『鋼の錬金術師3 白い花の舞う谷』
原作:荒川弘 著者:井上真
株式会社スクウェア・エニックス 2004.05.21発行
第1章 大佐の陰謀
第2章 穴の底の楽園
第3章 歪んだ等価交換
第4章 真実
第5章 白い花の舞う谷
第1章 大佐の陰謀
空が徐々に夕陽色に染まり、幾重にも連なる丘の上で夕陽が輝く。
反対側の空の色は刻一刻と変化し、薄い青いから柔らかな虹色へと変わる。
空は鮮やかな赤から紫へ。
そして深い紺色の空に一番星が瞬き始めようとしていた。
「ああ、日が暮れる……」
自然が創り出す美しい光景の下で、一人の少年がぽつりと呟《つぶや》いた。
夕陽は今まさに沈もうとしているところであり、その美しい夕焼けに彼は目を細める。
しかし、少年は感動しているのではなかった。
「あー、いつになったら町に着くんだ〜〜〜〜〜〜っ」
いまいましそうに夕陽を睨《にら》みながら、少年――エドワート・エルリックは叫んだ。
その叫びを聞いて、少し先を歩いていた人物、アルフォンスが振り返った。
「今夜はもう野宿するしかないねぇ。あそこに見える岩陰で休もうよ」
「疲れた……」
「丸一日、荒れ地を歩き続けたからね。仕方ないよ。ほら、あそこまで頑張って歩いて」
アルフォンスは、立ち尽くす兄を促《うなが》した。
しかし、エドワードは歩き出したものの、その足取りは重い。
「うう、足に力が入らない……」
足を引きずるようにして歩くエドワードは、三つ編みにした長い金髪と、その髪に負けないくらいに輝く、黄金《きん》色の瞳を持った少年である。
強い眼差しとよく変わる表情には、その年頃特有の明るさが見えるが、機械鎧《オートメール》の右腕と左足はその年齢に不似合いな厳しい人生を送ってきたことを物語っている。
そして、エドワードと一緒に行動しているアルファオンスもまた、同じようにつらい過去を背負って生きていた。
本来なら兄とそれほど変わらない身長を持つはずのアルフォンスだが、今は見上げるほどの鎧《よろい》を纏《まと》う異形《いぎょう》の出で立ちとなり、その中身は空洞である。
アルフォンスの魂は鎧の内側にある血印が繋《つな》ぎ止めているにすぎない。
数年前、人体|錬成《れんせい》という禁忌《タブー》を犯した代償に、エドワードは手足を、アルフォンスは身体を持っていかれたのである。
二人の過去は十代の少年にしては、とても重いものだった。
しかし、二人は重さに潰《つぶ》されはしなかった。
エドワードが軍に入り、国家錬金術師の称号を得た日、二人は自分たちの家を焼き、戻れる場所をなくすことで、絶対に元の身体に戻ろうと誓い合ったのだった。
元の身体に戻る方法を知るのは簡単なことではなく、二人は旅をしながら、ありとあらゆる情報をかき集めては、その真偽を確かめていた。
二人は、本来ならば今もまた、元の身体に戻る方法を探して意気揚々《いきようよう》と旅をしているはずであった。
にもかかわらず、こんな荒れ地で野宿せざるをえないのには、訳がある。
「さ、兄さん、今日はここで休もう」
風を避けられそうな岩陰に着くと、アルフォンスは休む準備を始めた。
「くそ〜、それもこれも大佐のせいだ……」
エドワードも岩陰に座り込み、乾パンを取り出すと、それをぼそぼそと囓《かじ》り、悔しそうに空の一角をにらんだ。
その方向には、エドワードとアルフォンスを荒れ地に追いやった、ロイ・マスタング大佐が働く東方司令部があった。
「なんで、オレたちが町の視察なんてしなくちゃいけないんだよ」
「まあまあ。大佐たちはいろいろ忙しいんだし、ボクたちは普段ずいぶん勝手にさせてもらってるんだから、たまには協力してもいいじゃない」
アルフォンスはそう言って兄を宥《なだ》めたが、エドワードはとたんに思いっきり顔をしかめた。
「協力?」
ここに来るはめになった経緯を思い出して、エドワードは拳《こぶし》を震わせる。
「あれは脅《おど》しっていうんだよ!」
ことの起こりは数日前。
「金がない……」
「え?」
ポツリとつぶやかれた台詞に、アルフォンスが顔を上げた。
アルフォンスの前ではエドワードが手にした財布を開いたまま呆然と座っている。
「財布はあるけど、……金は、ない」
テーブルの上に重ねられた何枚もの皿の前で、エドワードはもう一度、繰り返した。
その日、エドワードとアルフォンスは、大通りに面したレストランにいた。
店内は狭いが、壁の一部を取り払い、通りにいくつものテーブルが設置されている。
そこで散々食事をしたあとのことだった。
「お金がないって、兄さん、今更そんな……」
アルフォンスは、きれいに食べられたチキンの骨や、皿のまわりに散っているパン屑《くず》を見、それからエドワードの顔を見る。
エドワードの口の端にはサラダの欠片《かけら》がついていた。
思う存分食べました、というこの状況に比例して、手元に置いてある支払伝票の数字は結構な額になっていた。
アルフォンスは、テーブルから身を乗りだして、小声で聞いた。
「本当にないの? ポケットとかに少しくらいあるんじゃないの?」
「ない」
エドワードは、上着のポケットを探りながら顔をしかめる。
「……まずったな。ここんとこ、財布の中身を確認する必要がなかったものだから、金がないことに気づいてなかった」
自らの身体をパタパタと叩きながら、エドワードは小銭を探す。
ここ数日、二人は、とある山の奥深くに人体錬成の方法を記した本が隠されていると聞いて、山の中で自炊しながら探し回っていた。
結果は空振りであり、二人をひどく落胆させたが、「元の身体に戻る」という決意は半端なモノではない。
久しぶりのまともな食事と活気ある人混みは、すぐに二人に元気を取り戻させ、改めて決意を固めさせたところであった。
「次の旅では、絶対見つけような!」
「うん!」
二人は顔を見合わせ、互いの拳をゴツンと突き合わせて決意を確認し、再び新たな旅の目的地を決めようとしていた。
が、その矢先にお金がないことに気がついたのである。
「う―ん、まずいな。どっかにお札の一枚でもありそうなんだけど」
繰り返し、上着のポケットやズボンのポケットを叩いていたエドワードは、しまいにはトランクをひっくり返し、ガシャガシャと音を立てて掻き回しだす。
なんだなんだ、とほかの客からの注目が集まってしまい、アルフォンスはそれらの視線に軽く手を振りながら、なんの問題もないように装った。
「……ちょっと、兄さん」
まわりを窺《うかが》いながら、アルフォンスは地面に座ってトランクの中を漁《あさ》っているエドワードをつついた。
「そんな、いかにもお金が見当たらなくて困ってますって動作は、店員さんに疑われるじゃない」
「疑われるってなにを?」
「だから……」
アルフォンスは、大きな体をできるだけ縮めて、エドワードに囁《ささや》いた。
「食い逃げ、とか」
「食い逃げ?」
言われてまわりを見れば、ウェイターとコックが、こちらを見てひそひそと話し合っていた。
「わ―、思い切り疑われてるぜ……」
「当然だよ」
アルフォンスは大きくため息をつくと、自分の鎧を手で擦る。
「この汚れを具合見てよ。……今のボクたちはいかにも食い逃げしそうだよ」
言われて、エドワードもおのれの服を見下ろした。
数日の山中暮らしで、服はかなり汚れており、ところどころから糸がほつれている。
「確かに……」
いかにも、お金がなさそうな自分たちであった。
「この町には銀行があったよね? 兄さん下ろし……」
アルフォンスがそこまで言ったときだった。
「おい……」
テーブルに置かれた伝票に黒い影が落ち、エドワードとアルフォンスが同時に顔を上げると、そこにはフライパンを持った店主が立っていた。
「食い逃げは許さんぞ……」
「ち、違います! そんなことはしません!」
アルフォンスは慌てて否定したが、もう遅かった。
「ワシの目はごまかされんぞ! やたらと食べると思ったら、もともと逃げるつもりだったのか!」
「待ってくれって! ちゃんと金は持ってるよ! 銀行に行けばあるんだ」
「こんな汚い格好の小僧が銀行にお金を持っているようには見えん! 嘘をついて逃げるつもりだろう」
「人を見かけで判断するんじゃねえよ!」
自分では分かってはいても他人に指摘されると腹が立つ。
思わずムッとしてそう返したエドワードだが、店主はまったく動じなかった。
「通りすがりの者を見かけ以外でどう判断しろってんだ?」
「そ、そりゃそうだけどよ」
「おい、コックども!」
男は、フライパンをお玉でグアーン、と殴ると、キッチンに向かって声を張り上げる。
「こいつら、食い逃げしようとしてやがった! 捕まえろ!」
「ええ〜っ!」
「そんな―っ」
キッチンの奥から、コックたちがわらわらと鍋やらまな板やらを手にやってくる。
「無銭飲食代として一ヶ月働いてもらうぞ!」
「それは困る! アル!」
「う、うん!」
一刻も早く元の身体に戻りたいのだ。
エドワードは仕方なくアルフォンスに合図をすると、店から駆けだした。
「銀行、行ってくる!」
このご時世、店主の言うとおり食い逃げする者もかなりいるだろう。
中には本当にお金がなくてそうせざるをえない者もいるだろうが、レストランの経営者たちも、必死に努力して店を運営しているのだ。
その気持ちは理解できるし、実際お金を持ってない自分たちが疑われても仕方がない。
といっても、ここで働くつもりもない。
「やっぱり逃げた!」
追いかけようとする店主を、アルフォンスが押さえる。
「ちゃんと持ってきますって。ボクが残ってるから、ちょっとの間待ってくださいよ〜っ。ああ見えても兄はちゃんとしてる人なので、安心してくださいってば〜っ」
泥にまみれていようと、ちょっと目つきが悪かろうと、子供であろうと、エドワードは国家錬金術師である。
しかし、それは普段から一緒にいるアルフォンスだからこそ言える言葉であって、店主が疑うのも無理はなかった。
「ああ見えるから、信用ならないんじゃないかっ」
「そんなことないですって〜!」
アルフォンスが、必死に兄を庇《かば》う声を後ろに聞きながら、エドワードは銀行へと飛び込む。
「すいません、口座から金を下ろしてほしいんだけど!」
手続きを申し出、自分の証明として、国家錬金術師の銀時計を銀行の受付に提出する。
「ふ〜、これで食い逃げ疑惑から逃れられる……」
そう言って額を手の甲でぬぐったエドワードだったが、数分後、受付の男はニッコリと、だがきっぱりとこう言った。
「エドワード・エルリック様の口座はワケあって閉めさせていただいてます」
「……は?」
「お引き取りくださいませ」
「待て待て待てっ! まだ研究費は十分残ってるはずだ!」
「当方では確認できませんので……」
やんわりと出口に促され、エドワードは叫ぶ。
「なんでだよ! ちゃんと調べてくれって! このままじゃ食い逃げの汚名をかぶることになっちまうじゃねぇかっ。これは誰かの陰謀だ〜〜〜っ!」
そして、それは事実、陰謀のようなものだった。
銀行を出たエドワードはすぐに軍の会計に電話をかけ、銀行のお金が下ろせなかった件について、怒鳴り散らそうと大きく息を吸う。
しかし、相手は突然、電話を別の場所に繋げてしまったのである。
「あ、あれ? おい、もしも―しっ!……ったく。なんなんだよ。どこに繋ぐってんだ?……あ」
雑音が消え、誰かが電話を取ったのが分かって、エドワードは受話器を持ち直したが、次に聞こえてきた声に、露骨に嫌な顔を作った。
「やあ、久しぶりだな」
「……もしかして、大佐?」
電話の相手はロイ・マスタングであった。
ロイは、東方司令部で司令官として任務に就いている軍人である。
漆黒の髪と黒い瞳を持つロイは、若くして大佐の地位を手にし、さらに国家錬金術師の肩書きを持つ男だ。
軍部内の評判としては、女たらしだの、仕事をよくサボるなどと言われているが、いざというときになれば冷静で的確な判断を下ろすので、部下からの信頼は厚い。
さらにエドワードから言わせれば、ロイは常に上を狙う野心家でもあり、それを達成できそうなほどの切れ者でもあった。
エドワードは渋面《じゅうめん》のまま、口を開く。
「なんで大佐に電話が繋がるんだ? オレは金のことで軍の会計課に用があったんだけど。繋ぎ直してくれない?」
「君から電話が来たら、私に繋ぐように頼んでおいたんだ。実は頼みたいことがあってね」
「ヤダね」
エドワードは話も聞かず即答したが、ロイはロイで、そんな反応は見越していたのか、勝手に話を進めだす。
「君たちは今どこにいる?」
「イーストシティから南下したあたりだけど……」
「いい位置だ」
ロイが電話の向こうでうんうん、と頷《うなず》いたのが分かった。
「なんだよ……?」
「君たち、バカンスでもしてきたらどうだね?」
「は?」
「実は視察に回らなくてはいけないんだが、どうにも忙しくてな。代わりに行ってきてくれないか? 東南のウィスタリアという町なんだが」
ロイは言いながら、書類をめくったりサインをしたりしているのか、ペンを走らせる音がエドワードの耳にも届いた。
さらに遠くから「大佐! さっきのファイルは見てくれましたか〜?」という声もする。
「待て! 今見ているところだ! あ―、それはこっちに置いてくれ!」
ロイが、電話機の口の部分に手を当て、なにやら怒鳴り返すのが聞こえた。
「……というわけで、忙しいので猫の手も借りたくてね」
いつにもましてばたばたしているのが、エドワードにも伝わってきた。
「だったら猫でも借りれば?」
そう軽口を叩くと、ロイは苦々しい口調で答える。
「猫が使えるなら、借りるがな。……ニューオプティンのハクロ将軍を知っているだろう?」
「うん」
「近頃、南方司令部で犯罪者の検挙率が上がってるだの、近代化に積極的だの、人の流入が活発だのと中央の評価が高いものだから、それに比べて東方のていたらくはなんだ、とやたら張りきりだしてな」
「へええ。南方も凄《すご》いじゃないか」
「表向きは。裏を返せば賞金をかけて密告を促してるだけだし、近代化で人手が足りないからと人買いブローカーまで暗躍しているって噂だぞ。そういう話はスルーするくせに、話題の派手な部分だけは逃がさないからな。あの人は」
相変わらず冷めた意見を口にするロイに、エドワードは僅《わず》かばかり同情する。
「ご愁傷《しゅうしょう》様」
ハクロ将軍の話はエドワードも耳にしたことがあった。
プライドや上昇志向が強く、生真面目な人物で、エドワードやロイのような者から見れば、少々お堅すぎてうざったい存在である。
「ハクロさんは、自分の昇格の点数稼ぎに躍起になってるんじゃないの?」
「そういうことだ。で、勝手に仕事を提案して回してくる。今度は町や村の視察、そしてそのレポート提出、だそうだ」
「それおオレにやれってか? 大佐にしては珍しいじゃないか。そんな仕事なんか真面目にやらなさそうなのに」
肩の力を抜くべきところは抜くロイである。
悪く言えばサボりがちないつもの姿勢を知っているエドワードがそう言うと、ロイもあっさりと同意する。
「私はやらないぞ。めんどくさいから人に任せることにした。だが、近隣の町や村なら適当に報告書を書かせることができるが、まったく知らない場所ではそうもいかないだろう。今君たちがいる南部近くはさすがに遠い。というわけで、一ヶ月前ほど、君たちが南方付近まで行くと言っていたのを思いだしてな。だったらついでに頼もうかと」
「い・や・だ」
エドワードは、見えない相手に舌を出す。
「公式命令じゃないんだろ? お断り。とにかく会計課に回してくれよ。大体さあ、銀行もとい会計課のヤツがちゃんと研究費の管理をしてくれていれば、大佐と電話するハメにもならなかったんだよ。つまり本来ならオレとの電話はありえなかったわけだから、諦《あきら》めてくれ」
すべての元凶である口座が閉まるという手違いさえなければ、電話はありえなかったのだ。
そんな偶然を利用されてたまるか、と断ったエドワードの向こうで、ロイがさらりと言った。
「それはな。私が頼んだんだ」
「は?」
意味が分からず、聞き返すエドワードに、ロイは続けた。
「あちこちを旅している君にこちらから連絡はとれないだろう。だから、君から連絡してもらうようにしただけだ。口座が止まれば不審に思って軍に連絡をよこすと思ってな」
「……!」
はじめは驚いて聞いていたエドワードだが、その手には徐々に力がこもり、受話器がミシリと音を立てた。
「ふっざけんな! 金が下りなきゃ、オレとアルに食い逃げ疑惑がかけられんだぞ!」
「食い逃げ?」
「そうだよ!」
エドワードは、ここに至るまでの経緯を話す。
こちらの状況も知らずにお金を好き勝手にされてはたまらない、と怒るエドワードだったが、ロイは飄々《ひょうひょう》としたものだった。
「食い逃げ疑惑をかけられたのは大変だと思うが、それで私を怒るのはお門違いだろう。せめて財布にお金があるか確かめてから食事をとりたまえよ」
「……!」
ロイの言葉は正論であり間違ってはいなかった。
エドワードは反論できずに悔しそうに電話を睨みつける。
口座を止められたのは腹が立つが、それは連絡手段がないからであり、エドワードが怒っている原因の「食い逃げ疑惑」はロイのせいではなく、自分の不注意が招いたことなのだ。
さらにロイは続けた。
「つまり会計課に知人がいてね。このまま君の金を下ろさせないようにと頼むことができるんだ。人徳だな」
しみじみとしたその言葉は、脅しのようなものであった。
「行けって言ってるようなもんじゃねぇか!?」
「まあ、これも軍人としての勤めじゃないか。君も軍人だ。たまには世のため人のために働きたまえ」
「人のために働くのはともかく、大佐のために働くのはごめんだ!」
「……」
ロイは黙る。
それは困ったなぁ、という沈黙ではなく、エドワードに対する「断ると金が下ろせなくなっちゃうよ?」という意味だった。
「……」
エドワードは唇を噛んだ。
怒りと悔しさに思考が止まるエドワードがそれ以上反論する隙《すき》をあたえないよう、ロイは一気に仕事の書類を読み上げる。
「視察内容は、と……。え―と……善良なる市民の生活を目にすることによって普段の視点と……まわりくどいな。つまり、町のいいところと悪いところ、それと町のリーダーにどうしてそういう町になったかなどを聞いてこいってことだ。ついでにレポートはハクロ将軍に直接送っておいてくれ。あ、あと、軍人として視察に来たことは隠せ! でないと私が行かなかったことがバレるから。ではよろしく頼む」
「あ、おい、ちょっと! なにがよろしく頼むだ! ふざけんな―っ!」
エドワードは受話器を壊さんばかりに怒鳴ったが、電話はとうに切れていた。
「大佐め……。職務怠慢すぎるせ……」
あれから、二日。
エドワードは幾重にも重なる丘の上で何度となく繰り返した恨《うら》み言を呟いた。
レストランでの一件は、ロイが情けをかけてくれたのか、銀行で再度手続きをするとちゃんとお金を下ろせたので無事ことなきをえたが、結局エドワードは、アルフォンスの説得もあってウィスタリアへ向かうことにしたのであった。
「ボクたちも次の行き先を決めてなかったんだし、ちょうどいいじゃない。たまにはゆっくり観光でもしようよ。いつもどこへ行ってものんびりする余裕もないからね」
元の身体に戻ることを最優先にしているエドワードとアルフォンスは、かなり広範囲に渡っていろいろな町を訪れているものの、目的の情報がないと知るや、町の風景や人々との交流を味わう間もなく、次の場所へと旅をしているのだ。
アルフォンスはたまにのんびりできるのが嬉しいのか、積極的にウィスタリアへの地図を見ている。
「小さい町だっていうけど……どんなところなんだろう? リゼンブールみたいなところかな」
故郷とまだ見ぬ町を重ねているアルフォンスの横で、エドワードは肩を竦《すく》めた。
「どっちにしても町に着かなくちゃ意味ないだろ」
エドワードは、風に舞い上がった砂に片目を瞑《つむ》りながら、開いている目であたりを見渡す。
「昨日今日と歩き続けているのに、まだ着かないとはなぁ……。一体どこにあるんだ?」
「うーん、地図上だとそろそろ着きそうなんだけどねぇ。町があるとすれば、何か見えてきてもいいんだけど」
アルフォンスは、手にした地図の方角を確かめながら、首を傾《かし》げる。
「ここまで歩いて何も見えないってことは、町はもうないんじゃないか?」
エドワードはため息をつく。
大きな動乱が終わり、新しい町が次々と出来る国内だが、混乱はまだ続いている。
人の流れが激しい世の中では、不便な場所はどんどんと廃《す》てられていくのだ。
しかもエドワードとアルフォンスが歩いている場所は列車も通らない、岩と砂利と砂だらけの荒野である。
二人はそこを歩き続けていたが、いつまでたっても建物らしき物は見えてこないのであった。
エドワードは、だだっ広い荒野をぐるりと見渡す。
「なぁ、アル。ウィスタリアの名前の由来知ってるか?」
「いつも影がかかって暗く見えるから、その薄暗い紫色のことを指してるんでしょ?」
「そ。てことはだな。こんなろくに影もできない荒野に、そんな町があると思うか?」
エドワードは、あたりを指さす。
幾重にも連なる丘の上では煌々《こうこう》と太陽が輝いている。
影といえば、砂の上に転がった岩に照りつける日差しが、岩の下に作る陰影くらいである。
歩いても歩いても何も見えない土地で、エドワードは大きく息を吐く。
「やっぱり廃町になったとしか思えないな。大佐には、視察どころか視察する町そのものがないじゃねーか! と言おう。ついでにこんなところまで来た苦労を労《ねぎら》わせてやる。それかなにか旨い物でも奢《おご》らせるとか……」
エドワードが、無駄足を踏ませたロイへいかに報復するかを考えていたときだった。
アルフォンスは、広い大地の向こうからやってくる人影を見つけた。
「兄さん、誰かこっちに来るよ」
「んん?」
エドワードが目を凝らすと影がこちらに向かって歩いてくるところだった。
どうやら、行商人らしい。
大きな荷物を背負ってゆっくり歩いていた。
「こんなところで、行商……」
「やっぱりこの先に町があるんだよ。聞いてみよう」
「ああ」
「すいませーん」
エドワードとアルフォンスは、小走りになって、男に近づく。
男は目に砂が入らないようにとうつむいて歩いていたが、エドワードたちの足音に顔を上げた。
「おや、どうしたね?」
「あの、ちょっとお尋ねしたいのですが……」
アルフォンスは、地図を男に示すと、ウィスタリアと書かれた場所を指した。
「ここに行きたいんですけどご存じですか? 全然見つからなくて……。もしかして、もうないのでしょうか?」
「なに言ってんだ」
男はおかしそうに笑うと、地図上のウィスタリアをとんとんと指で叩いた。
「ちゃんとここにあるよ。実際にはもうちょい先だがね。君たち、ウィスタリアのこと知らないのかい?」
「え、ええ、まあ」
視察に行けと言われただけで他の情報はほとんどない。
エドワードとアルフォンスにとって、ウィスタリアはただ遠い南の町、というイメージである。
「いやいや、なにも知らずに来るとは珍しい。今では、あの町はものすごく発展していて、豊かになっていてね。楽園とまで言われているんだよ」
「楽園?」
男の口から出た思いもよらなかった言葉に、エドワードは笑ってしまった。
「こーんな不毛の場所に?」
何もない大地をぐるりと示す。
だが、男は深く頷いた。
「町に一度住むと、そのあまりの豊かさに他の町に引っ越す者がいないというくらいなんだからな」
「そんなに住みやすい町なのか?」
「ああ、それで他の町へ住み替える者がいないらしい。この時代に幸せなことだ。そこまで豊かならワシもひと商売させてもらおうと思ったんだが、入れてもらえんかった」
「え? どうしてですか?」
視察に来たのに、入れないのでは困る。
アルフォンスが聞き返すと、男は少し残念そうに、元来た道を振り返る。
「あそこの町は入る者を選ぶんだよ。本当に困った者や帰る場所のない者だけしか受け入れない方針らしい。町長がそういう者たちを受け入れるために作った町だから、諦めてくれと言われたよ。誰もが自分のことしか考えないこの時代に心の優しい町長さんがいたもんだ。ワシもそれ以上強く言えなくてねえ。最後の楽園と呼ばれるウィスタリアにいっぺん入ってみたかったが。先ほど通った町の人間にも一応頼んでみたが、やはりダメだった」
「ここを町の人が通ったの?」
「ああ、ウィスタリアに電話がないらしいから、外の者と連絡を取るのに必要なんだろう。ごくたまに町の人間が通るんだ。急げば追いつくかもしれんな。その人に町に入れてもらえるよう頼むだけ頼んでみたらどうだ?」
エドワードとアルフォンスは、ないと思っていた町の存在がやっと形になってきたのを感じる。
「行ってみよう、兄さん」
「ああ」
だが、男は僅かに心配そうに眉《まゆ》を寄せた。
「だが、町のまわりは今、物騒でな。ウィスタリアの富に目が眩《くら》んだ輩《やから》どもがテントを張っていて、隙あらば町に侵入しようと剣呑《けんのん》な雰囲気を漂わせている。あいつらは町の者たちと絶えずもめ事を起こしているらしい。巻き込まれないように気をつけなさい」
男の忠告にお礼を言うと、エドワードとアルフォンスは少し早足になって歩き出した。
「でも良かった。町は、本当にあったんだね」
「もうちょい先に行けば見えるのかもしれない」
二人は、再び、何もない大地を行く。
「あのおじさんの話だと簡単に入れてもらえなさそうだけど、どうだろう」
「入れてくれなきゃ視察できねえから、先を行ったっていう町の人に頼んでみるしかないな」
しばらくたっただろうか。
エドワードとアルフォンスの行く先に、テントが見えだした。
小さな小屋や、繋がれた馬、荷物まである。
この荒れ地で生活しているようだった。
「あれが、おじさんが言ってた危険な人たちのいるところかな」
「だとしたら、ウィスタリアはその向こう……だけど……」
だが、やはり建物は見当たらない。
「まさかまだ先、とか?」
エドワードが、半ばうんざりしたときだった。
「なにするのよ!」
鋭い声が、前方から聞こえてきた。
退廃的なこの場に似つかわしくない、張りのある少女の声だった。
声のする方角には、目つきの悪い男たちが数人固まっている。
鍛え上げた身体や、狡猾《こうかつ》そうな顔つきを持つ男たちは、どうみても善良な市民ではなかった。
中には銃を持った者もいる。
その真ん中で、長い髪が揺れていた。
屈強な男の中に囲まれている状況からして、穏やかではない。
アルフォンスは心配そうにつま先立ちになって様子を窺った。
「どうしたんだろう、あの子。こんなところでなにやってるのかな?」
男たちは少女を囲んで脅すような口調で話しかける。
「いい加減、町に入れてくれねえかなぁ? いい暮らしを独り占めするなんてよくないぜ?」
「俺たちが穏やかに頼んでいるうちに、入り口を開放した方がいいんじゃないのか?」
決して怒鳴り声を上げているわけではないが、脅迫しているも同然の台詞である。
聞いた誰もが怯《おび》えても不思議ではない。
しかし、答えた少女の声には恐れる様子など全くなかった。
「入りたければ、どこからでも入ればいいじゃない。私たちは、町を柵で囲ってもいなければ、堀を作って遮断しているわけでもないわ。ただ、私たちの使う入り口は使ってほしくないと言ってるだけ」
どこか、挑戦的な響きを持ったその言葉に、男の一人が怒鳴った。
「そこからしか入れないから、言ってるんだろうが!」
「そんなことまで知らないわよ」
「……のやろうっ! こっちが手出しできないからって、いつまでも生意気言ってんじゃねえぞ!」
エドワードとアルフォンスが、そこに向かって足を速める間にも、少女は辛辣《しんらつ》な言葉を続けていた。
「あんたたちは、町を荒らすのが目的なんでしょ。そんなヤツらを歓迎できると思ってんの?」
「こいつ!」
「下手に出ればつけあがりやがって!」
男の一人が、少女の胸ぐらを掴《つか》んだらしいのが、エドワードとアルフォンスにも分かった。
「まずいよ。このままじゃあの子……」
アルフォンスはハラハラしているが、エドワードは、反対に顔をしかめていた。
「強気だなー……。普通、囲まれたらあんな言い方しないぜ。あんな生意気な様子を見せるって事は、本人もケンカに自信があるんじゃないのか?」
声を荒げる男たちの近くに寄って、エドワードは中心にいる少女が、怯えていないことに気がついていた。
「町に入って交渉したければ、違う場所から入ってみせれば? まあ、命がけになるんでしょうけど」
少女がそう言うと、男たちが一斉に拳を固めた。
「痛い目をみないと分からないようだな!」
「俺たちは町の利益を少しもらえりゃ、これから他のヤツらが襲われないように守ってやるって言ってんのに、分からないヤツだな!」
男の一人が腕を振り上げた。
「あっ」
殴られる、とアルフォンスが咄嗟《とっさ》に一歩出たが、それは杞憂《きゆう》に終わった。
「そんな必要ないわ」
少女がそう言うのと、胸ぐらを掴んでいた男がひっくり返るのは同時だった。
男の腕を捻り上げ、できた隙に身体を切り込むようにして男の脇に入った少女は、自分より大きな男のバランスを崩させ、倒したのだ。
「自分で努力しないで、他人の富を欲しがるなんて、なんて浅はかなヤツらなの」
倒した男の腕を振り払い、少女は自分に向かって振り下ろされる拳を、手首から肘の部分で受け止め、そのまま足を振り上げる。
膝が鳩尾《みぞおち》に入り、男がまた一人倒れた。
男が二人倒れたことで、少女を取り囲んでいた輪が乱れた。
そこではじめて、エドワードとアルフォンスは少女の全身を目にすることができた。
長い黒髪を高い位置で一つまとめた少女の年は、十七〜十九くらいであろうか。
すらりとして手足と背筋の伸びた身体が、凛《りん》とした雰囲気を醸《かも》しだしている。
半袖のシャツと、軍隊の男が穿《は》くようなズボンに隠されているが、少女の身体がただ細いだけではなく、しなやかな筋肉に縁取られていることが、二人にも分かった。
そして、エドワードとアルフォンスになにより印象づけたのは、その瞳だった。
髪と同じように黒く大きな瞳は、強い意思を秘めており、まるで燃えあがるかのように、生きる力に溢《あふ》れていた。
長い髪が右から左へと流れるように動き、舞うように回転した足が男たちを倒す。
「こ、こいつ、いつものように俺たちが逃がすと思うなよ!」
「おい、全員、手を貸せ!」
あっという間に少女に数人を倒され、残った男たちが、遠巻きに見ていた他の仲間たちに声をかけたのを見て、アルフォンスは慌てた。
「兄さん、助けないと!」
しかし、エドワードは動じなかった。
「助けるってどっちを?」
「どっちって……」
二人の目の前で、少女がまた一人、男を吹っ飛ばす。
「あの子には、助けなんかいらなそうに見えるけど」
「けど、大勢で一人に寄って集《たか》るのは、良くないよ」
アルフォンスは気が気でないようだった。
少女が一人の男と向かい合っている隙に、後ろから棒状の板きれを振り上げた男に気づき、思わず叫ぶ。
「あ、危ない! 後ろっ」
その声が届いたのか、少女が後ろに男に目線を向け、そのまま後ろに足を蹴り上げた。
棒きれを持った肩を強く蹴られ、男が倒れた。
と、同時に他の男たちが、一斉に振り返る。
「なんだ、この鎧は」
「あの女の仲間なのか」
振り向いた何人かが胡散《うさん》臭そうにエドワードとアルフォンスを眺めた。
「仲間じゃないですけど……」
アルフォンスは慌てて否定しながらも、ひと言付け加える。
「でも、一人の女の子に寄って集って暴力するのはあまり賛成できません」
だが、男たちは鼻で笑った。
「口出すんじゃねえよ! あっち行ってな!」
「もういい! とりあえず、この女をやっちまえ!」
今度こそ、男たちの表情に凶暴な色が浮かぶ。
「多勢に無勢はひどいよ!」
「あ、アル!」
エドワードが止める間もなく、アルフォンスが飛び出し、そのまま乱闘の渦へと入っていく。
「……ったく」
目の前で少女に向けられた敵意を見過ごす訳にはいかないアルフォンスの優しさを責めるつもりはない。
それが弟のいいところだとも思っているエドワードである。
「しょうがないなー……」
エドワードはぶつぶつと言いながら、乱闘の中へと足を踏み入れた。
少女は生意気であったが、やはり一対二十近いケンカは見ていて気持ちがよくない。
正義感ぶるつもりはないが、この場合は少女を助けるべきだろう。
大佐から頼まれた仕事、というだけでなににつけてもイマイチやる気の起きないエドワードだったが、これ以上傍観もできず、まずは自分に向かってきた男の拳をかわし、突き飛ばす。
「いつもだったら、飛び出すのはオレなんだけど……。こういうのも珍しいなぁ」
本来突進型のエドワードを、今まで何度となく諫《いさ》めてきたのはアルフォンスである。
今回のこの珍しい状況に妙に感心しながら、エドワードは、男たちを蹴散らすアルフォンスと少女に銃が向けられているのを見て、その男を殴り倒す。
「こいつ!」
数人がエドワードに向かって、手にした棒や板きれを振り上げた。
「この小僧を叩きのめせ!」
「おおっ」
男たちが突進する。
だが、エドワードは退くどころか、コートを脱ぎ、右手の手袋を外しながら前に出た。
走りながら、両手を勢いよく合わせる。
パン!
