目次
野菊の墓
浜菊
姪《めい》子《ご》
守《もり》の家
解説(久保田正文)
野菊の墓
後《のち》の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼ない訳とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もう十年余も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今猶《なお》昨日の如く、其時《そのとき》の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧《わ》くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態《ありさま》で、忘れようと思う事もないではないが、寧《むし》ろ繰返し繰返し、考えては、夢幻的の興昧を貪《むさぼ》って居る事が多い。そんな訳から一《ちょ》寸《っと》物に書いて置こうかという気になったのである。
僕の家というは、松戸から二里許《ばか》り下って、矢《や》切《ぎり》の渡《わたし》を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、此界隈《このかいわい》での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父《じじい》から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎《しい》の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌《い》森《もり》で村じゅうから羨《うらや》ましがられて居る。昔から何程暴風《あらし》が吹いても、此椎森のために、僕の家許りは屋根を剥《は》がれた事は只の一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それが又煤《すす》やら垢《あか》やらで何の木か見別《みわ》けがつかぬ位、奥の間の最も煙《けぶり》に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目も判らぬ程黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠《くぎかくし》なども打ってある。其釘隠が馬鹿に大きい雁《がん》であった。勿論《もちろん》一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。
僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、此戦国時代の遺物的古家《ふるいえ》を、大へんに自慢されていた。其頃母は血の道で久しく煩《わずら》って居られ、黒塗的《くろぬりてき》な奥の一間がいつも母の病《びょう》褥《じょく》となって居た。其次の十畳の間の南隅《みなみすみ》に、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織《はたおり》場《ば》で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手《て》摺窓《すりまど》の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮って北を掩《おお》うている。
母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹《いとこ》になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、其民子と僕との関係である。其関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。
僕は小学校を卒業した許りで十五歳、月を数えると十三歳何カ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩《おそ》いから、十五と少しにしかならない。痩《や》せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹《とお》るほど白い皮膚に紅《あか》味《み》をおんだ、誠に光沢《つや》の好い児であった。いつでも活々《いきいき》として元気がよく、其癖気は弱くて憎《にく》気《げ》の少しもない児であった。
勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入《はい》ってくる、私《わたし》も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。
母からいつでも叱られる。
「又民やは政《まさ》の所へ這入ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」
などと頻《しき》りに小言を云うけれど、其実母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言も極《きま》っている。
「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女一人前として嫁にゆかれません」
此頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。しかし母がよく小言を云うにも拘《かかわ》らず、民子は猶朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。呼びにくる度に、急いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云っては暫《しばら》く遊んでいる。其間《ひま》にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達した帰りには、きっと僕の所へ這入ってくる。僕も民子がのぞかない日は何となく淋しく物足らず思われた。今日は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室を出る。民子を見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであった。何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲《あざけ》った様なことが屡《しばしば》あったのである。
村の或家さ瞽女《ごぜ》がとまったから聴きにゆかないか、祭文《さいもん》がきたから聴きに行こうのと近所の女共が誘うても、民子は何とか断りを云うて決して家を出ない。隣村の祭で花火や飾物があるからとの事で、例の向うのお浜や隣のお仙等が大騒ぎして見にゆくというに、内のものらまで民さんも一所に行って見てきたらと云うても、民子は母の病気を言い前にして行かない。僕も余りそんな所へ出るは嫌であったから家《うち》に居る。民子は狐鼠々々《こそこそ》と僕の所へ這入ってきて、小声で、私は内に居るのが一番面白いわと云ってニッコリ笑う。僕も何となし民子をばそんな所へやりたくなかった。
僕が三日置き四日置きに母の薬を取りに松戸へゆく。どうかすると帰りが晩くなる。民子は三度も四度も裏坂の上まで出て渡しの方を見ていたそうで、いつでも家中のものに冷かされる。民子は真面目になって、お母さんが心配して、見てお出《い》で見てお出でというからだと云い訳をする。家の者は皆ひそひそ笑っているとの話であった。
そういう次第だから、作おんなのお増などは、無《む》上《じょう》と民子を小面憎がって、何かというと、
「民子さんは政夫さんとこへ許り行きたがる、隙《ひま》さえあれば政夫さんにこびりついている」
などと頻りに云いはやしたらしく、隣のお仙や向うのお浜等まで彼是噂《かれこれうわさ》をする。これを聞いてか嫂《あによめ》が母に注意したらしく、或日母は常になくむずかしい顔をして、二人を枕もとへ呼びつけ意味有り気な小言を云うた。
「男も女も十五六になればもはや児《こ》供《ども》ではない。お前等二人が余り仲が好過ぎるとて人が彼是云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさの癖によくない。是からはもう決して政の所へなど行くことはならぬ。吾子《わがこ》を許すではないが政は未《ま》だ児供だ。民やは十七ではないか。つまらぬ噂をされるとお前の体に疵《きず》がつく。政夫だって気をつけろ……。来月から千葉の中学へ行くんじゃないか」
民子は年が多いし且《かつ》は意味あって僕の所へゆくであろうと思われたと気がついたか、非常に愧《は》じ入った様子に、顔真赤にして俯《うつ》向《む》いている。常は母に少し位小言云われても随分だだをいうのだけれど、此日は只両手をついて俯向いたきり一言もいわない。何の疚《やま》しい所のない僕は頗《すこぶ》る不平で、
「お母さん、そりゃ余り御無理です。人が何と云ったって、私等は何の訳もないのに、何か大変悪いことでもした様なお小言じゃありませんか。お母さんだっていつもそう云ってじゃありませんか。民子とお前とは兄弟も同じだ、お母さんの眼からはお前も民子も少しも隔てはない、仲よくしろよといつでも云ったじゃありませんか」
母の心配も道理のあることだが、僕等もそんないやらしいことを云われようとは少しも思って居なかったから、僕の不平もいくらかの理はある。母は俄《にわか》にやさしくなって、
「お前達に何の訳もないことはお母さんも知ってるがネ、人の口がうるさいから、只これから少し気をつけてと云うのです」
色青ざめた母の顔にもいつしか僕等を真から可愛がる笑みが湛《たた》えて居る。やがて、
「民やはあの又薬を持ってきて、それから縫掛けの袷《あわせ》を今日中に仕上げてしまいなさい……。政は立った次《つい》手《で》に花を剪《き》って仏壇へ捧《あ》げて下さい。菊はまだ咲かないか、そんなら紫《し》苑《おん》でも切ってくれよ」
本人達は何の気なしであるのに、人が彼是云うので却《かえ》って無邪気でいられない様にして終《しま》う。僕は母の小言も一日しか覚えていない。二三日たって民さんはなぜ近頃は来ないのか知らんと思った位であったけれど、民子の方では、それからというものは様子がからっと変って終うた。
民子は其後僕の所へは一切顔出ししない許りでなく、座敷の内で行逢っても、人のいる前などでは容易に物も云わない。何となく極《きま》りわるそうに、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処《よんどころ》なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には僕が余り俄に改まったのを可笑《おか》しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して逃げて終うという風で、とにかく一《ひと》重《え》の垣が二人の間に結ばれた様な気合になった。
それでも或日の四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子《なす》畑《ばたけ》に茄子をもいで居ると、いつのまにか民子が笊《ざる》を手に持って、僕の後にきていた。
「政夫さん……」
出し抜けに呼んで笑っている。
「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の縫物は肩が凝ったろう、少し休みながら茄子をもいできてくれ、明日《あした 》麹漬《こうじづけ》をつけるからって、お母さんがそう云うから、私飛んできました」
民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、
「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」
と云うと民子は、
「知らなくてサ」
にこにこしながら茄子を採り始める。
茄子畑というは、椎森の下から一重の藪《やぶ》を通り抜けて、家《いえ》より西北《にしきた》に当る裏の前栽《せんざい》畑《 ばたけ》。崖《がけ》の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵《むさし》一えんが見渡される。秩《ちち》父《ぶ》から足柄箱根の山々、富士の高《たか》峯《ね》も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日は一間半許りの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとして又如何《いか》にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。
「マア何という好い景色でしょう」
民子も暫く手をやめて立った。
僕はここで白状するが、此時の僕は慥《たしか》に十日以前の僕ではなかった。二人は決して此時無邪気な友達ではなかった。いつの間にそういう心持が起って居たか、自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、僕の胸の中《うち》にも小さな恋の卵が幾個《いくつ》か湧きそめて居ったに違いない。僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。此日始めて民子を女として思ったのが、僕に邪念の萌芽《めざし》ありし何よりの証拠じゃ。
民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつある其横顔を見て、今更のように民子の美しく可愛らしさに気がついた。これまでにも可愛らしいと思わぬことはなかったが、今日はしみじみと其美しさが身にしみた。しなやかに光沢《つや》のある鬢《びん》の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎《あご》のくくしめの愛らしさ、頸《くび》のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷《たすき》や、それらが悉《ことごと》く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言《こと》は云えなくなる、羞《はず》かしくなる、極りが悪くなる、皆例の卵の作用から起ることであろう。
ここ十日許《ほど》仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、これも今までならば無論そんな事考えもせぬに極って居るが、今日はここで何か話さねばならぬ様な気がした。僕は始め無造作に民さんと呼んだけれど、跡は無造作に詞《ことば》が継がない。おかしく喉《のど》がつまって声が出ない。民子は茄子を一つ手に持ちながら体を起し、
「政夫さん、何《な》に……」
「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」
民子はさすがに女性《にょしょう》で、そういう事には僕などより遥《はるか》に神経が鋭敏になっている。さも口《くち》惜《お》しそうな顔して、つと僕の側《そば》へ寄ってきた。
「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」
「何さ、此頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかには用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訳ではないよ」
民子はせきこんで、
「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ。御無理だわ。此間は二人を並べて置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あア云われては実に面目がないじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、私はほんとにつまらない……」
民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視ている。僕も只話の小口にそう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になって、
「僕は腹を立って言ったでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕は只民さんが俄に変って逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく悲しくなっちまったのさ。それだからこれからも時々は遊びにお出でよ。お母さんに叱られたら僕が咎《とが》を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」
何というても児供だけに無茶なことをいう。無茶なことを云われて民子は心配やら嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごったになって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。猶三言四言話をするうちに、民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。僕も勿論愉快が溢《あふ》れる……、宇宙間に只二人きり居るような心持にお互になったのである。やがて二人は茄子のもぎくらをする。大きな畑《はた》だけれど、十月の半《なかば》過《す》ぎでは、茄子もちらほらしかなって居ない。二人で漸《ようや》く二升許り宛《ずつ》を採り得た。
「まア民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」
民子はいつしか笊を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。西の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。ひた赤く赤い許りで光線の出ない太陽が今其半分を山に埋めかけた処、僕は民子が一心入日を拝むしおらしい姿が永く眼に残ってる。
二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増がぼんやり立って、こっちを見て居る。民子は小声で、
「お増が又何とか云いますよ」
「二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、かまやしないさ」
一事件を経《ふ》る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層《かさ》を増してくる。機に触れて交換する双方の意志は、直《ただち》に互いの胸中にある例の卵に至大な養分を給与する。今日の日暮は慥に其機であった。ぞっと身振いをする程、著しき徴侯を現したのである。しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚しい様なこともせぬ。従ってまだまだ暢《のん》気《き》なもので、人前を繕うと云う様な心持は極めて少なかった。僕と民子との関係も、此位でお終いになったならば、十年忘れられないという程にはならなかっただろうに。
