである。厄介だ、とは思うが、この病気で参るとは思わない。一度治した自信があるから。しかし私の身体がこんな風では貞子や子供たちが一緒にいて、家庭の雑用を足してくれないと、私のみでは何も出来ない。妻子を疎開させるということも考え直さざるを得なくなった。幸い成蹊高校では低学年を国立の商大内に移すというから今いる場所(航空軍司令部と一緒で中島飛行機の隣)のような空爆の危険も少くなる。荷物疎開のみ手まわしよくやっておいて、一家揃ってこの家にいることにし、私は一年の目標で療養生活をすることにしなければなるまい。
病気の実状がほぼ分ると、万事生活の基礎が変って来る。
もっとも血痰というもの、私は昔から鼻血の出やすい性で、よく鼻血の混ることもあったが、今日のは明かに血痰だと思われる。近いうち血沈、レントゲン写真等によって病状を更に確かめねばならない。今日終日床の中で、森鴎外集を読む。「鶏」「雁」等に感心する。生きた人間の記録、それが文学であり、十分に生きること、それを書くことこそ文学者である。三四日前頃は漱石の「道草」を読んだが、その時もほぼ同じことを感じた。これまで格別尊敬もしなかったこれ等明治の文学者たち、動かしがたき頑固なる真剣さを持っている。
生きるということの内容は、何と豊かでしたたるような美しい味があることか。いつまで生きるか分らぬ今、私は自分の生活とその記録とを、出来るだけ十分に味い、十分に読み、十分に書いて残さねばならない。
この頃東京では、疎開するなら今のうちで、四月或は六月には疎開などということも出来ぬような混乱が起るであろうという巷説がしきりである。現に隣家の高橋大尉の如きも、そう言っているという。その内容は、空襲激化ということか、それとも敵上陸ということか明かでないが、私は前者に解している。
敵の本土上陸ということ、とてもこの六月には、いくら強引な敵でもやれるものでない。私の一家の疎開についても、私の郷里、小樽の隣村なる塩谷と、貞子の父母の家、北海道噴火湾の野田生、峰岸君の所、埼玉県児玉、と三ケ所、行って住める所がある。私の弟の家は食糧は十分だが狭いし、貞子が二人の子を連れて行くのは気づまりであるらしい。貞子の家は食糧も大分自家の畑で出来るし、燃料も自家の山があり、家も広いのでまあ適当と思うが、二つ目の隣町八雲には大飛行場があり、子供もその八雲の中学へ転ぜねばならぬ。峰岸君の所も一キロ北方に新設の飛行場が出来ている。とすると、わざわざ家族が分散し、不便や不安を感じながら暮すまでのこともなく、いざという時は、ここから西方十里ほどの高尾山麓の杉沢の所へ避難することにして、この家にいる方がよいのではないか。そして、罹災者が何より困るという蒲団、食器、鍋釜類等は出来るだけ分散させておく、という程度でよいのではないか。地図を眺めたり、食糧、燃料等のことを気にしたりして色々考えているが、結局そんなところに落ちつきそうである。
里村欣三ルソン島に従軍中爆死す。「第二の人生」は彼の一代の佳作である。これまで従軍した作家で死んだものはなく、彼が初めである。
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三月八日 痰減少するともなお血あり 朝六・二度 三時六・七度
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昨年秋米軍海軍航空部隊が台湾を襲ったのは十月十六日、レイテ島に侵冦したのは同月二十日であるが、今日ふと十月十一日の日記を見ると、私は「フィリッピンあたりで決戦が大規模に行われる可能性が一番大きい。敵が本土を狙うのは、それよりももっと後のこととなるであろう。まだ二年ぐらいは、たといドイツが参るようなことがあっても日本本土が危険だという事態にはならず、今と同じ国内生活が大丈夫続くであろう。そして支那とフィリッピン、台湾辺で大きな戦が来年の秋頃に行われるようになるかも知れぬ」と書いている。呑気なことであった。その十日後にフィリッピンに大戦争が波及し、現在、三月には、すでにフィリッピンの主要部は敵の手中にあり、制海、制空権ともに失われている。戦勢の変転はみな予定よりも早く来ている。
チャーチルは、欧洲の戦況は予定より進行が遅れ、東洋の戦況は予定より進行が早いと言っているが、まことに敵の進出は予定したよりも早いのである。いま敵は硫黄島とルソン島に上陸して来ているが、三月もすれば、その次の基地へと手を伸ばして来るであろう。さて、それは何処となるか。米軍の進行方向を見るのに一つは中部太平洋上を、マーシャル島からサイパン島、グワム島に進み、北上して硫黄島に達した。これは日本の中枢部の工業力破壊を狙って来ている。もう一つはニューギニア北岸沿いにレイテ島に達し、ルソン島へと北上した。これは日本を南方資源地帯から遮断して支那に達しようとしている。この手は近々支那に届くであろうが、それと同時に日本本土を更に支那から遮断せんとする方角に伸びることであろう。だから次にはきっと、日本の大基地台湾を飛ばして占領するに手頃な琉球に到るにちがいなく、そこから更に、朝鮮海峡の済州島へ来そうな感じがする。この島をおさえると、対馬海峡を遮断することも、また上海と九州とを遮断することも出来るのだ。そして我本土を支那と満洲とから断っておいて、敵は九州に上陸し、また八丈島あたりに進んであわよくば関東地方にも上陸しようとするであろう。
これまでの敵の進行速度から言うと、決してこれは遠い将来のことではない。ことによれば、今年の秋頃までに、そんな段階に戦争は突入するのではないか。昨年十月の自分の予測があまり大きく外れたので、今度は少し早目にこんなことを予定して見た。
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三月九日 血痰 但し痰は減少す 朝六・二 夕六・八
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[#2字下げ]これまで冬の間毎夜寝床に小さき炬燵を入れていたが漸く暖くなり、やめ懐炉の小さいのを入れる。
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三月十日 陸軍記念日(夜間大空襲)朝六・二 夕六・九(血痰)
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[#2字下げ]一昨日より二年目の鶏卵を産み出す。昨年春雛まだトサカ小さい。
昨夜半、十二時半頃から二時頃まで夜間の大空襲あり。折から烈風北より吹き、硝子戸ががたがたと鳴る夜のこととて、火勢はここから見て北東、巣鴨辺と思われるあたりから東南方品川辺と思われるあたりにかけて、約二里ぐらいもあるかと思われる長い線にわたって火と煙とが、晴れた夜空に一面にひろがり、空は凄じい夕焼のようにそれを反映している。
私は十時頃二階に一人で寝ていた。警報の鳴った時は、もう夜明けだな、と思った。いつも夜間侵入する敵機はきまって一機か二機であり、警戒警報のみしか出ないのだ。先日十機ほど珍しく入ったことがあったが、その折も警戒警報のみであった。ところが、放送される情報では、敵は後続部が次々と南方海上に来ているという、いつもとは違った気配であり、二三十分すると、突然あちこちで高射砲の轟音が、巨大な建物でも崩れるように不明瞭に続いて起り、その中に短く息を切ったような空襲警報が鳴り響いた。さてなと思っていると、家の周囲のあちこちで、ぼんぼん、ずしんずしんという高射砲や高射機銃の音がし、家が揺れ、ガラスがびしんびしんという。鈍い爆音が東の方から次第に近づいて西の方に去る気配がする。私は衝動〔ママ〕に蒲団をかぶり息をころす。やがて爆音が去り、砲音が静まる。
ラジオの情報が階下からとぎれがちに聞える。「敵機は低空にあり、主として焼夷弾を投下しつつあり。」「今までに侵入せる敵機は約二十数機なるも、なお後続の敵機南方洋上より近接しつつあり。」
なるほど夜間初めてと言っていい大空襲だなと思い、起きてズボン、上衣、アノラックをつけ、階下にもそう言って身支度させ、それから改めて寝床に入る。またしても東の方旧市内らしい辺でドドドドという爆弾の投下音か高射砲声か分ちがたい連続音がしばらく続き、それのちょっと後ではこの附近の高射砲が発射され、その音の中を敵機らしい爆音が聞える。
この辺は大体安全かと思われるし、それよりも寒いのがいやなので、私は硝子戸を開けずにおいたが、そのうち、市内の方を見たい気持が強くなり、私は起きて二階東側の窓を開けて見た。するといま書いたように一望の真赤な焔と煙とである。その赤い地平線を背景にして北風のためにあちこちの竹藪の梢がゆらゆらと黒い生きもののように揺れなびいている。その赤く燃える焔の中に、低く、ちらちらと火の子を散らすように、花火の粉が破れて落ちるように降っているのが見える。敵機の焼夷弾である。ふと見ると、燃えている焔の左方の地上から二三本の照空燈が真直に立っていて、その中うす蒼い光の中に小さな虫のように捕えられているのが敵機である。その敵機を狙っているのか、ちりちりちりと点線になった火の線が地上から何本も立ちのぼっては交錯している。高射砲弾であろう。音はじかには聞えない。
その光の線は、美しい。舞台の花火のように、念を入れて美しく作った装置のようである。とまた、見えない高い空にいる敵機から落したのであろう、中空で花火がはじけるようにぱっと火の粉が散り、火の粉が傘のようにひろがって地上の火焔の上に降って来る。敵の新しく落した焼夷弾である。
今夜はいつもとちがって敵機は多く東の方房総半島上空を経て東京に侵入しているらしく、私たちのいる西方郊外へと脱出して来るのは、あまり多くないが、絶えず、次々と少数機に分れてこの巨大な炉のように燃えさかった東京の市内に、後から後からと油と焚き付けとを投げ込んでいるのだ。
私はしばらく見とれている。あの広大な燃える旧市内の中で、多くの人々の家庭が焼かれ、死人が出、人々が右往左往し、あらゆるものが灰燼となって行くのだ。東京は燃えている。これまで度々夜間の空襲はあったが、この三分の一、四分の一に当るほどの火災もこれまでには無かった。旧市内の大半がこの烈風の中で今焼けてしまおうとしているのにちがいない。子供たちを二階へ呼ぶのはどうかと思ったが、私はだまっていれなくなって、階下に声をかけた。
「おい東京が燃えているぞ、大火事だぞ。」
「本当――」と言って、やがて貞子が起きて来る気配がし、子供たちがつづいて起きて来た。窓をあけているので電燈をつけられないから、手さぐりで私の蒲団を踏みながら窓により、「凄えなあ、あっ探照燈に敵機が入っている。敵機だね。ほらあの白く光っているのが、ほらね。あっ敵機が落ちた。ほら火の子になって。凄いぞ。凄いぞ。」
見ると、それは焼夷弾が空中で散って落ちるところである。
「いや、あれは焼夷弾だよ、あんな風に途中で幾十本かのまとめられたのが散らばって落ちるんだよ」と言うと、
「あっ、そうかあ」と子供たちは見ていて窓を去ろうとしない。
「憎らしいわねえ、まあ、あんなに焼いて。この寒空に焼け出された人はどんなでしょうねえ。ひどいわねえ」と貞子が言う。寒いので、やがて皆を階下で寝させる。その少し後の情報によると、これまでに侵入した敵機は五十数機であるとのこと。二時頃になって来襲が絶え、警報解除となった。
しかし、私はあれこれと考えめぐらして、安眠出来なかった。いよいよ東京の大半は今日で灰燼となった。罹災者は一体どういうことになるだろうか。都民の配給生活はどうなるか、やがて、我々郊外居住者にどういう影響が及ぶか。結局東京に生活することは不可能となりはしないか。では、どうすべきか、そんなことをあれこれと思ううち、考がきまらぬまま寝入ってしまった。
昨夜の来襲敵機百三十機の由。夜間にそれだけの機数を整備し、編隊して来襲する手筈とした〔ママ〕敵は一段の進歩である。この頃は雪の日、夜間等、我方の邀撃の少い条件のみを狙うようになった。
隣家花村家の令嬢、丸の内海上ビルの勤務先へ行く為とて朝出て、飯田橋駅まで行ったが、その先は省線不通にて、都電で行こうとしたが、それも通ぜず戻って来たという。その時の話として、どういう訳か空襲で目をやられた人が多く、飯田橋駅辺で、罹災者の手さぐりで歩いたり、相擁して泣いていたりする女など多く、悲惨である。どの辺が火災で焼けたのか分らないが、滋が学校で聞いて来た話によると、省線は浜松町田端間不通、新宿池袋間不通などという。そして飯田橋以東が不通だとすると、火災は池袋巣鴨辺から牛込を飯田橋お茶の水あたりに抜け、神田、日本橋、銀座、新橋と南下して浜松町辺で海に達しているかと、大体推定される。そうすると、新潮社は焼けているかも知れず、銀座の種苗事務所は勿論焼けているであろうし、種苗協会の移転先として予定しておいた種苗配給統制組合も焼けたであろう。なお首相官邸崖下の文学報国会はどうなっているか。
それ等のこと確かめ、種苗については北京の本社と連絡する必要もあるのだが、身体に大事をとり、月曜までは静養することにする。この度の血痰は、正月頃から痰の出ていた胸部疾患によるもので、決して風邪ではない。正月頃種苗の話があり、光生中学の話があり、田居君の転勤前後から、実に多忙であった。この頃は田居家の受験生、上野山家の受験生、うちの礼の受験、嗣郎の死亡のこと等で実に無理をし、気管支と肺門とを大分悪くしたのである。昨日より今日はずっと痰も少く、血の混る量も少い。熱はこの三日間七度に達していないから、病勢が進行しているとは思われないが、一日安静にすれば目に見えて痰の減退する今、無理は何としてもしたくない。今の一日の安静は、身体を大きくこわして後の一月の安静にも匹敵することを私はよく知っている。
昨日河西君の姉が来、河西君はもう一人の姉について山形へ行っていたが姉が電話で事務所と連絡するのがうまく行かなかったと詫を言い、するめ、乾鱈等をおいて行った由。
今日昼頃安原俊之介君来る。小説の話、戦争の話、空襲の話、彼は妻子の疎開をなすべきだとしきりに私に奨める。君はどうだ、というと、私は疎開させる場所がないと答う。彼の手に入った相当に権威ある人の情報を聞いているうちに、やっぱり子供たちと貞子とを疎開させることに腹をきめる。
また滋が今日成蹊高校尋常科の入学志願者数を学校で確かめて来たところ、募集六十名に対して志願者五十六名しかなく、全員無試験入学だと受附の老人が言っていたとのこと。今年は入学試験が一回きりとなったので、どこも難かしそうな学校、たとえば都立などは少く、都立一中をはじめ、募集人員に満たぬ学校が多いという。そして二級か三級の学校は割に志願者が多く、相当の競争率になっている。皆大事をとって易い学校を狙っているせいである。成蹊もそんなわけで礼は幸にも無試験で入れそうだ。礼も貞子も私もすっかり明るくなり、喜び合う。これで、大過なく進んで行けば、滋も礼も帝大を卒業出来るわけで、あとのことは本人次第ということである。
それにしても市中はどんな様子か一刻も早く行って見たいと思い、明日でも行こうか、など言い出しては貞子に叱られる。
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三月十一日(晴 日曜)朝六・一 夕七・一 血痰なし 痰量少し
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貞子礼をつれて吉祥寺の成蹊高校へ行く。入学試験の有無を確かめ、教師に挨拶の為とて、三日ほど前に貞子が赤坂の興農公社にて特に出してもらって来たバター六ポンドを持って出かける。今日は痰少く、血は全く見ず。肩もこらず、盗汗もない。
階下の炬燵にて、種苗の仕事をする。隣家の主婦の話では、深川、浅草、江東一帯は一望焼野が原となり、広場に難を避けた大勢の人々が焼け死んだという。大正十二年の関東大震災同様の事態となったのだ。あれほど、疎開、防空訓練などと何年も騒いで来たが、こういう大規模の烈風中の夜間爆撃には、用に立たなかったのである。建物疎開をしたというが、一歩裏街へ入れば、軒を接した木造家屋で道幅は狭く、どうなるものでもない。疎開というものも形式、防空訓練の初期防火などいうものも、ほとんど形式に近いと思っていたが、果してこの始末である。もっともっと大規模に、予め市街を野原としておく程の建物除去をしなければ、この家屋の海原とでも言うべき東京を火から守ることなど出来そうもないのだ。最近の新聞では、政府の諸事に手遅れなことを難ずる投書や社説が多く、国家の危難に直面して国民はどのような命令をもためらわず行う覚悟をきめている。政治家がこの意気の昂まった国民を指導して非常手段をとりさえすればいいのだ。然るに、工場疎開、動員、配置の是正、飛行機生産等々悉く立ち遅れ気味ではないか、という苛々した口調のみが多い。東京都の防空対策、疎開等についてもそうである。私も仕事の上で分ったことだが、大東亜省、商工省、種苗統制会等、悉く市の真中にある。従ってそれに関係を持つ事務所はまた市内にいなければならぬ。昨年の夏頃官庁の疎開ということが喧ましく言われ、政府は先ずこれを実行して民間の事務所をも極力疎開させるという政府案があったが、事実はちっとも実行されていなかったのだ。
政治という大きな仕事は決して簡単においそれと行われるものでなかろう。協議、立案、会議、命令、伝達、実践ということは、今のように諸事がぎりぎりの力でやっと行われている時には、現状から動かすことは仕事の中止を意味するほど難かしいであろう。しかしそれを実行しなければ、決して戦争の政治ではない。先ず行われなくって国民を失望させたのは、工場の疎開である。数年前から決定的な輿論として、何よりも先ず工場疎開がとり上げられていながら、地下工場の設立などということが、東京、名古屋の飛行機工場が数回の打撃を受けて能率低下してしまった昨年末になってから委員会設置などと言い出しているのだから、どの程度のことか推して知るべしである。十二月に東京爆撃が始まった時、今の程度の爆撃で東京全部が灰になるには四年かかる計算だとうそぶいていた当局者があったと聞く。四年か、そんなら空爆というものは大して怖れる必要もあるまい、と思ったりもした。しかし敵はきっと基地を整備し機数を増して大爆撃をするぞ、と思っていると果して、十日一夜にして東京の東北部三分の一程度が灰燼となり、多数の死者傷者を出した。
すべて当局の手配というもの、今の状態が永続するという目標で行われているとしか思われない。昨年十二月敵がフィリッピンに地歩を占めて以来南方との海上交通は事実上不可能となっているにかかわらず、南方の農業開拓指導者募集の大東亜省広告が新聞に何度も出ている類である。
多少の空想力を働かせれば、東京の旧市内が焼かれてしまうことは分っていながら、市内の空家を工員の寮にするとか、商店の空家に統制会その他の事務所を新設するとか、みなこの類である。
貞子が成蹊の山西教授に聞いて来たところによると、山西氏は河出書房に出版の用があって、昨日行って見たが、日本橋辺は、三越が残っており、電車道の東京駅寄りは残っているが、その東側は全部焼けているとのこと。三越百貨店は無事のようだが、あの大きな白木屋百貨店は窓から火を吹いて燃えており、河出書房など、あとかたもないという。私の「得能五郎の生活と意見」や「青春」を出した出版屋であり、今雑誌「文芸」を出している河出が焼けたことは多少の感慨なきを得ない。しかし今の環境では大したこととも思われぬ。滋の話では、内務省、司法省と警視庁の一部とが焼けたと同級生が言っている由。それよりも貞子が電車の中で聞いて来たところによると、杉並区代田橋の人が、罹災者を一人、三日間泊めるように、今日急に町会から指令されたと言っていた由。また滋の同級生のある子の家は、荻窪だが、浅草の罹災者四人を収容することを命ぜられ、食糧の配給はなく、四人分の配給で八人をまかなわねばならなくなった由。空襲対策として、応急配布の食糧は十分に保存してあると前々から当局では言っていたが、いよいよとなると貯蔵倉庫が焼けるとか、配達員不足とかで間に合わないのであろう。世田谷区は下谷区の罹災者を受け入れることになっている由。
この隣組では石川家に本所の知人の罹災者二人来ている由。また窪田家では、深川にある主人勤務の工場が焼けた由。また窪田夫人の妹さん一家は浅草に住んでいて、その辺は焼けたのだが、今日にいたるまで何の消息も分らず、不幸なことがあったのではないかと気づかっているという。私たちの所は世田谷でも一番端になるので、今の所割りあてがない模様である。災害地では、火勢のため地が焼け、焔のために眼を焼かれ、倒れたまま焼死したもの数知れぬという。窪田氏の話では、災害地に較べるとこの辺は天国だとのこと。隣の畑に、持主の目黒の医師が立てかけていた三坪ほどの掘立小屋は昨日から人が来てしきりに建て急いでいる。トタン葺きの板一枚の壁の小屋だが、やっぱりこういう情勢では、いつ使うようになるか分らぬからであろう。
三月十四日朝記
十二日月曜日 痰も全く無くなったので、多少身体にだるさを覚えるが、朝外出する。銀座はほぼ大丈夫というから、事務所は残っているだろう。それにしても大分歩かねばならないと覚悟して出かけたが、駅でちょうどよく、窪田氏に逢う。氏の話を聞くのに、十日朝氏は、四谷までしか省線が通じないので、四谷から歩いて行った。九段の方が燃えているので銀座に出、日本橋から茅場町の方へ向った。日本橋から東の方はずっと焼けていた。深川の門前仲町(月島へ渡る辺)まで来ると、まだ片づけていない死体が街上あちこちに転がっていた。焼けるために屍体は裸となり、ふくれ上っている。地面が焼けるためか、足がやられるらしく、血の滲んだ足あとが数歩ついていて、その先にきまって伏せて倒れている。子を負った女の人が子供と一緒に死んでいるのなども多かったが最も悲惨である。たいていは五合か一升ぐらいの米を袋に入れて持っていたらしく、倒れているそばに米がきっとちらばっている。その米を、空腹なのか、外の罹災者が通りかかると拾って食べている。またその辺に知り合いの病院があったので、どうしたかと寄って見ると、患者で、しかも負傷して担ぎ込まれたらしい人たちが、そのまま何人か集って黒焦げとなっており、病院の人たちも死んだか生きたか分らない。この辺は先に建物疎開で出来た古材によって防空壕が割によく出来ていたが、そこに入って避難していた人たちは多く火気にまかれて焼死するか、又は逃げる時期を失って死んだらしい。月島などは北風にあおられると海へ入る外なく窪田氏の会社の寮が月島にあったが多数の死者を出し、僅かに海に飛び込んで泳いだ者のみ助かった。その人たちの話によると城東区辺では逃げ場を失い、橋の上に群れたまま焼死した人々が累々としているという。浅草、本所、深川、城東の各区では木造のものは、悉く一物も残さず灰となり、僅かに鉄筋コンクリート建のもののみ形骸を残しているに過ぎないという。
そんな話を聞いてから新宿まで出たが、省線は飯田橋迄ということなので、危ぶみながらも築地行の都電に乗ると、銀座まで運ばれる。途中四谷区麹町区辺には異状がないが、桜田門まで来ると、司法省とそれに並んであった大政翼賛会とが全焼している。事務所は無事。ややほっとする。
虎の門の大東亜省に行き、農林課を訪い、地下室で食事をする。農林課長は罹災したとて欠勤、他の役人たちも何も仕事せず雑談中にて、今日は焼あと見物に行くんだなどと、閑散なものである。皆浮足立っていて、仕事どころか、空襲の噂をしたり、疎開をどうするとか、荷物を地方へやったかなどと人の顔を見ると皆同じようなことを話し合っている。蘆野氏は牛込市谷にいるが、十日には市谷辺数千戸が焼かれ、附近まで火が来て危く免れたとのこと。
私は省線で東京駅八重洲口に出て見ると、先ず附近はコンクリート建を残して悉く焼け落ちている。コンクリート建のものも大部分は中が焼け、いまだに窓から火を吹いているのが、日本橋交叉点でも二三軒ある。白木屋は中が焼けたというが、火はおさまったらしく、窓から人が顔を出している。女事務員らしいのも見える。中を整理中なのであろう。その向い側の保険会社のビルディングはなお窓から火を吹いている。
東の方の茅場町方面から罹災者が次々と歩いて来る。たいてい男は洋服にゲートル、女はモンペの防空服装で、いずれも蒲団らしいもの着物らしいものの荷を背負い、手にはバケツ(それも防火活動に使ったので残ったのであろう)の中に茶碗やら焼け残りの鍋やら灰の中から拾ったシャベルの先のような金物類を入れている。一様に顔も服装もすすけて、汚れている。色蒼ざめて、歩くにも力の無い男もいれば、ぴちぴちと元気で三四人群れて喋りながら遊びにでも歩いているような若い女の群もいる。子供がその大人たちの前後をちょこちょこ駆けるように歩いている。子供は多く防空頭巾をかぶっている。
裏通りに入ると、焼け倒れた金網コンクリートの壁やら、こんなにも使っていたのかと思われる程に木の葉のように散乱しているトタン板やら、垂れ下っている電線やらに道をふさがれて歩きにくいところが多い。焼けあとの水道の水がちょろちょろ出ている所に、二三人家族らしいものが集って鍋を洗って何か煮ようとしている者もおり、中には、シャベルで何かを掘りかえしている者もいる。時々担架に怪我人か死人らしいのを乗せ顔に布をかけただけで運んで行く。大きな身体の老人が、丹前を着、顔は頭から片眼にかけて繃帯で蔽いをし、残った眼は赤くただれたまま剥き出しになっており、手も火傷らしく繃帯をした姿で杖をつき、とぼとぼと一人歩いているのがいる。
