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ジュリエット
伊島りすと
目 次
プロローグ
第一章 ルカ十四歳
第二章 クラブハウスの日々
第三章 思い出たちの夜
エピローグ
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プロローグ
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肉体は死体となった。
その最初の徴候《ちようこう》は、モノエチルアミンというガスと、耐えがたい臭気《しゆうき》を放つ腐敗《ふはい》液となってあらわれる。
すると、どこからかアオバエが寄ってくる。特に鼻と口に、それはたかる。この蠅《はえ》は生体には決して近寄らない。蠅の羽音の下で、緑色の斑点《はんてん》が幅広く下腹に生じ、やがてその斑点は死体の全体を覆うようになる。腸内に棲息《せいそく》していたバクテリアが、死によって免疫防御《めんえきぼうぎよ》を取り払われ爆発的に繁殖したためだ。
死体は次第《しだい》に水分を失う。
皮膚が乾く。
血液は凝固《ぎようこ》しないで溶血し、細胞も自己分解し、自らの酵素《こうそ》によって崩壊しはじめる。最後まで常態を保つのは上皮だが、髪の毛や爪《つめ》もしばらく伸びつづけてから崩壊する。肝臓は三週間目に、心臓は五か月目に、いずれも粥《かゆ》状のものとなって消滅する。
虫がたかる。
体内の水は、塩類やバクテリアとともに地中に同化する。
炭水化物も、アルコールやケトン、有機物に分解して地中に吸い込まれる。そしてそれは、約五立方メートルの炭酸ガスを空中に放出する。脂肪は、アンモニアをふくんだ水酸化脂肪酸となって溶け出し、バターのようになって垂れ下がる。タンパク質は、気体アミノ酸やアンモニウム、硝酸塩《しようさんえん》に分離して、植物に吸収される。
それはもはや、肉のない骸骨《がいこつ》にすぎなくなる。
その骨も長い年月の間に次第にカルシウムを失っていく。
雨水に溶ける。
消滅する。
――けれど。
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第一章 ルカ十四歳
想《おも》いは、どうやったら伝えることができるのだろう?
「……これ、落ちてたよ」
小泉ルカの耳にそういう声が聞こえてきた。
「き……、きみのだろ?」
浜辺で寝そべっていたルカはその声に誘われて眩《まぶ》しそうに眼を開けた。
白いマシュマロのような雲が空に浮かんでいて、太陽を背に誰かがビーチパラソルの脇《わき》に立っていた。こんな浜辺はつまらないとふてくされて寝ていたためだろうか、眼を開けた瞬間に彼の躰《からだ》が輪郭《りんかく》だけ残して透《す》けたように思え、ルカは汗にまみれた右手で両眼をこすった。ゆらゆらと蜃気楼《しんきろう》みたいに揺れていたその輪郭が、眼が慣れるにしたがってはっきりした像を結びはじめる。
見知らぬ若い男が立っていた。
「これ、きみのだろ?」
彼の手に銀色の砂にまみれた携帯《けいたい》が握られている。
ルカがさっき捨てたやつだ。
「……そうだけど」とルカは答えた。
捨てたものだから、とは言えなかった。
彼は高校生くらいだろうか。浅黒くすらりと引き締まった躰に白いランニングシャツを着ていて、肩幅がとても広い。
でも、こちらを見ている眼だけがなんだかとても哀《かな》しそうだ。
「すいません、ありがと」よそゆきの声でそう答えて、ルカはその青年から砂にまみれた銀色の携帯を受け取った。
「……ありがと」
捨てたはずの携帯を赤いビニールバッグの中にしかたなくしまった。
「どこにも通じないの、それ?」と彼は言った。
「うん」
「島には中継局がないからね」
「あったとしても駄目なの」ルカは言った。「壊《こわ》れてるの、この携帯」
水着の胸元を気にしながらルカは答えた。
「そうなんだ」
彼は、頭の中に直接響くような、心地よい声をしていた。
「でも、大丈夫」
重ねて彼はルカに言った。「……きっと、そのうち通じるようになるよ。……想いは伝わるようになるから」
謎のような言葉にドキッとした。伝わるようになる?
新しいのを買ってもらえるという意味だろうか。それなら無理だ。なにしろ自分の父親はものすごい貧乏で、借金だってあるみたいなんだから。それでこの島まで流れてきたのだ。まったく、いい迷惑だったらありゃしない。
いま、その父親と弟の洋一《よういち》は海に入っている。
ルカは入らない。波が嫌いだから。なんだか波の動きを見ていると、それ自体が生きているみたいに感じられるのだ。気持ちわるい。――そう思いながら顔を上げると、彼はすでにいなくなっていた。
ほんの一瞬眼を離しただけなのにどこへ行ってしまったのだろう。
もう少し話したかったのに……。
どうせ、まだ中学二年のルカになんて興味はないだろうけど、この島の若者だろうか。周囲を見回してみたがそれらしき姿はどこにもない。観光客のカップルがエロってるだけだ。
ルカになんか誰も興味を持ってくれはしない。いままでだって、学校でさんざん「死ね」とか言われつづけてきたのだ。無視されるのは慣れている。「……死ね、……死ね」クラスメートたちの顔が浮かんでくる。
小泉ルカは再びごろっとビーチタオルの上に寝転んで眼を閉じた。
携帯は生きているとそう思う。
力がある。
ルカは太陽がふりそそぐ浜辺に寝転びながら、その力がほしいと思った。いまの自分を携帯に助けてほしいと思った。
「ねえ、いまどこにいると思う?」
ボーイフレンドと繋《つな》がってさえいればいい。すると、そこからパワーが送られてきて、ただ無意味に喋《しやべ》っているだけで元気になれるはずなのだ。携帯を使ってる人たちはみんなそうやってパワーを補給しているように見える。そうすればきっと、世界の果てにあるようなこの島でも、生きていけるかもしれない。
――それなのに。
ビーチパラソルの陰の中で、ルカは自分の携帯を眺《なが》めた。
通じない。
応答がない。
なぜなら、あたしの携帯は初めから死んでいるから。バッテリーも入っていず、登録さえしていない。
ルカはだるそうに手を伸ばしてタオルを引き寄せると、それで首筋の汗をぬぐった。何度も何度もぬぐった。
(……すいません、やっぱ捨てちゃいます)
周囲を見回してあの青年がどこにもいないことを確かめると、再び熱い砂浜に放り投げた。そんなことしたってなんにもならないことはわかっているのに、いままでだって誰にも通じたことがなかったのに、とにかくそうしなければ気が済まなかった。なにもかも捨ててしまいたい、そんな気分だった。ほんとうの自分[#「ほんとうの自分」に傍点]はここにはいない。
ルカは太陽が嫌いだし、海も嫌いだ。
だから、なぜこんな南の果ての島に自分がいるのか、わからなかった。うだるように暑い。ルカは汗をかくのも嫌いだった。まだ膨《ふく》らみきっていない乳房に汗が流れ、太腿《ふともも》がべとべと濡《ぬ》れている。
そのとき、海の方から弟の声が聞こえてきた。
父親の健次《けんじ》が水中メガネを手にしたまま海の中から波打ち際に上がってくる。長い間泳いだみたいに足元がふらふらしている。
顔が赤かった。赤いものが顔から滴《したた》り落ちている。
血だろうか。
あれは、血だろうか?
ビーチパラソルの下でしばらく寝ているうちに、ルカの父親の小泉健次の気分は少し良くなった。
無理に素潜《すもぐ》りをして貝を採《と》った報《むく》いがこの鼻血だったのだろう。
薄眼を開けて指に付いた自分の血を健次は眺めた。
血はすっかり乾いて爪の間にこびりついている。
「鼻血なんか出して、ばっかみたい」
ルカが軽蔑《けいべつ》したように言っていた。
「ばかじゃないよ。パパ、すっごかったんだぞお。これ採ってくれたんだからなぁ」
洋一が誇らしげに、採った水字貝《すいじがい》を差し出しながら口を尖《とが》らせているのがわかる。
「だから言ってんじゃん、そんな貝のために深いとこ潜ってさぁ」
ルカの言うとおりだった。
自分はどうかしている。
海底で水字貝に向かって手を伸ばしたところまでは覚えているのだが、そのあとの記憶がほとんどない。
「そんなばかなことして、もしなにかあったらどうすんのよ。洋一のせいだからねえ」
「大丈夫だったじゃないか」
「鼻血出してるのに?」
「ブース」
「うるさい、チビ」
洋一が逃げるように立ち上がった。アッチイ、アッチイ。そう叫びながら熱い砂の上をぴょんぴょんと跳びはねるように波打ち際に向かって駆けていく。ルカがそれを追いかける。二人して水の飛沫《しぶき》をあげながら白い渚《なぎさ》を駆けずりまわっている。
なにかが頭の脇にぼうっと立っていた。
視線を移しても誰もいない。
青いビーチタオルの上に海底から採ってきた水字貝が置いてあるだけだ。
健次はいたたまれずに鼻にティッシュを詰めたまま起き上がった。
口の中に錆《さび》を舐《な》めたような血の味が広がっていて、取り返しのつかないことをしてしまったような奇妙な後味のわるさを感じる。浮上したときは鼻血だけだったのにいまになって頭がくらくらした。自分の躰《からだ》が遠くにあって、まだ浮遊しているような感覚が頭の芯《しん》に残っている。
二十二年間の距離を取り戻すつもりがこのざまだ。苦笑しながら血の跡の残った指でこめかみを揉《も》んだ。
「何時だ?」と健次は声をかけた。
流行だというオレンジ色の水着を着たルカがパラソルの下に戻ってきて、腕時計の入った大きなビニールの袋を投げてよこす。
午後になったら健次は、この島での新しい勤め先の管理事務所に顔を出さなければならなかった。そしてひととおりの打ち合わせをしたあと、二日後には新たな仕事場となるジャングルの奥地へと向かう予定になっている。
「そろそろペンションの人がジープで迎えに来てくれる頃《ころ》だな」
言いながら健次は視線をふと前に向けた。
携帯電話がひとつ、打ち寄せる波に洗われていた。
透明な水と白い砂の広がりの中でそこだけが異質な空間のように銀色に光っている。
ルカが持っていたものに似ているような気もするがわからない。
失業していた健次には、子供が使う携帯電話の使用料や通話料などを負担する余裕などむろんなかった。ルカが持っている携帯はどこかの安売り店の軒先《のきさき》にまるでゴミのようにまとめて捨てられていたものを、使えないのを承知で拾ってきた旧型モデルである。オモチャのようなものだ。
そんな使えない携帯がなぜ必要なのだと訊《き》いても、ルカは答えなかった。「あたしの勝手でしょ」そう言うだけである。たしかバッテリーさえ入れていないはずだ。むろん登録していないから、電話番号もなく、どこにもかけられず、どこからもかかってこない。だがルカは時折その役立たずの携帯に向かってひそひそとなにかを囁《ささや》いたり撫《な》でたりしていたことを健次は知っていた。ちゃんとした通じる携帯を買ってほしいと暗《あん》に要求しているのか、あるいは幼い子供みたいに電話ごっこをしているだけなのか。
子供の頃にやった糸電話を健次は思い出した。細い糸を通して相手の声が伝わってきたときには、感動したものだ。
ルカも誰かになにかを伝えたがっているのだろうか。
「あの携帯、ルカのか?」
洋一を追って熱い砂浜を走り回っているルカに健次はたずねた。
「知らなーい」
見向きもしないでルカが言う。
知らない、か……。
健次はゆっくり立ち上がるとそこまで歩いていって腰を屈《かが》め、砂にまみれて濡れているその銀色の携帯を手に取った。そしてそれを丁寧《ていねい》に手の甲で拭《ふ》き青いタオルにくるんでルカのビーチバッグの中にしまった。
やがて、貝を捧《ささ》げ持った洋一を先頭に、食べ残したサンドイッチやパパイヤの入ったバスケットとビーチパラソルを持って三人は原生林の中の細い道を上がった。
野生の山羊《やぎ》がいた。
この島の固有種であるミナミアブラゼミが周囲でうるさいほど鳴いていた。
細い道を少し上がっただけで汗が流れる。
蔦《つた》のからまった太い樹の幹の上を、イグアナ科の小さなトカゲのようなグリーンアノールがゆっくりと這《は》っている。
「ああ、やだやだ。なんでこんなに怪物みたいな昆虫とかがいるわけ? ねえ、どうしてあたしがひとりで東京に残っちゃいけなかったのよぉ」
またその話か。健次はうんざりした。まだ十四歳だというのに、都会に残ってどこかの風俗店で働くと、またそんなことを言い出すのか。
「……ねえ、ロミオとジュリエットって知ってる?」
いつものように話を急に飛ばしてルカがそう訊いてきた。
高校の文化祭の仮装行列でたしかそれをやらされて「ロミオの従者その三」に扮《ふん》したことがあるから、健次もそのストーリーだけはだいたい知っていた。
「この前ね、デカさんの『ロミオとジュリエット』、テレビで見たんだけどさあ」とルカは言った。
デカさんって誰だろう。
「あのジュリエット、何歳だと思う?」
「さあ……」
「ほんとは十四歳だったのよ、十四歳。あたしと同じ年よ、同じ年で、あんな恋をしちゃってんのよぉ。やるじゃん、そう思ったよ。それなのにさあ、なんであたしだけがこんなとこに島流しされなきゃいけないわけ? ボーイフレンドの代わりに怪獣がいるジャングルの奥に行くなんて、あたし絶対いやだからねぇ」
ため息しか出てこなかった。
「怪獣なんていない」と健次は言った。
「いるかもしんないじゃん」
「ここに来ることはルカも承知したはずだろ?」
「そうだけどさあ。なんだか全然違うんだもん」
「この島の観光パンフレットや旅行案内書もちゃんと見せたぞ」
「だから、あれと全然違うじゃない。もっときれいなのかと思ってた。だまされた」ルカは周囲の自然を薄気味悪そうに眺めている。「……ねえ、どうしてなのよ。これから行くこの島の奥地にはコンビニひとつないんでしょう? あたし、ジャングルなんて嫌いなの。全然興味ないんだから。なんであたしがこんなとこ歩いてなきゃなんないの? 全然わかんない。あたしコンビニがないと困るんだから」
生き物に対して過剰《かじよう》に反応しだしたわけがそれでわかった。抗議しているのだ。この島に連れてきた父親にそうやって抗議している。
実際には、この島に来た理由は島流しでもバカンスでもなかった。みんなで一緒にいられるような仕事の口がこの島にしかなかったのだ。
何度話しても気持ちがすれ違ってかみ合わない。
「どうしたんだ、その指?」
健次は並んで歩いているルカの左手の中指を見た。路上で売っているのを買ったというオモチャの景品のような銀色の指輪をした指先に、厚く幾重《いくえ》にもバンドエイドが巻かれていた。以前はとにかく注意力が散漫で、あちこちぶつけたり転んだりして痣《あざ》だらけになったことがあったが、今度はバンドエイドか。
「そういえば最近、いつもしてるじゃないか」
「……なんでもない。傷がなかなかふさがらないだけよ」
ふと暗い表情になってルカは隠すようにその指をひっ込めてしまった。
見上げた大きな瞳《ひとみ》が幼いころのルカを思い出させる。
小さかったころ、ルカは瑠華《るか》だった。
それがいつしか、難しい漢字を書くのはいやだといって勝手にルカと名前の表記を変えてしまい、以後本人はもちろん周囲にもそれを強制している。
幼いころのルカは、近所の男の子たちから「ドラえもん」と呼ばれ、くやしがって泣いた。眼が異様に大きくて、下腹もぷくっとふくらんでいて、体型が似ていると言われたらしい。それが、年齢を重ね、背が高くなるにつれて、いつのまにか足が細くなって下腹が引っ込み、適度に女性をさえ感じさせるまでに成長してしまっていた。黒く長い髪。母親ゆずりの透明な白い肌。二重《ふたえ》の大きな瞳。話し言葉は男のようだが、少女から女性になる手前の独特のあやうさを漂わせはじめている。なにかアンバランスな過剰さがあって、実はルカ自身がその過剰さにいちばん戸惑《とまど》っている。そんな感じがする。
3
「さて、そろそろ顔を出しに行くか」
ペンションに戻ると健次は、クリーニング済みの白のワイシャツに、細かいペーズリー模様の青い麻のネクタイを締め、それと同系色のサマーズボンをはいた。少しだけの海水浴のつもりが、赤く日焼けしてしまっていて、ネクタイをした首回りがひりひりと痛い。
洋一はいつものようにペンションの部屋の隅っこに陣取っていて、採った水字貝をペットロボのイサムの背中にのせようとしていた。ペットロボといっても高級なペットロボットなどではなく、「捨ててあった」と町田《まちだ》にいるときにどこからか拾ってきたもので、薄いプラスティック製のただのオモチャなのだ。ほとんど犬らしい動作はしない。ただひとつだけ、頭を撫でてやると、尻《しり》にある銀色の短い尾をうれしそうに振る。それだけなのだが洋一はイサムと名付けてほとんど友達のように話しかけている。
「イサム、陣地までこの貝を運ぶんだよ」
青いカーペットの上を這いずり回っている洋一が貝を支え、自分で「ワンワン」と吠《ほ》えながら陣地に向かって前進して行く。いずれあの貝の始末もしなければいけないのだろうが、いまはその暇《ひま》がなかった。
子供たちを部屋に残してペンションを出ると、健次はそのまま海岸通りを歩いた。
桟橋《さんばし》の端にある事務所に着いたときにはすでに汗びっしょりになっていた。
事務所といっても白く熱したコンクリートの上に車輪をはずしたトレーラーハウスをそのまま置いただけという感じで、ブリキで覆われたようなスチールの外観には所々に赤錆《あかさび》が生じ、土台の隙間《すきま》から雑草が繁茂して黄色い花を咲かせている。
狭い事務所だった。
矩形《くけい》の部屋の中にあるデスクには誰もいず、その奥にある半透明のガラスの衝立《ついたて》の陰に茶色の古ぼけたソファーが置いてある。接客用というよりは従業員の昼寝用といった感じの古い布製のソファーで、小豆色《あずきいろ》の蝶《ちよう》ネクタイをした逞《たくま》しい体格の若い男がそこに座って雑誌を読んでいた。そしてもうひとり、そこから少し離れた窓際に髪を短く刈ったランニング姿の十八歳くらいの青年が立っている。青年はこちらに背を向け、小さなガーベラが置いてある狭い窓際のカウンターにノートのようなものを置いてそこになにかを記入していた。
「小泉さんですね、お待ちしてました」
こちらが口を開く前にソファーの若い男が機械仕掛けみたいにすっくと立ち上がった。そして健次の体格を値踏みするように一瞬見回し、まるでそれが当然であるかのようにこちらに向かって太い腕をまっすぐ伸ばしてきた。
「……ま、こんな感じですので、その辺に適当に腰掛けてください。いま冷たいものを用意しますから」
健次は失礼しますと小声でつぶやきながら眼の前の空いているデスクの椅子にゆっくりと腰を落とした。汗ばんだズボンの尻に冷えた椅子の感触がひやりと触れる。
「麦茶にします? それともダイエットコーラ?」
麦茶を頼む。
彼は小さな冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出し、無造作にコップに注ぐと、名刺と一緒にそれを差し出した。工藤義男。見せつけるような逞しい躰に蝶ネクタイだけがなんとなくアンバランスな感じなのだが、彼はいっこうに気にする様子《ようす》もなかった。なんとなく暴力的な雰囲気《ふんいき》が躰の周囲に漂っている。
これからおれはこいつに勤務状態を査定されるわけか。
東京にある本社の採用係の話では、この島の所有施設であるリゾート関係の物件は、すべて現地駐在員である工藤の管理下にあると聞いている。
早速《さつそく》経歴を訊かれた。
そして家族三人のささやかな遍歴《へんれき》の物語を。
窓際にいた白いランニング姿の青年が「……じゃあ、ぼくはこれで」こちらに顔を向けようともせず事務所から出ていこうとした。
「おいおい、挨拶《あいさつ》ぐらいしていけよ」工藤が青年に声をかける。
「いや、いいですから、そんな気遣《きづか》いは――」
「おい、フミオ。今度おまえのおやじさんのパートナーになる小泉さんだ」工藤はかまわず話を中断して健次のことを紹介した。
フミオと呼ばれた青年が戸口のところでゆっくりと振り向く。引き締まった体格をしているが、工藤のように人工的なものではない。色黒で、がっちりした肩や首がなにかスポーツをしているような印象を受ける。短い髪、輪郭のはっきりした眉《まゆ》。一見したところさわやかな感じの青年なのだが、瞳《ひとみ》が違った。なにかひどく哀しそうな光があって、それを必死でこらえている、そんな独特な眼をして彼はこちらに振り向いた。
健次はゆっくりと立ち上がって軽く頭を下げた。
工藤は彼のことを、もうひとりの管理人である窪木《くぼき》の息子のフミオだと紹介した。だが彼は、ただこちらに向かってぎこちなく頭を下げただけでそのまま外に出ていってしまった。
「……あいつもおやじさんに似てほんとに無愛想だからなあ」と工藤は言った。「……まあ、そのうちわかることですから、いまのうちに言っておきますとね、あの窪木親子はかなり変わってます。森の奥に小屋を建てて住んでるんですけど、とにかく二人とも無口で、おやじさんのほうはめったに喋《しやべ》らない。なにを考えているのかわからないところがありますけど、気にしなくていいですから。仕事はきちんとやってくれますのでね。……まあ、あのフミオが父親を支えているようなもんなんですけど、親ひとり子ひとりで、母親はここに来てから亡くなったみたいだし……、以前は、川崎《かわさき》で町工場を経営していたとかいう話を聞いたこともありますけどね……」
「島の方ではないんですか?」
「ええ、ぼくより古いですよ。前任者に聞いた話じゃ、五年くらい前におやじさんとおふくろさんが食い詰めてこの島に流れてきたとか聞きましたけどね。フミオはそれから一年ぐらいしてからここに来たみたいですね。詳しいことは知りませんけど」
「彼も管理を?」
「いや、手伝いみたいなもんですよ。フリーターみたいな感じで……」工藤はそこで少し言いよどんだ。「まあ、いまどきの若者と一緒でね、ふらふらしてるっていうんですか、時折いなくなるんですよ。不意にね。ぼくも初めはどうしたのかなと思って気になったんですが、おやじさんがああいう人だから喋ってくれないし、どうやら放浪癖があるみたいなんですけど、とにかく気にすることないですから。また戻ってきて、なにごともなかったように働いてますから。どこに行ってたんだって訊いても言わないしね。とにかくあの親子に関しては気にするだけ損ですから。……ああ、すいません。まあそういうことなんですよ。かなり変わった親子ですけど、そのつもりで接していただければ問題はないと思いますから」
彼がこれだけ念を押すというのは実際かなり変わっているということなのだろう。同じ管理人なのだから顔を合わす機会はあるだろうが、こちらもそのつもりで接したほうがいいかもしれないと健次は思った。
4
ひどく疲れた。
工藤の事務所を出てから島の生協でとりあえずの買い物を済ませ、健次が夕方になってからペンションに戻ってみると、子供たちがまた喧嘩《けんか》をしていたのだ。
籐《とう》の丸いテーブルの上にあの水字貝《すいじがい》がぽつんと置いてあって、どうやらそのことで口喧嘩となってしまったらしい。
「どうしたんだ?」と健次は訊いた。
「……なんでもない」
洋一はうなだれたままちらっと姉の方を振り返り、テーブルの上の貝を大事そうに両手で捧《ささ》げ持ってバスルームの中に入って行ってしまった。そして、シンクに水をいっぱいに溜《た》め、その中に再び水字貝を入れている。貝の表面はごつごつしていて、その突起《とつき》の先端に小さな赤い海草のようなものまで付着しているのを、もう一度洗ってやるのだと言ってむきになったように盛んに石鹸《せつけん》でこすっている。何度もシャンプーで洗うようなことまでしたらしい。
買ってきた物をベッドの上で仕分けしながら健次はため息をついた。
工藤からもらった奥地のゴルフ場のゾーニング見取り図と管理マニュアルをテーブルの上に置き、買い求めてきた家庭用医薬品とインスタント食品をベッドサイドとその下に並べながら時計を眺めた。
次第《しだい》に気が重くなってきた。
さて、どうしたものだろう。
小さな貝なら、あるいは放っておけば腐臭《ふしゆう》も少なくて済むかもしれないが、この水字貝のように大きいものだと、きちんとした始末を付けなければそのあとが面倒なことになってしまう。
「夕食の前にやらなくちゃならないことがある」と健次は洋一に告げた。
「なにやるの?」
貝の表面から水の滴《しずく》をしたたらせたまま洋一が健次を見上げる。
「貝はね、このままじゃ貝殻にはならないんだ」
「どうして?」
洋一がたずねようとすると、ルカがいきなりテレビの前から離れた。「ほら、みなさいよ」バスルームの中に入って行き、音を立ててそのドアを閉め、中を点検しはじめた。
「洋一はアサリが好きだろ」と健次はベッドの端に腰をおろし、洋一を前に立たせたまま穏《おだ》やかな口調で言った。
「お味噌汁《みそしる》のやつ」と洋一が答える。
「そうだ。あれも貝だけど、熱い汁の中に入れると、貝の蓋《ふた》がぱくっと開くよね。熱い、熱いって言って。そうして出てきたのがアサリなんだ。洋一はそれを食べる。そうすると、なにが残る?」
「おつゆ」
「いや、もっとあとに残るものがあるだろ」
洋一は貝を持ったまま首をかしげた。わかっているのだが、わかりたくない。そういう表情である。
「馬鹿ねえ、それが貝殻じゃないのよ」
ルカが再びバスルームから出てきてそう声を上げた。
手に銀色の小さな物体を握り締めていた。
あの携帯だった。
ビーチバッグを開けたときにきっと見つけてしまったのだろう。
「なんでまたこんなもの拾ってくるのよぉ、いらないのよ、こんなもの。どこにも繋《つな》がらないんだからあ」
バルコニーに出て、いきなり外に向かって投げ捨ててしまった。
オレンジに色付きはじめた大気の中に、銀色の携帯が弧《こ》を描いて消えていった。
健次は呆《あき》れてなにも言う気がしない。
「ヒステリー」洋一がぺろっと舌を出す。
「うるさいっ、あんたに言われたくないわよぉ」とルカ。
毎日こんなことばかりだった。
来る日も来る日も二人はこのように言い合いをつづけている。
それでいて、仲がわるいのかというとそうでもない。
「ねえ、パパ」
洋一が健次の膝《ひざ》にそっと手を掛け、甘えるように小さな躰《からだ》を寄せてきた。「あの貝もアサリみたいに食べちゃうの?」
震える声でそうつぶやいて、一瞬|眉《まゆ》を寄せた。
「いや、そうじゃない、そうじゃないんだ。食べはしないけど、貝殻を残しておくためには、生きている中身を始末しなきゃならない。それだけのことなんだよ」
「殺しちゃうの?」
「あたしそんな残酷《ざんこく》なの、パ――ス!」ルカがこれみよがしに声を上げた。「あたしは浜辺で寝転がってただけなんだから、そんなの全然関係ないもんねえ」
「……ずるいよ」
洋一の顔がみるみる歪《ゆが》んでいく。「そんなのずるいよ」いまにも泣き出しそうな声で姉に向かって抗議する。
「ぼくだってそんなのやりたくないよ」
洋一の眼に大粒の涙が溢《あふ》れ、それが頬《ほお》を伝って落ちていく。
果てしがなかった。
「もういい!」
健次は思わず怒鳴っていた。
「二人とも部屋にいなさい。パパがひとりでやってくるから」
小泉健次は押し黙ったまま着替えを済ませ、バッグの中からビニール袋を二枚取り出した。ひとつのビニール袋の中に全員の水着を放り込み、もうひとつに大きな水字貝を入れると、そのままひとりで部屋を出た。
どうしてこんな貝を採ってしまったのか。
裏庭には赤いハイビスカスが咲き乱れ、客たちの潜水道具や水着が芝生の上に干してあった。その空いているところに、まず持ってきた自分たちの水着を干す。
子供たちには告げていないことだけれど、健次が海に入ったのはレクリエーションのためではなかった。あのとき実は、ひそかに美佐子《みさこ》の骨を散骨したのだ。自分だけのけじめのつもりだった。それが、海底にこの貝を見付けたために――。
(やれやれ、だな。まったく)
風が吹き、水着を干しながらふと足元に眼を落とすと、芝生の中で黒い昆虫のようなものが死んでいた。そしてその死骸《しがい》に無数の蟻がたかって鋭い顎《あご》で噛《か》み付いていた。噎《む》せるような赤い花の匂い。小さな庭には誰もいず、しいんとしていて、芝生だけが夕陽に照らされている。
微《かす》かな蝉の声、葉のそよぐ気配。
木と木の間に張り渡された白いロープに干してある水着が風に揺れている。
――そのとき。
奥の方で水音が聞こえた。
潜水用具などを水洗いするための洗い場の蛇口から水が出ていて、こちらに黒々とした背を向けたまま誰かがなにかを洗っている。
健次が近付くと、ヤンキースの汚れた野球帽をかぶった老人がゆっくりとこちらに振り向いた。マークの部分が黒ずみ、皺《しわ》だらけの赤銅色《しやくどういろ》の顔を崩してニヤッと笑う。
彼は貝を洗っていた。
法螺貝《ほらがい》を二つ、洗い場の乾いたコンクリートの上に置きながらずんぐりした躰をこちらに向ける。そして、健次も貝を入れた透明なビニール袋を提《さ》げているのを見ると、にわかにぶつぶつとひとりごとのようなことをつぶやきはじめた。どうやら観光客と間違えているらしい。
「……あんたら、貝を採ってくるのはいいんだが、ほっぽり出したままにされたんじゃ困るんだよね」と老人は言った。「腐るんだから。ものすごく臭うんだよ、中身を抜いておかないとね、あとで始末に困っちまうんだ。貝にだってちゃーんと中身があるんだよ。めずらしいというだけで海底から採ってきて、ほっぽりっぱなしにされちゃあ、困るんだ」
このペンションの手伝いをしている老人だろうか。ポケットからたこ糸に似た紐《ひも》を取り出し、それを手元の法螺貝に丁寧に巻き付けながら、彼は頼みもしないのに貝の中身を出す方法を健次に教示しはじめた。
ひとつは、健次がやろうとしていたようにそのまま土の中に生き埋めにしてしまって腐らせ、虫やバクテリアに食わせて消滅させてしまう方法。
「……それがいちばんいいんだよ。手間がかからなくてな。ひと月も埋めておきゃあ、掘り出したときにはきれいさっぱりなくなってるんだ。人間と同じだよ。土葬してやるんだ。きたない部分は隠されて、時間が経ちゃあ、骨だけ残る。貝殻ってのは、まあいってみれば、骨みたいなもんだな。人間とは逆なんだ。肉の内側に骨があるんじゃなくて、肉の外側に骨があるんだよ。それが貝殻だ。だから、肉を腐らせて骨だけ残すみたいに、貝殻を掘り出して土を洗い落とせばそれでいいんだよ。ところがあんたら観光客はいつも急いでる。何日かあとには帰らにゃならん。とても腐らすだけの時間はない。だからどうしたって、魂抜《たまぬ》けやらにゃあならんわけさ。かわいそうだがな、しょうがないんだ」
魂抜け? 初めて聞いた。
赤銅色の顔をしかめたまま老人は自分が洗っていた貝の表面を糸で縛《しば》りつづけている。
風が吹いてふと顔をそらすと、二メートルほど離れた庭の芝生の部分に洋一とルカが並んで立っていて、なにか言いたそうな表情でこちらを見ていた。
健次は手に提げた貝に視線を移した。
「ほら、貸しなよ。あんたのもついでにやったげるから」
老人が腰を落としたままそう告げ、太い根のように黒ずんだ手をこちらに差し出した。一瞬|躊躇《ちゆうちよ》したが、言われるままにその掌《てのひら》に水字貝を手渡した。老人は錆び付いた鋏《はさみ》で法螺貝に巻き付けていたたこ糸を切ると、今度は慣れた手付きで健次が手渡した水字貝に糸を巻き付けていく。
それにしても水字貝は、何度見てもグロテスクな形をしているなと健次は思う。普通の巻き貝のようにすっきりした砲弾のような形はしていず、楕円形《だえんけい》の本体の周囲のあちこちから六本の折れ曲がった指のような細長い突起が突き出ている。大人の手が指をいっぱいに広げたような形だ。その突起が、移動するときに腹の部分と共に砂地をこすり、何本もの深い筋となって跡を残す。それが海面から見ると字のように見えることから、水に字を描く貝、水字貝と名付けられたのだという説があると、以前若い頃にこの島にいたときに教えられたことがある。
字を描く筆にあたるその部分、貝の周囲に弓なりになって突き出ている細長い六本の突起の部分は、それを知らない人が見たらおそらく水字貝の手足だと勘違いするだろう。そのくらいその突起はそれぞれが先に向かって細長くカーブしていて、まるで蛸《たこ》の足のような感じでニョキニョキと楕円形の周囲から伸びている。
やはり気になるのか、ルカと洋一が背後からそろそろと近付いて来るのがわかった。
洋一はともかく、なぜルカまで来たのだろう。こんな場面はまっさきに回避してしまうはずなのに、魅入《みい》られたように背後に立っている。
「ねえ、パパ。なにやってるの?」と洋一がそっとたずねてくる。
「シーッ」
その場に立ったまま眺めていると、老人はやがてその作業を終えた。
今度はゆっくりと立ち上がって水字貝を縛った糸を近くにある低い灌木《かんぼく》の枝に結び付けはじめた。貝を縛った糸の先を枝に結んで下に垂らし、貝の裏側がこちらを向くようにして宙吊りにしていく。
老人が手を放すと、貝は枝の先からだらんと垂れ下がった。
裏返ってこちらに向いている水字貝の表面は、模様もなくつるっとしていて複雑なカーブを描き、それがまるで空間から突き出た大きな耳みたいに見える。耳だけ出してじっとこちらをうかがっている。そんなふうに見える。
「動いちゃなんねえよ」
老人は押し殺した声でつぶやいた。
濃い夕陽が健次たちを包みこんでくる。
貝は微かに揺れながらこちらの気配に耳を傾け、老人は地面に腰を落としたまま近くにある角張った小石を拾い、それにも糸を巻き付けた。
風がまた吹いてきた。
濡《ぬ》れていた貝の表面が微かに乾き、どこからともなく蠅が飛んできて触手をせわしなく動かしながら貝の表面を歩き回る。
貝の背後には暗い林が広がっていた。
風に吹かれたまま貝はじっと動かない。
健次たちもその場を離れられない。
老人の背中と貝を交互に眺めている。
「……パパ」洋一が脇に立って、しがみつくように健次の右足に両手を回してきた。
健次は黙ったまま洋一の髪をそっと撫《な》でた。
「そーら出てきた」
貝の穴を閉じていた蓋《ふた》が少しずつ動きはじめて、その中から濡れ光るぬめっとしたなにかが顔を出した。
濃いオレンジ色の、ぬるぬるした軟体物。
穴からしだいに溢《あふ》れるように外へ這《は》い出してくる。
野球帽をかぶった老人がすっと音もなく腰を上げた。褐色の根のような太い指には角張った石に巻き付けた糸が握られていて、糸の先端が投げ縄のように丸く輪になっている。
命そのもののようなぬめっとした軟体物が、光の残っている空を映しながらじわじわと下に垂れはじめる。
粘液質のねばねばした汁。
貝の中身は不定形な動きを一瞬止め、気配を感じたのか、オレンジ色の動きが止まった。一瞬わずかな間を置いたあと、今度は少しずつ穴の方に引き返そうとする。
とっさに老人が動いた。
昆虫を捕まえるときのようなすばやい動作で、丸く輪になった糸の先端を貝の蓋の根元に引っ掛ける。すると貝は驚いたようにすぐに引っ込んで、ぴたっと穴の蓋を閉じてしまった。
だが、糸は掛かったままである。
掛かった糸だけが、蓋をした穴の中から伸びている。
「これで、よし」
老人は無造作に手に持っていた石を離した。
石が落下していく。
その石の重みで穴の中から出ていた糸がぴんと地面に向かってまっすぐ垂れ下がる。
老人は汚れた野球帽をかぶり直し、振り返った。
欠けた黄色い歯を見せながら再びニヤッと笑みを浮かべる。
「これで二日も経ちゃあ、中身が抜ける。石の重みに耐えられなくなってすとんと地面に落ちる。これが、魂抜けだ」
三人に増えた観客を前にそう解説を加えた。
「……でもな、ひとつだけ大事なことがあるんだ。よーく聞きな。あんたたち、抜けるとこを見ちゃなんねえよ。のりうつられっから」
「のりうつられる?」
遅くとも二日後には、貝の中身は吊された石の重みに耐えられなくなってすぽっと外に抜け落ちるだろう。そのとき、貝は死を迎える。偶然に抜けるところを見ただけならば問題はないのだが、初めから見ていた者がその魂抜けの瞬間を見てしまうと、のりうつられる。貝にのりうつられる。侵入されて祟《たた》られる。だから用心しなければいけない。そう言う。
(貝の魂《たましい》にのりうつられる……)
そんな話は聞いたこともない。
子供の前でそういうたちのわるい冗談はやめてくれ。そう告げようとしたとき、背後の建物から老人を呼ぶ声が聞こえた。
「なんだか、気持ちわるい」と洋一がつぶやいている。「のりうつられたら、どうなるのかな?」
「思い出すのさ」
老人がぽつんと言った。
思い出す?