親というものは何処《どこ》の親も同じで、吾子をいつまでも児供のように思うている。僕の母なども其一人《いちにん》に漏れない。民子は其後時折僕の書室へやってくるけれど、余程人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。先に僕に厭《いや》味《み》を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。僕等二人の精神状態は二三日と云われぬ程著しき変化を遂げている。僕の変化は最も甚しい。三日前には、お母さんが叱れば私が科《とが》を背負うから遊びにきてとまで無茶を云うた僕が、今日はとてもそんな訳のものでない。民子が少し長居をすると、もう気が咎めて心配でならなくなった。
「民さん又お出でよ、余り長く居ると人がつまらぬことを云うから」
民子も心持は同じだけれど、僕にもう行けと云われると妙にすねだす。
「アレあなたは先日《このあいだ》何と云いました。人が何と云ったッてよいから遊びに来いと云いはしませんか。私はもう人に笑われてもかまいませんの」
困った事になった。二人の関係が密接する程、人目を恐れてくる。人目を恐れる様になっては、もはや罪悪を犯しつつあるかの如く、心もおどおどするのであった。母は口でこそ、男も女も十五六になれば児供ではないと云っても、それは理《り》窟《くつ》の上のことで、心持ではまだまだ二人をまるで児供の様に思っているから、其後《のち》民子が僕の室《へや》へきて本を見たり話をしたりしているのを、直ぐ前を通りながら一向気に留める様子もない。此間の小言も実は嫂が言うから出たまでで、ほんとうに腹から出た小言ではない。母の方はそうであったけれど、兄や嫂やお増などは、盛《さかん》に蔭言《かげごと》をいうて笑っていたらしく、村中の評判には、二つも年の多いのを嫁にする気かしらんなどと専《もっぱら》いうているとの話。それやこれやのことが薄々二人に知れたので僕から言いだして当分二人は遠ざかる相談をした。
人間の心持というものは不思議なもの。二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出した許りに、民子は妙に鬱《ふさ》ぎ込んで、まるで元気がなくなり、悄然《しょうぜん》としているのである。それを見ると僕もまたたまらなく気の毒になる。感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危《あやう》くなるのである。とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。
陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。其替り天気はきらきらしている。十五日が此村の祭で明日《あした》は宵祭という訳故《わけゆえ》、野の仕事も今日一渡り極りをつけねばならぬ所から、家中手分けをして野へ出ることになった。それで甘露的恩命が僕等両人《ふたり》に下ったのである。兄夫婦とお増と外に男一人《いちにん》とは中稲《なかて》の刈残りを是非刈って終わねばならぬ。民子は僕を手伝いとして山畑の棉《わた》を採ってくることになった。これは固《もと》より母の指図で誰にも異議は云えない。
「マアあの二人を山の畑へ遣《や》るッて、親というものはよッぽどお目出たいものだ」
奥底のないお増と意地曲りの嫂とは口を揃《そろ》えてそう云ったに違いない。僕等二人は固より心の底では嬉しいに相違ないけれど、此場合二人で山畑へゆくとなっては、人に顔を見られる様な気がして大いに極りが悪い。義理にも進んで行きたがる様な素振りは出来ない。僕は朝飯《あさはん》前は書室を出ない。民子も何か愚図々々して仕度もせぬ様子。もう嬉しがってと云われるのが口《くち》惜《お》しいのである。母は起きてきて、
「政夫も仕度しろ。民やもさっさと仕度して早く行け。二人でゆけば一日には楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜になる。なるたけ日の暮れない内に帰ってくる様によ。お増は二人の弁当を拵《こしら》えてやってくれ、お菜はこれこれの物で……」
まことに親のこころだ。民子に弁当を拵えさせては、自分のであるから、お菜などはロクな物を持って行かないと気がついて、ちゃんとお増に命じて拵えさせたのである。僕はズボン下に足袋《たび》裸足《はだし 》麦藁帽《むぎわらぼう》という出で立ち、民子は手《て》指《さし》を佩《は》いて股引《ももひき》も佩いてゆけと母が云うと、手指許り佩いて股引佩くのにぐずぐずしている。民子は僕のところへきて、股引佩かないでもよい様にお母さんにそう云ってくれと云う。僕は民さんがそう云いなさいと云う。押問答をしている内に、母はききつけて笑いながら、
「民やは町《まち》場《ば》者《もの》だから、股引佩くのは極りが悪いかい。私は又お前が柔かい手足ヘ、茨《いばら》や薄《すすき》で傷をつけるが可哀相だから、そう云ったんだが、いやだと云うならお前のすきにするがよいさ」
それで民子は、例の襷に前掛姿で麻裏草履という仕度、二人が一斗笊一個《ひとつ》宛《ずつ》を持ち、僕が別に番《ばん》ニョ片篭《かたかご》と天秤《てんびん》とを肩にして出掛ける。民子が跡から菅笠《すげがさ》を被《かむ》って出ると、母が笑声で呼びかける。
「民や、お前が菅笠を被って歩くと、丁度木の子が歩くようで見っともない。編笠がよかろう。新らしいのが一つあった筈だ」
稲刈連は出てしまって別に笑うものもなかったけれど、民子はあわてて菅笠を脱いで、顔を赤くしたらしかった。今度は編笠を被らずに手に持って、それじゃお母さんいってまいりますと挨拶して走って出た。
村のものらも彼是いうと聞いてるので、二人揃うてゆくも人前恥かしく、急いで村を通り抜けようとの考えから、僕は一足先になって出掛ける。村はずれの坂の降口《おりくち》の大きな銀《いち》杏《ょう》の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃《たんぼ》がある。色よく黄ばんだ晩稲《おしね》に露をおんで、シットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々《すがすが》しく、胸のすくような眺めである。民子はいつの間にか来ていて、昨日の雨で洗い流した赤土の上に、二《ふた》葉《は》三葉《みは》銀杏の葉の落ちるのを拾っている。
「民さん、もうきたかい。此天気のよいことどうです。ほんとに心持のよい朝だね」
「ほんとに天気がよくて嬉しいわ。このまア銀杏の葉の綺《き》麗《れい》なこと。さア出掛けましょう」
民子の美しい手で持ってると銀杏の葉も殊に綺麗に見える。二人は坂を降りて漸く窮屈な場所から広場へ出た気になった。今日は大いそぎで棉を採り片付け、さんざん面白いことをして遊ぼうなどと相談しながら歩く。道の真中は乾いているが、両側の田についている所は、露にしとしとに濡れて、いろいろの草が花を開いてる。タウコギは末《うら》枯《が》れて、水《みず》蕎麦《そば》蓼《たで》など一番多く繁っている。都草も黄色く花が見える。野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。
民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないッだって僕が行くものを……」
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好《この》もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
民子はこれからはあなたが先になってと云いながら、自らは後になった。今の偶然に起った簡単な問答は、お互の胸に強く有意味に感じた。民子もそう思った事は其素振りで解る。ここまで話が迫ると、もう其先を言い出すことは出来ない。話は一寸途切れてしまった。
何と言っても幼い両人《ふたり》は、今罪の神に飜弄《ほんろう》せられつつあるのであれど、野菊の様な人だと云った詞《ことば》についで、其野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は既に胸に動《どう》悸《き》を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくはなっていない。民子も同じこと、物に突きあたった様な心持で強くお互に感じた時に声はつまってしまったのだ。二人は暫く無言で歩く。
真《まこと》に民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可《か》憐《れん》で優しくてそうして品格もあった。厭昧とか憎《にく》気《げ》とかいう所は爪の垢《あか》ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。
暫くは黙っていたけれど、いつまで話もしないでいるは猶おかしい様に思って、無理と話を考え出す。
「民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの」
「わたし何も考えていやしません」
「民さんはそりゃ嘘だよ。何か考えごとでもしなくてあんな風をする訳はないさ。どんなことを考えていたのか知らないけれど、隠さないだってよいじゃないか」
「政夫さん、済まない。私さっきほんとに考《かんがえ》事《ごと》していました。私つくづく考えて情なくなったの。わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしよう。私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……」
「民さんは何のこと言うんだろう。先に生れたから年が多い、十七年育ったから十七になったのじゃないか。十七だから何で情ないのですか。僕だって、さ来年になれば十七歳さ。民さんはほんとに妙なことを云う人だ」
僕も今民子が言ったことの心を解せぬほどの児供でもない。解ってはいるけど、わざと戯れの様に聞きなして、振りかえって見ると、民子は真《しん》に考え込んでいる様であったが、僕と顔合せて極りわるげに遽《にわか》に側《わき》を向いた。
こうなってくると何をいうても、直ぐそこへ持ってくるので話がゆきつまってしまう。二人の内でどちらか一人が、すこうしほんの僅かにても押《おし》が強ければ、こんなに話がゆきつまるのではない。お互に心持は奥底まで解っているのだから、吉野紙を突破るほどにも力がありさえすれば、話の一歩を進めてお互に明放《あけはな》してしまうことが出来るのである。しかし真底からおぼこな二人は、其吉野紙を破るほどの押がないのである。又ここで話の皮を切ってしまわねばならぬと云う様な、ハッキリした意識も勿論ないのだ。言わば未《ま》だ取止めのない卵的《らんてき》の恋であるから、少しく心の力が必要な所へくると話がゆきつまってしまうのである。
お互に自分で話し出しては自分が極りわるくなる様なことを繰返しつつ幾町かの道を歩いた。詞数こそ少なけれ、其詞の奥には二人共に無量の思いを包んで、極りがわるい感情の中《うち》には何とも云えない深き愉快を湛えて居る。それで所謂《いわゆる》足も空《そら》に、いつしか田圃も通りこし、山《やま》路《じ》へ這入った。今度は民子が心を取り直したらしく鮮かな声で、
「政夫さん、もう半分道来ましてしょうか。大長柵《おおながさく》へは一里に遠いッて云いましたねイ」
「そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余来ましたろうよ。少し休みましょうか」
「わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄の葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな」
親指の中程で疵は少しだが、血が意外に出た。僕は早速紙を裂いて結わえてやる。民子が両手を赤くしているのを見た時非常にかわいそうであった。こんな山の中で休むより、畑へ往《い》ってから休もうというので、今度は民子を先に僕が後になって急ぐ。八時少し過ぎと思う時分に大長柵の畑へ着いた。
十年許り前に親《おや》父《じ》が未だ達者な時分、隣村の親戚から頼まれて余儀なく買ったのだそうで、畑が八反と山林が二町ほどここにあるのである。此辺一体に高台は皆山林で其間の柵が畑になって居る。越石《こしこく》を持っていると云えば、世間体はよいけど、手間許り掛って割に合わないといつも母が言ってる畑だ。
三方林で囲まれ、南が開いて余所《よそ》の畑とつづいている。北が高く南が低い傾斜《こうばい》になっている。母の推察通り、棉は末にはなっているが、風が吹いたら溢れるかと思うほど棉はえんでいる。点々として畑中白くなっている其棉に朝日がさしていると目《ま》ぶしい様に綺麗だ。
「まアよくえんでること。今日採りにきてよい事しました」
民子は女だけに、棉の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうにそう云った。畑の真中程に桐の樹が二本繁っている。葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を凌《しの》ぐには充分だ。ここへあたりの黍殻《きびがら》を寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝へ釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。風を懐《ふところ》へ入れ足を展《のば》して休む。青ぎった空に翠《みどり》の松林、百舌《もず》も何処かで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との間で広い畑の真ン中に二人が話をしているのである。
「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですね」
顔から頸から汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。
「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家《うち》を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂《あによめ》さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」
「僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に出て銀杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日はほんとに面白く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しかないし、二人でしみじみ話の出来る様なことは是から先はむずかしい。あわれッぽいこと云うようだけど、二人の中も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民さん……」
「そりゃア政夫さん、私は道々それ許り考えて来ました。私がさっき、ほんとに情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」
面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐにこうなってしまう。民子は涙を拭うた様であった。丁度よくそこへ馬が見えてきた。西側の山路から、がさがさ笹にさわる音がして、薪《たきぎ》をつけた馬を引いて頬冠《ほおかむり》の男が出て来た。よく見ると意外にも村の常吉である。此の奴はいつか向うのお浜に民子を遊びに連れだしてくれと頻《しき》りに頼んだという奴だ。いやな野郎がきやがったなと思うていると、
「や政夫さん、コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りかな。酒落《しゃ》れてますね。アハハハハハ」
「オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く御精が出ますね」
「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適《たま》に一《いっ》盃《ぱい》やるより外に楽しみもないんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。余《あんま》り罪ですぜ。アハハハハハ」
此野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼけて常吉をやり過ごした。
「馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だもの、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……」
「ほんとに済みません、泣面などして。あの常さんて男、何といういやな人でしょう」
民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間許りの間に七分通り片づけてしまった。もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。僕はかねて用意の水筒《すいづつ》を持って、
「民さん、僕は水を汲《く》んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産に採って来ます」
「私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの」
「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水のある所は。道という様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしよう」
「政夫さん、後生だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩けます。一人でここにいるのはわたしゃどうしても……」
「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きましょう」
弁当は棉の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。民子は頻りに、にこにこしている。端《はた》から見たならば、馬鹿々々しくも見苦しくもあろうけれど、本人同志の身にとっては、其のらちもなき押問答の内にも限りなき嬉しみを感ずるのである。高くもないけど道のない所をゆくのであるから、笹原を押分け樹の根につかまり、崖を攀《よ》ずる。屡《しばしば》 民子の手を採って曳《ひ》いてやる。
近く二三日以来の二人の感情では、民子が求めるならば僕はどんなことでも拒まれない。又僕が求めるならやはりどんなことでも民子は決して拒みはしない。そういう間柄でありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人《ふたり》は、嘗《かつ》て一度も有意味に手などを採ったことはなかった。然るに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。這辺《このへん》の一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして始めて語ることが出来る。
