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日本史の叛逆者
私説・本能寺の変
井沢元彦
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1
天正《てんしよう》十(一五八二)年六月二日|早暁《そうぎよう》。
明智光秀《あけちみつひで》率いる一万三千の軍勢は丹波亀山《たんばかめやま》(京都府亀岡市)を出て東へ向かい、老《おい》の坂《さか》を越えていた。
ここから沓掛《くつかけ》を経て京までは、あと二里、指呼《しこ》の間《かん》である。
(おかしい、なぜ京へ向かうのだ)
光秀の臣で母衣衆《ほろしゆう》(伝令将校)の一人|高柳左近《たかやなぎさこん》は不審を抱いた。
明智軍団の出陣は西国《さいごく》で毛利《もうり》軍と戦っている羽柴秀吉《はしばひでよし》への応援のためのはずだ。
ならば東ではなく西へ向かわねばならない。
それなのに全軍は明らかに京をめざしている。
左近だけが不審を抱いているのではない。
兵たちの表情にも動揺が見える。
ただ、行軍中の私語は禁じられている。
明智軍団にかぎらず、織田《おだ》家に属するすべての軍団はそうだ。
敵味方の強弱を論ずること、恐怖をまぎらわすために歌うこと、もちろん喧嘩《けんか》口論もいっさい禁じられている。
軍事行動中に喧嘩をすれば、事の理非を問わず目付《めつけ》に処断される。
場合によっては斬られることすらある。
だから、だれも口を開かないが不安は全員の胸の内にある。
その不安を解消させるためか、沓掛に着いたころに全軍に通達があった。
「中国出陣に際し、上様に軍備を見ていただく、そのために京に入る」
上様――信長《のぶなが》のことである。
殿でもない、御屋形《おやかた》様でもない。
上様である。
天下を統《す》べる人への敬称と言っていい。
信長はいま信長でしかない。
つい先日までは右大臣だった。
だがいまはその職も返上している。
将軍でもなく公卿《くぎよう》でもなく、ましてや天皇でもない。
あえて言うなら日本国王ともいうべき存在である。
その信長が京にいる。
左近は初めてそのことを知った。
信長は忙しい。
本拠は近江《おうみ》の安土《あづち》城だが、西に東に、今日は軍事、明日は外交と飛びまわっている。
織田家に属する者でも、その所在をつかむことは難しい。
その信長が京にいて、光秀は軍備を見せるという。
閲兵しようということか。
(だが、それはおかしい)
左近はなおも不審に思った。
たしかに信長は閲兵をするのは嫌いではない。
少し前に信長は京において、「馬揃《うまぞろ》え」という空前絶後の閲兵式を行っている。
しかし、それは天下制覇の戦いが小康状態に入ったときのことだ。
いまは違う。
毛利という西国の大敵と交戦中である。
毛利がなかなか手強《てごわ》いからこそ、明智軍団が応援に駆けつけるのである。
悠長《ゆうちよう》なことは言ってられないはずだ。
つねに敏速を愛する信長が、こんなときにわざわざ閲兵を希望するだろうか。
「きゅうそくー」
間延びした号令が、先頭から伝わってきた。
先頭が沓掛に着いたらしい。
細い道を大軍が進行すれば、どうしても先頭と後尾の距離が開く。
それゆえ号令は前のほうから、ゆっくりとした大声でつぎつぎに伝えられていくことになる。
左近は母衣衆であるから、先頭にかなり近い。
馬廻《うままわり》(近衛将校)の天野源《あまのげん》右衛門《えもん》が本陣に呼ばれた。
そしてすぐに二十騎ほどと足軽五十名を連れて、先発した。
「あれは何だ?」
左近は小声で同僚の小野田数馬《おのだかずま》に言った。
休息中は私語は許されている。
「何って、天野殿だろう」
数馬は軽くあくびをして答えた。
亀山城を出たのが昨日の夜遅く、それから夜通し行軍して、ここまで来たのである。
しかし、夜明けまでには、まだ少し間がある。
「天野殿はわかっている。なぜ天野殿が先発するのだ?」
「物見ではないのか。それとも京の信長様への使いかな」
数馬はたいして気にもとめていないようだ。
「使いなら、我ら母衣衆の役目ではないか」
「では、物見だろう」
物見とは軍事偵察を意味する。
数馬は面倒くさそうに答えた。
「物見なら、なおさら、我らの役目ではないか」
左近の心の内に、初めて疑惑が浮かび上がった。
(ひょっとして殿は、京の信長公を襲うつもりでは)
まさか、と思った。
しかし、考えられないことではない。
いま信長の軍団はすべて遠征に出ている。
関東に滝川一益《たきがわかずます》、北陸に柴田勝家《しばたかついえ》、中国に羽柴秀吉《はしばひでよし》、そして大坂に丹羽長秀《にわながひで》。長秀は信長三男の神戸信孝《かんべのぶたか》を総大将に四国征伐に出陣することになっている。
その丹羽軍団がいちばん近いが、それでも少し離れている。
おそらく信長とともにあるのは、一千に満たない人数である。
そこをこのまま一万三千の明智軍団が襲撃したら、いったいどういうことになるか。
(まさか――、もし殿がその気になられても、御家老衆がおとどめになるだろう)
たしかに信長を討つことは、さして難しくはない。
しかし、その後どうするのか?
いったん京を制圧しても、信長の仇《あだ》を討とうと全国から軍団が戻ってくる。
それに対抗することはきわめて難しい。
ほとんど絶望と言ってもいいのではないか。
だから、きっと家老の斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》らが、光秀の無謀な企みをとどめてくれるにちがいない。
そこまで考えて、左近ははっとした。
斎藤内蔵助――この光秀の一番家老を務める男の妹が、信長の養女となって四国の長宗我部《ちようそかべ》家の若殿|信親《のぶちか》に嫁《とつ》いでいる。
しかし、いま大坂に集結している丹羽軍団は、その長宗我部を滅亡させるための軍団なのである。
内蔵助は妹かわいさに、光秀が信長を討つことに賛成するのではあるまいか。
主君と一番家老の意見が一致すれば、何事も行われるとみなければならない。
左近は決心した。
これは出世の大きな機会かもしれない。
「おい、おれは、抜けるぞ」
左近は数馬に小声で言った。
「抜ける?」
数馬は呆気《あつけ》にとられ、急いであたりを見回した。
「――どういうことだ」
「話している暇はない。とにかくここを抜ける」
「逃げるのか、それは――」
数馬は大声を出しそうになり、慌てて口をつぐんだ。
敵前逃亡は死に値する大罪である。
どこに目付の目が光っているかわからない。
「おれを信じろ。おれはな、京の信長様のところへ行くのだ」
「信長様?」
「いずれわかる。もし、困ったら、おれを訪ねて来い、いいな」
左近は立ち上がって、馬に馬銜《はみ》を噛《か》ませた。いななきをあげさせないための用心である。
あたりは鼻をつままれてもわからない闇《やみ》の中だが、左近はこっそりと道をはずれて山の中に入った。
数馬は密告したりするような男ではない。
それでも左近は背後に気を配り、山の中を進んだ。
かろうじて見える星だけが頼りだ。
山を迂回《うかい》して先頭集団の前に出て、そのまま京まで一気に駆け抜けるつもりだった。問題は天野勢である。
天野勢はどんな待ち伏せをしているか。
そう、待ち伏せである。
天野源右衛門の使命は、先行して京の入り口を見張り、信長への注進を防ぐためにちがいない。
見晴らしのいいところに手勢を伏せて、街道を見張っているにちがいなかった。
馬を降りれば、目立たない。
しかし、それでは京へ着くのが遅れてしまう。
まもなく出発するであろう明智軍団に追い抜かれては何にもならない。
おそらく信長は、京で定宿にしている本能寺《ほんのうじ》にいるはずだ。
その本能寺を襲うのは明朝日の出のころということは見当がついた。
これはこの時代の軍事常識である。
「夜討ち」という言葉があるが、これは実際にはほとんどが「夜明け討ち」、つまり日の出を期しての急襲を意味している。
なぜか。それはサーチライトも照明弾もないからだ。
鼻をつままれてもわからないような闇夜に攻撃をかけても、下手をすれば同士討ちの危険もある。
それに闇にまぎれて肝心の敵の大将を取り逃がすことさえある。
だから太陽が上がったところで攻撃をかけるのだ。
敵の館《やかた》を単に焼き討ちするのなら、文字どおりの「夜討ち」でもかまわない。
味方が敵の館を包囲し、蟻《あり》の這《は》い出るすきまもなく固めてから、火矢を射ち込めばいい。
光秀軍は一万三千、これに対して信長軍は一千に満たないはずだから、夜明けを待たなくても、「夜討ち」でいいという考え方もある。
だが、それなら行軍の速度はもっと速いはずだ。
これはやはり夜明けを想定しての行軍である。
(光秀の殿は、信長公の逃げ足の速さを恐れている)
山道をたどりながら、左近はそう思った。
信長の逃げ足の速さには定評がある。
有名なのは元亀《げんき》元(一五七〇)年四月、越前《えちぜん》の朝倉《あさくら》氏攻めの折、突然義弟|浅井長政《あさいながまさ》の裏切りにあったときの逃げっぷりだ。
信長は形勢不利と知るや、わずか十騎程度の供廻《ともまわり》とともに越前を出て、近江の朽木谷《くちぎだに》を通って京へ逃げ帰った。
闇夜の中で本能寺を攻めたら、脱出される危険もあるのではないか。
光秀はそう危惧《きぐ》したにちがいない。
また、真夜中に京へ到着することになれば、兵のだれもが光秀の説明を疑うことにもなる。
閲兵のために京に入るのなら、夜が明けてからでなくてはおかしい。
真夜中では閲兵などできないからだ。
山道をたどって、左近はようやく先回りした形で街道に出た。
問題はこの先だ。天野源右衛門の手勢が待ち受けている。
そこをどうやって突破すればいいのか。
おそらく死の危険があるにちがいない。
(ええい、どうにでもなれ)
左近はいちかばちか強行突破をすることにした。
鉄砲で狙《ねら》われたとしても、弾が当たるとはかぎらない。
まして、幸いなことに、ずっと闇夜が続いている。
左近は愛馬にまたがると、息を大きく吸い込んで、馬銜《はみ》をはずして一鞭《ひとむち》くれた。
馬は、それまでがまんしていたのか、大きないななきとともに、突っ走った。
左近は身をできるだけ伏せていた。
姿勢を高くすれば、弓鉄砲の的になる。
どれぐらい走ったろうか、左近はふと全身に悪寒《おかん》を覚えた。歴戦の強者《つわもの》にはよくあることだ。
生命の危険が迫ったときに、いやな予感がする。その予感に従って行動すると命が助かる。
なまじ理屈をこねてはいけないのだ。そういうことをすると、かならず悪い結果を招く。
戦場では判断より直感がいい。
そして、そういう直感に恵まれた者だけが、歴戦の強者として生き残るのである。
左近は思いきって馬を捨てた。
それも止めて降りたのではない。
鞍《くら》からぶら下がるようにして体をそらし、そのまま手を放したのである。
衝撃があった。左近はしたたかに大地に体を打ちつけ、馬は速度をゆるめずに直進した。
その直後、数発の銃声が轟《とどろ》いた。
馬は悲鳴をあげて、竿立《さおだ》ちとなった。そして、そのままどうと倒れた。
「逃がすな、首を討て」
聞き覚えのある源右衛門の声がした。
左近は痛む体をさするゆとりもなく、転がるようにして道わきの木立の中に身を潜めた。
その左近と馬の距離が離れていたため、馬のほうへ殺到した足軽は、木立の中までには注意がまわらなかった。
(しめた)
左近はそのまま街道わきの木立の中を進み、先へと進んだ。
馬の倒れた付近に、天野勢の注意は集中している。
(どこかに馬があるはずだ)
源右衛門もここまで歩いてきたのではない。
かならずどこかに馬がつないであるはずだ。
闇の中で、かすかに馬のいななきが聞こえた。
左近は手探りでそこへ行くと、馬の熱い息が手に触れた。
「しめた」
左近はあたりをうかがうと、木につないであった馬の手綱《たづな》を切り落とした。
そして、すばやく馬にまたがった。
道に出るまではゆっくりと、そして道に出てからは、思いきり強く馬の尻《しり》を叩《たた》いた。
悲鳴とともに馬は走りだした。
「あちらだ」
「逃がすな」
「追え」
慌てた叫びがあちこちであがったが、もうどうすることもできなかった。
左近は闇の中、一路京へ向かって突進した。
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2
京、七条|西洞院本能寺《にしのとういんほんのうじ》。
信長《のぶなが》が寝間で目を覚ましたのは、廊下を走る小姓《こしよう》の足音のためだった。
まだ夜は明けていない。
「何事じゃ」
布団から半身を起こして、信長は襖《ふすま》の向こう側に声をかけた。
そこには不寝番の小姓がいる。
信長の身辺を警護するためだ。
「一大事にござりまする」
その声は不寝番のものではなかった。
「お蘭《らん》か、入るがよい」
「はっ、御免」
襖を開けて入ってきたのは、森蘭丸《もりらんまる》である。
織田《おだ》家家中でも随一の美貌《びぼう》で知られ、信長が小姓の中でもっとも愛している若武者だ。
先年、元服して、長定《ながさだ》と名乗ったが、相変わらず信長の側近として仕えているため、信長は小姓時代と同じく「お蘭」と呼んでいる。
しかし、その美しい顔立ちからは想像もできないほど武勇にも長《た》けている。
「先ほど、明智《あけち》日向守《ひゆうがのかみ》殿配下の高柳左近《たかやなぎさこん》と申す者が、ただ一騎にて注進したき儀ありと駆け込んで参りました」
「日向の家臣がいまごろ何事か」
信長は不快そうに言った。
蘭丸は顔を上げて、
「明智日向殿、謀反《むほん》の企《たくら》みありと申しております」
「日向が謀反じゃと」
信長は信じられなかった。
しかし、とにかくそういうことを注進してきた家来がいるのだ。
「庭へまわせ、余《よ》が直々《じきじき》に下問する」
信長は白い寝巻に袷《あわせ》を一枚羽織ると、寝床を飛び出した。
大股《おおまた》で廊下を進んでいく信長に、太刀《たち》を持った小姓らが、慌てて従った。
信長の身辺にはつねに五、六人の小姓がつき従っている。
左近が庭で平伏していた。
信長は廊下の上から声をかけた。
「そちか、日向の家臣高柳と申すのは?」
「はっ、母衣《ほろ》武者を務めまする高柳左近と申す者でござる」
「我が旗本に知り人はおるか」
「はあ」
左近は最初どうして信長がそんなことを聞くのかわからなかった。
不審に思って顔を上げた。
信長は、細面の、よく引き締まった顔で、左近をじっと見つめていた。
「だれじゃ」
「御近習《ごきんじゆ》の野々村三十郎《ののむらさんじゆうろう》殿とは昵懇《じつこん》の間柄でござる」
嘘《うそ》ではなかった。
三十郎とは二、三度酒を酌み交わしたこともある。
信長はすぐに周囲の者に命じた。
「三十郎を呼んで参れ」
そこでようやく左近にも、信長が何をしようとしているかわかった。
身元の確認である。
三十郎が息せききってやってきた。
「この者、見覚えがあるか?」
顔を見るなり信長は声をかけた。
「明智日向守様配下、高柳左近殿にござります」
三十郎は即答した。
「しかと相違ないか」
信長は念を押した。
「はい」
「うむ。では、左近と申したな、明智日向が謀反のこと、まちがいないか」
信長はあらためて左近に問うた。
「その前におうかがいしたき儀がござる」
左近は腹に力を入れてたずねた。
「何か?」
「上様は今宵《こよい》、明智の殿に、京へ参れ、武備を見せよ、と御下知《ごげち》なされましたでしょうか」
「そのような下知は下しておらぬ」
信長もすぐに答えた。
左近は大きくうなずいて、
「なれば日向守殿の逆心、まぎれもござらぬ」
と、これまでの経過を説明した。
一同に驚きの色が浮かんだ。
しかし、信長だけは冷静だった。
「蘭丸、三十郎、みなを叩《たた》き起こせ。すぐにここを出る」
「上様、どちらへ参られます?」
蘭丸はたずねた。
信長の本拠は近江安土《おうみあづち》城である。
だが、そこへ向かうのは危険だった。
安土へ行く途中に坂本《さかもと》城がある。
坂本城は光秀《みつひで》の持ち城である。
「大坂へ行く。妙覚寺《みようかくじ》の信忠《のぶただ》にも知らせよ。荷物などいらぬ、ただ駆けよ、とな」
「かしこまりました」
信長は寝所へ戻りかけて、左近の存在に気づくと、
「そのほう、大儀であった。いずれ褒美をとらす、余《よ》について参れ」
「ありがたき御言葉」
一礼をした左近が顔を上げると、もう信長は視界から消えていた。
それからの信長は、まさに神業とも言うべき速さで衣服を着替え、馬上の人となった。
鎧《よろい》は身に着けず、派手な模様の小袖《こそで》に南蛮風《なんばんふう》のマントを羽織っている。
「大坂じゃ、行くぞ」
信長は真っ先に鞭《むち》を当てて本能寺の門を出た。
光秀率いる一万三千が入京したとき、本能寺も信忠のいた妙覚寺も、すでにもぬけの殻《から》だった。
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3
「馬鹿者、よく、わしの前に面《つら》をさらすことができるな」
光秀《みつひで》は怒鳴りつけた。
もともと温厚で人当たりのいいという評判の武将である。
その光秀が怒鳴りつけるなどきわめて珍しいことだった。
叱責《しつせき》されているのは天野源《あまのげん》右衛門《えもん》だ。
言うまでもない、左近《さこん》を取り逃がした責任を問われたのである。
たしかに致命的とも言える失敗だった。
左近さえ逃がさなければ、光秀の反乱は成功したにちがいない。
信長《のぶなが》は完全に油断していたし、軍勢は信長の十倍以上ある。
いまごろは、光秀は信長の首級《くび》を肴《さかな》に一杯やっていたかもしれないのだ。
それがなんという計算ちがいだろう。
京へ入ってみると信長はとうの昔に脱出しており、息子の信忠《のぶただ》すらいない。
それどころか京には、織田《おだ》勢の影すら見えないのである。
太陽が昇り明るくなってきた京洛《きようらく》の地に、一万三千の軍勢が敵も見つからずに取り残されることになったのである。
(くそ、どうすればいいのだ)
まず、真っ先に信長親子を討ち取る、それが計画の眼目だったはずだ。
信長の首をあげてこそ、筒井順慶《つついじゆんけい》や細川藤孝《ほそかわふじたか》といった明智《あけち》派の武将も追随してくるはずなのに、これではどうにもならない。
「内蔵助《くらのすけ》、なんとする?」
光秀は家老の斎藤《さいとう》内蔵助に意見を求めた。
内蔵助は今度の反乱に最初から賛意を示した一人である。
「まず、信長公がどこへ逃げたか――」
「ええい、公などと呼ぶな、あの男は敵だぞ」
いらいらして光秀は叫んだ。
内蔵助は一礼して、
「されば、信長めが、どこへ逃げたか、まずそれを探るのが肝要だと思われまする」
光秀はうなずいた。
「絵図を出せ」
光秀はそう命じると床几《しようぎ》の上に、どっかと腰をおろした。
運ばれてきた絵図を見て、信長の脱出先を詳細に検討した。
考えられる道筋は三つあった。
一つは、街道を東へ向かい、近江安土《おうみあづち》城に入ること。
二つは、南下して大坂《おおさか》に入り、長宗我部《ちようそかべ》征伐に向かおうとしている丹羽長秀《にわながひで》の軍団と合流すること。
三つは、中国路を西へ向かい、羽柴秀吉《はしばひでよし》の本城|姫路《ひめじ》城に入り、備中高松《びつちゆうたかまつ》で毛利の大軍と対峙《たいじ》している秀吉の軍団を呼び戻すこと。
「大坂だな」
光秀と重臣の意見は一致した。
安土はたしかに信長の本拠だが、現在軍団はすべて出払っていて、近江|日野《ひの》城主|蒲生賢秀《がもうかたひで》を将とする留守居《るすい》の兵しかいない。
それに安土へ行くには途中が不安だ。
だとすれば大坂へ行き、丹羽長秀、三男の織田|信孝《のぶたか》の軍団と合流するのが早道である。
とにかく、一刻も早く信長を追撃すべきであった。
並みの戦いなら、いったん引き揚げて近江|坂本《さかもと》城へ戻って態勢を固める手もある。
しかしこれは反乱である。
反乱である以上、信長の首が是が非でも必要であった。
もしそれを得ることができなければ、明智軍団は信長の総攻撃を受け壊滅するしかないのである。
光秀はとりあえず命を下した。
大坂に向かって南下し、まずは京南郊の勝龍寺《しようりゆうじ》城をめざして、明智軍団は出立した。
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4
織田信長《おだのぶなが》は大坂《おおさか》城に入った。
ここは、ついこのあいだまで石山《いしやま》といい、本願寺《ほんがんじ》があった。寺とはいっても、それは日本最大級の城であった。
この城を拠点として戦う一向一揆《いつこういつき》に対し、信長は十年戦い、ついに落城させることができなかった。
それは、城が堅固なせいばかりではなかった。西国《さいごく》の毛利《もうり》家が強大な水軍を使って、本願寺に補給を続けていたからだ。
この補給路を断たないかぎり、本願寺には勝てない。
それを知った信長は、配下の水軍に、毛利を叩《たた》くことを命じた。
ところが、水軍は毛利のほうが一枚も二枚も上手だった。
毛利水軍は瀬戸内の村上《むらかみ》水軍を主体として、海戦には慣れている。
織田の水軍は、一矢《いつし》も報いられず惨敗した。
怒った信長は、敗因を調べさせた。
もし、それが水軍の将の怠慢によるものだったら、信長はその将を追放し殺していたかもしれない。
しかし、そうではないということがわかった。
毛利水軍の勝因は、焙烙玉《ほうろくだま》という新兵器にあった。
これは銅製の玉に火薬を詰め、点火して敵の船に投げ入れる、という一種の手投げ弾である。
この効果は抜群であった。
爆発による被害よりも、むしろ火炎による被害が大きかった。
当時は全部木造船である。
焙烙玉をぶつけられた織田家の軍船は、つぎつぎに炎上し沈没した。
「焙烙玉を防ぐ手だてを考えねば、毛利には勝てませぬ」
訴える伊勢九鬼《いせくき》水軍の将、嘉隆《よしたか》に、信長はこともなげに言った。
「ならば、燃えぬ船を造るがよい」
信長は、水軍に素人《しろうと》のはずだった。
これに対して嘉隆は先祖代々、水軍の頭《かしら》を務めてきた、玄人《くろうと》中の玄人である。
水軍の玄人が、その発想には気がつかなかった。
「燃えぬ船と申しましても――」
「鉄で造ればよいではないか」
「鉄では沈みます」
「ならば、木に鉄を貼《は》れ。それならよかろう」
嘉隆は恐れ入って御前を下がった。
そうして造られたのが、長さ十三|間《けん》(約二十四メートル)、幅七間(約十三メートル)、船首寄りに二層の天守台までついた戦艦である。
それは、まさに戦艦と呼ぶにふさわしいものであった。
水面上に出た部分は、すべて薄く延ばした鉄板で覆い、船首には大砲三門を備え、左右船腹には銃眼《じゆうがん》が蜂《はち》の巣《す》のようにうがたれ、前後左右どこでも一斉射撃できるようになっている。
これを片側百|梃《ちよう》ずつの櫓《ろ》を数十人が漕《こ》いで移動するのである。
この鉄甲船《てつこうせん》六|隻《せき》と、毛利水軍の六百余隻の軍船とが、いまから四年前の天正《てんしよう》六(一五七八)年、大坂湾|木津川《きづがわ》沖で対戦した。
結果は、織田軍の圧勝であった。巨象に野良犬の群れが群がるようなものだった。
毛利自慢の焙烙玉も、装甲の鉄板にさえぎられて何の役にも立たない。
これに対して、鉄甲船からは一弾で毛利軍船を吹き飛ばすほどの威力の大砲が、つぎつぎと射ち込まれた。
毛利水軍は、壊滅に等しい打撃を受けた。
信長に対抗して同じような鉄甲船を造ることはできない。
技術の問題ではなくて、それほどの巨大船を造ったうえに、すべてを鉄張りするほどの経済力が毛利にはないのである。
これは毛利にかぎらず、日本全国のどこの大名でも同じだった。
信長の経済力は日本一、どこの大名も足元にもおよばなかったのである。
この敗戦以後、毛利は本願寺への支援をあきらめた。
それから二年間、本願寺はしぶとく持ちこたえたが、ついに天正八(一五八〇)年、時の帝《みかど》の仲裁を受け入れ城を明け渡して退去した。
ところが、その直後、何者かの放火によって、日本一の城塞《じようさい》と讃《たた》えられた石山本願寺は跡形もなく焼亡してしまう。
おそらく、退去させられた本願寺側の人間が、腹いせにやったことだろう。
しかし、信長はなんとも思わなかった。
もともと寺などは大嫌いで、寺の形をした城など取り壊すつもりでいたからだ。
信長は、まずそれまで石山と呼ばれていた地を正式に大坂と改め、焼け跡に城を造らせた。
それも意外なほどに簡単な安普請《やすぶしん》の城であった。
「これでよいのでござりますか?」
四国征伐のため大坂在住を命ぜられた丹羽長秀《にわながひで》は、不審げにたずねた。
「よいのだ。しばらくはな。いま少し待て、毛利と四国の長宗我部《ちようそかべ》が片づいたら、そのほうに申しつけることがある」
長秀は、信長の胸中を察した。
長秀はかつて安土《あづち》城築城の総奉行《そうぶぎよう》を命ぜられたことがある。
織田軍団の中で、丹羽長秀の軍団は、どちらかというと遊軍扱いであった。
関東を滝川一益《たきがわかずます》、北陸を柴田勝家《しばたかついえ》、山陽を羽柴秀吉《はしばひでよし》、山陰を明智光秀《あけちみつひで》、このように分担して各軍団がそれぞれの地域の征服をめざす。
これが、信長の天下統一構想である。
そして、丹羽軍団は四国を制覇した後は、とりあえず手が空《あ》くことになる。
そこで軍団長の地位は三男の信孝《のぶたか》にして、自分をふたたび新たに築く巨城の普請奉行に任ずるつもりだな、と長秀は察したのである。
信長が、この石山の地を昔から欲しがっていたのはだれもが知っている。
そして、おそらく天下統一のための最後の城を、ここへ築くだろうということも。
安土も立派な城だが、いかんせん重大な欠陥がある。
それは安土に海がない、ということである。
重商主義、貿易重視の信長が、そんな内陸の地に最後の城を持つはずがない。
信長は、その仮普請の大坂城の天守台に登って、京《きよう》の方角を見ていた。
空は晴れている。
広やかな平野が、山々が連なる山崎《やまざき》あたりまでつながっている。
(いまごろ光秀め、地団駄《じだんだ》を踏んで悔《くや》しがっているだろう)
信長はにやりとした。
しかし、笑ってばかりもいられない。
とにかく光秀を倒さねばならないのである。
戦略として考えられることは二つあった。
一つは、この大坂城に籠城《ろうじよう》して時間を稼ぎ、全国に散らばっている織田軍団を呼び戻し、光秀を撃破することである。
もう一つは、この大坂にいる軍勢だけで、ただちに敵を急襲することだ。
織田軍団を全員呼び戻す必要はない。
その一部を召還したとしても、たちまち数万の軍勢が集まる。
これに対して、光秀に味方する者はまずいないだろう。
味方すると考えられるのは、大和《やまと》の筒井順慶《つついじゆんけい》と丹後《たんご》の細川藤孝《ほそかわふじたか》である。
筒井順慶は、松永久秀《まつながひさひで》に大和一国を奪われた後、浪人としてさんざん辛苦を重ね、その松永が信長に反旗を翻《ひるがえ》した際に、これを攻め、ようやく国を奪い返した男である。
その際、光秀が何くれとなく面倒を見ている。兵も貸してやっている。
順慶は、自分が国を奪い返すことができたのは光秀のおかげだと思っているし、感謝の念をつねに表している。
だから、順慶だけは光秀に味方する可能性がある。
細川藤孝は光秀と昔から親しい友であるし、その息子|忠興《ただおき》には光秀の娘|玉《たま》が嫁いでいる。つまり、忠興は光秀の女婿《むすめむこ》ということになる。
しかし、
(藤孝は光秀には味方しまい)
信長は、そう思った。
藤孝は先の見える男である。
光秀が信長を討ち取ったのならともかく、取り逃がしたとあっては、まず味方することはないはずだ。
信長は祐筆《ゆうひつ》(書記)を呼び、順慶と藤孝に手紙を書いた。
「おまえたちを信じている、決して光秀に味方するな」
という内容である。
これで、順慶は迷うかもしれないが、藤孝はまず味方しまい。忠興が味方しようとしても、藤孝は止めるはずだ。
動員できる兵は順慶が三千、藤孝も三千というところだろう。
合計六千の兵が光秀につくかつかぬか、これは大きい。
だが、光秀の暗殺計画は失敗したのだ。
それでもまだ味方しようとは、まず考えないはずである。
「上様、徳川《とくがわ》殿が参られました」
森蘭丸《もりらんまる》が知らせに来た。
「おう、参ったか」
信長は喜色《きしよく》を浮かべて天守台を降り、途中の廊下までみずから家康《いえやす》を迎えに出た。
きわめて異例のことである。
家康は驚いて頭を下げた。
「三河《みかわ》殿、御無事であったか、何よりもめでたいことじゃ」
「上様こそ、よくぞ御無事で――」
家康は感動に声を詰まらせた。
今年の春、織田家の宿敵であった武田《たけだ》家が滅びた。
長年、武田家と対峙《たいじ》し、心の休まるときがなかった家康の労をねぎらうため、信長は家康を京・堺《さかい》見物に招待した。
これを受けて、少人数の供を連れてやってきた家康は、武田の一門で早くから信長に通じていた穴山梅雪《あなやまばいせつ》とともに、安土で丁重な饗応《きようおう》を受け、京を見物した後、堺に入っていた。
光秀がこの機に兵を挙げた背景には、信長ばかりでなく、家康までも討ち取ることができるとの思いがあったにちがいない。
そこで、信長は京を脱出すると同時に、すばやく堺の家康のもとにも使者を送ったのである。
家康は光秀の魔手《ましゆ》を逃れて、まんまとこの大坂まで逃げてきた。
「三河殿、疲れているところをすまぬが、軍議を開く。酒井《さかい》、本多《ほんだ》らを伴って出てはくれぬか」
「申すまでもないことでござる」
家康の供は少人数だが、つき従っている者たちはいずれも一騎当千の強者《つわもの》だった。
重臣酒井|忠次《ただつぐ》、「徳川に過ぎたるものが二つあり。唐《から》の頭《かしら》(輸入品の兜《かぶと》の飾り)と本多|平八《へいはち》」とまで言われた本多平八郎|忠勝《ただかつ》、剛勇無双の榊原康政《さかきばらやすまさ》などなど、それぞれ一千の兵を指揮することのできる将器でもある。
軍議には、信長以下、長男|信忠《のぶただ》、三男信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆《はちやよりたか》、池田恒興《いけだつねおき》、九鬼嘉隆に加えて、徳川家康、酒井忠次、本多忠勝ら徳川家の重臣も参加した。
この軍議で、微妙な立場の者が一人いた。
津田信澄《つだのぶずみ》である。
じつは津田と名乗っているが、この男の本姓は織田、かつて信長に反抗して殺された信長の弟|信行《のぶゆき》の遺子である。
幼い子にはなんの罪もないと、信澄は織田軍団への参加を許されていた。
本人も父のことを憚《はばか》って織田の姓は使わず、津田と名乗っている。
ただ、まずいことに信澄は光秀の娘を妻にめとっているのである。
信孝などは、この従兄《いとこ》に疑いの目を向けていた。光秀と示し合わせているのではないか、そう思っている。
「父上、この軍議、出てはならぬ者がいるように思いまする」
信長の言葉も待たずに、三男の信孝が言った。
名指しをしなくても、それがだれのことを指しているのか、一同にはわかっていた。
だが、信長はあえてたずねた。
「信孝、出てはならぬ者とは、だれのことか」
「知れたこと、この者にござります」
信孝は、満座の中で信澄を指さした。
「何を申される」
信澄は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「待て、騒ぐでない」
信長は一喝した。そして、信澄が口をつぐんで、不服そうに座ったところを見計らって、
「信澄、いま信孝が申したこと、いかが思うか」
「濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》でござる。拙者《せつしや》、このたびの舅《しゆうと》殿の謀反《むほん》など、まったくあずかり知らぬことでござる」
信澄は、憤然として叫んだ。
「しかと、左様か?」
信長は念を押した。
「神にかけて、お誓い申す」
信澄は、きっぱりと言った。
「ならば、よい」
信長はそれ以上は追及しようとはせず、全員に地図を示して、
「いま、我らのもとには二万五千の軍勢がおる。対する敵は一万三千、これに筒井、細川が加わったとして、おのおの三千、計六千、総計一万九千となる。これなら、ほぼ互角じゃ、――みなに聞きたいのは、光秀めとの決戦をいつ、どういう形で行うか、各地より人を呼び戻すか否か――」
「ただちに戦うべきでござる」
信澄と言い争って興奮がさめない信孝が、吠《ほ》えるように言った。
全員が信孝を注視した。
「裏切り者を征伐するのに、多くの軍勢はいりませぬ。また謀反の企みが失敗した以上、光秀に味方する者はおりませぬ。二万五千でじゅうぶん、助けはいらぬと存じます」
信長はうなずいて、一同を見渡して言った。
「ほかに意見はないか」
「おそれながら申し上げます」
池田恒興が意見を出した。
恒興の母は信長の乳母《うば》、つまり二人は乳兄弟《ちきようだい》にあたる。恒興はこの近くの伊丹《いたみ》の城を預けられている。
「申してみよ」
信長はうながした。
「若君の御意見、もっともではござるが、敵明智は無類の戦《いくさ》上手、ほぼ互角の人数で決戦を挑み、万一敗れるようなことにでもなれば、各地でいっせいに反織田の火の手が上がりましょう。ここは、毛利と対峙している羽柴殿の軍勢を呼び戻し、敵に倍する人数をそろえた上で、戦をすべきと存じます」
「なるほど、一理あるのう」
信長は結論を急ぎたかった。そこで、家康に意見を求めた。
「三河殿は、いかが思われる」
家康は一礼して、
「敵に倍する人数をそろえよ、との池田殿の御意見まことにもっともなれど、問題は時でござる。まもなく明智殿、いや明智|謀反《むほん》の知らせは各地に届きましょう。さすれば関東の滝川殿には北条《ほうじよう》が、西国《さいごく》の羽柴殿には毛利が、勢いを得て襲いかかるに相違ござらぬ。ここは、やや博奕《ばくち》ではござるが、これまで得たものを失わぬためには、ただちに明智討つべしと存ずる」
そう言って、家康はさらにつけ加えた。
「それにしても、我らは本国を遠く離れ、戻ることもかなわず、なんの御助勢もできぬことを恥じ入るばかりでござる」
「いや、三河殿、貴殿が悪いのではない、悪いのは光秀じゃ」
そう言って、信長は長男信忠を見た。
信忠は信長の後継者として、最近いちじるしい成長を遂げつつある。
信長も、あえて教育のために、信忠に最後に意見を求める。
「信忠、どうじゃ」
「徳川殿の御意見しかるべき、と存じます」
信忠は、ただちに答えた。信長は満足そうにうなずいて、
「余《よ》も、そう思う。では、全軍ただちに出陣の用意をいたせ、出陣は今夜半、明日早朝には山崎に至る、左様心得よ」
と、命令を下した。
諸将は、あわただしく立ち去った。出陣の支度を整えるためである。
「三河殿、しばらく待たれよ。九鬼、そのほうも残れ」
「はっ、かしこまりました」
水軍の大将九鬼嘉隆が、家康一行とともに残った。
「三河殿、一刻も早く帰国なさりたいであろうな」
信長は言った。
「はっ、左様でござるが――」
家康は首をひねった。
本拠地三河および遠江《とおとうみ》に戻るには、どうしても京の近くを通らねばならない。
しかし、その付近は明智の勢力下にある。こんな少人数で行けば、みすみす餌食《えじき》になるばかりだ。
かといって、強行突破も難しい。
「この九鬼に船で送らせよう」
「船で?」
家康は意外な顔をした。船とは思いもつかないことであった。
もともとは家康は山育ちで、海のことに疎《うと》いのである。
信長は地図を指さして、
「堺より紀伊《きい》を回って、伊勢から三河に出ればよい。このあたりは、我が水軍が支配しておる。なんの心配もいらぬ。どうじゃ、嘉隆、この行程なら二日もあれば着くであろう」
「おおせのごとく、外海にさえ出てしまえば、潮の流れに乗りますゆえ、もう少し早く着けるかもしれませぬ」
「そういうことじゃ、三河殿、いかがかな」
「はあ」
家康は浮かない顔をした。
正直言うと、船が怖い。
船という得体の知れないものに対し、未知の恐怖感があるのである。
それは山国育ちの酒井や本多ら重臣も同じだった。
ただし、「怖い」などということは口が裂けても言わない。武士の沽券《こけん》にかかわるからだ。
「御厚志かたじけなく存じます」
家康は、そう言わざるを得なかった。
「国に戻られてからのことだが、ただちに軍勢を率いて、近江《おうみ》まで来てはくれぬか」
「近江まで?」
「左様、おそらく、そのころには、余《よ》と光秀の勝負はついている。戦いに敗れた光秀は、たぶん近江|坂本《さかもと》をめざすであろう」
信長は、まるで勝利が確定しているかのような口ぶりで、
「そこを、貴殿の手勢《てぜい》で待ち伏せてもらいたいのじゃ」
「なるほど、明智に坂本城に入られては、ちと面倒になりますのう」
「そのとおりじゃ。そこで一つ、念を入れて頼みたいことがある」
「なんでござろう」
「光秀めじゃが、できれば生け捕りにしてもらいたい」
「生け捕り?」
家康は驚いた。
光秀は反逆者であり、裏切り者である。ならば、そんな面倒なことはしなくても、ただちに討ってしまえばいいではないか。
生け捕りにするなど、手間がたいへんである。
光秀は戦《いくさ》に敗れれば、当然自害しようとするだろう。また自害するならば、黙ってさせてやるのが、武士の情けというものである。
「光秀めを、ぜひ引っ捕らえたいのじゃ」
信長は、きらりと目を光らせた。
家康は何か深い考えがあるのを察した。そうであるなら、逆らうことはない。
「かしこまりました。でき得るかぎりは」
家康は、そう言った。
確実に請け負うことのできる性質のものではない。
「頼んだぞ、三河殿」
信長は念を押した。
家康一行は嘉隆に伴われて出発した。
信長は、今度は蘭丸を呼んだ。
「お蘭、祐筆を呼べ。いや城内の女子も含め、字を書ける者はことごとく集めよ。紙、筆、硯《すずり》も用意いたせ」
「上様、何をなさるので」
蘭丸は目を丸くした。
「光秀めを滅ぼす、もっとも効き目のある弾を作るのよ」
そう言って信長は悪童のような笑いを浮かべた。
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5
大和郡山《やまとこおりやま》城城主|筒井順慶《つついじゆんけい》は、二つの書状を受け取っていた。
一つは光秀《みつひで》からの味方するように懇請《こんせい》した書状であり、もう一つは信長《のぶなが》の書状であった。
順慶は迷わなかった。
光秀が信長を討ったというなら、まだ見込みがある。だが、取り逃がしたうえ信長軍団には何の打撃も与えられなかったという。
これでは光秀に未来はない。
順慶は家臣に命じた。
「十次郎《じゆうじろう》は廃嫡《はいちやく》いたす。ただちに、城下|矢田《やた》寺に押し込めよ。出陣の支度をいたし、上様にいつでも馳《は》せ参じる旨《むね》、使者を立ててお知らせするのだ」
十次郎とは光秀の子で、子のない順慶が光秀の恩に報いるためもあって養子とし、後継者に予定していた。
まず、信長に忠誠を誓うために、十次郎を後継者からはずすことが肝要である。
順慶の判断に家臣一同、逆らわなかった。
「待て、これも持っていけ」
順慶は信長への使者に、光秀からの書状を一緒に渡した。言うまでもなく、このような書状が来ておりますが、従う意思はありませんと伝えるためだ。
(いっそのこと、ただちに出陣いたし、光秀殿の首を狙《ねら》ったほうがいいか)
