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井上荒野
だ り や 荘
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だ り や 荘
1
両親は車の事故で死んだ。
一年前の五月。母がカゴを編むための山葡萄《やまぶどう》の蔓《つる》を採りに二人は出かけたのだった。
車が落ちた峠は難所だが父には慣れた道のはずだった。結局その「慣れ」が原因だろう、と葬儀に来た人たちは話していた。車はぺしゃんこになったが燃えなかったので遺体はきれいだった。ミズバショウが満開の湿地が現場であったことを、多くの人が口にして、杏《あんず》と、姉の椿《つばき》を慰めた。
二人一緒だったのがせめてものことですね、とも、みんなが言った。父と母は、誰が見ても仲のいい夫婦だったから。ワゴンの後部には一抱えほどの蔓と、蓄音機と古いタンゴのSPレコードが入っていた。たぶんどこか景色のいいところでロマンチックにひたるつもりだったのだろう。そのレコードは割れてしまっていたが、同じ演目のCDを杏の夫の迅人《はやと》が探してきて、葬儀で流した。
ペンション「だりや荘」は当分休業することになった。杏と迅人は東京住まいだったし、両親がいなくなったあと、姉一人でやっていけるわけがなかったから。それ以前に杏は椿自身のことが心配だった。家の管理を誰かに頼んで、東京に出ておいでよ、と何度も誘ったが、椿は驚いたというよりは傷ついた顔をして、「とんでもないわ」と首を振った。
それで、結局椿はだりや荘に留まって、一年間一人きりで暮らし通した。ときおりの行き来はあったけれど、椿が東京へやって来る回数は、むしろそれまでより少なかった。真冬も椿はほとんど一人でいたのだ。雪の中に。雪かきは新渡戸《にとべ》さんがやってくれるから、と言い張っていた。でも新渡戸さんだって東京で仕事をしているのだし、冬中椿のそばにいるわけにはいかないだろう。
杏は気が気じゃなかった。椿は、両親のあとを追って、少しずつ死のうとしているような気がしたから。いや、椿は昔からそうだった。小さな頃から、この世から少しずつ消えていこうとしているようなところがあって、両親の死後、そのスピードに、微《かす》かにだが加速がついたように思えた。
引越しの日はすばらしい晴天だった。
杏と迅人が東京を出るときは、カーエアコンをつけるほどの陽気だったが、高速道路を降りてからは窓を開けて走った。インターチェンジからさらに一時間山を登り、だりや荘に到着すると、辺りはすこし肌寒かった。
「杏!」
車の音で椿が出てきた。お正月を東京で一緒に過ごして以来だから、会うのはほとんど半年ぶりだ。
普段はかないジーンズをはき、エプロンに三角巾と、滑稽なほど完全装備していたが、姉はやっぱり白い花のように美しかった。
「早かったのね」
と椿は杏に言い、遅れて車から出てきた迅人に、
「いらっしゃい」
と微笑む。
「とうとう来ました」
迅人は明るい、しっかりした声で言い、杏はその声が、自分だけでなく姉をも安心させるのを感じた。
「業者のトラックは?」
「それがまだなの」
「道がわからないのかもしれないな」
三人はとにかくペンションの中に入った。迅人はロビーで携帯電話を取りだし、椿はお茶を用意しに厨房に入ったので、杏は一人で食堂のドアを開けた。
両親が東京のマンションを売って、この山奥のペンションを買ったのは、杏が就職した年だった。杏はアパートを借りて、東京暮らしを続けたので、だりや荘では実質的に暮らしてはいない。
それなのに、食堂は懐かしい匂いがした。
父と母の匂い。父と母が生きていて、杏と椿と、四人で暮らしていたときの匂い。たとえばマンションの狭いベランダで母がむきになって育てていたハーブをたくさん使って鶏を一羽焼いて、みんなでお腹いっぱい食べて、食後のコーヒーを飲んでいるときの匂い。
杏は動揺しながら周囲を見渡した。すると山葡萄のカゴがいっそう増殖しているのに気がついた。
窓辺にも、カウンターにも、テーブルの上にも、植物の事典や地図やこの辺りの歴史の本が並んだ書棚にも。母が最後に採った蔓で、椿があらたに編んだものだ。
大きなもの、小さなもの、様々な形に編んであり、カゴの中には、手作りの干し椎茸やドライフラワーや、布を接《つ》ぎ合わせて作った小さな人形や、野菜のぬいぐるみなどが収まっていた。一年間、椿は一人で、編んだり縫ったり飾ったりしながらここにいたのだと、杏はあらためて考えた。
杏は床に座り込んだ。ラグはもう取り払われている。毎年、四月の終わりか、五月のはじめ頃に、ラグを片づけ、カーテンやクッションカバーも薄手の、白っぽいものに替える習いなのだった。杏がそれを知っているのは、一、二度、その時期に来合わせて、手伝わされたことがあるからだ。模様替えは椿がしたのだろうか。まさか、一人でやりおおせたとは思えないけれど。
突然、床に涙が落ちて、花火みたいな模様を作った。われながら呆気にとられて、ぼんやり眺めているうちに、花火は、二つ、三つと増えて止まらなくなり、そのうち声を上げて泣いていた。
「杏?」
厨房に続くカウンターから覗き込んだ椿が、はっとしたように身を固くした。
泣きやまなくちゃ、と焦ったが、椿の姿を見たことで新しい涙が溢れてきた。おねえちゃん、と答えてみたがそれは「おねえちゃーん」と、子供が母親を求めて泣きわめくような調子になってしまった。椿が動揺しているのがひしひしと伝わってくる。何とかしなくちゃ、何か言わなくちゃと杏は慌てて、その揚句、
「おねえちゃん、昨日、鶏焼いた?」
と、泣きながら聞いた。
「鶏?」
こわごわと、椿は聞き返す。
「焼いたけど──それで泣いてるの?」
「匂いがするのよ。匂いが。匂いが」
椿はわかったようだった。微笑んで「ばかねえ」と呟いた。と思ったら、見る見るその顔が崩れてきた。
杏はびっくりした。椿が泣くところを見るのははじめてだった。小さな頃から、椿は始終悲しんでいる。それなのに決して泣かないのだ。涙は椿の外に流れるかわりに、椿の中に貯蔵されていくようだった。
それは椿の肉にこそならない──椿はいつまで経っても竹久夢二の女のようにほっそりしている──けれど、椿のどこかを重くしているのには違いなく、会話の途中で突然黙り込んでしまったり、突然部屋に閉じこもって数日間出てこなくなってしまったりするのはその重量のせいとも思えるのに、それなのに──。
椿は今泣いている。しかも、杏と同じように、声を出して。
「やだ。おねえちゃん……」
椿はちゃんと泣くべきだ、と今までずっと思っていたのに、いざ椿が泣き出すと、杏はどうしていいかわからなくなった。なぜ今椿は泣くのだろう。そう考えると、自分もいよいよ涙が止まらなくなった。杏が顔を覆うと、椿がしゃくり上げる声も大きくなった。
二人、カウンターの向こうと床の上でわあわあ泣いているところに、迅人が来た。
「なんだなんだなんだ」
迅人はずかずかと食堂に入ってきて、呆れた声を出した。少し笑ってもいる。その顔を見ると杏は嘘のように悲しみが収まった。たしかにこの状況は笑える、という気がしてきた。
見ると、椿ももう泣きやんでいた。
「よそ者にはわからないわ」
杏は安心して憎まれ口を利いた。
「田舎の風習か?」
迅人が応じると、椿も苦笑して立ち上がった。
ちょうどそのとき、トラックが入ってくる音がした。
亡くなる一年と少し前、だりや荘の隣のペンションが売りに出されて、両親はそこを買った。年ごとに、訪れる客が多くなり、部屋数が足りなくなってきたので、まずは自分たちの住まいを隣に移し、ゆくゆくは隣にも客室を作って、ペンションを広げる計画だった。
今日から、杏と迅人がだりや荘に住む。そしてペンションの営業を再開する。椿は、今まで通り隣に住んで、両親がいたときのように、体調や気分と相談しながらペンションの仕事を手伝うことになっている。
必要最低限の荷物以外は東京で処分してきたので、家具と段ボールの搬入には二時間もかからなかった。引越し業者のトラックが帰ったあと、杏と迅人が、とりあえず必要なものを荷解きしている間に、椿は自分の家に戻って、夕食を用意してくれた。
「どっちで食べる?」
インターフォンから椿の声が聞こえてきた。杏は迅人の顔を見た。
「あたしたちが、そっちに行くわ」
隣のダイニングはだりや荘の食堂の半分ほどの広さだが、もともとやはりペンションのダイニングだったわけだから、生活の場としては、十分すぎるほど広い。杏が小さな頃から家にあった大きな樫《かし》のテーブルに、三人分のランチョンマットが敷かれ、きちんとテーブルセッティングしてあって、中央にはカタクリやイチリンソウの花を美しくアレンジした花瓶もある。どっちで食べる? と椿は聞いたが、そのとき、もうちゃんとこんなふうに用意してあったのだろう、と杏は思う。
クレソンと生のマッシュルームのサラダ、杏の大好物の玉葱のパイ、それに冷えたビールを、椿がワゴンに載せて運んできた。迅人がビールを取り、まず椿のグラスに注ごうとすると、
「あたしはこれ」
と椿はミネラルウォーターの瓶を取った。
「ちょっとだけ飲まない?」
杏が言うと、だめだめ、と椿は首を振る。
「頭が痛くなるんですもの。年々ひどくなるみたいなの。明日一日寝込む羽目になるから」
「じゃ、仕方ないね」
迅人は素直にビールをミネラルウォーターに持ち替えて、椿のグラスに注いだ。それから杏と自分のグラスにビールを注いで、三人は乾杯した。
「あなたたち、本当にあっちの家でいいの? こっちならゆっくり住めるのに」
食事がはじまると椿はまたそのことを言った。一人暮らしの自分がだりや荘に移ったほうがいいのではないか、と気にしているのだ。
「このうえおねえちゃんの引越しを手伝うのなんか、いやよ」
杏は言い、
「そうだな、椿さんの引越しって、何年かかるかわからない感じだな」
と迅人も調子を合わせた。
ほんとうのところは、引越しの手間が問題ではなかった。様々な人間が出入りするペンションに、椿を一人で住まわせられない、ということなのだ。実際、両親と一緒にだりや荘で暮らしていたとき、客との接触が原因で、椿はたびたび調子を崩すことがあった。
「本当にいいの? 迅人さん」
椿は重ねてそう言ったが、今度は、杏と迅人がペンションに移ってきたこと自体を言っているのだとわかった。
「もちろん」
パイをもう一つ取ろうとしていた手を止めて、迅人は微笑む。
「迅《はや》ちゃんには野望があるのよ。一大マッサージ帝国を作るっていう」
と杏は言った。
「だからマッサージじゃないって。指圧だよ」
迅人の職業は指圧師だ。ほかの多くの同業者のように、器具を導入して治療院を構えたりせず、文字通り指一本で、呼ばれた場所へ治療しに出かけていく。だから身軽で、どこでだって暮らせるんだと迅人は言う。
それでもだりや荘を引き継ぐために東京を離れれば、これまでの顧客を手放さなければならない。それを懸念したのは杏のほうで、問題ないよ、と迅人はこともなげに言った。患者の中には、自分を追いかけてここまで来る人たちもいるだろうし、それは都会暮らしでストレスをためている彼らの静養にもなるだろうし、もし誰も追いかけてこなくたって、こっちで開拓すればいいんだから、と。
杏は──感心し、感謝もしながら──実際、迅人を駆り立てているのは、パイオニア精神なのだろう、と思う。この世界には、まだまだたくさんの人が、迅人の「黄金の指」を待ち焦がれているのだと、本気で考えているらしい。そう、迅人はまったくパイオニア野郎なのだ。たぶん、あらゆる局面で。もちろん自分は、迅人のそんなところを愛してもいるのだけれど──。
椿がキッチンに立ち、ラム肉と豆とトマトを煮込んだシチューの鍋を持ってきたので、杏と迅人は歓声を上げた。
椿は今日、あたしの好物ばかり用意してくれたんだわ、と杏は思う。明日はあたしが、椿の好きなものをたくさん作ろう。
それから、そうだ、これからは──少なくともペンションの営業が本格的になるまでは──いつも三人で食事するのだ、とあらためて考えた、まさにそのとき、
「今日は仕方ないけど、明日からは二人であっちでお食べなさいね」
と椿が言った。
「え。どうして。一緒に食べようよ」
杏が迅人を見ると、迅人も頷く。
「食事は大勢で食べたほうがうまいよ」
「だけど、夫婦水入らずも必要でしょ? ペンションがはじまると、ゆっくり二人で食べる時間なんかなくなるから……」
「水入らずになりたいときは、そう言うよ」
「そうよ。それにおねえちゃんと水入らずになりたいときだってあるかもしれないし」
杏の言葉に、ううーと迅人が唸《うな》り、椿は笑った。それでどうやら、この問題は決着したようだった。
シチューは絶品だった。デザートの苺のムースも。椿は、手先の器用さも、料理の才能も、全部母から受け継いでいる。杏も料理だけは得意だけれど、それは努力のたまもので、才能ではないことを知っていた。
食事のあと、コーヒーを飲み、椿がつけたテレビで天気予報とニュースを見て、それが終わったのをしおに、杏と迅人はだりや荘に引き上げた。椿が気を遣わないように、自分がおそろしく気を遣っていることに杏は気づいた。
昔はそんなことはなかったのに。椿が不安定なのは昔からで、杏は、そういう姉になじんでいた。心配はしても「気を遣ってる」なんて感じたことはなかった。いつからそうなってしまったのだろう? 今年のお正月をともに過ごしたときは、もう少し気楽だったような気もする。
考えていると何だかどきどきしてきたが、ようするに今日は初日なのだ、と思い直した。自分としては、家に戻ってきたという思いもあるから混乱しているけれど、今日からはじまるのは、これまでとはまったくべつの生活なのだ。それを望んだのは自分でもあるのだから、時間さえ経てば、だんだん慣れていくだろう。
だりや荘の、厨房の向こう側の三部屋が、杏と迅人の生活スペースだった。専用のダイニングはないけれど、十分に広い厨房の一角に、テーブルと椅子が備えてある。一時は客室として使っていた八畳の洋室を、二人の寝室にしていた。ツインベッドをダブルに入れ替えたその部屋には、杏の気に入りの鏡台や、迅人のオーディオセットが運び込んであった。
部屋に入ると迅人はすぐにベッドに大の字になり、杏は鏡台の前で、段ボール箱から出した化粧品を抽出しにしまったり、鏡台の上であれこれ並べ替えたりしていた。べつにそんなことを今しなくてもよかったのだが、そうしながら、迅人が何か言うのを待っていた。
何といっても、今日は新生活の初日なのだから。感想とか、決意とか、そういう言葉があったっておかしくない。杏は迅人を窺い見た。すると、迅人のほうでも杏に何か期待していたようで、ぴたりと目が合ってしまった。お互いに、苦笑した。
「シチュー、うまかったな」
結局、迅人がそう言った。
「あたしのと、どっちが?」
「それはまあ──いずれがあやめかかきつばた、だよ」
「嘘ばっかり」
迅人が困った顔をしたので、杏は笑って、
「いいのよ、おねえちゃんは天才だから」
と言った。
「ほんとによかった?」
シチューのこと? と迅人が聞き、ここに来たこと、と杏は言う。
「もちろん」
迅人は、さっき椿に答えたときとまったく同じ顔で微笑んだ。その表情に、たしかに杏は安心もしたけれど、本当は、聞きたい答えを聞いたわけではなかった。本当は、迅人にとってではなく、杏にとって、ここに来たことがよかったかどうかを、聞きたかったのだ。でも、そんなことを迅人に聞くのはへんだし、迅人だって答えようがないだろう。だから杏は黙っていた。
迅人の手が伸びてきて、杏をベッドのほうに引き寄せた。杏は引っ張られるままに、迅人の横に寝そべったが、やがて迅人の手がTシャツの中にもぐり込んできたので、少し驚いた。今夜は、「そういうこと」にはならないと思っていたのだ。
「元気なのね」
「もちろん」
杏は両手を上に上げて、迅人がTシャツを脱がせるのを手伝った。そうして、目を閉じ、上げたままにした腕の付け根から胸のほうへ、迅人の唇が、いつもよりゆっくり、うんと熱心に、すべり降りていくのを感じた。
そう、まったく迅人は元気だ、と杏は思う。
だから大丈夫。何も心配はない……。
両親がだりや荘を開いてから九年になる。
客のほとんどは常連で、だりや荘の営業再開を希望する声は、両親の死後、だりや荘にも、杏と迅人の元へも少なからず届いていた。その人たちに、二人は案内の葉書を書いた。
すると何通か返事が来て、直接電話をくれる人もあり、だりや荘の最初の客として、約ひと月後、三組の夫婦が同じ日にやって来ることに決まった。三組とも、常連である以前に両親の古い友人たちだったから、最初の夜は、身内のオープニングパーティーという趣になりそうだった。
「まあ、試験運転ってとこだな」
と迅人は言ったが、
「うえっ」
と杏は顔をしかめた。
「なんだよ?」
「試験ってきくと、緊張するのよ」
「たのむから緊張してくれ」
その一ヶ月は忙しく過ぎた。
だりや荘があるのはいわゆるペンション村と呼ばれている一角だ。
ペンションは、つぶれたり新しくできたりしているが、だいたい二十軒くらいの集落となっている。車で二十分ほど山を下ると農業地帯になり、そこは「村」と呼ばれている。インターチェンジの近くまで降りるとそこは「町」で、町には、役場や病院や銀行がある。大きなスーパーも町まで行かないとないけれど、食材などはほとんど電話で取り寄せるので、日常は村まで出れば事足りた。
「二人で月の湯に行ってらっしゃい」
と椿が言った。月の湯というのは、村にある共同浴場のことだった。もちろんだりや荘にも椿の家にも、温泉を引いたお風呂はあるけれど、月の湯は半露天で気持ちがいいし、お湯もいいので、杏も迅人も、かつて東京から訪ねてきたときに、何回か入ったことがあった。
広々した駐車場は観光客向けに最近になって作られたもので、月の湯自体は昔のままの簡素な木造の建物だ。がらがらと大きな音をたてる重たい引き戸を開けると通路が三つあり、それぞれ男湯、女湯、休憩所に続いている。杏がそろそろと女湯に入っていくと、三人のおばあさんがいた。それまでぺちゃくちゃと喋っていたのが、杏の姿を見るなり、ぴたっと静かになった。
「こんばんは」
杏はぎこちなく微笑んだ。
「こんばんは」
おばあさんの一人が言い、
「観光?」
と、もう一人が小首をかしげた。
「越してきたんです、だりや荘に」
「だりや荘。ああ、ああ」
とおばあさんたちは騒《ざわ》めき立った。
「じゃああの事故で亡くなった」
「あんたは、下のお嬢さんかね」
「おねえさんはどうしておられるん」
「だりや荘はどうされるん」
「あんた一人で帰ってきたんかね」
杏は一つずつ質問に答えた。隣の男湯では、迅人がおじいさんたちに同じように答えているはずだ。
しばらくは月の湯に通おうと迅人と決めた。昼間は、だりや荘の周囲のペンションの一軒一軒に、挨拶に行った。田舎だから、素性をはっきりさせておかないと、野菜一つ買うにも苦労する。それは、両親からもさんざん聞かされていたことだった。
そのあと迅人は町に降り、「食品衛生管理者」や「防火責任者」の資格を取るために講習を受けた。それから地図を片手に山を登ったり降りたりして、近隣の目ぼしい場所への道を覚えた。客たちを車であちこちに案内するのは、迅人の役目になる。
杏は、ベッドメーキングを覚えたり、お客に出す食事のメニューを考えたりした。もっとも食事については、母が日記がわりに毎日のメニューを詳細に記録していたので、ずいぶん助かった。いくつかの料理のレシピも記載されていて、杏はそれらを一つずつ作ってみた。完璧とはいかないまでも、何とかなりそうに思えた。何度も作れば、もっと自信がつくだろう。それから、迅人と二人、三組の客を迎えたと想定して、実際に三組分の料理を作ったり、車を出したりして、ペンションオーナーとしての一日をシミュレーションした。
これはまったく試験勉強だと思いながら、杏は──迅人については驚かなかったが──自分の勤勉さに我ながらびっくりした。毎日すべてが着々と進行していくことにも。
「これが終わったら、あたし五月病になっちゃうかも」
思わずそう呟くと、
「これは終わらないよ」
と迅人が微笑みながら、言い聞かせるように言ったのではっとした。
杏は、何か山を登るような気持ちでいたのだった。けれども、「これは終わらないよ」と迅人が言ったとき、学生時代に旅行したイギリスの、ハワースという村で見た丘を思い出した。杏は女友だちに誘われて、「名作を訪ねる」とか何とかいうツアーに、まったく主体性なく参加したのだが、ブロンテの『嵐が丘』の実物たるそのハワースの丘に臨んだとき、ただ呆然としてしまった。
丘は、山のようには高くないけれど、そのぼんやりした起伏は、見渡すかぎりうねうねと続いていた。山は、どんなに高くそびえていても、その向こう側を想像することができるが、ハワースの丘の連なりは、果てがないように思えた。そら恐ろしい感じがした。
そら恐ろしくなんかないわ、と杏は自分をたしなめた。日常は果てがないに決まっている。生きていくのはそういうことだろ? と、迅人なら言うだろう。
「つーちゃん!」
と、一組目の夫人は叫びながら入ってきて、出迎えた杏を見ると、
「あーちゃん!」
と叫びながら抱きついた。
うしろで、ご主人が少し困りながら頷いている。
三組の客は、かつて父と同じ事務所にいた建築家夫婦が二組と、もう一組は、母の女学校の同級生とその夫だった。昼過ぎから、続々と到着し、面白いようにほとんど同じアクションをした。
「以前のままだね」
「ほんとに」
と、みんなが口々に言った。今の自分の能力では変わらせようもない、と杏は心の中で苦笑したけれど、とにかくすべり出しは上々のようだった。
両親がいた頃、この人たちが来ると必ずそうしていたように、夕食はだりや荘の食堂で、杏たちも一緒に過ごすことにした。杏と椿にとっては、小さな頃から「おじちゃん、おばちゃん」と呼んでいる人たちばかりだったが、杏はいちおう、その日の午後、椿に確認しに行った。「大丈夫、お相伴するわ」と椿は答えた。そうして、料理に使う野草を庭から採ってきてくれたり、ソースの味をたしかめたりしてくれたが、準備がだいたい整うと姿を消して、客たちが食堂に集合する頃に、大きな赤い花模様の、はっとするようなワンピースに着替えてあらわれた。
「つーちゃんは、いくつになっても妖精みたいね」
と、建築家夫人の一人が言い、ほんとうにその通りだと杏は思った。
クレープふうの薄皮で巻いて食べるサラダも、野蒜《のびる》を添えた薄切りのステーキも、たいそう評判が良かった。母のレシピに、杏なりの小技が利かせてあるのが評価された。この点も、杏としては、まったく同じに作れば、粗《あら》が目立ってしまうから、ということではあったのだけれど。
夕食までの時間に、同級生の夫婦が、迅人の案内で近くの湿原まで出かけていて、迅人の案内ぶりを褒めた。「お父さんも運転が上手だったけど、案内がちょっと押しつけがましかったからね、その点迅人さんは按配がとても良いよ」などと言ってみんなの笑いを誘うのだった。
夫人のほうは、さっき杏が一人で厨房にいるところにも顔を出して、「いいご主人で安心したわ」と囁いていたが、椿がいるテーブルではそういう科白《せりふ》は注意深く避けられていた。かつて椿は、この同級生夫人の紹介で、何回かお見合いをしていた。そういえば新渡戸さんももともとはこの夫人の知り合いだったのだ、と杏は思い出したが、夫人はそのことにも触れなかった。もっとも、椿と新渡戸さんの関係については、当人たちにしかわからない部分が多すぎるのだが──。
「あなたがた、犬を飼わない?」
そう言ったのもやっぱりその同級生夫人で、食事が終わり、デザートのピーチメルバを食べているときだった。
「犬?」
と聞き返しながら杏は、「あなたがた」が、自分たち夫婦のことなのか、それとも自分と椿のことなのか計ったが、夫人の目は、杏と迅人を順番に見ていた。
「お友だちのところで、秋田犬の子が生まれてね。買い手を探しているのよ。とても犬を可愛がる人だから、なまじなところには売りたくないらしいの。その点、ここなら──あなたがたなら、あちらも喜ぶと思うんだけど」
「秋田犬か!」
迅人は嬉しそうな声を上げて、杏を見た。飼おう、とその顔が言っている。杏の返事を待っているが、ほとんどもう決めているようにも見えた。
「ほしいわ」
それで、杏は頷いた。
真っ白でふわふわのその子犬は、夢みたいに可愛かった。
ケージから解放されると、できたての雪だるまみたいに部屋じゅうを転げ回った。雄で、まだ生後三ヶ月。
「ちょっと臆病だけど、やさしい子ですよ」
ブリーダーのご主人が目を細めた。本当に、「とても犬を可愛がる人」のようで、引取先がどんなところか知りたいと言って、夫婦で東京から子犬を連れてきてくれたのだった。
ブリーダー夫婦は、新生だりや荘の四組目の客として一泊し、周囲を存分に散策したあと、
「こんな素晴らしいところで暮らせて、あの子は幸せですよ」
と、杏と迅人それぞれと握手を交わして帰っていった。
翌朝、杏は目覚めて、子犬を見た。昼間は食堂の片隅に据えていたバスケットを、夜は寝室に運んだのだ。その中で、子犬は、丸くなってすうすう寝ていた。
まだ五時前だったが、杏は迅人を揺り起こした。
「ほら」
「……うん?」
迅人は寝ぼけ眼で、ヘッドボードに伸び上がるようにして体を起こして、杏が見せたがっているものを探したが、それがたんに眠っている子犬なのだとわかると、
「うん」
と頷いて、微笑んだ。それから杏の首に腕をまわして布団の中に引きずり込んだ。杏の髪に顔を埋めながら、そのまますぐにまた眠ってしまったが、杏はそれから二人で決めた起床時間の八時──お客がないとき。お客があるときは、六時半、ということになっている──までずっと目を開けていた。
ときどき、部屋の隅に目をやって、子犬の姿をたしかめた。ずっと眺めることはしなかった。あんまりずっと見ていると、泣けてきそうだったからだ。
これってつまり母性なのかしら、と杏は考える。だが、じつのところ、嬉しくて泣きそうなのか、悲しくて泣きそうなのか、よくわからない。一つだけわかっているのは、自分たち夫婦は、赤ん坊を持つことを、とうとうあきらめたのだ、ということだ。
もちろん、東京で、不妊治療をギブアップした──これは杏の言いかたで、迅人は「俺たちが不妊治療を見放した」と言った──半年前に、二人はあきらめていた、ということもできる。杏は、そう思おうと努力した。けれどもやっぱり、迅人が「秋田犬!」と叫んで自分の顔を見た、そうして自分が、頷いた瞬間の感触を、見過ごすことはできない。やっぱり、あのときに、最終的な決定が下されたのだ。迅人が下した、とは思いたくなかった。たまたま、迅人が先に杏の顔を見ただけだ。迅人がそうしなければ、自分が先に迅人の顔を見ていただろう……。
この日はお客の予定はない日だったから、迅人と一緒に、朝から子犬にかかりきりだった。椿も顔を出して、しばらく眺めていった。「名前は?」と椿に聞かれて、杏と迅人は顔を見合わせた。それは重大事だった。おいそれとは決められない。
昼食に、杏はラビオリを作ってみるつもりでいた。そのうちだりや荘のディナーのメニューに、手打ちパスタを加えようと考えているのだった。椿が何か用意していたら悪いと思い、インターフォンを鳴らしてみたが、応答はなかった。杏は椿の家に行ってみた。ドアには鍵がかかっている。出かけているらしい。──でも、さっき子犬を見に来たときは何も言っていなかった。
「おねえちゃんがいないんだけど……」
子犬と一緒にちょうど庭に出てきた迅人にそう言うと、
「ああ、出かけるのを見たよ、さっき」
と迅人は答えた。
「どこに出かけたの?」
「さあ……町だろ? バス停のほうに行ったから」
「送ってあげればよかったのに」
「うん、そう思ったんだけど、あんまり世話を焼くのも悪いかなと思ってさ。詮索するみたいだし」
「うん……」
杏が考え込むと、大丈夫だよ、と迅人は明るい声で言った。
「手を振って元気に出かけたからさ。手芸の材料でも買いに行ったんじゃない? 新渡戸さんが来てるのかもしれないし」
椿がいないとなると、ラビオリを作る意欲は急速にしぼんでしまった。昼食は、乾麺をゆでてトマトソースで和えるという簡単なものになった。眠った子犬のカゴをテーブルの下に置き、後片づけをしていると、迅人がカウンターから厨房を覗き込んだ。
「出かけてくるけど、なにか買ってくるものある?」
「どこ行くの?」
「いや、山道を走り込んでおきたくてさ。忙しくなる前に」
「忙しくなればいいけど」
杏は笑って、
「帰り、夕方?」
と聞いた。
「そうだね──たぶん。犬の名前、考えておいてもいいけど、決めるなよ」
「いいわ。夕ご飯のときに発表会をしましょう」
もしK村を通ったら、そば粉を買ってきてくれるように杏は頼んだ。それから洗い物の続きをしていると、迅人の車が出ていく音が聞こえた。
杏は、水を止め、椅子に座って、足下の子犬を眺めた。いい名前を考えなくては。迅人も考えているだろうから、今夜には、ぴったりの名前が決まるだろう。
いろんなことが決まっていく。
迅人が決めたわけでも、自分が決めたわけでもない。あたしたちは、いつでも二人で決定してきたのだ、と思う。
杏は、迅人が椿に会いに行ったことを知っていた。
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2
犬の名前はしばらく決まらなかった。
たぶん、杏も迅人も慎重になりすぎていたのだ。子犬の可愛らしさをそこなわないような、かつ気が利いていて、大仰でない、そうして、人間の赤ん坊扱いしていると思われないような、まぎれもない犬らしい名前にすべく。
二人は椿にも意見を求めたが、椿はあえて参加しなかった。これはどうしたって夫婦の問題に思えた。杏と迅人が、ああでもないこうでもないとやり合っている様は微笑ましかったけれど、どこか痛ましくもあった。不妊については一年ほど前、杏自身が椿に打ち明けていた。あたしどうやら不良品みたいなのと、あっけらかんと、面白おかしく言ったのだったが、そのじつ杏が傷ついていることが、椿にはどうしようもなく伝わってきた。
杏が不妊症ならば、自分も──もちろん、調べたことなどないけれど──そうに違いないという気がしたが、もしそうじゃなかったら、自分がかわってやれればいいのに、と椿は心から思う。実際、杏が治療を受けていた間は、毎晩寝る前に、「どん」にお願いしていた。杏と自分の子宮を入れ替えてくれるようにと。もっとも「どん」は、神様ではないので、願いを叶えてくれるということはあまりしない。ただその表情で、その願いが叶うのか叶わないのかを示唆することはあって、あるとき「どん」の目は、微かに輝いたようでもあったのだけれど──。
子犬は、暫定的に「まっしろちゃん」とか「雪だるまちゃん」とか単純に「こいぬちゃん」とか呼ばれながら、あっという間にみんなになついて、だりや荘の中を──まだ予防注射が済んでいないので、外には出さないようにしている──走り回っていた。名前が決まったのは来てから二週間目だった。その日、新渡戸さんが椿に会いに町まで来て、椿は新渡戸さんからのお土産を持って帰った。新渡戸さんは何かの用事で鎌倉に行ったのだそうだが、とにかくそのお土産を、子犬がどういうわけかしごく気に入ってしまったのだった。かくして拍子抜けするほどあっさりと、子犬の名前は「サブレ」になった。
