井崎博之
エノケンと呼ばれた男
[#表紙(表紙.jpg、横185×縦252)]
目 次[#「目 次」はゴシック体]
第一章 喜劇王は一日にしてならず
エノケンの王冠/榎本健一の生いたち/浅草の根岸歌劇団/浅草のカジノ・フォーリーへ/健ちゃんジャズを踊る/浅草は生きている/踊り子への想いと共に/コントが人気を得る/エノケン、観音劇場へ移る/佐藤文雄との出会い
第二章 劇団ピエル・ブリアント結成
名古屋へ地方巡業にいく/プペ・ダンサントに出演/玉木座の舞台裏で起きていたこと/エノケンと菊田一夫の喧嘩/舞台は役者の天下/玉木座からオペラ館へ/掛合いコミックソング/エノケンの叔父に経営を委ねる/笑いをとる努力と執念/男女混成のレビュー登場/「乞食芝居」の牧師という役
第三章 浅草六区に咲くエノケン・レビュー
座長エノケンの誕生/丸山定夫とエノケン/松竹と木内興行部との争い/「エノケン新聞」の発刊/その筋からお叱りを受ける/人気があがるエノケン一座/文芸部員の愛した浅草/否が応でも力を試されて/エノケンの体は音楽だ/エノケン旋風、大阪を席巻/エノケン・レビューへのとまどい
第四章 絶讃! シネ・オペレッタ
P・C・L映画出演/舞台女優とエノケンの意気込み/ハワイ、上海でも評判をとる/人知れぬ苦労も増えて/劇団員総出の映画づくり/余計なところは切った「ちゃっきり金太」/映画「孫悟空」をふり返る/まず音楽があり、そして芝居がある/とにかく楽しいエノケン映画
第五章 戦中・焼跡時代のエノケン
エノケンの東宝入り/映画と実演の二本立てで登場/検閲が厳しくなる中で/戦時下のエノケンの活躍/焼跡に立って/アメリカ進駐軍の新たな検閲/安心しきった笑い……/エノケン・笠置のコンビ誕生/ストライキに揺れて/エノケン、ロッパの合同公演/サトウ・ハチローとエノケンの共同作品/エノケンプロの自主製作/ミュージカルに挑戦
第六章 アチャラカ誕生
脱疽という病いをかかえて/第一回喜劇まつりの成功/アチャラカ喜劇とは何か/テレビ時代の笑い/菊田一夫が果した役割/新しい演劇ジャンルへの意欲/テレビでの新趣向/動物好きだったエノケン/象とエノケンの対話/歌い方にリズムと味がある
第七章 エノケンの心意気
三賞受賞の喜び/男エノケンの感懐/代役を買って出たこと/たった一回あった脚本変更/「紺屋高尾」をめぐって/フィナーレのお辞儀/ピエル・ブリアントの佐藤文雄/歌舞伎の題材から喜劇を/「最後の伝令」にみせた役者根性/映画「巷に雨の降る如く」の深意/新しい伯楽をさがして下さい/晩年のエノケンと舞台/気取りない庶民性/よみがえるエノケン
あとがき
榎本健一・出演年譜
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[#小見出し]第一章 喜劇王は一日にしてならず
エノケンの王冠[#「エノケンの王冠」はゴシック体]
榎本健一(本名)は明治に生まれ(東京・麻布区)、大正に育ち、昭和に活躍した喜劇役者である。このエノケンが東京・浅草の興行街で人気者として頭角を現しはじめた昭和初期の大衆娯楽は、現在とはくらべようもない時代で、芝居、活動写真(サイレント映画)、寄席演芸が中心であった。そこにレビュー≠ネるものが芽生えはじめたのである。日本にテレビ社会が到来する三十数年も以前のことで、浅草水族館にカジノ・フォーリー・レビュー舞踊団が誕生した。昭和四年のことである。このときエノケンは二十五歳だった。
永六輔はエノケンの初期の活躍ぶりを簡潔に「ジャズのリズムに、はじめて日本語を乗せた人。歌とアクション、ギャグのつみ重ね、テンポのよさでひとつのジャンルを開いた人」(昭和四十五年一月「サンデー毎日」)と表現している。また「喜劇王・榎本健一≠ニいっても、それは喜劇を愛好する大衆が、こぞって一票を投じたきわめて民主的な王様≠フ呼称であり、庶民の代表エノケン≠ノ与えられた親愛の栄冠である」といったのは、エノケンと四十年の永きにわたって親交のあった劇作家菊田一夫である。そしてさらに、
〈王様≠ニいういかめしい冠を、どのように冠せてみても榎本健一さんには、決して権力や威圧を象徴する王冠とはなりません。笑いの裏に涙を秘め、人生の哀歓をにじませた帽子のようなこの冠は、風雪に耐え、それを乗り越え、打ち克ってきた年輪が光り輝いています。
ある時は、冷たい浮世の風に吹き飛ばされた帽子――
ある時は、腹立たしさの余り床に叩きつけた帽子――
またある時には、愛情に締めつけられ胸に押しあてた帽子――
欣《よろこ》びに小躍りして打ちふる帽子――
喜、怒、哀、楽の涙の跡をにじませた……そんな帽子が、いつの間にか、王冠となって静かに光り、輝いている……喜劇王・エノケンの王冠は、そのような王冠なのだ〉(榎本健一『喜劇こそわが命』栄光出版社刊への菊田一夫の序文)
と、喜劇王となったエノケンを評している。
森光子がエノケンと初めて共演したのは、大阪の北野劇場(昭和三十三年)で、エノケンのアチャラカ喜劇の代表作「最後の伝令」であった。その後「がめつい奴」(昭和三十四年)のロングラン公演、そして、昭和三十五年十二月、東京宝塚劇場の「雲の上団五郎一座」で共演したときの想い出を、森光子はこう書いている。
〈私と榎本さんが役の上で喧嘩する場面がありました。丁度この年の秋に、紫綬褒章をいただいたので、喧嘩の場で、「紫綬褒章をもらっておきながら、アチャラカばかりやるナ」と、咄嗟のアドリブのセリフを言ってしまいました。
榎本さんは一瞬キョトンとされましたが、スグに「アチャラカやっているから貰えたんじゃネエか」と答えられた時、客席は大爆笑、大拍手でした。その時の榎本さんの顔は赤ちゃんのように清らかな邪気の無い顔だったことが忘れられません。
芸能人の先輩として、あんなに後輩を可愛がってくださる方は、他にいないのではないでしょうか。可愛がるといっても、ご自分が先輩としてでなく、同輩として心から気遣ってくださるお人柄でした〉(「エノケンを偲ぶ」)
柳家金語楼は、「エノさんの場合は、芸が服を着ている人だと思えば間違いない。だから私はエノさんと飲む時は、芸を相手に飲んでいるような気がして、人間榎本健一と飲んだコトは一度もない。榎本健一は東京の産んだ芸のカタマリ」という。そして益田喜頓は『ハイカラ紳士』(講談社刊)の中で、エノケンのパントマイムについて、こう書いている。
〈お酒の入ってご機嫌のエノモトさんが、「おれね、瀕死《ひんし》の白鳥じゃなく、瀕死の蝿《はえ》踊るからね」ッて、蝿がとびながら大好物をみっけて止ったところが蝿とり紙の上で、手がくっつき、足はとられ、遂に動けなくなるまでをパントマイムでやるんですが、酔っているせいもあるのですが、体がクニャクニャでほんと絶品でしたねえ〉
昭和四年のカジノ・フォーリー時代、中村是好はレビューのカーテン前で演ずるエノケンのパントマイムが、喝采を博していたことを、よく知っている。中村是好も浅草オペラ(根岸歌劇団)の出身で、エノケンの先輩であり、カジノ・フォーリー以来、エノケンと四十年以上も舞台で共演し、エノケン喜劇の代表の一つといわれた「らくだの馬さん」で、絶品の馬さん役を演じた人である。
エノケンも、中村是好の馬さんでなければ、この芝居はやれないといっていたくらいに、二人の息がぴったり合い、客席は爆笑がうずを巻いたものだ。
その中村是好が、「フランスから、マルセル・マルソーという有名なパントマイム役者が来日(昭和三十年)したというので、私は期待していただけに見ているうちに、阿呆らしくなってきた。カジノ時代のエノモトさんのパントマイムのほうが、ズーッと面白い。お客はゲラゲラ笑うし、仲間の私らが舞台の袖から見ていてもおかしかった」といっていた。
榎本健一の生いたち[#「榎本健一の生いたち」はゴシック体]
榎本健一は明治三十七年十月十一日、東京の麻布区青山で生まれたが、幼くして生母に死別したので、母方と父方の二人の祖母の手で育てられた。
エノケンの両親は共に埼玉県川越在の同郷で、母の実家は大きな機屋《はたや》を代々営む旧家であった。母方の祖母は娘が産んだ孫の健一を不憫《ふびん》がり、当分預り育てるということで引きとった。この母方の祖母は、その後エノケンの父の平作に、機織り奉公に来ていた娘のひとりを選んで、平作の後添いに世話をしている。
平作の商売ぶりはすることなすこと失敗が続き、平作の姉が嫁いでいる青山のせんべい屋を手伝いながら仕事を覚え、やっと小さな店ながら麻布霞町にせんべいの店を出し、順調な商いがはじまった。
いつしかエノケンも小学校へ入学する歳となり、麻布区立|笄《こうがい》小学校へ入学した。久しぶりに父の許に帰ってきたのだが、父の厳しいしつけにエノケンは閉口した。だがその都度、祖母が「私がよく言ってきかせるから」とひきとるのだった。店には使用人もふえ手狭になってきたので、麻布十番の雑式通りに移転。健一少年は、麻布南山小学校に転校した。その後新築中の東町小学校が新しく開校したので、登校区域の改正により健一少年は東町小学校に移ることになった。
父方の祖母も健一の面倒はよくみてくれたが、せんべい屋の店番は祖母の仕事だったから母方の祖母とはまた違っていた。健一は川越の祖母が恋しくなり、夏休みに遊びに行ったきり東京へ帰ることに反抗した。健一は既にこの頃、父がこの祖母に頭の上がらないことを知っていた。迎えに来た父もその反抗ぶりに、仕方なく地元の小学校へ転校の手続をとった。
ところがこの祖母が病いの床に伏してしまった。東京から見舞に来た平作に、自分が死んだら健一を連れて帰っておくれと言い置いてあったので、立派な葬儀を済ませるとエノケンも素直に父といっしょに東京に帰り、今度は麻布尋常高等小学校へ転入した。そのためエノケンは小学校を五回かわったことになった。
エノケンの登校拒否は、攻玉社中学に入ってからだった。進学したくないのに父親の命令で入学したのだから、入学とは名ばかりで、ほとんど登校しなかったようだ。本人は働きたいと言うのだが、せんべい屋はいやだと言うのだから、始末におえない少年であったらしい。父親からは幾度も勘当されたらしい。勘当されてもエノケンは、父の姉、妹、弟(伯母・叔父)たちが近くにいたから転《ころが》りこむ先には困らなかった。むしろ麻布十番のせんべい屋より居心地がよかったらしい。
叔母が芝区白金三光町の精肉屋に嫁いでいて、小僧代りに置いてくれたので、毎日ご用聞きまわりをし、午後になると配達をした。このとき夜は暇なのでバイオリンを習いはじめたという。現在のように一家に一台、ピアノまたはエレクトーン、という時代ではなくハーモニカが精々で、それすら子供にはオモチャの小さなハーモニカしか買い与えない時代であるから、健一の要求を叔母が取りついで祖母が買い与えたのではなかろうか。殊に叔父の幸吉とは九歳しか年が違わなかったから、祖母は幸吉にエノケンの相談相手になってやるよううしろで糸を引いていたようだ。
すっかり麻布十番の花見せんべいで店を安定させ、使用人を十四、五人も使うまでになった父の平作が、突然病いに倒れ北里病院で命を引きとったが、エノケンは、せんべい屋の店を引き継ごうとはしなかった。
しかも、大正七年、第一次世界大戦が終り、日本は一九一九年のヴェルサイユ条約によって、南洋群島の委任統治が決定したとき、十四歳の健一少年は叔父の幸吉に、その南洋群島に行きたいといったと言う。
「なにをしに行くんだい、目的なしに行って帰れなくなったらどうする。日本には帰ってこないで永住するつもりなら行くのもいいだろう」という幸吉の言葉で、この話は沙汰やみとなったというが、満洲(中国東北部)へ行って馬賊になりたいとか、外国航路の客船のボーイになりたいとか、京都へ行って尾上松之助(活動写真の大スター)の弟子になりたいとか、よく口にしたという。これらに一貫しているのは、家からとび出して生活したいということである。この頃の健一少年の願望のようであった。
エノケンが浅草金竜館の根岸歌劇団にいるバリトン歌手柳田貞一の許に入門したのは大正十一年、十八歳のときである。これも叔父幸吉が裏で一枚かんでいたような気がする。柳田から健一少年に逢ってやるから本郷椿館に来いという手紙をもらって、柳田貞一に逢っているからである。恐らく祖母から毎日一円の小遣いをもらい浅草がよいの連続だったエノケンが、役者になりたいということを叔父に洩らしたところから、役者になるならまず師を選ばねばということであったと推測する。
この当時、東京の興行界のメッカは浅草であり、その中で一番人気は根岸歌劇団であった。そば屋の出前持ちの若者までが自転車に乗りながらカルメンのトレアドル・ソングや、田谷力三《たやりきぞう》得意の、ボッカチオの〈恋はやさし野辺の花よ……〉や、デアボロの〈岩にもたれた物凄い人は鉄砲片手にしかと抱いて……〉などを口ずさみながら風をきって出前してあるくなど、若者たちにカッコよく映っていたのだ。
根岸歌劇団におけるバリトンの柳田貞一は、テナーの田谷力三ほどの派手さはなかったが、芝居は抜群にうまく、実力者であり田谷力三と同格の扱いであった。
エノケンが柳田貞一に入門を許され、遊びでなく麻布の家から毎日浅草の金竜館へオペラなどのコーラスボーイとして通うようになったことを祖母は喜び、小遣いを毎日持たせたという。
浅草の根岸歌劇団[#「浅草の根岸歌劇団」はゴシック体]
大正八年に、東京の浅草金竜館で、オペラが常打ちされていたなどとは、ちょっと信じられない話のようで、おそらくインチキオペラをやったのであろうと思われるだろうが、浅草の金竜館はオペラハウスでもなく、ごく普通の小劇場であったから、それもやむを得まい。とはいっても日本語で、「カルメン」、「椿姫」、「セヴィリヤの理髪師」などを本格的に上演したのだから驚きである。
日本におけるオペラの初演は明治二十七年十一月に、東京音楽学校(東京芸大の前身)奏楽堂で在日外国人が集って「ファウスト」の第一幕だけを在校生たちに聴かせた記録がある。それから九年後、同校在学生たちの手で、グルックの「オルフォイス」(オルフェオとエウリディーチェ)を初演しているが、これは学芸会程度のものであったろう。
その後、明治の終りに東京帝国劇場に歌劇部が設けられ、イタリアからオペラのベテラン演出家ローシーを招き、東京音楽学校の卒業者の中から人選をし、オペラ歌手の育成をはじめた。この中に後年活躍した三浦環、原信子、清水金太郎らがいた。そして華々しく本邦初演のオペラが、帝国劇場で上演されたのである。しかし、今日ですら赤字のオペラ公演が興行的に成功するわけがなく、たった四年で帝国劇場はオペラを打ち切り、イタリアから招請したローシーに、非情にも打ち切りを通告したのだ。
ところが日本にオペラの芽を育てようと、はるばる来日したローシー夫妻は、その情熱を失わず、私財を投じて赤坂のローヤル館に、帝劇で育てた清水金太郎や原信子ら弟子を引き連れて、オペラ上演にその情熱を注いだ。田谷力三はこのローヤル館時代に、ローシーに手をとられて薫陶を受けた弟子のひとりである。しかし、努力のかいもなく、そして現在よりも、より以上にオペラ人口の少い当時のこととて、遂に淋しくローシーは日本の弟子たちに見送られ、大正七年日本を去って行った。
途方に暮れていたローシーの弟子たちに手を差しのべたのが、当時浅草興行界で新し物好きといわれていた根岸興行部で、大正八年に根岸歌劇団を作り、そっくり引きとったのである。
根岸歌劇団にはオーケストラから合唱団まであって、篠原正雄という専任指揮者までいた。オペラだから夜一回の公演だろうと思ったら大間違い。大正中頃の浅草はどこも一日三回公演。毎年の正月公演は「カルメン」で、第一週が第一幕、第二週が第二幕、第三週が第三幕と、分けて上演したそうだ。普段の月はオペレッタを一と幕ずつやった。全四幕を見たいとすると毎週金竜館に通わなければならない。しかし、今の東京でも、オペレッタがいつでも見られる劇場は、悲しいかなどこにもない。
「天国と地獄」「ブン大将」「ボッカチオ」「コルヌヴィルの鐘」「軍艦ピナフォア」「マスコット」「チョコレート兵隊」「メリー・ウィドー」など、ローシーに教わった通り、ローシーの弟子清水金太郎が音楽監督の篠原正雄と協力して、根岸歌劇団を育てていった。オペレッタは歌中心のオペラと違い、喜歌劇と邦訳されたように、劇はセリフで進行し歌や踊りが挿入されるものだから、金竜館のような普通の小劇場でも容易に上演ができた。また、すべて日本語だからわかりやすく、出演者たちも十代、二十代ばかり。田谷力三は当時十九歳で、リキちゃんリキちゃんと、田谷が舞台へ出てくると、客席からの声援が大変だったそうだ。
しかも日本のオペラの本流といえる根岸歌劇団の座長清水金太郎は、ローシー以上にきびしく、若い人を育てる努力をしたという。
しかし、直輸入のオペラを受け入れる人はわずかであるから、直輸入のオペレッタを中心にしながらも芝居やバレエ、佐々紅華作曲の和製オペレッタ(「猿蟹合戦」など)といったものも一緒に上演していた。つまり浅草的メニューにしたおかげで、根岸歌劇団は興行としても成りたったばかりか、東京中の人気の焦点になったのである。
評論家河上徹太郎の『私の詩と真実』の一章「わが楽歴」の冒頭に、「内容的にはともかく、現実の機縁として、私を音楽に目覚めさせたものは、浅草のオペラであった。(中略)いつぞや近衛秀麿氏と雑談していた時に、実は僕も学習院時代に浅草オペラのファンだったと白状されたことがあった」と書いている。
河上徹太郎は音楽から文学に転じ、ファンであった近衛秀麿は後年偉大な指揮者となっている。浅草オペラとかかわりをもって、それぞれ、その行く道を得て大成した人は、このほかにも沢山いたであろう。その一人である田谷力三は、後にエノケンについて、
〈喜劇俳優がオペラで受賞(昭和四十一年第二十一回芸術祭奨励賞)されたので、けげんな顔をされたのだろうと思うのですが、オペラがもしも隆盛の一途をたどっていたならば、日本のオペラ王となっていたと私は思います。たしか十八歳だったと思います。浅草オペラの柳田貞一さんのところに、お弟子として入ってこられたのは……。私と柳田さんは楽屋が合部屋でしたので覚えているのです。浅草オペラの生き残りは、榎本さんと、藤原義江さんと、私の三人になってしまったので、歌で芸術祭奨励賞を受けても不思議はありません〉
と語っている。いつだったか服部正(作曲家)が、エノケンの「ブン大将」(オッフェンバック作曲)を聞いて、いまのオペラ歌手にない本格的なフィーリングにびっくりしたという話を私は聞いた。要約すると、「ベルカント調の田谷力三の甘い歌い方、これも本物だが、これと相対的な清水金太郎の歌い方を、すっかりマスターして自分のものにまで仕上げている。ごくわずかなコーラスボーイ時代に、清水金太郎の、あの本格的オペラ唱法を身につけるということは天才といってもいい。歌詞は明瞭だし、オペラ役者はそれが第一です。何を歌っているのだかわからないから、オペラは駄目になったんです。エノケンさんがオペラをずっとやっていたら、オペラや、オペレッタ人口はきっとふえていたと思いますよ」ということになる。
ちなみにエノケンは、「僕の歌の勉強というのは、一風変わっていて、時計の振子がお師匠さんである。振子のカッチカッチという音でリズムをとって、勉強したので、オペラ時代から唄っている、ベアトリねえちゃん≠ネど、かなりリズム的に難しい歌なのだが、時計の振子で、仲間より早く正確に覚えることが出来たし、後にジャズの時代に入って、私の青空∞モンパパ∞洒落男≠ネど僕の歌といわれているものはみな、独習同様に振子で勉強したものである」(榎本健一『喜劇こそわが命』)といっている。
大正十二年九月の関東大震災で、東京浅草の劇場街が全滅にならなかったならば、田谷力三や服部正の指摘するように、エノケンは喜劇の道に進むことはなかったかもしれない。
浅草のカジノ・フォーリーへ[#「浅草のカジノ・フォーリーへ」はゴシック体]
関東大震災による大火災で、浅草興行街は廃墟と化し、ここに出演していた役者や、サイレント映画の弁士や楽士たちも浅草から四散した。
エノケンは分散した根岸歌劇団の一隊に加わり、北海道巡業やら、静岡を振り出しに東海道を西へ向う旅巡業に参加していた。しかし、どこもお客の入りがわるく、名古屋で打ち切りになるなど苦難が続いた。京都に師匠の柳田貞一が出演していることを知って、京都へ行った時にも浅草ではあんなに人気のあったオペラ歌劇団が、てんで相手にされないことを知った。次第に映画に気持が傾いたエノケンは、誘われて東亜キネマの甲陽撮影所に腰をおろしたが、ここも二年足らずで京都へ行き、京都|太秦《うずまさ》でサイレント喜劇映画を制作していた中根竜太郎プロに首を突っこんだ。
その頃、ここの仲間の丘寵児《おかちようじ》、間野玉三郎らと、当時の給料では半月ともたないので金稼ぎのいい思案はないかと相談した結果、嵐山で野外ページェントをやってみようということになった。茶店で借りた紅白の幕を京都の名勝嵐山の岩場に張り、夏の保津川下りの遊船客を目当てに大道芸人に早がわりして、丘とエノケンが寸劇《コント》や手品をやって客を笑わせた。間野玉三郎はインデアン・ダンスを、そして最後に立ち廻りを見せると、遊客からの投げ銭は思いがけない収入となった。
これに味をしめ、天気がよくて暇さえあれば、衣裳、カツラ、小道具を無断借用に及び、興に乗れば衣裳のまま水にとび込んだりの大熱演で、すっかり遊客の人気者となった。しかし、ことが露見し、やめてしまうのだが、この経験が浅草の水族館でのカジノ・フォーリーの下地となったように思う。
この京都時代に、エノケンは日活京都撮影所文芸部員の山本嘉次郎と出逢い、若い二人は互に夢を語り合い、山本はエノケンを撮影所長に売りこんでくれたが、エノケンの日活映画入りはなく、細山喜代松という監督に見込まれて、新しく名古屋の道徳にできた第一映画に、江川宇礼雄と呼ばれて行った。この頃はこうした小さなサイレント映画製作プロが沢山あった。
こうした映画製作プロなどでの仕事を六年間したあと、エノケンは、再び浅草に戻る(昭和四年春)。瀬川昌久は、
〈浅草レビューにおけるエノケンの活躍は、昭和四年七月に、浅草公園水族館に開演したカジノ・フォーリーに参加したときからで、上演した演し物のなかに、「月光価千金」というタイトルのレビューがあるが、エノケンは当時流行のジャズ・ソング「青空」「月光価千金」などを日本語の詩に改ざんして、いち早く舞台で歌っていた。サトウ・ハチローが「センチメンタル・キッス」を書いて評判になったのも、このときである〉(『ジャズで踊って』サイマル出版会)
と書いている。しかし、実際は太鼓叩いて笛吹けど、お客はさっぱり入らず、わずか二ヵ月たらずでカジノ・フォーリーは閉鎖、役者たちはお払い箱になった。浅草オペラの先輩石田守衛に誘われてエノケンは張切って参加しただけに、がっかりしていると、水族館の経営者は、ほかに適当な劇団が見つからなかったのか、エノケンに、もう一度やらないかと誘った。よろこび勇んだエノケンは、中村是好や堀井英一、間野玉三郎ら浅草オペラの先輩たちに声をかけて十月に再び、水族館の二階の余興場で劇団カジノ・フォーリーの幕を開けることになった。
健ちゃんジャズを踊る[#「健ちゃんジャズを踊る」はゴシック体]
後にエノケンが結成するピエル・ブリアント劇団の文芸部員として、数多くの創作レビューなどを書いた菊谷栄は、出身地青森の「西北新報」に、浅草水族館でカジノ・フォーリーをはじめて見た時の強烈な印象を回想(昭和十一年、一月から八回で中断)して、その舞台をこのように記している。
〈(昭和四年)十月の末に健ちゃん、中村是好、間野玉三郎、城山敏夫らが再び水族館に、再生カジノ・フォーリーを結成、いや、本当のカジノはここからで、七月のときと違って座員も少かったが仲の良い人々許りでガッチリ手を組んだ。健ちゃんが主になって筋やギャグを考え、中村是好が化粧台前で脚本を書き、健ちゃんが演出をし、間野、堀井が振付をし、城山が振付や合唱稽古のピアノを弾いた。
幸運なる哉、踊子群――といっても十人位――皆若く、そして美しかった。この中に輝く二ツの星があった。一人は健ちゃんの愛妻花島喜世子、もう一人は梅園竜子であった。
第一回の公演は、小さいけれど諸新聞に好ましい批評が出た。気がきいている。スピイドがある。榎本はうまい。踊子が可愛い――が共通した評であったが僕はこれを見てなかった。
第二回公演は見に行こうと誘われて初めて見た。七十人も観客はいただろうか、十一月の夜の冷たさは客の薄い客席に沁み込んでいた。
開幕のベルが鳴る。楽士が五、六人、しまっている幕の横から小さい梯子段をおりてオーケストラボックスへ入る。暗くなってフットライトが点ぜられる、うす汚い幕の下の下の方がパッと赤くなる。ジャズがはじまる、そして開幕。
舞台には西洋の爺さん婆さんがいる。お粗末な背景や家具ではあるが、それは金持の居間を現わしている、お爺さんは健ちゃんである、お爺さんは何となく焦った様子で召使を呼ぶと、現われた召使いの女は十人、皆可愛い少女ばかりだが、一人もストッキングをはいていない、健康な脚まるだしである……と健ちゃんのお爺さんは怒鳴る。
「なんだって皆来るんじゃ、みんなに用はないんじゃよ」すると入って来た十人が小腰をかがめて一礼し、皆退場してしまう。
「みんな行ってしまったら用が足らんではないか」と怒鳴るとまた十人皆が来る。
「あれァ? 一人でいいんじゃよ……」と、女中十人のうち一人だけが一礼して出てゆく、
「あれあれァ? ここに一人だけ残れというんじゃよ」
この間《ま》の健ちゃんのイキの良さ、動作の西洋人らしく巧いこと……僕は感心してしまった。
一つの景に落ちがあって客がどっと笑う。暗転となりジャズがはじまる、とたんに明るくなって更紗模様のお粗末な引き割り幕が今までの舞台を包み、次の景となっている。――このスピイド……。ただ陶然として楽しく、全く魅了されていたのである。
そのほか健ちゃんは黒人に扮してジャズを踊った――当時ジャズダンスの流行はチャールストンダンスのステップである。健ちゃんはそのステップよりも体そのもののユーモラスな形、動きが巧い、しかもすばらしい熱がある。
「サーカス一座」は中村是好作で、健ちゃんに次ぐ腕と人気を持っていたが脚本も可成りの腕だ。後日聞いた話だが健ちゃんが考えたアイデアやギャグが大部分を占めていたのだそうだが、健ちゃんのピエロの綱渡りは、平舞台の上で音楽に合わせ、あたかも綱渡りそっくりの身振りを見せ、最後に綱から落ちるまでの巧さは、観客を驚嘆! 爆笑させた。
そして健ちゃんのピエロが代役で娘役に扮し、バレエ衣裳で二枚目とタンゴを踊る、このダンスの面白さ、可笑しさは天下一品と称してもよいものだった。
折しも「東京朝日新聞」の夕刊に、川端康成の「浅草紅団」という小説が連載され、この小説の中に水族館が描かれ、カジノ・フォーリーが紹介され、榎本健一が登場し、花島喜世子、梅園竜子の踊る姿が日本全国に告げられた。一週間に五回水族館へ通った東大出身の若きサラリーマン野崎辰雄を中心に「カジノを見る会」という後援会を作ったのは翌年の春二月であった〉(筆者注・野崎辰雄は後にピエル・ブリアント文芸員となった大町竜夫である。菊谷栄『昭和のモダニズム』北の街社刊)
浅草は生きている[#「浅草は生きている」はゴシック体]
浅草水族館というのは、浅草六区外の伝法院の裏手の人通りのあまりないところにあった。そのため水族館に客がこないので客寄せのために、魚だけでなく、レビューも見せます、と二階の余興場にカジノ・フォーリーという劇団を出演させたのである。だから、水族館の入場料三十銭を払えば、レビューはただでみられるという仕組であった。つまり魚のアトラクションである。だから舞台とは名ばかりで、間口は七メートル程しかなく、なにもかにもが、ないないづくし(名もない役者をはじめ、大道具、衣裳、照明など)の舞台で、あるものはファイトだけであった。
カジノ・フォーリーという劇団名は、パリのフォリー・ベルジェールと、カシノ・ド・パリという劇場名をたして二で割った当時の浅草的感覚なのかもしれない。パリでは既に(明治二十二年頃)前記の二劇場のほか、ムーラン・ルージュという劇場で、黒人の舞姫ジョセフィン・ベーカー、ラケルメレエとミスタンゲットの歌姫に、喜劇俳優ランダルとジョルジュ・ミルトン、リュシエンヌ・ボワイエらがくりひろげるレビューの花が咲き競っていた。
しかし、これだとカシノ・フォリーで河岸《かし》の堀《ほり》≠ナ語呂がわるいと、カシノをカジノ、フォリーをフォーリーと日本人に言いやすいようにしたのだそうだ。たしかにカジノ・フォーリーという名は、ゴロもよく、新しもの好きの日本人の好みに合ったネーミングだったので、再開のカジノ・フォーリーは前回とくらべものにならない大ヒットをとばし、一躍人気を集めた。その原因をズロース事件(踊り子が舞台で踊りながらパンティを落す)といわれたこともあるが事実無根の風評で、水族館のカジノ・フォーリーについて、川端康成は、
〈「浅草は東京の心臓」「浅草は人間の市場」添田唖蝉坊さんの言葉である。「浅草は万人の浅草である。浅草には、あらゆるものが、生《なま》のまま放り出されてゐる。人間のいろんな欲望が、裸のまま踊つてゐる。あらゆる階級、人種をごつた混ぜにした大きな流れ。明けても暮れても果てしのない、底の知れない流れである。浅草は生きてゐる。――大衆は刻々に歩む。その大衆の浅草は常に一切のものの古い型を溶かしては、新しい型に変へる鋳物《いもの》だ」
そして、水族館も、この「鋳物場」で、最も「新しい型」に今打ち変へられつつあるのだ。まるで浅草懐古の記念物のやうに、公園第四区に取り残された昆虫館と水族館――その水族館の魚が泳ぐ前を通り、竜宮城の模型の横から、カジノ・フォーリーの踊り子達が、楽屋入りをするやうになつたのだ。パリー帰りの藤田嗣治画伯が、パリジェンヌのユキ夫人を連れて、そのレヴューを見物にくるのだ。
「和洋合奏レヴュー」といふ乱調子な見世物が一九二九年型の浅草だとすると、東京にただ一つ、舶来「モダーン」のレヴュー専門に旗挙げしたカジノ・フォーリーは、地下鉄食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。エロチシズムと、ナンセンスと、スピードと、時事漫画風なユーモアと、ジャズ・ソングと女の足と〉(「浅草紅団」)
と書き、さらに続けてこうも書いている。
〈人が少くなると、ここの壁、椅子、床にしみついた匂ひ――乞食の匂ひが漂つてくる。諸君、これは形容ではない。レヴュー舞踊団旗挙げの頃も、水族館は乞食や浮浪者の客があつたのだ。近代風に化粧した裸体の踊りを乞食や浮浪人が眺めてゐる――この怪奇な風俗画も浅草だ。そこへ学生と「銀座の人々」とが、ぽつりぽつりこぼれて来た〉
この頃の日本は金融大恐慌の嵐が吹き荒れ、不景気のどん底で、昭和五年に政府の発表した失業者数は、三十八万六千三百九十四人、当時の人口からすると、百七十人に一人が失業していた計算になる。当然都会には、乞食や浮浪人があふれ出してくるわけだが、この頃、乞食や浮浪人に、失業者をも加えて、彼らをルンペン≠ニ呼んだ。後には、ルンペン節《ぶし》という歌までできるのだが、マージャン屋が東京に二千軒をこえたというので、昭和五年の七月、マージャンクラブの新規開店は禁止するという、おふれが出たくらいだ。
踊り子への想いと共に[#「踊り子への想いと共に」はゴシック体]
川端康成も書いているように、壁や椅子や床には、乞食の匂いがしみついているという水族館は、浅草興行街の六区から離れた四区にあって、立地条件が悪いばかりか、すぐ近くに公衆便所があり、天気の悪い日は、便所の臭気が客席にまで漂ってきたという。出演者たちは、客が入らない理由はルンペン達が客席に寝そべっているからだと、経営者に文句をつけたが、ルンペンといえども水族館の入場料三十銭を払えば客である。雨の日ともなると、ルンペンのお客が増えて、一般のお客は隅の方で小さくなってみているので、経営者も遂にたまりかねて、入場料を返して追い出し、ルンペン入場お断り≠フ立て札を入口に貼った。
この追い出されたルンペンの中に、ルンペンの組織のボスがいたとは知る由もない。浅草から下谷一帯に縄張りをもつ青空一家の仕返しが、その夜のうちに行われ竜宮城を象《かたど》った水族館の入口といわず中といわず、すぐそばの公衆便所(改装されて現在もある)の肥壺から汲みだした糞尿が撒きちらされていて、悪臭は鼻どころか、眼まで刺激し、このクサイうわさは浅草中にひろがった。
経営者は頭をかかえ、早速、青空一家に詫びを入れるやらの大騒ぎをして、水族館は三日も休んで大掃除をしたが、この三日間の休みを境に、急に客足がつきだしたというのだから面白い。まさに|ウン《ヽヽ》がついたといわれたが、これは昭和四年十二月十二日から「東京朝日新聞」の夕刊に連載された、川端康成のカジノをモデルにした「浅草|紅《くれない》団」のおかげが本当であろう。
〈「あの小さいほうは、なかなか踊れるじやないか」
「踊れる筈だわ。お祖母さんが踊りのお師匠さんですつて」
「竜ちやん」とか「花島」とか、見物のかけ声が盛んだ。
「えらい人気だ、竜ちやんてどれだい」
「梅園竜子つて小さいほうよ。だけど十五と聞いたら、がつかりするでしやう」
と弓子は、ふと白綸子に頬を落す〉(「浅草紅団」)
また「寝顔」の冒頭でも川端康成は、「浅草水族館の踊り子達と百八つの鐘を聞きながら万盛庵で年越しそばを食べるのが、ここ幾年かの私の大晦日の慣ひで」と書いているが、これはフィクションでなく事実である。高見順は、踊り子達にも浅草に対しても川端康成は所詮は「別世界の人」であり、「路傍の人」だったゆえに、却って鮮やかに浅草や、その踊り子が氏の眼に映ったに違いないといっている。梅園竜子は川端康成に以来妹のように可愛がられていた。
劇作家の小沢不二夫は、
〈その頃はまだ学生で、カジノから玉木座のプペ・ダンサント時代にかけ、学校よりレビューに精勤した。カジノでもっとも印象に残っているのは、カミ原作の「世界珍探険」である。カミのタンゲイすべからざるナンセンスを、まじめに、まともから演じているのが笑えないおかしさで、あとから思い出しては笑いこけた記憶がある。
「世界珍探険」のなかで、エノケンさん扮する飛行家が、ある小さな島に不時着する、忽ち酋長以下大ぜいにしばりあげられて火あぶりにされるところへ酋長はいつまでたっても出てこない。舞台でエノケンさんが間をつないでいるのが私らにもわかってきた。ついに縄をほどいて舞台の横に入るや「酋長はどうした」と、怒鳴った。小さな小屋だから客席につつ抜けで、「手前なんかクビだ、この大馬鹿やろう」といってから、ショボンとした酋長を連れて出てきたエノケンさんは、客席に向ってニヤリとした。客席は大笑いだった〉(昭和二十三年九月有楽座プログラム)
と描いている。望月優子(元参議院議員・女優)も、
〈カジノ・フォーリーの踊り子に、私がなったのは、親戚の照ちゃん(山路照子)綾ちゃん(高見順の「如何なる星のもとに」のモデルとなった三条綾子)のところへお弁当運びに日参していて、自分もやりたくなったからです。入団試験のようなものがありました。楽屋の廊下で、榎本健一さんが「脚を出してみな」といってスカートをあげさせ、「あしたからおいで」といったあんばいです。その頃榎本さんは、もうカジノの座頭格で、浅草の人気者でした。(中略)榎本さんと花島さんはもう結婚していました。たいへん仲の良いご夫婦でしたが、ときどき、喧嘩もなさっていました。喧嘩の場所がなかったせいか、楽屋風呂を締切ってパチャパチャ、ピチャピチャとやっておられたようです〉(『浅草紅団のあのころ』宝英社刊)
と書いている。
エノケンと花島喜世子との出逢いは、昭和四年七月であった。第一次カジノのとき、発頭人だった石田守衛が、踊り子を集めるのに頭を痛め、知り合いだった世田谷三軒茶屋の梅園流の師匠に頼み込み、孫の梅園竜子と十代の女性のお弟子十人ほどを借りてきた。そのうちの一人に花島喜世子がいた。
洋舞の振付師は石田守衛をはじめ振付師兼役者は三人も揃っていたので、洋舞を踊らせたのだが、その中でもとりわけ脚線美のすばらしい少女が花島喜世子だった。エノケンが彼女にプロポーズしているうちに、第一次カジノは客の不入りで解散、エノケンは職場を失うが、彼女らは梅園流の師匠のところにもどって行った。
ところが二ヵ月後にエノケンのところに水族館から朗報が届き、カジノ・フォーリーを再開するというので集ると、そこに梅園竜子も花島喜世子も来ていた。
エノケンは祖母に結婚したい相手がいることを打ちあけると、祖母は逢いたいから家へ連れてこいというので、舞台が終ってから麻布のせんべい屋へ花島を案内した。花島の境遇もエノケンと似て、早く両親を失い女ばかりの四人姉妹で喜世子が長女だった。エノケンの祖母が賛成をしてくれたので、互の親戚が寄って式を挙げ、職住接近のほうが好都合なので二人は浅草田島町の豆腐屋の二階を新居にした。そこからなら水族館まで歩いて通える距離で、結婚以来、二人揃って楽屋入りするという習慣ができてしまった。
この習慣が続き、後には、昭和五年に生まれた愛児・※[#「金+英」、unicode9348]一を連れて三人で楽屋入りするようになったのである。
コントが人気を得る[#「コントが人気を得る」はゴシック体]
私の手元にある第十八回公演(昭和五年四月三十日から五月九日まで)と、第二十一回公演(同年五月三十日から六月八日まで)の二枚のプログラムのコピーがあるので、これをたよりに当時のカジノ・フォーリー舞踊団を紹介しよう。プログラムを見ると、演目の一がなんと、レビュー・「テレヴィジョン」七景(佐藤久志作・北日出夫補、堀井英一振付)とあり、第一景「山の実験室」、第二景「街路」、第三景「カフェー・カナリア」、第四景「街路」、第五景「山の研究室」、第六景「とある駅の待合室」、終景が「祝賀会会場」となっていて、テレヴィジョン放送各種?≠ニなっている。日本でテレビの実験放送がはじまったのは昭和二十五年のことである。
演目の二はヴァラエティ(間野玉三郎・堀井英一振付)の中に、少し大きい活字で、独唱・二村定一《ふたむらていいち》とあって、曲は、夕月と大阪行進曲とある。おそらく、今日いうところの特別出演だったのではなかろうか。二村定一も根岸歌劇団にいて、エノケンの先輩であるばかりか、当時ジャズシンガーのナンバーワンであり、レコード界の人気歌手でもあった。
三番目の演目は、レビュー「ドンキー一座」十景(中村是好作・間野玉三郎振付)で、これには二村定一も出演しているところをみるとジャズシンガーでありながら二村は、相当に芝居が好きであったことが窺える。それで後年、後輩のエノケンと看板を並べていっしょの舞台に立つのだが、二村は沽券《こけん》にかかわったのか袂をわかってしまう。
第二十一回公演も三本だてで、一番目は山田寿夫(もと岡田嘉子一座の文芸部員)改修となっているから、応募脚本でそのまま使えないので山田寿夫が手を入れたものらしい。
カジノ・フォーリーでは、「世界珍探険」を書いて文芸部入りした水守三郎(後にムーラン・ルージュ文芸部)のように、学生たちが脚本をよく持ちこんで来たらしい。「猛獣狩」を書いてきた堀君子は、後に「東京新聞」文化部記者の伊藤寿二で、舞台美術家伊藤寿一の実弟である。堀君子は「珍カルメン」の原案者でもあったことを三十余年後に、本人から私は聞かされた。
このレビュー「ロメオとジュリエット」全七景の振付が間野玉三郎で、主役のロメオも間野玉三郎、ジュリエットはトップ女優最上千枝子である。
二番目は第十八回と同様にヴァラエティ十種。梅園竜子以下七人の踊り子のジャズ・ダンス(紅あざみ)、次が、堀井英一、城山敏夫のコント、そして花島喜世子以下八人の踊り子のジャズ・ダンス(カウボーイ)、次が城山敏夫の独唱(夜の東京とソーニヤ)。今回は二村定一は出演していない。
続いてのコントは、エノケン、中村是好らで、このコントがどうやらカジノの人気の一つに、なりはじめてきたようだ。
当時はプログラムにも、ナンセンス・スケッチと書かれているのだが、コントと書いたほうがわかりやすいので、私はわざとコントと書いている。短いコントがお客にウケるという話は、当時の出演者から何度も聞いていた。そして又、間野玉三郎と花島喜世子、花井淳子のジャズ・ダンス(オーヤーヤー)、長谷川顕指揮のジャズ演奏(リオリタ)そして最後が男女混成の群舞で終っている。
これをみても、当時ジャズの人気が、いかに大きかったかがうかがえよう。三番目は、中村是好作、堀井英一振付で、レビュー「恋の戦友」全十二景というから相当にテンポの早いものだ。主演はエノケンだから、望月優子も書いているように、この頃には座頭格になってきていたことがわかる。
このプログラムの広告欄に、レヴュー舞踊研究女生募集、十四歳ヨリ二十歳マデ 本人来談≠ニある。望月優子が脚を見せただけで、あしたからおいで、といわれた位にダンサー不足で、最上千枝子、花島喜世子、梅園竜子以下、望月優子(当時は望月美恵子)を含めて数えてみると総勢十名である。
それから、水族館の地下に、食堂があって「和食・洋食・支那料理・喫茶・和洋酒」となっていて、「御家族様方の為に座敷を新設いたしました」とあるが、この食堂は、水族館食堂という名でなくて、「浅草水族館カジノ・フォーリー直営、カジノ食堂」となっているところをみると、昭和五年五月には、水族館よりも、二階の余興場のカジノ・フォーリーのほうが人気が出てきていたのであろう。当時、小学生を引率して水族館を見学にくる先生は、小学生を一階で自由見学させておいて、先生だけが二階へ上ってきてゲラゲラ笑っている、ということがよくあったそうだ。
エノケン、観音劇場へ移る[#「エノケン、観音劇場へ移る」はゴシック体]
昭和四年十月末に再スタートしたカジノ・フォーリーは、音楽青年内海行貴がプロデューサーになってエノケンと組み、マック・セネットのサイレント喜劇映画から音楽ギャグを失敬するやら、パロディ化するやら、いろいろと試みたようだ。バンドもむろん小編成ではあったが、優秀な若手プレイヤーが集まり、舞台でジャズ・ダンスが白熱化してくると、トランペッターがボックスから舞台に上って踊りと競うように吹きまくって、客席の若者たちから喝采を博するなど、人気は急上昇し満員が続いた。
アイディアの新鮮さと、若さと、バイタリティでモダーン≠ネショーを見せて人気が出てきたにもかかわらず、エノケンは一年半ほどで、六区の観音劇場へ移ることになる。このいきさつを後日サトウ・ハチローから聞いた菊田一夫は、
〈その頃すでに、彼は公園の人気者になりかけていたので、彼が先頭にたたねば、要求も通らぬと見た面々に誘われて渋々起ち上り、起った以上は、あくまで要求を通そうとして、結局、裏切られ、背負い投げをくい、孤立して、カジノを脱退した人なのである。この時の彼は、まるで、チャップリンのふんする街の放浪者のように、物臭さで、純情で、生一本で、正直で、間が抜けていて、そして腹を立てて、おいおい泣いたということである。私はこの話を聞いて、その相手の卑怯未練さに腹を立てて、エノケンさんの純情にうたれて、涙をこぼしたことがある〉(『泣き笑い人生』日本アート社刊)
と書いているのは、次のような事態があったからである。
七月に水族館のカジノ・フォーリーの旗挙げが、さんたんたる不入りで、わずか二ヵ月足らずで旗を降したあとだけに、十月からの再出発のときは出演者全員に客の入りが良くなったら、出演料をふやすという約束があった。それにもかかわらず、昭和五年の正月以来大入りが続いているのに、この約束が実行されないことに、みなが不満をもちはじめたのが発端である。エノケンが代表におされて交渉をすると、わかったとの返事なのだが一向に実行されない。
業を煮やし、そんなら全員やめようと決議し、エノケンがみんなの行先を探すことになり、木内興行部に話をすると、エノケンだけならいつでもおいで式の返答である。それでも全員での単独公演をしたいとねばりにねばって、やっと七月、八月は観音劇場に出演OKの話をとりつけた。それにもかかわらず脱落者が文芸部から出てきた。続いて梅園竜子らの踊り子が半数、次に堀井英一、間野玉三郎たちまでもが出演料をアップすると言う経営者の切り崩しにあい、観音劇場へ行く話はなしにして、水族館で続けようと言いだした。エノケンは、はしごをはずされた形に追いこまれてしまった。
木内興行部とは、二ヵ月間出演の話を決めてしまったのだから後へは引けない。中村是好らに頭をさげて観音劇場に一緒に出演してくれと頼むより仕方がなくなった。
観音劇場は水族館二階の余興場と違って、国際通りにある一流劇場であった。水族館は客席が百二十ほどだが、観音劇場はその三倍以上もの二階席まである当時の大劇場であるから、浅草興行街の連中は木内興行部が先物買いをはじめたと見た。
劇団の名前は新カジノ・フォーリー=Bカジノに不満で飛び出した連中が、新≠フ字をのせて同じ浅草で堂々と旗挙げ公演をするという事は、今ではとても考えられないことだが、水族館からも文句が出なかったというのも面白い話である。
文芸部長はサトウ・ハチロー。ところがこれは名ばかりで、ハチロー門下の井上康文、山下三郎、武岡葉にまかせきり、出演者も半分は水族館に残ったのだから、女優陣には竹久千恵子、若葉蘭子を補充し、二村定一をくどくやら、オペラ時代の仲間|藤原釜足《ふじわらかまたり》を誘うやらと、エノケンはひとりで汗をかいたのだが、しかし、観音劇場の大舞台の寸法には合わず、人気がもりあがらなかった。
佐藤文雄との出会い[#「佐藤文雄との出会い」はゴシック体]
エノケンは体があくと近くの白十字へコーヒーを飲みに行った。そこで「カジノを見る会」というファンクラブのメンバーだった佐藤文雄によく出会った。
はじめは互に目礼。二度目は「やァまた会いましたね」。三度目は百年の知己の如くに仲良しになった。佐藤文雄との出会いはこうしてはじまり、エノケンの相談相手になって毎日観音劇場のエノケンの楽屋へ現れるようになったので、周囲からはマネージャーと思われるようになってしまったほどである。
この頃からエノケンは付き合いで酒を飲むようになった。文芸部長のサトウ・ハチローはこの頃すでに酒豪といわれていたのだから、サトウ・ハチローとつき合ううちに、エノケンも酒を口にするようになったわけだ。酒の席のエノケンは相手を楽しませる不思議な術をもっていた。いまもエノケンの法要には欠かさず顔をみせる岡村吾一は、酒を飲まない人だが、この頃からエノケンを待合へ呼び出しては楽しんでいたらしい。
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[#小見出し]第二章 劇団ピエル・ブリアント結成
名古屋へ地方巡業にいく[#「名古屋へ地方巡業にいく」はゴシック体]
戦後、NHKの連続ラジオドラマ「君の名は」で一躍名を馳せた菊田一夫が、エノケンの前に現れた。その時のことを菊田はこう書いている。
〈昭和五年の夏、サトウ・ハチロー先生の添書と一冊の脚本を携えて、観音劇場新カジノ・フォーリーの楽屋を訪れたのだった。あとで聞くと、添書には「この脚本が売れないと、この子は飯が食えなくなる」と書いてあったそうだが、エノケンさんは、黙って三十五円を私に下さった。そして「よかったら、うちの文芸部で働きませんかね」私は新カジノの文芸部員として参加することになった。稽古の集りに役者が揃わないと私は怒鳴った。するとエノケンさんは「こんど来た文芸部員は、威勢がいいじゃあねえか」と、ほめたそうである〉(「文芸春秋」昭和四十五年三月号)
今も昔も役者は、アソビを一番おそれる。殊に昔は、入った金は気前よく使い貯えなぞしないからみじめなこととなる。次なる収入は何時入るのか、そのあてなどまったくない。こういうとき劇団のリーダーはあわれなもので、みんなに平身低頭しなければならない。菊田一夫に渡した三十五円も、エノケンは自分の財布から出したりするから、エノケンの財布は、いつもすぐに空っぽになった。
菊田一夫は、このときの三十五円がよほどうれしかったとみえて、自伝『青春の告白』の中でも書きしるしているが、エノケンは脚本代の前払いのつもりで、気軽く渡したらしいので覚えていないと言っていた。この頃、榎本に財布を持たせるとすぐに空っぽにすると花島喜世子夫人はよく言っていた。
結局、中村是好、間野玉三郎、堀井英一たちも元の水族館には戻ることができず、新カジノ・フォーリーの看板を担いで名古屋から岐阜、伊勢へと地方巡業に出て行ったという。この話をエノケンは佐藤文雄から聞かされ、実はうらやましく思ったそうだが、水族館から一度脱退して行った人には、高額な出演料は払えないと言われたので、それなら地方巡業へ出ようということになったらしいとのことであった。