「なーんだ。それならいつもぼくだってやってるよ」
安心したように洋一が健次を見上げる。
「思い出すのさ」野球帽をかぶった老人は、同じ言葉を繰り返した。「くらーい思い出をな。死んでしまったものたちの思い出をな。そして、その思い出に喰《く》い殺される。……喰い殺されるんだよ、自分の思い出にな……」
予言めいた口調でそう告げると、健次たちの顔を意味ありげに見渡した。
「源造さんなにしてるの?」
ペンションの調理場の方から再び老人を呼ぶ声が聞こえた。「富山の息子さんから電話よ」
「ああ、すんません。いま行きますから」
源造と呼ばれた老人は声を上げると「ちょっと用事」健次たちにそう告げ、そのまま建物の中へ入って行ってしまった。
「あいつ、あんなこと言ってあたしたちをからかってるんだわ。クソじじい。なにが思い出すよ、記憶があるんだからあたりまえじゃない」
いままでかかっていた呪縛《じゆばく》が解けたように、そのときになって初めてルカがかすれたような声を上げた。
だが、そのあとがつづかない。
夕陽が消え、辺《あた》りを薄闇が覆った。
紫色の空が夜の到来を告げている。
三人は薄闇の中で貝を見つめ、糸を見つめ、その下にぴんと垂れ下がって微かに風に揺れている石を見つめた。貝殻の中から汚れたたこ糸を伝って透明な黄色い液が地面に滴《したた》り落ちていく。
ぽとん、ぽとん、と落ちていく。
5
その夜、夜中に健次が夢にうなされながら眼覚めると、洋一が泣いていた。
ツインベッドの間にしつらえてもらったエキストラベッドの上で、小さな半身を起こし、しくしくべそをかいている。
「……どうした?」
声をかけたが首を振るばかりで答えない。
シャツとパンツだけの洋一は嗚咽《おえつ》をもらしながらベッドを伝って健次のそばにやってきた。洋一の小さな躰《からだ》は昼の太陽の熱を残して赤く火照《ほて》っていた。
「夢を見たか」と健次は夜泣きしている洋一を軽く抱き寄せながらつぶやいた。
慣れない土地。慣れない枕。
健次も幼い頃、街頭説教師《がいとうせつきようし》だった父に連れられて各地を転々とした。街頭に立たされ、父親の敬之助《けいのすけ》が作ったガリ版印刷の布教ビラを配らされた。父の敬之助も躰が大きかった。日雇い労働者のような仕事をして転々としながら、行く先々で「再臨は近い」というキリスト教の街頭布教を行いつづけた。だから健次も父親のその都合で次々に転校させられ、よく夜泣きをしたものだった。洋一の細い躰を抱いていると、なぜかそのときの切なくなるような孤独感がよみがえってくる。
「どうした?」と再び太い腕で抱きかかえるようにして洋一の耳元に囁《ささや》いた。「もう心配ないからな。パパがこうして抱いてるんだから」
レースのカーテンの間から月明かりが青白くカーペットを浮き上がらせていて、それが風に揺れている。
「……貝のことが心配なんだってさ」
寝ていると思ったルカが横たわったままこちらに顔を向けた。
「貝って、あの吊した貝のことか」
「そう」
腕の中の洋一の顔を覗《のぞ》いた。
もう泣きやんではいるが、前髪が汗で額《ひたい》にはりつき鼻水まで垂らしている。
「そうなのか?」
小さな頭がこっくりとうなずいた。
洋一を抱いたまま、枕元にいつも置いてあるはずのタオルを手さぐりして探した。最近洋一は、なにか心の中に重くのしかかることがあると、言い出しかねてかえって無口になってしまうところがあった。
「あの貝がね、かわいそうなんだって……。首吊りなんて、かわいそうだって」
「そうなのか?」健次はもう一度繰り返した。
半《なか》ばなりゆきで「魂抜《たまぬ》け」をやってもらってしまったが、あれは洋一にとっては宝物のように大事な貝なのだ。心配になるのも無理はない。
「じゃあ、朝になったら糸をはずしてやろう」
「……いまがいい」と洋一は言った。
「いまか」
「うん」
揺れる。
揺れる。
木に吊されたあの貝が揺れている。
真夜中の裏庭で、健次は小さなカミソリの刃を指先に持ってその前に立った。糸を切るために必要な適当なものが見当たらなかったので、バスルームに備えてあった髭剃《ひげそ》り用の刃をはずしてきたのだ。
ルカは眠いといって部屋に残っている。
「だいじょうぶ?」
洋一の表情は、巣穴からおそるおそる首を出しかかっている小動物のそれである。
「……早くしようよ、パパ」
そのひとことで、こちらの想像以上に、あの老人が告げたことを洋一が気にしていることがわかった。単なる迷信か、子供相手のただの冗談だとしても、やはり気にかかるのだろう。木の枝などに吊さずにそのまま土の下に埋めてあげればよかったと健次は思う。たとえそれが生き埋めであっても、少なくとも洋一の眼から「死」を隠すことができる。怖《こわ》い場面はなるべく見せたくない。
ルカもそうだった。
神戸での突然の地震と母親の死が重なってしまったことの後遺症《こういしよう》があると言われた。いまははるかに快方に向かっているものの、一時はヒステリー状態になり、死骸《しがい》を食べたくないといって肉も野菜も水以外のすべての食事を拒絶するほど重症だった。その状態が半年近くつづいた。健次も医者に相談するほどではないが、決まって繰り返し同じ夢を見る。炎が近付き、足が血を流す夢だ。必ずそこに戻ってしまう。
いつまで経っても健次の家族は「あのとき」から離れられなかった。切断しようとすればするほど、それはかえってまとわりついてくる。ルカの場合、被災地にいるとそれだけで症状が出る|引き金《トリガー》になる可能性が高いと言われた。家族も同じだった。家族の顔がどうしてもあのときのことを思い出させてしまうのだという。けれども家族は解散するわけにはいかないから、物理的なことだけでもいいので転地するように。医者にそう勧《すす》められた。
そのとき健次はすでに自己破産してしまっていたので、あの土地を出る許可を裁判所からもらい、ルカが小学生になるまで過ごした横浜に戻った。そして、健次の仕事が再び変わってさらに町田へ引っ越したりして、ルカの不登校の状態はつづいたものの、症状は少しずつ改善しはじめた。言葉づかいも標準語に近いものに戻ってしまっている。
採らなければよかったと健次はいまさらのように後悔した。あのとき自分が潜らなければ、洋一を喜ばせようとして無理に貝を採りさえしなければ、こんなことにはならなかったのに――。
月に雲がかかって、辺《あた》りがふっと暗くなった。
その薄闇の中で、濃いオレンジ色のどろっとしたものだけが鮮やかに下に向かってこぼれ出ている。貝の軟性の中身が石の重みに耐えながら細長く延びてしまっているのだ。石の重みでたこ糸がぎりぎりとその表面に喰《く》い込み、柔らかいチューインガムを思い切り下に向けて伸ばしたような姿になってしまっている。
「……こんなに、なっちゃうんだ」
驚いたように洋一がぽつんとつぶやいた。
だが、こうなっても、貝の中身は貝殻にしがみ付いたまま、これから二日間以上も石の重みと闘いつづけなければならない。
貝は自分に掛けられた運命の糸に締め付けられながらも、ただ耐えるしかないのだ。
「揺れてるよ」と洋一が囁いた。
健次の脇にぽつんと立って、なんだか寒そうに両腕で自分の小さな躰を抱きしめている。
「早く切ってあげて」
その声を背にしながら、木に吊された貝の前に健次は腰を屈《かが》めた。
まず、石をはずしてやることだ。それから木の枝に掛けられた白い糸を切り、枝からはずしてやればいい。喰い込んで垂れ下がっている糸は黄色い粘液のようなものでべっとりと濡れていた。貝の中身から絞り出された体液が糸を伝って石を濡らし、暗い地面に微かな膜のように広がっていた。
血のようだった。
それが地面に向かってぽとぽとと滴り落ちている。
健次はその姿をじっと見つめた。濡れた糸に向かってカミソリの刃を近付けようとしたとき、また風が吹いてきた。
――揺れる。
と思った瞬間、すっと落下した。
音もなく、気配もなく、手の中から滑り落ちるように、あっけなくそれは暗い土の上に落ちてしまった。
洋一が悲鳴を上げる。
なぜだ。
なぜこんなに早く……。
気配がして振り返ると、パジャマ姿のままルカが立っていた。
見てはいけないものを見てしまったというように手で顔を覆っている。
声をかけようとすると、はじかれたように建物の中に駆け込んでいってしまった。
「どうしよう」薄闇の中でぽつんと取り残されたように洋一がつぶやいている。「落ちちゃった、……どうしよう」
「弱っていたんだな、かわいそうに」
深く息を吸った。
貝は弱っていた。濃い石鹸水《せつけんすい》で何度か洗い、さらにその液に漬けてしまったことがおそらく貝の持久力を弱めてしまったのだろう。
健次は貝の落ちた場所に戻り、左手を伸ばして地面の上のオレンジ色の軟体物の表面に触れてみた。濃いオレンジ色の表面は乾いてしまっているのだが、妙にぬめっとしていて、指にからみついてくる感触がある。
刃を入れ、喰い込んでいる糸を切った。
洋一がまたしくしくと泣き出した。
だが、貝の死骸をこのまま放置しておくわけにはいかなかった。
「泣くな」
短く言い聞かせるようにそうつぶやき、健次はカミソリの刃を捨てて足元の柔らかい土を両手で掘りはじめた。
6
深夜。
みんな眠っている。
ルカも、眠りの中にうとうとと二、三時間は引き込まれていたはずなのだが、眠ったという満足感はなかった。
あれからずっとそうだった。
いっとき眼をつむって、また開ける。その繰り返し。
薄暗い天井でカーテンの影がゆっくりと揺れていた。夜明けが近いのだろう、外が少し明るくなってきた。
父親の健次の寝息が聞こえる。
洋一は何度も何度も寝返りを打つ。
(どうしよう……)
貝の様子など見に行かなければよかった。
いやだいやだと思っていたのに、なぜ魅《ひ》かれるようにあんなところに行ってしまったのだろう。貝の魂にのりうつられるなんて迷信に決まってるけど、なぜか気になってしかたがない。
ルカはどうしても「あれ」をしたくなった。いやなのに、なぜかどうしてもあれをやりたくなる。いやでいやでしょうがないのに、吸い込まれるみたいに、そのいやなことをやりたくなってしまう。ルカはそっと起き上がってベッドから降りると、足元に置いてあるビニールの袋をそっと探った。ライターを取り出した。ピンクのポシェットと一緒にそれを持って、まだ薄暗い部屋をそっと横切っていく。
誰も気付いてはいない。
バスルームの明かりのスイッチを押す。
ドアのノブをゆっくりと回し、ルカはその中にそっと身をすべらす。
そして、音を立てないように静かにロックして、ライターとポシェットを鏡の前の小さな棚に置き、いつものように白いトイレの便座にパジャマのまま腰を落とした。
ゆっくりと息を吐く。
何度も何度も息を吐く。
棚の上のポシェットを静かに引き寄せた。あれ[#「あれ」に傍点]は、綿とガーゼで二重にくるんで携帯用の綿棒入れのケースに収めてある。
ライターを握り、それに軽く火をつけてみた。
青白い炎。
なにもかも焼いてしまう炎。
それを見つめていると、どうしようもなくなり、あれをやるふんぎりがつくのだ。もう半年前からそうだった。初めは偶然に、そしてなぜかいつのまにかそれが習慣化してしまった。あちこちぶつけて痣《あざ》をつくったり、気が付くと転んで擦《す》り傷から血が流れてしまっているよりはいい。
白い砂が付着している左手の中指のバンドエイドをはがし指の腹を露出させた。音を立てないように微かに水を出し、洗った。そして、青く透明なケースからあれ[#「あれ」に傍点]を取り出し、ガーゼと綿を丁寧にはいで露出させた。はいだガーゼと綿はまた使うからポシェットに戻し、そのままバスルームのぎざぎざした床に置いた。
右手の指先でつまんだあれ[#「あれ」に傍点]を見る。
錆《さび》は出ていない。
ライターに再び火をつけた。
カチッという音がして青白い炎がともり、その炎に鈍く光っているカミソリの刃先を入れた。微かに震える炎の中でみるみる刃先が赤黒く変色しその熱が指先に伝わってくる。刃先を炎から離すと、そのまま中指にあてた。ぴりっと微かに電流のような刺激を感じる。皮膚に帯電しているはずがないから静電気だろうか。刃があたった瞬間にショートしたような火花が刃先と皮膚の間で生じたように感じる。
いつもそうだ。
自分を傷付けるときだけ、自分が自分だと感じることができる。
中指にはもう何度も切った跡が幾つも傷となって残っていて、硬く盛り上がったかさぶたになっているものもある。中指にはもう切る場所がなくなっていた。バンドエイドで隠さなくてはいけないから切る場所があまりない。でも、切らずにはいられなかった。中指の隣の人差し指はまだ無傷で残っているけど、ここをバンドエイドでくるんでしまうとあとでなにかと不自由になる可能性がある。親指ならどうだろう。他の指よりも大きいし、指の腹も広いから切る場所はいくらでもある。
刃先を親指に移した。もう一度炎にかざして消毒し、それをちょうど指紋の中心にあたる部分にそっとあてた。刃先に力を込める。鋭利《えいり》な刃先が表皮にすっと喰い込んでいく。痛さは感じない。茹《ゆ》でた野菜に包丁の刃を入れるほどの抵抗もなく指の腹に刃先が入ってしまう。血はまだ溢《あふ》れてこない。ただ、皮膚が切れただけではなく、張り詰めた風船に刃を入れたように、傷として開いた部分が端の方からちりちりとまくれ上がったのが意外だった。普通の皮膚は切れてもこのような収縮の仕方はしない。親指だからだろうか。
ルカは皮膚の表面に軽く刃を入れたまま、その断面を注意深く観察した。
皮膚というよりも塩化ビニールに似ていると思う。指紋も汗腺《かんせん》もすべて合成物のようだ。図書館で調べた人体図を思い浮かべる。人間の躰《からだ》は幾つもの層を成していて、この表皮の下には真皮の層があり、さらにその下には脂肪|褥《じよく》とかいうものがあって、複雑に交差した線維《せんい》が指の筋肉や血管の周りを薄板、鞘《さや》、帯の状態で取り巻いているはずだった。そして、そのいちばん奥に靭帯《じんたい》につながれた骨がある。自分が生きているということが確認できる。
額に汗が流れた。
カミソリの刃をつまむ指にさらに力を込める。
刃先はほとんど無抵抗のまま深く喰い込んでいく。
その状態のまま刃を手前に引くとぬらっとした感触があって、いきなりほんとうの自分[#「ほんとうの自分」に傍点]への[#「への」に傍点]扉が開いた。傷口がぱっくりと割れ、血が溢れ出したのだ。
血……。
地震のときに母親が死に、家を失ってあの土地を離れてから、父親の健次は常に何事かを考えるように自分の殻の中に閉じこもっていた。
サラ金に追われ、仕事がないせいもあったのだと思う。
職場を転々として、そのたびにルカは学校を替わった。そして転校先では、いつも「いない」ものとして扱われた。いじめというより無視だったから、自分の居場所がなかった。ほんとうに自分が「いない」ような気になった。だからいつしか遊び場は、学校の校庭ではなく、近くにあるコンビニになった。
どんなに転居しても、コンビニは変わらない。自動ドアを開けて入っていけば「いらっしゃいませ」という声がエンドレステープみたいに聞こえるし、コンビニには裏も表もなくて、同じような品揃え、同じように明るい店内、万引きさえしなければ夜中に自転車《チヤリンコ》で何軒はしごして歩いてもなにも言われなかった。アルバイトのお兄さんと友達になることさえあった。
ゲームセンターも同じだった。たとえ店の中は違っていても、置いてあるゲーム機械は同じものだ。転校のときのクラス挨拶《あいさつ》みたいにドギマギしなくて済む。操作方法はわかっているからすぐ友達になれる。硬貨さえ入れれば「いない」ものとして無視されない。反応する。
そうしてルカは、コンビニやゲームセンターにいりびたっているうちに、自分と同じような小学生がいっぱいいることに気付いた。彼らは知り合ってもおたがいの家族のことなどは訊《き》かなかった。いま好きなことばかりを話した。好きなこと、おもしろそうなこと……。自分が「いない」ことを忘れて、「いる」ような気分になれた。彼らと遊んでいるときだけ父親の暗い表情を忘れた。
血……。
ルカは、そんな「いない」子供のひとりを殺した。
友達だった。
ゲームセンターでよく会ったことがある鼻からずり落ちそうな大きな眼鏡をかけた背の低い男の子だった。眼鏡のレンズがいつも汚れていて、拭《ふ》けばと言うと、曇《くも》っているほうがいいと答えてずり落ちている眼鏡を指先でひょいと上げる。そんな普通の、ちょっと太った男の子だった。彼も学校では「いない」ことになっているらしかった。
「いつもだからね、しかと[#「しかと」に傍点]されるの、慣れちゃった」
その子はチャリンコも持っていなかった。
窃《せつ》チャリしちゃえばと言っても、盗むのはよくないよと気弱そうに下を向いてしまう。
「シンちゃん」というその男の子は隣町の小学生で、ルカよりも上級生だったが、背が低くて太っているために弟ぐらいにしか見えなかった。お金もほとんど持っていなかった。いつもゲームセンターでうろうろしているけれど、他の子供がゲームをやっているのをおもしろそうにただ眺めている、そんな子供だった。
7
ルカはその子を殺した。
周りの大人は不注意による事故だったように言うけれど、ルカはそうは思っていなかった。チャリンコの後ろに乗せたのもルカだし、鳥になれと言ったのもルカだったから。
いつもはしごをしていた駅前のゲームセンターとバッティングセンターの横に、緩《ゆる》い勾配《こうばい》の坂があって、ルカはいつも自分のチャリンコにシンちゃんを乗せてその坂を下った。
「……よ、よしなよ」
シンちゃんが怖《こわ》がるのがおもしろくて、わざとブレーキもかけずに悲鳴のような声を上げてその長い坂道を下った。
そしてだんだんと大胆になりそれだけではおもしろくなくなってきた。
鳥になれ、と言った。
「あんた鳥になりなさいよ」とくすくす笑いながらルカは言った。
「鳥?」
シンちゃんは当惑《とうわく》したように曇った眼鏡を指で押し上げる。
自転車には荷台はなかった。だからシンちゃんが自転車に乗るときは、よく中学生たちがやっているように少し外側に突き出た車軸に両足の先を置き、ルカの肩を手でつかんでバランスを取るのが常だった。「鳥になりなさいよ、鳥になって空を飛んじゃうの」すごくおもしろそうだと思った。もしシンちゃんがチャリンコに乗れるなら、代わって自分がやりたいくらいだった。
初めは怖そうな顔をしていたシンちゃんも、次第にルカの熱狂に巻き込まれ、「鳥かぁ、なんだかおもしろそうだね。うふっ」と笑って自転車の後ろに乗った。
夏休みだった。
わくわくした。
世界でいちばんすごいジェットコースターに乗ったときのような気分だった。坂を下った。長い坂には光が溢れていて、肩越しにシンちゃんの手がひどく汗ばんでいるのが感じられた。
自転車は光の中を突き進んで行く。
どこまでもどこまでも突き進んで行く。
「鳥になれえ」とルカは叫んだ。
でも、肩をつかんだ手はかえって震えるようにしっかりと強く握るだけで、いっこうに離れていこうとしない。
「鳥になれえ!」とまた叫んだ。
シンちゃんがなにか言った。坂はもうすぐ終わろうとしている。「弱虫」そう言おうとして背後を振り向こうとしたとき、肩をつかんでいた手がふっと離れていった。
シンちゃんは鳥になった。
両手を広げて鳥になった。
ルカまで躰が軽くなり、自転車も軽くなり、どこまでも飛んでいけそうな気がして笑い声を上げた。
シンちゃんも笑っていた。
「ぼく、鳥だよ。鳥になるんだあ」
両手を広げて笑っている。飛べー、飛べー。背後のシンちゃんに向かって叫んだ。
そのとき、それは起こった。
シンちゃんはほんとに空に向かって飛んでいってしまったのだった。
足を踏み外したのか、バランスを失ってしまったのか。あとになって、そのとき後ろを走ってきたタクシーの運転手さんが、シンちゃんはほんとにジャンプするみたいに宙に浮かんだと言っていた。ぽっかりと宙に浮かびかかった、と……。
車が急ブレーキを踏む音。
背後でなにかがぐしゃっとつぶれ、ルカはまたひとりぼっちになってしまった。
罪には問われないのに、誰にも言えないことがどんどん増えていく。
どんどん、どんどん、増えていく。
だからルカは、小さいころにやったプロペラ遊びのように、くるくる回って頭をふらふらにした。自分をなくしてしまった。家を失ってしまってから病人のようになっていた父親の健次は、そんなルカを叱りもせず、ただいつものぼんやりとした悲しそうな表情で眺めるばかりだった。助けてほしいのに、なにか言ってほしいのに、自分の中にこもってそこから出てこようとはしなかった。
(助けてほしい)
(ほんとうの自分がかかわると[#「ほんとうの自分がかかわると」に傍点]、なぜかみんな死んでいってしまう[#「なぜかみんな死んでいってしまう」に傍点])
あのときもそうだった。
小学校五年生。
ルカは初潮《しよちよう》がはじまっていて、飼育小屋でウサギの世話をしていたときに股間《こかん》からぬるっとした赤いものが流れてきた。その始末をどうしていいかわからなくなったとき、助けてくれたのが「ココ」というあだ名の三つ編みの似合う女の子だった。「コックリさん」が好きだったその子は、学級委員をしていたけれど、あるとき不意に自殺してしまった。理由はまったくわからないと担任の女性教師は泣きながらホームルームの時間にそう報告した。
ココの家は本屋だった。
その家のガレージで、片方の手首をノコギリでぎざぎざに切りまくってぐったりしているところを発見され、病院に行く途中で死んだのだ。
なぜそんなことをしたのかはわからない。
新聞にもわからないと書いてあったという。
クラスのやつらとは別に、少し経ってから彼女の家に行くと、眼鏡を掛けた父親から呼び止められた。ココの形見だからと言って、古くて小さな絵本を渡された。ウサギの絵が描いてある絵本だった。家の前の階段を出たところで、その階段が雨に降られてひどく濡れていたことを覚えている。なんだこれ、とルカは傘の下で思った。クラスメートなんていくらでもいる。それなのになんであたしなんだろう。そう思った。この父親はなぜこんなものをくれようとするのだろう。
ルカは当惑して、どうせ読まないですからとつぶやいたが、心労で疲れ果てた様子の父親は赤い眼を向け、あの子の遺志ですからとぼそぼそと言い、ルカにその青い表紙のぼろぼろになった絵本を手渡そうとした。「嘘つけ」なんとなくそれを受け取りながらそう思った。そんなに親しくなかったのに、ココがそんなことを言うはずがない。それなのにその父親は雨に濡れるのもかまわず、受け取ってやってください、そう告げるばかりだった。
受け取るのが怖かったけれど、それはそのまま手の中に残ってしまった。
傘を差してそのぼろぼろになった絵本を抱えながら、両側に枯れた並木のある坂道を、ルカはまたあのときと同じようにとぼとぼとひとりで下った。
血……。
そのころからルカは、自分が持っている奇妙な能力に気付くようになった。
医者はそれを「ビョーキ」だと言った。
医者たちの誰もが、ルカを傷付いた少女として扱った。トラウマとか、心的外傷《しんてきがいしよう》なんとかとか、よくわからない言葉を持ち出して、ルカがいかに地震や母親の死で傷付いたかを納得させようとした。こいつら馬鹿じゃないかと思った。自分が傷付いてるなんて認めたら、それだけで、もう歩けなくなる。だから、いくら説き聞かせられても、ルカは自分が「ビョーキ」だなんて認めなかった。なぜだかわからないけれど、大切なあることを悟《さと》らせるためにそれを見させられているのだ。そう思った。
それをルカは「死場《しば》」と名付けた。
死ぬ場所という意味だった。
死ぬ場所を感じる。死場を感じる。霊感のように感じる。
その日ルカは、転校してみたもののなんだか初めから行く気になれなくて、登校児童の絶えてしまった通学路をうろうろしていた。
「いい天気で、ぽかぽかしていて、なんだかお花見びよりじゃん」
そんなことを考えながら四車線の道路を信号を無視して斜め横断しようとした。
そのとき偶然に死骸を見てしまったのだ。それがきっかけだった。
瞬間、時間が止まってしまって周囲の音が消えた。
突然生理がはじまってしまったような、ぬるっとした感触の中にルカは吸い込まれた。ぬるぬるして、鼻の奥でとろけるような甘い匂いがして、ブーンという耳鳴りが聞こえ、ルカの眼の前にその茶と白のまだらの猫はあらわれた。
猫は跳躍《ちようやく》していた。
そして、走り去るトラックの後ろを駆け抜けようとしたそのとき、路面のひび割れた亀裂《きれつ》に足を取られ、前の右足がかくんと折れ曲がったようになった。
いつもだったらそんな亀裂など軽々とやり過ごしてしまうのに、その猫の右前足は喧嘩《けんか》の傷が化膿《かのう》していて腫《は》れていたのだ。その猫は自分の脚力を過信し、車の流れなどこれまでのようになんなくかわすことができると思っていたのだろう。足を取られてもさらに前へ進もうとした。そして右肩、猫に肩があるのかどうかルカにはよくわからなかったが、とにかく右の方から路面にこけるようにして倒れてしまった。あわてて体勢を立て直そうとして起き上がり、猫は瞬間的に方向性を失った。自分がどちらから来てどちらへ横断しようとしているのか、迷ったように立ちすくんだ。そこへ小田急《おだきゆう》のマークを付けたバスがいきなりあらわれ、猫は本能的にそのバスをかわそうとして跳躍し、かえってバスのバンパーにひっ掛けられることとなった。
猫の躰は跳躍した姿勢のまま宙を飛び、熱いアスファルトの路面にたたき付けられた。そしてその黒い塊《かたまり》を今度は対向車線を走ってきたライトバンが踏みつぶし、ブシャッという音がして猫は影のように路面に刷り込まれた。
――猫の死骸。
それを眼にした瞬間、ルカにはそれだけのことが見えた。猫はすでに死んでしまっていて過去のことであるはずなのに、それがいま起こったことのように眼の前にあらわれたのだ。
「死場」
ルカはそれを霊感によるものだろうと解釈した。あたしは殺人犯だから死者に取り憑《つ》かれやすいのだろう、と。
そしてそれからもルカは何度か霊感を呼び起こす死骸を見かけた。
ねずみの死骸、鳩の死骸、ゴキブリの死骸。
しかし同じ死骸でも、猫のときと同じように死ぬ瞬間が見えることもあれば、見えないときもあった。
なぜか感応する死体と、感応できない死体があるのだ。
一緒にいた同級生の悲鳴が聞こえ、どれどれと学校の図書館の棚に放置されていたねずみの死骸を見物に出かけたときはなにも見えなかった。死骸は死骸のままだった。けれど、ゲーセンで遊び疲れ、駅前広場にあるベンチに座っていて、ふとゴミだらけの植え込みに鳩の死骸を見つけてしまったときは、鳩が死ぬ瞬間がはっきりとビデオでリプレイするようにわかってしまった。
鳩は飛べなかった。
なぜ飛べないのかわからなかったけれど、どうやらなにかの病気にかかっていたようだった。それでも鳩が餌《えさ》を求めて広場の敷石をよちよち歩いていると、いきなり子供に追いかけられた。それを逃《のが》れようとして飛ぼうとしたが、他の仲間のようにはうまく飛べず、ベンチのある植え込みの前まで来たのだった。
ベンチにはホームレスのような重ね着をした男の人が座っていた。男は酒気を帯びたどんよりとした眼で近付いてくる鳩をぼんやりと眺めた。そして薄ら笑いを浮かべながら、いきなりからかうように右手に持っていた傘の先端を鳩の前に突き出した。鳩は羽をばたつかせてあやうくその攻撃をかわした。でもやはり空中には飛べなかった。「この野郎、なめやがって」男はろれつのまわらない口調《くちよう》でそう怒鳴り、傘を振り回した。鳩はとっさに植え込みの中に逃げようとして、かえって退路を断《た》つことになった。男がわめきながら突き出した傘の先端が胸をかすめ、激しい衝撃が鳩を襲う。鳩はよろけて本能的に羽を広げ、それがかえって植え込みの枝にからめとられてしまう結果となった。「逆らうなよ、おい! いいか、おれに逆らうなよ!」男は誰かそこにはいない相手に向かってそう叫んでいた。そして目やにだらけの両眼を興奮したように見開き、羽を広げてもがいているその鳩を、泥だらけの長靴でつつじの植え込みごと踏みつぶした。
鳩は、折れた枝に首を刺し抜かれ胸をつぶされて心臓を止めた。
空中に飛び去ること。
鳩はシンちゃんのように最後までそればかりを想っていた。
ベンチに腰を落としたままルカは一瞬にしてそのような鳩の痛みを感じた。
しばらくそこから動けなかった。
血……。
なんでジュリエットだなんて言ったんだろ、とルカは思う。あたしは全然そうじゃないのに。ボーイフレンドもいなくて、ゾンビの館にいるみたいに死体ばっかり近寄ってくるのに。
ルカは親指の傷を水で洗うと、それをいつものバンドエイドで覆い、そっと洗面所から出て自分のベッドに戻った。
枕が、まだ涙で濡れていた。
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第二章 クラブハウスの日々
出発の朝。
クラクションを鳴らす音がした。
小泉健次が二階のバルコニーから躰《からだ》を乗り出すと、ペンションの前に大型のジープが駐車していた。濃いサングラスをかけた工藤が健次に気付いて手を挙げ、サングラスをはずして「ちょっと早かったですかねえ」と眩《まぶ》しそうにこちらを仰いで声をかけてくる。
「いえ、もうすぐ用意できますから」
実際には用意ができていないのはルカだけだった。
眠い眠いと文句ばかり言ってベッドからなかなか降りようとせず、ようやく起きてきたと思ったら、今度はシャワーを浴びると言ってバスルームから出てこない。いまはドライヤーの音がしている。早くしろとドアを開けようとしても鍵《かぎ》を掛けて中へ入れてくれない。
「お迎えが来ちゃったよぉ」
幼稚園でもらった黄色いリュックサックを早くも背負っている洋一が声をかけた。
「あたし、まだなんにも支度《したく》してないよ」
中からぼんやりした声が洩《も》れてくる。
それはわかっていた。昨夜、出発は朝だからいまのうちに用意しておくようにとあれほど告げたのに、聞こえているのか聞こえていないのかぼんやりしていてテレビばかり見ていたのだ。
「あれぇ、オネエまだパンツとブラのまんまだよぉ」
ドアの隙間から覗いていた洋一がクスクス笑いながら言っている。
魂抜《たまぬ》けの一件が気になっていたのだが、洋一は一日経つとすっきりしたらしく、昨日の朝から一日中水字貝の貝殻を耳に付け、なぜかそれを携帯にみたてて電話ごっこに興じている。ペットロボのイサムと話すのにも貝殻の携帯を使っている。風の音や声などが貝殻の内部で反響して、おもしろい音になるらしい。
一度|埋葬《まいそう》した水字貝の貝殻。
あのとき貝殻も一緒に埋《うず》めてやろうということになり、その脇に新たな小さな穴を掘って二人で埋めたのだが、朝になって洋一が貝殻だけを掘り出してきてしまったのである。ところが、きたないと騒ぐかと思っていたルカもその貝殻をじっと見つめるばかりで、なにも言わなかった。そして洋一は、こちらの心配を気にする様子もなく、貝殻の携帯に夢中になっている。
「もしもし、オネエですか? オッパイが見えてますよぉ」
そんなことを伝えて喜んでいる。
四十分ほど遅れてようやく部屋の外に出た。
洋一は相変わらずはしゃいでいた。
だが、ルカが違った。
バスルームにこもっていると思ったら、中で唐突に自分の髪を切ってしまっていたのだ。長い髪をほとんど根元からハサミで無造作に切ってしまい、ひどいことになってしまっていた。短く刈った髪の長さがばらばらで、まるで強制収容所の囚人だった。リンスだ枝毛だとあれほど髪の毛に執着していたのに、スキンヘッドとトラ刈りをミックスしたような髪形になり、白いタンクトップと、汚れてよれよれになったジーンズをはいて、「オハライしてたのよ」ぼんやりした表情でそうつぶやいている。
お祓《はら》い?
健次は頭に血がのぼって声を上げそうになった。
「鏡を見たのか?」
ルカは心ここにあらずといった様子で、無残に短くなってしまった髪をタオルでごしごし拭《ふ》いている。貝が落ちたとき眼が一瞬裏返ってしまっていたので、病気の再発を心配してたずねてみても、それにも答えない。こちらに尖《とが》った視線を向けるだけである。
いよいよ新しい家がある奥地に出発するしかなくなったために、それで機嫌がわるいのだろうと健次は判断した。
バスルームの床には、ルカの髪の毛が黒い闇を撒《ま》き散らしたように散乱していた。
「すいません、お待たせしてしまって」
フロントの主人とカウンター越しに世間話を交わしていた工藤に頭を下げた。そして、ペンションの主人に、洗面所をできるだけ掃除したつもりだが、まだ髪の毛が残っているかもしれないのでよろしくと、迷惑をかけたことを謝罪した。いやがるルカにもあやまらせた。人のよさそうなパイプをくわえた主人は、ルカの極端に短く刈ったトラ刈りの頭を眺めながら、ただあきれたようにうなずくばかりだった。そして、源造爺さんと話をされていたようですけど、と付け加えるように言った。
「ええ、まあ」健次は曖昧《あいまい》にうなずいた。源造とは、あの裏庭で貝の始末をしてくれた老人のことだろう。
「なにを言われました?」
「いえ、別にたいしたことは…」魂抜けのことを気にしていると思われるのはいやだったので健次は言葉を濁《にご》した。
洋一がジープのところでせかすように呼んでいるので、そのままカウンターから離れた。
外に出る。
両手に抱《かか》えたボストンバッグをジープの荷台に載《の》せた。洋一はリュックサックにイサムを入れ、ルカは黒いナイロンのバッグを肩からたすき掛けにし、右手に小型のCDラジカセを提げている。あとの荷物はダンボールに入れてすでに送っていて、工藤によるともうクラブハウスの中に入れてあるということだった。
健次が助手席に腰を落とし、後部座席にルカと洋一が並んで座る。ルカは座ると同時に黒いバッグから小さなヘッドホンを取り出し、それを耳に掛けている。
「じゃあ、行きますよ。しっかりつかまっててくださいね」工藤がカーキ色のジープのエンジンキイを回した。昨日と同じように、工藤は小豆色の蝶ネクタイをしている。今日は薄いブルーのシャツだが、余程《よほど》蝶ネクタイが好きなのだろう、リラックスした雰囲気の中でも決してそれを緩《ゆる》めようとはしない。
「しゅっぱーつ」と洋一が貝を耳に付けたままそう叫ぶ。
椰子《やし》の並木がとぎれたところで工藤はジープを右折させた。
ダイビングセンターのガラス張りのショウウインドウが見える。そこに立ち寄るのかと思っていると、ジープはそのまま村役場や総合事務所などのある区画に入って行った。
小さな郵便局があり、その横に剥《む》き出しのコンクリートの壁面をさらして公共の建物が並んでいる。建物も配置も健次が島にいたときとはまったく変わってしまっていた。まるで別な島のようである。
「もうご存じかもしれませんが、ここがこの島の中心地区です」
工藤は健次たちに中心地区を案内するようにジープをゆっくりと走らせると、生協の前でUターンし、再び海岸の方角に向かった。ペンションが群れを成している地区に行くには右折するところを、そのまま海の方向にジープを走らせる。
循環《じゆんかん》道路に出て島を半周し、そこからジャングルの中に入るのだと言う。
ジープは、坂道を下って潮風を切りながら海岸道路を走った。まだ午前中だが道端に再び水着姿の人通りが多くなってくる。海岸道路の下の白い砂浜に磯遊びをしに行くのだろう。
海岸線に出ると、吹いてくる風が肌に心地良かった。
ミツスイメグロの群れが、金色の雲が湧き上がったようにいっせいに黄色い腹を見せ、海岸に沿った前方の林から飛び立っていく。
ルカはヘッドホンから流れるリズムに合わせて躰を揺すり、洋一は耳に付けた貝殻に反響する風の音を楽しんでいる。
やがてジープは道路を左折して広い未舗装《みほそう》の道に入った。造成工事のときに往来したのだろうダンプカーの車輪の跡がいまでも残っている。
「ここがきちんと舗装してあれば、もうちょっと環境もよくなったんですけどね」と話し好きの工藤は運転しながら説明してくれた。「なにしろこのとおりですから、この先のジャングルの中に入ると、余計道幅が狭くなって、川に面して奥に行くことになるんですけどね。時折水が出るんですよ。ゴルフ場のグリーンってのは、木がないわけで、水はけだけを考えてるから、保水しないんですね。降ったら降っただけ、流してしまう。ところが川幅はこれまでどおりだから、どうしても溢《あふ》れてしまうわけですよ。ゴルフ場が完成してたら、川幅ももちろん広げられて危ないとこには護岸工事もされてたんでしょうけど、バブルがはじけて、結局は調査を入れただけでそのまんまですわ。飛行場ができるとなれば一変してしまうでしょうけどね、いまはごらんのとおりで。……まあ、そのときには少し辛抱《しんぼう》していただければ、すぐに水は引いてしまうんですけどね。一応、そのことは頭に入れておいてください」
「他に道は?」
「細いのがいくつかありますけど、そこも大雨になると水没してしまうから、なるべくならじっとしていたほうがいいと思いますよ。必要ならこちらから応援に行きますから」
こともなげにそう告げるが、一時的にせよ孤立する可能性があるというのは初耳だった。
視界が開けて小さな草原があらわれた。
そしてその先には、濃密なほど鬱蒼《うつそう》と生《お》い茂るジャングルが広がっていた。
この先の森には薬草が多く自生していて、それを採るのを仕事にしている者もいるほどだということを工藤が解説する。
「薬草ってなあに?」洋一が健次にたずねた。
「薬になる草のことさ。それを傷口に貼《は》ってあげたり、煎《せん》じて飲ませてあげると、病気や傷がすぐによくなってしまうんだ」
「魔法の薬なんだね」
洋一は有名なゲームの名前を口にしてひとりでうなずいている。
巨木が倒れ、蔓草《つるくさ》がからみあい、錯綜《さくそう》した森の中を猿のような生き物が蠢《うごめ》いているのを感じる。真っ暗な木の下が急なカーブになっていて、そこをゆっくりと徐行《じよこう》しながら折れ曲がって行くと、風の通り道になっているからだろうか、冷たくひんやりとした空気が辺《あた》りに漂い、風景もちがってきた。
「ちょっとこの辺り、ぞっとくるでしょう? なぜだかわからないけど、ぞっとくるんですよ。台風になると水が出るのもこの辺りから先なんです。なんでも昔は、この先のジャングルは異界だとかいわれていたそうですけど、いまじゃ開発開発で、異界もなにもあったもんじゃありませんよ」
工藤の焼けた腕に鳥肌が立っていた。
健次も背中に冷えたものを感じ、思わず身震いした。
「昔ね、このあたりではムカデやサソリが多かったらしいんですよ」
工藤が助手席の健次に向かい、その冷気を追い払うみたいにして島の生物のことを話しだす。「それでね、ここに通信基地を持っていたアメリカ軍が、グアム島から天敵のでっかいオオヒキガエルを大量に移入したらしいんですよ。それで、ムカデやサソリは激減したらしいんですけど、いまじゃ夜運転しててもカエルを轢《ひ》き殺さないときはないほど増えちゃいましてね。繁殖シーズンになると、あんまり多いもんだから夜中に外へ出られないんですよ、気味が悪くて」
さいわい、うるさいエンジンの音と音楽に耳を塞《ふさ》がれているからいいようなものの、生き物嫌いのルカには聞かせられない話だった。
なんとも先が思いやられる。
ルカは風景なんて見たくないというように眼を閉じ、ただ耳から聞こえてくる音楽に集中している。
「まったく、地球にのさばる人間みたいなもんですよ。天敵がいないから、繁殖し放題ですからね。道路があるとするでしょ、夜になるとその路面いっぱいに無数の生きたカエルがびっしりと貼り付いてるんですから。ものすごい光景ですよ。さっき行き過ぎてきた循環道路みたいに水銀灯なんかがあるとね、その下にはカエルが積み重なって山のようになってるんですよ。水銀灯の光に吸い寄せられた虫が落ちてくるのを目当てにね。折り重なって口を開けて待ってるんです。そこを車で走るんだから、どうしようもない。想像できるでしょう? やつらを踏みつぶしたおかげでスリップ事故まで起こる始末でね」
工藤はなにがおもしろいのか、それから信じられないほど次々に増えたり減ったりしている虫や動物の話をつづけた。もういいですからと告げても、聞こえないふりをして喋りつづけている。
たぶん島の生態系が移入動物によって決定的に崩れてしまっているのだろう。
草原がとぎれ、急な坂になった。
短い距離でアップダウンを繰り返す。
「わあっ、ジェットコースターみたいだあ」
路面の荒れとは別に、腰の下に小さく不規則なバウンドの連続を感じた。
「あれ、なに?」路面上に、点々と影のようになっている黒い染みを指差しながら洋一が訊いた。
「死骸だよ」と工藤は大きな声で答えた。
「シガイ?」
洋一が首をかしげる。
たしかにあれは死骸だった。健次はとっさに後ろの座席に首を回した。さいわいルカはまだ眼を閉じヘッドホンをしたままでいる。見ないようにと声を掛けようと思ったが、無益な刺激をしたくないのでそのままにしておくことにした。
「あの光景。なんだかむなしいっすよね」
工藤は逞《たくま》しく太い腕で器用にハンドルを操《あやつ》り、時折口笛を吹きながら健次に向かって盛んに話しかけてくる。「走ってると、ちゃんと感じるんですよ、路面のあの死骸をね。コツン、コツンと感じるんですよ」
乾いた泥の路面に、乾燥したカエルの死骸が点々とへばり付いているのだ。これではまるで墓地の中を走っているようなものではないか。
想像以上にひどい場所だった。
「こうやって走ってるでしょ。すると、コツン、とね、いまみたいにくるわけですよ。路面の乾燥したカエルの死骸をタイヤが踏むんですね。初めのうちは、そりゃあもう、轢くたびにいやーな感じがしたもんですよ。生きてるのを踏みつぶすと、ブスッという感じがして、タイヤがなにかに乗り上げたような感触がありますからね、すぐわかる。ところが、乾いた死骸はそうじゃない。コツン、なんですよ。いや、ツンかな。とにかくそういう感じで。それがなんか、ひどくいやだったんですけど、片付ける暇《ひま》もなくこう死骸が散乱してると、もう慣れっこになっちゃってね、ツン、ツンって、まるで首都高速の架橋《かきよう》の継ぎ目みたいなもんですよ。リズムになって、そのうち気にもしなくなっちゃう。死骸のリズムですよね。ツン・ター・ツンツン・ターってなもんで。たぶん、内臓までなんですよね、感じるのは。それ以上いっちゃうと、なーんにも感じなくなっちゃう。イケイケってなもんですよ。…これって、結構ポエティックなイメージだと思いません?」
健次は苦笑した。
熱い土埃《つちぼこり》のする路面が、ぎらぎらと輝く太陽に照らされて遥か彼方《かなた》まで延びている。その路面に刷り込まれたように、点々と散らばっている黒い影。空中に吸い込まれ、あるいはまっすぐ伸びた道に影を落として、力いっぱい跳びはね、いわば宙に浮いたままの格好で、熱い路面に刷り込まれていく生き物たち。
健次はその点在している影に、ぞっとするような未来を感じた。
なにか荒涼としたものが前方に向かって伸びている。
「…それでね、あんまり多いんで、調べてみたんですよ。もしかすると超常現象みたいなことがあるんじゃないかって、ぼくなりにね。なぜこんなにカエルが多いのか、あまりにも多すぎるから。生態系が崩れただけじゃないかもしれない。そんな感じがしましてね。すると、おもしろい伝承というか、エピソードに出会ったんですよ。旧約聖書ってご存じですよねえ」
無視するわけにもいかないので健次は黙ってうなずいた。聖書、再臨《さいりん》。街頭説教師《がいとうせつきようし》だった父親に幼いときからいやというほど聞かされている。
「その旧約聖書に、モーゼに率《ひき》いられたユダヤ人たちがエジプトから脱出する有名なシーンがあるんですけど、そのときにね、囚《とら》われの身となったユダヤ人を奴隷《どれい》状態から解放しようとしないエジプト王に、神様が十回の災難を与えるんですよ。昔は、災難とか天災というのは神様の専任事項《せんにんじこう》でしたから、使い放題だったんですね」
そこまで説明すると、工藤はなにがおかしいのかひとりで笑い出した。
「それで?」
「それで、神様が与えたその罰のひとつが、なんとカエルの大量発生だったわけですよ。この島のカエルみたいにね。ものすごい量のカエルが発生したというんですね」
「…………」
「で、もし古代エジプトをその例とするならば、道に放置されているあの大量の死骸はなにを意味するのだろうか、ということになるでしょう。この島のなにが、こういう災難をもたらしているのか? なかなかおもしろいことだとは思いませんか? 自然のバランスが崩れた? たしかにそれもあるでしょうけど、ほんとうにそれだけかなあ、なーんて思ったりして。聖書ではエジプト王でしたけど、もちろんここには王様なんていやしない。するといったい、その罰《ばつ》を引き起こしているのは誰なのだろうか。なんなのだろうか。そういうことになるでしょう? 興味のある問題ですよねえ」
健次は黙っていた。
それは、この自分への痛烈な皮肉のようにも聞こえた。自己破産して家を失うきっかけとなった地震も含めて、わけのわからない災難がつづいた当時、なぜだかわからないがそのようなことを感じたのだ。これはなにかの罰ではないかと――。なぜそんなばかげたことを考えてしまったのかわからない。行き場のない想《おも》いだけが際限なくどんどんふくらんでいく。
そのとき背後から、ルカの甲高《かんだか》い声が聞こえてきた。
「…ねえねえ」とルカは言っていた。
「なんだ?」
健次は振り返ったが、ルカはヘッドホンを耳に付け眼は閉じたままだった。
「あたしさあ、下半身がすうすうするんだけど、気のせい?」
歌うようにそう叫んでいる。
下半身?
「ねえ、下半身がすうすうするんだけど、それって気のせい?」
いったいなにを言っているのだ。
「ねえ、それって、気のせいなの?」
ルカはそう繰り返すと、いきなりなんの脈絡《みやくらく》もなく、ギャハハハと声を上げて笑い出した。唐突すぎて、言っている意味がわからない。ルカは足を踏み鳴らし、両手をぱんぱん叩《たた》いて、意味不明の笑いをつづけている。
「罰だってさあ!」叫ぶようにそう声を上げると、今度はふと表情を変え、ルカは不意に笑いやめた。その顔からすっと笑《え》みが引いていき、無表情になった。
「罰だなんて、てめえに言われるスジアイはないんだよ」
いきなり顔を曲げ、運転している工藤の背中をにらみつけた。二重瞼《ふたえまぶた》の大きな眼がさらに固まり、細かく傷をつけたような溝が眉間《みけん》に生じている。なぜルカまでが「罰」という言葉にそんなに反応するのか。親の健次が一瞬たじろぐほどの剣幕だった。
「やめなさい」と健次はとっさに告げた。
だがルカは、今度は健次をにらみつけ、「サイテー」理由も言わずにそのまま再び眼を閉じてしまった。
「もしもしママですか? おネエがなんだか怒ってますよ。モーレツですよ」
水字貝の携帯で洋一がそう報告している。
運転している工藤は、聞こえたのか聞こえていなかったのか、ハンドルを握ったまま表情を変えなかった。
健次はひりひりするようないたたまれなさを感じた。
洋一を除いて、しばらく全員が黙ったまま、ジープは走りつづけた。何度かカーブを曲がり、ぬかるんだ道に車体が揺れ、繁茂《はんも》する樹木の影と降り注ぐ光のコントラストの中を、ジープのエンジン音だけが通過していく。
鳥の声。
生い茂るガジュマルの根。
暗い大木の陰をびっしりと覆っている幾層にも重なった濃い緑色の苔《こけ》。
濡れたように光っているシダの葉のそよぎ。
「……気持ちわるいから、降ろして」
ルカが今度は訴えるようにそう告げた。
「もうすぐなんだぞ」
「いいから、降ろして」
ジープが止まると、少し離れた道端の湿った下草の中にルカはだるそうにしゃがみ込んだ。そして、ヘッドホンをしたままうつむき、草の中に嘔吐《おうと》しはじめた。朝からなにも食事を取ろうとしなかったので、大量の唾液《だえき》と黄色い胃液しか出てこない。心配して近付き、あまりに苦しそうだったので背中をさすってやろうとしてその躰に触れた。
「さわらないで」
はっとするほど冷たい声で健次の手を払いのける。
「少し休憩《きゆうけい》でもしましょうか?」
工藤が運転席から声をかけてきた。
ルカの耳にかかったヘッドホンがずれてしまっていた。音楽は聞こえない。赤く焼けたうなじに汗が流れていて、それがぽたぽたと草の上に落ちていく。
「…大丈夫だって、あの人に言って」
ルカは苦しそうにもう一度吐き、はあはあと荒い呼吸を繰り返した。
焼けた赤い肩が激しく上下している。
いままでにもこのようなことは何度かあった。横浜に戻ってからも、学校に行くときの途中の道で、ルカはよくこのようにして突然吐いたのだ。そして、吐く前には必ず寡黙《かもく》になったり急にはしゃぎだしたりして感情の起伏《きふく》が激しくなった。学校のなにが、というわけではなく、学校を包んでいる雰囲気というか、そこに漂っている独特の思念《しねん》のようなものを感じてしまうらしい。すると急に不安になり、自分の感情をコントロールできなくなって、その結果肉体的な反応として、嘔吐してしまうのだ。
だが、この道の先に学校はなかった。樹木が繁茂しているジャングルだけがあり、その奥には新しく住むことになる「家」が三人を待っているはずだった。
「…行きたくないなら、ここで引き返してもいいんだぞ」
健次も同じように腰をかがめ、うつむいているルカの横顔に言った。
ルカは答えない。草に向かって息を吐いている。
――もしかしたら。
ふと思ったが、そんなことはありえないと健次はその考えを頭から追い払った。
3
やがて二十分ほど走って鬱蒼《うつそう》としたジャングルを抜けると、再び樹木のカーテンが消え、いきなり視界が開けて、広大な芝生の広がりが眼の前にあらわれはじめた。
別世界に入った。
そんな感じがした。
工藤が芝生の端にジープを止める。
草野球の野球場。それも、ひとつやふたつではない。その球場が五十個以上入っても、まだ十分に余裕のあるような広大な敷地の広がりである。芝生だけではなく、まだ造成途中の赤土が露出している部分もかなりあって、雑草が生い茂ったりしているが、それでも廃墟《はいきよ》ということでこちらが想像していたものよりもはるかに人間の手が入っている。健次とは別に、グリーンを専門にしている管理者が森の中に住んでいるというから、おそらくその人物がとても仕事熱心なのだろう。芝はきちんと刈られていて雑草が繁茂している部分も何度か刈られた跡があった。
「……落ち着いたら野球をやろうか。パパが教えてやるぞ」
健次は言ってみたが、そうつぶやいている自分の声が自分のものとして感じられなかった。ぼんやりとその広さに向かいながら、自分がなにかとんでもない間違いをしてしまったのではないかとそればかりを考えていた。
「野球?」と洋一。
「そうだ。野球だ。キャッチボールを教えてやろうか」
答えはない。
あまりの広さに圧倒されるように洋一も押し黙って周囲を眺めている。
背後のジャングルの中から猿たちの鳴き声が聞こえてきた。
「けっこうすごいでしょう?」
案内人である工藤が言っている。
さらに進んでいくと、遠くで見たときには模型のようだったクラブハウスの建物が次第に現実味を帯びて近付いてきた。
手元に持っているコース図に眼を落とす。
広いグリーンのコースは各ホールが螺旋《らせん》状に幾重《いくえ》にも取り囲むような配置になっていて、その中心のやや高くなった丘の上にクラブハウスが位置している。
「ディズニーランドのお城みたいだね」
水字貝を耳に付けたままでいる洋一が、建物の姿を眺めながらひとりごとのようにそう言っていた。
「ねえオネエ、お城みたいだよ」
ヘッドホンをはずして眼を開けているルカが微《かす》かにうなずく。
螺旋状の進入路を回りながら、ジープはその中心にある丘の上のクラブハウスに近付いていった。
クラブハウスは、図面で見るよりもはるかに壮麗《そうれい》でがっしりした建物だった。モダンな感じだが、ガラスが少なく、洋一が言うようにどこか中世のヨーロッパの城を想わせるような雰囲気がある。石積みの壁と緑青《ろくしよう》の屋根。そしてその中心に、物見のような塔が唐突にそびえていて、その先端が金色にきらきら輝いている。
「あれが、ぜーんぶ、ぼくたちのお家《うち》なの?」
「そうだ。全部だ」
「すごいねえ」
クラブハウスの塔の方角を眺めながら工藤は、「あれだけジャングルから距離を置く構造になっていると、まず小動物もなかなか近寄れないし、虫が飛んでくるにしてもかなり距離があることになるでしょう?」運転しながらそう言っていた。「だからまあ、クラブハウスとジャングルの樹木間をなるべく離す構造にしたみたいですよ」
建物の周囲を螺旋状にゆっくりと回りながら近付いて行くと、まだ工事が終わっていない部分があちこちに眼につくようになってきた。基礎のコンクリートが剥《む》き出しになり、錆《さ》びた鉄骨が折れ曲がった指のように突き出ていて、所々青い建築現場用のシートが掛けられている。クラブハウスの本館はほぼ完成しているものの、そこから少し離れたその脇に隣接している管理棟はまだほとんど外装もしていない状態である。
遠くから見れば「お城」のようだった建物が、近付くにつれて次第に墓の印象が強くなってくる。
それはおそらく建物の周囲にまったく人影がないせいもあるだろう。
妙に表面的で遠近感がなく、閑散とした空間に輝く空だけがぎらぎらときらめいている。
――廃墟か。
事務所であれから工藤と交わした会話を思い出しながら、健次はそう思った。
「よくもまあ、こんな無駄なものを造ったもんだと思いますよ、まったく」とあのとき工藤は言っていたのだ。「それでですね、もう説明を受けてると思いますが、完成するその少し手前まではいったらしいんですよ。ところが、バブルがはじけて結局未完成のまま終わってしまった。イケイケの時代でしたからね、リゾート法なんていうのがあって、この島も結構注目されたらしいんですね。思い切り派手な計画が立てられたみたいで、このゴルフ場もその開発計画の一翼《いちよく》だったらしいんですが、ある日気が付いたら、新品同様の廃墟ですわ」
