井上 靖
崖(上)
目 次
裸 梢
梅
白 い 時 間
春 の 光
埋 没
ゴ ル フ
美 術 館
珈 琲
雨
風 景
夕 立
午 下 が り
退 院
口 紅
島
入 江
裸 梢
この店は東京でも一、二と言われる魚料理のうまいレストランだが、そこの一番年かさのボーイの山田は、さっきから一番向うの隅のボックスに陣取っている客の方へ、それとなく注意を向けていた。
店にはボックスとテーブル併せて十二、三の席があり、いまはその全部を女連れの客が埋めている。男の方は中年以上で、女の方は申し合せたようにうら若い。四、五年前まではひと目で、いっしょに居る男と女の関係が判ったものだが、この頃はそう簡単には行かない。遠くから見ていると、特殊な関係の女のようでもあるが、料理を運んで行って、その話しぶりを耳に入れるとまるで娘のようでもある。なんだ、親子かと思っていると、かなり多額な紙幣の受け渡しなどをするから、油断も隙もない感じだ。
そうした十何組かのアベックの客の中で、山田は何となく一番向うの隅の客に眼を当てていた。女連れの卓へ眼を注ぐわけには行かないので、自然に一人で四人掛けの席を占領している男客の方へ眼が行くのだが、しかし、そのためばかりではない。山田の眼をひきつけるようなものを、その客は持っている。この店は常連が多く、初めて店へはいって来るいわゆる|ふり《ヽヽ》の客なるものはめったにいないが、山田がさっきから眼を注いでいる客は初めての顔である。
年の頃は四十ぐらいであろうか。着ている洋服は細かい縞《しま》の黒っぽいもので、地味な服装のために幾らか年が多く見えているかも知れない。しかし、幾ら若く見積っても三十六、七は下るまい。学生時代ラグビーかボートの選手でもしていたといったがっちりした体で、店へはいって来た時の感じでは身長は五尺六、七寸、体重は十八、九貫といったところであろうか。
それはともかくとして、よく食うことも食うが、その食い方が実にうまそうだ。レストランに一人ではいって来たからには、全く料理を食べるのが目的で来たのには違いないが、それにしてもよく食う客である。初め生|牡蠣《がき》の皿を持って行ったが、レモンの汁を振りかけたと思ったら、ぺろりと平らげてしまい、すぐ、もう一皿注文した。
「もう一皿でございますか」
山田が訊くと、
「じゃ、一ダース貰おう」
と言った。牡蠣はパリではダースで注文するとは聞いていたが、この店でこうした注文の仕方を受けたのは初めてである。そして、そのあとステーキを食べ、更にまた舌|平目《びらめ》のピラフを注文した。
客は、いまピラフを食べ終って、印度|林檎《りんご》の大きな奴の皮をむいている。ピラフといっても、他の料理を食べた上で、これを平らげる客は少い。大体この店は定食以外の一品料理は、ひと品でもすませられるように量を多くし、付合せの野菜などもたっぷり盛ってある。
そういう見方をすれば、この客は生牡蠣十八個を平らげ、それだけで充分な筈の大きなビーフステーキを胃の腑《ふ》に収め、その上でピラフを食べ、果物の盛り合せを持って行くと、一番大きな印度林檎を選んだのである。
しかもこれらの物を、客は実にうまそうに食べる。小気味よい唇の動かし方である。食べている間中は、食べものから眼を離さない。近くの席にいかなる客がいるかといったことはいっさい念頭にないらしく、ただひたすら食べるという当面の作業に熱中している感じである。
客が顔を上げ、こちらへ視線を投げた。山田はすぐ幾つかのテーブルの間を縫って、そこへ近付いて行った。
「お呼びでございますか」
「この店、何時までやってる?」
相手は山田の眼を見すえるようにして訊いた。視線は強いが、その割に顔全体の動きは柔和である。
「大体、九時まででございます」
「そう」
頷《うなず》いてから、自分の腕時計に眼を当て、ちょっと考えるようにしていたが、
「コニャックある?」
「ございます」
「じゃあ、それ」
そう言ったところから推すと、九時までの時間をここで潰《つぶ》そうというのであろうか。いまは七時半を廻ったばかりの時刻である。
山田はコニャックを運んで行くと、あとは、他の卓の用事で忙しかった。若いボーイの一人が早退けして行ったので、その分も受け持たなければならなかったからである。
料理運びがひとたて終って、いつも控えているカウンターの横に来て立つと、例の隅の客の手が軽く上がるのが見えた。近寄って行くと、
「コニャック、もう一つ」
相手は言ったが、こんどは先刻とは違って、ひどく暗い横顔を見せたまま、山田の方へは顔を向けないでいた。
山田は二杯目のコニャックを運んで行った。客は同じ暗い顔で腕の時計を見守っていた。
八時を過ぎると、客は一組、二組と、次々に帰り始めた。八時半までには大体どの卓も空になってしまう筈である。営業は九時までということになっているが、客が帰り次第表戸を閉ざして、ボーイと女給仕たちは店の掃除に取りかかるのである。
最後のアベックが立ち上がったのは八時半をちょっと過ぎた時である。その時、例の隅のボックスの客は四杯目のコニャックを、ちびちび嘗《な》めていた。山田は、客が早く帰ればいいのにと思った。一組でも客がある以上、卓の白布も取り片付けるわけには行かない。山田は何となく様子を見るようなつもりで水注ぎを持って行った。すると、こちらの気持を見抜きでもしたように、
「九時までいいの?」
相手はすかさず言った。
「よろしゅうございます」
山田は言った。そう言う以外仕方なかった。すると、相手はこの時初めて、自分がただ一人の客になっていることに気付いた風で、ちょっと店内を見廻してから、ふいに立ち上がった。
「まだよろしゅうございます」
再び言った山田の方に、客は百円紙幣二枚を黙って出し、
「勘定は向うだね」
と、入口のレジスターの方を顎《あご》でしゃくった。チップを貰った手前、山田は言った。
「お待ち下さいませ。ただいまお勘定書きを持って参ります」
「いいよ。僕が行く」
客は卓を離れた。歩き方が多少|蹌踉《そうろう》としている。コニャック四杯でこうなるとすると、さしてアルコールに強いとは言えない。勘定を支払っている相手に、
「お自動車《くるま》を拾いましょうか」
山田は言った。
「うん」
「どちらまででございます」
「江戸川橋」
それから思い直したように、
「いや、そこらで僕が拾う」
そう言うと、客は店の出入口まで山田に送られて外へ出た。外には珍しく靄《もや》が立ち籠《こ》めている。昼間は例年より暖かい陽気で、春の近いのを思わせる陽が散っていたが、陽が落ちる頃から急に寒さがきびしくなった。そうした気温の変化が靄を招いたのかも知れない。
男はガードの傍で銀座の方へ行くか、反対に日比谷の方へ行くか、ちょっと思案していたが、やがてネオンの海の方を避けて、暗い闇の拡っている日比谷の方へ足を向けた。
男は腹ごなしでもするつもりか、日比谷の交叉点から田村町一丁目の方へ、ゆっくりした歩調で歩いて行った。外套《がいとう》へ両手を突込んで、少し俯《うつむ》き加減の姿勢で歩いて行く。通行人はめっきり少くなっているが、それでもまだ人通りのとだえるといった時刻ではない。男は何人かの男女と擦《す》れ違ったが、少しもそれを意に介することはなく、暗い足許へ眼を落したまま歩いて行く。
靄はうっすらと立ち籠めている。車道にはひっきりなしにくるまの群れが流れていて、靄の中に滲《にじ》んだ赤い尾燈が次から次へと多少陰気な感じで突走っている。
男は田村町の明るい通りへ出ると、そこで立ち停まって、腕時計を覗き、九時十分過ぎであることを確かめると、初めて眼をくるまの群れが走っている車道の方へ向け、それから手を上げて、軽く廻すようにした。空車を停めるためである。
暫く同じ仕種《しぐさ》を繰り返していたが、そのうちに一台のタクシーがすうっと男の立っているところへ近付いて来た。
男はすぐ自分で扉を開けて、くるまに乗り込んだ。
「江戸川橋の近くまでやってくれ」
男は言った。その言葉の持つ何となく横柄な調子が癇《かん》に触ったのか、運転手は返事をしないで、くるまを動かし、すぐ大きくターンするためにハンドルを廻した。くるまはお濠《ほり》ばたに沿って走っていた。
「江戸川橋のこっちか向うか知らんが、鶴巻町という都電の停留所があったね」
「あります」
「その辺で停めて貰おうか」
男は言ったが、それから暫くしてからまた独り言のように口を開いた。
「鶴巻町から川の方へ曲る道があったね。――知ってる?」
「知りませんね。川の方へ折れる道って、あの辺にあるのは路地でしょう」
「そう」
「路地なら幾つでもありますよ」
「うん」
それっきり男は口を噤《つぐ》んだ。運転手はバックミラーヘ眼をやった。男は前|屈《かが》みになって、煙草に火を点《つ》けていた。格別怪しい風体ではなく、一見恰幅のいい紳士である。
「家でも探すんですか」
「うん」
男は曖昧《あいまい》に頷いた。家を探すとも探さないともその短い言葉からは判らなかった。
「寒いな」
男は言ったが、こんどは運転手が黙っていた。
鶴巻町の電車の停留所の近くになると、くるまはスピードを落して、
「どこで停めますか」
と、運転手は訊いた。
「もう鶴巻町か」
「そうです」
「じゃ、どこでもいい」
それからそれを追いかけるように、
「よしここで降りよう」
男は言った。そして料金を運転手に渡すと、釣り銭は受け取らないで、くるまから降りた。
通りには相変らず靄が流れていた。表通りのこととてくるまの往来は烈しいが、店舗も閉じ、人通りも全く絶えていた。
男はそこらで一軒だけ開いている小さな雑貨屋を見付けると、そこへ行くためにくるまの隙間を見計らって、車道を横切って行った。
そして雑貨屋の店先に立つと、店仕舞しているそこの内儀《かみ》さんに声をかけた。
「この裏手の方に何とかいう公園がありましたね。そこへ行くには、どこを曲ったらいいですか」
「江戸川公園ですか。公園という程のところじゃないですが」
内儀さんは言ってから訝《いぶか》しげに視線を男の顔に当てた。すると、男は多少弁解するように、
「昼間、一度行ったことがあるんですが、どうも夜だから道が判らなくて」
「五、六軒先きに自転車屋がありますから、そこを曲るとすぐ川にぶつかります。橋は二つあります。そのどっちを渡っても公園に出られます。いまは真暗《まつくら》ですよ」
「どうも、ありがとう」
男はそれだけ言うと、すぐその店先から離れ、江戸川橋の交叉点のある方とは反対の方角へ歩き出した。なるほど五、六軒先きに、戸締りしているのでよくは判らないが、自転車屋らしい店があった。
さっきの運転手は路地しかないだろうと言ったが、くるまのはいれるちゃんとした道で、その道はすぐ川に沿っている道へぶつかった。橋は下手に一つと、上手にもう一つあるらしい。男は川に沿って上手へと歩いて行った。
川は両側をコンクリートで畳まれ、川床は深く落ち込んでいて、流れはどこかで堰《せ》きとめてでもあるのか、かなり烈しい水の落ちる音を立てている。
道に沿って人家は並んでいるが、すっかり寝静まっている感じで、家からは燈火は洩《も》れていなかった。
男が歩いている川に沿った道の、川一つ隔てた対岸には断崖がそびえ立っていた。断崖の上一帯が関口台町になっており、断崖の下は川との間に細長い空地を作っていて、このあたりではここを江戸川公園と呼んでいる。
断崖は、川を隔てた道を歩いている男の眼には、古い城址の石垣ででもあるように見えた。東京の街中によくこんなところがあるものだと思われるような堂々たるスケールで、大斜面は一部は石垣で畳まれてあるが、大部分は雑木で覆われている。
ここが古い城址の石垣のように見えるのは、断崖の上に何軒かの家があり、その中の一軒は大きい石塀かコンクリートの塀を廻《めぐ》らしているので、夜目にはそれが丁度城の建物の一部か何かのように見えるのである。
断崖の斜面に二つと、台地の上に二つあかりが灯《とも》っている。台地の上の一つは白黄色の光を発している水銀燈で、その附近だけが際立って明るい。勿論大きな断崖にとって、この四つのあかりは何程の効果も与えていないが、しかし、この断崖を古い城址に見せるためには、うってつけの照明と言えよう。
男は上手の橋の袂《たもと》に出ると、対岸の公園へ出るために、その橋を渡った。橋の袂に街燈があるので、公園へ足を踏み込むあたりは明るいが、すぐ暗い闇が裾《すそ》をひろげている。男はためらうことなく闇の中へはいって行った。公園の細長い空地には、ずっと先きの方に二つの電燈が灯っているが、その中間は全くの闇である。
男はやがて闇の中で立ち停まると、煙草を取り出して、それに火を点けた。男は断崖の上の水銀燈が灯っているところへ登って行くつもりだった。大分前のことだが、昼間一度ここへ来たことがある。この断崖についている道を登って行き、また降りて来たことがある。断崖の裾には二、三カ所登り口があり、細い小道が斜面をジグザグにゆっくりと這っていたことを覚えている。
今夜もその道の一つを登って行くつもりでここへやって来たのだが、予想と違ったのは、夜の闇が、断崖とその裾の公園とをすっかり呑み込んでしまっていて、昼でも見失いそうな小道が、全くどこにあるか見当付かないことであった。
男はゆっくり煙草を吸っていた。引き返すのも面倒だった。それに台地の上へ廻っても、彼の目差している水銀燈のついているところへはいって行く道すじは知っていなかった。
男は斜面を這っている道の登り口を探すために、断崖の裾に近付いて行った。が、五、六歩足を運んだだけで、すぐ立ち停まらなければならなかった。足許に、石かコンクリートの欠片《かけら》のようなものが積まれてあって、それが彼の歩行をはばんだからである。
男は眼を慣らすために、前に立ちはだかっている闇を見詰めていた。そのうちに眼は多少慣れて来たが、それにしても、僅かに足許の石かコンクリートの欠片のようなものの堆積《たいせき》と、すぐその向うの立木と、立木の根もとから始まっている草に覆われた断崖の斜面の裾とを、ぼんやりと網膜に映しとったにすぎなかった。
男は道の登り口を発見することが、まず望んでも無駄であることを知ると、どこでもいいから登れそうなところから登って行こうと思った。何本かの道が斜面を幾つにも曲って横に這っていた筈だから、途中まで登って行けば、どの道かにぶつかるに違いなかった。
男は闇の中を数歩後退して、斜面の上部の水銀燈を仰いで、その真下と思われるあたりに見当を付けると、再びその地点を目差して歩いて行った。こんどもまた、石やコンクリートの欠片の堆積とぶつかった。
男は注意深く堆積物を越えると、一本の小さい立木の枝に掴まって、断崖の裾を登り始めた。斜面は思ったより急ではなく、靴のすべることさえ注意すれば、一歩一歩体を上部に運ぶことができた。それに真の闇というわけではなかった。斜面の右手の方にある電燈の光が、勿論そこからはかなりの距離があったが、それでも男の掴まっている雑木や、眼の前の土の中から顔を出している岩石の頭や、そこらを埋めている雑草などの形を、ぼんやりと闇の中に浮び上がらせていた。
事情は一歩一歩上に登るに従ってよくなる筈であった。それに、そのうちに道に出られるに違いないと思われた。
高さにして二間程のところを登った時、男は足場のいいところを探すと、そこに立ち停まってひと息入れた。十分程前に、彼がくるまで走っていた街の一部が眼にはいって来た。赤や青のネオンも幾つか見えるが、しかし、大部分は普通の街燈の灯でそれが港湾の漁船のそれのように、ある淋しさをもってばら撒《ま》かれている。この附近一帯が盛り場からは遠いので、夜景も灯の海といった感じではない。
男はひと休みすると、再び登り始めた。楢《なら》か櫟《くぬぎ》か判らないが、そんな裸木の丈低いのが何本か、上部に覆いかぶさっている。
男は厄介なところへ出たものだと思った。しかし、その裸木のある箇処を越えると、その上部には何となく小道でも走っていそうな感じである。男は次々に木の枝に掴まって登って行った。ひどく登りにくかった。斜面の傾斜が烈しくなっており、それに足許の土が、少し力を入れて踏みしめると、すぐ崩れた。時々、土の固塊《かたまり》や小石が、彼の足許から転げ落ちて行った。
男は何程も登らないうちに、またひと息入れた。やれやれと思った。たいしたことなしに登ることができると思った初めの考えが、いまいましいものに思われた。男が登っただけ、夜景は低くなっていた。一本の街路が、いかにも全部をむき出しにした感じで遮るものなしに露《あら》わに見えている。くるまのヘッドライトが次々に現われては消えている。闇の断崖の斜面に突立っている男の眼には、それが眩《まぶ》しいほど明るく見えた。
男は上を見上げた。そこからは彼が目差している水銀燈も、それのある台地も見えなかった。男は上に登る以外仕方がないと考えると、注意しながら足を一歩一歩上に運んだ。
やっとのことで、男は何本かの裸木のある箇処を越えることができたが、予想に反して、そこには道は見出されなかった。男は上にまっ直ぐに登って行くことをやめて、横に移動して行こうと思った。そして燈火の光のとどくところへ出るのが、結局は早道だと思ったのである。
男は灌木の茂みの中を、横に移動して行った。この頃から男の気持は少しあせり出した。この闇の中では、時計を見て時刻を確かめることはできなかったが、もう十時はとうに廻っている筈である。
男は小さい岩の上に立って、何度目かの休息をとった。よほど煙草でも口に銜《くわ》えて、ひと休みしようかと思ったが、それを思いとどまった。何となく不安定な気持が彼を襲っていたからである。彼は周囲の闇を透かして見るようにした。掴まるものはなかった。
危いと思ったので、男は岩の上に身を屈めた。何となく自分が乗っている岩が、小さく動いているように感じられた。男は身を屈めたままで、静かに右足を草の上に移し、次に体を不安定な石から立木の根もとへと移した。こんどは掴まる枝があった。
男は細い木の枝に掴まって立ち上がると、そこで初めて煙草を外套のポケットから取り出し、それにライターで火を点けた。若い頃、やはりこのような暗い夜、同じように断崖の斜面で煙草に火を点けたことのあったのを思い出した。どこの山へ登る時だったか覚えていないが、やはりこのような闇が自分を取り巻いており、その時の不安定な姿勢のままで喫《の》む煙草の味が、ふいに懐かしく思い出されて来た。
しかし、男は煙草の煙を一口か二口吸うと、すぐ足許に落して、靴先きで踏みつけた。時間が気になっていた。煙草など喫んでいる落着いた気持はなかった。煙草の火を消してから、男は何回目かの視線を眼下の街の灯の方に向けた。気のせいか、灯はさっきより少くなっており、表通りを走っているくるまのヘッドライトの数も数えられるほどになっていた。
男はその時、再び不安定なものを感じた。こんどは岩の上に乗っているのではないから、岩が動くことから来る不安さではなかった。何となく足許の地面が極《ご》く微かな動き方で動いているような、そんな不安定な気持だった。
男は右足を踏み出そうとした。その時、彼を襲っていた不安定な気持は急激に大きなものとなった。男は瞬間、足許の地面が崩れかかっているのを感じた。男は木の枝を握っている右手に力を入れた。
実際に、その時彼の立っている斜面の土は、彼を乗せたまま崩れつつあったのである。軽い叫びが男の口から洩れた。男は枝を握ったまま、自分の脚が大きくすくわれるのを感じた。体は横倒しになり、枝の折れる音が、ひどくあざやかに男の耳にはいった。港湾のそれのような街の灯が、一枚の板のように大きく傾いた。男はいまやはっきりと自分の体が転落して行こうとしているのを感じた。
男は自分の体がゆるやかに、しかし、全く無抵抗な感じで、傾斜面をすべり出したのを知った。が、そうした感じは極く一瞬のことで、あとは落下という言葉がふさわしいすべり落ち方であった。男は何かに縋《すが》り付こうとして、手を振り廻した。手は何かに触れたが、それは徒労であった。街の灯が光の帯でも流れるように、いっせいに彼をめがけて突進して来た。男にはひどく長い時間のようにも、また反対にひどく短い時間のようにも思われた。何ものかが、それも彼にとって極めて大切なことが、幾つも幾つも、同時に男の脳裡《のうり》をつんざき横切った。
男の体は断崖の中途から横倒しになり、草つきの場が崖崩れのえぐり取ったような凹処《おうしよ》に変るところから、一個の物体のように断崖の斜面を離れた。
男の体は断崖の裾に落下すると、横倒しのまま二、三転し、石とコンクリートの欠片が積み上げられてある中へ、頭を突込むようにして、そこで停まった。
事件は一瞬にして起り、一瞬にして終った。それから一、二分の間断崖の斜面を、小さい石ころと砂粒がこぼれ落ちていたが、やがてそれも停まると、あたりの闇は事件の起る前の静けさを取り返した。
事件が起ってから十五分程して、先刻男が渡った橋を渡って、二人の若い男女が公園へはいって来た。二人は男の倒れている場所の近くで抱き合って接吻した。男の方は積極的だったが、女の方はいやいやといった恰好《かつこう》だった。それから二人の若い男女は、短い言葉で何か烈しく言い合い、女が足早に歩き出すと、男はそれを追った。二人の姿は、細長い公園の敷地のまん中ごろにある街路燈のところでいったん闇から浮き上がったが、すぐまた闇に吸い込まれた。
それからまた十分程してこんどは犬が一匹公園へはいって来た。犬は男の倒れているところとは反対の川岸に近いところで暫くうろうろしていたが、やがて若い男女が為《な》したように、この公園の正面の入口の方へと細長い敷地を突切って行った。
靄はこの頃から深く厚くなった。断崖の上の水銀燈の光は青さを失って、すっかり黄色になって靄に滲んだ。そして川の流れの音だけが靄の中で高くなった。もう誰も公園にはいって来る者はなかった。
一夜あけて一番最初に江戸川公園へはいって来たのは、牛乳配達の青年であった。彼はこの朝も、いつもと同じようにとっくり首のセーターを着て、牛乳|壜《びん》の詰め込んである袋を自転車の前部に振り分けに掛け、かちゃかちゃと壜の触れ合う音をさせながら、橋を渡って、公園の裏口からはいって来た。細長い公園の敷地を突切って、表口の方へ抜けるのが毎朝のことである。
青年は橋を渡りながら、川の流れの面から、白い水蒸気が立ち上がっているのを見た。寒い朝であった。川は流れが早いので臭気は立ちのぼらないが、もし流れがおそくて水がよどんでいたら、この附近一帯は臭気に悩まされるに違いない。それほど川の水は汚れている。芥箱《ごみばこ》でもぶちまけたような廃棄物が、ひと固塊になって、次から次へと押し流されて行く。幸い川床が低く、両岸をコンクリートの高い壁で畳んであるので、道路を歩いて行く人の眼には茶|褐《かつ》色に濁った流れの面ははいって来ない。
青年は橋を渡って公園へはいると、霜柱のある箇処を選ぶようにしてそこを車輪で踏み砕きながら行った。そして断崖の裾を伝わって行ったが、ある地点まで来ると、ぎょっとして自転車を停めた。人間が倒れている。
青年は自転車をその場に立てて、そこから離れると石の積み上げてあるところへ近付き、その向うに倒れている男の姿を覗き込んだ。男は俯《うつぶ》して両手を前に差し伸べている。外套を着ているので、裾が両方にひろがって鯣《するめ》のような恰好である。顔のところにコンクリートの大きな欠片が転っている。そのコンクリートの欠片は、この断崖を畳んであったものが崖崩れで崩れ落ちたものらしく、そんなものが公園の敷地のところどころに積み上げられてある。死んでいる、とすぐ青年は思った。青年はこわごわ石の山に右脚を載せ、上体を前にのめらせるようにして、倒れている男の顔を覗き込んだ。右の頬が血に染まっている。殺されていると青年は思った。コンクリートの欠片か石でぶん殴られたのであろう。
青年は身を起した。初めて戦慄《せんりつ》が彼を襲った。うわあっ! 青年は身を引いたが、視線は依然として、倒れている男の上から離れなかった。その時、青年は男の右腕がほんの少し動くのを感じた。眼の見間違いではなく、確かに動いたと思った。
こんどははっきりと、倒れている男は左手を動かした。牛乳配達の青年は男がまだ生きていることを知ると、すぐその場を離れようと思った。しかし、足が思うように動かなかった。死んでいると思った時より、生きていると思った時の方が無気味であり、怖かった。生きてる! 青年は低く噛みしめるように口の中で呟くと、自転車のところまで戻ったが、自転車には手をかけないで、そのまま彼がさっき渡った橋の方へ歩き出し、途中からふいにいま彼が目撃した事態の重大さに気付いたかのように駈け出した。
広場を突切り、橋を渡ると、川に沿った道を右手の方へ駈けた。そして丁度表戸を開けている仕舞屋《しもたや》風の家の前まで行くと、戸を開けていたそこの主人らしい中年の男に、
「人が死にかけてる!」
と、叩きつけるような言い方で言った。
「どこで?」
主人は訊き返した。
「公園だ」
「公園!? どれ」
主人は店から出たが、すぐ思い直して、
「ほんとだな」
「嘘なんか言うもんか。血まみれになって倒れている」
「よし」
主人は家へ駈け込んだ。青年は呆然《ぼうぜん》と、そこに立っていた。
「一一〇番へ知らせておいた」
主人はそう言いながら出て来ると、
「行ってみよう、どこだ?」
青年に案内を促《うなが》した。二人は駈け出した。橋を渡った時、二人のあとに、近所の家の内儀さんらしいもう一人の人物がついていた。三人は広場を横切り、牛乳屋の自転車が置いてあるところまで行くと、そこで立ち停まった。
「どこだ?」
主人が言うと、青年は、
「あそこだ」
男の倒れている方を手で示した。
「死んでるんじゃないか」
「さっき手を動かしてた」
青年はさっきしたように石の積み上げられてあるところへ近付くと、そこへ足を掛け、現場を覗き込むようにした。あとの二人も同じようにした。その時、倒れている男の右手がまた少し動いた。三人は同時に身を引いた。
パトロール・カーのけたたましいサイレンが朝の空気を震わして近付いて来た。パトロール・カーは、乗り上げるような恰好で橋を渡ると、すぐ三人が立っているところから二、三間隔っている地点へ来て停まった。
二人の警官は飛び降りると、二人共事務的な感じで大股に近付いて来た。帽子の下の顔は、二人とも若かった。一人は現場を覗き込むようにしていたが、すぐ、
「生きてるな」
と、独り言のようにつぶやくと、小石の積み上げられているところを跨《また》いで、倒れている男に近付いて行った。そして身を屈めて男の顔を覗き込んでいたが、
「救急車」
すぐ警官の口から、短い言葉が飛び出した。やはり倒れている男の方へ来ようとしているもう一人の警官は、同僚の言葉で、無線で救急車の手配を頼むために、すぐ乗りすててあるパトロール・カーの方へ戻って行った。
二、三人の男女が橋を渡って駈けて来た。その一人、一人に、
「俺が見付けたんだ」
と、牛乳配達の青年は説明した。
「殴られたのか」
一人が訊くと、
「殴られたんだろう。この辺は夜は真暗だからな」
青年は言った。二人の警官は見物人が現場に近付くことを禁じてから、二人で何か話し合っていたが、一人が、
「初め見付けたのは、あんたか」
と、主人風の男に訊いた。
「いや、この人です」
男は、牛乳配達の青年を指し示して答えた。
「じゃ、君、ここに残っていて下さい」
「僕がですか」
青年は二、三歩退いて、
「電話を掛けたのは、おっさんじゃないか」
と、男の方に言った。
「じゃ、あんたも残って」
警官が言うと、男は冗談じゃないといった顔をしてこれもまた二、三歩あとへ退《さ》がった。
救急車が来たのは、それから十分程してからだった。現場は人だかりが多くなっていた。救急車は橋を渡らないで橋の袂に停まった。救急車から降りた中年の男の命令で、二人の係員が倒れていた男の体を担架《たんか》で救急車の中へ運び込んだ。男は全く意識を回復していなかったが、死んではいなかった。救急車は漸く人通りの多くなりつつある川沿いの道を動き出した。
梅
佐沼乙也《さぬまおとや》は大学の研究室を出ると、くるまの往来の烈しい街路一つ隔てた向うにある、同じ大学の附属病院の建物の方へ歩いて行った。一日に一回、大抵午後の二時か三時頃であるが、病院へ出掛けて行って、病室の全部を廻ることになっている。
往来を横切り、病院の敷地へはいると、門の右手の方に梅の木が一本ある。御茶ノ水駅へはほんの二、三分で行けるところで、いわゆる都心地区に当り、こんなところにこのような木があるのも不思議だが、どうにか枯れもしないで、毎年貧弱な樹枝に何輪かの白い花をつける。
佐沼はこのところ毎日のように病院の門をくぐる度に、この梅の木のために、短い時間をさくことにしている。郷里は梅林で有名な紀州のT市から一里程のところにある村で、やはり梅の木が多い。佐沼が幼時を過した家も、前庭にも背戸にも梅樹があって、少し大|袈裟《げさ》な言い方をすると、家は梅の木に囲まれていると言っていい。梅の花の開く季節は、家の中にまで微かに梅の花の匂いが流れて来て、古い造りの暗い座敷は、そのために冷たく引きしまるような感じがする。
佐沼はなべて花というものには鈍感で、桜が咲いても花見に行こうなどという気は絶えて持ったことはないが、梅の花だけに対しては、多少他の人間より敏感なようである。梅の蕾《つぼみ》の、見えるか見えないかの小さいのを発見するのも楽しいし、それがまた極く少しずつ大きくなり、脹《ふく》らんで行くのを見るのも楽しみである。
佐沼は、一日中くるまの騒音の絶えない往来の方へ貧しい樹枝を伸ばしている梅の木の横に立つと、この二、三日急に大きくなっている蕾を見渡した。ここまでくれば、あと一週間程で、花を開くだろう。
佐沼はひと握り程の幹に手を当てて、その荒い樹肌を撫《な》でるようにした。幹はほこりが積って白っぽくなっている。本来なら、梅の木の幹というものはもっと黒っぽい色をした強い感じのものである。
佐沼はすぐ梅の木から離れた。郷里の梅はもうそろそろ花をつけ始めているだろう。東京の梅と、幾らか東京よりは暖かい紀州の梅との間には、十日程の開きがある。
佐沼は病院の表口の大きい硝子《ガラス》扉を押した。内部に病室があって、そこに病人が詰まっているので、まさしく病院には違いないが、ちょっと見ただけではこの六階の近代的な明るい建物は、大きな商事会社のビルと言っても通りそうである。入口も広く明るく、充分ゆとりがあって、病院臭いところは少しもない。白いユニホームの看護婦の姿がちらちらしない限り、病院の建物の内部へ足を踏み入れた感じは少しもない。
佐沼乙也は一階を占領している神経科の病棟へはいろうとして、その入口のところで足を停めた。横手の広い階段を降りて来る外科の岬浩一《みさきこういち》が、
「佐沼先生」
と、声をかけて来たからである。佐沼より少し年少の外科の講師で、まだ三十歳を少し出たばかりなのにもう中年肥りのような肥満が、そう大きくない彼の体を襲っている。外科の手術は器用だということだが、彼自身の体の手術となると脂肪が多くて、さぞ大変なことだろうと思う。
佐沼は岬浩一の近付いて来るのを待っていた。平生あまり親しく口をきいたことのない相手である。岬はやって来ると、長身の佐沼を見上げるようにして、
「今日一人受け取って戴けませんか」
いきなり用件を切り出して来た。佐沼は黙ったまま、相手が自分の言葉を補足するのを待っていた。
「三日前に、救急車で運び込まれて来た患者なんです。頭に裂傷があって出血していたので、五階の方へ廻されて来たんですが、傷の方はたいしたことはありません。それよりまだ意識を回復していず、いくらか神経の方に故障があるんじゃないかと思います」
「ほう。――頭の裂傷ってどうした傷です?」
「崖からすべり落ちて、石で頭をぶったのではないかと警察の方でも言っています。明らかに他人に殴打されてできた傷とは違います。何しろ本人がまだ意識を失ったままですから判りませんが、殺傷事件とは違うと思います。崖の下に倒れていたところを、通行人に発見され、警察の方からこっちへ廻されて来ました」
それだけ聞くと、佐沼は、
「結構です。私の方へ寄越《よこ》してください」
そう言った。そしてすぐそのことは頭から離して、
「近く結婚されるんだそうですね」
と言った。この若い講師についてのそんな噂を、最近聞いたからである。
「早いですね。まだ誰にも言ってないんですが」
「鋭敏なアンテナを張り廻《めぐ》らしてありますから」
それから、
「そのくらいでないと、神経科の医者にはなれませんよ」
佐沼はいかにも愉快そうに笑って、若い講師の傍から離れた。岬の結婚する相手は、同じ外科の看護婦だということである。二年程前から噂があったが、それがこんど実を結ぶわけである。
佐沼は医員記録室≠ニいう札のかかっているとっつきの部屋へはいって行くと、いつもこの部屋へはいって来た時そうするように、煙草を銜えて、整理棚の一隅からカルテを取り出し、それにざっと眼を通した。
佐沼は毎日一度はこの病棟へ顔を出すが、月曜と木曜以外は必ずしも来なければならぬというわけのものではなかった。月曜日は午後に新入患者の診断があり、前の一週間にはいった患者だけをまとめて診察し、診断を下し、治療方針を決めることになっている。木曜日は午後一時から若い医局員たちを伴って、病室全部の回診を行う。
月曜と木曜以外は、病人はすべて若い医局員たちに任せてあるので、神経科の病棟へ来ても、医員記録室へ顔を出し、カルテに眼を通し、あとは両側に病室を持った長い廊下を、ただ何となく歩くだけである。幾ら神経科の医者だといっても、必ずしもこの病棟の空気が好きだというわけではない。しかし、この病棟の持つ特殊な雰囲気の中には、この若い助教授の心を落着かせる何ものかがあることだけは確かのようである。
この神経科の病棟は、ほかの科の病棟にくらべると、ずっと静かである。病室の寝台の上に坐ったり、横たわったり、あるいはまた寝台から降りて窓際に立ったりしている患者たちの姿は、ちょっと見た限りでは、少しも正常人と異っていない。ただ違うところと言えば、お互いに話を交さないことだけである。それぞれ孤独な心を抱きしめて、自分だけと向き合っている。めったに他人と話をするということはないのである。そのため、他の病棟には決して感じられぬしんとした静けさが、病室にも、長い廊下にも立ち籠めている。
現在この病棟には三十六人の患者が収容されている。北側には医員記録室、看護記録室、処置室、検査室などと並んで、三つの個室があり、反対の南側には大部屋五つが並んでいる。大部屋五つのうち三つは男の患者の部屋であり、二つは女の患者の部屋である。
三十六人の患者のうち、半数はノイローゼである。残りは脳器質性障害、詰まり脳に傷のある病気を持った患者と、本当の精神病患者である。これらの患者たちを、十人の医局員が分担して受け持っている。三十六の孤独な精神を詰め込んだ病棟は常にひっそりしているが、医局員や看護婦たちはそれぞれに忙しい。他の病棟とは違って、常にこちらから患者たちの、決して自分では語らぬ心の内部へと、深く立ち入って行ってやらなければならぬし、他の病棟の患者たちとは違ったこまごました面倒もみてやらなければならぬ。
佐沼がカルテに眼を通していると、去年大学を出た若い医局員の高崎一夫がはいって来た。それでなくても元気のいい青年なのに、ハンカチで顔の汗をぬぐいながら、息を弾《はず》ませている。そのあとから顔を覗かせたのは、看護婦の米原《よねはら》みよ子である。この方も、北国生れの色白の顔を少し紅潮させている。
「いま、精神鑑定をするので警察から連れて来たのにイソミタールを注射しましたら、突然暴れ出しましてね」
高崎は立ったまま、佐沼に報告するような口調で言った。
「ほう」
佐沼は顔を若い医局員の方へ向けた。
「精神的な抑制がとれる前に、身体的な抑制がとれちゃったわけです。薬が、何でも思っていることを喋《しやべ》るという方には利かないで、逃げたいという行動的欲望の方に働いたんです。すっかり思惑《おもわく》違いでした」
「で、いまどこにいる?」
「ついて来た警官二人が両方から腕をとって、外科へ連れて行きました」
高崎は相変わらずハンカチで、顔の汗をふいていた。
「どこを怪我《けが》した?」
「何しろ硝子の扉の中へ、物凄い勢いでぶつかったんですから。――方々切って血だらけなんです」
「ほんとに大変でした」
米原みよ子も横から口を出した。よほど大変だったに違いない。しかし、こうした事件はそれほど珍しいことではない。二年程前にも、佐沼自身が同じような事件を経験していた。
佐沼は、隣りの看護婦の詰所の方へ、二つの部屋を通じている小さい窓から声をかけて、婦長の朝井圭子《あさいけいこ》を呼んだ。朝井圭子はすぐ小柄な体を運んで来た。
「外科から一人廻って来るそうです。個室の方を準備しておいて下さい」
佐沼が言うと、
「承知いたしました」
婦長は持前のはっきりした口調で言ってから、
「いまの、警察からの患者さんでしょうか」
と訊いた。
「いや、それとは違う。その方も戻って来たら個室に入れるんだね」
佐沼は言った。新しい患者だと知ると、
「どんな患者さんでしょう」
朝井圭子は訊いた。
「いまにカルテが廻って来ると思う。崖から落ちたとか何とか言っていた」
「ああ、二、三日前に救急車で運ばれて来た人ですね」
働くためにこの世に生れて来たと思われる程、いつも小柄な体を動かしている婦長は、この場合もすぐ出て行った。
外科の若い医局員が神経科の記録室へ姿を現わしたのは、それから三十分程してからであった。佐沼はまだ研究室へ戻らないでそこに居たので、外科から廻されて来る新しい患者を受け持つ高崎と一緒に、外科の医局員から連絡を聞いた。
「何しろまだ患者が意識を回復していませんので、現在人工栄養をやっています」
「昏睡《こんすい》状態ですか」
高崎が訊いた。
「ええ、昏睡状態です。昨夜あたりから神経的発作がありましてね。同室の患者の迷惑になりますので、こちらへお願いしたいというわけです」
「承知しました」
高崎は言った。どこの病棟からも、昂奮が起って手におえなくなった患者は必ずここに廻されて来るわけで、寄越す方では多少遠慮がちの言い方をするが、こちらは勿論それ程厄介には思っていない。医者としては、新しい患者に対して、いつも一応期待と言えるような前向きの心の動きがある。
「頭部に裂傷がありましてそれは縫合《ほうごう》しました。脳底骨折がないかと思いまして、一応レントゲンは撮《と》りましたが、何もないようです。これももう一度調べて戴きたいと思います」
「調べましょう」
高崎は言った。
「神経的発作と言いますと」
佐沼は初めて口を出した。
「ずっと反応がなくて昏睡が続いていたのですが、昨夜初めて急に起きようとしまして、何かわけの判らぬ脈絡のないことを口走ったり、大声で叫んだりしました」
「ほう、現在は?」
「いまのところは、朝からずっと眠っております。――すぐ運んで構いませんか」
「いいでしょう」
それから高崎に、
「支度できてるね」
と、佐沼は確かめた。外科の医局員が帰って行くと、佐沼は、婦長を呼んで、高崎と婦長の二人に、
「もう一度、すぐレントゲンを撮るんだね。それから脳を打っているんだから、寝台へ移す時、慎重にやって貰いたい。それからと」
佐沼はちょっと考えていたが、
「夜の間は落ちないように固定しておいた方がいいだろうね。腕や脚は怪我してないと言ってたね。それからやはり附添いが要《い》るだろう。家族の者は居るのかな」
佐沼は高崎の顔を見た。
「さあ」
「まあ、とにかくいずれにしても附添いは要るだろう」
そう二人に注意しておいて、研究室に戻るために、佐沼は立ち上がった。
翌日の午後、佐沼乙也は病院へ出掛けて、医員記録室で初めて、昨日外科から廻されて来た患者のカルテを取り上げた。その時その部屋には、医局員も、看護婦も、誰も姿を見せていなかった。もしその患者を受け持つことになっていた高崎がその場に居たら、佐沼は高崎の口から新しい患者について、その病状の大要を聞く筈であったが、高崎もどこかへ出ていて姿を見せていなかった。
佐沼は新しい患者のカルテを抜き出すと、それを手にして、窓際の椅子の一つに腰を降ろした。北側の部屋なので陽は当っていなかった。窓からはすぐ手の届きそうなところに往来が見え、その向うに見えている大学の大きな建物の側面に午後の弱い陽が赤く当っている。
佐沼は新しい患者のカルテに眼を当てる時の癖で、平生より多少強い感じの視線を、大型の紙片の上に落していた。氏名の欄には、患者の名前は書かれていなかった。氏名の欄が空白のまま残されていることは、患者が未だに昏睡状態を続けていて自分の氏名を医師に告げる状態にないことを示していた。それからもう一つ、患者はたとえ昏睡状態にあろうとも、彼に附添っている家族の者がいれば、その家族の者が当人に代って、その欄の空白を埋める筈であった。
だからまだこの欄が空白であるということは、そうした彼の氏名を彼に代って告げる、彼と親しい関係の人物が現われていないことを示している。その次の生年月日の欄も、本籍地、現住所、保護者住所氏名、それから職業の欄も同じ理由で尽《ことごと》く白いままで残されている。
患者について判っていることは、外科でこの患者を受持った医局員が書き付けた、彼の診察の結果である診断の記録と、それから、昨日この神経科に移されてからの受持医局員である高崎の書いたものと、都合二通のカルテしかない。
外科から廻って来たカルテには、
――江戸川公園にある崖の下で倒れていたのを発見され、救急車で当院に運ばれ、当第一外科に収容。発見当時は昏睡状態、頭部に裂傷があった。第一日、嘔吐《おうと》二回。収容後、同様の状態を続け、失禁状態。腰椎穿刺《ようついせんし》、X線検査(頭蓋《ずがい》)を行ったところでは、骨部には異状所見はない。三日目からやや反応があったが同時に精神運動的に落着きがなくなり、べッドから飛び降りようとしたり大声で呶鳴《どな》ったりするようになった。昼間は深く眠っているが、夜分落着きがなくなる。外科的処置としては、頭部の裂傷を縫合すること以外にない。他患者に迷惑をかけるおそれがあるので神経科に転科を依頼する。
なお外科での所見の中には、脳底骨折の時にできる髄液《ずいえき》もれや、鼻出血、耳出血などはないことが記されている。脳内圧迫現象もない。
佐沼は外科から廻ってきたカルテに眼を通し終ると、精神科へ来てからの高崎が書き込んだもう一枚のカルテの方を取り上げた。右肩の上がった高崎一流の癖のある字で書かれてある。高崎の字はどういうものか、彼のぬうぼう式の風格や性格とは違ったひどく神経質なものである。
――本日、外科より転入。岬先生より依頼、一一九号室にはいる。昨晩外科では、吠えるような声をあげたり、ベッドから落ちそうになったということであるが、当科に来た折には昏睡を続けて、無反応状態。
(午後三時)右頭頂部に小裂傷あるも、すでに縫合してある由、頭部全体|繃帯《ほうたい》で覆われている。右頬部にわずかの擦過傷《さつかしよう》、これはマーキュロ塗布で充分の由。現在ベッドに寝かされたまま無反応である。針で刺しても、声をかけても反応しない。眼瞼わずかに開き、うす目をあけているに近い。睫毛《しようもう》反射欠、角膜反射存。しばらく前、鼾《いびき》をかいていたという。現在昏睡状態。
夜になってから、落着かず体をもがき、時として言語の形態をなさぬ奇声をあげる。しかし周《まわ》りから呼んでも応じない。事故を防ぐため抑制帯使用。
昨夜来睡眠|倒錯《とうさく》が起ってきたことになる。あと数日は同質の状態が続く見込み。
佐沼はカルテの他の頁《ぺージ》をめくり、植物性機能、感覚機能、運動機能、反射機能等に関する細かい記述にもざっと眼を通した。
佐沼は診察日ではなかったが、この患者の部屋だけを覗いてみようかと思った。
看護婦の米原みよ子がはいって来た。彼女は黙って佐沼の方へ頭を下げた。
「どう、きのうはいって来た患者さんは?」
佐沼が訊くと、
「一一九号の方ですか」
米原みよ子が訊き返した。若い看護婦が口に出したように、問題の患者は一一九号室という、彼がいま横たわっている部屋の番号を、当分の間そのまま彼の名前として使う以外仕方がないようである。
「名刺も何も持っていなかったのかね」
「そうらしゅうございます」
「手帳ぐらい持っていたんじゃないか」
「それが、何もなかったようです」
「珍しいね。じゃ、家族の者も誰もまだ知らないんだね」
佐沼は言った。
患者の家族の者が現われないということは、とりも直さず患者は現在のところ、身許引受人を持っていないということである。病院としては、原則として身許引受人のない患者は入院させないことになっている。しかし、この場合、患者は救急車で運び込まれて来たのであるし、おまけにその後ずっと意識を回復していないので、異例ではあるが、このまま入院させておく以外仕方がない。
「名刺一枚持っていなかったのかね。自分の名刺でなくても、ひとの名刺でも」
佐沼は訊いた。
「ハンカチと紙幣《さつ》入れとライター以外何も持っていなかったそうです」
「洋服や外套にネームはなかったのかね」
「外套の方にだけイニシアルがはいっていたそうです。S・Yでしたか、D・Sでしたか、何かそんな――。調べて参りましょうか」
米原みよ子は言った。
「いや、いいよ。イニシアルだけ判っても始まらんからね」
それにしても、患者のポケットから、彼の身分、境遇を示すようなもの、あるいはそれを知る手がかりになるようなものが、全然出て来なかったということは、珍しい例と言わなければならない。
「昨夜はどうだった?」
「強直《きようちよく》発作が一回ありました。軽い昂奮は見られましたが、大体眠っておりました」
強直発作が一回あったということからは、脳挫傷を考えるべきであるかも知れない。
そこへ高崎がはいって来た。佐沼はすぐ若い医局員に言った。
「一一九号は、昼間はずっと眠っているんだね」
「眠っております。先刻行った時は、軽い鼾をかいていました」
それから繃帯交換、導尿、栄養ゾンデ等、自分が患者に対してとった処置を説明した。
佐沼が椅子から腰を上げると、
「ごらんになりますか」
そう言いながら、高崎は佐沼を案内するように先きに立って、廊下へ出た。
「葡萄糖《ぶどうとう》四〇CCを注射し止血剤を連用しました」
高崎は言った。佐沼は、それに対して黙って頷きながら一一九号室の扉を開けた。部屋の隅の寝台の上で患者は眠っていた。
頭部をすっかり白布で覆われているので、いかなる頭髪ののばし方をしているかは見当付かないが、唇をうすく開いて深い眠りに落ち込んでいる患者の顔は、多少佐沼には意外だった。どう見ても筋肉労働していた男の顔ではない。
患者の顔には、鼻下にも頬にも、顎にも髯《ひげ》がのびている。剃刀《かみそり》を当てると、ばりばり音をたてそうな固い髯である。しかし、顔の肌の青白いのは、彼がいま病んでいるためとばかりは言えない。眼鼻だちは整っていて、男性的な顔と言っていい。眼はつむられているので判らないが、見開いた場合は、その視線はかなり強い感じのものとなるだろう。
佐沼は、患者の体を覆っている毛布の中へ手を入れて、相手の手を首のところまで引き出してみた。爪の色や皮膚の艶を見るためではなかった。患者は佐沼が予想した通り、やわらかい掌《てのひら》をしており、固い物を握ったり、掴んだりしたことのない掌である。
「何の職業かな」
佐沼が言うと、
「さあ」
と、高崎は首をかしげたが、
「サラリーマンでしょう」
と言った。
「サラリーマンはサラリーマンだろうが」
佐沼が言うと、傍から米原みよ子が、
「サラリーマンにしても、かなり上の方の人ではないかと思います。昨夜、こらとか、おいとか、ずいぶん横柄な譫言《うわごと》を言っていました」
と言った。
「おいとか、こらとか言ったとしても、上役とは限らないよ。家へ帰れば、僕だって細君にはそう言うからね」
佐沼は笑いながら言った。佐沼は患者の手を出した序《つい》でに、事務的に手首の脈をしらべ、それから顔を、一、二回覗き込んでから、すぐその一一九号室を出た。
佐沼はいつも病室全部を何となく覗き込むことにしているが、この日は一一九号室を出ると、すぐ処置室へ行って手を洗い、そのまま記録室の前を素通りして、病院の玄関口の方へ歩いて行った。
佐沼は病院の建物を出たところで、ちょっと足を停めた。いま見て来た一一九号室の患者の顔が眼に浮かんで来た。あの顔は初対面の顔ではない、と佐沼は思った。確かにどこかで会ったことのある顔である。この思いは一一九号室で、患者の顔に眼を注いだ時、鳥影のようにちらっと佐沼の頭をよぎったものであったが、その時はすぐ佐沼はその思いを向うへ押し遣《や》った。
頭部を繃帯でぐるぐる巻きし、しかも髯をのばしてべッドに横たわっている患者の顔は、常時の彼のそれとは恐らくかなりひどく違っているに違いない。そうした患者の顔をひと目見て、この顔はどこかで会ったことのある顔だと思う方がよほどどうかしている。
しかし、佐沼は病院の建物を出たところで、もう一度さっき彼の脳裡をよぎって消えたこの思いに取り憑《つ》かれた。
佐沼は、確かに自分はあの人物とどこかで会っていると思った。どこで、いつ会ったか記憶していないが、会ったことは事実のようである。佐沼は一一九号室の患者の顔を思い浮かべながら、そこに立っていた。一体、いつどこで会ったのだろう。病院だけでも、毎日多数の人間に会っている佐沼としては、過去に会った夥《おびただ》しい数の人間の中から、一つの特定の顔を引張り出すことは容易なことではない。殆どそれは至難と言っていいことかも知れない。
佐沼はすぐ歩き出したが、しかし、過去の記憶の中から一つの顔を選び出す作業を棄てたわけではなかった。佐沼は病院の門を出ると、くるまの往来の烈しい街路を、注意して横切った。そして病院と向い合っている大学の敷地に足を踏み入れると、すぐ歩調をゆるめて、一歩一歩ゆっくりと足を運んだ。
毎日彼の視野の中にはいり、ひと言ふた言言葉を交しただけで、すぐ視野の中から消え去って行く謂《い》わば行きずりとでも言うべき人たちの顔の一つであろう筈はなかった。何らかの意味で、もっと密接な関係を持った人の顔であるに違いない。しかも、遠い昔に会った顔ではない。自分は比較的近い過去に於て、あの人物とどこかで顔を合せ、何らかの関係を持って、あの顔を記憶の形に於て脳裡に刻みつけた筈である。それならそれはいつのことで、いかなる場所に於てであったろうか。
佐沼は、自分の研究室のある建物の方へとゆっくり歩いて行き、建物の前まで行くと、そこへははいらずにまた引き返した。あの患者は眼をつむっていた。眼をつむっている顔に見覚えがあるということは、どういうことであろうか。眼は人間の表情を形づくる重大な要素である。眼が鋭いとか、眼付に特徴があるとか、眼というものはいつも相手の印象を形成する上に決定的な役割をするものである。しかし、いまの場合、あの人物の眼はつむられておりその眼をつむった顔に、自分はある記憶を持っているのである。
もしかしたら、自分はあの人物が眠ってでもいる時、――こう思った時、佐沼はふいに足を停めた。そうだ、あの時の、あの人間の顔だ。
佐沼の心から急に緊張が解かれた。佐沼は解放された思いで、改めて自分の上に降り注いでいる弱い陽射しに眼を遣った。陽射しは弱かったが、この二、三日中で、今日が一番寒さは薄らいでいる。
「なんだ、あの時のあの人間の顔か」
佐沼は自分が漸くにして確かめ得たことを、もう一度復習するように、思わず口の中で低く呟いた。
佐沼が思い出したのは、二年程前に、佐沼が東京から大阪へ向う飛行機の中で見た一人の男の寝顔であった。佐沼は、その時ある新聞社から講演を依頼されて、その飛行機に乗っていたのであるが、同行の若い新聞社員が、通路を隔てた向う側の窓際の座席に腰掛けていたので、その青年と話をするために、二、三回通路に立ったことがあった。その時、その青年の隣りに、椅子をうしろに倒して眠っている人物があった。佐沼は、窓際の同行者と話をする時、その眠っている人物の顔を自然に上から見降ろすような形になった。
しかし、ただそれだけのことなら、この人物の寝顔が特に佐沼の記憶に残るようなことはなかったに違いない。その時、飛行機の中で眼をつむっている客は、そのほかにも何人も居たが、いずれもただ軽く眼を閉じているといったひそやかなものを、その姿態に持っていた。ところが佐沼と通路を隔てて、その向う側で眠っている人物は、大きな体を、倒せるだけ倒した椅子の上に横たえ、腕組みをし、傲然《ごうぜん》とした姿態で、本当に寝息をたててぐっすり眠り込んでいたのである。
佐沼は飛行機に乗ったのはこの時が初めてであった。そのために、何となくいま自分は飛行機に乗っているのだという不安な思いに取り憑かれていたのであるが、そうした佐沼に反して、その人物の眠り方は見事でもあり、佐沼には小憎らしいものでもあった。佐沼は、そうした通路一つ隔てた隣人に初めから何となく圧迫を感じていた。そんなわけで、佐沼は若い同行者と話をするために通路に立った時も、多少意識して、その人物の寝顔を上から覗き込んだに違いなかった。
佐沼は自分の座席に坐っている時も、時折、その隣人の方に視線を投げた。男は途中から大きな体を窮屈そうに横にし、顔を通路の方へ向けて眠った。そのために佐沼はその方へ視線を投げると、いつもぐっすりと眠り込んでいる男の寝顔を、正面から自分の視野の中に入れることができた。男は時々、腕を伸ばすようにして、大きな欠伸《あくび》をした。しかし、そのような仕種はしても、決して眠りを中断することはなかった。いつも口から寝息を洩らしていた。勿論、爆音のためにその寝息を実際に耳にすることはできなかったが、しかし、そんな感じの眠り方であった。
この不敵で不作法な乗客の顔を、佐沼がいまも記憶しているのは、しかし、ただこれだけのことのためではなかった。
佐沼がその男にそれとなく眼を当てている時、三十歳ぐらいの若い女性が後方からやって来て、黙って男の体を揺すぶると、紙片様のものを男の手に握らせ、そのまま前の洗面所の方へ歩いて行った。
佐沼はおやと思った。女がひと言も声をかけなかったことも不自然であったし、男の手に紙片を握らせた仕種も、周囲の者に気付かれぬような、そんな秘密の匂いのするものであった。
男は眼を覚ますと、この方は面倒臭そうに紙片に眼を当てたが、それをまるめて座席の下に棄てると、あとはまた眼をつむった。間もなく女は洗面所から帰って来たが、男の席には眼もくれず、後部の自分の席の方へ戻って行った。
佐沼がその男に特殊な関心を持ったのは、機内でこのようなことがあったからである。その男と若い女性とがいかなる関係を持っているか、全くこれだけのことを眼にしただけでは想像すらできなかったが、佐沼は、これが小説か映画か何かの中のひとこまであるかのような感じを受けた。
機が大阪の空港へ着いた時、佐沼はその男のあとからタラップを降りた。さっきの女はどうしたのかと注意してみると、飛行機から降りた一団の先頭の方を、恰《あたか》も一人の連れもないかのように、自分一人でさっさと歩いて行った。小型の青い旅行|鞄《かばん》が、佐沼の眼に沁《し》みた。待合室へはいってからは佐沼はすぐ出迎えの新聞社のくるまに乗り込み、従ってその男と女がいかなる行動をとったか、それを見届ける余裕はなかった。
佐沼はこうしたことのために、その男のことを深く印象づけられていた。全くの飛行機中だけの、しかもひと言の話も交さない隣人に過ぎなかったが、いまもその機中に於けるその男の態度や、風貌や、その眠っている顔は、消えないで、彼の網膜に残っていた。
佐沼は一一九号室の患者が、その曾《かつ》て会った機中の男に違いないと思った。その男の意識が回復すれば、万事は判明するわけであったが、それまでは彼の考えが当っているかどうかは、一応おあずけにしておかねばならぬ問題であった。佐沼は、身許引受人すらない一人の患者について、自分だけが小さい知識を持っていることがおかしかった。
佐沼は自分が患者の顔を過去の記憶から引き出したことが満足だった。一つのことが気になり出すと、それを解決するまでそのことを頭から放逐することができないのが、佐沼乙也の性癖であった。佐沼は、こんどは研究室へはいるために、大学の建物の方へ大股に歩いて行った。
翌日は回診日に当っていたので、佐沼は一一九号室の患者を初めて診察した。体温三六・八度、呼吸一八、脈搏七二、血圧一三二―八二。瞳孔は入院時と同様極度に縮小しており、眼を開けておくと、眼球がゆっくり左右に振れる運動を繰り返している。原始反射は出ない。ゆうべの当直医局員の話に依ると、真夜中に大声で人の名らしいものを呼んでいたという。
「今晩も同様なことがあるようなら、睡眠剤を注射しておいた方がいいだろう」
佐沼は高崎に言った。昼間の睡眠状態は昨日に較べると、少し浅くなったということである。明日頭蓋のX線撮影をすることと、明後日あたり脳波を見ることにする。
「意識を回復するのにまだ一日二日かかるかも知れませんね」
高崎は言ったが、
「さあ、もしかすると、もう少しかかるんじゃないかね」
佐沼は言った。この状態では三日か四日はかかりそうである。
「意識を回復しても、記憶の障害があるんじゃないでしょうか」
高崎は言った。
「そうだね」
佐沼は曖昧に言ったが、多少の記憶障害は当然予想されることである。しかし、たいしたことはないだろう。
佐沼は診察しながら、患者の意識を失った顔を見守って、やはりこの男に違いないと思った。彼の記憶の中の男の表情は、ある太々《ふてぶて》しさと、傲然たるものと、ひどく野放図なものを持っていたが、いま意識を失っている者の顔は、凡《およ》そそれとはかけ離れたものであった。大切なものを失っている愚鈍な表情である。それがいかなる性質のものであるにせよ、青い鞄を持った若く美しい女性と何らかの関係を持っている男の顔ではない。
「家族の者が心配してるでしょうね」
高崎が言った。
「家族の者以外にも、心配している者があるかも知れないよ」
佐沼は笑いながら言った。
「どうしてです」
すぐ高崎は訊き返して来たが、佐沼はそれには答えなかった。佐沼は自分の心が、他の患者たちより、この一一九号室の患者により大きい関心を持っていることに気付いていた。いま自分の前で意識を失って昏々《こんこん》と寝台の上で眠っている一人の人間の死んだ表情が、やがて正常なものに返り、そしてあの太々しいものをつけるようになるであろう。それを第三者として見ていることは、多少他の患者の場合と異った興味があった。
[#ここから2字下げ]
四日目のカルテ(高崎医師記す)
昨晩、睡眠剤注射、おだやかに眠る。今朝|吸呑《すいのみ》で水を与えると、少量ずつ飲み込む。吸っていてあと口の中にふくんで溜めていることもある。そのような時揺すってみるが、飲み込まず、勿論言葉で呼びかけてみても通じない。
枕に頭をつけたまま、頭を左右にゆっくり振っていることあり、また眼を開けたままじっとしていることあり、別段何も注目しているわけではない。呆然として無感情の状態である。こうした場合、声をかけてみると、頭を少しその方に向ける。僅かの間、注目したような眼球の位置をとるが、はっきりしない。
時に、かけている毛布のへりを指でまさぐることあり(まさぐり現象)。
以上の諸現象をみると、これは覚醒状態であるが、原始的な下部構造の機能がでているように判断される。
吸引反射、把握反射(│)、
X線頭蓋単純撮影、前後左右各一枚。
× × ×
五日目のカルテ(高崎医師記す)
(午前十時)昨日より意識の混濁《こんだく》の度が浅くなってきた様子。両眼を少し開いて、呆然としている時間が多くなる。この場合、声をかけると、声の方へ眼球をまわす。明らかに注視している模様である。しかし、少し経つと何も見ていない呆然としたもとの状態に戻る。
まだ主観的精神現象の検査はできない。
脳波検査、記録はあとで係の金田先生からまとめて貰うこと。
(午後三時)看護婦の話によると、昼の食事の時、流動物を摂取したという。これは意識を要しない食物の摂取反射によるものか、あるいは目的をはっきり持った摂食行動なのか、判明しない。
(午後五時)空腹時に吸引反射、開口反射の有無を見るが、これらは原始反射ではない。このあと流動食を与えたところ、噛んでから、そのあとで飲み込んだ。キニーネ溶液を一滴たらしてみると、顔をしかめ、いかにも苦そうな表情をとる。
このような現象から見ると、目的的行動があらわれて来たと考えられる。
[#ここで字下げ終わり]
佐沼は五日目のカルテを読んだあと、一一九号室の患者が意識を取り戻すのはおそらく明日ぐらいであろうと思った。明日、自分がここへ来たら、六日目のカルテを読むことができるわけであるが、それには一人の人間が意識を取り戻しつつある状態が記されている筈である。
佐沼は、できたら明日、自分で患者の脳の内部の暗い洞窟へ少しずつ光が射し込んで行く状態を診《み》てみたいと思った。
その日、詰まり一一九号室の患者が神経科に移ってから六日目に当る日であるが、佐沼は、十一時に研究室を出て病院へ向った。例に依って病院の敷地へはいると、門の右手にある梅の木の方へ歩いて行った。
この二、三日、陽気もすっかり春めいて来ているが、梅の蕾も目立って大きくなっている。もう固い小さな固まりではなく、その粒もそれぞれどことなくふっくらした柔かい感じを持っている。
佐沼は枝々に群るようにしてついている小さい蕾を眼で追って行った。そうしている時、佐沼は思いがけず、右手の小さい枝に一輪の花が小さい花弁をひろげているのを見た。なんだ、咲いていたのか。佐沼はその開花第一号とでも言うべき花にじっと視線を当てていた。開花のさきがけを承ったその花はいかにもけなげな感じで、花弁を開けるだけ開いているところは切ない美しさだった。
佐沼はその花のところへ顔を持って行って、匂いを嗅《か》いでみたかったが、大勢の通行人が往来している舗道が、つい眼と鼻の先きのところにあるので、そうした仕種の持つ女性的なものがためらわれた。佐沼は暫くそこに立っていた。花の匂いは嗅ぐことはできなかったが、しかし、郷里の梅林の中に立ち籠めているのと同じ空気が、久しぶりで佐沼の体を取り巻いていた。
もし梅に心があったら、梅は散る時より、恐らく花を開く時の方が悲しいであろう。こうした気持は中学時代の佐沼の感傷を揺すぶったものであったが、しかし、こうした梅に対する感じ方は、それが初めて訪れた中学生時代から、ずっと今日まで、少しも変ることなく、佐沼の心の中に仕舞われてあった。
高崎がやって来た。彼は門の方へ向って歩いていたが、途中で佐沼の姿を見掛けて、方向を変えて近寄って来た。
「佐沼先生」
高崎は声をかけて来た。
「君、梅が咲いたよ」
「ほう」
高崎は妙なことに感心しているものだといった顔で、
「いま頃咲くんですか」
「敵《かな》わんな」
「もう何年も梅の花なんて見たことありませんよ」
高崎はそれから佐沼の指さしているところへ眼を持って行った。しかし、それにはさして心は奪われぬらしく、
「いま、研究室の方へ伺おうと思っていたんです。例の患者なんですがね」
と、自分の要件の方を口に出した。
「さっき初めて声を出しました」
高崎は言った。
「ほう」
佐沼は初めて若い医局員の方へ顔を向けて、相手の口から出る次の言葉を待った。
「皮膚感覚検査の時、針で前膊《ぜんぱく》を軽くつついてみたんですが、顔を顰《しか》めてイタ!≠ニいう言葉を口から出しました。最初の言葉です。それから片っぽうの手で払いのけようとしましてね。もう一回ついてみましたら、こんどは言葉は出しませんでしたが、体を横にねじって逃げようとしました」
「ほう」
佐沼は、高崎の持っているカルテの方へ、黙って手を差し出した。そしてそれを受け取ると、立ったまま、ばらばらと頁をくった。
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――昨夜は眠剤なしで、おだやかに眠る。今朝の食事は半流動食。
――瞳孔。左右等大、正円形、やや拡大、対光反応迅速充分。顔面|麻痺《まひ》なし。
――四肢。可動性は正常、反射正常。おそらく麻痺はないものと推量される。
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そんなことが記されている。佐沼はカルテから眼を離すと、
「もうすぐ意識を回復するだろう」
と言った。
「そう思います」
「逆行健忘が起るだろうが、どのくらい遡《さかのぼ》るかな。この前の学生の時は何日だったね」
「たしか五日でした」
「こんどもそんなものじゃないかな」
佐沼は言った。意識を回復すると、この種の患者の辿《たど》る経過は大体一致している。無関心、記銘減退、見当識喪失、好機嫌といったところが、初めの間の典型的な型である。そして逆行健忘が起る。何日間かのことを全部忘れてしまっている。一日二日のこともあれば、四、五日にわたって忘れていることもある。
この前、佐沼はこんどの一一九号室の患者と同じように、頭部に打撲傷を負って、何日か意識を失っていた学生の患者を取り扱ったことがある。その場合は意識回復後、彼が四、五日間のことを全く忘れていることを発見した。こんどもそれと同様なことが起るものと考えられる。
「脳震盪《のうしんとう》にしては、症状が重かったようだね」
佐沼が言うと、
「脳震盪と言うより脳挫傷と見てよくないでしょうか。第一日目に痙攣《けいれん》発作などのあったことを考えますと」
「そう」
佐沼は言った。二人は連れ立って病院の建物の方へ歩き出した。佐沼はとにかく、自分で診てみようと思った。
佐沼は高崎と一緒に一一九号室へ行ったが、患者は眠っていた。意識を回復する前の、静かな、しかし、深い眠りに落ち込んでいる。梅の花の固い蕾が次第にやわらかさを増し、見えるか見えないかぐらいずつ大きくなって行くように、この患者の意識の蕾も、いまやわらかい花弁を徐々に擡《もた》げようとしている。
暫く佐沼は患者の寝顔を見守っていた。意識を失っている患者は、単に呼吸している一個の物体であるに過ぎない。この大柄の中年男の頭の暗い洞窟《どうくつ》の中には、一体何が詰まっているというのであろうか。患者自身も知らないし、佐沼も、高崎も、看護婦も知らない。佐沼はそのまま病室を出た。
その夜、佐沼は大学時代の親しい友人と一緒に、西銀座の小さい料亭で夕食を摂《と》ったが、食事をしている間、時折、一一九号室の患者のことが頭を掠《かす》めた。
料亭を出て、その店の前で友人と別れた時は八時半であった。佐沼はふとこれから病院へ立ち寄ってみようかという気になった。めったに夜おそく病院へ立ち寄るなどということはなかったが、一一九号室の患者のことを思い出すと、今夜あたり、彼の意識の蕾も徐々にやわらかい花弁を擡げ、ぽっかりと小さい花を咲かすのではないかと思われた。
長いこと閉じられていた暗い洞窟には、ひとすじの細い外光が射し込む。その光の矢はたゆたうように暗い洞窟の内部をまさぐり、やがて次第に自らの幅を増して行く。光は洞窟の奥深いところを這い廻り、やがてあるところで停止する。暗い洞窟は殆ど明るくなっている。殆どと言ったが、まだ光の届かぬ暗い凹処が残っているからである。
佐沼は新橋駅まで歩いて行き、そこで病院行きを決心すると、タクシーを拾った。
病院の玄関口でくるまから降りた時は九時であった。記録室では当直の医局員の根上《ねがみ》が、机に向って、何かノートしていた。
「御苦労さん」
佐沼が言いながらはいって行くと、根上が驚いて立ち上がった。
「どうなさったんですか」
「友人と飯を食ってね。その帰りだが、ちょっと立ち寄ってみた」
丁度そこへ、看護婦の笠松《かさまつ》みえ子が姿を見せた。
「一一九号室はどうだね」
根上にとも、笠松みえ子にともなく、佐沼が言うと、
「これから見廻ろうかと思っております」
若い看護婦は言った。佐沼は看護婦のあとから記録室を出た。根上も佐沼のあとに従った。夜の病院の内部はひっそりとしていて、靴音がいやに高く聞える。
病室は暗かった。天井の電燈は減光してあり、窓には黒いカーテンが引かれてあった。笠松みえ子は先きに病室にはいると、すぐスイッチの音をたてて、部屋を明るくした。
患者はベッドに横たわったまま眼を閉じていた。笠松みえ子は枕許に近寄ると、患者が軽く胸の上に組んでいる一方の腕をとって、脈を取ろうとした。その瞬間、患者の両眼が開かれるのを佐沼は見た。
突然患者の口から言葉が洩れた。
「なにしてるの?」
これが一一九号室の患者の言葉らしい最初の言葉であった。笠松みえ子ははっとしたように顔を佐沼の方へ向けた。当直医の根上も思わず患者の顔を覗き込むように体を折り曲げた。
「検温ですよ。気が付きましたね」
笠松みえ子が言うと、
「ケンオン? ケンオン?」
患者は無表情のまま繰り返した。
「ここがどこだか判りますか」
こんどは佐沼が言葉をかけた。すると、こんども患者の無表情の顔の中で口だけが動いた。
「ここ? ここ?」
前と同じように短い言葉が二回繰り返された。佐沼は次の瞬間、いままで無表情であった患者の顔が、突然何ものかに依って揺すぶられたのを感じた。患者は顔を少し動かして周囲を見廻すようにした。佐沼は患者の顔がいまやはっきりと表情というものを持ったのを知った。佐沼はそうした患者の顔をある感動をもって見守っていた。患者は明らかに何ものをも理解していない。訝しさがそのまま、極く自然に顔全体を埋めている。幼児しかこのような純一な表情をとることはできないだろう。
「ここは病室ですよ、お寝《やす》みなさい」
佐沼は言った。しかし、間もなく患者の顔は、再び無表情なものに返った。両眼を見開いたまま呆然としている。佐沼はすぐ根上と看護婦の方へ、眼でこの部屋を出ようということを合図した。患者に不必要な刺戟を与えることを避けたかったからである。
「枕元のスポットライトだけ、弱い方を点けておいた方がいいだろう」
佐沼は看護婦に注意して、最後にもう一度その患者に視線を当て、そして静かにその部屋を出た。
記録室に戻ると、佐沼は、
「余り遅くならないうちに、もう一度見廻ってみてくれないか」
そう根上に言った。佐沼は病院を出ると、ほっとした思いで夜気を深く吸い込んだ。
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翌日、佐沼は、研究室へ出ると、直ぐ病院へ出掛けた。十時の講義までに少しの時間があったので、その間に一一九号室の患者がどのような状態にあるか知っておきたかった。
病院へ行き、記録室へはいると、すぐカルテを取り出してそれに眼を当てた。午後九時半に根上が病室を見廻った時の記録である。九時半というから、昨夜佐沼が診た時より三十分程あとのことである。
――仰向けに寝たまま、顔面無表情。開眼。呆然たる表情である。どうですかと訊ねると無言。気が付きましたかと訊ねると、振り向いて、貴方は誰ですかと訊ね返して来た。わたしが誰か判りますか、と再度質問すると、こんどは判りますと答えたが、そのまま呆然としている。ここは病院だと教えると、病院? そんなことはないと烈しく否定する。
再度判りますかと訊ねると、頗《すこぶ》る困惑の表情で、また、病院!? 病院!? と繰り返して言って、判らない、一体どうしたんだろうと言う。困惑と訝しさの入り混じった表情。やがてまた呆然たる顔に返る。
暫く何も質問せず放置しておく。そのままぽかんとしている。強い無関心、完全な失見当識。三十分程、そのままにしておく。やがて軽い寝息をたてて眠り始める。
高崎先生へ――明日、意識状態の検査をよろしくお願いします。
[#ここで字下げ終わり]
佐沼はカルテを読み終ると、すぐ看護婦を一人連れて病室を覗いた。患者は眠っていた。佐沼はそのまま病室へははいらず、廊下へ出たが、そこで高崎とばったり顔を合わせた。
「ゆうべお出でになったそうですね」
高崎が言うと、
「丁度いいところへ来てね」
それから、
「どう?」
と、佐沼はいま自分がのぞいた一一九号室の方を眼で示した。
「今朝から意識には変化のない状態です。いまごらんになりましたか」
「眠っているから、そのままにしておいた。あとでもう一度来よう」
「何時頃ですか」
「二時頃かな」
「じゃお待ちしています」
高崎はそれから右頭頂部の裂傷部の縫合の結果は順調なので、今日抜糸するということを付け加えた。
「神経学的症状は何もありません。痙攣が数回あったにしては、あとに残る神経症状がないことは、非常に珍しいと思います」
「その方は幸運だったね」
佐沼は言った。しかし、精神的方面には相当の欠陥があることは明らかである。
その日二時に佐沼は病院へ出掛けて行った。本格的に意識を回復した一一九号室の患者の精神症状の診察を行うためであった。佐沼は高崎のほかにもう一人の医局員を連れ、看護婦は婦長の朝井圭子だけを伴った。余り大勢で行くと、患者が疲れるおそれがあった。
患者は眼を開いて、べッドに横たわっていた。佐沼は患者の傍に立つと、先ず見当識喪失の度合を調べることにした。詰まり、場所とか時とかの定位力がいかに失われているかを知らなければならない。
「ここはどこ」
佐沼は低い声で、努めて優しい態度で患者に最初の言葉をかけた。すると、昨夜とは違って、患者はすぐ敏感に反応して来た。佐沼は相手が自分の眼を見入るようにしているのを、逆に見守っていた。すると、患者は口を動かした。
「判りません。どうしてこういうところに居るのでしょう」
「判らない?」
「判りません。教えて下さい」
「ここは病院です」
「どうも病院のようですね。私には何が何だか、いっこうに判らん」
患者は言った。患者の声は低音だが、これは生れ付きのものであるに違いない。その言い方も素直な感じである。教養から来る素直さと見ていいかも知れない。次に佐沼は、
「いま何時頃ですか」
と、第二の質問を発した。すると相手の表情はすぐ動いた。今度ははっきりと、一つのことを考えている表情である。
「おひる頃ですか」
患者は口を開いたが、その自分の返事に自信がないらしく、すぐ、
「もう夕方かな」
と、追いかけるように言った。そして更に続けて言った。
「そうです。夕食をさっき食べました」
しかし、その夕食を食べたということには自信がなさそうである。
「夕食を食べましたか」
佐沼は念を押すように訊いてみた。
「ええ」
相手は頷いた。
「何を食べましたか」
「なんでしたかね。たしか何かさかながついていたと思います。そうじゃないですか」
それには返事をしないで、佐沼は、
「それから?」
と、相手を促した。
「漬物」
患者は答えた。
夕食を食べ、しかもその夕食にさかなや漬物を食べたと言うのは、明らかにそこに作話傾向を認めなければならぬ。意識を回復したばかりの患者の多くに認められる現象である。意識は回復したといっても、まだ患者の頭の中は混沌《こんとん》としている。自分が口から出すことに、少しの自信も持っていない。質問者に答えるというより、自分自身に対して、辻褄《つじつま》を合わせたい気持の動きの方が強いのだ。
「さかなは煮ざかなでしたか」
佐沼は重ねて訊ねてみた。すると、患者は佐沼の質問に多少自信を回復した面持ちで、
「そうです。鯵《あじ》でした。二匹ついていました」
そうはっきり答えた。佐沼は質問の方向を変えることにした。患者に、彼の言っていることは全部間違いであることを指摘することは避けた。患者はミルクしか飲んでいないのだ。
一杯のミルクが、二匹の鯵と幾片かの漬物に化けた滑稽さを、相手に思い知らせることを急ぐ必要はなかった。これから何日か当分の間、この患者は、滑稽な戸惑いの中に生きなければならぬのである。
佐沼は患者の誤りの指摘を、刺戟の少い穏やかな方法でやった。
「本当はまだ午後二時ですよ。ね、そうでしょう」
佐沼は自分の腕時計を相手に示した。患者はそれを見詰めていたが、
「ほんとですね。二時ですね」
と、現在が二時であることを素直に認めてから、
「そうでした。少し前にひる御飯を食べたばかりでしたね。すっかり思い違いをしました」
しかし、この答にも勿論誤りはある。昼食などは食べていないのである。
佐沼はここで、患者の氏名と職業を質問しようと思ったが、この最も重大な質問を少し先きに押しやった。記銘力の減退の程度がどのようなものであるか、一応探っておこうと思った。患者がどのくらいものを忘れているか、健忘の程度を知っておく必要がある。
「ところで貴方はどうしてここへ来たのですか」
佐沼は訊いた。患者のどんよりした表情の動きのない顔にも、はっきりとそれと判る困惑の色が見受けられた。患者はいま深夜の暗い海から、何ものかを引張り出さなければならないのである。海は暗く、ただ深いだけである。患者はしばらく黙っていた。底知れぬ暗い大海原を、患者はいま手で探ろうとしている。
「どうしてここへ来ました」
佐沼は相手の答を促した。すると、相手は質問者の方へ顔を向け、少し弱々しい口調で、
「いや、別に、なんのためというわけではないんです。ここへ来たというのは――」
それから相手は真剣なものを、その顔に走らせた。深夜の暗い海から何ものかを探り出そうとする無力な作業が、必死に行われているのであるが、やがて、患者は少し顔を動かすと、
「だが、どうしてここに居るのかな。どうして僕は、いまここに居るんでしょう」
と言った。こんどは素直な疑惑が彼を捉えている。
佐沼はこれ以上この問題で相手を苦しめることをやめた。この故《ゆえ》なくして罪に問われている男は、まだまだこれから佐沼のあらゆる質問に苦しまなければならぬからである。
「貴方は救急車で、この病院へ運ばれて来たんですよ」
佐沼は言った。相手に教えてやるという気持ちはなかった。教えてやっても、そうかと思うのはその時だけのことで、すぐわすれてしまい、忽《たちまち》にして無関心になってしまうだろう。
「ところで、いま何時頃ですか」
佐沼はもう一度訊き直してみた。
「いま、今ですか」
患者は語を切ってから、
「いまは夕方頃でしょうか」
と言った。
「食事は」
「もう少し前に夕食をすませました」
強い健忘である。二、三分前に佐沼に時計を見せて貰ったことも、夕食について訂正されたことも、すべてもう忘れてしまっているのである。
佐沼は患者から眼を離し、高崎の方へ顔を向けた。
「意識が戻って二日目だからね」
佐沼が言うと、佐沼と患者との問答をノートしていた高崎は、
「そうですね。まあ、こういうところでしょう」
と言った。この状態が当然であるという意味である。
これから日一日、薄紙を剥《は》いで行くように、この患者の頭の状態は変って行くだろうが、しかし、この二、三日はこの状態が統くものと思わねばならぬ。患者は少しも退屈しない筈である。ひとりの時はベッドに横になって、ぼんやりしているのだ。恐らく質問されない限り、彼はただ呼吸している物体にすぎない。頭に繃帯していても、何のために繃帯しているかということには無関心なのである。質問されると、初めて我に返り、問われたことに当惑し、その当惑を消すために、でたらめな返事をするだろう。いわゆる当惑作話というやつである。
佐沼は、さっき先きに延ばしておいた最も重要な質問を、極く無造作な態度で行うことにした。
「名前は?」
佐沼は低い声で静かに訊いた。顔は患者の方へ向けていなかった。高崎が手帳に短い鉛筆を走らせているその手許に、何となく視線を当てていた。
「やましろだいごです」
患者はすぐ答えた。
「やましろだいご?」
佐沼が訊き返すと、
「やまは山川の山、しろは代理店の代、だいごのだいは大きい、ごは五つ」
「山代大五、――なるほどね」
おそらくこれは正しい答に違いない。ほかのことに関しての記憶は甚だ怪しいが、名前の場合は、まず間違いのないのが通例である。
「職業は?」
「新聞記者です」
「なんという新聞社?」
「第三日報です」
「東京の新聞社ですね」
「いや、大阪です。大阪にある新聞社です」
「なるほど」
佐沼はここで再び高崎の方へ眼を当てた。彼がノートしているかどうかを確かめるためだった。患者が答えたこの職業もおそらく間違っていない筈である。いままでどこの誰とも判らず、一一九号室という病室の名前で呼ばれていた患者は、これから以後山代大五≠ニいう、彼が生まれた時、親に付けて貰った名前に依って呼ばれる筈である。しかも彼の職業が新聞記者であるということが判明したことは、彼という人間を掴む上に、大きい一本の支柱が立てられたことになる。
「生年月日は?」
「大正十四年三月三日」
佐沼はここで相手の顔に眼を当てた。大正十四年生れというと、三十六歳である。三十六歳にしては、ずいぶん老《ふ》けていると思う。四十二、三歳と言っても通るだろう。
「住所は?」
「大阪府T市S町五十六番地」
患者はよどみなく答えた。おそらくこれも、間違っていないだろう。佐沼は、ここで質問を、もう一度相手の年齢へ持って行った。
「大正十四年生れと言いましたね」
「そうです」
「すると幾つです」
「三十三でしょうか。三十二かな」
この時初めて、患者の表情には、自信のないところから来る弱々しい含羞《はにかみ》のようなものが走った。
佐沼は相手に考える余裕を与えて、もう一度同じ質問を繰り返した。
「幾つです」
「三十二でしょうか。三十三かも知れないな」
佐沼はおやと思った。こんどは前の答とは異って、三十二と三十三がその位置を交替している。生年月日の方ははっきり答えておきながら、それを年齢に置きかえるとなると、まるで滅茶苦茶である。
「今日は幾日?」
佐沼は改めて訊いてみた。山代大五は少し表情を固くして、
「幾日!?」
と、佐沼が口から出した言葉を、自分も繰り返してから、
「さあ」
と言った。
「じゃ、今年は何年?」
「さあ、三十三年かな、いや、もしかしたら三十四年になるかも知れません」
それから山代大五は、明らかにそれと判る必死なものを、その表情に浮かべてひたすらそのことを考えている風であったが、急に表情を変えると、
「はっきりしません。変な頭だな。この頭少しどうかしている」
そんなことを照れかくしに言って、それから右手を頭へ持って行くと、指先でこつこつと頭を叩いた。一瞬間前ちらっと彼の表情を走った必死なものは、跡形もなく消えてしまっていて、いかにも困ったという表情をとっているが、しかし、この困ったという表情は明らかに演出である。気恥しさと、ばつの悪さをかくすための演出である。すべてのこの種の患者がそうであるように、山代大五は実は少しも困っていないのである。
勿論まだはっきりしないが、生年月日を知っているくせに、年齢もはっきりしないし、今年も何年か判らないのだから、明らかに逆行健忘の症状を認めなければならぬ。この患者の頭の中では、逆行健忘は、しかしいまのところ、一年か二年か、とにかくある期間が空白になっているに違いない。
逆行健志は、しかし、意外なことではない。佐沼も高崎もちゃんと予想していたことであって、ただそれがどのくらい溯《さかのぼ》るかが問題である。一週間のことを忘れているか、一カ月のことを忘れているか。極く少い例ではあるが、何年間かのことを忘れている場合もある。そしてそうした空白は、普通の場合、四、五日から一週間の間に大抵埋まってしまうのである。
佐沼は、山代大五が現在のところ、どのくらいの期間のことを忘れているか、それを確かめたかったが、それはこの次の診察の時のことにしなければならぬと思った。山代大五は明らかに疲れていた。
佐沼は、これで山代大五に対する質問を打ち切ろうと思った。これ以上質問を続けることは、徒らに患者を疲れさせるだけである。山代大五という名前と、新聞記者という職業が判ったことだけで、この診察の結果には満足しなければならぬだろう。
「これだけにしておこうか」
と、佐沼が高崎の方へ言うと、
「家族のことだけ訊いておいて戴きましょうか」
と、高崎は言った。
「身許引受人だけ知っておきたいと思います」
「なるほどね」
佐沼は頷いた。そしてこの患者のカルテには、まだ身許引受人が書き込まれていなかったことを改めて思い出した。
「奥さんは?」
佐沼は訊いた。山代大五の表情は急に活溌なものになった。自分がはっきりと答えられる質問であったからである。
「ありません」
「ない!? じゃ、まだ独身?」
「そうです」
「一回結婚して、別れたの? それともまだ一回も結婚しないの?」
「まだ結婚したことはありません」
「じゃ、子供さんもないね」