「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。是から僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう」
「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。あらア野葡萄《えびづる》があった」
僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、「あけび」四五十と野葡萄一《ひと》もくさを採り、竜胆《りんどう》の花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春蘭《しゅんらん》の大きいのを見つけた。
「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、此の『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」
「『アックリ』て何にい。あらア春蘭じゃありませんか」
「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰《おっ》しゃるのです。矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸《ひび》の薬に致します。ハハハハ」
「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」
山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、山に仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいことは誰も云う所だ。今吾々二人は新らしき清水を汲み来り母の心を篭《こ》めた弁当を分けつつたべるのである。興味の尋常でないは言うも愚《おろか》な次第だ。僕は「あけび」を好み民子は野葡萄をたべつつ暫く話をする。民子は笑いながら、
「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになるの。学佼で皸がきれたらおかしいでしょうね…」
僕は真面目に、
「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもう遠《とお》に皸を切らしているでしょう。此間も湯に這入《はい》る時にお増が火を焚《た》きにきて非常に皸を痛がっているから、其内に僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」
「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭《かげ》日向《ひなた》のない憎気のない女ですから、私も仲好くしていたんですが、此頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何でもわたしを憎んでいますよ」
「アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訳さ」
「此人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政夫さんにはかないやしない。いくら私だってお増が根も底もない焼もちだ位は承知していますよ……」
「実はお増も不《ふ》憫《びん》な女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまでなるのではない。親父は戦争で死ぬ、お袋は之《こ》れを嘆いたがもとでの病死、一人の兄がはずれものという訳で、とうとうあの始末。国家の為《ため》に死んだ人の娘だもの、民さん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたをば大変ほめているよ。意地曲りの嫂《あによめ》にこきつかわれるのだから一層かわいそうでさ」
「そりゃ政夫さん、私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおッしゃいました。つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、又政夫さんの様に情深《なさけぶか》くされると……」
民子は云いさして又話を詰まらしたが、桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手に採って、急に話を転じた。
「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね、わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……」
花好きな民子は例の癖で、色白の顔に其の紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなしに竜胆の様な風だからさ」
民子は言い終って顔をかくして笑った。
「民さんも余程《よっぽど》人が悪くなった。それでさっきの仇討《あだうち》という訳ですか。口真似なんか恐入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは面白い対《つい》ですね。僕は悦んでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれれば猶《なお》嬉しい」
二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。秋の日足の短さ、日は漸く傾きそめる。さアとの掛声で棉もぎにかかる。午後の分は僅であったから一時間半許《ばか》りでもぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢《こずえ》をかぎりかけた。
半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木《こ》の間《ま》から影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑には、蕎麦《そば》の花が薄絹を曳き渡したように白く見える。こおろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにはいられない。
「民さん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、此景色のよい所で少し休んで行きましょう」
「こんなにおそくなるなら、今少し急げばよかったに。家の人達にきっと何とか言われる。政夫さん、私はそれが心配になるわ」
「今更心配しても追《おっ》つかないから、まア少し休みましよう。こんなに景色のよいことは滅多にありません。そんなに人に申訳のない様な悪いことはしないもの、民さん、心配することはないよ」
月あかりが斜《ななめ》にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。目の先七八間の所は木の蔭で薄暗いが、それから向うは畑一ぱいに月がさして、蕎麦の花が際立って白い。
「何というえい景色でしょう。政夫さん、歌とか俳句とかいうものをやったら、こんなときに面白いことが云えるでしょうね。私ら様《よう》な無《む》筆《ひつ》でもこんな時には心配も何も忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」
「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。民さん、これから二人で歌をやりましょうか」
お互に一つの心配を持つ身となった二人は、内に思うことが多くて却って話は少ない。何となく覚束《おぼつか》ない二人の行末、ここで少しく話をしたかったのだ。民子は勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、年の至らぬのと浮いた心のない二人は、なかなか差向いでそんな話は出来なかった。暫《しばら》くは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁《かり》が二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。
漸く田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人は又同じ様に一種の感情が胸に湧いた。それは外でもない、何となく家に這入りづらいと言う心持である。這入りづらい訳はないと思うても、どうしても這入りづらい。躊躇《ちゅうちょ》する暇もない、忽《たちまち》門前近く来てしまった。
「政夫さん……あなた先になって下さい。私極《きま》りわるくてしようがないわ」
「よし、それじゃ僕が先になろう」
僕は頗《すこぶ》る勇気を鼓し殊に平気な風を装うて門を這入った。家《うち》の人達は今夕飯最中で盛んに話が湧いているらしい。庭場の雨戸は未《ま》だ開《あ》いたなりに月が軒口迄《まで》さし込んでいる。僕が咳払《せきばらい》を一ツやって庭場へ這入ると、台所の話は俄《にわか》に止《や》んでしまった。民子は指の先で僕の肩を撞《つ》いた。僕も承知しているのだ、今御膳会議で二人の噂が如何に盛んであったか。
宵祭ではあり十三夜ではあるので、家中表座敷へ揃うた時、母も奥から起きてきた。母は一通り二人の余り遅かった事を咎めて深くは言わなかったけれど、常とは全く違っていた。何か思って居るらしく、少しも打解けない。これまでは口には小言を言うても、心中に疑いはなかったのだが、今夜は口には余り言わないが、心では充分に二人に疑いを起したに違いない。民子は愈《いよいよ》小さくなって座敷中《なか》へは出ない。僕は山から採ってきた、あけびや野葡萄やを沢山座敷中《じゅう》へ並べ立てて暗に、僕がこんな事をして居たから遅くなったのだとの意を示し無言の弁解をやっても何のききめもない。誰一人それをそうと見るものはない。今夜は何の話にも僕等二人は除《の》けものにされる始末で、もはや二人は全く罪あるものと黙決されて了《しま》ったのである。
「お母さんがあんまり甘過ぎる。あアして居る二人を一所に山畑へやるとは目のないにも程がある。はたでいくら心配してもお母さんがあれでは駄目だ」
これが台所会議の決定であったらしい。母の方でも何時《いつ》迄児供と思っていたが誤りで、自分が悪かったという様な考えに今夜はなったのであろう。今更二人を叱って見ても仕方がない。なに政夫を学校へ遣《や》ってしまいさえせば仔《し》細《さい》はないと母の心はちゃんと極《きま》って居るらしく、
「政や、お前はナ十一月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、そうしてぶらぶらして居ても為にならないから、お祭が終《しま》ったら、もう学校へゆくがよい。十七日にゆくとしろ……えいか、其《そ》のつもりで小仕度して置け」
学校へゆくは固より僕の願い、十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、此《この》場合然《しか》も今夜言渡《いいわたし》があって見ると、二人は既に罪を犯したものと定《き》められての仕置であるから、民子は勿論僕に取っても頗る心苦しい処がある。実際二人はそれ程に堕落した訳でないから、頭からそうと極められては、聊《いささ》か妙な心持がする。さりとて弁解の出来ることでもなし、又強いことを言える資格も実は無いのである。是れが一カ月前であったらば、それはお母さん御無理だ、学校へ行くのは望みであるけど、科《とが》を着せられての仕置に学校へゆけとはあんまりでしょう……などと直ぐだだを言うのであるが、今夜はそんな我儘《わがまま》を言える程無邪気ではない。全くの処、恋に陥ってしまっている。
あれほど可愛がられた一人の母に隠立てをする、何となく隔てを作って心の有りたけを言い得ぬまでになっている。おのずから人前を憚《はばか》り、人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。かくまで私心《わたくしごころ》が長じてきてどうして立派な口がきけよう。僕は只一言《いちごん》、
「はア……」
と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。
「僕は学佼へ往って了えばそれでよいけど、民さんは跡でどうなるだろうか」
不図《ふと》そう思って、そっと民子の方を見ると、お増が枝豆をあさってる後に、民子はうつむいて膝の上に襷《たすき》をこねくりつつ沈黙している。如何にも元気のない風で夜のせいか顔色も青白く見えた。民子の風を見て僕も俄に悲しくなって泣きたくなった。涙は瞼《まぶた》を伝《つたわ》って眼が曇った。何《な》ぜ悲しくなったか理由は判然《はんぜん》しない。只民子が可哀相でならなくなったのである。民子と僕との楽しい関係も此日の夜までは続かなく、十三日の昼の光と共に全く消えうせて了った。嬉しいにつけても思いのたけは語りつくさず、憂き悲しいことに就《つけ》ては勿論百分の一だも語りあわないで、二人の関係は闇の幕に這入って了ったのである。
十四日は祭の初日で只物せわしく日がくれた。お互に気のない風はしていても、手にせわしい仕事のあるばかりに、とにかく思い紛らすことが出来た。
十五日と十六日とは、食事の外用事もないままに、書室へ籠《こも》りとおしていた。ぼんやり机にもたれたなり何をするでもなく、又二人の関係をどうしようかという様なことすらも考えてはいない。只民子のことが頭に充ちている許りで、極めて単純に民子を思うている外に考えは働いて居らぬ。此二日の間に民子と三四回は逢ったけれど、話も出来ず微笑を交換する元気もなく、うら淋しい心持を互に目に訴うるのみであった。二人の心持が今少しませて居ったならば、此二日の間にも将来の事など随分話し合うことが出来たのであろうけれど、しぶとい心持などは毛程もなかった二人には、其場合になかなかそんな事は出来なかった。それでも僕は十六日の午後になって、何とはなしに以下のような事を巻紙へ書いて、日暮に一寸《ちょっと》来た民子に僕が居なくなってから見てくれと云って渡した。
朝からここへ這入ったきり、何をする気にもならない。外へ出る気にもならず、本を読む気にもならず、只繰返し繰返し民さんの事許り思って居る。民さんと一所に居れば神様に抱かれて雲にでも乗って居る様だ。僕はどうしてこんなになったんだろう。学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心では民さんと離れたくない。民さんは自分の年の多いのを気にしているらしいが、僕はそんなことは何とも思わない。僕は民さんの思うとおりになるつもりですから、民さんもそう思っていて下さい。明日《あした》は早く立ちます。冬期の休みには帰ってきて民さんに逢うのを楽しみにして居ります。
十月十六日政 夫
民 子 様
学校へ行くとは云え、罪があって早くやられると云う境遇であるから、人の笑声話声にも一々ひがみ心が起きる。皆二人に対する嘲《ちょう》笑《しょう》かの様に聞かれる。いっそ早く学校へ行ってしまいたくなった。決心が定《き》まれば元気も恢復《かいふく》してくる。此夜は頭も少しくさえて夕飯《ゆうめし》も心持よくたべた。学校の事何くれとなく母と話をする。やがて寝《しん》に就いてからも、
「何だ馬鹿々々しい、十五かそこらの小僧の癖に、女の事など許りくよくよ考えて……そうだそうだ、明朝《あした》は早速学校へ行こう。民子は可哀相だけれど……もう考えまい、考えたって仕方がない、学校々々…」
独口《ひとりぐち》ききつつ眠りに入った様な訳であった。
船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個《ひとつ》につめ込み民子とお増に送られて矢《や》切《ぎり》の渡《わたし》へ降りた。村の者の荷船に便乗する訳でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽《のど》がつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟を撫《な》でたりして、下許り向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返《いちょうがえ》しに薄く化粧をしている。煤色《すすいろ》と紺の細かい弁慶縞《べんけいじま》で、羽織も長着も同じい米沢紬《よねざわつむぎ》に、品のよい友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子は又一層引立って見えた。
僕の気のせいででもあるか、民子は十三日の夜からは一《ひと》日《ひ》々々とやつれてきて、此日のいたいたしさ、僕は泣かずには居られなかった。虫が知らせるとでもいうのか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかったろうけれど、此時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはないと思う位であった。
尤《もっと》も民子の思いは僕より深かったに相違ない。僕は中学校を卒業する迄にも、四五年間のある体であるに、民子は十七で今年の内にも縁談の話があって両親からそう言われれば、無造作に拒むことの出来ない身であるから、行末の事をいろいろ考えて見ると心配の多い訳である。当時の僕はそこまでは考えなかったけれど、親しく目に染みた民子のいたいたしい姿は幾年経っても昨日の事のように眼に浮いているのである。
余所《よそ》から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面《なきがお》と見苦しくもあったであろうけれど、二人の身に取っては、真にあわれに悲しき別れであった。互に手を採って後来《こうらい》を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚り、一言の詞《ことば》もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に五町と下《さが》らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられて了った。物も言い得ないで、しょんぼりと悄《しお》れていた不憫な民さんの俤《おもかげ》、どうして忘れることが出来よう。民さんを思う為に神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを思わずに居られない。年をとっての後の考えから言えば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志の思慮には何等の工夫も無かったのである。八百屋お七は家を焼いたらば、再度《ふたたび》思う人に逢われることと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開ける程の智恵も出なかった。それ程に無邪気な可憐な恋でありながら、猶親に怖《お》じ兄弟に憚り、他人の前にて涙も拭き得なかったのは如何《いか》に気の弱い同志であったろう。
僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり思われて仕方がない。学校に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分で自分を叱り励まして見ても何の甲斐《かい》もない。そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。多くの人中に居ればどうにか紛れるので、日の中《なか》はなるたけ一人で居ない様に心掛けて居た。夜になっても寝ると仕方がないから、なるたけ人中で騒いで居て疲れて寝る工夫をして居た。そういう始末で漸《ようや》く年もくれ冬期休業になった。
僕が十二月二十五日の午前に帰って見ると、庭一面に籾《もみ》を干してあって、母は前の縁側に蒲《ふ》団《とん》を敷いて日向ぼっこをしていた。近頃は余程体の工合もよい、今日は兄夫婦と男とお増とは山へ落葉《くず》をはきに行ったとの話である。僕は民さんはと口の先まで出たけれど遂に言い切らなかった。母も意地悪く何とも言わない。僕は帰り早々民子のことを問うのが如何にも極り悪く、其のまま例の書室を片づけてここに落着いた。しかし日暮までには民子も帰ってくることと思いながら、おろおろして待って居る。皆が帰って愈夕飯ということになっても民子の姿は見えない、誰も又民子のことを一言も言うものもない。僕はもう民子は市川へ帰ったものと察して、人に問うのもいまいましいから、外の話もせず、飯がすむとそれなり書室へ這入って了った。
今日は必ず民子に逢われることと一方《ひとかた》ならず楽しみにして帰って来たのに、此始末で何とも言えず力が落ちて淋しかった。さりとて誰に此苦《く》悶《もん》を話しようもなく、民子の写真などを取出して見て居ったけれど、ちっとも気が晴れない。又あの奴民子が居ないから考え込んで居やがると思われるも口《くち》惜《お》しく、漸く心を取直し、母の枕元へいって夜遅くまで学校の話をして聞かせた。
翌《あ》くる日は九時頃に漸く起きた。母は未《ま》だ寝ている。台所へ出て見ると外の者は皆又山へ往ったとかで、お増が一人台所片づけに残っている。僕は顔を洗ったなり飯も食わずに、背戸の畑へ出てしまった。此秋、民子と二人で茄子《なす》をとった畑が今は青々と菜がほきている。僕は暫く立って何所《いずこ》を眺めるともなく、民子の俤を脳中にえがきつつ思いに沈んでいる。
「政夫さん、何をそんなに考えているの」
お増が出し抜けに後《うしろ》からそいって、近くへ寄ってきた。僕がよい加減なことを一言二言いうと、お増はいきなり僕の手をとって、も少しこっちへきてここへ腰を掛けなさいまアと言いつつ、藁《わら》を積んである所へ自分も腰をかけて僕にも掛けさせた。
「政夫さん……お民さんはほんとに可哀相でしたよ。うちの姉さんたらほんとに意地曲りですからネ。何という根性の悪い人だか、私もはアここのうちに居るのは厭《いや》になってしまった。昨日政夫さんが来るのは解りきって居るのに、姉さんがいろんなことを云って、一《おと》昨日《とい》お民さんを市川へ帰したんですよ。待つ人があるだっぺとか逢いたい人が待ちどおかっぺとか、当こすりを云ってお民さんを泣かせたりしてネ、お母さんにも何でもいろいろなこと言ったらしい、とうとう一昨日お昼前に帰してしまったのでさ。政夫さんが一昨日きたら逢われたんですよ。政夫さん、私はお民さんが可哀相で可哀相でならないだよ。何だってあなたが居なくなってからはまるで泣きの涙で日を暮らして居るんだもの、政夫さんに手紙をやりたいけれど、それがよく自分には出来ないから口惜《くや》しいと云ってネ。私の部屋へ三晩も硯《すずり》と紙を持ってきては泣いて居ました。お民さんも始まりは私にも隠していたけれど、後《のち》には隠して居られなくなったのさ。私もお民さんのためにいくら泣いたか知れない……」
見ればお増はもうぽろぽろ涙をこぼしている。一体お増は極《ごく》人のよい親切な女で、僕と民子が目の前で仲好い風をすると、嫉《しっ》妬《と》心《しん》を起すけれど、固《もと》より執念深い性《しょう》でないから、民子が一人になれば民子と仲が好く、僕が一人になれば僕を大騒ぎするのである。
それから猶お増は、僕が居ない跡で民子が非常に母に叱られたことなどを話した。それは概略こうである。意地悪の嫂が何を言うても、母が民子を愛することは少しも変らないけれど、二つも年の多い民子を僕の嫁にすることはどうしてもいけぬと云うことになったらしく、それには嫂もいろいろ言うて、嫁にしないとすれば、二人の仲はなるたけ裂く様な工夫をせねばならぬ。母も嫂もそういう心持になって居るから、民子に対する仕向けは、政夫の事を思うて居ても到底駄目であると遠廻しに諷《ふう》示《し》して居た。そこへきて民子が明けてもくれてもくよくよして、人の眼にもとまる程であるから、時々は物忘れをしたり、呼んでも返辞が遅かったりして、母の疳癪《かんしゃく》にさわったことも度々あった。僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の月初めの頃、民子も外の者と野へ出ることとなって、母が民子にお前は一足《ひとあし》跡になって、座敷のまわりを雑巾掛してそれから庭に広げてある蓆《むしろ》を倉へ片づけてから野へゆけと言いつけた。民子は雑巾がけをしてからうっかり忘れてしまって、蓆を入れずに野へ出た処、間がわるく其日雨が降ったから、其蓆十枚許りを濡らしてしまった。民子は雨が降ってから気がついたけれど、もう間に合わない。うちへ帰って早速母に詫《わ》びたけれど母は平日の事が胸にあるから、
「何も十枚許りの蓆が惜しいではないけれど、一体私の言いつけを疎《おろそ》かに聞いているから起った事だ。もとの民子はそうでなかった。得手勝手な考え事などしているから、人の言うことも耳へ這入らないのだ……」
という様な随分痛い小言を云った。民子は母の枕元近くへいって、どうか私が悪かったのですから堪忍して……と両手をついてあやまった。そうすると母は又そう何も他人らしく改まってあやまらなくともだと叱ったそうで、民子はたまらなくなってワッと泣き伏した。其のまま民子が泣きやんでしまえば何の事もなく済んだであろうが、民子はとうとう一晩中泣きとおしたので翌朝《あくるあさ》は眼を赤くして居た。母も夜時々眼をさましてみると、民子はいつでも、すくすく泣いている声がしていたというので、今度は母が非常に立腹して、お増と民子と二人呼んで母が顫声《ふるえごえ》になって云うには、
「相対《あいたい》では私がどんな我儘なことを云うかも知れないからお増は聞人《ききて》になってくれ。民子はゆうべ一晩中泣きとおした。定めし私に云われたことが無念でたまらなかったからでしょう」
民子はここで私はそうでありませんと泣声でいうたけれど、母は耳にもかけずに、
「成程私の小言も少し云い過ぎかも知れないが、民子だって何もそれほど口惜しがってくれなくてもよさそうなものじゃないか。私はほんとに考えると情なくなってしまった。かわいがったのを恩に着せるではないが、もとを云えば他人だけれど、乳呑児の時から、民子はしょっちゅう家へきて居て今の政夫と二つの乳房を一つ宛《ずつ》含ませて居た位、お増がきてからもあの通りで、二つのものは一つ宛四つのものは二つ宛、着物を拵《こしら》えてもあれに一枚これに一枚と少しも分け隔てをせないできた。民子も真の親の様に思ってくれ私も吾子と思って余所の人は誰だって二人を兄弟と思わないものはなかった程であるのに、あとにも先にも一度の小言をあんなに悔しがって夜《よ》中《じゅう》泣いてくれなくともよさそうなもの。市川の人達に聞かれたらば、斎藤の婆《ばあ》がどんなひどいことを云ったかと思うだろう。十何年という間我子の様に思ってきたことも只一度の小言で忘れられてしまったかと思うと私は口惜しい。人間というものはそうしたものかしら。お増、よく聞いてくれ、私が無理か民子が無理か。なアお増」
母は眼に涙を一ぱいに溜《た》めてそういった。民子は身も世もあらぬさまでいきなりにお増の膝《ひざ》へすがりついて泣き泣き、
「お増や、お母さんに申訳をしておくれ。私はそんなだいそれた了簡《りょうけん》ではない。ゆんべあんなに泣いたは全く私が悪かったから、全く私がとどかなかったのだから、お増や、お前がよく申訳をそういっておくれ……」
それからお増が、
「お母さんの御立腹も御尤もですけれど、私が思うにャお母さんも少し勘違いをして御いでなさいます。お母さんは永年お民さんをかわいがって御いでですから、お民さんの気質《きだて》は解って居りましょう。私もこうして一年御厄介になって居てみれば、お民さんはほんと優しい温和《おとな》しい人です。お母さんに少し許り叱られたって、それを悔しがって泣いたりなんぞする様な人ではありますまい。私がこんなことを申してはおかしいですが、政夫さんとお民さんとは、あアして仲好くして居たのを、何かの御都合で急にお別れなさったもんですから、それからというもの、お民さんは可哀相な程元気がないのです。木の葉のそよぐにも溜息《ためいき》をつき烏《からす》の鳴くにも涙ぐんで、さわれば泣きそうな風でいたところへ、お母さんから少しきつく叱られたから、留《とめ》度《ど》なく泣いたのでしょう。お母さん、私は全くそう思いますわ。お民さんは決してあなたに叱られたとて悔しがるような人ではありません。お民さんの様な温和しい人を、お母さんの様にあアいって叱っては、あんまり可哀相ですわ」
お増が共泣きをして言訳をいうたので、固より民子は憎くない母だから、俄に顔色を直して、
「なるほどお増がそういえば、私も少し勘違いをしていました。よくお増そういうてくれた。私はもうすっかり心持がなおった。民や、だまっておくれ、もう泣いてくれるな。民やも可哀相であった。なに政夫は学校へ行ったんじゃないか、暮には帰ってくるよ。なアお増、お前は今日は仕事を休んで、うまい物でも拵えてくれ」
其日は三人がいく度《たび》もよりあって、いろいろな物を拵えては茶ごとをやり、一日面白く話をした。民子は此日はいつになく高笑いをし元気よく遊んだ。何と云っても母の方は直ぐ話が解るけれど、嫂が間《ま》がな隙がな種々《いろいろ》なことを言うので、とうとう僕の帰らない内に民子を市川へ帰したとの話であった。お増は長い話を終るや否やすぐ家へ帰った。
なる程そうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、か弱い望も絶えたも同様。心細さの遣《やる》瀬《せ》がなく、泣くより外に詮《せん》がなかったのだろう。そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なるほどなどと思うと、再び熱い涙が漲《みなぎ》り出してとめどがない。僕は暫くの間、涙の出るがままにそこにぼんやりして居った。其日はとうとう朝《あさ》飯《はん》もたべず、昼過ぎまで畑のあたりをうろついて了った。
そうなると俄に家に居るのが厭《いや》でたまらない。出来るならば暮の内に学校へ帰って了いたかったけれど、そうもならないで漸くこらえて、年を越し元日一日置いて二日の日には朝早く学校へ立って了った。
今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、民子の近所を通ったのであれど、僕は極りが悪くてどうしても民子の家へ寄れなかった。又僕に寄られたらば、民子が困るだろうとも思って、いくたび寄ろうと思ったけれど遂に寄らなかった。
思えば実に人の境遇は変化するものである。其一年前までは、民子が僕の所へ来て居なければ、僕は日曜たびに民子の家へ行ったのである。僕は民子の家へ行っても外の人には用はない。いつでも、
「お祖母《ばあ》さん、民さんは」
そら「民さんは」が来たといわれる位で、或る時などは僕がゆくと、民子は庭に菊の花を摘んで居た。僕は民さん一寸御出でと無理に背戸へ引張って行って、二《に》間《けん》梯《ばし》子《ご》を二人で荷《にな》い出し、柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、僕が登って柿を六個《むっつ》許りとる。民子に半分やれば民子は一つで沢山というから、僕は其五つを持って其のまま裏から抜けて帰ってしまった。さすがに此時は戸村の家でも家中で僕を悪く言ったそうだけれど、民子一人は只にこにこ笑って居て、決して政夫さん悪いとは言わなかったそうだ。これ位隔てなくした間柄だに、恋ということ覚えてからは、市川の町を通るすら恥かしくなったのである。
此年の暑中休みには家に帰らなかった。暮にも帰るまいと思ったけれど、年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大《おお》三十日《みそか》の夜帰ってきた。お増も今年きりで下《さが》ったとの話でいよいよ話相手もないから、又元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民子は嫁に往《い》った、去年の霜月やはり市川の内で、大変有福な家だそうだ、と簡単にいうのであった。僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。
民子は嫁に往った。此一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思うほどの平気であった。僕が民子を思っている感情に何等の動揺を起さなかった。これには何か相当の理由があるかも知れねど、ともかくも事実はそうである。僕は只理《り》窟《くつ》なしに民子は如何な境涯に入ろうとも、僕を思っている心は決して変らぬものと信じている。嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思われて、其観念は殆ど大石の上に座して居る様で毛の先ほどの危惧《きぐ》心《しん》もない。それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。しかし其頃から今までにない考えも出て来た。民子は只々少しも元気がなく、痩《やせ》衰えて鬱《ふさ》いで許り居るだろうとのみ思われてならない。可哀相な民さんという観念ばかり高まってきたのである。そういう訳であるから、学校へ往っても以前とは殆ど反対になって、以前は勉《つと》めて人中へ這入って、苦悶を紛らそうとしたけれど、今度はなるべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳《は》せて楽しんで居った。茄子畑の事や棉《わた》畑《ばたけ》の事や、十三日の晩の淋しい風や、又矢切の渡で別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰んで居った。民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる。勿論悲しい心持になることが屡《しばしば》あるけれど、さんざん涙を出せばやはり跡は気分がよくなる。民子の事を思って居れば却《かえ》って学課の成績も悪くないのである。是等も不思議の一つで、如何なる理由か知らねど、僕は実際そうであった。
いつしか月も経って、忘れもせぬ六月二十二日、僕が算術の解題に苦しんで考えて居ると、小使が斎藤さんおうちから電報です、と云って机の端《はた》へ置いて去《い》った。例のスグカエレであるから、早速舎監に話をして即日帰省した。何事が起ったかと胸に動《どう》悸《き》をはずませて帰って見ると、宵闇の家の有様は意外に静かだ。台所で家中夕飯時であったが、只そこに母が見えない許り、何の変った様子もない。僕は台所へは顔も出さず、直ぐと母の寝所へきた。行燈《あんどん》の灯も薄暗く、母はひったり枕に就いて臥《ふ》せって居る。
「お母さん、どうかしましたか」
「あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前なら御飯を済ましてしまえ」
僕は何の事か頻《しき》りに気になるけれど、母がそういうままに早々に飯をすまして再び母の所へくる。母は帯を結うて蒲《ふ》団《とん》の上に起きていた。僕が前に座っても只無言でいる。見ると母は雨の様に涙を落して俯《うつ》向《む》いている。
「お母さん、まアどうしたんでしょう」
僕の詞《ことば》に励まされて母は漸く涙を拭き、
「政夫、堪忍してくれ……民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ……」
「そりゃいつです。どうして民さんは死んだんです」
僕が夢中になって問返すと、母は鳴咽《むせ》び返って顔を抑えて居る。
「始終をきいたら、定めしひどい親だと思うだろうが、こらえてくれ政夫……お前に一言《いちごん》の話もせず、たっていやだと言う民子を無理に勧めて嫁にやったのが、こういうことになって了った……縦令《たとい》女の方が年上であろうとも本人同志が得心《とくしん》であらば、何も親だからとて余計な口出しをせなくもよいのに、此母が年甲斐もなく親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬことをして了った。民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ政夫……私は民子の跡追ってゆきたい……」
母はもうおいおいおいおい声を立てて泣いている。民子の死ということだけは判ったけれど、何が何やら更に判らぬ。僕とて民子の死と聞いて、失神するほどの思いであれど、今目の前で母の嘆きの一通りならぬを見ては、泣くにも泣かれず、僕がおろおろしている所へ兄夫婦が出てきた。
「お母さん、まアそう泣いたって仕方がない」
と云えば母は、かまわずに泣かしておくれ泣かしておくれと云うのである、どうしようもない。
其間で嫂《あによめ》が僅に話す所を聞けば、市川の某《それがし》という家で先の男の気性も知れているに財産も戸村の家に倍以上であり、それで向うから民子を強《た》っての所望、媒灼人《なこうど》というのも戸村が世話になる人である、是非やりたい是非往ってくれということになった。民子はどうでもいやだと云う。民子のいやだという精神《こころ》はよく判っているけれど、政夫さんの方は年も違い先の永いことだから、どうでも某の家へやりたいとは、戸村の人達は勿論親類までの希望であった。それで愈《いよいよ》斎藤のおッ母さんに意見をして貰うということに相談が極まり、それで家のお母さんが民子に幾度《いくたび》意見をしても泣いてばかり承知しないから、とどのつまり、お前がそう剛情はるのも政夫の処《ところ》へきたい考えからだろうけれど、それは此母が不承知でならないよ、お前はそれでも今度の縁談が不承知か。こんな風に言われたから、民子はすっかり自分をあきらめたらしく、とうとう皆様のよい様にといって承知をした。それからは何もかも他《ひと》の言うなりになって、霜月半《なかば》に祝儀をしたけれど、民子の心持がほんとうの承知でないから、向うでもいくらかいや気《き》になり、民子は身持になったが、六《む》月《つき》でおりてしまった。跡の肥立ちが非常に悪く遂に六月十九日に息を引き取った。病中僕に知らせようとの話もあったが、今更政夫に知らせる顔もないという訳から知らせなかった。家のお母さんは民子が未だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣いて泣きぬいた。一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、と許りいって居て、市川へ置いたではどうなるか知れぬという訳から、昨日車で家へ送られてきたのだ。話さえすれば泣く、泣けば私が悪かった悪かったと云って居る。誰にも仕様がないから、政夫さんの所へ電報を打った。民子も可哀相だしお母さんも可哀相だし、飛んだことになってしまった。政夫さん、どうしたらよいでしょう。