椿はふと、おかしなことを考えてしまう。子犬が新渡戸さんゆかりの名前になったのは、じつは杏と迅人の気遣いではないのかと。新渡戸さんはつまり椿の側の人だから、そうやって杏と迅人は椿を仲間に入れてくれようとしているのではないかと。そうして、そのことは二人の意図とはべつに、二人の人生への椿のかかわりかたを、よく示しているのではないかと。
七月に入ると、だりや荘はがぜん忙しくなった。
以前の常連たちに加えて、杏と迅人の東京の友人たちが入れ替わり立ち替わりやって来た。七月の最初の週末は満室だった。
もっとも、どんなペンションでも最初の夏は同じことが起きる。両親のときもそうだった。知り合いや親戚が、物見高くあるいは義理と人情によって集まってくるからだ。彼らの多くは一度来れば満足してもう来ない。夏にはあれほど賑やかだったのに、冬になると閑散としてしまう、というケースは少なくない。──だから、杏も迅人も、楽観しないように気をつけているようだけれど、でも──本当は杏も迅人もそう思っているように──だりや荘は大丈夫だろう、と椿は思う。友人知人はともかく、だりや荘は、だりや荘でなければだめだという客をたくさん抱えていて、その人たちを、杏と迅人は、ちっとも失望させなかったのだから。むしろ食事時は必ずどこかのテーブルで一緒に酒を飲む習いだった父親の、少々暑苦しい人生談義や自然礼讃がなくなって、かわりにオプションで迅人の指圧が受けられるようになったことを、喜んでいる人も多いだろう。
杏の料理も、即興ではかなわないとしても、きちんと準備して作れば母親に引けを取らない。それに、客あしらいだってたいしたものだ。お客一人ひとりの名前をちゃんと覚えているし、料理をサービスしている最中、テーブルの客から話しかけられても、母親のようにあからさまに忙しそうにせず、ちゃんと相手になっている。それも、いつでもごく杏らしい受け答えで、おどおどしたり、わざとらしかったりするところがぜんぜんない。
妹はすっかり大きくなってしまった、と椿は思う。簡易ベッドを畳んでできる洞窟に、二人で隠れていたのはそんなに昔とは思えないのに。
それは杏の秘密の場所で、椿は八歳の誕生日に、秘密を教えてもらったのだった。簡易ベッドは、父が仮眠用にと仕事場に置いていた。使わないときは畳んで部屋の隅に立てておくのだが、折り曲げたマットレスの間に、ちょうど小さな子供二人がぴったり収まるくらいの空間ができるのだ。
小さな頃から──と、当時四歳の杏が打ち明けたわけだが──杏はこっそりそこに入って願い事をしていた。お父さんがアイスを買ってきてくれますようにとか、おじいちゃんから電話がかかってきますようにとか、お母さんのかんしゃくが早く治りますように、とか。一生懸命お願いすると叶うんだよ、と、ひそひそ声で教えてくれた。願いが叶わないときは、一生懸命さが足りなかったときなのだそうだ。
それで、打ち明けられたその日以来、椿も杏と一緒に入るようになった。誰にも見つからないように、こっそり父の部屋に入り、ベッドの洞窟に潜り込み、ぴったり体をくっつけて、なむ、なむ、なむ、と目をつぶって手を合わせていた。それぞれの願い事を胸に秘めて。
そこに入ることをやめたのはいつからだったのか、もちろん、自分のほうが先だったに違いないけれど、それでも、私は今でもあの中にいるような気がする、と椿は思う。出ていったのは、杏だけだ。
自分が微かに恨みがましい気持ちになっていることに、椿は気づく。見捨てられたような、裏切られたような。──もちろん、そんなふうに思うのは、自分がおかしいからだとわかっている。
その日の客は、杏と迅人のかつての勤め先の同僚たちだった。
職場結婚した夫婦が二組。四人で一台の車に乗って昼過ぎにやってきて、ちょうど庭にいた椿に、口々に挨拶した。
「こんにちは」
と椿も答えて、四人をだりや荘のロビーまで案内し、杏と迅人が彼らを迎えている間に、お茶とケーキの用意をした。そうしたことが、とてもスムーズにできたので、嬉しくなって、その夜、夕食に加わらないかと杏に誘われたとき、つい「いいわ」と答えてしまった。
客は彼らだけだった。|あの杏《ヽヽヽ》が料理をするなんてと思っているみんなに「目にもの見せる」のだと言って、料理はすべて杏が作った。実際みんな驚愕していた──山葡萄の葉とカタクリの花の天ぷらも、もろみをソースにした地鶏のソテーも、完ぺきな出来栄えだったから。あの杏がねえ! と果たしてみんなは口々に唸って、賞賛するだけしてしまうと、今度はかつての杏のダメ社員ぶりを面白おかしく回想した。迅人と結婚するまでの杏は、料理どころか、何一つまともにできなかったのだった。みんなの口ぶりからも、愛すべきダメぶりであったことはうかがえたけれど──。
そうして、迅人のほうはいわゆるエリート社員であったので、迅人と杏の結婚は、一大センセーションを巻き起こしたらしい。迅人は指圧師になるために会社を辞め、あとを追って、杏もすぐに会社を辞めた。二人が付き合いはじめたのはそのあとだったので、結婚の知らせは寝耳に水だったとみんなが言った。「いったいこの子のどこが良かったの?」と、親しいからこその不躾《ぶしつけ》な質問も出て、すると迅人は「もったいなくてとてもここでは言えないよ」などと答えて座を沸かせていた。
椿のことは、みんなが美人だと褒めた。その立ち居振る舞いや、物腰からして、この杏のお姉さんとは思えない、と口々に言った。食事が終わると杏たちの自宅のほうの座敷に場を移して、もう少し飲もうということになり、椿も誘われたけれど、アルコールはだめだからと辞退して自分の家に戻った。一人になると、少し疲れを感じたが、楽しい夜だったと思った。
けれども、翌朝、目が覚めると声が出なくなっていた。
朝食の時間をとっくに過ぎても、ベッドから出られなかった。インターフォンが何度か鳴り、しばらくして杏がサブレを連れてやってきた。
「……おねえちゃん?」
寝室の戸口から中を覗き込んだ杏はすぐに事態を飲み込んだようだった。一瞬、はっとした顔になり、それから急いで微笑んだ。
「無理させちゃったのね。ごめんね」
杏がベッドのそばに屈《かが》み込むと、サブレも真似をしてベッドの縁に足をかけた。椿はサブレの頭を撫でた。サブレになら口が利けそうな気がしたのだが、サブレ、と呼ぼうとしたとたん、猛烈な吐き気が込み上げてきた。
椿は思わず体を折って、口元を押さえた。
「無理しないで、おねえちゃん」
杏がそっと背中を撫でた。
「お水いる? 冷たい紅茶は?」
椿は首を振る。
「あとでまた来るね。ゆっくり休んでて。今日はお客さんないから、ジャムを煮るわ」
暇で喜んでちゃいけないんだよね、ともう一度、今度はかなり自然に微笑んで、杏はサブレと一緒に部屋を出ていった。
椿は、サブレを呼び戻そうとして、また体をくの字に折り曲げる羽目になった。喋りたくないわけではない。すべての言葉がどうしようもない吐き気に変わってしまうのだ。
「発作」が起きるようになったのは十五、六の頃だった。原因はわからない。医者にかかったこともない。一日か二日で元に戻るし、これは病気じゃなくて本人の性質だ、という方針を父が決めたからだ。だから家族はみんな、これを「たいしたことじゃない」ように扱おうとする。
実際これは、小さな子供が何か思い通りにならないときに泣いたり、道端に転がって足をばたばたさせたりするのと似たようなものなのかもしれない、と椿自身も思うことがある。発作が起こったとき、では何が「思い通りにならなかった」のだろう、と考えることは、恐ろしすぎてできないのだが──。ただ、わかっているのは、自分が子供だ、ということだった。それはたしかなことに思える。可愛くて無邪気な子供じゃない、子供という人間の一時期のいちばんいやな、みにくい部分が、私にはきっといつまでもこびりついているのだ。
正午少し前に、軽いノックの音がして迅人があらわれた。すぐには部屋に入ってこず、戸口に立って、椿をじっと見つめながら、小さく手を振った。
「やあ、元気?」
椿はどうにか微笑んだ。
「これ、杏から」
迅人はベッドのそばまで来ると、サンドイッチの皿を載せたトレイをナイトテーブルの上に置いた。
「食べられたら食べてって。無理に食べなくてもいいからって。そっちは今日煮たジャムだよ」
トーストしたライ麦パンにはアボカドとエビが挟んであった。真紅のジャムはプラムだろう。ヨーグルトが添えてある。
迅人は手をそっと伸ばして、椿の額にあてた。椿は目をつぶる。迅人の手が、額をやさしく撫でた。
「大丈夫だよ」
いつだって迅人は「大丈夫?」とは訊かず、「大丈夫だよ」と言うのだった。無責任に、無頓着に、無邪気に。ときどきそのことで椿は迅人を憎んだ。もちろん、その言葉が自分に必要なことも知っていた。
迅人はゆっくり唇を寄せてきた。椿は顔を背けたが、その頬に迅人は手を当ててそっと引き戻し、
「大丈夫だよ」
ともう一度言った。迅人の唇は椿の唇をとらえ、軽くなぶったあと、離れていった。
「また梅花藻《バイカモ》を見に行こう」
迅人は戸口で振り返り、にっこり笑いながら、そう言った。
この「発作」はきっといつもより長引くだろう、と椿は考えていた。ひょっとしたらこのまま死ぬまで治らないかもしれない、と。多少、感傷的な、甘ったれた気分とともにではあったけれど──。
が、その日の夕方、サンドイッチを少しつまむことができ、ジャムとヨーグルトに至ってはぺろりと食べて、だから予感はあったのだが、夜半に浅い眠りから目覚めたとき、声が出ることに気がついた。
椿は自分を浅ましいと思った。妖精とかまるで蜉蝣《かげろう》みたいとか、人はよく私のことを言うけれど、実際はふてぶてしいひきがえるなのだ。妖精ぶったひきがえる。なんて醜いのだろう。見るからに元気で、頑強で、実際昨夜もみんなから「雑草の強さだね」などとからかわれていた杏のほうが、本当は私よりずっと繊細なのだ、と椿は思う。
それからもう眠れなくなった。あきらめて、梅花藻のことを考えた。源流へ行ったのはサブレがだりや荘に連れられてきた翌日だった。その日の朝、朝食を食べにだりや荘へ行くと、玄関に迅人がいた。
「梅花藻がもう満開だよ」
声を潜めるでもなく、身を寄せてくるでもなく、玄関に突っ立ったまま、迅人はそう言った。
「見に行かない?」
「今日?」
と椿は聞いた。
「うん。三時頃、どうかな」
「いいわ」
「源流まで一人で行ける?」
「バスがあるもの」
「それじゃ、いちばん手前の休憩所で待ってて。三時にね」
それから椿は食堂へ入り、少し遅れて迅人も入ってきて、杏と三人で朝食を食べた。あれは「三人で」梅花藻を見に源流へ行こう、という意味だったのに違いない、と椿は思った。迅人は、あんなに堂々としていたのだもの。けれども、食事中その話題が出ることはなかった。
──違う、もちろん自分は、あれが逢引きの誘いだということを、ちゃんと知っていた、と椿は思う。知っていて、「いいわ」と答えたのだ。そうして、何食わぬ顔で、妹夫婦と朝食を共にし、そのあと自分の部屋に戻ると、新しい下着をつけ、こそこそと家を出て、源流へ向かうバスに乗ったのだ。
目的地に着いたのは三時にずいぶん早かった。家で待つより源流で待ちたいと思ったのだった。透明なせせらぎの一面に、白い可憐な花が揺れていた。梅花藻はその名の通り梅の花に似た水中花で、六月から八月の終わり頃まで咲く。しばらく目を奪われていた。それから、ログハウスふうの休憩所に入り、ベンチに座って文庫本を開いたが、まるで集中できなくて、結局また外に出て、清流に沿った木道を一人歩いた。週末は観光客で溢れる場所だが、その日は人気《ひとけ》がなかった。ウォーキングする年配の夫婦とすれ違っただけだ。土地の人ではない。近所のペンションの客だろう。一回りして元の場所に戻って来ると、迅人が歩いてくるのが見えた。
「きれいだろう」
と迅人が自慢気に言ったのがおかしかった。まるで自分が梅花藻を咲かせたとでもいうように。
「待ってる間に一回りしてきちゃったわ」
「じゃ、一緒にもう一回りしよう」
迅人はそう言って、椿の手を取った。
手を繋いで、木道を歩いた。さっきの夫婦とあらためてすれ違ったときも、手を繋いだままでいた。こんにちは、と夫婦が微笑みながら口々に言い、こんにちは、と迅人が朗らかに挨拶を返した。椿はおずおずと会釈した。ひどく危険なことをしているのは間違いなかったが、もちろん手を離そうとは思わなかった。手が離せるなら、そもそもこんな関係は続けていない。繋いだ手から、迅人が自分の中に流れ込んでくるのを感じ、枯れかけた植物のように、自分がそれを待ち焦がれていたのを感じた。そうして──迅人と二人きりになるといつでもそうなるのだが──もっとほしくなった。
「どうする?」
と迅人が言った。ときどき椿は恐くなる。自分の体温とか皮膚の手触りは、欲望を映してあからさまに変化するのでないかと。
「車に戻ろうか?」
けれどもそのとき、二人は増設中の木道へと続く岐路の前にいたのだった。真新しい木道はビニールシートで覆われていて、入り口には「立ち入り禁止」の柵が置かれていた。その柵を迅人が脇へどかして、二人はビニールシートの上を歩いていった。五メートルほどで木道は途切れ、あとはむき出しの山道だった。しばらく歩くと木立の中に古い小さな祠《ほこら》があった。
祠の裏へ行くまでには、切り株や蔓草を踏み越えなければならなかった。迅人は椿の先に行くと、両手を伸ばして椿を引っぱり上げた。そのまま、椿は迅人にからめとられた。迅人の匂いを吸い込んだ。それだけで、体の内側が熱く張りつめていくのを感じた。山道を登ってくる人がもしあれば見つかってもおかしくない場所だったのに、東京のホテルでのときと同じように、迅人はゆっくり事を運んだ。ゆっくり、慎重に、椿のあちこちを燃え立たせた。そうして、椿が声を上げそうになるのにぴったり合わせて、唇を塞ぐのだった。
帰りは迅人の車で一緒に帰った。町でばったり会ったことにすればいい、と迅人は言った。途中でK村に回り、杏に頼まれたというそば粉を買った。しばらく来ない間に古い民家が改築されて喫茶店になっていたので、お茶を飲んだ。そこはギャラリーにもなっていて、漆の器がいくつか販売されていた。椿は、ごく薄く挽いた欅《けやき》の皿を買った。いっそこの店で会ったことにしようと相談した。
だりや荘に揃って戻ると、杏のほうから、ああ、おねえちゃんもK村に行ったの? と言った。椿は新しい店の話をし(「ちょっとこれ見よがしだったけど、コーヒーはおいしかったわ」)、欅の皿を「おみやげ」と言って杏に渡した。その日の夜、オレンジとクレソンのサラダがその皿に盛ってあった。濃い色の木肌にオレンジ色と緑がよく映えていた。
椿は寝返りを打つ。
これからはこういうことが続くんだわ、と思う。
日々、妹夫婦と過ごしながら、妹の夫との関係を続けるのだ。「また梅花藻を見に行こう」と昨日迅人は言った。梅花藻は長くは咲いていない。実際にまた見に行けるかどうかはともかく、東京で会っていたときより、逢引きは頻繁になるのかもしれない。
続く。そのことをどう考えていいかわからなかった。望んでいたし、恐れてもいた。迅人と杏が東京からこっちに移住してくれば、関係は終わるかもしれないと考えていた。そうなるのを恐れていたし、真実──望んでもいたのだった。妹夫婦が到着した日──と、椿は思い出す。自分がはじめて人前で泣いたのは、たぶん、恐怖と安堵が一時に押し寄せて混乱したせいだ。
椿はベッドを抜け出すと、クローゼットを開けて、「どん」を抱き上げた。黒猫のぬいぐるみで、五歳の誕生日に両親から贈られたものだ。かつては本物そっくりのつやつやした毛並みと立派なヒゲを持っていたが、今は椿以外の者には黒いボロ布の塊にしか見えないだろう。
一緒に寝ることをやめて、クローゼットに隠したのは、だりや荘で両親と三人の暮らしになってからだった。いつまでもそんなものを大事にしていると両親が心配すると思ったせいだが、でも、クローゼットに匿《かくま》ってから、「どん」への依存はかえって強くなったような気もする。椿は、「どん」の目を覗き込んだ。
「どん」は薄く笑っているように見えた。
数日後、椿は杏と一緒に「月の湯」へ行った。
しばらくぶりに客のない日で、杏が椿を誘いに来た。そういえば妹夫婦がこちらに来てから、二人で月の湯へ行くのははじめてだった。
がらんとした脱衣所で、杏はTシャツとギンガムチェックのサブリナパンツを勢いよく脱いだ。そういうところは子供の頃のままだ。そうして、椿がタオルで隠しながら脱ぐのを見て、「おねえちゃんはあいかわらず奥床しいわねえ」などと言った。椿は、自分が隠そうとしているのは裸体じゃなくて、何かべつのものなのだと思った。
まだ明るい時間だったが、浴場はいつものように老人たちで賑わっていた。土地の住人で六十五歳以上なら無料パスがもらえるから、老人の社交場のようになっているのだった。杏は迅人とともに積極的に通って顔見知りを増やしたらしく、「こんにちはあ」と声を上げながら入っていくと、「おや、杏ちゃん」「しばらくねえ」「忙しかったん?」とあちこちから親しげな声が答えた。それから老人たちは杏のうしろの椿にも気づいて、「あら、あら、今日は姉妹お揃いで」と頷き合った。
岩風呂の突端は屋外に張りだしていて、いまだ雪が残る連峰を望める。椿と杏は並んでその場所に体を沈めた。お湯は自宅に引いているのとは違い、赤茶色で、微かに鉄の匂いがする。こちらのほうが効き目が強そうだというので、父が生きている頃はよく半ば無理やりに、車で連れてこられた。
「あーあ、天国みたい」
そう言って杏は岩の縁に顎をのせた。それから、さらに言葉を継ぎそうな気配を見せながら、でも口を利かず、黙って山を眺めていた。椿も黙って杏の横顔を眺めた。杏が気づいているわけはない、とわかっていても、こういう沈黙は不安だった。
「おねえちゃん……」
と、杏がようやく何か言いかけたそのとき、
「あんたがたはあまり似てないねえ」
と、おばあさんが割って入ってきたので、二人は顔を見合わせて苦笑した。
「美女と野獣、って言いたいんでしょ」
杏が応じると、そのおばあさんは「美女と野獣」がよくわからなかったらしくて、そう、そう、と頷きながら、
「同じ花でも赤や白があるからねえ」
と言った。椿と杏はまた苦笑を交わした。
「……なあに?」
しばらくしてから、椿は訊いた。
「なにって?」
と杏が見返す。明るい色に染めたショートカットが子リスに似た顔に張りついて、少年のように見える。
「さっき何か言いかけてたんじゃない?」
「さっき……」
と杏はちょっと考えて、
「ああ、そう。おねえちゃん、この頃元気そうだから、よかったね、って言いたかったの」
と微笑した。
「この頃元気」とは、たぶん、発作が一日で治ったことを言っているのだろうと思いながら、
「杏たちが来てくれたおかげよ」
と椿は言った。
「東京を捨てる理由なんか何にもなかったのにね。こっちに来てくれて。感謝してるのよ、ほんとに……」
「おねえちゃん、演歌みたいなこと言わないで」
杏はけらけらと笑う。
「来たかったから来たのよ。おねえちゃんのためなんかじゃないわ」
「あら、そうなの」
今度は声を合わせて笑った。
「仲が良くていいねえ」
その声はまたべつのおばあさんで、椿と杏は、さらに笑い続けた。どうやらこの場所では、秘密の話はとうてい無理な相談らしい。
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「ほんとによかった?」
と、この頃杏は訊かなくなった。
たぶん、ここへ来たことが「ほんとによかった」のだと、やっと納得したのだろう、と迅人は思う。杏にとっても、迅人にとっても。もちろん、椿にとってもだ。
「如月《きさらぎ》迅人治療院」の東京の顧客たち──ここに来るに際して、杏に言わせれば、「迅人が見捨ててきた」患者たち──からは、「先生は奥さん思いですね」と、嘆息とも嫌みともつかない感じで、さんざん言われた。長年かかって、ここまで顧客を増やした東京をあっさり離れて、冬になれば雪に閉ざされてしまう山深い土地の、奥さんの実家であるペンションへ行くなんて、と。
しかし実際は、ここに来たい気持ちは杏よりも自分のほうが大きかったのかもしれない、と迅人は思う。瀬戸内海の小さな島で生まれ育った自分としては、そもそも東京暮らしにはうんざりしていた。春が来ても夏が来ても風景が変わらないなんて異常ではないか。
それに、杏には内緒だが、じつは患者の一人から懸想《けそう》されていて、その人には悪いが、これにもじゅうぶん辟易《へきえき》していたところだった。四十少し前の、離婚したばかりの女性だったが、無節操に太った見た目も好きじゃなかったし、うっかりそういう関係になったが最後、彼女が暴走するのは目に見えていた。それに──これが一番の理由だったが──その人は、相手が迅人じゃなくてもよさそうだった。ただ男に餓《う》えているだけなのだ。
誰だって、必要なだけ食べられなければ腹が減るのだし、餓えている、ということを迅人は軽蔑などしない。だが餓えを満たすだけなら自分以外の男でもいいだろう、と思ったので、あるときうっかり、それを口にしてしまった。「結婚相談所とか、そこまで大げさでなくても何かそういうサークルに入ったらいかがですか」と、まったくの親切心からすすめたのだが、そのとたん大泣きされて閉口した。出ていって、もう二度と来ないで、と絶叫され、その人の部屋をあとにしながら正直ほっとしてもいたのだが、結局そのあとも治療に来てほしいという電話があって、それこそ見捨てるわけにもいかず、怒りながらなおもアプローチしてくる相手と今後どうつきあっていけばいいか、ほとほと困っていたのだった。東京を離れることを告げるとまた大泣きされたが、さすがに四十近い分別で、あきらめてくれたようで助かった。
仕事のことは、どこに行っても何とでもなると思っていた。その点で迅人は、たぶん杏が信じている以上に自分の腕を、さらにいえばその腕がつちかう生命力みたいなものを確信していた。
一抹の不安があるとすれば、杏と椿と自分、この三人で実質的に日々を送ることだったが、これについては迅人は、自分と同じくらい杏と椿を信じてもいた。そうして、だりや荘に来て三ヶ月経った今、日々は予想をはるかに超えて心地よく、すべらかに流れている。
誰でもない、この俺を心から必要としている女二人との暮らしなのだ。うまくいかないはずはない、と迅人はあらためて思う。
八月に入って、だりや荘はバイトの青年を雇った。
川南翼《かわみなみつばさ》。二十四歳。敏捷《びんしよう》そうなひょろ長い体に、鹿に似た黒目がちの、本人はコンプレックスに思っているらしい女顔をのせた、ナイス・ガイだ。
じつのところ「バイトでも雇おうか」「それでなきゃもう死んじゃう」などと杏と嘆き合うことはあっても、実際に雇おうとは二人とも現実的に考えていなかった。世間が夏休みに入ると避暑客がどっと押しかけてきて、てんてこまいになるとともに収入も安定しはじめたのだが、人一人雇うにはまだ少し勇気がいったし、それにせっかく三人で落ち着いているところに、わざわざもう一人加えるのもどうかと、迅人は──おそらく杏も──思っていた。
ある日、だりや荘にはめずらしく、一人旅の青年が泊まりに来て、食堂で一人黙々と食べている様などが何だか危うい感じに見えたので、何くれとなく話しかけたりしているうちに、青年はまず杏と、それから迅人とも、すっかり打ち解けてしまった。話してみれば、青年にはすこしも危ういところはなく、ただ単純に一人旅を満喫しようとしているだけで、むしろ今どきの若者にはまれな頼もしさと、自立した精神を感じさせた。
「スズメバチ事件」が起きたのはその翌日のことだった。その日、だりや荘の裏手の軒下にスズメバチが作った大きな巣を、業者が駆除に来たのだが、殺虫剤を撒《ま》いて巣を取り除いたところで、二階の客室が騒がしくなった。窓は閉め切っていたはずだったのに、蜂が入ってきていた。じつは天井裏にももう一つ、巨大な巣があって、殺虫剤で燻《いぶ》りだされた蜂が換気口を通って部屋に出てきたのだと、すぐさま見抜いたのは、会計を待っていたその青年、つまり翼だった。客の避難、部屋の養生、業者のアシストと、翼は率先して手伝ってくれた。そうして、その日が無事に終わって、迅人と杏がお礼かたがた、よければもう一泊していってほしい、と言うと、それよりも、明日からここで働かせてほしい、と翼は言ったのだった。
そもそも翼はボヘミアンで、各地を転々としながら、ときどき気に入った土地に落ち着いて、働きながら旅費を貯める、という生活をしてきたらしい。迅人と杏が、曖昧に返事をしているうちに、翼はさっさと村へ出かけていって、住むところを見つけてきた(そこは、だりや荘でもよく野菜を買う農家の離れだった。よそ者にはことさら警戒心を強くするはずの村人に、あっさり受け入れられてしまうあたり、まったく翼の面目躍如といえる)。かくして翼は、午前九時から午後五時まで、だりや荘のスタッフとして働くことになった。
「ゾクアガリなんだって!」
杏が感心したように言う。何だか鉄棒の技みたいに聞こえるな、と思いながら、へえ、と迅人は感心してみせる。そんなことは翼を一目見たときから気づいていたのだが。
「なんてチームだったの? 東京だったんだろう?」
迅人が聞くと、
「暴走連合あめふらし」
と翼は答える。
「あめふらし!」
笑っていいのか悪いのかわからないらしく、杏は助けを求めるように、迅人を見た。含蓄のある名前だな、と、とりあえず迅人は言った。
「十四代|頭《アタマ》だったんですよ、俺」
「頭って?」
リーダーのことだよ、と迅人は杏に教える。
「いくつのときだい?」
「頭張ってたのは七のときでしたね。十七。で、二十になる前に抜けたんです」
「いじめられなかった? 脱退する人って、フクロダタキにされるんでしょ? コンジョヤキとか」
「おいおい杏」
「久しぶりに聞いたなあ。根性焼きなんて」
翼は笑った。
「俺の代に、そういうのは全部やめにしたんですよ。意味のない暴力禁止。リンチも禁止。強姦も禁止、当然だけど」
「じゃあ、正しい暴走族だったのね」
「その通りっす」
翼はおどけたふうに言ったが、きっと本当にその通りだったのだろう、と迅人は思う。暴走連合あめふらし自体はともかくとして、翼が正しい暴走族だったことは間違いない。こいつは正しいやつなんだ。だから僕らは、きっと気が合うだろう。
三人はそのとき、だりや荘の厨房のテーブルを囲んで話していた。客室のベッドメイクが終わり、夕食の準備に取りかかるまでの短い休憩時間だったが、ふいに翼が窓の外を見て、
「あ。あ。あー?」
と、すっとんきょうな声を上げた。
「すごい美人が歩いてますよ」
迅人と杏が外を見ると、椿が花壇のところにいた。夕顔の蔓をいじっていたが、ちらっとこちらのほうを見て、またすぐに花に視線を戻した。
「おねえちゃん、やっと帰ってきたのね」
「おねえちゃん?」
「そう。椿っていって、姉なの。あとで紹介するわね」
そのまま何となく三人で眺めていると、椿は目を伏せるようにして、自分の家に入ってしまった。何か不自然さを感じたのだろう、
「旅行にでも行ってたんですか?」
と、場を取り繕うように、翼が聞いた。
迅人と杏は顔を見合わせ、
「うん、ちょっとね」
と、迅人が答えた。
椿は一週間ほど前から、新渡戸さんと過ごすと言って、東京へ行っていたのだった。
新渡戸さんと椿が見合いをしたのは、椿が二十四のときだそうだ。とすると、二人の付き合いは、もう八年に及ぶことになる。
新渡戸さんは椿より二つ上だから迅人と同い年の三十四。偉い作家の一人息子だが、その作家は昨年亡くなった。杏は、一度だけ新渡戸さんに会った、というより東京で新渡戸さんと椿が一緒にいるところを見かけたことがあるそうで、それは五年くらい前のことだが、新渡戸さんは「ヒヨコに似た顔の小太りのおじさん」だったらしい。
「ぜったいいやがると思ってたらあっさりお見合いして、ぜったいそれきりだと思ってたら二人で勝手にデートするようになっちゃって、ぜったい結婚すると思ってたらいつまで経ってもそのまんまなの」
結婚した当初、杏は迅人にそう説明した。椿と新渡戸さんの関係については、それ以上のことはいまだに誰も知らなかった。「新渡戸さんに会ってくるわ」「新渡戸さんは鎌倉に行ってたんですって」「新渡戸さんにおいしいものご馳走になったわ」と、椿はときにみんなに報告するが、こんなに長い間付き合っていてなぜ結婚しないのかとか、そもそも二人は恋人なのか友人なのかとか、たとえば椿が一泊二泊で東京の新渡戸さんのもとへ出かけていくとき、どこでどんなふうに過ごしているのかとか、みんなが知りたいことは、何一つ話そうとしないからだ。迅人と二人きりのときでさえそうなのだった。そうして、新渡戸さんと椿の実態については、この家では謎というよりはタブーなのだと、迅人にも次第にわかってきた。
杏は、椿と新渡戸さんは「純粋な肉欲」で結ばれていると考えている。杏が知るところ、椿は新渡戸さん以外の男性と付き合ったことはないはずで、きっと新渡戸さんも同じで、それで二人の肉体はたまたまものすごく合致してしまい、もうそれ以外の部分はどうでもよくなってしまったのだと。「肉欲なんてものが自分にあるなんておねえちゃんは信じられないのよ、それですごくいけないことをしていると思ってるんだわ、かわいそうに」と杏は言う。
だが迅人には、そうではないことはわかっていた。というのは、椿と最初に関係したとき、彼女はバージンだったからだ。ちなみに杏にとっても迅人がはじめての男で、だからこそ迅人は、姉妹二人に同等の責任を感じてもいるのである。
椿にたしかめたことはないが、迅人の考えでは、椿と新渡戸さんの間にはいまだ肉体関係はないはずだった。自分に抱かれていつでもあんなふうにくるっていく女が、自分以外の男と寝ているとはどうしても考えられない。
それにしても、今回の椿の東京滞在は長かった。何泊するとも言わないで出かけていったのはいつものことだが、これまでは、最長でも三泊だった。今回は一週間。途中で一度椿から電話があったので事故の心配はしていなかったが、あるいは新渡戸さんとの関係が新たな局面に入ったのだろうか、という考えが迅人に浮かんだ。そして「おねえちゃん、今日も帰ってこないのかなあ」「今回は結構長いな」と杏と話したある午後、客を源流まで案内していく車中で、「あの新渡戸のやろうめ」と自分が考えていることに気がついて、少々びっくりした。
びっくりしたが、安心もしていた。自分はこんなふうにちゃんと、椿のことも愛している、と思って。
ゾクアガリはだてじゃないな、とこの頃は感心しきりだ。
翼は仕事を覚えるのも早ければ、要領もいい。勤務態度はしごく真面目で、運転及び接客の技術に至っては、こっちが見習いたいくらいのものだ。おかげで迅人は、時間的にというより気分的にかなり楽になって、本業である指圧師の仕事に精を出せるようにもなった。