佐沼は言った。そして改めて山代大五の顔に眼を当てた。年齢から見ても、何となく相手が持っている風采《ふうさい》から推しても、独身男には見えない。子供の一人か二人は持っていそうである。
「両親は?」
佐沼は訊いた。
「ありません」
「二人とも?」
「そうです」
「いつ亡くなったの?」
「父は僕が大学二年の年です。母の方は、僕が十二、三の時です」
「親戚で一番親しくしている人は?」
すると、山代大五はちょっと考えていたが、やがて、
「ありません」
と、きっぱり言った。
「ない?」
「親戚は郷里に固まってありますが、僕がずっと郷里に帰っていませんので、どの親戚とも殆ど付き合っておりません」
「ほう」
佐沼は高崎の方を見た。高崎はもう結構ですというように頭を下げた。
診察を打ち切って、病室を出ると、すぐ高崎は言った。
「親戚というのに連絡してみましょうか」
「無駄だろうね。平生付き合ってなければ、親戚でも身許引受人にはなるまいね」
佐沼は言った。
白 い 時 間
意識を取り戻した山代大五を診察した翌日から三日間、佐沼は何かと忙しくて病院へ足を向ける時間がなかった。今年卒業する学生の口頭試問を受け持っていたので、毎日のように、午後はそのために時間を費った。学生は一人一人彼の部屋へやって来た。一人が終ると、次に他の一人がやって来た。
四日目の午後、佐沼は久しぶりで病院に顔を出そうかと思っていると、犯罪者の鑑定書の作成を地裁からの電話で催促され、その方の仕事に取りかからねばならなかった。
その日の夕方、高崎が部屋へ訪ねて来た。佐沼が山代大五のことを訊こうと思っていると、その前に高崎の方が切り出して来た。
「例の一一九号室の患者ですがね」
「山代大五だったかね」
「そうです。その山代大五ですが、逆行健忘の幅が三年程にわたっているんじゃないかと思います」
「ほう」
「どうも三十三年頃までのことしか覚えていないんです。新聞記者をしていると言ったでしょう。それで、大阪の新聞社の方へ電話を掛けてみたんですが、山代大五という人物は確かに新聞社に勤めていたことはいたが、三年程前に罷《や》めたというんです」
「ほう」
佐沼は思わず息を呑むようにした。四、五日か一週間の逆行健忘の患者は珍しくないが、三年というのはなかなかお目にかかれぬ例である。
「幾日になる?」
佐沼は訊いた。意識を回復するまでに何日もかかった患者は殆ど例外なく逆行健忘の症状を現わすが、それにしても、日一日薄紙を剥ぐようにして癒《なお》って行き、一週間か十日で完全にその空白を埋めるのが普通の例である。
「診察なさった日から算《かぞ》えると、今日は五日目です」
「もう五日になるかな。五日間に、他の方面はよくなっているね」
「そうですね。ものを忘れる度合も、多少薄まって来ているようです。昨日あたりまでは、食事をしてもすぐ忘れますし、自分の言ったことも、五分もすると忘れましたが、今日は朝食にミルクを飲んだことを覚えていました」
「ミルクを飲んだと言えば間違いないということを知っていて、そう答えたんじゃないかな」
「そうでもないようです。ミルクを飲む時こぼしたそうですが、そのことを覚えていました」
高崎は答えた。
「すると、彼はいまはその新聞社を罷めているんだが、自分ではまだその新聞社に勤めているように思い込んでいるんだね」
佐沼が言うと、
「そうです。そういうことになります。現在が三年間をとび越えて、三年前の時間にと繋《つな》がっているとしか思えません。全く、いま自分は新聞社に勤めていると思い込んでいるんですから」
高崎は言った。
「もう少し様子を見るんだね」
佐沼は煙草を銜えながら言った。もう何日かしたら、その三年間の空白も埋まって行くだろう。山代大五は新聞社を罷めたことを思い出し、その後彼が何をしていたかを思い出し、なんのために自分が江戸川公園の崖の下に倒れていたかを思い出すだろう。佐沼は、様子を見るんだねと言ったが、この場合、様子を見るということ以外、ほかにいかなる措置《そち》もなかった。
「それにしても、この四、五日中に記憶が回復して、三年間のブランクが埋まらないとすると、大分かかりますね」
「大分かかると言うと」
「もし四、五日中にそのブランクが埋まらない場合は、当分埋まらないでしょう」
「当分と言うと」
「二年も三年もかかるでしょう」
「そりゃ、判らない」
「でも、埋まるものは早く埋まってしまうでしょう。いままで報告されている例に依ると」
「そりゃ、そうだが、君の希望通りにはそうそう問屋はおろさないだろう」
そう言って、佐沼は声を出して笑った。明らかに高崎は、山代大五がそうした患者であってくれることを望んでいる。患者の病気を癒す医師の立場として、あからさまには口に出しては言えないが、心の中では、そうそうざらにあるとは思えない研究対象を長く自分のものとして自分の手許に置きたいのである。
「冗談じゃありませんよ」
高崎は口では否定したが、その顔は図星をさされたおかしさを咬《か》み殺していた。
「学用患者の手続きをとってくれたね」
「とりました」
それから高崎は、
「原籍地にでも照会すると妻子が出てくるかも知れませんが」
「どうして」
「ブランクの三年間に、結婚しているかも知れません」
「そりゃそうだが、その手間をかける必要はないだろう。二、三日したら、山代大五氏は彼自身の口で、そのことを喋るだろう」
「今日は先生は意地が悪いですね」
高崎はこんどは声を出して笑った。
翌日佐沼は山代大五を診察するために、病院へ出掛けて行った。一一九号室へはいって行くと、山代は繃帯をとり、髯を剃ったこざっぱりした顔をして、寝台の上に坐って、窓の方へ体を向けていた。その横顔はひどくひっそりとした静かな感じだった。
「どうです?」
佐沼は近寄って行きながら声を掛けた。山代は佐沼の声で、初めてその方へ顔を向けた。もし佐沼が声をかけなかったら、相手は佐沼が近付いて行くことを意に介しなかったかも知れない。一見すると、もはや山代大五は常人と変りはないが、こうした周囲に対する無関心さは、やはり異常と言うほかはなかった。
山代大五は黙って頭を下げ、それから多少警戒の色を面に浮かべたが、すぐそれを消すと、何となく弱々しく笑ってみせた。その笑いには、佐沼の意を迎えるといったものが惑じられた。患者は、佐沼が自分にとってある権力を持った人物であるということを知っているのである。正常人が面には出さないで心の内部で行うことを、この病院に収容されている男女は、素直に表情や態度に出してしまうのである。純真な幼児に見るような痛々しさが、常に患者には付き纒《まと》っている。
佐沼は、高崎と看護婦がはいって来るまで窓際に立っていた。コンクリートの塀越しに、くるまの往来の烈しい表通りの一部が見えている。高崎が部屋へはいって来た時、佐沼は、
「朝の食事はおいしく食べられましたか」
と、山代大五に訊いた。
「おいしかったです」
「何を食べました」
「ミルクとパンでした」
「パンはいくきれ?」
「ふたきれでした」
「バタ? ジャム?」
「バタです」
その時、高崎が口をはさんだ。
「三きれじゃなかったの?」
「三きれでしたが、二きれしか食べませんでした」
「そう、そう、そうだったね」
高崎は言った。この前とは違って、答はすべて正確であった。
「眠れますか」
「大体」
「夜中に眼が覚めますか」
「覚めます」
「何回ぐらい」
「ゆうべは二回でした」
この時だけ、山代大五は夜半眼覚めている時間の暗さでも思い出したかのように、暗い表情をとった。
「昨日の夕食は何を食べました」
佐沼は訊いてみた。山代はちょっと考えていたが、いかにも困った表情をとって、
「さあ、はっきり思い出しません」
と言った。
「いいですよ、思い出さなくても」
佐沼は慰めるように言った。
「もう一日二日したら、何もかも思い出すようになるでしょう」
実際に一日二日したら、前日|摂《と》った食事を忘れてしまうようなことはなくなるだろうと思われた。
「新聞社に勤めていると言いましたね」
「そうです」
「どういうポストで仕事をしていますか」
「社会部のデスクです」
「デスクというと?」
「副部長です。部員が書いた原稿を見て、それを取上げて新聞記事にするかどうかを判断し、記事として取上げる場合は、その文章を直したり、誤りを訂正したりします」
山代大五ははきはき答えた。この返事を聞いている分には、この人物の脳に大きな欠陥があろうとは到底思えないほどである。
「部員は多いんですか」
「社会部員ですか」
「そう」
「二十人ほどです。大新聞ですと大勢いますが、二流新聞ですから」
そう言ってから、
「いや、二流新聞じゃなくて、三流でしょうか」
と、付け加えた。
「ずいぶん忙しい仕事でしょうね」
「小さい新聞社ですから、何もかもやらなければなりません。デスクと言っても、デスクの仕事ばかりでなく、取材もします」
「なるほど」
佐沼は相槌《あいづち》を打ってから、
「新聞社に連絡しないと、心配しませんか」
「大丈夫でしょう」
「でも、貴方がここに入院していることを誰も知らないでしょう」
「そう、知りません」
「急に居なくなって、みんな心配していませんか」
山代大五はここでそのことに思いを廻らしている風であったが、また、
「大丈夫でしょう」
と言った。
「どうして、大丈夫ですか」
「どうしてということはないですが、大丈夫のような気がします」
山代大五は答えた。実際にそんなことはたいしたことではないと言いたげな表情であった。自分が新聞社に勤めていることは確信しているが、新聞社の者が心配するかどうかということになると、何か曖昧なものが、山代大五の頭を占めるようであった。
「それでは、大阪の新聞社に勤めている貴方が、どうして東京へ来たのでしょう。出張ですか」
佐沼は、相手が答えられないことを承知の上で訊いてみた。果して山代大五は困惑の表情をとると、
「さあ」
と、いかにも情なさそうな顔をして、
「困りました」
と、素直に言った。こうした場合、大抵何とかごまかそうとするものだが、素直に自分で困ったと言うのは、山代大五が持っている教養のためであろう。ごまかしても何の利益もないということを、相手は瞬間感じとってしまうのである。
「困った!! なるほどね」
佐沼は笑顔を作って言うと、
「困ることはありませんよ。このことも直《じ》きに思い出すことができるでしょう」
それから、
「今年は何年ですか」
この前の診察の時発した質問をもう一度くり返した。相手は黙っていた。いかにも押し黙るといった感じの黙り方であった。
「確か三十三年とか三十四年とか言っていましたね」
佐沼が自分の方から切り出すと、
「そうです」
と、初めて山代大五は頷いた。佐沼はここではっきりと、相手に記憶喪失者であることを知らせようと思った。いつか一度は知らせなければならぬ問題であるし、それにこの患者には、それを延ばし延ばしにしておく何の理由もないと思った。
とにかくどのような大学かまだ訊いてはいないが、山代大五は大学を出た人間であることだけは間違いないようである。そうした人間である以上、現在の自分が記憶喪失者であることを知らされても、そのことから受ける衝撃は、他の無教養な患者の場合ほど大きくはないであろう。あるいは却って、それを知ったことで自分の現在の立場というものを意識して、これから質問を受ける場合、知っていることは知っていると答え、知らないものは知らないと素直に返事をするようになるかも知れない。
佐沼は山代大五の答から完全にごまかしや曖昧さを取り去ってしまうために、この際はっきりと、彼が現在のところ過去の一部を失っている人間である事実を知らせようと思ったのである。
「しかし、貴方が三十三年とか三十四年というのは、その時のことまでしか思い出さないということですよ。本当は今年は三十六年です」
佐沼はそう言って、相手の顔を見守った。山代大五は一瞬呆然とした表情をとったが、やがて、
「そんなことは考えられません」
と言った。
「考えられぬと言っても、実際に今年は三十六年です。そしていまは三月ですよ」
佐沼は言った。
「そんなばかなことが!」
山代大五は、この時だけ半ば叫ぶような強い声を出した。
「そんなことってありますか。冗談じゃない。三十六年だなんて」
「ところが、実際にそうなんです」
それから佐沼は高崎の方に、
「君、何かないかね」
と、言った。
「新聞にしましょうか。それともカレンダー?」
「どっちでもいいだろう。両方持って来たらいい」
「承知しました」
高崎はすぐ病室を出て行った。
高崎が戻って来るまで、佐沼は山代大五の顔に眼を当てていた。それとはっきり判るように、山代大五は苦しんでいた。両手で頭を抱えるようにして、少し俯いて、自分が坐っているベッドの白いシーツの一端に眼を当て統けていた。灼《や》き付くような烈しい視線であった。
高崎がカレンダーと新聞を持って、病室へ戻って来た。佐沼は高崎からカレンダーを受け取ると、それを患者の前に持って行って、
「これを見てごらんなさい」
と言った。山代大五は顔を上げると言われるままにカレンダーを受け取り、それからそれに視線を落した。
「あ、ほんとだ。本当ですね」
山代大五はこんどは静かに言った。さっきのように叫ぶ口調ではなかった。佐沼は新聞を高崎から受け取ると、それをカレンダーと交換して、山代大五の手に握らせた。
「ほんとだ!」
山代大五はまた静かに言った。そして力なく新聞を手から落すと、
――三十六年三月
と、独り言の口調で、低く口の中で呟いた。
「ね、三十六年でしょう」
佐沼は念を押してから、
「まあ、三十三年でなくて、三十六年であっても、そのことはたいしたことではありませんよ。貴方はいま三年程のことを忘れているだけのことです。頭に打撲《だぼく》傷を受けて長く意識を失っていた人間は、意識を取り戻しても、極く短い間、貴方と同様に、ある期間の記憶を失います。しかし、日一日よくなって行きます。貴方も直きによくなり、現在が三十六年三月であることを思い出すでしょう」
佐沼は言った。佐沼はこの時気付いたのであるが、山代大五は佐沼の言うことを聞いていたのか、いなかったのか、全く無関心な、けろりとした表情をしていた。
佐沼は、相手が自分の言葉にいつか無関心になってしまっていることに気付いても、さして驚かなかった。相手はまだ病人なのである。いかに確《しつか》りしているように見えても、まだ完全な正常な人間とは言えないのである。
自分が三年間程の記憶を喪失していることを知って、ひどく驚いたばかりなのに、二、三分すると、もうそのことには無関心になってしまっている。しかし、こうしたことも、日一日回復して行くだろう。そして自分が三年間の記憶を失くしていることをはっきりと意識し、そのことの意味の重大さを悟り、そしてそのことのために苦しむだろう。そして、そうしているうちに、画家の手で真白い一枚のカンバスにある風景が描かれて行くように、患者の頭の中で、三年間の空白は自然に埋まって行くだろう。どこからどんな風に埋まって行くかは判らないが、とにかく埋まって行くだろう。そしてそれが完全に埋まった時、この患者は、一人の正常な人間として、この病院を出て行く筈である。それも、そう長い先きのことではあるまい。早ければ一週間、長くても半月とはかかるまい。
佐沼が一人の医学者として、この種の患者に対して持っている興味は、いかにして、いかなるところから、その患者の持っている白いカンバスに風景が描かれて行くかということである。前景が先きに描かれ、前景が描かれてから、その背景が描かれて行くかも知れないし、あるいはまた、その反対に、背景が先きに描かれ、そのあとで前景が描かれるかも知れない。それからまたそのような順序だったものではなく、その白いカンバスを埋める作業は、とんでもないところから始められるかも知れない。部分的にあちこちから手が付けられ、初めは何の繋がりも見出せない個々ばらばらなものであるが、やがてそれらはある関係を持ったものとなって、終いには一つの完全な風景として出来上がって行くかも知れないのである。
こうした記憶の回復の仕方にはいままでのところ、秩序も法則も見出されていない。患者それぞれに依って、全く別々の記憶の回復の仕方をするのである。佐沼たち精神医学者の仕事は、何の秩序も法則も見出されていないこうした現象から、何らかの法則と、その意味を発見することである。ただその仕事が難しいのは、肉体と精神の、両方の分野にまたがる問題であり、記憶の働きを司《つかさど》る脳という精巧なメカニズムの秘密が、現代の医学の知識では、まだ何も判っていないからである。山代大五は、佐沼にとって一つの材料である。記憶喪失者は、他の病人のように、そう沢山は現われないものなので、やはり貴重な材料と言わなければならない。
佐沼は山代大五がまだそれほど疲れていず、なお暫くの間自分の質問に答え得る状態にあることを見てとると、
「一応、既往歴を訊いてみるから」
と、高崎の方に言った。
「承知しました」
高崎はすぐ佐沼と患者との話をノートするために、少し佐沼の方に近寄って来た。
「いままでに病気したことある?」
佐沼は質問した。
「小さい時は弱かったそうですが、小学校へ上がるようになってからはずっと丈夫でした」
「病気はしなくても、何か怪我でもしたようなことは?」
「ありません。小学校時代は六年間皆勤でした」
「中学校の時は?」
「中学校の時も、風邪《かぜ》をひいたり、おなかを壊して、一、二回学校を休んだことはあったと思いますが、病気らしい病気をした記憶はありません」
「運動は?」
「何でもしました。野球も、テニスも、柔剣道も。しかし、選手ではありませんでした」
「中学を出てからは?」
「病気ですか」
「そう」
「大学の時、医者から肋膜《ろくまく》の気があると言われて、半年間休学しました。それだけです」
山代大五は言ったが、すぐ追いかけるように、
「大学の時、夏に盲腸をやりました」
「手術したの?」
「手術しました。その時のあとがいまでも残っています」
「最近、何か大怪我したようなことはありませんね」
「ありません」
「ずいぶんいい体をしていますが、大学の時も運動をやったんですか」
「別に運動はやりませんが、登山は好きでした」
「山岳部へはいっていたの?」
「いいえ、部には関係しませんでした。初め気の合った友達二、三人と山へ行き出したんですが、しまいには大抵の時、一人で行きました」
「一人でね、ほう」
佐沼は山代大五へ顔を向けて、
「登山で体を作ったんですか」
「いや、いまのように肥っているのはビールです。登山している時はずっと緊まって痩せていました」
「なるほど。――ビールはたくさん飲みますか」
「飲む方でしょうね」
山代大五は言った。本当にビールでも底ぬけに飲みそうな人物に見える。
佐沼は高崎の背後に立っている婦長の朝井圭子の方を振り向いて、彼女の持っているカルテを受け取ると、
「生年月日は?」
と訊いた。カルテには大正十四年三月三日≠ニ書かれているが、山代大五は間違いなく、その通りに答えた。
「原籍地は?」
「静岡県田方郡T村二十六」
「ほう、静岡県生れですか」
「生れたのは違います。四国の高松です。父は農林省の官吏で方々転々としましたが、私はその最初の任地で生れました。生れてから母と一緒に郷里へ帰ったので、高松というところは生れたところというだけで、全然知りません。生れて三カ月ぐらいしか居なかったそうです」
「なるほど、それじゃ知らない筈ですね」
佐沼は言った。
「小学校は?」
「郷里のT村です」
「御両親の許から通ったんですか」
「いや、その頃は祖母に育てられていました。両親は地方の都市を二、三年ずつで変っていました」
「お母さんが亡くなったのは?」
佐沼はカルテに眼を当てて訊いた。カルテには、この前の回診の時の佐沼と山代の問答がそのまま書き込まれてあって、そこに母を十二、三歳の時失ったと認《したた》められてあったからである。
「小学校の六年の時です」
「何で亡くなったの?」
「心臓病です。若い時から心臓が悪かったそうです」
「なるほど。それからお父さんは後妻さんを貰いましたか」
「いや、ずっと死ぬまで一人でした」
「お父さんの亡くなったのは、貴方が大学生の時でしたね」
「そうです」
「郷里の小学校を出て、それから中学校は?」
「郷里の田舎の中学校へ行きました。同じ郡のN村の中学校です」
「家から通ったんですか」
「ええ、自転車通学でした」
「その頃、お父さんは?」
「父は名古屋に居ました」
「中学校の時はずっと自転車通学ですか」
「いや、上級生になってからは寄宿舎に入りました」
「高校は?」
「中学を卒業した年、静岡の高校へはいりました」
「秀才だったんですね」
佐沼は言った。
「高校は文科ですね」
佐沼が訊くと、山代大五は黙って頷いた。
「大学は?」
「京都の経済です」
「高校時代ですか、さっき山登りしたと言ったのは」
「高校時代から大学へかけてやりました。大学を出て社会へ出てからも、休みの時は山へ行きました」
「山登りで怪我をしたことはありませんか」
「ありません。死にかかったことはありますが」
「死にかかったの!?」
佐沼は顔を上げた。
「死にかかったことは何回もあります。霧にまかれたり、雪崩《なだれ》にあったり――」
「ほう」
「しかし、怪我と言える程の怪我をしたことはありません」
「なるほど」
ここで、佐沼はまた質問を学生時代へと戻した。
「高校時代の成績はどうでした?」
「駄目です。いつも下から算えた方が早いところにいました。勉強しないで、のんびりと遊んでばかりいましたからね」
「大学時代は」
「同じことです。どうにか卒業させて貰ったというところでしょうか」
「下宿でしたか」
「そうです。大学の二年の時に父親を亡くしましたが、父親が亡くなってからは、金が来なくなったので、日本画家の家へただで置いて貰いました。そこの子供の勉強を見て――」
「アルバイトですね」
「そうです」
「御兄弟は?」
「ありません」
「貴方一人?」
「そうです。父一人、子一人でした」
「アルバイトしたって、お父さんの遺産はなかったんですか」
「何もありませんでした。貯金も一銭もしてありませんでした。ただ郷里の家だけを残してくれました。生きている時は恩給がはいったので、それで自分も食べ、僕にも学費を送ってくれていたわけです」
「では、家はありますね」
「父親が亡くなって一年後に売りました」
「お父さんは亡くなった時は退官していたんですか」
「停年にはまだ少し間がありましたが、辞めさせられました。大学を出ていなかったので、上には行けなかったようです。それで、僕に口癖のように、大学だけは出ろと言っていました」
「大学を出てどうしました?」
佐沼は質問を進めた。
「卒業すると、すぐ新聞社へはいりました」
「試験を受けたんですか」
「いや、何となくはいったという恰好です。大新聞の入社試験を二つ三つ受けましたが、どこもみんな落ちました。競争が烈しいので、よほどできるか、でなければ|つて《ヽヽ》でもないことには、普通でははいれませんでした。卒業して遊んでいられる身分ではありませんでしたので、山登りの先輩のところへ就職を頼みに行ったんです。そしたら、いまの二流新聞社へ紹介し、入れてくれました」
山代大五は言った。言うことは尽く確かな感じであった。
「新聞社へはいってからは?」
「新聞社へはいってからと言いますと?」
山代大五は訊き返した。
「勤めは面白いですか、それとも」
佐沼が言いかけると、
「まあ、面白いと言っていいと思います。小さな新聞社だけに、大新聞社の大きい組織の中へはいって、機械の一部になってしまうより、ずっと自分が生かせると思います。そういう意味では、仕事は厭ではありません。月給の安いことをのぞけば、たいして不満も不足もありません」
「親しい友達はありますか」
「特に親しいと言える友達はありません。しかし、一緒にビールなど飲む友達は何人かあります」
「社会部の副部長と言いましたね」
「そうです」
「昇進は早い方じゃないですか」
「そうですね」
山代大五はちょっと考える風にしていたが、
「早い方かも知れません。六年程で社会部のデスクになりましたから」
「今年で何年です」
佐沼は、いままでと同じ調子で訊いた。ここで、山代大五の年月の計算は狂う筈であった。
「新聞社へはいってからですか」
「そう」
「八年です。いや、九年ですか。いや、やっぱり八年でしょう」
「八年ですか。そうなりますかね。今年は三十六年でしょう」
佐沼が言うと、山代大五は、
「そんな」
と言いかけて、さっき佐沼から今年は三十六年であることを指摘されたのを思い出したのか、急におどおどした表情になった。そして、いままでの常人と変らぬはっきりしたものは消えて、いかにも自信のなさそうな顔になった。
佐沼はここで山代大五を解放しようと思ったが、折角ここまで質問して来たのだから、相手の記憶がどこから空白状態になっているか、その点だけをもう少し知りたいと思った。佐沼はまた静かな口調で慰めるように言った。
「忘れていて当然ですよ。頭を強く打ったんだから。――直きに、もう二、三日すれば、全部思い出すでしょう」
それから続けて、
「貴方の覚えている最近の仕事は何ですか」
「取材ですか」
質問が違った方向に向いたので、山代大五は少し生色を取り戻して言った。
「取材でも何でも結構です」
佐沼は言った。
「そうですね」
山代大五は考えていたが、また不安な表情に戻ると、
「よく覚えていません」
と答えた。
「じゃ、この前、貴方は大阪府下T市に住んでいると言いましたが、そこは貴方の家ですか」
「そうです」
「一人で住んでいるんですか」
「そうです。高等学校の校長をしている人の家の離れを借りています」
「食事は?」
「朝食だけその家で作って貰い、あとは外で食べます」
「すると、新聞社へ出掛けている間は、戸を締めておくんですか」
「そうです」
「毎日、何時ごろ帰りますか」
「決まっていませんが、遅くなることが多いです。遅い時は一時にも二時にもなります」
「最近は遅い日が続いていましたか」
ここでまた山代大五は、少し曖昧な表情をとると、
「そうです。ずっと遅かったと思います」
と、低い声で言った。自信のない返事で、明らかに答えなければならぬので答えたといった、いい加減なものが感じられた。
「話は変りますが、貴方は飛行機に乗ったことはありますか」
「ありません」
「ほう、一度もありませんか」
「ありません」
「よろしい。じゃ、今日はこれまでにしておきましょう。疲れましたか」
佐沼は山代大五をベッドに横たわらせるために、枕の位置を直してやりながら言った。
「とにかく、休んだ方がいいでしょう」
それから佐沼は、高崎と婦長の方へ、部屋を出ようというめくばせをした。
春 の 光
佐沼は山代大五の三回目の診察をしてから暫くして、大阪へ二泊の予定で「つばめ」で発《た》った。五月の初めに大阪で開かれる精神医学会の準備委員を仰せつかっていたので、その打合せのためであった。
東京を発った日はうすら寒かったが、それでも車窓から見る東海道の風光はもうすっかり春の感じであった。箱根附近の小さい丘陵の上に散る陽の光も駿河《するが》湾の潮の色も、もう冬の厳しさは持っていず、どことなく春がすぐそこまで近寄って来ていることを思わせた。浜名湖の湖面のきらめきにも春が感じられたし、天竜川や長良川の堤や磧《かわら》にも春が感じられた。佐沼は久しぶりで東京を離れたことがたのしかった。研究室と病院の間を往復している毎日の生活から解放されて、のびのびとした気持になった。
大阪へ着くと、大阪の方が寒いとばかり思っていたのに、東京よりずっと暖かかった。大阪駅前の人の賑《にぎ》わいにも、どこか春の行楽といった浮き浮きしたものが感じられ、地方からの旅行者の多いのも目立った。
佐沼は中之島の新しいビルの上半分を占めているホテルの一室へはいった。準備委員の会合は六時から開かれることになっていたので、それまでの僅かの時間を、ボーイに珈琲《コーヒー》を運んで貰って、それを飲みながらぼんやりと過した。佐沼は椅子に腰掛けながら、眼を窓に当てていたが、窓からは幾つかの高層ビルの屋上が見えていた。装甲艦の甲板にでも見るような、いろいろな形をした尖塔や、大きな煙突や、四角な突起や、それからところどころに風にはためいている旗が見えた。
そうした眺めに眼を当てている時、ふと佐沼は、一一九号室の患者である山代大五が大阪の新聞社に勤めていると言ったことを思い出した。高崎の語ったところでは、その新聞社は三年前に退いている筈だということであったが、しかし、本人はいまもそこに勤めていると思い込んでいるのである。
佐沼は、明日にでも、山代大五が勤めていた新聞社を訪ねて、彼がどのような性格の人間であり、彼がどのような理由で、その新聞社を退いたかを、一応調べてみようと思った。自分が東京へ帰るまでに、山代大五はそのことを思い出しているかも知れないが、しかし、そうした場合でも、そうしたことを調べることは必ずしも無駄なこととは言えない。少くとも、彼の記憶の回復の仕方がどの程度正確なものであるかを判定する材料にはなるというものである。
その晩、佐沼は学会の準備委員の集りに出席し、かなり遅い時刻まで、この種の会合に使われる大学の近くのT会館の建物の中の一室で過した。そして会合が終ってから高等学校時代の友達二、三人が待っている小さい料亭へ出掛けて行って、結局その晩ホテルに帰ったのは十二時近い時刻であった。
翌朝、佐沼は九時に眼覚めた。夜はまた前夜と同じように準備委員の集りがあり、それが終わると、これまた前夜と同じように、久しぶりで会うゆうべとは別の友人たちが、どこかの酒場《バア》で待っている筈であった。そんなわけで夜はふさがっているが、昼の時間はずっと空いているので、それを佐沼は山代大五のために使おうと思った。彼が勤めていた新聞社も訪ね、できるなら彼が住んでいたT市の彼の曾《かつ》ての住居をも訪ねようと思った。T市というのは、大阪と京都のちょうど中間にあたる地点にあるので、くるまを使えばさして時間はかからないで行ける筈であった。
佐沼は、しかし、べッドから離れてから二時間程を、ロビイで新聞を読んで過した。平生このようなのんびりした午前の時間を持つことはなかったので、そうした時間のつかいかたが楽しかった。彼が、いまも勤めていると信じ、実際は曾て三年前まで勤めていたに過ぎない二流新聞社の新聞も、それがいかなるものか一応見ておきたかったが、あいにくその新聞はロビイの新聞かけには発見できなかった。
佐沼は正午少し過ぎてからホテルを出た。空は煤煙《ばいえん》でどんより煙っていたが、地上には明るい陽が降っていた。もうすっかり春の陽気だった。佐沼は外套を着ていたが、少し歩くとすぐ体は汗ばんだ。佐沼は途中でタクシーを拾い、これから訪ねようとしている新聞社の名を運転手に告げた。運転手は黙ってすぐくるまの方向を変えた。
くるまは十分も走らないうちに、ごみごみした裏街のような地帯にはいり、小さいビルの前で停まった。佐沼には大阪の地理がよく判らなかったが、くるまに乗っている時間から推して、都心をさほど離れている場所とは思われなかった。しかし、新聞社のビルも新聞社としては小さかったし、その附近も新聞社のある場所にはふさわしからぬ小さい鉄工場などの多い埃《ほこり》っぽい地域であった。
佐沼は新聞社の建物の中央の入口をはいって、すぐ横手にある受付で、来意を告げた。曾てここに勤めていた山代大五氏のことで少し聞きたいことがあると言ったが、受付嬢には山代大五という名前が初めてのものであるのか、
「さあ」
と、いかにも迷惑そうな顔をして、改めて佐沼の顔をじろじろと見守った。
佐沼は受付嬢に用向きの説明をしても埓《らち》があかないと思ったので、自分の名刺を出して、とにかく社会部長に会いたいと言った。
「どういう御用件でしょう」
相手はもう一度用件の説明を要求した。
「この名刺を持って行って、お目にかかりたいと言えば判りますよ」
佐沼はそんな風に言った。大学の助教授の肩書きが刷り込んであるので、そうそう邪樫《じやけん》には取り扱われないだろうと思った。
受付嬢が受話器を取り上げて何か話している間、佐沼は入口に立って、トラックやオートバイの往来の烈しい埃っぽい街路に視線を投げていた。そのうちに、先刻の受付嬢とは別の若い女がやって来て、
「どうぞ」
と言った。佐沼はその女のあとについて正面の階段を上って行った。階段の横手にエレベーターはついていたが、故障しているのか、空箱を積み込んだまま停まっていた。
佐沼が招じ入れられたところは、三階の、第一客室という札の下がっている部屋であった。第一客室というから、訪問者の中で一番いい連中を通す応接間であるかも知れなかったが、掃除の行き届いていない多少倉庫を思わせるような部屋であった。それでもソファと椅子と卓だけが新しく上等だった。
その部屋で、佐沼は十分程待たされた。煙草を一本喫み、窓際に立って、窓外のごみごみした街の風景を見降ろしている時、
「お待たせいたしました」
そういう大きな声と一緒に、二十何貫もありそうな肥満した中年の人物が、部屋へはいって来た。
「どうぞ」
相手は佐沼を椅子の一つに坐らせると、自分はソファの隅の方へ、大きな体を埋めた。
「どういう御用件でしょう」
「実はここに前に勤めていた山代大五さんという方のことで、ちょっとお伺いしたいことがありまして」
佐沼は改めて名刺を出して相手に渡した。相手はそれには眼を当てないで、佐沼の身分については先刻受付嬢から聞いて知っているらしく、
「そのことで、東京からわざわざいらしったんですか」
そう言いながら、自分もまた上着の内ポケットから名刺を取り出して、佐沼の方へ差し出して寄越した。
名刺には社会部長 赤堀大亀《あかぼりだいき》≠ニいかめしい名前が刷り込まれてあった。
「山代大五さんなら、私はよく知っていますが、一体山代さんのどういうことをお調べになりたいんですか」
赤堀大亀は見るからにエネルギッシュな顔を佐沼の方へ向けた。
「実は、いま私の勤めている大学の病院に、山代大五さんが入院しているんですが、どうも最近の三年間の記憶を失っているらしいんです」
佐沼が言うと、
「記憶を失っている!?」
相手はいかにも驚いたといった表情をとって、
「ほう、記憶喪失という奴ですか」
「そうです」
「そりゃ、どうも、不思議なことになったものですな、山さんも」
赤堀大亀は感慨無量そうに言った。
「山さんと言うんですか」
「山代さんというのを略して、われわれは山さん、山さんと呼んでいたんですが。――そうですか、山さんが記憶喪失! こりゃ、驚きましたな」
それから、
「一体、どうしてそんなことになったのでしょう。凡そ山さんらしくない病気ですな。そうお思いでしょう」
「そう思うにも思わないにも、私の方は山代さんについて、何も知っていないんです。突然病院へかつぎ込まれ、それを一人の患者として取り扱っているだけのことですから」
「ほう」
「それで、一応、山代さんのことをお伺いしたくてやって来たわけです。大阪へは来月ここで学会を開く、その準備のために来たんですが、折角大阪へ来たものですから、その序でと言っては何ですが、一応山代さんのことについて知っておいた方がいいと思いましてね」
「なるほど」
赤堀大亀は大きく頷くと、
「よろしい。一応山さんについて知っていることは何でもお話しましょう。それにしても、また、どうして病院になどかつぎ込まれて来たんですか」
と言った。
「それはですね」
佐沼は自分の方から先きに山代大五について話すことにした。赤堀大亀がそのことを知りたがっていたし、またそのことを先きに話す方が順序であるとも思われた。
佐沼は山代大五の病院にかつぎ込まれてから今日までのことをかいつまんで話した。赤堀大亀は佐沼の話をいちいち頷きながら聞いていたが、それを聞き終ると、
「崖の下に倒れていたというんですね。愚連隊にでもやられたんじゃないでしょうか」
「いや、やはり崖から滑り落ちたと見る方が至当のようです」
「ほう、それならば、どうしてそんな崖へなど登ったんでしょうね。――いや、これは失礼しました。貴方が御存じの筈はありませんね。――実は、私たちも東京へ出てからの山さんについては何も知っていないんです」
赤堀大亀は言った。
「この新聞社を罷めてからの山代さんについては何もご存じないんですか」
「変な話ですが知らないんです。私ばかりでなく誰も知らないと思います。知っているなら、一番親しく付き合っていた私ぐらいのものなんですが、その私さえ知らないんですからね」
「ほう」
佐沼は赤堀の口から出る次の言葉を待つ以外仕方がなかった。赤堀はどこから話そうかと考えている風だったが、
「まことに変な話ですが、実際にそういう状態なんです。と言うのは、山さんの罷め方にちょっと問題がありましてね」
そして、少し間をおいてから、赤堀は続けた。
「この社の内部のことですから余り話したいことではないんですが、まあ、いいでしょう」
そう勝手に自分で判断を下してから、
「社長を殴りましてね」
「山代さんがですか」
「そうです。あんなに外見は物にこだわらずおっとりしているんですが、憤《おこ》ったとなると、やりますよ、彼は」
赤堀は言った。佐沼は山代について、物にこだわらぬとか、おっとりしているとか言われても、それを実感として受け取ることはできなかった。佐沼の知っている山代は、全く別の人間であった。なるほど健康時は、そうした人物であったかも知れないが、現在は凡《およ》そそうしたものからは遠かった。神経科の患者の誰でも持っている多少愚鈍なはっきりしない表情の中に、時折おどおどした卑屈さと、質問をごまかそうとするずるさが、顔を覗かすのである。
「その社長|殴打《おうだ》事件が問題となりまして、それで山代大五氏は社を退かなければならなくなったわけです」
「いつのことですか」
「丁度三年になりますね。三年前の一月です」
「どうして社長さんなど殴ったんですか」
「これには、まあ、いろいろわけがありましてね。必ずしも山さんを非難することはできないんですが、しかし、殴ったのはまずかったですよ。殴ったということが、彼の敗けでした。山代大五という人はなかなか社内での人気もあり、仕事もできる人で、一社会部長というより、将来はこの社の中心になるべき人物でしたが、しかし、何と言っても、社長を殴ったということは、彼にとって致命的でした」
「社会部長ですか、副部長じゃなかったんですか」
佐沼は訊いた。
「山代さんは確か自分は社会部の副部長だと言っていましたが」
佐沼が言うと、
「いや、社を罷めた時は社会部長でした。社会部のデスクから社会部長になって、そうですね、一年も経っていたでしょうか」
大堀赤亀は言った。そうすると、社会部長になってからの記憶は、現在山代大五の頭の中から失われているものと見|做《な》さなければならぬ。
「山代さんという人の性格は、一口に言いますと?」
佐沼は訊いた。
「いま申しましたように、小さいことにこだわらぬ親分肌の性格です。あの人がもし大新聞にはいっていたら、ずいぶんのして行ったんじゃないかと思います。こうした小さな新聞社では、山代さんの持っているものは全然生かされないわけです。ビールはよく飲みましたね。私はあの人が社会部長時代、すぐ下で働いていましたが、毎晩いっしょに飲みました。まあいい上役だったと言っていいでしょう。社長との事件は、二人の性格の違いから来ています。社長も勿論悪い人ではないんですが、経営者ですから、やはり経営者の立場から物を考えます。山さんにはそうしたところはない。そんなことで意見が衝突して、つい殴っちゃった」
「どこで殴ったんです」
「それが、編集局のまん中なんです。派手なもんですよ。大勢の従業員の居る前でやったんです。社長も山さんの人柄と才能を買っていたからこそ、若くて社会部長にしたと思うんですが――山さんとしては、社長と喧嘩しても、何人かは自分と同じ行動をとってくれるかと思っていたと思うんです。しかし、誰も山さんについて行かなかった。勿論、山代さんという人は、そうした企みをする人じゃありません。ただ、そうした事件をつい引きおこしてしまった時、何人かは自分の立場に同情して、自分と同一行動をとってくれるだろうとは考えていたと思いますね。しかし、誰もやはり自分が大事ですからね。それに、理由は何であれ、社長を編集局のまん中で殴るというようなことは、ともかくなっていないではないかという非難も当然ありましてね。山代さん一人が、その日に社を罷めたわけです」
「なるほど」
「山代さんとしては、どいつもこいつも頼みがいのない奴だといった気持があったと思います。私などもそう思われている一人だと思うんです。そんなわけで、社を罷めて東京へ行ったわけですが、社の同僚だった者にも、部下だった者にも、一本の音信も寄越してはいないでしょう」
佐沼は、赤堀大亀の話から山代大五という人物の性格の大要と、彼がこの小さい新聞社を罷めるに到った経緯《いきさつ》のあらましを知ることができた。赤堀の話に間違いがなければ、山代大五は、いま彼が知っている一一九号室の患者としての山代大五からは容易に想像できないところを持った人柄であった。
佐沼は、しかし、東京へ出てからの山代がいかなる職業に携《たずさわ》り、いかなる生活をしていたかについては、何も知ることができなかったので、
「東京へ出てからの山代さんについて、何か噂のようなものでも聞かなかったでしょうか」
と訊ねてみた。
「全然聞いていません。よほど腹を立てたのでしょうね。私のところへも、住所一つ知らせて来ないんですから」
「趣味のようなものは?」
「特別にこれといった趣味は持っていませんでした。学生時代は山へ行ったと言って、よく山の話はしていましたが」
「独身だったわけですね」
「そうです」
「部長で独身という人はあまりないでしょう」
「そう、しかし、山代さんという人は、また独身がぴったりしていましてね。部長にはなっていましたが、まだ三十二、三ですから、それほど独身であることがおかしく見える年齢でもないわけです」
「恋愛関係は?」
佐沼は自分が多少刑事のような質問の仕方をしていることには気付いていたが、訊くだけのことは、この機会に訊いてしまおうという気持だった。
「恋愛している暇はなかったでしょうね。全く仕事本位に自分の生活を組み立てていましたから。――むかっ腹を立てて、社長を殴るような性格では、恋愛はできませんよ」
赤堀大亀は、この時初めて声を出して笑った。そして、
「記憶喪失といっても、それは直きに癒るものなんですか」
と、こんどは訊き役に廻った。
「癒ると思います。多分、こんど私が東京へ帰ったら、全部とは言わないまでも、記憶がところどころ島のように蘇《よみがえ》って来ているんじゃないかと思います」
「副部長時代のことしか思い出していないとすると、まだ自分は大阪に居るつもりなんでしょうか」
「そうです」
「では、社長を殴った事件も覚えていない。――結構なことですな、それは」
赤堀は感に堪えぬといった表情をして、
「まあ、私の先輩ですから、何分よろしくお願いします」
と言った。
佐沼は赤堀大亀との面会を打ち切って、新聞社を辞すと、バスで大阪駅へ出て、そこから京都行きの電車に乗った。電車には修学旅行の中学生たちがぎっしり詰まっていて、佐沼は出入口に近いところで、生徒たちの間に挾まっていた。淀川の鉄橋を越すあたりから、窓外には春の陽の散っている原野が拡って来て、その原野の拡りと、そこに散らばっている家々のたたずまいに、何となく東京附近とは違った関西独特のものが感じられた。
T駅で下車すると、佐沼は東京を出る時手帳に書きつけて来た山代大五の曾ての住居の所番地を見て、駅の待合室を出たところにある煙草屋で、そこがどの方向に当るかを訊いた。
「ここから歩いて十五分程のところです。一本道だからすぐ判りますよ」
内儀さんがそう教えてくれたので、佐沼は山手の方へと、埃っぽい道を歩いて行った。途中で、タクシーが来る度に、佐沼は道の端《はし》に立って、もうもうたる埃を浴びた。何回目かにトラックをやり過した時、佐沼はいま自分がやっている行為が、詰まり一一九号室の患者が曾て住んでいた家を訪ねてみようということが、一人の医者としては必ずしもやらなければならぬ行為でないことに気付いた。確かにこうしたことは、医者の受け持つべきことの限界を越えていた。たまに大阪へ来たのであるから、こうしたことのために時間を費さないで、学生時代の友達と珈琲でも飲んでいる方が、よほど気が利いていた。
しかし、佐沼は片方で自分の心のどこかに、医者としての気持とは別の何ものかが、ちらっと顔を覗かしていることにも気付いていた。それなればこそ、新聞社へ行ったり、いままたこのよなところで、徒《いたずら》にトラックの埃などを浴びているのである。それならば佐沼をこのように動かしているものは何であろうか。そういうことになると、佐沼自身にもよくは判っていなかった。
道は次第に丘と丘との迫った間に吸い込まれて行った。一つめの丘を登り始めた時、佐沼はこの辺りが中流級の住宅地になっていることに気付いた。赤や青の屋根を持った家々が、それぞれ五、六十坪の庭を抱いて、坐りの悪い地盤の上に立っていた。
佐沼はそうした住宅の一軒で、もう一度、自分が訪ねようとしている目的地の場所を訪ねた。
「すぐそこです。ここから見えますよ」
まだ娘と言っても通りそうな若い細君は、乳のみ子を抱えた手で、向う側にある丘の中腹を示した。
佐沼は若い細君に教えられた通りに、道路から左に折れて、雑木の間に五、六軒の家の屋根が見えている丘陵の細いだらだら坂を登って行った。
佐沼は反対に坂を下りて来た御用聞きらしい青年に、前に山代大五がそこの離れを借りていたという高校の校長の家を訊いた。数軒固まっている家の中で、一番上手の、山茶花《さざんか》の垣根の廻っている家であるということだった。
佐沼はその家の前まで行って、ハンカチを出して顔の汗を拭った。距離はさほどなかったが、勾配が急だったので、体全体から汗をふき出していた。表札には八田と書かれてあり、この丘にある数軒の家の中では、一番大きい構えの二階屋であった。
小門をくぐると、玄関まで二間程のところを小砂利が敷き詰められ、右手は中庭になっており、左手には母屋に軒をくっつけるようにして、別棟の建物があった。佐沼はこれが恐らく山代大五が住んでいた離れであろうと思った。
ベルを押して暫くすると中庭の方から、庭の掃除でもしていたらしい恰好の六十をとうに過ぎたと思われる老婆がやって来た。
「こちらに以前、山代さんという方が御厄介になっていたでしょうか」
佐沼が言うと、
「はあ」
と相手は曖昧な返事をしてから、
「おることはおりましたが、どういう御用件でしょうか」
と言った。
「実は、山代さんのことでちょっとお訊きしたいことがあって伺ったのですが」
佐沼は言いながら、相手の顔が見る見るうちに、警戒するような表情をとるのを見ていた。と、果して、
「山代さんのことなど、詳しくは何も知りませんよ。もう三年も前のことですし、それにただ離れをお貸ししていただけのことですから」
そう老婆は言った。佐沼は初めは名刺を出して、自分と山代大五との関係を説明し、ここを訪ねて来るに到った理由を話すつもりだったが、記憶喪失といったようなことを理解しそうもない相手であることを知ると、初めの考えは改めて、
「東京へお移りになってからの住所は御存じでしょうか」
と、ただそれだけ訊いてみた。
「知りませんね。手紙一本貰っていませんから」
「ほう、東京へ移ってから手紙も来ないんですか」
「来ません」
「どこに居るか、噂もお聞きになりませんか」
「聞きません」
取りつくしまもないような相手の口調だった。
相手の態度に押されて、佐沼が次の質問を出し渋っていると、
「どういうご関係なんですか、山代さんと」
と、老婆は少し口調をやわらげて言った。
「別にこれといった深い関係はありませんが、東京の住所が判ったら知りたいと思いましてね」
「何かお金のことでも」
「いや、そんなことでは全然ないんです」
佐沼が言うと、老婆はその言葉で安心したのか、多少ほっとした表情になって、
「わたしはまたお金かと思いましたよ。山代さんはお金でずいぶん苦しめられていたようですから」
「ほう、お金で苦しめられると言いますと?」
「わたしは何も知りませんが、それでも、あの人が東京へ行ってから、大勢訪ねて来ましてね。それが、貴方、みんなお金のことなんですよ」
「詰まり、借金とりなんですね」
「そうです。いまでも時々やって来ます」
「私は違いますよ」
佐沼が笑いながら言うと、
「あんないい人が、どうしてお金など人から借りるんでしょうかね。山代さんが悪い筈はないから、貸した人の方がいけないんだろうって、家では話しているんですよ」
「そんなにいい人ですか」
「あら、貴方、あの人を知らないんですか」
老婆は驚いた表情で言った。
「いや、勿論知ってます。知ってますが、そんなによくは知らないんです」
「いい人って言えば、あの人くらいいい人はめったにありませんよ。のんきそうに見えて、なかなかどうして、こまかいことまでよく気が付きましてね。わたしたち年寄りの気持もよく判りますし、子供は子供で、みんなあの人になついてしまいます。まあ、おそらく、ああいう人をいい人って言うんでしょうね」
老婆は少しずつ饒舌《じようぜつ》になって行った。
「で、いまは?」
「それが、貴方、いま申し上げたように判っていませんがな。手紙をくれないような人ではないんですが、どういうものか、東京へ行ってから一本も手紙を寄越しません。それには、何か事情があるんでしょう」
「そうですか。本当に東京の住所は判らないんですね」
「本当にも嘘にも、かいもく判りませんがな。尤も二回程、お菓子を送ってくれました。一回は金沢からと、一回は九州のどこかからです。わたしの家に居なさる時から、旅行へ出れば、必ず旅先きから物を送ってくれましたが、東京へ行ってからも、二回そんなことがありました。一昨年でした」
老婆はちょっと遠い眼をして言った。
老婆の話を聞いているとどの言葉にも、彼女が山代大五に対して好意というか愛情というか、とにかくそうしたものを懐いていることが感じられた。これは、さっき訪ねた新聞社で、佐沼が社会部長の赤堀大亀の話から感じとったものと同じものであった。
要するに、山代大五という人物は一応多くの人から愛される人物であるに違いなく、また実際に愛されるだけのものを持っていると見ていいだろう。その反面、どこかに野放図というか、よく言えば物に頓着しない、悪く言えば投げやりな面があるかも知れない。むかっ腹を立てて社長を殴るというような性格の一面も、面白いと言えば面白いし、粗暴だと言えば粗暴である。東京へ移ったあと借金とりに押しかけられるようなところも、余り感心したことではない。しかし、老婆の言うように山代大五の場合は、金を貸した方が悪いに決まっているという妙な考え方を成立させる根拠があるかも知れない。
「山代さんはこちらにいらしった時は独身でしたね」
佐沼は訊いた。
「そうです。わたしももう身を固めなければならないと、口がすっぱくなるほど言っていたんですが、そういう気にならぬようでした。わたしが言うと、いつも是非頼みますよとか、いい人を探して下さいとか、口では言ってるんですが、どうも本当はその気にはなっていないようでした。いつまでも一人でいるから、お酒を飲んだりすることになるんですが、そのことが判りません。お酒を飲むとろくなことはありませんわ。上の人をひっぱたいたりすることになるんです」
「社長と喧嘩したことをご存じなんですか」
「あとで聞きました。新聞社の人が来ましてね、その人から聞いたんですが、でも、きっと社長さんという人がよほど悪かったんでしょう。山代さんが腹に据えかねるくらいですから。――ともかく、お酒はいけません」
「夜は遅かったんですか」
「それが、貴方、毎晩毎晩二時三時です」
「新聞社だから仕事が遅くまでかかるんでしょう」
「いくら新聞だって、毎晩毎晩 そんなばかなことがありますか」
この時だけ、老婆は突き放すような好意のない表情をとった。よほどそのために迷惑したのかも知れなかった。
佐沼は山代大五についてもうたいして訊くべきことがないことに気忖くと、
「いや、どうも、いろいろ有難うございました」
長話を打ち切るように、改めて老婆の方へ顔を向けた。
埋 没
夜汽車で大阪から帰ると、佐沼はその日の午後大学へ出た。睡眠不足で頭がはっきりしていなかったが、どうしても研究室へ顔を出さなければならぬ用件があった。佐沼が自分の部屋で留守中の用件を片付けている時、高崎から電話が掛かって来た。
「お帰りなさい。大阪はどうでした?」
そんなことを言ってから、
「例の一一九号室の患者ですが、あれから毎日のように、少しずついろいろ訊いてみましたが、三年乃至三年半の記憶は完全に失われています。現在のことはもうすっかりはっきりして、常人と変らない程になりましたが、記憶のブランクは全然埋まりません。もしかすると、これで固まってしまうかも知れないと思います」
そう高崎は言った。佐沼には若い医局員の声が、心なしか弾んでいるように思われた。三年とか三年半の記憶喪失者というものは、そうめったにお目にかかれる例ではない。一時的にはかなりの幅を持った逆行健忘はそう珍しくはないが、しかし、数日の間に、徐々に記憶を取り戻して、その空白を埋めてしまうものである。
高崎の言うように、もし山代大五の記憶が、完全なブランクのままで固まってしまうとすると、これは得難い研究資料と言うべきである。当人には気の毒であるが、医者としては、そうあって貰いたいという気持が動くのも当然なことである。
「ほかのことは確りして来たんだね」
佐沼が訊くと、
「驚くほど確りして来ています。一昨日ぐらいまではまだ多少忘れっぽいところがありましたが、きのう今日は、確りしたものです。何を訊いても曖昧なところはありません。表情も非常にはっきりして来て、ごまかすような顔付きをすることもありませんし、自信のなさそうな表情をとることもなくなりました。ただ非常に暗いです」
「暗い?」
「感じが暗いです。いつも何とも言えない暗い表情で寝台の上に坐っています」
「そうだろうね。確りしているだけに、気持は暗いだろう。睡眠は?」
「やや不眠症の傾向が見られます。眠りが浅く、昨夜も夜半に三、四回眼を覚ましているようです。その代り、昼間は眠っていることが多いです。そして眼を覚ましている時は、気持が鬱積《うつせき》するのか、何とも言えない暗い顔をしています。それでいて、いま言いましたように、何を訊いてもはっきりしているんです」
「まあ、当分の間、そういう状態だろうね。気持の暗いのは可哀そうだが、仕方あるまい」
佐沼は言った。
山代大五の気持の暗さは、佐沼には充分想像できた。現在に繋がる三年間の記憶を喪失しているということは、本人にとっては大変なことであろう。過去の一部がすっぽりと欠けてしまっているのである。人間は誰でも過去を背負って、現在を生きているのであるが、その現在に繋がる重要な過去の一部がすっぽりと脱け落ちてしまっているということは、現在自分が生きているということの意味が判らないことである。なぜ、いま自分はここに居るのか。山代大五にはそれが判らない筈である。
「今日来て戴けましょうか」
高崎は言った。
「今日はちょっと無理だろうね。留守中の仕事がたまっていてね」
いったん言ったものの、佐沼はすぐ考えを変えて、
「よし、行くとしよう。夕方、行ってみよう」
そう言い直した。やはり山代大五の暗い顔を見てみたい気持が心のどこかにあった。
佐沼はそれから夕方までの時間を、自分の部屋で過した。学生の面会が一人あった。卒業してから自分が進んで行く方面についての相談であった。その学生が帰って行くと、書棚の上に載せてある置時計の針は五時を示していた。この間までは、五時というとすっかり暗くなっていたが、いまは陽こそ当っていないが、まだ明るくて、暮方の感じではない。
佐沼は病院へ行くために大学の建物を出た。例の梅はすっかり散っていた。佐沼は、あれほど梅の咲くのを毎日のように待ち侘《わ》びていたのに、肝心の満開時を知らなかった自分に気付いた。暦は四月にはいっている。
佐沼は病院の建物へはいると、ちょっと記録室を覗いて、そこに誰も居ないことを知ると、さっさと一一九号室へと足を運んだ。佐沼はノックして、病室の扉を開けた。部屋は暗かった。窓にカーテンがおりているためもあったが、薄暗い部屋の寝台の上に胡座《あぐら》をかいて坐っている山代大五の姿が、なるほど何とも言えない陰気な暗さで迫って来た。動物園の檻《おり》を覗き込んだ時、そこに感ずるようなけだものの持っている暗さである。
佐沼は入口で立ちどまって、もう一度山代大五の方を窺《うかが》うようにした。やはり動物の持つ暗さだなと思った。人間と動物の違いは、過去を持っているか、いないかであると言っていいかも知れない。
「どうです?」
事務的にそう言いながら佐沼はいまや山さん≠ナも何でもない、けだものの暗さと悲しみを持つ男の方へ近付いて行った。
山代大五は初め佐沼の顔を見詰めるようにしたが、相手が佐沼であることを知ると、ちょっと居住居を正して、黙って頭を下げた。
「大分よくなったそうですね」
佐沼が言うと、
「お蔭さまで」
と、山代大五はもう一度軽く頭を下げた。
「気分はどうです」
「ずっとさっぱりしました」
「頭の調子は?」
すると、山代大五は右手を頭に持って行きながら、
「自分でははっきりしたと思います」
と、低い声で言った。
「そりゃあよかったですね」
「でも」
「――」
「でも、ある期間のことを完全に忘れているようです。どうも信じられないことですが、何一つ思い出さないんです」
山代大五は、抑揚のない平板な調子で言った。無気力と言っていい言い方だった。
「そりゃあ、いまに思い出しますよ」
何でもないことのように佐沼は言ったが、しかし、これはもしかすると、記憶を取り戻すのに相当の期間を要するのではないかという気がした。自分自身である期間の記憶の喪失を知っていて、それを口に出すことは、全く正常の人間のやることである。ある期間の記憶を失っているという一点を除けば、他の部分は完全に癒ってしまっているということである。高崎の言ったように、このまま固まってしまうのかも知れない。
「思い出すでしょうか」
山代大五はふいに顔を上げた。顔は相変らず無気力であったが、その口調には、佐沼に詰問するような烈しいものが籠められてあった。
「思い出しますよ」
「思い出さない人もありますか」
「そりゃあ、記憶を回復するまでに要する時間は、人に依って違いますが、まず大抵思い出すと思いますね」
そう言ってから、佐沼は多少断定的に言い直した。
「思い出しますよ。私の取り扱った例では全部の人が思い出している」
「そうでしょうか」
「まあ、貴方はそんなことを心配する必要はない。心配の方は、私や高崎先生がします。貴方は安心して療養していればいい」
それから佐沼は、慰めるように軽く山代大五の肩を叩いた。山代大五は肩を叩かれるままにしていたが、そうした態度には幾らか不貞腐《ふてくさ》ったものが感じられた。
「貴方は新聞社でみんなから山さんと呼ばれていましたね」
佐沼が言うと、
「そうです」
山代大五は頷いた。それから佐沼が過去形を用いて言ったことに抗議するかのように、
「いまでも、そうです」
と言った。
「いまは新聞社に居ないから」
「そういうことらしいんですが、僕にはそれが判りません」
「まあ、そのことはいいでしょう」
そう言ってから、
「貴方は社長さんを殴ったことを覚えていますか」
佐沼は訊いてみた。
「そんなことはありません」
「しかし、そういう事件で、貴方は新聞社を退社しているんです」
少し残酷な気はしたが、佐沼はそれを敢《あえ》て言った。このくらいの刺戟には耐えられる程度に回復していると思った。
山代大五の表情は変らなかった。佐沼は相手が驚くかと思ったが、これは佐沼の期待の方が無理だった。社長を殴ったと言われても、その実感がない以上、それに対してさして心は動かされないだろう。
「貴方は信じないでしょうが、ともかく、そうした事件で新聞社を罷めて、東京へ出て来たんです」
佐沼が言うと、
「そうかも知れませんが、それは何かの間違いではないですか。私は誰よりも社長に目をかけられていて部長にも抜擢《ばつてき》してくれたし、私も社長を尊敬しています」
「しかしですねえ、貴方は前に副部長と――」
その佐沼の言葉を遮《さえぎ》って、
「どんな場合でも、私は社長だけは殴らんと思いますね。誰を殴っても、社長だけは殴らん」
山代大五は少し強い口調で言った。
「よろしい。じゃ、何かの間違いかも知れませんね」
佐沼は相手を昂奮させぬために、自分の方で二、三歩退却することにした。すると、山代大五は、
「私はあの人と――」
そう言いかけて口を噤んだ。
「あの人と?」
佐沼はそのあとを促すように言った。
「いや」
相手は急に暗い顔をして、
「私は社長と最近新聞社の近くの食堂で食事したような気がするんです。そして新聞の紙面のことで相談を受けた。しかし、それはずっと前のことかも知れませんね」
と言った。瞬間、山代大五は口を歪《ゆが》め、何とも言えぬ苦しそうな表情をとった。
佐沼は山代大五の急変した表情を見守っていた。過去の一部を忘れている男の、地獄の苛《さいな》みが、いま山代大五を襲っているようであった。その顔は苦しい表情から狂暴とさえ思われるものに変り、それからやがて救いのない暗いものに変った。
恐らく山代大五が社長と食事をしたというのは、三年以上前のことなのであろう。それが彼にはつい最近のことのように思われている。しかし、その間に彼自身も知らない過去の一部が視界の全く利かない深い靄の中に閉じ込められたまま置かれてあるのである。たとえ社会部長であることを思い出しても、山代大五に於ては現在が記憶の失われているある時間を飛び越えて、その前の記憶を持っている時間とくっついているのである。現在が過去へ逆行してしまっているのだ。
しかし、こうした記憶喪失者の頭脳の中に於ける現在の時間と、記憶を喪失している時間と、その前の記憶を持っている時間との関係については、現代の精神医学もまだはっきりした結論を持っていないのである。山代大五に於ては現在の時間が、三年前の過去と直接繋がってしまって、その間の時間を完全に失っているように見えるが、しかし、これもただそのように思われるだけで、詳しいことは何も判っていないのである。
佐沼が取り扱った他の患者の場合では、山代大五の場合とは異って、現在の時間は過去に逆行することなく、記憶を失っている期間に対しての時間的感覚だけは残っている例が多かった。この場合、一カ月間の記憶の喪失は、その間の生活の歴史の喪失だけであって、時間的感覚は失われていないのである。山代大五の場合はその両方を同時に失ってしまったことになる。
佐沼には、山代大五の苦しみがどのようなものか想像できた。その苦しみは逆行している現在の時間を、もとの正しい位置へ引き戻す苦しみなのである。三年間の記憶を取り戻したいと願う前に、先ず混乱している時間の位置を、それが正しく占むべき正常な位置へと戻したいと思うに違いない。
「今日はこれだけにしておきましょう。まあ、心配しないで、ゆっくりお休みなさい」
佐沼が言った時、扉がノックされた。看護婦の一人が顔を覗かせて、
「こちらの患者さんに女の方が面会に来ていますが、どういたしましょう」
と言った。
「面会!」
佐沼は驚いて言った。山代大五に女性の面会があるというのは、どういうことであろうか。
「そうだね」
佐沼は即答を控えたが、この程度に回復している山代大五に特に面会人と会うことを禁ずる必要のないことに気付くと、
「いいだろう。通して上げてくれ」
と言った。看護婦はいったん去って行ったが、間もなく再び扉がノックされ、こんどは三十年配の長身の和服姿の女性がはいって来た。
面会人はちょっと佐沼の方へ会釈してから、山代大五の方へ顔を向けると、
「まあ、山代さん」
と、第三者にもそれと判るある感慨を籠めた口調で言った。その女の口のきき方が佐沼には好もしく思われた。それに対して山代大五は何の反応も示さず、黙って面会人の顔を見守っていた。
「山代さん、どうなさいましたの。わたくし、知っている方のお見舞に参ったんですが、このお部屋の前を通って、ふと名札を見ましたら、そうしたら、お名前が書いてあるじゃありませんか」
それから女は佐沼の方に、
「ほんとに驚きましたわ。全然存じませんでしたので」
そう言ってから、女は改めてまた山代大五の方へ顔を向けた。この時ははっきりと記憶喪失者の顔には困惑の表情が浮かんでいた。山代大五は視線を面会人から外して窓の方へ投げていたが、その横顔には当惑と混乱の入りまじった異様なものが走っていた。
「出ましょう」
佐沼は面会人の方に言った。面会人を引き取らせるに限ると思った。瞬間、佐沼は女の色白の顔が異様に歪むのを見た。何か叫びそうに半ば口を開きかけたが、それにいかにも耐えたといったように、そのまま相手は佐沼の顔に眼を当てた。
「どういうことでございましょう」
「とにかく、出ましょう。病人は疲れていますから」
佐沼は面会人に面会を打ち切ることを促すと、自分が先きに立ってその部屋を出た。佐沼は女の出て来るのを待って、
「貴女が誰か判っていないようですね」
そんな風に言うと、相手は、
「あの、山代さんはもしかしたら――」
と、それだけ言った。あとは言葉を口から出すことが怖いようであったが、
「頭が変になっているんでございましょうか」
女性の食いつくような眼を佐沼は感じた。
「いまのところ記憶の一部を失っていますが、それ以外は正常です」
「まあ」
「貴女は古くからのお知合ですか」
「いいえ」
女性は首を振った。必死な表情だった。
「ごく最近です」
女は言った。
「最近って、どれくらい前ですか」
「そうでございますね。初めてお会いしましてからでは半年近くになりましょうか」
女は言った。
「そうでしょう」
佐沼はほっとして言った。これがもし五年とか十年とか言われると、事態は混乱してしまうわけであったが、そうでないことが佐沼の気持を明るくした。
「山代大五氏は大体三年程の記憶を喪失しているんです」
「記憶を喪失すると言いますと、その間のことは何も覚えておりませんの」
「そうです」
「その間に会った人のことも思い出さないんでしょうか」
「そうです」
「じゃ、山代さんはわたしのことをすっかりお忘れになっているんでしょうか」
「恐らく、そうでしょうね」
それから佐沼は、
「向うの部屋へ参りましょうか」
と言った。女は歩き出さないで、そこに立っていた。
「いろいろ山代さんのことで伺いたいことがあります」
佐沼はそう言って、記録室の方へ歩き出した。二、三歩おくれて女はついて来た。
「どうぞ」
佐沼が記録室の前で言うと、女は、
「よろしゅうございますの、ここ」
と、部屋の内部を窺うようにしてから、何か考えている風だったが、
「ちょっと連れに断わって参りましょう。待っているといけませんから」
そう言うなり女は病院の表玄関の方へ向って歩き出した。
佐沼は記録室へはいったが、何となく、女が去って行ったことが気になった。もしかすると戻って来ないかも知れぬという微かな懸念があった。佐沼はすぐ部屋を出た。正面玄関まで行ってみたが、女の姿はどこにも見えなかった。
佐沼は、しかし、相手が自分をまくような人物でないことを思うと、よほど記録室へ戻ろうかと思ったが、念のために、そこに居た下足番の老人に声をかけた。
「いま、ここから女の人が出て行った?」
「女の方ですか。着物の――」
「そう。――三十ぐらいかな」
「じゃ、出て行かれました」
まだ追いかければ追いつけると思った。山代大五の東京における住所ぐらい訊かない術《て》はないと思った。
「一人だったね?」
「さあ、それは。――くるまでしたから」
その老人の言葉が佐沼をそこに棒立ちにさせた。
「くるまで帰って行ったの?」
佐沼が訊くと、
「そうです。くるまは向うで待っていたんですが、手を挙げると、ここへ廻って来ましてね。それに乗って帰って行かれました。さあ、誰も乗ってはいなかったと思うんですが、そこのところは」
老人は言った。
「うむ」
思わず唸《うな》るような声を佐沼は出した。まさにしてやられたといった感じだった。何も一介の医者である以上、患者の訪問者を訊問する権利はないが、全く思いがけず訪問者が現われたのであるから、詳しいことは何も判らぬにしても、山代大五なる人物が東京のいかなるところで、いかなることをしているかぐらいは、その訪問者から簡単に聞くことができた筈であると思った。
訪問者が佐沼と話すことを避けて、逃げるように病院から姿を消したのは、山代大五と自分との関係を知られることを恐れたために違いなかった。山代大五が正常であるなら、会っていっこうに差支えないが、山代大五が記憶を喪失していて自分を知らないなら、何も自分から名乗り出す必要はない。そういった判断が、瞬間、彼女の頭に閃いたものと考えていいであろう。
しかし、そうした判断は、もし山代大五に他の訪問者があった場合でも、同じように働くかも知れない。必ずしも彼女と山代大五の関係が特殊なものであるということを示しているわけではない。肉親の者は別にして、誰だって、身許引受人のない記憶喪失者の知人であることを表明することを望む者はないであろうし、なるべくなら引掛りにならないでおく方がいいという考え方を持つであろう。まして、山代大五が記憶を失っている三カ年の間に関係を持った人物なら、そうした判断は、一層強く働くかも知れない。余程の特殊な事情がない限り、自分のことをすら忘れている相手に、自分を名乗り出ることは希望しないであろう。
いまの女の訪問者にしても、彼女の方は山代大五を知っており、彼との間に何らかの関係を持っているのであるが、山代大五の方は彼女を知らないのである。彼女との間にいかなる関係があろうと、それは山代大五に於ては何もないと同じことである。自分の方だけ関係を持ち、相手の方は何のかかわりを持っていないというそうした関係というものは、考えてみると奇妙なものである。
佐沼は、半ば呆然としながら、そんなことを考えていた。勿論極く短い時間のことであるが、佐沼はそうした思いに揺られながらくるまの往来の烈《はげ》しい街路の方へ視線を投げていた。
佐沼は記録室へ戻ると、さっき訪問者を一一九号室へ案内した若い看護婦がそこに居るのを見ると、その看護婦の方に、
「面会に来た女の人の名前は控えてないだろうね」
と声をかけた。
「控えておきませんでした」
「それはまずかったな」
「あの――」
看護婦は何か弁解するように言いかけたが、あとは、
「すみませんでした」
と、素直に謝った。しかし、これは必ずしも看護婦の越度《おちど》というわけにも行かなかった。患者への面会人の名は、一応書き込んでおくという原則にはなっていたが、それは殆ど励行されてはいなかった。そうした面会人の名簿といったものが、実際に役立つことはめったになかったからである。
すると、若い医局員が、
「さっきの女の面会人ですか。美人の――」
と言った。美人と言えば美人と言っていいかも知れない。
「そう」
佐沼が言うと、
「あの人ならここへ来る前に外科病棟を歩いていましたから、外科にも何か用事があったんじゃないですか」
「外科病棟で見掛けたんだね」
「そうです」
「じゃ、外科病棟のどこかへ見舞に行ったんだな。そう言えば、自分でも誰かを見舞に行ったんだというようなことを言っていた。こっちの山代大五氏の方は、偶然名前を見付けて、はいって来たものらしい」
佐沼は調べる気になれば、彼女の住所や名前ぐらいは判るかも知れないと思った。
「外科の方で訊いて参りましょうか」
看護婦が言った。
「そうだね。判ったら訊いて来て貰おう」
「名前だけで宜しいでしょうか」
「名前と住所。――勤めているのなら、勤め先でもいい。訪ねて行きたいんだ」
それからあとは冗談の口調で、
「あれほどの美人だと、一応名前と住所ぐらいは知っておかないとね」
と言った。佐沼はめったにこうした冗談を言わなかったので、部屋に居た全部の者の口から笑い声が起った。看護婦の一人が、外科病棟へ行くために記録室を出て行った。入れ違いにはいって来た高崎に、
「明日山代大五氏に記銘力テストをやって貰おうか」
佐沼はこんどは真面目な口調で言った。
外科へ出掛けて行った看護婦が戻って来るまで、佐沼は記録室で待っていた。十分程すると、看護婦は手に小さい紙片を持って戻って来た。
「七浦敏子さんという方でした」
看護婦は言った。佐沼は相手から紙片を受け取って、それに眼を当てた。なるほど七浦敏子と記されてある。
「これ本人が書いたの」
「いいえ、わたしが写して参りました。置いて行った名刺にこう書かれてありました」
「住所は?」
「住所は書いてありませんでした」
「名前だけか」
佐沼は多少落胆して言った。
「住所は訊いても判らなかったの」
「それが――」
看護婦は言ってから、
「外科に自動車事故で入院した孤児がおりますでしょう。新聞にちょっと載りましたが」
「うむ」
その記事のことは佐沼も知っていた。よくは憶えていないが、何でもくるまの往来の烈しい車道に小犬が飛び出し、それを助けようとした少女がくるまに跳ね飛ばされた事件であった。単にこれだけのことなら新聞記事にはならないが、たまたまその少女が孤児だったので、夕刊紙の社会面の隅の方に取り上げられたのである。
「その子に見舞金を持って来た人なんです」
「うむ」
「お金に名刺を付けて置いて行ったんですが、名刺には名前だけしか刷られてありません」
「なるほどね」
感心したように佐沼は言った。七浦敏子なる女性のそうした慈善的行為に感心したのではない。初めから計画して、うまく仕組まれでもしてあるかのように、たまたま山代大五の面会人があると思えば、ちゃんとその住所が判らないようにできていると思った。
「美人であるばかりでなく、なかなか心根も優しいじゃないですか」
若い医局員の一人が言った。
「そう。それに七浦敏子という名前もいい。映画女優か歌手に、こういう名前の人はないか」
佐沼は言った。
「ありませんわ」
看護婦の一人が笑いながら答えた。
「しかし、まだ調べる方法がある。名前が判っているんだから」
ここまでは冗談口調だったが、
「電話帳を繰って、七浦という姓の家へ電話を掛けてみればいい。しかし、それまでにする必要はないね、医者としては」
佐沼は言った。本当にそう思った。
佐沼は七浦敏子なる女性の住所を調べる方法が一つ残されていることを知っていたが、さすがにその方法は取らなかった。そうした行為が一人の医者としてやるべきことの限界を越えているようにも思われたが、単にそのためばかりではなかった。山代大五がここ三年程の間東京に於ていかなる生活を持っていたかということを知るには、医者としてまだ取るべき方法が残されていたからであった。医者としては、まさしくそうした自分の領分で努力してみるべきだと思った。
七浦敏子の住所を調べ出し、もう一度七浦敏子に会って、彼女の口から山代大五の生活を聞き出すより、できるならそれを山代大五自身の口から聞き出すべきであった。実際にそうした方法はないわけではなかった。
特殊な薬品を服ませると失われている記憶の一部をべらべらと口に出す患者があることは、佐沼は自分の経験から知っていた。その薬品に依って、いかなることが行われるか、患者の脳の内部の秘密は知るべくもないが、しかし、患者が失われた記憶の一部を、その時だけ取り返すといったことは、実際にあり得ることであった。薬品の効き目が消えると、患者は自分が何を喋ったか全く憶えていないのが通例である。喋ったことをノートしておいて、それを見せても、患者は大抵自分が喋ったことを理解することはできない。しかし、彼が口走ったことは、まさしく彼が失っている記憶の一部分なのである。
そうした方法を採ってみれば、山代大五は彼が失っている記憶のどこか一部を、彼自身の口から語り出すかも知れない。そしたら、それを手懸りとして、そこから彼の失っている三年の歳月を順々に引き出すことができないものでもなかった。こうした方法が残されている以上、佐沼は電話帳を繰って、七浦敏子の住所を探し出すといったことはひかえるべきだという気がした。電話帳の頁《ページ》をめくる仕事は警察関係の人に任せるべきである。医者はそれを自分の専門の分野の方法で解決すべきだ。
「電話帳を繰ってみましょうか」
看護婦の一人は言ったが、
「まあ、いいだろう」
佐沼はそんな風に言った。
「電話帳を繰るのはわけはありませんけど」
「わけはないが、頁をぺらぺらとめくるのは余り見よいものではないね。よそう」
最後の「よそう」を佐沼は強い口調で言うと、何か仕事でも思い出したように、ふいに記録室を出て行った。
翌日の午後、佐沼が病院へ出掛けて行くと、丁度高崎の手で、山代大五の記銘カテストが行われているということだったので、佐沼はすぐ病室へ顔を出した。
高崎は山代大五の枕許に椅子を持ち寄って、関係を持った言葉についてのテストを行っていた。山代の顔は佐沼にはやはり暗く見えた。
「花」
と、高崎が言うと、
「蝶々」
と、山代大五は答えた。
「そう、それはいいですね。次は氷」
「雪」
「そう。次は独立」
「出世」
「では、役者」
山代大五はここでちょっと考えていたが、
「舞台」
と答えた。
「そう、それでいいですね。次は――」
高崎は順々に予《あらかじ》め山代大五に教えてある有関係対語についてテストをして行った。勲章∞夕立∞幸福∞女中∞鳩%凾フ言葉が、高崎の口から出た。その中で、幸福の対語だけをぬかして、あとは一秒か二秒で正当な答が、山代大五の口から得られた。
「何回目?」
頃合を見計らって佐沼は高崎に訊いた。
「三回目です。正当な答は一回目は三、二回目は五、いまの第三回目は九です」
高崎は説明してから、こんどは無関係の言葉の対語テストヘとはいって行った。この方になると初めから山代大五は詰まった。
「螢」
高崎が言うと、山代大五は四、五秒の時間を置いてから、
「忘れました。老人だったかな。――老人」
と言った。
「軍艦でしょう。老人ではない。軍艦でしたね。次は雨戸」
これに対しても、山代大五は真剣に考え込んでいる表情をとっていたが、十秒程してから、
「軍艦」
と答えた。
「違います。西瓜《すいか》、西瓜ですよ」
「西瓜でしたか。どうも、いかんな、ごちゃごちゃになって」
山代大五は含羞んだ表情をとった。
高崎の口からは、練習∞材木∞時間∞柳≠ニいったような言葉が、次々に飛び出した。しかし、それに対して、山代大五は二つ正しく答えただけで、あとは尽く間違っていた。
「無関係対語の方は、一回目一、二回目、三回目はどちらも二つずつです」
高崎は言った。
臨床的にはさしてこれと言って目立った記銘障害は認められないが、しかし、テストの結果から見ると、多少の問題があった。
有関係対語のテストの方は、尋常値第一回8、第二回9、第三回10に対して、第一回3、第二回5、第三回9であるから、それほど大騒ぎするほどの欠陥とは言えないが、無関係対語テストの方では、明らかに欠陥と呼ぶべきものが認められた。尋常値第一回4、第二回7、第三回9であるに対して、山代大五の場合は、第一回1、第二回2、第三回2と、大分大きい開きを持っている。
「片方はちょっと――」
佐沼が言うと、
「一週間後にもう一度やってみましょう。両方とも大分異った数字が出るでしょう」
そう高崎は言った。
「ついでに今日、イソミタールを用いてみたらどうかね」
佐沼が言うと、
「そうですね。じゃ、三時からの臨床講義にやることにしましょうか。よろしいですか」
「いいだろう」
佐沼は言った。丁度佐沼の受け持っている臨床講義が三時からある日に当っていた。その時、佐沼は山代大五にイソミタールを注射してみようと思った。薬品の力に依って、山代大五の脳の暗い洞窟の中に一条の光が射し込むかも知れない。失われている記憶のどこか一部分を、山代大五は自分自身の口で語り出すかも知れない。
佐沼は改めてベッドの上に坐って俯いている山代大五の方へ眼を当てた。佐沼と高崎の会話をどのように聞いているのか。患者は例の暗い表情を見せたまま視線を自分の膝の上に落している。
「疲れますか」
佐沼は訊いてみた。
「いいえ」
山代大五は顔を上げて、はっきりした表情で答えた。そして、
「疲れませんが、やはり、私の頭はどうかしています」
と言った。
「そりゃ、少しはどうかしているでしょう。あれほどの、何日か意識を失ってしまうような怪我をしたのですからね」
「きのう面会に来た女の人をどうしても思い出さないんです。本当にあの女の人に会ったことがあるんでしょうか」
山代大五は浮かない顔で言った。
「会っていますね。会っていなかったら、貴方にあんな口のきき方をする筈はない。しかし、心配は要りませんよ。もう何日かしたら、思い出しますよ」
佐沼はいつも言う慰めの言葉をこの場合もまた口から出した。
佐沼はいったん自分の部屋へ帰ったが、三時にもう一度病院へ出掛けて行った。山代大五が横たわっている一一九号室の筋向かいの部屋が、臨床講義の部屋になっており、そこには小さい教壇と黒板が置かれ、それに向い合うようにして、椅子が二十程並べられてあった。
佐沼がその部屋へはいって行った時は、すでに医局員や学生たちが、それぞれ椅子に腰を降ろして、雑談していた。女の学生も四、五人混じっている。佐沼は、一番前の列に腰を降ろしていた高崎に、
「じゃ、始めようか」
と言った。高崎が立ち上がって部屋を出て行くと、佐沼は教壇の横手に椅子を引張って行って、自分だけ窓際に陣取った。
佐沼の授業はいつもこのようにして行われた。部屋へはいる時、何ということなしにちょっと頭を下げたが、それが授業開始の合図である。医局員や学生の方は、佐沼が部屋にはいって来た時、少し居住居を正すように体を動かしたが、それが答礼の代りであった。
暫くすると、べッドヘ横たわったまま、山代大五が高崎と婦長に附き添われてやって来た。ベッドは教壇の前へ置かれた。山代大五は白布で全身を覆い、顔だけを出していたが、眼はつむられていた。
佐沼は、ベッドに近寄って、山代大五の顔を覗き込んでから、
「眠っているの?」
と、高崎に訊いた。
「いや、起きている筈です」
高崎はそう言ってから、自分だけ教壇に上り、山代大五がいかなる事件でこの病院に運び込まれて来たか、それから病院に入院してからは、いかなる経過を辿って来ているかを、カルテに眼を当てたまま説明した。ところどころ、カルテに書き込まれていることを棒読みにした。
「もうちょっと、大きい声で」
途中で佐沼は注意した。高崎は平生は高声で話すくせに、こうした壇上に立って話をするとなると、その声は聞きとれぬほど小さかった。高崎は山代大五の病状とその経過を十分程かかって説明した。その間に医局員や学生が二、三人、席を立って山代大五の顔を覗き込みに来た。
「じゃ、注射を打ちましょうか」
高崎は一応佐沼に伺いを立ててから、婦長の方にめくばせして、二人で一緒に部屋を出て行った。
高崎と婦長は部屋へ戻って来ると、すぐ山代大五のベッドに両側からかぶさるようにして、注射の作業に取りかかった。高崎は婦長から受け取った注射器を右手にかざすようにしたまま、山代大五の右腕の静脈を探していた。
佐沼はこれまでに何回かイソミタールの注射に依って、記憶喪失者の脳の暗い洞穴に何条かの光線を射し入れることに成功した経験を持っていた。この薬品に依って昂奮状態に陥り、質問することに対して喋り出す者と、反対に深い睡眠の中に落ち込んでしまう者とあった。注射して二、三分経ってから、佐沼は寝台へ近付いて、山代大五に、
「どう、気分は?」
と、そんな言葉をかけた。山代大五は返事をしないで眼をつむっていた。明らかに眠りに落ち込もうとしている顔であった。
「眠ってはだめ。起きていらっしゃい」
佐沼は山代大五の体を強く揺すぶった。高崎もまた、
「眠ってはいかん。起きてて起きてて!」
と言いながら、佐沼と同じように山代大五の肩を揺すぶった。そうしているうちに、山代大五は突然眼を開き、あたりを見廻すようにした。
「そう、そうしていらっしゃい。眼をできるだけ大きく開けて」
それから佐沼は、
「いつ東京へ出て来ました」
と最初の質問を発した。山代大五は返事をしなかった。
「判りませんか」
それに対して、山代大五は軽く頷くようにした。
「東京ではどこに住んでいました?」
これに対しても返事は得られなかった。佐沼の口からは次々に質問が発せられて行った。
――何の仕事をしていました?