そうも考えたが、三千対一万三千では勝負にならない。ここは少し待つのが利口だと、順慶は思った。
その一万三千の明智《あけち》勢から、逃亡者が相次いでいた。
織田《おだ》軍の軍制では、光秀直属の部下というのは、ほとんどいない。
大半の兵(足軽)や将校にあたる武士も組織的には信長の直臣《じきしん》で、信長から光秀に貸し与えられたという形をとっている。
もちろん、それは長いあいだ続いていることだから、部下たちも光秀を事実上の「主君」として仰いでいる。しかし、形式的にはあくまで信長の直臣なのだ。
その部下たちを使って信長を討とうというのが、そもそも無理であった。
それでも成功すれば、兵たちも将来のことを考えて光秀の言いなりになっただろう。
しかし、信長を討ち漏らしたことで、その狙いは完全に裏目と出た。
いまや、脱走者は一千を超えていた。
戦わずして兵は一万三千から一万二千に減った。しかも、まだまだ脱走者は増える勢いである。
光秀は、重臣を集めて協議した。
筆頭家老の斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》は、初めから終わりまで強硬派である。
「一刻も早く決戦を挑むべきでしょう」
内蔵助は進言した。
「いや、それよりも、ここは近江坂本《おうみさかもと》城に退《しりぞ》いて態勢を整えるべきでは」
溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》が言うと、内蔵助は色をなして、
「何をたわけたことを申すか。ここで城に籠《こも》っても、逃げる者が増えるだけだ。じり貧になるだけのことだぞ」
一同は黙った。
前途は暗い。これまで、味方すると確約してくれた大名は一人もいないのである。
「毛利《もうり》への使者はどうした」
光秀が一縷《いちる》の望みをかけているのは、西国《さいごく》毛利の動向である。たがいに手を組もうという使者を、すでに送ってあった。
毛利から見れば、これまで一枚岩だった信長軍団に大きな亀裂《きれつ》が生じたことになる。
備中高松《びつちゆうたかまつ》城を挟んでにらみ合っている両軍だが、ここで毛利軍が勢いを得て羽柴秀吉《はしばひでよし》の軍勢に襲いかかってくれないものだろうか。
そうすれば、信長の足元に火がつく。
信長は毛利のことが気になり、光秀に全力を集中できなくなる。それなら少しは持ちこたえることができるかもしれない。
「毛利殿の返事はまだ無理でござろう。明日ようやく使者が行くかというところでござる」
内蔵助は、たしなめるように言った。
使者を出したのは今日未明である。いくらなんでも、まだ備中には着いていない。
そんなこともわからぬほど光秀は焦っている。それをたしなめたのである。
「殿、もはや一刻の猶予もなりませぬ。ただちにこの城を出て、大坂《おおさか》へ向かうべきでござりましょう」
「大坂か。――だが、内蔵助、大坂には船があるぞ。四国攻めのために、軍船はすべて集結しておるではないか。もはや信長は逃れたかもしれぬ」
「いえ、おそらく信長はそうはせぬでしょう」
「なぜ、わかる」
「信長の気性からみて、まず、かの者は殿を討たんとするはずでござる。大坂の信孝《のぶたか》、長秀《ながひで》らの軍を集め、いまごろはこちらへ向かっておるやもしれません」
「――――」
「このまま大坂へ退《ひ》けば、京はみすみす信長の手に奪われまする。人は、明智が織田に敗れ京を奪い返された、とみましょう。さすれば、殿に味方する者はいなくなります」
戦うしかない、それもすぐに、と内蔵助は言っている。光秀も決断を下さざるを得ない。
「よかろう、ただちに全軍を大坂へ向け出立させる。まずは、勝龍寺《しようりゆうじ》をめざすといたそう」
勝龍寺城は京の西南の出口、山崎|天王山《てんのうざん》北に位置する城である。
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6
一夜明けて、六月三日午前、明智光秀《あけちみつひで》軍は勝龍寺《しようりゆうじ》城に入っていた。
ただ、夜間の行軍だったため、ふたたび逃亡者が相次ぎ、城に入ったときは総勢一万一千になっていた。
またも、戦わずして一千人の兵を失ったのである。
これが、領地を持たない傭兵《ようへい》の弱さであった。
たとえば北条《ほうじよう》軍や毛利《もうり》軍では、こういうことはない。
そこでは、兵士は徴兵された百姓たちである。
国元に田畑があり、妻子がいる。
だから、領主に人質を取られているようなもので、よほどのことがないかぎり、逃亡したり反抗したりすることはない。
しかし、信長《のぶなが》軍団の兵の大半は、金で雇われた傭兵である。
傭兵制だと、一年じゅう戦えるという利点はある。
それは専門兵の集団であり、北条家などと違って、農作業のことを考える必要はないからだ。
しかし、だからこそ弱い面もある。
形勢が不利になると逃亡者が続出する、ということだ。
それでも、信長が大将として君臨しているときは、そういうことはない。
織田《おだ》信長は、圧倒的なカリスマを持っており、部下はその下で必死に働く。
しかし、いまの大将は光秀である。
光秀には、そういうカリスマはない。
もし、光秀が信長を殺すことに成功していたならば、光秀はそのカリスマを受け継ぐことができたかもしれないが、それには失敗した。
一刻も早く信長を殺さないかぎり、光秀に明日はない。
「信長が来ました」
報告があった。
織田軍は、摂津茨木《せつついばらき》の中川清秀《なかがわきよひで》、高槻《たかつき》の高山右近《たかやまうこん》らの軍勢三千を加えて、二万八千に膨《ふく》れ上がっている。
その軍勢は西国《さいごく》街道を北上し、木津川《きづがわ》の西岸、大きく天王山《てんのうざん》がせり出して道が細くなっている山崎《やまざき》の手前で行軍を停止した。
一方、光秀は、織田軍の北二里にある勝龍寺城に籠《こも》ったまま動かなかった。
人数は減りつづけている。
しかし、光秀があえて踏みとどまったのは、信長の出方を探るためであった。
山崎は峡《かい》といってもいい、京《きよう》へ入る狭い入り口である。
光秀の籠る勝龍寺城から見ると、信長軍は、その狭い入り口の向こう側にいることになる。
光秀にとっては、有利な態勢であった。
光秀軍のほうが、数は少ない。
だから、狭い入り口のところで敵を待ち伏せて、少しずつ入ってくる敵をやっつける、いわば各個撃破の戦法をとればいいのだ。
一方、信長のほうは、全軍を一気に突入させることができない。
山崎を通過するには、大軍を細い縦列にして進行しなければならないのである。
信長は、そのために動かなかった。
一方、光秀も動けない。
なんといっても、光秀軍は数が少ない。
敵の攻めてくるのを、この有利な地形を活《い》かして待ち受けるしかない。
信長軍が三万近くに膨れ上がっていることは、光秀の計算外のことだった。
もし、本能寺《ほんのうじ》で信長を討つことに成功していたら、いまこの時点で三万もの軍勢に攻められることはなかっただろう。
信長は決戦を焦らず、持久戦に出た。
光秀は、たしかに有利な位置にいる。
しかし、時が経てば経つほど逃亡兵が相次ぎ、布陣の有利さよりも、兵を失うことの不利がこたえるようになる。
(信長め)
光秀は歯ぎしりした。
このまま日を送れば、ほんとうのじり貧になる。
本能寺の変報が各地に届けば、柴田勝家《しばたかついえ》や滝川一益《たきがわかずます》が、戻ってくるかもしれないのである。
毛利の大軍と対峙《たいじ》している羽柴秀吉《はしばひでよし》は無理にしても、これらの軍団が引き返してきて、信長と合流したら、光秀にはもう勝ち目はない。
六月五日早朝、光秀は業《ごう》を煮やして城を出た。
勝龍寺城の南側にある御坊塚《ごぼうづか》という古墳に本陣を置き、斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》隊、溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》隊らを前面に配置した。
これに対して、信長は、池田恒興《いけだつねおき》隊、高山右近隊、中川清秀隊の計五千を前面左方の天王山に登らせ、天王山を占拠していた明智軍の並川《なみかわ》掃部《かもん》らを蹴散《けち》らした。
これで、信長側は山崎だけでなく、天王山山上からも明智軍を攻撃する態勢がととのった。
この天王山争奪戦の勝利は、直接の打撃以上に、明智軍に心理的打撃を与えた。
また、脱走兵が相次いだのである。
そこへ、信長は天王山に新たな軍勢を派遣し、眼下の円明寺《えんみようじ》川沿いに布陣している明智軍に、大坂《おおさか》で用意した文を矢に結び、片《かた》っ端《ぱし》から射ち込ませた。
矢文《やぶみ》には、こうある。
兵に告ぐ。そのほうらは織田家の兵である。主を間違えるな。いまからでも遅くはない。戻ってくればいっさいを不問に付《ふ》す。
そして、すべての文に信長の公印が押されてあった。
このため、明智軍に深刻な動揺が起こった。
信長は、高柳左近《たかやなぎさこん》を呼んだ。
この男は、光秀の謀反《むほん》を察知して、いち早く本能寺の信長に注進《ちゆうしん》した、もとは明智家の家臣である。
「そのほう、光秀に従っている侍どもに、明智を見限るよう呼びかけてくれぬか」
左近は一礼して、
「敵陣中には、我が朋輩《ほうばい》も多数おりますが、上様に対しての謀反の罪、お許しくださるのでしょうか?」
信長はうなずいて、
「謀反ではあるまい。それと知らず、光秀の下知《げち》を我が下知と思い、従ったまでのことであろう。許す」
「ありがたき御言葉」
左近は、ただちに馬で円明寺に行き、対岸に布陣している明智軍に呼びかけた。
「対岸の衆にもの申す。拙者《せつしや》、もと明智家|母衣衆《ほろしゆう》高柳左近でござる。上様は、ただちに陣を抜け恭順《きようじゆん》の意を表す者には、謀反の罪はいっさい問わぬ、と仰《おお》せられておる。これが最後の機会ぞ。織田家の武士ならば、謀反人に加担するのはやめよ」
斎藤内蔵助は、左近を見て怒った。
「おのれ左近め。ただちに、鉄砲で狙《ねら》い撃ちにせい」
鉄砲|組頭《くみがしら》は、その内蔵助の下知に首を振った。
「お断り申す」
内蔵助は目を剥《む》いて、
「下知に逆らうのは反逆であるぞ」
「何が反逆――」
組頭はせせら笑った。
「謀反人は明智の殿じゃ。我らは、もう御免こうむる」
「おのれ」
内蔵助は刀の柄《つか》に手をかけた。
組頭が慌《あわ》てて後ろへ下がる。
それと同時に、鉄砲組がその銃口《じゆうこう》を内蔵助に向けた。
「せめてもの情けじゃ。撃ちはせぬ。だが、我等はこれにて失礼いたす」
組頭は油断なく、じりじりと後ろに下がった。
全軍に示しをつけるためには、どうしてもこの男を斬《き》らねばならない。
しかし、これだけの銃口に狙われていては、内蔵助にもどうしようもなかった。
斎藤隊の鉄砲組が、つい先刻までの「味方」に銃口を向けて堂々と退去し、織田軍に復帰した。
それを見て、あちこちでこれに追随する動きが起こった。
(いかん。このままでは、味方は一気に崩れる)
本陣から状況を見ていた光秀は、逃亡者は有無を言わさず斬るように命じた。
だが、もう遅かった。
逃亡者を斬ろうとした目付《めつけ》たちも、あまりの多さに斬りきれず、逆に取り巻かれて斬殺《ざんさつ》されるありさまだった。
「殿。東の|洞ヶ峠《ほらがとうげ》の方向より、およそ三千の軍勢が見えまする」
新たな報告があった。
「何者だ? もしや――」
光秀の表情が、ぱっと明るくなった。
やはり、それは朋友《ほうゆう》、筒井順慶《つついじゆんけい》の軍勢であった。
(順慶が来てくれたか)
光秀は、地獄に仏と思った。
だが、その順慶は、すでに使者を信長のもとに走らせていた。
使者は、山崎の本陣に駆け込むと、
「この順慶に、なにとぞ明智攻めの先陣を賜《たまわ》りたく、伏して上様に願い奉《たてまつ》る」
という口上を述べた。
先陣はすでに、天王山側からは高山右近、山崎側からは丹羽長秀《にわながひで》と決まっていたが、信長はその願いを許した。
「よかろう。ただし、光秀の首は取らずに生け捕りにせよ、と順慶に伝えよ」
「ありがたき幸せ」
使者は喜んで戻った。
このとき、相変わらず信長の近くに控えていた森蘭丸《もりらんまる》が、ちらりと信長の顔を見た。
「いいのだ、お蘭」
信長は言った。
「筒井順慶は、光秀とは昵懇《じつこん》の仲。その順慶までもが光秀を裏切ったとあれば、もはや、光秀に味方する者はだれもおらぬ」
それに、順慶に先陣をさせるほうが、予備軍として置いておくよりもいい。
なぜなら、光秀と縁の深い順慶だけに、近くに置いておくのは、味方にとってあまり気持ちのいいものではないからだ。
それよりも、最初に攻めかからせたほうが、味方も安心だし、順慶自身も疑いを晴らそうと必死になって働く。
その効果も、信長は考えていた。
このとき、津田信澄《つだのぶずみ》が前に出た。
信澄も、順慶と同じ立場にあるといっていい。
「上様、筒井殿に先陣を賜るなら、ぜひ拙者にもお命じください」
「よいのか?」
信長は念を押した。
信澄の妻は、光秀の娘である。
「妻には、すでに離縁状を渡しておりまするゆえ」
信澄は、きっぱりと言った。
「では、順慶とともに攻めよ。すぐに行け」
「ははっ」
信澄は手勢一千を率いて、東から来た筒井軍と合流した。
この動きによって、明智軍には、順慶がどちらに味方するつもりかわかった。
「おのれ、順慶め。恩を忘れおって」
光秀は怒った。
この順慶の態度を見て、さらに脱走者が相次いだ。
いまや明智軍は、九千近くまでその数を減らしていた。
「殿、もはや攻めかかるしかありませぬ。御決断を」
斎藤内蔵助が伝令を本陣に派遣し、進言してきた。
これを容《い》れて、光秀はついに全軍に突撃を命じた。
対する信長も、これに応じた。
まず、東側の男山|八幡宮《はちまんぐう》の方面から、筒井順慶率いる三千が、明智軍の右翼に襲いかかった。
そして、山崎口からは、津田信澄隊一千、蜂屋頼隆《はちやよりたか》隊一千が、先を争うようにして中央突破をめざし、中川清秀、堀秀政《ほりひでまさ》の両隊が続いた。
さらに、天王山山上からは、高山右近隊が逆落《さかお》としに明智軍左翼を攻撃した。
最初の一撃で、明智軍は崩れる一歩手前までいった。
光秀本隊が戦場に入り、斎藤内蔵助隊も奮戦したため、一度は持ち直したが、信長はその機を狙って、信孝隊四千、丹羽長秀隊四千を山崎口から突入させた。
これで勝負は決した。
光秀軍は完全に崩壊した。
光秀自身は、斎藤内蔵助に守られながら、勝龍寺城まで退却した。
この間、また逃亡者が相次いだ。
光秀本隊と斎藤隊あわせて七千いたはずなのに、城に入った者は一割の七百にすぎなかった。
城を守っていた者を含めても、一千に満たない。
(こんなことがあっていいのか)
光秀は、勝龍寺城内で呆然《ぼうぜん》としていた。
信長軍は圧倒的な兵力で、その勝龍寺城をひしと取り囲んだ。
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7
徳川家康《とくがわいえやす》はそのころ、九鬼《くき》水軍のもっとも船足の速い船で、伊勢《いせ》沖を通過していた。
大坂湾を出るまでは、毛利《もうり》水軍や長宗我部《ちようそかべ》勢の襲撃を恐れて、鉄甲船《てつこうせん》に乗っていたが、紀伊《きい》水道を抜けたところで、同行していた快速船に乗り換えたのである。
外海に出てしまえば、黒潮がある。
この速い流れに乗ってしまえば、紀州潮岬《きしゆうしおのみさき》から伊勢|志摩《しま》まで、半日もかからない。
志摩は、九鬼水軍の本拠地であり、伊勢は、信長《のぶなが》の次男で北畠《きたばたけ》家を継いだ織田信雄《おだのぶかつ》の領地である。
「ここまで来れば、もう安心でござる」
九鬼嘉隆は甲板上で、隣にいる家康に言った。
「左様か」
家康は青い顔をしていた。
船酔いである。
こんなに長時間、船に乗るのは初めての経験であった。
家康ばかりでなく、酒井忠次《さかいただつぐ》も本多忠勝《ほんだただかつ》も、全員が船酔いにやられていた。
(やれやれ、船はもう御免じゃ)
家康は岸を恨めしげに見て、嘉隆に、
「九鬼殿、三河《みかわ》の大浜にはいつ?」
「左様、夕刻には着きましょう。先触れをしておきましたゆえ、岡崎《おかざき》の城から迎えがあるはずでござる」
「それは、かたじけない」
家康は、ふと思った。
もし、本能寺《ほんのうじ》で信長が殺されていたらどうだろう。
おそらく、大坂の軍勢も大半は逃げてしまい、信孝《のぶたか》や丹羽長秀《にわながひで》らも、光秀《みつひで》をどうすることもできなかったはずだ。
すると、新たな天下人《てんかびと》にもっとも近いのは、自分ではないか。
こうして、三河に戻り、遠江《とおとうみ》や駿河《するが》からも兵を呼び、合計して二万の大軍を擁《よう》し、光秀軍と決戦する。
そのためには、数日間の準備期間が必要だろう。
なにしろ、大|博奕《ばくち》を打つのだから、ありったけの鉄砲と武器弾薬を持っていかねばならない。
しかし、それも単なる夢だ。
おそらく、信長は光秀に勝つだろう。
自分が駆けつけなくても、それはもう目に見えている。
(せいぜい五千を率いて、近江《おうみ》へ出ればよかろう)
その程度であれば、二、三日で準備はととのう。
(しょせん、天下は、わしには縁がなかったな)
「いかがなされた」
家康が物思いにふけっているのを見て、嘉隆が不思議そうな顔をした。
「いや、なんでもござらぬ」
家康は、慌てて微笑を浮かべた。
一方、織田家中で最大の軍団を任されている羽柴秀吉《はしばひでよし》は、思いもかけぬことから本能寺の変報を聞いた。
光秀が毛利方の小早川隆景《こばやかわたかかげ》に宛《あ》てた書状、その書状を持った密使を、黒田官兵衛《くろだかんべえ》が捕らえたのである。
官兵衛は、名軍師といわれた竹中半兵衛《たけなかはんべえ》亡きいま、秀吉の片腕ともいうべき存在であった。
「明智|日向《ひゆうが》殿の密使を捕らえましたぞ」
「明智殿の?」
秀吉は、けげんな顔をした。
光秀は敵ではない、味方ではないか。
その味方がなぜ「密使」を出すのか、どうして捕らえなければならぬのか。
「毛利への密使でござる」
官兵衛は、一言で説明した。
秀吉は今度は驚いて、
「では、裏切りか」
敵毛利へ密使を送るとは、それ以外に考えられない。
「御覧くだされ」
と、官兵衛は明智の密使から奪った密書を差し出した。
一読して秀吉は、今度はへなへなと腰が砕けた。
そこには、光秀自身の手で信長を本能寺で討ち取った、と書かれていたのである。
「まさか、まさか、上様が――」
「しっかりなされよ、殿。これは千載一遇《せんざいいちぐう》の好機でござるぞ」
「好機じゃと?」
秀吉の物問いたげな視線に、官兵衛が何か答えようとしたとき、だれかが近づく足音がした。
「何事じゃ。だれも来てはならぬと申しつけたはずだぞ」
「はっ、申し訳ござりませぬ。火急の用件にて」
障子《しようじ》の向こうから声がした。
「火急とは?」
「上様からの書状が参っております」
「なんじゃと?」
官兵衛は急いで障子を開け、書状を受け取った。
まさしく、それは信長からの書状だった。
官兵衛が秀吉にそれを渡すと、秀吉は急いで封を切り、中身を読んだ。
しばらくして、安堵《あんど》のため息がその口から洩《も》れた。
「殿?」
一歩前に出た官兵衛に、秀吉は書状を渡した。
それには、光秀に襲われたが無事本能寺を脱出したこと、近々光秀を倒すので安心してこの戦線を維持せよ、ということが、見覚えのある信長の自筆で書かれてあった。
「光秀め、人騒がせな」
秀吉は、光秀の密書のほうをびりびりと裂いた。
「よろしゅうござりましたな。さすがは、上様」
官兵衛が言うと、秀吉もうなずいて、
「あのぐずの光秀めに、上様が討たれるはずもないわ」
「まことに」
「ところで、官兵衛」
と、秀吉は意味ありげな笑いを浮かべ、
「先ほど、たしか、千載一遇の好機とか申したな。あれは、どういう意味だ?」
「いや、それは、その――」
官兵衛は言葉を濁した。
「申せ、官兵衛」
秀吉は薄笑いを浮かべて、さらに問い詰める。
「お許しください」
千載一遇の好機――それは、秀吉が天下人になれる、ということだ。
しかし、信長が生きているとわかったいま、もはや夢にすぎない。
そのことは、秀吉もわかっているはずだ。
(殿もお人の悪い)
官兵衛は困惑した。
秀吉は知っていて、わざとからかっているのだ。
「まあ、よい。竹半《ちくはん》亡きいまとなっては、そなただけが頼りだからな」
竹半とは、ついこのあいだ亡くなった名軍師、竹中半兵衛のことである。
半兵衛は、若くして結核で世を去った。
その半兵衛の在世中から、黒田官兵衛と竹中半兵衛は、秀吉の両腕と言われていたのである。
「さて、どうするか。戻らずともよいか」
秀吉は、話題を現実に戻した。
「おそらく、上様の軍勢は苦もなく明智を蹴散《けち》らすでしょうな」
官兵衛は、自信ありげに言った。
「そうか。ならば、毛利との戦《いくさ》は断じて隙《すき》を見せてはならぬ、ということになるな」
秀吉はうなずいた。
毛利はいま、高松《たかまつ》城を水攻めにされて困っている。
信長が京の支配権を回復するまで、この優位を保つことだ。
丹波《たんば》の細川藤孝《ほそかわふじたか》のもとへも、本能寺の変報は届いていた。
光秀から味方につくように懇請《こんせい》した書状と、信長からの書状である。
藤孝は、息子の忠興《ただおき》を呼ぶと、その目の前で髷《まげ》を切った。
「何をなさいます」
忠興が驚いて問うと、藤孝は落ち着いた声音《こわね》で、
「わしは、今日かぎり隠居する。そして、名を幽斎《ゆうさい》と改める。家督はむろん、そなたに譲る」
「なぜ、でござります」
「これを見よ」
と、藤孝改め幽斎は、二つの書状を息子の前に投げ出した。
忠興は、急いで読んで顔色を変えた。
「父上――」
「言うまでもないが、そなたは光秀殿の婿《むこ》、舅《しゆうと》につくのは勝手じゃ」
しかし、実は幽斎の本心はそこにはなかった。
もともと、忠興は潔癖|性《しよう》ともいうべき男である。汚いことは、極端に嫌う。
だから、たとえ光秀の反乱が成功していたところで、これに味方することはなかっただろう。
しかし、親の口から命ずるのと、自分で決心するのとでは、天と地の開きがある。
「とんでもない。謀反人のことを舅などとは思いませぬ」
幽斎は、忠興を見据《みす》えると、
「光秀殿には味方せぬ、と申すのだな」
「もとより」
「では、玉《たま》はどうする」
忠興は、返答に窮《きゆう》した。
玉。洗礼名ガラシア。忠興の妻で、光秀の娘である。
忠興との夫婦仲は、すこぶるいい。子も三人、生まれている。
「――離縁いたします。与一郎《よいちろう》は、廃嫡《はいちやく》にいたしまする」
忠興は、うめくように言った。
玉とのあいだにできた、長男のことであった。
明智の血を受けているとなれば、今後、どんな形で信長の疑惑を招くかもしれない。廃嫡せざるを得なかった。
「よかろう。それが細川の家を守る道だ」
幽斎は、満足げに言った。
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8
そのころ、勝龍寺《しようりゆうじ》城は、蟻《あり》の這《は》い出る隙間《すきま》もないほど、ひしと囲まれていた。
城兵は一千に満たず、このままでは落城は必至の情勢である。
織田信長《おだのぶなが》は、そこで奇妙な命令を出した。城の北方の囲みを一時、解かせたのである。
だれが見ても、奇妙な措置だった。そんなことをしては、光秀《みつひで》が京から本拠地の近江坂本《おうみさかもと》城へ逃げてしまう。
「よいのだ、放《ほう》っておけ」信長は、家臣の反対を叱《しか》りとばした。信長には信長の秘策があったのだ。
明智《あけち》光秀は、その知らせを聞いても、すぐには動こうとしなかった。
(罠《わな》だ)
そう思った。
罠にちがいない。
いくら囲みが解かれているといっても、全軍あげてそこを進めば、あっという間に気づかれる。
逃げるならば、少人数で夜陰《やいん》に乗じて進むしかない。
しかし、そういう形で城を出ることは、信長にとって思う壺《つぼ》なのではないか。
光秀は、斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》に相談した。
「罠でござる」
内蔵助も断言した。
「誘いの手でござろう。城を出てはなりませぬ。出ては討ち取られるだけのこと」
「だが――」
光秀は、それはよくわかっていた。
しかし、それでも出たい。
光秀は、こうなったら家族に会いたいと思った。
(どうせ死ぬなら、女房殿のもとでがよい)
息子もいるし、娘もいる。娘は早々に嫁いでいるが、男の子は幼い。長男もまだ元服《げんぷく》前である。
家族の顔が脳裏に浮かんだとき、光秀は決断した。
「城を出るぞ」
光秀は宣言した。
内蔵助は呆《あき》れて、
「なりませぬ」
「言うな、内蔵助。罠であることは、わしにもわかっている。だがな、このままここで座して死を待つよりは、一歩でも女房、子供のもとに近づいて死にたいのだ」
光秀はそう言うと、内蔵助にていねいに頭を下げ、
「世話になった。もうよいから行け。わしはひとりでも、この城を出る」
「馬鹿なことを。拙者《せつしや》もお供いたします」
「死ぬことになるかもしれぬぞ」
「もとより、死は覚悟の上でござる。殿ひとり、見捨てるわけには参りませぬ」
「では、今夜おそく出よう」
「兵どもは、いかがいたしましょう」
内蔵助は聞いた。
「わしらがいなくなれば、信長のもとへ帰るであろう。それで命が助かればよいではないか」
光秀は、さばさばしたように言った。
その夜、光秀は斎藤内蔵助、溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》らとともに、わずか十騎で城を出た。
これから、京を抜けて近江坂本へ向かうのである。
京には、まだ信長の軍勢は入っていないはずであった。すなわち、そこは一応の安全地帯ということになる。
もっとも光秀は、京の市中に入るつもりは毛頭なかった。洛南《らくなん》を抜け、小栗栖《おぐるす》から山科《やましな》へ入り、そして坂本をめざすつもりなのである。
こうすれば、信長軍の目に触れずに坂本へ抜けられるだろう、と踏んだのである。
ところが、その動きは、すでに信長の耳に入っていた。
「やはり、そう動いたか」
信長は、大きくうなずいた。
「いかがいたしましょうや」
報告した目付《めつけ》は、信長の指示を仰いだ。
「放っておけ」
信長は言った。
「はあ?」
「放っておけと申したのだ。すでに手は打ってある」
信長は、自信ありげに笑みを浮かべた。
光秀は、もしも信長軍の待ち伏せがあるとしたら、京の南にあたる伏見《ふしみ》のあたりではないか、と踏んでいた。
そこを無事に通過すると、さすがの光秀も全身に張りつめた力が抜け、ほっと一息ついた。
ここから小栗栖という在所を通り、その山を越えれば、もはや近江の国である。近江坂本は、光秀のもともとの領地であり、最大の本拠地でもある。
もし本能寺《ほんのうじ》の変が成功していたら、安土《あづち》城を占領していたはずの明智|秀満《ひでみつ》の軍勢が、いまは坂本城に入っている。
秀満の軍勢は五千。
これと合流すれば、もう一戦、死に花を咲かせるぐらいの華々しい戦いはできる、と踏んでいる光秀であった。
そのために、勝龍寺城の一千の軍勢は見捨てた。これを連れていこうとすれば、どうしても敵の目に触れやすくなり、無事に坂本へ入ることができなくなるからだ。
ところが、光秀が山城と近江の国境を越え、やれやれと一息ついたところで、突然あたりの様子が変わった。
周囲をひしと大軍によって取り囲まれているのである。
「何者か」
光秀は、竹藪《たけやぶ》の奥に向かって誰何《すいか》した。
「これは近江|瀬田《せた》城主、山岡景隆《やまおかかげたか》にござります。明智|日向《ひゆうが》殿とお見受けする。なにとぞ拙者《せつしや》に降参していただきたい。上様の御命令でござる」
「なんと」
光秀は驚いた。
山岡景隆という名を知らぬではない。いや、それどころか、光秀が近江を本拠地としていたころは、この景隆は光秀の配下の大名であった。
畿内《きない》の交通にとって、もっとも重要な瀬田の唐橋《からはし》を守るのが、景隆の役目である。
ところが信長は、早くから光秀の謀反を憎み、信長に忠誠を誓う手紙を送ってきた景隆に対し、光秀生け捕り作戦の指揮を命じたのである。
「もはや、これまでか」
光秀は覚悟した。
このあたりは、山岡勢に完全に囲まれている。こうなっては、逃げ場はない。
「内蔵助、庄兵衛」
光秀は、その名を呼んだ。
「御前《おんまえ》に」
二人が、それぞれ馬を寄せてきた。
「わしは、ここで腹を切る。介錯《かいしやく》を頼むぞ」
「殿!」
斎藤内蔵助が、断腸《だんちよう》の思いで叫んだ。
「願わくば、我が首を敵に渡してほしゅうはないのだが」
と、光秀はあたりを見回して、
「それも、かなわぬ夢かもしれぬな」
光秀は馬を止めて降りた。重臣たちも、それに続いた。
山岡景隆は、このことを予期していた。しかし、信長から絶対に光秀に自害をさせてはならぬと厳命を受けている。実は、そのための準備もしてあった。
「急げ!」
景隆は下知《げち》を下した。
これに応じて、景隆の旗本勢がいっせいに包囲の輪を狭め、光秀主従を発見すると、投網《とあみ》を投げた。
「何をする」
光秀が叫んだ。
その投網は、まるで蜘蛛《くも》の巣《す》のように光秀らの身体に絡《から》みつき、動きを封じた。
「急げ! 刀を取り上げ、縛《しば》り上げよ」
景隆は命じた。
投網のために身動きがとれぬ光秀と重臣たちは、こうしてまんまと生け捕られてしまった。
「山岡殿、武士の情けでござる!」
内蔵助は叫んだ。
景隆は馬を降りて、縛《いまし》められた光秀主従の近くに寄り、膝《ひざ》をついて頭を下げた。
「まことに申し訳なきことながら、すべては上様の御下知でござる。なにとぞ堪忍《かんにん》してくだされ」
光秀は、もはやまな板の上の鯉《こい》のように、縛られたまま目を閉じ、身じろぎもしなかった。
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9
主《あるじ》を失った勝龍寺《しようりゆうじ》城は、まるで開城同然に呆気《あつけ》なく陥《お》ちた。
最後まで光秀《みつひで》に忠節を尽くそうと考えていた兵たちも、肝心の光秀が自分たちを捨てて逃げ出したと聞けば、もはや戦う気力はなかったのである。
つぎつぎに投降する者が相次ぎ、城は自落《じらく》した。
信長《のぶなが》は、とりあえず勝龍寺城に入ると、景隆《かげたか》からの光秀|捕縛《ほばく》の知らせを受けた。
「でかした」
信長は膝《ひざ》を叩《たた》いて、ただちに森蘭丸《もりらんまる》に命じ、黄金十枚を持ってこさせて使者に与えた。
「これを景隆にとらす。光秀はただちに、この勝龍寺城に連れて参れ。それから、重臣どもは厳重に押し込めておくように伝えよ」
「かしこまってござる」
使者は押し戴《いただ》いて黄金を受け、瀬田《せた》城に戻った。
瀬田城から光秀らが連行されたのは、翌日のことであった。
信長は、あえて光秀を曝《さら》し者にはせず、夜陰《やいん》に乗じて光秀を馬に乗せ、周りを警護の侍《さむらい》数十騎で固めて勝龍寺城に入らせた。
そして、縛めた光秀を城中の大広間に引き据《す》えさせ、人払いをして、ただひとり光秀と対面した。
光秀は、それでも信長が入ってくると目を開き、傲然《ごうぜん》として信長を見つめた。
「さぞ、悔しかろうな」
信長は言った。
光秀は、あぐらをかいたまま縛められた胸を張り、信長を見つめて、
「なにゆえの生け捕りでござる。もはや、この命には用がないはず。早《はよ》う、お斬《き》りなされ」
と言った。
信長は首を振り、
「そのほうを生け捕りにしたのは、恥をかかせるためではない。どうしても一つ聞きたいことがあったのだ」
「聞きたいこととは?」
光秀は、いぶかしげな顔をした。
「そのほう、なぜ余《よ》に反逆をした?」
信長は言った。
「そのことでござるか」
光秀は首を振り、
「もはや言っても詮《せん》ないこと。すべては終わったのでござる」
「いや、余は知りたい」
信長は身を乗り出すと、光秀と向かい合わせにどっかりと腰をおろし、
「余は、そのほうに悪《あ》しゅうした覚えは何もない。旅浪人の身から大身《たいしん》の大名に取り立て、褒美《ほうび》もつねづね与えておる。何が不満なのだ? 何が不満で、このような大それたことを考えたのか?」
「拙者とて、この乱世に生まれた一人の男子《おのこ》でござる。隙《すき》あらば、天下を取ろうと考えるのは当然のこと」
「何を申す」
信長はせせら笑って、
「そのようなこととはもっとも縁遠いのが、明智《あけち》日向守《ひゆうがのかみ》光秀という男ではないか。余が、そのことを知らぬとでも思っているのか。光秀よ。ひょっとして、だれかそのほうを唆《そそのか》した者がおるのではないか?」
「唆した? はて、だれが拙者を唆したと仰せられるのでござるか?」
光秀はとぼけた。
「知れたことよ。京の長袖《ちようしゆう》(公家《くげ》)どもだ」
「京の?」
光秀は慌てて首を振り、
「いやいや、そのようなことはいっさいござりませぬ。この謀反《むほん》は、あくまで拙者ひとりの思い立ちによるもの」
「そうかな? ならば、あえてもう一度たずねるが、なぜこのようなことをなした? 余は、そのほうに恩を与えこそすれ、恨みなどは買《こ》うておらぬはずだが」
「はははっ」
と光秀は突然、笑いだした。それはとても、すべての兵を失い、敗将として敵の前に引き据えられた男のものとは思えぬほど、昂然《こうぜん》たる高笑いであった。
「何がおかしい」
信長は、さすがにむっとして光秀を見つめた。
「殿は、いや上様は、何もわかっておられぬ」
「なに?」
「人の心というものが、まったくわかっておられぬ」
「――――」
「おわかりになりませぬか、上様」
光秀はからかうように、
「人の心とは、褒美をもらえればよいというものではない。金をもらえばよいというものではない。もしそれでよければ、荒木《あらき》殿も謀反など起こさなかったはず」
光秀は、ずばりと言った。
荒木|村重《むらしげ》のことである。
荒木村重は、もう三年ほど前、信長に反旗を翻《ひるがえ》した。別に、なんの落ち度があったわけでもなければ、信長が村重に対してとくに悪いことをしたわけでもない。
だが、村重は勃然《ぼつぜん》たる不安の中から突然、信長に反旗を翻し、そして一族皆殺しにされたのであった。
「人は、牛馬ではござらぬ」
光秀は、冷たく信長を見返して、
「人には人の心というものがござりまする。いや、牛馬にすらある。ただ餌《えさ》を与え、鞭《むち》打ち、働け働けと言っても、人は心を踏みにじられれば怒るものでござりまする」
「余が、いつそのほうの心を踏みにじった?」
「おわかりになりませぬか。上様は生まれてからこの方、若様としてお育ちであるがゆえに、下々《しもじも》の心はおわかりにならぬとみえますな」
「この際だ、言いたいことがあったら、申したらどうか」
「では申し上げますが、拙者はあなた様に命じられ、長年の間、四国の長宗我部《ちようそかべ》との友誼《ゆうぎ》を深めるために、さまざまな腐心をいたして参りました。拙者の家臣、斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》の妹を拙者の養女分ということにいたしまして、長宗我部の跡継ぎに嫁がせたのも、そのためでござる。いずれは織田《おだ》家と長宗我部家は、ともに力を合わせて天下をめざすものと思い、拙者も拙者の家臣も、心を込めて長宗我部との友誼を築き上げてきたつもりでござります。ところが上様は、このところ長宗我部を敵となさり、その敵である三好《みよし》家にひとかたならぬお肩入れをされ、今度は長宗我部を討つとまで仰せられた。これは、我らの積年の努力を踏みにじるものでござりまするぞ」
信長は黙って聞いていた。この際、光秀に言いたいことを徹底的に言わせようと思っていたのである。
光秀は続けた。
「長宗我部が討たれるということは、我が家臣、斎藤内蔵助の妹も殺されるということでござりまする。あなた様は、そのことを一度でもお考えになったことがござりますか。せめて、一言『すまぬ』とのお言葉があればまだしも、いきなり『長宗我部は討つ』。なんのねぎらいも、詫《わ》びの言葉もない。こんなことが許されていいものでござりましょうか」
「光秀。余は、そのほうの主人だぞ」
信長は言った。
「わかっており申す」
光秀は答えた。
「しかし、世の中にはたとえ主人といえども、家臣の心を踏みにじってはならぬ、という掟《おきて》があるのでござりまする。それをないがしろにする者は、いずれ背《そむ》かれる。荒木殿がそうであり、この拙者がそうでござる。このまま続けば、つぎはまただれかが背きましょう。佐久間《さくま》殿のことも、そうでござる。佐久間殿は、織田家|譜代《ふだい》の臣ではござりませぬか。それを、わずかな落ち度で所領をすべて召し上げ、高野山《こうやさん》に追放なさるとは、あまりにひどい仕打ちでござりまする」
「わずかな落ち度ではない」
信長は反論した。
「信盛《のぶもり》めは、本願寺《ほんがんじ》攻めの総大将を任じられたにもかかわらず、ほとんど何もせず無為《むい》に時を過ごした。それゆえ、余は怒ったのだ」
「お怒りはごもっともかもしれませぬが、人を罰するには罰し方というものがござりまする。あの過酷な仕打ちは、我らすべての肝《きも》を冷やしました」
「肝を冷やせば、人は人に従うものであろう」
「いえ、そうではござりませぬ。それは憎しみの心を生み、いずれは謀反を企《たくら》む心を育てるのでござります」
「わかった」
信長は立ち上がった。
「言いたいことは、それだけか」
「それだけでござりまする」
光秀は、そう言って目を閉じた。
「では、あらためて聞こう。いま一度、前非《ぜんぴ》を悔いて余に仕える気はないか」
光秀は、はっとして信長を見た。
「どうじゃ」
信長は、まじめな顔をしていた。
「いままでの罪を、お許しくださると仰せられるのか」
「そうだ」
信長は、短く言った。光秀は一瞬、戸惑《とまど》うような顔をしたが、やがて大きく首を振り、
「遅うござった」
と、ぽつりと言った。
「遅い?」
信長は、首をかしげた。
「左様、遅うござった。もっと早く、そのようなお言葉が聞けたら、この光秀も謀反など起こさなかったことでござりましょう」
「光秀、もう一度考えてみよ。坂本にいる妻子はどうする? そのほうが前非を悔いて、余に仕えれば、家族すべても許されるのだぞ」
光秀は、やはり首を振った。
「もはや、後戻りできぬところにきてしまっておりまする。謀反人として、拙者は首を刎《は》ねられまする。それが世の理《ことわり》と申すもの。なにとぞ、これ以上のご厚情はご無用に願いたい」
光秀はそう言って、ふたたび目を閉じた。
「やむを得まい。それでは、天下の謀反人として堂々と死ぬがよい」
信長は、その場を去った。
十日後、近江坂本城は駆けつけた徳川家康《とくがわいえやす》の援軍もあり、呆気《あつけ》なく落城した。城将、明智|秀満《ひでみつ》は、光秀の妻子を自らの手で刺し殺した後、城に火をかけて自害した。
そして、すべてが終わったところで、信長は京において、光秀を公開の場で処刑した。斎藤内蔵助、溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》らもすべて斬首《ざんしゆ》され、その首は京の粟田口《あわたぐち》に晒《さら》された。これによって信長は、明智光秀という織田軍団の中でもっとも有能な将のひとりを失ったのである。