と短い音がし、男たちがその行動に首を傾《かし》げる間もなく、エドワードは己の左手を右手に当てた。
鋭い光が走り、あたりを眩《まぶ》しく照らした。
そして光が収まったときには、エドワードの右手の甲からは鋭利な刃物が飛び出していた。
エドワードの腕が大きく振られる。
何が起こったのか把握できない男たちの棒きれが、スパリと切れ、地面に落ちる。
「錬金術師だ!」
誰かが叫び、男たちが振り向く。
その間をエドワードがすり抜けた。
構えられた銃口を切り落とし、振り回される鉄パイプを右手首で受け流す。
一瞬、火花が散った。
体勢を崩した相手を突き飛ばし、そのまま拳を後ろに振る。
「ぐわっ」
エドワードの裏拳を胸部に受けた男が、息を詰まらせ崩れおちる。
その男の向こうから投げられた拳ほどの石を、エドワードは慌てもせず避けると、岩影に隠れている数人にニヤリと笑ってみせる。
「まだやるかい?」
「……!」
エドワードの身のこなしから強さを感じとった男たちは、突然目にした錬金術への驚きもあって戦意を喪失したらしい。
「アル、今のうちに!」
エドワードは、アルフォンスを振り返る。
「うん!」
アルフォンスは、近くで二人の男を蹴り倒した少女に声をかける。
「君も逃げよう!」
アルフォンスは、何もない荒野に向かうよりは、と元来た場所へ戻ろうとする。
しかし、そこで少女が頭を振った。
「こっちよ!」
少女はアルフォンスの腕を掴むと、反対側に向かって走りだす。
「え、ちょ、ちょっと!」
「いいから、早く!」
町を狙っている男たちが作ったテントの間を抜けると、広い大地が現れた。
「もう少し行けば、あいつらも追ってこれない」
「そ、そうなの?」
アルフォンスが後ろを振り返ると、エドワードが追いかけて来るところだった。
その後ろにいる男たちは立ち止まって悔しそうにこっちを見ている。
追われる心配がなくなったことにホッとしながらも、アルフォンスは逆に困ってしまう。
「こっちに来ても逃げる場所がないんじゃないのかな」
前には荒野が広がっているだけだ。
「なんでこっちに来たんだ! 元に戻った方が安全だ」
後ろから走ってきたエドワードも少し怒ったように声をかけてくる。
だが少女は迷いもなく、大地に向かっていた。
「いいから黙ってついてきなさいよ。うるさいわね」
「……! 助けてもらっておいて、その態度はないだろ!」
エドワードは憮然《ぶぜん》としたが、少女は足を止めない。
結局つられるようにして、エドワードとアルフォンスは少女とともに走った。
しばらく行くと、少女は振り返り、男たちが追ってこないことを確かめた。
「ここまで来れば平気ね」
少女はそこで初めて足を止めた。
「助けてくれてありがとう。私はルビィよ」
「あ、ボクはアルフォンス。こっちは……」
アルフォンスは差し出された手を握り返しながら、隣のエドワードにも自己紹介を促す。
しかし、エドワードは顔をしかめたままだった。
「……あんたさあ」
ぶっきらぼうにルビィに向かって話しかける。
「帰り道のことも考えないでこっちに来ちゃってどうすんだよ」
散々荒野を歩いてうんざりしていたところに、強引な口調で走らされ、エドワードは気分を悪くしていた。
アルフォンスはお礼を言われたことですぐに水に流したが、エドワードはそうもいかなかったらしい。
「それに、言わせてもらえば、さっきの乱闘はあんたにも非があるように見えたんだけど。あんな挑発的な言い方してたら、命がいくつあっても足りないぜ」
しかし、ルビィは気にしたふうもなく言い返した。
「あら、そんな言い方は心外だわ。悪いのはあいつらよ。そんなヤツらを優しく窘《たしな》めなきゃいけないなんておかしいじゃない」
「そうだけどさ。知らない人から見たらどっちが悪役か分からないだろ。ていうか、オレからしたら、あんたの方がよっぽど悪役」
「兄さんてば……」
どっちが悪役か分からない、とはエドワード自身がよく言われる言葉である。
アルフォンスは思わず苦笑してしまった。
どちらかと言えば、エドワードも強引かつ、生意気な性格が前面に出ることが多い。
自分と同じ面を持っている人間は意気投合するか、反発し合うかどちらかに偏りやすいが、どうやら後者のようであった。
「兄さんも、決して口が良い方じゃないでしょ」
「そうだけど、オレはここまで生意気じゃない」
するとルビィも、口を尖らせた。
「生意気はどっちよ。あいつらから逃げようと走ってるんだから、ああいうときは黙ってついてくればいじゃない」
「てめえが悪者だったら、どうすんだよ!……ちぇ、助けなきゃ良かった」
「じゃあ言わせてもらうけどね、あんたがいなくたって、私は助かったわよ。……でも、アルフォンスは別。ありがとうね」
エドワードの言い方に、カチンときたのかルビィはツンとした顔でそう言ったが、最後はアルフォンスに笑顔を向ける。
率先して助けてくれた上、気の強さを受け止めて流してくれるアルフォンスが気に入ったらしい。
エドワードは、ますますおもしろくなかった。
「なんだよ、オレだって助けてやっただろ。可愛くねぇな」
「なによ、お子さまのくせに!」
おもしろくないのはルビィも一緒だったらしい。
二人はアルフォンスを間に置いて、顔を突き合わせた。
「お子さまじゃねーよっ」
「あーら、そんなおチビなのに?」
「チ……てんめぇっ!」
『チビ』のひと言に、エドワードはくわっと形相を変えた。
「ちょっとばかしオレより背が高いからって、良くも言いやがったな!」
背のことを限りなく気にしているエドワードは躊躇《ためら》いもなく、ルビィの額に一発デコピンでも食らわそうと手を伸ばす。
それはかなり素早く的確な動きだったが、それより早くその手はルビィによってたたき落とされていた。
「いってぇ!」
「女だからって嘗《な》めないでよね!」
ギリギリと睨み合う二人の間で、アルフォンスは素直に感心していた。
「さっきも思ったけど、ルビィって強いんだねえ」
チビと言われて反射的に動くエドワードの手を避けられる者などそうそういない。
しかし、ルビィはあっさりとそれを払ったのだ。
「もうやめなよ、兄さん。……ルビィ、この人はボクの兄さんでエドワードというんだ」
「お兄さん? 本当に?」
「さっきからそう言われてんだろ」
「いえ、ただ友達を兄貴分として呼んでいるのかと思っていたのよ。だって……」
ルビィは、アルフォンスを見上げ、次にエドワードを見下ろした。
エドワードはルビィの言わんとしていることを感じて睨み返した。
「……てめえ、あと一回でも身長のことを言ったら、ぶっ飛ばすからな……」
「言わないわよ。子供をいじめる趣味はないわ」
身長や身のこなしだけでなく年齢も上であろうルビィを前にすると、エドワードが小さな子供のように見え、アルフォンスは思わず笑ってしまった。
「もういいっ、行こうアル!」
エドワードはトランクを持ち直して、あらぬ方向へ歩きだそうとしたが、アルフォンスがその肩をやんわり押さえた。
「どこへ行くの。ボクたち、ウィスタリアに来たんでしょ」
アルフォンスは兄を捕まえたまま、ルビィに問いかけた。
「ねえ、もしかして、ルビィはウィスタリアの人?」
するとルビィも、エドワードの相手をやめ、アルフォンスに向き直る。
「ええ、そうよ」
「兄さん、良かったね! これで休めるよ」
「別に」
アルフォンスに押さえられたまま、エドワードは仏頂面《ぶっちょうづら》でぼそりと返す。
「もう、なにいじけんてんのさ。ルビィに案内してもらおうよ」
兄を宥《なだ》めながら、アルフォンスはルビィに聞く。
「ボクたち迷ったみたいで二日半も探していて……。町はここから遠いのかな?」
するとルビィは意外そうな顔をした。
「二日半? そんなにかかったの? 近道を使えば隣町まで一日よ?」
「そうなのか!?」
「建物らしき影がないから、あちこち方向転換しちゃったよ……それが仇《あだ》になったね……」
エドワードとアルフォンスは、大きくため息をついた。
「……建物の影って……。もしかしてウィスタリアのこと、なにも知らずに来たのね」
「う、うん?」
「いいわ。案内してあげる。さあ、町はすぐそこよ」
「「え?」」
突然、なにもない緩やかな傾斜を指され、エドワードとアルフォンスは、同時に聞き返してしまった。
「どこに?」
「なにもないけど……?」
目を凝らしたが、ルビィが指さす方向にはなにもない。
町もなければ、人影もなく、なだらかに上がる丘が行く手にあるだけだ。
だが、そこで、聞き慣れない音が聞こえてきた。
「……なんだ?」
「水の流れる音……?」
緩やかな傾斜を上るエドワードとアルフォンスの耳に、音はさらに大きく聞こえてくる。
「着いたわ」
数歩先を歩いていたルビィが振り返った。
「ここが、ウィスタリアよ」
ルビィはなだらかな丘の上に立ち、前方を指し示した。
エドワードとアルフォンスは、丘を登りきり、そこに広がった光景に思わず息を飲んだ。
「……!」
「!!」
茶色の大地が広がっている。
その上には岩が転がり、砂が風に舞い上がっては黄色く空を霞《かす》ませている。
それは今までと変わらない。
しかし、そこにはぽっかりと巨大な穴が開いていた。
平らな大地に黒く穿《うが》たれたような巨大な穴の壁は、切り立った崖となっており、深く底へと続いていた。
エドワードたちの立つ大地にはまだ陽が当たっていたが、穴はすでに影の中に閉ざされつつある。
影は薄い闇となって、穴を覆い始めていた。
「これが、ウィスタリア……」
その巨大な穴の底に、町があった。
楕円形の穴の底には、右から左へと水が流れている。
右側の崖の一部から地下水が流れ出ているらしく、それを調節する白い水門が見えた。
水量を調整された水は町の真ん中にある水路を走り、反対側の壁へ吸い込まれていく。
水門近くにある一番大きな屋敷を筆頭に、水路のまわりには家々が並んでいた。
工場らしき長方形の建物も並び、ドーム型の大きな炉まである、ところどころに畑もあり、そこでは野菜や果物を作っているのか、篭に野菜を盛った住人の姿が見える。
吹き上げる風が、水音と工場の稼働音を運んできた。
「すごい……!」
エドワードは感嘆の声を漏らす。
まるで不毛な大地に突然現れた楽園のように、ウィスタリアはそこにあった。
「まさか崖下にあるとは思わなかった?」
「うん。これじゃあ、入るのも命がけだ」
アルフォンスも感心する。
「あの強盗たちが入れないのも合点がいったよ」
「入り口は、一カ所だけしかないのよ」
ルビィは穴の縁に沿って歩きだした。
その先には、頑強な男が二人、銃を持って立っていた。
「あそこから、崖がうまく段差になって底に続いているの。そこからかろうじて下に降りれるだけ」
「対岸はどうなってるんだ? あっちからは人は来ないのか?」
エドワードは遠くにある穴の向こうを眺めた。
「あっちはこちら側より危険よ。いくつもの亀裂が走って、切り立った谷になっているし、小さな穴もたくさんあるわ。だから警備するのは、こっち側だけでいいの。さっきのヤツらは、あの銃の射程距離までは入ってこないしね」
強盗たちが深追いしてこなかったのは、どうやらそのおかげだったらしい。
入り口となる場所には、岩が二つ置いてあり、そこに棒が渡されている。
そこで銃を持つ男たちは見張りをしていたのだろう。
「なるほどね、自然が作った要塞《ようさい》ってわけか。ところで、オレたちは入っていいのか? 町には入る条件があるって聞いたけど」
「それはそうだけど、でもあなたたちは命の恩人だもの。町の法に適用するわ。お礼をさせてもらわなくっちゃ」
「町の法?」
「ええ」
ルビィは明るく頷くと、二人を穴の底へ案内するために、入り口へと歩きだした。
第2章 穴の底の楽園
エドワードとアルフォンスが、崖にある少しの段差と、それを補強するように作られた狭い木の階段を通って町に降り立ったとき、町は完全に夜になっていた。
「わあ……!」
「!」
上から見るとまるで地の底の暗い町だったが、視点が変わると、町はまるで空に向かって広がっているように見えた。
町をぐるりと覆う高い崖がすべてを遮断し、真ん中からは楕円形にくりぬかれたような空が見える。
そこから見える星空は空ごと降ってきそうな迫力を持っていた。
「……はー、すげぇなぁ」
エドワードは、はじめて見る光景に半ば呆然とする。
「だらしないわねぇ。口、開いてるわよ」
圧倒されるままに、崖を見上げ、ぽかんと口を開けていたエドワードは、ルビィに笑われて慌てて口を閉じた。
「いちいち、うるせぇよっ」
「もう。あんまりケンカしないでよ」
アルフォンスは笑いながらそう言うと、ルビィの後をついていく。
「ちぇっ。生意気なヤツ……」
いつもは自分ばかり生意気だと言われているので、エドワードはここぞとばかりにルビィをそう評した。
ルビィは町の中を案内しながら、町の片側を示した。
「この入り口から右手に見えるのが、この町をまとめてくださっているレイゲン様のお屋敷よ」
ルビィの指し示す方向には、白く大きな屋敷が建っていた。
町にある家々と比べて、屋敷はかなり大きく、敷地も広かった。
「水門はお屋敷のちょうど裏手にあるの。そこから水量を調節して、町の中心に通っている水路に供給されているのよ」
白い屋敷の奥には、大きな壁が見えた。
崖にぴったりとくっつくようにして作られているそれが、絶壁の途中から流れ出る水を調節する水門なのだろう。
「水路に流れない水はどうしてるんだ?」
「屋敷の地下にも水路を造ってあって、そっちに流しているわ。地下水路と、この町の表を流れる水路は、町を出たところで合流して流れていくの」
手を右から、左に動かして、ルビィは説明をする。
エドワードは、下流側の絶壁に亀裂があることに気がつく。
地上から底まで縦に割れているその亀裂に流れこんだ水は、地下水路の水と合流して、そのまま地中の水脈を流れていくのだろう。
ウィスタリアは、自然が作った裂け目と、そこを通る川を上手《うま》く利用してできている町なのだ。
「この川のずっと上流に、鉱山がいくつかあったよな」
エドワードは、空に瞬く星から方角を確かめ、頭の中にある地図と照らし合わせる。
「ええ。深い位置にある鉱脈から削られてきた岩や砂利に混じって、宝石の混じった鉱物も流れてくるの。本来なら、地中深くに埋もれたままの石が、ウィスタリアでいったん表に出て来るのよ。町ではそれを精製して、財源にしているわ。それが欲しくて、強盗たちが狙ってるってわけ」
「じゃあ、どうやって外に運ぶんだ?」
するとルビィが誇らしげに胸を反らした。
「それが私の仕事」
「ルビィの?」
「鉱物は月に一度まとめて、町から外に出されるの。もちろん、外には強盗がいる。だから、私は警備員としてそのガードをするのよ。普段は町の警備もしているわ」
「どうりで強いと思った」
「気も強いけどな」
「兄さん……」
アルフォンスは、エドワードを睨む。
「でも女の子なのに、警備の仕事なんて大変だねえ」
だが、ルビィはたいしたことないように笑った。
「私はレイゲン様のお役に立ちたいだけ。すごく優しい方なのよ。身よりのない者や、行き場のない者を助けてあげて、仕事を与えてくださるんだもの。おかげでみんな幸せに暮らせるし私もその一人、小さな頃に助けてもらったお礼に、今は町とレイゲン様の警備員として働かせてもらってるわ。レイゲン様のおかげで、私は新しい生き方を教えてもらったの。ここは楽園よ。電気がないのが少し不便だけど、アルコールランプがあればなんとかなるしね。ほら、街灯が点くわ」
ルビィの示す先では、長い棒先に火を点けた人物が、町の外灯に火を入れていた。
それは、一見厳しそうに見える絶壁の中の町を明るく浮かび上がらせる。
「荒野にある楽園、か」
ぼんやりと浮かび上がる町を見渡しながらエドワードは呟いた。
町の中を歩いていると、やがて、道ばたで腰を下ろしている男たちに出会った。
「おーい、ルビィさん、お帰りなさい」
「お疲れさま、ルビィさん」
男たちはルビィたちに気づき手を振ってくる。
「みんな、休憩中なの?」
ルビィも、手を振り返しながら、声をかける。
「おう。今日はかなりでっかい宝石がでたんだ。今は別の者たちが精製してるよ」
「あれは高く売れるぞ」
「あとな、今日は休憩の合間を縫って新しい畑の盛り土をしたんだぜ。ほら、おかげで今日は特別に泥だらけだ!」
「お前は、いっつも泥だらけじゃねえか」
「ははははっ」
楽しそうに男たちは笑い、汚れた服を愉快そうに叩いた。
男たちの顔は汚れていたが、気持ちよく働いている者が待つ、清々《すがすが》しさを感じさせた。
彼らは、エドワードとアルフォンスにも気さくに話しかけてくる。
「おや、見ない顔だね」
「君のそれは鎧かね? かっこいいねぇ!」
「ど、どうも」
どうしてそんな格好をしているのかと聞かれることは多いが、かっこいいといきなり褒《ほ》められるのははじめてである。
新鮮な思いで照れるアルフォンスの横では、別の男がエドワードの右腕を興味深げに見ていた。
「君もいい機械鎧《オートメール》つけてんなぁ。仲間だな」
男はニッと笑いながらエドワードに自分の両腕を見せた。
「俺も機械鎧《オートメール》なんだ。おかげで少々危険な仕事でもケガをせずにすむから、俺の者より働ける場所の選択肢も多い! 軍のヤツらのせいで、酷《ひど》い目にあったが、この町に来てからというもの、この腕になったことを感謝できるようになったんだ」
どんな過去で機械鎧《オートメール》になったのかは分からないが、その男は機械鎧《オートメール》の腕が誇りらしい。
男はガシャンと自分の腕を叩く。
「せっかくこんな立派な腕があるんだ。めいっぱい使いたいじゃないか」
「働いても働いても、暮らしが楽にならない上の世界とは違うものな。働き甲斐《がい》があるよ」
「そうね。これが町の決まりだなんて、幸せよね」
「決まりってなんだ?」
気になって聞き返そうとしたエドワードに、ルビィが答えようとしたとき、男が先の道を指差した。
「そういえば、レイゲン様が広場にいらいらしていたよ。新しく住人になりたいと言う者が三人ほどいてね。今、お話している最中だ」
男の一人が言ったその言葉に、ルビィはパッと顔を輝かせた。
「レイゲン様が?」
ルビィは、エドワードの問いに答えることなく走りだす。
「レイゲンて、ここの町長なんだよな?」
「どんな人なんだろうね」
エドワードとアルフォンスが走るルビィについていくと、やがて町の中心らしい広場へと辿《たど》り着く。
「レイゲン様!」
ルビィは、広場で数人の者と話していた男の傍《そば》に寄る。
「レイゲン様の封書。無事、隣町で出してきました! これ投函証明書です」
「おお、ルビィ。戻ったのか」
振り向いたのは、初老の男だった。
肩まで伸びた銀髪。
皺《しわ》の刻まれた顔。
六十歳は過ぎているだろうか。
青い目が優しげに細められ、夜気を遮るマントから伸びた手がルビィの差し出した投函証明書を受け取った。
「いつもすまないね。私用の遣《つか》いに出してしまって」
低くしゃがれた声が、ルビィを労《ねぎら》う。
「レイゲン様が古いご友人と定期的になさっている文通でしょう? 私用だからこそ、お役に立てて嬉しいです」
レイゲンから褒めてもらったことが嬉しいのか、ルビィは微笑み、その顔からは役に立てたことを誇りに思ってるのが窺えた。
それを見ていたエドワードは、アルフォンスに囁いた。
「さっきの威勢のよさとはえらい違いだな」
「あはは」
エドワードに突っかかるときとは違って、丁寧な言葉を話すルビィに、アルフォンスもつい苦笑してしまう。
ルビィを労ったレイゲンは、エドワードとアルフォンスにも穏やかな笑顔を見せた。
「おや。新しいお客様かね」
「あ、この二人は……」
ルビィは、少し慌てたように、レイゲンに紹介した。
「あの、先ほど、町の外で強盗たちに絡まれていたところを助けてくれたんです。なので、お礼をしなくては、と思って……。町に住みに来たわけではないらしいのですけど……」
まるで窺うようにレイゲンを上目づかいで見るルビィの様子をエドワードは訝《いぶか》しむ。
「もしかして、オレたちは入れないのかな?」
町に来る前に出会った行商人が、町は入る人間を選ぶと言っていたのを思い出してエドワードは呟いたが、レイゲンはゆっくりと首を振った。
「いやいや、大丈夫だよ。本来なら、誰彼構わず歓迎している町ではないのだが、君たちはルビィの命の恩人だ。恩人をここで返すのは、我が町の法に反する。ここで旅の疲れを癒すがよい」
「法?」
それが良く理解できず、エドワードは聞き返す。
「ああ。そうだよ」
レイゲンは、エドワードに向き合うと、穏やかに続ける。
「我がウィスタリアでは、等価交換を大原則にしているのだよ」
「「等価交換?」」
錬金術師として耳慣れた言葉に、エドワードとアルフォンスは驚いた。
等価交換は錬金術の基本である。
質量保存の法則と自然摂理の法則に則《のっと》った錬金術ではよく使われる言葉であるが、それが町の法として使われているとは思いもよらなかった。
「等価交換が町の法になっているのですか? そういう考えって珍しいですね」
アルフォンスが素直にそう感想を漏らすと、レイゲンは穏やかな笑みを少しだけ悲しそうに歪《ゆが》ませながら、広場から町を見渡した。
「そう。君の言うように、珍しいかもしれんな。……一には一の対価があるように、この世界のすべてには本来それ相応な対価がある。だが、上の世界はどうだ? 平和になる代価として軍は、内乱で身内や身体を失う者を多く作っている。企業を発展させる代価に働いた者に正当な報酬を払わない。世界には不条理なことが溢れすぎているのだよ」
崖の上にある世界を思ってか、レイゲンの口調には静かな怒りが滲んでいた。
「不条理を自分の力不足、自分のせいだと思って世を嘆くしかない者たちに、私は自分が知っている錬金術そのものより、その教えの等価交換というすばらしいルールを分かりやすく伝え、新しい生活の中で希望に溢れる生活をしてほしいのだ」
「錬金術師のエドワードには、とても良く理解できるのじゃないかしら? 等価交換、よく知ってるでしょ?」
ルビィが、エドワードの肩をちょんと突ついた。先ほどの強盗との戦いで、エドワードが錬金術を使ったのを見ていたらしい。
それを聞き止めたレイゲンが僅かに眼を見開く。
「君は錬金術師なのかな?」
「ああ、まあ少し……」
エドワードは言葉を濁す。
町に来てまだ少ししかたっていないが、ウィスタリアに住む者たちが、軍をよく思っていないことは察しがついた。
軍人であることがバレれば歓迎されないであろう。
ついでに、何故国家錬金術師がここに来たのだ、という話題にもなりかねない。
そうなればサボったロイの代わりに視察に来たということもバレ、ロイから「だから言うなと言ったのに!」と苦情を言われることは間違いなかった。
それはそれでロイのいいなりになっているようでいささか悔しくもあるのだが。
その複雑な心境が顔に出ていたらしい。
悩みながら言葉を濁すエドワードの様子に、レイゲンは、エドワードが錬金術を僅かばかり囓った程度で、等価交換の意味をたいして理解していないただの子供だと思ったようだった。
「君も、等価交換は知っているだろう?」
レイゲンは小さな子供に言うように、少しかがんでエドワードに聞いた。
「はあ。まあ……」
子供扱いされたことに、内心でムッとしながらも、エドワードはアルフォンスに目配せすると、このまま黙っていようと合図をした。
町の状況が分からないまま下手なことを言って追い出されるよりはいいと思ったからだった。
レイゲンはエドワードに教えるように話す。
「私は錬金術を研究するうち、等価交換の教えこそ、人が人らしく平等に生きるために、一番分かりやすいものだと思ったのだ。働けば働いた分だけ、努力したら努力した分だけ、上の世界では誰もできなかった平等の世界、私はこれでまず不平等に苦しんできた者たちを救ってやりたい。君も錬金術師のはしくれとして、等価交換の意味をこの町で考えてみるといい」
レイゲンはかがめていた腰を伸ばすと、エドワードたちが来る前に話していた三人に顔を向けた。
「そういうわけで、我が町は、辛い過去を背負う者を新しいルールで救うためにあるのだ。その条件に合った者以外は入れない。分かってくれるかな?」
その言葉に、言われた者たちは顔を見合わせた。
どうやら、町に住みたいとやってきた者たちらしい。
一人は細く今にも倒れそうな男。
一人は商人なのか、壊れかけた車輪付きのトランクに雑貨を積み重ねた男。
残る一人は旅の途中なのか、杖を持った旅装の者だった。
そのうちの商人風の男が渋い顔をしながら口を開いた。
「ということは、俺のような商人はお断りってことか?」
「申し訳ないが。帰る場所のある者を受け入れる余裕はない。ここは特殊な立地条件故、狭いのでな。……君はどうしてここに来たのかな?」
レイゲンは旅装の男に声をかける。
「俺は、ウィスタリアが楽園だと聞いたから、ここなら儲《もう》かる仕事があるかと思って……」
旅装の男は、かぶっていたフードを取って説明をする。
「君に家族はいるかね?」
「妻がいる……」
「ではそこへ帰りなさい。待ってる人がいるならば、君はその人と共に生きるべきだ。違うかね?」
「は、はい……」
「君に、ウィスタリアの支えはいらない。奥さんが支えとなるだろう」
優しく諭《さと》すような言葉をかけてから、レイゲンは次の男に向き合う。
「君は?」
「俺は、内乱で家も家族も失って……けれど軍はなにもしちゃくれねえ……あんな世の中は間違ってると思っていたとき、この町のことを聞いてやってきたんだが……」
男はレイゲンの顔をチラチラと見ながら答えた。
そのおどおどした様子をレイゲンは暖かい眼で見守る。
「帰るところがないのだね。それならは君はここで暮らせば良い。仕事もちゃんと与えよう」
「でも……、あの……」
「なにかね?」
ますます恐縮したように、男は首を竦めて口ごもった。
「俺は……その……、前の仕事場で、稼ぎを仲間に奪われて、それでついカッときて……」
そこまで言いかけた男をレイゲンの手がそっと制した。
「帰るべきところがない。それだけの理由で十分だ」
「おい、待てよ! もしかしたら、こいつは罪人じゃないのか? そいつを受け入れるのに、なんで俺はダメなんだ? 俺はウィスタリアで儲けられると信じてたから、トランクを壊しそうになってまでここに来たんだぞ!」
レイゲンの言葉に商人がいきりたつ。
「大体、この町の富については、みんな知って狙っているんだ! ここいらで開放しないと、いずれ強盗どもが強襲して来る! 偽善もたいがいにしろ!」
「それは脅し!?」
商人の言葉に、眉をつり上げたのはルビィだった。
「あんたなんかになにが分かるもんですか! 偽善なのは外の世界よ。平和を謳《うた》って、たくさんの人を不幸にしている軍こそ偽善よ! レイゲン様はそういった偽善の餌食になった人を助けてくださってるのよ! 私はそのご恩を忘れないわ! 強盗が来たってちゃんと守ってみせるわよ!」
「ルビィ、よしなさい」
激しい剣幕で商人に言い返すルビィの肩をレイゲンが押さえる。
「だって、レイゲン様!」
「本当にいつも元気がいいね、ルビィは。将来、誰かの傍について行くとなったときのことを考えると心配だよ」
「将来も、私はレイゲン様に尽くすって決めてます。ご恩は忘れてません」
「そうではなくて」
エドワードたちに話したときよりも、さらに優しそうな声で、レイゲンは笑った。
「そんな様子ではいつかできる伴侶《はんりょ》さえも怖がらせてしまうよ、と心配しているんだ。ここに来るまで辛い思いをしていたお前や町の者がウィスタリアで幸せになる姿を見るのが楽しみなのだから」
レイゲンは言いながら、荷物を山ほど載せた商人のトランクに手を伸ばした。
その手首に錬成陣を描いた布が巻かれているのに、エドワードとアルフォンスは気づく。
「ここまで来るのは本当に大変だったろう。ウィスタリアがなにを目指している町か知りもせず、外の者は富の噂ばかりをする。それを信じて来た君が怒っても当然だ。せめてこれは直してしんぜよう」
トランクを小さな光が包んだ。
「あっ」
男が小さな叫びを上げる。
レイゲンの手がトランクから離れたとき、壊れかけていた車輪は錬金術で奇麗に直されていた。
「ここは他で幸せを掴めなかった者たちだけを受け入れている。どうか分かってくれ」
レイゲンは、広場の入り口に立っていた警備員を呼ぶと、町に受け入れられない男たちを送るように言い、町に受け入れる男は別の警備員に預けると、エドワードたちを振り向いた。
「時間を取らせてしまったね。さあ、君たちは、ウィスタリアでゆっくり過ごしてくれたまえ。ルビィの恩人だ、食事もなにもお金のことは気にせず、楽しんでくれ」
レイゲンはそう言うと、踵《きびす》を返し、ゆったりとした足取りで屋敷へと向かっていった。
エドワードとアルフォンスが案内された家は、町の中心から下流寄りの、水路近くの小さな家だった。
元は誰かが住んでいたのか、棚やベッドがちゃんとあり、ランプも置いてある。
「レストランは、さっきの広場から右手に入ったところにあるわ。外にバケツがあるから、水は水路から汲んで使って」
ルビィは説明しながら、ランプに火を入れると、二人を振り返った。
「どう? レイゲン様にお会いした感想は?」
その声には自分の尊敬する人を褒めて欲しいという気持ちと、褒められて当然という自信に満ち溢れている。
「困っている人を率先して助けているなんて、すごい優しい人だね」
「帰るべき場所がない人に居場所を与えるなんて、そう簡単にできることじゃないよな」
エドワードとアルフォンスは互いに頷き合いながら、そう返事をした。
罪人らしき者の罪に目を瞑って助けるのは、法に触れることでもあるし、感心はできなかったが、レイゲンの懐《ふところ》の深さは感じたエドワードたちである。
それを聞いたルビィは嬉しそうにパンと両手を合わせ、喜んだ。