――奥さんは?
――どこのレストランが好きです?
――お酒はどこで飲みました?
――煙草は何を吸っていました?
――どこの駅から電車に乗りました?
――時々、銀座にも出たでしょう。銀座というところを憶えていませんか?
――有楽町の駅を知っていますか。これも判らん、困りましたね。
何を訊いても、いまはすっかり睡気を失って常時よりはっきりしている山代大五の顔の表情は変らなかった。質問される度に、真剣に何か考えている風に見えたが、貝が蓋《ふた》を固く閉じてしまったように、その口は動かなかった。佐沼は自分が次に発する質問を考えていた。
佐沼は深い海の底を覗くような気持で、山代大五の顔を見守っていた。いかなる質問の矢を投じても、それがただ音もなく呑み込まれて行くような思いだった。何の手応えもなく反応もなかった。
「住んでいるところはどこか思い出しませんか。毎日電車かバスに乗ったでしょう。一体そこはどこですか。判らない? 困りましたね。品川? 大井町? 田園調布? 中野? 荻窪? 池袋?」
佐沼は頭に思い浮かぶままに、なお幾つかの地名を口から出して行った。そして最後に二つ三つの橋の名を言ってみた。依然として山代大五の表情には変りはなかった。
「じゃ、多摩川を知りませんか」
佐沼が多摩川という名を口に出した時、ふいに山代大五の表情は変った。佐沼には山代大五の顔が、瞬間全く別人の顔に見えた。眼はらんらんと輝き、顔のあらゆる筋肉が動き出したように思えた。佐沼は、山代大五の口辺の筋肉が動くのを見た。最初口をもぐもぐさせているような感じで、いっこうに声にはならなかったが、やがてはっきりと言葉と言えるような言葉が口から飛び出した。
「私は多摩川が好きです」
山代大五は言った。その言葉の調子は、佐沼や他の医局員たちの知っている山代大五の言葉とは、まるで違ったものだった。いままでの山代大五の言葉には何かが欠けていた。何か大切なものが一つ失くなっていた。それは声の抑揚であるか、色艶《いろつや》であるか、よくは判らなかったが、ともかく大切なものが失くなっている感じで、常人が口から出す言葉とは少し異ったものであった。
「私はこの間あの川の川|縁《べ》りを歩いた。寒かった。川風が冷たかった。土堤が長く続いていた。どこまで歩いて行っても、土堤はつきなかった。磧の石が白かった。なぜあんなに石が白かったのか」
ここで山代大五は口を噤んだ。佐沼は、高崎が学生たちの一人からノートを取り上げ、それに鉛筆を走らせているのを見た。高崎はこうした場合のために、ノートと鉛筆を用意して、それを教壇の机の上に置いてあったが、それを取りに行く暇がなかったのか、最前列の椅子に腰を降ろしている学生の一人のノートを、奪うようにして取り上げていた。
「どこまで行っても、土堤はつきなかった、でしたね」
高崎の低い言葉を医局員の一人が訂正した。
「どこまで歩いて行っても、と言いました」
この声も低かった。そこに居る者は山代大五の口から出るかも知れぬ次の言葉の方が重大だった。
山代大五は暫く黙っていたが、佐沼は山代大五が続けてまだ何か喋るに違いないと思った。相手の顔がまだ生気を失わないで、一種の昂奮状態にあることがはっきりと見てとれたからである。と、果して山代大五はまた口をもぐもぐさせて、それを声にすることを努力してから、この前と同じ張りのある口調で喋り始めた。
「私たちは昼食を食べるところを探した。雨が落ちて来たので、一緒に駆けた」
ここで山代大五はまた口を噤んだ。佐沼は、相手の言葉を独語にしないで、会話の形へと持って行くために、すぐ山代大五に訊いた。
「誰と一緒でした」
「――子」
山代大五はすぐ言った。
「――子? それ名前ですか」
「そうです」
それから相手は、
「応接室の窓から見ると竹がきれいだった」
「どこの応接室です?」
「どこのって?」
山代大五はうるさい質問者を咎《とが》めるように、
「そりゃ別荘です」
「別荘、どこの?」
これには答えないで、
「十二時まで歩いた。真暗だった。川の音だけが聞えていた。畜生め!」
それだけ言うと、山代大五は眼をつむった。次の瞬間、佐沼は山代大五が再び病人の顔に戻ろうとしているのを見た。
「どこを十二時まで歩いたんです」
佐沼は訊いたが、その時は山代大五は完全に記憶喪失者の顔になっていた。返事は得られなかった。
「――子とか言いましたね」
と高崎が誰にともなく言った。
「女の名前じゃなかったんですか」
医局員の一人が言った。
「そう、多分女の名前でしょうね。たしか子がついていたんだから」
佐沼が言うと、
「子でなくて公かも知れません」
学生の一人が言った。
「――公より――子の方にしておく方が無難でもあり、それに何となくロマンの匂いがする」
佐沼の言葉で、どっと大勢の学生たちが笑った。
佐沼はもう一度山代大五を昂奮状態に置きたいと思った。そしてそれが不可能なことではないという気がした。ともかく、山代大五は喋ったのであった。たとえ、それが断片的な独語であれ、二分か三分の間、彼が失っているに違いない記憶の中のひとこまを、彼の脳裡に蘇るままに、言葉として口から出したのであった。
彼が喋っている間、彼は多摩川の川瀬の音を耳にしており、その日の寒かったことも実感として思い出し、男性か女性か判らぬが、ともかく彼の知っている人物と一緒に過した時間を頭の中に再現したのである。一度あった以上、それを二度望めないということはない筈であった。
山代大五は疲れたのか、全くの記憶喪失者の顔で、眼を閉じていた。佐沼は相手の意識をはっきりさせるために、さっき為したように、また山代大五の肩に手をかけて、そこを強く揺すぶった。
「さ、もう一度眼を開けて! 貴方は多摩川を散歩しましたね。その日は寒かった。そうでしょう」
山代大五は眼を開けたがその顔には何の反応も現わさなかった。
「多摩川が好きでしたね」
「多摩川!?」
山代大五は低く呟いた。
「多摩川を知っていますね」
「知りません」
「知らんことはないでしょう。貴方はいま多摩川を誰かと散歩したことを話しましたよ」
「知らんです」
少し憤ったように、むっつりした表情で、相手は答えた。
「多摩川へ行ったことあるでしょう」
「ありません」
「そこを散歩した時、石が白かった。そう貴方は言いました」
「石!?」
「寒い日だった。そして別荘へ行きましたね。別荘を思い出しませんか、別荘を」
「別荘!? 知りません」
「なるほどね」
佐沼はそんな言い方で、自分の希望を諦《あきら》めるほかはなかった。一度山代大五の脳裡に閃いた記憶の一部分は、ただその短い時間だけの生命で、いまや全く何の視界も利かぬ深く重い闇の中に閉じ込められてしまったのである。山代大五にとって、多摩川という川は再び何の関係もない川になってしまった。僅かの間、山代大五は過去の一部を取り返し、すぐまたそれを失ってしまったのであった。
山代大五が病室へ連れ戻されて行くと、入れ代りにこんどは若いノイローゼの患者が寝台ごと運ばれて来た。高崎に代って、受け持ちのやはり若い医局員が教壇に上がった。
五時に臨床講義が終ると、佐沼は軽い疲れを覚えて、すぐ自分だけ記録室に戻った。そしてそこの椅子に腰を降ろして、煙草に火を点けた。高崎がはいって来た。
「喋りましたね、少し」
と、彼はいきなり言った。多少高崎の顔は浮き浮きして見えた。山代大五の失われている記憶の一部を引き出し、それを山代大五自身の口から語らせたことが、自分のことのように嬉しそうであった。
「全部ノートしてあるね」
佐沼が訊くと、
「あります。カルテにちゃんと書き入れておきます」
と言った。
「僕も書き込んでおくことがあるから、明日でもカルテを僕の部屋の方へ廻してくれ給え」
「先生も書き込むことがありますか」
「ある」
そうは言ったが、佐沼は自分が山代大五について知っていることは、カルテに書き込むべき性質のものではないことに気付いた。
「そうだね。僕は僕で別にノートを作ろう。そしてそれを君に読んでおいて貰おう。受け持ちの君が当然知っておかなければならぬことだから」
「何ですか」
高崎は不審そうな表情をして言った。
「まあ、今夜にでも書くから明日でも読んで貰おう」
佐沼は真顔で言った。佐沼は山代大五という患者が、自分が過去に於て取り扱った何人かの記憶喪失者とは大分違っているという考えを持ち始めていた。もう入院してから一カ月以上になるというのに、依然としてある期間の記憶を喪失しているということは、高崎の言い方を借りれば、それはそれなりに固まり始めているということである。やがて山代大五は三カ年の記憶を失っているということだけを除いて、他はすべて正常な人間の健康な状態に戻るに違いない。もう一週間もして再度の記銘カテストをやったら、恐らくはっきりと彼が正常人の記銘力を持っていることが証明されるだろう。そうなれば、最早病人とは言えない。ただ三年間程の記憶がすっぽりと彼の過去から脱けているだけの話である。そしてその脱落している過去は、当分の間埋まらぬかも知れぬ。埋まるものならもうとうに埋まっている筈である。
山代大五が失っている記憶は一生埋まらぬかも知れないが、しかし、いつまたいかなる理由で埋まるかも知れない。そういった意味では、山代大五は佐沼にとっては、全快時の全く予想のつかぬ病人であるとも言えた。
ある時期になったら、結局は病院から出さなければならぬだろうが、そうした時が来ても、佐沼は自分が山代大五から離れることはできないと思った。こうした点が、山代大五は佐沼にとっては全く初めての患者であった。
それからこれまでに、過去の一部を失ったまま退院して行った患者もないわけではないが、しかし、山代大五のように三年間という長期にわたる記憶喪失者の例はない。佐沼の知っている限りでは一番長い場合でも五日か六日である。大抵の場合は一日か二日の記憶喪失であり、現在病院には山代大五のほかにもう一人の記憶喪失患者が居るが、この場合は五分間程の短い時間である。
それは十八歳の少年工員で、棒高跳びをやった時、棒が折れて地面に顛倒し、工場の医務室に運び込まれたが、間もなく頭部に激痛を覚え、三時間程意識を失った。意識回復後、どうしても棒が折れたと思った瞬間から医務室へ運び込まれるまでの数分間のことを思い出すことができないのである。
五分でも三年でも記憶を失うという医学的意味は同じであるが、本人にとっては大変な違いである。五分間の記憶の喪失は生きて行く上になんの支障もないが、三年となると、大きな問題である。本人は一歩も足を前に踏み出せないことになるだろう。人間は毎日毎日を、過去の力に依って前へ押し出されて生きているようなものである。その前へ押し出す力が、山代大五の場合は失われてしまっているのである。
「もう一週間か十日したら、街へ連れ出してみるんだね」
佐沼が言うと、
「私もそれを考えたんです。多摩川へ連れて行ってみたら、どういうことになるでしょう」
高崎は眼を輝かして言った。
「さあね」
「彼が曾てある寒い日、多摩川の川縁りを歩いたことは事実なんですからね」
「じゃ、臨床講義を多摩川でやろうか。陽気もよくなるから気持いいだろう」
佐沼は言った。口調は冗談だったが、佐沼はそのことを真面目に考えていた。山代大五が多摩川の川瀬の音をいかに受け取るか、彼をそこに立たせてみることは、確かに興味ある問題だった。
「山さん、どんな顔をするかな」
「山さんって?」
「山代大五氏は過去に於てそう呼ばれたことがある。いずれノートに書くがね」
佐沼は言って、初めて笑った。
翌日、佐沼は大学の自分の部屋で、午前中の時間を費して、山代大五に関する覚え書のようなものを作成した。これは全くの一人の医師としてのノートであって、山代大五という記憶喪失者に関して、これまで佐沼が知ることができたすべてのことを、箇条書風に綴《つづ》ったものであった。
佐沼が山代大五の曾ての勤先であった大阪の新聞社で社会部長から聞いたことは勿論、T市の曾ての止宿先であった家の老婆から聞いたことも、細大洩らさず書き綴った。
この二人の人物から聞き知ったことからは、極く朧《おぼろ》げではあるが、山代大五という人物の性格を知ることができる。一応人に好かれる優しいところをもった人物であり、どちらかと言えば、小さいことにこだわらぬ磊落《らいらく》な性格である。しかしそのような人物によくあり勝ちなむかっ腹を立てるところがある。自分が敬愛し、自分を引き立ててくれる人物をも、時と場合に依っては殴りかねないのだ。金に対しては恐らく浪費家であるに違いない。金に恬淡《てんたん》で人には幾らでも奢《おご》るが、その反面また人から金を借りることも平気である。浪費家であり、気前がいいくらいだから、当然のこととして、いつも金には苦労しており、方々からやむなく借金するということになる。
しかし、こうした山代大五の性格は、あくまで臆測《おくそく》の範囲を出ない。何もかも人から聞いた話を根拠にしており、恐らく間違ってはいないと思われるが、これが山代大五の性格であると断定することはできない。
過去の一部を失った山代大五は、それを失う前とは恐らく性格に大きい変化を示すに違いない。山代大五という人物を医者として取り扱う上に、記憶喪失以前の彼の性格がどのようなものであるかを知っておくことは大切であり、これらのことはそうした意味では貴重な資料と言うべきである。
それから失われた過去の中に於ける山代の生活の欠片は、いまのところ二つしか集っていない。一つは彼自身の口から語った多摩川を何人《なんぴと》かと散歩したということと、もう一つは彼が一人の女性と飛行機の旅をしたということである。
この二つのうち一つは、山代自身が口走ったことで、恐らく真実と見做していいものであろう。もう一つは佐沼自身がはっきりと自分の眼に収めたものではあるが、佐沼が見た機中の人物が正確に山代大五その人であるという判定を下すことはできない。佐沼の気持では、絶対に間違いないという確信があるが、しかし、それは確信であるにすぎない。そしてこの二つは共に、現在の山代大五の失われた記憶の中に埋没しているのである。
ゴ ル フ
山代大五の二回目の記銘力テストは、二週間の間隔をおいて行われた。有関係対語テストも、無関係対語テストも共に前回に較べてはるかに上昇していた。ただ無関係対語テストの方は前回と同様に学習効果はあまりはっきりしていなかった。
山代大五の表情は依然として暗かったが、しかし、医局員や看護婦に対する応対はもはや病人とは言えないほど確りしていた。曖昧な言葉も口から出さなかったし、態度も正常人と異るところはなかった。
佐沼は二回目の記銘カテストを行った日から、毎日のように山代大五に一時間ずつ院内の散歩を許可した。許可したというより強要したと言った方が当っているかも知れない。と言うのは、山代大五は少しも自分の病室から出たがらなかったからである。院内の廊下を歩くこともなるべくなら避けたい意嚮《いこう》らしく、まして病院の建物を出て庭を散歩するというようなことは、余程勧めない限り自分から決してやろうとしなかった。
佐沼は高崎に命じておいて、毎日のように山代大五に散歩することを勧めさせた。高崎の言葉で、山代大五は仕方なくベッドから降りると、看護婦に附添われて、ゆっくりと病院の廊下を歩き、それから表玄関から出てくるまの騒音の降っている病院の前庭を歩いた。庭を歩く時は、山代大五はどういうものか、人やくるまの往来の烈しい街路の方へは決して視線を投げず、自分の足許ばかりを見て歩いた。
山代大五のそうした様子には、少し離れたところから見ていると、いかにも依恬地なものが感じられた。街路の方などに、自分は決して関心も興味も持っていないのだ。幾らその方を見せようと思っても、自分は決して見てやらないだろう。山代大五の少し猫背のがっちりした背は、常にそのように語っていた。
佐沼は初め山代大五のそのような依恬地さは三、四日したら消えてしまうのではないかと思っていたが、その期待はみごとに裏切られた恰好だった。一週間経っても二週間経っても、山代大五は健康な人間が動き廻っている病院の垣《かき》の向う側の世界に、終始無関心な態度を持ち続けた。
ある日、佐沼は自分で山代大五を散歩に誘ってみた。
「玄関の横手の花壇にチューリップが咲き始めましたよ。それを見に行こう」
佐沼が言うと、
「チューリップ?」
その時だけ、山代大五は顔を上げて佐沼を見た。その時の様子は明らかにチューリップというものにある関心を示したものと言えた。
「ね、見に行きましょう」
佐沼の言葉で、山代大五は自分のベッドから降りた。
佐沼は山代大五が病室を出た時から、彼の態度を仔細《しさい》に観察していた。廊下から表玄関までは極く短い距離であるが、山代大五はその短い廊下を何回か立ち停まったり、向うから来る人をわざわざ廊下の端に身を寄せて避けたりして、ひどくのろのろと歩いた。それはいかにも玄関の方へ行くのが、厭《いや》で厭で堪《たま》らないといった風に見えた。佐沼は何回も足を停めて、うしろを振り返っては山代の来るのを待った。
「庭へ出るのが厭?」
佐沼が訊くと、
「いいえ」
と、山代大五は否定した。口では幾ら否定しても、厭なことははっきりとその動作の中に見て取ることができた。
玄関のところで、山代大五はスリッパを庭|履《ば》きに履き替えた。その時から依恬地な患者は決して視線を自分の足許から外さなかった。普通に顔を上げていれば、彼の二つの眼には否応なしに、街路の人やくるまの動きがはいって来る筈であったが、いかにもそれを怖れるかのように、決してそうしなかった。
佐沼は少し意地悪い気持から、山代大五を街路に口をあけている二本のコンクリートの柱の立っている門のところへ導いて行った。山代大五は相変らず執拗《しつよう》に眼を自分の足許に落し続けていた。
「今日はまた大変なくるまですね」
佐沼はそんなことを言ってみた。
「ええ」
山代大五は俯いたまま答えた。
「見てごらんなさい。あんなくるまが来た」
佐沼は言ったが、それでも山代大五は顔を上げなかった。
「厭ですか、道を見るのは」
「いいえ」
山代大五は首を振った。
「じゃ、どうして道の方を見ないの?」
「――――」
暫《しばら》く返事をしないで黙っていたが、やがて、
「厭じゃないんですが、怖いんです」
「くるまや人が多くて刺戟が強すぎるの?」
「そうじゃありません」
「じゃ、どういうの?」
また暫く山代大五は俯いたまま黙っていたが、
「僕はいまこの病院にはいっていますが、この病院にはいっているからには、ここへ来るのに病院の外の世界を通って来たのに違いありません。おそらくそうでしょう。天からこの場所へ舞い降りて来るわけはありませんからね」
山代大五はそんなことを言った。右頬に微かに自嘲的な笑いが浮かんだ。
佐沼は山代大五の俯いている顔を見守っていた。小学校の児童が難しい問題に答える時のように、山代は思い詰めた真剣な表情をしていた。
「そうですね。羽が生えていない限り、天から降って来るわけには行かない。貴方はこの外の世界から、この門をくぐって、ここへはいって来た」
佐沼は努めて軽い調子で言った。相手の口調が深刻だったので、それに同調しないように注意したつもりだった。すると、山代大五は、
「しかし、僕はそのことを記憶していない。東京という大都会の知識は、中学時代に一度上京したその時の知識しか持ち合せていません。先生も、高崎先生も、僕が東京に三年間生活を持っていたと言いますが、僕は何も覚えていません。僕がこの間、多摩川という川のことを口走ったと言いますが、そうしたことがどういう意味を持っているか、僕には判りませんが、しかし、現在の僕は勿論何も知っていません。多摩川などという川が、どんな川かてんで想像もつきません」
「うむ」
佐沼は神妙に聞いているほかはなかった。幾ら相手を深刻にしまいと考えても、話の内容の深刻さはいかんとも為し難かった。
「まあ、腰掛けて話しましょう」
佐沼はあたりを見廻して、どこかの石垣にでも使うらしい長方形に切った石が三、四個転っているのを見ると、その方へ歩いて行って、その一つに腰を降ろした。
山代大五も佐沼に倣って、佐沼と並ぶように、隣りの石に腰を降ろした。急にこの二、三日初夏らしくなった陽光が斜め上から落ちている。
「気持いいですね」
佐沼が陽を仰ぎながら言うと、その言葉の意味がすぐには判らなかったらしく、ちょっと戸惑って曖昧に頷いてから、甚だ不承不承な同感の仕方で、
「そうですね」
と、口に出して言った。佐沼は、うっかりしていたが、気持がいいというようなこと程、現在の山代大五から遠いことはないわけであった。
「風が寒くはないでしょうね」
「少しも」
そう言ってから、
「東京に住んでいて東京という都会を知っている僕と、東京を全然知らない現在の僕とは全く違った人間だと思います。そうじゃありませんか」
「うむ」
「そう考えるほかありませんよ。一緒だったら、同一人だったら、ずいぶんおかしなことです。過去の記憶を失った瞬間、そこで一人は死に、一人は生れたんです」
山代大五は言った。
「東京という都会を知っている過去の僕は死に、それと入れ代って現在の僕は生れたんです。こう考えるほかないと思います。ところが、先生をも含めて僕以外の人はみな、その点を混同し、二人の僕を一緒にして考えていると思うんです。そうなるとあらゆることが大変な混乱を生じます」
山代大五は言った。
「なるほど」
頷いただけで佐沼は黙っていた。相手が更に続けて喋りそうに思われたからである。
「だから、僕は自分が東京を知らないということに責任は感じませんよ。先生は僕が三年間の記憶を失ったと言う。記憶を失ったということになると、僕は何とかしてそのことを思い出そうと努めるでしょう。思い出すまでは医学的に欠陥を持った人間ということになりますからね。しかし、記憶を失ったということは、医学的な解釈だと思うんです。どうして一人が死に、一人が新しく生れたと考えてはいけないのでしょう。こういう考え方をすれば、僕は自分が救われると思います。人間が過去を失うということは、過去を背負っていた一人が死に、新しい一人が生きるということ、そう考えて、少しも差支えないと思うんですが」
「なるほど、そういう考えもできますね。そしてまたそういう考え方で、少しも悪いとは思いませんね」
「本当にそう思いますか」
山代大五は念を押すように言った。
「思います」
「そうですか。そうでしたら、ここでお願いしておきますが、今後はもう僕に変な薬品を注射して、その力で過去の断片を引張り出すようなことはしないで下さい。僕はもう既に死んでしまっている過去のもう一人の僕の行動に責任は持ちませんよ。多摩川の川縁りを散歩したなどと言われても甚だ迷惑です。その時の多摩川の磧の石が白く光っていたなどと強要するに到っては、ナンセンスというものです。冗談じゃない。僕は多摩川なんて川はあとにも先きにも一度も見たことはないんですからね。少くとも多摩川という川を一度も見たことはないということは、いまここに居る僕という人間の現実ですからね」
「判りました」
佐沼は素直に言った。イソミタールを注射した時山代大五が口走ったことを、高崎はかなり執拗に山代大五に押しつけたのではないかと思われた。そのためすっかり山代大五は気持を捻《ね》じ曲げてしまったのである。
「よし、そのことはよく高崎君にも言っておきましょう。それはそれとして、貴方は門の外の世界を見ないのは、見るのが怖いからだと言いましたね。それはどういうことですか。どうして怖い? 門の外の世界は、貴方の考え方に依れば、貴方には無関心な、貴方が責任を感じなくてもいい世界ではないですか」
佐沼は言った。病人に理論をふっかけるようで、多少ためらわれないでもなかったが、一応訊くだけは訊いておこうと思った。
「そりゃあ、怖いですよ」
いきなり山代大五は答えた。どうしてそんなことが判らないのかといった非難が、その言葉には籠められてあった。
「先生方は、もう既に死んでしまった一人の人間と、現在の僕とを繋ぎ合わせて、一人の人間にしようとしているじゃないですか。既に死んだもう一人の人間のやったことを、そのまま僕に、僕の過去として背負わせようとしているじゃないですか。門の外の世界は僕には無関係です。それなのに、お前は曾てこの中に住んで、この中で生きていたのだぞと、門の外の世界を僕に関係あるものとして、僕に押しつけようとしているじゃないですか。それも毎日、毎日のことです。厭ですよ、門の外の世界などは!」
一息に言ってしまうと、山代大五は両手で頭を抱えるようにして、もう厭で厭で堪らないといったように、首を滅茶苦茶に左右に振った。そして、まだ言い足りないことに気付いたのか、また顔を上げると、
「判らないんですかね、僕のこの堪らなく厭な気持が! 門の外の世界には、僕を厭がらせるものがいっぱい詰まっている。何か知らないが、そこにあるすべてのものが、堪らなく僕は厭なんだ。人が歩いていることさえも厭なんです。くるまが走っていることさえも我慢ならないんです。あいつらは僕の方へ押し寄せて来る。これでもか、これでもかといったように押し寄せて来る。俺はお前を知っているぞといったように押し寄せて来る。――冗談じゃない。そんな術には乗りませんよ。僕は知らないんだ。それは人違いというものです。そこに住み、その中に居たのは僕ではない。ほかの人間だ。そいつは死んでしまったのだ。ここに居る僕は全く違った人間です。そいつが死んだ時、その代りに僕は生れて来たんです。僕が何も知っているわけがない。――畜生め!」
山代大五は言うと、あとは暫く放心したように、眼を病院の建物の右手の方へぼんやりと投げていた。この場合も、病院を取り巻く門の外の世界へは、冷たく背を向けている感じだった。
佐沼は黙っていた。相手の昂奮が醒《さ》めるまで何も言葉をかけないでいる方がいいと思った。
佐沼は充分に相手の気持の静まるのを待ってから、
「花壇の方へ行ってみますか」
と言った。
「私たちはチューリップを見るために来たんでしたね」
相手にそのことを思い出させるような言い方を佐沼はした。
「チューリップ」
山代大五は口の中で呟いてから、
「見たくないです」
と、ぶっきらぼうな調子で言った。
「そう言わないで見に行きませんか。きれいですよ」
「見たくないです」
「見たくないのでは困りますね。じゃ、病室へ帰りましょう」
佐沼はそう言うほかはなかった。佐沼は山代大五を連れて病室へ戻った。山代は昂奮して喋ったためか、ひどく疲れているらしく、病室へ戻ると、すぐベッドに横たわった。
佐沼は記録室へ戻ると、そこに居た高崎に、
「ひどく悩んでいるね」
と言った。
「山代大五氏ですか。そうですね。二、三日前から急に確りして来たと思ったら、記憶を失っているということで苦しみ出しました。だから、何も考えるなと言っているんですが」
「恨んでいたよ」
「私をですか」
「そう」
「弱りましたな。恨まれては」
「思い当ることがあるだろう」
「あります。実は昨夜|逆鱗《げきりん》に触れましてね。この間イソミタールを注射した時喋ったことを少し執拗に訊いてみたんです。そうしたら、とうとう憤られました」
高崎は笑って言った。
「当分静かにしておくんだね」
「そうしましょう。しかし、何か記憶を取り戻すきっかけにならないものかと思いまして、つい訊いてしまうんです」
「憤るくらいだから本人にしたら、君、大変なことだろうね」
「――と思います。しかし、ともかく一度は記憶を取り戻したんですからね」
「明日、街へ連れて行ってみようと思う」
「街へですか。承知すればいいですが」
「こちらの持って行き方一つで、案外素直に行くんじゃないかね」
佐沼は言った。佐沼は山代大五を街の中へ連れ出してみようと思った。彼の言う自分の全く責任を持つ必要のない門の外の世界へ、彼を置いてみたら、どのようなことになるか、それを見てみたかった。
山代大五を病院の門の外の世界へ連れ出すにしても、山代にとっては最初の外出であるから余り刺戟の強いところは避けなければならなかった。それに時間的にも当然制限があった。
「やはり多摩川だろうかね」
佐沼は言った。多摩川ならそこへ行くまでに繁華な地区を通らなければならなかったが、くるまを使えば、途中の刺戟はそれほど心配したものではないと思われた。目的地の多摩川へ行き着いてしまえば、病人の弱った神経を刺戟するものはない筈であった。
「じゃ、明日多摩川へ行きますか」
高崎は生き生きとした表情で言った。
「多摩川を見たら、何か反応があるんじゃないですか」
「さあ」
佐沼は曖昧に言って、
「余り期待しない方がいいだろうね」
「別に期待はしませんが、曾て歩いたところですからね」
それから高崎は整理棚からカルテを取り出して、その頁をめくってから、
「私は多摩川が好きです。――はっきりこう言っています。しかも最初の言葉です。多摩川が好きだと言う以上、何回もそこへ行っていることを意味しています。一回や二回じゃないと思います。以前何回も行ったことのある場所へ行くんです」
だから当然何らかの反応があるに違いないといった高崎の言い方だった。
佐沼はさっき山代大五が昂奮して喋った言葉を思い出していた。山代大五にしてみたら、曾て何回も行ったのは自分ではないと言うだろう。それはもう死んでしまったもう一人の人間である。現在の山代大五とは何の関係もないのである。
山代大五の考え方と、高崎の考え方が、既にいま正面から衝突しているのを、佐沼は感じていた。
「多摩川へ連れ出しても、何も言わない方がいいな。ただそこへ連れ出してみると言うだけにしないと」
「勿論、そうです。余計なことは何も言いません。先生と私と、ほかに婦長さんにでも行って貰いましょうか」
「そうだね。こっちはその三人でいいだろう。全部で四人になるからくるまは大型を用意して貰おう」
佐沼は言った。
「承知しました」
高崎は答えてから、
「やっぱり何らかの反応はあると思いますね。もし反応があったら面白いです」
「まあ、ないと思っているんだね」
佐沼は実際に山代大五に何の反応も現われないだろうと思っていた。
翌日、山代大五を乗せたくるまが病院の門を出たのは、正午を少し過ぎた頃であった。山代大五をまん中にして、佐沼と高崎が両方の窓際の席を取り、婦長の朝井圭子は前の運転手の横の席に坐った。
山代大五はくるまに乗り込むまでは、そのことが堪らなく厭だというような憂鬱な顔をして、どうしてくるまなどに乗らなければならぬのかと、ぶつぶつ言っていたが、佐沼がくるまの扉を開けた時、ついに観念したらしかった。
「久しぶりですよ、くるまに乗るのは」
山代大五は座席に坐ると、すぐそんなことを言った。もうこうなってしまったからには仕方ないといった居直ったところがあった。
「そう、そりゃ、久しぶりでしょう。この前乗ったのはいつ頃?」
高崎が訊いた。いかにもチャンスを逃さないで質問の矢を放っている感じだった。佐沼は、そうした高崎に多少煩わしいものを感じた。初めての外出だから、何も訊かずに黙っておいてやればいいのにと思った。と、果して、山代大五は不機嫌さを言葉に現わして言った。
「知りませんよ」
「知らん!?」
「知りません」
「大体、いつ頃か判らない」
「――――」
山代大五は返事をしなかった。
「高崎君、いいよ、静かにしておいて上げた方がいい」
佐沼は高崎に注意しておいてから、山代大五がふと口からすべらした感慨の意味を考えてみた。山代大五はくるまに乗るのは久しぶりだと言った。その久しぶりがどのくらい久しぶりであるかが問題であり、高崎がすかさず質問の矢を放ったのも、それに見当を付けたかったのにほかならない。
山代大五は三年間の過去を失っているのだから、くるまに乗った記憶は少くとも三年前のものでなければならぬ。三年前の事実の想起は、常人の場合は、そこにかなりの遠隔感を伴うものである。山代大五はそれをどの程度の遠隔感において感じたのであろう。もし、記憶から失われた三年間がすっぽりと脱けて現在の時間が逆行して、三年前の過去の時間に直接に繋がるとすれば、三年前にくるまに乗ったという記憶はついこの間のことのように思い出される筈である。
しかし、それとは違って、失われた三年の歳月が、歯が抜けた跡のように、そこに何もない暗い穴を残しているならば、三年前のくるまに乗ったという一つの事実の想起は、それが当然持つべき遠隔感として、やはりそこに存在していなければならぬわけである。
山代大五において、失われた三年間の向うにある時間が、どのくらいの遠さで思い出されるか、これは高崎ならずとも、機会あるごとに探りを入れてみたい問題である。山代大五が失っている三年間の過去というものは、一体どんな形をしているのか。全然失くなっていてその痕跡すら持っていないのか、あるいは歯ぐきに残されている抜歯した跡のように、そこにそれが失われているという跡を残しているのか。
それとなく、佐沼は隣りの山代大五の横顔に眼を当てていた。くるまは大学の前の通りを走って、右へ曲り、繁華地区の坂を降りつつあった。山代大五は前の運転手の背に眼を当てていた。視点の定まらぬぼんやりした眼であった。顔全体の表情も、その眼と同じようにぼんやりとしたもので、筋肉は緊張を欠いていた。
「疲れますか」
佐沼が訊くと、山代大五はただ首を横に振った。
「今日は特にくるまが多いね、高崎君」
佐沼はこんどは高崎の方に言った。
「そうですね、ラッシュ・アワーだと、くるまに乗るより、歩いた方が早いくらいです」
高崎が答えると、朝井圭子も前の席で、
「ほんとですわ」
と、相槌《あいづち》を打った。
こうした三人の短い会話にも、山代は何の反応も示さなかった。東京のくるまの数は、三年前とはかなり大きい違いがある筈であった。こうしたことに対して、山代大五がいかなる受け取り方をしているか、それが判れば、問題の失われた三年間というものの形も朧げながら判る筈であったが、山代大五は無表情で前の運転手の背だけに眼を当てていた。
くるまは渋谷へ出、渋谷から三軒茶屋の方へ向った。渋谷へ出る頃から、佐沼は山代大五が視線を窓外へ当て始めたのを見た。膝を組み、体を背後に凭《もた》せかけるようにして、顔だけを、佐沼とは反対側の高崎の方へ斜めに向けている。そうした恰好は、くるまに乗り慣れた者が乗っている姿であった。
山代大五は長いこと同じ姿勢を保ち続けていたが、そのうちに少し体を動かして、膝を組み直すと、こんどは顔を佐沼の側の窓へ向けた。佐沼はさっきまでの山代大五とは全く別人を見る思いだった。顔の筋肉は緊まり、眼ははっきりと物を見る眼になっていた。
「疲れませんか」
「いや」
返事までが確りしていた。
「賑やかでしょう」
すると、その術には乗らないぞといった風に山代大五は顔を向うへ向けた。
くるまは三軒茶屋から道を左の方にとり、それから十五分程で多摩川の河畔へ出た。
渋谷から多摩川まで、佐沼は山代大五に何も話しかけなかった。何も話しかけないで、初めて門の外の世界へ連れ出した一一九号室の患者を、それとなく観察だけしていようと思ったのである。
多摩川の河畔へ出ると、佐沼の命令で、くるまは長い堤の道を上流へと向った。下流の方には幾つかのゴルフの練習場があって、そのためばかりとも思えないが、とにかくくるまの往来が烈しかったので、くるまの少い上流の方へと、川に沿った舗装道路を上って行った。堤の道を五分程走ってから、佐沼はくるまを停めて、
「この辺を少し歩いてみますか」
と、山代大五の方へ話しかけてみた。
「ええ」
山代大五はすぐ腰を浮かした。くるまから出ると、かなりの風が吹いているのが判った。風はあったが、少しも寒くはなかった。初夏の匂いのする陽光が、気持よく辺りに降り注いでいる。
「気持いいな」
佐沼が声に出すと、
「気持いいですね」
と、山代大五も同感の意を表した。記憶喪失者は実際に気持よさそうであった。彼の考え方をもってすれば、彼は初めて門の外の世界へ出て、初めて眼にする多摩川という川の河畔に立っているのであった。
そしてこの河畔は、既に死んでしまったもう一人の山代大五という人間が曾て好きだった場所であり、何ものかと一緒に散歩した場所であった。
「ここを僕が散歩したと言ったんですって?」
山代大五は広い川の流れの丁度まん中頃に視線を投げたままで、誰にともなく言った。
「そうです」
高崎がすぐ受け取った。
「ここの磧の石が白いと言いましたよ」
「なるほど、しかし、実際に白いじゃないですか」
その山代大五の言葉は、何も自分は嘘を言ってはいないじゃないかと、文句でもつけているように聞えた。
「そう。あなたは白いと言った。実際にまた白い」
高崎が言った。佐沼は二人の会話から堪らなくおかしさを感じると、
「まるで禅問答だね」
と、そんな言葉を口から出した。病院では決して生れないのびやかなものが、堤に立つ四人の者の間にはあった。
「もっと下流へ行ってみようか」
佐沼は場所を移動してみようと思った。
「くるまが混みますが、いいですか」
若い医局員は訊き返して来た。
「構わんだろう。ここにいつまで居ても始まらん」
「そうですね。じゃ、野球の練習場がありましたね。あの近くに行ってみましょうか」
そこで一同は再びくるまに乗った。くるまは少しそのまま走って、道幅の広くなっているところで方向を変えると、こんどは下流へ向って走り出した。釣人が、魚のよく食いつきそうな釣場を求めて、位置を移動して行くのに似ていた。
「よし、この辺で停めて貰おう」
高崎の言葉でくるまは停まった。堤の下の磧で、どこかの大学の野球部員が大きなネットを張って練習をしていた。山代大五は舗道の端に立って、白いユニホームの若者たちの動きをじっと見詰めていた。くるまの往来がかなり烈しいので、高崎と朝井圭子が、山代大五を庇《かば》うように、その両側に並んで立っている。
「野球は好きですか」
佐沼が声をかけると、
「いや」
と、山代大五は少し含羞んだ表情で答えた。ふいに自分の秘密を覗き見でもされたような、そんな含羞を持った表情だった。
「運動はやりましたか」
「何もやりません」
「山へは登ったと言いましたね」
佐沼が言うと、
「登山は運動じゃありませんよ」
山代大五は、相手の間違いを指摘するような言い方をした。
「なるほど運動じゃないかも知れない」
「運動だと思い込んでいる人があるんで困る」
山代大五は極付《きめつ》けるように言った。佐沼がやられたので、それがおかしかったのか、高崎と朝井圭子が笑った。
「参った!」
佐沼は苦笑して言うほかはなかった。
一同は五分程、堤の上から野球の練習を見降ろしていたが、こんどは高崎の方が、
「場所を移動してみますか」
と言った。
「こんどはどこへ行く?」
「ゴルフの練習場が、もっと下流の方にあります」
高崎は言った。佐沼は高崎が学生時代にゴルフをやっていたということを、誰からか聞いたことを、この時思い出した。
「君、ゴルフができるんだってね」
佐沼が言うと、
「学生時代少しやっただけです。ゴルフ狂の叔父《おじ》のお供で四、五回コースヘ出ましたが、叔父が病気になったので、私の方は当然の結果として自然消滅です」
高崎は言った。
「惜しいね。続けてやればいいのに」
「続きませんよ。暇もないし、第一、私などの月給では」
高崎は笑いながら言うと、
「行ってみましょうか。練習場の近くへ」
「どこでもいいね」
実際、どこへ行ってもよかった。山代大五が反応を示すかも知れない場所は、そこがどこであるか、誰にも判っていなかった。
一同はまたくるまに乗った。くるまは更に下流に向って走った。ゴルフの練習場は、川の右岸にも左岸にもあった。一同は橋を渡って、川の向う側の練習場へ行ってみることにした。くるまが橋を渡る時、山代大五は少し身を乗り出すようにして、窓から川筋を眺めていたが、ふいに、
「いい川ですね」
と言った。いかにも心からそう感じたといった言い方だった。
「貴方はこの川が好きだと言いましたよ」
すかさず高崎が言うと、山代大五はそれに対しては返事をしなかった。
「君、黙っていた方がいい」
佐沼は、高崎を窘《たしな》めた。折角山代大五がいい川だと言ったのに、高崎が余計な言葉を差し挾んだために、そのあとの言葉を聞けないのが残念だった。
「気を付けましょう」
高崎は素直に言って、
「つい、訊いてしまうんです」
「訊いても無駄だよ。それより話すのを聞いていた方がいい」
そうした佐沼と高崎の取り交す会話を、どのように受け取っているのか、山代大五は依然として無関心な表情で、視線を窓に当て続けていた。橋を渡ったくるまは、やがてゴルフの練習場の入口の前で停まった。
「どうする?」
佐沼が言うと、
「降りましょう」
高崎は先に立ってくるまから降りた。さっき野球の練習を見物した場合と違って、そこは堤の上ではなかったので俯瞰《ふかん》するということはできなかった。
「見えないね、ここでは」
「中へはいりましょう」
「はいっていい?」
「構いません」
高崎は一同を促して、入口の事務所のようなところへ、自分だけ出掛けて行った。
練習場には三十名程の男女が、それぞれ思い思いの服装をして一列に並んで、玉を打っていた。プスッという快い音を立てて、白い玉は到るところから打ち出されていた。どこまでも遠くへ飛んで行くのもあれば、極く近くへ落ちるのもあった。
佐沼はゴルフというものには全く無縁だったので、ゴルフの練習場を見るのも、これが初めてであった。小さな白い玉が、よくあんな遠くまで飛んで行くものだと思った。
山代大五はさっき野球を見ていた時と同じように、近くの一人の何回も繰り返している同じ動作を倦かず見守り続けていた。一人の人間に眼を当てると、もはやそこからどこへも視点を移さないことが、多少異常と言えば、異常と言えるかも知れなかった。
「ゴルフをやったことがありますか」
念のために佐沼が訊くと、
「いや」
と、山代大五は烈しく首を振った。そしてとんでもないことを言うものだという風に、
「こんなことして、何が面白いんですかね」
と言った。佐沼は高崎に、
「君、できるんなら、やってみないか」
と声をかけてみた。
「もう長くクラブを握りませんから」
高崎は言ったが、顔はやってみてもいいといった表情だった。
「やってごらん」
「やってみましょうか」
高崎は急に体を動かすと、足早に入口の方へ歩いて行ったが、間もなく貸クラブを一本持って戻って来た。すぐ女の子が玉が幾つか詰まっている箱を運んで来た。
高崎は空いているところを探して、そこに立つと、他の者と同じように玉を打ち出した。最初の玉はかなりの距離飛んだが、あとはどれも近くに転ってばかりいた。
「二年程休んだら、ひどいことになりました」
高崎は近くに立って、自分の動作を見守っている佐沼、山代大五、婦長の三人の中の、誰へともなく言った。
「たいしてうまいとは言えないね」
佐沼が笑うと、
「やるべきじゃなかったですね」
高崎は頭を掻《か》いて、すぐ練習をやめた。まだ箱の中にはたくさんの玉が残っていた。
「まだ残っているじゃないか」
「いや、もうやめます」
高崎は再びクラブを振ろうとはしなかった。そして、
「やってみませんか」
と、佐沼の方にクラブを差し出した。
佐沼は高崎が差し出したクラブを受け取ると、手にとったまま、それがいかなるものか一応点検してから、
「どう握るの?」
と、握り方を訊いた。高崎はもう一度クラブを取って、握り方とその使い方を説明した。
「難しいものだね。しかし、要するに、この棒の先端が玉に当り、玉が飛びさえしたらいいんだろう」
「そうです。ところがなかなかその簡単なことができないんです。やってごらんなさい」
「どれ」
佐沼は多少照れながらクラブを振り上げて、それを打ち下ろした。クラブは空を切り、玉は依然として、もとの場所にあった。朝井圭子の笑い声が聞えた。
佐沼はもう一度同じ動作を繰り返した。こんどは玉に当ったが、玉は単に一間ほど転ったのにすぎなかった。
「なるほど思うように行かんものだね」
佐沼は苦笑して、クラブを高崎の手に返した。高崎はその時、自分たちがいまここに居る目的が何であるかを思い出しでもしたように、
「山代さんはゴルフをやったことがありますか」
と、山代大五の方へ声をかけた。さっきから二人の言動を、無言のまま見守っていた山代大五は、
「いいや」
と、大きく首を振ってから、
「見たのも初めてです」
と答えた。それから黙って手を高崎の方へ差しのべた。クラブを貸せという意味らしかった。高崎がクラブを差し出すと、山代大五はそれを受け取って、さっき佐沼がやったように丹念にそれをねめ廻した。いかにも興味深げな弄《いじ》り方だった。
「やってごらんなさい」
「できませんよ」
「ただ玉に当てればいいんです」
高崎が言うと、
「変な競技ですね。こんな棒でこんなものを打つんですか」
と、幾らか軽蔑するような言い方をして、何となくクラブを握った。
「おや、握り方を知ってるじゃありませんか」
高崎が驚いたような声を出した。
「知りませんよ。こんなものを持ったのは初めてです」
山代大五はクラブを握っている自分の手許を見守っていた。
「いや、ちゃんと握っている!」
高崎は真顔で言った。そう言われてみれば、佐沼にも山代大五のクラブを握っている手許は、何となく力の籠められた頼もしいものに見えた。
高崎の言葉で、山代大五はクラブを握っている自分の手を開いた。
「もう一度握ってごらんなさい」
「冗談じゃない」
山代大五はクラブを高崎へ返そうとした。しかし高崎はそれを受け取らないで、
「変だな。貴方はいまちゃんと握りましたよ。初めてクラブを握る者が、そんな握り方をする筈がない。変だな」
高崎の真剣な声の調子につられて、佐沼も思わず二人の顔を見較べるようにした。
「もう一度、握ってごらんなさい」
高崎は患者に命じる医師の態度で言った。山代大五はまたクラブを握った。
「玉を打ってごらんなさい」
「打てませんよ」
「打てなくてもいいから、打ってごらん。ためしにやってごらんなさい」
「打てと言ったって、無理です。打てる筈がない」
その山代大五の口調にも嘘は感じられなかった。難題を持ち込まれて迷惑している男の顔だった。
「じゃ、クラブを振り上げるだけ振り上げてみて下さい」
佐沼にも、高崎の要求は執拗に聞えた。すると果して、山代大五の顔には明らかに不快の表情が現われた。
「厭です」
きっぱりと山代大五は言った。
「もうやめておき給え」
佐沼が堪りかねて高崎を窘めた。病人を昂奮させることが怖かった。しかし、高崎の方はそんなことでは引きさがらなかった。
「何も難しいことじゃない。佐沼先生もやったことじゃないですか。面白いからやってごらんなさい。一回だけでいい」
高崎は玉の置いてある場所へ山代大五を引張って行くと、
「さあ、一回だけでいいからやってみて下さい」
「打てばいいんですね」
憤然と山代大五は言った。
「そう」
「よし」
山代大五はクラブを握りしめると、調子を取るように、玉の近くでクラブ二、三回小さく動かしたと思ったら、すぐにクラブを振り上げて振り下ろした。
次の瞬間、玉は快い音をたてて、少し右手寄りではあったが、きれいに空を切って飛んだ。高崎の場合より玉はずっと遠くに伸びた。
「飛んだ……」
山代大五の口から驚きの声が出た。佐沼は山代大五の顔から眼を離さないでいた。その顔にもまた嘘はなかった。
「驚きましたね」
高崎は改めて佐沼に言った。
「初めてどころか、ちゃんと型にはまっていますよ。かなり練習しています」
「そうかね。僕には判らないが、しかし、君よりはうまそうだね。ずっと遠くへ飛んだ」
佐沼が言うと、
「私よりうまいかどうかは別問題として、ちゃんと練習していることは事実です。練習しなくて、あんな姿勢はできません」
それから、高崎は、
「もう一度、やってごらんなさい。うまいものだ」
と、山代大五に言った。
「もう、厭です。やりませんよ」
山代大五はクラブを地面の上に置くと、婦長のところへ戻って行った。
「貴方はゴルフの練習をやりましたね」
追いかけるようにして高崎は言った。
「やりません。やらんと言ったら、やらんです」
「でも、ちゃんと知ってるじゃないですか」
「知ってるか、知らんか、そんなことは僕は知らん。――生れて初めて、あんな棒を握ってみただけのことです」
多少険悪なものを孕《はら》んでいる高崎と山代大五の会話に終止符を打つために、
「さ、そろそろ帰るとしよう」
佐沼は言った。一同はまたくるまのところへ戻った。
「こんどは高崎君が前に乗って、婦長さんがうしろだ」
佐沼は高崎と婦長の席を交替させることにした。高崎と山代大五を並べて坐らせない方がいいと思った。
「こんどはどこへ参りましょう」
朝井圭子が訊いた。
「もう病院へ帰ったらどう?」
佐沼は言った。くるまが走り出すと、みんな黙っていた。佐沼は今日の外出には大きい収穫があったと思った。高崎があのくらいむきになって言うくらいだから、山代大五はゴルフをやったことがあるに違いないと思った。しかしまた一方で、山代大五がそれを否定していることもやはり、山代大五においては真実なのであろう。クラブを型通りに振り上げたり振り下ろしたりしたことは、山代大五の脳の一部が関係していることではないのだ。それは肉体が自然に憶え込んだことで、それを山代大五の肉体は、彼の精神とは無関係に、手がクラブを握った拍子に行っただけのことなのであろう。山代大五は足が歩くことを忘れなかったと同じように、その手はクラブの扱い方を忘れなかったのだ。
病院へ帰ると、さすがに疲れたのか、山代大五はベッドヘ横たわると、すぐ眠りに落ちた。山代大五が眠ったことを、記録室で話している佐沼と高崎のところへ婦長が報せて来た。
「横になったと思ったら、すぐ眠ってしまいました。そうですね、ものの五分とは経たなかったと思います」
婦長は言った。
「疲れたんですね」
高崎が言うと、
「そりゃ、疲れるだろうね。彼にしてみたら生れて初めての東京という街へ出て、その街を横切り、多摩川まで行ったんだから。それからゴルフまでやらされた!」
佐沼は言った。
「山代大五氏ばかりでなくこちらも疲れましたよ」
高崎はほんとに疲れたような顔をしていた。
「今日の収穫は、彼がゴルフをやったことがあるということだ。ゴルフができるようなゆとりを、時間的にも経済的にも、そうしたゆとりを、東京の三年の生活において持っていたということだな」
「しかし、恐ろしいものですね。何もかも忘れているのに、クラブを握ったら、ちゃんと型通りに振るんですからね。スポーツというものは肉体の記憶だといわれていますが、まさにその通りですね。私などのゴルフは頭でやるからどうも駄目です」
「まだ肉体が記憶するところまでやらないんじゃないの? 叔父さんのお供では」
「そうだと思います」
素直に高崎は言った。
「記憶喪失になっても、ちゃんとクラブを振れるということは、相当ゴルフをやったということになると思います。とにかくうまいもんですよ、彼は」
高崎はすっかり兜《かぶと》を脱いでしまっていた。
「明日も街へ連れて行ってみたらどうでしょう」
「多摩川へ行って、山代大五氏にコーチして貰ったら高崎君のゴルフも上達するだろう」
佐沼が笑って言うと、
「冗談じゃありません」
高崎は真顔で抗議して、
「美術館へ行ったり、喫茶店へ行ったりしたら、何か反応があるか知れません」
「美術館ね」
佐沼は考え深げに言った。もし曾て見たことのある絵にぶつかったら、どういうことになるだろう。曾て散歩したことのある多摩川の風景をすっかり忘れているように、一枚のカンバスの中に切り取られた風景もまた忘れているかも知れない。しかし、何らかの理由で忘れていないかも知れない。それは誰にも判らぬことである。
美 術 館
山代大五は眼を覚ました。何か悲しい夢を見ていて、夢の中でその悲しさを振り切るように、大きな叫び声を上げたように思う。そこで夢は断ち切られ、彼は夢の世界からベッドの上にはじき出されてしまったのである。
山代は枕許の小さい卓の上に置いてある時計を取り上げて、それに眼を当てた。五時少し前である。夜はすっかり明けてしまっていて、カーテンを通して、早朝の白い光が病室の中へ流れ込んでいる。そして早くも街にはトラックの走る音が聞え始めている。
山代は少し体の節々が痛んでいるのを感じた。きのうくるまに揺られて多摩川の河畔まで行ったためであろう。体はすっかり回復してしまっているが、病院から外へ出たのはきのう初めてで、外へ出たということだけで、体の各部分は疲労してしまったものと思われる。山代は一度卓の上に置いた時計を再び取り上げると、それを仰向けに横たわった姿勢のままで、眼の前へ持って行った。こうした仕種は今日に始まったことではない。もう何日か、毎朝毎朝、眼を覚ますと同時にやっていることである。時計はスイス製の高級腕時計で、会社名のRがそのまま時計の名前になっている。山代は学生時代から贅沢《ぜいたく》なものが好きだったので、このR会社のマークのはいった時計が欲しかったが、これだけは学生の身分では手に入れることのできないものであった。
山代は時計を、窓からはいって来る光線の方にかざすようにして、文字盤に眼を当てたり、それをひっくり返して裏側に眼を当てたりした。R会社の製品というばかりでなく、文字盤といい型といいなかなか趣味のいい洒落《しやれ》たものである。一体、自分はいつどこでこれを手に入れたのであろう。この病院に運び込まれた時、この腕時計を左腕につけていたというのであるから、これが自分の所有物であることは間違いないことである。ただ問題は、いつからこれが自分の所有物になったかということである。山代の覚えている自分の時計はこれよりもう少し小型の、アメリカのQ会社の製品であった。
自分が失っている東京における三年間の生活の中で、ある日、この一個のスイス時計は自分のものとなったのであり、そこにいささかの疑念を差し挾む余地はないであろうが、しかし、山代はこの時計に一種名状しがたい無気味なものを感じざるを得なかった。
この時計は俺の物だ。俺がいつかどこかで購入したものだ。いつ? どこで? そんなことは判らない。しかし、これは俺の物であることだけは間違いない。山代は自分自身に言い聞かせたが、それで無気味さが消えるわけではなかった。
山代は自分の所有物であるに違いない腕時計に、どういうものか好意というものを持てなかった。型もいいし、大きさも丁度よく、しかも学生時代からそれを自分の物としたい気持を持っていたものだったが、それでいてどうしてもこの時計には好感が感じられなかった。一体、いつ頃からぬけぬけと自分の懐中などへ飛び込んで来たのであるか。自分の所有物になったというそのことにさえ、何となく魂胆でもあるような、図々しいものが感じられて、無気味であった。
山代は不潔なものでも離すように、その時計を卓の上に置いた。そして、ああ厭な時計だと思った。しかし、山代は特に一個の腕時計だけに拘泥《こうでい》しているわけではなかった。ただそれが眠りから覚めた最初の時間に、彼の眼の中にはいって来た最初の物だというだけのことであった。彼を不快にし、無気味に思わせるものは、まだ沢山あった。沢山あるというよりは数限りなく無数にあると言った方がよかった。彼を取り巻いているあらゆるものが、彼に悪意を持ち、彼を傷つけるために到るところに待機している。
山代は自分が着ていたというグレイの洋服も、同色の外套も、自分が履いていたという黒の靴も、それから茶色の革製の紙幣入れも、鰐《わに》革のバンドも、すべてこの病院にはいる前まで身に着けていたすべてのものに、同じような無気味なものを感じた。幾ら相手が彼の所有物であるということを主張して来ても、素直にそれを受け入れる気にはならなかった。殊に自分の首に巻きついていたというネクタイに到っては、それに触《さわ》るのも厭だった。結び目に当るところが多少汚れていたが、その汚れが堪らなく生理的に不快であり、それを見詰めていると悪寒《おかん》をさえ感じた。
七時まで、山代はベッドヘ横たわったままで過した。窓の向うの病院の細長い建物に平行して走っている道路には、刻々くるまやトラックの数が増えつつあり、それらのたてる騒音が高まりつつあった。山代は毎朝のことであるが、長い間病室の窓を開けようか開けまいか思い惑っていた。窓を開けて朝の空気を病室へ入れたい気持は強かったが、しかし、自分が曾てそこに住み、いまは忘れている街を見るのは怖かった。
きのう初めて、佐沼と高崎と婦長に連れられて、その街へ出て行ったが、そこはどこを見ても自分と何の関係もない街であった。一度も眼にしたこともない街筋が、殆ど信じられぬような夥しい数のくるまで埋まっていた。山代大五は自分がこのような街に三年も生活していたということは、どうしても信じられなかった。
山代は、しかし、ベッドを降りて行って、カーテンをたぐり、窓を開けた。朝のまだ汚れない空気が、さっと室内へ流れ込んで来た。山代は窓際に暫く立っていた。きのう一度街へ出て行ったためか、これまで程そこから見える街の一部は無気味なものではなかった。
山代は再びベッドヘ横たわると、多少これまでとは違った気持で天井を見詰めていた。決して自分が失った過去の一部を取り返したわけではなかったが、門から外の世界がいままでの無気味さを失っていることだけは事実であった。山代はこの病院で意識を取り戻してから初めて、幾らかでもゆとりのある朝を迎えることができたわけであった。
しかし、それから体温をはかるために看護婦が部屋へはいって来るまで、山代はそれが朝の日課の一つででもあるかのように、どんよりとした想念の沼の向うを眺めていた。彼は自分がどこで記憶を失っているかを知りたかった。この朝も幾つかの社の同僚の顔が思い出されて来た。そしてその思い出された同僚と自分との交渉の記憶をたぐって行くと、どれもあるところへ来ると、例外なく不分明な消え方で消えていた。それは湿地帯へ流れ込む何本かの川筋が、いつからともなく川としてのはっきりした姿を失って沼の中に呑み込まれてしまうのに似ていた。
だから、山代が思い出すあらゆる事柄の末端は、一つの大きな沼の向う側で消えていた。そしてその沼の向う側と現在との間には、甚だ漠然としたものであるが、ある距離があった。それは決して遠い昔のことではなかったが、と言って極く近い間のことでもなかった。あらゆることを呑み込んで静まり返っているその沼の大きさを、山代は何とかして測定したかったが、測定する方法はなかった。佐沼や高崎の言葉を信じて、そこに三年という時間を置いてみる以外仕方なかった。
山代は毎朝のように沼の向う側の甚だはっきりしない風景と格闘していた。頭に浮かんで来るどんな人間の顔も、どんな事柄も、すべてが沼の中に姿を消してしまうことを確かめると、彼は身も心もすっかり疲れ果ててしまった気持で、その作業を打ち切った。
七時に看護婦がはいって来た。山代は体温計を口に銜え、左手を看護婦に預けた。
「御気分悪いことありませんね」
看護婦は言った。山代はただ首を横に振った。
朝食を終ると、ゆうべ宿直であった高崎がはいって来た。
「どうです? きのうの外出で疲れましたか」
「いや」
山代は不機嫌に答えた。山代は高崎という若い医師が決して嫌いではなかった。高崎は明るい性格でもあり、若いのに似合わず細かいことにも気が付いて親切である。しかし、山代はなぜかこの若い医局員と口をきく時、いつも素直な言葉が口から出なかった。つい不機嫌な返事をしてしまう結果になった。高崎のどこかに、自分を実験材料として見ているようなところが感じられるからかも知れなかった。
「きのうは驚きましたね」
高崎がゴルフのことを言ったことは判ったが、山代は黙っていた。何と言われても、ゴルフをやった記憶のない以上、それをやったことがあるとは言えなかった。
「クラブをきちんと握りましたよ。普通の人にはああいう握り方はできない」
高崎が言うと、
「でも、でたらめに握っただけですよ。あんなもの、どんな握り方でもできます」
山代は多少の憎しみを籠めて言った。しかし、山代は恐らく自分はゴルフをやったことがあるだろうと思った。高崎が言うように、やったことがなかったら、クラブの握り方も知らないだろうし、ましてそれを振り上げたり、振り下ろしたりすることはできないに違いない。しかし、自分でも知らないうちに、自分がゴルフをやっていたことがあるということは、何という無気味なことであろう。この朝、山代はゴルフのことを考えなかったが、それは考えるのが厭だったからである。ゆうべから今朝にかけて、何回となくゴルフのことは頭に浮かんで来たが、その度に、山代はそれを自分の頭から向うへ押し遣っていた。
「まあ、ゴルフはゴルフとして、今日もう一回街へ出てみませんか。病室に閉じ籠っているより、その方がいいでしょう」
「今日も出るんですか」
山代は言った。急に返事ができない気持だった。街そのものの無気味さは薄らいでいたが、そこへ出て行ってからの自分が怖かった。きのうのゴルフのように、何がそこから飛び出すか判らないといった気持があった。
「今日は絵でも見に行きますか」
「絵?」
ふいに、山代はひどく明るいものに触れたような気がした。
山代は自分が世の中で最も貴重な贅沢なものをずいぶん長く忘れていたことに気付いた。そうだ、絵というものがあった筈だ! どうして自分はそれを忘れていたのだろう。山代は自分の体のあらゆる細胞が、絵というものを思い出した瞬間、急にみずみずしく生き生きと活動して来たのを感じた。
山代は絵が好きだった。中学時代のことだが、漠然と画家になることを夢見た一時期を持っていた。山に登るようになったのも、初めは登山そのものに関心を持ったのでなく、大自然の美しさに触れ得ることが、その大きな魅力であったようである。
「絵!? 絵は見たいですね」
山代は患者の口調でなく言った。
「じゃ、二時頃、病院を出ましょう」
「佐沼先生も一緒ですか」
「さあ。今日は僕と二人でいいじゃないですか。婦長さんも何か仕事があるとか言っていましたし」
「その方が結構です」
山代はほっとして言った。きのうのように、高崎のほかに佐沼や婦長などに附き添われて行くのは、いかにも患者の外出といった恰好で厭だった。それより若い医局員と二人でのんびりと街へ出て、本当に絵を見る気持で絵を見たかった。
「絵は好きですか」
高崎は訊いた。
「好きです」
「ほう。絵を描いたことがありますか」
「ありません」
「じゃ、見るのが好きなんですね」
「そう」
この辺からまた山代は自分の口調が尖って来るのが判った。絵が好きだから好きだと言っただけの話であるが、そこから自分の過去の何かを引張り出そうとする若い医局員の特殊な配慮が気になった。
「どういう画家の絵が好きです」
高崎は追いかぶせるように言った。それに対して山代大五は黙っていたが、やがて、
「じゃ、貴方はどういう画家が好きです?」
と反問した。
「特にこれと言って――」
高崎は少しあわて気味に言った。
「私も同じですよ。特に好きだといった画家はありません。強いて言えば、大野木宗太郎の絵なんかですか」
「ああ、あの二、三年前に亡くなった?」
「亡くなった?」
「大野木宗太郎なら亡くなりましたよ」
山代は口を噤んだ。沼が再び大きな口を開けて、自分の前に立ちはだかっているのを感じた。
「間違いじゃないですか。大野木さんはまだ生きてるでしょう。確か、この間ヨーロッパヘ行った……」
山代は言ったが、彼自身全く自信というものは持っていなかった。
「いや、亡くなりましたよ。ヨーロッパヘ行ったのは大分前です。丁度いま、どこかで大野木宗太郎の遺作展が開かれている筈です。確か二、三日前に、新聞に広告が載っているのを見ましたよ」
「遺作展?」
山代大五は低い声で呻《うめ》くように言った。遺作展が開かれているとあっては、大野木宗太郎が既に故人になっていることを認めざるを得なかった。高崎に言われて初めて気付いたことだが、大野木宗太郎がヨーロッパヘ行ったという一つの事実からは、なるほどそこに多少の距離が感じられないこともない。そんなに昔のことではないが、しかし、昨日今日のことではなさそうである。これもまた、沼の向う側の風景であるに違いない。大野木宗太郎の死は、自分が失っている三年の歳月の間に起きた一つの出来事なのであろう。自分を取り巻く無気味な沼が呑み込んでしまった事件なのだ。一種名状しがたい不快な気持が、霧のように山代大五を押し包み始めていた。高崎にもそれと判る沈鬱な表情をして、山代大五はベッドに身を倒した。