嫂の話で大方は判ったけれど、僕もどうしてよいやら殆ど途方にくれた。母はもう半気違いだ。何しろここでは母の心を静めるのか第一とは思ったけれど、慰めようがない。僕だっていっそ気違いになってしまったらと思った位だから、母を慰めるほどの気力はない。そうこうしている内に漸く母も少し落着いてきて、又話し出した。
「政夫や、聞いてくれ。私はもう自分の悪党にあきれて了った。何だってあんなひどい事を民子に言ったっけかしら。今更何程《なんぼ》悔いても仕方がないけど、私は政夫……民子にこう云ったんだ。政夫と夫婦にすることは此母が不承知だからおまえは外《よそ》へ嫁に往け。なるほど民子は私にそう云われて見れば自分の身を諦《あきら》める外はない訳だ。どうしてあんな酷《むご》たらしいことを言ったのだろう。嗚呼《ああ》可哀相な事をしてしまった。全く私が悪党を云うた為に民子は死んだ。お前はネ、明朝《あした》は夜が明けたら直ぐに往ってよオく民子の墓に参ってくれ。それでお母さんの悪かったことをよく詫びてくれ。ねイ政夫」
僕も漸く泣くことが出来た。仮令《たとい》どういう都合があったにせよ、いよいよ見込がなくなった時には逢わせてくれてもよかったろうに、死んでから知らせるとは随分ひどい訳だ。民さんだって僕には逢いたかったろう。嫁に往ってしまっては申訳がなく思ったろうけれど、それでもいよいよの真《ま》際《ぎわ》になっては僕に逢いたかったに違いない。実に情ない事だ。考えて見れば僕もあんまり児《こ》供《ども》であった。其後市川を三回も通りながらたずねなかったは、今更残念でならぬ。僕は民子が嫁にゆこうがゆくまいが、只民子に逢いさえせばよいのだ。今一目逢いたかった……次から次と果てしなく思いは溢《あふ》れてくる。しかし母にそういうことを言えば、今度は僕が母を殺す様なことになるかも知れない。僕は屹《きっ》と心を取り直した。
「お母さん、真《ほんと》に民子は可哀相でありました。しかし取って返らぬことをいくら悔んでも仕方がないですから、跡の事を懇《ねんごろ》にしてやる外はない。お母さんは只々御自分の悪い様にばかりとっているけれど、お母さんとて精神《こころ》は只民子の為政夫の為と一筋に思ってくれた事ですから、よしそれが思う様にならなかったとて、民子や私等が何とてお母さんを恨みましょう。お母さんの精神《こころ》はどこまでも情心《なさけごころ》でしたものを、民子も決して恨んではいやしまい。何もかもこうなる運命であったのでしょう。私はもう諦めました。どうぞ此上お母さんも諦めて下さい。明日《あす》の朝は夜があけたら直ぐ市川へ参ります」
母は猶《なお》詞を次いで、
「成程何もかもこうなる運命かも知らねど今度という今度私はよくよく後悔しました。俗に親馬鹿という事があるが、其親馬鹿が飛んでもない悪いことをした。親がいつまでも物の解ったつもりで居るが、大へんな間違いであった。自分は阿弥陀《あみだ》様におすがり申して救うて頂く外に助かる道はない。政夫や、お前は体を大事にしてくれ。思えば民子はなが年の間にもついぞ私にさからったことはなかったおとなしい児であっただけ、自分のした事が悔いられてならない、どうしても可哀相でたまらない。民子が今はの時の事もお前に話して聞かせたいけれど私にはとてもそれが出来ない」
などと又声をくもらしてきた。もう話せば話すほど悲しくなるからとて強《し》いて一同寝ることにした。
母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえて漸くこらえていた僕は、自分の蚊帳《かや》へ這入り蒲団に倒れると、もうたまらなく一度にこみ上げてくる。口へは手拭を噛《か》んで、涙を絞った。どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるまで、少しも止《や》まず涙が出た。着たままで寝ていた僕は其のまま起きて顔を洗うや否や、未だほの闇《くら》いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽が漸く地平線に現われた時分に戸村の家の門前まで来た。此《この》家《や》の竈《かまど》のある所は庭から正面に見透《みえすい》て見える。朝炊きに麦藁を焚《た》いてパチパチ音がする。僕が前の縁先に立つと奥に居たお祖母さんが、目《め》敏《ざと》く見つけて出てくる。
「かねや、かねや、とみや……政夫さんが来ました。まア政夫さんよく来てくれました。大そう早く。さアお上んなさい。起き抜きでしよう。さア……かねや……」
民子のお父さんとお母さん、民子の姉さんも来た。
「まアよくきてくれました。あなたの来るのを待ってました。とにかくに上って御飯をたべて……」
僕は上りもせず腰もかけず、暫《しばら》く無言で立っていた。漸くと、
「民さんのお墓に参りにきました」
切なる様は目に余ったと見え、四人《よったり》とも口がきけなくなって了った。……やがてお父さんが、
「それでもまア一寸御飯を済《すま》して往ったら……あアそうですか。それでは皆して参ってくるがよかろう……いや着物など着替えんでよいじゃないか」
女達は、もう鼻啜《はなすす》りをしながら、それじゃアとて立ちあがる。水を持ち、線香を持ち、庭の花を沢山に採る。小田巻草千日草天竺《てんじく》牡《ぼ》丹《たん》と各々《てんでん》手にとり別けて出かける。柿の木の下から背戸へ抜け槙屏《まきべい》の裏門を出ると松林である。桃畑梨畑の間をゆくと僅《わずか》の田がある。其先の松林の片隅に雑木の森があって数多《あまた》の墓が見える。戸村家の墓地は冬青《もちのき》四五本を中心として六坪許《ばか》りを区別けしてある。其のほどよい所の新墓《にいはか》が民子が永久《とわ》の住《すみ》家《か》であった。葬りをしてから雨にも逢わないので、ほんの新らしいままで、力紙《ちからがみ》なども今結んだ様である。お祖母さんが先に出でて、
「さア政夫さん、何もかもあなたの手でやって下さい。民子のためには真《ほん》に千僧の供養にまさるあなたの香《こう》花《げ》、どうぞ政夫さん、よオくお参りをして下さい……今日は民子も定めて草葉の蔭で嬉しかろう……なア此人にせめて一度でも、目をねむらない民子に……まアせめて一度も逢わせてやりたかった……」
三人は眼をこすっている様子。僕は香を上げ花を上げ水を注いでから、前に蹲《うずく》ばって心のゆくまで拝んだ。真《しん》に情ない訳だ。寿命で死ぬは致方《しかた》ないにしても、長く煩《わずら》って居る間に、あア見舞ってやりたかった。一目逢いたかった。僕も民さんに逢いたかったもの、民さんだって僕に逢いたかったに違いない。無理無理に強いられたとは云え、嫁に往っては僕に合わせる顔がないと思ったに違いない。思えばそれが愍然《びんぜん》でならない。あんな温和《おとな》しい民さんだもの、両親から親類中かかって強いられて、どうしてそれが拒まれよう。民さんが気の強い人ならきっと自殺をしたのだけれど、温和しい人だけにそれも出来なかったのだ。民さんは嫁に往っても僕の心に変りはないと、せめて僕の口から一言いって死なせたかった。世の中に情ないといってこういう情ないことがあろうか。もう私も生きて居たくない……吾知らず声を出して僕は両膝と両手を土地《じべた》へ突いて了った。
僕の様子を見て、後に居た三人がどんなに泣いたか。僕も吾一人でないに気がついて漸く立ちあがった。三人の中の誰がいうのか、
「なんだって民子は、政夫さんということをば一言も言わなかったのだろう……」
「それほどに思い合ってる仲と知ったらあんなに勧めはせぬものを」
「うすうすは知れて居たのだに、此人の胸も聞いて見ず、民子もあれほどいやがったものを……いくら若いからとてあんまりであった……可哀相に……」
三人も香花を手向け水を注いだ。お祖母さんが又、
「政夫さん、あなた力紙を結んで下さい。沢山結んで下さい。民子はあなたが情《なさけ》の力を便りにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
僕は懐にあった紙の有りたけを力杖《ちからづえ》に結ぶ。此時ふっと気がついた。民さんは野菊が大変好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。いや直ぐ掘ってきて植えよう。こう考えてあたりを見ると、不思議に野菊が繁ってる。弔《とぶら》いの人に踏まれたらしいが猶茎立って青々として居る。民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕は漸く少し落着いて人々と共に墓場を辞した。
僕は何《な》にもほしくありません。御飯は勿論茶もほしくないです、此のままお暇《いとま》願います、明日は又早く上りますからといって帰ろうとすると、家中《うちじゅう》で引留める。民子のお母さんはもうたまらなそうな風で、
「政夫さん、あなたにそうして帰られては私《わたし》等《ども》は居ても起《た》ってもいられません。あなたが面白くないお心持は重々察しています。考えてみれば私共の届かなかったために、民子にも不《ふ》憫《びん》な死にようをさせ、政夫さんにも申訳のないことをしたのです。私共は如《い》何《か》様《よう》にもあなたにお詫びを致します。民子可哀相と思《おぼし》召《め》したら、どうぞ民子が今はの話も聞いて行って下さいな。あなたがお出《い》でになったら、お話し申すつもりで、今日はお出でか明日はお出でかと、実は家中がお待ち申したのですからどうぞ……」
そう言われては僕も帰る訳にゆかず、母もそう言ったのに気がついて座敷へ上った。茶や御飯やと出されたけれど真似《まね》許りで済ます。其内に人々皆奥へ集りお祖母さんが話し出した。
「政夫さん、民子の事に就ては、私共一同誠に申訳がなく、あなたに合せる顔はないのです。あなたに色々御無念な処もありましょうけれど、どうぞ政夫さん、過ぎ去った事と諦めて、御勘弁を願います。あなたにお詫びをするのが何より民子の供養になるのです」
僕は只もう胸一ぱいで何も言うことが出来ない。お祖母さんは話を続ける。
「実はと申すと、あなたのお母さん始め、私又民子の両親とも、あなたと民子がそれほど深い間《なか》であったとは知らなかったもんですから」
僕はここで一言いいだす。
「民さんと私と深い間とおっしやっても、民さんと私とはどうもしやしません」
「いイえ、あなたと民子がどうしたと申すではないです。もとからあなたと民子は非常な仲好しでしたから、それが判らなかったんです。それに民子はあの通りの内気な児でしたから、あなたの事は一言も口に出さない。それはまるきり知らなかったとは申されません。それですからお詫びを申す様な訳……」
僕は皆さんにそんなにお詫びを云われる訳はないという。民子のお父さんはお詫びを言わしてくれという。
「そりゃ政夫さんのいうのは御尤《ごもっとも》です、私共が勝手なことをして、勝手なことをお前さんに言うというものですが、政夫さん、聞いて下さい、理窟の上の事ではないです。男親の口からこんなこというも如何《いかが》ですが、民子は命に替えられない思いを捨てて両親《ふたおや》の希望に従ったのです。親のいいつけで背かれないと思うても、道理で感情を抑えるは無理な処もありましょう。民子の死は全くそれ故ですから、親の身になって見ると、どうも残念でありまして、どうもしやしませんと政夫さんが言う通り、お前さん等《たち》二人に何の罪もないだけ、親の目からは不憫が一層でな。あの通り温和しかった民子は、自分の死ぬのは心柄とあきらめてか、ついぞ一度不足らしい風も見せなかったです。それやこれやを思いますとな、どう考えてもちと親が無慈悲であった様で。……政夫さん、察して下さい。見る通り家中がもう、悲しみの闇に鎖《とざ》されて居るです。愚かなことでしょうが此場合お前さんに民子の話を聞いて貰うのが何よりの慰《い》藉《しゃ》に思われますから、年がいもないこと申す様だが、どうぞ聞いて下さい」
お祖母さんが又話を続ける。結婚の話からいよいよむずかしくなったまでの話は嫂が家での話と同じで、今はという日の話はこうであった。
「六月十七日の午後に医者がきて、もう一日二日の処だから、親類などに知らせるならば今日中にも知らせるがよいと言いますから、それではとて取敢《とりあえ》ずあなたのお母さんに告げると十八日の朝飛んできました。其日は民子は顔色がよく、はっきりと話も致しました。あなたのおっかさんがきまして、民や、決して気を弱くしてはならないよ、どうしても今一度なおる気になっておくれよ、民や……民子はにっこり笑顔さえ見せて、矢切のお母さん、いろいろ有難う御座います。長々可愛がって頂いた御恩は死んでも忘れません。私も、もう長いことはありますまい……。民や、そんな気の弱いことを思ってはいけない。決してそんなことはないから、しっかりしなくてはいけないと、あなたのお母さんが云いましたら、民子は暫くたって、矢切のお母さん、私は死ぬが本望であります、死ねばそれでよいのです……といいましてから猶口の内で何か言った様で、何でも、政夫さん、あなたの事を言ったに違いないですが、よく聞きとれませんでした。それきり口はきかないで、其夜の明方に息を引取りました……。それから政夫さん、こういう訳です……夜が明けてから、枕を直させます時、あれの母が見つけました、民子は左の手に紅絹《もみ》の切れに包んだ小さな物を握って其手を胸へ乗せているのです。それで家中の人が皆集って、それをどうしようかと相談しましたが、可哀相なような気持もするけれど、見ずに置くのも気にかかる、とにかく開いて見るがよいと、あれの父が言い出しまして、皆の居る中であけました。それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……」
お祖母さんが泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。僕は一心に畳を見つめていた。やがてお祖母さんがようよう話を次ぐ。
「そのお手紙をお富が読みましたら、誰も彼も一度に声を立って泣きました。あれの父は男ながら大声して泣くのです。あなたのお母さんは、気がふれはしないかと思うほど、口説いて泣く。お前達二人が之れほどの語らいとは知らずに、無理無体に勧めて嫁にやったは悪かった。あア悪いことをした、不憫だった、民や、堪忍して、私が悪かったから堪忍してくれ。俄《にわか》の騒ぎですから、近隣《きんじょ》の人達が、どうしましたと云って尋ねにきた位でありました。それであなたのお母さんはどうしても泣き止まないです。体に障ってはと思いまして葬式が済むと車で御送り申した次第です。身を諦めた民子の心持が、こう判って見ると、誰も彼も同じことで今更の様に無理に嫁にやった事が後悔され、たまらないですよ。考えれば考える程あの児が可哀相で可哀相で居ても起っても居られない……せめてあなたに来て頂いて、皆が悪かったことを充分あなたにお詫びをし、又あれの墓にも香花をあなたの手から手向けて頂いたら、少しは家中の心持も休まるかと思いまして……今日の事をなんぼう待ちましたろ。政夫さん、どうぞ聞き分けて下さい。ねイ民子はあなたにはそむいては居ません。どうぞ不憫と思うてやって下さい……」
一語一句皆涙で、僕も一時泣きふして了った。民子は死ぬのが本望だと云ったか、そういったか……家の母があんなに身を責めて泣かれるのも、其筈であった。僕は、
「お祖母さん、よく判りました。私は民さんの心持はよく知っています。去年の暮、民さんが嫁にゆかれたと聞いた時でさえ、私は民さんを毛程も疑わなかったですもの。どの様なことがあろうとも、私が民さんを思う心持は変りません。家の母なども只そればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気があっての業《わざ》でないのですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。何もかも定まった縁と諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」
話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一語いくら泣いても果てしがない。僕は母の事も気にかかるので、もうお昼だという時分に戸村の家を辞した。戸村のお母さんは、民子の墓の前で僕の素振りが余り痛わしかったから、途中が心配になるとて、自分で矢切の入口まで送ってきてくれた。民子の愍然《びんぜん》なことはいくら思うても思いきれない。いくら泣いても泣ききれない。しかしながらまた目の前の母が、悔悟の念に攻められ、自ら大罪を犯したと信じて嘆いている愍然さを見ると、僕はどうしても今は民子を泣いては居られない。僕がめそめそして居ったでは、母の苦しみは増す許りと気が付いた。それから一心に自分で自分を励まし、元気をよそおうてひたすら母を慰める工夫をした。それでも心にない事は仕方のないもの、母はいつしかそれと気がついてる様子、そうなっては僕が家に居ないより外はない。
毎日七日《なぬか》の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。其翌《あ》くる日に僕は充分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。
* * *
民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遥《はる》けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。
(明治三十九年一月)
浜菊
汽車がとまる。瓦斯《ガス》燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。
日和下駄カラカラと予の先きに三人の女客が歩き出した。男らしい客が四五人又後から出た。一寸《ちょっと》時計を見ると九時二十分になる。改札口を出るまでは躊躇《ちゅうちょ》せず急いで出たが、夜は意外に暗い。パッタリと闇夜に突当って予は直ぐには行くべき道に践《ふ》み出しかねた。
今一緒に改札口を出た男女の客は、見る間に影の如く闇に消えて終《しま》った。軒燈の光り鈍く薄暗い停車場に一人残った予は、暫《しばら》く茫然たらざるを得なかった。どこから出たかと思う様に、一人の車屋がいつの間にか予の前にきている。
「旦那さんどちらで御座います。お安く参りましょう、どうかお乗りなして」という。力のない細い声で、如何《いか》にも淋しい風をした車屋である。予はいやな気持がしたので、耳も貸さずに待合室へ廻った。明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端《は》書《がき》を出すためである。
キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳《ひ》いて、汽車は長岡方面へ夜のそくえに馳《は》せ走った。
予は此《こ》の停車場へ降りたは、今夜で三回であるが、こう真暗では殆んど東西の見当も判らない。僅《わず》かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯《ちょうちん》を車の上に差出して、予を載せようとする車屋を見ると、如何にも元気のない顔をして居る。下ふくれの青白い顔、年は二十五六か、健康なものとはどうしても見えない。予は深く憐《あわ》れを催した。家には妻も子もあって生活に苦しんで居るものであることが、ありありと顔に見える。予も又胸に一種の淋しみを包みつつある此際、転《うた》た旅情の心細さを彼が為《ため》に増すを覚えた。