以前、テレビで同じような建物を見たことがある。霧に包まれている立派な高級リゾートホテルで、それが人も近付けないような北海道の奥地に、新しいまま放置されていた。秘境とかいう名目で、それなりの目算はあったのだろうが、経営が成り立たずに、廃墟となって野ざらしにされていた。たぶん、この国のいたるところにそういう廃墟が忘れられたまま放置されているのだろう。
「施設はかなり傷んでるんですか?」とそのとき健次がたずねると、「いや、新品同様と言ったでしょ。きれいなもんですよ。中身がないだけでね。でもこんなもの、誰も引き取り手なんてありませんよ。それも、場所がよくない。ジャングルのど真ん中なんだから。環境整備しないかぎり利用価値はゼロに近いですよ」
工藤はそう説明してくれた。「だからですね、まず初めに申し上げておきますけど、管理をお願いするのは、この施設を再びゴルフ場として復活させるためではないんです。とにかく現状維持を保《たも》ちたい。それだけなんですよ。視察に来る役人に対して、開業しようと思えばいつでもやれるんだというところを見せたい。それも、あくまでも表面上でいいんです」
「といいますと?」
「本社の連中に聞いてませんか?」
「ええ、ほとんど」
工藤は軽く舌打ちした。
「じゃあ、ぼくのほうから説明しますね。いま、利用価値はゼロに近いと言ったでしょう。でも、ゼロとは言わなかった。なぜだと思います? 飛行場ですよ。もう何年も前から、この島にも本格的な飛行場を誘致《ゆうち》したいという計画が持ち上がっていましてね。かなり辛抱強く陳情を繰り返していたみたいなんですけど、なにしろ飛行場があるなしで便利さがまるで違ってくるわけで、低迷している観光にしたって、それで一挙に活気づくだろうと、まあそういうことなんですよ。……それでまあ、本土の議会のほうでもようやく思い腰を上げそうな雰囲気になってきたんですが、飛行場となったらそれこそ山をひとつ削るくらいの大造成工事が必要になってくるわけで……」
「でも、ゴルフ場ならそれにうってつけ」
「そういうことなんです。コースもほぼ造成済みですからね。その気になれば、あとは多少のアップダウンを修整するだけで、土を入れ替えて舗装してしまえばそのまま使えるわけでしてね。クラブハウスの跡も空港の建物に流用すれば、あっというまに出来上がりですわ」
工藤はそう言って笑った。「それでまあ、そういう目算《もくさん》があって、倒産した企業からあの施設をただ同然で手に入れた本社としましては、少しでも高く自治体に買い上げてもらいたい。そういうわけでして、それには当然、賭《か》け事におけるブラフのようなものが必要になってくると、まあそういうことなんです」
「なるほど」
「実際こんなもの、無用なだけの、壮大な無駄ですよ、たしかにね。でも、そうやっておく必要があるというわけです。いつ来るかわからない未来のために……」
建物の周囲に沿って進んで行くうちに雑草の繁茂がおびただしくなってきた。場所によっては、丈が高く名も知らない草が大輪の赤い花を咲かせているところもある。浴室や更衣室になっているという部分の目隠し塀《べい》には、何か所か蔦《つた》がからまり、細かい亀裂《きれつ》が生じている壁もある。
まず初めは草むしりか、と健次はため息をついた。
それも、おそらく一日や二日では終わらないだろう。細《こま》かくチェックするだけでも一週間はかかりそうだ。そうすればまた新たな問題点が見つかる可能性もある。
――なんともかんとも。
予想はしていたことだけれど、言葉がうまく見つからない。想像を絶するような光景が広がっている。
遠くからはわからなかったが、建物全体が数え切れないほどの太い支柱に支えられていて、地上から一メートルほど浮いている構造になっていた。高床《たかゆか》式とでもいうのだろうか、工藤の説明によると、こうすることによって湿気がある程度防げるし、ネズミや害虫なども容易に侵入できなくなるのだという。
「未完成の部分から自由に出入りできるということは?」
「いや、それはないです。未完成といっても本館のクラブハウスの方は石壁なんかの外装がほとんどですし、出入りできるところはすべて内側から鍵が掛かるようになってますから、ご心配でしたらあとで見回りするときにチェックしていただければわかると思いますよ。完璧《かんぺき》なはずです」
そう言いながら前方を見渡して工藤はなにかを探している。
「あれ? まだ来てないみたいだな」
進入路から庇《ひさし》の張り出しているエントランスの車寄せにジープを入れながら彼はつぶやいた。
「……いや、たしかここでもうひとりの管理人の窪木さんと待ち合わせることになってたんですけど、まあいいでしょう。紹介はあとにして、中を見てもらいましょうか」
洋一も寡黙《かもく》になっていた。
たいへんなところに来てしまったぞという雰囲気である。
落ち着きなく辺《あた》りをきょろきょろ見回していて、敷地も建物もあまりの大きさに実感がともなわない、そんな表情をしている。
建物のエントランスの正面には、これも大きな池があって、濃い緑色の藻《も》のようなもので覆われていた。微かに蒸れたような生臭《なまぐさ》いにおいが漂っている。
「あの池は?」と健次は工藤にたずねた。
「ああ、あれはね。放っておいてもいいです。ただし、ひと月に一回ぐらいは強い酸性物質で駆除《くじよ》しないと、カエルの産卵場所になったり蚊の大群が押し寄せてくることになりますから、そのつもりで。駆除に使用する農薬や薬剤はすべて倉庫に保管してありますから、落ち着いたらそろそろやったほうがいいと思いますね」
ゴルフ場はどこでも農薬と除草剤漬けだということを聞いたことがある。植物や動物の生長が早い熱帯にあって、なおかつ周囲をジャングルに取り囲まれているのだから、さぞ強いクスリを大量に使っているのだろう。
工藤は芝居がかったしぐさで両手をぱんと叩き、戸惑《とまど》いを見せている子供たちの方に振り向いた。
「さて、オチビさんたち。ロビーからお入りくださいと言いたいところだが、実はこの自動ドアは開かない。自家発電の電源が切ってある。ということでみなさん、これから出入りするときには、いつも裏手に回ってくださーい」
4
二層吹き抜けになった巨大なロビー。
その中央に立ってさらに螺旋状に高く伸びている淡いブルーの天井を見上げていると、またあの感覚が戻ってきた。
揺れる、揺れる……。夢の中にさ迷っているような浮遊感がよみがえってくる。
途中で放棄された大きな壁画。
巨大な白い柱のエンタシス。
無人のフロントカウンター。
商品がなにもないプロショップ。
レストランや談話室があるという二階へ通じる階段には、深いブルーのカーペットが敷かれたままになっていて、その左右の手すりにはイギリス王朝ふうの複雑な装飾模様が施《ほどこ》されている。それまでほとんど口を開かなかったルカが神妙な足取りでその階段を上がっていった。
「ここが、そうなのね」
つぶやきながらルカは階段の上の二階の回廊に立った。
内部の広さと暑さに圧倒されたのか、洋一は健次のズボンを握ったままそばから離れない。ルカは、吹き抜けのロビーをぐるっと取り囲むようになっている手すりの付いた二階の回廊を爪先立ってそっと進んでいく。
なぜあんな歩き方をしているのだろう。
いまにもルカがルカでなくなってしまいそうなあやうさがある。
「ぼく、なんだか怖《こわ》いよ」
狭いアパートの一室に慣れ親しんでいた洋一にとっても、この虚《うつ》ろな空間は、それだけで脅威《きようい》となっているのだろう。健次の片足に不安そうに手を回し、なにか崇高《すうこう》なものでも仰《あお》ぐようにして、螺旋状に高く伸びていくブルーの天井を見上げている。
「……ここが、お家《うち》なの?」と洋一は健次に訊いた。
「そうだよ」
「ほんとに、お家なの?」
エントランスのガラスの向こうに、芝生の緑が広がっていた。暑い。外の反射光が内部を照らし、薄暗い空間をより広く奥行きがあるもののように見せている。転売できる調度品はほとんど処分してしまったということで、ソファーもシャンデリアもなにもなかったけれど、かえってそれがこの内部の空虚な巨大さを強調する結果となっていた。
「先日お話ししましたように、このロビーから先はまだ内装工事が完了していない部分がありますので一応お子さんたちは立ち入り禁止。そういうことでいいですね?」
浴室、脱衣室、ロッカー室、それと機械室などへ通じる長い廊下に立ち、薄暗くなっている先のエリアを指差しながら工藤は念を押した。夜中の見回りのとき以外は健次も行かないようにしたほうがいいだろう。自分が行くのを見たらルカも洋一もなにがあるのだろうと好奇心を起こすかもしれないし、電気室、機械室などへ行くのも、なるべく外から回って行ったほうがいいかもしれない。照明設備が取り除かれているその先のエリアは暗く、微かに中庭からの光が届いていて、白い壁が薄くぼんやりと奥へ向かってつづいている。
回廊を歩いていたルカがいきなり甲高《かんだか》い声を上げた。
その声が不吉な感じの谺《こだま》になって建物の中を反響していく。
「元気のいいお子さんですねえ」額に汗を浮かべた工藤があきれたようにつぶやいた。「いつも、ああなんですか?」
子供の面接もついでにやっておくんだったという表情である。
「ルカ、もうやめて降りてきなさい」
健次がそう告げても、ルカは聞こえない振りをして、爪先立って回廊の周囲を歩きつづけている。
ルカもきっと不安なのだと健次は思った。ここはあまりにも広すぎる。管理人が居着かないのも、なるほどこれならわかるような気がした。健次は早くも後悔しはじめた。
ロビーだけでこの広さなのだから、他のエリアも含めたらほとんど住むという空間ではなくなってしまう。空虚な空間がのしかかってくるような圧迫感を覚えるに違いない。中世の城にひとりで住むようなものだ。
「あっ、トンボがいるよ」
洋一が急によみがえったように声を上げ、その指の先を見ると、どこから入ってきたのか銀色のトンボが風にのったようにふわりと舞い上がり、螺旋《らせん》状の吹き抜けの中に消えていった。
「さて、二階はあとまわしにして、次のエリアに行きましょうか」
工藤もなぜここにトンボがいるのだろうという顔をして健次に言う。
「そこが、中庭です」
ロビーと東棟の間にガラスで周囲を囲まれた矩形《くけい》の空間が開いていて、白い砂が一面に敷きつめられ、置かれた岩との調和から、それが海底を模したものであることがわかる。
既視感《きしかん》があった。
白い砂の中央に「顔」があるのだ。貝を採ったときに見えたのと同じように、「顔」が、そこに……。
大きさは、背丈が大人ぐらいあるが胴体はなく、全体が顔だけである。顔面像というのだろうか、古代の遺跡などによく見られる顔面像をあきらかに模していて、大きな顔がひとつ、白い砂の上に右耳をつけるようにしてごろんと横たわっている。
「どうやら彫刻家に依頼したみたいなんですけどね、この建物の構造上早い段階にこの中庭に運び込まれたんで、結局そのままになってしまったらしいんですよ。ちゃんとセッティングしてあったはずなんですが、閉鎖が決まったときにたぶん運び出そうとしたんでしょうね、結局あきらめてしまって、あんなふうにごろんと斜めに横たわったままになっているみたいですね」
その像の、倒れたまま打ち捨てられた感じが、廃墟の印象をさらに強くした。巨大な顔面像は古代の土偶のような顔をしている。斜め横になったまま大きな眼でこちらをじっと見つめている。
「トンボはここから入ったのかな」
洋一はひとしきりトンボを追ってガラスの端を指差した。
中庭を囲っているガラスの端が細い出入り口になっていて、そのガラスのドアがロックされていず、微かに開いたままになっていた。
「ここは外からは入れるんですか?」
侵入者の有無が気になった。
「いや、無理でしょう。周囲は建物に囲まれてますからね、トンボや蝶々《ちようちよう》は入れますけど、人間だったら屋根を伝ってロープでも使わなきゃ、ここには降りられない」
中に入ってみることを工藤は勧《すす》めた。
誘われるままに一歩踏み出して白い砂の上に立ち、健次は頭上を見上げた。青い空が一面に広がっていて、張り出した緑青《ろくしよう》の屋根がその周囲を額縁で切り取るように覆っている。籠《こも》った熱気と乾燥した空気で砂がサウナのように熱せられていた。
汗を拭《ふ》きながら健次たちはロビーに戻った。
ルカの名を何度か呼んで二階から呼び寄せ、フロント脇にある事務室に入った。
工藤が機械室に行って自家発電機を動かし、冷房を入れて照明を点《つ》けられるようにする。
だが、それでもやはり薄暗かった。
天井を見上げると中央の蛍光灯が縦に六本だけ点いていて、あとは節電のために蛍光管さえはまっていない。赤や青のコードがだらりと垂れ下がっているものもある。調度品はもちろんキャビネットもなく、事務用の椅子がなぜか一脚だけぽつんと置かれていた。薄いブルーのがらんとした床には、ダンボールや古い雑誌などが乱雑に散らばっていて、前の管理人の持ち物がまだ未整理であることを工藤が申し訳なさそうにいいわけする。
「ある程度は片付けたんですけどね、なにしろ散らかしてましたから……」
「ここに住むの?」と洋一が工藤を見上げた。
「まあね」
「ベッドもなにもないよ」
「いや、ここでは昼間の生活をするだけにして、夜は二階の回廊の奥にあるVIPルームを寝室代わりに使ったほうがいいかもしれない」
「なぜですか?」と健次はたずねた。
生活空間をあまり広げたくない。
「窓ですよ。ここには窓がない」と工藤はその理由を説明した。「いまは冷房を入れましたからいいですけど、夜はもちろん止めていただかないと。するとこの暑さだから途端《とたん》に寝苦しくなってどうしようもなくなるはずでしょう。それでどうしても窓がほしくなる。もちろん窓のある部屋はいっぱいあるんですけど、いずれも一階だから、網戸をしたって外部に無防備に開け放ったまま寝るわけにはいかない。その点二階のVIPルームはしっかりした造りになってますし、仕切りをすれば二部屋として使えますから、防犯の面でも心配ない。洗面所やトイレも付いてますから不自由はしないと思いますけどね」
ゾーニングの図面を見ても、それがいちばん妥当《だとう》に思えた。
VIPルームは角部屋になっていて、窓も四か所あり、ルカがプライバシーを主張しても十分対応できそうだ。ただ問題は、キャディエリアにある食堂から寝室となるVIPルームまで行くには、広い校舎の端から端まで歩くぐらいの距離があることである。
「台所はどうすんのよ」
ルカが戸惑うのも無理はなかった。いままで住んでいた場所は部屋がひとつしかない安アパートで、朝起きて布団から顔を上げればそこに台所があったのだから。
それが今度は、朝起きて食堂まで行くのに、公園をぐるりと散歩するぐらいの距離を歩かなければならない。
「わあ、テレビがいっぱいあるよ」
左の壁面に並んではめられている四台のモニターを見て、急に活気づいたように洋一が声を上げた。
「残念でした。あれはね、テレビじゃないんだ。モニターといってね、この建物の外と中の様子を観察するためのものなんだよ」
工藤がそう説明し、「見てごらん。いまでもちゃんと見られるんだから」
モニターの下にある黒いビデオのような機器のスイッチを押すと、中央のモニターに、通ってきたロビーの光景が上方から俯瞰《ふかん》して映しだされた。おそらくあの吹き抜けになっている螺旋状の塔のどこかに小さなビデオカメラが設置されているのだろう。
「このモニターは切り替え可能になってますから、一台で一か所というわけじゃなくて、二十か所近いチェックが可能なはずなんですよ。ところがほとんどのカメラははずされてしまっていましてね。転売されたか、それとも小さいものですから盗まれてしまったか、そこのところははっきりしないんですけど、とにかくここで映るのはこれだけなんですわ」
「というと、他にもあるんですか?」
「キャディマスター室にね。スターティングテラスの状況と、外のグリーンをやや上方から映し出すもので、それは二つとも使えます。といっても、見たってなにもおもしろいものは映りませんけどね」
「なあんだ、テレビじゃないのか」がっかりして洋一がそうつぶやいた。
「冷蔵庫は、キャディエリアの従業員用食堂に備え付けの大型冷凍庫がありますからそれを使ってください。びっくりするほど性能がいいですから、なんでも保存できます。洗濯機はカート洗車場に古いものが置いてあります。掃除機は業務用の強力なやつが二番倉庫に入ってますから、それを使用すること。……おっと、大事なことを忘れてた。あれを見てください。あれが例の無線ですよ」
モニターが並んだ壁のすぐ横に、小さなスチール製のデスクがひとつだけあって、そこに工藤の事務所にあったものと同じ黒い無線機がマイクとともに置いてあった。デスクの下の引き出しを開けると、そこに携帯電話を大きくしたような無線機の子機が二台入っていて、工藤はその使い方を健次たちに説明しだした。
「まあ、一応これは無線ですけど、Eメールみたいなものだと思ってください。必要な情報はこちらから適宜《てきぎ》送信しますから」
また例によって話が長くなりだしたが、彼が言いたいことはただひとつだけだった。つまりこれは、引きこもり生活の中のパソコンと同じように、外部との唯一の連絡手段になるのだから、大切に扱うこと。それを子供たちに強調して聞かせていた。
「……電話もないのよねえ」
ひとしきりロビーで騒いだあと、また無口になっているルカがぽつんと念を押すようにそうつぶやいた。
電話はない。
テレビはもちろんアンテナもない。
近くにコンビニもない。
人さえいない。
それが健次たち家族の新しい生活の場所なのだ。
「サイテー」
そうだよなあ、というように工藤までが健次を眺めていた。
子供たちが次第に退屈そうな顔をしだしたので、カート置き場からルカと洋一の名が印されているダンボールだけを幾つか事務室に運び入れ、外のグリーンも含めた周囲の様子を見回ってくる間、自分たちの荷物の点検をしておくようにと健次は二人に言いつけた。整理に飽《あ》きたらどうせ遊び出すに決まっているので、知らないエリアには絶対に行かないようにと念を押し、それでも迷うといけないから予備のゾーニングマップをふてくされたように黙っているルカに渡した。そして工藤と一緒にカート置き場からシャッターを開け、建物の外に出た。
洋一が心配そうについてきて、事務所に戻って荷物の整理をしているようにと言ってもその場に立ってこちらの行方を眺めている。
虫の声。
太陽の輝き。
むっとするような草いきれ。
周囲を雑草に囲まれた機械庫の前に、男がひとり立っていた。
汚れたつなぎの作業着を着て、なにかそこに百年も前からぼんやりと立っているような感じで機械庫の灰色の壁によりかかっている。極端に痩《や》せたスキンヘッドの顔。膜がかかったようなどんよりと濁《にご》った眼。よく見ると健次よりも少し年上にすぎないようなのだが、ひどく日に焼けているせいかミイラを想わせる雰囲気がある。
「ああ、ここにいたんですか」と工藤はその男を見て言った。
彼が、もうひとりの管理人の窪木だった。
工藤が紹介しても、少し目礼《もくれい》しただけで口は開かない。なにも言わずにただどんよりと濁った眼をこちらに向けるばかりである。顔色がひどくわるく、表情にまったく生気というものが感じられない。
「窪木さんは、この建物の初代管理人だったんですが、いまは森の中に住んでいらっしゃるんで、ここには鎌や農薬なんかの資材と、移動用のカートを時々取りに来ますので、よろしく」
広大なグリーンの管理は、彼とその息子がローテーションを組んでやっているということを工藤は再び話した。
「それで、窪木さんは副業で、虫集めもやってましてね、東京の業者に卸《おろ》してるんですよ。なにか名前のわからない虫があったら彼に訊《き》けば一発でわかると思いますよ」
「ほう、それはすごい」と窪木を見たがまったく表情を変えなかった。
――だが。
微かに、彼の落ちくぼんだ眼に奇妙な感情の色が浮かんだことに健次は気付いた。それは、こちらを哀《あわ》れんでいるようなまなざしだった。憐憫《れんびん》の情とでもいうのだろうか、無力な小動物の運命を哀れんでいるような、そんなまなざしを一瞬浮かべ、戸口のところに立ったままでいる洋一に視線を移した。
「……かわいい坊やだ」
窪木は健次に言い、そのまま背を向けて機械庫の暗がりの中に入っていた。
最初の日はなんとかそうやって暮れていった。
5
二日目――。
まだ幼い小泉洋一はぼんやりと天井を眺めていた。
「ねえ、パパってさあ、まだあの夢見てるの?」
姉のルカが、ダンボールの中から自分のCDを取り出しながらたずねている。
パパはカートに乗って外のグリーンの視察に出かけてしまった。
「ねえ、聞いてるの?」とルカは言った。
「聞いてる」
「パパってさあ、まだあの夢見てんのかな?」
「夢って」洋一は水字貝を握ったままルカに顔を向けた。「夢って、なあに?」
「あんたずっと一緒に寝てんだから知ってんでしょ。よくさあ、前にいたアパートで夜中に悲鳴上げて飛び起きてたじゃん。覚えてる?」
「……覚えてる」
「いまはどうなの? おとといの夜もなんだか怖そうな夢を見てたみたいだけど」
洋一は、ペットロボのイサムの家であるクッキーのお菓子箱を自分のダンボール箱の中から取り出しながら、ひどく言いにくそうにして答えた。
「見てる、……みたい」
「どんな夢なんだろうね。話してくれないけどさ、怪物でも出てくんのかな」
怪物。
「ねえ、怪物でも出てくんのかな」
ルカネエは大好きな宇多田ヒカルのCDのケースを重ねてカチャカチャいわせながらしつこく訊いてくる。
「……もっと、怖いもんだと思うよ」と洋一はつぶやいた。
「もっと怖い?」
「わかんないけど、そういう気がする」
なぜこんなことをたずねるのだろう。
オネエがずっと不機嫌だったことはわかっている。
いつも怒ってばかりいるけれど、今度はそういう怒りかたではなくて、ひりひりしていて、それでいてなんだか淋《さび》しそうで……、そんな姉を見ているうちに洋一は、前に住んでいたアパートの隣の家にクロという子犬がいて、雨になるとその犬が犬小屋の中にひっそりと座っていたことを思い出してしまった。その黒い子犬はいつもは遊びに行きたくてキャンキャン吠《ほ》えてばかりいたけど、なぜか雨の日は暗い粗末な犬小屋の中にぽつんと座って、いつまでも降りつづく雨を見ていた。
クロ。
いまの姉の表情はそのときの黒い子犬にそっくりだった。
いままで見たどんなときよりも、心細そうに見えた。
「たとえば?」と姉のルカはさらにつづけた。
洋一は答えられなかった。
しかしルカはさらにたずねてくる。
「もしもし、洋一さん。たとえば、ってオネエサマは訊いてるんですけどね。起きてますか?」
「……だから」
「だから?」
「だから、たとえば、ジシンとか……」
洋一は、思い付いたままにぼそっとその名前を口に出した。
「ジシンって自分自身のジシン? パパは自分を怖がってるの?」
「そうじゃなくって、揺れるほうの」
「ああ、その地震かあ」
姉はそうつぶやくと黙ってしまった。
そのときのことを思い出しているのか、淋しい迷路に迷いこんだような表情になっている。
今日のオネエはなんだか変だった。
いや、今日だけではない。
昨日《きのう》もだ。
無口になってなにかを必死で考えるように自分の中に籠《こも》ってしまっている。いままでもそういうことは何度かあったけど、今度はそのまま放っておくと暗い穴の中にすっと吸い込まれていってしまいそうな、もう二度と戻ってこないような、そんな心細い気持ちがこちらにまで伝わってくる。
暗い穴。
洋一は以前住んでいた町田で古い農家の庭にあった井戸という穴をのぞいたことがあった。その穴はすでに涸《か》れていて水がなく、ほんとうはここは覗《のぞ》いちゃいけないんだよ、そう言いながらまるで秘密の隠れ家を教えるみたいにしてその友達は穴の中を覗かせてくれた。
いやな臭いがした。
ひんやりとした空気が下から上がってきた。
そして底が見えなかった。
夕方だったが、まだ周囲は明るかった。それなのにそこだけひどく暗くて、黒い闇がどこまでも深くつづいていた。
「すっごく深いんだ」と友達は言った。
「あの真っ暗に吸い込まれちゃうと、もう出てこれないんだってさ」
「出てこれないの?」
「そうだよ。いままでにも何人も出てこれなくなった人がいるんだから」
その人たちは、出てこれなくなってどうしたのだろう。
考えただけで怖くなった。
思い出すのさ[#「思い出すのさ」に傍点]、くらーい思い出をな[#「くらーい思い出をな」に傍点]。
クロという子犬はあれからまもなく死んでしまった。
雨がずっと降りつづいていた朝に、近くの駐車場でひっそりと横たわって死んでいるのをそのアパートの人が見つけた。首がなかった。近所の中学生たちが学校のウサギにいたずらするみたいにしてなにか大きな刃物で首を切断してしまったのだ。
洋一は、その中学生たちがたむろしているのを何度か見かけたことがあった。なぜだか知らないけれど、みんないつもニヤニヤ笑っていた。まるで、自分たちだけが強く不思議な力を握っていて、おれたちがちょっとその気になればおまえみたいなチビはいちころだぜ、そう脅《おど》かすように。
話に聞かされている地震もそれと同じだった。
強く不思議な力があって誰もかなわない。その気にさえなればいちころだ。
「……ここは、地震ある?」と洋一は顔をルカに向けた。
「わかんねえよ、そんなこと。あの工藤とかいうマッチョなおじさんに訊《き》いてみたら」
「あるの?」
「わかんねえって、言ってんだろ! しつこく訊くなよなぁ」ルカは洋一の不安そうな表情にいらだったのか、またいつものように凶暴なオトコになってそう声を上げた。「わかんねえよ、そんなこと! いちいち訊くんじゃねえよ!」
姉の金切り声が薄暗く淋しい天井を押し上げる。
それで洋一は、この新しいおうちの広さをまた実感してしまった。
そのとてつもない広さと荒れ果てた感じが、肌の内側に染み込んでくるみたいによくわかった。
なぜぼくたちはこんなところへ来てしまったのだろう?
なんだかだんだん泣きたくなってきた。
貝殻を掘り出したときの湿った地面の感触がよみがえってくる。
死んでしまったママに助けてもらいたくて、なにかに助けてもらいたくて、水字貝の携帯を耳に当ててみたけど、部屋の中は風がないのでなにも聞こえない。
でも、細くなにかが伝わってきているような気もする。囁《ささや》き声のような、遠く微《かす》かに自分を呼んでいる声のようなものが――。
「おまえ、このチンケな島出たいか?」といきなりルカネエは言った。
「……わかんない」
洋一は答えた。
「出るって言ったら、一緒に来るか?」
「出るつもりなの?」
洋一は姉の真意がわからなかった。引っ越してきたばかりなのにもう出ることを考えている。髪型が違ったせいか、いつものオネエとどこか違うような気がする。
「どうなんだよ」
そんなこと急に言われても答えられるはずがなかった。
「パパはどうするの」と洋一は言った。
「置いてく」姉のルカは答えた。
「置いてくの?」
「そう」
「どうして?」
「あいつがここを離れるはずないだろ。ようやく見付けた仕事なんだから」
ルカネエは苦しそうにそうつぶやいた。
ひどく思い詰めているような、そんな空気が躰《からだ》のまわりに漂っている。
「じゃあ、いやだ」と洋一は言った。「みんなでなきゃ、いやだ」
「どうしてもか」
「……うん」
洋一がうなずくと、ルカネエはまたため息をついた。そして大きな瞳《ひとみ》をこちらに向けて、ふとなにか言いたそうな表情になったけれど、急に首を振り、やめてしまった。
「どんなことがあっても、いやか?」
洋一は微かにうなずく。
「……そうだよなあ。無理だよなあ。おまえはパパっ子だもん」
やっぱりなという表情になって姉のルカは立ち上がった。
「ああ、自由になりてぇー」
ヒッキーとかブルーハーツとかミスチルのCDのケースをいっぱい抱えて、自分の部屋になったキャディマスター室に移動していく。
ひとりになりたくなかったので、洋一もイサムと水字貝を持って姉のあとにつづいた。
キャディマスター室は変わった部屋だった。
芝生のグリーンに面したスターティングテラスが大きな窓の外に広がっているのだが、その窓を内側から覆うものはカーテンではなく灰色の金属のアコーディオンカーテンになっていて、ルカネエが眩《まぶ》しいからと言ってそれを閉めてしまうと、なんだか銀行の窓口みたいになった。その窓に面して白く横に長いカウンターがあり、ほんとうはその上にマイクとインターフォンが備え付けられるはずだったと工藤というあのおじさんは言っていた。
でも、ルカネエが気に入ったのは、マイクとインターフォンがない代わりにエアーシューターというものがあって、それがとてもおもしろそうだったからだ。その透明な長い円筒形のプラスティックの筒は、一方が壁の中に入っていて、それは事務室にまで通じている。試しに「へのへのもへじ」を紙に描いて事務所側の伝送用の円筒ケースに丸めて入れ、それを引き出しのようになっている長い筒のスタートボックスに差し込んで赤いボタンを押すと、シューッという音がしてキャディマスター室の終点にあっというまに届いてしまった。「ワヒューン、ワヒューン」書いた手紙をやり取りして行き来させ、初めのうちはおもしろがってやっていたが、やがてそれにも飽きてしまった。
またなんにもすることがなくなって、
「地震のとき、パパどうしてた?」
洋一は親指をしゃぶりながら同じ話題に戻った。
どうしてもそれが聞きたかった。なぜだかわからないけど、オネエがどこか遠くへ行ってしまうような気がして、どうしてもその話をしてもらいたくなったのだ。
「またその話かよ」と迷惑そうに姉のルカが洋一を見る。
「うん」洋一はうなずいた。「いいでしょ?」
「……水、かけてたよ」
ルカネエが、カウンターに取り付けられているモニターの白黒の画面を見ながらぶっきらぼうにつぶやいた。「家に、いっしょけんめいになって、水かけてた」
もう何度も言っただろ、という表情で、外のグリーンの光景を映し出しているモニターの画面に眼を据えたまま、ちらっと横眼でこちらを見る。
「どうして?」床にペタンと座って壁に寄りかかりながら、初めて聞くというように洋一は耳を傾けた。「どうして水をかけてたの?」
実際には、この話は昔からもう何度も洋一は聞いていた。でも、なにかしら不安になってくると、この話をまるでお気に入りの童話をせがむみたいにお話ししてくれと言いたくなってくるのだった。
「お願い」と洋一は言った。
しょうがねえなあ、もう。そういう眼をして姉のルカは短く切ってしまった髪をぼりぼりとかいた。CDケースを無造作にカウンターの上に放り出した。
「火の粉がものすごく降ってきてさあ」と姉のルカはなんだかだるそうに話しはじめた。
「地震のあとだね」
うれしくなって洋一はすかさず応じた。
「そう。あんたはまだ赤ちゃんだったから泣いてるだけだったけどさあ、ガーンって、すっごい揺れて、いろんなもの倒れたり壊れたりしちゃったんだけどさ、そのあとあちこちから火が出たのね。ほら、怪物が火を吐くじゃない、無茶苦茶に。あんな感じでさあ、あちこち火事になっちゃったのよ」
「わるいやつだね、地震って」
「それで、火の粉のでっかいやつがじゃんじゃん飛んでくるわけ。ほんとすごかった。たき火じゃないのよ。大きな火の玉みたいなやつが、まるで爆弾みたいに飛んでくるわけ。それで、風がものすごくてさあ、台風のときみたいになっちゃってるの。びゅんびゅん、ぼうぼうなのよ。家の前に高い並木のある道があったんだけどね、その道の向こうがぼんぼん燃えてるの。家もガレージも電柱もすべて焼き尽《つ》くされて、すっごい火事だった。それが、一軒だけじゃないのよ。道の向こう全部が燃えてるんだから、道の向こう側なのに熱くていられないの。飛んでくる火の粉でヤケドしそうで。……それなのに、あいつったら、二階から屋根の上に出て、バケツで水かけてるのよ。もう必死で、水かけてるの。ママは病院の看護婦さんだったからいないし、水入れたバケツは重くてあたしは持てないから、ひとりでお風呂場《ふろば》で水|汲《く》んで、階段駆け上って、ばーって水|撒《ま》くんだけれど、そんなのすぐに乾いちゃうわけよ。でもそれでも水をかけつづけるわけ。ばかなんだからあ……、火傷《やけど》してんのに、屋根から降りなくて、服が焦げてんのよ、飛んできたでっかい火の粉で。背中がちりちり燃えてるの。『火がくるぞお、火がくるぞお』って誰かが叫んでて、消防車なんか全然来ないし、燃える音がすごいのよ。それなのに、あんたを連れて早く避難しろってあたしに言ってて、近所のおばさんにあたしたちのこと頼んでるのに、自分は屋根から降りないんだから。……ほんと、ばかなんだから……。そんなことしたって、あのものすごい火事に勝てるはずないのに、もう無我夢中《むがむちゆう》で水をかけつづけてるの……」
「でも、焼けなかったんでしょう? おうち」
ルカネエはうなずく。
「あとで破産して取られちゃったけどね」
「そのときは大丈夫だったんだ」
「まあね」
「じゃあ、ほんとはパパがボウボウさんだったんだね」
いつもの決まり文句を洋一は持ち出した。
これがこの話の結論なのだ。
でも、今日はなぜだか姉は答えてくれない。なにかまた、ふと言いたそうな顔になったが、やめてしまった。
「ボウボウさん」というのは、家の前の街路樹のクスノキに洋一が付けたニックネームだった。クスノキの並木が壁になって火を防ぎ、あとになって見てみると、火事のあった片面は焼けているのに、もう片面は焼けていなかった。だから、あれほどの火事で当然|延焼《えんしよう》してもおかしくなかったのに家が燃えなくてすんだのだ、と父親の健次は説明してくれた。つまり、あの木は家を守ってくれた。そういうわけだった。
だから、その話をしてもらうと洋一はうれしくなる。木は守り神だと思っていて、この建物の周囲に広がっているジャングルにもあまり違和感はない。木が守ってくれる、そう思っている。
それを洋一は「ボウボウさん」と呼んでいて、実はパパが自分たちを守ってくれているという話をルカにねだるのだった。
「ほんとはパパがボウボウさんだったんだね」
なぜなら、パパの背中にはいまでも火傷の跡がいくつも残っているから。それがパパが、実は「ボウボウさん」であることのあかしであると洋一は信じているから。
6
三日目――。
「こいつはなんだ?」と健次は思わず声を上げた。
ロビー裏手の石壁に、頭も足も不明な赤いナメクジのようなものが大量にびっしりと付着している。どこから来たのだろう、二日前にここに初めて来たときにはこんなものは這《は》っていなかった。地面にもうようよとそれがいて長く細くスターティングテラスまでつづいている。そして、這った跡がぬらぬらと光っている。
ものすごい数だった。
寄り集まり、折り重なって、ぬらぬらと光るナメクジの川がずっと壁まで長く連なっている。なんだかわからないがこんなものに侵入されたらかなわない。
健次は軍手をした右手を灰色の作業着の大きなポケットに入れた。折り畳んだまま取り出したマニュアルには、この虫のことは書かれていない。いつだったか、テレビの子供向けの動物番組で、ナメクジは夜行性で、寒さには強いが暑さには弱いということを言っていたような記憶がある。だからこれはおそらくナメクジではないだろう。それともその変種だろうか。ひとつが指の爪《つめ》ほどの大きさで、濃い紅色のそれが集まって草むらまで長くつづいている様子は、押し寄せる炎《ほのお》を連想させた。
大量の赤い炎が建物に向かって押し寄せてきているように見える。
健次は軍手を取り、手の甲で流れる汗を拭《ぬぐ》いながら空を仰いだ。
雨は一滴も降らず、来る日も来る日も同じ太陽が頭上でぎらぎら光っている。
午前中に村に買い出しに出かけて、また吸うようになってしまった煙草など日用品の必要なものを生協で買い揃え、がらんとした冷凍庫に少しだけだが食料を詰め込んで上機嫌になったのもつかのま、この虫の大群を見てまた憂鬱《ゆううつ》になってしまった。
あとからあとからこの廃墟を喰いつくそうとするかのように虫が押し寄せてくる。
ジャングルの奥地なのだからしかたないにしても、さて、これをどうやって退治したものだろう。
おそらくどこかで大量に発生したものが餌を求めて移動してきたのだろう。ナメクジには塩をかけるといいというが、これがナメクジである確証はない。これだけの数となると卓上塩など振り撒《ま》いてもほとんど効果はない。壁といわず草むらやコンクリートの表面を細く長く筋となってびっしりと赤いものが覆っているのだ。
試しに、右手に持っていた園芸用の小さなスコップの先で眼の前の壁に這っている赤い粒のようなそのひとつをつぶしてみた。風船のように張り詰めた感触が一瞬あって、それをさらに強く押すと、その中から焦茶色《こげちやいろ》の液汁が思わぬ勢いで飛び出してきた。飛沫がぺちゃっと頬に貼り付く。蒸した草いきれのようなにおいが鼻をかすめる。あわてて軍手でそれを拭《ぬぐ》った。それでも頬の皮膚に接着剤を塗られたような感触が残っている。
そのままカートの洗い場まで行って水道の蛇口をひねり、その生ぬるい水で何度も顔を洗った。汁が眼に入らなくてよかった。
「なるほど、これもおれの仕事というわけか……」
健次は昨夜、ほとんど眠っていなかった。うとうとして眼を覚ますと洋一がベッドからいなくなっていて、あわてて建物の中を捜し回ると階段の下の小さな隅に丸くなって眠っていたのだ。いつ自分がベッドから抜け出したのか覚えていず、ロビーの海とか秘密の呪文とかわけのわからないことをつぶやいて、またベッドに戻り眠ってしまった。
新しい環境に慣れるまでは、まだこのようなことがつづくであろうことは覚悟しておいたほうがいいかもしれない。
密林の奥から甲高《かんだか》い猿の鳴き声が伝わってくる。
白く大きな鳥が群れをなして飛びながら眩《まぶ》しい頭上を通過していく。
草刈りをしていた鎌とスコップをその場に置いて、健次は開けたままにしている機械庫の中に入った。その一角に農薬などがしまわれている薬品倉庫がある。マスターキィは使えない。腰に吊した大量の鍵の中から「薬品」と小さな貼り紙がしてあるキィを取り出し、アルミのドアを開けた。蒸し暑く、微かに酸のにおいが鼻をつく。焦茶色の天井に二重に被覆《ひふく》してカプセル化した裸電球が点《つ》いていて、その下の棚や床に用途のわからない薬品の缶や農薬類の袋が雑然と置かれていた。なにを使えばいいのだろう。「チオン」という名の銀色の缶が眼に付いたのでマニュアルでその名を探すと、「ヨトウ(夜盗虫)」に有効とある。「ヨトウ」というのはどうやら蛾《が》の幼虫らしくそれが大量に発生するとグリーンをあっというまに食い尽くされるから注意、とある。その兆候はムクドリの飛来で、もしムクドリの大群が飛来してコースのあちこちで餌らしきものをついばんでいたら、その場所にすぐに散布するようにと指示がしてある。この島にムクドリなんているのだろうか。あの紅色のナメクジのようなものは、少なくとも蛾の幼虫ではないだろう。蟻用のスミチオン、蜂やヤスデ用のジクロルボス、総合殺菌剤のTPN,アセフェートなどしかない。あとは家庭用の殺虫剤のスプレーが何種類か並んでいるだけである。とりあえず水和剤であるアセフェートとTPNを大きな噴霧器に入れ、それを試しに散布してみることにした。
あの窪木という男に訊《き》けば、あるいはわかるかもしれないのだが、窪木は今日もあらわれなかった。森の中にいるというだけで住んでいる場所もわからない。彼は彼なりにローテーションがあるのだろうからこちらが口出しすることではないが、あの日以来あらわれてはいない。だが、芝刈り機は動かした跡があるから仕事はきちんとこなしているのだろう。
とにかく暑かった。
虫刺されに注意しているので作業着は長袖になっている。頭部もタオルで巻き、首筋も同じようにタオルで巻いているので、まるで減量をしているヘビー級のボクサーのような格好になっている。全身がすでに汗でぐっしょりと濡《ぬ》れてしまっていて、軍手をするとほとんどサウナの中を歩行しているのと同じような状態になる。
金属の噴霧器はショルダー式で、二台をそれぞれ肩に掛け、機械室の壁の前まで戻ってそのノズルの先を虫の群れに向けた。効くかどうかはわからないがとにかく念入りに交互に散布していく。汗が眼に入ったがそれを拭うこともできず、とにかく風上に立って炎の川に向けてその白い液を吹き付けつづける。
そしてやがて、空《から》になってしまった噴霧器を肩から降ろし、洗い場で顔と手を洗った。
なまぬるい水だが生き返った心地《ここち》がする。作業着も脱いで全身に水をかけたいところだが、どこかから群れ集まってくる蚊の襲来を考えるとそこまでやる勇気はなかった。
三日間草刈りをつづけただけで、腰の骨が曲がらなくなり、膝《ひざ》の裏もまた痛くなった。まったくなさけない。生《お》い茂っている草をまだ半分も刈っていないのにもう足腰がへとへとになっている。水を満たしたバケツの中に浸《ひた》してあったペットボトルを口にあてがった。もちろん中身はただの水なのだが、それでも少しだけ気分がよくなってきた。
作業着の胸ポケットをまさぐってその中から汗で湿った煙草を取り出し、その一本に火をつける。
ぼんやりと空を仰いだ。
背後にあるのは暗いジャングルだけだ。
あれ以来ずいぶん遠くまで来てしまった……。
健次は大きな躰を屈め、再び建物の裏手までとぼとぼと歩きながら、妻が死んだ日のことを思い出していた。
妻の美佐子は小さな私立病院の看護婦長をしていて、あの地震の朝はちょうど宿直明けだった。だが、地震とほぼ同時に次々に担ぎ込まれて来る罹災者《りさいしや》の対応に追われて帰宅できず、そのまま病院に寝泊まりして、ようやく六日後になって延焼をまぬがれた当時の家に戻ってきたのだ。夜だった。疲れ果てている様子だったが、それでも家を失ってしまった人たちに比べればと笑顔を見せ、まだ小学生だったルカや赤ん坊の洋一の相手をしていた。そして、ようやくほっとして眠れると言い、「ああ、そうだ。洗濯相当たまってるんじゃない? 明日はいっぱいやらなくちゃね」なんだか洗濯できることがとてもうれしそうだった。
「洗濯やらなくちゃね」
眠そうなとろんとした口調で再びそう告げると、ベッドの中でもう静かな息を吐いて眠ってしまっていた。
よほど疲れていたのだろう。
まだ余震が怖かったので洋一は同じ部屋の床に小さな布団を敷いて寝かせ、ルカはひとりで子供部屋に寝ていた。健次もなんだかほっとし、外はまだ倒壊したビルや焼けてしまった家屋《かおく》ばかりなのに、ひとまずこの家は平穏を取り戻したわけだ、よかった、と布団の中にもぐりこんだ。
だが、「地震」はまだ終わっていなかったのだ。
朝になっても美佐子は起きてこなかった……。
健次は草の中を歩く。
歩きながら、もう何度も繰り返してきた「あのとき」に引き戻されている自分を感じる。
美佐子は心臓死と診断された。
過労がつづいて限界まで働きつづけた心臓がつかのまの休息を与えられてほっとする。そのほっとした瞬間が、いちばん怖いのだと説明された。心臓に疾患《しつかん》がなくとも、高速で動きつづけていたエンジンが急に最も遅い低速にシフトダウンしたような感じになって、なぜかほっとしたまま心臓が停止してしまう。うまく動かなくなってそのまま停止してしまう。実は、突然の過労死というのはそういうケースがいちばん多いのだと、解剖《かいぼう》を担当した医師は教えてくれた。危機的な状況よりも、それを切り抜けたあとの、ほっと安心してひと息ついたとき、それは不意にやってくるのだ。予告もなしにやってくる。
あのときは真冬だった。
健次はなぜか眠りが浅く、カーテンの隙間《すきま》の向こうがまだ薄暗い時間に眼が覚めてしまった。そして薄闇の中で眼を開けたままふと気付いた。
静かだったのだ。
あのときの、奇妙な静けさは忘れられない。
なにかが欠けてしまっている静けさ。
そっと寝返りを打ち隣のベッドを見ると、グレーの毛布から美佐子の裸の白い片足がはみ出ていた。太腿《ふともも》まで露出した足が垂れるようにベッドの下まで伸びている。透き通ったなまめかしい白で、それが薄闇の中に亀裂のようにぼんやりと浮かび上がっていたのだった。
殺虫剤を散布した石壁のところまで健次は戻った。
薬剤の液にまみれたナメクジのような赤い虫の動きが止まっている。
傾きかけている陽を背に健次の影が炎の川に向かって伸びていく。立ち止まって痛む腰を曲げ、その濃く澱《よど》んでいるところに眼を凝らした。
地表で大量死がはじまっていた。
火の粒のひとつひとつが破裂しているのだ。
白い薬剤をまぶされたその表面が、音もなく、まるで微細な風船が破裂するように、いきなり中身がはじけて茶色い液が飛び出てくる。あそこでも、ここでも、いたるところで破裂が起きていて、炎の川はみるみるうちに茶色い液と白い薬剤が混じり合った汚濁《おだく》に変わっていく。炎の膜がはじけ、それが寄り集まっている他の火の粒にかかり、それがまた破裂を誘発して、燃え広がる真っ赤な炎のようにさらに死が伝わっていく。あのときの地震による火災みたいにみるみるうちに広がっていく。
吐き気がしたが我慢した。このまま放置してしまうと、明日の朝にはそれが乾いて壁やスターティングテラスに付着し、落ちなくなってしまう可能性がある。とにかくもう少し様子を見て、大きなブラシと水で洗い流さなくてはならない。
「パパー、一緒に遊ぼうよぉ」
建物の中から洋一の呼ぶ声が聞こえる。カート置き場の広い駐車場でひとりでミニカーで遊んでいるはずの洋一が顔を見せ、こちらに向かって手を振っている。
だが、ボウボウさんの健次はほんとうにそれどころではなかった。
7
同じとき、自室のモニターで、小泉ルカは父親の様子を観察していた。
キャディマスター室にする予定だったというこの部屋には白黒の映像を送ってくるモニターが三台あって、そのうちの一台は使えず、いちばん左端のスターティングテラスの状況を映し出せる可動式のものと、正面のグリーン全体を見渡せる固定式のものが映像を映し出すことができる。
ルカは、この新しい家が好きではなかったが、これだけは気に入っていた。
少しの間中学に通ったときにやはり引きこもりの子がいて、その子は外には決して出ないけれど、天体望遠鏡のようなものでいつも部屋から町の様子を観察しているという話をクラスで聞いたことがある。これは、それよりも便利だった。望遠鏡だと接眼しなければ外の様子を知ることはできないが、このビデオモニターだとただ「オン」にしておくだけでテレビのように自動的に映像を見ることができる。特に左端のモニターは、その下のカウンター部分にリモコン操縦のような小さなレバーが付いていて、それを左右に動かすことでスターティングテラスの状況だけではなくスターティングロビーやカート置き場の入り口、洗い場の様子まで見渡すことができるようになっている。
そのモニターで、ルカは父親の仕事の様子を観察していた。
普通のときにはそうでもないのに、白黒の画面になってしまうとなんだか動きが滑稽《こつけい》に見える。音がないせいだろうか。昔の無声映画を見ているようで、この人はいったいなにをやっているのだろうと笑えてくる。
父親の健次は土で汚れたスニーカーを履き、大きな躰を窮屈そうにツナギの作業服で包んで、頭から白いタオルを被《かぶ》っている。あれではまるで、間抜けな泥棒だ。ダサイことこのうえない。肌が白いゴリラが人間の格好をしているみたいだ。それに、しょっちゅう汗を拭《ふ》いている。霧のような液体が自分にかかりそうになって、あわててよろけ、膝を痛そうにさすっている。くしゃみをする。激しく咳《せ》き込んで草むらに痰《たん》を吐く。薄くなりはじめた髪の毛が風にそよそよ揺れている。
ルカは両手で顔を覆った。そして、そのまましばらくじっとしていた。
この、ダサくミニクイ世界。
モニターに映っている白と黒の荒涼としたこの世界。
それは、いつかテレビで見た月面の光景を感じさせる。
ルカはバンドエイドが増えた指でカウンターの上に置いたライターをカタカタと鳴らした。行き場を失った想いが風船のようにふくらみつづけて不安で不安でたまらなくなってくる。また指を切りたくなる。ココも不安でたまらなくなって、それで手首を切ってしまったのだろうか。
なにかがかさかさ這《は》うような音が聞こえてきた。
その音に気付いて耳を澄ませると、それは背後の淡いブルーの壁の中から洩《も》れてくるように聞こえる。
かさかさ、かさかさ……。
次第《しだい》に迫《せま》ってくる。
壁の中になにかいるんだろうか。
いやだ、虫だったらどうしよう!
あわててベッドの上に乗り、壁に耳を付けた。
音はやんでいて、自分の息しか聞こえない。
気のせいだろうか……。
壁から耳を離すと、部屋の中の静寂《せいじやく》がたまらなく染みてきて自分がひどく孤独であるように思えてきた。
固定式のモニターには正面のグリーン全体が映っていて、上半分は雲ひとつない空で覆われている。
鳥も飛んでいない。
動くものがひとつもない。
モニターを眺めながら、ルカは自分がまたひとりぼっちで泣いていることに気付いた。
8
四日目――。
夜になって洋一をようやく眠らせると健次はベッドからそっと降りた。
まだ十時前だったが、明日はもっと就寝時間を早くするつもりだった。できるなら日が落ちるとともに寝て、夜明け前に起きるという原始的なパターンが理想的なのだがなかなかそうもいかない。
問題は、光だった。
窓からの光に集まってくる虫の数が半端《はんぱ》ではないのだ。
網戸のあるところはその網に、ガラスだけのところはそのガラスに、まるで標本箱みたいにびっしりと貼り付いてうようよと蠢《うごめ》いている。ルカと違って本来は虫好きであるはずの洋一もあまりの多さに圧倒されてなかなか寝付けない。倒産せずにそのままオープンしていても管理者はおそらくこの問題で悩まされたことだろう。あるいはもしかしたら、この建物を囲んでいる広大なグリーンが年月とともに少しずつ虫に占領されてしまって、もうバリアの役目を果たせなくなってしまったのかもしれない。
洋一の枕元から水字貝をそっとどけてテーブルの上に移した。
最近の洋一はペットロボのイサムよりも水字貝を手放さなくなっている。イサムは窓際の棚に指定席を確保してもらってそこにいることが多くなり、水字貝の貝殻だけが洋一にまとわりついている。電話ごっこというのだろうか、貝を携帯に見立てた遊びに興じていて、ひとりで応答を繰り返している。「どんな声が聞こえるんだい」と訊《き》くと、「ママの声」と屈託《くつたく》なく答えるが、むろん洋一は美佐子の声を知らない。ビデオテープかなにかが残っていればよかったのだがローンに追われていてとてもそれどころではなかった。だから、もしそこからほんとうのママの声が聞こえてきたとしてもそれは洋一にはわからないだろう。判断する手掛かり、つまり記憶が欠けているのだ。
「ママの声かぁ……」
なんだか複雑な気持ちになって水字貝を耳に当てた。健次にはむろんなにも聞こえない。おそらく幼児に特有の自問自答だろうがちょっと心配になってくる。
健次は運び込んだ小さなテーブルの上にある懐中電灯を手に取った。
これから初めての夜回りに行くつもりでいる。
本来ならばもっと早くやる必要があったのだが、草取りと池の清掃だけで疲れ果ててしまってとてもそれどころではなかったのだ。できるなら今夜もパスしたいところだが、あのナメクジみたいな赤い虫の例もあるし、見えないところでなにが起こっているかわからない不安がある。
スイッチの音に注意して電気を消すと、部屋の中は窓からの青白い月明かりだけになった。
VIPルームからそっと出しなに隣のサブ室を覗く。
ルカのベッドは空のままだった。きっとまだあの部屋にいるのだろう。冷房が切れて暑いはずなのにこちらが寝静まるまで出てこようとしない。
ルカが怒っているのはわかっていた。こんな奥地に自分たちを連れてきてしまった父親にこういう形で抗議しているのだ。その気持ちはわかるような気もした。もし自分がルカの立場だったらもっと強く反抗していたかもしれない。
だが、悩んだ末に決めたことだ。少しでも早くここでの生活に慣れて、できるなら学年遅れでもいいから島の中学校に通うようになってほしかった。しかしそれには時間がいる。いまはそっとしておくしかない。
懐中電灯を点けずに回廊を歩いた。
回廊もその下のロビーも、吹き抜けになっている透明なガラス天井から射《さ》し込む月の光で淡く青白く揺らいでいる。
まるで深い海の底のようだ。
階段を降りていくと、ちょうどフロント裏の事務室のドアからルカがそっと出てくるところだった。
「……おやすみ」
ルカは答えない。
眼を合わさずに足早にすれ違い、階段を上がっていってしまった。
おやすみ。
健次は自分にそうつぶやいて口をつぐんだ。
「かわいい坊やだ」窪木の言っていた言葉がなぜか気になってしかたがなかった。
ロビーの中はまだ暑い。
マニュアルには、定期点検は昼ではなく涼しくなった夜になってからするようにとあったが、それでも熱気はかなり籠《こも》ったままになっている。やはりどこかの窓を開けて風を通したほうがいいだろう。まさかこんなジャングルの奥地で泥棒に入るものなどいないだろうが、用心のためになるべく侵入しにくいところを選んで窓を開けることにすればいい。
ゾーニングの図面を懐中電灯で照らした。
窓があっていちばん侵入されにくいところといえば、中庭と女子浴室のエリアしかない。女子浴室と脱衣所のあるエリアは窓沿いを高い目隠し塀で囲まれていて外からは見えない構造になっている。灯火をつけないでこの二か所の窓を開け放っておけば多少は風が通るのではないだろうか。
ロビーの中央に立ったままゆっくりと周囲を照らしていった。光の加減だろうか、見るたびに建物の内部が微妙に違っている気がする。途中で放棄されたという大きな壁画も、こうして懐中電灯の光の輪の中で眺めると、抽象画ではなく、ひとつの実体をそのままリアルにあらわしたものであるように見える。この建物という貝殻の内部にひそんでいたものが夜になって少しずつあらわれはじめている。思わずそんな想像をしてしまって健次はあわてて首を振った。
――――?
