井田真木子
プロレス少女伝説
目 次
女子プロレス少女群像
彼女たちの歴史
アメリカの女神たちと女相撲
孫麗※[#「雨/文」]のプロレス
神取しのぶのプロレス
衝突!
ガイジンたちのプロレス
賭けの結末
麗※[#「雨/文」]の帰郷とミシェリー家のクリスマス
彼女たちのいま
あ と が き
[#改ページ]
女子プロレス少女群像
■カエレコールの誕生
一九八三年の夏、私は、東京郊外の小さな駐車場や青物市場に架設される会場で、集中的に女子プロレスを観戦していた。
たまたま知人に連れられて、初めて女子プロレスを観たのは、その数カ月前だ。男子プロレスの亜種のような、女子プロレスという格闘技ショーには、それまでまったくなじみがなかった。リングに出てくる選手の名前には、もちろん、ほとんど聞き覚えがない。テレビで女子プロレスの放送を一、二度見たことはあったが、こうしたスペースに、今でも興行がかかることさえ知らなかった。つまり、そのとき私は、女子プロレスの全体像については何ひとつ把握していなかった。とはいえ、私が女子プロレスを観戦していたのは、ローティーンの女の子向け雑誌に、女子プロレスラーの取材記事を書くためで、しかも、その企画は私のほうから編集者に持ちかけたものだった。
その実体については無知同然の女子プロレスについて記事を書こうと思った動機は、その当時、観客席で繰り広げられていた、ひとつのダイナミックな変化にある。私の女子プロレスへの最初の興味は、試合にではなく、むしろ観客のほうにあった。
それはどういう変化だったか。
数カ月前、初めて会場に行ったとき、女子プロレスの観客は、おおむね中年男性で占められていた。彼らは、裂きイカを口にくわえてビールをちびちびやり、ときどき、リングにのんびりした野次を飛ばす。場外乱闘になると、選手たちがもつれあう付近の観客は、缶ビールを手に持ったまま、そそくさと席を立った。倒れた選手たちのまわりには、そういった観客の輪ができ、その中の何人かは、あわよくば胸や太腿に触れられないものかというような、どことなく不明瞭な表情で選手をのぞきこんでいた。
こういった会場の隅に、小学生らしい年代もまじえたローティーンの女の子たちの一群が出現しはじめたのは、いつ頃のことだろう。ともかく、従来の観客とは、挙措動作、リングへ向ける目の色、歓声の質、服の色合いまで、すべて対照的な少女たちの群れが、人数の上で、中年男性と拮抗《きつこう》しはじめるのはあっというまだった。
最初に、相手の集団に対して、そこはかとない敵意をしめしたのは、少女のほうだ。中年男性が、リングに冗談まじりの野次をとばすと、一〇〇〇人近い少女たちがひと塊りとなって体をゆすり、ざわめく。会場の二階席から、全体的に灰色にみえるスーツやスポーツジャケットを着た中年男性群ののんびりと楽観的な雰囲気と、赤やピンクのTシャツやセーターを着た少女の群れの、鬱屈《うつくつ》した雰囲気を交互に眺めて、私は落ち着かなかった。
そのうち、少女たちは、試合の盛り上がりに呼応して足踏みをすることを覚えた。それまでのんびりしていた中年男性も、地鳴りがするような足踏みの音の中に脅威を感じとったらしい。野次のボルテージは、やけ気味にあがった。しばらく、足踏みと野次が競《せ》りあったが、まもなく、少女たちの数は圧倒的多数にかわる。彼女たちの歓声と足踏みが、あきらかに従来の観客の何割かを、会場にいたたまれない気分にさせ、追い出したのだ。ふと気がつくと、以前は会場のほとんどを占めていた、灰色のスーツの群れは、いまや、全体から孤立した小島となっていた。
そして、カエレ<Rールが始まった。
会場の一劃に孤立した中年男性たちの野次は、その頃には、ヒステリックなまでに野卑になっていた。少女たちは、その野次に匹敵するものを模索しているように見えた。あるとき、突然、足踏みが止まった。次の瞬間、やや確信なさそうに、手を握り込んで親指を下に突き出し、小さな声で、
「帰れ」
と言ったのは、彼女たちの中の誰だったのか。
それが、すべてのきっかけだった。
少女たちは、握った右手の親指を下に突き出し、足を踏みならし、中年男性の小島にむかって、カエレ! カエレ! と際限なく叫び始めた。二階席の私の目には、男たちの集団が、カエレ! を浴びせられるたびに、内側に縮んでいくように見えた。
「その子供たちは、いわゆる団塊《だんかい》の世代が生んだ二世なんじゃないですか?」
ある編集者は、その話を聞いて、こう尋ねた。
「彼女たちの集団意識の中に、全共闘の時代、親が叫んだカエレ<Rールが刷り込まれていたってことは考えられないかなあ」
全共闘時代そのものを知らないので、なんとも言えません、と、私は答えた。
いずれにしても、このカエレコールによって、会場から中年男性は完全に駆逐され、女子プロレスは少女たちの専有物になった。
そして、私はこの観客の交代劇に刺激され、この少女たちを魅きつけている、女子レスラーの実体を知りたいと思った。それが、その夏、私が女子プロレスの会場に足を運んだ理由だ。
私は、結局、その日から六年近く、かなりの本数に及ぶ女子プロレスの記事を書き続けた。その間に、女子プロレスは、一九四八年の誕生以来、第三次ブームと呼ばれるものを経験した。そのブームの立て役者は、ライオネス飛鳥《あすか》と長与千種《ながよちぐさ》の二人が組んだクラッシュ・ギャルズというタッグチームと、それに、ヒール(悪役)として対したダンプ松本の三人。そのクラッシュ・ギャルズの一人、長与千種が引退する直前の、一九八九年四月一五日の屋外試合を観て、私が、プロレス専門週刊誌「週刊プロレス」五月九日号に書いた記事は、次のようなものである。
[#ここから1字下げ]
──(前略)その日の試合は、私の予想と大きく食い違った。なるべく小さな、できるだけひなびたオープンの試合を見たいと思っていたのだ。だが、駐車場にはクラッシュ・ギャルズや、そのほかの選手の親衛隊の女の子たちが蟻集《ぎしゆう》していた。そして、そこで繰り広げられたのは、屋内大会場での華やかな試合の屋外版だった。ティーンエイジャーの女の子たちの応援の嵐の中で、雨まじりの強風にあおられ、体を小さくしていると、後ろの席に座った、中年の女性が話しかけてきた。
「私、千種さんのファンなんですけどね。これからの千種さんについては、どういう雑誌を読めばいいのですかねえ。知ってたら教えてくれません?」
寒さに震えながら、私は、すみませんが知りません、と答えた。
リングにクラッシュ・ギャルズが登場し、歌を2曲歌うと、観客は立ち上って叫び出した。私の耳には、クラッシュがマイクを通して歌う声より、観客が口々に歌う声のほうが、割れるように大きく聞こえた。
そのとき、さっき私に話しかけた女性が、リングに目をやったまま、ハンカチを口に押し当てて、激しく嗚咽《おえつ》しはじめた。
こういうことのすべてを、クラッシュは、長与千種は作りあげてきたのだ。確かに、これは事実、なのだ。
(後略)──
[#ここで字下げ終わり]
女子プロレスのブームは、その副産物として親衛隊と呼ばれるファンの精鋭集団を作りあげた。親衛隊の少女たちは、同じデザインのコスチュームを身に着け、両手に同じ色のポンポンやペンライトを持ち、観客席の一部に陣取る。そして、クラッシュ・ギャルズがリングに出てきて歌を歌うと、全員が同じフリで踊り、熱狂的ではあるが、あくまでも規律正しい歓声をあげ、ペンライトを振り、ポンポンを整然と振り回した。
親衛隊は、ファンとしての貢献度において、普通のファンと一線を画しているようだった。親衛隊のコスチュームを着ることができないファンの少女は、彼女たちの整然としたフリを横目で見ながらやや遠慮がちに体を揺らしていた。だが、いったん試合になると、そこはかとない一線≠熾れ、親衛隊とファンは一丸となって、クラッシュが繰り出す技にあわせて叫び、足踏みをし、ときには、まるでレスラーが次に出す技を予見するかのような、大きな悲鳴をあげた。
観客と女子プロレスラーの一体感は強固だった。選手と観客は同年代で、また、人気選手たちの部屋を紹介する専門誌のページなどを見る限りでは、レスラーのライフスタイルは、普通のティーンエイジャーと似たりよったりのものだ。ヌイグルミとお気に入りのミュージシャンのポスターで埋まった部屋に住む選手の大半は、思春期の五、六年をレスラーとしてすごしたあと、あっけなく結婚して家庭に入ったり、別の仕事をさがしはじめる。同じように、多くのファンも、つきものが落ちたようにプロレス離れをしていく。プロレスをすることも、また、観戦に熱中することも、彼女たちにとっては同質の体験なのだろうと、私は思った。観客席とリングは、あくまでも地続きなのだ。観客は、もう一人の自分の姿をリングに見て熱狂した。
それだけに、彼女たちは、自分とリングの一体感に水を差すような異物を徹底して嫌った。少しでも異質な観戦方法をとる観客や、自分たちと世代の違う観客、そして、どんな世代であれ男性は排除された。観客とは、世代も観戦態度も違う私が、その場にいることを許されたのは、プロレス専門雑誌の記者だったからにすぎないのだろう。異物《ヽヽ》がよほど抵抗しない限り、カエレコールはおこらなかったが、数千人もの少女が一体化した姿は、圧倒的な威圧感を誇っていた。
そして、観客と基本的に同質なレスラーたちの社会も、また、学校の体育会さながらの、上下関係の徹底した、異質なものを受け入れない体質を濃厚に持っていた。記事を書き始めて数年がたつと、私は、自分が、次第に、レスラーと観客双方の閉鎖的な世界から逃げ出したくなっていることに気がついた。当初、興味をひかれた観客の少女の熱狂が、一転して、苦痛に近いものに変わっていったのだ。
ブームも終わりに近づいた一九八九年の四月、私が熱狂的な大会場の試合ではなく、ひなびた屋外の試合を観戦したいと思ったのは、そのためだった。だが、その屋外試合も、すでに以前ののんびりした雰囲気ではなかった。そして長与が引退し、ついでライオネス飛鳥も引退。ブームは終わった。
ところで、ブームが去って約半年後、私はたまたま天田麗文《あまだれいぶん》という中堅レスラーと話をする機会を得た。彼女は、五年前まで|孫麗※[#「雨/文」]《スンリーウエン》と言う外国名を持っていた、中国未帰還者三世である。
そのインタビューによって、私は、彼女が一般的な女子プロレスの世界とは違うものを生きていたことを知った。小学校六年生で、中国から日本へやってきた彼女にとって、一六歳で入った女子プロレスの社会は、異郷としての日本そのものだった。まだ幼く、友達も世間知も乏しい彼女は、女子プロレスという日本≠ニ格闘し、生き抜いた。それだけでなく、彼女がその格闘を冷静に外側から観察していたことに、私は驚いた。
ついで、私は、アメリカ人女子レスラーとして初めて、日本の興行団体と年間契約を結んだ、デブラ・アン・メデューサ=Eミシェリーと会った。彼女は、それまでの外国人選手が興行の一シリーズのみで契約するゲストとして遇されていたのに対し、興行会社の所属選手として、日本人選手と同じように一台のバスに乗り込んで全国を巡業している。彼女は、いわば、|ウチ《ヽヽ》なるガイジンなのだ。
麗※[#「雨/文」]もメデューサも、自身の人生を、女子プロレスという日本≠ノ深く交差させていた。だが、同時に、彼女たちはけして、その中に溶け入らなかった。彼女たちは、自分が、この国にとっても、また女子プロレスにとっても、通過する人間であることを知っていた。
最近、日本式の成人式を迎えた麗※[#「雨/文」]は、こんなふうに言う。
「わたしの国籍は日本だけど、わたしの心は中国人です。でも、わたしは、中国では死なないでしょう。中国を愛しているけれども、あの国は、もう、わたしの国ではないから。
でもね、わたしは、この国でも死なないでしょう。
わたしは、今、この国で生きています。一生懸命生きますけれども、きっと、この国では死なないでしょう」
メデューサは、これを聞いて言った。多分、この国で死なないと言うと、日本人は気を悪くするでしょうね。でも、麗※[#「雨/文」]の気持はわかるわ。この国で死ななくても、この国を好きになることはできる。一生懸命生きることはできる。私も、そう思っているもの。
彼女たちは、女子プロレスと深く関わりながら、異質なまま通過していく人たちだ。その点で、二人は、ほかの選手の誰とも、また観客とも違っていた。女子プロレスの世界が、観客と選手の息苦しい一体感だけで成立しているというのは思い込みにすぎないと、麗※[#「雨/文」]やメデューサと話したあと、私は反省した。
そして、彼女たち二人に、以前から取材を続けていた神取《かんどり》しのぶの異質≠重ねあわせた。神取は、一九八六年に、女子柔道六六キロ以下級日本王者からレスラーに転向して、ジャパン女子プロレスに入った。この会社は、それまで全日本女子プロレスの寡占状態だった業界に、久しぶりに出現した新団体である。彼女は、その団体のマットで、従来の女子プロレスの観念を打破るようなデビュー試合をしてみせたあと、業界初のフリー宣言をした。ついで、全日本女子プロレスの長与千種と会社枠を越えての対戦を仕掛けた。ケンカマッチを敢行して、ベテラン選手を引退に追い込んだことが一回、関係者から姿をくらまして国外に逃げたことが数回ある。当然、会社との契約交渉で、彼女がトラブルをおこさなかったことはまれだ。
神取は、そもそも、存在そのものが異質にできあがっているような女性だった。そのため、ヒールではないにも関わらず、彼女は、クラッシュ・ギャルズのブームにおいては、多くのファンの畏怖《いふ》と憎悪の的となった。私は、ファンのための雑誌という性格を持つプロレス専門雑誌の記事に、あまりにも異質で挑戦的な彼女を、どのようにはめこむかに難渋しつづけたものだ。だが、彼女の記事を書くことはやめられなかった。女子プロレスの閉塞的な世界が盛り上がったブームの時期に、彼女はそれを破る唯一のレスラーだったのだから。
しかし、麗※[#「雨/文」]とメデューサを取材したあと、私は、その時期に異質な存在として生きた選手は、実は、神取一人ではなかったことを知った。
私は、この三人に、あらためて、女子プロレスと彼女たちの人生の関わりを聞くことにした。
「わたしは、プロレスの雑誌を読んで、日本語を覚えました。日本語ができなければ、女子プロレスになれないでしょう。だから、プロレスのテレビを見て、プロレスの雑誌を読んで、わたしは、日本語を覚えました」
麗※[#「雨/文」]がこう言ったとき、私は赤面した。彼女が読んだプロレス雑誌に、私は、何本の記事を書いたことだろう。彼女の、ぎこちなさと、多くの誤用が残る日本語に、私の記事はどんな影響を与えたのか。
私が知らないうちに、彼女は、私に深く関わっていた。
今度は、自分が彼女に、通過者としての彼女たちに、深く関わる番だ。
私はそう思った。
[#改ページ]
彼女たちの歴史
■孫麗※[#「雨/文」]の生いたち
|孫麗※[#「雨/文」]《スンリーウエン》は、そのとき、一二歳だった。そして、一日の大半を、つけっぱなしにしたテレビの画面を眺めてすごしていた。
彼女がテレビの画面を眺めていたのは、群馬県桐生市にある九階建て市営アパートの最上階の一室。麗※[#「雨/文」]の母、劉佩琴《リウペイチン》が、彼女を除く家族五人を伴い、中華人民共和国|上海《シヤンハイ》市から、海外残留日本人未帰還者二世として、日本に永住帰国したのは一九八〇年。二年後の一九八二年、佩琴は、幼児の頃に伯父夫婦の養女に出した麗※[#「雨/文」]を日本に呼びよせた。それまで、養父母の一人っ子として育った麗※[#「雨/文」]は、一二歳で一挙に三人の弟妹の長姉となった。
佩琴の父、天田豁《あまだひろし》は、一九三五年、外務省職員として旧満州にわたった日本人である。一九四一年の太平洋戦争勃発と同時に、彼の家族は戦禍を恐れて帰国した。だが、彼自身は、終戦後も中国にとどまり、中国人女性と結婚し、その女性との間に、一九五一年、一人娘の佩琴をもうけ、一九六七年ガンで死亡する。佩琴一家が、一九八〇年から始まった厚生省の中国残留孤児調査の対象外で帰国したのは、以上のような事情による。
厚生省の中国残留孤児調査は、太平洋戦争によって海外に残留した日本人のうち、主に、中国東北地区に孤児として残った、身元のわからない人たちを対象にしている。昭和六一年二月一日の、厚生省援護局の調査によれば、中国東北地区からの帰国者は孤児全体の八九・七%。平均年齢は調査当時四四・九歳。
戦後生まれで、日本人の実父と暮していたために日本の異母兄弟の消息について把握していた佩琴は、狭い意味では中国残留孤児と呼べない。だが、彼女は年齢的には、残留孤児の人たちとほぼ同年代。また、麗※[#「雨/文」]の年齢や、来日までの経緯は、残留孤児二世と呼ばれるティーンエイジャーと重なりあう部分が多い。
ともかく、このような事情で、麗※[#「雨/文」]は、生まれて初めて顔を合わせた両親と、三人の弟妹と一緒に住むことになった。他の残留孤児二世と同様に、来日当時の麗※[#「雨/文」]は、日本語を話さず、日本についても何ひとつ知らない。そのため、市内の小学校の六年生に編入はしたが、級友との会話はない。中国にいた頃は、お昼休みに自宅に帰り昼食をとっていた彼女は、日本の学校に編入したあとも、昼休みには一人でアパートへ帰った。日本の小学生は、昼食を学校で食べるらしいということが、漠然とわかったあとも、相変わらず自宅へ帰った。誰とも話ができないのなら、一人でいるほうが気楽だったのだろう。
中華料理店で働いている両親は、子供たちがまだ寝ている早朝に家を出て、深夜帰宅する。彼女は両親とも、めったに話をしなかった。幼いだけに適応が早かった二人の妹は、来日二年目でようやく日本人の友達とのつきあいができ、外遊びが面白くなったところ。そして、一番下の弟は、まだ、赤ん坊だった。
麗※[#「雨/文」]が、両親弟妹と同居して半年あまりがすぎても、来日当初とかわらず、何が話されているのかわからないテレビの画面を眺めて=A時間をすごしていたのは、こういう理由からだった。
「この国にやってきた日、その日の夜のことですけどね、夢を見たですよ。友達と遊んでいる夢。友達と遊んでいてですね、明日もここで遊ぼうねって約束する夢ですよ。それから、目が覚めましたね。目が覚めてですね。なんだか違いますね。ベッドから飛び起きてまわりを見たら、おやおや、ここは日本だったですよ。夢で、友達に、また明日ねって言ったときは、わたし、たしかに中国にいたのにねえ。目が覚めたら、そこは、中国ではなかったですよ。
そうですね。その頃、すべてのことが、わたしが考えていたのと、まったく違いましたですね。
たとえば? たとえばですね、日本人は、みんな着物を着ていると思っていました。着物は日本の伝統的な服だと聞きましたので、ほとんどの人が着物を着て歩いていると思いましたね。そしたら、違いました。成田空港におりたら、女の人がミニスカートはいてサンダルはいてました。それから、ブラジャーみたいな、ものすごく小さな上着着てましたよ。ぼうっとしちゃったねえ。
それから、空港のレストランで、迎えにきたおとうさんにカレーライスを食べさせてもらいましたね。カレーライスが出てきたのを見て、これは食べるモノですか? と思いました。食べてみて、もう一度、食べ物ですか、と思いました。ご飯だけ、そっと掘って食べましたけど」
カレーライスだけではない。なじみがあるはずのラーメンまでが、異文化の中では、実に不思議な食べ物に様変わっていた。麗※[#「雨/文」]の日本語は、今ではなめらかだが、まだラ行とナ行の発音を混同する訛り癖が、わずかに残っている。その訛りがとりわけ強調されるのは、彼女が|ナーメン《ヽヽヽヽ》について話すときだ。
「カレーライスが食べれなかったのを見て、おとうさんは、わたしをナーメン屋さんに連れていったですよ。そして、ナーメンを食べました。それは、とてもかわったナーメンでしたね。醤油の味のナーメンは、今まで食べたことがない。上に乗っているものも、ずいぶん違いますね。この国は、ナーメンもかわってるね、と思いました。
それから、おとうさんと空港ビルの中を歩きました。ビルの窓から、日本の町が見えますでしょう。それを見て、不思議なところに来ちゃったなあ、と思いました」
養父母は、上海空港から彼女を送り出すとき、桐生の両親にあったら、|※[#「父/巴」]※[#「父/巴」]《パアパ》(おとうさん)、媽媽《マアマ》(おかあさん)と呼ぶようにと忠告した。だが、彼女には、そう呼ぶことはおろか、両親とごく普通の会話をかわすことさえできなかった。そして、二人の妹たちは、彼女に姐姐《チエチエ》(おねえちゃん)とは呼びかけなかった。かろうじて、母だけが、麗※[#「雨/文」]を幼名の小琴《シヤオチン》で呼んだ。小琴は、母の幼名でもある。
「日本に行ったら、中国語が通じないこと、頭ではわかってました。わかっていましたですけど、こんなに大変なこととは思っていなかったです。こんなに誰とも話ができないとは思っていなかったです。一言も話せないとは思っていなかったです。
もともと口のきけない、耳の聞こえない、何もわからない、そういう人になったようでした。わたし。
はい。学校で、アイウエオを教えてもらいましたですよ。でも、駄目ですもん。わたし、その頃、思っていたことは、あそこへ帰りたい、早く帰りたい、それだけ。あそこというのは、中国のことです。でも、帰りたいと言えませんでしょう。この国にやってくるパスポートとるために、南京のおとうさんはとても苦労しました。苦労してやってきたのに、すぐ帰れませんでしょう。
だから、いつも、心の中で、帰りたい、帰りたい、帰りたい。帰りたい≠セけ思っていて、アイウエオは、全然覚えませんのです。
それでね、日本語はいつまでたってもしゃべれないから、テレビばっかり。いつも、わたし、テレビの前に座っていますね。テレビでしゃべってることも、よくわかりませんのですけど。でも、テレビのほうが、人間よりよかったですよ。だから、いつも、テレビだけ。面白くはないけど、ほかにすることないから、テレビの前に座っています」
佩琴が桐生に住んだのは、彼女の父親の本籍と異母兄弟の家が、そこにあったためである。だが、それは、今まで日本に住んだことのない佩琴の一家にとって、永住地を選ぶのに、ずいぶん乱暴な理由だったのではないか。関係者の本籍があるということは、その土地が、未帰還者子弟の受け入れ対策に万全を期していることを意味するものではないはずだ。実際、桐生で与えられた受け入れ教育は、麗※[#「雨/文」]に、基本的な日本語が話せる程度の成果さえもたらすことができなかったではないか。
そのため、地域にも家族にも背を向けた麗※[#「雨/文」]は、終日、テレビの前に座っていた。このような一二歳の少女の姿を想像するのは、なんともやりきれない。
だが、こんな彼女の自閉を打ち破るものは、まさにテレビの中からやってきたのである。
ある日曜日、麗※[#「雨/文」]は、言葉はわからないながら、自分の興味を強烈に引きつける番組がテレビで放映されているのを発見する。それは、カンフーやレスリング、空手や柔道を混ぜあわせたような、一種、不思議な格闘技試合に見えた。
なにより、それをやっているのが、水着を着た女性だということが彼女の心をとらえた。南京の養家にいた頃の彼女のアダ名は、お転婆《てんば》の小琴だ。木登りが好きで、ケンカも強かった。近所の人は、小琴は男の子みたいだね、と噂した。養父と気功を習いに行ったこともある。もちろんカンフーも好きだ。その不思議な試合は、お転婆の小琴が初めて心を引きつけられた日本≠セった。
「夢中になって見ました。それから、上の妹をつかまえて、これは何? と聞きました。そしたら、妹はこれは女子プロレスというものだよって、言いましたですね。
夜になって両親が帰ってきました。私は今度は両親に尋ねました。
プロレスって何でしょう?
おとうさんやおかあさんは、プロレスを知りませんでしたけど、プロというの、仕事というような意味でしょう、と言いました。プロというのは、それをやってお金を貰うということでしょうと言いました。
テレビでやっていた格闘技みたいなものを仕事にできる? 仕事として格闘技をすると、お金が貰える? この国では、そんなことができるの、と、わたしは聞きました。両親は、きっと、そうでしょうと言いましたよ」
以前、ある雑誌の取材で、中国大連市の大学生二〇数人と話をする機会を持ったことがある。六・四天安門事件がおこる約一年前のことだ。えりすぐりのエリートである彼らは、卒業を三週間後にひかえていた。だが、誰も、自分が卒業後、どんな仕事を与えられるかは知らなかった。
「私の専攻は日本語です。でも、私の仕事は機械の修理かもしれない。ひょっとしたら、コックかもしれませんね。私は、私の将来を知らない。それを知っているのは、国家だけです」
一人の女子大生はこう言った。
だから、好きなことを仕事に選ぶことができるということが、麗※[#「雨/文」]に与えた衝撃は想像以上に大きかったはずだ。麗※[#「雨/文」]の養父は、田舎町にあるレンガ工場の労働者子弟が集まる小中学校の校長で、非共産党員。とりたてて大学へのコネがあるわけでもない彼の娘である麗※[#「雨/文」]が、高等教育を受け、専門知識を習得する可能性は乏しい。しかも、たとえ、そういう機会に恵まれたとしても、職業選択に自分の意志を反映させることはきわめて難しいのだ。
「それからは、テレビで見るのは、女子プロレスばっかり。女子プロレスの放送で、何をしゃべっているのか知りたくて、日本語を覚えるようになりました。プロレスの雑誌を読んで、日本語を覚えました。日本語ができないと、女子プロレスになれないでしょう。だから、プロレスのテレビを見て、プロレスの雑誌を読んで、わたしは日本語を覚えました。
この国にやってきたとき、わたしが生きていく国は、この国なのだと思いましたよ。でも、言葉が通じないでしょう。どうやって生きていくのか、わからなかったよ。だから、心の中でこの国で生きていけないかもしれない、と思いました。でも、女子プロレスを見ましたでしょう。これなら、わたしも生きていけるかもしれないね。言葉がうまくなくても、体を動かして仕事をすることができるでしょう。
それから、テレビに映っていましたから、女子プロレスは、とても華やかに見えましたですよ。
女子プロレスになったなら、わたしは、きっと南京に帰れるような気がしましたよ」
それは、一九八二年の秋のことだった。
孫麗※[#「雨/文」]の、女子プロレスラー天田麗文への変身は、こんなふうにして始まった。
■デブラ・ミシェリーの生いたち
その一九八二年、デブラ・ミシェリーは一九歳だった。四年後、自分がメデューサという女子プロレスラーになるだろうとは夢想もしていなかった。孫麗※[#「雨/文」]がテレビの画面を眺めていた頃、彼女はミネソタ州ロビンズデイルで、ヨットの掃除を請負《うけお》う小さな会社のPRに追われていた。
「ママは一八歳、パパも一八歳で私を生みました。両親は……そうね、映画の『アメリカン・グラフィティ』を知っています? あの映画に描かれた時代が、彼らの青春だったと言ったらわかるかしら。そう。栄光の五〇年代人というわけよ。
パパの一族は全員がイタリア人で、パパがほんの子供の頃にアメリカに移民してきました。パパがママと出会った頃の写真を、一度、見たことがあるんだけど、びっくりしたのなんのって、うへぇ、このいい男は誰、ってなもんだわ。黒い髪に、黒い目をした、ゴージャスな男! それが私のパパよ。
ママの一族は、アメリカン・インディアンなんです。種族の名前はパラワラミというの。今まで自分の親戚以外に、パラワラミ族だという人たちにはあったことがないから、おそらく、ごく小さな種族なんでしょう。
ママも、パパと同じように、黒い髪に、黒い目。その間に生まれた一人っ子が、この私よ」
デブラは、長いブロンドと、ほんのわずか灰色がかった青い目をした白人女性だ。鼻梁《びりよう》は細く高く、肌の色は抜けるように白い。身長は一七八センチ。手足はあくまでも長い。
「本当の父親が誰か、もう言ってもいい頃じゃないのさって、ママを問い詰めてるんだけどね。まあ、それは冗談よ。私が、パパとママの子供であることは間違いないわ。実際のところ、いろんな人種がまざりあうと、ときどき私みたいなケースが生まれるみたい。おそらく、パパの一族の北イタリア人の血が、突然現われたんでしょう。いずれにしても、私っていう人間は、こういう顔と髪を持って、この世に生まれてきたってわけ」
デブラのゴージャスな&ヰeはパン屋に勤めていた。パラワラミ・インディアンの母親は、普通の人づきあいさえ嫌う、変り者だった。彼女は手に職がなかったし、職業訓練を受けようという気力もない女性だったので、ミシェリー家の家計をまかなうものは、父がパン屋で稼ぐ八三ドルの週給のみ。三人はロビンズデイルの小さなアパートに間借りしていた。子供部屋はなく、デブラは押入れの中にレコードプレーヤーを持ち込み、そこを自分の場所と決めていた。
ある日、三歳児のデブラが、押入れの中でドーナツ盤レコードをかけて遊んでいると、同じ曲の繰り返しに苛立《いらだ》った母親が、ドアを開けて押し入ってきた。彼女は、衝動的に、宝物のレコードを握りしめた娘の手をつかんで、外にひきずり出した。そして、居間のストーブで、レコードを強引に焼いてしまおうとして、幼い娘の手をやけどさせた。
その後、このような虐待を、彼女が強迫的に繰り返したのは、なぜだったのだろう。ともあれ、一〇歳になるまでデブラは、似たような状況で、母の手によって何度も大ケガをさせられた。母は、娘に暴力をふるうだけでなく、ときにはベッドに縛りつけ、食事もあたえないまま、長時間放置した。
一方、父は、思いがけず美しく生まれついた娘を偏愛した。その愛し方には、親子の交情の領域を越える何かがあったのだろう。母は、夫と娘の特殊な関係を察知して荒れ狂い、虐待にはいっそう拍車がかかった。母にとって、ブロンドで青い目をしたデブラは、夫を奪う、一人の異性だったのだ。もちろん、そのような父の愛情のありかたも、娘を深く傷つけずにはおかなかった。
デブラが経験したような、幼児期の虐待経験は、バタード・チャイルド・シンドローム、ないしはチャイルド・アビューズと名づけられ、心理学上の大きな問題となっている。
「ママは、昔から情緒不安定だったの。人がたくさんいるところには出ていけなかったし、人前でしゃべることも、自分で稼ぐこともできなかった。運転免許証も持っていない。アルバイトでさえ働いたことがない。人生のほとんどを、自活することもなく、洗濯と掃除だけしてすごしてきた。ママは料理すらできないのよ。朝、めざめると、キッチンから、ママが朝食を作る匂《にお》いが漂ってくるという状況は、私の人生にはただの一度もないわ。
だから、私は自分のために料理を作り、自分のために服を買い、自分の世話を自分でした。ママが一生をかけてもできないことを、一〇歳に満たない私は、できたのよ。小さい頃から、私は人前に出ることを恐れなかったし、九歳のときには、芝生刈りのアルバイトをしてお金を稼いでいたわ。
それに、私は、インディアンじゃなくて、白人そっくりでしょう?
だから、ママは、私を憎んだんじゃないかな」
一九七〇年、七歳のときに両親が離婚すると、デブラは母方の祖父母の家に同居する。祖父は、孫娘のために、中古部品を組みあわせて、不恰好な自転車を作った。彼女は、その自転車に乗り、ロビンズデイルの町を走り回って、アルバイトに精を出した。
ロビンズデイルは、ミネソタ州ミネアポリスと隣りあった、歴史の古い、こぢんまりとした町である。一〇月から三月までは雪が降るが、春は自然が美しい。そして、夏には湖にたくさんの観光客がやってくる。一九歳のとき、彼女は、その湖に集まる観光客を顧客とするアイディア商売を思いついた。
当時、アメリカは七〇年代なかばから始まったベンチャービジネスブームの隆盛期。アイディア勝負の小規模な会社をおこす、アントレプレナーと呼ばれる起業家が多数輩出された時期だ。
デブラは、そのアントレプレナーの一人だった。彼女は、自分の会社を〈クリーン・アップ・パーティーズ〉と命名した。湖にうかべたヨットの上でパーティーを開くお金持ちを対象に、パーティーの翌朝、ヨットの船内を短時間で清掃するのが仕事だ。
「その頃の私ったらね、毎日、『タイム』と『アントレプレナー』と『インカム・オポチュニティー』ばっかり読んでたのよ。ちょっとしたウーマン・アントレプレナー気取りだったわね。なんたってヨットの清掃では、週に五〇〇ドルも稼げたんだから、我ながらすごいと思っちゃった。そのうち、会社をチェーン店化しようかしら、なんて考えたこともありましたね。将来の夢は、ビジネススーツにミンクのコートをはおって、ロールスロイスの車内電話から支店に指令をとばす女実業家ってわけ。
現実的には、その当時、自分が信頼できる共同経営者なんていなかったんだけど、それは、それでけっこう楽しい想像だったわ。わかるでしょ。
だから、PR広告にも熱を入れたの。社名と電話番号と、キャッチコピーをタイプしたカードを作ってね、それを道に駐車している車のバンパーに挟むのよ。ドライブ・インにも、そのカードを置きに行ったわ。
そうね、当時つきあう人たちって言ったら、みんな三〇代か四〇代のビジネスマンばっかりでした。でも、その頃、私が一九歳だと見抜いた人なんて、誰もいなかったはずよ。一四歳のときから、ずっと働き続けていたから、それなりの貫禄があったと思うわ」
ロビンズデイル市では、学生アルバイトを一四歳から認めている。デブラの一四歳のときの仕事はローストビーフが売り物のファーストフードレストラン〈アービーズ〉の売り子。一七歳で、彼女はその〈アービーズ〉の副店長になり、同じ年、高校を中退した。
三歳のときに、母の手で押入れから引きずり出されて以来、彼女は、常に自分だけの居場所≠探し求めてきたのではないか。そして、独立心の高い彼女にとって、居場所とは与えられるものではなく、自分の金であがなうものだったに違いない。そのため、一七歳の彼女は、高校生活を楽しむ前に一ドルでも多くの金を稼ぐ必要があった。
祖母は、高校を中退した孫娘に、モデル学校の入学金をプレゼントする。あなたはきれいだし、背も高い。おまけにブロンドだもの、きっと成功するよ、と祖母は保証した。それが、当時、デブラが家族から与えられた唯一の励ましだった。
「あんたは、何にもならない。あんたなんて意味がない。あんたは、どうせろくでもない人生しか送らない。私は、そう言われ続けたわ。ママもそう言った。パパの再婚した相手の女性も、私はただのゴロツキだと確信して疑わなかったわ。
ええ。パパは、私が一六歳のときに再婚したんです。南米のほうで宣教の仕事をしていた女性で、ママには似ても似つかない、有能で家庭的な人物だったわ。彼女は、なんでもテキパキとできて、家庭をうまく切り回していったわよ。そして、私は、どうしても彼女を好きになれなかった。
わかる? ママと対照的な彼女に、憎しみを抑えることができなかったの。彼女が有能だという事実は、耐え難《がた》かったわ。もちろん、彼女だって私のことは大嫌いだったわよ。
それなのに、何を考えたのか、ママは、パパと彼女のところに、私を押しつけようと躍起《やつき》になったの。それまで、ママは、パパが一歩でも私に近づくことを警戒していたくせにね。私が友達と電話をしているだけで、パパに連絡をとっていると邪推して殴りかかるほどだったのによ。そうなの! ママの嫉妬はきちがいじみていたわ。一〇歳のとき、パパが誕生日のカードを郵便ポストにほうり込んで行ったことがあった。そしたら、ママは、そのカードを私から取り上げて破いてしまった。
それが一転して、私の面倒をパパの家庭に押しつけようとしたんですから、うまく行くはずがなかったわ。私と継母は、第三次世界大戦なみにいがみあい、私は一七歳で高校を中退すると、年齢をごまかして一人暮しをはじめました。本当は、一八歳以上にならないと一人でアパートを借りることはできない決まりなのでね」
孫娘のモデルの素質については、祖母は正確なところを言い当てていた。モデル学校を卒業したデブラは、自分でも見違えるほどの女っぷりに変身する。以後、彼女の稼ぎ口のひとつに、モデルという仕事が加わった。私生活上でも、デブラは、それまで縁のなかった種類の経験を積み始める。カクテルパーティーでのボーイハント、金曜日のデート、男との同棲などだ。
「祖母がモデル学校の入学金を出してくれるまで、私は、口紅ひとつ塗ったことのない女の子だったの。あまりにも貧乏だったし、女の子らしさとはどういうものなのかについて、ママから具体的に何かを教わるという体験もなかったから、一七歳までの私は、いつも汚ないGパンとTシャツの着た切りスズメ。男の子からデートに誘われるなんて経験は、一度もなかったわ。
第一、それまではおっぱいもまったく膨らんでいなかったし、体には、髪の毛以外の毛も生えていなかった。わかるでしょ? この意味。つまり、私はまだ女性ではなかったの。おそらく、そういう面での発達が人よりずっと遅かったんじゃないの? そういう女の子が、突然、モデル学校に入ってハイヒールでの歩行練習を始めるんだから、笑っちゃうわよね。
私が精神的に女になったのは、モデル学校を卒業した瞬間だと思いますよ。とはいえ、それは気分の上でのことで、一八歳になっても、体のほうはまだ成長しきっていなかった。それから、少しずつ胸も膨らみ始めて、二〇歳前後でようやく心身ともに女性になりきったというわけ。
そして、その頃、私は初めて男を愛したの。
ケヴィンという男よ。ロックミュージシャンだった。私は初めて恋をして、彼とアパートで同棲したの。でも、数カ月後には別れていたわ。彼は、ほかの女の子を私のベッドに連れ込んだのよ」
ロビンズデイル高校にいた頃、クラスメートは、ハードロックと麻薬漬けのドラッギー≠ニ、明けても暮れても運動のことしか頭にない、スポーツ馬鹿のジョック≠ノ二分されていた。そして、デブラはロックもスポーツも好きだったが、ドラッギーにも、ジョックにも属していなかった。一方、ケヴィンは、きわめつきのドラッギーというところだったのだろう。彼との同棲で、彼女はドラッグも少し体験したが、それはとりたてて魅力的な世界ではなかったという。だが、ドラマーであった彼が垣間みせたエンターテインメントの世界は、彼女の心を強くとらえた。
デブラは、結局、順調に業績を伸ばしていた〈クリーン・アップ・パーティーズ〉を、一九八二年の夏限りでやめた。そして、モデルやそのほかのアルバイトのかたわら、ミネソタダンス学院で舞踊や演劇の勉強を始め、エンターテインメントの世界への糸口を探り始める。起業家への道に興味はあったものの、実際問題として、そのときのデブラは、商売を拡大するのに必要な共同経営者を受け入れられる精神状態ではなかった。彼女は、他人を信頼することができなかったのだ。これは当然のことかもしれない。なぜなら、ほかならぬ両親でさえ、生まれてこのかた、彼女の基本的信頼を裏切り続けてきたのだから。
デブラのようなバタード・チャイルドは、長じてからも行動や情緒、対人関係、肉体的成長の障害に悩むことが判明している。事実、彼女は最近になるまで、虐待がもっとも激しかった幼児から一〇歳までの記憶を、なかば失っていた。彼女の女性としての肉体成長が驚くほど遅れていた事実と、幼児期の経験も相関があるのではないかと、私は思う。
そして、このように、虐待体験が、彼女の体の発達や記憶に悪影響を与えていたとすれば、当時のデブラが、他者への健全な信頼感を持つことができず、その結果、ビジネスパートナーを要する職業を放棄せざるをえなかったのも不思議ではない。いずれにしても、彼女は、自分を不安にさせないためには、結局、他人を商売に介入させず、すべてを自分の手でやらなくてはならないことに気がついた。その考えの落ち着いた先が、自分自身を商売道具とするエンターテインメントの世界をめざすことだったのだ。
「一七歳で、精神的に女になったときには、洋々たる未来が開けたような気がしたものよ。だけど、二〇歳をむかえる頃になって、ふと振り返ってみたら、本当のところ、自分が何ひとつモノにしていないような気がして不安になったわ。〈アービーズ〉から始まって、ひたすら働いてきたけど、実のところ、それはほかにやることがなかったからなのよ。わかる? 何も好きなことがなかったし、何かを好きになるという状態すらわからなかったから、ただ働いていただけ。そうよ。ただ働いていただけ。
でも、ケヴィンとつきあい、音楽やエンターテインメントをやっている人たちと知りあうことによって、私は、人間が夢を実現する方法を初めて実地に見たような気がした。夢見るということがどういうことなのかを私が学んだのは、ケヴィンが出演したロックコンサートでだったわ。
ええ、そうね。たしかに、私によい両親がいて、彼らがいつも人生の進むべき方向を過《あやま》たずに示してくれたら、事態は、もっと簡単に進んだのでしょう。ママやパパが、人生とは夢見るだけの価値があるものだと知っていたなら、きっと私の人生はずいぶん違っていたと思う。だけど、そういうものが欠けた人生が、私の人生なのよ。そして、私はどんな人生だろうと、それを切り抜けていかなくちゃいけないわ。そうよね。
それで、ケヴィンと別れ、〈クリーン・アップ・パーティーズ〉をやめたあと、私は、自分の夢の|ありか《ヽヽヽ》が、エンターテインメントの方向にあると感じたの。でも、どうすれば、その世界に入れるのか見当もつかなかったし、その新しいビジネスのページをめくったあとに、どんな可能性があるのかもわからなかった。だけど、どんなページであっても、めくらないよりは、めくったほうがいいでしょう? だから、私はページをめくるために模索しはじめたのよ」
一九八二年、デブラ・ミシェリーはこうしてアントレプレナーのページを閉じ、女子プロレスラー・メデューサのページを開いた。
■神取しのぶの生いたち
一九八二年、神取《かんどり》しのぶは第五回女子柔道体重別選手権に出場していた。
そして、その年、まだ麗※[#「雨/文」]も、メデューサも、柔道家としての神取も知らず、女子プロレスの興行の存在すら知らなかった私は、偶然、そのテレビ放送を見た。彼女は、当時すでに、柔道の天分を認められつつあったが、記憶に強烈に残っているのは、その試合内容ではない。実は、テレビの画面に現われた彼女が、あまりにも異様な雰囲気だったので、試合の経過をほとんど忘れてしまったのだ。
彼女のヘアスタイルは、きつくパーマのかかったカーリーヘア。その髪は、金髪に近い色に染められていた。そして、彼女の小ぶりな三白眼は試合に臨む直前とはいえ、異常に殺気だち、私は、画面ごしにさえ、その物騒《ぶつそう》な上目使いを向けられたときには、ひるんでしまった。しかも、その目の上の眉は、どうも、なかば剃り落とされているように見えた。当時、神取は一七歳、高校三年生だったはずだ。
従来の女子柔道選手のイメージと大きくかけ離れた彼女の風体《ふうてい》から、私は目を離すことができなかった。そのため忘れてしまった試合の結果をあらためて調べると、一九八二年の第五回女子柔道体重別選手権は、神取にとって二回目の同選手権出場であり、この試合で、彼女は決勝まで進み、それまで三年連続して、六六キロ以下級優勝を続けてきた福田洋美に優勢《ヽヽ》で負けたことになっている。
「高校ンときはさ、ほとんど学校に行ってなくてさ。何してた? 遊んでたんだよ。遊ぶったって、面白かねえの。マンネリ化しちゃってよぅ。友達で部屋借りてる奴がいるじゃん。そこでゴロゴロ寝っころがってよぅ。テレビ見てよぅ。でも、なんにも面白くないんだわ。
学校行っても面白くないし、かといって、遊んでても面白くないんだよ。
友達? けっこう死んでるよ。
一人はさ、ラリっちゃって、寒い時期だったのに、何考えたのかさ、海に泳ぎに行っちゃった。泳いでて、心臓発作かなんかでよぅ、死んじゃった。そいつ、しょっちゅうシンナー持ってた。だからそのうち死ぬよってさ、はは、冗談で言ってたらよぅ。本当に死んじまいやんの。うん、仲よかったんだ、そいつと。
ラリって死んだり、事故って死んだり、だいたい中学の各学年で一人は死んでんのね。バイクで、思いっきり箱乗《はこの》りしてたら、電信柱にぶつかってさ、顔面の半分だけ、きれいに陥没しちゃったって人もいるよ。あとね、女の人の知りあいで、単車《たんしや》乗って集会に行ったら、警察に追っかけられてよぅ、あたふたしているうちに車からふりおとされやがって、その人、ほかの車に右腕ひかれちゃった。それで、切断だってさ。手、なくなっちゃったんだ。
私のまわりって、そんな話ばっかだよ。ラリって死ぬ奴とか、顔がない奴とか、手がない奴とか」
神取は、一九六四年に横浜で、測量技師の家庭に生まれた。三人兄姉の末っ子だ。
「その頃、何考えてたっていうとさ、なんてのかな、まわりの奴らの死に方見ててよぅ、どういう生き方がしたいってのはわかんないけど、こういう死に方はしたくないなって思ってたんだよ。でも、そうは思っててもさ、積極的に、友達ん部屋を出て、どこか行こうとはしなかったんだよ。どこにも行くとこないしよ。しようがないから、シンナー吸ったり、薬やったりしてる奴の横で寝ころがってたんだ。だから、私は、クズだったんじゃん。まわり一面、クズしかいないからよぅ、クズしか知らなかったんだよ。クズしかいない状況から、どうして出たらいいのかわからなかったしね。その世界しか知んないからさ、自分がクズだって自覚も、本当のとこ、なかったわけじゃん。
みんなと同じクズなのにさ、ただ、私は死ななかっただけなんだよ。
そういうことじゃん」
ところで、講道館で女子のための柔道が始まったのは、一九二五年。一八八二年に講道館柔道が誕生してから四三年目にあたる。初めての女性有段者が誕生したのは、それから七年後の一九三二年。その昇段試験のやりかたは、試合ではなく、型《かた》と乱取りのみで技術の習得を見るという方法を取った。これは、講道館女子部が、激しい試合によって選手が被るケガを恐れ、当初から女子の試合を禁じていたためである。以来、日本の女子柔道は、もっぱら徳育教育の一環として、競技試合を禁じられたまま発達した。
こうした徳育柔道から、競技としての女子柔道への変身の契機は、海外から訪れた。
女子の競技柔道が世界的に広がり始めたのは、一九七〇年代初め。一九七四年、オセアニア地区で世界初の女子柔道国際選手権が開催される。翌年には、ヨーロッパ地区で、二年後には、パンアメリカン女子柔道世界選手権が開かれる。このような動きの中で、日本女子柔道にとって、初めての外国人選手との親善試合が、パンアメリカン女子柔道世界選手権の翌年、一九七八年に行なわれた。そして、その年の七月二八日、第一回全日本女子柔道体重別選手権が開かれ、日本の女子競技柔道は本格的なスタートを切ったのである。
神取が、町道場で柔道を始めたのは一九七九年。その翌年には、女子柔道世界選手権が初開催されている。女子柔道が注目され始めた時期でもあったので、スポーツ好きだった父親は、知人の道場に娘を通わせた。柔道でもやって、基本的な挨拶くらいできる女の子になってほしい、というのが父の悲願だった。一方、娘は、中学卒業を目前にして、内申書の特技の欄に書き込めるものを探していた。
当時すでに、一六五センチで七〇キロ近くの体格だった彼女にとって、柔道は、ソロバンやエレクトーン演奏よりは、自分にふさわしい特技に見えたらしい。
「ケンカはね、うん、しましたよ。どういうケンカって、そりゃ、殴り合いだわね。負けたことはなかったな。強かったんでしょう。たださ、美しくないケンカはしたくなかったよ。いくら勝っても。
美しくないってのは、どう説明したらいいんだろ。いわば、女のケンカって奴? 髪の毛ふり乱してギャアギャアやるの。あれって、美しくないでしょ。だから、てっとり早く、バンって殴って、相手が目をまわして倒れておしまい、ってのが多いかな。
ケンカってのは怖くない。怖くはありません。たとえ、それで大ケガをすることになっても、万が一死ぬってことになったとしても、ケンカは怖くなかった。
だからさ、初めて恐怖心ってのを持ったのは、柔道をするようになってからじゃん。全日本に出るようになったのが、高校最後の年で、そのとき、決勝まで行って負けた。夏のおわりだよな。あれ。そんときじゃん。初めて怖くなったのって。
怖さって……柔道についての怖さかな、相手に対しての怖さかな、うまく言えないんだけど、でも、恐怖心ってのは、確実にそこにあるの。それまでには、そんな怖さなんて、ないない。全然、ない。柔道の試合に出ても、あ、投げた、あ、勝った、嬉しかった、それだけよ。
柔道以外の生活でも、そんな怖さ、経験したことなんてない。まわりに怖いと思う人なんていなかったしよぅ……だからね、あの試合のときさ、私、勝ちたいと思ったんですよ。欲が出たんだよ、決勝に出たとき、初めて。
なんとかしなくちゃ、って思ったの。そのとたんに、ああ、きっとなんとかならなくて、やられちゃうなって直感した。
そんときね、自分の目の前に、怖さがいるって感じたんですよ」
神取が通っていたような町道場が最初のブームをおこしたのは、講道館の設立後約二五年がたった一九〇七年頃。講道館が引き起こした新生柔道への関心が、古代からの歴史を持つ伝統的武術である柔術諸派の道場へも波及した。以来、町道場は、講道館とは異なる独自の段位を発行するなどして、柔道と柔術は互いに拮抗する関係を続けてきた。だが、近代柔道について言えば、その機構は講道館へ完全に統合され、その傘下に各大学や実業団の柔道部が組織化されている。
高校二年のときから全日本女子柔道体重別選手権に出場していた神取にも、卒業半年前になると、こういった講道館傘下の大学柔道部からの誘いがくるようになった。試合態度や、風体《ふうてい》は、あいかわらず驚異的に悪いものの、彼女の格闘技選手としての素質は、そのときすでに、誰にも無視できないほど明らかになっていたのだ。
「東海大学と国際武道大学が推薦入学を勧めにきたわけよ。それを、頭から、嫌だよって蹴っちまったの。クラブなんてよぅ、大嫌いだもん。スポーツしか頭にない奴って、昔から嫌いなんだもん。そしたらさ、今度は実業団に行くかって言うの。それも、嫌だよって言ったわけ。仕事おわったあとに同じ仕事仲間の顔見ながら練習するなんて、まっぴらだったもん。
柔道連盟はさ、そりゃ、このやろうって思ったでしょ。でも、嫌われても、自分が好きなようにやりたかったんだよ。大学入っても、実業団入っても、拘束されるわけじゃん。私は、気楽なほうがよかったんだよね。その頃に、こっちだって、柔道の世界ってのがどういうものか、ちょっとはわかっていたわけだし。
だからさ、柔道ってのは、いっとう上に全日本柔道連盟てのがあってよぅ。その下に都道府県の柔道連盟があってよぅ、その連盟の上に立つ人ってのは、どこかいい大学を出た人がやってるわけじゃん。で、いっとう上にはよぅ、ええと、誰だっけ、柔道を始めた人って? 嘉納治五郎《かのうじごろう》さんだっけ? その嘉納さんの子孫が代々世襲で乗っかってるわけじゃん。そういうのに巻き込まれるのってさ、すんげぇ嫌だったんだよ。私。
クズはクズなりに、柔道は、好きなわけよ。だけど、それと柔道の世界にまきこまれるってのは別じゃん。わかります?