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織田信長《おだのぶなが》は、いったん安土《あづち》城に戻り、今後の体制を固めることに腐心した。
四国の長宗我部《ちようそかべ》征伐は、延期せざるを得なかった。この機に乗じて、信長に反乱、反旗を翻《ひるがえ》すような者がいては危険だからだ。
結局、大坂《おおさか》城には五千の留守居《るすい》の兵を残し、残りの軍勢はすべて安土城に集結させた。安土城に対する反乱を防ぐためである。
今後の体制をどのように立て直すか、信長にとっての急務はそれであった。
本能寺《ほんのうじ》の変が起こった時点で、信長の勢力圏は、東は上野《こうずけ》の一部、信濃《しなの》、甲斐《かい》、飛《ひ》、美濃《みの》であり、これに北陸の能登《のと》、越中《えつちゆう》、加賀《かが》、越前《えちぜん》が加わる。
さらに、その領国の中枢《ちゆうすう》をなすものとして、尾張《おわり》、伊勢《いせ》、近江《おうみ》の三国があり、その三国に徳川《とくがわ》氏の勢力圏である三河《みかわ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》の三国がつながっている。
さらに西へ行けば、若狭《わかさ》、丹後《たんご》、丹波《たんば》、大和《やまと》、紀伊《きい》、そして京を擁《よう》する山城《やましろ》、そして大坂城のある摂津《せつつ》が勢力圏内である。
さらに西へ行けば、但馬《たじま》、因幡《いなば》、播磨《はりま》、美作《みまさか》、備前《びぜん》がすべて織田の勢力範囲にある。
このうち、もっとも東の最前線に位置しているのは、上州厩橋《じようしゆううまやばし》城の滝川一益《たきがわかずます》である。滝川一益は、織田家のもっとも東の部分を担当する東部方面軍の師団長といったところである。そして、主要な敵は武蔵《むさし》、相模《さがみ》、そして上野《こうずけ》を支配する北条《ほうじよう》氏である。
これに対して、さらにその北、北陸方面軍の師団長にあたるのが、越前|北ノ庄《きたのしよう》城にある柴田勝家《しばたかついえ》である。この柴田の主要敵は、越後《えちご》の上杉景勝《うえすぎかげかつ》である。
甲斐には新総督として、これは方面軍よりはやや小さな規模ながら、河尻秀隆《かわじりひでたか》が封《ほう》ぜられ、河尻は滝川一益とともに相模の北条氏と対峙《たいじ》している。
一方、ここで目を西に転ずると、この本能寺の変がなければ、信長は三男|信孝《のぶたか》を総大将とし、丹羽長秀《にわながひで》を副将とした四国遠征軍が、長宗我部征伐に大坂から出帆する予定であった。これを仮に四国方面軍と名づけよう。
そして、もう一つ中国方面軍として、備中国高松《びつちゆうのくにたかまつ》城で毛利《もうり》の大軍と対峙している羽柴秀吉《はしばひでよし》の軍団がある。
つまり、東から言えば、滝川一益の東部方面軍、柴田勝家の北陸方面軍、織田信孝の四国方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍の四大軍団があり、これにさらに明智光秀《あけちみつひで》を将とする一種の遊軍的存在である明智軍団が加わって、五大軍団となる。
信長の基本的戦略は、すべてこの五大軍団から成立していた。
四大軍団をそれぞれ北条、上杉、長宗我部、毛利といった大敵に対して当たらせておいて、さらにその弱いところを補う意味として、光秀の軍団を遊軍化し、あらゆる方面に当たれるようにしておく。
とりあえず、毛利との一大決戦のために、信長は明智軍団を手薄《てうす》な中国方面軍の羽柴秀吉と合流させようとした。
ところが、それが本能寺の変を招いたのである。
信長は、いまはその点を反省していた。
反乱が起こったのは、光秀の心の問題に第一の原因があるが、反乱を起こしやすいような構造的欠陥が、織田家の軍制にあったのも事実である。
というのは、信長は部下を信頼するあまりに、大軍をすべて部下の指揮下に置き、自分の直属下にはまったく置いていなかったのである。それがゆえに、本能寺で奇襲され、あわや命を落とすというところまでいきかけたのである。
どんなに効率的であろうとも、五大軍団制には、自分の足元が手薄になるという欠点がある。いわば近衛《このえ》軍団のようなものを、かならず配置しておかなければならないのに、それを怠ったところを光秀に突かれたのである。
信長が早急に体制固めをしておかなければいけないのは、この点であった。
まず、主《あるじ》を失った明智軍団をだれに任せるか、という問題がある。
明智軍団は事実上、自滅した。したがって、軍団自体はそれほど傷ついていない。謀反の罪を許すと言ったことにより、明智軍団の六割以上は、無傷で信長のもとに戻ってきていた。
明智光秀の死によって、今後の明智軍団の指揮と、主を失った近江《おうみ》、丹波《たんば》の両国をだれに任せるか、という問題が残った。
織田信長は、その人事について熟慮《じゆくりよ》したあげく、一つの決断を下した。
信長の末娘|冬姫《ふゆひめ》の婿《むこ》であり、近江|日野《ひの》城主|蒲生賢秀《がもうかたひで》の長男である蒲生|氏郷《うじさと》を、新しい近衛《このえ》軍団の長に抜擢《ばつてき》したのである。
これは、織田家中の大半を驚かす人事であった。もっとも、氏郷の非凡さはだれもが認めていた。
蒲生氏郷は幼名|鶴千代《つるちよ》といい、そもそも最初は信長に反抗した六角《ろつかく》氏の家臣の一族であったが、氏郷の父蒲生賢秀は時代の趨勢《すうせい》を見極め、信長に降参した際、当時十三歳の鶴千代を人質として岐阜《ぎふ》城に差し出したのである。
この鶴千代は、ここで信長の小姓《こしよう》となり、人物の才能を見抜くことにかけては天才的な眼力のある信長に、その優秀さを認められ、忠三郎《ちゆうざぶろう》の名を与えられた。「忠」の一字は、信長の官名|弾正忠《だんじようちゆう》の「忠」の一字をとったものである。
さらに、その忠三郎は初陣《ういじん》において奮戦し、敵の大将首をあげてきた。信長はそれを激賞し、自分の娘を与え娘婿《むすめむこ》とした上で、人質の身分を解いて日野城に帰らせたのである。
以後、名を氏郷と改めた忠三郎は、たびたびの合戦にめざましい手柄を立て、若年《じやくねん》ながら将来の大器として、すべての人々に認められる存在であった。
その氏郷を信長は抜擢したのである。
「この上なき名誉にござりまする」
安土《あづち》城に呼び出された氏郷は、感激のあまり、頬《ほお》を紅潮させて礼を述べた。
「余も、今度のことでは懲《こ》りた」
と、信長は言った。
「やはり、身近に信頼できる者の軍を寄せておかなければ、天下人《てんかびと》というものはいかぬものらしいわ」
はははっと信長は笑い、手ずから黄金十枚を引き出物として与えた。
「ほかにも太刀《たち》と馬をとらそう。よいか、これからは余の手足となって務めてくれい」
「かしこまってござる」
氏郷は、ふたたび平伏した。
信長にとっての急務は、ほかにもあった。
本能寺《ほんのうじ》の変によって、地方各方面軍の前線が動揺し、それを敵につけ込まれることを恐れたのである。
関東の滝川一益《たきがわかずます》には、固く守って動かぬように命じ、甲斐《かい》の河尻秀隆《かわじりひでたか》には、滅んだ武田《たけだ》家の遺臣が反乱を起こすという噂《うわさ》があったので、駿府《すんぷ》から徳川《とくがわ》軍を派遣させ、領内の治安を維持することに努めた。上杉景勝《うえすぎかげかつ》と対峙《たいじ》している柴田勝家《しばたかついえ》にも、戦線をむやみに拡大せぬよう命じた。
問題は、四国の長宗我部《ちようそかべ》をいかにして討つか、ということであり、もう一つの大きな問題は、毛利《もうり》との決戦であった。
信長はまず、毛利との決戦を先にすることに決めた。
四国の長宗我部は、いつでも討てる。しかも、長宗我部は有力な水軍を持っていないので、向こうから攻め寄せてくる心配はない。
しかし、毛利のほうはいつでもこちらに攻めてくる力を持っているし、毛利水軍も信長が造った鉄甲船《てつこうせん》によって完膚《かんぷ》なきまでの敗北を喫《きつ》したとはいえ、残党はまだまだ侮《あなど》りがたい力を持っている。
まず、こちらのほうを叩《たた》いておくことが急務であると、信長は考えたのである。
光秀による本能寺の変が失敗に終わってから一月《ひとつき》後、信長は新たに編成した二万の軍勢を率いて、近江安土城を出発した。
安土城には、三千の留守居の兵を残した。留守居役は氏郷の父、蒲生賢秀である。
信長は、これからはつねに大軍と行動をともにしようと決めた。自らが少ない兵力で畿内《きない》にとどまっていては、また光秀のようなことを考える人間が出てこないともかぎらない。そういう機会を作らぬことも大切だということに気がついたのである。
軍勢二万は、信長を大将、そして蒲生氏郷を副将として西に向かったが、同じころ、伊勢大湊《いせおおみなと》を出発した九鬼嘉隆《くきよしたか》率いる九鬼水軍の鉄甲船九隻が、瀬戸内《せとうち》を備中《びつちゆう》に向かった。
これは、海陸両方から毛利を圧倒するためであり、九鬼水軍にとって宿敵|村上《むらかみ》水軍を掃討《そうとう》する作戦行動でもあった。
中国方面軍の総大将|羽柴秀吉《はしばひでよし》は、三万の大軍とともに毛利軍と向かい合っていた。
最前線にある備中|高松《たかまつ》城は、いま水の中にある。秀吉が周りに堤防を築き、川の流れを変えることにより、高松城を水没させたのである。世に名高い高松城水攻めの計略であった。
信長軍が到着すると、織田家の総勢は五万となった。
信長は、ただちに秀吉を呼び出した。
「水攻めとは、考えたものだのう」
信長は、まず秀吉を誉《ほ》めた。羽柴秀吉は、信長にとってもっともお気に入りの大将である。
信長は、水の上に浮かぶ高松城を見て、
「これから、どうするつもりじゃ」
と、たずねた。
「はっ」
秀吉は、かしこまって答えた。
「これから先は、上様の御下知《ごげち》を仰《あお》いで事を決めようと思っておりました」
秀吉は、如才《じよさい》なく答えた。
秀吉が生き残ってきたのは、この織田政権で第一筆頭大将の地位を獲得したのは、この如才なさも大きな理由である。
もちろん秀吉は、その能力、軍人としての能力も買われている。とくに秀吉がこの才能を発揮するのは、このような攻城戦においてである。
織田家の大将は、野戦に強い柴田勝家をはじめとして勇猛な将は何人もいるが、こと城攻めということに関していえば、この秀吉が筆頭であった。
秀吉の城攻めは、あらゆる戦法を駆使し、それ以外にも従来の戦法に加えて、たとえば兵糧《ひようろう》に使う米をあたりで買い占めてしまうというような、生まれつきの武士には思いもつかない奇想天外《きそうてんがい》な方法での戦法もあった。
もちろん、信長はそういう秀吉の能力をいちばん高く買っていたのである。
「こいつめ」
信長は笑った。
「相変わらずじゃの」
信長は山の上に立って、山の上から水没した高松城を見下ろしていた。
本来、ここは平野に突き出した山だったのだが、いまは下が広い範囲で水に覆われてしまったため、まるで岬《みさき》のような格好になっている。
その岬の突端に、信長は秀吉そのほか多くの家臣を従えて立っていた。
対岸には、毛利の軍勢が対陣している。
軍勢は、当主毛利|輝元《てるもと》の叔父《おじ》にあたる吉川元春《きつかわもとはる》と、小早川隆景《こばやかわたかかげ》が総大将となって布陣していた。軍勢およそ三万。
これに対し信長軍は、秀吉の三万五千に、新たに信長が引き連れてきた二万を加え、五万五千である。数においても有利であり、また、鉄砲などによる近代的武装の面においても、信長の軍隊のほうが勝《まさ》っていた。
毛利は、広島のある安芸国《あきのくに》を中心とし、周防《すおう》、長門《ながと》、石見《いわみ》、出雲《いずも》、備後《びんご》、伯耆《ほうき》、備中、美作《みまさか》の九カ国を治める大大名である。
実は、これに因幡《いなば》、備前《びぜん》あたりも毛利氏の勢力範囲であったのだが、信長は備前の大名|宇喜多直家《うきたなおいえ》を秀吉の調略《ちようりやく》によって味方に引き入れることに成功していた。
宇喜多氏は、それまで毛利氏に従っていたが、信長の勢力拡張を見て、毛利から織田へ乗り換えたのである。
そして、いまや毛利の勢力範囲は、中国十一カ国から備前と美作を抜いた九カ国に転落していた。
もっとも、美作はすべて取ったわけではない。美作には宇喜多、そして備中には秀吉の軍が張り出して、毛利の領土の蚕食《さんしよく》を試みていたのである。
毛利も、このままずるずると後退するわけにはいかない。よって、最前線である備中高松に大軍を派遣してきたのである。
毛利家の当主輝元は、偉大な祖父である毛利家中興の祖|元就《もとなり》の子、隆元《たかもと》の子として生まれたが、早くに父を亡くし、若年のうちに毛利家の家督を継がなければならなかった。
しかし、幸いにも父隆元の弟である元春と隆景がそれぞれ吉川家、小早川家の養子に入り、その家を乗っ取った形になっていたので、この二人の叔父が輝元を補佐する形で、毛利家はなんとか体裁を保っていたのである。
元春は、織田家にたとえれば柴田勝家並みの猛将であり、これに対して隆景は、個人的武勇よりもむしろ兵略に長《た》けた武士として定評があった。いわば、織田政権における羽柴秀吉である。
当の秀吉は毛利攻略を命ぜられ、いずれ、この吉川、小早川の連合軍と戦わねばならぬと思ってきた。その機会は、高松城を攻めたときにやってきた。
攻めがたい高松城を陥《お》とすために、秀吉は周りの川をせき止めて、盆地の中心にある城を水没させるという手をとった。こうして城を孤立させ、兵糧、援軍の補給を断ち、自落《じらく》するのを待とうというのである。
しかし、毛利側も高松城をむざむざと取られては一大事であるから、吉川元春、小早川隆景が大軍を率いて、高松城の後詰《ごづ》めに入ったのである。
ここにおいて、織田家の最大の方面軍である秀吉軍と、毛利家の最大の軍団である吉川、小早川軍団との対決が起こった。
これは事実上、毛利が勝つか、織田が勝つか、その帰趨《きすう》を決める戦いといっていい。
その戦いに際して、現地司令官の秀吉は、あえて信長の出馬を求めた。
秀吉軍だけで、つまり三万五千の軍勢だけで、毛利の三万を相手にするのは危険である、という考え方もあった。
しかし、実は秀吉には自信があった。同数とはいえ、秀吉軍は百戦錬磨《ひやくせんれんま》の勇将猛卒を備えた上に、鉄砲も多く所持している。単独でも勝つ自信があった。
しかし、もし負けたら重大な責任問題になるし、勝ったところで、あまりに織田軍団の中での地位が高くなりすぎるという危険があった。
秀吉は、そういう点には実に用心深いのである。卑賤《ひせん》の身から出世しただけに、あまりの異数《いすう》の出世は同僚の反感を買う上に、主人にも睨《にら》まれる可能性があるということを熟知していた。
そのために秀吉は、最後の仕上げを信長にと望んだのである。
実は、これが本能寺の変の原因にもなった。
信長は秀吉を応援するために、まず明智軍団を派遣し、なおかつそのあと少人数で京都《きようと》に入った。京に入ったがゆえに、それが光秀にとって千載一遇《せんざいいちぐう》の好機と、反乱を起こさせるきっかけとなってしまったのである。
そういう意味でいえば、本能寺の変の引き金は秀吉が引いた、ともいえた。
秀吉は、当然そのことを信長に謝罪しなければならなかった。もちろん、それは秀吉の責任というわけではなかったが、そのきっかけとなったことはまぎれもない事実である。
「上様」
と、秀吉は地面に頭を擦《す》りつけて、
「申し訳もござりませぬ。このたびのことは、拙者《せつしや》めの落ち度でござりました」
信長は、けげんな顔をした。
「上様の御出馬《ごしゆつば》を仰ぎ、そのことで明智めの反乱を招いたことでござります」
「そのことか。いや」
信長は笑って、
「いや、余も油断であった。まさか日向《ひゆうが》が反旗を翻《ひるがえ》すとは夢にも思わなんだため、わざわざ京の都に少人数で行くという、いま考えてみれば虎《とら》の尾を踏むような真似《まね》をしてしまった。まったく、油断も隙《すき》もない世の中じゃの」
信長は、そう言って笑った。
秀吉はほっとしたが、この際ひとつ疑問が湧《わ》いてきた。
信長は、なぜあのとき京都にいたのだろう。
信長は、たしかに最初は、尾張《おわり》の小大名であったころは、京都に入ることを念願とし、流浪《るろう》の足利義昭《あしかがよしあき》を室町《むろまち》幕府第十五代将軍に押し上げてからは、京都に滞在していたことは何度もあった。
しかし、時の帝《みかど》、正親町《おおぎまち》天皇と対立してからは、最近二年間はまったく京に足を踏み入れていないはずなのである。
それなのに、どうしてわざわざ少人数で京都へ行ったのか。
「そこよ、猿《さる》。いや、秀吉」
信長は、問われてにやりと笑った。
「まあ、ついて参れ」
信長はひとり、家来たちを遠ざけて陣幕の奥に立った。秀吉はそのあとをついていき、信長の背後にひざまずいた。
「だれもおらぬか」
信長は、あたりをうかがって言った。
「はい。人払いいたしました」
秀吉はわかっていた。あうんの呼吸である。こういうとき、信長は何か秘密の話をしたいのだ。
「筑前《ちくぜん》。余はあのとき、畏《かしこ》きあたりよりの御内意《ごないい》として、いまの帝が退位され誠仁《さねひと》親王に位をお譲りになり、そして、余はその新しき帝より関白《かんぱく》に任ぜられるとの知らせがもたらされたのだ。そこで、余は京へ行った」
「では」
秀吉は、事態を知って青ざめた。
「それはもしかすると――」
「そのとおりだ」
信長が言った。
「これは罠《わな》よ。余をおびき出して、明智に討たせるという算段であろう」
「明智殿。いや日向は、そのことを白状いたしましたので?」
「いや、何も言わぬ」
信長は首を振って、
「あの男め、あやつも男らしくすべてを一人で背負って、地獄へ行きおったわ」
秀吉は、信長を見上げていた。
信長は、一人で深くうなずいて、
「だが、余にはわかっておる。光秀があのような大それたことを決意したのは、おそらく京の公家《くげ》どもが煽動《せんどう》したのであろう。そして、その背後には、あの御方《おかた》がおられるにちがいない」
「あの御方とは?」
秀吉は、ごくりと唾《つば》を飲み込んだ。
もちろん、それはだれのことであるかわかっていた。時の帝、正親町天皇である。
信長も、その名はあえて口に出さずに、
「まあ、見ておれ。この毛利攻めが終わったら、余はふたたび京に戻る。二万の軍勢を率いてな。そしてそのとき、この国は大きく変わることになるだろう」
秀吉は、顔色を変えて膝《ひざ》を乗り出した。
「上様、まさか」
秀吉は、一つの危険な事態を想定していた。
それは、信長が御所《ごしよ》に焼き討ちをかけ、正親町天皇以下、公家たちを殺戮《さつりく》することである。
なにしろ、一千年間だれも手をつけなかった聖域、比叡山《ひえいざん》を焼いてしまったほどの信長である。そういうことをやりかねない、と秀吉は思ったのである。
「いや、そこまではせぬから安心せよ」
信長は、秀吉の心中の杞憂《きゆう》を察して言った。
「余も、このたびの反乱において悟るところがあった。これからは、むやみやたらに手荒《てあら》なことはせぬ」
信長は、はっきり言った。
「左様《さよう》でござりましたか」
秀吉は、ほっとして言った。
実のところ、信長ほど仕えるのに難しい大将はいないのである。一度その激怒を招くと、周囲の人間ははらはらしながらも、怒りがおさまるのを待つしかない。
その激怒は、これまでにもしばしば無理無体《むりむたい》な、あるいは無惨《むざん》なことを繰り返してきた。たとえば、比叡山の焼き討ちもそれであるし、老臣|佐久間信盛《さくまのぶもり》の追放、荒木村重《あらきむらしげ》の一族皆殺しなど、みなそれである。
(上様も、やはり光秀めの反乱は相当にこたえたとみえる)
秀吉は、そう思った。
なにしろ危うく股肱《ここう》の臣に寝首を掻《か》かれるところだったのである。それが信長の人生観に対して甚大な影響を与えないはずがない。
しかし、秀吉がいちばん恐れていた事態にはなりそうもなかった。
秀吉がもっとも恐れていた事態とは、信長が猜疑心《さいぎしん》の塊《かたまり》となり、これまで以上に部下に対して疑いの目で見ることである。それは幸いにもなくなった。
大局的見地から見れば光秀の反乱は、信長にこれまでの強硬路線への反省をうながし、なおかつ織田軍団の結束を固めるという、文字どおり「雨|降《ふ》って地|固《かた》まる」の効果があったといえるものなのかもしれない。
「ところで、目下《もつか》の毛利攻めだが」
と、信長は毛利攻めに話を戻した。
「左様、いかがなされます」
秀吉は問うた。信長は、
「まず吉川《きつかわ》、小早川の両川《りようせん》に、我らの武威を思い知らせてやろう。すべての話はそれからだ。もっとも、いまのうちに降伏するならばそれもよい」
「降伏とは、あの条件でござりますか」
秀吉は言った。
条件とは先に信長が命じたもので、すでに安国寺恵瓊《あんこくじえけい》を通じて毛利方には通告してある。
それは、毛利家がその九カ国のうち、もっとも西寄りである長門、周防、安芸、石見の四カ国だけを残し、残りの五カ国すなわちこの備中、そして備後、美作の一部、そして伯耆、出雲の五カ国を織田家に譲る、というものである。
攻め滅ぼすかわりに国を半分以上よこせ、というものだ。これはたしかに、要求としては法外なものであった。
「筑前。備中、備後、美作の三カ国でよい」
信長は、突然言った。
「は?」
秀吉は耳を疑った。
毛利九カ国のうち五カ国をよこせ、というのが信長の当初の要求であったのに、それを信長は、三カ国でいいということに変えたのである。
秀吉は、信長の真意をはかりかねて不審な表情をした。
「よいのだ。身代《しんだい》のうち半分を取り上げるといえば、やはり人間は死にもの狂いで抵抗する。そうさせてはならぬということを、余は本能寺で学んだのだ」
「しかし、三カ国でよいとなれば、毛利は残り六カ国を有する大大名として、その力を保ち得ます」
秀吉は言った。
つまり、四カ国程度の小大名になるならともかく、六カ国残してやるということは、いずれ信長の天下統一に対して障害になるではないか、ということである。
室町の昔から、あまりに大きすぎる大大名は、主家《しゆか》をないがしろにすると相場が決まっている。
「小早川に使いを出せ」
と信長は、毛利方でもっとも物の見える軍師格である小早川隆景への使いを命じた。
「安国寺を差し向ければよかろう。とにかく、人質を差し出せと言え。たしかな人質とその三カ国を差し出せば、毛利を攻め滅ぼすことはせぬ。だが、もし逆らえば――いや」
信長は、それ以上言わなかった。
明らかに信長は変わったと、秀吉も思った。
昔の信長なら、その先はこう続くはずだ。
「余の意に逆らうならば、皆殺しにする」
だが、秀吉はこのようなやり方には反対であった。
秀吉も、この戦国に生きる武将の一人だから、人を何人も殺してきたということは認めざるを得ない。しかしながら、そういう中でも秀吉は、もっとも人を殺すことを忌《い》んできた武将の一人である。
「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」というのは、中国の孫子《そんし》にある兵法の極意である。秀吉はもちろん、そんな唐《から》の国の兵書は読んだことも見たこともなかったが、その鉄則をもっとも体得しているのが秀吉であることも、また事実であった。
「わかり申した」
秀吉は頭を下げて、
「ただちに、恵瓊めを毛利の本陣に差し向けましょう」
信長の意を体《たい》した安国寺恵瓊は、その日のうちに小早川隆景の陣所に赴いた。
恵瓊は、この毛利の本国安芸(広島県)生まれの僧侶《そうりよ》であり、その謀才《ぼうさい》を買われて秀吉の家来となった。そこで、僧侶には姓がないので安国寺を姓とし、いわば半僧半俗《はんそうはんぞく》の風体で秀吉に仕えている。
もちろん恵瓊は安芸生まれだから、その言葉の訛《なま》りもしゃべれたし、隆景とは何度も講和交渉で顔を合わせ、顔見知りであった。
「御坊《ごぼう》。今度は何をしに参られた」
隆景は、面長で背の高い、均整のとれた体躯《たいく》の持ち主である。顔は、戦国武将には珍しく白く、そして太い眉《まゆ》と細い目がなんとも奇妙に調和した、一度見たら忘れられない顔であった。
その隆景は、祖父元就の血を引いて、毛利家ではもっとも謀才に富む男というのが衆目《しゆうもく》の一致するところであった。
「和の条件でござるわい」
恵瓊は、隆景の前にどっかと腰をおろすと、まずそう言い放った。
「五カ国をよこせ、さもなくば皆殺しということか」
隆景は、苦笑して言った。こんな条件が、通ると思っているのだろうか。
「いえ。その五カ国はあまりにも欲をかきすぎると、上様のご判断でござる。なにとぞ美作、伯耆、備中の三カ国を賜《たまわ》りたい。これにて、当織田家は矛《ほこ》をおさめる所存でござる」
「それだけでよいのか」
隆景は、意外な顔をした。
「あとは人質」
抜かりなく、恵瓊はつけ加えた。人質を取らねば、毛利家が織田家に臣従したことにならないのである。
「ふん」
隆景は、腕組みをして考えていた。
実のところ、魅力的な条件である。
強硬論を唱える者が多い毛利家の中にあって、隆景だけは信長の実力を見抜いていた。
このまま戦えば、毛利側は多大な損害を出し、おそらくは壊滅させられるだろう。そうなれば、国が残るどころではない。一族皆殺しに遭《あ》うことになる。
それならば早いうちに手を打って、家来として頭を下げてしまうのもいいと考えていたところであった。
それに、注目しなければならないのは、信長の運の強さだ。
信長は、数々の幸運に恵まれている。
ずっと昔のことでいえば、そもそも桶狭間《おけはざま》で今川義元《いまがわよしもと》を討ち取ったこともたいへんな幸運であった。そして、最大の敵であった武田|信玄《しんげん》も、信長との雌雄《しゆう》を決する前に病死し、上杉|謙信《けんしん》も同じく病死した。
そして、その運をいっさい帳消しするような目に遭うところであった本能寺の変も、なんとか切り抜けた。
これは、信長に天運がついているとしか思えない。そういう天運のついている者に逆らったところで道は開けないということを、隆景は兵法を研鑽《けんさん》するうちに気づいていたのである。
「いかがでござる」
恵瓊は上目遣いに、上座の隆景を見た。
「なるほど。当家にとっては、受け入れられぬ話ではないな」
隆景は、そう言った。
恵瓊は喜びの色を浮かべ、
「では、ご承引《しよういん》くださるのか」
「いや、待て待て。そう簡単にはいかぬ」
隆景の脳裏に浮かんだのは、実兄の吉川元春の存在であった。
元春は隆景と違って、勇猛一点張りの男である。戦わずして、たとえ五カ国から三カ国へ減ったとはいえ領土を割譲するようなことを策していると知れば、兄は黙っていない。下手をすると、その兄に斬《き》られる恐れすらあった。
隆景としては、毛利家を存続させるには、いま織田家との講和を結ぶ以外にないと考えている。しかし、中には元春のように、とにかく相手を倒してしまえばいいではないか、と考える強硬派も多数いるのである。
「せっかくだが、おそらく受けられぬ」
隆景は、やはりそう言わざるを得なかった。
恵瓊はなんとも言えぬ、すがるような目で隆景を見た。
隆景は、ふたたび首を振って、
「わしはよいのだ。だが、兄が黙っていまい。少なくとも一戦《ひといくさ》せねばわからぬと言っているのだからな」
実は、織田と毛利の戦いはすでに一度あった。しかし、それは水軍同士の決戦であった。
毛利家は、信長と敵対する摂津《せつつ》(大坂《おおさか》)の本願寺《ほんがんじ》と同盟を結び、信長が本願寺を包囲したのに際して、毛利方はその兵糧《ひようろう》補給を務めることにしたのである。
というのは、石山《いしやま》本願寺は、海に面しているからだ。
信長は、陸側をすべて包囲し兵糧の補給を断って、この巨大な本願寺城を兵糧攻めにしようとした。ところが敵もさるもの。毛利と同盟を結び、海側から兵糧を運ばせたのである。
信長は、これを阻止しようと、配下の水軍に毛利方の村上水軍と戦わせた。だが、結果は惨敗《ざんぱい》であった。毛利の村上水軍の巧みな戦術の前に、織田の水軍は呆気《あつけ》なく敗れ去った。村上水軍の秘密兵器、焙烙玉《ほうろくだま》に敗れたのである。
焙烙は、今日でいう焼夷弾《しよういだん》であって、敵の船に当たると、ちりぢりに弾《はじ》けて火災を起こす作用がある。そのために、木造船は呆気なく燃え上がり、灰になってしまうのだ。
村上水軍は、この焙烙玉をもって日本無双の水軍となっていたのだ。
しかし、信長はこれに対抗手段を考えた。
それは、鉄甲船と呼ばれるべきものであった。つまり、木造の船を鉄の薄板を貼《は》って装甲するということによって、焙烙玉の焼夷能力を無効にしてしまうというものである。
しかも、その船はとてつもなく巨大であって、村上水軍の船が束《たば》になってもかなわないほどの銃火器《じゆうかき》を備えていた。大砲と数十|挺《ちよう》の鉄砲である。
この織田に属する九鬼水軍の鉄甲船艦隊と、村上水軍との決戦は、最初の決戦が行われたのと同じ、摂津の国、本願寺城の前海である木津《きづ》川口において行われた。
そして織田軍は、今度は完膚《かんぷ》なきまでに村上水軍を撃ち破ったのである。
したがって、今度の遠征にも、九鬼水軍は瀬戸内海を通って備中の国まで進出していた。陸路で敗れた毛利軍が、村上水軍の船によって逃亡するようなことがあれば、それを今度は鉄甲船で叩《たた》こうというわけである。
隆景は、織田軍の実力、戦闘能力も評価していたが、それ以上に評価しているのは、その経済力である。
毛利氏は大国とはいえ、その兵隊はほとんど領内の百姓を徴発したものである。いわば徴兵制であった。しかし、信長の軍団というのは、諸国の浪人やあぶれ者を金で雇った傭兵《ようへい》なのである。
一見、たしかに傭兵集団というのは、風向きが悪くなるとすぐ逃げてしまうという欠点があり、一方、徴兵制による兵隊は苦戦に強いという利点はある。
しかし、いかんせん徴兵制の最大の弱点は、年間を通して戦えないということであった。これに対して信長の軍隊は、その豊富な補給能力とともに一年中、戦うことができる。
こういう軍隊と戦えば、おそらく勝つことはできないだろう、というのが隆景の読みであった。しかしながら、その考え方に納得しない者も多い。
「やむを得ぬ仕儀《しぎ》だな」
隆景は言った。まったく戦いをしないで講和をするのは無理である、ということを恵瓊も悟らざるを得なかった。
恵瓊の報告によって、五万の信長軍と三万の毛利軍は、高松城を横に見る形で激突した。
結果は、呆気なかった。
信長軍の誇る鉄砲隊の総攻撃によって、毛利軍はこれまでにない恐怖を覚え、つぎつぎと敗走した。中国十一カ国の覇者であったはずの毛利家は、長年絶対的な地位を築いてきた反動によって、実戦経験が不足していたのである。
これに対して信長軍は、つねに天下布武《てんかふぶ》のために強化され、百戦錬磨の軍団であった。
その差が出たのである。
信長は、ただしこれまでのような徹底的な追撃の仕方はやめ、毛利軍が敗走したあと、ふたたび高松城周辺に本陣を置き、静観の姿勢をとった。
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毛利《もうり》軍は敗走し、本城である安芸国郡山《あきのくにこおりやま》城へ入った。
郡山城では、若い当主毛利|輝元《てるもと》を中心に、その叔父《おじ》である吉川元春《きつかわもとはる》、小早川隆景《こばやかわたかかげ》が激論を交わした。
隆景は言った。
「この際、織田《おだ》家の条件に応じて、和を結ぶべきでござる。最初は五カ国|割譲《かつじよう》と申していたが、いまは三カ国に減った。この機を逃しては、千載《せんざい》に悔いを残すことになりまするぞ」
だが、兄の元春は首を振った。
「それはできぬ。戦わずして敵に屈するなど、武門の恥じゃ」
「戦わずしてと兄者《あにじや》はおっしゃるが、すでに戦い、敵の力量はよく見極めたはず」
隆景は反論した。
「そのほう、臆病風《おくびようかぜ》に吹かれたのか」
「臆病風に吹かれたのではござりません。敵の力量を正確に推し量り、我が家の立つべき道を見定めたのでござる」
「だが、信長は三カ国と言うが、三カ国ですむ保証があるのか。もし、これを受け入れたら、つぎは全|身代《しんだい》をよこせと言ってくるかもしれぬぞ」
「そのときは拙者《せつしや》が身を挺《てい》してでも、この毛利本家だけは残すことをお約束申す」
隆景は、きっぱりと言い放った。
元春は腕組みをして、しばらく考えていた。
実は元春も、このままでは毛利家が滅びるという危機感を抱いていたのである。しかしながら、まだ余力のあるうちに降伏することは、どうしても武士としての意地が許さなかった。
(だが、このままではいかん。隆景にすべて任せるか――)
ひそかに、そう思った。
隆景は、毛利|元就《もとなり》の息子のうち、もっとも優秀な頭脳を持っている。武将としての戦闘力は、元春のほうが上かもしれないが、隆景には、それに勝《まさ》る謀才《ぼうさい》がある。
元春は、とうとう決断した。
「よかろう」
元春は言った。
「そちの存分に任すがよい。だが、わしは力を貸さぬぞ」
隆景は、驚いて元春を見た。
それまで黙っていた、甥《おい》で本家当主の輝元が言った。
「叔父上は、いかがなされるおつもりか」
元春は、年若の甥に対しても家臣としての礼をわきまえ、一礼したあとに言った。
「拙者、嫡子元長《ちやくしもとなが》に家督を譲り、隠居いたす所存でござる」
「隠居」、この言葉には、輝元も隆景も驚いた。輝元は、呆気《あつけ》にとられて何も言えなかった。
代わりに隆景が言った。
「兄上。隠居とは、いかなるご所存でござるか」
「決まっておろう。わしは、降参することを潔《いさぎよ》しとせぬ。だが、このままでは本家は立ちゆかぬ。されば、わしが身を引くしか物事の解決はできまい」
元春は、もはや決心を翻《ひるがえ》さなかった。
天正《てんしよう》十(一五八二)年七月十五日。毛利家は、織田|信長《のぶなが》に対して、降伏を申し入れた。
信長と秀吉《ひでよし》が率いる五万の大軍は、毛利の本拠、安芸国郡山城に入城した。ここで臣従《しんじゆう》の誓いを受けるためである。
当主輝元は、叔父の小早川隆景を引き連れ、信長の前に手をついた。
「中納言《ちゆうなごん》殿。まあ、お手を上げられよ」
信長は、ていねいに言った。
「このたびのご決断、両家にとって誠に祝着《しゆうちやく》でござる」
「ははっ」
輝元は、信長の威《い》に押されて、またふたたび顔を伏せた。
「右大臣様」
今度は、隆景が言った。
「我が毛利家では、当主輝元が養嗣子《ようしし》にて秀元《ひでもと》を、小早川家では同じく嗣子の秀包《ひでかね》を、人質として差し出す所存でござりまする。なにとぞ、お受けくださりませ」
「ふむ。そなたは左衛門佐《さえもんのすけ》じゃな」
と、信長は隆景の通称を呼んだ。
「いかにも。小早川左衛門佐隆景にござりまする」
「そなたは、毛利の知恵袋として名高い。余《よ》も、そなたの軍略の才は耳にしておる」
「恐れ入ります」
隆景は、頭を下げた。
しかし、信長は表情をやや硬いものにして、
「だが、そなたの兄である吉川元春はどうした。毛利の両川《りようせん》と讃《たた》えられた二人のうち、一人しかおらぬとは、いかなるわけか」
輝元と隆景は顔を見合せたが、隆景が代表して言った。
「兄元春は、家督を嫡子元長に譲り、隠居いたしましてござりまする」
「なに、隠居。隠居とは、いかなるわけか」
「はあ」
隆景は腹に力を込めて、
「降伏は武士の恥。主家《しゆか》のためとはいえ同意することはできぬと、かように申しておりました」
「そうか」
信長はうなずいて、
「どうしても気に入らぬとあれば、やむを得ぬ。だがそれならば、なぜ新しい吉川家の当主がここに来ぬ。さもなくば、臣従を誓ったことにはなるまい」
厳しい咎《とが》めるような口調だった。
隆景は、顔を上げると笑みを返し、
「すでに、次の間に控えております」
吉川元長が現れた。
元長は、当主輝元よりは年上だが、まだ若い。
その元長が引き連れたのは、弟の広家《ひろいえ》であった。
「これなるは、我が弟、吉川広家にござりまする。私は、まだ子がござりませぬゆえ、この弟を人質として差し出したく存じまする」
「よかろう。よき心がけじゃ」
信長は、満足そうにうなずいた。
「さて、左衛門佐。そちが、我が家来となるならば、一つ命じたき儀《ぎ》がある」
「はっ、なんでござりましょう」
「そのほうも存じておろうが、余の望みは天下に武を布《し》く。つまり、この日本を統一することにある。そのためには、あと四国と九州、関東、奥州《おうしゆう》を押さえねばならぬ。それゆえ、そちに九州征伐の先陣を命じる」
輝元も隆景もその命令を受け、ただちに軍勢の準備を始めた。
八月に入って、温暖な中国地方での稲刈《いねか》りがすむと、毛利軍一万五千は先鋒《せんぽう》として、安芸郡山城を出発した。
後詰《ごづ》めには信長、秀吉率いる本軍五万がいる。総勢六万五千の大軍である。
ただし、信長はこの軍を、むやみやたらに攻め込むことに使おうとはしなかった。これだけの軍勢を一度に動員できる大名は、日本広しといえども織田信長ただ一人である。信長は、戦わずして勝つことをめざしていた。
九州は、北九州の肥前《ひぜん》、筑前《ちくぜん》、豊前《ぶぜん》あたりを根城《ねじろ》に勢力を伸ばしている龍造寺隆信《りゆうぞうじたかのぶ》、および中九州、筑後《ちくご》、豊後《ぶんご》、肥後《ひご》、日向《ひゆうが》あたりを勢力圏とする大友宗麟《おおともそうりん》、そして薩摩《さつま》、大隅《おおすみ》から日向への進出を果たした島津義久《しまづよしひさ》の三者による鼎立《ていりつ》状態であった。
信長は、まずこの中で、最近龍造寺、島津両氏の圧迫を受け、もっとも勢力が衰えている豊後の大友宗麟に使いを送った。
「傘下《さんか》に入れ」
という使いである。上使《じようし》は秀吉の弟、羽柴秀長《はしばひでなが》であった。
大友宗麟は、かつては九州一の威勢を誇る大名であった。宣教師からいち早く南蛮《なんばん》の文明を取り入れて、大砲を造り、種子島銃《たねがしまじゆう》を大量採用して、軍備の増強に励んだときは、その努力が功を奏して、一時は九州の覇王ともいうべき勢いを示した。
ところが、勝利に驕《おご》った宗麟は、しきりに酒に溺《おぼ》れ、女に淫《いん》するようになった。そして、家臣の妻女でも、気に入った女がいると無理やり取り上げる、という横暴すら行うようになり、人心が離れた。
そして、天正六(一五七八)年十一月。薩摩、大隅の二カ国を完全に統一し、体制を固めた島津氏が北上し、大友氏の領国日向に進入した。
宗麟は、六万の兵をもって島津征伐に乗り出したが、慢心と不摂生のために、二万に満たない島津軍に大敗して壊滅状態に陥り、戦死者は三分の一の二万人にのぼる、という大敗北を喫《きつ》した。
世に言う耳川《みみかわ》の合戦である。これは、大友氏が領国の体制を確立して以来、初めてだが最大の敗北であった。