「ああ、厭だ!」
山代は低く呻いた。堪らなく厭だった。山代大五は暫く眼をつむっていたが、間もなくそれを開いた。すると、手帳に鉛筆を走らせている高崎の姿が眼にはいって来た。山代はそうした若い医局員に憎しみを感じた。出て行け! そう呶鳴りたかった。
二時に迎えにやって来ることを約して、高崎が病室から出て行くと、山代は街に出て行って絵を見るということへの期待が、自分の心の中でいつかすっかり薄らいだものになっているのを感じた。山代は、自分の思い出すあらゆることが沼の向うの出来事であり、三年前のことであることがいまいましかった。毎日毎日いやというほど思い知らされていることだが、新しい一つの事実にぶつかると、やはりそこから受ける打撃は大きかった。
大野木宗太郎は死んでいるのか。何ということであるか。しかし、問題は大野木宗太郎一人にかかわってはいない。自分が思い出すどの人物も、あるいは既に他界してしまっているかも知れないのだ。山代は毛布を頭からかぶると、暫く眠ろうと思った。眠る以外、自分にとっては休息はない気持だった。
二時に、山代大五は高崎と一緒に病院を出た。こんどはくるまは使わずに、二人は都電に乗った。
「電車が疲れるようならくるまにしますよ」
高崎は言ったが、山代は寧《むし》ろ電車の方が安心して乗っていられる気持だった。きのうくるまで多摩川の河畔に向う時は、何回か衝突するのではないかと冷や冷やしたが、電車に乗っている分には、そのような心配はなかった。
それに山代はきのう外出したお蔭で東京の街に慣れていた。病院に閉じ込められている限り味わえない解放感が、山代の気持を明るいものにしていた。電車の窓から吹き込んで来る風も、眼に触れる青葉も、その匂いも、久しぶりで山代の五感を柔かく優しくくすぐっていた。
山代は電車を降ろされた。勿論山代にはそこがどこであるか判らなかった。
「ここ知ってますか。上野の広小路です」
高崎は言った。
「美術館でS新聞社主催のヨーロッパ現代画展が開かれているので、それを見てみましょう」
山代はどこへでも高崎の言うところへついて行く以外仕方なかった。二人は上野の山へ向って、比較的人通りの少い坂道を上がって行った。ここでも、高崎は山代に疲れはしないかと訊いた。
「大丈夫です」
山代は答えた。絵を見るという期待が、山代の心身を軽やかなものにしていた。
「この辺を歩いた記憶はありませんか」
「ありません」
「恐らく歩いているでしょうね」
「さあ」
「東京に三年住んでいる以上、必ず一度や二度はここへ来ていますよ」
「――――」
「絵が好きなんでしょう。絵が好きだったらきっと来ていますね」
来ているか、来ていないか、そんなことは判るものか。ひとのことを勝手に決めるな。そう山代は言いたかったが、この際は黙っていた。
台地へ上がって、動物園の前を通り過ぎる時、山代はどういうものか、自分がひどく不快になっているのを感じた。動物園というところが動物が群っているところだと思っただけで、やりきれない気持だった。大勢の男女が正面の門から出入していたが、山代はその方へは視線を投げないで歩いた。山代自身、自分が動物園に対して嫌悪感を抱く理由がよくは呑み込めなかったが、恐らくそれは自分が記憶を失っているということに関係していることのようであった。山代は自分が動物にでも成り下がったような烈しい劣等感を持っていた。
美術館にはいって行くと、入場者は自然に右手の部屋へ導かれるようになっていた。階下の幾室かが会場にあてられてある模様であった。
山代は陳列されてある作品の前に立って、一点一点ゆっくりと見て行った。集められている作品が少いのか、部屋の大きさに比して並べられてある作品は少く、その点うすら寒い感じだった。一室にはブラマンク、マチス、ルオーなどの作品があり、二室にはドラン、ブラック、ピカソなどの名が見えた。山代は、自分が病人であることも忘れて、それぞれ強烈な個性を持っている著名な画家たちの作品の世界にすっかり引き入れられて行った。同じ画家と言っても、持っているものはまるで違ったものだった。
山代はルオーの作品を見るのは初めてだった。美術雑誌の口絵では何回もお目にかかっていたが、実物に接するのは、これが最初だった。青い色彩を基調にして、人物も風景も、一番大切なものだけを選り抜いて、それだけを描いているといった感じで、荒く大胆だったが、他の作家にない強い魅力があった。自分がもし画家になっていたらこの作家を師とするだろう。山代はそんなことを真面目に考えた。
第三室には山代の知らない画家たちの作品が並んでいた。この部屋あたりから、本当のヨーロッパの現代作家の作品の展観になるのかも知れなかった。第三室の作品を半分程見た時、山代はふいに声をかけられた。
「山代さん、御熱心ですな」
振り向いてみると、六十年配の身なりのきちんとした紳士が立っていた。六十年配と見たのは頭髪が真白で銀色に光っていたからであるが、体はがっちりしており、顔の色は浅黒く、総体に逞しい感じだった。
「いいじゃないですか、シャガールは。こういうのを見ると欲しくなる。あなたが勧めなくても、こっちの方で欲しくなって来る」
それから相手は声を出して笑った。山代は黙っていた。人違いであるかも知れないし、そうでないかも知れなかった。
「じゃあ」
相手は自分から山代大五の許を離れて行ったが、すぐ二、三歩戻って来ると、
「そのうちに、一度来てくれませんか。わたしも街へ出たら、お店へ伺うが」
そう言って、こんどは本当に足早に去って行った。
山代はあたりを見廻したが、部屋にばら撒《ま》かれている二十人程の男女の中から、すぐには高崎の姿を見付けることはできなかった。が、そのうちに、高崎の方から山代大五のところへ近寄って来た。
「なかなかいいものを集めてありますね。これだけのものを借りて来るのは大変だったことでしょう」
高崎は言った。高崎の言葉から推すと、彼は山代がいまの紳士と言葉を交したことは全然気付いていない様子であった。山代大五はほっとした。もし知られていたら、高崎から質問責めになるところだったと思った。
高崎は次の部屋へ向って歩き出したが、山代は眼の前の作品に見入っているような振りをして、そこから動かなかった。次の部屋へ行くと、まだそこにいまの紳士が居るだろうと思われた。
この小さい事件のために山代大五からは絵を見るという気持は全く失われていた。山代はただ絵の方を向いて立っていた。頭の中はいまの一人の紳士のことでいっぱいだった。山代は紳士が自分の名を呼んだことを思い出した。確かに彼は「山代さん」と言った筈である。こうなると、人違いということは考えられないことだった。相手ははっきりと自分が山代大五であることを認めて話しかけて来たのである。しかも、話し方から想像すると、自分とあの紳士とはかなり親しい間柄と見なければならない。山代は向うでは知っていて、こちらでは全く知らない一人の紳士が口から出した言葉を、何回も心の中で反芻《はんすう》していた。高崎が戻って来て、
「どうしたんです?」
と言った。
「帰りましょう」
いきなり山代大五が言うと、
「帰る!?」
高崎は驚いて、
「まだここは初めの方ですよ」
と言った。
「帰りたいんです。ひどく疲れた」
「疲れた!? それはいかん。じゃ、これで帰りますか」
高崎もすぐ帰ることに同意した。
美術館を出ると、戸外の明るさが眩しく眼に沁みて来た。山代は玄関の前の階段を降りたところで立ち停まった。足を踏み出すことが怖かった。一歩も踏み出せない気持だった。
「どうしたんです」
高崎は不審そうに言ったが、山代大五は漠然といまの自分の気持を相手に説明することのできないのを感じていた。
山代大五の眼には実にたくさんのものが映っていた。日一日青さを増して行く木々の梢は風にゆらいでおり、人々は、男も女も子供もみな動いていた。小学生らしい長い列があちらにもこちらにも見えている。そして時々喚声がそうした列から起っている。右手の方の芝生には色紙の細片でもばら撒いたように児童たちがばら撒かれている。走り廻っている一団もあれば、おとなしく写生している一団もある。
陽の光が強くなったせいか、陽光の降っているところと、陰になっているところが、くっきりと白と黒の鮮やかな対比を見せている。
山代は生き生きとした初夏の上野公園の午後三時の表情に見入っていた。すべては底知れぬ明るさを持って生きていた。生命の鼓動でも聞えて来そうなほど健康な眺めであった。しかし、その明るい世界へ、山代は足を踏み出して行けなかった。右脚を一歩前へ出し、次に左脚をその前へ運んで行くだけの作業であったが、どうしてもそれができなかった。山代は足に根が生えてしまったように、その場に突立っていた。
「どうしたんです」
若い医局員は再び同じ言葉を口から出した。
「歩けないんです」
素直に山代は言った。
「冗談じゃない」
「本当に歩けないんです」
「困りましたね」
高崎は苦笑して、冗談もいい加減にしてくれといった顔をした。それに対して山代もまた、
「本当に困りました」
と苦笑して言った。冗談どころか泣き出したいほど情なかった。
「どうして歩けない? 疲れたんですか」
「いや」
「どこか苦しい?」
「いや」
「じゃ、どうして歩けない?」
「足が出ないんです。前に」
「なるほど」
高崎は山代大五の足許に眼を落したが、やがて、
「そういうのをノイローゼというんです。さ、僕が一緒について歩いて上げる。さ、歩こう」
高崎は山代大五の腕の一本をとると、無造作に歩き出そうとした。山代大五は足を運んだ。
「ね、歩けるでしょう」
高崎は言ったが、山代大五は自分が歩けるとは思っていなかった。足を動かしているだけのことで、歩いているのではなかった。
山代は足を動かしたというだけで、精神的には全く一歩も動けない気持だった。山代はいまや見栄も外聞もなく、高崎の腕を振りほどくようにすると、そこへ屈《かが》み込んでしまった。
山代が地面に坐り込んでしまったので、さすがに高崎は顔色を変えた。
「これはいかん。暫くそのままにしていて下さい」
そう言うと、あたりを見廻した。タクシーでも探している風であった。
山代は何人かの通行人が足を停めて自分の方を見ているのを感じた。しかしそんなことを考慮している気持の余裕はなかった。
「ここにこうして居られますね。僕はくるまを招《よ》んでくる」
高崎は言うと、もう一度、
「ここにこうして居られますね」
と念を押してから、動物園のある方へ向って歩き出した。
山代は一人になると地面に屈み込んだまま、明るい上野公園の一部を見廻した。さっきと同じように大勢の男女が動き、陽が照り、風が木々の梢をゆるがして渡っていた。
山代は自分がいま見ている世界を本当に怖ろしいと思った。その世界へ入って行ったら、さっき美術館で見知らぬ紳士から声をかけられたように、大勢の人から声をかけられるであろう。何を話しかけられても、自分はその人を知らないし、その人の言うことを理解できないのだ。こんな怖ろしいことがあっていいのか。
自分は一歩も足を踏み出せないのだ。足を踏み出したら、やたら何かにぶつかるだろう。一寸《いつすん》の先きも判らぬ闇夜を手探りで歩くのと、少しも変らないのだ。
山代は地面に腰を降ろして、膝を両手で抱えた。十人程の男女が彼を取り巻いて立っている。誰かが言葉をかけているらしいが、いまの山代にはそれを受け付ける気持はなかった。高崎が戻って来た。
「あいにくタクシーがつかまらん」
高崎が言った時、
「大丈夫、歩けますよ」
そう言って山代大五は立ち上がった。そして、
「美術館に戻ってくれませんか。会いたい人があるんです」
と言った。山代大五はさっきの紳士に会って自分が何者であるかを聞いてみようという気になった。ふいに彼を襲った気持であった。
山代は自分を取り巻く世界に反抗するように、よし、それなら自分が何者であるかを知ってやるぞ。そういった気持になったのであった。それは彼自身全く予想もしていなかったことだったが、高崎がタクシーを探しに行って戻って来た時、どういうものか、ふいにこうした考えが彼の心を襲って来たのであった。
山代としては、地面にへたばって大勢の男女からじろじろと見られている屈辱から自分を救うには、この方法しかなかった。自分が何者であるかを知ることの恐れに、自分自身が立ち向って行く以外仕方なかった。山代大五の言葉は高崎を震え上がらせた。高崎は突然山代大五が発狂でもしたのではないかと思ったらしかった。
「お、落着きたまえ、君」
高崎は立ち上がった山代大五の肩を揺すぶった。
「落着かなければいかん」
「落着いていますよ」
山代は、その言葉のように落着いて言った。
「さっき美術館の中で知っている人に会ったんです。その人にもう一度会いたいんです」
「ほう」
「本当です。その人に会いたい」
そう言って、山代は自分から歩き出した。半信半疑の体《てい》で、高崎も歩き出した。
美術館の入口で山代は高崎にさっきの紳士のことを多少詳しく説明した。詳しく説明すると言っても山代自身相手について何も知っていなかったので、自分がいかに知らないかということを説明するだけのことであった。
「向うは知っているが、貴方が知らないんですね」
「そうです」
「なるほど、貴方の場合そういう人はいくらでも出て来る筈だ。よし、とにかくその人に会ってみよう」
急に声を弾ませて高崎は言った。
「この前病院に美人が現われたが、こんどは彼女に次ぐ第二号というわけですね」
その高崎の言い方は山代には不快だった。高崎はもう一度入場券を買おうとしたが、山代はそれをとめて、ここの正面の入口で待っていれば同じではないかと言った。
二人は入口の横手に立って、相手の現われるのを待つことにした。この頃から、山代の心を再び憂鬱なものが捉えはじめていた。さっきの紳士から自分が何者であるかを訊き出す作業は考えてみれば、憂鬱以外の何ものでもなかった。
五分程待ったであろうか、やがて山代大五はさっき自分に話しかけて来た紳士がこちらに向って歩いて来るのを見た。
「来ましたよ」
山代が言うと、
「どの人です?」
高崎はあたりを見廻すようにした。
「向うからグレイの洋服を着た人が来るでしょう」
「あ、あの人ですか」
それから、
「ちょっと待っていて下さい。僕が話してみます」
高崎は言うと、その紳士の方へ歩いて行った。山代は高崎が、その人物の前に立ちふさがるように足を停めるのを見た。山代はその紳士と高崎が向い合って話している方へ視線を投げていた。依然としてその紳士については、山代は何も思い出すことはできなかった。全く初対面の人物であるとしか思えなかった。
紳士は盛んに高崎に頷いてみせていた。自分のことが話題になっていると思うと、それは山代にとって決して愉快な見ものではなかった。やがて、山代は二人が自分の方へ歩いて来るのを見た。山代はいきなり逃げ出したい衝動に駆られたが、それに耐えていた。
「いかんですな、山代さん」
そんな紳士の言葉が先きに飛んで来た。
「さっき、どうもいつもの山代さんとは違うと思った。厄介なことになりましたね。――わたしが判りませんか。ほんとに、わたしが誰か判りませんか」
紳士は恐ろしく生真面目な表情で言った。山代はそうした相手をただ見守っていた。見守っている以外仕方なかった。
「毎月のように、あんたはわたしの家へ来ていたじゃないですか。それが最近ぱったりと姿を見せなくなったので、一度連絡しようと思っていたところです」
それから改めてもう一度念を押すように、
「判りませんか、わたしが」
と言った。
「判りません」
山代大五ははっきりした口調で言った。相手に何と言われても、判らぬものは判らぬと言うほかはなかった。その時、
「山代さん、貴方は絵の商売をやっていたということですよ」
高崎が口を挾んだ。
「絵の商売? 画商ですか」
「そう」
急に兇暴な思いが山代大五の体をつんざいた。
「画商? 冗談じゃない。そんなものはやっておらん」
山代は自分の口から烈しい言葉が飛び出すのをとめようがなかった。
「画商と言えば絵を売る商売でしょう。私はそんなことはしませんよ。絵を売るなんて、そんなばかな! それに大体、私にそんなことのできる筈がない」
山代は自分の口がからからに乾いているのを感じていた。自分が画商であったりして堪るかということは、幾ら強く言っても、まだ言い足りない気持だった。
「まあ、まあ」
紳士は押しなだめるように言って、
「とにかく名刺をお渡ししておきましょう。この名前に記憶はありませんか」
紳士は一枚の名刺を差し出して寄越した。山代はそれを受け取って眼を当ててみた。それには「平松商事社長・平松左吉郎《ひらまつさきちろう》」と印刷されてあった。
「平松です。――思い出したでしょう。あんたはわたしの家へいろいろな絵を持ち込んで来ている」
紳士は言った。
「知りませんなあ」
山代は言って、
「私は山代大五です」
「山代大五君だ。山代大五君ということを承知の上で、わたしは話しているんですよ」
「でも、知らないものは知らない」
「なるほど」
平松左吉郎は憮然《ぶぜん》たる面持ちになって、煙草をシガレット・ケースから一本抜き出すと、ゆっくりと口に銜え、
「いや、よく判りました。あんたは確かに記憶を失っている。それなのに、わたしがいろいろなことを言っていけなかった。静かに何も考えないで養生なさい。直きに記憶を取り戻すでしょう。しかし、それにしても、人間の病気というものには珍しいものがあるものですな」
それから急に思い出したように、
「お店はどうなってます?」
と、平松は訊いた。が、山代大五が黙っているのを見ると、高崎の方に、
「お店の方へは連絡してありますか」
「お店へ連絡するといっても、店があるかないか、そんなことはいまのいままで知りませんでしたから」
「なるほど」
平松は腹部からズボンがずり落ちるのか、たえずそれを両手でずり上げるようにしていたが、
「じや、店の方へはわたしが顔を出して上げましょう。その上で病院の方へ連絡します。店では心配しているでしょう。それにしても、のんきなものですな。店の連中も」
そう言った。
「一体、店というのはどこにあるんですか」
高崎が訊いた。
「有楽町のR新聞社の裏手のビルの二階です」
平松は答えた。
「なかなかいい画廊ですよ」
「ほう」
山代は大きく吐息した。よかろうと悪かろうと、その自分の店であるという画廊にいささかの実感もなかった。
「なんでしたら、これから御一緒にそちらへ廻ってみてはいかがですか。そうしましょうか。その方がいいでしょう。とにかく店へ顔を出さんことには」
急に乗り気になった平松の口調だった。
「それは困ります」
即座に山代は言った。そんなところへ連れて行かれては大変だった。どのようなことになるか、全く見当が付かなかった。ふいに山代には、その自分の店だという画廊が、大きく口を開けて自分を呑み込もうと待ち構えている無気味な妖怪に思えた。
「たいして廻り道にはならんでしょう」
平松が言うと、
「立ち寄るのはこの次にしても、その店の前だけでも通ってみますか」
高崎も言った。山代は二人に烈しい憎しみを感じた。こんな厭な人間たちはないと思った。自分をこの世で一番無気味な妖怪の前に拉《らつ》し去ろうとするのか。
「厭ですよ、私は」
山代は言った。その口調の烈しさがさすがに通じたのか、
「じゃ、お店の方はまたのことにしましょう。わたしが一応連絡だけしておきます」
平松は言うと、
「では」
と、山代と高崎の方へ会釈して、正面の階段を降りて行った。山代は階段を降り切ったところで、平松が自分の前へ滑って来た大型のくるまへ乗り込むのをぼんやりと眺めていた。ひどく疲れていた。こんどは疲労のためにその場に坐り込んでしまいたいほどだった。
「大きい収穫でしたね」
高崎は言った。
「画商をやっていたことも判ったし、現在有楽町に画廊を持っていることも判った。やはり外に出てみるものですね」
それには答えないで、
「帰りましょう」
山代は歩き出した。ぶつかる、ぶつかる、ぶつかる、そんなことを山代は口の中で呟いていた。早くもとんでもないものにぶつかってしまったが、この先き何にぶつかるか判ったものではないという気持だった。
二人は動物園の前からタクシーに乗り込んだ。山代は眼をつむっていた。高崎は二、三回話しかけて来たが、山代が返事をしないので、眠ってしまったものと思ったらしかった。
山代は堪らなく一人になりたくなっていた。早く病院に帰って、自分の病室で一人だけの時間を持ちたかった。自分が画商であるというのは、一体どういうことであるのか! 自分が有楽町のビルの二階に画廊を持っていたということは、どういうことであるのか! それからまた自分が、あの平松という商事会社の社長と親しく付き合っていたということは、一体どういうことであるのか!
山代大五にとって、いまや一人になって考えなければならぬことはいっぱいあった。しかし、それらの問題はいくら考えても解答の出て来るものではなかった。言ってみれば、それらのものはすべて、彼が失った過去の亡霊たちであった。見たことも聞いたこともない亡霊たちであった。亡霊たちの方では、彼とある関係を持っていると信じているが、彼の方では既に、一方的ではあるにせよ、その関係を廃棄してしまっていた。
山代大五は眼を開いた。すると恰《あたか》もそれを待っていたかのように、
「山代さん、貴方の店へ行く。すると、貴方の止宿先きも判るし、貴方の生活も判る。貴方が交際していた人たちも判るし、貴方が使っていた人たちも判る。やがて、貴方が失った東京の三年の生活というものも、すっかり判って来るわけですよ。もう少しの辛抱です」
高崎は言った。その高崎の言葉が山代大五の体に言いようのない悪寒を走らせた。自分の失われた三年間の生活が判る! 何という無気味な恐ろしいことであろう。過去の亡霊たちはいっぱい自分の眼の前に立ち現われて来るだろう。男も居れば女も居る。自分に好意を持っている者も、自分に悪意を持っている者も居るだろう。そうした人間たちがいっせいに自分の前へ姿を現わして来る。しかし、自分はその大部分の人たちを知らないだろう。彼等は過去の亡霊たちなのだ。
「貴方は日記をつける習慣がありましたか」
高崎の声が、ひどく遠くに聞えた。
「もしかして三年間の日記が発見されたとしたら、これは面白いですね」
「面白いですか」
「いや」
高崎はあわてて付け足した。
「面白いと言ったのは、僕の失言でした。ついうっかり口を滑らせた」
再び高崎の声は、山代大五には遠くに聞えていた。
珈 琲
美術館で平松に会ってから、山代大五の病院における生活は少し変ったものになった。佐沼と高崎に顔を合わせる度に、山代は彼等が何を言い出すか判らないといった不安な思いに駆られた。平松という人物は山代が経営するという画廊へ出掛けて行き、いずれそのことを高崎に伝えると言っていたので、当然何らかの連絡が平松によって為される筈であった。あるいは既にその連絡は為されているかも知れなかった。
しかし、佐沼も高崎もそのことには特に触れなかった。
「貴方は画商さんで、画廊を持っていたんですってね」
そんな多少他人事のような言い方で、佐沼は一度言ったことがあったが、それ以外は何も言わなかった。高崎も美術館からの帰りのくるまの中でひどく気負い立った言い方をしていたが、その翌日からはまるで人間が変ってしまったように、その事に関しては口を閉じていた。
こうした佐沼や高崎の態度が、山代には無気味に思われた。何か自分の過去に、彼等にそれに触れることを憚《はばか》らせるようなものがあるのではないかといった不安が感じられた。と言って、山代は自分の方からは絶対にその事に触れて行く気持はなかった。自分が知っていない自分の過去を、自分の方からあばいて行く気持などになれよう筈のものではなかった。
山代はこの頃になって、毎夜のように夢を見るようになっていた。どういうものか、広々とした原野に一人立っていたり、そこを気ぜわしく歩いていたりする夢であった。夢というものには大抵悲しさとか、苦しさとかが伴うものであったが、山代の夢には、悲しさも苦しさもなかった。見はるかすような広い原野になぜ自分が一人で立っているか判らなかったし、なぜ自分がそこを歩いて行かねばならぬかも判らなかった。強いて言えば、夢の中の彼が持っているものは戸惑いの気持とか、途方にくれている気持とか、そういったものに限られていた。
夢から覚めると、山代はいつも夢というものがいかに正確であるかに驚いた。現在の山代は苦しみも悲しみも持っていなかった。苦しむことや悲しむことがあったら、どんなにいいだろうと思う。山代は自分が、道を失って原野をうろつき廻っている一匹の犬のように思えた。どこへ行く当てもなかったし、何をする希望もなかった。
病院に収容されて、食っては眠る毎日を繰り返しているだけのことであった。こうした彼を、ある日突然彼の知らない過去の亡霊の一人が訪ねて来た。
佐沼が一人の見知らぬ女性を伴って病室へはいって来た時、山代はすぐ相手が過去の亡霊の一人であるに違いないと思った。二十六、七歳ぐらいであろうか。部屋へはいって来た時の落着いた動作と、何となく身に着けている静かな雰囲気から、学校を出たての娘といった感じはなかった。しかし、どう見ても三十歳には間のある年齢である。
佐沼は、山代を昂奮させないようにという配慮からか、
「この方知ってる? 忘れたでしょう。どうせいまに思い出すけれど、一応は紹介しておきますか」
そんな風に言った。山代が相手の女性を忘れているということを、努めて何でもない取るに足らぬこととして、山代に思い込ませようとしているようなところが、その言い方には感じられた。そうした佐沼に反撥するように、
「知りませんね」
山代は無愛想に答えた。
「香村《かむら》つかささん」
佐沼は言った。それからちょっと間を置いてから、
「思い出しませんか。何かこの名前に記憶はありませんか」
「ありません」
「そう。じゃ、よろしい」
佐沼は言って、ちらっと視線を訪問者の方へ向けた。香村つかさは横顔を見せて窓際に立っていた。横顔を見せているのは、眼をさりげなく窓の方へ向けているためであるが、ハンドバッグを持っていない方の手はかなり固く握りしめられている。
山代はこれまでに彼の前に現われた過去の亡霊には、――と言っても二人しかないが、――一様に烈しい嫌悪《けんお》感を覚え、その方へ眼を当てることはできなかったが、いまの場合は少し違っていた。自分はこのような若い女性を知人として持っていたのであろうか。清潔な感じのまだうら若い娘ではないか。
山代が香村つかさの方へ視線を投げていると、相手はふいに体を動かして、顔を山代大五の方へ向けた。はっとする程|瞳《め》の勝った眼が大きく見えた。山代は相手の顔にちらっと明るい笑いの走るのを見た。が、それはすぐ消えた。山代が自分の見間違いではないかと思った程、それは一瞬のことであったが、山代の心には香村つかさの笑顔の明るさが残したものが、残照のように捺《お》されてあった。
香村つかさは初めて口を動かした。
「何もかもお忘れになって当分お休みになったらいいと思いますわ。ずいぶんお忙しかったんですもの」
山代大五は、いまは寧ろ悲しそうに俯いている若い女性を見守っていた。
香村つかさが言葉を口から出したので、佐沼はここで一応訪問者のことを説明しておくといった風に、
「この間、美術館で平松さんという人に会ったでしょう。その平松さんが有楽町のお店の方へ連絡してくれたんですが、お店が閉まっていて、誰とも連絡がつかなかったそうです。そしてやっと今日この方を探し出して下さった」
そう山代大五に言った。それから佐沼は改めて香村つかさの方に、
「それにしても、山代さんは店主ですから、その店主が居なくなって心配なさったでしょう」
と言った。
「でも」
相手は低い声で言ってから、
「先程申し上げましたように、どこかにご旅行だと思っていました」
「旅行と言っても、ずいぶん長い旅行になるわけですね」
「でも、前にもこうしたことございました」
「ほう」
「尤《もつと》も前の時は二十日程でしたけど」
「どこへ行ったんです」
「さあ。――そんなこと、存じませんけど」
「何のための旅行です」
「さあ」
それからちょっと間を置いてから、
「わたくし、極くたまにしかお店へ出ませんでしたから、詳しいこと何も存じません。勝手な想像で失礼ですけど、お金のことか何かで、暫くお店に顔をお出しにならない方がいいのかと思ってました」
「なるほど」
「それに、わたくしがお店に出るようになるちょっと前に、使っていた若い方をお店からお出しになりましたの」
「罷めさせたんですか」
「そうです。そんなわけで、誰も山代さんのことを心配して上げる人がなかったと思います。――わたくしも、時々お店の前を通っても、まだお店が閉まっているぐらいで、少しも心配いたしませんでした」
「なるほど。――それにしても近所で心配しそうなものですね」
「でも、ご近所でも心配しないんじゃありませんかしら。――山代さんって、もともと誰をも心配させないようなところがありますもの」
「どうして」
「どうしてって、それ、説明できませんけど、三カ月や四カ月|行方《ゆくえ》が判らなくても、誰でもめったなことないと思うんじゃありませんかしら。心配したら心配した方が損みたいなところがあると思います」
香村つかさは真顔で言った。
山代は、香村つかさという若い女性が話すのを聞いていた。自分のことが語られているわけだったが、どうしても自分のこととは思われなかった。それにしても、心配したら心配した方が損だという言い方は、他人の問題として聞くことができるなら、そこには妙なおかしさがあった。果して、そのおかしさは佐沼にも伝わったらしく、
「なるほど」
そう言ってから、佐沼はにやにやした。
「そういうところがありますかな」
「あるんじゃありません?」
「そうですかね。のんきというか、ずぼらというか」
言いかけて、佐沼はすぐ、
「本人を眼の前に置いて、ずぼらはいかんね。これは失言だ」
と言った。それから、
「そういうところがありますかね。山代さん、ご自分でどう思う?」
と、こんどは山代の方へ話しかけて来た。
「判りません」
「判りませんって、新聞記者時代はどうでした」
「多少あったでしょう」
山代は言った。義理にもないとは言えなかった。学生時代も、新聞社へはいってからも、決して几帳面《きちようめん》さや、勤勉さで売った覚えはない。小さいことにこせつかないことで知られて来ている。
「あった……なるほどね」
佐沼が感心したような言い方をすると、
「うふ」
と、香村つかさは笑った。この場合も、山代は相手が笑ったと思ったが、次の瞬間、相手が笑ったと思ったのは自分の間違いではなかったかと思った。香村つかさは寧ろ気難しい顔をしていた。
「平松さんとは、どういう御関係です?」
佐沼が訊くと、
「山代さんのお使いで、平松さんのお宅へ二、三回お伺いしたことがあります。その時平松さんに差し上げた名刺に、わたくしの住んでいるアパートの所番地が刷り込んでありましたので、それで、平松さんはわたくしのところへご連絡になったんです。お電話があった時、そうおっしゃっておりました」
香村つかさは答えた。
「じゃ、疲れるといけないから、今日はこのくらいにしますか。向うでゆっくりお話を伺います」
佐沼は香村つかさに言った。
「別に疲れませんよ」
山代は言った。本当に疲れていなかった。香村つかさの口から語られる自分は、少しも無気味でなく、それを聞いていて不快ではなかった。
「いや、疲れますよ。やはり疲れている。昂奮している」
佐沼が言うと、
「お疲れになりましょうね。わたくし、もう失礼いたしましょう。今日お伺いして、お元気な、――と言っては変ですけど、本当にこうしてお話している分には何でもない山代さんにお目にかかって、本当にようございました。安心いたしました」
香村つかさは言った。が言ってから、
「安心しましたなんて、変ですけど、本当に安心いたしました。先程、少しも心配しないと言いましたけど、やはり心配してはおりましたのね。お会いして安心するくらいですから」
香村つかさの顔に、この時またちらっと笑いのようなものが走るのを、山代大五は見た。もし山代が香村つかさなる女性について、何か知っていたなら、その笑いの意味を知ることができるに違いなかったが、いまの山代は彼女について何の知識も持ち合せていなかった。
「また近くお見舞に伺います」
「どうぞ」
山代は言ってから、
「お見舞より、何より、とにかく、もう一度お目にかかりたいと思います。お訊きすることが沢山あります。何もかもお訊きしないことには、一切がちんぷんかんです」
「承知いたしました。――でも、変ですわ、ほんとに」
この時だけ、香村つかさは顔を深刻に歪めた。
「お訊きするなんて」
「でも、お訊きしないことには判らない」
山代に代って佐沼が言った。
「それはそうですけど」
それから若い女性は軽く頭を下げると、いかにもあと腐れのないような感じで、さっと山代の方へ背を向けると、そのまま病室を出て行った。
一人になると、山代大五は急に疲れを感じた。いままで少しも疲れていないと思っていたのに、一人になった途端に、頭部に軽い痛みを覚え、欠伸を二つ三つ連発させた。
山代はベッドに仰向けに倒れると、一体、あの若い女は何者であろうかと思った。自分の使用人であると、彼女自ら名乗ったが、いつ、いかにして、自分は彼女を知り、彼女を雇い入れたのであろうか。
看護婦がはいって来た。
「お疲れになりません」
「少し疲れた」
「そうでしょう。赤い顔してらっしゃる」
看護婦は言った。
その晩から翌朝へかけて、山代は自分が画商であるということを、自分に呑み込ませることに骨を折った。自分が画商であり、画廊を持っていたということは、いまや間違いない事実とする以外仕方がなかった。平松という顧客の一人が現われ、香村つかさという使用人の一人が現われている。
山代にとっては、自分が画商であるということは何と言っても意外なことであった。新聞記者であった筈の自分がどうして画商になるようなことになったのであろうか。三年前に大阪の新聞社を罷め、東京に出て、それから画商になったのであろうが、人間というものは全く予想もしない方向へ変って行くものである。
しかし、自分は絵は好きだったと、山代大五は思った。確かに絵は好きだった。一度は美術学校へはいりたいと思ったくらいだから、絵を取り扱う商売を選んだとしても、さして異とするには当らないかも知れない。と言っても、そうしたことで山代は自分を納得させることはできなかった。絵が好きだから、絵描きになったというのであれば話は判るが、絵描きではなく、画商になったのである。絵を売買して、それで利潤を上げる商売人になったのである。
大体、自分は一度でも商売人になりたいと思ったことがあるであろうか。商売だけは性に合っていないと自分も思い、他人もまたそう思っていた筈である。それはともかくとして、自分は画商になったのである。好むと好まざるとに拘らず、絵を売買する職業に就いたことは、歴《れつき》とした事実なのである。それなら自分はいかなる絵を取り扱っていたのであろうか。日本画であるか、洋画であるか。日本の画家の作品であるか、外国作家のものであるか。そして画廊にはいかなる作家の絵が並んでいたのであろう。それからまた画廊であるからには、何とか名前がついている筈である。いかなる名前がついていたのであろうか。
山代は考えることがいっぱいあった。その晩は珍しく遅くまで眼覚めていて、眠りにはいるまで同じ質問を何回となく、自分に発し、そして翌日眼覚めると、すぐまた同じ質問を繰り返した。
朝の検温にはいって来た笠松みえ子が、
「今日は、午後外出なさるんですってね」
と言った。
「外出するんですか」
山代が訊き返すと、
「そうらしいですよ。記録室の黒板にそんなことが書いてあります。二時面会、三時外出って」
看護婦は言った。
「面会って、誰かな」
山代が訊くと、
「きのうの方でしょう。佐沼先生に今日もう一度いらっしゃるようなことを話していましたから」
看護婦は言ってから、
「きれいな方ですのね」
「うん」
山代大五も否定しなかった。美人かどうかは判らないが、明るい感じの女性である。香村つかさが、今日もう一度この病室へ姿を見せると思っただけで、山代大五は殺風景な一一九号室が急に明るいものに感じられた。薔薇《ばら》の大輪でも持ち込まれて来るような、そんな明るい期待が、心に漲《みなぎ》って来る。
「あの方、山代さんの何ですの。お家の方?」
「いや、使っていた女だ。使用人」
「事務の方ですか」
「そうかも知らん。こっちで忘れているので、よくは判らん」
「じゃ、ご存じありませんのね」
「そう」
「大変ですわね。山代さんも」
笠松みえ子は同情する口調で言った。大変であると言えば大変だが、今日の山代大五はさして大変には感じていなかった。大体、山代大五の口からこっちで忘れているので、よくは判らん≠ニいったような素直な言葉が出たのは、入院してからこの時が初めてであった。それにつられた恰好で、看護婦もまた大変ですわね。山代さんも≠ニいったような素直な言葉を口から出したのであった。
「全然、覚えてませんの」
「何を」
「あの方のこと」
「覚えていないね」
「山代さんも変な気持でしょうけど、向うも張り合いがないでしょうね」
「そうだと思うね」
山代は軽く笑った。
「あら、お笑いになりましたね。初めてですわ」
「そうかな」
山代が笑ったことを報告にでも行くように、若い看護婦はすぐ出て行った。
山代はベッドから起き上がると、看護婦が言うように、今日外出するのだとしたら、香村つかさの案内で有楽町の店へでも行くのではないかと思った。そう思うと、それに違いないように思われた。折角明るかった気持がまた急に暗くなった。有楽町の自分の画廊が、この時山代には、過去の亡霊がいっぱい詰まっている無気味な箱に思われた。何が飛び出すか判ったものじゃない。
山代はその日、奇妙な午前の時間を持った。香村つかさという若い女性を迎える期待と、彼女に依って案内されるかも知れない自分の画廊に対する不安と、二つのものが混じり合った複雑な気持であった。
山代は昼食後看護婦に断っておいて、病院の庭を歩いた。陽射しはすっかり初夏のそれに変っていた。病院の建物の横手に小さい花壇があるが、チューリップの花が失くなったと思ったら、いつの間にか矢車草の花が咲き盛っている。
山代は、この日初めて、自分もいつまでも、この病院にいるわけには行かないという気持を持った。学用患者になっているので、この病院に居る限り、治療費も食費も要らないが、しかし、考えてみると、もう病人とは言えなくなっている。三年間の過去の記憶を失っているという一事を除けば、もうどこも常人とは変っていないのである。それに自分が画商をやっていたことも判り、自分の店も持っているということになると、いつまでも学用患者として納まっているわけには行かないだろう。この病院を出て、自分は自分なりに生きて行かなければならない。しかし、どうして生きて行くのか。この問題に突き当ると、山代は足を停めた。実際に足が竦《すく》んで、一歩も前へ歩けなくなる気持だった。泳ぎのできない人間が、そこに飛び込むために海に向って立った時と同じ気持だった。
山代はその問題をすぐ向うへ押し遣った。考えても解答の得られない問題だった。街路の方へ眼を遣ると、人間が動き、くるまが走っていた。人間という人間は誰一人として静止しているものはなかった。急に強くなった陽射しを浴びて、みなどこかへ急いでいた。何らかの用事を持って、目的地へと急ぎつつあった。やがて、自分もあの中へはいって、あの人たちと同じように、どこかへ向って歩かなければならぬのか。
そうしている時、山代はふと、病院の門をくぐってこちらにやって来る香村つかさの姿を見付けた。明るい陽光のもとで見ると、彼女はきのうよりずっと若く見えた。白のワンピースを着て、それを赤いベルトで結んでいる。胴のくびれがちょっと痛々しい程細く見える。
山代が声をかける前に、香村つかさは軽く右手を上げた。
「散歩してらっしゃいますの」
近付いて来ると、挨拶抜きで言ってから、ちょっと声を落して、
「ほんとに伺いますけど、わたくしのこと全然覚えてらっしゃいませんの?」
香村つかさは真剣なものを顔に走らせて言った。
「本当にも、嘘にも、私は実際に貴女のことを覚えていないんです」
山代は言った。山代も又真剣なものを顔に走らせていた。他の人の場合なら、すぐ自分が不機嫌になることをとめることのできない厭な話題だったが、いまの場合、少しもそうした気持にならぬのが、山代自身不思議だった。
「わたくしの名前もご存じありませんのね」
「貴女の名前はきのう覚えました」
「じゃ、年齢は」
「もちろん、知りませんよ。一体幾つなんですか」
すると、香村つかさは、
「わたくし、知ってますのよ、山代さんの年齢も、おくにがどこかも、お好きなものも、お嫌いなものも」
そう言って、ちょっと鼻の頭の汗をハンカチで押えて、
「今日、お店へご案内いたします。――お店も本当にご存じないんでしょうね」
「勿論知りませんよ」
「それならいいんですけど、何ですか、山代さん、みんな知ってらして、知らないとおっしゃっているような気がするんです。もし、そんなんでしたら、わたくし、厭ですわ」
この時だけ、香村つかさは悲しそうな顔をした。
「そんなばかなことがありますか」
「じゃ、いいんですけど。――三年間のこと、何もかもお忘れになってらっしゃるんでしょうか」
そう言われると返答に困った。三年間の記憶を喪失しているということになっているが三年間の記憶の全部を失っているのか、あるいはそのうちの何かは覚えているのか、その点は自分でも判らなかった。自分でも判らぬくらいだから、佐沼にも高崎にも判らぬ問題であった。
「おそらく全部の記憶を失ってるんじゃないでしょうか」
「そうでしょうか。そういうものなのでしょうか」
疑わしげに香村つかさは言った。多少そうしたところは執拗な感じであった。
病院の建物へはいると、山代は記録室の前で彼女と別れ、自分の病室へ戻った。二十分程すると、高崎が顔を出して、
「外出します。貴方の店というのに行ってみましょう。支度して下さい」
と言った。山代は看護婦に手伝って貰って外出の支度をした。香村つかさと言葉を交したためか、自分の店へ出掛けて行くということのやり切れなさは、朝のときよりずっと軽いものになっていた。しかし、自分の店だという建物の内部にはいった時、自分が果して平気でいられるのかどうか、その点は全く自信はなかった。
病院の表玄関へ出ると、既に大型のくるまが待っていて、香村つかさが運転台の横に坐っているのが見えた。高崎と山代は背後《うしろ》の席に乗った。少し遅れて佐沼はやって来ると、
「お待ちどおさま」
そう言って、山代の隣りに腰を降ろした。
くるまはすぐに走り出した。山代にとっては三回目の外出であった。一回目の時のような街に対する恐怖感はなくなっていた。香村つかさは髪が風で乱れるのを気にしてか、ずっと髪に手を当てていた。山代はそうした若い女性をうしろから見守りながら、ふとピクニックにでも出掛ける時のような心の弾みに似たものを覚えた。山代はずいぶん長い間、このような心の弾みを自分のものにしたことはなかったと思った。長い長い間、自分は何をしていたのであろうか。こうした思いの中にだけ、山代は空白の三年というものが持っている時間の長さが感じられるような気がした。やはり自分は三年の歳月を失っているのである。それを失っているという思いが、一つの実感として山代大五を捉えたのであった。こうしたことは、山代にとっては初めてのことであった。
「有楽町でしたね」
佐沼が香村つかさに尋ねた。
「そうです」
「新聞社の裏手に、画廊のあるようなビルがありましたかね」
「裏手ではありませんの。横にあたると思います。四階建てですけど小さいビルです」
香村つかさは答えた。
山代大五はやはり自分がピクニックに行くのでないことを、二人の会話から知らなければならなかった。山代はまた次第に不安に襲われ始めていた。いま自分は自分の店へ行こうとしている。それがどのような店か自分は何も知らない。
「画廊というからには名前が付いていたでしょう。何という画廊でした」
佐沼は過去形で話していた。
「第一造型社」
香村つかさは前を向いたままで言った。
「難しい名前ですな。画廊みたいではない」
「ほんとに、――美術団体か何かみたいですわ。正確には画廊・第一造型社と言うんです。でも、普通は第一画廊という呼び方で呼ばれておりました。その方が呼びやすいんですもの」
山代自身、なるほど厄介な名前を付けたものだなと思った。
くるまは有楽町の駅のガードをくぐり、新聞社の前を通って山代の経営する画廊があるというビルの前で停まった。
「ここです。どうぞ」
香村つかさは言って往来からすぐ上がるようになっている細い階段を上がって行った。その階段の右手は花屋、左手は薬屋になっている。
二階へ上がって行くと、最初の部屋に「第一造型社」という名札が出ていた。ビルの管理人らしい五十年配の男が部屋を開ける鍵の音を、山代は異様な気持で聞いていた。男は扉を開けると山代の方へちょっと頭を下げ、それから何か言いかけようとしたがすぐやめて、誰にともなく、
「ご病気でしたか、そうでしたか、それはそれは」
そんなことを言って戻って行った。
香村つかさの後に続いて佐沼、高崎、山代の順で部屋にはいって行った。入口のそばに事務所らしい小部屋が仕切られてあり、数点の絵が長方形の部屋の二つの壁面にゆとりをもって掛けられてあった。小さいが、小綺麗な感じの画廊だった。香村つかさは四つある窓を次々に開けて行ったが、それらの窓のカーテンの色の好みもなかなかいいものであった。
「いい画廊じゃないですか」
佐沼は部屋のまん中に立ってあたりを見廻すようにしながら言った。
「これが山代さんのお店ですか、なるほどね」
高崎も、そのほかの言葉が出ないような言い方で言った。山代はいまや自分が経営しているという画廊の中に立っていた。しかし、何の実感もなかった。
「これらの絵に見覚えはありますか」
佐沼が訊いた。
「ありませんな」
山代は数点の絵へ順々に視線を投げて行ったが、勿論そのどれにも見覚えはなかった。絵の下に画家の名を書いた札が貼られてあるがそれらの名にも記憶はなかった。どの程度の画家か知らないが、山代の知らない名ばかりだった。
香村つかさは事務所へはいって行ったが、すぐ出て来ると、
「名刺がありました」
そう言って、名刺のはいった箱を山代の方へ差し出して寄越した。確かにそれには山代大五という四つの文字が刷られてあった。そして隅の方に第一造型社という画廊の名とその所番地が並んで刷られてあった。
山代は無気味なものでも見るように、その名刺に見入っていたが、やがて、
「しまっておいて下さい」
そう言って、名刺の箱を香村つかさに返した。
高崎は、山代が香村つかさに返した名刺を覗き込んで、
「ほう、ちゃんと名前が刷られてあるじゃないですか」
と言った。
「どれ」
佐沼もそれを覗き込んだ。
「事務所へはいったら、いろいろな物が出て来るでしょう。三年間のブランクを埋める手懸りになるものは沢山ありますよ、きっと」
高崎が言うと、
「でも、今日事務所へおはいりになるのはどうでしょうか」
香村つかさは憂わしげな表情で言った。
「今日はお店を見て戴いただけでいいんじゃありませんかしら。――お疲れになりますわ、きっと」
その労《いたわ》りのある言い方が、山代には優しく響いた。実際にいま事務所にはいったら、自分は大変なことになるだろうと思った。自分の書いた、しかし、自分の知らない手紙も出て来るかも知れないし、自分の字で書き付けた、しかし、自分の知らないメモも出て来るかも知れない。そうしたものが出て来ないにしても、他人の認めた自分宛ての手紙は必ず出て来ることだろう。
「そうですね。今日一度では刺戟が強すぎるかも知れない」
佐沼も言った。すると、
「わたくし、いつかビルの管理人の方に立ち会って戴いて、佐沼先生や高崎先生とご一緒に書類を整理したらどうかと考えております。その上で山代さんに少しずつお見せした方が――」
「そりゃ、そうですな」
佐沼は言って、
「留守中の郵便物などはどうなっているんですかね」
「ビルの事務所で預ってあるそうです。今日持って来ると言いましたので、もう少し預っておいてくれるように頼んでおきました」
香村つかさは言った。そうしたところは、若いのに似ずよく気の付く感じだった。自分だけ事務所にはいって名刺の箱を持って来たのも、今日はこれだけを見せておこうといった、そんな配慮が籠められてあるのかも知れなかった。
「私も、今日はこれで放免して戴きたいです。事務所を覗くのは怖いです」
山代大五は自分の気持をありのまま言った。
「じゃ、まあ、一服して帰りましょう」
佐沼は窓際の接待用の椅子に腰を降ろして言った。小さい卓をまん中にして、四つの椅子が配されていたので、高崎も香村つかさも山代も、それぞれそこに腰を降ろすことができた。
香村つかさは席を立って事務所へはいって行ったが、間もなく灰皿を持ち出して来て、それを卓の上に置いた。
「ここで仕事をしていたんですね、山代さんは」
高崎が感慨深げに言うと、
「新宿だと言いましたね、山代さんのアパートは」
と、佐沼が香村つかさの方を向いて言った。山代の住んでいたアパートのことも、既に二人の間では話題になっていたものと見えた。
「そうです」
「そこへも一度行かなくてはいけませんね」
「ええ、でも、そこへ行くのも少し先きにした方がよくはないでしょうか」
「勿論、先きの話ですね。が、アパートの方には連絡しておかないと」
佐沼は言った。
「電話だけは掛けておきました。そのアパートには部屋だけを借りて、月に一回か二回かしか顔を出さないような人も何人か居るようです。そのくらいですから、山代さんのことも、別に問題になっていなかったようです」
「高級アパートですか」
「ええ、まあ、高級と言えると思います。お部屋代だけでもずいぶん高いと思いますわ。わたくし、よくは存じませんけど」
「ほう、この店の仕事は順調に行っていたんでしょうか」
「さあ」
香村つかさはちょっと考えるようにしていたが、
「どうでしょう、その点は。――でも、高いアパートに住んでらっしゃるくらいですから」
「まあ、一応、やっては行けたんですね」
「それは」
香村つかさはちょっと山代大五の方へ視線を投げて、
「山代さんって、ずいぶん贅沢好きですし、浪費家だったと思います。わたくしの眼から見ても、はらはらするところがありました」
「それは、どんなところです?」
「たとえば、無名の絵描きさんの面倒見て上げたり、しょうもない絵に――」
言いかけて、香村つかさは口を噤んだ。
「しょうもない絵と言うと言い過ぎですけど、余り売れそうもない変な絵にも、ご自分が気に入ると、かなりのお金を払っていらしったと思います」
香村つかさは言った。
「ここらの絵ですか」
佐沼は壁面にかかっている絵を見廻しながら言った。
「さあ、この絵については存じませんけど」
「本当の商売人ではないんですね」
「そういった感じですわ」
香村つかさはここでまた含み笑いをした。山代は自分について語られることを聞いていながら、自分という人間は大体そんなところだろうと思った。しかし、そうは思いながらも、やはりそれをそのまま肯定する気持にはなれなかった。
――私はそういう人間ではありませんよ。
そう言いたいものを強く感じたが、自分の現在の立場の滑稽さに気付くと、山代は終始黙っている以外仕方がなかった。山代は椅子から立ち上がると、部屋の中をゆっくりとひと廻りした。何か記憶に残っているものはないかと思ったが、そうしたものは一物もなかった。
山代は暫く窓際に立っていた。そこからは新しい大きなビルの明るいクリーム色で塗られた側面の一部が見えていた。そこには大きな窓が何十となく並んでおり、どの窓からも、その内部で立ち働いている男女の姿が見られた。それが山代にはひどく健康に感じられた。
山代は、自信というものは全くなかったが、自分もこれから働かなければならぬだろうと思った。働かなければならぬという気持だけが、山代の顔の線をきつくした。
「一体、私はこれから何をやって行くんでしょうね」
山代大五は窓際から離れながら言った。
「やはり、ここで画商をやることでしょうね」
すぐ佐沼は答えた。
「できるでしょうか」
「さあ、できるかどうかと言われると困るが、貴方はともかく一度やったんだ。一度やったことが、もう一度できないということはないでしょう」
「それは、そうですわ」
香村つかさも言ったが、山代大五は必ずしもそうとは思わなかった。なるほど自分は画商であったかも知れない。しかし、自分が画商になったということは、自分を画商にするために、いろいろな力が自分に働きかけたことを意味する。こんどもそうした力が自分に働きかけて来るか、どうかということになると、それは全く別問題であった。自分は曾て画商であった、ただそれだけのことだ。現在の自分は画商であった自分とは別の人間なのだ。
現在の山代が、曾て画商であったもう一人の人間とは全く別人であるということは、山代だけに判っていることだった。佐沼も、高崎も、香村つかさも、そうは考えていなかった。画商であった山代大五の延長として、現在の山代大五を考えていた。
そうしたことに対する不満を、山代は訴えたかったが、それをうまく表現する自信はなかった。
佐沼、高崎、香村つかさ、山代の四人は、山代大五の経営している画廊を出た。
「お茶でもお飲みになりません? 山代さんが毎日のようにいらしった喫茶店がありますわ」
香村つかさは言った。山代はそうした喫茶店にもはや何の期待も関心も持たなかったが、高崎は、
「そうですか。そういう店があるなら行ってみましょうか」
と言った。こうした場合いつもそうであるように、高崎の口調は弾んでいた。佐沼もすぐそれに同意した。
四人は有楽町の駅のガードをくぐって、すぐ右手に曲り、少し薄暗い感じの喫茶店へはいって行った。喫茶店としては大きい構えの店で、奥の方の床は一段高くなっており、そこにも幾つかの卓が並べられてあるのが見えた。
「窓際に行きましょうか」
佐沼の言葉で、四人は入口に近い往来に面した側の席を取った。きれいに磨かれてある一枚|硝子《ガラス》を通して、街路の人の往来が見られた。
山代は、さっきの画廊の場合と同じように、この店に対して何の興味も覚えなかった。たださっきより少し不機嫌になっていた。
「どうです?」
高崎が言うと、山代は、どうですということは、一体どういうことであるか、そんな風に開き直って訊き返したいものを感じた。しかし、そうも言えなかった。
「ここへ私が来たんだそうですが、ずいぶんまた詰まらんところへ来たものですね」
山代大五はそんな風に言った。山代は自分がもう一人の自分を軽蔑しているのを感じていた。
「でも、ここへ来たということは事実ですからね。やはりどこかいいところがあったんでしょう」
佐沼は言った。
「いいところはないと思いますね」
山代が言うと、傍から、
「山代さんはここの珈琲が一番おいしいとおっしゃってましたわ。それでここへいらしったんじゃありませんかしら」
香村つかさは言った。そう言われると、山代としては返す言葉はなかった。うまいまずいは主観の問題だから、そのためにもう一人の山代大五を軽蔑するわけには行かなかった。
白いエプロンをかけた少女に依って、問題の珈琲が運ばれて来た。山代はずいぶん久しく珈琲を飲まなかったと思った。くるまで病院を出る時、何となくピクニックにでも出掛けるような気持を味わい、そうした気持の持つ遠隔感の中に、三年の歳月の空白を感じたが、やはりこの場合も同じだった。珈琲を飲んだという経験は、東京における三年の生活を飛び越えて、その向うの大阪における経験と繋がっているに違いないと思われた。
「珈琲は久しぶりです。三年程飲みませんでしたからね」
山代は、それに対する反論を予想しながら言った。そんな筈はない。こんどの事件が起る前は、お前はここで毎日のように珈琲を飲んだ筈だ。一座の誰かがそう言うに違いなかった。すると、その予想を裏切って、
「そう、そうね」
と佐沼は静かに言った。ほかの者は黙っていた。山代は、自分の口調の中に、彼等にそのような態度をとらせる何か異常なものがあったことに気付かざるを得なかった。
山代にとっては珈琲は少しもうまくなかった。ただ苦いだけだった。
「おいしいですか」
香村つかさが訊いた。
「いや」
山代が答えると、
「お紅茶にすればよかったですわね。まずかったら、お飲みにならないでおおきになったら」
香村つかさはちょっと眉を顰めた表情で言った。
山代はスプーンを置くと、あとは硝子越しに往来に眼を遣っていた。そうしている時、山代は向うから歩いて来る一人の人物の姿を見てはっとした。山代は思わず腰を上げて、
「知っている人が来ます。ちょっと待っていて下さい」
そう言うが否や席を離れた。一瞬のことだったので、誰も山代に声をかける余裕も、山代を停める余裕もなかった。
山代は喫茶店を飛び出すと、すぐ自分が硝子越しに見掛けた人物の姿を探した。山代はさっきの人物が歩いて行った方向へ大股で歩いた。何人かの男女を追い越した。
「知っている方って、どなたです?」
香村つかさが少し息を荒くして追ってきた。
山代は黙っていた。黙っていたというより言葉を口から出すことはできなかった。なぜなら、この時山代は突然自分が追いかけている人物が何者であったかを忘れている自分を発見したからである。
「男の方? 女の方?」
それに対しても、山代は答えられなかった。
山代は呆然として立ちつくしていた。自分はいま確かに誰かを追いかけてここまで来たのである。しかし、突然追いかけている人物が誰であるか、その肝心のことを忘れてしまったのだ。
「男の方ですか」
また香村つかさは訊いた。
「うーむ」
山代はひとつ唸っておいて、
「男だったか、女だったか、それを忘れてしまったんです。全くなっていない!」
そう自嘲的に言った。香村つかさは痛ましそうに山代の顔を見守っていたが、もはやそのことには触れず、
「帰りましょう」
と言った。二人が喫茶店の方へ引き返すと、丁度そこへ店から出て来た佐沼と高崎がやって来た。
「誰でした?」
佐沼が訊くと、
「ふいに忘れちゃったんです。確かに誰かを追いかけて、店を飛び出したんですが、飛び出したとたん忘れちゃった」
と、山代大五は情なさそうに言った。
「ほう」
佐沼は呆気にとられたような表情で山代の顔を見守っていたが、
「もの凄い勢いだったね」
と、高崎の方に言った。
「そうです。猟犬が獲物でも見付けた時の勢いでした。いきなり店から飛び出したんですからね」
「全くね」
佐沼は感慨深そうに立っていたが、
「とにかくタクシーを捉まえて帰るとしましょう。高崎君、頼む」
と、高崎の方に言った。高崎はすぐタクシーを拾うために離れて行った。
「やはり忘れっぽいですね。駄目だな、まだ」
山代が言うと、
「忘れっぽいのか、記憶を回復しようとしているのか、どっちかですね。記憶が回復しかかって、忘れている過去のことが一瞬閃いたとしたら、それは悦ぶべきことですよ」
佐沼は言った。山代はそれについては黙っていたが、そう言われてみれば、記憶を回復しかかっているのかも知れないと思った。
山代は自分の心の中に、何か生き生きしたものが残っているのを感じていた。僅《わず》か一瞬のことだが、その一瞬だけ自分は生きていたような気がする。椅子から立ち上がり、喫茶店から往来へ飛び出すまでの短い時間であったが、その間の生き生きとした思いのほとぼりが、いまもはっきりと心の中に残っていた。
雨
山代大五の病院における生活は、いままでとは少し変ったものになった。
自分が経営する画廊を見に行った日に喫茶店で経験した小さい事件は、山代にとってかなり大きい意味を持つものであった。彼は自分が持った生き生きとした短い時間のことを思い出すと、いつまでもその思いの中に浸っていたいような爽快感を覚えた。その時間だけが生きていたと思った。自分の眼は正常に物を見、自分の判断力は正常に物を判断し、自分の脚はともかくもある目的地に向って突進したのである。あの短い時間だけ、自分は曾て生きたように生きたのである。
そうした時間が再び自分を見舞わないであろうか。朝眼覚めると、山代はそのような期待で胸を脹《ふく》らませた。溺れた者が藁《わら》をも掴むような期待ではあったが、現在の山代大五はその期待の中に生きていた。
そしてその山代の期待を大きく支持しているのは佐沼の言葉であった。佐沼は病室に顔を出す度に、記憶喪失者がいかにして記憶を回復するか、そうした例をあげて話をした。何の前触れもなく、突然全記憶を取り戻す者もあれば、何の脈絡もない部分部分の記憶を取り戻す者もあった。
「必ずいまにどちらかの形で、記憶を取り戻しますよ。現に貴方は記憶を取り戻しかけたのだから」
佐沼はそんな言い方をした。喫茶店で起きた出来事を、山代を力づけるためかも知れなかったが、佐沼はいい意味ばかりにとっていた。
「一生、記憶を取り戻さない人もあるでしょう」
山代はこの言葉を口から出すのが一番怖ろしかった。しかし、佐沼の顔を見ると、一度は口にせずにはいられなかった。
「そうした例も絶無とは言えないでしょうが、貴方の場合は違いますよ。一度雲の間から青空が見えたんだから」
佐沼はいつもそんな風に言った。
山代は、香村つかさに対する場合は、佐沼や高崎に対する場合とは違っていた。香村つかさは一日おきか二日おきに病院に顔を見せたが、その度に、山代は過去の話に彼女が触れることを嫌った。過去の自分と現在の自分とは全く違った人間だということを、彼女に思い込ませ、納得させたい気持に駆られた。
そうした山代の気持を呑み込んでか、香村つかさもめったに山代の過去のことには触れなかった。全くの見舞客として、花を持って来て、それを花瓶《かびん》に入れて窓際においたり、肌着類を買って来たりした。そうした香村つかさが、山代の眼には甲斐甲斐《かいがい》しく映った。
ある雨の日であった。香村つかさは部屋へはいって来ると、いきなり、
「佐沼先生からお訊きになりました?」
と、そんなことを言った。
「何を?」
山代が訊き返すと、
「佐沼先生と高崎先生と三人で、一応画廊の事務所と、アパートのお部屋の両方を片付けましたのよ。事務所の方はビルの管理人の小父さんに立ち会って貰い、アパートの方はあのどもりの小母さんに立ち会って貰いました」
香村つかさは言った。
「いつのことです」
「きのう」
山代大五は自分の顔の筋肉が硬《こわ》ばるのが、自分でもよく判った。自分の知らないうちに自分の体にでも触れられたような不快さだった。
「アパートのどもりの小母さんたら――」
香村つかさは言いかけたが、
「そんな小母さんなど知りませんね」
山代の不機嫌な口調に気付いて、
「ごめんなさい。小母さんもご存じありませんでしたわね」
「知らないんじゃなくて、忘れたんです」
すると、香村つかさは大きな眼を見はるようにして山代を見詰めていたが、次第にその瞳に悲しそうな光を湛《たた》えると、
「憤ってらっしゃいますのね」
と、言った。
「つい小母さんのことが口から出たんです。山代さんのことを心配していた人ですから」
「小母さんか何か知らないが、そんなことを憤ってるんじゃないんです」
「お部屋を調べたこと?」
山代が黙っていると、香村つかさはちょっと表情を改めて、
「山代さんが不快なことは判っておりました。でも、いつまでもほっておくわけには行きませんでしょう。画廊のお代も、アパートのお部屋代も払いませんと。――山代さんは、過去のご自分と現在のご自分とは全く異った人間だとお思いになろうとしてらっしゃいますけど」
と、言った。そう言われると一言もなかった。
「わたくし、思うんですけど、記憶を失ってらっしゃる三年からお逃げにならないで、その三年間のことをお知りになったら、どうでしょう。一度にお知りになったら、勿論刺戟が強くていけませんけど、少しずつお知りになりましたら?」
