五王戦国志1 乱火篇
井上祐美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)華《か》と呼ばれる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)庶子|無影《むえい》
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(例)申すがら[#「がら」に傍点]か
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〈カバー〉
著者のことば
ふとしたことから中国歴史という広大な大陸に足を踏み入れ、迷ったあげく、まったく別の地図を描こうと思いついてしまいました。白地に等しいこの地図がどう完成するか、なかば頭を抱えつつ、作者自身も楽しみながら書いていくつもりです。まずは、第一巻をお届けします。
著者紹介
一九五八年兵庫県生まれ。中国ヒロイック・ファンタジーで独自の世界を切りひらく。著書に『長安異神伝』『桃花源奇譚』他がある。
華《か》と呼ばれる中原《ちゅうげん》が五国に分裂した五王時代、士太夫・耿《こう》家の庶子|無影《むえい》は自らの一族を滅して衛《えい》国王位を簒奪。再従兄弟《またいとこ》以上に離れた彼を実の兄のように慕ってきた耿|淑夜《しゅくや》は、一族の仇とその命を狙い、失敗。半死半生で追われる身となったところを夜光眼の戎族、赫羅旋《かくらせん》に拾われて、魁《かい》国の商家にかくまわれる。二人の確執を核に中原に戦いの火の手が上がる。新しい中国歴史小説の旗手が織りなす壮大なヒロイック・ファンタジー第一巻。
[#改ページ]
五王戦国志1 乱火篇
[#地から1字上げ]井上祐美子
[#地から1字上げ]C★NOVELS
[#地から1字上げ]中央公論社
[#地から1字上げ]挿画 小林智美
目  次
第一章 天命
第二章 落日の都
第三章 風雲急
第四章 火戦
あとがき
[#改ページ]
五王戦国志1 乱火篇
――その時期を、五王時代とよぶ。五人の王がほぼ同時期に立ったがためにそうよばれる時代は、数箇年と短いものであった。が、それはまた、歴史の曲がり角ともいうべき、激しい時代でもあった。
〈坤《こん》〉という名の大地の東、華《か》とも呼ばれる中原を統べるのは、〈魁《かい》〉という名の国であり、本来『王』とは〈魁〉の君主のみをさすことばであった。華の地に、王はただひとりであるべきだった。〈魁〉王ではなく各地に封じられていた諸侯がつぎつぎと王を名のったのはつまり、〈魁〉王家のもつ権威が衰亡をきわめ、やがて滅んだためだった。
――かつて、暴虐をふるった〈世《せい》〉という大国があり、それをほろぼして〈魁〉は中原を統一した。むろん、当時新興の小国であった〈魁〉一国でなしとげたことではない。おなじく〈世〉の権力と武力に苦しんでいた諸国の君主をかたらってのことである。
「一国ごとの抵抗は無益だが、数箇国が脚なみをそろえれば、充分に〈世〉に対抗できる。各国があいあらそってたがいの国力をすり減らすより、手をとりあって〈世〉を討つ方が、たがいの利益のためではないか」
これが、〈魁〉の太宰《たいさい》(大臣)魚服《ぎょふく》が、各国を説いてまわったときの口上《こうじょう》だといわれている。
〈魁〉が中原を統一し、それまでおのおのが勝手に名のってきた『王』の称号を、〈魁〉一国、夏《か》氏のみのものとし、道幅や度量衡《どりょうこう》や文字や、さまざまなものをひとしく定め、その力を中原の全土にふるったのは、三百年も以前のことだった。〈世〉を滅ぼした〈魁〉王・夏太伯《かたいはく》と、その太宰・魚服は、たしかに果敢な武人であり知恵者でありすぐれた為政者であったし、彼らの生きた時代の〈魁〉の権威は、磐石のものだった。彼らは、〈魁〉の王権は子々孫々、久遠にとどくものと信じていただろう。
だが、興王・夏太伯が若くして薨《こう》じ、名謀士として知られた魚服が謀反の罪をきせられて敗死すると、たちまち〈魁〉の権威はあやうくなった。各国に封じられたかつての君主たち、また〈魁〉王、夏氏の者たちが『王』という名の、形のないものをめぐって熾烈な争いをはじめたからである。
〈魁〉王は、徐々にではあるが、公、侯、伯といった国々の、国君たちが軍の先頭にたてる旌旗《せいき》と同義になっていった。
〈魁〉の最後の王は、衷王《ちゅうおう》と謚号《しごう》されている。
異説もあるが、この衷王の十五年よりはじまった戦乱の数箇年を、おおよそひとつの時代として区切るのが一般的である。〈魁〉の夏氏だけのものだった『王』の名称が、他氏の五人の人物によって次々と名のられたからである。
やがて、この嵐はあたらしい国家とあたらしい価値観、そしてあたらしい時代をはらんで収束にむかうのだが――。
これは、その五人の王の時代の物語である。
[#改ページ]
第一章――――――――天命
(一)
あたりは真の闇だった。
目を凝らしても、壁のような暗闇にさえぎられて、自分の鼻先すら見えない。ただおのれの息づかいだけが、しじまの中に異様に大きく聞こえるばかりだ。
淑夜《しゅくや》はあおのけに寝ころがったまま身うごきもとれず、闇の底からぼうぜんと天をあおいでいた。黒い壁のように厳然と視界をさえぎるのは、両側からせまった断崖。そのあいだにごくほそく、ぼうと光って見えるのが夜空だと気づいたときには、自分のおかれた状況も忘れて見とれてしまったものだ。
――あれが、斗《と》。あれが、離珠《りしゅ》。
見えるかぎりの星の名を、数えあげる。
夜空が明るいものだとは、十八のこの歳になるまで知らなかった。月はなくとも、晴れわたった空は星あかりで全体がおぼろに輝くものなのだ。暗いのは大地であって、天ではない。
糸のように見える夜空を、さらにななめに横ぎっているのは、銀漢《ぎんかん》(天の川)にちがいない。そういえば、星をつくづくとながめたことすら、今までなかった。こんなに、美しいことも知らなかった。
(でも、知ったところで)
どうなるものでもない。
身体の痛みは、どこがどうと特定できないほど全身に広がっていた。呼吸するだけで、身体中がばらばらになりそうなほどに痛んだ。崖の中腹をぬうほそい道をふみはずし、すべり落ちたのだ、打撲傷に骨の亀裂、一本や二本折れていても不思議はない。生命があること自体、そもそも信じられないぐらいだった。
もろい黄土の崖をあまくみていたための災難なのだが、裂傷がかるくすんだのもやわらかな泥土のおかげだった。
ただし、落ちる前から負っている傷がかるくない。右肩に一箇所、脇腹にあさくひとつ。それに痛めた左足が逃亡のあいだに悪化して腫れあがり、感覚すらなくなりかけている。出血はわずかだが、傷の手当ができない。
(――これで、死ぬのか)
妙に醒めた頭の片隅で、そう思った。
最初から、死は覚悟のうえだった。
ただ、あい討ちにするつもりでしかけた策が失敗したため、淑夜も逃亡できたが相手も生きのこってしまったのだ。心のこりは、それだけだった。
(あいつを生かしておくわけにはいかない)
なぜか、かたくなに淑夜はそう決心している。
親兄弟の仇だという理由のほかに、淑夜が死ぬ覚悟をした以上、相手も死ななければならないと思いこんでいる。だから――。
自分ひとりが追われる身となり、こんな山中で人知れず死んでいかなければならないのが、たまらなく不条理に思えるのだった。
だが、こうなった以上はほかに道はない。
とぼしい食料は、落ちたはずみにどこかへ飛ばしてしまった。谷底のすぐ近くに渓流があるらしく、さっきから音が聞こえているのだが、この身体では這うどころか寝がえりひとつうてないのだ。
夏とはいっても、夜の山中は冷える。
だんだんと身体はつめたくなってくる。皮膚にはりついた闇が、気力まで奪っていくような感覚さえあった。
このうえに獣でもあらわれた日には、ひとたまりもないだろう。淑夜の身をまもるのは、いまや折れた鉄剣一本しかないのだ。
人のたすけは、期待できない。たとえ運よく人が通りかかったとしても、首に莫大な賞金のかかった身だ。故国〈衛《えい》〉へつれもどされれば、罪人としての処刑が待っている。
淑夜が生命をねらった相手は、仮にも〈衛〉の国君だ。たとえ、謀略と裏切りと虐殺とで権力を手中にしたばかりの僭主であろうと、とにかく一国を支配し、意のままにしたがわせるだけの力を持っている。
(せめて――)
せめて、この山を越えられれば。
ここ〈奎《けい》〉国は土地がゆたかで兵力も充実しているが、しょせんは伯国《はくこく》、大国〈衛〉国の軍事力に踏みこまれればひとたまりもない。だいいち、一介の布衣《ほい》(庶民、官位についていない者)の豎者《こぞう》でしかない淑夜を、縁もゆかりもない〈奎〉がかくまうわけがない。
この山を越えれば、〈魁《かい》〉国にはいる。〈魁〉へ逃げこんでしまえば――中原の強国は、〈衛〉だけではない。〈衛〉国が、王の座す〈魁〉国の王都・義京《ぎきょう》へ、武力をもってふみこむようなことがあれば、他の諸国がだまってはいるまい。
それに、義京にはたよりになる知人もいる。頼めばかくまってくれるだろうし、さらに遠くへ落ちのびる手だてもそこで見つけられるはずだった。
このあたりは周囲から峻しい山がせまり、四方から集まってきた公路が、一本に収束している交通の要所である。〈奎〉はこの狭隘《きょうあい》の地に巨鹿関《ころくかん》とよぶ関所を設け、国内をとおる旅人を監視していた。〈衛〉の追捕《ついぶ》の手が関にまで及んでいることを予測して獣道をたどったあげくに、淑夜はこの災難に遭った。とすれば、この状況は天命だったのだろうか。
――天命、もしくは天道というものがあれば、の話だが。
淑夜は、天など信じてはいない。たとえ以前は信じていたとしても、無二と信じた友に裏切られ、一族すべてを葬られてしまった今は、信じられなくなっている。
そんなものがあるのなら、とっくに彼奴《きゃつ》に天罰がくだっていいはずではないか。すくなくとも――。
すくなくとも、それぞれにふさわしい死に方を与えてくれてもいいではないか。史書に、ひとこと名を書きこまれるだけでもいい。それが、生涯の夢だったのに。それとも――、無名のままで朽ちていくだけの力量しか、おのれにはなかったのだろうか。
肩で息をしたとたん、全身に熱い激痛が疾《はし》った。
聞くものがいないのだから、思うさま悲鳴をあげてもいいはずだったが、淑夜は奥歯をくいしばって声をおしころした。士大夫《したいふ》の家に生まれた者が、泣きわめくものではないという教えが、骨の髄まで染みついているのだ。こんな時にさえ、それを忘れられないことに気づいて、淑夜はひとり、闇の中で苦笑した。
が、冷たいほほは、わずかにほころんだとたんにふたたび、こわばった。
がさりと、どこかで叢《くさむら》が鳴ったのだ。いや、鳴ったような気がしたといった方がいい。ぎくりとすました耳には、以前どおりの冷たい静寂しかとどいていない。
(気のせいか。風の音か)
今度は気をつけて、すこしずつそっと息を吐く。
だが、その途中でもう一度、息をつめる羽目になった。物音がふたたび聞こえたのである。獣の足音のようにも思えるそれは、断続的に近づいてくるようだった。
こんな山中で夜行する獣といえば、狼か虎か、熊か。
しかし、文の家に育ち狩猟もろくにしたことのない淑夜には、獣の知識はあっても、実際に、身をまもる方法は知らない。襲われてしまえば、抵抗する力も手段もない。
淑夜は身体を、硬直させた。眼だけをみひらいて、おぼろな夜空の帯から光をせいいっぱいとりこもうとした。
――そのこわばった耳に、からからと小石の落ちる音がとどいたのだ。
(お……や?)
聴力に自信があるわけではないが、足音は二本足のようだったのだ。
(人間――? まさか)
こんな谷底に、しかも深夜にわざわざ降りてくる物好きはいるまい。猟師ですら、こんな闇の中を歩きまわりはしないだろう。
追っ手かと思いあたってぎくりとしたが、よく考えてみれば、淑夜の逃亡の行程は推測できても、断崖から落ちたことまで調べはつくまい。ついたところで、高さを考えればすくなくとも怪我をしているのは確実だ。わざわざ闇の中を、危険をおかして降りてくる必要はあるまい。朝になってからでも、充分に間に合うのだ。
(では、いったい――)
たしかめる気力が、淑夜にはなかった。絶望のためではない。逆に、希望の芽が頭をもたげたせいだ。
――ひょっとして。
たすかるかもしれない。
なにも知らない旅人なら、事情をいいくるめて、この場からたすけだしてもらえるかもしれない。
だが、その希望をふみにじられれば、絶望の淵の深さは倍になる。いったんは死を覚悟したこともある淑夜だが、その深淵を二度ものぞきこむ勇気はなかった。
その時を待ちうける淑夜には、それは一夜ほどの長さにも思えた。実際には、最初の音からほんの数瞬のことだった。
あとから知ったことだが、この物音の主は、まっすぐに淑夜をめざして歩いてきていたのだ。
淑夜が、銀漢をさえぎる影を見たのは、音がすぐ耳もとでとまった直後である。同時に、ぬっとつきだされた影の中に金緑色に光るものを見た。夜行性の獣のようにぴかぴかと底びかりする双眸だった。が、たしかにそれが人の眼である証拠に、影は、
「おい」
腹にひびく声で、人語を発したのだった。
男の声だった。声の落ちつき具合から察するに、淑夜よりは年上らしいが、まだ若いことはかわりない。ぶっきらぼうな口調から、淑夜は相手の容姿をなんとなく想像できた。
上背のあるがっしりとした体躯に、粗けずりな顔だち。中原のずっと西、どこまでもひろがるなだらかな草原地方の上を吹き渡っていく風――連想は、ことばのわずかな抑揚に微妙な癖があったせいだ。
とにかく、陽気で信頼のおける漢《おとこ》の声だと淑夜は直観した。
そこまではよかったのだが――。
次に相手が口にしたことばで、淑夜は一気に緊張の糸を切られることになる。
「おせっかいかもしれんがな。そんなところで寝てると、風邪をひくぞ」
「寝ているわけでは、ありません!」
あまりにも的はずれなせりふに、淑夜は思わずわれを忘れ、憤然と怒鳴りかえした――つもりだったが、声は喉の渇きのために無惨にかすれてかき消えた。同時に全身を駆けぬけた激痛に、うめき声をおし殺す。胸郭の痛みは、肋骨になにか支障があるせいだろうが、自分では診断のしようがない。
「じゃ、腹が減っているのか。いきだおれというわけだな」
前にもまして激しいいきおいで反論しようとして――できなかった。いわれたとたんに、腹が鳴ったからだ。
そういえば、昨夜からろくに食べていないことを思いだしたのは、その直後だった。食料は持っていたものの、煮炊きの煙をうかつにたてるわけにはいかなかったのだ。
淑夜は、赤面するのをおさえられなかった。唯一の救いは、この闇の帷幄《とばり》のおかげで相手には見えないだろうということだったのだが、
「――怪我をしているのか」
ふいに真面目な声音でたずねられて、がくぜんとなった。
「なぜ、わかるんです」
「そりゃあ、見りゃ莫迦《ばか》でもわかるさ」
「見える、んですか?」
淑夜にはどうしても金緑の眼しか見えないというのに、むこうからはこちらが見えるというのか。見つめかえしてきた獣じみた眼が、すっとほそめられた。どうやら笑ったらしいとわかったのは、肩の傷に触れてきた手がおだやかだったからだ。
自分でさわっても飛びあがるほどに痛かった傷が、漢の手にかかると逆に痛みがやわらいだようだ。
「こりゃあ、ひどいな」
間のびした口調で、いかにも楽しそうに漢はいった。すくなくとも、怪我人を診《み》る口ぶりではない。
「自分の身体だろうが。もっと大事にあつかわんか」
「私の身体です。どう使おうと、私の自壗《じまま》でしょう」
むっと反論したとたん、
「そりゃ、そうだ。じゃあ、好きにのたれ死ぬんだな」
そういいきると同時に、光っていた眼が見えなくなる。どうやらあっさりと背をむけたらしいのには、正直、おどろいた。
「ち、ちょっと……」
「なんだ」
闇の中に金緑色の光点が一方だけ、くるりと見えた。
「助けてほしいなら、すなおにそういえ。俺も石頭な方だがな、他人の石頭はなぐってやりたくなる性分なもんでな」
「いい性格ですね」
「おまえも、そう思うか」
声に笑いがあふれかえっていた。
「それだけ口が減らなければ、ほうっておいても死にはせんだろう」
また、光点が消えた。
「どこへ、いく気です」
「もどるのさ」
「怪我人をほうりだすんですか」
「俺の知ったことじゃないし、おまえが、ここにいることを知っている奴も、だれもいない。見すてたところで、だれに責められる心配もない」
ひどく薄情なことを、平気でいった。どうやら重傷者を相手になかばはからかっているのだが、のこりの半分は本気らしいのが淑夜にもわかった。
「どうすれば、たすけてくれますか。ごらんのとおり、金銭《かね》も価値のあるものも、礼にできるものはなにひとつ持っていません」
「礼のことを考えるより前に、いうことがあるだろう。俺はまだ、たすけてほしいと頼まれたおぼえがないんだがな」
「……わかりました。たすけてください」
「よしよし」
さんざん人をからかったわりには、ひどくあっさりと彼は承諾した。
「俺は、人にたのまれればいやとはいえない性分でな。どうだ、いい性格だろう」
本気で自慢しているのか、それとも韜晦《とうかい》しているのか、よくわからない。おそらくその両方なのだろう。おそろしく単純で、同時におそろしく複雑な人間に出会ってしまったと、淑夜はさっそく後悔しはじめていた。
(ほんとうに、信頼していいものだろうか)
だが、他に選択の余地はない。
「痛《つ》っ!」
いきなり、革の靴の上から右の足首をつかまれて、ついに淑夜は悲鳴をあげた。
「がまんしろ。痛いのは、生きている証拠だ」
むちゃなことをいいながら、今度は左足首に触れた。太い指が触れるか触れないかのうちに、淑夜の身体が跳ねあがった。
「こっちの方が重傷だな」
淑夜に告げるというよりは、自分に納得させるような口調で、そういった。
「ところで、おまえ、名は?」
「訊いて、どうするんです」
「名も知らない相手に、おまえの足は元どおりにはならんとはいえんからな」
「……いっているではありませんか」
本来ならもっと衝撃をうけてしかるべきなのだろうが、さっぱり実感としてわかない。この漢《おとこ》のせりふが、どうにも微妙に感情をはずしてしまうせいだ。それでたしかに救われているのだが、どうも悲壮感とか真剣さに欠ける。
そういえばついさっきまで、死を覚悟していたはずではなかったかと思ったとたん、淑夜は自分がなさけなくなった。
「とにかく、名まえだ」
強引というよりは、やはりただ乱暴なだけである。
「――子淑《ししゅく》といいます」
どこにでもありそうな名だと、自分でも思ったが、
「うそをつくなよ」
即座に、低い声がはねかえってきた。
「うそでは……」
「偽名は、すぐにわかる。本名を名のらんなら、癒《なお》してやらん」
この漢を信じる理由など、ない。そのことばを信じる根拠も、なにひとつない。にもかかわらず、淑夜は賭けてみる気になった。
「――淑夜」
「そいつは、字《あざな》(通称)だろう」
「|※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《き》。耿《こう》……|※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《き》」
ひと息呑んで、相手の気配をうかがいながら一気に口にした。が、予想していた反応はかえらなかった。
「ふん、まあ、すこしはましな名かな」
「人に名のらせて、自分は知らぬ顔を決めこむ気ですか」
批判されたと感じてむっといいかえすと、金緑色の光点がまたほそくなった。
「羅旋《らせん》だ」
「――え?」
本当に見えているのかどうか、淑夜は危ぶんでいたのだが、漢は的確に傷口をあらためていく。ただし、怪我人の感覚などいっさい考慮していないものだから、淑夜は苦痛に耐えるのがせいいっぱいで、耳の方がすっかり留守になっていた。
「何度もいわせるな。羅旋とよばれている」
口調が急に不機嫌になったところをみると、自分の名が気にいらないとでもいうのだろうか。
「本名はちがうんだが、いってもおまえには発音できまい。だから、羅旋でいい」
ふんと鼻を鳴らす音が聞こえた。
すくなくとも、この漢はどこかの公や伯に仕える卿士《けいし》ではなかろう。こんな行儀のわるい卿士がいるはずがない。およそ、宮仕えなどできそうにもない漢というのが、ついさっきからの短い会話から充分、推察がついた。
(たすかるかもしれない)
この谷底から生きて出られるだけではない、うまく逃亡しきれるかもしれない。さっきまでまとわりついていた闇の先に、わずかな光明が一瞬見えたような気がしていた。もっともこの光明が、ひとすじ縄で御《ぎょ》せそうもないという予感もしてならないのだが。
「こりゃあ、ここでの手当は無理だな。はこびあげないと、どうにもならん。――といって」
腕でも組んで、つくづくとこちらを眺めているような気配があった。
「かついでいくか」
「それこそ、無理でしょう」
反論というより、あきれた。淑夜は男にしては細身の方だが、それでも人なみの若者の背丈と体重はある。
「なに、馬よりは軽いさ」
比較する対象がちがいすぎる。
「まあ、痛い目をみるのは俺じゃないから、いっこうにかまわんのだがな。問題は、おまえに泣きわめかれちゃ、かなわんということだ」
「私は!」
そんなことはするものかといおうとしたとたん、足首をかるくひねられた。悲鳴すらあげられず、息をのんでのたうつ彼をじっと見ている気配があったのだが。
「――こう、しよう」
ぽんと、膝をうつ音がした。
「ど、どうする……」
んですか、ということばは、闇の中に吸いこまれて永久に出てこなかった。腹に岩のようにかたい拳の一撃をうけて、淑夜は夜よりも暗くこの谷底より深い無意識の中へ、際限なく落ちこんでいった。
――これが。
赫羅旋《かくらせん》と耿淑夜《こうしゅくや》というふたりの若者が出会った、最初の夜だった。
〈魁《かい》〉の衷《ちゅう》王、十五年。
中原は混乱の予兆をはらんで、極度の緊張状態にあった。
南方の公国〈衛《えい》〉の国君、偃子韶《えんししょう》が上卿《じょうきょう》のひとり、耿無影《こうむえい》に弑《しい》されたのである。
耿無影。無影は通称で、本名は熾《し》という。
耿家は代々〈衛〉の卿大夫《けいたいふ》(大臣・家老)の家柄だが、無影はその分家筋の庶子にすぎない。本来ならば上卿の列にくわわる資格も機会もない身だった。
なにより、若い。
英才の名は以前より高かったが、二十歳をやっと越したばかりの青年である。
それが出世し国政にかかわれるようになったのは、彼以外の一族すべてが、謀反の罪によって処刑されたためだった。
讓《じょう》公は、追従《ついしょう》によわい小人《しょうじん》だという定評のある君主だった。実際は、おのれが君主の器ではないことを自覚した、小心ではあるが聡明な人物だったのである。ただ、小心であるが故に猜疑心もつよく、卿大夫として大きな権力をもち国政を左右する耿家をけむたく思っていたところだった。
そこへ謀反の密告である。
発作的に、彼は行動した。密告が捏造《ねつぞう》だったのではないかと思いあたったのは、処刑がすんでしまったあとである。後悔の念にかられて、耿家の唯一の生存者である無影を卿大夫の地位に就けたのは、せめてもの罪ほろぼしのつもりだったのだろう。
だが耿無影は、おのれの一族を密告した張本人でもあったのだ。巧妙に伏されてはいたが、彼ひとりが罪をまぬがれたのがなによりの証拠だった。だが、周囲の人間が公然と非をならし弾劾するより先に、無影は先手をうった。
主君、弑逆《しいぎゃく》――。
ことが終わってみれば、最初からすべて計画されつくしたことだった。すくなくとも、そうだれもが信じこんだ。
耿無影の公位簒奪に異議を唱える者は、ほとんどなかった。それほど手早く、彼は手をうったのだ。
有力豪族には金や土地を分けあたえ、地位を与えた。彼らがなにをのぞみ、なにを不満に思っていたか、よほど以前から詳細に調べあげてあったらしい。
もともと、気まぐれな先君に衷心より仕えていた者は、数すくない。さらに耿家の族滅という事件が、わずかな忠誠心を剥ぎとってしまっていた。自分たちも密告ひとつでおなじ目に遭うのだと思いこまされれば、ついていく者はなくなる。
その上に。
耿無影は、〈魁〉の王から、公位を承《う》けつぐ旨《むね》の| 詔 《みことのり》をとりつけていたのだ。
むろん、それが形式的なものにすぎないことは、だれもが知っている。
かつて中原を統一し強大な権力をほこった〈魁〉も、長い年月のあいだに何度か起きた内訌《ないこう》のために衰退しきっている。かわって各地に封じられた公や伯といった国主が半独立国を形成し、〈魁〉はそのゆるやかな連合国家の上にかろうじて乗っているだけだ。〈魁〉の王には、各国を押さえるだけの権力も武力ももはや、ない。
だが、形式だけにしろ、かろうじてかつての権威の残滓《ざんし》ほどのものは残っていた。〈魁〉の宗室が決めた――とされることを無視すれば、〈魁〉の権威を借りた他の国につけこむ口実を与える。つまり、〈魁〉の宗室から認められたということは、内外の非難や他国からの干渉に対する盾には充分なったのである。
「実力のある者が、それを発揮できる場に出ただけだ。なにが悪い」
そう、耿無影は豪語したという。
嘘か真実かは知らないが、ありそうなことだと、聞いた時に淑夜は思った。
淑夜も無影とおなじ、耿家の公子だったからだ。
無影は傍流の庶子であり、淑夜は宗家の出身である。もっとも淑夜も、十人以上もいる男子の七男で母の身分も低く、家督を継ぐ可能性は皆無にひとしかった。
同族の同世代ではあるがそれだけで、再従兄弟《またいとこ》以上に血のへだたりのあるふたりだった。だが、生まれた時から不遇を約束された者同士、気は合っていた。
淑夜は、幼い時から実の兄たちよりも無影の方になつき、つきまとい、文字も剣も無影から学んだ。長じては、無影の言動に感化され、左右され、共鳴した。世の中に対して変革の必要性を感じたのも、無影の影響だったのだ。
――今も記憶に焼きついているのは、耿家の李園の春の情景だ。
「なんとかしなければ、ならぬ」
麻の衣服の袖を胸の前で組み、ほそい端正な容貌にきびしい表情をうかべて天をあおぐ無影の上に、はらはらと白い花片《はなびら》がふりかかっている。温暖な南の地方である〈衛〉では、真冬でも雪が舞うことはめったにない。散りかかる花弁をみながら、雪とはこういうものかと淑夜はぼんやりと思っていた。
「かつて〈魁〉の祖王《そおう》は、強力な武力と政治力で、この坤《こん》の大地を統一した。だが、今の〈魁〉の宗室は、みる影もない。王は無能で、佞臣《ねいしん》どもの思うがまま。権威は地に落ち、各国の公どもは自国の利益をまもるためだけに躍起になっている。身分は固定され、家柄だけが重視され、嫡子というだけで能力のないものが重職につき、能力のある者はしりぞけられる。こんなことが、長くつづいていいわけがない。もっと正しく公平な政治があるはず、できるはずだ」
それは、無影の口癖だった。何度も何度も熱っぽい口調で聞かされた、無影の理想であり焦燥だった。
だが、そこから淑夜と無影との意見はちがってくる。
「まず、〈魁〉の宗室を、たてなおさねば――」
そういう淑夜に対して、
「〈魁〉の権威になどたよっていては、なにもできぬ。もっと別の、強大な力をもつ者が出て、この国を根本から変えなければ、どうにもならぬ」
無影は、うちけすような激しい口調をかえすのが常だった。口論になれば、決まって負けるのは淑夜の方だった。
焦りと鬱屈から来る影が、覇気となって、無影の容貌の線をするどいものにしていた。
学問でも武芸でも、無影は宗家のだれにも負けなかった。容姿ひとつをとっても、淑夜の異母兄たちのひとりとして、太刀うちできる者はいなかった。だのに、庶流の出というだけで、無影はおのれより劣る者たちに一歩も二歩もゆずらねばならなかったのだ。
完全と思われた彼に、わずかに欠けるところがあったとすれば、それは信望という点だったろう。自分に厳しい分だけ、彼は他人にもきびしかった。おのれを恃《たの》むところのつよい彼は、ことばをつくして他者に理解をもとめようとはせず、そのために周囲から誤解されることが多く、孤立しがちだった。
淑夜はといえば、一族だけあって顔だちに無影と似かよったところはあったが、大家族の中で成長したせいか人あたりのやわらかな――悪くいえば繊弱な印象のある若者だった。すくなくとも、淑夜は無影がはがゆがるほどにおとなしく、自分を主張することもほとんどなかった。そのせいかどうか、他の者は平然と見くだす無影が、淑夜に対してだけはあれこれと世話をやき、不満も弱みもさらけだしていたのだった。
家督をつぐあてのない淑夜に、〈魁〉の都・義京《ぎきょう》への遊学をすすめてくれたのも、無影である。
説家《ぜいか》、または説客《せっきゃく》とよばれる者たちが、世間には在《あ》った。
国の施政の術や兵学や、人によってその得意とする学問、技術の種類はことなるが、要するに専門家である。
家格によって高位に就《つ》いたとしても、それなりの責務ははたさなければならない。無能者は、能力のある者を私的にやとって代行させる。つまり、政治や軍事の表舞台に立つことはなくとも、それなりに身をたてていく方法がないわけではないのだ。
中には、家塾をかまえて人材を養成し、各国の君主や領主にあっせんする者もいる。義京にはそういった家塾が多く、淑夜もそのひとりへの弟子入りを勧められたのだ。
最初、淑夜は辞退するつもりだった。学問の進度や思慮深さ、世間や時流をひろく遠く見る目といった点で、無影の方にこそその資格があると思ったからだ。事実、〈衛〉国内では、学者としての耿無影の名はそこそこに知られていた。
だが、
「おまえには、もっといろんなものを学んできてほしい。おれはこのとおり、狷介《けんかい》な性格で一生おもてに出ることはあるまい。おまえが世に出て、おれの分まで思うさま働いてもらいたいのだ」
花をもった稍のあいだの空を仰ぎながら、嘆息とともに無影はいってくれた。
「私など、たいした才もありませんよ」
「なにをいっている。おまえほどの者が、他にいるものか。すくなくとも、読んだ書物を一度でそらんじてしまう者など、〈衛〉はおろか、〈坤〉の地すべてをさがしても、そういるものではない」
「……そうでしょうか」
無影のいうとおり、淑夜には妙な才能があった。一度見た文字は、そのままそっくりおぼえてしまうのだ。親兄弟にほとんどかえりみられなかった分を埋めるように、読んできた書物の、ほとんどを彼はそっくりおぼえている。
だが、それは特に努力してのことではない。自然に身にそなわっていたものだから、だいそれたことだという自覚はさっぱりないし、義京へ行って通用する才能だと無影に力説されても、それで自信がもてるものでもなかったのだ。
「一度、義京へ行けば、数年はかえってこられませんね」
淑夜は地に視線を落としながら、つぶやいた。義京では、冬にはこの花弁のかわりに冷たい雪が降るという。そのときの淑夜には、見知らぬ土地へのたったひとりの遊学という不安の方が、重大事だった。
「しかたがあるまい。物見遊山にいくのではないのだ。しっかり学んで、おれの役にたつ人間になってもらわねばこまる。それまで、連姫《れんき》どのはおれがあずかっておくからな」
「な、なぜ、こんなところに連姫どのの名が出てくるのですか」
無影の母方の縁つづきにあたる|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の娘・連姫は、ふたりのおさななじみだった。彼女の美貌はほんの少女のころから夙《つと》に知られていたが、長じるにつれて令名はますます高くなっている。
〈衛〉国内のみならず、他国の名族からの結婚の申しこみもあるとうわさがあるが、ことごとく断っているとも聞く。
「しらばくれるな。聞いているぞ。わざわざ餞《はなむけ》の品として手ずから衣を縫って、持参してくれたそうだな」
「ただの儀礼ですよ。そうに決まってます。連姫どのに失礼でしょう」
口では否定しても、紅潮した顔がそれをうらぎってしまった。
「ひさしぶりに会ったのだろう。どうだ、美しくなっていただろう」
「知りませんよ。ろくに顔など見ていませんから」
まだ童髪《うないがみ》だが、白い細い貌《かお》が息をのむほどに臈たけて美しかったのを思いかえしながら、かろうじて彼はしらをきった。
男女の別はきびしくへだてられ、幼いころのように気ままに逢うようなわけにはいかない。彼女の真意が奈辺《なへん》にあるか知りようがないし、女の意思だけで決まる問題ではないのだ。しかし、淑夜はひそかに期待をいだいていた。自分こそが一国の美女の意中にあるとまでは、うぬぼれていない。自分か無影か、どちらかが射止められればよい――ていどの期待だったが。
「とにかく、元気で行ってこい。ほら、妹たちがむかえにきたぞ」
十一、二歳ほどと、もう少し年下の少女とのふたりが、庭に出てくるところだった。母親こそちがうが、淑夜は妹たちとは仲がよかった。いや、本来なら家督をめぐっていがみあうはずの異母兄たちとも、彼は争ったことがない。野心をみせるわけでなし、自室で文字を読んでいるばかりのおとなしい異母弟に、彼らは関心をむけなかったからだ。
「にいさま」
「兄さま、無影さま」
「送別の宴の支度ができました」
「おいでください。みな、待っております」
手をつないでかけよってくる少女たちの姿に、ちいさな花片が惜しげもなくふりかかる。その白い花弁が――。
ふいに真紅に染まる。
「――!」
妹たちの名をよんだ声は、周囲からわきあがる絶叫にかき消える。せいいっぱいにのばした腕の先は、けっして彼女たちにはとどかず、気がつけば彼は、家族の屍《しかばね》のちらばる屋敷の内をひとりさまよっている……。
ここに倒れているのは父、帳《とばり》の陰に伏せているのは義母《はは》たちのひとり、その胸にだかれて息絶えているのは、まだ嬰児の異母弟《おとうと》。
それは、何度もくりかえし見ては、夜中に飛び起きた悪夢だった。
異母兄《あに》たちの数人はすでに妻帯して、何人かの子をもうけていた。その幼児たちだけでなく、他家にとついだ姉たちまでも毒を盛られて殺されたと聞いた。
庭に降りれば、満開の李《すもも》。花の吹雪は、淋漓《りんり》として散る血飛沫《ちしぶき》となって淑夜の全身に降りかかる。一族の怨念のこもった血潮だと、彼は感じた。胸の奥が熱湯を浴びたように焼けただれた。
ねらうのは、無影ただひとり。
決心してにぎりしめたのは、やっとのことで手にいれた鉄剣の剣環。義京での師や学友の制止をふりきり、危険をおかしてまで〈衛〉の都にひそかにもどったのは、一族すべて、なんの罪もない幼い者たちまで殺し尽くした無影の所業が、淑夜のほかの感情をも殺してしまったからだ。
妹たちは可愛がっていたが、他の家族たちを、それほど慕わしいと思ったことはない。年に一度か二度、顔を見るだけの父親にいたっては、肉親らしいことばをかけてもらったことすらないし、夭《わか》くして父の側女《そばめ》に入れられた母は亡くなってひさしい。
淑夜を絶望の淵へ追いやったのは、無影に裏切られたという無念だけだった。
準備をする時間も資金も、人手も淑夜にはなかった。が、かえってそれがよかったのかもしれない。
やっと人なみに剣がつかえるていどの非力な淑夜が、単身、警備の厳重な国君の館にしのびこむとは、さすがの無影も考えず、油断しきっていたのだ。
だが――。
淑夜はやりおおせた。
なにもかもうまくいっていたのに、ただ、最後の段階で失敗《しく》じった。
たよりの鉄剣が、なまくらだったのだ。館の階の下へ追い詰めた堂兄の顔の上へふりおろした剣は、無影の左ほほをかすって石の欄《てすり》にあたり、なかばから折れてしまった。
どうやって、その場をのがれたのか、記憶はさだかではない。
おぼえているのは、わかれた三年前よりも濃い翳をほほに落とした無影の、冠をとばし、とり乱した姿。
それを、最後まで見とどけられなかったという悔しさだけが燠火《おきび》のように燃えのこり、それが彼の身体をここまではこんできた。
(耿無影、覚悟!)
そう叫んだおのれの声が、耳の底にまだひびく。それは、自分に対する死の宣告でもあったはずだ。
それなのに――。
(私は、まだ生きているのか?)