そういう罹災者と際立ってちがうのは、罹災せぬ都民である。たいてい洋服にオーバーをきちんと着て、例の誰もが携げている小鞄を肩にかけ、ゲートルを巻き、戦闘帽でどこか見てまわっているという余裕のある顔をしている。見物に歩いているのもおり、人を尋ねて歩いているのも居る。茅場町まで来ると、交叉点附近は左方はずっと焼け野原だが右方は残っている。日本種苗協会という、この前田居君と一度挨拶に来たところが全焼している。ここから左折して株式取引所の方へ行くと、大部分は焼けているが、取引所は残っており、その先鎧橋を渡ったところにある種苗配給統制組合とその附近一角は、海の中の島のように家屋が残っている。見舞に寄る。六七日前に寄った時に事務をしていた越部専務と、企画係の綾田氏とは応召したとて見えない。空襲やら応召やらで、仕事はまるで進んでいないようだ。残った人も浮足立っている。そこから先の、日本橋、深川、浅草、下谷、向島、城東等の各区は全滅だというが、見てまわる気もしないので、戻って新潮社に行く。
出版部の室も梅田女史と斎藤君がいるだけで、誰も出勤していない。
坪田譲治氏が来たので斎藤君と逢うと、長野県野尻湖畔に買ってある小さな家へいよいよ疎開をするのだが、今となっては荷物も送れそうもないし、困っているとのこと。もう一月ぐらいのうちに、東京は全部焼けてしまいますな、と坪田氏が言う。この日早目に家へ戻る。
首相の議会演説の一部〔以下は貼付された新聞切抜〕
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戦争の短期終結を焦慮する敵は或は近き将来に於いて直接我が本土を目指して盲進し来るが如き事態の発生をも当然覚悟して置かねばならぬ、即ち本土戦場を覚悟せねばならぬ、敵は比島、硫黄島等に於いて経験した我皇軍将兵の精鋭の前に懸軍万里、累戦積憊の余勢を以て果して何を企図せんとするのであろうか、若し夫れ皇土の戦場化するあらば、敵をして復起つ能わざらしむるの神機は正に此の秋にある、さればとて私は決して本土上陸を既定事実とするものではない。
太平洋諸島の上陸作戦に於て絶対優勢なる兵力を擁しながら如何に苦難の途を歩んで来たかは敵米国自らが克く体験した筈である、殊に況んや敵が長途本土侵冦を目指し如何に兵員物量の輸送に努むるとも本土に於ける我が決戦準備は厳として完整し、断じて敵の窺※[#「穴/兪」、unicode7AAC]を許さぬ、而も尚敵にして我が近海に来らば海上に之を撃滅するのみである、敵上陸を企図せば之を水際に於て海中に叩き落すのみである、又若し敵にして遂に上陸し来ることあらば我は鉄槌下の俎上に之を殲滅するのみである、加之敵を邀うる戦場は悉く之れ我が郷土たるの地の利と一面軍と協同して防衛に当るもの悉く之れ我が同胞たるの人の和がある。
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三月十五日
こういう非常の時になると、生活の変転が甚しく、考え合せる条件が種々になり、決断に迷う。しかしどの条件もさしてよいものではないが、あれこれと考える可能性もあるのである。
たとえば私一個人の生活でも、新潮社は、紙や印刷屋が焼かれれば、廃業するかも知れないし、或はまた機構のみを残して人員の解散をするかも知れない。私のように名目上の社員は、いつまで席があるか分らない。文学報国会は、急に廃することは無いであろうが、今の場所が焼ければ飯能あたりに疎開するという。そうすると、八高線の沿線であるから、同線の児玉にある峰岸君の所から汽車で通勤することも可能となる。種苗の仕事は時間の制約もなく暢気であるが、北支からの為替送金が大変窮屈なので、送金はいつ届くことやら、今では私の手もとの金によって電報をうったり、河西君の俸給を払ったりしている程だから、あてにならない。そういうことを考えると生活の基礎は、まことに不安極まるものとなる。世上しきりに噂され、小磯首相も「敵の本土上陸が近き将来に予定される」などと言っている今、何時どこにどう動かねばならぬかも分らない。私の推定では、大体今年の九月頃ではないかと思われるが、それまでの間でも、大きな空襲が一日おきにある現在、いつ被害を受けて、家屋や家財を失うかも分らない。
手もとに五百円か千円の金がないと、いざという時に困るであろう。
その点をどうすべきか。また家族を疎開させるについても、貞子と子供二人を北海道の貞子の家にやり、私の今の家に義弟の薫と英一を引き取り、今話が進行中の薫の嫁を急に定めて、家事を見させることにすれば、それでも東京の生活が出来ないわけでない。新潮社がないとすれば、文学報国会の専属職員となることも考えられる。そうしてこの家には弟夫婦をおき、私は埼玉県の峰岸君の所に寄寓して時々東京に来るようにする。
また場合によっては種苗の職員となって北支に渡ることも考えられぬことはない。東京の日本種苗配給統制組合の職員となることも出来そうだ。
東京に何時まで居れるか、また居て然るべきかということも考慮される。敵が上陸すれば関東地方が戦場となるであろう。そうすると敵が外房州に上陸して進撃して来るというのは常識であるから、私のいる東京の西郊一帯が戦場となること勿論覚悟せねばならぬ。
私たちは在郷軍人であるから、多分警備召集をされ、防戦をすることとなろう。この頃軍部の人たちは、敵が上陸するのは必至であるから、我々日本人は悉くゲリラ戦をやらねばこの戦は勝ち抜けないと言っているそうである。そうだとすると、我々は秩父や甲州の山の中に入って敵機の目をかすめながら、夜敵陣を襲ったりする生活をつづけることとなろう。今の生活から考えると、まだまだ空想の上だけのことであるが、思ったよりも早く、そうなる日が来はしないか。怖ろしいことのようでもあり、避けがたい運命のようにも思われる。こういう予想が当るかどうか。一つの想定として、今のフィリッピンの我軍の戦闘方法を考えれば、当然そういう風に聯想されるのだ。家族は地方に流離し、男という男は山塞に籠って戦うという、祖国を焦土としての戦闘が行われるであろうか。本当だろうか。本当にそうなるであろうか。
目に触れ、また耳にした罹災者の様子を書き留める。
飯田橋の駅で、十二日若い女が手に荷物を二つ下げたまま、どうしたのか号泣していたのを菊池氏が見たという。そのまわりに人が円く立っているのだが、誰も自分のことで一杯になっているこの頃の生活のこととて、進んで訊ねて手を伸ばしてやる人もない様子だという。私もまた京王電車の車中で、十七八の蒼ざめた太った教育もなさそうな娘が膝に大きな風呂敷包みをかかえたままじっと前を見ている眼に涙が盛りあがり、それをさりげなく拭っているのを見た。みなこの大空襲後のことである。
話によると東京の焼失家屋は十日のみで二十三万戸にのぼり百万の人が罹災し、死者は二万人であるという。名古屋は十二日朝の時は割に損害が少く三万戸の焼失、大阪は十二万戸の焼失という。
川崎君の話だが世田谷区の警防団員が本所、深川方面の災害地取り片づけに呼ばれて行ったが殆んど防空壕毎に中に死者が入っており、中をのぞいて、ああここは居ない、と死者のいない壕の数を数えた方が早いぐらいだという。
新潮社の島田君は姉が罹災したので入谷の方へ行ったが、空地毎に避難したまま死んでいるので、そういう場所に数百人ずつ群れている。露出したところは黒焦げになり、あとで裸になった所は、洋服屋の使うマネキンのような形で硬直しているという。その近所の防火用水濠には、何十人も死体が入っていて竿で捜すと、あとからあとからと出て来るのだという。
本所方面では老幼が多く先に避難し、若い者が防空指導の型どおり、あくまでも防火につとめた為死んだものが多かったという。老人が残って「指導者が悪い、指導者が悪い」と大声で叫び歩いているのを、社の島田君は見たという。
また社の日の出編輯長は、牛込へ越したばかりで、一軒隣まで焼けて来たので妻君と幼児とを連れて、十三日秋田に妻子を届けるため上野から乗車しようと行ったが、駅の中へは人を入れず、駅前の広い昭和通りに、何万人という避難民を幾列もにして並ばせている。その人々は多く怪我をしていて眼のただれたもの、顔の皮膚の剥けている者、繃帯して手を釣っている者のみで、凄じい風景である。皆気が立っていて、中年の女など鍋を一つ下げたような格好で何時間も待っているが、時に列を乱したり、よそから入ろうとする者があったりすると、何をっ、と噛みつくようにするという風であった。臨時列車が一日五本とか八本とか避難者用として出るのだが、その時になると、並んでいる列の先頭から何千人とかを限って駅に入れて乗車させ、あとはまた区切って待たせる、という風で、勿論切符など買うことはなく、また罹災したという証明書がいるわけでもなく、並んでいるものを、ただ機械的に次々と送り出すだけだという。
政府もいよいよ首都焦土化を、掛声だけでなく、現実的に意識して来たと見えて、特にこの二日間ほど再開された議会で、防空対策のことを言明した。国民学校の授業を停止すること、児童は三年生以上は強制的に集団疎開し、低学年は出来るだけ縁故疎開によって地方に送り出すこと、また罹災者の運輸が一通りすみ次第、都民の疎開を大々的に行い、老幼等は悉く大都市から去らせること、建物疎開を更に徹底的に行うことである。
大蔵省では緊急措置として省員を三分の一に減じ、多くの事務を地方庁に委譲し、幹部は省内か徒歩通勤可能の所に住わせ、家族は疎開することに決定した。東部軍では罹災者の中から一万人を軍属として募集し、日給四円の外被服等を給する旨の急告を出した。この二十日に行われる筈であった各中等学校の入学試験は廃し、申告書によって詮衡するし、それも不可能な場合は抽籤にするのだとのこと。そして入学前でも地方の学校への転校を許すという。
今ではあらゆる都民は本気になって疎開したがっている。恐怖を、本当の恐怖を感じて来たのだ。これまでは縁故先が無かったり、地方の配給条件が悪く闇値の物資で生活せねばならぬ等のことで疎開を諦めたり、また疎開先から戻ったりした人たちも、今度は一日も早く疎開したいと思っている。各区役所には疎開の申し込みで都民が列をなしているという。
私の所なども焦慮を感じているが、今の所、家がすぐ焼けるという憂はないし、それに礼の受験する成蹊高校尋常科は、外の学校とやり方がちがうから、或は試験をするかも知れず、それの結果と、薫の縁談の様子を見て、両方が都合よく運べば四月に疎開しようという予定でいる。隣家の高橋夫人など、敵が上陸するようなことがあれば、父君の郷里の岩手県一ノ関まで歩いてでも行くつもりで荷物だけ送っておくのだと言っている由。
三月十六日記
昨夜新潮社宿直、十日東京、十二日名古屋、十四日大阪と敵は夜間大空襲をしているので、昨夜から今暁にかけ、再び東京に大空襲あると予定され、私はすっかりその覚悟で、アノラックにリュクサック、スキイ帽という身ごしらえで出て、着たまま寝床に入った。天野君と二人、今夜はきっと来るぜ、と言って寝たが、遂に敵の来襲はなかった。
朝社を出て、薫の嫁の候補者なる海老原玉子さんが千田さんに連れられて朝日へ来るようにと手紙で約束してあるので、街へ出、柳の芽がややふくらみかけている街の朝を電車でお茶の水まで来たが、時間が早いので、本郷の焼けあとを見ようとして、お茶の水から本郷に向って歩く。順天堂裏へ出れば、あっと息をのむほどの、茫々たる焼野原である。この附近はコンクリート建築も少いので、残っているのは、トタン板と灰と石とセメントの壁の崩れたのとである。北風が吹いて灰が黒く、また銀色に舞い上って散る。北の方は帝大まで丸見えであり、北西は帝大正門前の片町辺一帯が焼け、東の方は切通し坂から上野松坂屋まで焼けている。更に松坂屋から省線を越えて東方は一面に焦土である。だから東京は帝国大学――お茶の水――一ツ橋――東京駅――茅場町を結ぶ線の北方と東方が悉く焼けたのである。その外に市谷で数千戸、麻布箪笥町、霞町で各数百戸が焼けている。外に巣鴨とか、本郷の北端の本富士あたりも焼けているという。煙草の配給は次の二十日の分から、東京附近は一日三本だという。倉庫か工場が焼かれたのであろう。
東京は三本だが、ベルリンは二本である。
私の「三人の少女」の再版を出すと言っていた「みたみ出版社」は手持の紙を悉く焼いてしまい、廃業して、農業に転ずるとか。また出版社の中では小山書店のように秋田に疎開して土地の新聞の印刷力に拠って仕事を続けるというのもある。新潮社は社の倉庫や外の倉庫に紙を入れているが、それが焼けるか、出資している富士印刷が焼けるかすれば、仕事が出来なくなるらしいが、そうなる可能性は十分で、疎開が手遅れになってしまったらしい。出版会は解散だという。出版会は一種の統制会で出版の企業整備や紙の割りあて、本の原稿審査等をして来たが、出版社と出版業務とが減った今では存在意義を失ったのだ。私が新潮社に入ったのは、出版会で企業整備をした時に、新事業体としての出版社は学識のある人間を企画に加えよという意向が表明され、その要求に応ずる為であったが、今やその出版会が無くなるのみならず、出版そのものの継続も危くなって来ている。「我々などうたかたのようなものですよ」と私はよく社の菊池君と帰りが一緒になる時など言っていたものだが正にそのとおりとなって来た。
戦況もよくない。硫黄島は敵が取りついてから一月になるが、すでに敵は島の南端から北端まで浸透して来て、我方の最後の陣地へ猛攻撃を始めた様子である。地獄とは正にこの島の今の様相のことであろう。よくもこの補給なく、樹木のなく、水のない岩だらけの島で敵の銃と火薬と火焔とを一月も支えているものと、神のような兵たちの働きを思う。日本の運命は、いずれも死ぬことにきまっているそれらの兵たちに支えられている。
敵はフィリッピン南部の大島ミンダナオの南端ザンボアンガに上陸して来た。またビルマでは中部の要地マンダレーへ敵が侵入して来つつある。フィリッピンでは我方は東方の山地に退避して、一面※[#「耒+昔」、unicode8024]し、一面防禦し、一面奇襲戦を行っている。敵はしかし次第に東方山地に攻め込んで来ている。
ロシア軍はオーデル河を渡り、ベルリン正面五十キロのキュストリンを攻略し、いよいよ正面からベルリンの総攻撃を始めた。
米軍と英軍またおしなべてライン河の西岸に達し、中流のボン市を占領し、ケルンに突入したという。一部はライン河を渡って橋頭堡を作った。
我軍は仏領印度支那に於て、フランスの裏切り行為を排して独立その防衛に当ることになった。東南支那海の制空海権が米軍にある今、これは当然の成り行きであるが、かつて対米英戦当初にマレイ、ジャワ、ビルマ等を占領した時の如き花々しさは無く、戦況全体の暗い見通しを強める一要素が加わった感がある。
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三月十七日記 痰全く無し 熱昨日も今日も夕刻六度五分[#「六度五分」に傍線]
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電車沿線の梅咲く。家のはまだ蕾なり。
敵空軍は十四日に大阪を焼いたあと、暴風に基地を襲われたとかで、二三日来なかったが、昨深更、つまり今暁一時、突如警報鳴る。北風が寒く吹いて冬の再来を思わせる気配で、危いと思ったので、すわと一同起きる。敵B二十九の編隊が南方洋上より北上中という情報である。二階の蒲団を下して毛布で包んだり、壁にかかっている外套類を風呂敷に包んだりして、いざという場合に持ち出せるように、階下の縁側に並べた。
電気ヒーターで暖をとり、火無しコンロに入れてある朝食に食べる雑炊を出して、皆一杯ずつ食べる。そのうち情報が敵機は静岡地区に入り西進し、中部地方に向っているというので、やや安堵し、やがて神戸市に侵入して焼夷弾投下をしているというので、安心して、また蒲団を二階に持ち上げて寝る。寒さひどく、懐炉を入れているのだが寝つかれず、また風邪を引いたかと、病弱の身体を思って気づかい、今朝は午前中寝ていたが、それがよかったのか風邪にもならぬ模様。
旧市内の人々はさぞ胆を冷したことであろう。十日の空襲によくよくこりたのか、十四日の大阪空襲の時にラジオで中部軍の情報を聞いた渋谷辺の市民は大挙して荷物をかついで代々木の練兵場に避難したという。昨夜など、風もあり、東京を狙ったら相当の被害を受けたにちがいない。
敵は六十機で神戸を焼き、今日の朝十時過までにほぼ下火になったというから、やはり相当の火事を起していると推定される。
昨年夏頃までは敵がどのような戦争の将来の予定を公言しても、あらわにそれを信ずるものはなかったし、また信じかけても、よもやと思うのであった。我方の抗戦力がそう敵の予定通り崩れるとは思われなかったからである。しかし敵が日本本土に上陸すると公言すると、我方は首相を初め軍人すべて、敵は本土に上陸すると思われる、我方でも言う。本土に敵が上陸する時が我方の勝利の機だという。危い言葉と思う。レイテ島に敵が上陸した時、これこそ敵撃滅の神機だと称して、成らず。ルソン島上陸の時またそういう言葉が新聞に多く現われたが、結局島の主要部は敵手に委ねて、ゲリラ戦をするというのがルソン島戦の実体であった。我本土においてそういうゲリラ戦をすれば勝ちうるという思想は危険だと思う。支那大陸のような、ロシアのような広大な国土を持っているなら知らぬこと、日本本土のような狭い国においては、隅から隅まで敵手にゆだねることになりはしないか。考えてそこまで来ると、この戦の結末は実に不安である。最後まで我勝ちつつありと称して、守るに尺土なきに到りはしないか。ああ、祖国の運命はどうなるのだろう。
チャーチルは、欧洲戦は遅くも七月頃までに片附くという楽観論を公言し、そのあとで日本を攻撃するのだと言っている由。また敵将ニミッツは、日本本土に上陸作戦を行うには、硫黄島の占領だけでは足りない。更に多くの基地を手に入れねばならず、その中の一部は支那大陸となろう、と公言した。人もなげな言葉であるが、彼等は実にこの戦についてすでに十分の成算を持っているかの如くである。
三月二十日
桃の木の北側に、深さ二尺五寸ほどの陶器の傘立てを埋め、その中へ、斧、小刀、電球、瀬戸物、鉄びん、金の目皿等を埋める。いずれも差しあたって使わないもののみである。
三月二十一日記 硫黄島十七日玉砕の発表あり
十八日夜敵は百数十機でまた名古屋を襲った。
二十日夜は東京だという予想が濃厚になった為、昨二十日、市中ではトラック、馬車、荷車、リアカー等、あらゆる方法で都民が荷物を運び歩いている風景が目立っていた。郊外へ、郊外へと荷物の列は続き、京王線沿線の甲州街道などその荷運びの車輛類でごったかえしているという。
その外、十日の空襲以後の緊急対策は次第に実現して来、大がかりな建物疎開の指定が下りた。たとえば省線の両側三十米の疎開、私鉄の両側二十米の疎開、堅牢建築物の周囲の建物除去等が昨日あたり言い渡され、すでに建物除去に取りかかっている所もある。そういう人たちの慌しい移動やら転出やら荷物運びなどの為もあって、ふだんならば電車の割合に空いている午前十時頃でも、省線、都電ともひどい混雑である。都電など、各停留場に乗れない人間が群れて残っている。
それに市内に特異な風景としては売り立てが色々な形で行われていることだ。料理店等では皿や茶碗等を売っている。一昨日か私も銀座の事務所のそばの小料理屋で茶碗類を三十円ほど買って来た。本屋では「疎開につき二割引」と書いて売っており、薬屋ではふだん売り惜しんでいたような薬品の名を貼り出していたりする。そういう場所にはまた買いあさる人が群れている。売る方は焼けぬ前に物を出来るだけ金に換えようとしているし、買う方は、品物の不足がちのこの頃、こういう機会に何か役に立つものを手に入れようとしている。
文学報国会へ行くと、ちょうど局長中村武羅夫が全職員を集めて話をする所だというので列席したが、戦局非常の時となり、会の場所も危険となったので、渋谷外の中目黒に事務所を移すということである。また生活条件が悪くなったのについて、一同の俸給も多少上げたし、年度末となったので賞与も出すということ。嘱託の私も五十円の賞与をもらう。すべて慌しい。
そして私もまた種苗の送金がなくて経常費に困るので、色々と考えた末、銀座の事務所を引きはらい、持主に托してある保証金と敷金三千五百円ほどを取り戻し、それによって当座を凌ぐことに決め、石田氏と逢ってその話をした。契約者は前任者田居君となっているので、それを言いがかりにして、渋るのではないかと心配したが、簡単に承知してくれる。二十三四日頃に清算することに約束する。この件、私のように実務に慣れないものは随分と心配していたのであるが、案外すらすらと運び、ほっとする。そういう交渉をしながらも、今夜でも事務所が焼けたら、支払いを渋りはしないかと、一日、一晩による情勢の変化が気になる。
新潮社の用で、大阪ビルに中野好夫を訪う。向うから、まだ出版されない「アメリカ人」の印税をほしいと言い出される。彼は勤務先の日本文化中央聯盟をやめて、収入は大学教師の方のみとなるので、ほしいと言うのだが、やっぱり出版社の被害の怖れ等も考えての申出だと思われる。木曜日に返事をすることに約束する。
社に行って、早目に家に戻り、夜にそなえて、二階にある大切な本や辞書や、電器用具、金具、大工道具などをいくつかのバター箱に入れて、階下八畳前の縁側に並べ、いつでも持ち出せるようにする。夜具の余分のもの、衣類行李等は前からこの室の障子のかげに並べて支度してあるのだ。今夜はきっと空襲があるからと、家内中、枕もとに上衣や外套を揃えて寝につく。
案外に何事もなく夜が明ける。
風は弱い南風で、晴れて暖く、雲雀の声があちこちにし、麦は青く伸びて来て、のどかな春季皇霊祭、彼岸の中日である。
こういう戦時下でなければ本当にうららかな春の来た気配であるが、鳥の声にも、萌える草、咲く梅花にも心が止まっていないようなせわしない日々である。
防空壕を掘って、板で屋根や壁をしっかり作ることをこの間から、早目にやろうと考えていたのだが、やろうと思うのだが、何となく身体がだるく、貞子に言っていない先頃の血痰が気になり、暇あれば寝るのが何よりと心をきめ、午後寝床に入っている。すると、階下に声がして義弟の薫、英一が、下宿先の武田氏の外、二人の学生の友人と一緒に荷車に蒲団やら衣類やらトランクやらを積んで中野からやって来る。二時間かかって来たが、途中のあらゆる街道は、荷物を郊外に運び出す人のひっきりない連続で、大変だという話。
夕刻までいて五人は戻ったが、その中の遠藤という学生が、堀留にいて先日の空爆で危く自家が焼け残ったが、下宿先を捜しているのだが、置いてくれないか、と薫を通じて言う。日本橋の方の問屋で、金持の家らしいという。そう言えばこの隣組などにもすでに罹災して何家族も入って来ているし、また室を借りたがって何処の家にも訪ねて来る人が多いとのこと。貞子と夜相談する。その最中、七時のラジオをかけると、硫黄島の我軍は次第に北端に退縮していたが、十七日栗林司令官が生き残りの数百人を率いて最後の突撃を行い、以後通信が絶えたとの発表が出る。私たちも子供もしんとなる。一ケ月持久してよく戦ったが、この枢要の島は遂に敵の手にゆだねられた。また九州と阪神地方を襲った敵の機動部隊は我航空隊の攻撃を受けながら、次第に南方に退きつつあるとの大本営発表もある。
戦は我本土の南岸にひしひしと迫って来ている感が深い。
貞子とまた家の処理について相談する。薫は結婚する相手も先日決定して、四月中頃には式をあげる予定でいる。貞子と子供たちが疎開すれば、薫夫婦と英一と私とで暮すことになるのだが、それにしてもこの家は五間あり、いずれ罹災者か強制疎開者を割りあてられるにきまっている。見も知らぬ人たちと同居していやな思いをするよりも、英一の友人だというその遠藤君一家に、階下の二室位を貸しておいて、私は洋間で暮し、英一と薫夫婦が二階にいればよいではないか、ということに、ほぼ相談きまる。
私はむしろ、四畳半の洋間に、畳を三枚ほど敷き、ベッドをおいて、一人で自炊生活をしたい。朝はそう急がないのだし、その方がどんなにのん気にやれるかと思うのである。
三月二十八日朝記 米軍琉球に上陸の由発表あり
もう久しく、十日以後、今日か今夜かと言われながら東京空襲はない。しかし十日の空襲の東京人に与えた影響は沈和するどころか、一層激しくなり、東京はごったがえしている。省線郊外電車の両側は三十米の建物疎開による強制立退であり、市内もあまり広くない牛込などのような通りの都電の両側では、家屋の強制疎開があり、家具類の運搬が思うように出来ない。期限は二十一日かに言い渡して、二十四日迄とか今月中とかいうのであるから、言わば追い立てである。家屋の外壁に※[#「○に疎」]と白墨で書かれた家はみな立ち退かねばならぬ。街路に家具類、商品の残り、障子、襖、商品棚、食器等あらゆるものを並べて、売り物と書いてある。箪笥、皿、冷蔵庫、茶箪笥、ドンブリ、椅子、テーブル、等あらゆるものが、無料同様の安値で売られているが、買う人もまたある。しかしたとえば箪笥など、公定では百円前後のものであるが、物資不足、戦時インフレーションのため、先月頃までは千円でも買えないと言われ、娘を持つ親など苦心して買ったことを自慢していたものが、急変して今では総桐製のものが、五円、三円という値である。今夜でも大空襲があれば悉く火になるという予想をみな持っているし、強制立退でない人たちでもそれを運べる範囲にいる人は、一種の恐慌状態で、一時も早く疎開し、身軽に現金のみを身につけていないとと思っている時なので、買い手は少いのである。郊外にいる者は買いたいと思っても、自転車のリアカーの運搬一日五百円、トラック一日二三千円と言い、自分で運びたくてもリアカーや手車をみな狙っていて車が手に入らないので、どうにもならない。
女も子供も、それでもどこからか荷車、乳母車、リアカー等によって衣類などを、あちこちと運び歩いている。トラックに家具、衣類等をうず高く積んで誇らかに運ばせて行くのは金持にきまっている。