「でしょう!? 本当にすばらしい人なの! あんな平等だなんて、上の世界じゃ誰もできなかったことをレイゲン様は実行なさっているのよ。上の世界では盗みや横領や賄賂《わいろ》ばかりでそのしわ寄せは町の人に来て、失業や不安や混沌が溢れているわ。でもここは等価交換という明快なルールがある。だから、きつい仕事もみんなして頑張れる。簡単なことなのに。軍の統《す》べる世界ではできなかったことをレイゲン様はやったのよ」
その口調からはルビィがレイゲンを深く尊敬しているのがありありと窺えた。
「よっぽど尊敬しているんだな」
「ええ、ずっとお傍にいてお役に立とうと誓ったの。……だから」
そこでルビィは急に声のトーンを落とした。
俯《うつむ》きながら、足先でトントンと床を叩き、アルフォンスを見、それからエドワードを上目遣いで見る。
「……なんだよ?」
またなにか言われるか? と身構えるエドワードだったが、ルビィの口から挑戦的な言葉は出てこなかった。
「……今日は……その……助けてくれてありがとう」
言いにくそうに、ルビィはエドワードに向かって小さくそう言った。
「レイゲン様のお傍にずっといると誓ったのに、今日みたいに遣いを頼まれた帰りに強盗たちに襲われて、もし命を落としていたら、もう傍にはいられないものね。そんな中途半端に人生を終わるのは、耐えられない」
ルビィの瞳には、自分が選んだ人についていくという、強い意志が表れていた。
「あのときはついああ言ったけど、あなたたちに救ってもらえたことはとても感謝しているの。志半ばで倒れるなんて、絶対に嫌だもの」
「そんな……。改まらないでよ。ボクたちがルビィを助けたのはたまたまだったんだし、逆に町に案内してもらえて、ボクらがこそ助かったよ。困ったときはお互い様」
ずっと威勢の良かったルビィが真摯《しんし》にそう言うのを聞いて、アルフォンスは慌てて手を振ると、ルビィが気をもまないよう言葉を選びながらエドワードに同意を求める。
「ねえ、兄さん」
「ああ」
アルフォンスに強く頷き返したエドワードはさらにこう続ける。
「そうやって改まられると、気持ち悪いしな」
「なによ、それ!」
ルビィは思わず手を上げたが、エドワードはするりと拳の届かないところに逃げた。
「なんだよ、感謝しているなら手を上げるなよ!」
「あんたがいけないんでしょ!」
「おまえが気にしないよう、わざと言っただけだろ」
「だったら、もっと気の利いた言い方しなさいよ!」
またもや言い合いを始めた二人の間に、アルフォンスは割って入る。
「まあまあ。……ところでルビィは、これからどうするの?」
「私はそろそろ見張りの交代に行かなくちゃいけないから、ここでお別れするわ」
ルビィは、崖の上を指差す。
そこでは銃を持った警備員が、青い夜空と崖の境で右左に動いている。
ウィスタリアを狙っているであろう強盗たちを牽制しているのか、時折銃を構えて見せていた。
「じゃ、行くわね」
「うん、ありがとう」
アルフォンスが手を振ると、ルビィはにっこり笑った。
「じゃあね。アルフォンス」
わざとアルフォンスだけを強調して手を振って去るルビィの後ろ姿に、エドワードは顔をしかめてみせた。
「兄さんてば、もう……」
アルフォンスは苦笑すると、泊まる家を振り返る。
「とりあえず、良かったね。泊まれそうで。で、どうする? 視察に行く? それとも休む?」
「大佐がうるさいからまずは視察だ。……レストランのな」
エドワードはニヤリとして言う。
とたん、お腹がぐう、と鳴った。
そのタイミングの良さにアルフォンスとエドワードは互いに笑うと、荷物を置いて、広場近くのレストランに向かって歩きだした。
レストランはかなり大きく、そこかしこに置かれたテーブルには料理が並び、椅子に座った男たちで賑《にぎ》わいを見せていた。
「いらっしゃい」
入り口近くの席に腰を下ろしたエドワードとアルフォンスの前に、すぐに四十代くらい女性がやってくる。
「レイゲン様から聞いているわ。あなたたちはルビィの命の恩人だから、どんな食事でも差し上げるようにって。どれがいいかしら?」
にこやかに話しかけながら、女性はメニューをエドワードに手渡した。
「でも無料《ただ》ってわけには……」
エドワードは躊躇《ためら》う。
だが、女性はメニューをもう一度指し示した。
「この町では等価交換が原則。町の者がお世話になったんだもの、遠慮しないで食べたいものを言って」
お腹がすいていたこともあって、エドワードは素直に好意に甘えることにした。
「じゃあ、この野菜スープとラム肉の窯《かまど》焼き、あとポテトとコーヒーを下さい」
「はいはい」
エドワードが注文するのを書きとめると、女性は次にアルフォンスにも声をかける。
「あなたは?」
「ボクはお腹減ってないので」
「そうなの? じゃあ、欲しくなったら言ってね」
女性が優しく言って去ったあと、アルフォンスは少し不思議そうにエドワードに聞いた。
「兄さんにしては、食べる量が少ないんじゃないの?」
「いいんだよ」
エドワードは少し身を乗り出すようにしてアルフォンスに囁いた。
「だって、もしあとから払えって言われたら困るだろ。だから財布にある金額分だけにしといたんだよ」
「なるほど」
アルフォンスはクスリと笑った。
「ウィスタリアには銀行はなさそうだしね」
「そういうこと。いざとなったら今度こそ食い逃げするしかないけど、この崖だらけの町から逃げるのはひと苦労だからな」
「なんか、変なトラウマ作っちゃったねえ」
おかしそうに笑うアルフォンスに、エドワードはわざと顔をしかめてみせた。
「この俺の心に傷をつけた誰かさんには、後ほどたっぷりと文句を言うさ」
エドワードは大仰そうに言ったあと、アルフォンスと顔を見合わせて笑った。
やがて女性がポテトと野菜スープを持って来て、エドワードがその湯気に顔を当てながら、フォークを取ったときだった。
「お、それは俺が作ったジャガイモだ!」
と、近くに座っていた男がワインを片手に、陽気に声をかけてきた。
「日当たりが少ないながらも、なかなかいい出来だったんだ。……味はどうだい?」
「うん、甘くて美味しい」
エドワードがもぐもぐと口を動かす横で、男は嬉しそうに手を叩いた。
「そうだろう? やっぱり旨いもん食わなきゃ力が出ないからな! 力が出なきゃ働けん! 君もちゃんと食った方がいいぞ」
男が座ったままなにも口にしないアルフォンスの腕を叩くと、他の男たちもエドワードたちに気さくに声をかけてくる。
「そうだぞ。レイゲン様の作る世界を我々が支えるのだからな」
「しっかり食わないと働けない。働けないと稼げない。稼げなければ、町は終わりだ」
「ほら見ろよ。ウィスタリア一番の稼ぎ頭は、あんなに食ってる!」
一人の男が、別のテーブルでチキンを食べていた男をエドワードとアルフォンスに示す。
筋肉質のいかつい顔をした男は、いかにも力仕事が似合いそうな男であった。
「ニール!」
と誰かが男を呼ぶ。
「ん?」
ニールと呼ばれた男は、チキンをワインで流し込むと、エドワードとアルフォンスの方へ顔を向けた。
「お、ルビィの命の恩人というお二人さんか。いやいや、ルビィから聞いたよ。偉く感謝していた」
ニールは、ワインを持ったままエドワードたちのテーブルに来ると、近くの椅子を引き寄せて座った。
その言葉にエドワードは先ほどお礼を言われたものの、なにかと強気なルビィを思い出して首を傾げた。
「感謝、ねえ……」
エドワードのその仕草に、ニールは声を上げて笑う。
「はははっ、あの子はあの通り気が強いからね。だが、誰よりもレイゲン様の力になろうと一生懸命で、女だてらに警備員を志願して、今では誰もルビィに勝てない」
「確かにレイゲン様のこと、本当に尊敬しているみたいだったけどね」
「昔、レイゲン様に助けられたとかでね。まあ、そう言っちゃ、ここにいる俺らもみんなそうなんだがな」
ニールはそう言うと、自分の足首あたりのズボンをまくり上げた。
その両足は、エドワードと同じ機械鎧《オートメール》であった。
「俺の足は、内乱で軍の流れ弾に当たってこの通り。家族も全員なくしてしまった。だが、軍はなにもしてくれねえ。内乱制圧のためだったと言ってそれっきりさ。落ち込んで、世を恨むばかりだったが、そんな俺にレイゲン様は仕事を与えてくれたんだ。ありがたいことさ。働いた分だけ稼げるという単純なことが救いになって、気持ちよく働ける。今では、いくら働いても疲れない丈夫なこの足に感謝しているよ」
その横からはまた別の男が話しだす。
「俺はこうして五体満足だが、家族を病気にさせてしまったんだ。薬を買おうにも、仕事先の報酬が少なくてな。だがいくら働いてもこのご時世だ、金は手に入らん。結局家族は死んでしまい自分のせいだと絶望して、かなり悪いこともして暮らしていた。だが、これではいかんとウィスタリアに最後の望みをかけてやってきたら、レイゲン様が救ってくださった。家族はもう帰らないが、自分のせいではなかったんだ、と思えるようになってね。それからはレイゲン様のお役に立てられるよう、町の仕事を頑張るのが俺の生き甲斐になったのさ」
悲しい過去でありながら、男は笑顔で言葉を締めくくった。
聞いていたまわりの者も、男の言葉に一様に頷いている。
その様子に、エドワードとアルフォンスは、ここにいるみんながそれぞれに似たような辛い過去を持っているのだろうとなんとなく察する。
同時に、その誰もがレイゲンに深い尊敬の念を抱いていることに心から感心した。
「困った人たちに率先して手を差し伸べるレイゲンさんて、本当に立派だね」
「ああ」
すると、エドワードの注文したラム肉を持ってきた女性もお皿をテーブルに置きながら言った。
「レイゲン様は『錬金術は大衆のために』と言って、町のために働く人たちの壊れた家や道具も直してくださるのよ」
「へえぇ」
この世の中、錬金術の教えをきちんと守って大衆に喜ばれている錬金術師などそうそういない。
汚いことばかりに錬金術を利用したがる人間が多い中、レイゲンの町での評価は、同じ錬金術師としてエドワードとアルフォンスにとっても嬉しいものだった。
「本当にいい町なんだなぁ……」
アルフォンスが感慨深げにそう言うと、ニールがその肩を抱く。
「きみ、なんて名前なのかな?」
「あ、アルフォンスと言います」
「アルフォンスか。君、こんな鎧を全身に着けられるくらいなら、相当体力があるんだろう。この身体なら、ウィスタリアではすごく稼げると思うぞ。どうだい、ここに住まないか?」
エドワードの腕とアルフォンスの出で立ちを見て、ニールは二人が自分たちと同じように内乱で辛い目に遭《あ》ったのか、なんらかの訳ありだと思っているらしい。
「ウィスタリアには、帰れるところがある者や、今の世界の不条理さを知らない者は住めないんだが、君たちの姿を見る限り、そう言う目に遭ってきたようだし……。ここに来たのは偶然みたいだが、気に入ったなら住めばいいさ」
「そ、そうですねえ……」
禁忌《タブー》の人体錬成の結果でこうなったと誰も思わない上、口にもできないので、アルフォンスは曖昧《あいまい》に頷く。
「だろ。君のように体力がありそうな者ならあっという間に稼ぎ頭になれるぞ。ここは働いた分だけ稼げる。等価交換の世界だからな」
「だが、そうなると、ニールの稼ぎを越えてしまうんじゃないか? それじゃうかうかしてられないだろうが」
わははは、と店にいた男たちが揶揄《やゆ》するように笑ったが、ニールは一番であることに執着はないらしい。
「構わんさ。レイゲン様のためになるならそれで十分だし、なにより、誰もが辛い過去を忘れて新しい生き甲斐を見つけられるなら、幸せじゃないか」
ニールはそう言うと立ち上がった。
「さあ、もしかしたら、新しい住人になるかもしれないアルフォンスくんと……」
「エドワード」
ラム肉をくわえたまま答えるエドワードの前で、ニールはグラスを手にする。
「エドワードくんね。……まあそんなに稼げなさそうなダストみたいではあるが……」
「わーわーっ」
みんなで乾杯になりそうな雰囲気の中、兄が暴れたら困る、とアルフォンスはニールの言葉に慌てたが、エドワードは聞こえなかったらしい。
「どうしたんだ、アル?」
「……いえ、別に……」
「豆」より「チビ」より小さな「ダスト」扱いのエドワードと、それに気づかれなかったことに安心したアルフォンスの横で、ニールはグラスを持ち上げた。
「乾杯!」
「ウィスタリアとレイゲン様にかんぱーいっ」
「今日もよく働いた俺たちにかんぱーいっ!」
「ウィスタリアの繁栄を祈って!」
口々に言いながらグラスを傾ける男たちには、昔味わったであろう悲しみなどはどこにもなかった。
「ねえ兄さん、この町は本当にいい町だね」
「そうだな」
レストランで町の者たちと盛り上がったあと、エドワードとアルフォンスは宿としてあてがわれた家に向かって歩きながら、火照った身体を冷やしていた。
町の者たちは皆陽気で、エドワードとアルフォンスにしきりに町に住むよう勧めてきた。
それだけ住み心地がいいということなのだろう。
広場の中を流れる水路には小さな橋があり、アルフォンスはその上で足を止めると出てきたばかりのレストランを振り返る。
すでに夜中なのにもかかわらず、レストランにはたくさんの者たちが残っており、笑い声が広場にも届いていた。
「レストランの女の人が言ってたよ。ここにいる人たちのほとんどは家族を亡くしているから、家に帰っても誰もいない。だから、こうして遅くまでみんなでご飯を食べることが多いんだ……って」
アルフォンスはレストランから視線を外し、空を見上げた。
「……辛くないはずないのに、みんな笑顔で明日を見て、強く生きてる。それってすてきだよね」
夜空に浮かぶ星たちは輝きを放ち、空全体を青く照らしている。
その下の町の中では、一日中、止まることのない炉に火が入っており、工場の扉が開け閉めされるたび、火が燃えあがる音が空に響いていた。
これからも宝石の精製をすると言って、レストランから仕事場に戻ったニールと数人の男たちは、おそらくそこで働いているのだろう。
「みんなよく働くねえ」
アルフォンスは屋敷や工場のある上流付近の明るさに目を向けていたが、やがて工場のドームがゆっくりと動くのを見て、エドワードの肩を叩く。
「兄さん、見て」
「ん?」
アルフォンスとは反対に、下流方向の静けさを眺めていたエドワードは、アルフォンスの指差す方向に顔を向ける。
ドームの上部がゆっくりと持ち上がるところだった。
それからしばらくすると、ものすごい蒸気が噴き出し、町全体に鋭い音が響き渡る。
「あそこで火と水を使って鉱物の精製をしているんだね」
「ああ。あそこまで本格的な炉を作るとは、よっぽど質のいい宝石が流れてくるんだろうな」
地中を通っている鉱脈が表に出ることはあまりない。
人の手で掘るしかないのだが、これほど深い鉱脈はまず掘り起こせない。
だが、ウィスタリアでは、地中深くを通る水が削ってきた石から鉱物を採取できるのである。
本来人の手に入らないような希少価値の高い鉱物が産出できるのだ。
「それにしても、水を吸った鉱物の加工なんて楽な仕事じゃないから、その仕事と等価交換の報酬はきっとかなりの額になるんだろうな」
町の上流付近にある屋敷のまわりにはかなりいい家が並んでいる。
あれらを持っている者たちが、町の財源を支えているのだろう。
「レイゲンは町の財源を運送できる警備員を持ってるから、ここに住んで宝石の精製にかかわる者はみんな彼の恩恵に預かってるってわけか……。だとしても……」
エドワードは大通りに向かいながら、町の仕組みについて考える。
ゆっくりとした足取りでぶつぶつと言っていると、すでにずいぶん先を歩いていたアルフォンスが振り返って笑った。
「兄さん」
「あー?」
「そうやって、無意識のうちに町のことを考えてるなんて、もしかして視察員も天職なんじゃない? それにその仕草、大佐とそっくり」
「!」
エドワードは、いつのまにか顎に添えていた自分の手を見ると、嫌そうにブンブンと振る。
「冗談じゃない!」
そう言って、エドワードが思いきり顔をしかめ、アルフォンスに追いつこうと足を速めたときだった。
「ルビィ」
小さな声が聞こえ、その声にエドワードは振り向いた。
二人はちょうど、大きな通りに出たところだった。
その通りはレイゲンの屋敷へと伸びた大きな通りで、屋敷と反対の方へ進むと、町の人々やエドワードたちの泊まる家々が建ち並ぶ。
先を歩くアルフォンスは、すでに屋敷に背を向けて家に向かって進んでおり、小さな声に気がついて足を止めたのはエドワードだけだった。
その固く閉じられた鉄柵の前に、小さな少年が一人立っていた。
屋敷の前の外灯に照らされた少年の髪は、茶色がかった金髪をしていた。
細い手足とエドワードとほぼ変わらぬ身長を持つ少年は、十二〜十三歳ほどであろうか。
ゆるくウェーブがかかってところどころクルリと外向きに跳ねている髪を風に揺らしながら門を見上げる少年の前にはルビィが立っていた。
ルビィは、開きかけた門に手をかけたまま、少年を見下ろしている。
その表情に、困惑と僅かなイラ立ちが浮かんでいるのに、エドワードは気がついた。
少し離れたところから見守るエドワードには気づかず、少年を黙って見下ろすルビィに、細い腕が伸ばされる。
「これ……」
少年は、ルビィに両手を差し出す。
その手には色とりどりの花が握られていた。
ルビィは黙っていたが、やがて大きくため息をつく。
「……何度も言ってると思うけど、花作りなんて町のためにならないことはやめて、他の仕事をしなさいよ」
その声は、エドワードたちや町の人と話すときと違って、酷く淡々としたものだった。
「でも、これが僕のできる仕事だもの……」
少年は消えそうな声で言いながら、花を差し出す。
「もう……。仕方ないわね」
ルビィは、自分のポケットから硬貨を出すと少年の手に握らせた。
「いい加減にレイゲン様にお力になれる仕事をしてね」
少年の手の中にある小さな花束が、ルビィの手に渡る。
しかし、ルビィはその中から、白い花だけを抜き出すとそれを少年に返してしまった。
「白い花はいらないわ。好きじゃないのよ。……じゃあね」
鉄柵の門の手をかけ、ルビィは花束を持って屋敷の敷地へと入っていった。
ガシャン、と門が閉まってから、少年はしばらく手の中の硬貨を眺めていたが、しばらくすると俯きながらとぼとぼと広場と反対方向の道へと去っていった。
「……兄さん、どうしたの?」
ずっと立ち止まったままのエドワードに気づいて、アルフォンスが先の道から声をかけてくる。
「……いや……」
今見たことに、なんとなく暗い雰囲気を感じ取りながら、エドワードはアルフォンスの方へ身体を向かせつつ、肩越しに鉄柵を見上げる。
二メートル近い高さの鉄柵はすべてを遮断するかのように聳《そび》え立ち、風が抜けるたび、ガシャガシャと金属質な音を立てて揺れていた。
次の日の朝。
エドワードは宿代わりの家にあるベッドに一人で腰掛けていた。
アルフォンスは、視察の一環としてニールの仕事を見てくる、と一人で出かけてしまった。
残されたエドワードは、昨夜遅かったのと疲れが溜まっていたのとで、なんとなく起きあがる気になれず、布団の中からアルフォンスを見送ったのである。
陽がだいぶ高くなり、そのうちすっきりと目が覚めたのだが、エドワードはいまだ家の中にいた。
実はアルフォンスには言いそびれていたが、エドワードの右足は靴ずれを起こしていた。
視察を頼まれる前に山野をうろうろし、ウィスタリアに来るまでにも条件の悪い道なき道を歩いていたためにできてしまったらしい。
「靴のサイズが合わなくなっているのかな……」
エドワードは水を汲んできたバケツに足をつっこんで豆を冷やしながら、ちょっとだけニヤニヤしていた。
成長著しいあまりに、数ヶ月に一度は靴を買い換えなくてはいけなくなるのが、エドワードの密かな野望であった。
「まーた靴が小さくなっちゃってさ。買っても買っても追いつかないぜ」
エドワードは独り言を呟く。
靴屋でワンサイズ上の靴を選びつつ、困ったように笑いながら、店員に言う台詞《せりふ》はこれだと決めていた。
水の冷たさがマメに染みるのを成長を証として堪能《たんのう》したあと、エドワードはトランクから筆記用具を取り出すと、トランクをベッドに乗せて、身体を捻《ひね》るようにしてその上でペンを走らせ始めた。
「ウィスタリアの視察報告書……と」
嫌々ながら受けた仕事だからこそ、とっととすまそうと、エドワードはウィスタリアについて報告書を書く。
「えーと、いいところと悪いところと……町のリーダーの話を書くんだよな。つでにあとで大佐の悪口も書いておこう。……いいところは、等価交換を理想論に掲げ、それが上手く機能している町である……と。町をまとめるレイゲン氏は、辛い目に遭った者や帰る場所のない者といった、いわばこの混乱の世の中で絶望した者たちに率先して手を差し伸べている、と……。ウィスタリアでは皆が生き生きと働いて正当な報酬を受けて……」
エドワードはそこまで書くとふと手を止め、自分で書いた紙をまじまじと眺めた。
「……なんか、こうして改めると凄く良くできすぎた話しみたいだな」
楽園、と呼ばれるにふさわしい町であったが、エドワードは報告書を書いてはじめて、この町の良さを素直に認めていない自分に気づいた。
「オレが素直じゃないだけかな……」
エドワードはペンを離して、バタンとベッドに身体を倒すと、部屋を出て行ったときのアルフォンスを思い出す。
「ここにいるとボクまで笑顔になりそうだよ」
夕食をともにしたニールたちも、その帰り道に通り過ぎた人たちも、皆笑顔でレイゲンに感謝しながら働いていた。
それを見ていたアルフォンスは素直に感動したらしい。
「ニールさんの仕事、見てくるね」
そう言ったアルフォンスが、視察のためでなく、個人的に町に惹《ひ》かれ出しているのが、エドワードには分かっていた。
「確かにアルの言うとおり、いい町だけどなぁ……」
エドワードは腕を上げて伸びをすると、窓から外を眺める。
そこからは絶壁の一部と、青空が半々に見えた。
町に好意を持つアルフォンスの気持ちは、エドワードにも良く理解できた。
上の世界は、混乱や貧困などで辛い思いをしている人間が山のようにいる。
見て見ぬふりをするつもりはないが、だからといって、現実には自分たちにできることなどさほどない。
心根の優しいアルフォンスは、そういう人たちを見て自分よりもより胸を痛めている。
だからこそ、この町に惹かれるのだろう。
レイゲンは、普通なら見て見ぬふりをされて捨てられるような人たちを助け、働けば誰でも平等に稼げるこの世界に希望を持ち、辛い過去を忘れて、自分の持つ力の限り、生きようとしているのだ。
「……」
ベッドに横になったまま見上げる空を、雲がゆっくりと流れていった。
雲は崖の縁で視界から消える。
そのまま崖が明暗となって晒《さら》されているのが見えた。
崖はでこぼことしており、僅かに突出している岩の下には影ができている。
それをぼんやりと見つめていたエドワードの視界に、ふと白いものが飛び込んできた。
「?」
エドワードは体を起こすとバケツから足を抜き、窓を開ける。
また一つ、白いものが窓からするりと飛び込んできた。
「なんだ、これ」
ベッドに落ちた、その小さな白いものをつまもうとしたとき、さらに上からもう一つ白いものが降ってきた。
「雪……、なわけないよね?」
エドワードは空を見上げたが、そこには流れる白い雲があるだけで、灰色の雪雲はない。
やっとつまんだそれに、顔を近づけると微《かす》かないい香がした。
「……花、だ」
指先にそっとつまんだ小さなものは白い花びらであった。
どこから飛んで来たのかと、訝しみながら窓から顔を出したエドワードは、下流方面の崖の下に少年の姿を見つける。
「あの子だ」
それは、昨夜ルビィに、花を渡していた少年であった。
その頃、アルフォンスは屋敷の近くにある鉱物の仕分け場で、石を運ぶ作業を手伝っていた。
「原石を持ってきました!」
「あ、じゃあそこの台の上にあけておいて」
「はい!」
アルフォンスは言われた通りに、水に濡れた石の塊をテーブルへとあけた。
そこでは十数人の男女が交じって石を仕分けしていた。
石は小さなものばかりではなく、かなり大きなものまであり、それを分けるのは結構な重労働のようで、開いた窓から風が通っているにもかかわらず、働く全員の額には汗が浮かんでいた。
「大変ですね」
アルフォンスが声をかけると、昨夜レストランで給仕をしていた女性は、手を動かしながら首を振った。
「ここより、奥の方がもっと大変よ」
だが、そう言う女性の仕事も決して楽そうではなかった。
自分の頭ほどもある岩を丁寧に調べ、時には少しだけ砕いて宝石の有無を確認すると、女性はそれを持ち上げてラベルの貼られた箱の中に入れる。
「レストランだけで生活できないんですか?」
アルフォンスが訪ねると女性は苦笑した。
「そんなことないわよ。町の財源に直結しているこの仕事が一番稼げはするけど、この仕事をしている人たちを支える野菜作りや食事作りもそれなりに儲かるわ、私はただ、レイゲン様が目指す世界が早く実現できるよう、お手伝いしたいだけ」
女性はそう言うと、アルフォンスに石が一杯になった箱を示した。
「これを隣のドームに持って行ってくれる?」
「はい」
アルフォンスは、石が積まれた箱をトロッコに載せるとそれを押して工場を出た。
工場を出ると近くの水門にぶつかる水の音がよく聞こえてきた。
地下水脈を通ってここに出てくる水の量は、水門でコントロールできるくらいの水量ではあったが、やはり近くに来ると結構な勢いがある。
いろいろな鉱脈を通ってここにたどり着いた水は、たくさんの種類の石も一緒に運んでくる。
水門の手前で、地下水と一緒に下に落とされた石は水を吸って相当な重さになっている。
水と共に工場の下を通る石は、途中作られたくぼみに落ち、くぼみに嵌《は》めてある四角い穴あきの箱に収まる仕掛けになっている。
その箱を引っ張り上げるのも、運ぶのも、仕分けるのもなにもかもが重労働である。
仕分け工場に運ばれた石は、天窓から差し込む光と顕微鏡で、鉱物や宝石として仕分けられ、それに相応《ふさわ》しいやり方で精製されていた。
アルフォンスは、トロッコを押して隣に建つドームの中へと入る。
ドームの中はものすごい熱気だった。
いくつもの釜があり、それぞれ違う温度で管理され、鉱物の精製から蒸気を使った宝石の削り出しまで行われている。
水を吸った石から出た蒸気を数時間ごとに噴き出させるのは、ドームにいる者の総出でハンドルを回して天井を開けることによって行われていた。
その大変さに、傍で見ているだけでも疲労しそうである。
「ニールさん、石を持ってきました」
釜の前で火の加減を見ながら岩を削っていたニールに聞こえるように、アルフォンスはドームの入り口で叫ぶ。
「おう! ありがとな! こっちに持ってきてくれ!」
ニールはアルフォンスを手招きすると、岩から手を離し、アルフォンスのトロッコを押すのを手伝いに来てくれた。
「……やっぱりこの仕事に向いていそうだなぁ。これを運ぶ仕事は、俺以外、数人しかできないんだけどな」
ニールは、一緒に押しているトロッコからかかる加重が少ないことに気づいて、ニヤリとアルフォンスを見上げた。
「いつもこんなにたくさん石を積んだトロッコを運んでるんですか?」
「おう。一日五十回は、水門とここを行き来してるのさ」
「すごい! 五十回も!?……身体、壊さないでくださいね」
石の積まれたトロッコを押す作業がどんなに大変なのかは、数回運んだだけのアルフォンスにも分かる。
トロッコを押す体力もいるだろうが、コツもいるのだ。
バランスを崩せばすぐに石は転がり、手足にケガを負うことになるだろう。
機械鎧《オートメール》の手足は石が当たっても痛くはないが、だからといって安全な仕事ではない。
思わず、ニールを思いやったアルフォンスの言葉に、ニールは一瞬驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
「そうやって身体を心配されたのは、久しぶりだよ。以前は妻が言ってくれたがね」
「あ、すいません……そういうつもりじゃ」
悲しい過去を思い出させたかと謝るアルフォンスにニールは手を振った。
「いやいや、いいのさ」
トロッコを釜の前に着け、ニールは額の汗を首にかけたタオルで拭う。
「昔のことは、もういいんだ。なくした足や家族を追いかけているだけでは前には進めない。今の自分のすべてを認めて、受け入れて、前だけを向くことに決めたんだよ」
「……、前だけを……」
アルフォンスはニールの言葉を繰り返す。
「ああ」
他の釜の前で働く者たちを見ながら、ニールはもう一度汗を拭いた。
「それに気づかせてくれたレイゲン様にはとても感謝している。……向こうにいるあいつもそうだ。あいつなんか、反乱分子として軍に目をつけられていたせいで、家族に離縁されちまってな。かなり荒れた毎日だったらしいが、今では笑ってばかりだ。……過去を取り返そうとしたってなんにもならんてことさ」
大きな岩にはまっている宝石を割りながら隣の男と談笑している男を見ていたニールは、そこまで言ってアルフォンスに視線を移す。
「どうだ? 昨夜も言ったがここで一緒に働いて、レイゲン様が作り上げようとしている世界に貢献しないか?」
「作るって……?」
「軍の作る世界は争いと混乱だけしかない。レイゲン様の目指しているのは、世界の情勢や不況に惑わされず、内乱なんかで家族を失うことがないような町。制圧者の作る都合のいい法に頼らず、等価交換という法だけで生きていける、単純だけど、強い世界。今の自分の手で幸せを掴めるような世界にしたいと仰《おっしゃ》ってるんだ」
「今ある自分の手で幸せを掴める、か」
アルフォンスは、繰り返すと、自分の手を見つめた。
「この鎧の手で幸せを掴むなんて、考えたことなかったなぁ……」
「掴めるさ」
ニールはアルフォンスの鎧の手についていた汚れを、自分のタオルで拭いてやる。
「俺には、君がなんで鎧姿になっているのか、どんな過去を持っているのか分からない。興味もない。ウィスタリアでは今ある姿がすべてだからな。……昔に戻ろうなんて、ここでは誰も考えてない。考えるより、今の自分でできる仕事、それで生きていけるということが、どんなにすばらしいか知ってるからね。ここでは過去の質問は意味を持たないのさ」
