五王戦国志3 埋伏篇
井上祐美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)義京《ぎきょう》の乱
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)王|魚支吾《ぎょしご》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あれ[#「あれ」に傍点]
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〈カバー〉
義京《ぎきょう》の乱と〈魁《かい》〉王朝の滅亡から三年強大な国力を誇る〈征《せい》〉王|魚支吾《ぎょしご》は中原の覇権を手中に収めたかにみえた
だが、封土を失い亡命の日々を無為に過ごす段大牙《だんたいが》と淑夜《しゅくや》の許に〈衛《えい》〉王|耿無影《こうむえい》から連衡の誘いが
そして赫羅旋《かくらせん》が居を定めた西方にも公位継承をめぐる激動の嵐
戦《いくさ》の予兆をはらんだ中原の風は宿命の対決へと漢《おとこ》たちをかりたてる
COMMENT
井上祐美子 Yumiko Inoue
崩壊の後は再建の物語が始まります。力をさらに拡張する者、全てを失った処から歩きだす者、それぞれのスタンスも展開も地味ですが、今は将来に向けての埋伏――つまり伏兵、準備をしている時期です。仕掛けがどう動き出すことか、お楽しみに。
PROFILE
1958年11月生まれ。兵庫県姫路市出身。中国の歴史を素材にしたヒロイック・ファンタジーで独自の世界を切りひらく。
主著に「五王戦国志1〜3」(小社刊)「長安異神伝1〜7」「桃花源奇譚1〜2」(トクマ・ノベルズ)「女将軍伝」(フェミナノベルズ)などがある。
カバーイラスト/小林智美
カバーデザイン/森 木の実(12 to 12)
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五王戦国志3 埋伏篇
[#地から1字上げ]井上祐美子
[#地から1字上げ]中央公論社
[#地から1字上げ]C★NOVELS Fantasia
[#地から1字上げ]挿画 小林智美
目  次
第一章 野火
第二章 西方の風
第三章 交錯
第四章 星霜
あとがき
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主な登場人物
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耿淑夜《こうしゅくや》
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一族の仇である堂兄・無影の暗殺に失敗し逃亡中、羅旋にひろわれ〈奎《けい》〉軍に加わる。謀士として〈衛《えい》〉〈征《せい》〉に対するが、義京の乱後、羅旋と袂をわかち大牙とともに〈容《よう》〉に亡命。
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段大牙《だんたいが》
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小国〈奎〉の嗣子。闊達果断な武人。〈征〉〈衛〉の野望に対し、〈魁〉王朝の秩序を護ろうと兵を挙げたが、王都義京で太宰子懐《たいさいしかい》が謀叛、〈魁〉王を弑逆したため敗走。父|之弦《しげん》と兄|士羽《しう》、そして封国を失った。〈容〉に亡命して〈奎〉の再興を志す。
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冀小狛《きしょうはく》
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〈奎〉の老将軍。義京の乱後も大牙に仕え〈容〉に亡命。剛毅にして実直。謀士淑夜を快く思っていない。
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夏子明《かしめい》
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小国〈容〉の伯。血縁から大牙らの亡命を受け入れたが、これを利用して諸小国の盟主となることを目論む。
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赫羅旋《かくらせん》
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西方の戎《じゅう》族出身の遊侠。元〈魁〉の戎華将軍・赫延射《かくえんや》の子。豪放磊落で胆力に優れる。侠の集団を率いて〈奎〉軍に加わったが、義京の乱後、西方の〈琅《ろう》〉に居を定めた。
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壮棄才《そうきさい》
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羅旋配下の謀士役。有能だが、無口で、無表情。
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莫窮奇《ばくきゅうき》
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通称・五叟先生。仙術を能《よ》くし学識に秀でているが、一面、傲慢で気まま。羅旋と行動をともにする。
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藺揺珠《りんようしゅ》
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嬰児のころに〈魁〉の王太孫の妃となるが、死別。〈琅《ろう》〉公孟琥の実妹で、〈魁〉王の姪の娘。義京の乱後、〈琅《ろう》〉に暮らす。
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藺孟琥《りんもうこ》
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西方の辺境国〈琅《ろう》〉の公。聡明だが瀕死の病床にある。
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藺如白《りんじょはく》
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孟琥の伯父で〈琅《ろう》〉の公位継承を仲児と争う。羅旋を信頼して〈琅《ろう》〉公の身辺警護を依頼する。
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藺仲児《りんちゅうじ》
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如白の異母弟。〈琅《ろう》〉の公位に執念を燃やす。
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耿無影《こうむえい》
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淑夜の堂兄。主君を弑逆して〈衛〉の公位を簒奪した。性、狷介だが、怜悧な手腕で〈征〉に次ぐ南方の大国〈衛〉を能く治め、中原の覇権に野心を燃やす。義京の乱後王を名乗る。
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|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》
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無影・淑夜の幼なじみで、〈衛〉一の美女。無影の後宮で過ごすが、堅く心を閉ざしている。
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|百 来《ひゃくらい》
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〈衛〉の老将軍。無影の才を評価、軍事面で信頼を得る。
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尤暁華《ゆうぎょうか》
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〈魁〉の王都義京の富商・尤家の女当主。大国を相手に商売をとりしきる一方、羅旋らを背後から援助したが、義京の乱後、〈衛〉に拠点を移した。
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|野 狗《やく》
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羅旋を頭取と仰ぐ侠たちの一人で、夜盗を生業とする。義京の乱後、暁華のもとで無影の密使を務める。
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魚支吾《ぎょしご》
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東方の大国〈征〉の主。壮年の美丈夫で辣腕の戦略家。中原の覇権に執念を燃やし、〈魁〉王朝の滅亡を仕掛けた。義京の乱後、〈魁〉と〈奎〉を版図に収め、王を名乗る。
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漆離伯要《しつりはくよう》
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礼学を修めた〈征〉の謀士。才気に溢れ魚支吾の信任が厚い。
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五王戦国志3 埋伏篇
〈魁《かい》〉滅亡の後、王の称号を僭称したのは、まず〈征《せい》〉の魚支吾《ぎょしご》だった。ついで、〈衛《えい》〉の耿無影《こうむえい》が公から王へと呼称を変えた。だが実質、彼らの版図は以前のままであり、中原全体を支配するだけの力は、どの国も持っていなかった。
中原諸国のうち、最大の力を持っていたのは、東海に面した〈征〉であった。領地が広いだけでなく、周辺の小国に及ぼす影響にもまた、強いものがあった。その勢力と、夏《か》氏の王家の落胤《らくいん》という噂を背景に王号をひきつぐ旨を表明はしたが、しかし他国の国主の動向に干渉できるほど、絶大な影響力、支配力を手中にしていたわけではない。〈衛〉が王国へと代わることを、阻止できなかったのがその証拠でもあった。
〈衛〉の耿無影は、一介の学者から公にまで成り上がった漢《おとこ》ではあったが、最初から王位に就《つ》くことを考えていたわけではない。だが、〈征〉の魚支吾に対抗する形で王号を称した瞬間から、中原の再統一を志す者となったのである。農業の発達した中原の南方をおさえ、さらに南方の荊蕃《けいばん》からの物産も加えて豊かな〈衛〉は、耿無影という犀利な支配者を迎えて、急速に力をつけていた。
中原の統一は当初、〈衛〉か〈征〉の支配者の手に因《よ》って成るものと考えられていた。
一方、北方には〈魁〉王家の支族の国々がひとつの勢力圏を形成していた。彼らはまぎれもなく〈魁〉王の夏氏の一族であり、自らを〈魁〉の後継者とも見做《みな》していた。ただ、国力が劣る上、国家間の意思統一がとれず、〈征〉に圧迫される一方であった。
ちなみに、〈容《よう》〉伯を筆頭とする彼らは、最後まで王号を用いていない。滅亡した宗家に対する遠慮もあったのだろうが、一族内で互いに疑心暗鬼に陥っていたという方が正しいようだ。
東の〈征〉、南の〈衛〉、北の夏氏諸国。これが、〈魁〉滅亡から三年後の中原の勢力図だった。義京《ぎきょう》の乱以後、三年の間、大規模な戦が起きなかったのは、ひとつには三国ともに他の二者を呑むほどの軍事力を持たなかったこと、ひとつには三者が三者とも、他の三者を利用して、無傷でいようとたくらんでいた為である。
だが、その均衡がいずれ破れることは、だれの目にも明らかだった。
そして――。
中原の三勢力とは別に、西方に擡頭《たいとう》しつつあったのが〈琅《ろう》〉である。当初、新興国であり、国情は整備も安定もしておらず、中原の覇権争いとは無縁と思われていたのだが――国内の安定とともに、急激に力をつけていくこととなる。だが、未《いま》だ〈琅〉の時代ではない。
五王のうち、〈魁〉の衷王《ちゅうおう》の時代が足早に去った後、〈征〉王と〈衛〉王の時代が、早春とともに始まろうとしていた。
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第一章――――――――野火
(一)
その一行は、轟音と水煙を巻き上げる河の北辺を進んでいた。他には動くものもなく、土の黄色と解け残りの雪の白以外は、地平のかぎりまで色のない寂しい風景だった。
この河は、はるか下流でこの大地――〈坤《こん》〉で一番の大河、瑶河《ようが》になだれこんでいる。そして〈坤〉は、瑶河とその支流が氾濫《はんらん》をくりかえしては運んできた、綿埃《わたぼこり》のような細かな土で形成されていた。もろく、水に弱くわずかな風に舞い上がる土だが、肥沃《ひよく》で豊かな収穫を与える土地なのである。あいにくこのあたりは河の屈曲点に当り、地形的にいって人の住める所ではないが、河沿いの道は、北方の小国〈容《よう》〉の都に至る交通の要所でもあった。
遠目には、蟻の歩みのように見える行列だったが、おそらくは〈容〉を目指して全速力で進んでいるのだろう。もうもうと舞い上がる黄色い土煙が、一行の速度と車馬の数や規模、そして進む方角とをはっきりと示していた。
――土煙の高さを確認しながら、その男は口もとだけをさかんに動かしていた。対岸の、しかも皿を斜めに積み重ねたような段丘の上にいるために、逆に相手から姿を見られる心配はない。にもかかわらず、彼は崩れやすい崖の突端に腹這いになり、息までこらして対岸の一行がのろのろと移動していくのを、じっと見守っていた。
貧相な男だった。正確な背丈はわからないが、顔や肩幅から察して人並み以下だろう。年齢も不詳だが、頭の頂点が平らで顎が張ったという異相は、一度見たら忘れられないだろう。角ばった輪郭の中の造作には、眼光こそ鋭いが、どこか狡《ずる》い小動物のような翳《かげ》もあった。
「――二百五十、六十。三百人、といったところか」
口の中でつぶやき、男はようやく半身を起こした。
「〈奎《けい》〉伯としては少ない手勢というべきか、亡国の公子としては、よく頭数をそろえたというべきか。三年経っても、段大牙《だんたいが》は健在なようだな」
嘲笑の色彩が、わずかに声に混じった。が、
「――それとも、あいつの手柄かなこれは。どちらにしろ、苦労しているようだぜ」
ぽつりと付け加えたせりふには、苦笑まじりの同情がこもっていた。
「さて、行くか」
用心深く、そろそろとそのまま後ずさりした。最後にちらり投げかけた視線の先では、やはり土埃が小高い丘の陰に隠れようとしているところだった。
「羅旋《らせん》の頭領なら、こんな時、どう言うかな。風が起きる――か、時代が動くとでも言うか」
口にしてから、自分でも似合わないことに気づいたのだろう。もっと大柄で、炎と血と危険な匂いのする漢《おとこ》に、それはふさわしい言葉だった。
自嘲気味の笑いを鼻先で吹きとばして、小男は身を翻した。つられたように、一陣の風が渦を巻いた。そして、風が熄《や》んだ時には、その茫漠とした風景の中に、動くものは水以外、見あたらなくなっていたのだった。
〈容〉は〈坤〉の中原諸国の中では、北方に位置している。そのため、春の訪れは遅くなる。姑洗《こせん》(三月)の初旬といえば、南方の〈衛《えい》〉国あたりなら花の盛りも一段落して、新緑の季節を迎えるころだが、〈容〉の国都ではようやく梅の蕾がほころんだ程度だった。
寒風というほどではないが、木の枝を渡る風は冷たく、どこか埃っぽい。
「――淑夜《しゅくや》さま」
名を呼ばれて、梅の枝をみあげていた若者はゆっくりと振り向いた。見なくとも少し舌たらずな声の主はわかっていたが、わざわざ彼は身体ごと向き直り、慎重な仕草で片膝をついて駆け寄ってくるのを迎えた。
長身というほどではないが、痩せている分、上背があるように見える若者である。男にしては繊細、物腰の穏やかな文弱の徒といった印象で、身にまとった学者の黒い寛衣《かんい》がいかにも似つかわしい若者だった。容貌はよく整ってはいるが、とりたてて人目をひくほどではない――少なくとも、よほど鋭い眼光の持ち主でなければ、若者の内におし隠した鋭気を認めることはできなかっただろう。
桑畑《くわばたけ》の中に、何故か一本だけ混じるこの梅の木をめざして駆けて来るのは、六、七歳ほどの童女だった。
「淑夜さま、叔父上さまがお戻りになったそうでございます。お迎えに参りましょうよ」
まだ回らない口で大人じみた言葉をあやつってみせたが、淑夜に飛びついて首に腕を回す仕草は、確かに幼女のものだ。
いったん童女を抱きあげかけた淑夜は、しかし、すぐにていねいに腕をほどいた。
「承知しました。でも、少し待ってください。杖を取って来ますから――」
腰ほどの背丈の童女にむかって、彼は丁重な口をきいた。だが、
「いやです。今すぐに、参りたいのです。超光《ちょうこう》に乗せて」
「姫君が、馬などに乗るものではありませんよ」
「淑夜は乗っているではないの」
「私、ひとりですよ。あんなものに乗るのは。私は走れないし、車にも乗れないですから――」
「私も乗りたいの」
若者は、嘆息して譲歩した。
「超光はだめです。他の馬なら」
「いや。あの騅《あしげ》が良いの。他の馬は不格好だし、遅いのだもの」
眼もとの線の美しい、生《お》い先の期待できる美少女だが、ふだんから甘やかされているらしい。豊かな黒髪を振って、容赦のない口調で妥協を拒否した。淑夜はといえば、困ったような微笑をうかべたのみである。
「わかりました。超光には乗せてさしあげます。ですが、杖なしで私が外へ出ることが出来ぬことはご存知でしょう、苳児《とうじ》さま」
「ならば、わたくしひとりで参ります」
「なりません」
と、今度は、淑夜が譲らなかった。
「〈奎《けい》〉の姫君ともあろう方が、供《とも》をひとりも連れずに邸外へ出るなど、なりません。何度申しあげたらわかります」
「でも、わたくしは叔父上さまをお迎えに行きたいのです。すぐに、行きたいの」
「だから、杖をとってくると――」
「いや」
孩子《こども》の機嫌は、春先の天よりも気紛れである。愛らしい顔が思いきりゆがんだと思うと、たちまち雨がふりはじめた。
「苳児さま、ならば、杖の代わりになるものを――」
困り果てた淑夜が、周囲を見回した時だ。
「これが、必要か」
声が、まだ芽吹かない桑の枝の間から飛んできたのだった。
「――叔父上さま!」「大牙《たいが》さま」
長身の青年がゆっくりと、こちらへ歩を進めてくるところだった。髪こそ兜《かぶと》ではなく小冠をつけた平装だが、厚みのある身体にまとっているのは鉄の小札《こざね》を皮紐で連ねた胴甲である。膝下まで届くそれを重たげに鳴らし、一歩を踏み出しながら、青年は左手に持った物を無造作に放った。人の背丈ほどの長さの、木の棒だった。
一直線に風を切ったそれを、淑夜がやはり左手で受けとめたのを見てとると、大牙は鼻の下に蓄えた口髭を歪めてにやりと笑った。
「部屋を見たら、いなかったのでな。こんなところで何をしていた、淑夜」
「花を見ていました」
「――気を読んでいたか」
「そんなところです。それより」
と、若者はさらりと受け流して、
「ご無事のお戻り、祝着に存じます。お役目ご苦労さまでした、大牙さま」
「なに、苦労というほどのことはしていないさ。ひと冬、河を挟《はさ》んで〈征《せい》〉とにらみあってきただけだ」
「それも、ご苦労には違いありませんよ。このとおり」
軽く腰を折って見せる若者に対して、
「他人行儀はよせ」
淑夜をあっさりと見捨てて駆け寄ってきた幼い姪を、片腕で軽々とすくいあげ、大牙はもう一方の手を振った。
「他人ですよ、私は。今回の出征にも同行しませんでしたし、冀小狛《きしょうはく》将軍のように父祖の代から〈奎〉に仕えた者でもありません。あなたの臣下以上でも以下でもありませんよ、段《だん》大牙」
杖を突いて立ち上がった淑夜は、軽く言い返す。その口調には少し皮肉の色が含まれていたが、眼はあきらかに笑っていたから、大牙も視線だけで笑いかえしてみせた。
「――これが、もう十歳も歳嵩《としかさ》だったら、今すぐおまえに嫁がせるのだがな、耿《こう》淑夜。〈奎〉伯、段之弦《だんしげん》の二公子、士羽《しう》の忘れ形見の夫ならば、間違いなく俺の一族だ。誰にも文句は言わせぬものを」
腕の中で土産を要求する童女を揺すりあげて、淑夜に示したが、若者は軽口とうけとった。
「かわいそうですよ。苳児さまは、やっと七歳になったばかり。それに、大事な姪の姫君を政略の道具に使う勇気がおありですか」
杖をさがし回ったわりには、左手に持ったまま頼る気配も見せず、ゆっくりと淑夜は長身の青年のかたわらへ歩み寄った。注意深い者が見れば、彼の身体がわずかに左に揺れるのがわかっただろう。さらに鋭い目なら、一見、柔弱そうに見えるこの若者の手足に、かなりの鍛練が加えられているのがわかったかもしれない。大牙の両眼がわずかに眇《すが》められたが、その視線はすぐにあどけない姪の方へ戻された。
「勇気がないから、気に入った奴にとっとと嫁にやってしまいたいんだ。このまま〈容〉の飼い犬となり、百や二百の手勢だけで国境の戦に放りだされる状態が長く続けば、利用できるものは全て利用したくなってしまう。そうなる前に――」
「大牙さま」
大牙の声がわずかに早く、また高くなったのを、淑夜はさりげなく制して油断なく周囲に目を配る。
「心配いらぬ。時と場所はわきまえている。ここなら〈容〉伯の目、他の連中の耳も届かぬはずだ」
この桑畑は、大牙の邸《やしき》と定められたその敷地内にある。外目にはさほど警備が厳重とは思わせていないが、この邸自体が常に何者かの監視下にあることを、彼らは承知していた。ただ、桑の木自体がさほど太いものではないし、葉の茂っていない時期であるから、いくら林を成すほどの本数はあっても人を隠すほどの陰はない。だれかが近付けば、声を聞かれる前にこちらが気づくはずだった。
だが、淑夜は慎重だった。
「過信は禁物です。三年、無事に過ごしてこられたのも、慎重だった故でしょう」
「――三年。三年か」
[#挿絵(img/03_017.png)入る]
腕の中の童女に顔を見せないように背けて、大牙は低くうめいた。わずかに半面が歪んだが、日焼けした精悍な顔はけっして醜くは見えなかった。
「もう三年も経ったのだな。〈魁《かい》〉とともに〈奎〉が滅んでから」
嘆息ですら、この青年をさらにひと回り大きく見せるようだった。
「父上や士羽兄者がみまかられてから。俺が〈容〉に亡命してから、そして――」
「私がお仕えしてから、まだ三年です」
無心に叔父の肩甲を玩具《おもちゃ》にする童女を間にして、まだ二十歳代のふたりは複雑な視線を互いに送り、そして同時に苦笑した。
「――まだ、三年か」
「ええ」
両者だけにわかる会話が、飛びかった。
「亡国の国主は、じっと〈容〉伯の情けにすがっているより他ないわけか」
「身を潜めているのは、あなただけではありませんよ。私も、〈衛〉の刺客から隠れている身です」
「当然だろうな。おまえはまだ〈衛〉公――いや、今は〈衛〉王か、奴を倒す機会を狙っている危険人物だ。首にかかった五城の報奨は、まだ取り下げられていない」
「その話は――」
淑夜は少しうつむいて、かすかに首をふった。大牙の腕の中の童女を気づかって、声を低く落とすが、大牙の方は頓着しない。
「変われば変わるものだな。これが四年前、激情にかられて耿無影《こうむえい》の暗殺を企てて、あと一歩まで迫った刺客か」
「――私も、いろいろと学びましたからね」
淑夜は笑った。多少、苦いものが混じっていたにしろ、三年という歳月がそれを淡いものにしおおせているようだった。
「記憶力にだけは、自信がありますから。そして、まだまだ学ぶことも多くあります。だから――」
「そうだな」
大牙は、皆まで聞かずにうなずいた。
「まだ、三年だ。俺も、まだ二十歳代だ。口やかましい年寄りどもや、今、我が物顔で威張っている奴らがくたばるまで待って、それから事を起こしても遅くはないか、ただな」
腕の中の童女を、軽く揺すりあげて、
「できるなら、苳児が成人するまでに、何とかしたいものだな」
仰いだ天は、ぼうと灰色にかすんでいた。曇天ではないが、晴れているとも言い難い寒々とした空だった。
「主公《との》――!」
空を切り裂くように、大音声が響く。声にふさわしい壮年の大男を先頭に、数人が小走りに駆け寄ってきた。全員、胴甲姿の武人である。彼らも、外から戻ったばかりなのだろう。
「こちらでしたか」
「冀小狛将軍、何事だ」
「何事とは、こちらのせりふで。お戻りになる早々、お姿が見えなくなりましたので、心配いたしました。こんなところで、何を。――淑夜どのと何か、ご相談でも?」
「悪かった。少しでも早く苳児の顔を見たくてな」
大牙はしらりと答え、童女を揺すりあげながら淑夜にくるりと背中を見せた。用事があったのは、苳児のみ、淑夜の存在など目にも入っていないという態度である。
「主屋《おもや》にお戻りを。〈容〉伯の使者が、来ております。国境の様子を、ご報告いただきたいということで――」
「聞きたいのなら、伯自身でこちらへ来い」
「主公!」
「――と言ってやるわけにもいかぬか」
冀将軍の顔色が変わるのを見て、大牙はにやりと人の悪い笑顔を作ってみせた。
「無礼のないようにと言いたいのだろう、わかっている。心配するな」
「くれぐれも。我らが今日、こうしていられるのも、〈容〉伯のおかげなのですからな」
「戦に狩り出されて、冬の間、苳児の側にいてやれなかったのも、夏子明《かしめい》のおかげだ」
「主公、口を慎まれよ!」
くどくどと繰り返す冀将軍の声を聞き流して、大牙はさっさとこの場を去っていく。その後を追おうとして一瞬、冀小狛将軍の探るような視線が淑夜に向かった――が、深々と一礼したままの淑夜の表情は、だれにも見えなかったのである。
――〈坤《こん》〉の大地は、かつて〈魁《かい》〉とよばれる国に統《す》べられていた。統べられるふりをしていた、といってもよい。〈魁〉王として君臨する夏氏は実は何の権力も持たず、〈魁〉の太宰《たいさい》(宰相・大臣)氏と東の大国〈征〉公の魚《ぎょ》氏が、実権と利権を分けあい牽制しあいながら、この国を操っていたのだ。
飾り物の〈魁〉王――夏氏の直系の最後のひとりを『衷王《ちゅうおう》』といった。むろん、これは薨《こう》じた後に贈られた諡号《しごう》で、名を夏長庚《かちょうこう》。三十歳で即位して、在位十六年目の夏、突然、崩御――太宰|子懐《しかい》の手によって弑《しい》され、ここに〈魁〉の王朝は絶えた。
それが、三年前のことである。
詳しい経緯は、今もってあきらかにされていない。いや、全ての真相を知っている者など、いないのではないかと淑夜は思っている。淑夜は当時、動乱の核心に近いところに身を置いていたのだが、事件や戦が各地で同時に起こり、事態の変化についていくことも把握することもできなかった。
とにかく事の展開が急だったのは、元凶の太宰子懐本人が〈魁〉王を弑したものの、その後の手が打てなかった一事でもあきらかだ。結局、夏氏の一族で国境を接する〈奎〉伯の軍に国都・義京《ぎきょう》を囲まれたために、太宰子懐はあえなく落命。〈魁〉は統一する主《あるじ》を失い、一挙に分裂した。
一般には、以前から野心を抱いていた太宰子懐が、王にとってかわろうと企んだのが全ての原因だと言われているが、淑夜の見解は少し異なっている。
太宰子懐の為人《ひととなり》にこそ淑夜は詳しくないが、〈魁〉王、夏長庚には直接に逢い、言葉をかわしたこともある。
それまでの淑夜は、諸侯の上に立ち〈魁〉全国に命令を下すべき至尊の位を、無条件に崇《あが》めていた。だが逢ってみて、位とその人とは別物だと悟った。夏長庚――今は、衷王と諡《おくりな》された人物は、四十歳の半ばですでに老境にあった。政務を放棄し離宮に閉じこもり、宴と舞楽と画業に執着していた痩せた初老の男の、覇気のない眼を、淑夜は今でも忘れることができない。
当時、やっと十八歳の淑夜はおのれの身の始末だけで手いっぱいで、王の孤独や悲哀までは理解できなかったが、哀れむことはできた。彼の目の前にいたのは、他人に利用されるためだけに存在している孤独な老人だと、直感することはできた。
〈魁〉王自身、自分の存在意義は十分に承知しているようだった。生き延びる気力も持ち合わせてはいなかったが、だからといって、太宰子懐の支配を覆そうなどと考える人物ではなかったはずだ。
つまり、太宰子懐が野心家であったとしても、敢えて王を弑してとってかわる必要などなかったのだ。「王」の称号こそなかったが、少なくとも義京に於ける実権は太宰子懐が把握していたのだ。それが、ろくな態勢も整わないうちにあわただしく謀反を決行し、史書に千載《せんざい》の悪名を記すことになった裏には、〈征〉公、魚支吾《ぎょしご》の意図が働いていた――淑夜は、そうにらんでいる。
淑夜だけではない。現在の彼の主、〈奎〉伯、段大牙もそう主張してはばからない。
〈奎〉伯国は、先にも述べたように夏氏の一族であり、〈魁〉王とは何重もの血縁で結ばれた親族だった。また国都・義京の守備の要、巨鹿関《ころくかん》・百花谷関《ひゃっかこくかん》の二関のうち、東の巨鹿関を委託された――いってみれば、近衛の役割を果たす国だった。――だった、と過去形なのは、〈奎〉という国が〈魁〉と同様、今はこの地上のどこにも存在しないからだ。
当時、〈奎〉は〈征〉公に対して、軍を動かしている最中だった。むろん、〈征〉は公国であり〈奎〉は伯国、形式上も実際にも〈征〉の方がはるかに大国であり、兵力ひとつをとっても到底勝てる相手ではなかった。それを〈奎〉伯・段之弦《だんしげん》が敢えて討つ決心をしたのは、〈征〉公が自国の周辺の小国を武力で併合する動きを見せた為だ。
それでなくとも、実質的に〈魁〉王を操るもうひとつの勢力として太宰子懐と手を結ぶ〈征〉に、それ以上の力を持たせるのは危険だ。そう判断した老伯は、夏氏に連なる伯国、〈容《よう》〉〈胥《しょ》〉〈乾《けん》〉〈貂《ちょう》〉の四国を語らい、出兵に踏み切った。
だが――。
「俺たちは釣り出されたのだ。魚支吾にな」
のちに、吐き出すように大牙が言った。
結果として、がら空きになった義京での太宰子懐の反乱に、背後を衝《つ》かれる形となったためだ。
それでも、国境の東端である巨鹿関まで出ていた大牙、さらに軍に従ってそれより東へ先行していた淑夜は、日に夜を次いでとってかえし、義京を急襲。〈魁〉王の仇を討つことには成功した。だが――そこまでだった。後を追って巨鹿関へ雪崩《なだ》れこんでくる〈征〉軍と戦う余力は、残っていなかった。
混乱の中で、以前から病身だった老伯・段之弦が没している。その少し前に義京の乱に巻き込まれて、大牙の兄、段士羽も亡くなっている。ひとり残された大牙は国を放棄し、わずかな手勢を率いて巨鹿関とは逆の、西の百花谷関から逃走するしかなかった。
大牙は一時、西の辺境の〈琅《ろう》〉国に身を寄せ、世間が落ち着くのを待って、〈容〉伯国へ亡命した。淑夜もそれに同行して、現在に至っているのだが――。
「〈奎〉軍が巨鹿関の外へ出てくるのを見て、子懐めに騒動を起こさせたにちがいない」
大牙と淑夜は、のちにそう推測した。
仕掛けは、たやすかったはずだ。野心家で欲が深く疑い深い小心者のくせに、驕りやすく目先の欲につられる奴だった――とは、大牙の評である。何を使嗾《しそう》されたかは当人に聞くより他ないが、反逆は子懐自身の意志ではなく、多分に追い詰められた節がある。
「子懐が成功すれば、〈魁〉を滅ぼし〈奎〉を挟撃できる。あとに残った子懐をひねり潰《つぶ》すことなど、魚支吾にとってはたやすいことだったはずだ。楽々と、義京をわが物にできるという計算だ」
たとえ子懐の反逆が失敗したとしても、太宰家という邪魔者だけは確実に、しかもわが手を汚さずに消すことができる。万一、〈魁〉王家が存続し得たとしても、それより後の実権は〈征〉一国のものとなるではないか。
根拠はない。だが、
「――結果を見ろ。得をしたのは、魚支吾ばかりだ」
たしかに、現在の状況を一面から見れば、その言葉は正しい。
義京を制した〈征〉公は、その日のうちにみずからを王であると宣した。むろん、他の諸侯の承認があったわけではないが、異議を唱えられるほどに力のある者も存在しなかった。また、巨鹿関から百花谷関までの間、かつての〈魁〉と〈奎〉の領土をもわが物とした。〈征〉の国都自体は、元の臨城《りんじょう》から動かしていないが、現在、巨鹿関を東へ出た長泉《ちょうせん》という地に、新たに城邑《じょうゆう》を建設しようとしている。――つまり、一連の動乱をくぐりぬけ、すくなからぬ兵を動員してなお、国力を余しているということだ。
他の諸侯は、一度の出兵だけでろくな戦もしなかったのに、むこう数年は身動きがとれないほど疲弊しきっている。伯国の中では力のあった〈容〉でさえ国内の整備にかまけ、自国の国境を守るのがせいいっぱいである。それでも〈容〉〈貂〉〈乾〉の三伯国と、周辺の小国はまだ、互いに距離が近く、また〈征〉とは〈容〉が国境を接しているだけという分、条件はましだった。夏氏の伯国のひとつ、〈胥〉は〈征〉の東方に位置しており、夏氏の力が弱まった現在、〈征〉に完全に圧迫されて、事実上、属国に近い立場に置かれている。
この状態では、もう一度盟約を結んで〈征〉に抗し得る者はない。夏氏の支配と保護を失った国々は、それぞれが〈征〉公に倣《なら》って勝手に王を僭称《せんしょう》し、小国同士で牽制しあっている。その中でも目先のきく者は、王を名乗っておきながら、一方で〈征〉王に使者を送り臣下の礼をとっているというていたらくなのである。
動乱の季節が遠く去った現在、〈坤〉の地はかろうじて一種の小康を得ていたが、あやうい均衡の上に成り立ったものであることは一目瞭然だった。その中で、〈征〉一国だけが力を蓄え、さらに勢力をじわじわと伸ばしている状態なのである。
「このまま、手をこまねいていたら、中原は魚支吾のものになってしまうぞ。何とか、食い止めることはできぬのか」
と、大牙は切歯扼腕《せっしやくわん》して悔しがるが、亡命中の身では、手の下しようがない。満足な兵も軍資金も、彼の手元にはないのである。また、〈征〉に正面きって敵対しないからといって、亡命先の〈容〉伯を責めるわけにもいかない。
そもそも〈征〉に正面きって喧嘩を売った大牙を受け入れ、保護を与えただけでも、〈容〉は十分な危険を冒しているのである。〈征〉の魚支吾がその気になればいつでも引き渡しを求められるのだ。それを拒否した場合、〈容〉が攻められることは必定。そして、現在の彼我の国力を比べれば、敗北は火を見るより明らかだ。
その危険な火種を、同じ夏氏の一族、遠い血縁という理由だけで迎えいれ、邸を用意しただけではない。大牙に従ってきた〈奎〉の武人たちをも、養ってくれている。〈容〉伯としては最大限の厚意を、亡国の公子に与えてくれているわけで、それ以上のことは期待できなかった。
もっとも、〈容〉伯も利害をまったく考えなかったというわけではない。段大牙は、若年ながら武人としてすでに名の通った存在であったし、その配下たちも勇猛果敢という定評があった。保護とひきかえに彼らを自国の将として働かせることが出来れば、〈容〉の戦力も上がる道理である。また、実質的に〈魁〉王の仇を討った大牙を擁すれば、他の夏氏の国、〈胥〉〈貂〉〈乾〉に対して優位に立つことができる。
――〈奎〉伯家は、先代の時代から〈征〉の勢力伸張を警戒し、阻むために工作を続けていた。夏氏の伯国をまとめて〈征〉に宣戦布告させたのは先代の〈奎〉伯であった。また、結果、老伯が亡くなり封土を失ったことで、〈奎〉伯の名には、悲劇的なものがつきまとうようになった。彼自身の力量とは別にして、大牙という存在は、夏氏の国々を心情的に糾合する力を十分に持っているといえた。
現在、封国を持たない大牙は、かえって利用するのに好都合だ。彼を夏氏の象徴として、諸国を統合することも、事と次第によっては可能なのである。そして、それがどれだけ己《おのれ》にとって危険な事態か、〈征〉王、魚支吾が気づかないはずがない。己の野望の前に立ちふさがる可能性を持つ者からは、魚支吾は決して注意を逸らすまい。逸らした時は、すなわち己が滅びる時だからだ。
(そして、もう一国――)
おそらく、大牙の動静から目を離さない国があるはずだ。
〈衛《えい》〉という。
瑶河《ようが》の南方にある国である。かつては、公国だったが、魚支吾の僭称に続いて即座に王位を主張した。その国主――現在の〈衛〉王の名を、耿熾《こうし》、字《あざな》を無影《むえい》という。
若い――まだ二十歳台の半ばの彼は、四年前、上卿の身から前国主・偃《えん》氏を弑《しい》し、成り上がった漢だった。
非情な手段で一国の主の座を手に入れただけに冷徹だが、また鋭利な知性を持った人物だという定評のある人物である。事実、力ずくで国を奪いはしたが、その後の国内をぴたりと治めて混乱ひとつ起こさせなかった。
彼が国主になってから一年たらずの間に、三度、大きな軍事行動が起きている。一度など〈奎〉を相手に手ひどい敗北さえ喫していながら、なお国力を維持し、三年の時を経て現在、〈征〉に次ぐ大国の立場を確保しているのは、上に立つ者の力量に負うところが大きい。
その耿無影が、〈奎〉伯・段大牙に注目していないはずがなかった。彼が、中原の南方のみの王で満足するつもりならばともかく、さらに上の野望を抱いているのなら、大牙の存在は利用できる手駒のひとつになるはずだからだ。
そして――。
耿無影の野心の有無を疑わない人間がひとり存在していた――耿淑夜にとって無影は、かつては兄以上の存在であり、今となっては唯一の血縁者であり――そして不倶戴天の仇敵だったからだ。
その事実を思い出すと、淑夜は今でも、頭の芯がかっと熱くなるのを覚える。
従兄弟《いとこ》以上に血は離れていたが、同じ耿氏の一族の同世代には違いなかった。傍流に生まれたために才能をもてあましていた無影と、宗家の庶子の淑夜とは、兄弟以上に気が合っていたのだ。だが――淑夜が勉学のために〈衛〉を離れていたその間に、その悲劇は起こった。無影はまず、己の一族に冤罪《えんざい》をきせて葬り去ることで、国主に接近を図ったのだ。次いで、彼が〈衛〉公になったと聞いた時、淑夜の手の中に剣が握られていた。
「耿無影、覚悟!」
地上にただふたりきりとなった血縁、兄とも盟友とも信じた漢の頭上に剣をふりかざした時の感覚を、淑夜は一生忘れられない。
暗殺は失敗し、無影の左頬には刀創《とうそう》が残ったという。一方、淑夜は逃亡の途次《とじ》に負傷し、生死の境をさまよった。まったくの偶然――今でも天命としか思えない邂逅《かいこう》によって生命は取り止めたが、淑夜の左足は二度と走れるようにならなかった。
それから――。
現在に至るまでの経緯と事情を思いかえすと、淑夜は自分でも唖然となってしまう。それほど慌ただしく、彼は〈奎〉伯の知遇を得、大牙と行動をともにするようになってしまった。ただし、大牙を自ら主に選んだのは、〈魁〉と〈奎〉が滅んだ後である。――大牙なら、無影の野心の前に立ちふさがれる。たとえ、今はすべてを失っていてもかならず巻き返せる力と才能を持った人物、そして、己の能力を賭けてみる価値のある漢だと、淑夜は思ったのだ。
淑夜の首に無影がかけた五城の報奨は、四年|経《へ》た今も、とり下げられていない。無影が淑夜の生存を知っているか否かは、今の彼には何とも言えないが、無影の憎悪が自分の上から去っていないことだけはわかる。淑夜もまた、無影への復仇心は消してはいない。
だが、四年の歳月は、多少なりとも人を変えるものだ。まだ血が逆流することはあっても、それを表面に出さない術を淑夜は覚えた。直接、その手で無影を殺すのではなく、彼の意図を挫くことが報復の代わりになるのではと考えるようになった。そして――。
(知りたい)
と、思うようになった。
無影が、己の一族を犠牲にし弑逆《しいぎゃく》という最大の悪名をかぶったその理由を、これから何を為そうとしているのか、その目的を。
事の当初から、疑問は抱いていた。ただ、記憶が生々しい内は憎悪が先に立ち、無影の行動を否定することしかできなかった。〈魁〉が滅ぶまでの間は、生き延びるだけでせいいっぱいだった。不自由な左足をひきずりながら、血と炎が満ちた実戦をくぐりぬけなければならなかったのだ。
だが懸命の敗走を経て生き残り、こうして〈容〉で、表面上とはいえ平穏な時間を得てみると、無影の「理由」と「目的」が淑夜にとって問題となってきた。
淑夜自身、この先を生きていくために、理由と目的が必要となったからだ。
もともと、淑夜は激情家でも行動派でもない。〈衛〉にいた頃は、部屋の隅で本ばかり読んでいるおとなしい一方の少年だったし、今でも基本的には争い事は好まない。この先、あれほどに激しい衝動に突き上げられることは、二度とないだろうとも思っている。
それだけに、深夜、ふと目が醒めた時など、眠れなくなるのである。
(無影は、中原の王になろうとしている)
〈魁〉が滅んだ後、再び〈坤〉の大地を統一してその上に君臨しようと思っているのには間違いない。だが――。
(何のために)
そこからがわからなくなるのだ。支配欲、征服欲のある人物ではない――少なくとも、淑夜の知っていた無影は違っていた。ただ人の上に立って命令を下していれば満足する漢だとは、淑夜はどうしても思えない。そもそも、それだけの目的ならば〈征〉王、魚支吾と拮抗《きっこう》していくことなど、到底無理だ。むろん魚支吾の野望の行く果てさえ、淑夜の知るところではない。だが、一度だけ言葉をかわした魚支吾の人物の底知れなさだけは、皮膚の感覚として知っていた。
(どうしたら、知ることができる)
その一点につきあたって、さらに淑夜は眠れなくなる。他国に亡命中の人物の臣下、しかも昨日今日仕えたばかりの若輩者に、何ができるのだろう。
それを思うと、焦燥にかられる。他人の目には決して触れさせないように気をとがらせている分、夜、その焦りは深くなる。そして、闇の一点を見つめたまま、夜明けを迎えることも決して少なくなかったのである。
――その夜。
夜半、ふと瞼《まぶた》を開けた淑夜は、これからひとり、闇の中でやり過ごさねばならない長い時間を思い、気を滅入らせた。灯を点《とも》して書物を読んで過ごしたこともあったが、大牙の側近に熱心なことだと皮肉を言われ、以後は謹んでいる。だいいち燃料の魚油は、貴重品ではないが一夜中点すほど潤沢《じゅんたく》でもない。
軽く舌打ちをして、淑夜は上半身を起こした。とたんに、冷気が身体を押しつつんだ。同時に――。
「――誰だ」
かすかな気配だった。音は聞こえなかったし、むろん、何も見えてはいない。だが、動物の体温のような波動が、冷気の中でより鮮明に感じられたのだ。
(苳児さまか)
まず、頭に浮かんだのは童女の姿である。
苳児は夜、無意識のうちに徘徊する癖がある。冬の間、しばらくは徘徊も熄《や》んでいたのだが、叔父の帰館に安心して――ということは十分にあり得ることだった。
――だが。
気配は、もっと大きな物のようだった。
(では――?)
