◆小説 鋼の錬金術師 1巻収録短編「第十三倉庫の怪」
原作:荒川 弘 著者:井上 真
陽射しが一番高い所にさしかかろうとしている、正午前。
場所は東方司令部司令官室。
「第十三倉庫?」
額にかかる黒髪の下で、漆黒の瞳が不思議そうに瞬いた。彼の名は、ロイ・マスタング。地位は大佐。『焔の錬金術師』という称号も持つ、東方司令部司令官である。
書類から視線を上げたその先で、煙草をくわえてうなずいているのは、ハボック少尉だ。
「……なんのことだ? 東方司令部には第十二倉庫までしかない」
ロイはチラリと窓を見る。そこからは敷地内の倉庫が一望できた。その数は十二棟。
だが、ハボックは指を一本立てる。
「プラスもう一棟あるんだそうですよ。つまり、十三番目の倉庫が」
興味あります? と彼は続けた。
ハボックは、一目見てクセがありそうだな、と思わせる雰囲気を醸し出している男だ。仕事は出来るし手際もいいが、態度はあまり良くない。上官の前だろうと緊急時だろうと煙草をくわえっぱなしで、一部で反感を買ったりもしているらしい。そんなことを気にする様子を見せないのがまた、態度が悪い、ということになるのだが、本人は相変わらず流れに身をまかせるような態度で日々を過ごしている。
そして上官のロイは、珍しくコーヒーを淹れてきてくれたハボックが、ちゃっかりと自分の分のコーヒーも持参してそのまま椅子に腰掛け、煙草をくわえても、なにも言わない理解ある上官だ。――といえば聞こえはいいが、ようはロイ自身も問題ある言動をしているので、そんなことを注意していたら自分の首を締めることになりかねない、ということらしい。
「……十三番目の倉庫があったとして、そこに問題があるのか?」
またなにか下らない話題でも持って来たな、とロイの表情が語っている。ハボックの方も、その下らない話題を口実に仕事をさぼろうとする上官のことは分かっているので、急ぎもせずにコーヒーをすすっている。
「問題は大有りっスね」
「なんの問題があると言うんだ?」
「つまりですね。夜中にこの第十三倉庫の前を通ると、誰かのすすり泣く声と、土を掘る音が聞こえる……ってやつです」
「なんだ、怪談か」
途端、思い切りつまならそうな顔をして、ロイは再び書類に向かった。
「あれ、大佐はこの手の話はお嫌いで?」
ハボックの口調にあるからかいを感じ取って、ロイは軽く睨む。
「怖い、とかじゃないぞ」
「ああ、なんだ……残念」
上官の弱点発見にはならず、少々落胆するハボックである。
「なにが、残念、だ」
ロイは立ち上がると窓辺に近寄る。
「そもそも錬金術師は科学者だ。理論的な思考で物事を見ようとするからな。それ以前に私は怪談などに興味はないし」
「はあ。俺なんか怖いもの見たさって奴で、わりと興味ありますが」
「その、怖いもの、も正体は大したことなかったりするのさ」
ロイは、ハボックを手招きする。
「見ろ、第十三倉庫の正体はあれだろう」
窓からは、並ぶ倉庫の側面が見えた。それが十二棟並んだ先に、今度は正面を向いた倉庫が三つ並んでいる。そこに書かれているのは、A・B・Cのアルファベット。
「アルファベットの倉庫は、三つ合わせても数字の倉庫一個分しかない。月のない夜には影しか見えないからな。もう一棟数字の倉庫があるように見えるんだろう。丁度真ん中にある字は、Bだ」
「あ、なるほど」
ハボックはポンと手を打つ。
「Bを分けると、1と3にも見えますね」
「すすり泣きも風の音かなにかだろう」
暗い夜と恐怖心と思い込み。これだけ揃えば、見上げた”B”の文字が”13”に見えても仕方がない。
「ま、例え第十三倉庫が本当にあったとしても、怖がらなければなんてことない。強い精神を持ってすれば、幽霊だってどこかへ行ってしまうさ。勝手に軍の敷地内に侵入したことをとがめるくらいの気持ちで接しないとな。怖いと思っているからいかんのだ」
キリリとした表情を見せて、上官らしいことを言うロイに、ハボックはふむふむとうなずく。
「さすがですねぇ」
「恐怖心を持って物事を見れば、恐怖を感じるものを想像するものだ。大体そんな怪談を信じて言いふらしているのは誰なんだ? そんな弱気なことじゃ生身の人間相手の軍など勤まらん。幽霊の正体見たり枯れ尾花ってことを教えてやらねばな」
「ぜひ頼みますよ。皆ビビっちゃってて。……あ、そろそろお昼にしましょうか」
「もうそんな時間か」
息抜きが終われば、次は昼食タイム。こんな仕事っぷりを知れば怒るであろうホークアイ中尉は、今は外出中だ。でなければこんな話題で時間をつぶすことなどできはしない。
二人は、皆が集まっている大きな部屋へと向かった。
緊急事態もなく、急ぐ仕事があるでもなく、皆で同時刻に御飯を食べられるような、穏やかな昼下がり。廊下の途中で見えてくる中庭では、黒と白の毛並みを持つ犬が走っていた。
「あ、今日もホークアイ中尉の犬が来てるんですね」
ハボックが廊下の窓から庭を見下ろす。まだ成犬にならない犬は、一人で楽しそうに木切れと遊んでいた。
その犬は、フュリーが寮住まいで飼えないのにも関わらず拾ってきてしまった犬だった。それを注意したのはホークアイだが、適切な飼い主が見つからず、また捨ててくるしかなくなった時に引き取ってくれたのもホークアイだった。うちのしつけは厳しいわよ、と微笑みながら犬を抱いてくれた彼女の優しさに、フュリーが感動して涙を流したのは、少し前の話だ。
もっとも一部では、滅多に見られないホークアイの笑顔に感涙したのでは、という説が有力だったが。
「すっかりここに馴染みましたね」
「フュリー曹長が、週に一度は会いたいと言っているし、いずれ軍用犬を育てるノウハウを学びたいからそのためにも犬と過ごしたい、と言うからな」
飼い主のホークアイは、公私混同になると言って、司令部に連れてくるのを反対していたが、ロイが構わないと言ってからは、仕事に差し支えない時には時折連れてくるようになった。ホークアイが早番の時も遅番の時も泊り込みの時も、敷地内では放し飼い状態である。
「まあ、番犬にもなっていいだろう」
ロイは、その飼い主探しの際、適切な飼い主にはなれないと判断された一人だ。
「無邪気で可愛いっスねぇ」
目を細めて見守るハボックも、適切でない飼い主其の二である。冗談で『食うと美味い』と言っただけなのだが、本気としか思えない表情で言ったために信用されなかった。いまやフュリーは、犬とハボックを二人きりにしないよう目を光らせている。
「……腹減ったなぁ。早く飯にしましょう」
犬を見たから腹が減ったのか。昼食時だから腹が減ったのか。フュリーが聞いたら前者であると想像して犬を抱えて数キロ先まで逃げそうだ。ハボックのこういったセリフのタイミングの悪さが、周りに誤解を与えていることは間違いなさそうだった。
犬は、拾われた時より身体も大きくなって、一番はしゃぎたい頃である。中庭を楽しそうにぐるぐる走っていた。
「……どうです? 絶対服従の意思疎通に長けた犬になりました?」