この当時の興行師は、こういった人の足元を見すかしたやり方を平気でしたらしい。中村是好たちは幸運にも地方巡業の話があったから生活を心配することが無く済んだのだが、仕事がなければ頭をさげて興行師の軍門にくだるしかないのだ。
しかし、観音劇場で、もうひとつパッとしないエノケン一党も幸運の女神から、まだ見放されていなかった。その時のことをエノケンの相談相手を買って出ていた佐藤文雄はこう話す。
〈僕の大学時代の友達と観音劇場の前でバッタリ出逢ったんだ、お互に今どうしていると話し合うと、やつは名古屋の新聞社に勤めているというし、僕はここにいると観音劇場を指さすと、その新聞社で購読者招待の催しに東京からおもしろいレビュー団を呼びたくて探しに来たと言うから観音劇場の客席へ入れて見せてやると、彼はこれはいいこれに決めたいというので、是非この話を進めてくれと頼まれたのだが、一ヵ月たっても彼からはウンでもスンでもない、やっぱり駄目かと思ってたら九月に入って電報がきて、名古屋へ来いという。
それで行ったら、新カジノ・フォーリーが名古屋の帝国館に来て出演しているというんだ。そんな馬鹿なといってみたら、結構客も入ってて中村是好や間野たちが出てたんだよ。それから新聞社の重役に会って、エノケンの出ていない新カジノは、新カジノじゃない、エノケンが出ればこれよりずっと面白いと説明するとわかってくれたのだが、興行ではなく、新聞社の愛読者招待会なのだから、文芸部長のサトウ・ハチロー先生の講演もお願いしたいと言うんだ。
その頃のサトウ・ハチローは詩人として名前が売れ出してきた頃だが、それよりも親父の少年少女小説作家の佐藤紅緑の方がずっと有名な時代だったし、名古屋の新聞社ではエノケンよりもサトウ・ハチローのほうがほしかったんだ。それで十月の話を決めたんだが、金の話になって、思いっきり吹っかけてみたら、変な顔をしたんで、高過ぎたかなと思ったら「サトウ・ハチロー先生の講演料も入ってですか」と言うから、もちろん込みですと言うと、それでOKだって言われて僕の方がたまげたよ。そりゃあ楽士やらなにやらいろいろ仕込費はかかるし役者の出演料も倍というのが当時は相場だったが、全部ひっくるめてだけれどエノモトが水族館でもらっていた三年分だもの〉
佐藤文雄は契約金の半分を前金として受取り、浅草田島町の豆腐屋の二階に間借り暮しをしていたエノケンに、この話をすると、夢みたいな話だとよろこんだ。早速文芸部員や、役者や楽士らを呼び集めて、金をそれぞれに渡し十月の名古屋行きの準備にとりかかった。このとき妻の花島喜世子は妊娠七ヵ月の身重であり、エノケンは一時は途方にくれたが、佐藤文雄のおかげで大よろこびで座員をつれて名古屋へ行った。
プペ・ダンサントに出演[#「プペ・ダンサントに出演」はゴシック体]
名古屋に行っていたエノケンは、当然、浅草のどの劇場にも出演していない。そのため浅草六区の観音劇場、オペラ館、金竜館を手中にして頭角を現してきた木内興行部も、とうとうエノケンを手放したのではと誰しもが思った。エノケン自身も観音劇場に出演してしくじったと反省していた。しかし、木内興行部はエノケンひとりならいつでもおいで、と言ってくれていたのだが、ひとりだけで出演することは拒み続けた。
そこへ、安来節ですっかり客足をつけた玉木座を、レビュー劇場に改築中の大森玉木興行主から新築開場のとき、是非エノケンをと新門の浅吉が、ひそかに頼まれていた。エノケンは木内興行主と手を切っていたから名古屋から帰ったら話をするつもりだったらしい。
ところが名古屋で出演した劇場で小屋主と顔を合わせて両方ともがびっくり。大震災直後コーラスボーイの頃に、東海道筋を西に巡演した一座に加わったのだが、どこも客は入らず遂に名古屋で一座は解散ということになり、エノケンはコーラス仲間と共に路頭に迷ったとき、ここの小屋主にすっかり世話になり、出世払いの約束で汽車賃から小遣い銭まで貸してもらったのだ。
小屋主から十一月に改めて出演してくれとたのまれると、エノケンは出世払いの恩返しに、その場でオーケーして東京へ帰ると、新門の浅吉が待ちかまえていて、十一月は玉木座のコケラ落しに是非出演してくれといわれたが、名古屋での事情を説明すると、そこはさすがに新門の浅吉で、エノケンは玉木座のコケラ落しに(十日間)出て、二の替りは休んで名古屋へ恩返しに行くということで全員異存なしと話をつけたそうだ。
この玉木座開場に集めた出演者は、浅草オペラにいた清水金太郎・静子夫妻、柳田貞一、二村定一、北村武夫(猛夫)、沢マセロ、柳文代、高井ルビー、木村時子らと、電気館で人気を博していた川崎豊、淡谷のり子、和田肇の声楽とピアノの楽団、日活の映画監督から転向した中山呑海(三木のり平夫人の父)を座長とする水町玲子、筑波正弥の奇々怪々一座、岡田嘉子一座から分れてシーク劇場を結成していた大友壮之介、白崎菊三郎、郷宏之、田川淳吉(斎藤豊吉)、外崎幹子(恵美子)、河村時子、若草節子、それにエノケンと一党の如月寛多、藤原釜足、森健二、土屋伍一、依田光らの、いうなれば五座合同のプペ・ダンサント(輝く珠玉)という混成劇団であった。
プペ・ダンサント第四回公演のときの表看板に、ボロ代表(珍人)榎本健一、イロ代表(粋人)二村定一、グロ代表(怪人)中山呑海、クロ代表(俗人)筑波正弥、エロ代表(麗人)水町玲子……という人を喰った連名を書き並べたから、道往く人々の足を止めさせた。当時の浅草興行街は劇場が軒を並べていたから、このくらいの奇抜なことでもしなければ、新しい劇場に客足をさそうことは出来なかったということだろう。
コケラ落しの初日は定員二百人の客席に三百人も入る超満員、楽屋もごった返して足の踏み場もなく、その頃、玉木座のプペ・ダンサント文芸部員になっていた菊田一夫などは楽屋に入りきれなくて、楽屋口の外にいた。
玉木座の舞台裏で起きていたこと[#「玉木座の舞台裏で起きていたこと」はゴシック体]
コケラ落しの十日間がすむと、エノケン一党だけは、名古屋へ行って、出世払いの借りを綺麗に返して玉木座に戻ってくると、清水金太郎らのオペラ組や、淡谷のり子たちの音楽組はいなくなっていて、柳田貞一、二村定一、それに岡田嘉子一座の残党と中山呑海組、沢モリノらが残っていた。コケラ落しには、役者を集められるだけ集め、並べられるだけ並べて客を集め、人気のない人を順に落してゆくという支配人佐々木千里の方針であったのだ。当時の状況を菊田一夫は「読売新聞」に連載した「芝居づくり」の中で、次のように書いている。長い引用になるが、話がおもしろいので、勘弁願いたい。
〈夜八時ごろ私が楽屋の廊下の隅にいると、
「サトウ先生がお呼びです。榎本先生のお部屋です」と、エノケンさんの書生が呼びにきた。エノケンさんの部屋へいくと、ハチロー親爺が紺ガスリの着物に袴姿で、ふとった腹をつき出してすわっていた。
「菊ちゃん、お前、次の本書いてみろよ」といった。ハチロー親爺は酒ばかり飲んでいたので、あすが検閲の納本日だというのに、まだなんにも書いていないのである。警視庁保安部検閲係の脚本提出の期日は初日十日前ということになっている。十二月二十一日からやるには、十一日までに提出検閲許可をうけないと幕は開かない。日本ではこの頃から軍人たちが威張り出し、言論統制、左翼弾圧がはじまるのだった。
「忠臣蔵をやるんだよ」
「コケラ落しのときやったじゃありませんか」
「あれがつまらないから、もう一度やるんだ。いまおれがしゃべってやるから、その通り書けばいい」
私がぽかんとしていると、ハチロー親爺はベラベラと一言二言ギャグをしゃべった。すると、化粧をしながらエノケンさんが、
「あす、上げ本しないと初日があかないんだよ。幕があきゃ私らがなんとかするから、とにかく本の形だけ作っとくれよ」
ハチロー親爺や、終演後やってきた柳田、榎本、二村氏たちは別室で芸者を呼んでワイワイ騒いで飲んでいる。私のそばには、浅草レビューの文芸部員としては先輩の山下三郎が謄写版の原紙とヤスリと鉄筆をもって、私の脚本の原稿を、かたっぱしからコピーしようと待っている。
私は書くよりほか仕方ないと、まず題名を考えた。そのアチャラカ忠臣蔵につけた題名は「阿呆擬士迷々伝」全十二景であった。
私はプラン用のノートにメモを書きつけた。一、浅野内匠頭は安全カミソリで切腹すること。一、城明け渡しの時は、城に貸し家札をはること。城に別れるとき家来たちは、その時の流行歌「若者よなぜ泣くか」を歌うこと。一、赤垣源蔵徳利の別れ、兄貴のメリヤスのシャツの下着に別れを告げているとノミが出てくること。一、上野介は役人はだれでもワイロをとるのだから、決して自分は悪くないと思っていること。一、勘平が死のうとすると、義理を立てて死ぬなんてアホらしいからよしなよといわせること。
七十三枚の処女脚本(これ以前にも数本書いたが、これらはすべてサトウ・ハチロー作)が書き上ったのは、翌朝の十時だった。そこへハチロー親爺が現れ、
「菊ちゃん、ついでにもう一本書いてくれよ」
ということになり、昭和五年十二月二十一日、玉木座のプペ・ダンサントの三の替りに、私のほんとうの処女脚本二作品「阿呆擬士迷々伝」とレビュー「メリー・クリスマス」がはじめて世の中にお目見えしたわけである。
この三の替り公演はコケラ落し以来最大の当りを見せ、玉木座プペ・ダンサントの浅草レビュー小屋としての基礎が定まった、といってよかった。
ところが、私はこの芝居のために警視庁に呼ばれて、始末書をとられた。
当時は忠君愛国精神全盛の時代であったから、忠臣蔵という日本のモラルの代表となるべき物語を茶化すとは何事か、お前の頭はバカじゃなかろうか、というのである。日本の公務員どもは喜劇というものを、低級扱いしていた時代なのである。でもこの脚本のおかげで、月給が五十円から八十円に上がり、脚本一本書くごとに三十円いただけることになった。大会社の課長級の月給が百円程度の時代だから、いきなり百四十円もらったとき、私はポーッとなった。
この時佐々木千里支配人にいわれた言葉を覚えている。
「あんた、芝居はきらいだそうだが、せっかくの素質なんだから、お金も上げてあげるから、詩なんか書くのはやめて、どしどし書きなさい。あんなアチャラカを書ける人は、ちょっといないぜ」
昭和六年の正月、私は泰西大活動写真「怪漢ジゴマ」をパロディ化し「矮漢《わいかん》ジゴマ」を書いた。エノケンさんのからだの小さいところから、アチャラカ探偵劇に仕立てた。この時、古川ロッパ氏の案内で小林一三先生(東宝の創立者)が二階の特等席で見ていた。後年、私が東宝の嘱託作者となったとき、小林一三先生が、
「僕は浅草で共同便所で立ち小便をする芝居を見たが、思い切ったことをやるものだねえ浅草というところは」そこで私が、
「おもしろかったでしょう」と申しあげると「そりゃあおかしいよ、お前。……探偵と泥棒が共同便所で小便をしながらバッタリ顔を見合せながら、双方が動けない状態のままで、御用、御用といっているんだから」と笑いながらいわれた。
玉木座の最大の当たりは「西遊記」だった。劇場は朝十時の開演だったが、九時ごろからお客が並びはじめ、伝法院の塀に沿い、浅草区役所の角あたりまでつながった。水族館のカジノも解散寸前の状態だったし、観音劇場も客が入らないというときに、玉木座だけは連日満員であった。連日満員といっても一回が二百人ぐらいだから三回で六百人は入ったろう。配役は、悟空(むろん榎本健一)八戒(柳田貞一)三蔵法師(二村定一)沙悟浄(藤原釜足)。
誰彼なしに有頂天だった。そのなかでフト私の耳に聞こえてきた言葉があった。
「エノケンさんが、西遊記の脚本は自分だといっている」
私は答えた。「こんどは本も演出も、何から何まで僕だよ」
いま考えれば、まるで子供の喧嘩である。だが、当時の私は面と向って怒れないので、蔭で蒼くなって腹を立てたものだった〉
エノケンと菊田一夫の喧嘩[#「エノケンと菊田一夫の喧嘩」はゴシック体]
四月に入っても相変らずお客は入る。向島の土手の桜も満開だから座員慰労の花見をしようと、朝十時開演を、その日一日だけ、午後一時開演に支配人が決めた。つまり午前中、向島へ桜を見に行こうというわけで、みんな向島に集った。桜の下へくれば花より団子、サトウ・ハチロー以下柳田貞一、二村定一と酒豪揃いだから冷や酒を飲みすぎ楽屋入りしてから酔いがまわってきた。
そのときの演目が、落語種の「長屋の花見」で、エノケンは舞台で本当に眠ってしまった。舞台の花見の紅白だんだら幕の後ろに忍び入って、菊田一夫は靴履きのままでエノケンの背中を蹴飛ばした。困った進行係が緞帳《どんちよう》をおろすやいなやエノケンと菊田一夫の喧嘩が始まった。掴《つか》み合《あ》い、とは言っても、柳田貞一がまんなかで留め男をつとめているので、小男のふたりの拳は互いに相手に届かず、柳田貞一の頭を殴るばかりであった。
この喧嘩をきっかけに、菊田一夫は玉木座をやめて木内興行部が経営している金竜館に、藤原釜足とサトウ・ロクローと踊り子十人引きつれて移った。木内興行部が菊田一夫を買ったわけだが、若き菊田一夫は、浅草興行界で、これをやれば必ずその一座はつぶれるというジンクスのある「真夏の夜の夢」で、玉木座を圧倒してやろうと挑戦したが客席はガラガラで、たった十日の公演でつぶれ、ジンクスには挑戦するものではないことを思い知らされたという。
当時、水族館のカジノに残った文芸部の島村竜三、水守三郎、山田寿夫らはサロン派≠ニ自称し、玉木座のプペ・ダンサントの文芸部員井上康文、山下三郎、菊田一夫らを街頭派≠ニ区別した。文学青年グループのサロン派≠ヘ作家の権威を守り、きびしい演出のもとに役者を駆動させようとし、役者中心主義で、脚本を二次的に扱う商業演劇を批判した。曾我廼家系は座長が脚本を書き演出し、主演する(曾我廼家五郎の作者名が一堺漁人。曾我廼家十吾の作者名が茂林寺文福。渋谷天外の作者名が館直志)。脚本は書かなくても、演出はたいてい座長がしたものだ。エノケンもカジノ以来、中村是好を通してこの影響を多分に受け、また、それが成功していたから、作者のいうがままには芝居をしない習慣があった。
舞台は役者の天下[#「舞台は役者の天下」はゴシック体]
後年、民間放送が始まり、数多くのラジオドラマが電波にのったとき古川ロッパが、「映画は監督。舞台は役者。ラジオは作家だ。ラジオは一言一句台本通りに喋らないと、録音機を止めて、やり直しをさせるからたまらねえよ」といっていた。長谷川一夫も、長谷川伸作品を上演しているとき、「きょうは長谷川伸先生が客席でみているから、演出通りにやらないと……」といった話を聞いたことがある。
舞台は、まさに役者の天下で、エノケン十八番といわれた「らくだの馬さん」にしても、最初に書いた大町竜夫の脚本は、回を重ねるごとにどんどん変わっていったが、特に喜劇というものは、笑いのツボに合わせなければならないから、しぜんに、そうなるのである。菊田一夫が腹をたてた「西遊記」も、こんなところに原因の芽があったと思う。菊田自身も「阿呆擬士」を書く前に、エノケンから「幕があきゃあ、あとは私らがなんとかするよ」といわれたと書いているから、当時エノケンの舞台は、まさに、これであったといえよう。
菊田一夫が自信作の「真夏の夜の夢」で挑戦して敗れたとき、畜生≠ニやっぱり≠ェ同居していたはずだ。三田純市も「曾我廼家の脚本は、読んで面白いものではない」(別冊「小説現代」)とはっきり書いているが、菊田一夫と、入れ違いにエノケンと知り合う菊谷栄の脚本も、読んではちっとも面白くない。エノケンという不出世の役者の持つ特異な感覚の演出と、ギャグがないと、喜劇にはならないということである。
菊谷栄は画家志望で青森から上京、上野の美校を受けて失敗し、日大芸術科に入学し、かたわら川端玉章の画塾に通っていた。当時の学生がたどる道、浅草へ、そしてエノケンに魅せられて佐藤文雄と知り合い、舞台美術係でこの社会に足をふみ入れ、脚本も書いたが、初期の頃は佐藤文雄の名前で上演しているので、菊谷作品と知っている人は少ない。
玉木座からオペラ館へ[#「玉木座からオペラ館へ」はゴシック体]
この頃この社会ではよくあった事なのだが、出演料を途中から値切りたいと思うとき、その役者を一時失業させる手を用いた。そのために策をめぐらすのが一流興行者の腕といわれ、玉木座の佐々木千里支配人(浅草オペラ出身で後にムーラン・ルージュの経営者)は、エノケンに「水族館は客の入りが悪いもんだから、二ヵ月月でいいからあんたに出演してもらえないだろうか聞いてみてくれって言われたんだが……」と言った。
事実、水族館の客足が落ちていることはエノケンも承知していた。それというのは文芸作品のレビュー化には限界があって、ドーッと客が笑えるものではない。芝居は理屈っぽくて見ていられない。
エノケンが出ていた頃はヴァラエティで客を呼べたのが、箸にも棒にもかからないヴァラエティじゃ、客が入らないのは当然だという評判も、役者仲間から耳に入っていた。「あんただって水族館へ出たおかげで浅草の人気男になったんじゃないか、その恩返しに二ヵ月ほど水族館へ出てやったらどうかい」こういわれるとエノケンという人はすぐに心を動かす人である。
佐々木支配人は水族館に行って、「エノケンは玉木座に不満があるからやめて、水族館に出たいと言ってるよ」とウソ情報を流してくる。水族館にしてみれば有難い話だが、いまの人気からすると、安い出演料では済むまいと考えてしまうと、佐々木支配人はすかさず「エノケンは金のことをとやかくいう男じゃないよ。まごまごしてると根岸興行部のとんびに油揚げだ、俺にまかしてくれ」と、こういう寸法である。
佐々木支配人はエノケンに「玉木座が承知してくれるなら水族館では来月からでも是非にと言ってるから出てあげなよ、男が上るよ。うちだって今あんたに抜けられるのは痛いよ、しかし同じ浅草でメシを喰ってる同業者に頼まれると、困ってる時は少しでも助けてやりたくなるのが人情ッてもんだろ……」エノケンは大分傾き出してきたので、佐藤文雄に中村是好は今浅草のどこの劇場にも出てないから水族館へ二ヵ月一緒に出ないかって聞いてみてくれと頼んだ。
中村是好はこの話を聞いて「水族館はもう駄目、以前のカジノとはすっかりかわって、文芸部の連中が先生|面《づら》してつまらないものばかりやってるところへ、二人が行ったって助けられるもんじゃない」と、剣もほろろだった。佐藤文雄がハトヤへコーヒーを飲みに入ると水族館の支配人内海行貴がちょうどいたので、エノケンをそんなに欲しがってるのか探りを入れてみたが、さっぱり反応なしなので世間話に切りかえたそうだが、そのうちに、佐々木支配人からエノケンを二ヵ月でいいから引き取ってくれないかとたのまれて困っているという話が出た。
つまり玉木座をうまく追い出して、水族館と話の折合いがつかずあそばせておいて、今度は安い出演料なら出演してもらってもいいと恩を着せるやり方なのである。佐藤文雄からこの話を聞いたエノケンは激怒した。
「そんなに俺が邪魔なら今月でもってやめてやらあ、木内興行のほうが去年の七月、八月と興行の悪い月とはいいながら、俺の無理を聞いてくれて損をかけたようだから、俺、玉木座やめて木内へ行くよ。玉木座には二度と出るもんか。佐々木千里の面《つら》を見るのもいやだ」
こうしてエノケン一党は、ちょうど遊んでいた中村是好と二村定一を誘って、条件のよくない木内興行部のオペラ館に移って、劇団ピエル・ブリアントを新しく作った。このピエル・ブリアントが、やがて松竹の手に移り、エノケン大一座の母体となることを誰か予測した人がいたろうか。
この佐々木千里の仕打ちに対してエノケンは、終生佐々木千里を許さず、ムーラン・ルージュにまで敵対した。反面、中村是好にはいつも寛大だった。おそらく中村是好の行動が、曾我廼家十吾のそれに似ていたのか。それは、気に入らないとプイと出て行き、何事もなかったようにケロッとしてまた戻ってくるが、それがごく自然だったというのである。
佐々木千里は程なく玉木座の支配人をやめ、解散したカジノの文芸部員や俳優たちを抱えて新しく新宿にムーラン・ルージュをつくり、経営者となる。
掛合いコミックソング[#「掛合いコミックソング」はゴシック体]
新劇団ピエル・ブリアント(輝く珠玉)の第一回公演の中で、水族館でやった中村是好作「ドンキー一座」を再演しているところを見ると、この芝居も評判の良い芝居だったらしい。
ピエル・ブリアントで目だつことは、文芸部が充実したことだ。波島貞は、根岸歌劇団にいた作家で「どんぐり頓兵衛」を書いた人である。主として演出を担当した。
そして和田五雄、大町竜夫らも加わってくる。三十過ぎた波島が最年長者で、和田も大町も二十代の青年で二人とも「カジノを見る会」の会員であった。それと作者として佐藤文雄の名が出てくるのだが、菊谷栄が佐藤文雄の名を借りていたのだから、ちとややこしい。私もこのことを佐藤文雄本人のほうに訊ねると、当時菊谷栄は、左翼のレッテルを貼られた秋田雨雀と同郷で仲がよかったから、同郷の左翼学生たちがよく資金カンパに彼の下宿にやってくるので、芝居の脚本を書いていることが知れると、ますます押しかけられそうだと心配するので、名前を貸してやったという。
その後、菊谷栄蔵(本名)は菊谷栄と堂々と名乗るのだが、本郷森川町の下宿はそのままにして、連日連夜玉の井の遊里で脚本を書いていたというのも、左翼と手をきりきれず、左翼学生から逃れる手段であったらしい。文学青年時代の太宰治も原稿を見てもらいに始終菊谷の下宿を訪れ文学論をたたかわしていたようだ。当時の官憲は菊谷をシンパ以上とみていたという話も聞いた。
それから、ショーが目につく。下関の芸者屋の息子として生まれ「君恋し」「アラビヤの歌」など、レコードが売れに売れている二村定一は、のっぺり型でスマートな歌い方、それに対して愛敬のあるエノケン独得のしゃべるような歌い方の掛合いコミックソングは、玉木座以来、ピエル・ブリアントでも名物の一つであった。
そして、奇抜さでうけたのが、宮尾しげをの漫画を舞台化した「団子串助漫遊記」であった。串助の諸国漫遊であるから、舞台の場面はどんどんかえなければならないが、今の大劇場と違って大仕掛の舞台転換などはできないから、主役の串助は幕がおりるまで出ずっぱりで居どころ替りという、背景をどんどんかえてゆくアイディアを思いついた。
つまり舞台の背景を下手《しもて》から上手《かみて》へと移動させる間、串助は下手を向いて足踏みしている。といっても舞台の大きな背景を上手に動かすことは不可能だから、薄板に絵を描いて切り抜いた(通称、切出し≠ニ呼んでいる)松並木だとか、遠見の山、茶店、お城も石垣も橋も、串助の芝居に合わせて手の空いた座員たちが、下手から持って出て、上手へと入ってゆく。だから主役の串助は幕が降りるまで舞台に出ずっぱりだが、ほかの座員たちは一人数役をこなすほかに、切出しを持って出なければならないから楽屋へ戻って着替える時間もない。
みんな舞台の脇で、飛脚から侍になったり、雲助になったり、娘から茶店の婆さんになったりするうち、かつらを間違えたりしても、当人は夢中でやっているから気がつかないが、お客はドッと笑う。主役の早がわりというのはよくあるが、主役以外の全員が早がわりという目の廻るいそがしさだったという。
ある日、串助役のエノケンが舞台で尿意を催し、幕がおりるまで到底我慢しきれないと感じたので、突如芝居の最中に両手をあげて、「ここでストップ。そのまま動かない」と叫んで楽屋へとびこみ、用をたしてから芝居を再開すると、客はまさかトイレへ行ってきたとは気づかず、そういう芝居と思って見ていたという。
エノケンの叔父に経営を委ねる[#「エノケンの叔父に経営を委ねる」はゴシック体]
ピエル・ブリアントがオペラ館に腰を据えて公演するようになると、その人気はうなぎのぼりに上昇し、浅草六区の興行街で、ターキー(水の江滝子)の松竹少女歌劇団と人気を二分するところまで追いあげてきた。木内興行部もエノケンらをつかまえておくには、出演料しかないことを百も承知だから、要求される前に先手を打って一ヵ月三千円に値上げしてきたという。
さてその三千円を誰が座員たちに分配するかとなったとき、全員がエノケンに配分を一任するといい出した。エノケンは金勘定などできる男ではない。朝、財布に入っていた金はその日に空っぽになる。いくら入っているかも確めなければ、何に使ったかも覚えていないという人だ。それにエノケンはピエル・ブリアント一の人気スターではあるが座長ではない。二村定一、中村是好という先輩たちもいるので、佐藤文雄はエノケンの叔父榎本幸吉に劇団の運営をまかせるのが一番だと進言、エノケンもその気になって当時米屋を営んでいた叔父をくどき落した。
後年、榎本幸吉は私に、
「いくらたった一人の甥のたのみとはいえ、米屋をたたんでまで面倒をみるべきかと、随分考えたよ。なにしろ芝居のシの字も知らないんだから。それで条件を出したんだ。米屋だろうと劇団だろうと経営となると、まずソロバンだから、たとえ座長であろうと経営上のことには、一切口を入れないこと。というと、ハイわかりました、で叔父さんに月給をいくら払えばいいですかっていうから怒鳴りつけてやったよ。私が経営者になるんだから、私の月給は私がきめる。お前が私の月給をきめるとは何事だ。そんならこの話はやめだ。といったら、わかりました。というんだけど、ちっともわかっちゃいやしないんだよ。このことで、それから何回どころか、何十回も私に相談なしで勝手な事をするからゴタついてさ、随分いやな思いをさせられたよ」
と洩《も》らした。
余分なことかもしれぬが、この時なぜピエル・ブリアントが経営者を必要としたかについて記しておこう。
当時の芝居は、金勘定も役者もできる座長ならば、劇団経営は自分がやったが、いまのような貸しホールはまったくなく、当時は小屋主が興行主であったから、劇団に対する支払い(座払い、という)を一日いくらと決めて劇団を買う、というシステムであった。
だから客が沢山入れば小屋主はもうかる。その反対に客が入らなければ小屋主は損をすることになるから、人気のある劇団をつかまえることが、興行主の腕であった。三十日の出演契約をすると、十五日分(半金)が前払い。あと十五日分は終ってから支払われるのが通常で、小屋主から受けとる一月分の中には、出演料はむろんのこと、上演する芝居の脚本料、演出料、衣裳、かつら、小道具、伴奏の楽士からお囃子連中、そのほかもろもろ一切で、含まれないものは大道具費だけだから、この支払いはたいへんなのである。
一回に狂言四本、それを十日がわりとなると、十二本の芝居に、小屋主から払われる金を配分しなければならない。佐藤文雄は手配の係(芝居用語で裏≠ニいう)、榎本幸吉は仕切りの係(表≠ニいった)、裏と表の仕事を表裏一体になって見事に運営してきたがゆえに、浅草におけるエノケン、そしてピエル・ブリアントが黄金の華を咲かせることができたのである。いくら人気があろうと、赤字が重なれば劇団とて倒産する。
この頃よく聞く話に、赤字が出たら、その赤字をうめるには役者をへらすのが一番という話があるくらいで、いてもいなくてもいいような役者はすぐに首がとんだそうだ。だから役者も努力をおこたってはいられないから自然と腕をみがくようになる。乞食と役者は三日やるとやめられない、などという言葉もあるが、役者稼業は、そんな甘いものではなかった。
笑いをとる努力と執念[#「笑いをとる努力と執念」はゴシック体]
昭和六年にはじまった満洲事変の火は次第にひろがり出した。世の中の景気は上向くどころか、東北地方は凶作が続き娘を売る農家が数多くでたというし、都会でも就職難で大学は出たけれど≠ェ流行語になったご時世の中で、エノケンの人気だけが上昇気流に乗ったというのは、この頃は抑圧されだした時代であったからである。不景気、低賃金、為政者に対する不信の反発が、エノケンに笑いを要求し劇場に押しかけたのだ。外国でも喜劇というものの歴史的発生がそれである。
いい芝居をやれば客が入るのは現在のような平和な時代に通用する言葉で、多くの観客が笑える芝居を求めていた時代に、日本に新劇運動が起ったというのは自ら苦難の道を求めてしまったわけだ。
しかし、当時のエノケンも、ピエル・ブリアントの文芸部員にも、いまは笑いを求めているという時代認識を持っていたとは思えないのだが、ただ、エノケンだけは、客の目的が笑いであることを、舞台へ出ていたから体でわかったのであろう。舞台に反応した客の笑顔の数を、より多く求める努力をしたという。この笑いに対する執念を終生持ち続けた努力は、並のものではなかった。
男女混成のレビュー登場[#「男女混成のレビュー登場」はゴシック体]
昭和四年に誕生したカジノ・フォーリーに刺激された東京は、年ごとにレビューが盛んになり、昭和六、七年にかけて映画館はむろんのこと、小劇場に至るまで、五、六人のレビュー団を出さないと、客の入りにひびくというほど流行した。
二村定一の電気館レビューをはじめ、河辺キミオを中心とした東京少女歌劇、高田雅夫舞踊団、川上貞奴の舞踊団、日活映画チェーンを巡演する日活レビュー等、これらに共通するのは、どこも浅草オペラの出身者たちであったことだ。映画がトーキーとなり弁士と共に失業した楽士達は、これでいくらかすくわれたのである。
そして、ここから素晴しいジャズメンたちも生まれだしたのであるが、上海帰りという箔だけのジャズメンもいた。特にエノケンは物すごくレビューに情熱を注いでいる。外国航路の商船の楽士から直接買い取っていた海外の新しい曲のスコアを、らくに演奏できるミュージシャンを集めたバンドを手中にしたのと、レビュー作家として燃えていた菊谷栄が重なったからだ。
しかし、日本におけるレビューの歴史は昭和二年九月、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団の前身)の「モン・パリ」(岸田辰弥作)がレビューと名乗ったのに始まる。その後、新進気鋭の作者白井鉄造の「パリゼット」「セニョリータ」そして「サルタンバンク」の東京公演を観た大町竜夫と菊谷栄は、佐藤文雄に、是非これを男女混成レビューにしてピエル・ブリアントで上演したいと申し出た。佐藤文雄は二村定一を誘って見にゆくと、二村定一もすっかり乗って帰りには主題歌を口ずさむ程だった。
佐藤文雄は早速白井鉄造を訪ねて、上演許可をお願いすると、台本と楽譜は貸せないが真似することは承諾しますと言われたので、公演中に二回菊谷栄と二村定一と音楽部の栗原重一らを見に行かせ、音楽をすっかり採譜してしまい、菊谷は場割からストーリー、衣裳デザインに至るまで必要なところをメモして、男女混成レビュー「サルタンバンクの娘」に仕立て直したそうだ。
現在ではとても考えられないようなことだが、当時はこういう乱暴なことがまかり通っていた時代であった。
昭和七年の四月、浅草オペラ館で宝塚の女性だけのレビューに対抗し、ピエル・ブリアントでは男女混成のレビューにして上演すると、大人気、大評判をとり、菊谷栄のレビューに対する情熱はますます燃え上るのである。
エノケン!!≠ニ客席から声がかかるようになったのは、この頃からだったという。それまではケンちゃん≠ニかケン坊≠セったかけ声が、新しくエノケン≠ニいうニックネームをお客がつけだした。しかし、このニックネームを当人は終生すきになれなかったので、舞台以外で面と向っていわれると、いやな顔をした。
だが彼は浅草という土地と、そこの住人たちを愛し大切にした。小さな店でも開店を知ると開店祝の花環を届けた。招かれてご馳走になったり、勘定はいらないよ、などいわれると、舞台の上で「××屋の××は安くてうまいよ。いっぺんいってみな」と、たくみなアドリブで客席を笑わせながら、その店の宣伝をしてお返しをしたという。
この評判はたちまち地元にひろまり、浅草っ子のエノケンびいきに拍車をかけた。後年私は浅草伝法院でのエノケン忌の折に、浅草の古老数人から同じような話を聞かされた。
浅草六区の劇場は、どこもパッとしないというのに、オペラ館だけ客足がよかった。といっても一日八百人程である。ところが値上げはしてくれたが、劇団に対する支払いがおくれだしたから、座員から不満が出はじめた。
「乞食芝居」の牧師という役[#「「乞食芝居」の牧師という役」はゴシック体]
そんな頃、オペラ時代の親友丸山定夫からブレヒトの三文オペラ≠東京演劇集団(略称TES)の旗挙げ公演として、新宿歌舞伎座(後の新宿第一劇場)でやるから、是非エノケンと二村定一にも参加してくれないかと頼まれた。三文オペラ≠フパロディは、かつて玉木座でやって評判をとった経験もあり、二村定一が非常に乗り気なのでエノケンは半ば引きずられて承知した。
「五日間も新宿へ出たらばオペラ館はどうするんだ。エノケンの出ないピエル・ブリアントは休演だよ。休演したら全員の出演料五日分はフイになるんだよ。経営者に相談なしで決めるとは何事だ」と早速叔父の幸吉に叱られた。
丸山定夫には大震災の直後、雪の北海道のオペラ巡業のとき援助してくれた彼の友情などを思うと、エノケンは断ることもできず、オペラ館とかけもちで出演することにした。
この東京演劇集団というのは、昭和六年秋に、ドイツから華々しく帰朝した千田是也が、それまでの日本の一切の演劇組織に見向きもせず、実兄の伊藤道郎、伊藤熹朔と高田保、土方与志、杉野橘太郎を発起人にして創立した集団で、劇団ではなかった。プロデューサー制という当時としては斬新な計画を掲げた。千田是也は自著の『もうひとつの新劇史』にこう書いている。
〈第一回公演は私の提案で、ベルトルト・ブレヒトの「三文オペラ」をやることになった。この芝居はベルリンのシッフバウアーダム劇場での大成功につづいて、モスクワのカメルヌイ劇場、ミラノのテアトロ・フィロドラマティコ、パリのモンパルナス座などで上演されて世界的名声を博していただけでなく、パプストの映画「三文オペラ」によって日本でも一般に知られていたからである。
クルト・ワイルの楽譜は日本でもすぐ手に入ったが、脚本は向うでもまだ出版されていなかったし、上演用台本をとりよせるひまがなかった。それで、ブレヒトが下敷にしたジョン・ゲイの「乞食オペラ」を、日本の俗謡や大道芸などを取り入れてブレヒト流に脚色しようという大望をおこし、これには高田保も大乗り気だった。
だが、手をつけてみるとこれは大変な大仕事で、なかなか筆がすすまず、おまけに音楽やソングの扱い方について、高田保とのあいだに喰い違いが生じたりもして、三月末の公演までにはとても間にあいそうもなくなってきた。そこで、ベルリンで見た初演の印象や、パプストの映画「三文オペラ」のシナリオを参考にしながら、話を明治初期の東京に移し、クルト・ワイルの音楽をできるだけとりいれ、各方面からの参加者の見せ場も考慮にいれて、ともかくも台本らしきものをでっちあげた。しかしブレヒトの原作どおり「三文オペラ」とするのはおこがましいし、オペラそのものが日本ではパロディの対象になるほどひろまってもいないので、TES文芸部自由脚色「乞食芝居」というタイトルで上演することになった。
実際、この公演には、期待以上の参加希望者が集まった。
榎本健一、二村定一、南部邦彦、月形竜之介、などが参加してくれた〉
千田是也が書いている通り、台本の上りがおくれエノケンが台本を受け取ったのは舞台稽古の朝で、
「新劇らしくないのに驚いたよ、みっちり稽古をやるものと思っていたから。それよりもびっくりしたのは、初日の幕が開いてさ、舞台でしめ吉の千田是也が長い仕込杖で俺のケツを本気になって突ッつくんだよ、いくら小道具だって痛いよ、ドイツでどんな勉強してきたか知らないが芝居だからねえ、チョイとやってくれりゃ、こっちが痛いッてウケてやるものを、二日目になっても三日目になっても本気で突ッつくから、怪我するじゃねえか、形だけにしてくれッて言ってやったよ。あのクソ・リアリズムには参った」
エノケンは回想して、私にこんな話を聞かせてくれた。
この芝居で、たったの一場面しか出ない牧師を演じたエノケンをみて松竹の大谷竹次郎社長は、エノケンをスカウトする決心をしたというが、新劇人の中で異彩を放っていたのであろう。舞台演出に才能あるエノケンの端役はすばらしく、面白い。しかし、それが滅多に見られない。
後年有楽座で、若い座員の警察官役をエノケンが突如代って舞台へ出たことがある。船着場の待合室を巡回するだけの警察官なのであるが、びっくりしたのはその場に出ていた座員達。いつもの警察官はただ巡回するだけなのに、君、名前は、どこからきたの……どこへ行くの……なにしに……と突如訊問されたから、された役者はただへどもど、座長エノケンのアドリブに翻弄されているうち客席に爆笑が起った。私は偶然これを見たのだが、牧師キンバルも、きっとすばらしかったのだろう。
この「乞食芝居」の評判はというと、実のない顔見世に終ったようだ。というのは、高田保の翻案台本に対して、ドイツでの生活感覚が身にしみた千田是也は得心しがたいものがあったためか、原形をとどめぬくらいに千田が改訂しだしたので、稽古日数はなくなる、千田と高田保の媒介的役割をしていた演出の土方与志《ひじかたよし》は苦悶しだす。プロンプターにたよる主役のしめ吉を演ずる千田、音楽的オンチによる新劇俳優総くずれなど、五年間日本を離れていた千田是也の無理からぬ計算ちがいなど、当時の事情をよく知る浮田左武郎は『プロレタリア演劇の青春像』(未来社刊)にくわしく書いている。
松竹の大谷竹次郎社長の意を受けた蒲生重役が、密かに榎本幸吉を通じて松竹入りを打診してきた。松竹は、ピエル・ブリアントはそのままオペラ館に残して、エノケンひとりと専属契約を結び、エノケン一座を新しく作る計画であったという。仲間と別れてひとり松竹入りするということは、エノケンとしてはできることではないので、榎本幸吉は劇団まるごとの折衝を重ねたが、大谷竹次郎社長は頑として受けつけなかったそうだ。
後年久保田万太郎が六十六歳を迎えた年、既に七十七歳の大谷竹次郎を「この老社長は仕事に対する熱意は五分のスキもない。……そのスキのなさに、いのちのゆゆしきもり上りが感じられる」と、「朝日新聞」に書いていたが、当時五十五歳の大谷竹次郎にはおそらく一分のスキもなかったであろう。
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[#小見出し]第三章 浅草六区に咲くエノケン・レビュー
座長エノケンの誕生[#「座長エノケンの誕生」はゴシック体]
浅草六区一帯の興行街に三十三軒もの小屋が建ち並んでいたなど、今では想像もつかないことだ。六区通り(現在はロックブロードウェイと名が変っている)をはさんで軒並み映画館、劇場だったのだから驚きだ。この六区通りが一日のうち一番賑わいを増すのは夕方で、それはビキ(割引き料金)を目当てに客が集まるからだ。
昭和七年頃、映画の封切館の入場料が五十銭、二週おくれのセカンド館は三十銭、映画はたいてい二本立てで夜七時過ぎるとビキを知らせるベルが鳴りだし、半額になるからビキを待つ客が並びだす。その週のお目当て映画は、どこも最後に上映したから、ビキで入ると一本半は見ることができたので、ビキに並ぶ者は映画|通《つう》とされた。
昭和十年頃になると、セカンド館の日本館の筋向いが金竜館、その隣りの常盤座に古川ロッパ、生駒雷遊、徳川夢声、大辻司郎、三益愛子、清川虹子ら「笑いの王国」が出演していた。
そして今では埋め立てられて無くなったひょうたん池までに、北に向かって東京倶楽部、電気館、千代田館、そして「レビュー道場、日本一の田谷力三」と大看板を掲げたオペラ館が軒を並べて建っていた。
これらの劇場、映画館を六区通りの右側とすると、向い合った左側には北上して、大東京、松竹館、帝国館、富士館、三友館があり、大勝館、万世座、花月劇場、遊楽館、大都劇場、江川劇場があった。
万世座は吉本興業系で、漫才を中心にした吉本ショー、のんき節の石田一松や、「グラン・テッカール」(伴淳三郎・益田喜頓ら)「喜劇大笑会」(鶴屋団福郎・曾我廼家一二三ら)が出演していたが、隣りの東京館を吉本興業が買収して浅草花月劇場を開場し、あきれたボーイズ(坊屋三郎・川田義雄・益田喜頓・芝利英)、ミス・ワカナ、一郎、柳家三亀松、「ピッコロ座」と盛り沢山で客を呼んでいた。
道をへだてた昭和座には、梅沢昇、金井修らの剣劇団が常時出演していて、昭和十二年に松竹少女歌劇の牙城が出来て国際劇場(現・ビューホテル)と呼ばれるようになったのだが、今の昭和通りには松竹座、帝京座、観音劇場、橘館があり、これらの一団と少しはなれた新仲見世通りに公園劇場、ひょうたん池の脇のほうに玉木座、金車亭、江戸館、そして浅草寺に近い伝法院裏に木馬館と水族館がポツンとあった。
いまある、浅草演芸ホールとフランス座は、当時の三友館の跡である。歌舞伎、新派、新国劇、剣劇、女剣劇、レビュー、喜劇、色物小屋、寄席に至るまでがひしめき合い、裏通りには射的屋(ゲームセンター)が並んでいたというから壮観である。
電気館と千代田館は、現在は洒落た時計塔のついたASAKUSA・DENKIKANという建物にかわっていて、ひょうたん池が埋め立てられた時、三角型のオペラ館も姿を消したが、交番だけは今も健在である。このひょうたん池の跡に、ゲームセンターと映画館と立派な場外馬券売場の建物が並んでいる。そして花やしきは姿を一新して、いまもある。
昭和七年七月八日、エノケンは、劇団ピエル・ブリアントともども、当時浅草一の大劇場である浅草松竹座で、松竹専属はエノケンだけという第一回公演の幕をあけた。エノケン二十七歳のときである。
このときの新聞広告を見る限りでは、全員を松竹専属にしたように受けとれるが、二の替りの新聞広告では、ピエル・ブリアントは、P・Bに省略されている。つまり専属でもない一ヵ月ずつの契約劇団と、松竹専属のエノケンがいっしょに松竹座へ出ているという変型なのである。松竹の気持のわかる広告だ。その後いつの間にか看板は榎本健一一座になるのだが、いつからなったかはっきりしない。楽屋は座長部屋に、二村定一と二人で入り、その後二村が抜けるとエノケンひとりとなり、完全に座長であることを座員に示すことになるのだ。
最近の楽屋のしきたりは知らないが、以前は各劇場ともに、座長部屋というものが決まっていた。次に幹部俳優の部屋がいくつかあり、大部屋があって、出演者のキャリアによって、画然と差別されていた。だから楽屋割をみて、こんな扱いをされるのでは出演しないと、怒り出す俳優はいくらもいて、裏の担当者(頭取さん)をなやませたものである。
エノケンとて例外ではなく、カジノ・フォーリー以来、仲間から誤解され、裏切られ、そむかれ続きで座長として孤独の道を歩むことになるのだが、座長としてのエノケンの月給はこのとき、なんと三千五百円。エノケンは、
「松竹の重役が、条件の許すかぎりご相談にのりましょうッて指を四本出した。僕は今までより五百円位あげてもらいたいと思っていた矢先だったから、チェッ、百円値切りやがったかと思って、ちょいと渋い顔をしていると、そこから五百円引いてください。それで如何でしょう――おいおいまてよ、五百円引いてくださいというからは、四本指は四千円で、三千五百円でどうかということがやっとのみこめた」
といっていたが、この一年前に菊田一夫はいきなり百四十円もらったとき、私はポーッとなった≠ニ当人自ら書いているくらいだし、オペラ館で木内興行部が値上げしてくれたとはいえ、座員まるごとが一ヵ月三千円であったから、エノケンは自分ひとりで三千五百円と知ったとき、びっくり以上であったことは想像がつく。
慶応の学生だった池田弥三郎(元・慶大教授)は当時のエノケンの舞台の印象を次のように書いている。
〈わたし達学生はたいくつな授業をサボッては円タクをとばして浅草へ行く。金色夜叉、リリオム、守銭奴、ハムレット、法界坊等々、今でも鮮明にその舞台姿と、歌とを思い出す。武智豊子がハムレットの母后を演じて、ハムレットがまた悲しみの曲をかなでている。
というとエノケンのハムレットが、フルートで、ルネ・クレールの「自由を我等に」の主題歌を吹きながらでてきたり、貫一がお宮を蹴とばすと、ゴム長がお宮の手にのこってしまって、憤然とひきあげた貫一がまたでてきて、ベソをかきながら、ゴム長靴を返せと、とり返したり、リリオムの「アントン、アントン、この度胸」の歌を仲間で歌ったり、「愚弟賢兄」(原作佐々木邦)で、登場人物では娘の花島喜世子が、父親役のエノケンに、うっかり「あなた」と言ってしまって(エノケンと花島は夫婦であるから)舞台も客席も大爆笑。
松竹座の二階正面の第一列に、二代目市川左団次が妻君づれでよく来ていた。この名優がエノケンのファンであることを、叔父の池田大伍(劇作家)から聞いて、若いファンであった私も誇りに思ったりした〉(「エノケンを偲ぶ」)
ここに描かれているのは、いわゆる暗転芝居である。以前はレビューでも場面転換のときは暗転幕をおろしたり割緞帳をしめたりして、いったん休みに入る。その間、音楽でつないだりしていたそうだ。
ところが水族館のカジノ以来、必ず笑いをとって舞台をまっくらにし割緞帳をサッと閉めるが、その前では次の景の芝居に移り、どんどん舞台を進行させたから、初めての観客はこの暗転につぐ暗転のそのスピーディな進行に驚嘆し、エノケンのこの演出は成功した。
だが、笑いを必ずとって暗転にする芸当は、誰にでもできることではない。レビューは洒落ていて芝居も奇抜でテンポが早く、観客をあきさせないで面白く展開するのが、エノケン喜劇であった。
浅草時代の一と幕物は三十分、どんなに景数が多い芝居でも、一時間二十分まで、休憩時間は五分から十分まで。終演時間は夜の八時四十五分が限度。四本立てだとエノケンは二本にしか出ない。一日三回公演だから労働過重になるし、若い座員も育たないと、エノケンはよく口にしていた。
丸山定夫とエノケン[#「丸山定夫とエノケン」はゴシック体]
エノケンを「三文オペラ・乞食芝居」に誘い出した丸山定夫が、常盤座に出演していたエノケンの楽屋へ悄然と現れ、女房の細川ちか子の病院代を稼がなければならず困っていると話すと、エノケンは早速明日から常盤座へ出演しろとすすめた。
エノケンは如月寛多を呼んで、明日から「金色夜叉」の荒尾譲介の役を丸山定夫にやらせるから台本を渡して、段取りをよく教えておくようにいいつけた。丸山定夫も驚いたが、如月寛多も驚いた。
怒ったのは叔父の幸吉である。「勝手なことはしない、必ず相談すると約束しておきながら、ひと言の相談なしで出演させるなんて、出演料は払わないよ。いいね」。エノケンはしまった、と思ったがもうおそい。「いいです。丸山定夫の出演は僕が勝手にきめたのですから僕が払います。しかし、二の替りからは、ちゃんと払ってやってください」。二の替りの「助六」も配役は決まり、既に稽古をはじめていたが、柳田貞一がやることになっていた髭の意休を丸山にかえてしまった。
この芝居を見た徳川夢声によると、荒尾と意休をやった役者は、柳田貞一でも如月寛多でもないことはわかったが、よもや丸山定夫とは判らなかったと後に書いていたが、このとき丸山定夫は福田良介と名をかえて出演した。そして常盤座の舞台に立ったときの感想を、丸山定夫は「東京朝日新聞」(昭和八年五月十七日)に寄せている。
〈さてそれにつけても舞台の上からつくづく僕は思う。よくもこんなに客が入ったものだと……何故こんなに入るのだろう。どんな客が入っているのだろう。それを検討してみる時、自ら興味ある対照がある。まず第一には勿論脚本……というより芝居のそのものの内容的形式的差異、インテリには逃避的自嘲的笑いであり、未組織労働者には、全然責任の残らない無批判的笑い方であるところの「朗らかさ」である。が見逃してはならぬのは役者の観衆に対する魅力の差である。ここで演劇論をすることは避けるが、興行成績に対する憂慮の上からいって、我々日本プロレタリア劇場同盟側の者、殊に新築地左翼の役者にとって、充分再吟味すべき問題であると思う〉
オペラから新劇に移り、新劇の団十郎と呼ばれた丸山定夫は貴重な体験をしたわけである。
丸山定夫は一年近くエノケンの厄介になっていたが、オペラ仲間の藤原釜足の紹介で彼も映画俳優に転向して行った。ちょうど丸山がピエル・ブリアントにいた頃、青年部に水島道太郎もいた。水島道太郎は丸山よりおくれて大都映画に移り、ニヒルな役でメキメキと売れだし、主演作「丹下左膳」で大都映画のスターの座についた。彼は銀幕から引退後、浅草を故郷のようになつかしむのは、若き日を浅草で過したからであろう。
その丸山定夫なのだが、どんな人でしたかと私がエノケンに訊ねたことがある。
