バカとテストと召喚獣 6.5
井上堅二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吉井明久《よしいあきひさ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)吉井|明久《あきひさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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井上堅二
Kenji Inoue
今回はついに優子姉さんが登場です! 初めて名前が出てから、気がつけば約二年半。最初から名前がついていて、それ以降も台詞も出番もきちんとあったのに、何故かビジュアル化されなかった可哀想な女の子。いやはや。本当に可哀想ですよね。だって、後から登場してロクに出番のなかったはずの学園長は、既にセミヌードまで披露しているっていうのに……。
葉賀ユイ
Yui Haga
随所にガタがきている廃車寸前の絵描き。来年にはオーバーホールをと目論んでいるものの、その前にオシャカになりそうな気配がプンプン。そしたら即スクラップですよ! 健康も失ってから大切さに気がつくものですね。井上さんや読者の皆さんはどうかご自愛ください。特に歯は大切ですよ!
[#ここで字下げ終わり]
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ついに登場! 秀吉《ひでよし》の姉・優《ゆう》子《こ》がFクラスに!? 『アタシと愚《ぐ》弟《てい》とクラス交換』、夏休みはみんなで海にバカンスだ! 衝撃シーン満載の『僕と海辺とお祭り騒ぎ』前後編、神童と呼ばれていた少年と物静かな少女、二人の学校生活で起こった小さな事件『雄《ゆう》二《じ》と翔子《しょうこ》と幼い思い出』の4本で贈る、青春エクスプロージョンショートストーリー集第2弾! 「……? 何故《なぜ》だか男として扱われた記憶がないのじゃが……!?」(by 比較的胸が小さい方の木下《きのした》)」
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バカとテストと召喚獣 6.5
井上堅二[#地から2字上げ]ファミ通文庫
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[#地から3字上げ]口絵・本文イラスト/葉賀ユイ
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バカとテストと召喚獣 6.5  CONTENTS
文月新聞【広告】         P.004
アタシと愚弟とクラス交換     P.007
文月新聞【芸能】         P.042
僕と海辺とお祭り騒ぎ(前編)   P.045
文月新聞【コラム】        P.128
僕と海辺とお祭り騒ぎ(後編)   P.131
文月新聞【校内政治】【地域経済】 P.196
雄二と翔子と幼い思い出      P.199
あとがき             P.252
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文月新聞[#3段階大きな文字]
【広告】[#「【広告】」は太字]
来たれ若人![#1段階大きな文字]
団員募集!![#3段階大きな文字]
君の若い力を学校平和の為に[#「君の若い力を学校平和の為に」は太字]
役立ててみないか?[#2段階大きな文字]
我々FFF団は、Fクラスの──文月学園全体の秩序を守る為、若い力を募集しています。
この学園の平和を保つという崇高な目的へと、共に邁進していきませんか。
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業務内容[#2段階大きな文字]
自らの強い想いや感情を鈍器真心に乗せて相手に叩き付けるだけの簡単なお仕事です。
使用する業務機器の種類も豊富。
勿論持参も大歓迎!
初心者の方もご安心。
優しい先輩が懇切丁寧に指導します。
給与[#2段階大きな文字]
月給:1AP[#「1AP」は太字](現物支給)
なんと、5APで1HPと交換可能!
更に能力に応じた歩合給も!!
詳しくは実際にお問い合わせ下さい。
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※AP=Akichan Photograph
HP=Hideyoshi Photograph
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24時間受付中!![#「24時間受付中!!」は太字]
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ご連絡は2-F須川亮まで。
携帯番号:080-○×△□-◇●▼□
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協賛[#「協賛」は太字]
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〜いつもあなたの真後ろに〜
ムッツリ商会[#3段階大きな文字]
[#ここまで字下げ]
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アタシと愚弟とクラス交換[#「アタシと愚弟とクラス交換」は太字]
「──というワケで、Aクラスを使って文月《ふみづき》学園のプロモーションムービーを制作しようと思うんだよ。いいかい、高橋《たかはし》先生?」
「はい学園長。私からは反対する理由は何もありません」
「やれやれ。助かるよ。最近どうも、どこぞのバカどものせいでウチの学園の評判が悪いようでねぇ……」
「心中、お察《さっ》しします」
「それで、Aクラスの生徒たちのうちの何人かにも出演してもらおうと思うんだけど、どうだい? 誰を出演させたら良いかねぇ?」
「そうですね……。学年主席の霧島翔子《きりしましょうこ》さん、次席の久保利光《くぼとしみつ》君を中心に制作するのが妥当だと思われますが、あの二人は残念ながら愛想に欠ける部分がありますので」
「くくくっ。アンタがそれを言うとはね」
「客観的な意見を述《の》べただけです。私自身も愛想に欠けることは重々承知の上ですから」
「おや、気分を悪くしたかい? それはすまなかったね。話を続けておくれ」
「いえ。……そうなると成績優秀で勤勉、且《か》つ明るい性格の生徒ということで──木下優子《きのしたゆうこ》さんを中心に制作するのが宜《よろ》しいかと思われます」
「ふむふむ。候補は一人だけかい? 他にはいないのかい?」
「いないこともありませんが、若干《じゃっかん》のリスクを伴《ともな》うかと」
「リスク?」
「はい。例えば、工藤愛子《くどうあいこ》さんという成績優秀で明るい性格の生徒がいるのですが」
「ふむ」
「彼女を中心にする場合、流れによっては放送禁止用語の検閲《けんえつ》やモザイク等の処理が必要になる可能性があります」
「…………Aクラスだけは……まともだと思ったんだけどねぇ…………」
「学園長。今のは私の冗談です」
「アンタの冗談は全く笑えないさね!?」
「ただ、彼女は少々性に関して奔放《ほんぽう》なところがありますので、勤勉な学舎《まなびや》をイメージさせるには不適かと」
「そうかい。……よし。それじゃ、木下優子って子を中心に作ろうか。本人にこの話を伝えておいてもらえるかい?」
「わかりました」
「ところで、その子は歌も達者かい?」
「と、仰《おっしゃ》いますと?」
「うちの学校の合唱部は人数が少ないからね。校歌斉唱《こうかせいしょう》もその子を中心にAクラスの生徒と合唱部でやってもらいたいのさ」
「それはわかりませんが、恐らく彼女であれば問題ないでしょう。双子の弟の木下|秀吉《ひでよし》君は演劇部でオペラをこなせるほどですので、姉である彼女も素質はあるかと」
「それはまた、何でもできる素晴らしい生徒さね」
「ええ。彼女ほど品行方正で見目麗《みめうるわ》しく、成績優秀且つ社交性に富んだ模範的な生徒は他にいません」
[#中央揃え]☆
「ただいま帰ったぞい」
「…………はぁ…………」
「んむ? 姉上、どうしたのじゃ? 似合わぬ溜息《ためいき》なぞついてからに」
演劇狂いのバカな双子の弟は、部活を終えて帰ってくるなりアタシの顔を見て目を丸くしていた。
「何よ秀吉。アタシが溜息ついてたらおかしいって言うの?」
「いや、そうまでは言わんが……」
言いながら、怪《け》訝《げん》な表情で眉《まゆ》根《ね》を寄せる秀吉。
その顔を見ていると、まるで鏡を見ているかのような錯覚《さっかく》に陥《おちい》る。
容姿が瓜二つのアタシが言うのもなんだけど、秀吉はとても整った顔立ちをしている。大きな瞳《ひとみ》に、透き通るような肌に、小さな顔。女から見たら誰もが羨《うらや》むような紅顔《こうがん》(?)の美少年で──って、これはそのまま自慢にもなるのかな。
でも、日々の手入れやダイエットとかの苦労をしているアタシはともかく、何もしていないこのバカが可愛い顔をしているなんて不公平だと思う。しかもなぜか、男子の間ではコイツの方が人気があるって話だし……! 男のクセに! 男のクセにっ!!
「……って、そんなことも今はどうでもいいのよね……ハァ……」
また一つ、溜息が口から零《こぼ》れ落《お》ちてしまう。
「本当にどうしたのじゃ? 姉上が大好物の美少年同士が絡み合う小説を放っておいてまで呆《ほう》けておるなぞ、何かがあったとしか思えん。オマケに、服装も下着姿でもジャージ姿でもないし……」
秀吉がリビングテーブルの上に置いてあるネット通販の箱を見て首を傾《かし》げた。風評が気になるアタシにとって、このネット通販というものはとても便利だ。これならどんな物を買ったとしてもクラスの皆に趣味がばれることはないから。
「楽な格好で乙女小説を読むのはアタシの唯一にして崇高《すうこう》な趣味よ。アンタにとやかく言われる筋合いはないわ」
「唯一はともかく、崇高と言うのはどうかと思うのじゃが……」
「何よその呆れ顔は」
まったく、どうして世間はこの手の趣味には冷たいんだろう。それは確かに、趣味を聞かれた時に同じ 読書 ≠ニ答えるのでも
『純文学が好きです。特に川端康成《かわばたやすなり》の「山の音」の、老いと情愛をテーマにした話に心を打たれて……』
と言うのと、
『乙女小説が好きです。特に「伝説の木の下で貴様を待つ(Vol.3)」の、愛を受け入れてくれないシンジにユウイチが鈍《どん》器《き》で襲いかかるシーンに心を打たれて……』
と言うのは大きな隔《へだ》たりがあるとは思うけど。
「して、一体何があったのじゃ? 悩み事かの?」
のほほんとした顔で秀吉が聞いてくる。悩み事というか、困り事というか……
「秀吉。アンタ、歌とか得意よね」
「歌? まぁ得意というほどでもないが、姉上に比べれば幾分《いくぶん》マシなのは確かじゃな」
「く……っ! 言ってくれるわね……!」
腹立たしいけど、事実だから仕方がない。
「ハァ……。どうしてアンタにできることがアタシにはできないんだろ……」
「その分、姉上は勉学に秀でておるからの」
「今だけは勉強よりも歌の才能が欲しいわ……」
声質はそんなに悪くないとは思うんだけど、どうにもアタシは音感というものが致命的なまでに存在しない。カラオケに行っても専《もっぱ》ら手を叩くだけだ。
「なんじゃ。人前で姉上が歌声を披《ひ》露《ろう》する機会でもあるのかの?」
「そうなのよ。担任の高橋先生が『木下さんにしかお顧いできないことです』なんて言って、学園の紹介ムービーに出演して欲しいって……」
「学園の紹介で歌となると、校歌でも歌うのかの?」
「ご名答よ。……ハァ……」
考えるだけで憂鬱《ゆううつ》な気分になる。歌なんて今から猛特訓してなんとかなるものだとも思えないし……。
「そこまで思い悩むのであれば高橋女史に頼まれたその場で断れば良かったじゃろうに」
「そんなの絶対にイヤ。折角《せっかく》今まで何でも出来る優等生を演じてきたのに、この程度のことでギブアップなんて冗談じゃないわ」
「姉上の見栄《みえ》っ張《ぱ》りも筋金入りじゃのう……」
「木下の血みたいなもんでしょ。アンタは舞台で役を演じる。アタシは日常生活で優等生を演じるってね」
「むぅ。そう考えると、ワシらは似ておるのかもしれんのう」
認めたくないことだけど、性格や性別はともかくアタシたちの本質は似ているのかもしれない。外見なんて身内でも間違えるくらいそっくりだし……
「…………(じーっ)」
「な、なんじゃ姉上? そんなにワシの顔をじっと見て。何かついておるかの?」
本当に、そっくり。
「……アンタ、物《もの》真似《まね》とか得意よね」
「できれば演技と言って欲しいのじゃが」
「そんなのどっちでもいいの。……アタシの演技とかもできる?」
「それくらいならば簡単じゃ。姉上の特徴は把《は》握《あく》しておるからの」
「そうよね。生まれてからずっと一緒だものね」
前に試召戦争で余計なことをしてくれたくらいだし。
「撮影の時のほんの少しの間ならアンタでも……」
「まさか姉上、ワシに代わりに出ろと……?」
嫌そうな顔をして一歩後ずさる秀吉。
「そのまさかよ。アタシの制服を着て胸に詰め物でもしたら、よほどのことがない限りばれないでしょ」
「胸に詰め物? 何を言うのじゃ姉上。その程度のサイズであればそんなものはなくとも──あ、姉上っ! ちが……っ! その関節はそっちには曲がらな……っ!」
「秀吉。アタシね、すっっっごく困っているの。お姉ちゃんのお願い、聞いて貰えないかなぁ?」
「ワシも今すごく困っておるのじゃが!?」
「じゃあ、お互い様よね? 姉弟仲良く助け合いましょ?」
「いや、明らかにその理屈はおかしいと──痛たたたっ! りょ、了解じゃ! 喜んで姉上の代役を務めよう!」
「そう。良かった。それならアタシもアンタの腕を折るのを我慢してあげる」
入れ替わりが終わるまでは。
「うぅ……。まったく、姉上は暴力的で困るのじゃ……」
「何よ。アンタが余計なことを言うからでしょ」
「むぅ……。事実を言ったまでなのじゃが……。それはそうと、入れ替わりはいつやればいいのじゃ?」
「明日の放課後に、体育用具室あたりで待ち合わせてお互いの服を交換しよっか。……詰め物は、アンタが必要ないって言うならなくてもいいから」
「明日の放課後じゃと? その時間、ワシらのクラスは補習があるのじゃが」
「補習? それって出ないとまずいの?」
「うむ。サボると留年の階段を一段上ってしまうのじゃ」
「アンタはどんだけ成績悪いのよ……」
「そればっかりは返す言葉もない……」
「まぁ、そういうことなら仕方がないわ。そっちはアタシがアンタの振りして出席しておいてあげる」
「姉上が?」
「うん」
「いや、それは……」
「なによ。アタシじゃアンタの代役は務まらないとでも言うの?」
コイツにできて、アタシにできないことなんて歌以外にはないはず。そこまでアタシだって不器用でもない。アタシだって一応コイツの特徴を知ってるわけだし。
「いや、姉上に代役ができんとまでは言わんが……。じゃが、くれぐれもクラスメイトとの下手な接触は無いように頼むぞい。万が一入れ替わっておるときに中身が女じゃとばれたら──」
「ばれたら?」
「翌日からはワシは本物の女じゃと言われてしまうじゃろう……」
「……アタシと入れ替わってるとは考えないで、アンタが実は女だったって考えるんだ……。さすがはFクラスね」
「じゃから、接触にはくれぐれも気をつけて欲しいのじゃ」
「わかったわ。そっちも絶対にばれないようにね。うまくいったら今度何かお礼をするから」
「任せておくのじゃ」
その後に秀吉の歌う校歌を聞いて問題がないことを確認してから、アタシは安心してネット通販の箱を手に取った。武器まで用意したのに返り討ちに遭《あ》ったユウイチがシンジにしびれ薬を盛るところで終わっていたから、続きがずっと気になっていたのよね。
[#中央揃え]☆
翌日の放課後、周囲の目がないことを確認してから体育用具室に入ったアタシと秀吉は、素早くお互いの服を取り替えていた。
「ホント、アンタってアタシそっくりよね」
「双子じゃからな。似ておっても不思議はあるまい」
「二卵性なんだから、ここまで似ていなくてもいいと思うんだけど」
とは言え、今回はその似ている容姿のおかげでこんな真似ができるのだから少しは感謝してもいいのかもしれない。……なんだか嫌な予感もするけど。
「では行ってくる。姉上は補習の出席を頼むぞい」
タイを結び終えると、秀吉は用具室の扉に手をかけた。
「あ、待って秀吉。コレを持って行きなさい」
秀吉を呼び止めて、その手にある物を握《にぎ》らせる。
「んむ? なんじゃコレは」
秀吉はアタシに渡された小さな機械を不思議そうに見ていた。
「盗聴器《とうちょうき》よ」
「姉上……。一体どこからこんな物を……?」
「アンタのクラスメイトよ。頼んだら喜んで貸してくれたわよ」
アンタの寝顔写真と引き替えに。
「ムッツリーニじゃな。まったく、あやつは……」
「いいから、それを身に着けて行動しなさい。アタシはそれでアンタの行動をチェックするからね」
「監視なんぞせんでも、きちんと姉上を演じきって見せるというに……」
「アンタの『きちんと』は全然信用できないのよ」
「まぁ良いじゃろ。コレを持っているだけで姉上が安心すると言うのであればそうしよう」
秀吉は盗聴器をタイの裏につけると、女子の制服姿で体育用具室を出て行った。
「さて。アタシもFクラスの汚い教室に行かないとね」
本当ならアイツのすぐ近くで見張っておきたいけど、流石《さすが》にアタシの代わりをさせた上にアイツの補習をすっぽかすのは酷過ぎるので、おとなしくFクラスの教室に向かうことにする。
神様。どうかアイツがバカなことをしでかしませんように……。
[#中央揃え]☆
『しまった! 須《す》川《がわ》が窓を伝って隣の教室に逃げたぞ!』
『あのブタ野郎……! 異端審問会《いたんしんもんかい》の血の掟《おきて》に背いて、Dクラスの玉《たま》野《の》さんにケータイの番号交換を迫っていたという噂は本当だったのか…………! いいか! 今この時よりヤツは会長ではなく反逆者だ! 見つけ出して始末するんだ!』
『『『了解! 指示を!』』』
『A〜E部隊はヤツを捕らえ次第異端審問会にかけろ! 携帯電話のメモリー削除も忘れるな! 番号交換に成功していた可能性もある! F〜G部隊はあらゆる手段を用いてヤツの悪評を流せ! 特にDクラスには念入りにだ! H部隊は船越《ふなこし》先生(四十六歳♀独身)のところに向かえ! あの裏切り者に人生の墓場というものを教えてやるんだ!』
『『『了解っ!』』』
教室の前に立つと、中から怒《ど》号《ごう》の応酬が聞こえてきた。
……このクラス、何やってるんだろ……。
回れ右をして帰りたくなる衝動をグッと堪えて教室の扉を開ける。
すると、中では──覆面《ふくめん》をつけた連中が鞭《むち》や蝋燭《ろうそく》を手に忙《せわ》しなく駆《か》け回《まわ》っていた。
「ホントになにやってんのよーっ!?」
何なのコイツら!? どうして補習前だっていうのに授業の準備もしてないの!? っていうか、授業|云々《うんぬん》の前にその装備は何!? どこかの武闘派宗教団体!?
「あ、おかえり秀吉」
駆け回っていたうちの一人が覆面を外してこちらに寄ってきた。学年どころか学校全体でも有名人になっている吉井明久《よしいあきひさ》君だ。こんなことばっかりやってるからバカって呼ばれるんじゃないのかな……。見た目はそれなりにまともなのに、勿体《もったい》ない。
「ん? あれ? なんだろ?」
その吉井君がアタシの顔をジッと見ていた。
「な、なに──ごとじゃ、明久?」
なによ、と言ってしまいそうなところを辛《かろ》うじて取《と》り繕《つくろ》う。危ない危ない。アタシは今秀吉なんだから、口調には充分気をつけないと。
「なんかいつもと違うみたいだけど……」
「き、気のせいじゃ! ワシはいつもこんな感じじゃ!」
身内でも区別がつかなくなることだってあるっていうのに、こんな短時間で気が付くなんて……! バカだバカだって言われてるクセに妙なところで鋭いじゃない!
「そうかな……? でも、いつもはもっとこう……なんていうか、女の子らしくて可愛かったと思うんだけど」
どうしたらいいのかしら。突然このバカの頸動脈《けいどうみゃく》をかっ切りたくなっちゃったじゃない。
「それより、補習はどうなったのじゃ? 皆それどころではなさそうじゃが」
「あ、うん。補習なら、さっき鉄人《てつじん》が来てプリントを置いていったよ。それをやった後で解説授業をするってさ」
「なるほど。それで皆が自由に動き回っているというワケじゃな」
「後で鉄人が来るまでは自習みたいなもんだからね」
西村《にしむら》先生も紹介ムービーの準備をしているのかな。そうでもなければ、少しの間とはいえあの先生がこのクラスから目を離すとは思えないし。
「それはそうと、雰《ふん》囲《い》気《き》だけじゃなくて秀吉の声もいつもと違ってちょっと高い気がするんだけど、もしかして風邪でも──」
『報告! 新情報です! 須川の悪評を流す為《ため》にF部隊がDクラスの玉野に接触したところ、彼女は須川に興味はなく、「それよりアキちゃんについて聞かせて欲しい」と繰《く》り返《かえ》していたとのこと! 繰り返す! Dクラスの玉野|美紀《みき》は吉井明久に興味あり! Dクラスの玉野美紀は吉井明久に興味あり』
「さらばだっ!」
報告を聞いた瞬間、吉井君は覆面を放り捨てて脱《だっ》兎《と》の如《ごと》く駆け出した。
『逃がすな! 予備戦力で追撃隊を組織しろ! これ以上ヤツの横行を許すな!』
『だが待て! 玉野はアキちゃんと言っていたらしいじゃないか! 正直、吉井には虫《むし》酸《ず》が走るがアキちゃんなら俺も興味がある!』
『実は俺もだ!』
本当に……このクラスってバカだらけ……。
でも、これはこれで都合がいいかも。幸いにも自習時間みたいだし、これなら堂々と秀吉の様子をチェックできるもんね。えっと、確かこのラジオみたいな機械で──っと。
昼休みに土《つち》屋《や》君から借りた機械についているイヤホンをつけてスイッチを入れる。すると少しの間だけ耳障《みみざわ》りなノイズが走り、徐々に音がクリアーになっていった。
『──下さん。ありがとう』
『え? アタシ、久保君に何かお礼を言われるようなことをしたっけ?』
あ。聞こえてきた。これって秀吉の声でいいんだよね? いつもの秀吉の声とは違うように聞こえるけど、これが他の人が聞いた時のアタシの声なのかな。音質が悪くて、誰が喋《しゃべ》っているのかわかりにくいし。
『ああ。キミのおかげで勇気が出てきたよ。クラスメイトに同志がいると知ることができただけでも心強い』
『同志?』
さっきの台詞《せりふ》から察するに会話の相手は久保君みたいだけど、一体何の話をしていたんだろう。まだ撮影は始まっていないようだし、適当な雑談でもしていたのかな……。
でも、久保君と同志だなんて、どんな話を……?