それからどうせ言いかけたのだから、全部言ってしまうといった風に、
「記憶を失っていらしてもそれをお埋めになれば同じことじゃありませんかしら」
香村つかさは、いままで山代に見せなかった烈しい表情で言った。
「埋めるとは、どういうこと?」
「お忘れになっていることを、全部調べて、お知りになることです」
「そんなことはできないでしょう」
「できると思います。僅か三年間のことですもの。努力したらできますわ。そうしたら、記憶を回復なさったと同じことじゃありませんか。三年間のブランクをブランクでなくしておしまいになったら、記憶なんて回復してくれなくても、いっこうに差支えありませんわ。ね、そうでしょう」
香村つかさの言葉には熱がはいっていた。何とかして、山代の気持をその方に持って行こうとしているところがあった。
「ずいぶん無気味ですね。自分がやったことを調べて行くのは」
「でも、それは記憶を回復する場合でも同じことだと思いますわ。一度に三年間のブランクが埋まるか、徐々に埋まって行くかの違いでしょう。もし、山代さんがそのおつもりになるんでしたら、わたくし、いくらでもお手伝いいたしますわ」
「好むと好まざるに拘らず、結局はそういうことになるでしょうな。僕もこれから生きるために働かなければならないし、働くためには過去三年のことを知らなければならない」
「でも、ご自分から積極的にそうなさるおつもりでなければ、本当はそういうことは出来ないんじゃありません? その気がなかったら一日のブランクも埋まりませんわ。わたくしは、山代さんが三年間のブランクを一日も早く全部お埋めになればいいと思います。その時が、山代さんがご自分で生きるためにお立ちになる時だと思います」
「それはそうです」
山代は言った。香村つかさの言う通りだと思った。もし記憶を喪失した三年間の空白を埋めることができたなら、その日が自分の生きるために立ち上がる日であるに違いなかった。ただ、その仕事が、本人でなければ判らぬ無気味さを伴っているだけのことである。
「まあ、貴女のおっしゃるように努力してみましょう。それ以外道はなさそうだ」
山代は言った。そして口には出さなかったが、その無気味な作業に、あるいは自分は耐え得るかも知れないと思った。耐え得る方法は一つしかなかった。過去の自分と現在の自分とを切り離し、全く第三者の気持になって、自分とは別の一人の人間の三年間の生活の空白を埋めることである。自分の過去を埋めると思ったら出来ないが、全く自分とは別の一人の人間のことだと思ったら、そう思い込めたら、それはできるかも知れない。
「それなら、事務所のことやアパートのことをお話しても宜しゅうございますわね」
香村つかさは念を押すように言った。
「構いません」
山代は言った。そうは言ったが、依然として無気味さはあった。
「事務所の方では、帳簿以外に大切なものは殆《ほとん》どありませんでした。絵をどこへ幾らで入れたかということは、全部この帳簿で判ります。それから個展や画展を通知した印刷物がありました。第一画廊で開いた展覧会のことは、それも全部これで判ります。それから山代さん宛ての封書が五十六通、そのうち男の方からのが三十五通、女の方からのが二十一通。勿論、なかは読みません。それから鍵が二個、一個は何の鍵か判りませんが、鞄の鍵じゃないかと思います。睡眠薬の箱が一つ、ライターが七個、検印のない外国煙草の十個入れの包みが二つ、汚れたハンカチが六枚」
「ほう」
山代が複雑な表情で言うと、
「まだ沢山ありますが、あとは意味のないものばかりですから省きます。それからアパートのお部屋では洋服と衣類と書物と銀行の預金通帳一冊。そのくらいです、主なものは」
「ほう」
「預金通帳はずいぶん頻繁《ひんぱん》に出し入れがあって、結局残っているのは三十万円程です」
「ほう」
「でも事務所の帳簿で見ますと、まだ取ってないお金がありますから、それを加えますと、全部で三倍ぐらいになると思います」
山代は、ここでほう≠ニ相槌を打つのをやめて、
「それは僕の金ですか」
と訊いた。
「そうだと思います。預金通帳の名義はちゃんと山代さんになっております」
「なるほど」
「それから大切なものが一つありました。――手帳に簡単なメモを書き入れたものですけど、かなり細かく書き込んでありました。勿論、これも読んだりいたしません」
香村つかさは断っておいて、
「全部、そうしたものは事務所の机のひき出しの中に入れておきました。それから印鑑がアパートのお部屋の机のひき出しから出ましたので、それだけ持って参りました」
そう言って、ハンドバッグの中から印鑑のはいったケースを出して、それを山代の方へ差し出した。
山代はその印鑑のケースに眼を当てると、
「あ、それは僕の物です」
と、思わず叫びに近い声を上げた。大学の二年の時父親を亡くしたが、それ以来、彼があらゆる場合に使用して来た印鑑で、見覚えのあるものであった。まさしく彼自身の物に違いなかった。
山代は暫くの間、香村つかさから手渡された印鑑に眼を当てていた。旧知の人に会ったような懐かしさだった。洋服にも靴にも何の見覚えもなかったが、この印鑑だけには見覚えがあった。
「それだけはお持ちになっていらした方がいいと思って、持って参りました。佐沼先生も同じお考えでした。ほかの物は、こんど事務所にいらしった時、ご自分でお改めになったらいいと思いますわ」
香村つかさは言うと、雨の落ちている窓外へ眼を遣っていたが、
「ご報告することはこのくらいです。そうそう、コウモリ傘《がさ》が三本とレインコートが三着ありました。あれを持って来ておけばよかったですね」
と、思い出したように言った。
「レインコートが三着もあるんですか」
山代が言うと、
「でも、三着のうち二着は女の人のです。コウモリ傘も二本は女持ちでした」
「ほう」
山代は二の句がつげなかった。が、ちょっと間をおいてから、
「変なものが出て来ましたね」
そう用心して言うと、
「でも、他には何も出てまいりませんでした、物騒なものは」
そう言って、香村つかさは笑った。その笑いは、山代にはひどく大人っぽく感じられた。
「わたくし、きのう佐沼先生ともお話したんですけれど、そういつまでもこの病院にはいらっしゃれないと思いますわ」
「そのことは僕も考えています。ただ病院を出ても、何をしていいか判らない」
「暫くは何もなさらなくてもいいんじゃありませんか。お金があるんですもの」
香村つかさは言った。
「佐沼先生も病院を出てからのことは、いろいろお考えになっているようでした。当分は、何もなさらない方がいいようにおっしゃっておりました」
山代としては、たとえ何をしろと言われても、何もできない気持だった。何をする当てもなければ、自信もなかった。
「その間に、三年間のブランクをお埋めになったらいいと思います。この次にお伺いした時から、わたくしの知ってますこと、少しずつ申し上げるようにします」
香村つかさが訪ねて来た翌日、佐沼の回診があった。佐沼は部屋へはいって来ると、
「きのう香村さんが来たそうですね。聞きましたか」
と、そんな言葉をかけて来た。
「聞きました」
山代が答えると、
「収穫は貴方が貯金を持っていることを発見してくれたことですよ。僕たちから見ると多額な金です。病院を出ても半年や一年は大威張りで遊んで暮せます。そうなったら、たかりに行きますかな」
佐沼は冗談を言ってから、
「別に急ぐことはありませんが、適当な時期に退院して、おくにの伊豆へでも行って来たらどうですか。気分が変って、いい結果になるかも知れない」
伊豆と聞いた時、山代大五はひどく遠く隔ったものを、ふいに眼の先きに突きつけられたような気がした。なぜ、いままで、こんな素晴らしいところがあったのに、そのことに思いつかなかったのであろう。
山代は社会へ出てから、郷里というものをこのように懐かしく思い出したことはなかった。山代の郷里は天城山の北麓の山村であったが、父の代から何となく親戚との交際が遠のいた形になってしまって、そこへ出掛けて行こうという気にはならないで今日に到っていた。高等学校時代に帰郷したのが最後で、それからあとは、一度も伊豆の土を踏んでいなかった。
山代は郷里の山河を思い出した。天城山の稜線《りようせん》にかかる白い雲や、黄色の絵の具をなすりつけたような雑木の中の竹叢《たけむら》や、白い街道や、それからK川の流れや、白い磧や、そうしたものが、次々に山代の眼に浮かんで来た。そこへ行ったら、いまの自分の心の疲れはたちどころに癒されそうな気がした。自分の心の弱りや疲れを優しく抱きとってくれるために、それらのものは待機してくれているような気がした。
「伊豆へ帰ってみましょうか。帰ったら、いまの気持は休まると思います。帰ってみましょう」
山代が少し意気込んで言うと、
「帰るといっても、それには準備がいります。病院を離れて、どこへ一人で出掛けて行っても大丈夫だという見通しがつかないと、病院からは出られませんよ」
この言葉で、山代はしゅんとなった。脹らみかかった風船が、いきなり空気を抜かれてしまったような恰好だった。
「いつごろなら退院できます?」
山代が訊くと、
「少しよくなると、これだから敵いませんよ。この間まで門の外へ顔さえ向けなかったじゃないですか」
佐沼は明るく笑った。山代が意気|沮喪《そそう》したので、気の毒に思ったのか、佐沼は、
「もう一週間程度様子を見ましょう。香村さんに一緒に行って貰って、街へ出てごらんなさい。お店へ行ったり、アパートヘ行ったりして、少し神経を慣らしてから、その上で退院のことを考えることにしたらどうですか。まだ現在のままでは不安ですね」
と、言った。
「承知しました。それにしても、香村さんは一緒に行ってくれるでしょうか」
「もう頼んでありますよ。いつでも病院へ顔を見せてくれるそうです」
佐沼は言った。山代は香村つかさと街へ出て行くということで、急にこの病院の生活が明るく楽しいものに感じられた。香村つかさと一緒なら、画廊の事務所にでも、自分が住んでいたというアパートにでも、自分はそう抵抗を感じることなしにはいって行けるのではないかと思った。この間画廊に行った時は、事務所が堪らなく無気味に思われて、到底その中へ足を踏み入れる気持にはなれなかったが、いまは少し気持は違って来ていた。無気味さはずっと薄らいでいる。
すでに佐沼や香村つかさたちに依って、自分の生活の一部が明るみに出されてしまったので、何が飛び出して来るか判らないといった不安はなくなっている。
「勇気を出して、自分がやって来たことを、自分で確認することですね。気持の上ではずいぶん大変でしょうが、しかし、これはどうしても貴方がやらなければならぬこと。僕はノートに日記をつけて行ってみたらいいんじゃないかと思いますね」
「日記って、以前の日記ですか」
「そう、記憶を失くしている三年間の日記をつけるんです」
「変な仕事ですね」
「変でも何でも、それはやらなければならんでしょう。幸い、貴方の仕事のメモが見付かっていますから、それを手懸りにして行けば、かなり完全な日記ができ上がると思います。そんなことをしているうちに記憶の方も回復すると思います。しかし、記憶の回復するのを待っていないで、自分で記憶のブランクを埋めるようにした方がいいでしょう」
佐沼の言葉は、きのう香村つかさが言ったことと全く同じだった。山代は、この問題について、二人が話し合っていることを知った。二人がこうしたことを自分に勧めるのは、もう自分に記憶を回復する見込みがなくなっているのかも知れないという気がした。
翌日は三日降り続いた雨がやんで、気持よく晴れていた。午後に、香村つかさが訪ねて来た。彼女は部屋へはいって来ると、
「今日は佐沼先生からお許しが出ましたので、画廊の事務所へ行ってみましょう。それともアパートの方になさいますか」
と言った。挨拶ぬきに用件だけを切り出して来るといった、その言い方が、山代には新鮮に感じられた。この場合に限らず、香村つかさの言動には、少しも濡れた感じはなかった。何か乾いている感じで、そうしたところから来る爽快さがあった。それでいて、そうした乾いた言動には、あとで考えてみると、やはり女だけの持つ細かい心の動かし方があった。
「どちらでも結構です」
山代が言うと、
「画廊の事務所の方を先きになさった方がいいでしょう。ご自分だけの生活があったアパートの方は、あと廻しにいたしましょう」
「どうしてですか」
山代が訊くと、
「どうしてとおっしゃられると困りますけど、同じように判らないことを調べるにしても、ずっと複雑になると思いますわ。事務所の方でしたら、わたくしも度々顔を出しておりますし、お仕事の大体のことは存じておりますので、いくらでも参考になることを申し上げられると思います。アパートでのご生活は全然存じません。いつか一度お伺いしたことがあるだけです」
香村つかさは言った。
「どういう時に来て下さったんです?」
山代は訊いた。すると、香村つかさは、いつか最初に病室を訪れた時見せたと同じ明るい、しかし複雑な笑いを見せて、
「遊びに来るようにとおっしゃいましたので、お伺いしました。でも、その時はお部屋へはいらないで、すぐ帰りました」
香村つかさは言うと、すぐ眼を窓の外の方へ向けて、暫くそのままにしていたが、次に眼を山代の方へ向けた時は、大きく表情を動かして、
「もうお出になっていいですか」
と訊いた。いままでの話題はきれいさっぱりと向うへ押し遣ってしまった感じだった。
「どうして、すぐ帰ったんですか」
山代は話を他に移さないで訊いた。すると、香村つかさは、
「お判りにならないでしょう、御病気だから」
そう言ってから、
「でも、お丈夫の時でも、お判りにならないところがありましたのよ」
そう窘めるような言い方をした。
山代は黙っていた。香村つかさがいかなることを、次に続けて言い出すか見当が付かなかったからである。
「判らないというのは、どういう意味ですか」
暫くしてから山代は訊いた。
「その時、わたくしがなぜすぐ帰ったか、そうしたことがお判りにならないという意味です」
「その時、僕には判らなかったんですね」
「ええ、お判りになりませんでした」
「鈍感なんですね」
「そういうことになるかも知れません。でも、また反対に、よくお判りになるところもありました」
「何も僕をたててくれなくても結構です。そうした僕に、僕は責任を感じていません。現在の僕とは別の人間です。その人間がいかに鈍感でも、現在の僕はたいして痛痒《つうよう》を感じませんよ」
それから、
「困りものですね、そいつは」
山代は冗談の口調で言って笑った。
「ほんとに」
香村つかさもそれを受けて笑った。山代はひどくのびやかな気持になっていた。自分の過去のことが話題になっているのに、少しもそれが不快ではなく、実際に他人事のような気持だった。これは専ら香村つかさという女性の一種独特の調子を持った受け答えのためだと思われた。
香村つかさが病室を出て行くと、間もなく看護婦がはいって来て、山代の外出の支度を手伝ってくれた。
山代が病院の玄関口ヘ出て行くと、そこで香村つかさと高崎が立ち話をしていた。高崎は山代の背広姿に眼を当てると、
「もうすっかり常人ですね。病人とは思えない」
と言った。そう言われると、山代も嬉しかった。自分でも、過去の一部の記憶を失っていることを除けば、もうどこにも欠陥がないと言っていいように思われた。
「じゃ、気を付けてお願いします」
高崎は香村つかさに言った。
「承知いたしました。危いところへはお連れしません」
「まるで子供ですね」
山代が言うと、
「おや、そういう言い方は、いままでしませんでしたね。今日が初めてでしょう」
高崎は少し眼を光らせて言ったが、
「くるまは?」
と訊いた。
「そこまで出て、タクシーを拾いますわ。もうご病人ではないんですから」
香村つかさのこの言葉の中にも、ある労りのあるのを、山代は感じていた。
山代と香村つかさは病院の門を出ると、国電の駅の方へ歩いて行った。
「この辺も全然記憶にありません?」
「ありませんな」
「変なものですわね、ご病気とは言いながら」
香村つかさは言ってから、
「今日は電車で参りましょう。これからのこともありますから、電車にもお慣れにならなくては」
「まるでお上《のぼ》りさんですね」
山代は苦笑して言った。電車は混んでいた。山代は吊革にぶら下がったまま窓外を走る屋根や人や道路や橋を見守っていた。どれ一つ見憶えはなかった。これが東京というところかと思った。東京駅で乗り換えたが、勿論東京駅も初めてだった。
有楽町で電車を降りると、
「この辺は憶えてらっしゃるでしょう」
香村つかさは言った。
「知ってますよ。この前来たばかりだ」
それから、
「いやに信用がないんですね」
と、山代大五は言った。
「失礼でしたわね」
「全く」
「でも、もしかして憶えてらっしゃらなかったら、大変だと思って」
香村つかさは真顔で言った。
「そりゃあ、大変だ。前のことも忘れ、いまのことも忘れたんじゃ。――しかし、そうはなりませんよ」
山代は言った。実際にそうなったら大変だった。
「ここも憶えてます。ここは僕が経営していた画廊のあるビルです」
ビルの前まで来た時、山代は言った。冗談の口調ではあったが、全部が全部冗談というわけではなかった。幾らかは、自分で口に出して、それを確かめてみるといった気持もあった。
「大丈夫、その通りです」
香村つかさは言ったが、すぐ、
「よく憶えてらっしゃいますこと」
そんな言葉を続けた。あとの方ははっきりと冗談の口調だった。
香村つかさが部屋の鍵を取りに行っている間、山代は部屋の扉のところに立っていた。そして、今日は自分の仕事のことを、知り得るだけ知ろうと思った。香村つかさと二人なら、そうした作業に耐え得るだろう。自分自身を、全く自分とは違ったもう一人の人間として取り扱うことである。山代はやはり少し昂奮している自分を感じていた。
やがて香村つかさがやって来た。彼女は山代の顔を見守りながら、
「お厭になったら、すぐ出ましょうね」
そう断るように言った。明らかに労りの籠められた言葉だった。
山代は香村つかさのあとについて画廊にはいった。内部は、この前来た時と少しも変っていなかった。つかさがカーテンをたぐり、窓を開けると、明るい初夏の光線が射し込んで来て、それと一緒に微風が閉じられていた部屋の古い空気を追い払った。壁面にかけられてある作品は、勿論前と同じものだった。
つかさが事務所へはいって行くと、山代もあとに続いた。画廊の一角を仕切った狭い部屋だった。窓際に事務机が二つ並んでおり、別に茶卓と椅子がそれぞれ身を寄せ合って置かれてあった。窓と反対側には水道の流しとガス焜炉《こんろ》の台が備えつけられてある。事務机の一つには、新聞の綴込み、美術雑誌の束、灰皿、茶碗、インキ瓶といったものが雑然と置かれてあり、他の机の方は一物も載っていなかった。
山代は部屋を見廻して立っていた。物珍しい眺めでもあったが、それより何より部屋が狭くて踏み込んで行けない感じだった。
「お坐りになりましたら?」
香村つかさは体を横にして窓際へ行き、そこの椅子の一つに座をとった。山代もまた自分が毎日のように坐ったに違いない事務机の前の回転椅子に腰を降ろした。窓から隣りのビルの側面の壁だけが眺められた。戦前のビルなのか、黒っぽく汚れた感じの建物で、非常階段が螺旋《らせん》状に迫っているほか、そこには一つの窓も開けられてなかった。
山代は窓からの眺めに却って落着いたものを感じた。窓枠に依って四角に切り取られた風景は、東京のまん中とは思われず、パリの裏街にでもありそうな眺めだった。人の動きもくるまの群れも見えず、薄汚れた建物の側面だけが見えている。
「いいじゃないですか、ここは」
山代は窓から眼を逸《そ》らせ、部屋を見廻すようにして言った。
「――でしょう。狭いけど落着きますわ、このお部屋。――それに窓から見えるお隣りのビルの壁がいいでしょう」
香村つかさは言った。
「いや、僕もいまそう思ったんです」
驚いて山代が言うと、香村つかさは、ちょっと複雑な表情をして笑ってから、
「お隣りのビルの壁がいいということは、もう一人の山代さんがおっしゃってましたの」
と言った。
「このお部屋、お好きでしたわ」
「ふむ」
こんどは山代大五の方が複雑な表情をした。
「好きだと言ってましたか」
「ええ」
それから香村つかさは言った。
「もう一人の山代さんと、いまの山代さんとは好みは同じですのね」
つかさは立ち上がると、薬罐《やかん》へ水を入れて、それをガス焜炉の上へ掛けた。
「お茶がありますか」
山代が訊くと、
「持って参りました」
そう言って、ちょっとハンドバッグの方を眼で示した。
茶がはいるまで、山代は机に凭れてぼんやりしていた。新聞や雑誌に眼を通そうかと思ったが、その中に無数の刺戟がはいっていると思うと、それを取り上げるのが躊躇《ちゆうちよ》された。
つかさは二つの茶碗にお茶をつぎ終ると、
「病院のお茶よりおいしいと思いますわ」
と言った。山代は茶碗を取り上げて口に当てたが、それはひどく苦く感じられた。
「薄めて下さい」
山代が言うと、
「あら、ずいぶん苦いお茶がお好きでしたのに」
つかさは言って、
「この方は、もう一人の山代さんと好みが違ってしまいましたのね」
と、ちょっと感慨深そうな顔をした。それから香村つかさは、ハンドバッグの中からノートを一冊取り出すと、少し改まった口調で、
「これから、このお店をお持ちになった当時のことを、少しお話いたしましょうか」
と言った。
「もちろん、わたくし、その頃のことは存じません。わたくしが山代さんと初めてお目にかかったのは一年半程前ですから、それ以前のことは何も存じません。ですけど、このビルの管理人の老夫婦とアパートの小母さんから大体のことを聞いて参りました。それをお話しましょうか」
つかさは山代の顔を見守って言った。
「もし、お厭ならやめますわ。お厭でなかったらお話します」
「話して下さい」
山代は言った。もう一人の、自分とは違った人間のことだと思えば、何を話されても耐えられると思ったし、それにどうせいつかは知らなければならぬ問題であった。
「大丈夫ですわね」
つかさはもう一度念を押してから、
「山代さんがこのお部屋をお持ちになりましたのは、三年前です。契約書によると、三十三年五月一日ということになっておりますから、三年と少しになります。四月の中頃に女の方とお二人でこの部屋をごらんになりにいらしって、それから半月程して、こんどはお一人でお金を持っていらしったんだそうです。権利金と前払いの二カ月分のお部屋代全部で百七十万円です」
香村つかさはノートに眼を当てながら、陳述書でも読むように、冷静な口調で言った。
「百七十万円ですか。大金ですね。僕が金など持ってる筈はない」
山代は言った。そんな大金をどうして手に入れて納めたのだろう。すると、香村つかさは、
「でも、何かで儲《もう》けて持ってらしたのかも知れませんわ」
と言った。
「佐沼さんが大阪へ行って聞いて来たところによると、僕は三十三年の一月頃、社を罷めたらしい。それから二、三カ月の間にそんな大金を持つ筈がない」
「それじゃあ、どなたかにお借りになったんじゃありません?」
「さあ」
山代は口を噤んだ。現在山代大五が思い浮かべる限りに於て、金を貸してくれそうな人間は、一人も心当りがなかった。
「新聞社をお罷めになった時、退職金というのがあったんではないでしょうか」
「他の新聞社なら考えられるが、僕の勤めていたところではそんなものは出なかったでしょう。出したくもありませんからね」
「じゃ、やっぱりお借りになったんですわ」
「貸せる人はありませんよ」
すると、香村つかさはちらっと眼を光らせて、
「このお部屋を見に来た時、女の方がご一緒だったと言いますから、その方が貸主だったかも知れませんわ」
と言った。
「まさか」
山代は強く否定した。この部屋を見に同行したという女性がいかなる女性か皆目見当は付かなかったが、とにかく相手が女性であるということだけで、山代は強く否定しておいた方がいいような気がした。何はともあれ、否定しないより否定しておいた方が無難のようである。
「でも、ご一緒に部屋を見にいらしった方なんですから、お金の心配ぐらい一緒になさったんだと思いますわ。そう想像しても不自然ではないと思います」
「いや」
山代が言いかけると、それを押えるように、
「じゃ、その方からお金を借りなかったことにしておきましょう。――それはそれとして、この方らしい女の人があとからも出て参りますのよ」
「ふむ」
山代は口を噤んだ。厭なものが登場して来たと思った。勿論、そんな自分に大金を貸せるような女は知人の中にはない筈だったが、しかし、何となく不安だった。過去に於て女関係が絶無だったとは言えないし、こと程左様に潔癖だったと言い切る自信はなかった。
女の問題はひとまず先きに押し遣っておいて、
「それから?」
と、山代は先きを促した。香村つかさはお茶のはいった茶碗を卓の上に置いて、再びノートを取り上げると、
「五月十五日に、十人程の方がここに集ってビールを飲みました。そのうちに女の方も二、三人いたようです。それがこの画廊の店開きらしかったと、管理人のご夫婦は言っております」
「なるほど」
「それから山代さんのほかに、若い男の人が二人、毎日ここへ顔を見せていました。これは使用人と見ていいようです。山代さんも大抵一度は顔を出しています。でも、この部屋を借りてから一カ年というものは、外部から見ている限りでは、画廊を経営しているようには見えなかったそうです。三十三年は展覧会を一度も開いておりません。でも、時々絵のようなものを送り出したり、かつぎ込んだり、そんなことはしていますから、やはり絵を売ったり買ったりしていたんだと思います」
「ふむ」
「三十四年の春から急に人の出入りが多くなって来たようです。三十四年の五月に、つまりこの部屋を借りて丁度一年経った時に、ヨーロッパ巨匠展というのをやったそうです。ルノアール、ゴッホ、セザンヌ、そんな人たちの作品が並んでいるので、ヨーロッパ巨匠展という看板には偽りはないわけですが、でも、その時並んだものは、ほんとに小さいものばかりでした」
そう言ってから、香村つかさはちょっと口を噤んだが、少し言葉を改めて、
「誤解のないようにお断りしておきますけど、その頃はわたくしまだこのお店へは来ておりませんでしたので、いまお話したことはみんな聞いたことばかりですのよ」
「判っています」
「お判りになっているんでしたらいいんですけど。――でも、その展覧会で初めてお金が入りました。お店も息をつき、山代さんもほっとなさいました」
「ふむ。本当ですかね」
「ほんとです。いま申し上げましたように、これは聞いたお話です。それがお判りになっているとおっしゃるからお話するんですが」
「いや、判っています。続けて下さい」
「山代さんはほっとなさった。顔色が変った。言葉まで浮き浮きした」
ここで香村つかさはノートから眼を離し、
「だって管理人の老夫婦がこう言ったんですもの。それまでは山代さんは管理人の夫婦の姿を見ると、謝ってばかりいらしったんですって。――このヨーロッパ巨匠展を開いた月に初めて山代さんは部屋代をお納めになりました」
と言った。
「つまり、このヨーロッパ巨匠展をおやりになりました時、初めてお金が儲かりましたのね。それで顔色がお変りになったり、声まで浮き浮きなさいましたのね」
香村つかさは言った。言い終ってから、含み笑いするように、少し頬を脹らませて、眼をあらぬ方へ向けた。
「冗談じゃない」
山代は思わずむきになって言った。金のために、顔色が変ったとか、声が浮き浮きしたとあっては、男の沽券《こけん》にかかわる問題であった。自分にはそんなことはないという気持だった。香村つかさはちらっと眼を山代の方へ向けた。
「でも、その方、山代さんとは別の人間なんでしょう」
そう言われると、山代は一言もなかった。小癪な感じだった。
「そう。勿論、僕とは別です」
「別の方のことですもの。構わないじゃありませんか。――それに、いま申し上げたことは、その方にとっていけないことじゃないと思いますわ。人間誰だって、お金では苦労いたします。その方も、画廊を開いてから一年間は本当に苦労なさったんだと思います。そしてその苦しい時期を漸くにしてお脱けになりました。そりゃ、顔色も変るし、声ぐらい浮き浮きすると思います」
「なるほど」
「それから三十四年の一年間に五回、小さい展覧会を開いております。鉄斎展――」
「洋画ばかりじゃないんですか」
「ほかはみんな洋画の展覧会ですけど、これだけは別です。鉄斎展というと大変立派ですけど、ほんの小品ばかりだったそうです。この展観には余り人は来なかったようです。でも、やはり儲かったんじゃないかと、管理人の老夫婦は言っておりました。この展観のあと、画廊へ絨毯《じゆうたん》を入れ、窓にカーテンを掛け、近所の喫茶店とハイヤー会社をつけにし始めたんだそうです。鉄斎のほかでは、ヨーロッパの有名な画家たちのデッサン展を二回、それに河野辺太一展と杉村栄喜展」
「河野辺太一展と杉村栄喜展ですか、なるほどね」
山代は多少の感慨をもって言った。二人とも大正の中頃物故した作家で、山代は学生時代からこの二人の作家に対して敬意を払っていた。
「展観といっても、二つとも小品展だったそうです。この二つはどちらも秋に開いています」
「売れなかったでしょう」
山代は言った。売れる筈はないと思った。どちらも暗い色調の絵で、素人好きのするものではなかった。
「売れなかったと言えば、売れなかったのかも知れませんわ。この河野辺さんの展観を開いている時、階段の途中で、印刷屋さんと喧嘩なさったんですって」
「ほう」
「管理人の小母さんの話ですと、相手はお金を取りに来た印刷屋さんじゃなかったかということでした。相手の人を階段から突き落し、あとでそれが問題になって大変だったそうです」
香村つかさは言った。
「大変というと?」
「翌日、印刷屋の若い人が何人か押しかけて来て、山代さんは管理人の部屋へ逃げ込まれたんですって」
「ほう、いろんなことをやってますな」
山代は苦笑して言った。こう言う以外仕方がなかった。
「でも、まだいろいろなことなさっていますわ」
「おどかさないで下さいよ」
「ほんとうです。申し上げましょうか」
「構いませんよ、言って」
「その冬、火事を起しかけています。マッチを紙屑籠に捨てたのがもとらしいと言っていました」
「誰が?」
「さあ。管理人の小母さんの話ですと、その晩遅くお酒に酔って帰って、ここにお泊りになったんですって」
「僕がですか」
「はあ」
「眠れますかね、ここに。――ベッドもないじゃありませんか」
「ですから、どこへお寝みになったんだろうって言っておりました。それから事務をとっていた男の人二人と、山代さんと、全員でガス中毒になりました。これも三十四年の冬のことです」
山代大五は部屋を見廻して、
「この部屋でなったんですか」
「そうらしゅうございますわ。ガスが洩れていたのを誰も気が付かなかったんですって」
「なるほど、いろいろなことがある」
「ガス中毒は、山代さんが一番ひどくて、この近くの病院に三日間入院なさいました。その時、管理人の小母さんが見舞に行きますと最初この部屋を見に来た時一緒だった女の方が見舞に来て、いろいろお世話していたそうです」
「ふむ」
「その方、初め来た時は着物でしたが、病院の時は洋装だったそうです。小母さんは余り好きなタイプではなかったそうです」
「ふむ」
「それから事務をやっていた若い男の人が、お金を持ち逃げしました。これも暮の事件です。三十四年って、山代さんにとってはほんとにいろいろなことがありました。印刷屋さんと喧嘩なさったこと、火事を起しかけたこと、ガス中毒で入院なさったこと、――大体、三十四年の出来事というと、こんなところです。これで、三十三年にお店を持ってから、わたくしがこちらに来るまでのことをあらまし申し上げたわけです。勿論、骨組みだけですけど、山代さんがお調べになる気におなりになれば、もっと詳しいことが判ると思います。絵を売ったり、買ったりした相手の方は、事務所のお机の引き出しに入れてある帳簿で判りますし、使っていた二人の人も探せば居場所は判ると思います。わたくしは三十五年のお正月からこのお店へ来るようになりましたが、その時はもう二人とも、このお店を罷めておりました。と言うより、二人が罷めたので、その代りに、わたくしがお店のお手伝いをするようになったわけです。わたくしがこのお店へお邪魔するようになってからのことは、大体、わたくしが存じております。しかし、それはこの次にお話いたしますわ。一度ですと、お疲れになりますから」
香村つかさは言った。山代は疲れを感じていなかったが、これ以上聞いても、頭が混乱するばかりだと思った。いま香村つかさから聞いただけでも、何となく他人事のような気持で聞いているからいいようなものの、いざ自分自身のことだということになると、それを素直に受け取るのは容易なことではなかった。
山代は香村つかさの話を聞きながら、自分とは無関係な、しかし、どこかで自分と繋がっている一人の人間を思い浮かべていた。自分ではなかった。と言って、自分でないこともなかった。
河野辺太一展と杉村栄喜展をやったことなど、いかにも自分のやりそうなことだったし、そればかりではなく、印刷屋と喧嘩したことも、ガス中毒になったことも、火事を起しかけたことも、いかにも自分のしでかしそうな事件であった。
山代は、そうした記憶の失われた期間の自分に、漠然と自分という人間の影のようなものを感じた。自分ではなかったが、自分と無関係であるとは言えなかった。その人物には、いまの自分のあらゆるものが投影していた。性格も、好みも、癖も、みなその人物の内部にはいり込み、その行動を決定しているに違いなかった。
山代は突然立ち上がった。
「お帰りになります?」
香村つかさが訊いた。
「帰りましょう。あとの話はこの次にして下さい」
山代は言った。一人になって考えなければならぬことが、ふんだんにあるような、そんな何ものかに追い立てられているような気持だった。
風 景
香村つかさと一緒に画廊へ行った翌日から、山代大五ははっきりと、彼女が病院を訪ねて来るのを待っている自分を感じていた。画廊を出て香村つかさと別れる時、彼女が、
「この次はいつお目にかかりましょう。こんどは、わたくしの知っていることを一応全部お話いたします」
と言ったのに対して、
「四、五日先きにして下さい。少し頭を整理しなくては」
と、山代は答えたのであった。その時は、実際にそうした気持に支配されており、その言葉には何の偽りも構えもなかったが、一晩寝て、その翌日になってみると、山代の気持は少し変っていた。ひどく孤独であった。正常な時、山代は時折孤独感に襲われたことがあったが、そうした時の孤独と現在の彼が持っている孤独とは、その質が甚しく異っていた。
孤独感というものは、もともとこの世の中に自分独りだという感情であるが、正常の時のそれは、自分が誰からも理解されていないという淋しさであった。現在の山代のそれは、正真正銘、この世の中に自分一人だ、誰も自分のことを知ってはいないのだという疼《うず》くような寂寥《せきりよう》感であった。少しでも自分のことを知っている誰かに傍についていて貰いたかった。そうした人物を探すとなると、さしずめ香村つかさしか居なかった。
山代は日に何回か、香村つかさと向い合って坐っていたい烈しい欲求に襲われた。香村つかさの訪問を、自分の方から四、五日先きにしてくれと希望したのであるから、どこへも文句の持って行きようはなかったが、そのことに山代は怒りを感じた。何というばかなことを口走ったものだと思った。
山代は日に何回か病室を出て、記録室の前を通り、正面玄関の方へ歩いて行った。そんな時いつも、山代は門の方からこちらへ歩いて来る香村つかさの姿を期待していた。そうした山代の姿は、佐沼にも高崎にも多少異常に見えているらしく、朝の診察の時、高崎は、
「少し神経が昂《たか》ぶっているようなことはありませんか。佐沼先生も心配していましたよ」
と言ったことがあった。
「いいえ、別にそうしたことはないと思います」
その時、山代はそう答えた。烈しい孤独感のことでも口走ると、明らかにそれを一種の病状として判断されそうであった。山代に言わせれば、病気ではなかった。それこそ、反対に彼が健康になった証拠であった。
確かにそれは山代の考える通りかも知れなかった。山代が健康を回復し、正常な人間としての五感を取り戻したがために、山代は初めて自分という人間が現在置かれている場所を知り、それが正当に意味するところのものを感じ取ったのかも知れなかった。
烈しい孤独感に苛まれた四日が過ぎた。明日は香村つかさが訪ねて来てくれるかも知れないという思いを懐いて、山代は四日目の夜を迎えた。
山代は、その夜いつものように九時にベッドにはいり、すぐ枕許の小さい電燈を消したが、眼は冴《さ》えていた。彼は長い間暗い中で両の眼を開けていた。ベッドヘはいってからどのくらい経った時であろうか。山代ははっとしてベッドの上に起き上がった。起き上がってから、山代はぼんやりしていた。何のためにいま自分が起き上がったか、そのことが判らなかった。
しかし、山代は一瞬前の自分を何かひどく充実したものが襲ったのを感じていた。その瞬間、心は生き生きし、体を構成しているあらゆる細胞は、恰も水を得た魚のように、活溌に活動し始めたのであった。それは、いま彼が置かれている世界とはまるで違ったものであった。そうした世界の中に置かれた時、彼ははっとして、いきなりベッドの上に起き上がった。
それでは一瞬自分を襲ったその充実した世界は何であったか。そのことになると、山代は何も判らなかった。充実感の余燼《よじん》のようなものが、心のどこかに残っているのを感じているだけである。数学の問題などで、もうすぐ解けるばかりになっていて、どうしても解けないことがあるが、丁度その場合と同じように、山代は自分を襲った充実感の正体を掴めそうでいてどうしても掴むことができなかった。いま、自分を襲ったものは何であったか。一瞬のことだが、自分を全く、いまの自分とは違ったものにしたあの世界は何であったか。
山代は暫くベッドに坐っていたが、再びそこに横たわった。そして、これと同じ気持を曾て自分がもう一度味わったことのあるのに気付いた。それは佐沼、高崎、香村つかさたちと初めて画廊へ出掛けて行った日、有楽町の喫茶店から往来へ飛び出したことがあったが、あの時の気持がいまと全く同じであることを知った。あの時ははっとして往来へ飛び出したが、こんどははっとしてベッドの上に起き上がった。ただそれだけの違いであった。
そうしたことがあって一時間程してから、山代は眠りに落ちた。そして、それからどのくらいの時間が経ったか判らなかったが彼はふいに眼を覚ました。どこか遠くの方でくるまの音はしていたが、ひどく静かであった。その静けさから判断して、まだ夜の明けるのには遠いと思った。
山代は時計を見るために、ベッドの傍の小さい電燈を点けた。時刻は二時だった。部屋が明るくなると、山代は暫く電燈を点けたままにしていた。部屋の四隅には闇がうずくまっているが、窓際に置いてある粗末な卓と椅子は不分明ながら、その輪郭を浮かび上がらせており、卓の上には若い看護婦が持って来てくれた花瓶が載っている。花瓶には赤い薔薇の花が二輪投げ込まれてある。
山代はぼんやりとそれだけの物に眼を当てていた。これと同じような構図を持った誰かの作品があったと思った。誰の絵であったろう。日本の画家の作品であったろうか。ヨーロッパの画家の作品であったろうか。
その時、ふいに、山代大五は卓と、椅子と、卓の上の薔薇という三つの物の向うに窓があり、その窓が開いていて、牧場の風景が眺められたら、それはセザンヌだと思った。セザンヌには、そんな作品がある。
その瞬間、山代は「あっ!」という短い叫びを口から出した。あの作品はどうしたろう。あの作品は。あの「風景」と題したセザンヌの作品はどうなったろう。あれは偽作なのだ。偽作であったことを百も承知の上で、自分はあれを買ったのだ。買ったのは勿論売るためである。
いつか、山代大五はベッドの上に起き上がっていた。そうだ、あのセザンヌの「風景」を自分が買ったのはいつだったろう。いつのことか判らないが買ったことは事実なのだ。山代は、いま自分が頭で考えていることが、夢であるかどうかを、ゆっくりと考えてみた。売りに来た青年の顔も思い出すことができた。色の白い細面《ほそおもて》の青年で、髪は乱れており、眼は少し鋭かったと思う。その青年は言ったのだ。――これを買ってくれませんか。勿論、これは私が描いたものです。そしてその青年はにやっと笑ったのだ。その笑いまで、自分はいまはっきりと思い出すことができる。
山代大五はベッドから降りると、部屋の床の上を歩き出した。スリッパを履いていないことに気付いたが、それに頓着する気持はなかった。そして山代は、いま自分が思い出している事件の舞台が、有楽町の画廊の事務所であることに気付くと、急にぐったりして、ベッドの端に腰を降ろした。そして、ああ、自分は思い出したのだと思った。
山代は大きな溜息をついた。そしてもう一度、心に深く沁み入るような思い方で、ああ、自分は思い出したと思った。山代は確かに失われていた過去の一部を思い出したのであった。思い出したというより、それはふいに彼の頭の中へ飛び込んで来たと言った方が当っていたかも知れなかった。
山代はベッドの端に腰を降ろしたまま、いま自分の脳裡に飛び込んで来た一つの場面を改めて復習してみた。それは芝居の中の一場面に似ていた。
――山代大五は有楽町の画廊の事務室の中に、色の白い、眼の鋭い長髪の青年と向い合っていた。狭い部屋の中に椅子や卓が置いてあるので、そこはひどく窮屈な感じだった。山代大五は暑くて堪らなかったので、上着を脱いで白いワイシャツ一枚になっていた。
――これなんですがね。
青年は茶色の包み紙を破って、額にはまった一枚の絵を取り出した。八号の大きさだった。
――いいものだと思います。セザンヌの晩年の作品です。
――ふむ。
――買って戴けますか。
――さあね。間違いなく通るかね。
――そりゃあ。どこから見てもセザンヌです。セザンヌで通らなかったら、お目にはかけませんよ。
青年はここでにやっと笑った。厭な笑いだと思った。しかし厭だと感じるのは山代だけかも知れない。もし初めて会った人なら、美貌な青年の笑いに、寧ろ清純なものを感じるかも知れなかった。
――捌《さば》く当てはありますか。
青年は訊いた。
――ある。
山代大五は答えた。
――他にこうしたものを持って行ったことのある相手ですか。
――冗談言ってはいかん。
山代は半ば呶鳴るように言った。そのような人間と見られたことが堪らなく心外だった。偽作など買うのも初めてのことだし、それを売ろうとするのも初めてのことなのである。
――先きにお断りしておきますが、こうしたものを取り扱う以上、万一の場合のことも考えておかないといけないと思います。はっきり申し上げておきますが、私は単に模写しただけのことです。その点を誤解ないようにして戴きたいと思います。私は貴方の依頼で描いたのでもなければ、売るために描いたのでもない。
相手は恐ろしい程冷たい表情で言った。
――判っている。問題になったら僕一人にかぶれと言うんだね。
山代は言った。
――あけすけに言えば、そういうことになります。
相手は言った。不敵な感じだった。
――よし、そういうことにしよう。
――間違いありませんね。
――間違いはない。
すると、青年は初めて声を出して笑った。乾いた声だった。そして言った。
――一体、こんなちゃんとした商売なさっているのに、どうして、こうしたことをなさるんです。
――君に言う必要はないだろう。
山代は言った。青年が笑ったのに対して、山代の方は生真面目な表情を持ち続けていた。
――そりゃ、そうです。私はお金を戴けばそれでいいんで、貴方がどういう理由で危い橋を渡ろうとなさるか、それを訊く権利はないわけです。しかし、訊いてみたいですね。実際、こんなことをするのは、よくよくのことですからね。
そう青年は言った。
――僕は何も君が描いた偽作を売ろうと決めたわけではない。売るかも知れないが、売らないかも知れない。まだそうしたことは決めていない。ただ、いま決まっていることは、君から買おうとしていることだけだ。
山代は言った。実際まだ、売るということは心に決めていることではなかった。しかし、恐らく自分はこれを売ることになるだろうと思った。売ろうと思えばこそ、この青年から買うことを決心したのだから。
――よくよくのことですね。
また青年は言った。
――よくよくのことだろうね。
山代は他人《ひと》事のように言って、自分の顔が醜く歪むのを感じた。実際よくよくのことなのである。自分はいまどうしても、まとまった多額の金が入用なのだ。是が非でも、それを手に入れなければならぬ。
――一体、これを僕から三十万で買って、幾らに売るんですか。
――売るか、売らないか判らん。
――売るとした場合の話です。十倍ぐらいで渡すんじゃないですか。
青年は言った。山代はばかな奴だと思った。三百万円ぐらいの金なら、何もこんな物騒な橋を渡ることは考えないだろう。自分はいま三千万円欲しいのだ。
――さあね。
山代は言ってから立ち上がった。相手に金を渡そうと思った。
山代の回想はここでぷつんと断ち切れていた。
山代は何回目か判らぬ大きな溜息をついた。いまの彼の脳裡に蘇って来た一場面は、確かに彼自身のものであった。しかし、その前も、そのあとも、きれいさっぱりと断ち切られている。
一体、あの偽作を売り付けに来た青年は何者なのであろう。名前も判らない。判らないというより思い出すことができないのかも知れない。自分はあの青年から絵を買ったのであろうか。確かに自分は彼に金を渡すために立ち上がったのだ。立ち上がることは立ち上がったが、それからあとどうしたか、どうしても思い出すことはできない。フィルムはそこでぷつんと断ち切られているのである。
もともと、フィルムはあの青年と向い合って話しているところから始まったのである。あの青年はいきなり茶色の包み紙を破って、一枚の風景画を取り出したのである。その風景画は、いまそこに置かれてあるかのように、自分ははっきりとそれを眼に浮かべることができる。
山代は長い間、そのままの姿勢でベッドの端に腰を降ろしていた。呆然としていたためもあるが、少しでも体を動かしたら、いま思い出した一場面は、また跡形もなく自分から消え去って行きそうな気がして、多少意識して、体を動かさないでいたのである。それは、あとも先きもない奇妙なフィルムのひとこまではあったが、いまの山代大五にとっては大切なものであった。掛け替えのないほど貴重なものなのである。
山代はもう一度ベッドに横たわって眠ってみようかと思った。すると、またいまのように何ものかを思い出すかも知れない。しかし、またその反対に、いま漸く手に入れたものを、眠るということで、再び永遠に失ってしまわないとも限らない。山代はこのまま起きていようと思った。そして夜の明けるのを待って、宿直の医局員に来て貰って、いま自分が思い出したフィルムのひとこまを、もうどんなことがあっても自分から逃げ出さないように、丹念にノートして貰おうかと思った。
しかし、それから一時間もしないうちに、山代は睡魔に襲われた。烈しい勢いで睡気が彼を襲って来た。普通の睡気とは違っていた。山代はベッドに横たわって枕許の電燈を消した。しかし、部屋は暗くならなかった。窓のカーテンの隙間から、明け方の仄白《ほのじろ》い光線が流れ込んで来ているためであった。
もう夜が明けたのか。そんなことを思いながら、山代大五は眠った。ひどく疲れていたのか、鼾が凄かった。
山代は九時に眼を覚ました。看護婦の手で体温を計られたことも、よくは知らなかった。眼を覚ますと同時に、昨夜のことを思い出し、自分がそれについての記憶を失っているかどうか考えてみた。何もかもはっきりと憶えていた。画廊のことも、画廊で奇妙な青年と応対したことも、それらは確かに自分の過去における一つの出来事として思い出すことができた。
山代は自分が折角思い出したことを、いまも失うことなしに持っていることに満足だった。元気よくベッドから降りるとすぐ洗面した。昨日までとは気持の持ち方が違った。過去三年間の記憶を全部失っていることと、その間に一部分でも憶えているところがあるということとは大きい違いだった。
山代は入院して初めて明るい気持で朝食の膳に向った。自分は失われた過去の記憶を回復できる力を持っているのである。はっきりと、それがゆうべ証明されたではないか。
朝食の箸《はし》を置いた時、
「それにしても」
と、山代は自分自身に話しかけた。自分は一体、あの青年からセザンヌの偽作を買ったのであろうか。
「もし買ったとしたら――」
山代は窓際に立って、塀越しに表通りの人やくるまの烈しい往来に眼を当てていた。
「もし買ったとしたら、一体、それを自分はどうしたのだろうか」
山代は深刻な顔をした。あのセザンヌの偽作を自分はあの青年から買って、そのあと、それをどうしたのであろうか。
このことは一度気になり出すと、そのあとずっと彼の頭を離れなかった。彼にいまはっきりしていることは、自分がセザンヌの偽作を誰かに売り付けるために、ある青年からその問題の作品を買おうとしていたことがあるという事実であった。少くとも、その時は、彼は、それを意図し、それを実行に移したい気持を持っていたのである。
山代は、朝食の時彼を見舞っていた明るい気持が、少しずつ色|褪《あ》せて、次第にそれが暗いものに変りつつあるのを感じていた。
「自分は心に決めたことは必ず実行に移す人間なのだ」
山代は自分自身に言ってみた。この言葉は学生時代からよく意識して口に出した言葉である。山代大五は生れ付きそのような人間であったし、またそうした人間になることを意識して自分に課して来た人間であった。そのことに思いつくと、山代は堪らなく厭な気がした。そして自分はあの偽作を誰かに売り付けたかも知れないと思った。
「それにしても、どうしてあんなに金が欲しかったのだろう」
山代はまた自分自身に話しかけた。三千万円欲しいという画廊における実感だけが急に彼の心に蘇って来た。自分は確かに三千万円欲しかったのだ。それもただの欲しさではなかった。喉《のど》から手が出るほどの欲しさなのだ。なぜ欲しいか、それが何のために入り用か、そうしたことは何も判らなかった。ただ欲しいと思った実感だけが生きていた。
欲しい、欲しい、欲しい。自分はほんとに三千万円の大金が欲しかったのだ。それが欲しいばかりに、セザンヌの偽作をあの青年から買い、それを誰かに売り付けようとしていたのだ。あんなに欲しいくらいだから、自分はあの作品をあの青年から買ったに違いない。もしそれを買ったとしたら、やはり自分はそれを売ったに違いない。
「自分は心に決めたことは、必ず実行に移す人間なのだ」
山代はまた、曾て自分が何回も口ずさんだ言葉を口から出して、何と厭な言葉だろうと思った。堪らなく厭な言葉ではないか。これは悪党が獲物を睨んだ時の台詞《せりふ》なのだ。
山代は堪らなく不安な気持に襲われた。もしかしたら自分は大変な詐欺《さぎ》行為を働いているのかも知れないのだ。ただそれがうまく行われていて、いまでも発見されないでいるだけのことだ。山代大五は朝眼覚めた時の彼とすっかり変った気持になっている自分を見出した。
高崎がはいって来た。
「どうです?」
いつもの挨拶《あいさつ》を彼は山代に与えた。そして、
「今日、香村さんがやって来るそうですよ。またどこかへ出てみますか」
高崎は言った。山代は香村つかさが来ると聞くと、あれ程待ちに待っていた相手であったが、ふいに怖ろしいものが近付いて来るように思われた。
彼女は自分に画商としての最近の一年間のことを語りに来るのだ。その中に自分の総ては含まれているのだ。あるいは彼女もセザンヌの偽作のことについて何かの知識を持っているかも知れないではないか。たとえ詳しいことは知らないとしても、彼女のことだから何か感付いているかも知れない。
「まさか!」
思わず山代大五は口に出して言った。ばかな、そんなことはない筈だ。
「どうかしたのですか」
山代大五の言葉を聞き咎めて、高崎は不審そうな顔を向けた。そして、
「いやに深刻な顔をしていますね」
と言った。
山代は高崎の言葉でぎょっとした。指摘されたように、自分はいま深刻な顔をしているに違いないと思った。
山代は高崎に対して、昨夜自分の記憶の一部が回復したことについては何も話さないことにした。話さないでおく方が安全だと思った。もし、高崎にその一部でも話したら、彼は眼の色を変えて、それを根掘り葉掘り訊き出すことだろう。それをノートに書き込み、他の患者の場合と比較して、それについて彼は自分の見解を述べるだろう。もしそのことが稀有《けう》の例なら、彼はまた自分をこの病院から離さないだろう。
山代大五は午前中の時間を絶えず自分自身との対話でつぶした。
正午少し過ぎに、香村つかさはやって来た。彼女は薔薇の花を白い紙に包んで持って来たが、それを黙って病室の窓際に置いてある花瓶に插し、水を入れるために、それを一度病室の外に運び出した。そしてそうした仕事をまめまめしくやってから、彼女は初めて山代大五のところへ近寄って来た。
「今日はアパートへ行きましょうか。それともどこか静かなところでも散歩しましょうか。外出のことは、佐沼先生のお許しが出ていますのよ」
香村つかさは言った。山代大五はどこへも行きたくなかった。
「散歩するって、どこへ行きます?」
「どこでも結構ですわ。静かなところがいいでしょう。そこでわたくしが知っていることをお話しましょう。そうなると、アパートの方はこの次になります」
「じゃ、散歩に出ましょう。どこへでも行きますよ」
山代は多少投げ遣りな言い方をした。散歩しながら彼女の話を聞くことを承諾した形になったが、香村つかさの顔を見ているうちに、何となく彼女の申し出を承諾したい気持になったのである。
一時に二人は病院を出た。この前は電車に乗ったが、こんどは香村つかさの勧めでタクシーを停めた。
「どこへ行きます」
「海を見ましょうか。海を見たいとお思いになりません?」
海と聞くと、山代は急に自分の心が生き生きとするのを感じた。
「よし、行きましょう。三年ぶりに見る海だ。それにしてもどこへ行ったら海が見えるのかな」
山代が言うと、
「行先はわたくしにお任せになりません? 差支えありませんでしたら」
香村つかさは言った。
タクシーは京浜国道を走った。海を見るというだけで、どこへ連れて行かれるか、山代には判らなかった。山代は行先は香村つかさに任せていた。
「わたくしがお店へ勤めるようになったのは若い絵描きさんから頼まれたためです。事務をやる男の人が居たんですが、それを罷めさせて、若い女の人が欲しいということで、わたくしが伺うようになりました。毎朝電話を掛けて連絡し、用事があれば伺うというそんなお約束なんです。月のうち半分出勤することもあれば、十日の時もありました」
香村つかさは言った。
「若い画家というのは?」
山代大五は何となく気になって訊いた。
「わたくしのお友達の兄さんです。学生時代からS展へなど出品して特選になってますから才能ある人だと思います。ただ、途中から変な方にぐれました」
香村つかさは言った。
「変な方と言うと?」
「何かお薬の中毒だと思うんです。肉体も精神もとても不健康になって、廃人とでも言うか、そんなような人間になっているんです。山代さんは、その人の才能を誰よりも買っておられましたのよ」
「僕が?」
「とても可愛がっていらしたと思います。お店へもよく出入りしていましたし、お店へ来る度にお小遣いを上げてらしたんじゃありません? とにかくその人が口を利いて下さったので、わたくし、お店へ出るようになりました。わたくし母一人、子一人の生活で、働かないより働いた方がいい立場にありましたし」
香村つかさは言った。
「色の白い、髪の長い、美貌な青年ですか」
山代は訊いた。すると、香村つかさは一瞬息を詰まらせたように言葉を止めて山代の顔を凝視すると、
「お思い出しになったんですか」
と言った。
「いや」
山代は打消したが、
「でも、その方ですわ。いまおっしゃった通りの方ですわ」
「いい加減に言っただけです」
「そんなことありませんわ。ぴったり当っているんですもの」
「何となくそんな気がしたまでです」
「何となくそんな気がするということは、ご自分では気が付かないけれど、どこかで記憶が回復してるんじゃありませんかしら」
香村つかさは言った。
「きっとそうですわ」
彼女は考え深い翳《かげ》りのある顔をした。
山代は香村つかさの話で偽作画家が店へ始終出入りしていたことを知った。余り嬉しいデータではなかった。
「その青年はどうして貴女のことで口をきいたんでしょう」
「いま申し上げましたように、お友達のお兄さんで、前から知っていたからです。余り忙しくない仕事だからというので、お店の話を、わたくしのところへ持って来て下さったんです。男の方がやっていた仕事を、わたくしが一人で引き受けることは大変だと思って、初めはお断りしたんですが」
「ほう。それにしても、どうして使用人を罷めさせたんでしょう」
「さあ」
ちょっと考えるようにしてから、
「わたくしもそのことは変に思ってましたの。でも、きっと山代さんがお考えになって、何か気に入《い》らないところがあったんだと思ってます」
「貴女がお店へ来て下さるようになった頃、店ではどんな絵を取り扱っていたか覚えていますか」
山代は訊いた。
「よくは存じませんが、いろいろな絵を買ったり売ったりなさってました。わたくしが初めて取り扱ったのはセザンヌの絵でした」
「ほう」
山代は思わず顔を固くした。
「その絵を人に買わせる仕事のお手伝いがわたくしの最初のお仕事でした。ご一緒に方々の絵の好きな方のお宅へ参りました。わたくし、他処《よそ》の大きなお宅へ伺うのは初めてのことでしたから、とても面白うございました」
そう言ってから、
「もうすぐ横浜へまいります」
香村つかさは言った。山代大五はタクシーがどこか郊外の方へ向っていることは知っていたが、まさか横浜まで行くとは思っていなかったので、
「横浜まで来てしまったんですか」
と驚いて言った。
「高台へ行って海を見ましょう。そこは山代さんと一、二回行ったことがあるところなんです。もしかしたら、何か思い出されるかも知れないと思いまして――。それに、そこの一角は、山代さんがとてもお好きだったところですのよ」
そう香村つかさは言った。自分が好きだというところを見ることには興味があったが、いまの山代大五にはもっと大きい関心事があった。
「そしてそのセザンヌの絵はどこへ収まったんです?」
山代大五は自分の声の震えているのがよく判った。
「セザンヌの絵がどこへ収まったか、わたくし、よく存じません。とても高い絵で、何ですか三千万とか四千万とか言ってました。売ったことは売ったんですが、売先はわたくしにはおっしゃいませんでした。税金とか何かの関係で誰にも報せてないんじゃありませんかしら」
香村つかさは言った。
「売ったことは売ったんですね」
「――と思います」
「どこか見当付きませんか」
「さあ」
香村つかさは曖昧な返事をしていたが、
「わたくしがお供した家のどこか一軒かも知れません。そうではないかも知れませんけど」
「どういうところへ行きました?」
「中根美術館」
一番最初にあがった中根美術館というのは、中根という醸造会社の社長が半ば道楽で造った美術館で、山代は新聞記者の時からその名前は知っていた。
「それから奥津さん」
「奥津順三氏ですか」
「そうです」
いまの山代にとっては名前だけ知っている人物だった。造船会社の社長で、戦後の一時期は最高納税者の一人だった。
「それから富本春道さん」
この人物については知るところはなかった。
「どういう人です」
「さあ、お金持で若い美術家のパトロンをしている人です」
「知らないな」
「それから、今日これから行きます横浜の高台にお家のある三城博子《みきひろこ》さん」
「それは?」
「女優さんです」
映画女優の三城博子なら自分も知っていると思った。勿論名前だけであるが、戦後売出した女優で、いつも一、二の人気を保持していた筈である。
「そのくらいですわ」
「どこでも断られたんですね」
「いいえ、みんな欲しいっておっしゃってました。いまにもお買いになるようなことおっしゃってた方もありますけど、結局みんな、正直なところ真物《ほんもの》かどうかという問題にぶつかると、考えてしまったのではないでしょうか。もし万一偽物だったら大変だといった気持だったと思うんです」
山代大五は半ばほっとした。
「それは真物なんでしょうね」
「勿論真物なんでしょう。山代さんが責任をお持ちになるとおっしゃったんですもの」
くるまは横浜の街を横切って、もう直ぐそこが港だというところから、かなり急な坂道を登って行った。高台というから人家のないところかと思ったが、そうではなくて、かなりの人家が詰まっていた。そして人家と人家との間から港の一部が見えた。
「なるほどね」
山代大五は言った。山代は郷里の伊豆の海を見ていたので、海と言うと広々とした拡がりをすぐ眼に浮かべるが、ここは全く都会の海であった。人家と人家の間から覗く海であり、しかもここから見える海は港湾の一部で、人工的な海としか言えない海である。
「この辺が一番お好きでした」
「ほう、ここが好きだと言ったんですね」
「そうです」
山代は意外な気持だった。どうして自分はこんなところを好きだと言ったのだろう。こんな海のどこがよかったのだろう。
「貴女に言ったんですか」
山代は訊いた。すると香村つかさは、
「いいえ、わたくしにではありません」
と、いやにはっきりと答えた。
「じゃ、誰に言ったんです」
「三城博子さんです。あの方が一度わたくしたちを送ってこの辺まで来たことがありました。その時、山代さんは三城さんに、ここは素晴らしい、日本一だとおっしゃいました」
「なるほど」
「わたくしにはとてもそうは思えませんけど、山代さんは真顔でおっしゃってました」
山代は話題を変えた。
「それで、セザンヌの絵ですが、貴女の考えではどこへ収まったと思いますか」
「さあ、三城さんかも知れませんし、他のお宅かも知れません。本当にわたくし存じませんの」
香村つかさはいくらか硬い表情で言った。
「収まったことは収まったんですね」
「勿論そうだと思います。わたくしが休んでいる時、画廊から運び出されたんですから」
そしてそうした問題にはもうさして興味はないとでも言うように、
「間もなく三城さんのお家の前を通ります」
と、山代の首を右手の窓外の方へ向けさせようとした。そして、
「細く小さい方ですのに、お宅はとても大きいんですのよ」
と言った。間もなくくるまは三城博子の邸宅の前を通った。なるほど大きな邸宅であった。敷地が道路より低かったので、塀越しに邸内の一部が覗かれた。もしかしたら、そこにセザンヌの偽作はあるかも知れなかった。
タクシーを横浜駅前で降りると、香村つかさは、料金を運転手に渡した。
「お金は大丈夫ですか」
山代が訊くと、
「ご心配なく。山代さんはお金持ですから、あとで戴くように、ちゃんと書いてあります」
香村つかさは笑いながら言った。
帰りは二人は京浜電車に乗った。
「お疲れになりませんね」
香村つかさは心配して訊いたが、山代は少しも疲れていなかった。病院を出る時に、セザンヌの風景画のことが頭を占領して何とも言えず暗い気持になっていたが、いまはずっと明るくなっていた。いまもセザンヌの偽作をあちこち持って回っている自分を思うと遣り切れない気持であったが、香村つかさがそれに一枚加わって、自分と一緒に行動していることを知ると、同じ暗い中にも何か救われるものがあった。犯罪感が犯罪感として受け取られなかった。