たとえば日中、翼がある客たちの送迎でハイキングに行っている間、迅人はべつの客たちの指圧をするのである(もちろん有料だ。東京での料金よりは若干低く設定したが、自分はプロなのだから、相応の代価を請求するのはむしろ客への敬意だと迅人は考えている)。客の求めによっては夕食後やペンションの休憩時間を利用して指圧することもあり、杏は迅人の体を案じているが、本来の自分に戻れて迅人はむしろ以前より力みなぎる感じだった。
「こんなに若くて、指圧師とはめずらしいですねえ」
夫婦で二日前から滞在している七十近い老人は、前日に引き続いてその日も治療を望み、「治療室」と迅人が決めた座敷の一角のマットレスの上に横たわりながら、そんなふうに言った。傍らには老妻が付き添って、迅人の指の動きにつれて夫が「はーう」とか「うーむ」とか唸るのを、面白そうに見守っている。
「何かお考えがあって、勉強されたんですか」
「ええまあ……」
と迅人は、老人の硬い腰を押す。きっと長年座業を続けてきた人だな、と推測する。退官した大学教授というところかな。
「ダイレクトに人を幸福にしたかったんですよ」
「ダイレクトに。……なるほど」
それに、自分の手で人が気持ちよくなったり、ときには悪い病気を芽のうちに見つけたりするのは、迅人自身の大いなる幸福でもあった。でもそのことは、偉そうに聞こえる気がして今まで患者にはあまり言ったことがない。
「よろしいですわね、奥様と二人、こうしてすてきなペンションで。奥様はお料理、旦那様は指圧で、それぞれの腕前を発揮なさって……」
老妻が口を添えると、
「お。そういえばお二人のうちどちらが奥様ですか」
と老人が言い、
「あなたったら」
と老妻がたしなめた。迅人は笑う。
昨日、だりや荘の裏の小川のほとりを、椿と一緒に少し歩いた。杏が夕食の準備に熱中している間を利用してのことだったが、そのときにこの夫婦と行き合ったのだ。
椿は気にしていたが、椿が手にしていたカゴには、道々見つけたナラタケがたくさん入っていたし、何もおかしいことはないよ、と迅人は言った。椿が一週間も東京へ行っていたのは、新渡戸さんとどうこうだったからではなく、このだりや荘で三人でいることへの不安からだったのだと、帰ってきてからの椿の様子で迅人は気づいた。だから椿の神経をなだめてやることが必要だったのだ。老夫婦とすれ違ったあと、スズカケの大木の陰で、半ば強引にキスをした。こわばった椿の体が、手で支えてやらなければくずおれそうなほど柔らかくなるまで唇を合わせていた。ちょうどこの、指圧のように。
「ほら、まだ笑っていらっしゃるわ」
老妻の言葉に少し照れて、何となく窓のほうを見ると、ちょうど杏が、サブレと一緒に庭に出てきたところだった。仕事の手が空いたのだろう、サブレに何やかや話しかけながら、花壇の間を歩いたり走ったりしている。
「あっちですよ、僕の妻は」
老人は体を起こして、妻は伸び上がって窓の外を見た。
「可愛らしいかたのほうね。もう一人のきれいなかたは、妹さん? おねえさま?」
「妻の姉です」
「あら──」
と老妻が、意外そうな声を上げ、
「じつにうらやましい環境ですなあ」
と老人がその声の先を引き取った。それで話は終わりになり、迅人は指圧を続けたが、ときどき、窓の外から杏の笑い声が聞こえてきて、そのたびに愉しい気持ちになった。
サブレを飼うことにして本当によかった、と迅人は思う。杏があんなふうに幸せになるのなら、犬を飼うことを、もっと早く思いつけばよかった。もちろん、自分の遺伝子と、杏の遺伝子が合体した──ぜったいに素晴らしいに決まっている──生きものを、この世に送り出せないことは残念このうえないが、そう何もかも手に入れられるものではないだろう。完全無欠の人生なんて現実的じゃない。むしろ自分と杏の愛は、あまりにも完全無欠すぎるから、赤ん坊のかわりに子犬を育ててちょうど収支が合うのかもしれない。そんなことを言ったら、「サブレに失礼よ」と杏は怒るだろうが……。
ひときわ大きな杏の歓声が聞こえてきて、老夫婦ともども迅人はもう一度窓の外を見た。どうやら杏はサブレに「お手」を教えようとしているらしい。サブレの片足を手に取って、しきりに何か言い聞かせているが、何だかサブレと握手しているみたいに見える。
可愛い女だ。迅人は微笑まずにいられない。今夜、二人きりになったら、いっぱい抱こう。──じつは昨日も一昨日もその前も、さかりがついた雄犬さながらに挑みかかっていて、杏からは「色ぼけじじい」などと呆れられているのだが。
仕事が忙しくなればなるほど力がみなぎってくるように、女たちを可愛がれば可愛がるほど、性欲も高まってくるようなのだった。
杏が迅人にくれた、記念すべきラブレターは、今は杏の手元にある。
大事にとっておいたのを結婚したときに杏に見せたら、恥ずかしい恥ずかしいと騒いで、奪い取られてしまったのだ。本のページの間とか乾物の瓶の中とか、とにかく迅人にはとうてい探し出せそうもない場所に、しまい込んでいるらしい。
しかし今でも、ちゃんと思い出すことができる。エアメールのような薄地のピンク色の便箋に、鉛筆書きの、ペン習字みたいなかしこまった字が並んでいた。あたしは字が下手だから、きちんとした字を書こうと思うとペン習字になるしかないのよ、とあとで杏が説明した。最初は万年筆で書きはじめたが、書き損じて便箋を破棄すること十数回にして、鉛筆という、間違ったら消しゴムで消せる道具を使うことに甘んじたのだそうだ。
迅人が勤めていた会社に、自分も勤めていたこと。その頃から迅人を好きだったこと。電車の中で偶然迅人を見かけて、これは神様がくれた最後のチャンスだと思い、行動を起こさなければバチがあたると思ったこと──が、手紙には書いてあった。そして、便箋とお揃いのピンクの封筒の中には、手紙のほかに履歴書が同封してあって、インパクトとしては、手紙よりもこっちのほうが──そんなものが同封してある、という事実のほうが──大きかった。だって履歴書を見ないと、ほんとにあたしが迅《はや》ちゃんと同じ会社だったって信じてもらえないでしょ? というのが、杏の説明だ。履歴書に嘘を書く人間などこの世に存在しないのだ、と信じているらしい。
会社を辞めて半月が経ったある朝、指圧師を養成する専門学校へ向かう電車の中で、ある駅で降りる人波とともに杏は迅人に近づいてきて、ポロシャツの胸ポケットにそのラブレターを押し込んだのだった。迅人があっと思ったときには、杏はホームにいて、扉は閉まったあとだった。そうして翌日、迅人は隣の車両で、こちらを窺っている杏の姿を見つけたが、迅人が近づこうとすると杏は逃げて、前日とはまたべつの駅で降りてしまい、そのあとを追って迅人も降りたために、その日は学校を休む羽目になった。
同じ会社にいたという杏を目の当たりにしても、迅人には誰だかさっぱり思い当たらなかった。その会社に勤めている頃、迅人は自分は自分ではないと思っていて、だからロボットと化して仕事の結果を出すことだけに没頭し、結果クールな仕事人間と見られていたようなのだが、杏は杏で会社が大嫌いで、社史に残る(と、この前やってきたかつての同僚たちが言っていた)さぼりOLで、本人に言わせれば、迅人の姿を追うことだけを甲斐に会社へ来ていたのだそうだ。迅人が辞めたことを知ると、その翌日に、何の迷いもなく辞表を出したというから驚いた。その日、やみくもに杏が降りたその駅の、とりあえず入ったマクドナルドで、そういう話をした。学校を遅刻せず欠席したのは、どれだけ喋っても、もうこのくらいでいいや、と思わなかったからで、今考えればあの日すでに、自分は杏と結婚することを考えていたのかもしれない。
そして予感ということでいえば、結婚する少し前の秋、はじめてだりや荘を訪ね、杏の両親とともに、椿に会ったときもそうだったのだった。両親に少し後れて食堂に入ってきた椿はあの日、薄緑色のニットのワンピースを着ていた。女性の服装にはまるで無頓着である自分が、杏にもらったラブレターのピンク色と同じくらいに、あの薄緑色をはっきり覚えているのは、椿を見た瞬間はっとしたからだ。椿の美しさにではない、あれは、予感によってはっとしたのだ、と迅人は今あらためて確信する。
なぜなら椿と関係を持ったのは、杏と結婚して一年も経たない頃だったのだから。
「迅ちゃん! ごはんー!」
椿の家の窓から、杏が呼ぶ。
迅人は先の老夫婦を駅まで送って帰ってきて、そのまま庭で、夕顔の蔓をもうちょっと美的にあしらえないものかと、ベランダを見上げ思い巡らしているところだった。
「今日はこっちよ!」
杏は嬉しそうに叫ぶ。椿が食事を作るのは久しぶりだ。椿の気分も、だいぶん回復してきたんだな、と迅人も嬉しくなった。
手を洗い、食堂に入っていくと、杏と並んで翼もいたのでびっくりした。翼と椿の顔合わせはまだ済んでいなかったからだ。杏が、ちょっと声を潜めるようにして、
「おねえちゃんが、翼くんも呼んでちょうだい、って言ったのよ。さっきもう二人で少し話したのよ」
と言った。
迅人が翼の顔を窺うと、翼は、怒っているような泣きそうな奇妙な表情をして、Vサインをして見せた。
「感想は?」
「まばゆすぎっす」
「翼くんたら、緊張しっぱなしなのよ」
そこに椿が、ワゴンを押してあらわれた。久々の料理は和食の献立だった。焼いた穴子と茗荷を混ぜたご飯、山芋をすり流した冷たい味噌汁、瓜の漬物。杏が、ペンションのディナーに出すような、どちらかといえば「ハレ」の料理が得意なのに対して、椿は、ほっとするような家庭料理が上手だ。
もうちょっと暑くなったらスイカの皮のお漬物が食べられるね、迅ちゃん知らないでしょう、お父さんが好きだったのよね、などという話を、食べながらしばらくしたあと、唐突に椿が、
「翼くんってゾクアガリなんですって?」
と言い放った。迅人と杏は顔を見合わせる。
「翼くんが……?」
と杏が訊き、
「ええ、さっき僕から言いました。こういうことは先にお知らせしといたほうがいいと思ったので……」
と翼が、首をすくめんばかりにして答えた。
「おねえちゃん、翼くんはね……」
正しい暴走族だったのよ、と杏は弁護するつもりなんだろう、と迅人が思ったそのとき、
「でも何なの? ゾクアガリって」
と椿が言った。一瞬の間があって、迅人と杏は爆笑した。
ゾクアガリの意味を教えられても、椿はべつに翼を恐がる様子はなかった。「暴走族」という言葉を知ってはいても、世間一般のイメージは椿からはるか遠くにあるのだろう。とすると、「正しい暴走族だったのよ」とあらためて杏が繰り返したことは、かえってマイナスになるとも思えるのだが。
とにかく椿は、彼女としてはめずらしく、初対面から翼に打ち解けたようだった。むしろ翼を気遣う余裕さえあるようで「今日のお昼、翼くんにはちょっとあっさりし過ぎだったかしら」とか「よかったらだし巻きでも作りましょうか」とか、しきりに声をかけている。やっぱり翼はたいしたやつだな。弟の優秀さを自慢に思う兄のように、迅人は心の中でにんまりした。
が、一方の翼のほうは、今日はまるで調子が上がらない。おどおどしながら黙り込んでいるかと思えば、突然、突拍子もない大きな声で「そうそう! そうですよねっ!」と相づちを打ってみたりする。間違いなく、椿の美しさに気後れしているのだろう。「正しい暴走族」の弱点だな、と迅人はこれもにんまりと思う。
ちょうど食事が終わった頃、だりや荘と連動しているインターフォンが鳴って、酒屋がワインのケースを届けに来たことを告げた。杏が出ていくと、翼が途方に暮れたように迅人を見たので、「厨房の中に運んでやってくれよ」と迅人は言った。母親を追う小さな子供のように翼は駆け出していった。
迅人は椿を手伝って、食器を台所に運んだ。洗い物をする椿に皿を手渡しながら、
「いいやつだろ? あいつ」
とたしかめた。
「ええ、そう思うわ」
スポンジを動かす手元を見つめたまま、椿は微笑む。その横顔に、迅人は今更くらっときた。食事の間中、翼が椿にどぎまぎしているのを意識していたせいかもしれない。
「明日。──そうだな二時。沢へ行こうか」
まったく衝動的な計画だったが、椿の耳元に顔を寄せ、迅人はそう囁いた。
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4
母親はかんしゃく持ちだった。
普段はおっとりとやさしい、ちょうど椿を熟成させたような人だったが、何かのはずみでひどいヒステリーを起こした。その何かが何なのか、周囲にも本人にもわからないところは、椿の「発作」と同じだった。実際父親は、二人の根っこは同じだと考えていたようだ──椿の発作が自分を閉じこめるほうに向かうのに対して、母親のほうは、爆発するのだ、と。爆発すれば、そのあとはいったんゼロに戻るのだから、本人の負担は椿よりも軽かったのではないか、と杏は考えている。そのぶん、周囲は苦労したけれど。
杏が覚えているかぎり、いちばんひどいヒステリーは、杏が六歳のときに起きた。ある日、杏と椿が、その頃二人で通っていたお絵描き教室から戻って来ると、家中に服の切れ端が散乱していたのだった。服はすべて父親のワイシャツやズボンや背広だったが、まだ切り刻まれていない服の山が六畳の座敷にあって、その真ん中に、ハサミを持った母親が放心して座っていた。
杏は、父親の部屋に駆け込むと、畳んだ折畳みベッドの中の「隠れ家」に逃げ込んだ。今まで、母親は怒鳴ったり泣き叫んだり食器を割ったりしたことはあったが、こんなのははじめてだった。ずたずたにされているのが父親の服ばかりであること、ヒステリーのピークは過ぎたらしいのに、母親の手にいまだハサミが固く握られていることが恐くてたまらなかった。これまでのヒステリーなら、父親になだめられ、慰められて間もなく収まるのだが、今度はそうはならない気がした。それどころか、お父さんはお母さんに殺されてしまうかもしれない──。
折畳みベッドの中で、ひたすら祈った。神様、神様、どうかぜんぶもとに戻してください。その間、椿がどうしているかなど考えもしなかった。そのうち眠ってしまい、目が覚めたのは夕方だった。「晩ごはんよー」という母親の声で起こされたのだ。
ダイニングへ行くと、すべてが元通りになっていた。服の切れ端は跡形もなかったし、父親はテーブルにつき、のんびりと新聞を読んでいて、オーブンからグラタンが焼けるいい匂いが漂っていた。レタスをざるに入れ水気を切っていた母親が振り向いて、「寝てたの?」と微笑んだ。椿は母親の隣で、プチトマトのへたを取っていた。
安心のあまり泣きそうになるのを、杏は必死でがまんした──泣いたりすれば、せっかく元通りになったものが、まためちゃくちゃになってしまいそうな気がしたから。そうして、もう一つのこともわかっていた。元通りにしてくれたのは、神様じゃない。服の切れ端を拾い集め、袋に詰めてどこかに隠し、まだ刻まれていない服は全部洋服箪笥に掛けなおして、父親のかわりに母親を慰めたのは、椿だと。
だりや荘に来てから、時間の流れかたが変わったような気が杏はする。
速い、というのともちょっと違う。速いというよりは、そっけない。ときどき自分が、ピクニックの朝、ひとり寝坊した子供みたいに思えることがある。目を覚ますと、もうみんな出かけている。誰も起こしてくれなかった。──そんなふうに、自分は時間に、ずいぶん冷たくあしらわれている感じがする。
庭の植物は一晩で姿を変えてしまう。新芽が出たり、花が咲いたり。かと思うと萎《しお》れたり。昨日まで緑ばかりだったところに白や黄色の花がついているのを見れば嬉しくなるけれど、一方で、何だか、「のろま」となじられてもいるような、ずいぶん好き放題されているような感じがする。
それにサブレ。サブレの成長ぶりときたら、驚くのを通り越して呆れるほどで、まだ生後半年にも満たないくせに、もう三十キロ近くもある。立ち上がると、前脚が杏の肩につくほどだ。「こんなにどんどん大きくなったら、あっという間におじいさんになっちゃうわよ」と、これはサブレではなく迅人に杏は泣き言を言った。もっとも──そのとき迅人が杏に諭した通り──サブレの頭の中身はまだまだ子犬で、自分の図体の大きさにはまるで無頓着でこっちに向かってくるものだから、杏も迅人も、それに椿も翼も、サブレと目が合うと、思わず身構える癖がついてしまったのだけれど──。
「ばかサブレちゃん」
足を踏ん張り、どうにかサブレの体当たりを受け止め、杏はまるでダンスでもしているような格好のまま、サブレの頭に顔を埋める。「ばかサブレ」はこの半月来のサブレの渾名《あだな》だ。二週間前、サブレは溺れかけたのだった。
それは宿泊客の途切れ目を利用して、みんなで河原でバーベキューをした日のことだ。驚くほどの速さで日に日に気温が下がってきていて、うかうかしていると屋外でのピクニックを一度も楽しまないまま冬になってしまう、と慌てて、翼も交えて出かけたのである。
日差しも風も頃合いの、爽やかな日だった。数週間ぶりの完全な休日だったので、ビールもたくさん用意して、アルコールに強い迅人はともかく、杏と翼は、早々に酔っぱらった。椿はジンジャーエールでつきあっていたが、バーベキューコンロの熱のせいか心持ち頬を紅潮させて、いつもよりも陽気に見えた。
サブレにはリードをつけていなかった。いつもの散歩コースの小川ではなく、本流まで来たのはサブレにははじめてのことで、音を立てて流れる豊かな水に怖じ気づいてすっかりおとなしくなってしまっていたからだ。車の陰にぺたんと座って、サブレ肉だよと呼んでも困ったような目を向けるだけで動こうとしないのを笑いながら、みんな油断しすぎていた。杏がはっと気がついたときには、中洲に下り立った白鷺めがけて、サブレは川の中に飛び込んでいた。
「サブレ!」
杏が叫んだのとほぼ同時に、迅人が駆けて、翼もすぐ後に続いた。深みにはまって、パニックを起こしながら流されていくサブレを、迅人が必死に追った。迅人の動きを見ていると、流れがかなり速いことがわかった。「サブレ!」と叫んでいたのがいつの間にか「迅人!」に変わった。ようやく迅人の手がサブレの首輪に届いて、追いついた翼と一緒に水の中から引っぱり上げた。二人と一匹がまるでスクラムでも組むように絡まりあって川から上がってきたとき、杏の顔は涙でぐしゃぐしゃで、声はほとんど嗄《か》れかけていたけれど、幸いサブレはほとんど水を飲んでいなくて、体を拭いてやるとすぐに元気になった。だりや荘に戻ってお風呂に入るまで、身を寄せ合って震え続けていた迅人と翼のほうがむしろダメージが大きかっただろう。
「ばかサブレちゃん」
いったんサブレの毛の中に顔を埋めると、しばらくの間杏は動けない。サブレの匂いやふわふわした感触をたしかめながら、サブレが今ここに無事でいることを噛みしめて、そうして、気がつくと、もう一つのことを考えている。
「迅人!」
と、あの日椿も叫んだことを。
その日の朝は三組の客がチェックアウトした。最後になったのは杏と同じ年頃の女性の三人グループだったが、一人が会計を済ませているところに、すでに表の車中で待っていた二人のうちの一人が駆け込んできて、
「ごめんなさい、あやうく着て帰っちゃうところだったわ。どうもありがとうございました」
と言いながらカーディガンを渡した。タンクトップとかノースリーブしか着替えを持っていなかったその女性には、この辺りの気候はもう涼しすぎたから、杏がカーディガンを貸していたのだった。
「着て帰って結構ですよ。風邪を引くといけないから。そのかわり、来年でもそれを持って、また来てくださると嬉しいんだけど」
「いえいえ。とりあえずお返しします。東京へ着くまではもう車を降りないから……」
女性は笑い、それから、会計していた女性と目を見交わして、
「でも、きっとまた来ます」
と言った。
「あたしたち三人とも、もうすごくここが気に入っちゃって。お料理は最高だし、それに、さっきも話してたんですけど……」
ねえ、というふうに隣を見ると、その女性も、
「そう。ちょっと、独特なんですよね、ここ。ペンションって、こう言ったら何ですけど、へんにべたべたしたところが多いでしょう、ここにはそれがないし……」
と続けた。そこへ迅人がやってきて、すると女性たちの口はいっそう滑らかになるようだった。
「三人の意見がぴったり一致してびっくりしたんですけど、まるで異次元に来たみたいだねって。それってきっと自然とか風景のせいだけじゃなくて、いちばん大きいのは、このペンションそのものの空気なんですよね。すてきなご夫婦と、神秘的なお姉様と、何だか舞台の上みたいな……。東京の日常のあれこれがばかばかしくなっちゃう。また浸りに来たいです。来年と言わずこの冬にでも」
そのグループが、たぶん最後の避暑客だった。次のスキーシーズンまで、しばらくはのんびりした日が続くだろう。
女性たちの自家用車が走り出すのを、杏と迅人は見送った。車が見えなくなってしまっても、杏はしばらくぼんやりしていた。気がつくと、さっきの女性の言葉を頭の中で呪文みたいに繰り返していた。
「舞台だって」
それで、迅人にそう呟いてみた。
「舞台さ」
迅人は、杏を見下ろして微笑む。その誇らしげな表情に、杏は少し安心して、頭を迅人の肩にくっつけた。迅人は、髪を撫でてくれる。
「夕食はおねえちゃんが作ってくれるって。ご苦労会よ」
「そいつはすばらしくすばらしいな」
おどけた口調で迅人は言う。
「じゃあそれまでちょっと|圧して《ヽヽヽ》くるよ。今日は出張なんだ」
「どこ?」
「ああ……細野さんの関係」
迅人は、以前にも出張指圧を頼まれたペンションのオーナーの名前を言った。
「もし椿さんが買い物に行くんなら、乗せていくよ」
「うん、そうしてあげて」
迅人はあらためて杏の頭を抱き寄せて、髪に唇をつけた。
ポークソテーマスタードソース。
我ながらどうかしていると思うのだが、まず思い出すのは、それだ。雨の日だった。三年前の九月の雨の日。
東京の杏たちの家に、その日の夜は椿が食事に来ることになっていた。椿は新渡戸さんに会うために、前日に上京していたが、そういうときはたいてい、帰りがけに妹夫婦の家に寄る習慣だった。
ポークソテーマスタードソースは、その日の昼食に、迅人と一緒に、近所の洋食屋で食べた。迅人が注文したのはエビフライ付きのオムライス。昼食のあと、そのまま車で、スーパーマーケットに買い物に行った。いつものように、杏は椿に会うのが楽しみだった。結婚してもうすぐ一年、料理が面白くなってきた頃で、何かおいしいものを作って椿をびっくりさせたいと考えていた。
「何作ろうかなあ」
信号で車が停まったときだった。ラジオからジョン・デンバーの「カントリーロード」が流れていたことも覚えている──だからそれ以来、杏はジョン・デンバーがきらいだ。
「おねえちゃん、昨日何食べたのかしら。新渡戸さんと」
すると迅人が手を伸ばして、ラジオのチャンネルを変えたのだった。そうすることはたまに──パーソナリティのお喋りがあまりにもつまらなかったり、迅人が「ガキども」と呼んでいる今どきの歌手たちのぼんやりした歌が続くようなときに──あったけれど、そのときのタイミングには、何か妙な感じがあった。何とはいえない、ほんの微かな妙な感じ。それで杏は、
「ジョン・デンバー、きらいなの?」
と訊いてみた。からかうように。すると迅人は、
「どうかな」
と言った。答えるというよりは、独り言みたいに──ほとんど上の空で。
ちょうどそのとき、信号が変わって、迅人は車を発進させた。信号に気を取られていたのね、と杏は考えた。が、そんなふうに考えてみたということ自体が、いつにない感じだった。雨は霧雨に変わりはじめていて、すぐ横の歩道で、母親と歩いていた赤いレインコートの三つくらいの女の子が、レインコートとお揃いの、小さな赤い傘をたたむのが見えた。
ただそれだけの出来事だった。疑惑とか、不審などではない、「起きた」というのも大げさなような、ただ、何かがふっとずれたような瞬間。もちろんすぐに忘れてしまった。思い出したのは、それからさらに一年近くが経った頃、──たぶん何かの手違いがあって、椿が新渡戸さんと会っているはずの日に、新渡戸さんがだりや荘を訪ねてきてしまい、心配した母親が杏に電話をかけてきたときだった。
「大丈夫よ」と杏は母親をなだめた。そして電話を切ったあと、自分が、母親を安心させるためだけではなく、実際に椿の身をそれほど心配していないことに気がついた。どうして心配じゃないかといえば、今日は迅人も出かけているから。椿は、きっと迅人と一緒だから。そんなふうに自分が考えていることに気がついた。そうして、同時に、ポークソテーマスタードソースのことが、あの日の奇妙な感覚が、まるで今まですぐそこにあったみたいに、よみがえってきたのだった。
ポークソテーマスタードソース。
それを思い出すと、杏は胸が締めつけられるような気がする。そんな日がたしかにあったということに何度でも驚いてしまう。なぜなら、そのとき杏は、何も知らなかったのだから。
まだ何も気づかず、ポークソテーにナイフを入れて「おいしいけど、今日のはちょっとぱさぱさするなあ」と言った自分、一切れフォークに刺して「食べてみて?」と迅人の口元に差し出した自分を思い出すとき、杏は、小さな頃に可愛がっていた、そしてやがて死んでしまった小鳥やハツカネズミを思うのに似た気持ちになる。
迅人が部屋に入ってきたとき、杏はベッドに寄りかかり、うたた寝しているふりをしていた。
声をかけられることをどこかで期待してもいたが、迅人はクローゼットをがさごそしただけで、すぐに出ていってしまった。やがて車のエンジンの音が聞こえてきた。
きっと椿も一緒だろう。肉屋さんに行きたいと昨日言っていたから。椿がほしがるような、上等の牛肉や骨付きの鶏は、町まで行かないと手に入らないから……。
ドアをひっかく音がしたのでそうっと開けると、サブレがつまらなそうな顔で入ってきた。ついていこうとして、玄関で追い返されたのだろう。再び、音をたてないようにドアを閉めると、杏は鏡台の抽出しの中から、クリームの瓶を取り出した。中身はクリームではなかった。きれいに洗って、迅人から取り上げたラブレターをしまってあるのだ。
小さな瓶に収まるように、幾重にもたたんであるピンク色の便箋を、杏は慎重に広げた。何しろ鉛筆書きなので、今では字がこすれて、ところどころぼやけはじめている。迅人から取り上げて、クリームの瓶の中に隠してから、長い間そのままだったが、だりや荘に来てからは、一人になるたび頻繁に取り出していた。だから今では、ほとんど暗誦できるほどだ。
“はじめまして。遠山杏と申します”
最初の一枚目が自己紹介。そうして、二枚目の一行目には、こう書いてある。“じつは、私は、あなたを愛しているのです”
あの一行は最高だったよ、と迅人はよく言う。からかうように、でもやさしく、感動したよ、と。それは嘘ではないのだろう。でも、あのとき、あの一行をとうとう便箋に記したときのあたし自身の感動のほうが、きっと大きいわ、と杏は思う。
入社一日目に、冷水器の前で、迅人に会った。じつを言えば、半日会社にいただけで、とても自分には務まらないと思い、逃げ出すつもりで、廊下を歩いていたときだった。
背の高い、肩幅の広い人が、冷水器で水を飲んでいた。顔が見えたわけではなかったのに、その後ろ姿だけで、なぜか自分もむしょうに水が飲みたくなったのだった。杏は、一メートルくらい離れたところに突っ立って、その人が飲み終わるのを待っていた。ずいぶん旺盛に水を飲む人だなあと思った。
やがてその人が飲み終わり、杏のほうを振り向いた。「おっ」と一瞬、驚いた顔をして、それからすぐに、くっきり笑い、「どうぞ」と言った。そしてすたすたと歩いていった。杏は、冷水器に顔を近づけた。何かいけないことをしているような気持ちで、冷たい水を三口ほど飲んだ。そして自分の職場に戻った。そのときからずっと迅人が好きだった。
“じつは、私は、あなたを愛しているのです”
薄い便箋に強い筆圧で刺繍みたいに刻まれた文字を杏はもう一度眺めた。それから便箋を元通りに瓶に押し込めて抽出しにしまうと、ベッドにのぼり、シーツに顔を押しつけた。すかさずサブレが横に飛び乗る。
シーツは「そういうこと」の匂いがした。昨日の夜もここで迅人と「そういうこと」をしたからだ。だりや荘に来てから、シーツを替えても替えても追いつかないほど、毎晩のようにしている。迅人がしたがるのだ。東京にいた頃だって、「老後に備えて少しは貯めておいてよ」とよく言ったものだが、それをはるかに上回る情熱をこめて。「ここの空気のせいだ」と迅人は言う。「みんながひみつにしてるけど、ここの空気には、きっと催淫剤が入ってるんだよ」と。
杏の胸に鼻面をくっつけて、半分眠りかけているサブレの頭を、杏は撫でた。そうしていることに気づかずに、何回も何回も、サブレがうるさそうに薄目を開けるほど撫でながら、
「じつは、私は、あなたを愛しているのです、よ。ばかサブレちゃん」
と囁いた。
サブレに耳をなめられて目が覚めた。サブレにつられて、杏も本当に眠ってしまったらしい。時計を見るともう午後一時をだいぶ過ぎていた。
「おなか空いたの? ばかサブレちゃん」
厨房へ行ってみると、ちょうど翼が食堂側から入ってきた。
「みんなもう出かけたの?」
「みたいですね」
翼は鼻の頭を掻いた。
「お昼ごはんは?」
「これからです」
「ごめんね、すぐ作るわ」
「いいんですいいんです」
エプロンに手を伸ばした杏を、翼は制した。
「俺が作りますよ。そのつもりだったんです。作ってから杏さんを起こそうと思ってたんですよ」
「……作れるの?」
「当然」
それで杏は、カウンターに座って、翼の料理を待つ按配となった。この昼食のためにとくに買い物したわけでもなさそうだが、翼の頭の中には、メニューがちゃんとでき上がっているようだった。
迷いのない動きで、翼は野菜を切り、肉を切り、鍋を火にかけていく。迅人と同じように、この子も何でもできるんだわ、と杏は思う。何でもできる男が杏は好きだった。というより、男は何でもできるべきだ、と思っている。だって、男なんだから、と。フェミニズムなんてものは杏にとってはどこか遠くの星の上のものだ。翼の料理の手つきにあんまりほれぼれと見入っていたので、翼が皿を持って振り向いたとき、思わずのけ反ってしまった。
翼が作ってくれたのは、白葱たくさんに豚バラをちょっと入れた炒め物と、韮《にら》と落とし玉子の味噌汁だった。ちゃんとご飯もよそって、漬物も付けて、一人分ずつお膳に並べて出してくれた。杏はあらためてびっくりした。手際を見ていてかなり期待はしていたのだが、これほどおいしいとは思わなかったのだ。葱はとろっと甘くて、味噌汁の玉子はちゃんと半熟に仕上がっている。
「おいしいよ!」
と感嘆すると、
「でしょ?」
と翼は、こともなげに言う。
「どうしてこんなに上手なの?」
「男の嗜《たしな》みっす」
だが結局、これまで放浪しながら居酒屋と中華屋と|京ふう《ヽヽヽ》小料理屋とたこ焼き屋でバイトしたことがあるからだ、と翼は教えてくれた。
「杏さんと椿さんは、どっかのホテルかなんかで修業したんですか」
「まさか。自己流よ。あたしもおねえちゃんも」
「そっちのほうがすごいですよ」
翼はそう言うと、いかにも若い男子らしい食べっぷりで葱肉炒めを頬張った。少し照れているようでもあり、杏はそんな翼を好ましく思った。