昨夜、町の者たちに、乾杯のときまで名前さえも聞かれなかったことをアルフォンスは思い出す。
町の外で出会ったルビィも、名乗り合いはしたが、それ以上のことは聞いてこなかった。
普段であれば、誰もがはじめにエドワードの機械鎧《オートメール》とアルフォンスの鎧について聞いてくるのだが、ルビィは気にしたそぶりを一切見せなかったのだ。
それは、町の者が過去を不問にしてただ前に向かって進んでいるからなのだ。
「君は、今の自分を認めているかい?」
ニールは、アルフォンスにそう聞いた。
「……」
認めている、とは言えなかった。
アルフォンスは、視線をズラし、地面を見つめる。
ドームの床はむき出しの土になっており、その茶色の土の上には宝石を削り出したあとの細かな石の残骸や、鉱物を摘出され、意味を持たなくなった石ころが転がっている。
その小さな砂利の上に乗っている自分の足。
水門近くで作業したせいで足についた水滴が、歩くたびに土を吸い寄せ、茶色く汚れていた。
だが、アルフォンスには、水滴が足に飛んできたことも、こんなに汚れていたことも、感覚として認知はしていなかった。こうして見て確かめて、初めて自分が濡れていたり、汚れていたと分かるのだ。
この鈍い身体を、「これが自分だ」とは認めていなかった。
何も感じず、お腹もすかず、眠りもせず、手にした物の温かみさえ感じ取れない、鈍く光るこの身体。
だからこそ、元の身体に戻ろうと旅を続けてきたのである。
アルフォンスは、ニールの仕事を手伝ったあと、宿代わりの家へと歩きながら、考え込んでいた。
町には相変わらず、工場から聞こえてくる音や、水路を流れる水の音、崖を吹き抜ける風の音が満ちていた。
だが逆に人通りはあまりなかった。
誰もが仕事を持っており、工場や畑で働いているのである。
アルフォンスは誰もいない広場に着くと足を止め、広場にあったベンチに腰掛けると自分の手を持ち上げてじっくりと眺める。
どれくらいたっただろうか。
考え込んでいたアルフォンスにふいに声がかかった。
「アルフォンス」
ピンと張りのある声が、広場に響いた。
顔を上げたアルフォンスに駆け寄ってきたのは、ルビィだった。
「どうしたの? 俯《うつむ》いちゃって」
ルビィは笑顔を見せながら、アルフォンスの横に座る。
「ルビィ」
「昨夜遅くまでみんなとレストランにいたって聞いてたから、家で休んでるのかと思ったけど」
言いながらルビィは、小さく欠伸《あくび》をした。
「疲れてるの?」
「さっきまで、入り口の警備を夜通しでしていたのよ」
ルビィは、崖の上にある入り口を振り返る。
「最近、強盗たちの襲撃が激しくなってきているの。だから、警備を強化しているのよ」
アルフォンスが見上げると、町と外を繋ぐ階段の上には、警備員が五名立っていた。
「そんなにここは強盗に狙われているの?」
「このあたりでは、ウィスタリアのみが裕福な財源を持っているもの。それに、ここは東部と南部の境目に近いでしょ。つまり軍の管轄《かんかつ》の境目でもあるから、強盗グループたちにとっては、境界線を行ったり来たりしながら、どっちの軍部からも逃げるのにちょうどいいのよ」
「そうなんだ……」
多くの強盗グループが狙っているこの町を心配するアルフォンスに、今度はルビィが語りかけてくる。
「……この町はどう? 気に入った?」
「うん。みんな辛い過去があるはずなのに、とても前向きだよね。機械鎧《オートメール》の身体を嘆くことなく、むしろそれを誇りにしている。なかなかできないことだと思うよ」
アルフォンスはそこで、いったん口ごもってから、小さく続ける。
「……ここに来るまで気づかなかったけど、ボクは、今の自分を、自分で否定しているのかなって思った……」
「今の自分?」
ルビィは、そっと聞き返す。
「うん……、なんていうか……この姿を否定して、元の自分だけを求めている……とか」
「その鎧はどうして着けることにしたの?」
「えっ……うーんと……ポリシー……いや違うな……えっと、信念に基づいた行動の結果こうなったというか……その……仕方なくというか……これしかないというか……」
中身が空洞になっているとは言えず、苦しまぎれにそう言ったアルフォンスだが、ルビィはそれを否定することなく、にっこりと笑った。
「無理に言おうとしなくていいわよ。……それはそのままでいいじゃない。それ、とってもすてきよ」
「……ルビィは。いつでもありのままを受け入れる人なんだね」
どうしてポリシーにしたのかとか、いっさいを聞いてこないルビィにアルフォンスは助かりながらも、自然体でいられる心地よさを感じていた。
「そうよ。昔のことなんかどうでもいいの。今ある自分を認めなくちゃ、前に進めないわ」
それはアルフォンスの心に、じんわりと染み渡る言葉だった。
アルフォンスはニールの言葉を聞いて、今ある自分は本当の姿ではないと、必死になって元の身体に戻ろうとしている自分に、はじめて疑問を感じていた。
この姿は偽りであると自分で否定していたし、それが当然だと思っていた。
だが、ルビィやニールたちは、ただ明日に向かって今ある自分の身体で一生懸命に生きている。
元の身体に戻りたいと嘆いているより、今ある身体を使って自分と他人のために働けることの方が、どんなに充実した時間を過ごせるだろうか。
「……」
アルフォンスは、手を持ち上げ、ゆっくりと開く。
この手があるから、ケガも気にせずトロッコも運べるのだ。
この足があるから、疲れを気にせずに歩けるのだ。
この鎧の身体でこそ、できることがある。
そして、アルフォンスはそうやって自分の身体が役に立つことを苦痛に思ったことは一度もなかった。
――今の自分で生きていく。――自分は元の身体に戻りたいとは思っていたが、反面、今あるこの身体で、誰かの役に立つことを嬉しいと感じる心があるのだ。
その気持ちを「元の身体ではできなかったはず」と押し込めて、なんになるのだろう。
アルフォンスは開いていた手をぎゅっと握りしめた。
過去を振り返って、元の身体を恋しがっている自分を捨て、今の自分で掴む未来を見つめられたら……。
そのままでもすてきだと言ってくれたルビィの言葉は、元の身体に戻りたいともがいていたアルフォンスにとって、とてもとても優しいものだった。
アルフォンスは、隣のルビィを見る。
彼女もきっと辛い思いをして生きてきたのだろう。
だが、その辛さを乗り越え、新しい人生を歩んでいるのだ。
「ルビィ」
「なに?」
「レイゲンさんには、お屋敷に行けば会えるんだよね?」
ウィスタリアの人たちに新しい生き方を教えたレイゲンともっと話してみたくて、アルフォンスは聞いてみる。
行き場のない者を受け入れているレイゲンには、元々好感を抱いていたアルフォンスである。
レイゲンならば、自分の過去や悩みを聞いてくれそうな気がしていた。
そして、これから自分のあり方についても、きっとよいアドバイスをくれるのでないか、とアルフォンスは感じていた。
だが、ルビィは困ったように、眉を寄せる。
「うーん。……お屋敷には決まった人たちしか入れないのよ。もしくはその人にとても親しい人とか」
「え、そうなの? じゃあ、レイゲンさんはいつ町に出てる?」
「あの方はなにかとお忙しいから、そんなにしょっちゅう町に出てくるわけじゃないの。昨夜みたいに町に住みたいという人が来れば、話を聞きに出てきてくれるけど。……どうしたの、急に?」
「ボク、レイゲンさんにじっくり話を聞いて欲しいと思って……」
「そう……」
「長く滞在できるわけじゃないから、今日会えるなら、と思ったんだけど」
「うーん、私としても協力してあげたいんだけど、警備員だからってなんの理由もなく屋敷へ招くことはできないし……」
ルビィはしばらく思案していた。
尊敬するレイゲンをアルフォンスが頼ってくれたので、ルビィとしても会わせたいという気持ちがあるらしい。
やがて、ルビィは指を鳴らした。
「そうだ! いい考えがあるわ!」
「?」
なにか分からず首を傾げるアルフォンスに、ルビィは、パチンとウィンクをしてみせた。
第3章 歪んだ等価交換
アルフォンスがルビィに手を引かれ、屋敷に向かう少し前、エドワードは降ってきた白い花びらを手に、昨夜見かけた少年の元へと歩いていた。
水路に沿って、下流方面に向かうと、やがてひんやりとした空気がエドワードを包み込んだ。
下流のあたりは、丁度崖が太陽光を遮り、一日中、日の当たらない場所のようであった。
昼間だというのに、薄暗いその一角はひっそりと静まり返っている。
エドワードは、そこではじめて、昨夜は暗くて見えなかった町の一部があるのを知った。
あたりには家々が並んでいたが、そのどれもがみすぼらしく、屋敷や屋敷のまわりにあるような立派な家ではなかった。
斜めに傾いた家。
扉がとれかけた家。
中には完全に朽《く》ちている家もある。
歩き進むうちに、エドワ−ドは崖の下にたどり着く。
整備された水路が途切れ、水がむき出しの岩に流れる地点だった。
町を囲む崖が、この場所だけ縦に裂け、その亀裂はそのまま少し奥へと続いて、その先で閉じていた。
水はそこで崖の下に潜ってさらに地下に流れ込んでいるらしい。
遠くから見たときには、細い亀裂にしか見えなかったが、実際には幅二メートルほどある裂け目である。
微妙に曲線を描いている崖は、ちょうど見えにくく、一見しただけでは気づかないような裂け目だった。
そのすぐ傍に石ころで囲った小さな花壇があり、少年はそこに咲いている花の世話をしていた。
「よう」
エドワードが声をかけると、少年は花の世話に夢中になっていたのか驚いたように顔を上げた。
「悪い悪い。脅かすつもりはなかったんだけど、ちょうど窓から君が見えたからさ。何をしているのかな、と思って」
エドワードは、親指を後ろに向けて自分の滞在している家を指しながら、崖を見上げた。
「ひゃー、凄いな。近くで見るとさすがに高い」
崖は、どこまでも険しく高く、見上げていると首が疲れてきそうだった。
エドワードは見上げていた崖から視線をはずすと、隣に立つ少年を見た。
「オレ、エドワード。ここには昨日来たばかりなんだ」
「あ、僕はリーフって言います」
リーフの手には小さな赤い花が握られていた。
「花をここで育てているのか?」
花壇には、日陰ながらも、赤、青、黄色、紫、と鮮やかな色の花が咲き、薄暗いこの場所を華やかに彩っていた。
「はい。この花は、日陰でもなんとか育つんです」
リーフはそう言いながら、ポケットに入っていた瓶《びん》を取り出すと、水路の水を汲んで、そこに赤い花を挿《さ》した。
エドワードは、そうやって大切にされている花を見て、昨夜のことを思い出す。
「花屋は、ここでは仕事として認められないのか?」
すると、リーフは悲しそうに笑った。
「……仕方ないんです」
水路の脇に腰かけながら、リーフは小さくため息をついた。
「この町には、花なんて必要ないんです。……日当たりのいい土地は畑にするか、稼ぎのいい人の家を建てる場所であって、花を育てる隙間はないんですよ。町の人は、花を奇麗だと思う暇もないくらい、仕事に夢中ですし」
リーフは、また一つ青い花を取って、瓶に挿した。
「オレは、奇麗だと思うけど」
エドワードはリーフの隣に腰にかけると、ガラスに挿された花が風に揺れるのを眺める。
小さな花弁をつけた花は、確かにとても美しかった。
「ありがとうございます。でも、花はお金にならないんですよ。町の外で売ろうにも、花は荒野に耐えられないし、それに花なら、どこでも作れるでしょう。ここでは町のためにならない仕事はお金に換算されないんです。といっても僕には力もないから、宝石の精製なんてきつい仕事にとてもついていけないし」
「……」
今まで見てきた町とは違う一面を知り、エドワードは僅かに眉を寄せた。
特殊な環境を持つこの町では、まず町のためになることが最優先事項となっているのだ。
リーフは自分の細い腕を持ち上げて見せた。
「……この腕にはこの腕に見合った稼ぎしかできません。でも、僕は見合った仕事をしているのは悪いことだとは思っていません」
「精製以外にもできる仕事はできないのか?」
「野菜作り、水汲み、水路掃除。……多分、僕にできることはあるでしょう。でも、他の人が……」
「他の人?」
リーフは立ち上がると、水路から離れた奥のあたりを示した。
「あのあたりが僕の住む場所です。陽も当たらないし、水路からも遠い。……稼ぎのない者はああやって自然と町の隅へと追いやられていくんです」
そこには、上流にある活気などどこにもなかった。
「僕や、あそこにいる人たちは、屋敷のまわりに住んでいる人と違って、力仕事ができず稼ぎが少ない人たちばかりです。だからろくな家が持てない」
「なるほどな……」
「これが等価交換、です」
「……」
等価交換を法にした町としては、確かにそれは平等だった。
しかしエドワードはそこにある厳しさを感じざるを得ない。
「ここで一生過ごすのは、大変だな。それでもずっとここにいたいなんてな……」
町に来る途中に出会った人が、出て行く者がいないと言っていたことから、無意識のうちに、誰もがここに住み続けると思っていたエドワードは呟く。
だが、リーフは、それを否定した。
「まさか。出て行く人だっていますよ」
「そうなのか? 聞いた噂では……」
エドワードが聞き返したとき、家々の合間の暗がりから、ガシャンとなにかが割れる音がした。
「なん遍言ったら分かるんだ!」
「よせって!」
続いて聞こえてくる怒鳴り声。
「また……!」
「あ、おいっ」
リーフが駆けだすのを見て、エドワードもそれにならって暗がりへと向かって走りだす。
二人はすぐに小さな空き地へと出た。
空き地の真ん中には朽ちかけた板を積み上げた台があり、そこには数個のコップが置かれていた。
その台を挟んで、屈強な男が三人と、老人や線の細そうな若者たちを含む十人程が怒鳴り合っていた。
「おまえら、町の畑から果物を盗っただろう! 稼ぎがないからって盗みをするなんて許さないぞ!」
「そんなことするわけないだろう! 決めつけるな!」
「俺たちは必死に働いてやっと稼ぎを手に入れているんだ! おまえたちはろくに働きもせずフラフラしていて恥ずかしいと思わないのか!」
「だったら早く町から出て行け!」
筋肉質な男たちの一人が老人の胸ぐらを掴み、そのまわりでは老人を助けようと数人が揉み合いだす。
「あ、イヴァンスさん!」
リーフは胸ぐらを掴まれている老人に駆け寄ると、老人を揺らしている男の腕を引きはがそうとする。
「乱暴するのはやめてください!」
「リーフ、またおまえか」
「僕たちはあなたたちのようにたくさん稼げはしないけど、分相応以上のものは望んでません! なんで犯人だと決めつけるんですか!」
「働き口があるのに、ろくに働かないヤツが盗みを働くと疑われるのは当然だろう!」
「おまえらはレイゲン様の荷物になっているってことに気づいてとっとと出て行けよ!」
男たちは、口々に吐き捨てる。
イヴァンスという老人を掴んでいた大柄な男は、盗みの証拠がないのか、しぶしぶイヴァンスを離しながらも、リーフを苦々しげに見下ろした。
「リーフ、おまえもルビィさんの知り合いだからって、いつまでも甘えてないで、きっちり働きな。おまえは確かに非力だが、野菜を作るくらいはできるだろう。それをなんで、こんなヤツらの肩を持って、こんな日陰で暮らしているんだ」
「同じ境遇で町に集まったのに、稼ぎの大小だけで、こんなヤツら、と人扱いしないあなたたちに共感できないからです」
リーフは、一見気弱そうなイメージながらも自分の意見はしっかり持っているらしい。
目の前の男を敢然《かんぜん》と睨みつける。
「追い出すことばかりを口にするけど、あなたたちには助け合おう、と言う気持ちはないんですか!?」
「てめえ、レイゲン様の決めた法をないがしろにするのか! おまえだってレイゲン様に助けられた身だろうが!」
「この町の法を知っているだろう!?」
「知ってますよ! だけど、力のない人たちや病気の人だっているんだ。そういう困っている人たちを目の前にして等価交換だなんて、それこそ、同じ人とは思えない!」
「なんだと!」
男たちは、リーフに手を伸ばそうと荒々しく詰め寄った。
男の一人が台を倒し、コップを蹴飛ばす。
残っていたお茶がこぼれ、地面を濡らした。
「……ちょっと待った」
今にもリーフが殴られそうになったそのとき、傍観を決め込んでいたエドワードははじめて口を開いた。
「ああ? なんだ?」
「これは盗まれた果物の代価か? 違うよな。盗まれたっていう証拠はないんだからさ。なら、このお茶はあんたたちがただの嫌がらせでこぼしたにすぎない」
倒れたコップからぶちまけられたお茶を指差し、エドワードは低く言う。
「だとしたら、あんたたちの言う等価交換では、今、こぼしたこのお茶に対して支払う代価があるはずだよな?」
「……なんだ、おまえ」
男たちは、胡散臭げにエドワードを眺める。
「あ、こいつ。昨日、ルビィを助けたってヤツだぜ」
エドワードに気づいた男が囁く。
すると一番前にいた男がフフンと笑った。
「坊主、来たばっかりなら忠告してやろう。こんなヤツらと一緒にいるとおまえも怠け者になっちまうぞ」
「忠告どうも。……で、お茶の代価は?」
エドワードが冷たく聞き返すと、男の一人が硬貨を一枚地面に投げた。
「ほらよ。これでいいだろ。……ちぇ、しらけたぜ」
小馬鹿にしたように去っていく男たちを見送ってから、エドワードはおもむろに小銭を拾った。
「ひと言謝罪すべき代わりに、金、か。とんだ等価交換だぜ」
後ろでは、イヴァンスを中心にして、残された者たちが悲鳴を上げている。
「もうこれ以上、こんな町にはいられん。レイゲン様に話してここを出よう」
「私は、他の町で問題を起こしてここに来たんだ。別の仕事が見つかるだろうか」
「私もだ……」
「他に当てはあるのか? 帰るところは?」
「ここはあいつらに抵抗して法を変えるしかねえ!」
「ここに来てまで戦いをするのは嫌だ。……俺は、頑張ってもう一度、石の精製場で働いてみるよ」
「ケット! 無理して仕事をすればケガするぞ! それより町を出ることにしてレイゲン様に新しい仕事先を紹介してもらった方がいいんじゃないか?」
男たちの多くはあきらめの表情で肩を落とし、一部の者は拳を握り憤っており、一人は疲れたような足取りで工場へと歩いていく。
リーフは、その者たちから離れるとエドワードの元に来た。
「……ありがとう。助けてくれて」
「別にそんなつもりじゃなかったんだけど」
エドワードは小銭をリーフに渡す。
「これ、お茶をこぼされた人たちに渡しといて」
「うん」
二人はしばし無言で、うなだれている者たちを見つめた。
「新しい仕事場ってなんのことだ? ここは出て行く者がいないって聞いてたけど?」
エドワードが町に入る前に出会った商人の男は「町に一度住んだ者は、あまりの豊かさに他の町に引っ越す者がいない」と言っていたのだ。
噂に過ぎないかもしれないが、一応聞いてみると、リーフが説明してくれた。
「レイゲン様は、ここに一度入った者は最後まで面倒を見るといって、出て行く者に別の仕事を紹介してくれるんだ。帰る場所のない人ばっかりだからね、出て行く人たちは、みんなお世話になっているよ」
「へえ。親切なこったな」
「でも、僕たちはただでさえ町のお荷物だからね。上流の人たちは、そこまでしてやるなんて……と、よく思ってないみたい」
「……ルビィの知り合いだって?」
「うん。故郷が一緒なんだ。でも互いに内乱に巻き込まれて、僕とルビィは、なすすべもなく、町が焼かれるのを見ていた。抵抗する気力もなかったよ。そこでウィスタリアを作る前のレイゲン様に出会って、ここに来た。でも……」
「……でも?」
「今度こそ、内乱が起きても負けない強い町を作ろうとしたけど……。強くあろうとすることが、差別を産むのなら、強さなんていらない……」
「……」
「ここは強者には素晴らしい世界だけど、弱者にはついていけない世界なんだ」
リーフは疲れたように息を吐いた。
「故郷でね、みんなでピクニックに行くと身体の小さい僕はいっつも遅れてた。そうするとルビィが必ず待っていて、一緒に手を繋いでくれたんだけど」
「……」
エドワードはルビィのあの意志の強い瞳を思い出す。
そこには前に進む強い意志しか感じ取れなかったが、リーフと手を繋いだルビィは、そのときどんな瞳をしていたのだろうか。
「……あれから何年たったんだろう。ここのやり方は、間違ってはいないけど、正しくもない。そう言いたくて頑張ってきたけど……」
「……」
エドワードは後ろでうなだれている男たちを振り返る。
そこは暗く、見ようとした者にしか見えない暗部だった。
そこから徐々に顔を上げ、上流へと視線をズラしていくたび、影はなくなり、陽が当たりだし、町の活気が工場の音となって響き渡る。
そしてその一番向こうにレイゲンの屋敷が建っているのだった。
眩しいまでの陽射しに囲まれた屋敷からは、こちらの暗さは見えないだろう。
ウィスタリアの見せる明るさの裏になにかあるだろうとは思っていたエドワードだが、あまりにもはっきりとした町の中の明暗に、レイゲンの偽善を見てしまったような気がしていた。
エドワードの目にはもう、ウィスタリアが「楽園」とは映らなかった。
「ウィスタリアの悪いところ、はここか」
書くべき視察の内容の項目は埋まったが、エドワードの心は晴れなかった。
いいところばかりの町なんてあり得ないと思いつつも、できれば良い町であって欲しいという希望はあった。
旅をしていればいろんな町に滞在する。
その中で一番笑顔の多い町ウィスタリアとしての記憶だけ持って出られればどんなによかったか。
だが、現実はやはり違っていた。
「あと一つ……」
エドワードはレポートの残りの項目を埋め、早く町を去ろうと決意する。
町に嫌気がさしたリーフたちも、いずれ町をでるのだろう。
リーフは、これからの身の振り方について論じている一団を少し離れた場所で見ながら、持ってきていた花を指先でそっと撫でていた。
エドワードは、その色取りどりの花の中に白い花がないことに気づく。
「リーフ、白い花はないのか?」
花壇にも色のついた花はあっても、白い花はなかった。
エドワードが問うと、リーフは上を指差した。
「あの花は、太陽の当たる場所にしか咲かないんです。だから、上で作ってます」
「上!?」
リーフの指差す崖の上は、ちょうど町の入り口の斜め前方向にあった。
「そっちの裂け目から登って、この上で作ってるんです」
崖は、どこまでも険しく、所々に突起があるものの、とても人が歩けるようには見えなかった。
「入り口って一つだけだと思ってたけど、あそこからも上に行けるのか?」
「裂け目を上がれれば。僕は体重が軽くて小さいし、慣れているから上れるけど、他の人は無理です。それに、ここは僕しか知らないから……」
「そうだったのか」
カーブを描いている裂け目に入り込んで上がれば、町からもちょうど見えない。
その上で白い花は作られ、エドワードの泊まっていた家に花びらを舞い落としていたのだ。
「でも見つかったら大変だろ? しかも花は受け取ってもらえないんだし。危険すぎやしないか?」
「そうですね。でも思い出の花なんです。それを見れば、きっと目を覚ましてくれると信じているから作っているんです」
それが誰かは言わなくても分かった。
懐かしそうに、大事なものを見るように、リーフは崖を見上げた。
「でも、もうこのままじゃいられないのかもしれない。潮時かも……。何年もたてば、人が変わったって不思議じゃないんだから……。きっともう白い花のことなんて……」
寂しそうなリーフが、心の奥にある大切な思い出と決着をつけようとしているのが分かり、エドワードはなにも言えず、その場を離れるしかなかった。
リーフと別れたエドワードは、ドームから蒸気が吹き出るのを眺めながら、まっすぐに大通りを歩く。
陽の当たる場所に来ると同時に、身体が温まるのを感じる。
日陰にいる者の寒さは、暖かい場所にいる者には理解できないだろう、とエドワードは改めて思った。
しかし、通りすがりの自分に、町のすべてに陽が当たるようにすることなどできるわけはないのだ。
「観光気分で町をじっくり見れば、いろんな部分が見えちゃって面倒なんだよなー。……やっぱり自分の目的に邁進《まいしん》するだけの旅をしている方がオレにはちょうどいいや」
それは、自分勝手にも聞こえる台詞であったが、その奥には、他人の重荷を見てしまうとどこかで助けてあげたいと思う自分がいるからであり、それはエドワード自身も意識してない優しさ故の言葉でもあった。
エドワードはとっとと用事を片づけて町を去るために、レイゲンの屋敷へと向かう。
「だから、こういうのって嫌だったんだよなー……。結局行き着くところは大佐への恨み言だぜ……」
途中、アルフォンスを誘おうと、宿代わりに使っている家に戻ったエドワードだが、そこにアルフォンスはいなかった。
「まだ手伝ってんのかな……」
エドワードはしばらく待ってみたが、帰ってくる気配がないので再び家を出た。
アルフォンスが町を気に入っているのを知っているエドワードとしては、下流での出来事はあまり話したくないことだった。
嬉しそうにレイゲンや町のことを話していたアルフォンスに、等価交換と謳った法のせいで苦しんでいる人がいることを言えば、きっと悲しむだろう。
そんな弟を見るのは、兄として少し辛い。
黙っているつもりはないが、言うのを少しでも先送りにしたいと考えて、エドワードは一人で屋敷に向かった。
エドワードは、門の前に来ると、閉ざされたままの鉄柵を見上げた。
高い壁の間に開けられた空間からは、植物とその奥に立つ白い屋敷が見える。
だが、その境は、高い鉄の柵でしっかりと閉められていた。
エドワードはそこに手をかけ、軽く揺らしたが、扉はガシャ、と大きな音を立てただけで開かなかった。
その音で、門の両端にいた警備員が顔を覗かせ、エドワードは門番がいたことに少しばかり驚く。
等価交換の法に問題はあるものの、レイゲンその人は優しい人物だと考えていたので、屋敷は開放されているものと思っていたのだ。
意外に思いながら、鉄柵の間から警備員に手を振る。
「ちょっと、すいませーん」
声をかけると警備員の一人が柵の向こうに立った。
「なんだ?」
「ここ、開けてくれない?」
横柄さが見え隠れする警備員の態度に、なんとなく断られそうだと思いつつ言ってみると、案の定男は思いきり顔をしかめた。
「何を言っている。ここは開けられないんだ」
「なんで? レイゲンさんとちょっと話したいだけなんだけど」
「悪いな、坊主。ここには警備の者しか入れないんだ。またはその者に親しい者とかな」
「それってこっちからは自由に会いに行けないってこと?」
「そういうことだ」
「えー」
断られたエドワードは不満を抱えたまま、しばし考える。
「バレるの覚悟でレポートを適当に書くか、アルと侵入して無理矢理聞くか、しかないかなー……」
俯き加減で物騒なことを呟いていると、もう一人の門番の男が少しだけ同情したように腰をかがめて視線をエドワードに合わせた。
この門番を殴って入ってもダメか……などと考えているエドワードだが、そうやって柵の前で俯いている姿が、門番にはレイゲンに憧れて会いにきた子供に見えたらしい。
「君は、確か昨日来たばかりの子だね。君は昨日運よく会えたが、普段はレイゲン様はお忙しいのでなかなか会えないんだよ」
門番が優しくそう言ったとき、エドワードは門の向こう、屋敷の中へと消えようとしている後ろ姿に気がついた。
「ア、アル!?」
てっきり町のどこかにいると思っていたアルフォンスが屋敷に入ろうとしているのに驚いて、エドワードは思わず鉄柵を両手で掴む。
屋敷の扉から今まさに中へ入ろうとしていたアルフォンスは、自分を呼ぶ声に気づいていて振り向いた。
「あ、兄さん!」
手を振って、走って近づいてくるアルフォンスの隣にはルビィがいる。
「アル! なんでおまえが入れたんだよ!……ちょっと、門番の人、あいつオレの弟! 身内! ここに入っている人間と親しいヤツは入れるんだろ!? オレも入れろ!」
エドワードはガシャガシャと門を揺する。
それを反対側から見ていたルビィは、ぽつりと呟いた。
「……なんか、檻の中の動物みたいね」
「……」
両手で柵を揺すっているエドワードの姿に、アルフォンスは否定もできず、ただ苦笑しているしかない。
「なんでアルが中に入れたんだよ! オレは入れてもらえなかったのに!」
エドワードは、門の外から噛みつくようにして聞いた。
「僕もまだ屋敷には入ってないよ。これから入ろうとしていたところ。レイゲンさんと話をさせてもらおうと思って」
「そうなの。……アルフォンス、さ、行きましょ」
ルビィは、アルフォンスの腕を取る。
少しすましたようなその声にエドワードは不審そうな視線を送った。
「普通は、警備員か、それに親しい者じゃないと入れないんじゃないのか?……それになんでそんな格好してんだ?」
警備員という仕事のせいかズボンばかりだったルビィが、今は何故かふんわりとしたスカートをはいている。
アルフォンスの腕に腕を絡める仕草といい、すました声といい、なんとなく違和感を感じるエドワードである。
ルビィがフフッと笑った。
「……なんだよ、その笑いは」
昨日からルビィとやり合っていたエドワードは、その笑みに無意識に顔をしかめる。
そのまま視線をズラし、アルフォンスを見ると、アルフォンスは頭に手をやる。
「……?」
「実は、その……」
「なに?」
「ルビィの婚約者として中に入れてもらおうとしていて」
「はああああ!?」
言葉と息と驚愕がすべて一緒になった「はああ!」をエドワードは吐き出してしまった。
ルビィはすました顔で、さらにギュッと、アルフォンスの腕に自分の腕を絡める。
「だって、そうでもしなくちゃ屋敷には入れないでしょ。アルフォンスはこの町が気に入ってくれたみたいだから、レイゲン様に会わせてあげようと思って、婚約者として紹介することにしたの。ね、アルフォンス?」
「うん」
「だからって、そんな格好を?」
「気分よ、気分」
「……に、似合わねえ……」