そしてまた問題の絵の収まりどころが判らないことも、この場合は山代の気持を多少でも軽いものにしていた。もし三城博子という女優の手にそれが収まっているなら、それは幾らでも取り戻せるわけであった。三千万円で売ったのなら、三千万円持って行って取り返すことができないわけではなかった。
二人は有楽町で下車した。画廊へ行ってみようという香村つかさの言葉を立てて、山代も画廊へ出掛ける気になったのである。
「なるべく早くお店に慣れませんとね」
つかさは言った。山代は自分が必ずしも画商として立たねばならぬとは考えていなかったが、つかさのそういう親切心から出た言葉を、無下にしりぞける気持にはなれなかった。
二人はこの前と同じように画廊の事務所の中で向い合って坐った。この前のお茶を仕舞ってあったのか、つかさはこんどもお茶をいれて二つの茶碗についでから、
「こんなことしていると、楽しいですわ」
と言った。
「記憶喪失者と付合って面白いですか」
「ええ、だって、記憶を持っていらっしゃる山代さんより、記憶を失くしていらっしゃる山代さんの方がずっといい方なんですもの」
香村つかさは言って笑った。
「もう一人の僕は余りいい人間ではないらしいですね」
山代はつられて言うと、
「いいえ、悪い方という意味ではありませんわ。もう一人の山代さんだっていい方です。でも、わたくしは現在《いま》の山代さんの方が好きです」
「一体|褒《ほ》められているのか、貶《けな》されているのか判らない」
山代が苦笑して言うと、香村つかさは急に話題を変えて、
「山代さんはいつ退院なさいますの」
と訊いた。
「いつか判らない。一切佐沼先生任せですからね」
「でも、佐沼先生はもういつ退院しても構わないようなことをおっしゃってましたわ。もう、世の中に出てもちゃんとやって行けるんじゃないかって」
「甚だ頼りないが、やることが決まればある程度できるのではないかと思う。その時は貴女に手伝って貰わないと」
「喜んでお手伝いしますわ」
つかさはきっぱりと言ってから、
「また、さっき横浜に行くくるまの中でお話した続きを申し上げますわ。本当はここでお話するのが一番いいと思って、ここへお連れしましたの」
「――――」
「私の初めのお仕事はセザンヌの絵を売ることのお手伝いでした。それからあとは若い無名の画家の方の展覧会のお手伝いでした。これはやはりやり甲斐のあるお仕事でした。でも、どれも成功したとは言えませんでした。結局は売れない絵を画廊で買う結果になりました。何もそんな無名の方の作品を買う必要はないんですが、山代さんはそうした一種の親分肌のところがあったと思います。わたくし、そうしたところの山代さんは好きです」
「嫌いなところもあったんですか」
「そりゃあ」
この時だけ、香村つかさは言葉を強めて言った。冗談に紛らせた言い方だったが、必ずしもそうではないように、山代には受け取れた。
「どういう点です」
「いっぱい」
「だから、どういうところ」
「それは言えません」
「なぜ言えない」
「びっくりなさるから」
「びっくりはしませんよ」
「いいえ、駄目です。教えられません。それはご自分で記憶をすっかり取り戻した時、お判りになりますわ」
香村つかさは真顔で言った。山代は相手に何となく無気味なものを感じた。
「記憶を回復しなかったら?」
「その場合はそれでいいと思います。山代さんは別の人間として生まれ変ったんですから」
「しかし、人間の性格は変らないでしょう」
「いいえ、変ると思いますわ」
つかさは真剣な表情で言った。
「わたくし、思うんですけど、以前の山代さんがお好きな絵でも、こんど見たらお好きでない絵があると思うんです。どうして自分はこんな絵が好きだったかと」
「それは、そういうこともあるでしょう。しかし、大体において好みというものは変らんと思いますね」
山代大五が言うと、
「いいえ、わたくし、そうは思いません。人間の好みなんて、ずいぶんいい加減なものだと思います。その時のいろいろな事情で、好みなんて、どんな方向にでも曲ってしまうと思いますわ」
「そうでしょうか」
「そうだと思います。山代さんが一緒に死ぬほど好きな方でも、こんどお会いになってみたら、さあ、どんなものでしょう」
香村つかさの顔の真剣さが、この時山代大五には気がかりだった。
「そういう事件が、僕にはありますか」
山代はそう訊いてみた。
「もしあったとしたら、――わたくし、ずいぶん意地悪でしょう。その方を山代さんにお引き合せしないんですから」
香村つかさはそう言うと、そのあと少し乾いた感じの声を出して笑った。少しもおかしくないのに、無理に笑ってみせたといった感じだった。が、すぐその笑いをとめて、
「どうぞご心配なく。――山代さんにはそうした事件はなかったと思いますわ。ただ、そんなことを申し上げてみただけです」
と言った。山代は自分には恋愛事件はなかったろうと思った。一人の女性を心の底から好きになるような性格ではない。女性との関係が絶無だとは言えなかったし、そうしたひっかかりを持ちやすい弱さもあったが、本当に死ぬ程好きだという相手はできない筈だと思った。しかし、山代は香村つかさのいまの言い方にある無気味さのあるのを感じて、それが気持にひっかかった。
「人間、もう一度生れ変ったら、こんどは失敗しないということを言う人があります。でも、誰も二度とは生れられませんわ。そこへ行くと、ある意味で山代さんは生れ変ったと言えると思います。こんどこそ失敗しないで行けるんじゃありませんか」
「失敗したんですか」
「いいえ、失敗したとは言えません。でも、ご自分では失敗したと思うことを、たくさんなさっているでしょう、人間ですから」
「僕がもし記憶を取り戻した場合は、そうした自分の過去に反省も批判も加えられますが、このままでは――」
「ご自分で記憶を回復なさらなくても、この前申し上げましたように、ご自分で過去のブランクをお埋めになればいいじゃありませんか。それらのことはご自分のやったことではありますけど、しかし、自分とは無関係なことでもあります。第三者の立場で、ご自分を批判できると思います。そうしたら人間どんなに素晴らしい人生を造れるでしょう。誰もできないことを、山代さんはおできになるんです」
香村つかさの言葉は急に熱を帯びて来た。それが山代にはよく判った。
「画廊の経営でもそうです。自分はこんなことをしている。ずいぶんとんでもないことをしたものだ――。きっと、そう山代さんはお思いになりますわ、ご自分の日記を見て」
「――――」
「そしたら、これから始める第二番目の画商のお仕事は素晴らしいものになると思います。人生の他の問題でも同じことですわ。山代さんがその気になれば、わたくし、以前に申し上げたように、どんなお手伝いでもいたします。そして詳細な日記帳を作って差し上げます」
「有難いことですね」
「でも、お思い出しになったことを、忘れた顔していらっしゃるのは厭です」
「そんなことありませんよ」
「もし、あったら、わたくし惨《みじ》めですもの」
「どうして」
「だって、こうしたことのお手伝いをすることは、わたくし自身が山代さんの一部になることですもの。さっきのように、若い絵描きさんのことを思い出していらっしゃるのに、それを否定なさると、わたくし、何のために力《りき》んでいるか判らなくなります」
「そんなことありません」
「――そうでしょうか」
香村つかさは山代の心の内部を探るような眼をして言った。
「色の白い、髪の長い美貌な青年とおっしゃいましたわね」
「言いました」
「それと全く同じ、そのままの言い方で、山代さんは以前、わたくしに先刻お話した絵描きさんのことをおっしゃいましたもの」
山代は虚を衝《つ》かれた形で、すぐには言葉がでて来なかった。なるほど、そういうことがあったのかと思った。
「じゃ、正直に言います。すみませんでした。ゆうべ記憶の一部を取り戻したんです」
それから山代はゆうべのことを、つまり若い画家と会っている場面のことをありのまま語った。ただセザンヌの偽作のことと、自分が三千万円の金を欲しいと思っていたことだけは伏せておいた。
「そのこと、すぐ佐沼先生に申し上げないと」
つかさは窘めるように言ってから、
「いまに、わたくしのことをお思い出しになるかも知れませんわね」
しんみりした口調で言った。
「記憶の一部が回復なさったんですもの、次々回復なさるかも知れませんわ」
香村つかさは言うと、ふいに立ち上がった。そして立ち上がった瞬間、急に眩暈《めまい》でもしたのか、壁際の整理棚に右手を置いて、顔を俯けたまま、そこに立っていた。
「どうしたんです」
驚いて山代が叫ぶと、
「すぐよくなります」
つかさは言って、それから顔を上げた。山代の眼にはつかさの顔が青くなっているのが判った。
山代は立ち上がると、卓の上の茶碗を取り上げて、それを持って水道の流しのところまで行き、つかさのために水を汲んでやった。
「もう大丈夫です」
水をほんの少量口に含むと、
「ばかですわね。記憶を失った山代さんのために、過去のブランクを埋めようとしてますのに、山代さんの方で記憶を回復なさりそうだと知ったら、急に気が遠くなりそうになって」
そんなことを言った。
「はっきり判りませんね、いまおっしゃったこと」
山代は言った。実際に判らなかった。すると香村つかさは、
「山代さんが記憶を全部回復なさったら、わたくしの役割はなくなりますわ。はっきり申しますと、わたくし、山代さんに記憶を回復して戴きたくないんです。そうでなくて、ブランクをご自分で埋めるというやり方で、失くした過去のすべてを知って戴きたいんです。――ずいぶん我儘でしょう」
「なぜ僕が自然に記憶を回復してはいけないんです」
「いまの山代さんでなくなるからです。過去三年の延長の上に居る山代さんになってしまいます。そんな山代さんは厭です」
「以前の僕は、ずいぶん嫌われたものですね」
「そりゃ、嫌いですわ」
香村つかさは顔を上げて山代大五を見守っていたが、こうなったら何もかも言ってしまうのだといったように、
「本当は、わたくし、山代さんの他の女の方に対する態度は嫌いでした」
と言った。
「本当の女の人の美しさなんて判らない方だと思いました。とんでもない人を、きれいだなんておっしゃるんですから」
山代は口を噤んでいたが、
「僕にはそういうところがあるかも知れないな」
「そういうところばかりでした」
香村つかさは言った。やれやれと、山代は思った。
夕 立
山代大五は失われた記憶の一部が回復したことを佐沼に報告した。香村つかさに話したと同じように、現在の山代にとって一番大きい関心事である偽作のことは伏せておいて、ある若い画家らしい青年から一枚の絵を買おうとしていた画廊の事務所における一場面だけを話した。
「島のように、一部分ずつ記憶が回復する例はいままでに幾つもあります。貴方の場合はそうした型で、記憶を取り戻して行くかも知れない」
佐沼は言って自分のことのように嬉しそうな顔をした。その佐沼の顔を見ると、山代はさすがに何もかも話していないことで心の痛むのを感じた。佐沼の傍で高崎はノートをとっていた。
「その絵を買いたいという気持は、確かにあったんですね。それでいて、その絵が誰の作であるかは思い出せないんですね」
高崎が鉛筆を走らせながら念を押すように訊くと、
「そうです」
「全然思い出さないんですか」
「そう」
「買いたいという気持は、この絵を買っても商売になると思ったんでしょうね」
「そうだと思います」
山代は自分ながらなっていない返事だと思った。佐沼にしろ、高崎にしろ、自分が入院以来親身に世話をしてくれた人たちである。たとえそれが研究のためとは言え、山代につくしてくれたことは大変なものである。現在の彼にとっては、二人は一番大きい恩人と言わなければならぬ。それを思うと、さすがに心は痛まざるを得なかった。
山代はセザンヌの偽作問題がはっきりするまで待って、その上でいつか何もかも正確に報告しようと思った。高崎の真剣な顔を見ていると、そうしなければならぬものが感じられた。しかし、佐沼は敏感に山代のそうした気持に気付いているのかも知れなかった。それは回診を終って病室を出て行く時、
「記憶を取り戻しても、それを話すことが不安でしょう。これを話したら、前のまだ記憶を取り戻さない部分とどう繋がるだろうかとか、先きに行ってどうなるだろうかとか、いろいろな懸念を感じると思いますね。大抵の患者がそうです。以前にぶつかった例ですが、果物屋の店先きに立っていた極く短い時間の記憶を取り戻しましたが、それをなかなか話さないんです。もしかしたら、自分は果物を盗むために、あの店先きに立っていたのではないか。大真面目にそうしたことを考えていましたよ」
そんなことを佐沼が言ったからである。しかし、自分の場合はそうした単純なことではないと、山代は思った。
山代は、自分が大きな詐欺行為を働いているのではないかという思いに襲われると、いつも前途が真暗になってしまうような気がした。香村つかさと横浜にドライブした日以来、彼には自分の詐欺行為が決定的な動かすべからざるものに思われた。
問題のセザンヌの絵が誰かの手に渡ってしまっていることは、そうした詐欺行為が完全に遂行されてしまったことを意味するものであった。そしてそれを遂行するために、自分は邪魔になる店員を馘首《かくしゆ》し、その代りに、香村つかさを傭《やと》い入れたのである。しかも、その口をきいたのは例の若い画家なのだ。そしてその画家とはどうも親しい交渉を持っていたようである。小遣銭を時折彼に与えていたということは、彼から絵を買ったことで、彼に頭が上がらなくなっていたのかも知れない。
絵は香村つかさが言ったように一人の映画女優の手に渡っているか、それでなければつかさが名を挙げた何人かの美術愛好家の所有に帰しているのであろう。幸いにいままでそれが偽作であることは、誰にも気付かれないですんで来ているのである。しかし、いつかはそれがばれるに違いない。ばれる前に、それをもう一度相手から買い戻してしまわなければならぬ。
山代はベッドの上で、二、三日というもの同じ問題ばかりを考えていた。解決する方法ははっきりしていた。香村つかさに同行して貰って、それらの人物に一人一人会って、まず問題の絵の所在を確かめること。それからそれを何か理由をつけて買い戻すことである。ただひと口に買い戻すと言っても、それを自分が必要とした三千万円というような大金で売り付けていた場合は、それを買い戻すことは容易なことではない。殆ど不可能に近いことかも知れない。それにしても、一体、自分はその金を何に使ったのであろう。借金の穴埋めであろうか。とにかく、喉から手が出る程、自分はそれをあの時欲しかったのだ。欲しくて欲しくて堪らなかったのだ。
次に香村つかさが病院へ顔を出したのは、横浜ヘドライブしてから五日目であった。山代は香村つかさの訪れて来るのを待つ気持と、それを怖れる気持とに左右されて、その五日間を過していた。香村つかさは病室へはいって来ると、
「大阪の親戚におめでたがあって行って参りました。行く前に佐沼先生に御相談して、大阪で山代さんの関係のあった新聞社のお友達やらいろいろな人たちに会って、一応極くあらましの山代さんの足どりを調べて参りました」
「足どりですか。犯罪者なみですね」
山代大五は真顔で言った。実際その言葉が山代大五の心を暗く不安にしていた。
「足どりですもの。いまの山代さんでないもう一人の山代さんが、新聞社をお罷めになってから、どうなさったか。何日大阪にいて、それから上京したか」
香村つかさは言った。
「そんなことが判りましたか」
山代が言うと、
「判りました。日記風にちゃんと書いて来ました。佐沼先生にも、もうお見せしました」
それからつかさはハンドバッグから手帳を取り出すと、
「これに書いてあります」
そう言って、それを山代の方へ差し出して寄越した。山代はその最初の頁を開いたが、ちょっと眼を当ててから、すぐ香村つかさの方へ返した。
「お厭ですか」
「自分で読むのは厭ですね。読んで下さい」
「じゃ、この間のようにお話しましょうか」
それからつかさは窓際に立ったままその手帳を開いて、それに眼を当てると、
「社をお罷めになった事件は、佐沼先生からお聞きになっていますわね。社長さんに乱暴なさったのは一月十八日午後四時、その夜社のお友達で深井、木原、夏乃という三人の方と心斎橋のお料理屋でお酒を飲み、十一時頃帰宅なさっています。それから十九、二十、二十一の三日間はちゃんと出勤しております」
山代大五は三人の同僚の顔を思い浮かべた。別に特に親しくはしていなかったが、割合気心の判っている連中である。
「三日目の二十一日の夜は赤堀さんと社の近くのお料理屋さんでお酒を飲み、酒場を三軒歩いて、その夜は赤堀さんのアパートヘ行って泊りました。それからあとは二十三、二十五、二十七と三日、一日おきに午後ちょっと社に顔を出しています。それからあとはずっと社へは出ないで、二月十五日に、つばめで東京へ向けて大阪をお発ちになっています。社へ出勤なさらない日はどこにいらしったか判りません。T市の下宿は毎日|午刻《ひる》近い時出て行って夜になると帰っていますが、どこで時間をつぶしていらしったかは判りません」
それから、
「大体、これだけです」
と、香村つかさは言った。
「社長を殴った事件の起きた前のことは判りませんね」
山代が訊くと、
「殆ど判りません。どなたも憶えておりませんでした。毎日社へ出勤なさって仕事をなさっております。ただ事件の起きる二日前に赤堀さんととても沢山お酒を上がって、どこかでよその方の靴を間違えて履いて帰ったそうです」
「そんなことがあった」
思わず山代は叫ぶように言った。赤堀大亀の顔と、その一夜のことが、ふいに山代の頭へ閃いた。赤堀と夜遅くなってから社を出て心斎橋の小料理屋で食事をし、そこから梅田新道の行きつけの小料理屋へ席を移し、そこで十二時過ぎまで酒を飲み、そこを出る時、他の客の靴を間違えて履いて来たのである。靴を間違えたことにはすぐ気付き、その小料理屋へ戻って行ったが、相手の客はもう居なかった。相手はその家の下駄を履いて帰ったということだった。
その夜の、自分を信用できぬような厭な思いが、山代には思い出されて来た。もともと社の仕事の上で思わしくないことが続いている時で、そんなことからつい酔っ払うほど酒を飲んだのであるが、靴を間違えたことは、その夜の山代にはひどく堪《こた》えた。幾ら酔った上のこととは言え、靴を履き違えるようではもう駄目だな、そんな思いに取り憑かれた。何もかもが自分から離れて行くような脱落感であった。仕事本位に忙しく生きていて、そのくせいっこうに仕事はうまく行っていなかった。紙面の失敗もあったし、営業成績も毎月のように下がっていた。
「そんなことがあった」
二度目に叫んだ時、
「じゃ、このあたりまで覚えてらっしゃるんでしょうか。その翌日、ご自分でその靴とカステラを持って、相手の方の会社へ謝りに行ったんですってね」
「ほう」
そのことは覚えていなかった。
「知りませんね」
「赤堀さんが代りに行って上げようとしたんですが、自分で間違えたのだから自分で行くとおっしゃって諾《き》かなかったと言ってました。初めお料理屋さんの方でも自分の方で先方へ届けると言ったんだそうですが、それは失礼だと言って、その靴を新聞社へ届けさせ、それを持ってご自分で出掛けたんですって。――覚えてらっしゃいません?」
「覚えていない」
こんどは山代は投げ出すような言い方をした。全くその翌日のこととなると記憶になかった。
「じゃ、そのお酔いになった日が、社長さんとの事件のあった前々日だそうですから、十六日になりますわ。すると、十七日からのことをお忘れになってるんですのね」
香村つかさは言った。そういうことになるかも知れなかった。山代はふいに自分一人の思いの中にはいって行った。気が付いた時、香村つかさの姿は見えなかった。椅子の上にハンドバッグが置かれてあるところを見ると、山代についての一つの発見を高崎にでも告げに行ったのかも知れなかった。
山代には残っている記憶の最後の夜の思いが、その部分だけはっきりと蘇って来ていた。その翌日の靴を返しに行ったことになると、全く記憶になかったが、その前夜のことは、その中に自分という人間が、確かに生きていると言えるような生き方で生きていた。
酔っ払って靴を間違えた日、幹部会の席で自分は社長に紙面が面白くないと言われてひどくくさっていた。紙面が面白くないことも事実かも知れなかったが、新聞が売れないということの総ての原因はそこにはなかった。もともとちっぽけな貧乏な新聞社で、取材のために金は使えず、面白い紙面を作るということも、無理な話だった。それでも自分だからこそ、曲りなりにも読める紙面を作って来たのだ。
山代は、しかし、社長を憎んではいなかった。自分のオ能と努力を誰よりも買ってくれているのは社長であった。そうしたことはよく判っていたが、紙面のことをやかましく言われるとやはり腹が立った。社長の方も、しかし、いろいろなことでむしゃくしゃしていたに違いない。それでつい言わなくてもいいことを口走ってしまったのだ。
山代は靴を間違えたことに気付いた時、歩道の一角に坐り込んでしまいたいような気持に襲われた。ああ、もうこうなってしまったら、自分もお仕舞だ、そんな気持だった。靴を間違えたという事件が、何か救い難い事件のように思われた。しかし、救い難いのは靴の事件ではなく、新聞社の仕事だったのだ。
山代は履きにくい靴を履いて、また小料理屋へ引返して行き、そこで玄関に一足残されている自分の靴を履き、そこを出た。靄が深かった。大阪ではこの時節が一年中で一番靄が深いが、その晩は特に深かった。
夜霧の中を、山代は歩いて行った。どこへ行くのか。勿論、大阪駅へ行き、そこから京都行きの最終電車に乗るわけだが、どこへ行くのかと問いかけたいような気持だった。T市の老夫婦のいる家の離れへ戻って行ったとしても、そこに誰が待っているというわけでもなかった。寒い部屋へ、ただそこに眠るということのために帰って行くだけのことだった。
社長からもう何回か結婚の話を持ち出されているが、いつもそれを断って来た。実際に結婚する気はないのだ。なぜだろう。結婚したい相手がないからだ。いまはなくても、いつかは出て来るかも知れないではないか。恐らく出て来ないだろう。それだけは判っていた。失恋のいたでといったような、そんなものものしいものではない。何となく、自分が結婚しようとすると、ふいに顔を出して来る妙に邪魔っけな一人の女が居るだけである。
結婚話が持ち出されるとふいに顔を出して来る一人の女の顔を、いま病室にいる山代大五は全く久しぶりに思い出した。この病院で意識を回復してから今日まで、一度も彼の瞼《まぶた》に浮かび上がって来なかった顔であった。
どうして自分はあの女のことを思い出さなかったのだろう。しかし、考えてみると、思い出さなければならぬような、それほど密接な関係がその女との間にあるわけではなかった。
だからこそ、相手がそうした山代に頓着なく、さっさと他の男性のもとに嫁いで行った時、山代としてはかなり烈しい打撃を受けはしたものの、そのために相手を非難することもできなかったし、まして相手を恨むなどという筋合にはなかった。
山代はその時の自分の気持を、いまはっきりと思い出すことができた。心は痛み、心は空虚だった。しかし、決してそれは絶望感といったようなものには繋がってはいなかった。山代は幾らでもこのような事件には耐え得ると思った。何か大切な玉が手から転り落ちて、どこかへ行ってしまっただけのことに思われた。
山代は、自分の心の打撃を自分で計ることができた。打撃は打撃であったが、それは僅かの時間で癒されそうな気がした。せいぜいその程度であると思った。が、この時の山代の己が心の痛みの計り方には、かなり大きい誤算があった。何年経っても、その女のことは決して彼の心から消え去ってしまうことはなかった。彼が予期しない時に、その女の顔はふいに山代の眼の前に立ち現われて来た。結婚という言葉が交されるような場合、その女の顔は必ず彼の前に立ちはだかって来た。彼女は決して彼女の出番を忘れることはなかった。そうした彼女の山代の心の中における座の占め方は、山代自身が考えていたよりもずっと執拗でもあり、強いものであった。
山代は女を失ってから、自分が失ったものがいかに大切なものであったかを知らなければならなかった。そしてそれから自分が終生逃げることのできないことを、一種諦めに似た思いで思い知らなければならなかった。
山代は、さっき香村つかさが病室から出て行ったのを知らなかったように、こんどはまた彼女が、いつ病室へ戻って来たかを知らなかった。
山代はふと窓際の椅子に腰を降ろしている一人の女の姿を発見して、それが香村つかさであることを知ると、
「おや、いつ帰って来たんですか」
と、声をかけた。
「いま戻りましたの。佐沼先生もすぐお見えになると思います」
香村つかさは答えた。彼女はさっき山代に見せたノートに鉛筆を走らせて、そこに何かを書き込んでいた。部屋の内部はひどく暗くなっていた。室内が暗いばかりでなく、窓の外も暗くなっているようであった。
そうした暗い部屋内の光線の中で、香村つかさの少し俯いている顔だけが白く浮かんでいた。
山代大五はつかさの顔にじっと眼を当てていたが、ふいに魂を鷲掴みにされたような衝撃を心に覚えた。
――香村さんですね。
山代大五はもう少しのところで、こう声をかけるところだった。そこに居るのは香村つかさに違いなかったが、しかし、何となく山代がいまがいままで心に浮かべていた一人の女性の持っていたものが、そこには置かれてあるような気がした。女もまたこのようにして、自分ひとりの作業に没頭して、ひと言も口をきかない時があったと思った。相手が自分一人の世界にはいり込んでいるので、山代はどんなにか物足らなく思い、物足らなく思いながらも、そうした相手をそのままにしておいたものであった。そうした山代の遠慮深い態度が、彼女を他の男の方へ歩いて行かせる原因になったかも知れないと山代が気付いたのは、彼女がもう決して彼の前へ姿を現わさないようになって、二年も三年も経ってからのことであった。
山代は夢から覚めた者が、いつまでもはっきりしていない頭の中で夢の世界のことを追いかけているように、香村つかさの姿に眼を当て続けていた。そこにいるのは香村つかさでもあり、また未だに彼を支配しているもう何年も会わぬ一人の女でもあった。
「暗くなりましたわね」
香村つかさは顔を上げて言った。
「暗いですね。もうそんな時刻ですか」
山代は訊いた。
「ええ、――でも、まだ四時前ですわ。雨が降りそうなんです。急に暗くなって」
「雨!?」
「ひと雨来るんじゃありませんかしら」
つかさは顔を上げた。山代はつかさの顔を正面から見て、やはりつかさは彼女以外の何人でもないと思った。
そこへ佐沼がはいって来た。佐沼は大股にやって来ると、ベッドに腰を降ろしている山代に近付いて、
「このところ、いろいろいい材料が重なって出て来るじゃないですか」
と言った。
「いま香村さんから聞いたんですが、記憶の失くなった境のところがはっきりしたようですね」
「一応、はっきりしたようです」
山代は言った。
「お酒を飲んで、靴を間違えたその晩のことまでは覚えており、その翌日からのことがすっぽり欠けているんですね」
「そうです」
「その日から記憶が失くなり、崖から落ちてこの病院にかつぎ込まれ、意識を回復するまでが空白になっているわけですね」
「そうです」
「それも全部ではない。画廊で若い男の人と話していたある時間の記憶が回復していますからね」
それから佐沼は、
「まあ、いいでしょう。経過は上々としなければなりませんよ」
そう言って、眼で笑った。
「退院はいつになるでしょう」
その山代の質問が唐突に感じられたのか、佐沼はわざと眼をまるくして、
「退院ですか。お好きな時にどうぞ」
と、半ば冗談の口調で笑いながら言った。そしてすぐ、
「まあ、そう周章《あわ》てなくてもいいでしょう。病院の外へ出ると、いろいろとまた大変ですよ。それより、入院中に記憶の空白の部分をできるだけ詳細に埋めることですね。香村さんがその仕事をやり始めて下さっているから、それが少し恰好がついてから退院するようにしましょう」
佐沼はそんな言い方をした。雨が地面を叩く音が急に聞えて来た。窓へ眼を遣ると、太い雨脚が斜めに走っている。
「とうとう降って来ましたね」
佐沼も窓の方へ眼を向けた。
「妙にむし暑かったですが、これでさっぱりいたしますわ」
香村つかさも立ち上がって言った。雨勢はみるみるうちに烈しくなって行った。
佐沼が帰って行くと、香村つかさは、
「夕立ですから、すぐ上がるだろうと思います。それまでここに置いて戴きますわ」
と言った。
「どうぞ」
山代としては、つかさにいつまでも、部屋に居て貰いたい気持だった。何も話さなくても、つかさがそこに居るというだけで、部屋内はゆたかで、華やいだものに感じられた。
「僕のために、ずいぶん時間の無駄をさせますね」
山代が言うと、
「そんなこと構いません。それに、わたくし、まだ山代さんの使用人ですもの。山代さんのために働くのは当然なことでしょう。どうぞ、ご遠慮なく、何なりとおっしゃって下さい」
「そりゃ、以前は使用人でしたけど」
山代大五が言いかけると、
「あら、いまだって使用人ですわ。まだ解雇の辞令を戴いておりませんもの」
香村つかさは顔を上げて、正面から山代の顔を見入るようにした。山代はそうしたつかさの表情が眩しかった。
「使用人かも知れないけど、月給も払っていない。月給の貰えない勤人なんてないでしょう」
山代は言った。その月給という言葉が強く響いたのか、
「月給!?」
と、口から出して、つかさはちょっと考えるようにしていたが、
「わたくし、お月給目当てで、お世話してるんじゃありませんわ」
そう非難する口調で言った。そして窓外の雨の方へ顔を向けた。その顔の向け方に烈しいものが感じられた。
「月給のことを言ったことには、別に他意はありませんよ。僕だって、貴女が月給目当てに親切にして下さっているとは少しも思っていません。ただ、何となく、そんな言葉が口から出てしまっただけのことです」
山代は言ったが、つかさの方はそれは受け付けないで、
「お月給のこと言いますと前だって、わたくし、正確には戴いておりませんのよ」
「それは、どういう意味です」
「だって、お月給、出たり出なかったりですもの」
「ほう」
「今月は都合が悪いから来月一緒にしてくれないか――」
つかさは山代の口調を真似て言った。
「月給、月給って、おっしゃいますけど、前だって、そんな状態でした」
「ほう」
「そんな点、ずいぶん奇妙なお店でしたわ。使用人の月給ぐらいたいした額だとは思えないんですけど、それを払いませんでしたのよ」
「なるほど」
山代は自分の顔が歪むのが感じられた。
「けちな雇主ですな」
こう言う以外仕方なかった。
「ほんとに」
つかさも言った。いつもと違って、多少手厳しかった。
「どうして払わなかったんでしょうな」
「勿論、毎月そうだったわけじゃありませんの。一年の間に、そんなことが二回ありました。お金がなかったんです」
「ないと言っても、月給ぐらい」
「それがなかったんだと思います。お店って、お金がない時は、それこそ本当になかったんだと思います。正真正銘一文もなくなったんではないでしょうか」
「ほう。それにしても――」
「ご自分でもおかしくお思いになるでしょう。山代さんみたいな方、あまりありませんわ。わたくし、傍で見ていて、はらはらしちゃった! なくなること判っているのに、お使いになるんですもの」
「使うって!?」
「そりゃ、お仕事でお使いになるんですけど、それにしても、多少、あと先きのことを考えませんと」
「そんなでしたか。驚きましたね」
「わたくしの方が、よほど驚きましたわ。わたくし、つくづく山代さんって、お金持たせてはいけないと思いましたわ。――でも、こんどご病気になった時、お金が残っていたことは仕合せでした。もし、崖からお落ちになるのが、十日程おくれましたら、預金通帳はからっぽになっていたかも知れません」
香村つかさは言ってから、
「お驚きになりました?」
山代大五の眼を見詰め、それからつかさは初めて微笑を顔に浮かべた。
「いや、参りました」
「少しぐらい言って上げませんと――。だって、月給だなんて、意地悪なことおっしゃるんですもの」
「以後、注意しないといけませんね」
「ほんと。――ご注意なさらないと大変なことになります」
香村つかさは声を出して笑った。山代大五は自分とつかさとの距離がふいに近くなったような、そんな親しいものを感じた。
「崖から落ちたって、一体それはどういうことなんでしょう」
山代は訊いた。このことはいつも山代の頭のどこかに、一個の小さい固い核のようなものとして置かれてあった。こんどの事件はすべてこの崖から落ちたということから始まっていた。どういうわけで自分はそんなところへ登って行き、そんなところから落ちたのであろうか。
「さあ」
香村つかさはちょっと首をかしげ、
「全然、想像が付きませんわ。ご本人の山代さんにも判らないことですもの。どうして、そんなところへお登りになったかは、わたくしの方でお訊きしたいくらいですわ。――酔ってでもいらしったんでしょうか」
「さあ」
こんどは山代の方が首をかしげた。
「でも、記憶の空白をできるだけ詳細に埋めて行けば、自然にそのことは判って来ると思いますわ」
それから話題を変えて、
「さっき佐沼先生に退院のことおっしゃいましたが、もういつまでもここにこうしていらしっても同じことだと思います。佐沼先生も、本当はそうお考えになっていらっしゃるんじゃないでしょうか。退院なさって、全く新しい生活をお始めになることをお勧めしますわ」
「そうしましょう」
山代は心から同意して言った。佐沼は退院することなど急ぐなと言ったが、その言い方の中に、山代は相手の自分に対する労りの気持を感じとっていた。遠慮からでなく、本当に山代が退院することを望む時期まで待っていてやろうといった気持が匿《かく》されてあるに違いなかった。
「明日にでも、もう一度佐沼先生に話してみましょう」
「そうなさる方がいいと存じます」
「退院したら、どこに住みますかね。アパートはあるわけですが」
山代は退院した場合、自分がまっ先に直面する問題について、つかさの考えを聞きたいと思った。
「わたくし」
ちょっと間を置いてから、
「前のアパートヘお住みになるのは、おやめになった方がいいと思います。折角、これまでの生活と断ち切れたんですから」
そうつかさは言った。山代としては、これまでの生活≠ニいう言い方の中に多少ひっかかるものが感じられた。これまでの生活が香村つかさによって否定されているような気持だった。
「僕の以前の生活は、そんなに否定すべきものなんですか」
山代は思い切って訊いてみた。何となく無気味で厭ではあったが、いつかは口から出さなければならぬ問題であった。
「いいえ」
香村つかさは周章てて首を振った。
「そんなつもりで言ったんではありません。でも、以前の生活も、以前のお仕事も、何もかもこの際断ち切ってしまって、全く新しく出発なさる方がよろしいと思いますわ。そうでないと、気持の上でも遣り切れないことが多いんじゃありませんかしら」
「それはその通りだと思います。しかし、アパートを替える方はいいとして、仕事を替えるとなると大変ですね」
「そうでしょうか。画商のお仕事については三年間の経験をお持ちのわけですが、でも、それをいまのところ全部お忘れになってるんですから、同じことじゃありませんか。画商のお仕事を続けるにしても、また初めからやり直さなければなりませんわ」
雨勢は少し衰えて、雨脚はまばらになっていた。つかさは、もう雨が吹き込まないと思ったのか、窓を開けた。冷んやりした風が部屋に流れ込んで来た。
「じゃ、僕は何をしたらいいんですか」
山代は、それが意気地のない質問であることは百も承知の上で口から出した。
「なんでもおやりになれると思います」
「そうでしょうか」
「おやりになれますわ。無責任な言い方だとお思いになるか知れませんが、わたくし、山代さんでしたら何でもおできになると思います。どんなお仕事でもきっとできますわ。でも、お仕事のことは、いまお考えにならなくてよろしいでしょう。病院をお出になっても当分の間、何もしないでも食べて行かれるんですから」
香村つかさは言った。そして、まだ言い足りないとでも思ったのか、
「ほんとに何でもおできになると思います。これはわたくし一人の考えではありません。お店のお客さまの一人と、そんなことお話したことがありました。山代さんはどんな仕事を手がけても、全身でその中にはいって行くから、何でも成功なさると、その方は言っておりました」
山代大五は黙っていた。悪い気持はしなかった。つかさが自分を元気づけるために言ってくれていることは判っていたが、それでも山代は身内に力の漲って来るのが感じられた。勇気のようなものを感じた。自分は新しく生きて行くために、やがて何かを始めるだろう。そしてそれを自分はやって行くことができるだろう。
「貴女のおっしゃるように、何でもやって行ける力が自分にあろうとは思いませんが、しかし、貴女の言葉は僕にとっては大きい励ましになりました。いままでいずれ退院しなければならないとは思っていましたが、やはり臆病になっていたと思いますね。自信がないと言うのか、退院してからのことが何となく不安で――」
山代は素直に、自分の気持をありのまま口から出した。
「が、もう大丈夫です。退院してから半年程ゆっくり静養して、その間に、これから自分がやって行くことを決めようと思います。何をやるか、いまは全然判りません。が、何かやれるでしょう」
「そう、何も周章てる必要はありませんわ。半年でも一年でも静養なさって、その上でお決めになればいいんですもの」
香村つかさは言って、
「あら、雨がやみましたわ。わたくし、もうお暇《いとま》しなくては」
「いいでしょう」
「よくはありませんわ。わたくしはわたくしで、これでなかなか忙しいんですのよ。あしたお見合がありますの」
そう言って、つかさは笑った。
「見合!?」
山代はふいに短刀でも突き付けられたような衝撃を心に感じた。
「見合って、結婚なさるつもりなんですか」
「どっち道、結婚はしなければなりませんが、でも、こんどのお見合は、本当の意味のお見合なんです。それにわたくし、少しも気が進まないんです」
「気が進まなければ、やめたらいいじゃないですか」
少しぶっきら棒な口調で山代はそんなことを言った。
「でも、伯母が中に立っていまして、何となく会うだけは会わないと具合の悪いことになりましたの」
「ほう」
「ですから、無駄なこと判ってますけど、お見合だけはいたします」
「そりゃあ、結構です」
山代大五は自分の口の中が乾いているのを感じた。香村つかさが見合するというだけのことで、山代は自分がふいに相手からぽんと邪慳《じやけん》に投げ出されでもしたような孤独な気持になった。考えてみれば、香村つかさが見合をしても何も不思議なことではなかった。しかし、山代大五はそのことからかなり烈しい打撃を受けている自分を感じた。自分はやはり一人で生きて行かなければならぬのだ。一人で生きて行かねばならぬと考えた時、山代大五は絶望的な思いに鎖《とざ》された。
山代は、自分を何かと面倒みてくれる若い女性対して、好きだとか嫌いだとかいうそんな特殊な感情は持っていなかった。少くとも持っているべき筈はないと、自分で思っていた。
それでいて、香村つかさが見合をするということを耳にしただけで、山代は自分の気持が一瞬にして絶望的なものに変じたことを知らないわけには行かなかった。
山代は、香村つかさを自分から拉し去って行かないとも限らぬ未知の男性に対して、烈しい憎しみを抱いている自分を感じた。
「結婚しないのなら、見合なんてしない方がいいですよ。意味がないじゃないですか」
山代は努めて平静を装って言った。
「そうなんです」
一度は肯定してから、
「でも、そうばかりはまいりませんのよ。いろいろうるさいんです」
「うるさいって!?」
すると、香村つかさは、
「わたくしの見合のことなんかご心配なさらなくていいんです。山代さんには、もっとご自分のことで心配なさらなければならぬ大切なことが沢山あるんですから」
つかさは言った。しかし、山代にしてみると、いまの場合、いかなることより、香村つかさの見合の問題の方が重大事件に思われた。これから自分が生きて行く一番大きい支柱が取り上げられようとしている。むざむざ取り上げられていいものであろうか。
「では、また二、三日中にお伺いいたします」
つかさは立ち上がった。
「帰りますか」
「ええ」
「じゃ、どうぞ」
山代大五は少し切り口上で言った。
「変ですわ、山代さんたら」
「変なことはありませんよ」
それから香村つかさは山代のところへ身を近付けてくると、
「山代さんがちゃんと立派に生きて行けるようになるまでは、わたくし、山代さんのお世話いたしますわ。お見合すると言ったので、急にわたくしが居なくなるとでもお思いになりましたのね」
そう子供にでも言いきかせるように言って、笑った。
つかさが部屋を出て行ってから、暫くの間、山代の頭からはつかさの見合のことが離れなかった。山代が自分の感じ方の異常さに気が付いたのは何時間か経ってからのことだった。
翌日、山代は自分が近く退院したい希望を持っているということを、高崎まで申し出た。高崎は、
「承知しました。佐沼先生にお伝えしましょう」
そう言ってから、
「もう退院してもいいでしょう。病院ではもう特に貴方にして上げる何ものもありません。貴方は貴方で自分の生きる道を考えなければなりませんものね」
と言った。
「ずいぶんお世話になりましたが、これ以上厄介になっていてもきりがありませんし、だんだん世の中に出て行く自信がなくなる」
「それはそうでしょう。思い切って出た方がいいかも知れない。恐らく佐沼先生にも異存はないと思います。ただ退院してからも時折連絡はとらせて戴かないと」
「そのことは承知しています。一生研究の対象にして下さって結構です」
「研究の対象というと強くなりますが、ここ一、二年は貴方とお付き合いしていたいんです。私の考えでは、いま失われている過去の一部は必ず回復すると思うんです。部分的に回復して行くか、一度に全部の記憶を取り戻すか、それは判りませんが、まあそう遠くない将来のことだろうと思いますね」
高崎は言った。
「それにしても、退院してから何をなさるんですか」
「勿論、まだ何の当てもありません。僕の方でも、高崎先生や佐沼先生には、退院後もいろいろ相談に乗って戴かないと、やって行けないと思います」
「交換条件ですね」
「そういうことになります」
山代大五は笑った。
高崎と話してから、二時間程して佐沼が病室へやって来た。
「高崎君から聞きましたよ。退院する気になったら、退院するのもいいでしょう。退院後のことは、香村さんとよく相談するといいと思います。勿論、僕や高崎君も何でも相談に乗りますが、あの人と相談してやって行ったら間違いないと思います。貴方の過去も現在も知っている唯一の人ですからね」
佐沼は言った。香村つかさの名が出たので、山代はつかさの見合のことを思い出し、今頃はどこかで彼女は一人の若い男性と会っている頃だろうと思った。
「退院の日時も、香村さんと相談の上決めて下さい。それまでに落着き先きを決めねばならない。香村さんが、もうどこか目星をつけているようでしたが」
そんなことを佐沼は言った。
午 下 が り
山代はすぐに退院しようと思ったし、佐沼もそうして差支えないという気になっていたが、山代の微熱が完全にとれないということのために、結局二カ月ほど入院生活を延さなければならなかった。そして微熱もすっかりとれ、退院が本格的に決まった時は、暑い盛りの八月の半ばになっていた。
退院前の数日間を、山代大五は落着きなく過した。何もかも香村つかさに任せてあったので、山代自身格別忙しいわけはなかったが、それでも何となく気持は落着かなかった。退院してからの落着き先きは、新しく多摩川の近くにできたアパートを選び、そこの一室を借り受けた。つかさが見付けて来て、高崎が一応下検分し、ここでよかろうということになったのである。本来なら自分が住むところなので、山代自身が出掛けて行って決めるべきであったが、山代はその決定をつかさと高崎に任せた。もし自分が出掛けて行ったら、あらゆるものが不安に見えて来て、決まるべきものも決まらないのではないかと思った。そんな自信のなさが、退院前の山代を支配していた。
明日退院するという日に、佐沼がやって来て、一冊のノートを山代に渡し、
「これに何か書き込むべきことがあったら、書き込んでおいて下さい。それから間違ったところがあったら訂正しておいて下さい」
と言った。山代はノートを開いてみた。
――大正十四年三月三日高松に生る。父は農林省官吏。両親の許を離れ、祖母の手で静岡県田方郡T村二十六番地(原籍地)に育つ。T村小学校に入学、十二歳の時母を喪《うしな》う。N村中学、静岡高校を経て、京都大学経済学部を卒業、京都大学二年の時、父を喪う。父の歿後一年にして、郷里の家を売る。以後郷里にも帰らず、親戚との関係も自然に疎遠になる。
――昭和二十五年に京都大学卒業、知人の紹介で大阪の第三日報社に入社、六年目に社会部副部長、八年目(昭和三十二年一月)に社会部長となる。
以上のようなことが二頁にわたって書き込まれてある。山代が次の頁を開けようとすると、佐沼は、
「それからあとは、貴方がここに入院して来てから私たちが知り得たことを、一応整理して書いてあります。いますぐ読まなくても今夜までに眼を通しておいて下されば結構です」
と言った。
「承知しました」
山代はいったんノートを閉じたが、佐沼乙也が病室を出て行くと、すぐまたノートを開いた。書き込んである文字は高崎のものであった。
――昭和三十三年一月十六日、社の友人赤堀大亀氏と洒を飲み、酩酊《めいてい》して他の客の靴を履く。この日までのことはすべて記憶あり。この翌日、つまり三十三年一月十七日より以降、三十六年三月当病院に入院、意識を回復するまで約三年間、一切記憶を喪失す。
記述は一行あいて、更に続けられている。一行あけられてあるのは、以下は記憶を喪っている期間中のことだということを意味しているのであろう。
――三十三年一月十八日午後四時、社の編集局に於て社長を殴打す。夜、同僚深井、木原、夏乃三氏と心斎橋の料亭にて飲酒、十一時帰宅。
――十九日、二十日、二十一日、平常通り出勤。二十一日の夜は同僚赤堀大亀氏と社の近くの料亭で飲酒、その夜赤堀氏のアパートに泊る。
――二十三日、二十五日、二十七日と一日おきに午後ちょっと社に顔を見せる。二十八日以後は出社せず。
――二月十五日、つばめで東上。
――四月中旬、一人の女性と連れ立って、有楽町のビルに、画廊の部屋の下見に来る。
――五月一日、画廊の部屋を借りる。権利金、部屋代二カ月分、合計百七十万円を納める。
――五月十五日、画廊開き、十人程の人集ってビールを飲む。
――翌三十四年五月、ヨーロッパ巨匠展を開く。最初の展観なり。この月初めて滞っていた部屋代を納める。
――三十四年中に五回小画展を開く。(鉄斎の小品画展、ヨーロッパの有名画家のデッサン展を二回、河野辺太一展、杉村栄喜展等)。河野辺太一展開催中に印刷代を請求に来た印刷屋の主人と喧嘩して、追い返す。
――十一月中旬、ガス中毒。火事騒ぎ起す。
――歳末、使用人に金の持ち逃げさる。
――三十五年一月某日、男の事務員を解雇、香村つかさ氏を雇入れる。
――三十六年二月末日、深夜、江戸川公園の崖より転落。
――三月一日、意識不明のまま救急車にて病院にかつぎ込まれる。
――三月四日、外科より神経科病棟に転科。
――三十六年三月九日、意識を回復す。
ここでまた一行あいて、記述は続けられている。これから先きの部分は、意識を回復してからの出来事だという意味であろう。
――四月一日、七浦敏子氏(三十歳ぐらい、和装)見舞に来る。当人全く相手について思い出すところなし。
――四月二日、イソミタールを注射すると、曾て多摩川縁りを散歩した時のことを、前後の脈絡なく口走る。――私は多摩川が好きです。私はこの間あの川の川縁りを歩いた。寒かった。川風が冷たかった。土堤が長く続いていた。どこまで歩いて行っても、土堤はつきなかった。磧の石が白かった。なぜあんなに石が白かったのか。――私たちは昼食を食べるところを探した。雨が落ちて来たので、一緒に駆けた。――応接室の窓から見ると竹がきれいだった。――十二時まで歩いた。真暗だった。川の音だけが聞えていた。畜生め!(他に別荘∞――子≠ネどという言葉を口走る)
――五月七日、初めて病院より外出。多摩川へ行くが、多摩川について記憶するところなし。ゴルフのクラブ振る。明らかにゴルフをやった経験が認められるも、当人は全く記憶するところなし。
――五月八日、多摩川行きの翌日、上野の美術館に行き、そこで平松商事社長、平松左吉郎氏に話しかけられる。当人相手についての記憶を全く失っている。
――五月十三日、香村つかさ氏の訪問を受ける。当人、相手について知るところなし。
――五月十四日、有楽町の喫茶店において、硝子《ガラス》越しに何人《なんぴと》かの姿を見て、往来へ飛び出す。しかし、瞬時にして、いま追わんとした人を忘れてしまう。
――五月二十七日、三十五年夏に若い画家と事務所で対談せし数分間のことを思い出す。
それからまた、ここで一行あいて、佐沼記≠ニいうことわり書きのしてある数行の文章が記されてある。
――三十四年二月十五日。羽田発大阪行きの日航機の中で、山代大五氏と覚しき人物に会う。その時氏は若き三十歳ぐらいの女性を同行す。但し、このことは正確ならず。佐沼の記憶違いかも判らぬ。
一応記述はこれで終っている。
記述の簡単なのは、佐沼や高崎の心覚えなのであろう。カルテには、もっと詳細に山代の病状や、その回復状態が記され、以上の記述要項についても精神病理学上の説明や解釈が附せられてあるに違いない。
山代は、多少憮然とした思いで、これが俺の履歴の全部なのかと思った。記憶を失っている三年間については、事実これ以上のことは判っていないのである。これは佐沼と高崎と香村つかさが、自分の持札の全部を出し合って、その上で綴ったものであろう。
もし、これになお附け加えるものがあるとすれば、自分が若い画家と事務所で対談した時、相手から偽作を買おうとしていたこと、それからその偽作を三千万円で誰かに売り付けようと考えていたこと、この二つの事実だけである。しかし、これはあくまで自分の心の内側の問題であり、それが実行に移されたか、どうかは判らない。香村つかさの話によると、その頃その問題の絵を持ち廻っていた相手先きは、中根美術館、造船会社の社長の奥津順三、美術家のパトロンとして知られている富本春道、それから映画女優の三城博子などである。しかし、偽作問題は、いままでそうであったような、やはり自分一人の問題として心の内部にしまっておこうと思った。
山代は、その夜、病室を見廻って来た高崎に、
「佐沼先生からお預りしましたが、別に何も書き加えるべきものはありません」
と言って、そのノートを手渡した。
高崎はノートを受け取ると、それをばらばらと機械的にめくりながら、
「いよいよこの病院も今夜だけですね。お名残り惜しいですね」
と言った。こう言われると、山代としても感慨深いものがあった。昏睡《こんすい》状態のままこの病院にかつぎ込まれてから今日まで、この少し融通の利かないくらい真面目な若い医局員には、ずいぶん世話になったものだと思った。
「佐沼先生も、今夜ちょっと見えると思います。昼間、そんなことをおっしゃっておりました」
高崎は言った。高崎が部屋を出て行ってから、三十分ほどして、佐沼がやって来た。
「さっき高崎先生の方にノートをお返ししておきました」
山代が言うと、
「あ、そうですか」
佐沼は言ってから、
「何か別に書き込むことはありませんでしたか」
と訊いた。
「何もありません」
「最後に、僕が書いておいたことについては、何の記憶もないでしょうね」
「ありません。飛行機というものに乗った記憶は持っておりません」
「しかし、僕が見た人物というのは多分貴方だったと思うんです」
佐沼は笑いながら言った。
「そうでしょうか」
「恐らくそうですね。僕はこうしたことではめったに間違わないんです。それはそうと、大変ぶしつけな質問で恐縮しますが、貴方の男女関係について、一応知っておきたいんですが。もちろん極く大体のことで結構なんです。貴方は結婚しておられない。普通ならもう子供の二人か三人あっても一向におかしくない年配だと思うんです」
「結婚しないことについては、別に理由はないと思います」
山代大五は他人事のような言い方で言った。
「何となく、この年まで独身でやって来たと思うんです。少くとも大阪の新聞社時代まではそうでした。東京へ来てからいかなる生活を持ったか知りませんが、恐らく大阪時代の延長だったと思います。誰か強引に結婚を勧め、その世話をしてくれる人があったら、いつでも結婚したんじゃないですかね」
「なるほど」
佐沼は笑いながら、
「こんどは、その役を私が引き受けましょうか」
そう言ってから、
「恋愛問題はありましたか」
と、真顔で訊いた。
「結婚という問題とは別に、恋愛したことはあるでしょう」
佐沼は重ねて訊いた。
「恋愛と言えるかどうか甚だ怪しいですが、多少のひっかかりを持った女性は二、三人あります。初めから結婚ということは考えていませんでしたから、恋愛とも言えないと思います。まあ、浮気と言うか、遊びと言うか」
山代が言うと、
「そういった浮気や遊びとは別に、本当に気持の上で惹《ひ》かれ、結婚できるなら結婚してもいいと考えたような、そんな相手はありませんでしたか。つまり、本当の意味での恋愛ですね」
佐沼は言った。切り込んで来たといった感じだった。山代は急には返事しなかった。そしてちょっと間を置いてから、
「あります」
と言った。
「そりゃあ、あるでしょう。ないと言ったら嘘になりますよ。誰だって、若い時にそうした経験を持ちますからね。いまでも、その相手の人物のことを思い出すことがありますか」
「どうもね」
山代が照れて笑うと、
「正直におっしゃって下さい。この年齢になって初恋の話でもあるまいとお思いかも知れませんが、医者としては、一応お訊きしておきたいことです」
「あります」
「ほう。――どういう相手か、そういうことは伺う必要ありませんが、一種の失恋事件と見做していいですか」
「いいと思います」
「すると、その打撃は相当強いものでしたか」
「――そうだと思います」
「強かったんですね」
佐沼は念を押すように訊いた。
「まあ、強いと言っていいでしょう」
「いまでも尾をひいていますか」
「多少は」
「どういう時に、どんな形で現われます」
「結婚の話が出た時、幾らか邪魔になっているかも知れません」
「なるほど」
そう言ってから、
「そりゃ、大変だ」
佐沼は少し大袈裟《おおげさ》な表情をしてみせた。山代は佐沼の誘導訊問に引っかかって、みごとに心の一番奥底に仕舞ってあった女性のことを引き出されてしまったと思った。
「そうすると、今日まで結婚していないことは、その失恋事件のためだということになりますね」
佐沼はまたこうした質問をする時にふさわしい抑揚のない口調になって言った。
「そう言うと、少し言い過ぎになります」
山代大五は訂正した。
「多少、気持の上でひっかかりになっているかも知れませんが、結婚していないのは、そのためだと言うと間違いになります。僕はいい相手があって、その気になったら、いつでも結婚しますよ。ただ、その気になるか、ならないかが問題ですが」
そう言ってから、山代は少しまずかったかなと思った。すると、果して、佐沼は顔を上げて、
「それごらんなさい。その気になるかならないかが問題だと、いま言いましたね。過去の失恋事件のために、なかなか結婚する気になれないんじゃないですか。そうなると、やはり失恋事件が貴方を支配していることになる」
「支配なんて……」
山代は、この時自分の顔が、思わず烈しく歪むのを感じた。あんな女に支配されて堪るか! 相手は自分のことなど全く念頭になく、さっさと他の男性と結婚してしまった女なのだ。当分は決してそんな女のために支配なんてされはしないだろう。ただ、ほんの僅か、結婚の話がでる時、その女のことを思い出すだけなのだ。ただ、それだけのことに過ぎない。
「その相手の女性に最近会いましたか」
「いいえ、会いません」
「会っていない! なるほど」
佐沼は言ってから、ふいに気が付いたように、
「最近会っているかという質問は愚問でしたね。貴方はここ三年間の記憶を失っている」
そう言った。
「いや、会っていません。会うものですか」
山代は反射的に強く言った。言ってから、なるほど佐沼の言ったように、自分は三年間の記憶を失っているのだ。厳密に言えば、相手に会っているかどうかは、全く自分の知らないことなのである。会っていないと力を籠めて断定的に言い切ったのは、単なる臆測に過ぎない。そして、その臆測の中に、幾らか自分の自分に対する希望がはいっているのである。
本当に、自分は相手の女性に会っていないだろうか。山代はふいに、大きな不安が自分を包んで来るのを感じた。
山代は自分の前に佐沼乙也が居ることも忘れて、いま自分を襲って来た不安の中に立っていた。果して、自分はこの三年間に、あの女性の前に立ったことはなかったであろうか。自分は東京というところは嫌いだった。できるなら、終生東京の土は踏みたくないと考えていた。相手の女性が結婚後東京で生活を営んでいたからである。
それなのに、一体自分は新聞社を罷めてから、どうして東京へ出て来たのであろうか。大阪で幾らでも職を得られた筈である。自分が新聞社を罷めたら、いつでもやって来いと言ってくれていた実業家は、いま思い出しても、一人や二人ではない。
それなのに、自分はどうして東京へやって来たのか。東京へやって来ることを決心した気持の底には、もしかしたらあの女性に再び会えるかも知れないという考えがひそんでいたのではないか。ばか者め!
山代は依然として不安の中に立っていた。自分は会ったかも知れない。東京へ来てしまった以上、もう会っても会わなくても同じことなのだ。同じことなら、会ったっていいだろう。思い切って会った方がさっぱりするかも知れない。自分はそんな考え方をしそうである。何事についても、常に自分はそのような考え方をして来たのである。
山代は顔を上げた。一瞬前までの彼の顔とは異っていた。
「いいえ、会っていません。絶対に会わないと思うんです」
山代大五は生真面目な顔で再び言った。
「そう貴方が思うんなら恐らく会ってないでしょう」
佐沼は静かな口調で言った。山代大五がむきになったので、そうした山代の気持を押し鎮《しず》めるかのような静かな言い方だった。そして、
「ともかく、これだけのことを伺っておけば、それでいいんです。記憶喪失の原因はいろいろあります。貴方の場合は頭を打ったことが原因になっていますが、しかし、これは一応そうだろうというだけの話です。非常に辛いことがあって、それを忘れたいとか、そこから脱け出したいとか、いつもそんなことばかり考えていると、それが原因になって、その辛い過去をすっぽりと忘れてしまう場合もあります。自分の願望通り、その辛い過去が失くなってしまうんです。そういうわけで、医師として、貴方の私的事件にまで立ち入ってしまったわけです。甚だ失礼な質問をしましたが、悪く思わないで下さい」
佐沼が言った。
佐沼が帰って行くと、山代大五はベッドに仰向けに横たわった。そして電燈を消した病室の中で、眼だけを大きく見開いていた。むし暑い夜で、窓の硝子戸は半分開けられてあったが、風は全くなく、徒らに街の騒音だけがはいって来る結果になっていた。寝衣《ねまき》の下で、肌はひどく汗ばんでいる。
山代は今夜が病院の最後の夜だと思うと、なかなか寝付かれなかった。それにさっき佐沼が残して行った問題は彼の心の中でまだ解決していなかった。しかし、幾ら考えても、それは解決できる問題ではなかった。三年間の失われた過去の中に、どんよりした無気味な大きな沼の中に、その問題もまた呑み込まれていた。
山代は何回上京しようかと考えたことだろうと思った。さっき佐沼が居る時、彼の頭の中に蘇って来なかった幾つかの事実が、いまは新しく思い出されて来た。そうだ、自分はあの女性に会いたいだけの気持で、東京行きの特急の乗車券を購入したことさえある。あれは、いつのことだったろう。その時は結局は乗車券を破って棄ててしまったが、それ程自分は上京したい気持と闘っていたのだ。
自分はまた彼女に手紙を認めたことがある。勿論、愛情の手紙ではない。向うはこちらの気持を何も知らないのだから、愛の手紙などは書けよう筈はない。ある人の住所をもし彼女が知っていたら教えてくれないかといった問合せの手紙を書いたのだ。そんな手紙でも、自分はそれが彼女宛てのものだというだけのことで書きたかった。勿論、その手紙も投函しないで破って棄ててしまう結果になったが、しかし、それほど自分はあの女に惹かれていたのだ。その自分がとうとう上京してしまって、彼女がその一劃で生活している同じ東京に、三年間の生活を持ってしまったのだ。
山代はその三年間に相手の女性に会わなかった自分というものを考えることはできなかった。自分は会ったかも知れない。もし会ったとしたら、どういうことになるか。もし会ったとしたら、もし会ったとしたら、もし会ったとしたら、――山代大五はハンカチで胸部に吹き出している汗を拭った。
もし会ったとしたら、その場合は、自分は是が非でも相手を自分のものとする手段を講じただろう。自分のものとしたら、どういうことになるか。それは世の中で最も自分を信じてくれている一人の人物を――彼女の夫を裏切ることである。自分がこの世で一番醜悪な人物に、許すべからざる人非人に、けだものになることである。山代は自分がけだものになりでもしたように、口の中で、ああ厭だと低く言った。
山代は寝返りを打った。自分がいま抱いている苦しさを向うへ押し遣るためであった。
ほかのことを考えよう。自分は最後の病院の夜を、もっとほかのことを考えて過さねばならぬ。すると、こんどはふいに一人の若い画家の顔が眼に浮かんで来た。ああ、自分はあの若い画家から買ったセザンヌの絵をどうしたのだろう。自分は三千万円の金が欲しかったので、それをあの絵で作るつもりだったのだ。少くとも、あの時はそう考えていたのである。
一度決心したことは、必ず自分は実行に移して来たのだ。自分はあの絵を誰かに売ったのだ。そして三千万円の金を手に入れたに違いない。自分は詐欺師なのだ。いつでも警察署に連行され、取り調べを受け、留置場に投げ込まれるだけの資格を持っているのである。
山代は再び寝返りを打ち、それからすぐベッドの上に半身を起した。女からも、画家からも逃れたかった。山代はベッドから降りると、開け放してある窓際に立ち、夜気を吸いながら、明日自分が出て行く外の世界の夜空を眺めた。そこからはネオンサインは見えなかったが、それによって薄赤くただれた夜空の一部が見えていた。
山代は暫く窓際に立っていたが、やがて、一つの決心をすることによっていま自分が捉えられている不安から逃れようとした。明日退院したら、自分は先ず最初の仕事としてセザンヌの絵の行方を調べなければならぬ。そしてそれを自分の許に取り返さなければならぬ。それだけが詐欺漢である過去の自分を救う唯一つの道である。
自分はまた、女にも会わねばならぬ。会って彼女に与えたものを取り返さなければならぬ。あるいは彼女から貰ったものがあるとすれば、それを彼女に返さなければならぬ。二人は以前そうであったように、無関係な状態にならなければならぬ。自分は自分を知ってくれている者を裏切ってはならぬ。明日すぐにも別荘へ赴《おもむ》いて彼女に会わねばならぬ。
山代大五は、ここで、ふいに自分の思考の働きを停めた。いままで考えていたことが、突然氷結したように、そのままの姿で停まった。
――別荘、別荘とは何だ?