この敗北によって、大友氏はそれまで手にしていた九州九カ国のうち六カ国、肥前、豊前、筑前、筑後、豊後、肥後のうち、豊後と肥後を残して、ほとんどその残りを龍造寺氏と島津氏に奪われるという屈辱をなめた。日の出の勢いの両氏に比べ、まさに豊後は日の沈む国であった。
ただ、宗麟は家来に恵まれていた。立花道雪《たちばなどうせつ》、臼杵鑑速《うすきあきずみ》、吉弘鑑理《よしひろあきなお》、という豊州《ほうしゆう》三老と呼ばれる名家老たちがおり、さらに武勇の誉《ほま》れ高い高橋紹運《たかはしじよううん》がいた。
紹運も、もとは吉弘家の一族である。さらに、高橋紹運の息子が望まれて立花家に養子に入り、立花|宗茂《むねしげ》と名乗っているが、この立花宗茂も、養父道雪に勝るとも劣らぬ勇将として有名だった。道雪はすでに老年だが、宗茂はまだ若い。
この優秀な家臣団が、織田家の申し入れを検討した結果、受けるべしとの結論に達した。
宗麟も、酒に溺れてはいるものの、九州六カ国の覇王として名を轟《とどろ》かせた男である。利害の判断は、まだ衰えていなかった。
「わかった。織田家に臣属するといたそう」
やむを得ぬことと、だれもが割りきった。かつて六万の大軍を動員できた大友家は、現在では一万も動員できるかどうか、それほど国力が衰えているのである。まさに、やむを得ぬ仕儀であった。
大友宗麟降伏の知らせを受けた織田・毛利連合軍は、関門海峡を渡って、筑前の立花城に入った。
立花城は、眼下に博多湾を見下ろす小高い山の上に建つ山城である。ここは、堺と並んで巨万の富を産み出す日本有数の貿易港・博多港を守護する城であり、大友氏にとっては、本城の豊後臼杵城に匹敵する価値のある城であった。
城主は、道雪の婿《むこ》養子、立花宗茂である。宗茂は、道雪の一人娘で女丈夫《じよじようふ》の名が高いァ千代《ぎんちよ》と夫婦になり、この城を守っていたのである。
信長はその城で、大友氏の主だった面々と対面した。
宗麟は、もはや屈辱を通り越し、無表情になっていた。考えてみれば、この結果はみずからが招いたのである。宗麟にしてみれば、豊後、肥後の二カ国さえ保てれば、あとは不満はないのであった。
「大友|義鎮《よししげ》であるな」
と、信長は宗麟の本名を呼んだ。ちなみに、宗麟は法号である。
「左様でござります」
称号もなしに、本名を呼び捨てされる屈辱に宗麟は耐えた。だが、控えていた立花道雪や宗茂の顔色は、さっと変わった。
「そちの家臣には血の気の多い者が多いようだが、このことについて不服を言う者はおらなんだか」
信長は、あえて問うた。
「いえ、不服など。上様のご意向には逆らえません」
と、宗麟はあくまでへりくだった。
「それでよい。当座の引き出物に茶入れを遣わす」
と、信長は茶道の開祖、村田珠光《むらたしゆこう》が賞愛したと伝えられる茶入れを、宗麟に与えた。
「かたじけのうござりまする」
宗麟の顔は、喜びに輝いた。
宗麟に茶の嗜《たしな》みがあり、しかも相当な数奇者《すきもの》であることを、信長は知っていたのである。
「さて、道雪」
と、信長は道雪のほうは号で呼んだ。
「そちは、九州一の武勇と誉れ高い者であるそうな」
「いえ。さほどのことはござりませぬ。ただ、この歳《とし》になっても戦場には真っ先に駆けていきますゆえ、そのようなことを申す者もござります」
道雪は、静かな口調で答えた。ただし、目だけは爛々《らんらん》と輝いている。
「そうか、その足で駆けられるのか」
信長は、道雪を見て言った。
織田側の家臣から、どっと笑い声が起こった。
道雪は足を痛めており、歩行も不自由のように見受けられた。どう見ても、速く走れる身体ではない。
「拙者、この歳ゆえ足が萎《な》えておりますが、戦場へは駕籠《かご》に乗り、参ります」
「ほう。そなた、いくつじゃ」
「当年とって、六十八になりまする」
一座から驚きの声があがった。
道雪は、髪を剃《そ》り落としているせいもあるが、精悍《せいかん》で、肌の色もつやつやとしており、とても六十八には見えない。
「駕籠に乗るというが、戦場では後れをとることはないのか」
「ござりませぬ。拙者の駕籠は山駕籠で、屈強な者六人が担ぎ、そして、その周りを薙刀《なぎなた》を持たせた百名の若侍で警護させております。この駕籠の行くところ敵なしで、さえぎった者はおりませぬ」
「ほう、それは上々《じようじよう》。では、そなたには引き出物としてこれを遣わそう」
と、信長は刀を一振り、道雪に与えた。それは、備前国長船《びぜんのくにおさふね》の住人、兼光《かねみつ》の名刀であった。
「かたじけのうござります」
道雪は一応、礼を述べた。
「九州にはもう一人、駕籠で指揮をとり、さえぎる者なし、という男がいるそうだな」
道雪は、はっとした。それはだれのことをいっているのか、言うまでもなかった。龍造寺隆信である。島津、大友と九州を三分し、いまや日の出の勢いの豪勇、五州二島《ごしゆうにとう》の太守とも豪語する龍造寺家の当主であった。
この龍造寺隆信も、駕籠で指揮をとる。ただし、その理由は道雪とはまったく違う。
道雪が駕籠を使うのは、壮年期に雷に撃たれ、下半身が不随になったからである。が、隆信が駕籠を使うのは、太りすぎのあまり馬にも乗れないからである。
しかし、隆信の勇名も九州に轟いており、その駕籠の行くところ敵なしと言われているのも、また事実であった。
「どうじゃ。どちらの駕籠乗りが強いか、余に見せてくれぬか」
「それは、龍造寺攻めの先陣を務めよ、ということでござるか」
信長は、うなずいた。
「奉公の手始めには、一働き所望するのが世の習いじゃ。異存はあるまい」
「ござりません」
道雪は一礼して、
「この拝領《はいりよう》した刀を持って、みごと隆信めの首をあげてご覧にいれましょう」
「よくぞ申した」
信長は、満足げにうなずいた。
龍造寺家にも、降伏を勧告する使者は送られていた。
しかし、隆信はこれを拒否した。
九州のうち五州を治め、龍造寺家の紋所(十二日足《じゆうにひあし》)のごとく日の出の勢いにある隆信にとって、戦わずして降参するということは、とんでもないことであった。
ましてや、日ごろから宣教師と深く交わり、中央の情勢にもくわしい大友宗麟と違って、隆信は織田信長という男がどれほどの実力の持ち主かも知らないのであった。
今度は、新たに降伏した大友軍が、立花道雪を大将とする一万の軍勢を率い、龍造寺家の領国筑前に侵入した。総勢は、毛利勢を合わせ七万五千である。
これに対し、龍造寺隆信は領国に動員令を発し、総勢五万人を動員して、これを迎え撃った。
信長は、外交的な手も打った。
かねてから龍造寺家に服属はしていたものの、龍造寺の強引なやり方に深く不満を抱いていた肥前長崎の大名、有馬晴信《ありまはるのぶ》に対し、黒田官兵衛《くろだかんべえ》を送り込み、龍造寺家に反旗を翻すように説得したのである。
晴信も、官兵衛とともにキリシタンであった。
元来、晴信は領国に平戸《ひらど》という、これも堺、博多ほどではないが日本有数の貿易港を抱えており、昔から宣教師との交流も深い。
その関係をたどって、信長は官兵衛を派遣し、説得にこれ努めたのである。晴信は、簡単に応じた。そしてまた、筑前地方の豪族で、かつて隆信に人質である幼い息子を殺された恨みを持つ赤星統家《あかぼしむねいえ》らも、信長の呼びかけに応じ、龍造寺家に反旗を翻すことを決めた。
これより、龍造寺の軍勢は五万から四万二千に減じた。しかも、龍造寺家は全体に装備が古く、鉄砲隊はわずか三百しかいない。
対する信長軍は、本軍に三千の鉄砲隊を備えている。その兵力差は十倍である。
織田軍七万五千は西国《さいごく》街道を南下し、迎撃した龍造寺軍と肥前国、田手畷《たでなわて》で激突した。
この戦いで、信長軍は鉄砲隊を中心に龍造寺家の前衛を撃破し、その思いもかけぬ攻撃に驚いた。龍造寺軍は、態勢立て直しのために本城である|水ヶ江《みずがえ》城まで引き返した。織田軍はただちに移動し、水ヶ江城を遠巻きに取り囲んだ。
信長軍の先鋒《せんぽう》たる大友軍立花勢の戦意は、高揚していた。
実は、かつて大友軍は、この佐賀平野で龍造寺隆信に大敗を喫したことがある。それは、元亀《げんき》元(一五七〇)年の夏のことであった。
当時、新興勢力であった龍造寺家と、全盛期を迎えていた大友家がその対立を深め、当主大友宗麟は六万の大軍を佐賀平野に差し向け、この水ヶ江城を取り囲んだのである。
一方の龍造寺軍は、わずか五千の兵力しかなく、どう考えてもこの戦いは大友軍の圧勝に終わるはずであった。
ところが、龍造寺家には鍋島信生《なべしまのぶなり》という名家老がいて、夜襲の作戦を提案した。
まさか夜襲などありえない、とたかをくくっていた大友軍は、鍋島勢の夜襲を受けてさんざんに敗北し、大将大友|親定《ちかさだ》は鍋島家の臣、成松信勝《なりまつのぶかつ》に首を取られてしまった。
これは、龍造寺と大友の力関係を逆転させる、龍造寺家にとってはまさに信長の桶狭間《おけはざま》の合戦に匹敵するような大勝利であり、大友家にとっては屈辱の敗戦であった。
この敗戦に、立花道雪も従軍していた。いや、従軍していたどころの騒ぎではない。大将大友親定のもっとも近くに布陣し、事実上の副将格にあったのが、道雪なのである。
この、世に言う今山《いまやま》合戦は、大友家屈辱の歴史であり、その屈辱を雪《すす》ぐ日がついにきたのである。
道雪は、養子の宗茂を呼んで言った。
「明日、わしは龍造寺隆信の首を取らずば、生きて帰らぬ覚悟じゃ」
「父上」
宗茂は、吠《ほ》えるように言った。
宗茂はまだ若いながらも、父道雪の名を辱《はずかし》めぬ勇将との誉《ほま》れが高い。いや、それどころか、むしろ武勇に関しては道雪を上回るのではないか、と噂《うわさ》する者もある。
「拙者もお供します。龍造寺隆信ならびに鍋島信生の首を取り、みごと右府《うふ》の御前《おんまえ》に供えてみせましょうぞ」
戦いは翌日、夜明けを期して始まった。
数に勝《まさ》る織田軍は、水ヶ江城をひしひしと取り囲んだが、織田軍の鉄砲隊の恐ろしさを思い知らされた龍造寺軍は固く守って、撃って出ようとはしなかった。
鉄砲隊の出番がないとなれば、あとは白兵戦である。
道雪は、今度こそ先陣の功を果たそうと、用意の山駕籠《やまかご》に乗り、六人の若者に担がせ、周りを薙刀で武装した百人の家来を引き連れ、総勢一万の大友勢の先頭に立った。
大将が突撃するのだから、ほかの人間も見習わざるを得ない。
それに対して龍造寺勢は、数少ない鉄砲隊を城内に配置し、狙《ねら》い撃ちの態勢をとり、主将隆信みずからが精鋭を率いて、中央撃破の態勢をとった。先鋒の立花軍を撃破し、その勢いで中核の織田軍に迫り、主将を討ち取ることによって数の少ない不利を補い、戦《いくさ》を終わらせようというのである。
しかし、これは夜間ならともかく、見通しの利く昼間としては、あまりにも無謀な作戦であった。しかも、四万二千いたはずの龍造寺勢は、対戦した織田軍の精鋭を見て、戦意を喪失した。
ここで、隆信自身に人望があれば、まだ戦況は違ったものになっただろうが、結局、隆信が叱咤《しつた》しても軍勢は動かず、隆信の本軍のみが敵陣中に突入して残される形となった。
「退路を断て」
道雪は情勢を見て、すかさず命じた。
肥前の熊《くま》とも恐れられる龍造寺隆信だが、その軍には、つねに猪突猛進《ちよとつもうしん》のきらいがある。
道雪は、まず退路を断つことによって、じっくりと料理をしにかかったのである。
そして、その作戦は成功した。
道雪の意を受けた宗茂が大友軍の精鋭を率いて、龍造寺隆信軍と本軍との連絡を断った。孤軍として残された隆信勢は、せいぜい二千である。
「いまだ、者ども」
道雪は、信長拝領の備前長船の名刀を振りかざして、絶叫した。
「今山の屈辱を晴らすのはいまぞ。恐れるな。後ろを振り返るな。めざすは、龍造寺隆信の首ただ一つ」
龍造寺軍に比べて、立花軍の戦意は旺盛《おうせい》であった。
いっせいに鬨《とき》の声をあげて、四方八方から襲いかかる立花軍の猛攻を、龍造寺隆信はわずか一刻《いつとき》の間も支えきれなかった。
そして、周囲の旗本をことごとく討ち取られた隆信は、まさに駕籠一つで、わずかな近習《きんじゆ》とともに敵軍の真っただ中に取り残されたのである。
「龍造寺の御屋形《おやかた》とお見受けする。拙者は大友家家老、立花道雪にござる。御首《おんくび》を頂戴《ちようだい》つかまつる」
道雪は大音声《だいおんじよう》で名乗りをあげ、最後の突撃の命令を下した。
「おのれ、道雪」
隆信は歯噛《はが》みして悔しがり、刀を抜いて、ついに駕籠から降りた。
道雪は駕籠を担がせ、龍造寺隆信のもとへ突進した。
その最期《さいご》は、きわめて呆気《あつけ》なかった。
道雪の周りを守る薙刀《なぎなた》隊の若衆に四方八方から斬《き》りたてられた隆信は、まず最初に左腕を失い、つぎに喉首《のどくび》をしたたかに斬られ、のけぞったところにとどめの一撃を脳天に食らった。五州二島の太守とみずから豪語した男の、呆気ない最期であった。
戦いは終わり、龍造寺軍は主将龍造寺隆信、および家老龍造寺|長信《ながのぶ》ら一族の重鎮《じゆうちん》を失い、龍造寺家の知恵袋と言われた鍋島信生は敗軍の中、生け捕りにされた。
気がついてみると、当初は五万近くいたはずの龍造寺軍はすべて逃げ散り、佐賀平野に敵の姿はなかった。
その日の夕刻、総大将信長は、意気揚々と龍造寺家の主城である水ヶ江城に入城した。
首実検の座には、無念の形相で歯噛みした大きな首が一つ、引き出された。もちろん、龍造寺隆信の首である。
「みごと」
信長は、道雪ら立花一族の働きを激賞した。
「勇猛とは、そなたのことを申すのだな、道雪」
信長は大きな声で、道雪を誉《ほ》めた。
道雪とて、誉められてうれしくないわけがない。笑顔を押し隠して、一礼した。
「恐れ入りまする」
「そなたの息子、宗茂の働きもみごとであった。褒美《ほうび》に馬をとらせる」
「かたじけのうござります」
道雪が代わって礼を述べた。宗茂も傍《かたわ》らに控えている。
「さて、道雪。そちには何を褒美にとらそうか」
信長が言うと、道雪はそれを待っていたかのように膝《ひざ》を進め、
「是非《ぜひ》、願いのいただきものがござります」
「ほう。それは何か」
「鍋島信生めの首でござります」
道雪は言った。
道雪の心の中には、かつて今山の屈辱的な敗戦のことが、片時も離れることがなかったのである。
「なるほど、信生の首か」
信長は考えていたが、
「道雪。では、余からも頼もう。信生の首、余に買わせてはくれぬか」
「買うとおっしゃいますと」
「黄金十枚でどうかな。あるいは、馬でもよいが」
信長は言った。
「かの者の命を助ける、と仰《おお》せられる」
「うむ。あの男、なかなか物の役に立つ侍《さむらい》とみた。なにせ、かつて十倍以上の大軍を破ったほどの男だ」
信長はそう言ったが、道雪は顔をしかめた。その戦《いくさ》とは、大友家の屈辱的な記録なのである。
「かの者を憎む、そなたの気持ちはよくわかる。だが、道雪、考えてもみよ。すでに兵を失い、捕らえられ、動けぬ者の首を刎《は》ねたところで、そなたの武勇の誉れにつながるとは思えぬがの」
信長は、道雪の痛いところを突いた。
そのとおりだった。戦場で相まみえ、互角の戦いをして倒したならば誉れともなろうが、敗軍の途中に、しかも捕らえられた者の首を斬ったとしても、なんの名誉にもならない。
「よいではないか。そなたは隆信を討ち取り、この戦に勝ったのだ。もはや恥は雪《すす》がれた。あとは寛大な心を示すことこそ、武士の誉れというべきものだ」
「――わかり申した」
道雪は、うなずいた。
「父上」
宗茂が文句を言いかけると、
「言うな。右府様の仰せのとおりじゃ。わしは、恨みを水に流すことにした」
「よかろう」
信長は、莞爾《かんじ》として笑った。
「それこそ、名将と申すもの」
信長も満足していた。
鍋島信生は、信長の意を受けた秀吉の説得に応じて、秀吉に信長から預けられた形で仕えることに決まった。これを、寄騎《よりき》の制という。
同時に、信生は龍造寺隆信からもらった信の字を捨て、直茂《なおしげ》に改名した。鍋島直茂として、これからは織田軍の一翼を担うことになったのである。
九州の三大勢力のうち、大友の服属に続いて龍造寺が滅び、信長軍は九州のうち薩摩、大隅を除く七州を我が手に収めた。
あとは、この二州を治める島津だけが残っている。
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12
信長《のぶなが》は、島津《しまづ》家の当主|義久《よしひさ》に降伏勧告の使者を送った。
一刻も早く織田《おだ》家の配下となり、家臣の礼をとれというのである。
これに対し、ただちに島津の本拠|鹿児島《かごしま》城で重臣たちが集まり、対策を練った。
島津家は、当主義久の下に三人の弟がいる。義弘《よしひろ》、歳久《としひさ》、家久《いえひさ》である。いずれも武勇に長《た》け、四兄弟の結束は堅い。
さらに、家臣にも優秀な武将が大勢いる。その中で一人だけ挙げろといえば、新納武蔵守忠元《にいろむさしのかみただもと》であろう。
すでに七十近く、髪も髭《ひげ》も雪の如《ごと》く白い男だが、薩摩《さつま》一の豪傑として近隣諸国にその名は轟《とどろ》いていた。
その忠元と四兄弟のうちの歳久は、この勧告を受け入れるべきだと主張した。
二人とも時代を見る目を持ち、また歳久は、上方《かみがた》商人とのつき合いを通して、織田軍がいかに恐るべき力を持った、史上かつてないほどの強大な軍団であるかを知っていたのである。
「腰が抜けたか」
当主の義久は、吐き捨てるように言った。
「左様《さよう》ではござらぬ」
忠元は、義久を睨《にら》み返した。
「ならば、なぜ降伏なぞせよと言う」
「ほかに、道がないからでござる」
忠元は、冷静な口調で答えた。
「織田|右府《うふ》の軍勢は、十万とも十五万とも聞こえ、なおかつ上方《かみがた》のほうに、さらにこれに匹敵する兵力を備えております。しかも、その鉄砲隊は、あの天下一とうたわれた武田《たけだ》騎馬隊を撃破したほどの力を持つもの。それに引き替え、我が薩摩は、せいぜい薩摩、大隅《おおすみ》二カ国あわせても、五万の軍勢を擁すればいいところ。これでは、かない申さぬ」
「忠元、その五万は薩摩|隼人《はやと》の五万ぞ。上方の腰抜け武士とは、力も技も違う」
「でもござりましょうが、戦《いくさ》の勝敗を分けるのは個々の兵の力量にあらず、その装備であり、用兵であり、数でござります」
「武蔵殿。それは、あまりな暴言ではないかな」
当主のすぐ下の弟である義弘が、異を唱えた。
義弘は、兄義久以上の絶倫の武将として知られ、この男の行くところ敵なし、という噂《うわさ》があるほどの男である。
「暴言ではござらぬ。敵の力を正しく推し量り、我らの力と比べることこそ肝要。負ける戦をせぬのが、名将の道でござります」
「名将名将と言うが、臆病《おくびよう》のことを名将と言うのではないか」
末弟の家久が吠《ほ》えた。
これに対して、すぐ上の兄である歳久はたしなめるように、
「武蔵殿の話をよく聞くのだ。猪武者《いのししむしや》では戦に勝てんぞ」
「兄上こそ、臆病者では戦に勝てませぬ」
「なに! 拙者《せつしや》のことを臆病者と申すか。弟だといえ、許さんぞ」
歳久は、刀の柄《つか》に手をかけた。
「待て、ここは軍議の場ぞ。喧嘩《けんか》の場ではない」
さすがに見かねて、義久が一喝した。
「忠元。そちの言うことはわからぬでもないが、全九州にその名を轟かせた我が島津が、いかに大軍とはいえ、一戦も交えることなく降参したとあっては示しがつかぬ。ここは、是非《ぜひ》とも一戦交えるべきだと思う」
「御屋形《おやかた》様、もしその一戦を口実に、当家には服属の意志なしと、右府がこの国を滅ぼしにかかったら、いかがいたします。取り返しがつきませぬぞ」
「そのときは、人種《ひとだね》が尽きるまで戦うまでだ」
義久は言った。
「ただちに、織田家の軍勢を迎え撃つ態勢をとれ」
「先鋒《せんぽう》は、ぜひ拙者にお申しつけくだされ」
義弘が頭を下げた。
「よかろう。そちに命ずる。上方の腰抜け武士どもに、我が島津の武威《ぶい》をとくと見せてやれ」
「かしこまりました」
軍議の結果、交戦と決まり、義久は織田家の使いを褌《ふんどし》一丁の裸にして髷《まげ》を切った姿で縛り上げ、織田側の本営まで送り届けた。
信長は、それを知って激怒した。
「おのれ、田舎侍《いなかざむらい》め。目にもの見せてくれる!」
織田側も、ただちに軍議を招集した。
「拙者に、先陣をお申しつけくだされたく存ずる」
そう名乗り出たのは、小早川隆景《こばやかわたかかげ》である。先の龍造寺《りゆうぞうじ》攻めでは、立花道雪《たちばなどうせつ》ら大友《おおとも》勢の働きがめざましかったので、ここでなんとしてでもひとつ、毛利《もうり》側の人間として手柄を立てておきたかったのである。
「お待ちくだされ」
と、今度は立花|宗茂《むねしげ》が名乗り出た。
「小早川殿の武勇は、充分に存じているが、あの薩摩とは、田舎侍ながら、なかなか手強《てごわ》い相手でござる。しかも、その戦法にはいささかの工夫があり、それを知る者でなくては、うまく攻めることかないませぬ。ここは、かつて薩摩の者どもと何度も戦ったことのある、この宗茂めに先陣をお与えくださいますよう」
信長は笑って、隆景と宗茂の顔を相互に見やって、まず隆景に言った。
「宗茂は、あのように申しておるぞ。どうじゃ」
「なるほど、薩摩の侍どもは、なかなかの戦巧者《いくさこうしや》とは聞いたことがあり申す。しかし、何ほどのものがござりましょう。戦は本来、敵を撃つ、この一言こそ肝心《かんじん》かなめなことと存じます」
「そちは、薩摩のことなど知らずとも充分に戦える、と申すのだな、どうじゃ、宗茂」
今度は、信長が宗茂に水を向けた。
「いえ、そのお考えはきわめて危のうござるな。油断とまでは申しませぬが、甘くなめてかかると、えらい目に遭《あ》いますぞ」
隆景は反論せず、黙っていた。宗茂の言葉をあえて無視することによって、自信を示したのである。
「よかろう。先陣は隆景に命ずる。毛利家の名誉を賭《か》け、薩摩の田舎侍どもを撃ち破ってみせい」
「ははっ、かたじけなきお言葉」
隆景は、その場に両手をついた。
それに引き替え、宗茂は不満げな面持ちである。
「もし、隆景がしくじるようなことがあれば、宗茂、そちの出番じゃ。おこたりなく支度せよ」
「かしこまってござる」
宗茂は、重々しく答礼した。
顔を上げた隆景と宗茂のあいだに、火花が走った。
小早川隆景率いる毛利三千の軍勢は、織田軍六万の先鋒として、豊後《ぶんご》と日向《ひゆうが》の国境にある戸次川《べつきがわ》で、島津軍の島津義弘隊、同家久隊と激突した。
隆景は、宗茂の言葉を本気にしていなかった。島津軍には独自の戦法があるなどと言うが、どうせ田舎武士の垢抜《あかぬ》けない戦法であろう。
それに対して、隆景自身は、日本で最先端の装備を持つ織田軍とも対決した経験すらある。
負けるはずがない、と思った。
しかも、戸次川を挟んで薩摩側に布陣している島津軍は、どう見ても三千程度にしか見えない。
いくらなんでも、島津軍が総力を上げれば、五万ほどの軍勢は確保できるはずだが、まったく気配が感じられないのである。
「島津恐るるに足らず」
隆景は大胆にも、敵の目前で渡河を始めた。
川を渡ることは、行軍速度が落ち、敵の鉄砲の的になりやすいものだが、島津側には鉄砲の備えも見えなかった。
隆景は悠々と川を渡って、対岸の島津勢に迫った。
中央に、島津義弘の馬印が翻《ひるがえ》っている。
「あれこそ、島津家当主義久の弟、義弘の本陣ぞ。義弘の首を取れ。取った者には望みの恩賞を与えるぞ」
隆景は、大音声《だいおんじよう》で叫んだ。兵たちは、それに対して歓呼の声をあげ、どっとばかりに義弘隊に襲いかかった。
義弘隊は、初めわずかな抵抗を示したものの、すぐにじりじりと後退を始めた。
隆景は、ますます島津の力を侮《あなど》った。
「これが、九州にその名を轟《とどろ》かせた島津の軍勢か。口ほどにもない」
隆景は、本陣と離れる形となり、ますます前へ前へと進んだ。
だが、それは義弘の誘いの隙《すき》だったのである。
隆景が義弘の本隊に肉薄《にくはく》したと信じたそのとたん、あっという間に左右両翼から伏兵が出現して、いきなり鉄砲を撃ち込んできた。
この思いもよらぬ攻撃に、隆景隊は、たちまち浮き足立った。
「しまった、伏兵か」
そのときになって初めて、隆景は前に進みすぎているのに気がついた。敵が巧妙にじりじりと後退したため、思いもかけず深入りしてしまったのである。
「しまった。周りを固めよ」
隆景はとりあえず、兵を散らさずに密集させる下知《げち》を下した。その上で、敵陣の手薄なところを狙《ねら》って、強行突破しようとしたのである。
だが、義弘はそれも読んでいた。
もうひとつ伏兵として伏せてあった新納《にいろ》忠元隊を繰り出し、またたく間に隆景隊の退路を塞《ふさ》いだ。
ここにいたって、まさに隆景は袋の鼠《ねずみ》となったのである。
「まんまと引っかかったな、たわけめ」
義弘は、会心の笑みを洩《も》らした。
これが、島津得意の釣《つ》り野伏《のぶ》せ戦法である。このやり方で、薩摩はこれまでにも五倍や十倍の敵を相手にして、勝利を収めている。敵の主力部隊をおびき出し、殲滅《せんめつ》することによって、ちょうど蛇《へび》の頭を叩《たた》き潰《つぶ》すようにして、残りの軍勢を無力化してしまう。
いまや、隆景の首は取ったも同然だった。
しかし、義弘がそう思ったときに、突然、背後から雄叫《おたけ》びが起こり、伏兵となって隠れていた軍勢が、一気にこちらの陣に突進してきた。
「島津義弘、首はもらったぞ」
その軍勢の大将は、立花宗茂であった。
宗茂は、島津の戦法を逆手にとって、彼らの注意が小早川隊に向いているあいだに、義弘隊の背後に回ったのである。
義弘は焦《あせ》った。隆景隊を取り囲む形で前方に全力を集中しているために、背後は、まったくの手薄であった。そこを宗茂に突かれてはたまらない。
たちまち、薩摩軍の鉄の包囲の陣形が崩れた。
島津軍は、主将義弘を守るために、後ろに向かって散開した。
一方、鉄の包囲が解けた小早川隊は、味方の軍勢の応援に勇気百倍し、崩れかけた島津隊に襲いかかった。
こうなれば、勝敗は完全に逆転する。
勇猛をもって鳴る新納忠元隊も、この逆流した潮の流れを支えきることはできなかった。
そこへ、さらに対岸でこれを見ていた信長が下知を下し、全軍を殺到させたため、島津軍は壊滅状態になって敗走した。
戸次川の合戦は、こうして織田軍の大勝利に終わったのである。
「立花殿、かたじけのうござった」
隆景は、宗茂に向かって深々と頭を下げた。
「いやなに、拙者は島津の小ずるいやり方を存じておるゆえ、それを逆手にとったまでのことでござるよ」
「いや、恐れ入った」
隆景は、感嘆の声を洩《も》らした。
たしかに、この男の言うことは正しかったのである。
もし宗茂がいなければ、隆景隊は殲滅され、隆景自身は首を義弘に取られていただろう。
薩摩の戦術は、それほど巧妙だったのである。
「貴殿の忠告を無視した拙者の知恵の浅さ、まことに恥じ入る次第でござる」
隆景は、十いくつも下の、まだ大人になったばかりといっていい宗茂に、ふたたび頭を下げた。
「いえ、もう過ぎたこと。それより、今後は織田軍の精鋭として、ともに力を合わせ、手柄を立てましょう」
「願ってもない言葉じゃ」
そう言って、隆景はおおいに笑った。
一方、敗走した島津側は、鹿児島城でふたたび軍議を催していた。
いざ戦ってみると、織田軍というのは、これまで戦ったことがないほどの精強部隊であった。
少なくとも、これまで九州では、龍造寺も大友も島津の敵ではなかった。一度は九州の覇王となりかけたこの二大勢力を、島津は寡兵で撃ち破ってきたのである。
その自信が、まったく崩れたことが大きかった。
そこへふたたび、信長から降伏勧告の使者が来た。
一同は、顔を見合わせた。
どう考えても、織田軍には勝てそうにない。このまま戦えば、かならず滅亡である。
かといって、降伏するのは、なんとも耐えがたい。
しかし、それでも義久には、先祖から受け継いできたこの島津家を保つ責任があった。その当主としての責任が、つぎの言葉を言わせた。
「断腸の思いではあるが、ここは織田家の申し入れを受けるしかあるまい」
「それは、降参ということでござるか」
義弘は、すかさず言った。
「そうだな。言葉を飾ってもつまらぬ。降参は降参じゃ」
「それはおかしゅうござる」
真っ先に反対の声をあげたのは、意外なことに、かつて降伏勧告受け入れを主張した新納忠元であった。
「降参するのならば、最初の使いのときに降参すべきであった。そのことは、この忠元も申し上げたはず。それなのに、皆様はなんと仰《おお》せられたか。忠元を卑怯者《ひきようもの》、臆病者《おくびようもの》と罵《ののし》ったではないか。そして、こうも仰せられた。一戦して負けることがあっても、人種が尽きるまで戦うと。その覚悟は、いったいどうされたのでござる」
それを聞いて、苦々しい顔でだれもが黙った。
やや沈黙があって、その沈黙を当主の義久が破った。
「たしかに、わしの不明であった。許せよ、忠元。わしはな、敵の力を正しく推し量ることができなんだ。これは当主として失格じゃ。そこで、わしは今日より隠居する」
「隠居?」
義弘以下、一同は驚いた。
「隠居とは、いかがなわけでござるか。いまは危急存亡の時でござるぞ、兄上」
と、義弘は言った。
「さればこそ、このような凡庸《ぼんよう》な当主がいても埒《らち》があかぬ。家督《かとく》は、そちに譲る」
義久は言った。義久の子は、まだ幼いのである。
「しかし、兄上」
「口答えは許さぬ。これは、当主としての命令じゃ。だが、当主となって最初の仕事が降伏では、いかにも家臣家中の示しがつかぬ。そちもやりにくかろう。降伏は、わしの裁断《さいだん》でする。そして、隠居じゃ。その後は、そちの好きなようにやるがよい。よいな、しかと申しつけたぞ」
義久はそう言って、さっさと立ち上がると、奥の間に引っ込んでしまった。
残された家臣たちは、あまりのことに呆然自失《ぼうぜんじしつ》した。
信長軍は、豊後から日向《ひゆうが》に入り、大隅を経て、薩摩の加治木《かじき》城まで進出していた。
その加治木城を本営とする信長軍のもとに、ある日、墨染《すみぞ》めの衣をまとった僧二人が訪れた。
「薩摩家当主、島津義弘にござります。この者は従者の当家家老、新納忠元。なにとぞ、右大臣さまに御意《ぎよい》を得たい」
信長は、驚いて拝謁《はいえつ》を許した。
一度は偽者ではないかと疑ったが、戦場で彼らの顔を何度も見ている大友家や元龍造寺家の家来たちに確認させて、たしかに二人に間違いないと確かめてから、目通りを許したのである。
「その墨染めの衣は、いかなる訳か」
信長が開口一番、問うた。
「降伏の印でござります」
義弘は答えた。
「そなた、島津家当主と申したが、当主は義久ではないのか?」
信長は、あえて当主の名前を呼び捨てにした。
義弘は、いささかも怒りを見せずに、
「左様でござりました。十日前までは」
「十日前?」
「はい。十日前に、義久は敗軍の責任をとり、当主の座を下りたのでござります」
「そちが、その跡を継いだのか?」
「このように、首を洗ってまいりました。なにとぞ拙者の命に代えて、島津家の存続と兵どもの助命を、お願いしとう存じます」
義弘は、床に深々と額をすりつけて懇願した。
それを見ていた忠元は膝《ひざ》を進めて、
「拙者、島津家家来、新納忠元と申す者でござります」
「ほう。そちが鬼武蔵《おにむさし》の異名をとった剛勇の者か。噂《うわさ》は聞いておる」
信長が言った。
「恐れ入ります。主君義弘のことについて、一言申し上げたき儀《ぎ》これあり」
「よかろう。申してみよ」
「先君義久公は、義弘殿に家督をお譲りになる際、敗軍は自らの責め、降伏は我が名をもってすると仰せられたにもかかわらず、義弘公はそれを潔しとせず、当主を継いだ上で、こうして降伏にまかり出たのでござります。なにとぞ、その意をお汲《く》みおきくださるよう、お願いいたします」
「そうか。殊勝な心がけである」
信長は大きくうなずいて、
「両名とも、我が軍勢に刃向かいし罪は許す。また、戦場でのことは互いにその場かぎりのこととして咎《とが》めはせぬ。義弘、そちも僧体《そうてい》である必要はない。還俗《げんぞく》せい」
「かたじけないお言葉、義弘、生涯忘れませぬ」
「それでは腰が寂しかろう」
と、信長は立ち上がって、自らの太刀《たち》を小姓から受け取ると、義弘に渡して、
「これを遣わす。佩刀《はいとう》とするがよい」
「お受けいたします」
義弘は、両手を伸ばしてそれを受けた。それは、信長がつねに愛用している来国行《らいくにゆき》の名刀であった。
「忠元、そちも寂しそうじゃの」
と、信長は小姓に命じて大薙刀《おおなぎなた》を持ってこさせると、わざと先の刃の根本のほうを握り、柄《え》のほうを差し出して、忠元に渡した。忠元は平然として、これを受けた。
周りの家来は、はらはらしながら信長を見ていた。
もし、忠元が悪心を起こして立ち上がり、その大薙刀を持って信長の首を刎《は》ねようとすれば、できないことはないのである。
しかし、忠元はもとよりそんなことをする気はなかった。負けは負け、認めた以上はじたばたしないというのが、薩摩の武士の美学である。
「どうじゃ、忠元。このような主は見限って、余に仕えぬか。余の直参《じきさん》となれば、一万|石《ごく》あてがわせて遣わすが」
信長は言ったが、忠元は大きく首を振り、
「拙者、薩摩島津家|譜代《ふだい》の臣でござる。かようなこと考えもおよびませぬ。もしその一万石|賜《たまわ》るならば、主人義弘に賜れば幸いでござる」
「そうか。よくぞ申した」
信長は、からからと笑った。
薩摩島津家を、ついに配下に置いたことも大きいが、何よりの儲《もう》けものは、島津家の豊富な人材が、こちらの手に移ったということだ。
信長は、大きな手ごたえを感じていた。
「筑前。これで、あとは四国だな」
島津衆が引き揚げたあと、上機嫌の信長は、羽柴秀吉《はしばひでよし》を相手に酒を飲んだ。
臨時の本営となった寺の奥座敷には、ほかに森蘭丸《もりらんまる》ら数名の近習《きんじゆ》がいるばかりである。
「左様でござりますな。上様にとっては、因縁《いんねん》の四国攻め。早く片づけとうござる」
秀吉がそう言ったのは、本能寺《ほんのうじ》の変が起こったのは、信長が四国の長宗我部《ちようそかべ》を征伐しようと、軍を大坂《おおさか》に集結させたことが、きっかけとなったからである。
信長は苦笑いした。
あのとき、高柳左近《たかやなぎさこん》の注進《ちゆうしん》がなければ、いまごろ信長は、この世の人ではない。
「さて、そこでだ」
信長は盃《さかずき》を置いて、秀吉に向かって、
「つぎの四国攻めの総大将は、そちに命じる」
「えっ」
秀吉は驚いて盃を置き、一礼すると、
「それは願ってもない御言葉ですが、されど――」
と、口ごもった。
「信孝《のぶたか》がことか――」
信長はすぐに察した。
本能寺の変の折には、四国攻めの総大将は、信長の三男で伊勢《いせ》の神戸《かんべ》家に養子に入った神戸信孝であった。信孝を総大将に、丹羽長秀《にわながひで》が補佐する形だった。
したがって、仕切り直しというべき、つぎの四国攻めも、信孝が総大将を務めることが大方の予想だった。
「あやつには、まだ早すぎたわ」
信長は、苦々しい顔で言った。
信孝を総大将に任じたのは、これをもって大軍の総指揮を実際に体験させ、ゆくゆくは織田軍団の軍団長として、四国を領地に与えようという考えからだった。
しかし、本能寺の折の信孝の動きは、いかに不意を突かれたとはいえ、誉《ほ》められるものではなかった。
まだまだ、もっと小さな部隊の指揮から修行させる必要がある。
信長はそう感じていた。
「すると、若君は、四国へは行かれぬのですな」
秀吉の問いに、信長はうなずいた。
「余のもとで、ほかのところで一働きも二働きもさせてやる。とりあえずは、小田原《おだわら》が働き場よ」
「北条《ほうじよう》でござりますか」
秀吉は言った。
残る敵、それも大大名は三つしかない。
東北の伊達《だて》、関東の北条、そして四国の長宗我部である。
「軍を二手《ふたて》に分ける。四国は、すべてそちに任せるぞ」
「ははっ」
秀吉は、かしこまって平伏した。
天下の三分の二は、すでに織田家の手中にある。
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13
九州地方の領地替えと後始末を、とりあえず羽柴秀吉《はしばひでよし》に一任した織田信長《おだのぶなが》は、これから先の天下平定計画を見直すために、近衛《このえ》軍団ともいうべき蒲生氏郷《がもううじさと》指揮下の二万の軍勢を連れて、いったん近畿《きんき》に戻った。
信長は、まずどうしても抑えておかねばならないところがあると思っていた。
それは京《きよう》、朝廷である。
「上様。四国攻めをなさるのではなかったのですか」
と、娘婿《むすめむこ》で近衛軍団の大将でもある蒲生氏郷がたずねた。
「まず、取ったところを固めるのが先だ。褒美《ほうび》もやらねばならぬ。新しい領地も与えねばならぬ。そのためには、負けた者から領地を召し上げることも必要だ。こういうことは覚えておけ。早ければ早いほどよいのだ」
「それを羽柴殿に?」
信長はうなずくと、
「あの男は、褒美の出し方はわかっておる男だ。あやつめにとりあえず九州の論功行賞《ろんこうこうしよう》を任せ、その上で四国征伐軍を編制させる。四国には九州の豊後《ぶんご》の側からと、こちらの大坂《おおさか》側からと二手に別れ、十万の大軍が攻めることになろう」
「十万?」
氏郷は、その人数の多さに目を見張った。
もちろん、九州征伐にもそれぐらいの兵は動員されているのだが、今回は九州を征服し、島津《しまづ》の精強な軍団を配下に置いたことによって、信長軍の機動力はさらに高まったのである。
全体が十万なのではない。つねに動かせる軍団が十万あるということだ。いや実数は、さらにその倍以上ある。
というのは、その十万にはこの近衛軍団は入っていないし、関東には滝川一益《たきがわかずます》、北陸には柴田勝家《しばたかついえ》率いる、それぞれ数万の軍団が常駐している。
中国、九州を合わせた人数も、単に十万だけというわけではない。遠征の場合、兵をすべて動員していくわけではなく、留守居《るすい》の人数がかならず残るから、それも含めれば、信長軍の総勢は十二万にも十五万にもなる。
正直なところ、信長もまだその実数を把握していなかった。
実数については、秀吉が九州地方の諸大名の配置と論功行賞を終え、四国征伐軍を編制する段階で、初めて中国、九州を含めた軍団の総勢が明らかになるだろう。
もちろん、四国征伐はおそらく容易に行われるであろうし、その先、四国の武士たちがさらに織田軍団に組み入れられることになるだろう。そうすれば、さらに総勢は膨《ふく》れ上がる。
四国全体を支配する長宗我部《ちようそかべ》の勢力は、たしかに侮《あなど》りがたいものはあるが、それにしても十万以上の大軍に抗すべき力はないはずである。
しかも、もともと土佐《とさ》一国から興った長宗我部は、讃岐《さぬき》、伊予《いよ》、阿波《あわ》の三国を征服する段階において、かなり無理なこともやり、恨みを買っている。
現にそのとき、讃岐を追い出されるかたちになった三好《みよし》一族は、信長に保護を求めてきており、信長は、この面倒を秀吉に見るよう命じているのである。
秀吉は最近、三好家の長老|笑岩《しようがん》ときわめて親しくしており、笑岩は、秀吉の意を迎えるためもあって、その甥《おい》を本家の養子に迎え入れている。三好家といえば、足利《あしかが》将軍家の執事を務めるほどの名門だが、これも時の流れであった。