「失礼ねっ!」
「そうだよ、兄さん。とっても可愛いじゃない」
「本当に? ありがとう、アルフォンス」
ルビィを褒めるアルフォンス、褒められて嬉しそうなルビィ、そんな二人を見て、エドワードは驚愕とともに、なんとなくおもしろくない気分になってくる。
「なんだよ、一体……」
リーフと一件を、アルフォンスに話せばきっと悲しむだろうと、思いやっていた自分を置いて、アルフォンスはルビィと婚約者などというなんだか浮つきそうなことをして過ごしていたのである。
もちろん、自主的にやろうとしたわけではないアルフォンスにとって、エドワードの出現は少しホッとしたようだが、だとしても、エドワードとしてはおもしろくなかった。
その顔を見て、ルビィが更に笑った。
「あら、弟を取られるような気がして焼きもちを焼いてるの?」
「な……!」
自分でもよく分からない面白くない気分の原因を当てられたようで、エドワードは顔を真っ赤にして怒った。
「んなわけねーだろ! オレはただ、自分も中に入りたかったから……」
「あ、ごめん、兄さん。そうだよね」
視察のことを思い出して、アルフォンスは慌てたようにルビィの腕から自分の腕を抜く。
「じゃ、ルビィの婚約者の振りして入ってみればいいよ。ボクみたいな鎧の婚約者より、兄さんの方が適役だと思うし」
とりあえず、自分の悩みを聞いてもらうことより、視察を優先させなくては、とアルフォンスは譲ったのだが、ルビィとエドワードは同時に眉をつり上げた。
「「冗談」」
異口同音に相手を嫌そうに見、そのあと、すぐに言葉を続けて追い打ちをかけるルビィである。
「私はこんなおチビちゃんの婚約者はごめんよ」
「てめっ……」
さらに眉をつり上げるエドワードの前で、ルビィはアルフォンスの腕をぐいっと引っ張る。
「それに、アルフォンスは、この鎧を信念に基づいた結果、着ることにしてるんでしょ?」
「あ。うん、うーん……」
「そういうのがすてき! 美学のある男はもてるわよ。少なくとも私は大好き!」
「あ、ありがと……」
ルビィはこれみよがしにアルフォンスの腕を強く自分に引き寄せると、エドワードの顔を覗き込んだ。
「というわけで、よろしくね、義兄さん」
「なにが義兄さんだっ!」
他人から「義兄さん」と呼ばれる気持ち悪さと、アルフォンスを取られたような複雑な気持ちでエドワードは、げー、と言いながらも、ふと思いつく。
「だったら、オレもルビィの婚約者の兄ってことでレイゲンさんに会わせてくれよ!」
「無理よ。あんたはアルフォンスの兄さんには見えないもの」
「それはなにか!? 身長で判断してんのか!?」
「はいはいはいはい。そ−こーまーで!」
肩を怒らせて、今にも飛びかからんばかりのエドワードとそれを楽しそうに見ているルビィの間に入って、アルフォンスは手を叩く。
「アル、止めるな!」
「やろうっていうの?……アルフォンス、止めないでいいわよ」
二人の間に身体を入れたアルフォンスを挟んで、エドワードとルビィが、睨み合ったときだった。
離れた場所から、悲鳴が聞こえてきた。
「なんだ?」
「ドームの方よ!」
「!」
ドームの者たちと顔見知りになっているアルフォンスが、まず飛び出す。
ルビィとエドワードもそれに続き、ドームまで行くと、そこでは女性が、一人の男の足をそっとタオルでくるんでいた。
「ケガしたんですか!?」
アルフォンスは、近くに立っていたニールに聞く。
「ああ。トロッコが倒れたんだ」
ニールの視線の先には、トロッコが転がっていた。
横倒しになったそれからはたくさんの石が転がり落ち、その下には血の跡もあった。
ケガをした男は足の上に石を落としたのか、タオルの上から足を押さえてうずくまったまま呻いている。
エドワードはそのタオルをはずして足をそうっと見る。
タオルには血がついていたものの、傷自体は深くない。
だが、倒れたトロッコを避けようとして足を捻《ひね》ったのか、足全体が腫れていた。
「捻挫《ねんざ》だな。二〜三週間休めば仕事に戻れる。骨が折れなかっただけ運が良かったな」
エドワードは励ますように男の肩を叩く。
しかし、たいしたケガじゃないことが分かっても、まわりの者は誰も安堵《あんど》の言葉を発しなかった。
男を心配する素振りも見せず、転がったトロッコの石をせっせと集めている。
ニールが大きくため息をついた。
「……ったく、だからやめとけと言ったんだ」
ケガをした男がうずくまったまま、ピクリと肩を震わせた。
「以前もそうやってケガしてやめたくせに、また働きたいと言って十分もしないうちにこれだ。自分で稼ぐどころか、みんなに迷惑をかけるようなヤツはもう使えん」
心底あきれたような声に、男が膝の間に埋めていた顔を上げた。
「待ってくれ! 今回はトロッコが重くて手こずっただけだ! 次はちゃんと……」
ニールにすがるその男が、さきほど下流で、もう一度働きたいといっていた者であることにエドワードは気づく。
「お願いだ、俺はウィスタリアに来る前は、軍に追われていた身だ。ここを出るのは怖い! 仕事をさせてくれ!」
「だったら、水汲みでもなんでもすればいいだろうが」
「あんな仕事じゃ、生活ができん……!」
男はがっくりと手を地面についた。
もう一度やり直そうと思った矢先のケガで、男は何もかも嫌になったのだろう。
涙が地面を濡らした。
その泣き声に重なるように、砂利を踏む音が聞こえた。
「悲鳴が聞こえたのでもしやと思ってきたが……」
皆が振り返ると、ドームの入り口にイヴァンスとリーフが立っていた。
「大丈夫ですか、ケットさん」
リーフが膝をついて、泣き崩れるケットの身体を支えた。
非力なケットがケガしてしまうのを心配していたのだろう。
イヴァンスとリーフは悲鳴を聞いて駆けつけてきたのだった。
「捻挫だよ。これくらいなら、すぐ治るさ」
「それなら良かった……」
心配そうなリーフに傷の具合を教えるエドワードの横では、アルフォンスがじっとニールとイヴァンスを見つめていた。
「ニール、ここらで考えなおしてくれんか?」
イヴァンスが切り出す。
「考え直すってなにをだ?」
「レイゲン様のお役に直接立てるこの仕事を基準に稼ぎを決められては、いくら等価交換とはいえ、貧富の差が出るだけじゃ。これで本当に楽園のような国を築けると思うのか? もう少し平等になるよう、町のみんなでレイゲン様に提言しようと考えてくれまいか?」
「働かない者たちにも平等に金を与えろというのか? 悪いが俺はここで一日、十五時間働いている。なにもしないヤツにそんなことを言う資格はないと思うが」
「なぜ十五時間も働く? 助けれくれたレイゲン様のためか? それとも金が欲しいのか?」
「……」
「これでは等価交換という法に縛られ、思いやりさえない町になってしまう」
「自分の努力不足をレイゲン様のせいにしないで!」
今まで黙って、石を拾うのを手伝っていたルビィが、イヴァンスの言葉を聞きとがめて立ち上がる。
「以前の世界に不満があったんでしょ? 昔の自分は不幸だったんでしょ? それを助けてくれたレイゲン様について、新しい世界を築こうと決めたのよね!? 強くて負けない世界をつくろうと誓い合ったのに、それについていけなくなったからって、レイゲン様を否定するなんて信じられない。ついてこれないなら、出て行けばいいじゃない!」
激高したルビィに気圧《けお》されてみんなが黙る。
ルビィの声には有無を言わせぬ迫力があり、自分が信じるものは絶対だという確信故に、強い力を持っていた。
「……あのよ」
口を開いたのはエドワードだった。
「ここにいる人たちは人形じゃないんだ。自分で立って考える生き物なんだ。……ルビィ、それ、分かっているか?」
「? 分かってるわよ」
なに馬鹿なことを言っているの? と言わんばかりのルビィは、エドワードを余計な口出ししないでよ、と睨みつける。
エドワードはその危険な思想に僅かばかり同情した。
「疑問を持つことを忘れた人間は、可哀相だな……」
「……?」
その小さなひと言の意味を、ルビィは理解できなかったようだ。
しかし、同情されるような視線に不快感を覚えたのか、踵を返す。
だが、その前に立ちふさがった影があった。
「……リーフ」
リーフは、持ってきていた色取りどりの花を差しだした。
その中にはあの白い花もある。
「ルビィ、この花、受け取って」
ルビィは、冷たくリーフを見下ろした。
「……も言い飽きたけど、あと一回だけ言うわよ」
その声はとても冷たく、ルビィのそんな声を初めて聞いたアルフォンスは、驚いてルビィを見る。
だが、エドワードは黙ってことの成り行きを見守っていた。
「花は、町の誰一人の糧《かて》にもならないのよ。これが町のためのなんの助けになるっていうの? それを作り続けて、どうしたいの?」
「……」
「私たちの故郷が、内乱のせいで焼かれたのは覚えてるでしょ? そのときあなたは強くなろうと誓ったんじゃないの? 自分で生きる力を手に入れたいと思ったんじゃないの? それなのに、ここに来てからというもの、なにもしないで花ばかり作って、働かない人たちを庇《かば》うような真似までして……」
ルビィは後ろのイヴァンスたちを睨む。
「ルビィ、変わったね……」
リーフが悲しそうに言うと、ルビィは冷たい声に強い意志を滲ませて答えた。
「そう、私は変わった」
「……」
「もう泣いているだけの小娘じゃないわ。そうなるって決めたんだもの。あなたもいい加減変わったら? いつまでも昔のままでいないで、前に進む努力でもしたら?」
ルビィの声には一ミリの迷いもなかった。
エドワードは、下流の状況を知ってもなお、この町の明るいところしか見ないルビィの強さに、危険なものを感じ取る。
「花はいただくわ。でもこれが最後よ」
ルビィは花を受け取ると、再び白い花だけを抜き取った。
だが、白い花を持って突き返された手を、リーフが押し返す。
じっとみつめたまま、ルビィの手を自分の手で包み、そのまま差し出した。
「町のためじゃないんだ。ルビィのためになると思って作ってるんだ。いい加減目を覚ましてよ」
「……目を覚ますって、なによ」
「この花、覚えてるでしょ?」
ルビィの瞳が僅かに揺れた。
しかし。
「白い花はいらないって言ってるじゃない!」
激しく振り払った手から、花がこぼれ落ちた。
「目を覚ましてほしいのはこっちの方よ!」
「ルビィ……」
ルビィのその激しさに、アルフォンスが思わず声をかけるが、ルビィは勢いよく駆けだして去ってしまった。
リーフが叫ぶ。
「人が人として扱われない苦しさは、ルビィだって知ってるでしょ!!」
小さな身体が絞り出された言葉は、町の中に反響し、消えていった。
「リーフ……」
残されたリーフの後ろ姿に、エドワードは声をかける。
「残念だったな」
「……仕方ないです。やっぱり人は年月がたてば変わってしまうんです」
ルビィの目を覚まさせようと作った白い花が、地面の上ではかなく揺れていた。
「どうするんだ、これから?」
「僕は出て行きます」
リーフは顔を上げてはっきりと言ったが、それを聞いたイヴァンスは寂しそうだった。
「もう少しここで頑張るつもりはないのかね? レイゲン様に意見できる機会や、法を変えてもらうように決起するときが、いつか来るかもしれん」
「すいません。……僕はレイゲン様に拳をあげて抵抗するつもりはないんです。僕たちのように困っている人たちもいるけど、逆にこの等価交換で幸せになれた人たちだっているのだから。……僕はただルビィには気づいて欲しかっただけです。これだけが正しいと思い込まないようにって」
そう言って、リーフは、ケットの身体を起こした。
「ケットさん、行こう」
「リーフ、俺も一緒に出て行くよ。今すぐ一緒に出て行こう。レイゲン様に言って、別の新しい町を紹介してもらおう」
「……そうだね」
それを見送りながら、エドワードはここから出て行くものがリーフだけでなく、今まで大勢いたのだろうと察する。
ウィスタリアは受け入れるときは優しいが、暮らし続けるには厳しいのだ。
エドワードは、工場の稼働音が反響する崖を見上げる。
「こんな穴の暮らしなんて、長く持つわけがない」
通りすぎる風に、エドワードは、今にも壊れそうな町の危うい均衡を嗅ぎ取っていた。
宿代わりの家に着くまで、アルフォンスは一言も口をきかなかった。
エドワードは、家に着くとベッドに腰掛け、弟をチラリと見る。
鉄の鎧で覆われているアルフォンスからは、表情を全く窺い見ることができない。
しかし、壁際にある椅子に腰掛けて黙っているアルフォンスが、その心の中に沈痛の思いを抱いていることは、エドワードにはとてもよく分かった。
ウィスタリアを気に入り、レイゲンの優しさと、等価交換で幸せになった人たちの笑顔に心を和ませ、自らも積極的に町の人と関わっていたアルフォンス。
辛い過去を忘れ、強く生きる人たちの姿に、嫌なことばかりが目に入るこの時代の中の別世界を感じていたのかもしれない。
だが、現実はたやすくそれを裏切った。
もちろんアルフォンスにも完璧な場所などあり得ないと分かっていたかもしれない。
それでも、誰も助けられないような困った人たちに手を差し伸べるレイゲンの姿に感動していたのだ。
そのレイゲンの作った「等価交換」で町の人たちが対立しているのを目《ま》の当たりにしたのである。
おそらくすべてを分かったのだろう。
ショックを受けて当然だった。
どう声をかけようかと、エドワードは迷ったが、アルフォンスがそれを望んでいるかも分からなかったので、とりあえず口を閉じることにする。
仰向けにベッドに倒れ窓から空を見上げながら、ベッドの縁で足をぶらぶらさせていたエドワードだが、しばらくしてふと、アルフォンスが声を発した。
「足……」
「え?」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
「足」
アルフォンスは、今度は指でエドワードの足を指しながら、もう一度繰り返した。
「あ、ごめん」
靴も脱がず、ベッドに横になって足をブラつかせるという行儀の悪さを指摘されたのかと思って、エドワードは思わず謝ってしまう。
身体を起こすと、エドワードは足を揃えて座り直す。
しかし、正面に座っているアルフォンスはその足を更にじっと見つめた。
「……その足、マメできてるんでしょ?」
突然、アルフォンスはそう言った。
行儀良く膝に手を乗せて、ちょこんとベッドに座っていたエドワードは思いがけない言葉に面食らう。
「え? なに? なんの話だよ?」
「マメ、だよ」
アルフォンスは、エドワードの生身の左足を見たまま、続けた。
「ウィスタリアに来る前は、山で何日も過ごして、ここに来るまでも荒れ地を歩いて、兄さんの足にマメができていたこと、ボク、知っていたんだ」
エドワードが言いそびれていたマメを、アルフォンスは知っていたのだった。
水で冷やしたせいで、それはすでにもう痛みは取れている。
だから、このまま言うつもりもなかったのだが、それよりも、それがなぜ今話題に上がっているのか分からず、エドワードはとりあえず黙ったまま耳を傾ける。
「それ、かなり痛かったんじゃないの? 兄さんは黙ってたけど、ボクはすぐに気づいたよ。兄さん、少し足を引きずってたもの」
ウィスタリアに向かう途中の歩き方は、自分としては普段と変わらなかったはずだが、いつも一緒に歩いているアルフォンスは無意識に足を引きずっている兄に気づいたのだろう。
「そっか……。……でも、もう痛くないから気にすんなよ」
心配をかけまいと言ってみたが、アルフォンスは静かに首を左右に振った。
「違うよ」
「?」
「ボクが気にしたのはマメじゃない」
アルフォンスは顔を上げ、兄をしっかりと前から見据えた。
「……どうして、痛いときに言わなかったの?」
「どうしてって……。別に我慢できたし……」
痛いマメができたことをあの時、エドワードは言わなかった。
弟を守り、頼るべき兄が、逆にマメごときで弟に弱音を吐くなど、エドワードには考えもつかなかった。
「そもそも兄貴が弟に泣きつくのはみっともないし……」
「みっともないから、言わなかったんじゃないでしょ」
少しだけ強く、アルフォンスがエドワードの言葉を遮った。
「言わなかったのは、ボクに遠慮したから、でしょ?」
アルフォンスは自分の胸に手のひらを当てる。
「ボクは、お腹も減らない。足も痛くならない。それどころか、大人くらいの力はある。兄さんが足が痛いと言ったら、おんぶでもなんでもできる。手助けができるのに、兄さんは、ボクに痛いと言わなかった」
「……」
「それは、この頑強な身体がボクの本当に姿じゃないから、でしょ? 本来なら、ボクが兄さんをおんぶして荒野を歩くなんてできないからでしょ? 本当のボクは兄さんよりちょっぴり背が高いだけの非力な子供だもん。……だから、兄さんはボクに決して弱音を吐かないんじゃないの?」
疲れず、痛みもなく、眠ることもないアルフォンスの身体。
人としての欲求を感じない鎧の身体にアルフォンスの魂を定着させたのはエドワードである。
その負い目から、自分の生身故の苦労を聞かせることを躊躇《ためら》っているのではないか、とアルフォンスは思っていた。
「ボクは、元の身体に戻りたいと思っているけど、今のこの鎧の身体でこそできることをやるのに、なんの躊躇いもないんだ。……だから、兄さんが今のボクは本来のボクじゃないからって遠慮するのを見て、少し寂しかった」
その声には、エドワードを責める調子も、反対に悲しそうな調子もなかった。
「絶対元の身体に戻してやるからな」と力強くいい、そのために必死になって旅を続け、アルフォンスを励まし続けるエドワード。
失われた手足の代わりに動く機械鎧《オートメール》も不便だろうに、そんなことはおくびにも出さず、アルフォンスのことをいつだって一番に思いやってくれる兄の優しさと強さに心の中で感謝し、同時に今の自分でできることで兄の負担を和らげたい。
そういう思いがアルフォンスの中にあった。
アルフォンスは、エドワードに遠慮しないでほしかったのだ。
それは今回のことだけではなく、今までも感じてきた思いだった。
しかし、同時に、今の鎧の身体でも役に立ちたいと言うことは元の身体に戻そうとしてくれる兄に悪いと思い、言えなかったのである。
またアルフォンス自身も、偽りの身体に頼り続ければ、本来の自分を忘れてしまうのではないかという不安があり、どうしていいか分からなくなることもあった。
だからこそ、身内を亡くそうとも機械鎧《オートメール》の身体になろうとも、今の自分の力でできることを精一杯やって、まっすぐに前を向き、己を誇りに思っているウィスタリアの者たちを見て、アルフォンスは衝撃を受けた。
自分たちは、元の身体に戻ることだけを考えるばかりで、前を見ようとしていないのではないか、という思いが、アルフォンスの心に湧いたのだ。
「……だから、ウィスタリアにいる人たちに手を伸ばして、新しい道を提示したレイゲンなら、僕の思いを理解して、解決する糸口をくれると思ったんだ」
「そうだったのか……」
エドワードは、小さく頷く。
アルフォンスが自分を責めているわけではないことを分かっている。
だが、自分の言葉をきっかけに、アルフォンスが思い悩んでいたことを自覚する。
長い長い沈黙が訪れた。
水路を通る水音が、やけに大きく聞こえた。
「……アル、おまえ……。ウィスタリアに残りたいのか?」
話の流れから、そうなってもおかしくはなかった。
レイゲンの等価交換で苦しむ人を目の当たりにしても、アルフォンスが町の法に賛同するならばそれもあり得る。
アルフォンスが「元の身体」という定義から自由になり「今の身体」でやり直したいと思ったとき、自分に止める筋合いはないのだ。
ぎゅっと、と手を握り、返事を待つエドワードの前で、アルフォンスが立ち上がった。
「ねぇ兄さん、今の自分は好き?」
扉の前の階段に座り、水路を流れる水を眺めながら、アルフォンスは問いかける。
「え……?」
「ボクは好きだな。こんな身体でも役に立てれば、とても嬉しいもん。町の人たちが言う、今の自分で生きていくという考えも凄《すご》くすてきだと思う。だけど……」
アルフォンスはエドワードを振り返った。
「さっき、兄さんはルビィに対して言ったよね。ここにいるのは人形じゃない。自分で立って考える生き物だ。それを分かっているかって」
「ああ」
「ボクはレイゲンさんにすべてを委《ゆだ》ねようとさえ思っていた。だけどそれは結局、言いなりの人形と同じだ。兄さんの一言で気がついたよ。昔の自分を忘れて今だけ認めることもできるけど、ボクは、昔も今もどっちも同じボクだから否定しないよ。一か二のどっちかしかないなんて、そんな簡単な生き物じゃないもんね、人間は」
さっぱりとした声でアルフォンスはそう言った。
迷って、悩んで、自分でそれを解決したアルフォンスの声は清々《すがすが》しかった。
「アル……!」
「ありがとう、兄さんの言葉がなければ、ボクはもう少しで生身の自分に戻る機会をなくすところだった。鎧と違って、疲れたり、ケガしたり、食べなければエネルギー切れを起こして……」
アルフォンスはそこで、言葉を切ると少しだけ笑う。
「鎧の時と同じことといえば、兄さんより身長が高いくらいしか取り柄のない身体だけど。大事なボクの身体だからね。やっぱり戻りたいよ」
「このっ」
苦笑し、アルフォンスの頭を羽交《はが》い締めにしながら、エドワードは小さく言う。
「……あのな、さっきアルは俺が遠慮していると言ってたけれど、別にオレはお前が生身でも鎧でも関係なく、そうそうお前を頼ったりはしないからな」
「だから、そういうのが遠慮だって……」
「遠慮じゃないんだってば。だってオレは兄貴だぞ。兄貴は弟に頼るわけにはいかないもんなの! だからマメができてもおんぶはなし、なっ」
「兄の意地?」
アルフォンスは、プッと笑った。
「兄さんに弟を頼らないって意地があるのは分かった。だけど、弟だって兄さんに頼られてみたいんだよ。だからいつか絶対に兄さんをおんぶしてみせるよ」
明るい声に、エドワードもニッと笑う。
「させねーよ。逆に元の身体に戻ったら、オレがお前をおんぶしてやっからな。楽しみにしてろよ」
「兄さんにボクを? できるかなぁ。ボクの方が身長高いんだよ」
「身長は関係ないだろ!」
「そうかなぁ〜?」
「そうなんだよ!」
エドワードとアルフォンスは、笑い合いながら空を見上げた。
青い空の上で、風に流される雲が形を変えながらゆっくりと崖の上を横切っていく。
それを見送ったエドワードは、拳を作るとアルフォンスの前に出す。
同じように拳を作ったアルフォンスのそれとエドワードの拳がゴツンとぶつかった。
「……アル、絶対元の身体に戻る方法を見つけような。それまではこのままでよろしく!」
「うん!」
互いに頷き合った二人に迷いはなかった。
エドワードは立ち上がると、大きく伸びをする。
「さーて、そうと決まったら町を出るか!」
ウィスタリアの待つ暗部に、すっきりしない気持ちばかりを味わっていたエドワードは、せっかく晴れ晴れとした今の気分のうちに旅に出ようと、トランクを手にする。
だが、アルフォンスはその手を押さえた。
「……兄さん、待って」
「なんだよ、視察はもういいじゃん。どうせ屋敷には入れないんだし」
「違うよ。そうじゃなくて……」
アルフォンスは、しばし躊躇あったあと、きっぱりとこう言った。
「おかしいと思わなかった?」
「おかしいって?」
きょとんとしたエドワードに、アルフォンスは外の屋敷を示す。
「困った人を助けて、辛いことを忘れさせると言っている人が、どうして町の人を対立させる状況になってまで、等価交換にこだわるのか。大体……」
アルフォンスの視線の先には、固く閉ざされた鉄の門、そして敷地を覆う壁がある。
それらは町の者とレイゲンを完璧に分断していた。
「人を受け入れる優しい人が、自分の家の門だけは開けないなんて、変じゃない」
閉められた門は、町側から開けることができない。
自由に開けられるのは指導者の側からのみなのだ。
それはまるで、自分の都合の悪いときの顔は見られたくないと言っているようにも見えた。
「確かに、どんな立派な指導者か知らねーけど、自分のまわりに選んだ人間しか入れないなんて、変だけどな」
「それに、兄さんに言われてボクも気づいたけど、ルビィやニールさんは疑問を持つことさえ忘れている。辛いことを忘れるのはいいけれど、等価交換で得られる稼ぎに夢中で、心まで忘れさせられてるみたいだ。まるで……」
「忠実な兵隊みたい、か」
「うん」
エドワードとアルフォンスは、町の人たちが言う、遠い町、新しい世界という単語を思い返す。
二人は同じことを危惧《きぐ》していた。
「軍に不満を持つ者が、理想の国家を作るってことは、まあ考えられるよな」
そういった思想を持つ者は大勢いる。
財力とカリスマ性を持った一部の者は、現に軍事政権の転覆を狙っており、軍部もそういった不穏分子に目を光らせているのだ。
「宝石をたくさん掘らせて、そのお金で理想の国家を作る……。兵隊兼労働力として町に貢献させるには、等価交換っていう単純な仕組みが便利なんじゃないの」
「その証拠を見つけて、軍に報告するのか?」
「……」
アルフォンスは黙る。
イヴァンスやリーフはともかく、ニール、そしてルビィは今が幸せなのだ。
それを壊すのは躊躇われた。
「報告……はしたくない。ただ、町の人にはちゃんと本当のことを知ってほしいんだ。それで自分たちのことをちゃんと考えてくれたらって。それと……すごく自分勝手かもしれないけれど、見極めさせてよ」
「見極め?」
「うん。レイゲンさんの本当の姿を知りたい」
レイゲンの優しさに一度は心を打たれたからこそ、アルフォンスは同じような境遇の者たちを案じ、同時に自分の目で事実を確かめていたのだろう。
その気持ちはエドワードにもよく分かった。
「……よし。オレも付き合うよ」
「ありがとう、兄さん!」
第4章 真実
白い屋敷が、傾きだした陽光に照らされ輝くように建っていた。
レイゲンの屋敷の壁は、大きな半円を描くようにしてぐるりと敷地を囲って、その両端は崖にくっついている。
誰も寄せ付けないような高く丈夫な壁は、他の家々や通りから完全に遮断されており、唯一の出入り口には警備員が目を光らせている。
「……外界から侵入するかもしれない強盗から身を守るため、だとしても、ずいぶんとしっかりした警備だよなあ。……やっぱり隠してるもんがあるとしか思えない」
高い壁を見上げながら、エドワードは呟いた。
「一度怪しい思うと、すべて怪しく見えてくるよね。……このあたりの壁は町から見えちゃうね」
「ああ」
「もう少し崖の方へ行こう」
アルフォンスは、町から屋敷が見えなくなる位置を探して壁に沿って歩く。
二人は屋敷のまわりを散歩中のように装って歩きながら、侵入できそうな場所を探していた。
「そういえば、侵入しよう、なんて提案をアルからするのなんてはじめてだな。いつもなら、オレから言って、止められることが多いのにさ」
エドワードは、隣のアルを見上げている。
旅の途中、必要にかられて侵入やら突破やら少々派手なことをやるときは、いつだってエドワードから言い出していたのである。
だが、今回、アルフォンスは強い意志でもって、自分からそれを提案した。
頼もしく、新鮮に思いながらアルフォンスにそう言うと、アルフォンスはちょっぴり自分らしくないその言動に照れたように笑った。
「これじゃいつもと立場が逆になっちゃうね」
「ま、飛び出す弟を止める兄って役も悪くないけどな〜」
肩を竦《すく》めて笑うエドワードを、アルフォンスは軽く小突いた。
「なに言ってんだよ。止めるどころか、夜になる前に侵入する方がいいって、計画を練り直してくれたのは兄さんじゃないか」
珍しく、自ら提案したアルフォンスだったが、それは夜にひっそり行うつもりであった。
しかし、それを聞いたエドワードはすぐに立ち上がり、決行へと相成ったのである。
「だって、本当にヤバイ証拠を持ってるなら、夜の方が警備が厳しくなっているはずだ。だったら昼の方がいいだろう」
「まあそうだけどね」
二人は、崖に突き当たるまで歩くと、そこで足を止めてまわりを見渡す。
「ここなら、町からも見えないな」
通りを挟んで建つ家の影になって、ちょうど死角になっている位置でエドワードとアルフォンスは、壁を見上げた。
壁の向こうには木が植えてあるのか、緑の葉が揺れていた。
「錬金術で扉を作りたいところだけど、向こう側がどうなってるか分からないからな。……よし、今だ」
「うん」
誰もいないことを確認すると、アルフォンスは両肩にエドワードを乗せ、背伸びをした。
肩の上で、エドワードも精一杯に身体を伸ばし、壁の上部から目だけ出して中を覗き込む。
「……どう、中の様子は?」
「木の陰に隠れてよく見えないけど……」
エドワードは、目の前にある葉をそっとかき分ける。
はじめて目にする屋敷の敷地内は明るく開けており、そのところどころには警備員が立っていた。
「……昼間でも警備員は……五人か。あれくらいなら、植物もあるし、なんとかやり過ごせるな」
町で一番日当たりのいい場所に建っている屋敷は、植物もよく育つらしく、あちこちに背の高い木や葉の多い植物が生い茂っていた。
エドワードは、まず壁の強度をチェックし、それから葉の陰を利用して、警備員に見つからないように壁の上にまたがると、親指と人差し指で輪を作り、アルフォンスにオッケーの合図をする。
「ボクが上がっても平気?」
「葉の大きな植物が生えているから大丈夫だ」
小声でやりとりをすると、アルフォンスは用意してあったローブとフックをエドワードに投げる。
エドワードはロープを屋敷内側の壁の凹凸に引っかける。
屋敷近くにある工場からの音が、すぐ横の壁に反響し、エドワードとアルフォンスが立てる音をかき消してくれる。
アルフォンスがロープを回収したとき、キィと高い音がした。
「?」
続いて、ガシャンと鉄のふれあう音がし、誰かが門を開閉したのが分かった。
二人が息をひそめていると、やがて警備員に連れられたリーフと松葉杖をついたケットが屋敷に入っていくのが見えた。
「……町を出るつもりなんだね。レイゲンさんに次の仕事先を紹介してもらうのかな?」