考えるより先に身体が動いた。
木を張った床に、直接、敷いた夜具の、その横に常に添わせてある棒に手が伸びる。わし掴みにすると同時に、まず、力いっぱいにつき出した。そのまま手首をひとひねりさせると、棒の先端が小さな円を描く。さらに二の腕がひねられる。淑夜の頭上で、風が小さく鋭い悲鳴を上げた――。
いちいち動作を数えあげると緩慢なようだが、実は淑夜が目を開けてから棒が風鳴りを立てるまで、呼吸三度分ほどの時間しか経っていない。しかも、狙いもつけられない暗闇の状態で、この行動は的確であり――そして見事に効果があったのである。
「――待った」
同時に、とん、と床が鳴った。飛びすさった音だろう。それにしては異様に音が軽かった。
声は男だった。年齢不詳、高くも低くもなく、声調にも特徴はいっさいなかった。
淑夜は、声に応じなかった。容赦なく声の方向に一撃が飛ぶ。だが、
「頼む、待ってくれ」
今度は、背後から声が聞こえた。
淑夜は、身体をひとひねりすることで、それに応えた。風鳴りと床のきしむ音が同時。
「待たねえか」
口調が伝法になった。その響きに淑夜はふと、ひっかかるものを感じた。が、まだ、身体の方が先に動いた。
この闇の中で、もしも物を見ることができる者がいれば、さっきから淑夜が決して立ち上がろうとしないことに気づいただろう。膝立ちのまま、時には身体全体を床に投げだしながら、全身で棒を操っているのだ。そして――。
「相変わらず、左足は使えんようですな、耿淑夜」
姿のない声は、見えるはずのない事実と、淑夜の名を指摘してのけたのだった。
風鳴りが、ぴたりと熄んだ。
「――誰だ」
再び誰何《すいか》する。その声に、わずかに躊躇《ちゅうちょ》の色が混じった。ようやく闇に慣れた眼に、かすかに物の形がとらえられた。
「おいらですよ。声を聞いてわからねえですか。それとも、すっかり忘れちまったかな――三年前を。こんなところへ忍びこめる奴が、他にいると思いますのかい」
「まさか――」
「おう」
「死んだと思ってましたが」
「なにを、莫迦な」
「野狗《やく》――義京《ぎきょう》の夜盗だった野狗ですか」
「そのとおり」
気のせいか、声が胸を張ったように聞こえた。
(二)
大牙《たいが》に逢いたい、静かに起こしてくれと淑夜《しゅくや》は頼まれた。
「なるたけ、騒動を起こしたくはありませんでね」
と、笑われた。はじめから直接、大牙のところへ行かなかったのは、失敗した場合の騒ぎの大きさを比較、考慮した上だという。
「――うっかり、刺客と間違えられでもして、怪我なんぞしちゃつまらねえから」
「大牙さまは当然だが――私も剣を持っているとは、思わなかったんですか」
「思いませんでしたね」
何を根拠にと抗議しかけて、淑夜は間際で思いとどまった。この闖入者《ちんにゅうしゃ》を、深夜にどうやって、内密に大牙のもとまで案内するかの方が重大問題だったからだ。
刺客の心配はしなかった。本人の言葉を信用したためではない。この男はかつて、義京で一番の腕をもつ夜盗だった。刺客なら、先に淑夜を起こす必要はない。野狗がその気になれば、誰にも知られずに大牙の寝所に忍びこみ、寝首をかいて逃走するぐらいたやすいことを淑夜は知っている。わざわざ淑夜の手を煩《わずら》わしたのは、敵意がないということを淑夜と大牙に示すための段取りだろう。
だが、心配はしなかったが、淑夜は信用もしなかった。野狗は、
「使者として来ましたのさ」
と、彼に告げたが、誰からかはけっして明かさなかったからだ。
「段大牙だけに話します。そういう約束だ」
「私も同席する。でなければ、今、人を呼びます」
「――そうなったら、あんたを人質にとって逃げるまでですけどね」
闇の中でのかけ引きである。苦笑は見えなかったが、息づかいでそれとわかった。
「まあ、いいでしょうよ。そのかわり、絶対、恨まないでくださいよ」
念を押されて淑夜はおもむろにうなずき、ようやく薄く見え始めた影にむかって手招きした。
――それから半刻ほどのちのことである。
厳しい誰何の声に、応える淑夜の姿があった。
「――苳児《とうじ》さまが、また徘徊なさっていたので」
言うとおり、黒衣の若者の腕の中では、布にくるまれた童女が正体もなく眠りこけている。それを確認して、胴甲に剣という武装の衛士は納得した。
「大牙さまのお側の方が安心なさると思い、今夜はこちらへお連れすることにしました」
「いいだろう。通れ」
主屋の入口を守る衛士にしては、尊大な口調だった。淑夜も、腹をたてる素振りもなく、ていねいに一礼して階を上っていく。
「――おい」
淑夜の背後の闇から、押さえた声が床を這う。
「あんたが、こんな手間をかけないと近づけねえんですかい」
不満と不審の入り交じった声である。
「寝所は邸うちで一番端、厩《うまや》の隣、桑畑の農具小屋だし」
桑畑は、蚕を飼うためのものだ。衣類の自給自足は当然のこと、大牙が特に貧しいとか〈容《よう》〉国内で冷遇されている証拠にはならない。だが、農具小屋にひとりで寝泊まりしている淑夜は、この邸内で優遇されているとは言い難い。
「そりゃ、忍びこむのには楽でしたがね。あんた確か、段大牙に直接、謀士《ぼうし》になってくれと頼まれて、ついてったんじゃなかったですかい。なのに、こんなに信用がないんですかい」
「領土は失っても、〈奎《けい》〉には重代《じゅうだい》の宿将《しゅくしょう》が幾人もいるんです。難民も同然の私が、戦功もたてずに、たった三年で〈奎〉伯の一の重臣になれるとでも? なにより――私は他国の国主の血族ですからね」
淑夜の声にも、皮肉が織りこまれたのは致し方ないことだ。
「そりゃあ、まあ……。それにしても、その子はなんです。まさか、あんたの子じゃないでしょう。すると、段大牙の?」
暗い回廊をわずかに左足をひきずりながら歩く淑夜のあとを、声は一定の距離をおいて追ってくるが、姿は相変わらずみあたらない。淑夜はひとつ嘆息すると、
「――士羽《しう》さまの姫君です」
「士羽?」
「義京の乱で亡くなられた、〈奎〉伯の二公子です。忘れたとは言わせませんよ」
とたんに、声と気配が同時に、しんとなった。
――大牙の兄、段士羽は〈魁《かい》〉王の勅書を得るための工作に義京にむかい、そこで乱に巻き込まれて生命を落とした。温和《おんわ》で、年齢の離れた異母弟に嗣子の座をあっさりゆずったほど我欲のない人物だった。そのくせ、妙に物事の先の見える男であり、ある意味での策謀家でもあった。士羽が存命であれば、今ごろ大牙はとっくの昔に〈容〉から離れ、自立していたことだろう。
一方、義京の乱と同時に〈奎〉伯の一族の婦女子は、国都、青城《せいじょう》から山中に避難させられていた。大牙が彼らを迎えとれたのは〈容〉に亡命した後で、その間に心労と生活の困難さから幾人かが儚《はかな》くなっていた。長らく病身だった大牙の長兄の鴻《こう》、士羽の妻と生まれたばかりの息子もその数に入っていた。つまり現在、大牙と、この幼い苳児のふたりのみが段氏の直系の最後なのである。
「――あの、士羽さまの御子ですかい」
野狗の口調が、がらりと変わった。彼もまた、乱の当時、士羽と面識があったはずだ。
「私は今、苳児さまの傅役《もりやく》として、この邸に置いていただいてます」
本来、幼女の傅育《ふいく》の役など、一人前の男子の仕事ではない。むろん、他に段氏ゆかりの婦人が乳母《うば》についているが、苳児自身が若い淑夜になついたこと――そして、徘徊を淑夜が見つけることが多かったことを理由に、役目が回ってきた――有体《ありてい》にいってしまえば、押しつけられたのである。
ちなみに、苳児は義京の乱の当時、四歳。物心がついたばかりの幼心に、翳《かげ》が深く落ちていても不思議ではない。おそらく、深夜の徘徊はその結果なのだろう。
大牙の寝所にたどり着くまでに、もう一度、衛士の誰何をうけたが、苳児の徘徊癖を知る男は淑夜の弁明を疑わなかった。さらに、彼の後に続いているはずの人影には、まったく気づかなかった。
「――淑夜か、何が起きた」
厚い板戸を開いて淑夜が室内に足を踏み入れるのと同時に、灯りが点った。ほっと、灯影の周囲だけが、黄色く浮かびあがる。夜着姿の大牙の、その右手に剣が構えられているのが見てとれた。
瞬間、淑夜は身体を右へひねる。制御のきく右脚一本に体重をかけ、思いきりよく身体を床に投げ出した。一瞬前まで淑夜の姿があった空間を、大牙の大剣が斬り裂いて通った。板戸のすぐ内側の床板が、幾つもの破片となって跳ねあがった。
「――何者だ」
「段大牙さま。お久しゅうございます――と申しあげます。この顔、お覚えでございましょうか」
いつの間に――という形容が、これほどふさわしい状況はなかった。部屋の中央、灯火の黄色い輪の中に、まるで妖術のように男の姿が浮かびあがったのである。ひどく小柄な男だった。ちらりと上げた面がまた、ひどい異相である。角ばった顔に目鼻立ちがちらばっている貧相を、処《ところ》を変えて板戸を背にとっていた大牙もまた、認めた。
「たしか――羅旋《らせん》の手下で動いていた……」
「野狗と申しますです」
大牙の腕が、すぐかたわらの淑夜を引き起こした。その腕の中の童女が目醒めていないのを確認しながら、淑夜の襟がみを押さえこむ。
「淑夜、申し開きをしてみろ」
大牙の警戒心は、まず淑夜に向かった。敵よりも裏切り者の方が恐ろしいのは当然だし、憎悪も勝る。予想をしていたから、淑夜は慌てなかった。
「――話があるから、案内しろと頼まれました」
「それで、苳児を隠れ蓑にしたか」
「ひとつには、この男が単独で来たかどうか確かめるため。さらに、苳児さまを人質に取られないためには、こうして離さないのが一番の良策です。深夜、ここに灯を点して不審を抱かれない口実も必要でしたし」
夜目のきく者を相手に、闇の中で対峙するのは不利だ。たとえ、向こうに殺意がないにしても、だ。
「ふむ――」
行儀悪く鼻を鳴らして、大牙は手を離した。もう一方の手は大剣から離さないまま、顔つきも不機嫌なままだが、淑夜の釈明は受け入れたらしい。
代わって、光の輪の中の野狗が角のある顔を歪めて、苦笑した。
「ひどいですぜ、淑夜。俺を試したんですかい」
「当然の用心でしょう」
ゆっくりと、腕の中のものをかばいながら身を起こす。淑夜が全身でかばったおかげだろう、苳児はすやすやと眠ったままだ。
「あんたの依頼主の名を、私は聞いていない――敢えて、聞かなかったんですから」
「――ということは、羅旋の消息を持ってきたわけではないんだな」
油断なく大剣を構えながら、大牙がつぶやいた。その名が室内の空気を震わせた時、三人それぞれの眼の中に、奇妙な色彩が浮かんで消えた。
「おいらは、もともとひとり立ちで、誰かの家来ってわけじゃありませんからね」
主無しの犬という意味の名を持つ男は、鼻を鳴らして笑った。
「あの頭領とは、二年ぐらい逢ってませんや。今夜は、別口の用事でね」
「聞こう。その前に――」
閉じた板戸の外に、人がうずくまる物音が聞こえた。
「主公《との》、物音が。何か」
「心配ない。淑夜がけつまずいたのだ」
「あの粗忽者《そこつもの》が、また……」
「脚が悪いのだ、勘弁してやれ」
「そうやって主公《との》が庇《かば》われるから、付け上がる――。他所《よそ》者のくせに」
聞こえよがしの悪態と、声にならない不満と怒気が室内まで伝わった。野狗が、顔だけでにやりと笑った。その緊張感のなさに呼応するように、外部の人の気配はすぐに、足音となって遠ざかっていった。
「腕|利《き》きを、衛士に配備なさっておいでですな、〈奎〉伯さま」
「皮肉を言いに来たのなら、この場で斬り殺すぞ。義京の乱の時、宮城の内部深くまで侵入したほどの奴を、この仮住まいでどうやって阻めという」
「ご記憶いただいて光栄至極。一別以来でございます、大牙さま。お変わりないようで」
といって、また笑った視線は、大牙の鼻の下に向かっている。大牙は無意識のうちに髭をしごいて、そっぽを向いた。
「話せ」
「話しますぜ。驚かんでくださいよ」
ぴたりと居ずまいを正すと、身体つきまで四角くなった。
「――〈衛《えい》〉王、耿無影《こうむえい》からの使者として参りました」
空気が凍りついたかと思った。大牙の視線が、大剣よりも鋭く振り向くのを淑夜は見た。ひそかに覚悟はしていたが、息が詰まりそうになった。身体中の血が熱く逆流し、同時に両手が冷たくなる。ただ、腕の中の幼子の温もりだけが、淑夜の意識を支えていた。
「――義京の乱のあと、あちこち、大きな城邑を転々としてましたのさ。稼業《かぎょう》が稼業ですからね、ひと処にはじっと出来ねえし、かといって田舎じゃ稼ぎにならねえ。〈衛〉に行ったのは一年前、去年の春のことで。最初は尤家《ゆうけ》を頼っていったんですがね――尤家のことは、ご記憶で」
「暁華《ぎょうか》どのだろう。忘れるはずがない」
大牙が、憮然とした表情で先を促す。淑夜の方にちらりと視線を走らせたのは、彼と尤家との関わりを思い返していたのにちがいない。淑夜もまたその時、尤家の女当主の顔を思い浮かべていた。
――尤家は、義京で指折りの大商人のひとつだった。いや、今でもおそらく中原で一、二を争う富豪だろう。義京の乱の折りに屋敷を焼失させ、南方の〈衛〉に移ったが、その時点で他国に分散させていた財産がまだ相当にあった。以後、〈衛〉の国都、瀘丘《ろきゅう》を本拠地にして仕事を軌道に乗せ、さらに資産を増やしているとも聞く。だが、その尤家の当主が暁華という婦人――しかも、妙齢の美女だということは、意外に知られていないことだった。
四年前、無影の襲撃に失敗し、逃亡の途中崖から転落して重傷を負った淑夜を谷底から救った漢《おとこ》がいた。赫羅旋《かくらせん》――先ほど、会話に出た人物である。尤家の荷の傭車《ようしゃ》(運搬人)だった彼の世話で、淑夜は尤家に匿《かくま》われ、生き延びることができたのだ。それだけではない。淑夜が〈魁〉王に非公式ながら対面したのも、当時の〈征《せい》〉公と言葉をかわしたのも、〈奎〉伯と引き会わされたのもすべて尤暁華の伝手《つて》によるものだった。――つまり、現在、淑夜が大牙の側に在るのは、羅旋と暁華の存在があっての結果だといえた。
「その暁華さまのところで、しばらくは真面目に働いてたんですがね」
淑夜たちの感慨をよそに、野狗の説明は続いていた。もっとも、この男の真面目というのが、どの程度の仕事なのかはわかったものではない。
「先日、暁華さまに呼ばれまして。連れて行かれた先が――今は〈衛〉王の耿無影の館だ。おいらは以前に一度、使者としてお目通りしたことがあったんですが、いや、すっかり貫禄がついて、立派なもので」
視線は遠慮なしに淑夜へ向かっていたが、彼は応えなかった。もったいをつけるなと、大牙が口の中で毒づいたようだった。
「前は、こう――抜き身の剣のような感じがあったんですがね、それが立派な造りの鞘に収まったって感じで。その分、得体が知れなくなりもしましたがね。――で、そこで、使者の役目を命じられたというわけで」
「能書きはいい。肝心の用件を言え」
大牙が大剣の柄を叩いた。脅したつもりなら、それはあてが外れたことになる。
「――そういえば、大牙さまも、少し耿無影に似てきなさったようだ。いや、姿形がじゃないです。たしかに、似たような髭をたくわえておいでですがね。それより、腹に一物も二物も抱えこんでいなさるところが、ね」
ずけずけといって、無遠慮に笑った。
「この――」
「つまり、おいらの使者のおもむきってのは、そういうことなんで。おっと」
座ったままの姿勢で少し飛び退《すさ》ったのは、大牙が片膝をたてて身構えたからだ。
「大牙さまの腹の内に興味があるんですよ、あちらさんも」
「――俺の腹だと?」
「このまま、〈容〉で一生、飼い殺しにされるおつもりですかい」
大剣が風を斬った。無論、届くはずはない。ただの脅しと見切ったか、今度は野狗は身動きすらしなかった。
「貴様、聞いていたか」
「何の話で? 昼間、ふたりが桑畑で何やらしゃべっておいでだったことですかい」
「――いつから、俺を見張っていた」
「人聞きの悪い。たしかに、〈征〉との国境からのご帰還を待っていましたよ。陣の中じゃ、警戒が厳しすぎるんでね。春になって、国境の河が雪融け水で渡りにくくなったら、引き上げておいでだとわかってましたし」
大牙の眼光が、かすかに変わる。
「とにかく、おいらは指示されたとおり動いてるだけなんでさ。――なら、やる気はおありなんですね」
こんなことに念を押されて、安易に是《ぜ》と答える者は、よほど軽率な人間だ。
「仮に――仮に、そんな気があったとして」
と、答えたのは、淑夜である。
「どうしろと言うんです。国も資産もない。兵も武器もなしに、しかもいったい誰を相手にしろと」
戦をするには、まず兵が必要だ。その兵は普通、封国内の住民の中から一家に何人という割で徴集する。だが、封国を〈征〉に奪われた段大牙には、人を集める基盤がない。また、武器なしにも戦はできない。刀剣、槍、戈《ほこ》、弓矢、戦車とそれを引く馬も要る。糧食《りょうしょく》の準備も必要だが、亡命中の大牙にはそれらを生産させる力はない。どこからか贖《あがな》うにしても、ひきかえにする財産がない。土地さえあれば、米、麦、穀類などで支払うこともできる、鉄や金銀、塩ですら立派な代価になるが――。
「無理な相談です」
すべて土地があったればこその話だ。ない袖は振れない。
「それは、必要なだけ提供しようと」
「――暁華どのか」
「耿無影からも、同様の申し出で」
大牙と淑夜の視線が、瞬間、激しくぶつかった。
「しかし――援助だか高利貸しだか知らんが、担保になるものはなにひとつないぞ。尤家の方はともかく、耿無影に何の得がある」
「それを、おいらに言えと?」
「不満ならば、私が言いましょうか」
今度も淑夜である。
「おそらく、大牙さまが動くこと自体が……彼奴《かやつ》の利益になる。違いますか?」
野狗の目が、二、三度、おもしろそうにまたたいた。
「続けてくださいや」
「……彼奴は、戦を起こす口実が欲しい。戦がなければ、国土を広げることはできませんからね。口実がなければ口実を作るより他にない。そして今、この中原で、小競り合いではない、大きな戦を起こす火種を作れるのは、大牙さまただひとりです」
「かいかぶられたのだと、思うことにする」
「どうしてですかい?」
憮然として言葉を吐きすてる大牙に、野狗が人の悪そうな視線を向けた。
「――〈奎〉伯の動向は、どの国でも注目の的でしたぜ。果たして〈奎〉伯は夏《か》氏を再興する気があるか否か、小国の主にとっちゃこれは大問題だ。今のところ、生き残るためには〈征〉王に付いておくのが最善の方法と、誰もが思ってますがね。一部の奴が、〈衛〉に付こうかどうか迷ってる。危ない賭けだが、当れば儲けは大きいですからね。そして誰もが、夏氏の誰かが〈魁〉を復活させたら、その尻馬に乗ってみようとひそかに思ってる。〈征〉や〈衛〉が相手じゃ、国主だって明日の財産や命の保証がないですから」
前国主弑逆の前科、〈魁〉王をないがしろにしてきた過去がたたっていると、野狗はせせら笑った。
「だが夏氏の中で今、一番、力を保っているのは〈容〉伯だ。子明《しめい》が〈魁〉を再興するということだって、あり得るのだぞ」
「――太宰子懐《たいさいしかい》を討って、〈征〉王の鼻をあかしたのは、〈容〉伯ではありませんでしたね」
野狗は、首をすくめて歯を見せた。
「おまけに、〈容〉伯がそれをどう思っているか、わかったものではないときた。――ま、今夜のうちに答えをいただこうとは思ってませんや。簡単に信用されるはずはない、意向を伝えてくるだけでいいと言われましたからね。確かに、伝えましたぜ、大牙さま」
「――待て」
そそくさと腰を上げる小男を、大牙の声が押し留めた。
「ひとつ――いや、ふたつ聞いておきたい」
「ひとつ目は?」
野狗は、すとんと腰を落とす。
「俺が動いたとして――仮に動いたとしてだ。その鉾先《ほこさき》が〈衛〉に向かったら、奴はどうする気だ」
「おいらがお答えすることじゃありませんね、それは。――ただ、おいら自身の感想を申しあげていいですかね?」
「なんだ」
「どの国が、どう動くかは予測がつきませんがね、たとえば、最後に〈衛〉とどこかの国と二国だけが残ったらどうなります? 相手が誰でも、あの耿無影が、中原を二国で仲良く分けると思いますかい」
「つまり、覚悟はしているというわけか」
「いずれは――と、おいらは見ましたがね。あれは、油断とか抜かりなんぞという言葉と無縁の人間だ。謙遜という言葉ともね。もうひとつは?」
「――淑夜の件だ」
大牙が、ずばりと切り込んだ。だが、淑夜の肩に緊張が走る前に、
「ご存知でしたぜ。〈衛〉王は」
野狗は、実にあっけなく肯定してみせたのだった。
「義京の乱の時に、知れたようですぜ。〈容〉にも諜者は入ってますしね。とにかく、このお人が」
と、淑夜を四角い顎で示して、
「ここで生きてるってことは、知っておいででしたよ。その上で、様子を見てこいといわれましたよ、薄笑いしながらね」
「淑夜が俺の側にいると知った上で――俺と手を結べると思っているのか。だからといって、今さら淑夜は引き渡せぬぞ。俺だとて、一度は〈衛〉を相手に戦った。無影の横っつらを張り倒したことのある人間だ。それでもか――?」
「おいらには、偉い人の思惑はわかりませんがね、大牙さま。目的のためには恨みや好き嫌いや、私情ってのをいっとき他所に預けるってことも出来るんじゃないですかね」
口調に含みをもたせて、淑夜と大牙を一瞬、見比べる。――と、思う間に、その姿は揺れる灯火の輪の中から、かき消えていた。
大牙の手が、つられたように剣の柄を持ち上げたが、中途半端な高さで宙を泳いだ。どちらにしても、遅かった。
「奴め――」
歯ぎしりが、続いた。
「たかが夜盗が、たった三年であんな見識を身につけているとは――見透かされたぞ」
「そのよう、ですね」
その声音のあまりの静寂に、大牙は眼を剥いて振り返った。
「おまえ――」
淑夜は、正体のない童女をその叔父の夜具の中に入れているところだった。いくら布で厳重にくるんでいるとはいえ、春先の夜気が身体によいわけがない。
「ある程度、覚悟はしていましたよ。暁華どのが瀘丘《ろきゅう》にいるんです。私の生存は、知れているのが当然です。――しかも、大牙さまは芝居が下手ときている」
「悪かったな。この三年、子明はだましおおせていたんだ」
淑夜は笑って、何事か考えていたが、
「――〈衛〉に腹の底を隠し通すためには、いっそ、私を放逐しておくべきでしたね。冷遇《れいぐう》のふりは、かえって失敗だったかも」
「他人《ひと》事のようなことを」
大牙は大剣の柄を叩きながら、どかりとその場に脚を組んで座り込む。淑夜もそれに倣《なら》って正面に座を占めたが、左脚は行儀悪く投げ出したままだった。
「すみません。つい」
と謝ったのは、脚の件ではない。
「ですが――一生、〈容〉で飼い殺しにされる気なら、他国者の私をわざわざこの邸に置く必要はないわけですから。三年前を知っている人間には、すぐにわかりますよ」
「それを知っている奴が、この世で何人いると思う。そんなことまで想定して、大事な謀士を手放せるか」
「――感謝していますよ。ご自身、大変な時期に身柄を引き取っていただいた上に」
「よせ。俺だとて、利害は考慮の上だ」
淑夜に頭を下げられて、大牙はそっぽを向いた。
――三年前、大牙は淑夜を自分の謀士《ぼうし》として請い、淑夜はそれに応じた。国を失ったばかりの大牙は、その時点ですでに〈奎〉再興を企んでおり、そのための頭脳が必要だったからだ。だが、現実には、即座に淑夜を側近として登用することは不可能だった。大牙の臣は、淑夜ひとりではなかったからだ。
先祖|重代《じゅうだい》の〈奎〉の臣、歴戦の武人が若い〈奎〉伯に従って亡命している。彼らを押しのけて、何の戦功もない淑夜が重用されれば、摩擦が起きるのは必然である。――いや、淑夜にも実績がないわけではない。四年前、〈衛〉軍を撃退した巨鹿関《ころくかん》の戦では、淑夜も戦術の立案に加わり、最前線にさえ立っている。だが、その戦が従来の戦の常識から離れたものであったことと、他国者が実質的な指揮を執《と》ったことが、かえって反感をかった節もあるのだ。
大牙にしても、亡命中の身が公然と謀士など置ける道理がない。謀士とは主に、戦の策をたてるための相談役のことをさす。他国に身を寄せて一生を送る気ならば、謀士など身近に置く必要はない道理である。牙は鋭ければ鋭いほど、深く隠しておかねばならないのだ。
また、下手に宿将たちより信用を置けば、たちまち淑夜は脚をひっぱられる。本当に邪魔なら、冤罪《えんざい》を着せて追い出すなど簡単だ。〈容〉伯にひとこと、こう告げるだけでいい。「〈衛〉の回し者が、大牙によからぬ野心を吹き込んでいる」と。
食客《しょっかく》の食客――しかも〈衛〉王の血族であり賞金首である人間を庇いだてる義理は、〈容〉伯にはないし、そうなれば大牙だとて身の証をたてるために、淑夜を追い出さざるを得なくなる――。
それを避けるために、大牙はわざと淑夜を遠ざけた。淑夜も冷遇の身に甘んじ、苳児の子守に専心した。むろん、淑夜も彼なりに、士羽の忘れ形見を慈しんではいたのだが――この地位は、淑夜にとっても好都合だったのだ。
淑夜の存在が目立てば、当然〈衛〉から目をつけられる。彼ひとりに刺客がさしむけられる程度なら、まだいい。〈容〉や他の夏氏の国に波風を立てるために利用されるわけには、なんとしてもいかなかった。少なくとも、ここ数年の間、淑夜も、また大牙も希望も力も失って、他人の情けにすがってようよう生き長らえている――そう思わせて、他者の、特に〈征〉の警戒心を和《やわ》らげ続ける必要があったのだった。
だが――。
「――これで、〈衛〉にはばれてしまったと思っていい。これから、どうする」
膝に乗せた大剣を、大牙はまた叩いた。
「静かに。苳児さまが目を醒まします」
「俺は、おまえに目を醒ましてもらいたい」
「醒めていますよ、さっきから、はっきりとね。大牙さまこそ、お目醒めですか」
「――何がいいたい」
「私は、覚悟していたと申しあげました」
「無影が使者を寄越すと、わかっていたと言う気か」
「――どちらにしても、〈征〉と手を組むわけには行きませんでしょう」
〈魁〉を滅ぼしたのは太宰子懐であって、〈征〉の関与は想定できても、確証はない。だが、王の僭称は一時黙認できるとしても、現在〈奎〉の封地を占拠している事実だけは認めるわけにはいかないのだ。他の土地で国を立てても、それは別の新国であって、〈奎〉――そして〈魁〉を受け継ぎ復興させたものとはいえない。
「三年の間、ここで様子を見てきました。国力、地理的条件、それに……国主の力量を見比べても、〈衛〉以外に魚支吾《ぎょしご》と対峙《たいじ》できる国はありませんでした。ただ、〈衛〉にしても一国だけで〈征〉に対抗できるわけではない。――とすれば、魚支吾に対して利害の一致する勢力と手を結ぼうとするのは、常道というものでしょう」
「――それで、おまえは良いのか」
相手は、十八歳の春から、片時も忘れたことのない仇である。淑夜の表情が少し翳ったが、
「あちらが、一時、目をつぶるというのであれば。どうせ、永久にというわけではありませんから」
言葉はよどみなかった。
「俺たちを利用しようというのだぞ」
「逆手にとって、利用しかえす方法はいくらでもあります。――また、そのぐらいは向こうも考慮のうちでしょう。裏切ったとしても、良心の咎めを感じる必要はないと思いますが」
「お互いさまということか」
「それに、私は大牙さまの謀士です。まず主の利益を優先するのは当然のことと、三年前に決めました。今さら、その覚悟に変わりはありません――大牙さまの覚悟のほどは知りませんが」
「俺の覚悟の在処《ありか》――か。三年前と変わっていないといったら?」
「ならば、迷う必要はないはずです」
「〈奎〉の再興、そして、中原の再統一」
なるべくさりげない風に口にしてから、あらためて事の大きさに気づいたように大牙は嘆息した。
「出来ると思うか、そんなことが」
それに対する淑夜の答えは、意外なほどに冷淡だった。
「不可能だと言ったら、あきらめますか」
突き放すような言い方に、さすがの大牙もむっとなる。
「あきらめろと言わんばかりだな、その口ぶりは」
「――申しわけありません」
と、淑夜はまた、謝罪を口にした。
「平静を装ったつもりだったんですが、うまくいきませんでした」
「無理もないな」
大牙はまた柄を叩きかけて、途中で思いとどまった。
「状況はどうあれ、こんな機会が来るのを待ちに待っていたのだ。もしも俺があきらめたとしても、冀小狛《きしょうはく》らが承知するまい。問題は――」
「そこへ至る方法」
それは三年前、〈容〉に亡命する直前にたった一度、ふたりきりで話したことだった。
――亡命先は、国力からいっても〈奎〉との血縁の濃さからいっても、〈容〉国しかなかった。〈容〉の対応についても、さほど心配はしなかった。淑夜が案じたのは、大牙が〈容〉国の一武将として一生を終える――終えさせられることだったが、これは大牙が自ら、否定した。少なくとも、機会さえあれば〈奎〉の再興を目指すと宣言もした。だが――。
問題は、〈容〉伯の思惑だった。
〈容〉伯が考えそうなことは、最初から読めていた。おのれの利益を考えず、他人に奉仕する人間などこの世の中には有り得ない。淑夜や大牙ですら、互いの存在を利用しているといえるのだ。〈容〉伯、夏子明は、大牙の名と存在を利用すれば、夏氏の国を中心とする小国を統合できるものと読んでいた。むろん、主導権を握るのは〈容〉国、大牙は象徴的な立場にまつりあげ、連合国家の実権は自分が執る。
――たしかに、〈征〉とその属国の勢力、また〈衛〉と〈衛〉になびきかけている小国群と対抗していくためには、それが最善の方法であり、〈奎〉を再興するには一番楽な展開だった。冀小狛将軍を中心とする〈奎〉の遺臣たちですら、当時、口にこそ出さなかったがその形を望んでいた。彼らが、今まで〈容〉伯の機嫌に細心の注意をはらってきたのも、そのためだ。
だが、淑夜がその図式を、仮にという形で示した時、大牙は即座に否定してのけたのだ。
「俺に、第二の陛下になれと言う気か」
この場合の陛下とは、〈魁〉の衷王《ちゅうおう》のことである。
「何の実権もなく、子明の傀儡《かいらい》になっていろと? それでは再興しても、十年で滅びる」
「――では、〈容〉をわが物にするしかありません」
その時も、淑夜はさらりとさりげない口ぶりで言った。――もっとも、言いながら膝の上で堅く握りしめた拳が、口調を見事に裏切っているのを大牙ははっきりと見ている。
「同族間で、争えという気か」
「今まで、争ったことがないとでも?」
待ち構えていたように切り返した言葉が、また淑夜の心底を示していて、大牙は責める言葉を失ったのだ。
「――ふたつにひとつです。〈容〉か、〈胥《しょ》〉でも構いませんが、とにかく土地と人とをしっかりと基盤に持たねば、何も始まりませんよ。策略に因《よ》るか武力に訴えるか、それとも快く譲ってもらうかは、その時の状況次第です。できれば、血を流さずにすませたいと思います。ですが」
「仕方のない時もあるか。おまえが、そこまでの覚悟を決めているのなら、俺には何もいえない。俺のため――〈奎〉の再興のためなのだからな」
理由さえあれば、どんな非常手段も許されるとは思わない。だが、このまま〈容〉伯に利用されてやるつもりはなかったし、さらに〈征〉の魚支吾や〈衛〉に、みすみす天下をくれてやる気も大牙にはなかった。ならば、選択の余地はない――。
「腹は三年前にくくった。それは、今も変わっていない。機会は来た。それに乗じることに決めた。――これから、どうする」
「まず、どこを、と言うべきでしょうね」
「――あとあと、一番楽ができるのは、〈容〉を乗っ取ることだ」
もはや、言葉は飾らなかった。なんといい繕おうとも事実は変わらないということを、若いふたりはいやというほど知っていた。
「でも、それでは冀将軍たちが納得しないでしょう。それに、主君が恩を仇で返すところを見せては、後がまずい」
「何が、恩なものか。――だが、たしかにあの老人どもを得心させる必要はあるな」
大牙に従ってきた〈奎〉の遺臣は、士分――つまり、戦の折りに戦車に乗る資格のある者が二十人ほど、さらに彼らが従えてきた卒が百人余りいる。そのうち〈奎〉時代から発言力を持っていた、いわゆる宿将・長老と言われるのは、冀小狛をはじめとする五人。
だが、この五人の意向に反した行動をとれば、いかな大牙でも背を向けられる。そして彼らの忠誠も得られない者が、他国を切り従えることなど、まず不可能だ。
大牙の思考は、そこで止まったようだ。
「あの頑固者らを説得するのは、難しいぞ」
だが、淑夜はかえってそのあたりに糸口を見いだしたらしい。
「――要するに、〈容〉伯が信を置くに値しない人物だと天下に知らしめれば、よいわけでしょう」
「どう、教える。連中がおまえの言うことをきくようなら、おまえに苳児の子守役を押しつけて、真の目的を隠したりはしなかった」
「正面きって、話をする必要はありませんよ。そういう人物だと、見せつけてやればいいんです。まるきり虚構というわけでもない話ですし、細工は簡単でしょう。〈容〉伯が不義の人ということになれば、正面きって討ったところで他国から非難される恐れはありませんし、冀将軍らも納得なさるのではありませんか。――もっとも、私としてはなるべく穏便に運びたいですが」
「やれるか」
「――例の物を使います。ご許可を」
とたんに、大牙の視線が鋭く切れあがる。
「早すぎる」
異議を唱えはしたが、
「温存しても、意味はありませんよ」
反対されて、大牙はあっさりと折れた。
「任せよう」
「私は、なるべく表面に出ない方がよいでしょう。血も、できるだけ流したくありませんから、罠を仕掛けた上で、大牙さまに派手に動いていただくことになりそうです」
「――どうも苦手だがな。そういうことは」
大牙の正直な感想に、淑夜はうっすらと唇《くち》もとだけで笑った。むろん、きれい事だけを言っていて済む問題ではない。手を汚さずに欲しい物が手に入るものなら、誰も苦労はしない。自らすすんで手を汚したい者など、誰もいない。
だが、淑夜は大牙のその率直さを好ましいものと受け止めていた。大牙は、白日の下を歩くべき人間だ。人の先頭に立ち導いていくべき人間に、陰謀や策略の翳はあってはならない。たとえ策を弄《ろう》していたとしても、その翳を感じさせない大牙の為人は、貴重なものだった。
翳は、自分が引き受ける。――いや、そもそも謀士とは、そういうものだ。望むと望まざるとに関わらず、自分がそういう役割に向いていることに淑夜は三年前から気づき始めていた。
華々しく戦って名をあげるのでなく、また学問を極めて史書に留められるのでなく。戦に勝利するための奇略、有利に事を運ぶための策謀に関わることで、歴史を裏面から支えることになるのかもしれない――そんな予感があった。
そして、大牙の再起は、淑夜の才能の正念場でもあったのだ。
「数日――時間を下さい。詳しい案を立てます。なるべく、大牙さまの負担を軽く出来るよう、やってみます」
「済まぬ」
「いえ。お気になさらずに。どうせ、大牙さまには込み入った芝居は無理でしょうから」
「何だと」
きっと太い眉を吊り上げた大牙だが、すぐにふわりと笑み崩れた。日焼けした精悍な顔が白い歯を見せると、ひどく人なつっこい表情になる。三年間の苦労がこそげおちて、気ままな〈奎〉の公子時代の顔になるのを知っているのは、淑夜と、まだ幼い苳児のふたりきりだった。
その三年前の笑顔が、今夜は淑夜に別の人間を思い起こさせた。
「――羅旋がここにいたら、何と言ったでしょうね」
不意に、口をついて出た言葉に、淑夜自身驚いていた。
淑夜を死の淵から救いあげてくれた漢、尤暁華をはじめ、多くの人間と引き合わせて、目を開かせてくれた人間、馬の乗り方、棒の使い方、その他もろもろの技術を教えてくれた漢。そして――。
「賛成してくれるでしょうか。それとも、莫迦なことを考えるなと笑い飛ばすでしょうかね」
だが、大牙は面白くなさそうに、
「行方知れずの漢の意見など、心配してどうする」
言いはなった。
「生きていれば、また逢うこともあるだろう。だが、何年先かもわからぬことなど、今から思ってみても始まらぬ。目の前のことだけで、手一杯なのだからな」
――淑夜も大牙もまだ、彼らの前の運命に一歩も踏み出してはいなかった。
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第二章――――――――西方の風
(一)
「大儀《たいぎ》だった」
長い謁見が終わり、その人物は一段と高くなっている上座の、筵《えん》の上にさらりと立ち上がった。背後に控える侍従ふたりが、あわててそれに従う。と、同時に、その広間の両側に居並んでいた二十人ほどが、いっせいに頭を深く下げた。
一糸乱れぬ動きを目にして、上座の青年はうっすらと笑ったように見えた。少なくとも傷跡の残る左頬はわずかに動いたが、本心からの笑顔でないことは誰の目にも明らかだった。少し線は細いものの、よく整った美男である。が、その両眼に、見る者を息苦しくさせる何かが宿っていた。
おそらく、己自身も息が詰まりそうになっているのではないかと――見る目が有る者にはそう思わせる、その視線が、ある者の上にぴたりと止まった。
「藺如白《りんじょはく》どの、別室に席を用意させてある。参られよ」
呼ばれて顔を上げたのは、もっとも上座に近い位置に立っていた壮年の男だった。頭を下げていてさえ人並み優れた長身は目立っていたが、顔を上げるとさらに、周囲との差異が際だった。胸元まで届く豊かな髯《ひげ》が、まず目をひく一因。そしてその髯が赤茶色であること、太い眉の下の両眼もまた、淡い茶色に透き通って彫りの深い顔を彩《いろど》っていることが、周囲との差を大きなものとしていた。年齢は、四十代の半ばかそれ以上のはずだが、若く見える。赤茶色の髯に半ば白いものが混じっているのが、唯一、この漢《おとこ》の年齢を示すものだった。
「お供させていただきます、陛下」
壮年の余裕が、声に備わっていた。遥かに年下の耿無影《こうむえい》に対して臣下の礼を執ってさえ、決して卑屈に見えない。陛下と呼ばれて、〈衛《えい》〉の若い国主は今度は明らかに薄笑いを浮かべた。それは、たしかに陛下という言葉に反応したものだったが、満足からはほど遠いものに見えた。己をそう呼んだ者に対しての冷笑、そしてそう呼ばれた己自身への嘲笑の色だと誰の目にも明らかだったが、藺如白と呼ばれた偉丈夫はそ知らぬ顔で、無影に道を譲る仕草を見せた。
対等の立場ならば、双方が譲りあった後、主の方が先に立つ。だが。無影はちらりと如白の方を見たものの、当然という素振りでつい、と先に出た。
如白もまた、それを異とする気配もなく悠然とその背後に続く。さらに侍従、侍僮《じどう》、護衛の親衛兵が広間を出ていったあと、ほっと広い明堂の空間が安堵とも嘆息ともつかぬ空気で満たされた。その一部始終を、無影は見ることなしに背中で感じ取っていたが、やはり薄笑いをうかべたのみだった。
回廊の途中から侍従が先に立ち、導いたのは、この館の主殿より少し奥まった一角にある楼台だった。先の国主の偃《えん》氏が蓄えた財産は、あっさりと民に頒《わ》け与えた無影だが、贅《ぜい》をこらして造らせた楼閣群は、ほとんどそっくり残していた。この楼台はその中のひとつで、とりわけ見晴らしがよいことで知られていた。
「ほう、これは」
と、藺如白は、最上階に着くと身体を揺すりながら小さく歓声をあげた。
「周囲の景色が、手に取るように見えますな」
ぼうと靄《もや》のかかった緑が、なだらかな山の稜線まで続いている。江南特有の、甘くしっとりとした空気に包まれて、風景全体がまどろんでいるようにも見えた。
「〈琅《ろう》〉公よりの使節のおもむき、ご苦労だった。ささやかながら、別離の宴を設けた。公式ではないが、その分、礼法もとやかくは言わぬ。ゆるりとしてくれるよう」
「陛下におかせられても、わが主の申し状を快くお聞きとどけくだされ、儂《わし》も使者にたった甲斐があったと申すもの」
勧められ、敷物でしつらえた客の席に脚を折って座ると、如白は丁重に手を付いて礼を執った。
「なんの。孟琥《もうこ》どのにはかねてよりの国境の件に関して、こちらの言い分を聞きわけてもらった。この上に献上の品などもらっては、欲が深すぎるというもの――」
「いや、〈琅〉は西の蛮地にて、ろくな産物もござらぬ。馬と玉ぐらいしか、陛下に納めていただける物がないという次第で」
謙遜の応酬となりかけたところで、会話は一時中断した。侍僮たちが料理の器を捧げ持って上ってきたからだ。無影と如白が席につく。さらにその背後に、護侍の武人がひとりずつ控える。そうする間に肉の器、飯の器、膾《なます》、羹《あつもの》、醤《ひしお》や塩の皿と、主客の前に手順よく並べられていった。
その食器の数、また調理法の多彩さに如白が孩子《こども》のように目を見張るのを、無影は今度は本心から満足そうに見ていた。
――〈琅〉は、中原の西方に位置する国だった。古くは、戦によって土地を追われた者らが逃れていった未開の地だったのだが、〈魁《かい》〉の祖王の時代には城邑もいくつか建設し、藺氏を国主に立てて伯国となった。公国に昇格したのは、のちの話である。土地の広さからいえば、早くから公国の資格は十分にあったのだが、新興国の悲しさで耕作地が少ない。人口の絶対数が少なく、産物も産業もきわだったものがない上に、西方の異民族・戎《じゅう》族との紛争が絶えないところから、中原の国々からは一段下位に見られていた国だった。
現在の〈琅〉公の名を、藺珀《りんはく》、字《あざな》を孟琥という。まだ弱冠二十一歳の若者で、おまけに生来、病弱だという噂である。国内の政は、伯父たち――つまり、先代の〈琅〉公の異母兄たちが摂政として合議制で行っており、あまり安定した状況とはいえなかった。
もっとも、三年前の義京《ぎきょう》の乱のおりは、他の国と違って、たいした被害も動揺も出さずにすんでいる。これは、地理的にも政治的にも彼らの国が中原の動きから取り残されていたためだったが、それをかえって幸いとしてこの三年の間、国内の整備につとめてきたようだ。
(百頭の馬か)
無影は、正面の偉丈夫の異相を見ながら、胸の奥でひとりごちた。
馬と玉しか、誇れる産物はないという。だが、玉はともかく、馬なしでは戦車は動かせない――つまり、戦はできないということだ。馬を大量に生産できる〈琅〉は、いずれ大きな戦力を持つ可能性がある。それが、中原の脅威にはならないか。強大になる前に叩きつぶし、その資源を我が物にした方がよくないか――。
(いや)
あやういところで、無影は先走り始めた思考を中断した。物には順序というものがある。まだ〈衛〉一国をようやく、確実に手中にしたばかりである。三年の間動かず、内政を充実させてきたのは、東の〈征《せい》〉とにらみあう必要があったためだ。中原に進出する前に西に向かって動けば、たちまち〈征〉の魚支吾《ぎょしご》に背後をつかれるだろう。
それに〈琅〉は今のところ、中原に向けての野心は持っていない。持つどころではない状態だというのが、〈琅〉国内に入れてある諜者からの報告だった。
国主は若年で病弱、世嗣もなく、ここしばらくは床に伏せったままだという。万一、〈琅〉公がみまかった場合、後を継ぐのは三人の伯父のうちのひとりとなるのだが、その三人の不和も同時に伝えられていた。おそらく、その万一の事態が起きれば、即、内乱となるだろう。そして――。
〈琅〉公の伯父のひとり、藺如白がこうして使節として〈衛〉に来たのは、予想される内乱の間に〈衛〉につけ込まれないための手を打っておくのが目的だった。
〈衛〉は、先代の国主の時代から国境の問題をいくつも抱えている。〈琅〉国との間にも懸案があったのだが、このたび、向こうから全面的に譲歩を申し出てきた。無影を王と認め、臣下の礼をもって使節を送ってきたのである。つまり、従属の形と引換に不干渉の約束をとりつけにきたわけだ。
それを見抜いておきながら、無影が申し出に応じたのは、
(〈琅〉は後まわしだ)
見極めをつけたからだ。
(一度に、二方面の敵を相手にはできない)
戦の常道でもあった。
(むしろ、〈征〉を相手どっている間、背後で内乱を長引かせてくれている方が、〈衛〉にとっては有利となる。いっそ、こちらから火をつけてやるか――)
「――陛下?」
呼ばれて、無影は我にかえった。
「何か、儂《わし》の顔についておりますかな」
どうやら、何度か呼ばれていたらしい。やんわりと、藺如白が笑っていた。大柄で髯に顔の半分が被われているくせに、この漢の微笑はどことなくおっとりと無邪気だった。が、それがかえって無影の感情を逆なでした。
「いや、見事な髯だと見とれていたのだ」
「お恥ずかしい。これは、戎《じゅう》の血を引く証拠のようなもので」
と、いいながら、まったく悪びれた様子も卑下する気配もない。
「如白どのの母御は、戎の出身か」
――ぶしつけな質問だった。西方で主に遊牧生活を送る異民族の戎族は、時おり中原に侵入して略奪を繰り返す。ひと処に定住せず土地や財産を持たぬ彼らを、中原の者は蔑視し、捕らえて奴婢として使役することもある。戎族かと訊くことは、母親の身分の低さを揶揄《やゆ》したことにも通じる。
だが、如白は笑い流して、
「いえ、少なくとも三代前までの祖には、戎族はおりませぬ。ただ、それより前に入っておる可能性はございますな。このあたりでは珍しゅうござろうが、〈琅〉には、儂のような者は多うござる」
「それにしても、いろいろと苦労はなされただろう」
如白の眼が、おや、という風に光ったのを、無影は見逃していない。が、如白はそ知らぬふりを通して、
「儂が〈琅〉公の位を継がなかったことをさしておいでなら、それとこれとは無関係。〈琅〉は代々、末子が相続するのが慣習。これは戎のしきたりの影響かと言われておるぐらいで」
あっさりと否定した。
「そういう意味ではなかったのだが――」
はぐらかされたととったか、無影は苦笑をしてみせた。
「〈琅〉はなんといっても辺地、中原にいては想像もつかぬ現象があるのだろうという意味だ」
「それはもう。なにしろ、乾ききっております故、耕作するにも水がないありさま――」
藺如白はもともと陽気な性質らしく、水を向けられると次から次へと話し始める。乾いた草原が、春の雨を受けて花をしき詰めたようになること、そこを駆け抜ける野馬の群れ、それを追う戎族の生活。
「戎族といっても、二通りございましてな。〈琅〉の国内で馬や羊を追いながら穏やかに暮らしている者もおります。風次第、空模様次第の、それはもう気ままな暮らしでござるが、考えようによってはなかなかよいもので……」
「ところで」
みずからも遊牧の暮らしをしたことがあるのか、懐かしそうな口調で語る如白だったが、無影はそれを唐突にさえぎった。
「〈琅〉公には、妹君が有ると聞いたことがあるのだが」
「――ああ」
口に運びかけた箸を止めて、如白はうなずいた。ようやく得心がいったという風情である。
「確かに、ひとりおりますが――」