たえまなくおそってくる激痛と悪寒と、それ以上に身体をさいなむ暗い情念との闘いに、淑夜はついに悲鳴をあげた。
「だれか――!」
(二)
「気分はどうだ?」
ふいに。
場ちがいなほどに間のびした、陽気で太い声が、ひょいと頭の上からのぞきこんできた。淑夜の目から見ると、ちょうど顔がさかさまに見えた。見たこともない男の顔だった。
視界にうごくものをとらえてようやく、淑夜は自分が悪夢の闇の中ではなく、早朝の光の中にいることを悟った。
かなり前から目はさめていたはずなのだが、意識はおのれの記憶の中の暗黒をさまよっていたのだろう。
もがいたはずみに全身にはしった激痛が、淑夜を目醒めさせたのだ。
ぼう――と、さだまらない視線で、しばらくはさかさまになった男の貌《かお》を、呆《ほう》けたように彼はながめていたが――。
「おい、気はたしかか」
もう一度よびかけられて、淑夜はようやくその声におぼえがあることに気がついた。
昨夜――のはずだが――谷底で聞いた声だ。
「あなたは……」
「ああ」
男は、ほっと安堵の息をはいたようだ。
「力加減をまちがえたかと思った。なぐったはずみに莫迦にしちまったかとな。だいぶ、うなされていたようだが、気分はどうだ」
そうたずねられて、ようやく、自分の怪我を思いだした。まだ身体中がしびれるように痛むが、昨夜ほどではない。とにかく、呼吸がずいぶんと楽になっている。
「生きていますよ、なんとか」
「そりゃあ、そうだろう。口をきいてるんだからな。起きられる……わけはないか。おい、だれか、水をもってこい」
背中へむけて、男は怒鳴った。連れがいる、それもひとりふたりではなさそうなのは、耳に流れこんでくるざわめきでわかった。おう――と、うっそり応える声がして、かさかさと草をふむ足音が聞こえた。
「お、手伝え」
男の顔がひっこめられ、かわって身体の両側から背に手がさしいれられる。わき腹には木片が添えられ、その上から汚れた荒織りの布がぐるぐると巻きつけられている。つんと青くさいにおいがするのは、野生の薬草でもついているせいだろうか。おかげで、あまり苦痛も感じずに半身を起こすことができた。全身の傷はひとつひとつていねいに清められ、ひととおりの手あてをほどこされている。治療法といい、さっきの淑夜の身体のあつかい方といい、医術の心得も少しある彼の目にも相当な手ぎわのよさがめだった。
「どうだ、手はつかえるか。右腕は打撲だけのはずだが」
いいながら木の椀をつきだしてきた男の顔を、はじめて淑夜はつくづくとながめることができた。
昨夜の記憶が、あざやかによみがえった。
声から連想した容姿、それがそっくりそのまま、形となって目の前にあったのだ。年齢のころは二十歳代のなかばかそれ以上、長身で肩幅も胸の厚みも人なみ以上あるが、敏捷さもそれ以上に感じられる。貌はといえば、真面目になればおそらく端正、美丈夫といってもいいはずだ。陽に灼《や》け風雨にさらされたしなやかな輪郭は、男でもほれぼれとするほどさっぱりと、男らしい顔だちである。ただし――。
あいにく声と同様、どこか表情が間のびしていた。
よくいえば人なつっこく陽気な、悪くいえばにやにやとしまりのない笑顔が、顔のみならず、彼の全身の印象をすべてだいなしにしているのだった。
「――羅旋、でしたね」
「お、憶《おぼ》えているか。上等だ。さ、飲め」
右手でうけとった粗末な木椀の中には、澄んだ水がはいっていた。羅旋に手を添えられて、それをひとくちふくんだとたん、皮膚の裏側から洗われていくような感覚が、全身をかけめぐった。一瞬、めまいを起こしかけ、羅旋の腕にささえられる。
「どうした。すこしきつかったか」
「これは……、水ではありませんね。酒――でもない」
「心配するな。薬草をほうりこんであるだけだ。毒じゃない。この一杯だけは飲んでしまえ。腹にたまるものは、それからだ」
強引に椀を口もとへおしつけてきた。舌の上にのこる苦味に閉口しながらも、淑夜はしぶしぶ従った。目をつぶりしばらくためらったあと、ほとんど一気にのこりの水を飲み干し終えたとたん。
どっとはやしたてる声が、聞こえてきた。添え木のせいでふりむくことができず、かろうじて視線をのばしたところに、男たちがちいさな焚火を囲んで輪になっているのがわかった。口々にいうことばは聞きとりにくいが、要するに苦い薬水をよくぞ飲んだといった内容を、嘲笑まじりにわめいているらしい。
姿形はそれぞれちがっているが、どの顔もまっくろに日灼けしひげに覆われていて、野鄙《やひ》で荒々しい印象である。口よりも腕力の方が早いといった手あいであることは、すぐにわかった。だれも、埃と汗にまみれ垢じみた衣服をまとっている。
その数、ざっと二十人弱。その背後の疎林《そりん》の中にも見えかくれしているのをあわせると、おおよそ三十人ほどになるだろうか。
「あれは……?」
「気にするな。ほれ、食い物だ」
木椀がとりあげられ、別の椀がさしだされた。中には湯気のたつ黍粥《きびがゆ》がはいっている。顔がうつりそうなほどうすい粥だった。
「二、三日、食っていないんだろう。かたいものを急に食うと、胃の腑がおどろく。最初はそれでがまんするんだな」
落胆の色が表面に出たのかと、淑夜はあわてた。食物の内容に不満をいうのはいやしいことだと、教えこまれてきているのだ。だが、相手はいっこうに気にしたようすはなかった。
「食えるか、ん? ああ、そうか、左手がつかえんな」
淑夜の左手は、これまた布で巻きあげて身体に固定してある。
「どれ、食わせてやるから、口をあけろ」
間にあわせにつくったらしい、木片を荒く削った匙《さじ》をふりまわして、羅旋はいった。
世話好きというのか、昨夜、あやうく淑夜を見すてかけたことなど忘れ果てているようだ。淑夜の困惑など知らぬ気に、親切をおしつけてくる。
だが、淑夜は素直にそれをうけられなかった。ひとつには、背後でなにやら大声で騒いでいる男たちの視線が、ひどく気になったこともある。
「ひとりで食べられます。椀の方を持っていてください」
羅旋が気軽にそれに応じる前に、横あいから別の腕がのびて、ひったくるように椀をうけとっていった。それで淑夜はようやく、もうひとり、自分のかたわらに人間がいることに気がついた。最初に水を運んできて、上体を起こすのを手伝ってくれた手――その持ち主は、影のような男だった。
羅旋とはちがった意味で、印象的な人物だったかもしれない。
羅旋が陽なら、この男は陰だった。うっそりと暗い翳のある顔だちに、上目づかいに見あげる視線。容姿は十人なみで、中肉中背。これといって特徴がなく、目を離したとたんに存在を忘れそうなほどに影がうすい。だが、淑夜はこの壮年の男から強烈な気魄《きはく》を一瞬、感じとった。
悪意、もしくは敵意というのがもっとも適当な形容だろうか。
だが、たじろぎはしたものの、人相で相手が気にくわないからといって食物を拒否するわけにはいかない。男の、値ぶみするようにじっとすえた視線を気にしながらも、淑夜は匙をゆっくりと口にはこんだ。
味は、まったくわからなかった。どうせろくな味などなかったのだろうが、とにかく、うまいまずいを判別する感覚が麻痺していた。だが、熱い液体が口から喉、胸のあたりにひろがって胃の腑に落ちつくのを、淑夜は信じられないことのように感じとっていた。粥の温度が手足につたわるにつれて、生きているという実感も漸《ようや》く全身に沁みわたってきたのだ。
あとは夢中だった。
羅旋は、淑夜がおぼつかなげに食べはじめるのを見ずに、ついとその場からたちあがった。淑夜が彼の不在に気づかなかったのは、不覚にも、食物に気を奪われていたためだ。だから、椀の底まで食べ終わったとたんに、剣を目前につきだされ、飛びあがるほどにおどろいた。
「これは、おまえのだな」
なかばから折れた鉄剣だった。
淑夜は、うなずくよりほかに返答のしようがなかった。
「念のために訊く。どこの国の者だ」
「…………」
なにを、どこまで話せばよいのだろう。いや、この男たちは何者で、なにをどこまで知っているのだろう。ここ数日、大道をはなれ邑《むら》を避けて旅をつづけていた淑夜には、無影の権力がどれほど伸び、追及がどこまでおよんでいるか類推のしようがない。
昨夜、本名を名のってしまっているのだが、それに対する反応がなかったことが、淑夜の決断をにぶらせていた。
いつわりですべてをいいくるめてしまうか、それとも真実を告げるか。
わかっているのは、不意をうたれて醜態をさらした無影が、けっして淑夜を許さないだろうということだけだ。彼にさからった代償は高くつく。それを先君の家臣たちにも見せつけなければ、無影にも先はない。それぐらいのことは、淑夜にもわかる。
(――この人たちとは、偶然に出会っただけだ)
救われた恩はあるが、いっとき利用だけして安全なところまでのがれ、そこで別れても問題はない。いや、その方が、かえって迷惑をかけずにすむかもしれない。
しかし、真実を語った場合は――。
淑夜が生きのびられる可能性は、五分と五分。いや、七分三分だろう。むろん、生存の方が三分だ。ひどく分の悪い賭だった。おまけに淑夜は、昔から賭け事がからきし下手ときていた。
――三分の方に賭ける決心がついたのは、彼をじっと見つめている羅旋の視線が、奇妙ともいえる色彩を帯びていたせいだった。
そのまなざしの底に、淡い緑色がまじっていた。光の加減によってはあかるい褐色にも見えるが、おおよそは緑色、玉と総称され珍重される翡翠の色が、彼の眼の中にはかくされていたのだった。昨夜の谷底の闇が、淑夜の脳裏によみがえった。獣の眼のように底光りしていた、金緑色の眼を思いだした。
あきらかに、華の人間の瞳の色ではない。
(戎《じゅう》、か――)
戎、または胡《こ》とよばれる西方の異民族の中によくあらわれる睛《ひとみ》であることを、淑夜は知識としては知っていた。だが、実際に見たのはこれがはじめてだった。
戎族の人間を見たことは、何度かある。馬を駆り羊を追ってくらす慓悍《ひょうかん》な民族は、しばしば中原に侵入しては略奪していく。その脅威につねにさらされている西方の諸国では、悪鬼かなにかのようにおそれ、また軽蔑している。辺地では、土塁を延々とつらねて彼らの侵入に備えているとも聞いている。
淑夜は、捕らえられた戎族が奴婢として義京につれてこられたところを、何度か見たことがあるが、いちいちその顔をあらためたことはなかった。いや、この漢ほどに堂々と胸をはり、高らかにおもてを上げている戎を見たことがなかった、といった方が正しいかもしれない。
それほど明るく、ぼうようとした大きな空気が、彼の内部にも周囲にもまつわりついていたのだ。
(――この漢は、ただ者ではない)
明確な思考ではない。
天啓《てんけい》――。
あとから何度考えなおしても、淑夜はそれ以外のことばで、その時の決断を表現することはできなかった。
「……〈衛〉国の産です」
「耿、|※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《き》といったな」
「はい」
「それで、その怪我か」
「はい」
羅旋は無言のまま淑夜を見、すぐかたわらにひかえる影のような男に、問いかけるように目を移した。
「どうだ、棄才《きさい》」
棄才とよばれた男は、うっそりと視線をあげて淑夜をながめる。仕草はいかにも面倒そうだが、眼の奥の光は思わず淑夜がふるえあがったほどにつめたかった。
「どうやら、おまえが聞きこんできたおたずね者らしいが」
「――まちがい、ございません」
はじめて、男は口をきいた。重い、不明瞭な発音だったが、淑夜には雷鳴よりも大きな声に聞こえた。
(ばれている)
全身から、さっき通いはじめたばかりの血がいっせいに引いていくのを、淑夜ははっきりと感じていた。
しょせん、ここまでの運命だったのだ。考えてみれば、今ごろは谷底でつめたくなっていても当然のことである。それがとりあえず空腹を満たし、身体をあたため、傷の手当までされているのだ。昨夜よりは余裕ができたせいだろうか、意外にあっさりとあきらめがついた。
「それで――」
羅旋と棄才、それにしんと声をひそめてしまった背後の男たちと、順に意識をくばりながら、淑夜は口をひらいた。
「私を、どうします?」
「さあ、どうしたものかなあ」
緊張のためにうわずった淑夜の声に対して、即座にもどったのは、どうにも気のぬけた羅旋のせりふだった。
「棄才。おまえなら、どうする」
「たしか、耿淑夜には、生死にかかわらず、五城の賞金がかかっておりましたな」
覚悟はしていたが、その額の莫大さに淑夜はがくぜんとなった。
城とひとくちにいうが、城砦だけで独立している城はほとんどない。かならずといっていいほど、その中に邑をかかえこんでいる。というより、邑を堅固な城壁ですっぽりと囲い、防衛設備をととのえたものを城とよぶのだ。当然ながら、その周辺にひろがる農地も「城」の範囲にはいる。五城は、一国を建てるほどではないが、領主としてはまずまずといったところだろうか。とにかく、人に命令する立場にたてる。つまり、淑夜を捕らえるか首級《しるし》をあげさえすれば、どんなに身分の低い者でも翌日から士大夫さまになれるということなのだ。
無影の憎しみがどれほど強いか、淑夜はあらためて思い知った。もっとも、おのれの昨夜の激情をかえりみれば、おたがいさまだという気もしてくる。腹がくちくなったというだけで、これほどの余裕が出るものかと、彼は頭の隅で妙なことに感心していた。
そんな淑夜を、羅旋の眼はおもしろそうに観察していたが、
「この若いのが、五城か。悪くないな」
臆面もなく、いいきった。棄才が、表情ひとつ変えずに、それを受ける。
「手にいれられますか」
「悪くはないが、不満だ」
「なにが?」
「五城では安すぎる」
ふん、と鼻を鳴らしてそういった。
「人の命の値としては、そのぐらいが相場でしょう」
「いや、安いな。仮にも一国の主を狼狽させた男だぞ。おれが奴の敵で、こいつを手にいれたなら、資金と人手をあたえてもう一度ねらわせる」
「成功しますか」
「手はずさえととのえれば、こいつなら次はきっと成功するだろうさ。こいつが生きのびる手段を考えてやる必要もなし、かなり無茶ができるはずだ。となれば、〈衛〉の僭主の身にすれば、殺されるよりは国の半分を割く方を選ぶだろう」
こわいことを、当人を目の前に置いてあっさりと口にする。これで真剣な顔をしていたなら、怪我をおしてでも淑夜は即座に逃げだしていただろう。それは、たしかに正しい意見だったからだ。無影の政敵にとって、淑夜ほどに有効な凶器はない。
すこし気がきく者なら、淑夜の身柄をおさえてどこかの国君にひそかに売りこむ。無影が大国〈衛〉の国君を僭称することを、こころよく思わない者もいるだろうし、この機に乗じて〈衛〉に介入しようとしている者はさらに多いだろう。
だが、羅旋はそれに気がついているのかどうか、あいかわらずぼうようとつかみどころがない。とらえられ、利用されるとしても、とりあえず今、逃げ出す必要だけはなさそうだ。ここの山中を脱し、怪我が癒えてから考えてもいいことだろう。
「どう、なさる」
棄才が、上目づかいに羅旋を見た。戎の血を引くらしい青年にむかって、この壮年の男が終始目上に対することばづかいをしていることに、淑夜はようやく気づいた。
「さあて、どうするか」
羅旋はおおげさに両腕を組み、考えこむそぶりをみせた。背後の男たちが、そろって固唾《かたず》をのむ気配がした。
「……頭領《とうりょう》」
だれかがおずおずと声をかけたが、棄才とかいう男の一瞥であとのことばをひっこめてしまった。あとは、しんとしずまりかえった時間だけが、冷たくただよっているばかりだ。
不意に。
「淑夜」
「はい」
よばれて、反射的に返事をした。
「幾歳《いくつ》だ」
「十八です」
「生きたいか」
「はい」
淑夜はためらわなかった。本心から生きたかった。
死を覚悟したときのつめたさにくらべて、水を口にしたときの蘇生感は、あまりにもあざやかだった。何のためでもいい、とりあえずは生きて、もう少し先の時代まで見さだめたい――と、明確なかたちで考えたわけではない。
ただ、羅旋というこの青年の生気に感応させられ、ひきずられたのだ。応えてしまってからそう感じたが、悪い気はしなかった。
「いい返事だ」
間髪をいれず、にこりと人好きのする笑顔で羅旋がうなずいたからだ。
「気にいった。たすけてやろう」
「頭領!」
わっと背後ではじけた声は、意外なことに歓喜におおわれていた。その歓喜がいっせいに周囲にかけよってきて、口々に親しげに話しかけてくるのに、淑夜はとまどった。
「よかったなあ、おい」
「まったく、めでたい」
「おめえ、よっぽど運が強いんだな」
「……運?」
問いかえすと、またいっせいに答えがかえってきた。
「頭領が、人だすけをするなんてこたあ、年に一度あるかないかなんだぜ」
「いや、気まぐれなお人だからさ」
「ゆうべみたいな闇夜で、そのうえこの山中だ。ここで、夜目がきくのは頭領だけだからな」
「夜目……?」
「おうよ。あんたも見ただろうが、頭領の眼がぴかぴか光るのをよ」
「はい、あれはいったい――」
「ありゃあ、夜光眼《やこうがん》といってよ、頭領の一族に時々でるんだそうだ。獣とおなじように、夜も昼もくっきり見えるって、便利なしろものさね」
「獣……ですか」
最初、虎か熊といった猛獣を連想したのは、あながちまちがいではなかったかもしれない。しかし、そんな便利な目を、人間がしているものだろうか。淑夜は半信半疑だった。
「だから、この山中で夜に、水を汲みに渓流まで降りられるのは頭領だけだったわけだ。あんた、よっぽど運がいいんだぜ」
「頭領でなけりゃ、人がたおれてるなんて、わからねえからなあ」
淑夜の肩や背、頭をてんでにこづきながら、切れ切れに話しかける。断片をつなぎあわせて、淑夜は昨夜の経緯をおおよそ知ることができた。
「人をかかえてあがってきた時には、びっくりしたぜ、なあ」
「いや、喧嘩でもして人を殺したかと」
「やりかねねえ、お人だものな」
「獣はたすけても、人間は見すてるお人だからなあ」
(とすると、自分を放置しようとしたそぶりも、案外本気だったのかもしれない)
淑夜は、身体の力がほっといっぺんにぬけていくような気がした。
「おい、くっちゃべっていないで、手伝わんか。そいつを無事に逃がすためにゃ、山ほどの手はずが要るんだぞ」
雷鳴のような羅旋の声が、頭上をとおりすぎていった。
羅旋と棄才は、男たちといれかわるようにこの場から離れている。ここは山中でも、木々がすこしまばらになったゆるやかな斜面である。すぐ下に、谷川の川原がひらけているのがわかった。
すこしはなれたところに馬や驢《ろば》が、とりまぜて二十頭ほどがつながれて下草を喰《は》んでおり、そのかたわらには藁むしろにくるんだ大きな荷物が小山のように積んである。
男たちはいったん、首をすくめたが、
「あなたがたは、いったい――」
淑夜が問うたとたん、どっと声をそろえて高笑いした。
「あなたがたなんぞというほど、ごたいそうなもんじゃねえがな」
「傭車《ようしゃ》だよ、おれたちゃ」
「――傭車?」
「ああ、よそで買いつけた品物をべつの場所へはこぶ、その途中の護衛をかねた人足さ。南から、義京へ帰る途中さね」
「なぜ、公路をいかないのです」
公路は王侯のもちいる道であり、公式の文書をたずさえた正使が往来する路であり、いったん事がおきれば大軍が移動する軍用路でもある。全国にはりめぐらされ整備された道はまた、荷車をつかって大量に品物を運ぶためにも適していた。こんな裏のけもの道を驢などにたよっていては、たいした物資ははこべないだろう。
淑夜の疑問は、もっともだった。が、男たちの面には、いっせいに皮肉っぽい嘲笑がうかんだ。
「公路には、盗賊がでるんでな」
盗賊に出る、のまちがいではないかと、あやうくいいかえすところだった。この屈強な男たちのだれひとりとして、金銭の勘定だの文字の読み書きだのができるとは思えない。金銭の取引よりは、命のやりとりの方がふさわしいつらがまえばかりだ。公路をいく商人から荷を奪ってきたため、こんな裏道を利用しているのだといわれた方が、よっぽど納得がいっただろう。
「嘘をぬかせといいたそうだな」
[#挿絵(img/01_047.png)入る]
羅旋が大きな歩はばで、こちらへもどってきた。とたんに男たちはさっと緊張の色を見せ、たちあがっておのおのの仕事に散っていく。羅旋に威圧感はないし、男たちもおびえている風はない。だが、息が合うというのか、羅旋の言動がこの連中の行動をぴたりとおさえ、支配している観があった。
人なつっこい笑顔で、淑夜のかたわらへまたすわりこみながら、
「公路には、国君の名を借りた盗賊が出るのさ」
それで、淑夜は事情をのみこんだ。公路は数箇国をつらぬいてとおっており、国境には関がもうけられている。一国内でも、この先の巨鹿関のように交通の要所にはかならずといっていいほど関があり、そこを通る人間をあらためる。そして、関をまもる者が通行料、または保護料の名目で金を要求することは、認められていた。
一般の民衆の大部分は、土地に根づいた農民である。一生自分の故郷から一歩も出ない方が多く、当然、関料には無縁である。だが、物資をうごかして利益を得る商人にとっては、そのたびにかかる金銭は莫迦にならない。
おそらくはかなりの高額で屈強の男たちを雇い、荷の量をすくなめにしてまで裏道をつかっても、公道でとりあげられる額にくらべれば、はるかに安くあがるのだろう。
「――そんなに、ひどいんですか」
訊きかえすと、羅旋はにやにやとうれしそうに笑った。ひとことでさとった淑夜に満足したらしい。
「そのうち、いやでもわかるさ。おまえをひろったせいで、巨鹿関をとおらにゃならなくなったからな」
「――すみません」
馬や驢たちが、ぎりぎりいっぱいの荷をはこんでいることは、推察に難《かた》くない。この先、いままで以上に峻嶮な山道にかかるのに、逆に荷はふえるのだ。無理をおしとおそうとすれば、荷ばかりか人命にかかわることもあるだろう。だが――。
「私をつれて、関を無事に通過できるんですか」
羅旋たちが淑夜のことを知っているのだ、関の役人たちへは、とっくの昔に情報がまわっていると考えるのが当然だ。
「それなりに金はかかるだろうな。相場以上は確実だ」
「――すみません」
「なに、あやまる必要はないし、俺の金じゃない」
「え?」
「なんだ、俺が荷主だとでも思ったのか」
この一団の頭領なのだから、そうだと思ったのだが、
「俺もやとわれ者だよ。――それに、金だけじゃあ、おそらく越せるまいな。五城もの報奨に目がくらまない高潔な奴らは、世の中がいくら広いといって、俺たちぐらいなものだからな」
「では、どうするんですか」
形容詞には目をつむって、訊きかえす。
「ここをつかうんだよ、ここを」
羅旋は、おもしろそうに自分の頭を指さしてみせた。
「ただし、俺の頭じゃないがな」
と、つけくわえるところは存外に、ひかえめなところがあるのか、それとも他人に面倒をおしつけて楽しんでいるのか。おそらく後者だろうと、淑夜は思った。そして、おしつけられたのは――。
「羅旋」
うっそりと不機嫌な声とともに、棄才がもどってきた。
「出立の用意はできました。あとは、公路にもどってからの手配と細工となります」
「よし。壮棄才《そうきさい》の手なみ、久々に見せてもらおうか」
いかにも楽しげに、羅旋はいった。棄才はといえば、彼とは対照的な暗い視線で淑夜をじろりと見た。が、それでなにか文句や異議を唱えるでなく、わずらわしそうに、しかし自信たっぷりにうなずいてみせたのだった。
(三)
「止まれ」
わざわざ命じられなくとも、関へ来て止まらない者はない。すくなくともふつうに旅する者は、堅牢な城塁と城塞の前でたちどまらざるを得ない。
けわしい山あいをぬう道は、ここで一本の川と並行することになる。川の曲がり角の、ほんのすこしひらけた平地に、土を盛って壁を築き、その上にやや粗雑なものながら望楼を組んで、砦の機能をもたせてあるのが巨鹿関の関だった。
公路さえたどっていれば、まっすぐにこの巨鹿関の城塞の城門をくぐることになる。
戦にでもなれば、最前線となる要衝の地だ。常に兵を駐屯させる設備もきちんと存在する。ちいさな村落がすっぽり、関の城壁の中にはいっているが、この城壁の内部よりほかに近在に人家はなく、休息をとるにも食事をするにも、水や物資を補給するにしても、ここへはいるより方法はない。
ことに、この炎天にほこりだらけの公路を歩いてくればたいていが、運んでいる水も飲みつくして、からからに喉を干上がらせている。たのまれなくとも、旅人は関の城門をくぐってくる。
それをことさら居丈高によびとめて、ばらばらととりかこむのは、権威をかさにきた雑兵どもの習性ともいえた。彼らもまた、もとはといえば租税の一環として、方々から狩りあつめられた農民である。
家や家族からひきはなされたうさを、旅人にいばりちらすことで晴らそうとしているのだと思えば、いちがいに責めることもできないが、それにしても迷惑な話ではあった。
「どこの荷だ。行き先は」
「義京」
応えたのは、先頭にたった陰気そうな壮年の男である。
「尤家《ゆうけ》の荷」
「中身は」
「雑穀、雑貨。それに、銀」
最後の単語に、兵士たちの眼が反応した。世間に流通しているのは銅か青銅の貨幣だが、一般の庶民にはあまり用がない。物々交換か、いっそのこと貴金属のかたまりで代価をはらう。銀の価値は、かなり高率なものだった。
「尤家とは、あの、義京の尤家か」
と、兵卒長が心もちたじろいだ。
「は」
「おまえは」
「この荷駄の宰領《さいりょう》(責任者)で、壮棄才と申す」
そういわれてみれば、実直そうな人物にも見える。いや、この一行の中では唯一、商人といって納得できる顔だった。
「たいした荷だな。よく今まで盗賊に目をつけられなかったものだ」
兵卒長が、わざとらしく一行をながめながら、ゆっくりといった。
配下の兵たちがさっそくに、列の周囲をとりまいて、荷や人員をことさら手あらくあらためている。涼しい木陰から、猛暑の陽ざしの下へ出てきたのだ。どの兵士もむっと不機嫌な表情をかくそうともしない。
驢に引かせた荷車が数台、これは荷の多さにくらべていかにも粗末で、今にもこわれそうな車だった。背に直接、荷をくくりつけた驢が数頭。それにやはり荷をつけた馬が二頭、列の最後尾についている。驢のそばには、ひとりずつ屈強な人夫たちがついている。最後の馬の口を押さえている漢は、ひときわ背の高い大丈夫で、これがどうやら人足頭らしいと兵卒長は見当をつけた。
背も高いが、肩はばも腕も、男たちの中にあっていちだんと目立つ。このあたりではあまり見かけない、足の長い悍馬《かんば》たちの口をとってゆるがせていないところなど、なかなか貫禄があった。
「この馬は」
と、漢に訊くと、
「早馬用のもので」
低く、ぽつりと答えた。
なにか旅先で荷ややとい人に支障がおこったときに、義京の尤家の主人に知らせるための予備の馬なのだ。その馬の毛なみの、あまりのみごとさに、つい手をのばしたところを、手首をがちりとつかまれた。
まるで、鉄の鎖でからめとられたようだった。
「触らないでくれ」
「なんだと」
「この馬は、人に慣れてない。知らない奴が近づくと、噛み殺す」
漢のことばに呼応するように、黒|鹿毛《かげ》の方がたてがみをいきおいよくふるった。白っぽい騅馬《あしげ》が、さそわれたように跳ねあがる。兵卒長はあわててとびすさったが、馬たちは漢の両腕で、しっかりとおさえられていた。
「どう、追風《ついふう》、超光《ちょうこう》。おとなしくしろ」
名をよぶと、二頭の馬はぴたりとしずまる。まるで、人のことばを理解するかのよう――いや、この漢の方が馬のことばを話すのかもしれない。
とにかく、こんなに大勢の男たちが荷をまもっていれば、盗賊だろうが正規兵だろうが、おいそれとは手だしはできなかろう。だが、だからといってだまって関をとおしたのでは、丸損である。
「牒《ちょう》(通行証)は」
「ございます」
陰気な男が、それでも商人らしい所作で手をさしだした。ことばづかいもていねいで要を心得ているが、それにしては愛想がかけらもない。
ふところから出してきた竹簡《ちくかん》には、墨で文字が書きつけてある。文字はおもに士大夫階級のもので、そのあたりの庶民で読める者は皆無といってよかった。
この兵卒長も、全部を読みとおすほどの知識はもっていなかったが、そこは役職上、かろうじて最低限の書式と文字の形は習いおぼえていた。
竹簡の文字に、遺漏《いろう》はないようだった。それをもったいぶって、裏おもてとひねりまわしていると、棄才が意外なほどなめらかな身のこなしで、ずっしりと重い皮袋を兵卒長のふところへすべりこませた。
重みと感触で、中身が砂金であることはすぐにわかったはずだ。
砂金は銀よりも希少で流通しにくく、即座に欲しい物品と交換できるものではない。だが、いざという時――たとえば上司や役人につけとどけする時の価値としては、当然のことながらはるかに上である。
兵卒長は、露骨に満足を顔色にだしてうなずいた。
「ご苦労なことだ。――ところで、途中で不審な者をみかけなかったか」
「不審――?」
「怪我をした奴だ。足と肩をやられているはずだ」
「人相は」
「若い、女のように柔弱な奴だそうだ」
「なに者です」
「――知らん」
一瞬のためらいののちに、兵卒長はしらをきった。賞金首の競争相手は、すくない方がいいに決まっている。
ここでふつうならそしらぬ顔をよそおうものを、棄才はうっすらと笑った。――もっとも、この顔が「笑った」とよべるなら、の話だが。肉のうすいほほの表面をわずかにひきつらせ、これまたうすいくちびるをゆがめた表情は、たとえば侯や伯や、土地の領主たちがもちいる祭器に彫りこまれた神獣の貌を思わせた。
こんな無愛想な男が笑えるとは、雑兵たちも思っていなかったらしい。一瞬、ぎくりとし、それからそろってうたがわしげな目つきになった。
「おまえこそ、なにか知っているのか」
兵卒長の声に、不審と不安がこもった。
「なにか、とは、なにを?」
「商人ならば、あちらこちらでさまざまな噂は聞いていよう」
「いいえ」
簡潔だが、それがこの際は兵士たちの疑惑を増幅した。むしろそれをあおるように、絶妙の間あいをはかって、この商人が応えたことまでは気づかない。
「ほんとうに、なにも知らぬのか」
「はい」
「……念のため、荷をあらためるぞ」
「おことわりいたします」
即座に拒否されて、兵卒長はめんくらった。うしろぐらいところがあるなら、ためらうはずだ。
「なぜだ。調べられて都合の悪いことでもあるのか」
「あけた荷を、ふたたび積みなおすには時間がかかります。何日までに義京に着かねばならぬ、という期限がございますので」
「あけはせん。外から突いてみるだけだ。おい、やれ」
否も応もない。
命じられて、ひとつの荷車に兵士が数人ずつ、走りよった。荷についていた人夫たちをこづきまわして、荷からはなす。最後尾の漢だけが、自分から馬を引いてはなれた。
兵士たちは、まず槍の石突きで車の上の荷をつつきまわしはじめた。大きく厳重にくるんである荷をねらっているのが、ありありとわかる。あわよくば、ちいさな物をくすねてやろうという意図が、まるみえだった。
人足たちが、不快の色をあらわにする。表情を変えないのは、応対にあたっていた壮棄才と、最後尾の人足頭のふたりだけだ。
兵士のひとりが思いきったように青銅の槍の穂先で荷のひとつをつらぬいた時にさえ、棄才は壁のような無表情をまもり、男はそしらぬ顔であらぬ方をむいていた。
わらの中からこぼれ出たのは、白いこまかい粒だった。
塩である。
中原は広大だが、塩は南方の海岸と南西の山地帯からしか産出しない。故に、ほかの諸国にとっては貴重品だった。ざらざらとこぼれ出た荒い塩の粒が、値段にすればどれぐらいの損害にあたるのか――。
破れたつつみは、売り物にならない。ならないはずだと決めつけて、荷台からひきずりおろし、兵士たちの手でさっと兵舎の中に運びこむ。手際のよさは、こんなことに慣れていることを証拠だてていた。
「……よかろう、行け」
兵卒長がかろうじて威厳をたもちながら早口にいったのは、持ち主の抗議を恐れたからだ。むろん、武力で脅してふみたおすことも可能だが、逆に、さらに上の方へ訴えられてもこまる。あまり欲をかいて事を荒立てるとかえって損をすることを、彼は知っていたのだ。
棄才の無表情が、あごで指図を出した。まるで号令でもかけたように、さっと人夫たちが荷車にとりつく。そして、いっせいに前へ進みはじめた。下手をすると、ひととおりの訓練しかしていない農民兵より、よほど統制のとれた行動だった。
なかば感嘆しながら、城門をくぐる行列をながめていた兵卒長だったが――。
「……おい、待て!」
するどく制止したのは、最後の荷車がうごいたあとの土が、変色していることに気づいたからだ。水に濡れたように黒くなっているのは、あれは……。
「その車、なにを載せている!」
干し草の束を小山のように積んだ車だった。その草のあいだになにを隠しているのだと疑ったとたんに、彼らのさきほどからの言動がまた、なにもかも怪しく思えたのだから妙なものだ。
「血だ!」
もっとも近くにいた若い兵卒が、濡れた土にさっと触れて悲鳴ににた声を上げた。他の兵士は、緊張をといて兵舎のあたりにすわりこんでいたから、とっさにうごけない。干上がりそうな炎天の下から、ようやくすずしい場所へもどってひと息ついたのだ、そう簡単に腰があがるものではない。
兵卒長までが、視線を左右に往復させるばかりで反応に時がかかっている中で、ただひとり、血に気づいた兵卒だけが、すばやくうごいた。
彼は、手にした槍の穂先で草束を突こうとした。突かせるまいと数人の人足がそれをはばんで、もみあいになる。
人夫たちを制したのは、人足頭の長身の男である。
「おまえら、なにをしている――!」
味方であるはずの頭に怒鳴られて、男たちはひるんだ。
その隙に、兵卒の方は、槍をするどくくりだしている。ずしりとにぶい手ごたえがあったのが、よそ目にもはっきりとわかった。
「なに……?」
兵卒長が、ようやくその荷車へと駆けよってくる前に、荷車の干し草の大半は人足頭の手によって払い落とされていた。
「おまえら――!」
雷鳴のような怒声がひびきわたったのは、粗末な荷台の上に、鹿の一歳|仔《ご》の死体を見つけたからだ。
「こんなもの、どこから……!」
と、訊くまでもない。
その仔鹿の足首には、罠の残骸らしい荒縄がまきついていた。
旅の間の食料は、現地調達が原則である。保存食もないではないが、長旅のあいだに必要な量をすべて自分で運んでいくわけにはいかない。行く先で買いあげるか、採《と》るかしかないわけだから、彼らが魚や動物を狩ること自体はとがめられることではない。
問題は、その獲《と》り方だ。
旅の一行が、罠をしかけて獲物がかかるのをじっと待っているわけがない。これは、土地の者の獲物を、こっそり横どりしてきたのだ。
「なんてことをしやがる、おまえら!」
人足頭が、人夫たちに撲《う》ってかかろうとした。だが、それより早く――。
丈夫自身のほほが、音高く鳴っていた。
「おまえの責任だ」
丈夫の前に立った壮棄才が、ぼそりと告げた。
「公路の周辺の者と悶着をおこしては、荷ははこべぬ。人足どもをとりしまるのは、おまえの仕事だ」
他人にくらべて、頭ひとつ分ひくく、ずっと細い棄才が低くそういっただけで、目前の漢をふくめた人夫全員が、いっせいに畏怖の表情をうかべたのだった。
「おれは――」
「抗弁はゆるさぬ。話は、義京へもどってから聞こう。――この鹿は、ここへ置いていく。いいな」
有無をいわせない口調は、その陰気な表情とあいまって、なんともいえないすごみを生み出した。かたわらでなりゆきをながめていた兵卒長までが、喉のあたりに手をやって、くるしげな表情を見せたほどだ。
その兵卒長に棄才はむきなおり、
「この鹿、お受けとりねがえましょうか」
「よいのか」
貪欲な兵卒長が、われ知らずたじろいだ。
「罠の持ち主をさがして、謝罪し、返すのが筋ですが、その時間がありませぬ。これは関の方々にお買いあげいただいたことにして、罠の主にはこれを――」
ふたたび、こぶしほどの大きさの皮袋が人の目を避けるようにして、兵卒長の手に移った。
「お渡しねがえましょうか」
「ひきうけた」
鹿肉の値など、たいしたものではない。その分を罠の持ち主に支払ったうえで、のこりを着服しても――いや、どうせ罠など、いくらもしかけられているのだ、調べて正当な所有者があらわれるとはかぎらない。だまってすべてをとりこんでしまったところで、問題にする者はいるまい。
思わぬ幸運にほくそえんだ兵卒長はもう、ほかのことにまわす神経など、すっかり失くしていた。
「では、これで――」
棄才が一礼したのもうわのそらで、うかれているあいだに、人夫たちがざっと荷車を押してあっという間に関の外へ出てしまった。
よく考えてみれば、どこにでもありそうな干し草なんぞのためにわざわざ荷車一台を仕立てて運ぶのは、妙といえば妙だった。しかし、その時にはその兵卒長は疑問にも思わなかったし、のちに思いかえしてみても、盗んだ仔鹿をかくすためにそうしたのだろうと理由を推察して、それ以上は考えようとしなかった。
だが、関を無事に通過した一行の中で、門をくぐりながらひそとかわされた会話を聞けば、そう浮かれていられたかどうか。
「――見たか、棄才」
なぐられたほほをさすりながら、長身の人足頭が、一行の宰領へむかって身体をかたむけながら訊いたのだ。
「は」
「どう見た?」
「兵車をそのあたりに放置したまま、ろくな武具も馬も見あたらぬ。兵の士気もゆるみきっていますな」
棄才は、まるで物を斬るような口調で答えた。
「陥《お》とせるか」
「今のままなら」
「中身をいれかえれば、どうだ」
「それは、あなたが指揮をとるという意味でしょうか」
「そうとってくれていい」
「おもしろい、戦ができましょうな」
「できるか」
「このあたりの地理と――気候の変化をくわしく調べあげ――。この地形ならば、風のひとつをとっても複雑なうごきをしていましょう。それをうまく利用すれば、小勢で多勢を防ぐこともできようかと」
「その方策、考えておいてくれ」
「承知――。ですが、戦がありますか」
「たぶん。その火種は、今、俺たちがはこんでいる」
「生きておりますか」
この炎暑の下で、干し草の中にかくれているのだ。そのうえ、道は轍《わだち》のあとが深く掘りこまれている、荷車には衝撃をやわらげる仕掛けなど、なにひとつついていない。もともと、壮健でもない上に、重傷を負い身体のよわった耿淑夜が、この苛酷な条件に耐えられるか、こころもとないというのだ。
「生きているさ」
こともなげに、答えがかえる。
「仇をとりたい一心で、のがれてきたんだ。ここで簡単に死んで、耿無影を安心させてやるようなことは、意地でもするまいさ。俺もそれでは、たすけた甲斐がない」
男は――羅旋は、妙に楽しそうなくちぶりでふりむいた。
巨鹿関の城塁が砂塵のむこうに煙っているのへ、挑むような視線を投げたのも、一瞬のこと。すぐに、間のびした陽気な表情にもどっている。
「こいつが、一国の権力やしがらみや――この世界を相手にどこまで戦えるか、じっくり見せてもらうさ。――どうやら、やっとおもしろくなりそうだ」
と、つぶやいた声はしかし、荷車のきしみと人夫たちの声とにかきけされ、すぐかたわらの棄才と、荷車の中の淑夜の耳にしかとどかなかったのだ。
――身体が、熱っぽくなっていた。無事に関をぬけられたという安堵感と、振動のはげしい荷車に揺すぶられた疲労、それにこのむっとするような熱気である。昨夜来の弱った身体に、こたえてきはじめたのだ。
(まるで、一軍の将のような口をきく)
ぼんやりと遠のきはじめた意識の中で、淑夜は考えていた。たかだか一商人の傭車の頭だか護衛団の頭領だかが、大きな口をきくものだと、おかしくなった。それがさらにおかしいのは、その口ぶりがかならずしも、大言壮語にきこえないことだ。
(なに者だ、あの漢)
昨夜から、ずっと頭にこびりついて離れない疑問が、混濁しはじめた意識の上にうかんで、すぐに消えた。熱があがったのだろう。熱っぽさが、悪寒にとってかわりはじめていた。
淑夜は、奥歯をくいしばった。
(生きてやる。どんなことがあっても)
決心した目の裏を、一瞬、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫の白い横顔がよこぎっていったような気がしたが、それもすぐに無意識の濁流の中にのみこまれる。
〈魁〉の衷王、十五年、孟夏のことだった。
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第二章――――――――落日の都