私は何も買わないつもりでいるが、それでも先日銀座で料理屋のしゃれた茶碗類を二十枚ほど買い、代田橋では一尺五寸に二尺ほどの一枚硝子の戸棚の戸を四枚買って来た。これは電車のすいている時だったので電車に持ち込んで来た。苗床を作る材料である。外に二尺に三尺ほどの煎餅屋の竹製の平たい乾し籠を、滋と二人で二十枚買って、やっと持って来た。鶏舎を作る材料である。外に牛込で、純綿のカラー四本、切符なしのネクタイ三本、オムツカバー四つ等、いつの間にか色々買ったものだ。硝子戸は一枚二円、籠は一枚三十銭、カラーは一円である。何のために買うかと自分で思いながら、しかしあれば役に立つという気持が見すごさせぬ。
家族を北海道へやることも、二十五日に区役所へ行って三人の疎開手続をし、証明書をもらった。二十一日頃までつづいた戦災者の臨時列車による無料輸送は打ち切りとなり、疎開荷物と疎開者運搬が始まっているが、早くしておかないと、五月になるか六月になるか分らないからである。ところが、二十六日に荷物輸送の日附を定めてもらいに、駅へ行って並ぼうと思っていると、急に一般疎開者の荷物受付停止となった。建物除却〔ママ〕の強制疎開者の荷物輸送が多くなり、輸送が輻輳して来た為という。
郵便小包も停止となっていたが復活した。しかし大きい局でしか扱わず、朝の四時頃から並ばないと、受付数量をすぐ超過するという。それでも皆一貫目でも物を送ろうと並んでいるという。こんな風では我々の荷物などいつ運べるか分らない。
その間に、私は毎日歩きながらでも寝ながらでも、一体どうしたらよいかを思いまどう。北海道でも貞子の家は太平洋岸で、敵上陸については東京と同じように危険が感ぜられるし、海を渡っての往来が出来なくなれば離れていてたがいに心配し合うだろうと、貞子も渋る。私はまた一人での自炊生活も考えて見れば、今のような、いつこわれるか分らない身体では心配である。私の家は空襲には、東京地区ではもっとも安全なのだから、あわてるほどのこともないのにと思うと、一層渋るのだ。敵の本土上陸は房州だと言い、相模湾だと言い、四国だと言い、いや敵は短波でしきりに九州上陸を公言していると言い、北海道には必ず上ると言い、騒然たるものである。その波に乗って郊外の、この附近でも疎開騒ぎが多くなり、江口君の留守宅では遂に信州へ行くことになった。家は土地つきで五万円かで売れた由。もとは一万円もかからなかったもので、大変値よく売れたと言っている。それも今だから、この辺に市内から来たい人が多いのでこんな値だが、もっと急迫すれば、今の市内の建物のように無代同様になる、と知った風に言う人もいる。
誰も本当は、どうするのが最善か分らず、人の言葉、政府のやり方であっちに揺れ、こっちに揺れているのだ。
そのうちに、昨日の発表で敵が琉球諸島に上陸したことを知る。沖縄島の西南の小粒の石を並べたような慶良間列島へ上ったのである。敵は急速調でやっている。日本本土上陸のためには、硫黄島の外にいくつかの基地を得ねばならぬとニミッツは公言しているが、いよいよその基地獲得を推進したのだ。しかし大きな島は日本軍の抵抗多く、大兵力を要するので、小さな島を狙い、台湾などには上陸しない、というのが敵の常套手段である。
敵は本土を南方から切り離すことにほぼ成功したが、今度は本土を支那大陸から切り離そうとしているのだ。次にはきっと済州島へ上って朝鮮と本土との間を絶とうとするであろう。
この上陸の前の九州四国京阪を敵の機動部隊が艦載機で襲った時は、我空軍が出動して相当な打撃を敵に与えたが、別な機動部隊が琉球を襲ったのである。
太平洋西岸の日本の海上勢力圏はこうして寸断されつつある。サイパンを奪われ、フィリッピンを奪われ、硫黄島、琉球を奪われるという風に敵の包囲圏は次第に本土を肉迫し、本土を裸にし、孤立せしめつつある。
しかし本土への敵上陸は、決して簡単には行われるものでない。欧洲が片づいて、米英の陸上大部隊を輸送するという順になるだろうから、少くとも今年中は敵は日本本土にはとりつけないであろう。そしてその時は、本土のどこへ来るか分らないのだから、今からそれに備えてあちこちに逃げまわるのは行き過ぎだと思う。私は家のこと家族のことを色々考えたが、私も貞子も子供たちも弱い。でも四人で雑用を分担して気を揃えて働くと小さい子がないので割によく家事がやれる。四人揃っている方が、人手の無い雑用の多い今の戦時生活には有利なのだ。とするとあとは空襲の危険のことだが、それは、ここにいてもさして大きいと思えない。そんな風に考えて私は次第に貞子と子供たちを田舎へやらなくてもいいと思い直して来ている。荷物だけはしかし出来るだけ分散して身軽になりたいので、衣料疎開はする。その程度でよくはないか。
またこんな風に気持が変って来た。礼は入学したが、一年間休学させる。学校へ行けば勤労だけだからきっと身体に無理となる。家にいて貞子の手助をしながら身体を楽にさせておく。滋は、近く行われるという穎才教育を受けられる見込みがある。その為にも彼はしきりに東京に残りたがっている。
薫の結婚の件、ほぼ決定する。一昨日、向うの父と世話役の千田君と四人で逢い、十日過ぎにどこかの神社で式だけをあげて同棲ということに約束する。
種苗の方は事務所立退に決定、三鷹の田居君宅へ移すことに本部から指令あり。敷金保証金として二千九百円を受けとる。これで当座の資金が出来たわけである。私から種苗へ河西君の俸給等五百円貸となっているのが戻って来た。大東亜省の旅行証明をもらい、河西君に北海道行の切符を買わせた。朝五時から上野駅に並び、午後二時まで待ったが、すぐ前で売り切れて買えない。軍公用の人のみでこんな風だから、今の乗車難は実に深刻なものである。困っていたらちょうど浦和から北海道までの切符のいらなくなった人があったとて譲ってもらった由。しかしそれは二十三日発行のもので二十九日までの期限である。今日明日のうちに乗車せねばならぬ。
急に昨夜から北海道行の支度を始める。持てるだけの衣類を運ぶのである。チッキは見込なしとのこと。空襲があれば、またすぐ戦災者輸送で旅客は乗れぬのだから一日でも早い方がよい。急に行くことにする。
大成出版社から来書、十日の空襲で手持の紙全部を焼き、仕事出来ないので、約束の出版は当分延期してくれとのこと。これは前に書きかけの原稿に足して書けばよいし、子供の頃の思い出で気の乗った仕事であったが、これで終りだ。実業日本社も焼け、「爾霊山」の原稿の件も見込なし。これは気持が進まないので、やめになってもよい仕事だ。ところが一昨日急に、これはまた忘れていた「雪国の太郎」の再版がほぼ出来たからとて検印紙五千枚持って来る。思わぬ収入が八百円ほど入ることになる。しかし空襲があれば一夜で灰になると金もとれないので、昨日大急ぎで行って検印引換に金をほしいと言うと、明日にしてくれとのこと。四百円払うという。すべて空襲の来ない、今の条件のうちに万事を片づけたいというのが今の東京生活の焦躁感の原因である。あわただしいことだ。電車は立錐の地ないほど混み、ラグビイでもするような勢でないと乗れない。
支度や仕事の片づけで今日は多忙。これで日記もしばらく書けまい。
ノートもこの冊の終りとなった。今後はこのノートでなく、ルースリーフでその時々に書き、あとで綴り合せる方法にしようと思う。
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[#2段階大きい文字]昭和二十年四月
四月十日
三月二十九日に東京出発、北海道に行き、四月七日戻る。
この間に米軍は、フィリッピンから前進し、我方の大基地なる台湾を飛び越して、沖縄島への上陸を開始した。沖縄から東京への距離が千二百キロ前後で、硫黄島と同じ位であり、またここは、九州、台湾、上海、朝鮮南端の済州島を六七百キロの距離に持つ扇の要に当る所である。これ等の諸地点は、この島が敵手に陥れば、常時敵の航空威力圏内にあることとなる。本土と朝鮮、本土と支那、本土と台湾の連絡は困難となるのだ。祖国日本はこうして、その内懐まで敵の侵入を受けることとなった。
二十九日出発の時の切符を買うために、河西嬢が大東亜省の旅行証明を持って二十五、六と二日間上野駅に朝から並んだが、軍公用の証明を持っているものだけでも数百人もあって、どうしても買えなかったが、ちょうど浦和から札幌までの切符の不要になったのを持っている人があって、それを譲り受けたので、やっと出発することが出来た。
三月の十日以後、敵の目標が沖縄に変ったため、敵機は専ら九州方面の我が基地の襲撃を繰り返していて、東京はずっと平穏であった。そのため、十日の大空襲の被害者、百万と号された人々の無料運輸がほぼ片づいていたので、どうにか、こうして切符によって乗車することが出来るような程度に秩序が戻っていたのである。
午後三時半の汽車に乗るつもりで朝早くから支度をし、九時に上野駅に着く。中型の行李に一つと、リュクサックに一つ、着物や洋服を疎開するために持参した。重いので、上野駅まで礼に手伝わせる。洋服も北海道に脱いで来るつもりで二着身につけた。上野駅の雑踏の中で午後三時まで待ち、改札となったので、前から三十人目位にいた私は大丈夫坐れるものと思い、重い行李を携げて汽車に駆けつけると、もう座席は満員、通路にも人が立っているというありさまである。どうしたのか分らないが、考えて見たら狡猾な連中が、その時間前の秋田行とか仙台行とかの時に改札口から入ってこの列車に乗り込んでいたのである。私は猶予ならずと思い、三四人立っているデッキに押し入り、その一隅に行李を立てて腰かけ、やっと場所を見つけることが出来た。そのあとからあとからと客はみな大きな荷物を持って詰めかけ「もう一人だ、詰めてくれ」「真中辺があいているじゃないか」「そこの入口からもっと中へ入れないのか」「荷物があって入れないんです」「諸君、自分だけが楽な旅をしようとする者は時局をわきまえない奴は出てくれ」と言うものがあり、騒然たる中を出発する。以前は急行十六時間で青森に達したのであるが、今は急行廃止のため二十二時間を要し、それも遅延にきまっていて、翌日の夕刻やっと青森に着いた。船も一船遅れ函館からまた同じように混雑する中を、三時間を費して野田生に着き、それでどうやらほっとする。
これで三月末の旅行としては順調に行った方である。敵機は専ら九州沖縄方面に力を注いでいるので、東京に大空襲なく、従って罹災者の大量無賃乗車も三月十日の空襲以後一週間ほどで終り、やや安定した状況であったからである。
しかし三月三十一日に北海道へ出発した仲川翠君に小樽で逢って聞いたところによると、この日は凄惨な混雑であった。東京の二十日頃から始まった大規模な建物強制疎開が三十一日期限で、この日にはどうしても立退かねばならなかった人が多いためであろうが、ホームは人で一杯になり、荷物を持っていては身動きも出来ぬので、みな荷物を棄てて汽車に乗った。荷物がホームに一面に転がっているばかりでなく、赤ん坊の踏み殺されたのを二人見たということであった。こういう旅行では殺気立っているからどんな無理な姿勢をしていても気分の悪くなるようなことはないが、困るのは排便である。男は窓からしたり、デッキのドアの開くところではそこに立ってしたりするが、女はどうにもならない。汽車が停車する毎に窓から出て駅の便所へ駆け込んだり、中には車輛のつなぎ目の幌の所にしゃがんでしたり、又用意のよいのは空き缶のようなものを席の下に忍ばせていたりする。子供の大便は紙にとって座席の下に押し込んである、という始末だ。
野田生で義父母に貞子と子供等を疎開してこちらによこす話をすると、同居でよいならば、いつでも来いということ。塩谷で母や弟にその話をすると、貸家が一軒あけばよいと思い待っているが、なかなか空かないので、狭いが、来たいのならいつでも待っているということであった。札幌に行き、北海道種苗会社にて除虫菊種子の件を相談し、華北向輸出に対して大量の余裕ありとの話があったが、汽車の運搬は極度に不便で、船で新潟経由送る手段もあるが、それも容易でない等の話があった。これで運輸困難の大体の見とおしはついたので、用向はすんだわけである。
四月三日夜塩谷の弟の家で、旧友の菊池君、沢田君と弟と酒を飲んで話をしているところへ東京の川崎君から電報あり、「三鷹の田居家罹災すも人無事」ということ。この日昼小樽の潮見台に田居君の実兄川崎喜代治を訪うて、氏の保管する田居君の塩谷にある畑を弟に借りさせる件の話を進めていた。翌日朝早速小樽に行き電報の件を知らせる。氏の所には知らせなく、驚く。多分田居君の家は二軒ともに焼けたのであろう、という話になる。そうすると、私の所に避難することになっている故、急に私が帰って確かめることとなる。私は翌日五日朝馬鈴薯の種子五貫目を負って塩谷を立ち、野田生に一泊し、薫の結婚式が十日すぎにあるので、その為に使う餅米や他の色々な食品を行李に詰め、重い荷を持って出発、漸くの思いで東京に七日朝着く。
その七日午前に百数十機による大きな空襲がまた東京西部吉祥寺方面に加えられた。それを過して午後田居家に行くと、二軒の家のうち母君のいた新しい家が全壊同様となり、旧い家の方は無事にて一同そこに住んでいるが、田居君が八日加古川の部隊に召集されているとの報を聞き驚く。彼は昔近衛に入営していたが胸を患って除隊となり、昭和十四年頃は召集があったが、その頃カリエスの疑いがあってこれも即日帰郷となった。今年四十二歳である。
彼と私は、まさか我々が召集されることは、ここ一年位はないだろうと話し合っていたものであった。それが、こうして召集されたのであるから、彼も家族も友人も悉く意外であり、夫人は北京あてに電報したが返電なく、入隊は八日までであるからと、大変気を病んでいる。
それで私が改めて彼と北京の華北種苗に電報をうつやらする。私は旅行中にまた風邪をひいたらしく、痰と咳が出て、どうも身体の調子が悪い。先月の風邪の時のように血痰は出ないが、しかし、やっぱり胸に故障があって、それが風邪の形で外部に現われるのだと思う。無理をしたくない。十貫以上の物を運んだ旅行で相当に疲れている上、田居家の用で夜遅くなるので心配する。
翌八日は当真君が来て、彼の郷里沖縄にはいよいよ敵が上陸して来たので、父母や弟妹のことが心配だという話をし、また安原俊之介君が急に昨日死去したという。彼は毎朝寝床の中で原稿を書く習慣であり、その後で冷水摩擦をするのだが、その最中に脳溢血を起して倒れたのだという。その通夜があるとて、夜真暗な中を出向く。以前ならバスで十分ほどで行けた所だが、バスが運転休止であり、新宿まわりの電車でも一時間余はかかるし、夕刻はそちらがひどい混雑なのだからと思って歩くと、途中暗いので路に迷い、一時間半も費してやっと着く。一時間ほど坐り、夜中ひどく疲れて帰る。自分の身体の調子が一度こういう疲労の重複で大きく破れ咯血でもして寝込むことがあれば、その後は恢復が難かしくなり、今のような薬品も営養物もない時代で生活が身体をもってものを運んだり、乗物なしに歩かねばならぬことのみ多い時代では、身体をこわしたら生活は行きどまりである。
旅行に続くこういう事件、空爆、応召、死亡と重なってどれも抜きさしのならぬものであり、動かずにいられないが、動くということは今の私の身体には恐るべきことである。
四月十八日
今日は義弟薫の結婚式のある日だ。三月の末に私が北海道へ旅行に出かけてから今までの東京の変化、日本とドイツをめぐっての戦争の深刻化は戦慄すべきものである。
ドイツはもう駄目だ。米軍は三月中頃ラインを越えて西方からドイツの内臓に突入しはじめたが、もうその頃からドイツの組織的抗戦力が失われていたのか、その進撃は凄じく、すでにエルベ河を越えて、ベルリンへ百キロほどのマグデブルグ附近に達した。東方のロシア軍は二月頃ベルリン東方七十キロのオーデル河畔キュストリンに達していたが、その後大きな攻撃を行わず待機している風であったが、米英軍の西方よりの急進撃に呼応して、オーデル河西岸から進撃しはじめ、すでに昨日のラジオによれば、ベルリンへ四十キロの所に達したという。ベルリン南方地区においては、百三四十キロの距離で東方のロシア軍と西方の米英軍が握手しようという形になっている。米英軍総司令官のアイゼンハワーは「すでにドイツ軍の組織的戦力は失われた」と言っている。ドイツは崩壊の一歩前である。在留邦人記者の、今のドイツの状況を報ずる記事など惨として身にせまるものがある。今朝の新聞にはヒットラー総統の東方戦線軍人に対する布告がのせられているが、これも、この英雄の発する布告の最後に近いもののうちの一つではあるまいかと、身にしみて読まれるものである。
日本は、九州、台湾、朝鮮、北支をおさえる扇の要となる沖縄を敵に攻撃されている。敵はこの島の飛行場二つを占領した。しかし日本はこの度こそ、本格的に敵を海上に迎え撃っている。レイテ島に敵が取りついた時、海上の敵を飛行機、特別攻撃隊によって殱滅し得て、勝利を把握するという確信のもとに、日本はその所有する航空機の全能力をもって敵の艦船を攻撃し、相当の損害を与えたが、日本は遂に飛行機の補充がつかず、敵は沈められても沈められても艦船を補い足して、レイテ島を占領し、更にルソン島までやって来た。我軍は敵の艦船の数だけの特別攻撃用の飛行機が無かったのである。レイテは天目山だ、勝敗の決だとあのように政府も言っていたが、遂にこの戦は我方に於て失われた。
敵が硫黄島までやって来た時、我方は陸上でこそ執拗に頑張ったが、飛行機による特別攻撃隊は出なかった。つまりそこを決戦場と見なさなかったのだ。
しかし沖縄はちがう。この島に於て日本はたしかにその国の運命を賭しつつある。取っておきの航空兵力を総ざらいに持ち出し、精兵を挙げて空中と海中の特別攻撃隊員として注入し、敵の千四百隻という艦船を片はしから撃沈して行っている。
敵の大型艦四十隻を十六隻にまで減少させた。敵は二十日現在約十万の陸兵を上陸させたものと見られ、その補給に次第に困難しているらしい。
絶好の機会だ、いま一押しだと、新聞は書き立てている。我方の特別攻撃隊の攻撃は三次まで続いて強行され、その成果は二十一隻あった敵空母を四隻にまで減少せしめたという目ざましいものである。
ここで敵の海上兵力を撃破し去らなければ、我方はその時こそ危いという外ない。敵はここを足場として支那に、我本土にと手を伸ばして来るにちがいない。
敵が本土上陸の危険あり、その為に備えよ、とは政府や軍当局の声を大にして言っているところだ。全国民を国民奉公隊として地区別に組織し、敵近接の時は、その中の戦い得る分子によって戦闘隊を組織して軍の指揮下におく、ということが小磯内閣の末期から新しい鈴木内閣にわたって計画されている。
そうだ、政変があったのだ。かつて敵のサイパン上陸を機に東条内閣がやめたように、小磯内閣は、敵の沖縄上陸を機として総辞職した。ほんの数日前に小磯首相は、敵本土にせまれば、これを水際に撃ち、上陸すれば全国民特攻隊となってこれを殱滅すると議会で公言した。それなのに、敵が沖縄に上陸したとてすぐ辞職するようでは、政府当局は何を目あてに政治をし、人民に対して言説を公けにしているのか、まるで分らない。政変というものの本質がどうにも分らない。政府が変ったとて行政の末端、戦争の現実、生産の形相は変らないのだ。ただ何やら上層部の意見の相違というようなものの移り変りが推定されるのみであり、人民としては、そんなに政治や戦争が拙くなって来ているのかと不安を覚えるのみである。戦いの中の政変というものは、どうも悪い影響のみ数えられることだ。
東京の生活はひどい急迫したものとなった。二日の夜間爆撃では、吉祥寺や三鷹辺がやられた。七日私が帰京した日には昼間にまたその辺を襲った。
十二日は薫の結婚について、私が結納に五百円を包んで持ち英一と二人、京成電車で葛飾区の荒川べりにある海老原家へ出かけた。その途中で急に空襲警報になり、最後の一駅を歩いて到着した。
やっぱり敵機が百機で帝都西方の工場街を襲い、五十機で福島県の郡山を襲った。
こういう工場街の空襲は損害は事実上大きくても私たちの目にふれることは少く、田居家がやられた時など、附近の小型の住宅が軒なみに爆撃のために前にのめったり、屋根が波形に崩れたり、屋根の中央がはじけて大空となったりしていたが、こういうことは、爆撃でなくても、建物疎開のため到る所東京では見られる。ことに今度の建物疎開は、期間が一週間という急激さなので、とにかく家屋の壁を一応こわし、あとは綱をつけて何十人かの人で引き倒すのであるから、あちこちに家がのめり倒れているのが電車道の両側に毎日眺められる。爆弾による空襲は、さして大きな損害を、日本家屋には及ばせそうに思えない。しかし火災は違う。
それが十四日夜に大規模に百七十機という数で行われた。三月十日夜の烈風の中の東京東部の空襲よりは少し被害が少なかったが、主として山の手を狙ったこの夜の空襲は、省線電車の大部分を不通にし、これまでほとんど無疵であった山の手の町々を大きく焼き払った。四谷の半分は失われたという。麻布の霞町、牛込の神楽坂から江戸川べりにかけて、新宿の駅前、高円寺と阿佐谷の間、中野と東中野の間、それから板橋、滝ノ川等は最もひどい損害だったという。私はその翌日新宿まで出たので新潮社が焼けたかどうか気になったが、都電、省線共に不通だし、まだ痰が多く、身体がだるくって、いま無理をすれば、きっと身体をひどくこわしてしまうと思ったので、やめて家に戻った。罹災民が電車の中にあふれ、焼けた鍋や、焦げたふとんや行李などを持ち込み、けわしい黒くすすけた顔をしているのが目立った。この夜は宮城、大宮御所、赤坂離宮等の各一部にも御被害があったが、敵は故意に明治神宮を狙い、あの森の中の神社の御本殿と拝殿を烏有に帰せしめた由。どうもやり方があくどい。この被害がまだ何とも片づかぬうちに十五日の深夜にまた敵は二百機で京浜地区蒲田、品川、川崎、横浜等を襲った。東海道線は不通となったまま二十日現在もまだ駄目らしい。我方の邀撃戦果も大きく、十三日には四十機、十五日には七十機を撃墜している。
だがこの二回の大きな夜間空襲は、三月十日以後更に深刻な変貌を東京に加えた。もういたる所が焼けているという感じとなった。残った町々も明日か明後日には焼かれるであろう。疎開を申請しても、疎開者か罹災者が殺到している為、いつ自分の順が来るか見当つかず、それを待っているうちに、荷物は駅や自宅で焼けてしまい、着物も寝具も失った、という人が数限りなく出て来ている。一方には建物の強制疎開でこれまた疎開に優先的扱いを受ける権利を持ちながら、うまく田舎へ出て行けず、残った近所の知人宅などに荷を持ち寄り、そこで焼かれた人たちもいる。誰もみな仕事どころではない。荷をかついだり、電車に持ち込んだり、荷車で運んだりしている。
もう誰も机や椅子や箪笥などを考えもしない。寝具と着物と穿きものと傘、それに鍋や釜や庖丁等の台所道具という風に貴重品の種類はきまってしまった。それだけのものが運べないのだ。移って行く先が無いのだ。
また私の所など、薫の下宿松岡家や同宿の学生たちの荷物、田居家のふとんや荷物、前に家を手伝っていた森田さんの小母さんの荷物、児玉医師の荷物などで、大量な疎開荷物が来ている。四畳半の洋間はそれで一杯になっている。それに百田宗治氏の荷物も来そうである。またこれ等の人々が罹災すれば、ここへやって来るであろう。そういう予測もあり、それに私たちの疎開もあって考えて見ると、どうすればいいのか見当つかぬ有様である。
近所の人たちはこの分譲地を買ってみなこの二三年のうちに家を建てて越して来た人が多いが、その半ばはもう疎開して行くことになっている。これはこの辺は東京も最も安全なところではあるが、皆敵の上陸により東京が戦場となることを予測してのことなのだ。するとまた旧市内にいて焼かれた人や焼かれる危険のある人たちがその後を買ったり借りたりして入って来る。目まぐるしいほどである。江口君は正月に応召したが、母君の意見で信州へ疎開することになり家を売った。一万円ぐらいで出来た家と土地が六万九千円になったという。値がよいので、金にしようという人、買っておけば戦後更に価値が出ようという人、様々であるが、人ごとではない。私自身も迷っている。家が焼けるとして土地だけ残っても一万六千円で買ったのだから安いものだとも言えるし、また今のうちに現金五万円ぐらいにしてしまい、それを持って一家揃って北海道へ移ろうかと思ったりもする。また薫が結婚すれば、貞子と子供たちを田舎へやり私は薫夫婦と英一君とでこの家に当分いようと思ったりもする。
貞子は子供と北海道へ行くのもよいが、東京が戦場となるか北海道が戦場となるか分らないのに、私を残して行って両方で心配し合っているのもたまらないと言い出す。それに実際問題として、罹災者、建物疎開や老幼疎開による優先扱いの人たちが沢山いて、一般の疎開者には、いつ順が当るのか見当もつかず、荷物を送ることが出来ない。一人三個送れたのが、今では一家族三個しか送れないという風に輸送は日毎に悪い条件になって来る。出しても駅で焼かれる心配もある、という風で、一体どうすればよいのか分らないぐらいである。
こういう空気の中で、ともかくも薫の結婚式は十六日に挙げることになったが当日薫と私と、薫側の社の招待客三人などが、大宮八幡神社で待っていたが、嫁側は遂にやって来ない。十三日の空襲以来京成電車は不通になっている為らしいが、電報も不通で連絡はとれない。その日はこちら側の客のみを私の家に招じて食事を出した。私が北海道から持って来た烏賊の塩辛、コナゴの佃煮、杉沢がどこからか手に入れて来た羊カン、卵、貞子が昔の蜜柑の缶詰めで作ったお菓子、鶏肉の混った甘煮、乾柿入りの膾、舞茸の吸物、新竹の子の向付等に赤飯という馳走で、貧弱なものだが客は山海の珍味だと言って賞味する。帰りにするめ二枚ずつを持たせる。とにかく、今の東京ではこれが大変な馳走であることには間違いない。もう戦争がすむまでは食べられないなどと皆が言う。