『それにしても、まさか木下さんが同性愛者だったとは驚いたよ』
あのバカ何を話していたのよーっ!?
『良かったら、キミの好きな人の名前を教えて貰えないだろうか。僕に出来ることならいくらでも協力しよう』
『えっと……。そうね、好きな入っていうと──』
こうしちゃいられない! あのバカを殴ってでも止めないと!!
Fクラスの教室を飛び出して、渡り廊下を全力疾走して、Aクラスの扉を勢いよく開け放つ。
バンッ! というけたたましい音が教室中に響き渡った。
「あら秀吉。どうかしたの?」
久保君と話をしていた秀吉は、アタシの演技を続けたままこちらを向いた。
アタシも秀吉の演技を続けたまま呼びかけることにする。
「姉上。ちょ〜〜っとよろしいかの? 向こうで内密に話したいことがあるのじゃが」
「? よくわからないけど、いいわよ。それじゃ、久保君。ちょっと失礼」
アタシの殺気に気付くことなく、秀吉はひと気のない階段の踊り場までついてきてくれた。よし。ここなら……殺《や》れる。
「……アンタ、久保君と何を話していたのかしら……?」
のほほんとしている秀吉の手首と肘《ひじ》をギュッと抱え込みながら、アタシはにこやかに質問してみた。
「んむ? 他愛もない雑談をしておったのじゃが、その際に好みの異性の話になっての」
「うんうん。……それで?」
「姉上の思考を読み、『現実の男に興味がない』というニュアンスを伝えようと思ったのじゃが、どうも言葉の選択を誤ったようでの。久保は『異性に興味がない』という意味に受け取って姉上を同性愛者だと勘違いしたようで──あ、姉上っ! ちが……っ! その関節はそっちには曲がらな……っ!」
「このバカ! いつアタシが異性に興味がないって言ったのよ! ただアタシは乙女小説が好きなだけで、現実の男にだってきちんと興味があるんだからね!? 誤解を招くようなことは言わないでよ!」
「りょ、了解じゃ! 次は間違えぬようにしよう!」
「ホント、頼んだからね……っ!」
撮影もあるので秀吉にけがをさせるわけにもいかない。この代償《だいしょう》は後できっちり払ってもらうとして、今は目先のことに集中させないと。
捻り上げていた手首と肘を解放してやると、秀吉は腕をさすりながら教室へと戻っていった。さて。アタシもFクラスに戻らないと。
[#中央揃え]☆
『……優子』
『あ、代表。なに?』
教室に戻ってイヤホンをつけると、今度はまた別の人の声が聞こえてきた。このしゃべり方だと、多分相手はAクラス代表の霧島翔子さんじゃないかな。
ハァ……。弱ったなぁ……。早く撮影を始めてくれないと、そのうち入れ替わりがばれちゃいそう……。
『……そこ』
『そこ? なになに?』
『……スカート、めくれてる』
あのバカ、またボロを出して……! 演技はともかくとして、動きが無防備《むぼうび》過ぎるのよ! アタシたちがスカートの時どれだけ気を遣っているのか全然わかってないんだから!
いつばれてしまうのかとやきもきしているアタシの気持ちも知らず、イヤホン越しの秀吉の声は、まるでスカートが捲《まく》れていることなんてなんでもないかのように平然とした口調で答えた。
『心配してくれてありがとね、代表。でも、大丈夫なの』
『……大丈夫って?』
『見られても大丈夫ってこと』
『……でも、スカートがめくれたら』
『ううん。そのくらい平気なの。だって』
『……だって?』
『だって──今日は、きちんと下着を穿《は》いているもの』
ドドドドド
「アンタ何てことを言ってくれてんのよ!? あれだとまるでいつもアタシがノーパンみたいでしょ!?」
「いつもと違ってスカートの下にスパッツを穿いているから大丈夫という意味じゃったのじゃが」
「そういう風には全然聞こえないのよ!」
「じゃが、スパッツは分類的には下着に入ると」
「黙りなさい! とにかく、ああいう迂《う》闊《かつ》な発言は二度としないように! あと、スカートの裾《すそ》には気をつけなさい!」
幸いにも代表くらいしか聞いてなかったみたいだからまだマシだけど、そうでなかったらアタシの評判が大変なことになっちゃうじゃない!
「むぅ……。姉上のスカートは丈が短すぎるしウエストはゆるいし、動きにくくて困るのじゃ……」
「それはアタシのスタイルが悪いって言いたいのかしら?」
このバカ……。用が済んだら確実に始末してやる……。
「とにかく、動きにも充分気をつけなさい! あんまり挑発的な格好をしていて変な虫が寄ってきたら困るんだからね!」
「了解じゃ。気をつけよう」
「くれぐれも頼んだからね」
秀吉を解放してAクラスに戻らせる。
あのバカは目を離すと何をしでかすのかわからないので、アタシはFクラスの教室に向かって歩きながらイヤホンを装着した。この際、多少周りに変な目で見られても仕方がないわよね。
『き、木下さんっ!』
『? 何? えっと──』
『Fクラスの横溝浩二《よこみぞこうじ》です。実は、えっと、その……』
Fクラスの横溝浩二君? 誰だろ? 今まであまり話したこともない人だったと思うけど……。なんだか緊張しているみたいな声だし、まさか……
『じ、実は僕、木下さんのことが好きなんですっ! 付き合って下さいっ!』
やっぱり告白!? でも、よりによって秀吉と入れ替わっている時に告白するなんて、タイミングの悪い人ね……。……もしや、秀吉と入れ替わっているからこそ魅力的に見えたから告白に踏み切った、なんてことはないわよね……?
まぁ、それは置いておくとして。彼の気持ちは嬉しいけど、アタシは今のところ誰かと付き合うつもりなんてないし、この人のこともよく知らないし、申し訳ないけどこの話はお断りさせてもらいたいかな。秀吉が相手を傷つけずにうまく断ってくれたらいいんだけど……。
なんて思っていると、秀吉はきちんとアタシの考えをわかっていてくれたようで丁重《ていちょう》にお断りの文句を告げてくれた。うんうん。さすがは双子ね。きちんとわかってるじゃない。
『あの……気持ちは嬉しいんだけど……』
『そ、そんな……!』
『ごめんなさい』
イヤホン越しに秀吉が頭を下げる様子が伝わってきた。
アイツもやればできるじゃない。上手にお断りしているわね。……なんだか断り慣れている気がするのが釈然《しゃくぜん》としないけど。
『それなら、木下さんの好みのタイプを教えて下さいっ! 僕、頑張って木下さん好みの男になるから、そうしたら──』
尚《なお》も食い下がる横溝君。
ちょっとしつこい気もするけど、そこまで好かれているっていうのも悪い気はしない。とは言っても、さっきの返事は変わらないんだけどね。
『それでも……ごめんなさい』
『ど、どうして……?』
『だって、アタシは──十二歳以下の美少年にしか、興味がないから……』
ドドドドド
「殺すわよ」
「あ、姉上、何をいきり立っておるのじゃ。とりあえず落ち着くのじゃ」
「落ち着いていられるわけないでしょ!?」
同性愛者もしくはショタコンで、スカートの中はノーパン解放主義。アタシはどんだけ救《すく》い難《がた》い女になってるのよ! もう既《すで》に音痴のレッテルを貼られるよりもよっぽど酷《ひど》いことになってるじゃない!
「ワシなりに姉上の好みを分析したのじゃが、違ったかの?」
「う……。そ、それは、その、全然違うとは言わないけど……。でも、そういうのはあくまでフィクションでの好みであって、アタシは現実では別の好みがあるし」
「むぅ……。難しいのじゃ……」
「要するに、アタシにとって二次元の好みと三次元の好みは全くの別物なの! だいたい、アタシはいつもそういう趣味は表では隠しているでしょ!? 演技をするのならその辺も徹底しなさいよ!」
「む……。言われてみれば確かにその通りじゃな……。すまぬ姉上。ワシはついつい家にいる時の姉上のイメージが先行して、そちらばかりを再現してしまったようじゃ」
「……アンタにとって、家にいるアタシってそういうイメージなんだ……」
自分ではもう少しまともだと思っていたんだけど……。
「ところで、さっきのアンタのお断りの台詞、当人以外には誰にも聞かれてなんていないわよね」
「十二歳以下の美少年という話かの?」
「そうよ。あんなの誰かに聞かれたら大変だもの」
多分、大丈夫だと思うけど……。もしも聞いている人がいたら、ソイツには消えてもらうしか……。
「目撃者はわからんが、演技の方はもう心配無用じゃ。今からはきちんと外にいる時の姉上の演技を徹底しよう」
「もうかなり色々と手遅れになってる気もするけどね……」
毒を食らわば皿まで。ここまできたら最後までコイツにやらせよう。失う物なんて、もう何もないしね……。
[#中央揃え]☆
秀吉のせいで疲れ切った状態でFクラスに戻ると、いつの間にか戻ってきていた吉井君がこちらにやってきた。
「あれ? 秀吉、どこかに行ってたの?」
「あ、吉──じゃなくて明久。少々トイレに行っておったのじゃ。お主《ぬし》こそ、もう逃げ回らんでも良いのか?」
「うん。逃げている途中で横構君が木下優子さんに告白したって情報が入ったからね。今は皆、そっちにかかりっきりだよ」
あまりよく知らないけど、横溝君って人、ごめんなさい。あなたは多分、今回の件でアタシの次に可哀想な被害者だわ……。
「まったく、横溝君も懲《こ》りないよね。先週抜け駆けして秀吉をデートに誘って粛正《しゅくせい》されたばかりなのに、ダメだったら今度はお姉さんだなんて」
前言撤回。横溝とかいうヤツ、今度見かけたら関節全部逆に曲げてやる。
「あ、そうだ秀吉。お姉さんと言えばさ」
「あ、姉上がどうかしたかの?」
「? 何|慌《あわ》ててるのさ」
「べ、別に慌ててなぞおらんぞ」
「まぁいいけど……。それで秀吉のお姉さんだけど、学園の宣伝用ビデオに出るんだってね」
あ、なんだ。そのことか……。入れ替わりがばれたのかと思ってびっくりしちゃったじゃない。
「折角の自習だし、様子を見に行ってみない?」
「ん? そ、そうじゃな。確かに気になるし、見に行くのも悪くないのう」
このまま教室で会話を続けていたら吉井君に入れ替わりがばれちゃいそうだし、秀吉の行動も気になるし、様子を見に行った方がいいかもしれない。
怒号が飛び交う教室を後にして、アタシと吉井君はAクラスの教室を目指して廊下をのんびりと歩いた。
「でも、秀吉のお姉さんって凄いよね」
「? 何がじゃ?」
「だって、可愛いし勉強も出来るし運動だってできるし、今日はカメラの前で合唱までやるんでしょう 何でもできて凄いじゃないか」
「そ、そうじゃな」
吉井君の無垢《むく》な瞳のせいで一瞬言葉に詰ってしまう。なんだか彼を裏切っているようで、ちょっとだけ罪悪感が湧いてきた。実はアタシは音痴で、カメラの前で合唱なんてできっこないんだけどね。
彼の期待に応える為にも、秀吉には是が非でも成功してもらうしかない。音痴がばれるなんてアタシのプライドが許さないし、あれだけの悪評を流されたんだからせめてこれくらいは成功してもらわないと困るし……!
「? どうしたの秀吉? 珍しく怖い顔なんてして。まるでお姉さんみたいだよ?」
「あ、い、いやっ。別になんでもないのじゃ。気にするでない」
どうして怖い顔をするとアタシになるのか、吉井君の関節を抱きしめながらゆっくりと聞かせてもらいたいところだけど、その衝動をグッと堪えて笑顔を作る。ここでばれたら全部台無しになっちゃうもんね。
偽りの笑顔を浮かべたまま歩くこと少々。不意に何かの旋律《せんりつ》が聞こえてきた。
「あ。これって校歌かな? 先に校歌斉唱から撮っているみたいだね」
「うむ。そのようじゃな」
Aクラスに置かれたグランドピアノが伴奏《ばんそう》を奏《かな》で、二十人程度の歌声がそのメロディーの上に重なっている。校歌だからアルトやテナーといった区分もなく、あくまでも主旋律だけの簡単な曲。けれども抑《そろ》えられたその歌声は、澄み切った夏の空を彷彿《ほうふつ》とさせるような爽やかさと、そこに浮かぶ入道雲の壮大さを併せ持つような、そんな素晴らしいもののように思えた。
「秀吉。お姉さんが真ん中で歌ってるよ」
更に近づいてみると、アタシに扮《ふん》した秀吉は一番目立つセンターで堂々とその歌声を披露していた。
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悔しいけど、我が弟ながらいい顔をしていると思う。いい顔っていうのは、別に顔が綺麗っていうことじゃない。秀吉に限らず、人は誰でも自分が本当にやりたいことを一生懸命やっているときの顔は不思議な魅力に溢《あふ》れている。今の秀吉はその魅力に溢れたいい顔をしているってこと。アタシにはそれがちょっと羨ましい。
「やっぱり、秀吉のお姉さんもすごく綺麗だね」
「そ、そうじゃろ?」
この吉井君の一言に少しだけ救われる。 やっぱり ≠チて言ってもらえるってことは、いつものアタシも少しは綺麗に見えているってことだから。
「だからその分、残念だよね……」
「え? 何が?」
「さっきさ、逃げ回っている途中で偶然聞こえたんだけど──」
なんだか凄く嫌な予感がする。
「──秀吉のお姉さんっていつもはノーパンで、女の子か小さな男の子にしか興味ないって」
「忘れなさいぃぃっ!!」
「あがぁっ! 何秀吉!? どうしたの!? どうして突然僕に関節技を!?」
「いいから全て忘れなさい! この痛みで全部記憶を書き換えてあげるから!」
「ひ、秀吉! よくわからないけど胸が! 微《かす》かに柔らかい感触が僕の腕にあがぁっ!」
「『徴か』って何よ! 一応あるにはあるんだから!」
「どうしたのさ秀吉!? 急に暴力だなんて、僕が一体何をふぎゃぁああっ!」
「とにかく全部忘れなさいぃぃぃっ!!」
「なに!? どうして僕がこんな目に遭ってるのさーっ!?」
[#中央揃え]☆
「……姉上よ」
「……何よ、秀吉」
「最近クラスの連中の間で、どうにもワシの胸が成長しているらしいという噂が流れておるのじゃが……」
「奇遇ね。実はアタシもクラスメイトの間で、木下優子はいつも下着を身に着けずに可愛い女子か幼い男の子を物色《ぶっしょく》しているらしいって噂が流れているのよね……」
「「………………」」
「姉上どうしてくれるのじゃ!? こうなってはワシはもう明久たちと一緒に風呂はおろか体育の更衣室にも行けぬではないか!?」
「アンタは大して今までと立場が変わらないからいいじゃない! アタシなんて優等生から一転して三重苦の変態よ!? 責任取りなさいよ!」
「姉上が入れ替わりなぞ言い出すから悪いのじゃ! そのせいで最近は島《しま》田《だ》までもがワシの胸を親の敵《かたき》のように凝視するのじゃぞ!?」
「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》よ! アンタがおかしな演技ばかりするからじゃない!」
「いいや、姉上が原因じゃ!」
「いいえアンタよ!」
「「………………」」
「まぁ、こうなっては仕方がないから放っておくかの……」
「それもそうね……。気にしたって仕方がないし……」
「「少し待てばもっと凄い話題が出て、こんな話は忘れられるだろうから(の)」」
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文月新聞[#3段階大きな文字]
【芸能】[#「【芸能】」は太字]
熱愛発覚![#3段階大きな文字]
学園震撼!![#2段階大きな文字]
話題のFクラス女子に想い人!?[#1段階大きな文字]
お相手は野性味溢れる憎〜いアイツ!![#1段階大きな文字]
[#ここから3字下げ]
最近様々な事件で何かと話題に上がる二年生のFクラスだが、一部の生徒の噂によるとそこの数少ない女子生徒であるS田M波さんに好きな相手がいるという話だ。校内ランキングの 彼女にしたくない女子 &薄蛯ナ名を馳せる彼女だが、その裏では好意を表に出せずにいるいわゆる 隠れファン ≠ェ多いという事実も少なからず認められている。そんな彼女の真実に我々文月学園新聞部は勇気を持って迫ってみた。部員のうち数名が彼女に直接話を伺いに行ったところ、その途中で不幸にも事故にあってしまったようなので直接取材を断念。代わりに彼女をよく知る周囲の人々に話を聞いてみた(詳細は次項インタビュー記事にて)。
そこで発覚したお相手とは、なんと我々の想定を覆す驚きの人物(?)のチンパンジーさん(年齢住所職業不明)だった。何時、どのように知り合ったのかは不明だが、クラスメイトがひしめく教室で高らかに熱愛宣言をするなど、その気持ちはかなりのものの様子。時間を置いてからは冷静になったためか、その想いを否定する動きも見られたものの、それでは好きな相手がいないのかと聞き返すと赤面して俯いてしまうとか。彼女の性格を考慮するに素直になれていないだけでその想い自体は本物だと言えるだろう。記者個人としては理解できない気持ちではあるが、同じ学舎の生徒として、できる限り彼女を応援したい。
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【彼女をよく知る人々へのインタビュー】[#「【彼女をよく知る人々へのインタビュー】」は太字]
クラスメイトのY井A久さん
『とにかくショックでした』
Y井さんは一言だけそう言うとあとは押し黙ってしまった。未確認情報ではあるが、実はY井さんはS田さんに少なからず異性の魅力を感じているフシがあるとか。そう考えると彼はS田さんを巡る争いにおいてチンパンジー氏に負けてしまったことになる。未だ逆転の目は消えてはいないものの、その価値観のあまりの違いにショックは隠し切れないだろう。奇しくも彼はS田さんの隠れファンの気持ちを代弁したことになる。
──────────
【彼女をよく知る人々へのインタビュー】[#「【彼女をよく知る人々へのインタビュー】」は太字]
自称【S田さんの恋人】S水M春さん
『絶対に認めません。あの豚野郎であればまだしも、猿ごときにお姉様を譲るなど言語道断です。そもそもお姉様には美春という恋人がいるのにそのような疑惑が持ち上がるというだけで噴飯ものです。美春以外の誰がお姉様のペッタンコに触れるというのですか』
S水さんは終始その調子で怒り心頭のご様子。彼女にとってこのニュースは神経を逆なでする以外の何者でもなかったのだろう。尚、彼女がS田さんの恋人であるという事実は新聞部としても確認できていない。
──────────
【チンパンジーみたいな人へのインタビュー】[#「【チンパンジーみたいな人へのインタビュー】」は太字]
残念ながら想い人であるチンパンジー氏の詳細を掴みきれなかった為、我々は彼に類似するであろう人にインタビューを行った。
チンパンジーの相似形N村S一教諭
『貴様ら良い度胸だな』
インタビューの趣旨を説明した我々に対して彼は一言そう呟くと、インタビュアー全員を拘束して補習室へと去っていった。本記者は偶然にも所用で遅れて参加した為に辛うじて難を逃れることに成功した。この件に関してのこれ以上のインタビューは困難を窮めるため、断念することにした。
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──────────
【お悔やみ申しあげます。】[#「【お悔やみ申しあげます。】」は太字]
●2-E 矢野武雄
(新聞部所属インタビュアー)
S田M波さんに取材中、全身の関節を逆に曲げられる事故に遭う
●2-B 井川健吾
(新聞部所属インタビュアー)
前記矢野氏と同様の事故
●2-B 小野 明
(新聞部所属インタビュアー)
N村教諭へのインタビュー以降行方不明
他、新聞部数名
──────────
[#ここで字下げ終わり]
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僕と海辺とお祭り騒ぎ(前編)[#「僕と海辺とお祭り騒ぎ(前編)」は太字]
「そういえばアキくん。お友達を誘うと言っていましたが、結局旅行の人数は何人くらいになりましたか?」
「姉さんも入れて九人なんだけど」
「九人、ですか? 随分《ずいぶん》と人数が多いですね」
「うん。参加したいって人がたくさんいてさ。無理かな?」
「いえ。ワンボックスカーを借りたら大丈夫ですが……誰をそんなに呼んだのですか?」
「えーっと……、まぁ、学校の友達だよ」
「学校のお友達ですか。例えば誰です?」
「雄《ゆう》二《じ》とか、秀吉《ひでよし》とか、ムッツリーニとか……」