(一)
「殿下」
と、呼ばれたのは、痩身の、まだ若い男だった。
きびしくひきしまった顔だちは端正といってもよいが、繊細で疳《かん》の強そうな線が、ひどく酷薄な印象をあたえる。だが、それが生来のものなのか、それとも後天的なものなのかは、判然としなかった。というのも、よばれてふりかえったそのさりげない立ち居ふるまいでさえもが、ひどく洗練されており、本来は文雅を好むものしずかな貴公子ではないかと思わせるところがあったためだ。
衣服のすそを、あざやかにひるがえしてふりかえった青年の左ほほには、その繊細な容貌に不似合いな傷が一筋、はしっていた。完全にふさがってはいるが、そう古いものではない。せいぜいが、ふた月か三月ほど前のものだろう。
「殿下、お待ちを」
制止されたのが不快だったのだろう。その傷痕が、ひきつれてゆがんだ。
よびとめたのは、白髪に衣冠を正した老人だった。黒麻の深衣に身はつつんでいるが、身体つきとつらがまえからみて、本来は武人。それも百戦錬磨の武将であるのは、その赤銅に日焼けした顔色と、巌《いわお》のようにいかつい顔だちを見ればわかる。
場所は堂于《どうう》から楼閣へとわたる回廊の、なかばである。繊細な格子もようの欄《てすり》と堅牢な瓦屋根《かわらやね》がつづいてはいるが、ここ数日ふりつづいている雨のため、床には水がたまっていた。その水の中に老人は、ためらうことなく膝をつきいれた。
年齢にすれば倍以上の年長者を、足もとにうやうやしくひざまずかせても、青年の表情は不機嫌に翳《かげ》ったまま、変化がない。
「なんとしても、上都なさいますか」
「会盟に来いといってきているのだ」
会盟とは、公、伯などおもだった領主たちが一堂に会合し、〈魁《かい》〉の王に忠誠を誓うという儀式である。本来の目的からいえば、もはや形式でしかないが、それを主催する者にとっては、実力と影響力を誇示する、重要な形式でもあった。
このたびの会盟の主催は、中原の東方に大きな封地をもつ〈征《せい》〉公である。〈魁〉建国の功臣、魚服《ぎょふく》の縁者という名家であり、華諸国の中でももっとも強大な軍事力を持ち、〈魁〉王を擁して中原に号令する、実質上の支配者である。
「〈征〉公が、新公とみとめて招いてくれるのだ。行かずばなるまい」
「行けば、いかがあいなりますか、おわかりか」
「百も承知だ。不服か」
「われら一同、不承知にございます」
老人は顔をあげ、重い口ぶりで告げた。それを聞いたとたん、青年の表情がわずかに変わった。うすいくちびるの端がわずかにつりあがった――嘲笑《わら》ったのである。
「妙なことを申すものだな。百来《ひゃくらい》」
「なにがでございまするか」
「私は、あるじを――おぬしたちの君主を弑《しい》した者だぞ。なり上がり者の、青二才のと、つい先日まで陰口をたたかれていた、耿無影だ。義京へよびだされて、その理非を質《ただ》され簒奪者として処断されれば、おぬしたちも快哉《かいさい》をさけぶのだろう。そう、はっきりといえばよい。いまさら、怒りはせぬ」
「今は、御身がわれらのあるじでございまする」
白い眉の奥に、ためらいの色はなかった。
「そして、国内はただいまのところ、平穏におさまっております。今、御身に万が一のことがあれば国内は乱れ、また、隙をついて他国が介入してまいりましょう。この〈衛〉を無事にたもってくださるかぎり、われらはだれがあるじであろうと、不平は申しませぬ」
「それは、みなの総意か。それとも、百来将軍、おぬし独《ひと》りの判断か」
「ほかの者は、存じませぬ。それがし、ひとりの考えでは、ご不満か」
「正直なことだ――」
青年――耿無影は、不服そうに鼻先だけで笑ったが、それ以上のことは口にしなかった。
「上都はお見あわせくださいまするか」
「行く」
みじかく答えて、無影は踵をかえした。
「殿下――!」
「〈魁〉の太宰《たいさい》や〈征〉の魚支吾《ぎょしご》など、年|経《ふ》りた狐どもの魂胆はわかっている。難癖をつけて、この機に〈衛《えい》〉を一気に分割してしまおう、それが無理ならせめて、かねて懸案の穣《じょう》、巴《は》、二城だけでもまきあげようというのだろう」
穣の地と巴城は、坤の大地で第二の大河・漓水《りすい》の水運の要地である。ここは、百年以上も以前から、どちらの手に帰属するかで、〈魁〉と〈衛〉のあいだの問題になっていた。
「ならば、なおのこと! おでましはなりませぬ!」
「行かねば、さらにむこうに口実を与える。〈魁〉王に対して不敬であるといいたてて、誅伐の軍をおくってよこすのは火を見るよりもあきらかだ」
「されば――」
わかっているのだ。この老将軍にも、そのぐらいの図式は、口にする前から読めている。外にあっては将、内にはいっては相《しょう》というのが、まずあたりまえの時代である。だからといって、今、無影をうかうかと義京へやって暗殺でもされた日には、領内の混乱は目に見えていた。
百来にとって、無影は長年仕えた君主を弑した仇敵であるはずだった。だが、権力をにぎったこの青二才は、それまで〈衛〉公の宮廷にわだかまっていた腐敗を一掃してしまったのだ。
なるほど、最初こそ、金品を撒《ま》いて士大夫の機嫌をとりむすび、租税を免じて庶民の人気をとった。だが、混乱がおさまったとみてとるや一転して、不正を徹底的に質《ただ》してまわったのだ。たとえば、部下や自分より身分の低い者からのつけとどけを要求した者は、たとえ名家、重臣であろうと罷免《ひめん》。渡した者も、労役の罰をうけた。かわりに、優れた者を推薦する制度をつくり、門地にかかわらず人材を登用する方途《みち》をひらいた。
みずからは、〈衛〉公の宮にその住居《すまい》を移したが、前の公がたくわえていた財産の大半は、〈衛〉国全体のものとして、手もつけていない。また前の公の後宮にいた女たちに、ひとりひとり身をよせる場所をみつけてやった上で、解放した。――百来のたったひとりの孫娘も、その解きはなたれた宮女の中にはいっていた。
国を憂えていた者のひとりとして、また人の親、祖父として、百来は無影の手腕と理想を評価したのだった。
その志の是非はとにかくとして、事業なかばに無影が倒れてしまえば、〈衛〉は以前以上の腐敗と混乱の中に落ちる。たとえ無影に反感を持つ者でも、すこしでも正常な判断能力がある者ならば、次善の選択として無影をあるじとみとめるほかない。
(――この夏、無影暗殺をはかった耿淑夜、彼の心情がわからぬでもない。だが、今はこまるのだ)
視線を回廊の外へそらして、ふりつづく雨足を見ながら、百来は胸のうちでつぶやいた。雨が多いのは、江南とよばれる漓水流域の気候の特徴である。特に、初夏と初秋に長雨の時期がある。霧のようにけむる細雨は、めずらしいものではないが、やはり気を滅入らせるものだった。
「案ずるな、将軍。私だとて、そうやすやすと、あちらのいいなりになる気はない」
雨音にまじって、するどい覇気にみちた声が老人の耳朶《じだ》を打った。
「いかが、なされる」
「来いとはいわれた。だが、丸腰で来いとは、だれもいっておらぬ」
「それは――。会盟にお集まりの方々が、それぞれに護衛の軍をひきいて行かれるのは、これまでの慣習。しかし、兵がどれほどいたところで、宮中にまで連れてはいるわけにはまいりませぬ。刺客をひそまされでもしたら、いかがなさる」
「刺客といえば――淑夜が、今、義京に在《あ》るぞ」
不意に。
無影は、話の鉾先を変えた――ように思われた。
「密告でも、はいりましたか」
「なくとも、わかる。あいつの行くところが、他にあるものか。どこかにかくまわれているのだろうが、私が行けば、姿をあらわす」
「御みずからを、おとりになされるか」
「それは、ついでだ。必要なのは、この事実が軍をうごかす名分に使えるということだ」
「義京を攻められると!」
老人の日焼けした面が、満面、朱をそそいだように変わった。それが怒りのためか驚愕のせいかは判然としなかったが、無影はおちつきはらったままだった。
「まだ、その時期ではない」
「まだ……?」
「今は義京までいく必要はないし、その力もない。そのかわり、〈奎《けい》〉を攻める」
「何故」
「〈衛〉から義京にはいるには、どの道をとっても巨鹿関《ころくかん》を通る。つまり、淑夜は〈奎〉の国内をとがめられることなく通過できたということだ。〈奎〉は、淑夜を容認した。淑夜をかばった、いや、淑夜をつかって、私の命をねらった」
「莫迦な……!」
これは、難癖《なんくせ》の類に属する。小細工ともいえない。
「真実など、どちらでもいいのだ」
と、ひややかな声が、かえった。
「必要なのは、理由だ。それも、かならずしも正しいものでなくともいい。勝てば、それが正義となるのだ。それが、| 政 《まつりごと》というものではないか、百来」
老将軍には、なにも答えられなかった。
「攻められる前に、攻める。〈征〉公をはじめとする諸侯に、〈衛〉にはつけいる隙がないということを、見せておく」
たしかに、内政がおさまれば、その必要はあるのだ。
「わかったら、用意を急がせよ。他からとやかくくちばしをつっこまれないうちに、出立する」
百来が承諾のしるしに頭をさげたときには、すでに無影の衣のすそはあざやかにひるがえっている。容姿にしても、身のこなしのさっそうとしたところも、酒と美食におぼれていた亡き讓公などとはくらべものにならない。今のところ、君主としての無影は理想にちかいといえた。
(だが、この先、どう変化するか。予断はゆるさぬ)
無影を主君としてはみとめた百来だが、無条件で未来を賭けるつもりはない。ゆっくりと立ち上がりながら、灰色の天をみあげた。こまかな霧のような雨粒が、髯や眉にやどり皺のふかい顔面を音もなく濡らしていった。
――無影は、讓公を弑してその後宮を廃止したのち、自分のための後宮をつくろうとはしなかった。すくなくとも、複数の女性を館にいれさせるようなことはしなかった。中には、新しい権力者にさっそく媚びようと、娘をさしだした者たちもいたが、それらはすべて冷ややかな拒絶でむくいられた。
彼が館に入れるよう命じたのは、ただひとり、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》氏の娘、連姫のみだった。
香雲《こううん》台というのは、三代目の〈衛〉公がその寵姫のために建てた高楼で、代々の夫人の住まいに充《あ》てられていた。国公の館をかざりたてていた内装のうち不要なものを、無影は撤去させてしまったが、この高楼の内部だけはほとんど手をつけなかった。逆に綾や錦や、銀燭や、美しい調度類をはこびこませ、何人もの侍女をつけて連姫にあたえたのだった。
室にいた侍女たちを全員、手ぶりでさがらせて、無影は窓辺にしずかにあゆみよった。
「――なにを見ている」
無影のひくい声にも、窓辺の人はふりむかなかった。
香雲台は、院子《にわ》の池水の上になかばつきだした水郭として建てられている。その水面にむかってひらいた半窗《はんそう》に腰をかけ、せりだした欄《てすり》に身をもたせかけて、その女はふりつづく雨をみつめているように見える。だがその実、霧雨も院子の景色も、なにひとつその目にはいっていないことを、無影は知っていた。
「そんなところにいると、濡れる。病にでもなられてはこまる。中へはいれ」
無言だけが返る。
「そなたがここに来て、もうふた月ちかくになる。いつまでそうやって、他人のような顔をしているつもりだ」
白く臈《ろう》たけた横顔は、まるでつくりもののように微動だにしなかった。
肌は李《すもも》の花よりも白く、くちびるは桃の紅よりも濃い。切れ長な眼に、憂いをふくんだ眉、また繊《ほそ》い肩のあたりはため息がでそうなほどにはかない。風がふけば、花弁かうす絹のようにふき飛んでいってしまいそうな風情である。
〈衛〉国一の美女の名に恥じないその姿に、無影もいらだちを一時忘れて見入ってしまった。
だが、その冴えた美貌は、氷を思わせるほどに冷たくもあったのだ。
「なにを考えている。いつまで、黙っているつもりだ」
無言がつづく。無影は、つい抑えにおさえてきた名を口にした。
「それほど、淑夜が恋しいか」
びくり――と、うすい肩がうごくのを、無影は絶望にちかい感情で見た。聞こえているのかいないのかわからないのにくらべれば、反応があっただけましだ。だが、それをひきだしたのが、よりにもよって淑夜の名だとは、予想はしていても承服はできない。
「待ってもむだだ。淑夜は、二度と〈衛〉へはもどらぬ。もどらせぬ」
視線が、ゆらいだ、ゆれながらためらいながら、無影の方へむけられる。その黒い眸は、やはりひどく硬質な光をはなっていた。それでも視線の焦点があい、無影の上でとまったのは大きな進歩というべきだろう。
「淑夜も、帰ってくる気はなかろう。私が死なぬかぎりはな。私も、天地にかけて、あれを許すわけにいかぬ」
「……あなたの、お身内でございましょう」
透明な、玉をかすかに触れあわせるような声だった。
「声を聞いたのは、ひさしぶりだな」
「お話をそらされますな」
冷たい視線が、無影を射ぬく。背筋がぞっとするほど激しい憎悪のこもった眸だったが、無視されることを思えば、一歩前進といったところだろうか。
「あなたには、骨肉の情というものが、おありにならぬのですか。淑夜さまは、あなたが弟のように思っておられた方ではございませぬか」
「私に刃《やいば》をむけた者だ」
「あなたがなさったことの報いでございましょう。淑夜さまがお怒りになるのも、当然のこと」
「正直なことだ。私が死ねば、手をうってよろこぶのが目に見える」
「…………」
返事はなかったが、ふいとそらした視線がなによりその心情を物語っていた。
「――わたくしを、ここより出してくださいませ」
「ならぬ」
間髪をいれず、きっぱりと答えがもどる。
「わたくしをむりやり、このようなところに閉じこめておくのは、無体というもの」
「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家へ帰ったところで、どうせまた売りとばされるだけだぞ」
「売る……?」
「そなたの叔父上は、そなたを讓公の後宮か義京の重臣の妾におくりこむつもりだった。おのれの利権とひきかえにな。知らぬわけではあるまい」
血の色のうすいくちびるを、連姫はそのはかなげな容姿に可能なかぎりきつく噛みしめた。
「それが、こことどう異《こと》なるのか、うかがいたいものでございます」
「それほどここがいやなら、私とともに来い。明後日には、出立する」
意図的に、無影は論旨をずらした。
「いやでございます」
「義京へ行く」
[#挿絵(img/01_073.png)入る]
「おひとりでまいられればよろしゅうございましょう。会盟に女を連れていかれては、人の笑い者になります」
「心にもないことをいうのではない。なればよいと思っているくせに。――義京には、淑夜がいるぞ」
「たしかでございますか」
そういったときの連姫の口調には、細い糸にすがりつくようなひびきがあった。一瞬、無影の眼の中に昏い感情がはしる。しかし、彼の顔にかかっている翳の中にかくされて、連姫は気づくことはなかった。
「たしかなことは、わからぬ。が、私が行けば、自分から穴からのこのこと出てくるだろうよ。捕らえたら、一目ぐらいは逢わせてやろう。冥府のみやげにな」
連姫の反論を期待していたとしたら、無影は失敗したことになる。彼女は、うすいくちびるをさらに堅くひきむすんで、面を袖でおおってしまったからだ。結いあげた髪に飾った釵《かんざし》のこまやかな黄金細工が、ちいさな影をつくってゆれたが、声はひとことも聞こえなかった。
無影は、今日のところはこれでひきさがることにした。彼女が否といおうが、だれがなんといおうが、上都の途次には連れていくことに決めていた。
家族、血縁、実の弟以上に思っていた淑夜まで切りすてた無影の、連姫は唯一の弱点だったのだ。それを十分に自覚しているだけに、まだ不安定な要素ののこる〈衛〉国内に、彼女を置いていくわけにはいかなかった。本来の目的が〈奎〉国との戦であろうと――それが、たとえこの〈坤〉の国という国、人という人を敵にまわした戦であっても、そばからかたときもはなすことはできない。そう、決心していた。
(淑夜には、わかるまい)
この血|塗《まみ》れの道をえらばざるをえなかった彼の心情も、淑夜に生命をねらわれたときの衝撃も。いや、連姫の思慕がおのれの上にあったことすら、あのおっとりとものしずかな学問の虫はさとっているまい。いまさら教えてやる気はもうとうないが、連姫を哀れだと思う心はのこっていた。人一倍美しくうまれついたのが、彼女の不幸だったのではないかとも、ちらと思った。思ったところでどうにかなるものでもなかったのだが。
無影の足音が消えるのを、連姫は細い背中で聞いていた。
泣いて死んでしまえるものなら、そうしていただろう。だが、無影がけっして死なせてくれぬことはわかっていた。無影に所望されていると聞いたときに、死んで拒否しようと思ったこともあるのだ。だが、そんなことをすれば、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》氏が第二、第三の耿家、国公の一族になるのは目に見えていた。
どれほど激しい戦や政争にあっても、一族がひとりのこらず抹殺されたという前例はない。ひとりだけでものこして血を繋いでおかなければ、その一族の祖霊が祟《たた》りをなすと考えられていたためだ。〈魁〉が〈世〉にとってかわった時でさえ、〈世〉王室の血をひく者がひとりだけ助命され、亡くなった者たちの祭祀を命じられている。それを、無影は容赦なく滅ぼし尽くしたのだ。助かったのは、不在だった耿淑夜ひとりというありさまに、ふるえあがった者は少なくない。
連姫は、無影を憎んでいたわけではない。おさななじみとして、好もしく思っていたこともある。だが、それは兄に対するような心情だった。おなじ一族の淑夜にいだく気持ちとは微妙にことなっていることを、早い時期から彼女は自覚していた。もっとも、淑夜の存在をもさほど強く意識していたわけではない。
三年もはなれていれば、記憶もうすらぎかけていた。だのに、耿家の悲報を聞き、淑夜がひそかに無影の命をねらって失敗したと聞いたとたん、胸が高鳴ったのだ。
(どうぞ、無事に逃げてくださいませ)
重傷を負って逃亡したという淑夜の身を案じて、幾夜、眠れない日々が続いただろう。そのさなかだった、耿無影が|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家にやってきて、連姫を要求したのは――。
淑夜に斬られたとおぼしきほほの傷は、無影の表情に奇妙な凄みを加えていた。淑夜にかけられた報奨の額といい、追及の仕方といい、その名どおりの熾烈なやり方に、連姫の叔父で|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の当主、利器《りき》は最初から抵抗する気力もなかった。
連姫の意思は、最初から無視された。いや、これがだれであったとしても、女の立場や好悪がわずかなりとも考慮されることは、まずなかっただろう。人気のすくなくなった国公の後宮に、いやおうなしに運びいれられたときから、連姫は心を開くまいと決心した。
無影は、連姫を正夫人とはしなかった。後宮にいれたのは、連姫ひとりであるにもかかわらず、である。政略結婚の必要ができたときのために、正夫人の座は空けておかねばならなかったからだ。
このまま、血にまみれた道をすすむのが無影の鉄の意思だというなら、彼のいいなりにはけっしてならぬというのが、連姫のたてた誓いだった。
(淑夜さま――)
顔だちの記憶も、うすれている。そのうえ、最後に逢ったのは三年も前だ。二十歳でむかえる加冠《かかん》の儀(成人)にはまだだが、十八歳ともなれば、少年のおもざしはすでに消えているだろう。ひとつ歳下の連姫が、すでに髪を結い上げ笄《こうがい》をさし、成人した女の魅力と落ち着きをそなえはじめているように。
(どちらにおられます。今、何を見ておられます)
ここから連れだしてほしい――それを伝える術もなく、そう望む資格すらすでになく、そもそも、淑夜が自分をどう思っているかさえわからない。それでも、そう願わずにはいられなかった。
窓からふきこんだ霧雨が、髪や肩を冷たく濡らしていく。
そうやって、連姫はいつまでも声をたてずに泣きつづけていた。
(二)
「淑夜どの、こちらでしたか」
背後から声をかけられて、淑夜はゆっくりとふりむいた。
戸口にたったまま、こちらを遠慮がちにうかがっているのは、この家の差配《さはい》(執事)の季《き》という老人だった。
「さがしましたぞ」
「仕事が早くおわったので、こちらへさがりましたが、なにか……?」
ていねいだが、堅い口調で答えをかえした、その膝の上から、はらりと巻子《かんす》がすべり落ちた。片脚を折り、もう一方は前へ投げ出した、士大夫としてはひどく無作法な姿だったが、こうやってすわる方が楽なのだから仕方がない。きちんと両の膝を折れないこともないのだが、その姿勢を長くたもっていることができないのだ。
全身におっていた傷のほとんどは口もふさがり、折れていた骨も日常に支障がないほどに癒えた。だが、巨鹿関前の谷底で赫羅旋に告げられたとおり、淑夜の左脚は完全にもとどおりにはならなかった。
さいわい――と、いうべきかどうか、士大夫の常服である深衣では裾が乱れて見苦しい姿勢も、庶民の衣服である上衣と袴《こ》であれば、さほどの不都合はない。巻子がころがるのをおさえ、そのまま床についた腕をささえにして、淑夜は季老人の方へ身体ごと、慎重にむきなおった。
手あてが早かったおかげか、ゆるやかに歩いている分にはほとんど問題はないのだが、力をいれようとすると激痛を感じる。痛みは日ごとに弱くなるが、かわりに力がはいらなくなっていく。おそらく、走ったりふんばったり、はげしい運動はほとんどできなくなるのだろう。覚悟はしていたが、本心からあきらめきるには淑夜はまだ若すぎた。
苦痛の色を彼の顔から読みとり、季老人はわずかに同情に似た表情をうかべたが、口調はまったく変えなかった。
「奥から、お呼びがかかっております」
「わかりました。すぐに、うかがいます」
丁重に礼をかえして、淑夜は巻子をていねいに巻きとりはじめた。
紙に書かれた書物は貴重品だった。文字はふつう、竹や木を細く割った簡に書く。材料はどこにでもあるし、書きまちがえたり不要になれば、表面をけずって何度でも書きなおせるからだ。欠点はひどくかさばるという点で、ちょっとした文書ですら両腕でかかえるほどになってしまう上に、重い。布に書くという方法もあるが、これもまた何枚もとなるとかなりの重さになるし、なにより文字をかくより衣服にする方が、用途としては重要である。
そこで工夫されたのが紙だったのだが、これは作るのに手間がかかるため、おそろしく高価なものになった。そもそも、文字を読み書きできるものが少ないし、そのあたりの木切れでこと足りるものを、大量に作る必要などない。そういうわけで、紙はとてつもなく高価な貴重品だったのだ。
その紙を長くつないで絹で裏うちした巻子本は、この屋敷のあるじから淑夜が借りうけているものだった。この屋敷には、こういった貴重な巻子本のほか、ふつうの竹簡を革ひもでつづった本も、文字どおり山ほどあった。昼間は、すわっていてもできるかるい仕事をこなし、空いた時間はこうやって文字を追うのが、怪我がほぼ癒えてからの淑夜の日課になっていた。
ようやくたちあがった淑夜を、季老人が待っていた。いくら広いといったところで、いまさら邸内で迷うようなこともないはずなのに、老人はさりげなく淑夜の仕草のひとつひとつまで観察しているようだった。――事実、彼は監視されていたのだ。
広い園林の中をうねるようにのびる回廊を、淑夜も無言ならば季老人も口をひきむすんだまま、ただ歩いていく。その足どりがおぼつかないのは、左脚をわずかにひきずるせいだろう。長いあいだ病臥していたためか以前にもまして細くなった肩に、枯れ葉が舞ってすべり落ちた。季節も移ったが、以前、この義京にいたころからくらべれば、淑夜の環境もはげしく変わった。今のところ、彼はこの屋敷の食客だった。
この家は商家で人の出入りが多いが、接客用の表の堂于と、奥との区別はきちんとつけられている。
淑夜がよばれたのは、奥とよばれる、あるじが家内の者に指図をくだしたり商売の報告を受けたりする、日常の居間だった。
「およびたてして、申しわけありませぬ。こちらからうかがおうと思ったのですけれど、手がはなせなくて……」
室の内から声をかけてきたのは、女だった。年齢のころなら二十歳をすこし出たほど、淑夜の姉ほどの年齢で、目もとがきついのが瑕《きず》だが、きりりとひきしまったまずまずの美女だった。
尤《ゆう》氏、名を暁華《ぎょうか》。
この邸――尤家の、当主である。
尤家は商家だが、各地の諸侯と直接に取引をし、〈魁〉の王宮の用命もうけたまわっている豪家である。淑夜も義京に遊学中の三年のあいだに、何度もその名を聞いたことがある。義京の城内を行きかう荷の三分の一は尤家のものだと教えられたこともあるし、この家がまえの付近をとおったこともある。だが、自分とは生涯無縁の家であり、世界であると思っていた。まして、その当主が婦人、しかもまだ歳若い女性だとは知っているはずもない。
――羅旋のまもる荷駄が尤家のものだとは、関をぬけるときの会話で知った。だが、義京へついてすぐ羅旋が、尤家の庫《くら》の方ではなく、女当主の住まいの方の一室へ、許しも乞わずに直接淑夜をはこびこみ、さらには、あるじの方をよびつけて彼の身柄を託したときにはおどろいた。
女あるじはといえば、すでに〈衛〉国内の異変を耳にしていたらしい。
「――そう。この人が、〈衛〉公が今血まなこになってさがしている刺客ですの。思っていたより、若い方ですわね」
さらりといって、眉ひとつうごかさない。
「とりあえずは、怪我がなおるまでかくまってやってくれるか」
淑夜をひろったいきさつをざっと説明して、羅旋はそうつけくわえた。
「それから、こいつのために、いくらか余分な金をつかったからな。賠償は、こいつに請求しろよ」
例によって、彼は冗談とも本気ともつかぬ口ぶりでそう告げた。
「くわしい額は、棄才に訊いてくれ」
「まったく、ご自分の借りも返さないうちから、他人の世話を焼きたがるんだから」
あきれたように、暁華は笑った。いわれて、めずらしく羅旋があわてる。
「おい、借金は今回の荷役で棒引きにしてくれる約束だぞ」
「あら、あたしは、考えてもいいといったんですよ」
「おまえ――」
どうやら、暁華の方が上手のようである。羅旋がかっと大声をはりあげる前にそ知らぬ顔で話を転じて、
「――それで、怪我をなおしたあとはほうりだしてよろしいの?」
あっさりと、いったものだ。
それが、いっこうに酷薄にも嫌味にもならなかったのは、いっそみごとといってよい。ほうりだすといわれた淑夜本人が、思わず苦笑したほどだ。
「それは、おまえの勝手だがな」
憮然となったままで、羅旋はぶっきらぼうに答えた。
「そいつは、五城の賞金首だぞ。つきだして、女領主になるのも一興だが。やってみるか」
「莫迦、おっしゃい。おまえさまじゃあるまいし」
女は動じたそぶりもない。
「あたしは商人ですよ。士大夫さまになってかしこまって、なにがおもしろいものですか。それに、五城ぐらいのはした金で、なぜ、血まなこにならなきゃいけないんですの」
「なら、しばらくはおいてやれ。それなりの役にたつんじゃないか。仮にも、説家《ぜいか》の弟子だ。文字にも数字にも明るいはずだ。治療代分ぐらいは、働けるだろうよ。それからほうりだしても、おそくはなかろう」
文字を読めるだけでも、りっぱに特殊な才能なのだ。自在に書けて数字もあやつれるとなれば、できない者からみれば神技にさえちかい。
「そういうことなら、お預かりしましょうか」
「そうか。おしつけられてくれるか。ありがたい、たすかった」
本人を目の前にして、遠慮もしなければことばをかざることもしない。利に聡く情にうごくことはないが、それなりに理はとおっていると淑夜も思った。
他人の好意にあまえる気は、淑夜にもない。無形の恩義を金銭や労働に換算してかえせというのだ。たしかにわかりやすく、納得もいく。気が楽な部分もある。だが、淑夜には、すくなからず抵抗のある考え方でもあった。
その不満、不安がまた、表情にでも出たのだろうか。出ていきかけた羅旋が、肩ごしにふりむいて、ひとことつけくわえた。
「ああ、そうだ、淑夜。その暁華は、なみの女ではないからな。覚悟しておけよ。なにしろ、十五の歳に、親のゆるさん男と、手に手をとって逃げだしたほどの悍馬だからな」
「羅旋」
切れあがった眼の隅で、私奔の前科のある婦人は男をかるくにらんだ。
結婚のいっさいは親がさだめる。家格やら占いやら、さまざまな要素を考慮にいれ繁雑な手間をかけるが、結局のところは親同士が仲介人をたてて話をまとめるのが当然で、当の本人がえりごのみをすることなど、ありえない。
あったとすれば、それは、あいだでたてるしかるべき知人も持たない下卑な人間か、礼にそむく不義者か、である。一度、そういった烙印がつけば、一生、まっとうな人間あつかいされない、というのが世間の――そして、淑夜の常識だった。
目の前の美女が、その不義者だと聞かされて、淑夜は思わず目をまるくした。
「なに、ほんとうのことだろうが。親父のところへふたりして逃げこんできたときには、とんでもない女だと思ったもんだ」
羅旋はこともなげにいってのける。
いわれた暁華も、負けてはいない。
「なにをいってるんです。おまえさまだって、そのころは、家にもよりつかず、のんだくれては悪処へいりびたっていた不孝者だったじゃありませんか。あたしは、お父さまから何度、ぐちを聞かされたことか」
「そんな、昔のことをもちだすな」
「あたしだって、昔のことですよ」
さらりとうけながしてかるく頸をふると、結いあげた髪にかざった金の簪《かんざし》が揺れた。
「なにをいってる。親父の口ききで、結局、晴れて夫婦になって家へもどっていったのが、たったの七年前じゃないか」
「その亭主がはかなくなって、もう、そろそろ五年になりますわ」
さばさばと明るい顔つきで、暁華は笑った。笑うと、さすがににおいたつようなあでやかさで、とてもではないが不義者だのなんのということばから連想されるような暗い翳《かげ》はみあたらない。
「この調子だ。とにかく、男まさりの大|姐御《あねご》だ。まあ、せいぜい、こきつかわれてやるんだな。――ああ、それから」
また、出ていきかけて、立ち止まった。
「怪我が癒えて外へ出られるようになったら、一度、俺のところへたずねてこい。居場所は暁華が知っている」
「あら、めずらしい。おまえさまがものをひろっておいて、そのあとの面倒まで見るなんて。どうしたんです?」
「なに、ちょっとした気まぐれだ」
「気まぐれはけっこうなのだけれど、ねえ」
そういってため息をついた暁華と、羅旋とのあいだに慎重な目くばせがかわされたのを、淑夜は見のがさなかった。秘密めかしたしぐさはしかし、男女のというよりも、むしろ共犯のあいだがらに近い印象があった。
そのまま、羅旋はどこやらへ姿を消した。おどろいたことに、壮棄才という、あの陰気な男もまた、羅旋についていなくなってしまった。羅旋はやとわれ者だが、棄才は尤家の使用人だと思いこんでいた淑夜は、またしても首をひねる羽目になった。
(彼らはいったい、なに者だ)
――ともかくも。
こうして淑夜は尤家の奥に室をあたえられて、養生することになったのだ。
むろん、季老人ら、家づきの使用人の住まいが集まる一角のせまいあき室にすぎない。淑夜はあくまで追われる身である。彼の身分は当主の暁華と差配の季老人、それに暁華が信頼する数人の侍女しか知らぬことで、ここにいるのは羅旋が物好きにもひろってきておしつけた貧乏書生、暁華がお情けでおいてやった雇い者ということになっていた。それでも、充分な食事と医薬とをあたえられて、三月ちかく。
回復ははやい方だったのだろうが、それでもじりじりするような想いで、この何箇月かを彼は病床ですごしてきた。
「――お身体の具合は、いかがです」
にこやかに、暁華は訊いてきた。
室の床は板張りで、その上に筵《えん》とよばれるうすい敷物をしき、さらに布を延べて座《ざ》とする。むろん、沓はぬいであがる。縁《へり》に絢布《あやぬの》をつけた筵に座し、膝の上には縫いかけの衣らしい布を載せていた。その両側には年配の侍女がふたりひかえて、女あるじの仕事をてつだっている。
女あるじもその侍女も、綾絹のあでやかな色の衣をなれたように身にまとい、玉や金銀の装身具をつけている。淑夜の生家も大国〈衛〉の卿大夫であり、庶民からみればぜいたくな暮らしをしていたはずだが、この暁華にくらべれば、とうていおよばない。
だが、暁華は、そのぜいたく、豪奢がすこしも嫌味にならずに、自然ににあう女でもあった。でなければ、おとなしそうに見えても自尊心のつよい淑夜が、だまってこの家にかくまわれているはずもなく、暁華と口をきくこともなかっただろう。
淑夜は暁華の前へ、左脚をかばいながら膝をそろえてすわり、一礼した。
「このとおり、もうすっかり」
「お顔の色はよろしいようね。そのぶんだと、外へおでましになりたくてうずうずなさっているのでしょうけれど」
「まだ、お許可《ゆるし》はいただけませぬか」
「まだ、いけません」
やさしい姉のような口調でいわれると、淑夜も弱い。
羅旋はああしておどしていったが、淑夜の見たところ、暁華はおっとりとしたふつうの女だった。淑夜には異母姉も何人かいたが、彼女たちとくらべても、暁華の日常の生活もふるまいには変わったところはない。一日、家の奥にいて縫い物やらなにやら、いそがしく手をうごかしている、ふつうの婦《おんな》である。
しいて変わったところをあげるとすれば、手仕事をしながら表の商売をとりしきる使用人たちと応対することぐらい。それも暁華自身が直接、物を売ったり買ったりすることはなく、取引の内容を聞いて承認をあたえるだけのことだった。起きられるようになってからの淑夜の仕事は、その取引を記録にとることだったから、その仕事ぶりも暁華の能力も、手にとるようにわかった。
たしかに、羅旋のことばはうそではなかった。男でも、こうてきぱきと物事を判断し、さばける者はすくないだろう。そのうえ、各地に散らばっている傭車からの報告というかたちで、中原の各国のうわさをおどろくほど正確に、またこまかく聞きだしていた。
この〈魁〉の王城の朝儀のもようから、はるか東方の〈胥《しょ》〉の市の物の値段まで、この義京の広大な屋敷の奥で、綾羅《りょうら》や綵《あや》や玉石《ぎょくせき》といったぜいたく品にかこまれながら、彼女はきちんと知っていた。
「お故国《くに》は、いまのところ平穏無事。あたらしい〈衛〉公は、いまだにあなたさまへの報奨をとりさげていないどころか、額をつりあげるかもしれないといううわさ。それにつられた者たちが、都をうろついていても、なんの不思議もない情勢ですわ。出あるくなんて、とんでもないこと」
「わかっています。その話は、何度もうかがいました」
〈衛〉の国には、おもだったうごきはない。無影は今のところ、国内をおさえこむことに成功している。
租税をひきさげ、改革を断行し、重臣たちの反対もたくみにおさえこんで、国内を安定させたと聞いている。混乱に乗じて攻めこんでこようとする他の諸侯のうごきも利用し、うかつに事をおこさせないよう、あやつっているとも聞かされた。むろん、そこまでやれるという自信と目算があったからこそ無影は、簒奪という暴挙に出たのだろう。しかし、
(――無影らしくない)
狷介だが、おのれにも他人にもきびしく、厳格なほどに正直な男だったはずだ。他人を信じることからはほど遠い男だったが、他人をあやつりきれると思うほどに傲岸でもなかったはずだと思う。故国の悲報を聞き、無影のとった手段を知ったときから、淑夜はいいようのない不安にもとりつかれていた。
思えば、なぜ無影が、一歩まちがえばおのれの身もあぶなくなるような手段で、おのが一族を滅ぼしてのけたのか、公位の簒奪をはかったのか、それすら淑夜にはわかっていないのだ。
淑夜の知らない三年のあいだに、なにがあったというのだろう。
「――しかし、それでは、私は一生、こちらから出られません。都には、たよりになる知人もおりますし、今後のこともあわせて相談に行ってこようと思うのですが」
「うちのことなら、気になさらなくともよろしいのですよ。たいそう、たすかっておりますもの」
「……もし、私が借財をふみたおして逃げるのだとお疑いならば、無理にでかけるのはひかえますが」
淑夜にすれば、せいいっぱいの皮肉のつもりだったが、これは通じなかった。
「あら、そのようなことは、思っておりませんわ。あなたさまが、あなたさまを信じている者を裏切るはずがありませんもの」
そう笑いながら、暁華は膝のうえの縫い物をもちかえた。
「でも、たしかに、一生かくれているわけにはいきませんわね。あたしも、むやみにおひきとめするつもりはありませんのよ。でも、まだ早い。もうすこし、せめてあとひと月待ってごらんなさいまし」
「ひと月たてば、出していただけますか」
「ええ。ひと月もたてば、会盟に集まられる諸侯方も、それぞれの封地にもどられるでしょうし」
「……会盟?」
「ええ。〈征〉公がいいだされて、会盟がとりおこなわれるそうですわ」
「まさか、無影が――!」
つい、腰がういた。
「ええ、新〈衛〉公として、上都してこられるそうです。当然、警戒もきびしくなります。ですから、会盟が終わり、みなさまがご帰国なさるまではこの邸から外にお出にならぬよう。それを申しあげようと思って、およびたていたしましたの」
きらりと、きれ長な眼の隅でいたずらっぽく淑夜の方を見たのは、すでに彼の胸のうちを読みとっていたからだろう。
「もしも、どうしてもおでましになりたいのならば――」
「なにか、方法がありますか」
「女にでも化けてごらんになりますかしら?」
「おんな――」
絶句して、みるみる不機嫌になった淑夜の顔を見て、侍女たちがくすくすと笑った。
「冗談は、ほどほどにしていただけませぬか」
「あら、お似合いですわよ、きっと。ねえ、おまえたち。まあ、絶対に承諾なさらぬだろうとは思っていましたけれど、残念ですわねえ」
冗談とも本気ともつかぬ口調でそういわれては、怒ってよいのやらうなずいてよいのやらわからず、淑夜は面を伏せる。それを見やりながら、暁華はなおもことばをつづけた。
「それとも、羅旋のところへおいでになるのならば、今からでも出してさしあげるのですけれど」
「羅旋……ですか?」
たしかに別れるときに、来いといわれたが、たずねていく気は淑夜にはなかった。かかわりあいにならない方が、彼のためにも自分のためにもよいと思ったのだ。たかが荷駄の用心棒の長ていどに、なにができるというのだ。
「一度、たずねていくべきではあるのですよ。なにを考えているかはわかりませんけれど、あの人が他人に興味をしめすなんて、ほんとうにめずらしいんですもの。けっして、悪いようにはなりませんから」
「……以前から、うかがおうと思っていたのですが」
気おくれがして、ついに今日まで訊くこともできずにきたのだが――。
「なんでしょうかしら」
「あの、羅旋とは、何者ですか」
「ひとことでいうなら、侠《きょう》ですわ」
游侠《ゆうきょう》ともよぶ。
これといってさだまった仕事をもたず、頼まれればなんでもやる。が、依頼が気にくわなければ、万の金を積まれてもがんとしてひきうけぬ。そのかわり、気にいれば無償で自分の命さえ賭ける――。
そういう男たちがいる、という話は、淑夜も聞いていた。だが、この尤家と同様、自分とは生涯無縁だと思っていた人種である。それが、あの男の正体だというのだ。
しかし、ほんとうにひとことでかたづけられては、話のつづけようがない。淑夜の困惑した顔つきを見て、微笑しながら暁華が助け舟をだした。
「侠者では、ご不満ですかしら?」
「いえ、そういうわけでは」
「庶《しもじも》ではね、困ったときには、金持ちの知己よりも、見ず知らずの侠者に頼れと申しますのよ」
「そうではなくて――」
いいかけて、淑夜は口ごもってしまった。他人のことを詮索するのは苦手だった。信用してもおらず、かかわるつもりもない人間のことをとやかく聞きただすような好奇心と厚顔さを彼はあいにくもちあわせていなかったのだ。
「あの人は、いつも東の城壁にちかい酒舗をねぐらにしています。無理にとは申しませんが、気がむいたらたずねておいでなさいまし。きっと力になってくれますから。でも、それ以外は、がまんなさいますよう」