「陰気というか、孤独というか……金竜館のオペラにいた頃から、これという友だちはいなかったね。大須賀八郎というテナーの部屋弟子だったが金竜館時代は口をきいたこともなかった。震災で金竜館が焼けて、二月(大正十四年)に北海道へ巡業に行ったときだよ、丸山と口をきくようになったのは、というのはネ、誰も丸山とは付き合わないんだよ、丸山が側にくると陰気になるッて寄せつけないんだ、汽車へ乗っても、宿屋へ泊っても、むろん楽屋でもサ。一人ボッチにして可哀想じゃないかッてんで、オレが付き合ってやると結構ウマが合ったんだヨ。あいつはジックリ型、オレはせっかちなんだが……」
丸山定夫は明治三十八年生まれだからエノケンよりも一つ下である。生まれは四国の愛媛、浅草オペラに入る以前は広島の旅廻りの一座に入った。そして十七歳ぐらいのとき上京して、浅草オペラに入り、コーラス部員なのだが、芝居のほうに多く出ていたということであった。
「クサイ芝居をするんだよ丸山はネ。そのたんびに、なんてクサイ芝居をするんだよ、もっと普通にできないのかッて言ってやると、そうかなあッて考えこんでしまって口をきかなくなるんだ。
そう、北海道の巡業が終って東京へ帰ってから丸山に会った時にネ、築地で役者を募集しているのだが、行ったほうがいいだろうかッて相談されてサ、おまえみたいなクサイ芝居をするやつは新劇のほうがむいているぞッて言ったら、よし、俺は新劇に行くことにきめた。ッて築地へ行っちゃったんだよ」
と、エノケンは語った。
その後、丸山定夫は昭和十七年十二月、八田尚之、徳川夢声、藤原釜足、高山徳右衛門(薄田研二《すすきだけんじ》)らと苦楽座を結成し演劇活動をはじめ、十九年の暮に移動演劇団桜隊を編成して隊長になったのも、戦時体制下で追いつめられていながらも演劇人としてじっとしていられなかったからであろう。
昭和二十年八月六日丸山定夫は芸能生活をはじめた広島の地で原子爆弾に被爆し、八月十日同じ広島の地で苦悶のうちに四十年の生涯を終えた。
松竹と木内興行部との争い[#「松竹と木内興行部との争い」はゴシック体]
昭和八年常盤座での公演は、正月七草過ぎても盛況を続けていた。叔父の幸吉はエノケンに新聞を突きつけた。
「松竹はカンカンになって怒ってるよ」
見ると、木内興行部と契約をしたエノケンは二月、新橋演舞場に出演すると書いてある。
「実はこの間、木内さんにご馳走になり、頼むから出てくれといわれたんで、松竹と相談してみますッて、いっただけなのに……」
「そんなことがあったという話は聞いていないよ。木内にご馳走になるのは勝手だが、松竹の専属だということを忘れてはいまいね」
酒席のこととはいえ、以前のことを思い出すと、木内にすげない返事もできず、あいまいなことをいった自分の身から出たサビであったが、新聞に書かれてはエノケンひとりが勝手な行動をしたと思われても仕方なかった。終演後叔父の幸吉に連れられ、松竹の人と話し合いをすべく、荒木町の待合へ行った。
松竹からは岩田至弘(後に松竹歌劇団長)がきておそくまで話し合い、そこに泊って翌日は、そこから楽屋入りした。その日も舞台がハネると岩田至弘が迎えにきて荒木町に連れて行かれた。エノケンは四日も家へ帰らず、楽屋と待合を往復した。つまり木内に会わせないための軟禁であったのだ。
松竹も対抗上、松竹座の二月興行「研辰《とぎたつ》の討《う》たれ」などにエノケン出演と、大きく新聞に広告した。木内もオニといわれた程の男だから、互に話し合う余地なしといきまき、浅草の顔役たちや、大道具「かにや」の棟梁や、政治家までが調停役にのりだし、やっと木内興行部が松竹からエノケンを借りる契約を結び、契約金を松竹に払って、隔月四回(問題の二月は松竹座とし、四月、六月、八月、十月)に限り木内興行系の劇場に出ることで、血の雨もみずに治まった。
そして昭和八年の四月、浅草松竹座はターキー(水の江滝子)らの松竹少女歌劇団、そしてピエル・ブリアントは常盤座ではなく、隣の木内興行経営の金竜館へ出る羽目になり、常盤座には、前年「大東京カーニバル」「カーニバル座」(新橋演舞場)「喜劇爆笑隊」(公園劇場)を組んだ古川ロッパが、徳川夢声、大辻司郎、生駒雷遊、松井翠声、山野一郎ら元活動弁士達の「なやまし会」に、浅草オペラ出身の渡辺篤、関時男、横尾|泥海男《でかお》、解散した水族館から三益愛子、清川虹子らを加えて松竹は笑いの王国≠結成、旗挙げをした。
五月、ピエル・ブリアントは前半が新宿松竹座、後半が浅草松竹座。笑いの王国は前半が浅草松竹座、後半が新宿松竹座と交互に出演させられた。
六月、ピエル・ブリアントは、木内興行部の金竜館、笑いの王国は隣りの常盤座で、四月と同様の競い合いとなった。
松竹は以前から大阪でこの手を使っている。曾我廼家十郎と五郎を分けて互に競い合わせ、十郎が死ぬと、五郎一座の曾我廼家十吾に家庭劇をつくらせて五郎に対抗させて、客の人気を煽《あお》ってきた。ピエル・ブリアントと、笑いの王国も、まさにこれである。ライバル意識を持たせるわけではないと松竹がいっても、燃えないほうがおかしい。
エノケンは古川ロッパのことをよく知らなかったが、ロッパは十八歳(大正十年)で「キネマ旬報」の編集同人となり、早稲田大学在学中に菊池寛に招かれて、文芸春秋社発行の雑誌「映画時代」の編集責任者になるなど映画青年で、昭和六年には「東京日日新聞」に映画とレビューの批評を書いていたから、客席からエノケンを見て「エノケンは身体全体で物を言う独自の喜劇俳優だ。誰でも口でこそ警句を吐けるが身体で吐ける人は少ない」と、非常に端的でしかも見事に洞察した短い文章を書いている。
文芸春秋時代の古川|緑波《ロツパ》の遺した名物に、月刊「文芸春秋」のコラム「目・耳・口」欄がある。彼の提案に菊池寛は、企画料五円を出して即採用したという。月刊「文芸春秋」のコラム「目・耳・口」は六十余年を経て今日に及んでいるが、もうこの事を知っている人も居まい。笑いの王国≠フ演し物は、このロッパの企画力が大きな柱となっていた。
七月は浅草松竹座に出演とエノケンが張切っていた矢先に、松竹少女歌劇団からストライキに同調を求めてきた。水の江滝子らは、既に警視庁の留置場に入れられてしまっていた。同じ松竹で働いている仲間として来月松竹座へ出るのをボイコットしてくれというのだが、松竹に負い目を感じているところだから、同調もできず、オーケストラの楽士たちは、少女歌劇団に同調したため、オーケストラなしということになった。こういう時エノケンは我慢のできる男ではない。松竹の楽士が駄目なら、エノケン・オーケストラをつくろうと八方手をつくして楽士を集めた。瀬川昌久は、
〈エノケンの音楽、ことにジャズに対する情熱はブラス三、サックス三、バイオリン三、リズム四という編成を見てもわかる。芝居のバンドとしては最も充実したもので、作・編曲は池譲、津田純、そしてクラシックにも強い栗原重一がいた。エノケン・ディキシーランダースのメンバーに至っては、トランペットが後藤博、クラリネット秋本清一、アルト斎藤実、テナー疋田三郎、ピアノ柴田喬、ベース小口至、ドラム山口豊三郎。これらは当時の一流メンバーである〉
と指摘している。
劇団ピエル・ブリアントは文芸部、スタッフ、俳優、そして、男女混成のダンシングチーム。専属オーケストラ、和楽の人たちを合わせると百人近く(最多時約百五十人)、当時としては日本一の大劇団となったが、これというのも松竹が弗箱《ドルばこ》にしようと後押しをしたからであろう。
「エノケン」新聞の発刊[#「「エノケン」新聞の発刊」はゴシック体]
昭和九年十二月には一部三銭で「エノケン新聞」が発刊した。新聞といっても日刊ではなく、一日、十五日の月二回、いうならば劇場で配るチラシに毛の生えたくらいのものだが、「エノケン新聞」と堂々と名乗るところが、当時の浅草的ナンセンスというものかもしれない。昭和九年三月に創刊した「月刊エノケン」は一部十銭で、これはピエル・ブリアント・ファンの会誌として発刊した。これらは松竹や劇場が発行したものではなくて、劇団ピエル・ブリアントが独自に発行したものである。
というのも世間での喜劇に対する評価は、まだまだ低いものだった。当時の新聞記者たちは、喜劇には洟《はな》もひっかけなかった。ところが、劇評家の大御所的存在だった文学博士伊原青々園という演劇学の大家が、「エノケン新聞」にエノケン評≠寄稿した。
〈エノケンの盛名を聞くだけで、まだ実物を見なかった評者は、先ごろ浅草で「紅蝙蝠」を演じた時、はじめてその舞台姿を見た。しかし、それだけではどうして彼にあれ程の人気があるか、その理由が分らなかったが、今度新宿へ進出したのを見て、はじめて合点がいった。オペラの「マスコット」を書き直した「トノサマ」で、彼はその殿様の道化役をして居る。
その身振りや歩き方に独特の癖があって、その癖が一種の愛嬌になっている。だから彼が舞台に姿を現わすと、忽ち見物が喝采する。そのまた扮装が奇抜である。はじめは高い棒茶筌の頭でムカバキを着けた狩姿で現れたが、後には裾をひく錦襴の長絹を引っかけていた。それは歌舞伎の大時代物で、義経や信長の拵えを一層誇張したものであった。
こういう無頓着で大胆なやりかたは、昔の歌舞伎が既に先例を示し、その不調和が却って滑稽味に役立っている。彼自身もサビのある声で処々独唱して同時に滑稽な表情や動作で見物を悦ばす。彼は道化方で歌うたいを兼ねている。わたしは原始時代の歌舞伎のある部分が、大体においてやはりこういうものであったとフト思った。そしてエノケン一座よりはもっとエロチックな女優がいて、もっと挑発的な舞踊を見せただけが違っていたのだろうと思った。
歌舞伎は円熟したり上品になったりして、そういう野性的な分子は雑芸に移ってしまったが、エノケンはその野性的な分子を受継いだのである。といって評者は決してエノケンを侮蔑する意味でいうのではない。演劇が芸術となり、小説が文学に進級することが出来たけれど、大衆娯楽の雑誌は、まだ顧りみられない。そうして次の時代に出現すべきは、それらの雑芸の階に昇ることでなくてはならぬ。彼が大衆に喝采される奥底には、大いなる意義がある〉(一部、中略して引用)
この「トノサマ」を上演したとき、お姫様役の永井智子が「こんな長い着物を着て、体をしばられるようで嫌だわ。私は広々とした原っぱで自由にはねまわりたい……」といって、着物の裾《すそ》をまくって歩くところが、臨官席の警察官の目にとまり、劣情を催させるという理由で、作者の和田五雄と、演者の永井智子は当局に呼び出された。脚本には、着物の裾を少しあげて、と書いてはあるが、裾をあげすぎて、腰巻が見えたというのである。
永井智子は腰巻を見せようとしたわけではなく、はずみで少しあげすぎたかもしれないが「脚本に書いてないことをすることはまかりならん、今後もあまり悩ましい恰好をすると出演禁止を命ずる。今回は特別の温情をもって大目にみておく」と叱られたそうな。
その筋からお叱りを受ける[#「その筋からお叱りを受ける」はゴシック体]
当時、映画、演劇の検閲は、内務大臣の名に於て警視庁の保安課が担当していた。エノケンには水族館二階のカジノ・フォーリーがエロショーときめつけられた前科があり、踊り子全員が浅草の象潟警察署に連れて行かれ、ズロースの股下を計られて次のような八ヵ条の禁令を通達され始末書をとられた。
一、股下三寸未満、あるいは肉色のズロースを使用すべからず
二、背部は上体の二分の一以上を露出すべからず
三、胸部は乳房以下を露出すべからず
四、片方の脚といえども、股下近くまで肉体を露出せざること
五、照明にて腰部の着衣を挑発的に照射すべからず
六、腰部を前後左右に振る所作は厳禁す
七、客席に向い脚を上げ、ふとももが継続的に観客に見ゆる所作をなすべからず
八、「静物」と称し全身に肉じゅばんを着し、肉体の曲線を連想させる演出は厳禁す
ピエル・ブリアント文芸部の和田五雄が、「月刊エノケン」(昭和九年十月)に、その筋からお叱りを受けた話≠書いているが、「紺屋高尾」で、この芝居のヤマ場である高尾|花魁《おいらん》の居間は全部カット。「議会混線テレヴィジョン」という国会の様子をレビューにしたらば上演禁止。当時新聞を賑わした校長疑獄を扱った「校長先生」、これも上演禁止。
「喫煙室」では若い燕が奥様と呼ぶのがいけない、姦通罪を犯していることになるから削除せよ、というのでマダムと呼ぶことに訂正して許可を受けたのに、青年役の役者が、うっかり日本語で「奥様」と言うや早速、明朝九時出頭すべしと命令を受け、作者と演者二人して出頭、「意味が同じなのでついうっかり……」と演者があやまっても、金五円也の科料をとられた、永井智子のときは科料なしだったのに、男優と女優では扱い方が違った。
「ターザン」上演のときは、急にエノケンの注文で脚本を書き直し、上演前に届けようと清書しているうちに時間がきてしまい、運悪くその筋の臨検を受けた。認可本とは違った芝居をしているのだからたまらない。実に堂々と、内務省、警視庁の印がいかに重大であるか、しかもそれを無視した罪の重大さを力説され「明日榎本健一、柳田貞一、中村是好、和田五雄は、警視庁保安課へ出頭すべし」と申し渡された。
改訂本は出来上っていることだからと涙を流しながら三拝九拝し、自分の書き上げがおくれたばかりに、幹部俳優まで出頭させることは許してほしいと和田五雄は願ったが、血も涙もない担当官はサッと引きあげて行ってしまい、和田五雄に対しターザン上演について違反の事あり、罰金参拾円也≠フ通告がきたそうだ。
検閲に泣かされたのは和田五雄だけではない。菊谷栄の「身代り公方」の脚本には、特高警察の検閲課長じきじきのクレームがついて、全面書き直しを命じられたが、改作を拒否したため佐藤文雄が呼び出された。そして改作を拒否する理由書を出すか、書き直したものを提出するかと迫られて、ここで盾を突けばますます検閲がきびしくなろうと判断して書き直すことを承諾し、作者を交替して書き直したということがあったそうだ。
この時のことを「上演禁止にしてもらった方がよっぽどすっきりしてよかった」と佐藤文雄はいっていた。特に菊谷栄の脚本に対するクレームはきびしく、「メイフラワー」も何度書き直しても許可されず、遂に大町竜夫が修正し、大町作品として認可を受けたということだ。
人気があがるエノケン一座[#「人気があがるエノケン一座」はゴシック体]
大新聞もようやくエノケンの劇評をのせだした。演劇界の重鎮伊原青々園が「エノケン新聞」に寄稿したりしたので、新聞社も、何時までも無視していられなくなったらしい。
〈松竹座のエノケンは演しもの五ツで、三月というのに新劇などに比べたら大した違いの入りで、これはやっぱりエノケンの芸に対する情熱が、しからしむるのであろう。なにしろドシドシ新しい客を笑わせる手を案出し取入れるところは大したものだ。
五ツのうち一等笑わせるのはマゲモノ・ナンセンス「文七元結」(七景)である。中でも面白いのは第三景の長兵エ宅(女房武智豊子)夫婦の喧嘩である。タンゴ伴奏よろしくなぐり合い、第七景では野球もどきの喧嘩で大いに笑わせる。レビューの「愛のスキャンダルス」(十五景)は、ほがらかなもので第六景(神の愛と父性愛)が一等の出来だ。内容もこの第六景に現れた牧師と医者に対する皮肉などはなか/\のものである。この他に、ファンシー・コンサートの十曲と、一座まかせの軽いコメディ「注射」と「雀打ち日記」がある。X生〉(「東京朝日新聞」昭和十年二月二十三日)
〈松竹座のエノケンとその一党の二の替りは続演のマゲモノ・ナンセンス「森の石松」を中心にして、四つの演しものを並べている。「森の石松」は続演しているだけあって、ナンセンスとはいいながら身についたもの。特にナンセンス式に新味のある石松ではなく、よく講談に出てくる石松を見せてくれる。エノケンの石松は一通りその人らしい性格を演じているし、その立廻りなどもなか/\面白い。場としては舟中の場が出色の出来ばえで、中村是好の江戸ッ子八公と石松が達者に笑わせる。次にうけているのはオペレッタ「バイブル・フォーリーズ」であるが少々長すぎるうらみがある。然しそのアイディアは買ってよく、宗教に対する一つの風刺劇としてみられる。勿論その風刺は蚊のさした位のものではあるが、この種のものは寸鉄式にもっと掘りさげないと味がでてこない〉(「東京朝日新聞」昭和十年四月三十日)
瀬川昌久は『ジャズで踊って』(サイマル出版会)の中で、こう書いている。
〈エノケン・ミュージカルを成功させた第一作は、エノケン、二村の「弥次喜多木曾街道」(昭和七年九月)で、弥次喜多が流行歌を歌いまくるという着想は鑑賞に足る新鮮な楽しさを与えたのであった。エノケンのライバルであったロッパが、昭和十年はじめて日比谷(有楽座)に登場した際に自作・自演の「歌う弥次喜多」をもっていったのも、まったく菊谷栄の戯作にならったまでである。
歌うエノケンの魅力はここから巣立ち、その後、輩出した歌う俳優の揺籃を築いた。「西遊記」も菊谷栄の代表作として歴史に残る野心作で、開幕に築地小劇場張りのシュプレヒコールを用いたり、半ばごろに勧進帳を入れたり、観客の度胆を抜く奇想天外さがあった。
エノケン一座の人気が浅草を席巻して、本格的なミュージカル・コメディとレビュー制作を企画するようになり、音楽喜劇のあり方に確固たる指標を与える推進役を果たした。昭和九年七月上演のレビュー「夏のデカメロン」は、浅草におけるはじめての本格的なレビューとして演劇評論家、友田純一郎の絶賛するところで、さらに昭和十年三月「民謡六大学」は、上演期間四十五日という浅草の実演舞台の興行記録を更新する大入りを博し、レビューの楽しさを観客に印象づけ、エノケンの名をさらに社会的に高からしめた。六大学野球全盛の世相を巧みにキャッチして、六大学の特色を民謡の替え歌でおもしろく聞かせるという趣向だった〉
新しいレビューに情熱を傾けていた菊谷栄は「ライト・コンサート」などの構成や、「リリオム」などを書き、「民謡六大学」の成功につながる。六大学の校歌や応援歌を熱唱する男性コーラスといっしょに客席に陣取った各大学生は、負けじと熱唱するという当時としては型破りの一ヵ月半続演の公演記録を作り、浅草に再び大学生群を動員するなど、念願の男女合同レビューの足場を作ることになる。
この菊谷栄が新しい男女混成の大レビューを目指していたにも拘らず、浅草のエノケン・ファンは、愉快なオペレッタ「リオリタ」など、そういうオペレッタ・エノケンにあきたりず、強烈な喜劇を要求したので、マゲものや、ナンセンスものが多くなり、レビューは主流からはずれて、ライト・コンサートなどの構成物に力を傾けるようになった。
文芸部員の愛した浅草[#「文芸部員の愛した浅草」はゴシック体]
ピエル・ブリアントの文芸部には、いろんな若者がとびこんで来た。山名英介は東京外国語学校の仏文科在学中に岡本綺堂が主宰していた「舞台」に関係していたが、一幕物の戯曲には自信があるといって、優秀な成績で卒業しながら、就職口が決まらないからと入って来た。彼は、四本ばかり序幕物を書いているが、共同通信社の外信部に就職が決り海外特派員となってやめて行く時、チャンスを生かして外国へ行って勉強してくると、仲間からうらやましがられた。この山名英介が当時を回顧して、この当時のエノケンは絶対的な座長で、師匠の柳田貞一すら遠慮気味なのに、佐藤文雄という人は、この座長に面と向ってズケズケ物を言う不思議な人だった。といっていたから、玉木座のプペ・ダンサントに居残った柳田貞一は、この頃にピエル・ブリアントに加入したらしい。
笠井峯も文芸部に入って来たが俳優に転向し、笑いの王国に移り、山茶花究と名を改めた。山名、笠井と相前後して、文芸部に伊藤晃一(新劇俳優・高橋豊子の夫)が、新劇から転向して入って来た。
川上典夫は月給三十円の銀行員を棒にふって、友達の紹介で上京して来た。彼は昭和十年頃、浅草で過した想い出をこう記している。
〈地下鉄を田原町でおり、階段を上るともうそこから松竹座の灯が見える。仁丹の塔を後ろに雷門の方を眺めると、まだ明るいのにカメチャボ(牛めし)の屋台がぎっしりと雷門まで列んでいる。後に国際通りと呼ばれた牡丹鍋猪肉店の前を通るともうそこは松竹座の角である。
楽屋の潜り戸を入ると、いつも楽屋番の小父さんは金歯の笑顔で愛想よく、田舎からポッと出の私に何かと親切にしてくれた。その楽屋口の前には只愛玉《オーギョウチー》の店と、中華料理の品芳楼が並んでいる。オーギョウチーというのは中華料理のデザートのあんにんどうふのようなみつのかかったたべものなのだが、あんまりおいしいのでびっくりした。
松竹座の文芸部室は三階の女性ダンシングチームの大部屋の奥で私たちは着がえでごった返している彼女らを縫うようにして出入りしたものだ。台本作りで晩くなると三階の窓から顔を出して「××ちゃーん」と怒鳴って指を二本出すと、一杯五銭のオーギョウチーを二つ、出前してくれる。中華料理の品芳楼はもっと晩くまでやっていた。コピー機の無い時代のことだから、ガリ版刷りをして汚れたままの手で啜るラーメンは、これぞ上海の味だということだったが、これもうまかった(食通の古川ロッパの手記にも、浅草ではこの二軒は必ず出てくる店である)。
次回公演の準備で徹夜になり、終って楽屋の浴室(松竹少女歌劇団のストライキの発端は、この楽屋風呂が小さくて、きたないから改修してくれというのが真相で、あんな騒動にまでなったと先輩に聞かされたが、改修した後だったから綺麗であった)で朝風呂に入り、誰もいない楽屋でひと眠りして森永でランチをたべ、ボンスワール(喫茶店)でコーヒーを飲みながら、デッカ、ブランシック等の輸入レコードを聴く、それが若い文芸部員の天国であった。(中略)
この頃浅草はコーヒーが普通十銭であったのに、ハトヤだけは、コーヒーも、トーストも、シベリヤというケーキも五銭で、われわれの溜りになっていた。ここで五銭のコーヒーを飲んでいると六区の情報は全部わかったし、東京中の演劇人の消息も得られ、蒲田の人(松竹蒲田撮影所)、多摩川の人(日活撮影所)、巣鴨の人(大都映画撮影所)、新宿の人(ムーラン・ルージュ)、そして脚本家、小説家も浅草へ来た人はみんなハトヤで五銭のコーヒーを飲んで行ったから、伝言をたのむとすぐに相手に通じる便利な店であったし、吾々の仲間が劇場内に姿が見えないで探す時は、このハトヤに行けば大抵居た。六区で生活《くら》す者のためにハトヤは、ほかの店よりも朝早くから開けていた。
いつも白いエプロンをしているCちゃんは私の顔を見ると「カチ割一丁」と言う。カチ割というと、夏の甲子園名物の氷と思われるかもしれないが、ハトヤのカチ割は、トーストを二ツ切りにし、バターと、ジャムを半分ずつ、つけてくれて値段は同じ五銭であった。つまり、コーヒーとカチ割で十銭、これがひとり者の朝食であった。
朝食がハトヤで十銭、昼めしが森永のランチで三十銭、夜は屋台で十銭のカメチャボ(牛めし)だったから一日の食事代が五十銭で済んだ。それでも一人前の作家になれないうちは、三食たべることが出来ない日もあって、昼めしを抜くので胃酸過多になったものである。
当時の若い文芸部員は与えられた仕事を終えると時間に拘束はなかった。と言っても上演脚本が出来上ると台本のプリント、作曲が上ると写譜、パートの配布、稽古割の張り出し等、さまざまな雑役はあったが、銀行とくらべると天と地であった。仕事といっても相手は俳優や踊り子たちである。週替りや、十日替りの劇場の多い浅草で、なんといってもエノケン一座は十五日替り、月二回の大劇団であった。初日が開けば一週間は舞台のことだけで、次の週になると先輩の作家達の脚本が脱稿するから二週目から舞台がハネると次回公演の稽古に入り、二週目の千秋楽の夜中に舞台稽古が徹夜で行われた。このときは全員、メイクをし、衣装を着て、本番通りに舞台で稽古を進行するのだが、若い文芸部員にはこの舞台稽古が勉強にもなり愉しみであった。(中略)
昭和十年の八月は中旬から一と月半エノケン一座は舞台を休み、映画「エノケンの近藤勇」の撮影に入ったから文芸部は夏休みということになった。
この時先輩の和田五雄さんに連れられて、オペラ館の劇団「ヤパン・モカル」にアルバイトに行った。田谷力三、清水金一、山茶花究、堺駿二(堺正章の父)、藤山竜一、木村時子、羽衣歌子らが出演していた。和田五雄さんは「川上典夫はエノケン文芸部でなんでもやってきたからわからないことがあったら聞いてくれ」と紹介した。
かつら屋が、付け帳を見て「若いのによく知っている、どこか大きなところに居たな」と言ったというから、やはり大劇団エノケン一座のメシを喰ったのは決して無駄ではなかったと思った。この「ヤパン・モカル」という劇団には、作者などといわれる程の人は居ないで、十日替りの月三回という劇場だった。当時浅草でこの下の格の劇場だと、演目を毎週替えたから、若い文芸部員の働き場所は沢山あった。
和田さん一人であれもこれもというわけにはいかないので、ショーとバラエティの構成を私にさせた。そして一と月すると「君はここに残るといい」と言って和田さんは松竹座へ帰って行ってしまった〉(「学と文学」30集)
否が応でも力を試されて[#「否が応でも力を試されて」はゴシック体]
ヤパン・モカルにいた清水金一は、エノケンが玉木座をやめた時、玉木座にそのまま居残ったエノケンの師柳田貞一のところに弟子入りをした男である。いうならばエノケンの弟弟子ということになるのだが、明るい舞台で人気が出はじめてきた。和田五雄が夏休みを利用して手伝いに行ったのも、清水金一の才能をさぐったのではあるまいか。そして才能ありと思ったので川上典夫を残したのだろう。
川上典夫がこの年の十一月に書いた脚本「残された女」が永井荷風の目にとまり、「読売新聞」のコラム欄に、「わずか十日間位の興行で、すぐ人に忘れられてしまう芝居の多い浅草の一隅にも、こんな心温まる芝居がある。私はこの作者に敬意を表す」と、芝居のあらすじまで載せての激賞に、川上典夫以上に劇場側はオペラ館はじまって以来のこの事に感激し、永井荷風のところにお礼に参上、ピエル・ブリアント文芸部の川上典夫も浅草で作家の地位を確立した。
日頃からオペラに心を寄せていた永井荷風はこれ以来、オペラ館の楽屋がよいがはじまり、「葛飾情話」を書きおろし友人の菅原明朗に音楽を担当させて、川上典夫脚色演出「歌劇・葛飾情話」を永井智子主演で、オペラ館で上演すると、なにしろ荷風散人作、菅原明朗音楽というポスターバリューで、東京中の大評判となったが、いま、これを知る人は少ない。
エノケン一座のプリマドンナ永井智子(作家・永井路子の母)という人はクラシックオペラの原信子の門下生であるのに、ジャズも歌いこなすという当時浅草レビュー界を代表するプリマドンナで、菊谷栄構成演出のミュージック・ファンに評判のいい「ライト・コンサート」には、なくてはならない人だった。
川上典夫と同じ頃、文芸部に入った佐々川隆三は、菊谷栄に私に付きなさいといわれ、菊谷先生よろしくお願いいたしますと挨拶をすると、先生はいけません、先生は座長だけですといわれ、波島貞、大町竜夫、菊谷栄、和田五雄の四人をセクエタリヤと呼んでいることを知ったという。商業演劇の若手文芸部員というのは、菊田一夫も縷々《るる》述べていたように、脚本が上ってから初日があくまで山のような仕事をこなさなければならないし、写譜までやらされたのだから、佐々川隆三も入ってから半年ぐらいは下宿にも帰れず、連夜文芸部のベッドに泊りこんだという。
そうして要領を覚え脚本書きの勉強をするのだから、辛抱しきれずにやめてゆく若者はいくらもいた。ことに、ベテラン作家が四人もいたピエル・ブリアントでは、序幕芝居の脚本でもよほどの出来でなければ採用されなかったようだから、実力はつくのである。この経験を重ねないと芝居、ことに喜劇の脚本は書けないといっていい。
エノケンの体は音楽だ[#「エノケンの体は音楽だ」はゴシック体]
作家の森|茉莉《まり》が「エノケン新聞」(昭和十一年二月十五日・第二十七号)紙上に署名入りで、「音楽のエノケン」を寄稿しているので紹介しておく。
〈「酋長の息子」と「大西洋狐踏曲」。最近ではこの二つに、エノケンの音楽的才能が光った。(中略)菊谷栄作、オペレッタ「酋長の息子」全十二景(昭和十年七月上演、浅草松竹座)のエピローグで音楽指揮をするエノケンが素晴しい。エノケンの持つ指揮棒は音楽を導くというより、音楽それ自身のように動き、生きものとなって指揮棒の先に踊るのだ。指揮者の体も音楽に合わせて音楽そのものになる。
それは柔軟な銅線のように体の各部へ衝き抜け指先でピアノの音を表現する事もある。震動するような音はエノケンの白い衣裳のひだのある袖の中で鳴っているとより思われない。エノケンが踊る時、音楽はエノケンの体の中に流れ、ときに剣戟の如く、ときに滑稽を交じえ、見る人はエノケンの体を音楽から独立した一つの物体と思うことができない。エピローグの新曲もまた素晴しい。エノケンの体の中を生きもののように衝き抜け、震動する音楽に私は痛みをさえ感じた。エノケンの体は音楽だ。
大町竜夫作、オペレッタ「大西洋狐踏曲」全十五景(昭和十年八月上演、浅草松竹座)の劇中の船室内で不眠症のハリーという役でパントマイムを見事に演じた。船室のベッドに横になっているが眠れずに体をもてあましているうちに蚤におそわれて体がかゆくなる。パジャマを着替えて再びベッドに入るが蚤はまだいる。かんしゃくを起して飛び起き毛布をめくる。ひっくり返してやっと見つけて捕えようと蚤を追う。が捕らない。蚤に対して、今度は作戦をかえてハリーはうずくまり愛嬌たっぷりに蚤を招く、蚤がハリーに近寄ってくる様子が彼のパントマイムでよくわかる。(中略)
柔軟な体全体の表情、愛嬌に満ちた仕科、いろいろな響きと反射し、感応し、一つになって素晴しい音楽的雰囲気をかもし出すのだ。蝶のように両腕をひらひらさせて楽しそうに踊るエノケンに伴奏音楽はない。エノケンが音楽だからだ。ロシアの踊手ニジンスカーヤがペトリュウシュカの人形になって笛を吹きながら飛び廻るそれよりも楽しそうだった。エノケンはその時音楽の中にいた〉
エノケン旋風、大阪を席巻[#「エノケン旋風、大阪を席巻」はゴシック体]
昭和十年五月、エノケン初の大阪進出も注目していい。東京とてもエノケンが出演したところは浅草と新宿で、有楽町街にはまだ出演していない。水の違う大阪へ出るよりも、もっと手近な日比谷の劇場に出たいというのがエノケンの本心だった。
大阪行きというのは大冒険なのである。出演すれば客が入るという予測の立たない大阪へ行って、散々な目に遭ったとすれば、エノケンのこれからに影響を及ぼすことは必至で、曾我廼家五郎が君臨している大阪で、曾我廼家劇とは異質のナンセンス劇や、レビューを受入れるかと心配した。ラジオ、テレビの普及した現在とは状況がまったくちがうからこれは無理のないことだ。
松竹の大谷竹次郎社長が決断したことだから専属のエノケンは従わざるを得ない。そこで榎本幸吉を通じて入場料を廉価に抑える条件をつけた。物価の安い時代とはいえ、大勢の出演者のアゴ・アシ(宿泊代と旅費)がかかるから、東京並みの入場料とはいかない(ドサ廻り≠ニいわれる小劇団などは、小屋泊り、といって楽屋を宿屋代りにして経費を安くあげた)。この時の、大阪千日前の大阪劇場の入場料は、普通席七十銭、一等席一円二十銭、特等席一円八十銭(松竹座では一等席六十銭、特等席一円三十銭である)。
一行が夜行列車で大阪へ出発のとき、東京駅のプラットホームは見送人であふれたというから、今日の海外公演どころでなく、想像以上に東京と大阪は遠かったのである。
大阪劇場は一週間替りで、四週、二十八日公演。初日が五月三日。このときのことは「大阪日日新聞」の劇評で紹介しよう。五月四日に掲載されているから、大阪の新聞記者は初日に見にきたわけだ。
〈最初は佐々木邦原作和田五雄脚色演出の「嫁取り婿取り」全十景、それはモダーン・コメディといったもの、曾我廼家風な家庭喜劇をねらって、やはりエノケンが中心になって笑わせているが、それはそれで、曾我廼家より一層若い、そしてもっと現代式なサラリーマン主義の主観が主題であるところに、若いコメディアン一座として未来のある舞台を見せている。
そして飛び離れて気障っぽくなく、インチキでなく、とにかく現実主義の舞台に終始して、エノケンが笑わせる。そのあっさりした明朗な若い喜劇はしつこいことの好きな大阪人より東京風であるかもしれないが、この一座の特徴として、舞台を巧みにスピードをもって、つぎからつぎへと転換させ劇を進めて行く点は興味深い。
大町竜夫作の「南風の与太者」全十景は、エノケンは多角な演技のうちレビュー風なボードビリアンとしてのよさを見せる舶来もの。筋はワンダー・バアの主題とカリオカの主題歌などが中心となっている。ここでエノケンは、かつてのマーカス・ショーの喜劇ダンサー、ジョン・ミラーを想出させる演技をやってみせる。彼のボードビリアン振りはさすがで、彼の人気が無理ないことを合点させる。
彼の体は暴れているときも決してくずれない。特に下半身、両足のジェスチュア・ステップなど実に天才的な舞踊手の足の如く表情し動く、二村定一を歌の補助者として自分の無理を補っているが、芝居、踊り、歌、ジェスチュアの上で、今までの日本のレビューが要求し、また、なかった喜劇役者が実は彼であることは間違いない(以下略)
第二週の十日から十六日までの二の替りの劇評は、どうであろうか。
〈「文七元結」は人情味豊かなナンセンスで、この一座にはうってつけの演し物で演技、演出共によく出来ている。殊に第一景の長屋人が家主を追い出す場とエノケンの長兵エ夫婦の喧嘩が、今流行のルンバの伴奏でやるのはいい思いつきである。役ではエノケンの左官長兵エと近江屋の中村是好、長兵エの女房高清子が役柄とはいえ光っている。
「民謡六大学」二十景はいささか期待外れ、着想は面白いが何等新味がなく、踊りの振付も平凡、ダンシングチームの活躍もダレ気味、二十景は退屈である。総体に劇場の関係もあるが、東京弁の早口は聞きとりにくく興味が半減されるが、元々大阪に馴染のうすい六大学物はよほどいいものでないと大阪には向かない〉(「大阪日日新聞」五月十二日)
東京で大当りをとった「民謡六大学」が、よもや大阪で不評をとると思った者が、いなかったというのはおかしな話で、大阪で六大学といえば、京大、同志社、関大、関学、立命館、神戸大であり評判の悪いのは当然である。
三の替りも「金色夜叉」だけが評判がいい。「まあ、料金をいくら支払っても損しない事は俺が請合うよ、レビュー美学とか、芸術論などあれを見てそんな余裕はない。ついに笑わされてね、エノケンはあれでいいんじゃないの」と書いているのは至言である。二十四日からの終週、四の替りは急遽「大阪行進曲」を新しく作って差しかえた。
当時を覚えている佐藤文雄に、この新聞批評を示すと、
「しかしお客は三日目ぐらいからよく入ったよ。大劇(大阪劇場)は大きかったから七分の入りで二千人だからね、それが一日三回だから一日六千人は入ったんじゃないかな、浅草だって一日三千人は入らないもの。日曜日は朝八時半からで、お客はくるもんかッていったら来たよ。驚いちゃった。
新聞記者の批評なんて、あんまり当てにならないよ。だって芝居より音楽ものをよろこぶ客が多いんで、こっちが意外に思ったし男も女も若い人が多かった。その頃道頓堀のボート遊びが流行《はや》っていたものだから、舞台の合間に女の座員が二人で貸ボートに乗ってよろこんでいるうちにひっくり返って大騒ぎになり病院へかつぎこまれたら、気の早い新聞は夕刊に、エノケンのところの女優が道頓堀で溺死ッて出ちゃってさ、死んでもいないのに、いい宣伝になってね。とにかく、あれだけお客が入りゃ大成功だよ」
と当時を回想してくれたが、昭和十年の五月には、P・C・L製作のエノケン映画は「エノケンの青春酔虎伝」と、「エノケンの魔術師」の二本が前年に完成し封切られているので、大阪でもどこかの映画館で上映されていた筈だから、エノケンは大阪に、まったく馴染がなかったわけではない。
むしろ、この二本の映画が大阪で予期した以上に評判をとったので、松竹としてはこれにうまく便乗できたのかもしれない。
エノケン・レビューへのとまどい[#「エノケン・レビューへのとまどい」はゴシック体]
とにかく大阪公演は予想した以上の興行成績を収めたから、二年後の五月にも大阪へ行ったわけだ。この時までに映画は合計八本封切られているのだから、松竹はまさに他人の褌で相撲がとれる寸法だったのだが、初日を明日に控えたその前夜半に火事で、大阪劇場は焼けてしまったのだから松竹はさぞがっかりしたことだろう。
近代劇協会をおこした伊庭孝が、雑誌「プレイガイド」(昭和十三年四月号)に次のような文章を書いているのだが、エノケン旋風は大阪を席巻し大成功で帰って来たもので、劇界からそねまれはじめたのではなかろうか。この昭和十三年エノケンは三十四歳である。
〈エノケンがえらい人気を博している。あの男には、生理的に他の普通人の出来ない芸当を持っているのが強味だが、それがないにしても、彼の頭の善い無遠慮なナンセンスとグロテスクとは、納まり返った古い連中を尻目に見て、大道を闊歩するに足るものがある。それが古い連中には不安で堪らないらしい。
どうしてあんなデタラメなものが受けて、我々本筋の芸が世間から認められないのだろうと不審がる。だが私にしてみれば不審がるお前は、一体なんだといいたいのだ。本筋だと思って善がっているのは、実はお前達の仲間だけで、お前達でも、その昔は勇壮活溌なデタラメで一世を驚倒したものではないか。
新派にしてみればツイこの間のことである。歌舞伎にすれば、明治以前に還ればよいのである。歌舞伎でも新派でも、俺達が本筋芸で、エノケンやレビューは邪道芸だというふうに二元的に考えたら、それは大変な間違いである。歌舞伎も新派も邪道に始まったものであり、邪道の精神をいつまでも忘れなければ、更生の道はいつでもあるのである(以下略)
アメリカからボードビル一座「マーカス・ショー」が昭和九年三月来日し、日本劇場に出演した。多芸を集めてショーに構成されていたが、日本の従来のレビューに与えた影響は大きかった。バラエティの構成の仕方、スピーディな進行、タップチームの見事さ、このタップチームに二十代のダニー・ケイがいたそうだ。そして立体的照明など、いろいろな事をエノケン文芸部の者達は学んだそうだ。
続いて翌年一月に「パンテージ・ショー」が来日した。このとき新聞に批評を書いた清水俊二が、後年、この時のことをこう書いている。
〈エノケン一座はエノケン一人のパーソナリティで持っている。水の江滝子はパーソナリティだけで舞台に立っている。「パンテージ・ショー」が相当な芸人をそろえていながらアッピールする力が弱いのは、腕のいい芸人はいても、パーソナリティを持った芸人が一人もいないからである。このことはいま(昭和五十八年)のミュージカルや、ショーの舞台にもあてはまる〉(「映画字幕五十年」調査情報≠sBS発行、昭和五十八年六月号所収)
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[#小見出し]第四章 絶讃! シネ・オペレッタ
P・C・L映画出演[#「P・C・L映画出演」はゴシック体]
日本の映画界もトーキー時代に突入し、浅草オペラの仲間藤原釜足や丸山定夫たちが出演の、東宝撮影所(当時はP・C・Lといった)製作の「ほろよい人生」という喜劇映画を見ると、かつて甲陽キネマや、京都でとぐろを巻いていたエノケンは激しく映画にも魅力を感じだし、松竹に映画出演を申し入れた。しかし松竹は、京都撮影所では林長二郎(長谷川一夫)、高田浩吉らの時代劇、蒲田撮影所は下町人情喜劇を中心にしていて、エノケンの要求する音楽喜劇映画を作る意志がないといわれ、がっかりしていた矢先に、P・C・Lの森岩雄プロデューサー(後の東宝副社長)が、エノケンの要求していた音楽喜劇を撮ろうと現れた。
松竹は自社では音楽喜劇映画の製作予定がないと正式に断った矢先であり、他社出演は事前に協議する契約があるが、映画については約束がまったくないのでP・C・L映画出演を一蹴することもできず、松竹の舞台出演に支障を及ぼさないという条件つきで、P・C・L映画に出演することを認めた。
こんにちの常識からすれば、毎月休みなく舞台に出演していて主演映画の撮影に入るということは不可能なことで、当時としても、これは不可能に近いことであった。エノケンは森岩雄と、不可能を可能にする相談をした。脚本は、P・C・L文芸部(当時の文芸部は、佐々木能理男、松崎啓次、小林勝、伊馬春部、永見隆二、田中千禾夫、森本薫、八住利雄、阪田英一、滝口修造など、多士済々であった)。ところが、監督の木村荘十二に辞退されハタと困った森岩雄が「いまP・C・Lには監督は二人しかいません。二人とも音楽映画は自信が無いというのです」とエノケンに打ち明けた。
P・C・L(写真化学研究所)が研究所でなくなり、映画製作を開始したことに対し、既存の映画各社は相当に神経をとがらしていたので、P・C・Lは監督、スターを引き抜くことはしないという声明を発表していたのだ。
そのときエノケンの頭に浮かんだのが、関東大震災のために浅草オペラの仲間たちと京都で暮していたとき、音楽喜劇映画の夢を語り合った日活京都撮影所文芸部の山本嘉次郎であった。エノケンはそのとき二十一歳、それから九年たってようやく、山本嘉次郎と二人の夢が実現できたのだから、震災後の六年間は無意味な歳月ではなかったわけである。
そのときのことを山本嘉次郎も同じように、書いている。
〈私が東宝にはいれたのは、榎本健一のおかげだといってもいい。浅草の舞台で割れるような人気のあった榎本さんが、はじめて映画俳優として出演の契約をしたとき、二つの条件をつけた。一、ミュージカル映画を作らせること。二、その監督には山本を起用すること。こうして私は京都の日活撮影所から、東京の東宝撮影所へ移った。
かねてから榎本さんと私とはミュージカル映画製作について肝胆相照らした仲であった。しかし、榎本さんは松竹の専属舞台俳優であったし、私は日活映画という音楽なんて洟も引っ掛けないような会社に属していたので、とうてい叶わぬ夢とあきらめていたのが、突如としてその夢が実現したのだから、その喜びは大きかった〉
こうして日活京都から山本嘉次郎のP・C・L入りが決まり、「エノケンの青春酔虎伝」という、カレッジ・レビュー映画が完成したとき、山本嘉次郎は題名の上に、シネ・オペレッタ≠ニいう七文字をタイトルに付した。
舞台女優とエノケンの意気込み[#「舞台女優とエノケンの意気込み」はゴシック体]
〈連日舞台に出ている私達までが、初めてトーキー映画に出演することになり、非常な興味と、なかば恐怖を感じながらの出演でした。明日撮影ときまると、夜の舞台がハネると兵糧を買いこみ、それこそ遠足にでも出かけるような支度をして松竹座の前から車にのり、夜の十一時頃、砧村撮影所に到着、みんなハラペコなので、楽屋へ入ると各自が買いこんだ兵糧をひろげ全部たいらげてから入浴。
それから女性たちはワイワイガヤガヤ二時頃まで騒いでいますが、榎本先生はじめ幹部さん方は徹夜で撮影。私たちは朝六時に起こされ監督さんに命令されるまま、ロケーションだったり、セットだったりするのですが、いいお天気だからとロケに出かけ目的地に着いた頃、急に曇ってきたから中止になって、そのまま帰る時など、一番がっかりしました。
階段を使ったタップダンスの撮影の時、北風がとても強く、衣裳は短いので寒さにふるえあがりました。男優の方たちのキャバレーのセットで大立廻りの撮影のとき、本当の喧嘩でもこんなにまでは……と思うくらい猛烈で、お稽古中から負傷者が出たので、私達女優の篤志看護婦が介抱するなど、何となくセンチメンタルな気持になりました〉(「月刊エノケン」昭和九年五月号)
このように映画「青春酔虎伝」は、セット撮影は夜中に、オープン撮影は午前中に撮影し、浅草まで車をとばし午後は全員舞台に出演した。その意気込みはおそろしいほどに燃えあがっていたが、ラストシーンのキャバレーの撮影中に不測の出来ごとが起った。
エノケンがホールの階段を駈け上り、それを追いかけてくる与太者連中を尻目に二階から、吹き抜けのホールに吊ってあるシャンデリアに飛びつくというところで、頑丈に縄で吊ってあるシャンデリアに反動をつければ難なくとびつけたのが、階段の下でストップする筈の男が、二階まで上ってきたから椅子をふりあげたが逃げもせず立ち向ってきた。早くシャンデリアにとびつかなければと飛びつくと、本番前に縄に塗ったエナメルが、乾ききっていなかったので、手がすべってコンクリート床に真逆さまに叩きつけられた。
この頃は、常時三台のカメラが三方から同時に撮っていたので、落ちる瞬間から、落ちてからフラフラと立上り、再び気を失って倒れた時のアップからタンカで担ぎ出されるところまで、ちゃんと撮ったこのカメラマンが唐沢弘光で、「ワンスモア」など気どった声のお二階さん(スタジオの二階に録音室があったので録音技師をさしていう活動屋言葉)が、誰あろう井深大(ソニー名誉会長)であったという。
エノケンの顔半面が暗紫色に腫れあがり、とても撮影続行は無理と延期になったが、芝居のほうは松竹の舞台に支障を及ぼさないという約束だったから、一日も休まずに頑張った。このために封切が予定より一ヵ月ほどのびて、昭和九年五月に封切られた。
ハワイ、上海でも評判をとる[#「ハワイ、上海でも評判をとる」はゴシック体]
「青春酔虎伝」は、カレッジ・レビュー=Eシネ・オペレッタ≠ニ銘を打ってあるように、歌と踊りとアクションをみせたもので、この映画一作のおかげで、東京のエノケンは、日本のエノケンになったばかりでなく、ハワイ、上海《シヤンハイ》でも上映された。ハワイのホノルル座で上映され、邦字の「ハワイ新聞」に、ゼイムス・T・ハマダなる人が映画評をくわしく書いているので紹介しよう。
〈日本の撮影所によって製作されたる最初の特作音楽映画が目下ホノルル座において上映されている。P・C・L撮影所によって製作され、エノケンの朗らかな青春というタイトルで、主演スターのエノケンとは、日本最大の喜劇王と評判せられているプロデューサーでありスタアたる、榎本健一の略称である。そしてこの全作品は、ハリウッド音楽映画の焼直しで、しかも誠に手際のよい焼直しで、大いに楽しめる映画である。可なり多くの歌と踊りを持つが、哄笑を誘う喜劇なるは云うまでもない。
エノケンは真に日本最大の喜劇王たる名に背かない。彼は百パーセント道化役者であり、時としてバスタ・キートン。ダグラス・フェアバンクス。トム・ミックス。否、すべてこれらを打って一丸としたものたらんとして、ほとんどその塁を摩している。彼は観客を眼中に置かぬ。彼は映画配役紹介にあたって、観客に対して歯をむいて笑い「ガブガブガブ」と喉をならす。彼の声は洗練されたものではないが、観客は彼と、彼の歌を好きにならずにはいられない。(中略)
エノケンは狂猫の如く闘う。彼はしばしば下腹をうつが決してヘコタレない。彼は五十人の呼吸をその肺臓に吸いこんでいるのだ。彼はダグラス・フェアバンクスのように跳躍して、キャバレーの中を、またその階段を跳び廻る。彼は二度トム・ミックスのようにシャンデリアに跳びあがり、乱闘の最後に、バック・ジョンズの如く猛烈にギャングの首領と争闘する。
そして彼はテーブルについて酒を飲み、居眠りする。眼がさめた時は格闘は既に終っている。そこで彼は突如歌を歌いだす。何たる好喜劇であろう! やがて閉幕者エノケンが大写しとなって現れ「ガブガブガブ、オシマイ」という。要するに全体は他愛のないものではあるが、興味満点、マルクス兄弟の喜劇と同様に愉快なものである〉
この映画は特殊な配給ルートに乗り、上海《シヤンハイ》でも上映され、「上海日報」と「上海日日新聞」に、映画評が写真入りで掲載されている。「ハワイ新聞」と比べて読むのも面白かろうと思い、「上海日日新聞」の映画評も紹介する。
〈シネ・オペレッタと銘打ったP・C・L作品「エノケンの酔虎伝」は、当地初のP・C・L作品だけに、それだけでも相当ファンにアッピールする上に、出演者が浅草の名物男エノケン事、榎本健一ときているので興行価値は満点といっていい。まず結論を早くいえば、この映画は面白いの一語につきる。単に面白いといっただけでは、やや説明不足とすれば、内容《ストーリー》がとりたてていう程の事でもないのに拘らず、最後まで引きずってゆくところに面白味がある。
たとえばそれがエノケン張りの、例の芝居気たっぷりなものであっても、観客はそれを承知で腹を抱えて笑わされる。ただ歌ったり、踊ったり、戯画化したりして前半はダラダラとしながら、エノモト(榎本健一)とマチ子(千葉早智子)とが結婚してしまう。ところが後半に入って俄然エノモトが、カフェーで暴力団を相手に大立廻りを演じ、アメリカ映画の喜劇ものにありそうな場面を見せ、観客はここでもゲラゲラ笑っている。要するにこれだけの映画だ。