翌十七日やっと英一が向うの家に行き連絡し、十八日に嫁と嫁の一家がやって来て、神社で簡単に式をあげ、私の家で一昨日の残りで食事をし、それから和田本町にある私たちがもといた家に薫夫婦が落ちついた。
四月二十六日記
昨日私は高輪病院で当分の絶対安静を要すと言われた。胸部の病症進行中なのだ。
ベルリン市中にロシア軍侵入して、その半ばを占領した。ベルリンの南方では東方からのロシア軍と西方からの米軍とが合流し、ドイツを南北に分断した。ヒットラーやゲッペルスはベルリン市内に残って防衛軍を指揮しているというが、すでにドイツはその断末魔に迫っている。今後の抗戦はゲリラ戦によって続けるという新聞評論が述べられているが、近代戦においてのゲリラ戦争などは警察取締りの対象に過ぎない。ドイツは、少くともナチス党とヒットラーは降服しないであろう。しかしドイツは屈服したのだ。米英とロシアとは欧洲をほぼ平定した。欧洲は彼等の分割政治にゆだねられるであろう。
日本軍と米軍が本土の南方沖縄本島の攻防戦を開始してから、一ケ月になる。一次、二次、三次、四次と最近まで我方の特別攻撃隊は敵艦船を海上に大量に沈め去った。敵の犠牲も大きいが、その間になお敵は補給を強行して兵器、兵員を陸揚した。最近の傾向では艦船はあまり島の近海にやって来ず、敵が手中に入れた島の中、南の二飛行場を整備して、二百機の陸上機や艦上機をおいているという。敵は地歩を固めて来たのだ。こうして制空権が敵手に次第に帰せば、レイテ島でそうだったように我方の不利は日一日と濃くなるのではないか。沖縄戦については敵を海上に殱滅する無二の好機として我方楽観説、少くとも戦局好転説が多い。しかし、じりじりと敵はしがみついている。制空権さえ手に入れればという調子で頑張っている。その上欧洲の情勢を考え合せれば、将来を明るく思うことは私には出来ない。敵は今では世界中の船と軍艦とを持って来てこの一小島の戦に注入することだって出来るのだ。
そして東京は焼けた。三月十日に東部の四分の一を焼かれたが、四月十四日には、本郷、板橋、豊島、淀橋、神田、王子、四谷、大森、荏原、品川、等の各区の大半が焼かれた。上野から山手環状線に乗って走って見ると、新宿に着くまで十一駅の間左も右もおおよそは焼け野原であり、石垣や門や、トタン板や煙突などが地面の高低に従って白く赤灰色に残って、どこまでもどこまでも延びひろがっているのみだ。およそ大東京の半分以上は烏有に帰したものと思われる。今日の各新聞に初めてその被害の大略のことが発表された。
そういう渦中にあって私たちの考、立場はまた刻々に急激に変化する。
疎開ということを人々は今では焦眉のこと、生命に関することとして真剣に考えている。三月十日の夜間空襲の大きな数の死傷者のことは、巷にひろがっている。今でもなお隅田川には次々と屍体が浮き上って来て始末し切れずにいるという。そのため、それ以後の住宅爆撃を受けた人々は家が焼かれるのを積極的に防ごうとせず、専ら荷物を持って逃げ去ることのみを考えるようになり、十日のような烈風時の空襲は無かったのに拘らず、被害は次々と大きくなって来ているのが実情だという。
電車の中で一人の老婆が言っていたが二月頃B二十九の残骸を日比谷公園で展覧した時に、その説明書きに、今の調子で敵が空襲しても東京を焼け野原とするには四ケ年かかると言っていたが、政府の人たちも本当のことが分らないのか、私どもを安心させようとして気休めを言うのか、こうして二月ぐらいのうちに東京が半分しか無くなるのを、私たちは知らずにいましたよ。もう一月もすれば東京がすっかり焼野原になりますね、恐ろしいことですよ。
これが今の東京人の実感である。焼け出された人の話を、あちらでもこちらでも聞く。新潮社も三月に入ってからは専ら火事防止のため倉庫に紙を運び入れたり、事務所や倉庫内を整理したり、酒造り家の大きな樽を買い込み、水槽として裏の庭に埋めたり、社員が毎日のように日当十円宛で勤労奉仕をしている。ところが四月十三日に、山の手一帯を焼かれた折、火は飯田橋の駅附近から江戸川と神楽坂とに沿って矢来町に向い赤城神社の近くまで達して、神社もその裏手の楢崎氏の宅もともに焼けてしまった。私がよく遊びに行った家で、この十日かも二人が社に宿直した翌朝のこと二人でその家の玄関わきの室で味噌汁を造って食べたのである。氏の宅は正月頃野田町に疎開してしまっていたのだが、まだ夜具とか本が大分残っていて、トルストイ全集とか鴎外全集とか鏡花全集とかをこれから運ぶのだと言っていた。その家が二日ほど後にはもう焼け野原となってただ灰と石と瀬戸物のかけらとが残っているばかりだ。
神楽坂など食物屋、酒店、金物屋、本屋等馴染みの多い店々がどれも形が無くなり、どこか知らぬ国の岡の斜面にある昔の遺蹟のように石の門だとかコンクリートの階段だとか、鉄の焼けて曲った板などが散らばっている。人々はなおあちこちの焼けあとをあさって鍋やバケツの焼けこげたものを拾い集めている。焼けるというのは怖ろしいことだ。人が生活する室、眺める壁、扉、人の気持の残ってからまっている屋敷の風情、庭園の印象など悉く幻のように失わせてしまうのだ。何も残らない。実に大地と、その外には木と紙と壁土の灰に化したものが堆積して石と鉄の残った骨のようなものを埋めているのだ。生の、新鮮な東京の遺蹟も古代のトロイやポンペイの遺蹟も同じことなのだ。
そういう急に出来た灰に埋まった失われた都市の中を、電車が二三日すると復活して走っている。人々が歩いている。みな平気な顔をして、火災を語り敵機の暴虐を語り合っている。
人々は火災で生命を失うことを怖れ、また爆弾を怖れ、また手に入れることの出来ない夜具、傘、衣類、鍋釜、等の失われるのを怖れて一日も早く田舎へ疎開したがっている。しかし建物疎開による強制立退者と罹災者とそれ等の人々の荷物の輸送を持てあましている東京都と運通省では、遂に一般人の疎開事務を停止した。その上、これ等急速疎開者の荷物も初めは一人三個、一家族二十個などと称していたが、今では一人一個、一家族三個、それも寝具衣類勝手道具のみしか扱わない、という風に制限した。工員たちが都会の居住を危険がり、また都会の軍需工場勤務を危険がって機会があれば、田舎へ逃げ出そうとしている。それを抑えるためもあるのだ。
工場は焼き払われ工員は居住地を失い、生産は低下し、しかも輸送は罹災者の運送に忙殺されている。これで生産はどうなるというのだ。みな荷物の運送、近県への手車での運搬、空襲の怖れ等に心が一杯になり勤務はどこでも放棄されている。本当は、よく考えれば怖るべき生産停止が到る所で起っている。
しかも敵は九州のすぐ南まで肉迫しており、本土上陸を呼号し、我政府また敵の上陸近し、それに備えよと機会あるごとに言っている。これで凡人の国民が周章狼狽するのも無理とは言われないのである。国民は二人寄れば疎開や荷物の運搬のことを話し、また敵の上陸は、いつ頃どこへやって来るかということに落ちる。考えざるを得ないのだ。相模湾に上陸すると言い、房総半島か鹿島灘だと言い、また四国から駿河湾に来ると言う。だが、こういうこと決して一片の空想ではないのだ。ドイツの抗戦から崩壊の様相をこの数ケ月、否その最後のこの数日のベルリンの様相を考え合せれば、敵の我本土上陸は必ずあることと思う外はない。それがまた都民を駆り立てるのだ。安全な所へ、安全な方へと人の心はみな動いている。
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[#2段階大きい文字]昭和二十年五月
五月二日
ムソリーニは昨日スイス国境に於て税関吏に捕われて銃殺され、ヒットラーは今日ベルリンの防衛戦中に死去す。自殺か戦傷死か明かでないが、ドイツの総司令官にはレーダー提督が任命されたという。
欧洲の今の戦争の枢軸が二本とも遂に戦乱の中に倒れ去ったのである。
それにしてもこの頃の私の生活は混乱し、迷い抜いている。北海道へ家族を疎開させようと思ったりしていた時、文学報国会で北海道支部を作るので、支部事務長として行けそうな話があり、専らこれを中心にして将来のことを、あれこれとこの数日考え込んでいたが、今日報国会で岡田三郎から聞く所によると、その話は暫く予算の都合で行きなやんでいるという。北海道へ行けそうな気持をしていた間は、東京の今の勤務特に新潮社のそれを棄てて去るのが惜しく思われた。戦後平和産業の復興という時には、失業、不景気等が多いであろうと考えると、新潮社の業務を棄てることが、惜しく思われるのである。それに健康が不安定のままで、先日セファランチンの医師大木氏が言う所によると、血痰の出たのが事実なら二週間位絶対安静をしないと、重大な結果となり半年位立てなくなるという。そうとすれば、戦乱が東京附近に及ぶことを今から避けようとして動けなくなるほど身体をこわすのも怖れられる。文報の仕事で北海道へ行けば、あちこちと旅をしたり人を訪ねたり、会をしたり、身体を動かすことが多く、きっと健康をぶちこわすにちがいないのだ。さりとてこのまま東京にいれば、敵は、今の市民の予想では沖縄から九州四国と上陸して来て、その次には、伊勢湾か東京方面にやって来ると考えられている。その戦いの真只中で敵の目標たる東京にわざわざ身をおくこととなる。
貞子と毎日相談するが、全く心が定まらず、一日一日と考が変る。今日は健康と今の収入、新潮社、文報、種苗を合せて五百円ほどある収入を保つためここに居据わり、いざという時は埼玉県の峰岸君の所に難を避けようとすることに予定し、児玉への往復のことや、私のみ予め児玉へ転出しておくことや、ふとんや多少の本や着物をそこへ運ぶことを考えるかと思うと、翌日には、いや今のうち思い切って収入が減って文報支部事務長としての二百五十円のみしかないにしても北海道へ行ってしまった方がよい。今に敵がもう一歩前進すれば、人のみか荷物も全く送れなくなる。今のうちだと文報職員としての転任ということにすれば、特に荷物は送れるのだから、と考えたりする。それにしても塩谷の弟の所はせまいから貞子や子供たちは野田生におり、私のみが塩谷にいると、何かと不自由で気兼ねも多く、きっと困るにちがいない、と悪い条件のみを考えては持てあます。
そんな日々を送りながらも三十日頃から、四種便が開通になったので本を送り出す。大空襲のあとは、きまって三種から五種、つまり新聞雑誌、書物等の郵送が止められる。一般小包は停止中なので本を送るには四種便しかない。これは一キロ二百までで、十〔百?〕グラムが十銭の料金だから一包み一円から一円二十銭につく。昔の一円本などを送るのは本の定価ほど金がかかるが、今のうちに送らねばまた停止となると思い、東京市内のどこまでも拡がっている焼野原のことを思うと、とにかく大切な作品集や辞書や原書等は何としても送ろうと思い、この三四日かかって毎日リュクサックに一杯、三貫ほどずつ身体には悪いことを知りながら運び、それも小さい局は受けつけず、二等局でも何のかのと面倒がるので、東京駅前の中央郵便局に持って行って、送り出している。この局でだけは、重量分の切手をこちらで貼って大きな郵便投入口から落してやればよいので、少しも気がねがいらない。
全く、小包便が停止となっている今、四種とは言え、一キロ以上の本の包みを十個も一ケ所あて、塩谷の弟の所か、野田生の貞子の家などへ送るのは、その土地の配達夫にはひどい迷惑だと思う。また本は今では貴重なもの故途中失われることも考えるが、そんなことを言っていては、すぐどうにもならなくなるので、思い切って危険な普通便でもう今日までに五十包は送った。本の数は概算で百冊、送料は六十円ほどとなった。それでも日本と外国の主要な作家の主要な作品集と辞書原書の大切なものはほぼ三分の二ほど送った。もう三四十冊送りたい。
敵は先月の中頃、東京の山の手一帯と京浜間の工場地帯を焼きはらってから、都市爆撃を中止して、専ら沖縄の作戦援助のため、九州各地の我飛行場と東京の西部立川附近の飛行機工場とを爆撃している。そのため我方の作戦への影響はあろうが、しかし都民の生活は落ちつきをとり戻した。今のうちだ、今のうちならば、駅へ荷物を出しても、先頃の秋葉原駅や蒲田駅や池袋駅でのように、疎開者の荷物が一挙に大量に焼きはらわれるという危険も少い。しかしこの数日のうちに疎開の手続きなど出来ぬかも知れない。一般疎開は停止で、老幼、病者、罹災者のみしか疎開出来ないのだ。だが転任者はそれと同様に扱われるという。文報か種苗かの方で転任という形にして証明書をもらい、荷を出し、貞子たちを何とかして送り出したい。そのあと私ひとりでどうするか、あと家を人に貸すか自炊するか、そういうことを考えねばならないが、しかし今のうちにそう後のことは気にせずに家族を疎開させなければ、と専らそのことを今日は考える。
沖縄では、この正月頃楢崎氏に聞いていた小型のロケット飛行爆弾を我方が使用し出したことを敵が公表している。これは勿論人間が乗っていて操縦しているから特攻隊であるが、大型の輸送機の胴中から飛び出すというのが特色である。ロケット機だと発動機がいらないから、製作は多量に出来るのだという。
ドイツが崩壊する前に使った無人機ロケット爆弾に似たものだ。これが日本の最後の手段ではないかと気にかかる。
沖縄では敵の艦船を大量に沈めたのは事実だ。敵の艦隊はあまり島に近寄れなくなったが、敵は占領した飛行場や周辺の小島に急造した飛行場に飛行機を集中して制空権を得ようとしている。敵がガダルカナル島以来の常套の作戦だが、いつも我方は敵が基地を建設した後は、敵制空権下に戦が不利に陥るのを例としている。今度もそうでなければよいが。
戦争は冷酷である。ある点までは双方の力に差がなく、当分敵を支えていそうに見えても、一度敵に押し切られると、あとは崩れるように急に結末となること、このことをドイツの今の戦勢が我々に教える。
東京都内で焼かれそうな所にいる人々は焼夷弾を避けるために、私たちのいる郊外へと越して来たがり、家を借りようとしたり買おうとしたりする。私たちの近所の人たちは東京が戦場化するという予想に追い立てられて、越後とか信州とかへ家を貸したり売ったりして疎開して行く。近所の人たちの半数はこの一ケ月ぐらいのうちに、何とかしてそういう風にして居なくなり、新しく人が入って来た。現に私たちもそのことを考えているではないか。
私は本を送っているうちに、ふと気づいてノートや原稿紙やルースリーフ紙を送ることにした。今日ルースリーフ紙の最後の分を送ろうとして、ふと二ケ月分位しかあとに残らぬように、皆送りそうになり、あわてて手をやめて考え、ぞっとした。私はもう二ケ月位しか東京にいないような予定を心の中に作っていたのかと思い、それではそのあとはどうして、どこにいると考えているのかと我ながら大変なことに思った。その分のルースリーフ紙は送るのをやめた。
この紙を使ったあとは私は今度新潮社で支社の出来る信州まで歩いて行くだろうか、それとも北海道の弟の家で暮しているか、または埼玉県の峰岸君の処で国民義勇隊に編入されて穴を掘ったりしているか、分らない。こうして一番大切な本を百冊も送ってしまうということは、私自身がすでに一部分ずつここを離れてしまっているということだ。机、椅子、カーテン、窓、そういうこの慣れ親しんだ自分の所有意識の中に同化されたものが、もう見棄てられようとしている。私たちは去ろうとしている。
五月三日朝
出来るだけ空想を働かせないと、これまでに日本が経験したことのないこれから先の見とおしは出来ない。しかし、この数日に見るドイツの例は、その空想に道しるべを与える。日本はまだまだ戦うであろう。世界史に類を見ない特攻隊の連襲によってアメリカの艦隊を日本本土周辺の海の底に沈めるであろう。しかし、あのようによく戦ったドイツも、国土を分断され、都市は占領され、首都は火の海と化し、ヒットラアはその火の中で死んだ。欧洲の戦は終った。かつてポーランドを数日で征服し、英仏軍を四週間で欧洲から追い出し、ギリシャを征服し、アフリカに渡ってスエズ運河の近くまで達し、ロシアを攻撃してはモスクワ、スターリングラードを危険に陥れる所まで進み、ヴォルガ河畔のスターリングラードに攻め入ったヒットラー麾下のドイツも遂に、切り裂かれ、突き崩され、英米に和平を求めた。
最後に残ったハンブルグ放送局の放送は悲痛であり、ドイツ民族の悲しみの歌だ。「戦争は驀らに終局に近づきつつあり。終焉は恐らく近く訪れるものと思われる。数十万のナチ党員、数百万のドイツ婦女子は父の帰りを、夫の帰りを待ち侘びて窓辺にたたずんで空ろな街路を見守るであろうが、諸君の父諸君の夫は永遠に帰って来まい。我々はドイツのよりよき未来のために仆れた英雄に今別れを告げようではないか。」
我が本土に敵の上陸することが明かに予想される今、日本にこういう運命が来ることもまた考えられぬことはない。しかしその前に私たちは戦いの中に死ぬであろう。祖国が敗れるようなことがあれば、私たち男は戦の中に生命を棄て、女子供は流浪して悲惨な目に逢うであろう。失業と飢餓と無秩序とがやって来るであろう。子供や妻を田舎の生産物のある所へ送り届けておきたい。それとても妻の家も敵の上陸する危険のある海岸だし、弟の家もまた北海の根拠地の隣村だから安全とは言い得ない。それでも私は関東地方の防衛戦の渦の中に入る前に何とかして妻子を田舎へ届けておきたい。
敵の本土上陸など数ケ月、半年も一年も後だと考えられる。しかし敵はこの五六日毎日続けて百機以上のB29で九州、東京西郊と毎日の空襲を行っている。毎日の空襲が可能となったのだ。この空軍力で都市爆撃や交通破壊を行えば、国内の移動など忽ち非常な混乱に陥るのは分っている。その前に動かすべきものを動かさねばならない。この数日家族の始末のことをあれこれと考えると本当に眠れないことが多い。
五月六日朝
巨大な劇の最終幕のように、一日毎にドイツの崩壊の様相が報告される。英米のみに降服を申し入れて拒絶されたドイツは英米ソ三国に対して改めて降服交渉を始めたという。各地区のドイツ軍は戦意を失って投降し、著名な将帥たちはつぎつぎに捕虜となっている。曰くリスト元帥、ルントシュテット元帥、シュペルレ元帥等。ゲッペルス宣伝相は自殺した。ナチスドイツの理念上の代弁者として観念的な抗戦論を絶えず叫びつづけていた神経質なやせた表情をしたゲッペルス博士の死は、ヒットラーの死と共に象徴的である。ドイツナチズムの舌が失われたという感じである。シュペアー軍需相は二日全ドイツ国民に、降服後なおドイツ国民は状態の平常復帰に努力すべきことを要請して言っている。「六年間の戦争に堪えた独農民は全国民に対する義務を自覚し、一切をあげて増産に邁進せよ。食糧の輸送は外の一切の物資に優先されねばならない。食糧、電力、ガス、石炭、木材の供給に全力をあげよ。従来と同様の不撓不屈の精神をもってせば独国民はさらに大きな損害をすることなく生存をつづけ得るであろう。」
ドイツの屈服はこうして遂にもたらされた。国土を占領されてもゲリラ戦で戦うとか、山地に立てこもるなどという計画は前々から発表されていたが、デンマーク地区、イタリア地区、北西部地区等の各ドイツ軍が投降する様子を見ると、もうドイツ民族も戦いに厭きているか或は疲弊しつくしたかの観がある。平和を願う心がゆき渡っているのであろう。最後の西部におけるドイツ攻勢で名を知られたルントシュテット元帥は、ドイツ軍の不利は敵の行った交通網破壊と燃料資材等の不足によると語っている。
ドイツ崩壊のこの様相はいま日本人に深刻な影響を与えている。沖縄の決戦は我方の特攻隊の無限の注入という形によって敵は海上勢力に大きな損害を被っている。この正月頃極秘のこととして聞いていたのに大型飛行機の胴体から飛び出して行くロケット飛行機による特攻隊のことがあったが、それを日本は数日前から使用しはじめたとニミッツが言明している。特攻隊は日本の戦略武器であって、これに対しては戦法を変え、更に大きな戦力注入を要する、と敵側で言い出した。今度こそ、我方が沖縄で成功するかも知れない。そうあってほしい。是非そうあってほしい。
昨夜新潮社の宿直だというので、少し遅れて七時頃行った。夜見ると東京の街路は凄じい。新宿駅前から焼けあとは北側にひろがっており、それに続いて、コンクリート建の建物の中間の木造建物を破壊したまままだよく片附けていない雑然とした堆積がある。うす暗い夕方の光のなかに、この廃墟のさまは怖ろしいような感じがする。電燈をともしているのは電車のみで、残った建物は人が住んでいないように真暗に静まりかえっている。暗くなって行く街上を勤めから帰りの人々が歩いて来る。ぶつかりそうになる。また歩道は防空壕やら建物の破壊物やら防火用水入れやらでとても歩けないので、たいてい車道の両側を歩いて来る。若い女もいる。電車はいずれも満員で、乗場には人が列をなしている。
この暗い東京で最近は強盗や追い剥ぎが多いという。それは、空襲で焼け出された人たちの中で着物などが無くて本当に困っているものがいるせいである。また暗い曲りくねった街がどこまでも続き、その所々は焼けあとで人気もなく、人の顔も見分けられない、また隠れる物かげも多く、一歩表通りへ出れば人の区別はつかないのだから、悪事をするのにこんな好都合な条件はない。
道義の頽廃が新聞でもよく取り上げられているが、省線電車など席のビロードが剥ぎとられる。そのあとを白い本物のズックで張ったのをナイフでまたむざんに斬り取って中の詰めものが露出したのをよく見る。ズックはどこでも手に入らないし、この頃は肩下げ鞄を作るにも靴を繕うにも、何よりよいものだからだ。買うことが出来ない、闇値が高い、そういう所から盗みが自然に多くなっているのだ。畑のものの盗みも今年は多くなることだろう。
電車内の対話でよく、
「おい焼かれたか」
「うん、きれいにね」とか、
「一回焼け出されて、引っ越した所でまた焼かれたんですの」とか、
「うまい工合に一軒手前で止ってくれてね」とかいう話をよく耳にする。
昨日また疎開要項が改正され、都民の疎開は原則として許さぬこととなった。罹災者、強制建物疎開者、老幼病者、施設移転の随伴者(転勤を含む)ということに限られ、荷物は五十キロまでのもの一人一個、最高一家五個というのだ。私はあれこれと考えて数日前までは転勤者として一家転出することにほぼきめていた。昨日の発表ではそれも禁止されたような風に思われ、ぎょっとした。瀬沼君も来ていて、細君に二幼児をつけて細君の郷里の佐原にやりたいが、そこは利根河口に近く敵上陸路と思われるのでみな危ながっているということから思い悩んでいる話をしていた。その時ラジオで疎開要項改正の放送があった。そらもう疎開出来やしないよ、と彼が言い、私はぎょっとしたのだった。その前日には私は区役所へ行って転出用紙をもらい、荻窪駅へ行って、様子を聞いて来た。転出証明書があれば、荷物の発送はいつでも受けつける。すぐその日積み込むが、途中積み卸ししながら行くので北海道に荷物が着くのは一月もあとになる、という貨物係りの説明であった。
しかし、それでもやろう。転任は種苗の北海道種苗圃へ転任ということにして証明書を作ろうと思っていた。それが出来ぬとなれば、ここに居つづけるか、それとも埼玉県の峰岸君宅に移るかする外はない。そうしよう。折角峰岸君も来るようにと言ってくれているから、と私はそう思った。だが、この言わば私たちにとって異郷である東京でいよいよ米軍の砲火を浴びるのかと思うと、実に侘しい気持がした。死ぬのなら郷里で死にたい、私はそう思っている。杉沢もこないだ逢った時にそう言っていた。帰れるなら一緒に塩谷村へ帰りたいなあ、と。私はがっかりして、どうにでもなれと思った。今日になって新聞をよく見ると、やっぱり転勤者が疎開可能者に含まれている。東京から転出すると、再びここに戻れない。転入出来ない。とすると、私は北海道に転出したこととして、当分自分のみここに居残り、配給なしで暮さねばならない。米の五升ほどの手持と大東亜省食堂の食券五十枚と、外に杉沢や峰岸君から何かを都合つけてもらうにしてもこの畑の作物のとれる七月までは窮屈だ。しかし夏になれば馬鈴薯、玉蜀黍、等と続いて収穫があるから私は秋頃までここで自給生活が出来たらやろう。毎月五百円ほどの収入があるのだから、ここの勤務は大切である。そして、機を見て北海道へ引きあげるということに、大体予定を立てた。荷物は四個だから、いくらも送れない。
今日は日曜、杉沢の所へ、成城学園の酒屋が物を疎開させるためにトラックが出るというので、その酒屋まで蒲団一組や書物などを今日リアカーで届ける。私はこれからそこへ自転車で行こうとしている。あっちもこっちもで、実に多忙、考えが散り、貞子など神経質になって子供を叱ってばかりいる。
私も貞子も身体が弱いのだから気をつけながら働いたり考えたりするのだ。私の痰はその後ちっとも出ず、熱もない。疲れるという程でもない。同病者の瀬沼君に相談したら、痰の血が細い糸のようになって出たのでなければ、それはきっと気管のみの出血ではないか。本当の肺の内部から出血ならそんな元気は出る筈がない、と言った。しかし私もそうであってほしいとは思うが、過労することが怖ろしい。どっと咯血して倒れたらどうしようかと思う。
同日夜記
この日日曜なり。成城学園の石井商店という処から杉沢の所へ疎開用のものを送るトラックが出るというので、杉沢のすすめで、同家からリアカーを借り、私の所の疎開荷物を同家まで運ぶ。ふとん一組、つむぎ着物一揃、蚊帳一、座ぶとん二枚等の風呂敷包の外、鍋用のセト引容器、茶碗、庖丁等の入った箱一つ、英書箱一つ、和洋書箱四個、等。外に杉沢へ預けるとして日露戦資料二箱等である。私が朝自転車で出たついでに一昨日区役所でもらった用紙に町会に寄って印をおさせ、その足ですぐ砧村の区役所派出所へ行き転任証明を見せて、転出許可を得る。日曜午前中とて老人が一人事務をとっていて、許可が簡単に下りた。私は石井からリアカーを借り、滋に荷物を運ばせる。二回で夕方までかかる。