ハボックはふと聞いてみる。
「いや、まだだな。『お手』だけは、言わずとも足を出すようにはなったが」
ロイが無言で犬に向かって掌を差し出し、犬はその意図を掴めず困惑する、という姿は幾度も目撃されている。ロイいわく『絶対服従で、文句も言わずに働く犬が大好き』ということらしいが、どうにも歪んだ愛情である。これが原因で飼い主候補から外れたのだ。
どうやら犬を連れてきても良いと許可したのも、この野望があるためらしい。
「私のかわりに、書類にサインを書けるようになるにはまだまだだな」
そんなことを言っている。
「一生そんな時は来ませんよ」
ロイの野望をあっさり粉砕してから、ハボックは大部屋へと入っていった。
ノブをがちゃりと回し、扉を開ける。
そしていきなり、爽やかな大声でこう言った。
「みんな、喜べ! 今夜の作戦に、大佐が参加してくださるそうだ」
ハボックは部屋に一歩先に入り、扉を押さえてロイを促した。
「どうぞ、大佐」
「え? なんなんだ?」
いきなりの展開に、ロイは現状を掴めない。だが、部屋の中では昼食のパンやコップを片手に、皆が期待を込めてロイを見つめていた。
「ああ、大佐が一緒なら幽霊も怖くないですな」
ホッとしたように言ったのは、ファルマン准尉だ。痩せ気味の長身で、細い目をロイに向けている。
「頼もしいですね。人は一人でも多いほうがいい」
そう言うのは、ブレダ少尉。ファルマンと正反対で、がっしりした体つきをしていて、ロイなどいなくても、彼一人で十分頼もしいと思われるような人物だ。
「ああ、大佐〜。本当に早くなんとかしてください〜。僕、怖くて夜歩けませんよぅ〜」
最後に、半泣きでロイの軍服の袖を握り締めてきたのは、フュリー曹長だった。短い黒髪にメガネをかけた真面目そうな青年だ。童顔な顔つきは少年にも見える。
ロイには一体なにがどうなっているのか、さっぱり分からなかった。掴まれた袖を取り戻そうとしながら、ハボックに聞く。
「……な、なんのことだ? 今夜の作戦というのは?」
するとハボックは、ニコニコしながら答えた。
「なにを言ってるんです。さっきお話したでしょう? 東方司令部の怪談話。それの真相解明のために、大佐自ら指揮を取ってくれると、仰ったじゃないですか」
「え?」
確かにロイは、幽霊の正体は恐怖からくる思い込みだということを教えてやる、と言った。だがそれは話の流れであって、それをどう捻じ曲げれば真相解明の作戦指揮官を引き受けたことになるのか、さっぱり分からない。
「……確かに、私は噂に振り回される者に真実を教えるとは言ったが、作戦など聞いていないぞ」
「え? 僕たちを助けてくれるんじゃないんですか?」
フュリー曹長が、心配そうにロイを見上げる。すがるようなその目に、ロイは困ってしまった。
「いや、その、助けるとかじゃなく、その作戦っていうのがなんなのか……」
下手に承知して巻き込まれるのだけは避けたいロイである。だが、ハボックは優しい声でフュリーに言った。
「フュリー曹長、大丈夫だよ。この人は素直じゃないだけだから」
にっこり笑うその頬を、ロイは遠慮なくつねった。
「素直じゃないのはお前だ! 暇つぶしに怪談話を持ってきたものだとばかり思っていたのに……」
するとハボックは大仰に手を広げて、心外な、という顔をする。
「なにを言ってるんです。ボカァ、いつだって人生を真剣に生きてます。暇つぶしなんてとんでもない」
「この嘘つきが!」
罵るロイだが効果はない。ハボックは、ロイに椅子をすすめて敷地内の地図を開きだした。
「では隊長、作戦の確認をしましょう」
「誰が隊長だっ。そもそも作戦ってなんなんだ!」
「幽霊現象の真相解明作戦ですよ。俺らは作戦実行隊」
ハボックは自らを指差す。次にその指をロイに向け、
「そして、大佐は実行隊隊長」
と言う。ロイがその手を叩き落とす横で、ブレダが地図上の倉庫を指でなぞっていた。
「これが数字倉庫。第一から第十二棟まであるが、もう一つ……」
ブレダが見えない倉庫を数え終わる前に、ロイがその奥の英字倉庫を示す。
「それはこのB倉庫だ。ハイ、解明終わり! 作戦終了!」
それだけ言って立ち上がろうとする。が、その肩はハボックにがっちりと掴まれた。
「逃がしませんよ、大佐。この話、マジで怖いんでなんとかして欲しいんですよ」
「一人でも多くの集団で行きたいだけだろうが」
「あたりまえじゃないですか。いくら怪談話が面白くても、現場に行くのは誰だって嫌なもんです。一人でも多くいた方がいい。一蓮托生ですよ」
ハボックの口調はいつもと一緒だったが、眼は真剣だった。半泣きのフュリーといい、心なしか顔色の悪いブレダやファルマンの様子に、ロイはこの話題を適当に流すことができないのを悟った。まんまと巻き込まれたのは悔しいが仕方がない。
「……初めからきちんと話せ」
ロイは諦めて、椅子に座り直した。
東方司令部に怪談が流れ出したのは、一ヶ月ほど前からだ。
初めにその話を聞いたのはファルマンだった。町へ見回りと買出しを兼ねて出かけたファルマンに、町の人が言ったのだ。
「最近、東方司令部は夜も忙しいみたいだね」
ご苦労さま、という意味を込められたその言葉を、ファルマンは気にも止めなかった。だが、五分もしないうちに別の人にも同じことを言われた。聞けば、土を掘るような音が聞こえたためになにか作業をやっているのかと思ったらしい。
一週間もすると、話はもっと膨らんでいた。
「音からして土を掘っているのは一人だ」
「夜中に一人で掘るなんて怪しい」
「軍の人は、そんな夜中に作業はしてないと言っている」
「一般人は敷地に入れない」
「では、幽霊じゃないか?」
「そういえばあの敷地は、昔は処刑場だったとか……」
「東方司令部に幽霊が出るらしい」
「幽霊は、夜な夜なうろついては引き連れたい魂を探している……」
噂は拡大する一方だった。
そこまで聞いてロイは呆れた。
「馬鹿馬鹿しい。ただ噂に尾ひれがついて話が大きくなっただけじゃないか」
が、皆は黙ったままだ。
「? どうした?」
ハボックとブレダが、フュリーとファルマンを見た。どことなく青い顔をしたファルマンとフュリーはうつむいている。
ロイは嫌な予感がした。
「……まさか、その音を聞いたのか?」
二人がうなずいた。沈黙を破ってファルマンが話し出す。
「……寮との行き帰りに倉庫裏の道を通るんです。先日、夜中に当番を交代して帰る時そこを通りました。噂を聞いていたものですから、壁越しではありましたが倉庫の方を気にして歩いていたんです。そしたら……」
「……聞こえたんだな」
「ザッザッと土を掘るような音が、確かに」
「……フュリー曹長も聞いたのか?」
「はい。夜中に寮へ帰ろうとしたら聞こえて……。しかも……」
フュリーの声が震える。その腕は鳥肌になっていた。
「なにか泣くような声まで……」
そこまで言って、ギュッと目をつぶる。思い出すのも嫌なようだ。
「泣き声、ねぇ……」