「椿さんは……」
しばらく黙々と食べてから、翼が言った。
「迅人さんとは、同じ学校か何かだったんですか」
「ううん。どうして?」
「いや……年齢的にそうかなって」
「年齢的には、迅人はおねえちゃんの二つ上よ。おねえちゃんはあたしの四つ上で、だから迅人はあたしの六つ上なの」
「そういう計算になりますね」
何だかばかみたいな話になってしまった。意図的に話の方向をずらしたことに、翼は気づいているだろうかと杏は思う。もう少し何か言わなければならない気がしたが、そのとき翼が、
「おかわりはいいですか?」
と訊いた。
「あ。もらうもらう」
杏は、あと少しで空になりそうなご飯茶碗を差し出した。
車の窓から入ってくる風はもうじゅうぶんに冷たかった。後部座席にいるサブレがまたしても勢いよく身を乗り出してきて、ほとんど杏の肩におぶさる格好になった。風に向かって口をぱくぱくさせながら、目はきょろきょろと辺りを見回している。
「いいかげんに落ち着きなさい」
杏はサブレの鼻づらを撫でた。そこもいつもよりひんやりしている。
「はじめて通る道じゃないのに、どうしてこんなに興奮してるのかしら」
「車高が違うから、見える景色も違うのかなあ」
ハンドルを握る翼が答える。今、杏と翼、それにサブレが乗っているのは、翼がこの前、どこからか手に入れてきたオンボロのチェロキーだ。
よかったらドライブでも行きませんかと言い出したのは翼だった。実のところ、夕方までの時間の長さを考えて途方に暮れていたところだったので、行こう行こうと杏は答えた。K村へ行く途中の渓谷の景色が見たいのだと翼は言う。杏も久しぶりにK村に行きたかったので賛成した。それにその道なら、ばったり出会ってしまう心配もないだろう。迅人にも。椿にも。
「──酔いました?」
翼が訊いた。それでもやっぱり、杏はちょっと心配になって、サブレのように対向車が来るたびにあからさまに身を乗り出せないぶん、いつもより寡黙になっていたらしい。
「ちょっと景色に見入っちゃって」
と杏はごまかした。実際、久しぶりに見る山の景色は見飽きなかった。
展望台に着くと、景観の美しさはいっそうだった。様々な木々がそれぞれに季節を映して、何十層もの緑が広がっている。
翼は手すりに半身を預けて、一言も発さず山を見ていた。その様子にも何か心打たれるものがあって、
「翼くんは、ガールフレンドとかいないの?」
と杏は聞いた。
「やっとその質問が出ましたね」
翼は、振り向いてにやりと笑う。
「やっとって?」
「いや。住処《すみか》や職場を変えるたびに、絶対それを訊かれるんですけど、だりや荘ではまだだなあって思ってたから」
杏も笑った。
「で、どうなの?」
「流れ者に女は不要っす」
「流れ者かあ……」
杏は何となくその言葉の意味をまじめに考えてしまう。
「翼くんは、生まれは東京なんでしょう」
「親の代から東京です。ルーツは沖縄ですけどね」
「沖縄! じゃあ泳ぎが得意?」
「沖縄の海は遠浅だから、泳げないやつのほうが多いんですよ」
翼は苦笑する。
「それに俺、沖縄に行ったことはまだないんです。いつか行こうとは思ってるけど」
「遠いもんね、沖縄は」
「まあ遠いのもあるけど」
翼は、もう一度苦笑した。
「なんか俺、沖縄に行ったら、そのまま永住しちゃいそうな気がするんですよ。だから最後なんです、沖縄は」
K村ではまず、なじみの農家を訪れて茸《きのこ》と栗を買いがてらお喋りし、竹細工の店にも寄ってざるをいくつか買った。それから杏は翼に頼んで、いつか椿が欅の器を買ってきてくれたギャラリー兼喫茶店に行った。
駐車場に車を停めると、エプロン姿の女性がわざわざ出てきて、
「テラスなら一緒でも大丈夫ですよ」
とサブレを指した。それでサブレも一緒に、店の軒先にぽつんと据えてあるテーブル席について──少々寒い思いをしながら──杏はホットレモネードを、翼はコーヒーを頼んだ。
「だりや荘の妹さんのほうでしょう?」
注文を運んできた女性は、サブレの頭をおっかなびっくり撫でながら、また話しかけてきた。
「ええ。こんにちは」
杏は会釈する。この辺りでは、噂が千里を巡るから、初対面の人が自分の素性を知っていても、べつに不思議には当たらない。たぶんサブレを見てわかったのだろう。
「美人姉妹って評判ですよ。この前お姉さんもいらしたけど、ほんとにそうね」
「せっかくそういう評判なら、あたしはあんまり出歩かないほうがいいみたい」
杏が笑うと、まーたまた、とエプロンの女性は楽しげに笑い返した。
「美人姉妹だけじゃなくて、ご夫婦で美男美女ぞろいだって、今日わかりましたよ」
どうやら勘違いしているらしかったが、杏は訂正しなかった。
「まーたまた」
と、女性の声色を真似て返したのは、翼だった。
その夜、椿が作ってくれたのは、つくねと茸と牛蒡《ごぼう》の鍋だった。つくねは鶏に鴨を合わせてたたいたもので、同じ大きさに丸めたきりたんぽふうの団子も入っている。
「つくねもっと入れる?」
椿が聞き、
「入れる!」
と、杏と迅人と翼は声を合わせて答えた。椿は笑いながら、鉢に盛ったたねをスプーンで掬《すく》って、鍋の中に落としていく。
「お団子ももっと入れたい人は、自分で入れてちょうだい」
「ほいさ」
迅人が傍らの皿から、団子や野菜を投入した。
「いくらでも食えるな」
「加速度的に旨いっすね」
杏は鍋に没頭するふりをしながら、こっそりと迅人を見、椿を見、翼を見る。翼は気づかないだろうか、と心配になる。杏には見えるような気がするからだ。迅人と椿の間に、二人が今日過ごしてきた時間が、鴨よりもよほど濃い匂いをたてながらたゆたっているのが。
ふと翼と目が合ってしまった。慌てて視線を逸《そ》らすのより早く、
「まったく、旺盛に食いますね」
と翼が言った。それで、今朝の杏の昼寝ならぬ「朝寝」とそのあとの食べっぷりが話題に上って、みんなに笑われる中、翼が自分を気遣ってくれていることを杏は感じた。
あるいは翼は、何かに気づいているのかもしれない。今朝、だりや荘を「舞台みたい」と言った女性たちや、あるいはあのポークソテーマスタードソースの日の杏と同じくらいには。
「あたしたち今日、夫婦に間違えられたのよね」
それから杏はそう言ったが、それはもちろん、何かをあてこすったり、試したりするためではなかった。だけどあたしは何も気づいてないわ、と、迅人と椿に、それに翼にも、あらためて知らせるためだ。
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5
新渡戸さんと「どん」は似ている。
はじめて新渡戸さんに会ったとき──正確に言えば、見合いのあとのデートで、はじめて二人きりになったとき──、椿はそう思った。
ばかげたことだが、まるで「どん」が人間の男に姿を変えて自分の前にあらわれたような気がしたものだ。もちろん、色白でふわんと太っていて、いつでも控えめだけれども仕立てのいい服に身を包んでいる新渡戸さんと、真っ黒でぺたんこで毛玉だらけの「どん」の風貌に共通点などあるはずもない。でも、何かが同じだった。風貌ではない何かが、決定的に。
その印象があまりにも強かったので、椿はその日のうちに、新渡戸さん本人につい打ち明けてしまった。あなたは、私が大切にしているぬいぐるみみたい、と。すると新渡戸さんは少しびっくりしたように微笑んで、それ、よくわかるよ、と言ったのだった。
前世で僕ら二人は、ひとりの人間か、そうでなくてもひとつの石ころだったのかもしれないね。新渡戸さんはそういう言いかたをした。ロマンチックでも感傷的でもなくて、科学的な分析をするような口調だったのがおかしくて、少し悲しいような感じもした。実際二人はそれから、二つのぬいぐるみのように、あるいは二つの石ころのように、逢瀬を重ねていったのだった。決して触れ合わず、けれども静かに深く同調しながら──。
一緒に美術館へ行ったり、映画や芝居を観たりした。美味しいものを食べながら、それらの感想を何時間でも話し合ったが、互い自身が抱えているものに触れることは、慎重に避けていた。実際二人はいまだに、互い自身については、見合いの日に交わした吊り書き以上のことは知らなかった。知ることを恐れていたとも言えるし、知らなくてもじゅうぶんだったとも言える。
椿が上京するとき、新渡戸さんはホテルの部屋を取っておいてくれた。そのホテルと同じ区内に新渡戸さんの住まいはあるのだが、椿の滞在期間中、新渡戸さんもその部屋に泊まるのだった。
ダブルベッドに、二人並んで眠った。寝返りを打つときにさえ、触れ合うことを慎重に避けていたけれど、そうしてできる二人の間の隙間《すきま》は、二人にとって大切で、おそらく親密なものだった。出会ってから五年間、二人はそういう関係を続けていた。
椿と新渡戸さんがはじめて体を合わせたのは三年前──椿が迅人とはじめて寝てから数週間後のことだった。
九月の終わりから十月にかけて、紅葉を見に来る客でだりや荘は忙しかった。
賑わいは、けれども長くは続かない。色づいた葉はあっという間に散っていく。十月も半ばを過ぎた今は、山の上の木々はもうほとんど裸になっている。里に降りてきた紅葉も、ここ数日のことだろう。来週の今頃は道に積もった落ち葉をせっせと掃き集めていることだろう。
その日、椿がだりや荘を覗いたとき、杏は「唐辛子味噌」を作っているところだった。厨房には、前掛け姿の翼もいる。
「味見してみて。おねえちゃん」
唐辛子味噌は、青唐辛子やこの時期にとれるシソの実を味噌と合わせて炒めたものだ。山ひとつ向こうのI村で作っているものが美味しくて、毎年買いに行くのだが、挑戦したがりの杏は自家製を試みているわけだった。
椿は、出来たて熱々の味噌を小皿からちょっと舐めて、
「そうねえ」
と呟いた。
「やっぱりだめ? なんかひと味違うのよねえ……」
杏と翼は、難しい顔で頷き合う。そんな様子は、夏休みの自由研究を協力しあっている子供たちみたいに見えておかしかった。
「お砂糖をもっと思い切りよく入れたほうがいいんじゃないかしら」
「そうね。甘くないバージョンを作ろうっていう野望があったんだけど……。やっぱりポイントはお砂糖かなあ」
「いや。青唐辛子の割合が重要だと僕は思う」
ああでもないこうでもないとやっているところに、サブレを連れて迅人が来た。
「光二が来るよ」
「光ちゃんが? いつ?」
「今日。これから出るってさ。夕飯に間に合うように着くって」
「たいへん!」
とたんに、唐辛子味噌問題はあっさりと棚上げされて、今夜のメニューが最優先事項になった。
光二は迅人の高校時代からの親友で、結婚式で椿も一度会ったことがあった。杏は冷蔵庫と収納庫をばたばたと往復し、買い物リストを作りはじめる。目を宙にさまよわせ、光ちゃんは好き嫌いが多いのよねえ……と、嘆息すると、
「肉を食わしときゃいいんだよ」
と、迅人が応じる。
「だって、せっかくこっちに来るのに。肉だけじゃつまんないわ。びっくりさせたいのよ」
「ゆで卵で目玉でも作ってやれよ」
「もう!」
と杏は迅人をぶって、
「でも、光ちゃんはそういうのをいちばん喜びそうね」
と笑う。
椿は、杏が放り出した唐辛子味噌を、鍋から小さな壺に移し替えながら、二人のやり取りを聞いていた。指についてしまった味噌を、無意識にぺろりと舐めてしまい、「辛い!」と思わず小さく叫ぶと、サブレをかまっていた翼がこちらを見て、にっと笑った。
椿も笑い返して、一瞬、曖昧な目線を交わし合った。どうやら翼も、このままここにいていいのか、それとも立ち去るべきなのか迷っているらしい。そのとき呼び鈴が鳴った。椿は、翼に悪いと思いながらも、
「あ、あたしが出るわ」
と急いで言って、厨房を出た。
酒類を配達してきた青年と二、三言葉を交わしたあと、何となく空を仰いだとき、風景が違って見えることに気がついた。正面に見える尾根のてっぺんが、ぼうっと白くなっている。山にはもう雪が降りはじめたのだ。
椿はじっと眺めていた。毎年見る景色だったが目が吸い寄せられた。いつまでも見ていられる気がした。が、気がつくと、体の横で、両手を固く握り、また開くことを繰り返していた。
外気は冷たく、息が白く見えるほどだったのに、手の中と背中に汗をかいているのがわかる。息を大きく吸い込んでみたが、うまく吐くことができない。
「ワイン、来たの?」
声に、びくっとして振り向いた。迅人だ。
「今月ちょっと減らしてもらえばよかったなあ。まあいいか、俺たちで飲めば」
迅人は旺盛に白い息を吐きながら、積み重ねたワインのケースを見、椿を見、それから、椿が見つめている山を見る。
「あとで、杏の相談に乗ってやってよ。今夜の食事のさ。あいつ気合い入りすぎると、失敗するから」
山頂の雪に、迅人は気づかないのだろう。笑いながら家の中に戻っていこうとする。
「行かないで」
声が出た。塞がりかけていた蓋を押し上げるようにその声は出て、迅人は驚いたように振り返った。
「……どうしたの?」
発作が起きそうになったことは、言うのをやめようと椿は思う。結局起こらなかったのだもの。そのかわり、今まで、決してこれだけは言うまいと決めていた言葉が、抑えようもなく口から出た。
「今度はいつ会える?」
そんなことか、というように迅人は安堵の微笑みを見せた。
「いつでも」
わずかに家の中のほうを気にしながら、そう言って椿の腕を撫でる。
「今夜は?」
今夜は無理に決まっている。光二さんがくるのだから。わかっているのに、椿はそう聞かずにはいられない。まるであらたに発症した発作のように。
「今夜は、だめ」
迅人は苦笑しながら、子供に言い聞かせるように言った。
椿が小学生の頃──その頃は東京で暮らしていたが──学校ではまだコークスを燃料にした「だるまストーブ」を使っていた。
それは巨大な樽型の鋳物のストーブで、コークスさえ入っていればやみくもに燃えた。火力の調節などほとんどできなかったのではないだろうか。ストーブに近い席の子は授業中いつでも真っ赤な顔をしていた。
はじめて迅人に会ったとき、そのストーブのことを思い出した。迅人が温かい人間であることは、結婚式のスピーチで幾人かが口にした言葉だけれど、そういう感慨とも少し違って、何かやみくもに放出される熱や、強靭さ、雑駁《ざつぱく》さの印象が重なったのだった。
迅人をはじめて家族に紹介するための食事会が、だりや荘で開かれたのは秋のはじめだったが、実際食事が進むうちに、部屋の中にもう一台頑強な暖房器具が増えたような気がしたものだ。そして迅人の横にいる杏は、まさしくあの小学校の教室のだるまストーブの前で、顔を真っ赤にしている子供みたいに見えた。妹はきっと幸せになるだろう、と椿は思った。
「姉妹よく似ていますね」
とは、椿を見て最初に迅人が言った言葉だった。そんなことを言う人は今まで誰もいなかったから、家族はみんな少し戸惑った。どこが? と椿は訊いた。いや……と迅人は、あらためてたしかめるように椿を見て、「どっちも女の人だし」と真顔で言った。それで、父も母も杏も笑い出した。みんな、迅人はすっかり緊張していると思ったのだ。
でも、ほんとうにそうだったのだろうか、迅人はあのとき緊張していたのかしらと椿はときおり考える。「迅ちゃんたら!」と杏が笑いながら迅人の肩をたたくと、迅人は大仰に咳払いして、再びみんなの笑いを誘ったのだったが。実際はあれが、自分と迅人の関係のはじまりではなかったのかしら? もちろんそれは、関係がはじまったあとで、何か言い訳がましく、ずる賢く、記憶に付け足した印象なのかもしれないけれど──。
三年前のあの日、新渡戸さんは留守だった。
新宿駅の公衆電話から、椿は新渡戸さんの部屋に三回かけて、三度目は、何か放心したようになって三十数回も呼び出し音を数えたのだが、新渡戸さんが電話を取ることはなく、もちろんそれは、新渡戸さんのせいじゃない。椿はその日、何の連絡もせず、いきなり東京へ来たのだから。
どうしてかと訊かれれば、雨のせいのような気がする。あの日は朝からひどい雨だった。だりや荘の窓の外を薄い水の壁のように流れる雨を眺めながら、東京もこんなふうな降りかしらと考えていた。そのうち、いたたまれなくなって、家を出た。新渡戸さんに会いたいと思った。ほんとうだ。そんなふうに理由もなく身の置き所がなくなったとき、それまでいつでも新渡戸さんに救いを求めてきたのだから。
けれども、新渡戸さんは留守だった。三回目の電話を切って、その事実をとうとう受け入れると、杏の家に電話をかけた。話したかったのは杏とで、もし迅人が電話に出たら、何も言わずに切ってしまうつもりだった。それも、ほんとうだ。呼び出し音が二回鳴って、電話に出たのは迅人だった。するとひとりでに声が出た。いつもは勝手に塞ぎ込む声が、このときは勝手に喋った。今新宿駅にいること、新渡戸さんが留守であること、雨がひどくて疲れていてどうしていいかわからないことを、哀れっぽく迅人に訴えた。すると「わかった」と迅人は答えて、今からすぐに迎えに行くからと言った。
ロータリーで迅人を待った。迅人の車は知っていた。それまでに妹夫婦を訪ねたときに、バックシートに何度か乗ったことがあるからだ。そのブルーグレイのパジェロは、間もなく椿の前に滑り込んできた。
「濡れなかった?」とまず迅人は言った。そこは地下だったし、椿は傘をちゃんと持ってもいたのに。でも迅人が開けてくれたドアから、助手席に乗り込んだとき、たしかに自分はずっとずぶ濡れだったような気がした。今ようやく、雨を遮《さえぎ》る屋根の下に──あるいは、濡れた服を乾かすストーブのそばに──辿り着いたのだと。
いったい何があったんだ? とも、どうしたんだ? とも、迅人は聞かなかった。車はすぐに発進した。迅人は了解を求めなかったし、椿も何も言わなかった。都心の入り組んだ道路を、車はためらいなく、確信に満ちて走り、やがてホテルの駐車場に入った。迅人が物慣れた様子でいくつかの手続きを済ませて、自分を部屋へ導いていくのを、椿はただ凝視していた。ふと迅人が振り向いて「恋人時代に杏とたまに来たからさ」と言った。迅人は、自分がこういう場所に慣れていることの言い訳をしたかったのに違いない。一方椿は、迅人のその言葉によって、自分があの雨のだりや荘の窓辺から目指してきた場所がほんとうはどこだったのか、はっきり告げられた思いがしたのだった。
そこは新渡戸さんがいつもとってくれるのとはまるで違う、人工的な薔薇の匂いが充満する部屋だった。ピンクのギンガムチェックのシーツの上で、迅人はごくゆっくり、慎重に、それでいて確実に椿の体を開いていった。
痛みに強ばる体をずらして、自分の体が流した夥《おびただ》しい量の血を見たとき、椿は脅えた。それが、自分以上に迅人を脅えさせたのではないかと思ったのだった。が、迅人は、微塵《みじん》も動揺した様子を見せなかった。熱いお湯で絞ったタオルで椿の体を拭いてくれ、あらためて隣に横たわると、椿の背中や腰をやさしく撫でた。それから椿の顔をまっすぐ見て、「ありがとう」と言った。「ありがとう、感動したよ」と。
その日の夜、はじめて二人きりで食事をした。洞窟のような壁にオレンジ色のランプの光が柔らかい影を作る、スペイン料理のレストランで、迅人はまずビールを注文すると、椿には何も言わず、席を立った。何か突発的な予定が入って、夕食までには帰れないと、杏に連絡しに行ったのだろう。戻って来ると、迅人はすっかり元の迅人だった。旺盛に飲み、食べ、椿にももっとどんどん飲み食いするように忙しくすすめながら、いつも杏と迅人と椿の三人でいるときに話すような話を交わした。
今二人でしてきたこと、椿と迅人二人のことは、どちらからも話題にしなかった。ただ一度だけ──映画の話をしているとき、迅人がそのことに触れた。それは小説を原作にした、南米の映画で、男が一人殺されるのだが、その理由というのが、ある結婚前の娘の純潔を奪ったせいなのだった。
その土地では、新婚初夜の明くる日、新郎は血に染まったシーツを家の前に掲げて、自分が妻の最初の開墾者であることをみんなに証明するのだそうだ。すでにほかの男に体を与えていた娘は、知恵者の老女から、鶏の血を仕込んで初夜に臨むことを教えられる──。とても南米的な映画なんだよ、原作も面白かったけどね、と迅人はその話を締めくくったあと、ふいにじっと椿を見つめた。おかしなほど真摯《しんし》な顔であらためて「感動したよ」と呟いて、それから少し照れたように、ビールを飲んだ。
あのときの迅人の表情を、椿はしばしば思い返す。そうして、思い出し笑いをしたことも、何か面映ゆいような、くすぐったいような気持ちになったこともたしかにあった。
でも──と、椿は「どん」の顔を見る。「どん」は椿を哀れむ顔をしていた。わかっているわよ、と椿は言う。それは迅人の愛すべき点などではない。憎むべき点だ。自分は、今ではそのことがわかっている。
車が敷地内に入ってくる音がした。光二さんが──妹夫婦の友人が到着したのだろう。
椿は鏡の前で髪を直すと、客を迎えるために部屋を出た。
杏は赤いダウンジャケットを着ている。
インターネットで注文したとかで、今朝届いたものだ。最近迅人がだりや荘や自分の仕事の営業にパソコンを活用しはじめていて、杏もときどき触っているらしい。杏のやつキーボードもろくに打てないくせに、買い物だけはできるんだよ、と迅人はぼやいている。
「ちょっと派手だった?」
杏は椿の前で、くるっと回って見せる。
「そんなことないわ。よく似合ってる」
ほんとうによく似合ってる、と椿は思う。赤いふわふわのジャケットに包まれた杏は、申し分なく可愛らしい。それに、申し分なく温かそうに見える。
「ほんとに二人で行くんすか?」
翼が、おそるおそるそう訊いた。もちろん、と杏はきっぱりと言い、ええ、と椿も微笑んだ。
これから二人は、杏の運転でI村へ行くことになっている。杏はペーパードライバーだったが、こちらへ来てから時折近隣を運転していて、今では山道を往復することもままある。だが、それにしても、I村行きは難易度が高すぎるのではないか、と翼は心配しているのだ。
どうして翼がおいてけぼりを食うのかといえば、I村へ行くいちばんの目的が、新そばを食べることだからだ。翼は筋金入りの「そばアレルギー」なのである。
「だから俺、玉子焼きかなんか食ってつきあいますよ」
「やあよそんなの。気の毒すぎてせっかくのおそばがおいしくなくなっちゃう」
「あの辺のおそば屋さんにはおそば以外のメニューってないわよ」
椿にまでそう言われて、翼はようやく引き下がった。
「じゃあ、行くからね!」
じつは本人も不安がないわけではないのだろう、ことさらはりきった様子で車に向かった杏が、ふと振り向いて、「じゃあね!」とあらためて大きく手を振った。
だりや荘の窓から迅人がこちらを見ていることに、椿もとうから気がついていた。
「ゆっくり行けよ!」
迅人は、窓に寄りかかり、気怠《けだる》げに手を振る。昨夜、みんな揃っての酒宴がお開きになったあと、迅人と光二は二人で明け方まで飲んでいたそうで、今朝は睡眠不足の上にひどい二日酔いらしい。──でも、椿には、二日酔いを理由にして、迅人が自分を避けたようにも思える。昨日あんなふうに駄々をこねたから──迅人は、杏と私と三人で過ごすことを、警戒しはじめているのかもしれない。
車はペンション村を出、村を通り抜けていよいよ山道に入ったが、杏は危なげなく運転した。車の運転ができない椿にとっては、妹が当たり前の顔をしてハンドルを切ったり、ギアの位置を変えたりしているのは不思議以外のなにものでもない。料理、パソコン、車と、杏は果敢に挑戦して、いろんなことがどんどんできるようになっていく。そんな妹を誇らしくも愛おしくも感じる一方で、当然よ、というもう一つの声が聞こえてきて椿ははっとする。妹のように迅人に愛されていさえすれば、何だってできるのは当然よ、とその声が続くのを、聞こえないふりをした。
椿は、不安なく車に乗っていたけれど、それとはべつに、杏の運転は賑やかだった。「うーうーうーうー」と唸りながらカーブを曲がり、対向車が来れば、いちいち「うひゃああ」と叫ぶ。緊張のあまりそういう声が出るようで、どうやら椿ほどには、杏自身は自分の運転技術を信頼していないらしい。
「おねえちゃんは案外度胸があるわねえ」
山をひとつ越えたところで短い休憩を取ったとき、杏が感心したように言ったので、椿は苦笑した。
「たぶん、自分で運転しないからよ。どのくらい危ないのかわからないんだわ」
そうなのかなあ、と杏は呟き、しばらく間があってからためらいがちに、
「おねえちゃん、いつ死んでもいいとか思ってない?」
と言った。
椿はどきっとして杏を見た。杏は、にこにこ笑っている。
「そうね、杏と一緒なら、本望だわ」
冗談めかしてそう答えた。実際は、冗談じゃなく、本気でそう思っているのかもしれない。自分一人じゃなく、杏と一緒なら死んでしまってもいい、と。迅人だけを置き去りにして。そうして、絶望というものを、迅人に教えてやりたいと、心のどこかで願っているのかもしれない。
「あたしはいやよ、おねえちゃんと一緒なんて」
「あら。ずいぶん冷たいのね」
「二人きりなんてさびしいもの。迅ちゃんも翼くんも一緒じゃなきゃ。サブレも。知ってる人みんなについてきてもらいたいわ」
「それは身勝手というものだわ」
声を合わせて笑ったが、そうしながら、亡くなった両親のことに思いが至ったのは椿だけではないようだった。車を停めている水際をさらに下っていけば、両親が車ごと落ちた沢に通じる。
誰にも打ち明けたことはないし、自分の中ではっきり形にすることも避けているけれど、両親の死に関して、椿はある考えを抱いていた。母親にとって、あれは幸福な死だったのではないか。あるいは、人はどうしてそんなにまでして幸福になりたがるのだろう、とも。
浮かんできた様々な思いを椿は振り払って、からかうように杏の顔を覗き込んだ。泣いてないわよ、と杏は目をぱちぱちしてみせた。
目的のそば屋は、I村に入る手前のお社《やしろ》の近くにあった。その一帯にはそば屋が林立しているのだが、やはりその店の前には平日にもかかわらず順番を待つ列ができていた。
辛抱強く十数分待って──旨いそばを食べるためにかぎっては並ぶのをいとわない、とは二人が育った家の家訓みたいなものだった──、天井の高い、お堂のような店内にようやく座ると、これもいつもの倣《なら》いで、ざるを三枚ずつ注文する。
「うん、うん、うん」
と、杏はいちいち頷きながら食べている。新そばの香りは格別だった。それに、特産地であるこの辺りでは美味しいそばを出す店はすくなくないけれど、それに見合うつゆといえば、この店が一番なのだった。
「翼くんは気の毒ね、これが食べられないなんて」
しみじみと杏は言う。
「仕方ないわね。命にかかわるって言うんだもの」
「大げさなのよ。今度から食事に少しずつそば粉を混ぜてやろうかな」
「およしなさいよ」
本当にやりかねないので強く言うと、や・ら・な・い・わ・よ、と杏は鼻に皺を寄せる。
「迅ちゃんもばかね。二日酔いだなんて。明日もう一度迅ちゃんと来ようかな」
「それがいいわね」
椿はそば猪口に目を落としたまま答えたが、杏がじっと自分を見ていることに気がついた。
「……なあに?」
え? うん……と、杏はちょっと困ったように笑って、
「おねえちゃんもいっぺん新渡戸さんと来たら、って言おうと思ったんだけど」
と言う。
「思ったんだけど、なに?」
「うん、その……新渡戸さんもそばアレルギーかも、って」
言っているそばから杏は笑いだし、椿もかろうじて笑った。
杏が何かをあてこすったり、謎をかけたりするはずはない。この子はそんな真似はしない。杏の言葉がこんなふうにいちいち気にかかるのは、私の心の問題だ、と自分に言い聞かせながら。
「おねえちゃん」
再び杏があらたまった声を出した。
「──I村で唐辛子味噌を買って帰らない?」
新渡戸さんはこの頃しきりに会いに来る。
椿に電話をくれるとき、新渡戸さんはたいてい東京からすでにこちらへ向かっている。もう高速道路を下りて、今は町にいる、ということさえある。たぶんそれほどに切迫しているのだろう。新渡戸さんは──それにきっと私も、と椿は思う。
町で会うとき、二人はいつも同じホテルで会う。外観も機能も、ビジネスホテルとラブホテルの中間のようなその場所に、最近あまりにも足繁く通っているので、フロントの人にすっかり覚えられてしまった。今日など新渡戸さんは先に部屋で待っていたのだが、椿が何か言う前に、フロントから部屋番号を教えてくれるという按配だった。
「こんにちは」
ドアを開けて、新渡戸さんは微笑む。こんにちは、と椿も言う。礼儀正しさは八年前にはじめて会ったときから変わらない。とはいえ新渡戸さんは、すでにガウン一枚という格好だ。深い茶色の、清潔だがくたくたに着込んだガウンで、聞いてみたことはないが、きっと亡くなった父親が愛用していたものだろう、と椿は思う。
「シャワー浴びる?」
いつものように新渡戸さんはそう聞くが、彼が一刻の猶予もない気持ちであることが椿にはわかるので、いいえ、と首を振る。コートをハンガーに掛け、服を脱ぎはじめると、新渡戸さんはベッドに入る。上掛けを顎まで引っぱり上げて、その下でガウンを脱ぐと、天井を見つめたまま椿が来るのを待っている。
椿は一糸まとわぬ姿になると、ベッドへ向かって歩いていく。迅人といるときは、とてもそんな真似はできないが、新渡戸さんがこちらを見ないことはわかっているし、もし、こちらを見ているとしたって、平気だと思う。新渡戸さんが見ているのは何かべつのものであることを知っているから。
椿は上掛けとシーツの間にすべり込む。しばらくの間、二人は並んで横たわっている。それから、ゆっくりと向き合い、目が見えない人同士のように、そろそろと手で探りあい、足、お腹、胸を順番にくっつけていく。手順もはじめてのときから変わらない。あいかわらず二人はおっかなびっくりで、慎重で、失敗しやしないかと、何かほんのちょっとした間違いで、すべてがご破算になってしまわないかとびくびくしている。
三年前、迅人と関係したことを、椿はもちろん新渡戸さんに打ち明けなかった(新渡戸さんは今もって迅人という男の存在すら知らないはずだ)。けれども、そのあと新渡戸さんと東京で会ったとき、
「僕らも試してみないか?」
と新渡戸さんは言ったのだった。間違いない、椿は確信しているが、「僕ら|も《ヽ》」と言ったのだ。二つのぬいぐるみであり二つに割れたひとつの石ころである椿と新渡戸さんは、超能力が働き合う双子のように、何ひとつ打ち明けあわなくても、相手が必要としているものがわかるのかもしれない。あるいはさらなる不思議で、椿に起きたようなことが、同時に新渡戸さんの身の上にも起こったのか──。
椿の中に入ってくると、新渡戸さんはいつも大きな呻き声を上げる。せわしなく動きながら新渡戸さんは声を上げ続ける。椿は、新渡戸さんとの行為で声を上げたことはないけれど、それは新渡戸さんが椿のかわりに叫んでくれるからだと考えている。もちろん、それが快楽の叫びでないことも知っている。
その日も新渡戸さんから呼び出しがあった。
「やあ……こんにちは」
新渡戸さんはいつものようにドアを開けてくれたが、この日はガウン姿ではなかった。電話は一時間ほど前にホテルの部屋からかかってきたのに、今着いたばかりというような出で立ちで、紅茶色のコーデュロイのジャケットさえまだ着たままだ。