いまにして思えば、四国勢力のうち三好家の世話を秀吉に命じ、それと対立する長宗我部の世話を明智光秀《あけちみつひで》に命じたことが、本能寺《ほんのうじ》の変の遠因と言えるかもしれなかった。
信長は、近畿《きんき》に戻ってくると、大坂にも行かず、かといって本拠地の安土《あづち》もめざさず、いきなり京に入った。
そして、本能寺のあの光秀が焼き払った焼け跡に行き、仮屋を構えて、一度そこにとりあえず本拠を置いた。
本能寺の変のときとは違って、このたびは二万の軍勢が信長を守っている。その二万の軍勢は、本能寺周辺の寺院にそれぞれ分宿した。
「なぜ安土に戻らず、京に参られました?」
氏郷はたずねた。
これは不思議なことであった。信長にとって、京は危うく命を落としかけた因縁の地である。この縁起の悪い土地に、しかも本能寺の焼け跡に仮屋を構えるとは、いったいどういうことなのであろう。
「わからぬか」
信長は笑った。
「まあこれから、余《よ》のやることを見ていることだ」
信長は、氏郷が下がると、あらためて仮屋から本能寺の庭を眺めていた。
(まさに危機一髪《ききいつぱつ》であったわ)
信長は、しみじみそう思った。
もしあのとき、高柳左近《たかやなぎさこん》の注進《ちゆうしん》がなかったら、いまごろ自分は、この本能寺とともに灰になっていたにちがいないのである。
もし、あのとき左近の注進がなく、光秀の思惑《おもわく》どおりに、この本能寺が隙間《すきま》なく囲まれてしまったとしたら、おそらく信長は、まず弓や槍《やり》や鉄砲を取って、さんざんに抵抗し、その後、敵に首を渡すまいと腹を斬《き》り、みずから居室に火をかけたにちがいないのである。まさに、一寸先《いつすんさき》は闇《やみ》とはこのことだ。
「そうだ」
信長は突然、立ち上がって、近習頭《きんじゆがしら》の森蘭丸《もりらんまる》を呼んだ。
「お蘭、お蘭はおるか」
「はい、御前《おんまえ》に」
蘭丸は、あらかじめ近くに控えていたのか、ただちに廊下に姿を現し、膝《ひざ》をつき、一礼した。
「高柳左近を呼んでまいれ」
「はっ、ただちに」
しばらくして、左近が来た。
左近は、あの日以来、信長のお側衆《そばしゆう》として近衛軍団に組み入れられていたのである。
「お召しにより参上しました」
左近は、信長の前に一礼した。
「よう参った。実はいま、あの日のことを考えていたのじゃ」
信長は言った。
「あの日のことと仰《おお》せられますと?」
「六月一日の夜じゃ。あの光秀めが謀反《むほん》を起こした夜のことよ」
信長はしみじみと、
「いま思ったのだ。もし、そちがいなければ、いまごろわしはこの寺とともに、あの焼け残りの材のように黒く焦げ、あるいは灰となって、影も形もなかったであろうとな。そちのおかげじゃ。礼を言うぞ」
信長は頭を下げた。
左近はびっくりして、ふたたび平伏し、
「もったいないお言葉でござります。家来が主君に対して、忠を尽くすのは当然のこと」
「それならばよいのだが、中にはそうでない者もおる。左近、待たせて悪かった。そちに褒美を与えたい。望みがあれば申してみよ」
「はあ」
左近は、突然のことでとまどい、いろいろと思いをめぐらせた。
「何がよい。領地か、それともしかるべき地位か。あるいは茶道具、刀、槍《やり》、馬の類《たぐい》でもよいぞ」
信長は、上機嫌だった。まさに命の代償ともいうべき、この褒賞《ほうしよう》は、いくら高くても高すぎるということはない。
「それでは、茶会を開く資格をお与え願えれば幸甚《こうじん》に存じます」
左近は言った。
一見、欲のない望みだが、織田家中にあっては、かならずしもそうとは言えなかった。
信長が茶好きであるために、家臣一同茶を嗜《たしな》む者は多いが、みずから亭主となって茶会を開く資格というのは、秀吉をはじめとする、ほんのわずかの軍団長とも言える高級武士にだけ認められている特権なのである。
関東|管領《かんれい》として厩橋《うまやばし》城にいる滝川一益は、武田《たけだ》征伐で敵の当主|勝頼《かつより》を追いつめ、自刃に追い込むという一番手柄だったが、その手柄の褒賞として、領地よりも茶道具を望んだほどであった。
茶道具は、いまや一国一城に匹敵する宝である。これは、織田政権における一種の勲章とも言うべきものであった。
もちろん信長は、意識的にそれに価値を持たせたのである。
もともとは土塊《つちくれ》や竹のかけらでしかない茶道具が、これほどの価値を持つようになったのも、茶道の大流行ということのほかに、信長がそれを積極的に奨励したからである。
茶道具は信長以外に持ってはならぬということは、禁令としては出せるが実効性はない。そんなものは、いくらでも隠し持つことができるし、信長以外茶をやらなくなっては、茶道の価値がかえって落ちてしまう。
しかし、自分の家来に茶会を開く資格を与えるか与えないかということは、信長の一存ででき、なおかつ厳格に守らせることができるものであった。
すなわち、織田家中の武士にとって、みずから亭主となって茶会を開けるというのは、きわめて魅力ある立場なのである。
信長は、それを知っているから、からからと笑った。
「こやつめ。なかなか抜け目のないやつだ」
「恐れ入ります」
左近は、恐縮して言った。
「だが、左近。渋るわけではないが、茶会を開く資格は、この織田家中でも大将と呼ばれる者、および少数のお伽衆《とぎしゆう》以外は許しておらぬのだぞ」
「存じております」
「したがって、茶会を開く資格を与えるということは、やはりそちを一手の大将にせねばならぬ」
「いえ、それは望みませぬが」
「そうはいかぬ。世の中には決まりというものがある。だが、左近。わしは、そなたに感謝はしておるが、そちに本当に数千の兵を率いる力量があるか、それは、まだしかとは確かめておらぬ。それゆえ、とりあえずそちを侍大将《さむらいだいしよう》に取り立て、二千|騎《き》を預けることにする。その二千騎で思う存分、働いてみるがいい。もしそれで、わしの眼鏡《めがね》にかなえば、すぐにでも茶会を催す資格を与えることにいたそう」
「かしこまりました。上様のご期待を裏切らぬよう、粉骨砕身《ふんこつさいしん》いたす所存でござります」
「うむ、頼むぞ」
「それにつけて、一つお願いがあるのでござりますが」
「なんだ?」
「かつて明智家に属し、その家中として働いた者は、いまは上様のご寛大なるお許しによって、そこそこの各仕事は得ておりますが、なにぶん新参者ゆえ位も低く、俸禄《ほうろく》も少なく、難儀をしておる者が多くいると聞きおよびます。なにとぞ、この者たちを拙者《せつしや》の麾下《きか》として召し抱えることをお許しくださいませ」
左近は言った。
信長の配下としての明智軍団は、光秀の反乱によって壊滅した。しかし、戦死した者は多くはなかった。残りの者は、いわばほかの軍団に吸収される形で再就職したのである。
しかし、そこは再就職であるから、かつての地位を得られるというわけにはいかなかった。家老であった者は侍大将に、侍大将であった者は単なる使い番にと、一段階落とされての再就職であった。
しかし、中には年配の者もおり、家族が大勢いる者もいる。これまで五千|貫文《かんもん》の俸禄をもらっていた者が、いきなり千貫文では暮らしも成り立っていかない。
そういう者を、あらためてできるだけもとの地位に近い形で召し抱えることを申し入れたのである。これが実現すれば、助かる者は大勢いる。
信長はうなずいた。
「よかろう。許すぞ」
「かたじけのう存じます」
「では、下がってよい。俸禄などについては、のちほど沙汰《さた》する」
左近が退出すると、信長はふたたび蘭丸を呼んだ。
「お蘭。山科中納言《やましなちゆうなごん》を呼んでまいれ」
「はっ、山科|卿《きよう》でござりますか」
「そうだ。この信長が急ぎ面談したきことがあるとお伝えせよ」
「かしこまりました」
中納言山科|言経《ときつね》は、その父の代から信長の父|信秀《のぶひで》とのつき合いを持っていたほどの、織田家とは深い縁を持つ公家《くげ》であった。
もともと信長の父信秀は、連歌《れんが》をよくし、そのため和歌や王朝文化にも造詣《ぞうけい》が深く、蹴鞠《けまり》も嗜《たしな》んだ。そして、しばしば戦乱に悩まされ、ろくな方便《たつき》もない貧乏公家を尾張《おわり》名古屋の本拠に呼び寄せては興を催し、親しく交わりを結んでいた。
信長がやすやすと京に進出できたのも、実は父の代から懇意にしている、こうした公家勢力の後押しがあってのことでもある。
その縁から、信長と朝廷との交渉は、あいだに山科中納言が立つことが多かった。
もっとも最近は、信長の地位も中納言をはるかに超えた右大臣《うだいじん》となったため、直接、関白《かんぱく》や元関白に対して物言いができるようにはなっている。
したがって、山科中納言の存在価値というのは、薄れつつあったのである。
信長の言うことは、ただちに理解し実行する蘭丸が、一度その名前を聞き返し確かめたのも、最近はそういう事情があるからであった。
一刻ほどして、山科言経は、あたふたと本能寺の仮屋に駆けつけてきた。
信長は、緋毛氈《ひもうせん》を敷かせ、茶をたてて言経を待っていた。
「中納言殿、よく参られた。まずは一服、喫《きつ》せられよ」
信長は、みごとな点前《てまえ》で、亭主として茶をたて言経に勧めた。
言経は、緋毛氈の上に座り、信長の茶を受けると、作法どおりそれを飲んでみせた。
「焼け跡に野点《のだて》とは、なかなか風流なこしらえでござりますな」
茶を喫しおわると、言経は、信長を探るような目で見た。
いったい、なぜ自分が呼ばれたのか。それを探りたいと思ったのである。
「たしかに風流。まさに世の無常《むじよう》、盛者必衰《じようしやひつすい》の理《ことわり》を楽しむ茶席とでも申そうか」
信長は、にこりともせず、
「もし、あの光秀めの企てが成功しておれば、いまごろわしは、ここの土となっておった。それを思うと、この茶のうまさがしみじみと伝わってくるのでござるよ、中納言殿」
「左様《さよう》でござりましょうな」
言経は、内心ひやひやしていた。
実は、信長がなぜここに自分を呼んだのか。心に咎《とが》めるものがあったのだ。
(しかし、まさかそのことには気がついていまい)
言経は、平静を装うことにした。
信長は、そんな言経の心の動きをすでに読んでいた。
「中納言殿。それにしても不思議なことでござろう」
「何がでござりますか」
「光秀が謀反《むほん》のことよ。あの馬鹿律儀《ばかりちぎ》な織田軍団きっての堅物《かたぶつ》が、なぜ主君に反逆するという、とてつもない大罪を犯すことを思いついたのであろうな」
「それは――」
言経は、信長の鋭い視線から目をそらすようにし、言質《げんち》を取られまいと、
「人の心はわからぬと申しますからな」
「なるほど。人の心はわからぬと仰せられるか」
信長は、凄《すご》みのある微笑を浮かべ、
「たしかにそうかもしれぬ。わしも、実は光秀を目の前に引き据《す》えさせ、なぜ謀反を起こしたのじゃと問うたのでござるよ」
「それで日向《ひゆうが》殿は、なんと答えられたのか」
「拙者《せつしや》には人の心がわからぬと、なじりおった。これまでさんざん積み上げた長宗我部《ちようそかべ》との友好を踏みにじり、そのことに対しては一言の断りもなく、人を人として考えておらぬとな」
「なるほど」
言経は、そのとおりと言いかけて、かろうじてつぎの言葉を飲み込んだ。そんなことを言ったら、信長にどんな目に遭《あ》わされるかわからない。
「いや、中納言殿。そのとおりなのだ。この信長、たしかに人を人とも思わぬところがあった。そのことは、いまはみずからを省み、二度と繰り返すことはないとは思っておる。ただ、それにしても不思議なのは、そのきっかけじゃ」
「きっかけと申されると?」
言経はなんとなく、いやな予感がした。すぐに、この場を逃げ出したい気持ちもした。
だが、そんなことをしたら、かえって藪蛇《やぶへび》になる。あえてとどまり、恐るおそるたずねた。
「いや、きっかけと申すのは、仮に光秀が日ごろ、この信長に不満を抱いていたことは事実としても、なぜあの日にかぎってそれが暴発したのかということでござるよ」
「――――」
「あの後、口さがない京童《きようわらべ》は、この信長が光秀めから領地を召し上げたの、俸禄を取り上げただのということを噂《うわさ》しておった。だが、そのような事実はかけらもないのだ。余はただ、光秀めに秀吉の応援に行けと言ったにすぎぬ。それなのになぜ、突然あの男は謀反を決意したのか。この点、いかが思われるかな、中納言殿」
「いや、それはまったくわかり申さぬ」
「はたしてそうか」
信長は、声を荒らげて言経を見た。
言経は、震え上がった。
「もう一つ、おかしなことと言えばおかしなことがある。この信長、もしあのとき安土におれば、いくら光秀でも謀反は決意しなかったはず。仮に、一万五千の軍勢で安土城の余を狙《ねら》ったとしても、安土城なれば天下の要害であるがゆえに、しばらく持ちこたえられる。そうなれば、何人もの我が家来、羽柴秀吉あるいは柴田勝家らを呼び戻すことができる。しかし、京のここで襲われたら、ひとたまりもない。だが、余は光秀に京に行くなどということは、一言も言った覚えがないのだ。なぜ、光秀はよりによって余がこの京の本能寺に、しかも少人数で宿泊していることを知っていたのか」
いまや、言経は冷や汗を流し、喉《のど》はからからだった。そして、この場を一刻も早く逃げ出したかった。
だが、それはできない。何よりも、蝮《まむし》のような信長の視線に射すくめられて、動くことができないのだ。
信長はうって変わって、気味の悪いほど優しい声になり、
「中納言殿、教えて進ぜよう。それはこうじゃ。余が京におり、少人数でいるということを、だれかが光秀に知らせたのだ。そしてもう一つ、その知らせた者は、いまこそこの信長を討つ好機と、けしかけたにちがいないのだ」
信長は、さらに言葉を次いで、
「もっとも、あの馬鹿律儀な男が単にけしかけられたから立ち上がろうとは、とうてい思えぬ。だが、余はさんざん考えてみてわかった。もし光秀が、この信長以外の命令を聞くとしたら、それはただ御一人しかない」
言経は目を瞑《つむ》った。
信長が、もう真相に気づいていることは明らかであった。
しかし、いまさらそうではないとは言えないし、かといってそれを肯定する言葉など吐くわけにはいかない。
「公家《くげ》は都合が悪くなったら、目を瞑る」
信長は、皮肉たっぷりに言った。
「だが、そのほうがかえってよく声が聞こえよう。それでは申そうか、中納言殿。光秀を動かす力は、ただ一つ。それは、畏《かしこ》きあたりから逆賊信長を討てとの勅状《ちよくじよう》が下ったからであろう。もちろん、その勅状を下すにあたっては、周りの公家が唆《そそのか》したにちがいないがのう」
「そんなことはござりませぬ」
やましい言経は、目を開け、必死に叫んだ。
そうでも言わねば、信長が本当にそうだと確信しているとすれば、少なくともこの一挙に加担した公家たちは皆殺しにされる。
その恐怖から、言経は叫ばざるを得なかった。
「隠し立ては無用」
信長は一喝した。
「考えてもみられよ。あのとき、拙者が京に参ったのは、賢きあたりより、ご退位され一宮実仁《いちのみやさねひと》親王に御位を譲られるという御状があったからだ。それを補佐しにきてくれよとの御言葉があったからこそ、この信長、取るものも取りあえず身支度だけ整えて、京に入ったのでござる。それが、お上の御意思であることを伝えてくださったのは、言経|卿《きよう》、あなたでしたな」
柔らかな日差しの中、あくまでも明るい太陽のもとで交わされる会話としては、まったくそぐわないものであった。
「これでおわかりのことと存ずるが、もはや、この信長、忍耐の限度を超え申した。このことに関しては、きっちりと返させていただく」
「まさか、右大臣殿」
言経は叫んだ。
正しくは、いまの信長は右大臣ではない。右大臣になってすぐ、その職を辞退しているから、形式上は無官の人物である。
だが、あくまで皇室の秩序の中に信長を置きたい公家たちは、信長のことを右大臣および前右府《さきのうふ》と呼ぶ。
これには、信長を朝廷秩序の中に組み込みたいという願いが込められている。そして、公家と仲間同士であるという意味も込めている。
そのことを念じて、言経は信長に哀願した。
「まさか比叡山《ひえいざん》のように、この国のもっともおそれ多きところを焼き払おうというのではありますまいな」
言経の全身に冷や汗が流れた。
信長は、不気味な笑いを浮かべて、言経を見た。
言経は、腰を抜かして動けない。
(まさか、本気で御所《ごしよ》を焼き討ちする気ではあるまいな)
言経はあまりの恐怖に危うく失禁しそうだった。
「だとしたら、どうする?」
信長は、言経の心の内を言い当てて言った。
「そ、それは、大逆の大罪でござるぞ。この国|開闢《かいびやく》以来、そのような者は一人としてない」
言経は、必死になって叫んだ。
「この信長が、その我が国開闢以来の者になろうと考えているとしたなら、どうする気か、と聞いているのだ」
信長は、凄みをきかした。
「いや、まさか、右府殿、本気ではあるまいな」
「右府ではない。余は、すでに右大臣の職にはない。呼ぶなら、前右府と呼べ」
「で、では、前右府殿、前とはいえ、貴公も朝廷の臣として主上《おかみ》にお仕えした身ではないか。――まさか、かような暴虐は犯されるな」
「公家とは、しぶといものよ」
信長は苦笑して、
「忠を尽くすも尽くさぬも、この命あってのこと。この命を奪わんとする者には、牙《きば》を剥《む》くのが当然ではないか」
「――――」
「明日|申《さる》の下刻(午後五時ごろ)、この信長、御所に向かい、卿の言う『開闢以来の者』になってみせようではないか」
「――ま、まさか」
「その前に、卿から申し受けたいものがある」
信長は立ち上がった。
蘭丸が、太刀《たち》を信長に差し出した。
その白刃《はくじん》は、言経に向けられたのである。
「ふふふ」
信長は不気味に笑った。
言経は信長を見た。
「もし余が、比叡山《ひえいざん》のごとく御所を焼き討ちすると申したら、どうする?」
「ひえー」
と、悲鳴をあげて、言経は腰を抜かした。
「なりませぬ」
言経は、それでも必死に叫んだ。
「なぜ、ならぬ?」
「知れたこと。それは大逆の道。天をも恐れぬ所業でござりますぞ。そのような大悪行をなした者は、この日《ひ》の本《もと》開闢以来、一人もおらぬ。信長殿は、千載《せんざい》の悪名をかぶられるつもりか」
「仕方あるまい。殺さねば殺される。そのような立場に、この信長を追い込んだのは、その御方《おかた》なのだからな」
「なりませぬ」
言経は、身体の中にある勇気を最大限に振りしぼって、信長に取りすがった。
「それだけはなりませぬ。伏してお願い申す。どうか思いとどまりくだされ」
信長は、冷ややかな目で、ちらりと言経を見ると、
「公家とは、皇室の藩塀《はんぺい》だと言う。ならば、尊き御方の身代わりとなって、首を刎《は》ねられる覚悟があると申すのだな」
「それは――」
言経は、ためらった。たしかに、そういう覚悟はあるべきものだ。ただ、いまこの場で急に言われても、死ぬ決心はつかなかった。言経は武士ではないのである。
「どうした。命が惜しいか」
「惜しゅうござる」
言経は叫んだが、すぐに言葉を次いで、
「しかしながら、右大臣殿の名も惜しゅうござる」
「余の名が惜しいとは、いかなることだ」
「朝敵《ちようてき》として、千載の汚名を残すことでござります」
「申したではないか。そのように仕向けたのは、主上《おかみ》のほうなのだとな」
「お怒りはごもっともながら、どうかお鎮《しず》まりくだされ。この日の本に生を受けたる者として、ただ一つなしてはならぬことは、そのことでござります」
「いや、余の決意は変わらぬ」
信長は、言経を突き放すと、
「帰ったら伝えるがよい。この信長、一度決心したことは変えぬ。明日、申の下刻に御所を焼き討ちする。そのように主上にお伝えしてくれ」
言経は、もはや冷静さを失っていた。
こんなことがあっていいものだろうか。だが、そのことは一刻も早く伝えなければならない。
言経は、腰が抜けたまま、這《は》うようにしてその場を退出しようとした。
「待て」
信長が叫んだ。言経は驚いて、四つん這いのまま振り返った。
「な、なんでござろう?」
「余の考え、しかとわかったであろうな」
「は?」
言経は、首をかしげた。
「鈍い男じゃのう。よいか。明日、申の下刻に、焼き討ちすると、余は申したのだ。よいか、明日の申の下刻じゃぞ」
信長は、その言葉を強調した。
言経も、そこまで言われて、はっと気がついた。まだ明日までには一日ある。
「で、では、事と次第によっては、おとどまりくださるということか?」
その問いかけに、信長は大きくうなずいた。
「何を条件になさるのか?」
「それはわかっておろう。この信長、何度も言った。いまさらつけ加える気はない。一刻も早く、このことを主上にお知らせすることだな」
「かしこまった」
言経は這々《ほうほう》の体《てい》で、その場を逃げ出した。
信長は、ただちに兵を発して、御所を厳重に包囲し、蟻《あり》の這い出る隙間《すきま》もないほど固めた。
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帝《みかど》は、山科言経《やましなときつね》の報告を聞いて、当然のように激怒した。
「おのれ、信長《のぶなが》め。もとはといえば、尾張《おわり》の田舎大名の分際《ぶんざい》で、そこまで指図だてをするか」
言経は、蛙《かえる》のように平伏していた。
もちろん、信長の言いたいことは、その場のだれもが理解していた。一刻も早く誠仁親王《さねひとしんのう》に位を譲り、引退せよということである。
のちに正親町《おおぎまち》天皇と諡《おくりな》されるこの帝は、当年、六十六歳の高齢であった。本来ならば、三十を過ぎた壮年の誠仁親王に位を譲ってもいい年齢である。
ただし、このところ皇室は、天皇が引退して上皇《じようこう》になり、院政《いんせい》をもって国を動かすという方法をとらず、天皇は終身天皇であり、亡くなった段階で、初めて皇太子が跡を継ぐという形ができあがっていた。
信長は、早くから天皇家に接近していたが、天皇家の権威を守ることに熱心な帝は、信長と表面上の妥協はするものの、本質的には、その下風《かふう》に立とうとは決してしなかった。いや、それはこの国の王者としての誇りが許さない。
その気性を見抜いた信長は、早くから皇太子の誠仁親王に接近していた。
元来、老齢の父親と息子は、仲が悪いのが普通である。
息子としては、早く跡を継ぎたい。いつ、父親が若い女と通じて、そのあいだに生まれた子を、別に皇太子に立てようとするかもしれないからだ。こうしたことは、過去に何度もあった。
いかに皇太子の座にあるとはいえ、それは父親の一存で、いつでも変えられることである。それゆえ、皇太子が壮年であればあるほど、父親の引退を、心の底では望んでいるのである。
信長は、この機微《きび》を知っていた。だから、早くから誠仁親王と親交を結び、その腹心の公家も選び抜いて、親王につけてある。いわば、現在、正親町政権が引退しても、ただちに、つぎの政権が発足する形はできているのである。
ただ、それを今日まで頑強《がんきよう》に拒んでいたのが、いまの帝であった。それに対し、信長は、ついに最後通牒《さいごつうちよう》を突きつけたのである。
帝は、政治的手腕に長《た》けていたため、その側近の選び方も実力主義であった。
五|摂家《せつけ》(近衛《このえ》、九条《くじよう》、二条《にじよう》、一条、鷹司《たかつかさ》)でたらい回しにする関白も、なれる家柄が決まっている左大臣・右大臣も、頼りにはならない。帝が、側近として重用しているのは、中級公家の勧修寺晴豊《かじゆうじはるとよ》と吉田兼和《よしだかねかず》であった。
晴豊は武家伝奏《ぶけでんそう》、兼和は神祗大副《じんぎたいふ》として、表向きの役職に就いているが、これは家柄からいって、それ以上の役職に抜擢《ばつてき》できないからで、事実上は、大臣並みの相談を受けている二人であった。
帝はまず、もっとも信頼している晴豊に問うた。
「どう思う、晴豊」
「まことに申し上げにくきことながら、やむを得ぬ仕儀《しぎ》かと存じます」
晴豊は頭を下げた。
「朕《ちん》に退位し、この御所を立ちのけと言うのか」
晴豊は答えなかった。しかし、無言のまま平伏しているその姿は、その言葉を肯定していた。
「兼和、そちはどう思う」
「はっ。まことに無念なことながら、わたくしめも勧修寺殿の意見に同意いたしまする」
「おのれ、信長め」
帝は、怒りのあまり立ち上がった。そして、手に持っている笏《しやく》をへし折った。
怒りの凄《すさ》まじさに、晴豊、兼和、言経の三人は首をすくめた。
「廟議《びようぎ》を開く」
しばしの沈黙のあと、帝はそれを口にした。
正式な朝廷の最高会議である。大極殿《だいごくでん》に、関白以下高官が集まり、御簾《みす》の中に座《ざ》す帝の前で、重大な問題を話し合う。
もっとも最近は、そのような廟議が開かれることはまれで、ほとんど略式のものであった。また、そういう略式のものでなければ、帝は、晴豊や兼和のような身分の低い者と話すことができないのである。
この点で言えば、もともとの身分にかかわらず、いかなる者でも秀吉《ひでよし》のように重役になれる信長の体制とは、根本から違っていた。
ただ、何事も正式な決定は、廟議を経て行われる。たとえば、天皇の退位および新天皇の選任といった重要な議題は、あらかじめ下交渉で話し合われるにしても、正式決定されるのは、やはり廟議なのである。
それを招集するということは、もはや、結論は明らかであった。
「おのれ、信長め。いまに見ておれ。かならず、この借りは返す」
天皇は、老齢とは思えぬ凄まじい憤怒《ふんぬ》の相を浮かべ、しばらく無言で唇を噛《か》みしめていた。
「そうか、そうか。それは、まことにめでたい。これで、ようやく目の上の瘤《こぶ》が取れたわ」
織田《おだ》信長は、上機嫌であった。
天皇が退位し、同時に出家し、京都|双ヶ岡《ならびがおか》の仁和寺《にんなじ》に入ったこと、そして、とりあえず誠仁親王が新しい帝として践祚《せんそ》したことが、その日のうちに、信長のもとへ伝えられたのである。
践祚とは、とりあえず天皇の位を受け継ぐことであり、正式な即位の令は、また別の機会に行われる。
信長は、ただちに京都|所司代《しよしだい》に任じている織田家の文官、村井貞勝《むらいさだかつ》を呼んだ。
「よいか。このたびの即位の令は、後世の語り草になるような華麗なものにいたせ。いくら費用がかかってもかまわぬ。よいな、金に糸目をつけるでないぞ」
「かしこまりました」
貞勝は、むしろ顔をほころばせた。こういう派手なことは、決して嫌いではないのである。
「さらに申しておく。これは、ごく内々のこととして、新帝にお伝えせよ」
「はっ」
貞勝は、かしこまった。
「まず、この信長を関白に推任《すいにん》していただくこと。そして、嫡子信忠《ちやくしのぶただ》を将軍に推任していただくことじゃ」
「それはまた、めでたいことでござりますな」
信長は笑って、
「おそらく、とり巻きの公家《くげ》どもは、武家の身で関白になった者など一人もいないとか、征夷《せいい》大将軍は源氏《げんじ》の棟梁《とうりよう》でなくてはならぬとか、いらぬことを騒ぎたてるであろうが、かまわぬ。これは、この信長の意向じゃと伝えよ。もし、異議があるならば、じかにこの信長に申し出るように、かように申し伝えるのだ」
「かしこまりました」
貞勝も笑った。
それならば、苦情を申し立てる人間など、一人もいないにちがいない。なにせ、あの剛毅《ごうき》な前帝すら、強引に退位に追い込んだ信長である。
つづいて、大坂《おおさか》に残っていた丹羽長秀《にわながひで》がやってきた。信長の呼び出しに応じてきたのである。
「五郎左《ごろうざ》。いよいよ、頼みごとができた」
「頼みごととは、恐れ入ります」
「何かわかるか」
「もちろん、察しております。大坂に城を造ることでござりましょう」
「さすが、五郎左じゃのう」
信長は上機嫌だった。
大坂には、すでに城がある。
ここには、かつて石山本願寺《いしやまほんがんじ》城という巨大な城があった。一向一揆《いつこういつき》の拠点である。信長は、これとほぼ十年にわたって戦い、ようやく朝廷の力を借りて、講和に持ち込み、本願寺を紀州《きしゆう》に退去させた。
ただ、その際、放火・略奪が相次ぎ、天下の名城といわれた石山本願寺城は、灰燼《かいじん》に帰してしまった。その後、仮普請《かりぶしん》のように建てられたのが、現在の大坂城である。
大坂という名前も、信長が、ちょうど岐阜《ぎふ》や安土《あづち》で行ったように、あたりの古地名から、天下布武《てんかふぶ》にふさわしい名として選び出したものであった。だが信長は、いずれ、その名も変えるつもりでいる。
とりあえずは大坂と呼ばれている地に、仮普請の小城がある。
だが、信長はかねてから、この地を織田政権の最大の本拠地にすることを望んでいた。石山本願寺と徹底的に争ったのも、実はそのためであった。
日本の首都は、たしかに京都である。京都は、約八百年の王城の地であるが、信長にしてみれば、いろいろと気に食わないことがあった。
まず、海に面していないということである。織田政権は、貿易の利を活《い》かし、巨万の富を積むことによって、天下を取った。
だが、これまでの本拠地、岐阜および安土は、陸上交易の中心地ではあっても、海上とは離れている。堺《さかい》を直轄地として組み入れてはいるが、本拠地である安土とは、それほど近くはない。
これに対して大坂は、大坂湾という巨大な海に面しているだけではなく、船を通じて瀬戸内海を街道のように伝って、九州へ行くこともできる。
なおかつ、巨大な平野が広がり、町を築くにはもってこいの地形である。
また、多数の人口を養うためには、水の供給が欠かせないが、大坂平野の背後には、琵琶《びわ》湖という天然の貯水池がある。
もちろん、この琵琶湖と淀川《よどがわ》をつなぐ水路を造れば、北陸から近江《おうみ》、そして京を通って大坂を縦貫《じゆうかん》する大交易路ができることにもなる。
「いかなる城にいたしましょうや」
長秀は、そのことをたずねた。まず、信長の意向が、この建物のもっとも重要な眼目《がんもく》である。
「三国一の居城にせよ。そして、水軍も城の下から出撃できるような形にするのだ」
「されば、安土を数倍、広げたようなものになりますな」
安土城も、小規模ながら、琵琶湖にすぐに出られるように、港のようなものが付属しているのである。
「安土を広げるとは、五郎左も肝が小さいのう。もそっと大風呂敷《おおぶろしき》を広げたらどうだ」
信長は笑った。
「これは恐れ入りましてござります。さっそく縄張《なわば》りをいたし、ご見参《けんざん》に参らせるでござりましょう」
「うむ。頼んだぞ」
信長は、傍《かたわ》らの森蘭丸《もりらんまる》を呼んだ。蘭丸は桐《きり》の小箱を持って、しずしずと前に進んできた。
「当座の引き出物に、これを与える」
信長は言った。
蘭丸を通じ、長秀はそれを受けとって驚いた。それは、信長秘蔵の茶器、大井戸茶碗《おおいどぢやわん》であった。天下に名物数あれど、五本に入るほどの名器である。
「これを拙者に? かたじけのうござりまする」
長秀は感動のあまり、声を詰まらせて平服した。
「そちの縄張りの才を見るのが楽しみよ」
信長は、上機嫌で言った。
安土城の工事を総監督したのも長秀で、信長は、ことのほか長秀の築城の才を愛していた。
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15
四国遠征軍の総大将を命ぜられた羽柴秀吉《はしばひでよし》は、本営を九州|小倉《こくら》城に置き、小倉から南下して、別府《べつぷ》城に入った。小早川隆景《こばやかわたかかげ》、立花宗茂《たちばなむねしげ》らも、これに従っている。
一方、羽柴秀吉の弟、羽柴|秀長《ひでなが》を中心とする五万五千の軍勢は、中国路を京へ西上し、姫路《ひめじ》に入った。この先、明石海峡を渡って、淡路《あわじ》島から阿波国《あわのくに》(徳島県)に上陸するつもりなのである。
そして、別府側からは伊予国《いよのくに》(愛媛県)に入る。
敵の長宗我部《ちようそかべ》勢は、四国のうち土佐《とさ》、阿波を完全に抑え、讃岐《さぬき》、伊予についても、その中心部を押さえている。
実際、信長による天下統一がなければ、とうの昔に四国の覇王となって、中国地方にも進出していたはずである。長宗我部の大将、元親《もとちか》は、それがわかっているだけに悔しく、やるせないのである。
十月半ば、秀吉を総大将とする総勢八万五千の本軍が伊予側から、一方、弟の羽柴秀長を総大将とする別働隊五万五千が阿波側から、ともに四国に上陸した。
長宗我部元親は、もともと土佐の出身ではあるが、本拠を土佐|岡豊《おこう》城から、四国のちょうど中心にある阿波|白地《はくち》城に移していた。この白地城からならば、短い時間で四国のどの地域にも行くことができるからである。
白地というのは、そもそも兵法でいう駆馳《くち》、すなわち交通の要衝《ようしよう》を示している。
一方、讃岐国の一角では、早くから秀吉と友好関係にある三好康長《みよしやすなが》が、東方を確保していた。三好の一族である十河存保《そごうまさやす》も讃岐十河城にあり、信長の先鋒《せんぽう》隊の役目を果たしていた。
そもそも、本能寺《ほんのうじ》の変当時における、織田|信孝《のぶたか》を総大将とする四国遠征軍の派遣は、織田家に友好的な三好家を、長宗我部の手から守ることにもあったのである。
もし、織田の援軍がなければ、三好家は、とうの昔に滅亡していたところだろう。逆に、総勢十四万に近い軍勢の応援を得て、三好勢の意気は天を突くものがあった。
長宗我部元親は、阿波白地城にあって、伊予、讃岐、阿波の三方にわたる攻撃を受けることになり、とりあえず、どの地に遠征軍を派遣するか悩んでいた。
長宗我部の動員できる最大勢力は、せいぜい四万だが、中央を抑えた織田軍の進行を前にして、寝返ったり、中立に傾く者が多く、総勢は三万を切っていた。
「このままでは、はかばかしい戦いができませぬ。父上、ここは乾坤一擲《けんこんいつてき》の機をもって、事に当たるべしと存じます」
元親の嫡男《ちやくなん》、信親《のぶちか》は、軍議の席で膝《ひざ》を乗り出した。
信親は、元親自慢の男子で、身長六|尺《しやく》五|寸《すん》、堂々たる偉丈夫《いじようふ》で、もはや家督を譲っても問題はないとすら、元親は思っている。
ちなみに、皮肉なことに信親の信は、かつて長宗我部家と織田家が友好関係にあったときに、長子誕生を祝って、信長から贈られた名前であった。信長の信を取って、信親と名づけたのである。
「その意気やよし」
と、元親は、とりあえず息子を誉《ほ》めた。
だが、頭のすみにあるのは、別の考えであった。
総勢十四万にのぼる軍勢を受ける力は、いまの長宗我部家にはない。とすれば、家を保つためには、一つの手段しか残されていない。
それは降伏である。
(先に織田軍の攻撃を受けた島津《しまづ》は、結局、薩摩《さつま》、大隅《おおすみ》の二カ国を安堵《あんど》することを条件に降伏を申し入れ、許された。もし、それをこの長宗我部に当てはめると、いったいどういうことになるか)
せめて土佐、阿波の二カ国は欲しいところだが、もともと阿波の持ち主であった三好家が秀吉の保護下にあることを考えれば、この望みが通ることは難しいだろう。
ならば、そもそも長宗我部の領地であった土佐一国を安堵するという条件ではどうだろうか。
実は、土佐一国ですら、本来は長宗我部のものではない。この国は、京都から逃れてきた公家出身の一条《いちじよう》家の領地であった。しかしながら、元親は本来の領主である一条|兼定《かねさだ》を追って、土佐一国の領主の地位を得たのであった。
うかつに降伏を申し出れば、一条家を前に押し立て、土佐の領土権すら認めない態度に出るかもしれなかった。
それを防ぐにはどうしたらいいか。
島津のように、とりあえず抵抗の姿勢を見せ、その強さを知らしめることかもしれない。一戦して、とりあえず局地戦の勝利を収めることだ。長宗我部勢、侮《あなど》りがたしという印象を敵に植えつければ、交渉もうまくいくかもしれない。
そのために、どの敵を叩《たた》くかが最大の問題だった。
秀吉の本軍は七万五千もあり、しかも、新たに傘下《さんか》に加えた小早川隆景、立花宗茂ら勇将猛卒《ゆうしようもうそつ》を多数、抱えており、これらの武将のあいだでは、先陣争いが激しいとさえ聞く。そのような中に、みすみす少人数で飛び込んでいけば、まさに飛んで火にいる夏の虫ということになる。
では、羽柴秀長率いる別働隊のほうはどうか。
これは、五万五千と本軍よりは少ないが、それにしても蜂須賀家政《はちすかいえまさ》、池田輝政《いけだてるまさ》ら、かつて信長軍の創業以来の古強者《ふるつわもの》たちである。それゆえ、秀吉の本軍と比べて侮りがたいものを持っている。
では、もう一つの別働隊ともいうべき、阿波三好・十河連合軍はどうだろうか。
これがもっとも与《くみ》しやすいことは事実である。ただ問題は、それぞれ居城を持っており、野戦ではなく、城攻めになることだ。
三好勢はせいぜい一万、いや、おそらく一万に満たない。それゆえに、本軍が到着するまで、城に籠《こも》って抵抗の姿勢を見せるであろう。野戦なら、場合によっては一日で片がつくが、攻城戦となれば、何日もかかる。その間、敵地に釘《くぎ》づけにされれば、敵軍に退路を遮断《しやだん》され、全滅の危険すらある。
軍議の席では、信親の強硬な意見に同調する者が相次いだ。
もともと長宗我部|侍《ざむらい》は田舎者で、中央の情勢をよく知らない。織田軍がいかに恐るべき存在であるか、何も知らないのである。
しかし、いまの元親に残された道は、なんとしてでも長宗我部を滅亡の淵《ふち》から救い、家名を残すことであった。
そのためには、このはやり立つ家臣をいかに抑え、いかに軽蔑《けいべつ》をまねくことなく、講和への道を探るかということになる。
いずれにせよ、道はきわめて険しく、ひとたび岐路《きろ》を誤れば、まさに破滅が待っていることになる。
(やむを得ぬ)
元親は、心中ついに一つの決断を下した。
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16
「伊予《いよ》において、敵の本軍を迎え撃つ」
驚きの声があがった。
軍議の席にいる武将の多くは、たしかに強硬派である。
しかしながら、とりあえず戦《いくさ》の常道として、勝ちを取るということがある。
勝ちを取るというのは、敵の弱点を突き、局地的な勝利をあげることによって、味方の戦意を盛り上げることであった。
単に士気を盛り上げることだけではない。
勝ちを取れば、周辺の中立勢力も勝ち馬に乗る。緒戦《しよせん》に勝つか負けるかで、その帰趨《きすう》は大きく左右される。
したがって、まず素早く勝ちを取って、その勝利を大きく喧伝《けんでん》し、戦を有利に進めるというのが田舎《いなか》豪族の戦法であった。
それが常識であっただけに、いきなり本軍を迎え撃つという、いわば正攻法に、諸将は驚きの声をあげたのである。
「兄上、ちと博奕《ばくち》が過ぎるのではないか」
一座の空気を代表して、弟で香宗我部《こうそかべ》家を継いでいる親泰《ちかやす》が、元親《もとちか》に訴えた。
元親は笑って、
「博奕? なるほど、そのとおりだな。親泰。わしは、ここに留守居《るすい》の兵は置かぬぞ」
「兄上、気は確かか?」
親泰は、思わず軍議の場であることを忘れ、兄に対する弟の口調で言った。
城には、留守居の兵を置くのが常識である。
そうでなければ、敵に取られてしまうからだ。