「そうしないと食べていけない」
レイゲンの作った法で苦しんだとはいえ、仕事を紹介してもらわなければ次の居場所どころか、生きていくことも困難になるのだ。
「だからこそ、せめて仕事を紹介してあげるのかな。……それは優しいとは思うけど、もっと早くに手を差し伸べてあげればいいのに……」
アルフォンスは、町側へと視線を走らせる。
「……ここは明るいから、逆に下流あたりの影の中が全然見えないね」
白い屋敷の反射と陽光で明るい一帯からは、反対側の下流付近は見えにくい。
さきほど、朽ちた家からロープとフックを探すため、始めて下流へ行ったアルフォンスは、今まで自分がイメージしていたウィスタリアとの違いをはっきりと目で見て、少なからず衝撃を受けていた。
「あの影の中は、レイゲンさんには、きっと見えてないんだろうな……」
だが、リーフの作っていた花が日陰の中で咲いていたのと同じように、町の中の影でも懸命に生きようとしている人たちがいるのをアルフォンスは知っている。
影の中の現実を見ようとしないレイゲンは、代わりに何を見ているのか。
「兄さん、行こう」
アルフォンスは、それを知るために屋敷へと視線を移した。
隠れている木の下に、低木がこんもりと茂っているのを見て、エドワードはそこに飛び降りることにする。
壁の上で膝を立て、体勢を整える。
同じようにアルフォンスも降りる準備をすると、二人は斜めに見えるドームを振り返った。
「そろそろだよ」
アルフォンスが見つめる先で、ドームの天井がゆっくりと開き出した。
「今だ!」
二人は、ドームから排出される蒸気の音と共に、下の地面へと飛び降りた。
数時間ごとに激しく噴き出す蒸気は、飛び降りたアルフォンスの鎧の音までも消してくれる。
「……平気?」
「みたいだな」
地面に伏せるようにして、様子をじっと窺う二人を捜しに来る者はいなかった。
エドワードとアルフォンスは茂みの中から、屋敷の造りを確認する。
「……ここは屋敷から斜め前あたりだね」
敷地内に少しだけ入ったことのあるアルフォンスはそのとき見た光景から、今いる自分たちの位置を予想する。
「ボクは正面玄関から見ただけなんだけど、この建物は玄関を中心にきれいなシンメトリーになってたよ」
「ということは、あっちに回っても、同じってわけか」
茂みの向こうの屋敷を斜めに見ながら、エドワードはしばしば考える。
「理想の国家を作るヤツがまずやることは、資金集め、人集め……それと」
「武器の蓄え、だよね」
しかし、屋敷の窓はどれもカーテンが開いており、怪しさはどこにもない。
また今いる位置から見える屋敷の側面にある窓も風を通すためか開いてさえいた。
「屋敷の中じゃない場所に隠すとしたら……」
エドワードは自分の足下を見る。
「地下だな」
「うん。でもどうやって入る? 地下には屋敷の中からしか行けないんじゃないかな」
「うーん」
エドワードは顔を上げると、裏手の方へと視線を走らせた。
「屋敷の裏では、大きな水門で調整された川の水が、町を走る水路と地下に潜る水路に分けられているんだよな」
水門の前には屋敷を迂回《うかい》するように造られた水路があり、そこを小川程度の水が走り、壁に穿《うが》たれた穴を通って町に供給されている。
エドワードは、水門と水路、屋敷の様子、敷地の広さを見てから、自分の足元へと視点を当てる。
「この屋敷の下には地下水路が走っている。位置関係から見ると、地下水路と地下室は隣り合わせだ。もしかしたら繋がっているかもしれない」
「そっか。じゃあ、水路を造るときにできた工事用の出入り口を探してそこから入れば……」
「ああ、行けるな」
エドワードはとアルフォンスは壁に沿って少しずつ移動しながら、地下に通じそうな入り口を探す。
「兄さん」
やがて、一つの四角い鉄板を見つけたアルフォンスは逆の方向の地面を注意深く見ていたエドワードを呼んだ。
「あれがそうじゃない?」
屋敷の斜め裏の地面に、赤く錆びた鉄の板が伏せっていた。
警備員をやりすごし、まずエドワードが茂みを出て鉄板に駆け寄ると、板についている窪《くぼ》みに指を引っかけて持ち上げる。
「……重っ!」
一メートル四方の鉄板である。
かなりの重量があった。
続いて走ってきたアルフォンスもすぐに手を貸し、二人はゆっくりと板を引っ張り上げた。
持ち上がった鉄板の隙間から、風が吹き上がってきた。
「ビンゴ! これが地下に繋がってるぞ」
二人は、音を立てないように鉄板を持ち上げると、四角い縦穴についている金具の階段を下り、板を下ろした。
板を下ろした途端、水門から聞こえていた水温が遠くになり、今度は足下から水の流れる音が聞こえてきた。
明るいところから地下に下りたせいで、はじめは真っ暗だった視界も、目が馴れるに従って徐々に物を認知できるようになる。
入ってすぐの場所に引っかけられていたランプに気づくと、エドワードはそれに火を入れ、足下《あしもと》を照らし出す。
縦穴のような階段は、十五段ほど続き、その下にはむき出しの土が見えた。
そこに降り立つと、目の前には水路があり、勢いよく水が流れていた。
「けっこう水量があるんだね。上の水路と大違いだ」
下りてきたアルフォンスも水路を覗き込む。
上の穏やかな流れと違って地下水路は少しばかり傾斜もついているようで、石を転がすほどの水量があった。
水路の幅は二メートルくらいであろうか。
流れきらない石は、時折誰かが水路に降りて拾っているのだろう。
両脇は人がちゃんと歩けるようになっており、そのトンネルはずっと先まで続いていた。
「あそこが工場だね」
アルフォンスは先の方に光が差し込んでいるのを見つける。
自然の光が溢れるそこにはロープが垂れ下がっていた。
ロープに繋がった箱で石を受け止めて、上に引っ張り上げているのだ。
エドワードとアルフォンスは、しばらく歩き、所々にできている分かれ道を一つ一つ調べていく。
地下水路を造るときにどうすれば水の流れが一番よくなるか試行錯誤したのか、分かれ道はたくさんあり、ところによっては人が一人通れるほどの狭いトンネルになっていた。
二人は自分たちの方向感覚だけを頼りに、屋敷の下あたりを目指して進んだ。
水路から離れて何個目かの角を曲がると、土だった地面が突然、木の板で補強された道に代わった。
その突き当たりには木でできた扉がある。
「あれっぽいね」
「ああ」
エドワードは持っていたランプをアルフォンスに渡すと、扉に耳を当ててみる。
「……誰もいないみたいだ」
そっと扉を開けると、そこはコンクリートで作られた地下室だった。
「!」
「!」
扉の向こうにあったのは、大量の武器だった。
二人は部屋にはいると、箱につめられた数々の銃の間を縫うようにして歩いた。
奥の壁は、これらの武器の扱い方を記した書類や、訓練に使う的、軍とやり合う際の戦略パターンなど、片っ端から集めたらしいファイルまで並んでいた。
「……証拠、あったな」
エドワードは、武器の一つを手にするとランプに掲げる。
「軍用の銃だ。どっかから横流しを受けてるのかも」
地下室はかなり大きく、その中に積み上げられた武器は埃《ほこり》をかぶっているものから、新しそうな木箱に入っているものもある。
レイゲンがこつこつとため込んだすべてがそこにあった。
おそらく、別の場所にそれ相応の火薬も隠してあるのだろう。
エドワードとアルフォンスが予想したとおり、レイゲンの目的は、等価交換という明快で、一見平等な旗を掲げ、それに食いつきそうな者たちを町の労働力、ゆくゆくは兵隊力として迎え、掘らせた宝石の利益で国家を作ることだったのである。
「やっぱり町の人を利用していたんだね……」
アルフォンスは、悲しそうに言う。
「何て優しい人だろうと思ってたけど、その優しさは自分の目的のためのものだったんだ。だから、町の人が幸せになれるかどうかは本当はどうでもよかったんだね」
困った者を助けようと差し伸べられたのは、優しい者の手ではなく、その上で踊らせようともくろむ者の手だったのである。
「……どうする?」
エドワードは、じっと武器を見ていたアルフォンスの背中に声をかける。
「もしこのことを公表したとしても……町の人はみんな、新しい世界を目指すとか言ってただろ? だからこのことを知っても、軍の統べる世界よりはマシってヤツも多いと思う。もしくはうすうす知っている人もいるんじゃないかな」
「そうだね」
積まれた箱の中から、一つの銃を手に取るとアルフォンスはその銃身を撫でた。
「でも、町の人の全員が、こんな冷たい武器を使って得る、新しい世界を必要とするかは、分からない。納得しているなら、ボクがそれ以上言うことはないけれど……」
「……」
「でも……こうして見て、はっきりと確信したよ。ボクはレイゲンさんに頼らなくてよかった。今の世界が素晴らしいとは言えないけれど、それを壊して幸せになるより、今あるものを大事にしながら幸せになりたいもん」
アルフォンスは、すっきりとした声でそう言うと、エドワードを見る。
「ありがとう、兄さん。ボクに付き合ってくれて」
「ああ」
「あとは、町の人が選ぶことだよね」
アルフォンスがそこまで言ったときだった。
二人が入ってきたところとは逆の位置にあった反対側の向こうで足音がした。
「……!」
エドワードとアルフォンスは、さっと目を合わせると手にしていた武器を元の場所に戻して、静かに後ろへ後退する。
扉を出て、土がむき出しの通路まで下がると、地下室に誰かが入ってくる足音がした。
エドワードはアルフォンスを先に行かせ、後ろに注意しながら来た道を戻り始めた。
「警備員かな? 巡回してるとは思わなかった」
「見つかったら、町を出られなくなるかもしれない。急ごう」
途中にある、人が一人通れるほどの狭いトンネルをアルフォンスが通り終わり、エドワードが続こうと腰をかがめたと同時に、後ろで明かりが揺れた。
「まずい! アル、先に外に出ていろ!」
エドワードはアルフォンスにランプを渡し、明かりが漏れないようランプを手で覆いながら、アルフォンスが行くのを見送ると、自分は素早く別の角に身を隠す。
水の流れる音がアルフォンスの足音を消してくれることに安堵しながら、エドワードは、奥に見える揺れる明かりがこちらに向かっているのに気づき、息を潜める。
やがて、声が聞こえてきた。
「本当になかったの?」
ルビィの声だった。
「はい。週に一度、地下水路に残ってる石を拾いに来るニールが、いつも使う入り口にランプがなかったと」
答えるのは警備員の男であろうか。
二人の声と共に明かりがあたりにパアッと広がった。
息を潜めていたエドワードは、自分たちが持ってきてしまったランプのせいで侵入に気づかれたことに、内心で舌を打ちながら、うまくやり過ごせることを祈る。
自分のいる角のすぐ前で、ルビィはぐるりとまわりを見渡した。
「でも誰も侵入した様子はないわ」
エドワードのすぐ近くまで来たルビィは、持っていたランプを掲げて周囲を見る。
明かりが足先を掠《かす》め、エドワードは一戦交えるしかないか、と身構えた。
だが、明かりはそれ以上エドワードに迫ってこなかった。
「このあたりは入り組んでいるし、誰も入れないんじゃないかしら」
「では、ランプは下に落ちて、そのまま流されてしまっただけですかね?」
「だと思うわ。戻りましょう」
「そうですね。……そういえば下流の者たちがレイゲン様と交渉したいとか相談しているらしいんですよ。放っておいてもいいんですか?」
「それどころではないわ。強盗たちがここのところ、頻繁に襲撃してくるのよ。まずはその問題を……」
気づかれないことに安心しかけたエドワードの前で、クルッと踵を返したルビィの長い髪が舞う。
その髪の感触と石けんの香りがエドワードの鼻先をくすぐった。
「〜〜っ」
くしゃみが出そうになって必死に耐えるエドワードの前から、ルビィと男が遠ざかっていく。
だが、二人の背中が見えなくなったとき、エドワードは堪《こら》えきれずにくしゃみをしてしまっていた。
「……っくしゅっ!」
途端に、静かに向こうに消えようとしていた明かりが大きく揺れた。
「なんの音だ?」
「誰かいるの!?」
「やばっ」
エドワードはすぐさまアルフォンスが通った狭い通路へ飛び込む。
後ろからルビィと男が走ってきたが、二人に見つかる前にエドワードは更に別の道へと曲がった。
こんな地下で迷うのは心配だったが、見つかるよりはいいと、エドワードは二人を捲《ま》くように右に左にと曲がる。
入り組んだ地下で身動きがとりにくいのはルビィたちも同じらしく、次第に足音が遠のいていくが、それはランプを持っていない自分も同じである。
「とりあえず隠れねーと」
エドワードは闇に目をこらし、水門や工場から漏れる明かりが、入り組んだ通路にも届いているのを頼りに足を踏み出す。
「?」
壁に手を当てて歩いていたエドワードは、ふいに指先に違和感を感じた。
「なんだ……この感触」
冷たい土と石でできた壁と違う、温かみのある感触である。
「木だ。ここにも扉があったのか……?」
エドワードは両手で撫でるようにして、大きさと形状を調べるとそれが扉であることに気づいた。
しかも、それにはしっかりと鍵がかけられている。
「他にもまだなにか隠していたのか」
武器はすでに見つけている。
他にレイゲンが隠すであろう物の予想がつかなかったエドワードはあたりを窺うと、両手を合わせ、扉にさらに小さい扉を錬成する。
一瞬飛び散った錬成の光があたりを照らし出したが、ルビィたちには気づかれなかったようだった。
自分で錬成した扉をそっと両手で押し、エドワードは中へ入った。
扉を閉め、暗闇の中を手探りで歩く。
「いてっ」
足先に木箱が当たり、エドワードは転ばないようしゃがむと、箱の蓋をそっと持ち上げてみた。
ここも武器の倉庫か、と思いながら、箱の中に手を入れたが、手に伝わってきた感触は銃ではなかった。
「?」
銃のように冷たいが、それは小さく、手の中に入るほどの物体である。
つるつるした表面を持つ物は、球体であったり、楕円であったり、角をいくつも持っていたりと、様々な形をしていた。
「……これって……」
エドワードは、両手を合わせると足下の地面に手を当てた。
箱の下で地面が盛り上がり、箱が倒れると、ざらざらと中身が零《こぼ》れる。
箱の中にぎっしりと詰まっていた物は、エドワードの錬成時の光に、一瞬眩しく煌《きら》めいていた。
「宝石だ……!」
それは、ウィスタリアで精製され、売りに出されているはずの宝石たちであった。
武器を買う財源のはずの宝石を見て、エドワードはなにか嫌な疑惑が自分の胸に湧きあがるのを感じた。
「月に一度、売りに出してるって言っていたよな……。けど、なんで全部売らないんだ? しかもこんなところに隠して……」
ルビィたちは諦《あきら》めたのか、くしゃみを水音と思うことにしたのか、追ってこない。
もしここの場所を知っていれば、まずは安全を確認しに来るはずだ。
来ないということは、ここの存在を知らないのだろう。
エドワードは、もう一度、錬成で他の箱の蓋を開ける。
その中にも宝石が輝いていた。
ウィスタリアで採れるであろう宝石の量と、ここにある宝石を比べて、エドワードは半分、もしくは三分の一ほどが売りに出されずにここに残っていると推測する。
等価交換で働いた者たちに与える稼ぎを差し引いた売り上げと、倉庫にあった大量の武器を買う金額を推測し、エドワードは首を傾げた。
「どういうことだ……? この分を売らずにあれだけ大量の武器を買えるわけがない……。他に財源が……」
そこまで呟いて、エドワードはハッとした。
突然、ロイから視察の依頼を受けた際の会話を思い出す。
南方で犯罪者の検挙率が上がっていること。
近代化で人手が足りないこと。
それらは、裏を返せば犯罪者の密告と人買いブローカーの暗躍が活発だということでもある、とロイは言っていたはずだ。
「まさか……!」
人を利用する悪人はたくさんいるが、本当の悪人だからこそ、利用されている者にとっては悪人に見えないのではないか。
「大佐に聞いてみないと……!」
エドワードの胸に、黒い疑惑がはっきりと広がった。
「アル!」
屋敷を囲む壁の外側で、兄を待っていたアルフォンスは、自分を呼ぶ声に振り返った。
「兄さん、良かった!」
入ってきたときと同じように壁を乗り越えたエドワードにアルフォンスは駆け寄る。
「見つからなかった?」
「ああ。アルも大丈夫だったみたいだな!」
「うん。ちょうど強盗の襲撃があったみたいで、警備員がみんな出払ってたから」
アルフォンスは崖の上を指差す。
町の出入り口と町を繋ぐ階段を、強盗を撃退し終わった警備員たちが下りてくるところだった。
「今回の襲撃は激しかったみたい。さっきまでかなりの銃声が飛び交っていたんだ」
「そうか」
返事をしながら、エドワードはすぐに走りだす。
「ど、どうしたの、兄さん」
「ちょっと出かけてくる。アルはここにいろ!」
「え? 急にどうしたんだよ? なにかあったの? 警備員に見つかったとか?」
アルフォンスは慌ててエドワードについて走りながら、警備員たちが自分たちを追いかけていないか後ろを振り返る。
しかし、二人を追う者はいない。
「見つかっていない! 見つけたんだ!」
「な、なにを?」
なにがなにやら分からないアルフォンスを、エドワードは振り向く。
「レイゲンって野郎が、オレたちの思う以上に極悪人かもしれないって証拠を、だよ。けれど確証がない。一度大佐に連絡を取りに隣町へ行ってくる!」
「こんなに急に? だったら、ボクも一緒に行くよ!」
家に飛び込み、トランクに荷物を詰めているエドワードに、アルフォンスがそう言うと、エドワードは首を振った。
「いや、アルはここに残って、下流の人たちが町を出るためにレイゲンの所へ行くのを止めておいてくれ」
「どうして? それは別に悪いことじゃないでしょ? 仕事を紹介してくれるんだから、むしろ今は積極的にみんなでレイゲンさんにそれをお願いした方が……」
町でやっていけない者たちが、これ以上苦しまないよう、アルフォンスはそうすべきだと考えていたが、エドワードは首を振る。
「ダメだ! とにかくオレが大佐に確認して戻ってくるまでは、レイゲンのところへは誰も行かせないでくれよ。詳しくはあとで話すから」
「……分かった」
エドワードは、確信がないまま適当なことを口にしたりはしない。
アルフォンスはそれをよく知っている。
ウィスタリアに来てからというもの、傍観者的な立場を崩さなかったエドワードがここまで積極的に動くということは、なにか重大なことなのだろう。
強盗たちの中を一人で送るのは心配だが、アルフォンスは自分がすべきことをやるために、エドワードを送り出す。
「気をつけて行ってきてよ。ボクはボクのやるべきことをする」
「ああ、じゃ、行ってくる!」
下流へと行くアルフォンスと別れ、エドワードは出入り口に繋がる崖下に向かった。
途中の広場を抜けると、そこでは休憩中の男たちが、仕事について語り合っていた。
今月の稼ぎについて楽しそうに話している彼らは、なにもかも知って、軍部に逆らって国を作り上げることを理想にしているのかもしれない。
だが、その理想のために何を犠牲にしているのかを知らないからこそ、笑っていられるのだろう。
エドワードは脆《もろ》くて狭い階段を上がりながら、町を見下ろす。
「……このまま笑っていられる町だったら、それで良いだろうけど……」
エドワードはそう願いつつも、胸の疑惑に足をせかされるように階段を上がった。
崖の中はすでに影に包まれだしていたが、上はまだ夕陽が沈む前だった。
崖の上に頭を出したとき、真正面から差し込む太陽の光がエドワードを照らした。
「眩《まぶ》しー」
手をかざしながら上がると、警備員の男が振り向いた。
「おや、エドワード、だっけ? どうしたんだ」
「ちょっと隣町まで出たいんだけど」
「隣町?」
男は他の警備員と顔を見合わせる。
「ダメ?」
エドワードは警備員の顔がしかめられているのに気づく。
本来、通りすがりの者を受け入れない町である。
自由に出入りするのは無理か、と危惧《きぐ》したのだが、警備員が顔をしかめたのは違う理由だったようだ。
「出るのか? 危ないぞ」
「なんで?」
「今、かなり緊迫しているんだ」
少し離れていたところで銃を構えていた男が、顎で荒野の先を示した。
「ヤツら、仲間を呼んだらしい。気が大きくなったのか、こっちの武器の射程距離に入ってくるようになったんだ」
エドワードは、僅かに傾斜した荒野の向こうに目を凝らす。
そこには、ここに来たときよりずっと多くの者たちが武器を片手に集まっていた。
彼らはずいぶんと距離を縮めており、今にも襲いかからんばかりである。
「援護はできるから、いけないことはないと思うが……」
警備員たちは心配そうである。
だが、エドワードは躊躇わなかった。
「行く」
「あ、おい!」
警備員たちが止めるのも聞かずエドワードは走りだした。
「ったく! おーい、強盗どもに絡まれたら、合図を送れ! ここから援護射撃してやる! それと、途中の大きな岩の前で右方向へ向かえば近道できるからな!」
エドワードは手を振ってそれに答えながら走り続ける。
自分を援護し、強盗と睨み合っている警備員たちは、町を守るためにそこにいる。
彼らはレイゲンの部下であると同時に、自分が不快と思う歪んだ等価交換のために働く者たちでもある。
中にはルビィのように何もかも知ってそこにいる者もいるだろう。
この混沌とした世の中では、自らの道を誤り、時に人を傷つける者が数多くいる。
しかし、通りすがりの自分には、彼らを救うことなどできはしない。
なにより、自分は自分の道を進むのに精一杯だった。
だからこそ、エドワードは傍観者に徹底していたのだ。
しかし。
エドワードは唇を噛む。
偽りの優しさで固められた救いの手。
歪んだ等価交換が与える弱肉強食。
光り輝く石で得る鉄の銃。
――それから、脱落した者を金に換算するエゴイズム。
ロイの言っていた、南部の犯罪検挙率の高さの裏にある賞金をかけられた犯罪者たち、近代化で人の流入が活発になった反面足りない人手を補うために暗躍する人買いブローカーの話が、エドワードに暗い疑惑を抱かせていた。
もし、それが真実であった場合を考えたとき、エドワードはふつふつと怒りが沸くのを感じた。
荒野を走りながら、エドワードは自分が走っている理由を、明確に自覚する。
レイゲンの非道な行いの上に立っていることを知らないウィスタリアの人たちのために、エドワードは走っているのだ。
荒れ地を染める眩しいほどの夕焼けの中、エドワードは手を合わせると、自らの機械鎧《オートメール》を鋭い刃に変化させる。
視界の向こうでは、強盗たちがウィスタリアから出てきたエドワードを襲おうと構えている。
だがエドワードは風を切って強盗たちの間に突っ込んでいく。
「どけえぇぇっ!」
立ち止まっている時間はない。
エドワードは今、胸の中にある、明確な正義の炎に突き動かされるままに、走り続けていた。
エドワードが荒野を進んでいるとき、アルフォンスは、自分のやるべき事を果たすべく、ドームと足を向けていた。
イヴァンスには、すでに、レイゲンに次の仕事を紹介してもらうのをやめてほしいと伝えていた。
もちろん理由を尋ねられたが、アルフォンスはエドワードを信じて、とりあえずそうしてくださいと半ば強引にお願いするしかなかった。
そして、そのままの足でドームへと向かい、働いているニールの元へと急いでいるのである。
ニールは、高温の釜の前で汗にまみれて働いていた。
その顔は、厳しい仕事をこなしている誇りと充実感に溢れている。
ドームの入り口にいたアルフォンスに気づくと、ニールは手を止めて近くまで来てくれた。
「おう、アルフォンスじゃないか。どうした?」
レイゲンに感謝し、信じているニールの笑顔を曇らせることはしたくなかった。
だが、アルフォンスは意を決すると、夜の風が吹き始めているドームの外にニールを連れだし、地下室で見た事実をニールに告げた。
「……」
アルフォンスから武器の話を聞いたニールは、ドームに寄りかかったまま、表情を消してしばらく黙っていた。
「……ニールさん、知ってたんですか?」
まったく驚かない様子にアルフォンスが問うと、ニールは肩を竦めた。
「……武器を目にしたことはないが、そうだろうとは思っていたよ。新しい世界を作るってことは、いずれ軍部と対立するつもりなんだろうってね」
「それでも、ここにいるんですね」
「ああ。軍に恨みを抱いているのは本当だし、できれば一矢《いっし》報いたいと思ってもいる。なにより、他に行く場所なんてない」
ニールは自嘲《じちょう》気味に笑った。
だがアルフォンスはその考えを否定する。
「ないって、どうしてそう思うんですか?」
「どうしてって……」
帰る場所がないからに決まっている。
そう返してくるであろう答えを待たずにアルフォンスは続けた。
「レイゲンさんに救われたことで、自分にはここしかないと他のすべてを否定しているから、他の場所が見えないだけでしょう? 与えられたものを必死に守るだけじゃ、別の生き方なんて思い描くことさえできない。だから、リーフやイヴァンスさんたちが他の生き方を選択することができない。違いますか?」
ニールに怒られるかもしれないと思いながらも、アルフォンスははっきりと言った。
「ここにいる人と、ここにいられない人。それだけの基準で、物事や人の心を区別できるわけない」
たまたま体力があっただけの者が、体力のない者を見下すことを当たり前にさせた「等価交換」。
それは明らかに人の心をねじ曲げていた。
口を噤《つぐ》み、眉根を寄せてアルフォンスの言葉を聞いていたニールは、イライラしたように舌打ちした。
「そういえばエドワードのヤツも、疑問を持つことを忘れた人間は、可哀相だとか言ってたな。おまえも、俺たちがイヴァンスたちの生き方をできない、なんて言う。つまりあれか? 一生懸命働く俺たちが悪者だって言うのか?」
「違います」
アルフォンスは首を振る。
「等価交換では決して計れないものがあることを思い出してほしいだけなんです」
「なんだ、それは?」
「相手を否定しないで、理解しようとする思いやり、です」
「……!」
ニールはアルフォンスの言葉に一瞬、ハッとしたように目を見開いたが、それ以上は何も言わず、踵を返してドームに入ってしまった。
ガコン! と大きな音を立てて閉まったドームの扉は、アルフォンスの言葉を拒絶するかのようだったが、アルフォンスは追うことはしなかった。
このあと、ニールがどういう生き方を選択しても、アルフォンスはなにも言うつもりはなかった。
だが、自分は、町を救うことはできないが、町の人たちにウィスタリアの事実をしっかり見てほしかった。
そして、人形のように、考えることを麻痺させて歩くのではなく、自分の立つ場所を見据え、しっかり考えてほしかった。
選択肢は与えられるものではなく、自分で考え増やすものだと気づいてほしかったのだ。
アルフォンスは、ドームから離れると、空を見上げながら歩く。
ここに来てすぐウィスタリアを好きになった。
多くの者が笑うこの町がとてもすてきに見えた。
そして、今もまだ、この町を好きだと思う気持ちがある。
「……多くの人、じゃなくて全員が笑える町になってほしいな……」
自分の力など微々たるものだが、それでもこれをきっかけに……と願わずにいられなかった。
アルフォンスは広場に入り、そのままとりあえず家に戻ろうとしたが、ふと足を止める。
広場を通る水路にかかる橋の上。
そこに、ルビィが座って足を揺らしていた。
「ルビィ……」
アルフォンスが呼ぶと、ルビィは振り向き、微かに笑った。
傍に行くと、ルビィは腰を少しズラして隣りにスペースを作る。
アルフォンスはそこに座ると、いつもの生彩さを欠いたルビィの顔を覗き込んだ。
「……元気ないね。どうしたの?」
地下室の武器についてとか、ルビィはレイゲンの目的をどこまで知っているのかと聞きたいことはたくさんあったが、それよりも元気のないルビィが心配でアルフォンスは問いかけた。
ルビィは口元に微笑を浮かべたまま、足下を流れる水の流れを目で追っていた。
仕事の合間なのか、ルビィは短いズボンを穿いており、まっすぐに伸びた足の先に靴はなかった。
脱いだ靴を脇に置いて素足を揺らしていたルビィは、しばらくして息を吐く。
「リーフがね」
「うん」
「明日には出て行くんですって」
「明日?」
心なしか沈んだ声に、アルフォンスは優しく聞き返す。
「でも、ついてこれないなら、出て行けばって言ったのはルビィでしょ?」
「そうよ。だけど、あの子とは同郷だもの。頭に来ることも多かったけど、離れるとなるとまた違う感情が生まれるものね。勝手なものだけど」
自分と意見が対立して腹を立てることはあるものの、同時に寂しいという気持ちがあるのだろう。
ルビィの複雑な心境をアルフォンスは穏やかに受け止める。
「別に勝手じゃないよ。嫌いじゃなくても離れなきゃいけないことなんて、たくさんあるよ」
アルフォンスは、自らが決別してきた生まれた家や友達のことを思いだしてそう言った。
「アルフォンスは優しいのね。私より色々と経験してそうだわ」
「そんなことないよ」
「そう?」
「まぁ、色々とあったけどね」
「……色々、か」
ルビィは、手を後ろに伸ばすと、それを支えに首をのけぞらせて天を仰ぐ。
「私も色々あったわ。生まれ故郷の土地が内戦に巻き込まれてね。私とリーフは身内を全員亡くしたわ。私はまだ子供で、リーフはもっと子供だった。軍は市民を守るためといいながら、私たちの家族を奪ったの。納得できなかったわ。それでも生きることが先決だから必死で仕事を探した。だけど子供は非力だからという理由で雇ってくれる人はいなかったし、やっと雇ってもらったと思ったら騙《だま》されたりね。本当にさんざんな目に遭った。汚れて、飢えて、それでも誰も助けてくれなかった」
静かな告白だが、その内容はとても辛いものだった。
「でもね、そんなときに手を差し伸べてくれたのが唯一、レイゲン様だったの。私とリーフにとっては神様のようだったわ。だから私は、ウィスタリアで町を立て直ししようとしているレイゲン様を一生懸命手伝って、ご恩返ししようと決めたのよ」