「坂本《さかもと》君たちですか。他には?」
「………………ひ」
「『ひ』? 秀吉君なら聞きましたが?」
「ひ……ヒ・ミ・ツ♪」
「アキくん。歯を食い縛って下さい」
「ご、ごめんなさいっ! ちょっとした冗談ですっ! ちゃんと言うから殴らないで!」
「わかりました。正直に言ってくれるのなら、ご褒《ほう》美《び》にチュウをしてあげましょう」
「残り四人は昨日知り合った宇宙人なんだ」
「よく正直に答えてくれました。さぁ顎《あご》を上げて目を閉じて下さい」
「ちょっと待って! 今僕明らかに嘘《うそ》をついたよね!?」
「人間も広《こう》義《ぎ》に解釈《かいしゃく》したら宇宙人ですから」
「そんなの屁理《へり》屈《くつ》だ! って待って待って! とにかく謝るからストップ、ストーップ!」
「……そこまで嫌がられると、流石《さすが》に──」
「あ……。ご、ごめん。傷ついた? でも、姉弟でそんなことは」
「──ムラムラしますね」
「変態っ! 変態がいるっ! 度《ど》し難《がた》い変態が、僕の凄く身近なところに!」
「本気にしないで下さい。三割冗談です」
「やばい……。この人、半分以上本気だ……」
「そもそも、アキくんが嘘をついて誤魔化そうとしたのがいけないのです」
「う……。それは……」
「どうして誤魔化そうとしたのですか?」
「あのさ……」
「はい」
「言っても……怒らない?」
「参加者に女の子がいる、なんてことでなければ、怒りませんし殴りませんしヘシ折りませんし女装もさせませ──どこに行くのですかアキくん?」
「嫌だぁっ! 怒られて殴られてヘシ折られて女装させられるのは嫌だあーっ!」
「そうですか。女の子がいるのですか」
「ち、違うんだよっ! それは、その……皆にはテスト勉強でお世話になったし、いつも一緒にいるメンバーだから呼ばないのも変だし、誘った時は泊《と》まりがけだなんて思っていなかったし……!」
「まったく、あなたという人は……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「……まぁ、いいでしょう。お世話になっている人たちなのは確かですし、姉さんの見ていないところで何かをされるよりは余程良いです」
「え? じゃあ、許してくれるの?」
「今回だけですからね」
「ありがとう姉さんっ」
「ただし」
「ん? なに?」
「旅先で不純異性交遊と認められるような行為をしたら……その時は、わかっていますね?」
「あ、あはは……。ど、どうなるのかな〜?」
「一族郎党皆殺しです」
「いやそれ、姉さんも死んでるから」
[#中央揃え]☆
抜けるような青空に浮かぶ大きな入道雲。僅《わず》かに感じられるそよ風がその形を少しずつ変えていく。この光景を見ると、いよいよ夏本番といった雰《ふん》囲《い》気《き》だ。海水浴に出掛ける日としては、これ以上はない絶好のコンディションと言えるだろう。
「今日は海に行くには最高の天気だな」
降り注ぐ日差しに顔をしかめることもなく、Tシャツにハーフパンツといった、いかにも夏な感じの格好《かっこう》をした雄二が呟《つぶや》く。コイツは体格が良いからラフな格好が凄くよく似合う。実はそういった格好に密《ひそ》かにあこがれている僕としては羨《うらや》ましい限りだ。
「まったくじゃ。むね──ではなく心が躍るのう」
こちらは薄手の白のパーカーと七分丈のパンツを組み合わせている秀吉。今日も可愛らしい外見で性別の境界を曖昧《あいまい》にする友人は、スポーツバッグを抱えて車の到着を今か今かと待ち構えていた。
「……血液パックが傷《いた》まないか心配」
ロールアップのジーンズ姿のムッツリーニが、抱えていたクーラーボックスに心配そうに目をやる。多分その中に、この男の命を支える血液パックが大量に入っているんだろう。海と言えば異性の水着。僕とて抽断していたら簡単に三《さん》途《ず》の川を渡る羽目になるという事実は否めない。
「ところで明久《あきひさ》君。今更なんですけど、この人数が車に乗りきれるんですか?」
タイトなデニムのスカートとTシャツの上にキャミソールを重ねた格好の姫《ひめ》路《じ》さんが旅行|鞄《かばん》を両手に抱えてこちらを見ている。いつもとはイメージの違う服装で新鮮だ。
「そういえばそうね。お姉さんを入れたら九人だから普通の車の免許で大丈夫なの?」
「えーっと、姉さんは大丈夫って言っていたけど……」
その隣に立つ美《み》波《なみ》はロングの巻きスカートにTシャツという格好。私服のスカート姿は初めて見るけど、美波は手足がすらりと長いからどんな服装も映えるなぁ。
「……自動車の中型免許は十一人以上から」
「ボクも昨夜ネットで調べたけど、普通免許でも車次第で十人までは乗せても大丈夫みたいだよ」
Aクラスコンビの霧島さんと工《く》藤《どう》さんが僕の代わりに説明してくれる。霧島さんはミニスカートにペールトーンのサマーセーターを合わせていた。暑い外気を忘れさせてくれるようなピンクと白の組み合わせが目に優しい。
そして一方、工藤さんは、
「ん? 吉《よし》井《い》君。そんなにボクの格好が気になる?」
「い、いやっ。別に」
「……あ、さては……」
「な、何かな?」
「ボクのキャミの中が気になっちゃうのカナ〜?」
「べ、別にそういうわけじゃ……!」
「あははっ。見たいのなら、もっと堂々と見たらいいのに。ボクは全然構わないよ?」
工藤さんはショートパンツに上はキャミソールだけという露出の激しい服装だ。さっきから水着と思われる日焼けのあとがチラチラ見えて色々と困る……。
僕が目を逸らしていると、近くにいた雄二が工藤さんの格好を見て目を細めていた。
「そうか。そういえば工藤は水泳部に入っていたんだったな。随分と健康的な日焼け跡がついて(ブスリ──ビクンビクン)」
「……浮気は禁止」
冷静に目を潰す霧島さんと痙攣《けいれん》しつつ地面でのたうつ雄二の姿。このバカはいつまでたっても学習しないなぁ。
「まったく、この二人は相変わらずだよね──」
「(ササッ)そ、そうですね」
「(ササッ)ほ、ホント、仲が良いわよね」
「待って二人とも。気のせいかもしれないけど、今チョキを僕の目に向けて構えていなかった?」
この二人、最近たまに音や殺気を感じさせることなく攻撃をくわえてくることがある。美波はともかく姫路さんまでそこまで熟達《じゅくたつ》してしまうなんて、色々な意味で彼女にFクラスはよくない影響を与えていると思う。
少しの間そうやって雑談をしていると、目ざといムッツリーニが最初にその気配に気が付いた。
「…………車が来た」
「んむ? おお。そのようじゃな」
マイクロバスかと思えるほど大きな車がやってきて、ゆっくりと僕らの前に停まった。
その運転席のドアが開くと、そこから姿を現したのは
「あら……? すいません。お待たせしてしまったようですね」
僕の血のつながった実の姉、吉井|玲《あきら》だ。そういえば、姉さんが運転する姿を初めて見た気がする。色々と規格外の行動を起こす姉さんの運転はちょっと心配だったけど……この様子だと特に問題はなさそうだ。
「いや、俺たちが勝手に早く集まっただけなんだ」
「うむ。つい気が逸《はや》ってしまっての」
「…………楽しみ」
「玲さん。今日はお招き頂いてありがとうございます」
「ウチもこの旅行を楽しみにしてました」
まずは面識のある雄二たち五人が姉さんに声をかける。姉さんはその挨拶《あいさつ》を聞くと
「そう言って頂けると私も嬉しいです」と微笑《ほほえ》んだ。
続いて、初対面の霧島さんと工藤さんが姉さんの前に立ち、会釈《えしゃく》をした。
「初めまして。坂本雄二の妻の翔子《しょうこ》「ちょっと待て! 何を勝手に(ブスリ──ビクンビクン)」……翔子です」
「こんにちは、吉井君のお姉さん。ボクは工藤|愛《あい》子《こ》っていいます」
「初めまして、翔子さんと愛子さん。私は明久の姉の玲です」
和やかに挨拶が続く。こうして見てみると、女の子が多くて凄く華やかだ。いつもはFクラスっていうむさ苦しい空間にいるから、なんというかとても新鮮な感じだ。
「さて。こうしていても仕方がありませんので、早速向かいましょうか」
姉さんが車を指差す。
「そうだね。話は車の中でもできるし、時間も勿体《もったい》ないからとりあえず出発しようか。皆も適当に乗っちゃってよ」
「「「はーい」」」
荷物とのたうち回る雄二を抱えて車に乗り込む。
いよいよ楽しい旅行の始まりだ。
[#中央揃え]☆
「そういや明久」
「ん? なに雄二?」
車の中で、隣に座る雄二が話しかけてきた。
席の割り振りは、姉さんがいる手前、男女別ということになった。残念そうな霧島さんと、嬉しそうな雄二の表情が対照的だった。
「お前はこれから行く所に行ったことがあるんだろ? どんなところなんだ?」
「え? ああ、うん。えっと……」
記憶を掘り起こすために一瞬|言《い》い淀《よど》む。
あの場所はどんなところだったかって言うと……。
「ん? なんだ。全然覚えていないのか」
「まさか。そんなことあるわけないじゃないか」
失敬な。人の記憶力をバカにするにも程がある。
そう。あれは確か──
「確か、五〜八年前の春か夏か秋のことで」
「範囲広すぎだろ」
「さては全然覚えておらんな」
「…………(コクリ)」
ごめんなさい。ちょっとだけ見栄《みえ》を張《は》りました。
「つまりは着いてからのお楽しみ、というわけじゃな」
ちなみに僕らの前の席にいる秀吉は座席越しにこちらを向いている。
「そうね。折角だから楽しみにしてましょ」
「近場の海なら限られますけど、泊まりがけでの遠出となるとどこに連れて行ってもらえるのかわからなくて楽しみですね」
秀吉と同じ列に座る姫路さんと美波も楽しげな笑みを浮かべてこちらを向いた。
十人乗りの車なので、座席は前から順に二人・二人・三人・三人となっている。最前列には運転手の姉さんと乗り物酔いをするという理由でムッツリーニ。その後ろに霧島さんと工藤さん。そして姫路さんたち、僕らと続いている。荷物はそれぞれの席にまとめてあるんだけど……三人で座っている席はちょっと狭《せま》そうだ。
「姫路さん。その席に置いてある荷物、こっちに渡してもらえるかな?」
「え? あ、はい。これですか?」
「うん。こっちの方が席が広いからさ。こっちに置いておくよ」
「いえ、そんなに気を遣ってもらわなくても大丈夫ですよ。美波ちゃんと木下《きのした》君は細いですから。……私は兎《と》も角《かく》……」
一瞬姫路さんの声のトーンが下がる。あれ? なんか地雷でも踏《ふ》んだ?
「瑞《みず》希《き》。アンタもしかして……太ったの?」
「はうっ!」
美波に言われると、姫路さんは胸を押さえてのけぞった。
「ちょ、ちょっとだけですよ!? ほんのちょっとだけ、その……ちょっとだけ、たっぷりと……」
「どっちなのよ」
「ち、違うんですっ! あれはきっと、髪が伸びた分なんです! そうです! そうに決まってます! 決してアイスやジュースのせいじゃありません!」
そういえば、最近めっきり暑くなってアイスやジュースみたいな冷たい物が美味《おい》しい季節になったよね。
「ふふっ。バカね。この前ちょっと体重が減ったからって調子に乗るからそんな目に遭《あ》うのよ」
「うぅ……。油断しちゃいました……」
「ウチは夏バテも手伝ってちょっと痩せたくらいよ」
「ええっ!? ず、ずるいですっ! 手ひどい裏切りですっ!」
「ええ。痩せたわよ。……胸から、ね……」
「………………」
まるでお通夜のような雰囲気が前の座席から漂《ただよ》ってくる。女の子はどうしてそこまでスタイルを気にするんだろう。二人とも、一般的な水準から比べれば抜群《ばつぐん》のスタイルだと思うけどなぁ。……まぁ、美波の胸はちょっとだけ残念かもしれないけど……。
「姫路も島《しま》田《だ》も気にしすぎではないかのう」
僕と同じような感想を抱いたのか、沈んだ雰囲気の二人を励《はげ》ますように秀吉が声をかける。だと言うのに、美波はそれを聞くと顔を手で覆《おお》ってしまった。
「ほっといて! どうせウチは木下よりも胸の成長が遅いのよっ!」
「なんてことを言うのじゃ島田!? ワシの胸は成長なぞしておらんからの!?」
まずい。僕がうっかり話しちゃったあの時、美波にまで伝わってるみたいだ。
「いいのよ木下! ウチに気を遣って嘘なんてつかないでも! ウチにはわかってるのっ! どうせ木下はウチを置いて一人でたゆんたゆんになっちゃうんでしょ!」
「それはワシにとって不幸以外の何物でもないのじゃが!?」
うぅ……。そういう話は、できれば僕ら男子の前では控《ひか》えて貰えると嬉しいかも……。リアクションに困るし……。
「確かに木下君はスタイルの悩みとは無《む》縁《えん》のようでいいですよね……。ウエストもばっちりくびれてますし……」
「落ち着くのじゃ姫路よ。生来《せいらい》男のウエストにくびれは発生せんぞ」
「まったくよ……。胸が大きくなるのが不幸だなんて、贅沢《ぜいたく》にも程があるわ……」
「ダメじゃ……。この二人、まったくワシの話を聞いておらん……」
疲れたように呟く秀吉。人それぞれ悩みはあるようだ。
そんな暗い雰囲気を払拭《ふっしょく》するかのように大きく咳払《せきばら》いをして、秀吉は明るい口調で二人に告《つ》げた。
「じゃがまぁ、さっきも言ったが二人とも気にしすぎではないかの? 姫路も島田も、ワシにはどこも変わったようには見えんぞ」
「そ、そんなことありませんっ! 328グラムも増えたんですよ!?」
「そうよっ! ウチだって0・4ミリも減ったんだから!」
「お主ら、測定器の桁《けた》が少々おかしいぞい……」
それは明らかに誤差だろう。
「いえ、いつもはそこまで気にしないんですけど、今回は……」
「水着だし、それに……」
「ええ。そうですよね」
姫路さんと美波の視線がなぜか運転席の姉さんの方に向かう。何をそんなに意識しているんだろう。
「……確かに、玲さんは危険」
「だよね〜。ボンッ、キュッ、ボンッ! って感じだもんね。あまり気にしないボクでも羨ましくなっちゃうよ」
更にその会話に霧島さんと工藤さんが加わった。女子の中では共通認識されている話題のようだ。
「本当に、あの胸が羨ましくて仕方がないわ……」
「私はウエストのくびれが羨ましいです……」
「……お姉さんの色気。ずるい」
「グラビアモデルみたいだよね〜。あのおっぱい、瑞希ちゃんと同じくらい卑怯《ひきょう》だと思うよ。凄く張りがありそうだし」
「どんな水着を用意したんでしょうか? あのスタイルなら、何を着てもきっと格好良いんでしょうね……」
「大人っぽいビキニとかじゃない? いいなぁ……」
「……羨ましい」
「Hな本に出てくるヒモみたいな水着だって着こなしちゃいそうだよね」
『あら? 康《こう》太《た》くん、どうかしましたか? 鼻から何か赤い物が』
『…………車酔い』
車酔いで鼻血が出るとは初耳だ。
まぁいっか。スタイルの話は下手に首を突っ込むと厄介《やっかい》なことになりそうだし、放っておくとして。
「あのさ、秀吉。とりあえず荷物をこっちに置くから取ってもらえる?」
ひとまずさっき受け取ろうとしていた荷物をもらっちゃおう。
「んむ? そうか。それでは頼むぞい」
話しかけると、秀吉は足元や膝《ひざ》の上に窮屈《きゅうくつ》そうに置かれていた荷物のうちの一つをこっちに渡してくれた。このやたらと重い荷物は……多分ムッツリーニの物だろう。さては、またカメラとかの機材を大量に持ち込んでるな?
受け取った荷物を僕の隣のスペースに押し込む。まだちょっと余裕があるかな。
「あともう一つくらいこっちに置けるけど?」
「ふむ。ならば、これも頼むぞい」
そう言って渡されたのは、見覚えのある旅行鞄。これは姉さんの荷物か。それなら壊れ物も入っていないだろうし、ムッツリーニの荷物の緩衝材《かんしょうざい》として奥の方に仕舞っておくことにしよう。
「よいしょ、っと──ん?」
すると、その拍子に鞄の口が少し開いてしまった。このままにしておくと荷物が出てきちゃうかもしれない。きちんと閉めておかないと。
「って。あれ? なかなか閉まらないな」
チャックの部分が何かを噛んでしまったみたいだ。荷物の詰め込み過ぎかな? 鞄の端から布が飛び出しているのが見える。
とりあえずチャックを閉めるために、飛び出しているこの荷物だけでも取り出しておこう。姉さんの荷物なら僕の鞄に入れておけばいいし。
そう思って、チャックを広げて中身を取り出す。せぇ……のっ
ズルリ(スクール水着登場)
「アウトぉーっ!!」
「(ビクッ)いきなりどうした明久!? 何があったんだ!?」
「どうしよう雄二!? 僕の身内が度し難いレベルのイタい人なんだけど!?」
「そ、そうなのか……。だが、スクール水着を握《にぎ》りしめたお前の方が余程イタいと……」
「え!? ち、違っ……! これは姉さんの」
「そうか。お前は姉のスクール水着に興味があるのか。確かに度し難いな」
「ちょ……っ! 待ってよ! そうやって僕を蔑《さげす》んだ目で見るのはやめてよ! 誤解だってば!」
「うんうん、わかったわかった。ちょっと待ってろ。携帯のメモリーからお前の番号を消した後でゆっくりと話を聞いてやるからな」
「おのれ雄二……! まるで僕と知り合いであることが人生の汚点であるかのような扱いを……!」
「待つのじゃ雄二よ。番号を消しては着信拒否が設定できんぞ」
「やめて秀吉! 僕を 友達 ≠ゥら他人どころか ストーカー ≠ノまで格下げしないで! 雄二はどうでもいいけど秀吉に言われると凄くショックだよ!」
「あー……。すんません、玲さん。海の前にちょっと警察に寄ってもらえます?」
「違うっ! 寄るべきなのは水着ショップ! 僕を留置所《りゅうちじょ》に置いていく必要はないんだ!」
「その心配はいらないぞ明久。留置所にプールはないからな」
「ああもうっ! 買うのは僕のじゃなくて姉さんの水着だよ! 全然会話がかみ合ってないっ!」
どうして僕が変態扱いされなくちゃいけないんだ!
「どうしましたかアキくん。姉さんの水着が気に入らなかったのですか?」
「気に入らない! 心の底から気に入らないよ!」
「ですが、アキくんは姉さんに『恥ずかしいからできる限り露出の少ない水着を着て欲しい』と言っていたではないですか」
「ごめんなさい! その年でこの水着を着ている姉と歩く恥ずかしさに比べたら肌の露出くらいなんでもなかったよ!」
「??? ですが、姉さん一人だけ皆さんと違う水着というのも寂《さび》しくないですか?」
「え? 何を言ってるの姉さん?」
「だって、学生は必ず全員その水着を着るのでしょう?『スクール』水着というくらいですから」
「学生は全員これを着るって……? まさか姉さん。向こうで大学に通っている時にもこの水着を……!?」
大学生も立派な学生のうち。まさかとは思うけど、一抹《いちまつ》の不安が拭《ぬぐ》いきれない。むしろこの姉なら十二分にありえる話だ。
背中に冷たい汗が流れる感覚。実の姉の行動にここまで戦慄《せんりつ》するなんて……!
「何を常識ハズレなことを言っているんですかアキくん。大学は"|University《ユニバーシティ》"ですよ? "School《スクール》"水着を着たらおかしいじゃないですか」
「良かった……! 本当に良かった……! こんな規格外《きかくがい》の姉に常識ハズレって言われたことも笑顔で許せるくらいホッとしたよ……!」
危うく海外の人に日本の間違った文化を伝えさせるところだった。
「よくわかりませんが、安心してもらえましたか」
「うん。安心したよ」
「では姉さんの水着を鞄にしまっておいて下さい。流石に皆さんの前でそうやって広げられると姉さんも恥ずかしいです」
「って違う! チェンジだよ! 水着チェンジ! 弟としてこんな物を認めるわけにはいかない!」
「つまり、その水着では露出が足りないと?」
「ああもうそれでいいや! だから海の家でもどこでもいいから新しい水着を買うんだ!」
「まったく、アキくんはHな上に騒がしいですね。少しは落ち着いている康太くんを見習って下さい」
「…………明久。エロは自重するべき」
「うわぁぁん雄二! ムッツリーニにエロって言われたぁーっ!」
「泣くな明久。お前だってたまに他人に バカ ≠ニ言うことがあるだろうが」
「認めない! 僕のバカとムッツリーニのエロが同レベルだなんてことを、僕は断じて認めない!」
僕はちょっと人より勉強が苦手なだけだ!