では、どこにいいところがあるかといえば、タイトルに、シネ・オペレッタと、はじめからことわっているところがいい。日本の現代の映画界では、本格的のオペレッタなど思いもよらない。いやオペレッタどころではない。喜劇ものすら完全に作ることのできない現状にあるのである。松竹蒲田のナンセンスもの? ご冗談でしょう。それこそナンセンスだ。結局この映画は、現在各会社競うて取り入れている通俗小説の映画化という一つのカテゴリーを打破して、清新の気持ちを注入してくれただけでも、その努力を認めていい。日本の映画製作会社にも、一つぐらいは型破りの会社があってもいい筈だ。その意味でP・C・Lの作品が、上海にもどしどし進出してくるということは、いい傾向だと思う〉(六月十二日)
人知れぬ苦労も増えて[#「人知れぬ苦労も増えて」はゴシック体]
この映画で気を良くしたのはエノケンばかりではない。座員まるごとの総出演だったから、映画の出演料がボーナスのように、ドサリと全員に渡されたからである。エノケンは座員たちを交替で夜の浅草、銀座へと連れ歩いた。そういうエノケンを水の江滝子は次のように書いている。
〈エノケンさんというと山高帽子に長いオーバー(今のマキシム風、当時流行の最先端)のスタイルで、さっそうと浅草六区を大勢の人達にかこまれるように歩いていた姿を思い出します。同じ浅草(松竹歌劇団)にいた私は、よく見かけたものでした。エノケンさんというとすぐに浮かんでくるのです。日本人に出せない派手さと、ペーソス。大勢の人にかこまれながらも、ちょっと淋しそうな人……〉(「エノケンを偲ぶ」)
水の江滝子が書いている通り、ちょっと、どころか淋しがり屋なのは有名だ。エノケン自身、人気が出れば出る程、孤独感を増した。三年前まではピエル・ブリアントの一員だったエノケンが、いまやエノケンとピエル・ブリアントになり、映画では「エノケンの青春酔虎伝」と、題名の上にファンから贈られたエノケンというニックネームを冠するようになった。
松竹座の看板も、いつの間にか松竹の手で、ピエル・ブリアント、榎本健一一座に書きかわってしまっていた。自分が好むと好まざるとにかかわらず、興行者たちはどんどん商品化していったのだ。
彼は内部からの造反者を怖れた。幾度も経験しているからだ。もしも団結して反旗をひるがえされれば、いかに浅草の人気者とて、ひとりで芝居ができるものではないから、奈落の底に叩き落されることになる。思い過ごしともみえる不安を、いつも抱えていたことを余人は知るまい。完全なエノケン一座になればなるほど、座員の生活の保証という新たな重荷に対する不安が生まれ、その不安が現実として現れずに済ませてきた努力は、人知れぬ苦労というほかない。もっとも、このような演劇興行形態は、テレビの出現によってまったく変ってしまったから、いまの人にはこんな話は理解しにくいであろう。
「青春酔虎伝」についで二作目の映画は、「エノケンの魔術師」(木村荘十二監督)。三作目が「エノケンの近藤勇」(山本嘉次郎監督)。このとき山本監督と共に三鷹の竜源寺にある近藤勇の墓参に行き、林住職から近藤勇という人は、天然理心流の奥義を極めた人であることを知ると、たとえ喜劇であっても、それが心掛けというものだと早速天然理心流を教わった。映画でも近藤勇の構えは、左足が前に出ているとエノケンから聞かされたが、私が見たのは子供の頃だったから、右か左かそんな事より音楽ギャグの立廻りのほうが面白く、殊に高下駄をはくと強くなるというので、友だちとチャンバラゴッコをするときは足駄をはいて遊んだものだ。
劇団員が総出の映画づくり[#「劇団員が総出の映画づくり」はゴシック体]
当時サトウ・ハチローはP・C・Lを、(P)ポーク・(C)カツレツ・(L)ラード揚げ、する新しい映画会社ができたと言った冗談が、巷間で話題になったりしたが、P・C・Lとは、PHOTO(写真)CHEMICAL(化学)LABORATORY(研究所)の略で、昭和七年の六月に誕生した写真化学研究所が正式社名である。ところが、昭和八年の十二月に写真化学研究所とは別に、株式会社P・C・L映画製作所という別会社を設立して、本腰を入れて映画の製作に乗り出したというわけで「エノケンの青春酔虎伝」はP・C・L六本目の作品である。
当時の社長植村泰二は、当時をこう回顧している。
〈兎に角新しいことをやるんだ、既成の映画会社(松竹、日活、新興、大都)に負けないぞ、という意欲に満ちて、従業員も少かったのでまるで家族のような感じで、最新の設備、機構の中で仕事をしてもらうことをモットーに、第一回作品として「ほろ酔い人生」をスタートさせたのです。この作品はサッポロビールとタイアップで三万何千円かもらっているのです。日本でタイアップ映画を作った始まりです。
ただ、余り堂々とこれをやってのけたので、見た人が誰もタイアップとは気付きませんでした。既成会社からのボイコット等があったにもかかわらず、業績は伸び、その頃、アメリカの映画会社のロケ隊が南方に行っての帰りに台湾沖で船が難破して日本に立ち寄った時、ロケで使用した動くワニの実物大の模型とか、大きなファン等を買わないかといわれ、円谷英二君(後に特撮監督)と見たのですが、「なにかの役に立つだろう」と私のポケット・マネーで買い取っておきました。この時のワニが、東宝の特撮映画ゴジラなどのヒントになっているのではないかと思え、よろこんでいます〉(「宝苑」30周年記念特集)
この時のワニはエノケン映画の「孫悟空」に出演していたが、いま見ることのできる「孫悟空」ではカットされてしまっている。
P・C・Lは既成概念の無い映画会社だったからこそ、音楽喜劇映画「青春酔虎伝」が作られたので、これはエノケンにとって非常な幸運としか言いようがない。このときからエノケン映画はエノケン個人の映画出演でなく、座員も一緒に出演するという劇団と提携という形で、P・C・Lと契約をしたので、エノケン映画はいつも出演者の顔ぶれが同じだ、といわれたのはこういう事情からなのである。つまりエノケンひとりが映画撮影に入ってしまうと、エノケンなしのピエル・ブリアント劇団では浅草でも通用しないからである。
余計なところは切った「ちゃっきり金太」[#「余計なところは切った「ちゃっきり金太」」はゴシック体]
ずっと後年になってからの事だが、市川崑監督に、エノケン映画の中で挙げるとしたら、どれでしょうと栄田清一郎(日本映画テレビプロデューサー協会・常務理事)が訊ねた時、全部を見たわけではないが、山本嘉次郎の追っかけ映画「ちゃっきり金太」(脚本・監督)でしょう、と答えてくれたという話を聞いたことがある。
淀川長治は、喜劇の根本は、追っかけに尽きると、指摘している。
昭和三十八年に日本で上映されたアメリカのスタンリー・クレイマーという一流監督の、「おかしなおかしなおかしな世界」を見た人はお分りだと思うが、往年のスターを集めたこの喜劇映画も、自動車と飛行機を駆使しての追っかけ映画だ。
昔々の、アメリカのマック・セネット社のサイレント喜劇映画も追っかけだった。チャップリンも、ロイドも、キートンも、このマック・セネットから出た人である。「静かなる男」「バッファロー大隊」等の不滅の名作を残した名監督ジョン・フォードは、ここで助監督をつとめ、ギャグマンをやっていたことを知る人も少い。
黒澤明監督もP・C・L入社後、助監督としてエノケン映画を撮っていた山本嘉次郎監督の下で、サード、セカンド、チーフ助監督をして、昭和十八年「姿三四郎」で監督に一本立した人である。
偶然だろうが、この世界的名監督が、共に若い頃、喜劇映画の助監督を経験したということは、ジョン・フォードと黒澤明の作品の色こそ違え、映画づくりのどこかに、その臭いが残っていていいような気がする。
黒澤明が、山本嘉次郎監督のサード助監督に初めてついたのが、エノケン映画五作目の「エノケンの千万長者(前・後篇)」である。
この頃山本監督は手許についた助監督たちに先ずシナリオだ、といって書かせたという。そして書きあげたシナリオに対しては、的確な批判の上に立って具体的に改訂してみせたそうだが、これは並大抵の才能で出来る事ではない。また、監督になるには、自分の仕事を客観的に眺められる能力が必要だと、編集をエディター(編集の専門家)まかせにせずに、自分でさっさとやって見せ、助監督が苦労しようが、カメラマンやライトマンが苦労しようが、自分の苦労も含めて、そんなことは、観客の知ったことではない、要は余計なところの無い充実した映画を見せることだと、編集室では、まるで殺人狂のように、切れる、切ろう、と切りまくり、映画は時間の芸術だから無用の時間は無用であることを教えたという。
山本嘉次郎は「エノケンのちゃっきり金太」の編集に際しても、余分なところは、切りまくって、これ以上切れないものに仕上げた筈だ。ところが、いま見ることの出来るこの映画は、前篇、後篇に、三年後(昭和十五年)に出来た「エノケンのざんぎり金太」の一部をくっつけた一時間十二分の総集篇しか残ってないということは、冒涜《ぼうとく》もいいところである。市川崑監督が言ったエノケン映画の「ちゃっきり金太」は前篇が一時間三分。後篇が一時間九分。合せて二時間十二分の作品のことを指しているのであって、一時間十二分の総集篇のことを言っているのではない。ストーリーを残し、ギャグを切り捨て半分以下に縮めたこの映画を、ノーカット総集篇として堂々と見せるとは、ペテン師の詐欺行為との批難はまぬがれまい。
巾着切《きんちやつき》りの金太、それを追う中村是好の目明しの倉吉の追っかけの道中記で、その道中いろいろな事件を起したり巻きこまれたりというストーリーだから、追っかけのギャグがふんだんにあり、それが面白かったのだが、面白いところを全部カットして、筋運びに終った「ちゃっきり金太」総集篇は、「エノケンのちゃっきり金太」ではなくなってしまっているのだ。
私は「ざんぎり金太」のおもしろかったことが強く残っている。この映画も一時間二十二分の作品である。
ざんぎり≠ニいうのは、江戸が東京にかわり文明開化の時代となって、チョンマゲを切り、ざんぎり頭になったので、「ざんぎり金太」となったのだが、巾着切りの金太は、スリの金太になり、倉吉は目明しから巡査にと変身しただけで、中味はスリと巡査の追っかけである。明治時代に流行した梅ケ枝節を取りこんだり、ジンタの曲が聞こえるとジイさん、酒のんで、酔っぱらって死んじゃった。バアさん、それ見て、おどろいて死んじゃった≠ニ、追っかけの最中でも金太が泣き出すギャグや、掏った物の処分に困って捨てるのだが、捨てても、捨てても金太の手元に戻ってきて困るギャグなど面白いギャグがいっぱい詰っていたと記憶している。
「ちゃっきり金太」のときはセカンド助監督だった黒澤明も、このあとの「びっくり人生」、「がっちり時代」、「ざんぎり金太」、「孫悟空」では、チーフ助監督に昇格して山本監督の右腕を務めているから編集にも携わっていたと推測ができる。エノケン映画というものの製作意図は監督以下、超娯楽作品を仕上げることで、芸術性とか名作とかは微塵も考えていなかった。
映画「孫悟空」をふり返る[#「映画「孫悟空」をふり返る」はゴシック体]
エノケン映画というと、すべてが爆笑映画であろうという先入観を持つ人が非常に多い。
アチャラカ物という映画もあった。面白いといわれた作品が、すべてアチャラカ物ではない。「孫悟空」は爆笑映画とは質のちがう、音楽喜劇映画なのである。私は「孫悟空」という作品こそ、トーキー初期における、日本の特撮入り音楽喜劇映画の最高傑作であると信じて疑わない。今この映画をビデオで見る限り、画面が小さいから、この映画のすばらしさを堪能することが出来ないが、劇場の大きいスクリーンで観たならば、この作品が、昭和十五年に、前篇、後篇ものとして作られた見事な作品であることは理解されるであろう。
なによりも有難いのは、私の計算によると、前・後篇合わせて二時間十九分の作品が、いま見ることの出来る映画「孫悟空」は二時間十五分で四分の差しかないからノーカット版といっても許される。しかし私が気になったのは、二ヵ所にナレーションが入っていることだ、ここらが、ハサミの入ったところだ。
三ヵ所ほど字幕の入っているところはあるが、ナレーションを入れるような演出を山本嘉次郎がする筈がない。見れば見る程、よく出来た脚本であり、ギャグも申分ない程に軽くハメ込んである。珍妙大王の高勢実乗との化けくらべの最後に、珍妙大王が化けた、おもちゃとわかるカニに追われて逃げまどう孫悟空など見事なギャグを使っているが、猿蟹合戦を知らない人にはわからないだろう。中村是好と如月寛多の金角大王、銀角大王が、洞窟の中でモニターテレビを使って柳田貞一の三蔵法師一行を偵察しているあたり、当時小学生だった私たちにとっての夢だったテレビというものを見せてくれている。
また、飛行機の追っかけや、落下傘でのとび降りなぞ自分がとびおりているような気にさせ、小学生をわくわくさせてくれた。
益田隆のこうもりの踊りや女性タップチームの踊りもいい。このほかにダンシングチームの踊りを沢山入れているが、しつこさを感じさせない。
キャストも豪華だ。日本女性でありながら中国名でスクリーンに登場した李香蘭《りこうらん》、といってわからなければ山口|淑子《よしこ》、長谷川一夫と映画「白蘭の歌」「支那の夜」などで共演した当時のトップスターだ。トップスターは李香蘭だけでない。高峰秀子に花井蘭子も当時のトップスターだ。歌手は汪洋、渡辺はま子、服部富子。それからお伽の国の百科事典の精が中村メイコ、この人は東宝映画出演五本目という、当時の名子役スター。エノケン映画二十五作目の「エノケンのワンワン大将」のときに共演ずみである。
細かいことであるが、気がついたので記しておくと、お伽の森へ迷いこんだ三蔵法師一行がワニに出逢い仰天しているところに中村メイコが突然現れて、ワニを制しエノケンの悟空がお前は何者だというと、中村メイコが「私は百科事典の精よ」というセリフがカットされている。子供たちにとってはオモシロかったところなのだが、なぜカットしてしまったのだろう。このセリフがないと、博士帽をかぶり、大きな本を抱えている中村メイコのコスチュームに合わない。ここのシーンに、ワニが登場していたことを記憶している。
そら飛び土もぐり、水をくぐれる者は
自慢じゃないけれど、このおいらだけだ
どんな敵でもおいでなさい
力《ちから》あわせりゃ なんでもない
俺たちは 世界中で 一番強いんだぞー
これが映画「孫悟空」のテーマソングである。
少年の頃一度この映画を見て覚えた歌で、今でも忘れない私の大好きな歌である。
喜劇には残酷さが付きものである。この映画でも機関銃を射ちまくるところがある。射たれた者の衣服だけが残る。しかし射たれた者は悪い魔ものたちだから平気で楽しんで見ていられる。そしてお伽の国も出てきて、メルヘン調なところもある特撮映画第一号なのだ。特撮部分に幼稚なところもあるが、この幼稚さが、この映画にぴったり計算されて入っている。
悟空が花果山水蓮洞に帰ってしまい、八戒が山の上で「悟空の兄貴はどこへ行っちまったんだろう」と立ち上って、ヤッホーと叫ぶと、ヤッホーと悟空の声でこだまが返り悟空が現れる。この辺り、こだまをギャグに使いながらテンポよく進める演出は見事だ。そして悟空を、きんと雲に乗せないところがいい。ちゃっちい飛行機の方がずっとおかしい。
この年、山本監督は、エノケン映画二十三作目の「ざんぎり金太」を三月に撮りあげたあと、エノケンは、二十四作目「誉の土俵入り」、二十五作目「ワンワン大将」(監督は共に中川信夫)の二本を撮影しているから、「孫悟空」のクランク・インまで、準備に相当日数をかけたことがうかがえる。
いま、「孫悟空」のシナリオが残されていたならば、是非読んでみたいものだ。
まず音楽があり、そして芝居がある[#「 まず音楽があり、そして芝居がある」はゴシック体]
黒澤明の自著『蝦蟇の油』(岩波書店刊)によると、山本監督という人は、撮り上げると、あとはチーフ助監督に編集をさせ、黙ってそのツナギをみていて、黙っている時はダメだということなのだそうだ。そして音づけ(音楽や効果音などを入れること)までやらせたという。「孫悟空」のチーフ助監督は黒澤明であった。「孫悟空」という映画が、「ちゃっきり金太」のようにズタズタに切られずにすんだのは、ハサミを入れるスキがなくて、遂にハサミを入れることが出来なかったのだ。それは音楽映画であったからとばかりは言えない。ほとんど全篇にわたり音楽を流している。黒澤助監督の編集が見事だったから助かったと私は思っている。
P・C・Lの初期の作品には「青春酔虎伝」のときにチーフ助監督をつとめた伏水修が、監督に昇進して、古川ロッパ・徳山|l《たまき》で「歌う弥次喜多」、長谷川一夫・李香蘭の「支那の夜」などの音楽映画を撮っている。黒澤明によると、この伏水修が、山本監督の一番弟子で、山本監督の音楽映画を継ぐべき人であり、伏水監督の助監督についた黒澤明と同期の井上深も音楽映画の才能は充分すぎるほどあったそうだ。ところが、この二人が相前後して、その途半ばにして亡くなってしまい、山本監督の音楽映画の系統は、プツンと切れてしまったのだそうだ。
山本嘉次郎は伏水修の成長を楽しみにしていた人だったろうが、エノケンは、もっと頼りにしていた人であった。それは伏水修が、音楽に堪能だっただけでなく、ピアノを弾き、自分で作曲もすることが出来た人だったからだという。エノケンは伏水監督と顔を合わせる度ごとに二人の間で、突っこんだ音楽映画の構想を話合っていたのだが、伏水修の死によって陽の目を見ることなしに終った当時の無念さを、私に話をしたことが度々あった。
「ミュージカル映画というものは、先ず音楽≠サして歌≠りき。それから芝居≠りき、さ。だから音楽を知らなければ監督はつとまらない。こんな映画監督は日本にいなかったものね。伏水修が生きていたらば、彼ならやっただろう」
ところがエノケン映画にこの伏水修の監督作品は一本もない。
とにかく楽しいエノケン映画[#「とにかく楽しいエノケン映画」はゴシック体]
くどいようだが近年見られる古いエノケン映画は、ストーリーを通すだけに編集され、面白い部分は全部といっていい程なくなっているから、私は子供の頃の想い出を大切にしている。いま、こんなズタズタ映画を見るよりも、『不良少年の映画史』(筒井康隆・文春文庫)を読まれた方が、解説つきで非常にくわしくよく書かれているのでおすすめする。書中で筒井康隆は、「エノケンの法界坊」を挙げる。小林信彦は「エノケンのどんぐり頓兵衛」を挙げ、そしてフィルムセンター所蔵の「エノケンの頑張り戦術」は一見の価値がある秀作である(小林信彦『日本の喜劇人』新潮文庫)と書いている。
エノケンの「孫悟空」を挙げる人もいるしエノケンの「猿飛佐助」を挙げる人もいる。この人達は筒井康隆同様に、一杯飲んだ時に、その映画の挿入歌が口から出てくるからのようだ。エノケンの猿飛佐助は、もうろく仙人(エノケン二役)から授かったオシャモジを持っていないと、忍術が使えない設定になっていたので、その頃の子供達は台所からシャモジを持ち出して、忍術ゴッコという遊びをさかんにしたものだ。このようにエノケン映画は批評家の批評など糞くらえで、批評を気にしていたら作れない代物ばかりといっていい。私は東京に空襲がはげしくなった昭和二十年に、銀座で見そこなった「天晴れ一心太助」(脚本黒澤明・監督佐伯清)を五反田まで見にいったこともあった。
ジャパン・アドバタイザーの記者をしていたバートン・クレーン(戦後日本に再来日した)が、戦前アメリカに帰国した時(一九三六年)、ニューヨークの「CUE」という娯楽雑誌(21)に、JAPAN GOES HOLLYWOODという文章を書いている。その一節に、
〈日本の映画館の切符売場において、非常ともいうほど入場客を呼びこむスターがいる。それは日本国内にては名を知られたるケンイチ・エノモトで、ニックネームをエノケンと呼ばれている。彼は、レオン・エロルの如きゴムのような足をもち、ジミイ・デュラントの如き声をもち、ジョー・E・ブラウンのような屈託のない笑顔をもち、またフレッド・アレンの如き、てきぱきとした演技の天分を有する短身の男である。多くの日本映画は、通例ハリウッド作品の模倣でしかないが、ミスター・エノモトは例外で、滑稽における天才というべきか。彼の自己独自の演技は、抱腹絶倒で、日本的である。彼は東京の小レビュー劇場から躍進した。しかし、われわれアメリカ人の知るセッシュー・ハヤカワ(早川雪洲)を除いて、日本の映画スターはそれぞれ撮影所から生み出される製品《ヽヽ》である〉
と指摘している。この雑誌は現在もニューヨークの図書館に保存されていて、コピーを入手することができた。
これは今日のタレントは、テレビ局によって作り出されている、と置きかえられるのだが、今、映画館の切符売場において入場客を呼びこむスターがいるだろうか。時代が違うよ、の一言だろうか。
大林宣彦(映画監督)が、「ぼくらの仕事は基本的に時間泥棒≠ネのだと思う。他人の人生の時間を数時間、とにかくもらって、なにかを見せる。しかも映画館に来る人たちは楽しみたくて、幸福になりたくて、いろんなところから集ってきたのだ。その人たちを十分にもてなして、ああよかった、豊かな時を過ごしたといって帰ってもらえるなど、考えただけで、奇跡のような出来事だ。そういう意味で、作品を最後に完成させるのは、いつでも観客であると思う。ぼくは作者として参加しているだけなのだ。しかしそれこそが、ものづくりの栄光なのだと思う」と、「東京新聞」のコラム欄に書いていたが、主演者も、この思いは同じである。
「エノケンの映画は舞台そのままでちっとも映画らしくない」という批評もある。私がエノケンに訊ねると、「P・C・Lが、舞台と同じようにやりましょう、浅草の芝居は東京の人しか見られないが、映画だと全国のお客に見せられますからと、こう言うから、わざと舞台にできるだけ近く撮影しているのだ」といった。
東宝という映画会社は戦後も舞台で評判のいい芝居を、映画にするということをよくやっている。エノケン・越路吹雪のミュージカル「お軽と勘平」や「アチャラカ誕生」「雲の上団五郎一座」そのほかにもたくさんある。これらはみんな、東京でしかみられない芝居を全国のお客に見せるという、製作方針を引きついでいる。
批評家から、どんなに酷評されようとも、エノケン映画はP・C・Lの弗箱《ドルばこ》であったのだ。弗箱スターこそが日本の映画会社を支えてきたのである。P・C・Lを東宝に発展させてゆく経済的基盤にもなったことを、森岩雄(元・東宝副社長)は、はっきりと認めている。
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[#小見出し]第五章 戦中・焼跡時代のエノケン
エノケンの東宝入り[#「エノケンの東宝入り」はゴシック体]
昭和十一、十二年頃は、ステージ・ショーの花ざかりといっていいくらいに東京の各劇場は賑わっている。有楽町の日本劇場は昭和十年八月に開場し、松竹の映画の併映システムにならって、日劇アトラクションに崔承喜舞踊団を出演させているが、十一年一月には、東宝ダンシングチームを作り「ジャズとダンス」九景(構成岸田辰弥・演出佐谷功)を上演している。
昭和九年に開場した東京宝塚劇場では宝塚少女歌劇団の雪組、月組、花組、星組が交互に宝塚から上京していて、十一年の三月、四月には「ミュージック・アルバム」十八場(構成演出白井鉄造)をだした。有楽座では古川ロッパ一座が、五月「東京ちょんきな」十八景、八月「歌う弥次喜多」十景など、レビュー、バラエティを上演している。
新宿では、新宿座のムーラン・ルージュも一月には「春賑花歌留多」十四景(構成緒方勝)をやり、帝国館にも吉本ショーが進出している。浅草では昭和十二年七月に国際劇場が新築開場し、松竹少女歌劇、常盤座は古川ロッパの抜けた笑いの王国で大辻司郎、山野一郎、田谷力三、関時男らがバラエティをよび物にしていた。オペラ館は清水金一、湯山光三郎、丸山和歌子らのヤパン・モカルで四本のだし物中バラエティを二本。吉本系の花月劇場はタップの中川三郎を中心に、吉本ショーと銘打って映画と漫才の三本立て、江川劇場ではレコード歌手を集めてのバラエティをやっている。
吉本ショーに、あきれたボーイズ(川田義雄・坊屋三郎・芝利英・益田喜頓)が誕生し、音楽を中心にしたバラエティで人気を集めたが、エノケンほどのスターはこの頃現れていない。川田義雄や清水金一がスターダムにのし上ったのは、エノケンが浅草から抜けたあとのことである。
エノケンが東宝専属となる以前(昭和十一年二月)に、松竹が日比谷の有楽座を東宝から一と月借りエノケン一座を出演させた。これがエノケンの日比谷初出演である。
初めての日比谷公演は浅草と違ってマチネーは土曜、日曜、祭日だけで、一日一回興行、従って三本立て(菊谷栄作「男性bQ」。大町竜夫作「南風の与太者」。和田五雄作「法界坊」)で、エノケン全出演のプログラムである。ところがこの有楽座の二月公演の途中で、日本陸軍の青年将校らによる二・二六事件が起こり、二十六日以降芝居は中止という憂目にあった。
この公演から、エノケン一座と松竹は分立《ぶだ》て契約(入場料の総収入を互に協定した率で配分する)にかわったから、二十六、二十七、二十八日と三日間、日比谷一帯を占領した反乱軍のために三日間収入ゼロとなり、経営責任者の榎本幸吉は予定が狂ったと頭を抱えた。まさに興行とはミズものである。
松竹が分立てに切り換えたのはP・C・Lの映画が好調なのに反して、松竹座の客足が下向ぎみとなったにもかかわらず、ダンシングチーム、オーケストラをふくめて総員百五十余名という肥満児になり、さすがの松竹ももてあましだしたからであろう。
松竹とてエノケン映画を傍観していたわけではなかったが、条件が折り合わなかった。その条件とは、松竹で撮るエノケン映画は、エノケンひとり出演してくれという内容で、その隔たりは平行線のまま遂に交差することなく、エノケンの東宝入りとなるのであるが、肥満児の処置はこれしかないと東宝入りを素直に認めたフシが窺われる。
当時東宝の演劇部門は、株式会社東京宝塚劇場(社長吉岡重三郎)が扱っていて、映画とは別会社になっていた。森岩雄がエノケンの東宝専属を吉岡社長に相談すると、松竹の大スター林長二郎が名前を返上して、長谷川一夫として東宝入りするや、有名な頬を斬られる事件を起こしたばかりであったから、松竹を刺激するような行為はさけたいと反対された。
ところが、東京宝塚劇場の秦豊吉専務は、大賛成で契約すべきだと社長に迫るが、社長がNOではどうにもしようがない。そこで、この二つの会社の相談役をしていた小林一三のところへ、東宝映画の森岩雄と秦豊吉は相談に行った。
「エノケンがそんなに欲しかったら、二人で半分ずつに分けたらどうかね」
小林一三の、このひと言で、エノケンの東宝入りが決ったというが、半分ずつに分けるとは、映画と芝居でうまく使いこなせよという意味で小林一三らしい言葉だ。
映画と実演の二本立てで登場[#「映画と実演の二本立てで登場」はゴシック体]
松竹がもてあました百五十人をこえる大世帯を、東宝とてもすんなり受け入れるわけがない。秦豊吉はいままでのエノケン一座を、そのままそっくり引取るのは能のないことだから、東宝第一回公演の前にエノケン一座のハワイ・ロスアンゼルス公演を提案、ついでに本場のレビューの勉強もなさいと半年間のアメリカ行きをもちかけてきた。アメリカでは日本のレビューは通用しないから、アメリカで芝居をやる俳優だけに出演料を払うというのだ。
上海《シヤンハイ》帰りというだけで楽士はギャラが倍になったというほど、アチラ帰りをやたら評価し、留学やら遊学が盛んな時代であったから、エノケンも本場のレビューを自分の目で確めてくることには魅力があったが、いまと違って商船での往復だから半年はゆうにかかる。その間、残った座員の問題について秦豊吉は、凱旋《がいせん》帰朝公演まで自由行動、やめたい人にはやめていただくんですな、と軽く言ったという。
この昭和十三年の時のことを榎本幸吉は、
「座長《エノケン》はクビにしないでなんとかならないかというんだけど、なんとかなるわけがないもの、いやな役廻りだが仕方ないからダンシングチームとオーケストラの楽士と若い座員にやめてもらった。残った人にもよそで仕事するのは自由だから、東宝で公演がはじまるまでと、文芸部も含めて一応解散にすると、冷めたいようだがハッキリけじめをつけた。ところが、そのうちアメリカ行きが中止になってさ、東宝は六月に日劇でエノケン専属第一回公演をやると急にいい出したんで、慌てたよ」
と言っていた。
エノケン東宝第一回公演は「突貫サーカス」十二景、映画は「エノケンの法界坊」と、映画と実演が共にエノケン主演だったから、客は日劇のまわりを五重に列を作り(私も並んだひとりである)、地下まで並ぶという物凄い人気だったことを覚えている。数寄屋橋の泰明小学校が私の母校であるから校舎の廊下の窓から日劇はまる見えで、大きな絵看板までがよく見えた。
浦野富三は『芸界歳時記』の中で、
〈「突貫サーカス」では特別加入の曲芸団などの芸人よりも彼自身がすぐれた曲芸師であった。失業して曲馬団へ拾われた青年が、舞台へまぎれこんで失敗をやる、という芝居だからあまり上手に曲芸をやられては困る。ところが、エノケンは一人前の曲芸師であった。舞台で後ろ向きに倒れる人はあっても、両足を揃えたまま、うつ伏せにチャーンと倒れて、鼻柱を打ちつけるアクションのまともに出来る俳優は、日本広しといえども彼以外に沢山はいまい。
あの見事な腕の力がなかったなら、本当に鼻柱を折ってのびてしまうこと請合である。エノケンが無雑作にやってのける、あのドラムとシンバルとをシンクロナイズさせてうつ伏せに倒れる芸当だけは真似手はあるまい〉(有厚社刊)
と書いている。
検閲が厳しくなる中で[#「検閲が厳しくなる中で」はゴシック体]
戦雲は次第に濃くなり、砂糖やマッチが切符制になって自由に買えなくなり、菓子類が貴重品になってくると、当時の子供にとっての楽しみは、面白い映画を見ることだけだった。テレビのアニメ漫画にかじりつくのと同様である。
当時はどこの映画館にも一番うしろに一段高く臨官席というのがあって、いつもお巡りさんが坐って映画をみているので、毎日映画をみられる警察官がうらやましかった。七・三〇禁令が施行され、映画、演劇の検閲が一層きびしくなったことなど、子供の私は知る由もない。
名横綱といわれた双葉山が安芸ノ海に敗れて七十連勝ならずというのが、昭和十四年の一月で、私はこの日偶然にも国技館でこの勝負を見ていたが、女性は髪にパーマネントをかけることを禁止する指令が出たということは、子供達には関係のないことだから知らなかった。
昭和十五年三月に封切られた「エノケンのざんぎり金太」(監督山本嘉次郎)は「続・ちゃっきり金太」というタイトルであったが、警視庁の検閲官からストップがかかり、|ちゃっきり《ヽヽヽヽヽ》とは、きんちゃっきりの金太、つまりスリの金太のことであるから戦時下にふさわしくない、内容はスリから足を洗って更生するから許すとして、タイトルは絶対まかりならぬというので、断髪令が出て、男はみんなチョンマゲを切り、ざんぎり頭にした明治の物語だったから「ざんぎり金太」に変更したのである。
そしてエノケンはいった。
〈喜劇はただ面白いだけではいけない、何か理由をつけろというのである。理屈などつけた喜劇は、もう喜劇ではなく面白くもなんともない、無味乾燥なものになってしまう。そうしたことで、笑い話のような本当の話がある。
試写に立会った検閲官が、アッハッハ、アッハッハと始めから終りまで笑いずくめで、こいつは面白い、と自分の妻君から子供まで家族の者全員連れて来て、どうだ面白いだろうと見せていた。それでいて、検閲の結果は、にわかにいかめしい顔をして、これはただ面白いだけで意味がないから「甲種」である。つまり大人だけが見る映画で、家族用じゃないというのである。
その頃は甲種は成人用、乙種は家族用という制度になっていた。散々面白いと家族を呼んでまで楽しんでいた結果が、意味がない面白さだから家族向けじゃないというのである。万事こんな調子だった〉(『喜劇こそわが命』)
いま思うと狂気の沙汰はまだまだある。エノケンとか、ロッパとか、片仮名書きの名前は外国人に紛らわしいとか、風紀上好ましからざる印象を与えるから、日本人らしく漢字を使うように、という指令が出た(昭和十五年三月二十八日・芸名統制令)。
「それならば、アスピリンやラジオ、ピアノはどうかえるんだ。漢字に出来るならお目にかかりたい。第一、片仮名というのは、世界広しといえど日本だけの文字だ、日本製の字を使ってどこが悪い。漢字はどこの国の字か知ってるのか」と開き直ったのは古川ロッパである。
水の江滝子や小夜福子らに対しては「婦徳を汚す男装はまかりならぬ」と、男装の麗人も姿を消すことになり、笠置シヅ子は舞台へ出る時の、つけまつげが長すぎると注意され、日劇ダンシングチームは、東宝舞踊隊と名をかえた。
昭和十五年九月、日・独・伊三国軍事同盟が締結され、黄土色の国民服というものを制定。そして国民服≠フ次は国民学校≠ナ、日本じゅうの小学校は全部国民学校と名称をかえてしまった。
そこで東宝も東宝国民劇≠ネるものをやることになり、第一回が東京宝塚劇場における「エノケン竜宮へ行く」(作・演出白井鉄造)、後の帝劇ミュージカルス、東宝ミュージカルの濫觴《らんしよう》となるものである。
企画者は秦豊吉、踊りは益田隆と東宝舞踊隊、エノケン一座に宝塚歌劇団から草笛美子、橘薫が参加し、検閲のきびしい時代によく許されたと思うほど、外国の曲をふんだんに使った豪華なミュージカルが上演された。
おそらくエノケンが以前から歌っている曲は、外国の曲に日本語の詞をつけているのを検閲官たちはご存知なく、日本人の曲だと思い込んでいたのではあるまいか。「洒落男」しかり、映画「法界坊」の中のナムアミダブツ・ナムアミダが、モーリス・シュバリエの歌ったルイズを借用したなど、いまも知る人は少い。
エノケンも軍人慰問と併せて満洲朝鮮の銃後の戦士激励にかり出された。
昭和十七年の四月、米軍機の初の東京襲来の日は、長谷川一夫と共演の「待っていた男」の撮影中で、機械の故障で間違いのサイレン(空襲警報)ではないかといっていたら本当の空襲とわかり、とうとうその日は撮影どころではなくなったという。
しかし、エノケンは日本の必勝を信じていたから、防空壕を掘ったり疎開もせずにいるうち、二十年の五月に焼け出された。
年譜を見ればわかることなのだが、昭和十七年は映画三本、有楽座に二回、日本劇場一回、大阪北野劇場二回、名古屋御園座に一回、名古屋宝塚劇場に一回出演しているが、この年上演した 「マレーの虎」(作菊田一夫)は、マレーの虎 と呼ばれたハリマオという男が、日本軍に協力して死んで行くという大悲劇であるのに、大拍手が湧き上ったというのも、ご時世というものであろう。
戦時下のエノケンの活躍[#「戦時下のエノケンの活躍」はゴシック体]
昭和十八年の正月は日劇「音楽は愉し」(構成演出服部良一・和田五雄)に出演、ジャズは禁止されていたから、国民歌謡と軍歌のオンパレード。
三月、東京宝塚劇場での、東宝国民劇第八回の音楽劇「桃太郎」(作演出・白井鉄造)は、三部四十場一本立ての長篇作で、高峰秀子の桃太郎、エノケンの猿飛山の三吉、岸井明の犬のポチ丸、灰田勝彦の雉子の勇次郎、高勢実乗の妖怪大王、霧立のぼるの猿飛山の赤子、柳田貞一のお爺さん、橘薫のお婆さん、進藤英太郎の鬼の総督、大路多雅子の楊貴妃という配役に、淡谷のり子、益田隆、斎田愛子ら多彩な出演者を揃え、戦時下にありながら千変万化の舞台は、おとなも子供も楽しめるファミリー・ミュージカルで、春休み一番の話題を集中させた。
エノケンとしては、東宝国民劇二回目の出演で、一回目が、浦島太郎(「エノケン竜宮へ行く」)で二回目が桃太郎だから、三回目は猿蟹合戦かと、冗談をいっていたら、猿蟹合戦までこないうちに、東宝国民劇は終りとなった。
この年の映画は、「兵六夢物語」と「韋駄天街道」の二作品にとどまり、あくる年も「三尺左吾平」「天晴れ一心太助」の二本だけとなる。
ところが舞台出演のほうは十八年の十一月有楽座、十二月(二十二日から)日劇、十九年正月も引き続き日劇、そして二月有楽座、三月は大阪北野劇場と決まっていたところ、二月二十二日「決戦非常措置要綱」が発表になり、高級享楽停止≠フ具体的内容が示された。
つまり戦時下の芸能は、あくまで国民の士気高揚、戦力増強に資すべきもので見たり聴いたりする人びとに、奮起をよび起すものでなければならない。徒らに|安易な涙や低俗な笑い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を与えて、それで国民生活に潤いや喜びを与えることが出来たと考えるような、浅薄な態度を絶対に排撃しなければならないということで、三月五日以降高級劇場は休場を命ずるということになった。高級劇場《ヽヽヽヽ》というおかしな表現を使っているのは、高級料亭、待合、バー、カフェー(クラブ)等といっしょくたにしたからであろう。
休場を命ぜられた大劇場は、東京では歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場、国際劇場、明治座、帝国劇場、東京宝塚劇場、日本劇場、有楽座、大阪が歌舞伎座、中座、角座、北野劇場、梅田映画劇場、大阪劇場、京都は南座、名古屋は御園座、神戸松竹劇場と宝塚劇場の十九の劇場は直ちに閉鎖した。私は三月公演の前売券を買い求めてあったのでガッカリして払い戻しに行った記憶がある。
劇場閉鎖をする一方、入場税のほうはどしどし改正し、一円未満の入場料に対しては入場税六割。三円未満が十割、五円未満が十五割、五円以上は二十割。入場料五円とすると税金がおどろくなかれ十円で計十五円を払うことになった。映画は特級映画館(封切館をさしたらしい)一円十銭の入場料に一円十銭の入場税で合計二円二十銭。一級映画館が八十五銭に税金が五十一銭ついて一円三十六銭。これが昭和十九年二月の入場税と入場料金である。過去の日本に、こういう目茶苦茶な時代があったのだ。
それから一と月ほどすると、新橋演舞場と明治座と大阪劇場は興行が許された。朝令暮改もいいところだ。歌舞伎座は東京都臨時公会堂となって、一般興行はさせず種々の慰安会場として使われるようになった。これは大劇場閉鎖で大打撃を受けた歌舞伎俳優を代表して、当時俳優協会会長だった十五世市村羽左衛門が顔の利く軍部の高官や、政府高官に直接強談判し解除させたのだそうだ。
そのために歌舞伎座の臨時公会堂には率先して出演した。しかし一般興行ではないので好劇家も入ることが出来なかったが、私は、つてを求めてうまくもぐりこませてもらい、十五世羽左衛門の仮名手本忠臣蔵の由良之助や、七代目幸四郎の大森彦七など見せてもらった。
四月になると一回の興行時間は二時間半以内と制限を受けたが、特別解除の恩恵を受けられなかった東宝は松竹と談合して、四月にロッパ一座が新橋演舞場に、五月には新国劇が東宝の責任において明治座で、六月エノケン一座は、松下井知夫作・菊田一夫脚色「突貫駅長」と長谷川伸作「明日の赤飯」を浅草松竹座で上演したが評判がよく七月七日まで日延している。いまにして思うと、特別解除を受けた明治座、新橋演舞場、それと歌舞伎座は戦火で焼失し、解除を受けられなかった東宝系の帝劇、東京宝塚劇場、日劇、有楽座が戦火をまぬがれているのが面白い。
東宝は映画館の渋谷東横映画劇場と、錦糸町の江東劇場を演劇館に転用し、エノケン一座もここで、「山がら物語」「権三と助十」「無法松の一生」「らくだの馬さん」を上演した。
エノケンは戦時中「マレーの虎」「河童の園」「ベンゲットの星」「明日の赤飯」「山がら物語」「無法松の一生」というシリアスな芝居を演じているが、私はこの中で一番印象に残っているのが「無法松の一生」というのはどういうことなのだろうか。
せっかく劇場の椅子に腰をかけたと思うと警戒警報が発令されて芝居は中止となり、互に中学生だった増見利清(演出家)と、すごすごと帰途についたことが幾度もあった。この頃私の悪友は増見利清で二人で歌舞伎から新派、新国劇、前進座、ロッパ、エノケンと芝居と名のつくものは片っぱしから全部見て歩いた。新宿第一劇場で昼の部を見てから築地まで電車に乗って新橋演舞場の夜の部を見るということもあった。演舞場と明治座を昼夜はしごして見るのは始終であったが警戒警報にガッカリしたことが多かった。
焼跡に立って[#「焼跡に立って」はゴシック体]
昭和二十年三月十日初日になっている新宿第一劇場の「江戸ッ子長兵衛」は私は見ていない。九日の深夜から十日にかけての東京大空襲で、浅草は再び焦土と化し、浜町の明治座も焼けてしまった。平井で罹災した柳田貞一と家族は大森の洗足池に近い大森区雪谷のエノケンの家まで夜通し歩いてきたという。そして浅草に住んでいる中村是好の安否を案じていたところ、四日目になって第一劇場の楽屋へ現れた。その時のことを中村是好は、
〈空襲で家は焼け、家族全員は言問橋の橋下で助かり、一日飲まず食わずで浅草観音裏のお寺にご厄介になったのだが、顔を洗うのに手拭も石鹸もなく、ぼんやりしていたとき、新宿第一劇場に楽屋着のどてらと手拭や石鹸がおいてあるのに気が付いた。早速新宿へ行くと劇場の周りに延々長蛇の列なので、私はなんの配給ですかとたずねたら、エノケンの芝居を見るんだといわれて、こんな騒ぎのさなかに芝居をやるのかと楽屋へ行くと、
「おお無事だったか、三日も浅草を捜させたんだが姿が見えないので、もしか、と思っていたんだ。よかったよかった。柳田師匠一家も無事で私の家に来ているから、すぐに子供を連れて来てくれ」
早速浅草のお寺へ戻って家内が長男(二歳)を背負い、私は長女(六歳)を荒縄で背負って大森雪谷の洗足池駅へ着くと、榎本氏が茶のどてらにちゃんちゃんこを着て、私たち親子の迎えに出ていてくれました。
「おお坊や、無事でよかった無事で……」
後は声も言葉も出ない。あの大きな目玉からのぽろぽろ涙をげんこつでふいている姿、今だに胸つまる嬉しさを忘れられません。当時、榎本氏の実家の妹さんにお母さん、柳田貞一一家、それに私たち一家ですから合計二十五人。私は配給になった玄米の米つき役でしたが、この榎本氏の家も二ヵ月後の五月二十四日の夜中に丸焼けとなり、榎本氏は犬小屋を掃除してセパードがいた犬小屋にベッドを作り寝起きしていました〉(「エノケンを偲ぶ」)
と書いている。神吉拓郎(作家)も、この当時の想い出を書いている。
〈旧制高校にいた頃、エノケンさんの家(大森区雪谷)を訪ねたことがある。その頃私たちは動員されて、学校よりももっぱら工場へ通勤していた。夜勤明けの或る朝、友人の上岡が「おい、エノケンの所にお見舞に行こう」という。昨夜の空襲で焼けたらしいというのである。上岡は洗足だかその辺に住んでいて、エノケンの家は、近所にあった。(中略)確かこの辺りだと見廻していると、敷地の中にぽつんと大きな沓脱石《くつぬぎいし》が残されて、その上に小さな男が腰掛けていた。その男がエノケンその人だった。
上岡が訥訥《とつとつ》とお見舞の言葉を述べると、エノケンは煙でいためたらしい赤い目をぱちぱちさせて「やられちゃったよ」と苦笑いした。大きな赤い目であった。よくポスターの写真などで見る顔とそっくりだったが、化粧なしの顔は老けてみえた。それでも突然降ってわいた見舞客に活気づいた彼は、私たちをその沓脱石に腰かけさせて、焼けたときの実況を再現してみせた。
身ぶり、手ぶり、表情もたっぷりの仕方話である。「そこに池があったんだけどね」と説明がある。「なくなっちゃったけどね」本当にない。まっ平《たいら》である。「あたしが、こう、縁側に腰を掛けてると……」エノケンは、縁側に腰を掛けてみせる。勿論縁側なんか焼けてありはしない。これは得意の芸である。身体の利く人だから、なんにもない空間に腰を掛けて、足を組んでみせるなんて芸当が出来る。私たちが笑うと、エノケンも、にっと笑った。
「ザザーッと焼夷弾が降ってきやがって、そこの池へ、バサバサーッと落っこって、あたしゃ後へふっとばされたよ」池は、たちまちお湯になって、中の鯉があっという間に煮えてしまったそうである。「ありゃありゃと思って、ぼんやり見てるうちに、家のほうがボーボー燃え出して、手のつけようがないの。消すヒマなんかないですね」仕方話でやられると、空襲の夜のすさまじい光景も、ドタバタ喜劇のような味わいを帯びてきて、私たちは、ついつい笑わされてしまった〉
神吉拓郎は巧な筆でエノケンを描いている。エノケンの家一帯が焼けたのでなく、たった三軒、それもとびとびに直撃を受けたのだから不運としかいいようがないが、隣近所に迷惑を及ぼさなくてよかったというところがエノケンの人柄である。
焼け出される前は、焼け焦げのついた防空ずきんや、泥だらけのゲートル姿で笑いを求めて見にくるお客をみると、胸がジーンとしてやりきれなかったのが、自身が焼け出されてみると、こうしたお客さん達にぐっと親しみが増し、舞台から開口一番「私も、もうすみました(焼かれた)」というとドッと笑いが湧いて、いちだんとなごやかになったというが、アメリカ軍の東京空襲での死者は七万七千人にも及んだのである。
五月二十四日のこの空襲のとき、エノケン一座がかろうじて出演をしていた江東劇場も、渋谷東横映画劇場も焼失した。エノケンは「虎の尾を踏む男達」(監督黒澤明)と「快男児」(監督山本嘉次郎)の二本に併行して出演し、撮影中に戦争が終った。この年エノケンは四十一歳であった。
アメリカ進駐軍の新たな検閲[#「アメリカ進駐軍の新たな検閲」はゴシック体]
この「虎の尾を踏む男達」で、義経一行を追いかける弁慶ではなく、強力《ごうりき》のエノケンに、独特の六方を踏ませているラストシーンがある。淀川長治と武満徹が、日本のミュージカルだと、べたぼめし、マイケル・パウエルもすばらしいとほめている。フーガのような男女混声のコーラス(音楽・服部正)を使い、勧進帳に強力を加えている。
エノケンは踊りでも、振付師にキチンと教わり、あとは自分が芝居に合わせてくずすというやり方だったから、それだけに人にもきびしいところがあった。佐々紅華のオペラ「勧進帳」で弁慶をやることになったとき、エノケンは二代目市川左団次に、弁慶の飛六方を、弟子のどなたかに教わりたいと申し出ると、松竹の川尻清潭を紹介された。
松竹座がハネてから、夜おそく料理屋の座敷で、三晩、川尻清潭から弁慶の飛六方を教わったが二代目左団次が紹介してくれた人だけに、ひと通りの型を教えてくれてから、誰々は、ここを、こうした、誰々は、ここのところを、こうした、誰々は、と弁慶を演じた人それぞれが、ごく僅かながら違うところまで、こまかく教えてくれたのは、さすがであったと述懐していた。
オペラ「勧進帳」には飛六方などなかったのだが、花道のある松竹座だけに六方を踏みたかったのだろう。オペラだからむろん長唄でなく、男女合唱つき和洋大合奏だが、以来これに挑戦したオペラ俳優はいない。これが映画「虎の尾を踏む男達」で役立ったのだ。
「キネマ旬報」(一九五二年・六月上旬号)で大黒東洋士は、こう言っている。
〈日本が逼塞状態にあった最悪のコンディションのもとで作られた作品で……撮影の悪条件を克服していい映画を作ろうという激しい意欲が感じられて、多分に教えられるものがある。……義経、弁慶の名狂言「安宅の関」の一幕物の構成で、話そのものには新味がない。
しかしエノケンを強力《ごうりき》に仕立ててユニークなコメディ・リリーフの効果をあげているあたりに、黒澤らしい才気のほどが感じられて面白い。安宅の関の一場はどこまでもシリアスなものとして描き、これとはおよそ水と油と思えるエノケンのコメディ・リリーフをあしらって破綻を見せていないのは注目に価する〉
フィルムが超貴重品の配給時代であったから、この頃の映画三社(松竹・東宝・大映)の作品はどれもみな四十分前後の作品ばかりである。
黒澤明は、大河内伝次郎とエノケンで「どっこいこの槍」を撮影するつもりで脚本も完成させ、ポスターまで準備したのに、この作品に必要な馬が、軍馬として徴用されてしまったので富士の裾野へ行っても撮影する馬の数が集らないことがわかって断念せざるを得なくなり、その代案として急遽企画したものなのである。この時のことを黒澤明はこう書いている。
〈この案は、「勧進帳」を基にして、全体の構成もそのまま、大河内の弁慶もそのままで、ただエノケンのために新らしく強力の役を加えるだけだから、二日もあれば脚本は書ける、と私が申し出たので、上映作品が不足して困っていた会社は渡りに舟だった。