山代は思いがけず自分の脳裡に閃いた。別荘≠ネるものと、恰《あたか》も決闘でもするように睨み合って立っていた。
自分はいま別荘へ行って彼女に会おうと思った。確かにそう思った。何故別荘≠ヨ行こうと思ったのか。すると、その時、山代大五の脳裡に極めて自然に別荘≠ノおける彼女の姿が浮かんで来た。
――女は白い砂を敷き詰めた庭に面した部屋の縁側に腰を降ろしていた。白い砂を敷き詰めたように見えるが、あるいはそれは白い砂を人工的にばら撒いたのでなく、白っぽい庭の感じなのかも判らない。ともかく庭の砂は白っぽくぎらぎら光っており、その上に陽の光が散っている。春とも夏とも、秋とも冬とも判らない。何となく家の横手に百日紅《さるすべり》の木でもあって、赤い花でもつけていそうな感じである。あるいは本当に、百日紅の木があったかも知れない。そうすると、季節は夏ということになる。
広い庭に面している縁側はかなり長い。十畳か、あるいはもっと大きい部屋が二部屋ぐらい並んでいて、それらの部屋の庭に面した側を縁が廻っているのである。家は平家建てで、造りも古風であるし、実際に建ててから相当の年月が経っている。
そうした縁側の丁度まん中辺のところに、女は黒っぽい感じの着物を着て腰を降ろしている。所在ないままに、縁側に出て、何となくそこに腰を降ろし、庭に眼を当てて、時間を消しているといったその場の感じなのだ。
時刻は午下がりに違いない。朝でも、夕方でもない。午下がり特有のけだるい感じが、この情景の全体に漂っている。
――これが山代大五の脳裡に極く自然に浮かび上がって来た一枚の絵である。いつどこで、彼が眼にしたものか判らないが、ともかく、曾て一度山代大五の網膜に映ったことのある情景である。
山代はふと、別荘へ行って彼女に会おうと思ったが、そう思った思念の背後には、このあとも先きもない一枚の絵が横たわっていたのである。別荘へ行って会う≠ニいうその別荘≠ニいう考えの欠片が飛び出したのは、こうした情景を彼が曾て眼にしていたからで、そして彼女が居たその場所を別荘≠ニして理解していたからであろう。
山代大五はいま自分が思い出した一つの情景を、いついかなる時、自分が得たか知らなかった。失われた三年間の過去の一部が、ふいにそこだけ思い出されて来たのかも知れなかったし、あるいはいつか彼が見た夢の中の一部分かも知れなかった。
この前、画廊の中で若い画家と対談していた短い時間の記憶を回復したが、そこにははっきりと、それが失われた過去の一部だと断定できるものがあった。しかし、この別荘の午下がりの情景には、それが失われた過去の一部だと判断する|きめて《ヽヽヽ》はなかった。そこに居るのは女だけで、彼自身はいなかった。彼自身の心のいかなる動きもそこにはなかった。
山代は午下がりの別荘≠ノついて、もし何かを思い出せるものなら思い出したいと思った。しかし、そうは思うものの、いま彼が持っている一枚の絵については、何も思い当るものはなかった。思い出そうにも思い出すきっかけになるものがなかった。
なるほど白っぽい庭の感じと言い、家の内部の閑散な感じと言い、さしずめ別荘とでも言うほかなさそうである。海岸にでもよくある富豪の別荘の感じである。平生は留守番の老夫婦が住んでいて、夏だけ家の者が一人か二人やって来るといった、そんな別荘を避暑地に見掛けるが、そのようなひっそりとした家のたたずまいである。
大体、山代はこれまで別荘といったものには縁がなかった。友達にも、別荘を持っているような気の利いたのは一人もなかったし、山代自身別荘と名の付くような家へ足を踏み入れたことはなかった。そしてそのようなところに女が居るのも不思議だった。山代は何回か女と会っているが、しかし、二人だけの時は一度もなかった。いつも誰かが、それも一人や二人でなく大勢の人間が同席していた。
山代はべッドヘ腰掛けたまま、長い間午下がりの別荘について、あれこれ思いを廻らせていた。それにしても、ひどく鮮やかな印象である。つい二、三日前、そこへ自分が訪ねてでも行ったかのように、その図柄は鮮明であった。
黒っぽい着物をきちんと着て、縁側に腰掛けている女は、山代が心惹かれたものの総てを具《そな》えていた。庭の白い砂の反射のせいか、着物の黒い色はくっきりと浮き出し、それに包まれた女の体は、その繊弱《ひよわ》さを消して寧ろ凛々《りり》しく見えていた。山代には、曾て彼が見たいかなる場合の彼女よりも、いま彼が持っている一枚の絵の中の彼女の方が美しく思われた。
病室の扉が開いて、若い看護婦の笠松みえ子が顔を覗かせた。彼女は電燈の消えている室内を透かして見るようにしてから、
「あら、まだ起きていらっしゃるんですか」
と言った。
「すぐ寝ます」
山代は言ったが、
「いま、ちょっとしたことを、思い出したような気がしましてね」
と、付け加えた。
「何か思い出したんですか」
反射的に笠松みえ子は訊いた。
若い看護婦は山代の返事を待たずすぐ顔を引込めたが、何程も経たないうちに、高崎がやって来た。彼は病室へはいって来ると、
「まだ起きていたんですってね」
と言った。
「先生、当直なんですか」
山代が訊くと、
「貴方がこの病棟へ廻って来た夜も当直でしたが、貴方のこの病院の最後の夜も当直です。多少縁がありますね」
そんなことを言ってから、
「何か思い出したんですか」
と、彼はこれ以上待てないといった調子で、自分がここへやって来た用件に取りかかった。
「いま、笠松君の注進がありましてね」
「思い出したのか、夢でも見たのか、そこのところはよく判らないんです。思い出したとしても、いま思い出したのか、もうとうに思い出していて、それにいま気付いたのか、どうもはっきりしないんです。ともかく退院したら、すぐある人物を別荘に訪ねて行こうと、そんなことを考えたんです。考えた直後、別荘へ訪ねて行こうと思ったその別荘というのに、はっとしました。その人物が別荘を持っていることなんか知りませんし、大体その人物が東京でいかなる生活をしているかも知らないんです。それなのに、別荘へ訪ねて行こうと思った」
「なるほど」
高崎の緊張していることは、その短い相槌の打ち方からも判った。
「すると、殆ど同時に、別荘風の家の縁側に居るその人物の姿が眼に浮かんで来たんです。確かに別荘だと思うんです、そこは」
「想像ですか」
「いや、想像じゃありません。確かに自分は過去において、そうした情景を眼にしたことがあるという感じです。しかし、ただそれだけのことですから、それが失われた記憶の一部なのか、あるいはいつかそんな夢でも見て、それがふいに思い出されて来たのか――」
「なるほど」
「いずれにしても、極く自然に別荘へ訪ねて行こうと思った、その別荘という場所の限定が行われたのは無意識のうちに、そうした別荘風の家のことを、私が頭の中に仕舞っていたからではないかと思うんです」
「なるほど」
そう言ってから、高崎は、
「いや、有難う。大変、貴重な資料だと思うんです。恐らく、それは失われた記憶の一部に違いありませんね」
と言った。
「よし、じゃ、いまお話になったことを、もう一度詳しく話して下さい。別荘に会いに行こうと思った人物というのが、いかなる人物だとか、その別荘というのが、どんな別荘だったかとか」
そう高崎が言ったので、山代はできるだけ詳細に今夜自分が経験したことについて語った。自分の眼に浮かんだ別荘の情景についても説明した。ただ自分と女との関係だけは漠然としたものにしておいた。
山代の話を聞き終ると、高崎は、
「その会いに行こうと思った女の人というのは、今日佐沼先生にお話になった恋愛問題に関係ある人ですか」
と訊いた。ずばりと言い当てられた感じで、山代はぎくりとして、
「ええ、まあ」
と、思わず肯定してしまった恰好になった。
「いや、大体判りました」
何が判ったのか、高崎はそんな言い方をしてから、
「いつかイソミタールを注射したことがありましたね。その時、貴方は別荘という言葉と女の人らしい名前とを口走っていますよ」
と言った。
「貴方は多摩川について磧の石が白いとか、寒かったとか、そんなことを口走ってから、私たちという複数の言葉を使って、昼食を食べるところを探したとか、雨の中を駆けたとか言いました。そして、そうした行動と関係あるのかないのか判りませんが、突然、応接室の窓から見ると竹がきれいだったと言ったんです。佐沼先生が、どこの応接室かと訊くと、そりゃ、別荘です、と答えています。そして、それから、――十二時まで歩いた。真暗だった、川の音が聞こえていた。畜生め。たしかこうでした。これだけ言って喋らなくなった」
高崎が言葉を切ると、
「その時のことは、ノートで読みましたが、別荘なんて言ったんですかね」
山代大五は、自分が別荘という言葉を口走ったということに改めて考えこまされた。
「だから、その別荘が、いまの女の人の居た別荘と同じかどうか判りませんが、ともかく、別荘というものは貴方の頭の中で、かなり重い意味を持っていると思うんです。貴方が今日ふいに思い出した別荘というのは、やはり東京へ来てからの三年間の生活の中にあるものじゃないですか」
「さあ」
「恐らく夢で見たことを思い出したというようなことではなく、記憶の回復ですね。これからも島のように部分的に記憶を回復して行くと思うんです」
高崎は断定的に言ったが、この時、山代は少し別のことを無気味な思いで考えていた。本当に自分は別荘にあの女を訪ねて行ったのであろうか。
退 院
翌日、山代大五はいつもより早くベッドを離れた。長い病院生活が今日で打ち切られ、自分にとって第二の人生とでもいうべき新しい生活がいよいよ始まると思うと、さすがに感慨深いものがあった。
「最後の検温です」
この日病室へ最初にはいって来た若い看護婦はそんなことを言って、体温計を差し出して寄越した。
山代は窓際の椅子に腰を降ろしたまま、いつもより少し神妙な表情で、体温計を腋《わき》の下に挾んだ。
朝食を運んで来た別の看護婦も、
「今日はいよいよ退院ですね」
と、笑顔を見せて言った。
「有難う。ずいぶんご厄介になりました」
山代大五も心から礼を言った。実際長い間厄介になったものである。
「ご全快で、ほんとによかったですね」
「お蔭で――」
山代は言ったが、全快と言われると、多少心にひっかかるものがあった。全快とも言えたし、全快でないとも言えた。三年間の過去を失くした男が今日退院して行くのである。
朝食の箸を置くと、間もなく香村つかさが、いつもより慌《あわただ》しい感じで入ってきた。
「遅くなっちゃいまして」
つかさはそう言ってから、気付いたように、
「おめでとうございました。ご退院で」
と、ちょっと改まって頭を下げた。
「有難う。すっかりお世話になりました。しかし、これからもっとお世話になることになるかも知れません」
山代が言うと、
「結構です。どうぞ、幾らでも」
つかさは言った。汗をかいているのか、つかさは絶えずハンカチで軽く顔を叩きながら、しきりに退院する今日という日が雨でなくてよかったというようなことを言った。そんな言い方には、引越しのことでも話しているようなおかしさがあった。
雨というつかさの言葉で、山代は窓から戸外を覗いた。快晴とは言えなかったが、なるほど雨の落ちる心配はなかった。
「雨も降らず、かと言って、かんかん照りの日でもなく、ほんとによかったですわ」
よかったと言われると、よかったと思うものの、山代は退院の日の天候に、それほど関心を持っていない自分を感じていた。
退院時刻の十時までに、佐沼も高崎も一一九号室へ顔を見せた。山代は病室へはいって来る人たちそれぞれに礼を述べたり、挨拶をしたりして忙しかった。
九時に、山代はつかさに手伝って貰って、久しぶりで開襟《かいきん》シャツを着、水色の夏ズボンを穿《は》いた。開襟シャツの方はつかさが百貨店で求めて来たものであったが、ズボンの方は山代が穿いていたもので、アパートの洋服|箪笥《だんす》からつかさが持ち出して来たものであった。山代大五は勿論このズボンには記憶はなかった。全く記憶のない自分のズボンに足を通すのは、何となく無気味であった。そのことを、山代大五が口に出して言うと、
「わたくしも、実は、そのことに気付かないわけではなかったんです。着る物も、持ち物も、一切新しいものにした方がいいのではないかとも考えたんです。でも、却って、そうしたことは避けないで、神経を太くなさって、ぶつかって行くべきではないか、そう考え直したんです。ズボンどころではない、もっといろいろな大変なことに、これからぶつかると思いますわ。神経を細くしていたらやって行けません」
つかさは言った。その通りだった。
山代は、つかさが二つのスーツ・ケースに、入院時に身に着けていたものや、入院中に買ったものを、次々に詰め込んで行くのを見ていた。スーツ・ケースも二つともアパートにあったもので、そのいずれにも、D・Yと山代の名前の頭文字が打たれてあった。
十時に、くるまが来たので、山代は医局員や看護婦たちに送られて、病室を出た。山代は自分が宇宙にでも旅立って行く旅行者のような気がした。何もかも不安定で、足が地面についていない感じだった。
山代が先きにくるまに乗り、続いて香村つかさが乗り込んだ。二個のスーツ・ケースは運転台の横に乗せられた。
「いずれ、明日にでも、アパートの方へお邪魔しますよ」
窓の向うで佐沼は言った。
くるまが走り出すと、山代はすぐ眼をつむった。宇宙旅行へ旅立って行くか、でなければ、どこかに連行されてでも行くような気持だった。
――これからどこへ行こうとしているのか。
香村つかさの手前、さすがに口からは出さなかったが、まさしくそういった気持であった。二月の末の霧の深い夜半、東京の街中にある崖を攀《よ》じ登り、そこから転落した男が、約半歳を経て、三年間の過去を失った人間として、再び都会の生活の中へ帰って行こうとしている。
「僕が落ちた崖というのはどの辺です」
山代大五は言った。
「たいして廻り道でなかったら、そこがどんなところか見ておきましょうか」
山代は言ったが、
「今日はやめて、日を改めていらしったらどうですか」
香村つかさは言った。それから、
「ずいぶん強気になってらっしゃいますのね」
多少皮肉ともとれる言い方をした。山代は強気になっているわけではなかった。寧ろその反対に弱気になっている自分を感じていたので、そんな自分に抵抗するような気持で、崖のことなどを口走ってしまったのであった。
「昂奮しているんでしょうか」
山代が苦笑すると、
「――と思いますわ。でも無理ないと思います。気持は大変でしょうから」
つかさは言った。こんどは皮肉なところは少しもなく、山代には、つかさが自分の心の内側にはいって話しているような、そうした優しさが感じられた。
くるまは都心部の繁華地区を走っていた。
「アパートがお気にいるといいですが、それだけが心配です」
「大丈夫ですよ。貴女が選んで下さったんだから」
「わたくしもいいと思いますし、佐沼先生もいいとおっしゃるんですから」
「佐沼先生も見て下さったんですか」
「きのうになって心配になりましたから、先生にお願いして見て戴きました」
佐沼までが、アパートの部屋を下見をしてくれたということは、山代がいま初めて知ることだった。山代自身が下見をしておけば一番問題ないことだったが、それは山代も何となく避けた方が無難だという気持だったし、佐沼や高崎の意見も同じだった。
山代は自分がこれから住む部屋を選択する能力が自分に欠けているとは思わなかったが、これでいいと最後の決定を下す気持があるかどうか不安だった。それより、おまえはここに住み、ここで新しい人生のスタートをきるのだと言われる方が楽な気持だった。
こうしたところが、山代の常人と違うところだと言えば言えるかも知れなかった。三年間の過去がないということは、最初の一歩を踏み出すそのスタート・ラインがないということであった。断崖の突端から足を踏み出さなければならない。うしろは大きくすっぽりと欠けているのである。
くるまは三軒茶屋から左に折れた。
「もう暫くすると、幾らか空気がおいしくなりますよ」
つかさは言った。
山代が今日から住むことになっているアパートは、徒歩で多摩川の岸まで十分程のところにあった。丘陵というか台地というか、世田谷方面から続いている小高い丘が急に断ち切られて多摩川との間に、川床とほぼ同じくらいの平地を横たえているが、アパートはその丘の裾が平地へ没しようとするところにあった。従って、アパートは丘の上にはなく、丘を背負っている恰好だが、それでも多摩川方面は一望のもとに見渡すことができた。
くるまの窓から、そのアパートの建物が見えて来た時、
「あそこですよ。気持のよさそうなところでしょう」
と、香村つかさは言った。
アパートは七階建てで、明るいクリーム色で塗られてあり、外から見たところでは高級アパートに属するものであった。
「明るそうですね」
山代が言うと、
「内部は新しいだけに、とても便利によく造られてあります。もし、これが都心部にあったら、ずいぶんお部屋代が高いと思いますわ」
「一体、どのくらいです」
「ご心配になる程の額じゃありません。都心部に通うのにバスで一時間近くかかりますから、そんなことで上等の割には、とても廉《やす》いんです」
くるまは間もなく竹藪のあるところでちょっと停まった。附近には人家はなかった。つかさの話では、このアパートができたためにここにバスの停留所が新しく設けられたということであった。それからくるまは再び動き出し、ゆるい坂を登ってアパートの前で停まった。
建物の中央にドーム型の口があいていて、そこが正面玄関口になっていた。つかさは右手の事務所を覗いて、若い女事務員から鍵を受け取ると、
「どうぞ」
と、山代を横手のエレベーターの方へ誘った。エレベーターは自動式だったが、山代はこうした自分で動かすエレベーターに乗るのは初めてだった。
「便利ですが、ちょっと不安ですね」
山代が言うと、
「あら、こうしたエレベーター初めてですの?」
つかさは言ってから、
「去年あたりから、こうしたエレベーターが多くなっています。本当は、お乗りになっているんでしょうが」
「乗っているかも知れません」
山代大五は浮かない顔で言った。失われた過去三年が、大きな沼のように、何もかもすっぽりと呑み込んでしまっている。
三階でエレベーターを降りると、廊下を右手の方へとった。廊下を挾んで、両側に幾つかの部屋が並んでいるが、名札のかかっている部屋も、かかっていない部屋もあった。
「まだできたばかりで、人のはいっていない部屋もあるんです」
つかさは説明した。
「じきにふさがるでしょう」
山代が言うと、
「ふさがっていることは、全部ふさがっております。山代さんのお部屋も、たまたま解約した人があったので、手にはいりました。部屋だけは借りてあるんですが、まだ引越して来ませんのね。――きれいでしょう」
つかさが言う通り、建物の内部はこぎれいにできていた。部屋がふさがってしまったらどういうことになるか見当は付かなかったが、いまのところは、人声も聞えずしんとしていて、アパート特有の生活くさい臭いはなかった。
山代の部屋は一番奥の、多摩川に面した側にあった。扉を開けると、畳一畳程の玄関にあたる場所があって、靴を入れる戸棚と、その横に傘置きが置かれてあった。
次の扉を開けると六畳程の部屋があり、右手にもう一つ四畳半位の部屋が続いている。そしてその奥の部屋に並んで、炊事場と浴室があった。浴室は洗面所兼用になっていて、壁に鏡が填《は》め込まれ、その前にタイルの洗面用の流しがついている。
山代は黙って一通り部屋を覗き終ると、六畳の部屋の窓際に立って、
「ここが居間兼書斎で、隣りが寝室というわけですね」
と言った。
「一応そうしておきました。反対にしてもいいですけど」
つかさは言った。部屋には既にそのように二、三の調度品が運ばれてあった。六畳の部屋には事務机と洋服箪笥が置かれ、四畳半の方には寝台が運び込まれてあった。
「この机と箪笥は備えつけですか」
「いいえ、これは前のアパートにあったものを運んで参りました」
「みんな新しいじゃないですか」
「ほんとに」
つかさもいま気付いたといった風に、机と洋服箪笥に改めて眼を当て、
「机なんか、めったにお使いになりませんでしたのね。インキ瓶《びん》も、筆立てもありませんでしたから、書きものなど、なにもなさらなかったんですわ」
「そうでしょうな」
感慨深げに山代も言った。窓からは多摩川の岸までの田畑と、そこにばらばらと撒かれている小さな家々と、そして多摩川の堤と、白い磧と、青い流れが見えた。堤の上の道をくるまがそれぞれ僅かな間隔を置いて走っている。
つかさは居間と寝室の、それぞれの戸棚を開けて、そこに仕舞われてある何個かのスーツ・ケースや洋服の箱を山代に示して、
「この中に何がはいっているか、わたくし、存じません。あとでお開けになってみたらいいと思います。手紙や書類の束は、ひとまとめにして、お台所の横手の戸棚へ、ひとまず入れておきました。これも面倒でも一応お開けになった方がいいかと思います」
そう言った。山代はその台所の横の戸棚なるもののところへ行って、その内部を改めた。なるほど手紙や書類の束が数個投げ込まれてあり、その横に美術雑誌が何十冊か積み重ねられてあった。
「お洋服は洋服箪笥の中にあります。ワイシャツや靴下や肌着類は、その洋服箪笥のひき出しにはいっております。足りないものもあると思いますが、それはこんど御一緒に街に出た時買うことにしましょう」
それからちょっと考えるようにしていたが、
「靴は何足もありますが、どれも踵《かかと》が曲っておりますわ。今日病院からお履きになって来たものだけですわ、ちゃんとしてるのは」
「なるほど」
「それからと――」
つかさはそんなことを言ってから、
「お台所に小さい食器入れがありますが、あれはここに備えつけのもので、その中にある食器類は、最小限度に必要なものだけを、わたくしがわたくしの一存で買い調《ととの》えました。何もお持ちになっていないんですもの。以前はどうしていらしったんでしょう」
多少非難する口調だった。
「さあ」
「お茶ぐらいお飲みになりたかったんでしょうに――お世話する方がいらっしゃらなかったのでしょうか」
「さあ」
「もし、いらしったとしたら、ずいぶん構わない方ですのね」
「ふむ。まことに、どうも」
「山代さんがお謝りになることありませんわ」
「世話する人なんて、いなかったんじゃないですか」
「でも、女持ちのレインコートやコウモリがありましたもの。しかも二つずつ」
「ほう」
「そのレインコートとコウモリは、新聞紙に包んで、お台所の床板を上げたところに入れてあります」
「ほう」
「だって、適当な置き場がないんですもの。特別虐待したわけじゃありませんのよ。きちんと新聞紙に包んであるんですから」
それから、そのことがおかしかったのか、香村つかさはここで低い声を出して笑った。
「それから――と」
つかさは、ここでハンカチを額のところへ持っていって、汗を叩くようにして拭くと、
「取りあえず、佐沼先生にも御相談して、牛乳を二本ずつ明日から入れて貰うことにしておきました」
「暑さで腐りませんか」
「朝と晩一本ずつ入れて貰うことにしてありますから、直きにお飲みになればよろしいでしょう。それに暑いのも、もう半月程で、急に涼しくなると思いますわ。十日程すると、九月ですもの」
「ほう、九月ですか」
山代大五は、九月という言葉を、何とも言えず懐かしいものとして聞いた。間もなく秋がやってくるのであろうかと思った。
「電気冷蔵庫も要《い》りますが、来年お買いになればよろしいでしょう。よほど御相談して買おうかと思いましたけど、いくら小さいのでも、お金が張りますから」
「以前もなくてやって来たくらいですから、要らんでしょう」
山代大五が言うと、
「以前は生活というものがなかったんですもの、お茶碗一つないくらいですから。でも、これからはここで、このお部屋で生活をお持ちになりませんと」
「そりゃあ、そうですな」
山代は用心して言った。うっかり変なことを言うと、過去の生活のぼろが出て、そこを香村つかさに突かれそうであった。
「それから――と」
つかさはまた考えていたが、
「当分お食事は階下の食堂でおすませになったらいかがです。佐沼先生も、もう何を上がっても構わないから、食堂がいいだろうとおっしゃっておりました」
「そうしましょう」
「でないと、山代さんって、すぐ偏食になると思います」
「どうして?」
「お好きなものばかりしか上がらないと思いますわ。以前も、お昼のお食事と言えば、お肉の料理ばかりでした。カツレツとかビフテキとか、それも一緒について来るお野菜の方は全然上がらないんです」
「ほう」
「それから、毎日何杯となく珈琲ばかり」
「なるほど」
「いい機会ですから、何もかも生活をお切り替えになって、ちゃんとなさらないと」
「いままでは、ちゃんとしていなかったんですね」
「そういうわけじゃありませんけど」
つかさは、ここでまた軽く笑うと、
「もうこのくらいにしておきましょう。退院早々|苛《いじ》めて、病院に帰りたいなんておっしゃると困りますから」
と言った。
香村つかさは、その日夕方までアパートに居て、一応台所の使い方を山代に教えたり、食堂へ案内したり、事務所へ顔を出させたりして、それから帰って行った。
山代は部屋に一人残されると、急にいよいよ自分一人だという孤独な気持の中に落ち込んだ。夕明りの漂っている窓外の風景に眼を当てながら、山代はこれから自分は自分の力で生きて行かなければならぬと思った。初めて都会へ出て来た少年が、都会の薄暮に見入りながら、物悲しい昂奮に自分を任せることがあるが、いまの山代の気持は丁度それに似通っていた。
多摩川の流れが細い帯となって横たわって見えている。佐沼から見せて貰ったノートに記されてあることを事実とすれば、自分は曾て女と一緒に多摩川の川縁りを散歩したことがあるかも知れないのである。その時の自分は生活を持っていた筈である。いかなる生活か判らないが、ともかく、きのうからの、そのまたきのうからの、その連続に於て、物を考え、物を感じ、物を判断し、そしていろいろな人間関係の中へ身を置いて、自分の行動というものを決めていたのである。
そういう考えはいけないと言って、自分の考えを改め、そういう言葉はいけないと言って、その言葉を口から出すことを慎しみ、そういう行動はいけないと言って、自分の行動に制限を加えた筈である。いまの自分にはそうしたものは全くない。自分が考えたり、感じたり、判断したりする材料は尽《ことごと》く取り上げられてしまっているのである。
山代は一階の小さい食堂へ降りて行って、このアパートに於ける最初の夕食を摂った。野菜の煮たのと、ハンバーグステーキと、汁椀と漬物が膳に載せられて運ばれて来た。食堂で食事を摂っている止宿人はまだ五人しかないそうである。料理は甚だ粗末なものだが、病院の食事とは違っているので、山代には結構|美味《うま》く食べられた。
夕食を終えて自分の部屋へ帰ると、佐沼から電話が掛かってきた。
「どうですか、部屋の感じは?」
「静かで、とてもいいと思います」
「気に入りましたか」
「はあ、すっかり」
「それはよかったですね。明日でも伺いますが、今夜は疲れないように早くお寝みなさい」
「そうしましょう」
山代はそう言って受話器を置いたが、とても今夜は眠れないだろうと思った。山代は自分の所持品に一応眼を通しておこうと思った。自分の知らぬ過去に触れることは無気味な仕事であるが、どうせ一度はしなければならぬことなのである。
山代は先ず洋服箪笥を開けてみた。五、六着の洋服がハンガーにかけられて吊下がっている。
一応どれにも洗濯屋でつけた小さい布切れがついているところを見ると、洗濯してきれいになっているわけである。洗濯屋に出したのは香村つかさの配慮に依るものではないかと思われる。山代は自分の知っている自分に、このような几帳面さがあろうとは思われなかった。
次にひき出しを開けてみた。ワイシャツや肌着類が、これも洗濯されて、きちんと畳まれて、整頓されてはいっている。
洋服にも肌着類にも記憶のあるものは一着もなかった。記憶にないところから推すと、大阪から東京へ引き移ってから全部買い調えたものばかりである。大阪時代も四、五着の洋服は持っていたが、どれも相当古くなったくたびれたものばかりであった。だから、自分の性格として、少し金が自由になるようになった時、古い物をすっかり棄ててしまって、全部新しいものに買い替えたのに違いない。
次に寝室の方の戸棚を開けて、そこにあった三個のスーツ・ケースを取り出した。大きい方の二個は全く記憶にないものだが、小さい一個はまさしく大阪時代に買って、一、二泊の出張旅行にはいつも使っていたものである。
山代はこの自分の覚えている小型のスーツ・ケースを取り上げて、それを暫くまじまじと眺めたり、弄り廻したりしていた。旧知にでも会ったように、ひどく懐かしかった。
――これは、まさしく自分の物である。自分の所有物である。自分以外の誰の物でもない。間違いなく自分の鞄である。
山代は漸く夕闇が立ち籠め始めた窓のところへその鞄を持って行って、薄暗い光線の中で、それに見入った。そしてそれを手に下げて、室内を歩いた。この見覚えのある鞄に較べると、二個の大型の鞄には何の愛着もなかった。薄い革で造られた洒落た鞄であったが、他人のもののように、鞄の方もよそよそしかったが、山代大五の方もよそよそしかった。
山代はそれから玄関の狭い土間へ立って、そこの小さい戸棚を開けて靴を改めてみた。香村つかさが言ったように、なるほどどれも踵が少し曲っている。勿論、どの靴にも見覚えがなかった。
山代はそれぞれの靴に足を入れてみた。ぴったりと足に合っている。自分の靴だから、自分の足に合っていて少しも不思議はないが、しかし、ある感慨はあった。
――なるほど、自分の靴には違いない。
山代大五は靴を仕舞い込むと、上がり框《がまち》に腰を降ろして、何となくひと休みした。そして手紙の束を取り出そうかよそうか、自分の心に尋ねでもするように、そのことを考えていた。
靴、鞄、洋服などと違って、相手が手紙となると、その中からどんな人間が飛び出して来るか判らず、その点ひどく無気味であった。山代はよほど手紙はあと廻しにしようかと思ったが、反対に自分の過去に一刻も早く触れてみたい怖いもの見たさの気持も働いて、結局手紙の束を戸棚から引張り出して来て、それを居間の床の上に置いた。
手紙の束は五個あった。特に保存しておこうと思って取っておいたものでなく、何となく捨てないで溜って仕舞ったものを、香村つかさが五つの束に束ねてくれたものと思われた。こうした不必要な手紙を何となく溜めて仕舞うようなところは、山代が以前から持っている習性であった。大阪の新聞記者時代も、T市の下宿の部屋には、こうした手紙が沢山溜っていたことを、山代は思い出した。
山代は手紙の束をほどくと、先ず印刷物と私信とを撰り分けて行った。封書にしろ、葉書にしろ、個々の人間からの音信は極く僅かで、大部分が何の必要もない書物の広告とか、画展の通知とか、土地分譲の案内とか、ゴルフのクラブの入会の勧誘とか、そうした印刷物が多かった。
一応そうしたものと、私信とを分けて仕舞うと、次に山代は私信の差出人に眼を当てて、現在の自分が記憶している人と、全く記憶していない人とに撰り分ける仕事に取りかかった。
私信の大部分の差出人は山代の知らない人であった。勿論、東京へ出て来てから知り合いになった人物であろうが、現在の山代には記憶のない人々であった。差出人の名前を見て、すぐ相手の顔を思い出せる人物からの手紙は、封書、葉書取り混ぜて十通ほどしかなかった。
山代は手紙の束の整理を終ると、次は内容の点検に移るわけだが、ここでまた躊躇した。自分の失われている過去の一部が、これらの手紙に依って、散発的にめくられるわけで、どの手紙を取り上げるにも、少からず勇気が必要だった。
山代はそれまで床の上に胡座《あぐら》をかいていたが、一番小さい手紙を取り上げると、それを机の上に持って行き、新聞記者時代に原稿を見て行ったように、そんな事務的な気持で、自分の知っている知人からの手紙に眼を通して行こうと思った。直接自分に関係のある手紙だと思うと無気味だったが、自分でないもう一人の自分に関することで、現在の自分の知らぬことだと割り切って考えてしまえば、気持はずっとらくだった。
静岡高校時代の友人からのものが二通あった。山代はそれから読んで行った。一通は借金の依頼で、一通は借金返済の催促であった。これでみると、一人の友達には金を貸し、一人の友達からは金を借りていることになる。
次に取り上げたのは、大学時代親しくしていた友人の一人の手紙で、ご馳走になった晩餐《ばんさん》の礼が、大きなペン字で簡単に認められてあった。大散財かけて申し訳なかったが、久しぶりでお会いできて楽しかったという意味のことが書かれてあるところから推すと、山代自身がどこか大きな料亭へ相手を招待したものと見える。
その次は、やはり幼少時代に会っただけで、それ以後交際していない郷里の従弟からのもので、この方も上京して饗応に与《あずか》ったことに対する礼状である。
次は、大阪で知っていた商事会社の重役の一人からの葉書で、山代が売り込んでいたと思われる絵の断り状だった。一度買うことを約束しておいて破談にするのは心苦しいが、大阪の方の相場に較べると、問題の絵は少々高価すぎると思う。何か間違いではないかと思うくらいである。余り値段を高くふっかけると、幾ら素人でも二の足を踏むことになる。御注意の程が肝要ではないか。
そういったことが遠慮のない調子で皮肉たっぷりに認められてある。
山代大五は頭の髪の薄くなった大柄な実業家の顔を懐かしく思い浮かべた。大阪では太っ腹で通っている人物で、山代は初めて会った時からこの人物に好意を持っていた。新聞にも何回も登場して貰ったが、仕事以外にも芦屋の彼の家に何回か訪れている。気が合うというのか、先方も山代を他の新聞記者とは異った遇し方をしてくれていた筈である。
この手紙で見ると、山代は自分に好意を持っていてくれるこの人物に、絵を高く売り込んで、少からず心証を害してしまっているようである。
――ばかなことをしたものだ。
山代は自分自身に怒りを覚えた。他の人物ならともかく、人もあろうに、この人物に法外な値段で絵を売りつけるばかがどこにあるか! さっそく謝らなければならぬ。
山代は葉書の日附に眼を遣った。三月十日となっている。いつの年か正確なことは判らないが、昨年のこととしても、それから一年以上の月日が経過している。
――ばかな奴だ。
山代はもう一度自分自身に言った。
しかし、次に取り上げた手紙は前のものとは反対のものだった。大学時代の恩師からの絵に対する礼状で、何か間違いではないか、このような高価なものを自分が貰っていいか、と念を押して来たものであった。
――どうしてこんな先生に絵を呈上する気になったのだろう。
山代も又自分の気持が理解できぬ思いだった。
山代は大学時代の恩師に絵を呈上した自分の気持が理解ができなくはあったが、しかし、それは必ずしも考えられぬことではなかった。山代は自分にそうした気紛れなところがないわけではないと思った。
平生考えてもみない大学時代の恩師のことを何かの拍子にふと思い出し、絵の一枚ぐらい送っても罰はあたらぬだろうというそんな考えから、どうせ送るならちゃんとした物を送ってやろうという気持になって、一応どこへ出しても恥しくないものを送ったのかも知れない。ただその結果、送られた方の恩師が戸惑ったというだけのことである。日附を見ると、八月十日となっている。山代はありそうなことだと思った。少し金の余裕でもできたら、自分のやりそうなことである。
その反対の場合が、自分に好意を持っている実業家を怒らしてしまったのだ。実業家の場合は、自分はよほど金に困っていたに違いない。困っていないまでも、何かで金が欲しかったに違いない。一朝、金に困ると、背に腹はかえられず、自分に好意を持っている人物さえ裏切ってしまうようなところが、自分にはある。そうしたところが、自分の性格の一番いけないところである。
この二つの事件から考えても、去年の最初あたりから、去年の夏へかけての一時期、自分はひどく金で苦労しているようである。それも少しばかりの金ではない。セザンヌの偽作で三千万円造ろうとしていたのだから、それだけの金か、あるいはそれ以上の金を必要としていたのである。
しかし、それから暫くして八月になると、大学の恩師に絵を送っているくらいだから、もうその頃は金の問題は解決していると見なければならない。
山代大五はここでちょっとまた暗い気持になった。八月になって金の問題が解決しているということは、セザンヌの偽作をどこかに捌いてしまったことなのである。知人の実業家に持ち込んだのは、文面からしてセザンヌの偽作ではない。他の画家の作品なのである。
――どうも、この頃はやたらに金が欲しかったらしい。一体、いかなる理由で自分は大金を必要としたのであろうか。
しかし、山代大五は、金の問題は一応向うへ押し遣って次の手紙を取り上げた。
こんどもまた、金に関係した手紙であった。差出人は、大阪時代に付き合っていた他紙の記者で、大阪の心斎僑にある酒場《バア》から毎日のように君の借金の督促を受けている。早く何とかしてやって貰いたいという訴えの文面であった。
――何だ。まだ払ってなかったのかな。
山代大五は意外な気がした。そして直ぐこれは払ってやらなければなるまいと思った。確かにその酒場に借金のあることは覚えていた。大阪時代には毎夜のように、その酒場に入り浸っていたものである。その当時の借金をまだ払っていないとすると、ずいぶん長く引張っておいたものである。
山代はその酒場の若いマダムと、マダムと一緒に店を切り廻していた妹の顔を思い浮かべた。二人ともこうした商売には似ず人のいいところがあって、貸した金もろくに取り立てることのできないような性格であった。
当時山代は新聞社の若い記者たちに、この酒場の勘定だけは、必ずきちんと払ってやるように言っていたものである。そんなことを山代大五に言わせるようなものを、その酒場の二人の姉妹は持っていた。それなのに、そんなことを言った当の本人の山代大五が、何年も金を払わないでいたのである。恐らく大阪を引き上げる時、金がなくて、東京へ出てからすぐ払うようなつもりでいたのが、東京へ出てみるとずっと金の都合がつかなくて、延び延びになってしまったものであろう。
日附を見ると、去年の四月である。この手紙を貰った時は、丁度金のために苦労している時なので、恐らくこの手紙の返事さえ出さなかったのではないかと思われる。こんど一度このことを調べてみて、まだ払ってなかったら、至急払わなければなるまいと思った。
それからもう一通の手紙の方へ手を延ばした。この方は分厚い手紙で、封筒から内容物を取り出してみると、十五、六枚の便箋に細かいペン字で、ぎっしり書き込まれてある。差出人は新聞社時代に、山代が属していた社会部で働いていた給仕である。
山代は便箋を一枚一枚めくって読んで行ったが、山代が部長時代の社会部の空気がいかに住みよいものであったかと、その頃のことをひたすら懐かしがっている文面である。いろいろと新聞社のその後の様子を伝えたあとで、
――あるところから、山代さんが東京で立派な画廊を経営して成功していらっしゃることを耳にして、懐旧の情に堪えず、思わずペンを執《と》ってしまったわけであります。
そんな文章で結んである。山代大五は繰り返して、その給仕の長い手紙に眼を通した。山代の方こそ堪らなくその少年が懐かしかった。
残りの手紙と葉書は、知人からのものであったが、特別な用件は認められてなく、いずれも時候見舞を型通りの文章で綴ったものであった。
山代大五は、もう一つの手紙の束に眼を遣った。この方はさすがに無気味であった。封書も葉書も、差出人は山代の知らない人たちばかりである。いかなる人物がいかなる用件で便りをくれたのか、それを開けない限りは全然見当の付かないものばかりである。
山代は束の上の方から順々に取り上げて、眼を通して行った。大部分が仕事関係のもので、画家らしい人物からの画展を開く交渉だとか、絵を見てくれないかといった依頼の手紙も何通かあり、印刷屋、美術愛好家、額縁屋、美術商、そういった人たちからの、金の請求書、受取書、問い合せと、手紙の内容は雑多であった。
こうした手紙や葉書からみると、画商としての仕事は、山代自身が想像しているより活溌に行われており、社会的信用というようなものも、曲りなりにもでき上りつつあったようである。山代には、自分にこのような仕事をやって行く才能があるということが不思議にさえ思われるくらいであった。
山代は時たま仕事とは無関係な内容が認められてありそうな手紙や葉書にぶつかると、それはあとで読むことにして、別にしておいた。
山代は約一時間かかって、大きな手紙の束を崩し終えることができた。仕事関係の手紙は、自分の失われた過去三年の事業の内容を知る上には貴重な資料であったが、別に山代自身の内面的生活を窺う上には何の力も持っていなかった。山代は自分の知らない人からの、仕事関係以外の内容を持った郵便物だけを残して、他は全部、香村つかさが仕舞ってくれたように、それを台所の横の戸棚の中に収めた。
山代は窓を開けて、暗い窓外を眺めた。窓をいつまでも開けておくと、蛾や小さい虫がはいって来そうだったので、部屋に冷たい夜気を入れると、すぐまたそれを閉めた。
香村つかさから電話が掛かって来た。
「まだ起きていらっしゃいますの」
つかさは言った。
「手紙の整理をしていたんです。自分の知らないいろいろな人から手紙を貰っているのに驚きましたよ。これに対して、僕の方も手紙を出していたんでしょうね」
山代が言うと、
「大切なお手紙には勿論ご自分で返事をお出しになっていたんでしょうが、でも大抵のものはわたくしが代筆でお書きいたしました」
そんなつかさの声が聞えて来た。
「仕事関係のお手紙で判らないことがありましたら、わたくしにおっしゃってみて下さい。あるいはわたくしがご説明できるかも知れません」
そう言ってから、
「もうお寝みになった方がよろしいでしょう。退院第一夜ですから」
「寝みましょう」
山代は言った。香村つかさは山代が退院した最初の夜を、いかに過しているか、心配して電話を掛けて寄越したものらしかった。
電話を切ってから、しかし直ぐには山代は寝台へは横たわらなかった。多少昂奮していることが自分でも判ったが、睡気が来ないままに、机の上に残されている三十通程の手紙に眼を通してみることにした。
最初取り上げた手紙には差出人の名前がなく、文章も筆蹟も女のものであった。
――十八日三時にお目にかかりたいと存じます。お待たせになるのは厭です。わたくしも三時きっかりに参りますから、三時きっかりにいらしっていて下さい。いろいろ重大なお話がございます。ほんとに重大なお話です。わたくし、家を飛び出すか、飛び出さないか考えが決まらず、昨夜まんじりとも致しませんでした。
便箋にそれだけ認められてある。封筒の方にも差出人の名前はなく、郵便局で捺す日附のスタンプも消えていて、いつ頃の手紙か判らない。
山代は二回文面に眼を当てて、何となくうんざりした気持になった。自分とこの女性との関係はよく判らないが、何となく穏やかならぬ手紙である。これは画廊宛てでなくアパート宛てに来ている。手紙の文章から判断する限りに於ては、どこか高慢ちきなところのある好感の持てぬ女性である。文面もひどく高飛車である。一体この手紙のあと始末はどうなっているのであろう。
山代大五はこの手紙と同じ筆蹟の郵便物を探したが他には一通も発見できなかった。
山代は二通目を取り上げた。こんどは葉書であるが、これもまた女の筆蹟で、この方の文面は穏やか過ぎるほど穏やかである。
――伊豆へ参りました。伊豆へ参りましてから、ふとここは山代さんのご郷里であることを思い出し、別に用事はありませんが、お便りを書いてみようかという気になりました。宿の庭に百日紅の花が咲いております。東京へ帰りましたら、一度画廊を拝見かたがたお邪魔いたしたいと考えております。
この葉書にもまた差出人の名前はなかった。女というものは、どうしてこのように自分の名前を書きたがらないのかと、山代は思った。
山代はそれから十通程の封書を取り上げて、次々に眼を通して行った。物を送ったことに対する礼状だったり、反対にこちらに物を送ってくれた通知状だったり、無沙汰に対する詫状だったり、ゴルフヘの誘いの手紙だったりした。ただいずれの差出人も現在の山代大五がその名を記憶していない人物であった。東京の画商生活三年の間に、かなり沢山の各方面の人々と交遊関係を結んでいることになる。
十何通目かに多少気になる手紙にぶつかった。それは山代をひどく罵倒《ばとう》した手紙で、その罵倒の仕方は少し異常ではないかと思われるくらい執拗であった。
――君みたいのが、画商をやるということがそもそも間違いのもとなのである。しかし、まあ、商売ではあるし、君も食べて行かなければならぬだろうから、画商になっているということは大目に見てやる。今後間違っても批評がましいことを口に出したり、書いたりせぬがいい。絵というものは君などに判る、そんな生易しいものではないのだ。君は一度でも絵が判ると思ったことがあるか。ないだろう。それを世の中を甘く見て、絵が判るような顔をしてはいけない。こっちが恥しくなる。
こんなことがもっと長い文章に綴られてある。差出人はS・Tとなっている。
なるほどS・T氏の言う通りだろうと、山代は思った。どこかで自分は批評がましい言辞を弄《ろう》し、S・T氏の怒りに触れたものと思われるが、まさしくS・T氏の言うが如く絵は判りはしないのだ。自分の知らぬ三年間に幾ら勉強したとしても、そんなことで簡単に絵が判るようにはならぬだろう。
しかし、それから二、三通目に開いた手紙は、無名画家|榎青一郎《えのきせいいちろう》なる人物からの真情の溢れた感謝の手紙であった。
――私は本当に生活の苦しさに敗けず絵を描き続けて来てよかったと思います。自分に才能があるなどとは一度も思ったことはありませんでしたが、しかし、自分が絵を描くだけの理由と意義だけはあると信じていました。ただ、貴方以外の誰もが、そうした私に注意してくれなかったのです。長い間、有難うございました。お礼の言葉もありません。どうやら今度のPQR展で、一人前の作家として世間から遇されそうです。パリの国際的な展覧会へも、私の作品が選ばれるかも知れません。有難うございました。有難う、有難う。
この手紙ももっと長いものである。その長い手紙の中に、何行かおきに、有難う≠ニいう言葉が連発されてある。
「なるほど」
山代大五は満更でもない気がした。榎青一郎氏が現在どのような画家になっているか知らぬが、ともかく、無名時代に自分が世話をしてやったことだけは事実のようである。
山代は残りの郵便物を次々に見て行ったが、特に彼の関心をそそるようなものにはぶつからなかった。ただ一番最後に残った一枚の葉書を取り上げた時だけ、山代大五はおやと思った。
几帳面な小さなペン字で認められた数行の文章に眼を通してから、それを机の上に置き、そしてちょっと物思いにふけるように、空間の一点を見詰めた。
筆蹟は一見男文字のように見えるが、あるいは女文字であるかも知れなかった。文体も男のそれとも、女のそれとも受け取れるものであった。
――来年の観月の日を今から楽しみにしております。来年のことを言うと鬼に笑われますが、六時きっかりにホテルの裏の海岸で。――と言っても私はまだそこを知りませんが、貴方が一番美しい観月の場所だとおっしゃったのですからきっと素晴らしい場所だろうと思います。その折事務的なことは一切完了いたしたく存じます。当方のことはどうぞ御放念下さいますよう。来年お目にかかるまでは、御|無音《ぶいん》に過ぎると存じます。万々御自愛の上、お仕事の御繁栄の程祈願いたしております。
差出人は榊原《さかきばら》芳重となっている。榊原芳重という名前も、ヨシシゲと読めば男であるし、ヨシエと読めば女である。
――一体、これは何だ?
山代は二、三回繰り返して葉書の文面に眼を当てた。いままでの手紙はどれも過去の手紙であったが、この手紙だけが現在につながっていた。
日附は去年の十月十一日となっている。文中の来年の観月の日≠ニいうのは、どうやら今年の秋の観月の日のことであるらしい。観月の日というのは、勿論月見の日のことであろうが、大体月見というのが地方に依って九月に行われたり、十月に行われたりしている。いずれにせよ、自分は今年の、九月か十月かの月見の晩に、榊原芳重氏という男女不明の人物と、自分が一番美しい観月の場所として選んだ場所で会うことを約束しているのである。
会う目的は判らない。先方はそこで事務的なことは一切完了したいと言っているから、この点から考えると、商談のようでもある。しかし、商談にしたら、随分間延びのした取引きと言わなければならぬだろう。と言って、一応相手を女だと仮定して、密会の約束と考えてみても、これまたずいぶん間延びのした密会と言わなければならない。月見の晩の逢瀬はロマンチックでいいが、一年先きというのも変だし事務的なことは一切完了したい≠ニいうのも奇妙な言い種というべきである。
山代は男女不明の榊原芳重なる人物からの葉書を、一枚だけ机のひき出しに仕舞うと、すぐ寝衣に着替えて、寝室のベッドに横たわった。病院のベッドより幾らか広々した感じである。ベッドはこの部屋に備えつけのものらしく、さして上等ではないが、真新しいことが気持よかった。シーツや毛布はきれいに洗濯してあるが、新しいものとは言えない。香村つかさから聞き忘れたが、恐らく以前のアパートで山代が使っていたものなのであろう。
寝台の枕許の電気スタンドは、明らかに香村つかさが見計らって買って来たものである。スタンドの笠は、どんな色が好きか訊ねられたことがある。
山代は眼をつむったが睡気は感じられなかった。いきなり自分が失っている過去の三年間のいろいろなことに触れたので、やはりいま自分は昂奮しているに違いないと思う。しかし、郵便物から判断する限りに於ては、それほど無気味な過去でもなければ手がつけられぬ程難問題が積み重なっている過去でもない。
自分は失われた過去の三年間を、底知れぬ深さを持った得体の知れぬ沼として考えて来たが、それほど見当の付かぬ無気味なものでもなさそうである。その意味では、山代は自分が今夜思い切って、郵便物の束に眼を通したことはいいことだったと思った。ずっと気持は軽くなっている。
記憶は失っているが、やはり自分の過去だと思う。自分らしい過去である。金を貸したり、金を借りたり、酒場の払いを請求されたり、自分に好意を持ってくれている人物に絵を高く売り付けたり、美術批評まがいの言辞を弄して罵倒の投書を貰ったり、余り感心したことはしていないようである。しかし、また、その時の調子では無名画家を世話したり、大学時代の恩師へ絵を送ったり、気紛れなこともしている。これも、まあ、余り感心したこととは言えそうもない。どれもこれも自分らしいことで、自分のやりそうなことである。
はっきり女からと思われる手紙は二本あったが、これもまあ、自分としてはさして不思議とするには当たらない。自分で考えても、女に対してだらしないところがあるので、多少のひっかかりがなかったら、なかった方が不思議なくらいである。この程度のことですめば結構なこととしなければなるまい。
山代は睡気のない冴えた頭の中で闇を見詰めていた。手紙の束からは、幸い厄介な問題は見出さないですんだが、何と言っても一番の問題はセザンヌの偽作問題と、そしてそれに次いでは、別荘の縁側に腰掛けていた女性の問題である。依然として、この二つのことだけが、退院第一夜の山代大五の頭にひっかかっていた。
口 紅
山代大五はアパートで最初の朝を迎えた。朝と言っても、時計を見ると九時を過ぎている。昨夜遅くまで起きていたためではあるが、病院の起床時刻から見ると二時間近くも寝過したことになる。
階下の食堂で朝食を摂って、自分の部屋へ引返すと立て続けに佐沼と高崎と香村つかさの三人から電話が掛かって来た。いずれも病院を出たばかりの山代に、何か変ったことでも起りはしないかといった心配から、掛けて寄越したものであった。
佐沼と高崎には、相手が心配しないように、ゆうべ遅くまで手紙の整理をしたことは黙っていたが、しかし、既にもう香村つかさから連絡があったらしく、佐沼の方はそれを承知していた。
「手紙の整理などして、寝不足ではなかったですか」
佐沼は最初にそんなことを笑いながら言った。
「もうご存じなんですか」
山代が呆《あき》れて言うと、
「それは判りますよ。患者の貴方のすることは、担当の医者には何もかもすぐ判りますよ。遅くも九時には床にはいらんといけませんな」
「今夜からそうしましょう」
「手紙を整理して、何か新しい発見がありましたか」
佐沼は訊いた。これを訊きたかったのかも知れない。
「金を貸したり、借りたりといったような、そんなことばかりです」
「記憶にない人からの手紙もあったでしょう」
「たくさんありました。しかし、商売関係の用件が多く判らないこともありましたが、それは香村さんに訊いたら、大体説明して貰えるんじゃないかと思います」
「ほかに、手紙を読んでいて、そのことに関連したことで、新しいことを思い出したというようなことはありませんでしたか」
「ありません」
「そうですか、それは残念でしたね。高崎君が残念がることでしょう。――特に疲れるといったことはありませんね」
「ありません」
山代は答えた。
「大阪時代の意中の人からの手紙はありませんでしたか」
こんども笑いながら佐沼は訊いた。
「ありません」
「それは残念でしたね。香村さんががっかりすることでしょう」
「どうしてです」
「香村さんは貴方のその問題に大変興味を持っていたからです」
佐沼は笑った。そして、
「こうして電話で笑って話せるようになってよかったですね」
と言った。佐沼の声は病院で聞くより明るく張りのあるものだった。
香村つかさが午刻頃やって来るということだったので、山代はそれまで多摩川縁りを散歩することにした。午前中だというのにくるまは堤の上の道を繁く走っていた。都心と変らぬくらいのくるまの数だった。
山代は曾て自分が歩いたかも知れぬ堤の上の道を歩いたが、慣れぬためか、くるまが怖かったので、すぐ堤の下へ降りて、アパートの方へ引返して行った。
ゆっくりと畑の中の道を歩きながら、ゆうべ読んだ男女不明の人物からの葉書のことを思い出した。観月の場所と書いてあったが、自分の好きな観月の場所と言えば、それはただ一つしかないと思った。自分の郷里の伊豆半島の西海岸にある小さな海水浴場である。そこは小さい入江になっていて、入江の内部は波が静かであったが、外海への切れ口はいつも波が荒かった。山代は学生時代に、そこで二回程月を眺めたことがあり、その時の静かな海面と荒い海面に散る月光の美しさを、いまでもはっきりと憶えている。
大阪の新聞記者時代にも、秋になって観月の写真など紙面に載せなければならぬ時になると、いつもその入江の村の月を思い浮かべたものであった。勿論、大阪の新聞であるから、紙面には大阪附近の観月の名所の写真を取り扱ったが、もし東京の新聞だったら、自分は写真部員を伊豆まで出張させて、そこの月の写真で紙面を飾ることだろうと思った。
東京時代、その伊豆西海岸の入江の村に上廻る観月の場所を知ったのならともかく、そうでないとしたら、自分が男女不明の相手に推薦した観月の場所はやはりそこではなかったかと思った。めったなことで、自分はそれ以外の場所の名を挙げないだろうと思う。それに、葉書にはホテルの裏手の海岸というようなことが認められてあったが、伊豆のその入江の村にも、田舎には珍しい洒落たホテルが、その入江を包む小さい半島の松林の中に建っている筈である。
山代は、自分がその気になれば、現在の自分の知らぬ相手への約束を果せるかも知れないと思った。その日、そこへ出掛けて行けば、相手の人物はそこへ姿を現わして来るかも知れないのだ。しかし、と山代は思った。問題は用件の内容である。それが不正な取引きの金の受け渡しででもあったら、それこそとんでもないことになるだろう。しかも、そうしたことは充分あり得るのだ。大体自分は東京で何をしていたか判ったものではないのだ。
山代は自分自身にぴしりと一本釘を差すと、アパートの方へ足を向けた。
山代がアパートの自分の部屋へ戻ると、間もなく香村つかさがやって来た。つかさはノックして、部屋へはいって来ると、入口で一応部屋を見廻すようにして、
「落着くじゃありませんか。いかがです、お部屋の具合は?」
と言った。病院の部屋へはいって来る時の彼女の感じとは違っていた。病院の場合は、何と言ってもやはり見舞客といったところがあったが、いまの場合は完全なる訪問者の明るさを持っていた。
それに香村つかさの顔そのものも違っていた。山代は初め顔のどこがどう違うのか判らなかったが、やがて、それは薄く口紅がつけられているためであることが判った。
「お蔭で、大変居心地のいい部屋です」
山代は言ってから、多少ぶしつけかとも思ったが、
「今日はお化粧しているんですね」
と言った。すると、つかさは、
「いつもお化粧してますのよ。お化粧しないと、女って、年齢《とし》をかくせませんの」
「そんな――」
「いいえ、女って、二十歳過ぎると、もう下り坂なんですって、――でも、病院へ伺う時は、殆どお化粧してませんでした。お見舞ですものね」
つかさは笑った。
「佐沼先生も、病院の外ではとてもお洒落なんですのよ。病院の中でお目にかかるのと、まるで違ってます」
「ほう」
佐沼の話が出たので、
「何もかも筒抜けですね。ゆうべ手紙の整理したことを、今朝、もう、佐沼先生はちゃんと知っていましたよ」
山代は言った。すると、子供がいたずらでも咎められた時のように、つかさはちょっと含羞の表情をとったが、
「そりゃ、連絡がございます。何でも連絡するように命じられているんですから」
と、少し開き直った言い方をした。
「ゆうべ遅く連絡したんですか」
「ええ」
「こわいんですね」
「でも、連絡するお約束になっていましたの。退院第一夜でしょう。それに、山代さんの退院については、これでも、わたくしが一役買っておりますの。身許引受人といった恰好なんです。ですから、わたくしにも責任がありますし、連絡ぐらいしなければならぬ義務もあります。もしものことがあったら、大変でしょう」
「もう、大丈夫ですよ」
山代は笑って言った。
「佐沼先生の方からも、貴女の方に連絡があるんですか」
「いいえ」
「でも、佐沼先生に喋ったことが、貴女の方に伝わっている場合もあるでしょう」
山代が言うと、
「さあ」
と、つかさはちょっと考えるようにしていたが、
「そうですね。一応連絡して下さいますわ。あの先生はご親切ですから――」
つかさは低い声を出して笑って、
「何か、お気付きのことがありました?」
「いや」
山代が否定すると、
「いいえ、きっと何かお気付きになったんですわ。でなければ、いまのようなことおっしゃいませんわ」
それから急に気付いた風に、
「判りました。佐沼先生に大変な告白なさいましたのね。ご心配なさるのは、そのことなんでしょう。いいえ、どうぞ御安心なさって、わたくし、何も伺っておりませんわ」
つかさは笑った。
「心配なんてしません。他人に聞かれて悪いような告白もしませんし、告白したくても、そんなものはありません」
山代が言うと、
「――そうでしょうか」
つかさは少し首を傾けるようにして、
「それ、本当ですの?」
「本当にも、嘘にも」
「さあ、どうでしょう、それ」
「疑い深いんですね」
「でも、――こんどの記憶を失くされた原因に、そのことがなっていないとも限らないんですって」
「そのことって何ですか」
山代が言うと、
「言ってよろしい?」
親しい口調で、これだけ言って、
「お困りになるでしょう、申し上げたら」
「――――」
「大変な失恋事件!」
ずばりと香村つかさは言った。
「だから、筒抜けだと言うんです」
「深刻な顔していらっしゃる」
「冗談じゃない」
「ほんとですわ。鏡があったら、お見せしたいくらい」
山代は、この時、おやと思った。深刻な顔をしているのはつかさの方だった。つかさは顔の線を固くして、少しきつく感じられる眼を窓の方へ向けていた。
山代は、こうした香村つかさの顔を見るのは初めてではないと思った。いつのことだったか思い出せないが、やはり病院で、つかさはこうした深刻と言えば言えるような、強い表情をとったことがあったと思う。しかし、そうした香村つかさの表情は瞬時にして消えた。つかさはすぐそれまでの明るい表情に戻ると、
「堪忍《かんにん》して上げますわ」
と言った。
「なにを?」
山代が言うと、
「もう、いいんです。筒抜けに知ってしまったんですもの。でも、山代さんにそういう面があることは、わたくし、存じませんでした。失恋なんか、絶対になさらないと思っていました。失恋なんてものとは、とても縁遠いところにいらっしゃると思っていました。いまでこそ、そういうお話を聞きますと、そうかなあと思いますけど、画廊をやってらっしゃる時でしたら、絶対に思いませんわ」
「なるほど」
山代は曖昧に相槌を打った。画廊時代の話を持ち出されると、いつもそうであるが、山代は急に自信のないものを感じた。うっかり返事のできない気持になる。
「絶対にというのは、ひどいですね」
「でも、そうですもの。――今日一つだけ、申し上げましょうか」
「――――」
「画廊の頃、毎日のように、お電話が掛かって参りましたの」
「――――」
「それを、面倒になると、わたくしに出ろっておっしゃるんです」
「女性からなんですね」
「そうです」
「困ったでしょうな、それは」
「誰がですの?」
「僕が」
苦笑して、山代が言うと、
「そりゃ、ご本人ですもの。――でも、わたくし、お困りになることなさらなければいいと思いましたわ」
「その通りですね」
「でも、その方が、事情は知りませんが、結婚なさったら、がっくりなさった」
「ほう」
「そして、やけ酒をお飲みになりました」
「なるほど」
「そのくらいなら、もっと親切になさってお上げになればいいんです」
「――――」
「がっくりなさったので心配して上げましたら、四、五日したら、もう別人のようにさばさばなさってました。心配して上げて損したと思いましたわ」
つかさは言った。
「まあ、こんなお話はこれでやめましょう。そんな深刻なお顔なさらないでも、わたくし、このほかにはもう何も存じませんの。いつか申し上げましたが、アパートヘお訪ねしたら、女の方が一人いらしって、わたくし、何となく伺っていけないことをしたような気がして、直ぐ戻りましたが、そんなことがあったぐらいです。ほかは一切存じません。わたくしの知る限りでは、大体、品行方正だったと思います」
香村つかさは言って、実際にそうした話は打ち切るように、調理場へ行って、彼女が持って来たらしい四季咲きの薔薇の花を、これも彼女が持って来たらしい花瓶へ入れて持って来た。
「きれいですね」
山代が言うと、
「花屋さんには、桔梗《ききよう》とか女郎花《おみなえし》とか、秋の花がもう出ておりましたが、淋しく思われるといけないのでやめました」
「秋と言えばずいぶん久しぶりの秋の感じです。三回秋が脱けているわけですからね」
これは山代の実感だった。秋がもうすぐやって来るという感じを、今朝も散歩の折、山代の肌は受けとめていたが、ふいにその時思い出されたのは大阪の梅田附近のこの季節の街の表情だった。白いシャツが目立って少くなって、色ものがそれに代り、人々の動きも急に落着いて見えて来る。
香村つかさは花瓶を机の上に置き、お茶をいれて来ると、
「さあ、今日からお仕事をなさらなくては――。何もなさらないでいて気でも滅入ったら大変です。佐沼先生も高崎先生もそのことを一番心配していらっしゃいました」
「仕事は僕もしたいんですが、まだ何も決まっていない」
「本当のお仕事を決めるのは二カ月先きでも、三カ月先きでもいいじゃありませんか。それより失くなった三年間のことを、一応埋めてしまいましょう。大変おせっかいな言い方ですけど、それが一番大切なことだと思いますわ。山代さんのような方は、日本には少いですけど、外国には沢山おりますのね。この一カ月程記憶喪失に関する本を何冊か読みましたが、そうした人たちは、みんな失くなっている過去を埋めて、自分で自分を納得させてから出発しております。そうしないと、自分の過去から何が飛び出すか判らないといった不安が絶えず顔を覗かせて、何もできないんですって」
「そりゃ、そうです。一歩も先きに歩き出せません」
「ですから、そうしたお仕事をなさったらいいと思います。ゆうべもお手紙の整理なさいましたが、お手紙ばかりでなく、何もかも整理いたしましょう。お手伝いしますわ」
つかさは言った。
「今日は、これからなさることの大体のスケジュールをお立てになったらいかがでしょう」
「結構です。お願いします」
山代としては、そう言う以外仕方なかった。自分一人では何から始めていいか全く見当が付かなかった。つかさは何もかも自分で決めて、てきぱき片付けて行かないと気のすまぬタイプの女性らしかった。そうしたところが、いままでにも判らないではなかったが、急に退院問題が起ってから山代の眼に付き出していた。
しかし、それは山代にとって少しも不快ではなかった。現在の山代には、自分になり代ってやってくれる人物が絶対に必要だった。彼女なしには、退院もできなかったし、このアパートに引き移ることもできなかった筈である。前のアパートを引き揚げることも、画廊をたたむことも、みんなつかさがやってくれたことである。
「わたくし、いろいろと考えてみたんですけど、失くなった三年間の過去の中で、一番気になることからお調べになって行ったらいかがかと思うんです。ご心配になることがあったら、そのご心配になることを調べ、それを失くして行く方法をとったらどんなものでしょう」
「そうですね」
山代大五としては、はっきり言うと、あらゆるものが心配だった。心配でないものは一つもなかった。一体、自分はいかなる生活をしていたのか。そしてその中で自分は何を考えていたのか。そうした自分というもの全部が無気味だった。特に心配になるものを一つ取り出せるといったようなものではなかった。
「ゆうべ、お手紙をお読みになっていかがでした。何かご心配になることがありました?」
「そうですね」
山代はまた同じ言葉を口から出した。心配と言えばみんな心配だった。月見の夜、どこかの海岸で会う約束をしたらしい男女不明の人物のことも心配だったし、自分が世話をしたことで心から自分に感謝しているらしい画家のことも心配だった。それら二つのものは、いずれも判らないという点では同じだった。どちらが心配で、どちらが心配でないといったようなものではなかった。
「僕は、僕の心が知りたいんです。僕は一体何を考えて三年間生きていたのか」
ふいに、山代の口からそんな言葉が飛び出した。唐突だった。山代はその瞬間、自分にも自分の顔の歪んで行くのが感じられた。
「それが判れば、あとのことは何も判らなくてもいいんです。一体、僕は何を考えて生きていたのか。善良な人間だったのか、悪党だったのか」
山代大五は急に自分で自分の頭を抱え込んでしまいたい衝動を感じた。
急に山代の様子が変ったことが、香村つかさを驚かせたらしかった。つかさは暫く何も言わずに山代の顔を見守っていたが、
「わたくしの言ったことが、何かいけなかったんでしょうか」
と、多少|怖《お》ず怖ずした口調で訊いた。
「いや、そんなことではないんです。また病気が出たんです。僕の方がいけない!」
山代は顔を上げて言った。病気と言うほかはなかった。自分以外の誰にも、自分のこうした気持は判って貰えないだろうし、また判って貰えなくて当然であった。
「時々、失くなった過去からいろいろな事実を引張り出しても、その底を流れている自分の心が判らないとなると、そうした事実というものは何の価値があるだろうかという気になるんです」
「そうでしょうか。そんなことおっしゃったら、歴史学者が研究している歴史というものなど、変なことになってしまいますわ。遠い昔にあった事実を並べるだけのことになります。でも、事実が判ったら、その底にある人間の心も判るんじゃありませんかしら。事実を調べる以外、その底にある人間の心を知る方法はないと思いますわ」
「そりゃあ、そうでしょう」
「ご心配になっていることから調べたらどうですかと申し上げましたのは、ほんとのことを言いますと、わたくしの考えではありません。佐沼先生が教えて下さったことなんです。わたくしも、その方法が一番いいと思ったんです」
「いや、よく判っています。恐らくそれが一番いい方法だと思いますし、そうしましょう。いま言ったように、僕がいま変なことを言ったのは、僕の病気なんです。それに、ゆうべ沢山の手紙を読んで、そんな気がしたんです」
「どんな気なんですの?」
「沢山の手紙を読んで、いろいろな事実の断片を知ったんですが、自分は一体この中のどこにいるかという気がしたんです。こうした手紙を貰う自分はどんなことを考え、どんな気持でいたのか――」
それから山代は語調を変え、
「こんなことを言っていても始まりませんね。貴女のおっしゃるように、歴史的事実で歴史的時間を埋める仕事にかかりましょう。精神医学の方で記憶喪失している時間を歴史的時間と言い、それを埋めて行く事実を歴史的事実と言っているということは、僕も佐沼先生から聞いたことがあります」
と言ってから、机のひき出しを開けて、例の月見に会う約束の葉書を取り出した。
「これは一体、どういう意味なんでしょうか」
香村つかさにこの葉書を見せることは、山代としては思い切った気持だった。
つかさは葉書を取り上げて、それに眼を当てていたが、
「あら、また出ましたのね」
と、溜息をつくような口調で言った。言葉は冗談に紛らわしていたが、表情は意外に真面目だった。
「これ、女の方からのですね」
「そうでしょうか」
山代が言うと、
「女の人に決まってるじゃありませんか。男の人で、来年のお月見の晩に会おうなんて、こんな女々《めめ》しい手紙を書く人なんてありませんわ。女にしても、少し頭がどうかしてるんじゃありませんかしら」
「なるほどね」
「なるほどねって、こんなこといままでお判りになりませんでした? 山代さんの方こそ――」
言いかけて、つかさは言葉をとめると、
「お心当りございません?」
と、少し口調を変えて静かに言った。
「ありませんね、残念ながら」
「じや、この三年間のお知合なんでしょうか」
「多分、そうでしょう」
「山代さんって、ほんとに画商をやりながら、何してらしたんでしょう」
「全く」
「お失くしになってよかったですわ、過去を」
つかさは、時々彼女が見せるいたずらっぽい言い方で言った。
「しかし、ほかのに較べれば、それは、そんな変な文面でもありませんよ」
「あら!」
つかさは大きく眼を見張って、
「ほかのって、まだありますのね。まあ、驚いた」
山代大五は言わないでもいいことを言ったと思った。しかし、言ってしまった以上はもう取り返しのつかないことだった。
「これですがね」
山代は立ち上がると、ゆうべ戸棚へしまい込んだ郵便物の束の中から、私信だけを纒《まと》めたものを持ち出して来て、例の差出人の名前のない女文字の手紙を二通、香村つかさの方へ差出した。
「読んでかまいません?」
つかさは一通ずつざっと眼を通すと、
「女の人って、厭ですわねえ、こんな手紙を書いて! みんなこんな手紙を書くものなんでしょうか」
そんな言い方をして、暫く眼を窓外へ向けていた。そうした香村つかさの遠いところを見ているような横顔はひどく稚《おさな》いものに見えた。つかさは、やがて手紙を封筒に入れると、
「ほんとによかったですわ、過去をお失くしになって」
と、また同じことを言った。
「僕もそう思いますよ。何事もなくて、病院へもはいらなかったら、ずいぶん僕の生活には面倒なことが多かったんじゃないかと思いますね」
山代も心からそう思って言った。
「その手紙について、貴女の方には心当りありませんか」
「ありません。わたくしは、時々、画廊へ顔を出すぐらいで何も存じません。それに、わたくし、世の中のこと何も知らないでしょう。だから、女の方がお店へ見えていても、みんなお客さまだと思ったでしょうし、――それに、山代さんには、わたくしなどすぐごまかされちゃいますもの」
「まさか」
「いいえ、そうだと思います。お金がない時、お金をとりに来た人など帰しちゃうこと、とてもうまかったですもの。わたくし、感心していたんです。それと同じように、わたくしなども、ごまかされちゃっていたんですのね」
溜息まじりの言い方だったが、そんなところもまた山代には稚く見えた。恐らくつかさの言う通り、自分がつかさの眼をごまかしていたのか、つかさの方が気が付かなかったか、どちらかであろうと思った。
「さっき申し上げたように、電話掛けて来た人だけですわ、わたくしが山代さんと何かだなと思いましたのは。それからもう一度はアパートに伺ったら、女の人が居た時です。あの時はほんとに驚いた。とても厭な気持がしました。――このお手紙、その人たちからのでしょうか」
「さあ」
さあと言う以外仕方なかった。山代自身にも見当の付かないことだった。
「でも、このお手紙の方は、いまはもうたいしたことないと思います。山代さんが画廊に姿を見せなくなっても、別に問い合せに来た様子もなければ、お手紙も来ていないんですもの。薄情ですわ、大体」
「――――」
「お月見の方は何となく厭ですわね。お月見って、今年のお月見なんでしょう」
「そうらしい。来月ですね」
山代が言うと、
「来月かどうか判りませんわ。お月見って、九月と十月と二回あるんでしょう。――場所は?」
「場所は大体想像ついてます。伊豆の西海岸の入江のある村だと思うんです」
「そこにホテルあります?」
「あります」
すると、つかさは急に真剣な複雑な表情をした。
「そこ、どこなんですの」
つかさは訊いた。
「伊豆の西海岸の部落で、戦後海水浴場として知られて来ているところです。Sという漁村ですが、僕はそこに親戚があったので、学生時代に二、三回行ったことがある」
山代が言うと、
「そこ観月の名所ですか」
「名所じゃないが、そこの月はいいと思います。僕の知る限りではそこの月が一番いい。だから、もし僕が月を見る場所を一つだけ挙げることになったら、そこを挙げると思うんです」
「じゃ、きっとそこですわ。そこで会おうと、この方とお約束なさいましたのね」
つかさは葉書へ眼を当てたままで言った。
「約束したかどうか、そのことは――」
「でも、お約束したとここに書いてありますわ」
「そう」
「行ってお上げになりましたら?」
「行けと言えば、幾らでも行きますが、行ったら、どういうことになりますかね」
「きっと悦《よろこ》ぶと思いますわ」
「誰が」
「会いに来る方」
「向うは悦ぶかも知れないが」
「まあ、変なおっしゃり方」
「いや、僕は真面目ですよ」
山代が言うと、
「わたくしだって、真面目ですわ」
つかさも真顔で言った。
「僕がそこへ行く。その葉書の人物が出て来る。向うは話しかけて来る。僕の方には記憶はない。おかしなものですね」
山代は苦笑しながら言った。自分でも自分の顔が歪んで行くのが判った。
「ごめんなさい」
そんなつかさの声で、山代は顔を上げた。
「わたくしってばかですわね。こんなお葉書見ますと、つい変なこと言ってしまいます。わたくし、山代さんに手紙寄越す女の人はみんな嫌いですのね。見境なく嫌いですのね。山代さんが記憶していらっしゃらない人まで嫌うんですから、ほんとにどうかしてますわ。さ、こんなお話やめて、もとへ戻りましょう。一番心配になることがあればいいんですが、みんな心配だとおっしゃるし――」
「一番心配のことと言えば、やはりセザンヌの絵の行方ですよ。貴女の知っている若い画家から買った――」
「ああ、青江さんから――」
「青江さんと言いましたかね。ともかく、その絵です。一体、誰のところへ行っているでしょう」
「どうして気になりますの?」
「貴女は知りませんが、あれは偽作ですよ」
山代大五は思い切って言った。
「偽作?」
香村つかさは一瞬息を呑むような表情をとった。
「偽作って、あれはセザンヌの絵ではありませんの?」
つかさの声は急に高くなった。
「そう」
山代も真剣な口調になって言った。つかさの声が高くなったことが、山代を大きい不安に突き落した。
「どうしてそんなばかなことが!」
「いつかお話しましたが、事務所で若い画家から絵を買おうとしている記憶だけが蘇ったと言いましたね。実はその時の僕は、それがセザンヌの偽作であることを百も承知で買おうとしていたんです。そうしたその時の自分の気持もはっきり思い出せます」
「まあ」
つかさは言って、あとは黙っていた。いかにも取り返しがつかないことをしたものだといった顔に見えた。
「どこかへ売ったんでしょうね」
「勿論、売ったと思います」
はっきり言ってから、
「売ろうとしていた先きは、わたくし覚えておりますから、売込み先きは調べれば判ると思います。でも、あれ、偽作でしたの?」
「偽作であることは間違いないと思います。若い画家が描いたものです。その画家はいまどうしているでしょう」
山代が訊くと、
「それが、いま日本には居りませんの。昨年の春パリヘ行ったことは行ったらしいですが、家にも音信ないそうです。もともと変っている人なんです。変質者と言うんでしょうか」
「その人が居たら売込み先きははっきりするでしょうか」
「さあ」
つかさは曖昧に言ってから、改めて山代の顔を見守るようにしていたが、
「青江さんも売込み先きは知らないんじゃないでしょうか。わたくしは青江さんから、二、三回、セザンヌの絵をどこへ売ったか訊かれたことがありましたわ。わたくしは知らないから知らないと答えましたが、いま考えると、山代さんは自分だけその売込み先きを知っていて、わたくしにも、青江さんにも、そこを匿していたんじゃありませんかしら。大体、わたくしがその作品の落着いた先きを知らないということがおかしいんです。他の作品はみんな知っているんですから」
つかさは言った。
「でも、心当りがありますから調べると判ると思いますわ」
「じゃ、調べて貰いましょう。そのことが堪らなく不安なんです」
「そりゃ、不安ですわ。もし偽作ということが判ったら大変でしょう」
「でしょうな」
山代が言うと、
「厭ですわ、山代さんたら」
つかさはまた山代の顔を見守るようにした。
「こんなこと、なぜもっと早くおっしゃいませんでしたの」
「言っていいことと、悪いことがありますからね。誰にでも言えることじゃありませんよ」
「佐沼先生や高崎先生もご存じありませんのね」
「勿論、言ってありません」
「そりゃ、言わない方がいいですけど。――わたくしにも匿していらっしゃいましたのね」
「失礼な言い方ですが、いかなる人か、判りませんでしたからね。この問題は誰かと早く相談して善処したいとは思っていたんですが、その相談相手がなかなか見付かりませんでした」
「わたくし、今頃になって信用を得ましたのね」
「そういうわけでもないんですが、しかし、余程相手を見てからでないと」
山代としては実際にそんな気持であった。ふいにこの問題を口に出したのは、香村つかさなら、山代の立場に立って、この問題の相談に乗ってくれそうに思ったからである。
「お月見より、セザンヌの方が重大事件ですわ。それにしても、山代さんって、現在の山代さんじゃありませんけど、いろいろなことなさってますわ」
つかさは慨歎する口調で言った。
「全くろくなことはしていないようですね。後始末が大変だ」
山代が苦笑して言うと、
「お手伝いします。信用して下さったから」
つかさも漸く笑顔を見せて言った。
「ほかにございません」
「なにが?」
「同じような問題で、ご心配になること」
「もうないですよ。尤も思い出さないだけのことかも知れないが」
それから実感を籠めた言い方で、
「僕は三年間の生活を埋めた大きな沼を抱えている気持ですよ。どんよりと濁った深い沼で、何も見えないが、さらったら何が出て来るか判ったものではない。堪らなく厭ですね」
そう言った。
「何が出て来てもいいじゃありませんか。現在の山代さんの知らないことですもの。セザンヌの問題はすぐ、わたくし調べてみます。明日と言わず、これから心当りを当ってみますわ。少しでも早い方がいいですから」
それからつかさは、先刻見せた暗い顔の彼女とは別人のように生き生きしたものを、その眼にも、その表情にも見せた。それからつかさは急に気付いた風に、
「三年間の新聞の縮刷版と雑誌を用意してあります。こんどそれを持って参ります。ざっと見出しだけでも眼を通しておかれる方がいいんじゃありませんかしら」
と言った。
山代も新聞や雑誌のことを、これまでに考えないではなかった。その中には自分の失っている三年間に起ったいろいろの事件が詰め込まれてあり、世界の政治の動きも、国内の政界の動静も、それを通して知ることができる筈であった。また台風や火事や地震がいつどこで起り、どんな災害があったか、それからまた山代もその名を知っている沢山の物故者もある筈だった。
山代は自分が曾て新聞記者で毎日の新聞を作っていたので、病院にいる時も、新聞のことは何回もそれを読んでみようかという気が起きないでもなかったが、その度にそのことを口に出さなかったのは、それに触れることがいかにも恐ろしかったのである。
三年間に起った夥しい数の事件の群れが、どのようにして、自分の頭の中を通過して行くか見当が付かなかった。山代は三年前までは、毎日のようにその一つ一つを拾い上げては、それを大きい事件小さい事件に分け、それぞれに対して、その事件の持つ意味を考え、見出しをつけたり、説明を書いたり、写真をつけたりして、それらを新聞の上に並べて来たのであった。
いま、そうしたものが、そうした操作を経ずに、一度に頭の中を通過しようとする。それらは大洪水のように襲いかかり、忽ちにして小さい自分を押し流してしまいそうな気がする。
「新聞ですか」
山代が思わず、自分の怯《ひる》んでいる心の内部をその表情に現わして言うと、
「ゆうべ、お手紙の束を全部お読みになれたでしょう。お手紙の方がよほど厭なお仕事の筈ですわ。だって、お手紙の方は全部ご自分に関係したことであり、新聞の方は直接ご自分とは関係のない世の中の出来事ですもの」
つかさは言った。
「そうでしょうか。世の中の事件と言えば、なるほど世の中の事件ですが、直接自分に関係あるかも知れません」
「たとえば?」
つかさは訊いた。
「そう言われると困りますが、たとえば、セザンヌの絵の写真でも出ていたら、僕はひっくり返ってしまいますよ」
山代は言った。実際そうしたことはないとは言えなかった。自分だけの知っているセザンヌの偽作が、真物として紙面の上で取り扱われていたら、一体自分はどんな気持がするであろうか。
山代にそう言われると、つかさも困った風で、すぐにはそれに対して口を開かなかった。しかし、山代は口には出さなかったが、もっと別のことも考えていた。過去の自分がどうしても忘れることのできなかった女性について、もし変ったことでも起きていたら、そのことはセザンヌの偽作以上に、自分にとっては大きい衝撃であろうと思われた。
山代は大阪時代惹かれていた一人の女性に、なぜ自分がそのような不安な気持を持つか、自分の心が理解できなかった。失われた三年間の過去の中に、無気味な大きい沼の中に、その女性に関する事件は必ず埋まっていそうな気がする。なぜそんな気がするのか。
大阪時代に自分はあれほど厳しく東京へ出ることを自分に禁じていた。なぜ禁じていたのか。彼女が居る同じ東京へ出ると、彼女に会いたいという自分の気持を抑えられなくなり、彼女に会う機会を持つに違いないと思ったからである。それなら、なぜ彼女に会ってはいけないのか。
山代は、自分の前に香村つかさが居ることも忘れて、自分の心を追い詰めて行く作業に没頭した。なぜ彼女に会ってはいけないのか。
山代はそこから先きの自分の答を得ることはできなかった。強いて言えば、彼女に会ったなら、必ずやよからぬ事件が起るに違いないという予感があったからだとでも言うほかはなかった。三年前の自分は確かにそうした予感を持っていたものである。それなのに自分は上京してしまった。そして恐らく、白い砂がぎらぎら輝き、百日紅の花が咲いていた別荘で彼女に会ったに違いないのである。もし予感を正しいものとすれば、彼女と自分との間には、その時、何事かが起きていなければならないのである。
「いいじゃありませんか。セザンヌの絵の写真が出ていましても。――却って、それでその絵の所在が判りますわ」
つかさは言った。暫く考えてから、つかさはこうした言葉を選んだのであった。
山代はそのつかさの言葉で、白昼夢のような夢想に似た世界から我に返ると、
「新聞でも何でも読みましょう。読みますよ。その方がいいとおっしゃるなら」
と言った。
「わたくしはお読みになった方がいいと思います。と言うより、お読みにならなければならないと思います。一応過去三年のことを知っておかなければ、山代さんの本当の出発はできないじゃありませんか。これから為さろうとすることも決まりませんし、また自分の力で生きて行こうという気持も持てないと思います」
「その通りです。貴女の言うことはよく判ります。有難う」
山代大五は礼を言った。山代にはつかさの気持がよく判った。彼女はやっきになって、山代という一人の廃人を生かそうとしているのである。
「じゃ、明日にでも新聞の縮刷版を持って参ります。セザンヌの絵の所在も、もしかしたら明日お報《しら》せできるんじゃないかと思います」
つかさは成算ありそうに言った。そして、
「今日は、わたくし、これで失礼していいですか。お淋しくはありませんわね。大丈夫でしょうね」
そんな言葉を繰り返してから、つかさは帰るために腰を上げた。