ロイは、やはり聞き間違いではないかと言いたかった。だが部下の訴えを頭ごなしに否定するわけにもいかない。
「……で、いま町での噂はどこまで大きくなってるんだ?」
「東方司令部には、幻の十三倉庫があって、昔そこで死んだ女性がいる、と。倉庫はそれをきっかけに潰され、幽霊である彼女は倉庫と共にバラバラになった自分の骨を探しては一箇所にまとめて埋めている……ってとこです」
「凄い飛躍だな」
半ば感心するロイに、フュリーがすがる。
「お願いです! なんとかしてください。寮との行き帰りが怖いんです〜」
フュリーを突き飛ばすわけにもいかず、くっつかれたままのロイに、ブレダは聞いてみた。
「実際に昔、第十三倉庫なんてあったんですか?」
「いや、私は知らないな。だが、英字の倉庫の方が先に出来ていたとは聞いたぞ。数字倉庫は、内乱の時に色々と必要で一気に建てたらしい。英字倉庫と第十二倉庫の間には、もう一つ倉庫が建つような面積はないぞ」
「じゃあ、十三倉庫の話は、本当にB倉庫のことかもしれないっスね」
「そうだな。それより、土を掘ったり泣いたりってのは……。誰か確かめに行ったのか」
「だから行くんじゃないですか、今夜。えっと……大佐は夕方上がりですね。残業でもして時間を潰しててください」
ハボックはすでに勤務表をチェックしている。
「夜に? 本当に夜に行くのか?」
さっきまでは、幽霊なんていやしないと余裕だったロイも、ファルマンとフュリーの話を聞いて、さすがに引き気味である。
「今行けばいいじゃないか」
「幽霊は夜に出るんですから、夜に行かなきゃダメじゃないですか。午前一時に作戦を開始。作戦名は東方司令部の心霊現象解明作戦」
「待て。勤務時間中にそんなことしていたと知られたら怒られるぞ」
誰に、とは言わなかったが、ハボックは分かったらしい。
「ホークアイ中尉は今日、夕方で上がりです」
勤務表でしっかり確認している。
「だがなぁ……」
怖くはなくても、噂の本場に行くのは誰だって嫌である。プラス、面倒くさい。
「夜中の一時なんてなぁ……。泣き声だって、倉庫の近くにある資材かなにかが風に鳴っているだけだろう」
ロイは渋る。しかしハボックは譲らなかった。
「大佐、可愛い部下が怖がってるんスよ? 見捨てるつもりですか?」
「可愛いって誰のことだ? たんに私を巻き込みたいだけだろうが」
「俺だって嫌ですけど、フュリー曹長に泣かれたから、勇気出したんですよ」
「俺もそうです」
「同じく。土を掘る音まで聞いちゃったし」
フュリーはよほど怖かったのだろう。全員に泣いて訴えたようだ。今はロイを見つめ、瞳に涙を溜めている。
「……うう……見捨てないでくださいよぅ。本当に怖いのにィィ」
だから行きたくないのだ。ロイは、どう断ろうか思案する。だが、数秒後。
「大佐ぁぁ!」
「わっ! そんなにくっついてくるなって!」
皆と同じく、ロイも泣き落とされる羽目になったのであった。
午前一時前。
ロイは、残業と称した時間潰しを終えて、大部屋へ続く廊下を歩いていた。当直のファルマンとハボックは仕事。フュリーとブレダは、ロイと同じようにどこかで時間を潰しているだろう。
「面倒くさいな……」
ロイは行きたくないが、それで皆の気が済むならそれでいいだろうと半ば諦めながら、昼間の様子を思い出す。
フュリーは、泣き声まで聞いたとあって相当怖がっており、ロイを頼りにしている。本来なら寮に帰りたいのだろうが、帰り道は怖いし、問題解決を言い出したのは自分なので、仕方なく参加しているらしい。だが怖さだけはどうしようもないので、ホークアイに頼み込んで犬を置いていってもらったようだ。時間になるまで犬にしがみついているだろう。ファルマンもなるべくなら解決を望んでいるだろう。彼も幽霊が骨を埋めているという音を聞いているのだ。ブレダは『話のネタに』程度に参加するらしい。ハボックにいたっては、怖いと言いつつ、遊びのノリで皆と騒ぎたいのも本音だろう。
「……放っておけば士気に関わるし、仕方ないか」
ついでに言えば、こんな噂が知れたら大本営から一番偉い人がやってくる。騒ぎすぎ、と注意勧告ですめばいいが、その人物は注意をしないかわりに、東方司令部を心霊スポットの観光名所として娯楽施設にしかねない性格の持ち主だ。そんな騒がしい仕事場で働きたくはない。ならばさっさと問題解決して平穏な司令部に戻した方がいい。その偉い人は、後々こんなことがあったと知っても面白半分にやってくるであろうから、今夜の調査に自分が参加して、話が大きくなる前に秘密に終わらせるのが一番良かった。
「中間管理職って辛いよな……」
ぶつぶつ言いながら、部屋の前に立つ。今夜の事件が大総統の耳に入らぬよう、素早く、秘密裏に行おう、と決意しノブを掴む。
だが、ロイは、そこにあるものに気づいて目を剥いた。
「……なんだ、これはっ」
秘密裏に、というロイの心情を無視する垂れ幕が、扉の横に貼ってあった。そこには『東方司令部心霊対策本部』とでかでかと書かれていた。
「こんなものを貼るなっ! 誰に見られるか分からないだろうっ」
剥がした紙を掴んで部屋に入る。
「ありゃ、せっかく書いたのに」
ハボックが残念そうに、投げつけられた紙を受け取った。
「余計なことはせんでいい!」
「まあまあ。ご愛嬌ってことで」
怒るロイを宥めるハボックの横では、ブレダとファルマンが、いそいそとパンを包んでいる。
「これで、フュリー曹長が来れば揃いますね。……あと、二個包めばいいか」
「ソーセージも挟まないとな」
「お前たち……。なぜ弁当など用意しているんだ!」
「せっかくの肝試し大会ですよ。楽しまないと」
ハボックが悪びれもせず答える。
「はい、大佐の分」
横からブレダが、包みを差し出す。だが、受け取るロイの手は震えていた。
「……私はな、皆が怖いと言うし、東方司令部を観光地にしないためにも協力しようと思って来たんだぞ。上層部に馬鹿げた調査をしたことが知られて、皆の給料が下がらないよう心配だってしているのに……なんで、肝試し大会になってるんだ!」
「いや、まあ、フュリー曹長があまりに怖がってるんで、明るくしようとしてるだけですよ。あ、パンはもう一ついります?」
ハボックは、さらにパンを包もうとする。
「倉庫に行くだけだ! 弁当などいらん!」
すると、ハボックは片手で目を覆った。
「うう……、俺たちだって、可愛い後輩が恐怖に怯える姿を見て心を痛めてるんですよ。少しでも怖がらないよう、気を遣うのが先輩ってもんじゃないですか」
「嘘泣きするな!」
「あ、バレました?」
ロイとハボックが不毛なやり取りをしている間に、やっとフュリーがやってきた。
「……」
騒がしい部屋の様子にコメントすることなく、無言のまま入ってくる姿はまるで死刑宣告を受けた囚人のように暗い。行きたくない、と全身が語っていた。その怯えっぷりは、昼の状態よりもさらに深刻になっている。
「ホラ、弁当を作ってやったぞ。きっとなんでもないから気楽に行こう」
ファルマンが、元気づけるように包みを渡す。