城というものは、一度敵に取られてしまうと、取り返すのはなかなか難しい。
だから、出撃する場合は、それがどんな重要な戦いであっても、最低限、城を守れるだけの兵を置くのが常識である。
もしそれをしないとなれば、残る方法は一つしかない。
「城には火をかける」
元親は言った。
全員が、驚きの目を元親に向けた。
「何を不思議がっておる。このたびの戦いは、乾坤一擲《けんこんいつてき》の勝負ぞ。城に逃げ帰ることを考えていては、勝てる勝負も勝てぬわ」
「仰《おお》せのとおりです、父上」
信親《のぶちか》が立ち上がった。
「我ら一同、決死の覚悟をもって、敵に当たります」
「よくぞ申した」
元親は、すかさず誉《ほ》めた。
元親の本心は、実は降伏にある。
本来なら、戦わずして敵に降《くだ》ったほうが、身の安全も財産も保てるというのが普通の考え方である。
だが、元親は戦国の厳しい時代を生き抜いてきた英雄だけあって、その安易な道こそ、もっとも危険なものだということに気がついていた。
敵に後ろを見せるような武将は、結局なめられる。
そして、一度なめられてしまえば、もはや、その権威を取り戻す方法はないのである。
戦わずして全面降伏してしまえば、おそらく土佐一国すら安堵《あんど》できまい。
ここで長宗我部家が生き残るためには、まず決死の覚悟で敵に当たり、「長宗我部、侮《あなど》りがたし」との印象を敵に与えることだ。
そうすれば、その強い兵をみずからの陣営に迎え入れたいという思惑《おもわく》がはたらく。
つまり、講和の条件ができるのである。
それが、老獪《ろうかい》な元親が心のうちで考えていることであった。
(四万のうち、どれほどの兵が生き残れるか。おそらくは、三千、五千の犠牲《ぎせい》は出るであろう。だが、やむを得ぬ)
秀吉《ひでよし》の本軍は、七万五千とも八万五千とも言われている。
仮に七万五千だとしても、こちらのほぼ倍の人数。
しかも戦意は、きわめて高い。
それでも敵の弱点は、おそらく三つあると元親は読んでいた。
その一は、混成軍であるがゆえに、統一性が取れないということである。
それぞれが手柄を立てようと躍起《やつき》にはなっているが、統一的な行動がしにくいということは、逆に言えば、各部隊を各個撃破できる体制がとれるということである。
第二に、自分たちだけではないという安心感が、裏目に出ることがある。
七万五千の本軍のほかに、五万五千の別働隊がやってくる。
そして、人数は少ないが地元の三好《みよし》勢が、阿波《あわ》のいくつかの城に籠《こも》っている。
数量的には圧倒的に有利だが、心理的にはそうではない。
ほかにたくさん味方がいるということは、自分の態勢が不利になったときに、それに頼る心が出る。
自分たちだけだと思えば、最後までふんばるが、ほかに味方がいるということを考えると、力が抜けてしまうことがある。
いわば、大軍の驕《おご》りというべきものである。
そしてもう一つは、おそらく秀吉は、長宗我部軍がまず、羽柴秀長《はしばひでなが》率いる別働隊か、阿波の城攻めをすると読むであろうということだ。
前にも述べたとおり、このような場合は、まず弱いところを突いて勝ちを取る、というのが常識だからである。
しかし、元親は、その裏をかくつもりでいた。
秀吉は、まさか、全体から見れば三分の一の人数しかいない長宗我部軍が、直接本軍に当たってくるだろうとは、夢にも考えていないはずだ。
その油断が、こちらのつけ目である。
「では、二刻《にこく》後に出陣する。各自、支度をととのえよ。思い残すことがあれば、城とともに焼いていけ。よいか、しかと申し渡したぞ」
元親の命令に、いまや死を覚悟した一同から、「おう」という鬨《とき》の声があがった。
「父上。冥土《めいど》の土産《みやげ》に、長宗我部|侍《ざむらい》の心意気を信長《のぶなが》めに見せてやりましょう」
信親は、六|尺《しやく》五|寸《すん》もある堂々の偉丈夫《いじようふ》で、武勇に優れたばかりでなく、智略もあり、元親自慢の息子だった。
だが、このとき、元親は少し不安をおぼえた。
(信親、先頭に立つでないぞ。この戦は、あくまで長宗我部が生き残るための方便《たつき》。そなたが死んでは、元も子もない)
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17
京《きよう》にある信長《のぶなが》は、新しい朝廷の秩序づくりの黒幕として、着々とその体制を固めてきた。
まず、先帝|正親町《おおぎまち》天皇のあとに即位した誠仁親王《さねひとしんのう》、つまり新帝を御所《ごしよ》に迎え、関白《かんぱく》推任の儀《ぎ》を執《と》り行った。
きわめて異例のことながら、新帝には武士出身の関白がついたのである。
かつて平治《へいじ》の昔、武士の平清盛《たいらのきよもり》が太政大臣《だじようだいじん》になったことはあるが、その一つ上の官職であり、天皇の臣下としては最高位である関白に武士が就任するなどということは、前代未聞のことであった。
「かたじけのうござります」
信長は御所に参内《さんだい》し、新帝の前で謝辞《しやじ》を述べた。
「本来ならば、即位の礼を盛大に執り行い、その上で、百官を任命なさるところでござりましょうが、しばらくのご辛抱《しんぼう》でござる。むしろ、日本全土を平定してから、各国の大名に臣下の礼をとらせ、あらゆる国からの貢ぎ物で飾って、壮大なる礼を営むべきでござりましょう。もうしばらくのご辛抱を、お願いいたします」
「では、それはいつになるのか」
新帝は、信長にたずねた。
「あと一年。一年お待ちいただければ、充分と存じます」
「なに、一年。この乱世があと一年で、本当に終わるというのか」
新帝は、信じられない面持ちで、信長を見た。
「ご安心くだされ。西国《さいごく》は四国を除いて、この信長の掌中《しようちゆう》にあり、逆らう者はおりませぬ。四国も、まもなく我が支配下に入ります。残すところは、東国《とうごく》のみでござります」
「東国と申せば、関東の北条《ほうじよう》か」
「はい。そして、越後《えちご》の上杉《うえすぎ》でござりましょう」
「陸奥《むつ》はどうじゃ」
「伊達《だて》という元気者がおりますが、まだまだ若造《わかぞう》でござる。敵ではござりませぬ」
「しかし、北条は五代にわたって、関東に力を蓄え、その勢力は侮れぬものと聞くが」
「しょせん、井の中の蛙《かわず》でござる」
信長は言った。
「ほう、蛙と申すか」
「左様《さよう》。蛙でござる。そのようなものは、この信長にとって、敵ではござりませぬ。されど――」
と、信長はここで表情を引き締め、新帝に向かって一礼した。
「戦いを有利に進めますために、一つお願いの儀がござります」
「ほう、なんじゃ。申してみよ」
「我が息子、信忠《のぶただ》めを征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に、なにとぞご推任くださいますよう」
「その儀は、聞いておる。征夷大将軍か。つまり、東国の夷《えびす》どもを討つ、ということじゃな」
「ご賢察《けんさつ》」
信長は笑った。
まさに、そのとおりであった。
本来、征夷大将軍というのは、東国の賊《ぞく》を討つために、朝廷が設けた職である。
それが源頼朝《みなもとのよりとも》以来、武家の棟梁《とうりよう》の意味に変化してきている。
だが、もともとは朝廷において、天皇の勅令《ちよくれい》を受けて東国の賊を討つ役職だから、信長にとっては、実に好都合であった。
嫡男《ちやくなん》信忠が征夷大将軍に任じられれば、それは、東国で織田家の命に従わぬ者を賊として討っていい、ということを意味するからである。
「この上、主上《おかみ》のご意向に従うよう、北条めに勅諚《ちよくじよう》を下しおかされますように」
「ほう、勅諚か」
新帝は笑った。
いかに大名家とはいえ、天皇が直接命令書を下すなどということは、きわめて異例のことである。
「朝飯《あさめし》前に片づくのではなかったのか」
新帝は、ちらりと皮肉を言った。
信長は、いささかも怯《ひる》まずに、
「無用な戦を起こし、戦場において無辜《むこ》の民を犠牲にせぬためでござる」
新帝は、大きくうなずいた。
新帝の勅諚は、ただちに関東の小田原《おだわら》に本拠を持つ北条氏のもとに届けられた。
北条氏の当主は、氏政《うじまさ》である。
まだ若い。
都の帝から使いが来たというので、北条家の重臣たちが、続々と小田原城に集まってきていた。
氏政は、その場に出ると勅書《ちよくしよ》を放《ほう》り出して、みなを驚かせた。
「くだらぬ。信長の差し金だ」
「なんと書いてあるのだ、兄上」
弟の氏照《うじてる》が聞いた。
「近く遠征する織田《おだ》信忠の命を聞き、その指揮下に入れという内容よ」
氏政は、不快そうに言った。
一同にざわめきが走った。
「信忠と申せば、あの織田の嫡男の?」
「そうだ。城介《じようのすけ》と名乗っていたあの信忠が、なんと、このたび征夷大将軍に推任されたという」
「将軍じゃと? 御屋形《おやかた》様、それは、まことのことでござるか」
一門の長老である上総入道道感《かずさにゆうどうどうかん》(北条|綱成《つなしげ》)が言った。
綱成は、もともと北条氏ではなく、今川《いまがわ》家の家臣だったが、抜群の器量を持っていたため、先々代の氏綱《うじつな》の厚い信任を受け、その娘を得て、北条姓を名乗ることになったのである。
もはや六十を超し、現役からは引退しているが、一門の最長老として、氏政の家臣に人望があった。
「成り上がりの織田の、それも信長ではなく、その息子の信忠|風情《ふぜい》が征夷大将軍になるとは、まさに末世《まつせ》じゃのう。だが、まことのことらしい」
氏政は吐《は》き捨てた。
綱成は目を閉じた。
先代の氏康《うじやす》が生きていたころは、まさに考えられもしなかった情勢の変化であった。
北条は、まだ四代目とはいいながら、関東では名門の家柄である。
その名門の誇りから見て、信忠風情に従うなどということは、耐えられないことではあった。
だが問題は、その背後にある父信長の実力である。
「それで、御屋形様は、どうなさるご所存か」
閉じていた目を開けて、綱成は問うた。
「知れたこと。その使いを追い返し、そのような命には従えぬと言ってやることよ」
「それは得策とは言えませぬな」
綱成は言った。
「なぜだ」
氏政は、血走った目を向けた。
「仮にも、帝のお使いでござる。無礼があっては、なりませぬ。いかに納得がいかぬとはいえ、主上の推任を得た以上、将軍は将軍でござる。その将軍に逆らえば、朝敵《ちようてき》となり申す」
「朝敵」
氏政は、怒りをさらに増幅させた。
「このわしが、朝敵になるというのか」
「このままではなりまする」
「では、どうしろと。まさか、信忠の命令に従うというわけでもあるまい」
「ここは、とりあえず使者をもてなし、その上で回答を適当にはぐらかせて、言質《げんち》は取られずに返すべきでござる。その後のことは、やはり弓矢に訴えるしかござりますまい」
綱成は、重々しい声で言った。
やはり、帝という切り札は大きい。それを敵に押さえられているのである。
「それで、勅使《ちよくし》には、どなたが見えられたのか?」
気を取り直すと、綱成はたずねた。
「勧修寺《かじゆうじ》、と申す公家《くげ》だそうな」
氏政は、吐き捨てるように言った。
「勧修寺? 聞かぬ名でござるな」
綱成が首をひねるのも無理はなかった。
都から遠く離れた関東で、知られている公家といえば、近衛《このえ》とか二条《にじよう》、九条《くじよう》といった、関白を務められるほどの高級公家ばかりである。
「切れ者でござる」
それまで黙っていた氏政の末弟、北条|氏規《うじのり》が言った。
一座の人々は、いっせいに氏規の顔を見た。
「知っておるのか?」
氏政がたずねた。
「見知ってはおりませぬ。しかし、帝が、いや先帝が右腕とも頼る御方だと聞きおよびます」
氏規は、井の中の蛙が多い北条家のうちでは、中央の情勢に明るい別格の存在であった。
それというのは、北条氏康の四男坊に生まれた氏規は幼いときに、強大な隣国であった今川家に人質に出されたからだ。
そのとき、隣の屋敷にいたのが三河松平《みかわまつだいら》氏の人質、松平|元康《もとやす》すなわち、いまの徳川家康《とくがわいえやす》であった。
氏規は、家康と仲がよかった。
今川家が武田《たけだ》と徳川に滅ぼされると、氏規は北条家に戻されたが、人質時代につちかった人脈や見聞は、氏規を北条家の外交官的存在にしていた。
「御位《みくらい》はいかに?」
氏照が言った。
「たしか、参議《さんぎ》と聞きおよびますが」
氏規は答えたが、氏政は首を振って、
「いや、違うぞ。大納言《だいなごん》と聞いた」
「では、除目《じもく》(大臣以外の諸官職を任命した儀式)があり、ご昇進されたのでしょう」
参議は四位相当の官だが、大納言は三位《さんみ》相当である。
(おそらく新帝は、父帝の腹心を取り込むために、位を一つ上げたのであろう)
参議もなかなか重い官だが、大納言はそれ以上だ。
これより上は、大臣しかない。
氏規は、そう判断した。
「そちが、応接せよ」
氏政は、氏規に向かって突然、言った。
「拙者《せつしや》が?」
氏規は、意外な顔をした。
氏政はうなずいて、
「わしは、都のお方が苦手じゃ。そちに馳走役《ちそうやく》を申しつけるゆえ、使いの真意を聞き出せ」
「兄上、いや、御屋形様――」
「よいな、しかと申しつけたぞ」
馳走役とは、接待係のことだ。
否《いや》も応《おう》もなかった。
氏規は、仕方なく装束《しようぞく》を改め、勅使の前に出て平伏した。
「当主氏政より、馳走役を命じられました北条氏規と申す者、なにとぞお見知りおきを願い奉《たてまつ》る」
「おうおう、氏規殿と申されるか。ご当主氏政公のご縁者かな」
勧修寺|晴豊《はるとよ》は、上機嫌だった。
副使の吉田兼和《よしだかねみ》とともに、先ほどからいたれり尽くせりの接待を受けていたのである。
(これで、夜は女子《おなご》でも忍んでくれば申し分ない)
もはや、先帝に対する忠誠心は忘れかけていた。
晴豊のような中級公家は、このような乱世でもないかぎり、出世の見込みはない。
新帝が、織田信長を関白に、信忠を征夷大将軍に任じたとき、そのおこぼれを頂戴《ちようだい》する形で、晴豊も大納言になった。
これは、晴豊の心を変えさせるのに充分な褒賞《ほうしよう》であった。
「お察しのとおり、舎弟《しやてい》でござりまする」
とりあえず氏規は、顔を上げて晴豊の質問に答えた。
「おう、ご舎弟とな。それはかたじけない。そのような身分の者を、この身《み》の馳走役となすは、北条殿の志《こころざし》が知れるというものじゃ」
「恐れ入ります」
「この小田原は、よいところじゃのう」
晴豊は、扇《おうぎ》を取り出し、口もとを隠すように目の前で開いた。
「景色がよい。酒がうまい。魚もうまい。都を離れて暮らすなら、このようなところに庵《いおり》を結びたいものよ」
「お誉《ほ》めにあずかり、光栄でござる」
氏規は、今度は深く頭を下げた。
「なによりも、民の暮らしが平穏なのがよい。この乱世で、このような楽土《らくど》があろうとは、この身も知らぬことであったわ」
そろそろきた、と氏規は思った。
公家は、肝心の話とはまったく関係なさそうな花鳥風月《かちようふうげつ》のことを話すことがよくある。
だが実際は、それこそ「本題」であって、暗《あん》に質問したり、念を押したりしているのだ。
それがわからなければ、都の人間と話す資格はない。
田舎者《いなかもの》とさげすまれ、まともに相手にしてもらえなくなる。
しかし、それでも「田舎者め」と直接、口に出して言ってくれるなら、まだいい。
公家たちは、そうは言わずに、黙っているだけなのだ。
幸い氏規は、そういう機微《きび》がわかる。
人質となっていた今川家は、武家でありながら公家社会だった。
そのときは、いやでいやでたまらなかったが、そういう公家の「話し方」がわかることが、氏規の北条家における地位を高めているのである。
人生とは、皮肉なものだ。
いま、晴豊は、「この国が平和だ」と言った。
それは、当然、「新帝の命令をおとなしく聞いて、この国を保て」という意味なのである。
「お誉めにあずかりまして、うれしゅうござる」
氏規は、まず礼を言った。
「――当家の政《まつりごと》がよいとの、お誉めでもござるな」
「そうじゃな。この国が安穏《あんのん》なのも、北条殿の政がよいからじゃ」
「もったいなきお言葉」
「この安穏を失うてはならぬの」
晴豊は、さらりと言った。
それは、勅諚に従って、おとなしく降参しろという意味だ。
「この坂東《ばんどう》(関東)には、一所懸命《いつしよけんめい》と申す言葉がござる」
「ほう、いかなる意味かの?」
「左様。武家も百姓も、おのれの土地を命を懸《か》けて拓《ひら》き、拓いた土地は命を懸けて守るということでござる」
氏規は、一語一語、区切るようにして言った。
もちろん、それは、下手に土地を取り上げようなどと考えれば、命を懸けても抵抗する、という意味である。
「ははは――」
晴豊は突然、笑った。
「ご舎弟殿は、何かこの身に申されたいことでもあるかな」
「いえいえ、とんでもござりませぬ。おそれ多くも帝のご使者、大納言の君に、田舎大名の舎弟|風情《ふぜい》が何を申し上げることがござりましょうか」
氏規は、手をついた。
「身には、わからぬな」
「――――」
「いったい北条殿は、なんとお考えか。一所懸命とやらを通されるか。それとも、この国の安穏を守られるか」
「守りましょう。それが、国主の務めでござる」
「ほう、守られるかの」
「御意《ぎよい》。国の安穏を守るは国主の務め。たとえ、何が起こりましょうとも、我が北条一族は、この国を守らねばなりませぬ」
ここが肝心《かんじん》かなめのところだった。
仮に、帝の勅諚《ちよくじよう》を受け入れて、織田軍に降参したとしよう。
その後も北条は、この相模《さがみ》、伊豆《いず》の二国の国主として、その地位を保てるかどうか。
「なるほどのう。ご舎弟殿は、なかなかの切れ者とお見受けした」
「恐れ入り奉る」
「この国に一刻《いつこく》も早い安穏をもたらすことこそ、帝のお望みじゃ。そのためには、無理なことは許されぬ。無理を通せば、かならず兵乱が起こるでの」
「つまり――」
氏規は、唾《つば》を飲み込むと、
「我らの領国には、いささかも手をつけぬと、仰せられるのですな」
「これこれ、そう先走りするものではない」
晴豊は、たしなめた。
「先走りでござるか?」
「左様、天下が治まるのだ。織田殿の手でな。ならば、祝儀《しゆうぎ》は出さねばなるまい」
祝儀――それは、領地の割譲《かつじよう》のことであろう。
「田舎侍ゆえ、話が大きすぎて、ちとわかりかねまするが。天下の祝儀とは、いかほどのものでござるか」
晴豊は言った。
「天下の祝儀なれば、まず一国は差し出してもらわねばならぬ」
「それは、伊豆を、ということでござるか?」
氏規の問いに、晴豊は首を振った。
氏規は、愕然《がくぜん》とした。
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18
織田信長《おだのぶなが》は、あいかわらず京《きよう》の本能寺《ほんのうじ》にあった。
信長にとって、ある意味でもっとも縁起《えんぎ》の悪い場所とも言える。この本能寺に居座りつづけるところが、まさに信長であった。
家臣一同も、
「殿は、本当に変わっておられる」
というのが、一致した評価であった。
もっとも、実は信長に対する呼称は、もはや「殿」でも「御屋形《おやかた》様」でもなかった。正式には、「殿下」と呼ばなければならないのである。
関白《かんぱく》は、天皇の息子である皇太子よりは格下だが、二男以下の親王よりは格が高い。それゆえに、その呼称は、「閣下」でも「上様」でもなく、「殿下」でなければならなかった。
信長は、側近の森蘭丸《もりらんまる》を通じて、この呼称の変更を家臣に周知徹底《しゆうちてつてい》させていた。新しい世の中がきたことを知らせるためである。
「殿下」
その蘭丸が、信長にたずねた。
「なんだ?」
信長は近ごろ、庭を見ていることが多い。その庭も、もとは本堂があった焼け野原の部分である。焼け焦げた残骸《ざんがい》を取りのけたあと、信長は急いで仮屋をつくらせた。だが、その配置は、かつての伽藍《がらん》とは変わっている。
信長は、ときどき日課のように、その庭を見つめながら、沈思黙考《ちんしもつこう》していることがあった。蘭丸は、ひょっとしたら、ここで失われた茶器のことを思っているのかと考えた。
信長は、日本一の茶器収集家である。
茶道というものを、この国の新しい文化として位置づけることを欲し、そしてその文化の第一人者となろうとした信長は、いわゆる名物狩りを行った。
名物狩りとは、茶に関する道具、たとえば茶杓《ちやしやく》であるとか、茶入れであるとか、茶壺《ちやつぼ》であるとか、茶碗《ちやわん》であるとか、また床の間にかける掛《か》け軸《じく》といったようなものの名品を、金と権力に任せて集めることである。
一時は、茶器の中でも名品中の名品のほぼ八割が、信長の手中に帰したことがあった。
そして信長は、あの忘れもしない六月一日の夜、京の堂上公家《どうじようくげ》たちを招いて、その茶器を見せつけ、盛大な茶会を開いたのである。
それは、信長がこれから、この国の文化上の支配者にもなるという、大きな示威《じい》行為であった。
だが、その得意の絶頂にあるところで、明智光秀《あけちみつひで》の奇襲に遭《あ》ったのである。
(あのとき、高柳左近《たかやなぎさこん》の注進《ちゆうしん》がなければ、いまごろ、茶器とともに、この身は滅びていたのだ)
たしかに信長は、そう思って庭を見ていることはよくあった。だが、もの思いにふけっているのでもなければ、ましてや茶器を惜しんでいるのでもない。
信長の構想は、つねに未来を向いていた。
「殿下。小田原《おだわら》へ向かった勧修寺《かじゆうじ》殿の首尾《しゆび》は、いかがでござりましょう?」
蘭丸は、そのことを話題にした。
信長は、にやりと笑うと、
「お蘭。いまごろ大納言《だいなごん》は、何を北条《ほうじよう》に要求していると思うか?」
「はっ、それは――」
と、蘭丸は一瞬、首をかしげ、ただちに答えた。
「主上《おかみ》の命令に従い、我が織田家への軍門に降《くだ》ることでござりましょう」
「それだけか?」
「は?」
蘭丸は、信長を見上げた。
信長の顔には、子供のころから少しも変わらない、悪童《あくどう》のような表情が浮かんでいた。信長が、この笑みを浮かべるときは、心中よほどの快事があるときなのである。
「ただ降参させるだけではつまらぬし、実入りもない。当然、要求すべきものがあるだろう?」
「領土の割譲《かつじよう》でござりますか?」
信長はうなずくと、
「お蘭。そちが使者だったら、どのように言う? 申してみよ」
「はっ。北条殿は相模《さがみ》という大国と、伊豆《いず》という小国の二カ国の持ち主でござりますゆえ、私ならば、伊豆をよこせと」
「それではだめだ」
信長は、ぴしゃりと言った。
「なぜでござります?」
「そちもまだまだ若いのう。伊豆をよこせと言えば、初めから伊豆をよこせ、よこさぬが話のもとになる。そして、もしうまくいったとしても、伊豆が手に入るだけ。失敗すれば、伊豆一カ国どころか、せいぜい半国、あるいは一都ということにもなってしまう。だから、大納言はいまごろ、相模をよこせと言っているはずだ」
「相模を?」
蘭丸は驚いた。
それは、まるで母屋《おもや》を明け渡して、納屋《なや》に引っ込めというような、過大な要求ではないか。
「それでよいのだ」
信長は言った。
「余《よ》も最初から、相模が取れるとは思ってはおらぬ。だが、まず相手の予想もしなかった大きな要求を出して、相手の気をくじく。相手は、なんとか必死にその要求だけはかわそうと評定《ひようじよう》を重ねる。そして、あげくの果ては、こうなるであろうな。『相模はとても。ただし、伊豆一国にてお許し願いたい』とな。つまり、これが話の落としどころというやつよ」
「なるほど。そういうものでござりますか」
「お蘭。覚えておけ。交渉というものは、そのようにやるものじゃ。初めは、相手がとても受け入れられぬ要求を出し、慌てさせ、そして頃合いを見計らって、少し下げてやる。その下げたところが、本来の狙《ねら》いなのだ」
信長は笑った。
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19
四国|伊予国《いよのくに》において、長宗我部《ちようそかべ》元親は、四万の軍勢を率い、四国征伐の羽柴秀吉《はしばひでよし》の本軍七万五千を迎え撃つために、刻々と北上しつつあった。
途中、元親は、街道沿いに大きな神社を見つけると、全軍を停止させ、主だった者を社殿の前に集め、太刀《たち》を奉納して、戦勝を祈願した。
元親は、神殿の階《きざはし》を上がると、重々しい動作で、神殿の鈴を鳴らし、手を合わせて目を閉じ、その場にひざまずいて、一心に祈念《きねん》を凝《こ》らした。
重臣たちも目を閉じ、頭を下げていたが、しばらくして目を開けたときも、元親は、まだ神殿にぬかずいていた。
(殿も必死なのだ)
重臣たちは、ますます闘志が湧《わ》き上がってくるのを感じた。
その元親は、突然あっと叫び、立ち上がると、二、三歩あとずさりし、そして慌てて平伏した。
「殿、いかがなされた?」
「ありがたいことじゃ」
元親は、頭を下げたまま言った。
「父上。いかがなされたのです?」
長男の信親《のぶちか》が近づいてきた。元親は、今度は立ち上がって、神殿のほうに向かって、しきりにうなずき、
「ありがたいことじゃ」
と、ふたたび言った。
けげんな顔をする家臣一同を前に、元親は振り返って、
「おのれらは、何も見なかったのか?」
と、言った。
「何をでござるか?」
家臣たちは、口々に言った。
「いま、神がこの御前《おんまえ》に現れ、お言葉を賜《たまわ》ったではないか。聞こえなかったのか?」
一同は唖然《あぜん》とした。信親が代表して聞いた。
「父上。神は何をおっしゃったのです?」
「知れたこと。このたびの合戦。汝《なんじ》らの勝利、疑いなしと仰《おお》せられた。ありがたいことじゃ」
元親は、そう言って、神殿に頭を下げ、
「めでたく勝利の暁《あかつき》には、この社《やしろ》を新しく建て直すことにいたそう。神もお喜びであろう」
元親は、ふたたび全軍を振り返って、
「聞いてのとおりじゃ。我らが勝利、疑いなし。上方《かみがた》の腐れ武士どもに、我らが負けるはずはない」
元親は、大声で叫んだ。
喜んだ兵たちは、いっせいに鬨《とき》の声をあげた。
一方、秀吉は、すでに元親の動きをつかんでいた。
策敵《さくてき》(敵の動きを探知すること)は、織田軍のもっとも得意な軍事行動の一つである。
信長の開運のもととなった桶狭間《おけはざま》の合戦も、的確な策敵行動が、その勝敗を決したと言ってもいい。
まともにぶつかっては勝ち目のない戦いだったが、今川義元《いまがわよしもと》の本隊がどこにいるかを、すばやく察知したことによって、奇襲攻撃が可能になったのである。
そのことをよく知っている織田家の将領《しようりよう》たちは、自分たちが今川義元にならないように、常に警戒していた。
なにしろ織田軍は、京を抑えて以来、どの軍団も大軍と化しつつあったから、敵は味方より少数である。
したがって、桶狭間のような乾坤一擲《けんこんいつてき》の逆転劇を挑んでくる者が、敵にいることは充分に考えられ、そのために秀吉も、柴田勝家《しばたかついえ》も、滝川一益《たきがわかずます》も、敵の奇襲に対しては、警戒する習慣がついていたのであった。
「長宗我部め。我らと直接、雌雄《しゆう》を決せんとするか」
軍議の席で、中央の床几《しようぎ》に腰かけた秀吉は、傍《かたわ》らの参謀《さんぼう》役の黒田官兵衛《くろだかんべえ》に笑いかけた。
「田舎《いなか》武士にしては、見上げた心がけと申し上げておきましょう。だが、世間知らずでござりますな。我が軍の中ほどを突破するつもりでござりましょうか」
「おそらくは、その考えであろう。だが、そのようなことができると思っておるのは、田舎者たるゆえんよ」
「筑前《ちくぜん》どの。ぜひ先陣は、この立花宗茂《たちばなむねしげ》にお任せください」
と、九州攻め以来、秀吉に随従《ずいじゆう》することを命じられている立花宗茂が言った。
軍の区分けとして、九州勢は主に秀吉、そして小早川隆景《こばやかわたかかげ》をはじめとする中国勢は、弟の羽柴秀長《はしばひでなが》に従う形となっている。
「立花殿。手柄のひとり占めは、よろしからず。このたびは、一働《ひとはたら》き所望《しよもう》したい者どもがおる」
その声を聞いて、軍議の場にいた島津義弘《しまづよしひろ》が身を乗り出した。
「では、先陣は拙者《せつしや》に?」
秀吉は、大きくうなずいた。
「奉公の手はじめに一働き所望と、殿下も仰せられておる」
「かしこまった。あの田舎|侍《ざむらい》など、我が島津の釣《つ》り野伏《のぶ》せの陣で撃退してくれましょう」
「ほう、釣り野伏せの陣とな。それは薩摩《さつま》の秘密の陣法であるな」
秀吉は言った。
「左様《さよう》でござります」
「楽しみだな、立花殿」
義弘は上機嫌《じようきげん》だった。
とっておきの攻め方を秀吉に見せるということは、もう二度と敵対しないということの証《あかし》でもあるからだ。
「薩摩の陣法には、我らもさんざん煮え湯を飲まされておりますゆえ」
と、宗茂は苦笑した。
大友勢は、いや九州各地の武士たちは、この薩摩の戦法に何度も何度も痛い目に遭っている。
釣り野伏せとは、いかにも敵に弱いように見せ、敵をおびき出し、痛撃を浴びたとたん逃げ出す。当然、相手は追ってくる。それをまんまと罠《わな》の中に誘い込み、四方に伏せておいた伏兵《ふくへい》が一気に襲いかかるという手段である。
これで、島津家は、味方に数倍する軍を何度も破ったことがある。
宗茂は、さんざん痛い目に遭ったから、その手の内はよく知っているが、四国の侍は、それを見るのは初めてのはずである。
「お手並み拝見と参りましょう」
「かしこまった」
義弘は、すぐに立ち上がって、自陣に向かった。
「敵の先鋒《せんぽう》はだれだ?」
元親はたずねた。
「丸に十の字の紋《もん》が見えます。おそらく、島津|薩摩守殿《さつまのかみどの》の軍勢でござりましょう」
「島津か。相手にとって不足なし」
その島津は、先鋒を矢のようにとがらせた突撃陣形で、大将みずからが先頭に立ち、長宗我部の本陣に向かって突っ込んできた。
(田舎侍め。戦い方を知らぬな)
元親も、島津が用兵に巧みだとの風聞《ふうぶん》を知らぬわけではなかった。しかし、その突撃のやり方を見て、ただの猪武者《いのししむしや》ではないかと侮《あなど》った。
その侮りが、最後に手痛い打撃を受けることになった。
元親は、このような場合の常道として、陣を鶴翼《かくよく》にとり、相手を包み込む作戦に出た。突っ込んでくる相手を左右から包み込んでしまい、そして両翼の兵が、敵の背後を遮断《しやだん》する。こうすることによって、敵の先鋒は、長宗我部陣の輪の中に取り残されることになる。
それをやるつもりで、元親は動いた。
ところが、島津もさすがにそれと察したか、途中まで来て、慌てて百八十度、方向転換し、もと来た道を逃げ戻りはじめた。
「逃がすな。奴《やつ》こそ大将、島津義弘だ。討ち取ってしまえば、戦《いくさ》は勝ちだぞ」
「父上、拙者にお任せを」
予備隊の副将格として、父元親に近習《きんじゆ》してきた信親は、絶好の機とみるや、ただちに自軍に属する一千の兵を率いて、あとを追った。
「待て」
元親は、慌てて言った。
信親は、大切な跡取りである。このような戦に、突出して戦う必要はない。なぜならば、この戦は、あくまで長宗我部が生き残るために、その強さを見せるのが目的だからだ。
だが、信親は聞かなかった。若さゆえのはやりもあった。そして、二度と帰らぬ覚悟もあった。九州にこの人ありと知られた島津義弘を討ち取るならば、本望だと思ったのである。
信親は、大男である父をさらに超えた身長六|尺《しやく》五寸(百九十五センチ)の大兵《だいひよう》であった。
その信親に、命を捧《ささ》げて悔いなしと思う一千の兵が、信親に続いて義弘を追った。
だが、それは義弘の巧みな罠《わな》だった。まるで魔術を見るように、義弘を追った信親勢一千は、いつのまにか退路を遮断されてしまった。
(しまった、伏兵だ)
気づいたときは遅かった。
まず、四方八方から、鉄砲が雨あられと浴びせられた。
島津家の装備している鉄砲は、それほど多くない。だが、正面から撃たれるならともかく、退路を遮断されたところを、いきなり四方から撃ち込まれるのである。
その被害は甚大《じんだい》だった。たちまち、二百から三百に近い兵が死に、あるいは深手《ふかで》を負い、戦闘不能になった。
「いかん、引き返せ」
信親は、そう命令を下した。
だがそのとき、息を呑《の》むようなできごとが起こった。あたりの草むらから、岩陰から、そして森の中から、いったいどこに隠れていたかと思うほどの多くの兵が、信親隊を取り囲んでいることに気づいたのである。
「敵の副将、長宗我部信親殿とお見受けする。拙者は、島津家家老・新納忠元《にいろただもと》でござる。もはや、逃れる道はあり申さん。いさぎよく降参されてはいかがだ?」
「なに、降参だと?」
信親は、一気に頭に血がのぼった。
「我ら、土佐《とさ》侍をなめる気か?」
信親は、この瞬間、死を決意した。たとえ、死んでもいい。薩摩に、そして上方侍たちに、土佐の侍がいかに恐るべき者であるか、思い知らせるしかない。
「島津薩摩守にもの申す」
信親は、馬上から大音声《だいおんじよう》で叫んだ。
「貴殿は、よほど我らが怖いとみえる。こそこそ隠れて、鉄砲を放つなど、武士のやることではないわ。おのれが本当に九州一の弓取りと称するならば、出てきて尋常《じんじよう》に勝負しろ。我が兵は、敵に後ろを見せる卑怯者《ひきようもの》などは、一人もおらぬぞ」
「よくぞ申した。ならば、お相手いたそう」
義弘も、兵たちの前に馬で進み出た。
「では、これからは、いっさい弓や鉄砲は使わぬ。土佐の長宗我部の兵《つわもの》が、その口ほどに働く者かどうか、見せていただこう」
義弘は馬上で、配《はい》を握り直すと、
「かかれ」
と、それを振り上げた。薩摩兵が、土佐兵に殺到した。
信親は、馬上で腰の名刀|左文字則近《さもんじのりちか》を抜いた。
これはかつて、織田家と長宗我部家が友好関係にあったときに、信長から元服《げんぷく》の祝いとして贈られたものである。そもそも、信親の「信」も、信長の「信」をもらったのである。
ただし、目上の人間から名をもらう場合、目上の人の下の文字をもらい、それを上につけるというのが普通のやり方だった。
たとえば、足利義「輝」に対し上杉「輝」虎といった形だが、長宗我部家は織田家の家来ではないので、あえて長親とせず上の「信」の字をもらって信親としたのである。
だが、それもいまは昔のことだった。織田軍は敵として、この薩摩兵の向こうに君臨《くんりん》している。
「戦え。一歩も引くな」
と、信親は叫んだ。
実際、一歩も引けるような状態ではなかった。信親隊は、周りをびっしりと薩摩兵に囲まれているのである。
当然、土佐兵は、馬上の信親を守るために円陣を組み、槍《やり》を突き出し、敵に抵抗した。
だが、それでもその輪をくぐって、信親に殺到する者があった。信親は馬上から、それを左文字の名刀を振るって、片《かた》っ端《ぱし》からなぎ倒した。
なにしろ、敵は具足《ぐそく》を身に着けている。その上から斬《き》るのだから、致命傷を与えることは難しい。殺さぬまでも、よほどうまく斬らねば、敵を戦闘不能にすることはできない。
だが、信親は武芸の達人だった。少なくとも殺到する敵十人に手傷を負わせ、撃退した。だが、そのことで左文字は歯こぼれし、ぼろぼろになった。
「くそっ、これで終わりか」
信親は、ついに叫んだ。
「いよいよ最期《さいご》だ。者ども、ともに地獄へ参ろうぞ」
信親の叫びに答え、あちこちから、
「御供《おんとも》、御供」
という声が、つぎつぎにあがった。
それは、攻めている島津義弘を戦慄《せんりつ》せしめるほど、壮烈な光景だった。
(だが、もつまい。このまま討つしかなくなる)
義弘はにわかに、この信親という武士を討つのが惜しくなってきた。だが、相手は決死の覚悟で踏みとどまって戦っているのである。いまさら、手をゆるめたところで、自害するだけのことだろう。
その父の元親も、手をこまねいていたわけではなかった。なんとか島津の鉄の包囲網を切り破り、信親を逃がそうと試みるのだが、薩摩の陣形は巧みであった。
内側に向かって信親隊を攻め、外側に向かっては槍衾《やりぶすま》ができ、容易に外の兵を近づけない。つまり、輪の中で、一方が内を向き、そして一方が背中合わせに外を向くという、独特の形で、敵がこの輪を破るのを防ぎつつ、中の敵兵を殲滅《せんめつ》しようとしているのである。
「あれが釣り野伏せというものか?」
秀吉は、宗茂に聞いた。九州の陣で味方の小早川隆景がこの形で攻められたことがあったが、そのときは立花宗茂がうまく島津の裏をかいた。うまく決まった形を見るのは秀吉も初めてだった。
「左様。ああしておいて、敵の大将を引きずり込み、その旗本とともに討ち取って、敵を敗走させる薩摩得意の戦法でござる」
「恐るべきものだな」
秀吉は言った。
たとえ、敵が数万の大軍であろうとも、それを指揮する大将は、ただ一人。そして、その大将を守る旗本も、全体の軍勢に比べれば、ごくわずかである。
それを巧みに戦場に引きずり出し、囲い込み、殲滅することによって、薩摩は勝ちを取るのだ。
(宗茂は、蛇《へび》の頭を潰《つぶ》すと申していたが、まさにそのとおりだな。頭を潰してしまえば、首から下にいくら長い身があっても、なんの役にも立たぬわ)
いまや、その島津勢は、敵ではなく味方なのだ。秀吉は、そのことをいまこそ天に感謝していた。
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20
秀吉《ひでよし》対|長宗我部《ちようそかべ》軍の激突は、半刻《はんとき》(一時間)もしないうちに片がついた。
長宗我部軍の大将|元親《もとちか》の嫡子《ちやくし》である信親《のぶちか》が、島津《しまづ》の釣《つ》り野伏《のぶ》せの陣にまんまと引っかかり、ついに討ち取られてしまったのである。
信親の最期は、実にみごとであった。
四方八方から殺到する島津勢に囲まれ、信親は最後の最後まで戦い抜いた。しかし、正面から回った薩摩侍《さつまざむらい》が、信親の脾腹《ひばら》を槍《やり》で突き、弱ったところを逆側から太刀《たち》で斬りつけられ、ついに信親は落馬した。そして、立ち上がろうとしたところを、胸部への急所に槍を突き込まれ、ついに声にならない声をあげて、絶息《ぜつそく》した。
「父上」
それが、信親の心の叫びであった。
元親は、歯噛《はが》みしていた。それほど遠くないところで、自分の最愛の息子が死を迎えようとしている。しかしながら、薩摩軍の猛烈な攻勢に遭《あ》って、どうしても助けることができないのである。
「若君《わかぎみ》、討ち死に」
悲痛な声が、長宗我部陣にあがった。信親の最期を見届けた伝令が、元親のもとへ達したのである。元親は、馬上で配《はい》を握りしめ、血を流さんばかりに、唇を噛《か》んだ。
(なぜだ、信親。なぜ、この父を置いて、先に逝《い》った)
元親にとって、この戦いは、長宗我部家を存続させるための乾坤一擲《けんこんいつてき》の大勝負であった。討ち死にを覚悟したのではない。大切なのは、長宗我部家を存続させ、それを抜群の器量を持つ信親の手に渡すことだ。