それが何かと、無言で訊いたのは、むろん芝居にちがいない。
「お幾つになる」
「今年……十八だったか十九だったか」
「では、輿《こし》入れには不足ない歳だ」
「いや、あれは……」
豊かな赤茶色の髯をひとつしごいて、何事かためらったが、すぐに如白は心を決めたようだった。
「あれは、嫁には出しませぬ。いや――ご存知の上で仰せられていると思うが、姪は一度、嫁いでおります。〈魁〉の王太孫《おうたいそん》の妃として嫁ぎ、殿下が薨《こう》じられた後は、寡婦として祖父君たる亡き〈魁〉王陛下にお仕えしてまいりましたもの。三年前にようやく、実家に戻った形になっておりますが――一族の者は皆、あれはすでに亡き者として扱っております」
「二夫にまみえさせるのは婦徳《ふとく》に背くと?」
「いや、そのようなことは決して。強いて言うならば、揺珠《ようしゅ》自身が〈魁〉に殉じたつもりになっておるようで。心が死んだ者を、無理に嫁がせるのも――他にも一族の中には妙齢の者がおります。よろしければ帰国の後に手配いたそう。戎の血をひく者は、総じて見目《みめ》が良いといわれておることでもあるし、お望みとあれば多勢。……もっとも、陛下のお手元にある花より美しい花は、あの辺地には咲きませぬが」
言葉の後半で、うかがうようにぐいと身を乗り出してきたが、無影の反応はかすかに眉根を寄せたのみだった。いや――。
「戎族といえば」
と、表情も変えずに、ふいと話題をすり替えた。
「三年前の義京の乱のおりに、〈奎《けい》〉の陣中に戎族がひとり、混じっていたという噂、ご存知であろうか」
「さて」
如白の反応も、さすがは年長の分、慎重である。
「戎族の身で、実質的には〈奎〉軍の指揮さえ執っていたという――。むろん、噂にすぎぬ。〈奎〉伯ともあろう者が、我が子や将軍たちをさしおいて、何処《どこ》の誰とも知れぬ無頼《ぶらい》の輩《やから》に兵権を預けるとは考えられぬ。だが、その戎族を見た者はいる。そして」
その視線が、不意に藺如白の背後にひかえる護侍に向かったのである。
「貴殿の今回の随行者の中に、そのおりの戎族によく似た人物がいたと申す者がいてな」
眼光に形を与えれば、間違いなくその護侍の身体には穴が開いていただろう。視線の意味するところは明らかだった。だが、
「はて、誰のことだろうかな」
藺如白は勢いよく上体をひねって、当の護侍の漢《おとこ》に問いかけたのである。
「おぬし、心当りはあるか」
「さて、存じませんな」
返答は、風のような速さと快さだった。緑色の双眸が、答えと同時に躍っていた。
如白も巨漢だが、この護侍もがっちりとした大柄な漢だった。ただ如白と違って、髪や髭は黒々としている。年齢はもっと若く、三十代に手が届くか届かぬか。日に焼けた陽気そうな顔は、真面目になれば精悍な美丈夫と形容してさしつかえないのだろうが、いかんせん、焦点がずれて茫洋《ぼうよう》としていた。そのとぼけた顔つきのまま、漢は無影に向かってにっと笑いかけた。
「戎族というだけでは、なんとも。そいつの名前がわかっているのならともかくも」
「いや、そこまでは知らぬ」
無影も、そらとぼけた。
「そやつに、何か用事でも」
「これ、失礼だぞ」
続けて質問を発する護侍にあわてたのは、藺如白である。一国の主ともあろう貴人に、護侍風情が直答するだけでも、十分に無礼なのだ。これが公の席なら、問答無用で処分されても文句は言えない。事実、無影の護侍はすぐに片膝を立てて、主の指示を待つ態勢を取っていたのだが、
「構わぬ。子遂《しすい》も下がれ」
と、無影が手をふり制止したため、如白はほっと息をついた。
「用事か――用事というほどのものはないな。だが、もしも噂が真実ならば」
「どう、なさる」
緑色の眼が、また躍った。
「逢って、顔が見たかった」
「それだけか」
「それだけだ」
そうして、ふたり同時に表情を変えた。無影の左頬の創《きず》だけが歪み、護侍の緑色の眼が三度《みたび》、陽気そうに躍った。
「――世話になり申したが」
両者をひき離すように、如白が口をはさんだ。
「そろそろ、お暇《いとま》を。今日中に川をひとつ、渡るつもりなれば」
並べられた器はあらかた空になり、宴はほぼ終了したといってよい。川を渡るとは、この瀘丘《ろきゅう》を巡る運河の一本を越えるつもりなのだろう。むろん、橋などはかかっていない。自然のものであれ人為のものであれ、また平時であっても渡河の苦労は変わらない。そして、間に水を置くと置かないとでは、次の日の旅程が大きく違ってくる。旅の途次にある者が、川を渡っておくのは当然のことで、ことさら無影を敵視したわけではなかった。
「館の門まで、見送ろう」
無影も気分を害した風もなく、楼台をともに降りた。主殿前には、すでに〈琅〉国の供の一行が支度を整えて待っている。その中の三頭立ての車にのりこみ、藺如白は出発の合図を送った。
がらがらと音をたてて、二輪の戦車が走りだす。随行の車と人が、同時に土煙を上げる。とはいえ、江南の土地は北に比べればしっとりと黒く重い。まとわりつくような空気に、はじめて如白が眉をしかめた。そのかたわらを、馬に乗った先ほどの護侍がそ知らぬ顔で過ぎてゆく。その後に、さらに同様の騎乗姿が三十人ほど続いた。なんのまじないか、どの馬も鞍の左側に金属の輪をひとつずつ下げているのが、陽光に映えてきらきらと輝いていた。
無影は、館の門上の望楼からこの一行の出立を見送っていた。
「百来《ひゃくらい》」
眼下の一行からは目を離さずに、背後にむかって声をかけると、
「ここに――」
錆《さ》びた声が、即座にはねかえった。
「間違い、ないか」
問うてから振り返った処に、白髪白髯の老人が控えていた。老人とはいっても、顔は赤銅《しゃくどう》色に灼《や》け胸もがっちりと厚い。平服に身を包んではいるが、立ち上がった滑らかな動作にも武人の片鱗は見えていた。
数歩、前へ進んで、窓から老人もまた、下を見る。見たところで顔を判別できるわけではないのだが、
「おそらく」
うなずいた。
「なにしろ、一瞬の出来事で、はっきりとは見ておりませぬ。それに髭を蓄えられてしまうと、人の相は見分けにくくなります。ですが、三年前、〈奎〉の残党を追撃していたおりに、見かけた者と酷似しておることはたしか」
老人の眼には、己の正面にまっしぐらに向かってきた黒馬の姿がまだ焼きついている。馬は一矢で射抜いたものの、騎手にはまんまと逃げられた。大柄なその漢を助けて逃げ去ったのは、これまた騅《あしげ》に乗った耿淑夜《こうしゅくや》だったと、これははっきりと確認している。それと、その漢の戎族とおぼしき緑色の眼を百来将軍は一瞬、見てとっていた。
戎族に、緑色の眼はめずらしくないという。また〈奎〉に加担して〈琅〉に逃げた漢が、今さら堂々と〈衛〉にやってくるかという疑問もあった。たとえ本人だと確認できたところで、〈琅〉の正式な使節に随行してきている者に、〈衛〉が手出しはできない。だが、耿淑夜と接触があったらしいという一点を重く見て、無影はその戎族を特に監視させたのである。
「――いかが、いたしましょう」
百来将軍の面にわずかに不審の色が浮かんでいるのは、同一人物と確認ができれば、拘束するなり詰問するなり、なんらかの手を打つよう命が下るものと思っていたからだ。
「よろしいのか。このまま〈琅〉へ帰してしまっても」
不満が声の中に渦を巻いたが、無影は咎めなかった。この老武人は、口では反対を唱えることはあっても、最終的に無影の命令に背いたことは一度もない。それに、無影の注意はすでに、他へと移っていた。
望楼へ、新たに上ってきた人影があったためだ。
「――尤《ゆう》夫人。あれ[#「あれ」に傍点]に用ならば、場所が違うぞ」
冷静な礫《つぶて》のような言葉に対して、艶然という形容の似合う笑顔が投げ返された。
[#挿絵(img/03_063.png)入る]
年齢は二十歳台の後半――無影自身と同じぐらいのはずだが、どう見ても二十歳そこそこにしか見えない婦人である。少し険《けん》のある目もとが瑕瑾《かきん》だが、誰が見ても美女と認めることは間違いない。だが、婦《おんな》を見たとたん、百来はあからさまに嫌な顔をしてそっぽを向いた。
その仕草をきちんと目の隅に入れておきながら、婦は遠慮する素振りもなく、軽やかな身のこなしで無影のかたわらに立った。
「本日は、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]君《しんくん》のご用ではございませんの。もっとも、後でお納めいただく物も持ってまいりましたけれど」
「よいのか、見送りに行かずとも」
と、無影は視線だけで、門を抜けきった〈琅〉国の一行を示した。
「何のことでございましょう」
とは、婦の返答である。その口調だけで、そらとぼけているのは歴然としていた。仮にも一国の王に対して、いくら非公式の場とはいえ、とる態度ではない。しかも、決して鷹揚《おうよう》とはいえない無影に対してである。彼女の影に隠れてこそこそと続いて上ってきた小柄な男が、わが事のように首をすくめた。
「〈琅〉の一行と、何やらさかんに往来をしていたようだが」
「取引の話をするのは、商家の主として当然のこと。それがどこの国のお方であろうと、それこそどんな身分のお方であろうと、区別はいたしませんわ」
「〈征〉にも、物を売りつけているそうだな。あまり調子に乗らぬ方がよいぞ」
と、これは百来の錆びた声だ。
「〈衛〉に、商家は尤家だけではない」
「尤家の得意先も、〈衛〉だけではございませんわ。それに、どなたが払ってくださっても代価は代価。正当な代価を払って下さる方に、品物をお渡しするのが商人というものでございますわ」
「金銭で、すべてが贖《あがな》えると思うてか。命までは買えぬぞ」
「あら、金銭で買えているうちが花だとはお思いになりません? 人一人の命に五城という値をおつけになったのは、こちらの陛下ではございませんでしたかしら」
百来が言葉を詰まらせたのは、論理で言い込められたからではない。禁忌に触れられた無影の反応が恐ろしかったからだ。
「な……なんということを。尤夫人、そなたこそ、賞金首をかくまいだてした上に逃亡に手を貸した身ではないか。本来ならば罪科《ざいか》に問われるところを、大目に見ていただいたばかりか、館に出入りまで許されておるのだ。少しは口を――」
「お言葉ですが、百来将軍」
女の声音が、少し変わった。
「何か間違ってはおられませんかしら。何を根拠に、罪に問われますの? 当時、〈魁〉の都に住んでいたあたくしが、誰の世話をしようと放逐しようと、あたくしの勝手ではございませんか。それでなお罪にあたるとおっしゃるのなら、どうぞ、ご処断くださいませ。ただし」
唇には微笑を含みながらも、鋭いものを秘めた眼の隅で無影の方へ視線を流して、
「あたくしが罪人ならば、他の商家も皆、多かれ少なかれ同様の罪を犯しております。尤家が処断されましたなら、〈衛〉と取引をしようとする者は、ひとりもなくなるとお覚悟なされませ」
「尤暁華《ゆうぎょうか》」
売り言葉に買い言葉で、百来が激発しかけた、その寸前だった。百来は、声を耳にしただけでまるで冷水を浴びせられたようにかしこまったが、婦はあざやかな笑みを声の主に向けて返した。
「なんでございましょう」
「――赫羅旋《かくらせん》と言うそうだな。例の護侍」
「〈魁〉に仕えた戎華《じゅうか》将軍の子息で、尤家の古くからの知人でございますわ。ちなみに、父君との仲は、さほどよくありませんでしたわね。――これもまた、隠しだてした科《とが》になりますの?」
「からむな」
鋭いひとことに、暁華はかすかに肩をそばだてたのみである。
「調べさせたらそなたの名が上がったから、確認したのみだ。他意はない」
「羅旋にご興味を持たれましたの?」
「あの漢、ただの戎族ではあるまい」
「――ひとつ、お教えいたしましょうか。四年前、淑夜さまを」
その名が無影から引き出したのは、眼底のわずかな光の変化のみだったが、暁華は図にあたったといった風に笑った。
「重傷を負った淑夜さまを谷底から救い上げ、あたくしに預けたのはあの漢でございますわ」
一瞬、沈黙が落ちる。次いで、がたりと大きな音をたてたのは百来将軍である。
「百来、どこへ行く」
制止したのは無影。
「あの戎族を、捕らえてまいる!」
「〈琅〉公の使節の随員をか」
指摘されて、老人は奥歯を鳴らした。
「――無駄だ」
「しかし!」
「暁華の手に乗るな。ここでこじれて戦にでもなれば、利益を得るのはこの婦だ」
「ま、ずいぶんな仰せでございますこと」
とはいえ、それを否定しなかった暁華である。
「それで、何用だ。わざわざ、躬《み》を挑発しに来たわけではあるまい」
「野狗《やく》が〈容《よう》〉から戻ってまいりました」
その男の特徴のある顔は忘れられるものではないが、暁華の言動に圧倒され、この場に置き去られた感があった。が、うながされて進み出た両眼には強い光が宿っていた。
「何度も、ご苦労なことだ」
と、無影が声をかけたとおり、〈容〉の段大牙《だんたいが》の邸とこことの往復はこれが初めてではない。接触を持って以来、これで三度目、最初に状況を探る目的で〈容〉に入ってからは、五度目の往来である。
すでに無影は、大牙からは申し出に応じてもよいという回答を得ていた。むろん、その背後に淑夜がいることは承知の上で、無影も援助の確約を言付けて、野狗を送り出したのだ。この夜盗あがりの男は、南北に離れた二国の間を十日以内で往復する、人並みはずれた駿足なのである。おまけにその商売柄、どこにでも忍び込める。密使としては最適の人選ではあるが、当然のことながら無影は信を置いてはいなかった。ただ、この夜盗が見かけよりずっと口が重いことを、無影たちはこの往復の間に知ることになった。いや、口数は多いのだが、肝心のことは強く訊き質《ただ》さないと、口から出てこない。
「それで?」
と、百来がうながした。
「段大牙よりの伝言で。事は、ここ一、二月ほどの間に起こすと。ただし、兵力は不要」
「なに?」
「少なくとも、〈容〉の国内へ派兵していただくには及ばぬと。戦も不要、ただ瑶河《ようが》の南岸に展開して、渡河の気配を匂わせていただきたいと」
意図は、すぐにわかった。
「――〈征〉の注意をひきつけろと」
「わが国を、おとりに使う気か!」
激しかけたのは、またしても百来。だが、これは暁華にさえぎられた。
「戦をするより損害は少のうございますわ。それに、協力を申し出られたのはこちらの陛下の方からでございますわよ。きっと、大牙さまはご遠慮なさったのですわ」
真っ赤な嘘だ。どう取り繕ったところで、他国の兵力を直接借りれば、あとあと大きな負債になる。国を再興しても、前例を盾に〈衛〉の軍を国内に駐留させられでもしたら、とりかえしがつかない。――段大牙ともあろう者が、その程度の判断がつかないとも思っていない無影だが、相手は徒手空拳にも近い身である。切羽詰まっているところに好餌《こうじ》を撒いてやれば、万が一にも食いつくかもしれないと思ったのだが――。
「奴も考えたな」
一度だけ、巨鹿関《ころくかん》でちらりと見た青年の面魂《つらだましい》を思い返しながら、無影はひとりごちた。慎重なのは段大牙ばかりではないということも、わかっていた。
「言ってよこしたのは、それだけか」
「はあ」
「正直に申せ」
本来、身分の差を考えれば、顔を合わせることもない両者である。非常の際、機密がからんでの密談だからこそ、直答も許されている。この上に、隠し立てはさせられない。
「――暁華さまに、いくばくか用立てていただきたいと」
と、上目がちに他の三者の顔色をうかがい、ついでのように片頬だけでにやりと笑って見せた。
「借財ならば、返してしまえば後腐れがなくなるからとのことでした」
「もう、よい。下がれ」
百来が、ついに激怒した。
「返答は、後日、聞かせる。それまで尤家でおとなしくしておれ。尤夫人も、この不埒者をしっかりと監督しておかれよ。呼び出した時にこの者の所在が不明などということがあれば、尤家にも謀反の疑いがかかるぞ」
「重々、承知しております。ご案じいただかなくとも結構ですわ」
言葉は丁重だが、やはり暁華の口ぶりにも棘があった。危険な猛獣をつつき、怒らせてはその様を楽しんでいるような口ぶりだった。猛獣とはけっして、百来ではないことも承知の上だった。
「では、あたくしどもはこれで。……あたくしはこれから、香雲台《こううんだい》にまいりたいのですけれど、お許しいただけますでしょうか」
この館の後宮ともいうべき香雲台には、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》君と呼ばれる美貌の婦人が暮らしている。
形式上は、無影にはまだ、正夫人がないことになっている。王を名乗った時に、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》君を正妃にという話も持ち上がったのだが、無影はそれを退けている。正妃の座は、婚姻による政略のために空けておく必要があったのだ。ただし、香雲台に他の婦を納《い》れることもせず、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》氏――名を連姫《れんき》という彼女が、現在、実質的に耿無影のただひとりの夫人だった。
その|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫に尤暁華が接近を図ったのは当然といえば当然の話であり、また婦同士という利点からいっても、奥向きの用を任されるようになるのにたいして時はかからなかった。むしろ、無影自身に接近するのに時と手間と、金銭をかけたと暁華自身がこっそりと野狗に話したことがあるほどだ。
暁華は香雲台に赴く時は必ず、無影自身の許可をとることにしている。無断で寵姫に接近して、君主の無用の猜疑心を招かない用心である。
ともあれ――。
「好きにしろ」
返答が投げ出された。それをさらりと笑顔で受け止めて、暁華は裳《も》の裾を翻した。同時に、野狗の角ばった姿がするりと消える。
「百来」
「は」
「〈征〉との国境に兵を展開できるよう、準備を進めよ」
「では」
「ただし、兵は〈衛〉の者を使うな」
「は――」
と、かしこまりはしたが、軍事に関しては百来にも言い分がある。
「お言葉ながら――。例の、義京や〈奎〉から流れこんで来た難民どもはまだ、兵としては未熟。あれでは戦になりませぬぞ」
「かまわぬ。戦をするかどうかもわからぬのだ。それから、冉神通《ぜんしんつう》を呼んでおくように。〈琅〉の国都に潜入させる。もうひとつ、〈琅〉の一行は国境を越すまで目を離すな。いや〈琅〉に入っても」
「承知」
この命には百来も素直にうなずいた。その、目をつける対象が藺如白でないこともまた、彼は知っていたのである。
「――陛下」
護侍の子遂が、下から上ってきてかしこまった。
「時間でございます。学舎《がくしゃ》に皆、集まって、おでましをお待ちしております」
「今、行く」
(二)
かつて、〈魁《かい》〉の西には荒漠とした草原が広がっているのみだった。その無人の地を通って、さらに西に住む戎《じゅう》族がたびたび襲来しては、略奪し、去っていった。騎馬での移動を主とする彼らをさえぎるために、〈魁〉の諸国のうち西に向かっている国々は、その領の西端に防壁を築いた。――といっても、泥と葦や藁を築《つ》き固めたただの土塁である。丈《たけ》は、そう高いものではない。高くてせいぜい人の肩ほどだが、馬で一気に越すには困難な高さである。また、国境にすべて張り巡らしたものではなく、切れている部分もあれば二重、三重に設けられた箇所もある。むろん、馬を降りれば楽々と越せるものだし、迂回をすれば楽々と侵入を許すものだが、「速度」という戎族最大の優位の効果は半減するため、これで十分に役に立っていたのである。
その防壁の外へ中原の人が出、草原を開墾して国を立てた。これが〈琅《ろう》〉国である。
国境を定める場合、おおよそ山や川を目処《めど》とするのが通例である。天然の地形が、防壁の役割をも果たすからだ。〈琅〉の場合も、一国に認められた時にその東端の国境を一本の川と決めたが、それが〈衛《えい》〉領内――と〈衛〉が主張する土地へ深く食い込んでいたのだった。
〈衛〉は、当然のことながら、延々と築かれた人工の防壁を国境と主張して、真っ向から対立してきた。これが今まで武力衝突にまで発展しなかったのは、その一帯に耕作には適さない土地が多く、争奪の対象になるほどの価値がなかったからにすぎない。
とにかく、〈琅〉公と〈衛〉の前国主・偃《えん》氏の間で問題となっていた土地は、ひとまず〈琅〉公が耿無影《こうむえい》に譲る形で今回、決着がついたのである。
――無事、任務を果たした〈琅〉公の使節の一行は、ゆっくりと〈衛〉国内を横断して、問題の防壁の地帯を越えた。そこから先は、乾燥した草原が続く。誰はばかることのない、〈琅〉の封地である。その草原の一角に皮の天幕を張ったのは、その夜の宿泊地をそこに定めたためだ。国公の一族の一行が野宿をいっこうに苦にしないところが、〈琅〉国の強みであり引け目でもあった。
その国公の伯父、藺昴《りんぼう》――字《あざな》を如白《じょはく》と呼ぶ漢《おとこ》の天幕に、礼も執らずに戎族の護侍が入ってきたのは、まだ空に明るさが十分に残っている頃だった。
天幕の外で先ほどから小規模な雷鳴のような音が轟き、人声と馬の鳴き声が断続していたから、予測はついていたのだろう。顔を見るなり藺如白は、豊かな髯をしごきながら、
「――行くか」
尋ねるというよりは、確認をする口調だった。長身の戎族は、緑色の眼を返答がわりに一度、ひらりと閃かせた。そのまま、頭ひとつ下げるでなく、藺如白の前に脚を組んでどかりと座りこむと、
「とりあえず、茣原《ごげん》に戻る気だったんだが、そうもいかない雲行きになったようだ」
それまで形だけは保ってきた主に対する態度まで、ここに至ってかなぐり捨てると、背後にむかってうなるような声をかけた。それを合図として入ってきたのは、今度は顔色の悪い、貧相な男である。中肉中背だが、ひどく痩せている上に表情がうっそりと暗い。それが闇をまとわりつかせるように現れると、こちらは脚を折って跪座《きざ》をすると、丁重に頭を下げて非のうちどころのない礼を執った。
「羅旋《らせん》自慢の謀士どのの出迎えか。壮棄才《そうきさい》、ご苦労だな」
如白が声をかけると、また無言で頭を下げた。
「変わったことは?」
と、如白が尋ねると、
「仲児《ちゅうじ》どのが」
ひとことのみが跳ね返った。
「動いたか」
「いえ、未だ――」
「どうなったのだ」
要領を得ない返答に、如白はめずらしくかっと眼を見開いて尋ねたが、すぐに思い直したように護侍の方を見た。
「羅旋、おまえは聞いたのだろう」
「館に居座ったまま、動かんそうだ」
下手をすれば親子ほど歳の違う年長者相手に、この口のききようである。中原の礼儀からいえばとてつもない無礼だが、双方ともに戎族の容貌を持っていると、ひどく似合いのやりとりに見えるから不思議なものだ。藺如白は子供がいないため、見処のある若者を幕下に集めているという。年齢や身分の差を感じさせないのは、如白の人柄でもあるのだろう。
「孟琥《もうこ》の――殿下の容体は」
「あまり思わしくない。揺珠《ようしゅ》どのが、つききりで看病しているそうだが」
「長くないか」
「五叟《ごそう》が言って寄越したところによれば、よく持って三月。早ければ――」
もういいという風に、如白の手が動いた。
「五叟先生の医術の腕をもってしても、延命はならぬのか」
「あいつだとて、万能ではないさ。人の目をくらます術は得意だが、人の寿命を左右する力は――誰にもなかろう」
「寿命ならば仕方もないが、若すぎる」
重い嘆息まじりの声は、悲痛な痛みすら伴っていた。それに感応するように、緑色の眼も翳る。
「――最後に、伯父上にひと目、お目にかかっておきたいと言っていたそうだが。どうする?」
「このまま儂が安邑《あんゆう》に戻って、何事も起こらぬと思うか、羅旋」
「いや」
と、戎族の漢はきっぱりと首を横に振った。
「戻れば、命の保証はない。仲児に、あんたと孟琥どのを一挙に始末する絶好の機会を与えることはない」
「では、どうすればよいと思う」
尋ねると、遥かに歳下の漢は目を眇《すが》めて、
「言わねばわからんあんたではなかろうが」
ぞんざいな口をきいて、微笑を浮かべる茶色い双眸をにらみつけた。
「あんたは、ここから行方をくらます。かわりに、俺たちが安邑の様子を見てくる。それでよかろう。――しかし、まさか無償でとは言わんだろうな」
「代償は払う。これは、最初の約束にはなかった、余分な仕事だからな」
と、天幕の内部の隅に積み上げられた小山を、視線で示した。
「――耿無影からの答礼の品か」
「儂は、病気だ」
何の脈絡もなく、如白はそんなことを言い出した。
「病ゆえ、安邑には入れぬ。使者の首尾を復命したいのはやまやまだが、それがかなわぬのでおまえたちに託した。――こういう筋書きでどうだ」
「虚言《うそ》が、透けてみえるぞ」
微笑を浮かべる如白に対して、羅旋も容赦がない。
「なに、不実を責められるのはおまえではないし、要は安邑に入れればよいのだ。この品については、すべてを仲児に渡してやる必要はない。好きなだけ懐《ふところ》にいれるがよい」
「横領を人に勧めるのか。とんでもない使節どのだ」
羅旋は、鼻先でせせら笑った。同様の笑顔が、如白の面にもうかぶ。
「だが、おまえは断らぬ。そうだな?」
「俺は――俺たちは、これが仕事だ。仕事に見合った報酬を受け取って、何が悪い」
羅旋は、厚い胸を張った。
「その言葉、尤《ゆう》夫人のものに似ているな」
返答のかわりに、しかめ面が返った。その顔つきで如白は、何を思い出したか、
「そういえば」
「何だ」
「今さらと怒るかもしれぬが――あの、尤夫人、信用ができるのか」
「信用とは?」
言い出した如白も如白だが、それを聞いた羅旋のけげんそうな顔も見物だった。
「尤夫人は、おまえの素姓を知っている。先の義京《ぎきょう》の乱で果たした役割も、今回の儂らとの取引の内容も――耿無影に話さないという確証はない。もしも、無影が知ったら」
「あれは利口な婦だ、如白どの」
心配するな、とは、羅旋も言わなかった。
「しかも、骨の髄まで商人と来ている。話して己の利益になることなら、臆面もなく話すだろう。ただし、商人が客の機密を洩らせば、信用を失う。二度と取引ができなくなるようなことは――殊にあの婦は、絶対にしない。それでも心配なら――」
そこで、片頬だけで笑って、
「この件は話してくれるなと言って、相応の品物を送るといい。いったん代価を受け取ったなら、死んでも話さんだろうさ」
「そんなものか」
安心というよりは、感心をしたといった顔つきで、藺如白は嘆息した。
「儂のような田舎者には、わからぬが」
「なに、皆、基本はひとつさ」
立ち上がりながら、羅旋は言った。
「一度、結んだ約束は守る。商人も戎族も、同じことだ。ただ、中原の民の中には時おり、守らぬ奴がいるから事が難しくなるのさ」
皮肉は藺如白に向けたものではなかったが、さすがに彼は渋い顔になった、その顔を置き去りにして、
「――では、俺は行く」
羅旋の服の裾が、ひるがえった。
「頼んだぞ」
今度は返答はなく、天幕の入口の垂れ幕が揺れたのみ。羅旋の大柄な身体が敏捷なのはともかく、うっそりと影のように控えていた壮棄才までが、同時に姿を消していたのは少々、意外だった。
まもなく、雷鳴のような複数の馬蹄の音が天幕の外で巻き起こり、たちまち遠雷となって消えていった。
――〈琅〉の現在の国主は、藺珀、字を孟琥という。二十一歳の若者だとは、前にも述べた。生来、病弱だったが、この冬にわずらった病がいっこうに回復に向かわず、生命を危ぶまれていた。――というのは、若いこの国主には妻も世嗣もなく、薨《こう》じればその後の座を巡って骨肉の争いが起きることは確実だったからだ。
後継者の候補は、三人。いずれも、藺孟琥の伯父――父の異母兄にあたる。
三人のうち、長子が如白。次子が箕《き》で、字を仲児という。三子を亢《こう》、字を天光《てんこう》。このうち、仲児と天光は同母兄弟である。四子が軫《しん》といって〈琅〉公の位を継いだが、先年、死去した。彼は、〈魁〉王、夏長庚《かちょうこう》の姪を娶って一男一女を設けており、嫡長子の孟琥が後を継いだ。ちなみに、娘の名は揺珠といい、三歳で〈魁〉王の王太孫《おうたいそん》に嫁いだ――むろん、政略のための形ばかりの結婚であり、数年後には夫を亡くし、三年前の義京の乱の後にようやく〈琅〉へもどってきた。
さて、如白たち三人の伯父たちの容姿を見た者は皆、如白のみが戎族の血を引くものと必ず思う。ところが実際は逆で、如白の母親は中原の民であり、黒髪黒眼を持つ仲児、天光兄弟の母の母、つまり外祖母が戎族出身の女なのである。
〈琅〉には公家に限らず、こういう場合がおうおうにして起きる。戎族と接して暮らす彼らにはまた、戎族の血が混じりやすいのだ。
戎族に対して、偏見がないわけではない。それどころか、直接に被害をこうむる〈琅〉の民の中には、戎族を強く憎む者もいる。そうした連中は、侵入してきた戎族を捕らえれば容赦なく奴婢《ぬひ》にし売りとばす。だが、その一方でそうやって売られた戎族の女を、側妾《そくしょう》に納《い》れる者もいるのである。
また、戎族に連れ去られた中原の民の女が、戎族の子を産み落とす場合もある。個々の人生には、それぞれに宿命があり物語があり、中には悲惨なものもあるのだろう。ただ、確実に戎族の血をひく者が〈琅〉の国内には存在し、二代三代と重ねて次第に浸透していることは事実だった。
むろん、直接に戎族の血を引く者が、たとえばその家の当主の座をすんなりと引き継ぐことは、まずない。だが――娘が望まれて、当主の正夫人におさまることは、ままあることだった。戎族の血をひく者は、黒髪黒眼であっても目鼻立ちがくっきりとして、美貌の持ち主になることが多かったからだ。
代々の〈琅〉公の後宮にも、やはり戎族出身の側妾はめずらしくないし、婚姻関係を結んだ家にも戎族の女は入っている。めぐりめぐって如白の容貌にその特徴が出たところで、何の不思議もなく、これが初めてのことでもない。彼が特に不利な立場にたったことはないし、外祖母に戎族を持つ仲児たちも、皆、同等の扱いを受けて育っているのだ。
ところが人間とは奇妙なもので、成人してみると、外見は中原の民と変わらぬ仲児が、戎族に対して厳しい態度を示すようになった。逆に如白の方が戎族に寛大で、彼自身、若い頃には国内の温和な戎族とともに遊牧の生活を送ったこともあるという。
自然、如白の周囲には戎族の血を引く者、戎族に対しても、また他国に対しても温和な策を取る、いわば穏健派が集まってきた。一方、それに対抗して仲児を担いだのが排斥派である。そして、周囲に人が集まれば集まるほど、仲児の立場が悪くなっていったのは、当然の成り行きだった。
「――あれ[#「あれ」に傍点]は儂に嫉妬して、対抗するために回りに人を集めた。ところが味方が増えれば増えるほど、己を卑下せねばならぬ羽目になった。ある意味では、不幸な人間だ」
如白が羅旋に向かって、そう述懐したことがある。
如白とて、その容貌を取り沙汰された経験が全くないわけではない。形式は平等でも、人の視線までは平等にはできない。今でも、国事で他国へ赴けば奇異な眼で眺められ、やんわりと当てこすられる。
「それでも儂は幸運だった。逆の者も多勢いた」
殊に幼い頃の如白を慈しんだのが、戎族の乳母だった。
「無学で粗野で、美しくさえなかったが善良で、しかも強い女だった。というのは、腕っぷしがという意味だぞ。その乳母が言ったのだ。人は生まれる時も場所も親も選べないのだ。生まれたまま、有るがままの姿で何が悪いとな」
成人しても、また末弟の前〈琅〉公が病弱だったためにその補佐を勤めるようになっても、国都よりは地方――辺地の草原にとどまっている方が多い漢だった。
それが、羅旋という漢の名を耳にしたのは、二年前である。正確には彼は三年前にも一度、〈奎《けい》〉からの亡命の一行にその名を見ているのだが、その時は混乱の中でもあり、また羅旋たちがすぐに国都・安邑を去ったために記憶には残らなかった。
それが、二年前のこと――。
中原の西に位置する〈琅〉の、さらに西端に茣原という城市がある。人口千人ほどの邑《ゆう》の周囲を日干しの磚《せん》(煉瓦)を乱雑に積みあげた墻《しょう》が囲っている。この茣原にはこの辺り一帯で唯一、泉があった。これより西に広がる草原や砂漠を往来するわずかな者たちは、必ずこの邑を通過して補給せざるを得ない。このため、茣原はその貧弱な外見よりはずっと豊かな邑だった。もっともそのために、西の草原の戎族の一派の略奪の脅威に、絶えずさらされてもいたのである。
だから、この小さな邑のはずれにひとりの戎族が住みついた時、邑人はあからさまに追い出しにかかった。最初、ひとりでふらりと現れた漢が、この邑でも持て余していた無頼たちを周囲に集め始め、さらに外からも人相のよくない男たちが流れ込んできては、なおさらである。
ところが、である。
追い出しにかかった邑人たちに、漢は妙な取引を持ちかけたのだ。
「要するに、おまえたちは財産を持っていかれることを恐れているのだろう。ならば、俺がそれを守ってやれば文句はないわけだ」
無論、邑人も最初からその話を鵜呑みにしたわけではない。まず、戎族の言うことなど信用できるかという話になり、戎族が戎族を追ってくれるものかという声も出た。戎族とひと口にいっても、内部には複数の部があり、敵対関係もあるからそれはよいとしても、素姓も知れない漢をおいそれと信用する訳にはいかない。邑人たちがためらっていると、漢はさらにたたみかけてきた。
「ただでとは言わん。それなりの報酬はもらう。もらっただけの働きはしてみせよう」
戎族に貢物《みつぎもの》をしてお目こぼしを願うのかと、当然、これにも反発は出た。
「物は考えようだ。俺たちを雇ったと思えばいい。雇われただけの仕事はしてみせよう。なに、根こそぎ持って行かれたり怪我をしたり、下手をしたら命まで失うことに比べればずっと安いはずだ。もし、約束が履行できなければ、俺は何をされても文句はいわん」
それでも、すんなりと話がまとまったわけではない。最初に羅旋と名乗るこの長身の戎族を雇ったのは、玉の原石の買いつけにきていた中原の商人の一行だった。
結果は――いうまでもない。
羅旋は、戎族の一派の襲撃を見事に退け、商人の一行を〈琅〉の国境まで無傷で送り届けた。これを見て、茣原の者らも納得をした。改めて交渉をするまでもなく、羅旋と彼の麾下《きか》の漢たちは茣原に住むことを認められ、決まった額の報酬を受け取ることになった。茣原を通過する商人たちも、護衛を頼むようになる。食べていけるという噂を聞きつけてか、人も集まってくる。中原で食い詰めたあげく逃散《ちょうさん》してきた農夫もいれば、罪を犯した者もいる。戎族さえ数多くいた。――というのは、羅旋は襲ってきた戎族は遠慮なく殺したが、捕らえた者を害することは厳禁したからだ。捕虜を丁重に扱ったのはよいとしても、彼らの一族と交渉して、身代を取って解放してやったのには、配下の者たちですら呆れかえった。
「そんなことをして、再び襲ってきたら」
中には、何度でも襲わせて、自分たちの利益を増やそうという腹だと陰口を叩く者もいた。が、同じ戎族が襲来することは、二度となかった。それどころか、中には自分からやってきて、羅旋の下で働き出した者までいたのである。
「殺してしまえば事は簡単だが、一族の恨みを買う。そうなれば、戎族を根絶やしにしないかぎり安全はない。それよりこちらが手強《てごわ》いことを思い知らせて、放してやった方が楽だ。こっちの得にもなることだしな」
ちなみに羅旋が要求した身代は、主に馬が多かった。基本的に自給自足の遊牧の民に金銭や貴金属を要求しても、土台、無理である。彼らが豊富に持っている物、生命と等価と認める物、そして――。
「俺たちに、必要な物だ」
羅旋の配下は、ほとんどが馬を乗りこなすのである。むろん、中原から流れてきた者の中には、最初、抵抗を示す者もあった。だが、戎族を相手どるには戎族と同様の戦い方をする必要があったし、それ以外の者に対しても騎馬の特徴――特に速度は、大きな利点となった。羅旋の下で生きていくなら、嫌でも乗らねばならなかったし、また、皆、覚えは早かった。己の生命がかかっていれば、覚えも早くなろうというものだ――もしも、ここに耿淑夜《こうしゅくや》がいれば、そう言って笑ったかもしれない。
とにかく、そうやって羅旋が辺境の国のそのまた辺地に名を知られるまで、半年とかからなかったのである。
藺如白が赫羅旋の名を聞いたのは、そうやって護衛を頼んで安邑までたどりついた商人の口からだったそうだ。ここで、如白が安邑に呼びつけでもしていれば、決して羅旋は如白と逢おうとはしなかっただろう。現に、仲児の側近がひそかに接触したことがあるのだが、一蹴されてそれきりになったと後から聞いた。その反動もあったのだろう、茣原に単身で現れた〈琅〉公の伯父を羅旋とその周囲の漢たちは受け入れ、如白の依頼を即座に引き受けたのだった。――藺如白と、〈琅〉公の身辺の警護を頼みたい。考えようによっては、双方ともにとって危険な依頼だった。
「何故、俺のようなはぐれ者を信用する気になった、如白どの」
と、のちに羅旋がけげんそうに尋ねたものだ。それに応じた如白の方もまた、
「そういえば、おまえも何故、儂などの言うことを聞く気になった。個人的に仲児の恨みをかうことは、目に見えていたろうに」
切り返されて、羅旋は太い腕を組んで天を仰ぎ、
「奴が次の〈琅〉公になったら、俺たちは茣原を追い出されるからな」
うそぶいた。
「それほど、茣原はよいところか」
「――酒が美味《うま》いのさ」
双方が煙に巻かれた形で、会話はこれで打ちきりになった。以後、両者の間でこれに類する話は出ていない。ただ、藺如白から羅旋に支払われる代価が滞《とどこお》ることは一度もなく、羅旋が依頼された仕事を失敗したことも、皆無だった。それが、互いに対する回答だったのだろう。
(三年か)
――安邑の、城壁をぼうと眺め上げながら、羅旋はめずらしく過ぎた年月を数えていた。城壁といっても粗雑なもので、表面には土止めの磚《せん》もろくに張らず、女墻《じょしょう》もない。高さだけは十分にあるが、底辺の幅もまたたっぷりとある。城壁というより土手といった方が正確なその上辺部には、今、ちらちらと人の姿が見えていた。ふつうの者の目にはただの影だが、草原の暮らしに慣れた羅旋の目には、それは武装した兵士の哨戒に見えていた。
ただし、羅旋の内心の思いと、この風景とはまったくの無縁である。
(三年で、ここまで来た)
配下は現在、千人以上にふくれあがっている。羅旋が現在、安邑に帯同《たいどう》している連中だけでなく、茣原一帯にも他にも彼の麾下は配置されている。身分も過去も問わず、ただ実力さえあればすべて傘下《さんか》に入れてきた。もともと頭領の羅旋が無頼だったほどだから、配下がまともなわけがない。いざこざを起こした者はその都度、羅旋が裁いており、今のところそれで不都合も起きていないのだが、そろそろ統制のしかたを考える時期にきているとは感じていた。
これまでは、彼らが得た報酬はすべて、頭割りで均等に頒けてきた。一部は分けずに貯めておき、負傷した際の治療の薬料《やくりょう》やその他の費用に当てているが、これからの情勢を考えると分配の方法も変わってくる。
――もっとも、その方法を考えるのは、羅旋本人ではないが。
「頭領」
うっそりとした声が、ふと立ち止まった羅旋をうながした。そのあとは無言のまま、眼つきだけで問いかけてきた。
「ちょっと、考えていた」
「――考えてみましょう」
他人には理解不能な会話が交わされ、羅旋の脚が前へ進む。それに合わせたように、前方から小走りに現れた男がいる。
「頭領――表の用は?」
ひょろりと背の高い青年である。かなりの長身の羅旋を、さらに上から見下ろせる背丈は、中原の民としては希少かもしれない。
「済んだ」
実は、そんなひとことで済ませられる状況ではなかった。当然である。〈衛〉国へ大切な使命を託して派遣した、その正使が復命もせず行方をくらましたのだ。いくら代理が出頭したからといって、それで済むことではない。この〈琅〉にも口やかましい老臣は少なからず存在するし、何より藺仲児が長兄の所在を追及して羅旋をなかなか解放しなかったのだ。
それを知らぬ存ぜぬで押し切って、羅旋は辞去を告げた。実際、知らないのだから仕方がない。如白は、これからどこに向かうと羅旋に告げなかった。羅旋にはどのあたりにいるとあらかじめ見当がついているからだが、道も目印もない草原の、どこと口で説明するのは、羅旋にとっても困難だったのだ。
ことによったら監禁されて、力ずくで聞き出されるかとも覚悟はしていたのだが、そこまでのことはなかった。仲児の詰めが甘いのか、それとも安邑の城内で泳がせておいて、不用意にもらす言葉の端から所在を探ろうと考えたのか。どのみち、いったん城内にはいってしまえば、簡単には安邑の門は開かないと知っていたし、常に監視の目が光っていることも知っていた。
とりあえず、うるさ方をふりきって館の奥へと向かったところで、羅旋は、この長身の若者と行きあったのだ。
「奥の様子はどうだ、徐夫余《じょふよ》」
と、尋ねかえされて、夫余という若者はまず、表情で返答した。いかにも純朴そうな日焼けした顔が、気のせいか白くなった。
「そうか」
と、羅旋の顔色も彼らしくなく曇る。と同時に、ついと脚が早まる。
「孟琥どの、羅旋だ」
陽光のような大音声が、しんと静まりかえった小さな院子《にわ》に響いた。声でその主が知れたのだろう、その建物の中であわただしく人が動くのがわかったが、羅旋は委細かまわず石造りの階《きざはし》を軽い足どりで駆け上がった。
「〈琅〉公どのは、お目醒めか。土産を持参したが」
「――羅旋さま」
数人の婦たちが、羅旋とその後に続く男二人をさえぎろうとした。それを押しのけ、ずかずかと踏み込む彼の前に、立ちふさがった影があった。
白い影だった。闇の中に、小さな白い花影が浮かび上がったようだった。羅旋の肩ほどの背丈しかない娘だったが、その瞳を見ただけで羅旋の脚がまた、ぴたりと止まった。
「お願いいたします。もう少し、静かに」
「――すまん」
「羅旋さまのお声は、うかがっただけで気が引き立ちます。でも、あまり騒がしくすると、兄の身体に障ります。どうぞ――」
「気をつける。逢えるか、玉公主《ぎょくこうしゅ》」
「待ちくたびれております。さ、早く。でも、静かに」
そう言ってから、ようやく目元だけで笑った。笑うと、花が開いたようになった。
もしも――もしもこの場に淑夜か大牙《たいが》がいたら、目を見張っただろう。三年前も、この少女は花を連想させた。だがそれは、日陰に人目を避けて蕾をつけたものの、咲く前にすでにしおれかけた花だった。ここに立つ彼女の表情からは、年齢には似つかわしくない憂愁の色は未だに去ってはいない。だが、そこはかとない翳りが、人の目を引きつけるような深みを加えていることも事実だった。
白く透き通る頬はそのままだが、こころなしかふっくらと暖かみを感じさせるようになった。伏し目がちなところも同様だが、ふと上げた眸の中に、勁《つよ》い光が混じる時がある。
藺揺珠《りんようしゅ》。
玉公主とも呼ばれた、かつての〈魁〉の王太孫妃である。この春、十九歳になった彼女は、〈魁〉から戻って以来、夫人のいない兄のために、この国主の館の内殿をとりしきるようになっていた。
本来、こういった夫人や婦たちの住まいである内殿の管理は、老女に任せられるものだ。多くは正夫人の輿入りの時に付いて来る女――夫人の乳母などが、侍女や側妾たちの監督をする。この〈琅〉でも、数年前までは孟琥たちの母の乳母が健在で、〈琅〉公の身辺の世話を一手に引き受けていたのだが、揺珠と入れ替わるようにして歿《な》くなっている。他に一族の婦はなく、また彼女が内殿でもっとも身分が高く、婦たちを従わせやすいということもあった。
〈魁〉で、幽閉も同然のひっそりとした生活を送って来た揺珠は、多勢の人の中で暮らすことを一度はためらった。寡婦《かふ》の身で、しかも嫁した家が滅んでなお生き延びている――生き恥をさらしている身で、というわけである。だが、身辺に信頼できる者のない兄の環境を見ては、看過することもままならなかった。
むろん、兄の看病も彼女が主に行っている。心労も多い三年だったが、〈琅〉の空気と責任のある立場とが、彼女の資質に合っていたに違いない。
「兄上、羅旋さまが参られました」
細い声が届くと、薄暗くした室内に人の動く気配がした。
「――そのまま。起きることはない、俺も礼は苦手だ」
仮にも一国の国主に向かって、このぞんざいな口のききようは十分に咎めの対象となる。だが、〈琅〉は中原よりはずっと、礼だの形式だのに寛容だった。しかも、国主の伯父に対等の立場で話していた漢である。彼がその昔、〈魁〉の老王に対してさえ、不遜と言われかねない口ぶりを改めなかったことを考えれば、このぐらいは当然のこと。それよりも、今、声音の中にこもる温《ぬく》みが敬意に相当する種類のものである方が重要だった。
つんと薬の匂いが濃厚な空気をかきわけるように進むと、羅旋は一段と高くなった奥の間に踏みこんだ。羅旋の制止にもかかわらず、奥の人影は上体を起こした。その背を支えて、小柄な老人がかたわらに控えている。
「起きなくともいいと――」
「そうはいかない」
白い微笑が、羅旋の陽気な顔の前に浮かびあがった。
「それに、今日は気分が良いのだ。土産話を聞くのに、寝ていてはつまらない」
揺珠によく似た容貌だった。男にしては、繊細すぎる顔だちだった。病中ということを考慮してもなお、ひよわそうな印象は拭い去れない。
実際、この若者は一年のうち、半分は床に臥せっている。虚弱だったという母親の体質をそっくりそのまま受け継いで、一時は成年に達するまで生きられるかと言われたこともあるという。それでも養生に養生を続けて、十代の後半には健康を取り戻し、〈魁〉の義京を何度か訪れたこともあるのだ。幼い頃に引き離されたにしては、妹の揺珠との仲が良いのも、そのあたりの経緯があってのことだ。だが――。
「殿下、少しぐらいなら大目に見るが、すぐに横になるのじゃぞ」
枕元の老人が、遠慮のない口調で釘をさした。
「五叟先生。そう、病人扱いしないでいただきたい。ここ二、三日は、ずっと具合が良かったではないか」
「その油断が、命取りじゃと申しておるんじゃ。まったく、人の言うことを聞かぬ病人は困る……」
「五叟」
まだくどくどと説教を続けそうな老人にむかって、羅旋の声が飛んだ。
「おまえの文句を聞いていると、直る病も悪くなりそうだ。具合が悪くなると思うのなら、薬湯でも用意しておけ。夫余、手伝ってやれ、女官どもも連れて行け」
「やれやれ、何年経っても人使いの荒い奴じゃ。少しは年寄りを敬おうという気にはならぬのか」