また、セットは一つ、ロケは、当時、撮影所の裏門から続いていた御料林で済ます、というのだから会社はよろこんだ。ところが、それが獲らぬ狸の皮算用で、とんでもない事になる。この「虎の尾を踏む男達」の撮影が順調に進んでいるうちに、私のセットにも、日本に進駐して来たアメリカ兵が時々顔を見せるようになった。或る時なぞは、大挙してやって来て、私の作品の風俗が面白いのか、キャメラをパチパチやるし、八ミリは廻すし、中には、自分が日本刀で斬られるところを撮ってくれ、という奴まで出てきて、収拾がつかなくて、撮影を中止した事もある。
アメリカ軍は、日本に進駐すると、日本の軍国主義退治を始めたが、その一環として、司法警察や検閲官を馘首した。ところが、それなのに、私は日本の検閲官に呼び出されたのである。(中略)
さすがに検閲官は既に内務省を引き払って、別の場所に集っていたが、書類を石油缶で燃やし、椅子の足を鋸で切って薪をつくっているその有様は、尾羽打ち枯した権力者の、見るも哀れな末路の眺めであった。
しかるに、奴等は、まだ威張るのはやめられず、高飛車に私を詰問した。
「この虎の尾を踏む男達≠ニいう作品は何事だ。日本の古典的芸能である歌舞伎の勧進帳≠フ改悪であり、それも愚弄するものだ」
これは、今、誇張して書いているのではない。一言一句、正確に書いている。奴等の言葉は、忘れようと思っても忘れられるものではない。
この奴等の詰問に対して、私は次のように答えた。
「虎の尾を踏む男達≠ヘ、歌舞伎の勧進帳≠フ改悪だと言われるが、私は、歌舞伎の勧進帳≠ヘ、能の安宅≠フ改悪だと思う。
また、歌舞伎を愚弄するものだ、と言われるが、私には全くその意志はないし、どこがその愚弄に当るのか、さっぱり解らない。その点について、具体的に指摘してもらいたい」
検閲官一同、暫く黙っていたが、その一人が次のように言った。
「勧進帳≠ノ、エノケンを出す事自体、歌舞伎を愚弄するものだ」
私は、「それは可笑しい。エノケンは立派な喜劇俳優です。それが出演しただけで、歌舞伎を愚弄した事になるという言葉こそ、立派な喜劇俳優のエノケンを愚弄するものである。喜劇は悲劇に劣るのですか。喜劇俳優は悲劇俳優に劣るのですか。ドン・キホーテのお供にサンチョ・パンサという喜劇的な人物がついているが、義経主従にエノケンの強力という喜劇的な人物がついていて、何故、悪いのですか」
少し論旨が混乱しているが、私は、カッとなってまくし立てた。すると検閲官の中のエリート臭をプンプンさせた若僧が噛みついて来た。
「とにかく、この作品は、くだらんよ。こんな|つまらん《ヽヽヽヽ》ものを作って、君、どうする気だ」
私は、溜りに溜ったふんまんを、その若僧に叩きつけた。
「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴が、つまらんという事は、大変面白いという事でしょう」
その検閲官の若僧の顔色は、青、赤、黄、の三原色に変化した。私はその顔を暫く見物してから、席を立ってさっさと帰って来た。しかし、そのおかげで「虎の尾を踏む男達」は、G・H・Q(進駐軍総司会部)から、上映禁止を喰った。それというのは、日本の検閲官が、撮影中の日本映画の報告書から「虎の尾を踏む男達」だけを削除したからだった。未報告の非合法作品として葬られたのである。
それから七年後、G・H・Qの映画部門の担当官がこの作品を見つけ、大変面白がって、上映禁止を解除してくれ、やっと陽の目をみることになったのである〉(『蝦蟇の油』岩波書店刊)
安心しきった笑い……[#「安心しきった笑い……」はゴシック体]
戦時中の情報局にかわって映画や演劇は、進駐軍の民間情報部の指導下におかれ、映画はことにきびしく、終戦間際に撮ったエノケン、原節子、藤田進らが出演した「快男児」(山本嘉次郎監督)も公開禁止の処分をうけ、指摘された部分を手直しし、昭和二十八年四月にタイトルも「恋の風雲児」と改めて上映が許可された。エノケンはもう一本、「歌え! 太陽」がある。これは撮影中だったので、一部を急いで改訂して昭和二十年の十一月二十二日、戦後初の東宝映画作品として上映された。
被災をまぬがれた東京宝塚劇場は終戦後一ヵ月を待たず、九月十二日から「東宝芸能大会」(十月二十九日まで連続延六回公演)で華々しく開幕したが、その年の暮には進駐軍に接収され、アーニー・パイル劇場と名をかえた。このわずかの時期に、たった一回の芝居公演が十一月一ヵ月だけ行われた。それがエノケン一座で「どもり綺譚」(小国英雄原案・菊田一夫脚本演出)と「膝栗毛の出来るまで」(正岡容原作・太田恒三郎脚色・エノケン文芸部演出)である。
入場料二円、入場税が二円合計四円で全階指定席の予定が急に全自由席となったため、良い席にすわろうと私も早朝から行列に加わり、連日三階席まで満員の盛況。エノケンはこのとき、「不思議ですね、終戦前と、終戦後ではお客の笑い方がまるっきり違うんです。戦争中、空襲中もお客はよく笑ってくれましたが、どこか遠慮がち、というのかな、そんな笑い方でしたが、安心しきった笑い方ですね、でもまだ本ものの笑い方ではありません」と取材に来た記者に話しているが、笑った私は気づいていない。
有楽座と日劇は、アメリカ本土爆撃用の風船爆弾製造工場になっていたので場内の整備に手間どり、十一月からそれぞれ開場したが、日劇は一階の椅子が三分の二ほどしか間に合わなかったが、連日乱入する観客に片っぱしから押しこわされて、次第に椅子席が少くなった。
昭和二十一年の正月、日劇「エノケンのサーカス・キッド」(作演出・菊田一夫)へ出たエノケンが舞台から客席をみると、一階の椅子席は半分くらいしかなく、そのうしろに立った客がギッシリとつまっていたので、なんとか早く椅子席が元通りにならないかと支配人にきくと、「このほうがお客が沢山入れられるからこれでいいんです」といわれたそうだ。
私も渋谷駅前の焼けた映画館で、映画を上映しだしたから見に入ると、客席に椅子はひとつもなく、一階は、むしろが数枚敷いてあるだけで、二階は階段状のコンクリートの床がそのまま残っていたので、坐るより腰かけるほうが楽だとばかり、その階段状のコンクリートの冷たい床に、じかに腰かけて見た覚えがある。
エノケン・笠置のコンビ誕生[#「エノケン・笠置のコンビ誕生」はゴシック体]
三月、エノケン一座は有楽座でブギの女王笠置シヅ子をゲストに、「舞台は廻る」(作演出・菊田一夫)と「リリオム」を上演した。笠置シヅ子はこの時のことをこう回想している。
〈私が初めて榎本先生にお会いしたのは昭和二十一年の二月末頃で、三月公演「舞台は廻る」のお稽古場でした。その後お芝居、映画と、いつも暖かく指導してくださいました。先生が私に仰有ったことは、
「君は歌手だから芝居はよくわからないだろうけども、君の芝居はツボがはずれている。しかしそれがまた面白い効果を出しているので改める必要はない。僕は君がどんなにツボをはずしても、どこからでも受けてやるから、どこからでも、はずしたまま突っこんで来い」
このお言葉を終生忘れぬ教訓としています。「コペカチータ」という歌を先生と二人で一緒に歌ったとき、掛け合いで歌う箇所で先生が間違えて一つ余計に歌われたことがありました。私はおかしくておかしくて、それからとうとう歌えませんでした。そしたら先生は自分で間違えた責任上、ご自身も笑いたかったに違いないのですが、最後まで私の分まで一人で歌ってくださいました〉(「エノケンを偲ぶ」)
エノケン・笠置のコンビは、戦後すぐの興行界に異彩を放ち、ブギの流行とともに明るい清新さがあり、個性の強いこの二人の舞台は、かつてのエノケンの舞台にみられなかった新しい頁を開いた。体当りでぶつかって行く演技に観客は、これがブギの女王かと、眼をみはったものである。
これ以降、エノケン・笠置のコンビは「エノケンのターザン」「一日だけの花形《スター》」「愉快な相棒」「エノケン・笠置のお染久松」「ブギウギ百貨店」「天保六花撰」と、有楽座の舞台や映画で共演したので、笠置シヅ子について少しふれておきたい。エノケンが、エノケン・笠置≠ニ二枚看板で劇場へ出たということは初めてのことである。
笠置シヅ子はステージ・ショーの花ざかり時代、昭和十三年に日比谷の帝国劇場に、松竹楽劇団が誕生のとき、O・S・S・K(大阪松竹少女歌劇団)からえらばれて上京した。O・S・S・Kのトップ・スターとはいえ、東京では未知の人であった。ところが、幕が上るや、この松竹楽劇団のトップ・スターの座を、大阪の歌姫、笠置シヅ子が占めてしまったのである。ここで服部良一(作曲家)と出逢い、以後笠置シヅ子はコロムビアの専属歌手となるのだが、服部良一メロディしか歌わない異色歌手となった。
松竹楽劇団の「カレッジ・スヰング」全六景を見た評論家双葉十三郎は映画雑誌「スタア」誌上で、こう激賞している。
〈彼女がわが国第一のスウィンギーなショーの歌手としての地位を、揺ぎないものとしたことを人は、はっきりと知るであろう。
彼女の持つスウィング調、それは今までの我が国の歌手が容易に体得し得なかったもので、レコードを通じて、エラ・フィッツジェラルド、マキシン・サリバン、ミルドレッド・ベイリー、ルイ・アームストロング等のスウィング調なるものは到底日本では求められぬものと、半ば絶望にも似た気持になっていたが、笠置シヅ子によって希望と歓びに置きかえられた。彼女の声量には一驚に価するタフネスがある。たとえば「セントルイス・ブルース」など、彼女ほどのスタミナをもって唄いまくり得る歌手は、わが国において現在のところ、絶対に他に求められない。彼女ほどスウィングのリズムに乗れる歌手の例を僕は他に知らない。
今回の「カレッジ・スヰング」における彼女の「メーク・リズム」の如き、凄まじいホット・スタイルの場合における盛り上りの圧倒的なるは勿論のこと、続いて歌われるスロー・フォックス・トロットの佳曲「接吻して話してよ」の如きは、自らスウィンギーな波が生まれて、スウィート・スウィングの本当の味が出てくるのである。(中略)
そして、アリス・フェイをも凌ぐばかりの情緒を醸し出し、そこはかとなき哀愁を含んで、人を夢の如き情感に誘うのである。まさに天性のスウィング娘である。が更にいわなければならないのは、舞台における逞しい意欲であり、フロンティア・スピリットとでも称すべき、あくことなき努力の舞台精神である〉
日米開戦でジャズをうたうことを禁止された笠置シヅ子は、日本の敗戦で不死鳥のようによみがえった。それは服部良一作曲の「東京ブギ」である。
ト、オッ、キョ、ブギウギ、とバイタリティあふれる独特のうたい出しで、体をゆらせてジグザグに動いて踊りながらうたうんだ、踊るんだ、踊りながらうたうんだ、東京ブギは平和の叫びなのだ、と服部良一にいわれた通りに笠置シヅ子はうたった。
底抜けに明るい「東京ブギ」は、長かった暗い戦争時代をふっ切らせ、やっと平和を自分のものにしたという実感を味わわせてくれて、敗戦の国民が立ち上ろうとする活力の象徴のように大衆は感じ復興への努力の道を歩みはじめたのだ。「東京ブギ」に続いて「さくらブギ」「ヘイヘイブギ」「ブギウギ時代」「ホームランブギ」「買物ブギ」など、服部良一作曲のブギは三十曲近くを数えた。
しかし、ブギの女王と呼ばれた笠置シヅ子は昭和三十一年五月、日本劇場公演「ゴールデン・パレード」の舞台を最後に歌手を廃業した。多くのファンたちはなぜかと驚いた。理由は、自分が納得できる声がようでえしまへんので堪忍してや、のひと言であった。戦後わずか十年で歌手笠置シヅ子は自ら幕を閉ざしたので、戦後生まれの人は知る由もない。バイタリティ溢れたト、オッ、キョ、ブギウギ、をうたえる人は、その後いない。
さて、戦後の話題作映画「酔いどれ天使」の製作準備に入っていた黒澤明監督は、映画に笠置シヅ子を出演させてうたわせたいと、自分で「ジャングルブギ」を作詞し、服部良一に作曲を依頼した。黒澤明のレコーディングされた作詞はあとにもさきにもこれ一つではあるまいか。昭和二十一年の八月有楽座公演は「法界坊」と「エノケンのターザン」の二本立てで、「エノケンのターザン」(脚本・金貝省三)の劇中で、エノケンと笠置シヅ子は掛け合いで、このジャングルブギをうたった。
映画「酔いどれ天使」のほうは、おくれて昭和二十三年の四月に封切られた。この有楽座公演のプログラムの中で、東宝エノケン一座が、エノケン劇団として独立することになった挨拶文を載せているが、これはあとにゆずるとして、敗戦の翌年の昭和二十一年の東京の劇場の様子をちょっと紹介しておこう。
ストライキに揺れて[#「ストライキに揺れて」はゴシック体]
五月に歌舞伎がようやく解禁されて、東京劇場は、菊五郎(六代目)、吉右衛門(初代)、幸四郎(七代目)、宗十郎(七代目)合同の歌舞伎。帝国劇場が新派。有楽座がロッパ一座。日本劇場が、ミュージックショー・メトロポリス(益田喜頓・高杉妙子・灰田勝彦・谷桃子・須田圭子・桜井潔・バッキー白片・ディック・ミネ・ヘレン本田・ベティ稲田・TDA)。
浅草花月劇場が空気座第四回公演「春宵浮世絵色鑑」「ヴァラエテー浅草復興祭り」「恐怖の家」(有島一郎・左卜全・並木瓶太郎・沢村い紀雄・中田久美子・大友勢津子・堺駿二)。浅草常盤座は松竹歌劇団、水の江滝子一座合同の「東京踊り」。松竹座が清水金一一座「シミキンの三銃士」であった。
新宿第一劇場が森川信と軽音楽大会。新宿ムーラン・ルージュ赤い風車・作文座は「女性対男性」「陽当り横丁」(明日待子・小柳ナナ子・佐藤久雄・野々浩介・小山草介)。
この頃東宝は、「赤い東宝」「ストライキの東宝」と呼ばれるようになった。昭和二十年十二月に東宝撮影所従業員組合が結成され、二十一年春には賃上げ闘争、更に生産管理を行うなどの挙にでてきたので会社側はあわてだした。
〈私達は今回東宝株式会社の諒解のもとに、自主的な独立を致しまして、新らしく株式会社榎本健一劇団を設立し、劇団名も在来のエノケン一座をエノケン劇団と改名し、(中略)これは昨冬以来の懸案でありまして、しばしば東宝株式会社と折衝を重ねて来たのでありますが、交渉途中に世相の劇変による社務繁忙のため、今日(昭和二十一年八月)に至りましたが、私達の希望が全面的に容れられ(中略)私達が何故に東宝傘下を離れて独立形態を採つたかと申しますと、それは私達がひたすら芸道に精進したいと云ふ純粋な気持を持つたからであります。
終戦以来我が国の直面して居ります未曽有の新事態に対しましても、自己批判の鞭を加へ、謙虚な気持をもつて再出発(中略)今日の興行界には幾多の困難な障壁が立ち塞がり、私達はこれを乗り越へるためには血みどろの敢闘をつづける覚悟をいたして居るのであります。
しかしこの場合、私達だけの力ではどうすることも出来ません。要するに皆様のご協力がなかつたら、私達は一歩も前進することは出来ないのであります。(以下略)〉
これは榎本健一の名で、八月の有楽座プログラムにのせた「新発足に際して」であるが、読者もなんとおかしな挨拶文だと思われるだろう。
これは東宝に労働組合が結成され、役員以外はみな組合に強制加入をはじめたので、会社側は急いでエノケン一座を(ロッパ一座も同様)専属からはずし、東宝は資本参加し株式会社榎本健一劇団として独立させたのである。その狼狽《ろうばい》ぶりがうかがえよう。
この大争議はやがてエノケン、ロッパの喜劇にも大きな影響を与えた。だがこの争議中も撮影は行われ「人生とんぼ返り」はどうやら仕上ったが、「エノケンの婿入り豪華船」にいたっては、組合のサボタージュに巻き込まれて、延々四ヵ月の長期をかけてやっと入港という、エノケン映画最長の撮影日数記録を作った。
大河内伝次郎、原節子、長谷川一夫ら主演スターは十人の旗の会≠つくり組合脱退を声明、渡辺邦男監督を先頭に製作スタッフもこれに共鳴するなど、今日では考えられないようなクレージーな大争議が長い間続いたのである。その間に日本映画演劇労働組合を脱退した第三組合の人々の希望を入れて、東宝傘下にユニット・プロダクションとして、新東宝映画製作所を作って映画製作をし、東宝の大スターのほとんどがこれに加わった。昭和二十二年三月には「四つの恋の物語」、四月には「九十九人目の花嫁」が封切られた。
エノケン、ロッパの合同公演[#「エノケン、ロッパの合同公演」はゴシック体]
日本喜劇界の両巨頭といわれたエノケンとロッパに、日比谷の有楽座で合同公演の話が東宝の演劇部内で持ちあがった。昭和二十二年の有楽座の公演スケジュールは四月がロッパ一座で、五月がエノケン劇団となっていたので、この両方を合同させて二ヵ月連続公演としたら大きな話題にもなるし、大ヒットも間違いないというところからの発想のようだった。問題は双方が承知するかだが、承知はしまいと踏んでいたようだ。エノケン、ロッパは浅草時代から互に競い合い続けたライバル同士である。年齢も四十代半ばでロッパがエノケンより一歳年上だが、役者経験はエノケンのほうが上だ。敗戦で日本に貴族制度は無くなったとはいえ、ロッパには貴族出身のプライドがある。
谷崎潤一郎が、後年古川ロッパ(昭和三十六年五十七歳で鬼籍に入る)の追善の夕°L念冊子に、一文を寄せているのだがその中に、
〈或る時私は汽車の食堂車でエノケン君と一緒になつたことがあるが、少しお神酒《みき》が利いてポウッと赤くなつてゐるのも構はず、無邪気にはしやいでしやべりまくつてゐる、それが何とも天真爛漫で、云ふに云はれぬ可愛げがある。緑波君だつたらかう云ふ時にかうは行かない。妙にインテリぶつたりして、悪態をつく。緑波君もこの調子だといゝんだがなあ、と思つたことがあつた。
この二人が東京の喜劇界に轡を並べて売り出してゐた頃、「一ぺんエノケン君と一緒に出てみる気はないですか」と、私が云ふと、「これはどつちかゞ完全にペシャつてからでないと、絶対にそんなことはあり得ませんな」
緑波君はさう云つて、エノケン何するものぞと云ふ概を示した。当時《ヽヽ》はよほどエノケン君に敵意を燃やしてゐたらしかつた〉(仮名遣い原文のまま)
当時とはいつごろなのか不明だが、大阪の曾我廼家劇の座長、曾我廼家五郎を喜劇界の大先輩と仰いで、ロッパとエノケンと三人が年に一度集って、会食をしていた親子会の頃ではなかったろうかと推察する。この親子会というのは曾我廼家五郎が親父で二人が倅《せがれ》どもというわけで昭和十五年にロッパの音頭とりで、第一回が東京赤坂の料亭で一月二十四日に行われたことが、「都新聞」に記事として載っている。親子会は毎年一回曾我廼家五郎一座の東京公演のときに催され、四回目は戦争が熾烈になり、飲む酒もロクになかった昭和十九年に、それでも三人は集ったという。
羽振りの良い時のこういう付き合いというものは人間えてして鎧を着こんでいるものだ。表向きの顔で歓談しているかに見えるが腹の底では互に敵愾心《てきがいしん》を燃やしているものだ。
共演の話が持ち上ったときは、エノケンもロッパも、それぞれ座員を抱えて日比谷の有楽街で、片や日劇に、片や有楽座というように人気を二分し覇を競い合っていた時代で、どちらかがペシャンコになってなどいなかった。東宝も無理にこの話を進めてこじれるような結果となることを非常におそれて、感触を得るにとどめ、来年とはいわず、ゆっくり機の熟すのを待つ積もりだったそうだ。この感触を双方からうまく探り出したのは「東京新聞」の伊藤寿二記者で、エノケンもロッパも俺が勝つという自信に満ちていたから、エノケンはロッパが承知するわけがない、ロッパはエノケンが承知するわけがない、という返事を受けとった。東宝演劇部は、この企画はイケルと読みとって、戦後大衆演劇の最高のイベントに仕上げてしまった。
戦前の昭和十五、六、七年頃の日比谷はエノケン、ロッパ、柳家金語楼、エンタツ・アチャコ、浅草は清水金一、森川信、あきれたボーイズ、笑いの王国、渋谷は木戸新太郎、喜劇をやっている劇場はどこも満員だった。戦争が終り、再び喜劇のあの活気を取り戻すには、エノケン、ロッパが仲よく合同公演をやるというのは格好の企画と映ったのかもしれない。エノケン劇団・ロッパ一座合同公演「弥次喜多道中膝栗毛」というのは、昭和の喜劇史に大きく残る画期的な公演である。
昭和の喜劇界の両巨頭の激突する舞台の初顔合せが、今更弥次喜多とは、と思われるだろうが、二人の顔合せにこんなぴったりしたものはなかった。
「弥次喜多道中膝栗毛」の松羽目の舞台、上手下手《かみてしもて》に揚幕をつけ、オープニングの音楽が終るとファンファーレと共に両揚幕がさっとあがり、太郎冠者の衣裳で弥次郎兵衛(古川ロッパ)、次郎冠者の衣裳で喜多八(エノケン)が、さっそうと舞台へ登場すると、それだけで客席からは大拍手が沸いた。
この二人を知り尽している菊田一夫の老獪《ろうかい》極まりない職人芸の脚本で、アチャラカ劇から敗退したどころか、居直った脚本だから期待した客に大満足をさせた。渡辺篤が由井正雪の子孫由井積雪、これを捕えようと追う同心びっくり左門が中村是好、目明しの眼八が如月寛多。
追われた由井積雪が東海道をくだる、これに弥次喜多の両人がからむというのがストーリーであるからなんの変哲もないと思われるだろうがさに非ず、浪花屋彦三という強《ごう》つくばり(柳田貞一)や、盲目の娘(市川春代)がからんで大井川では大洪水に出会ったり、赤坂並木で狸御殿ならぬ狐御殿にとび込むなどで満員の客席は大爆笑。
続く六月の続篇では少し趣向をかえて、難渋する旅芝居の女座長(三益愛子)を助けるため俄役者となり、劇中劇「どんどろ大師」をロッパのお弓、エノケンのおつる、で見せたり、夜道に迷って山寺へ泊ってのお化け騒動など、アチャラカ喜劇の真骨頂である。
後に「雲の上団五郎一座」で再演、再々演をくり返したアチャラカ喜劇はこの二人を手本にしたもので、これを見た人達から「団五郎一座」は物足りないよ、という声の起きるのはもっともなことである。とにかく、この二人の手にかかると面白さが倍加し、堪能できたから、この年演劇界の最高話題となったのは当然である。
エノケンもロッパも凄く気をよくしたが、今にして思えば、この切札は時期が早かった。これからエノケンもロッパも坂をくだりはじめることになるのだが、その根元は戦争(敗戦)であったと私は思う。戦後大転換した社会の趨勢が急速にかわりつつあるとき、若い頃から築き上げてきたエノケン喜劇、そして演技を、わかっていながら変えることが出来なかった。
戦後派という言葉が生まれたとき、それでは俺達は戦前派だ、とへんな自意識過剰に陥ったように、戦前派という言葉のさきに戦後派という言葉が生まれ、付随してできたのが戦前派であることを理解できなかったような気がする。お客あっての芝居、芝居あっての役者だったのが役者あっての芝居に変ってゆく。
有楽座の弥次喜多の公演途中で、エノケンの師柳田貞一は、癌の痛みに堪えられなくなって休演した。エノケンは柳田の最後となる舞台を、二階脇の照明室から見おろしていたらしい。照明室から出て来たエノケンの眼はまっ赤だった。弟子入りして以来二十余年間、酒ぐせが悪く喧嘩をしたこともあったが、弟子の座長エノケンのもり立て役になって、協力してくれてきたことなど走馬灯のように想い浮べたのであろう。エノケンが人前で先生と呼んだのは、医者のほかには柳田貞一だけだった。座長であっても座員柳田貞一に対しては、終生師弟をくずすことをしなかった。
エノケン、ロッパの顔合せは有楽座の芝居のあと東宝映画「新馬鹿時代」と続いた。この映画も、二人をよく知る山本嘉次郎が監督で、当時ニューフェイスとして入社早々の三船敏郎が出演している。私はたまたま撮影所に行き、エノケンと三船敏郎の二人だけのシーンを撮影しているステージに入って見ていたのだが、三船の演技が何回テストしても山本監督の気に入らず、エノケンは遂に「エノモトさん、呼びに行くまで部屋で待っていてください」と、追い出されてしまった。
三船敏郎も、こうして山本嘉次郎にも育てられたのである。聞くところによると、この東宝第一回ニューフェイス採用のとき、山本審査員がひとり三船採用を強くおし選外からひろいあげたとか。黒澤明といい、三船といい、エノケンといい、この山本嘉次郎という人は名伯楽である。
東宝の労働争議はこのあと次第にエスカレートし、昭和二十三年の四月に入るや会社側が共産党員、同調者、非協力者など二百人余りの解雇を発表すると、撮影所の構内に共産党員などの応援団体を加えて、二千人余りがバリケードを築き、陥し穴を設け、釘を打ちつけた板や、竹槍、石ころ、煉瓦、電球を武器に、会社からの立退き要求を無視して立てこもるというまさに戦争さわぎとなった。
会社側が申請し裁判所が許可した撮影所仮処分執行も行えない有様となったから、国法の権威を憂慮したアメリカ第八軍は警視庁の要請に応じて、応援軍を派遣、八月十九日の早朝、戦車七台、騎兵一箇中隊、飛行機三機の応援を得た日本の武装警官二千名が東宝撮影所を包囲し、ようやく東京地裁の仮処分を執行したという記録が残っているが、考えられないようなことが実際にあったのである。
しかし、これで一段落したわけではない。製作は妨害されるやらなんやらのとばっちりをエノケンも受け、東宝の森岩雄らと、映画を製作するための、エノケンプロダクションを新しく作って、新東宝経由で配給してもらうことにしたのである。
サトウ・ハチローとエノケンの共同作品[#「サトウ・ハチローとエノケンの共同作品」はゴシック体]
エノケンプロと新東宝提携の第一回作品は「エノケンのホームラン王」(脚本サトウ・ハチロー、監督渡辺邦男)。
サトウ・ハチローとエノケンは、玉木座のプペ・ダンサントのときに、ちょっとした行き違いから不仲になっていた。互に、それがあとでわかったが二十余年が過ぎ、エノケン劇団の支配人として東宝から派遣された瀬良庄太郎が、サトウ・ハチローと立教の級友というところから、氷解して仲がもどることになる。サトウ・ハチローは、
〈「エノケンのホームラン王」で、エノモト君の仕事を約二十年ぶりでお手伝いした。まことにいいキモチである。(中略)昔なじみはなつかしや……という唄の文句がある。たのみにきたのが瀬良で、主演がエノモト君だ、これじゃ、やらずばなるめえじゃないか。これでエノモト君と、又完全によりをもどす糸口をつかんだことになった。ボクは、エノモト君という人をすきだ。めずらしい人だと思っている。だからすきなのだ。――よき秋に よき人の芸に わらいけり〉(有楽座プログラム)
と書いている。
「ホームラン王」には当時巨人軍の三原監督以下、川上、千葉、青田という大選手が総出演したので興行的には、まさに大ホームランをかっとばすことが出来た。エノケンプロはエノケン・笠置シヅ子、藤山一郎で「歌うエノケン捕物帖」そして「エノケンの拳闘狂一代記」「旅姿人気男」「エノケンのとび助冒険旅行」「エノケン・笠置の極楽夫婦」「エノケン・笠置のお染久松」「エノケンの底抜け大放送」(以上が新東宝と提携作品)とたて続けに作品を出す。渡辺邦男監督は、こういう。
〈戦前、戦後と、仕事を共にしましたが、どれにもつきぬ思い出がありますが、一番印象に残っているのは「エノケンの底抜け大放送」です。NHKを模し放送局のセットで二階から五階までを同じ場所で撮影し、階段に、二、三、四、五各階の表示を変えて、俗にいう中抜きの更に中抜き撮影を始め、エノケンが五階から辷り落ちる、間違えて重役室へとび込む、美空ひばりが放送中の部屋から追い出される、等々の場面を朝から夕方まで撮影して漸く終った。
「やれご苦労さま」でヒョイと後を見たら、如月寛多さんが立っていて、
「私の出るところはどこでしょう」私は思わず、アッと叫んだ。あまり中抜きが烈しくて如月さんの出る場面を一階から五階までご丁寧にも全部忘れてしまった。
「すみません。とんだ事をしてしまった」謝罪どころの騒ぎではない。
如月さんは私の仕事をさまたげないため、私のうしろにズッといたそうです。横で榎本さんが私をみつめていました。どこから出ると思う程こわい目でした。この人が怒ったら大変だということは、よくよく知っている私ですが、もう取り返しがつかん。しまった。その瞬間榎本さんは、如月さんの肩を叩き半分叱るように、
「君の演技が監督の目にとまらないからこういう事になったんだ、これから目にとまる演技をして頑張るんだな」
緊張した場面も榎本さんの即妙の一語に解け、私の過失を救ってくれたが、如月さんへの言葉は、私への言葉です。榎本さんの瞬間の私を睨んだ目が忘れられません〉(「エノケンを偲ぶ」)
エノケンプロの自主製作[#「エノケンプロの自主製作」はゴシック体]
エノケンプロは他社とも提携して、片岡千恵蔵と「あばれ神輿」を東映で、「らくだの馬さん」「弥次喜多ブギウギ道中」を松竹で撮影した。なにしろ東京中の話題になったエノケン・ロッパ初合同の「弥次喜多」だったから、松竹はP・C・Lのエノケン映画で指をくわえていただけに、大当り間違いなしと大曾根辰夫監督で前、後篇ものに仕上げ早々と大宣伝をした。ところがこの「弥次喜多ブギウギ道中」は、完成後に松竹京都撮影所の火災で前篇後篇とも陽の目をみることなく焼失した。
これらと併行してエノケンプロは自主製作を始めた。早撮り監督として当時ひっぱりだこの渡辺邦男で、「エノケンの天一坊」(越路吹雪・黒川弥太郎・市川小太夫ほか)、それから「八百八狸大暴れ」「エノケンの豪傑一代男」「エノケンの石川五右衛門」と四作品を作ったが、大争議の落し子の新東宝と、東宝との関係がおかしくなり、もともと一本であるべき両社が、新東宝の一方的な独立、自主配給を宣言するなど、新東宝と東宝とはすっかり競争会社になってしまった。
提携作品の興行収入の配分にも悪い影響が出はじめ、自主作品三本(残る一本「天一坊」は東宝配給)はひどい仕打ちに遭い、これがもとで財政破綻をきたしてエノケンプロは赤字倒産ということになり、大きな借金だけを残した。
サイレント映画時代このかた、俳優のプロダクションが映画製作に手を出すと、どれもこれもみんな倒産で、成功したという話は聞いたことがない。それなのに、やるのはどういうことだろう。ソロバンの持ち方を知らないのか、それとも映画界の体質の古さなのか。
舞台の方では、有楽座の正月公演(昭和二十五年)、「天保六花撰」のとき共演していた清川虹子は、
〈私と河内山宗俊の渡辺篤さんが下手から出て、上手から元気に飛び出すはずの榎本さんの片岡直次郎がいつまで待っても出てきません。そのうちスーッと、緞帳が降りました。あの時の驚き! 足の激痛で楽屋からそのまま病院へかつぎこまれた時のことです。当分休演されることになって、渡辺篤さんが直次郎を代り、大勢の方達が座長のぬけた舞台を毎日応援に来てくださいましたっけ。これもみんな榎本さんの人徳です〉(「エノケンを偲ぶ」)
と、座長エノケンの病気休演を聞いて、客足に影響しないようにと古川ロッパをはじめ仲間たちが、毎日交替でゲスト出演してくれたことを記しているのだが、古川ロッパは大衆演劇が落城寸前にある事を、肌で感じたのだろう、一番熱心に応援に来た。
戦後のインフレでどこの劇場も芝居をやると、客が満員になっても十割の入場税にはばまれて、入場料の値上げができないから赤字になるという税金攻勢のご時勢になっていた。浅草でも新宿でも、安直なストリップショーにどんどん転向していった時代である。有楽座だけは芝居を続けてくれと、古川ロッパも願っていたのだが、この年、有楽座も映画館に転向してしまった。
菊田一夫もくやしがって「インバイ屋の亭主が見世物小屋をはじめたようなハダカレヴューの美≠ニいうもののない裸体≠ェ世間のカッサイを博し大入りを続けているのを見て、永い間の先輩でありお友達であったエノケン、ロッパ両氏のために、悲憤(少し大げさだけど)やるかたない涙をこぼしました」と書いている。
いかに役者が眼をむいて芝居をやらせろといったところで、劇場がなければ岡に上った河童も同様、手も足も出ないで干上った結果がエノケン劇団解散(ロッパ一座も解散)。しかし、幸いなことに足のほうは一ヵ月ほど入院して、どうやら痛みは治まったものの、脱疽《だつそ》と診断され再発の可能性ありという時限爆弾を抱えてしまうのだ。
ミュージカルに挑戦[#「ミュージカルに挑戦」はゴシック体]
有楽座の映画館転向で、宝塚歌劇団が出演していた帝国劇場は、海の向うのブロードウェイに刺激され、二十六年から秦豊吉がプロデューサーとなって、帝劇ミュージカルスを企画、「モルガンお雪」(昭和二十六年二・三月)「マダム貞奴」(同年六・七月)「お軽と勘平」(同年十一月)「浮かれ源氏」(昭和二十七年三・四月)「美人ホテル」(同年六月)「天一と天勝」(同年十月)「赤い絨氈」(昭和二十八年十二月)「喜劇蝶々さん」(昭和二十九年二月)を舞台にのせ、エノケンはこのうち「お軽と勘平」「浮かれ源氏」「美人ホテル」に出演した。
菊田一夫作「モルガンお雪」が帝劇ミュージカルスの第一回公演で、ヒロインのお雪には宝塚歌劇団をやめた越路吹雪が出演、モルガンは古川ロッパ。ミュージカル女優としての越路の魅力と才能が俄然評判の的となった作品で二ヵ月続演。
帝劇文芸部作「お軽と勘平」は、榎本健一の勘平に越路吹雪のお軽で、「忠臣蔵」の中に出てくる一対の恋人同士を中心に「フィガロの結婚」風な物語を、笑いの多いミュージカルに展開したもの。後に映画化されたり、東京宝塚劇場で改訂再演されたが、帝劇ミュージカルスの中では、「モルガンお雪」とこれが最上の佳作であり、ヒット作であったかもしれない。
「赤い絨氈」は森繁久弥が主人公の陣笠代議士の一人となり、有島一郎が当時の吉田首相らしいワンマンぶりを活写した国会風刺劇。ミュージカルの中に社会劇的な意欲をこめた、異色の野心作であったが、興行の上では失敗に終った(「東宝三十年史」)。
武蔵野音楽大学教授クラウス・プリングスハイムが、「東京タイムス」に興味ある稿を寄せている。
〈現代の日本演劇に関心を持つ外国人にとって、西欧的要素がどんな風に日本化されているかとみるのは確かに興味のあるところである。目下、帝国劇場で上演されている「お軽と勘平」についてこれをみてみよう。
まず最初に音楽についていえばこの音楽喜劇は明らかにその昔フランス人のジャック・オッフェンバック(彼はドイツ=ユダヤの混血系統であった)がパリで流行させ、その後オーストリア人のヨハン・シュトラウスがウィーンにおいて、更にそれをフランツ・レハールやその後継者がうけついだヨーロッパでいうオペレッタ形式を想い出させるものがある。
しかし音楽そのものは決定的にアメリカ風のジャズであり、スウィングであって、また有名な歌劇「カルメン」や「リゴレット」などの一部が引き抜かれて織り込まれている。日本の音楽家たちがこれらのものを立派に消化し、いまやそれを完全に日本化≠オていることは疑うべくもない。(中略)
お軽を演ずる越路吹雪はオペレッタ的演技の中に歌舞伎的要素を少しとりいれすぎているような気がする。出演者の衣裳は余興的に現れる数人のスペイン人や一人の現代アメリカ人を除いて、徳川時代のもののようだが、劇は有名な「忠臣蔵」劇を喜劇風にしたものであり、いま流行のアメリカ語の片言が飛び出したり、戦後の日本政治を風刺する機智にとんだ科白のやりとり、日劇ダンシングチームがカリカチュア化された世界の一流政治家を登場せしめたりしている。
その上にバーレスクあり榎本健一に自由にその奇的天分を発揮するようにさせたりして、演出スタッフがこれらの豊富な登場人物にそれぞれの味を持たすように仕上げた功績は大いに賞賛すべきだろう〉
「お軽と勘平」に続いての「浮かれ源氏」で、エノケンの光源氏は笠置シヅ子、宝塚歌劇団出身の筑紫マリらを相手に歌い踊りまくるのだが、この光源氏の二枚目ぶりには驚いた。舞台へ出てくるだけで、舞台がパッと明るくなる役者がいる。十五世市村羽左衛門と、エノケンがそれである。
「二枚目なんて役は、三枚目の芝居ができるようになってからやると、悪デレもせずに、実にいい気持でやれるもんだよ」とエノケンは言っていたが、そのエノケンの白塗りがピタリと合って役ちがいを感じさせなかった。
これらの音楽を担当した服部良一も、
〈最も印象に残っているのは、越路吹雪と二人で歌う主題歌「アイ・ラブ・ユー」が演出・振付師の先生方のお気に入り、劇中いたるところで歌われたが、この二人も実に美事に歌ってくれた。このあと「浮かれ源氏」では、歌う光源氏としてエノケンの活躍は目ざましかった。どんな歌でも、自分のペースで歌い上げ、リズミカルなものが得意かと思うと、スローバラードものにペーソスを漂わせて歌われると、こちらの胸がギューッと締めつけられる思いがした。
南米の帰り、ニューヨークのカーネギーホールのワンマンショーで、サミー・デイビス・ジュニアを聴いた。舞台で歌いまくる芸魂と至芸を見て、フト誰かの幻影が浮かんできた。それはありし日のケンイチ・エノモトの舞台せましと歌いまくる姿だった〉
と書いている。
昭和二十七年、「日刊スポーツ新聞」の私の好きな舞台俳優≠フファン投票によると、男性の一位がエノケン。女性の一位は大江美智子で、二位が浅香光代、三位鳳八千代、四位越路吹雪、五位曙ゆり、となっている。今は姿を消した女剣劇がこの当時人気があったことと、エノケンはまだまだ舞台の上で頑張っていたことがわかる。
[#改ページ]
[#小見出し]第六章 アチャラカ誕生
脱疽という病いをかかえて[#「脱疽という病いをかかえて」はゴシック体]
再発の予告を受けていた脱疽が再発したのは、二年十ヵ月後の昭和二十七年十月、広島県の三原に向う夜行寝台列車の中であった。列車から改札口を出て自動車に乗るまで川上正夫に背負われて、とにかくホテルに入り、主治医の原博士に電話をすると、広島市で学会があり、そちらに行っているとのことなので、広島中のホテルをさがして原博士に診てもらうと、即入院と慶応病院に連絡してくれ、激痛に堪えながら帰京して入院した。
広島へ行ったのは佐藤文雄が中国、九州の大工場の社員慰安会を引きうけその仕事で出かけたのだが、一回目は左足が痛んだのが今度は右足が痛み出した(エノケンの劇団最後の弟子を名乗っている関敬六は、この巡演に参加した)。
佐藤文雄はこの時を回想して、
〈エノケンが死んだ、というならばあきらめて香典のひとつも包んでおしまいになるだろうが、病気で、それも足が痛む位で、来ないとはなんだ。それでも役者か、というところもあった。
「エノケンのショーボート」で売りこんでおいて、エノケンが出なけりゃ、そりゃおこるのはわかるけどさ、脱疽の痛みを知っているのは当人だけだからね、俺だってわからないよ。どうしようもなくて本当に困ったよ。頭をさげて、全員東京に引き揚げさせようと思って、次の糸崎へ行ってその話をしたら、代りでもいいからやれッていうから、エノケンの代りなんかありませんッて、こっちもいってやった。
すると笠置シヅ子でも……というんだ。そこで電話で話してみたら、「私でお役に立つのならすぐ行きます」ッて広島へ来てくれた時は、本当にうれしかったね。たまたまスケジュールがあいていたにもせよ、当時天下の笠置シヅ子だからねえ、有難いやら、うれしいやらよりも、偉い≠ニ思ったよ。そりゃエノケンに対するものだろうけど、誰でもができることじゃない〉
と述べているが、当のエノケンは入院してからも痛みの激しさは気が狂わんばかりの激痛で、体を横たえることも眠ることも出来なかった。右膝を立て、両腕で力いっぱいだき抱えて痛みをこらえるという無理な姿勢だから、ウトウトッとする途端にベッドから床に落ちたという。容態がそういう状態だったから、慶応病院でも見舞客にはほとんど会わなかったエノケンだったが、たまたま体調がよかったのか、慶応病院で永六輔には会っている。
慶応病院の島田外科部長から、突発性脱疽だから少し様子を見てから、右足を切断することを告げられるや、焼跡にやっと新築なったわが家の風呂に、どうしても入りたいと口実をつくり病院を抜けだしてしまった。そして東大の大槻博士の弟大槻正路博士の大田区久ケ原の自宅の離れの二階を病室にして、そこで秘かに療養を続け、右足の指を落すだけで右足切断をまぬがれたのだが、入院先を極秘にし、面会を謝絶していたから、エノケン再起不能説が流れた。エノケンは足の痛みさえなくなればと思っていたが、医師たちは敗血症をおそれていたという。
エノケン自身は、当時のことを、
〈足を切ることを拒みとおしたものの、足が自然に治るわけでもなく、いぜん激しい痛みはつづいている。二階で寝ていて、ふと窓の下をみると、伜の※[#「金+英」、unicode9348]一が散歩しているのが見え、再び、倅と一緒に歩くことができるのだろうか、今までのように舞台に出ることができるのだろうかなど、次から次と頭に浮かんできて、どうにもせつなかったものである。
ことに夜になると、二階の広い部屋を病室にしてあったので、皆が寝静まると、シーンとしてたまらなく寂しくなる。僕が自殺しようとしたのはそんな時である。夜眠れないから、いろいろなことを考える。足は切らなければ治らない。切ったら再び舞台に立てないのではないか、それに不自由な体になれば、家族が大変だ。これ以上迷惑かけるのは気の毒だ。そんなことを考えて、いっそのこと死んだほうが自分だけでなく皆にも世話かけなくていいのではないかと思うようになった〉(『喜劇こそわが命』)
と回想している。
エノケン脱疽で入院と知って、あわてたのは電通の浅田誠彦プロデューサーであった。民間ラジオ放送が始まって間もないこの頃は、民間ラジオ放送会社で制作する番組だけでは足りないので、電通がラジオ番組を多数制作していたからである。その時のことを浅田誠彦は、次のように言う。
〈エノケンの名作リレーという連続ラジオ番組がはじまって間もなく、地方巡演にしばらく行かれるというので、相当さきまでの分を、雪ケ谷スタジオで録音させて下さったので、放送には穴をあけずにすんだ。とはいうものの、先生は有名な芸の虫である。それがラジオであろうと何であろうと、かつて舞台で演じた通りを再現しなければ満足しない。しかし、それでは限られた時間のワクにおさまらない。かと言って、子供の頃から敬愛してきた先生に向って、演技の注文など出せるわけがない。そこで苦しまぎれに私は先生の相手役にダメを出す。
「あなたが、ここでそういう大芝居をされると、バランスがくずれてしまって、先生の芝居をマイクで拾うことができなくなってしまう。ラジオにはラジオの表現技術があるのだから、機械を信じて私の言う通りにしてください」と。
文句を言われる相手役こそいい迷惑だったろうが、そんなとき、先生はだまってうなずいて、その次から演技を変えてくれた。内心では若造の見えすいた小細工を苦々しく思われていたかもしれない。
その後テレビの時代がやってきた時、私は再びエノケン企画を、ブラウン管にのせた。だが、正直なところ、その頃の先生は、あまりテレビ好きではなかった。段取りが悪いし、横への動きの制限があるかららしかった。
「エノケンの孫悟空」の稽古の時に、本番と同じ小道具を準備してくれという注文が、あらかじめ出されていたのに、それが間に合わなかった。悟空の使う如意棒でなにかを突き落すという仕掛けもので本番までには何とかします、という言い訳が、先生にはカチンと来たらしい。
稽古をそれほど甘くみるようなら番組には出ないというのである。先生は他の出演者一同に命じて、化粧をおとさせてしまった。私たちが平あやまりにあやまって、やっと了解したのが、本番の三分前。ナマ放送時代の厳しいエピソードである〉(「エノケンを偲ぶ」)
こうして入院中も、ラジオの電波にのってエノケンの声は放送されていたので、退院して自宅療養をしていると、NHKから守屋素衛プロデューサーが、放送劇出演の話を持ちこむ、開局して間のないNTVからは、河野和平(元エノケン文芸部)が、クリスマス特番に是非と、いってきて、二十八年の十二月二十四日、「エノケンのクリスマスショー」(水の江滝子、南風洋子ら)にテレビ初出演、NHKも同じ二十四日のラジオで「星から来た男」(作・山下与志一)をクリスマス特別番組として放送した。入院以来一年二ヵ月ぶりの昭和二十八年の暮のことである。
そして昭和二十九年から、青柳信雄監督の東宝映画「落語長屋」シリーズに連続出演する。明けて三十年一月封切の「初笑い底抜旅日記」では、愛息の※[#「金+英」、unicode9348]一と共演した。
第一回喜劇まつりの成功[#「第一回喜劇まつりの成功」はゴシック体]
歩けるようになったエノケンが、三十年三月に日本劇場で第一回喜劇まつり「銀座三代」(菊田一夫作、山本紫朗演出)の舞台に登場すると、それだけで客席から拍手が沸いた。三年以上も舞台をはなれていたエノケンはうれしくて仕方がなかったと言う。お客もよろこんでくれたが、それにも増して出演者たちがよろこんだということを読者は理解できるだろうか。喜劇役者たちは喜劇の芝居をやりたがっていたのだ。
第一回の出演者のこの豪華な顔ぶれは、喜劇人協会という看板に対してのものといえるが、エノケン、ロッパ、金語楼(この三人が顔を揃えるというのも、初顔合せである)に、トニー谷、清水金一、森川信、清川虹子、並木路子、楠トシエ、宮城まり子らで、異色の出演者は柳沢真一と、演歌師の元締神長瞭月、それと小学生だった山東昭子元参議院議員が、花売りの百合子という役で出演していたことを知る人は少ないだろう。
このほかに出演したゲストは、森繁久弥、伴淳三郎、花菱アチャコ、川田晴久、杉狂児、徳川夢声、笠置シヅ子、三木のり平、千葉信男、市村俊幸、丹下キヨ子、高倉敏、坊屋三郎らであったから、まさに祭りにふさわしいといえた。
これに刺激され、関西で伴淳三郎が音頭をとり、関西喜劇人協会が生まれるのだが、関西方は、舞台より自主映画作りに力を入れた。むろん映画には、東京勢も協力出演したから、これも顔ぶれだけは賑やかなものとなった。とにかくこの七日間日劇は連日満員で終った。これを放っておく日劇ではない。その年の九月に第二回をもちかけてきたのに、三人ともよろこんで乗ったのが「アチャラカ誕生」である。これは昭和初期からの喜劇の集大成ともいえるもので、加えて出演者の顔が揃って、喜劇を再興させようという大熱演が客席の大爆笑となったわけで、喜劇見直しの起爆剤になった。
作・構成は榎本健一、古川ロッパ、柳家金語楼の三人。演出が山本紫朗。田舎の浪曲歌舞伎一座の話である。和田誠は「アチャラカ誕生」を見てこう書いている。
〈座長が金語楼、エノケン、トニー谷ほか。それに女形の三木のり平。失敗の連続する劇中劇が「最後の伝令」であり、出征する兵士トム(エノケン)がメリー(楠トシエ)と別れを惜しんでいる時に、村人ロバート(のり平)が「メリーさん、大変だ大変だ」とやってくる。トムは芝居の最後で戦死し、その知らせをロバートが持ってくる筈が、トムがまだそこにいるのに早くものり平が何度も何度も知らせにやってくる、というお笑い。そのほかにもギャグが速射砲のようにつまっていたが、のり平の「メリーさん、大変だ大変だ」の印象が圧倒的に強い〉(『ビギン・ザ・ビギン』文芸春秋刊)
この『ビギン・ザ・ビギン』のなかに演出の山本紫朗の言葉が載っている。
〈「最後の伝令」もエノケンがやったから面白いんだね。エノケンがトムで、金語楼が将軍で、ロッパが親父さんで、そういう連中がやるから面白い。その後「雲の上団五郎」の中でも使って、何度もやっているけど、ほかのもんがやった時は面白くないよ。エノケンがいいのと、それにのり平がからむのがいい。
裏でも皆笑っちゃった。表でも大笑いに沸いて、すぐその晩から銀座のバーで、「メリーさん大変だ大変だ」って皆が言ったそうだ。ホステスが大変だ大変だって言いながら客の傍へ来たり。知らない客は何のことかわからない。どこのバーでもやってたんだって。やっぱりあの時分は日劇は銀座の中心だったし、流行を作ったりしたんだろうね。
喜劇まつり一回目の「銀座三代」より「アチャラカ誕生」の方が成功した。「銀座三代」っていうのはあまりにシリアスだった。人情喜劇として菊田一夫とぼくでこしらえたんだけど、正統喜劇っていうのかな、スジがきちッとあるんだよね。面白いんだけど爆発にならなかった。喜劇まつり第二回はこれ以上のアチャラカは無いという方がいいだろうって「アチャラカ誕生」をやった。本当のアチャラカで、これが受けたんだ。
エノケンもロッパも金語楼もそれぞれ一座を持っていたんだからね、その三座長が集ったんだから大変なものだよ。戦前じゃ考えられないよ〉
アチャラカ喜劇とは何か[#「アチャラカ喜劇とは何か」はゴシック体]
ドタバタ喜劇と、アチャラカ喜劇はどう違うのか。ドタバタ喜劇は、スラップスティック・コメディの日本語訳である。その当時もっと適切な造語が見つからなかったのかと思うのだが、淀川長治(『新・私の映画の部屋』TBSブリタニカ刊)によると、スラップスティックとは道化師《どうけし》が持ってパチンと相手を叩くヘラのこと、だからスラップスティックのコメディというのは、荒っぽい喜劇のことで、日本ではドタバタ喜劇ともいっていた。