島
山代大五は香村つかさに依って新聞の縮刷版と古い何冊かの雑誌を届けられたが、それは風呂敷包みのままいつまでも机の上に置かれてあった。
つかさは四、五日、アパートに姿を見せなかったが、気になるのか、朝と晩に一回ずつ必ず電話を掛けて寄越した。その電話に依ると、セザンヌの絵の行方は思ったほど簡単には判らないらしく、毎日のように出歩いて心当りを当っているということだった。
香村つかさは姿を見せなかったが、その間に佐沼が一回、高崎が二回訪ねて来た。二人とも病院の勤務を終えて、家へ帰る途中アパートヘ立ち寄るので、アパートヘ姿を見せるのは、夕方になっていた。申し合せたように、十分か二十分、短い時間雑談して帰って行った。二人とも山代に何か異状はないかと、そのことを案じて立ち寄ってくれたのに違いなかったが、しかし、山代は彼等がまたある一つのことを知りたくて立ち寄っていることをも知っていた。それは山代が新聞の縮刷版を読んで、それに対していかなる反応を呈するかということであった。
「これ読みましたか」
と、佐沼は机の上の風呂敷包みをさして言った。山代がまだだと答えると、
「気が向いたら眼を通しておくといいですね」
佐沼は、そんな風に努めてたいしたことではないといった言い方をした。
高崎の方は、若いだけに多少性急であった。
「これまだ読まんですか。読んでごらんなさい。別に急《せ》き立てるわけじゃないが、読んでおいた方がいいですよ。今夜あたり、読むことにしたらどうですか。別に仕事があるわけじゃないんですから」
高崎は言った。
山代は、しかし、その包みを開くことに抵抗を感じていた。いずれは読まなければならないと思いながら、なかなか腰が上がらない気持だった。
アパートで新しい生活を始めてから十日程経った日、山代は朝眼覚めると、今日は新聞を読まなければならぬと思った。ゆうべ遅くつかさから電話があって、彼女が今日訪ねて来るということだったので、読んでおかないといけないと思った。宿題を与えられ、それを果していない生徒が、教師を迎える気持に似ていた。
山代は朝食後縮刷版の一冊を抱えて、アパートを出た。どこか戸外で読もうと思った。朝から強い陽が落ちていて、白昼の暑さが思いやられた。山代は多摩川縁りに出ると、上流へ向おうか、下流へ行こうか、ちょっと思い迷ったが、下流の方へ歩いて行った。樹蔭でもあったら、その下にでも腰を降ろすつもりだったが、幾ら行っても、そうした場所はありそうもなかった。
山代は堤の道を十分程歩いた。何となく堤の下に小さな林でもあって、涼しい場所でもありそうな気がしていたのであったが、くるまの往来の烈しい舗装道路がどこまでも走っているだけで、休めそうな場所はなかった。
山代は、帰りはタクシーに乗ることにしてさらに下流へと歩いて行った。そして橋の袂に出ると、その橋を渡って、川の対岸へと出た。山代はいま歩いている道が、曾て入院中に一度行ったことのある磧のゴルフ練習場へ通じていることに気付いた。山代はそのゴルフの練習場の傍に、一軒の喫茶店風の家があったことを思い出し、そこへ行ってみようと思った。大分歩いたので、とにかくどこでもいいから休みたかった。
やがて山代の眼に磧で野球を練習している一団の若い連中の白いユニホーム姿や、一列に並んでクラブを振っている思い思いの服装をしている人々の姿がはいって来た。まだ朝のうちだというのに、このような時間の潰し方をしている人々の多いのが、山代には奇異に思われた。しかし、いずれにしても、健康な眺めであり、そこだけに夏の陽の白い粒子がふんだんに降り注いでいる感じである。
喫茶店はゴルフ練習場のすぐ傍にあった。建物の側面についている階段を上って行くと、五つ六つの卓が並んでいる明るい部屋があった。若い女が二人で卓をふいている。山代がこの店では、今日最初の客であるかも知れなかった。
山代は珈琲を注文した。この前、有楽町で初めて珈琲を飲んだが、その時は苦いばかりで何の美味みも感じられなかった。しかし、学生時代から新聞記者時代へかけて、山代は一日として珈琲なしでは過せなかった筈である。そのことを思うと、珈琲がまずいということが解せない気持だった。
しかし、珈琲が運ばれて来て、それを口に運んでみると、山代の舌はやはり苦さ以外の何も感じなかった。山代は改めて紅茶を注文し直した。
「お味がいけませんでした?」
若い給仕嬢が珈琲茶碗を下げながら訊いた。
「いや、こっちの口がいけないんですよ。久しく珈琲を飲まなかったから」
山代は相手を傷つけないように言ってから、アパートから抱えて来た新聞の縮刷版を取り上げた。そしてそれを開く前に、給仕嬢に、
「三十分ぐらい休ませて貰っていいですか」
と念を押した。
「どうぞ、三十分でも、一時間でも。――お正午《ひる》頃までは、めったにお客さんはありません」
給仕嬢は愛想よく言った。
山代は改めて縮刷版に眼を当てた。昭和三十三年としてある。この年の二月に山代は上京したわけである。
山代は三十三年二月と表紙に書き込まれてある縮刷版の頁をめくってみた。いきなり米、衛星打上げに成功≠ニいった見出しが、山代の眼に飛び込んで来た。
山代は、ああ、こんなこともあったなと、極く自然に思った。そして更に十頁程飛ばして、次に頁を開くと、南極観測隊越冬断念≠ニか宗谷、帰途へ≠ニか、そういった文字が眼にはいって来た。
山代大五は、そうしたことに別に驚きはしなかった。自分が知っている過去の出来事の一つが、そこには書き込まれてあったのである。
しかし、次の瞬間、山代はこれらの事件が、自分が記憶を失っている過去三年の間に起った事件であることに気付くと、おや! といった理解し難い気持に襲われた。記憶を失っているのならば、自分はこれらの事件を知らない筈である。衛星打上げの成功も、観測隊の越冬断念も、それについていささかの知識を持っているわけはないのである。が、山代大五は、そうしたことについて記憶している自分を認めないわけには行かなかった。確かに自分はこうしたことについて、一応の知識を持っているのである。
山代はそれから、またいい加減にその縮刷版の頁を開けてみた。社会面であった。奥|只見《ただみ》で雪崩《なだれ》、十六人生き埋め≠ニかウィーンから亡命三ハンガリー人来日≠ニか、そんな見出しが大きく取り扱われている。こうしたことについては、山代は何の記憶も持っていなかった。
更に頁をめくった。殺人事件や学生のデモ事件が大きく報道されている。殺人事件については、そういえば確かにこうした事件があったという気もするが、学生のデモ事件については全く初めての事件のような気がする。山代は卓の上の紅茶茶碗には口をつけないで、縮刷版をあちこちめくってみた。知らない事件が大部分であるが、時折、微かに記憶している事件もあった。
山代は縮刷版を閉じると、暫く、そのままの姿勢でぼんやりしていた。この縮刷版の中に、自分が記憶している幾つかの事件が仕舞われてあるということも、全く自分の予期していないことだったし、かと言って、大きい事件はみな記憶しているというわけのものでもなかった。記憶していることと、記憶していないこととの間には、何の相関関係もなかった。記憶するも、しないも、甚だ気紛れであった。
しかし、山代にとっては、縮刷版の中の総てのことを忘れているより、たとえ少しでも、その中に憶えていることがあるということは、有難いことであった。香村つかさが持って来てくれた何冊かの縮刷版の中には、まだ他にも自分の記憶している事件は幾つか詰まっているに違いなかった。
山代は急に自分の心に、一条の光が明るく射し込んで来た思いだった。山代は勘定すると、何か急き立てられているような気持で、その喫茶店を出た。
山代はさっき渡った橋の袂に出ると、そこでタクシーの来るのを待った。陽射しは強くなっていた。全身から汗を吹き出しながら、くるまの往来の烈しい道をアパートまで歩いて帰る気持にはなれなかった。それに一刻も早くアパートヘ帰り、他の縮刷版を開けて見たかった。そして自分がどれだけのことを知っているか、それを知りたかった。自分は過去三年の出来事の全部を失っているわけではない。ちゃんと記憶していることもあるのである。
タクシーが来るまで、山代はただ一つのことを思い詰めていた。それは自分が記憶喪失者ではないかも知れないということであった。山代の眼は初めて、それが正しくあるようなあり方で、物を見ていた。くるまの往来を、多摩川の青い流れを、磧の白いユニホームの動きを、常人と少しも違わない見方で見ていた。自分でも、現在の物の見方に較べれば、さっき喫茶店へはいるまでの自分の眼は、何ものをも見ていなかったと言っていいくらいだと思う。
一台の空のタクシーが山代大五の前で停まった。山代はそれに乗り込むと、
「橋を渡って、川の上手へ遡って下さい」
と言った。そういう言い方にも一種の張りがあった。自信のようなものが、山代の言葉を生き生きとさせていた。
アパートヘの曲り角でくるまを棄てると、山代はすぐアパートの自分の部屋へと戻った。そして卓の上から縮刷版の一冊を抜き出すと、それを窓際に立ったままで開いた。三十三年七月の縮刷版だった。新潟県|三面《みおもて》発電所の百余時間生埋め十八人救出される=\―これは記憶になかった。また他の頁を開いた。九州西部に豪雨、大水害、死者行方不明六百人以上=\―これにもまた記憶はなかった。
山代大五はまた別の頁を開いた。ソ連、日本大使に在ソ日本人送還を伝達=\―これにははっきりした記憶を持っていた。大学時代の友人で長くソ連に抑留されている者があったが、あるいはその人物も日本へ帰れるかも知れない。そんなことを考えて、その友人の母親へ葉書を認めた記憶がある。
山代大五は次々に頁を開いた。大部分記憶を失っていたが、時々微かに記憶している事件にぶつかった。山代は机の上の縮刷版を全部取り上げた。どれも最初から頁をめくって行くことはしないで、手の行ったところを開けてみた。そして、そこに自分の記憶している事件があるかないかを確かめる方法をとった。
つかさの持って来てくれた縮刷版は三十三年の二月から八月までのものであったが、その時期に関する限りに於ては、ばらばらとめくっただけでも、自分が記憶している事件は五つか六つあった。
山代が縮刷版を何冊かめくり終えた時、佐沼がやって来た。扉がノックされた時、山代は香村つかさがやって来たのかと思ったが、はいって来たのは佐沼だった。
「どうです?」
佐沼はいつもと同じ言葉を口から出した。高崎も、つかさも、このアパートの部屋へはいって来る時は、何となく病院において病室へはいって来る時とは違うものがあったが、佐沼ひとりは別だった。彼は病院で持っているものを、そのまま病院外の世界へも持ち運んで来ていた。佐沼がそういう態度なので、山代もまた自然に患者の心を取り戻すことになった。
「お蔭さまで」
そう山代が言うと、佐沼は卓の上へ眼を遣って、
「読みました?」
と訊いた。縮刷版のことであった。
「今朝読みました」
「ほう」
佐沼は、それから煙草にゆっくりと火を点けてから、
「憶えていることがありましたか」
と、探るように山代の顔に眼を当てた。
「ありました」
「ほう」
「実に不思議なんですが、憶えていることもあれば、全く憶えていないこともあるんです」
すると、佐沼はたいして動じないで、
「そうでしょう。そうだと思いましたよ」
と言った。
「そういうものですか」
「社会的事件に関しては、逆行健忘は異った反応を示すことが多いんです。大体どういうことを憶えていました」
佐沼は言った。山代はかいつまんで今朝自分が経験したことを話した。佐沼はそれを黙って聞いていたが、
「いずれ、高崎君がノートしに来ますから、一つ残らず話して上げて下さい。三年間では憶えている事件が相当な数になるかも知れませんね。個人的体験に関しても記憶の島が残されることがありますが、社会的事件に関しては、その数が比較できないほど多いのが普通です。個人的体験では、貴方の場合は、一つか二つしか憶えていません。しかし、社会的事件に関しては、それだけ多くのものを憶えている」
「どういうわけで、こういうことになるんでしょう」
山代が訊くと、
「それは判りませんよ。学者はいろいろの説を立てていますが、定説はありません。まだ判っていないというのが正しいでしょう」
佐沼は言った。佐沼が記憶の島≠ニいう言葉を使ったので、山代は自分が抱いているどんよりした無気味な沼の中にも、そこだけに青く植物の生えている小さな島が幾つかあるのかと思った。そして実際にそうした島を眼に浮かべた。
佐沼は午後に講義があるといって、すぐ帰って行った。
佐沼は山代大五が社会的事件に関する幾つかの記憶の島を持っているということを見届けたことで、ひどく上機嫌だったが、そんな佐沼をアパートの表口まで送ってから、山代は重い足取りで階段を上がった。
もしかしたら自分は記憶喪失者ではないかも知れぬといった期待はみごとに裏切られたわけだった。多くの記憶喪失者がそうであるように、どんよりとした無気味な沼の中に、幾つかの樹木の生えている島を持っているに過ぎないのである。地面が陥没して一面のどろ沼になったが、辛うじて何カ所かの高地が、小さい島として沼の中から頭部を出しているだけのことである。
山代は幾つかの小さい島を浮かべた大きな泥沼を、眼に思い描いていた。実際にそうした風景をどこかで見たことがあるように思った。一体、いつどこで見たのであろうか。
そうしているうちに、山代はそれが曾て自分が新聞で取り扱ったことのある洪水の写真であることに気付いた。台風の惨禍《さんか》を報ずる何枚かの写真の中の一枚であるに違いなかった。
――なるほど洪水の写真か。
山代は低く口に出して言った。山代がいま眼に浮かべている情景は、山代にはひどく意地悪いものに思われた。泥沼は大切な人間の生活を全部呑み込んでしまい、たいして大切でもない電信柱の頭や、小高い丘や堤防の一部だけを、水面から露出させているのである。
――なるほど、俺の頭も洪水みたいなものだ。
山代は実際にそう思った。自分の頭の中を洪水が荒れ狂ったのである。そして大切な生活のすべてを呑み込んでしまい、あってもなくてもいいようなものだけが、僅かに水面から頭を覗かせているのである。山代は寝台に仰向けに倒れると、洪水に家を奪われた者の持つ呆然とした思いで、自分の頭の中の風景を見詰めていた。
扉がノックされた。
「どうぞ」
山代が横たわったまま返事すると、香村つかさがはいって来た。
「あら、寝てらっしゃいますの」
つかさは部屋の入口に立って言った。
「いや、疲れて横になっているだけです」
山代が起き上がると、
「疲れてらっしゃいます?」
そう言ってから、
「今日、あるところへご案内しようかと思って参りましたの。多分そこにセザンヌの例の絵があると思います」
つかさは言った。
「ずいぶん方々探し廻ったんですが、やっとのことで絵の落着き先きの見当が付きました」
つかさはいつもより生き生きした表情で言った。つかさはこの何日か、セザンヌの絵の行方を追って走り廻っていたのであろうと思われた。若い女のそんな活動的な面が、山代には今日は少し眩しく感じられた。
「持っている人は東京に居るんですか」
「そうです。田園調布に住んでいる人なんですが、多分その人の家の応接間にあるのがそれだろうということなんです」
「ほう」
「今日いらしってみますか」
「行きましょう」
山代は言った。毎日、言葉のできぬ外国人の旅行者のように、自分の部屋から一歩も出ていなかったので、久しぶりで街の空気も吸いたかったし、何よりセザンヌの絵の所在も自分の眼で確かめたかった。在る所さえ判っていれば、打つ術は幾らでもあとから考えられる筈であった。
山代大五は外出の支度をしながら、
「縮刷版は読ませて貰いました。ついさっき佐沼先生が来ましたので報告しておきましたが、幾つか記憶している事件がありました」
と言った。
「まあ」
つかさは洋服箪笥の扉の内側にかかっているネクタイを選ぶ手を停めて、眼を輝かせて、山代の方へ顔を向けた。
「たくさん憶えていらしったんですか」
「たくさんとは言えませんが、五つか六つはありました。しかし、直接自分には関係のないことばかりです。新聞で大きく取り扱われている社会的事件ばかりです。自分自身に関係していることはきれいさっぱり失くなって、そうしたものだけが残っているというのだから皮肉なものです」
「でも、それでも残っていないよりは――」
「それはそうです。残っていないよりいいかも知れません。しかし、本人になってみると、妙に無気味なものですよ。自分のことは全然判らず、時代の流れのところどころが、島のようにぽつんぽつんと残っている。却《かえ》ってやりきれない気持です。ひどく疲れちゃった」
山代は苦笑して言った。
「いま、わたくしがお部屋へはいって来ました時、そのことをお考えになっていたんですね」
「そうです」
「道理で変だと思いましたわ。しょげていらしったんですもの」
それから、
「そんなことにしょげていては、これから先き生きて行けませんわ。さ、元気をお出しになって」
そう言って、つかさは一番派手なネクタイを山代の方へ差し出した。
山代は香村つかさと連れ立ってアパートを出た。朝のうちは陽射しが強かったが、午後になると雲が出て、陽は照ったり陰ったりした。天候の変りやすいのも、夏が過ぎ去って、秋になっていることを感じさせた。
二人は多摩川の上流の方へ少し歩いて行って、丁度そこへ来た空のタクシーを停め、それに乗った。
「田園調布というと遠いですか」
「いいえ、たいしたことはありません。村木源兵衛という人をご存じですか。もう亡くなりましたが」
つかさは言った。村木源兵衛という名には山代も記憶があった。もう長いこと耳にしたことはなかったが、山代の中学か高校時代は富豪の代名詞のようによく使われた名前であった。山代は村木源兵衛なる人物がいかなる経歴の人であるか、全くそれについては知識を持ち合せていなかったが、彼が富豪であるというだけの理由で、何となくその名前には好感を持っていなかった。
「名前だけは知っています。もう亡くなったんですか」
「わたくしもよくは存じませんが、戦争中に亡くなって、いまはそこの次男の方が継いでいるそうです。これからそこへ行こうというわけですのよ」
「絵がその家にあるんですか」
「多分、あるだろうと言うんです。何でも村木さんという人は、国宝級の美術品をたくさん持っている人で、行方が判らなくなったいいものなら、そこへ行けばたいてい見付かるということです」
つかさは笑いながら言った。
「それだけで、そこへ行ってみるんですか」
山代が訊くと、
「いいえ、幾ら何でもそれだけのことでは行きませんわ。――大阪の画商がセザンヌの、例の絵らしいものを、その村木家へ持ち込んでいるのを見たという人があるんです」
「持ち込んだのは大阪の画商ですか」
「そうらしいです。初めはどこへ渡ったか判らないんですが、何人かの人の間を転々として、しまいには大阪の画商の手に移り、その画商さんが村木家へ持ち込んだと言うんです」
「ほう」
「大体、いい絵なら余り転々としないそうです。画商の間では転々とする絵は余り信用できないということになっているそうです。セザンヌの絵も、やはり、よくしたもので、一カ所に長くは落着いていないんですのね」
つかさはさして気にしていない言い方で言ったが、山代の方はやっぱりそうかといった厭な思いが頭を擡げて来るのを感じた。
「どうして一カ所に落着いていないんですか」
「それは、やはり何となく偽物ではないかという気がして来るんではないでしょうか」
つかさは言った。
「偽物って、持っていると判って来るんですって。真物は幾ら見ていても少しも倦《あ》きないそうですが、偽物の方は誰にも倦きが来るんだそうです。そこが真物と偽物の違いらしゅうございますわ」
つかさはそんなことを言ったが、言ってしまってから、
「あら!」
と、少し唐突な叫び声を上げた。
山代は驚いて、つかさの方へ顔を向けた。すると、つかさは山代の顔を見返しながら、
「まあ、どうしましょう。いま、わたくしの言いましたことに、ご記憶ありません?」
と言った。
「ありません」
山代が答えると、つかさは真面目な顔で、
「もしかしたら、いま申しましたこと、わたくし、山代さんからお聞きしたことかも知れませんわ」
それから暫く、そのことを考えているように黙っていたが、やがて、
「やっぱりそうですわ。いまのお話は、昨年、わたくしが山代さんからお聞きしたことなんですわ。それに違いありません」
そう自信を籠めた言い方であった。
「僕が言ったことだと言うんですね」
「そうですの」
「全く厭になっちゃうな」
山代は何とも言えぬ不快な気持に襲われていた。他の話ならともかく、偽物談義を自分が口から出していたとなると、自分自身のことではあるが、棄ておけない気持だった。
「図々しいものですな」
山代が言うと、
「あら!」
と、またつかさは短い叫びを上げて、
「そんなつもりで、わたくし、申し上げたんではありませんのよ。変におとりになっては困ります」
「勿論、それは判っています。貴女が変な気持で、そんなことを口から出す筈はない。ただ、自分で過去の自分自身に対して一応の感想を述べたに過ぎないんです」
「過去のご自分に対する感想なんて、そんなこと、一切、お考えにならない方がいいでしょう。山代さんって、妙に気をお廻しになりますのね」
つかさは非難するように言った。しかし、この場合、山代としてはつかさのそうした言い方には不満だった。何も好きこのんで気を廻したわけではない。気を廻すような言い方をつかさがしたので、自然に山代としてはそうした気持を持ったまでである。
くるまは上り下りの多い郊外の道を走っていた。
「村木さんというお宅をどこかで聞いて下さい。大きいお宅だから判ると思います」
つかさは運転手に言った。
くるまの停まったところは、山茶花の垣を廻らした邸宅であった。思っていた程大きくはなかったが、かなり生い茂った庭木の間から、品のいい洋館の二階が見えている。総体に家が新しい感じなので先代の頃の何とか御殿と言われた邸宅とは別のものであろうと思われた。
二人はそこでくるまを降りた。
「突然、訪ねて行って大丈夫ですか」
「一応お電話してあります。どうせ判ることなので正直に申しました。前に画商をやっていた者ですが、お宅の所蔵しているセザンヌの絵を見せて戴きたい。もしそれが以前に自分のところにあったものなら、それについてお話したいことがあります。こう申しましたの。そうしたら、気持よく、どうか見て貰いたいということでした」
「当主が言ったんですか」
「いいえ、女中さんだと思う女の人がとりついでくれたんです」
「まあ、はいってみましょう。どうせここまで来たんですから」
山代は言った。山代としては、何もかもあけすけに喋るつかさのやり方に異存がないわけではなかったが、もう喋ってしまった以上は仕方のないことだった。
二人は玄関の土間に暫く立たされてから、玄関の横手にある応接間に招じ入れられた。洋風の広い応接間だった。窓際に椅子が十脚程並べられてあり、ところどころに小さい卓が配されてある。別に部屋のまん中には大きな卓が、そしてその周囲に革張りの椅子が置かれてある。美術品の所蔵家として知られているだけあって、壁には数点の油絵がかけられ、扉の横手の飾棚には中国のものらしい古い壺が何点か並べられてあった。女中の手で冷たい紅茶が運ばれて来て、大分経ってから和服姿のでっぷりと太った五十年配の人物が、煙草を銜えたままで姿を現わした。
「やあ」
大きく頷くと、
「いつまでも暑いですな。どうです、最近いいものが出ますか」
そんなことを驚くほど大きな声で言った。いかにも如才ない人慣れた感じだった。相手は山代がまだ画商をやっていると思い込んでいる風だった。
「お店の名前だけは知っていますよ。どこでしたな、お店は」
それに対して、香村つかさが返事をした。
「店は有楽町でございます。でも、最近お店を閉じました」
「ほう、やめたんですか」
相手は意外だといった面持ちで言った。
「そりゃ、残念でしたな。やはり難しいですか、画商という商売は」
「はあ」
言ってから、つかさは何とか言ってくれというように、山代の方へ眼を当てた。
「セザンヌの風景をお持ちになっていると伺いましたが」
山代大五は口を開いた。画商商売のことから話題を転じた方が無難に思われたので、いきなり話をセザンヌの作品の方へ持って行ったのである。
「持っていますよ。いま出させています」
村木は言った。
「お手数かけてすみません」
山代が言うと、
「いや」
と、相手は例の大きな声で言ってから、
「どうせ近く出さなければならなかったんです。セザンヌ展というのが大阪で開かれることになっていましてね。そのためにも出さなければならないんです。それからアメリカの画商からも見たいという申し込みを受けています」
「セザンヌ展へ出品なさるんですか」
「そう。――珍しいでしょう。何しろまだ一度も展覧会に出たことはないんです。日本へ渡ってからかれこれ三年程になるらしいんですが、一度も展観されていない。それがこんど出る」
「手にお入れになったのはいつ頃ですか」
「昨年の暮です」
「高価だったですか」
「高価も高価でしたが、しかし、まあ、セザンヌの傑作となると仕方ないでしょうな。誰か買っておかないと、こうしたものは、すぐ外国へ流れてしまいますからね。現にアメリカの画商が見せてくれと言って来ているのも、あわよくば買いとりたいと考えているのではないかと思いますね。しかし、手放しませんよ。手放しませんが、セザンヌの作品については大変な目利きで、いままでにもセザンヌの傑作を何点か掘り出しているし、また偽作も発見しているようです」
「うむ」
山代は思わず低く唸り声をロから出した。
「お持ちになっているものは、勿論確かなものですね」
「そりゃあ」
村木は何を言うかというように、顔を上げて山代の方を見た。
「勿論、確かなものですよ。確かなものでないと買いません。大金を出すことですからね。最初、東京でちゃんとした人が手に入れましてね。それがちょっと都合があって、三カ月程で手放し、二人の画商の手を経て私のところへ来たんです。日本へ来た時手に入れた人も判ってます。私はいま記憶していないが、調べればすぐ判る」
多少むっとしたものを、村木は顔に出していた。
「いや、変なことを申しまして、相すみませんでした。悪気で申し上げたんじゃありません」
山代は一応詫びを言った。
「まあ、見て下さい。いいものですよ」
それから村木は立ち上がって手を鳴らした。
村木は、部屋へはいって来た書生風の青年に、
「どうした、まだ?」
と声をかけた。
「ただいまお持ちいたします」
書生はすぐ去って行ったが、間もなく八号程の額縁にはまった絵を運んで来た。村木は立ち上がって、それを受け取ると、自分で飾棚の上の壺を降ろして、そこに置いて、
「ちょっと光線の加減がいけませんが、まあ辛抱して下さい」
と言った。そして自分の椅子に戻ると、いかにも愛蔵品を眺め遣るといった面持ちで、静かにその絵に視線を当てて暫くの間じっとしていた。
「いいでしょう」
村木は自分から言った。
「はあ」
山代は曖昧に言って、その画の面に見入っていた。確かに図柄には記憶があった。曾て若い画家が持ち込んで来た作品はこれに違いなかった。この作品を前にして、二人はあの考えても厭な恐ろしい言葉を吐き合ったのである。
――買って戴けますか。
相手は言った。
――さあね。間違いなく通るかね。
自分は言った。確かにそう言ったのだ。
――そりゃあ。どこから見てもセザンヌです。セザンヌで通らなかったら、お目にはかけませんよ。
そう相手は言ったのだ。そして色の白い青年はにやっと笑った。その時、自分は厭な笑いだと思ったのだ。
八号のカンバスには南仏あたりの農村の風景が暗い色調で描かれてあった。小川が水の面に微かなにぶい光を湛えながら流れている。そして右手の方に農家風の家が二軒並んで描かれ、小川を挾んだ向かい側は田圃の端《はず》れにでもなっているのか、雑木が生い茂り、雑木の根もとは雑草で埋められている。なるほどそこに使われてある色彩も、画面の調子も、セザンヌのものに違いなかった。セザンヌだと言えば、それで通るだろう。
山代大五はこれに違いないと思った。香村つかさが、山代だけに判る低い声で言った。
「どうです?」
それに対して答えないでいると、
「やはりそうでした?」
と、つかさは畳みかけて訊いて来た。
「そうだと思いますね」
山代は小声で言ってからも、なおも画面から眼を離さないでいた。
「いいものでしょう。僕はいいものだと思いますね。どうですか」
村木は言った。そして折角絵を見せてやったのに、ひと言も感歎の言葉を口から出さぬ非礼な訪問者に不機嫌な顔を向けた。
山代大五はうっかり口を開けない気持で、画面だけを見守っていたが、
「いいものだと思います。どうも、これだけの絵になると、よく判らなくて」
そんな曖昧な言い方をした。
「判らん! 貴方は画商さんじゃなかったですか」
村木ははっきり怒りを顔に出していた。美術愛好家が、自分が一番いいものだと思って所蔵している品に首をかしげられた時の不快さが、そっくりそのまま顔に出ていた。
「あの――」
堪りかねてつかさが傍から取り成そうとした。
「山代さんは画廊は持っていましたが、いまはわけがあってお罷めになっています」
「いまは画商さんでなくても、いいものと、そうでないものぐらいは判るでしょう」
「そりゃ、――でも」
つかさはすぐたじたじになった。
「じゃ、改めて訊きますが、このセザンヌについて山代さんはどういう見方をされるんですか」
開き直った訊き方だった。
「それが、判らんです」
山代もまた多少開き直った言い方で答えた。
「どうして?」
「絵を見る眼を失ってしまったんです。それで病院にはいっていてこの間退院したばかりです」
「ほう、そういう病気がありますか。変な病気ですな。絵を見る眼を失う。――そういう病気がありますか」
相手は急に体を乗り出すようにして来た。
「前に見た絵でも思い出せないことが多いんです。この絵も確か前に見たと思うんですが」
「ほう」
「よくは憶えていません。しかし、確かに見たことはあると思うんです。大変申し上げにくいことですが、どうも、これは偽物として見たことがあるように思います」
山代大五は思い切って言った。どうせ判ることなら、言ってしまっておいた方がいいと思った。アメリカの画商などの手にかかって、偽物であることを指摘されてからでは取り返しがつかなくなると思った。
村木は大きく眼を見開いたままで山代の顔を見守っていたが、
「なるほど、これが偽物だと言うんですね。このセザンヌの八号の風景が偽物だと言うわけですか。これは面白い」
そんなことをにこりともしないで言ってから、
「一体、偽物として見たということはどういうことですか」
「詳しくは申し上げられませんが、一年程前にセザンヌの偽作だというものを見たことがあるんですが、その時見たのがこれだと思うんです」
山代大五は言った。
「これが、偽物!」
村木は信じられぬような顔で改めて問題の絵に眼を当てた。
村木は暫く黙って考え込んでいたが、突然、顔を上げると、
「いや、これは偽物かも知れん。それはありそうなことだ。あっても一向に不思議はない。とにかく、笑うべきことだと言うほかはない」
そんな短い幾つかの言葉を散発的に口から発射させた。そして、こんどは多少ゆっくりと、
「これが偽物だとなると、少しことは面倒になる。もう少し前に判ると、まだよかったが、いまではちょっと遅過ぎる。展覧会の図録に載る。それはそれで、まあいいとしても、この絵を見せるために大勢の人を二回招いている。大臣まで招んだ。新聞や雑誌で褒めてくれた人もある。褒めるのは勝手だが、みんな私への好意からだ。いや、褒めるのは勝手だとは言いきれない。――ところが、これは偽物だった。偽物だったではすまされん」
村木はまるで独り言を口から出してでもいるように、少し俯き加減の姿勢で、一語一語ゆっくり考えて、その上でそれを言葉にしているような喋り方をしていた。そして、そうした言葉の出し方を打ち切ると、
「そうだとしたら、一体、これはどうしたらいいでしょうな」
と、こんどは明らかに山代に話しかける態度で言った。取り乱しているのか、反対にでんと構えて落着いているのか、よく判らないようなところがあった。
「なにも、偽物と決まったわけじゃありませんわ。山代さんが、ただ――」
香村つかさが言った。彼女の方は明らかに取り乱していた。山代大五がいきなり何もかもぶちまけてしまったので、事態は収拾つかなくなりそうな気配を見せていた。
「いいや、これは怪しい」
村木は力を籠めて言った。
「そう言えば思い当ることがないわけじゃない。――偽物です、これは」
「なにも」
つかさは言った。
「いいや、これは」
村木は押しかぶせるように言って、また声を低くして、
「一体、こういう場合は、どうすべきでしょうな」
と、山代の方に言った。どうしたらいいか、教えてくれといった、すっかり相談を持ちかけて来る態度だった。初め部屋へはいって来た時の鷹揚《おうよう》さも、屈託のなさも、すっかりどこかへ棄てていた。
山代の方こそ自分がどうしたらいいか、訊きたいくらいだった。山代は自分の問題を考えていた。自分が承知の上で誰かに売り付けた偽物が、いまここにある。
山代として取るべき最上の方法は一つしかなかった。それはこれを買い戻すことであった。これが偽物だと世間に発表されないうちに、自分でこれを買い戻すことであった。
「私に買い戻させて戴けませんか」
山代は言った。
「買い戻す?」
村木はびっくりしたように山代の顔を見詰めた。
「少しも御迷惑はかけないようにしたいんです。貴方がお買いになった値段で、私が貴方から買い戻したいんです。大変な金でしょうが、それは何とかします」
「金!」
反射的に村木は口から出したが急にいままで忘れていた金のことが思い出されて来たといった風に、
「勿論、大変な金です。相当な金額です。セザンヌの絵でも何でもない偽物のために、なぜ、私があんな大金を棄てなければならんのか。そんな、ばかな!」
村木はまたひとり言の口調になっていた。
山代の方は山代の方で、そんな村木に構わず、自分が言わなければならぬことだけを、勝手に口から出している恰好だった。
「金はすぐはできません。しかし、三年なら三年と区切って待って下されば作りますよ。できようと、できまいと、それは作らなければなりません。どんなことがあっても作りますよ。ですから期限つきで、私に買い戻させて戴きたい」
山代は言った。山代が言った時その一部が初めて村木の頭にはいった風で、村木は、
「買い戻す? すると、これは貴方が持っていたんですか」
と訊いた。
「持っていたことがあります。それを、私はどこかへ売り捌いたと思うんです」
山代は言った。
「なるほど。すると、貴方のしたことはいいことではない」
村木が言った時、つかさがまた横から言葉を差し挾んで言った。
「山代さんは偽物だということを知っていれば、そんなことなさいませんわ。その時は勿論、偽物だということは知らないで売り捌いたんです。山代さんのなさったことは、勿論いいことではありません。でも、知らないで――」
「いや、違う」
山代がつかさの言葉を遮ろうとすると、村木は何を思ったのか、
「いいや、話さないでよろしい。私も聞きたくないし、聞いても何にもならん。何も私は知らんことにしておきましょう。偽物だと知っていて売ろうと、知らないで売ろうと、そんなことは、私には関係のないことです。――ただ、その代り、買い戻して貰わんと困る」
そう言った。
「ちゃんと買い戻して貰えば、それで私の方は、金の方の問題には何の文句もないわけです」
村木は言って、それから、
「二年や三年は待ちましょう。そのくらいの融通はつけましょう。金の問題はそれでいいとして、問題は金ばかりではない。――一体これが偽物だということを知っている人はどのくらい居ますかな」
と言った。書生が部屋にはいって来た。訪問者があるらしく、近寄って来て、名刺を差し出そうとすると、村木はそれは受け付けないで、ただ大きく手を横に振った。書生はまた出て行った。
「何人いますか。知ってるのは」
「私とこの女性と」
山代はつかさの方へ眼を当てて、それから、
「貴方でしょう」
「――三人ですね」
「そうです」
「ほかにはありませんか」
「ないと思います」
すると、村木はほっとした表情になって、
「じゃ、三人が知らんことにしていればいい。私が大金で偽物を買ったということも不名誉千万なことですし、偽物を売ったとなると、貴方も大変なことになる。――こういう問題では、私という人間は一応話が判ると思うんです。何も文句は言わない。貴方がそれを買い戻すというのであれば、ある期間は待ちましょう」
「一体、どのくらいで手に入れられたんですか」
「三千万円です」
「私はまたその二倍ぐらいにはなっているかと思いました。三千万では、私が手放した時の値段と大体同じだと思いますね。間に立った人は儲けていないのでしょうか」
「そこですよ、やはり、これが偽物である点は。――私の手にはいるまでに素人《しろうと》が一人と、画商二人と、都合三人の手に渡っているらしいんですが、貴方が最初に売った時の値段と、最後に私が買った時の値段が同じだということになると、誰も儲けていないことになる。真物なら、大抵、人の手に渡る度に値段は上がって行きます。この場合は、儲けたのは、最初に売った貴方だけということになる」
村木は言った。厭なことを言う奴だと、山代は思ったが、しかし、実際にそういうことになっているのだろうと思われた。村木は漸く落着きを取り戻していた。口から出すことが急にこうるさくなった。
「この絵を今日貴方が買ったことにする。そして金と引替えに現物を渡す。期限は何年何月何日、そういう一札が要りますね。そして書類にはしないが、偽物だということはそれまでかたく秘めておく」
「結構です。書類にしておきましょう」
山代が言うと、
「それは二、三日中に、わたくしがここへお伺いして、ご相談して作りますわ。それでよろしゅうございましょう」
つかさは言った。つかさは山代に任せておくと、何をするか判らないという不安があるらしかった。
「そうして貰いましょう」
山代が言うと、
「結構です」
村木もまた言った。そして重大な話は一応これで終ったといった風に、あらゆる感慨を籠めた調子で、
「驚きましたな、実に」
と、村木は言った。
つかさは、問題がここまで来てしまった以上、山代の記憶喪失のことを話してしまった方がいいと思ったが、それはこの次に書類を作りに来た時のことにしようと思っていた。その時、
「いいにはいい絵ですな」
ふいに山代大五は言った。偽物だと判っていても、山代にはどこかにしっとりと落着いたものが感じられた。これからこの偽物の絵のために、おそらく自分は大変な苦労をするであろうが、しかし、その割に腹立たしくないのは、自分の心が画面に吸い込まれて行くような思いがあるからであろうかと思った。
「いいですか」
村木は言った。
「いいですね」
「ふうむ」
村木の顔にまた新しく今までとは別の不安が流れた。
「偽物ということには間違いないでしょうな」
村木はそんな言い方をして、
「偽物だということがはっきりと判らんとお返ししませんよ。真物だったら、えらい損だ」
「お話がすっかりもとに戻りそうですわね」
つかさははっきりと皮肉を籠めて言って、
「そのお話は、わたくしが二、三日中にお伺いした時、詳しく申し上げましょう。偽物だと納得なさったら買い戻させて戴きますし、やはり真物だとお考えになったら、それはそれでいいわけです。山代さんの問題は、それで充分解消してしまうんですから。――では、今日は失礼させて戴きましょう」
つかさが立ち上がったので、山代も席を立った。
「じゃ、とにかく、近く来て戴きましょう。お待ちしています」
村木は玄関まで二人を送って来て言った。
村木家の門を出ると、二人は右手の方へ歩き出した。
「はらはらいたしましたわ。山代さんって、不用意になんでもお話しになるんですもの。でも、結局はあれでよかったと思いますが」
そう香村つかさは言った。
入 江
セザンヌの偽作の所在が判ったことで、山代の気持にはある落着きができた。三千万円の金を作って、それでそれを買い戻せばいいわけで、そうした大金を作る当ては、現在のところ彼にあろう筈はなかったが、しかし、金のできるできないは別にして、自分を罪人にしないですむ一つの可能な方法が与えられたということは、山代にとっては大きい救いであった。
これで山代は、病院に於ても、アパートに於ても、朝眼を覚ますと、まっ先にこのセザンヌの偽物のことが思い出されて来て、何とも言えぬ暗い気持に襲われたが、そうしたことだけは山代の生活から取り除かれた。
山代は、三千万円という金の額がいかなるものか、それを実感としては受け取ることはできなかった。自分がこれからいかなる仕事をして生きて行くかも判っていず、果して過去を失った人間が普通の人と同じように生きて行けるかどうかも判らなかった。
ただやがては、生きて行くために、自分が何か仕事をしなければならないだろうと思っているだけであった。そういういつかは仕事を始めなければならぬという考えにしても、自分が生み出したものでなく、多分に香村つかさに依って与えられたものであった。つかさがそういうことを言うので、自分もまたそういう気持になっているだけの話であった。
山代は現在、自分が幾ら金を持っているかはっきりとは知らなかった。つかさから銀行の預金通帳を与えられ、それをいま自分の部屋の机の鍵のかかるひき出しの中にしまってあるが、その金額というものも、果して現在の自分のこのような生活に対して、それが充分なものであるか、あるいは甚だ心細い額のものであるか、よくは判断できなかった。
このように、生きて行くということに対しては、山代は全く香村つかさという若い一人の女性によりかかっていた。つかさが探してくれたアパートにはいり、つかさが当分このまま何もしないで毎日を送れと言うので、その言葉に従って、何もしない毎日を送っているだけの話であった。
しかし、つかさに依って、少しずつ山代大五は常人として持たなければならぬものを取り返していた。そのことは山代自身には判らなかったが、第三者にはよく判った。そしてそのことを一番よく知っているのは、佐沼と高崎であった。佐沼は時折、アパートヘやって来たが、やってくる度に、
「もう少しですね。もう少しこうしていたら、何か仕事ができるようになるでしょう。大分確りして来た」
そんなことを言った。佐沼の眼には、このアパートも山代にとっての第二の病院として映っているようであった。
山代大五にとって一番の心配事は、セザンヌの偽作の行方であったが、それの所在がはっきりして、一応その問題が解決すると、次は百日紅の花の咲いている別荘で会った女性のことが、現在の彼の一番の関心事になった。山代大五の頭の中でそのことが最も大きい部分を占めるようになった。
しかし、このことでは香村つかさの助力を仰ぐことはできなかった。三年前の彼が、会ってはならないと自分自身に課した戒律を、自分が破っているか、いないかが問題であった。セザンヌの偽作の場合のように、法律的に自分が罪を犯しているかいないかという心配ではなかった。しかし、同じように、この問題にも何ものかへの怖れはあった。どこかに犯罪の臭いに似通っているものがあった。
しかし、山代大五の心の中で、その女への恋情が三年前と同じように、現在もなお生きているかどうかとなると、それは疑問であった。恋情は三年間の中断期間を置いて、三年前のものに繋がっているかどうか、彼自身にも判断がつかなかった。ただ、はっきり言えることは、その女に会ってはならないと自分に課した戒律の方は、恐らく三年前と同じままの姿で、山代の心の中に生きているということだった。そして、それを自分が破っているか、破っていないかの問題はやはりはっきりしておきたかった。そうした気持が強かった。
しかし、この問題の謎《なぞ》を解くいと口は、山代には皆目見当が付かなかった。つかさの助力を仰ぐわけにも行かなかったし、佐沼や高崎の応援を得るわけにも行かなかった。
アパートヘ移ってから、小さい台風が二回やって来た。東京の方は少し強い雨が降り、強い風が吹いた程度で終ったが、関西の方は幾つかの被害地を出し、それぞれ相当の被害があった。
そして夏が去り、本格的に秋の気が多摩川のアパートの周辺に立ち籠め始めたある日、つかさが訪ねて来て、これからのことを相談した。
「きのう佐沼先生に伺いましたら、もう旅行へ出ても構わないだろうとおっしゃっていました。やっとお許しが出ました」
つかさはそんな言い方をした。
「いままでは旅行はいけないということになっていたんですか」
「いけないというんではないですが、無理だろうとのことでした。わたくしにもやはり、そう見えていました。でも、もう大丈夫ですわ。すっかり確りなさってしまいました」
つかさにそう言われると、山代は自分でもそうかと思った。この間までの自分がどこか頼りなく、現在の自分がそれに較べるとずっと確りしているように思えた。
「もう御病人ではありませんわ」
つかさは言った。その言葉はやはり山代には嬉《うれ》しかった。
「わたくし、一度おくにの伊豆へいらしってみたら如何かと思います。これはわたくし一人の考えで、果しておくにに帰るのがいいことかどうか判りませんが、帰省なさることが気持の上でも落着くでしょうし、東京にいらしった三年間に、おくにに帰っていないとも限りませんわ。東京からでは近いところなんですから。そういうことも確かめておいた方がいいと思います」
つかさは言った。郷里の伊豆のことを持ち出されると、山代の眼には自然に郷里の山野が浮かんで来た。低い丘、そこを埋める初秋の陽に照らされている茅《かや》や萩、白い街道、天城山、天城の肩にかかる白い雲、そうしたものが堪らない懐かしさで思い出されて来た。入院中一度、山代はいまの自分を暖かく抱き取り、優しく心を揺すぶってくれるものは郷里伊豆の山野しかなく、堪らなくそこを訪ねてみたい気持に襲われたことがあったが、そのあと郷里のことを思い出したのはいまが初めてであった。
入院中そのような郷里の自然に心を惹かれながら、いざ退院したとなると、一度もそのことを思い出さないようなところに、山代は自分の頭脳が完全には正常に復していない点を見るべきであるかも知れないと思った。
「行きたいですね。行ってみましょう」
山代は言った。
「そうなさいませ。気持も変りますわ、きっと」
つかさは言った。
「それにしても一人では何となく不安ですね」
「わたくし、ご一緒に参ります。佐沼先生にも御相談したら、ご一緒にわたくしがついて行くのならいいだろうということでした」
山代は、つかさが自分に関するあらゆることを、すべて佐沼に相談していることが、何となく不満だったが、しかし、自分がそのような段階にある病人である以上仕方なかった。まだ医者の手を完全には離れていないのである。
「何日ぐらいの旅行ならいいんでしょう」
山代がそんな訊き方をすると、
「何日でもよろしいでしょう。佐沼先生から、もう大丈夫だというお返事があったんですから。――こんどは最初の旅行ですから、わたくしがご一緒に参りますが、この次からはもうおひとりでいらっしゃらなくては」
山代はそうした言葉を聞くと、自信ができたような、それでいて不安なような、曖昧な気持だった。
つかさは伊豆へ行く日を決めて、その支度をするためにもう一度訪ねて来ると言い置いて、その日は帰って行った。山代は急に眼の前が生き生きとひらけたように感じた。山代は五日程あとの、伊豆への出発の日が、子供のように待ち遠しい気持だった。
伊豆へ発《た》つ日、つかさはくるまに乗って、アパートヘ山代を迎えに来た。山代は前日つかさが作ってくれたスーツ・ケースを持って、くるまの来る十分程前からアパートの玄関口に立った。子供が修学旅行へでも出るような、そんな落着かない気持だった。
からりと晴れ渡った気持よい秋晴れの日であった。くるまが来ると、山代はすぐそれに乗った。旅へ出るという思いは、かなり遠いものであった。大阪の新聞記者時代の末期は殆ど取材のための出張というものはなかったので、旅へ出るという思いは、山代の場合、かなり以前のそれに繋がっているようであった。
「画商をやっている頃、旅へ出なかったんでしょうか」
山代はさっきから頭を擡げ出している疑問を口に出してみた。
「さあ、そのことはよくは判りません。ただ、わたくしは、旅行鞄など持っていらしった山代さんはお見掛けしたことありません。旅行などお好きでないように見えましたわ」
つかさは言った。山代は病院を退院する日、不安な思いに閉ざされたが、いまの場合は少し違っていた。同じように不安な思いはあったが、しかし、またどこかに期待に似た思いもあった。自分でも知らない自分の過去の一部を、あるいは知ることができるかも知れない。そして、こうした期待を抱き得るということはそれだけ自分が健康を取り戻し、正常人に近付いた証拠でもあろうかと思われた。
八重洲口でくるまを降り、二人は改札口を抜けて、湘南電車の発着するホームヘ上って行った。
「ここらで待っていましょうか」
つかさが言ったので、山代は階段を上ってすぐのところで足を停めて、足許にスーツ・ケースを置いた。その時、
「山代さん」
そういう声を耳にして、山代は背後を振り向いた。恰幅《かつぷく》のいい中年の男が笑いを顔に浮かべて立っていた。
「どこへ?」
相手は親しい口調で言った。
「伊豆へ行くところです」
山代は答えた。相手が何者であるか全く記憶はなかったので、山代は自然に自分の顔のこわばるのが判った。
「そうですか」
相手は言って、そのことにはさして関心はないらしく、
「いかがですか、その後」
「はあ?」
山代が曖昧に返事をすると、
「わたしの方は最近すっかり駄目になりました。この間、箱根へ行って、すっかりひどい目に遇《あ》いました。難しいものですな、ゴルフというものは」
相手はそんなことを言って、笑った。
山代は、相手が自分とゴルフで知り合いになった人物であるらしいことは判ったが、相手に満足を与えるような相槌を打つことはできなかった。誰か傍から見ていたら、その眼には山代の態度はひどく無愛想に映ったに違いない。
「では――」
相手はちょっと会釈すると、山代のところから離れて行った。
「どなたですか」
つかさが直ぐ訊いた。
「それが判らないんです。どうもゴルフ仲間らしいんです」
すると、つかさは、
「じゃあ、わたくし、名刺を戴いて来ますわ」
そう言うと、すぐ男を追って行った。山代は、さほど遠くないところで、つかさといまの人物が向い合って立っているのを見ていた。
が、間もなくつかさは戻って来ると、
「戴いて来ましたわ」
そう言って、山代の方へ一枚の名刺を差し出して来た。
「何と言って貰ったんです」
つかさのそうした行動に多少舌を巻きながら、山代は訊いた。
「――山代さんがご住所を忘れましたので、お名刺を戴きたいと言っております」
つかさは、自分が男に言った言葉を、そのまま口から出した。山代は名刺に眼を当てた。名刺には興亜製薬庶務課長、由峯一郎≠ニ刷られてあった。
電車がホームにはいって来ると、二人はそれに乗った。電車が動き出してから、
「僕はやはりゴルフをやっていたと思うんですが、そういう僕に気付きませんでしたか」
山代は訊いた。
「さあ、わたくし、全然存じませんでした。本当におやりになっていたんでしょうか。ゴルフの道具もありませんし、ゴルフのゴの字も、おっしゃったことありませんでした。高崎さんに言わせると、クラブの振り方は本式なんだそうですけど」
それからつかさは、
「尤も、わたくしが知らないだけのことかも知れませんわ。ゴルフ以外のことでも、わたくしの知らないことが多いんですもの。知っているのはお店にいらっしゃる時の極く一部分ですわ。わたくしを時折しか呼び出さないでおいて、あとは何をしていらしったんでしょう」
ちょっと山代を睨むようにして見せてから、香村つかさは笑った。窓際に坐っているつかさの顔は、いつもより明るく若々しく見えた。
横浜を過ぎる頃から山代は窓の方へ顔を向け続けた。初秋の陽を受けている海も、雑木に覆われた丘も、いくら見ても倦きない眺めであった。熱海に近付くと、何となく山のたたずまいが伊豆独特のものに変って来るのが感じられた。
三島駅から修善寺行きの電車へ乗り替えた。山代はこの電車の沿線にあるN村の中学校に通っていたので、この辺は眼にはいって来るもの総てが懐かしかった。
「僕はこの電車がまだ電車にならない前の軽便鉄道時代から知っていますよ」
山代は言った。
「軽便鉄道というものは、名前は勿論知ってますけど、どんなものか知りませんわ」
「汽車の玩具と思えばいいでしょう。機関車も客車もみんな小さく、しかし、何とも言えずいいものでしたね」
「何回、それにお乗りになりました?」
「いいや、軽便鉄道に乗ったのは二、三回しかありませんよ。僕がまだ小学校へ上がらないころのことですからね。何しろ伊豆の山奥に住んでいて、沼津や三島に出て来るのは、年にせいぜい一回か二回だったでしょう」
「中学時代は?」
「中学時代は自転車通学でした。上級生になってから寄宿舎にはいりましたが、三年までは毎日自転車で、四里程の道を通ったものです」
山代が言うと、
「自転車にお乗りになれますの? いまは、とても、そんな風には見えませんけど」
つかさは笑った。
「いまなら、自転車が潰《つぶ》れてしまうでしょうが、その頃はうまいものでしたよ」
こうしたことを話していると、山代は自分が病人であることを完全に忘れてしまっていた。つかさの方もまたそのことを忘れているらしく、山代に中学時代のことを次々に質問していた。
山代は自分の卒業した中学のある村へ電車がはいって行くと、窓の方へ体を捻じ曲げて、眼に映って来るものを一つ一つつかさに説明した。電車が終点へ着くと、つかさは、
「ここに旅館をとってありますのよ」
と言った。山代の郷里の村は、修善寺から四里の地点にあった。山代は勿論、郷里の村まで行って、そこの旅館へ泊るつもりだったので、つかさの言ったことはひどく意外に感じられた。
「僕の郷里はバスで一時間程のところです。まっ直ぐに行ってしまった方がよくはないでしょうか」
山代が言うと、
「やはり、ここに泊りましょう。その方が刺戟が少いと思います」
「佐沼先生のさしがねですね」
「そうです」
山代は素直につかさの言葉にしたがうことにした。
修善寺の旅館にはいると、二人のために既に部屋が二つ予約されてあった。
夕食はつかさが山代の部屋へ来て、そこで一緒に摂った。食卓に向い合って坐ると、山代は自分の妻でもなく恋人でもない女性と向い合っている自分に不思議なものを感じた。一体、つかさという女性は、自分にとって何であろうかと思う。
山代はつかさがこうして自分の傍に居ることで充分満足を感ずるし、また満足を感ずる以上に、自分の体の一部ででもあるかのような安心感を覚える。
女中がビールか日本酒を飲むかを訊ねに来た時、山代はすぐ、
「要らない」
と答えた。少しも飲みたくなかった。
「ビールでも自分から飲みたいと思うようにならんといけないでしょうね。しかし、まだ何となく不安なんです。ビールを飲んだとたんに、きのうまでのことを忘れでもしたら大変ですからね。佐沼先生のことも、貴女のこともすっかり忘れちゃったなんてことになったら救われませんよ」
山代は笑ったが、しかし、気持は真面目だった。実際にそうした不安があった。
食事はゆっくり摂った。山代は、もう何年にもこのように落着いた気分で、食卓に向ったことはないと思った。
「あすおくにの村へくるまで行って、くるまで帰って参りましょう。その方がよくはありませんか」
つかさは、一度に強い刺戟が山代を襲うことを怖れている口振りであった。
「大丈夫ですよ。伯父の家に顔を出して、伯父だけに会って来ましょう。親戚も多いし、村中みんな知っているようなものですが、誰に会ってもそう昂奮はしないでしょう。父が亡くなるまでは割合頻繁に訪ねていますが、父が亡くなってから、どういうわけかすっかり疎遠になってしまいました。親戚の方でも僕の方を敬遠するし、僕の方も親戚を何となく白眼視する気持になってしまったんです。そのくらいですから、誰に会っても、別段懐かしくもないし、気持を昂ぶらせるようなことはありません」
「そんなものでしょうか」
「そうですよ。しかし、郷里の村の山とか、川とか、道とか、そうしたものは懐かしいですね。あす見せて上げましょう」
山代は郷里の自然を思うと、そこへ体全体が吸い込まれて行くようなじんとした思いに打たれた。
山代とつかさが、山代の郷里の村へ向うために、修善寺の旅館を出たのは九時頃であった。くるまは狩野川に沿った道を走った。
山代の眼には、狩野川も、下田街道も、それに沿った周囲の風物もすっかり違ったものに見えた。狩野川台風に依って、以前静かな渓流だった狩野川はすっかり河相を変えて、いまや堂々たる大河になっていた。河岸はところどころコンクリートで固められた堤防ができていて、すっかり河筋を露わにしている。
「ひどく変ってしまいましたよ」
山代は窓外に視線を当てながら、憮然とした面持ちで言った。ここは郷里とは違う、そんな気持だった。しかし、つかさには初秋の伊豆の風物は充分美しく見えているようだった。
「いいところじゃありませんか。久しぶりですわ、こうした気分になったのは」
「以前はもっとよかった」
山代は自分の知っている昔の伊豆の風物をひと眼でもいいからつかさに見せたかったと思った。
修善寺から山代の郷里の部落までは四里程で、くるまで二十分程の距離だったが、方々で道路工事が行われていたり、大型バスと擦れ違ったりするので、くるまはいかにものろのろと進んでいる感じだった。
しかし、それでもくるまが郷里の村へはいると、山代の眼に映る自然は次第に違ったものになって来た。やはり自分が幼時を過した郷里の山や川が、それ以外の何ものでもないものが、そこには昔のままの形で置かれてあるように思われた。
「やはり来てよかったですよ。どうして僕は郷里を長い間敬遠していたのかな」
思わず、山代はそんな言葉を口から出した。そうした言い方にも、また僅かな時間の間の気持の変り方にも、山代自身、やはり一種の昂奮といったものを感じないわけには行かなかった。正常人なら、このような言葉を口から出さないかも知れない。自分が感じたことを、すぐそのまま言葉に置き替えて行くところは、多少自分でも異常に思われた。
「昂奮しているでしましょう、僕は」
「いいえ」
と、つかさははっきり否定して、
「そんなことに気をお遣いにならなくて結構ですわ。長年お帰りになっていない郷里へお帰りになったんですもの、そりゃあ、山代さんでなくたって、多少気持は昂ぶりますわ」
つかさは言った。つかさにはそうした山代が幾らか痛々しく映っているようだった。くるまが部落の入口になっている橋を渡ると、
「そこの坂を上がって行って下さい」
山代は運転手の青年に言った。
くるまは坂を上がって行った。坂を登りきって少し行ったところで、道は山手へ行く道と新道の方へ出る道とに岐《わか》れている。山代はそこでくるまを停めさせて、
「僕の家はここから二丁程の山裾にあります。僕の家といっても、いまは遠縁にあたる人の手に移っていますが」
山代は言ってから、
「行ってみましょうか」
と、つかさの意見を求めた。山代自身曾て自分の家であり、いまは人手に渡っている幼時の思い出のいっぱい詰まっている家を訪ねたくもあり、訪ねたくもない気持であった。東京を発つ時は勿論自分の生家を訪ねるつもりであったが、郷里の土を実際に踏んでみると、それを眼に収めることに多少の抵抗を感じた。そうした山代につかさもまた気付いている風で、
「お家へいらっしゃるのはこの次になさいましたら? こんどは伯父さまだけにお会いになることにしたらどうでしょう」
そう慎重に言った。このつかさの言葉で山代の考えは決まった。
「じゃ、まっ直ぐに行って下さい」
山代は運転手に言った。くるまは旧道を通り抜けると、両側に何軒かの店舗の並んでいる多少町らしい家並みを持った新道へ出た。旧道は昔のままだったが、新道の方は道も広くなり、昔なかった店もできて、すっかり部落の趣を変えていた。山代は何回となく、ここは自分の郷里ではないといった思いに打たれた。郷里に対する懐かしさが素直に心にはいって来たり、それに対する反撥が烈しく突き上げて来たりすることが、自分でも幾らか病的に感じられた。
くるまは新道に沿った問屋風の大きな構えの家の前で停まった。ここは山代にとってはただ一人の伯父の家であった。伯父は戦前は材木業を派手に大きくやっていたが、戦後は年老いた関係もあって、仕事から手を引いて静かに暮していた。
そうした伯父のことは、勿論時折はいって来る噂で聞き知ったもので、ひっそりした店構えは、山代がいま初めて眼にするものであった。山代だけくるまから降りた。山代は広い土間の一隅で、伯父とほんの僅かの間立ち話をして帰るつもりだった。
山代は出て来た女中らしい中年の女に自分の名前を告げた。すると、その女と入れ代りにすぐ若い女が出て来た。山代の知らない都会風の女だった。
「初めまして、わたし、辰男の家内でございます」
女は自己紹介をした。この家の次男の嫁であった。
「今日、あいにく父も母も知人の祝言で沼津へ出まして」
「じゃ、みなさん、お留守ですか」
「辰男でも居るといいんですが、辰男も一緒に参りまして」
そう女は言った。
山代は伯父夫婦が留守では仕方がないので、すぐ辞去することにした。山代は、次男の嫁なる女性がくるまの内部へちらっ、ちらっと視線を投げているのに気付くと、紹介しないのも変にとられそうな気がして、つかさにくるまから降りて来るように合図した。
つかさが降りて来ると、
「香村さんです。僕、少し体を悪くしてますので、附き添って来て貰ったんです」
そう山代は言った。説明が足りないことは判っていたが、どのように取られてもたいしたことではないと思った。つかさは黙って頭を下げた。
「昨年の夏いらしった時は、あいにくわたしの方が留守いたしまして」
女は言った。昨年来たということで山代ははっとした。
「昨年でしたかね」
そんな風に山代は言った。
「夏でございましたわね、確か」
「そうでしたかね」
「三津《みと》のどなたかの別荘へいらしって、そのお帰りとかでしたね。あとで、わたし、そんなことを伺いました」
「はあ」
山代は曖昧に言った。そしてつかさの方へ眼を遣った。つかさの応援を求めるつもりだったが、つかさはつかさで、咄嗟《とつさ》には言葉も出ない風だった。
「じゃ、どうぞ伯父さんにも伯母さんにもよろしくお伝え下さい。今日はこれで失礼いたしましょう」
山代が言うと、
「まあ、もうお帰りですか。せめて、お茶だけでも」
相手が奥へ立ち去って行こうとしたので、
「いや、ほんとに今日はこれで失礼します。少し急いでおりますので」
山代は言って、つかさを促して、その土間を出た。女は下駄をつっかけて土間に降りて来た。
「これからどちらへ」
「下田街道を少し山の方ヘドライブして、それから三島か沼津の方へ出ます」
山代は言った。くるまが動き出すと、山代は運転手に下田街道をドライブするように命じた。そして暫く押し黙っていたが、くるまが部落を通り抜けて、狩野川の断崖に沿った道を走り出すと、
「驚きましたね」
そんな言葉を口から出した。
「昨年、ここにいらしっておりますのね」
つかさも言った。
「そうらしいですね」
山代はまだ自分の胸の騒がしさが静まっていないのを感じていた。
「なんとか、もっとお訊きになれませんでした?」
つかさは多少不服そうに言った。
「訊けませんでした。あれが精いっぱいです。僕は貴女に口をきいて貰いたいと思った」
「でも、わたくしには無理ですわ。附き添いが何か口出ししたらおかしいですわ」
つかさは言った。くるまは山代の郷里の部落のほかに二つの部落を過ぎた。山代は親戚に当る家の幾つかをつかさに教えた。どこも農家らしく藁屋根の家で、申し合せたように庭先きには燃えるような赤さの葉鶏頭が見られた。
下田街道は少しずつ上りになって、杉木立の中を走っていた。山の斜面を埋める雑木林が風で動いている。
「伊豆は早春の二月頃が一番いいと思います。谷間《たにあい》に白い梅がちらほら見えて、空気がひんやりと冷たく――」
山代が言うと、
「その頃、また連れて来て戴きたいと思いますわ」
つかさは言った。そして、そう言ってから、
「山代さんが昨年ここへいらしったのは、三津というところの別荘へ行った帰りだったと、あの方、おっしゃいましたわね」
と、話をもとに戻して言った。つかさに言われるまでもなく、山代はさっきから、そのことをちらちら頭に浮かべていた。何か考えなければならぬことが沢山ある思いだったが、それを先きに押し遣っている気持だった。
「別荘って、どなたかとお会いになったところでしょう」
山代は思わずつかさの方へ顔を向けた。山代はつかさに別荘のことを話した記憶は持っていなかった。佐沼から聞いて知っているのであろうと思われた。
「そうです」
山代は返事してから、
「その別荘と、さっき話の出た別荘と同じ別荘かどうか判りませんが」
と言うと、それは受け付けない感じで、
「そこへ行ってみましょうか。遠いところでなかったら」
つかさは言った。
「ここからくるまなら一時間半程のところです」
「では、今日行けますわね」
「今日行きますか」
「ええ、行けるんでしたら」
「しかし、別荘というだけで三津のどこにあるか判らないかも知れません」
「大きな町ですか」
「いや、海に沿った小さい部落です」
「では、別荘もそう沢山はないでしょう」
「そう思いますね」
「別荘全部当ってみても、知れておりますわよ、きっと」
つかさの言い方は幾らか強引だった。
山代はどちらかと言えば、三津へその別荘なるものの正体を調べに行くのは、自分ひとりの仕事にしたい気持があった。伯父の家の次男の細君の口から別荘という言葉がとび出した瞬間、百日紅の咲いていた別荘は三津だったのかと思った。画商が商売だから、山代はこれまでに、いろいろな人の別荘へ行っているに違いなかった。東京の美術愛好家の別荘が伊豆の海沿いの部落にあって少しもおかしくなく、そこへ自分が仕事で訪ねて行くことも充分考えられることであった。
しかし、山代は別荘と聞いた瞬間そのようには思わないで、それをいきなり白い砂のぎらぎらした、百日紅の咲き盛っていた別荘と結びつけて考えたのであった。その別荘こそ百日紅の別荘に違いないと思った。そこへ、自分はあの女性に会うために出掛けて行ったのだ。そしてそこでその女性と会ったのである。
山代はどういうものか、つかさとそこへ訪ねて行くことには、何か心進まないものを感じた。そうした山代に引き替えて、つかさの方は反対に、そこへ行くことにはっきりと熱意を示していた。
「今日、そこへ行ってみましょう」
「行きますか」
「お厭ですか」
「厭ではないが」
「でも、何か気がすすまないみたい」
「じゃ、行くことにしよう」
山代は言った。つかさに言われて、それでもなお行くことを躊躇しているのは不自然に思われそうだった。
くるまはそれから三十分程走って、天城の峠まで行った。
山代は天城峠にあるトンネルが、幼時の記憶ではもっと大きいもののように思っていた。こんな筈はなかったと思った。そんな山代を、つかさは峠の雑草の中に立って、心からおかしそうに笑った。つかさの立っている足許には、何種かの秋草の花が咲いていた。
くるまはそこからまっ直ぐに西海岸の三津部落に向うことにした。三時頃三津に着いて、夕方までに修善寺に引き返せる筈であった。
くるまは再び山代の郷里の部落を通った。山代は道を歩いている人の中に、幾つか知っている顔を見出した。名前は覚えていなかったが、その顔には記憶があった。
「山代さんの御両親のお墓はここにありますの?」
つかさは訊いた。
「あの山の上にあります」
山代は部落の西側の小さい山を示した。村の墓地のある山だった。
「お詣りしなくていいんですか」
「仕事も決まり、ちゃんと生活が落着いてから来ます」
「そうですわね。その方がよろしいかも知れませんわね」
つかさもしんみりした調子で言った。
くるまは再び狩野川に沿った道を降り、修善寺の温泉部落へははいらないで、長岡へ出て、そこから半島の西海岸へ抜ける道を取った。
海岸へ出ると、眺めはまるで変ったものになった。風があるのか、海面には小さい波が立ち騒いでおり、くるまの中に潮風と共に磯臭い香《にお》いが吹き込んで来た。
くるまは三津へ通じている海沿いの道を走った。屈曲の多いこの道は山代には懐かしいものであった。中学時代に何回もバスで通ったことのある道であり、海の波立ち方も、小さい部落部落のたたずまいも、山代の眼に親しいものばかりであった。つかさは東海岸は知っていたが、西海岸は初めてらしく、
「同じ伊豆の海と言っても、西海岸と東海岸ではまるで感じが違いますね」
と、しきりにそんなことを言っていた。
「西海岸の方が海岸線の屈曲が多く、どの漁村も小さい入江を抱えていて、総体に暗い感じですが、落着いていると思います」
山代は言った。くるまは山代の郷里の部落から一時間半足らずで、三津の部落へはいった。三津もまた山代の眼には昔の三津とは異ったものに見えた。海水浴場だった白砂の浜がいやに小さくなった感じだが、しかしそれではどこがどう変ったかと言われると困る気持だった。昔と同じように家々はぎっしりと海岸に詰まっていて、うっかりすると切岸からこぼれ落ちそうに見えた。
山代はくるまの運転手から三津には別荘らしい建物は二、三軒しかないと聞いたので、それとなくその全部を見てみることにしていた。運転手は部落の入口でくるまを停め、自分の知識を確かめるためにそこにあった小さい雑貨屋の中にはいって行ったが、間もなく戻って来ると、
「別荘は三軒あるそうです。三軒とも東京の人のもので、そのうち一軒は戦前からあり、あとの二軒は戦後に建てられたものだそうです」
そんなことを説明した。
「場所は?」
山代が訊くと、
「三軒とも蜜柑《みかん》畑のある丘の中腹に固まっているそうです」
「じゃ、そこへ登って行ってみるから、適当なところへくるまを停めて、待っていて貰おう」
山代は言った。山代は三津へはいるまでは何となく気持が落着かなかったが、別荘のある部落へはいってからは、すっかり度胸が坐ってしまっていた。
二人はくるまを部落の端れで棄てると、かなり急な細い坂道を登って行った。少し登ると、次第に眼下に海面が拡がり始めた。何カ月も運動というものをしてなかったので、山代はすぐ息切れがし、少し登っては足を停めて休んだ。
なるほど丘の中腹と思われるところに別荘風の建物が三軒、少しずつの間隔を置いて建てられてあった。二軒は玩具のように洒落たこぢんまりとした洋館で、一軒は日本家屋らしく瓦《かわら》の屋根を見せている。いずれも丘の斜面に建てられてあるので、海からの風を避けるためか、それぞれ頑丈な感じのコンクリートの塀を廻らせてあった。
山代は道に沿った最初の洋館の門の前に立った時、すっかり息を切らせていた。学生時代よく山に登り、山登りにかけては誰にも敗けない脚を持っていた筈だったが、いまは自分でも信じられぬような弱り方だった。
つかさもハンカチで顔の汗を拭いていたが、しかし、彼女の方は息は切らしていなかった。下から登って来る時は、小さい玩具のような洋館に見えたが、傍へ来てみると、かなり大きい構えで、門構えなど堂々としていた。留守番でも住んでいるらしく門は開いていたが、家は戸締りがしてあって、人が住んでいる気配はなかった。門札には秋山≠ニ書かれてあった。
「秋山さんという方のお別荘ですのね」
つかさは言って、それからこの苗字《みようじ》に記憶があるかというように、視線を山代に当てた。山代は秋山という名には思い当るものはなかった。
「ご存じありません?」
「知りませんね」
山代は言った。
「ここではないんじゃありません?」
「さあ、どうでしょう」
山代は曖昧に言った。自分が昨年の夏訪ねて来た家がここであるのか、ここでないのか、全く見当は付かなかった。つかさも山代にそう言われると困ったらしく、複雑な表情をしていたが、
「ともかく、あとの二軒を廻ってみてからのことにしましょう。いきなりはいっても変ですから」
と言った。山代もそれに従った。
二軒目の別荘は、最初の別荘から二十メートル程上にあって、道を挾んで反対側にあった。この方はコンクリートの塀に蔦《つた》を這わせてあって、傍へ行ってみるとかなり古いものだった。戦前からある別荘というのはこれではないかと、山代は思った。この方は洋館の二階の窓が開いていて、現在人が住んでいることを示していた。石の門柱には十河≠ニいう門札が填められてある。
「知りませんね」
山代はつかさに訊かれる前に言った。
「では、もう一軒の方へ行ってみましょう」
二人はその二軒目の別荘のすぐ上を、こんどは右手に曲って行った。三軒目の別荘だけが道から外れたところに建てられてあった。
「こんどのはもっと大きいお別荘ですわね」
つかさはちょっと足を停めて言った。前の二軒に較べると、敷地も建物もひと廻り大きく見えている。
山代は三軒目の門の前まで行って、足を停めた。塀はコンクリートで造られてあったが、門は和風の観音開きになっていて、それが固く閉じられてあった。横手に小門があったが、そこもまた閉じられてあった。門札はどこにも出ていなかった。
「空家にしてあるんでしょうか。お留守番の人も居る気配はないし」
つかさは言った。
「裏の方にでも、留守番の人の居る家でもあるんじゃないですか」
山代は言った。これだけ大きい家を空家にしておく筈はないと思った。二人は塀に沿って右手の方へ廻って行った。三軒の別荘の中ではここが一番高いので、海に向っての眺望は一番よかった。初秋の陽に照らされて、海面はところどころ銀色に光っており、何|艘《そう》かの小さい船が浮かんでいるのが見えた。
山代は別荘を三軒見てしまったいま、三軒のどこかへ自分が来たというような考えは、すっかり力ないものになっているのを感じた。それからまた山代が記憶の小さい島として持っている百日紅の咲いていた別荘風の家も、これら三軒の別荘とは全く関係のないものに思われた。塀に沿って歩きながら、
「この家にも、思い当るものはありませんか」
「ありませんね、全く」
「じゃ、この三軒のほかに、まだお別荘があるんじゃありませんか。運転手さんは三軒しかないと言いましたが」
「どうですかね」
山代は別荘探しに対して急に無気力になっていた。こんなことをしていても始まらないといった気持が頭を擡げ始めていた。二人は塀の切れたところを、塀に沿って曲った。半間程の幅を持った小道が塀に沿って走っている。
山代は塀に沿って一廻りして帰ろうと思った。二人がそのだらだら坂を登り始めた時、突然裏門らしいところの戸口が開いて、五十年配の土地の人らしい女が出て来るのが見えた。相手は見慣れない男女が塀に沿って歩いているので、何事かと思ったらしく、戸口のところに立ち停まったまま、山代たちの方に視線を当て続けていた。その女のところまで歩いて行った時、つかさは女に声を掛けた。
「ここ、どなたのご別荘でございますか。ご立派なお宅ですわね」
すると、女は少し周章てた風で着物の襟許をかき合せながら、
「東京の後川《あとがわ》さんのお宅です」
と答えた。
「お留守番なさってますの?」
「はあ」
その時、山代は開け放しにされてある戸口から内部に眼を当てていたが、そのうちにおやと思った。どこか見覚えのある感じだった。
山代は自分でも知らないうちに眼を据《す》えていた。いま自分の眼に映っているものは、確かに彼が曾て一度眼にしたことのあるものに違いなかった。母屋の建物の横手に大きな八ッ手の木があり、その葉の茂りが、その向うに広く拡っているらしい中庭への見通しを妨《さまた》げているが、建物と、八ッ手の木と、その向うの庭の一部とから成る構図は、山代にとって初めてのものではなかった。そうした山代に気付いたのか、
「後川さんって、ご存じじゃありません?」
「いや」
短い返事を口から出したまま、なおも山代は戸口から内部を覗き込んでいたが、
「どうも、僕はこのお宅へ一度来たような気がする」
と言った。当然のこととして、そうした山代の言い方は、留守番の女に不審な気持を抱かせたらしかった。
「いらしったんですか、こちらへ」
女は山代の顔を見詰めて言った。
「来たと思うんですが、それがどうも」
「いらしったんなら――」
「そう、それが、どうもね」
山代は苦笑すると、口調を変えて、
「突然で恐縮ですが、お庭を見せて戴くわけには行きませんか」
そう女に言った。女は改めて胡散《うさん》臭そうに山代とつかさの方へ眼を当てたが、その風采からして別に怪しい人物とも思われなかったらしく、
「そりゃ、見て戴いても結構ですが」
と、そんな言い方をした。つかさが傍から取り成すように言った。
「わたくしたち、方々でよそさまのお庭を見せて戴いているんですのよ。もしご迷惑でなかったら――」
すると、女は、
「お別荘でもここへお建てになるんですか」
と訊いた。
「いいえ、そういうわけでもありませんけど」
つかさが言うと、
「では、どうぞ」
女は自分が出て来た戸口からはいった。そして、
「あまりきれいにはしてありません。夏の間は東京から家の方が見えますから、掃除してありますが、いまは――」
そんなことを言いながら、山代とつかさを案内するように、八ッ手の木の横を奥へ向って歩き出した。女のすぐあとに山代が続き、そのあとにつかさが従った。応接間か書斎か判らぬが、そこだけ洋室になっているらしい角部屋に沿って曲ると、思ったより広い中庭が見えた。庭の四周には植込みが配されてあるが、そのほかには一本の木も一個の石もなかった。普通なら芝生にでもしたいところだが、芝は敷いてなく、白っぽい土の広場になっている。女が言い訳しただけあって、小さい雑草があちこちから頭を出している。
「確かにここへ来ましたよ」
山代はつかさに聞えるだけの低い声で言った。
山代はいま自分が立っている庭が、例の自分の脳裡にそれだけ残っている百日紅の庭であることを知った。家は全部戸締まりがしてあったので、縁側は見ることはできなかったが、しかし、戸を開けたら、そこがかなり長い広縁になっていることは明らかだった。
庭の感じはまるで違っていた。山代が記憶している庭は一面に白い砂が敷かれ、それが陽に当ってぎらぎらしていた。しかし、いま山代が立っている庭は、なるほど土は白っぽい感じではあったが、眼が眩しいほどぎらぎらしたものではなかった。
家の横手を見廻しても、百日紅の木は発見できなかった。あるいは裏の方にでも、百日紅の木があって、それが記憶の中でこの庭と結び付いているのかも知れなかった。庭の砂のぎらぎらした感じは、山代の記憶違いというより、恐らくその日の特殊な山代の気持が、山代にそうした感じを持たせたのであろうと思われる。ぎらぎら光っていたのは庭の砂ではなくて、山代自身のその時の感情なのであろう。
それはともかくとして、山代は自分がここで一人の女に会ったということだけは、紛れもない事実として認めなければならないと思った。
「やっぱりここへいらしったのですのね。それではこの小母さん、覚えていませんかしら」
つかさは言うと、右手の植込みのところで、そこにかかっている蜘蛛《くも》の巣を払っている女の方へ歩いていった。
「もう長年ここのお留守番なさっておりますの?」
つかさが訊くと、
「なんの」
めっそうもないといったように、女は大きく首を振った。
「わたしたちはこの夏からです。それまで長く留守番をしていた爺さんが去年の秋亡くなりましてね。その爺さんの内儀さんがこんど息子の家へ引き取られることになったので、そのあと、わたしたちがはいりました」
内儀さんは言った。それでは女が自分を知っていない筈だと、山代は思った。
山代は、つかさが女からこの別荘の持主である後川家のことをいろいろ聞き出しているのを知っていたが、その方へは近寄って行かなかった。その二人のところには何か無気味なものが渦を巻いてでもいるように思われ、その方へ近付いて行く気にはなれなかった。
一体、自分はこの家へ何しに来たのだろう。来た以上は、何か目的を持って来たのに違いない。あの女性は長い縁側の中頃へ一人で腰を降ろしていたのだ。自分はいまそうしたように、門からはいり、八ツ手の株の横を通って、この庭へはいって来たのであろう。季節は夏の初めか夏の盛りであるに違いない。あの女性は夏の一日を持て余しているとでもいった風な感じで、ぼんやりと縁側に腰を降ろしていたのである。
「どうもお邪魔いたしました。ほんとにいいお庭ですわ」
そんなつかさの言葉を、山代はぼんやり耳にしていた。記憶の小さい欠片の舞台に自分を立たせてみると、軽い眩暈のようなものが、絶えず自分を襲っているような変な気持だった。自分は曾てここに来た。そしてこの庭に立っていた。それだけが判っていて、そのあとも前も、すっかり断ち切られている。
「では」
つかさに促されて、山代はつかさのあとから、再び八ツ手の株の横を通り、門から外へ出た。
女は戸口まで送ってくれ、つかさと山代が歩き出しても、二人の方へ視線を投げたままそこに立っていた。二人は最早用のなくなった他の別荘の前を素通りして、かなり急な坂を海の方へ降りて行った。
「お疲れになりました?」
つかさは労るように山代に言葉をかけた。
「疲れませんが、何となくぼうっとしました。変なものですからね」
山代は素直にありのままを言った。
「それはそうでしょう。でも、その代り大きい仕事をなさいましたわ。ここへどうしていらしったか、直きにお判りになりますわ。後川さんといういまの別荘の持主の東京の住所も聞いて来ましたから」
つかさは言った。山代はそれに対して返事をしなかった。返事をするのも苦しい気持になっていた。
二人は再びくるまに乗って修善寺へ向った。前の道とは違って、すぐ三津から山越えして行く近道があるので、その方を取ろうとする運転手の意見を押えて、山代は海に沿って走る前の道を取って貰うことにした。くるまの窓から海を眺めて行きたかった。山代を襲っているいまの疲れを、海面が吸取紙のように吸収してくれそうな気がした。
「セザンヌの絵の在り場所も判りましたし、百日紅の咲いていたというお庭も判りました。でも、この二つのことも、そのことだけが判っただけで、これをいと口として、いろいろなことを引き出して来ないと何にもなりませんわ。でも、それは山代さんご自身がなさらないといけないことで、わたくしにはできません」
つかさは言った。
「だって、これから先は山代さんご自身の生活の内部にはいることで、どんな大切なことが出て来るか知れません」
「そんなことはありませんよ。僕の過去から何が出て来ても、それを貴女になら知って戴いて一向に構わないと思います」
「そうでしょうか」
つかさは言って、あとは口を噤んでいた。山代はつかさが百日紅の庭で自分が会った女のことにこだわっているのが判った。しかし、山代もまたそのことには触れなかった。
修善寺へ帰ったのは夕刻だった。つかさと一緒に夕食を自分の部屋で摂ると、山代は疲れているので早く寝ると言って、つかさに彼女の部屋へ引きとって貰った。
実際に一日くるまに揺られたので疲れてもいたが、それよりひとりになって考えなければならぬことが沢山あるような気がした。三津の後川家の別荘のことで、何か重大な大きなものが自分の前に立ちはだかっている感じだった。
山代は旅の第二夜を初めてものを考える時間で埋めた。これまでもものを考えないわけではなかったが、一つのことを突き詰めて考えたことはなかった。あるところまで行くと、いつも思考は散漫になり、ばらばらになって四方へ散って行った。従って、一つの問題を長時間にわたって考えることもできなかったし、深く追求して行くこともできなかった。また一つのことと他のことを連関させて考えるといったこともできなかった。
しかし、この夜、山代は初めて、自分が失っている記憶の周囲を、ああでもない、こうでもないといった風にうろつき廻った。正常人がものを考える、それと同じ考え方で、自分を取り巻いている問題を考えた。
山代はきのうまでの自分が、どうして自分の問題を考えていなかったか、それが不思議に思われるくらいであった。久しぶりで旅へ出たことが、あるいはその旅に於て郷里の山や、海や、空や、樹木を見たことが、山代の頭脳をこのような状態におくことに於て、何か特別な役割を果しているのかも知れなかった。山代は、しかし、十時頃眠った。床にはいって、あれこれものを考えているうちに、疲れ果ててしまった形で、いつとはなしに眠りの中に落ちてしまったのであった。
翌日、山代は早く眼覚めた。時計は停まっていた。耳をすましても、旅館の内部はしんとしており、廊下を歩く人の足音も聞えないで、まだかなり早い時刻と思われた。
山代は廊下に出て、雨戸を繰った。朝の冷たい空気が山代の肌に沁み込んで来た。まだ陽は当っていず、別館の方の浴室の窓から白い湯気が立ち上っているのが、何となく冬の朝ででもあるような感じで山代の眼に映った。山代はいまが九月の初旬であることを、すぐ思った。と同時に、山代は大きく深呼吸をして、両腕を左右に伸ばした。山代は自分が健康であることを感じた。健康であることを感じたのは、退院してから初めてのことであった。山代は自分の頭脳が何でも感じとってしまうみずみずしさに溢れ、自分の肉体のどの部分も、それぞれ活溌に動き出したいような力で充実されているのを感じた。
山代は籐《とう》椅子に腰を降ろし、自分がゆうべからまるで違った生きものになっているのを感じた。山代はいまや全く健康を取り戻していると言ってよかった。佐沼やつかさにそう言われたのでなく、自分自身でそれを感じていた。
〈崖(上) 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年一月二十五日刊