「訪ねたいのは、私の古い知己なのですが、それでもいけませんか」
「たとえ親でも、今はお心をゆるされない方が無難です。今しばらくのご辛抱を」
そういう自分はどうなのだと、淑夜は腹の底で思う。暁華や季老人、尤家の人間が密告しないという保証がどこにあるのだ。彼らが淑夜をかばったところで、なにひとつ利益があるとは思えないのに。
もちろん、このふた月、こうやって手厚く保護をしてくれたことには感謝しているが、だからといってなにもかもいいなりになっていることはないはずだ。
そんな反抗心が顔色にでたような気がして、淑夜はあわててうつむいた。視線を膝におとした拍子に、ふところにいれてきたものを思い出した。
「忘れるところでした。これをお返しいたします」
巻子を膝の前にさしだすと、
「あら、もう見てしまわれましたの?」
「はい、貴重なものをありがとうございました」
「そんなものならば、いくらでもお見せいたしますわ。亡夫のもので、他に読む者もおりませんし、こんなものでもお役にたてばそれにこしたことはありませんもの。――でも、一度に全部、おぼえてしまわれるというのは、ほんとうにほんとうですの?」
「はい。なにほどのこともありません」
たずねられるのがいかにも不思議――といった顔つきで、淑夜はこたえた。かくすようなことではないと思っているから、以前に書物を借りうけるときにそう話したのだ。それに暁華がひどく興味を示してきたのが、不思議であり不審でもあったのだが。
「それで? ほかに見たいものはございますか? 我が家にないものなら、おとりよせいたします」
「おことばに甘えるようですが……」
書物には目がない淑夜は、手もなく誘惑にひっかかってしまった。もちろん、自覚はしているが、こんな機会を見逃すつもりも断る理由も、今のところみあたらなかったのだ。
「この者たちに、お申しつけくださいな。倉から出させましょうほどに」
両脇にひかえている侍女たちに、淑夜についていくよう命じる。彼女たちがたちあがるあいだに端正な一礼をして、淑夜は席を辞していった。その、すぐあと――。
「どうだ」
太い男の声が、暁華の背後の帳のさらにうしろからたちのぼったのだった。
「さあ、どうでしょうかしら」
と、暁華はかるく首をかしげる。
「どうもあぶなっかしいこと。あんなことで、仇討ちなどできるものかしら。血気にはやるばかりで、刺客の心がまえもないじゃありませんか。本気でやるなら女だろうが奴婢だろうが、身をやつす――そのものになってしまうぐらいの覚悟がなくては」
「そりゃ、あいつは刺客を商売にする気はないだろうからな」
のっそりとあらわれたのは、ついさっきまでの会話にのぼっていた羅旋、その人である。
「でも、おまえさまは刺客にしたてようと思って、ひろわれたのでしょう」
「だれへの? 耿無影に対する刺客か?」
「ちがいますの?」
「無影ひとりを殺したところで、かわる状況でもないさ。よけいに事態が悪くなるばかりだ。それに、剣をふりまわすのは無理だろう、脚がああではなあ」
「では、どうするおつもり?」
「…………」
にやにやと笑うばかりで、羅旋は答えない。暁華もまっとうな答えは最初から期待していなかったのだろう。
「それで……、なにかは知らないけれど、おまえさまの役にはたたないとわかったら、どうなさるの」
「見捨てる」
今度はなんのためらいもなく、あっさりといってのける男に、暁華は深いため息をついた。
「同情いたしますわ、淑夜さまに」
「俺はむしろ、おまえに気にいられていることの方が心配だが」
「あら、妬《や》いてくださるの」
「莫迦をいえ。――さて」
これまたひとことで斬ってすてて、羅旋はゆっくりとたちあがり、大きくひとつ伸びをした。虎かなにかを思わせるようなしなやかさと、おおらかさをそなえた仕草だった。
「そろそろ、行くか」
「どちらへ?」
「淑夜のたちまわり先に決まっている。今夜あたり、ぬけだすだろうからなあ」
「つまりは、あぶり出すおつもりだったのでしょう。あたしに、会盟のことを話せと命じたのは」
「命令なんぞ、したおぼえはないぞ。教えてやったらどうだといっただけだ。もっとも、おまえにひき止められたくらいで、あっさりひきさがる奴だとも、思わなかったがな」
獣のような顔つきで、皮肉っぽくにやりと破顔すると、大柄な身体に似合わぬ敏捷さで羅旋はするりと見えなくなった。
(三)
淑夜がたよりにしていたのは、この義京での学問の師、左丘泰《さきゅうたい》という人物だった。左丘《さきゅう》が姓で泰が名、通称を左夫子《さふうし》という。〈魁〉の王や王族の学問の師であり、儀式などの作法に精通している学者であり、賢者であり、国政の顧問もつとめる長老として、全国に名を知られていた。その門弟の数も、常時、数百人を超えている。その門弟の中でも、淑夜はあまり目立つ存在ではなかった。
学問の出来不出来の問題ではない。まだ、若いということもあるし、親の家にいたころと同様、だれかとあらそおうという意欲にとぼしかったのも理由のひとつだった。その気になれば、その記憶力だけで左夫子の直弟子にとりたてられることも可能だったろう。だが淑夜は、自分の才を吹聴するような真似はいっさいしなかった。
もっとも、学問に対する真摯な態度が評価され、左夫子には何度か声をかけられている。故国からの悲報をきいて、帰国を決意したときもじきじきに居室によばれ、餞別をおくられていた。
「親の仇を討つのも、主君の敵をたおすのも義にかなったこと。みごと、その本懐を遂げてもどったあかつきには、そなたの身がたてられるようはかってやろう」
淑夜をつきうごかしたのは、信じていた無影に裏切られたという熱い想いだけで、そのあとのことなど考えたこともない。だが、こうして失敗してもどってきてみれば、すがれるところは師のそのことばしかなかった。
むろん、追われる身であることは自覚している。直接、左夫子に会いにいけば、あとで師にどんなとがめがおよぶかもしれぬ。実際に淑夜がたずねていったのは、高弟の屈由基《くつゆうき》という者の邸宅だった。
百人からいる弟子を全員、左夫子が直接手とり足とり教えるわけにはいかない。由基のような高弟が、新来者を教えるしくみになっている。彼は、この〈魁〉の高官の息子で、少年のころから左夫子の弟子として名が高かった。そして、彼は淑夜の直接の師であり、友人でもあったのだ。今回の帰国に際しては、鉄剣を調達したり関をぬける牒を手配してくれたりと、力を貸してくれている。
「――よく、まあ、無事で」
かけこむように室へはいってきた由基は、淑夜の姿を見るなり絶句した。
裾のみじかい上衣に袴、髪は冠をかぶらず粗末な布でおおうだけ。ようやくまっとうな暮らしをしているていどの、どこにでもいそうな庶民の姿かたちである。庶民といいきるには少しばかり線が細いが、雑踏の中にまぎれこんでしまえば、目をくらませることもできるだろう。
「話は聞いている。失敗したそうだな」
「無念ですが、これも時の運です」
神妙に、淑夜は応えた。
「せっかくご助力いただいておきながら、申しわけのしようもありません」
手をついて、深く頭をさげようとしたが、腰が完全には曲がらなかった。
「怪我の具合はどうだ」
「ほとんどは癒えましたが、脚がもとへもどりません」
「もう、三月にもなるのにか」
いたましそうな表情をつくって、由基はひとり、うなずいた。
「おそらく、なおらぬだろうと」
「だれがいった」
「――たすけてくれた者が」
おや、と淑夜は思った。「だれが」と、由基が訊いてきたとき、わずかに身をのりだしたからだ。先に淑夜の怪我をたずねた時には、そんなことはなかった。うっかりすれば見すごしてしまいそうな相違だが、尤家をぬけだす前の暁華のさりげない示唆が、神経の上に薄皮のようにはりついていた。
「その者は、医か。きちんと医には診せたのか」
「いえ、名もない猟師ですから。が、経験からわかるのだそうです。実際、左脚はもう、思うようにはうごきません」
わざと、おおげさに告げた。
「そうか――。それはさぞ、つらかろうな」
太い眉根をよせて、青年はひとりうなずいたが。
「それで、これからどうするつもりだ」
「そのことで、お願いにあがりました」
ぴたりと両手を膝の前について、淑夜はいずまいをあらためた。
「〈征〉公の主導で会盟がおこなわれること、耿無影がそれに招かれていることを聞きました。めざす相手がむこうからやってくる、またとない機会です」
「また、やるつもりか!」
その声に、恐怖のひびきがまじったことを、淑夜はその耳ではっきりととらえた。
「何度でも、成功するまでやります」
「しかし――」
「耿無影は、みずからの一族をほろぼし、君主を弑した男です。同族を滅するは不孝、主を弑するは不義。ふたつながらの大罪をおかした男を国君にいただいている国も、それをみとめみのがしている〈魁〉の宗室も諸国も、また不義ということになります。これは夫子のお考えであると、大兄がお教えくださったことではありませんか」
「それはそうだが、しかし、耿無影はおまえの縁者でもあるのだぞ」
「だからこそ――」
「その手で殺すか」
「はい」
思いつめた眼を見て、由基は眉をひそめた。
「それで、わたしに助力せよと――」
「はい、申しわけありませぬが」
「ふむ――」
と、そのまま、なにか思いめぐらしているようだったが、やがて決断をくだすように目を伏せた。
「とにかく――、せっかく訪ねてきてくれたのだ。食事の用意をさせよう。くわしい話は、明日だ。わたしも、急にはよい方策を思いつかぬし、一晩、考えさせてくれ。そういえば、今までどこにかくれていたのだ。今夜の宿はあるのか」
「ございます」
「ここへ移ってきた方が、よいのではないか。おまえのためにも、その……先方のためにも」
「ご配慮はありがたいのですが」
淑夜は、なるべく自然に思えるように、だが無理にひきとめられるような隙をつくらないよう、慎重になった。
「いったん、でなおしてまいります。滞在先にも、無断で出てまいりましたから」
「泊まっていった方がいい。もう、日も暮れた」
「万が一ということがあります。こちらにご迷惑がかかりましては、一生の悔いになりますから」
「かまわぬ。夜道をそんなかっこうでいけば、盗賊とまちがわれるだけだ。今、食事も命じている。悪いことはいわぬ。せめて、今夜、一夜だけでも」
あまり固辞しても、かえって敵意を刺激する。淑夜は、折れた。
別間に用意された食事をとり、そのままおなじ室に夜具をのべる。そのあいだ、下僕ひとりが顔をみせただけで、この屋敷の者はことりとも音をたてない。由基の妻子もいるし、使用人の数だけでも十人や二十人ではきかない家柄のはずである。
不審のうらづけは、それで充分だった。
――夜半にはまだ間があったが、淑夜はそろそろと夜具をぬけだした。おそらく、表の門は閉ざされ監視されているはずだ。だからといって、裏へまわるのも危険だ。表がだめなら裏――というのは、だれでも考える。
外は、とっぷりと暮れていた。あと数刻もすれば二十日過ぎの月がのぼってくるはずだが、今はまだおぼろな星明かりの中だ。
表門は、やはり閉じられていた。下働きらしい男が数人、門の内側にたむろしている。淑夜には見おぼえのない顔ばかりだが、どうせごまかしはきくまい。となったら、門でも扉でもないところから出るしかないが、九尺(約二メートル)の土壁は、たやすく越えられるものではない。
土をつきかためた塁のような壁だから、垂直ではないが傾斜はきびしい。脚がこうなる以前なら、なんとかよじのぼれたかもしれないが、今は無理だ。
ためらっているうちに、あとにしてきた室の方から人のたち騒ぐ声がきこえてきた。
「いたか」
「いや、そっちは」
「門をしらべろ。どうせあの身体だ、遠くへは行けるまい。さがしだした者には、褒美をやるぞ」
まちがいなく、由基の声だった。
(やはり――)
またしても裏切られたわけだ。腹の底の方が、ずんとつめたくなる感覚はおぼえたが、しかし淑夜は、自分でも意外なぐらいに冷静だった。もしや――という予感があったおかげだろう。無影に裏切られたと知ったときの灼けつくような痛みからくらべれば、ものの数ではない。
それよりも、生きてここから逃れることの方が先決だ。予想はしたものの、まさかそんなことはあるまいとたかをくくってしまった自分の甘さが悔やまれた。
「そっちに、だれかいるか」
「さがせ」
声は、だんだんと近づいてくる。壁の前で、なすすべもなくたちすくんでいると――。
「――いた!」
大声が飛んだ。
「いたぞ、賞金首だ!」
耳をおおいたくなるような、あさましいせりふだったが、いっそ自分の欲に正直な分、由基の良い子づらよりもましかもしれない。――皮肉っぽく思いながら、淑夜は背を土壁へともたせかけた。
逃げようにも走れない。壁で身体を支えながらにじるようにして、声と追っ手から離れようとしたが、すぐに燭の光の輪が何本分もかさなって、淑夜の姿をうきあがらせた。
「観念しろ、耿淑夜」
遠巻きにした男たちのうしろから、ゆっくりとあらわれたのは屈由基。
その姿を見た瞬間、さすがに頭にかっと血がのぼった。だが、次の瞬間には、熱はさめていた。ここで抵抗しても、無駄なことは目に見えている。まさか、殺されることはあるまい。報奨の額は生死にかかわらずということだし、屈由基ならば自分の手をよごすようなことは避けるだろう。となれば、〈衛〉に送られるあいだに、逃亡する隙を見つけられるかもしれない。いや、なんとしてでも見つけなければ。
そのためには、ここで無益な怪我をするわけにはいかなかった。
壁に身体をもたせかけたまま、身がまえもしない淑夜をとりかこんで、男たちはじりじりと近よってくる。十人ぐらいが、手に手に棒だの刀だのをかまえて、半怪我人の淑夜ににじりよってくるのがいかにも大仰だった。
「なにがおかしい」
由基に訊かれてようやく、自分が皮肉っぽい微笑をうかべていたことに気づいた。
「私があなたの立場だったら、どうしたろうと考えていたんです」
皮肉をいったつもりはなかった。心底、どうしただろうと考えていたのだ。だが、
「だ、だまれ!」
由基は、顔をまっ赤にして叫んだ。
「訊かれたから、話したんです。だまれというぐらいなら、はじめから訊かなければよい」
この期におよんで、なにをいっているのだろうと自分でもおかしくなった。その苦笑が、相手をさらに激高させた。
「かまわん、打ちすえて捕らえろ!」
その声をはずみにして、わっとおしよせようとした、そのとき――。
音と光が、目の前で炸裂したのだ。
視界が白熱し、わずかにおくれてずしんと腹のあたりに衝撃がきた。淑夜は土壁で身体をささえた。目の前を人が、一丈(約二メートル強)ほどもふっとんでいった。
「な、なにごとだ!」
「火だ! 火事だぞっ!」
屋敷の裏手で叫ぶ声と同時に、暗い天へむかって火柱がたちのぼった。
「か、雷……?」
「莫迦な。秋に落雷なんぞ、あるはずが――」
といったところで、現に見えるものがなくなるわけではない。
どんな広壮な屋敷でも、基本的には木と土でできているから、火には弱い。雷の火柱は瞬時に消えたが、屋根に炎がうつったらしい。闇にもどったこの一角とは対照的に、そのあたりの空だけがおぼろに赤い。
「風がある。ひろがるぞ」
「早く、消せ!」
口々にののしりながら、半数が駆けだした。のこったのは、由基をふくめて五人。中のひとりが、早く捕らえてしまおうと、ぐいと腕をのばしてきた。その腕が――。
べつの腕にとらえられ、かるくひねられ、ごきりとにぶい音をたてたのだ。
獣のような、ぎゃっという悲鳴があがったときには、ふたり目の男のみぞおちに拳《こぶし》がたたきこまれている。うごくものの影がようやく判別できるほどの、暗さである。その闇にもかかわらず、乱入者は自在にうごけるようだった。ぬっとたちふさがった長身の人影に、ようやく三人目の男が反応した。屈由基だった。
由基は高官の子弟だが、もともと力自慢の武人でもある。それが、おうと大音声をあげて、手にしていた棒でうってかかったのを、相手はひょいとかわす。
かわしながら、人影は四人目の襟首をつかんでひきまわし、五人目に正面からぶつける。そうして攻撃を封じておいてから、ふたたび襲ってきた由基の棒を、片腕をかざして受けた。
瞬間、眸がぎらりと底びかりするのが、淑夜の位置からはっきりと見えた。
(夜光眼――!)
棒は二の腕でびしりと音をたて、跳ねかえされた。骨さえ折れかねない衝撃に、棒を持つ手の方がしびれた。それをみすましたように、影は棒を持つ手もとにするりとふみこんだ。
からりと乾いた音をたてて、棒が地に落ちる。それを、足の先でぽんと跳ね上げる。棒は、まるで糸でもついているように、すっぽりと人影の手の中におさまった。
武器を手にした影に、三人がかりで撲ちかかったが、まったく相手にならなかった。肩、腰、膝と、それぞれしたたかに撲ちすえられて、まず、由基、つづいてその家人たちと、三人が地にころがるまでに、たいした時間はかからなかった。
地表から、なさけないうめき声がたちのぼる。闇のわだかまる地表にころがった、かつての同門の師であり兄弟子であった人物の顔を、淑夜は苦い思いですかし見た。それから、ゆっくりと顔をあげ、
「礼をいいます、羅旋」
うす闇の中にうかびあがる光る双眸は、他の人間ではありえない。
「でも、なぜ、ここに?」
「暁華だよ」
両手をかるくうちあわせながら、羅旋はかるく応えた。
「あいつときたら、淑夜さまにはまだ、お貸ししたものを全部返してはいただいていない。なにかあったらこまるから、見てこいといいやがった。まったく、あいつもおまえも、手間をかけやがる」
「申しわけありません」
「あやまるのも、礼をいうのも、まだ早いぞ。ここから逃げだせなけりゃ、意味はない。そら、ここに乗れ」
自分の肩をたたきながら、羅旋は壁際でかがむ。
「……どう、するんですか」
「踏み台になってやろうというんだ。手ぐらい、のばせばとどくだろう。早くしろ。あの火事は、すぐに消えるぞ。まやかしだからな」
「まやかし……?」
ためらっている暇はなかった。
土をつきかためた壁は、上部にもかなりの厚みをもっている。手はとどいても、手がかりになるようなものがなく、身体をひきあげるまでにかなりの苦労を強いられた。はうようにして登りおおせたのは、下から羅旋が押しあげてくれたからだ。
「羅旋!」
つづいて彼をひきあげようとふりかえったところに、もう彼の顔があった。がっしりとした体躯ににあわず、猴《さる》のような身がるさである。彼は、淑夜に肩をならべるなり、
「いつまで、こんなところにいる。さっさと降りないか」
淑夜の背を突いた。抗議の声をあげるひまもない。突かれたはずみに足をすべらし、背から落ちたからまだいいようなものの、下手をすれば頭からころがりおちるところだった。
地にたたきつけられて、息がつまるかと思った。二度三度ところがって、土まみれになりながらも上体を起こしたところは、夜の街路である。つづいて、羅旋がすべり降りてくる音が聞こえ……。
「こら、どこに目をつけておる。わしの上に落ちてくるとは、いい度胸じゃな!」
わめきたてる声があがったのである。
「まさか、わざとじゃあるまいな」
「わざとだったら、どうする?」
怒鳴りかえしたのは、羅旋の声。対する声は老人の声らしくしわがれているが、それにしてはいやに威勢がいい。
「そのときは、わしの雷火をもう一発、おまえさんの上にお見舞いするまでよ。どうじゃ、なかなか役にたったろう」
「派手すぎる。見ろ、近隣の家までたたきおこしちまったじゃないか」
「おまえさん、火をかけろといったが、しずかにやれとはいわなかったではないか。わしはわしの判断でやったまでじゃ」
「判断がきいてあきれる。この……」
「頭領――」
あわや、殴りかかろうかという気配のさなかに、またひとつ、声が降りてきたのだ。
「おう、野狗《やく》か」
「へい」
「仕事は、すんだか」
「へい、おかげさまで」
「今夜は、大繁盛のようだな」
「ほほう、盗賊稼業の繁盛とは、まことにもってぶっそうな」
(盗賊――?)
人の気配が羅旋の前でわだかまるのを、淑夜は感じた。わずかな星あかりの下である。淑夜には、うごめくものがかろうじて判別できる程度だが、羅旋は例によってはっきり見えているのだろう。しかし、他の声たちは――老人の声も、あとからわってはいってきた野狗という声も、らくらくと羅旋の姿をとらえ、闇の中で行動しているようだ。
またしても、淑夜の胸の内に、彼らの正体への疑問がわきあがる。
(こいつら、人間なのか)
一方、羅旋たちはそんなことにおかまいなしだ。
「先生、盗賊だなんて、人聞きのわるいことをいわねえでくださいよ」
「おや、ちがうのかな」
野狗とよばれた声は、ちいさく舌うちして、いい争いをうちきった。
「頭領、こんなところでくっちゃべっていていいんですかい。追っ手が邸の内から出てきますぜ」
「おっと、忘れるところだった」
たしかに、複数の足音と人の声が、近づいてくる。いつまでも続くと思われた応酬は、羅旋が鳴らしたらしい鋭い指笛で中断された。その余韻が消えるか消えぬかのうちに、馬蹄の音がこの場にかけこんでくる。
足音はどうやら、二頭ほど。淑夜は反射的に、羅旋が傭車の列に加えていた追風、超光という名の馬たちを思いだした。
「どう――」
と、馬をなだめる声が聞こえる。蹄の音が乱れたところをみると、うまく口をとらえたのだろう。
「おい、淑夜」
「は、はい」
よばれて返事をしたのも、反射である。
「馬にはのれるか」
「いえ……」
士大夫は、どこへでかけるにも車をつかう。車を引く馬の御し方は知っていても、直接乗る方法は知らないし、乗ったこともない。
「まったく、手間のかかる奴だ」
いうのと同時に、羅旋の長身の影が馬の背の上へはねあがった。がっちりとした体格と間のびした口調からは、ちょっと連想しにくいほどの機敏さである。
「そら」
すぐ目の前にのばされてきた太い腕に、とっさにつかまる。次の瞬間、淑夜の身体はかるがると馬の上に引き上げられていた。ただし、鞍の前輪のところへうつぶせに、まるで荷袋のように乗せられたのだ。
今度も文句をいう余裕はなかった。
「待たんかい。わしはおいてけぼりか」
老人の声が、下から抗議した。
「野狗、五叟《ごそう》先生を超光に乗せてさしあげろ」
「へい」
かろやかな声と、どこが痛いのかゆいのと文句をつける声とがかさなって、ちょっとしたさわぎになった。本来、人声の起きるはずのない夜道である。
「あそこだ!」
たちまち、追っ手に見とがめられることになった。それをうちはらうように、羅旋の声がするどくひびく。
「行け、追風!」
耳のすぐそばで、びゅうと風がうなりをたてるのを、淑夜は聞いた。たくましい馬のかたちをとった疾風にはねとばされた男たちの悲鳴は、一瞬のち、後方に消えた。
「歯をしっかりくいしばっていろ。舌をかむぞ」
と、いう忠告は、わずかばかり遅かった。はげしい振動に必死で耐えながら、淑夜は夜の中を運ばれていったのだった。
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第三章――――――――風雲急
(一)
顔の半面にあたるつめたい空気で、はっきりと目が醒めた。
しらじらと夜の底が明けそめ、物のかたちもおぼろげに見えはじめている。炉に燃えさかっていた火が燠《おき》になり、ほそい煙をひとすじ、あげていた。
あたりは、奇妙なほどにしんとしずまりかえっている。
淑夜は頭をかるく振って、ゆるやかに上体を起こした。身体をうごかすと、がさがさと音をたててわら屑がなだれ落ちてきた。
(ここは――)
なぜこんなところで寝ていたのか、すぐには記憶がもどらなかった。三月前の記憶と微妙にかさなって、悪い夢を見ていたせいだろう。頭の芯がぐらぐらと痛んだが、身体の疲れはきれいにとれていた。
(そうか、ゆうべ、屈由基の邸をたずねて、とらえられかけて)
うまれてはじめて乗った――というより、乗せられた馬の、あまりにもはげしい上下動のために、ここに着いたときはくたくたになっていた。
羅旋に、なかばひきずられるようにして馬の背から降りたところまではおぼえているが、あとの記憶がひどく曖昧だ。
かろうじてかき集められる印象はといえば、小屋の土間に直接燃やされた炎と、一方の隅にいた数人の人相の悪い男たちだ。
どうやら輪になって博打をしているようだったが、羅旋たちがはいっていくとなにやら野卑な歓声をあげた。
声は、淑夜にではなく、その背後になげかけられていた。淑夜につづいてはいってきたのは、ひどく小柄な男と、痩せた老人だった。老人といっても、動作はなめらかで危ういところはひとつもない。七十歳か八十か、それとも九十を越えているのかけんとうもつかないがとにかくそうとうな高齢らしいのに、眼だけが、まるで悪童のように輝いている。こちらが、五叟《ごそう》先生とよばれた方だろう。
では、野狗《やく》といった盗賊の方はというと、これがひどい小男だった。その上、頭の頂点がたいらなうえにあごが張っており、真四角にみえるという異相である。
「よう、野狗の兄哥《あにき》。首尾は?」
賭博の連中から訊かれて、野狗はまず顔いっぱいで笑って応じた。笑うと、奇妙に邪気のない、愛嬌のある顔つきになった。
が、そのきたない衣服のふところから、彼がとりだして土間へころがしたものを見て、淑夜は息をのんでしまった。
拳ふたつ分ほどの大きさのそれは、翡翠を彫り抜いた香炉だったのだ。屈由基の家につたわる宝物で、警戒の厳重な倉にしまってあったはずだ。それを、どさくさまぎれとはいえ、いとも簡単に盗みとってしまうとは、ただ者ではない。
わっと歓声でむかえられて、野狗はそのま賭博の輪の中にはいる。淑夜は羅旋の肩にささえられ、火のそばにはこばれた。五叟老人もその向かい側にしゃがみこむ。口に粗末な木椀があてがわれ、水が流しこまれたこともおぼえている。澄んだ水だったが、舌先に刺すような感覚があった。
「いわんこっちゃない。病みあがりのくせに、無謀なことをするからだ」
ことばとはうらはらに、妙にあたたかい口調で羅旋がいい、五叟老人が顔をしわだらけにして笑った――。
はっきりとおぼえているのは、そのあたりまでである。あとは、もうろうとした霧か靄《もや》の中にかくされてしまい、悪夢になだれこみ、そして今朝《けさ》の目ざめにつづいたというわけだ。
人いきれと粗製の濁酒のにおいでむせかえっていた小屋の中は、今はがらんとして、人気も男たちの影もかたちもない。ただ、賭博につかう五角の賽《さい》がころがっていたり、土間に素焼きの碗の破片が散乱していたりと、人がいた痕跡があってやっと、昨夜の情景が夢ではなかったと自信がもてた。
(ここは、どこだ?)
衣のひだに、はいりこんだこまかなわら屑を、ぱたぱたとふるってはたき落とした。わら屑もさることながら、ゆうべのさわぎのために粗末な衣服は泥だらけ土だらけで、みじめな格好である。
思わずため息をつきながら、外からたてかけてあるだけの戸を、かかえあげるようにして開けると、ひやりとした朝の空気が、疲れた身体をおしつつんだ。
目の前に、城壁があった。
義京城の、外郭の城壁だろう。日没と同時に城門はとざされる規則は、どこも変わりがないはずだ。とすると、ここはすくなくとも、まだ義京の内部なのだろう。
あたりは、茶色く枯れかけた丈たかい草が生い茂る野原で、そのあいだに点々と粗末な屋根がみえかくれしていた。屋根は見えるが、声がとどくほどには近くない。閑散とした情景である。
城壁の上には、色の褪《あ》せた旗が一定の間隔をとって立てられている。その旗の下には、ひとりずつ当直の兵が立っているはずだ。旗の列を目でおっていって、城門の上の楼にいきあたった。白みかけた空を背景にしているところからみて、これは東の門だろう。
(東の城門ちかくの酒舗をねぐらに――)
暁華のことばを、やっと思いだした。この小屋は、東門を出はいりする者を相手に酒を売る舗なのだろう。そういえば、昨夜の博打の輪の中には、革甲をつけた男が数人いた。城門をまもる衛士が、任務をぬけだして来ていたものらしい。
冷気が皮膚全体をかたくおしつつみ、徐々に頭の中身を明晰に整理しはじめる。
(屈由基、羅旋、野狗、そして五叟とよばれた老人。聞いたことがあるような気がする。あの雷火と――、五叟先生?)
いったんは思いつめたように鉛色の天をあおいだが、すぐに息をほうと吐いて、淑夜は首をふりながらいった。
「人の困った顔が、そんなにおもしろいですか、先生」
がさりと茶色い草をわけて、ぬうっと顔だけをだしたのは、昨夜の老人だった。
「なんで、わかったな。人の気配を読むほどさとい奴だとは、ゆうべはとても見えなんだがの」
「息ですよ」
そういってもう一度、息を大気の中へおくりだす。朝の冷気の中で、雲のように白く濁る。それを見て、老人はがしがしと白髪頭をかきむしった。
「ほい、気づかんかったわい」
「うそをついていただかなくとも、けっこうですよ」
「うそじゃないわい。まあ、よいか。よく眠れたか」
「昨夜の水に、なにか入れてありましたね」
老人は否定しない。
「なぜ、わかったな」
「前にも一度、羅旋に思いきり苦い薬水をのまされました。彼が薬草にくわしいのも、見てきています。そのうえに、あなたがおいでだ。人ひとり、眠らせるぐらい、手もないはずでしょう、五叟先生」
「そういうところをみると、わしの正体に気づいたな」
淑夜は、すこし笑ってうなずいた。
「思いだしました」
「どう、思いだした」
「五叟先生。名を莫窮奇《ばくきゅうき》というが、これは本名かどうかは不明。生地、年齢ともに不詳。諸学につうじ仙術をおさめ、未来を予知し、風をよび雨を自在にし天変地異までをあやつり、不老長生の法すら会得しているといわれるも、その在《あ》るところは一処にとどまらず、姿も一定ならず。三度獄に下され、三度煙のように消え失せる。五人の古老を集めたほどの知恵者との意で、五叟先生と自称する。私が聞いたのは、こんなところですが」
「ふむ。多少、誇張はあるが、ほぼ正しいな」
「どのあたりが、誇張でしょうか」
「姿形を変える法は、まだ会得しとらん。不老長生の法は、なんとかものにしたがな」
しらりとした顔つきで小柄な胸をはったが、淑夜がふっとふきだしたので、五叟先生はたちまち機嫌がわるくなった。
「なにがおかしい。この嘴《くちばし》の黄色いひよっ子めが」
「長生はとにかくとして、不老の方は失敗なさったようですね」
「――顔ににあわず、きついことをいう奴じゃ」
それでも、どこが気にいったのかくつくつと機嫌よく笑った。そして、
「おまえさん、なかなかおもしろい奴じゃな」
あらためて、口にした。
「昨夜は、おいつめられておたおたするばかりの柔弱者じゃ、こんな奴を助けて、羅旋の奴めもどうするつもりじゃと思ったがの。なかなか、頭も口もまわるではないか。だいたい、わしをこわがらんとは、いい根性じゃ」
淑夜は、無言のまま笑った。
この老人に関して、先ほど淑夜が口にしたのはほんの一部のうわさなのである。いわく、禍《まが》つ神をあやつり人の生死すら自在にする、左道《さどう》の妖人である――。
もともと、神意をうらなう巫《みこ》は、士大夫階級に属していた。王家や諸公、またおもだった氏族にはそれぞれの祖神がおり、それを祠《まつ》り託宣をくだし、人とのなかだちをするのが彼らの役割だった。むろん、それは士大夫の館の奥でとりおこなわれる儀式であり、庶民には無縁の存在だったのだ。
だが、何度か戦乱をくりかえすうちに、祭祠する氏族をうしなった巫が民間にまぎれ、市井で口をやしなうために明日の天候や、種蒔きの時期や卑俗なものをうらなうようになった。さらに身をもちくずした連中が、金銭で人を呪殺するようなことまで請け負うようになった。
その術のすべてが左道――邪《よこしま》なものでは、かならずしもないのだが、ことによっては衆をまどわし政を混乱させる遠因ともなる。支配する側が、邪悪なものといちようにきめつけて糾弾したのも、無理からぬことではあったのだ。
「左丘泰《さきゅうたい》の弟子のくせにわしを小莫迦にせんのは、みあげたものじゃ」
と、老人がいうとおり、左夫子を筆頭とする礼学の学者たちが特に、仙道や巫道の徒に対してきびしく、ほとんど侮蔑といってよい態度をとってはばからない。礼学は士大夫と密着して発展してきた学問であるから、それも当然といえば当然のこと。
淑夜も、孫弟子とはいえ礼学を学んだ人間であり、本来ならば五叟先生のような手合いとは口をきくのも避けるべきとされてきた。だが、だからといって、昨夜、生命をすくってもらった相手に対して掌をかえして冷淡にあたるわけにもいかないではないか――というのが、淑夜の内心のいいわけだった。
それに、淑夜の見るところ、この老人は、得体のしれないところはあっても、そう心底から悪い人間とは思えなかった。
「それで、その左道の五叟先生が、私を何故たすけてくださったのです」
「なに、退屈しのぎに久々に義京に出てきたところを、羅旋めにつかまって、むりやり手つだわされただけじゃよ」
「羅旋とは、長いつきあいですか」
「ふむ、長いといえば長いかの」
「彼は、その……何者ですか。侠《きょう》の徒とは、聞いていますが」
「尤《ゆう》家の暁華《ぎょうか》か、そういうたのは」
「それ以上は、訊きにくくて――」
男女の仲ではなさそうなのだが、それでも羅旋と暁華のあいだにはなにやらいわくがありすぎるようだった。そのいわくの部分に踏みこむようなことを暁華にたずねる勇気は、どうしてもでなかった。だが、この老人になら、多少ぶしつけなことをたずねても、答えてもらえそうな気がした。はたして、
「おまえさん、戎華《じゅうか》将軍という者を知っておるか」
戎とは文字どおり、西方の騎馬の民のこと、華とは中原の異称である。
「たしか……、戎族出身の〈魁〉の将軍でしたか。戦の名手とよばれた方ですね。先年、病で亡くなったはずですが」
淑夜が遊学のために義京へ来る、少し前のことと聞いている。
「赫羅旋《かくらせん》は、その戎華将軍・赫延射《かくえんや》の息子じゃよ」
「やはり……」
つぶやきは、ただ者ではないとは思っていたが、という感慨をともなっていた。
「では、彼は〈魁〉の武人ですか」
れっきとした将軍の子が、親の職も継がずに遊びほうけているとは考えにくい。なにかの事情があって、こんな場所に潜伏しているのかと思ったのだ。だが、五叟先生はあっさりと首をふった。
「ただの侠じゃよ。親のあとは継がなんだ。継げなんだといった方がいいかな。将軍が死んだときの事情に、ちいとばかり難があってな」
思わせぶりないい方をして、それ以上はいわないところが、なんともずるい。
「本人も十幾つまで西で育っているからかの、あの気性では宮仕えにはむかぬしの。西にもどろうにも、父祖の地は別の部族に奪われてしまっておるし、行き場をなくして、こんなところでうろついているというわけじゃ。あの腕っぷしに加えて、外見に似合わず面倒見がよいせいか、いつのまにかこのあたりの無頼どもを手なずけてしまいおってなあ。今、奴がひとこと声をかければ、命知らずが百や二百は簡単に集まる。まったく、物好きにもほどがある」
「だれが物好きだと?」
不意に、背中からの声に淑夜は文字どおりとびあがった。五叟先生はといえば、予期していたような顔でふりむいて、
「おお、おそかったの。わしは腹が減って、目がまわりそうじゃ」
「なんで、あんたの朝めしを俺がつくらなきゃならん」
口調は険悪だが、むっつりと上から見おろすその眼が、いたずらっぽい翠色に躍っている。
「わしに作れというのかのう」
「俺がつくるより、あんたの方がうまかろう。ほれ、材料だ」
と、手に下げてきた布袋をほうりだす。中から、鳥の羽毛がふわりとあおられてとびだした。
「たしかに、おまえさんにまかせると生焼けの肉を丸呑みさせられるな。しかたがない。まったく、年寄りをこきつかいおってからに」
文句をならべながらも、袋をひろって小屋の中へともどっていった。どんな火を起こしたものか、すぐさま煙がもれ出て、明けきっていない鈍色《にびいろ》の空へとたちのぼっていく。
その煙を目で追いながら、淑夜はつぶやいた。
「――なにを、たくらんでいるんですか」
「なにをとは、なんだ?」
「とぼけてもだめです。私をたすけ、尤家にあずけ、夜盗の真似までして屈由基の邸から救いだしたのは、私が利用できると思ったからでしょう」
「ふむ――」
羅旋は天をあおいだまま、馬のように鼻を鳴らしただけだ。
「暁華どのが申されていました」
「なんだって?」
「商売とは、安値に買って高値に売る。羅旋はなかなかの商売上手で、時おりとんでもない安物をひろってくる。当初はあきれるが、後にかならず値上がりする、と。私はどうやら、その、妙なひろい物のひとつらしい。まちがっていますか」
「いや、おおせのとおりだ」
あっさりと、羅旋は認めた。
「ただ、ひろわれた方は、まだ自分の利用価値がわかっていない。報奨めあてでは、もちろん、ないでしょう。刺客に使う――はずもない。あなたが今から無影を殺しても、なんの益もないのだから。益のある者に私を売る気配もない。としたら、なにに使われるのか、訊きたくなるのは当然ではありませんか」
「人情としては、な。だが、訊いて、納得するか?」
「内容によります」
「――つまりは、世の中をひっくりかえしてみたいのさ」
「…………」
かまえることもなくさらりと、あまりにもあっさりといわれ、淑夜はしばらくのあいだ、それが自分の質問への回答だとはわからなかった。ようやくそうと了解はしたものの、今度は意味がよくわからない。
「この国は、息がつまりそうだ。たいくつで窮屈で。だから風穴をあけてみたい。それだけだ」
「ふたり目の無影にでもなるつもりですか」
淑夜は、われ知らず警戒の色をうかべた。
「結果的に、そうなるかもしれん。どうなるか、俺にもわからん。だが、この国がこのまま放っておくと、ぐずぐずに腐っていくことだけはたしかだ」
「無影とおなじことをいう――」
「おまえの堂兄のことなど知らん。だが、おなじだとしたら、奴もこの世の中にはあきあきしているんだろうさ。変わってもいいころあいだと――できれば、おのれの手で変えてやろうと思ったんだろう。俺には、よくわかる」
――この世を、変えるべきだ。
それは三年前の春、爛漫《らんまん》の李《すもも》の花弁をあびながら聞いた無影のことばだった。
しかし、このふたりのあいだに天と地ほどのへだたりがある。そう、淑夜は理屈ではなく、感覚でそううけとった。
ひややかな秋の早朝、ほかに人影もない荒涼とした枯れ野にたたずんで、風を思わせる漢から聞くと、身体の内をも風がふきぬけていくような気がした。
清涼な――とはいわない。
熱い風だった。野望のにおいがした。だが、けっして不愉快ではなかった。
「だが、新しい世の中が耿無影の望むかたちになるかどうかは、またべつの問題だ。いや、思うようにはさせてやるまい。邪魔をしてやろうと思っている」
「なぜ……?」
「おもしろそうだからな」
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
きっぱりいいきって、ようやく彼は淑夜の方を見た。風雨にさらされ粗くけずりだされた容貌の中の、両眼の奥が光をもち、それが緑色にすきとおるのを、淑夜は見た。
「どうだ。俺といっしょに来る気はないか」
「なにをすれば、いいんです」
「謀士《ぼうし》がほしい。俺の要求するまま計画をたて、実行できる奴がほしい。暁華が、おまえならできると保証してよこした」
「私の見たところ、そういう才は、すでにいるようですが」
「棄才のことか。奴に不満はないが、ひとりでは荷がかちすぎる。今までのように、城邑内の喧嘩沙汰じゃない。頭数だけにしても千やそこらでは話にならんし、その連中を使いこなすのには、頭がひとつでは足りん」
「つまり、それだけの人数を集めてなにかをやる、さしせまった目算があるわけですね。そして、そのために、私を尤家にあずけて、試していた」
「そう、むくれるな。役たたずをたすける義理はない。かわりといってはなんだが――、おまえの仇討ちとやらの手だすけぐらいは、してやれると思うぞ」
「あなたが、無影を殺してくれるとでも」
「復仇にも、いろんな方法があるだろう。要するに、そいつが、おまえの親兄弟をあやめたことを悔いるような事態に追いこめればいいわけだ」
「…………」
「不服、を絵に描いたようなつらだな。手ぬるいとでも、いいたいか」
「私の気持ちが、あなたにわかるとは思いませんが」
「推測はできるさ。だが、今、耿無影を殺すことは至難のわざだ。もし殺し得たところで、おまえ、〈衛〉の人間に歓呼の声でむかえられるとでも思っているとしたら、大間違いだぞ」