スラップというのは、平手打ち、相撲でいう張り手だから相手は一発でその場に板のように硬直してうしろにぶっ倒れる。
エノケンのこのぶっ倒れ方は見事だったと、いまでもエノケンを知っている人は口を揃えて言うが、淀川長治はドタバタ喜劇というのは、サーカスの道化の精神で、追っかけと、その中にギャグ(笑いのタネ)がいっぱいあるという。そのギャグというのは、猿ぐつわをはめること、「ものを言ってたらいかん」。つまり目で見ておかしくて、おかしくてしかたがないもので、口で喋るものではない。これがギャグの元祖だったのだそうだ。サイレント映画の時代のアメリカに、マック・セネットのスラップスティック映画が大ヒットした。ここで活躍しスターとなったのが、チャップリン、ロイド、キートンであり、スラップスティック・コメディはこれらのサイレント映画で見るしかない。
ドタバタ喜劇は追っかけとギャグと指摘しているのだが、映画と違って舞台で追っかけは出来ない。
ギャグとは猿ぐつわをはめること=A目で見ておかしくて笑いを誘われるものだから緻密《ちみつ》な計算の上に、その日、その日の客に合わせたテンポと間《ま》とイキに合わせることが、必要条件となるから、統率力のある絶対座長の一座でなければできない芸だ。
益田喜頓が、本物のドタバタ喜劇は一秒の何分の一というタイミングを要するのでとてもむずかしいと言っている通り、このタイミングをはずさないように舞台で演じる役者は、いまはいないし、またドタバタ喜劇を書く作家も現れてこない。
アチャラカ喜劇は、アチャラカ、ナンセンスという言葉を、「笑いの王国」で古川ロッパが昭和八年に初めて使ったのが本邦初とされているのだが、古川ロッパは、このアチャラカは、当時はよく輸入品のことを、アチラ製とかアチラものと使われていたアチラという言葉を、ハイカラ的感覚で、アチラ化そうとしたと言うから、このアチラがアメリカのマック・セネット映画を指したものだとすれば、ドタバタ喜劇を狙った節が大いにある。
ところが、日本語にちゃら≠ニいうごまかし言葉がある。ちゃらとは、でたらめ、でまかせ、|ちゃら《ヽヽヽ》んぽらん、へっ|ちゃら《ヽヽヽ》のことだから、発生の段階ではアチラ≠ニ、ちゃら≠フ合成語として、アチャラカ≠ェ生まれ、舌を噛みそうな、スラップスティックのドタバタに代る名詞として日本の喜劇役者が使いはじめたとすれば、同意語ということになるわけだ。これが、アチャラカの語源でもあり発生でもあると私は思っている。
ドタバタという言葉は、メチャクチャ、いい加減、騒々しい、といった感じを与え、やぼったさがある。役者はヤボを非常にきらった。今のタレントでも同様であろう。だから菊田一夫などはアチャラカという新造語の方を使っていた。
ところが、アチャラカの発生段階を知らない連中は、ちゃら=iでたらめ、でまかせ、まに合わせ)のほうをもっぱらに使いだした。人気があって実力のある喜劇人だったら、結構これで押し通して客を納得させられたろうが、若い者がこれをマネするので、エノケンはよく「あいつら勘違いしていて困ったものだ」と顔をしかめていた。
だから小林信彦が指摘しているように、〈アチャラカ〉が純粋ドタバタと、それより程度の低いアチャラカの二つに分離してきたというのは指摘通りである。
アチャラカ喜劇≠ネる言葉が、ほんとうに一般化されたのは、昭和三十年に日本劇場で上演された第二回「喜劇まつり・アチャラカ誕生」というタイトルに登場してからのことで、実は、それまで喜劇人社会でしか通用していなかった言葉である。このタイトルは観客に、面白そうだという印象を与え、見た客はその面白さに堪能し、評判になって忽ち認知されたのだが、起案の発端はエノケンが、ドタバタ喜劇をやって喜劇の本当の面白さを知ってもらおうというところからはじまり、中味は出来たがいいタイトルが浮ばず、すったもんだの揚句に、「アチャラカ誕生」というタイトルに落ちついたのだから、エノケンもロッパも金語楼も、ドタバタ喜劇とアチャラカ喜劇は同じものと理解していた。
菊田一夫のこういう文章もある。
〈お芝居の価値にABCの三級があるとするならば、C級のまともな作品を書く作家よりも、C級のアチャラカを書く作家に私は軍配をあげる。これは小さな例だが、たとえば、まともな作品による舞台からは即座にはボロが出ないが、アチャラカ劇は観客が笑わなければ、即ちそれは失敗だという手痛い反応が現われるから、というのも一つの理由になると思う。作家の頭脳の優劣を論ずることになれば、まともな芝居を書く作家よりも、正確無比に観客を笑わせるアチャラカ作家の頭脳の方が、いくらかでも容積が大きく優秀であると……私は保証する。
自分で考えたギャグで百発百中客を笑わせることがどんなに難かしいことだか、嘘だと思うなら、世の演劇芸術家諸君よ、アチャラカ劇を一度書いてごらんなさい。そうすれば大衆の外にあって、芸術家ぶってどっしりと構えているあなたの頭脳の容積がどの位だかの判定を、お客様が直ぐにつけてくださる。
格言……アチャラカは寝ていて考え浮ぶものではない〉
さて東京喜劇まつりは、このあと「寄らば斬るぞ」「八五郎罷り通る」「ネット裏に娘あり」までが日劇で、このあと新宿コマ劇場に引きつがれてゆくのだが、折角つくった協会を喜劇人たちは設立当初の意気込みを忘れ、自分らの手で運営しようという努力を怠り、事業運営に積極さを失ってゆくのは、悲しむべきことといわざるをえない。これは設立当初の基盤づくりのもろさもあるが、喜劇人の弱さであろう。いま喜劇と共に、喜劇人を名乗ろうとする人が少くなったのをみても明白である。
テレビ時代の笑い[#「テレビ時代の笑い」はゴシック体]
昭和時代をふり返ってみると、同じ昭和でもテレビの時代となると喜劇の質がさまがわりし、喜劇に対する日本人の接し方もすっかり変った。
昭和初期は、ギャグいっぱいのアメリカのサイレント喜劇映画の残照の尾をひいていた時代だったから、理屈抜きに面白くて笑えるものが求められた。
たとえば、浮きが沈んで錨《いかり》が浮く。汽車に乗った人に忘れ物を自転車で走って届ける。走っている自動車の底が抜けてしまうが、運転手は自分の足で走り続ける。商店のウインドー硝子を内から一生懸命拭いている男に郵便配達が郵便物を差し出すと、その男はガラス越しに手を出して受取ってしまう。そういう超不自然な、バカなことを笑いよろこんだものだ。
エノケンが演じた「鏡割り」というナンセンス喜劇がある。場所の設定は外国の貴族邸で、玄関に近い大廊下に代々伝わって大切にされている姿見の大鏡がある。当家の主人は出かける前、そして帰邸した時は必ずその鏡の前に立って自分を映して見る習慣がある。ところが屋敷で働いている使用人が、この大切な鏡を割ってしまったところから芝居ははじまる。
物音に驚いた使用人達が集って来て大騒ぎとなる、そろそろご主人様の帰邸の時間だからと割れた鏡を片づけたまではいいのだが、鏡の前に主人に立たれたら立派な枠の中の鏡が無いのがわかってしまう。そこで一計を案じ、主人と同じ扮装をして、鏡の無い枠の向うに立って、主人と同じポーズをとればわかるまいと考え扮装にとりかかり、支度を調えたところに酩酊気味の主人が帰邸し鏡の前に立つ。ここからがこの芝居の見せ場になり、ご主人そっくりに扮装した使用人が主人通りのポーズをするのである。
口髭をひねって見たり、懐中時計を取り出して時間をみたり、タバコを吸ったりうしろへさがってみたり、どうも少しおかしいと主人は、ハンカチを出し、鏡に向って息を吐きかけて拭きはじめる。使用人もこれに合わせハンカチとハンカチを合わせてけんめいに拭く仕科をするのだが、段取りはむろん決まっているのだからこれがピタリと合ったのでは面白くない。一拍おくれて出て必死に合わせようとする。
エノケンの、思わず吹き出すようなポーズを見せたりするパントマイム演技は延々と続き客席は爆笑するのだが、これも小劇場の物で、テレビというフレームを通すと、テレビアングルの悪さもあって効果は半減どころか、ツマラナイの一語に尽きてしまう。
錨が浮いて、浮《う》きが沈むのを見て理屈をいわないで素直に笑えない人は、アチャラカ喜劇を見る資格の無い人である。
NHKテレビで相当長期間にわたり、ジェスチャーというのがお茶の間の人気番組として放送されていたから、ご覧になった方が沢山いると思う。男性軍のキャプテンが頭の禿げた柳家金語楼、女性軍のキャプテンが水の江滝子。司会者が小川宏。この両レギュラー・キャプテンのジェスチャーぶりも見ごたえのあるものだった。それは出演している仲間達に当ててもらおうとした演技でなく、茶の間の視聴者に見せる演技をしていたことである。毎週交替で出演したテレビタレントたちは、ジェスチャーは半分で当ててもらうことにけんめいであって、視聴者そっちのけの人が多い中で、この二人はひと味も二味も違っていた。
こういう客を楽しませ、笑わせることの出来る役者が、どうしていなくなってしまったのだろう。喜劇というものに魅力を感じなくなってしまったのか。それともアチャラカに怖れをなしてシッポを巻いてしまったのか。芝居は一人ではできない、自分はやりたくても相棒が見つからないのか、居ないのか。
思えば昭和時代には喜劇スターがそろっていた。世の需要に応じられるほど、大勢喜劇人を名乗るタレントがいて活躍していた。テレビのホームコメディは喜劇ではない。腹の底から無条件に笑えるものが喜劇であるとすると、無ということに近いのではなかろうか。
エノケンは「らくだの馬さん」が、エノケン喜劇の最高傑作だなどとほめられると、「馬の役は、中村是好でないと、私はできないんです」といったが、事実その通りで、喜劇の場合、相手は誰でもいいというわけにはいかない。だから、昭和の喜劇人たちは、みな小さくても一座を持って、それぞれ特色のある喜劇を演じていた。
菊田一夫が果した役割[#「菊田一夫が果した役割」はゴシック体]
ロッパ一座に籍を置いたことのある森繁久弥は、終戦後満洲から引揚げてきたあと新宿のムーラン・ルージュに出たりして若い頃は喜劇を志向した。その証拠に、三木のり平、千葉信男、市村俊幸、キノ・トール、小野田勇、三木鮎郎らの虻蜂《あぶはち》座というグループに仲間入りもしたが、喜劇が低調期に入ったのをみて映画一本槍に転じ、舞台活動から遠のいて行った。しかし、舞台の魅力は忘れることが出来なかったとみえ、東宝の菊田一夫重役にくどかれると、森繁劇団を作ったが、時代と共にシリアスな芝居を手がけるようになっていった。舞台が好きでなければ「屋根の上のバイオリン弾き」の記録的なロングランを樹立することなど出来るわけがない。
菊田一夫が東宝にいなかったら喜劇はもっと早く姿を変えたろう。三十年九月東宝の重役に迎えられ、演劇担当になってから菊田一夫の業績を見るとそれがわかる。米軍専用劇場として接収されていたアーニー・パイル劇場が、三十年一月に接収が、ようやく十年ぶりに解除されて、東京宝塚劇場として再び東宝の手にかえされたのを皮切りに、三十一年十一月大阪梅田コマスタジアムが開場、三十二年四月に新宿コマ劇場が開場、日比谷芸術座も開場した。
東宝に籍を置いていたエノケンにとってこれらの劇場が開場したことは幸運といってもいい。エノケンは三十年十一月、東京宝塚劇場で、帝劇でやった「お軽と勘平」の再演に出演以来、三十一年二月の東宝ミュージカルの第一回公演、十一月梅田コマスタジアムの柿葺落《こけらおと》し公演、三十二年四月新宿コマ劇場の柿葺落公演に出演、以降、東西両コマ劇場と宝塚劇場、芸術座の出演で、俄然活気をとり戻すのだ。
これらの舞台を縫うようにして、大映映画作品「どくろ駕篭」(監督・田坂勝彦、昭和三十年)に出演したが、長谷川一夫とは昭和十七年の東宝映画作品「待っていた男」(監督・マキノ正博)以来、十三年ぶりの顔合せで、更に三年後に、大映映画、銭形平次捕物控の正月作品「八人の花嫁」(監督・田坂勝彦)にも出演した。長谷川一夫の時代劇映画が、他の人の時代映画と一と味違うところは照明にもある。暗夜の立廻りシーンにしても長谷川一夫の顔だけは白く浮かび上っている。これが長谷川映画の特色なのだ。
新しい演劇ジャンルへの意欲[#「新しい演劇ジャンルへの意欲」はゴシック体]
「巌金四郎という人は、声優といわれるだけのことはあるね、ラジオ演技をもっているもの、どうも俺はいけねえなァ……」とエノケンは比較反省していたが、その巌金四郎を是非にと自分の映画演劇研究所の常任講師に招聘した。
大阪のABC放送制作、連続ラジオドラマ飯沢匡の「困った連中」で、森雅之の神様とエノケンの悪魔が下界をのぞきながら、ドラマは進行するというかわった番組がひどく気に入って、「芝居でやったら洒落た喜劇になると思う、機会があったらやってみたい」と洩《も》らしていた。
木下順二の「赤い陣羽織」も、そのひとつだった。歌舞伎座での評判がものすごく良いので、夫人と私と三人で見に行き、中村勘三郎の楽屋へ顔を出してから、客席でゆっくりと見ての帰り「歌舞伎の人がやるから客は笑うが、俺や新劇の人が同じようにやったらクスンとも笑わないよ。やり方次第でもっともっと面白くなるね」と洩らした。
もうこの頃はプロデューサーシステムによる製作体制にすっかり変ってきているので、昭和七年からの十年間の頃であったら自由にできたであろうが、この頃はエノケンのやってみたい芝居など、やれる余地はなくなっていた。昭和三十一年七月十一日の「日刊スポーツ」にこんな記事が掲載された。
〈エノケンの舞台からにじみ出す滑稽さには、いつも深いペーソスがただよっている。彼の舞台からしみじみとした抒情を感じるのはそのためだろう、チャップリンの映画からにじむあの味である。シングの「西の国の人気者」の臆病でおっちょこちょいのクリスティ・マホンの役は、俺にしかできないというような意気込み方で、こんなところにも演劇人としての榎本健一の若々しさを感じさせる。喜劇の第一線で奮闘しながら、若い演技者を育て上げている榎本健一は、本当の意味の喜劇を日本に生み出す大きな推進力なのである〉
エノケンは風刺喜劇にも食指を動かしていた。戦前は台本検閲制度がありきびしくて全くできなかった。しかし、カジノ・フォーリーの頃(昭和五年)は検閲がなかったので、このわずかな時期だけ、ヴァラエティの中で、新聞ネタの風刺コントをやったが、これが喝采を博したので、いつかまたと、機会を狙っていたとき、戦後になって三木鶏郎の脚本・音楽「エノケンの無茶坊弁慶」に出会った。三木鶏郎は、
〈エノケンさんと始めてお手合せしたのは日劇で「無茶坊弁慶」を(昭和二十四年)上演したときで、これは獅子文六氏から「さすがは三木鶏郎」と過賞の言葉をいただいた程の出来でいい気持だったが、当時のエノケン氏は新入りの弟子が昼食のソバを持ってくると「オレのソバ嫌いなの知らねえェか!」とその弟子の頭からソバをかぶせたという程のワンマンぶりで飛ぶ鳥おとす全盛時代であった〉
と言っている。この頃、号外の鈴の音ではじまる日曜娯楽版(昭和二十二年十月からのNHKラジオ番組)は、当時最高の人気ラジオ番組で、三木鶏郎の名は全国に知れ渡っていた。脱疽の病床でもこの番組中の冗談音楽を特に楽しみに聞いていたエノケンは、NHKから連続ラジオドラマ出演の話がきまると、音楽は三木鶏郎と指名した(この頃日曜娯楽版はユーモア劇場と改名していた)。
[#1字下げ]知らない間に〈裁判で〉知らない間に〈判決で〉
[#1字下げ]知らない間に〈監獄で〉知らない間に〈釈放だ〉
[#1字下げ]これはあきれたオドロいた何が何だかわからない
[#1字下げ]これが〈自由〉というものかあなたまかせの〈八年間〉
詞・曲とも三木鶏郎のこの「これが自由というものか」と「武器ウギ」(無茶坊弁慶)の歌は、「エノケン大全集」東芝EMIのCDに三木鶏郎の曲25曲の中に収められているから聞くことが出来るが〈 〉内の詞はいろいろにかえられて、なんにでも使える便利な歌である。
「この脚の悪いオレが、わざわざトリさんの家まで来て頼むんだ、映画の音楽をひきうけてくれョ」と口説かれて東宝映画の落語長屋シリーズ(昭和二十九年)を引き受けたことも今は思い出であると三木鶏郎はいった。
ユーモア劇場からエノケンの大好きだった冗談音楽が消えた理由は、風刺が強すぎる、という政府の干渉があったとか、なかったとかで(三木鶏郎は国会に呼ばれた)、政府、NHK、マスコミの板ばさみに遭って雲がくれをした事件があった(二十九年三月)。
いま芸能レポーター氏が特ダネを追うのとは質が違う。マスコミはいっせいに真相を聞き出そうと三木鶏郎を追っかけたが行方不明。数日後、すっかり変装した三木鶏郎はエノケンの家に現れ、エノケン立会いで「朝日新聞」の記者にだけ会うという一と幕もあった。
戦前の浅草時代には、栗原重一、池譲、津田純らがいたので音楽には不自由をしていなかったが、戦後劇団解散後は三木鶏郎である。服部良一、古関裕而のほかに、まだ沢山エノケンの歌を作曲した人はいるが、「ねえトリさん、こういう感じの歌が欲しいんだがなァ……」というエノケンの注文に、すぐ応じて曲を作る三木鶏郎を一番頼りにしていたことは、「突然夜中に電話がかかってきて、エノケンまつり(四十三年十二月、レコード吹込み四十五周年記念)の指揮をしろというのでずいぶんアワてた」という三木鶏郎の言葉をみてもわかる。
テレビでの新趣向[#「テレビでの新趣向」はゴシック体]
TBSテレビから、VTRが入ってすぐの頃のこと、かわったものをやりたい、という意向を聞いて、それでは「不如帰《ほととぎす》」をやろうということになり、森光子の浪子に、井上孝雄の武男で、他には山田己之助と千石規子と小柳久子だけで、エノケンは武男の母親川島慶子、浪子にいいよる仇役の千々岩中尉、浪子の主治医富岡、逗子の浜辺の船頭、山科駅の駅長、駅弁売、無賃乗車の男、駅員、小柳久子と連だって出てくる田舎者、浪子の墓を守る和尚の十役を、演ることにしたが、それでも足らぬと、テレビ局のディレクターと、のぞきからくり屋の二役を追加した。
つまり「エノケン珍版不如帰」というパロディで、主役の浪子と武男にはまっとうな芝居をさせておいて、その他の役は全部エノケンがやるという趣向だったわけだが、視聴者の反応は、笑おうと待ち構えていたのに笑いどころがない、ただ十二役をやったというだけだ≠ニ、この趣向は通じなかった。エノケンというと即喜劇に視聴者は結びつけてしまうからこの手のファースをテレビでやる時は相当な演出技術を身につけてないと、こういう結果に陥りやすい。放送当日各新聞のテレビ番組紹介欄で、大きくエノケンの十二役の顔写真まで入れて紹介した新聞もあるほど大きく扱われすぎて、せっかくの趣向をバラした結果になり失敗した。番組宣伝の難しいところだ。
「エノケンの孫悟空」(三十一年十二月スタート)も、今ひとつ盛りあがらなかったのも、趣向にこって(TBS・土井利泰演出)芝居がいまいちだったのかもしれない。この頃は生放送だったから、こういう企画自体が、テレビにはまだ無理だったともいえる。
テレビの連続ものでは、三十三年十月から三十六年三月までやったNHKの「お父さんの季節」が最長記録で、酒井孝一プロデューサーに強引にくどかれた番組(演出は岡崎栄と末盛憲彦)で、スケジュールの都合がつかない時は、休んでもいいという条件まで出され出演したのだが、結構評判がよかったので相当スケジュールをやりくって出演していたが、この頃になるとビデオの編集技術も目立ってよくなってきた。
〈榎本健一の登場する新番組「お父さんの季節」は、子供に楠トシエ、水谷良重、加藤博司らを揃えて、それぞれいい持ち味を出している。榎本健一のお父さんぶりは少々おセンチすぎるのが欠点だが、さすが芝居は達者であり一家揃って楽しめるホームドラマである〉(「日刊スポーツ」三十三年十月二十五日)。
藤山寛美が、この「お父さんの季節」に出演している。エノケンとはテレビで二回顔を合わせている。一回はよみうりテレビ制作の寛美主演のマゲ物「しゃっくり寛太」(三十五年七月よみうりTV制作)で、松竹新喜劇が東京公演中だったので日本テレビで収録することになったため、芸術座の「がめつい奴」出演中のエノケンと深夜のVTR収録で実現したものだ。
「榎本先生と共演することは、せまいワクからのがれようという僕の気持のうったえで、ちゃんと自分をもっている人とぶつかることはこわいけど勉強になります。いつか一度共演できればと思っていました。それが果されてうれしいわけですが正直いって堅くなりました」
と藤山寛美は語っている。そして、もう一回が三十五年七月に、NHKの「お父さんの季節」に寛美が出演した。エノケンと寛美の顔合せはこれだけであったが、エノケンは、「東京の若い人にはない、一本の強い筋をもっている、流石だよ」といっていた。
動物好きだったエノケン[#「動物好きだったエノケン」はゴシック体]
エノケンは動物が好きで、狸《たぬき》をペットとして飼っていたことがある。よく馴れていて、劇場の楽屋にまで連れてきたりした。狸は楽屋で図々しくもエノケンの膝を枕にぐうぐう眠りはじめたそうだ。おこすのも可哀想と、そっと手をあてて膝をぬくと、狸は首を宙に浮かしたまま、ぐうぐういびきをかいている、これがほんとの狸寝入というやつさ、とよく人に話していた。
エノケンは、大きな檻に入れないで済む動物や鳥などは、ほとんどといっていい位飼ったようだ。孫悟空を演ずる前に、動物園へ日参して猿とにらめっこして、猿の動作を研究したなどという伝説があるが、動物園に一度ぐらい遊びに行ったことはあったろうが、日参して動作を覚えるような人ではなかった。一度みたらばその特徴を掴む、するどい感覚の持ち主だった。猿、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、を区別してやって見せた人だ。
或る映画のワンシーンにエノケンの背中の猿が、ヒョイと手をのばして柿をもぎ取ると、猿に向って叱るカットを監督がどうしても撮りたいというので、エノケンはテスト無しで、いきなり本番で、というと、監督はどうしてもテストしたいと言うので、猿を一度叱ると、二度とやりませんよと念を押したのにテストをし、さあ、本番となった時、この猿は柿の実に手を出さなくなってしまい、このカットはなしになった。動物の習性を知らないと、こんなものさと言った。
このエノケンに象と共演の話が持ち込まれた(昭和三十二年・東宝映画「象」)。持ち込んだのは山本嘉次郎(脚本・監督)で、「榎本さんに断られたら、この映画は出来ないから、是非出演して欲しい」とくどかれ、他ならぬ山本さんの頼みとあらばと出演を承諾した。
山本監督は過去(昭和十六年)に「馬」という作品を撮り、その前年に「エノケンのワンワン大将」という映画で犬も使っている。
いくらエノケンは動物好きでも、象を相手にするとなると怯《ひる》んだ。
この物語は、第二次世界大戦中、日増しにアメリカ軍の空襲が激しさを増してきたため、動物園で飼育している猛獣類を全部薬殺するように国からの指令が出たので、上野動物園でも、ライオン、虎、豹、熊、狼、象、が対象になったそうだ。空襲を受けて鉄の檻がこわれ猛獣たちが市内にとび出してきたときのことを想定したわけだ。いま上野動物園内に動物たちの慰霊碑があるのは、この時に殺された動物たちの霊を祀ることにはじまったのであるが、象は利口で毒薬のついたものは決して喰べないので、餓死させるより方法がなかったという。
象は盛んに芸をしてみせて飼育係に餌をねだるが、餌を与えることが出来ない。こうした飼育係と象の悲惨な実話だから、喜劇では全くない。今井正監督の「人生とんぼ返り」以来の異色作品である。松竹は戦後間もなく、この事件を、象の肉とは知らずにたべた、という「象を喰った連中」という喜劇映画を作ったが、戦後十二年もたって実話を元に山本嘉次郎が取組んだのは、戦争というものの悲惨さを訴えたかったのであろう。
象とエノケンの対話[#「象とエノケンの対話」はゴシック体]
エノケンは象と馴れるまでひと月近くかかったそうだ。まず自分が着る飼育作業服の臭いを象が覚えてくれないと駄目なのだそうだ。上野動物園も全面協力をしてくれたが、象舎と象の運動場に、担当の飼育員とたった二人で入って行くのには勇気がいったようだ。撮影は一月二月という寒中に行われた。撮影に使った象は戦後タイ国王から上野動物園に贈られた象で、おとなしい象だから心配ないと聞かされていたそうだが、広い象の運動場に立っていると、象舎から出された象がエノケンに向ってノッシ、ノッシと歩いてこられる時に恐ろしさを感ずるが、この時は象の眼から自分の眼をそらせないでいるそうだ。そして三メートルほどに近づくと象は立止る。立止ってくれると安心すると言った。餌を鼻先で受取れる距離を知っているらしいから立止るのだそうな。そうするとエノケンは象に近寄って行って鼻を叩いてやり、好物の餌を与える。エノケンの武器は手鉤一本。ロケ隊は檻の外からの撮影であった。
この頃私は、TBSで「エノケンの孫悟空」というテレビ番組がスタートしていたので、ロケ先の動物園に昼めし時になると打合せに行った。ロケ隊の食事は、動物園の裏門を出てすぐのそば屋の二階だった。エノケンは、いくら着込んでカイロを腰に入れてても、空っ風の吹く中に立っているから寒くて寒くてと、熱燗の酒を一本飲んで、カレーうどんか、鴨南うどんを食べた。エノケンはそばがきらいで、いつもうどんである。ときに天丼をたべることもある。そば屋では、この三ツがおきまりである。ほかのものは絶対にたべない。
昼めしをたべながらの打合せを済ますと私は、好奇心から、撮影のために象やライオンや虎を本当に殺すわけにいかないでしょうと訊ねてみた。するとエノケンは、「あるサーカス団で老衰で使えなくなった象がいたので、それを借りてきて東京映画のスタジオの隅に寝かせてあるのだそうだ。時々鼻や尻っぽを動かす程度で起き上ることもしないそうだから、ご臨終シーンは撮り上げたらしいよ。ライオンや虎は簡単なんだよ、猫科だから生肉に、またたびをたっぷりまぶして檻の中のライオンや虎にたべさせるとよろこんでたべ、気持よくなると、ドタッと横になって寝込んじまうところを撮影すれば済むんだから……」といった。
この映画はサーカス団で使いものにならなくなった年老いた象がいるという情報が入ったので急に持ち上った企画なのだ。なまじなサーカスものの映画を撮るより、戦時中の実話の象の餓死の方がドラマとしても最高で、上野動物園が協力してさえくれれば製作費の安い作品が出来ると山本監督が脚本を書いて動物園に持ちこんだら、二月は動物園は入園者が一年中で一番少い時だからと撮影の許可がおりたので、それとばかりにカメラを廻し出したという。
上映されたのを見た時、なるほどセットはごくわずかで、飼育課長が小林桂樹、女優は安西郷子と河内桃子。なにしろ、象と象の飼育人の話で、飼育課長は、もし東京に爆弾が落ち象があばれ出したらどうなると思うと、餓死させたくないという飼育人に同情しながらも説得に説得を重ねるが、飼育人は象が可哀想でこっそり餌をやってしまうという話なのだから、園内の裏門や、ベンチや事務所の裏を使い、あとはもっぱら動物たちを見せるというロケーションぶり、封切は四月二日、この当時の映画界は毎週二本ずつ封切っていた時代で隔世の感がある。同時封切のもう一本は、江利チエミ主演の長谷川町子原作「続・サザエさん」であった。
歌い方にリズムと味がある[#「歌い方にリズムと味がある」はゴシック体]
エノケンみたいなダミ声という言葉をよく私も耳にするのだが、もともとの声ではなく、あれは芝居でつぶした声である。浅草時代の年中無休の舞台出演を続けたためで、咽が弱いくせに大切にしないところがあった。舞台出演が少いとダミ声は直るのだが、客席の笑いに追い討ちをかけるように体から声をふりしぼってセリフを言う芝居を続けると、すぐダミ声になってしまう。その顕著な例が「らくだの馬さん」で、これを演《や》ると、必ず咽を痛めていた。
足を悪くしてラジオ出演が多くなり、マイクの使い方がわかって来てからは発声が大分かわった。三十年も舞台一途に来たのだからやむを得ないことだが、エノケンの歌を聴くと、アームストロングや、サミー・デビス・ジュニアのある種のジャズ・ボーカルを思いうかべる人もいて、エノケンのあのダミ声がいいのに、年と共に声はテノールになってしまったので、エノケンらしさが無くなってつまらなくなったと言う。元来エノケンはハイバリトンであったが、テノールの音まで出た人である。
斎藤晴彦がエノケンの歌について、彼なりにいろいろと書いている。
〈こんにゃく座の「フィガロの結婚」を見た山口昌男さんが、「新劇」という雑誌に「サイトーがやったアルマヴィーヴァ伯爵は、ちょっとエノケンみたいだった」と書いてくれた。声もだみ声で、そのわりにメロディは正確で、言葉もよくわかる。ちゃんとメロディを演じていて、エノケンの時代の「オペラ・ブッファ」の面白さがあったと、ま、絶賛してくれたわけ。
たしかに、おれにはエノケンのまねをしているみたいなところがある。毎日、エノケンのレコードを聴いてコピーしてるというんじゃないけど、なんとなく、でも、かなりつよくエノケンの歌唱法を意識している。あの人の言葉の印象づけ方に、ひたすら感心しているわけ。(中略)
それから、かれはメロディを絶対にのばさない。「おれは村中で一番、モボだといわれた男……」という「洒落男」にしても、けっしてうたいあげない。かならず早目に切っちゃう。そのあとも伴奏のほうはつづくから、聴衆のほうでは、そのあいだ言葉が残像になってのこるんだよ。そのことをちゃんと意識していたんじゃないかな。(中略)
エノケンの歌って、たしかに、じつにメロディがきれいなんだ。「ベアトリ姉ちゃん」でも、ピアノだけの後奏がちょっとあったんだけど、ものすごくきれいだった。それをエノケンがうたうと、きれいさをうまく崩していくんだね。聴衆に羨望とかやっかみの気持を起こさせかねないくらいきれいなものをベースにして、そこに雑なものをいれていく。その二つが混在したとき、はじめて聴衆が感動する。なにかがわかってくる。エノケンやアームストロングは、天性で、そういう芸当ができたんだよ。
たとえば「洒落男」なんて、いなかのモダンボーイが東京にでてきて、いい気になってツツモタセにひっかかったというだけのバラードで、それ自体はおかしくもなんともない。だけどエノケンがうたうと、じつにおかしい。バカみたいに単純なストーリーを自分の唱法でふくらましていって、あのやせた言葉と、きれいなメロディとで、ふしぎな世界をつくりあげる。「ダイナ」だってそう。つまんない歌詞なのに、おかしい。言葉の力点のおき方がまさにジャズなんだ。(中略)エノケンのリズム感というのは、どこか予言的だもんね。完全に時代を先どりしている。で、おれたちはといえば、いまだにあのレベルを越えられていないんだからさ〉(『斎藤晴彦[音楽]術・モーツァルトの冗談』晶文社)
実物のエノケンを斎藤晴彦は高校生のころ、たった一度新宿コマ劇場で「らくだの馬さん」(昭和三十四年七月)を見ただけだという。エノケンが屑屋で、岩井半四郎が半次で、中村是好がらくだとその死体を演じた。ものすごく面白かったと書いている。
この「らくだの馬さん」という死人を道具として扱う残酷な喜劇は珍らしい。らくだの馬≠ニ仇名《あだな》される長屋中の鼻つまみのならず者は、弱い渡世の屑屋の久六を始終痛めつけていたのだが、或る晩、季節はずれの河豚《ふぐ》をたべて死んでしまう。馬さんの兄貴分の半次は、葬いを出すにも金はなし、家主から金をせびり取ろうと、死人をかついで家主の家へ上りこみ、こわがる家主夫婦にかんかんのうという踊りを死人におどらせてみせる。らくだ≠ニいう落語だねの芝居である。
歌舞伎でも初代中村吉右衛門も演じたことがあるが、落語を聞くよりも、エノケンの「らくだの馬さん」は死人を冒涜《ぼうとく》しながら、数倍笑える喜劇の傑作に仕上げてあった。ところが観客には、その残酷さを全く感じさせないで、弱者久六に同情しおかしがらせているのだ。新宿のコマ劇場の公演中、客席のうしろで私も毎日のように一ヵ月間見てしまったが、見あきることがなかった。笑いにくる観客と違って私は、さめた目で見ているのだが、それでも観客の笑いに誘われて笑ってしまうのだった。
芝居中のどこで客が笑うかということは全部知っているのだが、エノケンの演技が無類に傑作で、客席の爆笑に連鎖反応を起こして笑ってしまうのだ。喜劇というものは、テレビで見るものでは絶対にない。劇場に足をはこばなければ楽しめないものなのだ。
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[#小見出し]第七章 エノケンの心意気
三賞受賞の喜び[#「三賞受賞の喜び」はゴシック体]
昭和三十五年という年は、日米安保条約・行政協定の承認をめぐり反対運動は熾烈《しれつ》となり、安保で明け「所得倍増」のかけ声で幕を下ろした暗い世相を背負った波乱の年であった。しかし、エノケンにとっては生涯最良の年であり、皇太子浩宮徳仁親王の誕生という明るいニュースもあった年である。
この年の一月にエノケンは、第四回テアトロン賞を受賞した。受賞の理由は、前年の「らくだの馬さん」(新宿コマ劇場で上演)「浅草の灯」(東京宝塚劇場で上演)の劇中劇「最後の伝令」と、「がめつい奴」(日比谷芸術座で上演)の演技に対して、というもので喜劇人としては初の受賞である。
エノケンはおよそ賞というものに縁の無い男で、小学(東京・麻布区)生の頃、賞どころか、成績表の操行に丁をつけられたというのである。操行丁≠ニいっても、いまの人達には何のことやらわかるまいが、甲、乙、丙、丁、戊の五階級の四番目で、操行というのは日常の品行のことだから、成績以上に注目されるわけで、これに丁をつけられたから子供心にも困って、親にこれはみせられないと丁を甲に書き直したがバレて父親に叱られたという話は本当のことであった。
ということは、NTVの「人生はドラマだ」という番組で、当時の成績表を担当者が調べあげ、その時の担任だった先生をスタジオに呼んで、ご対面をさせ、その先生に、少年榎本健一に、どうして操行丁をつけたのかと質問した途端に、その先生は、びっくりした顔をして、その成績表をじっと見ているうちに唇がふるえ出し、ひと言も口をきかず下を向いて本番中にスタジオを出て帰ってしまった。
後日、その先生から「あなたに操行、丁をつけた私は教育者としての資格は零の男だったことを今痛感している。教育者として人を見る目がなかった私ははずかしくて外も歩けず、あの日以来家の中にとじこもっている……」の手紙をもらったエノケンが、テレビ局に対して「年老いた先生を可哀想な目にあわせやがって」と怒りを向けていた。
そして三月、NHK放送文化賞を受賞。十一月には喜劇俳優として初のミニ文化勲章といわれる紫綬褒章を受章するなど、この年はまさに三賞独占三冠に輝いた年であった。
ジャーナリスト達は、この三賞受賞で、喜劇王エノケンを決定的にしたのではあるまいか。
この紫綬褒章受章には本人以上に仲間たちが驚いた。人を笑わせる「喜劇」というものは低級ときめつけられ、それを演ずる喜劇人まで低級な人間と見くびられ続けてきた、エノケンの心の中は複雑だったようだ。この時エノケンは、日本でも、喜劇というものがようやく認められたという喜びのほうが大きく、自分の受章というより喜劇人全員にくださったと思っていると、マスコミから求められた感想にそう答えている。
おそらく後に続く喜劇人を期待し、はげましの意味をこめてでの言葉であったのだろう。そして映画界からも初の受章者として早川雪洲が受章した。このときの受章者の中に、将棋の木村義雄元名人、『銭形平次捕物控』の作家野村胡堂もいたので、朝日新聞は「大衆文化′労者らに褒章」と大きな見出しでとりあげた。
敗戦後、文化国家建設の旗印を掲げながら、十五年たってやっと大衆文化に陽光があたりだしたというわけである。
男エノケンの感懐[#「男エノケンの感懐」はゴシック体]
古波蔵保好が「サンデー毎日」(昭和三十五年)にこう書いている。
〈エノケン氏にとって、すべての他人は、ファンである。笑わせてもらいたいと願っているファンなのだ。おめおめと陰気な顔が見せられますかと、これが寿命の長い喜劇役者の心意気であろう。
といって、今度の紫綬褒章の受章は、俳優としての生命が長いということだけが、理由になっているのではなかろう。喜劇に新風を起こした人としての国家的称賛が、三十年目におくられたのだ、と考えたい。それはエノケン氏ひとりの力でなかったのは勿論で、背後にいる座付作家の頭脳、演出家の喜劇感覚との総和のなせるわざであるが、大衆の興味をアチャラカ劇に向けた代表者はエノケン氏だったといえよう。
「いままでに、これはうまくいった、という芝居がおありでしょうが、それはなんでしょう?」
「さあ、みなさんはエノケンの芝居で一番おもしろかったのは、どれだと思っているんでしょうかねェ。わたしは役者で、役者は、自分で、これでいいと思うことなどないものです」
歌舞伎の初代中村吉右衛門は「役者というものは、一生が修業でございまして」というのがオキマリであったが、エノケン氏の喜劇役者としての心意気も、以上のとおりだ〉
紫綬褒章を受章して一年後の三十六年十一月一日、昭和天皇から皇居外庭での園遊会に招かれた。その時の様子を、エノケンは次のように述べている。
〈明治生まれの僕は、自動車で二重橋正門をくぐるなんて、想像外のことだからである。それも、陛下からお招きいただいたというに至っては、日本人として大感激した僕は大馬鹿者だろうか。大勢の偉い方々にまじって参内したところで、陛下は僕なんかを知っておいでではあるまいから、隅ッこに立っているだけでいい、一国民として名誉なことなのだから……正直そんな気持ちだった。
僕は女房と、玉砂利の上を走る車に身をおき、二重橋正門をくぐったときはさすがに身のひきしまるのを覚えた。車を降り、受付を通って、紅白にわかれた乗馬の競技を拝見、そして雅楽の演奏会場へ行く。やがて両陛下、皇太子殿下ご夫妻がお出ましになり、陛下とともに雅楽を鑑賞させていただき、次の園遊会場に行ったのであるが、顔見知りの人が居るわけがない。
将棋の木村義雄さんのお顔をみてほっとした。木村さんは入江侍従とはお馴染らしく、いろいろお話をされているので僕もその輪の中に入った。入江さんはどう知ったのか「榎本さんは日本酒ですね」と給仕の人に日本酒を持ってこさせ、そして「コップでしたね」とコップに酒を注がせてくれた。皇居の園遊会でコップ酒を飲もうなんて思ってもいなかった僕のほうがあわてた。
陛下はテントを順にお廻りになっていられる。やがては、この僕のいるテントにもおいでになるであろうかと、僕は木村さんと歓談していると、やがて先程の入江侍従が先導して陛下がいらした。僕は最敬礼した。入江侍従が、榎本健一であることを陛下に申し上げている言葉が耳に入ったので頭を上げずにいた。「榎本さん」という入江侍従の声で僕は「ハイ」と、頭をあげると、目と鼻のさきに陛下がお立ちどまりになって、僕の顔をごらんになっていた。
「テレビや映画、いそがしいですか」
戸惑うなんてものじゃない、僕はヘドモドして、ようやっと、
「近頃、舞台にばかり出ておりますもので」
と申し上げると、
「あ、そう。テレビにも出てね」
というお言葉を頂戴し、「ハイ」と最敬礼。
感激その極に達して、ロクにご返事も差しあげられなかった。
テレビや写真でしか知ることのできない両陛下、皇太子殿下ご夫妻を目のあたりにしたとき、陛下はいままでの僕の感じていた陛下とは全然違うことを初めて認識した。体格のご立派なこと、僕は体が小さいからというのではない、堂々たるお体であり、お顔の色の美しいこと、古い表現だが、神々しかった。あ、そう≠ノ至っては、まことにもって自然であり、巷間、輩等の用いるあ、そう≠ネんてものではぜんぜんない。
皇居を退出するとき駐車場までの玉砂利の上を歩きながら僕は、さっきの陛下のお言葉を口の中でくり返した。
「そうだ、もしかすると、陛下は僕のテレビをごらんになったことがあるのかもしれない」うぬぼれでなく、正直そういう気持になって退出した〉(「随筆サンケイ」三十七年二月号)
NHKの「お父さんの季節」は、とうに終っていた。舞台出演に追われてテレビに出る機会がなかったエノケンは、陛下との約束をはたそうと、NTVに出演を申込んだ。尾上松緑の「半七捕物帖」はどうかというので、二ツ返事で半七捕物帖「湯屋の二階」に出演させてもらい、「陛下はごらんくださらなくともいい、お約束申しあげたことだけは、これではたしました」と松緑をはじめ出演者、スタッフのひとりひとりに頭をさげて礼を述べたという。尾上松緑とはじめての共演である。
代役を買って出たこと[#「代役を買って出たこと」はゴシック体]
菊田一夫が東宝の演劇担当重役になってから、プロデューサーシステムをとり入れるようになり、東宝の演劇形態がかわってきたが、その過渡期は、異色顔合せということをさかんに行った一時期がある。エノケンだけをとりあげても、エノケン、水谷八重子、尾上九朗右衛門、三木のり平、益田喜頓、三益愛子らの「メナムの王妃」。エノケン、中村扇雀(現・三世中村鴈治郎)、市川中車、中村芝鶴らの「コマ歌舞伎」。エノケンと女剣劇で人気ナンバーワン大江美智子一座の合同公演、大阪漫才のトップスターだったミヤコ蝶々、南都雄二との共演や、美空ひばり、クレージーキャッツ、水谷良重などとも舞台を共にしたり、東宝劇団歌舞伎にも顔を並べている。
こういう人たちと舞台やテレビに一緒に出ても、違和感をみせなかった不思議な喜劇役者だった。
エノケンが舞台で代役をやったことが、たった一度だけある。劇界では、代役は休演者より後輩の俳優が指名されて勤めるという、犯すべからざる鉄則がある。だからこの代役が認められてスターになった人はいくらもいる。ところが代役のきかない人のときは、劇場は休まなければならない。「屋根の上のバイオリン弾き」で、森繁久弥が病気で出られないとなると劇場は休場になる。森繁久弥は出演中健康管理に全力を注ぎ、酒を断つなどの努力をしたからこそ、記録的な上演回数を達成できたのだと聞くと合点がいくと思うが、スターになると風邪をひいても、腹が痛くても休むことは許されないのだ。エノケンのたった一度の代役とはフランキー堺の代役をやったのである。
フランキー堺は、こう語っている。
〈私は因果と丈夫で、舞台の公演中は休んだことのないのを自分でも自慢にしているが、たった一度だけ、二日間、病気休演したことがある。それは、昭和三十六年の六月、東宝劇団歌舞伎旗挙げ公演「野薔薇の城砦」(作・演出菊田一夫)に、エノケンさんとともに特別出演したときのことである。しかも、それがエノケンさんとの初共演でもあった。カゼ気味だったところへ無理が重なって、医師から休演を命ぜられた。プロデューサーは沈痛な顔をして考えこんだが、「ゆっくり休んで早く治してください」
さていったい、代役は誰がやってくれるのだろうか、翌日の午前中、ずっと私は心配で、オチオチ寝てもいられなかった。午後になって、なんとその代役を大先輩のエノケンさんが、自ら買って出ていただいたことを聞かされた。しかも、持ち役であるアイヌの酋長を他の人にやらせてである。私は息も止まらんばかりに感激した。
「いやあ、ひとの代役をやるのは、初めてだったが、へんな気持だったな。ほら、第二幕の立ち小便のところも、チャンとあんたがやったように演ったよ」
二日後、元気になって、まっさきに楽屋へお礼に伺ったら、恐縮している私を前にして、エノケンさんはこういって、なんのくったくもなく笑っておられた。私はこのことを終生忘れないだろう〉(「エノケンを偲ぶ」)
この時エノケンは、松本幸四郎(先代)以下市川染五郎(現・幸四郎)らが東宝に移り、しかもその第一回東宝劇団歌舞伎公演であったから、不文律を犯して自ら代役を買って出たのである。代役の鉄則を知っている人は、おやッと思われるだろうが、自分が買って出たことで自分を納得させる人なのである。
たった一回あった脚本変更[#「たった一回あった脚本変更」はゴシック体]
さらにエノケンは配役が気に入らないから出ないとか、脚本が気に入らないから約束した舞台出演をとりやめる、というようなことは私の知る限り一度もなかった。むしろ私らが、エノケンでなくても済む役なのに、どうして出てるのだろうと思うような舞台があったが、いつもエノケンは全力投球をしていた。最愛の一人息子を失ったときも、舞台を休まずに勤めた人である。
ところがたった一度だけ芝居をかえてくれということが、新宿のコマ劇場(昭和三十七年三月)喜劇人まつりで起きた。書き上った出雲隆作の「村井長庵」が、喜劇人まつりの脚本ではないというのがその理由で、脚本が悪いのではないから後日これはやることにして、三月の喜劇人まつりは別の脚本にしてくれと、北村三郎プロデューサーに注文したらしい。
まッ正直で気が小さく、芝居馬鹿で気どり屋。これらがいったんこんがらがり出すと、容易なことでは収まらなくなる。芝居によくあるゴネでは決してない。北村プロデューサーは、私の家にやってきて、いまさら別の脚本を準備する時間がないので、この脚本を書き直すことを条件にやっと、エノケンの新宿コマ劇場へ三月出演の承諾だけは得たので、私に改訂して欲しいと言った。追加注文として三月の出演者の連名を示し、配役洩れのないように、殊に脱線トリオの出場《でば》を考えてほしいと注文された。この頃脱線トリオは最高の売れっ子であった。
私は書き直すのなら全部、それが不承知ならば引き受けないと返事をした。先輩作家に対して失礼なことは承知の上で、こう言ったのは出雲さん自身が改訂されるのが最も好ましいことであり、そうすべきであると思ったからで、でなければ別の芝居に代えるのが一番と私も思ったからだ。
ところが、そうはいかない理由があったことを後で知らされた。商業演劇のこんな裏話など書く人もいまいから、もう少し書こう。
北村プロデューサーから、出雲隆作・井崎博之脚色≠ニすることで、出雲さんは全部の書き直しを承諾したから大至急たのむ、といってきた。よもや承知するはずがないと踏んでいたので私は慌てたが、まっ更から喜劇として書くのだから、村井長庵は大悪党ではなく、気の弱い善人にする。脱線トリオの、由利徹、八波むと志、南利明は三人ともキャリアのある人達だからトリオとして使わない……などのメモを用意して、舞台装置の伊藤寿一に会うと、道具帳は仕上げて劇場に渡してあると聞かされ、コレどうなってるの、と劇場側にたずねると、私は了承済みのことだと思っていたから、舞台装置に合わせて芝居を書いてくれと逆におがみ倒された。
出雲脚本でごたついているのに、劇場側が村井長庵の芝居に固執した理由は、舞台装置(大道具)は既に製作に入っていたから、他の芝居に差しかえられなかった事情があり、脱線トリオの出演を決めてありながら、上った本をみると彼らの出る役が無いじゃ済まされないし、それと喜劇人まつり≠轤オくすることの理由からおそらく、出雲隆も劇場側に強引に捻伏せられたのではあるまいか。そして私が書くことでエノケンも納めよう、という計算からホームラン打者でない私に、ポテンヒットくらいを狙ったなと推測した。
「やっぱりお前のとこへ行ったか。長庵は大悪党だろうが俺が喜劇人まつりで大悪党ではお客が承知しないよ、そこんとこだけを直してくれ」
矢張り私の考えた通りのことをエノケンは言った。だがそこんとこだけ≠ナ済む代物ではない。そこで自分なりに整理したメモを話した。
「ああ、いいよそれで。そうしておくれ」
「ところが道具帳が大道具製作に廻っているんですよ」
「そいつあ弱ったね、その道具を使うより仕方ないのか。まあそれはお前の腕だ、うまく書けや。智恵なら借してやるよ」
全八景だったのが全十一景になってしまったが、どうやら開幕にこぎつけ代打は三振に終らずにすんだ。
「紺屋高尾」をめぐって[#「「紺屋高尾」をめぐって」はゴシック体]
私がこの本をまとめるために、国立劇場資料室に通い、遺族が寄贈した膨大なスクラップブックに丹念に目を通していたとき、私を驚かせたものを二つ見つけた。
その一つは、雑誌「東京レポート」の五分間対談芸能生活35年・クレヴァな親父エノケン≠ニいう対談記事(昭和三十三年)である。内容を読んでみると、五月の新宿コマ劇場の楽屋で記者氏と対談したとわかったが、その最後のほうで、
本誌「一番うれしいことは?」
榎本「今、コマ劇場で大江さん(大江美智子)と共演しているんだが、最後の『紺屋高尾』の脚本を僕の弟子井崎君が書いたんだ。評判もいい、自分の可愛がっている若い者が世に出るときが一番うれしいね」