「まぁ、アキくんがそう言うのなら折角なので水着を新調しましょうか。流石にそれではバストのあたりがきつそうでしたし」
「…………(ダバダバダバ)」
運転中でなければ姉さんの首を掴《つか》んででも助手席を見せてやるのに。
「まぁいいか……。姉さんが自重してくれるなら、この際なんでも……」
まさか海に向かう車の中だけでこんなに疲れるとは思わなかった。
[#中央揃え]☆
車に乗ること約三時間。
長い道のりを経《へ》て辿《たど》り着《つ》いたペンションは、緑に囲まれつつも潮の香りが届くような好立地だった。
「わぁ……。眺《なが》めもいいですね……」
「凄いわね〜。風も気持ちいいし」
「……絶好のロケーション」
「晴れて良かったよね〜」
車を降りた女子勢が外を見て感嘆の声を上げた。
小高い丘の上というだけあって、眺めも良い。建物自体はちょっと古いけど、夏の海を楽しむには最高の条件が揃《そろ》っていると言えるだろう。
「さて。どうするんだ? 荷物を置いてすぐにでも海に向かうか?」
「そうだね。海が見えたら泳ぎたくて仕方なくなっちゃったし」
「…………(コクコク)」
夏の海というのはどうしてこんなにも楽しそうなんだろう。遠くから見ているだけでも、今すぐ水着になって海に駆け出したいくらいにテンションが上がってくるから不思議だ。
「それでは荷物を部屋に運んだら海に行きましょうか」
「「「はーい」」」
そんなこんなで僕らが着替えを終えて二十分後。
「やっぱり俺たちは待たされるわけだ」
「仕方ないよ。向こうは水着の準備に時間がかかるんだから」
「…………こっちも機材の準備に時間がかかるから助かる」
男三人で浜辺で女子勢の着替えを待つ。こういう時あまり時間のかからない姉さんも水着の調達をしなきゃいけないから、それなりに待つことになるだろう。
パラソルの影に入りながらのんびりしていると、遠くから微《かす》かに妙《みょう》な会話が聞こえてきた。
『……む。明久たちはあそこじゃな。おーい、おぬしら──』
『あ、あなたっ! 何をしているんですか!?』
『んむ? なんじゃ、監視員の方じゃな。そんなに血相を変えてどうしたのじゃ?』
『どうしたのじゃ、じゃありませんっ! どうしてあなた、上を着ていないんですか!』
『??? どうしてと言われても、普通男物の水着に上は着ないものじゃと』
『女の子が男物の水着を着る時点で間違っているんです! とにかくこっちに来なさい!』
『ま、待つのじゃ! ワシは男じゃからこれで良いと』
『私の目が黒いうちは、この海水浴場でそんな過激な格好は許しませんからね! ここは子供たちも大勢いるし、怖いお兄さんとかも一杯いるんだから!』
『だから違うのじゃ! とにかくワシの話を!』
『上を着ない限り、絶対に海水浴場には入らせませんからね! 途中《とちゅう》で脱いでもダメですよ! きちんと遠くから双眼鏡で監視しますからね!』
『だから待つのじゃと言うとるのに──!』
なんだか、今かすかに聞こえてきた声が秀吉に似ていたような気がしたけど……気のせいかな?
なかなか皆がやってこないので、適当に準備体操代わりに足首を回したりして時間を潰す。
「それにしても、今回は玲さん様々だな」
そんなとき、雄二が海を見ながらそんなことを言った。
「ん? 車のこと?」
「それもあるが、『不純異性交遊禁止』ってヤツだ。あれのおかげで翔子がおとなしくなってくれて助かる」
「ああ、それね。それは別に僕以外には適用されないと思うけど……」
それに、姉さんはきっと雄二と霧島さんを婚約者同士だと思っているだろうし。
「いや。全員に、ってことにしておいてくれ。その方が都合がいい」
「え〜? どうしようかな〜?」
勿体つけるように言ってやる。
コイツに頼まれると、どうしてか二つ返事で引き受けようって気がしなくなるから不思議だ。
「別に、言いたいなら言っても良いが、その時はお前にも相応の報《むく》いを受けてもらう」
「報い?」
「島田とのキスをばらす」
「天地神明に誓《ちか》って黙《だま》っておくよ」
友人の真剣な頼みを断るほど僕は薄情な人間じゃない。
「そういやお前、他に頬《ほお》にもキスされてたなんてことがあったよな」
「ぅぇっ!?」
な、なんでコイツがそれを知っているんだ!? あの時、学校の屋上《おくじょう》には僕と姫路さんしかいなかったから誰も見ていないはずなのに!
「ち、違うんだよ! 屋上でのあれはきっと、姫路さんなりの挨拶のつもりだったはず! あれ以来も特に姫路さんの態度は変わらないし、本当のところを聞こうと思ってもなかなか切り出せないし──」
「は? 姫路? 島田の妹のチビッ子じゃなくてか?」
「…………明久。屋上って?」
「………………」
どうしよう。取り返しのつかないミスを犯した気がする。
「おい明久。何か面白い話のネタを隠していないか?」
「いやいやいやいや。そんなことはないよ。ちょっとそういう夢を見たことがあるってだけで」
「そうか。それなら後で姫路に聞いてもいいか?」
「おだべば」
「何語かわからんが『やめて下さい』と言いたいってことだけはわかるぞ」
「それは話が早くて助かるよ……」
と言っても、僕自身も姫路さんのあれについては何がなんだかさっぱりわかっていない。頼とは言え、キスはキスだ。好意のない相手にそんなことをするとは思えない。けど……
「初恋、まだ続いているって言っていたもんなぁ……」
「ん? なんだって?」
「あ、いや。姫路さんの初恋の相手って誰だったのかと思ってさ」
そりゃ僕だって男だ。分不相応《ぶんふそうおう》にも、何度か姫路さんが僕に好意を抱いているんじゃないか、なんて思ったことがある。でも、この前聞いた『初恋が続いている』という言葉から考える限り、その可能性はなさそうだ。
「姫路の初恋の相手? 実はお前だったりするんじゃないのか?」
「あはは。そうだったら嬉しいけどね」
「…………違うの?」
「う〜ん……。確か小学校の頃、姫路さん本人が違うって言っていたような……」
僕の記憶だから、かなり怪しいところではあるけど。
「そうか。まぁ、昔のことなんか気にしても仕方がないだろ」
「だよね。あはは」
「…………それより重要なのは、さっきのキスの話」
「その通りだ」
ぐ……! ムッツリーニめ。あまり口を開かないくせにこういう時だけ……!
「あー……。それなんだけど、実は──」
どうやって煙《けむ》に巻《ま》くか考えながら口を開いたところで、
「…………っ!(ササッ)」
ムッツリーニの目がぎらりと光を放った。そしてその手には既《すで》に四台のカメラが握られている。どうやら女性陣の到着のようだ。これは都合が良い。
「ほらほら。皆来たみたいだよ。やっぱり海と言えば水着の女の子だよね!」
「ちっ。誤魔化されたか」
「…………とにかく、撮影を」
ムッツリーニが器用に四台のカメラ全てを同時に構える。恐らく逆光補正とかピント修正とかも完璧に為《な》されているんだろう。つくづく底の知れない男だ。
[#中央揃え]☆
「お待たせっ。準備に手間取っちゃってゴメンね」
そんな元気な声でやってきたのは、工藤愛子さん。下はジーンズを短くカットしたようなパンツで上は普通の水着だけど、水泳部の水着とはサイズがだいぶ違うのか、肩やお腹部分の日焼けの境界線がはっきりと見えてしまって少し困る。いかにも 夏 ≠チて感じの麦わら帽《ぼう》子《し》を被っていて、それがまた凄く似合っていて可愛い。
「流石水泳部だな。水着も麦わら帽子も似合ってるもんだ」
「そうかな? ありがと、坂本君。……ん?」
「…………(ササッ)」
「あははっ。ムッツリーニ君ってば。ボクの水着、撮《と》りたいのなら堂々と撮ればいいのに。いつも言ってるけど、別にボクは怒ったりいないから。ね?」
「…………自《うぬ》惚《ぼ》れるな、工藤愛子」
「え? どういうことムッツリーニ君?」
「…………貴様の水着に興味など微《み》塵《じん》も(ダバダバダバ)──これは熱射病《ねっしゃびょう》のせい」
「おお。頑張ったなムッツリーニ。28秒だぞ」
「凄いじゃないかムッツリーニ。鼻血の我慢記録更新だよ」
「吉井君に坂本君。そんな悠長なことを言ってないで助けてあげようよ……」
まるで蛇口《じゃぐち》を捻《ひね》ったようにとめどなく流れ出す鼻血を心配して、工藤さんがムッツリーニに駆け寄る。
「あ、工藤さん。君が今近付くと──」
「…………日差《ひざ》しがキツくなってきた……っ!(ブシャァァアアッ)」
「え? ちょ、ちょっとムッツリーニ君!? ムッツリーニ君ってば! 大丈夫なの!? 鼻血が噴水みたいになってるけど!?」
「…………最近の熱射病はタチが悪い(ブシャァァアアッ)」
「もうコレ熱射病とかじゃなくて新型ウィルスか何かじゃないかな!?」
これは凄い。頸動脈《けいどうみゃく》を切り裂かれてもここまでの勢いで血は出ないんじゃないだろうか。流石にここまでの出血となると黙って見ているわけにもいかない。
倒れているムッツリーニに近付いてゆっくりと話しかける。
「ムッツリーニ」
「…………明久……」
「……遺言は?」
「何言ってるの吉井君!? 縁《えん》起《ぎ》でもないよ!?」
「…………来世は、鳥に生まれてきますように……」
「ムッツリーニ君もそこで乗らないの! ちゃんと助かるからっ!」
「………そして、空から女子更衣室を思う存分|覗《のぞ》けますように……」
「しかも生まれ変わってもやることはソレなの!? もうちょっと現世の死因から何かを学ぼうよ!」
ムッツリーニは笑顔のまま顔面を鮮血に染めて逝《い》った。自らの信念に殉《じゅん》じた君の遺志《いし》は、この僕が確かに受け取った。
「すいません。お待たせしちゃいました」
「……お待たせ」
工藤さんに遅れること少し。今度は霧島さんと姫路さんがやってきた。水着は前にプールで見たのと同じみたいだけど……ロケーションが変わっただけで全然違う印象を受けるから不思議だ。
「……愛子。あまり土《つち》屋《や》をいじめないように」
「いや、ボクなにもしてないんだけど……」
霧島さんが倒《たお》れ臥《ふ》すムッツリーニを見て工藤さんに告げる。ムッツリーニの鼻血の原因がよくわかっていないみたいだ。
「違いますよ翔子ちゃん。土屋君は工藤さんの水着姿があまりに可愛いから興奮しちゃったんですよ。ね、土屋君?」
「…………そんな事実は確認されていない」
虫の息ながらも必死に否定するムッツリーニ。素直じゃないなぁ。
「……興奮?」
「はい。土屋君も男の子ですから」
「……そう」
姫路さんの言葉を聞くと、霧島さんは一つ頷《うなず》いた後にゆっくりと雄二に歩み寄った。
「……雄二」
「んぁ? なんだ翔子?」
「……えい(ブスリ)」
「ふごぁっ!?(ブシャァァアッ)」
そして、雄二の鼻に霧島さんの白魚《しらうお》のような指が潜り込み、そこから間欠泉《かんけつせん》のごとく鼻血が湧き上がった。
「……これで、いい」
「いいわけあるかぁっ! いきなり何しやがる!(ブシャァァアッ)」
「……だって、雄二は私の水着に興奮しないといけないから」
なるほど。それで実力行使か。それなら仕方がない。
けど、そんなことをしなくても充分鼻血ものだと思う。
「霧島さんも姫路さんも、二人とも綺《き》麗《れい》だからなぁ……。スタイルもいいし……」
「え……っ!? あ、明久君!? そんな、綺麗だなんて、恥ずかしいです……」
「んぁっ!? ご、ゴメン! つい口に出ちゃった!」
パレオの裾《すそ》を合わせるような仕草をしつつ姫路さんが身体を縮めている。
そんなこと言うつもりはなかったのに、思わず独り言が!
「ふんっ。どうせウチはスタイルが悪いですよーだ」
今度は背中側からちょっとご機嫌斜《きげんなな》めの声が聞こえてきた。この声は美波か。
「って、あれ? 美波は水着変えたの? この前と違うみたいだけど……」
振り向いてみると、パーカーを羽織《はお》っていて全部は見えないものの、美波の水着はこの前のセパレートタイプとは違ってワンピースタイプのものだった。……というか、あれは競泳用の水着かな?
「こ、これはその、今日はたくさん泳ぐ気だったからで! ほら、最近アイスやジュースが美味しくて、体重が増えちゃったから……!」
「え? でも美波、車の中では夏バテで胸が痩せたって」
「む、胸は痩せたけど、お腹は出たのよ──ってウチのバカぁーッ! そんなこと強調してどうするのよーっ!」
力強く言い切ると、美波は顔を覆って嘆《なげ》き始《はじ》めた。
「そ、そうなの? 僕には全然そんな風には見えないけど」
「いいのよアキ……。どうせウチなんて、古き良き日本人体型なんだから……。ドイツで育ったはずなのに……」
なんて本人は言っているけど、美波も充分魅力的だと思う。スレンダー美人って表現が一番しっくりくるだろうか。ニュースに出てくるくらいのレベルのファッションモデルと似ているんじゃないかな。……確かにあの人たち、胸はないけど。
なんてやっているところに、今度は僕が最も恐れている人物が現れた。
「あら? どうかしましたか美波さん。そんなところで座り込んで。うちの愚弟が何か粗《そ》相《そう》でもしましたか?」
美波の後ろから浮き輪を片手に歩いてくるのは僕の姉、吉井玲その人だった。
「あ、何でもないんです玲さん。ちょっとウチが一人で落ち込んでいただけ──で……」
美波が声の主の方へと顔を向けて……そのまま動きが固まる。
「美波さん?」
「……しくしくしく」
「美波さん。どうして私を見て泣き出すのでしょうか」
「いいんです……。ウチはもう、瑞希や玲さんには一生勝てないんです……」
「???」
何を言われているのかわからないようで、姉さんは小さく首を傾げていた。
それにしても──
「良かった……。姉さんが普通の水着を選んでくれて、本当に良かった……!」
姉さんが着ているのは、どこにでもあるような普通のビキニ。おかしな点はどこにも見あたらない。心の底からホッとした……!
「そんな心配はしなくても大丈夫ですよアキくん。サイズが無くて、選択肢が殆《ほとん》どありませんでしたから」
「待つんだ姉さん。選択肢があったらどうする気だったんだ」
そもそも普通の水着と普通じゃない水着の区別ができるような口ぶりがおかしいと思う。
「……玲さん」
「はい、なんですか翔子さん?」
「……少しだけ、失礼」
むんずっ
そんな擬音が聞こえてくるような、霧島さんの行動。
「? どうしましたか、翔子さん」
「……凄い……」
なぜか霧島さんは、姉さんの胸を鷲掴《わしづか》みにして戦《おのの》いていた。
「あ、玲さんっ! 私も失礼しますっ!」
そして今度はその後ろから、姫路さんが姉さんの腰に腕を回す。
「??? 瑞希さん。あなたも何か?」
「……いえ……なんでも……ないです……」
姫路さんは力なくそう答えると、静かに姉さんから離れて──美波の隣に同じ体勢で座り込んだ。
「……しくしくしく……」
「あ、瑞希……。いらっしゃい……」
「美波ちゃん……。海って、残酷ですね……」
「違うのよ瑞希。残酷なのはきっと、神様なのよ……」
まるで生気の感じられない目をした美波が姫路さんを暖かく迎え入れている。
なんだろうこの葬式みたいな雰囲気は。
「ほらほら皆、元気出しなよ。最後の一人も来たみたいだし、ね?」
そんな空気を払拭するかのように工藤さんが明るい声を出しながら視線を送る。するとその先には、ゆっくりとこちらに歩いてくる秀吉の姿があった。
「すまぬ皆の衆……。ワシが一番最後のようじゃな……」
頭上の天気とは裏腹に、淀んだ秀吉の口調。
「どうかしましたか、秀吉くん。随分と元気がないようですが」
「そうだね。着替えの前は『今度こそワシを男として認識させるのじゃ!』なんて張り切ってたのに」
「放っておいて欲しいのじゃ……」
俯《うつむ》いて呟く秀吉は、なぜか水着の上に見覚えのないTシャツを着ていた。
[#中央揃え]☆
「スイカとバットを用意しているとは、明久にしては気が利くな」
「海と言えばスイカ割りだからね。きちんと冷やしておいたし、きっと美味しいはずだよ」
「…………暑くて喉《のど》も渇《かわ》いているから、楽しみ」
ひとしきり泳いだ後、僕たち男三人はスイカやバットを抱えてペンションから海へと続く道を歩いていた。
「そういや、そろそろ昼時か。スイカとは別に昼飯も調達しておかないといけないな」
「え? 塩水がいっぱいあるじゃない」
「平然とその答えを返せるお前って、ある意味凄いよな……」
「…………よく生きてると思う」
ああそっか。姉さんがいるから形だけでもまともな食事をする必要があるのか。
「火を起こせるのなら、海で貝を採っても面白そうだな」
「あ、それいいね。持って帰れば味噌汁とかにも使えるし」
「あとは海の定番の焼きそばやカレーやイカ焼きあたりもいいが──ん? どうしたムッツリーニ?」
「…………あれ」
雄二が尋《たず》ねると、ムッツリーニは遠くに見える姉さんたちの姿を指差した。なんだろう? 誰かと話をしているみたいだけど、知り合いでもいたのかな?
『カワイイ子ばっかりだね〜。何? どっから来たの?』
『あ、いえ。私たちは、その……』
『向こうにダチもいるからさ。良かったら一緒に遊ばない? そっちの綺麗なお姉さんも一緒にさ』
困ったような姫路さんの声。これはもしかして……?
「ナンパだな。あの面子《メンツ》なら仕方ないことだが、面倒なことだな」
「…………始末する?」
ムッツリーニがいつの間にやら取り出したスタンガンをチラつかせている。海でその武器は扱いを間違えば大惨事だ。
「ああ、そうだな……。やっちまうか。その方が手っ取り早いだろ──」
「いや、そんなことをしなくても大丈夫だよ」
ムッツリーニを行かせようとする雄二を止める。別にそんなことをする必要はないと思うし、海水とスタンガンの組み合わせは万が一が起こったら困る。ここは余計なことをせずに様子を見るのがいいだろう。
「ん? 大丈夫って、どうしてだ?」
「姫路さんたちだけなら心配だけど、姉さんがいるからね。うまくあしらうはずだよ」
姉さんは昔から内面を知らない人には異様にモテる。だからこういったナンパのあしらいかたはよく知っているはずだ。何の問題もない。
『申し訳ありませんが、お断りします』
遠くからそんな姉さんの声が聞こえてきた。相手の押しの強さとかに左右されることのない毅《き》然《ぜん》とした口調。うん。これなら放っておいても大丈夫そうだ。
『え? なんで? カレシでもいんの?』
とは言え、それだけで引き下がるほど向こうもヤワじゃないようだ。なんとかしようと食い下がっている。まぁ、あの顔ぶれを見たら簡単には諦《あきら》められないという気持ちもわからなくはないけど。
そんな相手に対して、姉さんが生真面目《きまじめ》に返事をする。どうせナンパなんだから、そこまできちんと相手をしなくても良いと思うけどなぁ。
『いえ。彼氏はいませんが』
『え? いないの? ラッキー♪ だったらさ、オレたちと』
『彼氏はいませんが、代わりに弟がいます』
ん? 弟? それって僕のことだよね? そんなものがナンパを断る口実になるとは思えないけど……。
『はぁ? 弟? そんなの別にどうでもいいじゃん。オレだって弟くらいいるぜ?』
僕の予想通り、向こうもその程度では引き下がらない。そりゃそうだ。弟と彼氏は全然違う。弟がいるからといって別にそれが障害になるとは思えない。はてさて。姉さんはそこからどうやってナンパを断るのだろう。
『侮《あなど》ってはいけません。私と弟の関係は凄いですよ』
『へ? 関係が凄いって、ナニ?』
『あまり大きな声では言えませんが、実は……(ゴニョゴニョ)』
『へ……、変態だっ!』
ちょっと待った。今一体何が起こっているんだ。
『それだけではありません。他にも毎日……(ボソボソボソ)』
『そ、それは日本の法律で許されるのか!?』
ナンパ男の動揺が遠くからでもはっきりと伝わってくる。姉さんは何を話しているんだ!? こうしちゃいられない! 早く止めないと大変なことになる気がする!