同時に、これは大変なことになっちゃったと思ったのよ。こんなクズみたいな人間に、柔道連盟のえらい人ってのが、仲間に入れてやるからって誘ったんでしょ。それを蹴とばしちゃったわけじゃん。こうなったら、今まで以上に、誰もバックアップしてくんないし、ちょっとでも負けたら最後、相手は束になって、つぶしにかかってくると思ったんですよ。
つまりこういうことよ。世界選手権みたいな大きな大会の前には必ず選考会があるでしょう。国内の成績を基準にして、どの選手を大会に出すかって検討するわけよ。そのとき、いつも文句なしに優勝していれば、どんな格好だろうと、態度だろうと、これは大会に出さざるを得ないよね。だけど、それが二位とか三位とかの微妙なポジションにいてみな。これは危ない。やっぱり、技術的にはちょっと問題あっても、態度がいいほうを選ぶでしょう。
だから、私は、高校出てからは、本当に強くなけりゃいけなくなっちゃったんだよ。
勝つためだけに、神経を集中させるようになったんですよ」
一九八三年五月、香港のクイーン・エリザベス体育館で行なわれた第三回太平洋選手権で、一八歳の神取は二位。続く九月の第六回全日本女子柔道体重別選手権では初優勝を、そして同年末に日本で初めて行なわれる国際試合となった、第一回福岡国際女子選手権では二位を獲得する。記録に残っている、当時の彼女の肩書きは、無職=B以後、一九八五年に引退するまで、この肩書きはかわらない。
「無職たって、働いてないわけじゃないのよ。金は稼いでたの。
だからさ、一八歳で無職≠ノなるって決めたときに、金の稼ぎ方と、勝つための練習方法を考えたってことよ。
練習はね、三カ月一クールでやるの。初めの一カ月目はさ、簡単に言っちゃえば、心拍数を二〇〇まであげる練習をするわけ。練習の内容について、詳しく話してもしょうがないけど、早い話、柔道の打ち込み練習なんかをして、心拍をそこまで上げていく。別に、それがウェイトトレーニングでもランニングでもいいんだな。なんであれ、二〇〇にあげることが重要なわけよ。二〇〇まで心拍があがって、そのレベルを維持したまま運動を続けるじゃん。しばらくすると、この表現でいいのかどうかわからないけどさ、自分の体が自分のものじゃない感覚ってのがおこるわけ。なんてのかなあ。いったん、心と肉体が離れる感じなんだな。
心のほうは柔道をしようとしていて、実際にやっている感覚があるんだけどよぅ、体がまったく動かない。指一本、自分の意志で動かなくなるって境地なんだな。肉体がどっかにふっ飛んじまってよぅ、心だけになっちゃう。その状態を何度もくりかえし続けながら、徐々に肉体がもどってきて、心と肉体が、もう一度一緒になるのを待つのよ。
ほかの人はどうなのか知らないけど、私の場合には、心と肉体が、こんな状態になったときが、心拍が二〇〇になったサインなわけ。それで、そのサインが出たときってのが、私の体がぎりぎりまで追いこまれた状態ってことなのよ。でもよぅ、追いこまれたっていっても、いわゆる根性論じゃないよ。根性でどうのこうのってレベルは、私の感覚では、心拍数一八〇程度なの。これが、苦しさの限度でよぅ。ただ単に、根性と苦しさの闘いだったら、だいたいこのレベルで練習やめちまうわけ。心拍数二〇〇てのは、苦痛を越えたレベルなんだわ。わかる? 苦しいとか、がんばるとか、そういうものを越えてるの。だから、心と肉体が別れるんじゃないの? そう思うけど。
こういうことが何の役に立つか? 試合のときのスタミナがついてくるんだな、これで。スタミナっていうのは、理屈ではどうなってるかわかんないけど、私の経験では、自分の心拍数の最高値と関係があるらしいんですよ。だから、最初の一カ月は、ひたすら心拍数二〇〇というレベルを維持しながら、ぎりぎりまで体を追い込んでいく。
そうすると、最後の頃にはよぅ、顔が変わるんだわ。なんか、えらい物騒な顔になってよぅ。人でも殺しそうな顔になるの。自分でも、その顔見ると怖くなっちゃう」
ある人が記録する心拍数の最高値を、最大心拍数という。スポーツ医学の定説によれば、最大心拍数は、それ自体が、体力レベルを判断するための客観的な指標である。同時に、スポーツ選手の能力の重要な指標である最大酸素摂取量とも密接な関係がある。
とはいえ、最大心拍数と最大酸素摂取量の相関関係は単純ではない。心拍数は、酸素の摂取量とほぼ比例して増加する。だが、運動量の最大限度を目前にした、ある段階にいたると、酸素摂取量のほうはそのままコンスタントに増加するが、最大心拍数は増加を止めるのだ。
また、三五歳までのスポーツ選手では、最大酸素摂取量の増加に反比例して、最高心拍数が下がることが判明している。すなわち、同じ運動量下で比べれば、最高心拍数が低いほうが、より優れたスポーツ選手だと言うことができる。ただし、これはあくまでも壮年期のスポーツ選手の場合に限られ、年齢が四五歳以上になると、今度は、最大酸素摂取量と最高心拍数が正比例しはじめるという。
最大酸素摂取量と最高心拍数、そしてスポーツ選手の持久力や体力の相関はなかなか複雑なので、いまだに十分に生理学的な説明は得られていないらしい。
それでも、心と肉体が離れる∴齒uが、心拍数二〇〇のレベルで現われるという神取の表現を、私は、それまで酸素摂取量と同調して増加してきた心拍数が、運動量の最大限度を目前にして増加を止める一瞬なのだろうと理解した。運動量があがり、酸素がさらに貪欲に摂取されても、すでに彼女の心拍はそれ以上あがることを拒否している。そのとき、気持の上では柔道をしているはずなのに、肉体、すなわち心臓は思うように動かないような超現実的感覚が、彼女を襲うのではないか。
そして、もう一度、心と肉体が一緒になる≠ニきとは、練習によって、同じ心拍数下で可能な運動量や酸素摂取量が増え、相対的に、同じ運動量下での最高心拍数が低下した瞬間を意味するのではないか。もちろん、そのことによって彼女の試合における持久力は確実にあがっていたはずだ。
ところで、心拍数二〇〇とは、どの程度の運動量か。大学の男子柔道部員を対象に柔道の打ち込み練習時の心拍数を計測した調査(*)によると、最大打ち込み時の心拍数は一五八〜一七四だという。最大心拍数の性差は一般的に認められない。だから、最大心拍数一七四とは、彼女が、苦しさの限度だと表現する一八〇とほぼ同じ質を持った運動だと言える。この点からみて、心拍数二〇〇とは、単なるがんばりを越えたレベルなのだという彼女の表現は妥当なようだ。
「まあ、そんなふうにして一カ月がすぎるじゃん。で、二カ月目はね、家を出て、プイとどっかに行くわけよ。それで、この時期に金を稼ぐ。誰とも連絡をとらずにね、ふらふら、いろんなところの温泉地とか歩き回ってさ、適当にバイトして金を稼いでよ、気分をリフレッシュさせる。静養ってのかな。ただ、完全にぽうっとしちゃだめなんだよな。柔道のことを考えてはいる。うん。そういうこと。
要するに、その一カ月間てのは、じっとしてちゃいけないんだよ。一地点にとどまってたら、精神的にまいっちゃう。いつも、ふらふら動き回っているのがいいの。でもって、この期間をはさむっていうのが、自分にとって、すごく大事なことだったわけ。コーチからはよぅ、そんなふうに中休みしなけりゃ、もっといい成績が出るんだなんて言われたけどよぅ、やっぱ、練習始めて一カ月目の物騒な顔つきってのがあんじゃん。あの顔のままで試合に出るのは、ぜったいに危ないって、私は確信してた。あんな、人間じゃねえみたいな顔して相手と組んだらよぅ、ひょっとしたら勝つかもしんないけど、きっと、いつか自分で自分を壊すと思った。なんか、人間として踏み込んじゃいけない領域に足を踏み込みそうな気がしましたよ。だから、顔つきが人間らしくもどるまで、そのあたりをふらふら歩き回って休むってことだけは、やめなかったわけ。
それで、最後の一カ月ってのは、だいたい合宿に重なるわけ。だからさ、合宿に参加して、今度は試合に向けて無理をせずに調整していく。その時期には、心拍数二〇〇でも十分に体が動くようになってるから、これは不思議よ」
こうして、本格的な柔道選手生活に入った頃、神取は、ブームになりかかっていた女子プロレスの放映を、ときどきテレビで見ていた。年間数回の、国際および国内試合へ照準を絞り、肉体と心が離れるような′モオい孤独な調整を、三カ月ごとに繰り返していた彼女の目に、女子プロレスはどのように映ったか。
「プロレスってのは、ときどき見ることがあったけど、そのときは、ありえないスポーツだと思ったわけ。やっぱ、試合がおわったときの、起き上がれないような疲れってのが実感としてあるわけでさ、それを考えると、年間二〇〇試合以上やるプロレスなんて、まったくこの世にありえないものだったのよ」
だが、それから三年後、彼女は、そのありえないスポーツにあっさりと足を踏み込むことになる。それは、たしかに、彼女自身の選択だった。だが、同時に女子プロレスという小さな興行の世界が、しらずしらず、従来の芸能ショーの枠を越え、女性の格闘技の流れに統合されていく、ひとつの動きでもあったのだ。
結局、彼女は、日本の女子柔道が態度のよしあしを問わず、世界に通用する競技選手を求めるようになった一九八〇年代でなければ、柔道選手になりえないほど、非調和的な人物だった。同じように彼女は、古い興行の世界がわずかずつ内部変革をおこし始めた一九八〇年代中盤でなければ、女子プロレスに興味をそそられることもなかったはずなのである。
*「運動処方のための心拍数の科学」山地啓司著(大修館書店)より
[#改ページ]
アメリカの女神たちと女相撲
■プロレスの発祥
ところで、世界的に見て、女子プロレスとは、いったいどのような興行スポーツなのか。
競技としてのプロレスは、古代ローマ時代から、神事《しんじ》と一体化した形で行なわれていたと言われるが、興行化したプロレスは、欧米を中心に現代になってから出現したものだ。日本でのプロレスの発祥《はつしよう》は、それより遅れること数十年。すなわち、|麗※[#「雨/文」]《リーウエン》がテレビを眺め、メデューサが会社のPRに追われ、神取《かんどり》が練習に没頭していた一九八二年から、三〇年あまりをさかのぼった頃である。
この時期、興行としてのプロレスは日本に定着した。
初めての男子プロレス興行が行なわれたのは、日米安保条約が締結された一九五一年の九月。この興行は、ボビー・ブランズ、ハロルド坂田などのアメリカ人レスラーが、日本にプロレスを紹介するために行なったものである。力道山を初めとする国産レスラーが登場するのは、巡業途中の一〇月以降。だから、日本にとって、男子プロレスとは、当初、いわばアメリカからの輸入商品のひとつだった。
そのアメリカで、近代プロレス興行は、一九〇八年、プロスポーツ興行の目玉のひとつとして誕生した。それ以前、一九世紀後半に、プロレスはヨーロッパでの興行ブームを経験している。ブームの最大の中心地だった当時のパリでは、一流の劇場が、ヨーロッパ各地から集まるプロレスラーのトーナメント会場となり、かなりの期間におよぶロングラン興行を行なったという。当時のプロレスラーたちは貴族、王室をパトロンとする、いわば座敷芸人的な存在であり、王侯貴族は、プロレストーナメントの勝者に、賞金とともに尊称的な呼び名を与えるのが習わしとなっていた。たとえば一九二〇年代、アメリカで世界チャンピオンになった、スタニスラウス・ズビズコは、大黒柱という意味の尊称であるズビズコ≠、ヨーロッパ時代のパトロンである、ポーランド王族から与えられた。現在のプロレスラーのリングネームは、この呼び名が、時代を経て変容したものだと考えてよさそうだ。
ところで、ヨーロッパの興行では、トーナメントの観客も、パトロンと同様、上流階級の人々に限られていた。そのプロレス観客層を庶民階級にまで拡げ、結果的に、興行の規模を拡大したのがアメリカだった。実際、一九一一年に行なわれたチャンピオンマッチの入場料総売り上げは、八万七〇五三ドルに及び、同時期の、プロボクシングのヘビー級タイトルマッチ総売り上げをはるかに凌《しの》いだといわれる。
当時最大のスターは、フランク・ゴッチ。プロレスラーになる前の彼はアラスカの金鉱の鉱夫で、鉱夫仲間の喧嘩試合の常勝王者として名を挙げたらしい、と、プロレス評論家・田鶴浜弘《たずはまひろし》氏は、『プロレス血風録』(双葉社刊)で述べている。同書によれば、彼は、最終的に、アラスカ金鉱地帯の最奥地クロンダイクで、アラスカ一の喧嘩王と闘い、これを破って大枚の賭金を手に入れ、プロレスに転向したという。
このゴッチの冒険は、私に、ギリシャ神話のヘラクレスの冒険物語を連想させる。日本の出雲《いずも》伝説にある、スサノオノミコトの八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治にも共通するものがありそうだ。
ヘラクレスは、ネメアの巨大ライオンや、レルネの怪物ヒドラと闘った。スサノオノミコトは、川上流に棲《す》む、頭尾が八つに分れた大蛇を征伐した。一般的には、ヘラクレスの相手だったライオンやヒドラ、スサノオノミコトに対した大蛇は、それぞれ、その土地で権勢をふるっていた地方豪族の象徴だと解釈される。また、その征伐物語は、全国制覇を狙う国家が、それらの地方王国を統治するまでの経緯を語ったものだという。
もし、フランク・ゴッチをヘラクレスや、スサノオノミコトと引き比べるならば、彼に敗れたアラスカの喧嘩王は、さしずめネメアのライオンか、八岐大蛇に匹敵する。そして、アラスカに、そのような土地の顔役≠ェ存在したなら、おそらくアメリカ各地に、同じような人物がいただろう。たとえば、オクラホマ一《いち》の力持ち男や、ミシシッピー一の頭突《ずつ》き王、カンザス最強のナックルファイターなどが存在したのではないか。
建国まもないアメリカは、このような形で、固有の土地と深いきずなで結ばれた地方英雄物語を求めていたのではないかと思う。もしそうだとすれば、アメリカは同時に、その群雄割拠的な状態を統治する国家的規模の英雄伝説も求めていただろう。その伝説のひとつが、金鉱地帯の最奥地クロンダイクで、アラスカ一の喧嘩王を破った、フランク・ゴッチだったのではないか。
実際、アメリカ初期のプロレスラーの多くは、熊を素手で殺したとか、馬の肋骨を足ばさみで折ったといった、マッチョ伝説とともに売り出されている。この荒削りで単純な伝説≠フ背景に、私はアメリカ自身の神話伝説への憧れを強く感じる。
いずれにしても、濫觴《らんしよう》期のプロレスは、このような素朴な肉体信奉に彩られた、もっとも金の稼げる興行スポーツだった。そして、すでに、プロレス試合は賭けの対象であり、その背景には、当然、ギャングの存在が無視できなかった。
ところで、ゴッチが活躍した時代、プロレスマットの中心地は、アメリカ中西部に限定されていた。だが、第一次世界大戦が終わった一九一八年以降、マットの中心地は中西部からニューヨークへ移る。一九二〇年代のプロレス興行は、戦勝国アメリカの資金力に魅《ひ》かれ、戦禍で荒れたヨーロッパ各地から移籍してくるレスラーを立て役者とし、ニューヨークのユダヤ系プロモーターを資本的背景として展開した。そして、一九一九年の発行の憲法修正第一八条およびヴォルステッド法、いわゆる禁酒法の施行以来、暗躍しはじめたギャング組織が、その賭けを牛耳《ぎゆうじ》るようになる。
賭博要素がプロレスの試合から消えるのは、一九二〇年代後半。消滅の遠因は、一九二〇年代中盤からの人気勝負だった、エド・ストラングラー=Eルイスと、ジョー・ボディ・シザーズ・キング=Eステッカーのタイトルマッチに八百長《やおちよう》説が流れたことにあったとされている。とはいえ、プロレスは、八百長説以降も、興行スポーツの花形ではあった。だが、次第に、その試合は、真剣な賭け勝負の対象ではなくなっていき、一九三〇年代に入ったときには、プロレス試合の勝敗を賭けにしようと考える胴元《どうもと》はいなくなっていた。賭博が反社会的行為であることはいうまでもない。だが、その反社会的行為が成立しなくなった時点、具体的には一九二〇年代後半から、プロレスは、真剣勝負の看板を半分はずすことになった。その看板の微妙なかしぎかたは、プロレスから賭けが消えて六〇年あまりが経過した今でも、変わらない。
だが、一九三〇年代には、プロレスの本質的な面白さは、大男同士の殴り合い勝負への賭けから、ヨーロッパから移籍した選手同士の民族闘争へと移っていた。移民の国・アメリカのプロレスファンは、それぞれの民族的|矜持《きようじ》を背負う選手が闘う姿に、自分たちのルーツを重ねあわせた。
ちなみに一九五〇年代に日本に輸入されたプロレスも、日本人対外国人という、一種の民族闘争の形をとった。日本風に翻案された形だとはいえ、これもまた、三〇年代以降の、アメリカのプロレスの図式を踏襲したものといえそうだ。
結局、賭博が実質的に成立しなくなっても、プロレス人気が衰えなかったのは、プロレスが、このような民族闘争というあらたな切口を観客に示したためだろう。種族間の闘争物語は、神話の大きな構成要素のひとつである。アメリカのプロレスは、ヨーロッパからの選手をむかえて、フランク・ゴッチの時代より、さらに洗練された神話の時代をむかえたのだ。
■アメリカの女子プロレス
では、アメリカでの女子プロレスは、この神話の中でどのような位置を与えられていたのか。
アメリカで女子プロレスが誕生したのは、一九三〇年代の末期。中西部からニューヨークに飛び火したプロレス興行のブームは、一九三〇年代には、さらに全国規模に拡大し、全米に新興プロモーターを乱立させた。女性どうしのプロレスを、初めて興行に組み込んだのは、そういったプロモーター組織の中でも老舗《しにせ》のひとつに入るNWA。オハイオ州コロンバス市を中心にフランチャイズ展開をしていた、ビリー・ウルフというNWA系のプロモーターが、この時期、アメリカでの女子プロレスを誕生させたというのが定説だ。
彼は、第二次大戦後の一九五一年、女子プロレス養成学校を創設し、三カ月から六カ月の養成期間を経て、年間、七〇人あまりの女子レスラーをマットに送り出すようになる。一九六〇年代になると国内外のマットに登る女子レスラーの数は三〇〇人にも及んだという。ウルフは、さまざまな民族性を背負うレスラーが闘争を繰り広げるプロレスマットに、あらたに女神≠ニいう、異質で新しいキャラクターを配置しようと考えたのだろう。
ところで、この女神≠ヘ、プロレスの神話の中で、また、アメリカの社会そのものにとって、どのような存在だったのか。
一九八五年、エディ・シャーキーというトレーナーが経営するレスリングスクールに入った、デブラ・ミシェリーは、自分の目に映ったアメリカの女子プロレスの姿について、次のように話す。
「今、アメリカで、男であろうと女であろうと、ある人がプロレスラーになろうとするのなら、少なくとも、その人が考えていることは、一生をプロレスラーとして終わろうということではありません。一番多いケースっていうのは、そうね、プロレスラーを足掛りにして、映画スターになるきっかけを狙っているということでしょう。
私も、まさにそのケースのひとつだったわ」
私が、彼女から、このような回顧談を聞いたのは、目黒にあるピザハウスだ。私たちは、メデューサの親友でジャーナリストの斎藤文彦氏をまじえた三人で、一番奥のボックス席に陣取った。メデューサは英語で話し、斎藤氏は、耳慣れないスラングを、私のために通訳してくれる。
彼女はピザは太るからと断わり、グリーンサラダを二人前おかわりしながらしゃべった。脇に置いたバッグの中には、ローカロリー砂糖のピンク色の箱が顔をのぞかせている。彼女がシェイプアップに見せる情熱は、モデル時代の名残りかもしれないと、私は思った。
「エンターテインメントへのきっかけ作りを、プロレスにみつけてみないかと、私に勧めたのは、カイ・マイケルソンという友人よ。
彼は、俳優のバート・レイノルズのスタントマンをしているの。だけど、実際、カイがそう言ったときには、私は、それまでプロレスを見たこともなかった。その上、アメリカでの女子プロレスの評価って言ったら、信じられないくらい低いの。だから、エンターテイナーになる手掛りとして女子プロレスになれなんて、まさか冗談でしょうって、初めは思ったわ。
だけど、実際のところ、人間が何かになりたいと思ったら、どこかから始めなくてはならない。手をつけることなしに、何かを始めることはできないわ。それに、カイは、私の生き方が、プロレスに向いていると説得したわけ」
彼女は、長い指を二本伸ばす。
「つまり、こういうことよ。私は、こんなふうに、平坦な道と、険しい道とがあったとしたなら、必ず、険しい道のほうを選んでしまう。
無我夢中で生きること、何かに深くのめりこむこと、目的にむかって、ひたすら黙って歩くこと。結局、それが私の人生なの。カイは、それを理解していたわ。そして、その生き方こそ、プロレスラーそのものだと言うのよ。
だから、私は、女子プロレスラーになることにしたの。女子プロレスラーであることに、十分集中すれば、次にどんなページが用意されているにせよ、それが始まったとき、さらに集中力を発揮できると思ったの。目標が別のところにあるということは、今、与えられたものに全力を投入しなくてもいい理由にならないじゃない。そうよね?」
だが、実際に、プロレスラーから映画スターになった人物はいるのだろうか? エンターテインメントへの足掛りとしてプロレスラーになるということの現実感についてよく把握できない私は、こう尋ねてみる。
「実際に、プロレスラーから映画スターになった人物? 男子レスラーでは、ハルク・ホーガンくらいかしら。でも、彼がマッチョマンとして以上の役者として認められているかというと疑問があるわ。そういう意味では、ジェシー・ベンチュラはいい役者だと思う。でも、彼は、現在は完全にレスラーを廃業しています。
女子レスラーでは? それは……いないわね、今のところ。
だから、もし、女優になれたら、私は、レスラーからエンターテインメントの世界に進出した女性の第一号になるってわけよ。そういうのって、すてきだと思わない? どう?」
メデューサの語るアメリカ的なチャレンジ精神と、日本型安定思考の間の距離を実感しながら、私はあいまいに肯《うなず》いた。彼女にとっては、実現の可能性がどの程度あるかということより、前人未踏の領域に踏み込むことのほうに価値があるらしい。
ともかく、こうして、カイ・マイケルソンは、彼女に、友人であるエディ・シャーキーのジムを勧めた。彼らが友達になったきっかけをしゃべろうとして、デブラは、何度も吹き出す。彼女によればエディは大変優秀なコーチではあるが、半分犯罪者なのだ。
「カイがエディ・シャーキーと知りあったきっかけってのが、ああ、笑っちゃう!
あのね、こういうことなの。カイは、かなり売れっ子のスタントマンで、とてもすばらしい邸宅をミネアポリスの高級住宅地の一劃《いつかく》にかまえていたわけ。一方、シャーキーは、プロレスのコーチをするかたわら、盗品を売買したり、銃を不法所持したり、暴力事件をおこしたりで、何度も投獄されてるって男よ。彼は、あだ名をアウトローと言うの。盗品売買や、住居侵入で何度捕まっても、それをやめることができないのよ。エディは。つまり、もう、生まれついてのアウトローってわけ。
とはいえ、レスリングのコーチとしてはものすごく優秀なんですけどね。ロード・ウォリアーズを初めとして、すぐれた選手をたくさん育てているわ。
まあ、そのシャーキーが、ある日、いつもの癖を出して、不法侵入できる家の下調べにまわっていたと考えてみてちょうだい。彼は、愛車に乗って、高級住宅街をゆっくり流していた」
彼女は、車を運転するポーズをしながら、楽しそうな早口で話し続ける。
「そこで、目についたのが、カイの邸宅ってわけよ。
彼は、車から下りて、この家にどうやって忍び込むかを思案していた。カイは、それを家の中から見咎める。そこで、おい、お前は何をしてんだって言いながら、外に出て行ったんですって。
そしたらさ、ここからが傑作! シャーキーは、カイが家から出てきたのを見て、慌てるどころか、あっというまに、不法侵入者から、盗品の売人に変身しちゃったってわけ。で、やにわに愛車のトランクをあけると、ちょいと、旦那《だんな》、いい品物があるんだけど買わないかい? この銃なんかどう? 品質は保証するからさ、なんて始めたそうよ。
それが、彼ら二人の出会いなんですって。カイは、シャーキーを見て、なんだか面白い奴だと思ったんでしょうね。結局、家の中に入れて、いろいろ話をしたの。そのうちに、シャーキーにとって、盗品や不法住居侵入は単なる趣味《ヽヽ》にすぎず、本職はプロレスのコーチだということがわかったの。カイは、じゃあ、俺たち二人は似た商売をしてるってわけだ、どちらも体が資本だものなって言った。そして、彼らは大の仲良しになったの」
大邸宅の持ち主が、家に忍び込もうとした泥棒と、同じ肉体労働をしているからという理由だけで友達になってしまうということは、にわかに信じがたい。だが、プロレス濫觴期の素朴な肉体信奉が、現代に、このような、奇妙に牧歌的な交遊の形を借りて残ったと解釈するのがよいのかもしれない。
要するに、プロレスが作りあげた神話的世界は、誕生から今まで、一貫してこのような、単純でわかりやすい肉体の力への信頼によって構成されていた。それは、それなりにわかりやすい世界観ではあっただろう。だが、女子プロレスラーの立場に限って見れば、この世界観は、女神≠フ活躍場所がきわめて少ないものであった。実際に、一九三〇年末期の誕生以来最近にいたるまで、アメリカの女子プロレスは独自の興行を持たない。女子プロレスの興行は、男子プロレスと合同で行なわれるのが、アメリカでの一般的な形なのだ。しかも、その男女混合興行の中での女子プロレスラーの立場は非常に弱い。彼女たちに与えられる活躍の場は、わずかな例外はあるものの、前座試合、および男子プロレスラーのリングマネージャーのみである。
彼女たちの毎日の仕事は、たとえば、こんなふうに進行する。
まず、彼女たちは、まだ、あまり客が入っていない前座の時間帯に試合を終える。試合内容に、技術的な高さは、ほとんど求められない。観客は、ただ単に、水着を着たグラマーな女の子がとっくみあうのを見にくるだけなのだ。
こういった試合がおわると、次に、彼女たちは、セクシーな水着を脱いで、さらにセクシーなドレスに着替える。このドレスが、女子プロレスラーの二番目の仕事着だ。会場に客が集まってきた頃、ドレスをまとった彼女は、メインイベンターの男子レスラーのマネージャーとして、リングに再登場する。男子レスラーは、情夫きどりで彼女の肩を抱き、もつれあうようにしてリングにあがると、しばらく、互いのマネージャーのおっぱいの大きさや、お尻のカーブの見事さをみせびらかしあう。一方、マネージャーは、男子レスラーにいちゃつき、キスを浴びせて激励する。そして、男子レスラーがリングの上でプロレスをやっている間、マネージャー同士は、リングの下で舌戦を闘わせ、ときにはつかみあい、もともと露出狂的なドレスの露出度をさらにあげて客の目を楽しませるというわけだ。
こんなふうに、アメリカのプロレスの神話にとって、女子プロレスラーは、つねに、小さくてありふれたサイドストーリーにすぎなかった。彼女たちの席は、けして、神話の本筋に用意されることがなかったのである。
二三歳のメデューサが望まれたものも、もちろん、こういったサイドストーリーの中での端役《はやく》を演じることだった。
「シャーキーのジムでの練習っていうのは、そうだわね、喫茶店くらいの大きさのガランとした部屋があって、私たちは、そこをキャンプと呼んでいたの。練習は、そのキャンプの床に、じかにレスリングのマットを敷いて行ないました。女の子の志願者は、多いときで二人。ほかは全部男ばっかり。
だから、私は、体重が二〇〇ポンドくらいある男の子と練習せざるをえないってわけ。いい加減なものだったわよ。その上、ジムに入るとき、シャーキーは、俺が三週間稽古をつけてやろうなんて言ってたけど、実際には三週間後には本格的にデビューさせるつもりだったんだから。まったく!
デビュー戦は、あるナイトクラブでやったわ」
快調な早口でしゃべっていた彼女が、突然、言い淀《よど》む。
「正直なことを言うと、私、そのビデオを持ってるの」
彼女は言葉を切って、しばらく無言で私の顔をみつめていた。
「ビデオは持ってるけれども……あなたに、それを見せる気はしません。
ええ。なんていうか、安《やす》ピカで、すさまじい試合でしたよ。どう言えばいいのかしら。とにかく、その試合を見ていたクラブの客で、私に人間の尊厳とか、鍛えた肉体への尊敬を求めていた人は、誰一人いないってこと。私は、サーカスの見世物小屋にあがったみたいに感じたわ。場末のカーニバル、見世物小屋、まあ、そういうものだったのよ。
もちろん屈辱的でした。誰も、私を讃《たた》えるような目付きで見てくれるわけではないし。私は、そのとき、カラダだけの存在だったわ。わかるでしょ? この意味。それでも、私がデビュー戦以降もプロレスを続けていたのは、観客が私をどう見るかということと、私が私自身をどう認識するかとは、別問題だと思ったからなの。
私は、自分のことをスポーツウーマンだと思っていました。観客が誰一人、そう思わなかったとしても、それは関係ないことよ。そのとき私の考えに賛成してくれる人はいなかったし、練習にしても試合にしても、私の考えに同調してくれる人はいなかったけど、それも、関係ないことだったわ」
彼女が最初にリングにあがったのは、エディ・シャーキーが所属していたPWA。この団体の興行状況を、彼女は、次の一言で総括する。
「三〇〇マイル自費で旅をして会場に着き、一晩中試合をしたギャラが、二〇ドルよ!」
デブラは、メデューサというレスラーに変身するために、それまで稼いで貯めた金をすべてはたいていた。場末のカーニバルの見世物のようだとは言っても、プロレスは、裸ひとつで商売ができるわけではない。リングコスチュームも必要なら、レスラーとしてのキャラクターを演出するためのヘアデザインにも金がかかる。デブラ・ミシェリーは有望なアントレプレナーだったが、デブラ・メデューサ=Eミシェリーは貧乏だった。アメリカで女子プロレスラーになることは、金を稼ぐ手段というより、むしろ金を浪費するための方法であるらしい。メデューサとなった彼女は、アパートさえ借りる金がなかったので、車の中で寝泊りしていた。
結局、彼女は、デビュー後まもなくPWAに見切りをつけ、一九八七年、ミネアポリスを本拠地とする大手プロモーター組織AWAに移籍する。この移籍で、彼女の経済状態はやや持ち直した。だが、女子プロレスの試合を、男子プロレスのお飾りとして扱うという姿勢は、AWAでも変わらなかった。
「AWAは、女子プロレスラーをいつだって二人以上ほしがらないの。だから、私は、いつも同じ相手と試合をしていたわ。AWAにとって、女子プロレスラーの試合は、プロレスなんかじゃない。それは、単なる幕間《まくあい》の芝居《コント》なんだわ」
こういう状況で、彼女は一九八七年九月、AWAのチャンピオンになった。要するに、これは彼女がもう一人の女子プロレスラーより強い、ということを意味するにすぎないわけだが。
そんなある日、彼女は、友達の男子レスラーから借りた、日本の女子プロレスのビデオを見る。当時、日本ではすでにクラッシュ・ギャルズブームが最高潮に達していた。だが、彼女は、そのときまで、日本に女子プロレスが存在するということさえ知らなかった。
メデューサは、そのときのことを、苦笑に近い表情を浮かべて、こう思い出す。
「そのビデオを見たとき、私は、思わず、こう口走っちゃったわよ。
まるで……まるで、これはプロレスじゃないみたい。まるっきり、スポーツじゃないの!」
私は、日本であろうとどこであろうと、世の中に、こんな女子プロレスがありうるということが信じられなかったの、と彼女は言う。
「それは、技術的にも非常にレベルの高いものだった。試合も一切、手抜きなしって感じだったわ。だけど、もっとショックを受けたのは、それをやっているレスラーも観客も、女子プロレスを幕間の芝居などとは、まったく考えていないということだったのよ。
観客には女子プロレスラーの強さを無条件で賞賛する雰囲気があった。そして、すべての女子プロレスラーが、プロレスをやる誇りにみちていたわ。ええ。それは、たしかに女子プロレスだったけれども、私が知っている女子プロレスではなかったのよ。
それは、もっと違う何かだったんだわ」
日本では、女子プロレスは、男子プロレスという大きな神話の中の小さなサイドストーリーではなかった。それが、AWA王者メデューサに、それほどまでのショックを与えたのである。
■日本の女相撲と女子プロレス
なぜ、日本の女子プロレスはアメリカの女子プロレスとは本質的に異なる発達をとげてきたのだろう。
日本の男子プロレスが、一九五一年の輸入∴ネ来これまで、アメリカの男子プロレスと基本的に同質だったことを考えると、これは、さらに不思議なことに思える。だが、日本での女子プロレスは発祥時から、そもそも男子プロレスからは独立した存在だったようだ。
日本で女子プロレスが生まれたのは、一九四八年。男子プロレスが誕生する三年前のことだ。ボードビリアンのパン・猪狩《いかり》、ショパン・猪狩が、東京・三鷹市で女子プロレス・ジムを始め、実妹を第一号のレスラーに仕立てたのが、この年。これは、アメリカのNWAマットに女子プロレスが誕生して約一〇年後、ジムの設立としては、ビリー・ウルフの女子プロレスラー養成学校の設立より三年先んじている。
彼らが当初、女子プロレスの興行の場として考えていたのは、小劇場でのショーだったという。実際、猪狩兄弟は一九五〇年、日劇小劇場が行なう地方巡業に参加している。だが、この日本で初めての女子プロレス興行は、水着を着た半裸の女性が絡みあういかがわしい見世物だという理由で、警視庁から以降の興行を禁止された。こういう事情から、女子プロレスは、誕生して数年がたっても、本格的な興行を行なうことがなかった。
結局、女子プロレス興行が日の目を見たのは、誕生後七年を経た一九五五年。この年は、男子プロレスの興行が本格化した年でもある。全般的なプロレスのブームに乗ったこと、また、アメリカで人気が高かった女子プロレスラー、ミルドレッド・バーグの招聘《しようへい》に成功したことの二点によって、女子プロレスは、ようやく男子プロレスの亜流《ありゆう》としての位置づけを獲得することになった。
だが、この興行も長続きはしなかった。バーグを招いての初興行のあとは、失敗が重なり、創案者の猪狩兄弟も女子プロレスから手を引く。そのため、以降はキャバレーのショーとして細々と露命《ろめい》をつないでいた女子プロレスの興行が再建されるのは、一九六八年まで待たなくてはならない。この年、ようやく全国的な興行組織である日本女子プロレス協会が発足。翌年、この協会から脱退した全日本女子プロレス興行が全国巡業を成功させたことによって、女子プロレスの足場はようやく固まった。
ところで、このようなプロレスの興行に関する資料を|渉 猟《しようりよう》するうち、女子プロレスが試行錯誤を繰り返しながら基礎固めをしていた一九六〇年代なかば、東北地方で入れ替わりのように終息していった伝統的な女性の格闘技芸能があることを、私は知った。
女《おんな》相撲《ずもう》と呼ばれた興行が、それだ。
女子プロレスと女相撲には、いくつかの共通点がある。
たとえば、その当時の女相撲でもっとも人気の高かった興行のスタイルは、太夫《たゆう》と呼ばれる女の力士による相撲と、踊りや歌の二部構成。この形式は、現在の女子プロレスの興行スタイルと酷似している。また、女相撲も女子プロレスと同様に、庶民に人気のあるエンターテインメントだった。そのため、全盛期の女相撲は、複数の架設興行団が全国をいくつかの興行ブロックにわけて、大々的な巡業を行なっていたという。
この興行会社のうち、相撲と演芸の合体スタイルで巡業していたのは、平井女相撲と呼ばれた興行団で、これを率いていた平井利久《ひらいとしひさ》氏という興行師が、今は引退して、太夫の一人だった妻や家族と、岩手県の水沢市で旅館を経営していることを、私は、架設興行関係者の話で知った。
はたして、女相撲は女子プロレスと、なんらかの本質的な関わりがあるものなのだろうか。それについての意見を彼自身に求めようと、私は、平井氏の住む旅館を訪ねた。そして、女相撲について話してもらえないだろうかと頼んだ。
戦後の女相撲についての、彼の記憶は、こうだ。
「戦後、女相撲の興行団は、高玉《たかたま》興業、石山興業、平井興業の三つ。でも、興行を実質的に成功させていたのは、そうですなあ。私のところだけだったでしょ。
女相撲は、大変な人気のある興行でしてね、ファンの人たちも、まぁ、たいそうな騒ぎだったですよ。でも、段々に興行の規模が小さくなっていって、東京での興行は、高玉興業が一九五一年にやったものがおしまいです。私たちは、東京をのぞく関東、東北から北海道にかけて、一九六三年まで巡業をしていたね。
とはいっても、あんた。その時点でも、女相撲は儲からないというわけじゃなかったです」
でも、これが出てきましたのでね。彼は、茶の間に置いたテレビを指して言う。
「テレビが出てきたら、こういう芸能はもうだめだと、私は直感したわけさ。それで、興行団を解散したと、こういうことです。ほかの興行団は、そのときすでに商売をやめていたから、女相撲は一九六三年で消滅したことになるかねえ」
ところで、女相撲の消滅と、女子プロレスの誕生には相関があると思いますか。私が質問すると、彼は即座に肯いた。
「女相撲がなくなったから、女子プロレスが生まれたとは言えないだろうけどさ。興行ものとしては、女子プロレスは女相撲と同じ性質の商品だね。興行師の目で見れば、たしかに、女相撲は女子プロレスのルーツだと言ってよいでしょ」
女子プロレスは、女相撲の跡を襲《おそ》うように誕生した女性の格闘技ショーの新バージョンだったのではないか。これが彼の見方だ。
ところで、女相撲とは、どのような実体を持ったものだったのか。
女相撲とは、文字通り、女性の力士による相撲のショー。発祥は古く、一八世紀なかば。江戸中期の延享二年、一七四五年に両国で初興行をしたという説が一般的だが、一方に、すでにそれ以前から関西方面での興行があったという説もある。いずれにしても、一七六四年から始まった明和《めいわ》期には、女相撲は非常な人気をよんでいたらしい。それを証明するように、その頃、流行したものを集めた『江戸名物鑑《えどめいぶつかがみ》』というカタログブックには、女相撲に一項目が割《さ》かれている。また、女相撲に続く項には、座頭《ざとう》相撲《ずもう》という見世物芸が収められている。座頭とは、男性の盲人のこと。明和時代に流行の端緒《たんしよ》を作った女相撲とは、実は、この座頭と女力士とを闘わせる形式のものが主流だったという。
初めて、座頭と女力士との相撲が見世物にかかったのは、明和六年、一七六九年頃。この男女の相撲対決は、まもなく、盲人を卑しめるものとして禁止された。だが、これは、女力士のほうが卑しめられなかったという意味ではない。座頭と女の相撲には、若い女力士一人を、六、七人の座頭に襲わせるというような、かなり直截な性的見世物としての一面があったのだから。
当時の女相撲の力士とは、人並みはずれて体の大きい、力の強い、そして、人前で肌を見せることをいとわない素性《すじよう》の女性たちだった。彼女たちの前身は、おおむね私娼《ししよう》だといわれている。娼婦としては極端に大柄で、ときには客を畏怖させたであろう彼女たちは、女力士に職がえをすることで、自分の肉体のデメリットを逆手《さかて》にとった。それほど巨体ではないものの、年をとりすぎてしまった娼婦たちも、力士として活路を開こうとした。
こうした領域に生きていた女芸人は、女力士に限らない。たとえば、現代のウェイトリフティングのように、重いものを軽々と持ちあげてみせる、女力持《おんなちからも》ちや大女《おおおんな》芸人と呼ばれる人たちもいた。彼女たちのショーは、女相撲と並ぶ江戸時代の庶民の人気の的だった。何度となく、お上《かみ》からの禁令を受けながらも、大きく強くしぶとい女芸人たちの何人かは、庶民のスターとなって、長期間、全盛を誇ったと言われる。
たとえば、大力女《たいりきおんな》・柳川《やながわ》ともよが、そうだ。
ともよが、大八車《だいはちぐるま》に米俵《こめだわら》を五俵乗せたものを、車ごと持ち上げるというショーで大評判を得たのは安永五年、一七七六年の五月、江戸は境町の楽屋新道《がくやしんみち》でのことだ。彼女は、越前高田出身の私娼だった。やたらに体は大きかったが、肌の大変美しい、女っぷりの悪くない娼婦だったらしいと、三田村鳶魚《みたむらえんぎよ》は『相撲の話』の中で記述している。
ともよには、米俵を持ちあげる芸のほかに、仰臥《ぎようが》した腹の上に乗せた臼《うす》で餅をつかせるという芸、碁盤《ごばん》を片手に持って蝋燭《ろうそく》の火をあおいで消すという芸があった。彼女を抱えた、私娼家・柳屋の主人は、三カ月、女力持ちの見世物芸をしたら、年季《ねんき》を棒引きにして実家に帰してやるからと、彼女をくどき、境町の見世物小屋に立たせた。
だが、彼女は、約束の三カ月がすぎて年季証文を返されたあとも故郷にはもどらず、その芸を持って江戸中を歩いた。当時の人気ルポルタージュ作家・風来山人《ふうらいさんじん》、本名、平賀源内《ひらがげんない》は、その後、大阪にまで足をのばし、全国的な有名人になったともよのことを、『力婦伝《りきふでん》』という黄表紙《きびようし》に残している。
淀滝《よどたき》と呼ばれた女力持ちもいた。
彼女の本名は、つた。品川女郎としての名前は、蔦野《つたの》と言う。身長一七五センチ、掌の長さ二一センチ、幅一五センチのつたは、識字率《しきじりつ》の低い当時にあって、字を書くことができるインテリでもあった。そのため、文化四年、一八〇七年の正月、浅草柳稲荷むこうの中茶屋《なかちやや》に、女力持ちとして出たとき、二三歳の彼女は、釣鐘《つりがね》を持ちあげる芸とともに、五斗《ごと》詰めの米俵の先に筆を結びつけ、それで字を書く芸をみせた。
つたは、江戸の遊興街としては格下《かくした》に位置づけられていた品川でも、さらに下級に区別される一郭に店を構えた私娼家の抱《かか》え女郎《じよろう》だった。その時代、彼女は、客の前では、掌《てのひら》をいつも|懐 手《ふところで》に隠していた。その大きな手が米俵を握って書いた筆跡は、なかなかの達筆で、今も残っている。彼女もまた、江戸の人気者の一人となり、何人かの黄表紙本《きびようしぼん》作家が、彼女の姿を記録に残した。
江戸期の劇作家や画家たちは、こういった女芸人たちのブームに少なからず関心を寄せた。そのため、彼らが残した女相撲の力士に関しての記録は少なくない。黄表紙本の挿絵《さしえ》に残された女力士たちは、女髷《おんなまげ》を結い、上半身は裸。締め込みを締めた上に、膝下までの化粧まわしを下げている。その姿で、彼女たちは土俵でにらみ合い、あるいは控えに腕組みをして座り、土俵上の対戦に身を乗り出している。
喜多川歌麿《きたがわうたまろ》も、こういった挿絵を描いた一人だった。寛政二年、一七九〇年に山東京伝《さんとうきようでん》作で出版された黄表紙、『玉磨青砥銭《たまみがくあおとがぜに》』で彼が描いた挿絵は、座頭と女力士の対戦だ。歌麿が描く挿絵の女力士のしこ名は、骨がらみ≠竍かさの海=Bこの作品は、この頃、人気力士も出揃い、興行的には完全に組織化されていた大相撲のパロディである。
この女相撲が本格的に組織化され、全国巡業を始めたのは、一八四八年からの嘉永年間だ。名古屋で初めて組織された女相撲興行団は、各地をまわって人気を博した。だが、隆盛だった女相撲の巡業も、明治に入ると、近代化をはかる政府によって、他の興行ものと同様に禁令の対象となり、明治五年一一月には東京で、また翌年七月には全国的に禁止の憂き目にあう。禁止理由は、風紀上好ましくない見世物であるためだが、これに関しては、政府の近代化政策が起因という以外に、こんな見方もある。前出の平井利久氏の意見だ。
「大相撲のほうからクレームがついたんだと思うねえ。風紀上の理由というのは建前《たてまえ》でさ、本当のところは、大相撲に文句つけられて、やっていけなくなったんじゃないのかね。だってさ、女相撲はいつでも人気のある興行で、おおぜい客を集めたし、それは、大相撲にとってはあまり気分のいいものじゃなかったでしょうよ。山形の石山興業が明治の中頃《なかごろ》に、東京で女相撲をやったときも、やっぱり大相撲のほうから文句がついて禁止されたって、私は、おやじから聞いたことがありますよ」
明治中頃の東京での興行とは、石山興業が、明治二三年の秋、両国の回向院境内《えこういんけいだい》で行なったものだ。そのとき、女相撲の太夫の格好は、警察の取り締まりを意識して、それまでの上半身裸の格好から、ぴったりした肌色の襦袢《じゆばん》と股引《ももひ》き姿に変わっていたという。
奉納相撲に馴染みの深い回向院で、大相撲のパロディ的性格を持つ女相撲は、連日多くの観客を集めた。それは、相撲のエスタブリッシュメントを自負する大相撲にとって、たしかに許しがたい事実であったかもしれない。いずれにせよ、初日からわずか数日で、女相撲の興行は禁止された。だがそのわずかの期間に、女相撲は驚くほど熱狂的な注目を集め、新聞は、そのありさまをたびたび報じている。
たとえば、同年一一月一三日付けの「読売新聞」は、東海道もと、電信はま、蒸気船はや、電燈わかなど、当時としては先進的なしこ名を持つ二〇名の太夫の名前を報道した。ついで一九日、同新聞は続報として、両国回向院の坊主鶏肉屋で、店主が太夫への鶏肉の大盤振る舞いをしたニュースを報じた。その記事の中で、店に集まった客の一人に、あんたはずいぶんお酒が飲めるそうだが、実際どのくらい飲むのかね、と聞かれ、
「妾《わらわ》は下戸故《げこゆえ》、ようよう一升位なるが、(同僚太夫の)八丈さんは上戸《じようご》ですから、一升五合位にては稽古の邪魔にもなりますまい」
と微笑を浮かべながら答えたと報じられているのは、大関の富士山よしという太夫だ。
この興行を行なったのは、石山興業の創始者である石山兵四郎《いしやまへいしろう》氏。彼は、明治五年の興行以後、いったん息絶えた女相撲を、東北地方を中心に再開した人物である。
「兵四郎さんはね、あるとき、浅草で、釣鐘《つりがね》おかねという女力持ちを見たのですと。それから女相撲の興行をやろうと考えついた。本人がそう言ってましたね。釣鐘おかねという人は、小屋の屋根から釣り下げた鐘を、下からジリジリ持ち上げて見せる。それに人気が出るんだから、力の強い、体の大きな女の人に相撲の稽古をさせて相撲取りにさせたら、どうかとね」
生前の石山氏とのつきあいのあった平井氏は、東北の女相撲の発祥について、こう説明する。
ところで、石山氏が再開した女相撲は、明治二三年の東京での興行こそ禁止されたが、次第に、全国的に人気の高い興行に成長する。明治後期には、同業者である山形県酒田の高玉興業も、女相撲の興行に手をつけるようになる。そもそも、高玉興業の興行主には石山氏の妹が嫁《か》し、縁戚関係があった。高玉興業は、石山興業と巡業の縄張りを分けあい、主に、四国、九州方面での興行を開始した。明治以降の女相撲の全国巡業の形は、この時期に固まった。
その後、さらに巡業地を拡大するために、石山興業、高玉興業は、太夫をふたつの興行グループに分けて、それぞれ一部と、二部と名付ける。石山一部は、日本海側から中部地区、二部は、東北から北関東にかけての太平洋沿岸を巡業。高玉一部は、四国、九州、二部は、山梨を拠点に中部を巡業。このうち、石山二部の興行をとりまとめていた石山|喜代太《きよた》氏という人物が、平井氏の父だ。
「おやじは石山《ヽヽ》と言っても、兵四郎さんの血縁というわけじゃないんだ。この世界では、若い衆《し》が親分の名前を貰うという風習があってさ。おやじの姓も、そうやって兵四郎親分から貰ったものですよ。
もともと、おやじは、山形から函館に出ていって、歯科技師の先生のもとで勉強をしていたインテリだったのですと。そのうち、先生の娘さんと、いい仲になってしまったんですな。それを先生に咎《とが》められてさ。歯科技師になることは諦めた。それで、青森あたりをぶらぶらしているところを、兵四郎親分に拾われて、若い衆になったんだね。
おやじは、非常に商才のある人でして、石山二部をおおいに盛り立てた。ところが、それを石山一部の人間に妬《ねた》まれてさ。結局、大正の初め頃には、石山から離れて、平井女相撲の前身になる北州倶楽部《ほくしゆうくらぶ》という興行団を作ったわけです」
この北州倶楽部の本《ほん》太夫《だゆう》だった、遠州灘《とおとうみなだ》という女性は、京都へ興行した際、モノクロの記念写真を一葉残した。本太夫とは、大関とも呼ばれる女相撲の最高位のこと。彼女の写真は、平井|蒼太《そうた》氏という好事家《こうずか》が昭和三〇年代初めに書いた、『女すもう』という私家版の本の口絵に収録されている。その口絵の遠州灘は、上半身裸になった胸の前に軽く両腕を組み、立派な化粧まわしをつけた姿で写真におさまっている。両足をひらき、落ち着いた視線をまっすぐこちらへ向けている彼女は、たくましく爽快《そうかい》で、魅力的だ。
江戸期の女相撲の力士が娼婦出身者だったのに対して、明治期以降の女相撲の太夫は、おおむね農家の出身。遠州灘の堂々とした体躯《たいく》は、たしかに、厳しい農作業にも根をあげそうにない、健康的なたくましさを漂わせている。だが、はたして、その姿に隠微な色気を感じる人がいたのだろうか。江戸の戯作者が残した女相撲の像は、秘めやかないかがわしさと、喧騒《けんそう》的な華やかさを漂わせているが、対して、東北発信型にかわった後世の女相撲はより質朴で健康的だ。とはいえ、そのどちらも、庶民にとって人気のある見世物だったことは疑うことができない。
平井氏は、この遠州灘が、興行主の石山喜代太氏と一緒になって生んだ三人の子供の長男にあたる。
「母は、大変人気のある本太夫でしたけど、父が昭和二年に亡くなったときには、石山一部に圧力をかけられて、いったん、荷物《ヽヽ》をほどかされたんです。それで、私たち兄弟を連れて、母は、故郷の山形県|白鷹《しらたか》村にもどってきました。荷物というのは、私たちの間で興行のことを指す符丁《ふちよう》ですがね。
ところが、そんな事情で荷物を強制的に解かされたとき、北州倶楽部の太夫たちは、ほとんどが白鷹村へついてきてしまったんですと。五尺たらずの身長だったが、たいそうな太腹《ふとつぱら》で、人望の厚い太夫さんでございましたからな。母は。
そこで、村についてきた太夫を再結成して、親戚から資金を集め、再び荷物をまとめて、昭和三年頃から独自の興行を始めたものが、平井女相撲というわけですよ」
平井とは、遠州灘の旧姓。平井とり、というのが、この本太夫の本名である。平井女相撲はこのようにして誕生した。この頃には、女相撲は全盛をきわめ、昭和五年には、石山一部が、日系移民の慰問団として、ハワイの日本館という劇場へ初の海外巡業を行なうほどの規模を誇った。
ところで、このような女相撲興行は、男の観客にとって魅力があっただけではない。相撲という芸ひとつを持って全国を、また海外まで雄飛する女芸人の姿は、同性である女性を、ときには強力に魅了した。
明治二〇年九月二八日に越前高田《えちぜんたかだ》で行なわれた女相撲興行の際、突然、警察に逮捕されたはる≠ニいう名前の力士も、おそらく、その一人だったのではないか。彼女の逮捕を報じた新聞資料によれば、当時、二二歳だった彼女には、もともと新潟県|中蒲原郡《なかかんばらぐん》村松町に住む亭主と二人の子供がいた。あるとき、その町に女相撲がやってきて、はるは見物に行く。そして、あまりの面白さに、家庭も亭主も子供もすべてを捨て、興行団にまぎれこみ遁走《とんそう》するのだ。
彼女は、東京から長崎まで、興行団の巡業について回った。東京も長崎も、はるにとっては初めて見る土地だ。しばらくするうちに、彼女は、自分も相撲を取るようになっていた。そして越前高田まで巡業してきたとき、村松町から取り押えの照会を受けていた高田警察署に拘引される。彼女の拘引までの経緯を、明治二〇年一〇月一二日付けの「時事新聞」は、このように報じた。
拘引されたあと、無鉄砲な彼女がどんな目にあったかは知らない。だが、速成《そくせい》太夫として全国を回っていたとき、はるは、きっとそれまでの人生にない楽しみを味わっていただろうと、私は思う。
また、はるの遁走より三年前、明治一七年六月二一日の「郵便報知新聞」は、京都のある会社の人間が同業者と芸妓《げいぎ》を集めての宴会を開いた際、余興として、彼女たちに巷《ちまた》で人気を呼んでいる女相撲を取らせたところ、いつもはすれっからしの老妓《ろうぎ》たちが、目の色を変えて相撲に熱中してしまったという奇妙なニュースを報道している。
宴会の慰みに、年をとった芸妓を腰巻きひとつにして相撲を取らせ、しわくちゃの乳房などを見て笑い転げることが、いい趣味だとは思えない。また、その慰みごとに、老妓たちが、客の誰よりも目の色をかえ熱中したというのも、一見、不思議だ。
だが、老妓たちは、女どうしで組み合って相撲を取り、つかみあって格闘するうちに、いつもの仕事とは違った開放的な喜びを覚えたのではないか。
女の格闘を見るという行為は、たしかに男性にとっては、窃視姦《せつしかん》につながるうしろ暗い要素を含むものだろう。だが、当の女性にとって、自分の肉体の大きさ、強さを誇示する見世物は、基本的に陽性な自己表現だったのではないかと思う。しかも、強くて大きい女たちの格闘は、江戸期以来の見世物文化の中で、庶民にとって十分に魅力のある芸へと洗練されていた。女相撲は、そのため、男にとってだけでなく、力士と観客双方の女性にとって十分魅力的な自己表現だったのだ。
だからこそ、はるは、ある日、女相撲を見たとたんに、ふらふらとそれについて行ったのだ。また、柳川ともよや、淀滝は、故郷にも帰らず、自発的に、碁盤を振り回して蝋燭を消したり、米俵を持ち上げたり、腹の上で餅をついたりしつづけたのだ。
「私の母も、もともとは、家を逃げ出して興行についてきたんだそうですよ。母は、白鷹村の孫《まご》右衛門《えもん》という大きな百姓の末娘だったんだが、村に相撲興行がやってきたら、矢も盾もたまらず家を逃げ出してしまったんですと。家の者が、何度も連れ戻しにきたんだが、そのたびに、便所の窓から逃げ出してしまってさ。女相撲が好きで好きでたまらなかったんでしょうよ。しまいには、家の者も諦めて母の好きなようにやらせたわけよ。
でもさ。母に限らず、女相撲の太夫というのは、だいたいが、そうやって自発的に太夫になりたくてなった女の人でしたよ。女子プロレスも、そういうところは、同じでしょう? ええ、女相撲も女子プロレスも、女の人にとっては、逃げてでもなりたいものだったのではないかねえ」
まず最初に、男の肉体と力を肯定するマッチョ神話があり、女の格闘技者は、その神話のサイドストーリーに位置するしかなかったアメリカに対して、日本では、観客と芸人の双方に、大きくて力の強い女芸人の格闘技を受け入れる素地が伝統的にあった。女相撲の太夫のおおむねが、はると同じように、村にやってきた興行にひかれて、自発的に巡業に参加した女性たちであったということが、その事情を物語っていると私は思う。
日本には、女性の格闘技を独自の芸能として認知する土壌が存在した。そこがそのようなルーツを持たないアメリカとの本質的な違いだったのではないか。そして、女性の格闘技のもっとも伝統的な形だった女相撲が、一九五〇年代に終息しようとしたとき、女子プロレスは、それを継承する形で誕生した新しいショーだったのである。
もちろん、一方で、女子プロレスは、かつての女相撲が持っていた土臭《つちくさ》さを排除しようとしたにちがいない。だが、他方で、女子プロレスは、女相撲の興行のスタイルに多くを借りている。
たとえば、平井氏は、昭和一七年に遠州灘が五〇歳で亡くなったあと、女相撲を屋外での架設興行から、小劇場でのショーとして、相撲と、舞踊や歌などの演芸の二本立てに再編成した。彼は、このスタイルを、歌舞伎やレビューなどを参考に創案したと語っている。そして、猪狩兄弟が、女子プロレスを創案したときのスタイルも、また、平井女相撲が行なっていたような小劇場でのショーだった。
さらに、現代の女子プロレスラーも、平井氏が創案した、格闘技と演芸の二本立ての形を基本的に踏襲しているように見える。彼女たちは、試合の前に歌を歌い、そのエキシビションによって、観客の興奮を試合まで盛り上げていく。そして、ときには、試合とは別に、女子プロレスラーによるミュージカル興行を行なって、ファンを沸かせることもある。両者の違いは、歌を歌う場所が、土俵かリングかというだけだ。こういったエキシビションは、アメリカの女子プロレスにも、またアメリカのプロレスを直輸入したルーツを持つ日本の男子プロレスにも、まったく見受けられない独自なスタイルである。
一九四八年に、猪狩兄弟が女子プロレスを誕生させたとき、それは、アメリカからの輸入品でもなく、また、男子プロレスの亜流でもなかった。ボードビリアンであった猪狩は、おそらく、アメリカでの女子プロレスや、男子プロレスの状況を知っていたことだろう。だが、それが日本で生まれたとき、すでに女性による格闘技のショーが独自な形で根づく土壌が、この国には用意されていたのだ。
[#改ページ]
孫麗※[#「雨/文」]のプロレス
■プロレスへの夢
女子プロレスが、日本に独自のルーツを持つものだったことは、中国から来日した|孫麗※[#「雨/文」]《スンリーウエン》にとっても意味があったと思う。なぜなら、一二歳で女子プロレスを見て以来、強烈な自己実現欲にめざめていた彼女にとって、この国でしかできない仕事につくことは、来日以来の彼女の自閉をひらく、またとない機会になったことだろうから。その上、単に金を稼ぐだけでなく、日本人を伝統的に熱狂させてきた興行の仕事につくことによって、彼女は、この国とのかかわりにおいて、理想的なイニシアティブをとることになるではないか。
「夢があったのですね。それは、日本に来てからのものではない。中国にいるときから、ずっと、その夢を持っていましたよ」
初めて彼女に会ったとき、待ち合わせ場所の中華料理店のやや薄暗い隅の席に座り、注文した排骨麺《パーコーミエン》を前にして、彼女はこう口を切った。
それから、彼女は|チャンチャン《ヽヽヽヽヽヽ》という耳馴《みみな》れない単語を繰り返した。その言葉を、紙に書いてもらって、私はようやくそれが長江《ちようこう》の原音読みであることを知った。長江は、揚子江《ようすこう》の正式名称。チベット高原の北東部から発し、青海、雲南、四川、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇の八省を流れて、東シナ海に流れ込む。全長六三〇〇キロメートルの大河だ。彼女の家は、この河の河口に近い江蘇省|南京《なんきん》市郊外にあった。そして、麗※[#「雨/文」]の夢は、この長江に深く関係していた。
「わたしが育った家は、長江という河のそばにあります。長江という河は、大きな河です。向こう岸なんか見えないよ。とても、大きな河です。
それから、船がたくさん来ます。黒い、石のような、燃やすものを、なんと言いますか? 石炭? そうです。その石炭を運んでくる船や、ほかのものを積んだ船が、たくさんやって来ます。
育った家を出ますね。右には大きな道路が走っている。それとは反対側に歩いていくと、山がありますよ。そんなにすごい山じゃない。ちょっとだけの山。それを越えると、粘土を作る工場がありまして、それを通り過ぎると、さあ、もう長江です。
粘土工場の近く、船着き場があります。船が、そこで石炭をおろしますね。そこから、石炭をあっちこっちへ運ぶんです」
船で遊ぶのは、すごく面白くって、麗※[#「雨/文」]は目を輝かせる。船に乗っている子供は、小学校にも保育園にも行かないですよ。船の中で生まれて、船の中でずっと育つの。なんて面白い人生でしょう。その子たちと遊ぶのが大好きだったわ!