本誌「親父≠ニ呼ばれるユエンが解かりますなあ……」
こんな記事を発見したのでそんなに評判がよかったのだろうかと、私は「紺屋高尾」の新聞評をさがした。
〈前回は舞台ですれ違って失望させたが今度は「紺屋高尾」でたんのうするまでに二人のスターがぶつかり合い、客席は沸きに沸いている。双方とも十八番ものに数えている得意狂言。初の二人の顔合せにこの作品を持ってきた企画が当って、エノケンも大江も水を得た魚のように元気一杯。エノケンのにわか大尽ぶりが珍妙そのもの、大江の目もさめるような高尾にすり寄られるあたりエノケンの個性がうまく出て客席は爆笑の渦。太夫の部屋での二人の濡れ場も二人並んだだけで客席は沸く〉(「日刊スポーツ」評)
〈お互いの十八番もので文字通りの共演で人気を集めている「紺屋高尾」はそれぞれの持ち味の面白さで、ことに三浦屋高尾≠フ部屋がいい。舞踊劇仕立ての色模様がおもしろく、大江の高尾はこぼれるばかりのお色気をただよわせ、これがエノケンのとぼけた味とよく合っている。だが全体に軽く筋を追ってたわいなく笑わせるだけのもので、もっとコクのある芝居をさせてみたかった〉(「朝日新聞」評)
「紺屋高尾」がエノケン十八番ものと記者氏が書いているのは、以前にエノケンが篠田実の浪曲を栗原重一作曲によるオーケストラで歌ったのが評判よかったので、「どんぐり頓兵衛」や「法界坊」などの劇中で、歌詞の一部をかえて始終といっていい位歌いまくっていたから、それが耳に残っていて、十八番ものと書かれたらしい。同じ三月にコマ劇場の「法界坊」の劇中でこの篠田浪曲を使っているので一ト月おいた五月の「紺屋高尾」で又使うことができないから、篠田浪曲はやめ、新しく作曲した歌(飯田景応)が逆に評判をとったようだ。
私がどんな「紺屋高尾」だったかを書くより、新聞評を並べたほうがわかりやすいと思ったからだが、作者としても少々いわしていただく。
私の知らぬ間に、井崎博之作・菊田一夫演出「紺屋高尾」の新宿コマ劇場上演予告看板が出ていたのを見て劇場に問合せたら、なにも聞いていないのですか、と逆に驚いていた。「紺屋高尾」はエノケン(松竹座で一回きり、それも検閲にひっかかり無残な芝居となった)もそうだが、先代の大江美智子は何回か演ったらしいが、二代目の大江美智子は一度もやってないから、ともに十八番では絶対にないということなのに、新聞記者の記憶違いもひどいものだ。
私は不勉強で浪花節を聞いたこともなければ、どんな物語であるかもロクに知らなかったが、岸井良衛さんが親切に教えてくれた。そこで、一応構想をまとめてから、場割りはスピーディに舞台を転換したいので、装置の織田音也と打合せてさきに決めた。劇中の歌の部分は音楽の飯田景応と話し合って、歌詞を渡して作曲を依頼した。赤線廃止の直後であるから、廓内の部分は観客をあまり刺激しないように振りごとにしたいからと、振付の花柳寿二郎(後に応輔)にお願いをしてしまったが、この場が馬鹿に評判がよかったというのは、さすがに花柳寿二郎の振付がよく出来ていたからである。
この打ち合せをしているうちに、だんだん私の紺屋高尾は頭の中で煮つまってきた。ギャグはエノケンからのプレゼントで、一瀉千里《いつしやせんり》に書き上げたという台本であるが、私はこの時ほど先輩やスタッフに恵まれ、助けられたことはなかったので、賞められると面映ゆかった。
エノケンは、自分の芝居の初日に雨が降ると、不思議とその公演は客がよく入る、というジンクスをもっていた。新宿コマ劇場の「紺屋高尾」の初日は雨だった。
フィナーレのお辞儀[#「フィナーレのお辞儀」はゴシック体]
もう一つは新聞に尾崎宏次(演劇評論家)が書いた、「エノケンのお辞儀」である。尾崎宏次は、これも一種の演劇時評になると思うので書く気になった、と前置きしてから、次のように記している。
〈彼はフィナーレで、まず中央正面に向いてお辞儀をし、それからカミテのほうを向いてお辞儀をし、次にシモテに向いてお辞儀をする。この三回のお辞儀をするときのエノケンの顔は、ひどく真面目な顔である。それを彼は「きょうはわざわざこの劇場においでくだされ最後まで見て下さって、みなさん、有難うございます」という気持でやっているので、あの時の自分は全くもとに返った自分だから、どうしてもああいう顔になるのだといった。
この三度のお辞儀がすむと、もう一度正面に向いて、ていねいにお辞儀をする。これはもう一度満員のお客さん全部に、礼をしているのだが、さて、その四つのお辞儀が終ると、エノケンはとんとんと二歩さがって、さっと右手をあげて振り、またあのサルに似た顔になって、満面にえみをたたえて、さようならというしぐさをする。このとんとんと二歩さがったところで、エノケンはまた「役者」にもどって、ニコッとするのだと、その時、身振りを交えて話したのである。(中略)
私はもう二十年以上もエノケンの舞台を見ていて、ただなんとなくあのフィナーレのお辞儀に好感をいだいていた程度だったが、いわれてみると、そういうこまかい心の演出があったのかと思った。人はそれぞれ生きる哲学をつくっているものだ〉
私もはじめての話であるが、私は、この三度のお辞儀の顔が、だんだん、真面目な顔にかわってゆき、もう一度正面に向いて一礼する顔は、ひどく真面目になってしまうのに気づいてはいた。「なんであんな顔をするんだろう」と疑問に思ったこともあったが、遂に本人にたしかめずじまいであった。エノケンの顔がひどく真面目になった一瞬の目は無気味というかおそろしさを感じる。由利徹も、
〈私はエノケン先生と直接の師弟関係はない。然し私達が脱線トリオ(由利徹、八波むと志、南利明)を結成した時からそんな関係になった。つまり仲間の南利明がエノケン先生の弟子であったからで、喜劇まつり「寄らば斬るぞ」(昭和三十二年)に初めて脱線トリオとして参加出演した時、我々三人を銀座の竹福という料理屋に招待して下さった。
その時、私と八波むと志が床の間を背に坐らせられ、南利明は末席に坐った。エノケン先生は南の隣りに坐り、「おい南、俺はお前を勘当した、だが今お前を許す」と先生、自ら南に手をさしのべ握手をし、私と八波に両手をついて「うちの南をよくここまでしてくれた、有難う」と私達二人に向って頭をさげられた。私は座布団をはねのけ、あっけにとられて先生のあの大きな目をみたとき電気に打たれたような感じがした〉
と書いていることをみてもわかると思う。
三十七年九月、エノケンは三度目の脱疽が悪化して、遂に右腿から切断手術を受け右足を失った。
私は手術後、しばらくしてから東大病院にお見舞に行った。枕元に真赤なバラの花があったので、「美事なバラですね」というと、昨日、ハロルド・ロイドが突然この花を持って見舞にきて、エノケンに右手を出して見せて「私は撮影中の爆発事故で、この通り親指と人さし指をなくしてしまった。ハリウッドにも片足をなくして、義足で十分やっている俳優が何人もいるから、私が次にくる時は、舞台や映画で、あなたが活躍しているところを見られることを期待したい」と言って握手をして帰ったことを聞かされた。そして「おい、不思議だぞ。右足がねえのに、右膝がかゆいんだよ、ほんとなんだぞ」と明るく笑った。私も釣られて笑ったが、病室を出たとき、見舞に来た人にまで笑いを振りまく根性の怖ろしさに頭をさげた。
ピエル・ブリアントの佐藤文雄[#「ピエル・ブリアントの佐藤文雄」はゴシック体]
藤山寛美が「よく知っていることと、愛することとは別」と書いていた(「東京新聞」この道¥コ和六十年六月六日)が、寛美が書いているだけに、私もその通りだと思う。
エノケンをよく知っている人と、愛する人は違うのだ。大谷竹次郎や小林一三はよく知っている人だ。プロデューサーとしての森岩雄や秦豊吉、役者でいうなら中村是好、柳田貞一らはエノケンを愛した人たちだ。異論もあろうが、ファンは別にして、エノケンを最も愛した人として、私は、山本嘉次郎、菊田一夫、エノケン文芸部と佐藤文雄を挙げたい。昭和七年のピエル・ブリアント文芸部が、そのままエノケン文芸部となってゆくのだが、エノケンの華の時代は、昭和七年から、戦火がはじまった十六年頃までの十年間と、戦後の昭和二十二年から二十七年の五年間、そして昭和三十一年から三十七年までの六年間と私はみている。
これらを華の時代といえるかどうかは評価の分かれるところだろうが、この三つを、第一期、第二期、第三期とすると、カラーがそれぞれ異なり社会情勢も画然と違う。役者の評価は、いつでもその時、その時代できまるものなのだとすると、昭和四、五年頃のカジノ・フォーリーは華の時代のプロローグ、エノケン誕生ということだろう。そして、その後の一期、二期、三期に、山本嘉次郎作品、菊田一夫作品、それと、エノケン自身が当り狂言≠ニして挙げる「法界坊」「文七元結」(共に和田五雄作品)「らくだの馬さん」(大町竜夫作品)「研辰《とぎたつ》の討たれ」(初演の脚本は菊谷栄)「どんぐり頓兵衛」(波島貞作品)を、はめてみると、よくわかると思う。
第一期の浅草時代に、ピエル・ブリアントの文芸部を取り仕切り、エノケン芝居のプロデューサーとして佐藤文雄が上演作品を統括していた。
評判がよければ、「民謡六大学」のようにロングランもやった。オペレッタや、レビューの評判がかんばしくないと感じると、マゲモノ喜劇をふやしたり、笑いのない本格派的な芝居をとりあげて、これにエノケンがどう挑戦するかと試し、喜劇役者としての自信をつけさせてきた功績は大きい。
それから十年、ピエル・ブリアントの文芸部が中心になって日本一の喜劇団に守りたてていったということは、エノケンに心の底から惚れこんだからこそであろう。こういう文芸部に支えられたエノケンは幸運を手中にしたわけだ。男が男に惚れこむというのは、生やさしくできるものではない。エノケンとても頼りにしたことを否定はしていない。
日華事変がはじまり、文芸部の菊谷栄は応召(昭和十二年八月)した。入隊先の青森の歩兵第五連隊から戦地に赴く途中品川駅で面会できるというしらせを受けた時、エノケンは新宿第一劇場に出演中にもかかわらず、見送りに行ってやりたいと、観客の許しを得て品川駅にかけつけたのも、隊長に会って第一線に配属するようなことのないように頼むことが目的であったといっていた。ヨシとその頼みを聞いてもらえてからわずか二ヵ月後、中国大陸での戦死のしらせは信じられなかったという。
文芸部の良さはエノケンの影武者に徹して立ち働いたところにある。彼等は不景気のどんづまりから、キナ臭い戦争への道に踏みこんだ昭和のはじめの世相を鋭く感じとり、それを徹底的に笑いのめして行った。そして毎公演ごとに文芸部員たち全員揃って合評し、反省の集りを開いていたことだ。互に鎬《しのぎ》を削り合いながらも、仲間の作品に助言をおしまず協力し合い、エノケンあっての文芸部であり、部員であるという温かな仲間意識を持たせたことは注目すべき事で、文芸部をとりまとめていた佐藤文雄の大きな功績といえよう。
その頃、大町竜夫は劇団ピエル・ブリアントが近頃マンネリとしか書かない劇評に対し、「エノケン新聞」(昭和十一年二月)でこう反論している。
〈ピエル・ブリアントが松竹座デビューの頃(昭和七年七月)、この人気は一年持続するかどうかと一部の世評があったにもかかわらず四年目に入り公演は続けられている。マンネリズムであるというからには、その、どこが、マンネリであるかを具体的に指示のないのは不親切きわまりない。
むしろ個性なきものは平凡であり平凡なるものこそ、マンネリの第一歩である。エノケンの場合、この点が誤解され易い損な立場にある。それはエノケンの味が、あまりにもユニークで、その芝居の色彩が特殊性に富んでいるために、観客を比較的早く飽和状態に導くおそれがある。つまり淡白な米の飯に対し濃厚な食味の如きものである。これではエノケンが可哀想である。
エノケンがパーソナリティーを百パーセント発揮した場合、人々はマンネリズムなどということはさらりと忘れて、これぞエノケンと拍手してくれる。しかし、ギャグなりアイデアなり、その他舞台上の具体的なテクニックは、すべてマンネリに陥りやすい性質をもっているがエノケンのパーソナリティーそのものは変化自在随所随時に出現し珍重されもし、意表外に出るブチコワシの精神はなかなかに有効で、そのテクニックの裏を流れる精神は用い方ひとつで変通自在に有効満点である。
ピエル・ブリアントのマンネリズムは、その個性的な特色の固定化するところにあるというのではなく、部分を全体と誤認して過信するところにその危険性があると常々自戒はしている。エノケンがエノケンであることは問題ではない。ギャグなりアイデアは常に新鮮であらねばならない。それは人間が笑いを欲する限り喜劇は不変であることを知って努力しているからである〉
歌舞伎の題材から喜劇を[#「歌舞伎の題材から喜劇を」はゴシック体]
笑いは一人よりも大勢で一緒に笑ったほうが、より大きな効果を発揮する性質を持っているから、観客の数が多ければ多いほど、笑いは一層増すという定説があるが、喜劇というものは、悲劇以上に公共的な性質をもつものであるから、喜劇の主人公はどうしても典型化してしまう。それを指して人はよくマンネリという言葉を使って指摘するのだが、喜劇になる素材は、そんなにたくさん有るものではないから、いざ取り組んでみると、いかにむずかしいものであるかということがしみじみとわかる。
たとえばエノケンが演じた「法界坊」「らくだの馬さん」「文七元結」「最後の伝令」「研辰《とぎたつ》の討たれ」「どんぐり頓兵衛」を見てみよう。そのうち、「最後の伝令」と「頓兵衛」を除くと、歌舞伎の人がやっているものばかりである。といって、エノケンは、これらを歌舞伎のパロディ、としてやったのではなく、どこかが歌舞伎の本と違っているだけで、すっかり喜劇に変身させている。これは驚くほど、難かしいことでありながら、認識されていない。
波島貞は、土方与志と共に日本に新劇運動を興した小山内薫の門下で、根岸歌劇団(浅草オペラ)の文芸部でおとぎオペレッタ「猿蟹合戦」の作者であった。ピエル・ブリアント文芸部に入ってからは、エノケンの舞台演出を多く手がけていた。その波島は、「榎本さんという人は場≠フ雰囲気を作ることと、出道具、小道具を使いこなす名人だった。部屋に不似合な掛軸が掛っていると、つかつかッとそばへ行き、軸をほめてから、『あら、破けたあとがありますね、夜店でお買いになったんでしょ』とやるからお客はドッと笑うんだよ、台本にないアドリブだが、こういうのが本当のアドリブというやつだが、腹に芝居が入っているからできるんだ。掛け軸をかえてくれと、ダメを出せばすむことなのだが、それを逆に笑いのネタにしてしまうんだよ」といい、作者も演出家も思いもよらなかったほどに面白くなることがしばしばあったという。「らくだの馬さん」がそのいい例だろう。
音楽の栗原重一という人も、作曲、編曲、指揮と、エノケンと、芝居の両方をよく理解していた人だ。エノケンが舞台で前奏なしで、歌い出せるのは、イキを知っているこの人が指揮棒をふっていたからだ。この栗原重一と、前記の作家らに佐藤文雄を含めたエノケン文芸部は、エノケンを心底愛して支えた人たちである。
菊田一夫も愛情をもって、エノケンの舞台をみている。
〈戦前戦後を通じて第一線で活躍されていたことは頭がさがりますね。後年、右足切断という舞台人としては致命的な不幸な状態のときも、舞台の上では、そんな悲しいそぶりはツユほども見せず、そのつらさが当り前であるかのような舞台姿でした。(中略)あれほどの名優ですが、初日はあがるし、演技をするときは死に身でやっていました。
私の「浅草交響楽」(昭和四十四年十二月帝国劇場)の劇中の演出をお願いしましたときのエノさんの言葉を、これからの人に贈りたい。この芝居はどんなにおかしいものかもしれないが、ふざけてやっちゃいけないよ=r(昭和四十五年一月「東京タイムズ」エノケンの死を悼む=j
「最後の伝令」にみせた役者根性[#「「最後の伝令」にみせた役者根性」はゴシック体]
さらに雨宮恒之(元東宝重役)は、こう書いている。
〈昭和四十四年十一月二十九日の夜。帝劇では、菊田一夫作「浅草交響楽」の舞台稽古が深夜まで続いていた。そこへ、榎本健一氏が、夫人とともに杖をついて姿を現わした。劇中劇「最後の伝令」の指導をするためである。「やあ、やあ」と菊田先生はじめスタッフに、例の人なつこい表情で挨拶をふりまき、それからチョコンと客席にすわって、真剣な顔で舞台を見はじめた。舞台では、三木のり平、高島忠夫、財津一郎、小鹿敦の諸君が「最後の伝令」を熱演していた。いつ見ても、よくできたスラップスティックの傑作で、じゅうぶん面白い出来ばえだと思いながら私は見物していた。
一段落つくと榎本氏はみんなを集めて、「あそこはね……」と椅子にすわったままで、トムの役をやってみせた。その間《ま》のよさ……せりふのイキのうまさ……こういうと、舞台で熱演していた俳優さんには失礼なのだが、扮装もしないで、すわったままでみせる榎本氏の仕方ばなしの方が、なんとも素晴らしく面白いのである。
ああ、この人は、やっぱりたいへんな役者なんだな、と私はあらためて感動した。そして仕事がすんで「お先に――」と帝劇の客席の厚いドアの向うへ去って行く氏の後姿を、私は視界から消えるまで見送ったのだった〉(「エノケンを偲ぶ」)
このとき、トムを演じた財津一郎は、エノケンが新人育成のために開設した映画演劇研究所の出身であり、いわば門下生である。その財津一郎が、
〈帝劇の稽古場でトムを演じる僕と、メリー役の赤岡都とのからみで、胸に被弾したトムが鮮血を抑えつつ「最後の伝令として死んで行くのだ、メリー」と呼んで倒れるシーンを何回となくくり返していると、榎本健一師が、台湾からの帰りとかで羽田から車でかけつけて来られた。かなり疲れておられるようであったが、いきなり僕の前に来られると「そこはネこうやるんだヨ」と隻足を支えていた杖をはなし、やにわにあの百万両のダミ声を張り上げて「最後の伝令として死んで行くのだ、メリー!!」と叫ぶやいなや、右手を天に、左手を胸に当ててまともに真正面から、ドウと樹木が倒れる如く帝劇の固い稽古場の床に倒れられた。
稽古場に一瞬電気が走った。不自由な足をかばいつつ立上った師は、「これ位の気持で悲劇を演じなきゃこれは喜劇にならないんだヨ。どう演《や》ってもこれは|うけ《ヽヽ》る芝居だ。しかし感動をもった|うけ《ヽヽ》にするには演ってる者が気迫をこめて演じる事だ。|うけ《ヽヽ》ネタとして演るな! 変な|ヨユウ《ヽヽヽ》を見せるな! 大悲劇として演じなけりゃお客の目や耳にはとどいても、心にとどく喜劇にはなんねェヨ……。」身をもって示された師の役者根性《ヽヽヽヽ》は片時も僕の脳裡から離れることはない〉(新宿コマ劇場プログラム)
と述懐している。
エノケンの「最後の伝令」を直接教わったのは、エノケン一座以来、映画演劇研究所の研究生に至る一門の中で、ただの一人である。財津一郎は幸運な男だ。今も昔も、この手の喜劇は可成りあって、コメディアンは必ずといっていいほどに一度は演じているが、この、エノケンの「最後の伝令」ほど、すばらしいアチャラカ喜劇はない、と断言できる。それは、脚本構成ばかりでなく、演出が見事なのである。エノケン自身が何度も主演しながら練りあげた演出が傑作なのだ。アチャラカ喜劇というものは、そういうものなのである。その演出≠フ見事なことを知っていたからこそ、作者菊田一夫は、劇中劇の演出をたのんだのだ。
エノケン演出を奇異に思う人がいるかもしれないが、エノケンという喜劇役者は、喜劇というものに動物的な演出勘をもっていた。だから自由にそれが振舞え、発揮することの出来た芝居は客席から笑いを巻き起した。舞台で、客と真剣勝負をしているうち、身につけたのが動物的な演出なのである。喜劇役者の最後の仕事が自分がねりあげた芝居の演出だったということは、喜劇役者として、華やかさに欠けるかもしれないが、エノケンには、喜劇にたいする素晴しい演出家の一面があったのである。エノケンが「最後の伝令」を初演したのは、なんと昭和五年浅草の玉木座で、その時、榎本健一は二十六歳であった。
映画「巷に雨の降る如く」の深意[#「映画「巷に雨の降る如く」の深意」はゴシック体]
映画に出演した場合のエノケンはどうか。佐藤忠男は『日本映画の巨匠たち』(学陽書房刊)の中で、
〈エノケン喜劇は当時としては低俗なバカバカしいものの筆頭に数えられていたが、山本嘉次郎はそれらを、けっこう小市民の口に合うものにしたと言えるだろう。山本嘉次郎は、おなじドタバタに力をそそいでも、めちゃめちゃな騒ぎ方というのではなく、もっと奇抜で気のきいた、しゃれた趣向を重んじた。
ロッパや金語楼やシミキンの作品が映画史には忘れられ、エノケン作品だけは残っているというのも、エノケンが同時代のコメディアンたちよりひときわ大きな存在であったというだけでなく、その作品群の中心に山本嘉次郎という巨匠作品があり、そこにはエノケンの珍芸だけでなく、映画的なギャグや機智も十分に盛りこまれていたということが大きい〉
と書いている。
その山本嘉次郎は「榎本健一という人が不世出の喜劇俳優と評価された根底のひとつには、彼の非凡な運動神経があることを見のがすわけにはいかない。彼は子供のときから、手におえないイタズラ小僧で、とにかく荒ッポイことが大好きで、自転車の曲乗りはおろか、オートバイの曲乗りも得意のひとつであった。いまならオートバイ・ロデオの世界的花形選手になったかもしれない。身の軽いことといったらマシラ以上である。運動神経のよさは、音感のよさに相通じるものがあるらしい」(『カツドウ屋紳士録』)といい、こういうことも書いている。
〈ほんとは初めから映画を志していたのではないか……と思う。アメリカのドタバタ喜劇をもっとも愛し憧憬を寄せていたのではないかと思われるふしがある。その頃浅草の映画館では盆と正月に「ニコニコ大会」というのをやった。短篇喜劇映画ばかりを二、三十本ドカッとまとめていつもの入場料で見せるのである。われわれはこれに陶酔して朝から晩まで飽きることなく見て見て見つづけた。自然に、ギャグもおぼえ、喜劇役者の滑稽な歩き方滑り方、ひっくり返り方などを覚えてしまったものである〉
山本嘉次郎が、監督ではなくてエノケン主演映画のシナリオだけを書いている作品は、「猿飛佐助」「江戸ッ子健ちゃん」「江戸ッ子三太」「風来坊」「ワンワン大将」「とび助冒険旅行」「びっくり・しゃっくり時代」など九本で監督作品が十八本ある。
これらの山本作品の中で、山本監督自身が一番印象に残っている映画は「巷に雨の降る如く」と洩らしている。これは昭和十六年の八月に封切られた東宝映画で、日本をめぐる国際情勢は急ピッチに悪化してきて、十二月八日遂に日米戦がはじまり、太平洋戦争に突入した年である。
非常時下の日本で、国民を抑圧した政府に対するエノケンの唯一の風刺喜劇映画だったのである。むろん脚本も山本嘉次郎で、無抵抗の抵抗に馬鹿にした者たちが次第に恐れをなしていくという、山本嘉次郎のシナリオがうますぎたのか、検閲官が読みとりきれないでパスした作品だった。
山本監督は風刺喜劇映画として仕上げたのだが、観客も、風刺喜劇映画と受けとった人は少く、受けとった人たちはすばらしい風刺映画だなど、口が裂けても言える時代ではなかったから、心の底でひとり快哉とつぶやくだけの言論統制時代だったのだ。それだけに山本監督としては思い出ひとしおの作品なのであろう。
新しい伯楽をさがして下さい[#「新しい伯楽をさがして下さい」はゴシック体]
昭和二十一年八月の有楽座のプログラムに「エノケン氏へ」と椿田菜児という人が、次の長文を書いている。
〈「人生とんぼ返り」(監督・今井正)は名画であつた。榎本健一得意の|やくざ《ヽヽヽ》振りと泣き笑ひの哀調が薬味のようにピリヽと利いて、カメラの軟らかさとともに東宝が創り出した芸術的娯楽映画の真骨頂を行くものであつた。赤ん坊を背負つてあの声で唄ふ薬売りの声にはにじみ出るペーソスがあつて、敗戦後の日本映画のなかでまれに見る情緒であつた。
ところが……僕がいひたいことは(中略)エノケンさんには申し訳ないが、この映画は今井正の作家としての凜質が輝き出てた以外には何の取得もないもので、あなたとしては完全に木偶の棒として、使って、使って、使ひこなされてしまつたのである。
僕はあなたを名馬といふことに対してはばからないが、伯楽はレース用の馬を挽馬として使ひこなした。温順ではない筈の名馬も伯楽のお土砂で、まんまと使ひこなされて、こんな脇道の立派な映画を作つた。
一粒の麦若し死なずば……≠ワことに俳優は演出家にとつて、いや、映画全体として、一粒の麦であらう。(中略)あなたはこれからも依然としてあんな映画や、あんな演劇の方向に進むつもりですか? 感傷的なヒューマニストで、ロマンチスト(と仮りに言はしてもらふ)である新しい映画芸術家は喜劇俳優に対しても、一個の俳優として扱ひ、特定の喜劇役者としての眼鏡をとり除かうとしてゐる。(中略)
それでいいのですか? あなたは満足なのですか? 新しい伯楽をさがして下さい〉
この椿田菜児という聞き馴れぬ人は、菊田一夫ではあるまいかと思う。菊田作品に出てくる登場人物によく、こういった名前を使うし、菊が椿にかわっただけで田は同じ、一も菜もかずと読め、夫が児とするとパズルは解けたような気がするが、菊田一夫も故人となった今、確めようがないが、喜劇役者エノケンにとっては脇道ではないかといい、あんな映画や、あんな演劇の方向に進むつもりかと詰問している。あなただけはどんなことが起っても喜劇役者を通してくれ、との願いが文章に溢れている。
ここに出てくる今井正監督の「人生とんぼ返り」(脚本・八木隆一郎)という作品は、エノケン映画としては確かに異色作品で評価が大きく分かれたが、敗戦国民にとって唯一の娯楽が映画で、松竹映画「そよかぜ」(監督・佐々木康)佐野周二(関口宏の父)、並木路子の明るくさわやかな映画の主題歌(サトウ・ハチロー作詩・万城目正作曲)のリンゴの歌≠ェ日本中に大ヒットしていたときに、東宝が喜劇役者エノケンで、シリアスな暗い内容の映画を製作したばかりでなく、エンタツ・アチャコにも古川ロッパにもシリアスな作品を求めていたところをみると、当時東宝映画製作の最高責任者に、ある特別な考えがあったからだろう。
そこを椿田菜児が指摘しているのだが、興行的には失敗作であり、エノケン自身も、しめっぽい陰鬱なことのきらいな人であったから、人情喜劇とも違う今井正の注文にはまりきれなかったようで、結果としては、菊田一夫の心配も杞憂となり、エノケンは脇道にそれずにすんだ。
その菊田一夫は東宝の演劇担当重役になってから、興行的価値のあるエノケンを認めて、自らが約十年後に伯楽ぶりをみせるようになる。
〈エノケンさんは、日本人ばなれのしたボードビリアン、得がたき天才喜劇役者である。確実な演技論をもちながら、それをあまり口にしない。エノケンさんは不幸である。なぜ日本になぞ生まれたのか。日本には、あなたの資質を完全に生かし切る作家が一人もいないではないか、この言葉は私ならばという、ふてぶてしい反語でもない。
斯くいう私自身が、あなたを充分には、生かし切る術を知らないのだ。そして、その上に日本の国の人々は、あなたが真の喜劇俳優であり、実力を持つが故に、無口であるのを知らず、たあいもなくしゃべりまくる人物たちの方を、尊敬する、愚劣なるしきたりをさえもっているのだ〉(菊田一夫『泣き笑い人生』)
菊田一夫という人は若き日、詩人を志して、サトウ・ハチローの門を叩いたのだが、当時サトウ・ハチローがカジノや新カジノに出入りしていたために、無理やり脚本を書かされてしまったいきさつは既述したが、若い頃は、いつまでも脚本家生活を続ける気持はなかったのではあるまいか。玉木座をとび出したのは若気の至りとはいっているが、いつまでもエノケンの脚本を書いていたならば磨滅してつぶされてしまうといった言葉のほうが本音のようである。この時すでにエノケンの天才的喜劇役者を認め荷の重さを感じとったのだろう。
晩年のエノケンと舞台[#「晩年のエノケンと舞台」はゴシック体]
批評家たちが、エノケンが東宝入りしてから、どうもパッとしない――と書いているのが目にとまるのだが、これにはいくつかの理由がある。その一つに松竹と東宝の興行形態の差がある。東宝演劇部にはこの時すでに、プロデューサーシステムが芽ばえはじめ、菊谷栄の死と、大町竜夫の松竹残留で弱体化した文芸部が、さらに人員整理を東宝から要求されたことだ。東宝のプロデューサーにいわせれば、作家などいくらでも居るから、エノケン文芸部員として固定給を払って大勢抱えておく必要を感じない空気が強かったようだ。
ところが作家は沢山いても、菊田一夫が指摘しているように、生かし切る術を知った作家が現れていないのだ。それは作家がエノケン喜劇を知っているようでいて知らないからなのだ。波島貞、和田五雄はスランプ状態に陥り、菊谷、大町の穴を埋められる志村治之助、池田弘、堀江要人、三原弘二、佐々川隆三らを活用して育てようとしないで、東宝は外部の異質の作家に頼ろうとしたところに起因していると私は愚考するのだ。
ピエル・ブリアント時代にエノケンのパーソナリティを生かせるものは、全部やり尽してしまっていて種切れの状態にあったことは、巻末の年譜をご覧になるとわかるように、あの膨大な作品の数である。あれ以外に没になった脚本の数も相当にのぼっていたと推察できる。面白そうなストーリーは書けても、喜劇としては通用しないことを作家は知ると、ギャグとアイディア不足で手も足も出なくなってしまうのである。このことを佐藤文雄は回想して、「ピエル・ブリアントで上演した本を何本も、これを改訂してやらないかと、舞台で評判いい本を東宝に読ましたのだが受けつけなかった。東宝の若い連中はエノケンを知らない者ばかりだったし、脚本を読みこなせる者はいなかった」といった。
以来、作家に恵まれることのなかったエノケンは不運の人となる。このずっと後年になってのことだが、私のような青二才に期待したエノケンは、気の毒としかいいようがない。
だから私は、エノケンは三十七年(新宿コマ劇場の「エノケンの村井長庵」)までで、このあとのエノケンは、エノケンであってももうエノケンとは思えない。私はこれ以降を晩年と呼ぶことにしている。
二回目の足の指の手術から約十年目の三十七年九月、悪化した脱疽の手術のため、東大病院の清水外科に入院、右腿切断手術を受ける。手術後のリハビリにとりくむ努力を、エノケンは、
「たとえ右足が無くとも出来る芝居を考えはじめた。僕は誰もがご存知のように動きの俳優といわれていた。その僕が動けなくなってしまったのだから、新しい僕だけしかないような喜劇を創造しなければならない。
手術の傷口も治り、全快してからは毎日毎日が義足をつけて歩行訓練だった。義足だけでも五足以上は取り換えた。中にはわざわざ外国のものを取り寄せたりしたものもあった。俳優である僕には、普通の義足では役に立たない。たとえば、舞台で殿様役をやれば、足を投げ出してやるわけにはいかないから、行儀よく座れるようなものでなければならない。膝を曲げることのできなかった義足を改良して、曲げて座れるように義足の会社に工夫してもらった」
と語っている。
三十八年春、松葉杖を使わずに歩けるようになるまで、エノケンはラジオに出演したい意向があったようだ。しかし、十年前のときとは事情が異り、三十九年東京オリンピックを控えて、民放はテレビの隆盛期にあった反面、ラジオはその余波を受けてどん底にうめいた時代であった。そのためラジオはヤングとラジオ∞主婦とラジオ≠ニ聴取者細分化方式を打ち出すなど、生放送、ワイド化、パーソナリティと番組の編成がえに苦心をしていたので、金のかかるラジオドラマは敬遠され、また聴かれてもいなかった。
それでもTBSラジオの池田正男プロデューサーは「エノケンの出発進行」(作・山下与志一)を、NHKは芸能ダイヤル≠フ枠で六夜連続で「研辰《とぎたつ》の討たれ」(脚本・井崎博之)を放送したが、TBSもNHKもこれは再起へのご祝儀であって、時代はすっかり様がわりをしていた。
エノケンは義足をつけて歩行訓練につとめたものの、既に六十に手のとどく肉体は意のままにはならず、努力の甲斐はわずかずつで、気力で支えるより仕方なかった。
NTVは、戦争で負傷し車椅子に乗った将軍を設定し、「おじいちゃま、ハイ」(作・阿木翁助)という連続テレビ番組をスタートさせた。孫(坂本九、木の実ナナら)を相手に元気な爺さん将軍のエノケンは車椅子に乗っているが、以前に変わらぬ元気さだったから、これはあまり視聴者に抵抗もなかったようだったが、舞台へ出ると同情の拍手で見るにたえなかった。業《ごう》ともいえる執念で舞台をつとめても、客は同情でしか見ていない。
喜劇役者が同情されたらおしまいだと、自分で言っていながら舞台へ出たエノケンは悲愴というほかない。旅行をするときなど、駅のホームを松葉杖で歩くエノケンに同情の目礼をしてくれるファンに、エノケンはこんなに元気ですと胸を張って礼を返した、この意気は壮とすべきであろう。
気取りない庶民性[#「気取りない庶民性」はゴシック体]
エノケンは昭和四十五年一月七日、六十五年の生涯を終え、菩提寺である東京西麻布の大観音で有名な永平寺東京別院長谷寺の墓地に眠っている。
『朝日新聞一〇〇年の記事にみる・追悼録篇』(朝日新聞社刊)に、サトウ・ハチローが書いたエノケンの追悼文が収載されていることを教えられ、私は没後十六年もたってから、その追悼文を読んだ。
〈エノさんが十八でボクが十九、その時からの友だちなんです。エノさんが二十七でボクが二十八、その時に二人で軽演劇をはじめたんです。エノさんが座長、ボクが文芸部長。よくケンカしたもんです。二人とも酒がつよいので、毎晩のように飲みました。何軒か飲みまわったあとで、エノさんの借りていた浅草田島町の豆腐屋の二階で寝ました。ふとんはひとつしかなかったので、一緒に寝たんです。ボクが百キロもあった時なので、ならんで寝るわけにはいかなかったんです。東と西とをまくらにして寝たんです。
エノさんはちいさいので、ボクの腹をよく蹴とばしました。起きるとエノさんはよくヴァイオリンをひきました。なかなかうまいんです。からだを動かして歌も歌いました。これは、みなさんごぞんじの通り、いただける歌です。ギャグを考えだすことが好きな男で、次から次へと、いいのをひねりだしました。それを脚本の中へとり入れるんです(ボクがではありませんよ。菊田一夫さんや他の本屋さんがです)。これがお客さんに受けると、ごきげんでした。ごきげんだとすぐに飲むんです。大きなコップでヒヤでやるんです。少し酔うと、居合抜きとくるんです。長い刀なのであぶなくていけません。一度か二度、耳を切りました。そんなときはエヘッと笑うんです。その顔がまたいいんです。かわいいんです。わがままなところもありましたが、サクッとしたいい男でした。(以下略)〉
読んでいるうちに榎本夫人だった花島喜世子さんの言葉が浮んできた。
「榎本をお酒飲みにしたのはサトウ・ハチローさんなのよ、サトウさんと付合う以前は、お酒はあまり飲めなかったの。それが付合いだしてから、サトウさんが、いっしょに飲もう、飲もうッて無理に榎本に飲ませるのよ、それでね、コップにしたのよ。盃だといくら飲んだかわからないでしょ、コップだと量がわかるじゃない。榎本はね、熱かんが駄目というのは、ツンとくるでしょ、あれが駄目なの、元来がお酒がすきじゃないからなのね。人肌ぐらいか、ヒヤのほうが飲みいいからなのよ、それからだんだん強くなってきたの、だからずいぶんサトウさんをうらんだことあるの、だって狭い部屋で、二人とも高いびきでしょ、私眠れなかったわよ」
と笑いながら話してくれたことがある。
サトウ・ハチローの追悼文が収載されているその頁の下欄に、「榎本健一さんをしのぶ」(NHKテレビ・昭和四十五年一月十三日)で柳家金語楼、森川信、尾崎宏次氏らが、彼の芸を性格づけて「澄んだ笑い、透明な笑い、童心をよみがえらせる笑いの持ち主」とのっていた。空の色は澄んでいる。海の色は澄んでいる。君の画の色は澄んでいる=Bこれは武者小路実篤が梅原竜三郎に揮毫して贈った詩。私も梅原竜三郎の絵は好きだが、この武者小路、梅原、エノケンの三人に共通するなにかがあるように私には思えるのだ。
今、私なりに五十余年のその舞台生活を眺めてみると、パーソナリティを生かして軽快なジャズにのり、スピーディで斬新な喜劇を演じ、若い観客を集め、やがて子供と年寄りにまでファンが拡大しているエノケンは、独特な人生観が一本通っていて不思議な清潔感を持っていた。それらがエノケンの気取りのない庶民性と結びついて、多くのファンをかち得、喜劇界にその存在を動じないものにしたのだと痛感する。
よみがえるエノケン[#「よみがえるエノケン」はゴシック体]
昭和五十八年の春のことである。太陽系の彼方に消えたエノケンが、昔、孫悟空で使った|※[#「角+力」、unicode89d4]斗雲《きんとうん》に乗り換えて帰ってきた。ブラウン管から洒落男の歌が流れてきた。よく似たうたい方をする奴が現れたな、このくらい似て歌えればこいつは一流の物真似芸人になれるぞ、と私は画面もみずに思ったが、おや、あら、まァである。本人がうたっているのだから驚いた。だいたいエノケンという人は、コマーシャルには縁の薄かった人である。「東京新聞」のコラム欄TV30歳、コマーシャル、あのころ=i五十八年九月十二日)に山川浩二はこうも書いている。
〈モノクロからカラーへ、テレビ受像機の買い替え時期がやってきた。「この番組はカラーで放送しています」とスーパーが入って、一般大衆はナニイッテヤンデエ! と腹にすえかねたころだった。
CMではエノケンこと榎本健一がダミ声で、
※[#歌記号、unicode303d]うちのテレビにゃ色がない。隣のテレビにゃ色がある。あらま不思議とよくみたら、サンヨー・カラーテレビ! ……、とあおり立てた。(四十一年)
3C、つまりカラーテレビ、カー、クーラーが新三種の神器と称されたころで、隣りが買えばわが家にも……と、他人志向タイプの日本人に、ズバリ切り込んだCMだった。(中略)エノケンが顔出ししたCMは、あとにも先にもこれ一本。「初めてのCMが色つきとはうれしいね」と撮影中も上機嫌だった。歌詞というよりダイレクトなコピーは三木鶏郎、珍しく映像の演出もやった。あらま不思議とよくみたら=Aのところはセリフで、エノケン独特のイントネーションが耳に残っている。もっとも歌だけなら、ホ、ホイのホイ、ともう一杯、渡辺のジュースの素ですもう一杯!=i三十五年〜)がある(井崎博之詞・土橋啓二曲)。
戦前、浅草の舞台から映画へと、その全盛期を過ごした喜劇王エノケンにとって、テレビの出現は少々遅すぎたといえよう。ごく少ないCMではあったが、モノクロからカラーへの文字通り橋渡し役を演じたことは特記しておきたい。そして五十八年、※[#歌記号、unicode303d]俺は村中で一番モボだといわれた男……で喝采を受けているエノケン〉
アサヒビールの新製品「ボトル」のテレビCMに、キャラクターのアメリカ人男性モデルたちの雰囲気と、バックに流れるこの「洒落男」が奇妙にマッチしていた。そして画面に、SONG・BY・エノケンの文字が入ったCMである。このCMのおかげかどうか、復刻したレコードが売れに売れたと「東京新聞」は書いていたが、それらの記事の中にエノケンの舞台も映画も知らない若い人たちを中心に、いまエノケンは生き返ったのだ。ファンたちはいう「なんたって、リズムがナウいんだよ」=i五十八年七月十六日「東京新聞」)というのも、印象に残っている。
エノケンの没後、アサヒビールのTVコマーシャルにイメージソングとしてエノケンの洒落男≠フ歌の一部が使われ、洒落男≠ニいえばエノケン、エノケンといえば洒落男≠ニまでなったこのクラメット作曲・坂井透訳詞の洒落男≠焉A実は二村定一が、初めはうたっていたもので、それがいつの間にか、エノケンの歌となってしまったのである。アサヒビールのコマーシャル制作者田中建夫は、
〈楽しくおいしいビールの世界、「パラダイス」を探しにメキシコの古い小さな漁村、トラコパルタンというところへ行ったんです。そこは街の中の家の壁がパステルカラーに塗られた美しい街で、イメージにピッタリだったんですね。そこをロケ地に決めて、さて音楽となった時に、それまで考えていた新しい音楽、例えばロンドン・ポップス調のものなどは、どれもが合いすぎて逆にどれもがダメなんですね。
そこで何かないかと探していくうちにエノケンの歌に出合ったんです。世界に向かって「パラダイスソング」を探していったら、それは日本にあったんです。エノケンの歌というのは、日本の「パラダイスソング」とモダーン風俗の原点だと思うんです。今、大正、昭和初期の古き良き時代を求めているのは郷愁じゃなくて、良いものを見直しているということじゃないでしょうか〉(第二回「虹のビッグ・スペシャル」プログラム)
と書いている。
エノケンと永い永いつき合いだった佐藤文雄は感慨深げに私にいった。
「エノケンの仲間たちもほとんどが、あの世へ行ってしまったから、エノケンと仲間たちの慰霊碑を建てようと思うんだ。エノケンの浅草時代から死ぬまでたくさんの仲間がいたもの、誰も彼も全部。役者も文芸部も、ダンシングチームも、オーケストラの楽士も、映画監督も、共演者も、名前を忘れちまった人もいるから、ひとりひとり名前を刻すこともできないから、エノケンと仲間たちの慰霊碑≠ナいいだろう」
昭和六十年十月、由縁の地である浅草の宗円寺(台東区寿二―七―九)の境内に、生存者、遺族たち百余名が集って建立除幕式を行った時、私に、「俺もやがてあの世へ行くから後を頼むよ」と、最後の最後まで一座の面倒を見てきた佐藤文雄も、今はこの世を去った。
かつて山田風太郎が新聞のコラム欄で「有名人の条件とは、死後十年以上たっても一般人が、その名前はどこかで聞いたことがあると、思い出しそうな人間のこと」といっていたが、エノケンは没後二十年もたったというのに、平成四年正月六日の新聞の全頁広告に道楽者で、しっかり者の代表として若き日の顔を出すし、テレビCMでは歌をチョッピリ聞かせ、映画「青春酔虎伝」のワンカットも見せてくれた。一時期の正月には、エノケン映画の封切作品の無かった年はない、正月役者だった時代もあったのだ。
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[#小見出し]  あとがき
単行本が刊行されて七年たった夏のある日、講談社から文庫本で再刊したいとの申し出があった。この七年の間に昭和は終り平成は五年の歳月を刻んでいる。
――エノケン喜劇は昭和の喜劇史でもある――
そう思うようになってきた私は、編集者の注文も聞きながら、そういうつもりで書き直そうと、軽い気持で話し合いを済ませ、手をつけはじめた途端に、これはえらいことになったぞと、気付いたときはすでにあとの祭り。いったん組み上げたものをバラバラにして新味を加えて、五十年の芸能生活の足跡を組み直すということは大仕事であった。
浅草時代のエノケン喜劇の神髄を知る人は今やごくわずかで、その片鱗を見知っている人も五十歳以上の人であり、喜劇王といわれても晩年(一九六三年以降)のエノケンしか知らない人達に、エノケンの面白さは通じない。そして、さらにエノケンという名前しか知らない読者に、エノケン喜劇を説明することは至難のわざで、どこまで通じるやら。
ホームビデオがあれば舞台を録画しておいて、お目にかけることもできるのだが、当時はまだ無かった。いまビデオカセットで映画の何本かは見ることができるが、むかし、映画館に通ってエノケン映画を見た人が若き日を偲んで見て楽しんでいるようで、エノケンを知らない人には、その面白さは伝わらない。それは、平成の現代の娯楽の価値観の変化で喜劇≠フ地位がすっかりかわってしまっているからである。
「エノケンの面白さッて……」と質問されても、いま、たとえばと引き合いに出せるような喜劇役者は皆無だし、このタレントとあのコメディアンと、そして外国のコミックソング歌手を足して割ったような、といってもそれが見当らないから困るのである。
エノケンは、まさに昭和という激動の時代が産んだ喜劇役者だと思う。平成の今日では、とても想像のつかないほどで、庶民(特に若者たち)が音楽喜劇という娯楽を求め、欲し、観客となって劇場に押しかけた時代に、その要求に見事に応じて観客が満足する音楽喜劇芝居を懸命に演じることに、役者生命を賭けてきたと私は思えてならない。
商業演劇は時代の変遷と共に興行形態を変えるから、エノケン喜劇≠ネる系譜は今や断たれたに等しい。そして音楽喜劇役者を産む素地も無くなった。そう思えばこそ、昭和の喜劇を代表するエノケンの実像を、本書で少しでもご理解をいただけるよう努めたつもりである。
エノケン逝きて二十余年、月日と共にその足跡は昭和の喜劇史である感を深くした。昔のことをもう一度確めようと尋ねたい人も、今は亡くなり、佐藤文雄さん、榎本幸吉さん、和田五雄さんをはじめ、エノケンの仲間だった多くの人からの聞き書きが私の手許にあったればこその本文であり、また年譜も教えてくださった方があって、さらに追加訂正した。
エノケンをそれぞれ正しく評価されている数多くの方々の御著作を、多数引用させていただいたこと、また単行本を上梓したあとに新たな情報、資料を送ってくだされた方々、および国立劇場資料課をはじめ多数の方々から掲載資料を快くお貸しいただいた御好意に深甚の謝意を表したい。そして、本書上梓に至るまでの一年間すっかりお世話になり、ご面倒をおかけした講談社文庫出版部の守屋龍一さんに厚くお礼を申し上げる。
一九九三年夏
[#地付き]井崎博之
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榎本健一◎出演年譜
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[#この行1字下げ]明治37年(1904)
10月11日 東京青山に榎本平作の長男として生まれる。
[#この行1字下げ]大正11年(1922)
根岸歌劇団(浅草オペラ)の柳田貞一の許に入門。同歌劇団のコーラスボーイとなる。
[#この行1字下げ]大正12年(1923)
1月 オペレッタ「猿蟹合戦」で独創的な演技を認められる。
9月 関東大震災で浅草金竜館も焼失したため根岸歌劇団の地方巡業に参加。
[#この行1字下げ]大正13年(1924)
新星歌劇団などを転々とし、東亜キネマ甲陽撮影所でサイレント映画「迷の指輪」などに出演。
[#この行1字下げ]大正14年(1925)
京都の東亜キネマ、中根竜太郎プロ、日活、名古屋の第一映画などを転々とする。
[#この行1字下げ]昭和4年(1929)
7月 浅草公園水族館のカジノ・フォーリーに、石田守衛に誘われて出演したが、一ヵ月たらずで不入りのため解散。
10月 浅草水族館、カジノ・フォーリー再スタート。山田寿夫作「嫁取合戦」「ステッキ・ボーイ」「ロメオとジュリエット」「コンピラフネフネ」「久米仙おちる」、サトウ・ハチロー作「センチメンタル・キッス」「月光価千金」「失恋大福帳」、水守三郎作「世界珍探険」「美脚展覧会」「モダン浦島」、中村是好作「のんきな大将」「ドンキー一座」「恋の戦友」、佐藤久志作「テレヴィジョン」、島村竜三作「五月のイデオロギー」、北日出夫脚本「珍東京行進曲」「三銃士」、作者不詳「ムッシュ・フヂハラの冒険」「三脚の上の馬鹿」「陽気な理髪師」。
[#この行1字下げ]昭和5年(1930)
7月 新カジノ・フォーリーを結成し浅草観音劇場に出演。中村是好作「のんきな大将・ブロードウェイ見物」「サーカス一座」「ヴァラエティ」、その他不詳。
11月 浅草玉木座開場。プペ・ダンサントに加入出演。永瀬三吾作「忠臣蔵」、サトウ・ハチロー作「古風仇討マラソン」、菊田一夫作「阿呆擬士迷々伝」「矮漢ジゴマ」「メリー・クリスマス」「先代禿」「猿飛佐助」「西遊記」「長屋の花見」、山下三郎作「ゴールドラッシュ」「アフリカ突進」「飛行機は落ちたか」「アメチョコ行進曲」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「最後の伝令」、高田保作「三文オペラ」、菊地乙逸作「撮影所長はお人好し」、斎藤豊吉作・吉田京脚色「当るも当らぬも」、二村定一原案・佐藤文雄脚本のレビュー「スーベニール・ド・パリ」、波島貞作「スピード安兵衛」、佐藤文雄作「ジャズよルンペンと共にあれ」「アンナ・カポーネ」「オーソレミヨ」「ミニチュア・コメディ」、作者不詳「踊り子みち子」「オペラ華やかなりし頃」「エメラルド奇談」「マッチは悲し」「桃色の天使」「ルンペンの太平洋横断」。その他不詳(昭和6年10月玉木座を脱退)。