「……どうしたの?」
椿は訊いた。格好のこともあったが、前回会ってから一週間も経っていないのだ。
新渡戸さんは微笑んだ。新渡戸さんの微笑みは、柔らかく、とても丁寧な感じがして、自分がもしこれほど迅人に囚われていなければ、この微笑みを愛することもできただろうに、と椿はよく考える。
──が、椿ははっとして身を引いた。微笑んでいる新渡戸さんの両目から、涙がこぼれ落ちてきた。大粒でとめどない涙。椿は勇気を奮い起こすと、新渡戸さんの手に触れた。
「ベッドへ行きましょう」
椿に手を引かれて、新渡戸さんはおとなしくついてきたが、ベッドに腰を下ろすと手で顔を覆って本格的に泣きはじめた。
「何があったの?」
今度は椿はそう訊いた。そんなふうな質問をするのははじめてだった──でも、新渡戸さんが泣くのを見るのもこのときがはじめてだ。
「何もないよ。ただあなたに会いたかったんだ」
新渡戸さんは泣きじゃくりながらそう答えた。
「それに、あなたも僕に会いたかったでしょう?」
「……ええ。そうね。会いたかったわ。とっても」
椿は新渡戸さんの腕を撫でた。
それから新渡戸さんは椿の肩に頭をもたせかけたが、その日はセックスはしなかった。ただ寄り添ったり、お茶を飲んだりしながら過ごし、小一時間が過ぎたとき、
「僕は東京に帰るよ」
と新渡戸さんは言った。
「泊まっていかないの?」
ホテルで数時間を過ごしたあと椿がだりや荘に戻っても、新渡戸さんはそのまま一泊していくのが常だったから、椿はそう訊いた。新渡戸さんは頷いた。
「一人になるのがいやなんだ」
「一緒に泊まりましょうか?」
「いや。いいよ。帰りたいんだ。悪いけど」
新渡戸さんが身仕舞をして部屋を出ていったあと、椿は部屋に残った。ドアを閉めるとすぐ、迅人の携帯に電話をかけた。東京とこちらの土地と、二人が離れているときは、その番号を利用することも時折あったけれど、迅人たちがこちらに来てからは携帯にかけたことは一度もなかった。「次はいつ?」とせがむことと同じく、それは椿が自分に課していた禁忌だったのだが、結局どちらも易々と破られてしまった。
「会いたいの。町のJホテルにいるわ。すぐ来て。お願い」
四十分ほどで迅人は来た。電話を取ったとき迅人はどこで何をしているところだったのか、いずれにしても無理をしたのは間違いないのに、「やあ」と朗らかに部屋に入ってきて、何も問い質したりはせず、すたすたと椿に近づくと、強い力で抱きすくめた。
そのままベッドにもつれ込み、たっぷりと椿を愛した。迅人と体を合わせると、椿はいつでも、このまま死んでしまいたくなる。けれども、もちろん、いつまで経っても死ねなくて、いつまで経っても自分のものではないような声を上げ続け、そのうえ、いつまで経っても足りなかった。これは迅人の策略なのだと椿は思う。迅人が何も問い質さないのは、何も聞きたくないからだ。こんなふうに私を組み敷いて、迅人は文字通り、私の口を塞いでいるのだ。
終わると迅人はシャワーを浴びにいき、首にバスタオルをかけただけの姿で戻って来ると、冷蔵庫からビールを出して、一気に半分ほど飲んだ。
「飲む?」
手渡されたビールを、ベッドに半身を起こして、椿も飲んだ。アルコールは、あの雨の日のスペイン料理のレストランではじめて飲み、以来迅人と一緒のときだけ飲む。気付け薬の代わりだわ、と自分に言い訳できるほどの量を飲むのだったが、この日は残っている分を全部飲み干した。ひどく喉が渇いていたのだ。
「おう。いい飲みっぷりだなあ」
迅人が笑う。
「杏に見せたいくらいだな」
それが冗談だと知りながら、椿は自分の表情が変わるのがわかった。
「──あなたと一緒じゃなきゃ飲めないのよ」
「わかってるよ」
迅人はあいかわらず笑いながら、でも少し慎重になって、言う。
「ほんとうよ。あなたと一緒のときだけ、体がアルコールを受けつけるのよ」
「知ってる」
「ほんとうなのよ……」
迅人は素早く近づいてくると、知ってるよ、大丈夫だよと繰り返し囁きながら椿の顔中にキスをした。すると椿の体は、恥ずかしいくらいたちまち迅人に吸いよせられていく。
二人一緒にホテルを出た。チェックアウトしにフロントへ行くと会計はすでに新渡戸さんが済ませていた。はい、委細承っておりますと言いながら、フロントマンは椿を見、そのうしろの迅人を窺い見た。
いったいあれはどういう女なのだと、ホテルの従業員の間ではいちだんと噂になることだろう。何を言われたって仕様がない、だって実際私は最低の女なのだから。
──だけどその罰は、とっくに受けている気がする、と椿は思う。
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6
椿はこの頃ひどく積極的だ。
しょっちゅう携帯に電話してくるし、たとえばだりや荘の中でも、杏が近くにいないとキスを求めてきたりする。
やっぱり近くで暮らしていると、いっそう愛情が募ってくるものなんだろうか、と迅人は思う。それは自分のほうでも同じで、正直言って度々携帯が鳴るのはかなわないのだが、それでもやっぱりなんとか都合をつけて、椿のもとへ行ってしまう。椿がそれほど自分を求めているのだと思うと、それだけで燃え立ってくるし、応えてやりたいとも思う。
椿の体は砂丘みたいだ。はじめて抱いたとき、そう思った。それは次第に、体ではなく椿という女そのもののイメージに重なっていくのだが──さらさらしているのに思いがけない質量があって、抱いているつもりが油断すると包み込まれていて、温かくて、底がなくて。
そうして、杏は、湖みたいだ。きらきらしていて広々していて、ぱきっと冷たくて、誘い込まれるような感じが。
俺は幸福だ、と迅人は思う。
昨日、宅急便で、光二から箱いっぱいのリンゴが届いていた。東京から信州にリンゴを送ってくるなんて光ちゃんらしいねと杏は呆れながら笑っていたが、迅人もべつの意味で、まったく光二らしいと思った。リンゴは滞在の返礼ではなく、自分への謝罪のつもりなのだろう。そうだ、今夜にでも電話をしよう。電話して、俺はぜんぜん怒ってないと言ってやらなければ。
もう半月ほど前のことになるが、光二と飲んだ翌日の二日酔いはひどかった。迅人史上最悪《ヽヽヽヽヽヽ》、と杏は言ったが、自分でもそう思う。たしかに量も飲んだが、原因は、夜通し光二と言い争っていたせいだった。
うかつなことではあった。実際飲み過ぎだったのだ。そのせいで口が滑った。が、あの日、杏や椿を交えての晩餐がすんで、男二人だけの“飲み”に突入して、小一時間も経った頃、「おまえ、椿さんとできてんじゃないだろうな?」と言い出したのは光二だった。
男同士になった気安さもあって、それまでは姉妹のことを肴にしていた。杏と椿の雰囲気がぜんぜん違うこと、しかしどことなく似ていると思える部分もあること、杏の無邪気さ、椿の美しさについて。喋っていたのはもっぱら光二で、迅人は、慎重に同意したり謙遜したりしていた。もちろん、自分が二人の女と関係していることを気づかれないように、だ。
にもかかわらず「おまえ、椿さんとできてんじゃないだろうな?」と光二は言ったのだ。やっぱりこいつには何かが伝わるんだな、と迅人は思った。そうしたら、光二に隠しているのは友情にもとる気がしてきた。多分に酒のせいには違いないが──色恋より友情を大切にするべきだという気分になってしまったのだった。
「そうだよ」
だから迅人はそう応えた。おいおい、と光二は笑った。
「ほんとうだよ。彼女は俺の恋人なんだ。昨日も会ったよ」
「会ったって?」
「うん。ホテルで」
そうしたら光二は、目をむいて迅人を見た。
あの表情はちょっと衝撃だったな、と迅人は思う。まるで惨殺死体でも発見したような顔で光二は迅人をまじまじと見つめ、それからは質問攻めだった。いや、詰問攻めだ。
「杏は知ってるのか?」
「知ってるわけないよ」
「杏に悪いと思わないのか?」
「思ってるよ。だから、ぜったい知られないようにしてる」
「ばれたらどうするんだよ?」
「だから、ぜったいにばれないようにしてるんだって」
「おまえ、自分のやってることわかってんのか?」
──わかってるよ。
今頃は東京の営業所で新車を買いに来た客に愛想を振りまいているだろう光二に向けて、迅人はあらためてそう思う。わかってるに決まってるじゃないか。わかってなければ、こんなことできるはずがない。
迅人にとって、椿はたとえばマグカップだった。
結婚したとき、杏が持ってきたマグカップだ。あるいはカフェオレ・ボウルでもいい。あるいは古い足踏み式ミシンでも。それらは迅人が杏と結婚するのと同時に、杏と一緒に迅人の前にあらわれて、気がつくと迅人はそれらと親密になっていた。
たとえばカフェオレ・ボウルなど──それは杏が十二の誕生日に外国帰りの父親の友人からもらったという、フランスのアンティークで、白地にピンクのバラの絵がついている。それまで、そもそも迅人はカフェオレ・ボウルなどという単語すら知らなかったのだが──小ぶりな丸い形がみょうに手に合ってしまい、今では杏のものというより迅人のものだ。コーヒーも紅茶も日本茶もついそれで飲もうとするので杏から笑われもするのだが、迅人にとって椿はそういうもので、だから椿への愛着は杏への愛ともかかわっている気がする。
でもそのことは光二には言わなかった。何となく真意を誤解されるような気がしたからだ。かわりに、
「猫を拾ったら最後まで面倒見るべきだろう?」
と言った。でもそれがまた光二の逆鱗に触れたらしい。
「おまえ、そんなこと口が裂けても椿さんに言うなよ」
と光二は言った。
「信じられないよ。おまえがそんなやつだったとは」
とも言った。
椿になど、言うわけがないじゃないか。それに、光二にはわからないんだろうか。猫が重要なんじゃない。重要なのは、拾ったことだ。
俺は拾ってしまったんだ。
さっきから熊手ぼうきで掻き集めている庭の落ち葉の山を、迅人は何となく見下ろした。
この季節、掃いても掃いても、落ち葉はあとから落ちてくる。
十一月は紅葉も終わり、スキーシーズンにはまだ早くて、じつのところ休養月だ。
今いるのは一組、昨日予約も無しにやってきたカップルで、わざわざこんな山奥まで来たのに何をしているんだか(まあ想像はつくが)、食事もそこそこに部屋にこもっているので、客はいないようなものだった。
その午後、杏はまた何か新作料理の研究に取りかかっている様子で、翼は個人的な用事を済ませに車で出かけていった。迅人は、サブレを洗うことにした。
サブレはシャンプーされるのがお気に入りだ。というのはつまり、身だしなみではなくて遊びだと思っているからで、だから灰色に汚れたサブレを真っ白に戻そうと思っている人間にとっては、結構な運動になる。
抱き合うような格好で、迅人はサブレの頭を固定すると、尻尾のほうから入念にシャワーの湯を注いでいく。このときはまだサブレはおとなしい。問題は本番のシャンプーで、自分の体の上でごしごし動く手に、サブレがじゃれついてくるからだ。サブレが成長したぶん、狭い浴室の中では身動きが取りにくく、以前より楽ではあるのだが、それでも迅人はたちまちずぶ濡れになってしまう。
もちろん、濡れてもいい格好をしているし、脱衣所はヒーターで温めてあるから、問題はないわけだ。ぐるぐる回ろうとするサブレをつかまえ、ときにはさらにぐるぐる回しながら、迅人は的確にサブレを白くしていく。実際、たぶんサブレと同じくらい、迅人はこの作業が好きだった。好きだし、誰よりもうまく洗えるから、今では名実ともに専属シャンプー係だ。一度翼が対抗して試みたことがあるが、サブレは汚れたままだし、脱衣所まで水びたしになるしで、さんざんだった。
結局、あいつはまだサブレを洗うには若すぎるんだ……。
ほんのしばらくの間、迅人の思考は目の前のサブレを離れてどこかをさまよっていたようだった。突然サブレが悲鳴みたいな声を上げたので、迅人は慌てた。が、何のことはない、排水孔の上に足をのせていて、吸い込まれる感触に驚いただけのことらしい。
「ほら、なんともないだろ、ばかサブレ?」
迅人はサブレの足を持ち上げて、肉球を撫でてやった。
バスタオルを三枚使ってサブレの水気を吸い取り、さらにドライヤーをあてているところに杏が来て、
「迅ちゃん、スコップどこだっけ?」
と訊いた。
「スコップ?」
「うん。この頃は落ち葉を燃やすと苦情が来るんだって。だから各家の庭に穴を掘って、そこに埋めるの。堆肥にもなるし」
そういうことなら俺にまかせてくれよと、迅人はサブレと一緒に庭に出た。掃き集めた落ち葉の山を見つけるとサブレはさっそく突進していき、旺盛に転げ回る。生がわきの毛はたちまち枯れ葉と泥まみれになってしまい、砂上の楼閣だな、と迅人は溜息を吐く。まあいいさ。すぐまた洗ってやればいい。洗えば汚れは落ちるんだから。
適当な場所を見つくろって、土の上にスコップを突き刺した。ざく、と小気味いい感触が手に伝わってくる。サブレのような大型犬を飼えることもそうだが、ここへ来てよかったことのひとつは、こういう仕事ができることだな、と迅人はしみじみと思う。涼しすぎて夏に思うさま汗がかけないのは不満ではあるが……。
あらかた掘れた頃、杏と翼が、野沢菜の束を抱えて庭にやってきた。これから塩漬けにするのだという。まったく、退屈を知らない女だな、と迅人は苦笑する。いったんスコップを置き、漬け樽を運ぶのを手伝ってやった。
「塩、どれくらい入れるんですか?」
「えーとね。三束一升」
「一升って?」
杏は防寒に徹した分厚いズボンとパーカに着替えていて、何だか中学生の運動部員を思わせる。その横の翼は杏のチェックのエプロンを着けて助手になりきっている。二人で樽のそばにかがみ込み、指南書を見ながらごそごそやっている。そっちが面白そうと見たのか、サブレがいそいそと走っていく。
土に立てたスコップに顎を載せて、迅人はその光景を眺めた。気づいたことが二つあった。自分は出会ったときの百倍くらい、杏を愛しているということ。それから、その自分の気持ちのいまだ百分の一くらいかもしれないが、翼も杏を愛しはじめているということだ。
翼がどんなときに杏を見るか、そのときどんな表情をしているかで、それがわかる。たとえば杏が何かを考え込んでいるときの横顔の頬の丸みを、かつて迅人自身もあんなふうな表情で見ていたに違いない。むろん、今だってそういう顔をしているかもしれないが──。
かわいそうにな。でも、翼みたいなやつは、今のうちに人妻に片思いくらいしておいたほうがいいのかもしれない。
杏の魅力が翼にもわかるのだということが、迅人は嬉しかった。もちろん、そんなふうに思えるのは、杏が自分以外の男になびく可能性は万分の一もないと知っているからだ。そう考えるとさらに幸福になった。そして、そういうことを、光二にも知らせたい気がした。そうだ、あの夜は、光二があんまり激しい反応をするのに驚いてしまい、なんだか言われっぱなしだったが、俺のほうにも言いたいことはいっぱいある。
作業が終わると、杏はとんとんと腰をたたきながら立ち上がり、
「それじゃ、みんなでおやつを食べましょう」
と宣言した。
食堂へ行くと、テーブルの上の大皿に、栗の形の菓子がずらっと並んでいた。さっき作っていたのはこれらしい。より栗らしく見えるように、ひとつひとつ模様がつけてある。
「あーそっちのはだめ、こっちから食べて」
やや姿の悪いのを、迅人はひとつ口に入れた。
「旨い!」
「でしょでしょ?」
杏は嬉しそうに言う。
「小布施《おぶせ》のとおんなじようにできたでしょ? お砂糖の加減が難しいのよ。生クリームもちょっと入れてみたの。でもちゃんと和菓子になってるでしょ?」
製作過程にはさして興味はなかったが、一生懸命説明する様子が可愛かったので、迅人はつい杏の耳たぶをつまみ、ついでに指先で唇を撫でた。
「エロじじい!」
杏が大げさに身を反らしたのは、遅れて入ってきた翼を気にしてのことだろう──迅人のほうも、翼の目を意識していたわけではあるが。
「翼くんも、どうぞ」
少々照れながら杏は言い、
「いただきます」
と翼は仏頂面で菓子を手に取った。迅人は、何だか自分が本物の「エロじじい」のような──若い者たちの色事を生命の糧にしている老人のような──気がしてきた。
「椿さんも呼んでみようか?」
迅人は言った。食欲がないとかで、椿は昨日の夕食も、今日の昼食もともにしていなかった。
「そうね、少しは元気になったかも」
杏が答えて、ちらっと迅人を見た。
何となく、椿を呼ぶ役目を互いに譲り合うような雰囲気になったが、結局、迅人がインターフォンを取った。
「うまいお菓子があるよ。出てこない?」
「ええ、ありがとう、あとで行くわ」
か細い声が応えたが、結局その日は椿はあらわれなかった。
翌日、翼と杏は車で町まで買い出しに出かけた。
迅人も行くつもりにしていたが、朝、例の引きこもりカップルから内線が入って、指圧を頼みたいというので、一人残った。が、杏たちの車が出て三十分もしないうちに、もう一度内線が入って、キャンセルするという。それで迅人は、何となくぽつねんとした気分になっていた。
椿に会いに行こう。そう思ってだりや荘を出たが、ぽつねんとした気分が自分でめずらしくもあって、もう少し味わうべく、裏の林のほうへ歩いていった。今日は曇り空で、空気はひんやりと重い。雪が降るのも間もなくだろう。東京のなまはんかな雪と違って、この辺りは一晩で風景が一変するそうだ。どんどん降れ、と迅人は思う。どの季節も、はじまりはいつも浮き立つ。
木立の合間に、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。えび茶色のコート姿の中年男と、細い体にショールをぐるぐる巻きにした中年女というその二人連れが、例のカップルだとわかって、迅人は軽く会釈した。
「あら! こんにちは」
女が満面の笑みで応えたので迅人はびっくりした。これまで食事に降りてきても、この男女は迅人や杏たちとは必要以外のことはほとんど喋ろうとしなかったからだ。
「指圧してくださるのは、あなたよね?」
「ええ、でも……」
キャンセルですよね、と確認しようとするより早く、
「やってもらえばいいじゃないの、岩田さん」
と女は隣の男の腕をたたいた。
「あらためてお願いできるでしょう?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「いや、いいよ」
男がはじめて口を開いた。まるで今しも迅人が飛びかかってくるとでもいうように、顔の前に手をかざしている。
「何よ、やってもらいなさいよ。昨日はあんなに楽しみにしていたのに」
「楽しみになんかしてないよ、話のついでにちょっと言っただけのことじゃないか」
「凝っているからほぐしてもらいたいって言ってたじゃないの」
「だから、もういいんだよ。そういう気分じゃなくなったんだ」
「一時間もやってもらえばすっきりするのに。ねえ、そうでしょう?」
迅人は曖昧に微笑み返した。とてもつきあっていられない。
「ほかに予約が入っていませんから、なさりたいときに言っていただければ……」
「指圧は受けない。そう言ってるんだ」
迅人はぎょっとして二人を見た。怒鳴り声を上げた男を、女は横目で見ながら薄笑いを浮かべている。
結局迅人は、椿の家のインターフォンを押した。
「何?」
ドアを開けた椿のそっけなさにたじろぎ、
「いや……昼飯ちゃんと食ったか気になってさ」
と、少々言い訳がましくなった。
「食べたわ」
「何食った?」
「……適当に」
「散歩に行こうか?」
「杏は?」
「翼と買い出しだから、大丈夫」
「何が大丈夫なの?」
迅人はちょっと眉を寄せた。椿がこんなふうに尖った声を出すのは今まで聞いたことがない。
「ごめんなさい」
椿はすぐに謝った。
「……でも、“大丈夫”なんて言わないでほしいの」
「うん、わかったよ」
迅人はやさしくそう答えた──それなら何て言えばいいんだろう、と考えながらではあったが。
「それじゃ」
ドアを閉めようとするのを止めて、
「散歩がいやなら、昼寝をしよう」
と言ってみる。
「昼寝?」
椿の顔に笑みが浮かぶのを見て迅人は安心した。
「どこで?」
「ここは?」
「ここ? 私のベッドで?」
「うん」
椿が顔を伏せたので、失敗したかなと迅人は思った。が、椿は顔を上げると、
「あなたのベッドは?」
と言ったのだった。
ダブルベッドの上には青いベッドカバーが掛けてある。
様々な青の毛糸で編んだ、一辺五センチほどの五角形をつなげて作った、杏の超大作だ。数年前、杏がほとんど一年がかりで完成させたこれを見たとき、毛糸の空みたいだ、と迅人は思った。あるいは、毛糸の湖。寒色なのに暖かそうに見えるのが不思議な感じだった。そうして、まったく杏みたいだな、と思ったのだった。
そのベッドカバーの上に椿は座り、水色や紺やブルーグリーンの五角形のひとつひとつを、指でなぞっている。部屋を見渡し、「こんなふうになったのね」などと呟く。部屋のレイアウトは、引越しの日に一度見ているはずだったから、呟くための呟きなのだろう。
自分から言い出したくせに椿はひどく縮こまっていて、そんな様子を迅人はいじらしく思った。「あなたのベッドが見てみたかったの」とさっき椿は言ったが、言うまでもなくこれは迅人のベッドではなく、迅人と杏のベッドだ。──そうか、こういうことが必要だったんだな、と迅人は、自分が先に気づいてやれなかったことを悔やんだ。
迅人は、椿を立ち上がらせると、ベッドカバーをめくった。カバーの色と合わせてやっぱり水色にしてあるシーツの上に、裸の椿が横たわったとき、しばらくの間眺めずにはいられなかった。そうしていると、姉妹の差違とともに、相似点がより濃く浮き上がってくる。不思議な感動がおそってきた。そう、やっぱりこの姉妹は似ている。ほんとうの意味でそれがわかるのは、たぶん自分だけだ、と迅人は思う。
それで行為は新鮮なものになったが、性的にではなくむしろ敬虔な気持ちで迅人はその喜びを受け止めた。
「姉妹と寝るなんて、どうかしている」と光二は言った。たしかにどうかしているのかもしれない。が、椿がもし杏の姉でなかったら、関係は持たなかっただろう。
それは間違いないことのように、迅人には思えた。
翌朝、チェックアウトしたのは女だけだった。男は、夜のうちにだりや荘を出たらしい。
「奥さんからね、電話があったのよ。まいっちゃうわ」
目の下にははっきりわかるほどの隈ができていたが、女はあいかわらず明るすぎる声で、訊かれもしないのに喋った。
「携帯は置いてきて頂戴って、だからあれほど言ったのに。仕事の連絡が入るから必要だなんてごまかして、結局奥さんからの電話を待ってたってわけ」
それじゃ、お世話になりましたあ、と大きく手を振って女がいなくなったあとには、何ともいえない気分が残った。もちろん、さっき物陰でのジャンケンに負けて女を送って駅まで行くはめになった翼の心中に比べればましかもしれないが──。
「コーヒーでもいれようか」
気を取り直して迅人が言うと、
「あの人たち、不倫だったのね」
と杏は言った。
迅人はおや、と思う。それは少々唐突な発言だったし、「不倫」なんて言葉を杏が口にしたのははじめてである気がした。──もちろん、二十八歳の成人女性である杏が、その言葉を知っていて何の不思議もないのだが。
でも、たしかにあいつらは「不倫」だな。その言葉自体にこれまで自分が抱いてきた違和感や、あるいは嫌悪感を思い起こしながら、そうも思った。
それからさらに思い出した。光二のやつがつまらないたとえ話をして俺を試したのだ。断崖絶壁に、椿と杏の二人がぶら下がっている。早く引き上げてやらないと落ちてしまう。おまえ、どっちを助ける?──とかなんとか。
ばかげてる。質問自体がおかしいんだ。二人とも助けるに決まってるじゃないか。俺には、その自信がある。
「何笑ってるの? 迅ちゃん」
「翼があんまり気の毒だからさ」
迅人は杏の腰に手を回した。
「コーヒーをいれて、リンゴを食おう」
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7
十二月に入るとペンション村の景色は一変した。
まず雪で。それからスキー客の賑わいで。毎年十二月一日が近隣いっせいのスキー場開きと決まっていて、その日が来ると若者たちが大挙して押し寄せた。
辺りは果てしなく真っ白で、その白の上を、若者たちの赤や青や鮮やかなオレンジ色のダウンジャケットがざくざくと行進していく。シュールだわ、と杏は思う。どこか暴力的な感じさえする。
つかの間の休憩時間、サブレを連れて私室に戻った杏は、ベッドの下からトランクを引っ張り出して、CDを漁った。日頃よく聴くものはベッドの横の本棚に並べてあるのだが、何か変わった曲が聴きたくなったのだった。
選び出したのはスペインの歌謡曲集だった。以前迅人と一緒にスペイン映画を観たとき、挿入曲が映画以上に気に入って、クレジットの歌手の名前を頼りに探しだした一枚。たしか恋愛映画だったと思うけれど、どんなストーリーだったかもうよく覚えていない。そしてCDも、買った当時は面白がって毎晩のように聴いていたけれど、いつからかすっかり忘れ去っていた。
バラの花とワインの瓶とギターという、わかりやすい絵柄のジャケットからディスクを取り出して、壁掛け式のポータブルプレーヤーにセットした。ギターの前奏に続いて、泣きだしそうな男性の歌声が聞こえてくる。言葉はわからないが、演歌を思わせる曲だ。
スペインのCDを選んだのは、外の景色と正反対のものを求めてのことだったけれど、聴いているうちに、案外雪景色に似合う気もしてきた。杏はボリュームを少しだけ大きくした。男性の次は女性歌手で、やっぱり泣くような唸るような声で歌っている。さらにボリュームを上げる。それでも物足りない気がした。
「杏? 何やってんだよ?」
勢いよく開いたドアの音に、杏ははっとした。部屋には大音響が満ち、何事だという顔で迅人が覗き込んでいる。
「ごめん、サブレがリモコンを踏んじゃったのよ」
杏は急いでボリュームを戻した。
杏はあらためて窓の外を見る。
午前中は一時止んでいた雪が、また降りはじめている。さらさらした細かい雪。東京でたまに降る雪と違って水気がないから、根雪の上にみるみる降り積もっていく。
いいかげん降りすぎだ、と思う。
ある朝、目を覚ますと、すっかり雪に囲まれていた。降りはじめたのは前の晩で、椿が、だりや荘から自分の家に戻りしな、「これは積もるわね」と呟き、杏は「積もるといいな」と答えたのだったが──その朝、その光景は文字通りどこからか杏の上に降ってきたみたいで、杏が感じたのは喜びではなくて軽い恐怖だった。いきなりものすごい分量で目の前に出現した雪は、今まで知っていた雪とはまるで違う感じがした。
「あたしも一人前の山女になったわ」
だからこの前、杏は迅人にそう言った。
「なんだそりゃ?」
迅人は笑った。
「雪国で、雪を喜ぶのは観光客だけだってよく言うでしょ? そのことがよくわかったの」
「もう雪に飽きたの?」
「飽きたんじゃないけど──そんなに好きじゃなくなったみたいなの。なんか生意気な感じがするのよ。生意気で、薄情な感じ」
「薄情ね。まあ、わからないでもないけど……」
迅人はあいかわらず笑いながら言った。本当は、全然わからないのだろう、と杏は思った。なぜなら迅人は、まったく雪と──春や夏や秋とそうであるのと同じように──うまくやっているように見えるから。
「とにかく、君がそんなふうに感じるのは、成長の証であると思うよ」
迅人はそう結論した。
成長か。それはそうなのかもしれない、と杏は思う。
杏はカレーを仕込みにかかる。
それは明後日のぶんで、今夜と、明日の夕食はすでに仕込みが終わっている。今夜は、すね肉を入れた洋風おでんで、明日はホワイトシチュー。このシーズンのメニューはもっぱら大鍋料理だ。スキーに夢中の若者たちには、凝った料理を何品も出すよりそっちのほうが喜ばれる。それに食事時間を知らせておいてもお腹が空かなければ帰ってこないので、コースメニューなど出しようがないのだ。
寸胴鍋を三つローテーションさせながら、とんでもない量の玉葱やジャガイモを日がながらがら混ぜていると、料理を作っているのではなくて土木作業でもしているような気がしてくる。これってつまりペンションオーナーにとっての試練なんだわ、と杏は考えてみる。雪。それに、カレーとシチューの違いくらいはわかるのかしら? と本気で考えてしまうような若者たち。
その若者の一人と、厨房を出たところでばったり会った。どうやら杏を探していたらしい。男女六人で来ているグループの一人で、ひょろっとしたおとなしそうな青年だ。
「すいません……“あれ”ってありませんかね?」
「あれ?」
何を言っているのかさっぱりわからず、杏は──いちおう、ペンションの女主人らしく、微笑みながら──背の高いその青年を見上げた。
「そう……“あれ”。コンドーム。持ってませんか?」
杏は呆気にとられて、あらためてまじまじと青年の顔を見た。屈託ない顔で見返してくる。からかっているのではなさそうだ。ジーパンに焦げ茶のタートルネックのセーターに染めてない長めの髪。一見して、育ちの良さそうな男の子。
「……ちょっと待ってて」
そう言って自分たちの寝室に向かったのは、それ以上その青年と顔を合わせていられなかったからだ。そうして、部屋に入ると、実際に「それ」を探しはじめたのは、憤慨している以上に混乱していたからにほかならない。杏は、鏡台の抽出しを次々開けて、そこに細々と入っているクリームや口紅やパフを、ぼんやり眺めた。こんなところにあるわけない。だいたいそんなもの、もう何年も見たことすらない。
それなのに、杏の手は勝手に動いて、迅人の下着が入っている抽出しを──もっともそこに洗濯した下着をしまうのは杏だが──開けてかきまわした。それからたまたま床の上に出してあった迅人の工具箱を開けようとしたところで、ようやくはっとして、青年のところに戻った。
「ああ、すいません」
あいかわらずのほほんとした顔で迎える青年に、
「悪いけど、ないわ」
と杏は言う。
「えー。ないんですかあ」
いかにも意外そうな顔をするのに苛々してきて、
「不妊症だから、あたし」
とさらに言った。
「は?」
「不妊症なの。だからそんなもの必要ないの」
「どうしたんすか」
ひょいと覗き込んだのは翼だった。
「悪いけど、この人の相談に乗ってあげて」
杏はそれだけ言うと、厨房の中に逃げ込んだ。
だりや荘に来たことを、後悔なんてしていない。
望んだのはあたしだ、と杏は思う。あたしが本気で願っているのがわかったからこそ、迅人は賛成してくれたのだ。
雪は、あの頃から降っていた。
あの頃。それまで気づかなかったことに気づいてしまってからの、東京での日々。
真夏でも晴天でも朝でも夜でも、気がつくと雪が降り積もっていた。杏のまわりに。そこから出ていきたいと杏は思った。だりや荘に来れば、抜け出せる気がしたのだ。どうしてそう思ったのかわからないけれど、それは、本当だ。でも──あたしはただ、そこじゃないどこかに行きたかったのかもしれない。そのどこかはだりや荘じゃなかったのかもしれない。だとしたら、どこなんだろう?