悪態をつきながらも、もそもそと立ち上がって姿を消したところが律義である。徐夫余の長身も、国主の身辺に控えていた婦たちも、同時に出ていった。
室内には〈琅〉公の病身と揺珠、羅旋と壮棄才の四人だけが残された。人の気配が、しんと空気が冷えたように鎮まったとみるや、
「――如白伯父は、戻られなかったのだな」
若者の眼光だけが、炯《けい》と強いものに変化したのだ。
「賢明だった。もっとも、如白伯父ともあろう方が、むざむざ仲児伯父の手にかかるはずはないが」
「相当、焦っているようだな、仲児は。安邑の城内に入ったとたんにわかった。兵力を増強したのを、これみよがしに俺の鼻先にばらまいてきた。監視の目も、ずっと光っている。ただし、配置には無駄が多いがな」
「城内は、仲児伯父の手の者ばかりだよ。ここに残っている連中は男も女も――」
そう言って、孟琥は皮肉な笑い方をした。
「私の死ぬのを、今か今かと待っている奴らばかりだ」
「兄上」
揺珠が、細い眉を寄せた。その眉根がさらにきつくなったのは、羅旋が鷹揚な仕草で肯首《こうしゅ》してみせたためだった。
「羅旋さま――」
非難のまなざしを浴びて、羅旋は彼らしくなくひょいと首をすくめてみせたが、口調だけはぞんざいなままで、
「仕方あるまい。確かに仲児は、孟琥どのが死ぬのを待っている。死んだら即座に、新〈琅〉公の名乗りをあげたくてうずうずしている。だから、安邑から動かない。孟琥どのを監視下に置き、一族の宿老どもを抱きこんで、後継者の指名が如白どのにいかないようにらみをきかせている――。これは、厳とした事実だ」
「だからといって、兄上の不幸を待つようなご発言は」
「揺珠、いい」
孟琥が、低い声でさえぎった。
「たしかに、私はもう何年も生きられない」
「兄上――」
「おまえがいくら懸命になっても、これだけは私にも誰にも、ままならないのだよ」
どこでどう、これほどに悟りきったのだろう。他人《ひと》事のように淡々とあっさりと、若い〈琅〉公は澄んだ目で言い切った。
「だから、その後の〈琅〉がより良くなるように考え、手をうっておかねばならない。その相談のため、如白伯父との連絡役のために、羅旋は来てくれたのだ。ならば、言葉を飾りたてていては話にならない。五叟先生と徐夫余が人払いをし見張りをしていてくれる間に、必要な話は済ませてしまおう、羅旋」
念を押すように問われて、羅旋もまっすぐにうなずいた。
――藺仲児は、幼い頃から〈琅〉の主の座に対して、野心を抱き続けていた。いや、剥き出しにして、隠すことはなかった。
おそらくは、己の血に対するひそかな卑下と、異母兄の如白への対抗心が逆に噴き出した結果だろう。戎族の容貌を持つ如白が孩子《こども》の頃からたくまずして人望を集め、中原の民と変わらぬ彼がそれとなく敬遠される傾向にあったのも、だ。それは、単に個人の資質の相違でしかなかったのだが、仲児は決してそれを認めようとはしなかった。
「あの戎族が認められて、何故、俺が受け入れられぬ」
はっきりと、そう公言して歩いた。
末子相続が習慣である〈琅〉で、仲児が国主になる見込みは薄かった。それでも、長兄の如白が公位を継ぐ可能性が己よりも少ないことが、仲児のわずかな慰めだったらしい。
だが――ここへ来て事情が変わった。孟琥が後嗣を残さずに歿した場合、新〈琅〉公は上の世代に遡る。この決定は年齢の順ではなく、一族の長老たちの合議による。つまり、一族の長にもっとも相応しいと思われる資質の持ち主を推戴《すいたい》するのである。これもまた一族の安泰を守るための、遊牧の民の知恵だと言われているが、理由など仲児にはどうでもよいことである。
要は、その宿老の合議が己を選ぶように仕向けるためには、なりふり構うまいと決心したのだ。この時期に〈衛〉に向けて使節を送ることを決めたのも、実は仲児である。使節の長に如白を選んだのは、万一、彼が不在の間に甥に何事かあれば、国内に在る己が有利になると踏んだからだ。いや――。
万一などという僥倖《ぎょうこう》に仲児は頼ってはいなかった。この間に、病死に見せかけて孟琥を殺そうという計画もあったらしいのだ。それを阻止し得たのは、羅旋の推薦でその少し前から〈琅〉公の側に控えるようになった、五叟先生こと、莫窮奇《ばくきゅうき》という老人のおかげだった。
五叟老人の名は、それ以前からも奇才の持ち主として、特定の人々の間には通っていた。ありとあらゆる学問に通じ、不老不死の術まで身につけたと噂される老人は、実は当代屈指の医者でもあった。
「薬にする植物、鉱物を採《と》りに〈琅〉へ来たら、あのろくでなしの羅旋めにとっつかまって、仕事を押しつけられての」
とは、揺珠に語った言葉だ。
ちなみに、腕は確かだが氏素姓の知れない老人をすんなり国公の侍医に送り込めたのは、揺珠の口添えがあったればこそだった。五叟老人は義京の乱のおり、太宰子懐《たいさいしかい》の手によって王宮に軟禁された揺珠を救うため、段士羽《だんしう》とともに乗り込んでいるのだ。おそらく五叟老人がいなければ、揺珠は王宮から逃れることは不可能だったろう。不測の事態によって落命した段士羽と並んで、五叟老人は〈琅〉公の妹君の命の恩人というわけである。
さらに今回、五叟老人は〈琅〉公自身の命の恩人にもなった。
「食事に毒が仕込んであったことが、三度。一度は、香を取り違えたふりをして煙毒を流しかけおった。どれも未然に防いだがの」
羅旋が安邑に入るなり、極秘で報告が飛んできている。
「この代価は、高うつくぞ」
と、五叟の報告の最後につけくわえられていた。
実は――。
これは、五叟老人と羅旋だけしか知らない秘密だが、
「もしかしたら、孟琥どのにはかなり以前から毒を盛られていたかもしれぬ」
五叟によると、|※[#「石+申」、90-10]《こう》という毒があるという。無味無臭で、ごく微量ずつ長年にわたって摂取すると、体内に残留して次第に身体を弱らせる。やがて衰弱して死に至るが、速効性の毒と違って効き目は徐々に現れるから、よそ目には自然死に見えるし、五叟老人ほどの医者でも後から毒の存在を突き止めるのは困難だという。
「盛られていたという確証がないのでな、まあ、誰にも内密にしておいた方がよかろう」
羅旋が五叟老人を自分たちが不在の間、藺孟琥の側に置いたのは、そんな会話があったためである。
とりあえず、今回は毒物の危険から孟琥を守ることはできた。だが、それで孟琥が安全になったわけではない。若い〈琅〉公は、安邑に在るかぎりは、藺如白に対する人質の役割を強いられているのだ。
如白も、異母弟の野望に関しては熟知している。自らの身の危険も、また甥の生命の危険も十分に承知している。〈衛〉への使節に指名された時、甥の身を案じ、また大変な時期に本国を空ける不利を悟って、一時は一気に自分を支持する勢力を集めて異母弟と一戦を交える気にさえなっていた。それを思いとどまらせたのが、羅旋と、その謀士として影のように付き従う壮棄才である。
「――こちらが先に兵を上げれば、真っ先に〈琅〉公及び妹君の身に危害が及びます」
うっそりと暗い表情でぼそぼそと告げられて、藺如白も白髪まじりの髯を撫で、嫌な顔をした。
「さらに、こちらから仕掛ければ、非はこちらに在りと仲児どのに喧伝されることになります。これは、兵の士気にも関わります」
これまた、正論である。
「では、甥を見捨て、国を捨てて逃げろとでも言うか」
と、如白は気色ばんだが、壮棄才の氷の表情には影響を及ぼすことができなかった。
「最悪の場合には」
それも致し方ないと平然と言われて、さすがの如白も拳を握りしめた。が、壮棄才はあせりもせずに、平然とその後を続けた。
「ですが、そこまでの事態には至りますまい。先に痺《しび》れを切らすのは、仲児さまの方にございます」
「何故だ」
「戦をしてでも御身を消さねば、困るのは仲児さまでございます故」
如白なら、たとえ長老会議で仲児が国公となっても、その決定には素直に従うだろう。この国に住めなくなれば、他国へ亡命することもできるし、さらに西へ逃げて戎族の暮らしをしたところでいっこうに困らないだろう。――つまり、それぐらいの覚悟をしろと暗に言ったのだった。さらに、
「我らの申しあげることに耳を傾けていただけるならば、負ける算段はいたしませぬ」
これだけは低い声ながら、きっぱりと言った。
その声の気迫と、その隣で腕を組んでいた羅旋の悠揚とした態度を藺如白は信じることにし、〈衛〉へと赴いたのだ。
当初、仲児の様子次第では如白も安邑に戻り、あくまで話し合いで仲児と対決するつもりでいた。だが、〈琅〉国内に残った壮棄才がだまし討ちの可能性を示唆してきたため、それもあきらめ、後事を羅旋たちに託して行方をくらましたというわけである。
とはいっても、単身で逃げ回っているわけではない。
もともと、如白を支持する宿老や家臣は少なくない。今ごろは、如白が逃れたと知って草原へ駆けつけている者もいるはずだ。その手配や案内は、壮棄才と羅旋の配下の無頼たちがぬかりなく行っている。安邑にその動きが伝わってこないのは、ここがすでに仲児の側に付くと決めた連中によって押さえられているからだ。
「細工は、整っている。いったん、戦になっても、如白どのは有利な立場にある。〈琅〉公どのとしては、如白どのに後事を託したいのだろう?」
問われて、若者は白い真剣な顔でうなずいた。
「如白伯父なら、私の頼みを守ってくれよう。だが、仲児伯父は、〈琅〉公になりたいとは言うが、その後、何をしたいかは言わぬ。仲児伯父が国公になったら、民人が不幸だ」
「ならば、俺たちも孟琥どのに協力できる」
あくまで、自分たちの雇い主は如白だから、如白の利益になることでなければ働けないと、めずらしく言い訳をしておいて、
「問題は――」
人質に取られた形の、藺孟琥とその妹の身柄であるが、
「安邑から逃げだす算段があるのだが、その気はあるか、孟琥どの」
羅旋は、そんな言葉で誘いをかけた。
「――逃げる?」
「羅旋さま、そんな方法が」
揺珠が、めずらしくぐいと身を乗り出してから、
「でも如白伯父上は、そこまでお頼みにはなりませんでしたでしょうに」
少し、疑わしげな表情になった。羅旋を信用しないというのではないが、これまで報酬を約束された仕事しかしなかった彼が、何の気まぐれを起こしたのかといぶかったのだ。
「なに、客の注文こなすのばかりが商売ではないさ。時には、客の喜びそうな品をみつくろって、先に買いつけることもある」
羅旋の言い分は理にかなっていた。だが、それですっかり安心できるわけではない。
「でも、兄上のお身体は」
逃避行に耐えられるような健康状態ではないと、揺珠は口ごもった。
「それは、なんとかなる。いや、五叟の爺さんもいることだし、おそらく無事に逃げられるだろう。ただし、逃げると〈琅〉公の地位を失うことになるかもしれないが」
「おそらくというのは、困ります」
きっぱりと、揺珠が念を押した。
「では、十中八、九、いや、九までは。それ以上は、健康な者であっても不測の事態が起きることを考えれば、保証しかねる」
羅旋は、正直に告げた。その上で、
「どうだ?」
と、さらに返答をうながす。だが、孟琥の興味は、妹とは別の点にあった。
「――私が逃げれば、如白伯父が確実に次の〈琅〉公になれるだろうか」
「それは、五、六分といったところだな。かならず戦になるし、そうなると絶対ということはなくなる」
「戦は、起こしたくない」
「では、仲児を次の国公にするか。それならそれでいいが、長老どもがすんなり承知するとは思えん。今ですら、意見は真っ二つに別れているんだ。国公が決まるまでに、あの爺さんたちの半分は殺されるぞ」
「如白さまも、殺されましょう」
地を這うような壮棄才の声が、背中の後ろをすきま風のように通った。
「それから、国内の戎族も」
それは、孟琥も先刻承知していることだった。だからこそ、次は如白にと望んでいるのだ。ただ〈琅〉の慣習で、彼が生きているうちには指名ができないために、無力感を噛みしめている。もっとも、指名したらしたで生命の危うい状況ではあるのだが。
「――逃げた方がよいと思うか」
決断を下せずに尋ねた孟琥は、しかし羅旋の拒絶に会った。
「それは、俺が決めることではない」
たしかに、その通りだった。孟琥自身の生命もこの国の将来も、羅旋には責任は負わせられない。彼の仕事は、孟琥が決断を下した後から始まるのだ。ただし、いったんこうと決めれば、この男は一命を賭してでも遂行してくれるだろう――。
「どう、すればよいのだ」
永遠とも思えるほどの――実際は呼吸五度分ほどの沈黙のあと、熱い息の塊とともに、孟琥の決断が転がり出た。
「逃げるには、何が必要だ。準備は? 日程は?」
「兄上――」
「まず、仲児を油断させること」
応えながら、羅旋は壮棄才に視線で合図を送る。壮棄才は音もなくたちあがり、いったん部屋の外へ出、すぐに五叟老人をともなって現れた。
「それには、国公の地位が仲児のところに転がりこんだと思い込ませることが肝心」
危なげない足どりで進んでくる五叟の両手に、大ぶりの鉢が捧げ持たれている。
「これを、呑まれよ」
仕草に合わせたような、常の彼らしくない荘重な口調で五叟が告げた。陶器の中には、黒い液体が波紋をたてていた。異臭はない。むしろ、真水のような透明な匂いが、液体の色と不釣り合いだった。
「――呑むと、どうなります」
不安に声をふるわせながら問うたのは、揺珠だった。応えたのは、羅旋だった。
「〈琅〉公には、ここで死んでいただく」
(三)
長泉《ちょうせん》の野は、一度、戦場になったことがある。いや、中原の全土で、こんな地形の土地で一度や二度、戦が行われていないことの方が少ないだろう。
がらりと開けて、平坦な土地である。しかも、東西南北に通じる公路がこの野を横切るか、脇をかすめて伸びている。路は兵を移動させるに好都合であり、そして土地の平坦さは戦車を縦横に展開するのに必要な条件だった。
戦は、戦車で決まる。三頭もしくは四頭だての箱車に、中央に御者、戈《ほこ》を持った右士と弓を携えた左士が両側に乗る。このうちもっとも身分が高いのが左士で、戦車とそれをとりまく歩卒たちの主人である。戦車に乗るのは上士と総称される士大夫層であり、歩卒はその士大夫の領地から租税の一環として徴用される農民たちだ。
戦は戦車同士をすれちがわせ、相手の乗り手を叩き落とす。多勢の歩卒は、落ちた相手の上士にとどめをさし、武器を回収するのが主な役目だった。
要するに、領主を頂点とした巨大な三角形が戦場をかけめぐり激突するわけである。多数の戦車が自在に走れる広さ、逆に二十人はいる歩卒たちを分散させない平坦さがどうしても必要とされたのである。
さて、長泉の野で戦があったのは四年前。〈衛《えい》〉と、今はない〈奎《けい》〉が起こしたもので、〈衛〉十万の軍に対して、〈奎〉は一万五千。勝敗は目に見えたも同然だった。
だが、勝利は数の多い方のものにはならなかった。負けたわけではない――と、無影《むえい》なら言うかもしれない。彼の軍の半分以上はまったくの無傷だったからだ。だが――。
十万のうち、左軍三万を預けた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》という将軍が〈奎〉の大牙《たいが》の策に乗って突出し、この野の西の巨鹿関《ころくかん》へ誘いこまれてしまったのだ。〈魁《かい》〉に至る要衝の地の仕掛けによって、〈衛〉の左軍だけが壊滅的な打撃を受け、将軍の|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は捕虜になるという不名誉を被った。ちなみに、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は〈衛〉に送還された後、逃亡、行方不明になっている。
長泉の野は〈奎〉の段大牙の名を高らしめた場であり、〈衛〉の耿無影の名をも、さまざまな意味で広めた土地でもあったのだ。
その因縁の地に、今、魚支吾《ぎょしご》は立っていた。正しくは、ほぼ中央に築きあげられつつある城壁の上である。長泉の野に描かれた、わずかに南北に長い巨大な方形の大部分はまだ、濠と土台が築かれた程度だ。だが、城市の正面ともなる南側の城壁、殊に中央の大門のあたりは、門上の楼閣も整い完成に近付いていた。
〈征《せい》〉公、魚支吾が立っているのはその南門上である。周囲には一定の距離を置いて、完全武装した兵卒がずらりと居並び、〈征〉の文字を描いた籏《はた》が兵士と同じ数だけ立てられて、風をはらんでいた。風は西の彼方に霞んで見える山なみから吹きつけ、建設中の城壁の上空を越えて、東の地平線へと去っていく。その明るい眺望を、魚支吾は気に入っていた。
〈征〉の国都、臨城《りんじょう》も大きな城市で、強固な城壁に囲まれている。ただ何代にもわたっての国都であり、城壁は必要に応じて改築と拡張をくりかえしているために、城市全体としてはひどくいびつな形となっていた。城壁の内部も、路が狭く曲がりくねり、場所によっては迷路になって荷を運ぶのにも難儀するようになっていた。また、城市の一画には他国から逃れてきた流民や無頼が棲みつき、治安が悪くなっている。
人口に見合った水などの確保の問題、他国との交通の問題もある。その他諸々を考え合わせると、臨城はいかにも古く、手狭で不便だった。なにより、魚支吾によれば、
「臨城は、〈征〉公[#「公」に傍点]の国都だ」
現在の支吾は「公」ではない、〈征〉王であり、都は王に相応しい大きさと威容とを備えていなければならなかった。
もっとも、王とは名乗ったもののかつての〈魁〉ほどの版図も支配力も、まだない。〈征〉公領と、〈魁〉と〈奎〉の旧領だけが、はっきりとその支配下にある土地である。ただ、国境を接している小国群がそれぞれの領主を擁してはいるものの、魚支吾の言うがままであるから、事実上の属国といってよい。〈征〉の力の及ぶ範囲は、かつての〈魁〉の東方、三分の一強といったところか。
南方は、耿無影の〈衛〉に押さえられ、北方は〈容《よう》〉を中心とする夏《か》氏の国々が抵抗の構えを見せている。だが、いずれは彼らも支配下に入るようになる――入れてみせる。
そうなった暁には、この新しい城市は〈征〉の中心に位置する都となる――。
魚支吾の視野には、十年後、二十年後の風景が入っていたのだった。
城壁の上を緩やかに進む魚支吾のかたわらに、小冠を着けた細面の男がひとり、ぴたりと従っていた。
「〈鄒《すう》〉の出方は、どうだ。伯要《はくよう》」
魚支吾の突然の質問にも慌てることなく、
「先日、使者を送ってきて以来、おとなしくしておるようで」
細い口髭をはねあげて、即座に応えた。年齢の頃は三十歳と少し、小壮気鋭の学者といった風貌である。五十歳少し手前の魚支吾の堂々とした身躯に比べれば貧弱に見えるが、主君の前で傲然と頭を上げている態度は不遜でさえあった。また、礼にこだわり建設現場の視察にさえ威儀を整えた魚支吾が、そんな態度を許しているのも奇妙と言えば奇妙だった。少なくとも、かすかに鼻先で笑ったのは、この男に対してではない。
「〈鄒〉は、〈衛〉にも急使を走らせている。万一、孤《こ》が踏み込んだら助けてくれるようにとな」
と、向けた視線は南の方向。霞む風景の中にきらりと、川面らしいものが光っている。その河の向こうは〈鄒〉という小国領であり、その国主も例にたがわず王を名乗っているが、一国で覇を唱えるだけの国力も才能もない。大国にすがって生きるより方途はないのだが、南に〈衛〉を抱えた上、こうして河北の長泉の野が〈征〉の物となると、どちらに味方することもならず右顧左眄するしかないのである。
〈鄒〉が、〈征〉と〈衛〉と双方に臣従の約束をしているのは、双方ともが知っている。耿無影は〈鄒〉の使者を盛大な宴でもてなしたが、自身は一度も会わなかったそうだ。魚支吾は会うことは会ったが、建設中の城市へ使者を送ってきた非礼を口頭で伝えた。どちらも、ひと息に踏みつぶせる小国の存在など、たいして気にかけていなかったのだ。
「せいぜい、かけ引きの材料になってもらおうよ」
他国の鼻先で大がかりな土木工事を起こしておいて、この言い草である。だが、魚支吾にはその言葉を現実のものにできるだけの自信と能力があった。
力とは、支吾自身の力だけとは限らない。たとえば、才能を持つ者を集め、使いこなすのも力の意味の範疇《はんちゅう》に入れられるだろう。そして――。
「作業の進み具合は」
「今年中には、濠《ほり》と外壁の土台部分の工事は終えられましょう」
言いながら、白い| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》を懐から取り出した。風に流すように広げると、ふわりと解けて一枚の図面になった。
「濠は浅めに、幅を広めにとります。外壁の土台は十分深く杭を打ち内部を石で固め、下部は日干しの磚《せん》ではなく焼きしめた物を用いて、水の対策といたします。これで、よほどの大雨が続いたとしても、土台から崩壊することは防げるでしょう」
流暢に説明をする。ただし、これは魚支吾も何度か聞いたことで、これからの一席の前口上のようなものだった。
「この南門から、まっすぐに北へ一本、街なみを貫いて大路をつけます。城内の道は、すべて東西南北の直線にして、幅は狭いところでも四丈(一丈=二・二五メートル)以上。この中央に、王宮を」
布を持ち直して、位置と広さを示した。
「王宮の建物の図面は、昨夜、お目にかけたとおり。背後は禁苑《きんえん》といたしますのも、以前からの予定どおりです」
この城市の計画は、彼ひとりで練り上げたものだ。その上、長泉の野に留まって実際の建設の指揮も執っている。それだけでも、たいした才といえた。さらに、計画に一年、実際に着手してから一年と少しで、ここまで工事を進めたのは、綿密な計画をたて工具を工夫し、〈征〉国内からかき集めてきた人夫を効率よく働かせている彼の手柄でもあった。
「都が完成するのは、約十年の後。早ければ、八年ほどでしょう」
伯要と呼ばれた男は、ここでようやく頭を下げた。呼吸をはかったように、支吾の厳格な顔にようやく満足の微笑の片鱗らしきものが浮かんだ、と見るや、
「お願いが、ひとつございます」
ついと頭を上げて主を見た時には、すでに頼み事をする態度ではなかった。
「何事だ」
「私に地所をいただきたいのです」
「領地ならば、好きな城をやると以前から言っているではないか」
「いえ、封地ではなく、地所です。一棟、建物を建てられるだけの場所を、この新都に。それも、禁苑の中に」
新都、という言葉を、彼はわざと用いた。
「禁苑の中に? 何を建てる気だ」
さすがの魚支吾もいささか虚を衝かれて、まじまじと相手を見た。
「――太学《たいがく》を創設したいと思います」
鋭い支吾の視線をはねかえすように胸を張って、彼は応える。
「そして、私を太学の長に任じていただきたいのです」
太学とは、学問所の建物をさす。〈魁〉の王家に付属した国の最高学府をこう呼び、王族と〈魁〉の士大夫層、他国の国主の血縁を入学させた。〈魁〉が滅亡した時、当然、太学も消滅している。それを、〈征〉の元で復活させたいというのである。
「儂に、礼学《れいがく》の徒の後援者になれと申すか」
魚支吾は奇妙な表情をつくり、しばし沈黙した。
実をいえば、禁苑の内に学問所を設置することはすでに予定に入っている。先年、〈魁〉が滅んだ際、義京《ぎきょう》在住の学者たちが大勢、戦乱を避けて他国に逃げている。その者らの大半は現在、〈征〉の臨城に迎えられ手厚い保護を受けている。いずれ、〈征〉が中原に覇を唱えた時には、彼らが〈征〉の正統性を史書に記してくれるだろう。これ以上の学問所は必要がない。
「どういう魂胆だ、漆離伯要《しつりはくよう》」
強い口調で、詰問した。ちなみに、漆離が二字姓、伯要が名である。
「お聞きとどけ、いただけませぬか」
「今まで何ひとつ望まなかったおまえの希望、しかも出費としてはわずかなことだ。聞き届けてやるにやぶさかでないが、今少し、おまえの心底が知りたい」
「では、申しあげます」
卑屈になるでなく萎縮することなく、静かに彼は語り始める。
「まず、礼学の徒と仰せられましたが、私は太学で礼学を教える気はもうとう、ありませぬ」
「礼学でなければ、何を教える」
礼学とは主に君臣の間の礼節や人の守るべき義を説き、その理論に沿った儀式を司る学問である。〈魁〉の太学で教えられていたのも、また各国の国主が必ず学んでいるのも、この礼学である。ただし〈征〉だけは伝統的に礼学を敬遠し、特に魚支吾は法派《ほうは》、刑学《けいがく》と呼ばれる厳罰主義を採《と》ってきた。
礼学を軽視したわけではない。学問自体の保護こそしなかったが、礼学はひととおり学び、礼学徒の漆離伯要をも登用した。だが、それを国学と認める気はいっさいなかった。
「礼学は、中身が空だ」
形式ばかりを重視して、内容が伴わないというのである。本心から君臣の序だとか礼儀だとかを守っていれば、〈魁〉王が太宰子懐《たいさいしかい》に弑されるような事態は起きなかった。――もっとも、礼学が形骸化したからこそ、魚支吾が太宰子懐を操る余地もあったのだが。
漆離伯要は礼学徒にもかかわらず、頭の中にはさまざまに実用的な知識が詰まっていたから、側近にとりたてたのだ。個人を評価したのであって、礼学を採用したわけではない。その意識があったから、魚支吾は漆離伯要の申し出をよけいに奇異に感じたのである。
「私は礼学を学びましたが、私には私なりの学問があります。礼学にも礼学のよいところがありますし、私の見るところ、刑学にも欠点があります。長所を採り欠陥を埋め、実用の知識をも持つ人材を育てることこそ、この新都を永代《えいたい》のものとする礎《いしずえ》になると思います」
つまり自分の説、自ら興した学問を教え広めようというのである。ある意味では、これほど不遜な望みはない。太学で教えるということは、〈征〉国内の優秀な人物に彼の思想がたたき込まれるということ。〈征〉が勢力を拡張すれば、それにともなって黙っていても彼の教えも広まる。〈征〉が天下の覇権を握れば、自動的に漆離伯要の説も天下を制するということだ。
「たいした自信だ」
漆離伯要の言の意味するところが理解できない魚支吾ではない。だが、彼は薄く笑ったのみだった。
「己の学問が、それほどに正しいと思うか」
皮肉まじりに問われても、伯要は動じない。
「それを確かめるために、太学をとお願いしております」
「試す、というのだな」
「――ご存知でしょうか。〈衛〉の耿無影が国内から優秀な若者を膝元に集め、学問を授けているとか」
不意に、漆離伯要は話題を変えた。
「知っている」
当然、諜者は〈衛〉にも多数放たれている。耿無影のこの教育は、三年前、彼が〈衛〉を支配した直後から始まっていた。
「耿無影は、身分の上下を問わず、自薦他薦にかかわらず、これといった才能があれば瀘丘《ろきゅう》に集めております。まだ、二十歳になるやならずの若僧ばかり、しかも身分の低い者が多いと申します。〈衛〉の士大夫どもは、文字もろくに知らないような連中に何ができるかと横目で見ているふしもありますが――」
「つまり、儂に耿無影の真似をせよと申すのだな」
「耿無影のやりようには、不備も多々あります。ですが、良いことは学んでも恥にはなりますまい」
「良いと、思うのか」
「身分があれば、才能もあるというものではありますまい」
辛辣な言葉を、毒のない調子でさらりと口にした。うかつな者なら皮肉を言われたことに気づかないほど、あっさりとした口ぶりだった。むろん、魚支吾は気づいている。その上で、
「そのせいか」
ひとり、うなずいた。
「最近ここで働く者からの訴えが続いておるぞ。漆離伯要は卑しい者の肩ばかり持ち、士大夫に過酷で不当な罰を与える。横暴で傲岸、鼻持ならぬとな」
「過重な労働を強いていたり、水や食料、必要な物資が不足しているのなら、非難も受けましょう。ですが、要求された働きもできぬ者が罰を受けるのは当然、懸命に働く者が報奨を受けるのも当然でしょう。故意に怠けた者はこう、物資を着服、横流しした者はどうと細かく法を定め徹底させてあります。これは、刑学の理論にも合致《がっち》したこと。〈征〉の国法に背いたこともありませぬ。私は、その法に照らし合わせて処分を下しているだけのこと。法は、文字を知らぬ者にもいちいち読み聞かせております。まさか、文字の読める士大夫方がそれをご存知ないとは思えませぬ。ならば、同じ罪をおかして、庶民には重く士大夫には軽い罰というのは道理に合いませぬし――都など、いつまでたっても完成いたしませぬでしょう」
長広舌を一気に言い切って、ようやくそこで初めて魚支吾の反応をうかがった。
気にいらなければ、どのようにでもしろといった態度が顔にも身体にもあきらかに現れている。
「おのれに、誤謬《ごびゅう》はないといいたげだな」
「間違っておりましたら、まず、人がついてまいりますまいし〈征〉の発展も望めますまい。今のところ、この長泉で働く者らの半分以上は、私のやり方に賛同しております」
つまり、庶民たちの支持を受けていると言うのだ。賛同しているからこそ、指示に従い、効率よく働いているのだとも言える。たとえば、ここで漆離伯要が長泉の責任者から外されれば、実際に土を運び石を積む連中が今までどおりに働くか、心もとない。そして、士大夫が何人集まり頭ばかりを使ったところで、壁ひとつ作れるものではない。
「とりあえず、長泉で私のやりようを見ていただきます。お望みどおりの都が、期限よりも早く完成すればよし。できなければ、私の考えが誤っていたのですから、そのおりにはいかようにもご処分を」
「正しければ?」
「私に任せていただければ、覇を中原に唱えることがかないましょう。それも子々孫々にわたり――我らが去ってなお、〈征〉は未来永劫、存続することも」
この新都を、そして〈征〉王の名を、一代限りで終わらせるつもりは、当然、魚支吾にはない。だが、彼自身はあと、五十年も生きられまい。息子が五人もおり、後嗣には何の憂いもない支吾だが、それでもやはりこの言葉は魅力的だった。
「失敗してから、おまえを処分しても手遅れだが――」
鼻先で笑った声が、魚支吾の返答だった。失敗を恐れて行動を起こさないのは、魚支吾の性格には合っていない。十分な準備は行う、時を待つ忍耐も合わせ持つ。だが、何もしなければ何も始まらない――。そして、漆離伯要はその主君の性格を、ほぼ正しく見抜いていた。
「しばらくは、好きにしてみるがよい」
そんな言葉で、許可の言質《げんち》を与えたのである。
「そうさせていただきます」
と、漆離伯要の態度は、微塵も変わらない。彼にとっては、当然のことが認可されただけのことなのだろう。だが、
「これからも、頭の堅い方々――たとえば禽不理《きんふり》どのあたりが、いろいろと申し上げることもあるかと思いますが」
ここで、急に強く吹きつけてきた西からの風に言葉を途切れさせ、いっせいに鳴りだした籏の列を見やった。
「私はそれ相応の思慮があって事を進めておりますし、いつでも釈明の準備はできております。ご不審の件がありましたら余人に尋ねず、私に直接、ご下問くださいますよう。かならず、得心いただけるはず。これだけは、くれぐれも」
声に、今までとは異なった力がこもった。それに応えた魚支吾の声も、
「安堵せよ」
短かったが、低くずしりとした重みがあった。彼にとっても、都が完成するまではどうしても必要な人材なのである。
「他の者らが嫉妬しておるのに気づかぬ孤ではない。孤も、理由もなくおまえを重用しているわけではないし、他の者を故意に退けている気もない」
讒言《ざんげん》に惑わされるような暗君ではないぞと言外ににらみをきかせてから、ふと、門の外に広がる野に目をやった。
「――急使か」
「の、ようでございますな」
しかも、使者の車のたてる砂塵は東西の二方向から同時に、こちらにむかっている。
「下で、待ちましょう」
うながされて、魚支吾はわずかに不快そうな表情を作った。もっともそれは、西の強風が顔に直接吹きつけたせいだったかもしれない。
ともあれ、門下に設けられた帷幄《いあく》の中で魚支吾は息も絶え絶えの使者ふたりと、対面した。東から来た使者の方が疲労が激しく、乗ってきた車の台から零《こぼ》れ落ちるように降りると、その場で動けなくなってしまった。西方からの使者は巨鹿関で役目を引き継いだために、息も意識もはっきりとしていた。ひと足早く魚支吾の前へ進み出ると、形どおりの礼を執り、
「陛下には、み気色うるわしく――」
口上を述べるだけの余裕もあったが、支吾の方がそれを中断させた。
「いかがした。申せ」
「〈琅《ろう》〉の諜者からの報告でございます。〈琅〉公、藺珀さまが先日、薨《みまか》られた由《よし》」
「死んだか」
感情のない声が、淡々と事実を確認した。
「幾歳であった」
「二十一歳と、うけたまわっております」
「若いな」
さっきよりは声に感慨が混じった。
「たしか世継ぎはなかったはずだ。次の〈琅〉公は」
「伯父の箕《き》が即座に公を嗣ぐ旨、宣言いたしましたが、それに不満を抱く者らが、いまひとりの伯父の昴《ぼう》を担ぎ出す模様」
「内乱になるな」
言外に、こちらが手を下すまでもなく、という声を聞きとって、漆離伯要がうなずく。
「しばらくは、静観した方がよさそうに思われます。趨勢《すうせい》を見て、どちらかに支援を送っても遅くはありますまい」
支吾もまったく同感だったから、おもむろに肯首する。どちらにしろ、〈琅〉は〈征〉からは遠すぎるため、及ぼす影響も及ぼされる脅威も少ない。いずれは、支配下に組み入れるべき国ではあるが、それはすべての最後だ。
「――臨城からの使者は」
声に応じて、ようやく男が現れた。正確に言えば、帷幄の中に引きずりこまれてきた。皆して水を浴びせたのだろう、上半身は黒々と濡れてまだ息づかいも荒かったが、正面に威儀を正す国王の姿を見ると、懸命に頭を上げ声を絞り出そうとした。
「も、申しあげます」
口上はなかった。許可も待ってはおらず、直接、支吾にむかって噛みつくように口を開いた。
「一大事でございます。三公子さまが」
「――傑《けつ》が、いかがした」
三男で、正妃の子でもある若者の名を口にした時、すでに魚支吾の胸中には不吉な予感が走っていた。いや、鈍い胸の痛みが、同時に彼の身体の内部を貫いていたのである。
「三公子さまが、大公子さまを」
「儀《ぎ》を――?」
妾腹ながら、もっとも期待をかけている子である。最年長でもあり、いずれ、太子にたてる心づもりをしていたが。
「口論の末、大公子さまを刺殺なさいました――!」
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第三章――――――――交錯
(一)
「玉璽《ぎょくじ》を、貸せ――?」
夏子明《かしめい》の生白い顔に向かって、大牙《たいが》はいぶかしげな表情を作ってみせた。さほど難しいことではなかった。
「玉璽とは、〈魁《かい》〉の璽のことですか。詔勅《しょうちょく》に押されていた、あの」
「いかにも、〈魁〉の玉璽。衷王《ちゅうおう》陛下亡き後、行方不明になっているはずのもの。貴殿なら、よくご存知であろう」
「見たことぐらいはあるが――何故、それを俺に貸せといわれるのです」
「決まっている。貴殿が持っておられるからではないか」
夏子明の顔が笑うのを、大牙は気味悪く感じながら見ていた。三十年配、そろそろ四十歳に手の届く壮年の男が、女のように色白なのがまず気にくわない。丸みを帯びた顔が全面で笑顔を作っているのに、細い眼だけが冷ややかにこちらを観察しているのも、よく承知はしていても好感を持つことはできない。〈奎《けい》〉の滅亡以来、世話になっているという負い目がこちらになければ口をきくのも嫌な大牙なのだが、今回ばかりは我慢をして、夏子明の口説《くぜつ》を最後まで聞かねばならないのだ。内心でこの状況を仕組んだ淑夜《しゅくや》を呪いながら、大牙は芝居を続けた。
「――誰が、そんなことを言いました」
怒ったように相手の出方を探るように、思わせぶりに、しかし強く出るように。難しい注文を、あらかじめ淑夜からつけられていた。が、どこまでそんなふりができたかは、大牙には自信がない。
「誰でもよかろう、そんなことは――」
「持ってもいないものを持っているなどと、虚偽《きょぎ》を言いふらされたのではかないません。先々のこともある。事の真偽をはっきりさせて、抗議する。いや、事と次第によっては――」
「騒動を起こしてもらっては困るぞ、大牙どの。まして、相手は真実を告げてきておるのだ。名を明かして、貴殿が逆恨《さかうら》みでもしたら気の毒だ」
「逆恨み?」
わざと色を成して怒ったふりをする。いや、実際に対してみると、いちいち夏子明の言いようが気に障って本当に腹が立ってきた。
「逆恨みとは、どういうことだ。いったい、俺が玉璽を持っている証拠でもあるのか。あれば、出してもらおう。だいいち〈魁〉はもう滅んだのだ。その玉璽を使って何をする気だ。| 詔 《みことのり》を出すほどの、どんな大事があるという。聞かせてもらおうか」
軽く激してくると、大牙の言葉づかいは荒くなる。ふだんは年長者の夏子明を立てて礼を執っているが、家格から言えば伯家の当主同士で位は同等、〈魁〉王家との関係の濃さから言えばわずかに〈奎〉の段大牙の方が上位になる。その意識が、大牙自身、自覚すらしていない驕《おご》りとなって現れるのかもしれないが――今回に限っては、これはなかばは演技だった。
そもそも〈魁〉の夏氏の血をひく一族といっても、段氏の始祖は功績をあげて家を立て、〈奎〉に封じられている。分家が血筋だけを理由に封地を与えられた〈容《よう》〉とは少々立場がちがう。〈魁〉と境を接するという地理的な近さがまず、段氏への〈魁〉宗家の信頼の深さを示しているし、何代も婚姻を重ね宗家とともに生きてきた支族という自負が〈奎〉の方にもある。〈容〉や〈胥《しょ》〉も、宗家へは娘を何度か送りこんでいるが、血の濃さからいえば〈奎〉にははるかに及ばない。また〈魁〉が滅ぶ前、〈奎〉は一国でも戦う姿勢を見せたのに対し、〈容〉や〈胥〉は段士羽《だんしう》に説かれるまで腰があがらなかった。引け目というほど確かなものではないが、つい、大牙が強く出ると腰がひける傾向が夏子明にはあった。しかも、それを夏子明自身、快く思っていないだろうということは、推測するまでもないことだ。
「――だから、遠慮せずに高圧的に出てください。〈容〉伯を怒らせることができれば、成功ですから」
と、大牙はいい含められている。だから、
「どうせ、ろくでもないことに使うのでしょう。詔と称して女でも集める気ですか」
決めつけた。
夏子明には、妻妾が合わせて十人いる。男が複数の妻を持つのは常識だが、それにしても十人は多い方だ。しかも、これで足りずに見目《みめ》よい女がいると聞けば道の遠近を問わずに出かけていくという話で、厳格な家臣たち――殊に、家宰《かさい》をつとめる遠縁の夏子華《かしか》あたりの反感をかっているのだ。夏子華がほどほどにと忠告すればするほど、夏子明は依怙地《いこじ》になる。すると、子華らの反発も強くなる。きっかけは些細な事なのだが、この国の君臣の間では深刻な問題となりつつあった。むろん、大牙もそのあたりの事をふまえた上で、好色を皮肉ったのだが、効果はてきめんだったようだ。
「みそこなってもらっては困る!」
目の前の卓《つくえ》を平手で叩きつけて、夏子明は立ち上がったのだ。大牙に比べればしまりのない掌《て》は、よく響く音をたてた。これで殴られても痛くはないなと、大牙は頭の片隅で考えていた。
「お、女などと。私を、この大事に女のことを考えているような腑抜けだと、思っておられるのか、段大牙」
「落ち着きなさい」
大牙は、低い位置から冷たい視線を相手に浴びせた。
「わ、私に命令しようと? そもそも、貴殿は――」
「命令? とんでもない。食客の分際で、〈容〉伯に命令など。ただ、聞かせてもらわねばわからぬと言っているだけです。仮に俺が玉璽を持っているなら、それは俺の所有物。相応の理由がなければ、渡せぬのが道理。安易に貸し借りできるものではない」
「――理由を言えば、寄越されるのか」
夏子明の眼底が、光ったような気がした。大牙は、腹の底で舌打ちをした。もともと好感など覚えたことのない相手だが、それにしても今日の夏子明は特に不快だった。
「持っていないものは、渡せませんな」
あくまで、大牙はしらを切る。
「だが、詔書が必要になるほど大層な事件が、今、〈容〉のどこにある。まさか、今ごろになって〈征《せい》〉にむかって、宣戦をなさるわけではないでしょう」
皮肉っぽい調子をあからさまにすると、むっとしばらく口を曲げて考えこんでいたが、ようやく口を開いた。
「……〈貂《ちょう》〉だ」
「〈貂〉伯が、どうかしたんですか」
「そもそも、これは貴殿のためなのだぞ。〈貂〉伯の娘を貴殿の妻女にと申し入れたところ、けんもほろろの返事を寄越したではないか」
「あの件なら、こちらから願い下げだった」
大牙は当然のことながら、まだ妻帯していない。少なくとも、正式に室《しつ》に迎えた夫人はいない。〈奎〉に居た頃に侍女と関係があったこともあるらしいが、側妃に立てる前に〈奎〉が滅び、それどころではなくなった。もともと夏子明とは正反対で、女にかまけているより戦の方が性に合っている漢《おとこ》である。〈容〉に亡命した直後から何度か、妻を迎えるようにという勧めもあったが、大牙はいっこうに興味を示さなかった。
「家臣も養えぬのに、妻子など」と食客の身を理由にことごとく断っていたのは、ひとつには、婚姻によって特定の一国と堅く結びついてしまうことを避けたい気があったからだ。どの国の娘を娶《めと》るにせよ、結婚したその時から大牙は〈奎〉の当主ではなく、某家の女婿《じょせい》として扱われかねない。それでは、〈奎〉の再興などおぼつかなくなる――。
逆に〈容〉伯にしろ他の夏氏にしろ、婚姻によって大牙を自国内に取り込みたいと画策していた。〈貂〉伯からも、娘を大牙の妻にという申し入れはあったのだ。ただし、〈貂〉伯が送り込もうとしていたのは庶腹の娘であり、大牙本人も最初から断るつもりだった。それをこじれさせたのは、〈容〉伯の容喙《ようかい》である。
夏子明は、〈奎〉伯の妻には正嫡の娘をよこせ、しかも〈容〉伯の養女分にした上でと条件をつけたのだ。夏子明の身にしてみれば、せっかくここまで庇護してきた大牙を横合いからさらわれるような真似をされてはかなわない。自分に適当な娘がいれば、無理にでも押しつけているのだが、あいにく年頃の娘は皆、幼時から婚約を決めてあらかた嫁がせてある。このままでは、〈貂〉伯に大義名分の大牙も夏氏の主導権も持っていかれると焦った子明の窮余の策だったのだが、当然のことながら、〈貂〉伯には一蹴された。以来、以前から抱えていた国境の問題もあって、〈貂〉と〈容〉の間はしっくりといっていなかった。
(子明め、今のうちに、どうでも〈貂〉の頭を押さえておきたいらしい)
大牙は腹の底でつぶやいた。
夏子明が〈貂〉の名を出した時点で、あらかたの見当がついていた。そうなるだろうと、淑夜が予想したとおりの方向へ、夏子明の思考は動いている――いや、これも間接的に淑夜によって誘導されているのだとは、夏子明本人は夢にも思うまい。
「なにも、〈貂〉と戦をかまえようというのではないのだ」
いったん唇を湿して、夏子明は弁解を始めた。
「この時期に夏氏の内部で戦など起こせば、たちまち〈征〉に攻め込まれる。それぐらいのことは、私にだとてわかる。少しばかり、脅しに使うだけだ。〈貂〉伯が頭を下げてこちらの面子をたててくれれば、それでことは済むのだ。むろん、詔書は貴殿の名で発する。これを機会に、貴殿を夏氏の王として立てる。どうだ、悪い話ではあるまい……」
確かに、考えようによっては悪い話ではない。夏子明に働かせ権力を持たせて、飾り物の王になっているだけの気ならば――もしくは、上に立って夏氏を束ねていく器量がなければ、だ。
だが、大牙にはその気がない。そして、少なくともこの夏子明よりは上に立つ器量がある――そう思っている。ならば、取る手段はただひとつだ。
(――戦は、私も望みません)
大牙の脳裏に、淑夜の言葉が甦る。
(また、手に乗ってうかうかと〈衛《えい》〉の兵を引き入れるほど、大牙さまがうかつだとは――無影《むえい》も思っていないでしょう。戦を起こす必要はありません。うまくいけば)
そこでいったんためらい、唇を噛み、めずらしくはっきりと決意の色を眉のあたりにうかべた淑夜の顔色まで、思いだした。
(――うまくいけば、夏子明どのの首ひとつで、〈容〉を手に入れることができるでしょう)
(悪い男ではないのだ)
黙りこくった大牙を同意しかけているものと思い、熱弁をふるいたてる夏子明の顔をじっと見ながら、大牙はそう思った。嫌いではあっても、殺したいほど憎んだことはない相手である。
子明は子明なりに、夏氏のことを考えている。頭の回らぬ男でもないし、一国の主としての器量もある。大牙という存在がなければ、彼が夏氏を束ねてもおかしくはない。
(悪い奴など、いないのだ。誰もが、それぞれに己の最善を尽くす、よかれと思って行動を起こす。だが――)
利害がぶつかれば、譲歩するか、相手を排除するしかない。大牙は、夏子明に道を譲る気は一切なかった。
「どうであろう、大牙どの。是非とも、玉璽を――」
「だめだ」
大牙は短く、だが、はっきりと拒絶した。
「どうあっても――!」
「持っていないものを、貸せという方が無体というもの。もしも俺が持っているというのならば、証拠を見せていただきたい」
「そうか……、そこまで言われるのなら是非もない。手の内を明かそう。証拠はなくとも証人がいるのだ、大牙どの」
「証人……?」
怪訝《けげん》そうに振り向いた大牙の視線の先に、真っ青な顔があった。壮年の男だった。細面で、おっとりと優しく整った顔だちをしているが、少し反った歯並びと上目がちの視線が、美男と呼んでもよいその面を卑しいものにしていた。
「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》、おまえ――」
「わ、儂《わし》は何も、何も」
子明の手の者に背後から押さえつけられていなければ、その場から風をくらって逃げだしていただろう。
|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器――〈衛〉の耿無影の寵姫、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》の叔父にあたる。〈奎〉との戦に敗れた責任を問われ投獄されていたが、逃亡。〈魁〉の滅亡のおり、こともあろうにその〈奎〉の一行が敗走するところに行き合い、そのまま大牙に従って〈容〉に入った。立場としては淑夜と同じだが、大牙にとっては余分な荷物以上の何物でもない。それが、密告者としてこの場に現れたのだ。大牙の表情がみるみる変わるのを見て、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は縮みあがった。
「儂は何も知らぬ。見てもおらぬ。大牙どの、信じてくれ」