いままでこのフロントになにかがいたような気配が残っている。
フロントの中に濃密な気配だけが残っていてそれが眼に見えない粒子のように漂っている。ねっとりとまとわりついてくる。
……おいおい、脅《おど》さないでくれよ。
息苦しいというほどではないが妙に海の中にいるような感じが増してきた。
なにもいるはずがないじゃないか。そう苦笑しながらフロントのカウンターの下を懐中電灯で照らした。湿った風が首筋を撫《な》でる。ブーンという羽音がして背後を振り返ったが誰もいない。どうやら、どこからか蚊が入ってきているようだ。蚊取りマットをもっと設置しておいたほうがいいかもしれない。池を清掃したときすごい蚊の群れだったからおそらくそれがまぎれこんできたに違いない。
再びなまぬるい風の動きを感じた。
いったいこの風はどこから吹いてくるのだ。躰のすぐ近くを一瞬魚が通り過ぎていったような湿っぽい風のそよぎを感じる。
……いかん、いかん。
長い間のホテル勤めでナイトフロントをいやというほど経験しているはずなのに、気配を感じただけでびくついてしまうなんてなんともなさけない。ひとけの絶えた真夜中のフロントでひとりぽつんと長い夜を過ごす。それをフロントマンの間では、「シャイニング」という映画の主人公の名をもじって「トランス状態」というのだが、ルカや洋一ならともかく、自分はこの種の雰囲気には慣れているはずではないか。正体不明の影にも、妙な物音にも、冷静に対処すれば必ず原因がある。
懐中電灯の光を壁画からそらし健次はフロントの前から離れた。
がらんとしたロビーの中をゆっくりと点検していく。光に照らし出された白い壁やエンタシスの柱が、そのときだけふと眼覚めた珊瑚《さんご》のようにこちらに顔を向ける。
首筋に汗が流れた。
中庭の両サイドに回って出入り口の扉を開ける。建物に囲まれているものの外はいくらか涼しくなっていて、上空から微かな風が吹き込んでくる。
健次はその風に誘われるようにして、海底に似た中庭に入った。
懐中電灯を消す。頭上の満月を見上げる。その月は都会で見るものよりもはるかに大きく輝いている。ここには蚊はいないようだった。手を伸ばして背後から顔面像の石肌に触れた。磨《みが》かれていないので削り跡が生々しく露出している。石のざらざらとした表面は意外にひんやりとしていて安定感がわるい。少し強く押すとその巨体がぐらっと前へ揺れる。そのまま前に倒して、顔を砂の面に伏せられないだろうか。そうすればこれはただの巨大な岩でしかなくなる。横になったこの顔をロビーに向けられていると、その前を通るたびに話しかけられそうでどうにも落ち着かない気分になるのだ。
こんなことでめげていてはだめだ、と健次は砂の上に腰を落としながら思い直す。
これから少しずつ生活を立て直そう。破産したことはもう過去のこととして葬《ほうむ》り、テレビや子供用自転車や小さなソファーなどをこれから買い足していって、再び少しずつ家庭らしい環境を整えていくのだ。
それにはまず、生活空間をもう少し狭める必要がある。工藤は事務所とその隣の宿直室を使うように勧めたが、どうせゴルフ場として再開するのは無理なのだから、VIPルームとそのサブ室にベッドだけでなくテーブルや椅子などの生活用品も持ち込んでしまったらどうだろうか。専用のトイレや洗面所も付いているし、二部屋だけといってもその広さは合わせて百平方メートル以上はある。問題は、冷凍設備があるキッチンが付いていないことだが、従業員食堂の厨房《ちゆうぼう》で料理を作り、当番制にしてそれを二階まで運んだらどうだろうか。いや、軽いものは子供たちに任せて、重い皿やどんぶりなどは健次が運び、みんなで協力しあうようにするのだ。なんだか小学校のころの給食運びを思い出させていいではないか。
健次は、自分が団欒《だんらん》のある育てられ方をしてこなかったために、家族で一緒に生活をするという願望が人一倍強かった。ほとんど憧《あこが》れのようなものがある。美佐子はもういないけれども、あの失ってしまった家で手に入れかけていたはずのものを、もう一度取り戻すのだ。そのためには、事務所とロビーを横切って階段を上がるという手間を惜しまずに、これからはインスタント食品ではなく、料理の本を見て、なるべく手作りのものを作ることを心掛けよう。ルカにもそれを覚えさせてみんなで一緒に食事ができるようにするのだ。それがまず最初にやるべき事柄だろう。いままで夜勤仕事ばかりだったためにそれができず、だからわざわざこの仕事を選んだのだから。
「眠っているところを揺すってわるかったな」
健次は顔面像の後頭部に語りかけた。
岩肌に背中をあずけ、再び夜空を仰いだ。厚い雲が海の方角から流れてきていて月が隠れはじめている。
足元の砂を手の先ですくい、さらさらと下に落とした。
落としつづけた……。
9
健次はいつしか夢を見ていた。
いや、初めはぼんやりと眠りの中で、あの水字貝を採ったときのことを思い出していた[#「思い出していた」に傍点]といったほうがいいかもしれない。
揺れる。
揺れる。
浅い眠りに揺られながら、健次はゆっくりと夢の中でまぶたを開いた。
波のない海面。透明な水は澄んだ空気に似て、水中マスクを通して見る海底がまるで空から俯瞰《ふかん》する地上の様子みたいに健次の眼に映っている。
きらきら光る白い海底の砂の広がり。
珊瑚に飾られた岩。
ゆらゆら反射する眩しい光に眩暈《めまい》がする。
もうあれから、二十二年という月日が経ってしまったと感じている。
ムーン・ビーチの入り江。
二人だけでデートした場所。
二十二年前にまだ女学生だった美佐子が、健次に初めて躰を許したのもこの浜のはずれにある大きな椰子《やし》の樹の陰だった。――海から上がってくる水着姿の美佐子。全身が水の滴《しずく》に濡れて小麦色の肌が輝き、眩しそうな表情で健次を見ると、ふと恥ずかしそうに顔をうつむけた。その美佐子の白い骨のかけらが、透明な海中に散っていく。
「さようなら」
夢の中でそっとつぶやき、舞い揺れながら海中に散っていく微かな白い骨のかけらを健次は見つめた。
水の中に散っていく骨。
それを思い出しながら眺めているうちに、健次は自分がこの終点のような島まで流れてきてしまった理由が初めてわかったような気がした。なるほど、さよならをしにきたのだなと彼は思う。これまで噛《か》みころしてきた夢も、無理矢理のみこんでしまった憧《あこが》れも、共に、すべてにさよならをしにきたのだ。
きみが逝《い》ってからもうずいぶん経つと、健次は美佐子の骨に向かって言った。骨を海に散らすなんて「そんなセンチなことやめてよね」と、あるいはきみは怒るかもしれない。きっぱりとした生き方が好きで、看護婦として人間の生き死に日常的に接していると「いちばんの敵はセンチなんだってよくわかる。判断を間違えちゃうから」いつも口癖のようにそう言っていたきみに、これはふさわしくない別れ方かもしれない。けれど、こうしたかった。最後にこうしたかった。
――そう思ったのだ。
あのとき、自分だけがここに帰ってくることになると、どうして想像できただろう? 二十二年前のこの島で、健次は大学を休学中の若者として、美佐子は夏休みを利用して京都から遊びに来た看護学生として知り合った。その頃健次は、本気でこの島の漁師になろうと思いアルバイトを重ねていたのだが、美佐子に出会ったことで、彼女のそばにいたいという想いがつのり、漁師になる希望をあきらめてしまったのだった。そして、彼女のあとを追うようにして島を出て、復学しその後何度か口喧嘩《くちげんか》をして別れたり再会したりしながら、やがて同棲《どうせい》し、結婚までこぎつけた。だが決してこの島のことを忘れたわけではなかった。健次の妻となった美佐子は、よくセックスのあとにふと思い出したようにこの島のことを語り、いつか機会があったら二人で再訪したいねと言っていたのだ。それほどこの島の海が気に入っている様子だった。結局生活に追われて再訪する機会を逸《いつ》したまま過ぎてしまったが、両親に早く死に別れた彼女は、もし自分に万一のことがあったら、お墓じゃなくてもいいからこの島の海に帰りたいな、と真面目な表情でつぶやいたほどだった。
骨は海底の珊瑚に降り注ぎ、やがて白い砂に混じって見分けが付かなくなるだろう。そして、もう誰にもそれが、小泉美佐子という女性の骨だったとは見分けられなくなるだろう。
骨のかけらが光り輝く海底に吸い込まれていく。
こうして、少しずつ思い出を忘れていくのだろうなと健次は夢の中で思う。少しずつ、少しずつ、二人であれだけ笑い合ったことも、あれだけ悩んだことも、あれだけ喧嘩したことも。――そう感傷にひたりながら、健次は足の下に広がっている海底を眺めた。浅瀬から点々とつづいていた珊瑚の群れが洋一の黒いフィンを付けた足下でとぎれ、白い砂の広がりが透明な水の中でゆらゆら揺れている。洋一の足に鮮やかな青い色をした小魚の群れがまとわりつくように泳いでいる以外にはなにもない。白い砂のつらなりが水中を透過してきた太陽の光に照らされて砂漠のようにずっと沖合までつづいているだけである。
水中をわずかに群れ泳いでいる小魚が、飢えた子供の群れのように両手や両足にまとわりついてきた。手足に生えているすね毛や産毛を自分たちの餌《えさ》と間違えているらしい。しきりに口先でちょんちょんと突ついてくる。痛いようなこそばゆいような感触が伝わってきて足を動かすと、青くきらきらした微かな腹を翻《ひるがえ》して散っていき、またすぐに集まってきてすね毛をついばもうとする。
海底の眩しく白い広がり。
そのとき、
「ほら、あれ見て」
洋一が健次に言ったのだ。
透明な水の底。周囲にわずかに残っている珊瑚に囲まれるようにして、白い砂地が広がっている。所々に小さな岩が露出し大きなアオブダイが悠然《ゆうぜん》と泳いでいるものの、海草もない敷き詰めたような白い広がりである。別に変わったところがあるようには見えない。なんだろう。
「字だよ、字が書いてあるんだ」と洋一は浮き輪につかまりながら言った。
「字?」
「砂に字が書いてあるんだよ」
すると健次の眼に、ただの白い広がりにしか見えなかったそれが、にわかに異なったものとして浮かび上がってきた。言われてみればたしかに、幾本もの異なった長い筋のような線が砂の上で交錯《こうさく》していた。その線は直線的に進んだかと思うと突然折れ曲がり、大きく蛇行するようにカーブを描いて他の線と交差している。まるで伝説の巨人がその指先で砂の上になにかのメッセージを残したみたいに。
「ひらがなみたいにくねくねしてるけど、ひらがなならぼく知ってるよ。漢字なのかな?」
なんという字だろう。漢字ではない。英語の「R」と「G」を重ねたもののようにも見えるが、それにしては余分な線が多すぎる。暗号の絵文字のようだ。誰かがひそかに砂の上にいたずらしたのだろうか。字のようにも見えるし、ナスカの地上絵に似た大きな模様のようなものが描かれているようにも見える。
なにかのメッセージみたいだ。
水に書かれた絵文字。水の文字……。微かに記憶が動いた。これと同じようなものを、ずっと昔やはりこの島にいたときに見たことがある。
「ね、わかったでしょ」
洋一は、大発見でもしたように小さな水中マスクの向こうで顔を輝かせている。
「ねえ、誰が書いたのかな?」
「E・Tかもしれないぞ」と健次はとっさに答えた。
「うわーっ、そうだぁ、E・Tだぁ!」
洋一が眼を丸くして喜んでいる。
健次は海面から顔を上げて微笑《ほほえ》んだ。すでになにがそれを描いたのか見当はついていた。だが、わざととぼけている。ひさしぶりの息子の笑顔を楽しむように。
こういうときが永遠につづけばいいのにな、と健次は眠りながら思う。あれ以来、健次は時々自分がなぜここ[#「ここ」に傍点]にいるのかわからなくなるときがあった。自分が生き延びてしまったことが不安でならなくなるのだ。この島で出会い、あのようにして一緒に暮らしつづけた二人であるのに、なぜ美佐子が死に、自分が生き延びさせられているのか、うまく理解できなかった。あの震災の中で死んだのは自分であってもよく、むしろ自分のほうに危機は頻繁《ひんぱん》に訪れたのに、美佐子が死に、自分はこうして生き延びてしまっている。
もちろん、生き延びてしまったことに感謝しないわけではない。だがいまだに、なぜ自分が生き延びることになったのか、それがうまく理解できないのだ。
「なんて書いてあるか、わかるかな?」と健次はフィンをゆっくりと動かし、立ち泳ぎしながら言った。
「なぞなぞだね」
「そうだ、なぞなぞだ」
「なぞなぞ、なーに?」
洋一は上機嫌に赤く陽に灼《や》けた首をかしげ、もう一度海面に顔を付けた。なぞなぞ、なーに? 小さな躰を漂わせながら海底を見下ろしている。洋一はむろんまだ英語を知らない。
「なんだか……顔みたい」
しばらく海底を覗いていたが、ふと頭を上げて、洋一は戸惑ったようにつぶやいた。顔? 顔ねえ。そう告げられて海底の模様をじっと見渡してみたが、健次にはどうしてもそれが顔には見えない。
「ほんとに顔みたいだよ、あれ」
砂の上の顔か。
「どんな顔に見える」と健次は言った。
「ママの顔」
「ママ?」
「うん、ママだよ」
思ってもいなかった言葉が出てきて健次は当惑した。どうしてあれが、と思って眺めているうちに、不意に地と図が反転するみたいに余分な線が消え、離れていると思っていた他の線と線が奇妙に結合して、ぼんやりとそこに顔のようなものがあらわれた。女性の顔。それも、健次が知っている散骨したばかりの美佐子の顔がそこに広がっていた。
(まさかそんな……)
顔であるはずがなかった。
これは痕跡《こんせき》なのだ。顔と見えるものは実は、水字貝たちが夜のうちに食べ物を求めて移動したときに生じた砂の跡なのである。
水字貝は死んだ珊瑚を好む。崩壊しかかった珊瑚礁《さんごしよう》の付近で多く見られるのはそのためだ。食べるために死骸を求めて移動し、その跡が複雑に交錯して絵文字のような図形を砂の上に現出させる。貝が人間の顔を描くはずがない。
「ママだよ! あそこにママがいる!」
散骨をしたことは洋一もルカも知らない。儀式のようにしてしまっては、またあのときのことを思い出させるだけだと考え、健次ひとりの送別のつもりだったのだ。だいいち、洋一はまだあのときは赤ん坊だったから、ママのことは写真でしか知らないはずなのに。
強くまばたきを繰り返した。
あれはママの顔ではない。
ただの――。
そう説明しようとして、そこから眼を離そうとした瞬間、まるで回路が一瞬切り替わるようにして地と図が反転した。砂の上から顔が消え、再びただのでたらめな線の集まりに戻ってしまった。やはり錯覚だったのだ。人間が砂浜を歩くと足跡が残る。それと同じだ。貝が移動した跡なのである。それが筋になっているから、上から見ると文字や模様みたいに見える。
「いたよ! あそこだよ。ほら、大きな岩が二つあるでしょ。その間が白い砂で三角になっていてー」
海中に向かって小さな指が勢い込んで指し示しているあたりに、たしかにそれはいる。岩の斜面にこれから這い上がろうとでもするかのように、わずかに傾いた特徴のある水字貝の姿がある。大きな岩と岩の間の三角状の砂地の端だ。貝の表面全体が白と茶の縞模様《しまもよう》になっている。
「取って、取って」
水が透明なので浅く見えるが、深さは十メートル近くあるだろう。以前ならこのくらいの深さはなんとか潜れたはずだが、いまはどうだろう。耳抜きも満足にできないかもしれない。脂肪の付いた肺が海底までもつかどうかさえ怪しい。たとえ潜れたとしても、潜るだけではなく、また帰って来なければならない。水圧もある。ボンベを背負っているなら、久し振りだといってもそれなりの対処の仕方もあるが、いきなり素潜《すもぐ》りではとても自信がない。ウエイトも付けていないからそれだけ浮力もかかり、貝のところまでたどり着くだけで時間がかかって、息が尽きてしまうかもしれない。
「見るだけじゃだめかな」と健次は言った。
「だめ、だめ。絶対取る。取らなきゃいやだ」
「でも、かわいそうだろ。あのまま静かにそっとしておいたほうがいいと思うけどな…」
「早く! 早く!」
洋一が耳元で叫ぶ声が聞こえる。
あそこまで行けるだろうか。
無限の距離を感じる。
貝はわずかに動いている。
その緩慢な動きが視界の中で次第に膨《ふく》れ上がり貝の突起が巨大なもののように変化していく。
健次は外気を軽く吸い、水中にだらりと下げた両手に力を入れた。腕全体で水をかき、同時に顎《あご》を引いて頭を海中に突っ込む。全身をくの字に曲げた。腹の肉が邪魔してやはり動きが鈍くなっている。水も思うようにかけない。それでも無理矢理上体を差し入れ、次いで両足を跳ね上げて海面上で垂直に揃えた。そして角度をつけ、さらに眠りの奥に没するようにして透明な海中に潜っていく。
水の抵抗が強い。
すぐに水圧を感じ、鼓膜がきりきりと音を立てて痛みだす。
フィンを動かしながら喉《のど》の奥で強く唾《つば》を飲み込み耳抜きをこころみた。左耳に感じていた圧力がにわかに抜けるように軽くなる。しかし右が抜けない。眼が飛び出しそうに突っ張り水中マスクが異様な力で顔に吸いついてくる。動作が鈍くなる。頭の中心に強い圧力が加えられ裂けそうに痛む。どのくらい潜ったのだろう。鼓膜も肺もすでに限界だ。フィンをいくら動かしても貝は少しも近付いてこない。貝がまるで、いくら追い求めても追いつくことのできない蝶のように逃げていく。また水中マスクが顔に吸いついてくる。喉元がせり上がるように苦しくなる。肺が巨大な力で締め付けられたように喘《あえ》いでいる。苦しい。
貝を見た。
水字貝は暗い海底で揺らぎながらそれでも少しずつ近付いてくる。
けれどもう限界だ。
意識がふっと遠くなる。イソギンチャクが密生している岩の端に左手がかかり無意識にそれを強くつかんで躰を引き寄せる。躰をいれかえて右手で岩をつかみ、左手を伸ばす。
伸ばす。
伸ばす。
伸ばす……。
眼をまたたくと貝の突起が指に触れていた。
いや、貝のほうから指に触れてきた。
大人の掌《てのひら》以上はある大きな水字貝だ。突起だけではなく貝殻全体が苔《こけ》と付着物で覆われている。その突起のひとつをつかんだ。ざらっとした感触が指に伝わる。緩慢な動作で貝を引き寄せる。
ふっと視覚がおかしくなった。
海の底から振り仰ぐと、きらきら光った海面に洋一とルカが浮かんでいる。その距離はひどく遠く、影のようになっているのに、それが二人であることが健次にはわかる。二人は鳥のように羽ばたきながら海面に浮かんでいる。
パタパタパタ。その羽音が伝わってくる。
「さよなら、パパ。ぼくたちここ[#「ここ」に傍点]から出ていくからね」
羽ばたきながら海底の健次をじっと見おろしていた。
苦しい。
フィンにあおられて海底の白い骨がふわっと海中に舞い上がる。それはいつしか眼の前に、亀裂《きれつ》のような妻の白い足を浮かび上がらせた。
足?
片足だけが漂っていて、ゆっくりとダンスをするように海中で揺れている。
「一緒に、踊りませんか?」
「ダンスを」
「ダンスを」
おれはここでずっとこの片足とダンスを踊りつづけるのだろうか……。
「火がくるぞお[#「火がくるぞお」に傍点]」
ダンスをする足の動きは細かな痙攣《けいれん》のようなものに変わって、泣き声が伝わってくる。足の皮膚がみるみるひび割れていく。
「熱い、熱い」という呻《うめ》きが聞こえてくる。
皮膚がぱりぱりと破れてその亀裂から赤黒い血が噴き出てくる。
流れる血が火の色に混じる。
赤い虫のような火の群れが真っ赤な燃え上がる炎となって襲ってくる。
血を止めなければ、火を止めなければと思っているのに、躰が動かない。
眼の前の足はみるみる血で染まり、どこからか再び「火がくるぞお[#「火がくるぞお」に傍点]」サイレンに似た叫びが頭の中を充《み》たして――。
悲鳴を上げ、健次は飛び起きた。
しばらく視界がぼんやりしていた。自分がどこにいるのかわからない。
寄り掛かっている顔面像に向かって「ここはどこだ?」ひとりごと喋《しやべ》りながら額から流れる汗をぬぐった。
自分が空洞になってしまったように感じる。
どのくらい長い間、そこでそうしていただろう。
月が隠れようとしている空を仰ぎながら、健次はもういちど砂をすくおうとして、異質なものが指先に触れるのを感じた。夢の中の貝のようにそれは向こうから触れてきた。
月が隠れて中庭が暗くなる。
懐中電灯を点《つ》け直してその光を足元に向けた。
骨に似た砂の中からやはり白い糸のようなものが飛び出ている。糸屑《いとくず》みたいなものだが、それが数え切れないほど多く砂の中から出ていて、指先で触れると微《かす》かに湿り気を帯びていた。
植物の芽だろうか。
だが、芽にしては、葉のようなものがなにもない。白く細い先端にさらに白い髭《ひげ》のようなものが無数に生えている。
根だった。
細い根の先端が地上に露出しているのである。植木鉢が根詰まりしたときなどにその根が地表に露出してくることがあるが、先端の細いぬらりとした根だけがまるで養分を求めるように砂の間から露出している。
むろんこの海底のような中庭には木はひとつもない。雑草すら生えていない。建物全体が高床式になっているが、おそらくこの中庭の部分だけは直接地表に接しているのではないかと思う。だから近くの木の根がここまで伸びてきたということも考えられるけれど、この建物の周囲にそれほど大きな木があっただろうか。機械庫とこの本館の間にはたしかにイチジクの木を含めた何本かの樹木が茂っている。しかしそれほど大きな樹木ではなく、ここまで根を伸ばしてくるとはとても考えられない。風になびいてコース上に南洋のいろどりを添《そ》えている大きな椰子《やし》にいたっては、近いものでも三十メートル以上離れている。建物の周囲の土地は強い農薬と除草剤がたっぷり含まれた土で囲われている。
いったいなんの根だろう。
おそらくすでに少しずつ少しずつ周囲のジャングルに侵食されはじめているのだ。
健次は砂の中に手を入れた。夢の中にあらわれた白い足のことを思い出しながらそのぬらぬらした根の出ている部分だけを指先で探った。砂の下は土ではなかった。硬いコンクリートになっていた。ということは、おそらくそこに亀裂かなにかがあるのだろう。この根はそれを貫通してきたということになる。
今度は手首まで砂に埋めてその元を探した。そしてそれを摘《つ》もうとした。だが、かなり硬くて爪だけではとても切れない。一見するとモヤシのように細く脆《もろ》そうなのだが芯《しん》がゴムのように弾力がある。今度|鋏《はさみ》を持ってきて刈り取ってしまおう。こんなものに侵入されたらささやかな団欒《だんらん》などとてもおぼつかない。
この広大な廃墟を「お家《うち》」に改造するのだ。
あの失った家をもう一度取り戻す。
「見ててくれよ」と、孤独な健次は自分を奮《ふる》い立たせるように再び顔面像に話しかけた。「おまえが証人だ。そのうち見違えるようにしてみせるからな」
10
そうしているうちに、一週間がまたたくまに過ぎていった。
健次は、五キロは痩《や》せたのではないかと思うほど汗を出して働き、建物の周囲の雑草をほぼ刈りつくした。腰痛《ようつう》と膝《ひざ》の痛みではじめはどうなることかと思ったが、鎌を使った草の刈り方に次第に慣れるにしたがってなにかを切るということに楽しみを覚えはじめたのだ。
それは、学生時代にやっていた柔道の締め技《わざ》をかけるのに似ていた。タイミングと力の配分さえ間違えなければ、相手をあっというまに気絶させるほどの威力を発揮する締め技。その技を、鎌を使って束ねた草の根元にかけるのである。ぐいっと首をひねるみたいに鎌の刃を引くと、束ねた草があっけないほど簡単に切れてしまう。その感触がなかなかいい。
ストレス解消にもなる。
ある日、その草刈り完了記念として、健次は自分にささやかな休暇を与えることにした。
洋一にねだられてカートで朝からピクニックに出かけるだけなのだが、健次は妙にうきうきしている自分を感じていた。これでルカが来ればもっといいのだが、自室に閉じこもったまま出てこようとはしなかった。
「行ってきまーす」
洋一がドア越しにルカにそう告げたが相変わらず反応はなかった。
「でも、ちゃんと生きてるみたいだよ」
「あたりまえだ」
苦笑しながらジュースや手製のおにぎりが入った籠《かご》を片手に提げ、唯一の趣味である古い画材道具を入れたバッグを肩から吊した。
最初の日に工藤にコースを案内してもらったときに、海に面した断崖《だんがい》のあるオーシャンビューコースを見る機会があって、今日はそこへピクニックも兼ねてスケッチにいく予定にしている。九番ホールとなる予定だったというそのオーシャンビューコースは、結局未完成のままになっていたが、平坦《へいたん》な芝と小さな草原のようになっている芝生のグリーンがいきなり切れて断崖となり、はるか下に波が寄せる岩場とその向こうに広がっている水平線とのコントラストがとても気に入ってしまったのだ。洋一には少し危ない場所だが行ってみる価値はある。実はその場所の話を寝物語にして、それで「行きたい、行きたい」ということになったのだ。
密林の緑が風にゆっくりと揺れている。
昆虫採集の道具と荷物を四人乗りカートの後部に乗せ、健次と洋一はクラブハウスの建物をあとにした。
オープンタイプのカートはスピードは出ないけれど開放的で楽しい。
雑草まじりの芝生のグリーンがはてしなくどこまでもつづいている。
コースの間の狭い道。
その道をしばらく走っていくと、芝を刈るロータリーモアを動かしながらグリーンの端で作業をしているフミオの姿を見かけた。
横に窪木が立っていて、こちらに気付いたようにじっと見つめている。片手に倉庫で見かけた大きな鎌を持ちその刃が太陽に反射してきらきら光っている。
健次はカートを止めた。
そこから少し離れた場所にジープが止まっていて工藤がそれに乗っていた。
「やあ、どうですか、ここの住み心地は?」と声をかけてくる。
草刈りが意外に大変だったことを正直に報告した。
「これからもっといろいろと大変なことがあると思いますけど、そのときはぼくか窪木さんに遠慮なく相談してください」
そして少し声をひそめて、窪木の体調がよくないので仕事を休むようにとさっきから勧《すす》めているのだけれど、言うことを聞いてくれないのだと工藤はこぼした。
健次たちが近付いてきたのを知って、フミオは軽く眼で挨拶《あいさつ》を返したが、窪木はこちらに背を向けて雑草を刈りつづけている。
「……とうさん」フミオが声をかけた。
しかし窪木は芝刈り機のモーターの音で聞こえないのか、振り向きもしない。
フミオは困ったように日焼けした首を回し、またあの哀《かな》しそうな眼で健次を見た。誰かに助けを求めている子供のような、そんなまなざしだった。
父親に向かって、刃を替えてくるけど、戻ってきたら今日はもう仕事はやめにしようと短く告げている。芝刈り機のモアを止め、それをカートに載《の》せて、そのまま離れて行ってしまった。
「どっちもどっちだよなあ、まったく」工藤が苦笑しながらつぶやいているのが聞こえる。
窪木はそのときになって初めて視線を上げ健次に会釈《えしやく》をした。最初に会ったときよりもさらに顔色がよくなかった。
なぜこうも無理して仕事をつづけているのだろう。工藤がさらに声をかけたが彼はなにも言わずに再び下を向き、黙々と雑草を刈りつづけた。
彼の家族も独特だった。
どの家族にも、家族であるがゆえにそれなりの雰囲気というものをもっていて、それは眼には見えない立体のようなものだと健次は思っている。それはその家庭や家族に接したときに感じられる一種独特のもので、家族それぞれが反射しあって構成しているホログラムのようなものだ。だから、それがどんなに歪《ゆが》んだ形になっていても、その立体の構成員である家族にはわからない。他人が外から見たり、接したときに、初めて感じられる独特ななにかだ。
自分の家族はどうだろう。
どのような立体を構成しているのだろう。
「じゃあ、また」
彼らに別れを告げ再びカートを走らせた。
窪木が激しく咳《せ》き込む音が背後で響いている。
初めて会ったとき、窪木の眼に一瞬浮かんですぐに消えていった哀《あわ》れむような表情のことをまた思い出した。
あの眼の意味はなんだろう……。
そのとき、グリーンのバンカーの穴から黒い子犬が出てきた。
ふと立ち止まり、こちらに顔を向けた。
「お友達!」洋一が声を上げる。
声は明るいが、一瞬信じられないものでも見たように緊張して健次の腕を強く握ってくる。健次はその唐突さに首をかしげた。たしかに洋一にとって友達のことは重大な問題だろう。あれ以来いろんな場所を転々としてきたために洋一は親しい友達をつくることもできなかった。
でも、来年からは違う。
「来年になれば学校だ」と健次は言った。
ここの仕事がつとまるかどうかまだわからないのに、将来の話などしたくはなかったが、口は勝手に将来のことを喋っていた。
「もうすぐ?」と洋一。
「もうすぐだ。学校に行けばお友達がいっぱいできるぞ。今度村に出たときに小学校にも行ってみような」
できるなら、ルカにも中学校を見せてみたい。都会と違ってのんびりしているだろうから、もしかするとルカも気に入ってくれるかもしれない。
そうなのだ、と健次は思う。
こうやって毎日を過ごしていく。あくせく考えずにただのんびりと毎日をやり過ごしていく。それもいいではないか。洋一が小学生になり、ルカもなんとか中学校に復学させてその送り迎えをし、彼らの毎日に一喜一憂《いつきいちゆう》しながらこの島で年老いていく。やがてルカも洋一も成人し、この島から離れていくだろう。そのときになってからまた自分の身の振り方を考えればいいのだ。
――ところが。
「やっぱりクロだ、クロだよ、パパ!」
いきなり洋一がそう叫んで健次の肩を叩《たた》き、カートを止めさせたのだった。
緊張して眼を見開き、まるで夢が実現してしまったかのようにその驚きが顔にあらわれている。
「どうしたんだいったい」と健次は言った。
「パパ、やっぱりあの子犬はクロだよぉ」
クロ?
どうやらバンカーの穴からあらわれたあの黒い子犬のことを言っているらしいのだが、もうひとつその意味がのみこめない。
クロって、いったいなんだ?
「ほら、クロだよ。町田のアパートにいたでしょ。隣のおうちに」
思い出した。
たしかにその犬も黒い子犬だった。
だが、その犬はすでに死んでいる。近くの悪ガキどもがいじめ殺した末に、その首を切断するという残酷《ざんこく》なことをやってのけたのだ。洋一はそれを知ってしばらく食事もできないほどのショックを受けていた。ペットロボは死なないからといって廃品だったイサムを拾ってきたのも、それが遠因ではないかと健次は思っている。
「あれはクロじゃないな」と健次は洋一にやさしく告げた。
「どうして?」
「クロは死んだんだ」
「そうだよ」
なんだ、覚えているじゃないか。
「じゃあ、わかるだろ。あれはクロじゃない」
洋一は、たとえ身内の死に接してもきょとんとしてまだ死の意味が実感できないような年齢である。だからしかたがないのかもしれないが、あれはクロではない。ただの黒い子犬だ。
けれど洋一は興奮して、自分が夢の中で見てきたという思い出たちの国の話を聞かせようとする。
なぜこんなに興奮しているのだろう。階段の下で眠ってしまっていたあのときも、たしかそのようなことを寝ぼけまなこで言っていたような気がする。
「……それでね、ぼくが地下の穴の底で起こしてあげたんだ。水字貝に教えてもらった秘密の呪文《じゆもん》でね。そうして、みんな遊びにおいでって言ってあげたんだ」
それで死んだ犬が遊びに来たというわけか?
おいおい、よしてくれよ。
「秘密の呪文って、どんな呪文なのかな?」と健次は自分が見た夢のことを思い出しながらたずねた。
「……それがね、……わかんないの。眼が覚めたら忘れちゃったの」
「忘れたのか」
「そうなの」
ほんとに残念そうな表情をしている。
「でも、新しい呪文ならぼく知ってるよ。隠れ村で教わったから」
いつしか自分で作り出したというゲームの話になってしまった。
最近の洋一はどうも夢と現実を混同してしまう傾向があった。あるいは空想と現実とでもいうべきだろうか。水字貝を使ったあの携帯ごっこのこともそうだ。それに熱中していると、時折ぼんやりとなって眼が焦点を結ばなくなるときがある。ひとりぼっちで遠くのものを見ているようなまなざしになるのだ。
死んでしまったものはもう戻らない。ゲームのリセットとは違うのだ。
いつからこんなことを言うようになったのだろうか。
「クロ、戻っておいで」
まだあの死んでしまった子犬の名前を呼んでいる。
黒い子犬は首輪を付けていなかった。
だからおそらく野犬だったのだろう。
隣のグリーンを横切りながらこちらをもう一度振り返り、雑草が生《お》い茂るラフの中に消えていった。
11
ルカは、ひそかに修学旅行というものに憧《あこが》れていた。
他の生徒といつも一緒に拘束《こうそく》されて、あんなめんどっちいものとはルカも思うのだけれど、なんとなく行ってみたいのだ。
枕投げとかいうのをしてみたい。
みんなで消灯後にひそかに起きて、好きなこととかくだらないことを話してみたい。
登校拒否なんだからどうせ行けないことはわかっている。
でも、少女雑誌なんかで「修学旅行、徹夜で起きて、だべってて、けっこう楽しかったよお」なんていう投書を読むと、なんとなくそういうのもよさそうだなあって思ったりする。
けれどいまはダサすぎる月世界旅行の最中だった。
モニターの画面に父親たちが不毛の砂漠に出かけていく光景が映っていた。
ここに来てから、毎日毎日同じような日々がつづいていた。
同じ空。
同じ風景。
その変わらない月面の風景の中で、弟の洋一が月面|探索《たんさく》車のようなカートから身を乗り出して楽しそうに笑っている。なんであいつはあんなに元気なのだろう。ここに来た当初は不安そうにしてあたしのあとばかりついてまわっていたのに、二日もしないうちに元気になってしまった。父親の健次が作業をするために外に出ているときなどは、あたしが「入るな」というのもかまわずこの部屋に押し入ってきて、勝手なことをぺらぺらとほざいている。そして、奇妙なことを言うのだ。
「ねえオネエちゃん、よかったね。もうすぐお友達が戻って来るんだよ」
そんなわけのわからないことをつぶやいてひとりでにこにこ笑っていた。まったくこいつは言葉の使い方も知らないとルカはあきれた。あたしもひどいけれどこいつはもっとひどい。「友達が戻って来る」じゃなくて、「友達ができる」だろう。
ほんとに、ばかじゃないかとルカは思う。
隔離《かくり》されるみたいにこんな月の裏側に連れて来られて、友達なんかできるはずがねえだろうが。
おまえには眼があるのか?
まわりを見てみなさい。
どこに友達になれそうなやつの家がある?
雑草と荒れた芝生とジャングルとエイリアンしかいないじゃないか。
それともおまえはあたしに、あの気味のわるい昆虫とか呼ばれている宇宙生物どもとお友達になれと言っているのか?
それはな、イヤミって言うんだぞ。
わかってるのか?
あのきたならしい水字貝を持って電話ごっこをするだけでもめざわりなのに、宇宙生物なんかを捕まえてきてこの部屋に持ってきたら、きさまを処刑するからそのつもりでいなさい。楽しそうにカートに乗って、昆虫採集の網なんかを振り回しているけれど、もしそんなことをしたら、姉と弟の縁《えん》を即座にぶった切ってやるからそのつもりでいなさい。――ルカはそんなとりとめのないことを考えながら、次第に小さくなっていくカートの後ろ姿を見送った。
「お友達か……」
でもそれは、もしかするとほんとうになるかもしれない。
ルカはひそかにそう思っている。
カートが消えて行くその先のグリーンの上に、小さな動いている人影があるからだ。この荒れ果てた月面にもちゃんとした生物が住んでいる可能性があるのだ。あれはきっと、窪木という人とその息子のフミオだろう。
フミオには、ここに来た次の日にカート置き場で会ったことがあった。彼はちょうど調子の悪くなったカートのエンジンを直しているところだった。びっくりした。
「……あのときの」
浜辺で携帯を拾ってくれた青年だった。
「あっ、どうも」
彼は広い肩を揺らしてなんだか内気そうにもごもごとつぶやき、またエンジンの方に顔を向けてしまった。小麦色に焼けた背中をわずかに覆っているランニングの白さが眩《まぶ》しかった。……そうなんだ[#「そうなんだ」に傍点]、彼はここの人だったんだ[#「彼はここの人だったんだ」に傍点]。
急にむくむくと希望がわいてきた。
荒れ果てた月面にもちゃんと知性のある生物がいたのだ。
それがわかっただけでもうれしかった。
この広大な宇宙で人類はやっぱり孤独じゃなかったんだ。
そのときルカが「なにしてるの?」と近寄りながら少し気取ってたずねてみると、彼は汚れたスパナでエンジンを指し、ちょっと微笑《ほほえ》んだ。「点火プラグの調子がわるいみたいで……」低い声でそれしか言わなかった。
でも、なぜかそれだけで充分だった。
「この前はありがとう」
とりあえず、あのとき役立たずの携帯を拾ってくれたお礼を言ってみた。彼は再び作業をやめてちょっと困ったような顔をしてルカを見ていた。
「どうしたの?」
なるべくかわいらしく見えるように首をかしげ、ルカはニッコリと特製の笑顔をつくった。
彼はスパナを持っていない左手をカーキ色のチノパンのポケットに入れてなにか言いたそうにもぞもぞしていた。いつもだったらそういう煮え切らない態度にはいらつくのだけれど、なぜか彼の場合はゆるせる。かえって年下のハニカミ屋さんみたいに思えてかわいく感じる。
「これ」と彼は言った。
大きな手でポケットの中からゆっくりと銀色に光るものを取り出した。
「…………」
「……落ちてたから」
彼はきまりわるそうにそう言って、左手をまたルカの眼の前に差し出した。
あの携帯だった。
ペンションのバルコニーからかっとなって捨ててしまったあの携帯が、また再び彼の手の中にあった。
「どうしてぇ?」
信じられないものを見るようにルカは銀色の携帯と彼の陽に焼けた顔を交互に見た。バルコニーから投げ捨てたはずなのに、携帯はへこんでもいず、液晶も割れていなくて、まるで新品のようにきらきらと輝いていた。
「また拾っちゃったんだ」
偶然だろうか。
これは偶然なんだろうか。
なんだか忠実な愛犬がどこかにいて、捨てても捨てても放り投げた棒切れを拾ってくれているような、そんな感じだった。
なぜよりによって、彼はあたしの携帯ばかりを拾うのだろう。
なにかそういう縁《えん》があるのだろうか。
駅のホームで偶然会った人とまた再び同じホームで会い、たまたま時間が違ってもまた会ってしまうことを繰り返しているうちに、なんだかそれが運命であるかのように感じはじめてゴールインしてしまったカップルの話なんてよく聞く。少女雑誌の出会い系にも、結び付くきっかけって意外とそういうのが多いと書いてあった。
するとこれも、その出会い系の一種なんだろうか。きっとそうだ。この広大な宇宙であたしたちは結ばれる運命だったのかもしれない。その結びの神様が、携帯なのだ。いままでどこにも繋《つな》がらなかったこの携帯なのだ。
「ありがと」
ルカは、上気した顔で彼が差し出す携帯をそっと受け取った。
彼。
眼の前にいる彼。
おーっと、まだ名前も聞いてなかったじゃないか。
「おれ、……フミオ」
照れたように彼はそう短くつぶやき、グリーンの管理をしている父親の仕事を時折こうして手伝っているのだと説明した。
窪木フミオ。
年はおそらく十八ぐらいだろう。
色黒で、すらりとした細い躰に、短く刈り上げた髪。がっちりした肩や首がむき出しになっている白いランニングは、汗と土でかなり汚れているのに、なぜか不潔な感じがしなかった。人付き合いが苦手なのだろうか。ルカが喋《しやべ》らないと彼も口を開かず、ルカに携帯を返してしまうと少しきまりわるそうにしてエンジンのボルトをスパナで回していた。
あの人とだったら、少しは打ち解けて話せそうなのに……。
ルカはモニターの画面にぽつんと映っている黒い点のような影を眺めながらそう思う。彼となら、一緒にマンガを読めるかもしれない。彼は彼で好きなコミックを読んで、あたしはあたしで好きなコミックを読んでて、ひと言も話さなくても、なんだか一緒にいるのが楽しい。繋がっている。そんな感じになれるかもしれない。
でも、彼はいつもあんなに遠くにいて、自分からは近寄ってきてくれない。
(まったくよぉ、いやんなるぜ)
あたしはこの年でまだ初恋もしたことがないんだからな。
初恋もせずに、お姫さまみたいにこんな所に閉じ込められているんだからな。
ジュリエットより孤独。
そう思わない?
恋をするなんて不可能に近い。
「恋かあ……」
ため息が出てくる。
ルカは、カウンターの上に置いた卓上の丸い鏡に向かって問いかけた。
「鏡よ、鏡よ、鏡さん。あたしの初恋どうなるの?」
「絶望的です」
「処女のまま死んじゃうの?」
「そういうことになりますな」
「なんだか悲しい」
「泣いていいですよ。涙はただですからね」
12
ルカは、もう何度も読んで隅から隅まで暗記してしまった少女雑誌をカウンターの端に放り出し、立ち上がった。モニターを消すと急に淋《さび》しくなる。フミオのことを思い出して無理矢理はしゃいでいた気持ちが萎《な》えてしまう。ぼんやりしているうちにふとなにかに吸い込まれてしまいそうな瞬間があって、それがルカを落ち着かなくさせている。
腕や足がいつのまにか汗ばんでいた。閉じたままにしているシャッターを開けて窓を開放すれば少しは気分がよくなるかもしれないのだが、網戸がないから宇宙生物が入ってくる恐れがある。
ルカはうろうろと、横に細長い部屋を行き来した。
壁に沿って置いてある小さな自分専用の籐《とう》のチェストの中から、洗い立てのピンクの下着を取り出した。
気分転換法、その一。
二人がいない間にシャワーを浴びてしまおう。そして、汗を洗い流してすっきりしたところで、お昼寝だ。
ルカはキャディマスター室から出た。
裸足《はだし》のまま灰色の通路をそっと歩いた。二人ともピクニックに出かけてしまって誰もいないのだから、堂々と歩けばいいのだが、なぜかそっと歩いてしまう。
――あのときも、そうだった。
なんだか眠れなくて、まだ小学生だったルカはヒマワリのパジャマのまま両親の寝室にそっと入った。父親は眠っていて、その横であの日ようやく病院から帰ってきた母親も眠っていた。……そう、眠っていた。
そしてその白い足だけがベッドの布団からはみ出ていたのだ。
ルカはまた地面が揺れるのではないかと怖《こわ》くてたまらず、とにかく両親と一緒に寝たかった。でも、二人ともよく眠っているみたいだから声をかけづらかった。それで、どうしようかとぼんやり部屋の隅に立っていると、眼の前の白い足が震えるようにびくっと動いたのだ。それがなにか唐突な動きだったので、また地震かと声を上げそうになった。思わず両手でママのその白い足首を握ってしまった。
ルカの手の中で、足は何度か痙攣《けいれん》するように動いた。
びくびくと動いた。
まるで白い蛇みたいに。
驚いて怖くなり、足首を握った両手でそれを必死に押さえ付けた。それでも掌《てのひら》を通して震えが伝わってくる。どうしよう、どうにもならない、どうすることもできない……。悲鳴を上げそうになったとき、足はもう一度びくっと弱く痙攣して静かになり、そのまま動かなくなった。ルカは怖くなって気が付くと息を切らして廊下に出ていた。大急ぎで自分のベッドに入り布団の中にもぐって丸くなった。しばらく経ってから父親の叫び声が聞こえてきたとき、自分はなにか取り返しのつかないことをしたのだとそう感じた。
心臓死。
あとになってそう聞かされても、あの痙攣している蛇のような感触はいつまでも残った。……ママが死んだのはあたしのせいじゃない。年長になってからそのことに気付き、いくら自分にそう言い聞かせてもだめなのだ。あの痙攣している足首の感触がまるでルカの中に刷り込まれてしまったみたいにどこまでもどこまでもついてくる。執拗《しつよう》に追いかけてくる――。
灰色の通路をそっと忍び足で歩きながら、ルカは立ち止まった。
(……やだ、どうしたんだろう?)
いつのまにか思い出してしまっている。このことだけは誰にも言えず、ずっと自分の中に鍵をかけて秘めてきたことなのに、……なぜか思い出してしまっている。思い出すことさえ拒否して、心の奥底のずっと下のほうに押し込めてしまっていたはずなのに、なぜ急にこんなところで思い出してしまったんだろう。
通路の角を曲がった。
最初の角を曲がったとき、ルカはあらためてひとりきりで自分がここにいるということを意識した。たいしたお城だぜ、そう思う。浴室に行くだけなのに、角を三回も曲がらなくちゃならない。ホテルを借り切っているようなものだ。
「クェ、クェ、クェ、チョコボ――ルゥ」
自分がわざとふざけているのを感じる。
「クェ、クェ、クェ、チョコボ――ルゥ」
身振りまでいれて、なんでこんなに自分はばかみたいにふざけているのだろう。
うねうねとつづく灰色の通路は蒸し暑かった。
ここに来てから雨がまったく降っていないというのに妙な湿っぽさがある。ぬめっとした灰色の壁がつづいているせいだろうか。けちらないでここにも冷房を入れればいいのに、壁までなんだか汗をかいているみたいだ。裸足の足裏にもリノリュームの床が吸い付いてくるような感触がある。通路自体が熱をもって呼吸しているように感じる。早くも首筋に汗が流れはじめた。
静かすぎるのだ。
ペタッ、ペタッと自分の足音だけが響いている。
急に叫びたくなった。
静かなのは嫌いだ。
息苦しいというほどではないけれど、どこからともなく圧力がかかってきて自分の背中を押されているような気がしてくる。なんであの秘密を思い出しちゃったのかしら。灰色の通路には、ほんとうに細かな水滴が漂っていた。水蒸気のようにそれは濡れていて壁や床がぬるぬると光っている。ブーンという羽音が耳元をかすめる。ルカは無意識に首筋を手で叩《たた》いた。「……おまえ、なにびびってるんだよ」声に出して自分に言い聞かせる。また羽音がした。眼の前を、壁から湧《わ》き出てきたような青く小さな蠅が飛んでいて、いったん視野から消え、また戻ってくる。青く濃い絵の具を塗ったみたいな蠅だ。それがルカの周囲を飛び回り、手で追い払っても追い払っても執拗にまとわりついてきた。
一匹。また一匹と次第に数が増えてくる。
どこから入ってきたのだろう。
通路を足早に歩きながら、わけもなく心臓が締め付けられるみたいにドキドキしてくる。
ルカは従業員控え室の隣にある小さな浴室のドアを開けようとした。ノブの表面もぬるっと濡れている。まるでいままで誰かがシャワーを浴びていたみたいに水蒸気で濡れている。ぞっとしてその手を一瞬引っ込めた。そして、気付いた。
そうか、洋一だ。
さっき出かける前に、すごく寝汗をかいていたからシャワーを浴びなさいと言われていた。それであいつ、ドアも閉めずにまたいつもの調子でシャワーを浴びたんだ。なにしろ濡れた躰のまま恥ずかしげもなく裸で歩き回るようなやつだから、シャワーの水蒸気が通路にまで漂ってしまったのだ。
(そうだ、きっとそうに違いない)
もう一度濡れたノブをそっと指先でつまみ、浴室のドアを開けた。
薄暗い空間が広がる。
手だけを差し入れて、入り口脇の壁をまさぐり、スイッチを押した。
蛍光灯があくびをするみたいにチカチカとまたたき、がらんとした更衣室があらわれた。むろん誰もいない。広い空間がただ小さな倉庫のように広がっているだけである。コンクリートの床の表面が剥《む》き出しになったまま、その奥の隅に黒いプラスティックの籠《かご》だけが置いてある。百円ショップで売っているようなチープな籠だ。下着類などの汚れものは父親が臨時にこしらえたダンボールの箱に入れるようになっている。
(……ったく、これじゃホームレスだぜ)
ぎぃこ、ぎぃこ。
空調のダクトの中からなにかがこすれたような音が伝わってきた。なんだかほんとに嫌《いや》な音だ。鳥肌が立ってくる。シャワーを浴びる気がなくなってしまった。でも、籠《こも》った熱気で汗は容赦《ようしや》なく流れてくる。気持ちわるい。ルカは、ドアを内側から閉め、せき立てられるようにまずTシャツを脱いだ。そして、イチゴ模様のブラとショーツを競争するみたいに脱ぎ捨てて籠の中に放り込み、急いでシャワールームの中に入った。
このシャワールームには、学校のプールのときみたいに衝立《ついたて》で仕切られた簡易的なブースが三つ並んでいる。奥の二つはシャワーの蛇口にすでに錆《さび》が生じているので、いちばん手前のブースを使うように言われている。
タイルに足を踏み出した瞬間にわかった。やはり、そうだ。洋一が使っている。タイルはまだびしょびしょに濡れていて、シャンプーは蓋《ふた》もせずにひっくり返り、蛇口からは水滴がぽたぽたと落ちている。なあんだ、やっぱりそうか。絆創膏《ばんそうこう》だらけの指で蛇口の下の青いレバーをひねり、水を噴出させた。そして、その冷たい滴《しずく》の中に両手だけを差し入れた。
うん、なかなか気持ちいい。
泳げないから学校のプールは嫌いだったけど、シャワーは好きだった。水《みず》飛沫《しぶき》が肌を滑り落ちていくときの感触が好きなのだ。しばらく両手だけを冷やして、それから片足ずつ針のように冷たい水の中に浸《ひた》した。ここの水は、遠くの高い山から引いているので、とても冷たいのだという。それだけは気に入っている。日焼けして皮が剥《む》けている肌に心地いい。今度は赤いレバーをひねり、湯を混ぜて水を少し温かくした。
その飛沫の中に裸の躰を入れる。
そして、髪も洗わないまましばらくまたそうしていた。
短く刈ってしまった頭の先から滝のように滴が落ちてくる、この瞬間が好きだ。水音だけが聞こえていて、小さな、まだ膨《ふく》らみ切っていない乳首がつんと立ってくるのがわかる。その乳首の先を、くすぐるように水が流れていく。下腹は、もう幼いころのようではないけれど、まだちょっとだけ膨らんでいる。でも、お臍《へそ》の形はグッドである。恥毛もけっこう生えてきた。日に焼けた部分と白い肌……。そういえば小さい頃、ママと一緒にシャワーをよく浴びたっけ。ルカは飛沫の中で眼を開けたまま、水の流れていく様子を眺め、その視線を下に落としていった。
透明な水がルカの裸の躰を流れ、下のクリーム色のタイルに流れ落ちている。その水はさらに集まって足を撫《な》で、ブースの蛇口の下にある排水口に流れ込んでいく。
排水口の蓋《ふた》に髪の毛がからんでいて、水に揺れていた。
長い髪。それもかなり数が多く、その黒い毛がうねうねとからみ合って排水口にまとわりついている。誰の髪の毛だろう。あたしのは発作的に短く刈ってしまったから、こんなに長いのはもう残っていないはずだ。洋一も前髪は眼にかかるぐらいにちょっと長いけど、それでもこんなに長くはない。髪が薄くなりかかっている父親は論外だろう。この長さだと、肩の下あたりまで届くかしら。
(それに……、あれはなんだろう?)
モヤシのようにぼんやりとした白く細い根のようなものが髪の毛の黒にからまり合うようにして蠢《うごめ》いている。白が黒とからみ合って水に濡れ、排水口からにょろにょろと這《は》い出してきて、髪の毛の養分を吸うみたいに幾本も白く細い触手を伸ばしている。
――そして。
水音が二重になっていた。
シャワーの水音が二重になっているのだ。
下腹から脚にかけてじわっと冷たいものが広がり、ルカは動けなくなった。全身の皮膚が水音を聞き分けようとして激しく鳥肌立っている。……そんなはずはない。このシャワールームにはあたしひとりしかいなかったじゃない。そうでしょう?
耳元を激しく流れていく水音。その音の下にさらにもうひとつの水音が基調低音のように流れていて、それは右のほうから聞こえてくる。
隣のブースだ。
いやもうひとつ向こうだろうか。
各ブースを仕切っている青いプラスティックの板は上半身だけが隠れるようになっていて、上も下も空間が開いている。だから水を浴びている首を少し曲げてみればわかることなのに、曲げられない。まるで鉄の首輪でがっしりと固定されてしまったみたいに曲げようとしても曲がらない。……ああ、どうしよう。重なっていた水音が一瞬分離して隣のブースに濃密な気配をかたちどる。首が曲がらないなら眼だけでもちょっと斜めに動かせばそれは見えるはずなのだ。それなのに、できない。背筋が震え出す。誰もいない。いるはずがない。そう思えば思うほど、そこに誰かがいることが確信として感じられる。……ああ、ゆるして。……ゆるしてください。お願いします。激しく流れ落ちていく水滴の中で、だらりと下がった自分の手がゆらゆらと揺れている。自分の腕のように感じられない。どうしよう、どうしようと躰がじっとしていられなくなって、幼いころみたいに足を踏み鳴らしたくなる。見てしまえ。見てしまえばそこには誰もいないことがわかるんだから。でも、できない。腰の奥で湧き起こった悪寒《おかん》が背筋を伝って上へ上へと這い上がってきて、ルカは悲鳴を上げそうになった。声が出ない。口を開いているのに、声にならない。
そのとき、誰かの指がぺたんとルカの右肩に置かれた。
「ヒイッ――!」声にならない叫びを上げ、ルカはその場にへなへなと崩れ落ちた。冷たい指の感触はゆっくりと撫で回すように肩から背中に降りていった。怖くてうしろを見ることができない。「……お願いだから、……お願いだから」泣き叫んでも指の感触は消えてくれない。
「……ルカ」
女のひとが囁《ささや》く声がして、ルカはいきなり電流を通されたようにめちゃくちゃに手を振り回した。
裸のまま浴室の外に飛び出した。
13
その日一日中、パパはオネエと話をしようとしていた。
オネエが浴室で幽霊のようなものを見たらしいのだけれどそれ以上のことはパパにもわからないらしい。
洋一もなんだかぞっとした。
自分たちがピクニックをしていた間になにがあったのか、洋一にもよくわからなかった。オネエがひどく無口になってしまって、いつもはちょっと怒らせると火がついたみたいになんでもぺらぺら喋ってしまうのに、今度ばかりは洋一にも話してくれないからだ。ただ、洋一がいる場所にもいろんな声だけは聞こえてきたので、だいたいのところは理解できた。
フミオという人の声はぼそぼそと言っていた。
芝刈り機の刃が鈍くなってしまったのでそれを取り替えに来ると、建物の中から悲鳴が聞こえた。それで、どうしたのかと思い中に入った。すると姉のルカが通路で泣き叫んでいて、どうしようもなかったのでとりあえず更衣室にあったバスタオルでくるみ、なんとか気持ちを落ち着かせようとした。
「……それで、……あのう、彼女がしきりに言っていたんで、シャワールームに行ってみたんですけど……、あちこち水浸しになってましたけど誰もいなくて、そこで誰かがシャワーを浴びていたかどうかというのは、おれには判断がつきませんけど、怒らないであげてください。彼女はほんと、必死だったわけで……」
なんとなく、あまり他人とは喋り慣れていないような感じで、そう説明している。ぼそぼそした声の調子で、まるで自分がわるいことをして怒られているような言い方だった。ただそれでも、なんとなくオネエを傷つけたくないようなそんな雰囲気があって、このフミオさんもきっといい人に違いないと洋一は思った。
「すいません。余計なことしちゃって」とフミオさんは言っていた。
「いや、ほんとに助かりました」と父親の健次の声。
「……それで」
「まだなにか?」
「このことおれのおやじには――」
「言わないほうがいいんだね」
「ええ、そうなんです、あまり他人とはかかわるなって言われてるんで、……いいですか?」
無口なフミオさんがなにかぼそぼそとそうつぶやき、二人の声は次第に遠ざかっていった。
こちらが聞き耳を立てていたためだろうか、声の遠ざかり方がパパとフミオさんでは違っていて、パパの声は自然に遠ざかっていくのにフミオさんのつぶやく声はいつまでも耳元に残った。
その会話で、わかったことがある。
オネエはあの男の人にハダカを見られてしまったのだ。
きっと、そうだ。
バスタオルでくるんだって言ってたから、きっとそうだったんだ。
それで恥ずかしくて、口もきけないのだ。
これは姉のルカにとって大変なことだった。
パパがちらっと見てしまっただけでも大騒ぎになるのに、ほとんど知らない人にハダカを見られちゃったんだから、これは大変なことだった。
けど、洋一にもひとつだけわからないことがある。
長い髪の毛というのはなんだろう。オネエがあのペンションで「ほっさてき」に切ってしまった髪の毛のことを言ってるんだろうか。パパはルカネエの髪が突然短くなってしまったことを「ほっさてき」と言っていた。するとまた「ほっさてき」が起こったのだろうか。けれどオネエの髪はあれからあまり変わっていない。しきりに髪の毛をいじっていて、切ってしまったことを後悔しているみたいなところもある。
だから、オネエの髪の毛のことじゃない。排水口に流れていたという髪の毛というのは、なんの髪の毛のことなんだろう。
――そのうち夜になって、洋一が眠れずにVIPルームのベッドの中で考えていると、父親の健次が寝かせにきて話しはじめた。
「……まいったよ」
パパは入ってくるなり疲れた顔でそうつぶやいた。「あれだけの大騒ぎになったのに、ほとんどなにも話してくれないんだからなあ」悲しそうな表情になって、ベッドで横になっている洋一の髪をそっと撫《な》でた。床屋さん、いつやろうかとひとりごとみたいにそう言っている。
「オネエ、元気?」と洋一はパパに訊《き》いた。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと熱が出てるからオクスリを飲んで寝てるよ。泣きつづけたから疲れちゃったみたいだな」
パパは深いため息をついて、そのまま黙ってしまった。ただ、大きな手だけが動いていて、洋一の頭を撫でつづけている。
「いったい、どうしちゃったんだろうなぁ」ぽつんとそうつぶやく。
パパは疲れている。
洋一が気が付くと、眼がとろんとしはじめた。そしてそのうちにこっくりこっくりと自分のほうが先に眠ってしまった。
でも、洋一は眠らなかった。
お友達のクロがもうすぐあらわれるから。
「クロ」
心の中でそう呼びかけると、戸口のところに黒い子犬があらわれる。
洋一のそばに近付いてきて、差し出す指をペロペロと舐めてくれる。
14
同じ時刻、ベッドで丸くなったまま、ルカは奇妙な夢を見ていた。
夢の中でルカはまだ小学生で、学校にも行かず、幼い赤ん坊の洋一と一緒にアパートの粗末《そまつ》な部屋で寝ていた。そして、死んでしまった母親の美佐子が布団の足元にぼんやりと浮かぶように立っていた。
ルカは体調がよくなかった。
水のような便が止まらず、躰が溶けそうになっていて、ただぶるぶる震えながら、足元に立っている母親を見ていた。どこから入って来たのだろう、閉ざしたカーテンの隙間から眩しい光が射《さ》していて、母親の黒く長い髪を照らしている。逆光になっていて顔は見えない。口を開こうとすると、母親はあのとき[#「あのとき」に傍点]の自分みたいにすっと手を伸ばしてきて、汚れた毛布からはみ出ているルカの足首に触れた。冷たく白い手だった。その冷たさが、震えながら寝ているルカの全身に伝わってきた。
洋一に、ママが帰ってきたよと教えてやろうとしたが、なぜか喉が詰まったようになってしまって声が出なかった。
ママが帰ってきたよ。
思い出したから、きっと帰ってきてくれたんだ。
洋一は何も気付かずに横で口を開けて眠っている。
(ママ、お帰り)
告げようとすると、ママは黙ったままルカの足を洗いはじめた。どこから湧き出てくるのか、その掌《てのひら》から透明な冷たい水が溢《あふ》れてきて、それがルカの足先に注がれる。足の指に丹念に注がれつづける。その水は震えるほど冷たかった。
「冷たいよ、ママ」そう言っても、その水は注がれつづける。
あたしはなにかわるいことをしたのだろうか。いけないことをしてしまったのだろうか。なにも思い浮かばない。理由がないのに、ママは冷たい水を注ぎつづける。水音がして、冷たい水に洗われ、ひどく寒くなってくる。「……ママ、冷たいよ」水はどんどん冷たくなる。まるで氷のようになっても、水をかけるのをやめない。幼いころ、冬に風呂場でお仕置《しおき》されたみたいに、どんどん水がかけられる。シャワーみたいに水が降りそそいでくる。
「お願い、やめて」とルカは言った。
「やめられない」
「ねえ、お願いだから……、やめてください」
「やめられない」
「どうして」
「やめられない」
「……冷たいよ、……ほんとに冷たいよ」
そこでルカの眼が開いた。
白い天井が頭上に広がっている。
なにもかもが海の底みたいにすべて青白い。
月明かりが洩《も》れている開け放たれた窓……。
(ああ、よかった。夢だったのだ)
でも、まだ水に濡れた感触が肌に残っている。
水……。
あのとき、裸のままシャワーから飛び出て悲鳴を上げながら廊下でうずくまっていたとき、フミオが来てくれなかったら自分はどうなったかわからなかった。気が付いたら水に濡れた裸のまま彼にしがみついていて、泣きながらシャワー室になにかがいると訴えていた。自分が裸でいることを自覚したのは彼の眼を見たときだ。彼はなぜかとても哀しそうな眼をしていて、その瞳に自分の姿が映っていた。そのとたんに意識したのだ。すっぽんぽんの裸でいることを。ぜーんぶ見られてしまっていることを。それでまた悲鳴を上げてしまった。今度は彼が狼狽《ろうばい》してしまって、あわてて離れようとし、ルカはルカで恥ずかしさのあまり躰を両手で隠して動けずにいると、彼がシャワー室に行って、ともかくタオルで躰を包んでくれた。
やさしく、そっと。
(なんであんなことになっちゃったんだろ?)