慌てて声の方へとダッシュ。僕の中の様な予感警報が鳴りっぱなしだ。
『いえ。驚くのはまだ早いですよ。更に、弟の要求次第では(ヒソヒソ)を使った(モニョモニョ)なども──』
『う、嘘だろ……っ!? これ以上、俺の中の常識を壊さないでくれ……っ!』
「ちょっと姉さん! 何を話してるの!?」
「っっ!? ね、『姉さん』だと……? ってことはコイツ──」
「あの、何を言われたのかわからないけど、多分それは誤解で」
「で、出たぁーっ! 鬼《き》畜《ちく》変態の弟だぁ──っっ! 身内も性別も気にしないケダモノの王だぁ──っ!!」
「こら待てぇっ! 誤解したまま逃げるなっ! お願いだから待ってぇ──っ!!」
ナンパ男が凄い速さで走り去っていった。どうしよう……。僕、もう来年からこの海水浴場に来られないかもしれない……。
「まったく、ああいうのは困りものですね」
「僕にとっては姉さんが一番の困りものだよ……」
姉さんと年が離れていて良かった。もしもこんな姉と同じ学校に通う羽目になっていたら、きっと僕は不登校に陥っていたことだろう。
[#中央揃え]☆
『明久君、もっと右ですよー』
『違うわアキ。実は左よ』
『吉井君、もっと前だよー』
目《め》隠《かく》しの布に閉ざされた視界で、皆の声だけを頼りにスイカを目指す僕。いつもなら姫路さんのアドバイスを無条件で信頼するけど、目隠しの状態だと秀吉の物《もの》真似《まね》か本物の姫路さんか区別がつかないからそういうわけにもいかない。いや、もしかすると秀吉は美波の真似をしているかもしれない。そうすると、美波が僕をからかって嘘をついていると判断するのも危険だ。
『アキくん。そこから左前方32度、直線距堆4・7メートル程度の方向です』
『…………明久。実は逆方向』
姉さんとムッツリーニらしき声も聞こえてくる。しかも全員が違う内容を言っているから正しい方向がわからない。さては、皆面白がって適当なことを言ってるな?
こうなると、逆に信用できるのは雄二のアドバイスだ。アイツならきっと素直な情報を言わずに嘘をつく──と見せかけて本当のことを言ってくるはず。その情報を基に、スイカの場所を当てれば……!
耳を澄ませて雄二の声を探る。さて、何を言ってくる……?
『……雄二。この水着、どう……?』
『どう、と言われてもな。前に見ているし、別になんとも』
『……それはきっと、きちんと見てないから。もっと近くで見るべき』
『ってオイ!? そんな格好でくっついてくるな! 色々当たってるだろうが!』
『……遠慮しなくても、いい』
……ほほぅ。なるほど。
得られた情報を基に、頭の中で地図を描く。目標物は左後方47度、直線距離3・4メートル。場所さえわかれば、僕の動きに迷いはない。あとは全力でバットを振り下ろすだけだ。
「くたばれぇぇええっ!!」
「うぉおっ!? 危ねぇ──っ!!」
ちぃぃっ! 手応え無し! 外したか!
「ああ、ごめん雄二。スイカと間違えちゃったよ」
言いながら目隠しを外す。
バットがめり込んでいるのは雄二の手前数センチ。この野郎……! 寸前《すんぜん》で回《かい》避《ひ》しやがったな……!
「明久よ……。今お主、雄二の声がした途《と》端《たん》に迷わずダッシュをしておったように見えたのじゃが……?」
「あははっ。何を言ってるのさ秀吉。酷い誤解だよ」
そのような事実は一切認められません。
「……まぁ、気にするな秀吉。明久はあくまでもスイカを探していただけだからな。そうだろ明久?」
「うん。勿論《もちろん》だよ」
雄二の言葉に即座に同意する。そんな、美人の霧島さんにくっつかれている雄二が妬《ねた》ましくて殴りかかった、みたいに思われるのは心外だ。僕はもっと心の広い男なんだから。
「じゃあ、次は俺の番だな。明久、バットをよこせ」
「いやいや、何を言ってるんだよ。雄二はさっきやって失敗したばかりじゃないか」
「そう言うな明久。今のお前で全員一回目が終わったから、次は二周目だろう? それならまた俺の番からじゃないか」
「いやいやいや。二周目が始まるなら、今度は順番を逆にする方が公平だと思うよ。だから僕がもう一回挑戦するよ」
お互いに笑顔のまま全力でバットを引っ張り合う。ここで譲《ゆず》ったが最後、ヤツの息の根を止めるチャンスを失ってしまうことになる。
「あ、あの、明久君に坂本君。折角のスイカを割って飛び散らせちゃうのもなんですから、スイカ割りはこの辺で……」
「「スイカは絶対に割らないから大丈夫(だ)」」
「お主ら、一体何を割るつもりなんじゃ……」
それは割ってからのお楽しみ。
[#中央揃え]☆
血で血を洗うようなスイカ割りも無事に終えて、お昼時。
男性陣がスイカを持ってきたからということで、今度は女性陣がお昼の焼きそばやカレーを買いに行っていた。
「ねえ雄二」
「なんだ?」
「急に肩の辺りが軽くなった気がするんだけど」
「奇《き》遇《ぐう》だな。俺もだ」
さっきまで感じていた嫌な気配のようなものが綺麗さっぱりなくなっている。これってやっぱり……
「女性陣がいなくなって妬みの視線がなくなったから、だよね」
「だろうな。まったく、厄介なもんだ」
美人揃いで目立つ分、一緒にいる男としてはキツい部分もある。きっと、男と女のレベルが釣《つ》り合《あ》っていない、とか思われてるんだろうなぁ……。
「あれ? ところでムッツリーニは?」
「ああ。さっきカメラのレンズを洗浄《せんじょう》するとか言ってどこかに行ったぞ」
「ふ〜ん。どうせまた鼻血で汚しちゃうくせにね」
「それでも動かずにはいられないんだろ」
「まぁ、それがムッツリーニっていう男だもんね」
雄二と適当な会話をしながら周囲を見回してみる。海ってカップルばかりのイメージだったけど、こうして見てみると……
「意外と女の人だけで来ているグループもいるんだね」
「ん? そういやそうだな。って、ナンパをする男連中がいるんだから、ナンパされる女がいて当然か」
「それもそうだね」
ナンパ、ナンパねぇ……。そういうのって、漫画や小説の中だけの話だと思っていたけど、意外と身近にあるもんなんだなぁ……。
「お待たせしました二人とも。ただいま戻りました」
「あ、お帰り。結構時間がかかったね。混んでたの?」
ボケーっとしているところに、色々な食べ物や飲み物を携《たずさ》えた女性陣が帰ってきた。
「いや、そこまで混んでおったわけではないのじゃが……」
ジュースのペットボトルを持っている秀吉が苦々《にがにが》しく呟く。何かあったのかな?
「ボクたち、またナンパされちゃったんだよね」
「え? また?」
女の子だけでいたからだろうか。男性陣はスイカを持ってきてくれたから、なんて言葉に甘えずに、やっぱり誰か男がついていくべきだったなぁ。
「さっきは特に、美波ちゃんと翔子ちゃんが随分《ずいぶん》と迫られて困ってましたよね」
姫路さんが苦笑いを浮かべながら美波と霧島さんに視線を送る。
「ホント、ウチああいうのって苦手なのに……」
「……私も、苦手」
執拗《しつよう》に迫られていたという二人は疲れた顔をしていた。
「ふえ〜。それは大変だったね」
「いつものように腕力で片付けてやれば良かったんじゃないか?」
言いながら、雄二と二人で荷物を受け取ろうと手を伸ばす。
「こらこら、そんな態度じゃダメだよ吉井君に坂本君」
すると、その伸ばした手をペチン、と工藤さんに叩かれてしまった。
「そんな態度って言われても」
「何がダメなんだ?」
「何がダメなんだ──って、はぁ……。二人とも、本当に女心がわかってないね……」
工藤さんがこれ見よがしに大きな溜息《ためいき》をつく。
姉さんがいるから大丈夫だろうと思ったんだけど……と言う前に、不機嫌そうな声が割って入った。
「こらアキ。アンタ、ウチらが困っていても気にならないって言うの?」
「明久君。それはちょっと冷たいと思います」
「あ、いやそういうわけじゃ……」
美波と姫路さんがジト目でこちらを見る。そういうつもりはなくて、単純に心配はいらないと……。
「……雄二」
「ん?」
「……雄二はもっと、ヤキモチを妬《や》いたり心配したりするべき」
「いやだから俺なりに心配はしていると痛だだだっ! ちょっと待て! お前が俺に何を要求しているのかさっぱりわからねぇ!」
「……わかるまで教えてあげる。……身体に」
「ふぐぁぁあっ!」
感情表現がストレートな霧島さんは怒りのたけを素直に雄二にぶつけていた。
(「そうよね。アキたちはもっとウチらのことを心配するべきよね」)
(「ですね……。少しくらいは妬いてもらえないと、なんだかちょっと……」)
(「じゃあ、少し心配させてやりましょ。このままじゃ釈然としないし」)
(「いいですね。ちょっと意地悪しちゃいましょうか」)
「ん? どしたの、姫路さんに美波?」
隣では美波と姫路さんが顔を寄せて何かを囁《ささや》き合《あ》っていた。なんだろう?
「ねぇ瑞希。ああいうのって、いつどこに行っても出てくるから困るわよね」
「そうですね。困っちゃいますね」
美波と姫路さんがなぜかこちらを見ながらそんなことを言う。
「あれ? 美波や姫路さんってよくナンパされるの?」
今まではそういった話を聞いたことが無かったような気がする。
「はい。それはもう、いつでも!」
「そうよ。それはもう、どこでも!」
妙に力強い返事だ。
「でも、その割にはさっき随分と慣れていない反応に見えたけど……」
「そ、そんなことないです! いつものこと過ぎて呆《あき》れて声も出なかっただけです!」
「そ、そうよっ! 瑞希の言うとおりだわ! 鈍《にぶ》くて恋愛ごとに縁のないアキにはわからないでしょうけどねっ!」
む。鈍くて縁がないなんて、失礼な。
「そんなことないねっ! 僕だってナンパくらい余《よ》裕《ゆう》で──」
「明久君。余裕で、なんですか?」
「アキ。余裕で、何かしら?」
なぜだろう。ナンパくらい余裕でできる、と言ったら殺される気がしてきた。
「えーっと、余裕で、その……」
「まさか、できる、とでも言うんですか? 明久君が?」
「アキ。アンタ何を言ってるの? アンタにナンパなんてできるわけがないじゃない」
「む」
「そうですよ。明久君にナンパなんて似合いませんし、うまくいくとも思えません。見栄を張っちゃダメです」
「むむ」
「アキくん。人には向き不向きというものがあります。アキくんは恋愛ごと全般に向いていませんから、異性との交遊はお友達までにしておくべきだと思います」
「むむむっ」
隣で聞いていた姉さんまで口を挟《はさ》んできた。
なんて酷い言われよう。僕だって、本気を出せばナンパくらい……!
「……雄二も、全然女心がわかっていない。……だから、モテない」
「く……っ! 言ってくれるじゃねぇか……っ!」
霧島さんに顔を鷲掴みにされたまま、雄二が呻《うめ》く。よくあの状態で普通に喋れるな。
「まったく、吉井君も坂本君も反省しないとダメだよ? ほらほら代表も、その程度で許してあげなよ。買ってきた飲み物が温《ぬる》くなっちゃうから、ね?」
工藤さんがそう言って締めると、渋々と言った感じで霧島さんは雄二の顔面から手を放した。
(くそっ。なんか、妙に納得いかねぇぞ)
(だね。理《り》不《ふ》尽《じん》に怒られた気がするよ)
解放された雄二と小声で愚痴《ぐち》り合《あ》う。僕らはそんなに怒られるようなことをしただろうか?
(しかも、ちょっと自分らがナンパされたくらいで調子に乗りやがって。何が俺たちがモテない、だ。そんなワケがあるかっての)
(全くだよ。僕が恋愛に不向きだなんて、そんなこと全然ないのに。僕だって本気を出せばナンパくらい──)
できる、と言おうとしたところで、今度は僕の目に友人のとある光景が映った。それは……カメラを携えて戻ってこようしているムッツリーニが、誰か知らない人と話をしているという珍しい光景だ。一体誰と何の話を
『ねぇキミ、凄いカメラ持ってるね』
「…………???』
『良かったら、一枚撮ってくれない?』
『…………別に、構わない』
『本当? ありがとっ』
『あ、そうだ。それならキミも一緒に写ろっか♪ 夏の思い出に、ね?』
『あははっ。それいいねっ。この子、結構可愛い顔してるしっ』
「ぐぼぁっ!!」
「ど、どうした明久!? 何を見たんだ!?」
思わず血を吐いてしまうほどの信じ難い光景。
ば、バカな……! そんな……ことが……っ!
「しっかりしろ明久! お前は一体何を見たんだ!」
「ナンパ……されてる……」
「あ? なんだって?」
「ムッツリーニが……逆ナン、されてる……っ!」
「んぁ? 何をバカなことを。寝言は寝て言えと常々──」
『きゃーっ。キミ、写真撮るの天才じゃない!?』
『すごーい! メチャクチャ綺麗じゃない!』
『…………この程度、一般技能』
『またまた、照れちゃって可愛いっ』
「ごはぁっ!!」
雄二の口からも鮮血が飛び散る。
「あ、ありえねぇ……っ! どうして、俺たちを差し置いてムッツリーニが……っ!」
「ありえない、ありえないよ……」
信じられない。いや、信じたくない!
「……あのさ、雄二」
「なんだ……?」
「もしかして、だけどさ」
「ああ」
そう。万が一。億が一。ありえないとは思うけど、気のせいかもしれないけど、もしかしたら──
「このメンバーでモテないのって、僕と雄二だけなんじゃ……?」
「ば、バカなことを言うなっ! そんなことがあってたまるかっ!」
「だ、だよねっ! そんなわけないよねっ! 僕は何を言ってるんだか!」
「全くだ! バカも休み休み言えってんだ!」
雄二と二人て冷や汗を流しながら笑い合う。そうだよね。僕の考えすぎだよね! あはは、あはははははっ!
…………でも、
「それなら、どうして僕らは声をかけられたりしないんだろうね」
「ぐ……っ」
女性陣はこの短時間で少なくとも二回は声をかけられている。それだけなら男と女の違いということで納得できないこともなかったけど……ムッッリーニが逆ナンされたとなれば話は別だ。
「やっぱり、姉さんが昔から言っているように、僕は全くモテないんじゃ……」
背も伸びて、筋肉だってついてきたから、もしかしたら僕も少しはモテるようになったんじゃないかと思ったけど、やっぱりダメなままなんだろうか……。
「いやいや、落ち着け明久。女子はおいておくとして、ムッツリーニはあの通りパッと見は物静かで無言だからな。声をかけられ易《やす》かっただけだろう」
「まぁ確かに、ムッツリーニは僕らとはタイプが全然違うね」
言うなれば、静と動って感じだ。
「ああ。だから俺たちがモテないと判断するのは早計だ。お前はともかく、この俺がモテないわけがない」
「そ、そうだよねっ。僕らはタイプ的に声はかけられにくいけど、だからってまだモテないって決まったわけじゃないもんね!」
「そうだとも! 逆ナンはされないかもしれないが、俺たちが本気を出せばナンパぐらい余裕のはずだ!」
「うんうんっ! 何が『アンタにナンパなんてできるわけがない』だよっ! 目に物見せてやるっ!」
「その意気だ明久! こうなりゃ、俺たちの本気を見せてやろうじゃねぇか!」
「うんっ! 僕らがちょっと本気を出せばどれくらいモテるのか、皆に見せてやろうよ! いつまでもモテないままだって思われていてたまるかっ!」
「おうともよっ!」
というわけで、僕と雄二は己のプライドを守る為、浜辺でナンパをすることになった。
後になって思い返すと、この時の僕らは本当に──どうかしていたとしか思えない。
[#中央揃え]☆
「とは言ったものの……、雄二はナンパなんてしたことある?」
「一度もないな」
「実は僕も……」
雄二と二人、海辺でターゲットを探す。男連れはトラブルの元になるだけだから、狙いは女の人だけのグループ。さらに二人で来ていれば人数も合って丁度良《ちょうどい》い。問題は、そこにどうやって声をかけるか、という点だ。
「だが、そう心配するな明久。こういったことは、成功者の模《も》倣《ほう》をすればきっとうまくいくはずだ」
「模倣? それって、誰かの真似ってこと?」
「ああ、そうだ」
真似、真似ねぇ……。
「それって、誰の真似をするの?」
「丁度さっき見ただろうが。ムッツリーニが逆ナンされるところを」
「あ。そっか。確かにあれは成功例だよね」
向こうから声をかけられるなんて、成功も成功、大成功だ。僕らとはタイプが違うから[#「タイプが違うから」に傍点](ここ重要)あそこまではいかなくとも、真似をしたらうまく声をかけられるかもしれない。
「つまり、写真を撮ろうとしている人を狙うってわけだね?」
「ああ。旅先では思い出の為に写真を撮る連中が多いからな。女だけでカメラを構えているグループを探す」
ふむふむなるほど。それは素晴らしいアイデアだ。
「でも、そんな都合のいいグループなんているかなぁ?」
「それを探すのがナンパの第一歩ってヤツじゃないか? とりあえず他に手がないんだからやってみようぜ」
「ま、それもそうだね」
ひとまず浜辺を見渡してみる。この辺りには……そんなグループはいないか。女の人だけで、写真を撮ろうとしているグループは……。
「いるか、明久?」
「う〜ん……。いないなぁ……。そっちは?」
「こっちもだ」
雄二と二人で目を皿のようにしてターゲットを探す。
なかなか都合の良いグループは見つからない。
「やっぱり簡単にはいかないね」
「そういうもんだろ。なに。条件に合う連中さえいれば、あとは余裕のはずだ」
「そうだね。相手を見つける以外は関門《かんもん》なんてあって無《な》きが如《ごと》しだもんね」
更に移動しながら周囲を探る。条件に合う相手さえ見つけてしまえば、あとは『良かったら僕が写真を撮りましょうか?』と声をかけるだけでOKだ。それで適当に『どこから来たんですか?』とか言って会話をふくらませたらいい。会話の切《き》っ掛《か》けさえ掴めたらそこから先はトントン拍子に進むはず。そう。最大の問題は、会話の切っ掛けを掴むという一点のみなのだから。
と、そこまで考えて僕は思った。
最大の問題は、 会話の切っ掛けを掴む ≠ニいう一点。だとしたら──最初に声をかける方ではなく、それに続くもう一人の方はどうなる? そっちはどうやって切り込めばいいんだ? 何を話題にして会話に加わる?
「……もしかすると……」
最初に声をかける側と続く側じゃ、かなりハンデがあるんじゃないだろうか。なにせ、片方は会話の切っ掛けという最大の問題を既にクリアーしているのに、もう片方は話題探しという明らかに差が付いた状態でのスタートだ。下手をしたら、片方が成功して片方が失敗、なんてことになりかねない。
僕が成功して雄二が失敗する分には大歓迎だ。最高の状態と言える。
──けど、万が一。万が一にも、その逆パターンになってしまったら……! 想像するだけで恐ろしい。
「………………」
隣を見ると、雄二も思案顔をしていた。まさかコイツ、僕と同じことに思い至ったんじゃ……!?
「ど、どうしたんだ明久。まるで『大変な事実に気がついてしまった』って顔をしているぞ」
「あ、あはは、なに言ってるのさ雄二。そんなの気のせいだよ。それより雄二こそ『俺は抜け駆けをするぞ』って顔に書いてあるよ?」
「ば、バカを言うな。そんなこと、今までの人生で一度も思ったことがない」
雄二と二人で笑い合う。
そうさ。抜け駆けなんて良くないことだ。ナンパなんかのために友情を壊すなんて愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》だ。そんなことをしても、なんの得にも──
(『じゃあ撮るよ〜。はい、笑って〜って、あれ?』)
(『うん? どうかしたの?』)
(『ごめ〜ん。メモリーがいっぱいだった〜。今消すからちょっと待って〜』)
(『もうっ、早くしてよね〜』)
「「うぉぉおおおっ!!」
聞こえた瞬間に砂浜を爆走。僕の身体よ、今だけ羽より軽くなれ……っ!
「てめぇ明久! その全力ダッシュはどういうつもりだ! お前は後からゆっくりついてきやがれ!」
「雄二こそなんだよその爆走! 余裕がなくてみっともないよ! 向こうは遠く離れているんだからゆっくり歩いてきなよ! 僕が先に話題を作っておくからさ!」
「い〜やっ! お前のやることは信用出来ねぇ! ここは俺に任せておけっ!」
「くっ! そうはいくかっ!!」
雄二と小競《こぜ》り合《あ》いをしながら全力で走る。慣《な》れていない砂地は走りにくいことこの上なくて、思うように前に進まない。けど、条件は五分と五分だ……! とにかく全力を費やして走り切れ……っ!!