肉と野菜を煮込んでいる鍋を、杏は必要もないのにぐるぐるとかき混ぜた。ジャガイモも人参もすっかり柔らかくなっている。そろそろ火を止めなければ、煮くずれてしまうだろう。
翼が厨房に入ってこなかったら、焦げつくまでかき混ぜていたかもしれない。杏は鍋の火を止めて、曖昧に微笑んだ。
「ごめんね」
「杏さんが謝ることないですよ」
そう言う翼はケンカのあとみたいな顔をしていた。
「殴ったの?」
恐る恐るそう訊くと、
「まさか。だりや荘の営業にひびくようなことはしませんよ」
と翼は苦笑する。杏はとりあえずほっとしながら、でも今の笑いかたはすごくゾクアガリっぽかったわ、とひそかに思った。
「恐れ入りますがコンビニにお出かけくださいと丁寧に教えましたよ」
「あ、そうよね。コンビニにはあるわよね」
「そのくらいの手間も惜しむやつは女と寝る資格ないですよ。ふざけやがって」
「あの子にもそう言ったの?」
「あー、いや。もう少し婉曲に」
どの程度「婉曲」だったのかわかる気がして、杏は笑った。もしかしたら実際「だりや荘の営業にひびく」かもしれないけれど、それでもいいと思った。あんな子、二度と来てもらわなくていい。
「ありがとう、翼くん」
「当然ですよ」
「あたしね、不妊症なの」
翼がぎょっとした顔を上げた。さっきあの青年に言い放ったのを翼に聞かれたかもしれない、と杏は考えていたのだが、そうではなかったことが、その顔からわかった。あっという間に後悔がふくらんできた。
翼は大きく息を吸い込むと、それを吐きださずにがまんするような表情になった。そうして、
「俺は、杏さんが好きです」
と言った。
その瞬間、杏は気づいた。「不妊症なの」と翼に言ったのは、今の言葉を聞くためだったのかもしれない、と。そのことを認めながら、自分がひどい間違いを犯したように思えた。
何を言うべきなのか、どうすればいいのかまるでわからず、ただ翼の顔を凝視していると、翼はふっと笑った。
「おかしなタイミングですよね。すいません」
「ううん。──ありがとう」
それで杏も何とか笑うことができて、そう言った。
「あたしも翼くんが好き」
それは嘘じゃないと杏は思った。けれども、どうしても付け加えなければならない気がして、さらに言った。
「でも迅ちゃんが好きなの」
「わかってますよ」
怒っているようでも悲しそうでもなく、やさしく翼はそう答えた。
だりや荘のクリスマスのテーマは「シック」だ。
シックにやれ。クリスマスにかぎらず、それは父親の口癖だった。ほかの多くのペンションが、建物の周りをライトアップしたり、窓辺にポインセチアを飾ったりするのをばかにしていた。「クリスマスディナーはおいくらですか」というような問い合わせの電話が来ると、「そういうくだらんものはうちはいっさいやってません」と言い放って母親に怒られていた。
ただクリスマスツリーだけは飾るのだった。たぶん、森にモミの木を伐《き》りに行くのが好きだったからだ。それで、十二月の二週目、迅人と翼が森へ出かけていって、伐りだしてきた。森の中では、これじゃちょっと小さいかなと思ったらしいが、家の中に入れてみると、ほとんど天井に届くほどの高さがあった。食堂の真ん中に据えて、杏と椿で、小さな頃から少しずつ集めてきたオーナメントと綿の雪で飾りつけた。
「お茶にしましょう」
椿が手製のフルーツケーキを持ってきた。母親直伝のレシピで、焼き上がりにブランデー入りのシロップをたっぷりしみ込ませたものだ。保存が利くし、このケーキ目当てにやって来る常連客もいるので、毎年何本も焼く。もちろんクリスマスにもデコレーションケーキではなくそれを出す。
杏、迅人、翼も加わり、暖炉の火のそば、巨大なツリーの下に車座になった。
「ほんとはもうすこし置いたほうがいいんだけど」
このケーキは、時間を置くほど味がなじんでおいしくなる。シロップに浸けたばかりのものは、ブランデーの香りがややとがっている。
「大人の味ですね」
すでに二切れ目に手を伸ばしている翼が言い、
「できたてもおつなもんだな」
と迅人が言い、
「大統領にも送った?」
フルーツケーキができあがると、毎年必ず誰かが言う科白を杏が言った。
「大統領って、アメリカの?」
「小説のお話なのよ」
椿が、翼に説明する。
カポーティの『クリスマスの思い出』は、母親のお気に入りの小説で、杏も椿も、小さな頃から繰り返し読んだ。主人公の少年のおばあさんが、毎年フルーツケーキをたくさん焼く。その中の一つを、必ず大統領宛にも郵送するのだ。
「もうすこし切る?」
「あ、今はいいわ」
杏は一度辞退したが、「やっぱり食べる」ともう一切れもらった。ケーキは静かな味がした。静かな、やさしい、懐かしい味。
ふいに杏は、信じられる気がした。何も起こってなどいないと。何もかも自分の思い過ごしだと。ツリーを見、手元のケーキを見、迅人を見、椿を見た。だって、何かが起こっている証拠より、何も起こっていない証拠のほうがたくさんある。
迅ちゃん、おねえちゃん、あたしね。今までずっとばかなことを考えていたのよ。おねえちゃんと迅ちゃんが恋人同士だなんて疑っていたのよ。
杏は胸の中でそう思った。迅人と椿が、びっくりした顔をして、それからぷっと噴き出す様が目に浮かんだ。「何の冗談?」と椿が言って、迅人は調子に乗って「どうしてわかった?」と言うだろう──。
翼と何か笑い合っていた迅人がこちらを見たので、杏も笑って、迅人の口の端にくっついていたケーキのくずを指でつまんだ。
それから、急いで考えた。何にも起こっていないように思えるのなら、このままでいけない理由なんかない、と。
告白以来、翼は杏に気を遣ってくれている。
つまり、何事もなかったかのように、振る舞っている。ひきかえ杏は翼と二人きりになるとひどくそわそわしてしまい、じつは告白したのはあたしの方じゃなかったのかしら、と本気で考えてみることさえあった。
ときどき翼の視線を感じた。そっと顔を上げると、やっぱり翼がこちらを見ていて、杏は慌てて目を逸らした。視線を感じるのは気のせいで、ひょっとしたら杏のほうが始終翼を見ているのかもしれなかった。そういう自分を、いやらしい卑怯者だと杏は思った。
その女があらわれたのはクリスマスの翌日だった。イブとクリスマス当日、だりや荘の客室は見事にカップルだけ──若者ばかりではなく、常連の夫婦も合わせて──で埋まったが、その翌日はエアポケットのように予約が一組もなかった。迅人も椿も翼も出払っている午後、杏がサブレとともに散歩から戻って来ると、ドアの前にオレンジ色のコートを着た女が立っていた。
「ご予約ですか?」
杏は驚いて訊いた。手違いで予約を見過ごしていたのかも、と思ったのだ。コートの薄さや、足元からして、土地の人でないのは一目瞭然だった。女はあろうことかストッキングにパンプスを履いている。車も停まっていないし、この雪の中をどうやって歩いてきたのだろう。
女はぐるっと振り向いた。四十歳くらい。とほうもなく太っている。肉に埋もれた小さな目で、じろじろと杏を見た。
「あなた誰?」
「……このペンションの者です」
「名前を聞いているのよ、名前を」
その時点ですでに異様な感じがあった。如月です、と杏は小さな声で答えた。如月? と女は目をかっと見開く。
「私、如月迅人に用があるのよ」
「今いません」
「いないわけないでしょ」
「仕事に行ってるんです」
「いつ帰るの?」
「わかりません」
「わからない? あんた奥さんでしょ? わからないはずないでしょ? いいわ、そっちがそういうつもりなら、待たせてもらうから」
女はドアから一歩下がって、さあ早く開けなさいと言わんばかりの顔をした。杏がサブレを引いてドアに近づくと、女は犬が苦手のようで、さらに数歩下がった。その隙をついて、杏はドアの鍵を開けると同時にサブレと一緒にすべり込み、とっさに内側から鍵をかけた。
息をつくと同時に、ものすごい勢いでドアの連打がはじまった。開けなさいバカヤローという怒鳴り声がそれに続く。
興奮してドアに飛びつくサブレの首輪を掴《つか》んで、杏は奥に逃げた。サブレを寝室に閉じこめると、急いで戻って、窓の鍵をたしかめた。
それから迅人の携帯に電話した。なかなか出ない。その間にも、ドアをたたく音と怒鳴り声はますます激しくなっていく。泣きそうになって、一度切り、またかけた。ようやく迅人が電話を取った。
「へんな女がうちの前で暴れてるのよ!」
すぐ行く、と迅人は言ったが、戻ってくるまでに四十分近くかかった。その間杏は寝室に閉じこもり、サブレを抱きしめながら震えていた。車の音が聞こえ、そのあと女の叫び声、迅人の声、殴り合いでもしているような物音が聞こえてきて、たまらずドアを開けると、廊下に椿が立っていた。
脱ごうとして脱げなかったらしいブーツが、足首のところでたぐまっている。コートも着たまま、マフラーがへんな具合に巻きついていて、アップにしていた髪が、ぐしゃぐしゃに乱れている。
「あの人、いきなり掴みかかってきたのよ」
震える声でそう言ってから、あらためてそこにいることに気づいたように杏を見た。
杏は、すぐに事情を飲み込んだ──迅人と椿は、一緒に帰ってきたのだ。降りたところに、あの女が襲いかかってきたのだろう。
「けがしなかった?」
そう言いながら、椿がブーツを脱ぐのを手伝おうとしたとき、微かにアルコールの匂いがした。
「迅ちゃんは?」
「あの人を連れていったわ、車で。話をすると言って。あの人、迅人さんが東京で診てた人みたい。大丈夫よ──迅人さんを見たら、ずいぶん落ち着いたみたいだから」
その日迅人は夕方近くに戻ってきて、杏に詳しく説明した。じつは東京にいるとき、あの女性から言い寄られて困っていたのだ、と。もうあきらめてくれたものと思っていたが、実際は彼女の頭の中では妄想がどんどんふくらんでいたらしい……。
「車の中で二時間。杏とのなれそめからだりや荘の経営のことまで説明して、やっとどうにか納得してもらったよ。そのあと町の喫茶店で一時間、今度は彼女の家族のこととか別れただんなのこととか、愚痴にたっぷりつきあってさ……」
あの人は、気の毒なくらいみにくかった、と杏は思った。姿形のみにくさじゃなくて、嫉妬とか、執着とか、妄想とか、あの人の中にあるものが、吹き出物みたいにあの人をみにくくしていた。
「どうして黙ってたの?」
迅人の話を遮って、杏は訊いた。ごめん、と迅人は頭を下げる。
「はっきり言ってうっとうしい人だったし、家に帰ってまで思い出したくなくてさ。へんな心配させたくなかったし。でも、やっぱり話すべきだったな。悪かったよ、ほんとに」
「もうないの?」
「うん。大丈夫だと思うよ。もともとは教養のある、話のわかる人だから。身の回りでいろいろ解決しないことがあって、体調も思わしくなくて、それでちょっとまあ……おかしなふうになってしまったんだな。話してるうちに、自分でもそれがわかってきたみたいで、どうかしてたのねと言っていた。だから……」
「そうじゃなくて」
杏は再び迅人を遮った。少し叫ぶような声になった。
「あの人みたいな人、ほかにいないの?」
迅人は少し驚いた顔をして、それから、くっきり微笑むと、
「ない」
と言った。
そう、と杏は言った。
ならいいの、と。
翌日、サブレは玄関で尻込みした。
大好きな散歩に行こうというのに、家の中に戻ろうとする。きっと昨日の女の匂いがまだ残っているのだろう。仕方なく杏はサブレを連れて食堂の窓から庭に出た。ちょうど翼が、車に乗るところだった。
「どこ行くの?」
まずまずふつうに発声できた。ちょっと家に戻ってきます、と翼は答える。
「雪かきしとこうと思って。今おばちゃんが一人だから」
翼が離れを借りている家の主人が、そういえば先月から入院していることを、杏は思い出した。おばちゃんというのは六十代のちょっと偏屈な女性だ。
「乗ってもいい?」
「もちろん。どこまで?」
「雪かき見物」
翼は一瞬、探るように杏の顔を見てから、
「いいっすね」
と答えた。
村までの道は車の通行量も多いから、雪がほとんど溶けていて楽だった。翼のチェロキーに乗るのは久しぶりだ。迅人の車に乗ると、杏は、自分の匂いがする、と感じるが、翼の車は翼の匂いがする、と思った。
翼が間借りしているのは、広い敷地を有する平屋の一角だ。椿も杏も、ときどきこの家の庭先で売っている野菜を買うが、敷地の中まで入ったことはない。翼は車を降りると、まず母屋のほうに向かったが、すぐに戻ってきた。おばちゃんは留守だ、と言う。
「どうします?」
どうしますって? と杏は訊いた。
「いや……おばちゃんがいたら、茶の間でこぶ茶でも飲んでてもらえばいいと思ったんだけど。雪かき、車の中から見物しますか?」
「見物っていうのは嘘よ」
杏はサブレと一緒に車を降りると、すぐ横に立てかけてあったスコップを手に取った。翼も慌てて、もう一本を取る。
それから二人でもくもくと雪かきをした。杏は、今日の自分の行動がへんだとわかっていたが、翼が何も言わないでいてくれるのがありがたかった。雪かきは爽快だった。もともと体を動かすことが好きなのだ。だりや荘の周囲は、迅人と翼が精力的に雪をかきまくってくれるから、この楽しい仕事から杏は何となく遠ざかっていた。これからは、あたしも権利を主張しなくちゃ。
スコップを雪に突き刺し、体重をかけてぐっと押し込み、思いきり持ち上げると、雪の塊がきらきら光りながら宙に舞う。サブレは、飛んでくる雪を顔で受け止める、という遊びを考え出した。
うちの父がね、と杏は翼に言った。喋ると、冷たい綿菓子みたいな空気が肺まで入ってくる。
「マニアだったの。雪かきマニア。一度はじめるとやめられなくなっちゃって、だりや荘の前の通り、あの先の大通りにぶつかるところまで、一人でだーっと道を作っちゃったこともあるのよ」
「ああ、その気持ち、よくわかりますよ」
「わかるよね、ほんとに」
その頃には、けれども敷地内の雪かきはあらかた終わってしまっていた。スコップを雪に突き刺したまま動かずにいるとサブレが催促するように飛びついてくる。杏は、サブレの顔の雪を払ってやった。
「おばちゃん、何時頃帰ってくるかな?」
サブレに話しかけるように、そう言った。
「たぶん病院に行ってるから、夕方まで帰ってこないと思いますよ」
「そう?」
翼が、はっとしたように杏を見た。
離れといってもそこはほとんど一軒家の体裁で、玄関を開けると土間があって台所もあった。
二間あるうちの片方は、蔵のような使い方をしているらしい。大きすぎる箪笥が押し込められているために戸が閉まらなくなっていて、そこから覗くと、兜や刀や巨大な壺や、銘の入った木箱が今にも崩れそうに積み重なっていた。
もう片方の座敷が翼の部屋だった。十畳という広さで、縁側もついている。車同様、翼が調達してきたのか、それとももとから部屋にあったのか、窓際には古い文机《ふづくえ》。部屋の片隅に脱ぎ捨てた服の山。その横に本の山。もう片方の隅に二つに畳んだ布団。あとは石油ストーブくらいしかない。
先に部屋に入った翼はまず石油ストーブを点火し、次にカーテンを閉めた。それからすたすたと部屋を横切って、折り畳んだ布団を敷いた。
杏はちょっとおかしくなった。翼の行動のてきぱきした感じや、真面目くさった表情は、結婚前、はじめて迅人の部屋で過ごしたときを思い出させたから──迅人の部屋にはベッドがあったから、布団を敷く必要はなかったけれど。
杏はふと、文机の下に置いてあるものに気がついた。サッカーゲームだ。子供用のおもちゃで、プラスチックでできた人形をレバーで動かして球をゴールに入れるもの。迅人からのクリスマスプレゼントだ。
クリスマスの頃は忙しくて、パーティーのようなことはできなかったが、それでもプレゼントの交換だけはした。くじの結果、椿の手編みのマフラーは杏が、杏からのプレゼントは椿が当てた。そうして、翼が小枝を細工して作ったフォトフレームは迅人が、迅人のプレゼントは翼が引き当てたのだった。包みを開けたときの男二人の複雑な表情を思い出して、杏はまた少し笑った。
「ちゃんとこれで遊んでる?」
翼は、でも、笑わなかったし、そのことに答えもしなかった。杏の顔にじっと目を据えたまま、近づいてきた。
「俺は楽観主義者じゃないし」
翼は言う。
「杏さんにとっても、俺にとっても、これはいいことじゃないと思う。でも」
そんなことはどうでもいい、と翼は言った。そうして、杏を抱きしめた。
翼の両手が杏の頬を挟んだ。翼の手は熱かった。唇も、舌も。
翼はそれから杏の両手をつかんで、自分の体に巻きつけた。
杏が椿とともに「月の湯」へ行ったのは、その二日後だった。
めずらしく椿が誘った。だから杏は、そのことをはじめから決めていたわけではなかった。
スキー客で混む時間を避けたので、浴場にいるのは例によって地元の老人ばかりだった。湯煙の中でゆらゆら揺れるように談笑していたのが、一瞬、ぴたっと静まって、入ってきたのが杏と椿だとわかると、またゆらゆらと元に戻った。
なんだか茸とか、海藻の群れみたい。杏はそう思ってちょっとおかしくなった。それを小声で椿に伝えようとしたとき、椿の体が、ふいに生々しく目に映って、はっとした。椿は白くてしなやかで柔らかそうで、美しい魚を思わせる。そんなことはとっくに知っているはずだったのに、杏は心が揺さぶられるのを感じた。そうして、おかしな話だけれど、自分も裸であることに、あらためて気づいた。
落ち着かないまま逃げ込むように湯船に体を沈めると、間もなく椿も入ってきた。ゆっくり足を伸ばして、また縮めると、
「お湯、ちょっと熱いわね」
と言う。
「埋めると怒られるよ」
杏はひそひそと言った。地元のおばあさんというのは、とかくお湯の温度を仕切りたがるのだ。
しばらく間があってから、
「杏の体は気持ちがいいわね」
とまた椿が言った。
「気持ちいい?」
「そう。余分な肉がぜんぜんなくて、かといってガリガリじゃないし。肉と骨と、お腹の中身がちょうどよく収まってる感じで、見てて気持ちいいの」
「おかしな褒めかたねえ」
杏は笑いながら、椿もやっぱりあたしの体を見ていたんだわ、と思った。
「あんたたち、いいご身分だねえ」
湯船の端から、おばあさんがからかう声をかけてきた。たまにはいいでしょ、と杏は応じる。
それからしばらく世間話につきあって、どっこいしょとおばあさんが湯から上がると、杏と椿は再び湯船の中に二人きりになった。
「おねえちゃん」
と杏は言った。
「あたし、翼くんと寝たの」
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クリスマス、椿が引き当てた杏からのプレゼントは、真鍮《しんちゆう》製の小さな卓上カレンダーだった。
真鍮の古びかたやデザインからして、ずいぶん年代がありそうで、台座に「西日本紡績株式会社」という文字が入っているから、会社の宣伝用か、何かの記念品として作られたものなのだろう。インターネットのオークションサイトで見つけたのよと杏は得意そうに言っていた。
ベッドの横のテーブルの上に、椿はそれを置いている。毎朝、目が覚めてすぐ、両脇の三つのつまみをそれぞれ回して、月日と曜日を繰る。忘れてしまう日もあるから、ときには二、三日分いっぺんに回す。
7の次は8、8の次は9。9の次は0になって、十の位のつまみを回す。月が変われば右側のつまみを回して、十二月は一月になる。
月日は簡単に、なのに確実に重なっていく。
椿はクローゼットを開けると、「どん」をちょっと持ち上げて、その下の箱を取り出した。ベッドの上で、中身を一つずつ取り出してみる。
ちびた鉛筆に目鼻をつけた人形。フェルトで作った財布。マッチ箱を重ねた小物入れ。左右大きさが不揃いのミトン──子供の頃、クリスマスや誕生日に、杏からもらったもの。箱そのものも、紙箱に布を貼った杏の手作りだ。
成長してから互いに贈り合うようになったアクセサリーとかバッグとかの既製品の中には、なくしてしまったり着古して捨ててしまったものもあるけれど、小さな頃にもらったものは、なぜか一つも失われずに残っている。出来栄えは杏の手先の進歩をよくあらわしているから、もらった年代の順番に並べることもできそうだった。クリスマス、誕生日、翌年のクリスマス、誕生日……。
椿はしばらく眺めてから、再び一つずつ箱に戻した。箱に蓋をしたとき、ふいにそれを捨ててしまいたい衝動に駆られた。もちろんそんなことはできっこないし、もしできたとしたって、そのことで許されるものなんか何一つないのはわかっていた。
「二人だけのひみつよ」
月の湯で、杏はそう言った。子供の頃、よくそう言ったのと同じ言いかたで。あたし、翼くんと寝たの、と打ち明けたすぐあとで。
「迅ちゃんには内緒よ」
「当然よ」
かろうじて椿はそう答えた。
「でも、どうして?」
「わかんないわ、そんなの」
杏は一瞬怒ったような顔になり、それからちょっと笑った。
「ぜんぜんわかんない」
と。
足音が聞こえ、椿は急いで箱をクローゼットに戻した。
ベッドに戻るのと同時に、軽いノックがして、あらわれたのは驚いたことに翼だった。この部屋に翼が来るのははじめてだ。
「こんばんは」
いなり寿司を二つ詰めたわっぱをテーブルの上に置きながら、翼はぎこちなく笑った。
「ショック療法だって迅人さんが言うんですよ。俺が行ったらびっくりして声が出るんじゃないかって」
椿はどうにか微笑んで頷いた。
「でもだめだったみたいですね。いいんですよ、ショック療法というのは冗談なんだから、気にしないでゆっくり休んでてください。それからえーと」
新渡戸さんという方から電話があったそうです、と翼は言った。椿はもう一度頷く。
「それから、このいなり寿司は会心の出来だって、伝えてくれって。杏さんが」
伝言はそれで終わりのようだったが、翼はなぜかぐずぐずしていた。翼が、テーブルの上の卓上カレンダーを見ていることに椿は気づいた。もちろん翼がいちばんほしかったのはこれだろう。
翼が手を伸ばしたので、椿はちょっとびっくりしたが、翼はカレンダーのつまみを回したのだった。
「今日はもう十一日ですよ」
翼は出ていき、ドアが閉まった。足音が遠ざかるのを待ってから、じゅういちにち、と椿は呟いてみる。声はちゃんと出た。
発作が起きたのは本当だった。三日前、年末年始の忙しさが明けたのを見計らったように起きた。が、声は半日で出るようになった。それなのに、椿はずっと発作のふりをして部屋に閉じこもっているのだった。
実際のところ、どこまでが本当の発作で、どこからが発作のふりなのかはわからない。椿は自分に弁明する。どうしても声が出ないのと同じくらい、どうしても杏の前に出られないのは本当なのだから。
杏は気づいているのかもしれない。
そのことを認めるのをずっと避けていた。あまりにもおそろしいことだったから。でも、本当はずっと前からわかっていたような気もする。クリスマスのあと、あのくるった、太った女が来たときだって、私を見た杏の顔に浮かんでいたのは脅えだけじゃなかった。私のほうは情けなく脅えきって、うかつにもそれまで迅人といたことをあきらかにしてしまったのに、杏はそのことを何も訊かなかった、それは杏がいっさいに気づいている証拠とは言えないだろうか?