秀吉だって、信長《のぶなが》のもとで足軽《あしがる》から叩《たた》き上げて、あそこまでの地位にのぼったのである。つぎの世代では、何が起こるかわからない。そのためにも、大名としての長宗我部家を残すということが、もっとも大切な課題であった。だが立場上、元親は、それを息子に明かすわけにはいかなかった。また、そんなことを明かせば、一本気《いつぽんぎ》な性格の信親は、意固地《いこじ》になり、かえって敵中に突入しかねなかった。
だからこそ、大事も打ち明けず、味方の士気をただ鼓舞《こぶ》することだけを考え、ここまできたのに、信親は、その意図を誤解し、真っ先に敵中に突っ込み、壮烈な戦死を遂げてしまったのである。
信親が死んでは、戦いの意味はもうない。
「全軍、退《ひ》くのじゃ」
元親の弟の香宗我部親泰《こうそかべちかやす》が言った。
「兄上」
とがめるように、親泰は元親を見た。
息子が討ち取られたというのに、兵を退くということが、あるものだろうか。
「退くのじゃ。もはや、この戦いに意味はない」
元親は、言うだけではなく、行動で示した。馬首《ばしゆ》をめぐらせて、もと来た道を引き返そうとしたのだ。
親泰は、慌てた。大将がそのようなそぶりを見せたら、下手をすると、全軍総崩れになる。
そして、そのとおりのことが起こった。元親が逃げようとしているとみた全軍の士気は、一気に崩れた。
それでなくても、信親が討ち取られたことによって、長宗我部軍の士気は、かなり落ちていた。本来なら、復讐《ふくしゆう》の念に燃えて士気が上がるところだが、信親は、下級の兵にとっても長宗我部家の輝ける希望の星だったのである。
その信親が死んだ。もはや、戦う甲斐《かい》はない。
百戦錬磨《ひやくせんれんま》の秀吉は、その様子を本陣から見ていた。
「どうやら、潮時《しおどき》のようじゃの」
秀吉は床几《しようぎ》から立ち上がって、傍《かたわ》らの黒田官兵衛《くろだかんべえ》に言った。
「御意《ぎよい》」
官兵衛も答えた。
敵は動揺している。いま総攻撃をかければ、一挙に崩壊するはずである。
それまで満を持《じ》していた立花宗茂《たちばなむねしげ》ら、島津家以外の九州勢が、怒濤《どとう》のように長宗我部陣に襲いかかった。
そればかりではない。秀吉は、ここが勝機《しようき》とみて、自らの旗本《はたもと》である加藤清正《かとうきよまさ》、福島正則《ふくしままさのり》ら、自軍きっての元気者を戦場に投入した。
それで、大勢は決した。長宗我部軍は、あっという間に崩壊し、兵の大半を失った。ただ、元親だけは、なんとか生き延びた。だが、ここにおいて長宗我部家は、四国の覇権《はけん》を完全に失ったのである。
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21
小田原《おだわら》城において、当主|北条氏政《ほうじよううじまさ》以下、重臣たちは、勅使勧修寺晴豊《ちよくしかじゆうじはるとよ》が持ち出し、吹っかけてきた、相模《さがみ》一国をよこせという過大な要求をどのように扱うか、鳩首《きゆうしゆ》協議をしていた。
北条家の談義は、当主氏政が優柔不断《ゆうじゆうふだん》な上に、その弟も多く、有力な親族や老臣たちも口を出すため、なかなかまとまらないので定評があった。俗に、これを小田原評定《おだわらひようじよう》と言う。そういう揶揄《やゆ》する言葉すらできるような長談義なのである。
「それにしても、馬鹿《ばか》にしておる」
氏政の弟|氏照《うじてる》は、憤慨《ふんがい》していた。
「伊豆《いず》ならばまだしも、相模を渡せとは、いったい何事ぞ。この北条に、飢え死にせよというのか」
「そうではござりますまい。おそらく、我らを憤激《ふんげき》させ、兵を挙げさせた上で、滅ぼす魂胆《こんたん》かと」
宿老《しゆくろう》筆頭とでも言うべき、松田憲秀《まつだのりひで》が言った。これに対して、その伝言を伝えた氏規《うじのり》は、沈黙していた。
氏規には、都人《みやこびと》の真意はわかる。相模をよこせというのは、最初からそれを望んでいるのではない。初めから伊豆を望めば、話は、伊豆以下の話になってしまう。そこで、まず相模を持ち出して相手の度肝《どぎも》を抜いた上で、おもむろに話を切りだす。それがやり方だということを、心得ていたのである。
ただし、そのことをいつ口にすべきか。その機を計っていたのである。
(勧修寺殿の真意は、伊豆一国をすべてよこせにある)
だが、そのことをいま口にすることは、かえって一同を憤激させ、戦《いくさ》の道のもとになりかねぬ。
(さて、どうするべきか)
その懸念《けねん》を吹き飛ばしたのは、やはり、長老の北条|綱成《つなしげ》改め入道道感《にゆうどうどうかん》である。
「御屋形《おやかた》様、お聞きくだされ」
と、道感は進み出た。
「ほほう、長老は何か、名案があるのか」
氏政の問いに、道感は答えた。
「ござります」
「それは何か?」
「武蔵《むさし》一国を譲るのでござる」
道感は、重々しい声で言った。
一同は驚いて、道感の顔を見た。
武蔵一国、それは、たしかに北条の領土である。しかしながら、武蔵国というのは、領土であるということが意識されないほどの未開の地であった。
現に、織田《おだ》との交渉でも、織田側は相模、伊豆とは口にしても、武蔵などとは口にしない。武蔵という国は、昔から野蛮《やばん》の地の代名詞でもある。
しかも、本能寺《ほんのうじ》の変に乗じて、北条は、武蔵国|八王子《はちおうじ》城にあった北条氏照を総大将として、信長側の関東管領《かんとうかんれい》として赴任してきた滝川一益《たきがわかずます》を討つべく、上野国《こうずけのくに》に攻め入った。
最初のうちは、本能寺の変報で意気消沈《いきしようちん》していた一益軍が、信長は生きているということで立ち直り、逆に、北条軍は織田軍得意の鉄砲の戦術に、さんざん撃ち破られ、大敗を喫《きつ》したのである。
その結果、武蔵半国、つまり北半分のもっとも肥沃《ひよく》な地帯は、織田軍に奪われる形になっていたのである。残りの南半国、とくに江戸《えど》という村のあたりは、だれも欲しがらない、いわば荒蕪《こうぶ》の地である。
そのような地を信長に差し出すといっても、むしろ、その憤激を招くだけではないかというのが、一同の感想であった。
「信長の使者に、江戸を見せるのでござる。おそらく信長は、江戸に飛びつくはず。あのような土地は、あやつめの好みに最適の地と考えます」
一同は驚いた。氏政が代表して言った。
「あの、山ばかりで何もない江戸がか?」
現在の東京(江戸)を見慣れている読者は、北条一族のこの問答を意外に思うかもしれない。
だが、江戸はこの時代まで、平野の中央に神田山《かんだやま》という山がそびえ立ち、そのあたりを小さな小山が囲むという形で、広い平地などはなかったのである。
それが、なぜ今日のように発展したかといえば、本能寺の変後、天下を取った秀吉が、肥沃な駿河《するが》(静岡県)を家康《いえやす》から取り上げて、この地に封じ込めたからである。家康は、仕方なく神田山を削《けず》り、それで海を埋め立て、今日のような広大な東京をつくったのである。
ちなみに現在、神田山は神田台《かんだだい》という地名になって残っており、東京に|市ヶ谷台《いちがやだい》、駿河台《するがだい》といった台地が多いのも、実はそのためである。また、その取り除いた土を使って埋め立てた土地のことを築地《つきじ》という。築地というのは、文字どおり、築いた土地という意味である。中央区に築地という地名が、いまもある。
このような大規模な土木工事は、戦国時代も終わりに近づき、家康のような大大名が出たからこそ、初めて可能になったことであり、普通の戦国大名クラスでは、そのようなことは、とうてい考えつきもしなかったし、たとえ考えついても、実行できるようなプロジェクトではなかった。
そうだったからこそ北条は、武蔵を制覇したのちも、決して小田原から遷都《せんと》しようとしなかったし、秀吉も家康を困らせる意味で、江戸に封じたのである。つまり、江戸というのは、当時の人間にとっては、それだけ価値のない、どうしようもない土地だったのである。
「ここは氏規殿に、使いに立ってもらうべきだと存ずる」
「拙者《せつしや》が?」
氏規は、意外な顔をして道感を見た。
「都へ行け、とでも仰《おお》せられるか?」
道感は、首を振った。
「そうではない。そちの幼なじみの徳川《とくがわ》殿に会い、一度、江戸というところを見てもらうように頼み込むのだ。おそらく江戸を見れば、信長の心は変わるはず」
「左様《さよう》でござりましょうか」
一同は、まだ首をひねっていた。本当に信長は、武蔵国江戸が気に入るのだろうか。
そこで道感は、膝《ひざ》を乗り出して氏規に言った。
「おことが遠江《とおとうみ》に行き、徳川殿を口説いてくれれば、なんとかなる」
「拙者が、徳川殿を?」
氏規は、意外な言葉に目を丸くした。
「何を驚く。おことと徳川殿は、竹馬《ちくば》の友ではないか」
「それはそうでござるが」
氏規は一瞬、道感は歳《とし》をとって耄碌《もうろく》したのではないかとすら思った。
たしかに、少年時代の友人である氏規が訪ねていけば、家康は会うことは会ってくれるだろう。だが、家康とて信長の忠実な同盟者、いや、いまはむしろ家臣同様である。信長の不利益になることなら、受けるはずがない。なによりも、その激しい怒りを恐れ、何事も聞かずにすまそうとするのではないか。
道感は、その胸中を察して、
「このおいぼれの言うことを、信じてくだされ。とにかく、一国も早く遠州浜松《えんしゆうはままつ》城へ行ってはくれぬか」
「されど、勅使勧修寺殿はどうするのです?」
「なに、公家《くげ》どもには、女でもあてがい、酒を飲ませておけばよい。だが、それほど長くは待てぬであろう。おわかりか、氏規殿」
「わかり申した」
氏規は、きっぱりとうなずいた。
遠江とは、都に近い湖(近江《おうみ》)に対して、遠い湖(浜名《はまな》湖)をさす。浜名湖のほとりに建てられた浜松城は、東海道の要衝《ようしよう》にあり、海と湖と背後の山に囲まれた、風光絶佳《ふうこうぜつか》の美しい城であった。
初め家康は、三河国岡崎《みかわのくにおかざき》城を本拠としていたが、岡崎は海から遠く離れ、山に近く、平野も狭く、大規模な城下町を営むには、あまりにも小さすぎた。
そのために、家康は今川《いまがわ》家が滅びたあと、その領土であった遠江浜松に進出し、ここで同じく今川から駿河を奪った武田《たけだ》と、血で血を洗う戦をくりひろげていたのであった。そのときの国境は、遠江と駿河のあいだを流れる大井《おおい》川であったが、武田亡きいま、家康は駿府《すんぷ》(現在の静岡市)に本拠を移す決意を固めていた。
(いずれ、小田原攻めのご沙汰《さた》があろう。されば、この浜松よりも、小田原に近い駿府のほうが有利だ)
それだけではない。駿府には格別の思い出がある。それは、屈辱《くつじよく》をともなった懐かしさとでも言おうか。
もと三河の国主の子として生まれた家康だが、若いころに祖父そして父が、つぎつぎに家来に暗殺されるという不運に遭《あ》い、幼くして家を継がねばならなくなった。ところが、この弱肉強食の戦国の世に、そのような弱体化した国を放《ほう》っておくはずがない。
一度は、尾張《おわり》の織田|信秀《のぶひで》(信長の父)のところに人質として送られたのだが、紆余曲折《うよきよくせつ》の末、当時、近隣の中ではもっとも大国であった今川家に、人質として送られることになったのだ。人質といっても、当主である。きわめて異例のことである。普通は、当主の子供か弟が送られるものだったが、家康自身が若く、子供などがいなかったために、彼自身が人質とされるはめに陥《おちい》ったのだ。
そのために三河|松平《まつだいら》家は、当主を今川家に抑えられた形となった。このため、今川家が戦争をするたびに、松平兵は、その最前線に立たされ、戦死率がもっとも高い部隊となり、そして無事、戦いが終わって故郷に帰れば、今川から派遣されてきた情け容赦のない代官の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》に遭い、地獄の苦しみをなめる時代が長く続いたのである。
その間、家康は、この駿府に留《と》めおかれ、そこで、あらゆることを学んだ。学問も、人の情けも、人の恨みも、そして男と女の道も。
人質と見下して、家康につらく当たる人間もいたが、人として分けへだてなく接してくれた人間もいた。家康を文字どおり、いじめる者もいれば、逆に好意以上のものを見せ、やさしくいたわってくれる人もいた。
最初の妻、築山殿《つきやまどの》は、今川家の重臣の姫である。その年上の姫を義元《よしもと》から押しつけられる形で、家康は娶《めと》ったのだが、この正妻とのあいだには、信康《のぶやす》という子が生まれた。
その築山殿も信康も、いまは亡《な》い。
桶狭間《おけはざま》の合戦で、今川義元が死んだときに、家康は最大の決断をした。今川家を捨てて、織田家につくということである。その決断をしたがゆえに、松平家に残っていた今川色は、すべて一掃されることになった。家康自身、それまで義元の「元」の字をもらって、松平元康と名乗っていたのを、まず「元」の字を捨てて家康と改め、さらに数年後には姓まで変えて、徳川家康としたのである。
しかし、これを不満に思った築山殿は、家康を見限り、こともあろうに武田と通じようとした。それには、武田の密偵《みつてい》の巧みな働きかけもあったのだが、この事実を知った信長は激怒し、築山殿と、その産んだ子である信康の処置を命じた。
信康は、この件に関しては無実であった。だが、信長の怒りはおさまらぬため、家康は結局、泣く泣く築山殿を殺させた上、信康には切腹《せつぷく》を命じなければならなかった。
そういう苦い思い出も、すべて駿府時代のことである。
また、竹馬《ちくば》の友もいた。とくに親しかったのは、家康と同じに北条家から人質に送られてきていた北条家の五男坊、氏規である。
尾張での人質時代には、そこの当主の息子信長に対し、ちょうど八歳年長の兄に接するような形で遊んだ。これに対して、駿府人質時代の友である氏規は三歳年下で、弟のようなつもりで接したことがある。
思い出のすべてが、駿府に詰まっている。その駿府に、勝利者として、新しい君主として赴任することは、単に軍事上の有利さというほかに、家康の心をくすぐる何かがあった。
「殿。小田原から、北条|美濃守《みののかみ》殿が参られましたぞ」
重臣の酒井忠次《さかいただつぐ》が突然、現れて言った。
「なに、氏規が」
意外なことであった。いま駿府のことを思いふけっていた、この折も折、氏規が訪ねてくるとは、なんということだろう。
しかし、家康は決して喜びはしなかった。氏規の目的は、わかっている。今回の織田と北条との和平交渉において、信長の同盟者である家康に、口添えをしてもらおうというのだろう。
しかし、それはできぬ相談である。本能寺以来、信長の考えは大きく変わったという話も聞いてはいるが、あの自分のやり方に口を出すことをとことん嫌う専制君主に、何か差し出がましいことを言えば、睨《にら》まれるのは家康である。
氏規には、久しぶりには会いたいが、だが話を聞くことはできない。
(だが、門前払《もんぜんばら》いするわけにもいかぬ)
と、家康は、とりあえず氏規と会った。
「おう。助五郎《すけごろう》殿か。懐かしいのう」
「三河守《みかわのかみ》様も、お元気そうでなにより」
「これこれ、そのような堅苦しい挨拶《あいさつ》は抜きじゃ。まず、酒を用意したゆえ、一献《いつこん》、傾けていかれよ」
「いえ。酒などとは、とんでもない」
氏規は、慌てて言った。これから話すことすべて、酒の上の話にされてしまっては、たまらない。
「北条氏規、一世一代《いつせいいちだい》のお願いがあって、まいりました」
氏規は、居ずまいを正して言った。
「聞かぬぞ、聞かぬぞ」
家康は、あえて笑みを浮かべ、冗談事《じようだんごと》のように言った。
「そなたとは、友垣《ともがき》じゃ。友のためを思うて、なしてやりたいこともないとはいわぬ。だが、いま、わしは三万の家臣と、それに倍する家族を養う身じゃ。そう簡単に聞いてやれることと、聞いてやれぬことがある。ここは、昔の友が酒を酌み交わし、そして左右に別れた。それでよいではないか」
「いえ。おっしゃることは、ようわかります。しかしながら、これは氏規の一存でもなく、また当主氏政の考えでもござりません」
「なに、北条殿の考えでもないと?」
「入道道感殿の知恵なのでござります。まずは、お聞きくださいませぬか。その上で、ご判断くだされたく存じます」
「うーん、道感殿の知恵か」
それを聞いて、家康も少し考えを改めた。
いまの北条家の当主氏政は、先代|氏康《うじやす》に似ても似つかない凡主《ぼんしゆ》である。とくに代替わりしてからは、武蔵でも下総《しもうさ》でも、それまで北条家がその国を制する勢いであったのに、上杉や織田に奪われ、いまや完全に支配していると言えるのは、相模、伊豆の二国のみである。それだからこそ信長も、相模、伊豆の二国を交渉の場に持ち出してきたのだ。
逆に言えば、北条の支配権が完全におよんでいる国は、この二カ国しかないのである。かつての北条氏康が健在であったころは、三カ国どころか五カ国をも制する勢いであったのに。その屋台骨《やたいぼね》を、かろうじて支えているのが、先代からの長老とも言うべき北条綱成改め道感入道であった。
道感の知恵というならば、家康も聞く耳はあった。
氏規は、一部始終を話した。だが、家康の表情には、それを聞いても納得の色は浮かばなかった。
「武蔵国の江戸とは、わしも見たことがないが、そんなによき土地なのか」
「はい。そのように道感殿は申されております」
「だが、そのような土地、はたして本当に信長公のお気に召すであろうか」
「とにかく一度、見ていただきたい。信長公ご自身は無理でしょうが、信長公の目となり耳となるご家来衆は、何人かいるはず。そのほうに、ぜひ見ていただき、その上で、もしお気に入らないことがあれば、相模でも伊豆でも進ぜましょうというのが、道感入道の口上《こうじよう》でござります」
「ほう。道感殿が、そこまで申したのか。それは、もちろん当主氏政殿も承知のことであるな」
「はい。この氏規、子供の使いではござりません」
「わかった。至急、殿下《でんか》に言上《ごんじよう》いたすことにしよう」
「殿下」という聞き慣れぬ言葉に、氏規は首をかしげた。家康は、笑って言った。
「信長公は、いまや関白《かんぱく》だ。関白の敬称は『殿下』と決まっておる」
そう言って、家康は苦笑した。
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北条《ほうじよう》家の提案は、ただちに家康《いえやす》を通じて、京《きよう》の信長《のぶなが》のもとに伝えられた。
「江戸《えど》?」
信長は、意外なその地名に眉《まゆ》をひそめた。
「殿下《でんか》。北条は何か、はぐらかそうとしておるのでござりましょうか」
近くにいた森蘭丸《もりらんまる》が言った。
「わからぬ」
信長は首を振った。
本能寺以前《ほんのうじいぜん》の信長ならば、癇癪《かんしやく》を起こすだけだったかもしれぬ。
しかし信長は、とりあえず相手の言うことを聞いてみようという気持ちになっていた。
もちろん、それが本当にはぐらかしであった場合、信長の怒りは倍加するのだ。
「取り急ぎ、気の利《き》いたる者に、その武蔵国《むさしのくに》江戸とやらを検分させねばならぬ。はて、だれがよいか」
「拙者《せつしや》が参《まい》りましょうか」
蘭丸が言った。
信長は、ニヤリと笑って首を振って、
「お蘭《らん》よ。そちには、そのような土地の善《よ》し悪《あ》しを見抜く才があるのか」
「ござります」
やや、むっとして蘭丸は言い返した。
「そうかな」
信長は、蘭丸の意気込みをどのようになだめていいものか、少しとまどっていた。
人間には、さまざまな才能がある。
そして、土地を見、その発展性を検分するのも一つの才能である。
もちろん、学ぶことはできる。
土地の見方というものは、古くから兵法の、そして陰陽道《おんみようどう》の一環《いつかん》として伝えられている。いわゆる風水《ふうすい》というものだ。
しかしながら、その風水だけでは単なる迷信にすぎず、土地を判断する材料としては、心もとない。
それよりも、むしろ土木建築者の目で、城はどのように建てるか、館《やかた》はどうするか、庶民の住まいはどうするか、水は確保できるか、交通の便はよいかというようなことを、総合的に判断する目を持たねばならない。
それができるのは、実は信長の麾下《きか》でも、ほんのわずかの人間だけであった。
その筆頭は、羽柴筑前守秀吉《はしばちくぜんのかみひでよし》であろうが、秀吉はいま四国|戦線《せんせん》にいる。
だとすれば、秀吉に匹敵《ひつてき》する目を持つ男は一人しかいない。
「五郎左《ごろうざ》を呼べ」
信長は言った。
丹羽長秀《にわながひで》のことである。
長秀は現在、大坂《おおさか》に新築中の新大坂城の普請奉行《ふしんぶぎよう》として、日々、汗を流している。
その長秀は、信長の急な呼び出しによって、取るものも取りあえず、京へ駆けつけた。
信長は本能寺にいる。
「殿下、何事でござりましょうか?」
「五郎左、そちは関東へ行け。そしてまず、武蔵国|八王子《はちおうじ》城の一益《かずます》を訪ねよ」
「は、滝川《たきがわ》殿を」
「そうだ。そこに北条からの使者が来ておるはず。その道案内によって、武蔵国江戸へ参れ」
「はて、江戸。そのようなところがござりましたかな?」
長秀は、無骨者《ぶこつもの》ぞろいの織田《おだ》家の中では、相当、教養のある人間だった。
その長秀にして、武蔵国江戸という地名は初めて聞く名前であった。
信長は、北条からの提案を伝えた。
「では、その地がはたして大城《おおじろ》を築くに足る土地であるかどうか、検分いたすのでござるな」
「そうだ。五郎左、よいか、余《よ》の目でものを見よ」
と、信長は言った。
「ははあ」
長秀はかしこまった。
余の目でというのは、織田軍団の代表者、いや、天下人《てんかびと》としての信長の目でものを見よということだ。
それがどういう意味を持つことなのか、長秀には、よくわかっていた。
「殿下、お願いがござります」
突如《とつじよ》、傍《かたわ》らにいた蘭丸が頭を下げた。
「なんじゃ?」
「拙者、ぜひとも丹羽殿に同道いたしたく、お許しを願いとう存じます」
「お蘭よ。そちはそちで、別の役目があるではないか。余の身のまわりにいて、さまざまなことを務めてもらわねばならぬ」
信長が蘭丸に期待しているのは、まず第一に、秘書官としての任務であった。
これは、機転が利き、融通《ゆうずう》が利き、場合によっては、それこそ信長の目でものを見なければ仕事がうまくいかない。
そういう得がたい才能を持っているのは、信長の周辺では蘭丸しかいないのである。
もちろん、蘭丸は武勇にも長《た》けている。
しかし、一将校としての蘭丸よりは、有能な秘書官としての蘭丸を、信長は買っていた。
だからこそ、いまでも、お蘭、お蘭と呼んで、毎日、仕事をさせているのである。
「しかし、この件については、曲げてご承諾をいただきたくお願いいたします」
蘭丸は、ふたたび頭を下げた。
信長は、負けず嫌いの蘭丸の心が手に取るようにわかった。
要するに、信長に新しい地を検分する目がないと思われていることが、悔しくてたまらないのである。
この際、長秀に同行し、そのことを一から学ぼうというのであろう。
(たしかに蘭丸は、ここにおいても必要だが、長い目で見れば、長秀に同行させ、学ばせたほうがよいかもしれぬ)
織田家は、いまや天下を統一しつつある。
天下統一の暁《あかつき》には、長秀のような人材も何人かいる。
いつまでも、長秀だけに頼ってはいられない。
「よかろう」
信長は、ついに許した。
「では、しっかりと学んでまいれよ。どうせなら、一益の目も学んでおくことだ」
信長は言った。
「滝川殿の目?」
蘭丸には、そのとき信長の言った意味がよくわからなかった。
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長秀《ながひで》、蘭丸《らんまる》の一行は、馬を飛ばし、日に夜を継いで、わずか四日で武州八王子《ぶしゆうはちおうじ》城に着いた。
ここは、もともと北条《ほうじよう》家の当主|氏政《うじまさ》の弟、北条|氏照《うじてる》の持ち城であったが、上野国《こうずけのくに》の関東管領《かんとうかんれい》として赴任した滝川一益《たきがわかずます》が、神流川《かんながわ》の一戦で北条勢を破り、その勢いで武蔵国北半分を奪った際、とりあえず対北条の最前線基地として確保したものなのである。
その八王子城に、北条家からの使者として、あの氏規《うじのり》が来ていた。
「お引き合わせしよう。こちらは、京《きよう》から参られた丹羽五郎左衛門尉《にわごろうざえもんのじよう》長秀殿だ。そして、こちらは関白《かんぱく》殿下の懐刀《ふところがたな》とも言われる森《もり》蘭丸殿だ。こちらは、北条|美濃守《みののかみ》殿」
「氏規でござる。お見知りおきを」
氏規は、そう言って頭を下げた。
氏規自身、敵将であった滝川一益や長秀と、これほど近接《きんせつ》した距離で顔を合わせるのは、初めてのことであった。
戦場においては、相まみえることがあったとしても、その顔は兜《かぶと》と面頬《めんぽお》で覆《おお》われているので、見ることができない。
一益は、真っ黒に日焼けし、いかにも精悍《せいかん》そうな体躯《たいく》を持つ男であった。もう、とうに五十は過ぎているはずだが、四十そこそこにしか見えない。
一方、長秀のほうは、武将のわりには色白で、端整《たんせい》な顔だちをしている。
丹羽家は、織田家が尾張《おわり》にあったころからの譜代《ふだい》の家来で、穏《おだ》やかな人柄の人間が多いという話を、氏規は噂《うわさ》として聞いていた。
蘭丸は、これが男かと見まごうほどの美少年である。
だが、華奢《きやしや》なように見えるその身体も、意外に筋骨たくましく、鍛《きた》えられているものがあることを、氏規は感じ取っていた。
(さすがは、天下に名だたる織田家の家中。このような者は、我が北条にはおらぬわ)
氏規はその点、少々残念に、また寂《さび》しく思った。
「北条殿。お疲れのところをすまぬが、さっそく武蔵国江戸とやらに案内していただきたい」
長秀が突然、言ったので、氏規は驚いた。
別に氏規は疲れていない。昨日、小田原《おだわら》から到着して、一晩ゆっくり休んだからだ。
しかし長秀は、昼夜兼行《ちゆうやけんこう》でこちらに来たから、ほとんど休んでいないはずである。その丹羽長秀が、休むどころか、ただちに江戸へ向かうと言う。
「お疲れではござらぬか?」
氏規は、思わず言った。
「なんのこれしき。まだ陽《ひ》も高い。どうせならば、この陽の高いうちに、江戸まで行き、一晩ぐっすり寝てから、検分いたしたほうが、手間が省けてよいというもの」
「なるほど、さすが、織田殿の家中の方は、言うことが違う」
お世辞《せじ》ではなかった。
もし、これが北条家の行事ならば、まず、かならずここで一泊休むということになっただろう。
そして出発は、おそらく明日の朝、遅くである。
となると、江戸に着くのは、その日の夕方。検分するのは、さらに翌日の朝からということになってしまう。
織田家は、それを今日行くことによって、一日ちぢめようというのである。
(なるほど。これではかなわぬ。武田《たけだ》も上杉《うえすぎ》も今川も負けたわけだ)
氏規に異存はなかった。
「では、参りましょう。ご先導を申し上げる」
八王子から江戸までは十里ほどの一本道である。たしかに、馬でたどれば、それほど時間はかからない。
ただ問題は、江戸には上方《かみがた》からの使者を泊めるような、まともな館《やかた》が一つもないという事実である。
「江戸に、城はござらんのか?」
長秀は、氏規にたずねた。
「かつてはござった。江戸城と申し、このあたりでは知らぬ者のない太田道灌《おおたどうかん》が建てた城でござる」
「おお道灌殿と言えば」
長秀は思い出した。
「歌人として有名な、関東管領|扇ヶ谷《おうぎがやつ》上杉家に仕える武将でござったか」
「左様《さよう》、さすが丹羽殿は、ようご存じだ。この道灌、歌の名人でござってな。はるばると都に上り、時に帝《みかど》に拝謁《はいえつ》したことがござる。そのときに、帝からそちの住まいいたすところは、どのようなところかと問われ、このように歌を詠《よ》んだのでござる。
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『我が庵《いお》は松原続き海近く
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富士の高嶺《たかね》を軒端《のきば》にぞ見る』」
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「なるほど、それが江戸の景色でござるか」
「左様、帝は御感《ぎよかん》あって、つぎのように歌を返された。
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『武蔵野は刈萱《かるかや》のみと思えども
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
かかる言葉の花や咲くらん』」
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「なるほど。みごとな返しでござりますな。さすがは帝」
「いや、帝にそのようなお気持ちを起こさせた道灌の歌も、なかなかでござろう」
氏規は、自慢げに言った。
「それが江戸城でござるか」
「左様。そのころは、このあたりの要衝《ようしよう》でござった。しかしながら、我が北条家は小田原を発祥《はつしよう》の地とし、本拠といたしております。したがって江戸には、さほど力を入れず、いまは廃城《はいじよう》になっておる次第」
「左様か。江戸に入るのが、ますます楽しみになってきたのう」
「は?」
「いや、その『富士の高嶺を軒端にぞ見る』という歌でござるよ」
長秀は言った。
「おそらく、殿下好みの雄大な景色であろうと存じてな」
「そういえば織田殿は、いや殿下は、大きなもの、強いものがお好きだとうかがいましたが、そうでござるか。森殿」
と氏規は、蘭丸にも話を振った。
「左様でござる。このあいだも、武田攻めの帰りに、『余は、まだ富士を見たことがない。富士というものを見てみたい』と仰《おお》せられ、わざわざ駕《が》を枉《ま》げて、富士の山をご覧になったほどでござる」
「ほう、それでなんと仰せられた?」
蘭丸は苦笑して、
「それが、『これほどのものか』と仰せられたので」
それはつまり、あまり大きくないという意味であった。
「さすがは殿下。豪気《ごうき》なお方じゃのう」
氏規は、あえて追従《ついしよう》の笑いを浮かべた。
敗軍の将は、やりたくないこともやらねばならぬ。
一行は江戸に着くと、まず現在は使われていない江戸城へ向かった。
それは城とは名ばかりで、掻《か》き上《あ》げという技法でつくられた、砦《とりで》と言ったほうがいい平屋の建物であった。
掻き上げというのは、いちばん簡単な築城法で、堀を掘ったときに出た土を、そのまま積み上げて防塁《ぼうるい》にするというものである。建築費も、もっとも安くてすむ。しかも、外から見ると堀の先に土塁があるわけだから、防衛上もなかなか堅固である。
しかし、財力豊かな織田家は、こんなものはつくらない。土塁ではなく、高価な石をあちこちから運んできて石垣をつくるのである。
江戸城は、戸口にはすべて板が打ちつけてあった。足軽に命じて用意の釘抜《くぎぬ》きで板をはずし、一行は中に入った。
中は、畳などなく板敷きで、赤茶けた土ぼこりが、うず高く積もっていた。
氏規は、急いで掃除させると、まず織田家の一行を座らせた。
信長の代理である長秀が、当然のごとく上座に座った。
席次では、関東管領である滝川一益がそれに続くべきだったが、一益は蘭丸に席を譲ろうとした。
「さあ、森殿、先に着かれよ」
「とんでもござりません。滝川殿」
蘭丸は、慌てて辞退した。
年齢からいっても、現在の地位からいっても、一益は大先輩である。
「何を申す。貴殿は上様、いや殿下の使者ではないか。丹羽殿が正使なら、貴殿は副使であろう」
たしかに、その理屈なら、蘭丸が、あくまで「副使」である間に限るが、一益の上座に着くことができる。
しかし蘭丸は、あくまで辞退した。
「滝川殿は思い違いをされておる。拙者は、このたび丹羽殿の兵法を学ぶべく勝手に同行いたしたのでござる。副使ではござらん」
一益はそれを聞くと、もの問いたげに長秀を見た。
「そのとおりだ」
長秀は笑ってうなずいた。
「ならば、失礼する」
そう言って、一益は下座の上席に座った。
長秀と一益は本来は同格だが、いま現在の長秀は信長の代理だから、一人だけ上座に座るのである。
つづいて、蘭丸が、そして、それと向かい合う形で氏規ら北条家の面々が着席した。
「おうおう、北条殿。たしかに、軒端に富士の山が見えるぞ」
長秀は席をあたためる間もなく、すぐに立ち上がって、外を見た。
皮肉なことに、屋根の一部が壊れており、本当にそこから富士が見えるのである。
「真冬なら、もう少しよく見えまするがな」
氏規は言った。
この季節では霞《かす》んでいることが多い。
「ときに、北条殿。このあたりのくわしい地図はござらぬか?」
長秀の問いに、氏規はさっそく用意の絵図を出した。
平野の中に、ところどころ小山が盛り上がった地形である。
南は海に面し、そこには大きな川がいくつも注いでいる。
中央の山は「神田山《かんだやま》」とあった。
「この山を登るのに、どれくらいの時を要するのか?」
長秀は、閉じた扇子《せんす》で神田山を指した。
「左様、山といっても、丘のようなものでござるゆえ、小半刻《こはんとき》(一時間)もあれば充分かと存じます」
氏規は答えた。
「ならば、さっそく出立《しゆつたつ》いたそう」
長秀が言ったので、氏規は驚いた。
「これからでござるか」
まだ昼のうちとはいえ、あと一刻《いつとき》(二時間)もすれば陽《ひ》が沈んでしまう。
「山に登れば、眼下も一望のもとに見渡せるはずでござる。時がない。急ぎ参ろうではないか」
そう言ったとき、長秀のみならず一益も蘭丸も立ち上がっていた。
一益は、配下の者に松明《たいまつ》の支度を命じた。
帰りは、夜道になると計算してのことだ。
氏規は、一益がそんなことまで考えて準備していたのに驚いた。
「いつも、こうなのでござるか?」
氏規は、馬へ向かう途中、いちばん若い蘭丸に聞いた。
蘭丸は、笑みを返した。
「殿下のお仕込みでござる」
長秀は、真っ先に馬に乗り、神田山をめざした。一益も蘭丸も続く。「道案内」のはずの氏規が、それを追いかける形になった。
神田山に着くと、織田家の連中はさっさと登っていった。
しかし、氏規は道中の疲れもあって息があがってしまった。
休息して水を飲み、ようやく後を追いかけると、長秀らはすでに頂上近くの開けた場所で、あたりを検分していた。
「北条殿、みごとな眺めじゃの」
長秀が声をかけた。
氏規は、そこまで行って、長秀と並んで下界を見下ろした。
たしかにみごとな眺めであった。
広い平野に、いくつもの川、そしてその先に広がる光る海――氏規自身、江戸とはこれほど広い土地であったのかと、再認識するほどであった。
(道感殿の目に狂いはない)
氏規は、あらためて感心した。
長秀は配下に命じ、黒く長い筒状のものを持ってこさせた。
それは、氏規が初めて目にするものだった。
長秀は、それを氏規に渡すと、
「こうして目を当て、のぞいてみられよ」
そうしてみて、氏規は驚きの声をあげた。
「これは! 眼下の景色がまるで手に取るように――」
氏規は子供のようにはしゃいで、
「丹羽殿、これが話に聞く遠《とお》眼鏡《めがね》というものか」
と、問うた。
「左様、遠眼鏡でござる。殿下より拝領《はいりよう》した南蛮渡来《なんばんとらい》の品でござるよ」
氏規は、またそこで織田家をうらやましく思った。
こうした珍奇な品が家来の手にもあるということは、織田家がいかに富裕であるかを示していると言える。
「それにしても、なかなかの地でござるな。江戸とは」
長秀は言った。
蘭丸《らんまる》には、正直いってよくわからなかった。
たしかに景色はいいが、あちこちに無駄な山が多すぎる。
城を築くには、あまり適さない。
平野の真ん中に、一つだけ山があるのならよいが、そうではなく、あちこちに同じぐらいの山が分散している。
これは、築城のためにはよくない。適地が一つに定まらないからだ。
「蘭殿、いかがなものかな。この地は?」
長秀は言った。
「さて、小山が多いとみましたが」
「山か、山は困るが、小山ならかまわぬ。削《けず》ればよいではないか」
長秀は、そう言って笑った。
「山を削ると仰《おお》せられますか?」
森蘭丸は、驚きに目を丸くした。
「山とは申しておらぬ。小山ではないか。小山ならば削ればよい。そしてあまった土で、あのあたりの入り江を埋め立てれば、田畑と屋敷地が同時に得られるではないか。いかがだ、将監《しようげん》殿」
と、丹羽長秀は、滝川一益をその官名、左近《さこん》将監で呼んだ。
「いや、なかなか。たしかに町としてよいが、欠点もあるようだな」
一益が応じた。
「欠点とは?」
「大軍に攻められたらどうする? この平野では守るところがない」
「なるほど、お主らしい見方だ」
長秀は笑った。
一益は長秀と違って、戦略的な視点から都市計画を見る。
その意味から言うと、たしかに江戸は、周りに大きな平野が広がるだけで、山もなければ谷もない。
こうした地形で、敵を迎え撃つのは、たしかに難しい。
「なに。もはや天険《てんけん》や要害に籠《こも》って、敵を迎え撃つ時代ではない。敵を迎え撃つのは兵力と、そして鉄砲など新しい兵器だ。それさえあれば、敵など恐れるに足らん。第一、いかに平野とて、堀を深く掘った居城を建てれば、問題は解決する」
「そうかもしれぬ」
一益が、文句も言わずに賛意を表したので、長秀は驚いた。
これまでは、そういうことはなかったからだ。
一益は、苦笑いして、
「わしも関東管領《かんとうかんれい》の顕職《けんしよく》をいただいてから、いろいろと考えた。そしてものを見た。やはり、これからはそういう時代じゃ。敵を倒すよりも、敵の手から守るというよりは、むしろ大きな町をつくり、金を集め、商人を集めることこそ、最後の強さにつながるということだな」
蘭丸は、二人の問答を聞いていて、信長《のぶなが》が一益の目も見よと言った意味が、ようやくわかった。
長秀と一益は、それぞれ経済担当と軍事担当の目からものを見ているのだ。
だが、おそらくこれまでは対立していたであろう見解は、ここで一致したのである。
(これが、天下を取るということなのか)
蘭丸は不思議な感動をおぼえた。
「それにしても、山を削るとは豪気《ごうき》でござるな」
と、北条氏規が割って入った。
「いや。美濃守《みののかみ》殿。山ではござらぬよ。先ほどから申しておるとおり、小山でござる。富士《ふじ》のような山を削るのは無理でも、このような山なら削ろうと思えば削れる。かように申し上げておるのでござる」
「いや、拙者《せつしや》のような田舎侍《いなかざむらい》には、そのような豪気なことはまさに、思いもつかぬこと。それにしても、この江戸《えど》の地がお気に召されたようで、拙者、肩の荷を降ろし申した」
氏規は、もし織田《おだ》家が、この武蔵《むさし》を欲するというならば、ただちに差し出してもよいと思っていた。