「……なぜ、です」
淑夜は、がくぜんとなった。誉めたたえられようとは思っていなかったが、無影を倒したあとのこともまったく考えていなかったのだ。
「租税をさげてくれた領主が死んで、庶民が手をうってよろこぶと思うか、おまえ」
名も地位もない庶民にとって、君主の名など問題ではない。要は、自分たちが平穏でゆたかな生活が送れれば、だれがなにになろうと知ったことではないのだ。
税をかるくしてくれるあるじがいなくなれば、民はこまる。したがって、その命をうばった者を、民は憎むだろう。単純な道理だった。
「だいたい、大義だの孝だの、見えも食えもしないものなんぞ、ふつうの人間が生きていくのに必要ない」
暮らしをよくしてくれる君主であれば、無義無道であろうと民はついていく。民の支持さえあれば、士大夫層の反抗など、いざとなれば、武力でおしつぶしてしまえばすむことだ。
「おまえの堂兄は頭がいい。士大夫どもも、民百姓を本気でおこらせれば先はないことはよく知っているから、奴の味方をする。今のところはな。それに、無影を殺したあとの始末はどうする。おまえが、〈衛〉公になって、きちんとあの国をおさめていけるか」
「そんなつもりは……!」
「ならば、だれがあとをまとめる。あとがまをねらって、欲の深い連中や他国の侵略の前に民人をほうりだし、面倒なことからは逃げて、自分ひとりはきれいな顔をするか」
「では、永久に無影を討ってはならないとでも?」
くってかかる淑夜を、羅旋は年長者の余裕で、おもしろそうに見やる。
「奴が、ずっと民人をおだてあげているうちはな。だが、世の中、そう甘くはできていないからおもしろい」
「――どういうことですか」
「そろそろ、戦《いくさ》がはじまるからさ」
「戦――?」
「本当なら、すぐにでも他国に攻めこみたかったんだろうがな」
「兵を狩りあつめれば、当然、民心ははなれていきますからね」
「それもあるが――。農地から人手をうばうわけにはいかなかったのさ。そんなことをしたら、収穫が減る。租税を免じたうえに収入が減っては、借財で頸がまわらなくなる」
「借財――?」
おもいきり、怪訝《けげん》な顔をしてみせたのだろう。羅旋の表情が、なんともおかしそうにゆがんだ。笑うと、間のびした顔つきがさらにしまりがなくなる。だが、奇妙に邪気がなく、淑夜も怒るにおこれない。
「無影が国公の座をうばったとき、〈魁〉宗室の詔が即座にくだったのは、どうしてだと思う?」
からかうように、羅旋はたずねた。
「ほかの重臣連中をだまらせるためにばらまいた金品は? 一族を殺して手にいれたものもあるだろうが、たかがしれているだろう」
「――どうしたというんです」
「借りたのさ」
「だれに」
「おれに借りにくると思うか」
「思いません」
「……おまえな。いくらなんでも、そこまではっきりいうことはなかろう」
それに対する淑夜の眼つきは、ひややかだった。
「――まあ、いいか。事実だからな。つまり、有るところから借りたわけだ。たとえば、尤家のようなところからな」
それを耳にしたとたん、淑夜の身体の中を雷がはしりぬけた。
「それは……! 尤家が、無影のうしろだてになっているということですか!」
「さあ、そこまでは、俺も知らんさ。たとえば、といったまでだ。尤家ていどの商人なら義京にも諸国の都にも山ほどいるし、ひとりで出資することもなかろう。ただ、将来、値上がりしそうなものを、暁華がみのがすことはないだろうな。金だか品だかを提供していたとしても、俺はすこしもおどろかんが」
「……私をたすけておきながら、無影にも金を出していたわけですか」
「それは、逆だろう。奴に出資した方が、先なはずだぞ」
冷静に指摘されて、ふたたび淑夜はがくぜんとなる。
「――なぜ」
「なにが、不思議だ?」
「敵味方の双方に――」
「あたりまえだ。商人には、どちらか一方だけに肩入れして、ともだおれになる義理はない」
あらそっている二者に、おなじように出資する。どちらが勝っても負けても、損をしないようにたちまわるのが、商売というものだ。いわれてみればそのとおりなのだが、淑夜のうけた衝撃は、瞬時に回復できるようなものではない。めまいのようなものを感じて、彼はその場にかがみこんでしまった。
「他の人間にしたところで、そうだ。昨日の屈由基にしても、無条件におまえに味方しなければならん理由はひとつもないはずだ。奴には奴の事情というものがあるし、保身に走るのは当然のこと。おまえが生きたいと思う程度には、奴だって生きて、できればいい目をみたいだろう。まだ情勢がかたまっていないとはいえ、ひそかに新〈衛〉公と誼《よしみ》をつうじておくのは、けっして悪いことじゃない」
淑夜は、なにひとついいかえせない。頭の中では、さまざまな理屈を思いつくのだが、思いつく端から否定されていってしまうのだ。
「世の中をはかる道理は、ひとつじゃない。そう、ふさぎこむな――といっても、無理か。今のおまえではなあ」
羅旋は、腕を胸の前で組み、からからとくったくなく笑った。
「まあ、そういちどきに、全部を考えるのは身体に悪いぞ。そろそろ、朝飯ができているころだ――」
へたりこんだままの淑夜の肩を、かるくたたく。その手はがっしりと堅く、あたたかみがあったが、淑夜の胸のうちに湧きあがってきた疑念を溶かすほどの力はもっていなかった。
淑夜はかげったままの眼をあげて、
「――無影は、王にとってかわることを考えているのでしょうか」
つぶやいた。
「俺には、わからんさ。知っているのは、奴本人と……、おまえだけだろうな」
「私の利用価値は、そこですか」
「それも、ある」
羅旋は、ことばをかざらない。
「それだけではない――と思う。うまくはいえんが、なにかでかいことをいっしょにやれるんじゃないかと思った」
「なぜ。どうして」
「さあ。わからん」
正直に、羅旋はいった。実際、本人にもわかるまい。淑夜自身、あれこれとこの漢に手荒く扱われながら、おとなしく話を聞いている理由の説明がつけられないでいる。
「なにからなにまで説明できなければ、信用できんか」
「あなたは裏切られたことがないから――」
淑夜のことばをさえぎるように、羅旋はまた天をあおいで、鼻を鳴らした。
「俺にそんな経験があるとはいわんが――、人を、外見だけで、いちがいにこうときめつけん方がいいぞ」
年長ということもあるだろうが、ずしりと重みのある口調に、淑夜は反論できなかった。彼はまだ、この漢のことをほとんど知りはしないのだ。
「たしかに、あなたは見かけどおりの人間ではなさそうですがね」
われしらず、口調に皮肉がまじった。
「他人がどう見るか、俺の知ったことじゃないさ。それで? どうする?」
「いいでしょう」
いともあっさりと、結論が口をついて出た。自分でも、これほど簡単に決断がつくとは思ってもみなかった。それを口にしたあとで、まったく後悔していない自分を発見して、あぜんとなっていた。
羅旋はといえば、おどろきもしない。満足そうな顔もしない。鼻先が息で白くなったのが、唯一の反応だった。
「こりゃあ、おもしろくなってきた」
満足気に、ゆったりと両腕をつきあげてのびあがった羅旋だが――。
その大柄な身体ににあわない敏捷さで、ぱっと身を伏せたのだ。ふたりの姿は、人の腰の高さほどの枯れ草のあいだにすっかりかくれてしまった。ただし、外からは見えないが、この位置からなら、城門のあたりが透けて見える。
「どうしたんですか?」
という淑夜の問いに、羅旋は無言のまま、あごだけをうごかして城門の方をさし示した。城壁の上の旗をひるがえす風が、するどい声をはこんできたのは、そのあとだった。
当直の衛士たちが、あたふたと走りでてくる。
「奴ら、たるんでいたな」
と、羅旋がつぶやいたのは、城の門は非常事態でもないかぎり、夜明けとともに開き、日没とともに閉められるのが規則だからだ。気温こそひくいが、あたりはすっかり明るくなっているのに、厚い城門はまだかたく閉ざされたままだったのだ。それが今、たちさわぐ声とともにひらかれようとしている。
外側へむかって、重いきしみとともに扉がおしあけられる。しかし、まだひらききらないうちに、がらがらと耳ざわりな音がたちのぼった。幅ぎりぎりのあいだをすりぬけて、城内にはいってきたのは、一台の車だった。
六尺(一三五センチ。一尺=二二・五センチ)もの巨大な車輪ふたつをつなげた車軸の上に、箱のような台をのせ、四頭の馬にそれを率《ひ》かせる兵車である。
縦よりも横幅の長い車の上には、三人の人影が見える。中央が、四頭の馬の綵《つな》をあやつる御者、その右に立つのが驂乗《さんじょう》とよぶ護衛役。三人のうちの左端の人物が、その車のあるじ、ということになる。
今、義京の東門をはいってきた車の左端に立っていたのは、背の高い、壮年の漢だった。この距離からでは、顔のこまかな造作は確認できない。それでも堂々とした体躯とひときわきらびやかな衣装、胸もとにまでとどく美髯ぐらいは見えた。錦の車蓋《しゃがい》がたてられていることからみても、そうとうな貴人であることは、一目瞭然である。
つづいて二台三台と、車は土埃をあげながらはいってくる。それが五台を数えたころになってようやく、門が完全にひらききった。その後にも、何台かの車がつづいているのを見て、
「いつ見ても、ぎょうぎょうしい奴だ」
「だれです?」
「〈征〉の国主どのさ」
その口調には、皮肉るような――旧知の人間をかるく揶揄《やゆ》するような響きがふくまれていた。
「知ってるんですか――」
と、たずねようとして、寸前で淑夜は口をつぐんだ。遠慮したのではない。背後からがさがさと近づいてくる音があったからだ。
「羅旋」
物音は、壮棄才の特徴のある暗い声にかさなった。
「おう、来たか」
と、羅旋はふりむきもしない。背中に目があるのか、それとも足音だけで近づく相手がわかるのか。
「魚支吾《ぎょしご》だ」
と、また、あごで車の一行をしゃくってみせて、
「会盟は、十日後という話じゃなかったか」
「予定を急遽《きゅうきょ》早めた模様です。巨鹿関を一昨日とおったと、ついさっき報告があって、それを報《し》らせにきたのですが」
棄才は、身体をかがめたまま枯れ草のあいだをとおりぬけ、羅旋の隣――淑夜の反対側にぴたりとひかえた。
「そりゃあまた、あわてたものだな。不眠不休か」
とは、むろん〈征〉公を評したことばだ。
「で、なにが起こった」
「〈衛〉公が、兵をひきいて国許《くにもと》を出立しました」
壮棄才のつめたい眼が、淑夜の方を一瞬なめてとおった。それだけで、淑夜は背筋がぞっとなるのを感じた。必要以上に敵意をもたれていると思わざるをえない。が、それが何故なのか、淑夜には心あたりがなかった。
羅旋はといえば、棄才の視線も淑夜の困惑も知っているのか気づかないのか、
「そりゃ、当然だろう。会盟に……。ちょっと待て、軍勢の数は」
「十万」
「やる気だな」
会盟につれてくる軍勢といえば、要は示威《じい》のためだから、一、二万というところが相場であり、これまでの通例である。
「牲《にえ》は、どこだ」
「おそらく、〈奎〉」
「おそい!」
はげしい一喝が、羅旋の口をついて出た。自分がどなられたわけでもないのに、淑夜は身が縮むのをおさえられなかった。叱責された当の本人はといえば、慣れているのか顔色も変わらず、眉ひとつうごかさぬ無表情である。
「そんなことを探りだすのに、なんで今時分までかかった。〈衛〉には、とっくに人を入れてあるはずだろうが!」
「あちらも、莫迦ではありません。軍が出立するまで、国境が封鎖されました」
舌うちの音は、羅旋のしわざだ。
「それで――。口実はこいつか」
あごをしゃくって、淑夜を示す。眼でこたえる棄才は、無言。
それだけで、淑夜も一瞬のうちに事情をさとった。後悔の念がわきあがってきたが、それでなにかが変わるわけでもないともわかっていた。逃げなければ、淑夜は今ごろ首になっていたのだから。
「どう、なさる」
棄才のせりふは、みじかい。
「釣りあげた魚を、川へもどす莫迦がいるか」
羅旋の返答は、かなり奇妙なものだった。
「むしろ、うまく食らう工夫をするべきでしょう」
「なら、いちいちたずねるな。いそがしくなるぞ。こいつに、早急に俺たちの流儀を仕込んでおく必要があるしな。――手はじめに、教えるのは馬かな」
「馬――ですか?」
淑夜は、よほどいやそうな顔をしてみせたのだろう。昨夜の乗せられようを思えば、それも当然といえるのだが、
「士大夫さまがたは車に乗るのがえらい、馬に直接乗るのは卑しいことだというらしいが、俺にはどこがちがうのかわからん」
翡翠色の眼をおかしそうにひらめかせて、羅旋はみおろしてきた。淑夜は、自分の顔におびえた表情でもでているかと、思わず片ほほを手でこすった。
「直接乗った方がはるかに早いし、あやつりやすい。戦場ばたらきには、必要になるぞ。問題は、その脚で乗れるかどうかだが」
「やって、みましょうよ」
文字どおり足手まといになるといわれては、たまらない。淑夜にも意地というものがある。
「それに、剣――は無理だな、その脚では」
まったく遠慮も配慮もない。
「得物は、そうだな、棒かなにかがいいだろう。俺がきたえてやる。それで、いいな」
「否――と、いっても無駄なのでしょう?」
その場に脚をなげだしてすわりこみながら、淑夜はことばもほうりなげた。
その頭の上を、羅旋の明るい風のようなことばがとおりすぎていく。
「棄才、今から声をかけて、三日のうちにどれぐらいの人数を集められる」
「ざっと、百」
「よし、それだけでいい。集めろ。すぐに行け――」
「は」
「……と、いいたいが、その前に腹ごしらえをして行け。俺たちも、腹が減った。五叟のじいさんの朝飯が、できあがっているころだ」
すでに、貴人の一行は遠くに去っている。
羅旋は、今まで身をすくめていた仇をとるかのように、思いきり伸びをした。その姿は淑夜の眼に、一瞬、封をとかれ、天にむかって吼えながらたちのぼってゆく幻獣のようにも見えたのだった。
(二)
〈征《せい》〉国公。名を魚相《ぎょしょう》、字《あざな》を支吾《しご》という。〈魁〉の建国のおりの功臣、魚服《ぎょふく》につらなる一族であり、二百年つづく名家の当主でもあった。
一族の祖ともいうべき魚服は、〈魁〉建国の王、夏太伯の死後、謀反のうたがいをかけられて滅ぼされた。〈征〉国のあるじは、魚服の|堂※[#「にんべん+至」、131-20]《どうてつ》――従兄弟の子だったが、姉妹や娘たちをいちはやく王家やその重臣たちの室に入れていたために、伯父に連座せずにすんだのだ。魚服にくらべ、建国の際の功績がちいさかったことも、かえって王室の警戒心を刺激せずにすんだのかもしれない。
ともあれ、最初は小国、子爵国だったものが、王家内部の混乱に乗じて外戚としての力をのばし、四代目の当主の時代に、かつての本家の所領を併合して公国としてみとめられた。
現在の当主、魚支吾は、ちょうど十代目の〈征〉公である。
年齢は、この年ちょうど四十歳。男ざかりといってよい。黒紗《こくしゃ》の冠をいただいた髪には、そろそろ白いものがまじりはじめているが、口もとを覆い胸にまで達する髯《ひげ》は黒々としたみごとなものである。背も高く、幅も厚みも人にすぐれた偉丈夫である。するどい曲線をえがく眉の下で、双眸が剛《つよ》く人を射すくめるような光をたたえており、見る者をおちつかなくさせる。
狩猟を好み、一矢で猪を射ころす膂力《りょりょく》のもちぬしでもある。それが、綾絹の正装に威儀をただし、ぴんと背筋をのばしてすすむ姿は、それだけで他を威圧するものだった。
おどろいたのは義京の者たちである。
中原の東方にあって大きな武力をもつ人物が義京にあらわれるのは、早くて十日も後の予定だったからだ。
十重二十重《とえはたえ》の親衛軍にまもられてくるはずの人物が、わずかな随従《ずいじゅう》だけをしたがえて都の大路をはしりぬけたのだ。おどろくなという方が無理というものだろう。義京の北西の端に位置する王宮――七星宮《しちせいきゅう》とよばれる王城は、混乱の中に投げこまれた。
〈魁〉の太宰(大臣)の任にあるのは、冰子懐《ひょうしかい》という者だった。
冰子懐、本名を意《い》といい、建国時から〈魁〉の太宰の位をつとめる名族・冰氏の当主でもある。ちなみに、字につく「子」は、男子の美称である。その太宰子懐が、
「どういうつもりだ」
一報をうけて、一瞬、どす黒く面をゆがめ、側近の者たちに、吐き棄てた。
「日どりまで指定して勝手に会盟をすると決めたは、〈征〉公の方ではないか。それを、なにを血迷った。おしかけてきたところで、歓迎されると思ったら大まちがいじゃ」
さんざん、あたり散らして気が晴れたところでようやく、賓客をむかえに七星宮の客殿へとでていったのだ。
さすがに容儀は正していたが、やや太《ふと》り肉《じし》の体躯の仕草のはしばしに、いかにもうっとうしそうな表情があらわれていた。一方、〈征〉公・魚支吾の方も負けてはいない。冰子懐の態度にむっと顔色を変えた家臣たちを、わずかな手ぶりでおさえ、なにくわぬ顔で礼を執《と》る。が――。
「遠路、はるばる、ようこそおこしくだされた」
綾絹の座につくなり深々と頭をさげた冰子懐の頭のあたりを、たしかに、ひややかな視線がなめてとおっていった。
「急な予定の変更、まことに無礼とは存じたが、是非にも陛下にご裁断いただきたい事態が出来したゆえ、とるものもとりあえず、推参いたした次第。それで、陛下は、どちらにあらせられる」
表面はあくまで礼を通し、相手を重んじる風情だが、冰子懐など問題にせぬといった態度が口ぶりにまであらわれていた。だが、形がととのっている以上、口調をいちいちとがめだてるわけにもいかない。
国公と太宰とでは、位階は互角。いくら冰子懐が〈魁〉の実権をにぎっているとはいえ、力の背景をもたない彼が正面きって〈征〉公に対抗するのは得策ではなかった。だが、魚支吾にしたところで冰子懐を怒らせれば、〈魁〉に対する影響力を――つまり、中原全土に対する優位を失うことにもなりかねない。これは、微妙な均衡の上に、やっとなりたっている会見だった。
冰子懐の弱みは、耿無影の策にのり、金品をうけとって、〈衛〉国公の地位の保証をあたえたことである。
現在の〈魁〉は、〈征〉の武力のうしろだてがあって、ようやく国威をたもっている。〈征〉にしたところで、〈魁〉の名と権威を利用しているのだから相身互いではあるのだが、〈魁〉一国をわが物と思っている冰子懐にとって、うっとうしい存在にはちがいなかった。彼は、〈衛〉の耿無影を〈征〉に対抗できる新勢力と見てとり、それといち早く結びつくことで、〈征〉を牽制できると計算したのだった。
〈征〉公に対しても、前もって土地の割譲かなにかで機嫌をとらせておくべきだったと気づいたのは、事が起こった後である。それだけ、耿無影の行動が敏速だったのだが――耿無影は、はじめから〈征〉を無視してかかるつもりだったのではないかと、ようやく、冰子懐は思いあたっている。
つまり、こともあろうに成り上がり者の分際で、〈征〉公にけんかを売ろうというわけだ。
(――だとしたら)
やらせてみるのも一興ではないか。
そうは思っていても、腹のうちをそう簡単に見せるようなぶざまはできない。
表面上はあくまでも慇懃に、
「陛下におかせられては、先日よりのご不快にて、寿夢宮《じゅぼうきゅう》の方へおわたりじゃ」
上目づかいに相手の顔をみあげなから、郊外にある離宮の名を告げた。
「では、そちらへご案内ねがおう」
と、〈征〉国公は腰をあげかける。
「ご不快、と申しあげておる」
相手をみあげて、冰子懐はずしりといった――つもりだった。
「なにぶんにも、大事のお身体。まずは使者をたて、お医師の診《み》たてをうかがい、その上で謁見の手順をふんでいただく」
知らぬわけでもあるまいに、ということばが言外ににおった。
「時がないのだ。太宰どの」
「と、申されても、〈魁〉には〈魁〉の、古来からの礼法があり、しきたりがある。たとえ〈征〉公であろうと、〈魁〉にあるかぎりは、それにしたがっていただかなくては困る」
「では、御身らは勝手に〈衛〉公に滅ぼされよ。わしは、陛下にお目にかかって、〈衛〉国公の暴挙を懲《こ》らしめるお許可《ゆるし》をいただく」
「――なんじゃと?」
冰子懐は、目をむいて訊きかえす。それをひややかにながめやって、魚支吾は踵をかえした。
「よい。危急の場合だ。このまま寿夢宮へまかりとおる」
「待たれよ、しばし。いったい、なにがあったと申される」
「聞いておられぬのか。太宰子懐ともあろうものが、ずいぶんと耳がとおくなったものだよ。耿無影が先代の〈衛〉公を弑したときには、だれより敏かったはずだが」
「たわむれを申されるな」
支吾の皮肉は、おせじにもものやわらかとはいえない。子懐はやんわりとかわしたものの、さすがに顔色がちらと変わった。
「無影めが、軍を率いて〈衛〉の都を発した」
「当然であろう」
おまえが、この義京へよびつけたのではないか。
「では、十万の兵をもって〈奎〉を攻めるのも、当然のことといわれるか」
「なんと?」
今度は見てわかるほどはっきりと、顔の色が変わった。魚支吾は武人らしくひきしまった容貌に、かるい侮蔑の色をうかべた。
「ふむ、その仰天のしようをみると、御身も知らぬことであったらしい」
「しかしまた、何故じゃ。〈奎〉伯がなにをしたと」
「先の夏、耿無影をねらった刺客がいたことを、ご存知であろう。あわやというところまで迫られたあげくに、まんまと逃げられてしまったとか聞いているが」
その刺客、耿淑夜の首にわざわざ五城もの報奨がかけられていることを、この中原で知らぬ者はない。
「耳には、しておる」
と、冰子懐もうなずいた。
「その刺客が、現在、この義京にひそんでいる」
「そういう噂だそうですな」
慎重な視線が、そのせりふにつづく。
中原の諸国は、情報をあつめるための細作《さいさく》を各地に散らせている。たがいにたがいをさぐりあうのは、必要悪であり常識である。よほどの機密でないかぎり、だいたいの情報はもれているのがあたりまえだった。
「そやつが、逃亡の際に巨鹿関をとおったのは、〈奎〉伯が、その刺客の黒幕であった証拠だというのが、耿無影のいい分」
「ふむ、なかなか、筋のとおった申しようではある」
「感心していては、こまる。そもそも〈衛〉公は、なんの名分があって〈奎〉を攻めるのか。〈魁〉をないがしろにして私戦をはじめるは、是、不義というもの。きびしく誅を加えねばならぬ。このことは、ここへ来る途次《とじ》、〈奎〉伯にも報らせおいた。まもなく、伯も、他の諸侯方も続々と義京にみえられよう。我が率いてきた軍一万は〈奎〉の国内に、まもりとしてのこしてきた。〈衛〉の十万には足りぬが、詔のくだり次第、〈奎〉の軍、諸侯の兵ともども〈衛〉公を討つべく手はずはととのえてあるのだ。だが、王が姿もみせられぬでは、話にならぬ。疾く、寿夢宮へ使者をたてられよ。一刻も早くおでましいただいて、詔書と虎符《こふ》(虎の形にきざんだ玉石。兵権の所在を示す)をいただきたい」
理路整然とならべられて、冰子懐には反論ができない。
「こまりましたな」
「いかがされた。寿夢宮に使いを出すのが、それほどに困難だとは思えぬが」
「実は――、陛下におかせらせては、先日、夢を見られたとかで――」
「またか」
とたんに、〈征〉公は吐き棄てるようにいいはなった。周囲にいた人間が、それぞれの思惑で顔色を変えたが、いった本人はそれを気にかけるふりすらしなかった。
いつものことなのだ。
〈魁〉王・夏長庚《かちょうこう》は巫を重んじ、ことに夢占を深く信じた。それ自体は悪いことではない。本来、王の役割とは天命をうけた天の子として地の民人との仲立ちをすることなのだから、その意味では正統な職務を果たしているといえた。そのうえ、地上の権力には執着せずに、いっさいを臣下にまかせて口だしをしないのだから、冰子懐にとっては理想的な傀儡《かいらい》だったのだ。
ただ――。
夢占が不吉と出た場合、不祥を祓《はら》うためと称して離宮・寿夢宮にたてこもり、なにをどうなだめすかしても、がんとしてうごかなくなるのが唯一の難だった。だれが訪《と》うても、逢うことすらしない。考えようによっては、実権をもたぬ王の、これがたったひとつの抵抗の表現だった。
それでも平素なら、王がいなくても日々の政はとどこおりなく進行する。だから、冰子懐をはじめとする廷臣たちも、その抵抗を大目に見てきたのだ。
だが、今の〈征〉公にとっては、ただ腹だたしいだけの、王のわがままでしかない。
「どのような夢を見られたというのだ」
「他愛もない――といえば、ないのだが。槐《えんじゅ》の木が枯れたのだそうな」
槐は木に鬼と書く。〈魁〉の国名に鬼の文字が通じることから、槐が枯れるとは〈魁〉が滅びる予兆だと、王は解釈したのだった。
「それは、あのように遊びほうけておられては、国も滅びようというもの。いくら太宰どのに政をまかせておけるからといって、なにもかも無関心でおられてはこまる」
これは、冰子懐に対する、あきらかなあてこすりだった。
「とにかく、寿夢宮にすみやかに使者をたてられよ。陛下の詔がなければ、軍をうごかすこともできぬ」
「承知いたした――」
と、頭は下げたものの、冰子懐は、腹の中に黒い不満がうずまきはじめるのを、止めることができなかった。
(――この田舎者めが。太宰のわしを、召使と心得て、あごでこきつかう気か。あとでどうなるか、見ているがよい)
さすがに、顔色に出すことはおさえたが、その心の裡《うち》が読めない魚支吾ではない。彼は彼で、
(――欲の皮ばかりつっぱらせた豚に、なにほどのことができる。おまえがえらそうな顔で人語をしゃべっていられるのも、今のうちだけだ)
ひそかに罵っていたのである。
ともあれ――。
さっそく、寿夢宮へと伝言をもった宦人《かんじん》が派遣された。
――だが、参入の許可は、いっこうに降りなかったのだ。
「いったい、どうなっておるのか、うかがいたい」
七星宮の客殿に滞在して、下にもおかぬもてなしをうけていた魚支吾が、冰子懐につめよったのは、それから三日後のこと。詰めよられた方も、返答のしようがなかった。
「使いの者を、日に五度も走らせておる。だが、潔斎とおおせられて、なんぴともお目どおりかなわぬのじゃ。このようなことは、はじめてじゃ……」
「なにをしておいでなのか、陛下は」
「いつもならば、ひがな一日、深夜まで寵姫方を相手に酒宴を催されているのだが」
「今回は、ちがうと申されるか」
「すくなくとも、管弦の音はせぬ。なにしろ、移り気な方であらせられるから――」
おどおどと困惑の色をかくさない冰子懐を、それ以上責めてもむだだと〈征〉公も見きった。魚支吾自身も、上都のあいさつと称して何度も寿夢宮へ使者を送っている。それがことごとく無為に終わっている。冰子懐のさしがねではないかと疑ったのは、当然のなりゆきだが、城内に放ってある手の者の報告も、冰子懐の申したてと一致している。これでは、だれがどれほど威圧したところで、どうにも事態のうごきようがない。
詔が得られないまま、諸侯は都へと集まってくる。だが、皆を意のままにうごかせる立場にありながら、〈征〉公は手をこまねいていなければならない。
支吾が、さすがに焦りの色をあらわにしはじめた三日目の、その夕刻になって――。
事態がようやく、うごいた。
が、それは魚支吾が予想した方向とは、まるきり反対へと流れだしたのだ。
〈奎《けい》〉伯・段之弦《だんしげん》は、この年、六十三歳になる。中原の名家中の名家の当主である。
段氏の始祖は、〈魁〉祖王・夏太伯の末子、夏|子段《しだん》であり、その子が父親の名を姓として〈奎〉という要衝の地に封じられた。以来、王族の裔《すえ》として、それなりにうやまわれてきている。
段之弦は、年齢からいえばすでに老境だが、身体も頭脳のはたらきもまだかくしゃくとしたものである。若年のころから、学芸を愛好する温厚な人柄で知られていたが、中原全体の政を左右するほどの力はもっていなかったし、また、口出しをしたり野心をみせたりすることもなかった。ゆえに〈征〉公も冰子懐も、今回、本来の当事者であるべき〈奎〉伯の意向を、考慮にいれることを忘れていたのだ。
「――〈征〉公に、軍を退《ひ》いてくださるよう、おたのみしにまいった」
七星宮の客殿の前へ車をのりつけ、顔をあわせたとたんに、飄《ひょう》とした顔つきでいかにもさりげなくそう告げられて、声を失ったのは〈征〉公だけではない。表敬のために出てきた諸侯たち全員が、この老人のことばの意味を理解できなかった。
「……失礼ながら。なんと、申された」
「兵をお退きくださるよう、と」
「〈衛〉公が、〈奎〉に攻めこむかまえで、国許を発したのをご存知ないのか」
「承知しておる」
豊かな白髯を左手で撫でつけながら、平然と老人はいいはなった。
「〈衛〉より、会戦の日と場所とを指定した書簡がとどいたばかりじゃ」
「ならば……!」
「ならば?」
「〈衛〉公の主張、所業はあきらかに非道。それを正すのは――」
「某《それがし》であるべきだと思うが、いかがなものであろうか。書簡で非とされておるのは某、理不尽な理由で攻められておるのも某であって――〈征〉公、御辺《ごへん》ではござるまい」
あくまでおだやかな表情で、〈奎〉伯は長身の武人をみやった。
「莫迦な。〈奎〉一国で、十万の軍を討てると思うのか!」
口ばしったとたん、
「ことばをつつしまれよ、支吾どの。某はたかだか次《じ》国(中程度の国。侯・伯国)の伯にすぎぬが、御身よりは年長じゃ。ご心配いただくのはありがたいが、莫迦よばわりされるいわれはない」
ぴしりと、手きびしくいい渡されたのだ。魚支吾の顔色が、さっと青くなり、ついで憤激のあまり赤くなったが、反論はできなかった。長幼の序をわきまえずに、他人のことを不義だの非道だのと主張しても、説得力はない。
「〈奎〉は、代々、段氏の地。いかにちいさくとも、守るのに他国の手をお借りしては父祖の申しわけがたたぬ。〈征〉公が、どうしても〈衛〉公の非道が許せぬとあれば、ご自分の地で戦をおこされるのがよろしかろう。〈奎〉が攻められるのを待つまでもない」
〈征〉公が、〈衛〉の挙兵に対して異議を申したてているのは、それが〈征〉の威信をあげることにつながるからであって、けっして親切心で〈奎〉を守ってやろうというのではない。それを百も承知のいい分である。
「しかし、それでは、御身は陛下のお許しを得ずに、私戦を行うと申されるか」
「ならば、詔書さえ得れば、なにをやってもよいのかの……」
「そうは申しておらぬ」
思わず声をあらげた魚支吾とは対照的に、〈奎〉伯は、端正な容儀をくずしもしない。
「名だけをとりつくろっても、実がともなわなければ、いたしかたあるまい。詔があればそれにこしたことはないかもしれぬが、待てどくらせどくだしおかれぬものを、待っているあいだに手おくれになる」
三日間も面会をこばまれ、ここで無為にすごしている魚支吾を、ものやわらかに皮肉って、
「〈奎〉は、〈奎〉の者が守る。他の方のお手をわずらわすまでもない。それでよろしかろう」
いいきった。
「そこまでおおせになるからには、勝算がおありとみえる」
口調が、どこか脅迫じみていた。おまえに、なにほどのことができる――といわんばかりの侮蔑の感情が、ちらりとでも出なかったといえば嘘になる。事実、魚支吾はかなり意地の悪い気分になっていた。
(せいぜい、大きな口をたたいているがよい)
成り上がり者の君主の下とはいえ、〈衛〉はもともと強兵で知られている。それが大軍でおしよせてくるのだ。まず数で劣っている〈奎〉が、まともにぶつかって勝てる道理がない。
〈奎〉伯もからからと笑って、
「異なことを聞くものじゃ。仕掛けられた戦に、勝算などあろうはずがないではないか」
「では、最初から負けるおつもりか」
「なに、負けるも滅びるも、和睦も降伏も、某と〈奎〉の者の判断でおこなおうと思うておるまで」
強硬に出たかと思えば、すぐにことばをやわらげてしまう。〈征〉公にも、つけ入る隙がなかった。
「では、某はこれで辞去させていただく」
いうだけのことをいうと、老人はくるりと踵《きびす》をかえした。
「どちらへまいられる」
「〈衛〉の軍が迫っておるのだ。某が国内にあらねば、話にならぬ」
深衣の裾をひるがえし、老齢とは思えぬ敏捷さで客殿の階をかけおりた。
小門の前には、兵車が三台止められていた。貴人の外出には、どれほどすくなくとも数|十乗《じゅうじょう》の従車《じゅうしゃ》がつく。王を万乗《ばんじょう》の君ともよぶのは、文字どおり万台の車が従うからだ。伯にさだめられた車の数は、はるかに少ないが、それでも三桁には達するはずだから、これは破格の質素さである。
〈奎〉伯が乗ってきた車には、ふたりの若者が主君の帰りを待っていた。御者も驂乗《さんじょう》も長身でがっしりとした体格の若者だったが、とりわけ右側に立つ青年の姿形は人目をひいた。
年齢のころは二十歳をすこし出たほど、鉄の小札をつらねた胴甲をつけ、長柄の戈《ほこ》をささげ持つ。若いはっきりとした顔だちには、その年齢に似あった猛々しさがあらわれている。
「まいるぞ、大牙《たいが》」
老伯が青年に声をかけ、青年が御者をうながして、兵車がうごきだそうとしたとたん、
「お待ちくださいませ!」
高い声があがって、総角《あげまき》の童子が左端の馬の銜《はみ》をとらえたのだ。
「寿夢宮《じゅぼうきゅう》からのおことばでございます。陛下におかせられては、〈奎〉伯の面をながらく見ておらぬ、この機会に逢っておきたいとのおおせ。是非にも、寿夢宮へ参上くださいますよう」
「おお、それでは陛下はまだ、この老体をお忘れではなかったとみえる」
どうも、このものやわらかな皮肉は、だれに対しても出るものらしい。
「それではこの世のなごりのごあいさつを申しあげてゆこうか。大牙、車を寿夢宮へむけさせよ」
「は」
低いがおだやかな答えをかえして、青年がまた合図をだすと、車は黄塵をまきあげながら、がらがらといっせいにはしりだした。
あとには、〈征〉公の憮然とした顔が残るばかりだった。
(三)
「主上」
宮女の、ひかえめによびかける声にも、男は顔をあげなかった。
「主上、あの……」
「聞こえておる」
うつむいたまま、視線を床にひろげた帛布《きぬ》の上をなめるようにはしらせている。帛の大きさは、横幅がちょうど両手をいっぱいに広げたほど、縦はやはり、腕をのばして筆先がとどくほどである。初老――というよりはすでに老人と呼んでよい容貌の彼の左手には、墨をふくんだ筆がにぎられている。その、絵を描いている最中の、そのままの姿勢で顔だけを声の方へふりむけた。
帛の両脇には、高さ五尺ほどの青玉製の燈檠《とうけい》が二本たてられている。蛟《みずち》が何匹もとぐろをまいた形のその口ごとに、灯をともした燈皿《ひざら》をくわえさせたもので、その灯火が鱗に照り映えてまるで星が燃えているようなあざやかさである。
馥郁《ふくいく》とした香りがただよっているのは、燃えているのが蘭膏《らんこう》といって、動物の油に蘭の香りをつけたものだからだ。一般に、明かりには燭《しょく》とよぶ、樹脂の多い木の枝を燃やす。膏自体、途方もない奢侈《しゃし》品の上へ香りをつけてあるのだから、どれほどぜいたくなものか想像もつかない。
ぜいたくといえば、この室にあるものはなべて、ぜいたくの極《きわみ》といえるものばかりだった。雲のようにうすい帛《きぬ》の帳《とばり》、漆に花鳥を描いた屏風、宮女たちがまとっているのは色とりどりの綾絹であり、羅であり、金銀珠玉の装身具である。その髪にかざされた釵《かんざし》の一本の値で、庶民が半年は食べていけるはずだ。
だが、豪華で美しいものにかこまれていながら、老人は厳《げん》とした不満を瘴気のように周囲に撒き散らしていた。
「だれがまいった」
彼は、感情のこもらぬ声でたずねた。
「尤夫人でございます」
「暁華ならば、取り次ぐ必要はないと申してあるはずじゃ」
「では――」
うるさそうにかえった答えに、宮女は首をすくめた。その場にずらりと居ならんで、王の画業を見物している数人の同輩たちにちらりと視線を投げやってから、一礼する。彼女が下がるのといれかわるように、若い婦人が裳裾の音をたてて姿を見せた。
「陛下におかせられましては、ご機嫌うるわしゅう、祝着しごくに存じあげます」
尤暁華は、慣れた風に優雅な礼を執ってみせた。それに対してかえったことばは、
「うるわしゅうはないぞ。知っておるくせに、心にもないことをいうでない。寿夢宮では、本音以外のことばは聞きたくないと申しおいてあるはずじゃ」
「では、ご機嫌がわるくてめでたいと、そう申しあげればよろしゅうございますか」
「なに?」
むっとあがった顔は、しかしすぐに笑みにくずれた。
「それでよい。そなたはその率直なところがとりえなのじゃからな。ここへ、こちらへまいれ」
帛布をはさんで真正面の位置を、筆先で示して座をおかせ、右手で手まねきをしながらようやく筆をおいた。
〈魁〉王、夏長庚《かちょうこう》。三十歳で即位して、今年十五年目にあたる。だが、その外見は年齢よりもはるかに上に見えた。端正といってよい品のある貴人の容貌なのだが、表情にも動作にも、疲れたような印象がまとわりついて離れない。うっとうしい――といってしまうのは酷かもしれないが、だれにでも好かれるという容姿ではないことはたしかだった。
だが、好かれようと好かれまいと、また実権があろうとなかろうと、彼は〈魁〉の王であり華の支配者だった。
――もともとは、のぼれるはずのない位だった。夏長庚は、先王の長子ではあったが嫡子ではなかったからだ。それが、王位に就《つ》くことができたのは、生母に〈胥《しょ》〉侯の娘をもつ太子よりも、うしろだてのない長庚の方があやつりやすいとみた冰子懐の、策動があったためである。
両者のあいだにどんな葛藤があり、協定があったか、他に知る者はいない。ただ、夏長庚は登極以来、太宰子懐のいうがままにうごく傀儡として、玉座にすわりつづけて現在にいたっている。
万民の主であり中原のすべてを掌握するはずの王と、民間の一婦人にすぎない暁華が、本来ならば対等に面とむかって口をきくことなど、ありえない。だが、この寿夢宮は、王の避暑のための離宮であるということもあって、そういった儀礼に対しては寛容な場になっていた。
寿夢宮は、都より見て北東に十里(約四キロ。一里=約四〇五メートル)ほどはなれた郊外に位置している。昔は、義京をまもる出城としてもうけられたちいさな寨《さい》だったが、〈魁〉が中原を平定したあと、離宮として改築された。離宮ではあるが、もとが寨だっただけに、周囲に水濠をめぐらし城壁を高くして、防御の設備は一応、ととのっている。だが、その防衛体制が現在、城壁の内と外と、どちらにむけられているかとなれば、いささか疑問だった。
〈魁〉王、夏長庚がこの離宮にいるのは、夏のあいだのみにかぎらない。即位して以来、正式な王城である七星宮にあった方がすくないのだ。
政務は、冰子懐とその意を承《う》けた家臣たちにすべてゆだねられ、外交・軍事に関しては〈征〉公・魚支吾が実質的な宰領権をにぎっている。飾りものの王は、その関心を享楽にむけるよりほかない。寿夢宮には、常に楽人と舞人が百人以上詰めており、王の滞在中は連日、酒宴がもよおされる。後宮には半年おきに新しい女がおさめられ、妍《けん》を競いあうといわれる。
が、今までに王の寵を独占して、つなぎとめおおせた女は、ひとりとしてない。寵を得ても、一年もすれば、ほとんど王の滞在のない七星宮の女官に任じられるか、諸侯や側近の士大夫らにさげわたされるかである。もっとも側妾の譲渡は夏長庚がはじめたことではなく、たとえば現在の〈征〉公の生母も、もとはといえば先王・昭王の女官だった女性であった。
とにかく、夏長庚は| 政 《まつりごと》には無関心な王だった。それと同時に、酒宴にも狩猟にも、女にも、おぼれると表現できるほどに執着することがけっしてなく、その興味の在処《ありか》もめまぐるしく変わっている。
移り気、と、冰子懐あたりに評される王の、唯一の執着がこの画業であり、ここ、寿夢宮の高楼はその場だったのだ。ここへ出入りを許されるのは、王の意に称《かな》った者であり、その身分の上下はほとんど問われなかった。
さすがに、冰子懐やその一派をまったくしめだすというわけにはいかず、また彼らの警戒をまねくような人間を呼びこむような真似も――意図的か無意識かの確証はないが――していない。おおかたが、学者や画人、時には義京城内の花巷《はなまち》の女、そして大と名のつく商人たちといったところが、その顔ぶれだった。
尤家は、先王の代から王家の用命をうけたまわっていた豪商であり、暁華は尤家の主人として寿夢宮に出入りを許されている。なじみがあるせいか、王の、暁華を見やったまなざしも、肉親の娘か孫を見るそれに近かった。