「ありがとうございます……」
最後の晩餐だとでも思っているのだろうか。ぎゅっと握り締め、抱え込む。
「……僕、逃げ出すようなことはしたくないです。でも、怖くてたまらないんです……」
震えるフュリーに、今度はブレダが力づけるように声をかける。
「幽霊なんていやしないさ。俺たちがいるから安心しろ。ずっと傍についててやっから」
「……ブレダ少尉」
フュリーの目に涙が溢れる。
「ありがとうございます〜〜〜〜っ」
「わーっ、よせっ! 犬を触った手でこっちに来るなッ」
ブレダは、そばについているどころか部屋の隅まで逃げて行った。彼は心霊現象よりも犬が怖いのであった。
ロイも、フュリーの肩をポンポンと叩く。
「フュリー曹長、そんなに怯えるな。確かめればなんでもないことが分かってスッキリする。木材かなにかが風でぶつかって、泣き声みたいに聞こえるだけだ。幽霊なんていない」
「大佐……優しいお言葉ありがとうございますぅぅ」
幽霊はいない、と言われたことでフュリーは少しだけ元気を取り戻す。
「さあ、行くか」
ハボックは時間を確認すると立ち上がり、意気揚揚と言った。
「本物の幽霊とついにご対面、ってな」
その言葉に、フュリーの元気があっという間に消えていった。
ハボック少尉。つくづくタイミングの悪い言葉を吐く男であった。
外への扉を開けると、昼間の暖かさが嘘のように、強く冷たい風が皆の頬を撫でた。
「……嫌な天気だ」
ロイは呟く。月は完全に隠れてしまっていて、空はどんより黒かった。司令官室から見下ろした倉庫が、今度は見上げる形で正面にある。
「行きましょう」
ファルマンが、後ろでガチャン、と扉を閉めた。皆の足元に落ちていた光が消え、闇がいっそう濃くなる。
明るい話題でもしながら、さっと行って、ちゃっと調べて終わらせよう……、皆、そう考えていた。だが、いざその場に立つと、足を進めたくなくなる。なんとなく身を寄せ合った皆は、階段を降り、石畳を踏み、倉庫への舗装されていない道へと歩いていった。
「……押すな、ハボック少尉!」
背中を押され、先頭を歩かせられるロイが振り向く。
「いや、上官より先に歩くわけにはいかないでしょ」
ハボックはロイを盾にするようにして歩いている。そのハボックの腕を掴むフュリーは前さえ見ていない。
「怖い〜怖い〜」
「怖いと思うから怖いのです。怖くないと思えば怖くないのです」
ファルマンは、冷静な口調で心理分析しながらも、ロイの背中の後ろに隠れている。
「なんか陽気な歌うたいましょうや」
ブレダが明るく提案する。
全員が、己の中にじんわりと染み出てきた恐怖心を隠そうとしていた時だった。
「ぎゃっ!」
ブレダが短く悲鳴を上げたものだから、皆は心底驚いた。
「ぎゃーっ!」
「なんだよ、なんだよ」
「わああっ」
「な、なに? なにかいるのですかっ」
「落ち着け、落ち着けって! いてっ! 誰だ、足を踏んだのはっ」
一人が悲鳴を上げれば、全員が動揺し、悲鳴を上げてしまう恐るべき集団恐怖心理。歩き出してまだ数分なのに、すでに恐怖が蔓延していた。唯一、一番上官である責任感で皆を落ち着かせたのはロイである。ブレダの悲鳴に驚きはしたが、それより足を踏まれたのが痛かったらしい。足の主を確認し、顔をしかめながら怒鳴る。
「ハボック少尉! 足をどけろ!」
「あ、すみません」
「というか、なんでそんな不自然に足を伸ばしているんだっ」
「いえ、偶然っスよ」
「なんだったんですか、一体〜〜」
「ブレダ少尉、なにがあったんです?」
「うわああ、こっち来るなよぅ」
極まった恐怖が収まった中、ブレダだけは一人、いまだ恐怖に染まっていた。
「……犬、犬、犬〜〜〜〜〜っ!」
ブレダの足元で、ホークアイの犬が尻尾を振っていた。
「なんだ、犬か……」
ブレダ以外の全員が、ホッと息をつく。一番悲鳴をあげたフュリーは、犬の存在に笑顔さえ見せていた。
「どうしたんだ、お前。一緒についてきたいのか?」
犬の頭を撫で、キスまでする始末である。
「大佐、一緒に連れて行っていいで……」
言い終わらないうちに、ハボックとファルマンを盾にしたブレダが叫ぶ。
「ダメっ! 絶対にダメっ!」
「え、でも、置いてきぼりは寂しいって言ってるし……」
「勝手に犬の言葉を訳すなっ。とにかくダメ! ダメダメダメ!」
聞く耳を持たないとは、まさにこのことである。
「……フュリー曹長、犬は繋いできなさい」
ロイがそう指示すると、フュリーは悲しそうにしながらも犬をつないできた。
なんとか落ち着いて、再び皆は歩き出す。すると今度は後ろで犬が激しく吠え出した。夜気を震わすその声に、皆はまたもやギョッとする。犬は、ホークアイのしつけが行き届いていて、普段、無駄吠えすることはほとんどない。なのに今は、縛られた綱を力の限り引っ張りながら吼えていた。
「静かに!」
フュリーが振り向いて言うと、犬はやっと黙った。
「……吼えるなんて珍しいな。飯はやったか?」
ロイは、無理やり先頭を歩かせられながら、後ろを見る。犬は繋がれたまま、じっとこちらを見ていた。
「あげましたよ。それに、いつもはそんなことで吼えたりしないんですけど」
フュリーは心配そうに振り返っている。
「やっぱり寂しいのかも……」
「いや、今のはそうじゃないな」
否定したのはハボックだ。
「聞いたことないか? 犬には予知能力があるんだって」
「ああ、そういえば飼い主の危険を察知するっていいますね」
ファルマンはうなずく。ハボックが、そうだろう、そうだろう、とうなずいた。
「あれだな。これから先、きっとヤバイことが起こるんだ。フュリー曹長には懐いてたから、きっと危険を知らせようとしたんだろうよ」
「……」
「……」
どうして、この男は皆の恐怖を煽るのか。犬騒ぎで消えたはずの恐怖心が再び皆の胸中を満たしだした。
「……大丈夫ですよね?」
ファルマンは、ようやくさしかかった第一倉庫を見上げながら呟く。
「大丈夫だろ。犬の予感なんて当たらないさ」
ブレダは大嫌いな犬の言うことなど信じたくもないらしい。毅然と言い放つ。一方、フュリーは犬の言うことなら信じる派だ。震えながら前方を見ていた。
「犬が僕らのこの行動を止めていたのだとしたら……きっとあの先に……」
「……」
全員が無言になった。
倉庫は、彼らの歩く進行方向の左側に連なっている。右側には別の建物があり、その間は広い通りになっていた。そこを進んでいるのだが、先はあまりに暗かった。出てきた建物からの明かりも、そろそろ届かなくなるだろう。
フュリーから発せられた恐怖伝染は、袖を掴まれたロイにも、その後ろにいるハボックにも、ブレダにも、ファルマンにも伝染しはじめていた。全員で、くっつき合って、ずりずりと歩いている。広がる闇を前に、皆はさらにロイの背中に隠れようとしていた。
「なんで、私ばかりが先頭なんだ」
「上官優先ですので、どうぞお先に」
ハボックは優しく、だが強くロイの肩を掴んで前へと押している。
「まったく、こんな時だけ上下関係を持ち出すなんて……」