いよいよ転出の許可が下りた。午後荷物を箱につめながら貞子と相談する。この疎開は私が八雲町にある種苗の種苗圃に転任ということになっているので、一家皆転出なのだ。一応荷物を運びながら私もついて行く。さて戻りであるが、籍を向うへおいたまま旅行者として戻って来るということにするか、それともまた転任ということにして、何とかしてここへ転出して来るか。前の方ならば私は向うから米を持って来たり、ここの畑の作物に依存したりしなければならぬ。後のようだとまたここに落ちつくが、さて生活はどうしたものであろうか。
家を貸すこと、売ること、薫君夫婦を入れて同居すること等。色々なやり方があるが、一体、どれにしたらよいか思い惑う。東京急行への支払いのことを考えれば、半年に八百余円ですでに一期未払分があり、相当の負担である。私が東京にいれば、新潮社二百円、種苗二百円、文報百円で五百円の収入があるわけだから、何とかなりそうに思うが、家族から離れたまま、この冬頃には戦の巷となる東京に私一人残ることには貞子は不賛成である。だからと言って私が北海道で勤先を得たとてせいぜい百五十円しか収入はないであろう。
そして家を百円に貸しても二百五十円の月収では家の借金を払って行くことが出来はしない。その時はこの家を四万円か五万円に売り、五千円の借金を返し、杉沢が売ってくれるという横山村の土地一反を五千円で買い、残りの三万円か四万円を持って北海道へ行くのなら、当分は暮せるし、また東京に土地だけでも残っているということになる。それが大体よさそうに思われる。しかし貞子はまた子供たちもこの家と土地を売ることには賛成しない。戦後東京に戻って子供たちがまた成蹊高校に復帰して通学するのだからという。私は、今はそんなことを考えられる時でない。戦の巷となってこの家が爆破されるか焼かれるかし、また戦の中で私たちが生き残ってもきっと飢饉がやって来るから、それを田舎にいて何とか凌ぐことを考えなければならないのだ、と言う。しかし貞子には、そんな空想風なことは、現実のこととしては考えられないらしい。杉沢の土地を買っておいても学校まで二時間もかかるのではとても通わせきれない、とまるで避暑にでもちょっと田舎へ戻るような考えかたをしている。
しかし、とにかくもうこれで田舎へ転出の手続はすんだのだ。明日でも駅へ行って、証明書についている切符に印を押してもらえば、その三日後には貨物四個(各五十キロ)を駅へ持ち込み、その翌日には汽車に乗らねばならないのだ。追い立てられるように事は運ぶ。
私は峰岸君から九日に常古という同君たちの同人雑誌の会があるから、八日には是非埼玉県の同君の処へ来てくれとの案内があり、そこへ行く予定である。ことによれば、私は東京への再転入は出来ず、同君宅へ転入したことにしてもらい、米など同君宅でとってもらわねばならないかも知れないのだ。その了解を得たり、また荷造り用の縄や筵をもらって来たいと思っている。そこから戻ったらすぐに出発の手筈をする。いまの所敵機は沖縄の戦局打開のため九州や関西や瀬戸内海にその爆撃を集中しているから東京は静かなのだ。今のうちである動くとすれば。もし沖縄の方から力を抜けるようになれば敵はきっとまた東京への爆撃を始めて、罹災民の転出で汽車はひどく混雑し、急には乗れなくなり、荷物もますます遅れるし、先頃の秋葉原駅や蒲田駅のように駅で焼かれる危険もある。その前に転出してしまわねばならぬ。また薫たちと同居するとすれば、その前に一同で相談せねばならない。
気がせくが、心が決まらぬ。状勢の見とおしが難かしいからなのだ。しかし、もう追い立てられている。
先日来書物の郵送と今度の杉沢への荷物疎開とで重要な本の半分ぐらいは片づいた。これがやや安堵を覚える点だが、しかし杉沢の所は小仏峠の手前で関東平野が戦場となれば、戦火をあびる山脈の端に当っているから、杉沢とていつまでもそこに腰をおちつけていられるかどうか分らず、また荷物も必ず安全とは言えぬ。秩序が乱れれば盗賊など、きっとそこに積まれている何世帯分かの山積した荷物に目をつけるにちがいないのだ。あてにはならない。しかし北海道の塩谷と野田生と杉沢の所と峰岸君の所と四ケ所に物を分けて、まあ安全率を多少高めるというだけのこと。それでも焼け出されて無一物となった多数の東京人に較べて私など諸事好都合に運んでいる方であるにちがいない。
今日は思ったほど疲労せず、身体の調子よい。煙草を五六本吸った。
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五月十七日記 朝貞子と子供を北海道にやる 昼編隊来襲
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この月の初めから、貞子と子供を北海道へ疎開させることにして種々手段を尽し、ようやく昨日荻窪駅から荷物を出し、今朝九時四十分上野発で出発させた。いま新潮社四階の出版部室にいる時、十一時三十分、敵編隊来襲の警報が出た。
この一月ほど前の四月十四日の大空襲以来沖縄戦たけなわの間、東京への大きな空襲は無く、敵のB29は専ら九州、四国、中国方面の我基地を襲っていたのであった。その間に以前の罹災者の疎開、三月末迄の建物疎開の人たちの転出も一とおり済んだらしかったが、それに続いての東京人の地方転出は、五月の初め頃禁止となった。老幼病者、罹災者、建物疎開者の外は都から出れないのである。私はようやく華北種苗の転出証明で許可を得たのが、六日であった。しかし、許可は得ても、※[#「○に特」、unicode3295]という区の印、つまり老幼病者がいないと、疎開荷物許可書や切符が発行されないと駅で言い、それから区役所に交渉し、十三歳の礼をまだ国民学校にいることにして、やっと丸特の印をもらったのが十三日であった。十四日切符を入手、これは用紙にそのまま印刷されてあるので、簡単であった。しかし十七日に乗車しないと切符は無効になるのである。四人分百円ほどの切符が無料なのには驚いた。切符を手に入れて家に戻り、貞子に言うと、貞子はまだ一週間ほど余裕があると思っていたのに、とあわて、支度が三日のうちには間に合いそうもないと言い出した。しかし私はこれは是非強行しなければならない。B二十九が未曾有の四百機という多数をもって早朝から(これも今まで例のないことである)名古屋を焼いたのは十四日である。いよいよB二十九の大都市爆撃が一ケ月振りで再開されたのである。名古屋をやれば東京へと続いて来るにきまっている。急に心配になって来た。先頃蒲田や池袋や秋葉原の駅に出した荷物が悉く焼き払われた例があるので、出す荷物を焼かれる心配があり、また罹災者が殺到して乗車が困難になる心配もある。何とかして、B二十九の今度の東京来襲前に出発させ、荷物を積み込ませたいと念じた。名古屋をやってから三日目か四日目というのが東京へ来る予定となる。すると十七日頃がちょうどその日なのだ。出発の時に早朝空襲があったりしたら上野駅でひどい目に逢うであろう、と一昨日頃から、気が気でなかった。今朝五時の一番電車で出て、途中荷物を駅に忘れたり、重い行李二つとリュクサックに衣類や弁当をつめて上野に着き、どうにか乗せて、ほっとすると同時に、何となく慌しさと、侘しさとを感じた。三日来の荷造りや荷運びや相談のため過労と睡眠不足で、疲れ切った感じである。幸に気候がよい時のためか、咳も痰もなく、意外なぐらい健康状態に意識されるのが気強い。
いよいよ疎開をやり終えた。私も転出してしまっているので、これから東京には籍が無いのである。自給自足生活がどこまで出来るか、これは私には何となく面白いことに思われる。米は十七日に配給米や取っておきの米などで一斗二三升あり、外に昨年収穫したまま、まだ脱穀していない餅米が一斗ばかりある。その他澱粉や豆を合せて、二斗位の食糧、醤油が五合、塩は先頃北海道から持って来てあるので、二升ほど、炭は六俵、煉炭が三四十個、という工合である。食糧は二ケ月、燃料は半年分ある訳である。七月中頃まで米があるし、その頃になれば畑の馬鈴薯がとれるので、バターなどで営養を補えば暮して行けるし、麦も一斗や二斗は収穫されるであろう。続いて玉蜀黍、南瓜、陸稲、甘藷と収穫があるのだから私一人なら、これで冬までも、ことによれば、一年ぐらいは、今の家にいて自給自足の生活が出来る。
配給なしであるから、一種のロビンソン・クルーソーの生活なのだ。これをやって行く興味は前々から私につきまとっている。
しかし家を売るか貸すかして、私も秋頃には北海道へ引きあげるつもりなので、その方と合せ考えて、心がきまらない。この考は、遂に思ったとおりやって来たドイツの崩壊と、沖縄戦の困難さとにつながっている。
そして今日社へ来ると、昼頃から敵数編隊来襲の警報が出た。そら、とうとう来たぞと緊張していると、この日は小型機数十機が主に我方の飛行基地を狙ったもので、都市爆撃はせずに、あっけなく終った。しかし、とにかく、こうして大規模の東京市街爆撃の合間をうまく狙って家族を田舎へやったことは、私には、大きな吐息の出るような心のくつろぎを与える。
五月二十四日夜記
東京での一人生活が今日で一週間目である。家はとうとう売ることにし、今日手附金五万円を、江口君のあとを買った鈴木暦太郎氏から受け取った。売価は六万二千円である。
目まぐるしいことだ。私は遂にこの家を出なければならない。貞子も滋も礼も、初めての自分の家としてのこの家に愛着を持っていたのだが、もう二度と自分の家としてここへ戻ることはない。一昨年の三月の末にここへ移って来たのだから、二年と二ケ月暮したわけである。
東京急行にまだ借金が七千円あり、半年毎に八百円宛払わねばならない。今の私の月収四百円あまりでは何でもなくそれが払えそうであるが、そのうち華北種苗も文報も近いうちやめになるし、私が北海道へ移るとすれば、新潮社の二百円も棄てねばならず、向うで勤めるとすればせいぜいが二百円であり、それではこの家の借金を払って行けない。それに、私自身は、いつもこの抵当に入っている家を不払のため取り上げられるかも知れぬと脅かされるような気持をして暮すのが、とてもいやである。私は二間ぐらいの小屋でもよいから、借金のつかぬ、もっと広い土地、二段か三段の土地をほしいのだ。だからいま値上りしている時に売って外にそういうもっと広い土地を求めておいて、平和になったらそこで農耕をしまた文筆生活をすることを夢見ている。
それに、すでに東京の周辺にあるこの家を私は危険だと思い出している。都の区内は半分も爆撃され、また強制建物疎開も続々と行われている今となっては、閑静だと言ってもいずれこの辺も敵機の目標になったり、また軍の強制収用になったり、或は残留都民の共同生活寮とされるかも知れず、そう長くこのままではいないと思われて来た。
しかし貞子たちが立つまでは誰かに貸しておいてその家賃を百円あまりにして東京急行への支払いにあてようなどと言っていた。借りたい人はいくらでもいる。隣の三浦家、大島などから、知人で借りたい人があるからとせがまれる始末であった。そういう家では、罹災した知人、または危険区域にいる知人に室を貸せと言われ、困って私の所へ持って来ている気配であった。
植木屋兼農家の吉岡というのが、私たちの転出のことを町会で聞いて来て、売ってはどうか、今は値がよいからと話を持って来、結局江口家を買った鈴木氏が弟を入れる為とて私の家をほしいと言い、見に来て、向うでは六万円ぐらいと言うのであった。私とすれば、五万円なら売ってもよい気持であった。しかし江口家は私の所より家がよいが土地は二百坪しかなくて五万九千円〔前出六万九千円〕、加持家が家は良く出来ていて、土地は二口で四百坪で七万円ということであるから、私の所も六七万円になるだろうという見当がつき、とにかく六万円以上なら売っていいと貞子と相談した。鈴木氏の方が熱心で、二度ほどやって来たが、昨夜吉岡氏と三人で最後の話合いをし、家に風呂、薪、畑の作物、庭木等をつけて六万二千円で、ということに話をきめた。本の整理がすんだら残った本もまとめて買いたいということで、それも二千円ほどになるであろう。
ここ一月ほどさしたる大きな市街爆撃はなく、時々敵機は来ても、工場飛行場施設のみを狙っていたので、私たちの生活は平穏であったが、私は何とも言えぬ不安が日々に高まるのを覚えていた。
きっと名古屋をやったように三百機四百機という大編隊で市街爆撃を敵は東京に加え出すにちがいない。そうすれば、この辺の家屋のこういう高値は一度に下るだろう。旧市内など五六万円もの家が空爆が始まると千円でも買い手がつかぬという風に暴落し、取りこわしの家の木材など引取手があれば、区役所では無料で払い下げるという始末である。私は一刻も早く売れるものなら売りたくなって来ていた。若し売れて五万円か六万円手に入れば、私はどこか田舎に二ケ所ほど三四段ずつの畑か林を買い、戦がすんで生き残ったらそこに小屋を建てて鶏を飼い麦と芋を植えて、静かに暮すことを夢想するのだ。
杉沢は、先頃、彼の今いる横山村に一反歩の宅地(畑として使っている)を四千五百円で買ったが、一万円あればそこに六畳と四畳半の藁屋根土壁の家を建ててやると私に言っていた。先日横山村へ遊びに行った折、その土地を見たが、そこは道路より六七尺高いゆるい南向傾斜地で水も湧き、後は丘で両側に農家があり、まことによい土地であった。一段歩では少し狭いが、それでも今の屋敷より広い。八王子まで一時間も歩くのだから、かなり田舎だが、私が住むには恰好の土地ですっかり気に入った。五万円入れば、その中から一万円を割いて、そこを買い小屋を建てて住む。それも楽しいことだ。また出来るなら北海道に五六段の土地を買っておいて、場合によれば、そこで畜農を営むこともよいと思われる。
今この家を売って、そういう夢想が実現するとすれば、私は一層売りあせる気持なのだ。だが私がそんな金を持つなんて嘘のような気がする。今はインフレーションとは言うものの大金は大金だ。月三百円の月給をとる人はそう多くない。それでも年三千円、十年で三万円だとすれば、やっぱり五万円六万円という金は大きい。
私がそんな金を持ったり、広い林や畑のある土地を持ったりするなどいうことが、そんなに容易に実現するとは思われない。私がこの家を売る前に、きっと大空襲があってこの辺まで被害が及び、家の値段が下るとか、またこの頃誰でも食料不安から土地を買いたがっているから、畑は売買禁止になっているが、どうかすれば、林とか宅地とかも売買禁止となって、私の夢想はきっと実現出来ないであろう。そんな気持がしてならない。私はやっぱり二十円とか三十円とかいう金に苦労したり、暮には質屋に洋服やカメラを持ち込んだりして暮す運命のような気がする。
この家を買う時は一万六千余円で、半分の八千円を入れてあとは年賦であったが、その八千円を作るために随分苦労した。出版の盛な昭和十七年頃に二冊分の印税で四千余円作り、貞子の父から二千円借り、田居君から借りた千円と少しの貯金とでやっとそれを作って、お先真暗で買ったものの、そのあとの年賦金支払が出来ず、漸く千百円を一度、それから三百円を一度入れ、あとはぐずぐずに延して来ているのだ。戦時で東京急行などの事務が渋滞しているからよいものの、平時なら、差し押えを食ったことだろう。その家をいま六万円で売れば借金を返しても五万円残るのだ。残りのうち三四万円で土地を二つほど買い、残り一二万円あれば、私が応召しても、また私が北海道へ移って百五十円ほどの俸給で暮すようになっても、二三年は凌いで行くことが出来るであろう。そうなれば、どんなによいであろう。
鈴木氏が買う気が十分あるという吉岡氏の話を聞きながらも、私は、そんなことが実現しそうに思われなかった。しかし昨夜二人がやって来て、値段が定まり、明日午前中に手附金として五万円を届けると鈴木氏が言った時、はじめて私は、ではいよいよ私の夢想が実現しかけたな、という気持がした。二人が戻って行ったのが十時半だったが、私は茶が濃かったのと興奮していた為とで眠れずに床の中にいた。そしてやっとうとうとしかけると、一時頃警報が鳴り出した。
この警報は私にとっては実に不吉な感じがした。そら予感のあったとおり今夜の警報で、私の夢想は壊れるぞ、と先ず私はそう思った。私の癖で常に最悪の場合のことのみ考えるのだ。身支度はしたものの、どうでもなれと、いう気持で寝ていた。敵機は一機ずつ頭上を旧市内の方へ飛んで行き焼夷弾投下をしているようであった。爆音が聞えると、ポンポンポンという高射砲の音やらもっと鈍い砲の音がし、やがて遠ざかる。また次が来る。警防団の打つ退避の鐘が鳴り、高射砲が鳴る。それを次々と聞いているうちに、やっぱりこうして居れぬと思い二階に上って見た。東南方は一面の火の暴風で、南方のすぐ近いところ、多分ここから三粁ほどの成城学園と思われるあたりも、勢いよく燃えている。これはいけない。成城学園が燃えているならこの辺だって危険地帯になって来る。と今までの観念上の危険感の底から、もっとなまの、戦慄が湧いて来た。階下に下り、トランクやオーバーや洋傘や靴などを縁側に持ち出し、裏に出て、たらいやバケツに水を汲み、それから長ゴム靴をはいて外へ出た。
敵機は低い。三四千米であろうか、照空燈のために白い機体を照らされ、時々コースを曲げるらしく、きらきらと翼面が光る。そしてそれを高射砲弾がよじれた糸のように追いかけて行く。敵機は水をこぼすように焼夷弾を落す。焼夷弾は散ってばらばらになり火の粉を撒いたように散り落ちる。燃えている赤い大きな雲の中へ敵機が入って行く。突然身近にヒュルルルと何か落ち庭石に当ってカチッと鳴った。高射砲の破片だ。
西の八王子の方から次々と敵機は照空燈に照らされながら私たちの頭上を越え、渋谷辺と思われる火の海の中へ更に新しい火の粉を撒く。そのうち、一機が私たちの所へ来ないあたりで早目に焼夷弾を落した。誤ってこぼれたような落しかただ。火の粉が落ちて来ながら次第に流れて私たちの方へ近づいて来る。火の粉の形が大きくなる。あっ、ここへ落ちて来る、と私は突然悟った。とうとうその運命が私の上にふりかかって来た。そう感じながら、私は裏の井戸小屋から家の中に入った。焼夷弾はもう地面に届く頃だ。家の中へ落ちたら汲んであるバケツの水をかけるのだ、と私は思い、真暗な家の中にしばらく立って耳をすました。来ない。家には落ちない。ではどこだろう。近くだ。近くに落ちたにちがいない。そう思っていると、「焼夷弾落下!」という女の金切声がする。私は外へ出た。すぐそこの林の向うの二組のあたりで火の手が上っている。あすこへ落ちたのだ。しかし、この家に私が一人では応援に行けない。またすぐここへ落ちるかも知れない。私はわくわくしながら、縁側から服類の入ったトランクやら箱やら、それから日記や写真入りの鞄、靴、今まで寝ていた蒲団などをかつぎ出して、次々と麦畑のあちこちへ置いた。うすい月あかりでもあり、また火事の火の明るさで足もとはよく分るのだ。肩下げ鞄が胸の所でぶらぶらして邪魔だ。これは色々大事な書類など入っているのだが、物を運ぶに走りまわっていると胸を締められて苦しいので、それも外して生け垣の根元へおいた。それから気がついてこの頃炊事に使っている電気焜炉を持ち出してこれも畑へおいた。燃料不足の折これさえあれば、蒸しパンなどすぐ出来るからだ。まだ大切なものが色々あったのだが、あせっていると思い出せない。息切れがしたので縁側で寝ころんだ。そうしていると、またヒュルル、ドサッ、と畑のあちこちに高射砲弾の破片が落ちる。
林の向うの火は下火になって来た。長い。随分長い。もう三時だとラジオが言っている。まだ敵機が後からつづいて来る。もう動けないような気がする。これでいよいよ駄目になった。鈴木氏は、こんな危険になった土地(これまでは東京近郊でこの辺が一番安全だと言われていた)にある家を六万円も出して買うようなことはしないであろう。運のない人間だ俺は。そう自嘲する気持であった。そらもとの杢阿弥じゃないか。やっぱり予感のあった通りだ、と私は思った。
そこへ花村夫人がやって来て、「私ねいま応援に二組の方へ行って来たところですの。大変ですよあなた。三十四十じゃない、五六十もの焼夷弾が老松さんと緒方さんへ落ちて、家の方は消したようですが小屋が燃えてしまいました。とてもあなた、あれだけの火が落ちたら、私どものような不人の家では消せるものじゃありません。老松さんはいい時に家を売って疎開しましたね。お宅でも奥様方がよい時に疎開しましたわ。このあとはまた罹災者の輸送でとても汽車になんか乗れなくなりますもの。ここらも危険になりましたから、もう東京中どこにいたって同じことですわ。」私は危く、実は先刻家を売る約束をしたばかりですがこれでは向うから取り消されますね、と自嘲的に言いかけた。花村夫人も今のうちに家を売って疎開したいのだが花村氏が頑固で庭を気に入るように作ることに熱中して耳を藉さない、と貞子に愚痴を言っていたそうだから、こんなことを口にするのであろう。
老松家は家と四百坪ほどの土地を七万円かに売って、ほんの二週間ほど前に新潟の方へ疎開して行ったのだ。この一月ほどの間に、この近くで、老松家、江口家、加持家、笹治家等それぞれ家を売って疎開したのだ。花村夫人もそのことを考えているのであろう。
私は自分の気持を静めて、夫人や、またそこへ出て来た花村氏と話していたが、気が滅入ってならない。この売買が駄目なら、もっとずっと安くても売るか、それとも初めの考のように貸しておいてもいい、などと思ったりしていた。まだ敵機は続いて来ていた。次第に夜明け近くなって来た。少しの間をおいて、一機二機と西空から照空燈に照らされながら、頭上を通り、赤く燃えている市内に火の粉を撒いて去る。
しかし「最後の敵目標が御前崎附近を東北進中なり」というラジオの情報が入った頃はもう空が次第に明るくなり、それらしい敵機が八王子方面から私たちの頭上を通って行った時は、四時過であったろうか、あたりは朝になっていた。私はぐったりしていたが気を引き立てて、畑のあちこちから蒲団、箱、トランク、鞄等を家の中へ運び入れた。
その足で鈴木氏の所に行き、昨夜の約束は実行するのですかどうですかと聞きたい衝動がしきりに私をとらえた。私は近くの同家の前まで行って見た。戸をすっかり閉めて静かにしている。もう眠ったのだ。私は入ることも出来ず戻って来て、そのまま釜を洗って飯をたき、腹が空いてならないので、五時頃朝食にした。どうせ昨夜の約束は駄目だと自分に言いきかせながら、靴で歩いた家の中を掃除し、ふとんを敷き直して寝た。昼までよく眠った。疲れて胸が苦しい。昼のラジオは、省線電車は新宿池袋、田端上野間のみ通っていると報じている。都電も市内南部は駄目、私鉄も汽車線も横浜、東京間は不通だという。そうすると渋谷辺から品川、それから京浜間がずっと被害を受けているらしい。
昼から机に坐って新聞の切り抜きをしてぼんやりしていると、三時頃ひょっこり縁側へ鈴木氏が来て、金を取りに銀行へ使いをやったが遅くて失礼と言い、昨夜は驚きました、この辺では初めてだそうですな、と笑いながら平気で言うのであった。
約束は履行するのですかと、口まで出て来たが、私はおさえた。そして平気な顔で、何時頃になりましょうと言うと、いや、もうすぐに参ります、お待たせしまして、とそそくさと戻って行った。それではやっぱり買うつもりなのだな、と私はほっとし、あの人は昨夜の空襲には平気らしいが、三月十日の大空襲に下町にいて、家も工場も夫人も子供も失い自分は一晩中川に漬っていて助かったという体験のあるあの人には、昨夜の焼夷弾など何とも思わないのだろうか、と不思議な気もした。
一時間ほどして四時頃氏は、代理人の竹山佐一郎という老人を連れて来て、五万円を私に払わせ、あとは万事この人にと言いおいて立ち去った。私は百円札三百枚と、二百円札百枚とを数えて竹山氏に受け取りを書き、さて、厚さが大きな弁当箱ほどもある札束をどうしまおうかと思いまどった。本当になったのだ。私が五万円受けとったのだ。そう思おうとしても変なもので、受け取ってしまうと、それが当然のことで、不思議ではないとも思われて来る。
夕食をし、貞子あてにこのことを手紙に書いて知らせた。鈴木氏は教育のない人らしく、やや鈍い、しかし明るい性格であり、遠い先まで考えない人らしい。またこの附近に私の家を入れて四軒も買っているので、つまり私たちが失いかけているこの土地の安全度への信頼感を、かなり積極的に信じ込んでいる所なので、昨夜の空爆ぐらいにたじろがぬのであろう。外の人で、初めてこの土地に家を買おうとする人なら、きっと破談としたにちがいない、と今でも私にはそう思われる。
五月二十八日夜記
東京は半分ほど残っていたが、二十四日未明の空襲に続く二十六日未明に再び二百五十機での空襲によって、その大部分は失われた。二十五日の十時頃から空襲は始まり、二十六日の二時頃に終ったが、この時は強い風が出て、被害甚しく、電気が十二時頃に絶えたので、ラジオは途中から聞えなくなった。敵機はその前々夜よりも数の多い感じで二機三機と並んで西方八王子附近から侵入し、市中は火の海となり、私たちの周囲もあちこちに焼夷弾が降って燃え上った。南の方四五町ほどで農家が十軒ほど東の方七八町の八幡山附近、西の方は調布と思われるあたりが燃え上り、今度来る敵機は、と入って来る西方の空で白く照らされる敵機が頭上七十度ぐらいに近づく時は何とも言えぬ緊張で見上げている。その角度で落すと、ここへ真直に降って来るからである。花村夫妻と令嬢と四人で、両家の間の私の畑に立ち、今度は、今度はと見上げているのであった。四方に火の手があがったが遂にこの一角には火焔を被らず、やがて敵機の数は疎らになり、高射砲の破片がヒュルル、ブッと地に突き射さる音を何度か身辺に聞いて、空襲は終った。一体この家が焼けたら手附金を受けとっている私はどうなるのか。鈴木氏も解約出来ぬが、私も一種の不可抗力による売買目的物の半分(土地と家の)が失われるわけだ。この日の朝、私は東京急行に寄り、借金の七千余円を支払ったので、もう四万三千余円しか持っていないのだ。とにかく火がついたら何としてでも消さねばならない。そしてこの家を渡さねばならない。私は風呂敷に包んだ四万余円の金を腹に巻きつけ、シャベルを手にして、火の降って来るのを待ち構えていた。三時頃に片づけて眠った。こうして無事にいよいよ初まった東京大空襲の第二夜は明けた。