「今更、何を申される。〈衛〉の右将軍を務めたほどのお方が、そうあっさりと前言を翻されては困る。玉璽を見たと、深夜にここへ駆け込んでこられたのは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どのではなかったか。大牙どのの邸にはもう戻れぬから、保護してくれと泣きついてこられたのも、おぬしではなかったか」
せせら笑ったのは、夏子明である。
「玉璽を見た――? どこで見たと言う」
大牙の眉が、けわしくなる。
「大牙どのに、申し上げよ。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器」
「そ、それは……」
「言ってみろ!」
あやすような夏子明の声、そして、きっぱりと命令する大牙の、裂帛《れっぱく》の声。
「苳児《とうじ》どのが――玩具《おもちゃ》にしているところを」
「莫迦な」
大牙が吐き捨てた。安堵の色を、隠さない――いや、わざと声音にあらわす。
「こんな戯言《ざれごと》を信じられたのか、子明どの。一国を動かすほどの物を、女児の玩具に与える莫迦がどこにいる。おおかた、苳児の装身具かなにかを見間違えたのだろう」
「ほう。装身具から、こんな型がとれるものであろうか」
夏子明の声とともに、大牙の脚元にころがされたものがある。鈍い音のする、手の中に入るほどの物は、乾きかけた泥の塊だった。封泥といって、文書の綴目《とじめ》に押して機密を保つための、肌目《きめ》の細かな泥である。拾いあげたその泥の表面に、方寸(二・二五センチ四方)の印がくっきりと押されているのを大牙は見た。
『受命於天《じゅめいおてん》』
〈魁〉の玉璽と同じ大きさ、同じ文言である。さらに、大牙の脚元に一枚の| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》が広げられる。かつて〈容〉伯に送られた詔書の一枚だろう。その末尾の赤いものもまた、〈魁〉の玉璽の印面だ。両者がまったく同じなことを、大牙は手に取るまでもなく知っていた。――実は、封泥の型の下隅が、ほんの爪の先ほど缺《か》けていることまで承知していた。
〈魁〉を滅ぼし衷王を弑した太宰子懐《たいさいしかい》のふところから、この玉璽は取り出された。彼を殺した剣が、玉の角をも缺いていたのだ。太宰子懐を殺した漢から大牙はこれを譲られ、今までずっと秘してきた。玉璽の存在を知っていたのは、他には淑夜ただひとり。そして――苳児の過失にみせかけて、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の目の前に玉璽を放りだすように仕組んだのも、淑夜であり大牙本人だったのだ。
「――よくも」
封泥を手に、大牙は叫んだ。叫びながら、泥を|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器に向かって投げ付ける。投げながら、掴みかかろうとする。手が|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器に触れる直前に、大牙自身の衣服が掴まれ、何本もの手が大牙の手足を押さえつけにかかった。あらかじめ、衛士を室の周囲に伏せてあったのだろう。
「貴様、助けてやった恩も忘れて――」
がんじがらめに押さえられて、大牙は吠えた。動けないにもかかわらず、すさまじい気迫だった。
「ぼ、忘恩の徒は、ど、どちらじゃ!」
|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、悲鳴をあげた。豚が締められるような声だと、その場に居る者全員が思ったようだ。
「〈容〉伯殿下の恩も忘れて、え、〈衛〉と手を組もうとなさったのは、大牙どの、貴殿であろうが!」
「でたらめを言うな。それこそ、証拠があるか!」
「〈衛〉の使者と、逢っておられたではないか」
「おまえが見たのか。どこの何という奴が、来たのか言ってみろ!」
「…………」
言えるわけがない。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が見たわけでもない。野狗《やく》は、必要のない人間に姿を見られるほどのろまではない。すべて、これはあらかじめ淑夜に吹き込まれたことなのだ。それを鵜呑みにしているだけだ。淑夜も、肝心要の点は教えていない。
(|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どのを操るのは、容易です。あの方は自分を策謀家だと思いたがっておられますから。ならば、そのとおりの役割を演じてもらいましょう。〈容〉伯に取りいりたがっている、策謀家の役を)
言葉に詰まった|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器に、夏子明の視線の色が変わったのを大牙は確認した。ここまで|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を信じていたのが、にわかに疑念がまぎれこんだという調子だ。
「わ、儂は――」
「見ろ、子明どの。こやつの言うことなど、信用ならぬ。この封泥の型だとて、偽物だぞ。離せ。この連中に、手を離すように言え」
「だまされぬぞ、大牙どの。偽物ならば、何故に激した。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を責められた」
今度は、大牙が言葉に詰まる番だった。――さすがに一国の主だけのことはある。物を考える頭はあると、内心では思っていたが。
「お持ちなのであろう」
「――知らぬ」
「ご存知のはずだ」
「知らぬ。知っていても、忘れた」
「ならば、思い出していただこう。玉璽の在処《ありか》を」
「嫌だと言ったら――? 拷問にでもかけるか」
「まさか、そんな野蛮な真似はせぬよ。ただ、思い出すまで、邸には戻れぬと覚悟するがよい。あちらに残っている〈奎〉の方々も、一歩も外には出られぬ。大事な姪姫にも、逢えぬだろうな」
「こんなことをして、無事にすむと思っているのか!」
「無事――? その、無事のためにこんな手段をとるのだ」
夏子明は拳を握りしめた。
「夏氏の国の結束が必要なのだ。〈魁〉を復興する国は、ひとつあればよい。だれかが盟主になって、ひとつにまとめねば、やがて一国ずつ〈征〉に滅ぼされてしまうのだ。そのために、玉璽は是非とも必要なのだ――」
その論理は正しい。だが、玉璽を奪われ存在を利用される大牙には、異論もある。
「玉璽を――」
「知らん」
最初から話す気などなかった。
「――こやつを、監禁せよ。決して目を離すな。なんとしてでも、玉璽の在処を白状させる。覚悟するがいい」
背筋を伸ばし衛士に命令を下す夏子明は、自信に満ちていた。その陰で、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が蒼い顔をしてうつむいていた。引きずられていきながら、大牙はそれだけのことを目の中に入れていたのだった。
夏子明の招きで大牙が邸を出ていってから、淑夜は一刻(二時間)の間ほど、間合いを計っていた。目立たないように歩きまわって、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の姿もないことを確かめると、桑畑の農具小屋に戻って手早く身支度を整えた。裾も袖も広い寛衣から、窄袖《さくしゅう》で裾の短い戎《じゅう》族風の衣服に着替える。袴《こ》を付け長靴《ちょうか》に脚を無理やりに押しこんだ。わずかな脯《ほじし》を入れた袋だけを持ち、いつも手離さない杖に頼って腰を上げようとしたところで、人の気配に気がついた。
「どこへ行くのです、淑夜」
「大牙さまのご命令で、旅に出ます」
戸口からのぞく苳児の問いにすらすらと答えて、淑夜は立ち上がる。
「どちらへ?」
「〈乾《けん》〉へ参ります」
「お使者が、何故そんな卑しい装《なり》をするのですか?」
「急ぎの用事なので、馬で参ります」
「超光《ちょうこう》で――?」
「はい」
少女の眼の中に好奇心とわがままとが湧き上がってきた。案の定、
「私も、乗りたい」
淑夜の服の裾をしっかりとつかんで、言った。
「乗せてくれるでしょう、淑夜。ねえ、いいでしょう」
「私は、大事なお役目で旅に出るんですよ」
「なら、私も行きたい。淑夜が行くなら、私も行く。ねえ、淑夜がいなくなったら、私、どうしていいかわからない。恐いのです。だから」
おそらく、本音だろう。この少女にはむろん、乳母も侍女もついているが、親身になって世話をしている者がその中にどれだけいるだろう。親兄弟を早くに亡くし、唯一の血縁の叔父は可愛がってくれるが不在がちである。頼りになる者は、傅役《もりやく》の淑夜しかいないし、淑夜もこの少女を彼なりに大切にしてきた。だが、淑夜の不在を、これほど不安がるとは、正直、予想していなかった。
「おそろしいとは――? 何も、恐いことなどありませんよ」
「恐い人が来るの、すぐそこまで来ているのです」
淑夜は、はっと苳児の眸《め》を見た。まさかとは思うが、この少女はこれから起きることを予知しているのだろうか。
――おそらく、半刻もたたないうちにここは〈容〉伯の手の者に包囲されるだろう。大牙が淑夜の指示どおりに応対していれば、そして夏子明と|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が予想どおりに動いてくれれば。
少なくとも、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の耳には情報を吹き込んだ上、自分ならどうするかまで細かく暗示した。〈衛〉の介入を示唆したのは、彼に逃亡か反撃かの二者択一を迫るためだ。追い詰められた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が大牙を裏切るのは、目に見えていた――いや、かなりはっきりとそそのかしすらしたのだ。自信過剰の|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、かならず淑夜の策を自らがたてたものにしたがり、やがて自分のものだと思いこむ。黒幕の存在はその時点で夏子明から隠蔽《いんぺい》できるはずだから、かなり思いきったことも言えたのである。
淑夜が今、逃亡の準備にかかっているのは、自分の身の安全のためではない。夏子明によって、玉璽の在処を追及されるだろう大牙の身を救うために行くのだ。それが、ひいては夏子明の失脚につながるはずだった。だが、それまでの間、大牙とこの邸に残った者が危険にさらされるのも事実だ。
それでも大牙には、人知れず野狗をつけてあるからまず心配ないが、邸の者の安全まではさすがの淑夜も保証できない。もっとも彼らに危害を加えても何の利益もないし、夏子明もそこまでは理性を失っていないはずだ。そこまで計算して、淑夜は計画を実行に移したのだが――。
「本当に、そんな気がするんですか?」
夜中の徘徊癖から推察できるとおり、わがままではあるが神経の細い少女である。もしかしたら、常人の察知できない勘のようなものが備わっているのかもしれない。
年端もいかない孩子《こども》を急ぎの危険な旅に連れ出すことには、躊躇《ちゅうちょ》を覚えた。苳児を連れ出せば、その不在はすぐにわかってしまうし、当然、淑夜ひとりの場合より足は遅くなる、追っ手の追求も厳しくなる。だが、服の裾をなおも離そうとしない少女を、力ずくでつき離すことは淑夜にはできなかった。
「――行きましょう」
服を掴むその手を取った。不自由な左脚を杖でかばいながら、厩に急ぐ。前もって馬具をつけられた騅《あしげ》の馬が待っていた。厩の他のどの馬よりも背が高く、すらりと均整のとれた体格のよい馬だった。中原のずんぐりと小柄な馬とは、あきらかに種が違う。ふだんから世話が生き届いているのか、毛並みも蹄もつやつやと美しい。その白いたてがみに手をかけて、
「超光――頼む」
淑夜はささやいた。人語を解してくれるとは思わないが、そう言うより他なかった。騅の馬は、苳児の方をじろりと見た。見たような気がしただけかもしれない。だが、淑夜が鞍の左前に下がる輪に苦労して脚をかけ、背中によじ登るまでおとなしくしていたのは事実だった。
鞍の右前側にも、もうひとつ金属の輪が革紐で吊してある。左側の輪は、三年前、赫羅旋《かくらせん》と五叟《ごそう》老人が考案した、馬に乗りやすくするための工夫だ。淑夜がさらに細工を付け加えたのは、左足の悪い彼が馬の背の上で身体をより安定させるためだった。
輪に右爪先を突き入れて、淑夜が待ちうけていた苳児の方に片手を伸ばした時だ。
邸の表の方から、ざわざわと人の声がたちのぼった。
「早く」
言うより先に鞍につかまりながら、同時に苳児が伸ばしてくる小さな手をとった。七歳の孩子《こども》の身体なら、淑夜でも片手で引き上げられる。横抱きに鞍の前に乗せると、手綱を軽くさばく。それだけで、超光と呼ばれた馬は開け放たれている扉から躍り出した。
邸の門がちょうど開けられ、一団の男たちが雪崩れこんでくるところだった。人の気配は、彼らと冀小狛《きしょうはく》をはじめとする邸の者らとの間で、入れろ入れないの応酬を演じていたものらしい。
国主の館で大牙の身に何が起きたか、予測すらしていなかった冀小狛は、当然のことながら、がんとして〈容〉伯のさしむけてきた兵の侵入をこばんだものと思われる。結果としては門を開かざるを得なかったらしいが、彼らが争ったわずかな時間が、淑夜には大きな利となった。
淑夜はひと目で状況を見てとると、ためらわずに馬を兵たちの中へ乗り入れたのだ。わっという悲鳴とともに、人波が割れた。
彼らとて武器は手にしているのだが、とっさには攻撃に移れない。おまけに乗り込んできた馬は、彼らがふだん見慣れているものとは、背丈から体格まで雲泥の差がある。超光は、戎華《じゅうか》将軍の一子、赫羅旋がなにより大切にしていた二頭の戎の馬のうちの一頭だった。名馬の産地である西方でも、この超光ともう一頭の追風《ついふう》ほどの駿馬はめったになかったという。それほどの馬が、猛り狂って走り抜けようというのだ。蹄にひっかかっただけでも、重傷を負うのは確実だろう。
淑夜は身体を低く伏せ、たてがみにしがみついていた。振り落とされないのが精一杯だったし、それで十分だと知っていた。この馬は、決して状況判断を誤らない。事と次第によっては人間よりも利口で、人はただ身を任せていればよいのだ。
超光は、一気に門を駆け抜けた。その名どおり、一条の光のようだった。
「追え――!」
その声を、淑夜ははるか後方で聞いた。〈容〉の国都の城門にたどり着くころには、背中の騒ぎもきれいに消え果てていた。まだ、夏子明の命令は城門にまでは達していないらしく、だれも阻もうとはしなかった。もっとも、超光の勢いを見れば、敢えて怪我をしようという者はいなくなるだろうが。
だれも超光に追いつく者はないのを確認して、淑夜は馬の首を西に向けた。傾きかけた陽の光が、淑夜の顔をまっすぐに照らしだしていた。
(二)
安邑《あんゆう》で唯一の高楼の上からは、管弦の音が絶えることなく降り続いていた。
「いい気なもんだぜ」
物陰に潜んだ人影から、ぽつりと言葉が吐き出されたが、それに対する返答はなかった。それが自分に対する否定ではないことを知っているから、羅旋《らせん》は、
「行くぞ」
ひとこと低く、指示を出して動きだした。〈琅《ろう》〉の安邑の国主の館では、昨夜から宴が続けられていた。といって、慶事があったわけではない。むしろ、その逆。国主、〈琅〉伯である藺孟琥《りんもうこ》が、二十一歳の夭《わか》さでみまかったのだ。本来なら、国中を挙げて喪に服さなければならないところが、後を継いだ――継いだと自称している伯父の藺仲児《りんちゅうじ》は、甥の遺骸を館内の一殿に安置まではしたが、あとは放置して、まず、酒肴《しゅこう》の用意を命じたのである。そのまま高楼の内に閉じこもり、一昼夜。内部でどんな騒ぎが演じられているのか、羅旋には知る由もなかったし知りたくもなかった。
仲児は、ころがりこんできた権力に目がくらみ、冷静な判断ができなくなっている。病弱だったとはいえ、甥の突然の死には不審の念ぐらいは抱いてもいいはずだが、一切そのあたりの追及はなかった。いくら、孟琥の死が歓迎すべき事態だとしても、事は実の甥の命、国主の身柄に関するのである。
もともと、感情が先走り欲望を制御できない性格だとは思っていたが、ここまで堕ちているとは思わなかった。むろん、羅旋から仕掛けた事態なのだが、釈然としないものがあった。とはいえ、如白《じょはく》側の人間として厳重につけられていた監視の目が、若い〈琅〉伯の死と同時に緩《ゆる》くなった。こうして夜陰にまぎれて抜け出し、館に侵入しても気がつく者はいなかったのは、たしかに好都合だ。
「まったくいい気なもんだ。今、ここへ如白が攻めこんでくれば、あっという間に〈琅〉を手に入れられるんだがな」
警護の兵ですら、ふるまい酒に酔っているのだ。これほどの油断はない。ただ、あいにく藺如白は今頃は、安邑から遠く離れた草原のどこかにいるはずだ。そして羅旋たちはこれから、敵地ともいうべき安邑を脱出して如白と合流しなければならない――はずだが、今、羅旋たちが目指しているのは、安邑の外城ではない。〈琅〉の国主の館の中でも、もっとも奥まった場所である。
といって、決して方角を間違えたわけではなかった。
今夜は月もなく、どんよりと曇って星明かりすらない。国主の館ともなれば、さすがに要所要所に燎火《かがりび》がかかげられ、煌々と周囲を照らし出しているが、建物の裏手までは光は届かない。
「頭領――」
つまずきかけて、思わず絞った声をあげたのは、徐夫余《じょふよ》の長身である。言ってから、彼は息を呑んだ。鮮やかな翠《みどり》色をした獣の目が闇の中に浮かびあがったからだ。底光りする眼は、しかし、すぐに細められ、
「気をつけろ」
羅旋の声を出した。
羅旋の目は、獣と同じように真の闇の中でも昼間と同様に見えるという。夜光眼《やこうがん》といって、戎《じゅう》族に時々現れる特殊な能力だそうである。昼間は同じ緑色をしてはいても、どこか焦点のはずれたような気配のある羅旋の目だが、夜には獣の目そのものの獰猛《どうもう》な光を帯びる。徐夫余たちも、そのことは十分に承知しているのだが、全員、緊張で気がとがっている場合も場合である。つい、反応が過剰になってしまうのだ。それを承知してかしないでか、
「こんな平らな処ぐらい、まっすぐに歩かんか」
羅旋は、さらに悪態をついた。
「無茶を言わないでください。俺たちにゃ、見えないんですから」
後に続いた誰かが抗議の声をあげると、さらに眼の底光りが糸のように細くなった。
「つべこべぬかすな」
言いながら羅旋が、館内を仕切る低い土塀にうがたれた門を細く開けると、突然、光が皆の目にも飛びこんできた。殿の階《きざはし》の前には燎火が幾つも並び、内庭をくまなく照らしだしている。隠れる陰ひとつない上、ここだけは酒気のない衛士が何人も歩哨《ほしょう》に立っているのである。
「ち……」
いまいまし気な舌打ちが、闇の側に意外な大きさで響いた。
「えらく、警備が厳重ですね。殿下が遺骸になってから、これほどご丁寧に警護申しあげるとはどういう気でしょう。まさか、頭領の意図が仲児に知れているわけじゃ――」
「警護じゃないさ、ふりをしてるだけだ」
徐夫余の疑問に、羅旋は口をへし曲げて答えてやった。
「喪に服しているというふり、一国の主の棺を厳重に守って、喪の形式はとったという、な」
今は莫迦騒ぎをしていても、いざ葬儀になれば盛大に嘆き悲しむふりをしてみせるつもりなんだろうよとつけくわえて、羅旋は本当に唾を吐いた。
「だが、葬儀は出させん。仲児には、恥をかいてもらおう」
羅旋がさらに告げると、血気にはやった若い声が、
「何してんですか、頭領。早く片付けちまいましょうぜ。あっちは多勢といったところで、二十人ほどだ。こっちの五人でかかれば――」
「まあ、待て」
羅旋が低い声で制するのと、ほぼ同時だった。
重く雲がたれこめた空の一角から、一陣の風が吹き降ろしてきたのである。草原の乾いた風ではなく、妙に湿った生暖かい風だった。人の息吹のようなそれが羅旋たちのひそむあたりを通過したとたん、徐夫余以下の四人は息をつまらせ声をおし殺して咳こんだ。と同時に、燎火が吹き散らされる。木を爆《は》じけさせて燃えさかっていた燎火の大半が、そのひと吹きで消え失せた。中には、強風にあおられて容器ごと倒れるものもある。階の前は一瞬のうちに薄闇に落ちた。
遠い処から女の悲鳴が複数、ながく尾をひいて聞こえたのは、高楼の騒ぎだろう。
「行け――!」
低い囁きだったが、ずんと腹の底に響く声だった。その声に背中を推《お》されるようにして、徐夫余は厚い木の扉を蹴りやぶって内庭へ躍りこんだ。
衛士たちの目は、今までの明るさに慣れている。まったくの闇ではないが、視界は格段に落ちる。しかも、護衛といったところで、まさか死体を盗み出しに来る者がいるなどと予想だにしていない。油断のあったところへの不意討ちで、態勢を整える間もない。徐夫余たちの目は薄闇に慣れている分だけでも、相当有利な立場にあった。二十人もいた衛士たちは、五分の一の人数の手にかかってばたばたと倒れ伏した。
羅旋は乱闘には加わらず、まっすぐに階をめざした。がっしりとした体躯にしては軽々と音もなく駆け上がると、扉の外からおろしてあったひと抱えもある閂《かんぬき》を外す。扉を無造作に引きあけると、
「無事か」
棺の他には何もないはずの室内に、声をかけた。返事があった。
「――無事です」
細い女声だった。暗闇の中、死者の側、おまけに外で突然始まった乱闘の物音と、条件が重なったためだろう、声は震えていたが、反応は早かった。
羅旋はずかずかと踏み込んだ。彼の眼には室の中央に安置された大ぶりな木棺と、そのかたわらに端然と座している少女の姿とが見えていた。
「羅旋さま」
「待たせた、揺珠《ようしゅ》どの」
「いえ、信じていましたから」
白い花のような容貌でひっそりと笑うと、そこだけ光が当ったようになる。喪服である荒い白麻の衣を着けた彼女を、羅旋はためらいもせず軽々と抱きあげ、また大股に外へ向かう。揺珠も、抵抗もせずためらいもせず羅旋の腕にすがりついた。ただ、一度だけ振り返って――、
「兄上さまを――」
「心配無用」
羅旋がいうより早く、徐夫余の長身が扉のすぐ外に現れた。
「頼むぞ」
短く羅旋が命じると、返事もせずにすれ違う。さらに三人が続くと、力を合わせて棺の蓋を跳ねあげる。棺は三重になっていた。一番内の棺の中に、国主の正装をまとって横たわっていたのは藺孟琥の青白い顔である。本来ならば、剣や玉、財宝といった副葬品がその周囲に納められ、極上の錦でその遺骸は包まれているべきなのに、若い国主の胸の上には小さな花が置かれているのみだった。いかに藺仲児が甥を邪魔にし、粗雑に扱ったかという証拠のようなものだ。平生ならば、これを見た者で鼻白まない者はないだろう。そもそも、いくら兄の側から離れないとはいえ、若い娘をひとりで棺と共に幽閉するなど、通常の神経では考えられないことだ。
だが、徐夫余たちはひとまず表情をおし殺して、息のない身体を手早く棺の外へ抱え出した。
ふたりがかりで肩と足を持ち、そろそろと運び出す。外では、揺珠を腕に抱えたままの羅旋がいらいらと待っていた。
「早くしろ。だが、そっとだぞ」
その脚元には、気死《きし》した衛士たちの身体がころがっている。念を入れるなら、全員縛りあげて棺の室にでも放りこんでおくべきだが、その余裕も人手もない。
夫余たちが出てくる処だけを確認して、羅旋は来た方向へとってかえした。後に夫余たちが続いているかは、一切確認しなかった。ついて来るに決まっている。来なければ――その場で命はないものと羅旋は思い切っている。揺珠ひとりだけでも、安邑から脱出させなければならないのだ。
[#挿絵(img/03_127.png)入る]
厩には、衛士の姿はなかった。この深夜に、車を出そうという者などいるはずがない。逃げるにしても、支度に手間どり騒々しい音がする車など、使う莫迦がいるはずがない――というわけである。
羅旋の配下のうちの残り半分、五人が、ここまで〈衛《えい》〉からの答礼の荷を運んできた車に、馬を付けて待機している。その荷車に積まれていた箱の中に藺孟琥の遺骸を収めると、蓋を閉めあっというまにくくりつけてしまった。
他に背に鞍をつけた馬が、都合十頭。その中でもっとも背の高い|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の背の上へ、腕の中の少女の身体を直接放りあげると、羅旋はいったん厩の外に出た。これも厩に隠してあったらしい弓を手に、暗い虚空を見上げる。その目の前に、徐夫余が火矢を差し出した。光を反射して、羅旋の両眼が、一瞬、異様な色に輝く。
渡すのも受け取るのも無言、つがえるのも天に向けてひょうと放つのも、無造作で塵ほども緊迫感がない。矢を放った後も、その行方を確かめもせず、かといって慌てるでもなく、羅旋は悠然と戻ってくると|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の背にひらりと飛び乗った。ちょうど、両腕の間に揺珠の小さな身体を挟みこむように手綱をとる。
「行くぞ」
と、羅旋がうながしたその瞬間を待っていたかのように――。
外で、閃光が瞬いた。
燎火の赤い輝きではない。もっと白く強烈な、稲妻の光だった。天を割ったような光で、安邑中がくまなく浮かび上がる。と、同時に、振動が地の底からびりびりと伝わって来、やがて轟音となって頭から降りかかってきたのである。
羅旋ですら、一瞬、顔をそむけたほど凄まじい音だった。地震もかくやとばかりに揺れて、脚もとをすくわれそうになる。馬が驚いて暴れだすのを、徐夫余たちが懸命に押さえにかかった。
「火事、火事だ!」
声があがったのは、落雷のために何かが燃え出したのだろう。突然の雷鳴と地鳴りに叩き起こされて、館内の衛士らがいっせいに飛び出してきた。その中のひとりが厩の前を走り過ぎようとして、開いた戸の内部が目に入ったか、あっと立ちすくんだ。
「賊――」
とっさに馬泥棒だと思ったのだろう。上げかけた叫びは、しかし声のなかばでぷっつりと断ち切られた。
背に屈強な男たちを乗せた馬の群れが、一斉に外へ飛び出してきたのだ。その先頭に立つたくましい|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》にひっかけられて、男は跳ね飛ばされる。さらにその上を、幾つもの蹄が容赦なく踏みつけていった。最後に、がらがらと大音響をたてて、三頭立ての荷車が駆け抜けた。
館内を仕切る門扉も、館の正門も開け放たれたのは、消火のためと人や荷物の避難のためだ。火の手は、同時に複数の個所から上がっていた。館の内部に数個所、安邑の街中にも数個所。
宴会の最中の高楼の近くにも、落雷があったらしい。影のような人がたちさわぎ、うろたえる中を、羅旋の一団はまっすぐに突っ切った。このとっさの場合に、門を再び閉めるほど機転のきく者はない。馬たちの勢いの前に飛び出すほど無謀な者もない。
国主の館の正門から、まんまと脱出してのければ、あと、彼らを阻むのは安邑の外城の門だけだが、ここも予定通りならば開け放たれているはずだ。
が――。
疾走を始めたとたんに、異変は起きた。
「雨――?」
最初に気づいたのは、羅旋の腕の中でじっと目を閉じていた揺珠だった。額に、ぽつりとあたった物を感じたのだ。声は蹄の音にかき消されたが、羅旋はその騒音の中から再び、揺珠の声を拾いだしていた。
「――まずい、頭領、雨だ!」
声をはり上げたのは、直後にぴたりと続いている徐夫余である。
「火が消える!」
言った時には、その声が届かないほどの音をたてて、大粒の驟雨が降り出していた。
火が収まれば、門は閉じられる。館の門ぐらいは無事に出られるだろうが、城門までたどりついて閉っていたとなると、大幅に計画が狂う。
「頭領、変だ。こんな時に雨なんぞ……」
「かまうな――!」
振り向きもせず、羅旋は怒鳴りかえした。その顔が、水飛沫に濡れる。衣服にも、あっという間に水が通った。
「五叟《ごそう》が、なんとかする。させるしかないだろうが」
『――ご信頼いただいて、光栄至極』
含み笑いとともに、嗄れた声が耳元に聞こえた。羅旋だけではない。徐夫余以下の全員の耳もとで、囁いていたのである。五叟先生こと莫窮奇《ばくきゅうき》の声だと、確認するまでもなかった。姿も見せず、しかも蹄と車、雨音のすさまじい騒音をくぐって、疾走をつづける馬上に声を届かせるとは、五叟老人の左道《さどう》の術ぐらいでしか可能にはなるまい。
『申しわけない。ちと、邪魔がはいってな。城門はなんとしても開ける故、安心せい。ただし、少しばかり手荒な真似をするぞ』
「それはかまわんが――大丈夫か」
羅旋が、馬の腹を蹴りつけながら訊いた。館の門扉の間を、すり抜ける。背後に続く地響きで、徐夫余たちが全員、通りぬけたことが確認できた。
『おぬしなんぞに、心配してもらうことではないわい。事情は後で説明する。ちと遅れるが、先に行け』
その声が終わらないうちに、ふたたび稲妻が天を走った。たしかに彼らの行く手、外城の南門のあたりにひとつ、轟音とともに火柱が立った。火はすぐに消えたが、かまわず羅旋はさらに馬を急がせた――。
「聞いてのとおりじゃ」
雨に濡れそぼった顔で、五叟老人はにやりと笑った。笑いかけた相手は、はるか彼方の殿宇の大屋根の上にいる。この暗さと雨に邪魔され、人の形が見てとれるのがやっとのことだ。人の目では到底こまかな表情までは見てとれないはずなのだが、五叟は嘲笑するように歯を剥き出してさえみせた。
「一別以来でございますな、師兄《しけい》」
その挑発が、相手に伝わったのだろうか、五叟の立つ屋根の上にだけ、雨がひときわ激しく降りそそいだ。さすがの五叟も、甍《いらか》屋根の上でつるりと脚元が滑り、ころげ落ちそうになった。
『莫迦者めが』
嘲笑よりももっと激しい侮蔑の声が、五叟の耳元で弾けた。
『おまえごときが、儂に勝てると思うておるのか。思いあがるでない。奴らも逃がさぬ。藺孟琥には、やはりここで死んでもらう』
「お言葉ながら、師兄」
ようように起き上がり、足場を慎重に固めながら、隣に立つ人に話しかけるように五叟は口を開いた。
「〈琅〉伯殿下は、すでにご崩御なさっておるのじゃ。人は二度も死ねぬのが道理。連中を止めて、なんとなさるな」
言葉はていねいだが、口調はあきらかにふざけている。とぼけているといった方が、正しいかもしれない。おのれの詭計《きけい》が相手にすっかり見破られていることを承知の上で、なお見え透いた虚言を張り通して、相手を怒らせようという魂胆なのだ。狙いどおり、怒り心頭とまではいかなかったが、かなりむっとはしたらしい。
『儂を瞞《だま》す気か。藺孟琥は死んではおらぬ。おぬしの調合した薬で、仮死に陥っておるだけじゃろう』
「なんで、そのようにまわりくどいことを儂がいたしたと思われますな」
『死を装えば、藺仲児の監視の目も緩む。その上、生きているより眠っているのを動かす方が、病状に障らずにすむであろう』
「ああ、そういえばそんな効能もあったの」
『いい加減にせぬか、莫窮奇』
声が、びしりと弾けた。
『すべて、儂が見抜いておるのだ。だからこそ、館の警護が緩むのも、宴を催すのも藺仲児の勝手にさせた。わざとそうして、おぬしらが慢心してしっぽを出すのを、待っていたのじゃ』
本名を呼ばれた五叟老人は、右の耳を本当に痛そうに押さえながら、
「では、お尋ねするが、師兄、いや、冉神通《ぜんしんつう》どの。御身こそ、何故このようなところにでしゃばってこられたな。いつの間に、藺仲児のような忘八(恥知らず)の奴の手下になんぞ、なられたな。噂では、〈衛〉の耿無影《こうむえい》にへつらって甘い汁を吸っておるとうかがっていたが」
五叟の声にも、毒が混じった。貧相な老人の姿はそのまま、豪雨に濡れそぼち見るも哀れな姿ながら、その両眼が炯《けい》と輝きを増した。遠回しに、〈衛〉の介入を指摘してみせ、もう一度、五叟は笑った。水煙に煙った遠い人影に向かって、見せつけるために歯を剥き出した。
「耿無影の手下になったのなら、〈衛〉の世話だけ焼いておられればよいものを。――それは、我らが同じ師匠のもとで修行しておった頃から、何をとっても儂は師兄にはかなわなんだがな。だからといって何も、わざわざ不肖の師弟《してい》の邪魔をしに来られいでもよいでしょうが。――や、そろそろじゃな」
わざとらしい口調で、城門の方角を振り向く。なにやら、懐から符のようなものを取り出そうとした。案の定、
『やらせるものか』
せせら笑う声が聞こえたが、その語尾が変化したのは、五叟が脱兎の如く走り出したためだろう。甍屋根の梁《はり》の上を、先ほどの醜態が嘘のような身軽さで駆け抜けるや、ふいと飛んだのである。落ちたわけではない、館の正門の上に影が現れたのだ。闇の中、しのつく雨の帳幕《とばり》をぬっての視界である。はっきりと判別できるわけではないが、それが目指す方向はわかった。雨をはじいて動く、その軌跡が白く、闇の中でさえ光って見えたからだ、そして、その延長には外城の正門がそびえている――。
『儂をごまかせると思うか。雷術も儂の方が得意であったことを忘れたようじゃな』
雷鳴の予兆のように、暗い雲の一角から丸太を転がすような音が聞こえ、そして天がかっと割れた。稲妻が、荒れ狂う幻獣のようにうねりながら、相当な速度で宙を跳ぶ五叟とおぼしき影を追いながら、降下する――。
影が城門に到達するのと、稲妻が追いつくのが、ほぼ同時。
大屋根が、大音響とともに火を噴き、甍を弾き飛ばした。門上の物見の楼が崩れ落ち、門扉がひしゃげるのがその場からも見てとれた。
『――まずい』
これでは、城門が壊れて開いてしまう。衛士が何人待ち構えていようと、羅旋たちの馬の勢いは止められるまい。目障りな師弟はこれで黒焦げになっただろうが、その一味を逃がしてしまっては仕事も完璧とはいえなくなる。屋根の上にのっそりと立ち上がりながら、冉神通はつぶやいた。
『仕方がない――』
城門にさらに術を施しに行くつもりか、一歩、足を踏み出そうとして――。
「お手伝い、申し上げようか」
突然の、背後からの声に凍りついた。
「莫窮奇――!」
「はい?」
いらえがあった。
振り向いたところ、同じ屋根の梁の上に小柄な人影がうずくまっていたが、呼ばれてすっくと立ち上がった。そのままにやりと笑った顔が、まんまとひっかけてやったといわんばかりの得意気な表情を形づくっていた。
「どうやった」
「なに、身代わりの符《ふ》を飛ばしたら、師兄の雷が勝手に追いかけていったもんで、命拾いいたしましたわい。はて、師兄はご記憶ではなかったかな。逃げたり隠れたりする業だけは、儂も師兄にひけをとらず上手かったこと。でなければ、儂は黒焦げじゃ。いや、さすがに見事な雷術でございましたな」
左道の術で目標をくらまし、冉神通の放った雷を、まんまと自分の思いどおりの場所に落としてみせたのである。その上で、自分は一瞬のうちにここへ身を移して、高みの見物を決め込んでいたらしい。冉神通とて同じ術は心得ているが、出来の悪かった師弟にこんな機転がきかせられるとは思っていなかったらしい。
「申しわけ、ありませなんだな」
「よくも」
相手をみくびった、その油断を衝かれたわけだ。それと悟ったから、冉神通は拳を握りしめた。手も足も骨だらけで貧相なのは、五叟老人とたいして変わらない。これが血のつながった実の兄弟だと言われれば、大半の者が信じるだろう。むろん、彼らの間に血縁はない。あるのは――。
「師兄」
軽侮と憎悪の感情だけだ。
冉神通が操る雨は、操り手の上にも容赦なく降りそそいでいた。文字どおり濡れねずみの冉神通に、五叟はここで初めて厳しい声をかけた。思わず、冉神通は腰を引いて身構える。その顔へ、
「師父を害したのは、師兄じゃな」
「なにを――!」
投げ付けられた言葉が、よほど臓腑の深いところをえぐったらしい。瞬間、虚を衝かれたように腰の引ける冉神通に対してさらに、
「あ――!」
五叟は、あらぬ方を指さして大声を上げたのである。
「え?」
つい、つりこまれて振り向いた瞬間、五叟老人の手がさっとあがった。五叟の策を一瞬で見破って体勢をたてなおし、その手の動きの意味をとっさに理解できたのは、冉神通なればこそだ。
冉神通は顔を背け身体を低くひねりながら、両の掌だけを天へ向けて突き上げるような形をとった。稲妻は、その掌の中から噴き上がるように見えた。同時に、天からその一点を目指して降ってきた稲光と、二条の光は中空で激突し、轟音とともに弾け散ったのである。
安邑中を灼くかと思うような白熱した光が収まった時には、あれほど激しかった雨も小止みになり、当然のことながら、五叟老人の姿もまたきれいさっぱり消えてなくなっていた。
羅旋は、払暁になってようやく馬を止めさせた。雨は、安邑を離れたとたんに、ぴたりとやんだ。同時に、羅旋も馬の足を緩めさせたが、決して止まろうとはしなかったのは、追っ手の出方をうかがっていたのだろう。
できれば、完全に安邑からの追っ手が届かないところまで、一気に突っ走りたかったのだが、副馬《そえうま》がない以上、乗馬に無理はさせられなかった。
「――追風《ついふう》がいてくれればな」
三年前に失った馬の名を口にして羅旋は悔しがったが、たとえどれほどの名馬を持っていたとしても一頭だけでは、やはり仕方がない。羅旋ひとり先行するわけにはいかないのだ。
とにかく、適当な草原の窪地を見つけ、簡単な食事の支度をしながら夜明けを待つことにした。
「兄上――」
ことの最初からずっと、ほとんど目を閉じて羅旋にしがみついていた揺珠は、馬から降ろされると同時に、まだ止まりかけの荷車へと駆け寄った。その脚の速さに、さすがの羅旋が目を見張った。物心もつかないうちから、〈魁《かい》〉の深宮でひっそりと暮らしていたせいだろう。日陰のひよわな花という印象が、つきまとって離れなかった少女である。〈琅〉に戻り草原の風に吹かれ、みちがえるように健康になったものの、こんなひたむきな一面があったとは羅旋も知らなかったのだ。
揺珠は、荷車が止まるのを待たずに荷の蓋に手をかけた。徐夫余があわてて縄をはずし、数人がかりで蓋を開けた。ちなみに、荷車の御者台から降りたのは、壮棄才《そうきさい》のうっそりと不機嫌な顔である。
中には、藺孟琥の青白い姿が静かに横たわっていた。脱出の際の豪雨にもかかわらず、箱の中には一滴の水も入っていなかった。
「兄上――、ご無事なのでしょうか」
彼女の後から、悠然とした足どりで近づいてきた羅旋を振り向いて、くってかかるように尋ねる。
「五叟の薬に、間違いはない。薬が切れれば、自然に目覚める。それより、早く衣服を乾かさなければ」
「薬の効力は二昼夜、そろそろお目醒めになるはずです。私は側に――」
「といって、揺珠どのが風邪をひいては何にもならんだろう」
「わたくしのことなら、心配要りません」
「そうはいかない」
いつもなら遠慮もためらいもある相手だが、事は急を要する。なにしろ衣服は膚に貼りつき、結い上げた髪も崩れてぐっしょりとなっているのだ。腕をつかんで無理やりひき起こすと、軽々と抱き上げて、ちょうど燃えあがった焚火の前へ降ろした。火を吹き立てていた若者が、あわてて場所をあける。
雨は安邑の周辺のみでここらには降った形跡もないものの、朝露で湿っている。乾いたものなど、何ひとつない。徐夫余たちが小さな天幕を、大急ぎで建てていた。
藺孟琥の箱に、大きな布を詰め込んであったのだ。厚く荒い葛布は藺孟琥の身体を包みこみ、箱との間に隙を作らないように上手に襞《ひだ》をとってあった。つまり、それで荷車の振動や衝撃を和らげていたわけだ。
布が取り出され広げられるのを見ながら、
「――昔、耿淑夜《こうしゅくや》を箱に詰めて、寿夢宮《じゅぼうきゅう》に出入りさせたことがあったな」
羅旋が、つぶやいた。揺珠が、はっと眸を大きく見開いたのは、ふいに古い名を持ち出されたからだろう。だがそれが、かつて彼女が暮らしていた離宮の名のせいなのか、耿淑夜の名に反応したのかは判然としなかった。
「賞金首だったから、尤《ゆう》家の荷に見せかけて送りこんだが、荷車の振動が激しくてな。あちこちぶつけて、青痣だらけになって帰ってきた」
どことなく懐かしそうな顔つきになって、火の中に枯れ草を次々と放り込んだ。
「息が詰まりそうになったり、身体が硬直していたり、大騒動したもんだ。孟琥どのは死んだも同じ状態だから呼吸の心配は不要だが、目醒めてみたら瘤だらけではさまになるまいと思って、布を詰めさせておいた。淑夜の痣が、こんなところで役に立った」
「淑夜さまが、お可哀そうですわ」
揺珠が微笑すると、そこだけほんのりと明るくなった。
「そういえば、羅旋さまに救いだしていただくのは、これで二度になりますのね。なんと感謝の言葉を申し上げればよいか」
「以前のは――段士羽《だんしう》がいればこその仕事だった」
磊落《らいらく》そうな笑顔はそのままだが、緑色の眸にわずかに翳《かげ》がさしたのを揺珠は見てとっていた。
「犠牲にしたものが多すぎたな」
言うや、さて、と腰を上げて荷車の方へ歩み寄る。あたりは、次第に底の方から白く明るくなってきていた。
「どうだ――」
と声をかけたのは、荷車の陰にうずくまっていた人影にである。それがひょいと顔をあげたところを見て、揺珠は驚きの声を上げるところだった。
「上々じゃ。そろそろ、気持ち良くお目覚めになるころじゃな」
安邑の豪雨の中に置いてきたはずの、五叟老人の貧相な顔と陽気な声だったのだ。
「公主どのも、ご無事でなにより」
「五叟先生こそ」
いつの間に、と問うことも忘れていた。
「これはこれは、妙齢の姫君が濡れねずみでそのような――。今、乾いた物を出します故、お召し替えなされ」
「でも――」
「兄君ならば、今、起こしてさしあげよう。おふたりして、ひとまずご休息あれ。道々、細工をしてきたから、追っ手は昼まではかかりますまい。さ、早う――」
言いながら、静かに横たわっていた藺孟琥の胸のあたりを、指で数個所、ほんのわずかずつ突いた。まるで光でも点したように、ぽっかりと、兄の眼が開くのを揺珠は見た。
「揺珠、無事か」
羅旋の手を借りて起き上がった孟琥に、揺珠がとりすがって泣きじゃくったこと、五叟老人が乾いた衣服をどこからか取り出したこと、出来上がった天幕に兄妹を休ませたことはさておく。
「やっかいな奴に、首をつっこまれたようだな」
休息を許した手下たちから少し離れ、見張りを兼ねて小高い丘に登りながら、羅旋の方から口にした。めずらしく、五叟老人の視線が険悪なものになった。その件には触れられたくないといった顔だったが、やがて、しぶしぶとうなずいた。
「仲児は、〈衛〉と結んだのか」
「――いや」
羅旋の強い眼光ににらみ据えられて、これまたいやいやながら、口を開く。
「確かに、冉神通の奴めはまだ〈衛〉とつながっているようだがな。耿無影にしても、仲児の噂は聞いておろうよ。無影は凡庸以下の人物と手を結ぶほど、莫迦ではあるまい。神通の口から聞き出したところでも、勝手に奴めがししゃりでて来たといった様子であったな。そもそも、手を結んだのなら、棺の警備がもっと厳しいものになっていたろうよ」
「それにしても、面倒な」
「おぬしのせいじゃぞ、赫羅旋」
五叟は、ぎろりと下からにらみ上げる。
「人のせいにするな」
「いいや、おぬしが如白などについて、のこのこと〈衛〉まで出かけていかなければ、こんなことにはならなかった。耿無影の奴め、おぬしが〈琅〉を操って何事か企んでいると見抜いたのじゃ。だから、神通めを寄越したにちがいない」
「俺は、何も企んでないぞ」
「儂にまで、虚言をつくことはないわい」
羅旋の抗弁を一言のもとに却下すると、
「のう――?」
五叟老人の眼の色が、奇妙に深く沈みこむ。周囲はすっかり朝の光に染まり、鈍い曙光が東からちょうどさしたところだった。
「おぬし、〈衛〉まで何をしにいったな」
「耿無影の顔が見たかった」
「何故」
「何故といって――単なる好奇心だ」
藺如白が〈衛〉に行くのに便乗しただけだ。如白が〈衛〉へ行かなければ、また〈衛〉への使者が他の者なら同行を申し出ることもなかった。だが、五叟はその回答では満足しなかった。
「つまり、いずれ戦うことになる相手の顔を、よく見ておきたかったということじゃろうが」
「――そこまでは」
考えていなかったと言いかけて、羅旋は口をつぐんだ。しばらく考えてから、
「よくわからん」
「おのれの目的ぐらい、はっきりさせておいた方がよいぞ。でないと、ついてくる連中が迷惑する。もう、五人十人の単位ではないのじゃからな」
「世の中をひっくり返してやろうと思ったことがあったのは、確かだがな」
羅旋はなおも、ぼんやりと遠くを見ながらつぶやいた。
「四年前の話だ。思惑どおり、まんまと世の中はひっくりかえったが――冰子懐《ひょうしかい》に段士羽まで殺された。子懐はこの手で殺したが――まだ、後味が悪い」
「子懐は〈魁〉王も弑しているし、その上、おぬしの親父どのの仇ではないか。殺されて当然、殺して誉められこそすれ恥に思うことはない。何を、今頃になって――」
「親父の仇というのは、つけたりだ」
ごろりと草の上に寝そべりながら、羅旋は答える。
「確かに親父を殺したのは子懐だが、親父とて慣れない権力争いに首を突っ込まなければ、今も無事で、俺を怒鳴り散らしているだろうさ。俺が未だに悔しいのは、士羽の事だ」
「新しい王に立てるつもりだった――か? だが段士羽は死んだのだし、今度は別の人間を立てるしかあるまいが。おぬし、そのつもりで如白に肩入れしたのではなかったのか」
「――まだ、わからん。というより、如白ではどうにもならんような気がする。如白に、中原を支配下におさめようという野心があると思うか?」
「――なかろうな」
「如白は温厚にして勇猛、清廉で民に公平だが、士羽のように清濁ひっくるめて、舌先三寸でまるめこんでしまうような芸はない。己の分を知って敬虔《けいけん》なのはいいが、中原を平定しようなどという、身の程知らずの野心も持ってはいない。一軍の将にはいいが、将の上に立つ器量じゃない」
「似たようなことを、大牙《たいが》についても言ったことがあったな、おぬし。――〈衛〉に行ったのは、もしや、耿無影の人物を見定めるつもりだったか」
「そうかもしれん。器量さえあれば、扶《たす》けてやってもいい気だったが」
「器量はないか。あの、淑夜の堂兄《どうけい》じゃぞ。しかも、ほとんど徒手から一国の主に伸《の》し上がった風雲児じゃ」
「器量はあったな。ありすぎて、助力の必要がない。あの男――他人は皆、莫迦だと思っている。堂弟とは、えらい違いだ」
寝ころがって天を仰ぐ羅旋の顔を、五叟の皴《しわ》だらけの顔がひょいとのぞきこみ、歯を剥き出してせせら笑った。