嫌がる部下たちを先に行かせるわけにもいかず、ロイは結局先頭を歩いている。どうやらハボックがロイを誘った理由はこれだったようだ。ロイがいなければ、自分かブレダが先頭を歩くことになるのだから。
第一倉庫を過ぎ、第二倉庫、そして第四倉庫の前を横切る頃になると、暗さに慣れた目でも先が見えなくなった。
「灯りを持ってきたか?」
「一応ありますが」
ファルマンが旧式のランプを用意し、ハボックが火をつける。暗い世界をオレンジ色の光が、ぼう、と照らし出した。
「……」
しばしの沈黙のあと、フュリーが呟いた。
「……なんだか、前より怖いんですけど」
ランプは箱型で、ガラスの仕切りがあるとはいえ、風が吹くたび中の炎が揺れる。オレンジ色が揺れる世界で、倉庫に映る全員の黒く大きな影が生き物のように蠢いていた。これでは明かりに安心するどころか恐怖倍増である。
「……仕方がないだろう。自分たちの影なんだ、気にするな」
気を取り直すロイの影が、強風と共にぐらりと歪む。
「そ、そうですよね」
「あ、ほら見てください。こうすれば、怖い影も楽しいです」
ファルマンが、ランプの前で両手を組んで、影絵を作る。
「ほら、可愛い犬ですよー」
ファルマンの手で作られた犬らしき影は、炎の揺れでぐにゃぐにゃと歪んでいた。
「……ファルマン准尉、アイデアはいいがそれは却下だ」
「あ、そうですか?」
倉庫の壁には、口が裂け、耳の取れかかった狼が映っていた。
「さっさと行こう。これじゃいつまでたっても辿りつかん」
「早く帰って暖かいコーヒーでも飲みましょうや」
「そうですね」
影が大きくのたうつように揺れるたび、ギクリと足を止めながらも、全員はなんとか第六倉庫までやってきた。
「この倉庫ってなにが入ってるんでしたっけ?」
ブレダはランプを掲げて、数字の『6』を確認しながらロイに聞く。
「ここは、今は使い道のない設備や机などが置いてあるはずだ。第一倉庫から順に、使用頻度が高い物や資料をしまっている。この第六倉庫から向こうはハッキリ言って管理されていない物置状態だろう。なにも入ってないかもしれない」
「見たことないんですか?」
「着任したばかりの時に一度見たきりだな」
「じゃあ、今はどうなってるか分からないんですね……」
普段なら大した意味のないこの言葉も、今は意味深長に聞こえて、全員は息を呑む。
「……どうします? 中から悲鳴とか聞こえてきたら?」
ブレダは、冗談として言いたかったようだが、怖がりながら言ったその声は暗く低くなってしまい、冗談には聞こえなかった。皆は倉庫から離れるように右側に寄ってしまう。
「……そういえば、空気が滞った場所には、霊が集まりやすいって聞きました。なにかいても不思議じゃないですね」
今度はファルマンが余計なことを言ってしまう。沈黙に耐えられないので、なにか喋りたいのだろうが、言った分だけ恐怖を煽る悪循環になっていた。
空気が滞った倉庫イコール霊がいる倉庫。そう思い込んでしまった皆の歩みは数分後には、牛歩並みとなっていて、これでは目的地に着くまでに風邪をひくのがオチであった。
ロイは溜息をついて、通り過ぎようとした第八倉庫に近寄った。
「……ついでだから、確かめよう。窓から覗けば少しは中が見えるだろう」
右側の建物に身体を擦り付けるようにしていた他の四人は、ぶんぶんと首を振る。
「や、やですよ!」
「大佐、やめましょうよぉ」
「やーだーよー!」
「やだやだ」
子供みたいに抵抗する四人の手を、ロイは無理やり引っ張る。
「第十三倉庫や土堀り音の真相を確かめても、今度はこの倉庫の中が気になってまた怖い思いするだけだぞ。気になることは今のうちに全て確かめてしまえばいい」
「いやですぅぅぅ」
「そんなこと言って、今後、倉庫に荷物を取りに行くのが嫌になったら、仕事にならんだろうが。その時に真相解明とか称してまた夜中につき合わされるのは私はごめんだ。さ、ハボック少尉、フュリー曹長を連れてこい。ファルマン准尉、逃げるなっ」
ロイに強制されて、全員で第八倉庫の前に並ぶ。倉庫の窓は、大人が背伸びして覗けるくらいの位置にあった。
「ハボック少尉、第六倉庫から台を持ってきてくれ」
メンバーの中ではそれほど怖がってなさそうなハボックに、ロイが頼む。だがハボックは即座に断った。
「嫌ですよっ」
どうやら、ハボックもかなり恐怖度が上がってきているらしい。
「一人で行くなんて絶対嫌です!」
頑として、首を縦に振らない。
「……仕方ないな。では私も行くから、ブレダ少尉たちはここで待って……」
すると今度は、三人がぶんぶんと首を振った。
「いやっ!」
「置いていかないでくださいっ!」
「行かないで、大佐ああ!」
「ぐえっ」
珍しく大人気のロイである。三人にしがみつかれて息を詰まらせていた。
最終的に近くに転がっていた長方形の木箱を使うことで、皆は落ち着いた。全員がその上に横一列に並んで恐る恐る覗き込む。
「……」
「……」
倉庫の中はからっぽだった。
反対側の窓の輪郭がぼんやりと見えるだけで、動くものなどない。
「ほら見ろ。幽霊なんてちっともいないし、悲鳴だって聞こえないだろう」
はっきりくっきり見える幽霊などいないだろうが、ロイは皆を強引に納得させる。その力強い言葉に皆の震えがなんとか止まった頃には、時刻はすでに二時を回っていた。
「ここまで怖がったのだから、もうなにがあっても平気だな」
ロイは、パンを食べながら皆の顔を見回した。
緊張をほぐそう、ということで、お弁当タイムが始まっていた。寒い夜中に輪になって弁当の包みを開く。なんとも酔狂な集団であった。しかし、パンの香りに緊張していた気持ちがほぐれてきたのもまた事実だ。ハボックは、ロイの言葉にうなずきながらウインナーをかじる。
「確かに、恐怖のどん底までいけば、それより下はなさそうっスよね」
皆もうんうんと同意する。
「いわゆる奈落の底ってのがここなら、この下はないだろうな〜」
「ということは、もうこれ以上怖い思いをしなくて済むんですねっ」
「そういうことだ」
さっきの反動か、今度は皆で饒舌になり、怖いものなどない、と笑っている。
なぜ、怖い思いに限界があると思うのか。その辺りを追求できないという点では、ロイもやはり緊張の反動がきていたのだろう。
「もう平気だな」
「はい」
「俺も、もう大丈夫だぞ」
「怖い話もどんと来い、だ。ここが奈落の底なら這い上がるだけだもんな」
「じゃ、いっちょ怪談トークとまいりますか」
わははは、と笑う全員、少々頭のネジが切れていた。
では、と名乗りを上げたのはファルマンである。
「花屋の嫁……って知ってます?」
怪談話のセオリー通り、声を潜めながら、ファルマンは語りだした。
「あるところに、花屋を営む仲のいい夫婦がいたそうです。毎日丹精に育てた色んな種類の花を売っていたんですが、奥さんの方が病気で亡くなってしまった。旦那さんはすごく悲しんで、奥さんのお墓に自分で育てた花をそなえたそうです。気づけば、旦那さんは花屋でありながら、奥さんに花を贈ったことがなかった。だからせめて……とね」