恥ずかしくて死にたくなる。
もうまともに彼の顔を見られない。
どうしよう。
そう思い、ルカが足を動かそうとすると、なにかがそこにいた。あのときと同じだった。隣のブースに感じた、なにかがそこにいるという気配。肌の表面を押されるような圧迫感。その気配が濃密になってルカは耐え切れずに頭を上げ、ベッドの足元を見た。
猫がいた。
ベッドの端の白いシーツのところに茶と白のまだらの猫が一匹座っていて、まるで日なたぼっこでもするようにうっとりした表情でこちらをぼんやりと眺めていた。ルカは思わず声を上げそうになったが、ふと視線が合ってしまい、その穏《おだ》やかな瞳に吸い込まれるように緊張感がほぐれていった。猫は嫌いなはずなのに、なぜかいやな気がしない。昔からの友達であるような気持ちがする。
「あんた、どこから入って来たの?」
猫は答える代わりに、ふと気まぐれのように立ち上がると、足のほうに躰をすり寄せ、その首を伸ばしてきた。
15
それから二日間はなにもなかった。
二日後の朝、健次は大量のカビ取りスプレーを持って女子浴室エリアに入った。
風を通すために窓を開けたとき一度見ているので、カビがひどいことはわかっていた。天井の淡いブルーのカラーアルミは問題ないのだが、壁の模様タイルと床の御影石《みかげいし》の隙間の境目が特にひどい。
女子浴室は長方形の造りになっていて、入って左の壁に沿って洗い場となるシャワーと蛇口が並んでいる。そのどれもが水も湯も出るようになっている。
蛇口をひねると赤い鉄色の水が出た。かなり長い間使っていない感じだ。それでもカビが生じるのは、目隠し塀で風の通り道が遮断されるためと日当たりがわるいせいだと思えるが確信はなかった。高床式になっているにもかかわらず、かなり湿気が感じられる。
ここを使うしかなかった。
あの従業員用のシャワールームでなにがあったのか。あとになってシャワーを浴びるために健次は自分も同じブースを使いながら点検してみたが、やはりフミオが言っていたことと同じ結論に達するしかなかった。
隣のブースには誰もいなかった。そう考えるしかないのだ。
ルカはいったいどうしてしまったのだろう?
特に最近はひどい。話したくもない。そんな感じなのだ。
二階のサブ室は鍵が掛からないからやはり下のモニターがあるキャディマスター室で寝ると言い出し、健次はしかたなくベッドを再び解体して階下に持っていき、それを組み立て直した。そしてそれが終わると、事務所のエアーシューターがいきなり作動して、「もうあのシャワールームは使いたくない」というルカからのメッセージが送り付けられてきたのだ。口で言えばいいのに、わざわざそういう方法をとって距離を置こうとしている。そうとしか思えないようなところがある。
言いなりだな、と自分でも思う。そんなのはわがままだと拒否しようと思えばできたはずだった。けれど、この島に強引に連れてきてしまったのは、この自分なのだ。だからそのぐらいのことは聞いてあげてもいいだろう。そう思えてくるのだ。
「大丈夫だ、安心してていいから、パパがなんとかするから」
健次は、これもルカの要求通り、女子浴室を使うことにした。工藤との初めの取り決めでは使用しないことになっていたが、いまのルカに無理矢理あのシャワールームを使えというのはやはり酷だ。あの「病気」と同じように幻覚を見たのだといっても、見た本人のルカにそれは通用しない。かといってこの暑さがつづくのだから、シャワーを使わないというわけにもいかない。工藤には黙っていて毎回きちんと清掃をすればいいだろう。
窓を開け放ったまま健次は丹念にスプレーの液を撒《ま》きはじめた。
ひどく臭《にお》う。有毒ガスだという話を聞いたことがあるから、作業はすばやく終える必要がある。
敷き詰められた床の御影石の隙間を赤い蟻が這《は》っていた。それも一匹や二匹ではない。列をなしている。その蟻の赤い隊列を眺めながら元をたどっていこうとすると、石の隙間から白い糸のようなものが出ているのを健次は見つけた。
根だ。それも、中庭のときよりも繁茂していて、よく見ると左端の隙間だけでなく浴槽の亀裂になっているところからも白く長い髭《ひげ》を出している。
これは根のほうが先だと、液を散布することを一時中止してその根を切りつづけたが、浴室だけではなく脱衣室や女子ロッカーなどにもあちこちから侵入してきていて、きりがない感じだった。「ええい、畜生」切っても切っても、それは湧き出るように眼についてくる。触れるとなぜかじっとりと指にまとわりついてくる。
このぶんでは機械室や電気室、そしておそらく男子浴室のエリアにまで根がひそかに侵入している可能性がある。ぬらぬらして弾力があって、切ってしまうとその切断面からわずかに黄味がかった白濁した液がこぼれてくる。
まったく、それらしき大木はどこにもないのに、この根はいったいどこから湧いてくるのだ。これほど容易に根に侵入されてしまうなんて、この建物自体が手抜き工事の欠陥《けつかん》構造物だと思わざるをえない。外観はそれらしく華《はな》やかに見せているが、建物中が亀裂や隙間だらけなのだ。
健次は、侵入経路をつきとめるために外に出て、支柱を調べてみることにした。
懐中電灯と床下の構造図面、それに植木用の剪定鋏《せんていばさみ》などを身に付けて、裏手に回り、床下にもぐった。
広がっている床下は暗い。
高床式といっても、地表と床の間は一メートルほどしか開いていず、入ったところで身を屈《かが》めたまま懐中電灯を当てると、その輪の中に太い最初の支柱が浮かび上がった。
雑草はほとんど生えていない。太陽が当たらず、地表もざらついた粗いコンクリートで覆われているためだろう。閑散としていて、なぜか高速道路の放置された高架下を圧縮したような図を思い浮かべてしまう。光を当てた最初の支柱にはそれほど多くの根はからんでいず、その代わりに太い金属の管のようなものが床上から表面を這わせて延びてきていた。そしてその先端が地中に突き刺さるように入っている。きちんと工事を完了させていないために管の接続部分がずれてしまっていて、中の鈍く光っている銅のケーブルが露出している。構造図面を取り出して光を向けると、それは塔の先端部分にある避雷針《ひらいしん》から、建物の中を貫通して地中に延びている避雷導線《ひらいどうせん》の金属棒の最終部分だということがわかった。それがどういうわけか、この部分だけが外部に露出しているのである。
危ないな、と思った。
ずれた接続部をカバーし直そうとして動かすと、それは意外なほどあっけなく簡単にはずれてしまった。ぱかっとはずれて床に落ち割れてしまったのだ。カバーの中で、小指ほどの太さに束ねられている避雷針からの導線の金属棒が、さらに露出し光を鈍く反射している。
(まあ、いいか……)
これに根などがからんだら落雷したときに火災の原因になりかねないが、まだその心配はないだろう。それよりも、根だ。とにかく根の侵入経路をつきとめなければならない。
空間が低く狭いので地表に腹を付けた匍匐《ほふく》状態のままさらに奥へと進んだ。
土埃《つちぼこり》がひどい。いたるところに大きな蜘蛛《くも》が巣を張っていて、その蜘蛛の糸がからみついてくる。五メートルも行かないうちに息苦しさを感じはじめた。正面部分の開口部は外観をよくするためにほとんどふさがれていて、それが余計この低く狭い空間をトンネルのように圧迫《あつぱく》している。這ったまま進むたびに土埃が口の中に入り、喉が詰まったようになる。じわじわと締め付けられるような圧迫感を感じる。
虫の乾燥した死骸。
こんなところでもせっせと活動している蟻の群れ。
途中で止まって懐中電灯の光で周囲を隈《くま》なく照らしてみた。なにか白い糸のようなものがびっしりと奥の支柱の表面にからみついている。また、根だった。入った辺りはコンクリートで固められていたのに、奥は手抜きされていて乾燥した地面があらわになっている。そこからまるで養分を求めてのたうつように根がからみ合い、重なり合って支柱の表面を覆い、上へ上へと伸びていっている。さらに暗い奥には、見渡せるかぎり細《こま》かい神経網《しんけいもう》のような根がはびこっていて、それがぼうっと夜光塗料をまぶしたように白く浮かび上がる。巨大な巣のようになっている。なぜかこの建物の下の地中には、根づまりでもするのではないかと思われるほどの細かい根だけが、びっしりとからみ合って繁殖しているのだ。
16
日々が過ぎていった。
来る日も来る日も作業に明け暮れながら、健次はいつしか今日が何曜日だかわからなくなっていた。
情報から離れて久しい。
テレビも新聞もない。
時間の感覚が次第に薄らいでいる。
それに、あの夢だ。ここに来てからというものほとんど眠れず、同じ夢ばかり見つづけている。健次はその夢に要求されているような、奇妙な圧迫感を感じていた。自分が見ている夢なのだから自分の中にあるはずなのに、なぜかそれは、自分を越えてしまって別の存在になり、ある要求を突き付けてきている気がするのだ。
夢に強《し》いられている。そんな感じがしてならない。
健次の夢の中で、白い足は要求していた。早く洗ってくれと。血が止まらないから、早く洗ってくれと。
だから、洗ってやる。
洗いながら指を数える。
足の指を、一本、また一本と、数えつづける。
すると、巨大なため息で吹き消されたように、周囲が暗くなる。ふと気付くと、起伏《きふく》のあるグリーンの向こう、水平線の彼方《かなた》にいまにも巨大な夕陽が沈もうとしている。気の遠くなるようなその茫漠《ぼうばく》さを前にしていると、自分が最前線に立って、不寝《ふしん》の|見張り番《ボウボウさん》をしているような気がしてくる。
だが夕陽は沈まない。それは真っ赤に燃え盛る炎で、それが少しずつこちらに向かって進んできている。
おそろしく暑くなる。
炎がもうすぐそこまで来ているのだ。
「火が来るぞぉ」火の粉が飛んで来た。ごーっと火だるまになって飛んで来た。足が焼けている。一本や二本ではなく家族みんなの足が焼けている。「水をかけてあげなくちゃ。早く、水をかけてあげなくちゃ」不寝番の健次は、ごろりと横たわっている幼い足に水をかける。でもその足は燃え盛る炎の舌にあぶられ、皮膚がぶすぶすと音を立てはじめる。皮が破れ、火と同じように真っ赤な血が溢れてくる。どうしよう。血の溢れるその足は、洗っても洗っても赤く染まっていく。守っているのに、こんなに守っているのに、なぜだ、なぜ子供たちまで――。
そう叫びながら、闇の中でまた飛び起きたのだ。
でも昨夜はそれだけではなかった。隣のベッドには洋一がいるが、微かに遠くから、なにかの唸《うな》り声のようなものが聞こえてきたのだ。
(犬か?)
いや、違う。
その唸り声は、まるで気が違ったみたいに猛《たけ》り狂い、荒れ狂い、金属音のような金切り声を上げている。
(ルカの叫びか?)
そうではない。もっと躰の大きな、なにか猛獣のようなものだ。――そう気付いた途端に、健次は跳ね起きた。隣のベッドをとっさにうかがう。洋一はなにも気付かずに眠っている。
薄闇の中を、パジャマのまま階下に向かった。猛り狂った唸り声はやまない。ますます大きくなる。通路を歩いていくと、ルカの姿を見かけたが、あわてて自室に入ってドアを閉じてしまう。
どうやらその音は、カート置き場から聞こえてくるようだ。
逡巡《しゆんじゆん》しながら思いきってドアを開けると、暗闇の中でなにか異様なものが跳ね回っていた。明かりを点《つ》けると、それが木をなぎ倒すときに使うチェーンソウであることがわかった。がらんとしたカート置き場のコンクリートの上で、モーター音を響かせながらチェーンソウが狂ったように動いていたのだ。
誰もいなかった。ただチェーンソウとその回転する刃が、コンクリートの上で断末魔《だんまつま》の叫びを上げる怪物のように跳ね回っていた。
こんなものがひとりでに動き出すはずがない。健次は、眠る前に通路でうろうろしていたルカのことを思い出した。そして、自分でも抑《おさ》えがきかないほどの怒りを爆発させてしまった。
「なぜだ? なぜこんなばかげたイタズラをする? 親を痛め付けて、なにがそんなにおもしろい?」
あのとき健次はルカがそれをやったのだと決め付け、ドアを激しく叩いたが、中からはなにも反応がなかった。
「起きてるんだろ、わかってるんだ。なぜだ? なぜあんなことをして困らせようとするんだ」
激昂《げつこう》してドアを開けようとすると、背後の事務室のエアーシューターが作動して、シュッという音がし、ルカのなぐり書きをしたメモが送られて来た。その破いたノートの切れ端には、「もういやだ! 死んじゃえ、みんな死んじゃえ」やけになったような調子で、ピンクの蛍光ペンによって大書されていた。
冷静になって考えてみれば、ルカにチェーンソウを動かせるはずはないのだ。あんな力のいる作業ができるはずがない。それなのに、そのときはそう決め付けてしまった。その紙をじっと見詰めた。
なにかが少しずつ狂いはじめていた。
自分がなさけないというよりも、いままで隠されていたものが突然あらわになってしまった、それをいきなり啓示《けいじ》のように突き付けられた、そんな驚きがあった。――健次はもう一度それを読んだ。繰り返し、その文字を眼で追った。
……みんなで。
死ぬのか……。
孤独を感じながらそう思った。
今日は何曜日だろう? 健次はぼんやりと考える。
眠っていないせいか、頭の奥が痛かった。
また偏頭痛《へんずつう》がはじまったようだ。
地震の直後に頭痛がはじまって、一時期治まっていたのだが、またはじまった。右側頭部のこめかみの周囲が時折電流を流されたように痛む。膝も痛い。これはあきらかに働きすぎである。根の進入経路をつきとめようとして点検作業に没頭しすぎたのだ。
女子浴室エリアのカビ取りはなんとか終了したものの、根のほうはその気になって細部までよく見てみると、女子浴室エリアはもちろん、電気室、機械室、ボイラー室のエリア、そしてカート置き場や倉庫などにも這い出してきていることがわかった。工事が未完了な男子浴室エリアももちろんである。
とにかく、すごい勢いで根が侵入してきているのだ。
壁の内側や床下、天井など、この建物自体が神経網をはりめぐらせたように細かな根にくるまれつつある。細かい根が壁や柱や天井などの裏側をまるでそれ自身が独立して生きているみたいに自在に這い回っているのだ。そして、繭《まゆ》のように根の糸を増殖させて吐き出し、空間を覆いつくそうとしている。
頭が痛かった。
自分の脳にまであの細かい根と炎の夢が侵入してきているような気がする。
17
そうして、とうとうあの夜がやってきた。
夜の見回りの途中で、そのときも健次は食堂に入った。
誰もいないがらんとした灰色の従業員食堂。
その片隅に、白い長方形のテーブルがひとつだけ置かれていて、健次はそこにため息をもらしながら腰を落とした。
椅子の軋《きし》む音。
微かに腐ったような臭いが漂っている。
最近は食事をなるべく作るようにしているので、どうしても生ゴミが出てしまう。この島にもゴミの回収はあるらしいのだがむろんここまでは来てくれない。建物の裏手に穴を掘りゴミを埋めることにしたのだが、どうしてもそこまで運ぶのが億劫《おつくう》になって溜《た》めてしまうことになる。
健次は、細かな蠅がたかっている台所に立って流しのゴミを清掃し、それを脇に置いてあったゴミ袋に入れて二重に結び直した。やれやれ、ひと息入れることにするか……。頭痛薬代わりにウイスキーを飲むことにする。大型の冷凍庫の中に入ってそこで少し涼み、大きな氷を出してきた。以前少しだけショット・バーに勤めたことがあって、大きな氷をアイスピックで突き刺して割り、その氷で飲むウイスキーがなんとなく気に入ってしまったのだ。
ところが、肝心《かんじん》のアイスピックが見当たらない。
どこにいったのだろう。
三日前に使ったことは覚えているのだが、それ以後の記憶がない。
たしかに台所のシンクの横の二番目の引き出しに入れたと思ったのだが、それがないのだ。他の引き出しや棚も調べてみたが見当たらない。しかたがないので、グラスの中の安ウイスキーにペットボトルに入れた冷水を注ぎ、水割りにしてそれを口に運んだ。
ウイスキーをやりながら、夜食代わりにカップラーメンをすする。がらんとした食堂の中を見渡す。
この食堂の天井や床の隅の隙間にも、あの根が這《は》い出してきていた。けれど、もういちいち切る気にもなれない。まるでこちらの養分を吸い取ろうとして追いかけてきているみたいにあちこちに白いものが出没しているが、当分の間は放っておくことにする。あまりにも目立つようになってきたら雑草みたいにいちどきに刈り取ってやるのだ。だがこれほど量が多いということは、おそらく別なところにも侵入路があるのではないかという気もする。もしかすると高床を支えているあの太い支柱の中を通ってきているのかもしれない。もしそうだとしたらお手上げだ。
健次はテーブルの上に図面を広げた。
その図面には、これまでチェックしてきたこの建物の構造的な欠陥部分に赤のボールペンで×印をいれてある。実際、調べれば調べるほど、手抜き工事がいたるところで行われていた。もしかすると、工事中止の噂が早い段階で伝わったためかもしれないが、とにかくきちんとした内装や外装がなされていないのだ。ほとんど中途|半端《はんぱ》に投げ出されていて、隙間や軋みや歪《ゆが》みがあらゆる部分に生じている。極端にいえば、図体《ずうたい》のでかい掘っ建て小屋のようなものである。「……おれの精神構造と同じだな」健次はふとそう思う。そのこころは? 「隙間だらけで、いつ崩れてもおかしくない」ウイスキーをあおりながら健次は笑い出した。まったく、いい組み合わせだよ。孤独すぎて、最近はひとりごとばかり言っている。
おれはいったいなにをやっているんだろう。
こんなことだから正体不明の根なんかに侵入されてしまうのだ。
これではまるで建物全体の内側に生きたグループケーブルを張りめぐらせているようなものじゃないか。あの避雷針の導線をちょっと細工すれば、落雷と同時に根が燃えてこの建物全体が炎に包まれることになる。
(炎……)
ホテルに勤務しているとき、このグループケーブル火災の怖さは消防訓練でいやというほど指摘されたことがあった。グループケーブルとは、束になった電気配線のことだ。ケーブルの被覆材《ひふくざい》はポリエチレンや塩化ビニールが主体だからとにかくよく燃える。特にまとめてグループ化すると、相互に燃料と温度を補給し合って勢いよく燃え、ケーブルに沿ってまたたくまに延焼していく。防火区画も通用しない。いわばケーブル自体が導火線のようになって、あっというまに建物全体に燃え広がってしまうのだ。
あの避雷針の導線はもう一度接地部分も含めて取り付け直す必要があった。
「火が来るぞぉ[#「火が来るぞぉ」に傍点]」
不意に、背後から手が伸びてきた。
ぎくっとして振り返る。
誰もいない。
根が這いはじめた無機質な壁が広がっているだけである。
酔いがまわりはじめた耳に、微かに小さな足音が伝わってきた。
カチカチカチ。
犬の爪が通路の床にあたって音を立てている。開け放ったドアの向こう、食堂前の通路の隅を、あの黒い子犬がゆっくりと横切っていく。いつのまにかこの建物の中に住み着いてしまっているのだ。
「よお、深夜の散歩か。カップラーメンでも喰《く》ってけよ」
健次が声をかけると、子犬は立ち止まってこちらを見た。短い尻尾《しつぽ》が下に垂れ、口がわずかに開いている。
「喉が渇いてないか? 安いウイスキーもあるぞ」
気味わるさを押し殺して健次は陽気な声を上げた。
黒い子犬。
洋一はその犬を相変わらずクロだと言っている。
そんなはずはないが、記憶はもうあやふやになっているのでその犬がクロかどうかもわからない。とにかく洋一は喜んでいて、一緒にベッドの中に連れ込もうとしたが、それは洗ってからにしてくれと言って下に寝かせた。それがはじまりだった。
その子犬はまるで人間の言葉がわかるみたいに素直に言いつけに従い、床にうずくまってこちらを見ていた。その姿にはたしかに記憶があった。病気がちだったのか、あの子犬はいつもそうやって疲れたように犬小屋の前の地面にうずくまっていたのだ。
「クロ、ほら来いよ」こちらの冗談めかした誘いが聞こえたかのように子犬は静かにこちらに近付いてきた。クロと呼んで反応したことに健次は薄気味わるさを覚える。
カチカチカチ。
犬の爪がリノリュームの床にあたるその音。
黒い子犬はテーブルの脚元まで来ると立ち止まって、健次を見上げた。
ウイスキーを喉の奥に流し込みながら犬を見返す。こいつが近付いてくると決まってあの湿っぽい空気を感じてしまう。初めての巡回のときに感じたあの湿っぽい風のような空気だ。
犬は相手の恐怖を鼻で嗅《か》ぎ取るという。
……おれはおまえを恐れてなんかいないぜ。わかるだろ、その鼻で。それにしてもおまえはなんて無表情なんだろうな。一応犬の体裁《ていさい》はととのえているのにまったく犬を感じさせない。眼を見ているとすっと吸い込まれていきそうな気がする。
「どれ、歯を見せてみろ」
視界が微かにゆがむ。
健次は自分の動揺《どうよう》を見透かされないようにできるだけ自然に手を伸ばした。犬はたじろぎもせずそこに座ったままでいる。指先が犬の短い毛に触れた。少し湿ったような感触がある。でも、臭《にお》いはしない。臭わないのに、青く小さな蠅が周囲を飛んでいる。うるさい蠅だ。といったって、蠅など気にしていたらここでは暮らせないけどな。
……そうだ、歯だった。歯を見せてみろ。
なぜだかわからないが、この犬の歯はイサムのようにプラスティックかなにかなのではないのかとふと思ったのだ。
だが、違った。
深く切れ込んだ口元に溜まっている泡の感触を気味わるく思いながら、その唇を指先で開けると、鮮やかなピンク色の歯肉に尖《とが》った犬歯《けんし》が見えた。
「いいか、噛《か》むなよ。間違ってもこの歯で洋一を噛むなよ」
おれはなにを恐れているのだろう。自分が「トランス状態」になっているのを感じる。家が襲ってきたり、化物に襲撃されるなどというのは映画の中だけの出来事だ。現実にはありえない。
糸を引いているよだれ。黄色く濁った赤い眼。わずかに湿っている鼻。
犬は吸い込まれそうな赤い眼をこちらに向け、されるままになっている。
あの源造という老人が元凶なのだと健次は思う。あいつがあのとき、あんな脅《おど》すようなことを言いさえしなければ、この犬はただの犬として接することができるのに、あの予言のような言葉が暗示となって、いつしか犬を犬として見られなくなってしまっている。それはおそらくルカも洋一も同じだろう。ここに来てからの二人の変貌《へんぼう》ぶりを見ていると、嘘としか思えない言葉が予想以上に影響を及ぼしている気がする。
「おまえは普通の犬だ。そうだろ?」
もう一度その頭を撫でてやると、黒い子犬はじっと赤い眼で健次を見つめ、そのまま向きを変えて再び戸口のほうに歩き出した。
健次は大きく息を吐いた。
どうもあの子犬は好きになれない。
蠅がたかっているからと洋一に命じて何度もシャワーを浴びさせ、石鹸で洗っているはずなのに、いつのまにかあの小さな青い蠅がたかっているのだ。不潔な感じがするから洋一には抱いたりしてはだめだと言ってあるが、言うことをきいているかどうかはわからない。
とにかく、なにか適当な理由を見つけて、早めに追い出してしまうことを考えなければならないかもしれない。
18
食堂の明かりを消し、健次はそのまま夜の巡回を再開した。
事務室前の通路で、部屋から出てきたルカに出会った。
すでに十一時を少し過ぎた時刻になっていたがまだ起きていたのだろう。
懐中電灯の光を浴びた夏用のパジャマ姿のルカの態度が、どことなくぎこちないように感じる。言っていることも、やっていることも、いつものルカに違いないのだが、会話を含めた動きがぎくしゃくしている。なにかを抱くような格好をしているのだがよくわからない。ひどく不機嫌なままだ。
「それ、どうしたんだ?」今度は腕に白く真新しい包帯を巻いていたので、健次は思わずそのことをたずねた。
「……べつに」顔をそむけたまま吐き出すようにそうつぶやく。
「怪我《けが》でもしたのか?」
答えない。
「この前はわるかったな、疑ぐったりして」
やはり、答えない。
尖った眼を返し、音を立ててドアを閉めてしまった。
健次の気持ちがどんどん沈んでいく。躰ごと床の中にのめりこんでいく。
眼の前を黒いものがよぎった。
一瞬腰を引いて両手で顔をさえぎり、黒いものの行方を追う。
黒く小さな鳥がロビーの空間を迷ったように飛び回っている。
コウモリだろうか。
どこから紛《まぎ》れこんできたのだろう。
健次が薄闇の中に立ち尽くしていると、頭上から微かに音が降ってきた。木の葉が風にさわぐような音で、それが微かに切れぎれの音の断続となって、はるか頭上から舞い降りてくる。吹き抜けになっている月明かりの天井を見上げた。断続的に伝わってくる音をたよりに階段を静かに上がり、寝室に使っているVIPルームとは逆の方向に回廊をたどった。
奥の扉が薄く開いていた。
音はそこから洩《も》れてくる。
誰かがこの中に入ったのだろうか。
洋一がまた徘徊《はいかい》したのではないかと思い、押し殺した声でその名を呼んだ。中は暗く、螺旋《らせん》状の階段が上へとつづいている。もう一度呼び、とりあえず引き返して寝室を覗《のぞ》いてみた。……よかった。ちゃんと寝ている。犬の姿もない。健次はそのときになって、尖塔《せんとう》の先端にある展望室にまだ行っていなかったことに思い至《いた》った。戻りながらゾーニングの図面を見ると、そこは展望室とは名ばかりの狭い場所で、灯台に昇るように螺旋階段を使わなければならないことがわかった。
(高いところはいやだな……)
そう思いながら健次は鍵のない焦茶色《こげちやいろ》の木の扉を開け、そっと中に入った。
頭上から風が流れてくる。
それが塔の内側に反響して、木の葉がさわぐような音になっているのだ。
おそらく上のどこかの窓が開いたままになっているのだろう。
だが、いままでこのような音は聞こえなかった。
健次はしかたなく懐中電灯の光をたよりにその階段を一歩一歩昇りはじめた。鉄の階段が乾いた音を立てる。足を踏み出すたびに膝がまた痛みはじめた。
螺旋階段を上がっていくときの不安感。
――二年半ほど前のことを思い出す。就職口を求めて東京に来て、ビジネスホテルのナイトフロントとして勤めていたころのことだ。飛び降り自殺に遭遇《そうぐう》した。
深夜の二時過ぎだっただろうか、カウンターの下に設置している小型テレビの深夜番組を音を消してぼんやりと眺めているときにそれは起こった。騒がしかった駅前は深夜になると人通りが絶え、車の往来もなくなって静かになる。その静けさの中で、外出したまま帰らない客を待っていると、いきなり自動ドアの向こうで車のバックファイアのような音が炸裂《さくれつ》したのだ。
それは実際、花火が爆発したような、乾いた音だった。その音に誘われて思わず腰を上げ、健次はフロントを出た。そして自動ドアがゆっくりと開いた途端に、その光景が眼に飛び込んできた。
幅の狭い裏通りの向こう側に誰かが倒れている。それも、このホテルの浴衣《ゆかた》を着ていて、うつぶせになってこちらに頭を向け、倒れている。
浴衣がめくれて白い足が路上に投げ出されていて、その頭が奇妙な形に変形していた。
あのとき、それだけのことが眼に入ったはずなのだが、実際にはそうではなかった。健次はそのまま引き寄せられるようにその倒れている人物に近付いたのだ。髪の長い女性だった。頭部が割れていた。長く黒い髪に覆われた後頭部が、地震による裂け目みたいに割れ、そこから鮮やかすぎるほどの黄味がかった白い頭蓋骨《ずがいこつ》の断面が水銀灯の光の中に露出していた。顔はうつぶせになっているので見えない。
気が付くと健次は狼狽《ろうばい》したままその女性に向かって声をかけていた。
「大丈夫ですか?」と。
すると、その割れた頭が動いたのだ。
頭を持ち上げ、振り返ってこちらを見ようとするように、それは動いたのだ。
振り向く。
振り向く。
振り向いて……。
螺旋階段の踊り場にそれはあらわれた。
思い出のはずなのに、それは実際に健次の眼の前にあって、ずるっと、ずれた。
動かしたために、割れて頭部から離れかかっていた彼女の頭蓋骨が、まるで瀬戸物がずれるように歪《ゆが》み、そこから塩辛のような色をした脳が露出している。脳漿《のうしよう》というのだろうか、ピンクがかった白濁した液がそこから流れ、踊り場にぼとぼと落ちかかっている。
健次は思わず声を上げた。懐中電灯の光の輪の中にあらわれたそれを手で払おうとした。
光の輪が一瞬跳ね上がって塔の壁を照らし、またあわてて足元の踊り場を照らしたとき、それは消えていた。
……いまのはなんだったんだ?
おれはあれだけの酒で酔ってしまったのか。
震えが止まらない。
頭の中の思い出が眼の前にあらわれたのだ。
塔の螺旋階段を一歩ずつ昇りながら小泉健次は両手で自分の躰を抱き締めた。
あの女性が振り返ったときの、路面に叩き付けられ、つぶれて血まみれになって眼が飛び出し、もうどこが鼻か口かわからないみたいに破壊されているのに、それでもなお振り返り、振り返ったために、かろうじて頭部にとどまっていた割れた頭蓋がずりおちて脳がはみだし、それがまるで顔からどろりと這い出てきたみたいに感じられて……、みんな死ぬのよ……、薄暗い空間に水銀灯の光の輪がひらき、その隅に彼女の倒れた姿があり、健次はなぜか自分までそこに向かって吸い込まれていきそうな眩暈《めまい》を覚えた。
いまもなぜか、そのときと似た恐怖を感じる。なにか得体の知れないものに誘われているような、吸い込まれていくような、そんな恐怖を……。
再び黒いものがよぎった。
黒く小さなコウモリが出口を見付けたように眼の前をよぎって上昇していき、そのまま視界から消えていった。
健次は息を乱しながらようやく螺旋階段を昇りきった。
展望台といっても、手を広げて横たわれるぐらいのスペースしかない。外を見渡せるようになっている窓のほとんどは開かないようになっていたが、ただ一か所だけレバーを回すと半開きになる片窓があって、それがぶらぶらと風に揺れながら開いている。
誰が開けたのだろう。
ゆっくりと手を伸ばしてそれを閉めようとしたとき、気付いた。
窓の外に広がっている漆黒《しつこく》のジャングル。
その森の中で、異様なほど明るい光がちかちかとまたたいている。
19
ぎぃこ、ぎぃこ……。
なにかを切りつづける音が耳の奥まで侵入してくる。
小泉ルカはアイスピックの先をライターの炎にかざした。鉄が炎に焼かれる匂いがルカは好きだ。夏の夜のコンクリートの駐車場を思い出す。車が一台もなくて、郊外のディスカウントショップがつぶれてその駐車場も使われなくなっていて、スケボーのお兄さんたちがフリーレースの賭《か》けをしている。ルカはそれを、まだ少し熱が残っているコンクリートにじかにぺたんと腰を落として遠くから眺めている。そのときのコンクリートの匂い。風が少し吹いていて、その風がコンクリを冷やしていくそのときの匂い。炎にかざすとアイスピックの尖端《せんたん》はまずきれいな青に変わり、それが次第にちょっと黒ずんでいく。それはおそらくライターのガスの煤《すす》によるものだ。でもそれを長くつづけていると、やがてその青黒さに薄い朱が混じるようになり、その朱が少しずつ濃くなって、やがて真っ赤に焼けはじめる。ライターを握った手がぬるぬると汗ばみ、着火したままにしている親指が震えはじめる。でも、やめない。もっと赤くしたいからだ。赤くして、もっと赤くして、あたしの肌にその尖端を刺す。そう考えただけで、曖昧《あいまい》だった躰の輪郭がしゃきっとする。鼻の奥が微かな電流を通したようにチリチリしはじめ、視界がなぜかうるんだようにぼやけ、それは眉から流れた汗が眼尻《めじり》を濡らしたためなのだけれど、ルカは自分が涙眼になっていると感じる。青白い炎がゆらゆらと揺れ、その中心で朱の色が熱を帯び、額から汗がカウンターの白の上に落ちていく。すると皮膚が鼻の奥の電流と通じてチリチリしだし、鳥肌がむくっと立って産毛がそよぎはじめる。皮膚が痛い。まだ刺していないのに、そこはすでに痛みを感じていて、空気の粒子がピンのように皮膚の表面を刺激してくる。あたしはここを刺すのだ。この左腕の内側の柔らかく白い肌を刺すのだ。視線を送って一瞬そう思っただけで、手にしたアイスピックが震え出す。炎が揺れ、濃く染まりはじめた朱色の尖端が揺れ、その震えはあたしの皮膚にそれがとどくまでやまない。
フミオさんに会いたい。でも会えない。
(なぜやめられないのよぉ、なぜこんなことしてるのよぉ……)
自分のつぶやく声は他人だ。もうそれは皮膚に入ってどろりとした血が流れ出すまで聞こえない。
「……ルカ、聞いているのか? ドアの隙間から光が洩れてるから、まだ起きてるんだろ? これから出かけてくる。森の中にちょっと奇妙な光があるんだ、それを調べてくる。でもすぐに帰って来るから心配しないでくれ。洋一がまた夢を見て歩きはじめるかもしれないから、それだけ注意しててほしいんだ。……わかったな?」
ライターを消す。焼けたアイスピックがまだ赤いうちにその尖端を肌に近付けていく。震える。アイスピックはまだやりはじめたばかりだからだろうか……。ココのように、ノコギリで切ったらどんな気持ちがするのだろうか……。
20
あの光はいったいなんだろうと健次は思った。
頭の痛みがおさまらず、右のこめかみの奥がずきずきと脈打ち、尖《とが》ったネジの先端を押し込められているように感じる。大きく息を吐いた。
夜の森の中でもうこれ以上進めないところでジープのエンジンをとめライトを消すと、ジャングルもふっと大きなため息をついて漆黒に包まれた。
健次は暗闇の中にいた。暗く湿った静寂が周囲を覆い、蒸し暑さよりもその静けさのほうがいっそういらだたしかった。
葉が重なり鬱蒼《うつそう》とした高い樹木が林立している暗闇の向こうがわずかに明るくなっている。あの辺りに違いない。
耳を澄ました。
微かに闇の奥から動物の唸《うな》りのような音が響いてくる。チェーンソウに似た音。
護身用にと持ってきた鉈《なた》の柄を強く握り、左手で懐中電灯をかざして道から逸《そ》れ、健次はジャングルに入った。
空にはまったく光というものがなかった。厚く黒い雲が空を覆い、月も星も暗黒の中にのみこまれている。高く太い樹木の幹とその幹にからみついている蔓草《つるくさ》が、頭上二十メートルくらいの所で黒い空に溶け、恐竜の背に似た根が奇怪な形で隆起《りゆうき》している樹木の根元は一面の下生《したば》えで覆われていて、幽《かす》かな小道の跡さえもない。前方には精神異常者が描いた細密画のような暗闇が漂い、それが木々の間に澱《よど》み、時折花の白い花弁が懐中電灯の光の輪の中に浮かび上がる。
足元に気を付けながら健次は進んだ。
密度の濃い夜の森。
柔らかい土を踏むとそこが足跡となり、前方を斜めによぎって一本の巨木が倒れていて、苔《こけ》むした樹木によりかかるように凭《もた》れかかっていた。突然の光に驚いたのか、一匹の黒い小動物が小枝を震わせてその頂上まで駆け登っていく。蔓草に足がぶつかり、その蔓草の端から端までがゆっくりと揺れ、鈍い羽音を震わせて夜鳥が飛び立っていく。
光はなかなか近付かなかった。
だがその光に、動物ではなく明らかにエンジン音だとわかる唸りが加わりはじめ、木々の向こうの暗い空がぼうっと輝くように白くなりはじめた。
人間がいるのだ。
あそこに人間がいて、なにかをやっている。
このまま背を向け、クラブハウスに戻ることを考えた。とがめるものはいない。夜の暗い森のなかで、誰がなにをやっていようとこちらには関係ない。戻れ、戻れ……。しかし健次は歩く速度をゆるめなかった。息の詰まるような熱気。森のいたるところで花が咲き乱れ、果実の甘い香りが濃く漂っていて、無数の蜂の唸り声のような羽音もその辺りから聞こえてくる。梢《こずえ》が天幕のように覆っている場所では頭上から垂れ下がっている蔓が網の目のように交錯していて、そこを迂回《うかい》して大きな花と果実が一緒になっている大きな一本の木の脇を通った。
小さな蚊や羽虫が汗のにおいを追ってきて、絶えず手で払いながら歩かなければならない。
光よりも音の印象が強くなった。
車のエンジンではない。
自家発電のモーターのような音だ。
いったいこんな夜中になにをやっているのだろう。儀式? まさか。
鉈で前方の蔓草を断ち切った。意外に弾力があって、気を付けないとそのリバウンドで自分の躰を傷付けてしまいかねない。鉈を使うのはやめ、手でかきわけてさらに先へと進んだ。枝がたわみ、その先が揺れて、腿《もも》や腕を打ってくる。まもなく木にからみついている蔓草がまばらになり、梢を透かして前方の光が垣間見《かいまみ》えるところまで来て、立ち止まった。
懐中電灯を消し、その場に膝を落とす。膝を曲げても奇妙に痛みは感じなかった。首に巻いたタオルで額や首筋からとめどなく流れている汗を拭《ぬぐ》い、荒く乱れた息をととのえる。
ここから十メートルほど先までジャングルがつづいていて、いきなり広い野原が開けていた。そこに、あの光と音が密集していて、さらに白く長いものが野原の一角を覆っている。
白?
梢の間から眼を凝らしても人影は見えない。まるで森自体がなにかの小さな祭りを開いているみたいにそこだけが異様に明るく輝いている。
腰が引けた。
誘われるような、吸い込まれるような気がして、背筋が硬くなる。
注意しながら健次はさらに先へと進んだ。
蔓草がとぎれたところで再び立ち止まる。
眩《まぶ》しく輝く白い幕が眼に飛び込んでくる。
白い幕はいくつもの小さな探照灯のようなライトで照らされていて、数え切れないほど多くの虫がその周囲を飛び回っている。幕の横に、全身黒ずくめで、ゴーグルのようなアイマスクをした異様な風体《ふうてい》の男がひとり立っていた。
草の上に置かれた自家発電の小さなエンジンはケーブルで二基のライトにつながれていて、その周囲を明るく輝かせている。
見渡したところ、黒ずくめの男以外には誰もいないようだった。
男は武器の代わりに広口の瓶《びん》のようなものを持っていて、光に吸い寄せられてくる蛾《が》を白い幕の上ですばやくつかまえてはその瓶の中に入れている。
二基のライトが煙っていると見えるほどの虫の数だった。
白い幕は、飛来してくる数え切れないほどの蛾や虫で覆われ、それを黒ずくめの男が選《よ》り分けるように手を伸ばして捕獲《ほかく》していく。
鉈を握ったまま健次は、灌木《かんぼく》の間からゆっくりと草地に歩み出た。微かに風が吹いて草がなびいていたが、ライトとエンジンが発する熱気でその空き地はむせ返るほど暑かった。
「なんの用だ?」
こちらから声をかけるまでもなかった。それよりも早く黒ずくめの男は健次の接近に気付いていて、自分からそうたずねてきたのだ。
男は幕の前から離れ、作業を中断してゴーグルをはずした。
窪木だった。
虫捕りを本業にしているとあらかじめ聞いていたので、彼だとわかっても驚きは少なかったが、やはりその風体は異様である。健次は、見回りをしていてクラブハウスの展望台からこの白い光を見つけ、確認するためにここまで来たことを彼に説明した。
「これでわかったか?」と窪木が低くつぶやくような声で言った。
彼の声を初めて聞いたように思った。
だが、それ以上自分から説明しようとはしない。わかったのならとっとと帰ってくれという態度である。残してきた子供たちのことが気になったが、このまま帰るというのも癪《しやく》だった。少し見学していってもいいかとたずねると、「それはあんたの勝手だ。好きなようにすればいい」再びゴーグルを付け直して窪木は作業に戻っていってしまった。
少し離れた暗がりに小さな岩があったので健次はそこに腰をおろした。眩しい光とそれに反射する白い幕のほうに吸い寄せられて、虫もここまではほとんどやってこない。
窪木が虫捕りを再開した。
その孤独な作業をしばらく眺めているうちに、ゴーグルをしているのも、眼球が光を反射して虫が突っ込んで来ることを防ぐ目的があるようだということがわかった。光と白い幕に誘われて飛来してくる昆虫たちの乱舞は、それほど狂気じみていて、ほとんどあと先も考えずに暗いジャングルから飛び込んでくる。窪木のゴーグルの表面にそれが当たる音が聞こえる。どうやら黒ずくめの服装も同じ理由なようで、スキンヘッドにしているのも、髪につけるオイルや整髪料のにおいが虫を誘引《ゆういん》するのを防ぐためにそうしているのではないかと健次は推測した。
彼が採集しているのは、蛾と黄金虫《こがねむし》だけだった。
他の虫には見向きもしない。
それもどうやら、ある特定の何種類かの蛾が目当てであるようだ。昆虫が飛来して白い幕にとまると、まるで鳥が嘴《くちばし》でついばむようにすばやく薄いゴムの手袋をはめた手を伸ばしてそれを捕獲し、腰の周囲に太いベルトで取り付けた広口のビーカーのような瓶に入れてコルクの蓋《ふた》をしてしまう。そして、その瓶もただの瓶ではなく、おそらく中には強い毒のようなものが入っているのだろう、きらきら輝いていてよくはわからないが、中に入った大きな蛾はまたたくまに静かになって、先に入れられた同じ蛾の死骸の上に折り重なっていく。黄金虫も同じだった。採集ベルトとでもいうべき太い皮のベルトには、弾丸のように幾つもの瓶や管が備えられていて、特定の黄金虫用のものと思われる左側の瓶に選り分けられて入れられていく。
窪木のその一連の動作は慣れたものだった。なにか熟練した機械を思わせるようなところがあった。瓶や管がある程度いっぱいになると、窪木は幕の向こうに消え、戻ってきたときにはそれらは空《から》になっている。どうも幕の向こうに台のようなものがあって、そこに蛾や黄金虫を保管するさらに大きなケースのようなものがあるらしい。
必要な蛾は捕獲し、時折いらない蛾を捕まえてしまうと、窪木はそれを逃さずに指の腹でつぶしてしまう。ゴム手袋で覆われた彼の指はすでに蛾の粘液と鱗粉《りんぷん》でぎらぎらと光っていた。
「どうだ、あんたも殺してみないか。頭がすっきりするぞ」
グリーンの管理をしているときとは違い、窪木はぎらぎらと生気を帯びていた。
落ちくぼんだ眼がライトで酔ったように輝いている。
ひとしきり採集を終えたところで窪木はライトの一基を消し、もうひとつのものも光量を弱くした。それでも蛾は、憑《つ》かれたように誘惑され、白い布に向かって集まってくる。
ゴム手袋を取りながら近付いてきた窪木の全身には、蛾の鱗粉が付着していて、まるで銀色の細かいラメを撒《ま》き散らしたようにきらきら光っていた。その姿はなにか異星人の殺し屋のような趣《おもむき》さえあった。
作業が一段落した気楽さもあったのか、窪木は健次と並んでその岩に腰をおろした。自分の煙草を取り出してそれをうまそうに吸いながら、蛾の話をぶつぶつとつぶやくように話し出す。
彼によると、蛾の飛行は月と関係があるということだった。蛾が夜になって飛び回れるのは、実は輝いている月をマーカーにしているからだという。だから、もし蛾を採集しようと思うなら、今夜のように月の出ていない暗い夜のほうがいい。蛾は、月というマーカーがなくなり、誤って白い幕に集まってくる。月に似た白い幕に誘われて。
虫たちのことになると窪木はにわかに饒舌《じようぜつ》になった。
なぜ蛾と黄金虫を捕獲の対象にするのかと健次がたずねると、その理由もあわせて教えてくれた。昆虫のコレクションでは一般に蝶のものが有名だが、実は隠れた人気があるのが世界中に何千種類あるのかいまだにわかっていない蛾のコレクションで、それをほとんどトレーディングカードのように熱狂的に集めて悦《えつ》に入っている金持ちが世界中にたくさんいるのだという。黄金虫もそれは同じことで、窪木はこの島とその周辺にしかいない珍しい種を捕獲してはそれを東京や大阪の業者に卸《おろ》し、彼らはそれに対して代金を支払うというシステムになっているらしかった。
健次は、なるほどなと思い、やがて子供たちのことが気になりはじめた。
それで、そろそろ戻らなくてはと彼に別れを告げ、腰を上げた。すると窪木がふと思い出したように健次の背中に向かって告げたのだ。
「去ったほうがいいぞ」と。
健次はその言葉の意味を取り違えた。なにを突然言い出すのかと立ち止まって振り向いた。
これから立ち去ろうとしているのではないか。
だが、そうではなかったのだ。
「この森はあんたたちには向いていない」
彼は付け加えるようにそう言い添えた。
あんたたち[#「たち」に傍点]?