『お待たせ〜。じゃあ撮るよ〜』
『はーい』
『今度はちゃんと撮ってよね〜』
「「うぉおおおっ!!」」
ま、間に合った! まだ写真を撮っていないっ!
あとは雄二に先を越されないうちに僕が写真を撮るだけだ!
「ハァハァハァ……。お姉さん……ハァハァ……キレイ、ですね……」
「ハァハァハァ……。良かったら……ハァハァ……水着の写真を、ハァハァ……撮らせて……ハァハァ…下さい……」
「いや……ハァハァ……僕が撮って……ハァハァ、あげます……ハァハァ」
『『『………………』』』
[#中央揃え]☆
「……まさか、警察を呼ばれるとはな……」
「……何が……いけなかったんだろうね……」
折角のチャンスのはずだったのに、お姉さん方の反応は冷たいを通り越して辛辣《しんらつ》だった。即座にあの場から逃げ出さなければ、今頃は取調室でカツ井を食べる羽目になっていたかもしれない。
「もしかしたら写真を切っ掛けにするのは難しいのかもしれないね。ほら、ムッツリーニと違って僕らはカメラが似合いそうにないし」
「確かにそうだな。写真を上手く撮るようには見えないだろうからな」
そうだ。きっとそうに決まっている。別に僕らがモテないわけじゃない。
「だとしたら、アプローチの方法を変えるか」
「その方がいいだろうね」
僕と雄二にカメラは似合わない。そういった技術を要求されるものじゃなくて、もっと違った手段でお近づきになるべきだろう。
「よし。じゃあこうするか」
首を捻っていると、雄二がポンと手を叩いた。
「ん? 何か別の方法を思いついた?」
「ああ。任せておけ」
堂々と胸を張る雄二。流石、こういう時には頼りになる男だ。
「いいか明久。女に限らず、大抵のヤツは容姿を褒《ほ》められると喜ぶだろう?」
「まぁ、そうだね。褒められたら悪い気はしないよね」
「だから、まずは相手の容姿を褒める。そしてそこから打ち解けて仲良くなっていくって感じでどうだ?」
「ふむふむ、なるほど。要するに相手を褒めればいいんだね?」
「ああ。だが、普通に褒めるだけじゃダメだ。それだけじゃ話題が膨らまないからな。芸能人に似てる、とかモデルみたいだ、とか比喩《ひゆ》表現──つまり何かに喩《たと》えて相手を褒めるんだ」
何かに喩える、か。う〜ん……それって相手の良い部分をオーバーなくらいに強調したらいいってことだよね? 僕にうまくできるかな。
「んじゃ、ちょっと練習してみるか。そうだな……あっちにいる二人組の女の方。アイツを褒めてみるとしたら、どうなる?」
そう言って雄二が示したのは、波打ち際を歩いている大学生くらいのカップルの女の人だった。えっと、あの人はスレンダーでサングラスをしていて、日焼けも凄いから、
「ビーチバレーの選手みたいに格好良いですね、とか?」
「そうだな。俺もそう思う。それじゃ、あっちはどうだ?」
今度はパラソルの下で休んでいるお姉さんを指差す雄二。パレオを巻いていて、上に白のパーカーを羽織っている。そうだなぁ、あの人なら……
「避《ひ》暑《しょ》に来ているお嬢様みたい、って感じかな」
「うんうん。良い感じだな。俺も同感だ」
なるほど。褒めるっていうのはこうやるのか。一つ勉強になった。これなら確かにうまくいくかもしれない。
「いいね、この作戦でいこうか」
「決まりだな」
雄二と頷き合って立ち上がる。作戦はバッチリだ。
「問題は声をかけるチャンスだが──お?」
丁度タイミング良く、目の前を歩いていた二人組の女の人がタオルを落とした。これぞ天恵《てんけい》っ!
「あ、あの、お姉さんっ! タオル落としましたよっ」
即座に拾《ひろ》って声をかける。口ごもっているのは喉が渇いているからで、別に緊張したからじゃないんだっ!
「え? あ、ホントだ。拾ってくれてどうもありがとう」
「いえいえ、別にこれくらいなんでもないですよ」
拾ったタオルをお姉さんに手渡す。そしてその間、僕らは必死になって相手の容姿を観察していた。褒めるところ、この人たちの褒めるところは……!
「いや〜、それにしてもアレですね。お姉さんたち、綺麗ですね」
場を繋ぐために、まず雄二が適当なこと言う。喩えを挙げる特徴を探すための時間稼ぎだ。
「え? そ、そうかな?」
「なに? 君たち、ナンパ?」
言われたお姉さんたちは満更《まんざら》でもなさそうな顔をしている。これは良い感じだ。このチャンス……逃すわけにはいかないっ!
じっくりと観察して相手の褒めるポイントを限定し、雄二にサインを送る。この二人の褒める箇所はここだっ!
「いや、本当にスタイル抜群ですよ。モデルみたいだ」
「僕もそう思います。二人ともすっごくスタイルがいいですよねっ」
雄二と一緒になって畳みかけるように相手を褒める。このお姉さん方は、二人とも胸が大きい。そこを褒めるべきだ。
「まったく、口が上手いね〜」
「君たち高校生? 子供なのに、お世辞《せじ》が上手だね」
更に相手の雰囲気が柔らかくなる。ここまでは完壁だ。あとは、うまく何かに喩えていけば……!
「いや、お世辞なんかじゃないですよ」
「だよな。俺たち本気でそう思ってるもんな」
「うん。まったくだよ。お姉さんたち、本当にスタイルが良くて、まるで──」
大きく息を吸って、二人揃ってとどめの一言を告げる。
「「まるで、エロ本のヌードモデルみたいだ!!」」
[#中央揃え]☆
「……あの右、きっと世界を狙えるぜ」
「……間違いないね。あのお姉さんたち、きっと未来の世界チャンプだよ」
未だに顎や足がガクガクする。初対面の女の人を褒めてビンタをされたのは生まれて初めてだ……。
砂浜で雄二と二人、膝を抱えて黄昏《たそが》れていると、
「あれ? 明久君に坂本君。ずっといないと思ったら、こんなところで何をしているんですか?」
「うわ、ほっぺた腫《は》れれてるじゃない。一体どうしたのよ?」
「……転んだの?」
そこに姫路さんと美波と霧島さんが通りかかった。ま、マズい……。まだ一度も成功していないのに、ナンパをしているのがバレるのはあまりに体裁《ていさい》が悪い。
「べ、別になんでもないよね雄二」
「お、おう。ちょっと転んだだけだよな明久」
「「「………………」」」
ジッと僕らの目を見てくる三人。これは危険だ。
「さて、それじゃ雄二! そろそろまた泳ぎの勝負でもしようか!」
「そうだな明久! 今度は負けねぇぞ!」
「あははっ。いやぁ、水泳は楽しいね!」
「全くだな! それじゃ、いくぞっ!」
「うんっ!」
「「「………………」」」
背中に突き刺さる視線がやたらと痛かった。
──更に三十分経過──
「さっきのはうまくいきそうだったのに、雄二が余計なことを言うから!」
「い〜や、違う! お前がバカなことばかり言うからだ」
「そんなことないね! 雄二がよくわからないことを言ったせいだよ!」
「自分のことを棚に上げてよく言うな、このボケが」
「なんだとこのブサイクっ!」
あれから更に声をかけること数組。成功例は一つもなく、失敗回数ばかりがかさんでいった。
「……って、やめておくか。俺たちが争うのは不《ふ》毛《もう》だ」
「……だね。そんなことをしても意味ないもんね」
お互い掴みかかろうとしていた腕を下げる。今問題なのはそんなことじゃない。
「なぁ明久、ふと思ったんだが」
「なに?」
「もしかすると、うまくいかないのは俺たちが本気になりきれてないからじゃないか?」
「と、言うと?」
「相手が好みじゃないから、無意識のうちにどこかで失敗するように自分をセーブしてるんじゃないか、ってことだ」
「え? そうなの?」
「ああ。深層心理ってヤツだ」
深層心理、か……。そうやって難しい単語を使われると、なんだか本当にそれが原因のような気がしてくるから不思議だ。
「じゃあ、どうしたらいいのかな?」
「好みの相手を見つけるしかないだろうな」
むぅ……。好みの相手か……。そんなことを言われても困る。そもそも僕は、自分の好みのタイプがどんな人なのか、自分でもわかっていないのに……。
「なんてな。冗談だ。本気で言っていたら、今の言い訳はあまりに格好悪過ぎる」
「ま、そうだね。ここまでやっておいて今更『全力を出していない』なんてのはみっともないよね」
「だよな。……よし。こうなりゃ男らしく、あと一組失敗したら諦《あきら》めるか」
「うん。そうだね。そろそろ皆のところに戻らないとまずいし」
ハイペースで動き回ってはいたものの、それでも一時間以上は経っている。つい熱くなって飛び出して来ちゃったけど、折角皆と一緒に来ているのにこんなことをいつまでもやっていたら勿体ない。さっさと見切りをつけるべきだろう。
「それじゃ、皆のところに戻りながら適当に相手を見繕《みつくろ》うか」
「うん」
皆のいる場所を目指して砂浜を歩き出す。
警察を呼ばれたり殴られたりというトラブルに見舞われたせいで、気がつけば逃げ回って随分と遠くにきてしまった。周りにひと気もないし、戻るのに時間がかかるかもしれない。
「やれやれ……。結局俺たちはモテない男だったってことか。認めたくないが」
「まぁ、僕は最初から薄々勘付いていたけどね」
昔からずっと言われ続けていたことだし、再認識したという程度で別にそこまでショックってわけでもない。
「これはこれで良い経験ってことか──ん?」
「? どうしたの雄二?」
頭の後ろに手を組んていた雄二が急に動きを止めて、じっと前を見ている。誰かいるのかな?
雄二の目線を追うと、そこには二人の女の子の姿があった。
「へぇ〜。こりゃまた可愛い子だね〜」
どちらも女の子にしては背が高い、スレンダーな感じの美人だ。年の頃はだいたい僕らと同じくらいだろうか?
「ラストの勝負の相手はあの二人で決まりだな」
雄二が楽しげに僕に告げる。
片方は長い栗色の髪を後ろでまとめている切れ長の目をした美人で、もう片方は首の後ろくらいまで髪を伸ばしている可愛い感じの子だ。上にパーカーを羽織っていてスタイルはわかりにくいけど、少なくとも太過ぎだったり細過ぎだったりはしない。
「ま、最後の相手としては確かに妥《だ》当《とう》だね」
あれくらいのレベルが相手なら、失敗しても仕方がない。綺麗に散るには丁度良い相手だろう。
「そんじゃ、早速。おーい、そこの二人!」
言うが早いが、雄二が早速その子たちに駆け寄っていった。なんか随分やる気だな。さては、雄二の好みだったりしたのかな?
タイミングを逸《いっ》しないように、僕も雄二に続いて小走りで近づいて行く。
「え? 何?」
「私たちに何か用かな?」
そんな相手の声が聞こえてくる。クールな見た目の印象とは違って、二人とも明るくて可愛い声だった。なんか、ちょっと意外だ。
「あー……、実は俺たちこの海に今日遊びに来たんだけど、ちょっと道に迷ってさ」
周囲にひと気がないからか、迷子になって助けを探していたという感じでいく作戦のようだ。なるほど。僕もそれに乗っかるとしよう。
「その、海水浴場を探しているんだけど、どこにあるか知りませんか?」
緊張して声が若干《じゃっかん》うわずってしまう。うぅ……。さっきから何度かこうやってるけど、
やっぱり僕にはこういうの向いてないかも……。
「え? 海水浴場なんて、そこに見えてると思うけど」
「変な人〜。もしかして、ナンパなんじゃない?」
くすくす、と笑う二人。あれ? 意外と好印象。
「仕方ないなぁ。じゃあ、私たちが浜辺まで連れて行ってあげるよ。手を握って、引っ張っていってあげるからね」
そう言ってから一瞬間を置いて、栗色の髪をした女の子が雄二の腕を掴んだ。
「へ? ああ、いやっ! 別にそこまでしてもらわなくとも!」
親しげに接触してくる相手に戸《と》惑《まど》う雄二。予想外の展開に驚いているんだろう。
「じゃ、私も同じように腕を掴んで引っ張っていってあげる」
もう一人の方も同じようなことを言うと、なぜか一瞬ビクッと震えてからそろそろと僕の方に手を伸ばしてきた。
「ぅえっ!? ぼ、僕も別にそんなことしてもらわなくても大丈夫なんだけど!?」
つい咄《とっ》嗟《さ》に相手から一歩距離を取ってしまう。
な、なんだこの状況? どういうこと? まさか、実はバックにヤクザが絡んでいてひと気のない場所で酷い目に遭うとかそういうコース!?
意図を見抜こうと思って相手の顔を見るけど、向こうは前髪で目が隠れている上にこちらを向いてくれないせいで表情が読めない。声は元気いっぱいなのに、態度は随分と内向的だ。
「遠慮しないで、ね? さぁ、腕を組むよ〜」
なんだか妙に説明的な台詞の後に、相手の子が再度腕を伸ばしてくる。腕を組むって、どうしていきなりそんなことに!?
「ほらほら、照れなくていいから。そうだ、海にでも入ろ。ね、いいでしょ?」
「え? あ、ちょっと」
「いいからいいから。どんどん海に入るよ〜」
断る間もなく波打ち際にまで連れ出される。目をやると、近くでは雄二がもう既に腰のあたりまで海に入っていた。
とりあえず合流しようと思って雄二のいる方向へと進んでいく。
すると、僕の腕を掴んでいた子が急に立ち止まった。
「ん? どうしたの?」
振り向いて様子を確認する。実は泳げないとか、そういうことかな?
「ううん、なんでもないの。さぁ沖に行くよ〜」
と、声はやる気いっぱいのくせに、その場で立ち止まったきり動き出さない女の子。??? なんか、様子がおかしくない?
「ねぇ君。調子でも悪いの? それとも何か──」
困ったことでもあるの? と聞こうとしたところで、視界の隅《すみ》に雄二と相手の女の子の様子が目に入った。
『お? なんだ? 髪の色が脱色されて……は? 黒?』
髪の先が海に入り、その色が変わった。その子の髪が、栗色から漆《しっ》器《き》のような綺麗な黒へと。
あれ? 水に入るだけで色が変わるってことは、さっきまでの色はスプレーか何かでつけていたってこと? どうしてそんなことを?
『……私の髪は、元々黒だから』
そして突如《とつじょ》、その子の口調が変わった。それは──いつもよく耳にする、学年首席の澄んだ声。
そう。学年首席。つまり彼女は僕らの友人の一人。霧島翔子さんってことになる。
「そっかそっか。そういうことか。なるほどね」
相手は霧島さんだったのか。道理で凄く綺麗で、雄二が妙にやる気になっていると思った。相手が霧島さんならしょうがない──
「って霧島さん!? バカなっ! なんでここに!?」
さてはさっき会ったときにあとをつけられたのか!? そして僕らのやっていることが全部見られていたってこと!? だとすると、僕の腕を掴んでいるこの子も刺《し》客《かく》!? けど、この子は姫路さんや美波、姉さんや工藤さんにも似ていないし、声だってその全員と似つかない。まさか、その辺にいる人に協力を要請したのか!?
戸惑う僕を前に、相手がゆっくりと口を開く。
「…………これ以上沖に進むと、スピーカーに海水が入る」
その声は、ごくごく身近な友人のものだった。
「…………………………え?」
「…………機材が壊れると、困る」
この口調。この声質。この人、まさか──
「………………もしかして……、ムッツリー……ニ…………?」
「…………(コクン)」
小さく額いて、ウィッグを外したその人は、紛《まご》う方《かた》なき僕のクラスメイト。
「じゃ、じゃあ、さっきまでの声は」
『すまぬ明久。ワシじゃ』
よく観察すると、その声はムッツリーニの着ているパーカーの襟元《えりもと》から聞こえてくる。ああそっか。だからスピーカーに海水が入るって嫌がっていたのか。
つまりコイツは、機材が壊れる危険を冒しながらも秀吉に声を担当させて、自分は女装をして、僕と雄二を罠に陥れたってことだ。そんなことをしても、ムッツリーニ自身には何の得もないというのに。
「ムッツリーニ……。どうして、こんなことを……?」
一つも利がないはずなのに友人である僕らをはめるなんて、そんなバカな。コイツはスケベだけど、決してそんなことをするようなヤツじゃなかったのに。
僕が哀《かな》しみを籠《こ》めてそう尋ねると、ムッツリーニは俯いてはっきりと答えた。
「…………断ったら、殺される勢いだった……!」
小《こ》刻《きざ》みに震えているのは目の錯覚《さっかく》じゃなさそうだ。
「は……。はは、は……。そっか、そうなんだ……」
協力者であるはずのムッツリーニですら、殺されるような勢いだったのか……。
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なんとなく、雄二の方へと視線を移してみる。後ろ姿なので霧島さんの表情は見えないけど、凍《こお》り付《つ》いた雄二の顔ははっきりと見て取れた。
『……雄二』
『……はい』
『……正座』
『え? 正座って、それはちょっと場所が』
『……正座』
『いや、だからだな。ここはもう海の中だから、正座なんかしたら海水で呼吸がだな』
『………………もう一度、言わせる気?』
『…………正座、します』
トプン、と頭の先まで雄二が海水に浸《つ》かる。そして、霧島さんは優しい手つきでそっとその頭を上から押さえつけた。
そっか。僕らのやっていることはバレていたのか……。
「ねぇムッツリーニ」
「…………なに?」
「姉さんたち、怒ってた?」
「…………右腕一本、って」
「……そっか……」
右腕一本か……。うぅ……。痛そうだなぁ……。嫌だなぁ、戻りたくないなぁ……。
「…………右腕一本以外[#「以外」に傍点]、全部ヘシ祈るって[#「全部ヘシ祈るって」に傍点]」
「………………(ダバダバダバ)」
「…………明久。泣いた程度で許してもらえるほど、この世界は甘くない」
ムッツリーニがホールドしている僕の腕は解放されそうにない。恐らく、コイツも僕を逃がしたら酷い罰を受けるのだろう。掴んでいる尋常じゃない力がそれを雄弁に物語っている。
『明久君、早く戻って来て下さいね?』
『Ich freue mich darauf, Sie sehr zu treffen. Bereiten Sie sich bitte vor zu steben, Aki?』
『アキくん。姉さんは哀しいです。……弟を失うということが』
『に、逃げて吉井君っ! この三人、本気でキミを──』
ブツン、と工藤さんの言葉の途中でスピーカーから音声が途切れる。
「ねぇムッツリーニ」
「…………なに?」
「前にエロ本が2000冊欲しいって、そう言ってたよね?」
「…………それ以上に、命が惜《お》しい」
「またまた、冗談ばっかり。ムッツリーニはエロの為なら命を賭けられる男の中の男じゃないか」
「…………今は、女装しているから」
「いやいや、そんなの見かけだけだよ。ムッツリーニの本質はそんなんじゃ」
「…………明久。今まで楽しかった」
「なにその別れの直前みたいな台詞!? 楽しいよ! 明日も、明後日も、これからもずっと! 生きていればいつだって!」
「…………そう、だな……っ! …………俺も……そう、思う……っ!」
「やめてよムッツリーニ! どうしてそこで男泣きなんかするの!? 泣くくらいなら逃がしてよ! く、くそっ! こんな殺人鬼だらけの海岸にいられるかっ! こうなったら僕は一人で部屋に閉じこもってバリケードでもうわぁあああっ! 来たぁっ!? なんか凄い勢いで誰かが泳いできたぁっ!!」
「…………さようなら、明久」
海の底は、暗くて静かで──寒かった。
[#改ページ]
[#改ページ]
文月新聞[#3段階大きな文字]
【コラム】[#「【コラム】」は太字]
姫路瑞希の簡単3分クッキング[#3段階大きな文字]
今日は“あの人の舌もとろけちゃう特性☆肉じゃが”[#「”あの人の舌もとろけちゃう特性☆肉じゃが”」は太字]を作っちゃいます♪
【材料 〜4人前〜】[#2段階大きな文字]
・じゃがいも   4個
・牛肉      200グラム
・たまねぎ    1個
・しょうゆ    大さじ4
・砂糖      大さじ3
・食塩      小さじ1
・硫酸      45cc
・硝酸カリウム  適量
[#この行天付き、折り返して1字下げ] 防腐剤によく使われているので、入れたら美味しさ長持ち☆
・クロロ酢酸   お好み
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
隠し味に酸味のある酢酸を少し。
クロロ酢酸のγ型は融点が53℃だから、冷ましたら固形化します。
酸っぱいのが嫌いな人には冷ましてから結晶を取り除いてあげたらオッケー♪
相手の好みに合わせた気遣いでポイントアップかも?