予も無言、車屋も無言。田か畑か判らぬところ五六丁を過ぎ、薄暗い町を三十分程走って、車屋は車を緩めた。
「此の辺が四ッ谷町でござりますが」
「そうか、おれも実は二度ばかり来た家だがな、こう夜深に暗くては、一寸も判らん。なんでも板塀の高い家で、岡村という瓦斯燈が門先きに出てる筈だ」
暫くして漸《ようや》く判った。降りて見ればさすがに見覚えのある門構《もんがまえ》、あたり一軒も表をあけてる家もない。車屋には彼が云う通りの外に、少し許《ばか》り心づけをやる。車屋は有難うござりますと、詞《ことば》に力を入れて繰返した。
もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸《くぐりど》に手を掛けると無造作に明く。戸は無造作にあいたが、這入《はい》る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著《つ》いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がするは、自分ながら訳が解らなかった。しかし此の際咄《とっ》嗟《さ》に起った此の不安の感情を解釈する余裕は固《もと》よりない。予の手足と予の体《たい》躯《く》は、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。
一間の燈りが動く。上《あが》り端《はな》の障子が赤くなる。同時に其《その》障子が開いて、洋燈《ランプ》を片手にして岡村の顔があらわれた。
「やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思っていた」
「そうでしょう、僕もこんなに遅くなるつもりではなかったがな、いやどうも深更に驚かして済まないなア……」
「まアあがり給え」
そういって岡村は洋燈を手に持ったなり、あがりはなの座敷から、直ぐ隣の茶の間と云ったような狭い座敷へ予を案内した。予は意外な所へ引張り込まれて、落つきかねた心の不安が一層強く募る。尻の据《すわ》りが頗《すこぶ》る悪い。見れば食器を入れた棚など手近にある。長火鉢に鉄瓶が掛かってある。台所の隣り間で家人の平常飲み食いする所なのだ。是《これ》は又余りに失敬なと腹の中に熱いうねりが立つものから、予は平気を装うのに余程骨が折れる。
「君夕飯はどうかな。用意して置いたんだが、君があまりに遅いから……」
「ウン僕はやってきた。汽車弁当で夕飯は済してきた」
「そうか、それじゃ君一寸風呂に這入り給え。後でゆっくり茶でも入れよう、オイ其粽《ちまき》を出しておくれ」
岡村は自分で何かと茶の用意をする。予は急いで一風呂這入ってくる。岡村は四角な茶ぶだいを火鉢の側に据え、そうして茶を入れて待って居た。東京ならば牛鍋屋《ぎゅうなべや》か鰻屋《うなぎや》ででもなければ見られない茶ぶだいなるものの前に座を設けられた予は、岡村は暢《のん》気《き》だから、未《ま》だ気が若いから、遠来の客の感情を傷《そこの》うた事も心づかずにこんな事をするのだ、悪気があっての事ではないと、吾れ自ら頻《しき》りに解釈して居るものの、心の底のどこかに抑え切れない不平の虫が荒れて居る。
予は座について一通り久濶《きゅうかつ》の挨拶をするつもりで居たのだけれど、岡村は遂に其機会を与えない。予も少しくぼんやりして居ると、
「君茶がさめるからやってくれ給え。オイ早く持ってこないか」
家中静かで返辞の声もない。岡村は便所へでもゆくのか、立って奥へ這入って行った。挨拶などは固《もと》よりお流れである。考えて見ると成程一昨年来た時も、其前に来た時も改まった挨拶などはしなかった様に覚えてるが、しかしながら今は岡村も慥《たし》か三十以上だ。予は四十に近い。然も互いに妻子を持てる一ぱしの人間であるのに、磊落《らいらく》と云えば磊落とも云えるが、岡村は決して磊落な質《たち》の男ではない。それにしても岡村の家は立派な士族で、此地にあっても上流の地位に居ると聞いてる。こんな調子で土地の者とも交際して居るのかしらなど考える。百里遠来同好の友を訪ねて、早く退屈を感じたる予は、余りの手持無沙汰に、袂《たもと》を探って好きもせぬ巻煙草に火をつけた。菓子か何か持って出てきた岡村は、
「近頃君も煙草をやるのか、君は煙草をやらぬ様に思っていた」
「ウンやるんじゃない板面《いたずら》なのさ。そりゃそうと君も次が又出来たそうね、然も男子じゃ目出たいじゃないか」
「や有難う。あの時は又念入りの御手紙ありがとう」
「人間の変化は早いものなア。人の生涯も或階段へ踏みかけると、躊躇なく進行するから驚くよ。しかし其時々の現状を楽しんで進んで行くんだな。順当な進行を遂げる人は幸福だ」
「進行を遂げるならよいけれど、児が殖えたばかりでは進行とも云えんからつまらんさ。しかし子供は慥《たしか》に可愛いな。子供が出来ると成程心持も変る。今度のは男だから親父が一人で悦んでるよ」
「一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現《ゆめうつつ》という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう」
「オイ未だか」
岡村が吐鳴《どな》る。答える声もないが、台所の土間に下駄の音がする。火鉢の側《そば》な障子があく。おしろい真白な婦人が、二皿の粽を及び腰に手を延べて茶ぶ台の上に出した。予は細君と合点してるが、初めてであるから岡村の引合せを待ってるけれど、岡村は暢気に済してる。細君は腰を半ば上りはなに掛けたなり、予に対して鄭嚀《ていねい》に挨拶を始めた、詞は判らないが改まった挨拶ぶりに、予もあわてて初対面の挨拶お定まりにやる。子供二人ある奥さんとはどうしても見えない。
「矢代君やり給え。余り美味《うま》くはないけれど、長岡特製の粽だと云って貰ったのだ」
「拵《こしら》えようが違うのか、僕はこういうもの大好きだ。大いに頂戴しよう」
「余所《よそ》のは米の粉を練ってそれを程よく笹に包むのだけれど、是は米を直ぐに笹に包んで蒸すのだから、笹をとるとこんな風に、東京のお萩《はぎ》と云ったようだよ」
「ウム面白いな、こりゃうまい。粽という名からして僕は好きなのだ、食って美味いと云うより、見たばかりでもう何となくなつかしい。第一言い伝えの話が非常に詩的だし、期節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の香を嗅《か》ぐ心持は何とも云えない愉快だ」
「そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者には珍らしくはないよ」
「そうでないさ、東京者にこの趣味なんぞが解るもんか」
「田舎者にだって、君が感じてる様な趣味は解らしない。何にしろ君そんなによくば沢山やってくれ給え」
「野趣というがえいか、仙味とでも云うか。何んだかこう世俗を離れて極めて自然な感じがするじゃないか。菖蒲《しょうぶ》湯《ゆ》に這入って粽を食った時は、僕はいつでも此日本と云う国が嬉しくて堪《たま》らなくなるな」
岡村は笑って、
「君の様にそう頭から嬉しがって終《しま》えば何んでも面白くなるもんだが、矢代君粽の趣味など嬉しがるのは、要するに時代おくれじゃないか」
「ハハハハこりゃ少し恐れ入るな。意外な所で、然も意外な小言を聞いたもんだ。岡村君、時代におくれるとか先んずるとか云って騒いでるのは、自覚も定見もない青臭い手合の云うことだよ」
「青臭いか知らんが、新しい本少しなり読んでると、粽の趣味なんか解らないぜ」
「そうだ、智識じゃ趣味は解らんのだから、新しい本を読んだとて粽の趣味が解らんのは当り前さ」
岡村は厭《いや》な冷《ひやや》かな笑いをして予を正面に見たが、鈍い彼が目は再び茶ぶだいの上に落ちてる。
「いや御馳走になって悪口いうなどは、ちと乱暴過ぎるかな。アハハハ」
「折角でもないが、君に取って置いたんだから、褒めて食ってくれれば満足だ。沢山あるからそうよろしけば、盛にやってくれ給え」
少し力を入れて話をすると、今の岡村は在京当時の岡村ではない。話に熱がなく力がない。予も思わず岡村の顔を見て、其気張りのないのに同情した。岡村は又出し抜けに、
「君達の様に文芸に遊ぶの人が、時代おくれな考えを持っていてはいけないじゃないか」
鸚《おう》鵡《む》が人のいうことを真似るように、こんな事をいうようでは、岡村も愈《いよいよ》駄目だなと、予は腹の中で考えながら、
「こりゃむずかしくなってきた。君そういう事を云うのは一寸《ちょっと》解ったようでいて、実は一向に解って居らん人の云うことだよ。失敬だが君は西洋の真似、即西洋文芸の受売するような事を、今の時代精神と思ってるのじゃないか。それじゃあ君それは日本人の時代でもなければ精神でもないよ。吾々が時代の人間になるのではない、吾々即時代なのだ。吾々以外に時代など云うものがあってたまるものか。吾々の精神、吾々の趣味、それが即時代の精神、時代の趣味だよ。
いや決してえらい事を云うんじゃない。傲《ごう》慢《まん》で云うんじゃない。当り前の頭があって、相当に動いて居りさえすれば、君時代に後《おく》れるなどいうことがあるもんじゃないさ。露骨に云って終《しま》えば、時代におくれやしないかなどいう考えは、時代の中心から離れて居る人の考えに過ぎないのだろうよ」
腹の奥底に燃えて居った不平が、吾れ知らず気《き》タ《えん》に風を添えるから、意外に云い過した。余りに無遠慮な予の詞《ことば》に、岡村は呆気《あっけ》にとられたらしい。黙って予の顔を見て居る。予も聊《いささ》かきまりが悪くなったから、御馳走して貰って悪口いうちゃ済まんなあ。失敬々々。こう云ってお茶を濁す。穏かな岡村も顔に冷かな苦笑を湛《たた》えて、相変らず元気で結構さ。僕の様に田舎に居っちゃ、君の所謂《いわゆる》時代の中心から離れて居るからな、何も解らんよ。とにかくここでは余り失敬だ。君こっちにしてくれ給え。こういって岡村は片手に洋燈を持って先きに立った。あアそうかと云いつつ、予も跡について起つ。敢て岡村を軽蔑《けいべつ》して云った訳でもないが、岡村にそう聞取られるかと気づいて大いに気の毒になった。それで予は俄《にわか》におとなしくなって跡からついてゆく。
内廊下を突抜け、外の縁側を右へ曲り、行止りから左へ三尺許《ばか》りの渡板を渡って、庭の片隅な離れの座敷へくる。深夜では何も判らんけれど、昨年一昨年と二度ともここへ置かれたのだから、来て見ると何となくなつかしい。平生は戸も明けずに置くのか、空気の蒸せた黴《かび》臭い例のにおいが室に満ちてる。
「下女が居ないからね、此の通り掃除もとどかないよ。実は君が来ることを杉野や渋川にも知らせたかったが、下女がいないからね」岡村は言い分けのように独《ひとり》で物を云いつつ、洋燈を床側に置いて、細君にやらせたらと思う様な事までやる。隣の間から箒《ほうき》を持出しばさばさと座敷の真中だけを掃いて座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》を出してくれた。そうして其のまま去って終った。
予は新潟からここへくる二日前に、此の柏《かしわ》崎《ざき》在なる渋川の所へ手紙を出して置いた。云ってやった通りに渋川が来るならば、明日の十時頃にはここへ来られる都合だが、こんな訳ならば、云うてやらねばよかったにと腹に思いながら、とにかく座蒲団へ胡坐《あぐら》をかいて見た。気のせいかいやに湿りぽく腰の落つきが悪い。予の神経はとかく一種の方面に過敏に働く。厄介に思われてるんじゃないかしら、何だか去年や其前年来た時のようではない。どうしたって来たから仕方なしという待遇としか思われない。来ねばよかったな、こりゃ飛《とん》だ目に遭ったもんだ。予は思わず歎息《たんそく》が出た。
岡村もおかしいじゃないか、訪問するからと云うてやった時彼は懇《ねんごろ》に返事をよこして、楽しんで待ってる。君の好きな古器物でも席に飾って待つべしとまで云うてよこしながら、親父さんだって去年はあんなに親切らしく云いながら、百里遠来の友じゃないか。厄介というても一夜か二夜の宿泊に過ぎんのだ。どうも解らんな。それにしても家の人達はどうしたんだろう。親父さん、お母さん、それからお繁《しげ》さん、もう寝たのかしら。お繁さんはきっと家に居ないに違いない。お繁さんが居れば、まさかこんなにおれに厭な思いはさせまい。そうだきっとお繁さんが居ないに違いない。
予は洋燈を相手に、八畳の座敷に一人つくねんとしてまとまった考えがあるでもなく、淋しいような、気苦しいような、又口惜《くや》しいような心持に気が沈む。馬鹿々々しく頭が腐抜けになったように、吾れ知らず「こんな所へくることよせばよかったなア」と又独言《ひとりご》ちた。そんな事で、却《かえっ》て岡村はどうしたろうとも思わないでいる所へ、蚊帳《かや》の釣手の鐶《かん》をちゃりちゃり音をさせ、岡村は細君を先きにして夜の物を運んで来た。予は身を起して之《これ》を戸口に迎え、
「夜更にとんだ御厄介ですなア。君一向蚊は居らん様じゃないか。東京から見るとここは余程涼しいなア」
「ウン今夜は少し涼しい。これでも蚊帳なしという訳にはいかんよ。戸を締めると出るからな」
細君は帰って終う。岡村が蚊帳を釣ってくれる。予は自ら蒲団を延べた。二人は蚊帳の外で、暫く東京なる旧友の噂《うわさ》をする、それも一通りの消息を語るに過ぎなかった。「君疲れたろう、寝《やす》んでくれ給え」岡村はそういって、宿屋の帳附けが旅客の姓名を宿帳へ記入し、跡でお愛想に少許り世間話をして立去るような調子に去って終った。
予は彼が後姿を見送って、彼が人間としての変化を今更の如くに気づいた。若い時代の情熱などいうもの今の彼には全く無いのだ。旧友の名は覚えて居っても、旧友としての感情は恐らく彼には消えて居よう。手っとり早く云えば、彼は全く書生気質が抜け尽して居るのだ。普通な人間の親父になって居たのだ。
やれやれそうであった、旧友として訪問したのも間違っていた。厄介に思われて腹を立てたも考えがなかった。予はこう思うて胸のとどこおりが一切解けて終った。同時に旧友なる彼が野心なき幸福を悦んだ。
欲を云えば際限がない。誰にも彼にも非常人的精進行為を続けて行けと望むは無理である。子を作り、財を貯え、安逸なる一町民となるも、また人生の理想であると見られぬことはない。普通な人間の親父なる彼が境涯を哀れに思うなどは、出過ぎた料簡《りょうけん》じゃあるまいか。まずまず寝ることだと、予は雨戸を閉めようとして、外の空気の爽《さわや》かさを感じ、又暫く戸口に立った。
風は和《な》いだ。曇っては居るが月が上ったと見え、雲がほんのり白らんで、朧気《おぼろげ》に庭の様子が判る。狭い庭で軒に迫る木立の匂い、苔《こけ》の匂い、予は現実を忘るるばかりに、よくは見えない庭を見るとはなしに見入った。
北海の波の音、絶えず物の崩るる様な響、遠く家を離れてるという感情が突如として胸に湧《わ》く。母屋の方では咳《せき》一つするものもない。世間一体も寂然と眠に入った。予は何分寝ようという気にならない。空腹なる人の未だ食事をとり得ない時の如く、痛く物足らぬ心の弱りに落ちつくことが出来ぬのである。
元気のない哀れな車夫が思い出される。此家の門を潜り入った時の寂しさが思い出される。それから予に不満を与えた岡村の仕振りが、一々胸に呼び返される。
お繁さんはどうしたかしら、どうも今居ないらしい。岡村は妹の事に就て未だ何事もおれには語らない。お繁さんは無事でしょうなと、聞きたくてならないのを遂に聞かずに居った予は、一人考えに耽《ふけ》って愈《いよいよ》其物足らぬ思いに堪えない。
新潟を出る時、僅かな事で二時間汽車の乗後れをしてから、柏崎へ降りても只淋しい思いにのみ襲われ、そうして此家に著いてからも、一として心の満足を得たことはない。其多くの不満足の中に、最も大なる不満足は、此家にお繁さんの声を聞かなかった事である。あアそうだ外の事は一切不満足でも、只同情ある殊に予を解してくれたお繁さんに逢えたら、こんな気苦しい厭な思いに悶々《もんもん》しやしないに極《きま》ってる。いやたとえ一晩でも宿《と》めて貰って、腹の中とは云え悪くいうは気が咎《とが》める、もうつまらん事は考えぬ事と戸を締めた。
洋燈を片寄せようとして、不図《ふと》床を見ると紙《し》本《ほん》半切《はんせつ》の水墨山水、高《たか》久《く》靄ナ《あいがい》で無論真筆紛れない。夜目ながら墨色深潤大いに気に入った。此気分のよいところで早速枕に就くこととする。
強いて頭を空虚に、眼を閉じてもなかなか眠れない、地に響くような波の音が、物を考えまいとするだけ猶《なお》強く聞える。音から聯想《れんそう》して白い波、蒼《あお》い波を思い浮べると、もう番神堂が目に浮んでくる。去年は今少し後であった。秋の初め、そうだ八月の下句、浜菊の咲いてる時であった。
お繁さんは東京の某女学校を卒業して、帰った間もなくで、東京なつかしの燃えてる時であったから、自然東京の客たる予に親しみ易い。一日岡村とお繁さんと予と三人番神堂に遊んだ。お繁さんは十人並以上の美人ではないけれど、顔も姿もきりりとした関東式の女で、心意気も顔、姿の通りに快濶な爽かな人であった。こう考えてくるとお繁さんの活《いき》々《いき》とした風采《ふうさい》が明かに眼に浮ぶ。
土地の名物白絣《しろがすり》の上布に、お母さんのお古だという藍鼠《あいねずみ》の緞《どん》子《す》の帯は大へん似合っていた。西日をよけた番神堂の裏に丁度腰掛茶屋に外の人も居ず、三人は緩《ゆっく》り腰を掛けて海を眺めた。風が変ってか海が晴れてくる。佐渡が島が鮮かに見えてきた。佐渡が見えると海全面の景色が皆活きてくる。白帆が三つ東に向って行く。動かない漁舟《いさりぶね》、漕《こ》ぐ手も見ゆる帰り舟、それらが皆活気を帯びてきた。山の眺めはとにかく、海の景色は晴れんけりゃ駄目ですなアなどと話合う。話はいつか東京話になる。お繁の奴は東京の話というと元気が別だ。僕等もう東京などちっとも恋しくない。兄がそういえばお繁さんは、兄さんはそれだからいけないわ。今の若さで東京が恋しくないのは、男の癖に因循な証拠ですよ。生意気いうようだけど、柏崎に居ったって東京を忘れられては困るわね矢代さん。そうですとも僕は令妹の御考えに大賛成だ。
こんな調子で余は岡村に、君の資格を以《もっ》てして今から退隠的態度をとるは、余りに勇気に乏しく、資格ある人士の義務から考えても、自家将来の幸福を求むる点から考えても、決して其道でないと説いた。岡村は冷かに笑って、君の云うことは尤《もっと》もだけれど、僕は別に考えがあるという。兄さんの考えというのは怪しいとお繁さんが笑う。妹さんの云う通りだ、東京がいやというは活動を恐れるのだ。活動を恐れるのは向上心求欲心の欠乏に外ならぬ。おれはえらい者にならんでもよいと云うのが間違っている。えらい者になる気が少しもなくても、人間には向上心求欲心が必要なのだ。人生の幸福という点よりそれが必要なのだ。向上心の弱い人は、生命を何物よりも重んずることになる。生命を極端に重んずるから、死の悲哀が極度に己れを苦しめる。だから向上心の弱い人には幸福はないということになる。宗教の問題も解決はそこに帰するのであろう、朝《あした》に道を聞いてタベに死すとも可なりとは、よく其精神を説明して居るではないか。
岡村は欠《あく》びを噛みしめて、いや有がとう、よく解った。お繁さんは兄の冷然たる顔色に落胆した風で、兄さんは結婚してからもう駄目よと叫んだ。岡村は何《な》に生意気なことをと目に角立てる。予は突然大笑して其いざこざを消した。そうして話を他へ転じた。お繁さんは本意なさそうにもう帰りましょうと云い出して帰る。予はお繁さんと岡村とあべこべなら面白いがな、惜しい事じゃと考えたのであった。