違う──自分の心に今こそ正直になるなら、「迅ちゃんとあたしで、だりや荘をやっていくこと、どう思う?」と杏が相談してきたとき、私は心の片隅でそのことを疑いもしたのだ。たしかめるために杏は来るのではないかと。杏はそういう子だと、誰よりもわかっているのは自分だったはずだし、そうして、杏たちが来るのなら、私は今度こそ迅人との関係を断ち切れるだろう、と。そう信じるふりをしたのも自分だった。
賑やかな声が聞こえてきて、椿は窓の外を見た。
客が一組、帰るところらしく、翼の車に乗り込んでいる。誰かが冗談か何か言ったのだろう、翼も杏も体を折って笑っている。杏が首に巻いているのは、椿が編んだマフラーだ。
翼が杏を好きなことには、それこそずっと前から気づいていた。翼の様子を見ていれば、誰だってわかる。そのことを迅人と話したこともある。翼には必要な試練だな、と迅人は言っていた。愉しそうに、得意そうに。きれいなもの、高価なもの、おいそれとは手に入らないものを、見せびらかすときみたいに。何があっても杏は自分のものだと、信じきっているのだろう。たしかにその通りだと椿は思う。杏は翼を愛しているわけではないだろう。
それなのに、翼と寝たのだろう。たぶん──無意識にせよ──私を責めるために。
翌日、「発作」を終わらせる決心をし、椿が最初にしたのは、化粧だった。
普段はほとんど化粧はしない。うすく白粉《おしろい》をはたいて、口紅を塗るくらいだ。その日はでも、久しぶりにファンデーションを塗った。本当に数年ぶりのことで──思い返してみたら、最後にそれを塗ったのは、迅人と杏の結婚式の日だった。
椿は色が白くて、肌が薄い。「きれいな肌」と人からはよく言われるけれど、椿自身には「たよりない肌」に思えるし、ファンデーションを塗ると、何か悪い生きものに乗っ取られたような感じもする。
苦心して眉を描き、ブルーのアイシャドウを塗った。アイシャドウは、杏の結婚式どころか、高校の卒業記念に伯母にもらったものだ。化粧のしかたなど今以上にわからなかったその頃、そのブルーで目の縁をぐるりと囲んで家族の前に出ていくと、母親は笑ったが、父親には烈火のごとく怒られたのを思い出す。こういう色は、控えめにつけなければならないことくらい今はわかっている。アイシャドウの次はマスカラもつけ、口紅も、いつものピンクのグロスではなく、一本だけ持っている──これは、いつ手に入れたかさえ覚えていない──朱赤のものを塗った。
鏡に映ったのはまるで他人のような顔だった。けれども、かえって、そんな顔の中に杏と似たところが見えたりもした。たとえば上瞼《うわまぶた》の曲線とか、鼻筋の辺り。
どうして私は杏じゃないんだろう、と考えることはとっくにやめていた。──どうして迅人でなければならないんだろう、と考えるのをやめたのと同じ頃に。
だりや荘に入っていくと、杏たちの住居のほうの座敷で談笑する声がした。そっと覗き込んだ椿に、客が気づいて、
「つーちゃん?」
と大きな声を上げた。母親の同級生だった女性で、傍らには、ご主人もいる。
「おねえちゃん! もういいの?」
「ちょうどよかったな」
杏と迅人も口々に言う。が、どの顔も、椿の厚化粧に戸惑っているのがあきらかで、それで椿は、自分の顔を指さしながら、
「ちょっと気分をかえてみたの。おかしい?」
と言った。
「ぜーんぜん、おかしくないわよ。とってもきれい。テレビの人かと思っちゃったわ!」
夫人がオーバーアクションで微笑むと、ほっとした空気が流れた。「テレビの人」はよかったな、とご主人が言う。
「テレビの人っていうか、宝塚の人みたいよ、おねえちゃん」
「宝塚の人っていうよりは、踊り子みたいだな」
「ひどいわ」
椿が迅人を睨むと、笑い声が起きて、みんないっそう安心したようだった。
新生だりや荘のオープンにも立ち会った夫妻が、今回訪れた目的はスキーだった。スキー場に溢れる学生たちが学校に戻るころを見計らってきたのだという。だりや荘がお休みしてる間は、スイスに行ってたのよ、と夫人は言った。
「つーちゃんは、スキーしないの?」
「誰も誘ってくれないもの」
「やだ。やりたいの? おねえちゃん」
「冗談よ。私には、ぜったい無理。平地を歩いたってよろよろするんだもの」
「あーちゃんは今夜、一緒に来るって言ってるのよ。ナイタースキー」
「ええ? だってお二人が滑るのは上級者コースでしょう?」
椿が驚いて訊くと、
「人が多いところはいやだもの」
と杏は平然と言う。スキー場の混雑を父親が嫌ったせいもあって、杏も椿も、今までスキーをしたことがない。今年になってから、迅人が杏をスキー場に連れ出したらしいが、それだってまだ一度きりだ。
「この姉妹は足して二で割るべきだな」
とご主人が感想を述べて、再び笑い声が起きた。
そのとき椿はぞっとした。この世界で自分は一人きりだ、と感じたのだ。もっとも、そんなふうな孤独を感じるのははじめてではなかった。ぞっとしたのは、同じ孤独を、同じ深さで、杏も感じているに違いない、と突然気づいたからだった。
「つーちゃんが元気になって、よかったわ」
夫人はそう言い、椿の表情をうかがいながら、思い切ったように続けた。
「新渡戸青年も、お元気?」
ええ、と椿は答える。実際は、最近の新渡戸さんが元気だとはとても思えなかったけれど。
「暮れにはフルーツケーキを送ったわ」
「まあ、そう?」
新渡戸さんと椿のお見合いをセッティングした当人であり、新渡戸さんの死んだ父親の妹の親友、という関係の夫人は、椿の答えにほとんどはしゃいだ様子を見せた。
「今度一度みんなでお食事しましょ。こちらでも、東京ででも……」
ええ、と椿は微笑んだ。
この前新渡戸さんに会ったのは十二月のはじめ、雪が本格的に降りだす前だった。
新渡戸さんから電話があり、すまないがこちらに出てきてくれないか、と言う。そうして、さらに彼の頼みで、椿ははじめて新渡戸さんの部屋へ行った。
駅から電話して道順を聞いた。街の喧騒から離れた住宅地の、古いけれども堅牢そうなマンションだった。ホテルの部屋で椿を迎えるときと同じように、新渡戸さんはドアを開け、やあ、いらっしゃい、と頷いた。クリーム色のとっくりの、あたたかそうなセーターを着ていた。あなたが来るから着替えたんだ、と新渡戸さんは言った。
椿は部屋を見渡して、目を見張った。外国人向きの作りらしい、広々したリビングの壁一面に、たくさんの額が飾られていた。大きさはまちまちだったが、どれも油彩の花の絵で、同じ作者のものだった。
「僕の母が描いたんだよ」
と新渡戸さんが言った。新渡戸さんの母親は、ずっと昔、新渡戸さんが小さい頃に亡くなっていて、その後、新渡戸さんの父親は再婚している。「僕の母」というのが、どちらの人のことか椿にはわからなかったが、何となく、聞いてはいけない気がした。新渡戸さんもそれ以上は説明せず、ただ、中の一枚を指さして、
「僕がいちばん好きなのはあれなんだ」
と言った。
それは十五号ほどの大きさの、椿の絵だった。エキゾチックな感じの金属の壺に、赤と白の椿が、枝垂《しだ》れるように活けられている絵。
椿は新渡戸さんに微笑みかけたが、たぶん実際は、リップサービスでもジョークでもなく、新渡戸さんは本当に心からこの絵がいちばん好きなのだろう、と考えた。そもそも、椿という名前の女と見合いをする気になったのは、この絵のためだったのかも──とさえ。
椿はその日、いつにないことをした。お茶をいれに行こうとする新渡戸さんを、背中から抱きしめたのだ。新渡戸さんはしばらく身を固くしていたが、やがて振り向き、椿の体に腕をまわした。椿が顔を上げて見つめると新渡戸さんはキスをしてくれた。ためらいがちにおりてきたその唇を、椿は情熱的にからめとった。そうして、片手を新渡戸さんの脚の間に伸ばした。
新渡戸さんの体は、次第に椿の愛撫に応えはじめた。けれども、同時に新渡戸さんが椿の手を取って、「だめだよ」と囁いた。新渡戸さんは謝ったりはしなかった。ただ、そっと椿から体を離すと、「だめなんだよ」と、何かこの世の摂理を子供に教えるような口調で繰り返した。
二人はそれから外出した。同じ街の賑やかなほうへ出て、カフェのオープンテラスで、コートを着たままコーヒーを飲んだ。賑やかなほうへ賑やかなほうへと歩いた。人を眺めショーウィンドウを眺め車を眺め、路肩の埃《ほこり》っぽい並木を眺めた。
日が落ちていよいよ寒くなると、携帯電話を持っていない新渡戸さんは電話ボックスに入って、レストランの席を確保した。そこはこれまでにも二人で幾度か利用している、フランスふうのベトナム料理を出す店だった。
まだ時間が早くて客が少なかったせいか、ベトナム人のウェイターたちが入れ替わり立ち替わりにテーブルにやって来てなにくれとなく話しかけてきた。いつもそうであるように二人は機嫌よく答えた。あるハンサムなウェイターの青年が、カレシのセーターとカノジョのニットはとてもよく似合っている、とほめた。
二人は、けれども二人っきりだった。街中にいてもレストランでも、周囲はただ二人の外側を流れていった。古いモノクロの絵はがきの中の、そこだけ彩色された二人みたいだと椿は思った。あるいは、彩色された風景の中の、塗り忘れられた二人。たぶん同じ感慨を、新渡戸さんはべつの言葉で言った。「僕たちはまるで恋人同士みたいだね」と。
その日椿は新渡戸さんの部屋に泊まり、セミダブルベッドで身を寄せ合って眠ったが、体を交わらせることは、やはりなかった。以来今日までずっと会っていない。
「発作」と称してふせっていたとき、新渡戸さんからの電話に出られなかったことが、椿は気になっていた。フルーツケーキのお礼だったのかもしれないけれど……。呼び出し音を十五回待って、椿は受話器を置いた。幾度かけても新渡戸さんは留守だった。
雪の壁に挟まれた山道を、迅人のパジェロはゆっくりと上っていく。
昔──父親がペンションをはじめた頃なら、この辺りはとっくに通行止めになっているはずだ。山が切り開かれてペンションや温泉が増えた今では、国道でなくても除雪車が往来して、雪の不便は少なくなった。──もっとも父親は、それまで通れなかった道が通れるようになってからも、冬は遠出を避けていたけれど。
迅人という人は、まったく雪に躊躇しない。「通れるようになっているんだから通れるよ」とこともなげに言う。「どこへ行くの?」と訊いたら「ひみつ」という答えだった。それで、椿はひそかに願った。どこかとんでもないところに連れていってくれればいい、と。どこか、二度と帰れないようなところへ。
けれども車は、間もなく停まった。そこから徒歩で五分ほど下って、迅人が椿を連れていったのは、川床をしきった小さな温泉だった。板で小屋掛けしてあるだけの、こういう小さな露天風呂の在処《ありか》を、地図まで作っていた父親に教わって椿はよく知っているつもりだったが、そこははじめての場所だった。
「すごいだろ? この前この近くに指圧に来たときに見つけたんだよ」
差し掛け小屋で迅人はさっさと服を脱ぎはじめる。
「人が来るわ」
「大丈夫、ここを知ってる人は、車が停まってれば先客がいると思って遠慮するから。知らない人は、そもそも来ない」
迅人は椿の服を脱がせにかかった。
赤茶色のお湯をたたえた温泉は、「岩のくぼみ」としか呼べないような大きさだった。二人でも窮屈なくらいだから、たしかにあとから来た人は遠慮するだろう。だからといって「大丈夫」とはかぎらないけれど。
迅人に背中から抱かれるようにして、椿はお湯に体を沈めた。厚く雪をかぶった山を仰ぐと、澄み切った空が今にも落ちてきそうだ。願い通り世界の果てにいるような気がした──結局のところ、迅人に抱かれているときはいつでもそういう気分になる。
抱きしめる迅人の腕に、自分の腕を絡める。ゆっくり時間が経ってほしかった。迅人の動きを封じるように、その腕に唇をつけたとき、右の手首の近くにひっかき傷があるのに気がついた。
「それは、ほら、この前の……」
この前の、くるった女がつけた傷だと、迅人の口調でわかった。迅人の車から降りて、急いで自分の家に入ろうとする椿を女は追いかけてきて、阻もうとする迅人ともみ合いになったのだ。
「怪力だったなあ、彼女は」
迅人はおかしそうに呟き、それから、そんな自分をたしなめるように、
「でも、いけないね。女の人をあんなふうにさせては」
と言った。
椿は女の顔を思いだした。早く忘れてしまいたいのに、いつまでも鮮やかに残っている。ああいう表情を昔一度見たことがあった。母の顔だ。父親の恋人と称する女がだりや荘に訪ねてきたとき。杏は知らない──東京にいたから。訪ねてきた女は会計報告でもするような調子で父とのことを母に伝え、母のほうがくるった顔になったのだった。
そのひと月後に、両親は事故で死んだ。あれは母による無理心中だったのかもしれない、という疑念は、心の表面には浮かんでこなくても、暗い深みにいつでもあった。母親は身勝手な女だった。そう思うのは、その血が自分にも濃く流れていると感じるからだ。
「椿」
と迅人が少しじれたように呼んだ。迅人が「椿さん」ではなく「椿」と呼ぶのは、セックスのときだけだ。
服を着て車に戻ったとき、入れ替わりに駐車しようとする車があった。椿はとっさに顔を伏せたが、迅人は平然としたもので、
「大丈夫、東京のナンバーだから」
などと言った。
「杏に教えた?」
え、と迅人が聞き返す。
「さっきの温泉。杏にはもう教えてあげた?」
ああ、まだ教えてない、と迅人は言う。
「今夜教えるよ。今度は二人ではいっておいで」
迅人のこういう無邪気さの、どこまでが本物でどこからが作り物なんだろう、と椿は思う。たぶん迅人自身もわからないのかもしれない。
「翼くんは……」
車は走りだし、椿の唇は再び動いた。
「ん?」
「……あなたは翼くんと来れば?」
「冗談だろ?」
迅人は笑う。
杏は翼くんと寝たのよ。
その言葉は椿の唇のすぐ内側にあった。もし口に出したら、迅人はどうするだろう、と椿は思う。杏は、私がそうしないと信じているのだろうか。私はそうしないでいられるのだろうか。
崖から落ちてぺしゃんこになった父親の車が、ふいに浮かんだ。
すべてをめちゃくちゃにすることは、どうしてこんなに簡単そうに思えるのだろう。
サブレは先に立って歩いたが、幾度も振り返って椿を見た。
「どうするの?」
とその目が訊ねている。杏や迅人と一緒ではなく、椿が一人でサブレを散歩に連れていくことは、これまで一度もなかった。それに今は散歩の時間ではないのだ。
だりや荘は今頃ディナータイムで、杏と迅人は、料理をサーブしつつ、客の相手をしているだろう。今日は予約が多くて大変、と杏が昼間ぼやいていたから、手伝うつもりで、椿はさっきだりや荘を訪れた。玄関を開けるとサブレが寝ていて、椿を見上げて嬉しそうに尻尾を振った。どういうわけかすぐ横にリードが置きっぱなしになっていた。──それで椿は、サブレにリードをつけて、だりや荘を出て、歩いている。
道の両側にはペンションが建ち並び、窓から漏れる明りが雪の上に映っている。向こう側から歩いてきた髭面の男性が、すれ違うとき、おやという表情で椿を覗き込んだ。きっと、サブレをよく知っているけれど椿のことは知らない人なのだろう。サブレは男性に向かって尻尾を振り、それからまた、もの問いたげに椿を振り返る。どうするの? わからない、と椿は胸の中で呟く。
何も考えていなかった。ただ歩いてきただけ。やがてペンション村の外れに来た。村へ続く右の道を行こうとするとサブレが動かなくなったので、仕方なく左に折れた。その道の先には川がある。夜に川に行くなんてどうかしている、と思ったが、サブレが引っぱるままに歩いていった。
川原に着くと、サブレは椿の前に行儀良く座った。川原ではいつも自由に遊んでいるから、リードを外してもらうのを待っているのだろう。でも、夜の川は危険だ。川原には雪が積もっていて、サブレを追いかけていくのは困難だろうし、こんなに暗くては、サブレがどこにいるのか、たちまちわからなくなってしまうだろう。この前みたいにサブレが川にはまってしまったら、とうてい助けられない。そうして、この暗やみと雪の中では、サブレが川に落ちる可能性のほうが大きい。
──それでも私はリードをはずすのかもしれない、と椿は思い、思ったとたん確信になった。
私はリードを外すのだろう。
実際椿の指は、リードをサブレの首輪に取りつけている金具に触れていた。サブレは今にも自由にしてもらえると思って、頭を椿の膝に押しつけてくる。親指にちょっと力を入れれば、留め金は外れて、サブレは川原に向かって飛び出していくだろう。
そうして親指を動かしたのか、そうではなかったのか。突然サブレが激しく身動きして、その瞬間、留め金が外れた。椿は必死でサブレの首輪を掴んだ。飛び出そうとするサブレに引きずられて、雪の上に膝をつく。
サブレ! と叫ぼうとしたが声が出なかった。かわりに猛烈な吐き気が襲ってきた。堪えきれず、サブレの首輪を掴んだまま、椿は吐いた。吐くものがなくなってもなお体が痙攣《けいれん》する。サブレは異変を感じたようだった。椿の匂いを嗅ぎにきたところを、どうにかリードに繋ぎ、リードをしっかり右手首に巻き付けると、椿は雪の上に横ざまに倒れて、痙攣が収まるのを待った。
どのくらいの時間が経ったのかわからない。サブレは川で遊ぶ気がすっかり失せたらしくて、椿の頭のそばに脚を揃えて座っていた。椿はそろそろと体を起こした。ダウンのロングコートは雪と泥でひどい有り様になっていたが、寒さは感じなかった。ただサブレのリードを握っている手だけが固く凍りついたようで、ぶるぶる震えていた。だりや荘に帰り着くまでそれは続いた。
ドアを開け、そっとサブレを戻し入れる。逃げるように自分の家に戻り、コートを丸めて浴室に放り込むと、ヒーターの前に椿はうずくまった。程なくしてインターフォンのベルが鳴り、一瞬迷った後に受話器を取った。
「おねえちゃん? サブレを散歩に連れてってくれたの?」
「ええ」
声が出た。
「退屈そうにしてたから、ちょっと一回りしてきたの」
「ありがとう。寒かったでしょ? もう少ししたら手が空くから、こっち来たら?」
「ええ、そうするわ。たぶん」
受話器を置いたときには、椿は決めていた。
ここを出よう、と。
ここを出て、東京へ行こう、と。
知らせが届いたのはその翌日だった。
新渡戸さんがこの世からいなくなった。
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9
新渡戸さんは山で死んだ。
東京近郊のちっぽけな山。「登山」ではなく「ピクニック」に行くような山だ。実際迅人も、東京にいた頃杏とぶらっと出かけたことがある。麓の駅前には、そば屋と饅頭屋が茸みたいにびっしりひしめいていた。
あのときは軟弱な杏につきあって、中腹までケーブルカーで登ったが、もちろん歩いても登れる。登山道の入り口付近に、銀色のBMWが停まっていたそうだ。その中で新渡戸さんは死んでいた。排気ガスを引き込んで。山の周囲にはラブホテルがあり、満室でラブホテルに入れなかったカップルはそこらへんに車を停めて事に及ぶので、BMWに近づく人は数日間いなかったらしい。新渡戸さんを見つけたのは登山客ではなくて地元の小学生だった。たぶん、何かの罰ゲームとか、一種の肝試しで、面白半分に覗いてみたのだろう。
新渡戸さんの死を知らせてきたのは、例の、杏の母親の同級生だったという夫人だった。電話を取った迅人に、彼女が知っているかぎりの一部始終を伝えたのだ。
「子供たちが見つけてから、さらに丸二日、放置されていたのよ」
夫人は、憤りの口調でそう言った。
「なぜです?」
と迅人は訊いた。
「二人は後部座席にいたのよ。折り重なって倒れていたの。それで子供たちは、はじめ──つまり──二人はいちゃいちゃしてるんだ、と思ったらしいのね」
「二人?」
「そうよ。二人」
夫人はいっそう憤って言った。彼女の怒りは発見者に向かっているわけではないことに、迅人はそのときようやく気づいた。
「新渡戸さんは、瑛子さんと一緒だったの」
「瑛子さんって?」
「お義母《かあ》さんよ、新渡戸さんの。新渡戸さんのお父さんが再婚した人」
新渡戸さんの死を、椿に伝えたのは迅人だった。「あたしの口からはとても言えないわ、何とかうまく伝えて頂戴」と夫人に頼まれたからだし、電話を切り、食堂を出ると、そこに椿がいたからだ。
「ストールを取りにきたのよ。そっちの厨房に忘れたの」
椿は言い、それから、眉をひそめた。
「……何かあったの?」
「新渡戸さんが亡くなった」
迅人は言った。そうして、ほとんど考えないまま、というよりむしろ急いで、
「心中したらしい。義理のお母さんと」
と続けた。あとから考えれば、もっとタイミングを図るべきだったのかもしれないし、杏からそう責められもしたのだが、椿はこのことを知るべきだ、とそのときはどういうわけか強く思ってしまったのだ。簡単に言えば、迅人は新渡戸さんに腹を立てていたのだった。
椿は一瞬、目を見開き、それから、
「そう?」
と言った。ほとんど無表情に見える顔で。だから迅人は──あとから杏に言い訳したことだが──椿は、とっくに何もかも、新渡戸さんが死ぬことも、どんなふうに死ぬかも、知っていたような気がした。
椿は、迅人がさらに何か言うのを待っているようだった。けれども迅人が、やはり椿が何か言うのを待ちながら黙っていると、無表情のまま、奇妙なことを訊いた。
「……その人は、画家だったのかしら?」
と。
新渡戸さんの葬儀は、密葬で執り行われたとのことだ。
喪主は新渡戸さんの妹で、あらためて電話をかけてきたのもその人だった。
やはり電話を取ったのは迅人だったが、椿さんにかわってほしい、と新渡戸さんの妹は言った。そのときちょうどだりや荘にいた椿に迅人は受話器を渡して、杏とともに自室で待っていたが、ほどなく椿がやってきて、
「新渡戸さんにお別れに行ってくるわ」
と言った。
「何か、私に渡したいものがあるらしいの」
それで昨日から、椿は東京へ行っている。杏も迅人も、椿が一人で出かけることを心配したが、大丈夫、と椿は言った。杏は、かなり食い下がって、新渡戸さんの家までは行かなくても、東京まで自分もついていくと言ったし、迅人も椿と二人きりのとき、どこかで落ち合おうかと提案してみたのだが、椿は頑なに、一人で行く、という考えを変えなかった。
今日は、ばかに暖かい。いや暑い。
窓からの日差しに微かに顔をしかめて、迅人は掃除機のスイッチを切った。
窓際のテーブルの下に落ちているごみの上で、さっきからほとんど上の空で掃除機を往復させていたのだが、よく見るとそれはごみではなくてこぼれたソースか何かのしみだった。茶色い液体が乾いてカーペットの毛にこびりついているのだ。迅人は物置から洗剤を持ってきて、濡らした雑巾でしみの上をたたいた。なかなか取れない。ずいぶん前からついていたのかもしれない。食堂の掃除は毎日しているのに、どうして気づかなかったんだろう?
たたいていても埒があかないので、迅人はこすりはじめた。カーペットのしみはたたくのが鉄則で、こすってはいけない、ということは重々知っていたのだが。乾いていたしみがふやけて、薄くはなったが広がってしまった。そこにまた洗剤を振りかけて、さらにこすった。次第に意地になってきた。ちょうど日差しの真下で屈んでいるので、頭が熱い。立ち上がり、窓を開け、ヒーターを消し、ごしごしやっているところに、杏とサブレが入ってきた。
「寒い!」
ドアを開けるなり杏は叫び、
「やだ。窓、開けてるの?」
と呆れた声を出す。
「ヒーターも消しちゃったの? 何やってるの?」
「しみが取れないんだよ」
怒鳴るつもりはなかったが、手を動かし続けているせいで荒い声になった。
杏は迅人のそばに来ると、カーペットを見て、
「何やってるの?」
ともう一度、さっきよりずっと非難がましい声で言った。
「よけいひどくなってるじゃない」
「最初よりはましだよ」
「こすったらだめだって言ってるのに。乾いたままカーペットの毛先を摘めばいいのよ」
杏はせかせかと立ち上がるとカッターを持って戻ってきて、迅人の手を押しのけるようにしてカッターの刃をカーペットにあてた。ベージュの地が毛羽だって薄茶色に染まっているところを、髭でも剃《そ》るような手つきで削ぎはじめる。事態がいっそう悪くなることはあきらかだったが、迅人は呆気にとられて黙っていた。
やがて杏は手を止めた。しみが取れないうえにはげになったカーペットを、迅人と杏は、無言で見下ろした。
「テーブルの下だから目立たないよ」
仕方なく迅人が言うと、杏は頷く。立ち上がって、仏頂面で迅人を見、寒い、と言った。
「二月に窓を開けてるなんてどうかしてるわ」
「運動して暑くなったからさ」
杏は笑わない。視線を逸らして、
「ヒーターまで消しちゃうなんてどうかしてる」
と再度言う。迅人はちょっとむっときた。
「二月だっていうのに、そんなぺらぺらしたのを着てるから寒いんだよ」
言ってから、杏が着ている薄いピンクのセーターを、はじめて見ることに気がついた。きっと今日おろしたのだろう。
迅人は急いで、修復する言葉を探したが、そのとき「すみませーん、送迎お願いできますか?」という客の声がした。
白、黒、ベージュという、一見地味なスキーウェアの三人組は、東京のOLだそうだ。でも、きっと高価なブランドものなんだろう、東京ではこういうのが「シック」ってことなんだろうな、と迅人は、何となく意地の悪い気分で考える。
白とベージュが後部座席、恰幅のいい黒が助手席に座り、迅人が運転席のドアを開けながらサングラスをかけると、「やだ、カッコイー」という声が上がった。三人揃ってばかにテンションが高くて、スキー場への道中ずっと雪が白いだの山が高いだの空が青いだのとかしましく騒いでいた。
リフト乗り場につけると、ここでまず一枚、三人の写真を撮ってほしいと言う。ピースサインをしたり互いの頭のうしろに指で角を作ったりしているのを二、三枚撮ってやると、よかったら今度はあなたも入ってください、と言われた。
「いや……俺はいいですよ」
そんなことは今まで一度もなかったのに、どうしてか断ってしまった。「いいじゃないですかあ」としなを作る黒の袖をベージュがこっそり引っぱっている。
「昨日あんまり寝てないんで。男前じゃなくて」
冗談めかして言い訳してみたが、いかにもわざとらしい感じになった。「それじゃ五時に」と迎えの時間だけ確認すると三人組はそそくさと離れていき、何だよと思いながら迅人も車に戻ると、キャッハッハッハという笑い声が聞こえてきた。迅人は思わず身を乗り出して、リフトのほうを見た。が、三人の姿はとっくに見えなかった。舌打ちして、エンジンをかけた。
サイドブレーキを外したとき、携帯電話が鳴った。
「もしもし? 運転中?」
杏だ。迅人はエンジンを切った。
「大丈夫。今、駐車場だから」
さっき言いそびれたことを、今言おうと迅人は思う。あのセーター可愛かったよとか何とか。杏も、そういう言葉が聞きたくて、電話してきたのだろう。
あのね、と杏が言う。
「ペンションヴェルデから、指圧に来てほしいって」
「ああ……」
仕事の話か。思わずがっかりした声になる。
「ヴェルデなら、そこからまっすぐ行けるでしょ? こっちは大丈夫だから」
「もう引き受けたのか?」
「まさか。あたしが勝手に引き受けるわけないじゃない。本人から電話させます、って言っただけよ」
杏は傷つけられたように言う。どうしてこうなっちまうんだろう、と迅人は思う。
「わかった。じゃ、電話してみるよ」
「よろしく」
そこで一瞬、間ができた。お互いに、相手が何か言うのを待っているような。杏、と迅人は呼びかけようとして、だがどうしてか、
「じゃな」
と言ってしまった。電話を切る音が響いた。
迅人は携帯電話を助手席に放り投げると、今度こそ車を発進させた。路肩の雪が泥と埃で茶色く汚れている国道をしばらく走り、ふいに横道にそれて、田んぼの脇に車を停めた。
携帯電話を取り、ペンションヴェルデにかける。すみませんが今日は時間がとれないので伺えません、と伝えた。精いっぱい、すまなそうに言ったつもりだったが、それでも相手はやっぱり訝《いぶか》しそうな反応をした。
ようするに、今日の俺はまったく俺らしくないんだ。
迅人はシートを倒して空を見上げた。雪の明るさと日差しの明るさはやはり違う。たしかにまだ二月で、窓を開け放つのは間違っているが、春が確実に近づいているのがわかる。
人が死のうが春は平気で来るんだな。
頭の片隅で、ぼんやり思い、それから、
新渡戸のやろうめ。
と、はっきり思った。
人はあんなふうに死んでいいはずはない。しかも、最悪の裏切りをあきらかにしたままで。
誰に腹を立てているかといえば、新渡戸さんに対してに違いなかった。が、腹立ちとはべつの、絡まりあった髪の毛みたいな、ひどくいやな感じのものが、新渡戸さんの死を知らされて以来体の中に詰まっている気がした。体の中だけじゃなく、だりや荘の中にも。
ペンションヴェルデには、結局翌日に行った。
見知らぬ他人と言葉を交わし、その体を揉みほぐすことが、ひどく億劫に思えて自分でびっくりした。だからこそ、出かけたのだ。新渡戸さんの死に影響されるのはまっぴらだと思った。
──が、やはり調子は今一つだった。客は六十歳くらいの女性だったが、相手が好奇心旺盛な、お喋りな女性であるにもかかわらず、会話はどうにも弾まなかったし、そのせいで彼女の体もなかなかほぐれなかった。まるで専門学校の実習生みたいなていたらくだ。
「お茶でも飲んでいらして」
帰りがけ、ヴェルデの女主人に誘われた。気が進まなかったが、「ええ、いただきます」と迅人は答えた。いつもの自分なら、ぜったい断らないはずだからだ。みどりさんという名のその女主人は、おっとりと上品な素敵な未亡人だったが、指圧を受けた客とは旧知の間柄だとかで、施術中もそばにいたから、迅人の不調に気がついたのかもしれない。きっと何か訊かれるぞと迅人は待ちかまえていたが、みどりさんが口にしたのはまるでべつのことだった。
「椿さんは、今どちらかにいらっしゃってる?」
「ええ……東京に。友人が亡くなって」
軽く動揺して、答えなくてもいいことまで答えてしまった。が、みどりさんは、椿の不在の理由のほうには関心がない様子で、
「そう、やっぱりいらっしゃらないの」
とだけ言った。
「何か?」
「いえ……椿さんは今お留守だって、みんなが言ってるから」
「みんなが?」
「ええ。この辺の人たち」
みどりさんは言おうか言うまいか迷っている様子だったが、結局、つまりね……と続けた。
「たとえば、今回みたいに指圧をお願いしたくて、明日は迅人さん予定空いているかしら、なんて話題になったとするでしょう? 昨日がまさにそうだったんだけれど。そうすると、その場にいる誰かが、ああ、迅人さんなら空いてるだろう、今椿さんがお留守だからね、というような言い方をするの。そうして、みんなでなんとなく笑うのね。同じようなことが、二度三度あったの。告げ口しているつもりはないのよ。ただ、少し心配になったものだから……」
ペンションヴェルデを出ると、迅人は町のほうに向かって車を走らせた。何の用事もなかったが、まっすぐだりや荘に帰る気になれなかった。
ひどく恥じ入っていて、吐き気がするほどだった。椿とのことが噂になっているせいというより、あんなふうにみどりさんから気を遣われたせいだ。
勿論、噂になっているなどとは夢にも思っていなかった。他人の噂話などには無縁なタイプのみどりさんが、敢えてそれを口にしたのは、実際ひどく心配してくれていたのだろう。俺があまりにも間抜けだからだ。みどりさんにも伝わるほどの気配に、俺は一体今までなぜ気づかずにいたのだろう?
ふいに迅人は、自分は今まで箱の中にいたような気がした。
それは奇妙な感慨だった。よしんば椿との関係が一つの箱のようなものだとしても、中に閉じこめられているのは椿だけで、自分は箱そのものか──そういう考えかたが少々|傲慢《ごうまん》ならば──箱の外にいるはずだったのだから。
だがそれは、それこそ傲慢さからくる楽観だったんだろうか?
迅人は車のスピードを上げた。そうすれば、箱から脱出できるとでもいうように。
そしてとうとう町に着いてしまい、これからどうすればいいのかさっぱり思いつかないままロータリーに車を停めてぼうっとしたとき、ふいに窓をノックされた。翼だった。
「……よう。買い出し?」
「ええ、まあ」
翼は曖昧に答える。そんな態度は彼らしくなかったし、迅人がどうして今頃町にいるのか訊かないのもへんだった。迅人はいやな予感がした。
ちょっと一服しませんか、と誘ったのは翼だった。顔見知りの店主がいる喫茶店ではなく、ファストフード店に入った。そこへ先導したのも翼だ。
それぞれホットコーヒーを買い、狭苦しいテーブルに向かい合うと、翼は開口一番、
「椿さん、明日辺り帰ってくるのかな」
と言った。
この地域じゃ俺に挨拶するときは、椿の動静を訊ねることに決まってるんだ、いつの間にかそういうことになってたんだ、と迅人は、うんざりしながら思う。
「うん、明日には戻ると思うよ、昼に電話があったみたいだから」
「ならよかった」
「よかったって?」
「え? いや……杏さんも、すごく心配してたみたいだから」
「ああ、そうだね」
迅人は慌てて頷き、コーヒーに手を伸ばしながら、翼の様子を窺った。同じようにこちらを窺い見ている目と目が合った。
「何か話があるんじゃないのか」
たまらず迅人は切りだした。翼は、一瞬、困った顔になり、それから意を決したようにあらためて迅人に目を据えて、
「だりや荘を辞めようと思ってるんです」
と言った。
肉を煮る匂いはだりや荘いっぱいに漂っていたが、厨房に行ってみると杏はいなかった。
コンロの上には骨付きの豚と丸ごとの玉葱を煮込んだ寸胴鍋がかかっていて、まだ旺盛に湯気を立てている。少し前に火を止めたのだろう。味つけに迷って、料理の本でもめくりに二階に行ったのかもしれない。
コンロのそばの、さっきまで杏が座っていたに違いない木の椅子に、迅人はどすんと腰かけた。この数時間で一気に年を取ったような気がした。
窓の外に目をやると、灯油のポリタンクを運んでいる翼が見えた。さっき車を二台連ねて、一緒に町から戻ってきたのだ。スキーシーズンが終わったら、翼はだりや荘を出ていくという。沖縄に行くのだそうだ。ゾク時代の仲間から連絡があって、沖縄で新たな働き口が見つかりそうなのだという。
翼が沖縄に行きたがっていることは知っていた。だから迅人は「それじゃ、ひきとめるわけにもいかないな」と言った。「すみません」と翼は言った。目を伏せていた。何だか別れ話をしている男女みたいだな、と迅人は思った。別れを切りだしている男が翼で、捨てられようとしているのが自分だ。「どんな仕事なんだ」と訊くべきだと思いながら、結局その質問はしなかった。翼が答えに窮するのを見たくなかったからだ。ようするに迅人は、「沖縄に行くから」などという説明を、まるで信じていないのだった。
杏が庭に出てきて、翼に何か話しかけた。翼が笑い返し、二人は並んで、物置のほうへ歩いていく。
例の噂が、たぶん翼の耳にも入ったんだろうな、と迅人は思う。そして翼は、たぶん俺という男にがっかりしたんだろう。無理もない。噂を聞いただけでは、俺の本当の気持ちなどわかるはずもないのだから。
そこまで考えたとき、迅人は、今では自分自身もそれがわかっていないことに気がついた。つい昨日まで、それは石像みたいに確固と自分の中にあったはずなのに。
物置から杏が出てきた。なぜか古雑誌の束を抱えている。「冬の煮込み特集」か何か、切り抜いておくのを忘れた記事を、あの中から探しだすつもりなのかもしれない。
翼が追いかけてきて、杏の手から雑誌を取った。杏が何か言い、翼が答える。また杏が何か言う。二人は今は立ち止まっている。サブレが足元にまとわりついているが、二人とも気づく様子もない。翼が真面目な顔で熱心に喋っている。杏は頷く。首を振り、また頷く。
迅人は視線をそらせなかった。杏と翼がそこからいなくなっても、ずっと庭のその場所を見ていた。厨房のドアが開き、「迅ちゃん?」と声をかけられて、びくっとして振り向いた。
「何してるの?」
ちょっと笑って杏は言う。迅人はどういうわけか心臓の鼓動が速くなった。杏に聞かれそうなほど大きな音で脈打っている。
「スープがさ……旨そうだったから」
しどろもどろにそう言った。ああ、いい味が出てるでしょう? と杏は言う。
「あとお醤油と大蒜《にんにく》を少しだけ足して、シンプルに粒マスタードで食べるのがいいかなと思って。かわりにご飯に凝ることにしたの。蛸めし。どこかにレシピがあったはずなんだけど、結局翼くんに教えてもらっちゃった」
「翼に?」
「そう。あの子、妙なことに詳しいのよね」
杏はくすくすと笑う。椿が連絡してきたので、ずいぶん安心したのだろう。子供のような、小さな花のような、雪の結晶のような笑顔。
自分でもそれと気づかないまま、迅人は立ち上がり、杏を腕の中に引き寄せた。杏の体温を間近に感じると、もうたまらなくなり、思いきり強く抱いた。
「どうしたの? 迅ちゃん……」
何か言い訳しなければと思うのに、声が出せなかった。驚いたことに、声を出したら、泣いてしまいそうだった。
さっき翼と杏が二人でいるところは、まるで迅人を捨てる相談をしているみたいに見えたのだった。もちろん二人はたんに蛸めしの話でもしていたのだろう。だが、「捨てられる」という感覚は氷の杭みたいに迅人に突き刺さっていた。
杏に捨てられる。
そのことについて、迅人ははじめて考えた。そして気がくるいそうなほどぞっとした。
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新渡戸さんの実家は、都心から一時間くらい離れた郊外にあった。
妹の蕗子《ふきこ》さんから教えられた通り、椿は最寄り駅でタクシーに乗り、「新渡戸さんのお宅まで」と告げると、運転手はすぐに了解し、しばらく走った後、「あそこの坊ちゃん亡くなったんでしょ?」と言った。そうなんですかと椿が知らないふりをすると、それきり口を閉ざしたが、目的地について料金を受け取るとき、椿の顔を無遠慮にしげしげと見た。
雑木林に囲まれた、東京とは思えない場所だった。小高い丘の上に立つ二階屋の呼び鈴を押すと、目鼻立ちのくっきりしたショートヘアの女性が出てきて、蕗子ですと名乗った。家には彼女一人っきりだった。壁一面に取った窓から午後の日がいっぱいに差し込んでいる居間には、巨大なガラスの花瓶に百合の花が溢れるばかりに活けられていて、喪中どころか何か慶事があったようにさえ見えた。
「うちは無宗教なので……」
百合の花のうしろのサイドボードの上に、小さな銀色の額に入った新渡戸さんの写真と、水か酒か、透明な液体が入ったリキュールグラスが並んでいた。新渡戸さんと一緒に死んだ女性の写真はなかった。あるいは椿のためにわざわざ用意された祭壇なのかもしれない。
椿は写真に向かって手を合わせたが、それは新渡戸さんのためでも自分のためでもなくて、蕗子さんのためだった。それからあらためて写真を見た。新渡戸さんは最後の日にも着ていたクリーム色のセーター姿で、頬杖をついて微笑んでいる。たとえば二人で映画や芝居を観て感想を語り合うときなど、椿と異なる意見を遠慮がちに述べたあと、そんなふうに微笑むことがあった。
振り向くと、テーブルにお茶の仕度がしてあって、蕗子さんの姿はなかった。程なく廊下に通じるドアが開き、大きな平たい包みを抱えて蕗子さんは戻ってきた。
「これを……」
包みを開ける前から、それが何だか椿にはわかった気がした。そして包みを解くと、やはりあらわれたのは一枚の油彩だった。最後に新渡戸さんに会った日、彼の部屋で見せてもらった──彼がいちばん好きだと言っていた──椿の花の絵だ。
「遺言があったんです、メモのようなものでしたけど。その中に、あなたにこれをお譲りするようにって」
「いただいてよろしいんですか」
「ええ、もちろん。ご迷惑でなかったら……」
蕗子さんは頷くと、まるで子供のように、椿の顔をじっと見た。兄の顔立ちとは正反対の印象の、でもやはりどこかしら似たところもあるような蕗子さんの顔を、椿も思わず不躾に見つめながら、新渡戸さんが死に、義理の母親が死んで、この人がひとりぼっちになったのでなければいいけれど、と思った。
二人はしばらくの間無言で見つめあっていた。やがて蕗子さんがためらいがちに、
「なにか、お知りになりたいことはありますか?」
と訊いた。
椿が戸惑って黙っていると、ごめんなさい、と蕗子さんは続ける。
「こんなことを言うのは、つまり……お知りになりたくないことも、おありなのじゃないかと思って。兄の死にかたが、死にかたでしたから。お訊ねにはすべてお答えするつもりがあるんです、ただ……」
「よろしいんですよ、お話しにならなくて」
椿は蕗子さんを遮って言った。
「今知っていることだけでじゅうぶんですから」
そうですか、と頷いて蕗子さんはそれぞれのカップに二杯目の紅茶を注いだ。二人はまたしばらく黙ってそれを飲んだ。
「あなたはどなたなんですか?」
蕗子さんがそう訊いたのは、椿が立ち上がろうとしたときだった。椿ははっとした。
この人は、メモにあった連絡先を頼りに私に電話をくれただけで、私が兄の見合い相手であることは知らないのだ。そもそも新渡戸さんが見合いをしたという事実は、この家の中でとっくに忘れ去られているのかもしれない。でも、「私はお兄さんの見合い相手よ」と答えたところで、何の答えになるというのだろう?