「船の人はね、食べ物も違うの。
寒いところから来る人もいる。いろんなところから、いろんな人がくる。だから、いろんなものを食べます。
イヌを食べる人もいる。ヘビを食べる人もいますね。だから、船の中で料理するのは、面白かった、あんなに狭いところで、本当に料理できるのですよね。料理の方法も、家でやっていたのと、ちょっと違いますよ。
ほら、しょっぱい卵がありますね。おかゆに入れて食べるアヒルの卵。ピータンのような、でも、ピータンとはちょっと違う。それをよく作りました。セメントと土と、塩と、馬にたべさせるもの、なんて言いますか? そう、藁《わら》。それをまぜて、アヒルの卵を埋めますね。そういうのを手伝いました。ピーマンの刻んだのを漬けたときは、船の人に、手が荒れるから、手袋して漬けなさいって言われたです。でも、言うこときかなかった。そしたら、夜になって、手が真っ赤に腫《は》れて、わたしはぼろぼろ泣きましたよ。
あのね、船の人たちは、平気で、首を切ったヘビを木に吊して、皮をはぐよ。そうやって皮をはいで料理したヘビも、イヌも食べさせてもらったです。ヘビは、あまり好きではないですけど、イヌを好きな人は多いですね。市場でもイヌを売っていますから」
ヘビはね、こうやって皮をはぎます。麗※[#「雨/文」]は、ビーッと唇を鳴らして、靴下をひっくり返すような動作をしてみせる。
こうやってはぐのよ、怖いねえ。あまり怖くなさそうな顔で、彼女は言う。
「夢はね、だから、そういう船の人たちのためのホテルを作ることだったですよ。ホテルでなくてもいいの。普通の家でもいいです。その人たちに、一階でごはんを食べさせますね。そして、いろんなところの話を聞きます。船で暮している人たちは、不便もありますよ。だから、その人たちの便利になるような店を作って、ごはんを食べさせて、そのかわりに話を聞くの。泊まりたい人には、二階の部屋を貸します。泊まりたくない人は、泊まらなくていい。そういうホテルを、長江みたいな大きな河のそばに作るのが、わたしの夢でしたよ。
いろんな人が、いろんなところからやってくる、大きな河や海のそばに住みたいと思っていました。一〇歳の頃から、そう思っていました。
小さい頃、わたしは家を出て、山を降りて、長江を見ます。きっと、ここからどこかに出ていこうと思いましたよ。長江の船に乗って、ここと違うところに行こうと思いましたよ。いろんなところから旅をしてきた人が好きでしたから、自分も、いろんなところへ旅をしようと思いました。いろんなところへ旅をしてきた人の話を、たくさん聞けるホテルを作りたいと思いました。そういうことなんです」
彼女は、夢について語りながら、次第に身振りが大きくなり、そのひらひらと動く手の下で、頼んだ排骨麺はほとんど手つかずのまま冷えていく。
もちろん、こんなことは夢ですよ。きっとかなうなんて思っていたわけじゃないよ。だけど、どうせなら大きな夢のほうがいいでしょう。麗※[#「雨/文」]はそう言いながら、ときどき思い出したように排骨を箸でつついている。
「だから、女子プロレスに入ろうと思ったとき、これだ、これだ、わたしは、女子プロレスできっと夢をかなえるでしょう、と思いました。
日本にやってきた最初の頃、その夢は、とても遠いと思った。言葉もしゃべれなくて、この国にも慣れないし、その夢は手の届かない夢だと思いましたね。でもね、女子プロレスになったなら、わたしは、言葉がしゃべれなくても、この国の人でなくても、その夢をかなえるでしょう。だから、わたしは女子プロレスに夢中になったですよ」
■出生の事情
長江のほとりにあった家とは、彼女の養家である。二九歳の孫欣治《スンシンジ》と、一八歳の劉佩琴《リウペイチン》の長女として、一九六九年九月三〇日、上海《シヤンハイ》市に生まれた麗※[#「雨/文」]は、三年後の一九七二年、南京市に住む、欣治の長兄である、|孫※[#「金/(金+金)」] 泉《スンジンチユアン》と戴秀英《ダイシウイン》夫妻の養女となった。
麗※[#「雨/文」]とは、そのとき、※[#「金/(金+金)」]泉が彼女につけた名前。それまでの三年間、麗※[#「雨/文」]には、名前がなかった。
名前だけではない。養女となるまで、実は、彼女は、書類上、存在しない人間だった。
なぜか。
それは、実父の欣治が、彼女の誕生を、地元警察派出所へ届けなかったためである。当時、欣治と佩琴と麗※[#「雨/文」]の三人の家族のうち、戸籍上、上海の現住所に住んでいることになっていたのは欣治のみ。佩琴は、書類上は、江蘇省の|塩 城《イエンチオン》市南洋公社で農作業に従事しているはずだったし、麗※[#「雨/文」]は生まれてすらいないはずだった。
孫家の書類上の家族構成が、このように複雑になってしまったきっかけは、そもそも、佩琴の戸口簿《フーコーブ》にある。
戸口簿とは、日本の戸籍と住民票をあわせたような意味あいを持つ証明書だ。佩琴は、もともと、生まれ育った上海に戸口簿を置いていた。だが、文化大革命が始まった直後の一九六五年、学生だった彼女の戸口簿は、上海から塩城に強制的に移されてしまう。当時、都会に住む学生の大多数を、再教育の名目によって農村に送り込み、農作業に従事させる下放《かほう》運動≠ェ、文化大革命の一環として、さかんに行なわれていた。そして、佩琴もこの下放政策のもとに、塩城へ送り込まれたのである。ちなみに、下放された人々は、この戸口簿によって、米や生活物資の配給を受けて生活することになっていたため、彼女の戸口簿も下放にしたがって塩城へ移されたわけだ。
ところで、下放は、通常数年間で終わり、その終了とともに、戸口簿も、もとの住所に復帰するという建前だった。だが、実際には、このようにスムーズな復帰が可能だった人は少数だという。文化大革命では、あまりにも多くのシステムがひっくりかえされたために、事務処理の能率が絶望的に悪化したのだろう。多くの人が、事務処理の不備のために、戸口簿の復帰に数年を要し、その間、農村に留まることを余儀なくされた。また、一部の人の戸口簿は、より意識的に復帰を妨げられた。それは、たとえば、政府に批判的な意見を持ったり、革命前の富豪階級者であったり、外国人の血縁であったりした人々だ。
日本人を父に持つ佩琴は、こういった一種の危険分子に分類される女性だったということなのだろう。彼女の戸口簿は、案の定、下放の時期をすぎ、彼女が欣治と結婚する時期になっても、いっこうに上海に復帰しなかった。
何度、申請しても、戸口簿が復帰しないため、しかたなく、欣治は、戸口簿を塩城に置いたままの佩琴と結婚せざるをえないことになった。こういう場合、結婚はしたものの、生活物資の配給を得るために、夫婦がそれぞれの戸口簿がある土地で別居するケースもあるという。だが、欣治はその方法を選ばなかった。彼は、生活物資の配給を一時放棄するかわりに、妻を自分の住所に同居させたのだ。
佩琴が、実際には上海で暮していたにもかかわらず、書類上は、戸口簿のある塩城で、学生時代と同じように農作業に従事していることになっていたのは、こういう事情からだった。
戸口簿のない佩琴は、配給を受けるのに問題があっただけでなく、上海で職を求めることもできなかったので、結婚後の暮しは、すべて、欣治の腕にかかってきた。だが、彼はどのような方法をとってもこの一一歳年下の妻を庇護しなければならないという使命感を持っていたようだ。
それは、自分が、妻の庇護を、恩師でもある妻の父から託されたからだと、彼は説明する。
一九四〇年生まれの欣治の最終学歴は、上海の専門大学。専攻は、軍用航空機の設計。その学校で彼に、科学イラストレーションの技術を教えたのが、佩琴の父の天田豁《あまだひろし》だった。軍用機の生産は、中国の中枢産業のひとつ、それを自分の専攻に選ぶことができた欣治は、まちがいなく秀才だっただろう。
天田豁が、自分の教え子であるその学生に、なぜ、自分の娘の将来を託そうとしたのか、彼が亡くなった今では、正確なところはわからない。おそらく、欣治は、学業が優秀である以上に、かつての敵国人として中国で暮す豁の心を動かすものを持っていた人物だったのだろうと、私は推測する。
「妻の母親という人は、彼女を生んで一週間後に破傷風《はしようふう》で死んだそうです。だから、妻は、先生の手ひとつで育てられました。医療体制がとてもお粗末だった時代なのですよ。たくさんの女の人が、出産後、こういった病気になって死にましたのです。先生は、そんな一人娘と結婚してくれるようにと私に言ったのです。妻は、そのときまだ子供で、私は大人だった。彼女は、私のことをオジサンと呼んでいたのよ。でも、私は、先生が好きだったから、結婚しましょうと約束したのです。
先生は、いつも、私に日本の習慣について話しました。ときどき、バイオリンを弾いて、日本の歌を歌いました。ええ、そうですよ。先生は、自分自身が日本へ帰ることは考えていなかったけれども、自分の子供だけは、日本へ帰したかったのですよ。
結婚するように、そして、日本へ連れて帰るように。それは、約束だったのです。私と先生との、それは約束だったのですから」
一〇年ぶりに上海を訪れて、帰国したばかりの欣治と連絡をとり、このような話を聞いたのは、中国では春節《チユンジエ》と呼ばれる、旧正月がおわった数週間後である。彼は、久しぶりに、本国で正月をすごし、親戚の様子を見てきたのだと言った。
東京での寄宿先に近い、目黒不動前の喫茶店で会った欣治は、紺色の背広を着込み、早口だが言葉を選んでしゃべる、長身で知的な男性だった。顔色はよいとはいえない。本国にいる間に体調を崩し、今でもその影響で重労働はできないのだと語る。彼は、今年でもう五〇歳だ。
彼は、このように日中ハーフの女性を妻としたことによって、大学で専攻した軍用機の仕事にはつけなくなったと語った。軍用機の製作は国家機密に属するものとして、外国人とつきあいのある者や、華僑は、その職から遠ざけられる。そこで、彼は、本来の専門職を捨て、風物画《ふうぶつが》を描く仕事についた。
風物画を描く仕事は、ほかの労働者に比べれば稼ぎがよかったが、もちろん、軍用機設計のプロフェッショナルの優遇のされかたとは比べものにならない。そもそも孫家は、革命前にはかなり富裕な商人階級に属していたので、その子弟である欣治の将来は、革命後の中国では、前途洋々というわけにはいかなかったとはいえ、一応はエリート大学生だった彼が、先生≠ニの約束を墨守《ぼくしゆ》したことによって失ったものが小さいとは思えない。
そして、欣治と佩琴が結婚生活を送って一年目に、麗※[#「雨/文」]が生まれた。中国では、子供の戸口簿は、妻の戸口簿の記載住所に置かれることになっている。欣治は、麗※[#「雨/文」]の戸口簿が、妻と同じように、塩城に留めおかれることを恐れた。そのため、麗※[#「雨/文」]は書類上に登録されないままで育ち、その後、塩城よりは都市部である南京に住む兄夫婦の子供として、日中の国交が回復した一九七二年、初めて自らの戸口簿を得たというわけである。
麗※[#「雨/文」]が生まれたあと、欣治夫婦は、次々と三人の子供をもうける。麗※[#「雨/文」]の下の妹、桜《さくら》は、キッシンジャーが周恩来《チヨウエンライ》と会談した一九七一年、次の妹、和華《わか》は、その三年後の一九七四年に生まれた。桜は日本の国花《こつか》から、和華は、日中国交回復を記念して、欣治が命名した名前である。
一九七七年には、一二年間続いた文革の終了宣言と、いわゆる四つの近代化が始まる。麗※[#「雨/文」]の一番下の弟、水《すい》は、この文革終了宣言の翌年に生まれた。その時点でも、まだ、佩琴の戸口簿は、上海に復帰しなかったが、夫婦は、微妙な時代の変化を感じとっていた。そのため、三人の弟妹たちは、養子には出されず、佩琴の戸口簿に記載され、欣治の収入に頼って、夫婦の手元で育てられた。
「一番下の水が生まれたとき、私は、すでに、日本帰国の願いを出していました。
その二、三年前から、私は、国の進む方向をずっと観察していたのです。時代は、いい方向に進んでいるように見えましたが、私は、とても臆病だったね。本当に信じられることは何ひとつなかったです。だから、先生から貰った、日本の親戚の所在地を書いたメモは、妻の普段《ふだん》着の縫い目をほどいてその中に隠してありましたよ。私たちの家には、いつでも、誰でも、どんな理由でも、押し入ってくることができた。押し入ってきた人たちは、家にある、どんなものでも持っていくことができたでしょう。だから、メモを、そのあたりに置いておくわけにはいかなかったんです。
ええ、それが、文革というものですから」
欣治は、丸めた拳《こぶし》を手のひらに何度も打ちつけ、言う。
文革では、なんでもありえたのです。なんでもね。だから、息子に水という名前をつけたんですよ、私は。
「中国では、河は、いつも西から東へと流れるというのです。長江も、黄河《フアンホー》も、西方の山から生まれます。その水は、中国のさまざまな土地を流れて、東の海へ出ていきます。私たちは、河について、昔からそう言ってきたのです。
水は、西から東へ帰りますのです。だから、水という名前を、私は、東の日本に帰ることを決めたとき、息子につけたのです」
一九八〇年、二歳になった水は、佩琴に抱かれて祖父の国に帰った。
■あの運動の終り
その頃、南京の麗※[#「雨/文」]は、どうしていたのか。
「育てのお父さんは、学校の校長先生です。家を建てるときに焼くもの、レンガですか? そのレンガの工場があります。とても大きい工場。そのあたりに四つの工場がありまして、船着き場からおろされた石炭は、その工場に全部運び込まれますね。そのあたりの人たちは、レンガ工場で働く人たちばっかりです。なんて言えばいいんでしょう。日本で言えば、桐生市全体がレンガ工場をやっていて、桐生市に住んでいる人は、みんな、その工場で働いているようなものですね。
育てのお父さんは、その工場で働いている人の子供を集めた学校の校長をしてますんです。学校は、小学校と中学校が一緒になったものですよ。育てのおかあさんは、工場の外にある食堂で働いていますね」
話がここまで進んだとき、麗※[#「雨/文」]と私は、取材場所を彼女が住むアパートの一室に移していた。六畳間の部屋には、ベッドがあり、トレーニング用の自転車があり、テレビがある。そのテレビは、だいたいいつもつけっぱなしだ。一二歳以来の、テレビと彼女の密接な関わりは、今もかわらない習慣になっているらしい。
そして、その部屋で取材を始めた頃、彼女は、話をしながら、ずっとテレビの画面に見入っていた。ときどき、唐突に話がとぎれるので目を上げると、麗※[#「雨/文」]は、画面のほうに没頭している。
話をするあいだ、テレビを消してみない? しばらくして、私は切り出した。それを聞いて、初めて麗※[#「雨/文」]は、ようやく、自分がテレビに没頭していることに気がついたようだった。照れ笑いを浮かべながら、彼女はリモコンスイッチを切った。
「育てのおとうさん、おかあさんって言っても、わたしは、ずっと本当のおとうさん、おかあさんと思っていましたね。ええ、そうですよ。ほかにおとうさん、おかあさんがいるなんて考えなかったよ。
それでも、変ですね。初めて、育てのおとうさん、おかあさんのところに行ったときのこと、わたしは覚えてますんですよ。その日は、一日中、親が遊んでくれて、さあ、夕方になりました。そしたら、知らない誰かがやってきて、一緒に行こうって言います。やだ、やだって、わたしはわんわん泣きましたね。それを、覚えてますよ。
本当のおとうさん、おかあさんが日本にいることがわかったのは、小学校六年生くらいのときでしょう。多分、そうだと思います。なぜかというとですね。わたしが小学校三年の頃に、毛沢東《マオツオトン》が……毛沢東ってわかります? その毛沢東という人が死んだのですね。それで、ずっと続いていた運動が終ったんです」
その運動というのは、文化大革命のことでしょう、と私が聞くと、麗※[#「雨/文」]は、それは日本での名前ではないですか、と問い返して、こう言う。わたしたちは、あの運動を革命ということはなかったね。例の運動とか、あの運動って言っていましたよ。
「毛沢東が死ぬ前には、外国人の知り合いがいたり、自分が外国人だったりすることは、とても危ないことだったです。中国人であることはいいことだけれども、外国人であることは、いけないことなのです。
そういう時代には、育てのおとうさん、おかあさんは、私に外国人のおじいさんがいることを隠していました。近所の人たちで、それを薄々知っている人はいましたけれども、おとうさんは、それを口に出さないようにと、その人たちに口止めしていたみたい。
でも、毛沢東が死んで二、三年したら、外国のものを持っていても、外国人の知り合いがいても、それほど危なくなくなりました。それで、育てのおとうさんも、わたしに、日本に本当の親がいることを教えたのですね」
欣治が、南京の※[#「金/(金+金)」]泉に、麗※[#「雨/文」]を日本へ呼びたいという旨の手紙を書いたのは、欣治の一家が桐生に落ち着いてから一年後のことだ。当時、欣治は、妻子を桐生に残し、同郷人が経営している東京の中華料理店、『留園《りゆうえん》』に勤めていた。
「育てのおとうさんが、日本の親のことを話したのは、私のパスポートを取ると決めた日です。
おとうさんは、言いました。手紙がやってきたよ。日本にあなたを呼びたいという手紙がやってきたよって。だから、あなたは日本へ行きなさい。僕は、最初のうち、あなたを日本へやりたくはないと思ったけれども、将来のことを考えたら、日本のほうがよいと思うようになったからって。
おとうさんは、日本には自由があります、と言いましたね。中国にはない自由が、日本にはあると言いましたよ。だから、あなたを日本へやることに決めたって。
わたしは、最初のうち、わけがわからなかった。なぜ、わたしは日本へ行ったほうがよいのでしょう。どうしてでしょう。
おとうさんは、日本には、あなたのおばあさんと、おじいさんの子供たちがいると言いました。それから、一年前からは、そこに、あなたの本当の親と妹弟もいます、と言いました」
麗※[#「雨/文」]の養父、※[#「金/(金+金)」]泉は、大学を卒業したあと、警察学校に行き、上海警察へ勤めた。上海時代に一度結婚したが、彼が南京へ転勤するのをきっかけに、この結婚は破綻《はたん》。彼は、同じように離婚後、南京にきていた戴秀英と出会い、再婚する。麗※[#「雨/文」]という名前は、彼が最初の結婚でもうけた一人娘の名前をとったもの。妻の秀英も、最初の結婚で一人娘をもうけていた。
彼は、南京に転勤後しばらくして、警察を退職する。退職の遠因は、共産党への入党を、再三断わったためだと、※[#「金/(金+金)」]泉は麗※[#「雨/文」]に語ったという。彼は、なかば強制的に警官の任を解かれ、一時は、長江の船着き場で石炭の荷下ろし作業の監督をしていた。その後、彼は、新設された小中合併学校の校長に赴任する。
「わたしが日本へ行くことが決まったあと、パスポートを、おとうさんは取ろうとしました。そのとき、みんなは、とてもびっくりしましたよ。
あのね、こういうことです。
中国でパスポートを取るには、パスポートを出す係の人や、その役所に、何度もしつこく頼みにいかなくちゃいけません。日本とは違います。そして、中国では、パスポートを取らせてもらうことを頼みにいくときには、手ぶらではいけません。もしそうしなければ、いつまでたっても、パスポートは手に入りません。何年たっても、何十年たっても、パスポートは手に入りません。
みんながびっくりしたのは、おとうさんが、私のパスポートを取るために、何度も何度も、係の人にものを頼みに行ったからです。ものを持って、いろんな人に頼みに行ったからです」
おとうさんは、だって、ものすごく頑固だったんですから。とても、とても頑固だったんですから。
麗※[#「雨/文」]は、自分の口調がおかしくなったのか、そう言ったあと、しばらく下を向いてクスクス笑っている。
「おとうさんはね、校長先生になる前、石炭を船からおろして工場の人に売る仕事をしていたの。その仕事をする人は、石炭の値段を、自分が思うとおりに決められます。
でもね、おとうさんは、石炭を、いつも規定の値段でしか売りませんね。船で石炭を運んできた人は、石炭を規定の値段より高く売りたいでしょう。それなのに、おとうさんが、いつも決められた値段通りにしか売らないから、船の人は、困ったみたいですよ。
船の人は、おとうさんに、なんとか高く売ってもらおうと思って、いろんな珍しい食べ物を持ってお願いしにきますね。でも、おとうさんは、それを全部、断わってしまいます。まわりの人たちは、おとうさんを、頑固者って言います。でも、おとうさんは、いつも石炭を安い値段でしか売りません。
校長先生になったときも、同じです。子供の成績をよくしてもらおうと、親が卵や肉を持ってきます。仕事から帰ってきて、家の玄関に、そういうものが置いてあるのをみつけると、おとうさんは、わたしを呼びます。そして、わたしに卵や肉がどっさり入った箱を持たせて、返しにいきますね。
わざわざ持ってきたんだもん。返すことないのにって、まわりの人は言います。わたしも、重い箱を持たされてうんざりしたよ。でも、おとうさんは必ず、返します。
わたしはね、おとうさんに、あなたのこと、近所の人がなんて言ってるか知ってるの? と聞きましたよ。あなたのことを、頑固おやじって呼んでるよって。でも、おとうさんは言うの。それでもいいよ。わたしは、嫌なことは、誰がなんといっても嫌なんだから」
でも、いつか人に頼みごとをしなければならなくなったら、どうするの? とそのとき、麗※[#「雨/文」]は重ねて尋ねた。
娘の問いに、清廉で頑固な父は、どのように答えたか。
彼女はそのときの父の様子を真似して、顎を上にグイとあげ、超然とした物腰で手を振って、次のように言って見せる。私の人生には、人にものを頼むことなんておこらないんだよ。だから、人から頼みを断わられて困ることなんか、ないのだ。小琴《シヤオチン》、あなたは、そんなことを心配する必要はないんだよ。
「本当に、おとうさんは、そうだったんですよ。本当に、それまで一回も、人にものを頼んだことがありませんのです。わたしのパスポートを取ることになるまで、おとうさんの人生に、ものを頼むなんてことはおこらなかったんです。そのときまで。
でも、パスポートを取らなくてはならなくなったでしょう。そのとき、初めて、おとうさんは、ものを持って、何度も人を訪ねました。ものをあげて、お金をあげて、パスポートが早く取れるようにと頼みましたですよ。
みんな、びっくりしましたですよ。わたしも、びっくりしましたですよ。
そんなことは、けして、おこらないだろうと思っていましたので、おとうさんが、人にものを頼むことは、おとうさんの一生に、けしておこらないことだと信じていましたので」
麗※[#「雨/文」]は黙った。再び、話し始めるまでには、しばらくの間があった。
「それは、とてもおかしな一年間でしたよ。今まで見たこともない、おとうさんの姿を、わたしは見ましたですよ。おとうさんは、大変、つらいでしょう。きっと。そうじゃないですか? そうでしょう。ええ、そうですよ。
そういうことを一番嫌っていた人が、そういうことをするのですから、大変つらいでしょう。
だから、わたしは、人に頼まなくてもいいよ、と言いましたです。別に、遅くなったってかまわない。別に、取れなくなってかまわない。わたしは、そう言いました。
それでも、おとうさんは、これは一生に一度のことだから、と言うのですね。一生に一度だけですから、僕は自分の考えを曲げましょう、とおとうさんは言うのですね。
あなたは、早く日本へ行きなさい。なるべく早く、日本へ行きなさい。おとうさんは、私に言いました」
国内での取得最短期間と言われている一年間で、麗※[#「雨/文」]のパスポートは取れた。
※[#「金/(金+金)」]泉は、自らの人生哲学を曲げた対価として、娘の将来の自由をあがなった。そして、半年後、彼女は、この自由の国≠ナ、女子プロレスという将来をみつけたのだ。
■女子プロレス界の初期
ところで、誕生から、麗※[#「雨/文」]が日本へやってくる一九八〇年代にいたるまで、女子プロレスは、どのような活動を続けていたのだろうか。
女子プロレスの興行団体が複数誕生するのは、一九五四年以降。最高時で、全国に七社あまりのプロレス団体が発足し、そのうちの六社が全日本女子プロレス連盟を一九五五年に結成した。だが、初興行以降の興行の失敗とともに、一九五〇年代後半には、女子プロレスは風紀上好ましくないショーだという世論が高まり、各地の体育館が興行会社に会場を貸し出さなくなる。このような低迷期を経て、女子プロレスが再興したのが、全日本女子プロレス興業が在来団体から独立し、全国巡業を開始した一九六八年だということは前述した。
ところで、女子プロレスのTV放映が始まったのも、全国巡業が始まるのとほぼ同時期である。
TV放映開始直後の女子プロレスラーは、写真で見るかぎり、どうも全員が黒い学校用水着のようなものを着ているようだ。古い粒子の荒い写真で見るせいもあって、当時の女子プロレスラーの試合には、かつての女相撲が持っていた質朴な華やかさというものさえ感じられない。
それでも、初めての女子プロレスTV実況中継となった、アメリカ人女子プロレスラー・ファビュラス・ムーラと、日本女子プロレス協会に所属していた小畑千代《おばたちよ》との対戦は、東京12チャンネルで放映され、一七・三%もの高視聴率を記録したという。同じ、東京12チャンネルでは、この時期、男子プロレスの興行団体のひとつである国際プロレスの放送の中で、男女のプロレスラーの試合を並列的に放送していた。TV放映が始まって四年後の一九七二年には、日本女子プロレス協会が消滅。以降、女子プロレスの興行は、おおむね、全日本女子プロレス興業に独占される。
女子プロレスの地味なイメージを、ドラスティックに変えた最初の人物は、この全日本女子プロレス興業から、TV放映開始六年後の一九七四年にデビューした、マッハ文朱《ふみあけ》という選手だ。一六歳の彼女は、初めて、テレビという媒体をフルに活用した女子プロレスラーだった。
彼女は、それまでの女子プロレスラーがただ黙々と試合する姿を固定カメラで撮影されるだけだったのに対して、動きの大きい派手な技を多用しただけでなく、リングの上で歌も歌った。試合中継そのものの技術も、その頃になると、ハンディカメラなどが導入されたことにより、高度化が進んでいる。そのため、マッハ文朱の派手な動きや表情や声は、固定カメラ一本槍だったそれまでと違い、至近距離から生き生きと視聴者に伝えられた。女子プロレスの芸≠ヘ、こうしてテレビと合体することによって、より現代的に、また演劇的になったわけである。そして、このような変化は、新しいもの、ドラマティックなものへのアンテナが発達したティーンエイジャーの女の子を観客に集める要因となった。
マッハ文朱の三年後にデビューした、ビューティー・ペアというタッグチームの出現は、この傾向をさらに強めた。タッグを組んだのは、ジャッキー佐藤と、マキ上田の二人。これに、ヒールとして阿蘇《あそ》しのぶ、池下ユミなどの選手が配置され、他方、トミー青山、ルーシー加山など、他のベビーフェイスの選手が側面からからんで、女子プロレスの第二次ブームは構成された。
一九七七年七月、ビューティー・ペアのブームは、ついに、フジテレビのゴールデンタイム枠を獲得するまでに成長する。この定時放送の視聴率は、平均二ケタを確保した。そして、同年一一月一日に行なわれた、ジャッキー佐藤と、マキ上田のシングル対決戦の成果は、日本武道館での集客数一万二〇〇〇人、視聴率にして二二・二%もの高人気を獲得する。
この女子プロレスの定時放送は、約二年あまり続いた。だが、一九七九年に入ると、ブームは次第に下火になり、同年九月には女子プロレスは不定期番組へと切り替えられていく。麗※[#「雨/文」]が、桐生の市営アパートで見た女子プロレス放送とは、この不定期放送時代が三年目を迎えた当時のもの。そのとき、次のブームは、ほんの目前まで迫っていた。
結局、第三次のブームをになうことになったのは、一九八〇年にデビューしたライオネス飛鳥《あすか》と、長与千種《ながよちぐさ》が、デビュー三年目に組んだクラッシュ・ギャルズというタッグチームだが、そのうちの一人、長与千種を、私は、ブームの最盛期から引退までの期間、プロレス雑誌の誌上で継続的にインタビューをしていた。
長与は、一九六四年、長崎県|大村《おおむら》市生まれの女性である。元競輪選手で、引退後の商売に失敗した父親を持つ彼女は、子供の頃から空手を習っていた。そして、一〇歳のときに、深夜テレビで見たおなごプロレス≠ノとりつかれた。おなごプロレス≠ニは、彼女が長崎弁で言う女子プロレスのことである。
彼女とプロレスの関わりについてのインタビューは、のべ五年におよぶ期間に、四本の長期連載とかなり多くの単発記事にまとまった。たとえば、彼女が生まれてから、ブームの中核選手に成長するまでの二〇数年間についてのインタビューを、私は、『長与千種全記録』という連載タイトルで、プロレス専門誌「デラックスプロレス」一九八五年一二月号から八六年五月号にまとめた。この連載の中で、彼女は、一九八〇年にデビューしてから、クラッシュ・ギャルズが結成され、第三次ブームが端緒《たんしよ》につく一九八三年までの事情を、自分史に重ねあわせた形で、次のように語っている。
当時、長与千種は新人選手から中堅にさしかかる時期。そして、当時の全日本女子プロレスは、低迷期ながら、ミミ萩原、ジャガー横田、デビル雅美の三人の看板選手、および、ジャンボ堀、大森ゆかりの中堅タッグチームの人気によって支えられていた。
[#ここから1字下げ]
一九八〇年(昭和五五年)一六歳
日清食品が七〇円ラーメンを販売しはじめる。交通事故も増えた。この年の交通事故による死者は九五二〇人。一日平均二六・一人が交通事故で死亡した計算だ。
四月二五日=銀座の昭和通りでトラック運転手が一億円入りのふろしき包みを拾う。
七月一五日=牛丼の『吉野家』倒産。
全日本女子プロレスではこの年の一月、ジャッキー佐藤とトミー青山がベルトをかけたシングル戦を行なった。世代交代と第二次ブームの終章が交錯した一年だった。一二月にはジャガー横田がジャッキー佐藤に一回目のベルト奪取戦を挑んでいる。
千種、中学卒業。四月に女子プロレス入りする。
卒業式では後輩たちが泣いて別れを惜しんでくれた。学生カバンが後輩たちのくれたプレゼントでパンパンにふくらみ、歩くたびに脚にぶつかった。ふつう人気のある先輩が卒業するときにはセーラー服のスカーフやボタンを後輩が欲しがるものなのだが、千種の場合は少し事情がちがっていた。涙で顔をベトベトにした後輩たちは、千種のスカーフを奪い取るかわりに、自分たちのスカーフを胸からはずして結びあわせ、長い長いレイのようにして千種の首にかけてくれたのだ。
首に長いレイを何重にも巻きつけ、パンパンにふくらんだカバンを脚にぶつけながら、千種は卒業式の午後、校門から家へむかう坂道をヨロヨロ歩いていった。
これが、千種の学校時代最後の光景になった。
「卒業してから上京してオーディションをうけにいったんだけど、本来のオーディションっていうのは、本当はその前の年の暮れにおわっていたのね。オーディションするっていう通知が村までこなかったから。大村は田舎だから、千種、そんなものがあるということさえしらんかった。
千種、だから最初から出遅れ≠セったわけですよ」
初めてオーディションの詳細を知ったのは、卒業式の少し前のことだった。もちろん、正規のオーディションは終わったあとである。
千種は『月刊平凡』をみていて、女子プロレス募集要綱なるものを発見した。その要綱には、一五歳以上、一六〇センチ以上で腹筋二〇回、腕立て伏せ一〇回、縄飛び三分間以上できる人に資格があると書いてある。
「へえ、それだけでいいの? そんだけでプロレスばぁなれんの? つー感じだったよ」
一〇歳のときからプロレスになる≠アとだけを夢みてきながら、実際のところ千種は、いったい具体的にどうしたらプロレスになれる≠フかについては考えたことがなかったのだ。
千種はずっとプロレスになる≠スめには、ただ夢みるだけで十分なのだと信じていたのである。
その要綱の一番下には、応募資格の欄に押しつぶされるようにして月給一〇万円以上≠ニいう記載があった。
「すごいやないねぇって思った。
プロレスばぁなっと、月に一〇万円ももらえるんだと! こりゃあ、牛ば買えるわぁ! 本気で、そう思った。牛、ゆうのはですね。そのぅ、その頃は土地を持ってるんが金持ちやと思てましたからね、一〇万円で土地を買って、そこに牛を飼ったら、もう絶対これは金持ちや、と。誰がなんと言っても金持ちにきまってる≠ニ。
金、土地、牛。そのあたりで金持ちのイメージが止まってたのね」
だから千種は、『月刊平凡』を読み終わると両親にこう宣言した。
「オレ、プロレスばぁなって、月に一〇万円の半分は仕送りしたる。その金でオヤジに牛買ってやる」
本気だった。
(中略)
五月一〇日、千種はプロテストに合格する。八月八日、トミー青山の引退式の日、田園コロシアムで千種は大森ゆかりとデビュー戦を行なう。プロテストに合格して以来、ずっと着たきり雀だった青いストライプの水着から、初めてサーファーのイラストのついたベビーブルーの水着に着替えての対戦だった。
デビュー戦は結局、負けた。
「そのころかなあ、ライオネス飛鳥さんという先輩が、東京にきて初めてタクシーにのっけてくれたのね。で、ライオネス飛鳥さんは、あたしたち新人をケンタッキーフライドチキンにつれていってくれた。あたし、東京でタクシーに、親以外の人と乗るの初めて。ケンタッキーフライドチキンも初めて。店でとってもらったコンボスナックつー食べ物も初めて。あたしにとってこんなにたくさんの初めて≠ヘッチャラな顔でできるライオネス飛鳥さんは、なんてすごい人だろうと思った。
んでもって、ケンタッキーフライドチキンの店内をね、じいっとみて……店ん中の景色、すみからすみまで頭ん中に刻みつけるくらいじっとみてね、じっと見て見て見て見て……ここがレスラーがものを食べる店なんだなぁって。あたしもこん店で食べてレスラーになるんだぁって」
そのコンボスナックを千種は必死になって呑み込むように食べた。必死だったのはその当時、千種は肉が大嫌いだったからだ。それでもなんとか食べられたのはコンボスナックがレスラーの食べ物≠セったからにちがいない。
毎日毎日が新しく、ワクワクする事件の連続する中で、ひとつき一〇万円のはずの給料が実際には一万円だったことが、唯一拍子抜けする事実だった。
一九八一年(昭和五六年)一七歳
一月二〇日=郵便料金値上げ。葉書は三〇円。封書は六〇円になる。
七月七日=新札紙幣の顔≠ェ決定する。
この年の二月、ジャガー横田がついにジャッキー佐藤からタイトルを奪取。だが全日本女子プロレス全体の興行成績はこの年、最低ラインをさまようことになる。客が入っても三〇〇人止まり、というような日が続く。ブームとブームの谷間だった。
千種、この年の暮に新人王をとる。一年後輩にまざっての勝利だ。肝臓をこわし全身の湿疹に悩まされた。
レスラーになって二年目で、千種はレスラーでいることの苦しさを知る。その苦しさの最初の原因は、一〇歳のときから続けてきた空手。いわば長与千種の看板商品だった。
「みんなが言ったよね、あたしに。あんたは空手がある。空手っていう個性がある。人よりいいものがある。だから楽だよね、いいよね
あたしは思ったよ。なーんがラクか、と。空手、空手て言うけど、なんがわかっとんのか、と。なんが……空手のなんが……わかっとんのか、と」
(中略)
たとえば回し蹴りがそうだ。千種は、先輩から回し蹴りは胸板以外のところに入れてはいけない、と言われた。
「胸板! 胸板ってね、聞いてよ、胸板って人間の体ん中で一番痛くないとこなんよ。いっとうニブイとこなんよ。ショックを感じにくいとこなんよ。あたし知ってるのよ。
そこに回し蹴りいれて……わざわざニブイところ蹴って……どうすんの。教えてよ。教えられんなら教えてよ」
回し蹴りは、本来、脚を相手の胃か、さもなければ顎の先端にヒットさせたときに、初めてその目的を果たす。胸板へ脚をヒットさせることを強要される回し蹴り≠ヘ、千種にとって、すでに空手技とは呼べないものだった。
「あと、足刀《そくとう》ってのがあんの。飛び上って足の踵《かかと》の横で相手を蹴って倒す。これが足刀。これをやれって言われる。
無理だよ。これは無理ですよ。だってレスリングシューズはいてるでしょ。それだけで踵の横で蹴ることができない。で、それなら足の裏で相手を押して倒せっていわれる。あんねぇ、これ、もう足刀じゃないって。足刀じゃないですよ。足の裏で蹴ったら足刀は足刀じゃなくなるっての。足で押し倒したら足刀じゃないっての」
だが、先輩からやれといわれたものは仕方がない。千種は足刀でない足刀、回し蹴りではない回し蹴りを空手技≠ニしてやりつづけた。足の裏で蹴る足刀は、あっと言うまに選手間でイヌのションベンというアダ名をつけられる。千種はこのアダ名を虚しい気持ちできいた。
「怒る気ぃしなかった。イヌのションベン? ああ、いいわよ。だってね、あれ、空手じゃなかったから……イヌのションベンだろうと……ネコのションベンだろうと……どうでも言えばいいよ、どうぞ!」
(中略)
千種は次第に誰とも話さなくなっていった。唯一の話し相手は時折、電話で話す父だった。
「オヤジにね、何度も何度も言った。オヤジ、みんなぁ、オレに空手ば使えー使えーいうばってん、空手ば使えやせん。オレ、空手ば使えやせんって。
オヤジ、黙ってしまう。もう、そんときあたしがかかえてた問題、オヤジの想像力を超えてたんよ。空手ば使えいうばってん使えん! ゆーたってね、オヤジ、それがどういう状況かわからんかったでしょ」
自分の部屋の二段ベッドの上段で目をつぶっているときだけが、自分が自分にもどることのできる時間だった。自分のまわりに薄い膜、透明なカベができたように感じていた。そのうちに全身に湿疹が吹き出した。ストレスが原因となった一種の肝臓障害だった。
(後略)
一九八二年(昭和五七年)一八歳
昭和五七年の日本の人口は一億一八六九万人。出生率、死亡率とも世界的にみて最低のランクに入った。
六月=東北・上越新幹線開通。
女子プロレスは興行的にまだ低迷期である。
千種、四月にジャンボ堀のオールパシフィック王座に挑戦、敗れる。夏には大宮で全日本ジュニア王座のベルトをとるが、福島での初防衛戦で立野記代に敗れる。
沖縄の闘牛場での雨天試合で右膝を初めて亜脱臼した。雨でツルツルすべるマットに足をとられて膝をねじったとき、体の中で何かが激しく壊れる音がした。
バスまで痛みをこらえて歩いていったが、バスのステップに這いあがることができなかった。車輪の横に大きくひろがった水たまりに左膝をつき、両手でけがをした膝をかかえ、泥まみれの千種は声を出さずに泣いた。声を出すとギクンギクンと痛むのだ。雨がまだ降り続いていた。
「なんだつーのよ、いったい」
うずくまりながら独り言をいっていたのを覚えている。ケガは、いつも千種にとって不条理なのだった。
嫌なことは数え始めたらキリがない。昨年暮れに新人王をとったらとったで、何かにつけて、「ベルトをとったからといってつけあがるな」と怒鳴られるのも嫌だった。
給料が三年目になってもまだ要綱にあった一〇万円に達っさず、せいぜい七万円にしかならないのも嫌だった。あんまり貧乏なのでジャージを二枚しか買えず、いつもドロドロの格好をしているのも嫌だった。
(後略)
一九八三年(昭和五八年)一九歳
昭和五八年の日本の離婚件数は一七万九一五〇。史上最高を記録する。この年の冬は寒さが厳しく、三月になっても各地でドカ雪がみられた。夏はうってかわって猛暑。異常気象で明け暮れた。
一月二六日=ロッキード事件被告・田中角栄に懲役五年、追徴金五億円の求刑。
全日本女子プロレスは、これまでの沈滞ムードを吹き飛ばす新しい血≠フ出現を、他のどの年よりも切実にのぞんでいた。この時期、スター選手の最右翼、ミミ萩原がすでに二六歳。全日本女子プロレスの金看板を今後もしょって立つことは徐々に困難になってきていたのだ。
その新しい血≠ヘ実に意外なところから誕生した。エリート幹部候補生のライオネス飛鳥と、プロ入り以来、まったくの芽の出なかった長与千種の結合からである。
一月四日、ライオネス飛鳥と全日本選手権のベルトを賭けたタイトル戦をやる、とわかったとき、千種は、即座にこの試合を最後のものにしようと決めた。もうおわりにしよう。イヌのションベンだの、空手もどきだのといわれるのはたくさんだ。ホントのこと≠ェ何ひとつない世界で長与千種は生きられない。
その最後の試合の相手がライオネス飛鳥であることに対しては、なんの感慨も湧かなかった。
第一、飛鳥とはロクにしゃべったことがないのだ。
無縁の人なのだ。
「飛鳥は太陽。おひさま。カゲリのない人。そう信じていたよ。心から。
あん人にはプロレスに対する不満やら、いっこもないでしょ、てね。思ってた。
トンちゃんは(飛鳥の愛称)太陽。あたしはドン底の人間。縁をつくろうといったって無理な話やと思てた」
だからなおさら不思議なのだ。試合の前日、なぜ自分が無縁の#鳥に話しかけようと思ったのか。
「わかってもらおう? 全然、思ってない。ライオネス飛鳥に長与千種をわかってもらえるはずない。
でも話そう。そう思った。話そう。
最後なんだから、これで最後の試合なんだから、もうどう思われてもいいよ。席を立たれてもいいよ。ホントのこと言わなくちゃ、うち、死んでしまうよ。生ききらんよ。
聞いてほしいなんて、これっぽちも思ってなかったですよ。ちがうんですよ。自分んために話したんですよ。もう……もう耐えられなかったんですよ」
トンちゃん、ちょっとこっち、といって千種は飛鳥を応接間に呼んだ。ソファーに座ると同時に千種は話し始めた。
「明日の試合は二人とも決まり≠忘れてやってみん?
あそこ蹴っちゃいけないとか、こういう技の次はああしなくちゃいけないとか、そういうのなし。一切なし。やりたいことやんの。んでもって、思い切って、全部、自分たちのものを出し切ってのびのびね、今までと全然ちがうことしてみたいん。
プロレスとちがうっていわれても、いいと思ってる。プロレスとちがうプロレス、うちはやってみたいの。うちらが日頃からこういうのやれたらなあ≠チて思ってる夢を、全部ぶつけてみたいん。夢でプロレスをやってみない?」
千種はこう言いながら、次の瞬間にも飛鳥が、
「あんたぁ、何、バカいってんのよ」
といって部屋を出ていくだろうと半ば信じていた。だから、飛鳥がすぐにこういったとき、千種は一瞬、それが何かのまちがいじゃないかと思ったくらいだ。
「あたし、ずうっとそう思ってきた。ずっとそうやりたいって思ってた。ホント、ホント、ずっとずっと昔からそう思ってたの」
飛鳥の言葉がようやく頭の中に落ち着いたとき、突然、音を立てて胸の奥の凍土がとけ始めた。
(中略)
翌日の試合は殴り合いで始まり、飛鳥は場外で千種に猛烈な蹴りを叩き込んだ。
「際限もなく蹴られながら、あたし、感じたね。飛鳥は飛鳥自身の何かを蹴り破ってんだって。
飛鳥はそんとき、今までの女子プロレスっていうのを全部しょいこんでた。
んで、あたしは、その今までの女子プロレス≠破壊しようとする力だったんやと思う。破壊者・千種!