予は寝られないままに、当時の記憶を一々頭から呼び起して考える。其《それ》を思うとお繁さんの居ない今日、岡村に薄遇されたのに少しも無理はない。予も腹のどん底を白状すると、お繁さんから今年一月の年賀状の次《つい》手《で》に、今年の夏も是非柏崎へお越しを願いたい。今一度お目に掛って信仰上のお話など伺いたく云《うん》々《ぬん》とあったに動かされてきたと云ってもよい位だ。其に来て見れば、お繁さんが居ないのだから……。お繁さんは結婚したのだろう、どんな人と結婚したか。お繁さんに不足のない様な人は無造作にはあるまい。岡村に一つ聞いて見ようか、いや聞くまい、明日は早々お暇《いとま》としよう……。
いつしか疲れを覚えてとろとろとしたと思うと、さすがに田舎だ、町ながら暁を告る鶏の声がそちこちに聞える。あ鶏が鳴くわいと思ったと思うと、其のままぐっすり寝入って、眼の覚めた時は、九時を過ぎている。朝日が母屋の上からさしていて、雨戸を開けたらかっと眼のくらむ程明《あかる》かった。
これから後のことを書くのは、予は不快に堪えない。しかし書かねば此文章のまとまりがつかぬ、いやでも書かねばならない。予は自分で雨戸をくり、自分で寝具を片づけ、ぼんやり障子の蔭《かげ》に坐して庭を眺めていた。岡村は母屋の縁先に手を挙げたり足を動かしたりして運動をやって居る。小女が手水《ちょうず》を持ってきてくれた。岡村は運動も止《や》めて家の者と話をして居るが、予の方へ出てくる様子もない。勿論《もちろん》茶も出さない。お繁さんの居ない事はもはや疑うべき余地はないのであった。
昨夜からの様子で冷遇は覚悟していても、さすが手持無沙汰な事夥《おびただ》しい、予も此年をしてこんな経験は初めてであるから、まごつかざるを得ない訳だ。漸く細君が朝飯を運んでくれたが、お鉢という物の上に、平べったいしおぜのお膳、其に一切を乗せ来って、どうか御飯をという。細君は総《すべ》てをそこに置いたまま去って終う、一口に云えば食客の待遇である。予はまさかに怒る訳にもゆかない、食わぬということも出来かねた。
予が食事の済んだ頃岡村はやってきた。岡村の顔を見れば、それほど憎らしい顔もして居らぬ。心あって人を疎ましくした様な風はして居らぬ。予は全く自分のひがみかとも迷う。岡村が平気な顔をして居れば、予は猶更平気な風をしていねばならぬ。こんな馬鹿げた事があるものか。
「君此靄ナは一寸えいなア」
「ウン親父が五六日前に買ったのだ、何でも得意がっていたよ」
「未だ拝見しないものがあったら、君二三点見せ給えな」
「ウンあんまり振るったのもないけれど二つ三つ見せよか」
岡村は立つ。予は一刻も早く此《ここ》に居る苦痛を脱したく思うのだが、今日昼前に渋川がくるかも知れないと思うままに、今暫くと思いながら、心にもない事を云ってる。こんな時に画幅など見たって何の興味があろう。岡村が持って来た清朝《しんちょう》人の画を三幅程見たがつまらぬものばかりであった、頭から悪口も云えないで見ると、これも苦痛の一つで、見せろなど云わねばよかったと後悔する。何もかも口と心と違った行動をとらねばならぬ苦しさ、予は僅かに虚偽の淵《ふち》から脱ける一策を思いつき、直江津なる杉野の所へ今日行くという電報を打つ為に外出した。帰ってくると渋川が来て居るという。予は内廊下を縁に出ると、驚いた。挨拶にも見えないから、風でもひいてるのかと思うていた岡村の親父は、其所《そこ》の小座敷で人と碁を打って居る。予はまさかに碁を打ってる人に挨拶も出来ない。しかしどうしても其の前を通らねばならない。止《や》むを得ず黙って通ったが、生れて覚えのない苦痛を感じた。軽侮するつもりではないかも知れねど、深い不快の念は禁じ得なかった。
予は渋川に逢うや否や、直ぐに直江津に同行せよと勧め、渋川が呆《あき》れてるのを無理に同意さした。茶を持ってきた岡村に西行汽車の柏崎発は何時かと云えば、十一時二十分と十二時二十分だという。それでは其十一時二十分にしようときめる。岡村はそれでは直ぐ出掛けねばいかんと云う。
岡村は義理にも、そんなに急がんでもえいだろう位は云わねばならぬ所だが、それを云わなかったところを見ると、岡村家の人達は予を余程厄介視したものであろう。予は岡村の家を出ずる時、誰とも別れの挨拶をしなかった。おしろいをこってり化粧した細君が土間に立ちながら、二つ三つお辞儀をしたのみであった。
岡村は吾々より先きに門に出て居った。それでも岡村は何と思うてか、停車場では入場券まで買うて見送ってくれた。
予は柏崎停車場を離れて、殆ど獄屋を免れ出た感じがした。岡村が予に対した仕向けは、解ってるようで又頗《すこぶ》る解らぬ所もある。恋は盲目だという諺《ことわざ》もあるが、お繁さんに於《お》ける予に恋の意味はない筈なれども、幾分盲目的のところがあったものか、とにかく学生時代の友人をいつまで旧友と信じて、漫《みだり》に訪問するなどは警戒すべきであろう。聞けば渋川も一寸の事ではあるが大いに不快であったとのことである。
(明冶四十一年九月)
姪《めい》子《ご》
麦搗《むぎつき》も荒《あら》ましになったし、一番草も今日でお終《しま》いだから、おとッつぁん、熱いのに御苦労だけっと、鎌を二三丁買ってきてくるっだいな、此《この》熱い盛りに山の夏刈《なつがり》もやりたいし、畔草《あぜくさ》も刈っねばなんねい……山刈りを一丁に草刈りを二丁許《ばか》り、何処《どこ》の鍛冶屋《かじや》でもえいからって。
おやじがこういうもんだから、一と朝起きぬきに松尾へ往《い》った、松尾の兼《かね》鍛冶が頼みつけで、懇意だから、出来合があったら取ってくる積りで、日が高くなると熱くてたまんねから、朝飯前に帰ってくる積りで出掛けた、おらア元から朝起きが好きだ、夏でも冬でも天気のえい時、朝っぱらの心持ったらそらアえいもんだからなア、年をとってからは冬の朝は寒くて億劫《おっくう》になったけど、其外《そのほか》ん時には朝早く起きるのが、未《いま》だにおれは楽しみさ。
それで其朝は何んだか知らねいが、別《わ》けて心持のえい朝であった、土用半ばに秋風が立って、もう三回目で土用も明けると云う頃だから、空は鏡のように澄んでる、田のものにも畑のものにも夜露がどっぶりと降りてる、其涼しい気持ったら話になんなっかった。
腰まで裾を端しょってな、素《す》っ膚足《ぱだし》に朝露のかかるのはえいもんさ、日中焼けるように熱いのも随分つれいがな、其熱い時でなけりゃ又朝っぱらのえい気持ということもねい訳だから、世間のことは何でもみんな心の持ちよう一つのもんだ。
それから家の門を出る時にゃ、まだ薄暗かったが、夏は夜明けの明るくなるのが早いから、村のはずれへ出たらもう畑一枚先の人顔が分るようになった、いつでも話すこったが、そん時おれが、つくづく感心したのは、そら今ではあんなに仕合せをしてる、佐兵エどんの家内よ、あの人がたしか十四五の頃だな、おれは只遠い村々の眺めや空合の景色に気をとられて、人の居るにも心づかず来ると、道端に草を刈ってた若い女が、手に持った鎌を措《お》いて、
「お早ようございます」
と挨拶したのを見るとあの人さ、そんころ善吉はまるっきり小作つくりであったから、あの女も若い時から苦労が多かった。
村の内でも起きて居た家は半分しか無かった、そんなに早いのに、十四五の小娘が朝草刈りをしているのだもの、おれはもう胸が一ぱいになった位だ。
「おう誰かと思ったら、おちかどんかい、お前朝草刈をするのかい、感心なこったねい」
おれがこう云って立ち止まると、
「馴れないからよく刈れましね、荒場のおじいさんもたいそうお早くどこへいきますかい」
そう云って莞爾《にっこり》笑うのさ、器量がえいというではないけど、色が白くて顔がふっくりしてるのが朝明りにほんのりしてると、ほんとに可愛い娘であった。
お前とこのとッつぁんも、何か少し加減が悪いような話だがもうえいのかいて、聞くと、おやじが永らくぶらぶらしてますから困っていますと云う、それだからこうして朝草も刈るのかと思ったら、おれは可哀そうでならなかった、それでおれは今鎌を買いに松尾へ往くのだが、日中は熱いからと思ってこんなに早く出掛けてきたのさ、それではお前の分にも一丁買ってきてやるから、折角丹誠してくれやて、云ったら何んでも眼をうるましたようだった、其時のあの女の顔をおれは未だに覚えてる、其の後、家のおやじに話して小作米の残り三俵をまけてやった、心懸けがよかったからあの女も今はあんなに仕合せをしてる。
これでは話が横道へ這入《はい》った、それからおれが松尾へ往きついてもまだ日が出なかった、松尾は県道筋について町めいてる処《ところ》へ樹木に富んだ岡を背負ってるから、屋敷構《やしきがまえ》から人の気心も純粋の百姓村とは少し違ってる、涼しそうな背戸山では頻《しき》りに蜩《ひぐらし》が鳴いてる、おれは又あの蜩の鳴くのが好きさ、どこの家でも前の往来を綺《き》麗《れい》に掃いて、掃《ほう》木目《きめ》の新しい庭へ縁台を出し、隣同志話しながら煙草など吹かしてる、おいらのような百姓と変らない手足をしている男等までが、詞《ことば》つかいなんかが、どことなし品がえい、おれはそれを真似ようとは思わないけど、横芝や松尾やあんな町がかった所へいくと、住居の様子や男女の風俗などに気をつけて見るのが好きだ。
兼鍛冶のとこへ往ったら、此節は忙しいものと見えて、兼公はもう鞴場《ふいごば》に這入って、こうこうと鞴の音をさして居た、見ると兼公の家も気持がよかった、軒の下は今掃いた許りに塵《ちり》一つ見えない、家は柱も敷居も怪しくかしげては居るけれど、表手《おもて》も裏も障子を明放《あけはな》して、畳の上を風が滑ってるように涼しい、表手の往来から、裏庭の茄子《なす》や南瓜《かぼちゃ》の花も見え、頭《けいとう》鳳仙《ほうせん》花《か》天竺《てんじく》牡《ぼ》丹《たん》の花などが背高く咲いてるのが見える、それで兼公は平生花を作ることを自慢するでもなく、花が好きだなどと人に話し為《し》たこともない、よくこんなにいつも花を絶やさずに作ってますねと云うと、あアに家さ作って置かねいと時折仏様さ上げるのん困るからと云ってる、あとから直ぐこういう鎌が出来ましたが一つ見ておくんせいと腕自慢の話だ、そんな風だからおれは元から兼公が好きで、何でも農具はみんな兼公に頼むことにしていた。
其朝なんか、よっぽど可笑《おか》しかった、兼公おれの顔を見て何と思ったか、喫驚《びっくり》した眼をきょろきょろさせ物も云わないで軒口ヘ飛んで出た、おれが兼さんお早ようと詞を掛ける、それと同んなじ位に、
「旦那何んです」
とあの青白い尖口《とんがりぐち》の其のたまげた顔をおれの鼻っさきへ持ってきていうのさ、兼さん何でもないよ鎌を買いに来たんだよ、日中は熱いから朝っぱらにやって来たのさ、こういうと、「そらアよかった、まア旦那お早ようございます」と直ぐにけろりとした風で二つ三つ腰をまげた、ハハハアと笑ったかと思うと直ぐ跡から、旦那鎌なら豪せいなのが出来てます、いう内に女房が出て来て上がり鼻へ花《はな》蓙《むしろ》を敷いた、兼公はおれに許り其蓙へ腰をかけさせ、自分は一段低い縁に腰をかけた、兼公は職人だけれど感心に人に無作法なことはしなかった。
「旦那聞いてください、わし忌ま忌ましくなんねいことがあっですよ、あの八田の吉兵エですがね、先月中あなた、山刈と草刈と三丁宛《ずつ》、吟味して打ってくれちもんですから、こっちゃあなた充分に骨を折って仕上げた処、旦那まア聞いて下さい其の吉兵エが一昨日来やがって、村の鍛冶に打たせりゃ、一丁二十銭ずつだに、お前の鎌二十二銭は高いとぬかすんです、それから癪《しゃく》に障っちゃったんですから、お前さんの銭ゃお前さんの財布へしまっておけ、おれの鎌はおれの戸棚へ終《しま》って措《お》くといって、いきなり鎌を戸棚へ終っちゃったんです、旦那えい処へ来て下さった」そういうて兼公は六丁の鎌をおれの前へ置いた、女房は、それではよくあんめい、吉兵エさんも帰りしなには、兼さんの一酷にも困る、あとで金を持たしてよこすから、おっかアおめいが鎌を取っといてくっだいよって、腹も立たないでそういっていったんだから、今荒場の旦那へ上げて終ってはと云った、兼公はあアにお前がそういうなら、八田の分はおれが今日にも打って措くべい、旦那どうぞ持っていって下さい、外の人と違う旦那がいるってんだから、こういうから四丁と思って往ったのだが、其六丁を持ってきた、家を出る時心持よく出ると其日はきっと何かの用が都合よくいくものだ。
思いの外に早く用が足りたし、日も昇りかけたが、蜩はまだ思い出したように鳴いてる、つくつくほうしなどがそろそろ鳴き出してくる、まだ熱くなるまでには、余程の間があると思って、急に思いついて姪子の処へ往った。
お町が家は、松尾の東はずれでな、往来から岡の方へ余程経《へ》上って、小高い所にあるから一寸《ちょっと》見ても涼しそうな家さ、おれがいくとお町は二つの小牛を庭の柿の木の蔭《かげ》へ繋《つな》いで、十になる惣領《そうりょう》を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子がさも楽しそうに黒白斑《まだら》の方のやつを洗ってやってる、小牛は背中を洗って貰って平気に草を食ってる、惣領が長い柄の柄杓《ひしゃく》で水を牛の背にかける、母親が縄たわしで頻りに小摺《こす》ってやる、白い手拭を間深かに冠《かぶ》って、おれのいったのも気がつかずにやってる、表手の庭の方には、白らげ麦や金時大角豆などが庭一面に拡げて隙間もなく干してある、一目見てお町が家も此頃は都合がえいなと思うと、おれもおのずと気も引立って、ちっと手伝おうかと声をかけた。
あらア荒場の伯父さんだよって、母子が一所にそういって、小牛洗いはそこそこにさすが親身の挨拶は無造作なところに、云われないなつかしさが嬉しい、まア伯父さんこんな形では御挨拶も出来ない、どうぞまア足を洗って下さい、そういうより早く水を汲《く》んでくれる、おれはそこまで来たから一寸寄ったのだ上ってる積りではねいと云っても、伯父さん一寸寄っていくってそら何のこったかい、そんなこと云ったって駄目だ、もうおれには口は聞かせない。
上って見ると鏡のように拭いた摺縁《すりえん》は歩りくと足の下がぎしぎし鳴る位だ、お町はやがて自分も着物を着替て改った挨拶などする、十になる児の母だけれど、町公町公と云ったのもまだつい此間の事のようで、其大人ぶった挨拶が可笑しい位だった、其内利助も朝草を山程刈って帰ってきた、さっぱりとした麻の葉の座蒲団を影の映るような、カラ縁に敷いて、えい心持ったらなかった、伯父さん鎌を六丁買ってきて、家でばっかそんなにいるかいちもんだから、おれがこれこれだと話すと、そんなら一丁家へもおくんなさいなという、改まって挨拶するかと思うと、あとから直ぐ甘えたことをいう、そうされると又妙に憎くないものだよ。
あの気転だから、話をしながら茶を拵《こしら》える、用をやりながらも遠くから話しかける。
「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦《そば》饂《う》飩《どん》でもねいし、鰌《どじょう》の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです」
「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何がいるかい」
そういう所へ利助もきて挨拶した、よくまア伯父さん寄てくれました、今年は雨都合もよくて大分作物もえいようでなど簡単な挨拶にも実意が見える、人間は本気になると、親身の者をなつかしがるものだ、此の調子なら利助もえい男だと思っておれも嬉しかった、お町は何か思いついたように夫に相談する、利助は黙々うなずいて、其のまま背戸山へ出て往った様だった、お町はにこにこしながら、伯父さん腹がすいたでしょうが、少し待って下さい、一寸思いついた御馳走をするからって、何か手早に竃《かまど》に火を入れる、おれの近くへ石臼《いしうす》を持出し話しながら、白《しろ》粉《こ》を挽《ひ》き始める、手軽気軽で、億劫な風など毛程も見せない、おれも訳なしに話に釣り込まれた。
「利助どんも大分に評判がえいからおれもすっかり安心してるよ、もう狂《あば》れ出すような事あんめいね」
「そうですよ伯父さん、わたしも一頃は余程迷ったから、伯父さんに心配させましたが、去年の春頃から大へん真面目になりましてね、今年などは身上《しんしょう》もちっとは残りそうですよ、金で残らなくてもあの、小牛二つ育てあげればって、此節は伯父さん、一朝に二かつぎ位草を刈りますよ、今の了簡《りょうけん》でいってくれればえいと思いますがね」
「実の処おれは、それを聞きたさに今日も寄ったのだ、そういう話を聞くのがおれには何よりの御馳走だ、うんお前も仕合せになった」
こんな訳で話はそれからそれと続く、利助の馬鹿を尽した事から、二人が殺すの活《いか》すのと幾度も大喧《おおげん》嘩《か》をやった話もあった、それでも終いには利助から、おれがあやまるから仲直りをしてくろて云い出し誰れの世話にもならず、二人で仲直りした話は可笑しかった。
おれも始めから利助の奴は、女房にやさしい処があるから見込みがあると思っていた、博《ばく》打《ち》をぶっても酒を飲んでもだ、女房の可愛い事を知ってる奴なら、いつか納まりがつくものだ、世の中に女房のいらねい人間許りは駄目なもんさ、白粉は三升許りも挽けた、利助もいつの間にか帰ってる、お町は白粉を利助に渡して自分は手軽に酒の用意をした、見ると大きな巾着《きんちゃく》茄子を二つ三つ丸ごと焼いて、うまく皮を剥《む》いたのヘ、花鰹《はながつお》を振って醤油をかけたのさ、それが又なかなかうまいのだ、いつの間にそんな事をやったか其の小手廻しのえいことと云ったら、お町は一苦労しただけあって、話の筋も通って人のあしらいもそりや感心なもんよ。
すとんすとん音がすると思ってる内に、伯父さん百合《ゆり》餅《もち》ですが、一つ上って見て下さいと云うて持って来た。
何に話がうまいって、どうして話どころでなかった、積っても見ろ、姪子甥《おい》子《ご》の心意気を汲んでみろ、其餅のまずかろう筈があるめい、山百合は花のある時が一番味がえいのだそうだ、利助は、次《つい》手《で》があるからって、百合餅の重箱と鎌とを持っておれを広福寺の裏まで送ってくれた。
おれは今六十五になるが、鯛平《たいひら》目《め》の料理で御馳走になった事もあるけれど、松尾の百合餅程にうまいと思った事はない。
お町は云うまでもなく、お近でも兼公でも、未だにおれを大騒ぎしてくれる、人間はなんでも意気で以て思合った交りをする位楽しみなことはない、そういうとお前達は直ぐとやれ旧道徳だの現代的でないのと云うが、今の世にえらいと云われてる人達には、意気で人と交わるというような事はないようだね、身勝手な了簡より外ない奴は大き面をしていても、真に自分を慕って敬してくれる人を持てるものは恐らく少なかろう、自分の都合許り考えてる人間は、学問があっても才智があっても財産があっても、あんまり尊いものではない。
(明治四十二年九月)
守《もり》の家
実際は自分が何歳《いくつ》の時の事であったか、自分でそれを覚えて居たのではなかった。自分が四つの年の暮であったということは、後に母や姉から聞いての記憶であるらしい。
煤《すす》掃《は》きも済み餅《もち》搗《つ》きも終えて、家の中も庭のまわりも広々と綺《き》麗《れい》になったのが、気も浮立つ程嬉しかった。
「もう三つ寝ると正月だよ、正月が来ると坊やは五つになるのよ、えいこったろう……木っぱのような餅たべて……油のような酒飲んで……」