「どうじゃ、この絵は」
座についた暁華にむかって、王は問いかけた。帛布いっぱいに、鳥や木や月、日輪、それに神話の神々の姿などが、いちめんに描かれている。それらにざっと目をはしらせてから、暁華は、切れあがった眼の隅にちらりといたずらっぽい光をひらめかせて、
「本音を申しあげて、よろしゅうございますか?」
「よいとも。なんなりと申せ」
「では、申しあげます。陛下が画師におなりでなかったのは、さいわいでございました」
「……ふむ。それほど、下手かの」
いわれて不機嫌になるかと思ったら、真面目な表情で絵を見なおした。
「どのあたりが、まずいと申すか」
「まずいと申しあげているのではございませんわ」
暁華が笑いながらいったとおり、それはけっして下手な画ではなかった。ただ――、
「陛下のお心の裡《うち》の鬱々たるものが、画の上にあらわれ出てしまっております。見ている者まで、心が重くなってしまいますわ。もうすこし、下手におなりあそばせ」
「ふむ。いっぱしの口をきくではないか、小娘が」
「二十歳を越せば、女はもう年寄りでございますよ」
「余には、いつまでも、尤家の先代に連れられてここへはじめて来たときの、| 髫 《うないがみ》の童女のままじゃ」
「本音以外は聞きとうないと、おおせられたのはどなたでございます」
「なにを申す。余は嘘はいわぬ」
ようやくに表情をゆるめ、あらためて筆をとりあげかたわらの宮女に渡した。これで画業をきりあげるという合図である。暁華もこころえたもので、さっといずまいを正して話題を変えた。
「そのご鬱屈が、いささかでも晴れる話をたずさえてまいりました」
「ほう――」
気のない風をよそおいながら、左手がなにかを払うようにかすかにうごいた。居ならんでいた宮女たちが筆や墨、帛布を手早くかたづけてしずしずとさがっていった。
「で――?」
「〈奎〉の一件、首尾よく運びましてございます」
「うまくいったか」
おうむがえしにつぶやいて、王は喉の奥で笑った。
「支吾の奴め、今ごろはたけりくるっておることであろうよ」
「子懐さまが、なんとかなさいましょう。これ以上、〈征〉公の力が強くなってこまられるのは、あの方でございますもの。この一件、すぐにもご承諾なさいました由」
暁華がしくんだ話とは、〈奎〉に援軍を送らぬようにという策だった。わざと手をこまねいて、〈奎〉と〈衛〉との二国間だけの問題として処理してしまえば、〈征〉公がいかに兵を展開しようと、諸侯を糾合して主導権をにぎろうと、たてまえとしては戦はできない。〈魁〉王の詔なしに〈征〉が戦端をひらけば、〈征〉公もまた私戦をした廉《かど》で非難されるからだ。〈衛〉には〈奎〉一国だけをあたらせておき、時期を見て、〈魁〉が直接に調停にはいる。〈魁〉は――つまり太宰子懐は、一兵をうごかすこともなく〈衛〉を牽制し、〈征〉の僭越をおさえることもできる。
もっとも、そのためには〈奎〉が自力で、〈衛〉軍に勝たぬまでも負けずに、一定期間持ちこたえられる必要がある。単純に兵力を比較しても、〈奎〉は〈衛〉の四分の一ほどしかなく、〈奎〉一国で、まともにぶつかっても、一気に押し潰されるのがせきの山である。そこで、尤家が兵と物資の援助を秘密裏におこなうという条件がだされた。
正直、危険な――ほとんど分のない賭けだったが、〈奎〉伯の方はそれを承知した。暁華が説いたこと、それに、一方的に会盟を主催しようとした〈征〉公への反感が、その原動力となったらしい。
一方、太宰・冰子懐へは尤家の援助の件は伏せ、人を介して、〈征〉の発言力を削ぐために〈奎〉を犠牲にする――と、説かせた。
〈征〉を牽制するために、〈衛〉といちはやく結んだほどの冰子懐にとっては、〈奎〉のような小国の存亡はこの際、二の次の問題となっていた。
「――今さらいうても仕方がないが、そなた、やはり婦人に生まれたのは惜しかったな。商家に生まれたのも、惜しかった。いっそ、童女のうちに余がもらいうけ、男の態《なり》をさせ、謀士《ぼうし》にでも仕こめばよかったと、悔やまれてしようがないわ」
「そして、どなたを陥《おとしい》れるのでございます? わたくしは、銅臭《どうしゅう》の商人で十分でございますよ。金銭で買えぬものはございませぬ。人の生命や心でさえ、あがなえますのよ」
どこまで本気か判然としないが、そういってかろやかな声をたてて笑った。
「それに、今回のこの悪企《だく》みは、わたくしがめぐらしたものではございませぬし」
「ほう」
「顔をごらんになりたかろうと思いまして、僭越とは存じましたが、連れまいりました」
「〈衛〉のあるじの横つらをはりとばしてみせるという、大法螺吹きか。逢おう。〈奎〉伯もこちらへよんである。そろそろ、到着するころあいじゃ。ここで引き逢わせておくのも、一興であろう」
「さ、その必要がございますかしら」
艶然――ということばが似合う微笑で、さらりとたちあがる。王の側には常に宮女か侍童がついているはずだが、ついさっき、人払いしてしまった。だから、暁華は自分で連れとやらを呼びにいくしかなかったのだが、いっこうに面倒そうな顔もせずに、すぐにもどってきた。
「両名とも、一|布衣《ほい》にすぎませぬが、わたくしに免じておゆるしくださいませ」
あらためて、ことわりをいれる念の入れようである。
「ここは、身分をどうこう申す場ではないわ。はいれ、はいれ」
いかにも人なつこそうに、両手をつかって手まねきした。外の闇の中から燈檠の光の輪の中へ、ふたりの人間がゆっくりとはいってくる。先の男は、長身で肩幅のひろい武人。あとにつづく者は、ごくふつうの姿かたちだが、わずかに左脚をひきずるのが目についた。
そのうしろの方の動作のぎごちなさへ、王の意識はついひきよせられる。さきに暁華がすわっていた座へ、先の漢がぴたりと着いた。ようやく、そちらへ視線をもどし――。
王は、さっと顔色を変えたのだった。
青ではなく赤へ。
肉のうすい、青白い顔がみるみる上気し、血色がかよいはじめた。
「そなた――、そなた、戎華将軍の。名はなんといったか、ら――」
「羅旋でございます」
おちついた、微笑をふくんだ声音で暁華が口を添えた。
「そうだ、らせん。羅旋じゃ。赫延射《かくえんや》の息の羅旋じゃ。そなた、無事であったか」
膝をすすめ、手をとらんばかりにして、懐かしがった。
羅旋は、荒けずりな顔になかば人のよい微笑、なかば困惑の表情をかくそうともしなかった。王の無条件の歓迎を予想していなかった――というより、歓迎されないことを期待していたといった方がよさそうだ。すくなくとも、ななめ背後から羅旋と、王とよばれる老人の姿をじっと観察していた淑夜は、そう感じた。
羅旋が、かつて戎華将軍として〈魁〉に仕えた戎族の族長の子であるとは、すでに聞いている。父親にしたがって謁見したこともあるだろうから、王が羅旋の顔を見知っていたところでおどろくにはあたらない。だが、この王の歓待ぶりは、淑夜の予想を越えていた。まるで、いなくなった自身の息子がひょっこりもどってきたような、手ばなしのよろこびようなのである。
「息災でなによりじゃ」
「陛下にも」
暁華にかるくにらまれて、ようやく羅旋も返答をした。かるく頭をさげたその仕草は、とても礼にかなったものではなかったが、それでも王はうれしそうに目を細めて、
「余を、さぞ恨んでいように、よくまいってくれた。戎華将軍は、余が殺したようなものであったにのう。すまなかった。申しわけないことをした」
意外なことを、口にした。
暁華が、わずかに口もとをきっとひきしめるのが、淑夜の位置から見えた。羅旋の方へ一瞬、不安そうな視線をふりむける。いきなり羅旋が暴れださないか、と心配でもしているような眼つきだった。
が、羅旋は、そのことばを聞いたとたんに、かたくなによろってきた目にみえない殻を、からりと脱ぎすてた。
「そのことは、もう、おおせられるな」
声色がまったく変わったのが、淑夜にも、また、老王にもはっきりと感じられた。
「余をゆるしてくれるか」
「もとより、陛下のせいとは思っておりません」
ぞんざいな口のききようだったし、もとよりどんな事情があったのか、淑夜には知りようがない。だが、そのひとことが、すべての確執を一気に終わらせてしまったように、彼には思えた。
王にとっても、それはおなじだったのだろう。みているうちに、安らかな表情がその年齢よりも老けた面にひろがった。
「安堵した。これで心おきなく泉下へおもむける」
「陛下――」
暁華がくっきりと細い眉をひそめたが、いった本人といわれた方とは、当然といった顔つきだ。
「――そうか、そうか。そなたならば、〈衛〉に勝てると豪語してもおかしゅうない」
王は、何度もうなずきながら、ようやく座にもどる。
「どうやら、おもしろいものを見せてくれそうじゃ。まったく、そなたら親子の思いつくことといったら、子懐らが目をまわすようなことばかりであったからの」
一時の激情が去ると、王のつやのない顔には辛辣そうな表情がもどってきた。
「陛下は、いかがでございましたの?」
「余は、退屈せずにすめば、なんでもよかった。それで――」
ふたたび、ぐいと膝をすすめる。
「どのような策で、耿無影とやらの野望をうちくだいてやるのかの」
「それについては、この者から申しあげた方がよいと思います」
と、羅旋が不意に、肩ごしに緑色に光る視線をひるがえしてきたために、淑夜は全身を緊張させた。
「この若い者か? いまだ、孩子《こども》ではないか。まことに、そちが〈奎〉一国など見捨ててしまえといいだした、痴《し》れ者か」
「申しあげます」
膝を折って座っているために、脚の痛みがそろそろ限界に近くなっていたが、淑夜はすべての感覚をおしころして礼を執った。それが端正な、流れるような動作となったのを、王は(おや)といいたげな意外そうな眼で見た。
「今回の一件、私ひとりで建策したものではございませぬ。ここにおります羅旋と、今ひとりと、三人で知恵をしぼったもの。その点を、まず、ご賢察いただけるようねがいあげます」
「おのれひとりの手柄ではないと申すか。羅旋、そなたの身内にしては、えらく謙虚ではないか。どこからひろってきた」
いわれて、羅旋は顔をあげて、にやりと笑った。表面かしこまっているようでも、全身から不遜なものが霧のようにたちのぼっている羅旋と、それなりに揉《も》まれてはきているものの、苦労知らずの繊弱な貴公子の外見がまだぬけない淑夜とでは、受ける印象が水と油ほどにちがう。それを敏感に感じとって、「拾ってきた」と表現した王の感覚は、たしかに正しい。そういう意味での、嗤《わら》いだった。
「実は、これが〈奎〉国内でひろいあげた者で……」
ちょうどいいさしたところへ、外から火影が揺れながら近づいてきたのだった。
「〈奎〉伯、段之弦さま、参上なされました」
童の声で告げられると同時に、前もってすぐに通すように命じてあったのだろう。〈奎〉伯のすっきりと背筋をのばした姿がもう現れていた。
「久方ぶりじゃの、之弦。早う、ここへ。めずらしい顔が見えるぞ。はよう」
羅旋たちを招きいれたのと、そっくりおなじはしゃぎようで、次国とはいえれっきとした国主をよびこんだ。
[#挿絵(img/01_157.png)入る]
童子のかざす手燭《てしょく》にみちびかれてはいってきた〈奎〉伯は、身体ごとふりむいた羅旋の顔を見て、目を剥《む》いた。だが、声をあげたのは、老伯の背後にぴたりとしたがっていた長身の若者の方だった。
「羅旋! この野郎、生きていたか!」
「これ、大牙。礼を失するような真似をするでない。この老父に恥をかかせるつもりか。旧交をあたためるなら、あとにせい」
自分の肩ほどの背丈しかない老人に叱責されて、若者は首をすくめたが、のびやかな顔だちからあけすけな笑顔を消すことはなかった。無言のまま、親しげな視線で羅旋を見ているし、見られた方も旧知の者に対するぞんざいな態度で、ひとつうなずいてみせる。
「申しわけございませぬ、陛下。なにぶん乙子《おとご》なもので、あまやかしてしまいましてな」
「ま、ま、若い者には若い者の感慨があろう。之弦、そう咎めてやるものではない。大牙、そなたもよう参ったの。酒でもはこぼせようぞ。小珮《しょうはい》、奥に申しつけて支度させよ」
命じられた童子は、無言のままに姿を消した。そういえば、さっきから、この室以外の物音がきこえない。どれほど広い屋敷でも、人のさざめきや息づかいや気配といったものが、そこはかとなく感じられるものだと淑夜は知っていた。彼が育った家が、そうだったからだ。だが、この宮殿には、物音が奥の方へがらんとひびいていくような空虚さと、うそ寒さが感じとれる。それが、この目の前の〈魁〉王の内面と呼応しているように思われて、淑夜は内心で首をひねった。
〈魁〉王といえば、淑夜のような一国の勢家の者にとっても、まさしく雲上の存在で、たとえどれほど政事的には無能であろうと、神聖にして威厳あふれる人物であるはず――あるべきだった。
だが、はじめて目にした王は、ただの老人にすぎなかった。これが、競争相手となった異母弟たちを殺し、自らの太子たちをも反逆の疑いですべて廃し、無道冷酷と噂された人間だろうか。
正直にいえば、淑夜は失望していた。こんな漢を支えて、中原を統一しなおしたところで、なんの意味があるのだろう。
頭の中で理論として考えていたことと、現実との相違をみせつけられて、淑夜はとまどうばかりだった。ある意味で、無影は正しかったのではなかろうか――。
羅旋に脇腹をこづかれて、淑夜はあわてて座をゆずった。うごく際に左脚をかばったのを、〈奎〉伯もその太子も、すばやく見てとったのがわかった。
「今、おもしろい話のまっ最中でな」
「なるほど、わが国を囮《おとり》にしようという無茶なことは、この戎族でもなければ考えつかぬことだわな」
一歩まちがえば、すさまじい侮辱になりかねないせりふをさらりといってのけて、すこしも嫌味にならないのは、人徳かそれとも歳の功というべきだろうか。
「主上に、永《なが》の別れを申し述べようかと思うて参上してみれば、某《それがし》を殺そうという張本人が待ちかまえておる。まことに、世の中はよくできておりまするな」
と、これも痛烈な皮肉なのだが、なんとも飄々とした口調がおかしく、当の本人の羅旋が苦笑している。暁華などは広い袖で口もとを覆い、噴きだすのをおさえるのに懸命になっていた。
「――と、まずは、陛下にはご健勝のほど……」
声をあらためてぴたりと礼を執ったのはよいが、語尾の方は適当に口の中でもみ消してしまったのは、王の性分を熟知していたためだろう。
「それで、どのようにして、〈奎〉を滅ぼしてくれる」
ずいと身をのりだしてくるその仕草のきびきびとしたところ、話の切りかえのはやいところなど、ともすればはるか歳下の王よりも若く見えかねない。
「それを、これから聞きだすところじゃ。その若いのが、黒幕での。さ、つづけよ」
と、いわれても、いったん折られた話の腰は、そう簡単には継げない。淑夜が視線でもとめた助けに応じて、暁華がどこからかうす帛《ぎぬ》をたたんだものをとりだして、羅旋に渡した。羅旋は、無雑作にそれを床に放りなげる。どういう力加減か、それがぱっと花片のようにひろがった。
「む……」
と、段之弦が口の中でうなり、脇にひかえた若者がぐっと肩先からのぞきこんできた。
それは、〈奎〉国の絵地図だった。詳細なものではないが、公路はもとより道という道は間道にいたるまで描きこんである。山や谷、川筋などの地形など、おおよその位置と関連とはひと目でわかるようになっている。帛の具合からみても、昨日今日描いたものではない。
「こんなものを、どうやって手に入れた。俺の手もとにも、これほどのものはないぞ」
大牙が大声をあげて、場をわきまえよとばかりに父にこづかれた。
だが、羅旋も気のおける王や伯に対するより、話しやすいと見たのだろう、大牙にむかって、
「手に入れたんじゃない。作った」
「どうやって」
「なに、実際に見て歩いてまわっただけだ。こいつにこきつかわれながらな」
と、王の傍へ位置を占めている暁華をあごで示す。
「おぬし、なにをやっていた」
「わたくしの家の、傭車の長をおねがいしておりましたの」
「なるほど。尤家の傭車なら、中原で行かぬところはない。荷を運びながら、諸国を見て歩いていたというわけか、おぬし、考えたな」
「とりたてて、意図があったわけじゃない」
「が、無駄にはならなかったわけだ」
「無駄なことを、こいつがさせると思うか」
相手が大牙だと、口のききかたもぞんざいになる。王の御前だという意識は、きれいさっぱり忘れているらしい――忘れたふりをしている可能性も、ないではなかったが。
「それで――」
〈奎〉伯・段之弦が、しわがれた咳ばらいをひとつ、わざとらしくしてみせた。
「策というは?」
「まず〈奎〉伯殿下におたずねいたします」
ためらいがちにだが、淑夜がまっ先に本題にもどっていった。
「む――?」
「戦場となるのは、どのあたりでしょうか。〈衛〉からの書状は、すでにお手もとに届いているとうかがいましたが」
会戦とは、場所と日取りを指定した書状をとりかわしておこなうものである。戦車が主力の戦では、平地に戦場を設定しなければ、兵力を展開しにくいからだ。
「長泉《ちょうせん》の野じゃ――こちらが〈衛〉。〈奎〉とのあいだに舌先のように〈鄒《すう》〉の領地がはいりこんでいるが、〈鄒〉は目をつぶって〈衛〉を通す。〈鄒〉から川を渡ってすぐの、このあたりが長泉となる。われらの軍は、谷から野に出てすぐの、このあたりに布陣する」
老伯の骨ばった指が、図面の一角をたどった。
「やはり、そうなりますか」
「そなたは、ちがうと?」
「ここに布陣して敵を待ちうけるまでは、おなじです。しかし、ここには主力をおきません」
「それでは、敗れる」
「そのとおりです」
「――わざと、負けろと申すか」
むっと不機嫌きわまりない口調が、室の空気を一瞬、濁らせた。それを敏感に感じて、淑夜はこわばった表情を伏せたが、策を撤回、変更する気はまったくなかった。いちいち〈奎〉伯の機嫌をうかがうつもりなら、こんな策は最初からたてはしない。
「で――? 負けて、そのあと、どうしてくれるつもりじゃ。まさか、負けっぱなしになれと申すわけでもあるまい」
「これは、領内深くへひきずりこむための布石です。最終的には、ここで、防ぎます」
淑夜が指でさしたのは、細い谷あい。公路が一本きり、くねりながらすすんで、やがて関の文字にさえぎられるあたりだった。
「巨鹿関《ころくかん》か」
低いうなり声は、老人ふたりの喉奥からもれて出たものである。はっきりと反対の声をあげたのは、若い大牙だった。
「しかし、それでは戦にならぬではないか」
「何故?」
「会戦とは、いつどこで、と約定をかわして行うものと決まっている。しかも、広い野でなければ、戦車を布陣させられぬ。戦車がなければ、戦はできぬぞ」
「それは、だれが定めたことでしょうか」
「なに?」
すかさず切りかえされて、大牙がむきになるのを、老伯の腕がさえぎった。羅旋は、だまったまま〈奎〉伯親子をじっと観察するばかりで、ことさら淑夜をかばう気配もみせない。淑夜も、すぐにかるく頭をさげる。
「失礼いたしました。これは、私の考えたことではありません。羅旋に――」
戎族の青年の、緑色の眼が躍るようにひらめくのをたしかめながら、ことばを継ぐ。
「いわれたことです。これまでの戦の仕方というものを、頭から忘れたうえで、勝つ方策を考えろと。まして、今回の場合、そもそも〈衛〉の申しようが理にかなわぬのに、こちらが莫迦正直に慣習を守ってやらねばならぬ義理は、ありますまい」
「それは、そうだが……。やはり、卑怯のそしりはまぬがれぬぞ」
「いいたい奴には、いわせておけ。滅ぶよりはましだろうが。どうせ、数の上では絶対に不利なんだ。〈衛〉を追いかえし、かつ〈征〉の干渉を拒まねば、大牙、おまえが国を継ぐころには、〈奎〉は影も形もなくなっているぞ」
羅旋が、遠慮のない口をはさんだ。
「わかっている! でなければ、だれがこんな莫迦な策にのるものか! で、これで、勝てるのか」
「巨鹿関は、隘地《あいち》です。十万が二十万の兵でおしよせてきたとしても、いちどきに戦場に入れるのはせいぜい一万。となれば、彼我《ひが》の勢力は逆転します。敵の戦車の脚は完全に封じられますし、そのうえ、地理上の優位もこちらにあります」
間道をしめす細い線を、指でたどってみせながら、淑夜が説明を続ける。この場でもっとも若い貌を、なおもにらみつけながら、
「それで、ここでも敗れた場合のことは考えてあるのか」
「大牙、いいかげんにせぬか」
「父上、いや、殿下。念には念をいれすぎて、こまることはござらぬ。長泉の野でぶつかって敗れた場合には、まだあとがあるが、巨鹿関を破られたときには、〈衛〉軍は〈奎〉一国をふみつぶすだけにとどまらぬ。一気に義京にまで、なだれこみますぞ」
「おっしゃるとおりです。万全は尽くしますが、勝敗は時の運。万が一、巨鹿関を破られました場合、私の身柄を無影へひきわたしていただくことで、和議をお結びください。かなり有利な条件で、手をうてるはずです」
「なに――?」
「申しおくれました。私は」
座をはずして、淑夜はあらためて礼を執った。
「姓名を耿|※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《き》、字を淑夜と申します」
「では!」
「おぬしが!」
驚愕の響きは、〈奎〉伯とその子の口から出た。王の疲れた表情にも、変化は現れたが、声はあいかわらず出ない。
「おぬしが、耿無影をおびやかした刺客か。無影の堂弟だそうだが――もっとむくつけな大男かと思うていた。重傷を負って逃亡したと耳にしているが」
「あやういところを、羅旋に救われました。このたびの件、私の身勝手で、〈奎〉伯には思わぬ災厄をおかけすることになりました。一時はみずから名のり出て、無関係を申したてようかとも思いましたが――」
「それで耿無影が兵を引くとは、考えられぬな。どうじゃ、大牙?」
「おそらくは。刺客の件はあくまでも口実であって、真の狙いはべつにある。さらにいえば、〈奎〉ですら、目的にたどりつくまでの段階にすぎぬかと」
「羅旋にも、そういわれました。私が点《つ》けた火ですが、すでにひとりでは消せぬほどに燃え広がっていると。ですが、だからといって関係のない方々までが焼きつくされるのを、手をつかねて見ているわけにはいきませぬ。それで――」
「〈奎〉と手をむすんで、むかえ撃つ気になったというわけか」
と、今までじっと身じろぎもしなかった王が、あとをひきとった。
「ここで放置すれば、問題は〈奎〉一国にとどまらぬようになります」
「放置せずとも、おなじことになるのではないか」
「では、すべてが無影の思うままに運ぶのを、容認せよとおおせられますか」
「〈奎〉が巨鹿関で敗れてしまえば、おなじことであろう」
「負けぬよう、策を練っております」
「そなたも申したではないか。勝敗は時の運と。絶対ということは、有り得ぬのだぞ」
「陛下」
白い髯を撫でながら、段之弦がおだやかな声をさしはさんだ。
「某は、やってみるつもりでございまする」
「之弦」
「若い者が、ここまで知恵をしぼってみせてくれました。一応の理はとおっておりますし、無謀ではあるやもしれませぬが、責めは負うと申しております。他にろくな策もないことですし。ただ――淑夜とやら、ひとつ、そなたに質《ただ》しておきたいが」
「はい」
「敗れた場合、〈衛〉に売られてもよいと申したが、それでまことに悔いはないか」
「私個人の目的だけを果たすのでしたら、その方が好都合というもの」
「復仇か」
「はい」
淑夜が上げた視線と、老人の白い眉の奥の眼光とが、一瞬ぶつかって燈檠《とうけい》の灯を揺らした。
「刺し違えられれば、本望でございます」
「果たして、それが可能か、この状況で」
「尤家の息がかかった者は、〈衛〉にも大勢おりますわ」
暁華が、まるで市井の噂話をするようなさりげなさで、ことばをはさんだ。
「おそらく、むざむざと淑夜さまをひとりで死なせるようなことには、なるまいと存じます」
それを聞いた老伯は、質問を逆転させた。
「淑夜、この者たちを信じるのか。まだ、出会うてから、三月そこそこであろう。そなた、今まで、人にだまされたことはないのか」
「……二度、ございます」
まっすぐに、老人の顔を見ながら淑夜はことばを慎重に選んだ。
「疑いだせば、きりがありません。賭けてみて裏目に出れば、それはそれで、私の器量がそこまでだったということ」
「ふむ、なかなかいさぎよいな」
「――と、口でいうほどには、覚悟は決まっておりませんが」
誉められて照れた苦笑が、一座の者の顔すべてに反射した。
ふっと、一瞬、室の空気がやわらいだところへ、ちいさな光の輪を先触れにして、かろやかな衣ずれの音が近づいてきた。
「酒肴《しゅこう》の支度がととのいましてございます」
かそけくとぎれそうなほどに細い女声が、いかにもひかえ目に口上を述べた。〈奎〉伯親子と淑夜は、緊張の色をあらわにした。さすがの羅旋や暁華でさえも、広げた地図の端をおさえ、手もとに引きこむ仕草を見せた。
動じなかったのは、王ひとり。声ですぐにそのあるじを判別したのだろう、
「おはいり」
目を細めて、おだやかに招じいれた。自分たちを迎えたときとくらべ、ひどく落ちついた応答であることに、淑夜は気づいていた。おそらくこれが、王の平素の反応なのだろう。表面をとりつくろう必要のない、よほど心を許した相手なのだろう、いったい、どんな人物なのか――。
かるい興味をひかれてふりむいた、その視線の先には、ちいさな人影がすわっていた。手にかざした燭のおぼろな光を、光のままにやわらかく乱反射させて、少女がひとり、わずかに顔を伏せて礼を執った。
髪かたちは成人のものだが、顔だちはいまだ稚《おさな》い。せいぜい十五歳、加笄の儀を終えたばかりだろう、高く結いあげた鬟《わげ》が重たげなのがいかにももの慣れない、可憐な印象である。
やがて、ゆるやかにあがった面を見て、淑夜は胸の奥に鈍い痛みをおぼえた。
「よろしゅうございますか」
「ちょうど、ひと区切りついたところじゃ。支度ができたと?」
「はい。こちらへ運ばせましょうか。それとも、座を移されましょうか」
銀糸のような声でたずねるのに、王は目を細めてうなずいてみせた。愛《いと》しくてたまらぬといった感情が、仕草のひとつひとつにあふれている。
「重苦しい話がつづいたな。気分を変えた方がよさそうじゃ。そちらへ行こう。今宵は飲みあかす。之弦、つきおうてくれようか」
「つつしんで、お承けいたします」
老伯は、ひとまわり以上も若いはずの王の、疲れの目立つ面にむかって、一礼した。
「羅旋、そなたらも」
「いや……」
帛布をひきよせてくしゃくしゃと巻きこみながら、羅旋は首をふった。
「われらは本来、このようなところへ出入りする資格もない身。邪魔をしては」
「えらく殊勝なことを申すではないか、そなたらしくもない。それに、すでに宵じゃ、ここを出ることもできぬし、義京の城内へも入れまい」
「われらとの談合を〈征〉公あたりに、知られてもまずかろうと思いますが」
「そのことなら、今さら留意しても無益であろうよ。この宮中で、人の目のないところなどないわい。今ごろは、子懐あたりの耳に、そなたの訪問のことぐらいははいっているはずじゃ」
「……それならば、なおのこと」
かるく首をひねって考えてから、羅旋はあらためて、
「それに、御前で呑んでも、酒の味がよくわかりませんしな」
「こやつ、そんなことを申すがら[#「がら」に傍点]か。まあ、よい。ならば、兵舎でもどこへでも、気がねのないところへ酒を持っていって呑むがよい。ただし、今宵は冷えるぞ」
「では、おことばに甘えまして」
淑夜をうながして、たちあがった。
「おい、俺も行く!」
と、身分のわりには行儀わるく、あたふたとたちあがったのは段大牙である。
「よろしかろう、父上」
「そのあとには、若い者には若い者同士の話がある――と、続くのであろう。勝手にするがよい。ただし、明日の朝の出立は早いぞ」
老〈奎〉伯は、うるさそうに手をふって、承諾のかわりにした。
「暁華、そなたは、いかがするな」
「わたくしは、こんな蛮人といっしょにはまいれませぬもの。ご老体、おふたかたにお付きあいいたします」
「揺珠《ようしゅ》」
王のしわがれた声が、おだやかに呼んだ。少女が無言のまま、視線だけで応えたことで、淑夜は彼女の名を知った。
「そのあたりまで、案内してやれ」
「はい」
少女が、ひっそりとうべなうのを、淑夜は夢のようにながめていた。
(――なに者だろう)
先頭を行く少女の、小さな背中を見つめながら、淑夜は思った。宮女にしては、稚なすぎる。身につけている衣装も髪かざりも、はるかに地味で質素である。立居ふるまいがしん、と、まるで音をたてないのも、その小柄な容姿をさびしげに見せていた。
全体にほっそりと小づくりな顔だちは、表情次第では美貌とよべるだろう。だが、年齢が夭《わか》いこともあって、その形容にはいま一歩およばない。
さっき、彼女を見た瞬間、胸が痛んだのは、異母妹《いもうと》たちを連想したためだった。三年も逢わないまま失ってしまった家族の貌は、もうおぼろになりかけているが、生きていれば、上の妹がちょうどこの歳かっこうになっているはずだった。
もっとも、黒目がちのやさしいおもだちは、妹たちとはまるでちがっていた。妹たちは幼いながらも裕福な貴顕の家の娘らしく、驕慢なところがあったが、この少女にはそういったおごった印象は微塵もなかった。
さきほどの、王の親しげな態度からすればまず考えられるのは親族だが、〈魁〉の王には娘はおろか、子も孫もいないはずだ。即位前に生まれていた子たちは、男女を問わずすべて、さまざまな事情で夭逝しているし、登極後はひとりも子を設けていないはずだ。――とすれば、寵姫だろうか。親子以上に年齢はひらいているが、ありえないことではない。だが、それならば、女の暁華の前へならばとにかく、初対面の男たちの目前へ出すようなことはするまい――。
「このあたりまでで、結構だ。公主《ひめ》君」
羅旋までが、彼らしくないおだやかな口調でいった。先を行く、ふたりの武人の肩のあいだで、燭がぴたりと止まるのを淑夜はみとめた。
「ほんとうに、よろしゅうございますか? この先には、ろくに燎《ひ》もございませぬのに」
「この離宮の中は、よく知っている。それに、俺には明かりのあるなしは関係ないのをお忘れか」
「忘れておりましたわ。おふた方とも、あまりにも長いあいだ、お見えにならなかったものですから。羅旋さまのお噂は、暁華さまからときおりうかがっていましたけれど」
「悪口のまちがいではないか」
と、口をはさんだのは大牙の声だ。とたんに羅旋の手がのびるのを、〈奎〉伯の子息は器用に避けた。
「ほんとうに、このあたりでいい。陛下がおもどりを待っておられよう」
「はい」
大きな瞳をいっぱいにみひらいて、少女はうなずいた。そして、長身のふたりの青年のあいだを音もたてずにとおりぬけ、淑夜の正面に立つ。
「どうぞ――、みなさま、ご無事でおもどりになってくださいませ」
大きな瞳で淑夜を見上げ、燭を手渡すと、闇の中にたちまち姿を消してしまった。鼻先に、ふわりと花の香りがただよった。
「おい――」
羅旋に、頭を手荒くこづかれて我にかえらなければ、淑夜はその闇の底をいつまでも透かしていただろう。
「見とれる気持ちは、わかるがな。行くぞ」
羅旋が慣れたように回廊をたどって着いたのは、東南の隅に建つ物見のための高楼の最上階だった。王の指示がくだっているのだろう、あとから、衛士が数人がかりで、酒のはいった鴟夷《しい》(皮製の酒壺)と角製の觴《さかずき》を三つ、運びあげてくる。酒は、上等の清酒だった。
「女気なしとは、なんとも不粋だなあ」
大牙が、觴のひとつを不服そうにとりあげた。
「羅旋、なぜに宮女をお貸しくださいと、申しあげなかった」
「莫迦をぬかせ。酒の上に、女を要求するほど、俺はあつかましくない」
「ほう、おぬしの口からそういうせりふを聞こうとは思わなかった。それにしても、揺珠どのを帰すことはなかった。公主君にも、いい気ばらしになったろうに」
「そんなことが、できるか。旧知の人ではあるが、仮にも王孫妃殿下だぞ」
「え……?」
意外なことばに、淑夜は思わず目をみはって聞きかえす。とたんに、羅旋と大牙と、ふたりともが人の悪そうな微笑をうかべた。
「気になるか」
と、羅旋が顔をのぞきこんできた。
「そういうわけでは――」
「無理をするな。なかなかの美女だろうが」
うんうんと、となりで大牙がうなずく。
「この前逢ったのは加笄の儀の前で、まだまだ童女だ、妹みたいなものだと思っていたが、なかなかどうして」
「〈琅《ろう》〉公の家には、戎《じゅう》の血がはいっているからな、美形が多いのさ」
羅旋が、胸を張る。それに対抗するように、
「あれは〈魁〉の王室の公主《ひめ》君でもあるのだぞ。母君は、陛下の姪だ、〈琅〉にとつがれたとはいえ、な」
「〈琅〉――の姫ですか」
〈琅〉とは、中原の西に位置する、新興の公領である。本来は華の民の棲まぬ辺境で、戎の侵入をふせぐ土塁が延々と築かれていた土地だった。その土塁の外へ開墾地を広げ、戎族の一部となんとか折り合いをつけて建てられた国が〈琅〉である。もとは〈狼〉と呼ばれ、蛮風に近いとさげすまれた国だった。おもな産物は馬と、奥地で採取される翡翠。最近は国力をつけ、国名も〈琅〉という美称に変わったが、なおも礼節の及ばない荒ぶる地だという印象は変わらない。
さきほどの少女のはかなげな面影は、〈琅〉という地から連想されるものとは、あまりにもかけはなれていた。
「〈琅〉公の、妹姫だ。一名を玉公主《ぎょくこうしゅ》。そして――陛下の|孫※[#「女+息」、第4水準2-5-70]《まごよめ》にもあたる」
羅旋は、暗い天をあおぎながらつけ加えた。
「|※[#「女+息」、第4水準2-5-70]《よめ》――?」
「王孫妃、つまり、王の嫡孫の妃殿下にあたる。もっとも、夫君が亡くなって――十年になるはずだが」
「十年? ですが、どう見ても、今、やっと十五歳ぐらいにしか――」
「人質さ」
大牙が、ずばりといった。
「背かぬよう、〈魁〉の――つまり、太宰子懐や〈征〉公の意に従うよう、義京へつれてこられた質子《ちし》だ。〈琅〉は、土地も広く、収益もあがるし、西方のまもりとしての価値もあるから、おいそれとそむかれてはこまるのさ。あの公主は、三歳の年に十歳の王孫の妃となり――」
結婚は、親同士のあいだで取り決められるものだ。生まれもしないうちから、婚約がととのえられるのは、特に貴顕・士大夫の家ではめずらしくもない。だが、三歳で輿入れとなれば、名ばかりなのは明白だった。
「俺が質子として義京に来たころにはもう、寡婦になっていたな」
大牙はふいに声調をおとしてつぶやいた。
そのころに、戎華将軍の嗣子《しし》であった羅旋とも知りあったとすれば、先ほどからの態度も話が合う。
「――そういえば、おぬしにはまだ、名のっていなかったな。俺は段驥《だんき》、字を大牙《たいが》という。〈奎〉伯の三男で、なぜか嗣子でもある」
面識はなくとも、諸国の国君とその世継ぎの名ぐらいは、淑夜でも知っている。王の御前での会話からそれとなく察していたから、あわてることもなく、あらためて頭をさげた。
その仕草を、じっと観察していた大牙だが、
「おぬし、その身体で戦に出るつもりか」
いきなりうってかわって、辛辣な口調になった。
「相当、不自由なようではないか。立居ふるまいに苦労するようでは、戦ばたらきなどできぬぞ」
たしかに左脚に難がのこっているのだが、今夜のうごきがぎごちないのには、べつに理由があった。
「私は――」
むっと反論しかける前に、
「大牙、こいつの腕をめくりあげてみろ」
羅旋が人の悪そうな顔で口をだした。
「なにがある?」
淑夜は逃げる間もない。
華の民ともよばれる中原の人間は、礼節をなにより重んじるが、その基本はまず男女を問わず、他人に肌を見せないということである。男であろうと、たかが腕一本のことであろうと、勝手に衣服に手をかけるなどもってのほか、伯家の世嗣ともあろうものがやってよいことではない。
月明かりの下で、青痣だらけの二の腕があらわにされて、淑夜は激怒寸前となった。大牙はそれにもかまわず、
「ほう、これは派手だ。羅旋、おぬしがやったのか。弱い者いじめとは、立派なことだ」
「莫迦をいえ。たった、三日で馬にのれるように仕込むためには、傷だの打ち身だの、手加減していられるか」
「馬だと――? この文弱の徒を、馬に乗せたのか」
「仕方あるまい。おぬしのいうとおり、足手まといになってはこまるからな」
「それで乗りこなしたのか、たったの三日で?」
「超光だから、やれた芸当だがな」
いったとたんに、大牙は羅旋の前襟をいきなりつかみあげた。
「――あの騅《あしげ》を、こんな孩子《がき》にくれてやったのか! あれは、俺がもらおうと、何年も前から狙っていたやつだぞ!」
「俺の馬をだれにやろうと、俺の自儘だろうが!」
羅旋もまけずに、怒鳴りかえした。上背は、大牙の方がわずかに高いが、腕っぷしはあきらかに羅旋の方が上である。つかんだ腕を、逆につかみかえされひきはがされて、大牙公子は大仰にしかめ面をつくってみせた。
「この莫迦力が――」
「莫迦は、おたがいさまだ。超光しか適当な馬がおらんのだから、しかたあるまい。追風では俺以外の人間を乗せんし、ほかの馬は頭が悪くて、こいつの面倒がみられん」
「……人が馬の面倒をみるのではなく、その逆か」
「この場合は、そうなるかな」
「やっかいな奴だな」
だが、そういって淑夜を見た視線の中からは、悪意が消えた。天真爛漫というのか、いいたい放題という点では羅旋と肩をならべたろう。
翠色の眼をした羅旋が中原の基準からはずれるのは、理解できる。礼だの義だのといった規範が、そもそも身についていないのだ。
だが、れっきとした国君の嗣子であるはずの大牙が、なぜこうまで型やぶりなのかと、こっそり淑夜は首をひねった。けっして不自然だというのではない。だが、その騒ぎようが、羅旋のような生来のものではなく、意図的に型をやぶろうとしているように思われるのだ。ごく微妙な差であったし、確証もないことだったのだが――。
淑夜の疑念をよそに、ふたりの青年は酒を汲みかわしながら、なおも淑夜をいい肴にしていた。
「こんなやっかい者を、どこでひろった」
「巨鹿関の、谷底でな」
「おい、ほんとうにひろったのか。冗談でいったんだが」
「まちがいなく、落ちていたのをひろった。なあ?」
同意を求められて、淑夜もうなずくよりなかった。それが事実なのだから、仕方あるまい。
「しまった」
ほんとうにくやしそうに、大牙が膝を打った。
「どうした?」
「ひろいにいけばよかった」
「なんだ、それは。やっかい者といったばかりだろうが。ひろって、どうする」
「頭は、なかなかいい。謀士がひとり、ほしいと思っていたところだ」
「おそかったな。俺がもらった」
「なあ、淑夜。〈奎〉に仕える気はないか。俺は、おまえが気にいった。なにより、〈奎〉一国を囮にしようという、その性根がよい。仇ならば、俺がとらせてやる。そうだ、その方がいい。こんな蛮族にくっついていたところで、なにができるものか。〈奎〉に来い。〈衛〉の卿大夫の家柄にふさわしい働き場をやる――」
本気とも冗談ともつかぬ口調で、酒を強いながら、誘いをかける。羅旋はといえば、淑夜が大牙に応じてもよいと思うのか、緑の眼をひらめかせて笑っているばかりだ。
淑夜は、酒になれていない。彼がひと口ふた口と舐めている間に、羅旋と大牙はあらそうように觴を重ねた。どちらかといえば、羅旋の方が底なしで、顔色も変わらなければ口調の乱れもない。大牙の方が、先に酔色を表面に出した。
「いい夜だ――」
觴を投げだすようにして、天をあおぐ。淑夜もつられて、夜空を見た。
はじめて羅旋と逢った夜と同様の、満天の星だった。季節が移り、星の位置も変わっている。冲天に輝いていた赤火と呼ばれる赤い星が、大きく西にかたむいている。
空気はひんやりと冷たいが、冴えた感覚がかえって、酒にほてった身体には心地よいぐらいだった。
「賦《うた》でもつくらぬか、羅旋」
「俺にそんな才があると思うか」
「ちっ、芸のひとつも覚えたかと思ったに。能なしめ」
「――戈《ほこ》を操《く》り、甲を被《き》、車を錯《まじ》え、短兵接す……」
低く流れたのは、淑夜の声だ。戦のありさまを歌った辭《じ》だった。彼の作ったものではなく、古い歌謡だった。しかも、敗戦をうたったものだ。しかし、その悲壮な調子が大牙は気にいったらしい。不祥だとは責めなかった。
「旗は日を蔽《おお》い、敵は雲の如く――」