飛鳥は、あたしっていう破壊者を蹴って蹴って蹴りまくって叩きつぶそうとして、結局、自分自身で今までの女子プロレス≠フ枠をぶちやぶったんだと思う。そう感じた。
あたしには、あんときのあたしは、飛鳥の顔が何人もの先輩の顔に重なってみえたん。ホントのとこ、飛鳥は飛鳥じゃなかった。あたしが自分の力を全開にしてぶつかってんのは、飛鳥一人じゃなかったん。もっとたくさんの人たち、プロレス全体、ものすごく、ものすごく、ものすごく大きなもの」
結果はフォール負けだった。
(中略)
千種の最後の試合≠ヘ、結局、千種自身の予想を裏切って、みんなの支持を得ることになった。しかし、それから八月にクラッシュ・ギャルズを結成するまでの七カ月間、千種も飛鳥も今までにないスランプを経験する。
「あんな試合を経験したあとでは、今までの試合がどうやってもできなくなるですよ。ホンモノの味を知ったんだもん。もうだめよ。そういうもんよ。ホンモノっておそろしい」
(中略)
千種にとっても飛鳥にとっても、出口のない洞穴をさまようような七カ月がすぎた八月二七日、ついにクラッシュ・ギャルズが誕生した。初めてのコスチュームは、千種がデビル雅美にイメージを伝えて注文してもらった。三万円とちょっとしたことも憶えている。渋谷のチャコットにとりにいったときには胸がワクワクした。そのころは全然お金がなかったので、代金の三万円はデビルに借りたんだと思う。
ジャンボ堀&大森ゆかりのWWWAタッグ王座のベルトを賭けたタイトル戦が、クラッシュ・ギャルズの誕生第一戦だった。試合の前に千種と飛鳥は、後楽園のジェットコースターに乗った。ジェットコースターのグラインドにキャーキャー言いながら、千種は自分のこわさと同時に、飛鳥が感じているこわさをひしひしと感じとっていた。試合は結果的に負けたが、それはクラッシュ・ギャルズ誕生にふさわしい、熱くて、まったく新しい試合になった。千種は試合後、殴られた顔を赤く火照らせながら、これがフィーバーというものだと感じていた。この年の猛暑にとって、この試合はまったくお似合いのものであった。
[#ここで字下げ終わり]
長与千種が仕掛け人となり、ライオネス飛鳥とのタッグチーム、クラッシュ・ギャルズが試みた女子プロレスの新しい形とは何か。
それは、従来の女子プロレスの形式重視の姿勢を崩し、格闘するという本能的欲求をストレートに表現したものだった。実際、彼女たちは、リングの中で、非常に速いスピードで飛び回った。彼女たちにとって、闘志をむきだしにして相手と組み合い、投げ、蹴り、組み伏せることが、ひとつひとつの技の型をきれいに成功させることよりも重要だということは、試合が始まって数分たてば、誰の目にも明らかになった。彼女たちが観客に訴えたかったのは、女子プロレスはいわばしょっきり≠ナはなく、実戦の本質を持った何かなのだ、という事実だったのである。
このような試みは、観客にとって、あながち受け入れやすいものではなかった。なぜなら、それまでの女子プロレスというものは、プロレスを見慣れた観客にとって、安心感のあるショーだっただろうから。従来の女子プロレスの試合で、ある技のあとに、どのような技が続くかを予想するのは、さほど難しいことではなかったはずだ。選手たちは、あくまでも決められた技運びの型どおりに試合をすることが多かったのである。それに対して、クラッシュ・ギャルズの女子プロレスは、パターンを無視して、ただ闘志のおもむくままに飛び回った。予想をたえまなく裏切る、異常なほどスピーディーで荒っぽい動きは、観客をとまどわせ、不安にさえさせた。
また、そういった予想外の動きは、相手となったレスラーをも困惑させるものだった。実際、初期のクラッシュ・ギャルズの試合は、対戦相手との呼吸を眼目《がんもく》に入れていなかったので、結果的には、とまどう対戦相手を尻目に、彼女たちだけが、リングの中で荒れ狂っているように見える場合も多かった。ただ、ティーンエイジャーの観客のみが、当初から、クラッシュ・ギャルズの意図を直感的に、そして全面的に理解したようだった。彼女たちは、地鳴りがするほどの足踏みで、荒れ狂うクラッシュの試合に同調し、突発的なブームを作りあげていった。
なぜ、この年代の女の子たちだけが、クラッシュを受け入れることに躊躇《ちゆうちよ》がなかったのか。
女性は、男性よりもはるかに早く、一二、三歳で成人とほぼ同じ肉体的な力を備えるという。要するに、女性にとって思春期前とは、肉体的な力と社会的な成熟が、もっともアンバランスになる時期なのだ。自分でも持て余すほどの力を、合理的に行使する術を与えられていない女の子たちにとって、クラッシュ・ギャルズが訴えたむきだしの闘志の存在は、本能的に共感できるアピールだったのではないか。
彼女たちは、試合とクラッシュ・ギャルズそのものを自分たちのものにするために、会場の興奮に全精力を注ぎ込んだ。そして、ついに中年男性の観客にカエレコールをあびせて、会場を占領したのだ。
それが、私が初めて女子プロレスを知ったとき、目撃した光景だったのである。
クラッシュ・ギャルズのブームは、一九八四年に入って本格化した。
女子プロレスの定期放送は、一九八四年七月九日から、フジテレビでの定期番組に返り咲く。視聴率は、半年後には二〇%台にのぼり、ブームは全国に伝播《でんぱ》。クラッシュ・ギャルズは、同年八月にはレコードデビューして、芸能面での地盤を固める一方、九月にはWWWA(世界女子プロレス選手権)のタッグチャンピオンとなる。
WWWAのベルトは、全日本女子プロレスの権威を象徴するものだ。そのベルトを持ったということは、クラッシュ・ギャルズが、女子プロレスラーのヒエラルキーの最高地点に立ったことを意味した。同時にこのベルトは、全日本女子プロレスという会社において、長与千種とライオネス飛鳥が、もっとも有利な社内的立場を握ったことを意味するものでもあった。
かつて、女子プロレスの型のために、空手の型を不合理に変容させられ、女子プロレスにはホントがない≠ニ苛立っていた長与千種は、ついに、女子プロレスのコンセプトを、自ら左右できる幹部社員となったわけだ。もちろん、その頃には、ほかの選手たちの間での、彼女たちのプロレスに対するとまどいは消え、二人は以前よりずっと試合がやりやすくなっていた。また、当初は、かなり荒っぽさが目立った彼女たちのプロレスも、周囲に受け入れられるにつれて洗練されてきた。従来の型≠壊したとはいえ、ライオネス飛鳥と長与千種は、芸能としての女子プロレスが持っていた本来のリズムや、試合運びの緩急までも無視したわけではない。
「私は、女子プロレスに|ふりがな《ヽヽヽヽ》を振った人間やと思う。それまでの女子プロレスは、いわば、漢字ばっかりで、古臭くて、読みにくいプロレスだった。読める人にしか、読めなかった。それに、私はふりがなを振ったのよ。だから、どんな人でも、女子プロレスを読めるようになった。私がやったことは、そういうことだと思う」
長与千種は、たとえばこんなふうに、自分たちのプロレスを表現しはじめた。クラッシュ・ギャルズのプロレスは、新しさと同時に、若い観客にとってのわかりやすさをめざし、それに成功しつつあった。以前は、線の細かった彼女が、一変して自信にあふれた風貌になってきたのも、この頃だ。そして、彼女はプロレスだけでなく、インタビューにも、独自のスタイルを持ち始め、この頃には、彼女とのインタビューが、私が問い、彼女が答える形から、彼女がプロレスのさまざまな側面のイメージを頭に浮かぶままに、機関銃のようにしゃべりまくり、私がそれを追う形に変わっていった。彼女は言葉でプロレスを語ることによって、自分とプロレスの距離がさらに近づくと確信していた。
彼女のそういった傾向を、読者は敏感に感じとり、彼女がどのようなプロレスをするかだけでなくどのようにプロレスについて語るかにも注目しはじめた。長与千種という選手は、プロレスをすることにおいても、また、プロレスを語ることにおいても、一種のカリスマ性を発揮しはじめたのだ。
一方、もう一人のクラッシュ・ギャルズである、ライオネス飛鳥は、ブームに対して、長与より冷静だった。また、自分のプロレスを言葉に乗せてイメージ化すること、さらに、言葉によるイメージを実際のプロレスにフィードバックしていくことは、それほど必要でもないし、不得手《ふえて》でもあると感じているようだった。そのため、私がインタビューする機会は、圧倒的に、長与千種のほうが多かった。
■孫麗※[#「雨/文」]から天田麗文へ
麗※[#「雨/文」]は、その頃、桐生から東京に出てきていた。彼女は、東京の知人のアパートに寄宿して、全日本女子プロレスが経営するスポーツジムに通うようになっていたのである。そのため、中学は、二年の秋からほとんど行かなくなったが、本人が高校に進学するつもりがなかったため、中学側も、彼女のスポーツクラブ通いを黙認する形になった。
彼女は、一回、五〇〇円のスポーツクラブに通って、プロレスの基礎訓練を受けた。訓練の内容は腹筋、背筋などの基礎体力運動に、受け身と、アマレスのスパーリングをあわせたようなものだったと、彼女は表現する。その中でも、受け身の練習に割かれる時間は、圧倒的に多かった。これは、プロレスに占める受け身の役割が、ほかの格闘技に比べて、はるかに大きく、また異質なためだろう。
たとえば、ほかの格闘技での受け身は、もっぱら練習時に使われるものだが、プロレスでは、練習だけでなく、実際の試合中にも、受け身を多用する。そして、実際、プロレスでの受け身のとりかたは、技をかけられた衝撃を和らげるという本来の目的以上に、より積極的で演劇的なものだ。選手たちは、相手の技を受けた衝撃を、受け身をとることによって大きくアピールする。そして、このエネルギー増幅作用によって、試合の緩急の見せ場を作り上げていくのである。
だが、他方で、このような技と受け身の対応が形骸化すると、プロレスは陳腐《ちんぷ》で退屈なショーでしかなくなる。低迷期にあった長与千種が嫌気がさしたものも、また、このような形骸化したルールに縛られたプロレスだった。
だが、当時の麗※[#「雨/文」]は、そのようなプロレスの内面の葛藤を知るはずもない。彼女にとって、プロレスとはテレビに映る世界そのものだった。麗※[#「雨/文」]は、テレビの画面ごしに、現実に触れることができることを疑わなかった。そして、中学の卒業が目前に迫るまで、そのスポーツクラブで受け身と、アマレスのスパーリングだけを重ねた。
「そのスポーツクラブには、レスラーになりたい女の子たちが一〇人くらいきていましたので、わたしは、その人たちと話をしました。でも、わたしと、その人たちと、ちょっと違いますね。
そうですね。わたしは、プロレスを食べるためにやる。中国に帰るため、ホテルの夢をかなえるためにやる。でも、ほかの人たちは、クラッシュ・ギャルズになるために、プロレスをしますね。クラッシュ・ギャルズは、その頃に、もう、大変人気がありましたですから、みんな、クラッシュ・ギャルズになるためにプロレスになる。私は、へえ、そういうふうに思う人もいるのかって思いましたね。やっぱり、中国人と日本人は考えることが、ちょっと違いますねと思いました。
日本語はね、その頃には、プロレス雑誌読んだり、プロレスのテレビ見たり、漫画のテレビ見たりしましたから、難しいことは駄目だけど、一日にあったことくらいはね、日本語でしゃべれるようになってたですよ。だから、その人たちとも話せたの」
東京での、麗※[#「雨/文」]の寄宿先の主は、中国人留学生だった。
「その人は、おとうさんの知り合いの女の人で、昼間働いていて夜はアルバイトしてる。私が帰ってきたときにはいない。その人が家を出ていくときには、私が寝ている。だから、何やってる人かわからない。あれだけ長くいたですけど、一度もしゃべらなかったですよ。日本語でも、中国語でも」
麗※[#「雨/文」]は、頭をかしげて自問する。私は、なぜ、中国人の知り合いが少ないんでしょう。この国で私には中国人の友達がいません。みんな、どうしているのでしょうね。この国の中国人は、どうしているのでしょうね。
それは、中国残留孤児と呼ばれる立場の人たち全般にわたる感慨ではないかと、私は思った。彼らは、日本人でもなく、また、この国に長く住んだ華僑でも、留学生でもないのだ。
「おとうさんは、毎日、心配して電話をかけてきますね。それで、今日は、下宿先の人としゃべったかい? と聞きます。私は、ううん、今日もしゃべんなかったよって。
どういう人だったのでしょうね。今も考えますよ。どういう性格? どういう人? 全然わからないよ。あれだけ長くいたのにねえ」
このような娘の状況が心配でもあったのだろう。そのうち、欣治は、桐生で営んでいた中華料理店を妻にまかせて、東京に寄宿した麗※[#「雨/文」]の様子をみるために、上京をくりかえすようになる。彼が、こうして店をあけることが多くなるにつれ、如才のない彼の応対を目当てにきていた客は減り始めた。佩琴は、もともと商売にむいた性質ではなかったので、欣治は中華料理店を閉めていることが多くなる。そのうち、店の借賃と、麗※[#「雨/文」]の寄宿経費が家計を圧迫しはじめ、まもなく、彼は店をやめた。
麗※[#「雨/文」]の国籍が日本籍に変わったのは、この頃だ。将来、子供たちが働くとき、外国籍では不都合が多いだろうと判断した欣治は、麗※[#「雨/文」]を初めとする四人の子供と妻の日本国籍取得を申請して受け入れられた。子供たちの姓は孫から天田にかわり、佩琴は、富子《とみこ》という日本名を名乗ることになった。
こうして、孫麗※[#「雨/文」]から、天田麗文《あまだれいぶん》に名前を変えた彼女は、一九八五年暮、全日本女子プロレスへ入社するためのオーディションを受ける。
結果は不合格だった。
「オーディションは、何回かにわけて人数をしぼっていく形です。わたしは、三回目で落ちてしまった。それまで、まったく落ちるということを考えてなかったです。だから、学校がほかの就職口を探してくれるというのも断わってしまっていましたので、目の前がまっくらになったですよ。
理由を聞きにいきました。落ちた理由です。自分では落ちる理由がないと思っていましたので、なぜ、わたしを不合格にしたのか、会社の人に聞きましたよ。会社の人はね、わたしの体が、まだ完全にできていないと言うの。外側はできているけれども、中味がまだできあがっていないと言いました。まだ、できあがっていない体だから、落ちたんだよ、と言われました」
彼女は、その会社のスタッフが、目の前にいるかのように首を横に振り続ける。
「これ、どういう意味でしょうね。わからない。体の外側はできているけれども、内側ができていない? わからない。どういう意味でしょう。
わたし、それではわからない、と言いました。納得できないと言いました。そして、わたしは空手着を着ていましたので、それから、おとうさんは瓦《かわら》を持ってきていましたので、その瓦を割ると、会社の人に言いましたよ。わたしは、三枚、瓦を割りましたね。でも、次に突きで割ってみなさいと言われたら、わたしは瓦を割れませんでしたよ」
それで、仕方がなかったから帰りましたよ。麗※[#「雨/文」]は苦笑しながら回想する。彼女は、展望のないまま、またスポーツクラブに通い始めた。そのうち、年が明けてすぐに二回目のオーディションを行なうという通知が桐生の自宅に届く。彼女は、これを見て、今度は、受かるにちがいないと一安心した。プロレスラーになれるかどうかという問題に関しては、彼女は終始、非常に楽観的だったのである。
しかし、客観的に見れば、彼女がプロレスラーに本当に向いていたかどうかについては疑問が残る。第一、彼女は、非常に恵まれた体格の持ち主とは言えなかった。日本にやってきたとき、麗※[#「雨/文」]は、一六七センチの身長に、体重四五キロという、華奢《きやしや》な少女だったのだ。ところが、その体重を、彼女はプロレスにめざめてから、わずか三年足らずで、七八キロにまでむりやり増やしたという。とにかく体さえ大きければプロレスラーになれると、彼女は素朴に信じ込んだのだ。もちろん、それなりに運動もしただろう。しかし、三三キロもの急激な増量は、成長期の彼女の体に大きな負担をかけずにはおかなかったはずだ。興行会社のスタッフがオーディションのときに指摘した、彼女の体の脆《もろ》さとは、ひとつには、この急激な体重の増加を支えきる骨格ができあがっていなかったことではないかと、私は思う。
そして、スタッフの指摘の正しさは、スパーリングでの勝ち抜きの形で行なわれた二回目のオーディションのときに、早くも証明された。彼女は、スパーリングの最中に、自分の体重を支え切れずに肩を脱臼したのだ。それは、それからのレスラー生活で、彼女につきまとった故障の皮切りでもあった。
「肩がはずれたのは、スパーリングも最後のほうです。自分では、肩がはずれたのはわかりませんのです。ただ、どうしても力が入らない。一生懸命、相手を持ちあげようとします。けれども、力が入らないの。なぜだろうな、と思っていたら、そのスパーリングがおわったところで、社長に呼ばれました。
社長は、今、肩が痛くない? と聞きましたね。わたしは、痛くはないけど、力が入りませんと言いました。そしたら、社長は、それは肩がはずれているんだよって。はあ、はずれてるんですか、って、わたしは言いましたね」
大丈夫。不思議に、そのときは全然痛くなかったんですよ。
私の表情を見て、なだめるように、彼女は言う。
こうなっただけよ。片手がダランとなっちゃっただけ。
「社長は、はずれた肩を元通りに入れてくれました。そして、もうやらなくていいから、帰りなさいと言いました。
帰ったら落ちちゃうんでしょって、わたしは聞きましたよ。
もちろん、そうだよと社長は言うの。それで、そんなの嫌ですって言って、そのまま続けました。
それで受かったの。
受かったとき、嬉しくはなかったですよ。ただ、一年間無駄にしなくてよかったと思いましたですね。オーディションに不合格だったので、また来年受けようと思っていましたのでね。その一年を無駄にしなくてよかったと思っただけ」
彼女の無邪気で直線的な熱意は、結局、スタッフの練達した判断を押し切った。こんなふうにして孫麗※[#「雨/文」]改め、天田麗文は、念願通り、一二歳のときテレビで見た女子プロレスへの世界へ入っていったのだ。
■長与千種の苦悩
彼女が全日本女子プロレス興業にこうして入社した頃、クラッシュ・ギャルズのブームは最高潮に達していた。女子プロレスとは客の呼べる興行だということが再認識され、すでに水面下では、第二の女子プロレス興行団体結成への動きが開始していた。また、このブームは、スターとしてクラッシュ・ギャルズという選手を生み出しただけでなく、|出 色《しゆつしよく》のヒールをも誕生させた。ダンプ松本という選手が、それだ。
ダンプは、従来のヒールが必ず備えていた暗さを払拭《ふつしよく》した、新しいタイプの悪役レスラーだった。たとえば、それまでのヒールが、暗い地味な色調のコスチュームを選んだのに対し、彼女のファッションは、まばゆいほど極彩色《ごくさいしき》だった。その上、金髪に染めた髪をモヒカン刈りにした彼女は、顔や体に派手なペインティングをほどこすことを愛した。さらに、同じように極彩色のコスチュームをまとった、他のヒールレスラーを引き連れてリングに登場するのが常だった。
そして、ダンプ松本の試合ぶりも、クラッシュ・ギャルズ同様、従来のパターンをまったく無視して暴れ回るというものだった。ティーンエイジャーは、この好一対のベビーフェイスとヒールが闘う世界にのめりこんでいった。
だが、そういったブームの高まりは、レスラー一人一人に、おそらく目に見えない負荷をかけていたのだろう。長与千種は、インタビューに現われるたびに、ひどくやつれた表情を見せるようになった。もともと癇性《かんしよう》な彼女は、ちょっとしたことで荒れ狂うようになり、後輩たちを怒鳴りつけることもまれではなかった。そうかと思うと、ささいなことで、自分はもう駄目だと、悲観しておちこむこともしばしばだった。そんな、激しい感情の振幅を見せていた彼女をインタビューしたときの記事はたとえば、こんな具合だ。
[#ここから1字下げ]
(前略)
「周囲が飢えている。過激さに飢えてる。昔、あたし自身がホンモノに、過激なことに、自由さに飢えてたように、今度は周囲があたしにもっともっとっていう。
もっともっと過激に。もっともっと高く。高く高く高く。もっとすごい技。もっとすごいやつ。上へ、上へ、もっとのぼれのぼれのぼれ。
あんね、下りることは許されないのよ。とまることも許されないのよ。上へあがりつづけること。エスカレートしつづけること。それだけ。
それだけ。
あたしはここでいいと思ったってダメ。いい、と思うことあったよ。あたしだって普通の人間よ、ここでいいと思うこと、あるんだよ」
ネタがなくなってくる。長与千種がすりへってくる。長与千種のプロレスが観客にすいとられていく。
(後略)
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ](「デラックスプロレス」八六年四月号)
苛立ちやすいが、同時にブームの本質に反応する神経を持っていた彼女は、このとき、すでに、同じ興行会社のメンバーとだけ対戦しつづけることの無理を悟っていたのだろう。クラッシュ・ギャルズは、それまでの女子プロレスになかった型破りな抗争劇を作りあげたが、それも、つねに相手がダンプ松本しかいないということになると、マンネリ化はとうてい避けられない事態だった。そのまま進めば、ブームは次第に下降し、再び低迷期が訪れることは明白にみえた。
だが、長与千種は、自分が作りあげたブームをあっさりと手放すほど淡白な人間ではなかった。淡白になるには、彼女はブームの中枢にいることの高揚感を愛しすぎていたのだ。
彼女は、十分に庇護的な幼児期を送ったわけではない。両親は、彼女の就学前から、たびたび子供たちだけを残して家を離れ、事業の失敗の穴埋めに奔走した。そのため、孤独な子供時代をすごした彼女にとって、ブームの中枢で観客を熱狂させつづけることは、幼い頃には得られなかった親の注目の代償でもあったはずだ。事実、彼女は、公私にわたってみんなに注目されていないと、臆面もなくおちこんでしまうような依存過剰の一面を持っていた。繊細な心優しさと、周囲の人たちに絶対的な従属を強いるような専横さとが、長与の中で微妙に絡みあい、同居していた。
しかも、彼女には、そのとき、ファイトマネーで養わなくてはならない四人の家族がいた。彼女の両親は、往年の過労がたたって大病を患い、すでに働くことができなくなっている。末っ子の弟はまだ中学生だ。精神的理由と経済的理由の双方から、彼女はブームのさなかにあって、将来の破綻に不安を募らせ、起死回生の手だてを模索し続けた。
彼女は、そのためには、クラッシュ・ギャルズがやり遂げたよりさらに深く、女子プロレスという古い芸能の本質を変えてしまうような何かを、出現させなくてはならないと、薄々感じていただろう。そして、その何か≠ノ、もっとも近い位置にいた、神取しのぶは、その頃、足掛け五年にわたる柔道競技生活をやめ、プロレスラーの世界に足を踏み入れていた。
[#改ページ]
神取しのぶのプロレス
■柔道からプロレスへの道
神取《かんどり》しのぶに会って話をするというのは、いつも多少の忍耐を伴う作業だった。
なぜなら、彼女は、誰に対しても、自分の居場所を明かしたがらないからだ。
彼女はマネージャーも持たず、巡業に行っていない場合は、つねに、何人かの知人の家を転々としている。だから、おいそれと連絡をとるわけにもいかない。実際、彼女と連絡をとろうとすれば、短くとも二日がかりになった。用件ができるたびに、あちこち彼女を探し回ることを何回か繰り返すと、正直なところうんざりした。だが、こんなふうに居所不明を続けるのは、当人にとっても気疲れするものじゃないの、と尋ねると、彼女は黙って肩をすくめる。そして、その話題を打ち切ってしまうのだ。彼女にとって、定位置を作ることは、すなわち束縛されることを意味するらしかった。
そのため、私は、ほとんどの場合、彼女を自宅へ呼んで話を聞いた。
時間だけには義理堅く、約束の時刻前に必ずやってくる神取は、自宅の六畳間の隅に陣取り、両足を長々と伸ばして座る。私は、彼女の前の机に、柔道時代とプロレスに転向してからの資料を積みあげる。こんなふうにして、私たちは話をした。
ところで、一九八三年に第六回全日本女子柔道体重別選手権六六キロ以下級に初優勝してからの、神取の競技成績は順調である。
一九八四年には、彼女は国内優勝二連覇をはたし、カナダ国際選手権で優勝を飾る。さらに、オーストリアのウィーンで行なわれた第三回世界女子柔道選手権では、優勝者になったフランスのディディエに、一本背負《いつぽんぜおい》がつぶれたところを、絞《し》めから縦四方固《たてしほうがた》めに押えられて完敗したものの、敗者復活戦で、ニュージーランドのダウンを一本背負い、西ドイツのシュライバーには小内刈《こうちが》りで有効《ヽヽ》、ポーランドのアダムチックに、背負い投げで効果《ヽヽ》と大内刈《おおうちが》りで有効《ヽヽ》をそれぞれ奪って、結局、三位入賞をはたした。
この成績から見るかぎり、柔道選手としての彼女は、勝つのも負けるのも豪快だ。
「自分の柔道の形がきまってきたのは、一九歳頃でしょう。
どういう形? たとえば、びっくり背負いとかさ。びっくり背負いって正式な名前ってわけじゃないのよ。私がつけたの。びっくりってのは、つまり、型どおりじゃないってこと。柔道って型があることになってるから、練習ってのは、その型を、いかにかっこよく見せるかってところにかかってたりするわけよ。とくに日本の選手の練習はね」
神取は、微笑をうかべながら、手真似で背負投げの形をやってみせる。
「みんな、だから、練習は、かっこいいよ。型どおり、すぱん、すぱんって投げるんだもん。これはかっこいいわね。誰が見ても柔道やってますって感じ。
だからさ、私は、それを逆手《さかて》にとったわけよ。型があるってことは、その型をやぶってくるものには弱いってことじゃん。ね。そうじゃん。だから、私は、ぜったい背負投げに入らない形から、突然背負いに入っちゃう。そうすれば、相手はびっくりするでしょ。それが、びっくり背負いっていう技よ。
ほかには、膝ついたまま、普通だったら、ぜったい投げに入らないような低い態勢から投げるとかよぅ。持ち手を、突然、逆に持って投げてみたりよ。そういう、相手の型を壊すようなことを、自分の型にしてたってわけ」
あとは、練習じゃ、やたら投げられててね、対戦相手に、わざとみくびらせておいて、試合になったら裏をかくっていうのもやった。性格悪いことばっか、考えてたんだ、私って。彼女は、鼻にシワを寄せて笑う。
「試合になったとたんに、気を呑むっての? まず、目で勝っちゃう。
もともと、私、努力しなくったって、練習は下手だから、柔道は実戦だと思ってるからよ、練習は全然かっこよくない。で、いったん試合ってことになると、練習のときとは全然違う雰囲気で、すごんじゃうわけよ。そうやって相手に威圧感を与える。練習で負けてたのは作戦だったのかって、相手が気がついたときは、もう遅いってわけ。
そうね。やるか、やられるかの選手だったですよ。あまり逃げない。どちらかといえば攻撃型じゃん。攻撃していって、投げられたら、そのまんま、投げられちゃう。うまくいけば、すぱっと勝つでしょう。まあ、うまくいけばの話だけど」
一番、記憶に残っている試合というと何だろう? と水を向けてみる。すると、彼女は、即座に、それは負けた試合でしょう、と答える。
「一番、記憶に残ってるのはねえ……そうだ。世界女子柔道選手権で負けたときだよね。
相手がやたらに強い奴でよぅ、でも、私はポイントを取ってたんだわ。そしたら、場外ぎわで寝技に入られてよ。自分の体が場外に半分出てたから、とけ≠ナ離れられると思ったんだよ。そしたら、国際ルールだってんで、離れられないでやんの。
私、寝技ってきらいなんですよ。ああいう、ねちねち、体をひっつけあうの、きらいじゃん。それなのに、国際ルールで、相手が離れてくれなくてよぅ、おさえこまれちゃった。みんな、まわりから動け、動けって叫ぶじゃん。だけど、そんなの動けやしないって。
結局、ねちねち三〇秒間押え込まれて、負けちまったのよ。あはは、悲惨なんだわ。
悲惨だったけど、この試合が、一番、記憶に残っているのよ」
比較的かんだかく響く彼女の声が、ふと低くなる。
「うん。やめようってことはよぅ、本当は、この試合のあとくらいで頭に浮かんできたのよ。
具体的には、年末の福岡国際選手権に出て、やめようと思ってたわけね。
なんでってことになるとよ、こういう言い方でいいのかわかんないけど、なんてのかな、自分がいる場所に納得いかなかったんだよな」
神取は、自分が座っている畳を指して言う。
自分がいる場所に納得がいかないの。どうしても、納得いかなかったの。
「だからさ、私ってのは、それまで国内は別にしてよ、世界では、ずっと二位、三位が圧倒的に多かったわけじゃん。
だけどさ、私は、柔道は、一位じゃないと、勝った気がしないってとこがあんの。
なぜって? だってよぅ、柔道ってのは格闘技じゃん。格闘技ってのは、基本的に生き残りゲームじゃん。ねえ、そうじゃん。一対一で闘うゲームってのは、やっぱ、結局は殺し合いゲームなんじゃないの? どんなふうに言ってみてもよ。目の前の相手を、とりあえず殺して、次の相手にむかっていって、最後に、一人だけ生き残るんじゃないの? ちがう?
だとすりゃ、柔道で二位、三位ってのは、一番最後と、最後から二番目に死ぬ奴っていう意味しか持たないわけでしょ。ただ、殺される順番が遅いってだけでしょ」
彼女は、人さし指を突き出した。
「一位だよ。つまり、一位なんだよ。二位や三位じゃ駄目なんだ。
私は、一位じゃないと意味がないって思ったんだよ。
それでよぅ、どうやったら一位になる可能性が出てくるかってことも、なんとなくわかったんだよ。やっぱ、私に欠けてんのはよう、生き残り勝負への最終的な執念ってやつじゃん。なんか、もう、周囲のものも見えなくなっちまってよぅ、勝ち負けに人生を賭けるってやつ? そんなもんが、私には欠けてたわけだと思うよ。やっぱ、勝ち負けには人生賭けてなかったから。だから、試合に向けての調整にしても、自分をぎりぎりまで追いこんだあとはよぅ、温泉でぼうっとしていたかったわけじゃん。それまで放棄しちまって、人格壊してまで勝とうと思わなかったわけじゃん。
だからさ、私は、二流の選手なんですよ。結局、柔道の勝負より、自分自身を壊さないほうを選ぶわけだからさ、一流じゃないわね。
私、二流なんだよ。そう、感じたよ。
だからね、一方で一位にならなくちゃ意味ねえよなって思うし、でも、もう一方で、一位になるために何をすればいいのかわかっていても、それをしなかったし。自分で自分に納得がいかなくなっちゃったってのは、結局、そういうことなんじゃん」
勝つために何か捨ててれば、人生も勝負もかわったでしょう。きっと。
わりあい冷静な声で、彼女はこう言う。
「たださ、人生だけじゃなくて、目つきまで変わってたと思うよ。
試合やるときに、目つきがかわるのは構わないと思うんだけどよぅ、それを、そのあとの人生にまで引きずりこむってのは、嫌だったんだよ。私は……二流でもいいから、自分の人生を壊したくないと思ったんだよ。でも、同時に、二流でいいと思ってる自分に納得いかなかったんだよ。
だからさ、福岡国際に出るだけ出たらやめようかって考えてた」
だが、その福岡国際選手権に現地入りしたとき、突然、盲腸が痛み始めた。慢性盲腸炎は、彼女の持病だ。いつもは痛み始めると、毎回、薬で散らしていたが、そのときには、どうにもならないほど痛みが激しく、神取は急遽《きゆうきよ》、手術のために入院して欠場《けつじよう》扱いとなった。
この欠場のために、彼女は引退を、翌年の福岡国際選手権まで延期する。四年間あまり続けてきた柔道をやめるには、やはり、なんらかの区切りが必要だったのだ。そして、一九八五年、盲腸から回復した彼女は、第八回体重別選手権に優勝し、年末の第三回福岡国際選手権で第三位となる。これが、柔道選手としての最後の競技記録となった。この直後、彼女は競技生活を正式に引退している。
彼女は、そのあと、漠然とスポーツセンターのトレーナーにでも就職しようかと考えたと言う。現役時代にどれほど活躍しても、大学や実業団と無関係な彼女に、引退後、柔道関連の仕事につく道は開かれていなかった。もちろん、町道場を開けば話は別だったろう。だが、二一歳の彼女に道場の開場資金があるはずもなかった。となれば、柔道に関わる場は、現実的に、なんらかの形で学校か企業に関係するものしか残されていないのである。
このような状況にあった彼女に、八五年末から新団体結成にむけて動いていたジャパン女子プロレスのフロントが連絡を入れたのは、引退後数カ月目だ。
「友達で、プロレスのファンだって奴がいてさ。柔道やめたら、プロレスに行けばいいじゃん、なんて言ってたわけよ。こっちは、まあ、冗談だと思ってたら、そいつったら、本当に、ジャパン女子プロレスの選手公募に、私の名前で申し込んじゃったんだよ。
だから、突然、ジャパン女子プロレスっていう会社から電話が入ったときは驚いたけど、会社のスタッフと話をしたら、けっこう給料面でいい話をするわけ。二〇〇万とか、三〇〇万とか、そういったレベルの話をするわけでさ。その一方で、プロレスには、ショー的な部分があるってこともけっこう率直に話されたのね。
つまり、話が、最初から最後まで具体的だったからさ、私としたら受け入れやすかったってところはあるわね。だから、やってみようって思ったわけ」
せっかちなのが、彼女の持味とはいえ、柔道に対する深い内面的模索から、話が、一足飛びにプロレスへ飛んで行ってしまったので、私はとまどった。もう少しゆっくり、柔道からプロレスへ気持ちが移り変わっていったところを話してもらえないものだろうか、こう頼んでみる。
「そうだなあ。だから、プロレスと柔道は、別のものだという気持ちはあったのね。
柔道はスポーツで、プロレスは、つまり、プロレスよ。そういうことだよね。
だけど、とくに、スポーツが偉いとは思わなかった。スポーツだから、いいってもんじゃないし、柔道してる人間が、スポーツしているってだけで、いい人間ってわけでもないじゃん」
結局、プロレスにすんなり足をつっこむ気になった原因って、やっぱ、お金が稼げるってことにつきるんじゃないの? しばらく考え込んだあと、彼女は、こう言い始める。
「プロレスと柔道は、違うものだけど、現象面では、どっちも投げられたり蹴とばされたりするわけでさ。どうせ、投げられるんなら、投げられていくらってお金がついてくるほうがいいじゃん。少なくとも、そのときは私は、そう思った。つまり、金がすべての原因だったんじゃない?」
そう言い切ったあとで、いや、ちがうかなと、彼女は、また考え込む。
お金だけの問題じゃないかもしれない。それより、プライドの問題だったのかもしれない。彼女はこう訂正した。
「柔道やってたときにはさ、もちろん、プライドを持ってました。
それは、誰のためのプライドでもなくて、だって、そうだよ。私が勝ったからって、どこかの大学の名誉になるわけじゃない。柔道協会の名誉ってわけでもないじゃん。全部、自分のためだけに柔道をやってたわけで。それはさ、本当に、自分だけのためでよぅ……うん、どんなときも、私は、私のためだけに柔道したんだよ。それで、そういう態度って、真面目な柔道家の道から見れば、わがまま勝手なことかもしんないけどさ、私は、自分がいい子になる必要はないって感じてた。結局、柔道してるときも、私は、柔道する前と同じクズのままだったもん」
クズ≠ノついて語ることは、彼女の本質に深く触れる問題のようだ。思わず、身振りが大きくなり、声に熱が入っている。
「クズはクズのままで大きくなれるってことをよぅ、強いて言えば、証明したかったのかもしんない。
それが、私が柔道をやってるときのプライドで、プロレスラーになったときのプライドなのかもしんない。
あのさ、スポーツやってよぅ、やたらに健全でいい人間になっちゃう人がいてもいいの。もともと真面目な人がよぅ、国を背負って試合しちゃうってのもわかるの。だけど、世の中には、私みたいに、クズのままでスポーツやってる奴がいて、そういう奴だってプライドを持ってることも、やっぱ自分の生き方で証明したかったのよ。
だからさ、柔道やめたあと、ずるずる落ちていきたくなかったのよね。
柔道をやらなくなったら、やっぱ、駄目ンなっちゃった、なんて言われたくなかった。だって、私の人格は、私が作ったもので、スポーツが作ったものじゃないもん。だから、柔道やめたあとも、それなりに、へえ、あいつらしいじゃん、ってことをやってのけたかった。
プロレスは、そういう気分にふさわしかったのかもしれませんよ」
神取は、目の前に両方の拳を並べてみせる。こっちが柔道、そして、こっちがプロレス。
「昔は、プロレス見ると、ありえないスポーツだっていう気がしたけどよぅ。そのときには、すでにプロレスを、柔道と同じ平面でつかまえて優劣つけようってのが馬鹿だってことに気がついてたわけよ」
柔道のほうの拳をあげたり、プロレスのほうの拳をあげたりしながら、神取は言う。こういうのって無意味だよね。ほんとに、無意味よ。
プロレス入りしたときの神取は、一六九センチで、六五キロ。体脂肪率は一〇%以下。体は筋肉のかたまりと言ってよさそうだ。実際、彼女のプロレスデビュー戦で、初めて、水着姿を見たとき、私は、背骨を中心にふたつの山脈のように盛り上がり、いくつかの塊りを形成している筋肉のつながりを見て、たじたじとした。初めて、柔道選手としての彼女を見たとき、その殺伐とした目付きは、テレビの画面を通してさえ私をたじろがせた。そのときと同じように、今度は、発達したその筋肉が、リングまでの数十メートルの距離を置いてさえ私を畏怖させたのだ。
実際、神取の女性ばなれした肉体と、同じように女性ばなれした格闘技の天分を見て、彼女が男だったらよかったのに、と感慨を漏らす人は少なくなかった。それは、一種の誉《ほ》め言葉ではあっただろう。しかし、ほかならぬ彼女自身は、自分が男に生まれたらよかったと思ったことは、まったくないようだった。第一、彼女は、とくに自分の体が大きいという認識はもっていなかった。さらに、自分が、非常に力が強い人間だという意識も希薄なのだ。
女性であることが、その発達した筋肉と、人並みはずれた力と、反骨的な人生観との間に不調和をおこすはずがないと、彼女は確信しているようだった。そして筋肉や力が、自分の女性をそこなうという考え方そのものが、彼女にはどうしても理解できないようでもあった。自分が女性以外のなにものでもないことは、彼女自身にとっては、明白な事実だった。
ところで、動物としての女性は、一般的に、男性に比べて競争に適していないという説がある。その説が正しいならば、彼女が、生き残りゲームである柔道の勝負に、自分の人生を賭けることができなかったのは、彼女の中の女性が、最終的な競争を拒んだからだという理由づけも可能なのではないか。彼女の、柔道の勝敗への取り組み方は、まちがいなく真剣なものだった。だが、同時に、内面のある部分では、彼女はその競争に埋没できなかった。そのため、彼女は、苦しい矛盾を抱え込んだ。そして、結果的に、彼女は、どのような競争にも打ち勝つ目つきのおかしな∴齬ャ選手になることより、最終的な競争には不戦敗を喫する二流選手としての生き方を選んだのだ。
その意味で、神取は、十分に女性であったと思う。
また、彼女は、そもそも、プロレスラーは肉体的偉人がやるものだとも考えていなかった。その点では自分の体を大きくするために、三三キロも増量した天田麗文《あまだれいぶん》と対照的に、神取は一貫して、肉体の外見的なビルドアップにはまったく関心を示さない。ボディビルディングは、彼女の嫌いなスポーツの典型なのである。
「ボディビルダーの筋肉は、死んだ筋肉だもん。動かせない筋肉だし、第一、あの人たちは、筋肉は動かすものだと思ってないでしょう。自分の体の一部というより、なんていうのか、モノに近い感覚なんじゃないの?
だからさ、車のコレクターってのがいるじゃん。あいつらってよぅ、集めた車を運転しないじゃん。車庫に入れて、磨いてるだけじゃん。ボディビルダーの人も、そういう奴らと同じでよぅ、自分の筋肉を、車みたいに考えてるんじゃないの?」
筋肉はよく使い込まれた日用道具でなくてはならない、というのが彼女の主張だ。そのためにも、筋肉は全面的に自然なものでなくてはならない。筋肉を増強する薬やプロテインを使うことは、彼女にとっては体への冒涜《ぼうとく》行為に近いのである。
「私はね、柔道選手だったし、今はプロレスラーだけど、自分の体が特殊だとは思っていません。大きすぎると思ったこともないし、力が強すぎると思ったこともない。自然な体だと思ってる」
つまり、私は|中肉 中背《ちゆうにくちゆうぜい》なのよと、彼女はくりかえし言い張る。
私は、それを聞いて、最初のうち、冗談を言っているのだと勘違いした。一般的な中肉中背の概念から、彼女の体と力は、どこまでも大きくはみだしてしまうからだ。私は、彼女の冗談≠ノ笑い出した。だが、その笑いに、思いがけず傷ついた表情になった彼女を見て、初めて、私は自分の誤解に気がついた。彼女は、冗談を言っているつもりではなかったのだ。
そりゃね、私に似ている人って少ないかもしれないよ。そうだよね。少ないかもしんない。だけどそれがなんだっていうの、彼女は、憤然として言う。
「似てる人がいないってことが、私が特殊だっていう理由にならないじゃない。
そりゃ、小さな子供から、すごく年を取った人までを全部入れて比べたら、私は、少し、大きいかもね。でも、若い人のレベルで比較したら、私より体が大きい人はゴロゴロいるよ。ベンチプレスだって、重量も回数も、私よりずっとたくさんあげる人が、たくさんいるよ。
世界には、いろんな人がいるんだもん」
その目で世界の女子格闘技者を見てきた元柔道選手として、彼女はこう断言する。
「私の体は、私がやってきたことの結果なのよ。体を大きくすることが目的だったわけじゃない。いつも、自分の体は、私にとって手頃な大きさ、強さだったんだよ。だから、私にとって、私の体は中肉中背なんだよ。大きすぎないし、小さすぎない。
私は女だし、私の体は、女の体なんだよ。自然な女の体だよ。
私にとって大事なことはそれだけなの。大きさや強さは、関係ないんだ」
私はあらためて彼女の体を眺めた。部屋の壁にもたれて、神取は座っている。リラックスしたときの彼女は、たしかに威嚇的ではない。のびのびと伸ばした脚に、障子ごしに柔らかい陽があたっている。淡いオレンジ色のトレーナーを着た肩の線がなだらかだ。
ほらね。彼女は、勝ちほこった声をあげる。私が中肉中背だってこと、認めるでしょ?
「女の人の体ってさあ、だから、いろいろなんだよ。私の体が、中肉中背だって言ってもおかしくないレベルの人だって、たくさんいるのよ。
私、ときどき、思うんだけどさ。女の人の体が、どこまで大きく強くなれるかっていうことは、結局、誰にもわかんないんじゃん。だって、人間っていろいろなんだもん。ここまでって線を引くにはよぅ、人間っていろいろすぎるんだと思う。ここまでって線を引くってのはさあ、私に言わせれば、体を見くびりすぎてんのよ。
男に生まれてたら、お前、もっと楽だったのになって、言われることはあるよ。だけど、私は、とくに楽じゃない人生、歩いちゃいないつもりだからさ。まともな人生じゃないにしても、不自然な人生は歩いてないじゃん。
少なくとも、いつだって、自分の好きな人生を選んできたもん。
柔道もしたけど、その間に恋愛だってしたよ。柔道したから、男を好きになれなくなったことなんてないもん。何も失ったものはないんだ。
ほんとだよ。何も失ったものはないんだ。
いつも、自分の体も心も、大切にして生きたもん。男に生まれてたらよかったのにってのはよぅ、だから、ゲスな考えってんだ」
■女子プロレスの面白さ
彼女の入社したジャパン女子プロレスは、一九八六年一月三〇日に、(株)ジャパンスポーツプロモーションの一部門として発足《ほつそく》した。選手側の発起人となったのは、クラッシュ・ギャルズ以前の大ブームの担い手だった、ビューティー・ペアの一人である、ジャッキー佐藤と、彼女と同時期に活躍したナンシー久美の二人。彼女たちが、長年、芸能界畑のプロモーションをてがけてきた興行主と手を組んだ形で、女子プロレス興行界の独占状態を破る第二の団体は誕生した。
従来の女子プロレスの興行より芸能面を重視すること。年間試合数、興行料金とも低めに抑え、既存団体との差別化をはかること。プロモーターのフランチャイズ化をはかること。この三本が新団体としてのジャパン女子プロレスが打ち出した姿勢だった。
同年二月二日、ジャパン女子プロレスは道場開きを行ない、旗揚げ興行を八月一七日に決定する。
神取が入社したのは、道場開きの一カ月後、旗揚げまでわずか五カ月という時期だった。だが、元柔道の日本チャンピオンとしてプロレス入りした彼女は、その五カ月間さえ、自分一人のために使うことはできなかった。彼女は、オーディションに応募して入社してくる新人選手のトレーナーの役割をはたさなければならなかったのである。新人選手たちの中には、それまでスポーツをやったことがないという人さえ含まれていたが、設立まもない会社は、本格的なトレーナーを揃えるところまで手が回らなかった。そして、柔道チャンピオンだった神取は、当然のように、素人同然の選手の基礎訓練を担当させられたというわけだ。彼女は、新人選手の面倒を見ながら、わずかな時間でプロレスを身に着けなければならなかった。
だが、結果的に、彼女は、このふたつの作業をほぼ完璧《かんぺき》にこなした。
会社のスタッフは、柔道とプロレスを同じ平面でとらえ、柔道選手だったら、並行移動的にプロレスラーになることができるはずだと考えたようだ。だが、神取が自分のためにプロレスを学ぶことと、他の選手を教えることの両方に成功したのは、スタッフが考えたような理由からではなく、彼女が、実は、プロレスの習得に非常に研究熱心で、かつ、教師としての資質に恵まれていたためだった。
「私が入った二、三日後だったかな、オーディションがあってね、そこでたくさんの選手が入ってきたの。それからの約半年間っていうのは、練習していたっていうより、その選手たちの受け身を見ていましたっていうほうが正確なんじゃん。うん、そういうことなんだよ」
選手たちのレベルは低かった。受け身はおろか、前方回転ができる人も少ない。これは、女子プロレスラーに全般的な傾向だと言えそうだ。少女たちは、自分の仕事としてプロレスを選ぶという意識は希薄だ。彼女たちは、むしろ、クラッシュ・ギャルズの世界に、もっと深くのめり込みたくて、プロレスラーになる。そして、これはクラッシュ・ギャルズが所属する全日本女子プロレスだけではなく、ジャパン女子プロレスでも同じ事情なのである。
クラッシュ・ギャルズになりたい少女たちは、とりあえず、神取のコーチのもとに、受け身の練習を励んだ。だが、神取にとっても、この期間は、けして無駄ではなかった。彼女は、受け身を通して、プロレスの像をつかむことに成功したのだ。
「プロレスの受け身と、柔道の受け身は本質的に違うよね。
柔道でも、試合中に瞬発的な攻撃を受けて、それを受けるってことはあるけど、基本的には受け身は練習のときのものです。試合の最中に、受け身のことを考えることはないね。
柔道の受け身ってのは、だから、そうねえ、内臓も含めて、体を守るものなのよ。たとえば、足にしても、なげられたときの置き方ひとつで、踵《かかと》から落ちれば大ケガするじゃん。だから、必ず、足は横に置いて、力を抜いて落ちるのが基本ね。手にしても、つっぱって落ちたらケガする。とにかく、体の壊れやすい部分に加えられる力を、最大限にやわらげるのが柔道の受け身。
それに比べて、プロレスの受け身ってのは、それ自身が見せ場なの。
たとえば、プロレスでは、バックの受け身が主体だよね。体の前面の受け身っていうのも多いよね。このふたつは、柔道の実戦では、まずありえない受け身じゃん。バックの受け身をとるケースってのは、ぼうっと立ってってよぅ、そこに突っ込まれて、うしろに倒れて一本《ヽヽ》てこと? これは、ちょっとないでしょう。体の前面の受け身ってのは、つまり、うしろから突き飛ばされるってことだから、これも、実戦上はありえないよね。つまり、こういう受け身は、相手の技を受けて、見せ場を作るための、プロレス特有の受け身ってわけよ」
受け身の基本形はね、と、神取は部屋の中央に出てきて、仰向けになった。
ほら、こうして右腕は手のひらを上にして寝かせる。左手はおなかの上にそっと載せる。脚は、一本は立てる。一本は、踵を横にして寝せる。首はおこして、両目で、自分のおへそを見る。この態勢が一番、衝撃に強いわけ。
彼女は、こう言いながら、寝かせた右腕と左脚で、畳を軽く叩いてみせる。ほこりも立たないのに大きないい音がした。私は、それを、不思議な気持ちで眺めた。
「柔道の受け身は、もっぱら自分の体を自衛するだけのものだけど、プロレスの受け身は、むしろ相手にとって必要なものであって、そういう受け身の態勢があるから、プロレスでは、いくらでも大きく相手の体をとりにいくことが可能なわけじゃん。
大きく取りに行ったら最後、まんまと一本とられちゃうのが柔道やアマレスなら、プロレスは、相手の攻撃は、一応、受け身で受け止めることを前提にしているわけ。だからこそ、プロレスは見る格闘技≠ニして成立するわけでしょう。
そういう意味では、アマチュア格闘技っていうのは、わりあい密室的だよね。密室の中で、相手が大きく取りにきたら即座にひっかけてやろうなんて、悪いことばっか考えてるわけさ、アマチュア選手ってのは。そういう陰険なもの見たってよぅ、そりゃ、面白くもなんともないわね」
プロレスにとって、攻撃と受け身は表裏一体をなしている。すなわち、攻撃の力は、受け身によってきわだつ。受け身をとることは、次の攻撃への前ぶれでもある。こうして、試合は、陽画である攻撃と陰画である受け身の二本の糸により、陰影を含んで編まれていく。
だが、陰画とはいえ、受け身は、刺身のツマ的存在ではない、受け身はいわば試合の重要な間≠構成するもので、その上手下手《じようずへた》により、試合の緊密度は大きく左右される。いかに主張するかだけでなく、いかに受け入れるかを大きく評価する点で、プロレスはまさに日本的な本質を持っているのではないかと思う。
こうして受け身の練習を終えた神取は、六月に入って次の仕事にとりかかった。それは、選手たちにスパーリングを通して、受け身と攻撃の陰影を、どのように編んでいくかを教えることだった。
「スパーリングを教えるのって、面白いですよ。だって、結局、スパーリングで必要なのは、自分がどういうプロレスをやりたいのか、そのために、自分は何をするのか、相手は何をしてくれるのかってことでしょう。だから、スパーリングを教えていくうちに、自分のプロレスが、すごくはっきり見えてくるわけ。
スパーリングっていうのは、だから、体の訓練じゃなくて、頭の訓練じゃん。だから、頭ん中で、プロレスがまとまりきらなくなったときには、スパーリングやってても、動きがとまっちゃう。実際、ほかの人たちのスパーリングを見てるときも、よく、試合展開につまって、動けなくなっちゃうことってあるの。
私はさ、こういうことって自然なことだと思う。でも、そう思わないコーチってのもいたわね」
彼女は、かすかに皮肉な顔になる。
「スパーリングやってるときに展開につまっちゃうと、ただ怒鳴りつけて、続けさせちゃうコーチってのもいるのよ。
まあ、ほかの人がやってるのに、文句はつけなかったけどよぅ。私は、無駄なことやってると思いましたよ。だって、その人の動きが止まるのには、理由があんでしょ。何もヘトヘトになって止まっちゃったわけじゃないんだから。頭が止まっちゃったから、動きが止まったんでしょ。それを、体だけ、とにかく動かさせたってよぅ、何になるっての? 頭が止まっちまってんのによ。
だから、見てて、かわいそうでしたよ。試合を、見失っちまってんのに、続けないと怒られるってんで、ただ体を動かしてるってのは哀れだった。そう思わない? ねえ」
プロレスってのはさ、ここに入ってるんだから。神取は、頭を指で叩く。
「だからさ、私がコーチする場合は、そういうときには、すぐ声をかけて止めてしまったんだよ。
それから、みんなを集めてよぅ、じゃあ、この態勢から、次に何ができるか考えようって言うの。むりやり体だけ動かさないで、これから何ができるか、何をしたら、どんなプロレスになるか、自由に話し合いをさせるんだよ。たとえば、その態勢から、いったん相手をおこしてみたらどうなるか。そうじゃなくて、寝たまま技をかけていったら、どういう展開になるか。
そうやって、みんなで話しあっていくうちに、それぞれの人が、どんなプロレスを面白いと思ってるかがはっきりしてくるじゃん」
彼女は、資料を積み上げた机にむかって、次第に体を乗り出してくる。
「プロレスってのはさ、いろんな状況を、その人がどう選択していくかってところに面白さがあるわけじゃん。たとえば、Aって状況をよぅ、ある人は、試合が始まったとたんに使うかもしんないし、ある人は、Bって技のつなぎに使うかもしんない。何を選んで、どうやって使うかってことで、結局、その人のプロレスができあがってくるんでしょう。
だから、スパーリングにつまっちゃったら、みんなで話し合う。それで、やってる本人たちに試合が見えてきたら、再開させるわけよ。そのあと、つまっちまったら、また止めればいい。何度止まったって、それは考えてる証拠なんだから、いいことだと思ってた」
怒っていいことなんて、なんにもないじゃん。人間、リラックスしているときしか、いいことなんてできやしないんだから。神取は、少し大声になっている。
「だから、選手に教えるときも、一〇回に一回は誉めるところをみつけようと思ったのよ。
そりゃね、違う考えの人もいたよ。たとえば、プロレス的な見得《みえ》の切り方とかさ、水平チョップするときの肘の角度とか、そういうことをこまごまと教えて、小言ばっか言ってる人もいたんだけど、水平チョップの肘の角度なんてのは、試合の最中に定規ではかったようにできるものでもないんじゃないの? そんなことばっかり教えてると、どんどんプロレスって面白くなくなると思った」
ところで、こうして、ほかの選手の練習を見ている間を縫って、彼女が自分自身のプロレスを作り上げるためにやったことは、主に、プロレスのビデオを見ることだった。ここで、初めて、彼女はプロレスを観客の目で見る経験を重ねた。彼女のプロレス修行は、まず、女子プロレスというものが、なぜ、観客を魅きつけるのかについて考えることから始まったのだ。
「やっぱさ、プロレスでも柔道でも、実際にやる前に、ひたすら見るだけの期間って必要なんじゃないの? 型だけいくら教え込んでも、その格闘技が持ってる空気みたいなものをよぅ、感じられないうちは、体を動かしたってムダじゃないの? ねえ。
結局、プロレスってのは、最初のうちは、見ることよ。とにかく、見ることだよ。いやんなるほど見てよぅ。プロレスの空気を感じるだけ感じてよぅ。これなら、私にもできそうだっていうか、やってみたいっていうか、やらずにはいなれなくなるっていうか、そういう気持ちになる。それから、ひとつひとつ自分の体で確かめてやっていくっていうのが、順序じゃないかって思ったわけ。
でも、最初に見たのは、男子プロレスのビデオだよ。なぜかっていうと、男子プロレスのほうが理詰めだからよ。それだけ、初心向きってのかな。全部、理屈だけで解けていくわけ。私は、初めてプロレスってものを見るわけだから、理屈でわかりやすいほうがよかったのよ。
技の形がどう、なんてことは見てなかったよ。プロレスラーが、試合運びの基本の形から、何を選んで、展開して、試合の流れをどう作っていくかを見てた。ビデオを試合の一場面ごとにとめてさ、そのとき何がどうなってるのか確かめていくと、結局、そのレスラーがどんな流れで試合を構成しようとしてるかってことがわかるじゃん。そういう勉強をするためには、まずは、男子プロレスから入るのがてっとり早かったわけよ」
男子プロレスに比べると、女子プロレスは、初心者にとっては複雑すぎるからね。複雑って言って悪ければ……彼女は、言い淀《よど》みながら、女子プロレスについての表現を探している。
「そうね。女子プロレスは、感情ごと見なくちゃ、わからないところがあるって言えばいいのかな。理屈だけで、すぱっ、すぱっと切れないとこってあるよね、女子プロレスには。
たとえば、Aって技が出てきたことについては、技の前後のつながりとか、試合展開とかの理屈だけで考えればいいのが男子プロレスじゃん。でも、女子プロレスは、その技を出したときの選手の感情ごと理解しなくちゃ、なぜAという技が出てきたのかわからない場合があるでしょ。あと、女子プロレスは技自体に修飾が多いよね。技に単純に入るだけじゃ物足りなくて、いろいろ、その前後に飾りをつけちゃう。その飾りにいちいち、ひっかかってると、試合の基本が見えにくくなる。
だから、初心者としては、男子プロレスを見るほうが間違いがなかったわけよ」
神取は、こう言ってからいったん黙り込んだ。しばらくして、彼女はこう続ける。
「でも、それだけに、女子プロレスっていうのは、選手の感情と観客の感情が一体になったときには、ものすごく面白いものになるよね。男子プロレスは理屈っぽいから、どんな人にもわかるじゃん。でも、女子プロレスは、同じ感情を持てる人にはわかるけど、そうじゃない人には、いまひとつ、理解できない部分が多いじゃん。
女子プロレスというのはさ、だから、やる方にとっても、見る方にとっても、けっこう複雑で難しくて……だからこそ、やっぱ、やりがいがあるっての? そういうものなんじゃん」
女子プロレスでは、選手の感情と観客の感情が一体化したときに思いがけない力が生まれるのだという彼女の見方は、すでに、全日本女子プロレスのブームによって証明されていた。クラッシュ・ギャルズが成功した要因は、まさに、ティーンエイジャーの観客の感情と、自分たちのプロレスの感情の波長を同調させた点にあったのだから。
そして、このことを誰よりも十分に理解していたのは、同じ全日本女子プロレス内の選手ではなく、ほんの五カ月前に、プロレスラーになることを始めた、神取しのぶという選手だったのである。
[#改ページ]
衝突!