「いい話じゃないか」
「うん」
皆は微笑み合う。だが、和みかけた空気をファルマンが指を振って散らす。
「違うんです」
「?」
「その夜、旦那さんの枕もとに、奥さんが立ったんです」
「お礼を言いに?」
フュリーの問いに、ファルマンはゆっくり首を振る。
「旦那さんもそう思っていた。だけど……」
何故か低くなる声。皆は頭を寄せ合う。
「……枕もとの奥さんの顔は悲しげだった。奥さんは、長年連れ添った旦那さんが自分の好きな花をそなえなかったことが悲しかったんですよ。初めての花の贈り物。それも死んだ後だ。せめて好きな花を贈られたかったんです」
「……それで?」
「旦那さんは、次の日も、そのまた次の日も花を選んではそなえ続けた。けれど、夜に現れる奥さんの顔は変わらない。それどころか次第に恨みがましいものになっていったんです。だけど旦那さんは、確かに奥さんの好きな花を何度も会話で聞いた気がするのに、どうしても思い出せない。一日に何十種類もの花を扱ってますからね、お客さんの好きな花は覚えていても奥さんの好きな花は覚えてなかったんです」
「……」
「やがて奥さんは、旦那さんを憎むように、じーっ、と一晩中顔を覗き込んでくるようになった。さらに、私のことを愛してなかったのね、と恨みのこもった声で囁き続ける。そのうち旦那さんもやつれてきた」
「……」
「そして、花を贈り尽くした旦那さんは、もうどうしようもなくなって、店の前に毎年咲いている、どこにでもあるような花を持っていった。だがそれは、季節外れですでに枯れかけていた。それでももう、贈る花はそれしかなかったんですよ。すると、その夜現れた奥さんが、はじめて笑顔を見せて『ありがとう。やっぱりあなたは私の愛する人だわ。こんなに綺麗で元気なお花なら、あの世にも持っていけるわ』と言って満足そうに消えたそうです。そして次の日……」
「……」
ゴクリ、と誰かが唾を飲んだ。
「旦那さんは冷たくなって発見されたそうです。もう一つ、奥さんの墓にそなえられた枯れかけてた花は、まるで生気を吹き込まれたかのようにみずみずしく咲いていたそうですよ……」
「……」
長い沈黙が流れた。風が強く吹き、ランプが大きく揺れる。
予想以上に後味の悪い話であった。
「……怖いですよ、その話……」
「うん、怖い……」
「やっぱ、怖いもんは怖いっスよ……」
「……確かに」
「聞かなきゃ良かった……」
どうやら、恐怖の反動で陽気になったものの、今度は陽気の反動でさらに恐怖にはまってしまったらしい。
死んだ旦那さんと奥さんの幽霊が話した内容を、一体誰がどう知るんだ、とか突っ込みどころの多い話だが、それに気づくような状態ではない。景気づけのつもりで聞いた怪談に怖がっているのだから、はたから見ればなんとも馬鹿らしい。
「もう帰りたい……」
ブレダが皆の気持ちを代弁する。だが、誰もそうしないのは、万が一自分だけここから戻ることになったら怖いからなのであった。
救いのない怪談話に、奈落の底から這い上がるどころか、奈落の底に穴を掘ってしまった彼らであった。だが、じっとしているのはもっと怖い。自らの恐怖に潰されそうになりながら、全員が立ち上がる。
皆は互いの服をつかみながら、第十二倉庫の奥を目指して歩みを進めて行った。
いつも勤務している敷地内だが、恐怖の下で歩く夜道は、あまりにも未知な世界に見えた。知らない土地でさまよったかのように、精神的にも体力的にもかなり疲れている皆である。
第九倉庫を過ぎる。
心なしか風が強くなっている気がする。
第十倉庫……第十一倉庫……。押し合い、引っ張り合いながら皆は身を寄せ合って進む。
「うう……」
フュリーが、ロイの袖をぎゅう、と握り締めた。声を出すつもりがないのに、近づくにつれ、怖さにうめいてしまうようだ。
やがて第十二倉庫に辿り着く。
「……やっぱり、ないっスね」
ハボックが呟いた。
十二倉庫の奥に、もう一つの倉庫などなかった。あるのはA・B・Cの三つの小さな倉庫だけ。
「見ろ、第十三倉庫なんてないだろう」
ロイは、後ろにいる皆に、顎で示す。
「暗かったり、怖かったりすると『B』が『1・3』に見えてしまうだけなんだ」
確かにこの暗闇で、Bの文字ははっきりと見えなかった。だが、ランプで照らせばそれはやはり『B』であった。
「骨を埋める女のことは?」
ハボックは周りを見渡す。
「そ、そうですよっ! 土を掘る音や、泣き声は? あれも嘘だって言うんですか?」
フュリーがロイにしがみつく。
「なんだ、本当に幽霊がいてほしい口ぶりだな」
「違いますよっ! いないなら、いないという証拠が欲しいんです!」
フュリーは必死である。ここまで来ておいて、なんとなく、で終わらせるのは嫌だった。もちろんそれは皆一緒だ。
皆は耳をすます。泣く声は聞こえないか、土を掘る音は聞こえないか、と息をひそめた。――だが、聞こえてくるのは風の音だけだった。
「……聞こえないな」
「たまたま今日は土を掘ってないのかも」
「かもしれんが、この場所でなにも聞こえないということは、ただ単に、風の音が壁を通すと変に聞こえただけってこともあり得る。ファルマン准尉もフュリー曹長も、敷地の外から聞いたのだろう? 壁越しで聞くと、変な音に聞こえただけかもしれんぞ」
ロイのこの意見には説得力があった。
「あ、そうですよね……」
「幽霊がいない証拠もないが、考え方次第では、ここで聞こえないなら土を掘る音と泣き声はただの聞き間違い、と納得できないか?」
「そうも言いますね……」
フュリーは、しばらく自分の中の恐怖と戦う。ロイの意見を何度も頭の中で繰り返し、やがて顔を上げた。
「……ここで見つからないなら、……倉庫の隙間風かもしれないですよね」
やっとふっきれたように、フュリーはそう言った。
「そういうことだ。全員納得したか?」
ロイが振り返ると、ハボックもブレダもファルマンも、スッキリした顔をしてうなずく。
「じゃ、これで作戦は終了だ」
そう言うロイ自身も、ホッとしていた。ロイとしても心霊体験などしたくはない。恐怖の時間を過ごすうちに、もしや……とも思ったが、やはり杞憂に過ぎなかったようだ。
長い旅を終えたときのような清々しい気持ちで、皆は来た道を戻ろうとする。
冒険は終わったのだ。
その時、ふいに月が雲間から姿を現した。
冴え冴えとした月の光が世界を満たしていく。そして――。
「……!」
「あ……っ」
「えっ」
「!」
全員が、硬直した。
彼らは見つけてしまったのだ。月明かりに照らされた土が、まるで掘り返されたかのように盛り上がっているのを。
それは、十二倉庫と、英字倉庫の間にあった。
「まじかよ……」
青白い世界にある、黒い土の山。
ハボックが思わず後ずさったのを合図に、フュリーがぶるぶると震えだす。ランプを持つファルマンの手も、その背から覗いているブレダの足も震えていた。
あってほしくない現実が、そこにはあった。