「特に子供にはな、あのクラブハウスは向いていない。思い出ばかりにひたるようになる」
ぶつぶつとそう言いながら黒い服に付着した蛾の鱗粉を払い落としている。奇妙なことを言う。思い出などと、なぜあの老人と同じようなことを言い出すのだ。
「知ってるよ、貝が落ちたのを見てしまったことをな」
いきなり思わぬことを指摘されて健次は背筋が硬くなった。
「見たんだろ?」と窪木は健次を見つめたままつぶやいている。
うなずくしかなかった。
「……とにかく、去ることだ。おれに言えるのはそれだけだよ。子供たちのことを、そして自分の将来のこと考えるんだったら、ここからすぐに去ることだ。なにもかも忘れて去ることだ」
「忠告ですか」
健次は皮肉をこめて言った。
「初めで、最後のな」と窪木は表情を変えなかった。「思い出がひとり歩きをはじめる前に立ち去ったほうがいい。思い出がひとり歩きをはじめたら、もうどうしようもない。……あのクラブハウスの初代管理人としての忠告だ。これまでに起こったことをよく考えてみることだ。まだ遅くはない。いまあんたの周辺に起こりはじめていることがいったいどういうことなのか。このままいけば、その結果はどうなるのか。よく考えてみることだよ」
急に腹が立ってきた。
この男はいったいなにを言っているのだ。
まだこちらは移住してきたばかりだというのに。
「そっちのほうこそどうなんです。なぜここにいるんですか?」と健次は語気を強めた。
「おれか? おれは囚人みたいなもんさ。自分自身が思い出になってしまうまではここにいるしかないんだよ……」
彼の躰がぐらっと揺れた。
激しく咳《せ》き込み、胸を押さえてうずくまるような姿勢になる。
「大丈夫ですか?」
「……気にしなくていい。……それよりあんたは自分たちのことを考えることだ。家族のことをな。失われたもの[#「失われたもの」に傍点]に呑《の》み込まれる前にここから立ち去るんだ」
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第三章 思い出たちの夜
翌朝早い時刻に小泉洋一は父親の健次に起こされた。姉のルカも起こされた。パパは真っ赤な眼をしていて、なんだか全然寝ていないような感じだった。
顔を洗って朝食を済ませたら、みんなで村へ行くという。
村へ行くのはうれしいけれど、なにをそんなに急いでいるんだろう。洋一が理由を訊《き》いても、不機嫌に「いいから黙ってついてきなさい」と言うだけで、村になにをしに行くのか、それすらも教えてくれなかった。洋一は不安になったが、アイスを食べてもいいかと訊くと、いいと言ったのでうれしくなった。でも姉のルカはなぜか黙りこくっている。このところずっとそうだ。姉の顔と躰をした他の人みたいな感じだ。喧嘩をする気にもなれない。
三人でジープに乗り、村へ出発した。
来たときと同じように、オネエはまた眼を閉じていて周囲の風景を見ようともしない。でも洋一はなんとなくうきうきする。父親の健次だけが硬い表情をくずさない。なにかひとりでぶつぶつ言っている。
「……あれはクロなんかじゃないんだ。思い出の犬じゃないんだよ。パパがこれからそれを証明してあげるからな」
クロも一緒だとよかったのに、パパはだめだと言った。なんだかクロが嫌いになっちゃったみたいだった。
けれど、もうすぐわかる。
水字貝の携帯でママがそう教えてくれた。
パパは二人におこづかいをくれて、少し待っているようにと言い、そのままジープでどこかへ行ってしまった。
生協が開くのを待って中へ入った。
姉のルカが生理ナプキンというものを買った。
店の中をぶらぶらしてから、約束通りソフトクリームを買って、生協前のベンチに座り、二人でそれを舐《な》めた。
オネエは長袖の赤いシャツを着て黙っている。こんなに暑いのに、なぜ長袖なんか着ているのだろうと思ったけど、なんとなく訊けない。それで洋一はふと思い付いて、まだ自分が赤ん坊だったころのことを話してくれるように姉にたのんだ。けれど、聞いてくれなかった。なぜだろう。いままでだったら文句を言いながらも話してくれたのに……。なにかひどく思い詰めているような、そんな空気が躰のまわりに漂っている。オネエはほんとに、この島に来てからだんだんと別の人になっていくみたいに自分の殻に閉じこもっている。なんだか貝になっちゃったみたいだ。
洋一がクリームから眼を離してふと前を見ると、道を挟んだ向こうの雑貨屋の前に、あのフミオという若い男の人が立っていた。
こちらを見つめていた。
ためらうように手を挙げている。姉のルカも気付いていて、ぎこちなくそれに応じる。応じた途端に、恥ずかしそうにうつむいている。あれだけ顔色がわるかったのに、顔が赤い。なんとなく、フミオさんが通りを横切ってこちらに来てくれないかなあと期待しているみたいだ。男は嫌いだとか言ってたくせに。
「フミオさんだよ」と洋一は言った。
「……知ってる」
「行っちゃうよ」
フミオさんはなにか用事があって出てきたのだろう、そのまま歩いて通りの向こうに行ってしまった。
オネエがまた自分の中に閉じ込もってしまうように黙ってしまう。
青い空に鳩が飛んでいた。
洋一にはすぐに、その鳩があのときの鳩だとわかった。これで姉のルカも元気になるだろう。
「おいで、オネエはここにいるよ」
すると、空から羽音がして、前の道路に一羽の鳩が舞い降りてきた。
「ほら、オネエの友達が来たよ」と洋一は歌うように姉の肩を叩《たた》いた。
「友達って……なによ」
ルカがソフトクリームを持ったまま顔を上げる。
「広場でお友達になったんでしょう? そうだよね」
洋一は魅入られた表情で鳩に話しかけた。鳩は奇妙に抑揚《よくよう》のない声で「クウクウ」と鳴いた。
「広場……、鳩……」とルカは意味がわからないという顔をしてその鳩を眺めていた。
そして、いきなり気付いたように声を上げ、洋一を見た。
「あんた、なんでそんなこと知ってんのよ? あの鳩のはずがないでしょう」
「猫は?」
「猫?」
「オネエの部屋にいる猫。車に轢《ひ》き殺されちゃった猫」
「そんな……」
驚いたように口に手を当てている。なんだ、オネエはまだ気付いていなかったのか。
「……あの猫は違うわよ。ただの……、ただの、猫よ……」
手に握ったソフトクリームをじっと見つめながらそうつぶやいている。
それで洋一は言ってあげた。オネエはひとりぼっちではないことを知らせてあげるために。
「お友達なんでしょう? オネエだけが、あの鳩や猫の最期《さいご》をみてあげたんでしょう?」
「なぜぇ?」
姉のルカのソフトクリームが溶けそうになっていた。
「……あんた、もしかしてのりうつられちゃったの?」
そうつぶやいたきり、声が出てこない。震え出してしまってわけのわからないことばかり言っている。洋一は水字貝から聞いたことを教えてあげているだけなのに。
「これは幽霊なんかじゃないよ、お友達なんだよ」
幽霊という言葉に驚いたようにルカネエは洋一を見つめている。
手に持ったソフトクリームが斜めになって滑《すべ》り落ちそうだ。
だから洋一は教えてあげた。
「落ちそうだよ」と言った。あの貝の中身みたいに。
「…………」
「ねえ、オネエ。落ちそうだよ、クリーム」
姉のルカはふと我に返ったように足元を見た。溶けたソフトクリームで手がベトベトになっていて、その滴《しずく》が地面にぽとぽと落ちている。そして、もう一度顔を上げると、鳩はもう洋一たちの前からいなくなっていた。
(思い出に喰《く》い殺されるなどということがあるはずがない)
窪木の言葉に触発されて、小泉健次はあの源造という老人に二人を再び会わせるつもりだった。「のりうつられる」などというものもあるはずがないし、もしそうとしか考えられないような現象があったとしても、それは人間の心の迷いから生じたもので、貝の魂《たましい》や物の怪《け》などが存在するわけではないということを老人の口から直接語らせるつもりだった。
そうすれば、少しは説得する言葉が二人の耳に届くだろう。
特に、ルカには。
そう考えたのだ。
二人の様子がおかしいことはなんとなく気付いていた。洋一は、歌うような声で夢と現実の境目がなくなってしまったみたいなことばかり言い出すようになり、ルカは自室に引きこもって特に情緒が不安定になっている。
それを健次は不慣れな土地に来たことに原因を求めていたが、もうそれだけでは説明のしようがないほど二人はなにかおかしな方向にいってしまっていた。それがいつからということは、はっきりとは指摘できないのだが、やはり原因を求めればあの夜につきあたってしまう。
貝の中身が落ちた瞬間を目撃してしまった、あの夜に。
ということは、憑依《ひようい》というものが考えられない以上、あの老人が発した言葉そのものに原因がある。そうとらえるしかないのだ。つまり、貝の中身が落ちる瞬間を目撃してしまったことによって、あの言葉の意味がまるで生き物のように子供たちの心に影響を与え、強く作用してしまい、その結果、針の穴から堤防《ていぼう》が決壊《けつかい》するように思わぬ事態にまで発展しそうになっている。だから、ここでそれを食い止めるには、あの老人に直接会って、あれは単なるこけおどしにすぎないということを言明してもらう必要があったのだ。そうすれば気の迷いもはれるに違いない。
それで健次は、あらかじめ老人に事情を告げておこうとした。事情を告げてわかってもらい、その上で二人に話をしてもらう。そうすれば、あの言葉を発した本人が言っていることなのだから、二人にも「魂抜《たまぬ》け」などというものは存在しないということがわかってもらえるのではないか。明け方近くまでかかって出した結論がそれだったのだ。
――だが。
計画は初めからくるってしまった。
あの源造という老人がいなかったのである。
ペンションだけではない。
彼はもうこの島のどこにもいないというのだ。
話を聞いたあのペンションの主人によると、富山の親戚《しんせき》に不幸があり、老人は三日前の船で島を離れた。なんでも、富山に次男夫婦が住んでいて、そこにしばらく厄介《やつかい》になってから戻ると言っていたから、島に戻るのは早くてもひと月近くあとになるだろうということだった。そういえば、貝を木に吊したあのとき、誰かに呼ばれてそのようなことを言われていたような気もする。
しかし、それでは困るのだ。ひと月後では遅すぎる。
健次は、ペンションの主人に「笑い話になるかもしれませんが……」と前置きして、水字貝をめぐる話の顛末《てんまつ》を聞いてもらった。彼は火のついていないパイプをくわえながら、黙ってそれを聞いてくれた。笑うと思ったが、笑《え》みさえ浮かべなかった。
「……そうですか。噂が流れてきたので、まさかとは思いましたけど、源造じいさん、水字貝でまたやりましたか」そうため息をついてつぶやきながら、彼は水字貝にまつわる伝説というか、言い伝えを、健次に話してきかせてくれたのだった。
彼は、水字貝の特殊さというようなところから語り出した。
水字貝はその形が「水」という字に似ているので、そう名付けられたという説もあるが、実はもうひとつ、水に字を書くというように、昔からあの世からのお告げを知らせる貝として知られている。つまり、海底に描かれた模様を、字として受け取り、それをお告げとしてみなしたような時代が、たしかに昔はあったらしい。
「雲の形や木のざわめきや川の流れに神様を見たようにね。水字貝自体も人間の姿をしてこの世にあらわれることがあるというんですよ」
だが、それはもちろん迷信で、簡単に言ってしまえば、健次たちは見事にあの源造じいさんにかつがれた[#「かつがれた」に傍点]ということなのだと主人は申しわけなさそうに語った。
「魂抜け」などというものは存在しない。
それは、迷信にヒントを得たあの老人のつくりごとで、どうやら以前にも同じ手で観光客をからかっては喜んでいたらしい。そして、老人があの夜の一件をどこからか目撃していて、島の酒場で吹聴《ふいちよう》していたという噂があることも遠回しにだが教えてくれた。なにも知らない観光客をまた脅《おど》かしてやったと得意げに言っていたという。知らない間に笑いものにされていたわけか。それを聞いたとき、健次は自分を抑《おさ》えられないほど逆上《ぎやくじよう》した。
おそらく、あとくされのない観光客だったら誰でもよかったのだろう。引っかかりそうなやつを物色《ぶつしよく》していたのかもしれない。
「じゃあ、他にも」と健次は訊いた。
「……ええ、もう何年も前から時折やっちゃあ喜んでたみたいなんですけどね。たしか一年ぐらい前にもそれをやって、ここではないですけど、出入り差し止めにされたはずなんですよ。同じように苦情があって。それでもう今度こそ懲《こ》りたと思ったんですけどねえ……。こうなるともう一種の病気みたいなもんで……、水字貝だけじゃなくて、いろいろなものが憑《つ》きものの対象になっちゃって……」
どうしようもないというように主人は首を振った。
「いろいろなものと言いますと?」
「この前はたしか山羊《やぎ》だったんですよ。山羊と眼が合うとどうのこうのって」
山羊の眼?
健次は思わず苦笑した。
「じゃあ、水字貝というのは」
「たまたまお客さんたちが採《と》ってきたんで、そう言ったんでしょうねえ、たぶん。前にも同じ手を使ったことがありますから。特に水字貝はいま申し上げたようにいろいろと言い伝えのようなものがあって、都合がいいみたいなんですよ。島の一部じゃ、水字貝を『ジュリエット』って言ってましてね。駐留していたアメリカの兵隊さんがそのニックネームを付けたらしいんですが、要するにあれを採ると男女をめぐる悲劇[#「男女をめぐる悲劇」に傍点]が起こるっていうんで、そういう名前を付けたらしいんですよ」
悲劇……。
「まあ、島特有の現象で、そういう話がかなり多くて、噂ばかりが先走りして……」
聞いているうちになんだかばかばかしくなってきた。水字貝を見付けたときに、砂の上にあらわれた妻の美佐子の顔から、もしかしてと思っていたのだが、これではっきりしたわけだ。根も葉もないというのはこのことだろう。
だが、ここまで調べたのだから、念を押す必要があった。
健次は、もし具体的にその被害者がわかっているのなら、その人たちに会って話を聞いてみたいと思っていたのだ。たとえデタラメにしても、実際に子供たちに悪影響が出はじめているのだから。
「他に被害にあった方ですか?」と当惑したように主人はつぶやいた。「わたしが知ってるかぎりじゃ、いずれも観光客の方でしたからねえ……、すぐに島から離れてしまわれるんで」
実際の被害がいままでどれだけあったのか、よくわからないという。
「……それに、こう言ってはなんですけど、気にされる方と、気にされない方がいらっしゃるんで……、反応といいますか、そういうものもまちまちなんですよ。どうしても苦情があったときだけ、わかるわけでして」
申しわけなさそうにそう言い、源造という老人はここだけではなくあちこちのペンションで手伝いのようなことをやっていて、その「憑きもの」の騙《かた》りをどれだけやったのか、わからない。ただ、源造自身はどうやらそれを本気で信じているような気配があって、この島の自然は特別なんだといつも言っていたのだという。
「新興宗教のニセ神様みたいなものですよ。イワシの頭も信心《しんじん》からというわけで、本人はそれを信じてるみたいだし、結構本気なんですよ。周《まわ》りがなんと言おうとね。……だから余計始末がわるい。よく働くし、人はいいんですが……」
主人はあの老人に代わって健次に頭を下げた。
長期滞在の大事な観光客の信用をまた失うようなことをやったのだから、戻ってきても、もう使わないし、他のペンションなどでも二度とわるさができないように回状をまわすから、それでなんとかおさめてほしいという。そして、「老人が戻ってきたらきちんとお詫《わ》びの手紙を書かせますので」と、住所を聞いてきた。
どうやら彼は健次のことを勘違いしているようだった。てっきりもうあのクラブハウスの管理人になったことを知っているのかと思っていたが、彼はまだそれを知らないらしい。それで、なんとなく言い出しにくくなり、「もういいですから……」と足早にペンションを出たのだった。
健次は、気持ちを落ち着かせるのにしばらく時間がかかった。
窪木はその噂を耳にしていて、それであのような形で忠告してくれたのだろう。去ったほうがいいという彼の言葉は、この島はあんたたちには向いていないという彼なりのアドバイスだったのかもしれない。
3
その夜健次は、事の次第《しだい》を二人に別々に話した。
ルカがまた部屋から出てこないためにそうするしかなかったのだ。
「……とにかくあのおじいさんはいなくて、パパは、ペンションの主人に話を聞くことにしたんだ」
健次はそのように語りながら、自分の言葉が少しも二人の耳に届いていないことを感じていた。ほんとうのことを話しているのだが、まるでなにか表面上をとりつくろっているだけのように聞こえてしまう。嘘ではなく、ほんとうにあれはデマにすぎなかったわけで、それをそのまま語っているつもりなのに、言葉が二人の耳にまで届かない。
(どうしたらいいのだ)
健次は、新興宗教にいれあげて入信してしまった知人のことを思い浮かべた。ホテルの従業員だった女性だが、彼女はその小さな教団の神様である老女が実はペテン師だったことを知っても、それで信仰《しんこう》を捨てるようなことはしなかった。神様が実際にどうであるのかなどは瑣末事《さまつじ》で、自分にとっては信ずるということが大事なのだと、かえって信仰自体を深めたような感じだった。
神様などはどうでもいいのだ。信仰すること自体に意味がある。
老人のことを話しながら、その女性に似た雰囲気を子供たちに感じ、健次は不安を覚えた。
洋一は、パパはなぜそんなにあの魂抜けのことを気にしているんだろうという表情で、ただとりあえずうなずくばかりだったし、ルカは初めから終りまでなにかおびえたようにおどおどしながら聞いていた。
ルカはシャワー室の一件以来、羽をむしられた鳥のように敏感になっていて、ちょっとした刺激にもすぐに過剰《かじよう》反応するようになってしまっていた。
いますぐにでもなにかが起こる。
きっと起こる。
そういう感じなのだ。
長い時間をかけて二人にそれぞれ説明し、結論として「とにかくいま言ったように根も葉もないことなんだから、あんなことは気にするな。貝が落ちた。それだけのことなんだから」と言い含めるように健次は自分の意見を付け加えた。そう言うしかなかったのだ。
洋一は「わかったよ、パパ」とうなずいた。
「でも、この貝を捨てるのはいやだからね」
認めるしかなかった。
だが、ルカが最後に言った言葉には胸を衝《つ》かれた。
「……自分がいちばんよーく知っている」ぼんやりとした表情で、半《なか》ば放り出すみたいに、謎《なぞ》のような言葉をルカは健次に告げたのだ。
自分がいちばんよーく知っている。
言われてみれば、たしかにその通りだった。
のりうつられたのではないとしたらなにが考えられるか? それは自分がいちばんよく知っている。
その翌日も村に行った。
薬局で頭痛薬を買ったあと、健次は村の役場に行き、この島の古い伝説を調べた。さらに、島の歴史に詳しいという係員に、あの場所に古代の墓のようなものがなかったかどうかたずねた。しかし、彼はそんな話は聞いたこともないと言う。「だいたいこの島の先住民といっても、元は無人島だったわけでして、あそこは昔から一面のジャングル、でかい木しかなかったはずですけどねえ。いまだに地中には根がすごいはびこっているという話は聞いたことありますけど……」
まさかとは思ったが、やはり違っていた。収穫といえば、あの辺《あた》りはジャングルの中心地帯だったところで、森の精のように根が地中にはびこっていて造成工事が大変だったらしいという話ぐらいのものだった。あの侵入してくる根もその片割れかもしれないが、わからない。
受付カウンターから離れようとすると、奥で事務を執《と》っていた五十代ぐらいの眼鏡をかけた女性が「……ユメミのことじゃないのかしら」そう言ってこちらに顔を向けた。
「そのユメミというのは?」と健次はたずねた。
「ほら、青森なんかにイタコのおばさんとかいるでしょう。あれと同じようなおばあさんが昔はこの島にもいたらしいんですよ。といっても、最後のユメミのおばあさんももう二十年以上も前に亡くなってしまったらしいんですけれどもね」
「するといまは」
「話だけが伝わってる状態。若い人なんか知らないんじゃないかしら。死んだ人たちの霊を呼び出していたユメミというおばあさんたちがいたことなんて。あのジャングルはね、いまは開発されてぼろぼろになっちゃってるけど、この島の中心で一種の聖地のようなものだったらしいのよ。特に、殺されたり、事故に遭《あ》ったりして死んじゃった人たちはどうしようもないわけじゃない。そういう人たちの行き場のない想《おも》いっていうの? そういうものが集《つど》う場所みたいに思われてたみたい。それで、そういうものを感じる感受性のあるユメミのおばあさんたちがその中に入っていくと、死んだものたちが語りかけてくるんですって。そしてその前にあらわれるらしいの。思い出になってしまったその人や動物たちがね」
「…………」
「もちろんそれって、フィクションでしょうけど、とにかくそういうことが信じられていて、戦前ぐらいまではお盆や誰かの命日になると、残された親族があの森の中心のコブの大木があったところに集まってユメミをしてもらったとかいう話を、わたしも祖母から聞いたことがあるなあ」
行き場のない想いが集う場所。
「そうそう、そのコブの大木があった場所というのが、ちょうどあのクラブハウスがあったあたりだったらしいのよ。あれができるときにも、島の年寄り連中が反対したらしいけど、いまどき年寄りのそんな話に耳を傾ける人なんていないから、ほとんど無視されて、イケイケで工事が進められちゃったみたい」
健次はその後、役場の資料や図書館で調べてみたが、彼女が言っていたようなことが行われていたのはたしからしかった。
ただ、ユメミという存在自体が絶えてしまっていることもあって、なぜあの森全体が聖地とされていたのか、なぜその失われた大木の根元に集まったのか、その理由は最後までよくわからなかった。
木は失われてしまって、いまはその話だけが残っている。
その辺の事情を知っていたはずの、いままで島に残っていた最後の年寄りも、今年の春に亡くなってしまったという。
「他にも探せばいるんでしょうけどねえ、とにかくこの二十年ぐらいで人の出入りが激しくなって、古い島民も職を求めて一家で本土に移住してしまったりしてね、この島にはもうユメミを実際に知っているお年寄りは残っていないと思いますよ」
郷土史家《きようどしか》のような存在もこの島にはいず、役場の人もいずれはそうやってこの島の歴史を調べ直す必要があるとは思うのだが、なかなかそこまでは手が回らないんですよと苦笑するばかりだった。
そのユメミが、いま起こっていることと関係があるのかどうか。
ユメミ自体が、彼岸《ひがん》の墓参りのように懐《なつ》かしい過去の風習として語られているだけだ。悔《く》いを残したまま死なせてしまった肉親や恋人や友達にもう一度会いたい、会って話したい。そういう古代からの変わらぬ人間の願望が、かつての沖縄《おきなわ》の島々のように、この島にも過去に「ユメミ」として存在した。
それだけのことだった。
森の精だったという大木は切り倒され、その巨大な根もパワーシャベルで掘り起こされてガソリンで焼かれてしまったという。あの建物の下にいまだにはびこっている細かい根のことも、もしかしてその大木に関係があるのではないかと思ったのだが、掘り起こされて焼かれてしまったのだったら、それもあたらないということになる。
人が死んでもその思念《しねん》が生きつづけるように、もしかして根だけが建物の下で棲息《せいそく》しつづけているのではないかと思ったのだが――。
(やれやれ、結局空振りか)
健次は苦笑して頭を振った。
自分の中でその「ユメミ」と魂抜けがいつのまにか結び付いてしまって、ありもしない物語が勝手に増殖をはじめている。おれたち現代人は、霊だとか憑《つ》きものだとかそんな迷信はもうとっくに捨てたはずなのに、ちょっと心細くなると、そういう芽が再びあらわれてくる。
健次は早くも行き詰まってしまった。
だが、奇妙なことは次々に起こっていく。
――翌日の昼。
健次がいつもと同じように作業をしていると、いつのまにか眼鏡《めがね》をかけた男の子が横にあらわれ、その作業をじっと眺めていた。
健次は思わずぎくっとして、その顔を見つめた。
「きみはどこから来たんだ?」
たずねても答えない。
「ぼく、鳥になるんだあ」とわけのわからないことをつぶやいている。
知的障害があるのか、とも思うが、はっきりしない。なにか印象が曖昧《あいまい》で、そこにいるのに、そこにいないような奇妙な雰囲気《ふんいき》を漂わせている。眼を閉じているのか開けているのかわからないような、ひどくぼんやりした表情をしている。
そのとき、走り寄る足音がして背後でルカの声がしたのだ。
「その子……、その子……」
あとは声にならず、眼を見開いて、恐ろしいものでも見たような驚愕《きようがく》の表情を浮かべている。
「どうした? 知っているのか、この子」
ルカは眼を見開いたまま震えていた。
「ぼく、鳥になるんだ。……そうだよねえ」
その子はずり落ちそうになった眼鏡を汚れた指で押し上げながら、ルカに向かってたずねた。
「そうだよねえ」
ルカは答えられない。
涙をいっぱい溜《た》めてまばたきもせず、その子供を見つめている。
「なにがあったんだ、いったい」
たずねようとすると、ルカはいきなり短い叫び声を上げ、草を踏み分けて走って行ってしまった。健次はそれを追いかけようと鎌を持ったまま途中まで走り、気が付いて振り向くと、もうそこには男の子の姿はなかった。
(……ぼく、鳥になるんだあ)
思い出した。
ルカがまだ小学校五年生くらいのころのことだ。自転車に相乗りしていて、後ろに乗せていた子供が死んでしまう事故があった。そのとき、ルカは盛んに、あの子は鳥になろうとしたんだと、わけのわからないことを訴えていた。責任上、健次がその子供の葬儀に参列したとき、写真を見た。特に頼んで棺《ひつぎ》に入っていたその男の子の眠るような顔も見た。母親は離婚していて、ひとりっ子だった。健次が頭を下げると彼女はなにも言わず、あとになって親戚らしい中年の男が電話をしてきて「賠償金《ばいしようきん》の話をしたい」と切り出してきた。
ぼく、鳥になるんだあ。
――まさか。
急いで戻って男の子が立っていた場所を見た。
草が踏まれた土の上に、小さな運動靴の跡が残っていた。
あの子はいったい誰なんだ?
ルカと話し合うために建物の中に戻った。
洋一が広い事務所の真ん中で、ぽつんと座って積み木をひとつずつ積んでは崩している。そして、また相変わらず水字貝を使って、誰か架空の存在と話している。
健次はルカの部屋に行った。
ドアを開けようとしないので、ドア越しに「あの子は誰なんだ」と確認しようとした。
「知らない!」
ルカはその言葉を繰り返すばかりだった。
「もしかしてあの子じゃないのか」
「知らない! 知らない!」
ドアの向こうでヒステリックにわめき散らすばかりだった。
――そして、その次の日の午前中。
そのとき健次は外に出て草刈りをしていたのだが、足首の内側にぬるっとした感触があった。ふと足元を見ると、健次の手首ほどの太さがある白い蛇が這っていた。健次はあわてて飛びのきその蛇を鉈《なた》でたたき切った。なぜかすっきりして、何度も何度も切り刻んだ。それなのに、なぜか蛇は死なない。切断された部分がひくひくと動きつづけている。
なぜ死なないのだろう。
ミミズと同じような種類の蛇なのだろうかと思い、腰を屈《かが》めて切断されたその切り口を覗いていると、ふと隣に誰かが立って、同じように蛇を眺めていた。
あの男の子だった。
鼓動《こどう》が急に速くなる。
健次は身を硬くしてじっとしていた。動けなかった。幽霊なんかいるはずはないと思いながらも、どうすることもできない。いったいどこから来るのだろう。この周辺には窪木しか住んでいないはずだ。
太った男の子は前にあらわれたときよりも、もっと存在感が増していて、触れようと思えば手が届くところにいた。
「きみは、誰?」訊《き》こうとしたが緊張して舌がもつれ、「きみは……」というかすれた声しか出てこなかった。
手を伸ばし、おそるおそる彼の肩に触れる。
汚れた薄いブルーのTシャツの感触がして、それはじっとりと汗に濡れていた。
彼はここにいるのだ。実在している。
ということは、幽霊だなんてこちらの思い込みか。死んだ男の子を知っているといっても、一度|霊前《れいぜん》に供《そな》えてあった写真を見ただけだし、顔を直接見たといってもそれは死に顔なのだ。はっきりと覚えているわけではなかった。
だが、それならばなぜルカはあのときあんなに驚いたのだろう。自分の眼でたしかめるために走り寄ってきたという感じだったから、おそらくルカが毎日眺めているモニターにその姿が映ったに違いなかった。
「きみは……、誰?」
そうたずねてもジャングルの方を指差すきりで男の子はなにも喋《しやべ》らない。近くにあった小枝の先で、切断された蛇の頭をつついている。
「ぼく、鳥になるんだ、そうだよねえ」
焦点の定まらない表情で健次の顔を見上げ、待てというのも耳に入らないように、再びとぼとぼと森の方向に去っていってしまった。そして、あわててあとを追っていくと、ラフの中に生《お》い茂っている丈の高い草の間に吸い込まれるようにして消えてしまったのだ。
あれはいったいなんだったのだろう?
健次は作業をしながら考えつづけた。
わからない……。
憑《つ》きものならそれを落とす方法もあるかもしれないが、この場合はいったいどうしたらいいのだ。二人が同時にあの子供を見ている。そして実際に触れてもいるのだ。モニターにも映っている。
すると、あの黒い子犬もそうなのだろうか。
4
健次は作業に疲れ、芝生の上に寝転んだ。
汗をかいていたので作業着を脱ぎ、下着だけになってその場に仰向《あおむ》けになって躰を伸ばした。
かまうものか、誰が見ているわけでもない。
建物の周囲の芝を刈るのは健次の役目なのだが、三日目にやっただけなのでまた丈が高くなって伸び放題になっていた。寝転がると裸の背に、丈の高い芝の先がちくちくと当たった。仰向けになるとちょうど顔が隠れるほどの高さになっている。
眼を細め、眩しく青い空を眺めた。
なにも考えなかった。空を充《み》たしている光はますます濃く密度を増して重くのしかかるように輝いている。その光に身をさらしていると自分がどんどん微小になっていくような気がした。周囲の芝も草もますます高くなって果てしもなく高くそびえていく。健次は光に貫《つらぬ》かれ、輝きに圧せられてその場にじっとしていた。
草いきれに刺激されたのか、気が付くとペニスが痛いほど勃起《ぼつき》している。美佐子に逝《い》かれてからはソープに行く気もせず、またその金も惜しくて、たまに自分で処理だけしていたのだが、この島に来てからはそういう気も起こらなかった。
虫の声が聞こえた。
どこか遠くで自分の心臓が鼓動していた。
誰かが近付いてくる。
またあの男の子だろうか。
「いい天気」とそれは言った。
健次は叫びたくなった。
その声。
その口調……。
黒い影がすっと伸びてきて、仰向けになっている健次の顔を覆う。青空も輝きも芝の匂いもすべてが後退していって、閉じている眼の前の空間をその黒い影が充たした。
「わたしも、横に寝ていい?」
「…………」
「いいのね?」
影は重さをともなって動き、健次のすぐそばに横たわった。
風のそよぎ。
丈の高い芝がざわざわと波打ち、なにか衣《きぬ》ずれのような音が耳元で生じる。
「覚えてる?」
右手を少しでも動かせばその肌に触れられるほど間近にそれは寝そべっていた。
その体温。
その心臓の鼓動。
「ねえ、覚えてる? あのときもこうして、二人で並んで寝そべったでしょう。ムーンビーチ。二人で泳いだあとだった。眩しくて、でも風が気持ちよくて、ずっとこのままでいられたらいいなあ、そう思ってた。……もう、あれからずいぶん経っちゃったのねえ」
「……そうだね」
口は開いていないのに頭の中で自分が返事をしているのが聞こえる。自分の声が自分の声のように感じられない。
「覚えてる?」
「なにを」
「わたしたち、あそこで初めてセックスしたのよ。あの岩、あの木、あの波、あの砂……。あのときあなた、すごくためらっていた。そうでしょう? いまみたいに」
思い出していた。
あのときもたしか、同じ話をした。
地震があったあと、美佐子がひさしぶりに戻ってきて、一緒に眠る前の、ほんの一瞬のことだった。疲れているだろうから早く寝たほうがいいと言い、赤ん坊だった洋一をあやして眠らせ、美佐子をベッドに入らせた。そして、明かりを消し、ルカのいる子供部屋の様子を見たあと、健次も自分のベッドに戻った。
そのときは美佐子はまだ眠っていなかった。薄闇の中で天井を眺めていた。そして、ふと思い出したように言ったのだ。「ねえ、覚えてる?」と。健次は自分がどう答えたのか記憶にない。だが美佐子は「あの岩、あの木、あの波、あの砂……」と同じ言葉をつぶやいていた。そして、「ねえ、触れてもいいのよ」さらに言葉が重ねられたが、それがあのときの記憶なのか、それとも横にいる存在が口にしているのか、健次にはわからなくなった。
「ねえ、触れてもいいのよ」とそれは言った。
健次は痺《しび》れている右手の指をそっと動かした。これが頭の中だけのことなのか、それとも現実なのかよくわからない。
芝の尖《とが》った葉先が触れた。
それが微かな刺激となって移っていく。
でも、それ以上どうしても手を伸ばせなかった。
「子供たちが……」と健次は言った。
「子供たち、嫌い」意外に強い声で、横にいる存在はつぶやいた。「看護婦も嫌い。嫌いなことばっかりやってる。いつも嫌いなことばっかりやってる。だから時々たまらなくなるの。子供たちの顔を見てるとたまらなくなるの」
「……知ってたよ」
「そう」
それは、黙ってしまった。
自分が思い出しているだけなのか、いま現実に起こっていることなのか区別できない。
あのとき美佐子はそのまま眠ったのかと思っていた。けれど、そうではなかった。それからさらにしばらく経ってから、美佐子が思い出したように言ったのだ。
「ああ、そうだ。洗濯相当たまってるんじゃない? あしたいっぱいやらなくちゃね」
なんだか洗濯できることがとてもうれしそうだった。「洗濯、がんばってやらなくちゃね……」眠そうなとろんとした口調でそう告げると、もう静かな息を吐いて眠ってしまっていた。
記憶の中のことと、いま起こっていることがからみ合っている。
蝉の声。
虫の羽音。
九番ホールの断崖《だんがい》から伝わってくる白い波が砕ける響き。
これは現実ではない。現実であるはずがない……。健次はおそるおそるもう一度右手を伸ばし、その存在をたしかめるためにそれに触れようとした。
「瑠華《るか》が見てる」とそれは言った。
「ルカ?」
「小さかったころと同じ。瑠華が盗み見してる。モニターで、あのときと同じに見てるのよ、あの子」
蝉が不意に鳴きやんだ。
あのとき――。寝室のドアが薄く開いていて、そこから幼いルカの小さな眼が覗《のぞ》いていた。「あの子はどうしても好きになれないの。わたしにそっくりだから……」
小さな眼は閉じられる。
薄く開いていたドアが、すっと閉じていく微かな記憶。
「……きみは死んでいるんだ」と健次はようやく震える声で告げた。
きみは死んでいる。
もうこの世にはいない。
このぼくがきみの骨を海底に撒《ま》いたのだから。
白い手が伸びてきて、健次の足に布地の上から触れてくる。その白い手の爪《つめ》には、なぜか赤く毒々しいマニキュアがべったりと塗られていて、その赤い爪がまるでそれ自体生きているように健次の太腿から這い上がってくる。
触れている。
たしかにそれは触れている。
その感触。
指づかい。
心臓が喉元までせりあがってきた。
5
洋一の眼の前でクロの様子もまた変わりはじめた。
いつも床に座って黙ってこちらを眺めているのに、時折変な格好《かつこう》をするようになったのだ。横になって床に脇腹《わきばら》を付けているから、眠ってしまうのかなと思ったらそうではなく、右の前足と右の後足が宙に突っ張ったように差し出された。まるで見えない力に無理矢理ひねられるみたいにそれが奇妙な具合にねじれたのだ。そして、脇腹に、上から押さえ付けられたような大きな窪《くぼ》みができてしまって、「……ふふっ、やっちゃえ、やっちゃえ」どこからか囁《ささや》くような声が聞こえてきた。尻尾が引っ張られたみたいにぴんと斜め上に立った。
「やっちゃえ、やっちゃえ」
その声は小さな青い蠅のようにクロにからみついて離れない。
「おもしれえ」
「ほら、そこ押さえろよ」
どこから聞こえてくるのだろう、クロの小さな躰にいくつものニヤニヤした声がからみついている。
「……どうしたの?」
洋一が声をかけると、クロは悲しそうな声でクンクンと鳴いた。クロはほとんど吠《ほ》えたことがないから、その声がよけい耳について離れなくなる。なんだか元気もなくなってきた。変な格好をしていないときも、ぐったりしたみたいになって床に腹這いになり、眼だけでこちらを眺めている。洋一が蠅を追い払って抱いてあげると、クロはそのときだけ安心した眼になってうっとりと小さな躰をあずけ、洋一の手を舐《な》めるのだけれど、ひとりになるとまたその動作を繰り返した。それで洋一は、自分が寝たりご飯を食べたりしているとき以外はクロをいつも抱いていてあげようと思い、そうしていたのだけれど、あるとき妙なものを見つけてしまったのだ。
「ねえ、パパ。これなにかな?」
洋一はクロを抱いたまま、寝室に入ってきたパパにたずねてみた。パパはなぜかぼんやりしていて、他のことを夢中で考えているみたいだった。「ねえ、パパ」洋一が繰り返し言うと、初めて気が付いたようにこちらに顔を向けた。それでもまだぼんやりしていた。
「ねえ、これなにかな?」
洋一は、熊のプーさんのパジャマ姿のまま、抱いていたクロを父親の健次に見せた。
「ほら、ここ見て」
子犬といっても、洋一にはクロはかなり重く感じる。でもそんなことは言ってられない。赤ちゃんを抱くみたいに、右手の上のほうでクロの頭を支えるようにして躰を伸ばしてあげて、パパにクロの左の首筋を見せた。「ほら、ここだよ、ここ」短く黒い毛をかきわけて、発見したものをパパに示した。
「どれどれ」パパはぼんやりしたまま洋一の指先を屈《かが》み込んで見つめた。
「ほら、血みたいでしょう」
「……そうだな」
短い毛をかきわけた洋一の指に、微かに赤く濡れたものが付着している。
「この赤いものがね、毛の中から湧《わ》いてくるみたいに、あとからあとからにじみ出てくるんだ」
「傷は?」
パパもそこに指を触れて探したけど、傷はどこにもなかった。
ただ、赤い血のようなものが、毛の下から微かに少しずつにじみ出てきて止まらない。パパは自分の指先にも付いてしまった赤く濡れたものを、信じられないものでも発見したようにじっと間近で見つめている。
「……血、だな。……たしかに」
「どうしよう」
「皮下出血《ひかしゆつけつ》かなにかをしているのかもしれない」と父親の健次は言った。
「ヒカなんとかってなーに?」
「表面に傷はなくても、皮の下の細かい血管が切れていて血が出ているかもしれないということだ」
「おクスリは付けられないの?」
「傷はないからね」
パパはなぜかそれを自分に言い聞かせるようにしてつぶやいた。二度もつぶやいた。「傷はないんだ、たしかに、傷は、ない……」
「そうだね。どうしちゃったんだろう?」と洋一がたずねると、「気になるんだったら、消毒のために軟膏《なんこう》かなにかを付けておいてあげたほうがいいかもしれない」
うわのそらでパパがそう言ったので、洋一はそうすることにした。
「……こいつ、噛《か》むつもりだぜ」また囁く声が聞こえてくる。
「ほら、包丁よこせや」
「処刑だな」
「処刑だ、処刑だ」
「吠えやがってよお、てめえ自分がなんだかわかってんのか」
薬箱は階下の事務室のラックの上にある。パパが取ってきてやろうかというのを自分でやるといって、洋一はクロを抱いたまま階段をよろよろと降り、ロビーを通って事務室に入った。姉のルカがいた。薬箱の中を覗いていて包帯を取り出そうとしている。でも洋一が来たのを知ってそのまま包帯の束を握り、ひとことも言わずに背を向けて自分の部屋に入っていってしまった。洋一はそれに向かって舌を出してやったけど、なんだか悲しかった。あれ以来姉のルカは洋一とも喋《しやべ》ろうとしなくなってしまった。海水浴をしたときの日焼けの跡はすっかり消えてしまっていて、顔色がなんだかすごくわるい。あんまり外に出ていないせいだ。
ぐったりしているクロを、一度そっと床に置いて、洋一は背伸びをして薬箱を両手で取った。そしてそれを下に降ろした。うちの薬箱は丸いクッキーの缶で、その中にいろんなクスリがごちゃごちゃになって入っている。ようやくチューブになった化膿《かのう》止めの軟膏を見つけてそのキャップを取り、洋一はそれを指先に出した。「いまからこのおクスリを塗ってあげるからね。そうすればすぐによくなるから」自分がいつもそれを塗られるときに言われていたことを、そっくりそのままクロに告げた。
クロはちょっと心配そうに首を上げて洋一を見たけれど、またぐったりして右の前足と後足を宙に突っ張ったように差し出した。
そして、奇妙な具合に首をねじった。
洋一はそれをクスリが塗りやすいようにしているのだと思い、そのねじれかかっている首筋に軟膏をたっぷりと擦《す》り込んであげた。でも、止まらない。黒い毛がべとべとになるまで厚く塗ってあげているのに、その下からじゅくじゅくと赤い血が湧き出てくる。そしてそれは、塗った軟膏の上で丸い玉になり、みるみるうちにふくらんで大きくなっていく。……止まらない。大きくなった血の玉は、まるでそれ自体が生きているみたいにぷるぷるっと震え、そこから下に流れ出す。あとからあとから血が湧き出てきて、クロの毛を染めていく。それは次第に噴《ふ》き出してきて止まらず、それを押さえようと首に手を当てている洋一の指の間からもみるみるうちに溢《あふ》れ出してくる。
ああ、どうしよう……。
お医者さんだ。お医者さんに連れていったほうがいい。……でも、犬のお医者さんはどこにあるんだろう。
洋一は声を上げてパパを呼んだ。
パパのことを呼びつづけた。
6
健次は寝室のベッドに腰を落とし、指先に付着した赤いものをじっと見つめていた。そのにおいも嗅《か》いでみた。
どう眺めてみてもこれが血液であることは間違いなさそうだった。
ということは、受け入れがたいことだが、たしかにあの犬は生きているのだ。生きて呼吸をしている。幻視などではない。健次は、あの芝生での妻との再会と、「鳥になるんだあ」とつぶやいたあの眼鏡をかけた少年の肩に触れたときの、汗の感触を思い浮かべ、その血の色に重ねた。
それらはすべて自分たち個人の思い出でしかないはずだった。
思い出とは、過去の出来事であり事象《じしよう》であって、それはすでに失われているものだ。
それが、その思い出たちが、この現在にあらわれてひとり歩きをはじめている。
いったいどういうことなのだ?
考えられることは二つしかなかった。
あの犬も少年もちゃんとこの世界に実在していて、ただこちらがあの老人の言葉に暗示をかけられたままになっているために、思い出があらわれたと勘違いしているか。それともこちらもまた誰かの「思い出」となってしまっているかのどちらかだった。
だが、美佐子はどうなる。妻の美佐子があらわれたことがどうにもよくわからない。
自分がげっそりと痩《や》せ細ってしまったような気がした。土台が壊れて足元を支えてくれるものがなにもなくなってしまっている。
あれはたしかに美佐子だった。看護婦は爪を伸ばすことはないけれど、それでは淋しいと言って、美佐子は休日のときなどによく赤いマニキュアを塗っていた。いつもはできないから思い切って真っ赤なやつにしてやるの。そう言ってよく健次にその爪を見せた。その赤い爪、真っ赤に塗られた赤い爪が、そろそろと這い上がってきて健次が思わず悲鳴を上げて立ち上がると、美佐子はもうそこにはいなかった。爪ごとどこかに消えてしまった。
でも、たしかにあれは美佐子だったのだ。
海底に散骨し、いまやこの世界には存在しないはずの、妻の美佐子だった。
それがどうして眼の前にあらわれるのだ?