■女子プロレスラーの社会
神取《かんどり》がジャパン女子プロレスという新しい会社で、プロレスラーになることを学び始めていた頃、|麗※[#「雨/文」]《リーウエン》は、全日本女子プロレスの社屋の三階にある新入社員用の寮に入った。彼女は、寮に入ったことにより、プロレスにとって、いわばウチ≠フ人となった。そして、日本人にとってウチとは、どのような規範を持つものなのかについて、彼女は、入寮後まもなく知ることになる。
最初、それは、言葉の問題から始まった。
「最初の練習のとき、わたし、先輩に何か言われました。そのとき、うんと答えましたです。そしたら、あとで、同じ寮に入っている同期生に、うん、なんて言っては駄目って言われたの。はい、じゃないといけないでしょう? と言われて、わたしは、ああ、そうですね、と思いました」
同期生の人たちは、わたしがあまり何も知らないので、先輩にはどういうふうにしたらいいか、いろいろと教え込まなきゃいけないと思ったらしいですね。彼女は微笑する。
「わたしは、たくさん、教わりました。わかることもあります。そして、わからないこともありますよ。とにかく、たくさん、たくさんの決まりがありますよ」
麗※[#「雨/文」]は、プロレスラーの新人として生活するためのルールを、ひとつひとつ指を折って思い出しながら話す。
「たとえば、わたしは、先輩にものを言うとき、とくに悪いことをしていなくても、すみませんと言わなくてはなりません。先輩が靴を脱いだら、その靴を揃えなければなりません。ドライヤーを渡してと言われたとき、ドライヤーが見当たらなかったら、自分のドライヤーを先輩にあげなくてはいけません。ドライヤーではなくても、先輩が持っていなくて必要なものは、わたしは全部、自分の持ち物から出さなくてはいけません。それを、返してちょうだいと言ってはいけませんね。
そして、わたしは、先輩が白と言ったら、たとえ、それが黒であっても、はい、白ですと言わなくてはいけないでしょう。そう、言われました」
彼女の唇が、笑いを含みながらも、わずかにへの字型になる。
「こういうのは、わからないねえ。今でも、本当のところは、よくわからないのです。
わかることも、わからないことも、全部覚えなくてはならないのは、大変なことです。ずいぶん、厳しい世界だと思いました。会社に入る前、女子プロレスは、大変、厳しい世界だと聞いていましたけれども、わたしは、てっきり、練習が厳しいのだと思っていましたよ。まさか、こんな……」
わたし、正直な気持ちを言ってもいいでしょうか、と麗※[#「雨/文」]が尋ねる。もちろん、と肯《うなず》くと、彼女は言い換えた。まさか、こんなうるさいことばかりだとは思わなかったのですよ。
「わたしが寮に入った最初のころ、先輩たちは、巡業に行っていましたね。そして、しばらくすると旅から帰ってきました。
その二、三日後ですか、わたしたちは、集合《ヽヽ》というものをかけられたです。集合というのは、ええと、どういうものと言いましょうか、つまり、お説教とか、そういうようなものですね。その集合で一年上の先輩に、後輩としての言葉遣いを、教えられました」
ええ、そこで言われたことは、全部覚えてますよ。言ってみましょうか。麗※[#「雨/文」]は、メロディのついたお経《きよう》を読むような調子で、言葉遣いの決まりを暗唱してみせる。
「朝でも昼でも、先輩に会ったら、おはようございます、です。先輩の前を通るときは、失礼しますと言いますね。帰るときは、お先に失礼します。何かものを言うときには、最初にすみませんをつけるでしょう。それから、先輩が重い荷物を持ってるときに、知らん顔するのはいけないことですね。
あと、先輩に仕事をさせたら、後輩の責任です。先輩が何かする前に、後輩はそれをやらなくてはいけませんよ。
わたしのことはね、中国から来たから、敬語が使えないんじゃないかって、上の先輩が心配したそうです。ちゃんと挨拶できるの? 敬語が使えるの? って。それで、一年上の先輩が、あの子は漫画や雑誌で日本語を覚えたんで、敬語が使えないんですって言ったみたいですね。集合のときには、とくに、あんたは、敬語をよく覚えなさいって言われましたね」
わたしのことを、みんなは、何もできない、とんでもない人じゃないかと心配したみたいですよ。
麗※[#「雨/文」]は、こう言ってから、一呼吸置いて話し始めた。
「それから、同期生たちは、先輩のことをものすごく怖がることがわかりました。先輩に何かを言われたら、同期生たちは、びくって飛び上るのよ。そして、何かをやっている最中でも、それを放り出して、びくびくしながら先輩のところに駆けていくの。どうしてでしょうね、とわたしは思いました。何も悪いことをしていないのでしょう。なぜ、そんなにびくびくするのでしょう。
その意味が、ちょっとわかったことがありますよ。やっぱり、寮に入ってすぐのときでしたね。
それは、こういうことです。ある日、一番上の先輩の一人が、わたしたちが練習しているところに入ってきました。そして、わたしたち全員に並べと言いました。それから、その先輩は、この中に、先輩の悪口を言った人がいると言います。その悪口を、先輩は、ファンの子の告げ口で知ってしまったんです。先輩は怒って、言った人は、素直に前に出なさいと言うの。でも、誰も出ない。そしたら先輩は、突然、並んでいる同期生のうち三人を殴ったのよ。
先輩は、三人を平手で殴ったり、パンチを入れたり、蹴ったりしました。何度も、殴ったり蹴ったり。それは、とても、すごかった。とても、ひどかった」
彼女は、頬杖をついてうつむく。
「そのあと、先輩は、殴られなかったわたしたちに言いました。今回は、あなたたちは殴られなくてよかったでしょう。先輩は、それから、こう言いました。この人たちみたいに殴られたくなかったら、けして生意気なことはするんじゃないって。外の人に、会社の中のことや、先輩のことを話すと、こういう目にあうんだから覚えとけって。そして、先輩は帰って行ったのよ。
殴られた人も、殴られなかった人も泣いてましたよ。
わたしは……泣かなかったですよ。怖かったけど、怖いだけで泣くことはないと思いましたね。わたしは、悪いことはしていない。だから、泣かないです。
でも、なぜ、みんなが先輩を怖がるのかは、それでわかりました」
女子プロレスラーの会社は、基本的に、年功序列的なヒエラルキーで成り立っている。そして、麗※[#「雨/文」]と同じように、私も、入社まもない選手たちが、そのヒエラルキーの力に対して、いちようにびくびくしていると感じていた。
たとえば、そういった新入選手を取材しているところに、先輩が入ってくると、彼女たちが、なにやら神経症的な雰囲気で怯《おび》え始めることもまれではない。それは普通の怯え方ではなく、一度うろたえてしまった新人選手を、再び、取材に集中させるのは難しかった。第一、何人かは、私と話をしていることすら忘れてしまうらしい。彼女は、話の途中で唐突に立ち上がり、先輩のほうにおろおろと駆け寄っていくのである。先輩後輩の力関係に過敏になっている彼女たちにとって、水平方向にいる取材者の存在は目に入らないもののようだった。
このようなタテ型の支配関係は、たとえば、体育会系のクラブなどに共通するものだろう。さらに問題を広げれば、日本の社会全般に及ぶ傾向かもしれない。だが、その時期、レスラー志願の少女やファンは、たしかに、女子プロレスの中に、学校やクラブが内包しているタテ社会のデフォルメを強く求めていたと思う。
事実、クラッシュ・ギャルズの長与千種《ながよちぐさ》は、こういったファンの潜在的な欲求を見抜くことにおいては慧眼《けいがん》だった。彼女は、取材のとき、なかば意識的に、女子プロレスの社会が、学校のクラブのような先輩後輩関係を持っていることを強調した。長与は、ファンや後輩選手を、妹たち≠ニ呼ぶことさえあった。また、彼女自身、先輩と後輩のタテ社会が持つ閉鎖的な安定感に、ときおり強い執着をしめした。
「昔みたいに、ただ先輩の言うとおりに、みんなと一緒に練習していた時代へもどりたいの。みんなと同じように考えて、みんなと同じように行動したいの。みんなでクラブ活動みたいに、わいわいやっていた頃がなつかしい。
みんなと違ってしまうのが、ものすごく嫌なの」
彼女は、気分がおちこんだときに、よくこう言ったものだ。そして、その発言をメモにとりながら私は、いつも奇妙な感じを覚えた。なぜなら、長与は、一方では、独創的な発想を持つ強い才能の持主なのだ。その彼女が、成功のさなかにあって、個性を投げ捨てたいと言う姿は、なんとも不可解な光景だった。
だが、ブームの頂点をきわめた長与でさえ、このように、自我を捨て去り、全体に埋没する誘惑に勝てないのであれば、新人選手にとって、このタテ型管理が絶対を意味したのは無理のない話かもしれない。いずれにしても、女子プロレスの新人選手やファンにとって、プロレスラーとは、ある部分において、クラブ活動での先輩像をより純化したものなのだ。おおむねのレスラー志願の少女たちに、プロレスを仕事として選ぶという意識が希薄だったのも、そのせいだろう。
そういった選手たちにとって、日本語の機微をあまり理解しないだけでなく、先輩を恐れない麗※[#「雨/文」]は、それ自体が脅威だったにちがいない。また、先輩に一体化できないかもしれない人物を、自分たちの同期生に持つことは、自分たちの怠慢のように感じられたかもしれない。そのため、同期生たちは、麗※[#「雨/文」]に、くりかえし、この社会の中では、先輩の気分こそがルールであることを強調した。
「自分がやってもいないことでも、後輩は先輩に謝らなくちゃいけないって、何度も言われましたよ。
あのね。たとえば、ものを捨ててはいけないところにゴミが落ちていたとしますですね。先輩に、これを捨てたのはあなたでしょう、と言われたら、わたしは、落としたのが自分ではなくても、すぐにすみませんでした、と言わなくてはならないの。そういうことです。
わたしは、なぜ、やってもいないことで謝らなくてはならないでしょう。なぜ、先輩が言ったら間違っていることでも、すみませんと謝らなくてはならないでしょうね。おかしいね。
でも、わたしは、そのうち、わかりましたよ。
もし、そういうときに謝らないと、先輩は、また別のゴミをみつけて、これはあなたが落としたのでしょう、と言うのですよ。いいえ、と言ったら、先輩は、また別のゴミをみつけますでしょう。そして、その人が、自分がやったことではなくても、すみませんと言うまで、それを続けますね。そのうちに、その人の評判は、とても悪くなっちゃうですよ。だから、みんな、自分がやったことでなくても、謝ります。そういうことが、だんだん、わかってきました」
このようなことは、日本のウチ≠ネる世界に入り込んだ異文化人が、程度の差はあれ、こうむる経験なのかもしれない。異文化交流について書かれた本などには、まず、例外なくそういったカルチュラルショックについての話が出てくるではないか。そして、その場合、多くのガイジンたちは、日本社会の特異性に打ちのめされ、この国で生きていく自信を失ったり、徹底した日本嫌いになるようだ。
だが、麗※[#「雨/文」]は、そういったカルチュラルショックに対して、たしかに嫌悪感は表わしているもののさほど打ちのめされた態度は見せない。むしろ、冷静な目で、一六歳の彼女は、日本の内なる規範の奇妙な主体性のなさを観察していた。
「同期生の人が、わたしに先輩をもっと怖がらないとひどい目にあうよって、何度もくりかえし言います。そういうとき、わたしは、何もやましいことはしていないから、怖がるのは嫌だと言いましたよ。
そしたらね、みんなは、あなたが、やましいことをしてるか、してないかなんて関係ないって言ったよ。そんなことは関係ないのですって。やましいことをしているか、してないかは先輩が決めることで、もし、何もしていなくても、先輩がしていると思えば、それはしていることになるんだと、同期生の人は、何度も何度も、わたしに言いましたね。
先輩は、そういう力を持っているんだから、最初からびくびくした態度を見せていないと、どんどんいじめられちゃうよって、みんなは、わたしに教えてくれましたのです」
麗※[#「雨/文」]は、あくまでも冷静な口調で、こう語る。だが、私は、その話をスムースに聞き流すことができなかった。日本人である私でさえ、ぞっとするような思考を強制されて、彼女は本当に動揺しなかったのだろうか。私は半信半疑で、麗※[#「雨/文」]の顔を見た。彼女は、ちょっと面白がるような目でこちらを見ている。そして、唐突に、話を入寮直後にもどした。
「寮に入ったとき、わたしは、たった一人で、言葉もよくわからなくて、日本人ばっかりのところで住まなくてはならなかったでしょう。そうですよね。
あのね。わたしは、そのとき、誰かがわたしをいじめるかもしれないなと思いましたのですよ。言葉ができないから、日本人とは違うから、中国人だから、わたしをいじめるかもしれないと思いましたよ」
彼女は、突然、楽しそうに笑い出した。そして、腰に両手をあてて胸を張り、でも、そのときわたしはこう思ったのよ、と言い放った。
「よし、日本人がいじめたら、わたしは、きっといじめかえしてやりましょうって」
わたしは、そう思ったのよ。わたしは、本当に、そう思ったのよ。
麗※[#「雨/文」]は、愉快そうな笑いの残る顔で繰り返す。
「だから、わたしは、会社にいた間ずっと、先輩のことは怖がらなかった。みんなが、どんなに怖がらなくてはならないと言っても、わたしは、けして怖がらなかった。
みんなが、わたしが何をするか、しないかは関係ないと言っても、わたしは、そうは思わなかったです。先輩にどう思われるかが、一番の問題なのですと言っても、わたしは、そうは思わなかったです。わたしは、いつも、自分が何をするかだけを考えましたです。
そのうち、わたしも先輩に殴られるようになりましたけど、わたしは、先輩を怖がりませんでした。殴った先輩は、リングの上で思いっきり、蹴とばしてやろうと思っただけですよ。ええ。ほんとですよ!」
麗※[#「雨/文」]は、ガイジンとしていじめられたとき、憤慨したり打ちのめされたりするかわりに、機敏にいじめかえそうと考えた。そして、その機会を、むしろ楽しげに待ち受けた。異文化交流の実像とは、実は、深刻な知的アプローチによってではなく、こういった人間臭い現実的な感情のやりとりによって、たくましく練り上げられていくものではないか。
そのとき、私は、こう実感した。
■麗※[#「雨/文」]の初仕事
麗※[#「雨/文」]が初仕事を得たのは、入社後二カ月が経過した、一九八六年五月だ。
だが、彼女自身の予想に反して、それは、プロレスラーとしてリングにあがることではなく、女性のアマチュアレスリングの世界フェスティバルへ参加することだった。この大会は、世界規模で行なわれる、女子アマレス競技大会の第一回大会である。
日本に女子アマレス協会が誕生したのは、一九八五年。同じ年に、女性専門の無料レスリング教室〈代々木クラブ〉が発足した。この年は、全日本女子プロレスで、クラッシュブームが始まった翌年にあたる。女子プロレスブームは、ティーンエイジャーの少女の目を、芸能としての女子プロレスだけではなく、レスリングという格闘技そのものにも向けさせる役割をも果たし、アマレス教室はたくさんの生徒を集めた。事実、アマレスの習得を、プロレスへの足掛りと考える生徒も少なくなかった。クラッシュ・ギャルズが観客に訴えたプロレス観が、本格的格闘技の要素を濃厚に持ったものだったこともこの動きに影響を与えている。さらに、女子アマレス協会発足の二年前には、前述したように女子柔道の国際試合が本格化している。すなわち、一九八〇年代半ばになると、それまで日本では女性のスポーツとは考えられなかった格闘技が、プロとアマの双方から、にわかに注目されるようになってきたのである。
実際、この〈代々木クラブ〉の出身者がプロレスラーになる例は、クラブ発足以降、年々増えていった。つまり、女子プロレスは、この時点から、アマチュアスポーツとの連係という、まったく新しい局面をむかえることになったのだ。そのひとつの現われが、世界フェスティバルに参加する重量級選手を、プロレスラーの中から選ぶということだった。
この新事態は、これまで狭い興行の世界に生きてきた会社のスタッフにとっても、興奮するニュースであったにちがいない。アマレス大会への参加が決まったあとの会社の雰囲気について、麗※[#「雨/文」]は、こんなふうに思い出す。
「世界大会の前に、代々木の青年館というところで、日本の選抜大会があったのですね。そこで勝った人が、ベルギーの世界大会に行くっていうことです。
体重別で、わたしは七〇キロ級に出たですよ。そしたら、その級に出たのは、わたしをあわせて二人しかいないの。それで、わたし、たまたま勝っちゃったですよ。でも、二人しかいないところで勝っても、ベルギーは行けないのでしょうね、と思ってたの。
そしたら、何日かしてアマレス協会の人から、わたしともう一人が、ベルギーに行くことになったって言いにきたですよ。
そのときの、社長の喜びようってなかったですよね。もう、張りきっちゃって。がんばらなくてはいけない、嬉しいと思わなくてはいけないよって、いろんな人から言われました。それからは、毎日アマレスのスパーリングばっかり。昼間も練習。夜も練習。
わたしは、毎晩、一〇人くらいの人を並べて、一人につき五分間のスパーリングをやりましたよ。全部の人とやると、一時間くらい、あっというまにたっちゃうです。みんなは、ものすごく張りきっていたけど、わたしは、もうベルギーには行かなくていいですよ、と思ったよ。もう、すごく疲れてしまいましたので」
こうして、アマレスの選手として一カ月あまりの速成訓練を受けた彼女は、七月の中旬、ベルギーに飛ぶ。試合は、同月の一九日、二〇日の二日にわたって行なわれ、彼女は七〇キロ級で優勝した。
「週刊プロレス」誌のニュース欄に、初めて掲載された彼女の写真は、このときの優勝メダルを手にしたものだ。彼女の優勝を、日本のレベルの高さの証明として誉めたたえる記事の下で、写真の彼女は、日本チームのユニフォームであるブレザーを着込み、まぶしそうな目をしている。この微妙な表情は、彼女の優勝の実態が、記事のニュアンスといささか異なるものだったためかもしれない。
「わたし、ベルギーに行きましたでしょう。でも、試合はやらなかったです。同じ階級の人がいなかったから。だから、試合はしないでメダルを貰っちゃった。
それはね、ベルギーに行ってからわかったことですよ。どんな人と試合をやるのでしょうね、とずっと思っていたのに、ベルギーには誰もいなかったですよ。
メダルを貰うのは、だから、とても嫌だったです。だって、わたしは、一度も試合をしていない。それなのに、あんなに高いところに上って、メダルを貰うのは嫌だったですよ。だから、メダルを貰うのは嫌だと言いました。でも、嬉しく思わなくちゃいけないって言われまして。そんなに暗い顔をしていては駄目ですと言われまして。それで、むりやり高いところに上らされました。
ずっとずっと考えていたです。どんな人と、どんな国の、どんな選手と、わたしは試合をするのでしょう。わたしは、たった二カ月くらいしかアマレスを練習していないけれども、わたしと対戦する国の人は、きっと長い間、たくさんの練習をやってきている人だろうと想像しましたよ。だから、きっとわたしは負けるでしょう。ひょっとして、負けたら、プロレスを追い出されるかもしれないと思いましたよ。でも、ずっと、どんな人とやるだろうと、わたしは考えていたですよ」
このアマレス大会に参加した七〇キロ級以上の選手は、のきなみ、自分と同様、対戦相手がいないため不戦勝だったと麗※[#「雨/文」]は言う。すなわち、当時の女子アマレスは、プロレスラーからの参加があっても、なお、満足できる人材数を集めることができなかったわけだ。女子アマレスは、文字通り、まったく新しい女性の格闘技としてスタートを切ったのである。
この大会を皮切りにして、翌一九八七年には、第一回女子アマレス世界選手権が行なわれた。そして、同年、国内では、世界の動きを受けた形で、第一回女子レスリングトーナメントを実施。このトーナメントに、麗※[#「雨/文」]は、ほかの全日本女子プロレスの若手選手と参加し、三位におわっている。
たとえ不戦勝とはいえ、世界大会の優勝者が、一年後には国内第三位へとランクダウンするというのは、彼女個人の問題とすれば不愉快な経験にちがいない。だが、これは、別の見方からすると、わずか一年の間に、アマチュアレスラーの選手層が厚さを増し、技術的にも格段に進歩したことを意味するものではないか。事実、当初、文句なしに、アマチュアを破ることができたプロレスラーも、国内トーナメントが回数を重ねるにしたがって、おいそれと入賞することができなくなる。もちろん不戦勝のケースも、結果的に姿を消すようになった。
現在も、女子プロレスラーの新人選手は、アマレスの国内トーナメントに参加しつづけている。だが、女子アマレスは、プロ先導型から、次第に、アマチュア生え抜きの選手による競技へと性格を変えてきた。女子柔道より圧倒的に歴史の浅い女子アマレスに、かつての神取《かんどり》のような破格な選手が生まれるには、まだ時間がかかりそうだが、今のところ、女子プロレスは、女子アマレスを競技化するための推進力としての役割を、まっとうしたように見える。そして、麗※[#「雨/文」]は、プロレスラーになって数カ月目に、この推進力の最初の布石となったわけだ。
そして、このように、いったんアマチュアスポーツとの連係回路ができたことは、女子プロレスの内部にも少なからぬ変化を及ぼさずにはおかなかった。たとえば、一九八七年の第一回大会以来、女子レスリングトーナメントは、全日本女子プロレスとのプロ・アマ合同興行として行なわれている。興行の形は新人プロレスラーが参加してのアマレス競技会と、プロレスラーの試合による二部構成。このようにして、アマレス競技に触れる機会をたびたび持つようになった若手の女子プロレスラーは、当然、先輩選手たちより柔軟にプロレスという仕事をとらえるようになった。
たとえば、かつての選手たちにとって、プロレスとは、先輩やコーチによって教え込まれた技以外を指《さ》さなかった。要するに、彼女たちにとって、プロレスとは、他の芸能ともスポーツとも似たところのない、特殊なものを意味したのである。この点で、女子プロレスラーの自己認識には、女相撲の太夫《たゆう》と、同じものがあった。女相撲が、大相撲とは本質的に違う独特な芸能だったように、女子プロレスは、アマレスが職業化したものではなかった。それは、女子プロレスという以外に名づけようのない独自の世界を形成していたのだ。
だが、女子プロレス誕生後三〇数年の一九八〇年代なかばに、プロレスラーになった選手たちは、当人の能力次第で、もっと広い視野をもってプロレスを考えることに抵抗を感じなくなってきていた。アマチュアの女子格闘技に触れた選手が、プロレスをほかの格闘技と並列的に考えるようになることは当然のなりゆきだと思う。彼女たちにとって、プロレスラーであることは、ほかに名づけようのない特殊な存在であることではなく、より一般的な格闘技選手の一人であることを意味したはずだ。
また、これは、プロレスラー個人の問題だけではなかった。興行会社そのものも、この時期から、若手を中心とした選手たちに、ボクシングやアマレスなどを積極的に習得させたり、格闘技戦と呼ばれる、プロレス以外の格闘技による試合を励行するようになっている。
麗※[#「雨/文」]は、こうして、女子プロレスが、クラッシュブームの裏面でひそかに転機を迎えていた時期にプロレスラーとなった。
■長与千種の魅力
ベルギーでのアマレス大会から帰った翌日、麗※[#「雨/文」]はプロテストを受けて合格し、七万円の基本給を貰う立場となった。それからというものは、彼女の生活の大半を、新人選手としての仕事が占めるようになる。
彼女は、プロテストに受かった翌日から、試合のセコンドにつき、選手にタオルやサポーターや水を渡したりするように言いつけられた。セコンドについたのが、ヒール役の選手であれば、これに、灯油缶やスチール椅子などの凶器≠受け渡す仕事が付け加えられる。また、その凶器を使って、ヒールの選手がベビーフェイスの選手に殴りかかっている間に、彼女は、控室で待機している選手に、試合の経過時間を教えにいかなくてはならない。待機中の選手は、前の試合の経過を見ながら自分の身支度を整えるのである。
会場の売店で、パンフレットや、人気選手のキャラクター商品、やきそばなどの軽食を売るのも、新人選手の役割。試合会場に選手たちが乗り込んだバスがつくと、先輩選手の衣装や、リングを架設するための機材を会場に運び込むのも仕事のひとつだ。当時、まだ、早口で話される日本語のスピードについていけない麗※[#「雨/文」]にとって、すべての指示を間違いなく聞き取ることはなかなか難しかった。彼女は、あるときは、タオルを持ってきてと命じる選手にサポーターを持っていき、試合時間二〇分経過を、一二分経過と聞き違えて伝えた。彼女は、いつも緊張しながら、会場から控室へ、バスから会場へと右往左往していた。
麗※[#「雨/文」]は、まだこのとき、南京の養父母へプロレスラーになったことを知らせていない。手紙を書く暇がなかったというのは表面上の理由にすぎなかった。中国にいるおとうさんたちに、プロレスラーという仕事を、どのように表現したらよいのか、わたしは見当がつかなかったのですよ、と彼女は言う。
「南京のおとうさんは、わたしが、日本でいったい何をしているのか、とても心配していたみたいです。おとうさんは、日本には自由があると思っていましたけど、それ以外に、日本については何も知りませんでしょう。いったい、何をしているのか。想像もつかない悪いことがおこっていないだろうか。おとうさんは、そんなことを考えて、いつも心配します。
小琴《シヤオチン》、あなたは、知らない国で何をしているのか。僕は、とても心配だと、おとうさんはたびたび手紙に書いてきました。
わたしは、安心させてあげたいと思いましたよ。でも、正直いって、わたしは、そのとき何をしているのか、自分でもあまりよくわからなかった。プロレスについても、空手と柔道とカンフーとアマレスをまぜたような感じということしかわからなかったしね。アマレスの練習はしたけど、プロレスの練習は、それほどやっていなかったですから」
麗※[#「雨/文」]が、自分がプロレスラーという職業についていることを養父に知らせたのは、結局、会社に入って一年後だった。だが、こんなふうに、仕事の実態を完全に把握していなかったにもかかわらず、先輩レスラーの芸≠ヘ、彼女をいつも魅了した。麗※[#「雨/文」]は、思わず、うっとりと回顧する目つきになって言う。
「クラッシュ・ギャルズのセコンドにつくと、いつも、わたしは、自分がどこにいるのかを忘れて、ただ試合をみとれました。そして、あとで怒られましたよ。仕事を忘れるんじゃないって。
だけどね。それをどういう言葉で書けばいいのか、わたしはわからなかったの。どんなふうにプロレスがすばらしいのか、わたしは、南京のおとうさんたちに教えることができなかったです」
天田麗文のプロレスラー生活のスタートは、こうして、目の回るような多忙さと、プロレスという名前の日本≠ニの混沌《こんとん》とした出会いがないまぜになった色彩を帯びていた。
ところが、麗※[#「雨/文」]が仕事を忘れるほど、うっとりとみとれるような試合を披露していたクラッシュ・ギャルズの長与千種《ながよちぐさ》は、その頃、リング上での独壇場の活躍とは裏腹に、リングを降りると、ひどく不安定な精神状態をあらわにしていた。
彼女の感じていた不安は、基本的には、ブームの下降の予感に起因していた。だが、そのほかにも彼女を悩ませていた理由が、ふたつあった。
そのひとつは、会社が若手選手を中心にして、次第にアマレスへの傾倒を表わし始めたことにある。
そして、もうひとつの理由は、ジャパン女子プロレスという競合団体の誕生にあった。
長与の、このふたつの事件に対する拒否感情は予想以上に強く、取材をしている私をしばしば驚かせた。
彼女は、麗※[#「雨/文」]のような若手選手が、プロレスを学ぶ前にアマレスを習得することを、ひどく嫌がった。この嫌悪の感情には、プロレスに距離を置く選手が増えることによって、彼女自身がプロレスをするための好敵手を失う可能性があるという正当な理由もあっただろう。だが、彼女の感情の底にあるものは、自分が慣れ親しんできた興行スポーツとしてのプロレスの世界が変わっていくことに対する強い不安だと、私は感じた。
彼女自身は、クラッシュ・ギャルズを作ることによって、それまでのプロレスのパターンを大きく変えた経験を持っていた。また、ブームの下降を防ぐためには、何か新しい展開を呼び込む必要性があることも感じていたはずだ。だが、彼女は同時に、プロレスが、これまでの特殊な興行スポーツから脱却し、そのほかの格闘技と並列的な立場に置かれるような変化を望んでいるわけではなかった。彼女にとって、女子プロレスとは、格闘技でも芸能でも割り切れないものでなくてはならなかった。
そして、この割り切れなさこそが、長与のプロレスの魅力だった。
たとえば、人気絶頂期の彼女は、あるときは寡黙なスポーツ選手としてレスリングを展開するかと思うと、次の試合では、一転して、技のひとつひとつに激しく感情移入して、観客を熱狂させた。彼女は、ヒール役の選手に灯油缶で殴られて昏倒《こんとう》するときでさえ、それを芸のひとつとして十二分に表現しうるエンターテイナーだった。事実、観客は、彼女が苦悶しながら、リングを這うのを見て泣き叫び、コーナーポストにすがって立ち上がるのを見て狂喜した。長与という選手は、いったん気分が乗り始めると、何ひとつ技らしい技を使わずに、プロレスをまっとうできる天分の持ち主だったのだ。
そういうときの彼女の姿には、たしかに、女子プロレスの奥深い芸能としてのルーツを感じさせるものがあった。彼女のプロレスが持つ演劇性は、あくまでも土臭く、だが魅力的だった。
彼女のプロレスラーとしての真骨頂は、スポーツから演劇にいたる女子プロレスの芸域の振幅を、変幻自在にあやつることにあったのだと私は思う。だから、プロレスが、柔道やアマレスのようなわかりやすさを持ってしまうことは、あるときはスポーツ選手に、あるときは女優に変化する、彼女の自由を奪うものだったのだろう。彼女は、女子プロレスが、一種ヌエ的で、黒白を判定しにくい性格を持っていてこそ映《は》えるプロレスラーなのである。
一方、ジャパン女子プロレスに対する長与の拒否感は、よりストレートだった。彼女は、これまで社内のレスラー以外に、競争相手を持ったことがなかった。一五歳から、外界に対して閉鎖的な女子プロレスの世界だけで育ってきた彼女は、自分が、いつか、そういった外敵≠持つ可能性さえ考えていなかったのではないか。
彼女は、ジャパン女子プロレスの旗揚げ興行が計画された一九八六年の夏が近づくにつれて、目に見えて動揺しはじめた。ジャパン女子プロレスは、彼女が生まれて初めて出会う、内なるヨソ者≠セったのだ。
「女子プロレスは村《ヽ》なんだから、小さな村なんだから。それで、ずっとやってきたんだから、新しい団体なんていらない。今までみたいに、村の中で、みんなでやっていけばいいのよ」
取材の途中で、前後の話題とは脈絡なく、彼女はこう言った。
ところで、このとき、ジャパン女子プロレスの幹部選手であるジャッキー佐藤は、全日本女子プロレスの選手の、栄養管理や練習の不合理性や、会社の前近代的な性格を指摘していた。彼女がめざしているものは、より合理的な選手の管理体制だった。もちろん、健康管理と近代的経営を充実させさえすれば、優秀なプロレスラーができあがるわけではないだろう。だが、その指摘は、ある意味では正しかった。
なぜなら、女子プロレスラーの中で、自分自身の簡単な健康管理さえできる人は少数派だったのだから。彼女たちは、会場へ移動するバスの中で、際限もなくスナックやジュースを口にする。夜ふかしのせいか、いつも睡眠不足で顔色が冴えない人も多い。彼女たちのケガの多さは、年間三〇〇試合近い極端な試合数だけが原因なのではなく、そういった健康管理の悪さも一因なのではないかと、私は感じていた。
だが、長与にとっては、指摘されたような興行会社の古い体質こそが、プロレスを意味していたのだろう。彼女は、佐藤が、選手の健康管理ではなくて、彼女自身を批判したかのように感情的になっていきりたった。
女子プロレスラーは生活のほとんどを会社に束縛されているのだから、お菓子を食べることくらいしか楽しみがないのに、その楽しみを取りあげようとするなんて残酷すぎる、というのが長与の反論だった。プロレスラーはスポーツ選手じゃないんだから、と彼女はくりかえした。スポーツ選手に必要な管理など、女子プロレスラーには無用なのだ、と。
この反論は、いかにも説得力に乏しかった。いくら束縛的な生活を送っているとはいえ、女子プロレスラーに与えられた唯一の自由が、お菓子を食べることだけというのは詭弁《きべん》だ。もし、そのとおりなら、女子プロレスラーは奴隷と同じではないか。それに、体を使う商売の人が、理由はどうあれ、食べることに自堕落になってよいはずはないだろう。会社は、選手が体によいものを食べる自由までも束縛して禁じているわけではないのだから。だが、そのときの彼女は、どのような反論であれ、とりあえず敵≠ノぶつけていなければ気がすまない状態だったのだと思う。それでもなお、彼女は、その批判に、心の深い部分を揺り動かされているようにも見えた。
さらに、当時、クラッシュ・ギャルズなど、ものの一〇秒でフォールしてみせるという、神取しのぶの記者会見上での暴言が、スポーツ新聞の紙面にでかでかと載ったことも、彼女を動揺させる原因になった。
奇妙なことに、そのとき、彼女は発言者である神取より、それを取材して記事にしたスポーツ新聞の記者たちのほうに怒りを向けた。なぜ記者の人たちは、あんな記事を書くのだろうと憤慨する彼女を、私は、不思議なものとして眺めた。このような常套句的罵言《じようとうくてきばげん》にまで、いちいちショックを受けていたら、プロレスラーを仕事になどできないではないか。
あなたは、新聞のオーナーではないんだから、記者にどういう記事を書けと命令するわけにはいかないんじゃないの、と私は彼女に言った。その頃の彼女は、ジャパン女子プロレスの出現や、記者の態度の変化にばかり気を取られて集中力を失いがちだった。そのため、私は、いつまでたっても取材メモを埋めることができずに、内心|苛立《いらだ》っていたのである。長与の慢性的な苛立ちは、話を聞く私にまで伝播《でんぱ》していたのかもしれない。
彼女は、そのとき、突如として自信を失った様子で、こう答えた。
「だって、今までは、こんなことなかったのに」
全日本女子プロレスが女子プロレスの興行を独占していた時代に、ブームの立て役者になった彼女にとって、スポーツ記者は、いわば身内《みうち》の人間だったのだろう。だが、ジャパン女子プロレスが誕生したことによって、記者たちは、彼女の身内ではなくなった。彼らは、長与を持ち上げたのと同じ筆で、神取の暴言をレポートするようになったのだ。
さらに、長与は、ちょうどその時期、もう一人のクラッシュ・ギャルズである、ライオネス飛鳥《あすか》とのシングル対決を控えていた。タッグチームであるクラッシュ・ギャルズが、初めてシングルで対決したのは、ブームが最高潮に達した一九八五年四月。この対戦は、予想通り、観客を熱狂させた。だが、クラッシュ対決も二回目になると、それはどこかしら、クラッシュブームの終焉《しゆうえん》を予感させる要素を含んでいた。
こういった状況の中で、長与は、崖《がけ》っぷちに立たされたような危機感を覚えていたのかもしれない。
だが、彼女は一面、ナイーブで正直な女性でもあった。ジャパン女子プロレスや、ジャッキー佐藤や、スポーツ新聞の記事を罵《ののし》りながら、次第に、彼女は、ジャパン女子プロレスが提示する女子プロレスの新しい形についての興味を抑えきれなくなってきたらしい。旗揚げ興行が行なわれる八月が近づいてくると、彼女は私に、たびたび、神取しのぶとは、どういう選手だと思うかと尋ねるようになった。
だが、そのとき、私には、かなり昔、テレビで見た、目つきが異常に悪い女子柔道選手ということしか、神取についての予備知識がなかった。
だから、彼女のことはよく知らないから、旗揚げ興行を見に行くつもりだ、と私は長与に答えた。旗揚げ興行の神取が、どんなプロレスラーだったかを、あなたにあとで話そうか? 私は続けて、こう尋ねた。そのとき、全日本女子プロレスのレスラーは、その旗揚げ興行を観戦に行くことを、会社から禁じられていたのである。
長与は、あいまいに肯きながら、教えてほしいと小声で言った。そのあと、彼女は、心の安定を取り戻すために、最近、数日休暇をとって神社めぐりをしたの、と告白した。私は、あらためて彼女の動揺の深さに驚いた。だが、神社めぐりの効用からか、それからの彼女は、ジャパン女子プロレスに対しても、アマレスの練習に励んでいる新人選手にも、以前ほど切迫した拒否感を示さないように見えた。
当初、長与が示した動揺は、あっというまに、全日本女子プロレスの観客全体にひろがっていった。
彼女たちがより熱狂的に、より閉鎖的に、クラッシュ・ギャルズを声援するようになったのは、ちょうどこの頃だ。プロレス専門誌の編集者は、最近、ジャパン女子プロレスの記事を載せると、全日本女子プロレスのファンから、脅迫まがいの電話がかかったり、抗議の手紙が殺到したりする、とぼやいていた。
たしかに、全日本女子プロレスの会場は、その頃から、一種悲壮な息苦しさにつつまれるようになった。親衛隊《しんえいたい》と呼ばれるファンの精鋭グループの存在は、クラッシュ・ギャルズのブームが最高潮に達していたときよりも、ひときわ目立つようになった。親衛隊は、クラッシュ・ギャルズがリングで歌を歌い始めると、実に整然とポンポンを振り、一糸乱れず歓声をあげる。
観客のその姿に次第に圧迫感を感じ始めたのは、私自身がティーンエイジャーだった頃、これほど熱狂的になる憧れの対象を持たなかったためでもあるだろう。また、彼女たちの間で、ジャパン女子プロレスをぜったいに見に行かないという協定ができているという話を、関係者から聞いたときに違和感を感じたのも、自分が基本的にファン気質というものと縁遠い体質だったせいだろう。
いずれにしても、一九八六年の夏には、会場でクラッシュに熱狂するファンの声援を聞くたびに、私は、少し憂鬱《ゆううつ》な気分になっていた。当初は、試合の盛り上がりに応じて、足踏みをしたり、歓声をあげたりしていたファンも、この頃には、クラッシュ・ギャルズの試合となると、試合の最初から最後まで、足踏みをしつづけ、悲鳴をあげつづけるようになったのだ。
間断ない足踏みの振動と、割れるような悲鳴は、試合のリズムを破壊しがちだった。少なくとも、私にとって、会場全体が絶え間なく鳴動している中で、試合の内容に集中するのは難しく、そのため、席から身を乗り出した前傾姿勢でリングの上の動きを注視する癖がついた。だが、そういう姿勢で試合を観戦していると、後ろの席に座った少女が、私の耳に密着するようにさしだしたメガホンで、つんざくような悲鳴をあげ始め、思わず飛び上がることもある。それからというもの、試合を見るときには、私は無意識のうちに、耳を半分、手で覆うようになった。
また、同じ頃、もう一人のクラッシュ・ギャルズであるライオネス飛鳥《あすか》との間で、初めて本格的に開始したインタビュー連載を、私は、四回目で中止しなくてはならないはめに陥った。
ライオネス飛鳥は、当時、長与とは異なった事情によって精神的に落ち込んでいた。連載のために取材したところによれば、彼女の悩みの最大原因は、クラッシュ・ギャルズに課せられた芸能活動にあったようだ。
ライオネス飛鳥こと北村智子《きたむらともこ》は、優秀な資質を持つレスラーだったが、長与ほど演劇性を前面に出すタイプではなかった。長与が、徹底して派手なリングコスチュームに凝《こ》るのに対して、北村はシンプルな水着だけを着てリングに現われることを好んだ。また、長与は、歌を歌ったり、テレビ番組にゲストとして出演したりという活動を含めて、プロレスラーの仕事≠セと考えていたが、北村は、どちらかといえば、リングの上だけに活動を絞りたい意向を持っていた。そのため、ブームが高まるにつれて増えてくる芸能活動は、彼女にとって苦痛の種となった。
それに加えて、彼女は人気が高まるにしたがって、同僚のレスラーに嫉妬されることに神経質になっていた。彼女は、それを有名税と考えて無視できるほどの強靭《きようじん》さは持ちあわせていないようだった。彼女は、他人が言ったことに神経質になるだけでなく、自分の発言が他人にどう受け取られるかについても神経をとがらせていた。
私のインタビューは、彼女のその神経のどこかに接触したのだろう。彼女は、三回目の連載分が書店に出回ったところで、連載を打ち切るように申し入れてきた。理由は、彼女と親友づきあいをしていた女性についての表現に、不満足な点があるからということだった。個人的には、その表現が本質的な問題に抵触するものだとは思わなかったが、彼女がインタビューという自己表現の作業に耐えられないのだということはわかった。そのため、私は連載を打ち切ることに決めた。
そのとき、私が連載中止のおしらせとして書いた記事は、たとえば、このようなものである。
[#ここから1字下げ]
前号掲載「My dear ASUKA──飛鳥への質問状──B」中、数カ所の記載について誤解をまねく表現、および事実と異なる部分がある旨、ライオネス飛鳥より編集部、記者双方に対して抗議がありましたので、左に当該箇所をあげて訂正し、おわび致します。
@文中、ライオネス飛鳥氏の伊藤サヤカ氏に対する呼称が〈伊藤サヤカ〉となっていましたが、これは〈伊藤サヤカさん〉のあやまりです。
A文中、伊藤サヤカ氏の渋谷ライブインに於けるコンサート開催日時が〈日曜日〉になっていましたが、これは〈金曜日〉のあやまりです。また同箇所、ライオネス飛鳥氏が〈コンサート会場で席に座っていた〉は〈椅子をとりはらった会場で立っていた〉のあやまりです。
(中略)
記者はライオネス飛鳥氏に聞き違いの件について可能な限り説明し、訂正文掲載を提案。これについては受け入れられましたが、取材中止についての考えは変わりませんでした。このような経緯から連載は中止せざるを得なくなりました。愛読者の皆様には心よりおわび申し上げます。
(後略)
[#ここで字下げ終わり]
このような訂正文を書いたのは、一九八六年の七月のことだ。
その翌月の八月一七日、ジャパン女子プロレスは水道橋の後楽園ホールで旗揚げ興行を行なった。
ジャパン女子プロレスの旗揚げ興行は、オープニングセレモニーから異色だった。観客は、まず、盛大に爆竹《ばくちく》の鳴る音で驚かされる。爆竹が派手な音を立てたあと、会場は暗転。カクテル光線が飛び交う中を、純白のユニフォームをまとった選手たちが一人ずつリングに登場する。それはプロレスというよりも、大がかりなコンサートのオープニングに似ていた。
試合数は多かったが、選手たちの技術レベルは高いとはいいかねた。だが、彼女たちは、すべてオリジナルのテーマ曲を持っていたし、コスチュームも従来のイメージをはるかに超えた斬新さに溢れていた。ジャパン女子プロレスは、プロレスという古い興行スポーツのエッセンスを、非常に現代的な芸能の器に盛りこもうとしているようだった。
この日のメインイベントとして組まれた試合は、ジャッキー佐藤と神取しのぶのシングル戦である。
それは、こんな試合だった。
佐藤と神取は、まず、アマレスばりのバックのとりあいと、手首関節の決めあいから試合に突入した。彼女たちは、それまでの女子プロレスでは考えられないほど、速く、鋭く、無言で相手の死角へ回り込み、また素早く体を離して睨《にら》みあった。プロレス流のアームロックから、柔道流の脇固めへ、そして三角絞めへと、いくつもの関節技がとぎれなく駆使される。二人は、相手の動きを封じ込めようと、低い体勢で流れるようにリングの上を動いた。
そして、ひとつの動きから、もうひとつの動きへ移るたびに、神取の全身の筋肉が、あるときは柔らかく、あるときは力強くうねる。それを見るのは、ひとつの感動だった。
試合経過五分以降から中盤まで、彼女たちは、おもに関節技で相手を攻めあった。だが、関節技の応酬が強いる緊迫感に耐えかねたように、佐藤が大きなバックドロップを見せると、それを皮切りに二人の試合は、よりプロレス的な大技による展開へと移っていく。神取が、猫背気味の姿勢から、突然大きくひろげた腕を、佐藤の首にまきつけ、頸動脈を圧迫して相手を疲弊させるスリーパーホールドに入ると、それまで静まり返っていた客席がどよめく。その直前に、どこかで動物が低く吠えたかのように聞こえた音は、神取がこの技に入るときに発した気合いだったらしい。
その日、観客は二人の選手同様、ほとんど声らしい声を立てず、ただ試合だけに集中した。そしてその静けさを縫い、時折、神取のうめくような気合いが響いた。
試合の決着がついたのは、試合開始から二四分三六秒後。佐藤が、バックドロップから体を回転させてのエビ固めで、神取を破った。
控室にもどった神取は、やや青ざめた顔色だった。顔を紅潮させ、肩で息をついている佐藤とは対照的だった。彼女は、落ち着いた息遣いのまま、控室の隅に置いたスチールの椅子に腰を下ろした。頬の一カ所に、相手の肘とぶつかってできたらしい、直径三センチくらいの打撲があった。
一〇人たらずの記者は、そんな彼女を取り囲んだ。まるで、男のような試合でしたね。とても女の試合だとは信じられない、と一人の記者が興奮しながら口を開くと、彼女は、打撲を負ったほうの頬をわずかに歪《ゆが》めて伏し目になり、返答を避けた。
数日後、私は、取材のために長与に会った。
彼女は、私の顔を見るなり、神取はどうだった? と聞いた。
天才じゃないかと思ったわ。私は、こう答えた。
■神取しのぶの苦悩
神取しのぶは、だが、不遇《ふぐう》なプロレスラーだった。
彼女の不幸のひとつは、デビュー戦に、あまりにも素晴らしい試合をしすぎたことにあっただろう。
彼女は、女子プロレスは、一回だけですべてが終わる柔道の試合とは違うことを、理解していなかったのだろうか。
一見単調な試合の連続の中で、自分のレスラーとしてのイメージを観客に定着させていくこと。また、そういった試合の中で、自分が持つプロレスの主題をつねに展開し、芸域を広げ深める努力を怠らないこと。こういったことが、芸人としてのプロレスラーには必要だということを、彼女は事前に予想しなかったのだろうか。
いずれにしても、最初の試合の質の高さに比べて、そのあとの彼女のやる気が急速に下降線をたどっていったことは確かだ。たとえ、彼女が、女子プロレスのような興行スポーツにとっては、持続こそが勝利だ、ということを知っていたとしても、デビュー戦のような緊迫感に満ちた試合をやったあとで、同じレベルを保ち続けることは難しかったかもしれない。だからといって、彼女は、デビュー戦に、そこそこのレベルの試合を持ってくるほどの老獪《ろうかい》さを持ちあわせなかったのだ。
そのため、一九八六年夏のデビューから半年後の、一九八七年二月には、彼女は、すでに興行会社の中でプロレスを続ける気持を完全に失っていた。その月、彼女はジャパン女子プロレスと年間契約の更新を拒否している。
「後楽園で旗揚げ興行をしたあと、埼玉県の大宮をまわって、一〇月に、大阪で旗揚げ第二弾にあたる興行をしたんだよね。そうよ。そのあたりで、もう私はやることがなくなっちゃったの。
同じこと、何回も繰り返してやるのは嫌だったんだよ。どこかで見たような試合はやりたくなくてさ。一回ごとに、今までにない試合をやりたかった。そうなんだよ。
でも、そうじゃん? そうじゃないと、本当のとこ、面白くないんじゃん?