「そうだったのか……」
理由はどうであれ、レイゲンは路頭に迷っていた少女と少年を助けている。
その事実はアルフォンスに複雑な思いを抱かせたが、ルビィは気にせず話し続けた。
「なのに、そのご恩を忘れて、いつのまにかリーフはレイゲン様の意向に沿わない態度を取り始めたわ。それでもいつか理解してくれると期待してたのに、意味のない花作りをして、終いには町を出て行くだなんて……」
寂しくもあるが、それよりずっと一緒にいながら自分の尊敬するレイゲンの志を理解してくれなかったことに、ルビィは少し怒っているようだった。
「そういえば、ルビィは白い花を受け取らなかったけど、嫌いなの?」
「レイゲン様は、私たちを助けてくれたときこう言ってたの。望まない世界に身を置いて、望まない色に染まるくらいなら、自らが色を発すればいいって。だからあの方も赤とか青のはっきりした色が好きで、反対に白はお嫌いなのよ」
アルフォンスには、ルビィがどれだけレイゲンに心酔しているのかがよく分かった。
さっきまで沈んでいたルビィの声は、レイゲンの話をするときは生き生きと弾んでいる。
一度は世の中に絶望したルビィにとって、レイゲンは生活のすべてであり、支えなのだ。
「……そっかあ。だからルビィも白が嫌いなんだね。」
「ええ」
「でも……なんの色もついていないような白だって、立派な色だと思うよ」
白の持つ輝きが嫌いではないアルフォンスは、素直に思ったことを口にする。
「ルビィは、本当はなに色が好きなの?」
だが、ルビィはなにも答えなかった。
奥にあるレストランから聞こえる笑い声と水の音が、アルフォンスとルビィを包み込んだ。
二人はしばらく黙って星空を見つめる。
崖の中から見える星空はとても美しく、時折通りぬける風が優しく二人の頬を撫でた。
外灯もついているが、月明かりだけで町は十分に明るい。
「奇麗だね」
アルフォンスが言うと、ルビィも頷く。
「奇麗ね。……この景色を捨てちゃうなんて、リーフはバカよ」
やはりリーフのことが気になるのか、ルビィは突き放すようにリーフを評した。
「頑張れば幸せになれるのに……」
アルフォンスはなるべく穏やかに返す。
「でも、それについていけない人もいるんじゃないの?」
だが、その言葉にルビィの口調が少々きつくなった。
「だったら、出て行ってもらうしかないわ」
「……それで、自分を尊敬してくれる人だけを残して、忠実な国家を建国するの?」
「!!」
ルビィが、驚いたようにアルフォンスを見る。
だがその視線はすぐに睨むようなきついものへと変わっていった。
夕方の侵入騒ぎを思い出し、それがエドワードとアルフォンスだと確信したようだった。
「……見たのね」
低く問われ、アルフォンスは頷いた。
「見たよ」
「……今の軍に不満があるの。自分たちで国家を作ることのどこが悪いの?」
挑むような言葉に、アルフォンスは静かに言い返す。
「悪いかどうかは分からない。今の軍だって元の政権を奪って今の地位にあるんだろうし、だけど、ルビィが軍を憎むように、やっぱり誰かに恨まれながら作る国は、似たようなものになるんじゃないの? ルビィはそんな国に暮らしたいの?」
「……っ」
ルビィの唇が、怒りのためかわなわなと震えるのが見て取れた。
「レイゲン様の目指している国は、今の軍が統《す》べる国なんかとは全然違うわ……! みんなが力を合わせる強くて何者にも負けない国よ。だからついてこれない人は……」
「みんなって誰? レイゲンさんの言うとおりに働く人のことでしょ?」
アルフォンスは、きっぱりとルビィに言い放つ。
「そうやって人を切り捨てていけば、いずれどうなるか分からないの? 最後には誰もいなくなっちゃうんだよ!」
「!」
ルビィが勢いよく立ち上がった。
「……なによ! なんなのよ! あんたになにが分かるっていうのよ!」
アルフォンスなら分かってくれると思っていたのだろう。
レイゲンの目指す世界を激しく非難したアルフォンスに、ルビィが涙を浮かべながら言い返そうと大きく息を吸ったときだった。
バァン! と空気を貫くような音が響き渡った。
強盗たちが襲った銃の音だった。
だがその短音はルビィにとって聞き慣れたものだったのか、一瞬崖の上を見るが、入り口にいる警備員に任せられると思ったのだろう。
もう一度アルフォンスを睨みつける。
だが、次の瞬間、ものすごい爆発音が響き、崖の上で火の手が上がった。
数秒後、ウィスタリアに土や砂利が降り注ぐ。
それは、かつてない激しい襲撃が始まろうとする合図であった。
チャリンチャリン、とコインが電話機の中に落ちた。
それと一緒に自らの体も崩れおちそうになるのをなんとか堪《こら》えて、エドワードは受話器を手に取った。
「こ、こんなに走ったの始めてかも……」
早朝の清々しい空気の中、エドワードは、数日前に出てきた町の電話ボックスで、ぜいぜいと息を吐きながら、ダイヤルを回す。
近道をしたせいで、行きのときよりずいぶんと早く着いたものの、ほとんど休まずに走り続けてくるにはかなりきつい道のりであった。
プッ・ツツツ・プッ、と無機質な音が数度繰り返されたあと、軍部の交換手が出る。
エドワードはコードと名前を告げ、東方司令部のロイを呼び出してもらう。
しばらくすると、いかにも寝起きの声をしたロイが電話に出た。
「……私だ」
東方司令部にある、ロイ個人の仕事部屋の電話に繋がったはずなのに、寝起きの声であるということは、仕事中にうたた寝でもしていたのだろう。
仕事に追われているのは相変わらずらしい。
ロイは電話の向こうで大きな欠伸をした。
「どうしたんだ? ウィスタリアの視察が終わったのか?」
「だと良かったんだけどな。やりたくもない視察をやらされたあげく、色々と問題が出てきてね」
「問題?」
眠そうだったロイの声の調子が仕事のそれと変わる。
「なにかあったのか?」
「実は急いで確認をとりたいことがあるんだ。最近南方司令部で犯罪者の検挙率が上がってると言ってたよな? まずはそいつらが捕まったときの位置」
電話の向こうでメモをとっているのか、ペンを走らせる音が聞こえた。
エドワードは自分の言葉を書き終わるのを待ち、ペンの音が途切れたところで続ける。
「それから、労働力の確保だかなんだかで、人買いブローカーが暗躍してるって言ってただろ? なんでもいいからその情報」
「……分かった。ちょっと調べてくるから十分後にかけ直せ」
「了解」
早朝から電話をかけたエドワードが、それだけ急いでいるのをロイは分かったのだろう。
詳しく聞かずに調べると言ってくれたロイに、エドワードは珍しく感謝の念を抱きながら、十分後にもう一度かけた。
ロイは、少々緊迫した声で調べた結果を教えてくれた。
「犯罪者を逮捕した位置は、ほとんどが東部との管轄境界線すぐそばだ。しかも、どれも密告から成功したもので、賞金もかなり払っているらしい。密告文は今、君がいる町から届けられるそうだ」
「……それ、最近の日付だといつ?」
「先月の十二日と二十六日……ああ、二日前に投函されてるな。それと、人買いブローカーだがな現在、派手に動いているのが数人いるんだが、その誰もがこれまた南部と東部の境界線近くで見かけられていることが多い。……つまり、どちらも君のいるウィスタリアの近くで起きている。あと、これは朗報だな。ブローカーの一人が昨日別件で逮捕されたそうだが、ヤツはとある町から人を買っていることを白状したらしいぞ。まだはっきりとは分からんが、ヤツの行動を調査した結果、ウィスタリアの可能性が高いそうだ……これを知りたかったんだろう?」
ロイが集めてきた情報は、エドワードの疑惑を確信させるのに十分であった。
「オレの持ってる情報と照らし合わせると間違いなく黒だ。首謀者はウィスタリアのリーダーだ。計算高いヤツだから逃亡される可能性もある。人をよこしてくれ」
「分かった。軍の管轄の境目で起きた事件だったのが仇《あだ》になったが、今、こっちでも南部と情報を提供し合っているところだ。ウィスタリアに関わる情報は全部公開することにした。……こちらも調べがつき次第、近くの支部から人を向かわせよう」
疑惑が確信に変わると同時に、エドワードはリーフが気になりだす。
もしブローカーとの取引に使われたら、へたをすると二度と行方しれずになってしまうのだ。
「とりあえず、オレはウィスタリアに戻る。あとはよろしく!」
エドワードはそう言うと、受話器を置き、再びウィスタリアへ向けて走りだした。
「レイゲンのエゴの犠牲者を出させてたまるか……!」
時々身体を休めながらも、急いで戻ったエドワードが、ウィスタリア近くに着いたのは、すっかり暗くなった夜だった。
丸一日かけて往復したエドワードは、ふと荒野の先にたち上るもやのようなものに気づく。
「なんだ、あれ……?」
夜空と同化して、見えにくいもやに目を凝らすうち、エドワードはそれが黒い煙であることを理解した。
「なんだ、いったい……?」
妙な胸騒ぎがして、エドワードは足を速める。
やがて、来るときに強盗たちと一戦交えた場所に、今は誰もいないのに気がつく。
「……!」
夜空に銃声が轟いた。
その音でウィスタリアが襲撃されいることを即座に理解したエドワードは、全速力で駆けだす。
滑らかな隆起を越え、そこに広がった巨大な穴の出入り口では、警備員が銃や棒などで強盗たちと応戦していた。
警備員たちと強盗たちの数名は地面に倒れて呻《うめ》いており、激しい攻防が続けられていることを物語っている。
エドワードは、大勢が揉《も》みあっている出入り口から町に戻ることを諦めると、強盗たちがテントを張っていた地点まで戻り、放置されている荷物の中から、ロープと鉄の棒を失敬した。
そして、腰をかがめながら入口から離れた場所の崖の縁に立つ。
これから町に入る者などいるはずがないと思っているのか、強盗たちはエドワードには気づいていなかった。
鉄の杭を地面に突き立てると、エドワードは機械鎧《オートメール》の左足で、その先端をガンッ、と蹴りこむ。
地面に深く食い込んだ鉄の棒にロープを結びつけ、エドワードはそれを片手に崖の縁からウィスタリアを覗き込んだ。
下ではまだ混乱は起きていないものの、皆が不安そうに出入り口を見上げている。
彼らのいる底と、自分のいる崖上の差はかなりある。
だが、エドワードは、躊躇わずに右手でロープを掴むと、そのまま崖下に飛び降りた。
ロープと手の間で、シューッ、と摩擦音が鳴った。
僅かに焦げるようなにおいがしたが、エドワードの右手は熱を感じない。
そのままスピードを緩めず一気に急降下すると、地面に着く数メートル上でぽんと飛び降りる。
下流近くに着地したエドワードは、右手を振って熱を冷ますと、ロープを強く引っ張って、強盗たちが続いて入ってこないよう崖下に落としてから、広場に向かって駆ける。
銃の音が絶え間なく続く町の中では、町の人が不安そうな顔をして、家の前に座ったり畑の前で上を眺めていた。
エドワードは水路を渡る橋の上から、工場やドームを見やったが、そこでも、数人が仕事の手を休めて、崖を見上げていた。
広場を通り過ぎ、町の出入り口に続く通りにさしかかると、そこではアルフォンスがルビィと軽い押し問答をしていた。
「ルビィ、屋敷には警備員がいっぱいいるんでしょ! だったら、君までそっちに行かないで、みんなの避難をさせるべきだよ!」
「今は、上で食い止めているもの、大丈夫よ」
「ルビィ!」
エドワードは、アルフォンスが無事だったことにホッとして、駆け寄りながら、弟の名前を呼ぶ。
「アル!」
「……兄さん!」
アルフォンスもエドワードを心配していたのだろう。
エドワードを認めるとホッとしたような声で兄を呼んだ。
その隙にルビィは身を翻して屋敷の方角へと走っていってしまう。
だが、アルフォンスは追いかけずに、まずエドワードと無事を喜び合うと、銃声の響く中、手早くお互いの状況を報告し合った。
「昨日の夜から襲撃が続いていて、警備の人が頑張ってくれているけど、かなり危険な状態だよ」
「そうだったのか」
続いてエドワードはアルフォンスに、レイゲンが行っている人身売買の事実を告げる。
アルフォンスは驚いたようで、一瞬言葉をなくしたが、すぐに声を上げた。
「あ、リーフが!」
「それを心配してオレも急いで戻ったんだけど……リーフはもういないのか?」
「今日、出て行くとは聞いていたけど、襲撃が始まっちゃってからは、ボクも今までケガをした警備の人を手当てしたりしてたから分からないんだ……」
アルフォンスは申し訳なさそうに言う。
だが、エドワードはそんな弟の腕を軽く叩く。
「この襲撃の中、外に出られるとは思えない。きっとまだ大丈夫なはずだ。それより町の人たちは避難しなくていいのか?」
皆が固まることなくそれぞれの場所にいるのを見て、エドワードがアルフォンスに聞くと、アルフォンスは困ったように頷いた。
「ボクもそう思ったんだけど、警備の人は、出入り口か屋敷を守ることに夢中なんだ。ルビィもそうだし……。別の場所に階段を錬成しようかと思ったけど、この崖はいろんな地層が重なっているから、大量に錬成すると、脆《もろ》くなっちゃうんだ」
「そうか。でもこのままだと、もし強盗たちに突入されたら、町の人に犠牲が出る。リーフも探さなきゃ行けないし、下流に行って、イヴァンスさんにどこか安全な場所がないか聞いてみよう」
「うん!」
エドワードとアルフォンスが下流へ行くと、そこにはイヴァンスとケット、そして数人の男たちが、崖を不安そうに見上げていた。
「イヴァンスさん!」
「おお、エドワードにアルフォンス」
「リーフは? 一緒じゃないのか?」
松葉杖を膝に乗せて座っているケットは少し考えてから首を振った。
「昨日の夜、ここに一緒に戻ってきたけど、それからは見ていない」
「……そうか……」
「それにしても、君たちもたまたま来たばっかりに災難に巻き込まれて可哀相に……」
イヴァンスは、瓦礫《がれき》に座ったまま、二人に声をかけてくれる。
「もうここは時間の問題じゃ、せめて君たちだけでも無事に逃げられればいいんだが……」
「なに言ってるんですか、逃げるときはみんな一緒ですよ」
アルフォンスは、すでに諦めかけているようなイヴァンスの肩にそっと手を置く。
「だから、諦めないでください」
「そうだよ、イヴァンスさん。逃げることを考えなくちゃ。ウィスタリアには逃げるための通路とか、避難所とかはないのか?」
エドワードが聞くと、イヴァンスはゆっくりと首を振った。
「ないんじゃよ」
「どこにも?」
「ああ、ウィスタリアの入り口は、強盗たちが狙っているあそこだけだ」
「……」
エドワードは小さく舌打ちした。
ここが陥落するのは時間の問題だった。
そうなれば、地下にある武器を使ったとしても、町の人たちが襲撃になれている強盗たちに敵《かな》うはずもなかった。
ロイがよこすと言っていた軍の者も来るのはまだ先だろう。
町は時を刻むごとに危機に陥っていた。
「どうすればいいんだ……」
考え込んでいたエドワードは、ふと下流にいるメンバーがいつもよりずっと少ないのに気づく。
「イヴァンスさん、他のみんなは?」
「ああ、ついさっきレイゲン様の屋敷に向かったよ。こんな状況になっては町を閉ざさないで、交渉に応じるべきだ、とね」
「悪くない考えだけど……」
エドワードは、崖を見上げる。
そこでは、すでに銃撃戦は行われておらず、警備員たちと強盗は接近戦となっていた。
強盗たちはこの町の宝石に目をつけているのだ。
そのために町の人が危機に晒されるより、今のうちに少し分け与えて、町の安全を確保するのも一つの考えだろう。
だが、間に合うとは思えなかった。
エドワードが悩んでいると、アルフォンスが立ち上がって、屋敷を指差した。
「兄さん、こうなったら、屋敷の中にみんなを避難させた方がいいよ。あそこは崖も高いし、町の中でみんなが散らばっているよりずっと安全だと思う」
エドワードも振り返る。
確かに屋敷は、前面に壁、背後に崖と要塞のようでもあった。
「よし」
エドワードはアルフォンスと共に、イヴァンスや他の者に声をかけ、屋敷へ向かうことにする。
途中で出会った他の町の人も連れ、二人は屋敷へと急いだ。
屋敷の前では、イヴァンスが言うとおり、下流に住む者たちが声高にレイゲンを出すように叫んでいた。
「今までのすべてのやり方が間違ってたから、こうなったんだ!」
「本当に町を思うなら、出てきて交渉してくれ!」
「町の安全を第一に考えろ!」
逆に、ニールを始めとする、ウィスタリアの恩恵に与《あずか》ってきた者たちは、レイゲンに早く逃げるよう警備員に伝えている。
「レイゲン様に逃げるよう言ってくれ!」
「あの方は、俺たちを救ってくれたんだ。今度は俺たちがレイゲン様の盾となる!」
それぞれの願いはどうであれ、町の者たちが集まりつつある鉄柵の門は、固く閉ざされたままだった。
向こう側にいる警備員は、ニールたちには安心するように笑顔を向け、レイゲンを責めるものに対しては、銃口を向けこそはしなかったが、無言で牽制していた。
エドワードとアルフォンスもその中に入り、門の前で懸命に叫ぶ。
「逃げるところのない町の中は危険なんだ!」
「屋敷なら、壁も高いし、町にいるより安全なんです! ここを開けてください!」
「ばか言うな! まずはレイゲン様が逃げたのを確認したあとだ!」
ニールが怒鳴り、エドワードはそれにひと言返そうと口を開いたが、そのまま硬直してしまう。
「?」
白いものが、屋敷の中に落ちていたのである。
「!」
それはリーフの育てている花であった。
地面に落ち、踏まれてしおれていたが、それがあるということは、リーフはこの中に入ったということなのだ。
「なあ、ちょっと!」
エドワードは、ニールの肩を叩く。
「な、なんだ?」
言い合っていたはずのエドワードが、急に話しかけてきたせいで面食らったニールに、エドワードは畳みかける。
「あれってリーフの花だよな? リーフがここに入ったのを見たか? いつ入ったか知ってるか?」
「リーフ? あ、ああ、リーフなら、襲撃中、ケガ人の手当をしていたが、途中で屋敷へ入っていった。レイゲン様から急に呼ばれて、次の仕事場について説明するから、ってことらしい」
「! アル!」
エドワードはニールの言葉を聞くやいなや、すぐ後ろにいるアルフォンスを振り返る。
話を聞いていたアルフォンスも同じことを思ったのだろう。
「抜け道がこの中にあるかもしれないね!」
「ああ、オレは町の人たちを集めてくる!」
門の前の人込みから抜けると、エドワードは脱兎《だっと》のごとく走り、町に散らばる人たちに声をかけてまわった。
レイゲンは、おそらくリーフもケットも商品として売るつもりだったに違いない。
前科があると言っていたケットは犯罪者として軍に引き渡すのだろうし、リーフはここの仕事はできなくとも、外では十分に働ける若さがある。
つまり既にブローカーと約束していてもおかしくないのだ。
いつもなら、次の仕事場を紹介され、外に出された者を誰かが迎えに来るのだろうが、今回は襲撃のせいでそれができなかった。
だが闇組織にはそんなことは関係ない。
襲撃中にもかかわらず、リーフを呼び出したということは、そのような組織との約束があると言うことであり、そして、普段使わない出入り口があるということなのだ。
残されたアルフォンスは門の前に立つ警備員に、ここを開けるようお願いをする。
無理矢理開けることもできるが警備員の持つ銃がいつ町の人に向くか分からないので、そうそう強行突破はできなかった。
「お願いです、開けてください! みんなを避難させなきゃ!」
しかし、口を閉じたままの警備員に代わって、返事をしたのはルビィだった。
「ダメよ」
門の向こうに現れたルビィは、警備員と同じように無表情のままアルフォンスの前に立った。
「ルビィ……」
「今は開けられないわ」
「ルビィ、この屋敷の中に別の逃げ道があるんでしょ? そこはどこなの? 使わせてよ!」
「逃げ道があるなら、なおさら、レイゲン様に先に行くように伝えてくれ!」
「ニールさん!」
「アルフォンス、お前はすぐ旅に出るから分からないだろうが、レイゲン様にお世話になった俺たちには、あの方はなくてはならない存在なんだ」
ルビィはアルフォンスを見つめたまま答える。
「ニールの言うとおりよ。それに一度に大勢通れば、強盗たちにも気づかれて、レイゲン様の命を狙われるわ。理想国家を作るのに、レイゲン様は絶対必要不可欠な方なのよ」
それはまるで、町の者たちとは価値が違うと言っているようだった。
アルフォンスはそれを聞いて悲しくなる。
「ルビィ、ねえ、開けてよ! ちゃんともう一度考えて!」
するとルビィは、一歩近づいてきて、アルフォンスに囁《ささや》いた。
「……もう一度考えるのはアルフォンスの方よ」
「え?」
ルビィの瞳の中に、分かってほしい、という僅かな懇願《こんがん》があるのを、アルフォンスは気がついた。
理解してついてきてほしい、とその瞳は語っていた。
「一緒に新しい世界を作りましょ? 辛いことなんか忘れて、一からやり直せばいいじゃない」
アルフォンスには、ルビィが自分を気に入って誘ってくれているのがよく分かった。
前日の夜に怒らせて以来、笑顔はまったく見せてくれないルビィだが、それでもアルフォンスを誘ってくれるのである。
そして、アルフォンスもまた、気が強くて、明るくて、燃えるような心を持つルビィを嫌いではなかった。
その強さに憧れてもいたのだ。
だから、ここでルビィと決別するようなことはしたくなかった。
しかし、アルフォンスは静かに首を振った。
「……ボクには、ついていけないよ。なにもかもを忘れて新しい世界で生きるなんて、できはしない」
「そうやって、いつまでも昔にしがみつくのは弱いだけなのよ」
「かもしれない。けれど、ボクは苦しくても、みっともなくても、あがいてでも、元の身体に戻りたい!」
アルフォンスの言葉をルビィはじっと聞いていたが、やがて小さくため息をつく。
「……レイゲン様が、無事に逃げられたあと、必ずここは開けるわ」
「ルビィ!」
「……さよなら、アルフォンス」
ルビィは悲しそうに瞳を伏せると、踵《きびす》を返す。
その背中が屋敷の中に消えるまで見送っていたアルフォンスは、仕方なく、警備員ごと門を倒そうと構える。
そこへエドワードが戻ってきた。
「アル!」
町の者を集めてきたエドワードは、門の前にたどりつくと、屋敷の奥を指差す。
「リーフが、レイゲンと一緒にいるのがちらっと見えたぞ! 怪しい黒いスーツのヤツと一緒に屋敷の中にいた!」
「やっぱり抜け道があったんだね!」
ルビィと決別したことはアルフォンスの心を痛めたが、それよりも町のみんなが助かるかもしれないと知って、その胸には希望が湧く。
「良かった!」
その時、大きな爆発音が上がり、強盗たちが我先にと町へ突撃してきた。
「突入されたぞーっ!」
門の前にいた警備員たちが慌てて、屋敷に残る同僚たちを呼びに行く。
「くそ! 町をめちゃくちゃにされてたまるか!」
強盗たちに立ち向かおうとしたニールの腕をアルフォンスはガッチリと掴む。
「ダメです! 勝てるわけない!」
「そんなこと分からないだろうが!」
「ケガをするだけです! 今は逃げた方がいい!」
門の警備員がいなくなった隙に、エドワードは右腕を刃に変えると、鉄柵の鍵を切り落とす。
「急げ! 早く中に入れ!」
すぐに鍵をかけられるよう、切り離した鍵を錬成し直しながら、エドワードは叫ぶ。
町に下りるための階段に手こずっている強盗たちを見ながら、アルフォンスもニールを屋敷内に押し込み、同時に入り口の守りに失敗した警備員たちが戻ってくるのを見て励ます。
「早く門の中に!」
エドワードとアルフォンスは、最後の一人まで屋敷の中へ招き入れると、門を閉めた。
続いてアルフォンスは、門の前に錬成陣を描くと、敷地内の土を使って鉄柵よりさらに高い壁を立ち上げる。
エドワードも両手を合わせると、屋敷を囲む壁に手を当て、壁の真下から土を盛り上げるようにして、さらに高い壁を錬成した。
「これでしばらく持つよね」
「ああ。その隙にオレはリーフを助けに行ってくる」
「ボクは、みんなを誘導してとりあえず地下水路に避難するよ」
それぞれの役割を確認すると、エドワードは屋敷の中に飛び込み、アルフォンスは昨日侵入する時に使った入り口に向かって駆けだした。
第5章 白い花の舞う谷
屋敷の中は異様に静かだった。
警備員たちは屋敷のまわりにはいたが、中には誰もいなかった。
レイゲンが屋敷に入ったまま出て来ないのか、命令系統も混乱しているらしい。
警備員は町の者が敷地内に入ることも止めず、また、ケガをした者を積極的に助けるアルフォンスに好感を抱いたのか、アルフォンスが地下水路にみんなを誘導するのも黙認していた。
エドワードを見咎《みとが》める者はいない。
かといってレイゲンより先に逃げるつもりもないらしい。
警備員たちは屋敷のまわりを忠実に固めながら、レイゲンが屋敷から出てくるのを待っていた。
エドワードは屋敷に難なく入り込むと、だだっ広い部屋を繋ぐ廊下を歩き、二階へと上がる。
二階の窓から下を見ると、アルフォンスが地下水路に続く鉄の板を支えて、みんなを誘導しているのが見て取れた。
強盗たちの目的は第一に宝石である。
工場やドームの扉が開け放たれ、残された石たちをかっさらって行く様子が見える。
彼らはそこを物色し終わったら、いずれ屋敷内に入ってくるに違いない。
エドワードは、急がないと、と思いつつも、ふと気になって対面の下流方向へ目を凝らした。
夜とはいえ、火がそこかしこで上がっているので町は明るく照らされていた。
それにもかかわらず、レイゲンの屋敷から対面の下流あたりはやはり見えにくかった。
「……たとえ向こうが見えたとしても、見もしないだろうけどな……」
エドワードはポツリと呟く。
レイゲンはエドワードが知る中でも、かなり非道な人間だった。
人そのものさえも、等価交換に換算するレイゲンを逃がすわけにはいかない。
エドワードは拳を固めると、リーフを見かけた三階に上がる階段の途中で、壁に身体をつけて中の様子を窺う。
微《かす》かな話し声が聞こえてきた。
廊下を進み、一室の前で立ち止まる。
レイゲンは人買いと接触を持っていることを他の者に秘密にしているようなので、ルビィがこの場にいる可能性は低い。
実際、なにかの用事を言いつけられているのか、ルビィはどこにも見えなかった。
「では、この子を頼みますよ」
レイゲンの低い声がした。
だがその声は町の人の前で出しているような穏やかで温かみのある声ではなく、闇組織に対する微妙な恐れと媚《こ》び、それと強盗たちの動向を気にしている様子が窺えた。
「レイゲンさんよ、町が襲撃されちゃ、人材もいなくなるんじゃないか? ここは軍の目が届きにくい、いい土地だったのになぁ」
柄の悪そうな声は、取引先の相手であろうか。
「いやいや、私の忠実な人形たちは喜んでここを再建するでしょうし、それが無理でも、どこかまた新しい町を作ることはできますよ。……まぁ、ここは人だけでなく、宝石という財源まで確保できたので、私としても手放したくないのですがね」
「あの、レイゲン様……?」
小さな声は、リーフのものだった。
「いったい何の話をしているのですか?」
目の前で繰り広げられる話題の意味が分からないのだろう。
その声は心なしか震えていた。
エドワードは、扉の隙間に顔を当てて、レイゲンたちの位置関係を把握すると、ノブに手をかける。
「じゃあ、強盗どもが屋敷に入ってこないうちに俺は退散するぜ」
「お金はいつもように頼みますよ」
「分かってる。……ほら、来い!」
引っ張られたのか、リーフの悲鳴が聞こえた。
エドワードは勢いよく両開きの扉を開け放つと、まずリーフの腕を掴んでいる、黒スーツ姿の男の懐に飛び込むようにして、その手をはたき落とす。
「な、なんだ、こいつ!」
「おまえは、確か……!」
突然のことに慌てるレイゲンと、やたらと太ったブローカーらしい男から、エドワードはリーフを引き離すと、自分の後ろに庇《かば》った。
だが、場慣れしているのか、太った男は胸元から素早く銃を抜く。
一人なら、飛び出して銃身を叩き切ることもできるが、リーフがいてはそれもできない。
エドワードはリーフを背中に隠したまま、両手を勢いよく合わせた。
そして、リーフの後ろの壁に手をつく。
その隙をついて、レイゲンが逃げたのが視界に映ったが、エドワードは、まずは目の前の男と対決するために、壁に当てた手を前へと引いた。
バチバチ、と錬成の光が飛び散り、消えたとたんに、壁から円錐形の物体が飛び出した。
「な! 貴様、錬金術師か!?」
男は間一髪で避け銃を構えたが、その指が引き金にかかる前に、床から飛び出した塊が、下に敷かれた絨毯ごと持ち上がり、天井に跳ね上がった。
「わあぁっ!」
天井に舞い上がった絨毯に視界を遮られ、男がエドワードとリーフを見失った二秒後、男は拳を叩き込まれ、伸びていた。
さらに一秒後、男の手から吹っ飛んだ銃が部屋の隅にガシャンと落ちた。
「す、すごい……!」
アッという間の出来事に、リーフは呆然と立っていた。
エドワードはすぐにリーフに近寄る。
「ケガはないか?」
「ありがとうございました」
リーフはエドワードにお礼を言ったあと、すぐに窓から見える強奪の様子に眉をしかめた。
「……みんなは無事ですか?」
「ああ。今はとりあえず、地下水路に逃げている。だが、屋敷内のどこかに外へ繋がる道があるみたいなんだ」
エドワードは、倒れている男の前にかがむと、その頬を叩いた。
「おい! 起きろ!」
「う、う〜……」
赤く腫れた頬を、エドワードは容赦なく幾度も叩くと目覚めた男の胸ぐらを掴み上げた。
「おまえ、どこからウィスタリアに入ってきたんだ? 外に出られる道があるなら教えろ」
機械鎧《オートメール》の右腕で、ぐいっと、喉元を締め上げられ、男は手を上げる。
「待て、言う、言うから。……く、苦しい……!」
「あるんだな?」
男は、エドワードの鮮やかな錬金術に怯えているのか、何度もこくこくと頷きながら、下を指さした。
「地下だ。地下水路から、南部まで出る道がある」
「あそこは迷路みたいになっているだろ、その中のどの道なんだ?」