「――つまり、こういうことかの、羅旋。おぬしは、世の中を変えてやろうと思って中途で挫折した。まだ身の程知らずの野望はくすぶっているものの、担いで旗印にするのに適当な者がおらぬ。とりあえず如白に賭けて〈琅〉に足場を築くつもりだが、それから先の見通しが立たずに困っている」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。俺にもよくわからん」
羅旋も、歯を剥いてぶっきらぼうに答えた。実際、羅旋にもはっきりとした答えは出ていないのだ。これ以上、今の思案を探られても困る。それを威嚇するつもりで返事をしたのだが、
「ならば、おぬしが王になればよいではないか」
五叟は、しらりと言い返してのけたのだった。
「なにを――」
驚くより、めんくらった。
「――莫迦も、休み休み言え。俺がなんで……」
考えてもいなかった。まさに、虚を衝かれた思いがした。他人に権力を持たせることは考えてきたが、自分で握ることなど考えたこともない。それほど、権力だの覇権だのといった事からは無縁に生きてきたし、これからもそんなものに縛られるのはまっぴらだった。だが、五叟は真顔だった。
「俺は、そんな柄でもなければ器量もない」
「そうかな。将の将たる器量というなら、おぬしも適格じゃと思うがの。先年、段大牙を動かし、今また藺如白を動かしているではないか」
「それとこれとは――」
「なっても、かまわぬと思うがな。少なくとも、魚支吾《ぎょしご》なんぞに覇権を握られるよりは、ましじゃと」
「それは癪《しゃく》だが――だからといってそんな面倒なことは、俺はまっぴらだ」
本当に、吐き出すように羅旋は言った。五叟は、くすくすと喉で笑うばかりだ。
「欲のある奴に、覇者たる器量はなし。器量のある奴は、欲がない。欲のなさが、覇者たる資格ということもあるのにの」
「いい加減にしないか」
羅旋は、そこで強引に話題を打ち切った。
「先の問題は先でいい。今は、一刻も早く如白と落ち合うこと、この戦に勝つこと、それから問題は、冉神通の始末だ。一戦するなら、奴も出てくるぞ。おまえに奴が止められるか」
わざとらしい話題のすりかえだったが、五叟は逆らわなかった。
「無理じゃな」
愛想もこそもない返答である。
「さっきも、実力で争っていたら今頃は黒焦げになっているところじゃ。ごまかして逃げたものの――ついでに少々、おちょくってきたからの。怒り心頭に発して、仲児の後押しをするじゃろうな」
「なんとかしろ」
妙に嬉しそうに答える五叟に、羅旋は噛みつくように命じた。
「孟琥と揺珠どのさえ安全なら、戦の勝算はいくらでもある。だが、あんな化物に余計な喙《くちばし》を突っ込まれては、勝てる戦も勝てなくなるぞ」
「化物とは、非道《ひど》い。あれでも同じ師父について学んだ、儂の師兄じゃぞ」
抗議したあと、
「師父を殺して、秘伝をひとり占めして逃げた師兄だがの」
ひょいと肩をすくめてぼそりとつけ加え、羅旋の反応をうかがうように上目がちになった。羅旋は、いまいましげに小さく舌打ちしたのみだ。
「――そんな因縁か。道理で」
「五十年以上も前の話じゃ。師父といっても、嫌な奴だった。吝嗇《けち》で気むずかしゅうて、何かというと殴りつけるような奴での。儂も師兄も、痣が絶えなかった。今さらどうでもいいようなものだが――冉神通の傲岸不遜がちと、気にくわぬ」
ふんと、羅旋が鼻を鳴らした。
「おまえに、不遜と言われたくはないな」
「お互いさまじゃな。――なんとか、してみよう。保証はできんがの」
それで、このふたりの間には了解が成り立ったようだ。五叟も鼻を鳴らしながら、草原の彼方へ目をやったが、
「馬が来るぞ。追っ手かもしれんのに、寝ていてよいのか」
羅旋の脇腹をこづいた。草原といっても、ゆるやかな起伏はある。その小さな丘陵の陰を迂回してきたのだろう、不意に視界の中に十騎以上もの影を見て、五叟はすでに腰を浮かしていた。
羅旋は、あわてる気配もない。ゆっくりと上体を起こしながら、
「蹄の音は、ずっと前から聞こえていた」
と、地面を叩いた。なるほど、近づく者を察知するには、地面の振動を聞きわける方が視界よりも確実で早い。しかも、
「あれは、味方だ。戦車の音がひとつも混じっていない上に、西から来た。数は五十騎」
ただ寝ころがっているだけだと思っていたら、方向から数まで割り出しているのには、さすがに抜け目がないと、五叟も認めざるをえなかった。
味方を迎えに、徐夫余が真っ先に飛び出していくのが見えた。
「――ただし、追っ手も確実にかかっているぞ。連中と合流したら、すぐに出発する」
(三)
臨城《りんじょう》に戻って以来、魚支吾《ぎょしご》に我から話しかけようとする者は、ひとりも無かった。もともと厳格な主に口をきくのには、細心の注意が必要だった。その上に、現在はことさら機嫌が悪く、ふとした非違で侍女や侍僮が折檻《せっかん》を受けているとなると、自ら災難を被ろうとする者はいなくなる。
機嫌が悪いのも、当然である。死んだのは我が子、殺したのも我が子なのだ。そして――〈征《せい》〉の法には、犯した罪に対する罰がはっきりと定められている。殺人には死罪が適当と、明記してあるのだ。むろん、情状酌量の余地も認められ、いちいち法に定められてあるのだが、今回は、その法を適用することはできなかった。弟が兄を殺したのである。しかも、原因は女の奪い合いの上の喧嘩と判明していた。
――支吾の三男で正妃腹の嫡子でもある傑《けつ》が、館の侍女のひとりに言い寄ったのが事の起こりだった。彼女は傑の母、晏妃《あんひ》の侍女だったが、以前から大公子の儀《ぎ》からも思いをかけられていたこと、二人の公子に言い寄られた侍女が舞い上がって、両方にいい顔をしたことが事態を混乱させた。
結局、さまざまないきさつと行き違いの末、女をはさんで口論となったのだが――どちらも自分こそが〈征〉の世子だという意識が強く、相手が譲るものだと信じて疑わない。双方ともに相当な酒気を帯びていたこともあり、力ずくとなった。互いに剣を抜いて斬りつけあったあげく、大公子の儀が落命したという次第である。
まず、儀の死に方が無様すぎた。戦で死んだのならば、まだあきらめもつく。だが、女と酒に迷ったあげく喧嘩で死んだとなれば、市井の一介の無頼と大差ないではないか――それが、魚支吾の不機嫌の一因だった。
いまひとつは、兄殺しとなった三公子、傑の処遇についてである。罪は明白で言い逃れのしようもないし、目撃した者も多い。傑自身、己の行動については認めていた。
二人の争いの原因となった侍女は、早々に死を賜った。彼女さえきちんと身を処していれば、大公子が死ぬようなこともなかったと、生母の蘊《うん》夫人が強く迫ったからである。
蘊夫人は、魚支吾が最初に納《い》れた側妃である。実家は〈征〉の名家で、美貌を聞いた若い頃の支吾が是非にと望んで迎えた経緯がある。家格の問題があって正夫人には立てられなかったものの、長男と四男、それに娘を生んでいる。もっとも、現在の寵は五男を生んだ側妃に移っており、支吾に対する影響力は衰えかけている。
長男を奪われた蘊夫人の怒りが、侍女の処分だけではおさまらなかったのは、当然といえば当然のことだった。忘れられがちになっている日頃の恨みもあって、
「大公子さまは命を落とし、女も責を負うて死んだのに、人を殺した三公子さまはなんのお咎めもなしでございますか。それが、この国の法というものでございますか」
正論をかざして、支吾に迫ったのである。
一方、晏妃の方も、黙ってはいない。自分の侍女を、支吾の命令に従っておとなしくさしだしたのも、息子の立場を少しでも有利な物にしたいがためだったのだ。正夫人たる晏妃に子は、三公子の傑ひとりきりとなれば、なおのことである。
「三公子は、陛下の嫡子でございます。特別のお慈悲をもちまして、命の儀ばかりは」
かきくどいた。
これが他の場合ならば支吾は、簡単に蘊夫人の正論を支持しただろう。だが、今回ばかりは慎重にならざるを得なかった。我が子の生命がかかっているというだけではない、この件をめぐって、家臣の意見がまっぷたつに割れたのだ。これは意見の相違というだけでなく、ふたりの夫人の勢力争い、ひいては、ふたりの婦人の背後についた者たちの覇権争いにつながっていた。ここで判断を誤れば、将来に禍根を残すことになる。
ここで三公子を除くことに成功すれば、太子の座ががら空きになる。二男の倩《せん》の母親は格段に身分が低く、五男の佩《はい》はまだ幼児だから、太子には蘊夫人の生んだ僥《ぎょう》がつくことになる――これが、蘊夫人側の思惑である。
三公子を失えば、すべてを無くす晏妃側が懸命になるのも無理はない。そして、支吾もまた、心情的には晏妃の方に傾きかけていたのだった。
彼とて、やはり人の親だった。期待していた長男の儀を亡くしたのは悲しいし口惜しいが、だからといって決して出来の悪くない息子を、いまひとり、むざむざと失う気にはなれなかった。
「問題は、法だ」
法を以って〈征〉を治め、法によって中原をも制しようと図る魚支吾が、みずから法を破ることはできない。彼が無法の君主であれば、君王だけは特別だとうそぶいて踏みにじれるのだろうが、そうするためには彼は理性的すぎた。
「法が不都合ならば、変更するわけにはまいらぬのでしょうや」
晏妃派の禽不理《きんふり》将軍がおそるおそる上言したのは、支吾がとるものもとりあえず臨城に戻ってから、十日も経った頃だった。
「三公子は、なんといっても嫡男。なべて嫡子は家を継ぎ社稷《しゃしょく》を守る義務がござる故、庶子と扱いが異なるのが道理であり当然でござる。ならば、嫡子は罪一等を減じる旨、法を作り変えればよろしいのでは」
魚支吾の顔色をうかがいながらではあったが、集められた重臣たちの中で、これが意見が述べられた最初だった。
「しかし――」
当然のことながら、反対の声が湧き起こりかけた。それを押さえ込むように、
「なにも、殿下を無罪放免にしろと申しているのではない」
強く出たのは、魚支吾の顔色が明らかによくなったからだ。
「罪は罪。償うていただくべきではある。ただ、事を杓子定規《しゃくしじょうぎ》に運んでお命までとっては将来、取り返しのつかぬことにもなりかねぬと言っているのだ」
「ならば、どう償うていただく」
「公子の位を降りて、庶民となっていただくのは如何《いかが》か」
ざわりと、一座が揺れた。不満の気配は、今度は味方――晏妃側の方からたちのぼる。それを察して、
「一|蒼頭《そうとう》となって、陛下のためにお働き願うのだ。その働き次第、戦になれば手柄次第では、また元のご身分に復帰することも可能となろう。如何なものであろう」
口早に説明を加えて、主君の方を改めて見やった。
「命は、いったん失うてしまえば取りかえしがつきませぬ。三公子に機会をお与えになるのは親としての情、君としての慈悲であり、決して非難されるべきものではありますまい」
「では、亡くなられた大公子の立場はどうなるのです」
声は、仇士玉《きゅうしぎょく》という若い武官のものである。概して蘊夫人の側には、ここ数年、取り立てられた若者が多くついていた。一方、晏妃の側には代々の世家の当主が多い。つまり、事は、新旧の家臣の対立にもなっているわけである。
「大公子を生かしてお戻しくださるというなら、話もわかるが」
「不可能なことを言うでない」
「不可能を申されているのは、禽将軍の方ではありませぬか」
「三公子が死ねば、大公子が甦るとでも申すのか」
「では、今まで人を殺したために命で贖ってきた者らはどうなります。三公子だけは、特別扱いですか」
「若輩者が、黙っておれ!」
「黙りませぬ」
「止めよ!」
魚支吾の声が、落雷のように広い明堂の内部に響いた。
「意見を申せと言ったのだ。罵《ののし》り合えとは命じなかった」
「――恐れいります」
さすがに、禽不理の方が年長だけあって如才ない。即座に謝罪した。その頭に、
「法を変えよと申したな、禽不理」
「は」
「私的な理由で、為政者がみだりに法を変えてよいわけはない」
「三公子を特例扱いせよと申すのではありませぬ。厳しすぎる法を、緩和するのです。これは、民人の為にもなること。また、陛下の御身は、陛下のことであって同時に公のこと。決して、君王の勝手で法を枉《ま》げるのではありませぬ」
「詭弁《きべん》だ。それでは、陛下のご意思であれば、法を変えてよいのか。〈征〉は、法を以って立つ国。法を簡単に変えては、やがて国自体が成り立たなくなります」
「若輩者に物がわからぬというのは、こういうことだ。いかさま、〈征〉は法に因《よ》る国だが、国は民に依って成り立つものぞ。それほど法が大事ならば、法を記した高札があれば国は成り立つ道理」
「それは、極論と申すものです。民を律していかねば、国は崩壊する。民を律するのは法だと申している――」
激論が一座のざわめきを呼び、口論を招いた。
「……漆離伯要《しつりはくよう》」
重い声が、ごうごうたる喧騒の間に割り込んだ。一斉に騒音がやむ中を、黒衣の男が悠然と歩み出た。晏妃の側、蘊夫人派、双方から冷たい視線が浴びせられたのは、漆離伯要の日頃の立場を如実に表している。
「そなた、まだ一言も発していなかったな」
この場で無言だったばかりでない。彼が臨城に来たのは、一報を聞いた魚支吾に是非にと要請されたからだ。だが、この十日以上、彼は人の意見に耳を傾けるばかりで、己の考えを申し述べようとはしなかった。それが、どちらの勢力が優勢なのか見定めようという、日和見《ひよりみ》的な態度と思われ、この場の風当りがことさらに強くなったのだ。
「申してみよ」
「その前にひとつ」
畏れる風もなく、周囲の反応を伺うでなく、無造作に伯要は声を発した。
「陛下のご所存を、お聞かせいただきたい」
「漆離伯要、貴様、何を――」
二派から、同時に非難の声が上がる。
「陛下の意をうかがった上で、おもねろうとでもいう気か!」
仇士玉が叫んだが、
「貴殿と一緒にしないでいただこう」
あざやかに一蹴された。
「陛下の御意は、わかっておる。口に出されるまでもあるまい。それを察し申し上げるのが、臣下というもの」
「ならば、おもねっておられるのは禽将軍の方だ。私ではない」
禽不理の怒号をすずやかな声で斬って捨て、漆離伯要は主君に向きなおった。
「先程から拝察するに、陛下は三公子をお助けになりたい。その為に法を変えたいと思われておいでです。ご心情はお察しいたしますが、私は敢えて、異を唱えたいと存じます」
「……理由を申せ」
「理由は、陛下が一番よくご存知でしょう」
「いや、わからぬ」
「では、申しあげます。先ほど陛下は、為政者は軽々しく法を変えてはならぬと仰せでした。それをご承知であられるならば、そこで群臣の論議は打ち切るべきであったのに、さらに私にご下問あられた。これは、本心は法を変えたいというお心の裏返し。してはならぬことを承知で為すのは、悪逆と申します。ならば、臣下が変法をお勧めするのは、陛下に悪逆の王になれと教唆《きょうさ》するようなもの」
「――言いすぎだぞ、漆離伯要」
「いや、続けさせよ」
「もしも――法が厳しすぎ、民の為に改正する必要があるのでしたら、三公子を従来通りの法でお裁きになられてから、それ以後のことになさいませ。そうすれば民人は陛下の心痛を察し、皆、法に伏しましょう。三公子から新法を適用なさるならば、民心は陛下から離れます。民心の離れた国の末路は、〈魁《かい》〉の例をご覧になられたばかり。魚家の安泰、〈征〉の繁栄を願われるのならば、私心を捨て、誰に対しても公正であられますよう」
整然と反論の余地のない論理に、誰もが息を呑んだまま声もない。
「――どうしてもか」
それでも、魚支吾は嗄れた声を絞りだした。
「〈征〉を、陛下一代で終わらせるおつもりならば、ご随意になさいませ。どうしても三公子をご助命なさるなら、他の公子方、殊に四公子に死を賜ってからになさいませ」
「なにを言う、この似非《えせ》学者めが」
仇士玉がいきりたつ。激したあまり、腰の佩剣《はいけん》を抜こうとして、さすがに周囲に止められた。
「何故だ」
「陛下は、すべてご理解のはず。それを、わからぬふりをなさっておられる」
「申せ」
魚支吾にもわかっているのだ。道理なら、誰よりも理解の早い男である。理詰めでここまで言えば、先の見通せない暗愚者ではない。ただ、わかっていることを自分の口から発して、確認するのが恐ろしいのだ。
伯要は、小さく嘆息して、
「……申しあげます。四公子は、大公子と母君を同じくする弟君。それを放置しておいては、三公子を害するおそれがございます」
三公子、傑を生かしておいて、兄を殺された四公子が黙っているはずがない。たとえ本人にその気がなくとも、今回、蘊夫人に加担した連中が担ぎ出すだろう。どちらにしても、流血は避けられないし、それによって臣下同士の対立もさらに激しくなる可能性がある。むざむざ、手をこまねいて国が分裂するのを待つぐらいなら、今、四公子の命を断ち蘊夫人の勢力を削いで、後の禍を未然に防ぐべきだというのだ。
「しかし、それには二公子、五公子は関係があるまい」
「嫡子たる三公子が、庶人に落とされたままになっているとは考えられぬ。いずれ、元のご身分に戻すべく、画策なさるおつもりでしょう、禽将軍? が、その過程で二公子、五公子が必ず邪魔になるはず。いずれ殺されるものならば、今、除いておかれた方がよろしかろう」
あまりの厳しさに、一同、身動《みじろ》ぎをすることすらできない。特に、名指しされた禽不理は血がにじむほど拳を握りしめ、唇を噛んで身を震わせるばかりである。ただひとり、当の伯要のみが上座にある魚支吾の顔色をしばらく、じっと観察していたが――。
支吾がいつまでたっても決断を下さないと、判断をつけたのだろう。顎の下に手をやり纓《えい》の結び目をさらりと解くと、黒紗の小冠を外し床に置いた。
「何の真似だ」
意味するところは、訊くまでもなかった。
「これにて、ご無礼いたします」
「〈征〉を去ると――?」
「お、己の意見が主公《との》に容れられぬからとて、脅しをかけるつもりか。己が去るといえば、主公が折れて出られると――」
禽不理の挑発にも、伯要は動じない。
「容れられぬから去るのは事実。なれど、脅しではない。〈征〉の滅亡に巻き込まれたくはないから、去るだけのこと」
傲然と言い放つと、胸を張り黒衣の裾を翻して明堂を出ていった。行く手を阻む者もなく、背後から引き止める声すらなかった。事の是非はともかくとして、主の伯要への信頼の度合いを知っている禽不理が、良いのかという風に魚支吾の顔をうかがった。顔色の異常は、魚支吾の口から小さな呻きが出て気がついた。
「陛下、お加減が――」
「来るな」
上座まで駆け上ろうとして、直前で拒否された。
「何でもない、すぐに治る。少し――胸が痛むだけだ。気のせいだ」
「陛下――!」
それでも支えようと伸ばした手は、伯要と入れ替わるように明堂へ駆け込んできた声に止められた。
「急使にございます。〈容《よう》〉からの、使者にございます」
「話せ」
「――〈容〉と、〈乾《けん》〉〈貂《ちょう》〉との国境に、動きがあるとのこと。どうやら、夏《か》氏の中で内戦になりそうな雲行きとか」
「このような時に」
くいしばった歯の間から、魚支吾の呪詛《じゅそ》にも似た声がほとばしった。
北方の夏氏の国々は、魚支吾の第一の標的だった。南の〈衛《えい》〉の存在も目障りだが、まずは〈魁〉の威光の残滓にしがみついている連中を、早々に一掃しなければならない。殊に〈奎《けい》〉の段大牙《だんたいが》は、徒手になっても油断のできない存在だという認識があった。
ただ、国内に諜者は何人も送りこんであるが、積極的に混乱を起こさせるところまでいっていない。まず、自国内を充実させることを優先したからだ。
むろん、戦のひとつやふたつ、楽に勝てるだけの国力はすでにある。夏氏の国々の一国と〈征〉とを比較すれば、人口にしろ生産力にしろ格段の差がある。だが、同じ戦をするにしても、夏氏を相手どるならば、大量の兵力を投入して一気に決着をつけるべきだと魚支吾は思っていた。
〈衛〉とは、正面きって戦うのを避けるつもりでいる。少なくともしばらくの間は、戦をするにしても小競り合いをくり返し、少しずつ時間をかけて相手の勢力を削ぐ形をとる。そして、完全に優勢となったところで決着をつける。今の〈衛〉と真っ向から戦えば、たとえ勝利は確実であっても、こちらの損害もまた甚大なものになるからだ。
だが、夏氏の国々の場合はそもそも国の規模が違う。小国を制圧するのに時間をかけていては、他の国にあなどられ、またつけいられる隙を作る。〈容〉でも〈貂〉でも、とにかく一度の戦で完膚なきまでに叩いてしまう必要があるのだ。彼我の力の違いをはっきりと見せつけ、厳しい処分を取れば、小国の主の中には戦わずして降伏してくる者も出てくる。戦を、示威として最大限、利用しようというのである。
――むろん、これは北方の夏氏の国々が、連係していないことが前提である。一国一国は小規模でも、〈胥《しょ》〉を除く三伯国を中心とした複数が集まれば、兵力も生産力も侮れないものとなる。そのため、支吾はこの三年の間、諜者たちには現状維持を命じていた。下手に刺激をして、夏氏が連衡してしまわないようにという用心だった。あと二年は、余裕を置くつもりでいたのだった。
だが――。
「好機でござる。陛下」
禽不理が勢いこんで言うように、確かにこれは〈容〉をつぶす絶好の機会だ。だが、魚支吾には迷いがあった。
長男を失った上、三男の処遇をめぐって臣下がまっぷたつに分断されているところなのだ。兵や輜重《しちょう》などの数こそ充分だが、人心が十全ではない。いくら相手の混乱につけこむにしても、このまま帥《すい》を発するのは無理がある。戦に勝てたとしても、こちらにも相当な被害を覚悟せねばならない。いや、勝てればよいが、一歩間違うと、何も得るところなく退かねばならないかもしれない。
しかも――。
「こんな時に」
再び、支吾は歯ぎしりした。
五年間、時を置くという展望は、支吾の意思であり、同時に漆離伯要の建策でもあったのだ。もちろん、支吾の擁する謀士は伯要ひとりではないし、そもそも支吾自身が謀士など必要としない策士であった。が、支吾に向かって、歯に衣を着せず真っ向から反対意見を述べる臣下は、漆離伯要ただひとりだった。伯要の意見が支吾の思考の裏付けになることもあれば、伯要を論破することが支吾の自信となることもあった。その意味で、漆離伯要の存在は大きかったのだ。
「陛下――」
「兵を……」
胸の痛みがようやく緩やかになるのを感じながら、支吾は口を開いた。
「兵を出そう。ただし、直ちに戦をするわけではない。国境に集結させて、今しばらくようすを見るよう。それから――」
わずかに言いよどんで、
「漆離伯要を、臨城から出さぬよう。城下に軟禁せよ。奴めに去られては――国の機密が洩れるおそれがある」
床にぽつりと置かれた黒い小冠を見ながら発された言葉には、支吾らしくなく覇気がこもっていないと、だれしもが感じたのだった。
(四)
南方の〈衛〉の国都、瀘丘《ろきゅう》は細かな雨に包まれていた。雨の多い土地だが、特にここ数日、うっとうしい天候が続いている。
気象の変化に人の気持ちは連動するものだ。悪天候が続くと、凶事の前触れではないかと思うのは、無学な庶民ばかりではない。
「これだけ雨が続くと、今年は凶作になるかもしれませんわね」
尤暁華《ゆうぎょうか》が、灰色の天を見上げながらつぶやいた。香雲台《こううんだい》の奥房に、この館の女主人たる|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》と向かいあって彼女は座している。同じ室内には連姫の侍女たちが数人、侍立して用を言いつけられるのを待っていたが、暁華が知るかぎり、連姫が何かを命じたことは一度もなかった。
(――そういえば)
香雲台を訪れたのは、もう何十度目にもなるが、連姫とふたりきりになったことも皆無だった。王の寵姫ともなれば、常時、周囲に人がいるのが当然かもしれないが、暁華にもそれが監視のように思えていた。
「それより、洪水にならねばよいのですけれど。瀘丘はともかく、低地にある邑が心配なのです」
連姫が、銀鈴のような声で相槌をうった。細いがおだやかな声で、本心からの憂いがこもっていた。
暁華が初めて会った時には、もっと堅く冷ややかな反応しか引き出せなかった。当然の事だと、暁華も思っていた。初対面の人間に対して、最初からあけっぴろげな態度をとれるのはよほどの莫迦か、よほど己に自信がある人間だ。そういう人間をひとりだけ、暁華は知っていたが、あれが一般の基準にならないことも彼女は熟知している。だから、ことさらに連姫を打ち解けさせようと努力するつもりも、最初はなかったのである。
|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫に関しての予備知識は、〈衛〉国一の美女であることと、なかば強引に耿無影《こうむえい》の内宮に納れられたこと、無影がどこへ行くにも――戦場にまで伴うほど執着していること、程度しかなかった。彼女に接近をはかったのも、国主の寵姫と誼《よしみ》を通じておけば、あとあと商売がやりやすいと思ったまでのこと。男ならば姿を見ることすら不可能だが、女の暁華ならば女同士、話のひとつも合わせられれば、ゆくゆく便宜をはかってもらう伝手ができる――その程度の計算ずくだった。
だが、一度逢って、考えが変わった。
そして、三年の間、一月に一度は必ず通って他愛もない話を続けた結果が、この声だ。憂いがちな横顔は三年前と変わらないものの、時々、微笑ととれないこともない表情を暁華に見せるようになったのは、大きな収穫ではなかろうか。少なくとも、暁華は連姫に好意を持たれているという確信を得ている。
――好意から信頼へは、一歩の距離だ。だが、敢えて暁華は信頼の範囲へ踏み込もうとしていない。彼女も旧知の耿淑夜《こうしゅくや》が、連姫と知り合いだったと聞いてからは、なおのこと――。噂や連姫のようすから見て、淑夜を手厚く保護したことを語れば、たちまち信頼を得ることは確実だったが、敢えて暁華は一切口をつぐんでいる。その件に立ち入れば、耿無影の不興をかうのも確実だと、商人の勘でたちまち悟ったからだ。
(どちらにしても、淑夜さま自身はこの件には関わりない。連姫さまを想っていたなら、なんらかの形でわかったはず)
こちらは、女の勘とでもいうべきか。連姫に限らず、だれといって特定の想人《おもいびと》があるようなそぶりは、淑夜にはなかったという確信がある。
(問題は、連姫さまのお心の方。無影さまとの仲が、とかく取り沙汰されているけれど)
とはいえ、それ以上の詮索は、暁華の好むところでもなかった。
「――ほんとうに〈衛〉は、雨の多い土地なのですわね。義京《ぎきょう》におりました時から、話には聞いていましたけれど。義京は雨の少ない土地で、旱魃《かんばつ》がよく起こりますのよ。少なくても凶作、多くても凶作。まったく、人の思うようにはならないものでございますわ」
嘆息まじりに、また天を仰いでみせると、
「でも、暁華さま。洪水にせよ旱天にせよ、凶作になれば、戦が起きなくなるとは思われませぬか」
意外なことを連姫は言いだした。
「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人は、凶作になればよいとお思いですの?」
「いいえ。でも、戦にならずにすめば、凶作の方がましかもしれない」
声は落として、しかしはっきりとした口調で口早に言ったのは、侍女たちに聞こえないようにという配慮だろう。切れ長の目を伏せ、かすかに柳眉を顰《ひそ》めて面をそむけたところは、玲瓏たる玉を刻んだ花か人形のようだ。豊かに結い上げた黒髪には、銀細工の笄《こうがい》がひとつ挿してあるきりの質素さがまた、作り物じみた冷たい美貌をひきたてている。
女の暁華でさえ、思わず見とれるほどである。並みの男なら、ひと目で骨抜きになるだろう。連姫に逢って身を滅ぼさずにすむのは、よほど意思の堅い度量の大きな男か、いっそ婦に興味のない朴念仁《ぼくねんじん》だけだ。そして――その、よほどの男に巡り逢わないかぎり、連姫の方も不幸になるにちがいない。
かすかだが不吉な予感に、暁華もまた眉をはっきりとひそめた。
「あたくしも、戦は嫌いですわ。でも、凶作だろうとなんだろうと、男は戦を起こしたがるものですわ。――|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]君《しんくん》は、戦を止めさせたいとお考えですの?」
「わたくしに、そのような力はございませぬ」
「お持ちでしたら、どうなさいます?」
「暁華どのは、如何ですの。嫌いとおっしゃいましたけれど、戦がなくなればお困りになりますでしょう」
追及にいささか苛立ったような声が、軽い皮肉をぶつけてきた。暁華は、平然と笑って受け流した。好意を持たれているといっても、連姫は時おり、こうやってきつい物言いをする。これが彼女の性格なのだと、暁華は一度で呑みこんでいるし、そもそも、皮肉のひとつやふたつで顔色を変えていては商売などやってはいけない。
「あら、何も起きなければ、それに越したことはございませんのよ。戦がない方が、荷物ひとつ運ぶにも好都合ですもの」
「本心から、そうお思いですの?」
「はい」
「ならば――止めて下さいませ」
「戦など、どこにも起きていませんわ」
「ええ。けれど、すぐに起きる――お起こしになるのでしょう」
「さあ――」
「お隠しになっても無駄でございます。〈容〉との間に、使者が行きかっているのも存じております。香雲台は、それほど世間から隔たっているわけではございませんのよ」
直接、誰かが報告しているわけではないだろう。しかし、口さがない侍女たちの噂話を総合していけば、怜悧《れいり》な者であれば情勢を正しく推測することも不可能ではない。おそらく、〈容〉に耿淑夜が生きて暮らしていることも耳に入っているのではないか。他国の戦の噂に神経をとがらせるのも、淑夜の存在故かもしれない。だが――真実、そうだろうかとも暁華は思う。淑夜故だと、連姫自身が思いたがっているふしはないだろうか。そもそも、相手は五年以上も前に逢ったきりの少年である。少年自身は、連姫の想像や思惑に関わりなく、成長し変化している。
おそらく、連姫の脳裏にある淑夜と現実の彼とは、まったく別人ほどに隔たっているにちがいない。直接、連姫に淑夜の話をしたことはないが、侍女たちの話から想像できる淑夜像と、暁華自身が知っている淑夜とでは大きな隔たりがあるのだ。むしろ、連姫の想像に近い人物は、案外身近な処にいるはずなのだが、と――思ったものの、暁華はそれを口には出さなかった。
「戦になるかならぬかを決められるのは、陛下ですわ。あたくしでは――」
無影の名を出したとたん、連姫はぴたりと口を閉ざして顔をそむける。
「あたくしが先ほど申しあげたのは、そのことですのよ。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人がひとこと申しあげれば、陛下はお聞き入れになるのではありませんの」
「わたくしは――」
何かを告げかけて、声を途切れさせた。
「わたくしには、そのような力はございませぬ。わたくしは――いってみれば陛下の装身具のひとつなのですから」
「そのようなこと、仰せになるものではありませんわ」
さすがに、暁華の眉のあたりも険しくなった。
「陛下に失礼ですし、だいいち、夫人ご自身を貶めることになりますわ。陛下ほど、夫人を大切になさっておいでの方はございませんわよ。尤家で| 承 《うけたまわ》った、夫人のための品の注文の数だけでも、たいしたものですのに」
「――まだ、童髪《うないがみ》の頃、一番嬉しかった贈り物がありましたの、何か、おわかりになりますか?」
不意に、連姫が話を逸らした。
「――なんでしょうかしら」
「時おり――ほんの時おり、早咲きの花が院子《にわ》に置いてありましたの。他愛のない、つまらないものでしたけれど、どんなに立派な宝物よりも、そんなくだらない物の方が、意外できれいで――」
「わかりますわ」
これは、暁華の本心だった。彼女も、一度は家も財産も捨てたことがある。
「でも、その花、いったいどなたが届けておいででしたの?」
「存じません」
さりげなく、答えが返ってきた。そのさりげなさにかえって、暁華は連姫の動揺を感じた。
「本当に? 見当もおつきにならない?」
「ええ」
虚言《うそ》だと思ったが、根拠がない。しかも、追及したところで暁華にはどうしようもない。今、花が欲しいのなら、やはりはっきり無影に言えばいいのにと暁華は思ったが、これまた、口にしても仕方がない。話の継ぎ穂が一瞬、途切れた。ちょうど、おりよく、
「――陛下のおいででございます」
房の戸口の紗幄《しゃまく》が揺れて、この香雲台の差配を任されている、班姑《はんこ》という婦人が告げた。とたんに、それまでも表情の起伏の少なかった連姫が、玉の彫像のようにこわばった。
「それでは、あたくしはこれでお暇をいたしますわ」
連姫に、慇懃《いんぎん》に別れを告げて房の外へ出ると、班姑が、
「尤夫人、申し訳ございません」
香雲台の侍女の筆頭である彼女にも、暁華はふだんから気を配って何かと贈り物を欠かさないから、自然、班姑の態度も親しげなものになる。
「いえ、ご好意に甘えて、つい長居をいたしました。本来なら、あたくし如きがお側に上がるだけでも恐れおおいのに」
「何を申されますやら。私どもも、尤夫人のご訪問、ありがたく思っておりますのよ」
「ま、お世辞でもうれしいですわ」
「いいえ、本当に。尤夫人がおいでになる日は、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》君のご機嫌もよろしいのですよ。いつもなら、私どもを莫迦にして知らぬふりをなさる方が、少なくとも口をきいてくださいますもの」
班姑に聞かれないように、こっそり暁華は小さな嘆息をもらした。世の中の婦が、皆、自分のように、己の意思のままに生きられないことは知っている。親が許さぬからといって、心に決めた男と手に手をとって逃げたことのある暁華だが、それを他人に勧めるつもりはない。だが――。
他人と接触を持たず反応もせず、世界のすべてを拒絶することでしか己の意思を貫き通せないのは、哀れではないか。しかも問題なのは連姫自身が、何に対して意地を張っているのか、知らないことだ。
「陛下にひとことご挨拶申しあげてから、退出させていただいてもよいでしょうかしら」
「ええ、もちろんですとも。尤夫人がおいでになっていることは、陛下にも申し上げてございますから。こちらにおいでで――あら」
豪華な調度を配置した房をちらりとのぞいて、班姑は身をすくめた。長身の青年が、立ったまま手にした書面から顔を上げてこちらを見た。ちょうど急を要する、しかも機密の文書を受け取って、あわてて目を通している最中だったらしい。その顔色がいつにもまして白く、左頬の傷がことさら紅く浮きたっている。
無影も、暁華の姿を認めた。その眼光に、さすがの暁華もたじろいだほどだ。
「尤夫人」
「はい、なんでございましょう」
それでも、即座に応えたのはさすがである。班姑などは早々に暁華の陰に隠れてしまった。
「――野狗《やく》と言ったな、あの夜盗」
「はい」
「奴からの報告だ」
百来《ひゃくらい》将軍にいったんはにらまれたものの、これほど使い勝手のよい男を閉じ込めておくわけにもいかず、すぐに〈容〉へ向かわせてある。彼自身が戻ってきたのではなく、報告だけが来たということは――。
「始まったぞ。〈容〉伯が、段大牙を軟禁した」
「まあ――」
「〈乾〉と〈貂〉が動くだろうと言っている。約束どおり、〈征〉に向けて兵を動かす準備をしろとな」
「それで――約束をお守りになりますの?」
暁華の言葉に、ほんの一瞬、無影はめんくらったような無防備な表情をさらした。すぐに消えたが、おかしいぐらい淑夜によく似た顔だった。
「――躬《み》を試す気か」
無影の眼光が一層鋭くなったのは、暁華の言葉に二重、三重の意味をさとったからだ。考えようによっては、このまま約束どおり兵を出す必要はない。
大牙と約束はした。だが、密約を破ったところで、違約を責める者はいない。放置しておけば、〈容〉は〈征〉が滅ぼしてくれる。気になる要因である段大牙も、賞金首の耿淑夜も魚支吾が消してくれるだろう。確かに、一時的に〈征〉の勢力を増大させることになるが、〈衛〉の力を削がれるわけではない。挽回の機会はこれから先、いくらでもある。ことに、魚支吾と無影の年齢差を考えれば、支吾の死を待ってからでも遅くはないのだ――。
「いや」
と、無影は首を振った。
「約束どおり、兵を出そう。〈征〉の諜者からの噂だが、〈征〉の内部にも何事か起きたらしい。となれば、〈容〉を攻めきれるとは限るまい」
それだけ、〈衛〉の示威なしに大牙が〈容〉を制圧する可能性が大きくなったわけだ。もしも、そうなった場合、この違約は大きなつけになる。逆に、兵さえ出しておけば、何があってもとりあえず大牙に貸しを作っておける。
「事と次第によっては、躬も出る。――あれに、準備をさせておくよう」
物陰に控えた班姑に命じるや、くるりと踵を返して出ていった。
「――なんと、慌ただしいこと。お方さまに逢いもなさらず」
班姑の愚痴を聞き流して、暁華は房内の几の上にぽつんと置かれた、小さな布包みを取り上げた。黄色い布を払うと、見事な玉細工の簪《しん》が現れた。深い色の上質の玉を花の形に彫りぬき、金細工を施した婦物の品である。そして、暁華はこの簪に見覚えがあった。しばらく前に無影の注文で尤家が作り、暁華自身が届けたものである。
「まあ――。このようなものを、お忘れになって」
「忘れられたのではありませんわ」
暁華はやりきれない想いをおし殺しながら、簪を布にくるみ直した。
「置いていかれたのですわ、何も言わずに」
ごく小さな声で、班姑にも聞こえなかったにちがいない。古びた、質素な笄《こうがい》ひとつをかざした連姫の髪を思いだしながら、暁華はまたひとつ、嘆息した。拒絶することでしか己の意思を示さない連姫と、心底を決して言葉にしない無影とでは、いかに暁華でも救いようがない。
「これを――もっと目立つところに、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》君のお目に止まりやすい処に置いてさしあげてくださいまし」
そう告げて、暁華も足早に香雲台を辞したのだった。
霧のような雨が、まだ降り続く気配だった。
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第四章――――――――星霜
(一)
小楼の上からは、風景が日に日に緑が濃くなっていくのがはっきりと見てとれた。北方に位置する〈容《よう》〉にも、ようやく爛漫の春が訪れようとしていたが、大牙《たいが》の目にはただ退屈なばかりの景色だった。
この楼の三階に軟禁されて、十日になる。地下牢などに押し込められるよりはましだが、不自由なことには変わりない。その上に、捕らえられてから絶食しているせいで、目を動かすことさえおっくうになっていた。
食事を与えられてないわけではない。〈容〉伯に抵抗するという意思表示のために、水以外の物を口にしないと決めたのだ。さらに、夏子明《かしめい》が毎日、ここまで上ってきて玉璽の在処をと要求するが、幸い、身体に直接、危害を加えることまでは出来かねている。
大牙を殺してしまっては、玉璽の在処がわからなくなる。玉璽を手に入れたところで、己では夏氏をまとめていけないことは承知している。殺して手に入れた物となれば、なおのこと〈貂《ちょう》〉も〈乾《けん》〉もついてこないだろう。大牙を傷《いた》めつけて玉璽を手に入れたところで、後でしこりが残る。
とにかく、説得で大牙を屈服させるか、それともすべてを諦めるしかないのだ。毎日、せっせと三階までのぼってきて半日以上、説得にかかる根気だけは見上げるが、いつも同じ論理で変わりばえしないのが玉に瑕《きず》だ。まちがっても、これに説き伏せられる心配はない。
しかし――。
(そろそろ、俺の方が限界だな)
そもそも絶食などする必要はないのだが、夏子明を挑発して、注意をひきつけておくには、この方法しか思いつかなかったのだ。
(旬日《じゅんじつ》(十日)――超光《ちょうこう》の足なら、〈乾〉まで四日、いや、三日か。〈乾〉伯の説得に三日かかったとして、そろそろ動いてもいいはずだ)
淑夜《しゅくや》が馬で逃げたことは、夏子明の口から聞いている。苳児《とうじ》を連れていったと聞いた時には、しまったと思った。子明の追及が厳しくなるのは必定だったからだ。当初の予定では、淑夜はこの騒動で大牙を見限ったふりを装うことになっていた。日頃の冷遇ぶり、また大牙が〈衛《えい》〉と手を結んだらしいという|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》の告げ口があれば、偽装はたやすいはずだった。だが苳児を伴えば、別の意図があるのではないかと疑うのが当然だ。また、苳児が大牙にとって絶好の人質となることを考えれば、子明がやっきとなって追うことは確実だったからだ。
が、どうやら、超光に追いつける馬も人もなかったようだ。その上、淑夜は関を通らずに国境を抜ける道を、何本か知っている。赫羅旋《かくらせん》が尤《ゆう》家の傭車(荷役)をしながら作りあげた、間道の地図を見ているのだ。淑夜は一度見たものは忘れないという特技をもっている。羅旋に従ってそういった獣道を行ったことも、野宿をしたこともある。不自由な左脚をかばいながら、館の隅にひっそりと身を寄せている彼しか知らない〈容〉の人間には、淑夜の行動を予測して捕らえることは、まず不可能だろう。あとは、苳児に危険が及ばないよう、祈るばかりだ。
冀小狛《きしょうはく》らが館内に閉じ込められたという話も、夏子明から聞かされた。〈奎《けい》〉から忠実に従ってきた臣たちの身を思うならば――と脅されたが、これは効果がなかった。
[#挿絵(img/03_167.png)入る]
いや、実は大牙が軟禁された日、館を封鎖に行った〈容〉の者らと館の者との間で、当然のように争いが起きている。〈容〉伯の権威をかさに着た連中の方が、かなり激しい暴力をふるったらしい。館の者に数人、怪我人が出た。冀小狛などは、左腕を折る重傷だったそうだ。それを知った大牙は、騒動が起きる前に苳児を連れて逃げた淑夜に内心で感謝すると同時に、これ以上、館の者に危害を加えれば自害してやると、逆に夏子明を脅しつけたのだ。
子明にしても、大牙が本気で死にたがるとは思っていないが、かけひきのためには何をやるかわからない。死なれれば、玉璽の在処はわからず、しかも不当に〈奎〉伯に迫って死なせたと他国に弾劾され、つけ入られる口実を作る。子明に、かけひきにしろ「死んでみろ」と言いはなてるような度胸は、塵ほどもないはずだ。子明の小心を計算に入れて、大牙と淑夜は計画を練っている。それが、今のところは図に当っているようだった。
そもそも、もしも夏子明に決断力があれば大牙を呼び出すなどというまわりくどいことはせず、まず、館に不意討ちをかけて〈奎〉の残党を皆殺しにしただろう。理由は後から、いくらでもつくのだ。たとえ、それで〈貂〉〈乾〉が納得しなかったとしても、殺してしまった後からでは、何もできるまい。
殺したあと、ゆっくり館をしらみつぶしに捜せば、玉璽は必ず見つかったはずだ。これほどの品を大牙が身辺から離して隠すはずがないし、実際、彼はこれまでずっと肌身につけて離さなかったのだ。
|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器に意図的に玉璽を見せた直後、夏子明から呼び出された時点で、大牙と淑夜は勝ったと思った。あとは、淑夜が無事に〈容〉を脱出できるか否か。――さらに、淑夜の〈乾〉伯に対する説得の可不可という問題もあったが、それは大牙の力では如何《いかん》ともしがたいことだ。彼としてはただ、淑夜の無事と成功を願って、ここでじりじりしながら待つことしかできなかった。
それでも、情勢の変化はここにいても察知できる。誰かが知らせてくれるわけではないが、子明の言葉の端々から推察することはできた。
それによれば、〈容〉の家臣の間でも、夏子明のやりようには賛否両論が出ているらしい。中には、ここまでやったのなら今からでも遅くはない、いっそのこと――と、そそのかす者もいるらしい。その一方で、玉璽を迫ったこと自体がまずかった、今からでも謝罪して、大牙を解放するべきだという意見も強いという。
曰《いわ》く、国は信義によって成り立つもの、国主は信義を守ってこそ家臣も民もついてくる。それを国主自身が反故《ほご》にして、不正な手段で手に入れた玉璽に、どれほどの価値と権威と力があるというのか――。そのあまりの正論と語調の強さに、〈容〉の宿将たちの間にも動揺が走っているらしい。
肝心の〈容〉伯、夏子明はといえば、極論の両者の間に挟まれているようだった。家臣の意見に耳を傾けるのはよいとして、百出する折衷案にまで、いちいち詳細な検討を加えているという。
(小心というのは、そういうことだ)
己の考えだけでは、決断ができないのだ。他人の意見を聞き、謙虚に取り入れることは必要だが、それも度を過ぎると無責任と同義となる。そして、夏子明には何事か失敗した場合、責任をその意見の主に押しつける傾向があった。
ともかく、家臣の意見が二つに割れている間は、大牙の身も冀小狛を筆頭とする〈奎〉の遺臣たちも安泰だといえた。
することもなく考えることもなく、床に直接、寝ころがっている大牙の耳に、足音が響いた。正体を確かめるまでもない。ここに上がってくるのは夏子明でなければ、手も付けられない食事を運んでくる兵卒だけだ。
「大牙どの」
呼ばれたが、大牙は起きなかった。うっとうしい顔を見るために、わざわざ無駄な力を使うことはないと思ったからだ。だが――。
「起きてもらいたい」
どかりと座る音とともに降って来た子明の声が、いつもより堅かった。顔だけをそちらへねじ向けると、目をぎらつかせて何やら興奮した面持ちの夏子明が、膝の上で拳を握りしめながらこちらをにらんでいた。
「――どうされた」
起きるしかなかった。説得されないことには自信があったが、あまり強く拒否したり反抗して、相手を逆上させることも危険だからだ。それでも、わざとゆっくりと上体を起こし、視線を合わさないようにした。
「今日で十日になる」
「ああ――」
いわずもがなの確認である。何を言いたいのだといぶかしげな大牙の耳へ向かって、
「耿淑夜が逃げたことは、話したな」
「聞きました」
「どうやら、あてが外れたようだな」
「奴を、捕らえでもしましたか」
何気無く訊いた大牙に、子明は嫌な笑い方をした。もともと嫌いな顔だったが、ここ数日のうちに急速に人相が悪くなったように思える。ろくなことを考えていないせいだと、大牙は腹の底で思っていたが、他人のことはいえない身である。口には出さずに、子明の次の言葉を待った。その目前に。
ころり、と――。
軽い音とともに、白い光が転がり出た。
(なに――?)