姉は自分を喜ばせようとするような調子にそれを唄って、少しかがみ腰に笑顔で自分の顔を見るのであった。自分は訳もなく嬉しかった。姉は其頃《そのころ》何んでも二十二三であった。まだ児《こ》供《ども》がなく自分を大へんに可愛がってくれたのだ。自分が姉を見上げた時に姉は白地の手拭を姉さん冠《かぶ》りにして筒袖の袢天《はんてん》を着ていた。紫の半襟の間から白い胸が少し見えた。姉は色が大へん白かった。自分が姉を見上げた時に、姉の後に襷《たすき》を掛けた守《も》りのお松が、草箒《くさぼうき》とごみとりとを両手に持ったまま、立ってて姉の肩先から自分を見《み》下《おろ》して居た。自分は姉の可愛がってくれるのも嬉しかったけれど、守りのお松もなつかしかった。で姉の顔を見上げた目で直ぐお松の顔も見た。お松は艶《つや》のよくない曇ったような白い顔で、少し面長な、やさしい女であった。いつもかすかに笑う其目つきが忘れられなくなつかしかった。お松もとると十六になるのだと姉が云って聞かせた。お松は其時只かすかに笑って自分のどこかを見てるようで口は聞かなかった。
朝飯をたべて自分が近所へ遊びに出ようとすると、お松はあわてて後から付いてきて、下駄を出してくれ、足袋の紐《ひも》を結び直してくれ、緩んだへこ帯を締直してくれ、そうして自分がめんどうがって出ようとするのを、猶《なお》抑えて居って鼻をかんでくれた。
お松は其時もあまり口はきかなかった。自分はお松の手を離れて、庭先へ駈け出してから、一寸《ちょっと》振りかえって見たら、お松は軒口に立って自分を見送ってたらしかった。其時自分は訳もなく寂しい気持のしたことを覚えて居る。
お昼に帰って来た時にはお松は居なかった。自分はお松は使にでも行ったことと思って気にもしなかった。日暮になってもお松は居なかった。毎晩のように竈《かまど》の前に藁把《わらたば》を敷いて自分を暖まらしてくれた、お松が居ないので、自分は始めてお松はどうしたのだろうかと思った。姉がせわしなく台所の用をしながら、遠くから声を掛けてあやしてくれたけれど、いつものように嬉しくなかった。
夕飯の時に母から「お前はもう大きくなったからお松は今年きりで今日家へ帰ったのだよ、正月には年頭に早く来るからね」と云われて自分は平気な風に汁掛飯を音立てて掻《かき》込《こ》んでいたそうである。
正月の何日頃であったか、表の呉縁《くれえん》に朝日が暖くさしてる所で、自分が一人遊んで居ると、姉が雑巾がけに来て「坊やはねえやが居なくても姉さんが可愛がってあげるからね」と云ったら「ねえやなんか居なくたってえいや」と云ってたけれど、目には涙を溜《た》めてたそうである。
正月の十六日に朝早くお松が年頭に来た時に、自分の喜んだ様子ったら無かったそうである。それは後に母や姉から幾度も聞かせられた。
「ねえやは、ようツたアなア、ようツたアなア。ねえやはいままでどいってた……」
と繰返し云って、袖にすがられた時に、無口なお松は自分を抱きしめて、暫《しばら》くは顔を上げ得なかったそうである。それからお松は五ツにもなった自分を一日おぶって歩いて、何から何まで出来るだけの世話をすると、其頃もう随分ないたずら盛りな自分が、じいっとしてお松におぶされ、お松のするままになっていたそうである。
お松も家を出て来る時には、一晩泊るつもりで来たものの、来て見ての様子で見ると、此の上一晩泊ったら、愈《いよいよ》別れにくくなると気づいて、おそくも帰ろうとしたのだが、自分が少しもお松を離れないので、帰るしおが無かった。お松にはとても顔見合って別れることは出来ないところから、自分の気づかない間に逃げようとしたのだが、其機会を得られずに泊って終《しま》った。自分はタ飯をお松の膝《ひざ》に寄ってたべるのが嬉しかった事を覚えて居る。其夜は無論お松と一緒に寝た、お松が何か話をして聞かせた事を、其話は覚えて居ないが、面白かった心持だけは未《いま》だに忘れない。お松は翌朝自分の眠ってる内に帰ったらしかった。
其後自分は両親の寝話に「児供の余り大きくなるまで守りを置くのは良くない事だ」などと話してるのを聞いたように覚えてる。姉は頻《しき》りに自分にお松を忘れさせるようにいろいろ機嫌をとったらしかった。母はそれから幾度か、ねえやの処《ところ》へ一度つれてゆくつれてゆくと云った。
自分が母につれられてお松が家の庭へ這入《はい》った時には、梅の花が黒い湿った土に散っていた。往来から苅葺《かりぶき》のかぶった屋根の低い家が裏まで見透かされるような家であった。三時頃の簿い日影が庭半分にさしていて、梅の下には蕗《ふき》の薹《とう》が丈高くのびて白い花が見えた。庭はまだ片づいていてそんなに汚くなかった。物置も何もなく、母家一軒の寂しい家であった。庭半分程這入って行くと、お松は母と二人で糸をかえしていて、自分達を認めると直ぐ「あれまア坊さんが」と云って駈け降りて来た。お松の母も降りて来た。「良くまア坊さんきてくれたねえ」と云って母子して自分達を迎えた。自分は少しきまりが悪かった。母の袖の下へ隠れるようにしてお松の顔を見た。お松は襷をはずして母に改った挨拶をしてから、なつかしい目でにっこり笑いながら「坊さんきまりがわるいの」と云って自分を抱いてくれた。自分はお松はなつかしいけれど、まだ知らなかったお松の母が居るから直ぐにお松にあまえられなかった。母はお松の母と話をしてる。お松の母は母を囲炉裏端へ連れて行った。其内にお松は自分をおぶって外へ出た。菓子屋で菓子を買ってくれた。赤い色や青い色のついてる飴《あめ》の棒を両手に五本ずつ買ってくれた。お松は幾度も顔を振向けて背に居る自分に話をした。其度に自分の頬がお松の鬢《びん》の毛や頬へさわるのであった。お松はわざと我頬を自分の頬へ摺《す》りつけようとするらしかった。
お松が自分をおぶって、囲炉裏端へ上った時に母とお松の母は、生薑《しょうが》の赤漬と白砂糖で茶を飲んで居った。お松は「今夜坊さんはねえやの処へ泊ってください」と頻りに云ってる。自分は点頭して得心の意を示した。母は自分の顔を見て危《あやぶ》む風で「おまえ泊れるかい夜半時分に泣出しちゃ困るよ」と笑ってる。お松は自分が何と云うかと思うらしく自分の顔色を見てる。
「泊れるでしょう」
お松はこう云って熱心に自分に摺寄った。お松の母も頻りに「こんな汚ない家だけれど決して寒い思いはさせないから」と母に言ってる。母は自分の顔をのぞいて「泊れるかい」と云う。
「ねえやのとこへ泊れる」
自分がそういうと「さア極《きま》った」と云ってお松は喜んだ。そうしてお松は自分の膝の上へ抱上げて終った。
「おまえ泊れるかい」
母は猶念を押して「おまえが泊ると極ればお母さんは出かける、えいだっぺねい」と云った。
「お母さんは行ってもえい」
自分がそういうと、母はいろいろ頼むと云う様な事を云って立ちかける。する処へ赤い顔の背の高い五十許《ばか》りの爺が庭から、さげた手を振りつつ這入って来た。何かよく解らなかったけれど、今夜是非お松を頼みたいと云うような事を、勝手にしゃべって出て行った。お松が家の本家のあるじだという事であった。
「困ったなア困ったなア」
お松はくりかえしくりかえし云って溜息《ためいき》をついた。結局よんどころないと云う事で、自分は母と一緒に出掛けることになった。お松は「仕様がないねえ坊さん」と云って涙ぐんだ。「又寄ってください」と云うのもはっきりとは云えなかった。そうして自分を村境までおぶって送ってくれた。自分も其時悲しかったことと、お松が寂しい顔をうなだれて、泣き泣き自分を村境まで送ってきた事が忘れられなかった。
「さアここでえいからお松おまえ帰ってくれ」
と母が云っても、お松はなかなか自分を背から降ろさないで、どこまでもおぶって来る。もうどうしてもここでとおもう処で、自分をおろしたお松は、もうこらえかねて「坊さんわたしがきっと逢いにゆくからね」と自分の肩へ顔をあてて泣いた。自分もお松へ取りついて泣いた。母は懐から何か出してお松にやった。お松は頻りに辞退したのを、母は無理にお松にやって、自分をおぶった。お松はそれでも暫くそこに立っていたようであった。
それきり妙に行違って、自分はお松に逢わなかった。それでも色のさえない元気のない面長なお松の顔は深く自分の頭に刻まれた。
七八年過ぎてから人の話に聞けば、お松は浜の船方の妻になったが、夫が酒呑で乱暴で、お松はその為《ため》に憂鬱性の狂いになって間もなく死んだという事であった。
(明治四十五年二月)
解説
久保田正文
伊藤左千夫の小説は、中・短篇二十八篇ほどと、長篇『分家』一篇とがある。短篇は、昭和五十一年から五十二年にかけて、岩波書店から刊行された『左千夫全集』第二巻、ならびに第三巻に収録されている。『分家』は、その第四巻に収録されている。中・短篇が、二十八篇ほどと、ややあいまいに私がかぞえたのは、それを収録した両巻が、「小説・紀行・小品」と銘うたれているように、小説とみなすべきか、紀行または小品(随想・随筆ふう)とみなすべきか迷うような作品もあり、また小説としても未完のものがあるからである。そこで私のかぞえた二十八篇とは、誰がみてもほぼ完結した小説とみなしうるものにとどめたわけである。
『左千夫全集』は、大正九年にも、春陽堂から刊行されていて(ただしこの時は、全六巻の予定が、第四巻まで刊行されたのみである)その第二巻、第三巻に中・短篇小説が二十五篇収録されている。あたらしい、岩波書店版『左千夫全集』では、『細真《ま》菰《こも》』(明治四十四年)、『女と男』(同年)、『可哀想だから』(大正二年)の三作品が、あたらしく発見されて収録されている。
『野菊の墓』は、伊藤左千夫が最初に発表した小説である。「ホトトギス」第九巻第四号(明治三十九年一月一日発行)に発表された。その年、作者は四十三歳である。その年四月に、俳書堂から単行本として『野菊の墓』が出版された。伊藤左千夫、生前の唯一の単行本出版である。
小説家としての伊藤左千夫については、中野重治が昭和二十五年につぎのように書いた。〈小説家としての虚子を知らぬものも、俳人としての虚子は大がい知っている。あるいは、小説『土』の作者として長塚節《たかし》を知っていて、根岸派・アララギ派の歌人としての節を知らぬものも今ごろはあるかも知れぬ。しかしおそらく、歌人としての左千夫は知っているが、小説家としての左千夫なぞは知らぬというものが一番おおいのではないかと私として思う。〉(『現代日本小説大系』第十八巻、高浜虚子・伊藤左千夫・長塚節集、解説)
その解説で、中野重治は、『野菊の墓』にふれた、斎藤茂吉と、宇野浩二との批評を引用したうえで、〈作者が、人生にたいして激情と疑惑とを以《もっ》て対した〉ものであり、その点において、たとえば虚子の『俳諧《はいかい》師《し》』などに並べれば、〈人生にたいして激情的な人々によって『野菊の墓』は読み続けられる可能性を持つと私は考える。〉と書いている。
斉藤茂吉は、『伊藤左千夫』のなかで、春陽堂版全集に収録された中・短篇小説二十五篇、ならびに長篇小説『分家』のすべてについて、ていねいな解説・論評をくわえている。『野菊の墓』について書いた文章の終り部分はつぎのごとくであって、中野重治が引用したのもこの部分である。
〈この小説は美文脈漢語脈等の表現に洗練せられないようなところがあり、感動の表出にも垢《あか》抜《ぬ》けしない気の利かぬ箇処が多いものであるが、全力的な涙の記録として、これほど人目をはばからぬものも世には尠《すくな》いであろう。作者がこの小説を持って、山会で読んだとき、作者自身幾たびも幾たびも歔《きょ》欷《き》したということである。この小説が籾山《もみやま》書店から単行本になったとき、多くの若い人々がこれを愛読したのは、作者の前後不覚の涕涙《ているい》に同感したのであっただろうか。〉(原文歴史仮名づかい)
山会というのは、正岡子規の根岸短歌会のころから行なわれていた散文の勉強会のことである。山会での朗読の際、左千夫がいく度も泣いたということは、その会の現場にいた高浜虚子も書いている。また、籾山書店から単行本になったというのは斎藤茂吉の思いちがいで、これは前述したように俳書堂である。
中野重治は、おなじ文章で、宇野浩二の批評も引用しているが、それも『伊藤左千夫』のなかで詳しく写されている。「新潮」昭和十六年八月号に載った『小説家としての伊藤左千夫』に述べられているもので、つぎのように書かれている。
〈『野菊の墓』は、主観的な、感傷的な、失恋小説であるが、「民子が体をくの字にかがめて、茄子《なす》をもぎつつある其《その》横顔を見て、今更のように民子の美しく可愛らしさに気がついた。……しなやかに光沢《つや》のある鬢《びん》の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬《ほお》の白く鮮かな、顎《あご》のくくしめの愛らしさ、頸《くび》のあたり如何《いか》にも清げなる、藤色の半襟《はんえり》や花染の襷《たすき》や、それらが悉《ことごと》く優美に眼にとまった」などという、幼稚といえば幼稚であるけれど、丹念な、無邪気な、書き方だけでも、初心な、純潔な、一《いち》途《ず》な、田舎者らしい、主人公の気持ちが、飾りなく、現されているだけでも、左千夫の代表作の一つである。それに、この小説に出て来る、主人公、そのませた恋人、やさしい母、いくらか意地わるな兄嫁、その他、それから、作者の生まれた故郷の、自然、農村、百姓の生活、その他の四十三歳になって初めて小説を書く作者の、意気ごみ、熱心、一所懸命さで、無器用ではあるが、書かれているところに、この小説は、「何百篇よんでもよろしい」というような、冷やかしのように思われる褒《ほ》め言葉などの当て嵌《は》まらない、向きな小説である。言い換えると、主人公の恋に対する向きな気もちに劣らない、向きな気もちで書かれてあるところに、この小説が、左千夫の代表作の一つとなる理由がある。〉(原文歴史仮名づかい)
『伊藤左千夫』には、さらに釈迢空《しゃくちょうくう》が「アララギ」第十二巻第七号伊藤左千夫号に発表した、『左千夫の小説』における意見も紹介されている。釈迢空はそこで言っている。
〈左千夫の小説は、彼の歌に於《おい》てあれ程客観的態度の確立を念としていたに係《かかわ》らず、極めて主観的な表出に流れている。何かにつけて作者としての主観的説明をくっつけないでは収らぬと言った風である。(略)当時の批評家は皆筆を揃《そろ》えて此《この》謂《い》われなき作者の干渉を却《しりぞ》けた。〉(原文歴史仮名づかい)
斎藤茂吉から釈迢空に至るまで、『野菊の墓』に限らず、伊藤左千夫の小説に共通してみられる主観性の氾濫について批判的に指摘している。それにもかかわらず、その小説のもつちからづよさをもひとしくみとめている。つまり、俗なことばで言えば、左千夫の小説は下手くそなのである。現代の新人作家の作品の、おどろくほどに整った巧みさに並べてみれば、誰の目にもそれは明らかである。小説の技術的な下手くそということは、左千夫のばあい、その人柄の生《き》まじめにして情熱的であることと関係しているだろう。そのことと、彼の小説の数々が、現代にも確実に存在する〈人生にたいして激情的な人々〉のこころをうつことと無関係ではないだろう。
『野菊の墓』とともに私は、長篇『分家』にもおなじ作風の作品としてこころをうたれるものである。『隣の嫁』『春の潮』などの代表作をもここにくわえていいだろう。これらの作品によって伊藤左千夫を、関東の農村・農民の生活を描いた作家とみることは、しぜんなことである。その点では、おなじ「アララギ」派の歌人で鬼怒《きぬ》川周辺の農村・農民を小説として描いた『土』や『太十と其犬』の作者長塚節と並べてみられることもしぜんである。しかし、『野菊の墓』の政夫あるいは民子、『分家』の要之助あるいは花子と、『土』の勘次や、『太十と其犬』の太十などを並べてみると、すでにその中心人物の性格設定において、二人の作家はかなり明らかなへだたりを示していることも見落せないだろう。そのことはここにそれ以上追究することをさしひかえるが、農村・農民を描いた作家としての伊藤左千夫について、つぎのことはやはり言っておきたい。つまり『野菊の墓』や『分家』やなどだけで、左千夫の農村・農民小説を代表させれば、いくらか片手落ちになるだろうということである。そこで、『提《ちょう》灯《ちん》の絵をかく娘』という作品のあることを注目したい。「ホトトギス」第十四巻第六号(明治四十四年二月一日発行)に発表された作品である。この作品を私は、左千夫の作品のなかですぐれて注目すべきものとみるわけである。左千夫を、ある意味で下手くそな作家だというようなことを前に言ったが、この小説は、単純な意味で上手ではないにしろ、テーマのかまえかた、描写・叙述の手法において、『野菊の墓』系統の作品と、ほとんど対蹠《たいせき》的な性格を示すもので、作品の仕上りとしてもよくととのっている。つまり、農村・農民をとらえるために、もうひとつの左千夫の眼が、ここに存在する。東京周辺の農村の、きわめて貧しく苦しい層の少女を主人公にして、百姓生活からもしめ出され、東京へ出て、みじめな下層の雇《こ》傭《よう》労働に追いやられる他《ほか》ない彼女の姿をたどっているわけである。『野菊の墓』『分家』系の作品に溢《あふ》れるロマンティックなともいうべき過剰なまでの主情性・感傷性は、ここにほとんど影をとどめない。
『浜菊』は、「ホトトギス」第十一巻第十二号(明治四十一年九月一日発行)に発表された作品である。ここに、伊藤左千夫の、もうひとつの小説家としての顔があらわれている。『廃《や》める』(明治四十二年一月)、『老獣医』(明治四十二年三月)などもおなじ系統の作品であるが、これらにおいて作者は、当時のインテリゲンツィアの思想と感情とを、心理的な方法で描こうとしているわけである。明治四十年代初期として、当時の文学思潮に敏感な反応であったとみることができる。なお、『浜菊』は、いわゆるモデル小説でもあった。岡村のモデルは拓植《つげ》潮音であり、小説での場所は柏崎《かしわざき》であるが、拓植が当時帰り住んでいたのは大垣であり、この小説がもとになって拓植との絶交事件がひきおこされたことは、岩波書店版『左千夫全集』第二巻「後記」で山本英吉が書き、土屋文明も同書の『解説にならない話二三』(「月報」)で書いている。拓植潮音は、〈根岸短歌会初期からというか、俳句から来た人である〉と、土屋文明はそこで紹介している。
『姪《めい》子《ご》』は、「アララギ」第二巻第一号(明治四十二年九月一日発行)に発表された作品である。農村・農民小説の系統としてかんがえられるものであるが、とくに地の文章も、左千夫の郷里である千葉県成東《なるとう》地方の方言をもって書いているところが注目される。
『守《もり》の家』は、「アララギ」第五巻第二号(明治四十五年二月一日発行)に発表された作品である。左千夫の小説は、この後『弱い女』(明冶四十五年六月)、『落穂』(大正二年五月)、『可哀想だから』(大正二年六月)の三作で終った。左千夫が死んだのは、大正二年七月三十日である。
『守の家』について、土屋文明は、岩波版『左千夫全集』第三巻「月報」に書いた『第三巻所収の作品の二三について』で、〈私は、これが『野菊の墓』の原形ではあるまいかと考えたことがある。『野菊の墓』が前に書かれてはいるが、何かその芽を、この『守の家』が持っている如く思われるのである。〉(原文歴史仮名づかい)と書いている。
この作品は、楽に書いているだけに、左千夫の小説の持ち味のようなものが、かなりはっきりあらわれる仕上りになっている。私にとって、『守の家』は、忘れることのできぬなつかしさを残している作品でもある。大正末年ころ、長野県の南端、天竜川沿いの山奥の村の小学校六年生であった私は、たぶん信《しな》濃《の》教育会がつくって、県下の小学校へ配ったらしい副読本ふうな薄いパンフレットで、この作品をよんだ。つよくこころうたれた。昭和三十年にこの集を編集するにあたって、とくにこの作品を容《い》れたのは、そういう私の個人的ななつかしさにつながるためでもあった。
(昭和六十年三月、文芸評論家)