ちがうかなあ。ちがうのかなあ。でも、退屈だったんだよ。ほんと。
だって、大阪では、またジャッキーさんとシングルであたることになっちゃってよぅ。ほんの二カ月前にあれだけ、もってるものを全部出してやっちゃったからさ、何をやればいいのか、私はほんとにわかんなかったのよ。あたる人間が違えば、同じようなシングル戦でも、違うことができるだろうけど、同じ人と、同じ試合をやるなんてイライラした。
ええ。こんなに早く、面白くなくなっちゃうとは、思ってもみなかった。
いったい、どこをめざして歩いているのか、全然、わからない。こんなに限られた選手の組み合わせの中で、自分がこれからどんな選手になったらいいのか、てんで見えなくなっちゃった。すごく短い間に、すべて終わってしまったような気がしたのよ。
だから、大阪を終わって、一一月頃に、また後楽園へもどってきたときには、完全に面白くない気持ちになっていたわけ」
彼女が、わずかな期間でプロレスラーとしてのビジョンを見失ってしまったことには、興行会社の姿勢に責任の一端があったと思う。
ジャパン女子プロレスの創設者は、芸能畑での経験を長く積んだ人物だった。そのため、彼は、女子プロレスを完全に芸能面からだけとらえて、興行の戦略を立てた。彼の頭の中では、おそらく女子プロレスラーがアイドル歌手とまったく同じ商品として位置づけられていただろう。実際に、旗揚げ興行は、プロレスの試合とアイドル歌手の歌の二本立てで構成された。
だが、この構成は、無残なまでに観客に受け入れられなかった。プロレスを見にきた観客は、アイドル歌手を、観戦の邪魔者として拒否したのだ。実際、プロレスラーの試合のあと、リングへあがったアイドルたちは、女子プロレスラーの肉体との対比によって、あまりにも貧弱に見えすぎた。また、彼女たちがアピールする、かわいらしい女の子のイメージは、彼女たちと同年代のプロレスラーたちが激しく肉体をぶつけあうのをみたあとでは、あまりにも作り物めいて感じられた。
この最初の社長についての、神取の評価は、こんな具合だ。
「社長はよぅ、プロレスラーであろうと、アイドルであろうと、女は若ければ若いほうがいいって信じこんでいるような人だったわけよ。わかるでしょ。社長はそういう人間だったのよ。
だから、私も、最初のうちは、年齢を二歳もサバよまれたの。元柔道選手なんだから、公式記録を調べればすぐにわかりますよって注意したんだけど、ダメだった。だから、私は、二二歳じゃなくて、二〇歳でデビューしたことになっててよぅ。笑っちゃうよねえ。二二歳なんて、とんでもないババアだとでも思ったんじゃん? 社長は」
各地のプロモーターと、三年間のフランチャイズ契約を結んで興行権を譲渡する。芸能プロダクションの〈ボンド〉と制作提携を結んで芸能活動を展開する。マルチプランナーの秋元康《あきもとやすし》にプロレス面での全体的な構成プランを依頼するといった、彼のさまざまな計画が、どこで頓座したのかはわからない。だが、彼が、旗揚げの年の暮には、すでにジャパン女子プロレスから姿を消していたことは事実だった。
結果的に、ジャパン女子プロレスは、一九八六年中に予定したよりもずっと少ない試合しか行なわなかった。不評とはいえ、〈ボンド〉との提携が行なわれたのも、大阪巡業までのことだった。選手のリングネームの命名者でもあった秋元康は、旗揚げ興行の際にリング上で挨拶を行なったものの、そのあとの活動にはまったく関わらなかったようだ。
だが、ジャパン女子プロレスの活動が尻すぼみになっていった最大の理由は、選手たちの闘志を持続させるための具体的なノウハウが、この会社に乏しかったことにあるのではないかと私は思う。
プロレスラーとは、どのような相手との、どんな試合によってやる気をおこすものか。ヒールとベビーフェイスによる抗争劇のストーリーの面白さとは、どういった性質のものか。また、各試合をどのように構成すれば、観客に、全試合を飽きることなく見通させることができるのか。次の試合の集客を確実にさせる契機作りとは、どのようなものであるべきか。
このようなノウハウは、女子プロレスが、興行スポーツとして三〇数年の時間を重ねる中で蓄積してきた智恵だ。この智恵は、ほかの芸能や興行スポーツとは異なる、女子プロレス本来のアイデンティテイを確立する上で必須なものだと思う。
だが、ジャパン女子プロレスのスタッフは、女子プロレスの世界に新風を吹き込もうとするあまり、こういった古い経験のつみかさねを重視しなかったのかもしれない。だからこそ、神取は、わずか、二カ月たらずの間に、対ジャッキー佐藤戦を、無造作に二度も繰り返させられることになった。そして、彼女自身の目玉商品≠ニして大切にしなくてはならない、その試合のインパクトを、むざむざと失うことになったのではないか。
女子プロレスを、ほかの芸能とは違う独自の世界として構築することにおいては、新興団体のジャパン女子プロレスより、全日本女子プロレスのほうに一日《いちじつ》の長《ちよう》があったような気がする。
こういった状況に加えて、一九八六年末に社長の交代が行なわれて以後は、選手のファイトマネーに関する問題が浮上してきた。
選手たちは、ファイトマネーについて、最初の三カ月は据え置き、その後更新するという約束を前社長とかわしていたという。だが、社長が交代したことによって、この約束は反故《ほご》になった。旗揚げ当初の、選手たちのファイトマネーの平均は、一試合につき三〇〇〇円から五〇〇〇円。メインに登場した神取で一万五〇〇〇円。基本給は、ほとんどの場合、一〇万円以下の場合が多かった。
このあたりの事情は、ジャパン女子プロレスも、全日本女子プロレスも、ほぼかわりがない。同じ時期、麗※[#「雨/文」]の基本給は七万円。ファイトマネーは、五〇〇〇円である。だから、ジャパン女子プロレスでも、全員が同じような経済状態に置かれていたならば、早期に問題がおこることはなかったかもしれない。
だが、ジャパン女子プロレスでは、選手のすべてが、一万円たらずのファイトマネーで戦っていたわけではなかった。そのため、選手たちの生活が圧迫されるにつれて、次第に、ぬきんでて高給をとっている幹部選手のジャッキー佐藤と、ほかの選手の差がクローズアップされる結果になった。
神取の記憶によれば、当時の佐藤は七〇〜八〇万円の基本給で、五〜八万円のファイトマネーを得ていたという。佐藤のネームバリューや経験量を考えれば、私は、これを高すぎる金額だとは思わない。だが、ベテランの佐藤も、新生団体の一員としてほかのメンバーと同一線上にいると考えていた多くの選手たちにとって、一〇倍近いギャラの差は、不満の種だった。とくに給与の更新の約束が反故にされたあとでは、この不均衡が、きわだった。加えて、佐藤は集団の中での立ち回りに長じたほうではなく、特定の若手選手を贔屓《ひいき》にしがちだったらしい。ただでさえ不穏な選手の雰囲気は、この事情によってもささくれ立っていったのである。
一九八七年の正月興行で、神取が目を負傷したのは、このような状況のもとでだった。彼女は、それから一カ月あまり試合を続けたあと、二月末の契約更新を前に、突然、姿をくらましてしまう。
負傷の間も試合に出ることを強制され、そのため視神経をさらに傷つけてしまったこと。その治療費が、事前の約束と違い、会社側から給付されなかったことが、この遁走《とんそう》の理由だった。
彼女は、会社と何度か話し合いの場を持ったものの、満足な結果は得られなかった。その上、この話し合いを通して、ジャパン女子プロレスに対する彼女の基本的な信頼感までが失われた。そこで、契約更新時に逃げだすという原始的な方法で、神取は、この問題に決着をつけようとしたのだ。
ところで、この頃には、プロレスマスコミ関係者の間での彼女の評判は、ひどく悪くなっていた。その悪評の多くは、彼女がリングの上だけではなく、リングを下りてからも、これまでの女子プロレスラーとは、まったく違っていたために引き起こされた。
たとえば、プロレスマスコミは、長年、プロレスラーが、いつでも、サービス精神豊かにふるまうことに慣れていた。その点、試合がおわるとスタスタ帰ってしまう神取は、無礼な人間に見えただろう。また、マスコミ関係者は、女子プロレスラーは、実態的に一個の独立したプロフェッショナルではなく、興行会社の社員的存在だということを知悉《ちしつ》していたから、平気で会社の方針に盾をつく神取の存在は、なんとも不可解で目障りだったにちがいない。
マスコミ関係者の間に、こういった違和感が広がる一方で、彼女は、自分にとって初めての定職≠フ感触にとまどっていた。彼女は、これまで一度も、肩書きを持ったことがなかった。そのため、自分の職業にふさわしくふるまうことも学んでこなかったのだ。
彼女は、仕事というものを、自分の生活の糧を得る手段だと単純に信じていた。自分は会社にプロレスという技術を提供し、その対価として、ファイトマネーを受け取る。これが、彼女の職業感である。日本の会社とサラリーマンの関係が、一般的にそれほど明快ではありえないこと。いったんサラリーを受け取った人間は、その会社だけでなく、会社の周辺関係者とまで、情緒共同体的な関係を結び、業界の雰囲気に溶け込むように要請されることなど、彼女は考えてもいなかった。
その上、彼女は、プロレス業界に溶け込まないことによって、自分が窮地に追いこまれていることさえ、長い間、理解しようとしなかった。
記者が、観客同様、試合だけを見て、自分を正当に評価してくれるはずだと思い込むほど、彼女は世間知らずな楽天家だったのだ。そういった用心深い世間的な処世の智恵を、柔道は、彼女に教えてくれなかった。その場かぎりのアルバイトで日銭を稼ぐことしかやってこなかった神取は、職業とは金を稼ぐ手段だけではなく、もっと束縛的なものだということを知らなかったのである。
神取は、一カ月あまりの遁走後、フリー契約という条件を持って、再度会社との交渉を始める。もちろん、こういった交渉がうまく運ぶはずもなく、この時点で、ようやく彼女は、自分が、会社だけではなく、プロレスマスコミ関係者からも非難される存在になっているのに気がついた。
彼女が私に個人的に電話をかけてきたのは、そのときが最初だった。
「いったい、何がおこっているのか、わかんないの。私は、ふつうに話をしているつもりなのに、物事がどんどんおかしな方向へ行っちゃう。私は、どうしたらいいんだと思います?」
私は、話を聞きながら、結局、彼女は、一種の早呑み込みの結果、因習的な世界にまぎれこんでしまった異邦人なのだろう、と思った。女子プロレスという古い興行の世界と、あまりにも型破りな彼女が共存する方法が、いったい、どこにみつかるというのか。
私は、彼女に、女子プロレスではなくて、別の職業を選びなおすことは考えないの? と尋ねた。
神取は、誤ってこの世界に入ってきて、画期的な試合を見せてくれた。私は、それを僥倖《ぎようこう》として記憶するだろう。だが、それと、彼女にとってプロレスが適職かどうかという問題は別だ。彼女は、プロレスの世界に足を踏み入れたばかりなのだから、今出て行っても遅くないはずだ。それが双方にとって一番損のないやりかたではないか。私は、そう思ったのだ。
しかし、彼女は、それに同意しなかった。
「どんなに人と考え方が違っても、私は、この仕事を選んだんだから、この仕事をなんとかしたい。別の仕事ではなくて、私は、プロレスラーでなんとかしてみたいんだから」
彼女の考え方のほうが正しいかもしれない。そのとき、そう感じた。
[#改ページ]
ガイジンたちのプロレス
■麗※[#「雨/文」]の苦悩
神取《かんどり》が、デビュー戦以降、試合の質を低下させがちだったとすれば、その頃、|麗※[#「雨/文」]《リーウエン》は、リングでの経験を積んでも、なお、試合からぎこちなさが抜けきらないという特徴を顕著に見せ始めていた。
デビュー二年目に入った彼女は、会社から一〇万円の給与を貰い、一年間暮した合宿所を出た。当時、弟の水《すい》が、将棋の先生に通うために、東京の知人が住むアパートに同居を始めた。麗※[#「雨/文」]は、弟の隣部屋の三畳間に住むことになった。家賃は一万円。破格に安かった。
彼女は、ほとんどその部屋に寝泊まりはせず、各地の巡業について歩いた。東京に帰ってきたときには、弟の面倒を見てくれている知人に、食費と学費の一部を自分の給料の中から支払った。親にもわずかだが仕送りをしている。
日本語は、話すほうも聞くほうもまだこころもとなく、こみいった会話をするのは苦手だったし、新人選手の仕事を、間違いなくやりとげるのは大変だった。だが、なんとか一年間がすぎたことで、彼女は漠然と、自分がこの国でなんとかやっていけるのかもしれないと思い始めていた。
こういう毎日を送っていた彼女の試合が、まだぎこちなさを残しているのは当然だったかもしれない。だが、彼女のプロレスは、ほかの新人選手たちとはあきらかに違う、特異なぎこちなさを持っていた。
その原因は、ふたつ考えられる。
ひとつは、オーディションのとき以来、彼女の肩の脱臼が習慣化してしまったことだ。脱臼がクセになったのは、入寮直後から始まったアマレスの練習がきっかけだった。まだ十分な基礎体力作りをしていない麗※[#「雨/文」]にとって、アマレスはあまりにも過激なスポーツだったのだろう。スパーリングの練習中に、彼女は何回となく脱臼を繰り返した。
試合をするたびに脱臼する肩は、一九八六年の七月にプロテストを、同年の一〇月にデビュー戦をおわり、翌年から前座《ぜんざ》で本格的に試合をするようになった彼女を、日々悩ませた。
「一年目の試合と二年目の試合で、わたし、数え切れないほど、肩がはずれちゃった。一日おきくらいにはずれましたよ。
雨の日の屋外の試合で、相手を上からぐっと押えたら、手が濡れてすべってですね、肩がはずれます。相手に投げられても、はずれますね。相手をひっぱっても、はずれますね。何をしても、わたしの肩ははずれますね。
だから、自分で怖くなりますでしょう。それで、相手が、わたしとはやりにくいと言いますよ。レフェリーストップも多かったの。一度なんか、ゴングが鳴ります。わたしは、相手と組みます。そしたら、肩がはずれた。それで、レフェリーストップです。まだ、一分たってないですよ。一〇秒もたってないですよ。それで、わたしの試合はおわり。
社長はね、あんた、帰ってもいいよって言うの。もう見てられないから、家に帰って、早くお嫁に行きなさいって。プロレスなんかしなくていいじゃないのって言います。このままじゃ、お嫁にも行けなくなっちゃうよって」
お嫁にいきなさいという社長の言い分が、よほど気に入らないらしい。麗※[#「雨/文」]の表情は、突然、険しくなる。
「わたしは、すぐ言い返しますよ。お嫁は、ぜったい行かないんだからって。みんなは、びっくりするの。いったい、誰に口をきいているの? あれは、社長ですよ、と言います。
でも、わたしは、嫌です。お嫁に行く、というのは、家庭の専業主婦ということですね。そういうことですね。ね。そうでしょ。
わたしは、日本にきて、女の人で働いていない人をたくさん見ました。中国の女の人は、ほとんどの人が働いていますでしょう。日本にきて、働かない女の人を、はじめて見ましたのです。わたしはその人の家は、とてもお金持ちなので働かないのかと思いましたよ。
でも、ちがうです。そんなにお金持ちではないの。働いてない女の人たちは、いつもお金が大変だって言いますでしょう。それに、その人の旦那さんは、とても一生懸命働いていますね。日本では、ほとんどの男の人が働いていますね。すごく、大変そうな顔をして、朝から晩まで働いていますでしょう。
でも、その人の奥さんは働かない。どうしてですか、不思議ですと思いました。
だから、ともだちに聞きました。なぜ、あの女の人は働かないの? そしたら、あの人たちは専業主婦だから、工場にも会社にも行かなくていいのですと、ともだちは言いました。
わたしは、そんな人になりたくありません。そうです。専業主婦になどなりたくありません。プロレスラーになるのをやめて、お嫁に行って、働かない女の人になるのは嫌です」
麗※[#「雨/文」]の、専業主婦に関する認識は、かなり偏っていると思う。だが、彼女のプロレスラーを続ける意志の半分が、この国での唯一の職業を失うことへの恐怖心から成り立っていたことも事実だった。
だから、彼女は、肩の脱臼癖を抱えながら、いつまでたっても芸の域に達さない試合を続けていた。二年目になっても、彼女の肩から、脱臼防御用のサポーターが取れることはなかった。そして、同期生の間で技術的な差がはっきりする時期を迎えただけに、麗※[#「雨/文」]の肩の故障は、一年目よりずっと目立つようになった。
肩の脱臼を恐れる彼女は、十分に相手を攻め込めないだけでなく、プロレスの芸を構築するために大きな役割を果たす受け身≠、大きくとることができなかった。彼女は、相手のキックを受けると、棒を倒すようにリングに倒れてしまう。投げ技に対しても、体を小さく丸めて、肩への衝撃を和らげるような体勢でしか受け身をとれない。
さらに、対戦相手に肩をおさえつけられたときも、いきおいよく相手を跳ねとばして起き上がることができなかった。肩をかばいながら相手を跳ねのけようとする彼女の姿は、観客の目には、ただ無意味にもがいているように見えた。相手の首に腕をまいての首投げも、倒立させた相手を持ちあげて投げ捨てるブレーンバスターも、麗※[#「雨/文」]がやると、いつも一拍半ほどタイミングが遅れるだけでなく、結果的に、相手が受け身を取りにくいような投げ方になってしまう。彼女のプロレスは、そのため、必要以上に無器用に見えてしまうのだった。
だが、この問題は、もうひとつの原因から比べれば、まだ小さかった。
もうひとつの問題とは、彼女が日本語でプロレスを十分に学べなかったことにあったと思う。たとえば、長与は、ときおり、取材の途中で女子プロレスのことを話題にした。
「あの子は、アマレスをやっていればいいんじゃないのかな。プロレスをやるのは、無理よ」
長与は、アマレスが嫌いだったはずなのに、麗※[#「雨/文」]に限っては、アマレス向きだと評した。
「だって、あの子は日本語の意味がよくとれないんだもの。日本のプロレスは、日本語で覚えるものでしょう。それなのに、あの子には、プロレスについて日本語で話せないんだから。無理なんよ。ああいう人にプロレスをさせるのは」
あの子に投げてって言うと、投げるだけ。走ってと言うと、走るだけ。痛い! っていう言い方にもいろんな表現があるでしょうって言っても、じっと黙ってるだけ。日本人なら、言葉の奥にある意味を、くどくどと言わないでも、きちんと受け取ってくれるはずなのに、あの人は、それができない。長与は首をひねりながら言う。
「投げるとか、走るとか、そういう単純なことじゃなくて、それ以上のプロレスの心みたいなことを日本語ができない人に教えるのって難しいよねえ。
でも、アマレスなら、そういった表現力みたいなものいらないわけだから、ああいう子にも向いてるんじゃないかと思うわけよ」
こんなふうに言ってはいたものの、長与は、あながち、麗※[#「雨/文」]を見捨てたわけではなかった。長与がプロレスのさまざまな側面について、苦労しながら教えてくれたことを、麗※[#「雨/文」]は覚えている。
「チコ(長与の愛称)さんは、プロレスは顔と体と声と、全部使って表現するんだよって言っていました。
たとえば、試合で相手に技をかけられて痛いとしますでしょう。わたしは、痛いと思って、痛いという顔をしますね。でも、チコさんは、なぜ、我慢したの? なぜ、平気な顔をしていたの? と言います。
おかしいですね。わたしは痛いと思ったのに。
チコさんは、そういうときに言います。自分の痛さを、お客さんに伝えなければ。痛いって伝えなければ、それは痛くないということになってしまうでしょうと。わたしが痛いだけではダメ。お客さんも、わたしが痛いことを知らなくてはなりませんのです。
チコさんは、痛いって表現するのは、顔だけじゃないですよ、声だけじゃないですよ、と言いますね。痛いは、全身で表現できる。痛い! と言っても、痛くないように見えるときもある。痛い! と言わなくても、痛く見えることもある。痛い! と言わずに、全身で痛い! を表現できるのが、プロレスラーですよ、と教えます。
チコさんの言うことは、むずかしかった。よく教えてくれたけど、わからない。頭では、チコさんの言葉をわかります。でも気持ちでは、チコさんの言葉をわかりません。わたしは、どうしてしまったのでしょう、と思いましたよ」
麗※[#「雨/文」]は、無念そうな表情で繰り返す。わたしは、どうしてもわからない。
「チコさんはね、プロレスは言葉《ヽヽ》ですよと言います。相手にフォールされたときに跳ね返す。これは言葉でしょう。跳ね返す選手をみて、お客さんは、負けないぞ! という言葉を感じるでしょうと言います。リングの上での動きは、全部、言葉なんだよ。口に出す言葉ではないけれども、これも言葉なんだよって。
わたしは、言葉ができませんから、言葉を使わない女子プロレスに入ろうと思いましたんですね。でも、プロレスにも、やはり言葉が必要だって、チコさんは言います。わたしは、びっくりした。プロレスには、言葉なんかいらないと思ったから、プロレスラーになろうと思ったのにね。やはり、プロレスにも言葉がいるのだそうです。
わたしは、どうしましょう、と思いました」
ガイジンとしての直接的なカルチュラルギャップには負けなかった麗※[#「雨/文」]も、自分の職業が、言語の世界と深く関わっていることを知ったときには、大きなショックを受けざるをえなかったのだろう。長与は、プロレスとは、ボディランゲージを駆使した一種の話芸≠ネのだと言うのだから。そして麗※[#「雨/文」]はそのボディランゲージの背景を形成する日本語の世界に、あまりにも不案内だった。
「わたしは、いつも無表情だって言われたの。顔だけじゃなくて、体全体が無表情だって。だから、そのうち、お客さんは、わたしのプロレスを見にこなくなってしまうよって言われました。それに、ほかの人たちも、わたしと試合をやりにくいと言いましたよ。
プロレスの言葉がわからないから、わたしは無表情です。わたしと、プロレスをやるのはとてもやりにくいと、みんなが言いますよ」
麗※[#「雨/文」]は、それほど無表情だろうか。私は、あらためて彼女の顔を見た。日本語のニュアンスを十分にとらえきれないことが、彼女の表情に、それほどのダメージを与えたのだろうか。
彼女は、そのとき、プロレスの言葉についての、長与と自分の受け取り方の齟齬《そご》を、私に、うまく伝えきれないと感じているようだった。話をしながら、彼女の手は、たえず、もどかしげに動く。麗※[#「雨/文」]の頭の中ではプロレスへの思いが、ままにならない日本語と激しく格闘しているのだろう。
私は、自分がそれに似た仕草を、英語で誰かと話すときにやることを思い出した。胸の中の思いの量と、それを表現する言葉の質が釣り合わないとき、心の中に生まれる焦燥感とは裏腹に、人間の顔は無表情になっていくのかもしれない。
「不思議ですね。わたし、日本に来てから、突然、感じていることを外に表わせなくなりました。
中国にいたときは、そうじゃなかった。中国にいたときは、わたし、男の子みたいに元気がよかったですよ。知らない人と話すのが好きでしたよ。知らないことを教えてもらうのも好きでしたよ。わたし、とてもおしゃべりだった。小琴《シヤオチン》は元気がいいねって。この子は、なんでもはっきり言うことができるねって、言われましたよ。
日本に来たあとと、中国にいたときと、自分が二人いるようです。自分が自分じゃないみたい。
日本に来ましたら、今まで、全然知らない人が、おとうさんだ、おかあさんだ、妹だって言われましたでしょう。それで、ショックだったのかなあ。よくわからない。
言葉がわからないし、とにかく、誰ともしゃべりたくなかったですよ。どうしても、しゃべらなくちゃいけないときには、用件だけ話せばいいやって思っていたの。何か話しかけられたら、ウンとかイイエとか言っていればいいと思っていたの。プロレスに入ってからもそんなふうにしていたですよ。わたし」
麗※[#「雨/文」]の言葉は、日本にきてから、単純な用件を即物的に伝えるときにだけ使われた。気持ちを表わすために、また他人と触れ合うために使われることは少なかった。一二歳で来日して以来、心身の両面から見て、麗※[#「雨/文」]にもっとも近い距離にあったのは、人間ではなくテレビだったのである。もちろん、彼女は、そのテレビの画面から、日本の社会についていくばくかの情報を得た。それらの情報が、彼女にとって無意味であったとは思わない。事実、彼女は、女子プロレスという日本≠テレビの画面を通して発見しているのだ。
だが、テレビの画面を通し、一方的に日本≠見るという体験は積んだものの、麗※[#「雨/文」]は、他方でより生々しい現実社会との接点を失っていったのではないか。そのような状況にあって、彼女の言葉と気持ちをつなぐ回路は、成長をとめ、次第に固くなっていった。彼女が、プロレスの場において、自分を表現することにひどく苦しんだのは、このためではないかと思う。たしかに、この国の言葉や文化に慣れない麗※[#「雨/文」]にとって、長与が言うような、日本的な情緒表現をリングの上で発揮することは困難だったにちがいない。だが、それ以上に、彼女は観客という他者と自分の関係を把握することが不得手だったのである。
たとえば、プロレス流のフォールと、アマレスの抑え込みの間にある微妙な差を理解することに、麗※[#「雨/文」]が人並みはずれて苦労を感じたのも、同じ理由からではないか。
「フォールと抑え込みの違いを覚えるのは、すごく難しかったです。わたし、一年目のおわりまで、ずっと本気で抑え込みばかりしますね。だから、わたしの試合は、二〇分試合でも、五分くらいで終わってしまう。それじゃ、お客さんが怒ってしまうでしょう、と言われても、よくわかりませんでした。
あんたの試合は、全部が全部、力が入りすぎている。もうちょっと、お客さんに見せているんだってことを考えてやりなさいって、チコさんに言われますね。でも、力を入れないで、どうやってプロレスをやればよいのでしょう。わからない。でも、わからなくてはいけませんね。でも、わかりません。どうしましょう。お客さんに見せなくてはいけない、というのも、よくわからない。なぜ、お客さんは試合を見ているのでしょう。そんなこと、わたしは思いましたよ。
へんですか? へんですね。きっと。でも、本当にそう思った。お客さんなんか、いなければいいのにって思った。いつも、お客さんがいないつもりで、わたしはプロレスをしましたですよ。先輩にお客さんのことを考えなさいといわれても、わたしは、お客さんをなるべく考えないでプロレスをしたいと思ってました」
唇を何度か舌で湿しながら、麗※[#「雨/文」]は一気に話し続けた。
「でもね、二年目くらいになると、少しずつ、わかってきました。二〇分試合というのは、わたしが二〇分、お客さんにプロレスを見せるということなのですね。だから、五分たったときに、むりやり力を入れて、相手を抑え込んでしまってはいけない。それに、相手に技をかけられたからといって、ケンカになってはいけませんね。お客さんは、わたしのケンカを見に来ているのではない。
プロレスのフォールというのは、試合の区切りのことですね、と、少しわかりました。
でも、それがわかっても駄目ですよ。わたしは、わかっていてもやってしまうですよ。五分で試合を終わらせてしまったり、本気でケンカになったりしますよ。
あんたは、本当に教えにくいって、わたしはチコさんに言われたよ。チコさんは、何度もそう言いました。わたしも、チコさんの言うことを、どうすればわかることができるのか、それがわからないと心の中で思いましたよ。何度も」
長与は麗※[#「雨/文」]に出会い、それまで一度もはっきりと言語化したことがなかった女子プロレスの本質を初めて語ることになった。それは、長与にとって貴重な体験だった。プロレスの言語とは、どのようなものか。それは、口に出される言葉と、どのようにつながり、どのように異なるものなのか。彼女は、麗※[#「雨/文」]のような|ヨソ者《ヽヽヽ》が入ってくるまで、それを説明する必要を感じたことさえなかったはずだから。
だが、長与の尽力にもかかわらず、麗※[#「雨/文」]のプロレス的表現への理解は、遅々として進まなかった。
要するに、彼女は、プロレスのような独特で複雑な表現に挑戦する前に、もっと一般的な状況で素朴に日本語で思いを伝える経験を必要としていたのだ。だが、誰よりも社会化されていない神取が、現実的には、もっとも因習的なプロレスの世界に入り込んでしまったのと同じように、肩の脱臼に苦しみながら、毎日、表情に乏しいプロレスをやりつづけることが、麗※[#「雨/文」]にとっての現実だった。
それでも、彼女は、デビュー二年目の秋には、全日本ジュニア選手権という、二〇歳以下の選手を対象としたベルトに挑戦し、決勝戦まで進んでいる。これは、彼女のプロレスが、ただならぬ無器用さを漂わせていたとはいえ、社内的には見捨てられた選手ではなかったことを物語る事実だ。こういったベルトへの挑戦の機会は誰でも得られるというわけではなく、ある程度評価された選手に与えられる恩賞としての意味合いを持つのだから。
だが、こういった評価も、彼女の憂鬱を本質的に解消するものではなかった。来日数カ月後に、テレビの画面を通して初めて共感した日本≠ヘ、いまや越え難い壁となって、彼女の前に立ちふさがっていたのである。
ところで、彼女は、こういった話をしはじめたあたりから、目に見えて、取材にひっこみ思案になってきた。
私には日本語がよくわからない。私は自分を日本語で表現することができないと繰り返すのにつれて、彼女は次第に、日本語で自分の歴史を語っていること自体に、自己嫌悪に近い気分を感じ出したようだった。
自室の隅の壁に背中をくっつけて座った麗※[#「雨/文」]が、ブカブカしたジャージの部屋着の襟に顎をうずめて、顔を半分隠すようなしぐさをしはじめたのは、この頃だ。さらに、彼女は、袖口をさかんにひっぱりその中に手をもぐりこませようとしはじめる。
困ったことに、この亀が甲羅に身を縮めるような奇妙なしぐさを、私は無視できなくなった。彼女の声は、何度も聞き返さなければならないほど、小さく、か細く、あいまいになっていく。そして、まるで部屋着の中に全身を隠そうとするような動作は、いつまでもとまらない。そういう彼女のほうに両手を延ばし、力づくでこちらへ引き寄せたいという衝動と闘うのはホネだった。麗※[#「雨/文」]は、あきらかに、話をするのに嫌気がさしている様子だった。
そこで、もし、日本語で話したくないのなら、中国語で話してみてくれないかしら、と、私は彼女に頼んだ。いずれにしても、彼女の声はテープに録音しているのだから、あとで、中国語の部分を日本語に直すことも可能なのだから。
この申し出を聞いたとたん、彼女の顔に、突然、激しい嫌悪が走った。
「わたしは、中国語で話したくないの」
麗※[#「雨/文」]は、それまでと打って変わった強い口調で言った。
「わたしは、中国語が話せる中国人でいるのは、嫌ですよ。なぜ、わたしは中国語が話せるのでしょう。話せなければいいのに。わたしは、中国語が話せても嬉しくない。
わたしは、自分が中国語が話せることを、人に知られるの、嫌いです。
わたしは、中国語でも日本語でもないものを話したいですよ。
そうです! 英語が話せればいいのに。
もし、わたしが英語が話せる人だったら、わたしは、わたしのことを偉いと思うのに。中国語が話せても、わたしは、わたしのことを偉いと思えない。日本語も下手だし、わたしは、わたしを全然偉いと思えない。
それに、もう、わたしは中国語でものを考えること、完全にできないですよ。日本語でも、できないですよ。ほんとですよ。
わたしの気持ちは、もうどんな言葉でも、全部、表わすことができないもの。日本語でも、中国語でも、わたしの気持ちはしゃべれないもの。わたしは、中国語でなんか、話したくないの」
麗※[#「雨/文」]が来日したのが、成人後であれば、事態はおそらくずいぶん違っていただろう。
ものを考え、他者と触れ合い、自分を表現するための母国語を自分の中に培った大人であれば、中国から日本への住み替えは、よりスムースに行なわれたはずだ。また、もし、彼女が妹や弟のようにずっと幼い頃、この国へ来たのであれば、彼女は日本語を母国語にするのに成功したかもしれない。
だが、この国へ来たとき、麗※[#「雨/文」]は一二歳だった。成熟にはほど遠く、だが、やすやすと別の言語や文化を自分のものにできるほど柔軟ではなかった。彼女は中途半端だった。だから、彼女は母国語を持つ機会を奪われた。一二歳だからこそ、彼女は、大人よりも、また子供よりも大きな犠牲を払わされたのだ。
しかし、このように中国語、日本語のいずれでも、自分をすべて表現することはできないと感じていた麗※[#「雨/文」]にとって、毎日のプロレスの試合の中で自己表現をしていかなくてはならないことも、また事実だった。
そのうち、彼女は、すぐにカッとなって我を忘れる選手だという、ありがたくない評判を得ることになる。どのような言語回路によっても、自分の中に積もり重なってくる気持ちを十分に排出することができない彼女にとって、感情のタガは、いきおいはずれがちだった。
それでもなお、プロレスという表現の場を持つことは、麗※[#「雨/文」]を完全に寡黙な世界に閉じこもらせないために役立った。そのことは、誰よりも、彼女自身が強く感じていた。
「わたしは、日本にやってきて、とても暗い人になってしまった。
けど、きっとプロレスをやっていなければ、わたしは、もっと暗い人になったでしょうね。そう思いますよ。
みんなは、あなたは暗い人になったねと言います。でも、プロレスをやっていなければ、わたしはどんなに暗くなっていたか。とても、とても、暗くなっていたでしょうね、と思いますよ。
わたしは、今は、どんな言葉ででも完全に考えることができないですけどね、そして、わたしはプロレスが下手ですけどね、もし、プロレスがなければ、わたしはもっともっと暗かった。ええ、そうですよ。きっと、もっともっと暗かった」
中国語で話すのは嫌だと叫ぶように言ったことで、少し心が軽くなったらしい。しばらくぶりに、彼女の手は、部屋着の袖口から外へ出てきた。
■デブラ・メデューサ・ミシェリーの来日
さて、このような、異文化体験としての女子プロレスは、これから約二年後、全日本女子プロレスで、もう一人の|ウチ《ヽヽ》なるガイジンとなったメデューサには、どのような形をとって訪れたのか。
彼女が来日したのは、一九八九年の正月。当時、麗※[#「雨/文」]は、プロレスラーとして四年目をむかえたところだ。メデューサは、まず四週間のツアー契約を、全日本女子プロレスと結び、麗※[#「雨/文」]やほかの選手たちと一台のバスに同乗して地方巡業に参加した。
「私はね、カシオの多国語用電卓を一台、持ってるの。日本語を英語に変換したり、それをまた中国語に再変換できるってやつ。
私と麗※[#「雨/文」]は、それを使って、よく話をしたものよ。ええ、会場へ移動するバスの中でね。私たちは電卓をやったりとったりして話し合ったわ。具体的には、まず、私が英語を中国語になおす。それを麗※[#「雨/文」]に見せるの。そうすると、彼女は、中国語を英語になおして電卓を返してくれた。そのあと、それを日本語になおして、二人で日本語の勉強をするってわけよ。
ええ。彼女は頭がいい女性だったわ。カシオの電卓じゃ、あまり深い話はできなかったけど、麗※[#「雨/文」]は、多分、とても知的な家庭の出身なんだろうって、私は確信していたの」
メデューサは、麗※[#「雨/文」]のことをこんなふうに話す。彼女たちが、同じバスに乗って移動していたのは、わずかな期間にすぎない。だが、二人のガイジンは、その間にカシオの電卓を仲介者として友人関係を作りあげていた。
ところで、メデューサが、このようにして来日するきっかけは、一九八八年の秋、長与千種がAWAのサーキットに海外遠征を行なったことにあった。彼女は、当時のAWAチャンピオンとして長与と対戦したのである。
「試合の前、控室で彼女を見たときは、男の子みたいだわと思った。それ以外に、とりたてて印象深かったことはないの。
次に彼女を見たのは、リングの上でよ。
ああ、なんてこと! 私は、そのとき、こう思ったわ。私は最初にリングにあがっていたの。なんたって一応、私はチャンピオンですからね。そして、彼女が花道を歩いてくるのを待っていたんだけど、そのとき、そう思ったのよ。ああ、なんてことよ。これは、ヤバイわって。
つまり、千種をひとめ見て、私は、彼女がプロレスを本格的にやってきた女性だってことがわかったってわけ。どうも、大変なことになっちゃったみたいよ、と私は自分に言ったわ。彼女はホンモノのようだわって。
初めに考えたことは、とにかく、彼女がどういうプロレスをするのか、まったくわからなかったので、まず、彼女に試合を仕掛けさせるようにしようってこと。いわば、彼女に試合を作らせて、自分はそれに乗っていこうと決めたの。ええ、自分のプロレスがお粗末なものだということは、私自身がよく承知していましたからね」
メデューサは、少し苦い表情でこう言ったあとで、続けた。
「試合は、だから、千種のほうが仕掛けて始まったわけ。
そして、それは、とても不思議な試合になったの。
つまりね、千種と手を合わせた瞬間、私たちは深くわかりあえるという感覚的な確信が生まれたのよ。私は彼女の世界が自分の中に入ってくるのを感じた。そして、私の世界が彼女の中に流れ込んでいくのも感じた。私たちは、会った瞬間に、お互いの波長が呼応するのを感じたのよ。言葉は必要なかった。お互いの思いが、そのまま、互いに流れ込んでいくのを感じたの。ええ、たしかにそう感じたんです。観客も、私たち二人の世界に、ぐいぐいひきずりこまれていったわ。
彼女は忍者《にんじや》のコスチュームを着ていて、まるでヒールのようだったけど、あのときだけは、観客は私たちのどちらがヒールでベビーフェイスか、なんていう単純な図式を忘れたのだと思う。私も、いつものアメリカ式プロレスではない、何か新しいプロレスをやっている実感があったわ。
そのときのリングは、今までに、まったく経験したことのない空間だった。そして、そのとき、私はふと、以前、友人に見せてもらった日本の女子プロレスのビデオのことを思い出したの。ああ、|これなのね《ヽヽヽヽヽ》、と私は思い出した。そのビデオを見たとき、自分が衝撃を受けたことも思い出した。
そして、そのビデオの世界に、今こそ、自分がいることも確信したのよ」
この試合で、メデューサは全日本女子プロレス関係者に評価された。そのとき初めて出会った長与と、瞬時に波長のあうプロレスを構成することができた彼女は、プロレスラーに必須の勘のよさを証明したのだ。それは、アメリカの女子プロレスの全般的なレベルを考えれば、たしかに注目してよい感度のよさだった。
「でも、その試合の直後、私はAWAでの試合ができなくなって、まったく無職の状態になってしまったの。
AWAが試合を組んでくれなくなった理由は、いくつかあると思うわ。でも、最大の理由は、私自身がこの会社で長い間、プロレスをする気持ちを持っていなかったことにあるの。AWAは、その気持ちに気がついて、嫌がらせ工作に出たというわけ。私がAWAの女子プロレスラーになって、すでに二年がたっていたけど、実をいうと、その間、私は一度も契約書にサインをしなかったのよ」
メデューサはAWA時代のことを話すとき、いつも軽く眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せる。そのときも、少し難しい顔をした彼女は、ピザハウスのテーブルを、こつこつと指の先で叩きながら、AWAとの専属契約書にサインをしなかった事情について、こう説明した。
「私が、一〇代の頃からビジネスの世界に入ったという話は、前にしたわよね。その経験の中で、私は何枚もの契約書に目を通してきた。そして、その頃には、サインをしてよい契約書と、してはいけない契約書の区別を、ほぼカンペキにつけられるようになっていたの。
そして、AWAの契約書はサインをしてはいけないほうだった。
そうねえ。サインをするか、しないかの判断は、全体的な状況を見て行なうべきだというのが、私の哲学よ。AWAに関しては、試合状況や、拘束条件の実態を見ただけで、この団体には問題がたくさんあることがわかったの。AWAのボスは、バーン・ガニアという人でね、こう言っちゃなんだけど、私は、どうしても彼を全面的に信頼する気持ちにはなれなかったわ。そのときの感じを、どう言えばわかってもらえるかしら。彼が作った契約書にサインをしたら最後、私は、すべてのチャンスが頭越しに逃げていくのを、指をくわえて見ていなくてはいけないような予感がした。
もちろん、AWAは、何度か、私に長期の専属契約を結ぶように言ってきたわよ。でも、そのたびに、サインはしないと言い張ったってわけ」
ビジネスに関してしたたかな目を持つ彼女は、一九八八年の秋には、AWAの中で一種の持て余しものとなっていたらしい。そのため、彼女は長与との対戦を最後に、AWAサーキット内では試合ができない状態になった。メデューサは、いわば干《ほ》されたわけだ。だが、この措置は、彼女にたいしたショックを与えなかった。
「AWAは、常に女子プロレスラーを本気で扱おうとしない。女子プロレスラーなんて、幕間の芝居《コント》要員にすぎないという態度は、いつまでたっても変わらないの。私は、二年間近く、たった二人きりの女子レスラーとして、男子レスラーと旅巡業をしてまわったわ。でも、女性が二人いればいいほうよ。ときには男ばかりの中で、私がたった一人の女だったりする。そういうときには、ホテルに入ると、男子レスラーの隣の一人部屋に鍵をかけて寝るのよ。キャンピングカーの中では、みんなが見ていない隙を狙って着替えをする。ねえ、この状況を想像してみてよ。ほとほと疲れちゃうわよ。
おまけに、平気な顔で、俺と寝なくては試合に出してやらないなんていうプロモーターまで出現してさ。そういうことは、芸能の世界では日常|茶飯《さはん》だと言っても、実際に、そういう奴に出会うと、本当に頭にくるものよ。そう思うでしょ?