[#この行1字下げ]昭和6年(1931)
12月 浅草オペラ館。ピエル・ブリアントを結成し出演。中村是好作「ベルベットのエキストラ」、山田寿夫作「馬吉が見た夢」、間野玉三郎構成振付の「ボードビル」「ヴァラエティ」。二の替り、小川文雄作「モダンマダム行状記」、中村是好作「ドンキー一座」他に間野玉三郎構成振付「ボードビル」「ヴァラエティ」「娘一人に婿八人」。
[#この行1字下げ]昭和7年(1932)
1月 浅草オペラ館。佐藤文雄作「陽気な中尉さん」、仲沢清太郎作「もちろん」、波島貞作「朗らかな新兵」、他に「ボードビル」。二の替り、中村是好作「家庭総て異状なし」、佐藤文雄作「スーベニール・ド・パリ」、間野玉三郎構成振付「ヴァラエティ」。
2月 浅草オペラ館。波島貞作「青葉は甦る」、佐藤文雄作「神聖なマスク」、宮尾しげを原作・文芸部脚色「団子串助漫遊記」、佐藤文雄作「かっぱらいの一夜」「ヴァラエティ」。二の替り、中村是好作「女優上りの若奥さん」、波島貞作「上海ジャップ」、佐藤文雄作「グッドバイウインク」「ボードビル」。三の替り「結婚行進曲」「ミニチュア・コメディ」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「拳闘選手権試合」「ヴァラエティ」。
3月 浅草オペラ館。長沢進作「恋のブリッジ」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「ラブ・イン・ブルー」、佐藤文雄作「朗らかな水兵さん」「ヴァラエティ」。二の替り、大町竜夫作「洗濯と失恋」、文芸部作「忠烈肉弾三勇士」、堀内敬三作「三分オペラ」、南一平作「楊貴妃をめぐる三人の怪盗」。三の替り、中村是好作「娘・娘・娘」、「ミニチュア・コメディ」、大町竜夫作「噫・珍弾三勇士」、「ヴァラエティ」。
3月(26日から30日) 新宿歌舞伎座の東京演劇集団によるTES文芸部作「乞食芝居」にエノケン、二村定一の二人だけ参加出演。
4月 浅草オペラ館。小田良造作「ウルトラ恋愛研究所」、中村是好作「都会から来た女」、文芸部作「春のヴァラエティ」、大西勝二作「ガソリン二重奏」。二の替り、文芸部作「もし貴方が結婚されるなら」、中村是好作「カレッヂライフ」、佐藤文雄作「私のラバサン」、「ヴァラエティ」。三の替り、波島貞作「ゆく春悲哀」、佐藤文雄作「私のラバサン」、白井鉄造作・佐藤文雄脚色「サルタンバンクの娘」。
5月 浅草オペラ館。長谷川稔作「夫のSOS」、南一平作「リーグ戦前奏曲」、中村是好作「もう一杯はよかろう」、白井鉄造作・佐藤文雄脚色「サルタンバンクの娘」。二の替り、「リーグ戦風景」、「ヴァラエティ」、山敬一作「街で拾った恋」。三の替り、松田義己作「課長さんは喧嘩がお嫌い」、中村是好作「賑やかな街の行進」、和田五雄作「こんな恋なら朗らかに」、「ボードビル」。
6月 (休演)松竹から出演交渉を受ける。
7月 浅草松竹座。エノケン松竹専属になり出演。和田五雄作「結婚の横顔」、大町竜夫作「スポーツダム・ニッポン」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「最後の伝令」、菊谷栄作「リリオム」。二の替り、中村是好作・和田五雄脚色「アトリエ珍風景」「マダムと女房」「ダンス・エ・シャンソン」、菊谷栄作「ドクトル・クノック」。
8月 浅草松竹座。和田五雄作「彼とひととき」、大町竜夫作「噴火口に結ぶ恋」、菊谷栄作「一度おいでよ南の島へ」、佐藤文雄作「弥次喜多」。
9月 浅草常盤座。和田五雄作「女心を誰が知る」、中村是好作「ケンタッキーホーム」「ダンス・エ・シャンソン」、貴島研二作「碧い水平線の彼方」。二の替り、佐藤文雄作「弥次喜多木曾街道」、和田五雄作「砂丘の家」、大町竜夫作「夢幻打倒敵塁」。
10月 浅草常盤座。佐藤文雄作「弥次喜多木曾街道」、貴島研二作「近代おごられ戦術」、和田五雄作「ギャング小夜曲」、中村是好作「恋の駐屯兵」、二村定一構成「リズムの秋」。二の替り、「進めケンブル」、和田五雄作「モンパルノ」、貴島研二作「夫妻明暗記」、菊谷栄作「六大学馬賊リーグ戦」、大町竜夫作「二十四時間」。
11月 浅草常盤座。佐藤文雄作「近藤勇」、貴島研二作「少年フランソア」、和田五雄作「ザ・ドクター」、山野一郎作「シラノ・ド・ベルジュラック」、菊谷栄作「リリオム」、山下鉄太郎作「金色夜叉」。二の替り、墨田重太郎作「ミスター独身」「パレード・ローズ」、貴島研二作「マルセーユの港」、菊谷栄作「リリオム」、佐藤文雄作「助六」。
12月 浅草常盤座。中村是好作「ブルドック」、和田五雄作「婚約聖書」、佐藤文雄作「助六」「パレード・ローズ」、大町竜夫作「ボッチャン」。二の替り、浅草松竹座。和田五雄作「社長さんはお帰り」、貴島研二作「キューバ・ラブ・ソング」「ジギル博士とハイド氏」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「私のラバさん」。
[#この行1字下げ]昭和8年(1933)
1月 浅草常盤座。和田五雄作「令嬢は食客」、大町竜夫作「朗らかな学生さん」「ダンス・エ・シャンソン」、佐藤文雄作「近藤勇」。二の替り、佐藤文雄作「ギャング若様」、貴島研二作「また逢う日まで」、菊谷栄作「今晩愛して頂戴」、佐々木邦原作・和田五雄脚色「愚弟賢兄」。
2月 浅草松竹座。大町竜夫作「唐人お吉」、和田五雄作「陽気な中尉さん」、平田兼三作・菊谷栄脚色「研辰の討たれ」他。二の替り、貴島研二作「紅雀」、大町竜夫作「学生ヨタモノ女学生」、平田兼三作・菊谷栄脚色「恋の研辰」他。
3月 浅草松竹座。山名英介作「ル・ミステール」、貴島研二作「青春謳歌」、和田五雄作「洒落大名」、菊谷栄作「西遊記」他。二の替り、中村是好作「三人のコーラス・ガール」、和田五雄作「花嫁の寝言」、大町竜夫作「ハムレット」他。
4月 浅草金竜館。瀬川与志作「ハンサム十戒」、大町竜夫作「花嫁学校」、佐々木邦原作・和田五雄脚色「次男坊」、山名英介作「春よとこしへに」、伊藤晃一作「巴里・伯林」、和田五雄脚色「次男坊」。
5月 新宿松竹座。瀬川与志作「マダム・ノンシャラン」、波島貞作「近代明暗篇」、和田五雄作「天一坊と伊賀亮」、大町竜夫作「殴られた彼奴」。
浅草松竹座。大町竜夫作「コンパクト」、貴島研二作「巴里祭」、和田五雄作「続西遊記」「議会大騒動」。
6月 浅草金竜館。山名英介作「ウィーク・エンド」、伊藤晃一作「巴里の恐怖」、大町竜夫作「僕等は大学生」、貴島研二作「近代娘気質」。二の替り、大町竜夫作「彼とそよ風」、中村是好作「あなた水臭いわね」、波島貞作「中山安兵衛」。
7月 浅草松竹座。伊藤晃一作「海は笑う」、大町竜夫作「ひょっくり人生」、和田五雄作「アメリカン・ラプソディ」、古城勇彦作「怪談好色一代男」。二の替り、山名英介作「長閑なる風景」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「アパートよ・さようなら」、菊谷栄作「朗らかな水兵さん」、波島貞作「インチキ太閤記」。
8月 猩紅熱で慶応病院に入院のため休演。
9月 浅草金竜館。伊藤晃一作「秋風よ心あらば」、波島貞作「珍傑どんぐり頓兵衛」、大町竜夫作「闘牛師」他。二の替り、伊藤晃一作「出世二筋道」、和田五雄作「喧嘩スポーツ」、中村是好作「港の風来坊」、波島貞作「一心太助」。
10月 浅草松竹座(記録によると、この十月公演から「エノケン一座」になっている)。泉嘉夫作「噂は踊る」、和田五雄作「街のエレジイ」、波島貞作「鼠小僧笑状記」、菊谷栄作「風車娘」。二の替り、貴島研二作「底抜け大名」、和田五雄作「ほほえむ花嫁」、大町竜夫作「僕の病院生活」、菊谷栄作「戸並長八郎」。
11月 浅草公園劇場。貴島研二作「混線市場」、波島貞作「屋根裏のユーモレスク」、大町竜夫作「神楽月女夫絵合」、菊谷栄作「弥次喜多東海道篇」。二の替り、大町竜夫作「金色夜叉」、菊谷栄作「弥次喜多木曾街道」他。
12月 浅草松竹座。P・B文芸部作「モンテカルロ」、大町竜夫作「赤い花」、和田五雄作「トノサマ」、波島貞作「ら・ちゅうしんぐら」。
新宿歌舞伎座。波島貞作「村のロメオとジュリエット」、大町竜夫作「学生三人組」、銀の玉作「ドンファンですか? 私は」、和田五雄作「トノサマ」。
[#この行1字下げ]昭和9年(1934)
1月 新宿松竹座。三原弘二作「騒音撃退術」、貴島研二作「新妻と新春」、大町竜夫作「唐模様復讐綺譚」、菊谷栄作「君恋し」。
2月 浅草松竹座。和田五雄作「坊やの非常時」、大町竜夫作「落第と恋」、波島貞作「新古・猿蟹合戦」、菊谷栄作「ウヰウヰ巴里」。二の替り、三原弘二作「二つの運命」、和田五雄作「発明とマダム」、菊谷栄作「ウヰウヰ巴里」、銀の玉作「馬の脚悲喜劇譚」。
3月 浅草松竹座。波島貞作「新家庭風景」、大町竜夫作「制服よさらば」、鹿島滋作「エノケンのさくら音頭」、澄輝夫作「エノケンの街のターザン」。二の替り、中村是好作「鴨の丸焼」、大町竜夫作「わしゃつらいです」、菊谷栄作「大学無宿」、和田五雄作「大久保彦左衛門」。
4月 新宿松竹座。中村是好作「地下鉄の車掌さん」、菊谷栄作「マリア・マリー」、和田五雄作「エノケンのトーキー王」、大町竜夫作「忠直卿行状記」。二の替り、波島貞作「春ひらく」、大町竜夫作「浪子の一生」、菊谷栄作「エノケンの坂本竜馬」他。
5月 新宿松竹座。菊谷栄作「可愛らしい白」、波島貞作「運命は悪戯です」、銀の玉作「清水定吉」、大町竜夫作「学生大福帳」。二の替り、波島貞作「人生二筋道」、三原弘二作「雀打ち日記」「セヴヰリヤの理髪師」、菊谷栄作「エノケンの平手造酒」。
3日 P・C・L、ピエル・ブリアント提携映画 山本嘉次郎監督「エノケンの青春酔虎伝」封切(上映時間1時間27分)。
6月 浅草松竹座。 平田稔彦作「初夏の溜息」、大町竜夫作「天竜下れば」、波島貞作「遠山金四郎」、菊谷栄作「カルメン」。二の替り、大町竜夫作「鱈井家の訪問客」、菊谷栄作「カルメン」、佐々紅華作「オペラ勧進帳」、水守三郎作「世界珍探険」。
7月 浅草松竹座。銀の玉作「編集室の鍵穴」、平田稔彦作「一握りの砂」、和田五雄作「紺屋高尾」、菊谷栄作「夏のデカメロン」。二の替り、平田稔彦作「七月の晴着」、大町竜夫作「G線上の恋」、菊谷栄作「夏のデカメロン」、和田五雄作「エノケンの国定忠治」。
8月 休演(P・C・Lにて撮影)。
9月 浅草松竹座。和田五雄作「ベンチの微笑」、波島貞作「インチキ太閤記」、菊谷栄作レビュー「イワン大尉とペーペル」「ライト・コンサート」「ポピュラア・ソング」。二の替り、波島貞作「危険な遊戯」、大町竜夫作「フルーツ・ポンチ」、菊谷栄作レビュー「イワン大尉とペーペル」、「ライト・コンサート」、和田五雄作「一休和尚」。
10月 浅草松竹座。北小路一美作「親しむべき灯火」、三原弘二作「青だこ晴天」、和田五雄作落語レビュー「お武家商法」、菊谷栄構成「ポピュラア・ソング」、大町竜夫作レビュー「世界与太者全集」。二の替り、銀の玉作「村の無笑病」、大町竜夫作オペレッタ「商船テナシチイ」、和田五雄作「嫁取り婿取り」、大町竜夫構成ライト・コンサート「メロガン・メログ」、菊谷栄作レビュー「ピカデリィの与太者」。
25日 P・C・L、ピエル・ブリアント提携映画 木村荘十二監督「エノケンの魔術師」封切(上映時間1時間13分)。
11月 浅草松竹座。和田五雄作「喰われた近代人」、大町竜夫作「若草物語」、和田五雄作「嫁取り婿取り」、大町竜夫作「ハイキング・オン・ラインズ」。二の替り、三原弘二作「有閑ホテル」、銀の玉作「百万円の合唱」、菊谷栄作レビュー「世界与太者全集」、和田五雄作マゲモノ・レビュー「エノケンの法界坊」。
12月 浅草松竹座。三原弘二作「或る夜の夫」、和田五雄作「恋のイミテーション」、大町竜夫作「南風の与太者」、銀の玉作「あなただけに」、菊谷栄構成「ラッキー・ジャズ」、菊谷栄作「日本の与太者」。二の替り、大町竜夫作「風船玉」、菊谷栄作オペレッタ「プリンス・オブ・ジャズ」、ライト・コンサート「インカ・ディンカ・ドウ」、和田五雄作マゲモノ・レビュー「エノケンの武林唯七」。
[#この行1字下げ]昭和10年(1935)
1月 浅草松竹座。中村是好作「花嫁洗濯」、大町竜夫作ファース「君キミ・僕ボク」、菊谷栄作オペレッタ「ヤンキー若様」、波島貞作「どんぐり頓兵衛」。二の替り、三原弘二作「もつれ・もつれて」、池田弘作カリカチュア「歯磨を持ってる女」、大町竜夫作オペレッタ「シャーリー可愛いや」、「ライト・コンサート」、和田五雄作「負けない男」。
2月 浅草松竹座。池田弘作「牛乳の歌」、和田五雄作ファース「父性愛ホロリズム」、波島貞作「どんぐり頓兵衛」、ライト・コンサート「マンハッタン・パーティ」、菊谷栄作レビュー「愛のスキャンダルス」。二の替り、池田弘作「注射」、獅子文六原作・三原弘二脚色「金色青春譜」、和田五雄作マゲモノ・ナンセンス「エノケンの文七元結」、「ファンシー・コンサート」、菊谷栄作レビュー「愛のスキャンダルス」。
3月 浅草松竹座。和田五雄作「エプロン」、池田弘作「夕陽の接吻」、大町竜夫作レビュー「春のコント」、菊谷栄作「民謡六大学」、ライト・コンサート「ポピュラー・ジャズ」。二の替り、三原弘二作「地下鉄サム」、大町竜夫作「リップ・ステック」、和田五雄作「やくざ子守」、ライト・コンサート「春のおどり」、菊谷栄作レビュー「民謡六大学」。
4月 浅草松竹座。大町竜夫作「桜の下の午前」、三原弘二作「春のおもちゃ箱」、菊谷栄作レビュー「民謡六大学」、ライト・コンサート「港まつり」、和田五雄作「エノケンの森の石松」。二の替り、平川明作「巴里根性」、池田弘作ファース「うちのラジオ」、菊谷栄作オペレッタ「バイブル・フォーリーズ」、和田五雄作「エノケンの森の石松」。
5月 大阪千日前・大阪劇場。第一週「嫁取り婿取り」「南風の与太者」。第二週「民謡六大学」「文七元結」。第三週「金色夜叉」「ウヰウヰ巴里」。第四週「エノケンの法界坊」「大阪行進曲」。
6月 浅草松竹座。ファース中村是好作「あひるの卵」、池田弘作「耳を吹く風」、大町竜夫作「金色夜叉」「ライラック・タイム」、和田五雄作ミュージカル・コメディ「守銭奴」。二の替り、ファース和田五雄作「結婚の横顔」、ミュージカル・コメディ「フルーツ・ポンチ」、菊谷栄作オペレッタ「リオリタ」、平田兼三作・菊谷栄脚色「研辰の討たれ」。
7月 浅草松竹座。池田弘作「海辺の大星」、大町竜夫作ミュージカル・コメディ「愚美人草」、和田五雄作マゲモノ・ナンセンス「紙屑屋」、大町竜夫作「風は唄う」、菊谷栄作オペレッタ「酋長の息子」。二の替り、池田弘作「虫歯ブルース」、大町竜夫作ファース「間借り青春」、和田五雄作マゲモノ・レビュー「恋の弥次喜多」、菊谷栄作オペレッタ「酋長の息子」。
8月 浅草松竹座。平川明作「マリオネット」、和田五雄作ファース「ネオ・マダム調」、菊谷栄作マゲモノ・レビュー「旗本次男坊」、大町竜夫作オペレッタ「大西洋狐踏曲」。
9月(8月下旬より) 休演(P・C・Lにて撮影)。
10月 浅草松竹座。津田純作「夫婦愛二次会」、池田弘作「僕の第六感」、大町竜夫作音楽喜劇「大学漫才」、「ライト・コンサート」、菊谷栄作喜歌舞伎「エノケンの足軽」。二の替り、銀の玉作喜劇「ロバ」、松崎力作ミュージカル・ファース「ニューヨークは大騒ぎ」、和田五雄作「佐倉義民伝」、ライト・コンサート「ホット・プルー」、菊谷栄作オペレッタ「恋の駄々ッ子」。
11日 P・C・L、山本嘉次郎監督「エノケンの近藤勇」封切(上映時間1時間20分)。
11月 浅草松竹座。和田五雄作「閨秀作家とお台所」、銀の玉作「口笛とひげ」、菊谷栄作オペレッタ「軽量拳闘王」、大町竜夫作マゲモノ・ナンセンス「らくだの馬さん」。二の替り、池田弘作笑劇「鉄道屋日記」、ライト・コンサート「ハミイ・ハミイ」、菊谷栄作音楽喜劇「メロディ・ショツプ」、大町竜夫作レビュー「やぶにらみ劇場」、マゲモノ・ナンセンス「らくだの馬さん」。
12月 休演(P・C・Lにて撮影)。
[#この行1字下げ]昭和11年(1936)
1月 浅草松竹座。池田弘作「ハッピー・コート」、大町竜夫作音楽喜劇「春の訪問者」、菊谷栄作レビュー「七つの幸福曲」、和田五雄作「陽気な仇討」。二の替り、大町竜夫作「無明の闇」、銀の玉作クロッキー「人生のお約束」、和田五雄作「南爪を売る若旦那」、菊谷栄作オペレッタ「南は青空」。
31日 P・C・L山本嘉次郎監督「エノケンのどんぐり頓兵衛」封切(上映時間1時間24分)。
2月 日比谷有楽座。菊谷栄作「男性bQ」、大町竜夫作オペレッタ「南風の与太者」、和田五雄作「エノケンの法界坊」。二の替り、大町竜夫作「学生大福帳」、波島貞・津田純作オペレッタ「エノケンの鼠小僧」、菊谷栄作レビュー「バラ色紳士道」。
3月 浅草松竹座。孝滋六作「ミルク・ブラザーズ」、大町竜夫作「天使でなくとも」、菊谷栄作レビュー「流行歌六大学」、和田五雄作カブキ・ナンセンス「村井長庵」。二の替り、菊谷栄作レビュー「流行歌六大学」、大町竜夫作「浪人と猫」、佐々紅華作オペレッタ「嘘」、和田五雄作「春の見合」。
4月 浅草松竹座。和田五雄作「月より来たヂャン」、菊谷栄作レビュー「流行歌六大学」「居残り佐平次」他。二の替り、和田五雄作「風に乗るメロディ」、菊谷栄作レビュー「流行歌六大学」、大町竜夫作オペレッタ「ユカレリ・ベビイ」、銀の玉作「へちま」。
5月 浅草松竹座。大町竜夫作「不等辺三角形」、和田五雄作「僕の新婚日記」、菊谷栄作オペレッタ「Gメン管絃楽団」、P・B文芸部選ファース「お馬鹿さん」。二の替り、堀江要人作「ユメ・ゆめ」、銀の玉作「呼ぶ」、大町竜夫作「小言幸兵衛」、菊谷栄作「ラッキー・ボーイ」。
6月 休演(P・C・Lにて撮影)。
7月 浅草松竹座。堀江要人作「マダムと夜霧」、銀の玉作「夏休み近く」、菊谷栄作オペレッタ「弥次喜多奥州街道」、「ミュージック・ゴーズ・ラウンド」。二の替り、佐々川隆三作「お茶とピアノ」、池田弘作「むち」、大町竜夫作オペレッタ「弥次喜多金毘羅道中」、菊谷栄作「ライガア・ラッグ」。
21日 P・C・L山本嘉次郎監督「エノケンの千万長者・前篇」封切(上映時間58分)。
8月 浅草松竹座。堀江要人作「オリンピック運動具店」、大町竜夫作「エノケンの権三と助十」、池田弘作「あに・いもうと」。二の替り、新宿第一劇場。村瀬康一作「海に別れる日」、大町竜夫作「らくだの馬さん」、菊谷栄作「ディカ・ディカ・ドウ」。
9月 浅草松竹座。村瀬康一作「停車三十分」、池田弘作「それから」、菊谷栄作「若き燕」、大町竜夫作「輝く珠玉」。二の替り、佐々川隆三作「チロルの秋」、地野涯夫作「街角の煙り」、波島貞作「シャックリ眼八」。
1日 P・C・L山本嘉次郎監督「エノケンの千万長者・後篇」封切(上映時間53分)。
10月 浅草松竹座。山名英介作「ジャンケンぽん」、池田弘作「おふなの下唇」、大町竜夫作「エノケンの木下藤吉郎」、菊谷栄作「スペインの外人部隊」。二の替り、志村治之助作「れんあい部落」、亀屋原徳作「他人の幸福」、銀の玉作オペレッタ「チューインガム」、佐々紅華作オペレッタ「野ざらし変奏曲」。
11月 休演(P・C・Lにて撮影)。
12月 新宿第一劇場。中村是好作「賑やかな街の行進曲」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「最後の伝令」、波島貞作「中山安兵衛」、大町竜夫作「大学漫才」。二の替り、大町竜夫作「浪人と猫」、銀の玉作「髭と口紅」、菊谷栄作「十二色のジャズ」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一原案「最後の伝令」。
31日 P・C・L岡田敬監督「エノケンの江戸ッ子三太」封切(上映時間1時間11分)。
[#この行1字下げ]昭和12年(1937)
1月 浅草松竹座。池田弘作「石を投げる」、志村治之助作「銀嶺武勇伝」、大町竜夫作「果報者天国」、菊谷栄作レビュー「水戸黄門漫遊記・東海道の巻」。二の替り、池田弘作「割烹松乃屋」、大町竜夫作「心太時代」、波島貞作「金平と銀平」、銀の玉作「スヰート・ジャズ」。
2月 浅草松竹座。志村治之助作「かんばん娘」、池田弘作「パーマネント会議」、菊谷栄作「アルセエヌ・ルパン」、大町竜夫作「エノケンの廿四孝」。二の替り、志村治之助作「想い出は晴れた日に」、大町竜夫作「ほととぎす」、池田弘作「百万弗のリンゴ」、根岸三一作「身代り公方」。
3月 浅草松竹座。柿坂二郎作「君のいる街」、大町竜夫作「大和の六兵衛」、菊谷栄作レビュー「流行ジャズ六大学」。二の替り、志村治之助作「弱気の日曜日」、池田弘作「弥生会の女達」、大町竜夫作「助太刀長屋」、菊谷栄作レビュー「流行ジャズ六大学」。
4月 浅草松竹座。池田弘作「ぶらんこ」、志村治之助作「ロマンス・ビルディング」、大町竜夫作「春の大学祭」「弥次喜多・親子」。二の替り、志村治之助作「乾杯いとはん」、池田弘作「心の春の花咲けば」、菊谷栄作「山猫の春」、和田五雄作「仁輪加侍」。
5月 浅草松竹座。志村治之助作「五月の蝶々」、池田弘作「つつましい朝」、大町竜夫作「関取三千両」「メイフラワー」、和田五雄作「小政喧嘩状」。二の替り、村瀬康一作「セルを着る頃」、和田五雄作「三代目親分」、大町竜夫作「ミリタリィリズム」、菊谷栄作「平凡児」、和田五雄作「こうもり安」。
1日 P・C・L岡田敬監督「江戸ッ子健ちゃん」封切(上映時間1時間5分)。
6月 休演(P・C・Lにて撮影)。
7月 11日 P・C・L山本嘉次郎脚本監督「エノケンのちゃっきり金太・前篇」封切(上映時間1時間3分)。
8月 1日 「エノケンのちゃっきり金太・後篇」封切(上映時間1時間9分)。
7、8月 (地方巡演)。
9月 新宿第一劇場。中村是好作「軍国の母」、菊谷栄作「ノウ・ハット」、和田五雄作「馬力仁義」「日本民謡行脚」。二の替り、志村治之助作「日支そば屋合戦」、池田弘作「前線銃後」、和田五雄作「江戸ッ子長兵衛」、大町竜夫作オペレッタ「明朗航路」。
10月 浅草松竹座。池田弘作「悪妻記」、大町竜夫作「季節の若人達」、和田五雄作「脱線従軍記」、波島貞作「仇討走馬灯」。二の替り、池田弘作「大学の弱虫」、志村治之助作「してやられた松吉君」、大町竜夫作「誰がスパイだ」、和田五雄作「ちきり伊勢屋」。
11、12月 休演(東宝で映画撮影と地方巡演)。
12月 31日 東宝映画、岡田敬監督「エノケンの猿飛佐助・前篇」封切(上映時間1時間5分)。
[#この行1字下げ]昭和13年(1938)
1月 7日「エノケンの猿飛佐助・後篇」封切(上映時間57分)。
浅草松竹座。志村治之助作「俺は漫才師だ」、池田弘作「学生安さん」、大町竜夫作「初祝戦捷譜」、波島貞作「どんぐり頓兵衛」。二の替り、中村是好作「もちろん」、志村治之助作「風の中の親父さん」、菊谷栄作「男性bQ」、宗久之助作「椿浪人」。
2月 休演(東宝で映画撮影)。
3月 丸の内松竹劇場。和田五雄作「嫁取り婿取り」、和田五雄作「はったり勘兵衛」。二の替り、和田五雄作「愚弟賢兄」、菊谷栄作「エノケンの一心太助」。
東宝映画、大谷俊夫監督「エノケンの風来坊」封切(上映時間1時間15分)。
4月 (病気休演)
5月 松竹を退社。東宝と専属契約を結び、東宝榎本健一一座と名乗ることになる。
6月 有楽町日本劇場。和田五雄作「エノケンの突貫サーカス」。
東宝映画、斎藤寅次郎監督「エノケンの法界坊」封切(上映時間1時間14分)。
7月 大阪北野劇場。和田五雄作「エノケンの突貫サーカス」。
8月 有楽町日本劇場。波島貞作「エノケンのびっくり長兵衛」。二の替り、池田弘作「エノケンの坊ちゃん探偵」。
10月 有楽町日本劇場。志村治之助作「エノケンの西遊記」。
東宝映画、渡辺邦男監督「エノケンの大陸突進・前篇」封切(上映時間1時間1分)。
11月 「エノケンの大陸突進・後篇」封切(上映時間1時間6分)。
12月 東宝映画、山本嘉次郎監督「エノケンのびっくり人生」封切(上映時間59分)。
[#この行1字下げ]昭和14年(1939)
1月 東宝映画、山本嘉次郎監督「エノケンのがっちり時代」封切(上映時間1時間16分)。
大阪北野劇場。波島貞作「びっくり長兵衛」。
2月 名古屋宝塚劇場。「びっくり長兵衛」。後半、有楽町日本劇場。「突貫サーカス」再上演。
3月 日比谷有楽座。池田弘作「雨の舗道」、和田五雄作「有楽街のメロディ」、波島貞作「エノケンの誉の土俵入」、エノケン文芸部作「駄々っ子ケンちゃん」。
5月 東宝映画、近藤勝彦監督「エノケンの鞍馬天狗」封切(上映時間1時間12分)。
6月 有楽町日本劇場。波島貞作「突貫ヤジキタ」。
8月 東宝映画、中川信夫監督「エノケンの森の石松」封切(上映時間1時間14分)。
9月 東宝映画、中川信夫監督「エノケンの頑張り戦術」封切(上映時間1時間14分)。
有楽座。和田五雄作「インデアン・パラダイス」、池田弘作「子供の世界」、和田五雄作「浪人三銃士」「文七元結」。
10月 上旬、日本劇場で和田五雄作「エノケンの人間大砲」。中旬、京都宝塚劇場、下旬、 名古屋宝塚劇場で和田五雄作「エノケンの人間大砲」。
12月 有楽町日本劇場。池田弘・和田五雄作「エノケンの大陸の花聟」。
[#この行1字下げ]昭和15年(1940)
1月 有楽町日本劇場で池田弘作「大陸の花聟」、横浜宝塚劇場で池田弘作「雨の舗道」、和田五雄作「スヰング航空路」「文七元結」。新潟宝塚劇場で「雨の舗道」「文七元結」他。東宝映画、中川信夫監督「エノケンの弥次喜多」封切(上映時間1時間8分)。
3月 有楽町日本劇場で池田弘作「春の大学祭」。
東宝映画、山本嘉次郎監督「エノケンのざんぎり金太」封切(上映時間1時間22分)。
5月 東宝映画、中川信夫監督「エノケンの誉の土俵入」封切(上映時間58分)。
6月 日比谷有楽座で、和田五雄作「村の一張羅」、大町竜夫作「らくだの馬さん」、池田弘作「電撃社長」、清野※[#「金+英」、unicode9348]一構成・演出「国性爺合戦」。
東宝映画、中川信夫監督「エノケンのワンワン大将」封切(上映時間51分)。
9月 大阪北野劇場。中村是好作「愛情列車」、和田五雄作「村の一張羅」「文七元結」。
10月 有楽町日本劇場。和田五雄・三原弘二作「南進日本」。
11月 東宝映画、山本嘉次郎監督「孫悟空」前篇(上映時間1時間12分)、後篇(上映時間1時間7分)封切。
12月 有楽町日本劇場。和田五雄作「人情馬子唄」。
[#この行1字下げ]昭和16年(1941)
1月 有楽町日本劇場。「サーカスの人気者」。
東宝映画、石田民三監督「春風千里」封切(上映時間1時間30分)。
3月 東宝映画、青柳信雄監督「エノケンの金太売り出す」封切(上映時間1時間14分)。
東京宝塚劇場。穂積純太郎作「木の上の花婿」、東信一作「丸の内三番叟」、白井鉄造作「エノケン竜宮へ行く」他。
4月 大阪北野劇場にて前月と同じく上演。
8月 東宝映画、山本嘉次郎監督「巷に雨の降る如く」封切(上映時間1時間34分)。
松本宝塚劇場。「南瓜と兵隊」。名古屋宝塚劇場。穂積純太郎作「逃げる仇討」、和田五雄作「嫁取り婿取り」他。
9月 東宝映画、岡田敬監督「エノケンの爆弾児」封切(上映時間1時間2分)。
京都宝塚劇場。「逃げる仇討」「嫁取り婿取り」「文七元結」。岐阜劇場。「南瓜と兵隊」。
10月 日比谷有楽座。山形雄策作「新しき進軍」、野口善春構成「湖畔の祭礼」、白井鉄造作「エノケンの福の神」。
12月 「木の上の花婿」「突貫レビュー」「らくだの馬さん」で朝鮮から満洲を巡演中に、太平洋戦争はじまる。
[#この行1字下げ]昭和17年(1942)
1月 朝鮮、満洲を巡演して帰国。
2月 北海道巡演。和田五雄作「見合の日」、波島貞作「サンたり大東亜」、和田五雄作「文七元結」。
3月 名古屋宝塚劇場。波島貞作「電撃社長」「サンたり大東亜」、和田五雄作「人情馬子唄」。
4月 東宝映画、マキノ正博監督、長谷川一夫と共演の「待っていた男」封切(上映時間1時間20分)。
5月 日比谷有楽座に出演、川原久仁於作・大町竜夫脚色「髭てかさん」、菊田一夫作「マレーの虎」、比佐芳武原作・和田五雄劇化「武蔵坊弁慶」。
7月 大阪北野劇場。和田五雄作「見合の日」、菊田一夫作「マレーの虎」、比佐芳武原作・和田五雄劇化「武蔵坊弁慶」。
東宝映画、岡田敬監督「水滸伝」封切(上映時間1時間37分)。
8月 有楽町日本劇場。服部良一・和田五雄構成「海の凱歌」、菊谷栄脚本「研辰の討たれ」を上演。
10月 大阪北野劇場。高田保作「真珠湾」、神谷鶴蔵作「あやまり道中」、服部良一・和田五雄構成「音楽は愉し」、菊谷栄脚本「研辰の討たれ」。
11月 日比谷有楽座。和田五雄・山下武郎作「ベンガルの舞姫」、藤田潤一脚色「河童の園」「鼻の六兵衛」上演。
東宝映画、斎藤寅次郎・毛利正樹監督「磯川兵助功名噺」封切(上演時間54分)。
12月 名古屋御園座。「ベンガルの舞姫」、藤田潤一作「何処へ」、一堺漁人作、和田五雄脚色「鼻の六兵衛」。
[#この行1字下げ]昭和18年(1943)
1月 有楽町日本劇場。服部良一・和田五雄構成「音楽は愉し」。
3月 東京宝塚劇場。白井鉄造作、東宝国民劇「桃太郎」。
4月 大阪北野劇場。「桃太郎」。
東宝映画、青柳信雄監督「兵六夢物語」封切(上映時間1時間10分)。
7月 大阪北野劇場。「ベンガルの舞姫」「河童の園」、野村胡堂作・和田五雄脚色「磯川兵助道中記」。
8月 日比谷有楽座。和田五雄作「灯台日記」、織田作之助「わが町」より藤田潤一脚色「ベンゲットの星」「磯川兵助道中記」。
11月 日比谷有楽座。和田五雄脚本「爆音」、藤田潤一作「たった一人の鉱山」、山下武郎作「八幡船記」。
12月 有楽町日本劇場。和田五雄作「新らしき船出」。
[#この行1字下げ]昭和19年(1944)
1月 有楽町日本劇場。松田正徳作「花の翼」、波島貞作「かごや大福帳」。
東宝映画、萩原遼監督「韋駄天街道」封切(上映時間1時間24分)。
2月 日比谷有楽座。和田五雄作「太子講船」、藤田潤一・大蔵左兎作「太閤記」。
3月 太平洋戦争決戦非常措置令により大劇場閉鎖される。
4月 演劇興行時間も非常措置令により二時間半以内となる。
6月 東宝、松竹の話合いにより浅草松竹座に出演。松下井知夫作・菊田一夫脚色「突貫駅長」、長谷川伸作「明日の赤飯」。
7月 東宝映画、石田民三監督「三尺左吾平」封切(上映時間1時間13分)。
8月 名古屋御園座。伊馬春部作「プロペラ一家」、「ベンゲットの星」「権三と助十」。
9月 渋谷東横映画劇場。北条秀司作演出「山がら物語」、錦糸町江東劇場「権三と助十」。
10月 豊橋、岡崎の海軍工廠を慰問。
12月 渋谷東横映画劇場。藤田潤一脚色「無法松の一生」。錦糸町江東劇場「らくだの馬さん」。
[#この行1字下げ]昭和20年(1945)
1月 東宝映画、佐伯清監督「天晴れ一心太助」封切(上映時間1時間8分)。成瀬巳喜男監督、東宝オールスターキャスト作品「勝利の日まで」封切(上映時間58分)。
3月 新宿第一劇場。和田五雄作「江戸ッ子長兵衛」、御荘金吾作「らっぱ」。
8月 黒澤明監督の「虎の尾を踏む男達」、山本嘉次郎監督「快男児」撮影中終戦となる。
11月 東京宝塚劇場。菊田一夫演出「どもり綺譚」、正岡容原作「膝栗毛の出来るまで」(翌十二月より進駐軍に接収されアーニー・パイル≠ニなる)。
東宝映画、阿部豊監督「歌え! 太陽」封切(上映時間51分)。
12月 北陸地区巡演。「どもり綺譚」「らくだの馬さん」。
[#この行1字下げ]昭和21年(1946)
1月 有楽町日本劇場。菊田一夫作「サーカス・キッド」。
2月 静岡県伊東市他巡演。「見合の日」「らくだの馬さん」。
3月 日比谷有楽座。笠置シヅ子と、菊田一夫作「舞台は廻る」、藤田潤一脚本「リリオム」。
4月 群馬県桐生市他巡演。「見合の日」「らくだの馬さん」。
東宝映画、佐伯清監督「幸運の仲間」封切(上映時間56分)。
6月 有楽町日本劇場。宇津秀男作「ピノキオ」。
東宝映画、今井正監督「人生とんぼ返り」封切(上映時間1時間20分)。
7月 名古屋宝塚劇場。「どもり綺譚」他。
8月 日比谷有楽座。金貝省三作「エノケンのターザン」、和田五雄作「法界坊」。東宝榎本健一一座は独立し、株式会社榎本健一劇団となる。
[#この行1字下げ]昭和22年(1947)
1月 有楽町日本劇場。藤田潤一作「アリババと盗賊」。東宝映画、斎藤寅次郎監督「エノケンの婿入り豪華船」封切(上映時間1時間28分)。
3月 東宝映画、「四つの恋の物語」封切。
4月 有楽座。菊田一夫作演出「エノケン・ロッパの弥次喜多道中膝栗毛」連続二ヵ月上演。
東宝映画、佐藤武監督「九十九人目の花嫁」封切(上映時間1時間14分)。
8月 名古屋宝塚劇場。「舞台は廻る」、和田五雄作「法界坊」。大阪梅田劇場。「法界坊」。
9、10月 中国、九州巡演。「南瓜の花咲く頃」「しみ抜き人生」「文七元結」。
10月 東宝映画、山本嘉次郎監督で、古川ロッパと共演の「新馬鹿時代」前・後篇封切(前篇1時間17分・後篇1時間28分)。
11月 有楽座。菊田一夫作「孫悟空」。
[#この行1字下げ]昭和23年(1948)
1月 日本劇場。「陽気なパンチョ」。
新東宝映画、中川信夫監督「馬車物語」封切(上映時間1時間9分)。
2月 浅草国際劇場。「ノートルダムのせむし男」。大阪劇場。「陽気なパンチョ」。
4月 有楽座。斎藤豊吉作「一日だけの花形」、大町竜夫作「らくだの馬さん」。
6月 大映映画、島耕二監督「びっくり・しゃっくり時代」封切(上映時間1時間5分)。
6、7月 関東、東海道を巡演。藤田潤一作「聟殿は華族様」、河野渙作「結婚二重奏」、大町竜夫作「らくだの馬さん」。
9月 有楽座。波島貞作「どんぐり頓兵衛」、小沢不二夫作「禁男の楽園」。
新東宝提携エノケンプロ第一回作品、渡辺邦男監督「エノケンのホームラン王」封切(上映時間1時間16分)。
10、11月 長野県、静岡県、関東地区巡演。藤田潤一作「聟殿は華族様」「結婚二重奏」「らくだの馬さん」。
12月 エノケンプロ・新東宝、渡辺邦男監督「歌うエノケン捕物帖」封切(上映時間1時間19分)。
[#この行1字下げ]昭和24年(1949)
1月 有楽座。藤田潤一作「愉快な相棒」、波島貞作「江戸育ちお祭三太」。
2月 新東宝映画、渡辺邦男監督「エノケンの拳闘狂一代記」封切(上映時間1時間28分)。
3月 日本劇場。白井鉄造作「エノケン竜宮へ行く」。
7月 有楽座。藤田潤一作「ああ世は夢か幻か」、波島貞作「エノケン・笠置のお染久松」。
エノケンプロ・新東宝、渡辺邦男監督、エノケン・大河内伝次郎の「旅姿人気男」封切(上映時間1時間26分)。
9月 エノケンプロ・新東宝、中川信夫監督「エノケンのとび助冒険旅行」封切(上映時間1時間21分)。
10月 日本劇場。三木鶏郎作「エノケンの無茶坊弁慶」。
11月 エノケンプロ・新東宝、森一生監督「エノケン・笠置の極楽夫婦」封切(上映時間1時間21分)。
12月 エノケンプロ・新東宝、渡辺邦男監督「エノケン・笠置のお染久松」封切(上映時間1時間16分)。
[#この行1字下げ]昭和25年(1950)
1月 有楽座。エノケン・笠置シヅ子の「ブギウギ百貨店」「天保六花撰」公演中に左足が痛み、舞台を休む。
3月 エノケンプロ・松竹、大曾根辰夫監督「らくだの馬さん」封切(上映時間1時間5分)。
4月 エノケンプロ・新東宝、渡辺邦男監督「エノケンの底抜け大放送」美空ひばり出演、封切(上映時間1時間24分)。
5月 エノケンプロ・松竹、大曾根辰夫監督、古川ロッパと「弥次喜多ブギウギ道中」前・後篇に出演(完成後撮影所火災により焼失)。株式会社榎本健一劇団解散。
10月 エノケンプロ・新東宝、荒井良平監督「エノケンの豪傑一代男」に出演。
12月 エノケンプロ・新東宝、渡辺邦男監督「八百八狸大暴れ」。エノケンプロ・東宝、渡辺邦男監督、エノケン・越路吹雪の「エノケンの天一坊」封切。エノケンプロ解散。
[#この行1字下げ]昭和26年(1951)
4、5月 東北・北海道巡演。
7月 東映映画、萩原遼監督「あばれ神輿」封切。
8月 新東宝映画、安田公義監督「右門捕物帖、帯どけ仏法」封切。
9月 新東宝映画、毛利正樹監督「エノケンの怪盗伝」(石川五右衛門)封切。東宝と再び専属契約を結ぶ。
11月 帝国劇場。ミュージカル「お軽と勘平」。
12月 東宝映画、渡辺邦男監督、エノケン・ロッパ・森繁久弥出演の「極楽六花撰」封切(上映時間1時間15分)。
[#この行1字下げ]昭和27年(1952)
1月 日本劇場。「笑う宝船」。
3月 帝国劇場。ミュージカル「浮かれ源氏」。
東宝映画、マキノ正博監督、エノケン・越路吹雪の「お軽と勘平」封切(上映時間1時間32分)。
4月 黒澤明監督「虎の尾を踏む男達」封切(上映時間59分)。
6月 帝国劇場。ミュージカル「美人ホテル」。
7月 東宝映画、斎藤寅次郎監督「トンチンカン三つの歌」封切。東宝映画、滝沢英輔監督「喧嘩安兵衛」封切。
9月 東宝映画、斎藤寅次郎監督「トンチンカン捕物帖・まぼろしの女」封切。
日本劇場。和田五雄作「エノケンのショーボート」。
10月 ラジオドラマ「エノケンの名作リレー」連続放送はじまる。広島で脱疽発病、慶応病院へ入院。
[#この行1字下げ]昭和28年(1953)
4月 東宝映画、山本嘉次郎監督、原節子・エノケン・藤田進の「恋の風雲児」封切(上映時間1時間6分)。
6月 ラジオドラマ「河童の園」(脚本・小崎政房)連続放送はじまる。
12月 NHKラジオ「星から来た男」(作・山下与志一)放送。NTV、水の江滝子らと「エノケンのクリスマスショー」テレビ初出演。
[#この行1字下げ]昭和29年(1954)
1月 TBSラジオ三木鶏郎作「エノケンの再軍備」、NTV佐々紅華作オペレッタ「嘘」。
3月 東宝映画、青柳信雄監督「落語長屋は花ざかり」封切(上映時間1時間32分)。
4月 NHKラジオドラマ「とかくこの世は」(作・山下与志一)連続放送となる。
5月 東宝映画、青柳信雄監督「夏祭り落語長屋」封切(上映時間1時間25分)。NTV連続テレビドラマ、「エノケンの水戸黄門漫遊記」。
7月 東宝映画、青柳信雄監督「落語長屋お化け騒動」封切(上映時間1時間32分)。
8月 東宝映画、鈴木英夫・杉江敏夫監督「恋愛特急」に出演。
10月 新東宝映画、佐藤武監督「エノケンの天国と地獄」封切。
12月 東宝映画、渡辺邦男監督エノケン・ロッパ・金語楼・青山京子の「やんちゃ娘行状記」封切。
[#この行1字下げ]昭和30年(1955)
1月 東宝映画、青柳信雄監督「初笑い底抜旅日記」封切(上映時間1時間27分)。東宝映画、渡辺邦男監督、エノケン・ロッパ・金語楼・青山京子の「花嫁立候補」封切(上映時間1時間24分)。
2月 東宝映画、青柳信雄監督「八ッつあん初手柄」封切(上映時間1時間23分)。
3月 日本劇場。第一回喜劇まつり、菊田一夫作「銀座三代」。TBSラジオ「のんき裁判」連続放送はじまる。
4月 NHK連続ラジオドラマ、獅子文六原作「青空の仲間」はじまる。ABCラジオ「困った連中」(作・飯沢匡)はじまる。
5月 大阪北野劇場。喜劇まつり「銀座三代」。
7月 東宝映画、山本嘉次郎監督「右門捕物帖、鬼面屋敷」封切。大映映画、田坂勝彦監督「銭形平次捕物控、どくろ駕籠」封切。
8月 TBSテレビ「のんき裁判」、NTV「最後の伝令」。
9月 日本劇場。第二回喜劇まつり「アチャラカ誕生」。
11月 東京宝塚劇場。東宝ミュージカル「お軽と勘平」。東映映画、斎藤寅次郎監督「親馬鹿子守歌」封切。
12月 東映映画、斎藤寅次郎監督「けちんぼ長者」封切。
[#この行1字下げ]昭和31年(1956)
1月 日本劇場。「新春スターパレード」(初笑いどんどろ大師・井崎博之脚本)
2月 東京宝塚劇場。東宝ミュージカル、飯沢匡作「泣きべそ天女」、菊田一夫作「恋すれど恋すれど物語」。
映演プロ創立、新人養成のため映演研究所を併設。自ら教頭となり新人育成をはじめる。東宝映画、小田基義監督「ますらお派出夫会」前・後篇封切。新東宝映画、渡辺邦男監督「びっくり捕物帖・女刺青百万両」封切。
3月 新東宝映画、津田不二夫監督「鼻の六兵衛」封切。
4月 NHK連続ラジオドラマ「相棒道中」はじまる。
6月 東京宝塚劇場。東宝ミュージカル、高木史朗作「太陽の娘」、菊田一夫作「俺は知らない」。
東宝映画、小田基義監督「アチャラカ誕生」。東宝映画、小田基義監督「アチャラカ大当り」封切。
7月 東映映画、小林恒夫監督「宝島遠征」封切。
8月 東宝映画、斎藤寅次郎監督「恋すれど恋すれど物語」封切。
9月 東京宝塚劇場。東宝ミュージカル「極楽島物語」。
11、12月 梅田コマスタジアム開場。菊田一夫作「姿なき犯罪」「これがコマだ」。
12月 30日 TBS連続テレビドラマ「エノケンの孫悟空」(井崎博之脚本)はじまる。
宝塚映画、佐伯幸三監督「極楽島物語」封切。
[#この行1字下げ]昭和32年(1957)
2月 日本劇場。第三回喜劇まつり。和田五雄・井崎博之作「寄らば斬るぞ」。
東映映画、石原均監督「らくだの馬さん」封切。
3月 東映映画、石原均監督「とんちんかん八百八町」封切。
4月 東宝映画、山本嘉次郎監督「象」封切(上映時間1時間7分)。
新宿コマ劇場開場。「廻れコマ」、菊田一夫作「葉室烈人の恋」。
6月 梅田コマスタジアム。菊田一夫作「俺は知らない」「廻れコマ」。
7月 東京宝塚劇場。菊田一夫作「パノラマ島奇譚」。
8月 新宿コマ劇場。菊田一夫作「真夏の夜の夢」「歌う日本意外史」。
9月 東京宝塚劇場。「泥棒大将」、菊田一夫作「メナムの王妃」。
10月 梅田コマスタジアム。ミヤコ蝶々らとコマ喜劇「笑う捕物帖」「母は嘆かず」。九州巡演。「文七元結」「あべこべ物語」「見合の日」。
12月 新宿コマ劇場。霜川遠志作「西遊記」。
[#この行1字下げ]昭和33年(1958)
1月 大映映画、長谷川一夫の「銭形平次捕物控、八人の花嫁」封切。
3月 新宿コマ劇場。和田五雄作「法界坊」。
5月 新宿コマ劇場。大江美智子一座と合同。井崎博之作「紺屋高尾」、平田兼三作・菊谷栄脚色「研辰の討たれ」。
6月 大阪北野劇場。喜劇まつり「アチャラカ誕生」。十七日より日本劇場にて第四回喜劇まつり、井崎博之作「八五郎罷り通る」。
7月 新宿コマ劇場。クレージーキャッツ、水谷良重らと「お染久松」。
9月 梅田コマスタジアム。コマ喜劇「研辰の討たれ」。松竹映画、穂積利昌監督「泣き笑い日本晴」封切。
10月 NHK連続テレビドラマ「お父さんの季節」はじまる。東宝映画、青柳信雄監督「大江戸千両祭」封切(上映時間1時間41分)。
11月 松竹映画、福田晴一監督「水戸黄門漫遊記」封切。新宿コマ劇場。菊田一夫作「事件記者」。
12月 松竹映画、福田晴一監督「二等兵物語」。松竹映画、渡辺邦男監督「大暴れ東海道」封切。
[#この行1字下げ]昭和34年(1959)
1月 新宿コマ劇場。菊田一夫作「金色夜叉」。
3月 梅田コマスタジアム。ミヤコ蝶々らと、コマ喜劇「女の一生」「なよたけ」。
松竹・関西喜劇人協会提携、福田晴一監督「かた破り道中記」封切。
4月 新宿コマ劇場。第一回喜劇人まつり、山下与志一作「花祭り消防三代」、有崎勉作「おトラさん乗出す」。
6月 日本劇場。永来重明作「エノケンの爆笑千一夜」。
7月 新宿コマ劇場。大町竜夫作「らくだの馬さん」(中村是好、岩井半四郎出演)。
9月 日本劇場。第五回喜劇まつり、中野実作「ネット裏に娘あり」(水谷良重出演)。
10月 芸術座にて、菊田一夫作「がめつい奴」十二月まで続演。
12月 東京宝塚劇場。菊田一夫作「浅草の灯」。
[#この行1字下げ]昭和35年(1960)
1月 第四回テアトロン賞を受賞。菊田一夫作「がめつい奴」に七月まで連続出演。
2月 東宝映画、青柳信雄監督「落語国紳士録」(ロッパ・金語楼・有島一郎・三木のり平らと共演)封切(上映時間1時間31分)。
3月 NHK放送文化賞を受賞。
8月 梅田コマスタジアム。菊田一夫作「オペラ繁盛記」。
9月 梅田コマスタジアム。菊田一夫作「がめつい奴」。
10月 芸術座。菊田一夫作「がしんたれ」。
11月 3日 紫綬褒章を受章。新宿コマ劇場。「武蔵坊弁慶」。
12月 東京宝塚劇場。菊田一夫作・演出「雲の上団五郎一座」。
[#この行1字下げ]昭和36年(1961)
1月 梅田コマスタジアム。コマ喜劇「武蔵坊弁慶」「初姿一心茶助」。
4月 新宿コマ劇場。第二回コマ喜劇人まつり、井崎博之脚本「天保六花撰」。
6月 東京宝塚劇場。東宝劇団歌舞伎結成第一回公演、菊田一夫作「野薔薇の城砦」。
芸術座。菊田一夫作「お鹿ばあさん東京へ行く」。
11月 皇居内、園遊会に招かれる。
12月 東京宝塚劇場。菊田一夫演出「続雲の上団五郎一座」。
[#この行1字下げ]昭和37年(1962)
3月 新宿コマ劇場。第三回コマ喜劇人まつり、出雲隆作・井崎博之脚色「エノケンの村井長庵」。
東映映画、渡辺邦男監督「愉快な仲間」封切。
4月 宝塚映画、青柳信雄監督「雲の上団五郎一座」(フランキー堺・三木のり平らと共演)封切(上映時間1時間25分)。
9月 東大病院、清水外科に入院。右足切断手術を受ける。
[#この行1字下げ]昭和38年(1963)
5月 新宿コマ劇場。第四回喜劇人まつり、淀橋太郎作「三枚目の天国」で舞台にカムバック。
7月 東京宝塚劇場。菊田一夫作「ブロードウェイから来た13人の踊り子」(越路吹雪・フランキー堺・高島忠夫・草笛光子らと共演)。
宝塚映画、「続・雲の上団五郎一座」(フランキー堺・三木のり平らと共演)封切(上映時間1時間33分)。
9月 新宿コマ劇場。阿木翁助作「おじいちゃま、ハイ」(坂本九・木の実ナナらと共演)。
12月 東京宝塚劇場。菊田一夫作「雲の上団五郎一座ブロードウェイへ行く」(益田喜頓・宮城まり子・八波むと志らと共演)。
[#この行1字下げ]昭和39年(1964)
1月 梅田コマスタジアム。コマ喜劇・阿木翁助作「おじいちゃま、ハイ」。
4月 新宿コマ劇場。第五回コマ喜劇人まつり、阿木翁助作「フグ先生とあんこう大将」。
6月 明治座。竹内伸光作「女中ッ子物語」。
10月 新宿コマ劇場。菊田一夫作「意外なる歴史」。二十九日池田総理をはじめとする「激励する会」を受ける。
[#この行1字下げ]昭和40年(1965)
5月 新宿コマ劇場。第六回喜劇人まつり、淀橋太郎作「珍説大岡政談」。
9月 東宝映画、久松静児監督「花のお江戸の法界坊」(フランキー堺・伴淳三郎らと共演)封切(上映時間1時間35分)。
[#この行1字下げ]昭和41年(1966)
2月 新宿コマ劇場。第七回喜劇人まつり、淀橋太郎作「大暴れ腰抜け仁義」。
[#この行1字下げ]昭和42年(1967)
1月 梅田コマスタジアム。高田浩吉・美和・水島道太郎らと「竹取物語・花のかぐや姫」。
2月 新宿コマ劇場。第八回喜劇人まつり、淀橋太郎作「初見参、駒五郎一座」。
11月 名古屋中日劇場。竹内伸光作「女中ッ子物語」。
12月 大阪新歌舞伎座。「新・忠臣蔵」。
[#この行1字下げ]昭和43年(1968)
2月 新宿コマ劇場。第九回喜劇人まつり、淀橋太郎作「おとぼけ仁義」。
12月 名古屋御園座。「日本晴れ道中記」。
産経ホールにて、芸能生活四十五周年を記念してエノケンまつり=B
[#この行1字下げ][#この行1字下げ]昭和44年(1969)
2月 日本映画研究所製作、映画「へそ閣下」。
3月 新宿コマ劇場。第十回喜劇人まつり、「へそまがり繁昌記」。
12月 帝国劇場。「浅草交響楽」の劇中劇最後の伝令≠演出。
[#この行1字下げ][#この行1字下げ]昭和45年(1970)
1月 1日 夜、日本大学駿河台病院に入院。
7日 十四時五十分、肝硬変にて逝く。行年六十五。従五位に叙される。
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本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九三年一一月刊)を底本としました。
講談社文庫版は、単行本(一九八五年 小社刊)を全面改稿したものです。
電子文庫版では、親本収載の写真は割愛いたしました。
●著者 井崎博之(いざき ひろゆき)
一九二八年、東京に生まれる。一九四七年、エノケン劇団に入る。一九五五年、エノケン出演のラジオ脚本「のんき裁判」を書き、その後はテレビ脚本「喜劇天国」「エノケンの孫悟空」など、また舞台脚本では「紺屋高尾」「エノケンの村井長庵」「八五郎罷り通る」「寄らば斬るぞ」などを執筆。