「私は──お兄さんの友人です」
そう答えたが、今度は蕗子さんがはっとした顔になった。彼女にはわかってしまったのだろう。実際は椿が心の中で「私は誰でもないのよ」と呟いたことが。
そのときはじめて、はっきりした悲しみが、椿の体を貫いた。
新渡戸さんが死んでしまった悲しみでも、彼が椿の知らない女と心中した悲しみでもなかった。
新渡戸さんに捨てられた悲しみだった。
東京には三日間滞在した。
いつも新渡戸さんと一緒に泊まったホテルに部屋を取り、サイドボードの上に椿の絵を置いて、軽い食事をとりに外へ出かけるほかは、終日眺めて過ごした。
三日目、足を延ばして、最後に新渡戸さんと行ったベトナム料理のレストランで昼食をとった。「待ち合わせですか?」と訊ねられ違うと答えると、ウェイターたちはそれ以上何も訊かなかった。たぶん、そういう指導を受けているのだろう。店を出たあと、すぐ横にあった電話ボックスに入り、杏に電話をかけて、明日帰る、と告げた。会いたくてたまらなくなったのだった。杏に。もちろん迅人にも。
翌朝、埃っぽい晴天の東京を発ち、まだ雪深い町に戻ったのは昼過ぎだった。ホームから階段を下りてきたとき、改札口で手を振る杏の姿が見えた。
「ぴったりだったわ。今来たところよ」
ホテルをチェックアウトしてから町までかかる時間プラス、「おねえちゃんの行動ののろさ」を算出して、迎えに来たのだと杏は笑った。
杏は自分で車を運転してきていた。椿は新渡戸さんからもらった絵を後部座席に置いたが、走り出してしばらくして、
「あれ、なあに?」
と杏が訊いた。
「新渡戸さんの遺品よ」
椿は答えた。
「椿の絵なの。たぶん、新渡戸さんの義理のお母さまが描いた絵。その人と一緒に新渡戸さんは死んだの」
杏はしばらくその言葉の意味を考えるふうだった。それから、
「おねえちゃん……新渡戸さんのこと、怒ってる?」
と訊いた。
「どうかしら。わからない。ただ、ものすごくさびしいの。あんまりさびしいものだから、自分が怒ってるのかどうかもよくわからないみたい」
それは椿の、正直な気持ちだった。
「それ、なんとなくわかるわ」
杏は言った。
「──でも、おねえちゃんにはあたしがいるわ。迅ちゃんも。サブレも」
杏はずっと前を見たまま喋っていたから、どんな表情をしているのか椿にはわからなかった。ありがとう、と椿は小さく呟いた。
気がつくと、車は山道に入ろうとしていた。ちょっと寄り道したいの、と杏は言う。そうして、車が停まったのは、沢のほとりだった。両親の車が落ちた沢だ。
杏が降りたので、椿も続いた。雪のせいで辺りの景色は幻想的に様変わりしていた。沢を見下ろす木々の枝にはガラスのかけらのような雪の粒がびっしりと張りつき、水辺の丸い石の一つ一つが厚く雪をかぶって、大きな白い茸みたいに見える。
雪の上をざくざくと歩きだした杏は、椿が雪道用ではないブーツを履いていることに気づいて、またざくざくと戻ってきた。
「小さい頃ここに来ると、いつも雪を食べてたんだよね。お菓子みたいに見えるから」
覚えてるわ、と椿は言った。
「それで、甘くもないし冷たいからあなたは泣くの。何度でも食べて泣くのよね。お父さんもお母さんも呆れてたわ」
「必ずどこかに甘い雪があるって信じてたんだもの」
二人は笑った。
「翼くんが辞めちゃうの」
「え?」
椿は、驚いて杏を見た。
「どうして?」
「沖縄に仕事の口があるんだって。でも嘘だと思う。あたしのせいよ。あたしと寝たせい」
「そんな……」
「翼くんは、海よりも深く後悔したのね、きっと」
「あなたは……」
椿はその先を飲み込んだが、杏にはわかったようだった。
「しなかったかも」
と答えて、椿をまっすぐに見た。
椿は胸をつかまれるような思いがしたが、杏はすぐに目を逸らして、少し笑った。
「この場合、後悔しなかったのがまずかったんじゃないかな、翼くんにとっては」
そうじゃない、と椿は思う。そんな理由で、翼はここを離れるのではないだろう。翼はきっと私と迅人とのことに気がついたのだ。そうして、杏がそれを知っていることにも。それなのに杏が迅人を愛するのをやめないことに、絶望したのではないだろうか。
「翼くんが行っちゃうのは、さびしいわ」
そう呟いた杏の声は震えていた。杏は泣いている。それがわかったとたん、椿の目にも信じられない勢いで涙が溢れてきた。ちょうど、杏と迅人がだりや荘に引越してきた日、食堂に座り込んで泣いている杏を見たときのように。
「ごめんなさい」
ほとんど無意識に、椿はそう呟いた。
「あやまらないで」
と杏が言い、椿は、決して口に出してはいけない言葉をとうとう発してしまったことに気がついた。
送別会みたいなことはどうかやらないでください、と翼は希望したそうだ。
それで、三月のはじめのその夜、客が全員自室に引き上げたあとみんなで囲んだ夜食が、最後の食事に──結局は送別会みたいなものに──なった。
普段同様、残り物や残り物を仕立て直した賄《まかな》い料理が厨房のテーブルに並んだ。スペシャルといえるのは、客に出した水餃子の皮の残りで杏が作った、中国ふうのおやき(小麦粉にごま油と葱を巻き込んで焼いたもの)だった。母親がよく作っていたもので、以前に一度杏が作って出したとき翼がひどく感激していたことを椿も覚えていた。
丸くのばした種をフライパンにのせるとぷうっと膨らんで、皮がパイのように何層にもわかれるひみつを、この前は内緒にしてたけど、今日は教えてあげる、と杏は言った。それで、はじめはその話ばかりしていた。それから、「沖縄も粉ものは旨いのがいろいろあるんじゃないかな」と迅人が言い出して、「おいしいお料理を覚えたら教えて」と杏が言い、「せっかく仲よくなったのに、さびしいわね」と椿も言い、「手紙を書きますよ」と翼が言った。一同は、ようやくしんみりするふうだったけれど、それでもどうしようもないぎこちなさは、終始そこにあった。翼がだりや荘を離れる本当の理由に、たぶん翼自身も含めてみんなが触れまいとして、そのまわりを人工衛星のようにぐるぐる回っているせいだろう、と椿は思った。
ふと翼と目が合った。翼は、礼儀正しく微笑んだけれど、椿には翼の声が聞こえるような気がした。
あなたはまだここにいるつもりですか? と。
「翼は気づいてないよ」
と迅人は言う。
ダウンジャケットを脱ぎ、ホテルに備えつけのハンガーに掛け、椿のコートも受け取って、並べて掛ける。
腕時計を外し、それをサイドテーブルに置くときに、ちらっと時間をたしかめる──いつもの仕種。それから、浴室にお湯を溜めに行くときもあるし、すぐに椿を抱き寄せるときもある。今日は、まっすぐ椿に近づいてきた。
「あいつの性格だったら、もし気づいてたら俺にはっきり訊くよ。そう思わない?」
「そうかもしれないわね」
もしも翼くんが杏と寝ていなければね、と椿は心の中で言う。迅人は椿の髪に顔を埋めながら、セーターの下に手を差し入れた。
「杏は?」
「杏?」
キスしようと近づけてきた顔を、迅人は止める。
「気づいてるはずないだろ? もし気づいてたら──」
少し考え、──たいへんだよ、と迅人は言う。そして笑うが、それはどこか歪んだ笑顔に椿には見える。翼はともかく、杏が二人の関係に気づいている可能性について、たぶん迅人は考えてみること自体を避けているのだろうと椿は思う。
迅人の唇があらためて近づいてきて、椿はもう何も言わずに目を閉じた。そこはスキー場近くに林立するラブホテルの一軒で、今日、誘ったのは迅人だった。指圧に出かける迅人の車に、K村まで買い物に行く椿が同乗するという名目で、一緒にだりや荘を出てきた。
セックスは、慎重に細心にはじまって、とつぜん坂を転がり落ちるように燃え立っていった。一度燃え上がってしまえばコントロールが利かなくなることが二人ともわかっているから、それまでの時間を引き伸ばそうとするのだった。それはいつものことだったが、今日、椿はふとおかしなことを考えた。両親が死んだとき──母が古いタンゴのレコードを選び、父が蓄音機を車に積み、山道を走りながらあちこちで車を停めて景色を眺め、葡萄の蔓を採り、そうしてさらに走り、危険なカーブにさしかかったところで、たぶん母が突然、それこそ葡萄の蔓みたいに父の背中に絡みついて、ハンドルを制御不能にし、車がガードレールを越えて、崖下に転落して大破したとき──母は、こんなふうだったのじゃないのかしら?
ホテルを出るといちばん近いバス停まで送ってもらい、そこで椿は降りた。「一緒に帰ったって大丈夫だよ」と迅人は言ったが、椿は一人でバスで帰ることを譲らなかった。「これからはもう少し用心しましょう」と。
「バスが来るまで待ってようか?」
運転席の窓から首を伸ばして、迅人は言った。
「それじゃ意味がないわ」
椿が笑うと、それもそうだな、と迅人も笑った。
「それじゃ、夕食のとき会おう」
「ええ」
「それまで俺を忘れないでくれよ」
迅人は投げキスをしてみせると、車を出した。パジェロがカーブの向こうに姿を消すまで、椿は見ていた。
椿は自分の狡さを知っていた。だりや荘を出よう、翼のように、杏と迅人の前から立ち去ろうと決意しながら、一方では、そんなことはぜったい無理だ、と確信していたのだ。なぜなら、迅人と離れて自分が生きていけるはずはなかったから。
けれども、結局はこんなふうにしっぺ返しが来るのだ、と思った。椿が離れていかなくても、迅人のほうから離れようとしているではないか。今日それがわかった。迅人はいつもと同じように振る舞おうと努力していたし、やりおおせたつもりでいるのかもしれないが、ホテルへ行く車に乗り込んだときから、椿はいっさいを了解していた。迅人がしたいことがわかるのと同じように、したくないことも、椿にはどうしようもなくわかってしまう。迅人の言葉の端々や、椿に触れる指先や、耳元で次第に荒くなっていく息遣いまでが、それを語っていた。迅人は私を捨てようとしている。──そうじゃない、迅人はもう私を捨てている。
ずっと長い間、椿は自分が見捨てられた人間であると考えてきた。迅人と関係する以前から、関係してからはいっそう──まるで海の真ん中に何かの間違いで生えてしまった一本の草みたいに、よるべなくて、ひとりぼっちだと。けれども結局自分は何もわかってなかったのだと椿は思う。本当のひとりぼっちがどんなものだか、今あらためてわかった。それは今まで思っていたように湿った感じではなくて、乾いた感触だった。乾いていて、軽い。あまりにも軽くて、温度もない。何もない。
ふいに椿は手を伸ばすと、傍らの木の枝に積もった雪をすくい取り、口いっぱいに頬張った。それを少しずつ、苦労して溶かしながら、バス停をあとにし、今来た道を戻っていった。
だりや荘とは逆方向へ向かうこと以外は、何も考えていなかった。でも今日は、この前と違ってサブレを連れていないから、どこまでも行けるだろうと思った。部屋の整理は、昨夜のうちに済ませていた。椿の絵はベッドを見下ろす壁に掛け、「どん」はクローゼットから出して、ベッドの上に座らせた。「さようなら」と「どん」に告げた。「さよなら」と「どん」は答えた。哀しそうな顔で。でも、はっきりと。
ラブホテルが並ぶ場所まで戻り、スキー場へ向かわないとすれば、山へ入っていくしかない。椿はためらわずその道を歩いていった。三十分ほど歩いたところで、後方から車の音がして、クラクションが短く鳴った。
椿は道の端によけた。が、バンは徐行しながら近づいてきて、椿の前に回り込むような形で停まった。窓から男が顔を出して、「おねえさん、乗ってかない?」と言った。スモークガラスで車内は見えなかったが、後部座席から、複数の男の笑い声が聞こえた。
「乗るわ」
と椿は答えた。このまま歩いていくのもこの車に乗るのも、同じことに思えた。
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11
若いカップルが、さっきからずっと病院受付の事務の女性と言い争っている。
まだ十代にも見える二人で、女の子のほうは泣いている。男の子は手にビラの束を持っている。その束をさっき、入り口近くのカウンターの上に置いて帰ろうとして、女事務員に見とがめられたのだ。
「……ですからね、そんなに好き勝手に何でも置いていかれたんじゃ、わけがわからないことになってしまうでしょう」
「だって、いろんなものが置いてあるじゃないですか」
杏が座っているのは会計を待つ人のためのソファーの一つだが、そこは入り口にいちばん近い場所なので、やりとりは鮮明に聞こえてくる。女事務員の声は大きくて意地悪そうで、男の子の声は小さくて頼りない。
「どれも正規の手続きを踏んだ上で置いてあるんですよ」
「それじゃ、その手続きをしてください」
「急に言われたって、だめですよ」
「書類か何か書けばいいんでしょう」
「手続きしたって、置けるものと置けないものがありますから。そんなものを置いていいとなれば、あとからあとから同じようなのが来てしまいますよ。肝心の、患者さんに有益な情報が、わかりにくくなってしまう」
言い負かされてしまったのか、それきり男の子の声は途絶えた。杏はしばらくがまんしていたが、とうとう振り向いて、カウンターのほうを見た。カップルも女事務員ももういない。
頃合いを見計らい、カウンターまで行ってみた。生命保険のパンフレットや、各種健康セミナーの案内や、見舞い客に向けたアレンジメント・フラワーのカタログなどが整然と並んでいる。カップルが持っていたと思われるチラシの束はもちろんどこにもなかった。何を置こうとしていたのだろう。あの女の子は泣いていた。もう少しがんばればよかったのに。
ソファーに戻ろうとしたとき、カウンターに備えつけてあるボールペン立てに、ボールペンのかわりに紙が丸めて突っ込んであるのに気がついた。杏はそれを開いてみた。
灰色に黒いぶちのある、むくむくした猫の写真。「探しています」という大きな文字。
さっきの二人が持っていたのはこれだわ、と杏は思った。立ち去り際にこっそり一枚置いていったのだろう。きっとあの女の子の猫なのだろう。連絡先などと一緒に、猫がいなくなった日も書いてあって、それはもう十日も前だ。あの子が泣いていたのは、女事務員が意地悪なせいじゃなくて、猫が見つからないせいなんだわ。
「杏」
ふいに強い力で肩を掴まれた。迅人だった。
「どこにいるのかと思ったよ。医者が呼んでる」
それだけ言うと早足で病棟のほうへ歩き出した迅人のあとを、杏も無言で追った。ここは町にある唯一の総合病院で、内科病棟のICU(集中治療室)に椿は収容されている。
病院に運ばれたとき椿の体温は三十三度なかったそうだ。朦朧《もうろう》としたまま、温かい輸液を点滴されている椿に、さっき杏は少しの間だけ会わせてもらった。もともと透き通るようだった顔色がさらに透明になって、重しみたいに体のまわりを囲んでいるいくつもの湯たんぽがなければ、今にも浮き上がって空気に溶けてしまいそうだった。
厚い扉がついたICUの前を、けれども迅人は素通りし、廊下の端の小さな部屋に入っていった。古ぼけた机と小さな黒板と数脚の折畳み椅子があるだけの細長い部屋で、医師が二人を待っていた。
「意識は間もなく戻ると思います。低体温症としては軽度のほうですから、母体に関してはさほど心配はありません」
二人に椅子を勧めた医者はそう言うと、反応を待つふうだったが、杏も迅人も黙っていた。やがて迅人がためらいがちに、
「母体?」
と訊いた。医師はちらっと眉をひそめて、ご存じなかったのですか、と言った。
「彼女は妊娠してるんですよ。四ヶ月に入ったところだと思います。今回、胎児がどれほどのダメージを受けたのか、あるいは受けずにすんでいるのかは、もちろんおいおい検査はしますが、時期を待たなければわかりません……」
椿を見つけたのは翼だった。
椿が倒れていた場所を、翼はたまたま通りかかったわけではなかった。翼はその夜、この土地を離れる予定だった。高速道路に乗る前に、軽く腹に収めておこうと、町のファストフード店にいたのだった。
食べはじめたとき、隣のテーブルに若い男の一団がやってきた。男たちが声を低めて囁き合ったり意味あり気に笑い合ったりする気配に、翼は思わず耳をそばだてた。たぶん、ゾクアガリとしての経験から──男たちがしてきたことを察したのだ。「あの女」という言葉が男たちの口から度々出た。「すごい美人だったな」と一人が言い、「でもふつうじゃなかった」と一人が言い、「やばくなかったか?」と一人が言った。「しょうがねえよ、物言わなくなっちまったんだから」と最初の一人が言った。
翼は席を立つと、男たちに近づいた。男たちから話を聞きだすと──どういうふうに聞きだしたのか杏には知る由もないけれど──、すぐに店を出て車を発進させた。
乱暴したわけじゃない、合意の上だったのだと男たちは主張していた。三人の男が交替で椿と寝たが、それだって合意だったのだ、と。車の中で事を終えたあとは、行きたい場所まで送ってやるつもりだったのに、車を降りたがったのも椿だ。山道だし日が暮れてきて危ないと思ったが、説得しようがなかった。なぜならあの女は、突然一言も口を利かなくなってしまったからだ、と男たちは言った。
椿は、男たちが椿を降ろしたと言った、その場所にいた。もっとも翼ははじめ気がつかないままそこを二往復もしてしまった。椿が路上ではなく脇の林の中にいたせいだ。木と木の間で猫みたいに丸くうずくまり、積雪に顔が半分くらい埋まっていた。椿さん、と呼びかけると薄目を開けたが、すぐにまた閉じてしまった。
翼は何よりも先に椿を病院に運んだ。杏と迅人は、そのあとで翼からの連絡を受けたのだった。翼は今、事情を説明しに警察へ行っている。
杏と迅人は、医師の説明を聞き終わると、どちらが誘うでもなく再び階下に降りて、病院の外へ出た。寒かったが建物の中にいると息が詰まりそうだった。隣接する駐車場との境の低い石塀に杏が腰かけると、迅人は自動販売機に向かい、温かいお茶の缶を二つ持って戻ってきた。
二人はしばらく黙って飲んだ。病院の玄関からオレンジ色の派手なジャケットを着た男性が走り出てきて、タクシー乗り場へ行き、停まっていた車の運転手に何かしきりに話しかけているのを、杏はぼんやり眺めた。男性が病院へ取って返し、花模様のガウンを着た女性を乗せた車椅子を押しながら戻ってきたとき、
「知ってた?」
と迅人が訊いた。
「知らない。知ってるわけないわ」
杏は答えた。何だか眠たげな声になった。実際眠いような気がした。眠りたい。迅人ももう何も喋らず、眠ってしまえばいいのに。このまま二人でだりや荘に戻って、サブレも一緒に、三匹の動物の子みたいにくっつきあってぬくぬく眠れればいいのに。
「本人は知ってたのかな」
けれども迅人はそう続けた。知らないと思うわ、と杏は答えた。
「もし知ってたら、あんなむちゃな真似はしないわ」
「そうなのかな。……俺は、女の人の気持ちっていうか、母性本能みたいなものは、よくわからないけど」
「あたしだってわからないけど、でも、お腹に子供がいるってわかったら」
その先を言うべきか杏はためらい、でも結局、
「……おねえちゃんはうれしいと思うわ」
と続けた。
「そうなのかな」
迅人はお茶の缶に目を落としたまま呟く。
あたしたちはいったい何を話してるんだろう、と杏は思った。こんな会話、何の意味もない。
「しかし、驚いたな」
迅人が缶から顔を上げて、奇妙にきっぱりした口調でそう言ったとき、杏は思わず「もう黙って」と叫びそうになった。迅人が何を言おうとしているのかわかったからだ。そんな言葉は聞きたくなかった。
「新渡戸さんは……」
でも、迅人はやっぱりそう言った。
「……彼も、子供がいるのがわかったら、死ななかったかもしれないな」
「父親は新渡戸さんだと思ってるのね」
「おいおい」
迅人は小さく笑う。
「新渡戸さんじゃなかったら、誰だっていうんだ?」
そんな言葉は聞きたくなかった。
でも、そんな言葉を、自分が望んでいたのもたしかだ、と杏は思う。
「おねえちゃんに会ってくるわ」
杏はそう言ったが、迅人は自分も行くとは言わなかった。それはつまり、椿に妊娠を告げる役目が、自分に任されたということなのだ、と杏は思った。
それで、杏は一人で病室に向かった。ナースステーションで許可を得て、ICUの扉を開けた。
医療機器がひしめいているせいで何だか物置みたいに見えるその部屋に、ベッドは二つ入っている。片側のベッドはカーテンに閉ざされたままだが、椿のほうは開放されていて、横たわっている姿が見えた。
点滴の管は延びているが、湯たんぽはもう取りのけられている。電気毛布に半ば埋もれた椿の顔がゆっくり動いた。椿は目を開けていた。
「おねえちゃん。元気?」
杏はにっこり笑って手を振った。椿の目が杏をとらえた。微かに微笑んだようにも見えたが、ただじっと杏を見ている。
「おねえちゃん……?」
杏が近づいても椿は無言だった。杏は、ベッドの傍らの折畳み椅子に座った。
「まだ声が出ないのね。無理ないわ。もう少しで凍え死ぬところだったんだもの」
椿は悲しそうな表情になった。おねえちゃんは凍え死にたかったんだわ、と杏は思う。
「おねえちゃんが戻ってきてくれて、よかった」
それは杏の本当の気持ちだった。けれども、椿の顔を見ることができなかった。杏は毛布の上から、椿の肩を撫でた。華奢な骨格をなぞる自分の丸っこい指の向こうに、椿の顔が見えた。今、横たわっている顔ではない。昨日、窓の向こうに見えた顔だ。
昨日、迅人と椿が一緒に出かけることは知っていた。椿さんをK村の近くまで送っていくよと、迅人が言ったからだ。いってらっしゃいと送りだしたあと、杏はバスルームに行き、しなくてもいい洗濯物の整理をしていた。迅人の車が出ていくときの、エンジンの音を聞くのがいやだったから。
が、サブレの吠える声が聞こえてきたので、食堂へ行ったのだった。サブレは窓に伸び上がって、しきりに吠えていた。「どうしたの?」と窓の外に目をやったとき、椿が見えた。迅人の車に、今しも乗り込むところだったが、ドアに手をかけながら、こちらを見ていた。
今、はっきり認めるなら、杏はどきっとしたのだった。椿が遠くへ──迅人と一緒に行く場所より、もっと遠くへ──行こうとしていることを、あのときたしかに感じた。けれども気づかないふりをした。サブレが騒いでいる原因が、窓と網戸の間でぶんぶんうなっている虻《あぶ》だとわかって、そっちに気を取られたふりをした。「だめよ、サブレ、刺されちゃうわよ」とサブレの首輪を引っぱって、食堂を出た。そうして、以後ずっと、窓の外の椿の顔が頭の中にあったにもかかわらず、そのことを考えるのを避けていたのだ。
もし、椿が本当に凍え死んでいたら──自分の指を見つめながら、杏はとうとうそう考えた。あたしが殺したのと同じだわ。
「おねえちゃん」
おねえちゃんのお腹には赤ん坊がいるのよ、と言おうと思った。それを知れば、椿はもう死にたいなんて思わなくなるだろう。椿は生きようとするだろう。赤ん坊のために。それに、赤ん坊の父親のためにも。
「おねえちゃん……あのね、さっきね、猫を探してる子たちがいたのよ」
けれども杏の口から出たのはそんな言葉だった。杏は、ジーンズのポケットから、さっきとっさに持ってきてしまったチラシを出した。
折り畳んだのを広げて、椿に見せた。
「もうずいぶん前にいなくなったみたい。でも、あきらめきれないのね。高校生くらいのカップル。やさしそうな男の子だった。女の子は、泣いてたわ」
このチラシ、あとで戻しておかなくちゃ、と杏は言った。カウンターの上はだめね、病院の受付の人が意地悪で、見つけたら捨ててしまうもの、どこかうまい場所を考えてこっそり貼っておくわ。
椿もチラシを見て、頷いた。それからは二人黙って、チラシばかり見ていた。
可愛い猫。いなくなった猫。かわいそうな女の子。
どうして迅人がいるんだろう。
その思いはふいに杏を貫いた。
迅人がいない、おねえちゃんとあたしだけの時代に戻れればいいのに。
迅人なんていなければいいのに。
エレベーターに向かう途中で、こちらへ歩いてくる迅人と会った。
「病室に行くの?」
と杏が訊くと「いや」と首を振った。それなら何のためにここまで上ってきたの、と杏は思ったが黙っていた。
「売店で足りないものを買ってくるわ」
何が足りないかもわからないのに、そう言った。迅人は頷き、それから、通り過ぎようとする杏の背中に向かって、
「知らせた?」
と訊いた。
「うん」
杏は嘘を吐《つ》いた。迅人がそれ以上何か言わないうちに、急いでエレベーターに向かった。迅人は椿に会いに行くだろう。そうして結局、妊娠のことは、迅人が告げることになるだろう。
売店は素通りし、再び病院の外に出た。あてもなく駐車場のほうへ歩き出したとき、翼の車が入ってくるのが見えた。
「翼くん!」
車から降りた翼は、すぐに杏に気がついて手を上げた。杏は翼に向かって駆けた。
「事情聴取、終わったの?」
「ええ、なんとか」
翼は笑う。でもまだいろいろ書かなきゃならない書類とかあって、明日も警察に行くんですよ、と言った。
「迷惑かけちゃったね。ごめんね」
「椿さんが無事でよかった」
「そう。本当に。翼くんがいてくれてよかった」
「戻ってきちゃって、カッコ悪いですけどね」
「戻ってきてくれて、うれしいわ」
翼は微笑んだが、それきり言葉を継がなかった。
「……おねえちゃん、もうずいぶんいいのよ。病室に行く?」
いや、と翼は言った。
「椿さんには会いません。ここに来たのは、杏さんに会いたかったから」
翼は手を伸ばして、杏の腕に触れた。少しずつ、まるで生まれてはじめて指を動かす人のように指先に力を入れて、その腕を掴んだ。
「明日警察で用事を済ませたら、俺はあらためてこの土地を出ます。やっぱり、一緒に行きませんか」
思い詰めた子供みたいな必死な目で、じっと自分を見つめている翼を、杏もまっすぐ見返した。「行く」と言おう、と思った。実際、二日前、だりや荘の厨房の隅で翼から同じ目で同じことを言われて断ったあとも、「行く」と言えばよかった、と何度も後悔していたのだ。
「行かない」
でもやっぱりそう答えた。そうしか言えないのが不思議だった。
「やっぱりだめですか」
翼は、ちょっと笑う。
「やっぱりだめ」
杏も笑った。だめだとは思ってたけど、と翼は微笑みを広げて、それから、腕を掴んだ手を滑らせて、杏の手を静かに撫でた。
翼が今度こそ本当に自分の前からいなくなってしまうことが杏にはわかった。おねえちゃんには赤ん坊がいるのよ。せめて翼にそう打ち明けたくなった。椿の妊娠を、自分が知っていること、父親が誰だかも、たぶん知っていることを、翼にも知ってほしいような気がした。が、そのかわりに、
「あたしって、世界一の卑怯者なのかも」
と言った。
「まさか」
翼は心底驚いた顔になる。そして少し考えてから、
「たとえ世界一の卑怯者でも、俺は杏さんが好きだよ」
と言った。怒ったように。けれども決意をこめて。
じゃ、行きます、と翼は言った。車に乗り、いつもだりや荘から買い出しや客の送迎に出かけるときのように、微笑んで、片手を上げた。走り去る車を見送りながら、杏は少しだけ泣いた。
それから病院へ向かって歩きはじめた。無性に迅人に会いたかった。
迅人と一緒に、もう一度椿の顔を見たら、だりや荘に戻ろうと考えた。明日は二組の予約がある。何か料理を仕込んでおかないと。おいしいスープを作ろう。椿にも飲ませてあげられるようなものを。
単行本 二〇〇四年七月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十九年八月十日刊