一九八六年から八八年にかけて、私は、そういう生活を続けてきたのよ。そして、最後には、こんなことをして、いったい何になるのか、わからなくなってしまった。キャンピングカーも、ナイトクラブも、バーン・ガニアも全部ひっくるめて、プロレスをお払い箱にしたくなっていたわ。
だから、AWAが意地悪をして、試合を組んでくれなくなったときも、負け惜しみではなくて痛痒《つうよう》を感じなかったの。また新しい仕事をみつけようと思っていたし、実際、日本から連絡がこなかったら、私は今でも、アメリカのどこかで別の仕事をしていたでしょうね」
全日本女子プロレスからの誘いは、一九八八年の一一月にやってきた。そして、彼女は、翌年の正月興行に、生きたニシキ蛇を操るのが売り物の、デルタ・ダーンという女子レスラーと一緒に、日本にやってきたのである。
ちなみに、外国人レスラーは、おおむね、このような二人一組のパック契約で来日する。そのため、ときには一目でキャリアも技術もあきらかにプロのレベルに達していない選手がリングにあがることもある。おそらくパックの員数あわせのためにだけ駆り集められた選手なのだろう。
だが、そういった未熟な外国人レスラーが、リングの上で立往生することは、めったにない。彼女と対戦する日本人レスラーが、彼女の技術不足を手とり足とりカバーして、試合の体裁を保つことに全力をつくすからだ。外国人レスラーは、その所属興行会社の看板を背負った形で来日する。だから、日本人レスラーにとって、彼女たちは、技術の有無に関わらず丁重に扱わなくてはならない客人≠ネのだ。
ところで、メデューサは、そのときAWAの看板を背負って来日したわけではなかった。日本から誘いがかかる前に、AWAと縁を切ったため、彼女は外国人レスラーとしては珍しい、個人契約者だった。とはいえ、彼女の扱いは、AWAやWWFなどの興行会社に所属するレスラーと比べて遜色《そんしよく》ない。彼女は、正月興行の初日である一月四日に後楽園スタジアムのメインイベントで、長与が昨年秋のアメリカ遠征で獲得したIWAのベルトを賭けた一戦に臨んだのである。
このタイトル戦は、結局、四日と五日の両日にわたった。四日の試合で、長与は、試合開始早々、リングに乱入してきたデルタ・ダーンのニシキ蛇に首を締められ、失神してベルトを奪われる。翌五日、長与は、事前に発表された試合予定にはなかったリターンマッチを敢行。この試合で、長与は、前日の水着とはうってかわり、TシャツにGパン、片手にはチェーンという出立ちでリングに表われ、最初から最後まで大流血しながら派手に暴れ回った。試合の決着は、長与がメデューサをスリーパーホールドで締め落としたことでついた。長与は、血まみれのTシャツの胸に、二四時間ぶりに自分の手元に返ったIWAのベルトを抱き、この二日間にわたったタイトル戦は終った。
長与は、このような、気恥《きは》ずかしくなるほど舞台晴れのする、徹底して華やかな仕掛けでプロレスを行なうことにこそ、真骨頂《しんこつちよう》を見出している選手だった。彼女は、いつも、そういった派手な試合展開に、誰よりも素早く陶酔する。そして、観客は、知らず知らずのうちに、長与自身が強烈にのめりこんでいるプロレス世界にひきずりこまれるのだ。
だが、対戦相手が技術的に未熟で長与の陶酔を受け止めきれない場合には、その試合は不自然に芝居がかって感じられることがあった。さらに、相手が意識的に、長与の世界にのめりこむことを拒否した場合には、この不自然さはなおさら目立った。大向う受けを狙う長与のプロレスは、同時に、対戦相手との相性次第で、無残に上滑りする危険性をはらむプロレスでもあったのだ。
その点、メデューサは長与の対戦相手として相性がよかった。金髪をなびかせ、ワンレガースタイルの水着をまとった長身の彼女は、荒削りではあるがのびのびと動いた。それは、長与の溢れんばかりの演劇性に彩られたプロレスの受皿としてふさわしかった。
この両日の試合で、長与とメデューサは、前年の秋に続き、プロレスラーとしての波長があうことを証明した。
■メデューサが見たプロレスの世界
メデューサは、この四週間の巡業がおわると、いったん帰国。彼女が再び日本へやってきたのは、初来日から四カ月後の五月六日だ。彼女は、この試合の一カ月後に開始された八週間の新シリーズの巡業に招聘《しようへい》されていた。
こういった巡業には、通常、そのシリーズの目玉になる選手や試合をイメージさせる名前がつけられる。その八週間の巡業のシリーズ名は、メデューサ・エクスプロードと命名された。全日本女子プロレスは、すでにこの時点で、メデューサ・ミシェリーを、あらたなメイン選手に据えようという考えを固めていたのだろう。実際、彼女が、会社と一年間の専属契約をとりかわしたのは、この巡業を終えた直後だった。こうして、メデューサはシリーズごとの客人≠ナはなく、アメリカ選手としては初めて、ウチの選手≠ニ呼ばれるレスラーとなったのだ。
ところで、メデューサの日本との接触のしかたは、麗※[#「雨/文」]とはいささか異なっていた。麗※[#「雨/文」]は、会社にとってあくまでも子飼いの選手であったのに対して、メデューサは、最初から、メイン選手候補として招聘されていた。麗※[#「雨/文」]と彼女の違いは、ひとつには、こういった会社との関係にある。
また、麗※[#「雨/文」]がレスラーになったのは一六歳。対して、初めて日本のリングにあがったときのメデューサは、すでに二六歳の大人の女性だ。この年齢差に加えて、ローティーン時代からビジネスの世界を切り抜けてきたメデューサの人生経験は、一二歳で社会との接点をなかば失ってしまった麗※[#「雨/文」]のそれとは比べ物にならない厚みを持っていた。
それにもかかわらず、この二人は、女子プロレスに足を踏み入れたとき、まさに同じ光景を目撃する。そして、このときメデューサが感じたものは、ちょうど三年前、麗※[#「雨/文」]がその光景を目撃したときと同様の、恐怖と嫌悪が渾然一体《こんぜんいつたい》となった異文化体験だった。
「日本の女子プロレスの社会は、たしかに特殊な面を持っていますよね。ええ、それは、日本にやってきてすぐ、わかったわ」
メデューサは、指を素早く鳴らしてみせ、このくらいあっというまに、それはわかったの、と言う。
「それは、私が日本へやってきて本当にまもなくのことでした。その日、私は、泊まっているホテルのエレベーターを降りて、自分の部屋にもどろうとしていたの。
そのとき、声を聞いたのよ。
具体的には、それは、一人の若い選手が悲鳴をあげて、泣き叫んでいる声でした。それは、私が泊まっている隣の部屋から聞こえていたから、私は、その部屋をのぞきました。そしたら、何人もの先輩選手が、一人の後輩選手を取り囲んで殴ったり、平手打ちしたり、蹴りを浴びせたりしていたわ。
ええ。私は、すぐに、それは暴行事件だと思いました。
そして、自分のとるべき行動を、せわしなく考えたの。アメリカでなら、きっと、私は扉をドンドン叩いて、暴行をやめさせたと思うわ。
でも、その泣き声に、私は、何か、単純な暴行事件とは思えないものを感じたの。そのとき、私が感じたものが、わかります? その泣き声は、あまりにも異様で……悲惨で……どう言えばいいのかわからないけど、何か、ごくふつうの暴行事件ではないような雰囲気を、とっさに感じたの」
彼女は、そのときの様子を再現しようとして、何度も、架空の相手にパンチや平手打ちを浴びせるジェスチャーをしてみせた。そのジェスチャーはなかなかやまない。それは、暴行≠ェ執拗《しつよう》に続いたことを感じさせた。
「私は、結局、その部屋の扉を叩くかわりに、自分の部屋にとびこみ、鍵をしっかりかけて、東京の事務所にいるスタッフに電話をかけて報告しました。こんなことがおこっているけど、私は、どうしたらいいのか教えてほしいって。
そしたらね、彼は言ったわ。|ダイジョブ《ヽヽヽヽヽ》って。
ダイジョブ? 私は、意味がわからなかった。悲鳴がずっと続いているのよ。大勢の人が、たった一人の人を、殴ったり蹴ったりしているのよ。それなのに、ダイジョブ?」
会社のスタッフは、それまでにも暴行≠目撃した外国人レスラーから報告を受けることが、ままあったのではないか。そう思わせるほど、彼の反応は、すばやく、堂に入ったものだった。
「彼は言ったの。
ダイジョブ、ダイジョブ。それは、ジャパニーズスタイルよって。
そんなこと、気にしないで寝なさい。バイバイって。
だから、私は言ったわ。あなたは、こういうことをジャパニーズスタイルと呼ぶのね。それなら、私もいつか、そういうジャパニーズスタイルの暴行を受けるわけ? って。
つまり、私が、いつかミスをしたなら私はみんなに取り囲まれて殴られるの? それから、私が誰かのミスをみつけたら、私はその人を殴ることができるの? 答えてちょうだい。私は、そう詰め寄ったわ」
メデューサは、そのときスタッフが彼女の詰問に答えて言ったセリフを、苦笑を浮かべて再現してみせる。
だって、メデューサ。それがプロレスってものじゃないか。
「だから、私は言い返したのよ。へえ。私が知ってるプロレスは、誰かに取り囲まれて殴られたら、殴り返すことだけどねって。
私、いつでも、物事は知らないより、知っているほうがいいと思っているわ。そして、ただ知っているよりも、深く理解したほうがいいと思っています。だから、この国にいる限り、どんなことも、より深く理解したい。でも、ああいうことだけは、どうしても受け入れられないわ。
いいえ。私は、日本が暴力的な国だと言ってるわけじゃないの。暴力は、すべての国にあると思います。上の者が下の者にいばりちらすことだって、この国に限ったことではないでしょう。ただ、私はどんなことがあっても、それを受け入れることができないというだけなの。私は、けして暴力的な人間にはならない。ええ、けして。
そのうち、私は、控室で、先輩選手が顎をひとつしゃくるだけで、後輩選手に服を全部着せてもらう光景も目撃しました。指を鳴らすだけで、後輩選手は先輩に駆け寄ってくる。そして先輩は足を投げ出して椅子に座っているだけで、靴まで履かせてもらうのよ」
彼女は、そんなふうに先輩の世話をする係りの選手は、付《つ》き人《びと》と呼ばれることを知った。会社が、彼女自身にも、その付き人を付けようとしたときのことを思い出して、彼女は、言葉につまった。彼女が、そのとき軽く身震いをしたように、私には見えた。
「素直に言って、付き人は、私の目には、どうしても奴隷にしか見えないの。ええ。これは本音よ。
日本に慣れてくるにつれて、後輩が先輩に絶対服従したり、先輩が後輩を顎で使ったり、そういうこと全般を、日本人はけして嫌がっていないことはわかったわ。後輩たちも、そんなふうに扱われることを、完全に嫌がっているわけではいないもの。
だから、先輩に殴られたり蹴られたりすることも、単なる暴行というわけではないんでしょう。多分、そう理解するのが正しいんだと思う。
ね、日本人にとって、ああいう行為というものは、つまるところそういうものなんでしょ?」
こう問いかけられて、私は返答に窮した。その表情を見て、彼女は珍しく、自分のほうから目をそらせる。
暴行≠竍付き人≠ノついて話すことは、日本人である私よりも、むしろメデューサをいたたまれない気持ちに追い込んでいるらしい。奇怪な国として日本を語ることは、彼女の本意ではないのである。なぜなら、この国は、彼女自身が住んでいる国でもあるのだから。だが、彼女の目撃した光景は、時を経るにつれ、いっそう奇怪さをまして迫ってくるのだろう。
彼女は、目をそらせたまま、私の返答を待たずに話を続けた。
「つまり、こういうことでしょう。日本人は、すべてにおいて、他人に何かをしてあげることを好む人たちなんじゃない? だから、先輩と後輩のタテ関係も、日本人にとっては、けして奴隷的に支配し従属する関係じゃないのでしょう。後輩は、強制されてではなく、好意を持って、先輩に付き従っている。ええ、その点は理解しているつもり。
それでも、私は、付き人はいらないの。多くの日本人にとって、それが普通のことであっても、私に限っては、それは奴隷制度にしか感じられないの。だから、私は付き人をつけてくれるという会社の好意的な申し出を、断わり続けているわけ」
そう言い終わったとき、彼女は、その次の質問をすでに予期しているようだった。テーブルに肘をつき、身を乗り出して、メデューサは私が口を開くとすぐに話し始めた。
「わかるわ。それで、私が孤立しないかということよね。
私は孤立していないわ。ええ、孤立していないわ。
私は、昔から、誰にも似ていない人間だった。私に似ている人間なんて、誰一人いないわ。それは私が誰よりも優れているとか、特殊だということではないのよ。ただ、誰にも似ていなくて、その結果、誰かに受け入れられず、自分自身も受け入れ難いものに取り囲まれて生きることに、私は傷ついたりしないという意味なの。
それに、私は、どこにも定着しない人間だわ。今は日本にいるけれども、永遠にいるわけではない、アメリカにいても、それは同じこと。私は、いろいろな国の、いろいろな人たちの間を通り過ぎていく人間よ。だからこそ、私のすべてが、今いるところに受け入れられなくても、それは問題ではないの。
それにね、最低限受け入れられるために必要な程度は、すでに私は日本人とまざりあっていると思う。同時に、私は日本人と一〇〇%まざりあう必要はないとも思っています。まざりあわない部分を持つことは、ときにはよいことよ。それは、孤立とはちがうわ。
私は、いつも、どんなときでも、自分の人生を自分の目でみきわめているつもり。それさえあれば私は、自分が孤立した寂しい人間だとは感じないですむのよ」
たしかに、メデューサは、それまで来日した他の外国人レスラーとは異質だった。従来の外国人レスラーは、客人として別格の扱いを受けることに慣れていたが、メデューサは違った。それまでの外国人レスラーとメデューサがどのように異なるか。彼女の表現を借りれば、こういうことになる。
「今までのガイジンレスラーは、飛行機で巡業場所まで行き、一流ホテルに泊まり、一流のレストランでの食事を請求するの。
一方、メデューサ・ミシェリーは、日本人選手たちと同じバスに乗り、日本旅館の大部屋のフトンで寝て、朝は納豆を食べ、またバスの座席にお尻を押し込むってわけ。バスは、いじめられる後輩と、いじめる先輩を、それに、選手の人数分の思いを乗せて走る。そして、バスの棚には、無数の洗った靴下とパンツがつりさげられて、生乾《なまがわ》きの臭いを漂わせているわ」
だが、彼女と従来の外国人レスラーとの本質的な相違は、むしろ、こういった状況でプロレスをやることを彼女自身が誇りに思っていたことにある。このようなウチの選手≠ネみの待遇を不満と感じる外国人レスラーは、けして少なくないだろう。実際、バスの座席は彼女たちの長い脚と大きな体にとっては、あまりにも狭すぎ、小さすぎるのだ。だが、彼女にとって、言葉が通じない外国で、日本人と同じ待遇でやりぬくことは、通過していく人間≠ニしての自分の適応力と強さを証明することにほかならなかった。
「八九年の正月の巡業から帰国したとき、君が、あんな状況でやりぬけるとは思わなかったよ、と言ったアメリカの知人は多かった。わずかな人だけが、君なら、きっとやりぬくだろうと思っていたよ、と言ったわ。私は、そういう言い方を聞いて、誰が、本当に私のことを認めてくれているのか、そして誰が、私のことを本心では馬鹿にしているかがわかったわけ。
君がやりぬけるとは思わなかったと言った人たちを、私はけして許さなかったわ」
周囲の人たちの反応に対する、メデューサの評価は、少し厳しすぎるように感じられる。だが、どこにも定着する場所を持たない彼女にとって、異文化への適応力は生命力と同じほどの重さを持つものなのだろう。なぜなら、彼女にとって、逃げ帰ることのできる場所はないのだから。その意味では、メデューサは、麗※[#「雨/文」]と同じ、故郷を持たない人間に属していた。
■ウチなるガイジンの苦悩
彼女にとって不本意だったことは、彼女自身が日本のガイジンレスラーとしてやりぬいていることを誇りに思っているほど、日本人選手のほうは、ウチなるガイジンとしての彼女を快く受け取らなかったことにある。
それでも、六月六日から八週間の巡業に参加している期間は、彼女は、実質的な客人として、ある程度丁重に扱われていた。
変化が訪れたのは、その年の夏に、彼女が一年間の専属契約を会社と結んでからだ。
日本人選手たちは、お客さんだと思っていた彼女が、実は一年間にわたって、自分たちの身内になることを知らされて動揺したことだろう。それは、まさに、異例の事態だった。
それまで、日本人女子プロレスラーにとって、ガイジンレスラーとは、あくまでも客人として遠征してくる選手を意味していた。日本人選手は、せいぜい数週間の間、彼女たちのプロレスのレベルにあわせて試合をしていればよかったのだ。そして、そういうつきあいの中では、むき出しの感情をぶつけるような事態はおこらないですんだ。数週間、客人として愛想よくつきあうことは、さほど難しいことではない。
ガイジンレスラーに対する、こういった当たらず障《さわ》らずのお客さん扱いは、選手だけではなく観客の間にも波及していた。観客の少女たちは、ガイジンレスラーのプロレスに本気で反応することがきわめて少ないのだ。
その点、男性の観客だけは、レスラーが日本人であろうと外国人であろうと、さほど変らない反応をしめしたのは面白い。男性観客にとっては、国籍や肌の色の違いは、女性という、より大きな共通項の前には大きな差ではないのだろう。おそらく、彼らの大半は、女子プロレスに、男子プロレスのような一種の民族闘争を見にくるわけではなく、女性が格闘するのを見物にくるのだ。
だが、いまや女子プロレス人気を支えているのは、少女の観客であり、彼女たちにとって、日本人選手とガイジンレスラーとは、まったく別種の存在だった。とはいえ、これは、少女たちが、あからさまにガイジンを排除したという意味ではない。ただ、ガイジンたちがどんなに高度な技を駆使しようと本気で熱狂することがまれなのだ。一方、どんなに拙劣な技術しか持っていないレスラーも、ガイジンでありさえすれば、せいぜい同情的な失笑を買うだけで寛大に許される。
つまり、ガイジンたちは、そういった熱のこもらない観客の視線によって、穏やかに無視されるのである。少女たちは、目の前の試合から器用にガイジンを差し引き、お目当ての日本人選手だけに注目する、高難度のテクニックを駆使しているかのようだった。その態度は、奇妙に行儀がよく、とりつくしまがなかった。
こういった観客の反応のためか、男子プロレスでは、ガイジンレスラーが試合の大きな目玉になりえたが、女子プロレスに、長期にわたり本格的な目玉商品となるガイジンレスラーが誕生したことはない。これは、アメリカからの輸入商品として発達した男子プロレスと、日本に伝統的な芸能の現代版として生まれた、女子プロレスの成り立ちの差に起因するのかもしれない。いずれにしても、それまで女子プロレスは、外国人選手を招聘《しようへい》はするものの、実質的にはガイジンの要素なしに興行を成立させてきたのだ。
ところが、メデューサ・ミシェリーの存在は、そういった女子プロレスの伝統的な状況とは、まったく相反するものだった。彼女は、日本人選手にとって、初めて本音で接しなくてはならないガイジンだったのである。
「それまでガイジンレスラーは、ホテル住いをするものと決まっていたの。そして、日本人選手にとっては、ガイジンは、ホテル住いをしている限り、遅かれ早かれ、どこかへ行ってしまう人間だったわけよ。それなのに、私は、その年の夏にホテルの部屋を出て、東京にアパートを借りた。つまり私は、そのことによって、自分が日本の女子プロレスにとってお客さんじゃないことを宣言したの。ほかの選手たちが、いったい私はどうするつもりなのか、ものすごく気にし始めたのは、そのためだと思うわ」
メデューサが会社と結んだ専属契約は、ほかの選手たちに対して正式に通達されたわけではない。会社は、表向き、メデューサについては何も発表しなかった。だが、彼女がどうやら長期の専属契約を結び、ガイジンとしてではなく、日本人側選手の一員として仕事をするらしいという噂がひろまるのに時間はかからなかった。
「会社が、私に関して、何ひとつ公《おおやけ》にしなかったので、彼女たちは、ひとつひとつ噂を集めていったってわけよ。ええ。そういう会社の姿勢が気にならなかったわけじゃないわ。私自身、契約のときに社内のヒエラルキーを無視して、アメリカ人である私が前触れもなく割り込んでいっていいのかと会社に質問したの。答は、これはビジネスだから気にするな、ということだった。
さあ、もし、会社がみんなの前で、きちんと私を紹介してくれていたら、事態が少しは変わっていたかしら。それは……なんとも言えないところね。
ともかく、私が、日本人サイドの選手として一年間やっていくのだとわかったとたん、彼女たちの態度が一変したことだけは確かよ」
メデューサは、目の前にかざした手のひらを、クルリと裏返してみせた。
そう。こんなふうに、すべてが変わってしまったの。
「それまで、私は、珍しがられ、かわいがられてきたのよ。わかる? 私は、いわば、知らない国からの転校生だった。外国人選手は、それまで何人もやってきたけれども、私のように長期にわたって、日本人選手と同じバスで巡業してまわる人はいなかったみたい。だから、みんなは、私を、ちょっと変わったペットみたいにかわいがってくれた。実を言うと、私は、そんなふうに必要以上にかまわれることに慣れていなかったから、ヘンな気持ちがしたくらいよ。
それが、あるとき、クルリと変わってしまった。私が、日本人サイドの選手になることがわかったとたん、先輩選手を中心にして、とても嫌な空気がひろがったわ。
それは、つまりこういうことよ。一部のレスラーたちにとって、メデューサ・ミシェリーという人間は、ものすごく迷惑で頭にくる存在だった。そして、私は、そのことを、ことあるごとに言葉と態度で教えられたってわけ。私は、突然、一人ぼっちにさせられてしまった。今までは、私自身がとまどうほど、あらゆる面で親切だった人たちが、ある時点を境にして、まったく私に寄りつかなくなってしまったのよ」
客人としては、ペットのようにかわいがられた彼女は、いったん内と外の垣根を越え、集団の一員となったときには、もっとも疎《うと》まれる異分子に変貌した。国籍と職業を問わず、多くの外国人が体験してきた日本社会の内面と外面の大きなギャップを、ここでメデューサも味わったわけだ。だが、彼女は、このギャップに対して、きわめて冷静に向かい合った。
「こういう態度の変わり方は、ある意味で予期されたことだったわ。彼女たちが、日本人選手のヒエラルキーの中で、なんとか名前のある選手になるためには、少なくとも五年はかかるわけでしょう。そこに、プロとしての経験が二年足らずの私が、会社の後押しを受けて割り込んできたんだから、嫌な空気がひろがるのもしかたのないことかもね。
それに、私はアメリカ人だし、年上だしね。だから、あらゆる意味で私はみんなの中での異分子なのだと思うわ。
でも、私は契約後も、日本人選手と同じスケジュールで練習し、同じ量の仕事をこなしています。みんなと同じ義務を果たし、同じルールに従って生活しているのよ。ええ、それは間違いのない事実よ。
だから、誰にも、私が贔屓《ひいき》されているとは言わせないつもり」
メデューサは、ここで言葉を切り、微妙に陰《かげ》を含んだ笑いを浮かべる。
「でも、そんなことをいくら言ってみても、私を受け入れたくない人たちは、永遠に私を嫌い続けるでしょう。ええ、それは、わかっているわ。
感情は理屈ではねじふせられないものよ。ええ、そういうものなのよ。
彼女たちは、私が異分子だということを嫌っている。私が外国人で、年上で、自分たちと似ていないから嫌うの。それは、理屈じゃないわ」
でも、それがなんだっていうの? 彼女はテーブルの下で組んでいた脚をほどき、椅子に背をもたれかけさせて笑い始めた。誰かが私を嫌いで、誰かは私を好き。こんなこと、ごく普通のことじゃないの。
「誰かが、私を永遠に受け入れなくても、それは問題にならないわ。私は、他人に受け入れられるために生きているんじゃない。私は、自分の人生をみきわめるために生きているのよ。
それに、私を受け入れないのは、すでに自分の名前を作りあげていた選手たちだけ。若い選手たち、たとえば、麗※[#「雨/文」]と私は、いつでも話しあえた。嫌な空気が広がったと言っても、すべての人たちとつきあえなくなったわけではないの。
ええ、それでも、誰かに自分が受け入れられないってのは、正直言って、いい気分のものじゃないわ。それは、本当よ。でも、それほど悪い気分のものでもないの。今までも、私は、いつも一人で生きてきたし、すべてを一人でやることに慣れてきた。だから、異分子扱いされるのは、私にとってはそれほど悪い経験ではないの」
彼女が対人関係で見せる、こうした強靭な冷静さは、バタード・チャイルドとしての体験を乗り越える時間の中で培われたものではないかと、私は推測する。それは、いわば、悲惨な経験を土壌として成長した、豊かな実《みの》りであっただろう。だが、この場合に限り、彼女のクールさは、異分子扱いをさらに進める原因になったようだ。陰口をきかれたり、邪魔者扱いをされたりしても、なお淡々としている彼女は、そのうち、より具体的な方法で存在を無視されるようになった。
観客の一人として、私が、彼女の出場する試合にちょっとした異変を感じ始めたのは、いつ頃だったか。それは、彼女が専属契約を会社と結んだ年の暮近くではないかと思う。異変は、まず六人タッグマッチの試合でおこった。こういったタッグマッチの場合、六人もの選手が、それぞれ持味を発揮しながら、試合を展開していくのは容易なことではない。ときには、六人のうち、特定の選手の動きだけが目立つことがある。また、目立つ選手の陰で存在感を失ってしまう選手も、まま出てくる。だがそういった六人タッグマッチの特性を差し引いて考えても、メデューサは、その試合で、より積極的に出番を遮《さえぎ》られたように思えた。
彼女がタッチを求めてのばした手は、しばしば味方の選手にさりげなく無視された。そして、ようやくタッチを貰った彼女がリングに出ていくと、対戦相手は、微妙に間《ま》をはずして、何度か彼女の得意技を受け流し、結果的に見せ場をつぶしてしまう。そして、早々に、彼女をコーナーに押し戻して、再び出番を封じてしまうのだ。
それは、あまりにもあからさまな封じ込めに見えた。そのため、かえって私は自分の目を疑った。
実際に、何人もの選手が気を合わせて、一人のレスラーの出番を封じ込めるなどということが可能なのだろうか。それは、ありえないことのように思えた。だが、普通のプロレスとして見逃すには、その試合は不自然すぎた。
そして、そのうち、同じような異変が四人タッグでも感じられるようになった。
あきらかに、メデューサはリングの上で存在しない人物のように扱われていた。かつて、観客がガイジンレスラーに対して行なったような、穏やかで徹底した無視を、今度はレスラー自身がリング上で行なっているかのように思えた。
異分子に対する心理的な距離が、知らず知らずのうちに、リングに彼女を参加させない暗黙の意志として結実したのだろうかと、私はいぶかった。複数のレスラーが意識的に一致団結して、一人の選手を封じ込めるのは、口で言うよりはるかに難しいことだろう。そういった試合が、予期したとおりの成果をあげるほど、女子プロレスは型にはまったものではない。むしろ、日常生活で日本人選手がメデューサに感じている漠然としたやりにくさが、リング上で彼女と手を合わせたくないという気分に発展していったと考えるほうが現実的なのではないか。
とはいえ、もし、彼女に圧倒的なプロレス技術の高さがあったならば、その気分は心の中だけに押しとどめられ、具体的な結果を生まなかっただろう。また、日本人選手の中に、自分たちが曖昧《あいまい》な気分に動かされていることに気づく客観的な視線があれば、封じ込めは、それほどあからさまにはならなかっただろう。
だが、メデューサのプロレスは、そういった気分に対抗できるほどには上達していなかった。彼女の動きは、まだ荒っぽく、長身の体から繰り出す技は、ときに空回りをした。その上、彼女は、派手な大技ばかりを使うアメリカ風プロレスではなく、ストロングスタイルと呼ばれる、地味な関節技などを駆使する緻密なプロレスを指向していた。彼女のめざすスタイルと、それを実現するための技術力は、ややもすればアンバランスになりがちだったので、たしかに、彼女は、ほかのレスラーにとってやりやすい相手ではなかっただろう。
そして、それ以上に、日本人選手たちは、言葉や習慣の違いを越えてまで、仕事の場を共有している彼女の考えを知ろうとしなかったのだと思う。おおむねの日本人選手にとって、メデューサはプロレスラーである前に、しょせん、何を考えているかわからないガイジンだったにちがいない。そしてそういう彼女と、私生活のみならず仕事の上でも関わりたくないという気分に陥ることに対して、日本人プロレスラーたちはかなり無反省だったのではないか。
こんなふうに考えたあと、自分の推察が、どの程度、当事者の感情に近いものかを、私は彼女に確認したいと思った。だが、メデューサは、初めのうち、そのような試合が存在したことさえ認めようとしなかった。
「私生活のギクシャクした関係は、リングの上には持ち込まれないわ。最大の敵と、最高の試合ができるのがプロレスの最大の長所ね」
こんなふうに言って、彼女はにっこり笑う。
だが、観客にさえあきらかな異変に、試合をやっている本人が気がつかないなどということがあるのだろうか。私は繰り返し尋ねた。彼女は、長与と対戦した初来日の試合以来、リングの上での精彩を次第に失いつつある。それは、日本的なヒエラルキーから彼女がはじき出されていることと、関係がないのか。
彼女は、最初のうち、辛抱強く聞いていた。そのうち、彼女の顔から笑いが消え、眉間に皺《しわ》が刻まれ始める。突然、彼女は、私の質問を手で遮った。
「ええ、そうよ。そうなの。
実は、それには気がついていたわ。
つまり、ここに至って、異分子であることのギャップが、私生活だけでなく、ついに試合にまで影響を及ぼし始めたってわけ。
頭にきたかって? もちろんよ。頭にこないはずないじゃない。彼女たちは、私をリングに出さないだけじゃない。私の技も受けようとしないのよ。つまり、私とプロレスをすることを拒否するのよ。観客の前で。彼女たちに、いったいプロとはどういうものか、教えてやろうかと思ったことも一度じゃすまないわ。わかるでしょ」
ほかの選手たちは、メデューサは下手だという。メデューサとやるとケガをするから、手を合わせたくないっていうの。でも、私が、いつ、誰をケガさせたっていうの? 誰もケガなどさせていない。これからもよ! 彼女は一気にこう言ってのける。オレンジ色のリップクリームで光る薄い唇が、固く結ばれている。
「もちろん、私は自分のプロレスのレベルが高くないことは知っています。でも、日本に来て、いろいろなプロレスの勉強をし、練習に励み、技術をいくらかでも上達させる努力は、けして惜しんでいないわ。それに、私だって、与えられた機会を無駄にしない程度の、プロとしてのレベルは保っているはずよ。それなのに、彼女たちは、私を試合に参加させない。
スタッフも、それに気がついていないはずはないと思うけど、なぜか、彼らは、そんなことはおこっていないようなふりをしているわ。私には、そうとしか思えない。彼女らは、なぜ、そういう事態がおこっているかについて、選手たちに話を聞くということさえしないのよ。
ねえ、わかる? 私はまるで、コーナーポストに立ったまま試合を眺めていればいいと思われているみたいよ。ええ、まったく、そうなのよ」
麗※[#「雨/文」]は、プロレスによって自分を表現する方法を模索して苦しんだ。一方、その方法について、メデューサが悩むことはなかった。彼女は、十分、エンターテイナーの素質を持つ人物なのだ。彼女の自己表現の回路は健康だった。
しかし、ウチなるガイジンとして、彼女は表現するための場を奪われ始めていた。彼女にとって、もっとも手強《てごわ》い敵は、リングと、コーナーポストに立つ彼女を隔てる距離として姿を現わした。そして、その距離は、彼女自身が容易には認めたがらないほど本質的な問題なのだった。
[#改ページ]
賭けの結末
■神取しのぶの苦悩
こうしてメデューサがガイジンとしての壁と格闘していた一九八九年の秋、神取《かんどり》は、ジャパン女子プロレスに復帰≠オた。
そもそも、ジャパン女子プロレスの発足当初の看板選手だった彼女が、なぜ、その団体に復帰しなくてはいけなかったのか。
それは、彼女が一九八七年の春から六月にかけての数カ月と、それに続く夏以降の一年間、プロレスラーであることをやめていたためだ。彼女は、三月の契約更新の交渉で、会社にフリーとして独立する意志をしめし、試合から遠ざかった。その後、五月に、いったんジャパン女子プロレスのリングに復帰したが、結局、七月一八日に、ジャッキー佐藤をリング上で負傷させて姿を消す。彼女が次に、プロレスの場に戻ってきたのは、それから一年後の八八年七月一四日。彼女は、全日本女子プロレスを引退後、ジャパン女子プロレスに移籍したデビル雅美とのシングルマッチで、ジャパン女子プロレスのリングに再復帰したのである。
このような一連の経緯の発端は、一九八七年初頭から始まった、彼女の契約更新をめぐる交渉の失敗にあった。
彼女がジャパン女子プロレスの専属選手をやめ、かわりに、一試合ごとのファイトマネーでフリーランス契約を結びたいという要望を会社に提示したのは、その年の二月。正月興行で負傷した目のケガの治療費を会社が負担しなかっただけでなく、試合を強要してケガを悪化させたことで、神取は会社への不信感をつのらせていた。
だが、彼女はプロレスそのものをやめようと考えたわけではなかった。プロレスが嫌になったわけではない。ただ、会社に身柄を預けることが不安なだけだ。だから、より拘束の少ないフリーの状態で、プロレスを続ければよいではないか。フリーになれば経済的には苦しくなるだろうが、それはアルバイトで補えばいい。彼女の考えは、このように、いたって単純だった。それは、ある意味で、神取にとってのみ都合のよい考え方でもあった。
この交渉は、彼女の予想に反して、遅々として進まなかった。
それには、いくつかの理由があった。
最初の理由は、彼女が、すべての交渉を、代理人をたてず、自分一人でやりぬこうとしたことにある。彼女は、それなりに誠意をつくして話し合いを続けたようだ。だが、興行会社のスタッフは、神取であろうとなかろうと、二二歳の女の子≠まともなビジネスの交渉相手として認める考えは持ちあわせていなかった。そして、フリーランサーとして独立したいという自分の提案が、年端《としは》のいかない女の子の気まぐれとして扱われるたびに、彼女は態度を硬化させていった。
一方で、交渉の駆引きに慣れない神取は、すべてを、あまりにもストレートに処理しようと焦りすぎていたとすれば、他方で、会社は、当時、一選手の契約要求を十分吟味できるほど、安定した経営体制を保っていなかった。創立当初の代表が、わずか数カ月で代替わりをして以来、ジャパン女子プロレスの経営陣は、なかなか一本化されなかったのである。試合数も、選手への待遇も、プロモーター対策も、すべてが当初の計画とは大きく食い違い続けた。そのような状況で突如出現した、神取のフリーランス独立問題は、会社のスタッフをただ動揺させるだけだったのだろう。
そして交渉が進まなかったふたつめの理由は、そもそも、女子プロレスには、それまで実質的なフリーランサーの選手は存在しなかったことにある。
一九四八年の誕生以来、女子プロレスの雇用形態は、常に伝統的な芸能興行の形を踏襲したものだった。興行会社の体質は、かつての女相撲がそうであったように、企業というより、むしろ大家族に近かった。そのような体質の中においては、選手は社員というより、むしろ、社長の娘分《むすめぶん》として生活全般の面倒を見てもらう立場にある。彼女たちは、生活が苦しいときなど、衣食住の面倒を社長一家に見てもらうことはあっただろう。また、その後、年をとって選手としては通用しなくなったときには、ほかの働き口をみつけてもらうことや、将来の結婚相手を世話されることはあっただろう。だが、そういった私生活にまで及ぶ親身な世話の陰で、給与や待遇面において選手を合理的に遇することは、さほど重要視されなかったはずだ。
そして、自分自身の家庭にさえ高校時代から寄りつかなかった神取と、興行会社の、このような大家族的体質が、折り合いのよいはずもなかった。
会社のスタッフと神取の主張はいつまでも平行線をたどり、結局、その年の春、彼女は一方的にフリー宣言をして会社を去る。だが、会社のスタッフは、このような独立を認めなかった。もし、これを認めれば、興行関係者から選手の管理能力を疑われてもしかたなかったのだろう。
そのため、五月になると、神取は一シリーズだけという契約で、リングに戻ることを約束させられる。彼女は、この申し出に乗気なわけでなく、疲れた表情さえ見せ始めていた。
彼女と会社の交渉は、すべてがオープンになったわけではなかったが、それでも、神取の去就は、この頃になると大きな話題となっていた。女子プロレスラーが自分だけの意志で、契約条件について会社と争うということは、それだけでニュースになりえた。
たとえば、これまでにも、何回か、結局は陽の目を見ない結果におわったものの、女子プロレスの新団体が発足しかかったことがある。そのとき、何人かの選手は、既存の団体から、新しい団体へと動いた。だが、それは、あくまでも新団体のスタッフに請《こ》われての移動であり、神取のように、主体的な意志で会社と袂《たもと》をわかとうとしたわけではない。
また、彼女のような現役選手が、ファイトマネーの支払い方法についてを会社と交渉することも初めてだった。引退した選手が、回顧談の中で、少なすぎる給与についてのグチを述べることは、ままある。だが、それまで、女子プロレスラーが表立って、金の問題に触れることはなかった。その意味でも、女子プロレスラーと興行会社は、実に日本的な、情緒を重んじる紐帯《ちゆうたい》で結びつけられていたと言えそうだ。
だからこそ、会社にとっては、どのような強硬手段をとっても、神取しのぶという選手を管理下に置く必要を感じているようだった。彼女は、それまで女子プロレスの世界では常識とされてきたことを、いちいちぶち壊しにかかっているのだから。彼女の要求を蹴り、元どおり会社に身柄を預けるサラリーマンレスラーの立場にもう一度押し込むことは、会社にとって、いわば威信の問題でもあった。
だが、神取を強引にからめとろうとすればするほど両者の関係はこじれていった。依怙地《いこじ》になった彼女は、たびたび試合を欠場するようになり、結果的に、無責任なレスラーだという悪評の的《まと》になった。
それでもなお、神取は、ファンや興行関係者から無視されたわけではなかった。彼女は無視するには、あまりにも大きく過激な異物なのである。神取は、女性としても、女子プロレスラーとしても、二二歳の若者としても、あまりにも強烈な存在感を漂わせた人物だったので、嫌悪することはできても、無視することはとうていできそうになかった。そして、そのような彼女に、新しい可能性を感じて注目する人もわずかながらいた。
たとえば、長与千種《ながよちぐさ》がそうだ。
最初のうち、ジャパン女子プロレスと神取に動揺し、反発し、憎悪をぶつけ続けていた長与は、いつ頃からか、神取に深く引きつけられていた。
彼女は、全日本女子プロレスの看板選手という立場上、神取の試合を観戦することはできなかった。だが、彼女の知り合いの何人かが、ジャパン女子プロレスの選手になっていたため、彼女は知人の話を聞き集め、驚くほど短時間に、神取という選手の像を把握したようだった。彼女は、次第に、神取の試合や人柄のことを、それほど詳しく私に聞かなくなった。そして、あるとき、彼女は笑いを含んだ微妙な表情で、こんなふうに言った。
「聞かなくても、わかるようになったのよ。あの人が、どんな試合をするのか、一度も観なくても、あたしにはわかるような気がする」
強い反発を端緒にして醸成された、この複雑な愛着は、おそらく、長与だけのものではなかっただろう。神取は、その頃、まだ五〇試合足らずの試合数しかこなしていなかったが、旗揚げ興行でのデビュー試合以来、彼女は観客の中に、今までの女子プロレスラーのファンとは異質のファン気質を誕生させていた。
私は、神取が欠場した試合のあと、会場近くの喫茶店で、彼女はいったいどうしたのだろうかと心配そうに話す、彼女と同年配の男性たちを、よく見かけたものだ。彼らの話す声は低く、真剣で、どこかに抑制された憧れが感じられた。そして、いつも彼らは、最後にはデビュー戦に話を戻し、そのとき彼女がどんなに凄《すご》かったかについて口々に話すのだ。神取は、まさにその一試合だけによって、彼らの頭の中に鮮やかに生き続けているようだった。
それは、女が格闘するところを見物にくる男性の観客とも、それを排除して、会場を自分たちの熱狂の占有物にした少女たちとも異質の、シャイで純情なファン気質だった。
長与が、神取に感じ始めたのも、一種、こういったファンの気持ちに似たところがあったのではないか。だが、プロレスラーである彼女は、その感情を、現実的なビジョンへと再生しようとした。
それは、具体的にはこういうことだ。
彼女は、ジャパン女子プロレスから神取がフリーになった頃から、取材の最中に、さかんに、全日本女子プロレスのマットへ招聘《しようへい》したいという含みを感じさせる発言をしはじめた。その発言は、最初のうち、慎重で曖昧《あいまい》なニュアンスを帯びていた。
そのうち、彼女は、より具体的なアプローチを始めた。ある日、長与を取材しにいくと、彼女は、こう言った。
「会ったよ、あたし」
彼女は、照れたように横を向いていた。二人は連絡を取り合って都内のホテルの部屋を予約し、そこで数時間、仕事とプロレスについて話し合い、意気投合したという。長与は、ときどき言葉につまりながら、二人のめざす女子プロレスのビジョンがどんなに一致したかを語った。
彼女の話を聞きながら、そのとき、私は、これをいったいどういう記事で書けばよいのだろうと、半分困惑していた。
クラッシュ・ギャルズ一辺倒《いつぺんとう》で固まっている読者のファンにとって、長与の神取に対するアプローチは、あまりにも唐突で理解に苦しむものだろう。また、彼女のそういった行動は、対抗団体の誕生に神経質になっている全日本女子プロレスのスタッフにとっては、腹立しいものにちがいない。それを考えると、彼女の語ったことをストレートに記事にすることは躊躇《ちゆうちよ》された。しかし、長与が、神取と対戦することで、自分がクラッシュ・ギャルズのブームを越え、さらに大きく女子プロレスの流れを変えることができるにちがいないと感じていることは確かだった。
「何時間も、あの人と話をして、その間中、神取はにこにこ笑っていたの。それなのに、あたしが帰る時間になって、あの人が扉のところまで送ってきて、あたしの後ろに立ったとき、あたしは鳥肌が立ったんよ。
わかる? 鳥肌が立ったんよ。自分の背中にものすごい殺気のようなものを感じて、あたしは振り返ったの。そしたらね、神取はどうしてたと思う? 彼女、前と同じように、にこにこ笑っていたんよ。
そのときね、この人となら、あたしは今までに見たことのない試合ができるってわかったんよ」
あたしは、今まで怠惰なレスラーだったんよ。ほんとよ。でも、彼女と試合ができるなら、あたしは、もう一度、真面目にトレーニングするよ。彼女は、ややかすれる声で話し続けた。
「二カ月、きっちりトレーニングして、身体を作ったら、あたしは、きっとプロレスラーになってから最高の試合ができる。きっと、できる。お客さんが、これが女子プロレスちゅうもんかぁ、まさか、これが、あの女子プロレスかぁて、目を疑うような試合が、必ずできる。あたしは、神取となら、まだやれる」
一九八七年の夏、クラッシュブームはまだ好調だったが、長与は、すでに全日本女子プロレスでの自分の時代がおわりつつあることを見抜いていた。
長与は、もともと、どのような試合が、観客に見果てぬドラマを感じさせるか、どのような仕掛けが観客を酔わせるかを見抜く、いわばプロモーターとしてのセンスにたけていた。それだけに、彼女は、限られた同僚レスラーとの対戦では、もう観客を心から酔わせるドラマを作り出せないことを、いちはやく感じ取らずにはおかなかったのだ。
彼女は焦っていた。自分に残されているのは、マンネリ化したプロレスの中で、ブームの緩慢な終焉《しゆうえん》を見届けることだけではないかと、長与はそのとき感じていただろう。
だが、もし、団体の枠を越えて、神取と長与が対戦するような、まったく新しい事態がおこれば、なすすべもなく、ブームの下り坂を転げ落ちていくことだけは防げるのではないか。
実際、長与の、派手で抜群の演劇的説得力のあるプロレスと、神取の圧倒的な力の表現が噛みあえば、そこには、ジャパン女子プロレスの旗揚げ興行にまさるとも劣らない試合が生まれるはずだと私は思った。しかも、長与の熟達した芸人の技術を駆使したなら、そのような試合は、ただ一試合だけでおわらず、複数のバリエーションを生み出していくにちがいない。
そこで、私は、長与と神取の双方に取材しながら、彼女たちのビジョンを、少しずつ記事へ反映させていくことにした。
その頃、私と長与との連載インタビューは、たとえばこのような調子の記事になった。
[#ここから1字下げ]
(前略)
長与 最近、ずっと気んなってたのね、プラトニックラブという言葉が。気んなってしょうがなかったんね、ずっと。
うん、わかったよ。今、わかった。うち、プラトニックラブしたいんよ。プロレスに。
いや、ちがうかな。プラトニックラブ……プラトニックラブする……プラトニックラブできる対戦相手。そうね。プラトニックラブできる対戦相手、ほしい。ほしいよ。
プロレスラーがたたかう原点ってね、原点? 本能ゆうのかな、なんだと思う?
── わからない。説明して。
長与 あんね。あるところにプロレスラーがいます。いい?
── はい。
長与 どういう人か、わからない。どんな顔? どんな体? どんな技使うん? 何も知らない。ね。
── はい。続けて。
長与 でも、ひとつだけ。ひとつだけよ。わかってる。
強いんだ、と。
すごく強いんだ、と。
それだけ。
でも、それだけで十分なん。強い人がいたら、やりたい。やりたい。純粋に、やりたい。
何もかも忘れて。
それがプロレスラーの本能、と思う。
(中略)
長与 考えてもみてん。もう何年も、うちら、ほとんど同じメンバーで試合してる。空気がかわらん、きっちりはまった枠ん中で、空気の動かん中で、同じメンバーとプロレスしてる。
そういうところで、ベルトとったら、どんなことになる、思います? 窒息。息つまってしまう。
ベルトゆうのは、チャンピオンゆうのは、あとからあとから、強い、知らないヤツが挑戦してくるから意味あるのでしょ。いっつも、見知らぬチャレンジャーに、プラトニックラブを送られ、送り返せるからベルトでしょ。
プラトニックラブできないベルトは意味ないよ。ベルトは死ぬよ。
自由に、もっと自由に、枠をけやぶってプラトニックラブしたいんよ。うちは。長与千種は。
どこかに強いヤツがいるんなら、その強いヤツが、どこの誰だろうと、どんな事情と看板しょっていようと、それは関係ないん。
うちはプロレスラーの本能を殺したくないのん。
── こういうことかな。既存の、つまり、現在、組むことのできるカードでは、かつてのクラッシュの試合を越えるプロレスを長与千種がやることは難しい、と。
長与 そうね。クラッシュを超えることはできないでしょ。誰とやっても。長与千種は。
── じゃあね、これは慎重に答えてほしいのだけれど、仮にどんなカードであれば、長与千種はクラッシュを超えられると思う? 慎重に、という意味はわかる?
長与 わかる。わかるよ。自分がしょってる看板を意識してということでしょ。
── まあ、そうね。
長与 そう……あのね、夢のカードをやりたいのね。一回こっきりでいい。すべての人が看板を捨てて、団体の枠を一度、超えてみたらいい。
ずっとじゃなくていい。一回っきりでもいいのよ。その一回きりのカードで、千種はクラッシュ以降を乗り切って、もう一度、天下を取る自信あんの。ホントにあんの。
ね……あの……神取しのぶって強い?
── ……。
長与 強い?
── はい。強い、いい選手よ。
長与 そう。そう、強いのね。
── はい。
長与 こんなことは許されないのかしらね。もう、やっちゃいけないのかしらね。時々、そう思うわ。もう夢の中でしか、レスラーの本能を生かすことはできないのかなあって。
── ええと、今の神取選手うんぬんのところは、一人言なのかしら? それとも記事にするべき発言なの? 私はどっちだと思えばいい?
長与 ……書いて。うん。書いてよ。いいわ。これは一レスラーとしての長与千種の発言なんだから。うん。
[#ここで字下げ終わり]
(「デラックスプロレス」八七年四月号)
■神取しのぶとジャッキー佐藤
長与がこのようなビジョンを生み出していた頃、神取と会社との、半年にわたる膠着《こうちやく》状態は、彼女とジャッキー佐藤との、思いがけない確執によって破れかけていた。
彼女がデビュー戦の相手だった佐藤と、公私にわたってうまくいかなくなったのは、いつ頃からか。この端緒は、ほかの選手と佐藤の、給与の大幅な差がクローズアップしてきた時期にあったのだろう。旗揚げ以来、綱渡り状態の会社の経営は、選手たちを、慢性的な不満状態においていた。そして、ジャパン女子プロレスの発起人でもある佐藤にとって、独立問題でゴネ続ける神取は、選手たちの不満を代表する人物のように感じられたのかもしれない。神取を抑えつけなくては、自分自身の面子が保てないというような気分が、いつしか佐藤の心中に生まれていた可能性はおおいにあると思う。
ともあれ、それは、まず七月六日の試合に端を発した。
その日、タッグマッチで対戦した神取の目を、佐藤の伸ばした左腕が直撃した。これは、本来なら胸板か喉元を狙うラリアートという技であり、佐藤に対した神取のように身長差のない対戦相手の場合、それが目を直撃することはめったにない。そのためには、腕をかなり上方にあげなければならないからだ。しかも、佐藤は、通常、右が利き腕だった。利き腕ではない左腕を、相手の目の高さにあげての攻撃は、ラリアートという技の型≠ゥら考えると、たしかに不自然ではある。
そのため、前触れもなく、形と違う場所を攻撃された神取のダメージは大きかった。さらに、攻撃されたのが、正月以来痛めている右目だったことに、神取は佐藤の特別な悪意を感じ取り、日頃の鬱憤《うつぷん》を、佐藤がプロレスの形を借りて返したものだと判断したのである。
神取は、この判断において早計だったのかもしれない。だが、神取が、七月一八日に、ジャッキー佐藤とのシングルマッチを企画してほしいとフロントに申し出たことを知ったとき、佐藤は、即座にその試合を受けて立った。神取の、そのときの剣呑《けんのん》な雰囲気を見れば、ベテランの佐藤は、一八日の試合が、いわゆる遺恨試合になることを十分察知できたはずだ。だが、彼女はそれを避けようとはしなかったのである。その点をみると、実際、佐藤は、ある程度、その攻撃を意識的に行なったのかもしれない。
その試合は、結果的にどのようなものになったか。
「ものすごい試合でした。観客も選手も、僕も、みんな震えあがりましたよ」
それを観戦した編集者は、たまたま仕事が重なって試合に行けなかった私に、こんなふうに感想を話した。
編集者は、リングサイドで試合を見ていた若い選手たちは、試合がおわる頃には、ふるえながら泣き始めたくらいですよ、とも言った。そして、試合がおわったあと、神取は、控室でプロモーターや会社の関係者に取り囲まれて難詰され、その後、どこかへ軟禁されたそうだという。
いったい、それはどんな性質の試合だったのか。私は想像できなかった。
神取の足取りは、その後数週間というもの文字通り行方不明になった。
そして、彼女の行方がまだ判明しないうちに、その試合を報じた「週刊プロレス」は発行された。それによると、彼女は、その試合で佐藤の顔面にナックルパンチを浴びせて戦意喪失に追い込み、ギブアップを奪い取ったらしい。
神取が、最後に佐藤にかけた関節技は、腕がらみと名づけられ、誌面には、パンチによって、完全に容貌のかわってしまった佐藤の写真が大写しになっていた。私は、その写真を見ながら、彼女が、これまでのプロレスラー生活の中で、一度もギブアップ負けを喫したことがない選手だということを思い出した。一方、逆上する佐藤を器用にあしらいながら、逃れようのない技で彼女を絡めとっていく神取の表情は、冷静を通り越して冷笑的にさえ感じられた。
そして、神取は、その試合から約一カ月後、唐突に姿を現わした。
いったい、行方不明の試合のあと、彼女がジャッキー佐藤を贔屓《ひいき》にしていたプロモーターや、興行関係者に軟禁されたらしいという噂は事実だったらしい。彼女は、事実、三日あまり、どこともわからない場所に閉じ込められていたという。彼女をそこに連れていった人たちは、その場所につくまで彼女に目隠しをしたという。そのため、彼女は、場所の見当がつかなかったのだ。
「怖くなかったかっていうと、やっぱ、そりゃ怖かったよ。あんな試合をしたからには、もうプロレスを続けていくこともできないだろうと思っていたし。
ただ、私がしたような試合を、一方で支持している会社内部の人もいてさ。その人たちも、軟禁された場所についてきていたから、多分、すぐさま刺されて死んじゃうっていうことはないだろうと思ってた。案の定、そいつらはとくに手を出すわけでもなくてさ、ただ、なんであんな試合をしたんだって、三日間、わんわん怒鳴ってただけ。
なんか、もう、これで終ってもいいんじゃないかなって思っていたのね。あんまり普通の精神状態じゃなかったのかもしれないけど、私の人生って、たいして面白くもなかったな、って感じてた。今刺されて死んじゃっても、たいして惜しい人生でもないなって。うん、なんかおかしいけどね」
彼らが、その軟禁を解いたのは、彼女が、フリー宣言を取り消し、ジャパン女子プロレスと五年間の専属契約を結ぶことを、口約束したためだった。だが、彼女は、関係者に連れられて、後楽園の会場へ行く途中で、エレベーターに乗り込む隙を見計らって、文字通り遁走する。そして、見つけ出されることを恐れて、アメリカへ飛んでしまったのだ。
ところで、彼女が行先をアメリカに決めたのは、そのときたまたま手元にニューヨーク行きのディスカウントチケットがあったからにすぎない。そのため、神取は、ホテルに荷物を置いたあとで、滞在費が不足していることに初めて気がついたという。
そこで、彼女は、どこか稼げるところがないかと、ニューヨークの街を終日歩き回った。一日目には収穫がなかったが、二日目の午後、彼女は柔道着を着た小学生の二人連れを発見する。急いであとをつけたものの、慣れない街で、彼女は二人を見失ってしまう。そこで、三日目の同じ時間、彼女は昨日と同じ場所で、小学生を待ち伏せした。
「柔道の練習に通っているみたいだったじゃん。普通、そういう練習は同じ時間に通うものだから、待ち伏せをしていたら、きっとみつけられると思ったわけよ。
無知だったといえばそれだけなんだけど、ニューヨークって広いところでさ。最初ニューヨークの地図を一枚買ったんだけど、どうにも広すぎてよぅ、街の感触がつかめないんだわ。だから、この街に、自分となんか関係があるものを探したかったのよ。それで、三日間探して見つけ出したのが柔道着の小学生でさ、これがあるなら、多分、この街と自分には接点があるんだろうと思ってよぅ、そのときは、ちょっと嬉しかったですよ」
彼女の、この見込みはあたり、再度、姿を表わした小学生のあとを、彼女は今回は首尾よく尾行して、ある柔道教室に行き当ることができた。そして、幸運なことに、その道場主は、以前、ある国際柔道選手権試合に参加したとき、神取しのぶという優秀な日本人選手を見たことがあった。道場主は彼女を日本料理店へ食事に連れていってくれ、神取は、結局、その店で皿洗いのアルバイトの口をみつけた。そして、数週間、その店で働いて帰りの旅費を貯め、日本へ帰ってきたのである。
当然のことながら、彼女は、ニューヨークへの遁走によって、完全に失職した。
だが、そのあと数カ月すると、失職したはずの神取が、突然、ジャガイモの大箱を送りつけてきたので、私は驚いた。彼女は、失職以来、何人かの知人をたよって野菜や海産物の直販ルートを作り、生活を支えているのだという。そのジャガイモは、彼女が扱った最初の商品というわけだ。神取は、その後も何種類かの品物を仕入れ、なんとか食べられる程度の利益をあげ、生活していた。こういうゲリラ的な商売は、たしかに彼女に向いていた。
その一方で、実質的にフリーになったことによって、神取を全日本のマットに招聘するというアイディアは、長与だけでなく、ほかの全日本女子プロレス関係者をも魅《ひ》きつけはじめた。八七年の秋になると、全日本女子プロレスのリングで神取の試合を見るというビジョンは、少しずつ、現実感を帯び、神取は、ジャガイモの直販をやって食いぶちを稼ぎながら、全日本女子プロレスの関係者と話し合いを進めるようになった。
長与も、以前よりはっきりした言い方で、対神取戦への抱負を語るようになった。長与のファンも、また、その頃になると、彼女の思いを受け入れる体勢を整えつつあった。
「あの人がやったことを聞くと、あたしは、自分がこれまで、何ひとつやりきらんかったように感じるよ」
長与は、苦笑に近い笑みを浮かべて、こんなふうに言った。ジャッキー佐藤とのケンカマッチから、逃避行、そのあとの商売≠ヨと続く一連の行動が、一五歳から興行会社の中だけで生きてきた長与にとっては、この上なく自由なものに思えたのだろう。
だが、神取本人は、佐藤との一戦を、ケンカマッチであるとは思っていないようだった。
「あれは、ケンカとは思ってないよ。思ってません。それなりに、プロレスラーのプライドを持ってやった試合だと思ってるの。
それを、ケンカだと受け取るか、試合だと受け取るかっていうのは、見る人のプロレスのとらえかたにかかっているんじゃん? そうじゃん? 私は、あれは試合だと思ってやったよ」
神取は、ケンカをしたと言われるのが嫌いなようだった。なぜか。ケンカには美しさがないからだと彼女は言う。ケンカは、結局、勝てばいいのだから、そういうものには美学の生まれようがないではないか。
「あの試合のとき、考えていたことは勝つことじゃないもん。相手の心《こころ》を折ることだったもん。骨でも、肉でもない、心を折ることを考えてた。ただ、それだけを考えていたんで、相手をいためつけようとは思っていなかった。本当に、相手をいためつけることなんか、目的じゃなかったよ。
あのね、私、柔道やってたじゃん。だから、勝負に負けるときっていうのはさ、最初に、心が折れるってこと知ってたんだよ。
だからさ、それを、佐藤さんにも味わってもらおうと思ったんだよ。
もちろん、腹が立ってたわけでよぅ、目なんか狙われて、カッとしてたわけでよぅ、だけど、だから殴ってやろう、なんて思ったわけじゃないもん。ただ、この人は、今まで、一度も、心が折れた音を聞いたことがないなって思ったんだよ。だから、こんな危なっかしい、嫌なことをするんだなって。
だからさ、心を折ってやろうと思ったんですよ。その音を聞かせてやろうと思ったのよ」
最後の決め技について、神取は、こんなふうに説明する。
「腕をアームロックにきめたのよ。まず、そこで痛みがあるじゃん。でも、人間って、痛みだけじゃ降参しないよ。痛みは、ある程度以上、感じることはできないから、それだけじゃ、人間って参らないの。
だから、次に、うしろに回した佐藤さんの腕に足を入れて、膝で首の関節をきめたの。これで、彼女は、首が固定されて、自分がどうなっているか見ることができなくなったわけよ。見ることができないって、人間ってすごく怖いものなのよ。自由がなくなったってことじゃん。自分が、これから何をされるのか、見ることもできないってことになったら、人間って、かなり参るんだよ。
それで、最後に上半身全体を、佐藤さんの肋骨に乗せた。つまり、肺を圧迫したわけよ。これで、彼女は呼吸ができなくなった。息ができないってことは、やっぱ、人間にとって一番の恐怖じゃん。
だから、ここで、彼女の心が折れたのよ。
苦痛と、見る自由を奪われることと、息ができない恐怖と、この三つがそろって、初めて、心が折れるのよ。
だから、これはケンカじゃないの。相手をボカボカ殴って気絶させたわけじゃないもん。私は、プロレスのリングで格闘技をやって、最後に、格闘技で相手の心を折ったんじゃん。
だから、あの試合はケンカじゃないんだ」
八七年の暮近くになると、長与はついに、神取を獲得できないものかと、表立って会社のスタッフに頼むようになった。かつて、プロレスは村≠ネのだと言い切った長与にしてみれば、社内に波風をたたせる発言をすることは勇気を要する行為だっただろう。だが、団体の枠を越えて神取とプロレスを行なうというビジョンがはらんだ熱気は、ついに、彼女に一線を越えさせた。神取自身も、しばしば、全日本女子プロレスの会場に姿を現わすようになった。
その頃になると、観客にとっても、長与と神取の対戦は、女子プロレスファンにとって最大の夢として認知されるようになった。そして、当初は、老舗団体としての面子《めんつ》からか、神取というレスラーの存在さえ認めていないように見えた、全日本女子プロレスの関係者も、雑誌などで渋々ながら、神取と交渉を続けていることを漏らす発言をしはじめた。
遅々としたスピードではあるものの、すべてが、会社の枠を越えた対戦へと像を結びつつあるようにみえた。
■神取と長与の新しいプロレス
かすかな成功の予感は、一九八七年の暮にはたしかに存在していた。それは、事実だった。
だが、ほんの一カ月後、それは、あっけなくついえてしまった。
一九八八年早々、全日本女子プロレスのフロントは、神取を取ってほしいという長与の申し出を、あっさり蹴ったのである。このことによって、神取の招聘問題は、一挙に暗転してしまった。
この唐突な破綻の理由は、いったいどこにあったのだろうと、私は、今でも考える。
ひとつの理由は、両団体の面子の張り合いにあっただろう。また、クラッシュブームが下降線をたどっていた当時、それほどの冒険をあえて行なうほどの興行的な見返りがのぞめないと、全日本女子プロレスが判断したことも、原因のひとつだろう。神取という、おそろしく管理のしにくいレスラーを身内に引き込むことへの不安も否めない。
だが、本質的な問題は、それだけか。
興行の見返りや、面子などの表向きの理由の陰で、女子プロレスという古い興行は、選手たちが、既存の枠を越えてまで自己実現をはかることに、より深い拒否感を持ったのではないかと、私は思った。
神取と長与が抱いたビジョンは、たしかに型破りなスケールを持っていた。二人は、ふたつの興行会社の境界枠をとりはずそうとしただけでなく、その対戦によって、自分たちの仕事としての女子プロレスを、意識の深い部分でとらえなおそうとしていたのだ。
そもそも、なぜ女子プロレスラーは格闘するのか? 女性が格闘によって得るステータスは、肉体的な強さなのか、それとも別の何かか? そして、格闘に勝つことは、観客と選手に最終的に何を伝えるのか。このような素朴で本質的な問いに、彼女たちの対戦は、ある解答を与えてくれるはずだった。
しかし、興行会社は、選手たちが、そのような形而上的な問いを解決する場として、リングを提供しているわけではない。管理する側の論理として、会社は、そのようなややこしい問題に悩まない、単純明快な選手を望んでいたことだろう。
だが、長与と神取は、プロレスラーの問題を、より普遍的な領域に広げてしまった。
たとえば、長与は、対神取戦を、女子プロレスの枠内だけではとらえていなかった。彼女にとってその問題は、すでに会社と自分との関係のありかたに移行していた。会社が彼女の意見を聞き入れて神取との対戦を実現するかどうかは、長与にとって本質的な問題だった。その返答次第によって、自分が会社にとって単なる商品なのか、あるいはなんらかの発言権を認められたスタッフの一員なのかを、彼女はみきわめようとしていたのだ。
そして、長与の賭けはやぶれた。会社は、一九八八年早々、長与の申し出を拒否し、五月一四日には週刊プロレス誌上のインタビューで、神取を招聘しないことを明言したのである。
一年間におよぶ対戦への思いを断ち切られたときの、彼女たち二人へのインタビューは次のようなものとなった。
[#ここから1字下げ]
長与 正月にね、あたし会社に思い切って言ったん。もうこの機会しかないと思ったから。
神取を取れませんか? なんとか、取ってもらえませんか。お願いします。試合をやってみたいんです。(中略)
あたしが、あいつを、あいつとの試合を望んだからじゃないのよ。
ああいうまったく異邦人みたいな、外部のレスラーを受け入れることで、この会社の閉ざされた空気がパッと晴れるって、そう、うち、考えてた。いつも同じメンバーで、同じ試合、選手が誰とあたってもドキドキしない試合、そういう空気を、神取しのぶというヤツを引きこむことによって破ることができたら、うちだけじゃないんよ。他の、特に若い子たちにとって、どれだけの財産になるか。ね、考えてみてよ。お客さんを、どれだけ、感動させられるか考えてみて。(中略)
── フロントの解答を教えてくれます?
長与 一言のもとにダメだ。それだけ。ダメだ。取る気はない。
うち、それでも、ねばったん。理由を聞かせてもらえませんか。なぜ取れないかの理由を教えて下さい。
したらね、こう言われた。
神取が何人客を引っ張ってこれると思うんだ。お前との試合を組んだところで、どれだけ客が増えるんだ。それを考えてみろ。(中略)
うち、言ったの。客をどれだけ引っ張ってこれるかは、ほんと、試合をしてみないとわからんのと違いますか? たとえば、試合やってみたら、うちのファンが大勢、神取に流れていくかもしれない。あるいは、神取のファンを、うちが全部取ってしまうかもしれん。そういう思いがけないことが起こるのが試合なんじゃありませんか? (中略)うちだってクラッシュを組むまでは、まるっきり客が呼べない選手やったでしょう。それが一回、大きな試合に出させてもらったら、突然変わったやありませんか。(中略)
だめやった。
まったく、何を言っても……うちのコトバって……あん人たちの耳には……ひとことも入っていかないみたいだった。
何を言っても、ただ、頭からダメ、取らない。それだけ。
じゃあ、なぜ、今まで交渉してきたんだろう。うちの会社、ぜったい取らないつもりの選手を取るための交渉をやってきたんだろうか。ねぇ、もう、うち、わからん。
ただ、わかったのは、会社には、あたしの意見なんか入れる余地は、まったくないということ。
(「デラックスプロレス」八八年三月号)
この、長与とのインタビューを行なった日の午後には、同じ号に載せるための、神取への取材が控えていた。私は、長与の申し出が拒否されたことを、取材の前に神取にあらかじめ伝えた。その日、彼女とのインタビューはこんなふうになった。
── 長与選手の話というのは、ここまでね。で、蛇足で付け加えれば、蛇足というのは、あなたは、おそらくそこのところをわかって聞いていてくれただろうと思うからなんだけどさ、これは長与千種選手のひとつの経験談として、あなたが、今後の交渉について考える上での一材料にしてほしいということね。
つまり、このことだけで、すべてを判断してかかってほしいとは、長与選手も望んでいないと思うのよ。
神取 ええ、ええ、それはわかるわ。
でも……その……つまり、最初から取る気がないのに、交渉を続けていたということになんのかしら。それじゃ、なんなの。いったい?