ロイは、震える己の足を叱咤しながら、そこに近づこうとする。だが、その背に皆がくっついて必死でロイを引っ張った。
「行ったら、ダメですよぅ」
「とりつかれたら、どうすんですかっ」
「もういいですよ、明るくなってから出直しましょうよー」
四人の怖さは絶頂に達していた。だが、ロイは歩いていく。司令官として見極めたかった。ロイにくっついている皆も、必然的に土の山に近づき、全員で覗き込むことになった。
掘り返された土の下に……白い骨があった。
「まさか、本当にあるなんて……」
ロイは少なからず衝撃を受ける。
慣れ親しんだ場所に怪談などあって欲しくはなかったのだ。毎日過ごしていた敷地内に、怪談どおりの骨が埋まっているのはショックだった。よく見ると、まわりにも骨が数本散らばっていた。
「……」
怪談は、現実になってしまった。得体の知れない恐怖がリアリティを持った途端、ロイの中に、骨の持ち主が噂どおりにここで死んだのか調べなくては、と責任感が湧く。
だが、骨の主が土を掘っていた音を聞いたフュリーや、他の三人は、恐怖ばかりが膨れ上がってしまったらしい。
「あの音が……あの音が……」
「鳥肌たってきた……」
「怖えぇ、ほんまもんがこの辺りをうろついてるんだ〜」
「きっとどこからか、俺たちのことをじっと見てますよ」
と、周りをキョロキョロしている。四人は幽霊の存在を百パーセント信じきってしまったようだった。
ロイは、震えている彼らを振り返る。
「とりあえず、この骨の分だけでも埋めなおそう」
だがロイのこの提案は、恐怖の最高潮にいた四人に、口々に反対された。
「いやだぁぁぁ」
「い、いやです! それだけはいやですっ!」
「どこかで、幽霊が見てるんですよっ? 勝手に触っては怒られますよ! とりつかれる! 恨まれるぅぅぅ」
「勘弁してくださいよ。このとおりっスから!」
クモの子を散らすように逃げた四人を見て、ロイは自ら落ちていた木切れを拾う。
「じゃあ、私一人でやるからいいだろう。まったく無理やり誘われた私がなんでこんなことまで……」
木切れで土を深く掘ろうとしたロイの身体に、今度は四人がべったりひっついてきた。
「勘弁してくださいって言ってるじゃないですかぁ〜」
「触らぬ神にたたりなしって言うでしょおぉぉ」
「大佐が幽霊を怒らせたら、ここにいる皆が恨まれるんですよっ」
「皆とりつかれるんだ〜〜〜」
四人はロイの行動を必死で止める。
「な、なにを言ってるんだ。調査がはじまるまでとりあえず埋めなおすだけじゃないか。このまま野ざらしにするわけにはいかないだろう」
だが、四人はロイをぐいぐいと骨から離そうとする。
「この幽霊は自分で骨を集めたいんでしょう? 勝手に触ったら恨まれますよ〜」
「大佐と一緒にいる俺らの元にも毎晩幽霊が現れて、よくも私の骨を触ったなぁ〜、よくも大佐の行いを止めてくれなかったなぁ〜、って言うんですよ〜」
「ぎゃあああ! それ、怖い! マジ怖い!」
パニック状態で半べそをかく四人に困り果て、ロイはとりあえずなだめてみる。
「もしそうなったら、私がかばってやるから安心しろ」
ロイにしては珍しく優しげなセリフだったが、その程度では四人の恐怖は拭い去れなかった。
「嘘だ〜、大佐はきっと、恨むなら部下を、って言うに決まってますよー」
「で、自分だけ助かるんだ〜」
まるで駄々っ子であった。ロイは呆れる。
「責任は私が取る。今ここで誓うから、それでいいだろう?」
「大佐の口約束なんか信用できないっス」
「じゃあ、どうしろと言うんだ!」
「だって怖いじゃないですかあ〜」
結局、ハボックのポケットにあった紙切れに『この度の騒動でなにかあった時、全責任は私が取ります』とロイが誓約書を書くことで、とりあえず騒ぎは収まった。幽霊出没の際にはこれを見せれば大丈夫、ということらしいが、幽霊に誓約書が効くかは甚だ疑問である。それでもとりあえず四人は納得し、皆で木切れを拾ってきて、穴を掘り、そこに骨を埋め直した。
こうして『東方司令部の心霊現象解明作戦』は終了した。
「帰ろう……」
「はい……」
全員が疲れきっていた。
「……明日、花でも買ってそなえておきましょう」
ロイの隣に並んで歩きながら、ハボックがそう提案した。
「ああ、そうだな」
「いい案ですね」
「うむ」
皆は、賛成する。
「なんの花がいいですかね?」
ただなんとなくそう聞いたブレダの言葉に、ふと全員が顔を見合わせた。言ったブレダ本人も、動きが止まっている。
恐怖、再び。
「……」
「……」
今、全員の脳裏に『花屋の嫁』が思い返されているのであった。
次の日の朝、ありとあらゆる花を抱えて、倉庫の向こうに消える男たちを、ホークアイは訝しげに見ていた。
「……どうしたんです? いったい」
「いや、まあ」
ロイは、言葉を濁す。
怪談話も、それを調査する名目で行われた肝試しも、ホークアイには言っていない。言ったとしても、勤務中の肝試しは咎められるだろうが、結果があるのでそうは怒られないだろう。だが、なんとなく言えないのである。肝試しの悲しい結末が、あまりに生々しくてロイはまだ口にする気が起きなかった。
ヘタをしたら軍部自体が関わった事件かもしれないのだ。内密に殺されたとか、陰謀に巻き込まれたとか、悪い方に考えることはいくらでもできる。ロイは、今日にでも上層部に事件の調査を依頼するつもりだ。すべてが解決するまで、幽霊をそっとしておきたかった。
「……そのうち話す。今は気にしないでくれ」
「……?」
それで納得してくれるわけはないだろうが、ホークアイは暫く黙った後、仕事の話を始めてくれた。
ロイはホークアイから書類を受け取りながら窓を見る。その向こうには倉庫が十二棟、いつもと同じ姿でそこに並んでいた。その奥にある、幽霊騒動の現場は、ありとあらゆる種類の花で埋め尽くされている。代金は十万センズを越えていたが、その中に幽霊の好きな花があればいいと思う。それで幽霊の魂が少しはなぐさめられるなら、安い金額だ。
昼になって、昨夜のメンバーは、中庭でランチを取っていた。一晩たって落ち着くと、勇気を出した昨夜の自分たちが誇らしく思えてくる。皆の顔は明るかった。
「……怖かったけど、真相解明をやってよかった」
「いつまでも噂を放っておいたら、骨の人も報われなかったし」
「正しかったんスよね、俺たち」
「そうさ。真実がなんであろうと、それを確かめる勇気が大事なんだ」
「……それにしても、大佐は一番落ち着いてましたよね。カッコ良かった」
「今更なにを言っているんだ」
「今度はいつか僕がお役に立てるといいな」
「それは、頼もしいですね、大佐」
あはは、と笑い声が中庭に響く。苦難をともにした者たち特有の、清々しい顔をする彼らに、遠くで駆け回っていた犬がすり寄ってきた。抱き寄せるフュリー。逃げ出すブレダ。笑う一同。穏やかな昼過ぎ。
そこを通りかかったホークアイが、皆に声をかけた。
「なにかいいことでもあったんですか? 今日は皆さん明るいですよ」