「下流に向かって、ひたすら進むと、地下水路に繋がる場所がある。少しひらけているそこにはいくつか穴があるから、その一番右の坑道を行けば……」
エドワードは、男を壁に押しつけると、壁の一部が男の胴体にまわるように錬成をする。
「軍がくるまでおとなしく待っていな」
エドワードは階段を下りると、外に出て、リーフと共に地下水路へ続く鉄の板の前に立つ。
「リーフ、あの男の話聞いてたよな?」
「はい」
「俺はレイゲンを追うから、お前はこの下の地下水路に隠れているアルに、今聞いた逃げ道を教えて、町のみんなと外へ向かうんだ」
エドワードはみんな開け閉めしたせいで、開きやすくなった鉄の板を持ち上げると、リーフに目で示す。
「この下のどこかに町の人たちが隠れている。下に着いたら、声を出せばきっと誰かが答えてくれるはずだ。オレはあとからすぐに行く」
「はい!」
リーフが下に降りていくのを見送ると、エドワードはゆっくりと板を戻す。
エドワードは完全に板を下ろすと、顔を上げてあたりを見渡した。
壁の向こうでは、強盗たちが宝石を見つけては歓声を上げている。
また屋敷へ侵入をしようとしている者もいるらしく、アルフォンスが作った壁の向こうで門がガシャガシャと激しい音を立てていた。
レイゲンが出てくるのを外で待っていた警備員たちも、危険を感じたのか、地下水路からどこかに逃げたようだった。
「オレも、とっととあの悪党を捕まえて、逃げないとな」
エドワードは、レイゲンが隠れているであろう、地下室への入り口を探すために、屋敷の中へ再び踏み込むと正面の階段の両脇にある扉の一つを開けた。
するとそこは大ホールになっており、天井まで届く大きな柱が六本立っていた。
入ってくるときにあったもう片方の扉も、同じようにホールに繋がっている。
エドワードは六本の柱の向こう、正面の壁に大きな扉がついているのに気づく。
おそらくそこを開けると、裏手にある水門の正面が見えるはずだった。
「……地下室はないのか?」
注意深くエドワードは壁を見ていたが、やがて片側に扉を見つける。
シンメトリーに作られているはずなのに、その扉の対称物は見つからなかった。
扉に走りよると、エドワードはしばし耳をそばだてる。
中から風の吹く音が聞こえてきた。
「当たり!」
地下から通じる風を確認して、エドワードは扉を開けた。
そこは小部屋になっており、そこから地下に通じる階段の上にレイゲンはいた。
今まさに階下に下りようとしていたレイゲンが振り返る。
「逃げても無駄だぜ!」
「な、また貴様か……!」
レイゲンは、急いで地下へ下りようとしたが、エドワードの言葉がそれを引きとめた。
「あんたはもう終わりだ! あと数時間もすれば、軍がやってくる。今頃、南方司令部と東方司令部が、どっちがあんたを捕まえるかを競いあっているぜ。いい加減諦めな!」
「な、なんだと!」
軍にかぎつけられているとは思っていなかったようである。
レイゲンの目が見開かれた。
「軍が……な、なぜだ!? 誰が通報したというんだ!? おまえか!?」
エドワードは、まっすぐにレイゲンを見据える。
「あんたが、ここで理想の国家を築こうと、国家転覆を謀《はか》ろうと、オレはどうでも良かった。少なくとも、町の人に一度は希望を与えたんだからな。……けど、あんたは人としてやっちゃいけないことをしていた。……人を金に換算するってことをな!」
「……!」
「あんたは等価交換を法にしていた。それも徹底してな。なのに、町で役に立たなかった者にも次の職場を紹介するなんて言う。これだけが等価交換じゃなかったんだ。あんたはそうやって、罪もない人を金に換算していた。ついでに賞金首の犯罪者は軍に売ってな」
「……」
レイゲンは黙ってエドワードの言葉を聞いていたが、やがてニヤニヤと笑いだした。
「……なるほどなぁ、なかなかお利口さんだな」
「宝石だけで武器を買っていれば、オレだって気づかなかったのによ」
すると、レイゲンは、おかしそうに笑った。
「宝石は時代が変わっても価値はほとんど変わらない。今後も使える場面が山ほどある。だが、人は違う。使えるときに使ってしまうのが一番だ」
レイゲンのエゴイズムが完全に表に出た瞬間だった。
その不気味さに、エドワードは口をつぐむと無意識に手を握る。
「……あんた、本当に最低だよ」
気持ち悪ささえ感じて、エドワードが低く言うと、レイゲンはゲラゲラと笑った。
「だが、そう思わない者だっているぞ」
「?」
レイゲンが口を閉じると、しばらくして軽快な足音が聞こえてきた。
「お待たせしました。レイゲン様! やはり上の入り口は使えません。地下から行か……え、エドワード!!」
やってきたのはレイゲンを慕ってやまないルビィであった。
レイゲンの逃げる道を一生懸命していたのだろう、その額には汗が滲んでいた。
「ルビィ、この者はおまえの命の恩人だが、その実、私に訳の分からぬ罪の濡れ衣《ぎぬ》を着せようとしておるのだ」
先ほどの不気味な笑みを消し、レイゲンは真摯な声でそう言った。
「はあ!? なに言ってんだ、おまえ」
エドワードは心底あきれたが、ルビィの顔はみるみる険しくなった。
ルビィにとって、レイゲンは希望をくれた人であり、長い間信じ、そしてそれを裏切られることのなかった絶大な信頼を寄せている人物なのだ。
出会ったときからなにかとケンカをしていたエドワードの方を信じることができないのは当然だった。
「ルビィ、頼むぞ」
レイゲンは、地下に逃げるのをやめたのか、ホールへと出て行き、そこから裏へと行ってしまった。
「待ちやがれ!」
エドワードは追おうとしたが、次の瞬間、耳元でブンと拳が風を切った。
「行かせないわよ、エドワード」
「……ったく、ある意味レイゲンより質《たち》が悪いな、おまえは」
頬をかすった拳をチラリと見ると、エドワードは苦笑した。
「あんただって決して質がいいとは思えないけど?」
ルビィは、エドワードを睨みつけたまま言い返す。
至近距離で睨み合っていた二人は、同時に後ろに飛び下がる。
「このバカ。レイゲンがなにをしていたのか聞くつもりもねぇのか?」
「武器を集めてたこと? そんなの知ってるわ!」
かなりのスピードで、ルビィはエドワードの至近距離まで飛び込んでくると、右腕で下から持ち上げるようにしてエドワードの顎を狙ってきた。
「っとと!」
拳を避けたエドワードは、続けて腹部を狙ってきた足を左腕で受けると払い落とす。
それを予想していたのか、ルビィは払われた右足を着地させると、身体を捻って反転する。
ルビィの左足が、弧を描くようにエドワードに迫ってきた。
「さすがに町一番強いって言われてただけあるな。……けど!」
かがんで、ルビィの回し蹴りをやり過ごすと、エドワードは回転したルビィの腕を押さえ、ルビィの勢いを利用して唸り、床に押しつけた。
「っ!」
「まだまだ、だな」
「それはこっちの台詞よ」
床に肩を押しつけられたルビィは首を捻って、エドワードを睨み上げる。
その瞳に諦めの色はなく、ルビィはエドワードが予想していた以上のバネで全身を捻ると、そのまま跳ねるようにして立ち上がった。
「ずいぶん強いけど、自己流?」
エドワードはすぐに飛んできた拳を払いながら聞く。
「そうよ。負けないために、必死でトレーニングしたわ」
「負けない、ねぇ。誰に負けないために必死になってんだ?」
「……」
一瞬、ルビィの手が止まった。
「レイゲンを守るのか? 町を守るのか?」
「両方よ!」
突進してきたルビィは聞く耳を持たない。
殴りかかってきたルビィの腕を、エドワードは今度こそしっかりと掴んだ。
「いいか、よく聞け! お前が今守ろうとしているレイゲンは、同じくおまえが守ろうとしてきた町を、人身売買の商品置き場だと考えていたんだぞ!」
だが、その事実はあまりに突拍子もなく思えたらしい。
ルビィは鼻で笑った。
「そんな話、誰が信じるの?」
レイゲンが言っていたように、エドワードが濡れ衣の罪をかぶせようとしていると思ったのだろう。
ルビィは歯牙《しが》にもかけなかった。
だが次のエドワードの言葉で、その身体はびくりと緊張した。
「使える者は手元に置いて忠実な下僕に。働ける者は自分の財源確保に。犯罪者は軍に引き渡し、町で使えない者は余所《よそ》に。レイゲンは町の人間を同じ人間だなんて思ってない。おまえが時折外に持っていく手紙は、軍への密告文なんだ!」
「う、嘘よ! レイゲン様は行き場のない人を受け入れはするけど、そういう人たちを売ったりなんか……」
「三日前。先月の十二日。同じく先月の二十六日!」
エドワードの言葉にルビィの顔がしだいに蒼白になる。
「密告文が投函されている。アンタが出したんだろう? この三階にはリーフを買おうとしたブローカーも捕まってる。これで分かったか!」
そこまで言うと、エドワードはルビィの腕を放した。
ルビィはよろよろと数歩歩き、ぺたりと床に座り込んだ。
「嘘よ……そんなの嘘……!」
ルビィは必死で否定する。
だが、数日前に会ったばかりのエドワードが、先月出した手紙のことまで知っていたこと、なにより、エドワードがケンカしたりするときとは違う真剣な声と表情をしていたことが。否定したい気持ちをうち砕く。
それらすべてが、今言ったことは事実なんだと、ルビィの感覚に告げていた。
そのとき、なにかが軋《きし》むような音が聞こえてきた。
「? なんだ?」
ギギギ……ギギ……。
音は外から聞こえてきている。
その音に思い当たって、エドワードは身体を反転させたが、ルビィがそれを許さなかった。
「まだ分からないのか!?」
首に腕を絡められ、エドワードは呻く。
「もし、もし、そうでも……私は……私はレイゲン様に救ってもらったのよ……!」
半ば理解しているのに、それでも混乱し、レイゲンの呪縛《じゅばく》から逃れられないルビィに、エドワードは振り向きざま、鳩尾に一発食い込ませた。
「この分からず屋! 目を覚ませ!」
ギギギ、とまた音がした。
エドワードは、手をパンと合わせると膝をつく。
そして、両手を床に当てた。
ものすごい光量と電気が走るような音が屋敷を満たしたかと思うと、屋敷が大きく揺れ、裏に続く扉は壁に吸い込まれ、大きな穴が開いた。
裏には水門があった。
そこには両手で抱えるほどの、水量を調節するハンドルがある。
ハンドルが、ギギギ、と鳴った。
「……!」
それを回していたのはレイゲンであった。
「どうせ捕まるのなら、みんな道連れにしてやる!」
地上の水路に流れる水が極端に減り始めていた。
代わりに地下水路に流れ込む水の音が大きくなる。
エドワードは、穴から飛び出すと、右腕を棍棒《こんぼう》のようにして、レイゲンに振り下ろす。
「やめろ!」
だが、レイゲンはハンドルから手を離すと、地面に触れた。
そこには、土に描かれた錬成陣があった。
錬成の光が散り、エドワードめがけて地面が大きく盛り上がる。
「!」
すかさずエドワードは横に飛んで避けたが、盛り上がった地面は、屋敷に激突し、下から持ち上げるようにして、壁を崩した。
続けてレイゲンはもう一度放つ。
今度はさらに大きく地面がえぐれた。
勢いだけで、たいしてコントロールもできてないような、大雑把な錬金術だったが、破壊力は凄まじかった。
かべがなくなり、天井が向こう側へ吹っ飛ぶ。
「ルビィ!」
屋敷の中に残っていたルビィをエドワードは振り向く。
だが、力業のような錬金術だったことが幸いして、崩れた材木などはすべて向こう側に飛ばされ、半壊した屋敷の床の上で、ルビィはケガもせずにうずくまっていた。
「てめぇ、許さねぇ!」
最後の最後までそばにいたルビィを巻き込むことも厭《いと》わず、錬金術を放ち、逃げる町の人までも道連れにしようとするレイゲンを許せず、エドワードは両手を合わせ、地面に触れる。
錬成の光が瞬き、レイゲンは身構えたがなにも起こらなかった。
だが、水門から少し離れた崖の一部が盛り上がり、柱となってレイゲンめがけて突進した。
レイゲンはそれを先ほどのように、錬成で地面を持ち上げ、跳ね飛ばす。
しかし真下から突き上げられた柱はそこで折れず、かわりに脆くぼろぼろと崩れ、レイゲンの頭から降り注ぐ。
細かい土や石から目を守ろうと下を向いたレイゲンが、再び顔を上げたとき、目の前には、エドワードの拳が迫っていた。
エドワードが懸命に水門のハンドルを戻そうとするのを、ルビィは離れたところから見つめていた。
エドワードから聞かされた真実。
町の人をも道連れにしようとしたレイゲンの狂気の笑み。
目の前で繰り広げられた戦い。
ルビィは、両膝と両肘をついたまま、顔を上げてすべてを見ていた。
自分の信じていたすべてが崩れ去る瞬間だった。
「負けたくない……」
ルビィは常に自分が抱いていた思いを再度口にする。
それはレイゲンに出会ったときから、ずっとずっと胸の中で繰り返したきた言葉だった。
呟くたびに、勇気がわいてきたのだ。
だが今、その言葉は、ルビィになんの力も与えなかった。
「負けたくない、幸せになりたい……」
繰り返しながら、ルビィは水路を渡る橋の上でアルフォンスに言われた言葉を思い返していた。
その優しく、少し悲しげな声が、ルビィの胸に蘇《よみがえ》る。
『いずれどうなるか分からないの?』
『最後には誰もいなくなっちゃうんだよ!』
ルビィは、地面を掴むようにひっかいた。
殴られた鳩尾の痛み、深い絶望と悲しみ。
それらがルビィの視界を滲ませ、ぼやけさせる。
下を向くと、手の甲に涙が零《こぼ》れた。
冷たい夜の風が強く吹き、ルビィの身体を嬲《なぶ》っていく。
「……うっ……う……っ」
エドワードは、強烈な蹴りを繰り出したあと、倒した相手には目もくれず水門まで走ってきたルビィを見る。
「……なによ」
ルビィは、堅いハンドルに手をかけ、回しながらエドワードを睨むように見返す。
「いや……よかった。おまえみたいなヤツでも目が覚めてくれねーと後味悪いから」
よかった、のひと言でよせばいいところを、エドワードはついそう言ってしまう。
「ええ、アルフォンスとリーフのおかげで、やっと目が覚めたわ」
ルビィも、エドワードの名前も入れるところなのに、ついそう言ってしまう。
「なんだよ! オレも助けただろ!」
「うっさいわね、あんたがいなくなってもねぇ」
出会ったときと変わらぬ言い合いをした二人だが、すぐにやめて、くすりと笑った。
「……やめましょう、止めてくれるアルフォンスはここにいないわ」
「きりがねーよな」
二人は、固くて動かないハンドルを力を合わせて回し始めた。
地下水路では、アルフォンスや町の者、警備員たちが流れてくる水に悲鳴を上げながら、懸命に前に進んでいた。
「なんで、こんなに水が流れてくるんだろう? このままじゃ……!」
アルフォンスは、後ろを振り返る。
地下の水路の両脇には歩けるような通路があったが、そこは既に水に沈んでいた。
みんなは膝下まで迫ろうという水の中を必死に下流へ向かって歩いていた。
しかし、いくらランプがあっても足下は薄暗く、水に足を取られることもあって、歩みは遅々として進まない。
もともと水路には傾斜がついている。
これ以上水が増え、勢いが増せばいくら通路を歩いているとはいえ、流される危険もあった。
水音と、どこかから吹き込む風音に負けないよう、ケットを支えて歩いていたリーフが言う。
「誰かが、水門をいじって地下に流れ込むようにしているんだ」
「じゃあ、戻った方が……」
だが、隣りを歩くイヴァンスがアルフォンスの腕を押さえる。
「もし誰かが回しているなら、ますます水量は増えるだろう。今から行っても間に合わん。前に進んだ方がいい」
「……」
アルフォンスは、先頭を行くニールに声をかける。
「ニールさん!」
「ああ!?」
前の方で大きくランプが揺れ、ニールが振り向いたらしいのが分かった。
「あとどれくらいですか!?」
「もう少しだと思う!」
リーフも背伸びをするようにして、前方を見た。
「石を持ち上げる工場の下はとっくに過ぎている。そろそろ下流あたりに来るはずだけど……」
すると、前方からニールの声が聞こえてきた。
「おおっ! ここなのか!?」
「着いたのかな?」
しかし、その声に重なるように、後ろからさらに大きな水音が聞こえた。
「みんな、掴まって!!」
アルフォンスは叫ぶと、近くのリーフとケット、イヴァンスを抱える。
水路の壁のどこかが崩れたのだろう。
土砂を含んだ水が迫ってきた。
「きゃああ!」
「わあぁっ」
悲鳴が水路にこだました。
これ以上は水路自体が持たない。
アルフォンスはみんなに声をかける。
「みなさん、もう少しです! 頑張って!」
アルフォンスは自分のまわりの者たちを励ましながら、急ぐ。
少し先に行くと、巨大な空間が広がった。
「? ここは……」
ホールのようなひらけたそこが突き当たりなのだろうか。
本来ならば、水路はカーブして、町の中を流れてきた水と合流し、地中の地下水脈に落ちるはずである。
そしてここに扉があり、南方へと続く坑道があるはずだった。
しかし、この大きな空間で、水路はなくなっており、水は足首を浸すほどの大きな水たまりになっていた。
ようやく水量も減り始め、水はそれ以上増えることはなさそうだったが、安堵する者はいなかった。
行くべき場所の穴などなにもなかったのである。
ただ巨大な空間が広がっているだけだった。
「……本当にここなのか?」
ニールがリーフに聞く。
「ここだよ。だって下流に向かって進むと、地下水路に繋がるひらけた場所があるって。そこに開いている穴の一番右の坑道を……って言ってた」
「本当か?」
誰かが言った。
「おまえ、いっつも俺たちにいじめられてたからって、ここで復讐しようとしてるんじゃないのか?」
「そんなこと……!」
アルフォンスもリーフを庇う。
「ここの岩盤はいくつもの地層が固まってできたものです。ところによってすごく脆かったりする。水を吸えばなおさらです。水路の水が溢れたこと、上で強盗たちが手榴弾を使ったことで、一部が崩れたんですよ」
アルフォンスは、入ってきたところとは反対方向をランプで照らした。
そこは土砂が崩れたかのように、急な斜面になっていた。
その下に南に続く穴があったのだろう。
「……では、どうすればいいんだ……。もっと早くに逃げていれば、こんなことには……」
誰かが言うと、近くにいた男がニールを指す。
「おまえが屋敷の入り口を閉ざすからだ!」
するとニールも言い返す。
「俺たちのせいにするのか!? おまえらだって、体力がないからってちんたら歩いてたじゃねぇか!」
「ちょ、ちょっと、こんなところで争ってなんになるんですか!」
アルフォンスは、慌てて対立しだした町の者たちの間に入る。
しかし、水の中を歩いた疲労と行き詰まった恐怖が、町の者たちの不満を爆発させていた。
「そうだそうだ!」
「てめぇら、すぐに俺たちをバカにしやがって!」
「そっちこそどこか別の抜け道を知ってるんじゃないのか!?」
「教えろ!」
揉みあい始めた男たちの間で、いくつものランプが水の中に落ち、ジュッと音を立てて消えていった。
「?」
ランプが消える直前、水面が強く照らされる。
そこにリーフは白いものを見つけた。
「……これ」
リーフはそれを手に取る。
「僕の作っている花だ」
どこから入ってきたのだろう、と疑問が湧くと同時に、リーフは勢いよく上を向いた。
するとまた、暗い天井から花びらが降ってきた。
「みんな!」
リーフは叫ぶ。
「ランプ! 持っているランプを消して!」
「な、なんだ?」
滅多に大声を出さないリーフが叫んだことに驚いて、言い合いをしていた町の者はしんとなる。
「早くランプを消してってば!」
近くの男が持っていたランプを奪うと、リーフは火を消す。
「真っ暗になっちまうだろうが!」
「ならないんだよ! いいから早く!」
その勢いに気圧されて、一人、また一人と町の者はランプを消す。
最後のランプが消えたとき、空間に一筋の光が差し込んだ。
「なんだ、あの光は……?」
「月明かりだよ!」
リーフはみんなを振り返る。
「上に穴が開いてるんだ!!」
「そうか。崩れたせいで穴が開いたのか! ここをのぼれば崖の上に行ける!」
天井まで続いている斜面を見上げて、アルフォンスも言う。
だが、町の者たちは顔を見合わせ、誰一人としてのぼろうとしなかった。水を吸って濡れている急な斜面を登るのが楽ではないことを知っているのだ。
しかし、リーフは躊躇わなかった。
「行こうよ! 確かに大変かもしれないけれど、みんなで力を合わせれば、のぼれないことはないんだよ!」
「……」
一番めに動いたのはニールだった。
ニールは斜面の一部に足をかけると、後ろを向いて手を伸ばした。
「来い、ケット」
足を痛め、水の中なのにも構わず、一人で座り込んでいたケットに差し出された手。
「俺が支えてやる。さあ、一緒に登るぞ」
「ニールさん……」
アルフォンスが驚いていると、ニールは、ふん、と言った。
「思いやり、だろ?」
ぶっきらぼうだが、ケットの身体を支えようとする手は優しかった。
「……ちっ。確かに力を合わせなきゃ登れねーよ」
別の男がイヴァンスのそばに行く。
「あんたは俺が支える。登ろうぜ」
その男はイヴァンスの胸ぐらを掴んでいた男だった。
「俺は、こいつらをおぶう。おい、おまえも力をかせ」
別の男は子供を背負い、下流に住む男に声をかける。
別の者も、レストランの女性を。
またある者はケガした警備員を。
ウィスタリアの者たちは今、手に手を取り合って、斜面を登り始めていた。
「リーフ、ボクたちも行こう!」
「はい!」
アルフォンスに促され、リーフは浮かんだ涙を振り払うと、大きく返事をした。
斜面は想像以上に急だった。
湿った土は両手を汚し、脆い足場はすぐにでも崩れそうだった。
それでも町の者は、互いに支え合いながらゆっくりと登っていく。
「うわぁっ!」
リーフのすぐ上を登っていた子供が滑った。
一番下でみんなを励ましながら登っていたリーフは、すぐに子供に手を伸ばす。
「危ない!」
滑り落ちそうになる子供を支え、しっかりと斜面に手を着かせる。
しかし、今度は逆にリーフの足下が滑るように崩れた。
「あっ!」
「リーフ!」
気がついた誰かが叫んだが、リーフは転がるように落ちようとしていた。
「おっと!」
リーフを支えたのは、エドワードだった。
「……エドワードさん……!?」
「気をつけなさいよ、リーフ」
すぐ横にはルビィもいた。
水門を閉じたエドワードとルビィが、みんなに追いついたのだった。
「兄さん!」
少し離れたところを登っていたアルフォンスに笑顔を見せると、エドワードも上へと向かう。
「もう少しだ。頑張ろうな」
「はい」
月明かりが差し込む出口は、もうすぐそこだった。
崖の上に広がる花たちは、月明かりに照らされ、より一層白く輝いていた。
脱出を果たしたみんなの前に広がる花畑。
その反対側の崖の上では、近くの支部から来た軍が、宝石を抱えて逃げようとする強盗たちを取り押さえている。
連行される者たちの中に、見慣れた銀髪の男がいた。
なにもかもを察したのか、ウィスタリアの者たちは誰一人として喋《しゃべ》らなかった。
ただ、自分たちが尊敬し、一生ついていこうとまで思っていた男が、連れて行かれるのをじっと見送っていた。
風が吹き、花びらが舞い上がる。
白い花びらが、破壊されたウィスタリアに降っていった。
「……大丈夫よ」
そう言ったのは、ルビィだった。
「大丈夫。何度だってやり直せるわ」
力強く、繰り返す。
「みんなで力を合わせれば、なんてことないわ……!」
「ルビィ……」
リーフがそっとルビィの手を握った。
ルビィはその手をしっかりと握り返す。
信じた者を失い、住んでた町も壊れたが、一人ではないのだ。
東の空が徐々に明るくなっていき、夜が明け、朝がやってくる。
ルビィとリーフは崖下のウィスタリアから顔を上げた。
ニール、イヴァンス、そして全員が朝日を迎えようと顔を上げる。
その顔には悲しみや憤りが浮かびながらも、もう一度やり直そうとする決意に溢れていた。
見返りだけを求め、対立し合い、ときにつぶし合っていた町の者たちは、形の見えない思いやりや、助け合うことで力を合わせられることを知ったのだ。
もう、彼らに等価交換の法など必要なかった。
「良かったね、兄さん」
「ああ……!」
やがて差し込んできた眩しい朝の光が、ウィスタリアの者たちを一人も余すことなく照らしだした。
「じゃあ、お気をつけて」
「ああ」
すっかり夜が明け、青空が広がる崖の上で、エドワードとアルフォンスは次の旅に出発しようとしていた。
「ルビィもリーフも大変だろうけど頑張ってね」
「ええ、平気よ」
見送りに来ていたルビィはリーフと共に町を見下ろす。
そこではニールがほかの者たちと消火活動したり、イヴァンスがケガ人を手当てしたり、他の者も壊された家屋の瓦礫を片づけたりと、忙しく働いていた。
「しばらくは忙しくて、落ち込む暇なんてないわ。人も減るだろうしね。でも頑張るわ」
「減るって? なんでだよ?」
「軍に追われていた人たちは、自首して罪を償ってくるらしいです」
「そうなんだ……」
「でも刑期を終えたらまた戻ってくるって」
それもまた一つの選択なのだろう。
レイゲンの呪縛から放たれた者たちは、一つの意見だけに偏ることなく、それぞれが考え、道を選択しているのだ。
「本当にありがとう、あなたに会えてよかったわ」
ルビィがアルフォンスを見て微笑んだ。
「きっとまた遊びに来てね、アルフォンス」
「うん。今度こそ、みんなが笑える町を作ってね。絶対見に来るから」
「ええ。そのときは、たっくさんおもてなしさせてね、アルフォンス」
「……だから、アルだけを強調すんな!」
アルフォンスだけ連呼するルビィを、エドワードが睨む。
「あら、あんたも来たいの?」
「はっ! だーれが、てめえみたいな素直じゃないヤツに会いに来るかよ」
「なによ、素直じゃないのはそっちでしょ! 弟を取られたみたいで、ずっと私に焼きもち焼いてつっかかってたくせに!」
「やきも……っ!?……誰が焼くか!」
「なんか、エドワードさんとルビィって似てるね」
笑いながら見ていたリーフがそう言うと、エドワードとルビィは同時に叫んだ。
「冗談っ!」
「まあまあまあ」
絶えない言い争いを、アルフォンスが止める。
「一回くらい仲良くしてよ」
「やだね! アル、行くぞ!」
エドワードは、フン、とそっぽを向いて歩きだす。
「じゃあね、ルビィ、リーフ」
もう一度ちゃんと挨拶をして、アルフォンスはエドワードに続こうと足を踏み出す。
「アルフォンス」
「え」
チュ、と小さな音がした。
「婚約者の役、必要になったらいつでも言ってね」
伸び上がったルビィが、アルフォンスの頬に唇を当てたまま、囁いた。
「え、ええええっ!?」
慌てて頬を押さえながら後ろに下がるアルフォンスの前で、ルビィは満開の花のような、とびきりの笑顔を見せた。
「いつでも、待ってるわ」
「ル、ルビィ!?」
驚いたアルフォンスは声が裏返ってしまった。
感覚のないはずの頬が妙に熱く感じる。
どうすればいいのか、なにを言えばいいのか、と慌てるアルフォンスを、なにも知らないエドワードが後ろから呼んだ。
「アル、なにしてんだー! 行くぞー!」
「あ、い、今行くよっ! えっと……えっと……じゃ、ボク、行くねっ」
「ええ」
「気をつけて」
アルフォンスはもう一度ルビィとリーフに手を振ると、エドワードを追って走っていった。
妙に落ちつきなく歩くアルフォンスをエドワードは不思議そうに見る。
「なに話してたんだ?」
「べ、べつに」
荒野を歩く二人の後ろから、大きなルビィの声がした。
「アルフォンス、エドワード、本当にありがとうー!!」
一瞬驚いたエドワードは、すぐに笑うと、前を向いたまま手を振った。
それから二週間後。
「大佐、お電話です」
東方司令部で会議中だったロイは、フュリーに呼ばれ顔をしかめた。
「会議中だ、あとにしてくれ」
「ニューオプティンのハクロ将軍からです」
「……」
うげ、という顔をして、ロイは席を立つ。
「私が戻るまで、今のところの資料を読んでおくように」
指示をして、ロイは近くの電話に向かう。
「まさかまたなにか仕事を回してくるのか? いや、でも先日のウィスタリアの件で少しは株が上がったはずなんだが……」
ロイは首を傾げながら、電話を取る。
「お待たせしました」
「マスタング大佐、先日はご苦労」
「いえ」
もしかしてねぎらいの電話か、と思うロイに、ハクロは淡々とした口調で続けた。
「提出してもらった視察のレポートだがね。大体はきちんと出来ていた、参考になるものもたくさんあった」
ハクロが誉めたそれらの多くは、ハボックや、ブレダが書いたものである。
ロイも目を通したので、その出来のよさは分かっていた。
「だが一枚、問題があった」
ロイはそれがすぐにエドワードの書いたものだと分かる。
しかしロイは動揺しなかった。
エドワードのレポートはもともとたいした出来になるとは思っていなかった。
だが、出来が悪くても適当に言いつくろえる自信があったから頼んだのである。
しかも、ウィスタリアは事件が起きて、実際に自分も関わったので、今やロイ自身が詳しく知っていた。
「申し訳ありません。ウィスタリアの件ですね?」
「そうだ」
「あの時は事件があったものですから、うまく書けなかったもので……」
「そのようだな」
「ええと、どの部分がまずかったでしょうか? 町の財源についての部分でしょうか? それとも今までの警備のあり方について……」
長所、短所ともに必ず書かれてあろう内容を聞いてみる。
多少ズレていても、漠然と言えばどれかに当たるものだ。
だが、ハクロは指摘どころか、聞き返してきた。
「……どこ? 君は一体なにを言ってるんだ?」
「は?」
「なにを書いたのかも忘れたのかね? 君が書いた内容はこうだ。ウィスタリアの報告、今後に乞うご期待!……それだけだ」
「……」
「これは君が書いたものだ。違うかね?」
違う、とは言えなかった。
言ったら代理人を立てたことがバレる。
そうです、とも言えなかった。
言ったら幼稚な文を書いたことで今後の評価に響く。
「マスタング大佐?……これは一体なんなんだ? 聞いているかね?」
どう答えようか迷うロイに、ハクロの容赦ない追及が待っていた。
完