思わず、目をこするところだった。
方寸の断面を持つ、白玉の塊《かたまり》だった。一面に裏文字に彫りこんであるのは、『受命於天《じゅめいおてん》』の四文字。そして、わずかに缺《か》けた角の面の小さな反射が、大牙の目を射た。
「これは――」
声がかすれた。
「では、真物《ほんもの》だな、これが」
大牙の一挙一動を粘りのある視線で観察していた子明は、満足そうにうなずく。
「どうして――、どこに」
「耿淑夜の住まいだった、桑畑の農具小屋の床に埋めてあったそうな。掘り返した土が新しかったので、すぐに判ったそうだ」
(――何故)
手筈では、淑夜が玉璽を持って逃げることになっていた。誰かに託すより、隠すより、その方が確かだと思ったからだ。にもかかわらず、土壇場で淑夜が計画を勝手に変更した――。
やむを得ない事情があったのかもしれない。苳児の件と考え合わせると、一概に断定はできないが、淑夜が大牙の信頼を裏切る事態になったことは事実だった。
愕然《がくぜん》となった大牙の表情を確認して、子明はいかにも愉快そうに笑った。嘲笑の成分が、笑みの大部分をはっきりと占めていた。
「まさかとは思っていたが、あのような黄口《こうこう》の孩子《こども》とともに事を謀っていたのか、大牙どの。まだまだ、御身は思慮が浅い、敗れるのも当然のこと――いや、それとも、あやつに裏切られたのかな」
いつもなら、せせら笑う顔を踏みつけてやるところだが、今はそんな気にもなれない。
「のう、大牙どの。あんな青二才を信用して小細工が出来て、なんでこの儂が信用できなんだ。最初から儂の言に是《ぜ》と言ってくれさえすれば、こんな苦しい思いにも不愉快な目にも逢わずにすんだのに。いや――」
と、自分ひとりで納得して、子明は首をふった。
「儂は心の広い男だ。過ぎたことは忘れよう、御身の虚言も聞かなかったことにしよう。だから――」
その後の論理は聞かなくとも、わかった。
「実はな、これを見つけたのは、昨日のことでな。すでに勅書は、〈貂〉に送った後なのだ。むろん、御身の名でな」
「――勝手なことを!」
「そう言うな。悪い話ではないと思うのだがな」
「ぬかせ」
「強情にも、限度があるのではないか、段大牙。そもそも、体力がもう尽きかけているはずだ。それとも、このまま食事を摂《と》らずに自ら餓死するか。伝統ある〈奎〉の段家を、御身自らの手で絶やす気か」
死に対する恐怖や躊躇は一切ないが、これには考え込まざるを得なかった。父と兄・士羽《しう》が守ろうとした物を、彼があっさりと手離すわけにはいかないのだ。段家の血統を伝えること、そして〈奎〉を――ひいては〈魁《かい》〉を復興することが、ひとり残った大牙の使命なのだ。たとえ、大牙自身には別の考えがあったとしても、だ。
「さあ、如何《いかが》する」
情勢が変わったと見て、子明はかさにかかって責め立ててくる。
「何を迷う。勅書が発された以上、もう後戻りはできぬ。あとは死のみだが、これも御身には出来ぬはず。ここまでついて来た家臣どものことも、考えてやらねば」
「――時間を」
時をくれと、大牙は口に出しかけた。選択の余地はないにしても、決断までの時間が欲しかった。まず、淑夜に対する失望と怒りとを押さえねばならない。こんな事態に至ったのは、淑夜のせいだ。彼が、最初の手筈通りに事を進めていれば。いや、もしかして――。
(俺を、見捨てたのか)
〈衛〉の耿無影《こうむえい》と手を結んだ大牙に、身の危険を感じたのだろうか。ならば、何故はっきりとそう言わなかった。決して、強制はしなかった。別の機会を待つこともできたし、淑夜が望むなら穏便に去ることも許してやれたと思うのに。
苳児を連れていったのは、大牙に対しての脅迫に利用するつもりだったのだろうか。それほど信用がならなかったかと思うほどに、腹の底の方が熱くなってきた。
口を開こうとする前に、夏子明が待ち切れぬといった風に急き立てた。
「如何かな」
言われて、
「時間を」
と、応じかけた時だった。
「殿下――!」
階下から声があがった。同時に足音も高く駆け上がってきたのは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の顔である。
「莫迦者! 誰も上がってきてはならぬと禁じておいたはずだぞ!」
「そ、それどころではございませぬ。〈乾〉伯、〈貂〉伯、他の国主が、皆、うちそろって国境の曲邑《きょくゆう》の関に集合しているとか。殿下にもそこまでおいでくださるようにと、今、使者が――!」
「動いたか!」
叫んで膝立ちになったのは、段大牙。茫然と声を失ったのは、夏子明。
「……どうしてだ」
〈貂〉に使者を送り出したのは、昨日のことだ。車で行ったとはいえ、まだ道程の半分も行っているまい。
機先を制されたのだ。
だが、〈乾〉伯をはじめ他の連中までが歩調をそろえているとはどういうことだ。たしかに〈乾〉伯、夏夷《かい》は現在の夏氏の当主の中で最長老で、人望もある。彼がその気になれば夏氏をまとめることも可能だろうが、何分にも老齢の上、変化を嫌う傾向が強い人物である。子明も何度か、それとなく夏氏の連衡を彼にもちかけたことがあるのだが、あっさりと拒否されている。
おそらく〈容〉に主導権をとられることを嫌ってのことだったのだろうが、だからといって自分から事を起こすような人柄でもないはずだ。〈貂〉が〈容〉に迫られたからといって、自らしゃしゃり出てくるようなことはないとふんで、子明は計画を実行にうつしている。それが、何故――。
〈貂〉が、〈乾〉に仲介もしくは援護を頼んだとしても、早すぎる。それとも前もって勅書が発されることと、その内容がわかっていたとでもいうのか。
そこまで考えて、子明はようやく思いあたった。
「あ――」
(嵌《は》められた)
めぐらした視線が、大牙とぶつかった。
(あの孩子《こぞう》め、てっきり大牙を見捨てて逃げたのだと思っていた)
耿淑夜が犯人だとは、のみこめた。だが、まだ疑問は残っている。あの足の不自由な他国者が、〈乾〉伯をどうやって口説き落としたのか。夏子明には、耿淑夜の記憶はほとんどないが、〈衛〉の耿無影の親族だということだけは知っている。〈衛〉の諜者の可能性のある孩子が、どうやって夏夷の信頼を得られたものか。だいいち――。
「何故、奴らが曲邑に来るまで報告がなかった」
仮にも他国に対して、挑戦的な書面をつきつけるのである。国境の関の兵はどこも、あらかじめ増強してあった。それが、たとえ見当ちがいの方向からとはいえ、軍をやすやすと侵入させるとは。
「子華《しか》は何をしていた。子華は、何故――」
〈容〉伯家の家宰《かさい》の名を連呼したのが合図のように、その名の主がゆっくりと小楼に姿を現した。
それほどの長身ではない。また、整ってはいるがそれほど目立つ容姿でもない。子明の足元でうろたえている|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の方が、美丈夫に見えるほどだ。年齢は子明と同じほど、平凡で実直そうだがそれまでで、それ以上でも以下でもない。かろうじて夏姓を名のってはいるが、子明との血縁はかなり薄い。孩子の頃から特に学問ができたわけでもなく、ただ、家宰職の家に生まれたためか数字に明るいのが唯一の長所だという。
そんな風だから子明も、邪魔にこそしないものの、ふだんから軽んじているふしはあった。今回の窮地も、地味で融通のきかない夏子華が何か失態をしでかしたのだろうと決めつけて、顔を見るなり怒鳴りつけようとした。
その、子明の口が開くより前に、
「主公《との》、支度は整えておきました。おでましを」
子華は、うながしたのである。
「――子華」
「今からお急ぎになれば、明日には〈乾〉伯殿下と面談できましょう。事態を先に持ち越せば持ち越すほど、面倒になるばかりです。また〈奎〉伯殿下も帯同されて、ご無事を知らしめる必要もございます。一刻も早く」
「子華、うぬは、うぬは……」
「誤解なさらぬよう」
意外なほど強い眼で、子華は子明をにらみ返してきた。
「私が〈乾〉伯と通じたわけではございません。国境を守る将軍方にも、咎はないと思います。〈貂〉の動静に留意せよとのご命令しか受けておらぬのですから」
最悪の場合、〈貂〉との一戦も覚悟していた子明だが、最初から喧嘩腰をみせるわけにはいかず、国境に兵を集めたといっても完全な臨戦態勢ではない。〈貂〉伯のみなら武力でさえぎることもできようが、〈乾〉伯や他の国主たちの動向にまで気は回っていない。しかも、小なりといえど国主の随行の軍である。一国ごとに率いてくる兵の数は少なくとも、集まれば関の守備兵の数を圧倒する。
その彼らに、下手に攻撃を仕掛ければ、〈容〉一国で夏氏の国全部を敵に回すことになるのだ。
「なんという――、裏切り者めらが」
歯ぎしりが、いやに空虚に聞こえた。曲邑の守備についた将が戦を仕掛けていればいたで、勝手なことをと悪態をついたにちがいないのだ。
「それで! 子華、うぬも奴らと同心か!」
「こうなりました以上は――」
「誰か!」
「無駄でございます」
護侍の兵を呼び込もうと、階の上り口に駆け寄った子明を、子華はひと言で制した。
「国都に在る将軍方には、私が事をわけて説明いたしました。皆、同意いただいております」
「う、うぬら、……〈容〉を滅ぼす気か!」
「お言葉ながら、殿下のなされようこそ〈容〉を滅ぼすもの」
「なんだと」
「人を呼んで、如何なさいます。私を捕らえて、そのあとどうなさいます。会盟を求めておられる〈乾〉伯方を攻められますか。その大義はどこにございますか。また、この戦には勝利したとしても、本国に残った者らが黙ってはおりますまい。後継者を国主にたてて、弔い合戦を仕掛けてくることは必定。また、東の〈征《せい》〉がこの好機を逃すはずもありますまい。事実、この異変を察した〈征〉の軍が、すでに臨城《りんじょう》を出発したという報告が入っております。事、ここに至って、腹背に敵を受けることはできませぬ。ひとつ間違えば、〈容〉どころか、夏氏すべてが滅んでしまいます。一刻も早く、〈貂〉伯と和解を」
「こ、こちらには、玉璽があるのだぞ。勅書には、夏夷とて逆らえまい」
「――〈乾〉伯も、勅書をお持ちとか。それも、〈容〉の不義を糾弾する内容だとか」
「偽物だ! 本物の璽は、ここに――」
「御璽《ぎょじ》はここにあっても、勅書が真物だという事態は十分に有り得ますが」
眉ひとつ動かさず、夏子華は言い切った。
「おそらく、耿淑夜どのは逃亡された時にすでに、御璽を捺《お》した書面を用意されていたのではありますまいか。印影が本物ならば、玉璽自体を所持しておらずとも勅書は真物。主公が何枚、勅書を発しようと、両者の権威や効力は同等。主公と〈乾〉伯殿下との力も、同等となるように考えられたのではないかと思いますが――如何でございましょう、〈奎〉伯殿下」
「そう、らしいな」
大牙にも、ようやく苦笑いをする余裕が生まれていた。子華に説明をされて、やっと得心がいったのである。
淑夜に、まんまとだまされたわけだが、先ほどとは違って快い気分になっているのが、いい加減なところである。そういえば、芝居の苦手な大牙のために工夫すると言っていたではないか。
「ここは、是非にも早急に〈貂〉との間を修復し、〈乾〉伯とも話し合っていただくのが上策。〈乾〉伯にお任せすれば、少なくとも〈容〉と〈容〉伯家との存続だけは可能でしょう」
そこで、大牙の方に向き直り、
「――お口添え、お願いできますでしょうか。虫がよいことは、百も承知ですが」
「つまり――」
荒れ狂う子明を横目に見ながら、大牙はまずうなずいていた。
「俺に味方してくれるというわけか」
「〈容〉の存続に、手を貸していただけるならば」
「よかろう」
「うぬら! 儂がうぬらの主だぞ!」
「ならば、国主らしいことをなさいますよう」
吠えた子明に向かって子華は低く、しかしきっぱりと告げた。
「この窮地を招かれたのは、ご自身でございます。玉璽を借りるにしても、このように無道な手段を取られては――」
「儂ではない。この男だ、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が」
指そうとして、またしても唖然となった。この室内には、彼と大牙、夏子華の三人の姿しかなかったのだ。
「いつの間に、あやつ、あやつが全て悪いのだ――」
「見苦しい真似は、おやめください」
ずしりと重い声が、子明を凍りつかせた。子華の地味な容貌には、変化はない。だが、子明の醜態があらわになるにつれて、逆に子華の声の迫力が次第に増していくようだった。たかが声に圧されて、子明はじりじりと後ずさる。太り肉《じし》の全身にじっとりと汗がにじみ出る。足元ががくがくと震え、眼だけが、逃げ場を求めてぎらついていた。その顔に向かって、
「どうぞ、おでましを。他の国主方のご意見次第で、どのような事態になるか予測は不可能ですが、どうぞ、最後まで国主らしいふるまいをお願いいたします」
大牙と淑夜が再会したのは、それから三日後のこと、曲邑の地においてである。
結局、夏子明は曲邑へは行かなかった。病気を理由に不参を申し入れ、かわりに今年十一歳になる嫡子、夏弼《かひつ》を代理としてさしむけることを承認されたのだ。これは事実上、夏子明が当主の座を息子に譲るという意思表示をしたことになる。大牙は、夏子華とともに、夏弼の補佐という形で曲邑へ赴いた。随行の中には、軟禁を解かれた冀小狛将軍らの顔もあった。
「――驚きました」
久々に、面やつれした主の姿を見てうっすら涙さえ浮かべながら、それでも皮肉をこめて冀小狛は言った。折ったという左腕は、まだ治ってはいない。不自由な身体で、それでも大牙の車の陪乗《ばいじょう》を強引に申し出てきたのだった。
「我らは主公にだまされ、主公は淑夜めに欺《あざむ》かれていたわけですな」
「恨んでくれるなよ。一番だまされたのは、夏子明だろう」
「私ぐらいには真実のところを打ち明けてくだされても、よろしかったろうに。玉璽の件だけでも、せめて」
「将軍は俺と同じで正直者だ。すぐ態度に出てしまう。それに、淑夜より夏子明の方を信用していたではないか」
「それは――」
「夏子明を失脚させ、〈容〉をのっとると言っても、おぬしたちは承服しなかっただろうさ。義に背くといってな」
「今でも、釈然とせぬものはありますな。が、〈容〉伯の心底はこのたびの事でよくわかりましたし、手をこまねいていては、遅かれ早かれ〈征〉が雪崩《なだ》れこんでくる。一刻も早く夏氏をまとめる必要があるのは、確かなのもわかります」
「正直なところをいえば、別に俺が盟主になりたいわけじゃない」
だが、最長老の〈乾〉伯、夏夷は高齢の上、覇気に乏しい。〈貂〉伯も野心や欲望は人並みにあっても、自分から〈征〉や〈衛〉に対抗しようなどと思う人物ではない。他の小領の領主となれば、なおのことだ。
「夏氏を守り〈魁〉を復興するには、俺がやるしかないと、俺と淑夜とで決めたのだ。とにかく、ここまで来たら先へ進むしかなかろう。どんな手を使ってもな――」
冀小狛は口をゆがめてうなずいたが、内心ではまんざらでもない様子がありありとわかった。というのは、曲邑の会見で、未成年の〈容〉伯の補佐として大牙が正式に指名されたからだ。
曲邑の地において、〈乾〉伯はまず大牙に玉璽を出させ、〈貂〉伯、夏子由《かしゆう》に〈容〉から送られた勅書を、自分の手元にある勅書とともに揃えて出してきた。
勅書は、どちらも大牙の名に於て発されていたが、両者ともに大牙には覚えがないのは当然である。玉璽の印影は、一致することがすでに確かめられていた。
「この勅書の内容は、矛盾しておる。しかも、〈奎〉伯が発されたものでないことも明白。これは、どちらも偽物として処分するのが妥当と思うが、如何か」
髯も眉も白い老人が穏やかに言うのに、大牙も〈貂〉伯も、むろん他の者も異存はない。二葉の書面――一枚は極上の| ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17] 《かとりぎぬ》に、もう一枚は粗末な葛布に書かれたものは、その場で同時に火にくべられた。
「玉璽は、とりあえず〈奎〉伯にお戻しする。これは、伯が義京《ぎきょう》の戦乱の中から救い出してこられた物。しかも、これを持ちながら悪用なさらなんだこと――悪用されることを懸念して秘していたのだと釈明もあり、一同、それに得心もしておる。そこからかんがみても、これを〈奎〉伯にお預けして間違いないと思う。ただし――」
大牙が内心で首をすくめたのと同時に、
「これを用いる時には、我らに諮《はか》ってからにするとお誓いいただきたい。他の方々も同様ですぞ」
釘をさされた。これも、先に曲邑に集まっていた者たちの間では合意済みのことだったらしい。すでに誓紙も用意されていた。
大牙はこれで、玉璽の保管者として夏氏全体から認められたことになる。
「〈容〉伯は、すでに当主を嫡子に譲る旨、申し出ておる。夏弼どのは弱齢故、家宰の夏子華どのを補佐にと。その上、〈奎〉伯に執政《しっせい》として参画《さんかく》いただき、合議の上で〈容〉を治めていきたいとのこと。これは、〈容〉の宿老の合議で決まった事ゆえ、そのまま承認してさしつかえないかと思うが、何か異論のある者は、申されよ」
今回、〈容〉に難題をふっかけられた形の〈貂〉や〈乾〉は、〈容〉に対して警戒を強め、できれば内部に監視者を送り込みたかったようだ。だが、どちらの国の者を入れても、一方が納得しない上、〈容〉国もすんなり受け入れるとは思えない。今回、表面上の被害者の大牙は、その意味で各国の妥協点でもあったようだ。
ただ、誰もが諸《もろ》手を上げて賛成したわけではなかったらしく、周囲の顔色をうかがいながら、〈崇《すう》〉国の主、夏不知《かふち》という者が進み出てきた。
「失礼ながら、〈奎〉伯は〈容〉にとっては掛人《かかりうど》の立場。それが、〈容〉の国政に関わるとあっては――今はよいかもしれぬが、将来、問題が出てこぬであろうか」
「それも一理。〈容〉の民心も考えねばならぬ。そこで物は相談だが、〈奎〉伯」
「何か――」
「御身の姪御は、今年七歳。十一歳の弼どのとは年齢も、家格も釣り合っておる。ここで婚約だけでも結んでおけば、御身は将来の〈容〉伯の義理の叔父御。そうなれば、〈容〉の卿士《けいし》も民人も安堵して、御身に国政を任せられると思うのだが」
「は、しかし」
「姪御は無事じゃ。この地に伴うてきておる故、後でご無事な姿をお目にかけよう」
(この、古狐)
大牙は、腹の底で思わず罵っていた。満座の中では、不満があったとしても正直に異論を唱えるわけにはいかないではないか。姪が可愛いから、政略には使いたくないなどという言い訳が通るはずがないのだ。これは、大牙の個人的な事情と心情でしかない。将来、姪を〈容〉伯夫人にするという約束で、〈容〉の国政に参画するのは、誰から見ても妥当な――それどころか大牙にとって一方的に有利な条件なのである。
逆恨みだということは大牙も十分に承知しているし、さほど〈乾〉伯に悪意があったわけではないから、すぐに顔色を改めて、
「そういうことならば――」
肯首した。
ほっと一座に安堵の空気が流れたところから見て、この条件も大牙たちが到着する前にあらかじめ、ここで一致を見ていたことだったのだろう。
そのまま、酒宴となった。
「姪御はすでに、そちらの帷幄まで送り届けてある故」
夜も更け、宴がお開きになった後、〈乾〉伯からそう告げられた。なりふり構わず、走るようにして戻ると、
「――叔父上さま」
それまで、無理に起こされていたのだろう、眠そうな目をこすりながら、それでもうれしそうに苳児も小さな帷幄から駆けだしてきて、叔父の腕の中に収まった。
「うれしゅうございます」
「元気だったか」
「はい」
応えた声に、屈託はなかった。
「怪我などしていないか、恐い思いはしなかったか」
後から、影のようにひっそりと杖をついて現れた淑夜に対しての皮肉もこめて、大牙は訊いた。少なくとも怪我の気配がないことは、ひと目見ただけでわかっていた。
「はい、おもしろうございました」
苳児は、けろりと答えて笑った。
「おもしろかった?」
「超光は、風のように早いのですよ。叔父上さまはご存知でした? それに、山の中で寝《やす》むなんて初めてで、どきどきしてしまいました」
「寒くなかったか」
「一晩中、淑夜が火を焚いていてくれましたもの。淑夜は、山の中の細い道をびっくりするほどよく知っているんですのよ。〈容〉の都にいる間、ずっと気持ちが悪かったのですけれど、離れるのと一緒にどんどん気分がよくなりましたし。それから〈乾〉の都は、梅の盛りでしたの。それはきれいでした。〈乾〉にある、尤家《ゆうけ》の別墅《べっそう》もそれは広くて、親切にしていただきました」
「――尤家だと?」
と、冀小狛が怪訝《けげん》そうな声をあげた。
「冀将軍は、ご存知ないことと思いますが」
思わず向けた視線に、淑夜が応えた。実に自然で、まるで一切、何事も起こらなかったかのような口調に大牙も、冀小狛も一瞬、怒ることを忘れていた。
「義京の尤家の差配《さはい》をつとめていた季《き》という老人が、現在、〈乾〉におります。最初、いきなり〈乾〉伯に面会を求めても軽んじられるだけだと思いましたので、この老人を頼りました」
季老人は、〈乾〉における尤家の代理人として手広く商売を始めている。〈乾〉伯家に出入りし、当主の夏夷自身の知遇も得るようになっていたのである。それを尤家から伝えられていた淑夜は、〈乾〉にはいってまず、尤家に保護を求める手筈になっていた。
万が一〈乾〉伯が説得に応じず、大牙を見捨てるような結果になったとしても、尤家の手で苳児だけはかくまい通してもらえる。その目算があったからこそ、苳児を連れ出す気にもなったのである。もっとも、その結果は――。
「申し訳のしようも、ありません」
大牙が言いだす前に、淑夜は静かに頭を下げた。膝を折りかけたのだが、不自由な左脚を折るのに手間どっている間に、大牙がそれを行動で押しとどめた。
許したわけではない。だが、淑夜に卑屈な態度はとらせたくなかった。淑夜は、大牙自身が謀士にと望んだ人材なのだ。それが失敗したのであれば、彼を身辺に置いた大牙にも責任がある。ここまで来る間に、そう考えて気を鎮めてきた。
「謝られる前に、尋ねておきたい――何について謝るつもりだ。俺までだましたことか、苳児についてか」
「苳児さまのことです」
淑夜は、ためらわなかった。その回答の速さに、大牙が思わず苦笑したほどだった。
「俺は、どうなってもよかったわけか」
「悪い結果にはならなかったと思いますが」
この答えは悪びれずに口にした。冀小狛が、むっと太い眉を寄せた。
「それは、結果的にはそうなったが――主公に危害が加えられ、取りかえしのつかないことになっていたかもしれぬのだぞ。主公を危険にさらして、よくもそのようなことを」
「大牙さまには、護衛の者がずっと付いておりました。事と次第によっては、〈容〉伯殿下の命を縮めてでも」
「いい加減なことを言うと、承知せぬぞ」
「本当のことなのですが――」
しかし、淑夜はそれ以上の反論はしなかった。野狗《やく》の存在はまだ、淑夜と大牙だけが知っていればよいことで、あまり公《おおやけ》にできることではない。
「ただ、苳児さまの件は、私が勝手なことをした結果です。お腹立ちはもっとも。どのような処分でも、覚悟をしています」
再び、深く頭を下げた。
「処分か――」
大牙は、苳児を抱き上げ帷幄に入りながら、背後をちらりと振り返った。冀小狛の腕はまだ、元どおりになってはいない。これが冀将軍だったからこの程度の怪我ですんだが、襲われたのが苳児であったら、どうなっていたか。
「仮定の話をすれば、きりがない。終わったことを悔やんでも、取りかえしはつかない。これから先のことを考えよう」
「主公――」
冀小狛が、うしろで嫌な顔をしたようだ。淑夜を、このまま許すのに不賛成だというわけだが、大牙は取り合わないふりをした。
「さいわい、今すぐに婚儀をという話ではない。夏弼も苳児も、なんといってもまだ孩子だ。――夏弼が苳児にふさわしくないなら、俺が今から鍛え直してやる。うまくいかなければ、それはその時のことだ」
と、最後の言葉は声をひそめた。
「主公――」
「白状してしまうがな。苳児を〈容〉伯の嫡子にということは、かなり以前から俺も考えないではなかったのだ。ただ、嫡子であっても、必ず次の〈容〉伯になるという確証はない。もう少し、様子を見定めてからと思っていた。それと――士羽兄者の忘れ形見を、己の都合で利用するのに躊躇があった。士羽兄者への負い目を、淑夜に押しつけようとしていたのかもしれん」
「士羽さまに対する責任なら、よろこんで私が負います」
うつむきがちに、淑夜が言った。杖を置き、左脚を無理に折って両膝をそろえた姿勢で、身動ぎひとつしない。
「ほんの短い間でしたが、士羽さまにはさまざまなことを教えていただきました。今回の勅書のからくりも、以前、士羽さまが〈征〉に対して仕掛けられたことを真似ただけです」
「――そうだろうと思った」
大牙が、静かにうなずいた。
「もっとも、そうと気がついたのは、二枚目の勅書が出てきた時だったがな」
冀小狛は、怪訝な顔でふたりを見比べる。
「士羽さまが――そのようなことを?」
「義京の乱の直前のことだ。〈征〉の魚支吾《ぎょしご》を制するために、矛盾する内容の勅書をもう一枚、発していただいて、奴の勅書を無効にしようと企んだのだが」
「太宰子懐《たいさいしかい》の弑逆という、不測の事態に巻き込まれられたため、実現できませんでした」
三年前の苦い経験と、失敗に終わった計略とを、淑夜は別のところで結実させてみせたのだ。
「つまり――士羽さまの衣鉢《いはつ》を、おぬしが継ぐとでも言うつもりか」
冀小狛の顔は、あからさまな侮蔑をうかべていた。
「まさか。そこまで傲岸ではないし、おのれの未熟も承知しています。士羽さまなら、大牙さまを危険にさらすようなことはなさらなかったはずですし――おそらく、確実に〈容〉伯の生命は絶っておられたでしょう」
「まさか――」
「いえ――。のちのちの為には、そうするべきでした。〈容〉伯を今回、そこまで追い込めなかったのも、私の失敗です。この後も、用心した方がいいでしょう」
一瞬、淑夜のおだやかな横顔に、翳が落ちた。それにつられたか、冀小狛も息を詰めたが、すぐに淑夜は顔を上げた。
「士羽さまが、あの時点で先をどう読んでおられたかも、今となってはわかりません。ただ――大牙さまにも、他の方にもこの際、あの玉璽に対しての執着は捨てていただこうと思いました。その点だけは、どうやら成功したようです」
「滅んだ国の玉璽など、役にたたぬというわけか」
「本来、民人が何に従うのかをお考えください。玉璽にですか、人にですか」
言われて、冀小狛は低くうなる。不満気ではあるが、敢えて反論する意思もなさそうだった。
「この三年、考えていたのです。羅旋が、大牙さまに玉璽をあっさりと譲ったのは、彼が無欲なことも理由でしょうが、それだけではなかったのではないか。玉璽の真の価値を、彼は知っていたのだと――そして、大牙さまがどう使うか試すつもりではなかったかと、思ったのです」
「真の価値?」
「玉璽は、物です。ただの石を刻んだ物です。人を動かし、国を動かすのは人であって物ではないはず。――ですが、信じる者が多ければ、物が権威や権力をもってしまう。〈容〉伯は、玉璽の権威を信じ、玉璽自体に権力があるものと錯覚された」
玉璽さえあれば、中原のすべてを操れると〈容〉伯は思ったのだ。だが、この一件で玉璽の意味を、大牙も〈乾〉伯たちも思い知ったはずだ。
「わかった。玉璽を持っているからといって、思いあがるなと言うわけだな」
「とりあえず、〈容〉の国政を動かせるようになりました。あとは、大牙さまのお力次第。たとえば、幼い〈容〉伯の後ろだてとなって〈容〉を守り、盛り立てれば、大牙さまの発言権も大きくなり、心服する者も多くなるでしょう。そうすれば、それから先、玉璽などなくとも、〈奎〉の復興は可能になるのではないでしょうか」
これは、冀小狛の難しい顔に向かってのせりふだった。
「――それで、多くの人を欺いた件が帳消しになるわけではないが」
皮肉まじりにしぶしぶと、それでも冀小狛は譲歩の態度を見せはじめた。彼も、頭では納得している――もしくは納得しようと努力しているのだ。ただ、淑夜への反感が邪魔をしているのだ。淑夜も、性急に理解を求めようとはしなかった。
「とりあえずは、国境に迫って来るはずの〈征〉軍を、撤退させることです」
「簡単に言ってくれる」
と、冀小狛は吐き捨てた。
「戦をするのは、我ら武人だ。おぬしではないからな」
添え木をあてた左腕を示したのは、皮肉のつもりだったのだろう。だが、淑夜は、冀小狛の渋面と左腕を見ながら、
「ああ、戦は起きないと思います」
表情も変えずに、告げた。
「――なんだと?」
「念の為に国境を固めておく必要はあるでしょうし、私も今回は同行します。でも、一戦も交えずに、〈征〉は撤退するはずです」
「――貴様、今度は何を企んでいる」
「冀将軍」
冀小狛が右腕で淑夜の襟首をつかみあげるのと、大牙が低い声で制するのがほぼ同時。
「俺から、話そう」
「つまり、主公はこやつとは腹を割って話をなさるが、我らにはひとこともご相談いただけぬというわけか。それほど、我らは信用がならぬか!」
「孩子ではあるまいし、拗《す》ねるな。まず、味方を欺かねばならぬ場合もある。まして、密約の部類とあっては」
「密約?」
「〈征〉が行動をおこせば、その後背を〈衛〉が衝《つ》くことになっている」
「――〈衛〉!」
文字通り吠えた冀小狛の口を、大牙があわててふさぐ仕草をした。さすがに実力行使される前に、冀小狛も状況に気がつき、自分で自分の口を押さえた。
「あの〈衛〉か。宿敵ではないか。巨鹿関《ころくかん》の戦を忘れられたか。第一、この若僧は〈衛〉の耿無影とは不倶戴天の間柄ではなかったか。それとも――」
正直な初老の武人の眼は、とたんに疑惑の色に染まる。
「おぬしたちがそう言うに決まっているから、秘密裏に事を運んだのだ。今、我らにとっても〈衛〉にとっても、当面の敵は〈征〉だ。利害の一致する者同士、一時的に手を結んだとしてもおかしくはあるまい」
「あくまで、一時的なものですな」
「念を押す必要はない。こちらが永久を望んだとしても、あちらはそうは思うまいよ」
「――だが、密約は密約、奴めが履行《りこう》しない場合は、どうなるか考えられたことはなかったのか」
うかつだと言わんばかりの、きつい口調だった。応えたのは、
「考えました、当然」
淑夜の落ち着いた声だった。
「その場合は、堂々と援軍を要請すればいいのですよ。私を引き渡すからといって」
「――淑夜、その話は」
大牙がいやな顔をして、制した。
「その手を教えると、今度、何事かあった場合、こいつらが何を言い出すかわからんぞ」
「かまいませんよ、冀将軍ならば。少なくとも、卑怯な真似のできる方ではないでしょう」
ここで、初めて淑夜はおだやかな微笑を見せた。
「私の首には、まだ五城の価値があります。それを、最大限に活用しない手はありますまい。無影にすれば、五城を支払わずにすむだけでも、ありがたいはず。まして、見せかけの戦を仕掛けるだけでよいのですから、損はしません」
「それで――おぬしはよいのか」
「私は、大牙さまの謀士ですから」
眉ひとつ動かさずに言い切った淑夜を見る冀小狛の視線が、少し変化したようだ。
「でも、おそらくそんな事態にはならないでしょう。まず、こちらがそういう提案をしたと知れた段階で、〈征〉の勢いは鈍るでしょう。尤家の季老人の話では、今、〈征〉の国内でも何か騒ぎが起きているらしいそうで、何にしろ大規模な出兵はしないだろうとのことです。それに、無影は密約であっても約束は守ると思います。ここで、〈征〉に北方をやすやすと取らせる不利は、承知しているはずですから」
冀小狛にははっきりと言い切ったものの、それが虚勢であることは淑夜自身が一番よく知っていた。虚勢といって悪ければ、自信といってもよい。完全に間違いない、などということは有り得ない。だが、可能性が五分なら賭けるしかないのだ。そして、もしも――もしも無影が、少しでも淑夜が憶えている無影の性格を残しているならば、約束を守る確率はさらに高くなる。
この賭けは、淑夜にとっては二重の意味を持っていた。
淑夜の心底を見透かすように、冀小狛はじっと目を見てしばらくは考えこんでいたようだが。
「――よかろう」
重い息を吐き出しながら、つぶやいた。
「おぬしを信じたわけではない。すでに〈征〉との国境の関には、とりあえず兵を送ってあるが、戦をせずに〈征〉を退けられればそれに越したことはない。もしも、本当におぬしの言うとおりの展開になれば、おぬしを謀士として――われらの一人として認めてやろう。とりあえずは、な」
大牙は少し不満気に、淑夜は笑いながらうなずいた。
「それでけっこうです。少しずつ、わかっていただければ」
ふん、と、冀小狛は鼻を鳴らした。
「明日は、〈征〉との国境へむけて出発する。〈容〉国内を西から東へ横断する強行軍になるが、おぬしはどうする」
「ご同道します」
「ついてこれるか」
「私には、超光という味方がついていますから」
「馬か。戎《じゅう》族のように、馬でついて来る気か」
「あれは、なかなか便利なものです。とにかく、足の速さだけでも価値はありますからね。そのうち、戦にも利用できないかと考えているのですが――とにかく今は、目の前の〈征〉とのことに専念しましょう」
(二)
「風が出たな――」
つぶやく漢《おとこ》の頬を、乾いた風が吹きなぶっていった。声とともに風景の中へ向けられた視線が、風のような緑色をしているのを、揺珠《ようしゅ》は見た。
「寒くはないか」
尋ねたのは、彼女にむかってではない。急作りの座をしつらえた粗末な荷車の上で、懸命に背筋を伸ばしている若者に対する質問だった。青白い顔に、藺孟琥《りんもうこ》は微笑を浮かべながら、
「少し」
正直に応えた。
「後方へ下がるか」
かさねて尋ねた羅旋《らせん》だが、戻ってくる答えの予測はついていた。
「いや――」
はっきりと、孟琥も首を横に振ってみせた。
「私は馬にも乗れぬし、剣も持てない。だが、こうして陣頭に立つことで、役に立つのならば」
そうやって、また笑う。
「どうせ、もう、そう長くは生きられない身だ。せめて――」
「兄上」
かたわらに立つ揺珠が腕をつかんで制したが、孟琥はしずかにかぶりを振り返した。
「自分の身体のことは、自分が一番よくわかっている。安邑《あんゆう》を出る前から、寿命はほとんど残っていないことを知っていた。だが、私がこうしていることで、如白《じょはく》伯父が勝てるのなら、いつまででもここにいよう」
「いい覚悟だ」
その透明な笑顔に、羅旋も屈託のない笑いを返した。その笑顔を反射したように、かたわらの揺珠も笑ってみせた。
「こわいか、揺珠どの」
「いいえ」
かぶりを振ったが、身体が小刻みに震えるのは止められなかった。荷車の周囲には、親衛の戦車や歩兵、それに羅旋の部下の騎馬の兵が守りを固めている。視線の先のかぎり草原がゆるやかにうねる風景の中には、敵意を持つ者の姿はみあたらない。だが、なだらかな丘陵をふたつか三つ越した向こうには、剣を研《と》ぎ矢を弓につがえた者らが、彼女たちを殺そうと待ち構えているのだ。
「恐ろしいのが当然だ、無理をするな」
「恐ろしいのは確かですけれど、でも大丈夫です」
黒目がちの瞳を見張って、まっすぐに羅旋を見上げてくる、揺珠はおどろくほど凜々《りり》しく見えた。男物の衣服をまとっているのが、おそらくその一因だろう。清潔ではあるが、粗末な葛布の衣服である。しかも、どう見てもふたまわりは大きな上衣を巻きつけるように着ているものだから、布の中で身体が泳いでいるように見える。袖からのぞく手先は華奢すぎて、誰も戦の役に立つとは思っていない。足手まといにならねば十分だと、だれもが思っている。
ただ、兄の身を案じ、男装して戦場にまで従った彼女には、おおむね暖かな畏敬《いけい》の目が注がれていたのだった。そして――。
「大丈夫なのでしょう? 羅旋さま」
尋ねた彼女の眼の中にある、明るい信頼と確信の色が、兵たちのよりどころともなっていたのだった。
まっすぐに見上げられて、羅旋は苦笑した。珍しいことに、照れているのだと気づいたのは藺孟琥と、揺珠と反対の側に立つ藺如白だけだったが。
「大丈夫だと思うか、揺珠どのは」
「思います」
「敵軍は万に近い。こっちはかろうじて五千を越したという、こんな状態で?」
意地悪く問い返したが、この如白軍の中でもっとも楽天的なのが羅旋本人であることは、誰もが知っていた。五千の軍勢の全員が負けると思っても、羅旋ひとりは勝利を信じて疑わないだろう。そして、彼の見通しにはそれなりの裏づけがあることを、ここに在る者たちの大半は知っていた。
「たしかに、こっちには死んだはずの孟琥どのがいる。仲児《ちゅうじ》は大|虚言《うそ》つきということになって、信用を落としたがな」
そらとぼけて、羅旋は笑った。〈琅《ろう》〉公の死を聞いて、いったんは仲児を次期公と認めた者たちは、孟琥の健在を知って激しく動揺した。仲児側は偽者《にせもの》が現れたのだと懸命に弁解したが、やがて如白の陣営の中に若い〈琅〉公が姿を見せると、国都・安邑を離れる者が出始めた。如白の方に義がある――というのは口実で、どうやら仲児側についても、将来の約束が反故にされそうだと、見限ったらしい。
それでもまだ、兵の数と国都を押さえているという点を有利と見て仲児側に留まっている者もいる。中には、如白とその周辺に集まっている戎《じゅう》族を嫌って、強硬な言動をとる者もいるが、おおむね、戦意は乏しいという。というのも、仲児は総帥《そうすい》に弟の天光《てんこう》を任じると、自分は安邑の館の中に閉じこもって一歩も外へ出なくなってしまったからだ。
一方、藺孟琥の姿は、安邑を脱出してきて以来、常に陣頭にある。彼のみならず、本来なら深閨《しんけい》に在ってしかるべき公妹、揺珠までなるべく人目のあるところに現れる。これは、彼らが真物の〈琅〉公兄妹であるという示威の意味もあったが、なにより、病身をおしての〈琅〉公の出馬と、兄に寄り添う公妹のけなげな姿は、士気を高めるのにはもっとも効果的だったのである。
それでなくとも、不当に公の座を占めようとした仲児に対して、理と義は孟琥たちを擁している如白の方にある。会戦の日と場所を指定したのも、如白の方である。
「内々に、如白どのに内応を申し出て来た連中もいるそうな。どうせ日和見で、仲児の方が優勢と思ったらこっちの約束なんぞ簡単に反故にするんだろうが、まあ、情勢次第では役に立つだろうさ」
と、羅旋は緑色の目をひらめかせて笑った。風と陽光の中で、彼の両眼は透き通るような色になる。それが戦の前となると、さらに強い光が加わる。まるで、生命そのものを体現したような躍動感に、孟琥はうらやましそうな表情になった。
「戦のことは、私にはわからない。如白伯父にしても、御身を頼りにしている。――たのむ、羅旋どの」
「心配するな。そのかわり、戦に勝ったら、それなりの報奨はふっかけるぞ」
なかば冗談まじりに告げた羅旋だったが、次の孟琥の言葉に眉をしかめた。
「そのことだが――羅旋。おりいって、頼みがある」
「まさか、値切るんじゃないだろうな」
「そうかもしれぬ。――どうだろう、揺珠を御身に頼めぬか」
「どういう意味だ」
はっと青ざめた揺珠の反応に、彼女も初耳の状態であると確認しながら、羅旋は声を尖らせた。
「まさか、揺珠どのを品物がわりに寄越そうというんじゃあるまいな。揺珠どのに限らず、女を物扱いするなら許さんぞ。俺にしても、女を餌に籠絡《ろうらく》されるような奴だとみくびられたのだとしたら――ここから、去らせてもらうぞ」
本当に馬の轡《くつわ》をとらえて、踵《きびす》をかえそうとした。あわてて、如白が引き止める。
「そんな意味ではない。誤解するな。まあ、話を聞け」
「ならば、どういう魂胆だ」
「――文字通り、揺珠を頼みたいのだ」
荷車の上から、孟琥がおだやかに微笑んだ。腕にすがりついた揺珠の手を、安心させるように軽くたたいて、
「私は、遠からずいなくなる。〈琅〉は如白伯父にお任せすればよいし、揺珠についても心配はしていない。だが、如白伯父には、後を継ぐ御子がいない。伯父上に万が一のことがあった場合――せめて、揺珠だけでも頼りになる者に預けておきたい。私の目で選んだ者を、揺珠の夫と――」
「断る」
さえぎった声は地を這うように低く、地鳴りとまがうほどだった。
「何故」
「まず、揺珠どの自身の意向を無視している。望まぬ男に嫁がせるのは、一度でよかろう」
「――しかし」
「俺も、ごめんだ。ひとりの女に縛られるのも嫌だし、国だの公位だのと面倒なものが絡まってくるのもまっぴらだ。だいたい、戦の前に、こんな場所でそんな莫迦な話を持ち出す根性が、気にくわん」
「ならば、いつ話せば承知してくれるのだろう。戦の後か? だが、戦の後まで私の身体が保ってくれるとは限らないのだから――」
「兄上」
不吉なことを口にすると、責めるように腕にすがる妹の仕草を、孟琥はわざと曲解した。
「ああ、心配しなくともいい。おまえが、羅旋の顔も見たくないほど嫌いだというなら、無理強いはしないから」
「わたくしは、そんなことは――」
「俺も、揺珠どのを嫌いだと言った憶《おぼ》えはないぞ」
揺珠の困惑を引き取ったように、羅旋も声を荒げて抗議した。柔和な顔で、とんでもないことを言い出すこの若者の説得に、さしもの羅旋もてこずった。〈琅〉公という身分などにはびくともしないが、まさか今日明日の命も知れない病人を殴るわけにはいかない。また、あらかじめ合意済みだったらしい藺如白にしても、実質的な総大将を戦の前に殴れば、士気と統制に乱れが出る。
「では、お互い、嫌いではないわけだ」
「嫌いではないが、妹のようなものだ。俺には、もっと性根の悪い女の方が向いている」
そのせりふの後半を、孟琥は無視をした。
「妹だといったな」
「――言ったが」
「ならば、揺珠の兄になってくれ」
「しつこいぞ、まったく――」
羅旋はうんざりした調子をかくそうともせず、あからさまにそっぽをむいたが、孟琥も如白もあきらめなかった。
「私のかわりに揺珠の兄となって、如白伯父を援《たす》けてほしい」
「補佐なら、如白どのの周囲に人材はいくらでもいるだろうが。なにも、戎族の俺を使わずとも」