彼はまた、低く淑夜のあとにつづいて唱和する。羅旋は、觴をたたいて拍子をとった。
淑夜の胸の中に、幾人もの顔が、うかんではすぐに消えた。はじめて逢った〈魁〉王の疲れた顔、〈奎〉伯の、おだやかながら凜然としたおもだち。無影の顔も、横切ってすぐに消えたような気がする。そして、たしかに連姫の白い横顔もうかんだが、それが揺珠のさびしげな面影にとって代わるのを止めることはできなかった。
時が――時代が人の心とともに、大きく流れを変えはじめた、それが最初の夜だった。
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第四章――――――――火戦
(一)
耿無影の軍が長泉《ちょうせん》の野に到着したのは、それから十日後のことである。彼が〈奎〉につきつけてきた約定《やくじょう》の、指定日の前日にもあたっていた。
長泉の野は、瑶河の支流のなかほどにひらけた平地だが、ここの河幅はひろく、渡河にはむいた地形とはいえなかった。川や水路、湿地の多い〈衛〉の人間にとって、渡河自体はさほど困難なことではない。一番おそろしいのは、川を渡っている最中をたたかれることで、万全を期するならば、もっと下流にある、網津《もうしん》とよばれる渡し場へ迂回するべきだった。
中軍の大将に任じられた百来も、国許を出立するときからそう主張していた。だが、無影は耳をかたむけようともしなかったのだ。
「日数がかかりすぎる」
というのが、却下の理由だった。
「ですが、急げば間にあわぬ距離ではございませぬ」
もともと、そのつもりでこちらから指定した期日である。
「いそげば、兵が疲れる。脱落する者も出ようし、統制がとりにくくなる」
なるほど、相手は自国内でむかえうつわけだから、疲労は少ない。逆に、長途行軍していくこちらはどうしても不利になる。差がつくのは仕方ないとしても、その間をできるだけ埋める方策をとるべきだというのだ。
「しかし、敵の目前で渡河することになりますぞ。はたして、だまって渡してくれるものでございましょうか」
「そうなったら、卑怯者よばわりされるのは〈奎〉伯だ」
うっすらと微笑しながら、待っていたかのように無影はいったものだ。そうやって笑うと、ほほの傷あとがひきつって、いかにも酷薄そうな表情になる。それを無影はかくそうともしないばかりか、わざとその容貌を見せたがるようにも思えた。
「おのれの利害のためならば、どんな恥しらずなこともやる――と喧伝してやればよい。が、その必要はなかろう。〈奎〉伯は、約定を破れるほどに大胆な人物ではない」
次国とはいえ、〈魁〉建国時から連綿とつづく名家の当主である。温厚で律義な人となりと定評のある人間が――それも、もう六十歳を越えた老人が、思いきった手段に出るとは、考えにくかった。
これは、無影の慢心とはいえない。
〈奎〉伯がいったん義京へのぼり、〈征〉をはじめとする諸侯の援助をことわり、国外へ追い出したことまでは、無影の耳にもはいっていた。
「ご老人は、自棄《やけ》になられたらしい」
と、評した無影だが、その理由は彼なりに推察をつけたし、それがまるきりまちがいというわけでもなかった。だが、淑夜が〈奎〉伯親子と逢ったことまでは、知りようがない。淑夜が義京にいることまでは見当がついても、豪商の尤家の庇護をうけていようとは想像もつかないし、たかだか一婦人の暁華が〈魁〉王や〈奎〉伯にどれほどの影響力をもっているかなど、おおやけにされていることではない。
まして、赫羅旋《かくらせん》などという戎族の漢《おとこ》の存在を、予想のしようがあるものか。たとえ予測がついたところでどの程度のことができるか、わかるわけがない。羅旋自身、自分の仕掛けがどれほど影響力をもつのか、しっかりと把握していたとはいえないふしがあったのだ。〈奎〉伯、段之弦の律義さを大条件として軍をうごかし、予定どおり、予測どおりに長泉の野に到着した耿無影だったが――。
対峙する軍の統帥が、〈奎〉伯ではなくその三公子であると報告をうけたとたん、さっと顔色を変えた。
「段大牙か、〈奎〉伯の末子の!」
その声に憎悪がこもっているのに、百来将軍はとまどった。〈衛〉国内から出たことのない無影が、〈奎〉伯の嗣子と逢っているはずもなく、したがって好悪の感情をいだけるはずもない――そう考えるのが当然だ。
しかし無影は、たしかに、一面識もない段大牙を憎んでいたのだった。
段大牙は、〈奎〉伯の末子である。しかも、嫡子ではない。親の後を継ぐのは才能のいかんによらず嫡長子、というのが常識――ほとんど固定観念である時代に、世継ぎにさだめられたのは、よほどのことだといわねばならない。むろん、庶子が嗣子になる場合もまったくないではないが、そう例は多くない上に、骨肉の、それこそ血みどろの争いの末に、たいていの場合、競争者を殺し尽くして成りあがるのが相場である。
現在の〈魁〉王も同様だし、無影自身もやはり、主君もおのれの一族ももろともに葬り去り血塗れになった上で、やっと現在の地位にあるのだ。
段大牙の場合はといえば、父親の正室にひとりと庶腹にひとり、かなり年齢のはなれた異母の兄たちがおり、しかもふたりともが文武に秀でた人物だという。大牙が生まれたころには、ふたりともすでに成人に近く、どちらが嗣子にたてられてもおかしくなかった。それが、なぜか兄たちも、またその母たちまでもがこぞって大牙を可愛がり、器量を認め、その成長をまちのぞんだ。そして成人するのをまちかまえて、世継ぎにたてたのだという。〈魁〉へ質子に送られたのは、順境ばかりでは為にならぬという父親の配慮だったというから、無影にいわせれば、話にもならぬ。
「どれほどの器量があるかは知らぬが、奴はめぐまれすぎている」
そう、決めつけたのだ。
「なにほどのことができるか、じっくりと見せてもらう」
どちらかといえば細おもてで、武人の百来将軍にくらべれば、無影という人物ははるかにきゃしゃに見える。しかし、他人にめったなことではひけをとらなかったという、武術の腕の持ち主でもあるのだ。それが、戦袍を着け、剣を佩《は》き、一国の将の姿でそういいはなったところは、まるで一幅の絵のような迫力があった。
耿家の傍流として鬱々たる日をおくっていたころの彼を、百来は一度見たことがあるが、もっとくすんだ印象で、とりたてて記憶にものこらなかった。人はこれほど変われるものかと、百来は目をみはる思いがしていた。
「とまれ、布陣はぬかりなく終えました。明朝、払暁には戦端をひらくこととなりましょう」
「敵軍の数は」
「一万五千」
と、これはすでに物見の者を出して、調べあげている。
「少ないな」
無影が口の中でつぶやいたのには、わけがある。
国の大きさや格によって、軍の規模もほぼ決まっており、天子は六軍、大国(公国)は三軍、次国である侯・伯国は二軍をそなえるものと規定されている。
一軍の組織は、約一万二千から五千だから、〈奎〉伯国ならばだいたい二万五千の軍は動員できる計算になる。
むろんこれはあくまでたてまえ、〈魁〉の中原統一のころの規定である。三百年もたてば、人口も生産量も比較にならないほど増えている。公国の〈衛〉が六軍以上の規模をそなえて、なお国力のすべてをふりしぼったというわけではない。一方、〈奎〉の次国というのは格式の上での話で、封地の広さからいえばぎりぎりいっぱいの線だが、それでも危急のこととなれば三万ぐらいは、かきあつめられるはずだった。
「急なことで、陣容がととのわなかったようですな」
「推測で、ことを断定するな」
「いえ。これは諜者や物見を充分にはなっての結果です。野営の竃《かまど》の数から推定いたしましたから、数にはまちがいはないかと。ことさら小細工をせずとも勝てる数です。これは、左、右軍はうごく必要もないかもしれませぬ」
十万の兵は、左、中、右軍と、三万ずつに分けられている。のこる一万の兵はえりすぐりの精鋭で、無影の親衛軍として後方に布陣する。もっとも、各軍とも一部は、糧食などをはこぶ革車《かくしゃ》(輜重隊《しちょうたい》)だが、中軍だけであたっても、〈奎〉全軍より多い兵力でおしつぶせる道理である。
「慢心するな。相手も覚悟をきめてかかってこよう。全軍をもってたたきつぶせ」
「わかっております」
「左右軍の動静は」
「明日にそなえて、寝しずまっております」
「監視をおこたるな。特に左軍にはな」
右軍の大将は、百来の同輩で、晁不外《ちょうふがい》といった。前〈衛〉公とは不仲で有名だったという理由で、無影にみとめられた。あまり公明正大とはいいがたい性格で、ことにおのれの幕下の者につらくあたるといううわさだったが、こと戦場においては信頼に足る男だったから、ことさらに配慮する必要はないはずだった。
問題は左軍の将軍、名を|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》、つまり無影の後宮にある連姫の、叔父である人物だった。無影自身の母方の遠縁にもあたる男である。けっして無能な人物ではなく、機を見る勘のようなものにはすぐれているのだが、敏感すぎていかにも露骨な行動になってしまうふしがあった。
姪の美貌をいいことに、高くうりつける先をさんざん物色したあげく、〈衛〉公となった無影に脅されてあっさりとひき渡した。それはまだよい。今回の出陣に際して、寵姫の叔父という立場を盾に左将軍の地位を要求してきたと聞いた時、百来は鼻白む思いがしたものだ。
それで地位や名声や財産が得られるなら、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器はおのれの手足でも売るだろう。戦場で、功名に目がくらんで戦局を見失ったり、ぬけがけをする可能性もある。いや、裏切りを働いても、だれもが納得するだろう。無影も、その点は承知の上で登用したらしく、地位や職権は与えたが、左軍のうごきには十分に留意するよう、百来に命じていたのだった。
「全軍に対しても、逃亡などせぬよう、監視をおこたらぬよう」
百来が、返事を声にせず仕草だけでかしこまる、その上へかぶせてことばが降った。表情はおしかくしたが、百来は不快になるのをこらえられなかった。
無理からぬことだとは思う。〈衛〉軍の武将のほとんどは、百来自身をふくめて先公の家臣なのである。短期間のうちに無影が抜擢した将士もいないではないが、数は圧倒的に少ないし、無影に心から忠誠をつくすというまでには至っていない。軍規を乱す者やいざとなって逃亡をはかりそうな者、また無影を快く思っていないものもすくなくない。
それでなくとも、全軍の九割以上を占める徒兵は、ふだんは武器など手にしたこともない農夫たちである。おのれの土地や家族からひきはなされた彼らは、おりさえあれば逃げてもどろうとしかねない。むろん、ひとり兵卒をだせば、その一家は徭役《ようえき》や租税を減免される恩典がある。だからといって、戦へいくのだ、当然、死ぬ可能性もあるわけだから、恐怖心はそうとうなものだ。それを、そっくりそのまま戦場へおくりこむのに、いままでどこの国も苦労をしてきた。
それを、無影は兵同士を何人かずつ組にして、たがいに監視させることで解決してみせた。逃亡や軍規違反、また造反のたくらみなど、だれかひとりでも罪人が出れば、その組全員が厳しく処罰される。つまり、連座である。一方、報償をおもいきり高くして、密告を奨励した。
片手に剣をにぎり、片手で甘い蜜をさしだしてみせたのだ。
たしかに、これは効果があった。
故国を手薄にするほどの大軍をひきいながら、今まで脱落した者はほとんどいないのだ。その手腕には、百来も感嘆した。認めはしたが、だからといって気分のよいものでは決してなかった。その上に――。
「あとはまかせたぞ」
そういいのこして無影がもどっていった天幕の周囲には、屈強な兵士がほとんど肩をならべるようにして、厳重な警戒をしいていた。
親衛の兵を身辺に置くのは常識である。しかし無影の場合、その警戒の仕様は常識の範囲をこえていた。
もっとも信頼されているはずの百来ですら、天幕にまで入ることを許されていない。近よれるのは、身分の低い小者と、親衛兵のみである。親衛軍には気前よく金品を与え、手なずけにかかっているのだが、反面、ほんのわずかな非違《ひい》にもきびしい処罰でのぞむのが常だ。無影の意思にすこしでもそわなければ、厳罰が待っている。事実、それで手足を失った兵が、ひとりやふたりではない。まだ、死者がでていないのが不思議なほどだ。
耿無影は、だれひとり――親衛兵ですら、信じていないのだ。
(――おそらくは)
天幕をふりかえり、晴れわたった夜天にむかって百来は息を吐いた。
(女にも、心を許してはおらぬだろう)
天幕の中には、数人の女兵士に守られて、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫がいるはずだった。
女を戦場にまで連れてくるのは、非常識の部類にはいる。だが、のこしておくわけにもいかない事由も心情も理解はできるし、兵のあいだから不平不満が出ているわけでもないから、関知することではないのかもしれない。
だが、いつ見てもするどく研ぎすました針のような無影の容貌を見るうちに、これはやがて生命取りになるやもしれぬと、ふと思ったのもたしかだった。
武辺一方の百来だから、なにがどうと推察することはできない。仮にも主君の寵姫であるから、女の顔を見たこともなければ、声を聞いたこともない。だが、どうやら連姫が冷ややかな態度をとっているらしい――ことぐらいは、それとなくわかった。
寵愛する女がそばにいてさえ、神経の糸を張りつめているのだ。これでは、気の緩《ゆる》むひまがない。張りきった糸は、いつかは切れる。無影はその外見よりずっと勁《つよ》いが、いつまでその極限をたもっていられるだろうか――。
(やれるところまで、賭けてみるか)
それ以外、今のところ途《みち》はない。百来の身辺にさえも、監視の目は光っているのだ。
払暁まで、数刻(一刻=約二時間)。どうやら、眠っている暇はなさそうだった。
おなじころ――。
百来とおなじ疑念と不安とに揺れている男が、もうひとりいた。
〈衛〉軍と対峙する陣営の、その統領たる段大牙である。疑念の対象が羅旋であるのは、むろんというべきだろうか。さずけられた策の成否をうたがったというより、その正邪に疑問をいだかされた気配があった。
「このようにいいかげんな陣容で、どう戦えといわれるのだ」
「いや、戦って死ねというなら、まだよい。わざと負けてにげろとは、どういうご了見か」
「この策は、老伯や公子から出たものではないとうけたまわっている。戎族風情の妄言にたよって、あたら名家の御名を損なわれるおつもりか」
夜半から大牙の天幕へとやってきて、口々につめよったのは、代々、〈奎〉伯家に仕える上卿たち、三人だった。〈衛〉軍の数にくらべれば微々たるものだが、古来よりの軍法によって左右中と分かたれた軍をひきいる、武人たちでもある。
大牙は、直接地面に獣の毛皮を敷いて座をしつらえた上に、片足を立てて座り、大剣をかかえこんであらぬ方を見ていた。まともにとりあう気はないのだが、かといって怒鳴りつけて追い払うには相手が悪すぎる。
三人はいずれも、二十歳そこそこの大牙よりもはるかに年長なのだ。位は〈奎〉伯の嗣子である大牙の方が上だが、かといって年長者にむかって無礼をはたらくわけにもいかないのがつらいところだった。
年長であるから、当然、戦場の経験も多く気性もはげしい。もっとも年配の冀小狛《きしょうはく》という将軍などは、そのみごとな髭づらのあいだに刀創を走らせるこわもてで、身を乗りだしてくる。そんな形相に今さらおじけづくような大牙でもないが、男に詰めよられても楽しいわけがない。
その口やかましさに、いささか閉口したのが心中の半分。
のこりの半分にしのびこんだのがつまり、羅旋という男のたてた策を、鵜呑みにしてよいのかという不安だったのだ。
――戦うふりをして、わざと負けて逃げ帰れ。巨鹿関まで、絶対に休むな。全力をあげて、〈衛〉の軍をひきよせろ。
羅旋は、そう指示した。
そのために、老伯ではなく大牙に軍を統括するように命じ、しかも率いる員数はできるかぎり減らすようにした。主戦力たる戦車の台数とそれに乗る甲士の数は、そう簡単に減らすわけにいかないため、削減の対象となったのは歩卒と革車である。当然、食料、飼料も必要最小限度しか、与えられなかった。
もっとも、どれだけ運びこんだところで、籠城や持久戦をやるわけではないから、無駄なことはわかっている。だが、武器のうちでもっとも消耗の激しい矢の大半を、背後の巨鹿関にのこしていくよう指示されたのは、不服だった。
実をいえば大牙は、〈衛〉軍を巨鹿関までひきつけたあとでなにが起きるか、そのあらましも羅旋から知らされている。どう考えても数で劣る〈奎〉が、〈衛〉の大軍の足を止めるためには、奇計もやむを得ないと知っている。
だが――。
理屈ではわかっていても、心情では納得できないのだ。正々堂々と正面から軍をぶつけあい、敵の将を討ちとって撃ち破り勝利をあげる。――いや、たとえ敗れたところで、〈魁〉の宗室につながる段家の武人の名誉となりこそすれ、恥とはならない。
だまし討ちで勝つぐらいなら、いっそのこと――と、血気にはやる大牙がそう考えるのは、当然だった。この陣にある最高の責任者が彼ではなく父・之弦であれば、主戦論をとなえて一番に詰めよったのは大牙だったろう。だが――。
「親父どのの定めたことだ」
苦い声で、そう答えるのが大牙にできるせいいっぱいだった。
この陣にある将兵たち、そして〈奎〉の民草の生命と安全をにぎっているのは、大牙なのだ。感情にまかせてつっ走るわけにはいかない。老父がそばにいないからといって――いや、いないからこそ、その命令には背けないのだ。
「そして、羅旋のいうことには絶対にしたがえとの、親父どののご下命だ」
「わが兵は、あのような馬の骨の言にはしたがえぬ。公子のおおせならばともかくも」
「そのおれが、羅旋にしたがえといっているのだ。聞けぬのか」
威嚇したつもりだったが、声に苦渋がにじんだ。それを微妙に感じとったのだろう、冀小狛将軍がさらに、ずいと膝をすすめて、叫んだのだ。
「若殿は、怯懦《きょうだ》のそしりをうけられるおつもりか」
「怯儒だと――!」
一瞬、大牙の顔がかっと真っ赤に染まった。こらえきれずに、手を大剣の柄にかけ、がばりと立ちあがる。
平生の彼なら、ここで、
「おれのどこが怯儒だ!」
そう、わめいただろう。
「――負けるふりは、とりやめだ。全軍、総力をあげて真正面から〈衛〉軍にかかれ。ねらうのは、耿無影の首級《しるし》、ただひとつでいい。みているがいい。おれは、りっぱに戦死してやるからな!」
と、きっと、叫んだはずだった。
だが――。
大牙は大きく息を吸いこんだかと思うと、どかりと腰を落とし、組んだ膝の上へ大剣を横たえた。
「やめた」
「なんですと?」
「おれを挑発するつもりなら、その手はくわん」
「若殿!」
冀将軍が、文字どおり吠えたてた。
「おれに、不孝者になれというか!」
年長の将軍の怒声に、負けじと大牙も怒鳴りかえす。
「いったい、大殿はなにをお考えなのだ!」
「おれに訊くな! 親父どのにうかがってこい!」
せまい天幕の中で、周囲はすっかり寝しずまっているのだ。なにも大声をだす必要はないのだが、はずみというもので、声がしずまらない。
怒鳴りあって、肺腑いっぱいの空気を使い果たしたところで、両者はほっと同時に息をついた。
「ここまで来ておいて、なにをいっても仕方があるまい」
膝の大剣をひとつたたいて、大牙が吐き出すようにいった。
「巨鹿関では、すでに手はずをととのえている。勝てないまでも、負けない算段をしている。おれたちがここで全滅したところで、段どりは変わらん。無駄死にになるだけだ」
むしろおのれにいいきかせるように、ひとことひとこと、はっきりと区切りながらいった。
「しかし――」
「羅旋は、これまでの戦の常道を忘れろといった。こだわっていては勝てぬといった。親父どのも、それに賛同した。――親父どのの方が、だれよりも遠くを見ているのかもしれぬ」
「どういう意味でござるか」
「ここだけの話だが、親父どのは〈魁〉の宗室の命運もそう長いものではないと思っておられる」
「そんな、莫迦な――」
「いや、なにごとも永劫につづくものはない。滅びるのは天の定めた命数。だが、そのあとの中原がどうなるか――新しい覇者、新しい秩序、あたらしいものの考え方が現れるだろう。その可能性を、羅旋に見ておられる。そのように、見える」
「戎に、中原を治められるものか」
つぶやいたのは冀小狛ではなく、左軍を率いる将軍である。
羅旋に、戦の指揮ならともかく、政が執れるとは大牙も思っていない。父、段之弦の思惑が、そんなに単純なものでないことも、おぼろげながらに理解できる。
だが、それを目の前の将軍たちに納得させるのは、ひと苦労だろう。大牙の才は武だけにかたよっているものではないが、弁舌がたくみだとはいえなかった。
「今は、とにかく〈衛〉の十万の軍を、追いかえすことだ。くりかえして申しわたすが、死んではならぬ。これは、まだ緒戦にすぎぬ。〈奎〉はこれから、もっと厳しい立場にさらされるのだからな」
これは、効き目があった。
冀将軍でさえ、それ以上の反論のしようがなかった。それをいいことに、
「もう、ひきとって寝《やす》むがいい」
大牙は追い出しにかかった。
「寝むといっても――もう、朝の方が近いでしょうが」
「眠れるものなら、すこしでも身体を休めておくがいい。今のうちに腹を満たしておくのもいい。明日は、水を飲むひまもないかもしれんぞ」
いわれて、まだ不服顔ながらも三人は、それぞれ一礼して天幕を出ていった。
「――おや」
「霧が出てきたようだが」
冀将軍の髭づらが、幕をかかげて大牙をふりかえった。
「明日の朝は、視界が悪くなるかもしれませぬな」
「心配いらぬ」
大牙の動揺はなかった。
「われらに不利になるようなことはない。安心して支度しろ」
「……なにを、ご存知なのです、公子」
「さて」
大剣をもう一度たたいて、大牙はそれ以上、口をひらこうとはしなかった。その不機嫌な横顔をじっと見すえておいて、ようやく冀小狛はあきらめたように幕をおろした。
人の気配が去った天幕の内で、大牙は彼らしくない大きな吐息をついた。そうしておいてから、膝の陰に置いてあった布のつつみをひきだした。布から出てきたのは粗末な木箱、そしてその中から取りだされたのは、透明な玉だった。握れば、手の中にすっぽり収まるほどの小さな水晶塊にすぎない。だが、それが奇妙に内部から光を放っているように見えるのは、眼の錯覚だろうか。
大牙はじっと目をこらして玉の中心をのぞきこんだ。まるで、その内部に未来が見えるかのようだった。
黎明は、間近だった。
戦の朝は晴れるべきだと、百来は思っていた。
曙光が、ずらりとたてならべた戈の穂先にかかって、きらめいた瞬間、戦の合図の鼓《こ》がなり響くのが似つかわしい。
すくなくとも、百来がそれまでに経験した戦の大半はそうだった。むろん、曇天の下やどしゃぶりの雨の朝もなかったわけではないが、こんなに濃い霧は、はじめての経験だった。
なにしろ、のばした自分の腕先が、もう見えなくなっている。隣にいるはずの僚友の顔など、判別できるはずがない。それでも昨夜のうちに配置を終えていたおかげで、手さぐりでもなんでも戦支度はととのったが、胴甲や戦襖《せんおう》や武具の先にからみつく湿気には、不快感さえともなった。
「――妙な霧だ」
ひときわ美々しい戦車に乗った無影が、だれへともなしにつぶやいた。
「こんなはずはない。道理にあわない」
眉のあたりをするどくとがらせて、いらいらという。
晩秋は霧がでやすいものだが、山狭の地ならともかく、空気のよどむことのすくない平地である。川霧が出たところで、よほどのことがないかぎり、日がさせばすぐに拡散してしまうはずだ。
「いかが、なされる」
側にのこっていた百来将軍が、やはり奇異なものを敏感に感じとって、主君に指示をあおいだそのときだった。
霧が、音をたててうごいたのだ。
どっとあがった鯨波《とき》が、文字どおり、霧の波となっておしよせてきた。
「襲来――!」
味方の兵が急を告げる声が、鯨波にまじってここまでとどいた。
「殿下!」
「行け!」
命じられるまでもなく、百来は車を出していた。
戦車の緒戦は、矢の応酬ではじまる。前線とおぼしき方角へ、まっしぐらに車を駆るあいだにも、弓弦のぶん、と鈍い音が耳に反響した。
この濃い霧の中で、矢は目前へあらわれるまで、まったく見えない。音だけがたよりなのだが、それも鯨波の声にかきけされかけている。
百来は、飛来する矢の角度をたどって敵の方角を直感的に知り、しゃにむに車を走らせた。車の後を数十人の卒が、たがいに手をとったり肩や衣服の端を持ちあったりして、必死につづく。
前線は、くずれたっていた。
戦が職業であり義務である士大夫でも、なかなか臨機応変の行動はとれないものだ。狩りあつめられた歩卒も、一応の訓練をうけているが、不意をうたれた場合までは想定していない。うろたえたあげくに矢羽をつきたてられた歩卒の遺骸が、霧の中からつぎつぎと目にはいった。
その羽の色をみとめて、
「弓をつかうな! 味方にあたる! つっこめ、前進しろ!」
百来が叫んだ声が、こだまのようになって中軍全体につたわっていった。同時に、伝令が両翼の軍にも走ったが――これは、たどりつけるか心もとなかった。
百来将軍は、奥歯を音がするほどかみしめながら、戈を右士《うし》からとりあげた。役にたたない弩弓は、かたわらの歩卒に投げわたす。そして、白い壁のような前方をにらみつけた。さきほどにくらべれば、少しうすらいだようで、ななめ上方からの日の光もうっすらと感じとれるようになっていた。
太陽の位置がわかれば、自分の位置も推測がつけられる。
〈奎〉伯の嗣子が陣を布《し》いている――はずの方角をとっさに判断すると、
「声をあげよ」
従卒たちに、命じた。
「儂《わし》につづけ」
さらに命じておいて、車の御者をうながした。横一列にならんだ四頭の馬が、全力で駆けだした。
――わあ……っ、と。
地の底をどよもすような音が、またしても湧きあがった。後方から聞こえたのは、まちがいなく味方のものだが、正面からもまた、同様の鯨波《とき》の声があがったのである。
(来るな――)
と、百来は判断した。
味方が接近戦にもちこもうとしているのが、敵軍にも伝わったのだ。声をはりあげて伝達しているのだから、無理もないことだ。
ようやくうすらいだ霧の中から、影のかたまりがぼんやりとうかびあがったのは、そのときだった。
百来は、戈を地面と水平につきだした。
馬蹄と車輪のとどろきが、一瞬、交錯した。
はげしい衝撃とともに、人の身体がひとつ、地面にころがった。血|飛沫《しぶき》は、遺骸が地に触れてからあがったため、駆けぬけた百来の車に飛んだかえり血はわずかだった。
戈をもつのは通常、右士《うし》である。左士《さし》がもってはいけないという法はないが、敵も不意をつかれたのだろう。左士を失った敵の車は薄い霧の中にいっさんに逃げこんでしまい、落とされた犠牲者には、百来にしたがっていた歩卒が刀子《とうす》をふりかざしてむらがっていった。
これが常ならば、百来は歩卒たちに始末をまかせあらたな敵にたちむかうのだが、ふと眼の隅をよぎったものが気にかかった。
「かえせ」
御者に命じて、車をぐるりともどさせた。
敵の甲士は、すでに絶命していた。歩卒にとどめをさされるまでもなく、即死だったらしい。身に帯びた剣や甲は、すでにはぎとられている。敵味方を問わず、武具の回収は歩卒の役目だから、これは当然のことである。
いつもなら、装備を奪《と》ろう奪《と》られるまいという争いになるのだが、むこうの車にはほとんど卒がしたがっていなかったために、歩卒同士の争いもおきなかった。
車から降りずに、百来は遺骸をのぞきこんだ。そして、遺骸の背から、戦とは直接関係なさそうなものがのぞいているのをみとめて、低くうなった。
「これは、なんだ」
ちいさな、三角形の幡《はた》だった。
染めもせず、端を縫いもせず、切りはなしたままのかたちに細枝をとりつけたもので、その白地の中央に青い染料で、なにやら大書してある。それを、歩卒に命じてひろげさせて――。
百来は、赤ら顔をさらに赤くした。
「妖術か――!」
幡《はた》には、お世辞にも上手いとはいえぬ筆跡で、『霧』と書いてあったのだった。どういうからくりかは知らないし、百来自身、妖術だのあやかしだのを信じてはいなかったのだが、この霧と幡とが関連しているらしいと認めるしかなかった。
「孩子《こども》だましが――!」
この幡を見て、彼は万事をさとった――つもりになった。
これは、劣勢をおぎなうための小細工、〈奎〉軍が、ここでなんとしても〈衛〉軍の脚を止めようとしてはかったことだと。
霧は、ほとんど晴れかけていた。周囲にうごく影の敵味方の判別も、容易になった。味方ばかりで、敵の姿ははるか前方にあった。しかも、遠ざかる姿が。
だが、
「追え――!」
彼が怒号を発する前に、はるかに突出していた一軍があったのだ。左翼の陣にかまえていた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の軍は、鼓声を聞き、それとばかりに霧の中をいっさんに走りだしていた。一団となっていたことと、敵の襲撃が中軍に集中したこと、偶然に方向が正しかったことと――条件がそろったために、百来より早く霧からぬけだし、その正体に気づいたのだった。
この霧は、この平坦な地の、なんと〈衛〉の陣の部分にだけ発生していたのだ。だから駆けぬけてしまえば、まばゆい朝の光が映える蒼天がひろがっており、霧の外から矢を射かけるだけ射かけておいてさっと退却にうつる〈奎〉の軍の背も見えたのだった。
それをとっさに追撃にかかったのは、功名心というよりも、やはり当然の判断だというべきだろう。
だが、
「――妙だ」
と、百来が追撃の命令をためらった直感力までは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器にはなかった。
百来は、敵の姿を確認するや、即座に進撃を止めた。
敗走が、早すぎるのだ。
左道《さどう》の小細工までしてのけた理由が、これではわからないではないか。
百来が、ほかの軍をよびもどすかどうか、まよっているあいだに、左軍は〈奎〉の本隊を追って、かなりの距離をすすんでしまっていたのだった。
(二)
「来るだろうか」
巨鹿関の城壁の望楼の上で、淑夜はだれともなしにつぶやいた。
関とはいっても、ふだんはろくに武装もしていない旅人相手の塞である。本格的な戦闘には不向きだったものを、とりあえず城壁の補修をし、要所要所にいくつか粗雑なものながら高い櫓を組みあげて見晴らしをよくしてある。
材料の木材は、周囲の山にいくらでもあった。それを、惜しげもなく切りたおしたのはいいとして、直接に指揮にあたった羅旋は、望楼をつくるのに必要な量以上を伐採させた。それも、一箇所から切りださず、広い山中の間道づたいに何箇所からか切りだして、関から遠いところに積みあげ、その上なにやら細工をくわえたらしい。
伐採には、〈奎〉の兵の一部をさいた。ふつうなら兵車にしたがって前線を駆けまわるはずの、歩卒たちである。あまり訓練をほどこされていない新兵たちをわざわざ選んで、この後方にのこし、土木作業に従事させたというわけだ。
余分の木材をなにに使うかは、淑夜は聞かなかった。たずねても、どうせ、自分で考えろと怒鳴られるのがおちだったからだ。そういう意味での親切心など、かけらも持ち合わせていない羅旋だった。
ここでは、淑夜は決まった仕事を与えられていなかった。足の不自由がその理由だったのだが、とにかく時間があるものだから、一日のあいだに何度もこうやって望楼にのぼり、周囲を見まわしながらぼんやりと物を考えているのだ。
むろん、まるきり遊んでいるわけではない。やれる仕事はてつだっている。そのうえ、羅旋が関の中にはいっこうにいつかないくせをして、気まぐれのように淑夜をつかまえては、棒だの矛だのといった武術の相手をさせる。相手というより、ほとんど一方的にたたきふせられているようなものだが、それでも身体の痛みが徐々にうすらいで、なめらかにうごくようになり、望楼へののぼり降りも不安をおぼえなくなった。
望楼はかなりの高さだったが、淑夜には不思議と恐怖感がなかった。むしろ、谷のあいだをぬけていく風に吹かれていると、身体まですきとおっていくような気がする。ここにいると、つい三月ほど前、暑気に蒸れ身体と精神の苦痛とにうめきながらここをこっそりぬけていったのが、嘘のようだ。五叟《ごそう》先生こと莫窮奇《ばくきゅうき》老人と、壮棄才《そうきさい》があがってきたときにも、淑夜はぼんやりと長泉の野の方角をながめていた。
「どうじゃな?」
五叟老人が声をかけると、
「来るでしょうか?」
そう繰りかえした。
「来るじゃろうよ。そのために、わしがひと肌ぬいでやったじゃろうが」
「それは、そうですが」
「おぬし、疑うとるな。わしの苦心の五里霧を」
「この目で見たわけでは、ありませんから」
いいかえすと、鼻先で笑いとばして、
「ただ負けただけでは、無影が食らいついてこぬかもしれぬといいだしたのは、おまえさんじゃろうが。それにあわせて、細工をした。これで来なければ、なにをやってもひっかからぬわい」
最初に、わざと負けることに危惧の念を示したのは、段大牙だった。この時の異議申したては、その策の善し悪しについてではなかった。うまく敵をひきつけられるかどうか保証できないといったのである。
「俺は、俳優《わざおぎ》ではないからな」
いばる問題でもないと思うのだが、胸をはってそういってのけた。
「たしかに、下手に負けると、疑われるかもしれません。無影は用心深い性格です。――すくなくとも、私が知っている彼は、そうでした」
「ふむ。そうすると、奴に疑いを起こすひまをあたえない工夫がいるな」
あごのあたりを撫でながらつぶやいたのは、羅旋。そのまま、顔の向きも表情も変えずに、
「おい、おまえの堂兄は、家柄とか生まれとかを気にかけていた方か?」
妙なことをたずねた。
「いいえ。逆に、それに頼って出世していく者を軽蔑していました。おのれの力――学問やら武術の腕やらについて、いささかなりとも自負がありましたから、特に」
「なら、そのあたりをつつけばいい」
小細工の部類をしかけて、まんまとひっかければいいのだ。すこしからかってやれば、頭に血がのぼって、多少なりとも判断が狂うのではないか。
「おまえならば、こんな場合、どう思う?」
と、示されたのが、五叟先生の術とやらで局地的に妖霧を起こし、陣容を混乱させてすばやく退くという案だった。
「ただし、わしの起こす霧は、五里四方(約二キロ四方。一里=約四〇五メートル)しか張れぬでな。時間も、あまり持たぬぞ」
「それでいい。この場合、霧に意味はあまりない。小莫迦にされたと思わせれば、それで十分だ」
五叟先生の注意にも、満足そうにうなずいて、
「霧の外からひっかきまわして、さっさと逃げてこい。ただし、あまり逃げ足が早くても、いかんからな」
羅旋は、大牙に指示した。
「せいぜい、からかって遊んでこられよ」
「まちがっても勝つんじゃないぞ。これは、いやがらせにすぎんのだからな」
と、五叟先生とふたりして妙なはげまし方をして、大牙を送りだしたのが三日前のこと。
それ以来、大牙からの連絡は絶えている。当然のことではあるのだが、それでも心配なことに変わりはない。そんな淑夜の憂い顔を笑って、
「――あれが、見えるかの?」
望楼の上から老人が骨だらけの指で示したのは、日没ちかい中空である。ぼんやりとうすい雲が、ただよっているように見えた。さほど高い位置ではない。
「雲を見れば、安否ぐらいはわかるわい」
「占卜《せんぼく》ですか」
その淑夜の口調が不満だったのだろう。
「そう、莫迦にしたものではないぞ」
五叟先生は、むっと不機嫌になった。
「雲気を見るというてな、その下で起こったことが、気となってたちのぼる。どの方向のどれぐらいの距離の場所でなにがあったか、ぐらいは、その色だの形だのからわかる。天地、日月、星辰、風角《ふうかく》、雲気、すべて、それなりの根拠があるもんじゃよ。どうじゃ、その気ならばおまえさんにも教えてやるぞ」
だが、淑夜は巫《みこ》になる気はなかったし、本気にもしなかった。
「三公子が無事と、わかりますか」
ただ、念をおすことだけは忘れなかった。
「おお、わかるとも。この暮れ方頃には、ここへ駆けこんでくるだろうさ」
「今朝が会戦の期日ですよ。半日で、ここまでたどりつけますか」
「そのために、戦慣れしておらぬ歩卒を減らして、兵車ばかりの陣立てをとったわけじゃ。まあ、羅旋のやることにぬかりはないわな。おまえさんは、見ておればよい。今のところはな。さて、羅旋に知らせて来ようかの。今夜あたり、いそがしくなるぞ」
羅旋なら、「じいさんのくせして、血に飢えやがって」と評しそうな、いかにもたのしげな表情で歯の缺《か》けた口を大きくあけ、呵々《かか》と笑うと、そのまま降りていってしまった。どうやら彼は、淑夜にも示した雲気とやらを確認しにきたものらしい。
残ったのは、淑夜と壮棄才のふたり。淑夜はこの漢を最初から苦手視していたが、こうしてとりのこされてみると、話すどころか視線をむけることすらためらわれて、どうにも困惑の色をかくせなかった。
だいたい、余人をまじえずにこの男とむきあったことなど、いままでに一度もないのだ。棄才の方からも淑夜からも、声をかけたこともなかったし、その必要もなかった。〈奎〉伯親子をまじえての打ち合わせの場面にも、羅旋の影のようにいつもつき従ってはいた。しかし彼から口をひらくでなし、羅旋もめったなことでは意見をもとめなかったから、印象はひどくうすい。おそらく〈奎〉伯も段大牙も、この無口な男に記憶があるかと訊かれたら、一瞬とまどうだろう。
だが、淑夜はそのあいだもずっと、不気味なものは感じていたのだ。こうやって、故意か偶然かとにかく、かたわらにいられると、呼吸がつまりそうな錯覚さえおぼえてしまった。
それが、表情に出たのだろう。
「ひとつ、訊く」
前おきもなく、まるでことばを惜しむかのように短く、あちらからまっすぐに斬りこんできたのだった。淑夜は、われ知らず身がまえた――といっても、ふたりの位置は櫓の対角で、一丈(約二メートル強)ほどはあったから、直接に危害を加えられるとは、まず考えられなかったが。
棄才の方から話しかけてきた、これがはじめてのことだった。
「〈衛〉の者が、〈衛〉の兵を殺せるのか」
震えともしびれともつかぬものが、身体の芯をはしりぬけるのを、淑夜は感じた。
「――耿無影は、一族の仇であり……」
「わかっている。だが、その恨み、十万の兵にまでおよぼせるか」
ふたたび、身体の奥がしびれる。罪悪感とは、こういうものかと頭のどこかで考えていた。正直、そんなことは、ほとんど考慮にいれていなかったのだ。
「殺せぬのなら、今のうちに去れ。逃亡の罪には問わぬ」
「どういう意味です」
「耿無影は、〈衛〉では才子として知られていた男。耿の宗家の七男は、耿無影に私淑しきって、いいなりだったとか」
「私は――!」
「うたがう者もいるということだ」
棄才の顔には、ほとんど表情というものがうかばない。淑夜には、彼がなにを考えているのか、すぐにはわからなかった。
「うたがう――?」
「間《かん》」
応えはきわめて短かったが、淑夜の背すじに冷水をあびせるのには充分だった。
淑夜が諜者《ちょうじゃ》ではないかと、うたがっているのだ。仲たがいしたとみせかけて、無影と対立する勢力を内部から攪乱《かくらん》するために、潜入したのだと。
たしかに、いかにも無影が考えそうな策だとは、淑夜もみとめる。
だが、淑夜にうしろめたいことがなにひとつないのも事実だった。身におぼえのないことだし、うたがわれたところで、〈衛〉との音信もふっつりと絶えているのだから証拠などあろうはずがない。
羅旋に救われなければ淑夜はこの巨鹿関でひとり、ひっそりと息絶えていたはずだ。羅旋と尤家のかかわり、尤家と〈魁〉王家、〈奎〉伯家とをむすぶ線を知っている者も、多くない。ねらいすまして、今、〈奎〉の陣営内にいることなど、不可能に近い。
――だが。
懐疑とは、理屈ではないことも、淑夜は直感として知っていた。彼が〈衛〉の出身で、〈衛〉公と血のつながりがあるというだけで、淑夜を憎悪する者がいても不思議はない。
(憎悪――?)
ふと、棄才の眼をのぞきこんで、淑夜はとまどった。
(この男は、私を憎んでいるのだろうか。〈衛〉の、耿家の人間という理由で……?)