思い出は、現在ではない。繋《つな》がってはいるのだろうけれども、同じではない。現在に生きている人間の脳の中に蓄《たくわ》えられている記憶にすぎないのだから、それは決して同じ場所には立てない。だから人間は、後悔ばかりが多い人生を送っているのだ。「なぜ? なぜ?」とすでに起こってしまったことに対して、いつも遅れた疑問を発している。起こってしまったことはもう取り返しがつかないことで、記憶の中にしかなく、それをもう一度やり直すことはできないからだ。思い出になってしまったとなれば、なおさらそれは取り返しがつかない。もう戻ってはこない。
その思い出が、現在に戻ってきてしまったとしたら、どうなるか。
幽霊になる。
そうとしか考えられない。
健次は、あのとき見た海底の白い砂の広がりを思い浮かべた。海底に描かれていた乱雑な模様にすぎなかったものが、洋一のひとことで美佐子の顔になってしまった、あのときの……、くらくらするような眩暈《めまい》……。
もし、思い出になってしまっているものが自分たちと同じ場所にあらわれ、かたわらに寝そべって話しかけてきたり、額に汗を流したり、指をぺろぺろ舐めてくるとしたら、その結論はひとつしかない。
そのとき、階下で叫ぶ声が聞こえた。
健次は寝室を出て回廊から下を見た。
ロビーにあの子犬を抱《かか》えた洋一が立っている。その足元に赤黒い血がぽとぽとと流れ落ちている。その血はブルーのカーペットをみるみるうちに染めていき、洋一は犬を抱えたまま血だらけになって泣いていた。
膝の痛みも忘れてとっさに階段を駆け降り、健次は洋一に抱かれていた黒い子犬を受け取った。
首筋に五センチほどの傷が生じている。
刃物のようなもので切られた傷だ。
そこから血が溢れてきて、犬の黒い毛もべっとりと濡れている。
さっき見たときにはこのような傷はなかった。
「……どうしよう、……パパどうしよう」
洋一はその場で細かく足を踏み鳴らしながら震えている。この島に獣医はいるだろうか。洋一にすぐにシャワー室に行って服を着替え、血を拭《ふ》くように指示した。それでも犬が心配で立ち去ろうとしないので、声を荒げ、自分でも驚くほど大きな声を張り上げて強く命じた。洋一がびっくりして立ちすくんでいる。血があとからあとから噴き出してきて止まらず、健次もこのままでは血まみれになってしまう。なにか厚いタオルのようなものでくるんでやったほうがいいだろう。立ち去りかねてまだドアのところでうろうろしている洋一に、ついてくるようにと声を上げ、犬を抱いたまま事務室から裏の通路に出た。幾つも角を曲がりながら走った。
シャワー室に入り、洋一に頭から水を被《かぶ》るように告げる。新しく取り付けた棚から洗いたての白いタオルと模様の入っているタオルを二枚つかみ、それで犬の小さな躰を二重に包む。「すぐ戻ってくるから! このままにしておくんだぞ」シャワーを浴びているものの、気になってしかたがない洋一に声をかけ、健次は血にまみれた服のまま事務室に駆け戻った。工藤に無線で獣医の有無《うむ》を訊かなければならない。
犬の血で手がぬるぬるしているのでそれをズボンになすり付け、震える指先で無線機のスイッチを入れた。だが、いくら呼びかけても誰も出ない。壁に貼《は》ってある緊急時の連絡先に眼を走らせ、波長をそれに合わせて診療所を呼び出した。応答に出た看護婦に、獣医の有無をたずねる。特に獣医というのはいないが、うちの先生が診《み》ることもできるとのんびりした声で彼女は応答し、「それで、動物はなんですか? ヤギですか? 豚ですか? お産はちょっと無理かもしれないですよお」のんびりした口調でそう言う。首輪がこすれて犬が首に深い傷を負ったと、とりあえずの理由をつけて説明すると、「ああ、外科ですね。それならどうぞ」
「二十分以内には行けるはずです」無線を切って再びシャワー室に戻った。
裸のままの洋一が、タオルにくるまれた犬のそばに付き添っていて、盛んに「大丈夫だからね」と話しかけている。すぐに服を着るように言って健次は手を洗い、洋一にそこにあるだけのタオルを持つように命じて、再び犬を抱えた。
子犬はあっけないほど軽かった。
だが、首の傷はさらに深く大きくなっている。
通路に出ると大きな声で診療所に行くことをルカに告げたが返事はなかった。
カート置き場に出る。すでにタオルは赤く染まっていて、ぐっしょりと濡れはじめている。「がんばるんだぞ」犬に向かって叫んだが、涙で濡れたような赤い眼が少し動いただけでほとんど反応を示さなかった。首をさらに奇妙な具合にねじ曲げ、足は何者かに押さえ付けられているみたいに湾曲している。筋肉がつっているのだろうか。それにしては奇妙な姿勢だと思いながら、子犬をタオルごと助手席にそっと置いてやった。
洋一がタオルをいっぱい抱え、いまにも転んでしまいそうな勢いで駆けてくる。
エンジンキイを回した。
深い夜の中に走り出た。
暗い道。
カエルの死骸で荒れた路面。
ジャングルを抜け出て小さな草原のある道に出た。洋一は、よせと言うのに背後のリアシートに座って血に濡れたまま犬を抱いている。だが、もうなにも言わない。黙って犬の首を支《ささ》えている。健次もただひたすらにアクセルを踏みつづけた。
もし、この犬が思い出の中からあらわれたのなら、これから行く診療所の医師や看護婦にはこの状況は見えないはずだ。これはいわば記憶を共有している家庭内の出来事となり、外部からはうかがいしれないこととなる。だが、もしこのまま診療所に着き、彼らが当然のようにこの犬を処置しだした場合には、これは家庭内の出来事だけでは済まなくなる。
健次はハンドルを握りながらバックミラーに映る犬の様子を横眼に眺めた。
犬の首の血は止まっていない。むしろ少しずつ広がっている。刃物もあてていないのに、その傷口は次第に深さと長さを増して、まるで自己増殖するみたいに広がっている。首が裂けつつあるのだ。この子犬が普通の子犬なら、このような傷は生じるはずがない。生物の皮膚は弾力性に富んでいる。それは毛で覆われた犬でも同じはずだ。皮膚が自然に裂けていく、などということは考えられない。外部から鋭利《えいり》な衝撃を与えられないかぎり、皮膚や肉にこのような深い傷を負うことはありえないのだ。
しかし実際には犬の首は切れかかっていた。中学生たちに首を切断されてしまったあのクロのように。
この犬は、クロだ。
洋一の言うように、あのクロなのだ。
理由もなく裂けつづけているこの傷を見た以上、健次はそれを認めるしかなかった。
洋一が再び激しく泣き出した。
その様子でなにが起こったのか、もうわかる。
助手席にあったタオルをつかみ、前を向いたままそれを背後の洋一に渡した。犬の切断された首など、もうそれ以上見る必要はない。
それなのになぜか、眼頭《めがしら》が熱くなってきた。
この犬は、中学生たちに力ずくで首を切断されたとき、なにを想《おも》っただろう。
なにを感じていただろう。
そのとき、洋一が泣きながら不思議なことを言い出したのだ。
「パパ……、パパ……。クロがいなくなっちゃったよ。タオルの中からいなくなっちゃったよ……」
7
クラブハウスに戻ってもう一度共にシャワーを浴び直し、洋一をなんとかベッドに寝かせたときにはもう夜中になっていた。
その間中、洋一はほとんどなにも喋《しやべ》らなかった。
よほどショックを受けたのだろう。
健次はあえてクロが消えてしまったときの状況はたずねなかった。健次もクロが消えたことに叫びだしたいほどの衝撃を受けていたが、心のどこかでは、せめて診療所までは持ってほしかったという思いがあった。クロを他人がどう見るか。はたして見えるのか、見えないのか。それがわかりさえすれば、もう少し事態がはっきりしたかもしれないのに――。
眠る前になって、それまで押し黙っていた洋一は、急に熱にうなされたようになってベッドの中で喋りだした。
「……ぼくは見てた」と洋一は言った。「ぼくは見てたんだ。ジープに乗って抱きかかえながら、ぼくとクロはずっと眼を合わせていたよ。首がどんどん切れていくんだけど、クロの眼を見ていればそんなに怖《こわ》くなかった。……ほんとだよ。あのときと同じだって思い出したときから、急に怖さがなくなっちゃって……」
あのとき――。
それはクロを最後に見た雨の日だったという。
二年前のことだ。
その日洋一の保育園はお休みで、朝から何度も窓の外を覗いては雨が早くやまないかなと思っていた。そしてそのたびに、隣家の軒先《のきさき》を眺め、玄関脇のコンクリートのたたきにある小さな犬小屋の様子を見た。クロは入り口のところに半分頭を出して、なんだかつまらなそうに降ってくる雨を見ていた。でも、洋一が窓から手を振るとそれに気付き、一瞬眼が合うとうれしそうに短い尾を振った。一緒に遊ぼうと言っているのが洋一にはわかった。でも、雨だから遊べない。いつもはあの小屋の前のコンクリートのところに座って、一緒にいろんな遊びをするんだけど、それもできなかった。雨が上がったら、隣家のおばさんに頼んで、また散歩に連れてってもいいか訊いてみよう。そう思っているうちに夜になってしまった。寝る前にアパートの窓の外を見ると、雨は上がっていたけれど隣家の人はまだ誰も仕事から帰っていないらしく、暗いままで、クロも中で眠っているのか犬小屋の入り口にその姿はなかった。
翌日の朝、隣家の主人がクロの名前を呼んでいるのが聞こえた。それも何度も呼んでいるので、変だなと思いながら朝御飯を途中でやめて窓を開けて外を覗いた。隣家のおばさんも外に出てきていて、どうしたのってたずねると、こちらを見上げてクロがいなくなってしまったと教えてくれた。ご主人は、いなくなったんじゃない、誰かにとられたんだと怒って、クロがつながれていたチェーンを見せてくれた。この辺は物騒だからちゃんとはずれないようにしておいたのに、見ろ、なにかで切られてる。――そうして、クロはいなくなった。
それから二日後に、洋一は保育園に行く途中で隣家のおばさんに会った。おばさんは泣いたみたいな赤い眼をしていて、自分が夜のパートになんて出なければあんなことにはならなかったのにと言った。あんなことってなーにと訊くと、クロが近くの駐車場の片隅で見つかったという。それも、首がなにかで切断されてなくなっていて、首輪はまだ残っていたので、それで警察から連絡があってクロだとわかったというのだった。
洋一は、その日一日中ずっとぼんやりしていた。
そして、夕方になってから、その駐車場に行ってみた。みかんの缶詰の空き缶に花が供《そな》えてあって、クロの血はもうほとんど洗い流されていたけれど、青く小さな蠅がまだいっぱいその辺りを飛んでいた。
それから毎日、洋一はがらんとしたその小さな犬小屋を眺めて過ごした。
もうそこにクロはいなかったけれど、いつか帰ってくるような気がしたから。
クロはいつか戻ってくる、
きっと戻ってくる、
そう思いながら……。
洋一はベッドの中で再び涙ぐんだ。
そして、涙ぐんだまま眠ってしまった。
クロもきっと満足したと思うよ、と健次はその寝顔に言った。満足して、これでほんとうに死んでいったのかもしれない。今度はちゃんと看取《みと》ってくれる洋一のような友達がそばにいてくれたんだからね。
しばらくの間、健次はそうしたままベッドの端に腰を落としていた。
そして、いろいろなことを考えた。
もしかすると、この土地にはほんとうに、行き場のない想いを抱えて死んでいったものたちに再び形を与えるような、そんな不思議な磁場《じば》のようなものがあるのかもしれない。そういう死者の思い出を胸の中にくすぶらせている人間が、この土地に住むと、その思い出がホロスコープのように立ち上がってきて眼前にあらわれる。そういう作用がほんとうにあるのかもしれない。
だからその意味では、思い出に喰《く》い殺されると告げたあの老人の言ったことも、でたらめだとばかりは決めつけられないわけだ。少なくとも暗示をかけて受け入れやすくさせる効果は果たしたのかもしれない。
だが、それももう終わりだ。
クロという思い出はあらわれ、そしてその死を看取られながら消えた。おそらく妻の美佐子もそのようにして消えていくのだろう。今度は、おれやルカや洋一に見守られながら……。
むろん、まだまだ理解しがたいことがいくらでもあった。なぜ彼らが実在するものと感じてしまうのか。なぜ数ある思い出の中から、彼らだけがあらわれるのか。そして、なにを望んでいるのか。
いやいや、望んでいるというのはおかしい。問題は、彼らではなく、こちらにあるのだから。こちらの思い出の中にある。いつまでも解消されずに胸の底にわだかまっている想いのようなものだ。その想いが形となってあらわれているのかもしれない。
こんな南の島まで来てしまったというのに、自分たち家族の問題は、実はなにも解消されていないのだ。
ただ、ユメミのようにしてあのクロの最期《さいご》を見届けたことによって、ある程度の見通しはついた。まだあらわれたばかりの思い出もあるが、恐れることはないのだ。恐れて拒《こば》めば拒むほど、彼らは消えていくことができない。またあらわれる。だから、終わらせるのだ。容易に慣れることなどできそうにはないが、彼らときちんと向かい合うことによってそれを看取り、自分の胸の底にわだかまっているものを終わらせてあげるのだ。
そうすれば、きっと……。
気を取り直すようにそう考えながら、健次は明かりを消すためにベッドサイドからそっと離れようとした。そして、気付いた。
洋一の首。
そこになにかある。
眼を閉じて眠り、静かに寝息を吐いている洋一の首に、赤い線のようなものが生じている。
8
モニターの中に、とっぷりと外の闇が溜《た》まっていた。
ルカがじっとその闇を見つめていると、その暗い画面が少しずつ盛り上がって、闇が黒い水のようにこぼれてきた。どんなにこの部屋の中を明るくしても、外を覆っている闇は画面からこぼれ出てくる。じわじわとにじみ出てくる。
画面を消してしまえばいいのに、消せない。
そんな闇なんか見なければいいのに、眼を離せない。
指ではだめだ。
手ではだめだ。
もっと、もっと……。
そして今度は、おそるおそる自分の下腹の皮膚にカミソリでそっと薄く赤い線を引いてみた。皮に入っていく刃。薄くにじみ出る血。自分の躰のすべてを切り刻んでしまいたい衝動に駆られる。
「気持ちいいよ。もっと切ると、もっと気持ちよくなるから」
隣にいつのまにか冬の体操着姿のココが座っていてそうつぶやいていた。ココは、運動会で使った赤いハチマキをしていて、学級委員を示す黄色いリボンを胸に付けている。その横に黒いマジックで書いてある「戸田」というのが彼女の苗字だ。戸田|駒子《こまこ》。青白い顔に細い眼をしていて、いつも髪を三つ編みにしている。
「気持ちいいよ、ほら、もっと切って」
悲鳴を上げたいのに声が出ない。
カミソリが皮膚に喰《く》い込んだまま細かく震えているのに、それをどうすることもできない。
ココは、小さなハンディノコギリをだらっとぶら下げてベッドの端に座り、ルカを眺めている。あいつらと同じだ。あの鳩や猫と同じだ。あいつらもただ黙って眺めるばかりだった。
でも、ココは眺めるだけではない。奇妙なことを囁く。「電気掃除機には気を付けて」母親に掃除機の柄で叩かれたことをルカに報告する。
「掃除機には気を付けて」
母親が発作的に顔色を変え、ココを叩くと言う。叩き出すと自制がきかなくなるらしく、カイブツのようになって、血が流れるほどココの弱くて目立たない部分を掃除機の柄で繰り返し叩くと言う。クリーム色の細長い柄で、その先が部屋の隅のホコリも吸い込めるように尖《とが》っているやつだ。それでココの母親はまだ幼児だったココを痣《あざ》ができるほど叩いた。理由などないに等しかった。ココはいつも母親の顔色が瞬時に変わるのを恐れ、父親はそれを見て見ないふりをしていた。ココはだからいつも罰せられて叩かれるときに「ごめんなさい」と言いながらウサギの絵本で自分の眼を隠した。ごめんなさい、ごめんなさい。いつもは優しい笑顔で接してくれる母親の、すっかり変わってしまった怒りの表情を見たくなくて、いつもそのウサギの絵本で自分の眼を覆った。母親はそのウサギの絵本も叩いた。切れてしまったみたいに、すごい力で叩きつづけた。でも決してココの眼を隠しつづけているその絵本を取り上げようとはしなかった。
「ウサギの絵本よ。あなたにあげたウサギの絵本」
「…………」
「なぜだか、わかる? あなたもあたしと同類だから。今度はあなたの番なのよ」
そんなこと聞きたくない。
けれど耳をふさいでも入ってくる。
ぎぃこ、ぎぃこ。
ココの足元にはあの猫がいて、床にぽとぽと小さく垂れはじめたルカの血を赤い舌で舐めている。
「お仕置《しおき》、お仕置……」
ココは、だぶだぶの体操着に隠れていた左手の手首をすっと前に差し出した。細くて、白くて、野菜のネギみたいな手首だ。ココはだらりと下げたノコギリの、鋭くぎざぎざした刃先を、その手首に無造作にあてた。まな板の上のネギを切るみたいに無表情のまま刃先を振り降ろした。ノコギリの刃がぶんと鈍い音を立てて鳴り、鋭く尖った刃先が手首の白い皮膚に喰い込む。
「……やめて、お願い」
「やめられない」
ノコギリの刃を引き抜き、それをもう一度頭上に振り上げる。
「ぎぃこ、ぎぃこ」
つぶやきながらココは、手首に振り降ろしたノコギリの刃を今度は前後に動かしはじめる。血が噴き出た。体操着がみるみる赤黒く染まっていく。動けない。それを止めることができない。ココはぼんやりした顔のまま自分の手首をぎこぎこと切りつづける。「お仕置、お仕置……」
お仕置なら、あたしだって、ママにやられた。冬のお風呂場で氷みたいに冷たい水をかけられた。氷になってしまうまでかけられた。悲鳴を上げたいのに声が出なくなるまでかけられた。でもそれは、あたしがイケナイ子だったからだ。ママは、いいママだった。あたしはいつも洋一に話している、あたしたちのママは、いいママだったって。とっても、いいママだって。あたしはママに嫌われてなんかいなかった。あんたなんて、生まれてこないほうがよかったなんて言われたことはなかった。あんたみたいにイケナイ子は、この世に生まれてこないほうがよかっただなんて言われたことはなかった。子供なんて大嫌いだと看護婦さんのママは決して言ったことはなかった。冷たい水をかけながら、そんなことを言ったことはなかった。
「ほら、なぜもっと切らないの? 気持ちいいのに」ココは表情ひとつ変えずにそう勧《すす》める。ココの顔はもう血で真っ赤だ。
「もっと切っちゃえば」ニヤリと笑う。
頬から血の滴《しずく》が落ちていく。
「あんたもやるんでしょ? こういうふうにやるんでしょ?」血まみれの顔をルカに見せてそう問いかける。
ルカは自分が握っているカミソリを見た。カミソリの刃先は微かに自分の血で濡れていて、飛び散ってくるココの赤黒くべっとりした血にまじり合う。もう床も壁も天井もココの血で赤く塗りつぶされている。
モニターの中の闇が呼吸しているみたいにふくれあがった。
指先に握ったカミソリを離せない。
切ることをやめられない。
「なぜやめられないのよぉ」かすれた声でルカは叫んだ。
皮にはいっていく刃。溢《あふ》れ出す血。それがルカの下腹を濡らし下着に赤くにじんでいく。
「ほら、あたしみたいにもっと切っちゃえば」
ココが自分の左手首を差し出す。
ぎぃこ、ぎぃこ。
手首から骨が突き出して、その開いたままの掌《てのひら》がかくんと折れた。皮一枚残して小さな掌がだらりと下にぶらさがる。
ココの腕から血まみれの小さな左手首がぽろっと床に落ちて転がった。
「ぼく、鳥になるんだよねえ」
いつのまにかシンちゃんがベッドの脇に立っていて、ぼんやりとした表情でそうつぶやく。
「ねえ、ぼく、鳥になるんだよねえ」
手に持っていた細長い枯れ枝の棒の先で、床に転がっているココの手首をつついている。手首の切断面からは細長い紐《ひも》のような血管や神経がはみ出ていて、シンちゃんが棒の先でついて転がすたびに、血まみれになって弛緩《しかん》した指が開いたり閉じたりする。
「ジャンケンポン」
シンちゃんがつつくたびに、ココの小さな指が動いてパーになったりグーになったりする。
「ジャンケンポン」
今度はパー。
「ジャンケンポン」
今度はグー。
自分の血の飛沫《しぶき》を浴びているのに、ココは別に痛がりもせず、つつきまわされている自分の掌《てのひら》を眺める。
「ジャンケンポン」
動けずにいるルカの手元に眼を移す。
「ねえ、ジャンケンしてみんなで遊ばない? ほら、グー、チョキ、ジャン」
9
健次は眠りつづけている洋一の首筋から眼が離せなかった。
そんなはずはない。
身を屈《かが》めて洋一の首に顔を近付け、首筋に生じている赤く細い線を観察する。洋一の喉にはもちろんまだ喉仏《のどぼとけ》などはなく、皮膚も陶器のようにつるっと滑《なめ》らかだ。皮膚のきめが細かく少し汗ばんでいて、洋一が呼吸をするたびにそれ自身が生き物であるかのように微かに動いている。その表面に、まるで赤いペン先で直線を引いたような長さ十五センチほどの引っかき傷に似た線が生じているのだ。きっと眠るときに無意識にかいてしまったのだろう。ルカもそうだったけれど、子供はかゆいとむやみにそこを爪でかきたがる。暑いと汗疹《あせも》ができやすいからそれでかいてしまう。首筋などは特にそうだ。
――そうだよな?
健次は、眠っている洋一の首に息が吹きかかるほど顔を近付け、その傷を見つめた。
それは、傷というより、むしろ発疹《はつしん》といったほうがいいようなものだった。外からではなく皮膚の内側からその線は盛り上がっているような感じで、なにかに薄くかぶれたみたいに赤くなっている。汗疹ではなさそうだ。ではアトピーだろうか。ただの軽い皮膚炎だということも考えられる。シャワーを浴びて石鹸でごしごし洗い、皮膚を清潔にしてしまえばすぐにこんなものは消滅してしまう。そうさ、これは単なる皮膚炎だ。洋一もルカもよくそうなったじゃないか。おむつかぶれとか、とびひとか、膝の裏側によくできるアトピーとか、子供はしょっちゅうそんなものばかりできている。これだって、そのうちのひとつさ。心配ない。
それなのに、眼が離せないのだ。
その赤が、クロの首から滴《したた》り落ちた血の赤さと重なって、どうしてもそこから眼が離せない。ああ、神様……。あれほど嫌っていた言葉を心の中で思わずつぶやいていた。神などいないことはわかっているのに、もしこれが、あのクロに生じた傷のように、みるみるうちに赤みを増して内側からはじけるようにぱっくりと傷口を広げたらどうしよう。洋一の首から血が流れ出すなんてことになったら――。そんなことまで想像してしまって、神に願わずにはいられなくなってくる。
落ち着け……。
健次はその赤い線を見つめながら自分が細《こま》かく震えているのに気が付いた。単なる皮膚炎だと思えば思うほど震えはひどくなる。
なぜよりによってこんなところに赤い線が生じているのだ。
ショックのためか。
クロのあんな悲惨な最期《さいご》を眼にしたために、それが転移したのか。
躰が勝手に反応してしまっているのか。
あのときクロの眼に吸い込まれるようだったと洋一は言っていた。最後にクロと眼が合って、その眼の中に吸い込まれてしまったと言った。それは単なる子供らしい比喩《ひゆ》ではなく、ほんとうにクロが洋一を道連れにして……。
否定すればするほど、洋一の首の傷の赤みが増してくるように感じられる。
クロの傷を、洋一は自分のことのように心配していた。ほとんど洋一はクロの身になって心を動かしていた。
だからクロが消えて、今度は洋一がクロになった。
クロの傷を自分の身に引き受けてしまった……。
(そんな……、そんなことはありえない……)
これは単なる皮膚炎で、それ以上でもそれ以下でもない。
でもこの赤さは……。
果てしない自問自答をつづけながら洋一の皮膚に生じている赤い線を見つめているうちに、健次は視界の端《はし》になにか他の、細かく赤い[#「赤い」に傍点]ものがちらちらと動いているのを感じはじめた。それは、視界の端からあらわれて、静かにこちらのほうに近寄ってくる。
「グー、チョキ、ジャン」
シンちゃんが転《ころ》がしたココの手首は、ころころと転がってチョキを出した。
「あんたの負けー」
ココがにっこり笑ってそう宣言する。
だって、
だってあたしはまだなにもしていない。
「あんたの負けー。ほら、あんたはパーじゃない」
体操着姿のココに言われて自分の手元に眼を落とすと、ルカは握っていたはずのカミソリを離していて、掌がだらりと脱力したみたいに広がっていた。
「ほら、パーじゃない。だからあんたの負けね」
そんな……。
「罰ゲーム」
ココは体操着の袖で血にまみれた額をかきあげるようにぬぐうと、まだ皮膚片が刃の先でぷらぷらしているノコギリをルカの頭上にかざした。
ベッドの端に腰をおろしたまま、そこに釘付《くぎづ》けされてしまったみたいに動けない。
罰ゲームなんていやだ。そう叫びたいのに、喉に無理矢理大きなゴム栓を押し込められたみたいに声が出ない。
ぎぃこ、ぎぃこ。
ココのノコギリがルカの右肩にすっと近付いてきた。ココはルカを見ていない。いつもクラスでそうだったように、ぼんやりと前を向いている。ココは時々そうなった。学級委員をしていたからいつも快活でにこにこしていたけれど、時々そうなって心がどこかにいってしまったようになっていた。
「お仕置の罰ゲーム。その一」
ココはぼんやりと前を向いているのに、その右手だけが奇妙にねじ曲がって隣にいるルカのほうに伸びてくる。ノコギリの先端が肩に触れる直前で止まる。
ルカの右肩にはオレンジ色のタンクトップの肩紐《かたひも》がかかっていて、それが汗に濡れてびっしょりと濃くなっていた。
ココのノコギリが躊躇《ちゆうちよ》なく肩に触れる。
とても冷たい。
まるでママに真冬に水をかけられたときみたいに冷たい。
「気持ちいいでしょ?」ココは前を向いたままつぶやく。ココは前を向いて、モニターの中の黒い闇を見つめている。「もっともっと気持ちよくしてあげるからね」
ココがそうつぶやくと、モニターの中の闇が呼応するようにふくらんだ。
「ぼく、鳥になるんだあ」
シンちゃんがベッドの上で跳びはねている。
ぴょん、ぴょん。
ぴょん、ぴょん。
「もっと高く飛びたいなあ」
シンちゃんが跳びはねるたびにベッドが揺れて、ルカはあの坂を下るときに乗った自転車の揺れを思い出した。
揺れる。
揺れる。
「まず肩からね」
ココのノコギリの刃先がルカの肩に勢いよく振り降ろされた。
健次は洋一の首筋の赤い線から眼の端でちらちらと蠢《うごめ》いているものに注意を移した。
「ねえ、覚えてる?」
顔をわずかに移動させると、肩の上に赤い爪が置かれていた。
美佐子のマニキュアを塗った爪だ。
五本の指はなくて、爪だけがそこにある。
なにかを問うようにそこに置かれている。
「ねえ、覚えてる?」
爪が微かに動いて肩から首に移動してきた。赤い爪はそれ自身が生きているみたいにもぞもぞと動いていて、健次が思わずそれを払いのけようとすると、爪は蠢く虫になった。
虫?
思わず声を上げそうになる。
「だめよ、声を出しちゃ。洋一が起きちゃうでしょ」
美佐子の声だけがして、赤い虫はじわじわと肩から首に這《は》い上がってくる。
ぬめっとした感触。
それでいて爪を立てられたみたいにその這った跡がちくちくと痛い。
虫は、指の爪の五匹だけではなかった。おそるおそる視線を移動すると、それは寄り集まり折り重なって、いつのまにか部屋中をびっしりと覆いつくしていた。
あの虫だ。
ここに来て三日目に大量に殺したナメクジみたいな赤い虫。
それがこの建物の中にまで侵入してきてこの寝室を覆っている。いずれも爪ほどの大きさで濃い紅色。それが床といわず壁や天井まで覆いつくし、部屋の中がめらめらと炎に包まれたように赤くなっている。
肩から落ちた。
どすんとルカの腕が落ちていった。
「今度はこっち」
左の肩にココのノコギリが振り降ろされてきて、それはまるで鋭い鉈《なた》のように肩の骨に喰い込み、ルカはその痛みで悲鳴を上げた。カミソリで切ったときとは比べものにならないほど血が噴き出てきて止まらず、それでも躰が動かないのでただ自分が切り刻まれていくのを見ているしかなかった。
「罰ゲーム。その二」
両腕を断ち切ってしまうと、ココは無表情にそう言って血まみれのノコギリをルカの足に向けた。
「……足はゆるして」
「ゆるせない」
タンクトップと下着だけのルカは身もだえしてココに許しを求めたが、ココはそのままルカの右足の付け根にハンディノコギリを振り降ろした。
躰がぐらっと揺れる。
重心を失ってベッドから床に転げ落ち、経血に似て粘ついた血の海に投げ出される。死場で見た泥のような血。このまま泥のようなこの血にまみれて死ぬのだろうか。右足。そして次に左足。ぎぃこ、ぎぃこ。ココはクリスマスのローストチキンを手早くナイフでさばくみたいにして、ルカの両腕と両足を切断した。
「ダールマさん、転んだ」
シンちゃんが棒きれの先で手足のなくなったルカの躰をつついてくる。
棒の先は枝が折れたまま尖っていて、その先がルカの脇腹に喰い込んでくる。
でも、シンちゃんの表情からはまったく悪意が感じられない。それはココも同じだ。モニターの中の闇を見つめつづけているココは、あたしの両腕と両足を切ってしまったのに、なにか悲しそうに沈んでいる。
火の粒のような虫たち。
ナメクジに似た動きでぞろぞろ蠢き、次第《しだい》にこちらに這い上がってくる。
これが現実であるはずはなかった。たぶん洋一の首の傷を気にしているうちに、またいつものように寝込んでしまったのだ。そして、洋一の傷への気がかりから看護婦だった美佐子を連想し、そしてあのとき芝生で見て心に残っていた彼女の赤く塗った爪がよみがえり、その赤さが形となってつながって虫に結び付いてしまった。きっとそうだ。そうに違いない。この赤いナメクジのような虫たちがいまおれの躰に這い上がってこようとしているのは、おそらく自分の無意識の危機感のあらわれなのだ。知らないうちに侵食されているおれの心が夢になってあらわれているのだ。
覚めろ、覚めろ。
それでも虫は這い上がってくる。
行き場所をなくした思念のように、それは渦巻き、折り重なり、寄り集まって、おたがいの重みに耐えかねたみたいに早くもぷつぷつと破裂してつぶれているものもいる。
虫は見つめていると爪になり、まばたきするとまた虫になって、意思《いし》でもあるかのようにこちらに向かってくる。
健次は眠りつづけている洋一を守るようにその小さな躰に覆いかぶさった。洋一の首の傷の赤みが増している。いまにもそれは内側から裂けてしまいそうに盛り上がりはじめている。洋一を起こすべきだろうか。起こしてこの部屋から逃げるべきだろうか。けれど、もし洋一を起こしてその途端にこの首に生じている傷が裂けてしまったらと思うと躰が動かなかった。
虫は迫《せま》ってくる。
爪となって迫ってくる。
痛い。
爪が喰い込む。
虫が健次を非難するように爪を立て、その鋭いマニキュアを塗った爪先で肌を刺激してくる。大量の爪だ。赤い爪がもぞもぞと部屋の中を動き回り、健次をとがめるように爪で引っかこうとしている。
「なぜわたしだけが死んでいくの? あなたたちを残して、なぜわたしだけが死んでいかなきゃならないの?」
爪の動きに美佐子の声が重なる。
「働きすぎたから? 地震で被災した人たちを看護しつづけたから? 眠る間もなく、次々に運びこまれてくる患者さんたちに精一杯|尽《つ》くしたから? だから、死ぬの? その報《むく》いが死ぬことなの? 不公平じゃない。なぜ同じように働いているのに死ぬものと死なないものがいるのよ。わたしは死んで洋一の寝顔も見ることができない。おたがいに笑い合うこともできない。それなのにあなたは、いつもノホホンとして、ろくに子供たちの面倒をみることさえしなかったあなたは……。あの白い家を失い、仕事も失い、子供たちさえろくに扶養《ふよう》できないあなたは……。ねえ、教えてよ。わたしはなぜ死ななければならなかったの? お別れもできずに、眠ったまま、なぜわたしだけが……」
無数の爪が健次の皮膚に喰い込んだ。
その赤さはいつしか炎の色となって健次の背中を焼いた。
健次はその痛みに呻《うめ》き、それでも美佐子にはなにも言えない。
おれのせいじゃないとは言えない。
なぜなら、きみが死ぬことはなかったんだといまだに思っているから。
なぜ彼女が死ななければならなかったのか、いまだに健次にはわからない。新聞の三面記事の片隅で、過労死したサラリーマンの記事を見かけるたびに、働きすぎたために死ななければならない理不尽《りふじん》さがどうしても納得できなかった。だから、美佐子にそう問いかけられても、なにも言えない。答えられない。死んでしまったくやしさで無数の爪を立てられ、皮膚が破れて血が流れ出しても、なにも言えない。
「ねえ、なぜなのよ? 生きつづけているあなたにはそれを教えてくれる義務があるのよ」
答えられなかった。
すべては自分が思い出していることであり、自分の心がこれらのものをつくりだしているのだといくら思っても、消えてくれない。
でもせめて、洋一とルカだけは思い出に苦しめられることの外にいてほしい。
そういうものとは無縁であってほしい。
「……頼む」と健次はようやくつぶやいた。「おれをいくら恨《うら》んでもいい。問いかけつづけてもいい。おれはそのたびにおまえに答えるよ。誠実に答えるよ。だから――」
「だから?」
「洋一を連れていかないでくれ。クロのようにしないでくれ」
「なぜなのよぉ?」
ココもルカに向かってそう言った。
両腕と両足を切断され、泥のように濃い血の汚濁《おだく》にまみれて床にごろんと転がっているルカに、ココはそう問いかけた。「なぜなのよ? そんなになっても、あんたは生きてる。自分を切り刻《きざ》んだって、あんたは生きてる。でも、あたしはあのとき死んだんだ。ガレージの隅で死んだんだ。あたしは死にたくなかった。死ぬなんていやだった。でももういやだった。ママに叩かれつづけるのはいやだった。だから、見せつけてやろうと思って、わざと派手な方法を選んだのに、やりだしたら止まらなくなっちゃった。怖いのに気持ちよくて、痛いのに気持ちよくて、このままやっちゃえばもうママのあの眼なんか気にしなくてもいいって考えたら、なんだか止まらなくなっちゃった。あんまり血が出てくるから人を呼ぼうと思ったけど、血が流れているのを見ているうちにそれに吸い込まれちゃった……。それだけなのよ、それだけなのに……、なぜあたしは失われてしまったのよ」
ココはモニターの中の闇を眺めていた。
モニターの闇は夜よりも暗くて、それは地の下の、光が閉ざされた場所みたいに希望がなかった。暗黒の完全な闇がそこにはあって、それでもそこでなにかが動いていた。闇の中のノイズみたいにからみ合いもがきながら、それは不規則に広がり、ただ失われたものを探しながら地中を這い回っていた。
細かい根のようだった。
それが折り重なり、からみ合い、のたうっている。
そしてその闇に重なるように、それを見つめているココの顔がモニターの画面に映っていて、ココの顔にも皮膚にも希望はなかった。
「どうしてよ? どうしてなのよ? あたしたちにはなぜ希望がないのよ?」
光が閉ざされた地中の場所よりももっと暗い表情で、ココがモニターに語りかける。「なぜあたしたちには希望がないのよ。失われたあたしたちには、なぜなにもないのよ。あんたの思い出になったあたしたちには、なぜ希望がないのよ」
赤いハチマキをしたココがそうつぶやいてルカの顔を覗き込んでくる。
(あたしの思い出には希望がない)
死ぬことばっかり考えている。
ココもシンちゃんも、
いつも、
いつでも死んでいて、
夜よりも暗い。
光が閉ざされた場所に閉じ込められている。
「なぜなのよ?」
ココ……。
そんなことはない。
あたしはあんたを閉じ込めたりはしていない。
ただ……。
「ただ、なによ?」
あたしは弱いから。
「失われたものより? 失われたものよりも弱いの? なにもできないものよりも弱いの? 親に叩かれたり、理由もなく殺されたり、車に撥《は》ね飛ばされたりして忘れ去られるものより弱いの? あたしたちはもうどこにも行けないんだ。行きたくたってどこにも行けないんだ。そんな閉じ込められてるあたしたちより、あんたは弱いの?」
初潮がはじまり、股間《こかん》からぬるっとした血が流れてきてどうしていいかわからなくなったあのとき、飼育小屋であたしを助けてくれたココがそこにいた。三つ編みにして、学級委員で、男の子にだって絶対負けなかったココがそこにいた。いつもイジメられて、「死ね、死ね」と囁かれていたあたしをひとりだけかばってくれたココが、そこにいた。
血で汚れた彼女の体操着のネームには、あのとき通っていた小学校の校章が縫い込んであって、その横に彼女の名前が黒いマジックで書いてあった。そのマジックは何度も洗われたためにかすれてしまっていたけれど、戸田駒子という彼女の名前ははっきりと読み取れた。
戸田駒子。
シンちゃんは……、そうだった、シンちゃんは村上新吾だ。
戸田駒子と村上新吾は、あたしのかけがえのない友達だった。
いつまでも、ずっと、友達だった。
「ダールマさん、転んだ」
なぜだろう?
なぜあたしは、こんなにまでされているのに、この二人の名前なんかを思い出してしまっているのだろう。
「ダールマさん、転んだ」
二人はあたしをオモチャにして遊んでいるのに、ちっとも楽しそうじゃない。こんなことつまんないよ、そういう顔をしている。あたしは怖くてオシッコを漏らしてるのに、それがちっとも恥ずかしくない。切断された手や足がいらなくなったティッシュみたいに眼の前に放り出されているのに、それがちっともくやしくない。
……あたしはこうなりたかったんだ。
初めてわかった。
自分の躰をなぜカミソリで切りたくなるのか、初めてわかった。
あたしはこうなりたかったんだ。
ダルマさんになりたかったんだ。
切って、切って、切り刻んで、なぜこんなことをやってるんだろうと思っていたけど、いまようやくわかった。あたしは、どこにも行けない彼らと同等になりたかったんだ。同じ場所で話したかったんだ……。
そう思ったとき、微かに音が聞こえてきた。
それは音楽のメロディのようだった。
ココもシンちゃんも同時にその音が聞こえるほうに振り返って、背後の壁にあるチェストを見つめた。そしてまるで、暗くて黒いモニターの画面の中に吸い込まれていくみたいに、二人は部屋の中から消えていった。
ルカが強くまばたきを繰り返すと、眼の前に自分の下腹があって、そこに微かに傷が生じて血が流れかかっている。
カミソリを握ったままベッドの端に腰を落としていた。
ココがあらわれる前と同じ姿勢で。
部屋中を満たしていた血も消え、失った腕も両足も元のままで、ルカはただ震えながら自分で傷つけた自分の傷口を見つめていた。
シンちゃんも、ココもいない。
誰もいない。
あたしひとりだ。
でも、
それでも……。
メロディだけは鳴りやまなかった。
それは、携帯の着メロのような音だった。
10
ここには青い花、あそこにはピンクと黄色、咲き乱れた花が野原いっぱいに広がっていた。それらの花の上をひらひらと舞い上がり、飛び交《か》い、かと思うとそっと大きな葉の上で羽を広げて休んでいる蝶々を、洋一は眠りの中で夢中になって追いかけつづけていた。
「すっげえ」
「うわあ」
いちいち声を上げ、叫びながら、洋一は網をかかげて野原を駆け回る。
花と木が一緒になり花束みたいに茂っていて、群生している植物の葉がひらひらと魚の背中みたいに動き、涼しい風が頬を撫でてとおりすぎていく。
洋一は花園の中でうずくまり、跳びはね、青空に向かって網をすくう。一種の魅惑的なものがあたりいちめんに漂っていて、洋一は網を振っては笑い興じ、誰もいないのにひとりでおかまいなしに喋りつづけた。
ジャングルに囲まれた窪地にあるその花園の中を小さく細い清水のような小川が流れていて、その両側にケーキにまぶした砂糖みたいな白い羽がいちめんに敷き詰められている。群れ集《つど》う蝶たちがその水辺で羽を広げて、お休みをしているのだ。洋一もすぐに息が切れてしまい、近くの木陰《こかげ》に腰をおろして休むことにする。
黄色いリュックから水筒を取り出してそれを飲み干す。それでも暑さが引かないので蝶たちをおどかさないようにそっと小川に近付いていって、その冷たい水で顔を洗う。
一瞬その水面に洋一の痩《や》せた小さな顔が映り、きらきらと輝いた。
白い蝶の群れが、まるで波の飛沫《しぶき》みたいに洋一の小さな躰のまわりに舞い上がり、あるものは髪に、あるものは肩に、ふっと引きつけられるみたいにとまってしまう。洋一は躰を動かせなくなってくすくす笑い出す。蝶たちがこうして水辺に集まるのは、躰を冷やすためだとパパは言っていた。「ぼくの躰は冷たいかい?」そっと動き出すと、それにつれて白い蝶の波もゆっくりとうねり、道をあけてくれる。
花の周囲を蜜蜂《みつばち》が飛び、蟻が葉の上を這い回り、リュックと網を置いた木の幹には大きなインコみたいなきれいな鳥がとまっている。金色のトカゲと銀色のトカゲが交互にあらわれて足元に眼を落とすと、無関心に緑色のバッタが跳びはねている。
花のざわめき。
ひとすじの小道。
風に揺れている木陰……。
その黒い木陰の密度がひときわ濃くなって、ひんやりした空気が肌に触れた。そこにクロの死骸が横たわっていた。首がなかった。首のないクロの躰がそこにあった。斜めに腹を見せ、足がひきつったようにねじ曲がっていても、クロはじっと痛がりもせずに洋一を見ていた。頭がないのに、眼がないのに、クロが自分を見ていることが洋一にはわかった。泣きたい気持ちが言葉にならず、洋一はただじっとクロを見ていてあげるしかなかった。
「……近付いて」声が聞こえる。
「もっと近付いて」
洋一は声にうながされて木陰の中のクロの躰に近付いていく。傷口が喋っていた。クロの切断された首の傷口から、その声は聞こえた。「……もっと、もっと近付いて、この傷口をよーく見て。これで終わりじゃないんだ。思い出があるかぎり……」
洋一は陰の中に腰を落とし、それを見た。
眩暈《めまい》がしそうな首の切断面が胸にせまってきても洋一はクロを見つづけた。
熟した赤い果実が裂けるように、小さなその首が薄い毛皮の部分だけを残し、ぱっくりと口を開けている。洋一はその首の中に、あの暗い穴[#「暗い穴」に傍点]を見た。
穴はふさぐのではなくて、しっかりと見なければいけない。
「……もうすぐだよ」
クロの声が響いてくる。
「……もうすぐまた、会えるから。……何度でも、何度でも、会えるようになるから。だから心配しないで」
洋一はクロになってあの犬小屋の前にいた。コンクリートのところにちょこんと座って、窓を見上げていた。洋一はクロを感じた。クロになった。クロは自分だった。「……覚えていてね」クロは言った。そして気が付くと、木陰の中からクロの躰が消えていた。
空はいつしか黒い雲に覆われていて、ぽつぽつと大粒の雨が降りだしてきた。
走って帰らなくちゃ。
そう思い、再び陰のほうを振り返ったとき――。
パパが心配そうな表情で見つめていた。
「……どうしたの?」
洋一が起き上がりながらつぶやくと、なぜだかわからないけどパパは泣いていた。
夢の中で見た大粒の雨のような涙だった。
パパはなぜか急に洋一を強く抱き締め、汗をかいている首のところを何度も大きな手でさすった。オシッコがしたいのに、泣きはらしたような眼をして、太い腕で抱き締めたまま離してくれなかった。
11
何日か経った。
ルカはとぼとぼとジャングルのぬかるんだ道を歩いていた。
まだぼんやりしている。
足には自信があったけど、父親の健次に見つからないように遠回りしたから、ここまで来ただけで疲れてしまった。どろどろと澱《よど》んだようなあのクラブハウスにはもう帰りたくない。斜めに吊したバッグの中からペットボトルを取り出し、もう生ぬるくなってしまった水を口に含んだ。
あたしはまた逃げるのだろうか……。
天罰みたいに散乱している数え切れないほどの蛙の死骸。
でも、大丈夫。あることはわかっていたから。
ぬかるんだ水溜まりの中に浮いていたり、干《ひ》からびたまま泥に埋まりかかっているのを慎重に避けながら、ルカは先へと急いだ。泥の道はゴムのサンダルだと歩きづらくて裸足《はだし》になったほうがいいくらいだった。
あたしはあのとき、部屋の中で自分の「死場」を経験した。
泥のような血の中でココたちと出会った。
それでもあたしはこうして生きている。
ひとりぼっちで歩いている。
背後から車のエンジン音がこちらに近付いてきた。
父親だと思ったがそうではなかった。ピックアップの赤い軽トラックが近付いて来て、あのひとが、フミオが運転していた。
ルカは知らんぷりをしてうつむき、そのまま道端を歩きつづけた。トラックは止まるだろうか、それとも行き過ぎてしまうだろうか、ドキドキしながら歩きつづけた。見つけてほしいのに見つけてほしくない。変な気持ちだった。
赤いトラックはちょっと行き過ぎてから、ゆっくりと止まった。
「……やあ」フミオが眩《まぶ》しそうな表情をして運転席から顔を出した。
ルカはちらっとその顔を見ただけでそのまま歩きつづける。
心臓がなぜかどきどきする。
「どこまで行くの?」とフミオは少し口ごもりながらそう言った。
「……ちょっと」
「村か」
ルカは立ち止まって、微かにうなずいた。あれ以来だった。恥ずかしさで自分が首筋まで赤くなっているのがわかる。
「よかったら、乗ってかないか。この道を歩くの大変だろ。どうせ……、おれも村へ行くんだから」
「ほっといて」
「乗れよ」
フミオもなんだか上気したようにそう繰り返している。
乗ってしまいたかったけれど、そのまま乗ってしまうのはなんだかいやだったので、ルカはまた歩き出してしまった。
フミオには、裸を見られてる。あのときしっかりと見られちゃってる……どうしよう……まだ乳房があまり膨《ふく》らんでいなくて、お尻がちょっと大きめなことも、しっかりと知られちゃってる。それってやっぱ、かなりまずいことで……、なんだかあのときのことを思い出しただけで、胸がどきどき、逃げ出したくなる。
足は勝手にぬかるんだ道をとぼとぼと歩いていた。
一歩一歩がふわふわして、歩いている感じがしないのに、なんだかすごく遠くまで歩いているような気がする。すごく長い時間が経っていくような気がする。
ルカはそのままとぼとぼと十メートルくらい歩いた。そして、歩きながら初めて、横を見た。……トラックがいない。フミオのトラックは追いかけてきていない。どうしよう? このまま歩いちゃおうか、それとも、それとも、立ち止まったほうがいいのだろうか……。
(ああ、めんどくせぇ)
ルカはいきなり立ち止まった。
うしろを振り返る。
赤いトラックはまだ同じ場所に止まったままでいた。運転席にいてこちらを見ているフミオと視線が合う。ルカはなんだか泣きたくなるほど切《せつ》なくなった。あたしのほうから行かなくちゃいけない。そう思うのだけれど、足が動かない。この足が動いてくれない。
離れてしまった十メートル。
汚れたサンダルを履き、ルカはその場にぼんやりと立っている。まだあんまりよく考えられない。
トラックが少しずつ動き出した。
こちらに向かって動いてくる。
「……乗らないか? あちこち水溜まりばっかりだし……、この先はもっとひどいから」
「ひどいの?」
フミオは濃い眉を寄せてうなずいた。
そうなのだ。水溜まりだ。この先はもっとひどい。だから……、だから乗せてもらうのだ。
「じゃあ、乗るよ」
トラックのシートは、乗用車やジープみたいに座席が分かれていなくて、どの辺に座ったらいいのか戸惑った。ルカは窓際のいちばん端に腰を降ろし、開いている窓のところに左手の肘《ひじ》をのせた。
ちょっと気持ちいい風が吹いてくる。
トラックが再び発進する。
乗ってからしばらくは、二人とも黙っていた。
「……その髪」
なんだかまたどきどきする。
「長いほうがよかった?」とルカは前を見たまま訊いた。
「いや、それもいいよ。言わなかったかな、カート置き場で」
フミオも口数が少ない。ハンドルをしきりに指先で叩《たた》いている。彼も指に怪我《けが》をしたのだろうか、その爪の間に乾いた血のようなものが詰まっていた。
それで、思い出した。
携帯のことだ。
でもなかなか彼には訊けない。どうやって訊いたらいいのかもわからない。
何度も拾ってもらった携帯。でも、あの携帯にはバッテリー電池は入っていなくて、着メロなんて鳴るはずがないのに、鳴った。あのとき、鳴った。あの携帯は、いまのあたしみたいに意味不明の宙ぶらりんで、登録番号もないから、むろん誰もコールなんかしてこられない。
それなのに、鳴った。
なぜだろう。あわててチェストの中から取り出して、あのとき液晶を眺めた。なにも映し出してはいなかった。だからとにかくそれを耳にあててみた。誰の声も聞こえなかった。ただ着メロだけがいっとき鳴りつづけて、やがて消えていった。
そのことを、彼にどうしても訊いてみたい。
なぜだかわからないけどコールしてきたのは彼であるような気がするのだ。
けれど、どう訊いていいのかわからなかった。
(あのときのことをなんと説明するの?)
死んでいった友達に切り刻まれているときにその着メロが鳴り出したなんて、とても言えなかった。気が変になったと思われるだけだ。
だから、やっぱりそれは秘密だった。
でも、彼も少しリラックスしてきたのか、あまり言葉に詰まらないで話すようになった。
ルカもそれにつられて少しずつこわばっていた躰の力が抜けていく。
ふと、これまでのことをすべて彼に相談したら、と思う。
けれどもやっぱり言い出せない。
いったいなんと言ったらいいのかわからないのだ。
転校した中学でもルカはずっと黙っていた。男子ともほとんど喋らなかった。だからもじもじするばかりで、かえってつっけんどんな受け答えをしてしまう。どういう会話を交わしたらいいのかよくわからない。
フミオは、父親が森で採集した昆虫を、一週間に一度、荷として出すために桟橋《さんばし》に行くのだと言った。昆虫は形が崩れないように処置をして箱に入れ、ダンボールで梱包《こんぽう》して後ろの荷台で揺れている。これが最後の荷出しだという。
「なぜ、最後なの?」とルカは訊いた。
「ちょっと理由があって」
「そう」
ルカはうつむいた。
これからどうなるのかな。
どうなるんだろう……。
「そういえば、うちのおやじと、きみのおやじさん、この前話してたな」
彼がなぜか急に父親のことを話題にする。「きみのおやじさん、なにか話してた?」
「なにを?」
「いや……、なにを、っていうことはないんだけどさ」
フミオは運転しながらそう言うと、そのまま再び黙ってしまった。彼の声はちょっと低くて、深い水の底から泡が浮いてくるみたいにつぶやく。
「おれ、なに言ってるのかなあ」
「離れてしまった十メートル」
「えっ?」
「なんでもない……」
ルカはまだぼんやりしていた。
彼とこうして車の中で一緒に座っているのに、百パーセント一緒だという気がしない。すれ違っている気がする。
彼が、トラックの古いカーステレオにカセットをそっと差し込む。知ってる曲だ。宇多田の新しいやつ。それもいま、毎日のように聞いてる。
「この曲、いいよね」彼がなにげにそうつぶやく。
ルカはしっかりとうなずいた。うれしくなってきた。島を出るのは、ちょっとだけ延期してあげてもいいような気持ちになってくる。
「テレビは見てるの?」とルカはさりげなくたずねた。
彼が首を振る。
「じゃあ、おんなじなんだ。電話は?」
「もちろんあるはずないさ」
そう言って彼は赤銅色《しやくどういろ》の日焼けした顔を少しくずし、淋しそうに笑った。
「あなたの家、近くなの?」とルカは訊いた。
「森の中さ。小さな沼があるの知ってる?」
ルカは首を振った。
「その端にあるんだけどね、掘っ建て小屋だよ。昆虫やなんかをしまっておく高床《たかゆか》の倉庫のほうがよっぽどきれいなぐらいでね、そこで毎日あの無口なおやじと暮らしているわけさ……。でも、しかたがないんだ。おれはおやじのおかげで生きてるんだから」
おやじのおかげで生きている?
なんだか変な言い方だったけど、フミオがいきなり口ごもりもせずにそう言ったので、ルカは少しびっくりした。
フロントガラスの下のダッシュボードのところに、小さくて黒いものが置いてある。ルカは、初めはそれを携帯だと思い、中継局もないのになぜこの島で使えるのだろうと考えたが、そうではなかった。携帯用の小型の無線機だった。そういえば、初めてクラブハウスを案内されたときに、あの工藤という男に説明を受けたことがある。同じものがたしか引き出しの中に入っていた。周波数もちゃんと覚えている。もしそれをルカの専用にしたら、携帯のように彼と交信できるかもしれない。
なんだか少し希望がわいてきた。
海岸線を桟橋に向かって走りつづける。
窓からの風が心地よい。
「暑くないか?」
言いながらフミオは眼をルカの膝元に落とした。
ルカは両手に手袋をはめていた。父親が農作業用にと買った子供用の軍手である。まだ一度も使われていない真新しい軍手。その中の手にはもうバンドエイドは巻かれていなくて、傷だらけの指たちがひっそりとしまわれている。
「皮膚が荒れちゃってるから……」
ルカは急に現実に引き戻されてそうつぶやいた。「ちょっと風邪ぎみでもあるわけでして」冗談めかしてごまかした。
全身が傷だらけであることを隠した。
小さな建物が点々と見えてきて、やがて港の周囲の集落の中に入った。役場の前の道に父親のものに似たジープを見かけ、ルカはあわてて窓から顔を離した。父親からこんなに離れたいと思っているのに、なんだか早く見つけてもらいたい。奇妙な気持ちになった。幼いころに転んでしまって、あとで父親にヨードチンキを塗ってもらったときの、ひりひりするような痛みと安堵感《あんどかん》。
「ところで、どこで降ろそうか」
フミオがトラックを減速させながら訊いてくる。
ルカは観光船の発着の曜日と時間を調べたいと正直に彼に告げた。
「島を出るの?」
フミオのその表情から、あきらかに落胆《らくたん》している彼の気持ちが透けて見えた。
「調べてみる、だけよ……」
彼はあたしを船に乗せたくないんだ。
ということは、あたしを失いたくない。
そう思っていることになる。
「だから……」ルカはうつむいたまま頬が紅潮していくのを感じた。「だから、まだ決めたわけじゃないの。ただ一応なの」
それだけ言うのが精一杯だった。
「そうか」
広い肩を寄せてそうつぶやくと、彼はなにかを考えるみたいに黙ってしまった。
まだいっぱい話したいことがあるのに話せない。どう話したらいいのかわからない。そんな感じで、フミオはあの哀《かな》しそうな眼でルカの横顔をじっと見つめた。ルカも彼を見つめ返す。なぜかいまならキスしてもいいと思う。
船の発着を知らせる観光案内所の前まで来るとトラックが止まった。
まだいっぱい話したかった。
フミオもずっとなにか言いたそうにしていたけれど、結局なにも言わずにルカを降ろすと、そのまま桟橋の方向へ走り去っていってしまった。
なぜだろう。
なぜこんなに彼に魅《ひ》かれるんだろう……。
ルカは戸惑いながら、観光案内所の窓口の前に立った。
12
雷の音が響いている。
降りはじめた雨の中を健次がクラブハウスに戻ると、洋一がいなかった。建物の中をくまなく捜《さが》してみたがどこにもいない。まだ病《や》み上がりだというのにいったいどこに行ってしまったのだろう。
洋一は首の傷が消えた直後から原因不明の熱を出し、ずっと眠っていた。そして再び眼を覚ましたときには、すでに熱は下がっていて、普段の洋一に戻っていた。だが、まだなんといっても病み上がりなのだ。ルカの部屋のドアをノックしたが、中からはなんの反応もなかった。思い切ってドアのノブを回す。鍵がかかっていず、ルカもまたいなくなっていた。
外は次第に雨足が早くなり、にわかに黒い雲に覆われて暗くなりはじめた。
健次は二人の名前を呼ぶ。
建物の中を歩きながら交互に呼びつづける。
自分の声がロビーや女子浴室や中庭にむなしく響き、機械室、電気室、ボイラー室すべて捜してみたが、二人の姿はどこにもなかった。雨に濡れるのもかまわず床下を覗《のぞ》いてみたが、白く煙るほど繁殖した根がからまり合っているばかりで子供たちの姿はどこにも見えない。
二人とも外に出たのだ。
二人|揃《そろ》ってか、それとも別々に……。
あの晩のようなことがなぜ起こりつづけるのか。
村の役場とその隣にある派出所のような小さな警察署で調べてきたことが気になった。窪木の言葉に触発されてこのクラブハウスのことを調べ直してみたのだが、意外なことがわかったのだ。先日応対してくれた役場の男性に、あのクラブハウスにひと月ほど前から住み込んでいる管理人であることを告げると、彼の表情が微妙に変わって「よくあんなとこに住めますねえ」と感心したように言われた。一部の島民たちは、聖地をけがしてしまったためにあの森自体が呪われてしまっているのだと噂しているという。
それで、隣にある警察署に行って調べてみた。
管理人はいずれも長続きしていず、いったい何人の管理人があそこに入ったり出たりしているのか、島の警察でもまったく把握《はあく》できないでいるのだと告げられた。「なにしろほとんどの者が住民票も出していない、フリーターみたいな存在なんでねえ、こちらとしても把握のしようがなくて、工藤さんに任《まか》せて、こちらはまあ時折見回りに行くだけなんですけどね」定年退職が間近なようなその初老の署長はのんびりした調子でそう言う。どうやら彼は工藤とは飲み友達になっているようだったが、健次が知る限りあのクラブハウスにパトカーが見回りに来たことなどは一度もなかった。
「孤独なんでしょうなあ、孤独に耐え切れなくなってしまうんでしょうなあ」
なん人もの管理人が次々に替わっていることを、彼はそうため息まじりに説明して、自分で納得していた。
なにか引っかかるものがあった。
――窪木だ。
あのクラブハウスの初代の管理人だったという窪木だけは、なぜここの生活に耐えられたのだろう。
変人だから。
森で昆虫を採集する仕事をしているから……。
いろいろ理由は考えられるが、どうも腑《ふ》に落ちない。以前は町工場を経営していたという彼が、なぜあの奥地の生活に耐えられるのだろうか。森の奥に住んで、人眼を避けるような生活をなぜつづけているのだろう。
それで健次は、さりげなく窪木のことをその初老の署長にたずねてみた。
「ああ、窪木さんね」
そう答えて彼がそれから教えてくれたことは、工藤から得ていた情報とほとんど差のないものだった。ただ、三年ほど前に亡くなったという窪木の妻は、奥地の生活で少し気がふれたようになってしまい、あの九番ホールのオーシャンコースにある断崖《だんがい》から身を投げたらしいということを知らされた。
「……まあ、こんなこと言っちゃ、なんだけど、あの森の中での生活というのは大変だと思うよ。生まれたときからこの島で生活していたって、あのジャングルの中に入ろうとは思わないからねえ。よくやっていけるよって、みんな噂してるけどね。えらいのは、あの息子さんの――」
「フミオ」
「そうそう、そのフミオさんだよ。あの若さで、よくつとまるもんだってみんな感心してるんだ。とっくに家を出たって不思議じゃないのに、あのおやじさんに文句も言わずにつかえてる。それも、養子《ようし》なんだからね。籍《せき》も入ってないんだ。そんな扱い受けてるのに、ほんとよくやるよ、あのフミオっていう若者はね」
フミオがまだ籍も入っていない養子だとは知らなかった。
工藤はたしか、窪木たちがこの島に来てから一年後ぐらいにあらわれたらしいと言っていたが、あんなジャングルの中での生活を彼が望んだのだろうか。それともそのときはまだ、窪木はクラブハウスの管理人をやっていたのだろうか。
「あの窪木のおやじもね、よく知ってみれば、不運なおやじなんだよ。まあこっちも仕事上ね、戸籍とかいろいろ頭に入れとかなきゃならない関係で、島の人間のことはだいたいわかってるつもりなんだけど、あのおやじは川崎で自分の町工場をつぶしてるんだ。それでまあ、どういう経緯《けいい》があったのか知らないが、この島まで奥さんと一緒に流れてきた。……そんときでも、息子さんが生きてたらもうちょっと違う人生もあったんだろうけど、あいにく息子さんは自殺してしまってる」
「自殺?」
「そうなんだ。高校でひどいイジメにあって、工場の片隅で首を吊ってしまったらしい。ちょっと調書を取り寄せて調べてみたんだがね、通っていた県立高校で、集団のカツアゲにあってたらしいんだな。体操部だったんだが、内気なわりには正義感の強い子だったらしくて、カツアゲやってる連中とまともに対立してしまった。それで逆にぼこぼこにやられてたらしい。卒業間近の時期で、新聞ダネにもなっていたよ。そこに載《の》っていた写真がいまのフミオによく似てるんだ。名前も同じだしね。……まあ、そういうこともあって、懐《なつ》かしさから養子にしたんだろうけれども、ほんとにあのフミオというのは、よくやってるよ……」
二階に上がって、もう一度点検してみた。
階段の手すりにまでどこからか細い根が這い出してきていてそれが白い蔓《つる》のように巻き付いている。
雷が落ちた音が響き一瞬建物の中が青白い光に充《み》たされた。
おそらくまた尖塔《せんとう》の避雷針に落ちたのだろう。周辺に高い木はなく、周囲を広いグリーンのコースに囲まれているから、どうしてもこの建物の塔に雷が落ちやすくなる。支柱に剥《む》き出しになったままの避雷針の導線も、早くカバーを取り付け直さなくてはならないのだが、その工事をしている暇《ひま》もない。
洋一の黄色いリュックと昆虫採集の網がなくなっていた。また虫を採りに行ったのだ。ということは、どこかでこの雨に降り込められて雨宿りをしている可能性がある。ルカも一緒だろうか。そうは思えない。最近のルカは洋一とも距離を置くようになっていて、以前のように一緒になって遊ばなくなっている。もう一度ルカの部屋に戻ると、バッグがどこにも見当たらなかった。
このところ部屋に籠《こも》りつづけだったので、退屈して外に出たのだろうか。
部屋から出ようとしたとき、机代わりに使っているカウンターテーブルの上にライターが置いてあるのに気が付いた。
しかし、その周辺に煙草のケースはない。灰皿も見当たらない。それらしきものはなにもなくて白いライターだけがそこに置かれている。そしてさらに眼を下に落とすと、屑籠《くずかご》の中の赤いものが眼に付いた。剥《は》がしたバンドエイドが幾つもそこに捨てられていて、それに微かに血が付着している。ルカがいつも指に巻いているバンドエイドだ。それもひとつや二つではない。血にまみれたティッシュや脱脂綿にまじって幾つも丸めたり折り畳まれたりして捨てられている。いったいこんなに血が流れるほどの怪我をなぜしているのだ。経血や鼻血ではない。そういう血ではない。なにかの傷を、押さえたり、ぬぐったり、拭《ふ》き取ったりしたものだ。
ルカが愛用している籐《とう》のチェストの中を調べてみたい誘惑に駆られるが、それをやってしまったらルカとの仲が決定的にこわれてしまうような気がして、できなかった。それに、いったいなにを捜すのか、それすらもわかっていないのだ。
健次はカート置き場に出て、そこから再び二人の名前を呼んだ。
その声は少しこやみになりはじめた薄暗い雨の中に吸い込まれていき、どこにも届かなかった。
「……覚えてる?」
美佐子が背後に立っていた。
雷がまた落ちる。
健次は暗い雨を前にしたまま動けず、背中でその声を聞いた。
「覚えてる? 瑠華《るか》の幼稚園の運動会で、雨が降ってしまって、あの子コロコロしてたから、徒競走で転んだでしょう。そのときあなたったら、思わず飛び出していってしまって、転んで泣いているあの子を助け起こして一緒に駆けたでしょう」
そうだった。
そういうこともあった。
あのときもすごい雨が降って運動会が一時中断したのだ。
「あのときの傷、ひどかったわねえ」
幼稚園の園庭《えんてい》が土ではなく、コンクリートにラバーを薄く張ったようになっていて、ルカは運わるくそのラバーが剥がれていたところで転んでしまったのだ。それでその擦《す》り傷がひどくて、たしかかなりあとまでその傷が残っていたという記憶がある。
「ここに、傷、……したのよね」
柔らかい足がそっと背後から押しつけられる。
健次の眼の下に、その白い裸の足の一部が見えている。
「あの子、あのとき、わざと転んだのよ」と美佐子は言った。
わざと?