だが朝になると、ラジオはなく、新聞はなく、京王線は不通であり、市内の様子は全く分らない。これまでの空襲では一度も京王線は不通ということがなかったのだが、全体の様子はただならぬものがある。昼頃になり、縁側に鈴木氏がひょっこり入って来た。「どうも弱ったことが出来ましたよ」と言う。私はぎょっとした。これは解約の申込みだ、或は手附金も半分位返してくれということかも知れぬ、と咄嗟にそう思った。しかし氏は続けて「中野の事務所に入れておいた工員が六人罹災しましていまやって来たのですが、入れる所がないのですよ。それでまことに申しかねますが、お約束の十五日前ですけれども、ほんの一週間ばかりお二階を使わせて頂けないでしょうか。失礼なことのないように十分申しきけ〔ママ〕ますから」と海坊主のような太って丸い顔でざん切り頭にジャケツを着た氏は言う。「構いませんとも、どうぞ」と私は言い、寝具も焼いたということなので、田居君の所の預っている蒲団のうち敷二枚は包んでいないので、それを二枚と私のかけふとんの羽根ぶとんなど二枚ほど使わせることに約束した。氏は喜んで帰ったが、私は私でほっとした。もう氏はこの家を自分のものと思っているわけなのだ。それに空襲の時に五人も男が入っていれば人手があって気強いわけでもある。鈴木氏の家の女たちが三人やって来て六畳の間の本を下に運び下して掃除した。これでいよいよ私の書斎にも寝室にも使った二階の六畳も、永久に私が使うということがなく、また子供が戻って来て、「僕のうち」と言って上って見ることもなくて終るかと感傷的になる。しかし現実は激しく刻々に変っている。午後五人の汚れた男たち、三月十日に妻と子を亡くしたという五十近い男から、三十前後の男、それに十七八歳の少年まで入れた五人が、焼けた鍋やこわれたバケツなどを下げて入って来た。その人たちの話では中野三丁目のアパート(鈴木氏のものらしい)にいたが、火が降り一面の焔となってからは、リアカーにつけて用意していた蒲団も運ぶ余裕を失い、あちこちに伏せたり、高円寺の方に逃げようとしたり、新宿方面に逃げようとしたりしたが、どちらも火の海で進退窮し、中頃の淀橋の川の中に漬かって夜を明かした。淀橋辺も鍋屋横町辺も一望の焼野原だという。そうすると、新宿から高円寺にかけて全部燃えたのであり、淀橋近くの百田氏、和田本町の薫夫婦もきっと罹災したに違いないと私は信じた。
次々と少しずつ人に聞くと新宿駅は全く姿を止めないという。また宮城も燃えたという。畏れ多いことである。午後五人の人たちと風呂を沸かして入る。組の中の伊藤信次氏のところに、今夜あるという国民義勇隊結成のことで、私が無籍故入れぬと断りに行くと、同氏は今日自転車で新宿代々木渋谷目黒と勤務先まで行って見たが、どこもほとんど一望の焼野原であり、渋谷駅の所の東横デパートも内部が焼け落ちているとのこと。省線も各私鉄も全く不通の由。それを聞いてまた私は心配になって来た。昨日その四階の東京急行事務所に行き、土地家屋売買による名儀変更のことで処理をたのみ公正証書を渡して来たからである。今日午前中にそれを取りに行くことにして来ている。或はあの書類も焼けたかも知れぬ。とすれば、また手続が面倒になり、契約の成立に暇どることになりはしないか。困ったことだが、今夜にでもまた空襲があれば、危険が迫る。どうしてよいか分らぬような苛立たしい気持だ。
次の朝になっても昼になっても電気も新聞も来ない。東京中が焼けてしまい、あたりがしんとして、ただこの辺の緑色の樹木の中に自分のみ、ぽつんと生きているという動物のような感じがして来る。仕方がない。こうして待っている外はない。次の日の午前中家にいたが、誰も来ない。心待ちにしていた百田氏も薫たちも来ない。昼前に、麦粉と澱粉を焼いたパンを作って、小田急の千歳船橋の川崎昇君の処まで一里近い路を歩いて行って見る。途中、あちこちに農家が焼け落ちている。同家で昼食をしようとしていると、川崎君の友人の加島という油工場主が部下二人と自転車でやって来る。東京市中を通って来たという。噂どおり、宮城は焼け、東京駅も焼け、銀座も悉く焼け、麻布、赤坂辺など、これまで残っていたところは全く失われたという。大東亜省も焼けたという。「もう東京というものは無くなったですよ」という。いよいよ大きな被害である。小田急は成城学園から経堂までやっと電車が通っている。
午後三時頃家に戻ると、室の中に百田氏がいて声をかける。やっぱり罹災したということで、ほとんど消火活動と避難との間に失神するぐらい疲れたという話を聞く。氏が途中で買った新聞は、これまで見たこともない「共同新聞」というので、これは読売や東京が焼けた為、朝日か毎日かで刷って発行しているのだという。非常時をまざまざと思わせるものだ。
寝具は悉く焼いたが私の所に二組持って来てあって良かったと言う。本は悉く焼き、衣類と米とは大分持ち出したから差しあたっては困らないが、と言い、興奮しているのか、割に元気で、今日は息子の暁見君が早速焼けあとに壕舎を作っているから、今夜からそこで生活するのだと語る。そんなことをせずに少しの間でも八畳を使わせるから畳の上に寝たらどうかというと、まあ、これからふとんを一枚持って戻って見て、どうにもならぬようなら今夜来るから、と言って、ふとん包みを負い、二里の道をまた戻って行く。ステッキ一本、茶四半斤、などをやる。夜中になって、そうだ罹災したというのに、もっと何か缶詰めのようなものでも持たせてやるのであった。見舞金もやらなかったと、自分のうとさに腹を立てる。百田氏の意地を張っているような元気さについ釣られて、さほどのことともその場では感じなかったのであるが、私などよりもずっと都会人としての生活をやって来た氏や、ことにあの神経質な夫人が壕舎生活をし、電燈もないところで暮すのは、これから先雨の多い梅雨時期には大変なことだろうと思う。
夜、金を持ち扱うに困ることに気づいて、厚地の黒い上衣風のシャツの裾に金を三つに分け、前部の両側と背中の下部とに金を縫い込み、それを着たまま寝る。紙幣の厚いものが腹や尻のあたりにごそごそするが、ズボンを穿くとほとんど気にならない程度になる。銀行に入れるにしても、こういう時、いつ焼けるか分らず、また出し入れも覚束ないので、危っかしいが身につけている。二十五日の昼に、牛込局で貞子あての為替五百円を二枚組み、一枚をその日手紙に入れて送ったが、その夜の空襲故、或はそれも焼けるかどうかしたかも知れぬ。
五百円位どうでもよいと思う。しかし何とかしてこの売買を早く済まし、新聞の案内で見た土地会社の広告にある山林を二万円ほど買ってしまいたい。今の所許されている山林の売買もいつ禁止になるかも知れぬ。その広告の中、府中近くの桜が丘という丘陵地帯に三千坪で一万八千円という売りものがある。その辺だと地区も大体よいし、丘もさして高くない美しい場所だし、値段も丁度よいと思う。三千坪というと一町歩である。林のままでも開墾しても、一町歩あるというのは気強いことだ。ひょっと私が死んでも子供たちがそこに小さな家を建てて住み、開墾でもすればそれでよいと思う。
こういう状勢では、当分罹災者輸送で東京から出ることは難かしい。その間に、金を土地に更えて、荷物は峰岸君のところからでも出せるだけ出し、杉沢の土地と小屋に見当をつけて私は来月末頃でも北海道へ行きたい。
階下六畳の箪笥の前に、鍋やバケツをおき、私は朝に飯をたき味噌汁を作り、昼は汁のみ温めて食ったり、またパンを焼いたり、一羽残った名古屋種の産む卵を食べたり、まだ十あまりある鮭の缶詰を切ったりして食事をする。パンは電気コンロで作る。手間もかからず生活はのん気だが、こうして自分ひとり残って、子供の本や机や貞子の着物などの残ったのを片づけたりしていると、妻や子のいない間にこの家の生活も終ってしまい、もう自分の家でなくなるのかと思うと何とも言えず侘しいものがある。
今日はまたもう一組鈴木氏の使っている大工が罹災して親子二人ここへ来るというので、私は二階三畳を片づける。私の本や本箱や、薬や、がらくたなどを雑然と入れておいた室なので骨を折る。鈴木氏は残った本をみな買いたいというので選んでみると、あれもこれもと心の残る本のみとなるので、思い切って売る方にみな一緒にし、どうしても必要なテキストとなる作品集のみを階下に運ぶ。自作の本が多く、これは捨てるわけにも行かずに困る。二階の六畳と三畳から選んで階下の八畳に積んでみたのだけでも五百冊もある気配だ。
昨日夜から電燈が来てラジオが入った。省線は昨日は全部不通で、京王線、帝都線、小田急、東横線、等も東京に近い所は悉く不通であった。
また昨日百田氏が途上の見聞とて、異様な話をする。それは沖縄の敵が全面降服をしたとて、途中で逢った学生など有頂天になっていたという。本当なら、こうして焼け出されても、こんなうれしいことはないが、と言う。氏の帰ったあと二階の人たちに聞くと、その人たちは今日中野方面へ歩いて行って来たが、その噂は本当で、あちこちで皆が万歳を叫んだり、国旗を立てたりしている。憲兵隊の前を通ったので訊ねたところ、まだ確報はない、と言ったが、どうやら本当らしいとのこと。本当か、本当ならと、私も胸が躍るような気がする。しかし、こうして徹底的に首都を焼き払われた時あだかも、敵方の諜報網の作為か又は国民の希望的夢想かで、そういう噂が市内に行われているなら、実によくない徴候だ、とも思う。その噂は昨日からなのだが、昨夜も今朝も今夜もラジオは遂にそんな報道を出さない。そして今夜は百余名に及ぶと思われる迅雷特攻隊士の感状の発表があった。初めて、我方で、新武器と言われているロケット爆弾による特別攻撃隊の発表がこうしてされたわけである。午後五時の報道で、初めに「海行かば」を吹奏し、それから姓名の発表が随分長く続き、最後に報道班員のその部隊の主立った人々についての印象記が放送された。
帝都は悉く灰燼に帰し、沖縄の敵の全面降服という虚報が巷に飛ぶということは、何とも言えず不安なものを感ずる。薫たち遂に来ず、免れたのであろう。今日午後は漸く千歳烏山駅に電車の音がする。新宿までの三分の一位の桜上水まで通っているという。明日は食糧などを持って薫たちの所、百田氏の所に寄り、東京急行に行って見、それから、焼けたと思われる文学報国会や、これも危い感じのする新潮社まで、行けたら行って見たい。
もう十一時近い。寝なければならぬ。敵襲があればまた今夜も眠れないことになろう。
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五月三十日午後十一時記 昨日昼横浜をB二十九五百機で敵襲う 未曾有の機数なり
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一昨日来た百田氏の話に、淀橋辺の焼夷弾は白い火の吹き上るエレクトロン弾多く、風が出て熱気に気が遠くなり、溝に伏せ、水をかぶって僅かに凌いだのだという。私の所に来ている工員たちも淀川の中に漬かってやっと助かったと言い、火災は怖ろしいものである。その翌々日になる一昨日昼頃にも中野本町通り子供をつれた女やその他男女とりまぜ三人の屍体を電車通に見たと言い、相当の死者があちこちの壕に出たとのこと。
なお淀橋附近の味噌醸造屋が焼け、附近の住民は今だというので、シャベルやバケツを持って好きなだけ味噌を取って来たとのこと。また中野本町通の砂糖配給店が焼け、焼けた砂糖を取りに女どもが容器を持って群がっていた。その中で一人の女がもう一人の女の手にしている容器が自分のだから返せと言い、言われた方は容器はあなたのでも中味は自分のだから戻せと言い合って喧嘩していたという。また今日薫の嫁の玉子君から聞いた話に米の配給所に並んで三時間も待ったが、その時、泥にまみれた米粒を老婦人が泥ごとかき集めているのを見て涙がこぼれた。乞食同様の生活になったのだ、と思ったとのこと。
今日東京急行へ預けてある公正証書と向うから出すことになっている名儀書き換えの委任状のことで渋谷へ出かける。早くして家の受け渡しを終りたいと思うので、暑い夏のような日ざかりの中を出る。電車は新宿迄の半分道である代田橋までしか行っていない。そこで下車して渋谷まで一里余を歩く。道のあたり大半焼け野原であり、到る処に焼けトタン板を利用して人々が小屋を作って住んでいるのを見る。いまはよい気候で天気もよいからいいが、近く始まる日本の長い梅雨期にはきっと湿気のため病人が続出することであろう。また真夏は日に屋根を焼かれ、道か庭の木立は悉く焼け焦げているから、たまらないことだろうし、冬は寒さを防ぎようもなく、一体どうするつもりかと疑う。そういうトタン小屋は細民街に多く、屋敷町は焼けてもたいてい地方に予備家屋を持っていると見えて、小屋がけは見かけない。
渋谷で東京急行本社のある東横百貨店は窓ががらあきに黒ずんで焼け、帝都線、東横線等悉くその乗り場を焼き崩され使用にたえぬ。共に一二駅離れたところから発車するようになっている。東京急行本社は代官山の某邸に移っているとて行って見たが、田園都市課の社員は一人もいないとてとりつく島なし。公正証書が焼けたなら一体どういうことになるのかと心配でならぬ。手製のパンを駅のベンチや焼けあとの石に腰かけて食べ、折からやっと開通した新宿行の山手線に乗り、新宿下車、淀橋迄歩き、百田氏を壕舎に訪う。隣の日高駐伊大使邸の上り階段を利用し、一坪ほどトタンで屋根を作って暮している。雨でも降ったら住める所でない。やっと、穴にうめて助けた行李二つと私の所によこした夜具二組の外、家財を悉く焼いたという。私は持って行ったバター一ポンドを出すと大変喜ぶ。三年ほど前百田氏から二十円で買った籐のステッキを、昨日氏が私の所から持って行った安物のかわりに差し出す。また私の所でいま二階の工員に貸してある羽根ふとん一枚と炬燵ふとん一枚、それに座ぶとん二枚をやると約束する。近所の小笠原という家の焼けあと二百坪ほどを借りたので、そこに壕舎を作って暮すつもりだと言っている。いつまで続くことかと思いながら、その計画を聞いている。気の毒なことである。七輪一つ、焼けあとから生かした不揃の茶碗、キュウスなどで、茶を入れて皆で飲む。隣の山本という家では焼けあとに残った風呂を沸かし百田氏や山本夫人などが、代りがわり、野天にトタンで半分かこった風呂に入ったりしている。
焼け味噌を土産にもらい、更に鍋屋横町まで歩く。新宿からここまで一里ほど左右悉く灰燼である。僅かに鍋屋横町の一画残っている。そこに英一君の下宿松岡家を見舞い、長谷川大工の家を見舞い、更に坂を南に下って和田本町の蒲池君とその隣の薫の所に寄る。この僅かの一画が残って、そこに親戚知人がいるのは、不思議なほどだ。玉子君に夕食を馳走され、百田家からもらった味噌をおき、煙草十本をもらい、夜八時過ぎ、代田橋まで一里ほど歩く。途中半分以上焼けている。九時過代田橋に着くと、もう電車がないとのことで、暗がりで一緒になった調布まで行くという男二人、八幡山までという男一人と四人で歩き出し、十一時家に着く。結局今日は四里ほど歩いたわけである。疲れる。
この日敵機の撒いた伝単を見る。軍部を攻撃し、日本国民に和を願わせんとする趣旨をうまく書いたものである。外に昨日は、敵機は、当分これで東京空襲はやめて、地方を焼くという伝単を撒いた由。また暗がりを一緒に歩いた小男がいうのに、敵の捕虜は五六七の三月は敵は都市空爆と交通破壊をやり、八九十の三月は農作物を焼く戦法らしいとのこと。
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[#2段階大きい文字]昭和二十年六月
六月二日記
昨夜から激しい下痢で、絶食をし、終日寝ている。東京の大部分は焼け失せた。一昨日は三鷹の田居家まで、河西君と歩いて行く。山本勝巳君も来て、三人で食事をする。私が家族を疎開させ、家は売る手続きをしていると言うと、田居君は、いつも君の見とおしのよいのに較べて自分はへまばかりしているが、自分の所も家族を田舎へ移さねばならぬと思うと言う。しかしまた支那へ行くことも考えているし、心が決まらなくて困るということ。自転車を借りて戻る。
昨日は朝から出かけ、東京急行田園都市課の井上操氏の家を尋ねて、代々木上原に出る。前々日歩いた通り道であった。周囲の焼けた中に氏の家が僅かに残っている。留守だが細君の話に、金庫がまだ熱くって開けられずにいるというから、もう二三日後でないと書類のことは埒が明かぬらしい。この日京王線は笹塚まで開通、そこから歩いた。地図が大変頼りになる。それから小田急とちょうど開通した省線で、ひどい混雑の中を市谷下車、新潮社へ行く。途中先日まで残っていたのが、二十六日の空襲で焼かれているので、社はどうかと思いながら北町まで行くと、酒井邸の庭木が青く繁っているので、あの一画は大丈夫かと思ったが、そこを過ぎるとまた一望の焼野原で、その中に四階建の新潮社の社屋のみが焼けずに建っている。奇蹟のようだ。隣接の木造倉庫、母屋等は悉く焼け、硝子に大分ひびが入っているが、ともかく残っている。二階で青柳、丸山、等の諸君と語り合う。現存社員三十名のうち、焼かれないのは九名で、あとはみな罹災しているという。副社長宅も焼けたという。また直属の印刷所である富士印刷も焼けたという。今後の社の方針について、五日に全社員の集りがあるとのこと。丸山君の話では、岩波書店も焼けたが、岩波は全社員に二年分の俸給を渡し、一応休業ということとし、その間各社員はどういう方向の業務についていてもよいということになったとのこと。或は新潮社もそんなことになるのではないか。丸山君など、あくまでパンフレットででも仕事を続けたいと言うつもりだとのこと、出版部長の佐藤哲夫君も積極的だとのことだが、副社長(事実上の社長)は罹災したせいもあって弱気になっている模様だ。私とすれば、当分休業ということになる方が望ましい。そうなれば、八王子の杉沢の所に家財を移し、北海道で暮せることになる。帰途中野駅から鈴木忠直君を訪う。ここも危く免れている。
朝下痢気味だったのを、社で誰かの煎り豆を食べたので、猛烈な下痢となる。夕方杉沢がやって来たので、横山村の例の土地一反歩とそこに建てる六畳四畳半の小屋の代金として一万円を現金で渡す。杉沢の意見だと、手金を受けとった後に家が焼けたということは不可抗力だから、金は返さなくてもいいのだそうである。そんなら心配ない、あとで何か起ったら頼むよ、と笑いながら私は彼に一万円渡した。また成城の石井家の荷物を八王子へ移すトラックが動くので、私の所へ寄り、私の家財も積んで行ってくれる由を杉沢から聞く。杉沢は、私の家の処分がうまく捗って本当によかった、と繰り返して言う。五万円六万円というのは大した金でないようだが、月給取りの生活を考えれば、月に三百円とっても年四千円、十年で四万円だから、やっぱり大金だぞ、と彼が言う。そして戦後のインフレーションがどういう形になるのかと私に訊く。私は、まあ土地が一番確実な資産になるだろうから、あんたももっと土地を買っておくといいね、と言うと、彼はそうかなあ、と言っていた。
夜何度も便所に立ち、一度などは脳貧血で倒れそうになった。悪性の下痢でないかと気にかかる。終夜苦しく、何か寝言を言っているのが自分でも分る。今日も下痢つづいているが、苦しいのは直ったので、寝ていて、志賀直哉の「万暦赤絵」や島木健作の「礎」などを読んで暮す。この数日歩き過ぎて疲労が重なったのである。一人暮しをしていて病気するのは、何とも言えない心細いものだ。十分気をつけて過労せぬようにすること。寝ていて今後の方針をあれこれと考える。
杉沢は子供を北海道におき、貞子を呼んで横山村で暮せという。私はそうしたいと言っているが、本当はとても不可能だと思う。貞子が子供たちを離すわけがない。私もまた横山村には小屋が出来て家財を移すまでしかいないつもりなのだ。一昨日埼玉県の峰岸君に手紙を書き、危険だと思ったが百円札を封入して、児玉八王子間の定期券を買うよう頼んでやった。児玉まで衣類を運んで、そこから北海道に送ったり、また峰岸君の所にもおいたりするつもりである。二三日前から定期券の購入は勤務先の証明の外に購入通帳を見せることになった。次第に窮屈なので、私のような配給を受けていないものは、まともには定期券を買えないわけである。また京王電車など、一般の切符発売を停止しているから、定期券がなければ全く歩くより外はないということになる。省線は新宿代々木間がなかなか修理されなかったが、昨日開通、私鉄も京王線の新宿笹塚間の外おおむね開通した模様だが、都電はまだ四五本の外全部駄目だ。二十六日の東京の受けた深手はこれまでにないもので、東京そのものが死に瀕していたと言ってもいいものである。
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[#2段階大きい文字]昭和二十年七月
七月九日記
先月の十八日に貞子が〔再度〕東京出発、川崎夫妻から集団帰農について相談を受ける。その後、世田谷の家で荷物を片づけ、一つ一つ箱に詰め、二十八日には中野駅に疎開の手続きをし、三十日雨の中を、山口君という鈴木暦太郎氏の部下に依頼して荷車に五個の荷を乗せ、私が後押しして中野駅に持ち込む。その間十九日頃から清水福松一家が世田谷の家に越して来たので、私の荷物は階下の洋間にあり、私は二十五日頃まで二階の三畳に暮していたが、食糧はいよいよ苦しくなるし、清水家が色々うるさいことを言って居にくくなったので、薫さんの所に寝起きする。幸なことに町会の細君が移動証明を別に一枚書いてくれたので、薫さんの所で配給を受けられるようになった。荷物は五個大きいのを中野に出した後、林檎箱とマーガリン箱と合せて十五個程世田谷の家にあり、外に川崎家に八個本の箱があり、杉沢家に六七個の箱と外に鉄かまど、ふとん一組、寝台の類があり、峰岸家にふとん一組と箱二個程あり、とても片づけられるものではない。釜と鍋、電気コンロ、傘、手まわりの小物をとりあえず運ぶ。
一日薫夫婦と共に出発、三日夕刻野田生着、基が先月十二日死去のことを貞子から聞いて驚く。電報が遂に到着しなかったのである。死後、兄妹が各方面から集って色々と片づけ、骨納めも二日に済んだ筈とのこと。貞子も東京から戻るとすぐその手伝いで疲れ切り、やっと起き上ったところだという。
貞子の様子を見ると、一種の寄寓者の様子を帯び、あれこれと気をつかいながら、私や子供たちをかばおうとする気配があり、独立した主婦の気位を失っていて心を痛ませる。こういうことの根本は、決して邪魔者という意識から生れるのではない。食糧の半分近くを補ってもらっているという配給量の不足という事実から来ている。野田生でも塩谷でも畑を作っていて、馬鈴薯や粟や豆などで、補いはついているものの、同居人が食糧の余裕を日々に削り取っていることは、一種の冷たい空気を生む。子供にしても礼は無邪気だからよいが、滋は何となく祖父母の家にいることが遠慮がちな風である。そして私自身また妻の実家の中では一種の無能力者であり、独立した生計を持たぬ者である。ということは今の配給食糧の不足分を妻子に供給し得ぬ者ということになり、何としても肩身が狭い。薫夫婦が自家に戻ったように振舞うのに較べて、私たち親子は、たしかに厄介者の立場である。そう言えば祖師谷の家を売って以来、私はその二階三畳間での自炊生活、薫さんの二階への寄寓、野田生での二日の仮泊、それにつづいて今塩谷の家に来ているが、ここも母がいるとは言え、弟夫婦の生活の中に入っているのであり、自分の居るべき所を持たないという感から離れられぬ。家が無いということは、生活の根拠がないということであり、人間の独立心を失い、品性が低下し、怖ろしいことだ。東京にいるうちから、私が塩谷に貞子と子供が野田生にという生活は、思わしくないだろうとは考えていたが、こんなにそれが身に応えるとは予想しなかった。私たち一家の者には、やっぱり独自の生活様式が出来ていて、貞子が実家に居ても、私が弟の家にいても、なじみ切れないものがある。塩谷の家は、母がいるため私の育った環境や気風がほぼそのまま続いていて、私には一番居やすいが、三間の家に弟夫婦と子供四人、それに基の嫁の美津子と赤ん坊、母と私という十人家内では騒然としていてとても自分の落ちつきを保てるものではない。両家とも、大変よく扱ってくれているが、時としてこちらの方で僻むので変な空気が生まれる。
家の前の姉の借家の一軒、学校の教員の入っている家があきそうなので、十月頃には私たち一家がそこに入れるような予定であるが、一日も早くそうなるとよい。そして私が、隣駅の小樽でどこかに勤務するという形になれば、どうにかそれで落ちつけるであろうか。
七月十八日記
戦争の中の生活の移り変りは何という早さだ。九日に書いた日記の頃、私は十四五日に上京して残った荷物を片づけ、川崎君たちと一緒に集団帰農の形で再び渡道する予定でいた。その頃から母は私に向って、そんな危い東京へ、もう行かなくてもいいだろう、行くな、と事毎に言っていた。函館の基の入っていた官舎にまだ荷物や美津子の着物などが残っているということで、東京へ行く前にそれを塩谷へ届くよう手配しなければならない。もう荷物を運んだり鉄道に交渉したりするのは、私に嫌悪感を抱かせる。しかし母と二人十日塩谷を立ち、野田生に泊って貞子と三人で五稜廓に下りる。塩谷からうった電報の手ちがいで滋はその前日十日に五稜廓に行き、夕食もせずに、寝具のない官舎に一夜を明かしたということで、母が哀れがる。着いてから官舎や役所の人々に挨拶してまわり、空家の座敷に、菰包みになっている荷物を解いて、衣類を別にする。