〈衛〉にいたころの淑夜は、他人に関心をもたれず、持ったこともなかった。白状してしまえば、父や異母兄たちがなにを考えどんな仕事をしていたかも、ろくに知ってはいない。それもそのはずで、あれほど仲のよかった無影が本心でなにを思っていたかさえわからなかったのだ。
「ひとりのために、結束がこわれては、勝てぬ」
だが、ここを出て、どこへ行けというのだ。ひとりでは、人ひとり殺すことすらできない無力を、今の淑夜は充分に知っていた。しかも、これまでの経緯からいっても、羅旋に無断で出ていくわけにはいかないではないか。
棄才の、蛇族を思わせる視線をあびながら、淑夜は、反論することも弁解することもできず、ただこおりついていた。
呪縛をやぶったのは、他の櫓からと、この望楼のはしごの下から、同時にあがった声だった。
「来た!」
「淑夜どの! 来ました!」
真下から、まっすぐに天をあおぐように叫んだのは、徐夫余《じょふよ》という兵士である。これが実は、淑夜が巨鹿関をぬけるときに、彼がひそんでいた荷車をあやしいとにらんで、とっさに手槍をつきたてた本人なのだ。
羅旋は巨鹿関へ到着すると、すぐにここを守備していた兵士たちをいったん解散させ、数人ずつの組に分けて、義京からつれてきた百人ほどの男をその長にふりあてた。いずれも、羅旋を頭領とよぶ游侠の漢たちだ。それだけでは足りないので、老伯からあずけられた〈奎〉軍の中からも数人えらんで、上士《じょうし》にとりたてた。徐夫余は、まっさきに、あの時の若い兵士と名指しでさがしだされて、卒長に抜擢されたのだった。
「とっさに、的確な判断をした」
というのが、その理由である。
それを、羅旋の口から聞いた徐夫余は、恐縮すると同時に、羅旋に心服したらしい。外見は、純朴そうなどこにでもいる若い農夫だが、腕力もあれば、文字もすこしは知っていた。なにより実直、誠実で、淑夜もすぐに、あわやという目に遭わされたことを忘れることができた。それをみこんで、羅旋も、夫余《ふよ》を淑夜の直属の部下に組み入れたのだ。
その夫余が、腕をのばしてさし示した、南が巨鹿関の入口の方向である。山の稜線のあいだから、黄色い雲がわきあがっていた。
「羅旋は!」
今朝、羅旋は「夕刻までには帰る」とだけいいおいて、百人ほどをひき連れて徒歩で出ていった。
「今、こちらへ!」
もどられる途中です――ということばを聞く前に、棄才がはしごに脚をかけた。この無口でうっそりとした男にしては、おどろくほどの機敏さで、するすると降りていく。
棄才が降りきるのを待ちかまえていて、夫余がこちらは見かけどおり、猴《さる》かなにかのようにのぼってくる。
「ご指示を」
「門をいっぱいにひらけ」
本来なら、軍勢の旗色を確認した上でなければ、関の城門はあけられない。が、その暇はなかった。いつわりの敗走をしてくるはずの大牙の軍を、できるだけすみやかに収容し、そのあとは門を閉ざして守りをかためなければならない。それにかかる時間は、一瞬の間も惜しいのだ。
夫余が、よくとおる声で淑夜の命令を叫ぶ。同時に、夫余のあとからあがってきた配下の兵士が、旗をふってあらかじめ決めておいた合図をおくる。望楼のむこうから、また、関の外に配置しておいた物見から、旗で返信がかえってくる。
準備万端、ぬかりがないのをたしかめて、淑夜はなおも目を凝らした。やがて、山の端をまわって、人馬のざわめきが怒濤のようにおしよせてきた。
先頭の戦車がおしたてている旗の文字を読んで、夫余がまた叫ぶ。
「三公子のおもどりです」
「ご無事だったようですね」
ほっと、淑夜は胸をなでおろした。こわいもの知らずで血気さかんな段大牙が、いきおいに乗って正面から〈衛〉の大軍につっこんでいかないかと、実はひそかに危惧していたのだ。
兵車の列が、思った以上に整然としているのにも、安堵した。歩卒の数がすくないのは、最初からつれていかなかったのと、戦場で解散させたからだ。逃げ足が生死をわける場合に、歩卒を待って行軍速度を落とすわけにはいかない。だから、ちりぢりに逃げさせるよう、羅旋が指示したのだ。
さいわい、兵はみな〈奎〉の民だから地理には詳しい。山中のけもの道をつたってでも迂回してでも、〈奎〉の首都、青城《せいじょう》へかえりつくだろう。そのまま、他の土地へ逃散《ちょうさん》してしまう場合も考えて、あらかじめ、期日までに青城に出頭するよういいわたしてある。従軍の証拠に戦場で回収した鏃《やじり》や刀をさしだせば、租徭《そよう》を安くするともいってある。むろん、尤家の援助をうしろだてにした策だが、これなら負けても、すぐに軍を組織しなおせる道理だ。
そんなわけで、軍としてはきわめて身軽な構成で、大牙は巨鹿関の城門へかけこんだのだ。
「よろこべ。まんまとひっかかったぞ」
まっ先に関内に駆けこんだ大牙は、車から飛びおりると、そのままのいきおいで淑夜のいる望楼へとあがってきた。
「それはよろしいのですが、三公子、あなたの車の右士《うし》はどうなさいました」
「ああ、右士は、最初から乗せていかなかった」
くっきりとした目鼻だちで、からからと笑う。
「なぜ、そんなことを」
「乗せる人数がすくない方が、追われても確実に逃げ切れるではないか」
「――まさか、あぶない真似をなさったわけではないでしょうね」
「あぶないといえば、あぶなかったかな」
「なにをしたんです!」
「なに、こいつで、敵の大将らしい奴の車の轅《ながえ》に、矢を一本ぶちこんできた」
「……!」
淑夜も、かたわらで聞いていた夫余も、顔面蒼白になった。
「そんな深入りを――!」
「なに、あの霧で、敵も味方もほとんど判別がつかなくなっていたからな。いったん奥まではいりこんでしまうと、かえって敵だと思われなかったらしい。こちらは、ほれ、あの五叟とやらの持たせてくれた晶玉で、よく見えたしな。これは、いけるかもしれんと思ったのさ」
「……だれか、お目付け役がついていくべきでしたね」
ため息まじりに淑夜がいったのは、気やすめでしかない。おそらく、父である老伯以外のだれが従ったとしても、おなじことをやってのけたにちがいない。まるきり悪童の眼つきで、してやったりとはしゃいでいるこの青年に、いまさら説教も皮肉もつうじないだろう。
「一番りっぱな車に射こんだが、まちがいあるまい。まっ青な顔をして、こちらをすごい目でにらみつけたぞ」
この夏、暗殺に失敗したときの堂兄の表情を、淑夜は思いかえしていた。おなじことを、この公子もやってのけたわけだ。
「一生、無影に恨まれますよ」
「かまうものか。ちらりと見ただけだが、あの手の顔の奴は、俺は好かぬ――すまぬ、おまえの親族でもあったのだな」
あわてていいそえてあやまった貌が、いかにも率直だった。淑夜も苦笑しながら、首を横にふった。
「かまいません。私を赦す気もないでしょうから」
[#挿絵(img/01_211.png)入る]
「そうか。では、仲よく恨まれた者同士というわけだ。とにかく、あれで追撃の命令が出たと思うぞ。左翼が突出してきたが、金声は聞こえなかった」
金声――つまり鉦の音は、退却の合図とどこの国でもきまっている。
「旗の文字は、見ましたか」
「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》の字が見えた。あまり聞いたことのない将だが、心あたりがあるか」
「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器――でしょう。無影の母方の、親族にあたります」
その姓を耳にしたときに胸によぎったのは、その名の人物ではなく、その姪にあたる女の面影だった。その連姫が、つい目と鼻の先の戦場まで連れられてきているとまでは想像のしようもないが、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が一方の将をつとめているという事実から、彼女の現在の境遇を推察するのは容易だった。
(――そうか)
その経緯さえも、だいたいわかるような気がした。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器という人物をさほどよく知っているわけではないが、世評ぐらいは耳にしている。
叔父があえなく撃退されたら、彼女はなげくだろうか、よろこぶだろうか。同じようなことを、その視界の果てで無影も思っていたことを淑夜は知らない。
想いをふりきるために閉じた眼は、風のような声でひらかれた。
「弓手は、そろっているか」
「羅旋!」
いつのまに、どこからもどってきたのか、戎族の長身がすぐとなりに立っていた。まるで、風にはこばれてでもきたような、とうとつな出現に思えた。
「合図は」
「さっき、確認しました。そろそろ、第一の地点の物見からの一報が来るはず――」
まるで、淑夜のことばにあわせたように、山の稜線の上で赤い旗がうごいた。ここからは豆粒ほどにちいさく見えるが、両手をひろげたほどの幅はある大旗である。
「来ました」
「やれ」
無雑作に、羅旋は命じた。まるで、ちょっとそのあたりへ物を捨ててこいと命じるような、さりげなさであり、いかにもわずらわしいといった調子だった。
旗手への命令は、また徐夫余が伝えた。
「まだ、おそいな」
羅旋がつぶやいたのは、旗のふり方についてらしい。
「反応がおそすぎる。十日たらずの練兵じゃあ、どうしようもないな」
と、不満いっぱいの口調に、大牙が反応した。
「この期《ご》におよんで、なにをいってる。できるだけのことはしたぞ」
「なにも、おまえが悪いといってるわけじゃない」
「そう、聞こえた」
「耳まで悪いか」
「なんだと」
敵が目前にせまっているというのに、このふたり、のんびりと口げんかをはじめた。淑夜はいやな顔をしたが、敢えて止めにはいろうとはしなかった。顔さえあわせれば、この調子なのだ。だからといって、やるべきことをおろそかにしないこともわかってきていたから、淑夜も夫余も口をださなかったのだが――。
「あ――!」
夫余が叫んで指した、暮れ方の空へ目をやったとたん、ふたりとも表情が一変したのはみごとというべきだった。
獲物をねらいすました猛禽の眸に、そしてそれをとらえた夜走獣の身のこなしに、両者の姿はそれぞれ変わったのだ。
冲天にあがったのは、一条の白いけむりだった。
「はじめた!」
「来るぞ!」
ふたりが叫ぶのと同時に、車馬のとどろきがまず、稜線を越えてとどいた。
「充分にひきつけるよう、弓手に伝えろ!」
城塁の上には、特にえらんで訓練した兵士が二列、配置されていて、弩弓《どきゅう》をかまえ、いつでもいっせいに矢を放てるように準備万端ととのえている。奇妙なのは、弩弓につがえられた矢で、矢自体は青銅の鏃《やじり》をつけたふつうのものだが、一本一本にちいさな胡蘆《ころ》をくくりつけている。
弩弓の射程距離は二百歩強(約三百メートル)、ものによっては六百歩(約八百メートル)以上も飛ぶというが、それほど特殊な弩《いしゆみ》を調達する余裕も必要もなかった。これでも、ふつうの弓などにくらべれば、倍以上の威力がある。弓の場合はひく者の腕力と技量にも左右されるが、器械じかけの弩弓にはその心配もなかった。城塁の上を埋めるだけの数をそろえられただけでも、かなりのはなれ技で、これも尤家の後援がなければ不可能だった。
「ねらえ!」
大牙のひきいる〈奎〉軍があらわれたときとおなじように、山のすそをまわって黄塵がまいあがった。
公路の幅は二十歩(約三十メートル)という広さ。全国にはりめぐされた公路の幅は、これをくだることはない。もっともひろい道だと五十歩におよぶという。〈魁〉が中原を統一したとき、それまで各国ばらばらだったものの単位を統一し、同時に公路を整備し車軸の幅をさだめて、交通の便をはかった。これによって往来がさかんになり、物資の流れもなめらかになったが、一方、軍の移動も容易になったのは、今となっては皮肉かもしれない。
とにかく。
羅旋は、軍勢の先頭が城塁の下、弩弓の射程にはいるのを、慎重にはかっていた。
無言のままに、彼の右手がもちあげられた。
それが、意外なほどゆるやかにふりおろされるのを見たのは、淑夜たち、味方だけではなかった。
(三)
「左軍に、退却の令を!」
友軍のあとにつづこうとする中軍と右軍をその場におしとどめ、前進してきた后《こう》軍の中から主君の在処《ありか》をさがしあてた百来将軍は、車をおりるのももどかしく、そう叫んだ。
「詭計《きけい》のおそれがござる。すくなくとも、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》将軍の左軍は、戦況も見ずに突出しております。あれは、軍規違反。すぐにも鉦《かね》を鳴らすよう、命じられよ」
興奮のあまり、命令の口調になった。だが、無影の傷のあるほほがひきつったのは、そのせいではなかった。
無言で、無影は腕をつきだした。一本の矢が、百来がついた膝の前に、ほうりだされた。
「これは……?」
「私の車の轅《ながえ》につきたったものだ。手にとってあらためてみよ」
と、命じられたとおりに、ひろいあげる。
変わった矢だった。青く塗った柄に赤い羽がとりつけられ、鏃は青銅ではなく鉄である。かなりの地位にある者の武器と、すぐにわかった。
「それだけか。よく、見よ」
いわれてさらに目をこらせば、矢軸の部分になにか刻みこんである。
『奎国太子《けいこくたいし》、段驥《だんき》、射之《これをいる》』
「段大牙は弩弓の腕が自慢で、青茎赤羽《せいけいせきう》の矢をあつらえ、電影《でんえい》と名づけて得意になっていると聞く」
「まさか、〈奎〉の三公子が、ここまで!」
「ずうずうしく、はいりこんできたのだ。霧の中を、真正面からただ一乗で駆けこんできて、それを射込んで、またたく間に逃げさった。おまえたちが、霧にまかれて右往左往している隙にな」
「それは――」
あきらかに、挑発である。また、それぐらいのことがわからぬ耿無影でもないはずだ。いったん傷つけられた誇りをそのままにしておけるほどに、懐《ふところ》がひろくなかったか――。
壮年の将軍は、心中ではっきり落胆した。
狷介と評された無影への先入観が、どこかにあったのだろう。百来ほどの者が、次のせりふを聞くまで、そう思いこんでいた。
だが、無影の次のことばは、百来の予測の先へ飛んでいた。
「この戦は、勝たねばならなかったのだ」
隙あらば〈衛〉に攻め込んでこようとする輩《やから》に、目にもの見せておくのが、目的のひとつだったのだ。諸侯の連合軍を正面から撃破して、実力のほどをしめす――、そのはずが、まず、あてをはずされた。そのうえに、〈奎〉一国を相手に、
「このありさまで、勝ったとどうしていえる。そこらに斃《たお》れている兵の、十人に八、九人までが、〈衛〉の兵ではないか!」
数のうえでは、双方とも、さほど被害をだしてはいない。しかし、無影のことばが比率としてほぼ正しいのは、霧と奇襲による混乱とで、相手を誤認して味方同士が撃ちあってしまったからだ。
それに関しては百来も、ひとことも弁明ができない。
「せめて、文字どおり一矢報いねば、十万の将兵をうごかした意味がない。左軍がさそいこまれたなら、それでよい。全滅するまでには、関のひとつぐらい破れるだろう」
「しかし、それでは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》将軍が――」
「戦場で正しい判断ができぬ将軍など、この先、不要だ」
三万の将兵とともに、見すてるのか。
(もしや――)
最初から、そのつもりではなかったかと、百来はちらりと思った。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を、無影は評価していない。にもかかわらず、一軍の将に登用したのは、分に過ぎた職務を与え、しくじったところをねらって罪を問い、失脚させるためではないか。おそらくそれが、だれにも――連姫にも文句をいわせず、恨まれずにすむ方法だろう。
「物見だけを、出しておけ」
|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器処分のまきぞえになる兵卒が、哀れだと、ふと百来は思った。戦場で斃れる戦士を気の毒だと考えたことなど、これまで一度もなかったにもかかわらず、無影の非情の犠牲になる者が、無惨だと感じられたのだ。中でももっとも惨めだと思ったのは、必要以上に無情になろうとしている無影自身かもしれなかった。
百来は、声もなく、たちあがった。
味方に見すてられたとは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は知らない。むろん、その部下も兵車にしたがう歩卒たちも、知るよしもない。
彼らが知っていたのは、早朝から日中いっぱいにおよぶ無益な追撃行だけである。なにしろ、ひきはなされてあきらめようかと思うと、敵の最後尾が速度をゆるめる。それっとばかりに襲いかかろうとすると、たちまちひきはなされる。その連続だったのだ。
そのながい一日も、そろそろ終わろうとしている。両側へ険しい山地がせまって来、道幅がせまくなったことで、地形に不慣れな彼らも、関が近づいてきたことをさとった。
巨鹿関は、〈魁〉の王都につうじる天下の要衝として、名を知らぬ者はなかったからだ。
「城攻めの装備を、ほとんど持っておりませぬ。このまま巨鹿関をぬくことなど不可能。このあたりで退却して、殿にご報告を」
そう助言する者もいた。それが、常識というものだった。
だが、名声に目がくらんでいた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が、ようやくにあきらめてその助言を聞きいれたころおいには、すでに軍は羅旋たちのしかけた何重もの罠の中に、深くはいりこんでいたのだ。
ひきかえそうとした時、後方で、ど……ん、と地崩れのような音がした。実際、見た者は山がくずれかかってきたかと思ったはずだ。
谷が狭くなっている、その両側の急斜面の上から地をゆるがせてすべり落ちてきたのは、木だった。斜面に、丸太のままの木を何本もならべて「ころ」にして、その上へ少し短めに切った丸太をころがしたのだ。
何本、何十本、何百とも千とも思える数が雑木をなぎたおしながら、斜面をころげおちてくる。
またたくあいだに、公路は積み上がった木で埋めつくされてしまった。
こうなると、すぐに車でひきかえすことは不可能である。
しかも、この木の雪崩《なだれ》は、最後尾の一箇所だけではなく、数箇所で同時に起きたのだ。その合図に狼煙が使われていたことなど、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の軍は知るよしもない。場所によっては、数台の兵車の上に落ちた木材もあった。
谷あいの道を、長くのびきっていた軍勢は、これであっけなく分断されてしまった。
脚の早い兵車の群れとともに、軍頭にあった|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、そのことを知りようがない。ただ、目前にせまった巨鹿関の城塁の上に、ずらりと射手がたちあがるのは、見えた。
「ひるむな! 進め」
と叫んだはいいが、いった本人は兵車の陰に身をふせている。
瞬間。
ぶんと谷の空気を不気味にふるわせて、いっせいに矢が放たれた。
だが、意外なほどにその距離は飛ばなかった。軍の先頭は、すでに塁のほとんど真下につめよっている。本来なら、第一射でかなりの数が射抜かれているところだが、矢はその直前で落ちたり、当ってもからりと力なく逸れていくのだ。
それもそのはず、矢には一本ごとにからからと音がする物が、結びつけられていた。それがちいさい胡蘆《ころ》だとわかったのは、その内部に詰められていたものがあたり一帯にこぼれてからだ。
「な……なんだ、なんの水だ、これは」
液体にはちがいないのだが、水よりねばりがあって匂いがする。それが、兵士たちの頭の上からふりそそいだ。髪といわず手といわず、はては車からそれを引く馬たちの上まで、その液が黒っぽく濡らしていった。
「あ、あぶら?」
――なんのために、と自問した、その答えがかえらないうちに。
「射《う》て!」
城塁の上、さらにその上にのぞく望楼の上から、たからかな命令がひびいた。それに呼応して、城塁の稜線にあらわれたのは、まっ赤な炎の列だった。
それが、ふたたび風鳴りの音をたてて放たれる。暮れなずんだ狭い空を染めて、あかあかと炎が飛んだ。
「逃げろ!」
と、だれが叫んだか、さけんだ本人でさえわからなかったにちがいない。
ぼ……っ、と音をたてて、火矢はさらに大きな炎のかたまりへと成長する。
車にのっている甲士《こうし》とよばれる貴族はとにかく、兵力の大部分を占める歩卒のつけている甲も盾も、たいてい木製である。良質のものでも、その上に革を張ったり漆を塗ったりして強化しただけだし、もっと粗悪なものは籘《とう》を編んだものだ。どちらにしても、火には弱い。
金属片をつらねた金甲をつけている甲士にしても、乗っている車は木製だから、こうなってしまえば条件はおなじだ。油のふりかかった車は、火のまわりも早かった。
まだ、地面に染みこみきっていない油にも、火の粉が飛んだか、赤い線が走る。
人のかたちをした炎の塊が、悲鳴をあげるひまもなくつぎつぎと倒れ伏し、その火がさらに逃げまどう兵士たちに燃えうつる。逃げ場もなく、水もない巨鹿関はたちまちにして、怒号と悲鳴のあふれる地となった。
「…………」
淑夜が、声もなく背をむけた。大牙も苦々しい表情をつくったが、さすがに面をそむけるようなことはしなかった。
他の者も――火矢をはなった射手たちでさえ、その結果のすさまじさに、いちようにおぞけをふるっている。
退却しようにも、道をさえぎった丸太の山にも火がついているのだ。こうなれば、いっそのこと――と、やみくもに前進してくる兵はまた、城塁の前に掘りこまれた濠に落ちることになった。さほど深くはないし水も漲《は》られていないから怪我はしないが、そのむこう岸には逆茂木《さかもぎ》が、三重に植えこまれている。それに何人もの歩卒がよじのぼったところをみはからって、城塁の上から吊り支えていた縄を切っておとしたから、たまらない。
うごめく人間の上へ、どっと人が落ちた。
その混乱の内に、濠の中にも火が流れこむ。ありさまは、酸鼻をきわめた。
一方、城塁の表にならべたてた木や望楼には、前もって厚く泥を塗ってある。どれほどはげしい炎がなめても、容易に城へは燃えうつる心配はないという、周到さなのである。
こうなると、城門をひらいて撃って出るまでもない。勝敗は、すでについていた。
傲然とその場に立つのは、羅旋ただひとりだった。一兵卒にいたるまで顔色を失っている中で、彼ひとりが火の海をうすい翠色の眼で冷静に見おろしながら、なおも矢を射かけるように命じたのだった。
「おい」
「逃げる者は追わん」
大牙があげた抗議の声を封じるように、そう告げて、射手をうながした。
大牙が手ぶりでさらにそれをとどめて、
「これで、逃げようがあるか」
吹きあげてくる黒煙と悪臭とに、大牙の声も弱りがちである。
「道を堰《せ》いた丸太にも、油を染ませておいたはずだ。そのうえに粗朶《そだ》まで撒いて、火をつけてある。火の山を越えて、どうやって逃げられるというのだ」
「山中に逃げこむ者には、手を出すなと徹底させてある。そこから先は、俺の知ったことじゃない」
その「先」がさらにたいへんなのを、淑夜は身をもって知っている。ろくな装備も食料もなく、獣におびえながら、慣れない山道をさまよわねばならないのだ。
「……哀れになってきた」
大牙は、本気でそう思ったらしい。
「敗走に見せかけるといっても、まったく戦わぬわけにもいかなかった。命を落とした兵が、何人もいる。その仇討ちだと思っていたが、これは戦ですらない。一方的な殺戮ではないか」
「これは、戦さ」
ふだん、けっして見せたことのない精悍な口調と表情で、羅旋は問いかえした。
「おまえたちの常道とやらとは、ことなっているだろうが、とにかく勝たねば死ぬのはこちらだ。命がけの争いを戦とよぶのではないか」
「理屈は、そうだが――」
「事実は、なんだ?」
問い詰められて、大牙の不機嫌な顔がそこではじめてかたわらへそむけられた。
「城門をひらいて、正々堂々と戦えというのか? そして、味方の兵を無益にうしなうのか。それこそ、殺戮とよぶのではないか」
そう決めつけておいて、大牙の反応をまたずに羅旋は、さっさとはしごに脚をかけた。
「――どこへ行くんです?」
みとがめたのは、淑夜である。
「あと始末の手配がある」
「始末?」
「いつまでも道が通れなくては、こまるだろう。遺体を放っておくわけにもいかんしな」
この漢は、火も消えないうちから、すでに戦のあとの手順を考えているのだ。
「……私も」
淑夜がおずおずと申し出たのは、胸にのしかかってくる重圧からのがれようとしたためだろう。それを理解したのかしなかったのか、
「来るか」
羅旋は、あっさりとうなずいて、さっさと先に降りていってしまった。淑夜は、無言のまま、大牙に礼を執った。気持ちの整理がつかない大牙は、憮然と腕を組んだまま、反応もしなかった。
脚が脚だけに、淑夜の、はしごを降りる動作はあぶなっかしい。身を支えるために、夫余が先だっておりてくれた。羅旋はさっさと降りて、あとも見ずに歩きだしている。あとをついてくるとわかっているものを、わざわざ待っているような気配りなど、どこをさがしても持ちあわせていない漢だった。
望楼の上には、大牙がひとり、とりのこされた。にぎりしめられた拳は、なにに対するものだったのか、大牙本人にもわからなかったにちがいない。
大牙の眼下の炎は、まだまだおさまる気配もなかった。
夜空に反射した光と、最後尾についていてかろうじて難をのがれた兵卒の第一報とで、無影は巨鹿関の惨劇をほぼ正確に推察してのけた。
「百来、使者の準備を」
「は――、しかし、このありさまでは、巨鹿関へ至る道は通れそうにありませぬが」
「巨鹿関の守兵風情と話して、なんの利益がある。直接、義京へ行くのだ」
他に道がないわけではない。ただ、大きく北か南へ迂回することになり、日数がかかりすぎるだけのことだ。現在、無影の野営する巨鹿関の入口から義京まで、巨鹿関をとおれば三日。南へ下って、義京の西の関、百花谷関《ひゃっかこくかん》からはいれば十日以上、北へまわってもほぼおなじほどの日程になる。
「時がかかりすぎます」
「脚の早い者をえらび、間道を使え」
「しかし、その間道を知っている者が、われらの軍の中にはおりませぬぞ」
「〈奎〉の捕虜を案内にたてればよい。命をたすけた上に褒美をやるとでもいえば、我から名乗りでてくるだろう」
「あ――」
その柔軟さに、百来は意表を衝かれる。
「しかし、話しあうのならば、青城《せいじょう》にある〈奎〉伯と……」
「話がつくと思うのか、われらは戦をしかけた方であり、敗れた方だぞ」
「は……」
「義京の、太宰子懐と〈征〉公とに、同時に和解の仲介をとってくれるよう申しこむのだ」
「しかし、太宰どのはとにかく、〈征〉公はこのたびの件については諸侯を糾合して、たちはだかろうとした方ですぞ」
「そして、〈奎〉伯にしりぞけられた。ならば、〈奎〉のご老人をこころよくは思っているまい。こちらに有利な条件で和睦をはかってくれよう。それなりに、見かえりが必要だろうがな」
「太宰どのは金品でうごきましょうが、さて、〈征〉公が腰をあげますか」
「〈衛〉に恩を売っておく、絶好の機会ではないか。その上へ城邑をひとつふたつ、割譲すると約束すれば、のってこよう」
どこまでも、無影の計画にはよどみがない。そのうえへ、
「おことばながら、城を割譲するのは――」
かたわらから口をだしてきた随臣に、
「約束するだけだ。実際にわたすことはない。たとえ渡したとしても、いずれ、こちらへとりかえす土地だ。惜しくはない」
あっさりといってのけた。
すさまじい自信と度胸である。
そこに居ならんだ者たちは、百来もふくめて全員、声もでない。やっと二十歳をこしたばかりの若僧が、大国〈征〉にけんかを売ると宣言しているようなものだ。
「殿下、そのようなこと、軽々しく――」
口に出すものではないが、
「諜者が報告するなら、すればよい。それで事実や私の意思が変わるわけではない」
いいきった視線はしかし、谷の炎を反映して赤く染まった天へと、とおく投げかけられていた。双眸の中にはしった感情は、一種だけではなかったし、それを正確に読みとる者も、彼の周囲にはひとりとしていなかったのだった。
(四)
巨鹿関の守備を解いて、〈衛〉公の一行をとおすよう、義京の王の名で命令がくだったのは、それから五日後のことだった。
無影が、あくまでも会盟出席のためという名目でおしとおしたため、〈衛〉軍の兵は一万以下という条件がついた。あっさりと無影はそれをのんだ。その上に名分があるとなれば、〈奎〉伯も、〈衛〉公の領内通過を承認せざるをえなかった。
和議の条件は、義京で話しあうということで、〈奎〉も〈衛〉も承認した。
双方ともに、心底からよろこんで和議に応じたわけではないが、どちらかといえば、歯がみしたい思いは耿無影の方が強かっただろう。
|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器は、脚の遅い革車(輜重隊)をふりすてていったから、谷にはいった兵は二万。そのうちの半数が死亡したものと思われる。正確な数がつかめないのは、混乱に乗じて逃散した者、また、いまだに山中をさまよっている者が多いためだ。将たる|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の行方さえ、いまだに知れないというていたらくだ。十万のうちの一割以上を、戦闘にも因《よ》らずうしなっている。これは、大きな痛手にはちがいなかったが、無影はのこりの軍を整理して、大半を百来に託して帰国させ、自分は精鋭五千だけをひきいて巨鹿関へはいった。
公路の両側には、丸太を落とした跡だろう、山の地肌が露出したところが、何箇所も見えた。いや、道自体が数箇所にわたって黒々と焦げていた。だが、道をさえぎっていたはずの木は、きれいに、それこそ消し炭ひとかけらものこさず片付けられていたのだ。
巨鹿関にはいる前に、無影はそこここで焼死している兵の遺骸に出会うことを覚悟していた。だが、惨事の跡をうかがわせるものは、その道の焼け焦げだけだった。
詔が出てから片づけたのでは、こうもすみやかに、しかも徹底的にできるはずがない。これは和解することを前提として、戦の直後から――火も消えないうちから撤去の作業にかかっていたとしか思えなかった。
(こづらにくいことを……)
無影が奥歯を噛みしめたのは、巨鹿関の城門のかたわらに、長泉の戦場で一瞬見てとった若者の顔をみとめたからだ。
段大牙は武装を着けたまま、いっぱいにひらいた城門のわきに立っていた。車に乗ったままで通過する無影を見ようと思えば、どうしても見あげるかたちになる。
傲然と頭をあげて、大牙は無影をにらんでいた。いや、にらんだのは無影の方で、大牙はただながめていただけだ。
(なるほど、これが淑夜の堂兄とやらか。たしかに、顔だちは似ているな)
そんな、興味本位の視線だった。
が、無影の方はそうはとれない。経緯はどうあれ、公の位にある無影が、伯の嗣子の大牙よりも上位であるのは明白である。だが、大牙は礼を執ろうとしなかったのだ。
大牙にも、自分たちは理不尽な戦をしかけられた側であり、勝者であるという意識があったかもしれない。だが、単に忘れていた、という方が理由としては大きかっただろう。
(これが、私を詐術《さじゅつ》にかけた漢《おとこ》か)
無影は、〈奎〉の背後に淑夜と、そして赫羅旋という漢がいることを、まだ知らない。ふたりともこの場にいないどころか、あと始末を終えると、手勢をまとめてさっさと巨鹿関から消えていた。
歳かっこうの近い若者同士は、車上とその下とで激しく視線をぶつけあったが、たゆみなくすすんでいく列のうごきが、やがてそれを自然にひきはなした。
「親父どのも、これからたいへんだな」
あの青年と和解交渉をするため義京におもむいているはずの老父の顔を思いうかべながら、大牙はひとりごちた。他人ごとのようにいっているが、やがて、何年か後にはおのれの仕事としてのしかかってくることは承知している。承知はしていても、いまのところは、
(他人ごとにしておく)
のが、大牙の性分というものだった。
「さて、退屈をどうやってまぎらわそう」
和議が成立するまでは、彼が巨鹿関をはなれることはできない。けんかをしようにも、相手がいなければどうしようもない。
淑夜は、和議の交渉にはいると同時に、〈奎〉の本拠である青城にたちのいている。無影と顔を会わせる危険を避けるためだ。羅旋も手勢をひきつれて、淑夜に同行している。
今ごろは青城に着いて、充分なもてなしをうけているはずの彼らのことを思って、大牙はすこし顔をしかめた。
兵車がまきあげた黄塵が、まだそのあたりに舞っていた。
「おい、酒を飲ませてくれ」
いきなりずかずかとはいってきた漢にそういわれて、尤暁華はわずかに細い眉をあげた。おどろいたにしても、それをはっきりと表に出す女ではない。落ちつきはらって、
「あら、青城にいらしたのではありませんの?」
「退屈だから、かえってきた」
義京の尤家の邸宅の、女主人、暁華の居室である。そこへ案内も乞わずにはいっていって、どっかりとすわりこむ。
「それより、酒だ。けちけちするな」
片腕を枕に、ごろりと横になってしまった。
「うちは、酒舗ではありませんのよ。まったく、人の顔を見るなり、酒だ酒だと。まるであたしの顔に、そう書いてあるみたい」
「とんでもない。おれには神女に見えるぞ」
「どうせ、酒の神でしょう。仕様のない人だこと」
口では文句をいいながらも、かたわらの年配の侍女に目顔で命じた。
「ありがたい」
「どうせなら、あたしの顔を見にかえってきたとか、世辞にでもいえないものかしら」
「酒さえ飲ませてもらえれば、なんでもいうぞ。ここ十日以上、一滴も飲んでないからな」
「うそ、おっしゃい。青城で、なにも出ないということがあるものですか。なんで帰ってらしたんです。今、〈衛〉公が義京におられるのですよ」
「いたところで、どうだというんだ」
「まさか、淑夜さまもいっしょに帰ってこられたのではありますまいね。〈衛〉の手の者が、都中に散って目を血走らせておりますのよ」
「みつかったところで、尤家の内には手はだせまい。心配するな。棄才と五叟のじいさんをつけて、青城にくぎづけにしてある」
「おまえさまにも、他人ごとではありませんでしょう。〈衛〉公には、恨まれる筋あいがおありのはず」
「一布衣にしてやられたとは、思ってもいるまいさ。恨まれるなら、大牙の方だ」
「――でも、それでは、おまえさまはただ働きということになりますわよ」
むろん、それなりの報酬を〈奎〉から得ているが、こちらから手勢として連れていった百人ほどの侠たちに分けてしまって、ほとんど手元にのこしていないのを、暁華は知っている。それが、いつものことなのだ。
金銭がほしくてやっていることではない。食べていくぐらいのことなら、なんとでもなる――と、羅旋はいう。
だが、ほんとうにこの漢は欲がないのだろうか。
そう、暁華は疑っている。そんなはずはないのだ。また、そうでなければ、彼女も今、見返りもなしに大金を投じている甲斐がない。
「すくなくとも、王と〈奎〉伯の信用は得たさ。……それとも、〈衛〉公を嵌《は》めたのは、俺だと、大声でいいふらしてみるか? そうでもしなければ、広まらんだろうな」
真実の一部を知る〈征〉公にしても太宰子懐にしても、たかが戎族風情に、名をなさしめるような話を、喧伝するような真似はするまい。
酒がはこびこまれた。
「一度に、なにもかもはじまるものじゃない。まあ、ゆっくりとやるさ」
はねおきながらもう、觴《さかずき》に手がのびている。
「これから、どうなさるつもり?」
「さあて、なあ。どうするか。〈衛〉の耿無影を敵にまわしてしまったことだけはたしかだな。なにをたくらんでいるにせよ、無影が、これで気をくじかれたとも思えんし、淑夜が仇討ちをあきらめたわけでもない」
觴に口をつけかけて、
「まだ、はじまったばかりだ。これからどうなるか、どう決着がつくか、楽しませてもらうさ」
一気にあおった酒が、甘かったのか苦かったのか、それは暁華にもわからなかった。ただ、時が一歩、歩みをすすめたのを膚で感じたように思ったのは、気のせいだったのだろうか。
〈魁〉の衷王十五年、秋もすでに過ぎようとしていた。
[#改ページ]
あとがき
『五王戦国志』・第一巻目をおとどけいたします。こちらでは初のお目見えになります、井上祐美子と申します。
これまでいくつか、中国に題材をとった作品を書いてきましたが、このたび、すこし毛色の変わった物語をはじめることになりました。ジャンル分けをするなら、架空歴史物語、ぐらいになるでしょうか。ただ、架空といっても、やはり中国の歴史に取材したものではありますけれど。
タイトルからでもご想像がつくかと思いますが、具体的には、春秋戦国とよばれる時代を主なベースにしました。ひとくちに春秋戦国といいますが、その期間はそうとうに長く、西周が滅び、周宗室が洛陽に遷都してから、秦の始皇帝による全国統一までをさします。西暦でいえば、紀元前七七〇年からおなじく二二二年まで。つまり、約五五〇年の長きにわたって中国は何国かに分裂し、覇をきそいあっていたわけです。時代区分の名称は、その歴史を書いた孔子の著書『春秋』と、その後の列国のかけひきを描いた『戦国策』とによるもの――と、このあたりまでは、高校の世界史で習う基礎知識ですね。
この時代の歴史は断片的には非常におもしろく、資料もエピソードもそれなりにあるのですが(なにしろ、故事成語の語源の宝庫)、まっこうから書くには、まず期間が長すぎました。さらに国名・人名が非常におぼえにくく、また、各国の歴史が並列するためなかなか焦点がさだまらず、どうしても散漫なものになってしまいます。そこで、時代や状況、技術や思想の中から適当な部分を抽出して、五五〇年を一〇年前後の歴史に凝縮するという、無謀なことを考えました。最初はもっと単純な、夢物語然としたものでしたが、数年、大事にかかえこんでいる間に、次第に構想の方が成長して血肉らしいものをそなえてくれるようになりました。
しかしながら、ベースにはとりましたが、実際のエピソードをそのまま流用する予定はありません。特定の人物をひとりのキャラクターのモデルにあてはめることも、考えてはいません。逆に、歴史そのものを創作しようなどというだいそれたことを企てているわけでもありません。ある状況下で人間がなにを考えどう動いていくか、どうあがいて生きていくか、それを作者がていねいに追っていけば、自然に織りなされていくものではないかと思っているのです。
基本的には、歴史とはひとりの英雄や一本の剣、ひとつの予言などで変わっていくものではない、と私は考えています。たとえば、出戦する上での最小限度の要素――兵士の養成・編成、武器や食料の調達、外交交渉、さらに戦後の処理などを考慮にいれていけば、個人がすべてに責任を負うわけにはいかないし、簡単に戦端もひらけないはずなのです。
必然を積みかさねていけば、「時代」というものは、おのずから見えてくるし、動いていくものだ――。と、まあ、えらそうなことを書いていますが、この程度は読者の方々にとっては常識のうちかと思います。これは、未熟者の身をかえりみず、手に余る構想に挑戦しようという、自分自身に対しての心得であり、自戒です。
とりあえずは、戦車戦から騎馬戦へと変化していく過程をひとつの目標にして、私なりに全体の話をまとめてみるつもりです。さて、どのようになりますか、作者も興味津々といったら無責任かもしれませんが。
余談ですが、今回、春秋戦国時代にはなかったはずの紙を登場させました。これは、話の展開上、ないと非常に不便なための措置です。架空歴史という利点を生かして、今後もこのようなこまかな異同があるはずですが、大目に見ていただければと思います。
もちろん、私が間違えた場合、またこれはおかしいのではないかといったご意見やご教示は、どんどん生かしていきたいと思いますので、どうぞよろしくおねがいいたします。
ちなみに、作中で淑夜がくちずさんだ賦は、屈原の「国殤」の一部をアレンジしたものであることもつけくわえておきます。
ともあれ、幕はあがってしまいました。この先、キャラクターたちがどのような人生を選択していくか、彼らとともに見、感じていきたいと願っています。とりあえず、二巻目は来年早々におとどけする予定です。その後の巻も順次、なるべく間をつめて見ていただけるよう努力いたします。一応、ラストまでの目途はつけてありますが、どうやら長丁場になりそうです。どこまでやれるか、はなはだ不安ではありますけれど、できれば最後までお付き合いくださいますよう、おねがいいたします。
最後になりましたが、この物語がここまでたどりつくについては、大勢の方々のご協力をあおぎました。ことに、林里香氏と伊藤彰彦氏にはたいへんなご尽力をいただきました。また、一緒に仕事ができますように願いつつ、お礼申しあげます。小林智美さんには、作者の想像力を越えるイラストを描いていただきました。ほんとうにありがとうございます。絵に負けないよう努力いたしますので、今しばらく、よろしくおねがいいたします。もうひとり、構想がこの形に固定するについて、発端となってくれた畏友、M・S氏にも感謝を。ふたりで話していた形からは(特にキャラクター造形が)かなり変わってしまいましたが、ご容赦。
そしてなにより、この物語を手にとってくださった方々に。
多謝。そして次巻で、再見。
[#地から1字上げ]一九九二年九月          井上 祐美子 拝
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底本
中央公論社 C★NOVELS
五王戦国志《ごおうせんごくし》 1 ――乱火篇
著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》
1992年10月25日  初版発行
発行者――嶋中鵬二
発行所――中央公論社
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
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修正
淑夜《しゃくや》→ 淑夜《しゅくや》
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
|※《てつ》 ※[#「にんべん+至」、ページ数-行数]「にんべん+至」
|※《しん》 ※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88
|※《よめ》 ※[#「女+息」、第4水準2-5-70]「女+息」、第4水準2-5-70
耿|※《き》 ※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]「火+軍」、第3水準1-87-51