「御身が戎族だからこそ、如白伯父には必要なのだよ。そうですね、伯父上?」
容貌は戎族そのものの漢が、無言のままうなずいた。孟琥が、その動作を引き継ぐように、さらに言葉を重ねる。
「この戦には勝てるとしても、ここで二分された〈琅〉を立て直すのには、中原だの戎族だのと区別をしていては駄目だ。必要な能力を持つ者は誰であろうと、〈琅〉のために働いてくれる気のある者は戎族だろうと、重く用いる。でなければ、〈琅〉はいずれ、中原の国のいずれかに踏み潰される。如白伯父も、私と同意見だ。中原の人間から見れば、戎族は虫けらのようなもの。どんな扱いを受けるか――御身が一番よく知っていると思うが、赫羅旋」
「〈琅〉公ともあろう方が、己も戎族のような口をきく」
皮肉な口調で、羅旋は鼻を鳴らす。孟琥は、動じずに、
「忘れないでほしい。私の身体の中にも、戎族の血は流れているのだよ」
にこりと笑った。
「揺珠も同様だ。〈琅〉の民の大半も。仲児伯父は、その現実に追い詰められてしまったが」
視線をなだらかな地平へと投げた孟琥の横顔には、死期を前にした者特有の透明感があった。
「辞退だの謙遜だの、御身らしくないことはこの期に及んで止めてもらおう、羅旋。御身は〈琅〉が必要なはずだし、〈琅〉も御身が必要だといっている」
孟琥の透明な視線に、羅旋は自分の腹のそこのそこまで見透かされたような気がした。自分でも自覚していなかった野心を、ひきずり出され、はっきりとした形にされたような気がした。無性に腹だたしく、そして奇妙に身体が軽くなったように思えた。
「だから、思いきって〈琅〉一国を利用してみるがいい。その方が、我々も御身を遠慮なくこき使える」
笑いは、軽い空咳で一時中断される。揺珠の白い手が、水をさし出す。いったんは動揺したものの、揺珠はすでに平静をとりもどしていた。自分のことより、今はただ兄を守ることを優先するという決心が、細い全身にあふれていた。
「――それに、なにも無条件に優遇しようというのではないよ。まず、この戦に勝たねばならないのだからね。すべては、この戦に勝ってからのこと。御身が勝って戻ってくるまで、私はここで待っているから」
「勝手なことを」
憤然と羅旋はつぶやいて、剣の柄をいらいらと叩いた。
「戦の前に、まったく――」
「承知してくれるまでは、戦に行かせぬよ」
「勘弁してくれ。とにかく戻ってくるから、話はその後のことにしてくれんか。如白どのも、なんとか言ってくれ」
まるで、わがままな孩子《こども》をあやす口調になった。孟琥の真剣な表情を、正視できなかったのだろう。さらに顔をそむけて、
「――五叟《ごそう》が戻って来た。行かせてくれ」
「約束したよ、赫羅旋」
「ああ――そのかわり、俺が戻ってくるまでに死んだりしたら、承知せんからな」
まるで、喧嘩をふっかける孩子のようなせりふを残して、羅旋はその場から逃げ出したのだった。
五叟が戻ってきたというのは、口実ではなかった。警戒を固める本営のどこから入りこんで来たのかは知らないが、朝から姿を消していた五叟老人が、徐夫余《じょふよ》とその馬の陰から手招きをしてよこしたのだ。
「――首尾は、どうだ」
「上々」
小柄な老人は上目がちに、歯を剥き出すように笑った。
「神通の奴め、思ったとおり、風を吹かせ始めたわい。儂がまた、以前と同じ手を使って、霧を起こすと思うたのであろうな」
「東風だぞ、向かい風じゃないか。何が上々だ」
彼らは、〈琅〉の西端の茣原《ごげん》から東の安邑へ向かって来て布陣している。当然、東からの風は、不利だ。
「お、戦の前だというに、えらくまた機嫌が悪いな」
五叟は五叟で、いつもより機嫌がよい。羅旋の機嫌になどおかまいなしに、珍しく声までたてて笑った。
「まったく、腹のたつことばかりだぜ。これ以上、癇《かん》に障《さわ》ることをぬかしたら、首と胴が生き別れになると思え」
「おお、恐い。こんな奴とあたる敵が、気の毒になってきたわい」
「それで、この向かい風のどこがおまえの思う通りだと? 風下のどこが有利だと?」
「今は風下でも、軍の向う側へぬけてしまえば、風上に立てるな」
「――ふむ?」
「戦車では、相手の戦車と速度もたいして変わらぬし、歩卒が邪魔をする。ふりきって相手の戦列を突破することは難しかろう。だが、馬ならどうじゃ。おぬしたちなら、奴らの後背に回りこむことも可能じゃな。全員でなくてよいし、成功しなくてもよいのじゃ。回り込んだらそこで――」
徐夫余と、さらにその向こうに立っていた壮棄才《そうきさい》を、孩子のような仕草で手招きした。顔に浮かんでいる表情も、悪戯《いたずら》を仕掛ける悪童そのものである。羅旋は軽く舌打ちすると、うなずいて、短い密談にふたりを加えた。
やがて――。
鼓《こ》の音が、続いて鯨波《とき》の声が草原の丈の短い草の上から立ちのぼった。ついで、がらがらと耳障りな音をたてて、四頭立ての馬にひかせた戦車が走り出す。
声に応じるように、丘陵の稜線の上にもぽつりぽつりと染みのような影が現れ、うす緑の草原を浸食し始めた。たがいに全速力で疾走しているにも関わらず、少し離れた高みから望んでいると、両者はなかなか接触しないように見えた。突出してくるのは、三軍のうち中央の中軍だけで、ちょうど雁《かり》の飛来するかっこうに似ていた。
「両翼の連中が、出遅れているな」
馬上から、羅旋がつぶやいた。周囲は、茣原から彼に従ってきた騎馬の漢たちで固められている。だが、羅旋ほどに遠目のきく者はおらず、結局、頭目自身が物見役も勤めていた。
「やはり、様子見をするつもりですね」
徐夫余が、ぴたりと脇に控えてつぶやいた。ちなみに、壮棄才は孟琥たちのそばについている。万が一の事態が起きた場合は、棄才が如白たちを茣原へ逃す手筈である。
茣原は、事実上、羅旋たちの勢力下にあるし、如白に加担する者らも、まず兵を率いて茣原に結集している。今も、わずかな数ではあるが、兵が残り、本拠ともいうべき茣原を確保しているのである。茣原に落ちた後は、さらに西方の草原地帯に逃れる。如白ならば、戎族のどこかの部族がかくまってくれるだろう。そこで、じっくりと再起を計ればいい。棄才がついているなら、それも可能だろう――。
「油断するな。仲児が優勢ならば、奴らもここへ突っ込んでくる。だが」
軽く、手綱をさばいた。
「情勢が変われば、一気に寝返るだろう。なら、寝返りやすいようにしてやろう」
羅旋の、がっしりとした右腕が、青天にむかって高く上げられた。人も、馬ですら、一瞬、息を呑んだ。
腕は、音もなくふり降ろされたにもかかわらず、見る者の耳に風の音をひらめかせた。最初に動きだしたのも、羅旋の|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》だった。引きずられるように、一団が動きだす。最初はためらうような蹄の音は、すぐに勢いをつけ怒濤となって斜面を下っていった。
馬蹄の轟きの中にもかかわらず、羅旋は旗が向かい風を受ける音を聞き分けていた。徐夫余が〈琅〉の旗を片手に捧げたまま、羅旋の後にぴたりと続いているのだ。
(この前の戦は――三年前だったな)
あの時、羅旋が掲げた旗は〈奎《けい》〉の文字が描いてあった。
(今度は、〈琅〉か)
それ以前に、他の国の旗を掲げたこともある。報酬次第であちらこちらの小国に傭われ、喧嘩のような小競り合いに加わっていたのだ。昨日と今日とで敵味方の旗を取り変えたこともあるし、それを恥としたこともない。旗が象徴する国に生まれ育ったわけではないし、その主、個人に忠誠を誓ったこともない。ただ、その場その場で、生きていくために利用しただけだ。だが――。
(これが、最後の旗になるか)
予感があった。藺孟琥の最後の頼みは、断りきれないだろう。羅旋自身、〈琅〉という国が嫌いではなかった。少なくとも、中原のどの国よりも草原の風を感じることができた。
(ここが、俺の国だ)
ならば、藺如白に協力して〈琅〉を守る手助けをするのも、よいかもしれない。〈琅〉を足がかりにして、中原をひっくりかえすのもおもしろいかもしれない。
風に混じった流れ矢が、羅旋の頬をかすって過ぎた。矢とともに、血臭が全身をくるんだ。
先行した味方は、すでに敵の中軍と接触している。まず弓を射かける、接近して戦車同士を高速ですれ違わせ、車上の甲士《こうし》を叩き落とす。落ちたところを、戦車に従っている歩兵たちがとどめをさし、武具を奪う。左耳を切りとるのは、後に手柄の証明にするためだ。戦車の上には、通常、武装した者が三人。ひとりが落ちるたびに、わっと歩卒が群がるありさまは、屍肉《しにく》喰らいの獣そのものだった。草が踏みしだかれ、たちまち血に染まる。刃物が、いたるところで陽光を反射する。
会戦の場は概して平坦な場所が選ばれるものだが、当然、公路などとは違って轍《わだち》の跡が決まっているわけでなく、障害物も多い。味方の兵をよけそこなったり、岩に乗り上げたり、車ごと転覆する場合も少なくない。
〈琅〉の旗を掲げた車が一台、そうやって、大きく空中へ跳ね上がり、頭から落ちた。それとばかりに駆け寄った卒《そつ》は、仲児の軍の者らだ。いったん横ざまに薙《な》ぎたおされた馬たちが、壊れた車の一部をひきずって逃げ出す。それをよけるために一度は割れた卒の塊が、吸引力があるように、また黒く固まろうとする。砕けた戦車の残骸の上に、ひとりがよじ登り、下敷きになった甲士に向かって得物をふりかざした――。
びょう――と、
風鳴りの音は、矢よりも後に飛来した。矢は目と目のちょうど中間を正確に射抜き、真っすぐ頭蓋を突き抜けた。矢の勢いはそれで止まらず、男は頭を何者かに引きずられるような格好で、背後へと吹き飛んだのである。
一瞬、何が起きたのか、その場にいて一部始終を見ていた者でも理解はできなかったろう。理解する時間も、与えられなかった。男が彼らの視界から消える前に、一頭の馬がその場に躍りこんで来た。その蹄にかかって、数人が地に叩きつけられて動かなくなった。
馬に驚くような連中ではない。騎馬の習慣はもっていなくとも、戎族が馬を乗りまわすのは見ている連中ばかりである。だが、こんな風に蹄で蹴ちらされ、馬上から狙われることは初めてだった。
「雑兵にはかまうな、甲士だけをねらえ!」
羅旋は、後に続いて雪崩れこんでくる騎兵に向かって怒鳴った。彼の声は、怒号の中をまっすぐに響きわたった。
「もたもたするな。とどまるな。軍中を突っ切れ!」
手綱を離し、両脚だけでたくみに馬をあやつりながら、馬上で弓を満月のように引き絞り指示を出す。ひょうと放った矢は、真正面から向かってきた戦車の御者を射落としていた。あわてて、左士が手綱を押さえて懸命に馬たちを制御しようとする。右士が、疾走してくる羅旋を薙ぎ払おうと、水平に戈《ほこ》を構えた。
――これが戦車同士ならば、車上の者は叩き落とされていただろう。車は、急速な方向転換は苦手だ。少なくとも、二、三丈(一丈=二・二五メートル)ほどの間隔からいきなり停止したり横に逸れたりするのは、まず無理だ。だが、馬はもうすこし、行動に幅がある。
この距離から車の右側を行くか左側へ逸れるか、とっさに選択し、しかも意図したとおりに馬を操ろうとするなら、騎手によほどの技倆が必要だ。まして、戦場にこれほどの数の騎馬が乱入してきたのは、これが初めてである。戎族の風習も彼らの騎馬の習慣も技倆も知っていたとしても、対応しきれるものではない。
羅旋は、直進してくる戦車の前を急角度で横断した。車の右側に大きく突きだされた戈は、虚しく空を切る。そのかわり、車の左側ぎりぎりのところを|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》が駆け抜けていった。
手綱を握っていた甲士が、声もなく転がり落ちたのは、十丈以上も両者の距離が離れてからである。男の喉元に深々と、太い矢が突きたっているのがわかったのは、さらにその後のこと。わかった時には、戦車は制御を失った馬によって転覆させられていた。
羅旋が、すれ違いざまに針の穴を通すような精緻《せいち》さで、甲のわずかな間隙を射抜いたのだとは、彼らは永久に知る由もない。背後にぴたりと従っていた徐夫余だけが、一瞬の早業を確認していた。
むろん、こんな離れ技が誰にでもできるとは、羅旋も思っていない。戎族出身の者なら、歩きだす前から騎射の技は身につけているが、中原出身の者の中には馬にしがみつくのがやっとという連中もいる。彼らには、無理をせず、馬に行く先を預けてとにかく走り抜けろと指示をしてある。もっと自信のない者は、戦を避けて回りこむように、片手が使える者には長剣を、腕力のある者には戦車で用いるような戈を――それぞれの能力に応じた武器と、役割を与えてある。
「――頭領!」
徐夫余の声が、はるか背中からようやく追いすがってきた。かなり以前から、懸命に叫んでいたらしい。馬の脚をわずかに緩めると、旗をまっすぐに保ちながら距離を詰め、
「敵の金声《きんせい》です!」
退却を命じる鉦《かね》の、かん高い音が戦場に響き渡ろうとしていた。おそらく、敗北を認めたわけではないだろう。主軍は、羅旋たちの乱入で混乱しているが、まだ右軍左軍は無傷なのだ。混乱をみかねて、いったん退いて態勢を整えようというのだろうが、羅旋は止まらなかった。
「かまわん、突っ切れ。引き返すな」
命じた羅旋のかたわらを、数頭の馬が駆けぬけていく。とにかく戦場を縦断しろと命じられた連中だ。羅旋も、負けじとばかりに|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》の腹を思いきり蹴った――その時。
一団の中から黒い袋様の物が転げ落ち、血に染まった草の上でもんどりうち、たちまち羅旋の視界の後方へ流れていった。
「夫余、先に行け」
「頭領、何を――」
徐夫余の抗議の声があがる前に、羅旋は馬の首をたて直している。
「引き返すなと命じたのは、頭領ですよ!」
叫んだが、羅旋の耳には届くものではない。弓を片手に持ったまま、その手でなお鞍をつかむと、身体を馬の左側へ乗り出した。片腕だけで馬の腹にぶらさがったまま、馬を制御しきって進路をそらさない。飛来する矢が少なくない中をかいくぐると、袋の落下点までまたたくうちにとってもどした。
泥にまみれた顔を上げたのは、まだ少年と呼ぶ方がふさわしい若者だった。落ちた衝撃と、めがけて疾駆してくる馬の迫力に茫然と目を見張ったまま、手を差し出すこともしなかった。その肩口を、ちょうど麻袋か何かのように無造作にわしづかみにする。そして、腕一本で自分の身体を馬上に引き上げるのと同時に、片腕で少年を鞍のうしろへ放りあげた。
ひろい上げると同時に、また馬の首を大きくめぐらす。はるか前方へ流れていってしまった旗を追って、全力疾走にかかった。
「頭領、俺は――」
「しゃべるな、舌を噛むぞ」
先頭からはかなり遅れ、速度も落ちたが、彼らの周囲に自然に十数騎が集まり、援護する形となった。
如白たちの陣と同様、仲児軍の後軍もゆるやかな丘陵の上に本営を置いていた。上から味方の隊列が崩されるのを見、また左右の軍の動きが鈍いことに歯噛みしていたが、まさか〈琅〉公の旗をたてた一団が、戦線を突破して向かってこようとは思ってもみない。
羅旋の麾下は五百騎あまり。それが、戦場のただ中をつっきることによって四百騎近くにまで減りはしたが、敵の感じた衝撃には大きなものがあった。
安邑の館から一歩も出ようとしない仲児に代わって、戦場へ出てきたのは同母弟の天光である。兄ほどの野心もないが、兄を正確に評価する能力も、兄を諫《いさ》めるだけの理性もない男である。仲児の影のような男が、突然、戦場には出てきたが、兄の手本がなければ、何をどうすればよいのかもわからない。
きらびやかな鉄甲を身にまとい、飾りたてた戦車に乗って待機をした。左右に従った将軍たちの言うがまま、開戦の合図を送り退却の命令を出したが、奇声をあげて殺到してくる騎馬の一団にどう対処したらよいかまで、誰も教えてくれなかった。
「に――逃げろ」
先頭の〈琅〉の旗を持つ騎手の顔が見えるようになって、ようやく天光は自分で判断を下したのだった。左右の人間の顔色が変わるのを見て、彼は自分が誤った命令を下したことを知った。
この際、逃げることが間違いだったのではない。そう口にすることによって、周囲に与えた影響の方が問題だった。このひとことによって、本営の士気ががくりとさがったのだ。
動きをよく見て、羅旋らが、直接、天光たちの本営のある高台に向かってこないとわかっても、上から敢えて矢を射かけようとする者はわずかだった。相手の意図がわからないのに、下手に攻撃をしかけて、立ち向かってこられてはと思ったのだろう。そのおかげで、羅旋たちはほとんど被害も出さずに、やすやすと本営の後背――つまり風上にまわりこむことができたのである。
その頃には、羅旋も旗を持つ徐夫余に追いついていた。
「やれ」
ひとこと羅旋が命じると、旗が大きく横ざまに振られた。それが合図だった。
それぞれの場所で馬を止めると、彼らは鞍にくくりつけていた小さな素焼きの壺をとりはずし、適当な叢《くさむら》へ向かって放り投げ始めた。
――なにを、と、天光の側近たちも一瞬、判断に苦しんだ。が、まもなく、壺が砕けたところからうす青い煙が立ち始めるのを見て、ようやく事態を理解した。壺の中には、灰に埋めた火種が入れてあったのだ。
「火だ――。我らを焼き殺す気か!」
春先の草原は、乾ききっている。その上にこの風では、火の手はあっという間に本営にまで到達する。野火の広がる速度を知っている者は、恐慌に襲われた。
逃げるとすれば、風下。しかし、そこは今、騎馬の群れの乱入によって劣勢の戦場となっている。まだ、左右軍が健在だとはいえ――。
ここに至ってなかなか行動を起こさない左右軍に、天光の側近たちも疑惑を抱きはじめていた。その上に、火を放った当人たちが、火の伸び足よりも早く、今度はまっすぐこの高台めがけて、駆け上ってくる。上りながら、雨のような矢を射かけてくる。
今度は天光の命令を待たず、主軍はゆるやかに行動を起こし始めた。といって、まっすぐに風下に逃げれば、乱戦の真っ只中にはいりこんでしまう。軍全体が、ゆるやかな弧を描いて左へ――南へと折れたのは、そちらの方向に安邑があるからだった。
この動きはすぐに、まだためらっている左右の軍と、戦闘中の中軍にも伝わった。中軍の戦意が一気に落ちたのは、いうまでもない。戦車をその場に止めて、車から降りる者たちもいた。もともと同じ国の兵同士であれば、降伏する者にも寛容だろうという意識が、降伏者を増やしたようだ。
一方、左軍は天光の主軍につられるように踵を返し、南へ向けて移動を始めた。主軍とともに戦場からの離脱を図ったのだと、遠くから見ていた如白たちですら思ったという。が――。
主軍の最後尾に、左軍の先頭が追い付いた時、異変は起きた。
「――裏切った! 裏切ったな、卑怯者!」
背後から飛来した矢に耳をかすめられて、天光が狂ったようにわめいた時には、主軍の大半は、すでに一方的な殺戮に巻き込まれていたのである。
「こんなことが――。儂の所為《せい》ではない、悪いのは仲児兄じゃ。なんで、儂が……!」
にわかに暗くかき曇った天に向かって、彼が叫んだ。それに呼応したか、ぽつりぽつりと冷たい物が落ちてきたかと思うと、しのつく雨となった。
燃えついた野火が、見る間に消えていく。と、同時にあたり一面、水を吸った大地がぬかるみとなった。濡れた草が滑り、やわらかな地面に戦車の重量がかかり、細い車輪が食いこむ。速度の落ちた戦車に、歩卒がまたたく間に追いつく。
――羅旋たちが最後の手を下すまでもなかった。豪雨がやむまで、そして決着がつくまでに、半刻(一時間)もかからなかった。
「確かに、奴らの寝返りは期待したがな」
雨にぐっしょり濡れたまま、顔の滴もぬぐわずに、羅旋がぽつりとつぶやいた。
「後味が悪い」
「そう、言うものではないわい」
血臭がたちこめ、まだ重傷者がうめき声を上げている場所へ、飄然《ひょうぜん》とあらわれた五叟がなだめるともとがめるともつかぬ言い方をした。その脚もとには、房飾りのついた戦車の残骸がころがっている。
「勝ちは勝ちじゃ――。〈琅〉公が待ちかねておいでじゃぞ」
「後で行く」
「逃げるのでは、なかろうな」
「大将が死んで、戦が終わりになるなら楽だな。勝ったら勝ったで、怪我人と武器は回収しなけりゃならんし、遺体も埋葬しなけりゃならん。戦場の後始末も仕事のうちだ」
生き残った歩卒たちに加えて、羅旋の麾下の男たちも馬を降り、人を運んだりあちらこちらを掘りかえしたりしている。羅旋のかたわらでは、徐夫余がその男たちを監督して、忙しく指示を出しているところだった。
「――俺を呼びに来たのなら、とっとと戻って報告しろ」
「ご挨拶じゃな。その怪我人の手当に来たのではないか」
五叟は胸を張ったが、羅旋の視線に肩をすくめた。
「あの雨は、どちらの仕業だ」
「神通めに決まっておる。儂では、ああ即座に雨は呼べん。火をつければ、あやつは儂に見せつけるつもりで得意になって降らせるだろうと思ったら、案の定」
「雨が、天光の命を奪ったようなものだな」
見下ろした羅旋の脚の先に、泥にまみれた遺体がひとつ、無造作にころがっていた。うつぶせになった顔は見えないが、甲のようすからいって、藺天光に間違いなさそうだ。あそこであれほどの雨量がなければ、まんまと逃げおおせられたかもしれない。援護のつもりの雨が、逆に不利になったのだ。
「皮肉なものだな」
「左道《さどう》というのは、そもそもまっとうな技ではない。めったやたらと、使うものではないわい」
自分もその左道の使い手のくせに、そんなことをつぶやきながら、五叟はゆっくりとその場から歩み去っていった。
「――逃げた兵は、どれぐらいだ」
老人の背を見送りながら、羅旋が尋ねた。
「左軍はこちらへ寝返りましたし、右軍のほとんども戦わずに降伏しました。安邑に逃げ戻ったのは主軍の生き残りだけで、しかも歩卒のほとんどは、降伏していますから――千名もいないかもしれません」
鼻を鳴らした音が、それに対する反応だった。
「これは――安邑でもう一度、戦をするかどうか、微妙なところだな」
「攻城戦は、頭領は苦手ですからね」
「仲児相手なら、勝てるだろうよ。問題は、長引くと、〈衛《えい》〉あたりがよけいな目をつけてくるということだな。ま、その時はその時だが、その前に、なんとかもう少しましな馬が手に入らんものかな」
|※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]《あかげ》も悪い馬ではない。羅旋の酷使によく耐えて、戦場を駆け回ったが、
「脚が遅い。あれでは、追風の半分だ。こんなことなら、超光《ちょうこう》をくれてやるのではなかった」
そう言った時、羅旋の脳裏に浮かんでいたのは、馬ではなく人の顔だったにちがいない。
「――あいつがいれば、後始末を押しつけて、とっとと逃げ出せていたかもしれんな」
つぶやきながら、横目でゆっくりとこちらへ近づいてくる一団を見ていた。先頭に立った馬上には、赤茶けた髪と髯の漢の姿があるのを、だれよりも早く見てとっていた羅旋だった。
おおっぴらにため息をついてみせて、羅旋も相手を迎えるために、その場を離れたのだった。
(三)
結局、安邑《あんゆう》で戦は起きなかった。
軍を整え直して藺如白《りんじょはく》が安邑の城壁に迫ると、城門が大きく開かれていた。仲児《ちゅうじ》の首が、如白と羅旋《らせん》を待っていた。
あっけない敗北を聞いた者らが、仲児に見切りをつけて、城内で反乱を起こしたのだ。〈琅《ろう》〉伯の急死以降の仲児のでたらめぶりに加えて、甥の生存が確認された時のうろたえぶり、戦に対しての怯堕《きょうだ》ぶりと、醜態をさらしつづけていた仲児である。大勢が如白に傾いたという報に、身の危険を感じた者らが語らって謀反を起こしたのだが、その時、仲児は単身で安邑から逃亡する準備の最中だったらしい。
不意をつかれて、仲児はほとんど抵抗もできずに死んだ。仲児の三人の子のうち、ふたりは父親とともに死んだが、ひとりが逃亡したため、現在、行方を捜しているという。
生きて安邑に戻ったものの、そのまま病床についている〈琅〉公に代わって、如白が一切の実務を執り始めている。
「甘いと言われるかもしれぬが」
如白は深く嘆息しながら羅旋に告げた。実質上の、〈琅〉公としての最初の仕事が、この仲児の子の捜索だったのだ。
「捕らえても、殺したくはない。あれも孟琥《もうこ》と同様、儂の甥だ。今回、仲児についた者についても、できるだけ寛大な処置をとりたい。同族同士が殺し合うのは、一度で十分だ。だが、厳正な処分をという声もある」
如白の心情ももっともであれば、また後の意見も真実である。
「――追放ということでは、どうだろう」
回廊の途中で呼び止められ、相談を持ちかけられたのは、羅旋が軽く見られたわけではない。腹蔵ない意見を聞きたいという意思表示だと、羅旋はうけとった。改まった席では言いにくいことも、内密に、如白への個人的な意見でということなら口にできる。同じようなやり方で、数人の人間に意見を聞いて回っていることを、羅旋は知っていた。
「他国へ追放しても――〈衛《えい》〉や〈征《せい》〉に利用されて、〈琅〉への干渉の口実に使われては何もならぬ」
「なにも、中原ばかりが追放先というわけではなかろうが」
「というと、西か」
如白は、ひとことで理解した。
「茣原《ごげん》のさらに西にも、いくつか小さな村がある。そのあたりへ流して、監視をつける。よければ、俺がその役目を引き受ける」
と言ったのは、〈琅〉に仕えるにしても、一度は茣原へ戻る必要があるからだ。できれば、自分の本拠として茣原は確保しておきたかった。
「とりあえず遠方に置いて、態度次第で許すなり処断するなり――今すぐに判断するのが無理なら、時を置くのも方法だろう」
まだるっこしいやり方だが、国というものをまとめていくためには、必要かもしれないと羅旋は思った。
「――もっともな意見だ」
如白は、すぐには羅旋に賛同しなかった。少なくとも、言質を与えるようなことはなかった。
「一同に諮った上で、決める。こんな場合の判断の基準になる物がないから、合議の席は紛糾するだろうがな」
如白は、苦い笑い方をした。笑うと、急に歳をとったように見えた。
「〈琅〉には、法が整備されていない。〈征〉のように、何から何まで法だの礼だのにがんじがらめになるのも、儂は苦手だが――それでも、法がなくては、未開だの野蛮だのと蔑すまれても仕方がない。何ごとも遅れている〈琅〉を、これから、中原の国々と比肩する国に育てていかねばならぬ」
口には出さなかったが、如白が言いたいことはわかった。そして羅旋も、まあ、いいかとは思ったが言葉にはしなかった。
――〈琅〉の赫羅旋という呼び方も悪くないだろう。少なくとも、今しばらくの間は。
ひとつ肩で嘆息すると、羅旋は天をふりあおいだ。建物の大屋根の影で、なかばは隠されていたが、星はよく見えた。〈琅〉の星は、中原で見るより大きく見えるような気がした。
〈衛〉が動いたという報告を、その夜、魚支吾《ぎょしご》は臨城《りんじょう》の自室で受け取った。とりあえず〈容《よう》〉との国境に兵を出して情勢をうかがいながら、親征も考えていた時だった。
「〈鄒《すう》〉が、〈衛〉に下っただと?」
「何でも、突然に大量の兵が国境に現れ――〈衛〉の耿無影《こうむえい》自らの親征に、〈鄒〉の国主はおそれをなして、逃亡してしまったとか」
「莫迦めが――!」
罵って、手近にあった香炉を投げつけたが、もう遅い。
もしも、支吾が建築中の長泉《ちょうせん》の新城に居たなら、支吾に従っている護衛の兵が、とっさに〈鄒〉の援護に出られただろう。〈鄒〉の国主も逃げ出すことはしなかっただろうし、そもそも耿無影が〈鄒〉へ侵入を図ることもなかっただろう。
〈容〉の動静に気をとられ、しかも内ではまだ、三公子、傑の処遇に結論が出ていない現状で、〈衛〉への警戒が緩んでいたのだ。失態に、支吾は歯ぎしりした。しかも、機会をうかがって待機している支吾の前で夏《か》氏の国々は内戦を起こすどころか、またたくうちに話をつけてしまった。〈容〉が、全兵力を東にふり向けつつあるという報告が入ったのは、昨夜のことだ。〈貂《ちょう》〉と〈乾《けん》〉も、どうやら情勢次第で援護の兵の準備をしているらしい。
結局、〈容〉をうかがった支吾の野心は肩すかしをくらわされた。その上、横合いから〈衛〉に利をかっさらわれた形になったから、支吾の臓腑は煮えくりかえらんばかりだった。
もっとも――〈衛〉に気をぬかりなく配っていたとしても、〈容〉と〈衛〉と、二方面に同時に兵力を送ることは無理だったはずだ。〈衛〉の動きが、まるで〈容〉の内紛を見透かしたようだ――とまで考えて、ようやく支吾は思いあたった。
(もしや――)
〈衛〉と、〈容〉に亡命中の〈奎《けい》〉の段大牙《だんたいが》とは、実際に戦った相手である。しかも、大牙の庇護の元に、あの耿淑夜《こうしゅくや》が居ると聞いていたから、よもやこの二国が手を結ぶことはあるまいとたかをくくっていた。だが――。
(やられたか)
一瞬、湧きあがった怒りは、次の瞬間、あきらめとも後悔ともつかない冷静さにとって代わられていた。
(儂の失敗だ)
段大牙か耿無影か、どちらにかは知らないが、若僧にしてやられたことが失敗なのではない。
「だれか――」
かすれる声と同時に、侍僮が戸口に控える。
「――漆離伯要《しつりはくよう》を呼んでまいれ」
「は――?」
「漆離伯要だ」
「この、夜半にでございますか」
「そうだ。すぐに来いと伝えよ。――まさか、城下から消えたのではあるまいな」
「い、いえ。ただいま、すぐに」
少年は、足音をたてて駆け出していく。その音を聞きながら、ふたたび魚支吾は奥歯をきつく噛みしめていた。わが子のひとりの命運を、たった今、自分の手で決めたのだ。
中原の再統一には、やはり漆離伯要が必要だ。今回のことにしても、伯要ならば、少なくとも〈鄒〉は奪わせないよう、何か手をうっていたかもしれない。そして、伯要を呼び戻すためには――。
(無駄死にはさせぬから)
爪が手のひらに食いこむまで、支吾は堅く拳を握りしめたまま、ただ立ち尽くしていた。
「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]君《しんくん》がにわかに発熱なさいまして――」
告げられてあわててようすを見にいったものの、無影はすぐに引き返してしまった。野営の最中なら心配もするが、ここは〈鄒〉の国都の城内である。国主一族が逃げ出した後に入ったのだが、調度も食料、医薬品も、太医《たいい》もそっくり残っている。館の奥のあたたかな室内で丁重な看護をうけている連姫に、無影のできることは何ひとつなかった。
熱も、たいしたものではない。過労に心労が重なったものだという診断で、二、三日静養すれば、健康を回復するだろうとのことだった。
せめて顔でもと思っても、房に入るなり、無言のままくるりと背をむけられては、声をかける気も失せる。勝手にしろとばかり、無影も無言のままに出て来たのだ。
「陛下――このような深夜に」
館の一角に建つ望楼に上がると、百来《ひゃくらい》の白髯があわてて礼を執った。数人の歩卒が、その背後で跪《ひざまず》いたまま、顔もあげられずこわばっている。
「将軍自らが、歩哨に立っているのか」
この深夜に大変だなといういたわりの言葉が、声に出すと詰問口調になった。百来は、そういった無影の言い方には慣れたのか、
「陣中には、かわりございませぬから」
謹厳な口ぶりで、また礼を執る。
「ご苦労なことだ」
冷笑は、しかし闇の濃い方にまぎれて、百来には見えなかった。
「しかし――〈鄒〉が手に入ったのはよいとして、〈征〉との距離が近くなったのは考えものでございますな」
百来が切り出しても、冷笑は消えなかったようだ。
「――そうだな。長泉からここまで、わずか一日の距離だ。手薄にすれば、すぐに〈征〉が雪崩れこんでくる」
勢力の緩衝《かんしょう》地帯がひとつ、消えたのだ。それだけ直接に、両者が衝突する可能性が高くなる。〈鄒〉の民を〈衛〉の支配下に置くのも、そう簡単なことではない。時間をかけて良政を布《し》けば、自然に帰順してくるだろうが、そう悠長なことをしていられるかどうか。
「百来」
「は――」
「そなた、ここにとどまってくれるか」
「と、申しますと?」
「〈鄒〉を任せる。好きなようにやってみるがいい」
「よろしいので?」
すべてに猜疑深いとされる無影が、簡単にそんなことを言い出したことに、百来は不安を抱いたらしい。
「かまわぬ。そなたがここにいれば、〈征〉もたやすくは動けまい。そのかわり、ここを守りきれなかった場合には、責任をとってもらう」
「それは、武人として当然のこと」
「必要な物や人があれば、遠慮なく言え」
「は――」
百来がかしこまる前に、すべて決まったと言わんばかりに、無影は裾を翻し望楼から姿を消していた。それを確認してから、百来は全身の緊張を解いて天を仰いだ。
くまなく晴れわたった、見事な星天だった。だが、無影の目にはこの光のひとつも入らなかったにちがいないと、百来はふと思った。確かに、天上の星がいくら美しくとも、人には関わりないかもしれない。しかし、それはそれでつまらないことかもしれないと、百来は彼らしくない感傷にとらわれていた。
「大牙さま、紙か、上質の竹簡《ちくかん》が大量に手に入りませんか」
言われて、大牙はめんくらった。
〈容〉と〈征〉は、瑶河の支流を自然の国境としている。支流とはいっても、その流れも河幅も、簡単に渡れるようなものではない。むろん、橋など一本もかかっていない。ただ、河幅が狭く流れもそれほど急でない地点も幾つかあり、大牙たちはそこを重点的に押さえていた。
その、渡河点の野営中である。天幕の内で地形図を広げ、あれこれと討議するのは、毎夜の日課となっていた。〈衛〉のはっきりとした動静については、まだ報告は入っていなかったが、ここ数日の河向こうの動きから見て、〈征〉の侵攻はなさそうだと、結論が出た夜のことである。地形図を描いた布を畳みながら、思いだしたように淑夜がそう切り出したのである。
「紙? そんなものを、どうする」
怪しそうに訊いたのは、冀小狛《きしょうはく》である。あれ以来、大牙と淑夜のいるところ、必ずついてまわっているのだ。
「何を企んでいるのだ」
とは、淑夜がまた、とんでもない陰謀をくわだてたのではないかと勘ぐっているためらしい。確かに紙は希少品で、手に入りにくい上、高価である。軽くかさばらず、文字が書きやすいという利点もあるが、布や竹簡に比べて文書の保存性は劣る。そんなものを要求するには、意外な理由があるのだと思ったのだろう。
大牙の方はもう少し、淑夜に理解があった。
「何だ、戦の記録でもとる気か」
「いえ、尤家の季老人と約束したんです。〈乾〉伯にとりつぐかわりに、昔、義京《ぎきょう》の尤家に保管されてあった書物を、数冊、筆記するようにと」
ああ、と、すぐに大牙は納得したが、
「――どういうことだ」
と、冀小狛はさらにつめ寄った。
「昔、尤家に世話になっていた時に、あの家の書庫を見せてもらいました。でも、貴重な本の大半が、義京の乱で灰になってしまいました。それを、再現するんです。それを仲介の労をとる代償にしろと、尤夫人から指示があったそうです」
「再現といって……、どうするのだ」
「憶《おぼ》えていますから」
けろりと言って、淑夜はようやく破顔した。
「一度見たものは、全部、憶えますから。文字も図も」
「ちらりと、そんな話は聞いたこともあるが――まさか、本当だとは思わなかった」
「なんなら、手伝っていただけますか」
「い、いや、儂は文字は苦手で……」
あわてて両手を振って断った後で、冀小狛はようやく、淑夜にからかわれたのだと気がついた。意外なことに、けっして不快ではない自分に、冀小狛は気づいていた。
「三年前、義京の乱で失われたものが多くあります。もう、とりかえしのつかないものもありますが――再現できるもの、再現する価値のあるものを、この世に取り戻したいのです。そのためなら、何をやってもよいとは思いませんが――できることをせずに手をこまねいてしまうには、多くの物を見過ぎましたから」
つぶやく淑夜の声は、言い訳のようにも決意のようにも聞こえた。
大牙が無言のまま、立ち上がって天幕の外へ出ていった。かわりに、冷ややかな夜気がしのびこんで来る。
「――出てきてみろ。星が見事だぞ」
大牙の声がした時には、淑夜も杖を支えにしながら、ゆっくりと立ち上がっていた。手こそ貸さなかったが、彼が歩き始めるまで、冀小狛が待っていてくれたことに淑夜は気がついた。
「――ほんとうに、きれいですね」
頭上に白くかかる銀漢をみあげながら、淑夜も少年のような歓声をあげた。
「あれが離珠《りしゅ》、こちらが箕《き》、斗《と》……」
星の名を数えあげながら、こんなことが前にも一度あったことを、ふと思いだしていた。四年前のことだ――ずいぶんと、昔のことのようにも、つい昨日にも思えるが。
無いはずの命を救われた夜だった。そして――。
(そして、ここまで生き延びてきた)
賭けに勝ったのだという実感が、星を見ているうちにようやく湧いてきた。
(まだ、たった一度勝っただけだ)
一度でも負ければ、あとのない勝負だ。そして一度始めれば、止めるわけにいかない。だが、星を見ている今は、不思議と恐怖も不安も感じなかった。
(負けるなら、それまでだ。できるだけのことはやってみるさ)
それは、彼らがそれぞれの運命に向かってようやく一歩を踏み出した夜だった。
降るような星が、美しかった。
[#改ページ]
あとがき
『五王戦国志』三巻目、埋伏《まいふく》篇、ようやくお届けいたします。前回のあとがきで守れない約束と書いたら、本当に年内を越して翌年に持ち越してしまいました。これは、ローテーションに入っていない仕事が間にあったためで(とはいえ、その時点で二年も前に約束していた仕事だったのですが)、その他、いろいろと予想外のことも重なり、遅くなってしまいました。次の四巻目は、半年ぐらいの間隔で、来年の春にはお届けできると思います――たぶん。
絶対に――と、確約する自信がないのは、この三巻中でも随分、予定がずれてしまったためです。当初、三巻目の篇名は風塵篇、書き上がったところで埋伏篇に改名しました。――別に、物語全体の内容が変わったわけではありません。大筋では、二年前に描いた設計図通りに話は進んでいます。ただ、予定した展開へ到達するまでに、きちんと描いておかねばならない事が多すぎることに、今ごろ気がついたというわけです。
この物語は、二巻ずつをひとまとめにして、序破急の三部構成として企画しました。全体で六巻になる予定。三巻目は破の前篇の部分に相当します。幾つかの勢力に分裂した華を、再統一する――そのための戦を始める予定だったのですが、結果はご覧のとおりです。戦の前に主人公級のキャラクターたちがそれぞれの国で、自分たちの足場を固める過程が必要になりまして、その部分が大きく広がったというわけ。おかげで、四ヶ所に散らばった彼らを等分に書くという羽目に陥りました。厳密な意味での同時進行でなかったのが、不幸中の幸いです。できればもう少し、それぞれを――特に女性陣を描きこんでやりたかったのですが。
おそらく、四巻目はその再統一に向けて動き始めてくれるものと思いますこれも、たぶん。全体の構成も、六巻か、増えても七巻でこの物語を語り終えられればと、切に願っています。戦闘シーンを書くのには体力が必要ですが、他のシーンのためにはそれ以上の精神力が必要なのです。特に、作者が登場人物の誰よりも莫迦な場合は――。
そういえば、今回、ようやく戦車戦から騎兵戦への移行という、当初の目的のひとつを書くことができました。本来の変化は百年以上をかけて、緩やかに起きたもので、それを短期間にやるには相当な無理があるのは承知の上です。戦法とは、実はその社会制度や生産力、文化の浸透度に密接に関わってくるもので、一朝一夕に変わるものではない――とは、資料を読んでいくうちにようやくわかったことですが。こんなことなら、学生時代にもっと勉強しておけばよかったと思うことも一再ならず。そして、勉強したことの半分も物語に生かせない自分の腕に、歯噛みする思いです。せめて、物語を書き終えるまでには、「架空世界の物語には資料が不要」説を打ち消せる程度に、きちんと描きこめるようになりたいものです。
ちなみに、篇名の「埋伏」とは、兵を伏せておくこと。「十面埋伏」という戦術名があるのですが、私はこれを琵琶曲の題として知りました。中国の古典音楽を初めて聞いた、それが最初、そして中国と中国琵琶に魅かれるきっかけとなった曲でした。琵琶曲の中でも難曲中の難曲で、なかなか気にいる演奏には巡り逢えませんが。それでも、一番好きな曲のひとつです。以上、余談ながら。
ようやく、予定の半分。まだ、やっと半分です。最後のシーンを書くまで、体力と気力が続きますよう祈りながら筆を置きます。
最後になりましたが、ご協力いただきました各位に感謝を述べつつ。
多謝、再見。
[#地から1字上げ]一九九四年七月          井上祐美子 拝
[#改ページ]
底本
中央公論社 C★NOVELS Fantasia
五王戦国志《ごおうせんごくし》 3 ――埋伏篇
著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》
1994年9月25日  初版発行
発行者――嶋中行雄
発行所――中央公論社
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・ししゃりでて
・つけたりだ
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
|※《あかげ》 ※[#「馬+華」、第3水準1-94-18]「馬+華」、第3水準1-94-18
|※《かとりぎぬ》 ※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17]補助漢字と共通「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17
|※《こう》 ※[#「石+申」、ページ数-行数]「石+申」
|※《しん》 ※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88