そうして野田生で作ってもらった握り飯を食べながら母と貞子と話し合う。大急ぎでチッキを三個作り、リアカーを借りて滋と二人駅まで一里の道を運んで出す。一個は重量超過ということで駅の中で折角の荷造りをほどいて作り直すなど、実に煩雑で骨が折れる。滋は夕方の汽車で野田生に帰る。
夜三人で話し合っているとき、野田追の隣駅の|落部《おとしべ》に、建築家の田上義也氏が合板工場の工場長をしている話が出る。夫人が昔から貞子の知り合いなので、東京でも私たちは往来していたことを話すと、母が私に、そこに勤めるといいとすすめる。私も、塩谷村にいて隣の小樽市で何か職業を捜すか、でなければ落部の田上氏の工場など、疎開先にある勤め口としていいものと思っていたので、早速貞子と田上氏を訪ねて見る気持になる。
色々な生活上の重大な問題が同時に集って来て、決しかねるが、それでまた決定を延ばすことも出来ない。
この数日来北海道にはB二十九の偵察飛行がしきりに行われ、騒然としている。母などは、爆撃の無いうちに函館へ行って基の荷物を片づけなければならぬと躍起となっていて、帰道後疲労と下痢のためひょろひょろしている私を連れて函館へやって来たのである。基の荷物は勤務中死亡したものとして貨車に積み込める許可を鉄道から得ているのであるが、実際はいつ積めるか分らないと運送屋が言っているので、運べるだけチッキで出したり背に負ったりして片づけるつもりであったが、たまたま博の嫁の末子の親戚が五稜廓駅前で食料品の配給所をしているというので、来がけにそこに寄って母が細君に相談すると、運送店とは親しいから特別に早く出してもらうよう手配してくれるとのことで、大変安堵した。
十一日夜から十二日午前中かかって荷造りをし、盥やコタツや机など差し当り生活の必要なものは、私たちが使うことにして、もう落部勤務に定まったように、野田生あて送るよう札をつける。万事を早目に決定して、手配しないと、一日後にはどういうことが起るか分らないという気分でいるのだ。
十二日風雨の中を、衣類やストーブや鍋などを負って、五稜廓駅に出、母は塩谷へ、私と貞子は野田追へと下りる。
十三日貞子と隣村の落部へ行く。田上夫人を訪い、話をすると、田上氏は函館に行って留守だが、多分何とかなると思うから帰ったらよく話しておこうとのこと。それから貞子の従姉の嫁している村の材木屋の林家をちょっと訪い、どこか家を借りれないかと貞子が言うと、氏の兄に当る本家の林の家で座敷が余っているかも知れないから話して見よう、ということであった。何だか職業も住居も一度に決まりそうで、帰郷後の十日あまり感じた安住の家なしという苛立たしい不安な生活から解放されそうでほっとする。
そして翌十四日田上氏に逢いに再び落部へ行く予定でいたところ、朝早くからけたたましく空襲警報が鳴り、敵艦載機の本土来襲を知る。終日敵機が函館、室蘭、札幌、小樽を襲い、近くの石倉、八雲等では機銃掃射にて機関車数台損ず。
翌十五日は、噴火湾を距てて室蘭に対する敵艦砲射撃の音がしきりにし、不安を覚える。汽車は不通にて身動きも出来ず、終日また煙草をふかして過す。
〔日付不明。紙片に記述、貼付〕
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チューリッヒ、昭和二十年七月二十六日発同盟 七月二十八日北海道新聞
米国大統領トルーマン、英国首相チャーチルは蒋介石と連名で十五日夜ポツダムで共同宣言を発表、日本に対する最後条件なるものを発表したが、要旨次の通り。
我等は左の条件を固執し他に選択の余地なく且つ猶予を許さない。
条件
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、世界征服の企図を誘致した権威と勢力を永久に除去し軍国主義を駆逐する。
一、我等の目標の実現を確保するため聯合国が指定する日本領土の諸地点を占領する。
一、カイロ宣言の諸条項を実施し、日本の主権を本州、北海道、九州、四国及び我等の決定する諸島嶼に限定する。
一、日本の輸送兵力を完全に武装解除する。
一、戦争犯罪を厳重に処罰する。日本政府は国内における民主主義的傾向復活に対する障害を除去し且つ基本的人権を尊重し、言論、信教並に思想の自由を確立する。
一、日本に対してはその経済を支持し、且正当の現物賠償に応じ得るための産業を維持することを許すが、再軍備を可能にする如き産業を許さない。
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ] 以上の目的のために原料資源の入手を許され、且将来貿易関係に参画することを許される。
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一、連合国の占領兵力は以上の目的が実現し、且つ自由に表明された日本国民の意志に基く平和的責任政府が樹立されると共に直に撤収する。
一、日本政府が即時全武装兵力の無条件降服を宣言することを要求する。然らざれば日本は速かにかつ全的に破壊されよう。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#2段階大きい文字]昭和二十年八月
八月二日記 於落部帝産航空工業
今朝七時出勤し、田上義也工場長より紹介される。ラジオ体操、講話等に列席す。
一昨日三十一日、野田生より馬車一台に荷物を積み、落部の沢田平治宅に借りた六畳八畳二間の座敷に引越しを為す。持物蒲団三組(一組は輸送途中に失い、一組は皮なしにて野田生にあり、他の二組は内地に留置してある)、行李三個(他に一個分野田生預け)、食糧として塩谷より米一斗、澱粉一斗、野田生より米五升、粟等三升、澱粉五升ほどもらう。相当の量にて、これだけあれば四ケ月か五ケ月の補給には困らないであろう。
ストーブ、机、チャブ台、桶等は函館の基の使ったものを持参したので、差し当りは間に合う。煙突が無いのだが、家主の沢田家で貸してくれるというので、会社の大工で隣家にいる横田というのに話して煙突抜きを作ってもらい、据えつけることとする。
三十一日夜貞子と二人泊る。一日夕刻礼と滋が来て、ここに東京を五月末〔五月十七日〕に子供たちと貞子が発って以来初めて一家が揃って自分たちの家庭を持ったこととなる。その間、親の家、祖父母の家というものの、野田生や塩谷にいるあいだの食客風な窮屈な意識は、子供たちをも、貞子をも私をも圧迫しがちであった。ことに現在の食糧事情から来る厄介者意識をいつの間にか十五歳の滋が抱いて来たらしい。野田生の母も、礼はよいが、滋が扱いにくいと貞子に言っていた由。引越の日に滋の勉強机を見ると、ゆっくり書いた字体で鉛筆で「ヘンクツ」という字がノートの隅にあった。誰か、祖母か叔母になる美智子かの口から出た言葉を気にして書いたものらしく、私ははっと思うほど胸をうたれた。私自身すら母のいる弟の家にいても、あんなに親切にしてくれる弟の嫁に気をつかうことが意識されるのであった。父母の家に子供二人を連れて疎開して来ていた貞子の緊張した顔は、私の心を苦しくすることが度々であったし、時には私にはそれと言わず、家の裏で泣いていたりすることもあった気配である。礼がある日「お母さんね、裏の畑にいて、おれがいくら呼んでも返事しないで手拭で顔を拭きながら海の方へ行ったんだよ」と義父母のいる所で言った。私は知らぬ顔をして聞いていて、はっとしたが、義母もさすがに気にしたと見えて、「え、返事しないで手拭で顔を拭きながら行ったの?」と言った。妹の美智子とでも何か言い合ったのではあるまいか。私は一体礼は十三になるのだが、それに気がついて言っているのかどうか、とそれが妙に気になった。
それにしても、塩谷でも野田生でも実によくしてくれたものだ。野田生では二ケ月半三人のものが居たのだから、配給不足を補うのは相当量の食糧がいったわけである。食糧の備蓄の多い家だから出来たものの、一俵近くの主食量の食い込みとなったにちがいないのだ。そういうことを義父母も私たちも口に出しては言わず、食物を経済するような気配も見せず、義父母も義妹も、よく世話してくれた。たいてい、こうして世話を受けて別れる時には何か気まずい空気が出来るものだが、貞子がいつか泣いて裏手の畑を歩いていたということも、その場ぎりのことであったらしく、別に変った空気も生まれぬうちに、私の職業が隣村のこの工場にきまり、やっとの思いで室も見つけて引越し出来たのは幸なことであった。
室は北西向きであり、かつ二室とも襖のかげの隣室が沢田家の寝室となっているので、隔絶感がなく、小さい子が二三人いて喧しいが、しかし、それを云々するのは贅沢だと思う。
会社では、私のために新しく企画課というのを作った。東京での新潮社では企画部長という名であったが、実は出版部員として出版部の室に机を持っていたに過ぎなかったが、田上氏は私のために工場長室の隣にある応接間兼幕僚室を開放して机を置いてくれた。
仕事は、田上氏の企画的な腹案なり、私の観察や構想なりをまとめるということであるらしく、差し当っては何も無い。外の事務室は合同の大きな部室であるから、私と田上氏のみ廊下を隔てて離れた所にいるのであり、言わば秘書のような立場であろうか。工場の精神的な面と対外的な面とで働いてもらう、というようなことで私を皆に紹介したが、そのいずれにも差し当って私は役に立ちそうもない。午前中、日記をこうして書き、田上氏が貸してくれた「プラスチック飛行機」という合板飛行機材料についてのパンフレットや新聞を読んでいた。つまり私はもっとも楽なパトロナイズされた位置に身をおくこととなったように思われるが、しかし工場の役に何かで立つようにしなければならず、その仕事は自分で見つける外ないような気がする。
勤は朝七時からであるが、子供が六時半の汽車で八雲まで行くのだから朝食を一緒にして出るのは苦にならない。私は五月の末頃、家族を疎開さしてもとの家の中を引っかきまわしてから、静かな書斎というものを持たなかった。始終、どの荷物をどこへ移そうか、どうして物を運ぼうか、などと、もう他人のものとなった家の中で追い立てられるような気持で日を送っていた。北海道へ来てからも野田生では、私も一家の主として一日も早く自分の住居を確定して妻子を自分の庇護下に引き取らねばという考に責められるので、落ちつきというものを感ずることが出来ず、塩谷で母と一緒にいても四人の幼い甥や姪の騒ぎ立てる三間きりの家の中では、子供等に邪魔されぬように新聞を読む位がせい一杯であった。そして一昨日からいる新しい住居でも、家主の家族の喧騒、妻君の口やかましい怒声を襖越しに聞いていては机に向う気にもならず、また勤務の余暇では、ほとんどそういう時間が無いのであった。
それが、こうして工場の一員として室を与えられると、静かな室で明るい窓の下の大机に向って、田上氏の言葉によれば「用のない時は自分の仕事をして」もいいのだから、私は早速、先頃から汽車の中などで読みつづけているT・F・ポウイスの "Captain Patch" を中頃から読みつづけ、かつこの日記を書くことが出来て、自分の仕事に向えるという安らぎを覚えた。久しぶりのことである。
私の室には、私の外、いま病気で休んでいる田上氏の令嬢の|※[#「さんずい+嬰」、unicode7034]《はるか》さんが企画室職員として入ることになった。
こうして私は、とうとう東京から家族を出発させた五月末以来二ケ月余にして、漸く落ちつくべき所まで到り着いた感じがする。思えば東京からの二度の荷物発送、また塩谷からの幾度かの荷造り直しをしての野田生までの手荷物発送、(その前には函館の弟の遺品の発送をした)そして最後には三十一日の野田生での荷物の馬車積み込みと落部での家の中の片づけ、などと、幾度かの荷造り、荷ほどきの後に一先ず自分の家庭に家族と一緒になったというのは、実に大きな安らぎである。
仕事をしなければならない。生きる月日が多いとは思えないということは東京在住中から屡々感じたことであったが、漸々痛切にそう考えるようになった。
平和そのものだった北海道も、私が離京する直前の六月末から米軍のB二十九の偵察飛行が始まり、私と母が函館の弟の家財整理をして戻った七月十四日からは、敵艦載機が全北海道を三日にわたって波状攻撃し、十五日には、室蘭地区への敵戦艦、巡洋艦の艦砲射撃の音が殷々と噴火湾の対岸から野田生の部落に響いて来ていた。青函連絡船は殆んど全部失われたという噂である。四日前〔ママ〕の二十八日かにはB二十九は七十機でもって青森市を夜間焼爆した。次に敵が函館を焼き、室蘭を焼くだろうということは常識的にも考えられることだ。マリアナ基地や沖縄基地からは敵は北海道を偵察するのみがやっとで爆弾を持っては来れないと新聞は述べていたが、二三日前の新聞は、敵のB二十九が硫黄島基地を使用している気配であると報じている。そうすると一機が約四トンの爆弾を抱いてこの土地までやって来ることが出来るという。そういう空爆の恐怖は、この五百戸ほどしかない部落の落部にいても感ぜられる。工場は愛国何号という名のついた軍管理工場であり、飛行機の材料の一部となるベニヤ板を作っている。先月中頃の艦載機の来襲では、札樽間の銭函にあったベニヤ板工場が爆砕されているから、ここも危険と言えば危険なのだ。ことに噴火湾に面しているので、ことによれば敵艦、敵潜水艦の艦砲射撃を受けるかも知れない。工場は海岸から一キロほど離れているが、私たちの住居は海岸に近い部落の中にある。
八月十二日記
十日夕方工場から帰って、やっと据えられたストーブの前に落ちついたところ、七時の放送の初めに、珍しく「関東軍発表」という言葉を聞く。この頃戦況の放送は本土に対する敵機の空襲が主であり、またビルマ、蘭印方面の戦況は毎放送時に入るのだが、満洲、北支はこの頃ずっと平穏で、米空軍の空爆も、この春以来聞かなかった。その上、ソ聯の最近の日本に対する静けさには何か異様なものがあった。若し日本のこの頃受け身の戦闘、空襲を連日大規模に被りながらも邀撃機がほとんど飛び立たぬというような形が、ドイツの倒壊直前時のような印象を海外に与えているとすれば、ソ聯が最後まで、黙して第三者の立場を守り通すだろうとは私には思われなかった。それで、私はすぐ、「おや」と思ったので、立って、雑音の混るラジオの前に立って行った。果して、昨九日ソ聯邦は、英米と共同して世界の平和を一日も早からしむる必要上、対日宣戦を布告したこと、同時に九日以来満ソ国境、ソ鮮国境からソ聯兵が我方に浸透して来、またソ聯の飛行機がハルピン、新京、その他満洲国の諸都市を空爆しつつあることが発表された。遂に来るべき日が来た、という感の中にややぼんやりと私は考え込んだ。前々日頃から米軍の機動部隊は我東北地方の各地特に大湊地区に艦載機をもって攻撃を続けており、我々のいる北海道西南部には幾度も警報が発令されたり取り消されたりしているさ中である。
重く垂れ下った空の中に更に黒い大きな雲が風を伴って現われて来、草木の葉が戦ぐような感じである。祖国はいよいよ絶体絶命の境に突き入ることとなった。その太平洋岸には米艦隊が絶えず遊弋し、沿岸に艦砲射撃を加えたり、艦載機を飛ばして我方の軍事基地や都市を攻撃したりしている。またそれと呼応してマリアナ、沖縄等の敵基地から来る大型機は、昨年暮から続いての空襲で日本の都市の大半を烏有に帰させるほどの連続空襲をしている。いつどこに敵が上陸するかという切迫した空気の中にいるのに、突然背後から満洲の国境と樺太の国境を破ってソ聯兵が侵入して来た。巷説として昨年暮頃から、ロシアが多分日本と米国との仲介をして戦争を終結させるだろうという話を屡々耳にしていた。これは巷の人々の希望的な観測だろうとは思ったが、実によく行き渡っていた噂であった。それがこうして突如ロシアの侵攻となったのだから、巷の人々の驚きと心配は大きいのだ。
私のいる家の主人沢田なども無学で新聞も読めない者だが、戦争が、このロシアの侵攻によって極端に困難となって来たことをよく弁えていて、「だから我々も、ドイツがロシアを盛に攻撃していた時に日本もロシアへ侵入すればよいと思っていたのだ。みすみすドイツの倒れるのを手をこまぬいて待っていて、今度はこっちの苦しい時に、両方から攻められるという羽目になった。どうもまずいぞ」と大きな身体で腕を組んでいる。
満洲や樺太にはどれぐらいの我兵力があるか、また敵の侵攻兵力と意図はどんな程度のものか分らない。しかし、とうとう来る所まで来たという、安堵に似た感を私は味った。大和民族はどういう境遇になっても、戦えるところまで戦うであろう。しかしその実力、最後の実力は国民にも分らず、敵にも分っていない。我々はまだまだ戦う力があると信じている。日本がこの非なる形勢のまま敵に押し切られてしまうということはあり得ないことだ。だがロシアはそう思っていない。ポーランドの半分が一九三九年の秋ドイツ軍に蹂躪された時、ロシアは突如ポーランドの東国境から侵入してその東半分を占領した。ロシアは今度の我国に対する宣戦布告を「平和を一日も早くもたらすために」というような言葉で飾ってはいるが、実はポーランド侵入時と同様、日本と満洲国との全部をアメリカに委ねることが出来ず、満洲と南樺太とをその勢力内に収めておこうとしているのだ。そういう保障占領をしなければならぬほど日本がすでに弱体化したと思っているのだ。世界各国人の目に日本はそういう風に映っているらしい。
アメリカは新式の少数の爆弾をもって広島市を粉砕し、多数の死傷者を出したが、この爆弾は空中で爆発し、激しい熱線を放射し、爆力と火力とによって大きな効果を挙げている。国際法違反なりとして我方からも抗議したがスイスの新聞などはその使用が人道にもとるとて難じている。これで襲撃されると被害がおびただしく、家屋は上からの爆発力によって破壊され、人間は露出した皮膚悉くに火傷を負うというのである。掩蓋壕に入ることと皮膚を露出せぬこととが、この新爆弾に対する方法として情報局から公表された。トルーマンは日本が降服する迄はこの爆弾の使用を中止せぬと言明している。
将来の生活の不安は深刻である。戦況のみではない。今年の寒冷な気候のため畑の作物が極めて悪く、馬鈴薯は大体今までに結実したから七割位の出来だと言うが、一般農作物は三割程度のものであろうと言う。配給食料は米と雑穀と澱粉類と色々であるが、道内では今年の食糧不足を見越して、蕗やドングイの葉などを採集し、海草類などと共に粉食化して配給する計画だという。私たちの日常は、塩谷からもらって来た澱粉や米、野田生からの粟等で、この三四ケ月分の補給は可能と思われるが、その先が不安である。会社でも数日前に工員から食料補給の願い出があり、農業会などと特別交渉して手を打ってはいるが、今の所、百五十人ほどの全員に対し、粟を五俵ほど手に入れただけというから、一家族に一升あまりに過ぎない。そう宛てにする訳に行かぬ。畑は手に入らぬし、それに今年はもう播くのに遅い。やっと貞子の従姉に当る林製材所の細君の手を通じて大根種子(これの不足で農家はひどく困っている)を農家に渡し、その代りに大根をもらう約束をしたこと、二三日前から会社の近くの農家から毎日牛乳を一升ずつ買うことにしたこと等が、食糧関係で採用出来た手段である。
塩谷では馬鈴薯を五六俵くれると母が言っているし、野田生でも収穫さえあれば多少は考えてくれることと思うが、自分で作っていないということは何としても不安である。野田生では、家から一里ほどもある山の畑を一町も作るのは大変だから、明春からは家の近くの、今までだまって人に作らせていた畑を少し肥料をよくして作るから、私たちに山の畑をやれと言っている。その山には林もついているから、ことに依れば、私は明春は野田生のその山に丸太小屋を建て、そこで義父たちの耕して来た一町歩ほどの畑をやろうかと考えている。
戦争が今のように急迫状態となって来れば、いつこの工場が空爆されて吹き飛ぶかも知れず、また私たちが爆死するか、応召して前線に出ねばならないか、いずれもはっきりはしないが、大体の見とおしでは工場勤務は何時か近い将来に、空爆か、輸送難か、資材難のため停止するように思われる。
田上工場長もそれを考えていて、今度八雲に十八町歩の農場を買った。これは小作人が一人いて、工場へ食糧を補給する為ということになっているが、工場が罹災したような場合は、工場員がそこで耕作生活をするという予定も立ててのことである。
来年の春、私はきっと、野田生の義父の畑をやって暮すこととなろう。この予測は、私は本能的に正確だと思っている。それぐらいのことで戦争の終期を過せれば幸福な方であろう。この工場で今のうちに、私は屋根用の柾や室内壁用の合板を手に入れておきたいと思っている。この予定は私には楽しい。海の見える山の斜面で、牧場や林のある間で暮すことは、そして食糧を自分の手で作り、小さな家も自分の手で作ることは骨が折れるにしても、一つの理想的な生活であるように考えられる。
八月十六日記
昨日戦争は終った。祖国日本は屈伏した。戦争は終った。思いがけなく、早く終った。私は来年の春頃には、米英軍が我本土に上陸するであろう、戦争の終るのは、それからだ、多分本当に終結するのは夏頃だと思っていた。それが今もう来たのだ。
昨日、村役場に寄って在郷軍人の届出をし、石炭の配給申請をなし、村の国民学校長が昔小樽市立中学在勤中の同僚だった小林吉郎兵衛氏なので、初めて訪い、一時間ほど昔の話をしたりして会談した。これはこの社に入ってから初めての私用外出であった。
そして門衛のところまで戻って来ると、瀬下君が私を呼んで、十二時から重大事件につき陛下のお勅語の特別放送があるから、国民は総てラジオの前に集るようにとの放送が朝にあった、企画の方で何かその手配をしては、ということであった。それが十一時近くであった。私は直感的に休戦かも知れぬと思った。お勅語の放送が、こんなに急にあるということは開戦の時以来無いことである。そして事情は我国の最悪の条件下にあり、かつまたソ聯が参戦して以来、当局者からは、情報局総裁の戦争方針不変更の言明と北東方面軍司令官の激励の辞とがあったのみで、上層部には妙な沈黙が続いていた。ポツダム会談の対日処理最後案というものが発表された時、我方としてはそれに取り合わぬということが小さく発表されたのみで、妙に態度が消極的であった。
そしてこの重大放送の予告である。私は工場長にその旨を話した。工場長はその時福田大工と機械の防空蔽いとしてコンクリートの箱を作る計画をしきりに打ち合せていた。若し今一時間の後にある放送が休戦のそれであるならば、総てのこういうものは無駄なのになあ、と私は思った。工員を早目に昼食をとらせること、ラジオ受信機は事務室にある故、工員を事務室の中に並ばせること等が決定された。休戦かどうか分らぬが、どうも只事ではない。私は理論的には休戦と考える外ないが、日本人としての感情がそれを拒み否定するのを強く覚えた。私は次第に興奮して来て、わくわくするのを自ら押さえていた。若し休戦ならば、政府はモラトリアムを実施するかも知れない、と私は工場長に話した。すぐにするだろうか、と工場長は疑わしげに言った。私は二三日前に入社して、差し当り私の室に一緒にいる江口君に、これはアーミスティスかも知れない、と話した。江口君は信じられない、と言う。江口君はロンドンに生れて二十歳まで在英し、四年前に日本に来た、二十四歳の青年である。日本語は用が足りるだけ喋るが、調子が変であり、日本文は少し難しいと読めない、つまり第二世である。田上氏は、江口君を傭い入れる時、或は平和が来た時に役に立つ人となるかも知れぬと言ったが、その江口君が入社して二日ほどして平和が来ることになったのである。
正午となり、工員たちが事務室の入口に集ってもじもじしているので私は声をかけて皆を室内に入れてあまり息苦しくならぬように立たせた。私は鉛筆と紙とを持ち、田上氏のそばに立って用意した。総理大臣がいきなり放送して、陛下のお詔勅の御朗読のレコードを放送する、との前置きがあって、やがて荘重なお声が流れ出た。戦況必ずしも利あらず、敵の残虐なる新爆弾が我民族を滅亡させる如き形勢となったので、敵と和平の交渉を開始されたとのお言葉が、多少の雑音を混えながら拝聴された。あちこちに女の職員たちの啜り泣きが起った。お勅語が終って君が代が奏された。平日は私は号令をかけたりしたことが無いのだが、皆声をのんだきり黙っているので、お勅語の終った時に私は「最敬礼」と号令し、君が代が終って「直れ」と言った。それから内閣直諭という放送に移り、総理大臣の承勅必謹〔ママ〕の旨の訓示があり、続いて、今春ドイツが降服して以来、我国は中立的立場にあったソ聯を仲介として英米と和を講ずる方途に出ていたが、英米支はそれに対してポツダム宣言を、対日最後処理案として発表したが、我方の受け容れるところとならなかった。そしてソ聯はその点を理由として敵側に参戦し、また米軍は強力な原子爆弾を使用した。ここに於て我国は平和を求めることとなったが、ただ皇室の存置を条件として交渉を始め(外は無条件のこととなる)たが、この点容認されたので、ここに正式交渉が開始された、というのがその要旨であった。
男の工員や職員でも涙を拭うもの、テーブルに伏して泣くものが多く、女はほとんどみな泣いていた。田上氏は、我々国民としてこの際お勅諭を体して慎重に事態の推移を待つこととする旨話があり、今日は三時終業となった。工員は掃除をして帰ることになり、散った。
こうして平和が来た。ここは北海道であるが、東京も大阪も鹿児島も日本の敵空襲で焼かれた焦土のあらゆる場所でこの瞬間に国民は戦の終ったこと、大和民族が屈服したことを知ったのである。