[#ここまで字下げ]
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【作り方】[#2段階大きな文字]
@[#Unicode2776]たまねぎ・じゃがいもの皮を剥き、それぞれ適量に切り分けます。
A[#Unicode2777]お鍋に油をひいて、先にたまねぎを少し炒めます。
B[#Unicode2778]たまねぎが少し透明になったら、今度は切り分けた牛肉とじゃがいもを加えてさらに炒めます。
C[#Unicode2779]程よく炒めたら、更にお水・お砂糖・しょうゆ・お塩を入れて煮込みます。
D[#Unicode277A]全体的に煮汁の色が均一になったら硫酸45ccを加えます。
E[#Unicode277B]一煮立ちさせたら一旦火を止めて、クロロ酢酸と硝酸カリウムを入れてお鍋をかき混ぜてから、もう一度強火で煮込みましょう。
この時、材料の関係でお鍋の金属部分が溶け始めてしまいます。
お鍋の底に穴が開くと煮汁がなくなっちゃうので、その前に手早く調理を済ませてね♪
F[#Unicode277C]火を止めて、お鍋に残った溶液を専門業者に連絡して処分してもらったら完成です。絶対に台所に流してはダメですよ。
お料理を作る人の最低限のマナーです。
この肉じゃがで、あの人の舌も*[#ハートマーク Unicode2764]もトロトロ間違いなし☆
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──── 文月学園新聞部が送る豆知識 ────[#1段階大きな文字]
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≪この製法における化学反応≫[#「≪この製法における化学反応≫」は太字]
@NaCl《食塩》 + |CH2[#SUBSCRIPT TWO Unicode2082]ClCOOH《クロロ酢酸》 → |CH2[#SUBSCRIPT TWO Unicode2082]ClCOONa《クロロ酢酸ナトリウム》 + HCl《塩酸》
A|KNO3[#SUBSCRIPT THREE Unicode2083]《硝酸カリウム》 + |H2SO4[#SUBSCRIPT FOUR Unicode2084]《硫酸》 → |HNO3[#SUBSCRIPT THREE Unicode2083]《硝酸》 + |KHSO4[#SUBSCRIPT FOUR Unicode2084]《硝酸水素カリウム》
B塩酸 + 硝酸 → 王水*[#黒塗りドクロマーク Unicode2620]
[#ここから改行天付き、折り返して6字下げ]
*[#黒塗りドクロマーク Unicode2620][#「*[#黒塗りドクロマーク Unicode2620]」は太字]
≪王水とは≫[#「≪王水とは≫」は太字]硫酸・塩酸よりも強力な、人体に対して極めて有害な酸。
“あの人の舌”どころか骨髄までも溶かします。
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*姫路瑞希さん及び周囲の試食者は特別な訓練を受けています。[#「*姫路瑞希さん及び周囲の試食者は特別な訓練を受けています。」は太字]
*危険ですので、一般の方は決して真似することのないようお願い致します。[#「*危険ですので、一般の方は決して真似することのないようお願い致します。」は太字]
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──────────────────────[#1段階大きな文字]
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僕と海辺とお祭り騒ぎ(後編)[#「僕と海辺とお祭り騒ぎ(後編)」は太字]
「あれ……? ここ、どこだろ……?」
なんだか随分《ずいぶん》と綺《き》麗《れい》な花畑だけど……。靄《もや》がかかっていてよくわからないや。
「っかしいなぁ……。確か僕、海で遊んでいたはずじゃ……?」
目の前に広がるのは大きな川だ。決して海じゃない。
咲き誇る蓮《はす》の花に、舞い踊る蝶々。灰《ほの》かに薫《かお》る花や果物の甘い匂いはそよ風に乗って川上から流れてきている。なんて幻想的な光景なんだろう。
「この世のものとは思えないほどきれいだなぁ……」
思わずひとりごちる。
そう。喩《たと》えるならば、ここはまるで、あの世へとつながる世界のような──
「って、ヤバいっ! これ引き返さないと本気で死ぬんじゃない!?」
まるでどころかここ本当に三《さん》途《ず》の川《かわ》じゃないか! 僕は死ぬ直前ってこと!?
『おいでー。おいでー』
『怖がることはないんだよー。こっちはいいところだよー』
『美味《おい》しい物もあるし、楽しいことばかりだよー』
ひぃぃっ! 呼んでる! 対岸《たいがん》からなんかよくわかんない人たちが僕を手《て》招《まね》きしてる! というか、よく見ると一番右は死んだお爺《じい》ちゃんのような!? ダメだ! 言うことを聞くのは危険すぎる!
更に目を凝らすと、曾《ひい》お婆《ばあ》ちゃんとか交通事故に遭《あ》った遠い親戚とかもいるのが見えた。死んじゃった知り合い大集合じゃないか! こんなところ、さっさとおさらば──
『怖がることはないぞ明久《あきひさ》。こっちはこっちで結構いいところだからな』
「って雄《ゆう》二《じ》ぃっ! なんでそっち側で手招きしてるの!? ダメだよその人たちに混ざっちゃ! もう戻れなくなるから!」
『はっはっは。そうビビるなよ明久。この通り俺は元気だし、何の心配もいらないからこっちにオいでヨゥ……[#「こっちにオいでヨゥ……」は太字]』
「気付いて雄二! 悪霊化してる! もう既《すで》に半分くらい死霊になってるから!」
『っとと、すまんすまん。別にそんなことはないぞ明久。本当にこっちはいいところだ。毎日が楽しくて楽しくて──』
「ほ、ホント? 大丈夫なの? 雄二、嘘《うそ》ついてない?」
『ああ大丈夫だとも。本当に楽しくて、楽しくて、楽したのたのタノしィィィ──っ!!』
「さよなら雄二っ! キミのことは忘れないっ!」
川に背を向けて全力ダッシュ。アイツ、やっぱり助からなかったのか……! さようなら僕の悪友。せめて僕だけはお前の分まで生きるから……!
『オマエだケ、たすカるのはナッとくイかねェんダよゥ……』
背中に浴《あ》びせられる呪《じゅ》詛《そ》の言葉が妙に生々しくて怖かった。
[#中央揃え]☆
「僕たち、よく生きてるね……」
「ああ……。よく覚えていないが、リアルに地獄を見てきたような気がするぞ……」
「お主ら二人のうわごとがつながった時は、正直もうダメだと思ったぞい……」
四人でペンションのリビングのソファにかけてお互いの無事を喜び合う。生きているっていうのは、ただそれだけでなんて素晴らしいことなんだろう。後遺症《こういしょう》もなさそうだし、頑丈《がんじょう》な身体に生まれたことを神様に感謝しよう。
「けど、意外だよね」
「ん? 何がだ?」
「いや、僕と雄二って相当マズいことやったじゃない?」
「ああ、まぁそうだな」
「…………異性と一緒に出かけているのにナンパなんて、失礼極まりない」
ムッツリーニが咎《とが》めるように僕らを見る。はい、反省してます……。
「その割には罰《ばつ》が軽いと思わない?」
「確かにそうだな。この程度で済ませるとは随分甘いな」
「世間一般では臨死体験を軽い罰とは言わんと思うのじゃが……」
残念ながら、ちょっとだけ僕らの周囲の人は世間一般とは異なっているから、そこは気にしても仕方がない。
「ということは、つまり」
「ああ。まだ何かあるだろうな」
やっぱりそうか……。弱ったなぁ……。
「どうする? 逃げる?」
「いや、相手の考えが見えないうちから逃げるのもまずい。万が一、もう許されているのだとしたらまた余計な怒りを買うだけだからな」
「薮《やぶ》をつついてなんとやら、というやつじゃな」
雄二の言うことももっともだ。楽しい旅行という状況だから、もしかしたら皆の機《き》嫌《げん》が良くてこの程度で済ませてくれたのかもしれない。そう考えたら、どうせ追い詰められるのがわかっていながら逃げるなんて愚《おろ》かしい行為だ。
「それに、今から近くの町でやってる祭に出かけるんだろ? 何か酷《ひど》い目に遭うようなこともそうそう起こらない──と、信じたい……」
「まぁ、荷物持ちや何かを奢《おご》るくらいはあり得るだろうね……」
「…………それは、いつものこと」
ん。言われてみるとその通りだ。
「まぁいっか。なるようになるよね」
「だな。どうせ逃げ回っても殺されるんだ。気にするだけ損《そん》だぞ」
「だよね」
「…………達観《たっかん》してる」
これが日々ストレスに悩まず生きていくコツだ。
「それにしても、随分と遅いな。着替えに何分かけてるんだ?」
雄二が時計に目をやる。もう女性陣が着替えに行ってから三十分は経過している。僕ら男の五分で済む身《み》支《じ》度《たく》と比べなくとも、結構長い時間待たされている。水着のケアってそんなに面倒なものなんだろうか?
「「「お待たせー!」」」
華やかな声があがり、それと同時にリビングのドアが開かれる。
「皆、随分と時間がかかってたんだね──おおっ!」
「お、凄いな。そんなもんを用意していたのか」
「…………時間がかかるのも納得」
「なるほど、浴衣《ゆかた》じゃったか。全員よく似合っておるではないか」
ドアから姿をのぞかせた女性陣(秀吉《ひでよし》は除く)は、青や紫、ピンクに白と色とりどりの浴衣を着ていた。いや、色だけじゃない。柄もそれぞれ違っていて、朝顔や牡《ぼ》丹《たん》、葡《ぶ》萄《どう》なんてのもある。こうして皆が並んでいるのを見ると、まるで浴衣のニューモデルをお披露目《ひろめ》するファッションショーに来ている気分だ。勿論《もちろん》全員が可愛《かわい》くてスタイルが良いのもその一因《いちいん》だ。
「へぇ〜。綺麗だね〜。髪型も変えてるから、グッと色っぽくなってるよ」
「そ、そうですか?」
姫《ひめ》路《じ》さんが袖《そで》を広げてくるっと回ってみせる。うんうん。可愛いなぁ。
「まさか私も着ることになるとは思いませんでした」
その隣《となり》では、姉さんが戸《と》惑《まど》ったように自分の浴衣を見下ろしている。そう言えば、姉さんの荷物に浴衣なんて見あたらなかったような……。
「皆で着ようって前からこっそり相談してたんですよ。玲《あきら》さんの分は翔子ちゃんが用意してくれたんです」
「……着ていないのがあったから」
霧島さんと姉さんなら身長も近くて丁度良かったんだろう。
「ウチ、浴衣って初めて着るかも」
「あ、そっか。美《み》波《なみ》は海外育ちだもんね」
「ちょっと歩きにくくて変な感じね」
帯や裾《すそ》に手をやって着心地を確かめる美波。そのまま奥襟《おくえり》を少し緩《ゆる》めるように手を伸ばすと、日焼け止めのおかげで真っ白なままの首筋が僕の視界に入った。
な、なんというか……。
「…………ほぇ…………」
「? な、なによ、アキ」
「あ、ああ、いやっ! 別になんでもないんだっ!」
美波のうなじから慌《あわ》てて目を逸《そ》らす。
なんだろう……。皆すごくよく似合っているけど、中でも特に美波がやたらと色っぽいような……?
(吉《よし》井《い》君。今、島《しま》田《だ》さんに見惚《みと》れてたでしょ?)
すっと音もなく近寄ってきた工《く》藤《どう》さんがそんな耳打ちをしてきた。
(な、何を言ってるのさ工藤さん! そんなわけ──)
(ふふふっ。浴衣だと島田さん、特に可愛いよね〜。ほら、着物ってあんまりおっぱい大きくなくても格好《かっこう》つくでしょ? そうなると、島田さんって他はかなりレベルが高いから特に可愛く見えちゃうんだよ。着物って島田さんやボクみたいに胸が小さい女の子には助かるんだよね)
(そ、そんなこと言われても、僕にはなんのことだかさっぱり)
(ふ〜ん……? そう。わからないなら、ボクが教えてあげる。いい、見てて?)
工藤さんはそう言うと、裾のあたりに手をやってムッツリーニの方を向いた。
「ちらっ」
『…………っ!? (ブシャァアアッ!)』
そしてはだけられた浴衣から覗《のぞ》く肌を目にして、赤い華を咲かせるムッツリーニ。僕の悪友はいきなり死の淵《ふち》へと叩き込まれていた。
『む、ムッツリーニ!? 何事じゃ!?』
『…………俺が、一体何をしたと……?』
遠くでムッツリスケベが恨めしそうにこっちを見ながら床に沈《しず》んでいく姿が見える。
「ね? ムッツリーニ君もいつもより興奮しやすいでしょ? これもボクの胸が小さくても浴衣のおかげで色っぽく見えてるからなんだよ」
「う〜ん……。それについてはいつもとの差がよくわからないから、なんとも……」
心なしか鼻血の勢いが強かったように見えなくもないけど。
『生きておるかムッツリーニ!? 一体誰がこんな酷《むご》い真似《まね》を!』
『…………もう、ダメかもしれない……』
『しっかりするのじゃムッツリーニ! まだ死んではならん!』
『…………たが、これはこれで……満更《まんざら》でもない……』
『……なんというか、心配しておる自分が阿《あ》呆《ほう》のように思えてくるぞい……』
ところでムッツリーニの血液パックは明日までもつんだろうか。
とりあえずムッツリーニのクーラーボックスから血液パックを取り出して秀吉に渡していると、後ろの方では霧島さんが雄二に話しかけていた。
「……雄二。私の浴衣、どう?」
表情からはあまり窺えないけど、霧島さんがどこか照れくさそうに雄二の前に一歩出て浴衣姿を披露している。長い黒髪と浴衣の鮮《あざ》やかな紫がよく映えるなぁ。
「ん? ああ、そうだな〜……。まぁ似合ってるんじゃないか?」
ナンパの件で負《お》い目《め》があるせいか、雄二が霧島さんを形だけ褒《ほ》めている。なんという誠意のない男。万死《ばんし》に値《あたい》する。
「……じゃあ、私と結婚したい?」
「全然」
「……じゃあ、私と婚約を結びたい?」
「微《み》塵《じん》も」
「……じゃあ、雄二──」
「まっぴらだ」
「──生きて、いたい……?」
「おおっ! 翔子は本当に可愛いな! 見違えたぜっ!」
「……雄二は素直じゃない」
「お前な……。一応言っとくと、今のは 脅迫《きょうはく》 ≠チて言うんだぞ……」
「……恋愛では手段を選んじゃいけないって、お義母《かあ》さんが言ってた」
霧島さんは本当に一《いち》途《ず》だなぁ。
「さて。それじゃあお祭に行きましょうか。こんなことをしていると間に合わなくなってしまうかもしれませんからね」
ぱんぱん、と手を叩いて皆を促《うなが》す姉さん。間に合わないって、もうそんな時間だったかな? まだ日が沈み始めた程度で、お店が閉まるまでには充分すぎるくらいの時間はあったと思うけど。
「そうですね玲さん。間に合わなくなったら困りますもんね」
「急ぎましょ。ウチ、日本のお祭ってまだこれで二度目だから楽しみなのよね〜」
「……遅れたら、まずい」
「ボクもすっごく楽しみ。早く行こっ」
だというのに、女子勢が『急げ急げ』と繰り返す。なんだろう。ちょっと違和感。
「雄二、皆あんなに急いで何かあるのかな?」
「さてな。やっぱり色気より食い気ってことなんじゃないか? 俺もかなり腹が減ってるからな。気持ちはわからんでもない」
「……たこやき、やきそば、お好み焼き」
そうやって言われると僕もお腹が減ってきた。ソースの焦《こ》げる匂《にお》いが妙に恋しくなってくる。
「ほら、アキくんも用意をして下さい」
「はーい──ってあれ? 姉さん、車で行くの?」
姉さんは車のキーを手にしていた。てっきり歩いて行くものだとばかり……。
「はい。海よりは離れていますし、着替えも持って行きますので車の方がいいでしょう」
「ふ〜ん」
浴衣だから歩きにくいのかな? 念《ねん》の為《ため》に着替えも持って行くほどだから、よほど締め付けたりしているんだろう。確かに慣れていない美波あたりには必要な気遣いかもしれない。
「それじゃ、海に続いて夏の風物詩《ふうぶつし》を楽しもうか」
「そうだな」
「…………良いショットが撮《と》れるはず」
「まさに夏、という感じじゃな」
これから聞こえてくるであろう祭り囃《ばや》子《し》を想像するだけで、気は逸《はや》り心は躍り始めた。
[#中央揃え]☆
近くの学校の校庭を使った臨時駐車場から歩くこと五分。大きな公園を使った夏祭り会場は大勢の人で賑《にぎ》わっていた。
「あら…? 珍しいですね。ドネルケバブですか」
出店の暖《の》簾《れん》を見て、姉さんが呟《つぶや》く。
「珍しい? そんなことないと思うけど。前からなかったっけ?」
「五年前にはあまり見かけませんでしたね。今はこういった物が出店の定番なんでしょうか」
「定番かどうかはわからないけど、結構見かけるよ。美味《おい》しいし」
「そうですか。では、食べてみるとしましょう」
あ。まずい。余計なことを言ったかも。
もう普通に接してくれているとは言え、海で僕と雄二のやったことが完全に許されたとは思えない。ここで姉さんが『アキくん。買ってきて下さい』と言えば、僕は泣く泣く私財を投《とう》じてケバブを買ってこなくちゃいけない。まったく、余計な話を──
「アキくんは食べますか? 買ってきてあげますよ?」
「はい。買ってきます……って、えぇぇっ!?」
「? どうかしましたか?」
「あ、いや、別に……」
なんだ!? 予想外すぎる! 買ってこさせられるどころか、まさか姉さんが自分で買ってくる上に奢ってくれるなんて、何か裏があるようにしか思えない!
「それでは、姉さんと半分こにしましょうか。私も色々と食べてみたいですし」
「う、うん」
財布の入った巾着《きんちゃく》を片手に出店に並ぶ姉さん。まだ空《す》いているせいか、すぐに出来たてのドネルケバブを渡されて戻って来た。
「これは美味しそうですね。アキくん、先に食べますか?」
「いや、後でいいよ。お先に姉さんからどうぞ」
「そうですか。それでは、お言葉に甘えて──はむっ」
姉さんが湯気の出ているケバブにかぶりつく。もぐもぐと口を動かしている姿を見ていると、それだけでお腹が鳴り出しそうだ。
「はい、アキくんもどうぞ」
「うん。ありがと」
姉さんからケバブを受け取って、同じようにかぶりつく。
ケバブから溢《あふ》れる肉汁と香辛料《こうしんりょう》が、ピリッと辛いチリソースと組み合わさって食欲を刺激する。口いっぱいに広がる牛肉の味が空っぽの胃袋に染み渡った。
「うん、美味しいっ」
そして更に、この油っこい味に対してパンとレタスにタマネギなどのさっぱりした野菜類がまた丁度いい。お肉、野菜、パンを組み合わせて辛めのソースをかけているなんて、最強の組み合わせだと思う。これを食べていれば暑い夏を乗り切る為の力が湧いてきそうだ。お祭の雰囲気とも相《あい》俟《ま》って、美味しさ倍増って感じだ。
「あらあら、アキくん。そんなに一生懸命|頬《ほお》張《ば》って……。やっぱり食べたかったんじゃないですか」
姉さんに言われて、思わず夢中で齧《かじ》り付《つ》いていた自分に気がつく。あ……。半分以上食べちゃった……
「ごめん姉さん。つい食べ過ぎちゃった。もう一つ買ってくるよ」
「いえいえ。アキくんが食べたいのならあげますよ?」
くすくすと姉さんが笑いながら言う。なんだか凄く楽しそうだ。
「じゃあ、ありがたくもらうよ」
「はい、どうぞ」
言われた通り、残った分も遠慮無《えんりょな》く頂戴《ちょうだい》する。ああ、美味しい……
「アキくん、こっちを向いて下さい」
「んっ なに?」
最後の一欠片《ひとかけら》まで美味しく平らげていると、姉さんに呼びかけられた。なんだろう?
「慌てて食べすぎです。ソースがついてますよ」
そう言って巾着からハンカチを取り出すと、姉さんは僕の頬《ほお》に手を伸ばした。
「慌てなくても、誰も取ったりしませんから」
ソースがついていたであろう箇《か》所《しょ》をハンカチで拭《ぬぐ》ってくれる。そのハンカチからは、柑橘系《かんきつけい》の良い匂いが仄《ほの》かに薫ってきた。
「あ、ありがと、姉さん」
「いいえ。このくらいお安いご用です」
ハンカチを仕舞いながら微笑《ほほえ》んでいる。なんか、いつもと雰《ふん》囲《い》気《き》が違う……。何かあるんだろうか……?