とにかく、相模《さがみ》、伊豆《いず》よりは、北条家にとっては、このだだっぴろい武蔵のほうが、かえって価値のない国なのである。
「風水《ふうすい》から見ても、なかなかの地層とお見受けした」
長秀は慇懃《いんぎん》に答えた。
「ただし一つ、気になることがある」
「なんでござろうか?」
「水でござる」
と、長秀は西の山に没しようとしている太陽を眺《なが》めながら、
「この地は、この広い平野のわりには、川は小さいように思える」
「なんと、川が小さいと仰せられるか?」
(注:この当時、関東の川の代名詞である坂東太郎《ばんどうたろう》、利根《とね》川は、いまより東の地点を流れていた)
「そうだ。丹羽殿、それはわしも気になっていた」
一益が、ただちにうなずいた。
「多くの人を養う水が、はたして確保できるかな」
「しかし、いままで水が不足したことなど、一度もござらぬが」
氏規が異議を唱えると、長秀は笑って
「それはあの小さな城に、ほんのわずかな人数しか住まなかったからでござろう。ここを大きな町とし市となさば、美濃守殿、いかほどの人間がここに住むようになるとお思いか?」
「はて、五千、六千でござろうか」
「何を仰せられる。十万、二十万、あるいは場合によっては数十万の人間が、この地に住むことになるやもしれぬ」
「数十万?」
氏規は腰を抜かしそうになった。
それほどの数字を、北条家では日常、思い浮かべたことがないのである。
その必要もなかった。
兵を動かすとしても、せいぜい三万、多くて五万というのが、北条家の実力である。
もちろんそれを支える人口は、たしかにその数倍の者がいることはいるのだが、それにしても、数十万という数字は、この地に住む人々には無数の数字であった。
それを信長の家臣は、いともたやすく口にする。
(これでは負けるわけだ。この力の大きさはどうだ)
氏規は、なんとも言えぬうらやましさと妬《ねた》ましさを、目の前にいる織田家の侍に感じていた。
そのころ信長は大坂にあって、それまで丹羽長秀が奉行《ぶぎよう》をしていた新大坂城の工事を視察していた。
新大坂城はかつて石山本願寺があった場所にあり、わずかな距離で大坂湾に向かうこともでき、交通および経済の要衝として活用できる土地であった。
何よりも平野が広い。
大坂平野というのは、信長がこれまで見た平野の中でも、もっとも広いもののうちの一つである。そして、これだけ広大な平野だと、水が不足するというのが共通の欠点としてあるのだが、この地は大きな川が四通八達《しつうはつたつ》、いつでも水運が利用できるし、飲み水に困ることもない。
その秘密は琵琶《びわ》湖にある。琵琶湖という巨大ないわば貯水池が、この大坂の地へ大量の水を提供しているのである。
もともとこのあたりは、本願寺がそうであるように石山と呼ばれていた。大坂湾の船上から遠望すると、大坂平野の中心にこんもりと盛り上がった丘があり、それが瓦礫《がれき》を含んだ山であったからである。
しかし信長はそれを、このあたりの在所の名前をとって、大坂と改めた。小坂というのが本来の地名であったが、それを新たに大坂と呼ばせることにしたのである。
しかし、正直言って信長は、まだその名前では不満だった。かつて稲葉山《いなばやま》城下|井ノ口《いのくち》の里を、城の名も町の名も、中国の周《しゆう》の王朝が起こった場所の岐山《ぎざん》に因《ちな》んで岐阜《ぎふ》と改めたように、近江観音寺《おうみかんのんじ》城の近くに新たな巨大な城郭《じようかく》を築いたときに、都の名の由来である平安楽土に対抗して安土と名づけたように、この土地もいずれ正式な名をつけるつもりであった。
天下統一の都にふさわしい大きな名前が信長の好みである。大坂というのはその点、単なる大きい坂という意味であり、信長の好きな理念がこもっていなかった。
「そうだ」
信長は膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「だれかある」
「ははっ」
小姓《こしよう》の一人が進み出てきた。
「岐阜に使いをいたし、政秀寺《せいしゆうじ》開山|沢彦禅師《たくげんぜんじ》を呼んで参れ」
「かしこまってござる。この大坂にお連れすればよろしいのでござるか」
「そうだな」
信長は考えた。大坂城はまだできていないから、泊まる場所はない。
「よい。それではとりあえず京に呼べ。わしも今日は都に戻る。都から禅師を伴って、もう一度この縄張りの場所に来よう」
信長はもう一度沢彦禅師に諮問《しもん》をして、新しい信長の都の名前を考えてもらおうと思ったのである。
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24
上杉《うえすぎ》家の当主上杉|景勝《かげかつ》は、越後春日山《えちごかすがやま》城にあった。
景勝は、先代|謙信《けんしん》の養子である。子のない謙信の跡を継ぐのは、この甥《おい》の景勝と、もう一人、北条家から養子に迎えられた景虎《かげとら》という若者がいた。
この二人が、謙信の死後、家督《かとく》を争ったのが、御館《おたて》の乱である。
景虎は北条家出身であるから、当然、北条氏の全面的な支援が得られた。
北条側から見れば、景虎が上杉家を継げば、実質的に大国越後は北条の傘下《さんか》に入り、北条・上杉連合ができあがる。
こうなれば、財力のある北条と武力に勝《まさ》る上杉が、その弱点を補い合って、天下に覇《は》を唱えることも夢ではなかった。
しかし、この困難な戦いに景勝は勝利した。
それは、やはり景勝が他国者の景虎と違って、越後出身の謙信の血を引く者であったということが大きかったが、それだけではなかった。
景勝には、直江兼続《なおえかねつぐ》という腹心の、そして懐刀《ふところがたな》ともいうべき恐るべき知謀を持った家来がいた。
この兼続が、常に景勝の背後にあって、ともすれば分裂しがちな上杉家を一つにまとめ、結束を強めさせたのである。
そもそも上杉家は、もとは長尾《ながお》家といい、越後の守護代《しゆごだい》を務める家柄であった。
守護ではない、守護代である。
守護代ということは、越後の豪族は長尾家の家来というよりも、むしろ同僚であったのである。
その中で支配権を確立するということは、並大抵《なみたいてい》の苦労ではなかったが、先代謙信は、その軍事的な天才をもって越後を一つにまとめ、強力な戦国大名としての上杉家に改造したのである。
その跡を継いだ景勝も、御館の乱によって、かえって反対派を粛清《しゆくせい》することができ、一枚岩《いちまいいわ》の体制を築くことができた。
越後の強みは、なんと言っても佐渡金山《さどきんざん》から出る豊富な金である。
甲斐《かい》の武田《たけだ》家が金山を掘り尽くし、以後、急速に衰えていったのを尻目《しりめ》に、佐渡の金山はいまなお大量の金を産出しつづけていた。
この力と故謙信が鍛《きた》えに鍛え上げた精兵の力。
この上杉家の精鋭の前には、織田軍も鎧袖一触《がいしゆういつしよく》で敗れ去っているのである。
それは数年前、手取《てどり》川というところで戦われた合戦であった。
上杉に反抗し、信長に味方することを誓った畠山《はたけやま》家の七尾《ななお》城を謙信が攻めたとき、信長はこれを救援するために、柴田勝家《しばたかついえ》を総大将とする総勢五万の軍勢を送ったのである。
ところが、謙信はそれを待ち伏せ、手取川で壊滅的な打撃を信長軍に与え、敗走させた。
もちろんこのとき、上杉家は大将の謙信が出馬していたが、織田軍は信長ではなく、柴田勝家が総大将であった。
しかし、そのことを割り引いても、織田・上杉の合戦では、圧倒的に上杉が勝ったという事実は動かせない。
この合戦以降、信長は決して上杉軍と直接戦おうとはしなかった。
そして、上杉に不満を持つ越後の豪族を指嗾《しそう》(扇動すること)して対立させ、上杉軍の上洛《じようらく》を阻止《そし》するという作戦をとった。
その作戦にまんまと乗ったのが、新発田重家《しばたしげいえ》である。
その名のとおり、越後新発田の小領主であった重家は、信長に服属を誓い、反旗を翻《ひるがえ》した。
景勝はこれを何度か討とうとしたが、そのたびごとに織田家から多量の軍事援助が行われ、その力もあって、どうしても潰《つぶ》すことができないでいる。
しかし、このまま放《ほう》っておけば、その傷はますます大きくなるということは明らかだった。
なぜなら、すでに信長は北条の領地まで来ているのだ。
「御屋形《おやかた》様、なんとも難しい世になりましたな」
兼続は言った。
春日山城は、越後平野を見下ろす小高い丘の上に築かれ、北条家の小田原《おだわら》城と並ぶ日本有数の堅固《けんご》な要塞《ようさい》である。
その奥《おく》の院《いん》とも言うべき天守台の近くで、月に一回、かならず景勝は謀臣《ぼうしん》直江兼続と、ただ二人で、今後の方針を話し合うのだった。
その日の話で、最初に兼続が言った言葉がそれだった。
「わしは信長には勝てぬということか?」
景勝は、強い目で兼続を睨《にら》んだ。
「左様《さよう》なことは申しておりませぬ。上杉軍は日本一。とくに武田家滅びたいまとなっては、日本一の精強な軍団と申しても差しつかえござりません。もし、御屋形様と信長殿が対等の軍勢、対等の装備を持って戦うなら、かならずや御屋形様がお勝ちになるでしょう」
景勝は、ふんと鼻で笑った。
「それは、とりもなおさず対等の条件でなければ、つまり相手のほうが大軍を繰り出してくれば、こちらの勝ちはないということではないか。信長は四国攻めに、十万の大軍を送り出したというぞ」
「誇張でござりましょう」
「そちほどの者が何を言う」
景勝は、ふたたび兼続を睨んで、
「考えてもみよ。信長は、ほとんど戦わずして、島津《しまづ》を、そして毛利《もうり》を服属させたのだぞ。毛利と島津の兵の数を足せば、五万は軽く超える。それに信長本軍が加われば、十万と言ってもおかしくあるまい」
兼続は、それには答えなかった。
景勝はふたたび、つぶやくように、
「越後の兵を総動員しても、五万に満たぬ」
「その五万は、西国《さいごく》の兵の十万にも十五万にも匹敵します」
「だが、十五万だ。信長の全兵力、いまや三十万を超えている。しかも、鉄砲、騎馬の数でも、我がほうはあちらの半分にもおよばぬ。負けだな」
景勝は自分に言い聞かせるように言った。
奥州出羽国米沢城《おうしゆうでわのくによねざわじよう》に、伊達輝宗《だててるむね》という武将がいた。
輝宗は、奥州|探題《たんだい》の家柄である。
しかし、この乱世にあって、そのような肩書はまったく役に立たない。
輝宗は、この米沢を基点として領土を拡張したいという野望を持っていた。
だが、この米沢の土地は、蘆名《あしな》氏、畠山《はたけやま》氏、最上《もがみ》氏と強力な大名に周囲を囲まれている。
領土拡張といっても、これらの強力な敵を各個撃破していかなければならないのだから、容易なことではない。
そして、もう一つの悩みは家庭にあった。
輝宗には二人の男子がいる。
長男を藤次郎《とうじろう》、次男を小次郎《こじろう》といい、ともに最上家から嫁に来た母の腹に生まれた。
しかしながら、藤次郎は梵天丸《ぼんてんまる》といった幼少のころ、不幸にも疱瘡《ほうそう》にかかり、その後遺症で右目を失明してしまった。
そのこともあってか、母は自分の腹を痛めた子供でありながら、藤次郎をないがしろにし、小次郎ばかりをかわいがる。
それどころか、いっそのこと醜い藤次郎は廃嫡《はいちやく》にし、小次郎に跡目《あとめ》を継がせたらどうかとまで言い張るのである。
だが、それはとんでもない誤りだと輝宗は信じていた。
たしかに見た目は、小次郎のほうが利発で器量があるように見える。
だが、大名の家を継ぐ、そして一軍の大将となる器量は、また別のものである。
藤次郎は、子供のころから、容貌《ようぼう》の醜さを恥じ、引っ込み思案《じあん》になっているところはある。
だが、軍事面においても、また文化人としての面においても、きわめて優れた素質を持っていると輝宗は見ていた。
だが困ったことに、母があまりにも小次郎をかわいがるために、いま家中は長男藤次郎派と、次男小次郎派に分裂しつつあると言ってもいいのである。
この分裂の危機を回避するには、いったいどうすればよいか。
輝宗は、ある決断をしていた。
「父上、お呼びでござりますか」
その藤次郎がやってきた。
輝宗が呼び寄せたのである。
「参ったか。まあ中に入れ」
と、輝宗は自室に招き入れると、ただ二人だけで息子と対した。
あらためて見ると、きわめて立派な体格をしている。
顔のほうは、たしかに疱瘡の跡が残って、右目も潰《つぶ》れてはいるが、それ以外は端整な顔だちで、大名の若殿《わかとの》としては、まさに充分の貫禄《かんろく》である。
「藤次郎。今日ここへ呼んだのは、ほかでもない」
と、輝宗は余人《よじん》を交えず、ただ二人きりとなって息子に話しかけた。
「はい」
藤次郎は何事かと緊張して、輝宗の口もとを見つめている。
「藤次郎。いや、伊達藤次郎|政宗《まさむね》と呼ぶべきだな」
政宗とは、藤次郎の正式な名である。
「はい、父上」
「藤次郎政宗、よく聞くがよい。わしは決心した。そちに家督《かとく》を譲る」
藤次郎は飛び上がった。
まだ元服《げんぷく》したばかりの今年十六歳である。
「父上」
藤次郎政宗は慌《あわ》てて叫んだ。
「なんだ」
「お受けできませぬ」
「何を言う。そちは嫡男《ちやくなん》であるぞ」
「わかっております」
「そして、わしは当主だ。当主の命令は絶対だ」
「しかし早すぎます。それでは家中の者が納得いたしませぬ」
内心は、たしかにそのとおりだと輝宗も思っていた。
まだ輝宗は四十になっていない。
いかに人生五十年の時代といえ、四十未満での隠居は早すぎる。
「よいのだ、藤次郎。いや政宗」
と、輝宗はふたたびその名を言いなおし、
「家中をまとめるためには、それしかないと思い定めたのだ。多くは言うまい。こういえばそちにもわかるだろう」
「は、それは」
勘《かん》のいい政宗は、父の意図をすぐに察した。
この際、家中の分裂を避けるために、輝宗が早めに引退し、息子の政宗に家督を譲ってしまう。
そうすれば、もはや小次郎の出る幕もなくなり、家中は一つにまとまるだろうというのが輝宗の計算なのだ。
「わしは小松《こまつ》の城に引っ込むことにする。隠居城というには、ちと騒がしいところじゃが、まあよい。最上への備えにもなるところだからな」
「父上」
ふたたび政宗は叫んだ。
「なんじゃ。まだ言うことがあるのか」
「この政宗に、当主が務まりましょうか」
「この父が死んだと思うことだ」
輝宗は厳しい表情で言った。
「わしが死ねば、否応《いやおう》なしに家督を継がざるを得まい。まず死んだと思え。さすれば、覚悟も定まろう。その上でわしに何か助力を求めるならば求めるがよい。ただし、それはあくまで伊達家の一武将として、そなたの配下に入ってのことだぞ。わかるな」
「かたじけのうござります」
政宗は、涙腺《るいせん》を失っていない左の目から、一筋の涙を流した。
これほどまでに、自分に期待してくれている父の恩情に、なんとかして応《こた》えなければならないと覚悟を定めたのである。
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25
明けて天正《てんしよう》十一(一五八三)年、四国戦線は、ついに片がついた。
阿波《あわ》での手痛い敗戦から全軍を引き揚げ、そもそもの本拠地である土佐《とさ》、岡豊《おこう》城に籠《こも》った長宗我部元親《ちようそかべもとちか》だったが、衆寡《しゆうか》敵せず、刀折れ矢尽きて、ついに天正十一年正月、織田《おだ》軍の軍門に降《くだ》ったのである。
元親は、島津《しまづ》の降伏にならって、剃髪《ていはつ》し、墨染《すみぞ》めの衣をまとい、まだ元服《げんぷく》したばかりの息子|盛親《もりちか》を連れて、織田軍の四国攻め総大将である羽柴秀吉《はしばひでよし》の陣営におもむいた。
「降参、つかまつる」
元親はそう言って、総大将の秀吉の前で、額を地にこすりつけた。
秀吉は、初め満面の笑みを浮かべ、そして、いたわりの表情を見せ、
「宮内少輔《くないしようゆう》殿。よく決断なされた」
と、讃《たた》えた。
秀吉の目は、その隣にいる少年に向けられた。
膝《ひざ》はついているが、顔を上げ、秀吉の目を敵意を持って見つめている。
「そのお子は?」
元親は顔を上げ、
「これなるは、千熊丸《せんくままる》と申し、拙者《せつしや》の子でござる。嫡男信親《ちやくなんのぶちか》が先年の戦いのみぎり、討ち死にいたしましたゆえ、いまはこの者が跡継《あとつ》ぎでござる」
「父上、それは違いまする」
少年は叫んだ。
元親は慌《あわ》てて、
「何が違うというのだ?」
「私は、千熊丸ではござりません。元服し、右衛門太郎《うえもんたろう》盛親との名をいただきました」
「左様《さよう》か」
秀吉は、その子供の不敵な面魂《つらだましい》に好意を持って、
「では、うかがうが、盛親殿はおいくつになられた?」
「当年とって、九つでござりまする」
「ほう。九つか」
元服は、ふつう十五歳で行う。
当主の急死などで、特例をもって十二、三歳でも行うことがあるが、九歳の元服というのは異例であった。
まだ子供である。
「羽柴殿。この盛親を連れてまいったのは、訳がござる」
「ほう、訳とは?」
「お察しくだされ」
元親は言った。
秀吉はもう、ひと目その姿を見たときからわかっていた。
人質である。
盛親を人質として預けるから、本領を安堵《あんど》してくれというのが、元親の望みであろう。
本領、それは土佐一国にほかならない。
考えてみれば、元親も哀れな男であった。
抜群の器量を持ち、一時は四国をほぼ統一するほどの勢いを示したのに、中央にそれより強大な織田政権が生まれたために、その軍門に降《くだ》るしかなかったのである。
しかも、最愛の息子信親を亡くすという不幸にも見舞われている。
「よかろう。土佐一国のこと、たしかに殿下《でんか》にお伝えする。おそらくは吉報があるでござろう」
秀吉は言った。
「かたじけのうござる」
「盛親殿。そう怖い目をせず、この筑前《ちくぜん》のもとに参《まい》らぬか」
秀吉は言った。
盛親は、警戒して後ずさりした。
「何も取って食おうというのではない。これからは、長宗我部家は織田軍の貴重な一翼《いちよく》を担《にな》うのだ。そのことをな、ぜひそなたにわかってもらいたい」
盛親は、覚悟を定めたのか大きく息を吸い込むと、胸を張って秀吉のもとに来た。
秀吉は、それを抱きしめると、
「おお、よう参られた。いいお子じゃ。胆力《たんりよく》もある。宮内少輔殿。このお子は、末頼《すえたの》もしい大将になられるでござろう」
秀吉は、そう言って笑った。
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26
幸運のあとには、不運がやってくるという。
逆に大難のあとには、幸福がやってくるという。
天正《てんしよう》十(一五八二)年から十一年にかけての織田《おだ》家は、まさにそれであった。
本能寺《ほんのうじ》の変の直前、信長《のぶなが》は宿敵|武田《たけだ》家を葬った。
しかし、そのあとに本能寺の変という、危うく命を落としかける厄難《やくなん》に遭《あ》った。
だが、それを乗り越えた後は、中国征伐、九州征伐がともにうまくいき、正月になって、ついに四国も信長のものとなった。
そればかりではない。
北条《ほうじよう》も武蔵《むさし》一国を織田家に献上し、相模《さがみ》、伊豆《いず》の両国の主として、織田家の傘下《さんか》に入った。
信長の嫡子《ちやくし》であり、征夷大将軍《せいいたいしようぐん》となった信忠《のぶただ》を総大将とする十万の兵は、小田原《おだわら》城を無血開城させ、入城し、征夷大将軍信忠は上座で北条一門からの新年の賀《が》を受けた。
「上様を、この城にお迎えすることができ、北条家一同を代表し、お喜びを申し上げます」
当主|氏政《うじまさ》はそう言って、年下の信忠に頭を下げた。
「大慶至極《たいけいしごく》」
信忠は、短く言った。
その言い方が、氏政には気に入らなかった。
だが、こうなってしまっては、もはやどうしようもない。
いま、ここで怒りにまかせて信忠を討ったら、北条一門は滅亡するほかはない。
「小田原の海の幸でござる。田舎《いなか》ゆえ何もござりませぬが、これだけは他国に誇るべきものかと」
不機嫌で言葉が続かない兄、氏政に代わって、氏規《うじのり》が盛んに気を遣い、酒食は信忠一行をもてなした。
「かたじけない。美濃守《みののかみ》殿」
信忠は、ていねいに礼を言った。
「それでは一献《いつこん》」
氏規がみずから酌《しやく》をしようとすると、信忠は首を振って、
「いや。酒を飲む前に、余《よ》は征夷大将軍として申さねばならぬ儀《ぎ》がある」
「はて、何事でござりましょうや」
北条一門が不審の色を浮かべる中、信忠は立ち上がり、床の間を背にして、一通の書状を取り出した。
「征夷大将軍として申し渡す。この祝賀の儀が終わり次第、兵を挙げ、ただちに越後《えちご》の上杉《うえすぎ》を討て。これが余の命令であるとともに、かしこきあたりよりのご指示である。これがその勅諚《ちよくじよう》だ」
信忠は、書状を開いて一同に見せた。
それは、帝の御名御璽《ぎよめいぎよじ》がある命令書であった。
北条一門は、盃《さかずき》を放り出し、その場に平伏した。
「上様。申し上げたき儀がござる」
吠《ほ》えるような声をあげたのは、一門の長老、道感入道《どうかんにゆうどう》である。
「なんじゃ、何か不服があるのか」
「いえ。不服などござりませぬが、いま越後は雪に埋もれてござる。とても攻め入ることなどでき申さぬが」
「上杉の領国は、越後だけではない。上野《こうずけ》(群馬県)にも進出いたしておる。まず上野から上杉の勢力を駆逐《くちく》し、しかるのちに春、雪解けとともに越後を叩《たた》く。これが殿下のご意思じゃ」
「わかり申した。では、ただちに支度を」
「待て待て。新年の祝賀がすんでからでよい」
信忠は、そう言って、ふたたび席に着き、今度こそ氏規の酌を受けた。
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27
一方、徳川家康《とくがわいえやす》は甲斐《かい》の国の領主、河尻秀隆《かわじりひでたか》と連携し、新たに織田《おだ》家の領国となった武蔵《むさし》で滝川一益《たきがわかずます》の軍と合流、常陸《ひたち》から下総《しもうさ》にかけての小大名を討つように命ぜられた。
下総には里見《さとみ》氏、常陸には佐竹《さたけ》氏がいる。
織田軍団の中でも選《よ》りすぐりの滝川軍団と、客分とも言うべき徳川軍団が力を合わせれば、このような征服事業はたやすいことであった。
織田軍の強大な力におびえきった両家は、一戦も交えずに、それぞれ人質を差し出し、服従を誓った。
あとは、陸前《りくぜん》、出羽《でわ》から磐城《いわき》にかけて勢力を張る伊達《だて》氏が、最後の大物であった。
その向こう、陸中《りくちゆう》から陸奥《むつ》にかけてのみちのくは、南部《なんぶ》氏や津軽《つがる》氏といった小豪族が蟠踞《ばんきよ》する地方にすぎない。
伊達家さえ、なんとかしてしまえば、あとはどうにでもなる。
伊達征伐軍の総大将に任ぜられた滝川一益は、佐竹家の主城、常陸城に入城し、今後の方針を練った。
「徳川殿。いかが思われる。ここは一戦なすべきか」
一益の言葉に、家康は首を振って、
「いや。まずは降伏勧告《こうふくかんこく》の使者を送るのが、至当《しとう》と存ずる。伊達家の当主|輝宗《てるむね》と申す男は、なかなか目端《めはし》のきく男とみえる。目端のきく男ゆえ、話し合いで片がつくでしょう」
「つくかな」
一益は危ぶんでいた。
「それに、近ごろ気になる話を聞いた」
「なんでござる?」
「当主の輝宗が、まだ若い嫡子藤次郎政宗に家督《かとく》を譲ったというのだ」
「それは異《い》なことを。輝宗は、まだ四十前のはず」
「そうだ」
家康は、不審な顔をした。
一益もうなずいて、
「そうだ。なぜそのようなことが起こったのか、いま調べさせておるが、輝宗の身体が悪いというわけでもないらしい」
「なるほど。では、まずそれを調べてからのほうがよろしゅうござるな」
家康は言った。
滝川一益は、もと甲賀浪人《こうがろうにん》、つまり忍者である。
忍者であるがゆえに、情報収集はお手のものである。
敵を攻める場合にも、滝川|子飼《こが》いの忍びの者が、相手を丸裸《まるはだか》にするほど情報を調べ尽くしている。
そういう滝川の特技があるがゆえに、家康は、とりあえず意見を差し控えた。
やがて、情報がもたらされた。
馳《は》せ帰った忍びの者の報告によると、伊達家内では、嫡男藤次郎政宗と次男|小次郎《こじろう》を推《お》す派が分裂して争い、その分裂に終止符《しゆうしふ》を打つために、輝宗は若くして藤次郎に家督を譲ったのだという。
「問題は、その藤次郎だ」
と、一益は言った。
「よほどの切れ者か、それとも輝宗が、我が子かわいさに跡を譲ったのか。その件を、しかと見極めなければならぬ」
滝川の言葉に家康はうなずいて、
「いずれにせよ、使いを出してみればわかるのではござらぬかな、その男の器量が」
「そうかもしれん」
結局、正使として滝川家の一益の甥《おい》である益重《ますしげ》と、徳川家から重臣|酒井忠次《さかいただつぐ》が副使として、政宗のもとにおもむいた。
政宗は、本拠の出羽の国|米沢《よねざわ》城で、この使者を引見《いんけん》した。
政宗は、二人の使者の顔を見るなり、いきなり立ち上がり、そして次の間から火縄《ひなわ》のついた鉄砲を持ってきた。
そして、いきなり正使滝川益重の額に、その銃口《じゆうこう》を突きつけた。
滝川は、真っ青になり慌てた。
「な、何をなさる」
「その面を、この種子島《たねがしま》で吹き飛ばせば、どんなに小気味《こきみ》よいことか」
片目に眼帯を当て、片目で狙《ねら》いを定める政宗の顔は、殺気に満ちていた。
正使の益重が、いまにも小便を漏らしそうなおびえた顔をすると、今度は政宗は副使の忠次に銃口を向けた。
忠次は、落ち着きはらっていた。
それどころか、懐《ふところ》から扇子《せんす》を取り出すと、さも暑そうに顔をあおいだ。
といっても、いまはまだ二月。
極寒の季節である。
「どうした、恐ろしゅうはないのか?」
「侍というものは、恐ろしゅうても、恐ろしいという顔はせぬものでござる」
百戦錬磨《ひやくせんれんま》の忠次は、落ち着きはらっていた。
「だが、ここで頭を吹っ飛ばされたら、犬死にだぞ」
政宗は言った。
当主といっても、まだ若い。
「もし、ここで頭を吹き飛ばせば、おそらく伊達殿の首は、この城の前に晒《さら》されることになるでしょうな」
「くそっ」
政宗は、鉄砲を引っ込めた。
「織田信長という男、運のいい男だのう」
政宗は、鉄砲を放り出すと、しみじみと言った。
益重は、まだ腰を抜かしている。
忠次だけが平静さを保ち、扇子を閉じ、膝《ひざ》に当てると言った。
「左様。たしかに運のおよろしい方でござる。しかし、力もお持ちだ」
そう言ったのは、運だけでなく実力もあるという意味である。
政宗は、首を振った。
「運よ。人間運こそが、すべてだ。もし、わしが十年早く、いや五年でもよい。早く生まれておったら、今日のようなことにはならなかったものを」
政宗はそう言うと、上座にどっかりと腰をおろし、胡座《あぐら》をかいて目を閉じた。
忠次は膝を進めて、
「さすれば、おうかがいしたい。降参でよろしいのでござるな」
政宗は、目を閉じたまま答えなかった。
忠次は膝を進めて、
「降参で、よいのでござるな」
と、声を張りあげた。
「よい」
政宗は、不快そうに一言、怒鳴りつけた。
「まことに祝着《しゆうちやく》でござる」
忠次は、そう言って頭を下げた。
益重は何が起こったのかわからず、まだぼんやりしていた。
伊達の降伏を知った奥羽の南部、津軽の両氏も、それぞれ使いを送ってきて、みずから信長に降伏を申し入れた。
日本六十余州、織田の下風《かふう》に立ち、残るはただ上杉家一家のみとなった。
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28
春三月、雪解けが始まると、信長《のぶなが》軍は総勢二十万もの大軍を率いて、上杉《うえすぎ》の本拠地|越後《えちご》を、びっしりと蟻《あり》の這《は》い出る隙間《すきま》もなく包囲した。
これについて上杉家の当主|景勝《かげかつ》は、簡単に降参してたまるものかと、難攻不落《なんこうふらく》と噂《うわさ》される春日山《かすがやま》城を中心に、いくつもの砦《とりで》を建て、国境にはさまざまな仕掛けを施し、大軍の襲来を迎え撃つ態勢をとった。
信長は、今度はみずから降伏勧告書を景勝に送った。
といってもそれは、信長が重臣の関東管領滝川一益《かんとうかんれいたきがわかずます》に命じ、殿下がこう言っているという形で、その意思を上杉景勝当人ではなく、その家老である直江兼続《なおえかねつぐ》に伝えるという形をとったものだった。
これは、直接本人に出すより、一段ていねいなやり方である。
信長は、そのやり方で、まず上杉の反応を見たのである。
信長の手紙というのは、要するに、
「日本国内でようやく戦乱が収まり、天下もほぼ固まったというのに、上杉軍だけが戦争の支度をして、国内に砦をつくったり、国境に厳重な関所を設けたり、戦争の準備をしている。これは、この国に平安あれと願う帝《みかど》の願いを踏みにじり、その帝の意思を体現する信長の意向に逆らい、なおかつ、その息子であり征夷大将軍でもある信忠《のぶただ》の武威に対して、異を唱えるものである。いったい何を考えているのか、性根《しようね》を据《す》えて返答しろ」
と、迫ったのである。
これに対して景勝は、腹心の直江兼続の書状という形で、返答を送ってきた。
信長は、それを一読し、激怒した。
それには、こうあったのである。
「戦争の支度などとは、とんでもない。我々は、道に橋を架《か》け、あるいは道を広げ、領内の交通が円滑にいくようにしているだけである。それを戦争準備とおっしゃられるのは、言いがかりもいいところである。また槍《やり》、弓矢鉄砲を集め、戦《いくさ》の支度をしておると非難されておるが、侍《さむらい》がいざというときに備えて、武備を怠りなく努めるのは常識であり、義務でもある。何を天地に恥じることがあろうか。我々は、上方《かみがた》の腰抜け武士とは違って、茶碗《ちやわん》や掛《か》け軸《じく》を大枚《たいまい》を投じて集めるという趣味はない。武士は、武芸こそ本分。刀や槍を集めて何が悪い。戦争の訓練をして何が悪い」
信長は初め、怒りのあまり書状を破ろうとしたが、あらためて思えば二十万の大軍を前にして、これだけのことを平気で言うのは、たいした度胸である。
信長は、越後の事情にくわしい御伽衆《おとぎしゆう》の僧を呼んで、兼続の評判を聞いた。
「豪気《ごうき》なお方と評判でござります」
と、その僧は言った。
「どこが豪気なのだ?」
信長は聞いた。
「はい、このようなことがござりました」
と、僧が話したのは、兼続について越後の領民のだれもが知っている有名な話であった。
あるとき、兼続の家来が落ち度のあった家来を手討ちにした。
ところが、後から調べてみると、それはその家来の勘違いで、手討ちにされた家来には、なんの落ち度もなかったことが判明した。
そこで、その一族の者三人が、兼続にその非法を訴えてきた。
兼続は、こちらにも落ち度のあったことだからと、金子《きんす》を与えてその罪を詫《わ》びたが、三人の者は、どうしても納得しない。
あげくの果て、死者を生きて返せ、生きて返せと、大声をあげはじめたのである。
そこで、兼続は、
「それほどまでに、申すならば」
と、手紙を書いた。
それは、地獄を支配する閻魔大王《えんまだいおう》への手紙であった。
「当方の落ち度につき、そちらに行ってはならぬ者が行ってしまった。迎えの者を差し向けるにより、ぜひともその者をお返し願いたい、閻魔大王殿。直江兼続」
その手紙を見せ、その手紙を袋に入れて、三人の男のうちの一人の首に掛けると、兼続は、その三人を手討ちにしてしまった。
死んで、閻魔の庁へ行き、死者を迎え取ってこいというのである。
「なるほど、そういう男か。はっはっは」
と、信長は笑った。
(兼続という男は、余《よ》と似たところがある)
信長は、好感を持った。そして、つぎには越後一国の本領安堵を条件に傘下に入ること、というきわめて寛大な条件を、講和条項として申し送った。
それを受け取った景勝は、ふたたび春日山城の奥に入り、かつて義父|謙信《けんしん》が籠《こも》った毘沙門堂《びしやもんどう》に入って、兼続だけを呼んだ。
「いかが思う?」
前置きも説明も必要なかった。すべて、わかっていることだからだ。
景勝は、兼続に結論だけを求めた。
「やむを得ぬ仕儀《しぎ》かと存じます」
兼続は答えた。
「そうか」
景勝は、毘沙門天に拝礼し、言った。
「父上。不肖《ふしよう》景勝、上杉家の武名を汚してしまいました。申し訳ござりません。ただ家名を残すために、非常の決断をいたします。なにとぞ、お許しくださいませ」
景勝は、毘沙門天を前に、先祖の霊に謝った。
それを見ている兼続の目から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。
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29
高柳左近《たかやなぎさこん》は信長《のぶなが》から直属|近衛《このえ》部隊の指揮を命ぜられ、その傘下《さんか》に入っていた。
本能寺《ほんのうじ》の変以来、信長は部下に配下を全部つけてしまうようなことはせず、自分の周辺を守るための近衛軍団を置いていた。
その長は、娘冬姫の婿《むこ》である蒲生氏郷《がもううじさと》である。
そして、その蒲生軍団の配下にある部隊は、それぞれ一千人ほどの規模を持ち、その第一部隊の長が左近であった。言うまでもなく信長は、自分を本能寺の窮地《きゆうち》から救った左近に絶対の信頼を置き、自分の周辺を守るもっとも忠実な家来たちの束《たば》ねを命じていたのである。
今日は信長が沢彦禅師《たくげんぜんじ》とともに新大坂城の工事現場にやってくるというので、左近は先触れとしてたち、工事現場の周辺の警戒に当たっていた。
「夢のようだのう」
突然、声をかけてくる人間がいた。振り返るとかつての同僚、小野田数馬《おのだかずま》がいた。
数馬は明智《あけち》軍団の兵として最後まで戦い、そして一時は浪人の境遇にあったが、左近のとりなしでふたたび召し抱えられることになった。
いまは第一部隊の忠実な副将として、左近を助けている。
「まったくだ。あのとき、もし明智の殿の、いや光秀《みつひで》の陰謀《いんぼう》が成功していたら、いったいどういうことになっていたか」
左近もうなずいた。
「まったくだ。あの企てが成功していたら。そう思うと身の毛がよだつな。いったい我々はどうなっていたか。案外、一国一城の主となっていたかもしれんぞ」
左近がからかうように言うと、数馬は首を振って、
「やはり明智殿では天下は保てぬ。わしはつくづくそう思うようになった。明智の殿がこのようなものを造れるか」
と、数馬は指をさした。
その先には七層八重の安土城をもうひとまわりもふたまわりも上回る巨大な城郭が築かれつつある。そして、その周辺には巨大な石塀が建てられ、その四角の城壁に四つの門がある。唐《から》の都の形式を踏んだものだ。
「まことにみごとなものだ」
左近は改めて感心していた。
これだけの城郭がもう完成に近づきつつある。キリシタンの宣教師がこれを見て、ヨーロッパなら十年かかる工事だと言ったそうだが、それはうなずける話である。その十年かかる工事をいま、信長はわずか一年足らずで成し遂げようとしている。
「おっ、上様が見えたぞ」
数馬が言った。
びろうどのマントをまとい、気に入りの象牙《ぞうげ》の杖《つえ》を持った信長が、石段を登ってきた。横には老齢の僧が一人、ついている。左近もその顔は知っていた。信長の政治顧問とも言える沢彦禅師である。
左近と数馬は、さっそく信長の前に伺候《しこう》して跪《ひざまず》いた。
「上様、高柳左近でござります」
「おお、左近か」
信長は上機嫌だった。
「見知っておろう、沢彦殿じゃ」
「ははっ」
「これが左近殿でござるか」
沢彦禅師も、白いほうきのような長い顎《あご》ひげをしごきながら、機嫌よく応対した。
「そなたが上様を厄難《やくなん》から救われた左近殿か。いや、縁起《えんぎ》のいい方にお会いした。これはまさに吉兆でござるな」
「そのとおりじゃ。さて禅師、いよいよこの城の名をつけなければならぬが。いや、それは単に城の名のみならず、その日《ひ》の本《もと》の新しい都の名ともなろう。何かよい案はござるかのう」
その言葉に答えて、沢彦は大きくうなずいた。
「先ほどからこの地を見て参りました。やはりあれでござるな」
と、沢彦は太陽を指さした。真っ赤な夕陽《ゆうひ》があと少しで大坂湾に没しようとしている。
その眺めは、まさに雄大にして華麗とも言うべきものだった。
「この地に参りまして、まず思ったことは、いかに日輪《にちりん》というものは大きなものかということでござります。この城から見る日輪の様はみごと。そこで初めは洛陽《らくよう》という名を考えました」
「ラクヨウ? どう書くのだ?」
「このように書きまする」
と、禅師は地面に落ちていた木の枝を取って、書いてみせた。
「ただしこれもよい名でござるが、洛陽は落陽、つまり日が落つに通じます。衰運に向かうところがいま一つでござる」
「なるほど。ではどうするのだ?」
「三つに絞りましてござります。陽の一字を生かしたものでござる」
沢彦は、その場で膝《ひざ》を折り、一巻の巻物をうやうやしく頭上に掲げてささげた。信長はうなずいて、それを受け取った。
それを開くと、そこには墨痕《ぼつこん》も鮮やかに三つの都市の名が書かれていた。
常陽
太陽
恒陽
信長は食い入るようにそれを見つめ、やがて満足げにうなずいた。その様子を見て取った沢彦はおもむろに言った。
「いかがでござりましょうか」
「常陽城では語呂《ごろ》が悪い。恒陽は字が難しい。この太陽というのがよさそうだな」
「はい。拙僧もそれがよいと考えます」
そのためにわざわざ真ん中に、沢彦は書いたのだった。沢彦は満足げにうなずいた。
「左近、数馬、皆の者も聞け。今日ただいまよりこの城およびこの町は太陽と名を改める」
「ははあ」
一同は揃《そろ》って平伏した。
ついに天正十一年夏、戦乱に明け暮れた長い時代は終わり、日本は信長の手によって統一された。
その夏、日に夜を継いでの突貫工事で完成された太陽城に新帝が行幸《ぎようこう》し、関白《かんぱく》信長以下、日本国中すべての大名が帝《みかど》を迎えた。
そして、この平和を記念し、年号が新たに太陽元年と改められることになった。
「みごとであった」
帝は、信長の天下統一事業を祝した。
「かたじけのうござります」
信長は、家臣を代表し一礼し、
「これで日の本は統一いたしました。この後、この国がふたたび戦《いくさ》に乱れることはござりません」
信長は断言した。
信長は、そのあと帝を案内して、太陽城の天守閣に登った。
太陽城の天守からは四方の諸国が、はるか遠くまで見渡せる。
南は海である。
南西の方角には、果てしない大海原が広がっている。
(戦は終わった。だが、太陽が昇るのは……)
信長は、ひそかに心中、その決意を新たにしていた。
本書は、一九九八年二月に光栄より刊行された単行本「織田信長伝―覇望の日本編」を、改題・文庫化したものです。
角川文庫『日本史の叛逆者 私説・本能寺の変』平成13年4月25日初版発行
平成14年5月25日3版発行