平和は突然、思いがけない早い時期に来た。一体今後どうなるのだ。ポツダム宣言では日本領土としては、北海道、本州、四国、九州の外、敵方の認める諸島嶼のみ、ということになっている。そして平和的な民主主義的な政府が樹立されるまでは、敵は日本の重要地点を占領するという条項がある。とすれば、直ぐにも数日のうちにも敵が上陸して来るか。
八月十七日午前十時記
いまこの前まで書いたが、今日ソ聯兵が函館に上陸、汽車でここを通過北上する由。いよいよ、我々はソ聯治下に生活することとなる。一昨日から貞子に貯金を下げに野田生の局へ行かせたりしていたが、金の現送がないとて、今日三千円とれる見込だとのこと。いま家には百円ばかりしか無く、政府は貯金引下を制限せぬと称しているが、心配なことになった。
私と田上氏とは米軍が占領に来るものとばかり思っていたが、突如としてロシア兵が来ることになったのだ。
それで私と田上氏と江口と総務課長の木島君など集って、ロシア軍がこの工場の管理にやって来たらどうするか、ロシア語を話せる者はいないか。庶務の渡辺君は多少習ったことがあるというが、とても役には立たないだろうと自分で言う。まあ来る軍人の中の将校は英語かフランス語を使えるであろうから、それをあてにしよう、酒を集めておかねばなるまい、宿舎の心配もしてやらねばなるまい、などと話し合う。
一昨日平和の大詔渙発されてから、今日は三日目であるが工員の気風は目に見えて変って来た。今まで全員戦闘帽にゲートルであったのに、今朝はソフトハットをかぶって来た工員が二人居る、ゲートルを着けないものは、もっと多く、現に私自身もゲートルを着けると足が苦しいので、早速昨日から脱いでいる。工員は一昨日は泣いていたが、昨日はどうにか操業をつづけた。田上氏から何分の指示あるまで現在の仕事をつづけるようにとの訓示あり、それが利いていた。しかし今日は午後は機械が止り、みなあちこちに集って喋っているのみである。
午後五時半の函館行の汽車が一般の乗客を乗せないというのだ。そしてそれは函館からロシア兵を札幌方面に送るため空にして持って行くのだ、と駅長が今日会社に来て工場長に言ったそうである。では午後か明日かには函館にロシア兵が上陸すると皆確信したのである。
ところが昼のラジオ放送では道警察部から、室蘭とか稚内に聯合軍が上陸するというのはデマであるから信じてはならないという注意が出たので、それではロシア軍上陸の報も嘘であったか、ということになった。
しかし、木島君が昼食に家に戻ると、同君が室を借りている家の息子で函館桟橋に勤めているのが来ていて言うのに、北海道から次々と装備なしの兵隊が汽車で函館に着き、駆逐艦が何隻かでそれを大急ぎで青森へ送っている。また外にも何隻かの軍艦が港内にいて、それは何の為か石油を大量に焚き、濛々と黒煙をあげている、またやっぱり今日夕刻にロシアの軍艦が入るという噂があるそうである。
十六日の新聞で鈴木内閣の総辞職が発表されたが、十七日はラジオで後継内閣組織の大命が東久邇宮稔彦王殿下に下されたことを知った。首相として宮様が立たれることは未曾有のことである。急流はあらゆる変化を前途に含んで走り出したのだ。先のことはまるで予想がつかぬ。
そんな噂を持ち寄って、工場長室に私たちが坐っていると、門衛のところにも何人か集ってストーブを囲んで話をしている。五時の上りに乗れないというので森方面から通勤していた工員職員は二時の汽車で帰ったので、それをきっかけにして工場はぴたりと機械の音が消えてしまった。
工場の将来に対しても、聯合軍が来て接収するだろうという意見もあれば、賠償の為の合板を作らねばならぬことになるという人もあり、いや営業的にやって行けるという者もいる。しかし目下使っている粘着剤のカゼインは今後あまり入手出来ないであろうし、それに、その溶解剤の曹達を作るのがとても難かしい。海水から取るにしても木灰からとるにしても容易にその設備は出来ない、と木方生産課長が言うのである。また今まで鉄道の落部村複線施設部のものを借りて使っていた変圧器も秋頃には工事完了して引き上げになるという話である。そうすると、平和工業としてのこの工場の将来にも支障があるわけだ。
そんな話があるのに、一方では、ラジオで道庁の特高課長が放送をして、外国軍隊が上陸するとか、進駐するとかいうのはすべて流言であるから信じてはならない、と言っている。とするとロシア軍の函館上陸も流言なのであろうか。では何時、どこへ、どういう形で敵の進駐が始まるであろうか。北海道にはアメリカ軍が来るだろうか、ロシア軍が来るだろうか、それとも昨年の敵のカイロ宣言にあったように、日本は支那軍の管理下に置かれる、というようなことになるのであろうか。
この日午後貞子、野田生の局から三千円引き出して来た。
八月二十四日記
工場は十九、二十日と休みであった。十七日頃工員がほとんど仕事に熱中せぬ気配があったので、工場側から先手をうっての休みなのであった。その休みを利用して、私は十八日の朝の汽車で小樽に向い、午後三時過小樽局で郵便貯金一万五百円を引き出した。ちょうど十六日の午後塩谷からの電報で、東京の百田宗治、杉沢仁太郎両氏が来ていることを知ったので、二人にも逢いたいと思ったのである。小樽に下りて駅前の局で貯金を下げようとすると金が無い由。「随分用意しておいたのですが、今朝から引き出す人が多かったものですから。本局にいらして下さい」と言う。小樽局に行くと特別窓口を作ってある。やっぱり引き出す人が多いらしい。もっとも私の行った時は夕方なので、混んでいる程ではなく、三四人待って引き出すことが出来た。
汽車の中では、兵役解除になった兵隊が、帽子や襟の星章を剥ぎ取った服を着、毛布の中に靴やら服やら配給された物資らしいものを一杯に入れて、すっかり兵士らしい毅然さを失い、疲れ果てた、また新しい希望が無いとも言えぬ表情で坐っているのがよく見かけられた。
また上り列車の中には、樺太から引き上げて来た婦女子、主に子供を何人も連れ、持てるだけの荷物を持った細君たちが、へとへとになりながらもまだ目的地に着くまでは参ってならないという鋭い表情で、坐り込んでいる。一目でそれと分る人々だ。引上が一時間の前置きで急に十日かに言い渡されたので、着物を選り分ける余裕もなく手もとのものを引きくくって持ち、中には炊きかけた御飯を鍋ごとに持って船に乗った者もいた。十四歳から六十歳までの男子は後に残って整理をしてから引き上げる筈だとか、ふだんは汽船で八時間もかかる海上を、軍艦で四時間で渡って来たとか、米も砂糖も配給が沢山にあったが持てないので家の中や街上に捨てて来たとか、あわただしい引き上げぶりを口々に語るのである。そういう人たちで汽車は異常に混雑し、通路に荷物が置かれたり人が寝ていたりして足の踏み場もない始末であった。
塩谷に戻り、母と話しているうちに、義兄がこの前逢った時に売りたがっていた村と停車場との間にある二町九段の畑を買い取ろうということになる。その日、札幌から戻った杉沢に逢い、東京の近況を聞く。百田氏は移住のつもりという程ではないが住めるなら札幌に住みたいという気持からとりあえず一人で、集団帰農者の指導員として更科君と一緒に来、同じく興農公社側の一員としてやって来た杉沢と偶然一緒になったのだという。目下札幌の更科宅にいるとのこと。杉沢には、私は在京中に、彼のいる村の畑を一段歩買い、それに十坪ほどの小屋を建ててもらうつもりで一万円渡しておいたのだが、そのうち九千円を彼は返してくれた。私が手紙でその土地を売り渡したいと彼に言いおいたのである。残り一千円は、彼の手を経て農家に托してある私の荷物の預り賃等の清算をしてから受けとることにした。その金で義兄の畑を買うことに私はすぐ覚悟した。杉沢のいる八王子在では一段歩七千円であるが、塩谷では一段歩四五百円の相場だ。但し現在のような食糧不足の事情下では畑を手離すなどという者は皆無なので、この機を逃しては畑など買うことが出来ない。私は義兄の持っている貸家のうちの一軒で、いま国民学校教員の入っている家(弟の家のすぐ前)が空けば、塩谷へ越して来て畑をやるつもりにもなれたが、畑を現在使っている小作人から半分ぐらいずつ取り戻すことの面倒さと家が空くのに三四ケ月はかかるという見とおしとの為に、村へは急に戻れないと思っていた。しかし母の話では、近く国民学校教員の住宅が出来るから家は空くという。またこうして停戦となれば、今いる落部の工場は、いつやめになるかも知れないので、私は帰農することを予定しておかねばならない。三町近い畑を一万円で買えるかどうか分らないが、義兄も私がまとめて買うなら安くすると言っていたので、母と二人行って見ることにする。杉沢の話によると、北海道への集団帰農は最近入った第六次までで打ち切りとなったので、二十二日に上野発の予定であった川崎君は、家や大きな家財は売りはらったものの、今は仮に間借りしているのみで七人の家族をかかえ困り切っているという。気の毒に耐えない。私は彼と一緒に発って来て帰農するつもりであったのだ。彼はどうするつもりか。出来れば近いうちに何か食糧を持って行ってやりたい。
翌日一人で札幌へ行き、更科家に百田氏を訪う。なかなか元気でいる。私と別れたのが六月の末、それ以来焼けあとに建てた三坪ほどの小屋に三人家族で暮していたが、生活が健康に悪いのか何となく消耗し、文筆の仕事もほとんど出来ないので、更科君の帰任についてともかくも札幌に行って見ようとしてやって来たのだという。当分こちらにいて、何かの勤務を一つ持ち、家が見つかり次第家族を呼びたい、と言うことであった。更科君の家の六畳間に起臥している。バターを買いたいというので、明日また来て興農公社に行こうということで塩谷に戻る。これが十九日のこと。二十日には昼また札幌に行ったが百田氏は放送局に行っていて逢えず、夕方戻ったのに逢う。興農公社へ行く暇なし。杉沢に頼む。杉沢は杉沢で塩谷に山林を二十町歩ほど買い、将来友人でも自分でも入植する地として予定しておきたいとて土地を捜しに歩いている。この日夜、私は母と釧路行のひどく混雑した汽車に乗り、翌朝十勝清水に着く。義兄も姉も驚く。畑を買う話決まり、権利書と委任状を受けとり、一万円現金にて渡す。義兄は、塩谷の貸家五軒を長いこと母に世話させた礼として、そのうち三軒を売った機会に、一軒を母に贈りたいという。私が入る予定の家である。弟たちが今入っている家も義兄のものであるが、母はそれをほしいのだ。しかし義兄は一軒だけは残しておきたいとて、古い方の家をくれたのである。今弟たちの入っている家を建てた時、十年たてば母にやると義兄は言った由。しかし私たちは、以前父が家と屋敷を売ってから後、村に自分の家屋敷が無く、義兄の家に入ることでどうにか体面を保って来たのだ。母は義兄の貸家や土地の世話で十年以上も随分骨を折って来たのではあるが、私たち一家もまた義兄たちのお蔭を蒙る点が多かった。
義兄はこの頃時々頭が痛いとて気が短くなっている。姉は義兄の家に狂人の血統があるとて大変気にしており、今のうちに財産を整理しておきたい気持で塩谷の土地も家屋も手離すよう義兄を説きつけたらしいのだ。それで私が六部坂の三町歩の畑を買い、弟が樺山の三段ほどの土地を買うことになったのだ。そして義兄は今居る十勝で八町歩の土地一つを持って居り、外にもう十八町歩の山を買うつもりだという。その十八町歩が七千円で買えるのだという。地価の差に驚く。七千円は東京附近では一段歩の値段であるが、塩谷(小樽市の郊外)では一町五段ほどの値段であり、十勝では十八町歩の値段(もっともこれは山林だが)である。
ともかく、こうして伊藤一家は塩谷で三町歩あまりの土地と家を一軒所有することになり、父の代に持っていた二段歩の土地と家一軒に較べて、随分金持ちになったわけだ、と姉と母が笑いながら言う。そして私は一体この塩谷にまた来て住むようになるのか、それとも土地の管理は母に委して、東京で暮すことになるのか、分らない。
しかし故郷に土地を持つということは、大きな安らかさを人に与える。私が義兄から買った土地は北西向の傾斜地ではあるが、作物はよく出来るし、海と村の家並を遠くに見て景色のよいところだ。出来れば、あの畑に海の見える二階家を建て、畑を耕し、小説を書いて暮したい。勤めるということは厭だ。新潮社の勤務は毎週四日午後のみという呑気なものであったが、それでも社内の対人関係では実にいやな思いをすることが多かった。今の帝産工場でも田上氏は私を特別扱いにしてくれてはいるが、でもやっぱり、同僚への気兼ねや、田上氏への義理のために、勤務中は全神経を使い、あとの時間の自分が空っぽになりがちである。精神上の自立性が失われるところに文学製作の可能性は無いように思われる。東京の三段歩の土地では、自家の食糧確保には足りるが、そこで農業のようなものを営むことは出来ない。自分の時間を自由に使いながら農業を経営するとすれば村にいる外はないのだ。
清水から二十二日の朝早く発ち、昼頃滝川駅に下車、駅から近いところの石狩河畔の新十津川村に妹八重子夫婦の高砂家を訪う。一泊し、私は米を七升ばかりもらい、二十三日朝塩谷に戻る。正午着。午後三時に米や野菜を負い、塩谷発、夜九時に落部に着く。塩谷では軍用の缶詰や乾パンなどを大量に村民に分けていた。国破れて山河ありと支那の詩人は歌ったが、国破れて民の潤う風景は悲しいものだ。
今日の新聞によると空襲の死傷者は六十八万人であり、そのうち二十万は広島市の原子爆弾の被害だという。広島には爆弾の為にウラニウムが土中に残っていて負傷者は今なお次々と死に、健全なものも弱って行くという。この土地には七十五年間人間が住めないのだと敵は言っている。
こうして戦争は終った。神州不敗の光輝ある二千六百年の歴史に、初めて汚点が印された。世界は日本の光被する所となるという予言者的思想には終末が来た。戦術的には極端に不利となった今月初め頃、私は戦は次第に敗北に近づいているとは思ったが、日本が敗戦を自認する行為に出るとは、どうしても予想出来なかった。敗けた、と自ら言うことほど日本人に不似合なものは無い。兵士の一人一人、将校の一人一人は悉く降服という言葉を発せずに戦った。ある者は死にながら、ある者は退きながら。しかし国家は降服の言を明確に発したのだ。空襲はもはや無い。警報は聞かれなくなった。防空壕は埋められ、板や柱は掘り出されて日に乾かされている。燈火管制用の遮蔽幕は不用になった。この世の末まで、生命の果てまで離れられないと思っていた防空の関心事がこうして悉く不要となった。工場では「愛国第一五六工場」という胸の名札を剥ぎ取り、その名を冠した帳簿類はみな焼いたという。戦争貫遂〔ママ〕の標語もポスターも取りはらわれた。トルコ人のトルコ帽のように日本の男子悉くの頭に乗っていた戦闘帽もぼつぼつ鳥打やソフト帽に代りつつある。
総てが変りつつある。あんなに私が絶えず気にしていた召集という厳たる事実ももう夢のように消えた。在郷軍人も存在せず、また銃剣術の稽古も無くなった。徴用ということもない。むしろ失業の予想が人を怖れさせている。多分二百万かもっと多くかの兵士がこの狭い国に戻って来る。また樺太の四十万人、台湾の四十万人、満洲の八十万人も戻れる者は戻って来る。機械関係の軍需工場は悉く操業停止である。失業者が洪水のように焼けた都市の路上や田園に溢れるであろう。食物が足りなくなるであろう。そうして燃料の無い冬がやって来る。住居のない人々はどうしてこの冬を過すことか。すでに北海道でもこの冬に備えて、蕗や蓬や虎杖の葉などを集めている。それを煮て乾燥して粉末食を作って配給するのだという。困難な生活はむしろ戦時中よりも、この後にありそうだ。そして聯合国四ケ国の軍隊が二十六日に東京西方の厚木飛行場と横須賀とに進駐するのだ。
日本は明治の初め頃の狭い領土しか与えられないことになったのだ。我々の父祖は明治大帝の統率の下に満洲で二度戦って、台湾と朝鮮と南樺太とを得た。十年以前の満洲事変によって満洲を属国として独立させ、大東亜戦によってマレイ半島とビルマと蘭領東印度とフィリッピンとを手に入れた。しかしこれは悉く夢となった。我々日本人は、今後本州と九州と四国と北海道という狭い土地に以前の二倍に近い七千万という尨大な人口をもって生きて行かねばならなくなったのだ。これは可能なことだろうか。
私の日記は昭和十六年の暮から、三年九ケ月にわたって続いたが、もう終って然るべき時となったように思う。戦争の日記は戦後を含めなくては完全なものではない。しかし国土が敵兵の管理するところとなり、祖国の不敗を誇った兵たちが武器を棄て艦船の悉くを敵に渡した後の敗戦国の国民生活は、また別個な記録を形成するであろう。そしてそれを書く立場は、これまでの私のそれとは異ったものでなければならない。
私はペンと紙とをもって、田園に隠れ、祖国日本の自然の記録者として生きるか、または巷に隠れ、人情の哀苦の味いを書き記しながら生きて行くこととなろう。木の葉のそよぎが眼に入る限り、人間の哀楽の表情をこの目で見る限り、私には生きてそれを書き記すという生き甲斐が与えられるであろう。私は四十歳と七ケ月に達した。まだ生きる時はかなり残されていると考えてよいであろう。
[#地付き](了)
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[#2段階大きい文字] 校訂者あとがき
亡父の遺したこの「太平洋戦争日記」が日の目を見ることになりました。この日記は昭和十六年十二月一日から同二十年八月二十四日に至るもので、原文は大学ノート十八冊から成っています。これらのノートは父の死後、彼の書斎の古い本の山の下から出てきました。ノートをくくってあった紐や包み紙も戦後の一時期よく使われていた古いものでした。彼は戦後昭和二十三年五月、「文壇」という雑誌に、この日記の昭和十六年十二月一日と八日の分を「戦時日記抄」と題して掲載していますが、その頃彼はこの日記に目を通し、それから紙に包み紐でくくり、それ以来このノートは眠っていたのだろうと私は想像します。またこの日記には本文と同じペンで記入されたその時々のさまざまな傍線や囲みの印とは別に、赤と青の鉛筆でほうぼうに大ざっぱな傍線がほどこされていて、それは筆勢などから見て、全体を通読しながらつけていったもののように見えます。これも昭和二十三年のこの時の作業のあとかもしれません。
私がこのような想像を試みるのは、この日記に関して父になにか積極的な考えがあったかどうか知りたいと思ったためでした。しかし答えはいま申しましたように、彼が昭和二十三年にその一部を公表したことと、日記が出てきたときのその情況だけでした。
彼は自分がいつまでも長生きするのだろうと思っていたのかもしれません。よぼよぼになった頃この日記を取り出して、昔をなつかしもうとしていたのかもしれません。そうだったらどんなにか父は幸せだったろうと、子として私は思います。しかし現実はこの日記で分るように、彼は生命をすり減らすような生き方をする性質の人でそのようには行きませんでした。この昭和二十三年の読み返しは彼がそういう自分の性質に気づくべき貴重な機会だったのですが、残念ながら彼はその一番大切なことを見落し、それから二十一年目に世を去ってしまいました。
私は彼の見落しはあきらめるにしても、彼がその後の二十一年の間に、この日記をどうにでも始末しておいてくれたらどんなに良かっただろうと思います。またそれに附随して、そもそも人間は何のために日記などつけるのかとも思います。というのは、今回私がしている如く、他者の日記を本人にことわりなく公表したりするのは、決して上等な行為ではないからです。時間が経過して日記もやや風化しかけているとはいっても、日記にたいして権利を持っているのは本人だけだということに変りはありません。しかしこの「日記」もすでに「あとがき」の段階にまで来てしまったので、今さらこの問題について、これ以上云々することは、私の醜さをさらに拡大するだけのこととなるのでもう黙ります。
この日記は戦争中の国内の生活記録としてはすでに公刊されている夥しい同種の記録のひとつにすぎませんが、私にとっては父からの思いがけぬ贈り物という感があります。私的なことで恐縮ですが、この日記によって私は昔のことを次々と思い出すことが出来ます。この日記の始まる昭和十六年十二月、私たち家族は東京の杉並区和田本町というところに住んでいました。その家は田の字の形に四軒並んで建っている二階建ての貸家の一軒で、いま立正佼成会の建物が立ち並んでいるあたりのちょうど真中にあたるところにありました。指折り数えてみるとその時父は三十六歳、母は三十二歳、私の兄は十歳、私は八歳でした。その頃のことを私はこの日記を通じ、当時の父や母よりはるかに年をとった人間となったいま、もう一度味わうことが出来るというわけです。
日記中に記されていることですが、昭和十八年の三月に私たちはこの家から千歳烏山に引越しました。その頃から戦況は加速度的に悪化し、国内の生活も急激に逼迫していきます。食料のこと、空襲のこと、疎開のことなどで日記は埋められてゆきます。こういう生活が大人である私の両親にとってどういうことであったか、それを私が実感として知ったのはうかつにもこの日記を通してでした。また逆に八歳九歳という年頃の子供にとっては、そのような生活さえもなんの抵抗も疑念も混えず受け入れ得るものらしいということを知ったのもこの日記によってでした。そして子供というものは昨日と今日の区別をつけることは出来ても、時代の比較をすることが出来ないという当然のようなことを私は痛感しました。千歳烏山時代の私の生活は、朝起きると学校に行く前に小川に魚をとりに行くことから始まりました。父が鶏を飼ったり畠仕事をするのが生活のための余儀ない努力であったにしても、それらは私にとっては鶏を飼う楽しさとか、父と共に畠いじりの出来る楽しさでしかありませんでした。学童疎開や北海道への疎開もまた、重大な生活上の行動などではなく、単なる生活の変化でしかありませんでした。子供の幸せというのはその先が見えないというところにあるのでしょうか、子供の喜び悲しみというものは今のことに限られているということなのでしょうか、それとも私の記憶があまりにも遠くなってしまったということなのでしょうか。ともあれ、この日記は私のあの頃の日々を、深い霧が果てしなく晴れてゆくように、どこまでもどこまでもよみがえらせてくれました。始めてこの日記に目を通したとき、私は気力も体力も尽き果てるまで読み続けました。
私はこの日記をそういう感慨に溺れて読み続けました。しかし残念なことにノートブックは十八冊しかありませんでした。どこかで人生は終ってしまうようにこの日記も十八冊目で終ってしまい、私の夢もそこで切れました。そして私はやはり四十歳の男の非情な記録の中にいたことを知りました。彼は「私の日記は昭和十六年の暮から、三年九ケ月にわたって続いたが、もう終って然るべき時となったように思う」と書いてあっけなくこの日記を終りにしています。
彼がその後再び継続的に日記を書き出したのは昭和二十八年からでした。しかしそれはこの「太平洋戦争日記」に較べるともっと私的な、また備忘録的な性質のもので、市販の日記帳を使っているために日々の記録の量も限られたものになっています。戦後の日記がそのようなものであるために、この「太平洋戦争日記」は父が時代の記録たるべきものとして意欲的に書き綴っていったものであるという印象を強く与えます。終戦とともに彼が意識的に筆をおいたのも、そういう積極的な意図を裏書きしているように思えてなりません。
この「太平洋戦争日記」の原本たるノートの間にはかなりの量の新聞や雑誌の切抜きが張りつけてあります。またその他に手紙、葉書の類の張りつけもあります。しかしこの「日記」ではそうした切抜類は分量の関係で、また私信についてはその性質を考えて割愛いたしました。
日記の校訂にあたっては原文を損わず、出来るだけ忠実に活字にうつすことを宗としました。しかし日記という私的な記録のことでありますので、多少の文字を伏せることは止むをえませんでした。著者の夫婦間のこと、親類や知人の非常に私的な問題など、全体から見れば分量としては非常に僅かではありますが活字とすることは控えました。そのような配慮はしたものの、一方でなおこの日記の公表によって迷惑をお感じになる方もいらっしゃるかもしれぬという恐れも感じます。この点について配慮の至らなかったことをお詫びするとともに、御寛恕たまわりたく存じます。
校訂の方針は「凡例」にある通りですが、作業が進むにつれて、いくつか「凡例」の外に出る問題が出てきました。その二、三を記します。
ひとつはノート原文に付けられた傍線、二重傍線、文字を囲んだハコの処理の仕方です。この三つはすべて一本の傍線にまとめました。これは印刷上ハコを用いることに難があるという理由と、印刷文面の煩しさを避けるため、またハコと二重傍線のどちらを優位におくかという問題もからんできたためです。
もうひとつはヤマカギ(〈 〉)使用のことです。日記はノートに縦書きに記されていますが、文章の上部欄外にその部分の内容を示す書きこみ(たとえば、「夜の銀座」)が随所にあります。ヤマカギの中に入っている文字はこのような欄外書きこみの文字です。
また、原ノートの表紙には内容の主要な事項が書き出されていますが、月ごとに目次内容を作整したので、そのままの形で生かせませんでした。
この「日記」は新潮社の方々の御尽力によって上梓することを得ました。ノート原文を原稿用紙に浄書する作業には栗坪和子さんの御尽力を得ました。また昨昭和五十七年の夏、「新潮」編集部の岩波剛氏がこの日記の一部を「新潮」九月号に掲載して下さったことは今回の出版の契機となりました。本書の直接の担当者、大門武二氏、寺島哲也氏には数々の御面倒をおかけしました。お名前を記してお礼を申しあげます。また読み難いノートブックを原本として校閲の仕事にあたられ、数々の疑問を提出して下さった校閲部の方々にも深く感謝する次第であります。
昭和五十八年九月十二日
[#地付き]伊 藤  礼