「いやいや」
ロイは、犬の頭をぐりぐり撫でながら誤魔化す。一様に爽やかに笑う皆に、犬がじゃれついた。そのうちに、前足を持ち上げては降ろし、また持ち上げ、なにかを訴える仕草をする。
「どうしたんだ? ご飯かい?」
フュリーが犬の前足を手にとって話しかけると、犬はペロリとフュリーをなめた。
「あははっ。くすぐったいぞ」
「おやつを催促してるのよ」
ホークアイが、一旦部屋に戻って包みを持ってきた。
喜んで飛び回る犬に、差し出されたのは骨付き肉だった。
「……」
――誰も、なにも、言わなかった。
皆、どこかで見たような骨を、ただただ凝視する。
「ハイ、ちゃんと食べるのよ。お前は成長期で、カルシウムがたくさん必要なんだから」
犬はおやつを受け取るとぐるぐる回って喜んだあと、ダッと駆け出す。
「あ、また隠しに行っちゃうのね」
犬を見送るホークアイの目は優しい。飼い主として、犬の元気な様子は嬉しいのだろう。
「いっつも隠しちゃうんだから。仕方ないわね」
そう言うホークアイが、めったに見せないような笑みをわずかに口元に浮かべていたとしても。
だとしても。
……誰もそれを見ていなかった。
全員の視線は、ひたすら犬の姿を追っていた。第一倉庫、第二倉庫……。そして、十二倉庫の奥で、犬は曲がり、そして、姿は見えなくなった。
「あ……」
「……骨」
「……あの骨を……」
「今、倉庫の向こうに……」
愕然とする男たちに、ホークアイがあっさりトドメをさした。
「ええ、いつもあそこに隠してるみたい」
「……」
呆然としている男たちの後ろで、ホークアイだけが犬の消えた辺りを暖かい眼差しで見つめていた。
「どうして誰も気づかなかったんだっ」
その後、誰も来ないような隅の非常口で、緊急会議が開かれていた。
「あんな暗い場所じゃよく見えないし、第一あんなバラバラになってちゃ、人間の骨かどうかなんて素人にわかるわけないっスよ」
ハボックは疲れたように答える。
その後の調べで、フュリーの聞いた泣き声というのは、犬の声だと判明した。犬は、懐いているフュリーが通る足音を聞いて、壁の向こうから鼻を鳴らして親愛の情を示していたらしい。土掘りの音が夜しか聞こえないのは、昼間はそれなりに騒がしくて犬が土を掘る音など聞こえないだけだった。ついでに言えば、肝試しの夜に犬が吼えたのは、骨の隠し場所に向う人間に、そっちに行くな、と吼えていたのであった。
真相はあっけなかった。
焦燥感と疲労感で皆が頭を抱える中、ブレダは手をぶるぶると震わす。
「き、昨日……、さ、触っちゃった……っ、犬がしゃぶった骨に触っちまったあああっ」
「手を洗って来い!」
「うわああああ……!」
しばらくしてどこかの水道口からしゃばじゃばと水が流れる音を聞きながら、ファルマンは、タイプライターで打たれた用紙を見せる。
「大佐、本部に送るこの調査依頼書は……?」
「すぐ破棄しろ!」
ビリビリと破かれる紙を見ながら、フュリーがおずおずと聞く。
「大佐、あの大量の花は……」
「片付けろ!」
ロイは、イライラしながら指示を出す。昨夜の出来事は随分と大変だっただけに、この結果に腹が立つらしい。
「大佐……」
ハボックが、一枚の紙切れをぴらぴらと振った。
「……花屋の代金、経費で落としちゃったんスけど」
「……隠しとおせ!!」
が、そううまくいくはずもなくて。
数日後には、ホークアイに問いただされるフュリーの姿があった。
「この十万センズは、いったいなにに使ったの?」
「いえ、あのぅ……」
経費を申告するための書類を、ロイに渡そうと立ち上がった時の出来事だった。
ホークアイの目から逃れるために、その書類は、作成したハボックからブレダ、ファルマン、そしてフュリーへと、机の下で回されていた。最後にロイがサインし、経理に提出すればそれで一件落着になるはずだった。
だが、運命の女神は意地が悪い。
立ち上がったフュリーと、司令官用の机で仕事をしていたロイの間に、タイミング良く通りかかったのはホークアイ。フュリーが立ち上がって渡すくらいなら間を通った自分が渡してあげようと思ってくれたのだろう。彼女の手が書類を受け取っていた。
経費にしては高額なその金額を、ホークアイが疑問に思っても不思議ではない。問いただされるのは当然のことだった。
フュリーは、皆をちらりと見る。同情と頑張れという視線が三人分。そして、一番大きな机の向こうに座るロイが、ぎりぎりとこちらを睨んでいた。絶対言うんじゃないぞ、と眼力で命令している。
「これはどうしたの?」
「あ、あの……」
経費の使い道がバレれば、肝試しもどきのこともバレてしまう。そうなったら、お咎めはもちろん、十万センズを自分たちの財布から出すことになるのだ。ここで頑張らねば皆に悪いし、ロイも怖い。が、ホークアイに秘密を隠し通せるはずなど、絶対に有り得なかった。
フュリーの心で、ロイに怒られることと、ホークアイに追求されることの、どっちが辛いかが天秤にかけられる。
「……」
見上げればホークアイの澄んだ茶色の瞳が、じっとフュリーを見つめていた。
隠すのは、不可能だった。
フュリーの中で、天秤が大きく傾いた。
(……ごめんなさい)
心の中で大佐に謝ってから、フュリーは口を開いた。
「実は……」
そして、真実は白日のもとにさらけ出された。
後日。
もちろん、経費は認められなくて。
当座は一番お給料がいい人に支払いをお願いしたいという薄給の部下と、割り勘を主張するロイは、十万センズの出費で揉めまくることになった。
ロイとしては、巻き込まれただけなのに何故払うのだ、と思っていた。階級がかなり下のフュリーはともかく、他の三人が薄給とはいえ、なんだかんだ遊びにもお金を使っているのを知っている。
部下一同としては、とりあえず払っといてほしいな、と思っていた。フュリーは本気で申し訳ないと言っているが、他の三人は、遊び資金はとっておきたいのだ。踏み倒すつもりはないけど、昇給するまで待っててね、ということである。
双方の主張が平行線のまま数日が過ぎ、やがて部下一同からロイの前におごそかに差し出されたのは、あの念書。なにかあれば全責任を負う、と書かれたあれである。そこにはロイが責任を取らなければならない対象について、特に記述されていなかった。つまり、幽霊だろうと生身の人間だろうと、この騒動に関しての『責任』は有効なのであった。
結局、負けたのはロイだった。悔しそうに財布を出しながら、四人を睨む。
「これは、立替だからな! 絶対返せ!」
「すみません、僕はローンでいいですか? 十回払いで」
「五回にしろ!」
「次の給料日まで待ってください」
「絶対だぞっ」
「あ、俺は次の給料日に買うものあるので、その次で」
「なんだ、その買うものって!?」
「そのうち返しますから、信じてくださいよ」
「お前が一番信用ならないんだ、ハボック!!」
それから、数週間。
部下たちが金を返したという話は、いまだに聞こえてこない。
(『第十三倉庫の怪』 完)