なんだか、それじゃ、やだなあ。やだ、最初っから話にもならねーじゃん。これじゃ。つまり、そういうこと? そういうこと? そういうことなの?
── あなたの交渉は、今のところ、ジャパン女子プロレスとの間でのトラブルを解消するという方向で進んでいたんでしょう?
神取 そういった交渉をする気があるから、全日本側のほうからも、交渉する人を出してきたんだと思っていたのよ。(中略)ええと、つまり、どういうこと? すべてが無意味だったってことなの? これって。
── うーん、どうかな。あのさ、ここで、それが、真実、どういうことだったのか、あなたと私で考えているのって、ひょっとして、それこそ無意味なような気がしない? 私の問題であれば、私が答えられるし、あなたの問題ならあなたが答えられるだろうけど、これは私たちどちらの問題でもない。
神取 あ、そうか。なるほど。それは……いえてる。いえてるな。
あ、ちょっと待ってて、待ってて。今、あたし、考えてるから。何をすればいいか考えてるから。
[#ここで字下げ終わり]
(「デラックスプロレス」八八年三月号)
神取はこうして考えた結果、全日本女子プロレスと以後も粘り強く交渉を続けることを決めた。
彼女は、たしかに辛抱強かった。感情を爆発させることもなく、神取は、全日本とジャパンのふたつの会社と話し合った。会場に、彼女が姿をあらわすことも何回か続いた。だが、その交渉は、結局実らず、全日本側の関係者が誌上で、彼女を招聘する気持ちがないことを明言するようになった五月には、彼女も、すでに団体の枠を越えた対戦を諦めるようになっていた。
■神取の復帰
その頃には、ジャパン女子プロレスの経営陣は、かつて、神取がケンカマッチを行なった後、国外へ遁走したときの顔触れが一掃されていた。全日本女子プロレスのマットにあがることを断念した彼女を、古巣のスタッフは、再度、リングに誘った。
こうして、一九八八年の七月、神取は、ついにジャパン女子プロレスのリングに復帰することを決めた。彼女が、失職してからちょうど一年が経過していた。七月一四日、神取は後楽園のリングで再デビューをはたした。
長与は、それからも、全日本女子プロレスであいかわらず、トップレスラーとしての位置を保っていた。だが、クラッシュ・ギャルズに対応する、ヒールの立て役者だったダンプ松本は、その年の二月末、早々《はやばや》と引退。これにつられたように、中堅や若手選手も一人二人と抜け始め、女子プロレス人気は、長与が一年以上前から予感していたとおり、次第にしぼんでいった。
女子プロレス専門誌だった「デラックスプロレス」が、その年の九月号で休刊となったのも、このようなブームの下降曲線を反映した出来事だった。そして、これによって、雑誌記者としての私の仕事から、四年ぶりに、女子プロレスの記事を書くことが姿を消した。
長与は、その年の夏頃から、さかんに海外へ遠征に行きたいと漏らすようになった。彼女は、国内のリングにのぼることが、次第に苦痛になってきているようだった。彼女のこの希望は、この年の秋にかなえられ、長与はAWAマットのサーキットに参加するために、ミネアポリスへ旅立った。
メデューサが、初めて長与と対戦したのは、彼女が、このような状況にあるときだったのだ。対神取戦が流れたあと、長与がプロレスを長く続ける気力を失っていることは、誰の目にもあきらかだった。そして、全日本女子プロレスは、将来、長与というトップレスラーが抜けたあとに、文字どおり毛色のかわった外国人を起用し、思いきった新風を吹き込む考えを固め始めた。
メデューサが日本にやってきたのは、このような状況を背景としていたのだ。
[#改ページ]
麗※[#「雨/文」]の帰郷とミシェリー家のクリスマス
■天田麗文の華の一日
こうして、全日本女子プロレスが、そこはかとない沈滞ムードに陥り始めていた一九八八年の暮、|麗※[#「雨/文」]《リーウエン》はどうしていたのか。
彼女のプロレスのぎこちなさは、あいかわらずだった。
技のバリエーションは増え、それに独特のストレートな熱意と気の強さが加わるので、彼女の試合は、あながち退屈というわけではない。だが、試合の盛り上がりをピークに持ち込む力が、あきらかに彼女には欠けていた。だから、観客は、天田麗文《あまだれいぶん》というレスラーの熱意は疑わないものの、彼女の試合に、プロレスそのものの完成度の高さを期待することは少なかった。麗※[#「雨/文」]の試合は、いつの場合も敢闘賞どまりのレベルを超越することができなかったのだ。
また、彼女の肩からは、この時期になってもサポーターが取れず、脱臼は慢性化していた。それに加えて、彼女は膝も痛めていた。それでもなお、タイトルを獲得する機会には恵まれていた麗※[#「雨/文」]は、一九八九年に入ると、全日本ジュニア選手権と、全日本タッグ選手権のベルトを持つ立場になった。
だが、日本語のコミュニケーションに関しては、彼女は、むしろ退歩していた。すでにデビュー四年目をむかえた麗※[#「雨/文」]は、先輩選手の付き人などの仕事から解放されている。こういった下働き的な仕事は、デビュー三年目をすぎるとやらなくてすむようになるのだ。彼女は、このため、努力して日本語を聞き取ったり、話したりする必要さえ感じなくなってしまったようだった。
麗※[#「雨/文」]は、バスの中にまでウォークマンとマイクロテレビを持ち込み、移動の間中、同僚の選手たちとも言葉をかわさずに、画面へ没頭するようになっていた。
だが、彼女は、メデューサと話をしたことだけは覚えている。
「私は膝が悪いでしょう。メデューサも膝が悪い。そして、わたしがサポーターしないで試合に出ますね。サポーターしない膝は、とても痛くなる。そうすると、試合がおわったあとに、メデューサが、日本語で言いますよ。
麗※[#「雨/文」]! またサポーターしない。膝はアウチね。あなたの膝、アウチ!
英語で、痛いってアウチと言うのですね。メデューサは、自分の膝を、こんなふうにさすの。そして、アウチ! 麗※[#「雨/文」]、アウチ! と言います」
麗※[#「雨/文」]の表情は、その話をするとき、ふと、ゆるんだ。それは、彼女にとって、たしかに楽しい思い出であるようだ。
「メデューサとは、仲がよくなれたかもしれない。でも、わたしは英語がしゃべれないし、わたしもメデューサも、日本語がうまくしゃべれませんね。だから駄目ね。わたしたちは、駄目ね。
でも、試合がおわって帰るとき、わたしはメデューサとおしゃべりしましたよ。ええ、そういうこともありましたよ」
カシオの多国語電卓を仲介としてめばえた二人のガイジンの友情は、結局、言語の壁にはばまれて成就することはなかった。さらに、麗※[#「雨/文」]は、女子プロレスラーとして、金銭的な面での展望を失いつつあった。彼女の、そのときの基本給は、二年前と同じ一〇万円。女子プロレスラーになって大金を稼げば、夢がかなうだろうという当初の見込みは、彼女の中で日増しに失われていった。
そんな気分に陥りかけていた一九八九年の一月のおわり、麗※[#「雨/文」]は桐生での興行で、初めて長与《ながよ》と対戦する。彼女はなかなか活発に技を出して善戦したものの、一三分七秒にフォール負けを喫した。長与は、試合のあと、
「あんたのプロレスも、思ったより、ひどくなかった」
と感想を述べたという。
長与が言うように、彼女のプロレスのレベルは進歩はしていた。だが、彼女が、さらに大きく開花して、スター選手になれるかという問題になると、それは疑わしかった。中堅選手の群れから、一歩抜きんでるということは、非常に難しいことなのである。
プロレスで自分の夢をかなえるというビジョンは、麗※[#「雨/文」]にとって、以前ほど確実に手の届くものではなくなってきていた。
だが、そういった思惑とは裏腹に、彼女の最大の夢のひとつは、まさに、このときかなった。
麗※[#「雨/文」]は、南京に帰ったのである。
「それは、八九年の三月のころです。テレビの人が言いましたよ。長いこと中国の家族に会ってないんでしょって。はいって言ったら、会いたいでしょって言いました。会わせてあげようかって言うのですね。
ほんとですか、と私は言いましたよ。テレビの人は、そういう企画を考えてるからって言ったの」
その企画は、三月二四日の特別番組という形で結実した。それは、通常の女子プロレスの試合放映をはさんで、麗※[#「雨/文」]がクラッシュ・ギャルズの二人と一緒に上海から南京へ帰郷するところをルポルタージュする、一時間三〇分の番組である。
彼女は、日本から上海まで飛行機で行き、市内のデパートで、一七五八|元《げん》の冷蔵庫とみやげものを買いこんだ。クラッシュ・ギャルズは、慣れない中国の町並に、少しとまどっているようだった。いつもより口数の少ない長与千種とライオネス飛鳥にはさまれ、みやげものの包みを山のようにぶらさげて、麗※[#「雨/文」]は歩いた。
上海から南京までは汽車、南京から長江のほとりの家までは小型バスが、麗※[#「雨/文」]たちの足になった。麗※[#「雨/文」]は、頬杖をつき、車窓から外を見ていた。
「テレビの人は、わたしの家の人に、何もしらせずに行こうと言いました。両親は、わたしが、こんなに近くにいることを知らないのでしょうか、と思いながら、わたしはバスに乗っていましたね。
バスに乗りますでしょう。
わたしは、外を見ていますね。
ああ、この道だなあと思いました。その道を、わたしは覚えていたのですよ。ああ、この道だって、この道だったんだって思いました。七年前と、なにもかわっていない。道もかわらない。家もかわらないと思いました。
こんなにかわらないなんて、と思いましたよ。
家にバスが着きますよ。中庭にバスがとまりますよ。おとうさんが、そこにいますよ。
おとうさんは、昔、わたしが知っていた人と変わりません。着ている洋服も変わらない。昔、着ていた服を、おとうさんは着ていましたよ。
とうとう、とうとう、帰ってきたと思いました。とうとう、とうとう、わたしは帰ってきたのですよ」
養父は、痩《や》せた体に紺サージの襟の詰まった上下を着て、麗※[#「雨/文」]のバスを出迎えた。彼女は、パァパと呼んで、彼に抱きついた。養母は、少し遅れて、家から中庭へ駆けて出てきた。マァマと叫んで、彼女は小柄な養母を抱きすくめた。
ずいぶん、やせちゃったね。おとうさん、からだは大丈夫なの? どうして、こんなにやせちゃったの? おかあさん、足のケガ、大丈夫? 歩けるの?
麗※[#「雨/文」]が、養父母ともつれあうようにして、家に入りながら、こんなふうに続けざまに問いかける様子を、テレビカメラは追った。
「おかあさんは、仕事場で足をケガしたと聞いていましたので、機械が、足の上に落ちてきて動けなくなったと手紙で読んでいましたので、走ってきたときにはびっくりしましたよ。
そして、家には、みんながいました。生まれてから、ずっと一緒にいた人たちです。みんないました。みんなのこと、わたしは覚えていたのよ。一人だけ、眼鏡をかけて顔がかわっていたので、最初のうち、わからなかった人がいたけど、すぐに思い出した。
ええ、みんな、わたしが生まれてから、ずっと一緒にいた人たちです」
彼女が、集まってきた人たちのすべての顔を見分けられたというのは、私には驚異的に思える。バスのまわりに押し寄せた人たちは、少なくみつもっても六、七〇人いたのではないか。その人たちが麗※[#「雨/文」]の家の玄関の両脇をぎっしり固めていたので、テレビカメラが家の中に入るのは一苦労だった。
こういった騒ぎが一段落したところで、麗※[#「雨/文」]は、中庭の大きな木の下にビデオを持ち出し、女子プロレスのビデオテープをかけて、みんなと観戦した。このビデオで、彼女は、両親や隣人たちに、初めて日本での仕事を実際に披露したことになる。みんなは、プロレスの過激さに驚き、こんなことをしていて、小琴《シヤオチン》は大丈夫なのかしら、と口々に言い合った。麗※[#「雨/文」]は、木の下に据えたベンチに座り、たくさんの人たちに取り囲まれながら、恥ずかしいとも誇らしいともとれる表情で、画面に見入っていた。
プロレスラー・天田麗文にとって、それは、デビュー以来の、華《はな》のある一日だった。
だが、彼女は、結局、その中庭に一時間ととどまらず、すぐ養父母と一緒にバスに乗り込んで南京にもどった。市内のホテルで、彼女は養父母と一泊することになっていたのである。
「ホテルでは、あまり話さなかった。両親は、わたしに、体は大丈夫なの? 日本は大丈夫なの? って聞きますけど、自分たちのことは話さない。おとうさんは、学校を退職してから、夜は食堂で働いている。おかあさんはケガをしてからは、あまり働けない。そういうことしか、わからないの。
わたしは、外国の人になってしまったのですから、おとうさんたちは、あまり詳しいことを話せないみたいです。中国人はそうですよ。あまり詳しいことを外国人に話してはいけないことになっています。だから、おとうさんも、おかあさんも、自分たちのことをあまり話さない。話してはいけないことが、たくさんあるのでしょうね、とわたしは思いました。
おとうさんはね、悲しそうでした。そうかもしれません、とわたしは思いました。おとうさんは、何もやりたいことができない。戸口簿《フーコーブ》さえ、もとにもどせないでしょう。おとうさんは、やりたいことができません。頑固だから、人にものを頼まないから、おとうさんは、中国でやれないことがたくさんありすぎるのでしょう。
おとうさんも、おかあさんも、ずっと泣いていますよ。ホテルに来てからも泣いていますよ。泣いてばかりいるから、話ができませんよ。何を言っても、すぐ泣いてしまうんだもん」
特別番組は最後に、ホテルで一泊した翌朝、南京駅から汽車に乗って上海へ行く麗※[#「雨/文」]と、それを見送る養父母を映した。
汽車が動き出したとき、麗※[#「雨/文」]は、プラットホームに立つ養父母に、短く叫んだ。画面の下に流れた字幕は、その一言を拾わなかったが、その番組をみた、中国語に堪能な知人は、彼女は、今度は、自分で帰ってくるから≠ニ叫んだのではないかと言った。
麗※[#「雨/文」]は、養父母になんと言ったのか。
「わたしは、おとうさんたちに、今度は、仕事じゃなくて帰ってくるといったですよ。
そのとき帰ったのは、仕事だったでしょう。テレビの人が、わたしを連れてきて、わたしはテレビのために、あっちに行ったり、こっちに行ったりしましたでしょう。
わたしたちは、時間がなくて、早く早くってあせりましたよ。
そう。わたしは|長 江《チヤンチヤン》も見ませんでしたよ!
でも、わたしは一度帰りました。
わたしは、また帰るでしょう。
今度、帰るとき、わたしは仕事ではない。わたしは、次には、わたしの力《ヽ》で帰るでしょう、と言いましたのですよ」
彼女にとって、この帰郷はプロレスをやめようかと考える最初の契機になった。仕事とはいえ、自分の目で帰りたい場所や、会いたい人たちを確認したことによって、彼女は、プロレスのファイトマネーでは、とても二度目の帰郷を実現することはできない、という現実に気がついたのだ。彼女は、急速に現実にめざめていった。
「たぶん、わたしはプロレスをやっていても、自分の夢に届かないとわかったです。
ええ。わたしは、プロレスをやっていたから、南京へ帰れましたです。それは本当です。でも、このままプロレスをやっていたら、もう一度、南京へ帰ることはできませんね。それも、本当ね。それから、わたしは、プロレスをやって、ホテルを建てることはできませんね。それも、本当ですね。
わたしは、今度は、仕事ではなくて帰ると両親に言いましたよ。だけど、月給は一〇万円で、いつまでもあがりませんね。ボーナスはありませんね。それに、わたしは、これ以上、きっと会社の中で強くはなれない。そしたら、あまりお金も入りません。わたしは、きっと自分のお金で南京へ帰ることはできませんでしょう。
だから、もっと違うことをやろうかって考えました。南京に、もう一度帰れるような仕事をみつけようかと思いました」
その年の六月四日、戒厳令下の北京・天安門で民主化を要求する学生と、それを制圧しようとする軍隊との間で大規模な衝突がおこった。養父母からの連絡は、数カ月間絶えたあと再開したが、彼女が被った不安は大きかった。そして、この事件も、彼女の引退への気持ちを強める原因となった。
最終的なきっかけは、九月の九州への巡業中におこった。
ブームの沈滞は、社内の雰囲気を、どことなくとげとげしいものにしていたのだろう。そういった雰囲気の中で行なわれた巡業は、途中で新人選手の一人が逃げ返ってしまうほど、すさんだものとなってしまった。麗※[#「雨/文」]はその空気に、女子プロレスが置かれている閉塞状況を感じ取った。そして、彼女はこの巡業を最後に、プロレスラーをやめることを決意した。
一〇月の初め、彼女は肩と膝のケガを理由に、会社へ退職願いを出し、すぐに引退した。彼女の引退式は行なわれなかった。そのため、天田麗文が引退したことを、観客の大半が知ったのは、すでに一九八九年が暮に近づく頃だった。
こうして、四年間におよぶ、麗※[#「雨/文」]の女子プロレス体験は終わった。
「日本は夢を与えてくれた国です。自分が思ったことができて、夢だと思ったこと、一生できないと思ったことが、日本へきて、できたです。プロレスも、一生できないかと思っていたら、できた。中国にも帰れないかと思ったら、帰れた。プロレスができたのは、とても嬉しかった。どんなことでも、自分が一生懸命がんばればできるとわかりましたね。この国にきて、わたしはよかったです」
麗※[#「雨/文」]は、その四年間を、こんなふうに総括して続けた。
「でもね、わたしは中国人ですよ。わたしの国籍は日本だけど、わたしの心は中国人です。
でも、わたしは、中国では死なないでしょう。中国を愛しているけれども、あの国は、もう、わたしの国ではないから。
でもね、わたしは、この国でも死なないでしょう。わたしは、今、この国で生きています。一生懸命生きますけれども、きっと、この国では死なないでしょう。
ええ、わたしは中国でも日本でもない国で死ぬと思うですよ。子供の頃から、きっと、わたしは遠くへ行くと思っていたんだから。長江の船に乗って、どこかへ行くと信じていましたのですから。きっとわたしは別の国で死ぬでしょう。
そして、おとうさんは、いつも、世の中に、強く願って、一生懸命やって、かなわないものはないと言っていましたから、わたしは、その考え方を、とてもよくわかりますから、きっと、どこかの国で、わたしはホテルを持つでしょう。きっと、夢をかなえるでしょう。
あのね。孫《スン》という家は、商売人の家なのよ。
だから、わたしも、きっとこのままでは、すまないのよ。ええ、ほんとですよ」
彼女が、自分の孫という苗字《みようじ》を口にしたのは、これが初めてだということに、私は気がついた。
|孫麗※[#「雨/文」]《スンリーウエン》は、両方の頬に深いエクボを刻んで笑っていた。
■長与千種の引退
長与千種が、ついに引退試合を行なったのは、一九八九年五月六日、麗※[#「雨/文」]が七年ぶりの帰郷をはたした約二カ月後のことだった。
彼女は、一九八八年秋のアメリカ遠征から帰ったあとは、どことなく諦観と言ってもよいような雰囲気を漂わせるようになっていた。神取を招聘《しようへい》して、女子プロレス人気を盛り返すことに失敗した衝撃は、アメリカを巡業してまわる間に、彼女の中で、引退をむかえる淡々とした境地へと、次第に変化したようだった。
とはいえ、横浜アリーナで行なわれた彼女の引退試合は、彼女らしく派手なものとなった。長与へのエールを書いた横断幕を張り巡らせた会場で、一万人近い少女たちは、文字どおり泣き叫んだ。そのなかで、彼女は、次々と後輩たちと引退のエキシビション試合を行ない、歌を歌い、観客の投げるテープに埋もれながら、プロレスラーとしての演劇性を最後の一滴まで絞り出した。彼女は、何回も衣裳を変え、最後には、女子大生の卒業式のような羽織|袴《はかま》姿でリングに登場した。その演出は、学校のクラブの純化した形としてのクラッシュブームの終焉《しゆうえん》に、まさにふさわしいものだった。
そして、神取は、引退試合を終えて帰る長与を、駐車場で待ち受けて花束を渡した。長与は、彼女に大きく腕をまわして抱き締め、花束は、長与のピンク色の羽織と、神取の白いポロシャツの間にはさまれて押しつぶされた。駐車場の外に集まったファンが、その光景を、夜陰をすかしてみつめ、絶叫に近い歓声をあげる。長与は、その声を聞きながら、ようやく体を離すと、誰にともなく手を振り回しながら車に乗り込んでいった。
神取と長与は、こうして別れたのである。
長与が引退したあと、観客は、横浜アリーナでの数時間で、すべての精力を使い果たしたかのように虚脱した。
そして、長与がやめて二カ月後の七月二八日、もう一人のクラッシュ・ギャルズであるライオネス飛鳥《あすか》が引退する。この引退試合は、やはり、彼女の持味に似て、静かなものとなった。彼女は、引退の舞台に、大がかりな会場ではなく、後楽園ホールを選んだ。そして、最後の相手として、自分のかつての先輩選手だった、ジャガー横田を指名した。その日は、彼女の二六歳の誕生日でもあった。
こうして、長与と飛鳥の二人が抜けたあとの、全日本女子プロレスの牽引《けんいん》車の役割は、一応、メデューサにまかせられた形になった。だが、あまりにも決定的になった女子プロレス人気の低落を持ち直すことは、まだ経験が浅く、その上、日本とのカルチュラルギャップに苦しむメデューサには、重すぎる任務と言えた。
結局、おおむねの関係者の思惑と異なって、このとき、次代のブームは、旗揚げ以来、資金的な危機から、倒産の噂が慢性化していたジャパン女子プロレスに生まれかけていた。八六年の旗揚げ直後にデビューした、キューティ鈴木という選手に、自然発生的な人気が出始めたのだ。
本名を鈴木由美という、一五五センチで五五キロたらずの彼女は、どこから見ても一般的なティーンエイジャーだった。女子プロレスラーの肉体的な特異性は、彼女には無縁のものだった。
ところで、鈴木に注目したのは、観客より、むしろマスコミや広告代理店のほうが素早かった。彼女は、マニアの観客にとっては、あまりにもレスラーらしくない選手だっただろう。だが普通の女の子としての彼女が訴えるものは、それまでの女子プロレスにおけるレスラーの観念をゆるがすだけの力を、たしかに持っていた。マスコミや広告代理店は、彼女が、無意識のうちに持っている、そのアピールの力にひきつけられたのだと思う。一九八九年の夏頃から、プロレスラー・キューティ鈴木は突如として、それまでのスター選手を凌《しの》ぐ、マスコミやCMへの露出を実現しはじめたのだ。
鈴木は、小柄な体ゆえに悲壮な試合を展開するといった、湿っぽい情緒性とは無縁な点で、もっとも現代的なレスラーと言えた。そして、ただ格闘したいからプロレスをやっているだけ、という彼女の持味は、次第に観客に浸透し、共感を獲得するようになる。鈴木のもたらしたブームは、クラッシュブームと比べて小ぶりではあるが、ユニークなものではあった。
また、このブームは、女性の格闘技全体への本格的ブームと同調してもいた。
たとえば、一九八八年のソウルオリンピックでは、女子柔道が、初めて公式競技として行なわれた。それは、一九九二年のバルセロナオリンピックでの正式種目化へとつながる、ひとつの流れだった。その一九九二年には、女子アマレスが、初めての世界選手権を東京で開催する予定になっている。
一九八〇年代の終わり、女性が格闘技をすることの一般性は、このようにして普及しはじめたのだ。格闘技をするために、女性は、必ずしも、巨大な体や、化け物じみたアピール、複雑なコンプレックスなどを必要としなくなった。そして、その傾向はプロレスという伝統的な興行から、オリンピックの参加競技までを含む、広い領域に及び始めていた。そのひとつの現象が、普通の体格をしたキューティ鈴木というレスラーへの人気の高まりだったのだ。
■アメリカのレベルを越えたメデューサ
そして、同じ頃、一九五一年にビリー・ウルフの手によって創設された、アメリカ女子プロレスに、初めての女子プロレス専門興行団体が生まれた。それまでずっと、男子プロレスの幕間芝居として扱われてきた女子プロレスラーは、誕生後三八年で、ようやく自分たちだけの興行を持つことになったのである。
ちなみに、日本での女子プロレス放送の最初期に来日したミルドレッド・バーグは、この年の二月、七三歳で死去したと伝えられた。バーグの商売敵でもあり、また、長く、アメリカでの女子プロレスラーのまとめ役をしていた、ファビュラス・ムーラも、同時期に引退した。彼女は、年齢について、一切明らかにしていなかったが、バーグと同じ七〇歳代だといわれている。彼女には何人かの孫さえいた。アメリカの女子プロレスのレベルとは、結局、このような高齢のレスラーを現役選手として君臨させうるようなものだったのだろう。
いずれにしても、このムーラの引退と、バーグの死去によって、アメリカの女子プロレスは転機をむかえたのである。
その女子プロレス専門の興行団体は、LPWAと命名され、発足と同時に、選手の派遣などの面で、全日本女子プロレスと提携関係を結んだ。
この団体の興行戦略はユニークだった。LPWAは、それまでのプロレスにとって、興行の基本となっていた巡業を、一切やらない団体として発足したのである。巡業をしないだけでなく、この団体は、観客を集めての、生《なま》の℃詩そのものも行なわなかった。LPWAのスタッフは、すべての試合をケーブルテレビ用に録画して、その放映権料だけを収入とした。この方法なら、巡業にともなう人件費や交通費などの経費が不要。また、収入が、観客の入り具合によって左右されるというリスクを防ぐことができる。
ケーブルテレビのカメラを観客がわりに行なわれる女子プロレスの試合とは、たしかに風変わりな光景だっただろう。だが、それは、最底辺のエンターテインメントとしての女子プロレスがアメリカで生き残るために試みられた、画期的な方法でもあった。
そのような動きがアメリカで始まった一九八九年の暮、メデューサは、ロビンズデイルにクリスマスをすごすために帰郷した。そして年があけた一九九〇年一月、隣町のミネアポリスで行なわれた、LPWAの初めての録画に参加している。
実のところ、彼女は、そのとき、日本のリングでのカルチュラルギャップにひどく苦しんでいた。タッグマッチでの出番を、やんわりと遮られるだけでなく、彼女は、次第にシングルマッチでもよい試合に恵まれなくなっていた。
当初、彼女に向けられた、クラッシュ・ギャルズブームの次代をになう選手としての期待は、彼女が、日本や日本人選手とのギャップを前にしてとまどっているうちに、急速に薄らいでしまった。その原因を、プロレスラーとしての彼女の能力だけに求めるのは不当だろう。クラッシュ・ギャルズの二人が抜けたあと、少女のファンの間に蔓延《まんえん》した虚脱状態と、それに伴って、ずるずると際限もなく下がっていくプロレス人気を食い止めることは、誰にとっても容易なことではなかったはずだ。事実、その作業に、メデューサ一人がてこずっていたわけではない。日本人選手の誰もが、ブームを再燃させようとして、それに失敗しつづけていた。ブームのあとの虚脱は、圧倒的な存在感を持って、すべての選手の前に立ちはだかっていたのである。
だが、その年のクリスマスにロビンズデイルに帰ったメデューサは、そのような悩みから解放され、生気にあふれていた。
日本で本格的な女子プロレスの修行をしてきた彼女は、故郷のロビンズデイルでは、ちょっとしたスターだった。彼女は、市内で発行されている新聞にまで取り上げられた。同紙のダン・ワスコー・ジュニア記者がまとめた彼女の取材記事の見出しは、こんなふうだ。
[#ここから1字下げ]
〈日本は、アメリカからの輸入商品メデューサ≠ノ夢中!〉
ロビンズデイルの元住民、デブラ・ミシェリーは、日本の女子プロレスのチャンピオンだ。日本における西洋のシンボルのひとつとして、彼女は観客の熱狂と何千万円もの収入をその手にしている。
[#ここで字下げ終わり]
ワスコー記者は、彼女のメデューサ(Madusa)という芸名は、ギリシャ神話に登場する怪物メデューサ(Medusa)にちなむと同時に、アメリカ製品(Made in U.S.A.)というフレーズを短縮したものでもあることを、記事の中で紹介している。
また、彼女の親友である斎藤文彦《さいとうふみひこ》氏の、
「彼女は、とても美人だ。そして大きく、力強い。彼女は、一二〇%のアメリカなんです」
というコメントを引用して、ワスコーは、彼女が、プロレスラーとして日本に活路を開いたことの賢明さを強調した。その記事は、非常に熱をこめて仕上げられ、その後、日本へ帰った彼女に、彼が郵送してきた新聞のコピーの余白には、
「この記事は、一月十四日の日曜版第一面の見出し読み物として掲載されたものです!」
という、興奮ぎみのメモが書き添えてあった。
もちろん、彼女の日本での体験は、記事が語るほど完璧《かんぺき》な成功物語ではない。
だが、彼女も、自分が日本へ活路を開いたことが賢明な行為だったという確信を、この帰国によって得た。実際、LPWAの録画試合において、彼女は、自分が日本での試合を通して、アメリカの一般的女子プロレスのレベルをはるかに越えた技術と表現力を持つ、優秀な選手になったことを実感している。
「アメリカの、かつての同僚レスラーたちは、全員が、私が日本で仕事をしていることを知っていて、手ぐすねひいて待ち構えていたわ。そこには、嫉妬もひがみもあったと思う。でも、私は、自分がそういう嫉妬やひがみの対象になったことを知って誇らしかったの。
私のプロレスは、みんなにとって、考えもつかない新しいものだった。ほかの女子レスラーたちは単純な投げ技さえ、痛がってやりたがらないんですからね。そこに、私がジャーマン・スープレックスのような高度な技を出したので、何人かの女の子は、メデューサと当たらせないでってプロデューサーに泣きついたくらいよ。そして、こういう技が、日本ではごく普通で、けしてケガなどしないものだって、私が説明したときには、全員が目を剥《む》いてしまったというわけ」
メデューサは、さすがに得意そうな表情を隠せない。
「結局、LPWAの録画では、とても怖いレスラーという評判を取ってしまったんだけど、私は、これからもアメリカンスタイルの女子プロレスはしないつもり。
そりゃ、日本で仕事をしたことによって嫌なこともあったけど、私自身の中に、女子プロレスとはプロフェッショナルでリアリティのあるものだという確信が生まれたの。その確信は、一生、けして消えないでしょう。私は、日本にやってきて、初めて、自分がスポーツをやっているんだという実感がわいたのよ。
プロレスラーであるということはね、スポーツの技量と、表現する能力と、ものごとのタイミングをはかる勘がすべて備わっているということなんです。わかります? つまり、プロレスラーであるためには、とても大きくて複雑な能力が求められるということ。日本での経験は、私にそれを教えてくれました。
だからね、私のプロレスラーとしての誇りは、この国にあるのよ」
彼女は、日本とアメリカの二つの文化のはざまで傷ついたが、同時に、そのことは、彼女が女子プロレスに対して単眼的な見方におちいることを防いだ。彼女が、歯がゆい疎外体験にもかかわらず、精神的な健康を保っているのは、結局、複数の文化を知る人間の強さによるものではないかと私は思う。
そして、なにより日本は、かつて一週間を八三ドルで暮していた貧乏なメデューサに、強い円≠フ贈り物をした。
彼女は、次期のブームをになうスターレスラーとして、全日本女子プロレスから、比較的高額なファイトマネーを得て、故郷のロビンズデイルに帰ったのである。
期待以上の収入を手にしたとき、メデューサが最初に発想したのは、その金で彼女の家族に人並みのクリスマスをプレゼントすることだった。しかし、家族そろっての団欒《だんらん》を経験したことのないミシェリー家の人々が、本当に楽しいクリスマスをすごすことができるのだろうか? メデューサは、一度ならず、そう疑っただろう。彼女は、だが、その発想を実行し、母方の祖父母の家に、ミシェリー家の人々は集合した。かつて、彼女を幼児虐待した実母、それを放置した実父、義理の娘を嫌い抜いた義母、そのほかの家族一同に、メデューサは贈り物を渡し、クリスマスシーズンをともにすごしたのである。
さらに、彼女は、ファイトマネーの中から、一家の墓を建てるための資金さえ、惜しみなく出した。
この年の暮に、彼女がもたらそうとしたものは、ミシェリー家にはついぞ存在したことのない、家族としての契《ちぎ》りそのものだった。彼女の家族が、そういった契りにふさわしいのかどうかは、この際、関係ないだろう。どういうことをしてきたにせよ、彼らは、たしかに、デブラ・ミシェリーの母であり、父なのだ。
そして、メデューサは、これから先、毎年のクリスマスシーズンが到来するたびに、そのロビンズデイルの一画に、自分の家族としての記憶が生き続けていることを感じたかったにちがいない。それは、彼女が、特定の土地に根づいて生きているわけではなく、どこにも完全には属さない、通過する人間であるからこそ必要だったのだと思う。
彼女のその気持ちは、はたして、家族に受け入れられたか。
「そのクリスマスシーズンの最後の日、義母は、私に言いました。
このクリスマスにおこったすべてのことに、私は感謝する、と。
義母は、私たちは、今まで、お互いのことを何ひとつ知らなかったね、と言ったの。でも、このクリスマスで、私はあんたのことを、あんたは私のことを、少しだけ知ったわね、と。
彼女は、考えてみれば十分に人間的な女性だった。それなのに、私たちが嫌いあっていたのは、半分は私の責任、半分は彼女の拒否のためなの。ええ、そうよ。
ですから、私は、日本に帰ってから、彼女に初めて手紙を書きました。その手紙の末尾に、これから、私は、友達としてあなたに手紙を書きます。だから、あなたも、もし書くことがあるのなら返事を下さいと付け添えたの。多分、しばらくしたら、義母から返事がくるでしょう。私たちは、変わったんですよ」
その義母からの手紙より先に、メデューサは君は、私たち全員のスターだ≠ニ書いた、実父からのカードを受け取った。
変貌した家族の中で、実母だけは、彼女を受け入れなかった。メデューサが話しかけようとすると、母はその場から逃げ出してしまうのだ。この態度は、クリスマスが終わるまでずっと続き、彼女は、ついに、実母に関しては仲直りするための手掛りをみつけることができなかった。また、その一時的な経済的豊かさに起因する一家団欒が永続するか否かは、誰にも予想のつかないものではある。
それでもなお、一九八九年の暮のその出来事は、ミシェリー家のクリスマスキャロルだった。
一方で、麗※[#「雨/文」]に七年ぶりの帰郷をもたらした日本の女子プロレスは、他方、デブラ・ミシェリーと彼女の家族に、このようなキャロル(祝歌)を贈ったのである。
ウチなるガイジンたちは、こうして、二人とも、その年月の対価を手に入れたのだった。
[#改ページ]
彼女たちのいま
メデューサは、LPWAの録画を終えたあと、また日本へ帰ってきた。
一九九〇年に入ると、試合での大きな出番が彼女に与えられることは、さらに少なくなった。この年に入ってからの、全日本女子プロレスの試合の基調は、昭和六〇年にデビューした選手と、それ以下の選手たちのいわば世代闘争だった。このミクロサイズの闘争に、ガイジンである彼女の持ち場はなかった。
そのため、メデューサは、春からキックボクシングを練習して、レスラー同士で行なうボクシングマッチ、別称異種格闘技戦≠ノ参加しはじめた。だが、はたして、この変調的な試合が、レスラーとしての彼女の成長に役立つ可能性があるかどうかは、まだ疑問だ。彼女をとりまく仕事の状況は、けして、めざましいとは言いがたい。
それでも、彼女は、日本について、こう表現する。
「初めて日本にやってきたとき、この国は、私にとって、ただ通りすぎていく国だったと思います。日本は、自分にとって通過する点《ヽ》でしかないと思ったわ。でも、思ったより、この国とのつきあいが深くなり……日本は、私の一部になっていった。いつか、日本を愛するようになるだろうなんて、想像したこともなかったけど、今は、いくつかのトラブルがあっても、この国を愛している自分を、ふと感じることがあるの。
だから、日本人が、私の前に、これ以上は入らせないという壁を作っているとしても、私は、それによって傷つかないわ。私は、その壁によって変わらないし、壁があることが自分の敗北だと思わない。それは、この国が、すでに私の一部だからなのよ」
こう言ってから、顔をうつむかせ、慎重に言葉を選びながら、彼女は、こうしめくくる。
「私は、自分が幸運だということを知っているのよ。ええ。考えてもみて。私は、一四歳の頃から、ほとんど学校に行かず、職業教育も受けずに高校を中退したのよ。私は、売春婦になっても不思議はなかった。私は、たった今、麻薬の売人をしていても不思議はないわ。
それなのに、私はまじめに生きることができた。自分の夢を実現するために努力することができた。私は、自分の人生のイニシアティブをとることができたのよ。
私はプロレスラーになったことで、いつか、自分の子供を持ったら、その子に、人生は生きる価値があるということを教えることができるようになったわ。それは、とても幸運なことですよ」
一九九〇年の四月、メデューサは、この年の暮まで、契約を継続する手続きをとった。彼女は、もう少し、この国のウチなるガイジンとして生き続ける道を選んだのだ。
引退後、|麗※[#「雨/文」]《リーウエン》は会社勤めを始めた。一人のファンの紹介で入社した、その機械部品卸問屋は、浜松町にある。彼女は、その会社で、ボールベアリングの数を数えて伝票に記入する仕事などをしている。運動をしなくなったために食欲が落ち、少し痩せた彼女は、給与で、トレーニング用の室内自転車を買ってテレビの横に置き、自室で自主練習をしている。
会社から貰う給与は、女子プロレスラーだったときよりも多いが、もちろん河辺にホテルを建てる資金になるほどではない。そのため、彼女は、勤めて数カ月すると、夜間のアルバイトを始めた。その収入で、南京に自費で帰るのが、とりあえずの目標だと麗※[#「雨/文」]は語った。
麗※[#「雨/文」]の実父の孫欣治《スンシンジ》は、目黒不動前の駅前喫茶店で、長女がプロレスラーになったことについて、こんなふうに回想する。
「昔、中国にいたとき、米を貰うために、長い旅をしました。私に配給される米だけでは足りない時期があって、そのとき、私は、妻の戸口簿《フーコーブ》のある|塩 城《イエンチオン》まで、半年に一度、彼女に配給される米を貰いに行ったね。
塩城には釣り橋がある。長い、おっかない釣り橋よ。そこを、配給の米袋を自転車のうしろに縛って、私は渡っていきましたよ。釣り橋は揺れるでしょう。自転車ごと揺れます。私と米袋と自転車はおっこちそうだよ。
でも、その釣り橋を、私は渡ったよ。みんな、そうだったよ。みんな、闘っている。
麗※[#「雨/文」]もそうでしょう。プロレスは闘いですよ。私は、米袋と、釣り橋と闘った。娘は、プロレスで闘った。これは、同じことですと、思います」
引退後、芸能界に転身した長与千種《ながよちぐさ》は、予想以上の苦戦を強いられた。彼女は、初めの頃こそ、スポーツ番組のレポーターなどとして活躍していたが、次第に、そういう機会が少なくなった。今、彼女は、小劇場での演劇に役者として参加するなどして、転機をはかろうとしている。
一方、彼女より前に引退したダンプ松本が、芸能界でかなりの成功をおさめているところを見ると、女子格闘技が一般化してきたとはいえ、おおむねの一般人が考える女子プロレスラーのイメージとは、まだ、肉体的な異形さに偏るものなのだ。引退後の苦戦ぶりを見るたびに、私は、長与千種とは、あの後楽園ホールに蟻集した少女たちが、ほかならぬ自分たちの集団のためだけに鮮やかに作り出したマスイメージだったのではないかと考えた。そのイメージと一般的なプロレスラー像の間にあるギャップを乗り越え、さらに新しい自己像をつかみとることは、長与にとって難しいチャレンジにちがいない。
とはいえ、彼女は、引退後もたびたび試合を観戦しにくる。そして、控室などで、顔を合せるたびに、きっといつか、自分と神取《かんどり》が描いたビジョンを実現してみせると囁《ささや》く。まだ十分に若い彼女の顔を眺めると、その可能性は信じられるかもしれないと私は思う。
一方、ライオネス飛鳥は、引退後、カーレースに興味を持ったようだった。実際、彼女は、何度かレースに出場している。しかし、この年の春、知人の結婚式でひさしぶりに出会った彼女は、今度は、芸能界に転身すると話した。
プロレスラーとしての彼女のイメージは、一般の女子プロレスラーのイメージと、どのような位置で関わり、どのような展開を生むのだろう。私は、結婚披露宴の料理を前にした黒いパンツスーツ姿の彼女を見ながら考えた。
神取しのぶは、プロレスラーとして四年目、二六歳になる年を迎えていた。これは、彼女にとっては予想しなかったことだっただろう。彼女は、デビュー直後には、二五歳すぎまで女子プロレスをするつもりなどないと話していた。
彼女がプロレスラーとしてデビューする前、考えていたことは、おそらくプロとして短く太く生き、そこそこの金を稼いで、次の商売に鮮やかに転身することだっただろう。しかし、女子プロレスは思いがけない粘稠度《ねんちゆうど》で、神取を、この興行の世界に引き止めた。予想以上の経済状態の悪さも、彼女を足止めしたひとつの理由だった。彼女は、四年間、プロレスラーと野菜や果物の流通商売を並行させても、なお、今いるところを去るための資金を稼ぎ出せずにいた。
彼女の女子プロレス体験は、何回かの、輝くように鮮烈な試合を除いては、おおむね不遇の連続と言ってよいのかもしれない。
そして、彼女は、再デビューをはたしたものの、その試合は、回を重ねるごとに、なんとなく生彩を欠くようになっていた。彼女は、プロの芸人として、どのように生きればよいのか、あらためて迷っている様子だった。デビュー戦と、それに続く佐藤とのケンカマッチの二戦で、観客に驚異的な印象を与えすぎた彼女が、壁にぶつかるのは、当然だったかもしれない。
だが、試合が生彩を欠くにつれて、彼女が女子プロレスへの執着を増してくるのも、また事実だった。なにごとも飽きっぽい彼女が、長与との対戦が流れたあとも、同じ興行の世界に関わりを持ち続けているのは不思議なことのように思えた。
自宅での取材の最後に、あなたは、なぜ、プロレスを続けているのだろう、と、私は、彼女にたずねた。
「私は、プロレスを究《きわ》めたいんだと思うよ。
結局、今は、私は惰性だけで生きているのかもしんない。試合もダレてきてるよね。
それがわかってないわけじゃないけど、でもさ、プロレスって面白いものだと思ってる。いや、面白いってんじゃない、奥が深いと思うよ。一回、一回、試合をやるたびに、プロレスは変わっていくじゃん。ようやく、最近、それがわかってきたのよ。だから、ここまで来てしまったんだし、これからも、きっとこうやって続けていくんでしょう。
あのね、多分、誰かと、肉体的にぶつかって闘争するってのは、結局、私の本能なんだと思います。誰かと闘争してると、なぜかわかんないけど、生きてる気がすんのよ。それは、たしかに生きてる気分で、それは、もう、私の本能で……だから、プロレスって仕事を、途中でやめることなんかできないんじゃん。闘争するってことをやめたら、私は生きている実感がなくなっちゃうわけだから。
でも、実際、私はもう二五歳じゃん。もうそんなに若くないじゃん。だから、この本能だけで生きるってことが、いつまで続けられるのかはわからない。ええ、わからないよね。それに、これから私は、さらに年をとっていくわけで。
そうやって、年をとるにしたがって、この本能が衰えてくるのか、衰えないのかは、自分自身でもわかりません。第一、こんな人間がずっと生きていけるのか、生きていけずに妥協するのか、それとも、妥協せずに死ぬのか……それも、わからない。
でも、わからないからってやめようとは、思わないの」
一九九二年のバルセロナオリンピックには、女子柔道が正式種目として参加する。
彼女は、もう一度、そのオリンピックに、もう一度、柔道選手としてチャレンジしてみる気にはならないのだろうか。
彼女はゆっくり首を振って言う。
「私は、今は、プロレスラーで、プロレスで自分を表現しきらなくちゃいけないもん。ええ、柔道ではなくて、プロレスで。今、いるところは、ここで、このプロレスという場なのだから、私は、ここでなんとかしなくてはならないの。
うまく、行くかどうかわからない。でも、プロレスラーをなんとかしなくては、私は、きっとどこにも行けないよね。私は、そう思うようになってきたのよ。
私は、プロレスラーで生きてみたい」
神取しのぶは、少なくともあと数年、この仕事を続ける考えだ。
ところで、取材をすべて終えたはずの麗※[#「雨/文」]から、電話が入ったのは、一九九〇年の三月だ。
「わたし、もう一度、プロレスをやろうかと思いますんですけど」
電話口で、麗※[#「雨/文」]は、少しひるんだ声を出していた。一度、引退したことを気にしているらしい。彼女に再デビューを促しているのは、この年初から活動を始めているFMWという新興団体。この団体は他団体との差別化を、プロレスの試合のバリエーションの多さによって打ち出していた。そのバリエーションのひとつに、女子プロレスがあった。つまり、FMWは男女混合試合をも行なう、珍しい団体として出発したのである。麗※[#「雨/文」]は、その月の初めに、知人を通して試合に出ないかと打診を受けていた。いったん見切りをつけたはずの女子プロレスへの誘いは、思いがけず魅惑的だった。彼女が、何回も打診されるまでもなく、誘いを受けたとたんに、今、勤めている会社の仕事のかたわら、もう一度、女子プロレスラーになってみようという考えを固めたことは、彼女の口ぶりから明らかだった。
だが、肝心の体のほうは復調しているのだろうか。
「ええ、とても調子がいい」
彼女は、ひるんだ口調から一転して、うきうきした声で答えた。
四月一日の後楽園ホールが、天田麗文の再デビューの舞台だという。
試合を観にいくわ、と私は約束した。
「わたし、家、逃げ出したの、一五歳のとき。運動会の前の日です。こないだ、四〇年ぶりくらいに同窓会したら、運動会で、みんなと一緒に遊戯するはずだったのに、家を逃げだして女相撲さ入ってしまったから、遊戯の人数が足りなくなって往生したって、みんなが言うの」
平井女相撲の興行主、平井利久氏の奥さんである、トキ子さんが、彼の母と同様、元|太夫《たゆう》だったということがわかったのは、話し始めてしばらくたったときだった。無口に、おとなしく夫の脇に座っていた六〇歳代の彼女は、あるとき、たまらなくなったように、私もやってたですよ、と言い始めたのだ。
そして、女相撲のことを語るうちに、内気だった彼女は、身振りが大きくなった。話の合間には、茶盆を胸の前にかかえ、細い声でころころと笑った。
他の太夫たちの出自と同じように、彼女も比較的裕福な百姓家の娘だったという。あるとき、女相撲の興行が村にやってきて、一五歳の彼女を魅了した。彼女は、運動会の前日に家を抜け出して興行団に入った。そして、それから三〇年間、太夫として暮したのである。
「女相撲は華やかだもの。
赤と白の幔幕《まんまく》張って、その前を通ると、三味線《しやみせん》が鳴る、太鼓がなる。わたしは、鳴り物が大好きでしたもの。
わたしねえ、いてもたってもいられなくなったです。
三味線の音が、赤と白との幔幕の中からジャンジャン、ジャンジャンって聞こえて。太鼓が、ドンドンドンドンって鳴って。夕方になると、村の人さ、小屋にたくさん集まってくるの。小屋のまわりを何巻きもするの。
太夫さんは綺麗《きれい》で、強くて。鳴り物はすてきで。
わたしは、運動会の前の日に逃げ出して、それから三〇年、わたしは太夫さんでしたよ」
か細い、しかし、弾んだ声で、彼女は、四〇数年前の興行の夜のことを、昨日のことのように語った。
一九九〇年、四月一日。
後楽園ホールのリングに、天田麗文は、目を疑うほどの派手なコスチュームで登場した。
彼女は、赤と黒と白を基調にした水着の上に、同じ柄の、膝までのぴったりしたパンツをはいていた。コスチュームの模様は、星条旗をイメージさせた。彼女は、その上に、長くて白いフェイクファーのストールをかけていた。全日本女子プロレス時代の彼女は、非常に地味なコスチュームばかりを着ていたものだ。彼女は、その日の試合に出たどの選手よりも、華やかな雰囲気でリングに駆け上った。
彼女は、以前通り、投げや頭突きや蹴りなど基本的な技で地味に試合を進めていたが、その派手なコスチュームのせいで、彼女のプロレスのぎこちなさが薄らいだように私は感じた。また、彼女が相手のフォールを跳ね返すたびに必ず見せる不自然な体のねじりかたは、彼女の肩の脱臼癖が、いまだに治ってはいないことを物語っていたが、その表情は、本人が以前より、いくらかでも試合そのものを楽しんでいることをあらわしていた。
だが、彼女は次第に興奮してきた。相手の技術不足に業を煮やしたのか、試合が中盤にかかった頃、突然、真っ赤に上気して、相手の顔の側面にキックを二発浴びせる。
観客から、ブーイングが飛んだ。
彼女は、相手の髪を掴《つか》むと、ブーイングを飛ばした観客にみせびらかすようにして、勢いよく、相手の頭をマットに叩きつける。
ブーイングが、また聞こえた。
天田麗文は、腰に片方の手で相手の髪をつかんで観客席をにらんだ。
後楽園を満杯にした観客から、景気のいい拍手とブーイングが、半々に飛んだ。
全日本女子プロレスは、その年、タイ人と韓国人の新人選手を三名、入社させた。
天田麗文は、今でも、FMWのリングで女子プロレスを続けている。
[#改ページ]
あ と が き
女子プロレスを合理的に説明するのは難しい。
芸能のひとつとしてとらえるには、あまりに荒々しい。スポーツだと考えるには、色濃い演劇性がそれを阻む。形態面だけをとらえて、アマチュアレスリングのプロ版と思い込もうとしても、実は、女子のレスリングに関してはプロの発祥のほうが先だという事情が邪魔をする。
地方のひなびた巡業芝居の変形としての側面もある。だが、他方では、ニューメディアと結びつき斬新な格闘芸能の様相を呈してもいる。時代に乗り遅れたかのような、ノスタルジックな風情を見せているかと思うと、唐突なブームをひきおこして、オールドファンを驚かす。また、男性の観客をめあてにしたコミカルでセクシーなB級見世物かと考えていると、突如、それまでの観客とは無縁の少女たちが集まりはじめて、会場を、一種独特な祝祭空間めいたものに変質させてしまう。
一方、女子プロレスラーも、合理的な理解になじまない。
彼女たちは、なぜ、プロレスラーになるのか。
金銭的な理由がすべてではない。彼女たちの多くは経済的にはさほど問題のない中流家庭の子女なのだ。彼女たちが、十代の後半から二十代の前半までの五、六年間を女子プロレスラーですごし、そののち、また普通の生活にもどっていく経緯は容易に説明しかねる。
結局、まだ幼い彼女たちは、偶発的なブームにうかれて、かわった商売を選んでしまっただけのように見えることもある。
だが、それでもなお、私は、女子プロレスを一般社会と遊離した現象だとは思わない。
たとえば、中国未帰還者の子女だった|孫麗※[#「雨/文」]《スンリーウエン》にとって、パラワラミ・インディアンの母を持ちながら、白人そっくりの容姿を持つデブラ・ミシェリーにとって、また、柔道のタテ社会からの逸脱者である神取《かんどり》しのぶにとって、女子プロレスとは、強い日本円《ヽヽヽ》と、それがあがなう自由の象徴だった。
彼女たちのような異邦人≠ェ、女子プロレスという小さな因習の世界にとびこんだことは、それ自体が今日的な事件ではないのか。私はそう考える。彼女たちは、自分の責任ではなく、不合理な生を生きることを余儀なくされた。その内面の不合理が、女子プロレスのより大きな不合理と響きあい、結果、彼女たちを渦中へ引き寄せたと考えられなくもない。
いずれにしても、彼女たちは、それと闘争することを選んだのだ。
この本を書くにあたって、以下の方たちに、とくに大きな助力を得た。心から感謝申し上げる。
写真家の森田一朗さん、水野佳昭さん。麗※[#「雨/文」]の出生の事情について貴重な話をして下さった孫欣治《スンシンジ》さん。メデューサの取材を、何回にもわたってコーディネートして下さった斎藤文彦さん。女子プロレスの資料について示唆して下さった小泉優さん、堀英樹さん、府川充男さん。門外漢である私に、快く女相撲の歴史を話して下さった、吉本|力《つとむ》さん、不流満州男《ふりゆうますお》さん、平井利久・トキ子夫妻。
最後に、一冊目に続き、二冊目の書き下ろしを書く機会を与えて下さった、かのう書房の竹内行雄さんに感謝申し上げる。
一九九〇年八月
[#地付き]井田 真木子
単行本 一九九〇年一〇月 かのう書房刊
〈底 本〉文春文庫 平成五年十月九日刊
旧字体置き換え
※[#「身+區」]→躯
※[#「さんずい+賣」]→涜