そんなことはないだろう。
振り向くとそこに、薄いレモン色のネグリジェを着た妻が立っていた。
冬用の厚いネル地のネグリジェに乱れたように皺《しわ》が寄り、その裾《すそ》が大きく割れて、白い亀裂のような右足が太腿のあたりまで露出している。そしてその白い足がスローなダンスを踊るようにゆっくりと揺れている。
「……なぜそんなことを言うんだ?」
健次は背筋を硬くしたまま美佐子の像にたずねてみた。
「ほんとうのこと」
「どうしてなんだ? どうしてきみはルカに、あんなに厳しく当たったんだ」
「あなたは見て見ぬふり」
「きみなりの躾《しつけ》だと思ってたんだ」と健次は言った。
「いいわけばかり」
「ルカはきみのわるぐちなんかひとことも言わない。あのときだって、いまだって……。洋一はだから、きみを理想の――」
「看護は疲れるの」
「でも」
「帰ってくると、あの子はいつも泣いて全然眠れなかった。いつも、いつも、泣いてるのよ。女の子っていやねえ、病院でもいやだけど、自分の子はもっといや」
「…………」
「いいこと、教えてあげましょうか。あの子、あのとき、わざと転んだのよ。自分を傷付けるために。あの子はそういう子なのよ。すべて自分で引き受けてしまうの。幼いころのわたしにそっくりなの」
ルカの部屋で見つけたおびただしい数のバンドエイド。
あれか。
あのことを言ってるのか。
ルカは自分で自分の躰を切っているというのか?
それをきみは教えようとして、わざとそんなことを。
美佐子はそれには答えてくれない。
寝乱れた姿のままゆっくりと背を向け、カート置き場を横切っていく。カート置き場の壁や床や天井にもあの根がおびただしいほど露出してきていて、煙のように繁茂してからみ合い、白い足がその中を通ると一緒にダンスを踊るように揺れた。美佐子の姿はその中に消えていった。
ルカが自分を――。
風向きが変わって雨が降り込んできた。
出入り口のところに立っている健次の顔にも雨が降りかかる。
健次は頬を濡らす雨をぬぐい、再び二人の名前を呼んだ。
ルカの名と、洋一の名を。
ジープだ。とにかくジープに幌《ほろ》を付けてこの周辺を捜してみよう。そう思い身を反転させようとしたとき、薄暗い雨の中でなにかが動いた。小さく細いものが、よろよろとこちらに近付いてきた。
「洋一!」
健次は雨の中に走り出た。
洋一は片手に昆虫採集の網を持ち、なにかにうなされたようにとぼとぼと歩いてくる。びしょ濡れだった。背負った黄色いリュックも雨に濡れ、健次が洋一に駆け寄って抱き締めると、「……迷っちゃった」そうつぶやいて、とろんとした眼をこちらに向けた。
額に手を当てる。
熱い。
眼の焦点が合っていず、うわごとのようなことをつぶやきつづける。
抱き上げたまま建物の中に入った。
洋一はまた指をしゃぶっている。
シャワールームに行き、濡れた服を脱がせた。その間も洋一は歯を鳴らして震えていて、躰中がひどく熱い。タオルでその小さな全身をくるみそのまま二階に上がってベッドに運んだ。パジャマに着替えさせている間も震えが止まらない。熱を測ってみると今度は四十度近くもある。とりあえず子供用の解熱剤を飲ませ、健次は無線機のところに走って診療所を呼び出した。
今度も看護婦が出る。名前をたずねられたので再び名乗る。子供がひどい熱なので、いますぐ行くから診てほしいと告げると、一瞬奇妙な間があった。
「この前の方、……ですよね」と言われた。
「そうです」と答えると、またちょっと沈黙してから、「子供さん、ほんとに来られるんですよね」疑うようなことを言われた。「あのときみたいに、今度は途中で、……消える、なんてことはありませんよね」細い声で念を押してきた。
(あたりまえだ)
そう思いながらも急に不安になってきた。
首筋に生じた赤い線は消えたものの、洋一にもし万一のことがあったらとまた考えてしまったのだ。
すぐに行きますからと病状を手短に伝え、健次は無線を切った。
13
観光客向けの雑貨屋からルカが出ようとすると、また雨が降りだしてきた。
時刻と料金を調べ、船が出るのは四日後だということはわかったものの、船賃が自分の貯金ではとても足りず、なんだかがっかりした。生協でカミソリを箱ごと買い、果物ナイフも別に買った。そしてそれから土産物《みやげもの》屋や簡素な雑貨屋をぶらぶらしているうちに、雨になってしまった。帰りのことは考えていなかったので、ルカは軒先に立ったまま路面に打ちつける大粒の雨をぼんやりと眺めた。
今度は激しいスコールだった。
帰りたくなかった。
熱く火照《ほて》った路面に雨は点々と黒い染みを付けながらはじけ、広がり、みるみるうちに小さな流れとなって足元を濡らしはじめる。観光客たちがビーチマットを頭にのせて走り出し、ゆらゆらと水蒸気に揺れていた路面が黒く濡れて冷えていく。
激しい雨の音がルカを包んだ。
雑貨屋で、鳥の羽の形をしたかわいい髪留《かみど》めをつい買ってしまい、右手に持ったその小さな青い紙袋が雨に濡れている。貝を磨いてつくった虹色《にじいろ》の髪留めで、髪を短く切ってしまったいまの自分に似合わないことはわかっていた。でも買いたかった。もしかするともうそれを使うことはないかもしれないのに、それでもそれを買ってしまった。
あたしは自分がよくわからない。
雨の中に、ひとりの男の子が立っていた。まるでバスかなにかを待っているふうにこちらに顔を向けている。そしてその子供は、雨にびっしょり濡れたまま、両手を横に広げて立っていた。
ルカは息をのんだ。小さな悲鳴を上げた。
男の子はそこにいる。そこにいて、両手を大きく広げている。
「……シンちゃん」
「ぼく、鳥になるんだ。そうだよね?」
シンちゃんの眼鏡に雨の滴が降りかかって、それがレンズの表面をシャワーのように流れ落ちていく。
「そうだよね? ぼく鳥になるんだよね」
なぜかもう怖くなかった。
ルカはシンちゃんを見つめたまま、その存在を受け入れるようにうなずいた。そして、うなずいた途端《とたん》に、なにか心の中が軽くなった。
(そう、あんたは鳥になるんだ、今度こそ、きっと、鳥になるんだ)
「うれしいな」
シンちゃんは雨の中で両手の翼をぱたぱたと揺らした。
「シンちゃん……」ルカは激しく降りそそぐ雨の中に手を伸ばした。濡れるのもかまわずシンちゃんに触れた。
なぜか涙が溢れてきて止まらない。
シンちゃん、ごめんね。
今度はちゃんと鳥にならせてあげるからね。
「うれしいな」
シンちゃんはさらに両手の翼をぱたぱた揺らした。
すると、降りしきる雨の中で、シンちゃんのその小太りな小さな躰がふっと浮き上がったのだ。
ぱたぱたぱたぱた。
シンちゃんは必死に両手を雨の中で揺らしている。
「浮いたよ、シンちゃん! 躰が浮いてるよ!」
よかったねえ。
シンちゃん、よかったねえ。
「鳥になれるんだ! ほんとに鳥になれるんだ!」
抱きしめてあげたかった。
シンちゃんを、あたしの思い出を、抱きしめてあげたかった。
クラクションの音。
二度。
三度……。
シンちゃんが雨粒の中に吸い込まれるように消えていく。
そのクラクションの音の方角にルカが首を回すと、二十メートルほど離れた斜め右の道端に赤いピックアップが止まっていた。
……ああ、どうしよう。
彼だ。
彼が迎えに来てくれたんだ。
手を挙げようとして自分の姿が気になり、ルカは瞬間的に背後を振り返った。そこには雑貨屋の窓ガラスがあって、その前に立ったルカの上半身を映していた。短く刈ってしまった髪。ぼさぼさの濡れた髪。薄く口紅も塗っていないし、ピアスもしていない。洗いざらしの赤い長袖のシャツの上に細い首と大きな瞳だけがのっている。
激しい雨の中を赤いピックアップはゆっくりと近付いてきて、ルカの前の車道で止まった。
「乗れよ、濡れてるから」
窓が開いてフミオが顔を出し、そう言ってくれる。
「いいの?」
彼がうなずく。早く乗れと言ってくれる。
フミオはさっきまでとは違って、なにかを決心したみたいに言葉の輪郭《りんかく》がきりっとしていて、ルカは思わずその口調に誘われ、軒先から雨の中に走り出た。ジーンズもTシャツもすでにぐっしょり濡れていて、ゴムサンダルを履いた足の指もシャワーを浴びたみたいになっている。
「シートが汚れちゃう」
「かまわない」
前と同じ場所に座った。
濡れてしまった髪から滴がぽとぽとシートに落ちている。
前のフロントガラスにも雨滴が流れ、車体を打ちつける激しい雨音が周囲を包み込んで、この小さな車内の空間だけが外の世界からぽつんと切り離されてしまったように感じる。
濡れた躰が冷たくて、ルカは細かく震えていた。
「拭《ふ》けよ」
ぶっきらぼうな言い方だが、彼がダッシュボードからどこかのペンションの名前が入っている真新しい手ぬぐいを出してくれた。
「大丈夫、あたしも持ってるから」とルカは言った。
脇に置いたビニールバッグの中を濡れた指で手探りして、小さな緑色のタオルを取り出した。それで髪を拭こうとしてふと横を見ると、彼は手ぬぐいをまだ左手に持っている。
「……じゃあ、それも貸してもらおうかな」ルカは、日に焼けた彼の手から手ぬぐいをそっと受け取った。
彼の手はとても冷たかった。
金色に髪を染めた露出過多な女たちが、雨に濡れるのもかまわず平然とした足取りで車の前の車道を横切っていく。濡れたシャツがバストに貼《は》り付いてその形をあらわにし、歩くたびに雨の中でその乳房がゆらゆら揺れているのがわかる。その動きを、フミオが眼で追っている。ふっとルカの存在なんか忘れてしまったみたいに眼で追っている。ルカは濡れた髪をごしごしこすった。ごしごしごしごし、何度も何度もこすりつづけた。
濡れたぼさぼさの髪。軍手。褪《あ》せた赤い長袖のシャツ。汚れたジーンズ、すり減ったゴムサンダル、ほとんど隆起《りゆうき》のともなわない薄い胸……。
あたしはいったいこんなところでなにをやっているのだろう?
彼になにを期待しているのだろう?
「切符、買えたか?」とフミオは言った。
ルカは首を振った。せめて軍手だけでもと思い、手の甲を上にしてそっと取った。
「でもあたし、……この島を出たい」とルカはひとりごとのようにつぶやいた。
「ああ、わかるよ。その気持ちはわかるよ」
彼はまたうなずいた。
そして、黙ってしまった。
白いランニング姿のフミオは少し沈黙し、考えているような表情になった。そして、フロントガラスを流れ落ちる雨を眺めながら、
「少しこのままここにいよう」
そう言った。
ルカはなんだかドキドキした。雨で濡れてしまった不快感が急に消えていく。「話したいことがあるんだ、きみに」フミオがきりっとした濃い眉を寄せ、あらたまった調子でそう言う。
躰中が熱くなって濡れた服も気にならなくなった。
「……迷ったんだ。話すかどうしようか」
話してほしかった。
なんでも話してほしかった。
でも彼は、ルカにとって思いがけないことを話しはじめた。
「きみは悩みごとを抱えている。そうだろ?」
ルカは微かにうなずいた。
「その悩みごとは、きみがこれから解決していくことだから、おれなんかに話すことじゃないかもしれない。……だけど、見ていられなくて」
なにを話すつもりなのだろう。
「きみはいま、雨の中に立っていた。そうだよね」
「…………」
「その雨の中で、小さな男の子と話をしていた。そうだろ?」
驚いてフミオを見た。
「見ていたの?」
フミオがうなずく。
「見張っていたわけ?」ルカは思わず語気を強めた。
そういうのは嫌いだ。大嫌いだ。
思わず車から降りようとするとフミオが止めた。「ごめん」彼は短く刈った頭を下げ、素直に謝った。
「……そういうことはやめて」
なぜこんなに興奮しているのだろうと思いながらルカはそう告げた。「お願いだからやめて」
「わかった。謝るよ。だから落ち着いてほしい。……言いわけするつもりじゃないけど、この島から出ていくつもりだって、さっき言ってたよね。それで気になって」
「そう……」
「だから、あれからずっと見ていたんだ、きみのことを。そうしたら雨が降ってきた。濡れるといけないと思ったけどなかなか声をかけられなくて……、どうしようかと思ったときに、ぼんやりとね、雨の向こうに見えたんだよ」
「あたしの姿が?」
「男の子の後ろ姿なんだ」
男の子……。
そうだ。彼はさっきから「男の子」と言っている。
「なぜシンちゃんが」とルカは言った
「おれにも見えるのかというんだろ?」
フミオはまだ迷っているように、遠い眼をしてフロントガラスの向こうを見つめている。
雨足が弱くなり、周囲は次第に明るさをとりもどしはじめてきた。
「とにかく、送るよ」
フミオがそう言って、車のクラッチを入れた。
弱まりはじめた雨の中を小さな赤いトラックが走りはじめる。
海岸線に沿った道路に出て、二人とも黙ったまましばらく走り、ジャングルへ通ずる狭い未舗装の道を左折した。
ジャングルが迫《せま》ってくるにつれて、なぜだかわからないけれど、このまま別れてしまったらもう二度と彼には会えないような気がしてきた。ぐずぐずしてると彼はどこかに行っちゃうかもしれない……。車を止めてとルカは彼に頼んだ。
「止めて。話したいことがあるなら、ここで話して。いますぐここで話して」
フミオがハンドルを握ったままルカの横顔を見た。
そして、戸惑ったように車をゆっくりと減速させ、やがて止まった。
彼の表情には強いなにかがあって、それは初めて会ったときから感じていた。
彼は特別だった。
初めて会ったときから特別だった。
その特別なひとが、あたしと父親にしか見えないと思っていたシンちゃんの存在に気付いている。
「前から知っていたの?」とルカはたずねた。
激しかった雨がやみ、雲の切れ目から生まれたばかりのような光が射《さ》しこんでくる。
濡れた土の路面に生じている大きな水溜まりが、にわかに空を映して明るくなり、眩《まぶ》しいほどきらきらと輝きはじめる。フロントガラスの雨粒もそれがまるで透明な宝石みたいにきらめいて、二人の周囲を明るく眩しく彩《いろど》りはじめる。
「ねえ、前から知っていたの?」
ルカはフミオにそうたずねながら自分の心を強く意識した。
「きみと、あの浜辺で会ったよね」
フミオは光りはじめた水溜まりを眺めながら、言った。
(ムーン・ビーチ)
あのときが初めての出会いだった。
「初めからそれを話すべきだったと思うんだけど、そうすると、なぜおれがあのときムーン・ビーチにいたのか、なぜ水字貝を採ったひとたちに注目していたのか、それを言わなくちゃならなくなる。なぜあの源造じいさんを止められなかったのか、それを言わなくちゃならなくなる。別に見張ってたわけじゃないんだ、そうじゃなくて……、おれには見ることしかできないから……、だから、とにかくできることといえば、きみたちを見守ることしかできなかったんだ。これから話す理由で、そうすることしかできなかったんだ。それで、迷惑だったかもしれないけど、周囲をうろついたりして……」
「そんなことない。迷惑だなんて、そんなこと全然ないから。……だから、言って。ちゃんと話して」
「もしかしたらと思ったんだよ。もしかしたら、って。水字貝を採ったひとは、これまでにもいっぱいいるけれど、今度はほんとうに理解してくれるひとがあらわれたのかもしれない。ついにあらわれたのかもしれない。そう思ったんだ」
「理解……」
濡れた躰が乾いていく。
「わかった」とルカは言った。「あなたもあの魂抜けを見ているのね」
フミオはゆっくりと首を振った。
「じゃあ、どうして?」
「おれは見ていない。……見たのは、おれじゃない。おれのおやじなんだ。同じときに、おふくろもそれを見たらしい。あの魂抜けを、もう五年以上も前にね」
「五年?」
「そう、五年以上も前だ。二人が、住み込みの職を求めて、辺土みたいなこの島に来たときに見たらしい。そして、きみたちと同じようなことをあの源造じいさんに言われた。思い出すってね」
「あなたの両親が?」
「そして実際に、管理人としてあのクラブハウスで暮らしているうちに、首を吊って自殺した息子が眼の前にあらわれたんだ。思い出があらわれたんだよ。……それが[#「それが」に傍点]、このおれ[#「このおれ」に傍点]なんだ[#「なんだ」に傍点]。……おれも思い出なんだ[#「おれも思い出なんだ」に傍点]。すでに死んでいるんだよ[#「すでに死んでいるんだよ」に傍点]。あの男の子と同じように[#「あの男の子と同じように」に傍点]ね[#「ね」に傍点]」
フミオがルカの肩に微かに触れると、眼の前の光景が突然消えた。
14
洋一はそのまま診療所の裏手にある小さな病棟に寝かせておくことになった。熱のために多少|譫妄《せんもう》状態になっているが、風邪をこじらせたのだろうということだった。だが、体力の衰《おとろ》えと熱による軽い脱水症状を起こしていることからリンゲル液を点滴《てんてき》され、洋一は病棟に移された。
その病室に再びクロがあらわれ、心配そうに片隅でうずくまりながら洋一のベッドを見上げている。
初めにあらわれたときのように大きな驚きはなかったが、
(反復するのか……)
いささかショックを受けながらそう思った。クロの首はすっかり元に戻っていて、相変わらず哀しそうな眼でこちらを見上げている。
それと同じような眼をどこかで見たことがあるという気がしたが、思い出せなかった。洋一の病状のことや首に生じて消えていったあの赤い線のこともあって、健次はこれ以上クロにつきまとってもらいたくなかった。もうわかったから……。思い出は思い出らしく心の中におさまっていてほしい。洋一が無意識に思い出しているのか、それとも窪木の言うように「ひとり歩きをはじめた」のか、クロは病室の片隅で相変わらず心配そうにこちらを見上げている。
初めの危機は一応去ったが、問題はなにも解決していなかった。
そのとき、あの電話に応対した看護婦がカルテを片手に入ってきた。
「……あら、犬。どこから入ってきたのかしら」そうつぶやきながら、ベッドに向かい、洋一の額に手を当てた。
健次はその言葉にぎくっとした。
「もうだいぶ熱も下がってきましたから、おとうさん安心していいですよ」
愛想《あいそ》のよい笑顔を見せてそう声をかけてくる。
健次はそれに答えられず、ただ黙っているしかなかった。
胸のプレートに『浜田』とあるその中年の看護婦は、手慣れた様子で洋一の状態をチェックし、再び病室から出ていこうとして、また声を上げた。
「あら、もういない。あの黒い犬、おたくの飼い犬ですか?」
健次は首を振った。
「……どこの犬だろう?」
浜田という看護婦は首をかしげながら病室から出ていった。
クロはまだ病室の同じ場所にうずくまっている。
健次が知るかぎり、看護婦がいた間にそこを動いたことはなかった。それなのに、彼女がこの病室に入ってきたときにはクロの存在に気付き、再び振り返ったときには、いないと映った。
彼女が初めて見たときが錯覚だったのだろうか。
いや、そうではない。
なぜなら彼女は「黒い犬」ということをちゃんと認識していたのだから。
クロは少しずつだが、存在しはじめている。
他人にも見えるような存在になりはじめている。
あのクラブハウスから離れても、一度出現してしまうとひとり歩きをはじめるようにあらわれる。
これがどういうことを意味するのか、健次には判断がつきかねた。
クロはまたこのように周囲に出没しはじめて、首をなくすのだろうか。そしてまた再びあらわれるということを繰り返すのだろうか。
幽霊が……、成長している?
健次は、洋一の首に赤い線が生じたときの恐怖が忘れられなかった。
実は洋一がいちばん憑《つ》かれていた可能性すらあった。もしかすると水字貝は、ほんとうに魂抜けするのではないか。抱えていたものの度合いこそ違え、健次、ルカ、洋一があのときそれぞれに憑かれてしまった。そう考えたほうがいいという気がするのだ。そして、それはまだつづいている。なにも終わってはいない。このまま放置しておけば、内面化されたそれが表にあらわれて、また同じようなことを繰り返す。
心に憑くものはなんだっていいのだ。こちらの体力の衰《おとろ》えが無害なはずの細菌を有毒なものに変えてしまうように、心の弱まりや幼さが憑くものを招き寄せる。きっかけさえあれば、心はどんなものでも憑かせてしまう。
健次たち一家の場合、それがたまたま水字貝だった。そして、その憑かれた心のまま、あのクラブハウスに移り住んでしまった。それはちょうど、有害なものに変化した細菌を抱えたまま、さらにそれを繁殖させる培養器《ばいようき》に入ってしまったということに似ている。
すると、培養器とはなんだろう?
ジャングルの奥のあの場所か。
クラブハウスの建物か。
それとも……。
15
暗く大きな部屋の中にルカは立っていた。
どこかの小さな工場のようだった。
黒く大きな機械。天井からだらりと吊り下がっている太く錆《さ》びた鎖。油で汚れた床には、なにか金属をけずったような螺旋《らせん》状の銀色の屑《くず》が散乱している。
ここはどこだろう?
高い天井を見上げるとそこに小さな天窓のようなものが開いていて、そこから月の光が工場の内部に射し込んでいた。
「……ここが、おれの育ったところだ」と暗い工場の隅から声が伝わってきた。
ルカがその方向に足を踏み出そうとすると、足元で金属の屑が跳《は》ね、微かな音を立てて転がっていった。
「おれはここで育った。そしてここで首を吊った」
一語一語を刻むようなフミオの声であることはわかるけれど、その姿は闇にまぎれていて見えない。ルカは金属の屑を踏みしめながら少しずつその声のほうに近付いていった。
「おれは、死んで思い出になった。おやじとおふくろの思い出になった。思い出というものがどういうものかわかるかい? それは記憶ではない。もっと強いものだ。そこには刻まれた跡がある。忘れようと思ってもだめなんだ。そうすればするほどその跡は深く刻まれてしまう。おれも、おやじとおふくろにとって、そういう思い出になってしまったんだ」
歩くにつれて、金属の屑は少なくなり、散らばった瓦礫《がれき》のようなものが眼につくようになった。金属をまぶしたような土が床の裂け目からあらわれ、工場はいつのまにか折れ曲がった鉄骨をあらわにした廃墟《はいきよ》に変わっていた。
黒く沈んだ鉄骨。
天井のところどころから暗い空が見え、窓ガラスがすべて割れていた。
電線さえすべて引きちぎられていた。
「ここがおれの故郷さ。おやじとおふくろは、事業に失敗したあと、ここを離れて島に渡ってきた。自殺してしまった息子という思い出を抱えたまま」
声に誘われて、腐食した廃材やいまにも崩れ落ちそうなコンクリートの瓦礫の山の間を抜けると、大きな鉄の扉《とびら》が行く手をふさいでいた。鉄の扉の前は突き刺すような緑の雑草に覆われていて、そこから金色のトカゲが這《は》い出てくる。
ルカは思わず足を止めた。
でもそれほど怖くはない。
フミオの声に誘われているから。
「おれは、おやじとおふくろの思い出の中から生まれた。シンちゃんのように」
「…………」
「おやじとおふくろが、あの源造じいさんの言葉に暗示をかけられて、おれを呼び出してしまったんだ。……というより、……おそらくそれはきっかけにすぎなかったんじゃないかと思う。とにかくそれによって、おやじたちの心の底にわだかまっていた想《おも》いに、はからずも出口が与えられた。そういうことだったんじゃないかと思う。思い出が形をとるのに、あの根の群れがなんらかの形で影響を与えているんだ。あの根は、根自体で生きている。住むものがあらわれると繁殖しだし、住むものがいなくなるとまた建物の下の地中に戻っていく。まるで、そこに住みはじめた人間たちの癒《いや》されぬ記憶を食料にするようにね。そしてそれは、この島全体の植物たちの根ともなんらかの形で繋《つな》がりを持っているようなんだ。この島全体が、一度あらわれた思い出を成長させつづける場のようなものになっている可能性がある。だからおやじは、きみたちがまた同じ道をたどろうとしているのを知って、なんとか出ていかせようとしたらしい。チェーンソウを動かして驚かせようとしたのもおやじだ。もう二度と自分たちのようなことが起こらないようにと、誰も住むことができないようにと、あの建物を燃やしてしまうことまで考えたらしい……」
錆びた鉄の扉はいくつもあった。
そのざらざらした表面に触れると、なぜかそれは体温のようにぬくもっていて、呼吸をしていた。
「……とにかく、おやじにもいまだにわからないことが多い。うちのおやじも、きみのおやじさんがいまやっているように、いろいろ調べたんだ。過去の思い出であるはずの息子が現在にあらわれるということが、いったいどういうことなのかをね。……おふくろは初め、当惑したけど、ひどく喜んだらしい。息子が帰ってきたと言ってね。あらわれたおれを抱きしめたり、一緒に食事をしようとしたり、それは大変な喜びようだったらしい。信心深かったおふくろはずっと願《がん》をかけていたんだよ。もういちど息子に会わせてくださいってね。神様お願いしますって。……わかるよ。おれはなにしろ遺書ひとつ残さずに突然自殺してしまったんだからね。だから初めは、その理由を訊かれたり、なぜ黙ってそんなことをしたんだと愚痴《ぐち》られたりした。ところがおれは、同じことしか言えなかった。おれは、自殺する二日前に、おやじとおふくろに向かってこう言い放ってるんだよ。『なぜ、おれなんかを産《う》んだんだ。なぜ、おれみたいに弱いやつを産んだんだ』ってね。学校のことで口喧嘩して、思わずそう怒鳴ってしまったんだ。最低だよね。でも言ってしまったんだ、あのとき……。そしてそれが、おやじの記憶にもおふくろの記憶にも、癒しがたい傷となって深く刻み込まれた」
呼吸している鉄の扉に触れた。
それははじめ鳥肌立ってざらざらしていたけれど、ルカがなだめるようにしてそっと指先で撫《な》でると、安心したように鳥肌が消えていき、表面がなめらかな皮膚になった。ルカは、その皮膚に触れている自分の指を見た。その指はいままで、カミソリを握る指だった。手は短剣であり、決して触れようとするものではなかった。
でもいま、ルカの指は触れている。
眼の前にあらわれた皮膚に触れている。
これまでルカはなにかに触れたいと思うことがなかった。暗闇の中を進むように、ただやみくもに手を前に突きだし、いきなり突き当たって衝撃を受け、その苦痛に耐えかねてあわてて手をひっ込める。――そのようなことを繰り返していた。手を前に差し出すこと、指を他のものに差し向けること、それは苦痛を呼ぶことでしかなかった。
けれど、いま自分は、触れている。
探し、そっと撫で、まさぐっている。
そして、触れていることが[#「触れていることが」に傍点]、うれしい[#「うれしい」に傍点]。
皮膚の肌理《きめ》を感じ、その重みを確かめ、ルカはゆっくりとその扉を開けた。
そこにもまた部屋があった。
「……よみがえるたびに自殺するのをやめられない」とフミオは言った。
「しかも、それだけじゃないんだ。
少しずつ怪物になっていく。
生きている人たちの心が微かに読めるようになる。読みたくもないのに入ってくるんだ。
見えるものも多くなる。普通では見えないものまで見えてくる。それでも、あらわれるのをやめられない。
おれは同じ反復を繰り返す。次第《しだい》に自分を取り戻し、会話をし、自立した意識に近いものまで備わりはじめている。それなのに、その反復だけからは逃《のが》れられない。『なぜ産んだ』言い残して自殺していく息子を眼の前で繰り返し見せられたおふくろは、悲嘆《ひたん》のうちにやがて断崖から身を投げてしまった。おふくろの死によって、おれの中のなにかが消えた。でも、それでもおれは反復を繰り返すことをやめることができなかった。忘れてくれとおやじに懇願《こんがん》したこともあったよ。おれのことはすべて忘れて、もうおれを永久に消えさせてくれって。
森の中の不自由な生活も、普段の芝刈りの仕事も、自分が死んでいるという意識に比べればなんということはなかった。ただつらいのは、おやじがそれを知っているということなんだ。おやじは、息子が死んでしまったのを知っている。自殺してしまったおれを知っている。そして、こうして復活してからも、悲観したおふくろを死なせてしまったおれを知っている。……もっとつらいのは、おれ自身がそれをいちばんよく知っているということなんだ。
おれは、自分がなんであるのかを知っている。なにをしたのかも知っている。……それがつらいんだ。だから、この循環《じゆんかん》を終わらせてくれって、頼んだんだ。おやじもつらそうだったよ。
……でも、
……でもそうじゃなかった。
おやじの死期が近いことを知ってはじめてわかった。
自分が完全に消えてしまう恐怖を。
おれはおやじに入院を勧《すす》め、なんとか手術を受けさせようとした。けれど、おやじはもう決めていたんだよ。この不自然なサイクルを終わらせよう。自分の死で思い出を終わらせて、息子の望みをかなえてやろう、とね。
おれの父親はもうすぐ死ぬ。さっきも小屋で大量に血を吐いた。末期癌《まつきがん》なんだ。
いままではそれでもとにかく作業に出て、やめてくれというのに仕事をつづけていた。実際にはもう激しい痛みに襲われて動けないような躰なのにね。……でも、おやじはもう助からないことを自分で知ってるんだよ。ここに来る前に、ベッドには寝かせたけれど、微かな声で、『行け』と言うんだ。消える前におまえがやりたいことをやれって。会いたい人に会えって。
それがどういう意味か、わかるかい?
皮肉なものさ。あれほど忘れてくれと願っていたのに、実際に忘れ去られる可能性が出てきたら、今度は忘れられたくないんだからね。消えるのが怖いんだよ。もうおれを思い出してくれるものは誰もいなくなる。思い出の中からも消えるんだ。自分という存在が完全に消えてしまう……。生きていたことさえ完全に消え去って……」
その部屋は白かった。
ルカがその柔らかい壁に触れると、壁もまたルカの手に触れてきた。
手が、
傷つくことしかなかったあたしの手が、
触れられている。
触れると同時に、触れられている。
なんだかとっても懐《なつ》かしい。
壁の皮膚はとても傷つきやすくて、
でも柔らかくて、
やさしくて、
ルカの手をそっと包み込んでくる。
触れるということは[#「触れるということは」に傍点]、触れられるということ[#「触れられるということ」に傍点]。
包み込んでくる皮膚はそれを教えてくれている。
いまわかった。あたしがあのとき、ママの白い足にそっと触れたとき、ママの足もあたしの手に触れていたんだ。
さようならって、触れていたんだ。
「さようなら[#「さようなら」に傍点]」
白い部屋には、白い台がひとつだけあって、その上に天井から白いロープが吊り下がっていた。ルカは柔らかい壁と柔らかい床に押し出されるようにしてそのロープに近付いていく。ロープの先は丸く輪になっていて、あの貝と同じように裸のフミオの首がそこに掛かっていた。
フミオの躰はすでに透明に近い。
ルカは台の上にあがると、手を差しのべて、その透明な肌に触れた。
ロープの先で揺れているフミオの肌をなぞった。そして、その唇にそっとキスをした。
16
もうすぐ夏も終わる。
この島の気候はそれでもほとんど変わらないだろう。雨が多くなり、少し気温が下がるぐらいだという。夏休みを利用して来島していた観光客はいなくなり、島はまた静かになる。
健次はぼんやりと金色に染まっている窓枠《まどわく》を眺め、その開け放った窓から見える夕陽を見つめた。そして、眠りつづける洋一の寝顔に視線を移しながら、あのクラブハウスの廃墟で過ごした約ひと月の間の出来事を思い返した。
短いひと月だった。慣れない作業と生活に追われ、無我夢中であっというまに過ぎてしまった。子供たちにとっても過酷《かこく》なひと月だったと思う。
こうしていま振り返ってみると、実にいろいろなことがあった。特に、いまもつづいている「思い出」にまつわるあの出来事には振り回された。いまだにわからないことのほうが多い。健次自身、ほんの一瞬だが、一家心中することさえ考えてしまった。あのあと、クロが発端《ほつたん》になった思い出たちの件がなかったら、自分はもっと煮詰まっていたかもしれない。思い出たちがあのようにしてあらわれなかったら、もしかしたらという気さえする。
やはり無理だったのだ……。
いまこうして、ルカの行方を気にしながら洋一の寝顔を眺めていると、そういう結論に達するしかなかった。自分はともかく、子供たちにとってはあそこでの生活は無理だ。まだ研修期間も終わっていないというのに、こういう結論を出すのは少しくやしい気もするが、やはり子供たちのことを考えるとそのように考えるしかなかった。
島で暮らすのはいい。
だが、あそこでは無理だ。
わかっていたはずじゃないですかと工藤に言われそうだが、頭で想像したものと現実とはあまりにも違いがありすぎたのだ。
「……覚えてる?」妻の美佐子が耳元で囁く。
もちろん、覚えているさ。
「ほんとうに?」
健次は知らぬまに、ひとつひとつの起こった出来事を反芻《はんすう》していた。
子供たちの周辺を考え合わせると、おそらく自分が把握《はあく》できている以上のことが起こっているだろう。クロにまつわる一連の出来事、ルカのシャワー騒動、「鳥になるんだ」という男の子の出没、そして美佐子の囁き……。しかし、健次にとっていちばんこたえたのは、ルカの自傷《じしよう》だった。もし考えたことが当たっていたとしたら……。そう思うと、それだけでいたたまれない気持ちになる。
子供たちをここまで追い詰めていたのは、このおれなのだ。
健次は大きな躰を折り曲げ、洋一のベッドの脇で頭を抱えた。また取り返しのつかないことをやっている。やっていながら、いつも遅れてそれに気付く。
洋一がなにかをつぶやく声が聞こえた。
健次は頭を上げ、その顔を見たが、洋一はおだやかな表情で眠りつづけている。寝言だったのだろう。
洋一もこの島に来てからずいぶんたくましくなったような気がする。幼さが消えて、時折こちらがはっとするほど少年らしい眼の輝きを見せることがある。
気が付くと、病室はすでに薄暗くなっていた。
夕陽が沈み、水平線がその名残《なごり》で濃く赤く染まっている。
空は紫色に変わって暗くなり、星が幾つも見えはじめている。
ルカのことが気になった。もしかしたら、自分のこの鈍感さが、ルカを追い詰めていったのではないかと、次第に焦《あせ》る気持ちが強くなった。
バンドエイドや脱脂綿の血。
ルカの傷。
自分で……。
まさか、ルカが自殺を――。
健次はいきなり立ち上がった。
急いで病室を出た。渡り廊下を歩いてきた看護婦にあとの世話を頼み、健次は駐車しているジープのところに戻った。
もう一度無線で呼び出す。
やはり誰も出ない。
そのとき、無線機の赤い呼び出しランプが点滅した。
マイクを握り応答する。
ルカの声がいきなり聞こえてきた。
やっと、繋がった。
だがルカは泣き疲れたような妙に乾いた声で、いまジャングルに通じる道にいると言う。循環道路から未舗装の道に入ってしばらく走った場所に、赤いトラックが駐車していて、その中にいると説明する。
どうしてそんな所にと、とりあえずほっとしながら健次はたずねた。
「ひとりじゃ運転できないから」
かすれた声で奇妙な答えが返ってきた。
17
海と空と草と石。
そのどれにも光だけが溢れるように輝いている。
眩しかった。
風はほとんどなかった。
眼下に広がる海面が光を浴びて水平線の向こうまできらきらと輝いている。そして、岬《みさき》の突端にある焼き場まで一本の細い砂利道《じやりみち》が通じている。
その轍《わだち》の跡のあるごつごつした石砂利の上を健次と工藤は歩いた。
道の両側には狭い草地が広がり、丈の低い名も知れぬオレンジ色の花が咲き乱れている。
白い砂利道は緩《ゆる》く蛇行《だこう》しながら小さな焼き場まで延びていた。
「……まいったな。……そんな話、信じろというほうが無理ですよ」
蝶ネクタイの代わりに黒い喪服《もふく》を着た工藤は、健次の話を聞き終えたあと、汗を拭きながらそうつぶやいて黙ってしまった。フミオは警察では失踪者《しつそうしや》扱いになっていた。
青く輝く海。
水平線。
空。
フミオがいないことから、死因を調べるために冷凍されたまま東京に送られて検死を終え、やがて再び戻されてきた窪木の葬儀は、島の公民館で行われた。島での葬儀は、遺書に残されていた窪木の遺志だった。葬儀は、会葬者もほとんどなく質素なもので、どこかにいるはずの親類にも可能なかぎり連絡を取ろうとしたのだが、彼の小屋の中には住所録も年賀状もなく、役場を通じて戸籍をたよりに探し当てた彼の唯一の兄弟であるはずの兄はすでに亡くなっていた。
森の奥の小屋――。
あの日の夜、健次がジープで赤いトラックの所まで行くと、ルカはなにも理由を説明せずに窪木の小屋に自分を連れていってほしいと言った。泣きはらしたような赤い眼をしていたが、なにかその声にはそれまでにないような思い詰めたいちずな響きがあった。それで健次はそのまま理由をたずねることもせずに工藤に連絡を取り、その小屋の位置を訊《き》いた。そして、暮れてしまった夜の道をルカと共にジープに乗って窪木の小屋に向かった。
その小屋は、ジャングルの奥の小さな沼のほとりにあった。
家というよりは木造の掘っ建て小屋という感じで、小屋の前には小さなポーチがつくられ、そこに古びた揺り椅子がひとつ置いてあった。だが、家の周囲はよく手入れがしてあり、小さな花壇もつくられていて、ピンクや白い花がたくさん咲いていたのが意外だった。
健次とルカはジープから降りてポーチに上がった。
窓に明かりはなかった。
健次がノックしたが中から返事はなく、躊躇《ちゆうちよ》していると、なにも言わずにルカが進み出てドアの前に立った。一度触れてしまったら崩れてしまいそうな網戸に触れ、そのノブに両手をそえた。ルカが網戸をそっと引き、その奥の粗末な木のドアを押すと、それは静かに開いた。
すでに雨は上がっていてくっきりとした満月になっていたが、小屋の中は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。大きな躰の健次が歩みを進めるたびに、板張りの床が不器用なチェロのようにギシギシと鳴った。
薄暗く小さな居間兼食堂には、使い古した感じの粗末《そまつ》な白木のテーブルと椅子が三つ、置かれていた。それでも小さな食器棚には、おそらく窪木の妻の形見であろう絵付きの皿が並んでいて、台所の小さなシンクの横には切り子細工のガラスのコップが底の方にわずかに水が溜《た》まった状態で置かれていた。
きちんと整理された流しの端に、山小屋にあるようなランプがひとつ置いてある。
健次は、窓からの月明かりを微かに反射しているテーブルの表面を眺め、その木のテーブルに肘《ひじ》をついて両手で顔を覆っている窪木の姿を想像した。
窪木は、奥の部屋にあるベッドの上で眼を閉じたまま死んでいた。
喀血《かつけつ》したあとがあり、見ないほうがいいと告げたが、ルカは背筋を伸ばしたままその遺体に近付き、そのベッドの脇にひざまずいた。そして、低い声で、まるで祈《いの》りを捧《ささ》げるように、浜辺でのフミオとの出会いからその最期を自分が見とどけたことまでを窪木に報告した。
健次はその澄んだ声を聞き、すべてを了解した。
フミオと初めて会ったときの、あの奇妙に哀しそうな眼を思い出した。
ジープのところまで戻り、健次は無線で再び工藤を呼び出した。窪木の不慮《ふりよ》の死を告げ、確認のために診療所と警察署に連絡してほしいと頼んだ。そして、再び小屋に戻り、テーブルの上にあった自分あてのメモを手に取って、月明かりの中でそれを読んだ。
おそらく窪木はこうなることを予期していたのだろう、メモの下には、彼が記したものと思われる小さな手帳のようなノートが三冊置いてあった……。
「ああ、それからこれ、お返しします」
工藤は、焼き場までの細い道を歩きながら、胸ポケットに手を入れ、あらかじめ読んでもらっていたそのノートのひとつを取り出し、健次に手渡した。
棺《ひつぎ》はもう焼き終えている時刻だった。
これから窪木の骨を拾うことになっている。
このノートを棺の中に入れ、窪木とともに灰に戻すこともできたのだが、健次はそれをしなかった。
ノートの内容は、フミオがあらわれた朝のところからはじまって、その「成長」ぶりが丹念に記されていた。その驚き、困惑、そして苦しみと喜びが、飾りのない文章で淡々と日記ふうに綴《つづ》られていた。健次はそれを何度も繰り返し読み、そこに書かれてあることを自分のこととして理解した。
なぜ、思い出たちは一度出現してしまうと、ひとり歩きをはじめるのか。その死を繰り返すことで、なぜフミオやクロのように他人にも見える存在になってしまうのか。まだまだわからないことがあるけれど、とにかくひとつの決断を迫られた。それは、自分もまた思い出たちを成長させて窪木と同じ道を歩むのかどうかという決断だった。
この断崖の端から水字貝の貝殻を海に戻してやるんだという洋一の声が聞こえてくる。
あのとき海底に、顔を描いた水字貝。
美佐子の骨を海中に散骨したように、貝殻もまた海に戻っていく。
健次は歩きながら振り返った。
同じ断崖の白く細い道を、五メートルほど離れてルカと洋一が並んでついてきていた。ルカは喪服の代わりに白いブラウスと濃い灰色のプリーツスカート、床屋さんをして髪を短く刈った洋一は白のシャツに紺の半ズボンをはいてリュックを背負っている。日に焼けたせいだろうか、二人ともなんだかこの島の子供のように風景に溶け込んでいた。
ルカは健次と眼が合うと、微かに淋しそうに微笑《ほほえ》んだ。そして、はにかんだようになって洋一の肩を軽く抱き寄せ、いきなりヘッドロックをあびせかけた。「プロレスなんてやめろよなあ、オネエ。暑いだろう」洋一に文句を言われるのもかまわず抱き寄せている。
あの激しいスコールの日を境《さかい》にして、ルカは変わった。
自室にはこもらず外に出て、芝生の上に寝転んだり、健次の草刈りを手伝ったりして過ごした。そして荷物の中から、どこで手に入れたものか古くぼろぼろになった絵本を取り出してきて、それを暇にまかせて洋一に読んできかせたりしていた。
「……むかしむかし、自分のことが嫌いな一匹のウサギさんがいました。ウサギさんは自分が世界中でいちばん醜《みにく》いと思っていたのです」
本を読み、夏の野原で遊ぶ。
もう慣れてしまったのか、虫のこともあまり言わない。
ただ時折遠い眼をして、グリーンの向こうに広がる海を眺めている。
そうして昨日、健次が草刈りの作業をしていると、その近くで雑草と一緒に咲いていた野の花を摘《つ》みながら、誰に言うのでもなくぼそぼそと話しはじめた。
「……あたし、もう一度学校に行ってみてもいいかもしんない」
ルカ独特の言い方で急に照れてしまったように赤い舌を出した。
生きている屍《しかばね》であったフミオ。
彼はずっとあのようにして、自分をわかってくれるものがあらわれるのを待っていたのかもしれない。やがて思い出でさえなくなってしまう自分を、せめてありのままに覚えていてくれる、そんな女の子を。そして、もしかするとフミオにとっても、ルカと同じように、それが遅すぎた初めての恋だったのかもしれない。
フミオは、ルカの思い出の中に居場所を変えた。
今度はルカの思い出となった。
――ということは。
黄泉《よみ》の国のようなこの島にいるかぎり、フミオもまた、ルカの思い出としてあらわれる可能性があるということだ。思い出から思い出へと移り住みながら、彼はある意味で不死となる。
(さて、どうするか……)
健次とルカと洋一は、むずかしい判断を迫《せま》られていた。
シンちゃんもココも美佐子もクロも、まだ共に歩いている。
「ねえ、この携帯、直んないのかなあ」ルカのつぶやく声が聞こえた。
やはり、この島を出よう。思い出は思い出のままに、記憶として生きつづけさせるために。
健次は空を仰いだ。
焼き場まではもうすぐの距離だった。
[#改ページ]
エピローグ
[#ここから1字下げ]
地中深く、根は養分を吸って生きていた。
地表で死んだものたちが、バクテリアによって分解され、炭水化物や有機物となって地中に吸い込まれる。タンパク質、気体アミノ酸、アンモニウム、硝酸塩《しようさんえん》が雨水とともに土の中に染み込んでくる。やがて骨が溶けてカルシウムもそこには含まれるだろう。根は、その養分をさらに分解し、合成して、死を生に変えていった。地中から再び地表へと送り返し、幹を通じて葉を茂らせ、太陽の光にまためぐりあわせる。空中に解き放つ。
だが、暗い地中の奥深くに棲息《せいそく》しつづけているその根の群れは、それができなかった。
根の群れは、何度も自分たちの新たな芽を育てようとして、その場所の外へと移動しようとした。実らぬ「想《おも》い」を結実させるように、芽はやがて苗木となり、やがてまた大きな木となるだろう。葉を茂らせ、太陽の光にまためぐりあえる。
しかし、暗い地中に忘れ去られたその根の群れには、それもかなわなかった。芽を出して大きな木をまた育てたくても、そこには押さえ付けるようにしてクラブハウスの建物があった。その場所からすこしでも移動しようとして触手を横に、四方に伸ばそうとすると、必ずそこには死が待っていた。その場所の外の土はすべて農薬と除草剤で汚染されていて、少しでも先端がその土に触れると、そこから枯れはじめるのだった。
根は移動すらできなかった。
それでも生きつづけた。
限られた場所でさ迷い、のたうち、からみ合い、行き場のないままに少しずつ澱《よど》んでいった。
これまで何人か住んでいた建物には、もう誰もいなかった。
最後の家族も引っ越していった。
そして、家族が引っ越していくときに、床下の根の先端が人間の指によって包まれるのを感じた。その人間は少女のようだった。少女の傷だらけの指は、つまんだ根の先端をゆっくりと幾重にも、金属の棒に巻きつけた。「ありがとう、彼に会わせてくれて」少女はその根にやさしく語りかけながら、何度も何度も細い根を床下の金属の棒に丁寧に巻きつけた。
それから、
長い時間が経った。
数え切れないほど激しい雨が降り、根の先端はいくたびか避雷針の導線から流れてきた電流に焼け焦げた。それでも生き残った根は、少女に教えられた通りに巻き付くことをやめなかった。暗い地中から脱出をはかるように、金属の棒に巻きつきつづけた。
雷が落ち、
火が走って、
建物が灰になりかわるまで。
そこに、新しい芽が育つまで。
[#ここで字下げ終わり]
角川ホラー文庫『ジュリエット』平成15年9月10日初版発行