疑《ぎ》念《ねん》に首を傾《かし》げつつ食べ終えたケバブの包装紙を丸めていると、横手から別の声が聞こえてきた。
「明久君。たこ焼きを買ってきてみたんですけど、食べますか?」
にこにこと朗《ほが》らかな笑みを浮かべている姫路さんが、たこ焼きの入った箱を片手にこちらにやってきた。これはまた美味しそうだ。
「どうもありがとう。じゃあ一つもらってもいい?」
どう見ても姫路さんの手作りでもないし、ここはありがたくもらっておこう。今日は栄養が沢山取れて幸せだ。
「はいっ。それじゃ──」
姫路さんがたこ焼きに楊《よう》枝《じ》をさして持ち上げる。
「あーん」
「ほぇ?」
思わぬ行動に、思わず間抜けな声が口をついて出てしまった。
「? どうかしましたか明久君? 食べないんですか?」
「あ、いや。もらうけど……」
微笑んだまま姫路さんがたこ焼きを僕の口に寄せてくる。なんか、こういう場所で『あーん』ってちょっと恥ずかしい……
「あ、あーん」
「はい、どうぞ」
口を開くと、姫路さんの手でたこ焼きが僕の口に運ばれた。柔らかい生地と歯ごたえのあるタコがソースの辛みととてもよく合う。この濃い感じの味付けがたまらないなぁ。
「うん。美味しい美味しい」
「そうですか? それは良かったです」
そのまま同じ楊枝でもう一つたこ焼きを取り、今度は自分の口に入れる姫路さん。なんか、このやり取りってカップルみたいだなぁ──って、しまった!!
「ご、ごめんなさい姉さん! これは不純異性交遊じゃないんですっ!」
頭を抱えての防御体勢。優しいもんだからすっかり油断してた! やっぱり僕はこうして生命の危機からは逃れられない運命にあるのか!
なんて、思っていたのに。
「? 急に頭を抱えてどうしたんですか、アキくん?」
予想された姉さんからの報復《ほうふく》攻撃は訪れることはなかった。
「え? あれ? どういうこと?」
「アキくんは変な子ですね。ほら、そんなところにしゃがみこんでいては周りの人の迷惑になりますよ?」
「明久君。怒られたりなんてしませんから、安心して下さい」
二人はそんな僕を見てクスクスと笑っていた。
なんだろう。これが夏の魔力というものなんだろうか? 夏の経験は人を大きく成長させるっていうのはこういうことなんだろうか?
「アキってば、しゃがみこんでどうかしたの? 頭でも痛くなった?」
頭の上から聞こえてくる、からかうような声。
立ち上がって目をやると、そこには頭にお面、右手にヨーヨーと巾着、左手にわたあめという完全装備の美波がいた。
「いや、なんでもないよ。気にしないで」
そこまで人でごった返しているわけでもないので邪魔にはならないかもしれないけど、すぐにその場に立ち上がる。周囲の人の視線がちょっとだけ恥《は》ずかしかった。
「テンションが上がり過ぎちゃって目《め》眩《まい》でも起こしたの? アキってば子供ね」
「いやいや。そう言う美波の方こそ、すっごいはしゃいでるじゃないか」
「え? そ、そう? そんなことないと思うけど」
「そこまで色々手に抱えてるのに、はしゃいでないってことはないと思うよ」
「こ、これは、だって……出店のお兄さんがオマケしてくれるって言うから、つい」
ここまで絵に描いたような格好だと、更に金魚とリンゴ飴《あめ》も持たせてフルオプションにしてみたい気がする。
「美波さんはドイツ暮らしが長かったんですよね。無理もありません」
「美波ちゃんが楽しそうで私も嬉しいです」
姉さんと姫路さんがそんな美波を楽しげに見ていた。
「アキ。わたあめ食べる? 甘くて美味しいわよ」
「わたあめか〜。久しぶりだなぁ。ちょっともらおうかな」
「うん。いいわよ。はいっ」
さっきの姫路さんと同じように、美波がわたあめを僕の口に寄せてきた。な、なんか、さっきから皆どうしたんだろう? 随分と優しいような……?
「? いらないの?」
「あ、もらうよ」
端《はし》の方に齧り付くと、その名の通り綿のような飴が口の中に甘みをアピールして、そのまま溶けてなくなっていった。この味、懐《なつ》かしいなぁ。小学生の頃以来だろうか?
「向こうで射的《しゃてき》っていうのがあったんだけど、あれってどうやるの?」
「ああ、射的ね。あれはオモチャのピストルで置いてある景品を撃って、下に落としたら貰えるっていうゲームでさ」
「へぇ〜。面白そう! 行ってみましょ!」
「ちょ、ちょっと美波! そんなに急ぐと浴衣がはだけちゃうよ!」
「大丈夫! だいぶ慣れてきたから!」
美波もやたらと機嫌がいい。これが祭の力ってやつなんだろうか。
『……雄二。焼きそば食べる?』
『お、おう。もらうかな』
『……お好み焼きも買ってある』
『そ、それは気が利《き》くな』
『……はい、ラムネ』
『なんか、やたらと優しくて気味が悪いんだが……』
『……別に、これくらい普通』
そんな、天国のような時間が三十分くらい続いた頃。
「ん? なんか催《もよお》し物《もの》があるみたいだな?」
公園の野外ステージの近くで、雄二が何かの看板《かんばん》を見つけていた。えーっと、なになに……!?
「『納涼《のうりょう》、ミス浴衣コンテスト! 町一番の夏美人を見つけ出せ!』だって。今日の目玉イベントかな?」
「ミスコンテストか。面白そうだな」
名前はよく耳にするけど、なかなか目にすることのできないイベントの一つだ。これはラッキーかもしれない。
「このお祭は町興《まちおこ》しも兼《か》ねているようですね。色々と手が掛かっているようです」
「凄いわね。浴衣の貸し出しとかもやってるみたいじゃない」
「…………撮影チャンス」
「へぇ〜。ボク、ミスコンがあるなんて、全然知らなかったよ〜」
看板を見ている僕と雄二を囲むように皆が集まってくる。皆も興味があったりするのかな?
「……面白そう」
霧島さんが雄二の袖を掴んでそんなことを言った。意外だな。霧島さんはこういうのってあまり興味なさそうに見えたけど。
「じゃあ、いっそのこと出場してみたらどうかな? 皆ならきっといい線までいくと思うよ?」
これだけの美人揃いだ。浴衣も似合っているし、もしかしたら優勝できるかもしれない。いや、出場したらきっとできるだろう。
ただ、問題は全員出たがらないだろうってことだけどね。
なんて自分の考えに苦笑いをしていると、
「あ、それはいいですね。頑張って、皆でこれに出てみませんか? きっと良い思い出になると思います」
姫路さんが意外な返事をした。出るって──ミスコンに!?
「えぇぇっ!? いいの、姫路さん!? 嫌じゃないの!?」
「はい。恥ずかしくはありますけど、そのくらいへっちゃらですっ!」
ホント、どうしたんだろう……。この返事は予想外過ぎる……。
「ホントにホントに、いいの? ステージに出るんだよ?」
更に念を押して確認してみる。もしかしたら、姫路さんは何か他のことと勘違いしているのかもしれない。
「はい。大丈夫です。皆と一緒なら頑張れますし、良い思い出になると思いますから」
それでも姫路さんは笑顔を崩さない。そっか。思い出作りか……。確かに、高校二年生の夏という季節はもう二度と来ない。折角皆でこうして一緒にいるんだ。思い出が増えるのなら色々とやってみるのは面白いだろう。
「じゃあ、申し込んでみようか。皆可愛いし、きっと勝てると思うよ」
僕がそう言うと、姫路さんは笑顔で──何故か見ているこちらの背中が寒くなるほどのとびきりの笑顔で、僕らにはっきりとこう告《つ》げた。
「はいっ。出てみましょう! …………ここにいる[#「ここにいる」に傍点][#「ここにいる」は太字]、全員で[#「全員で」に傍点][#「全員で」は太字]」
「「散開っ!!」」
ガッ!
「アキ。どこへ行こうとしているのかしら?」
「……雄二。コンテストに参加する。この場にいる[#「この場にいる」に傍点]、全員で[#「全員で」に傍点]」
咄《とっ》嗟《さ》に逃げようとした僕と雄二は、それぞれ隣に立っていた美波と霧島さんに掴まっていた。そして二人とも、笑顔がさっきの状態から一切崩れていない。僕の中の危険信号が大音量で騒ぎ始めた。
「ね、ねぇ。何を言ってるのかな……? 僕には全然意味がわからないんだけど……」
「だ、だよな明久。なぜ俺たちの肘関節《ひじかんせつ》を極《き》めているのか、全然理由がわからないよな」
夏なのに、やたらと全身が寒い。夕方にもなると、流石《さすが》にこの時期でも涼しいのかな。はは、は……。
「明久君。坂本君。まさかとは思いますけど──」
「……昼間のナンパ──」
「あの程度で許されたなんて、思ってないわよね?」
底《そこ》冷《び》えのする声と笑顔。
ここでようやく全て合《が》点《てん》がいった。
なぜ僕たちはあれほどのことをして生かされていたのか。
なぜ向こうはそんな僕たちに妙に優しい態度を取っていたのか。
そう。全ては──
「全ては、この為の伏線か……!」
「「「罪には罰を、駄犬に鞭《むち》を」」」
やばい。姫路さんたちがどんどんFクラスの空気に冒《おか》されてきている。霧島さんなんてAクラスで、しかも代表なのに……。
「で、でも、いきなり女装なんて言われても無理があるよね?」
「だ、だよなぁ。俺たちは見ての通り男だぜ?」
前に学園祭で一度女装をさせられたことがあるけど、あれはきちんと準備をしてのことだ。さすがにこのままの格好でミスコンなんて無理があると──
などと考えていると、女性陣が僕と雄二を嘲《あざわら》うように腕を組んで言い放った。
「坂本《さかもと》君ともあろう人が、察《さっ》しが悪いですね」
「……雄二。頭を使うべき」
「そうよ。アキならともかく、坂本は気付いていても良かったんじゃない? 車に乗った時点で」
車に乗った時点で……? どういうことだ?
「アキくん。姉さんは言ったはずですよ?『着替えがあるから車で行く』と」
「「────っ!!」」
しくじった! あの着替えは美波のためじゃなくて、この為のものだったのか!
「だ、だが待ってくれ! 細身の明久ならともかく、俺のガタイで女装は無理があるはずだ! この場はどうか明久の女装だけで納《おさ》めてくれ!」
懇願《こんがん》するかのように手を合わせる雄二。おのれ……っ!
「キサマ雄二! 一人だけ助かろうというのかこの裏切り者!」
「ええい放せ明久! 俺はお前と違って女装趣味なんてこれっぽっちも持ち合わせていないんだ!」
「僕だってそんなもん持ってない!」
なんという見苦しい男だ。自分だけこの場を逃れようなんて、人として恥ずべき行為だ!
「だいたい、僕だってミスコンに出るなんて無理だよ! どこからどう見ても男なんだから!」
「……雄二も吉井も、往生際《おうじょうぎわ》が悪い」
「まったくよ。少しは男らしく覚悟を決めた土《つち》屋《や》を見習いなさいよね」
「…………っ!?(シュパッ)」
ガッ!
「ダメだよムッツリーニ君。友達を見捨てて逃げちゃ、ね?」
「…………俺は……無関係……っ!(ジタバタ)」
「知ってるんだよムッツリーニ君。こっそりキミがボクたちの水着姿を撮っていたのも、浜辺でお姉さんたちにナンパされていたのも、全部」
「…………!!(ブンブンブン)」
「照れなくてもいいんだよ。さっきの女装も可愛かったし、きっと良い線まで行くと思うよ♪」
「…………っ!! …………俺は、ただの被害者で……っ!!」
工藤さんに掴まったムッツリーニは必死に抵抗を続けている。そりゃそうだ。女装でミスコンなんて、普通はありえない。
「そもそも、僕らが出場したいって言っても受付で弾《はじ》かれるよ!」
「そ、そうだ! 明久の言う通りだ!」
出ろと言われても、まず受付自体が通らないだろう。女装コンテストじゃなくて、あくまでも女の人の為のミスコンなんだから。
「あ。それじゃあ、こうしましょう」
僕と雄二の心からの願いが届いたのか、姫路さんがポンと一つ手を叩いて折衷案《せっちゅうあん》を出してくれた。
「用意をして、受付で撥《は》ねられちゃったら私たちも諦《あきら》めます。でも、そうでなければ明久君たちはきちんと出場する。そういうことでどうですか?」
言われて一瞬考える。
常識的に考えて、いくら女装しても男は男だ。受付の人が気付かないわけがない。僕は自分の男らしさには自信があるし、更にこちらには雄二がいる。雄二はどう取《と》り繕《つくろ》っても男にしか見えないだろう。その女装が見抜かれれば、一緒にいる僕らも女装の可能性を疑われる。そうしたらこっちのものだ。僕とムッツリーニと雄二は出場を止められるだろう。
「うん。それならいい……かな?」
「仕方がない……。そこまで言うのなら、受付までは恥をかいてやるか……」
「…………とばっちり……」
受付に行くまでの間我慢したら女性陣の溜飲《りゅういん》が下がるというのであれば、そこまで悪い取引でもない。少しの間だけ我慢するとしよう。
「良かったですっ。それじゃ、早速準備を始めましょうか。お願いしますね木下《きのした》君」
「了解じゃ」
メイクを担当するのは僕らの仲間、木下秀吉。秀吉ならきっと僕らの気持ちを察して手加減をしてくれるだろう。なんの問題もない。
「よろしくね、秀吉」
そういった気持ちを全て籠めて、秀吉にアイコンタクトを送る。
「うむ。任せておくのじゃ。必ずやお主らをミスコンに出場させてみせよう」
なぜだかその返事は、やたらと目に力の入ったものだった。あれ……? なんか、おかしいような……? きちんとバレるようにやってくれるんだよね?
「あ、あの、秀吉……?」
「すまんな、お主ら。メイクも立派な演劇の技術の一つなのじゃ」
にっこりと、まるで天使のような笑みを浮かべて一言。
「──悪いが、手加減できそうもない」
[#中央揃え]☆
「酷い……。酷いよ秀吉……。なんでこんな全力投球を……」
「…… 土屋|香《こう》美《み》 ≠チて一体……」
「ムッツリーニはまだいいだろ……。俺なんか |洪 雄麗《ホアン・シュンリイ》 ≠セぞ……。まさか女装の上中国人にされるとは思わなかった……」
「確かに、バレーボールの選手とかだと中国出身なら雄二ぐらいの体格の人もいるもんね……」
控え室の隅で僕ら三人は膝を抱えて嘆いていた。ちなみに僕は 吉井|秋《あき》子《こ》 ≠ナ登録されている。もしかしたら、僕らは今何かとても大切なものを失っているのかもしれない。
「三人とも、浴衣もとっても似合ってますよ♪」
「ホント……ぷぷっ。すごく、可愛いわよ……っ」
「……雄二のは少し、丈《たけ》が足りないけど」
「アキくん。キレイに成長してくれて、姉さんはとても嬉しく思います」
「後で皆で写真撮ろうねっ」
対照的に、僕らを囲む女性陣は凄く楽しそうだった。
尚《なお》、脱走防止の為に僕らの腕は必ず誰かに掴まれている。美波や霧島さんはともかく、どうしてこういう時は姫路さんまでリンゴをつぶせるほどの握力《あくりょく》を発《はっ》揮《き》しているんだろう。
『それでは予選がはじまりまーす! 出場者の皆様は特設ステージの裏までお集まり下さいー!』
係員の人の呼びかけが通路側から聞こえてきた。まるで死刑宣告のようだ。
「どうやら始まるようですね。行きましょうか、皆さん」
「明久君、坂本君。逃げたりしちゃダメですよ?」
警察に連行されるように立たされる僕ら。どうあっても逃げられそうにない。
(雄二、ムッツリーニ、どうしよう……?)
いつものアイコンタクトで二人と相談。この特技、本当に使い勝手が良くて助かる。
(どうもこうもあるか……。逃げられないのなら、さっさと選考で落とされるしかないだろ……)
(やっぱりそれしかないか……)
(…………不本意極まりない……)
この夏の哀しい思い出は、あまり僕らを大人にはしてくれない気がする。
「んむ……? そういえば、なにゆえワシは出場させられておるのじゃ……?」
メイクに夢中になっていた秀吉は、今頃になってやっと首を傾《かし》げていた。
[#中央揃え]☆
≪それでは、いよいよ今年から始まりました新企画!  第1回・納涼ミス浴衣コンテスト ≠開催致します!≫
スピーカーよ割れよ、と言わんばかりにノリノリのアナウンスが会場に響き渡る。快晴で海の近くという好条件だった為か、舞台裏から覗《のぞ》いてみた会場には、海水浴に来ていたと思われる大勢のお客さんが犇《ひし》めいていた。
≪このコンテストは 浴衣の小《お》畑《ばた》 °ヲ賛による浴衣を題材としたミスコンテストでありまして、名前の通り浴衣の似合う美女を見つけようというものです!≫
事ここに至《いた》って思う。水着審査がなくて良かった、と。
≪審査方法は得点式で、予選は三名の審査員たちによる独断と偏見《へんけん》で、決勝は審査員プラス観客の皆様の投票によって行われます!≫
今現在は夕飯時&予選ということでまだ人数は少ない方のはず。決勝に出ようものなら更に多くの衆目《しゅうもく》に晒《さら》され、下手をしたら地方新聞に載《の》せられることすらありえる。ここで僕らは何がなんでも負けないといけない。これ以上大切な何かを失わない為に。
≪予選参加者はなんと五十九名、この中から決勝に進むことかできるのはわずかに十名となります!≫
五九名のうち、実に三人が男。すでにこのミスコンはミス(?)コンと名前を変えるべき状態になっているなんて、まさか観ているお客さんは夢にも思うまい。
≪では、最初の十名の方に入場して頂きましょう! どうぞっ!≫
係員に促され、僕は渋々歩を進めた。
最初の十人の中に知人は二人。謎の中国人 洪 雄麗 ≠アと坂本雄二と、ムッツリスケベな少女 土屋香美 ≠アとムッツリーニだ。今この場に限定すれば、ミスコン参加者の三割が実は男という恐ろしい事態。この町がこれで町興しなんかを考えているのだとしたら、僕らはその経済活動を一瞬で破滅に追い込むことのできる立場にある。どうして一介《いっかい》の高校生であるはずの僕らが企業スパイみたいな立場になっているんだろう。
≪では、1番の方から。お名前を教えて頂けますか?≫
『はいっ。えっと、旅行で東京からきました東野聡美《ひがしのさとみ》と言います』
≪東京からご旅行ですか。羨《うらや》ましいです。では、特技などはございますか?≫
『あ、はいっ。特技は──』
最初の人にマイクが渡され、ついに予選が始まる。
ここで重要なことを確認しておこう。
僕はなんとしても予選で敗退しなくちゃいけない。これは絶対だ。
でも、それと同じくらい重要な項目がある。それは、女装しているという事実を隠し通すということだ。受付の時にはバレて欲しかったけど、今は違う。ステージ上で衆目の前にいるからだ。ここで女装だとバレて、万が一にも学校の関係者なんかがいたら大変なことになる。女装というだけでも痛い話なのに、更にその格好でミスコンに出ているとなれば、僕は『俺って女装したらそこらの女よりよっぽど綺麗だぜぇっ!』なんて思いこんでいる激痛《げきいた》男ということになってしまう。そうなれば恐らく僕の社会的な地位は生ゴミ同然となってしまうだろう。
僕らの命題。それは、『女装している事実を隠しつつ、華麗に予選敗退』というものだ。
≪ありがとうございました。では、次は3番の方お願いします≫
って、考え込んでいるうちに僕のところにマイクが回ってきた!
とにかく、さっさと終わらすためにも興味をそそるような話を振らないようにしないと! それと僕の正体が特定できそうな話もダメ。あとは可愛いリアクションや男らしすぎる行動も不可。そこに注意しておけば完壁だ! 僕の男らしい外見がベースになっている女装なら可愛くもなんともないし、予選敗退なんてワケないさ!
渡されたマイクを両手でギュッと握り、観客に顔を見られないように俯《うつむ》いておく。
「は、はいっ。吉井、秋子です……(裏声)」
声は極力抑《きょくりょくおさ》えていこう。大きな声にすると地声が出ちゃう可能性がある。
≪特技などはおありですか?≫
ここはとりあえず正直に答えておこう。というか、テンパっちゃって咄《とっ》嗟《さ》に嘘《うそ》が思いつかない。
「え、えっと、強《し》いて挙《あ》げれば料理です……。パエリアとか、カルボナーラとか」
それにしても、なんという恥辱《ちじょく》……。顔から火が出そうだ……。
≪お料理ですか。家庭的で素晴らしいですね〜。では、ご家庭でも?≫
家庭? まぁ、家でも一応作っていると言えば作っているかな。そもそも、家事全般僕しかやってないし。
「はい、一応毎日……」
うん。嘘はついていない。
≪毎日ですか! 今時の若いお嬢さんにしてはとても珍しいですね。これはポイントが高そうです! それでは更に突っ込んで──彼氏さんはいらっしゃいますか?≫
いてたまるか。
「い、いませんっ! 今まで、一度も……」
思わず語調が強くなりそうだったので、後半慌てて声を小さくする。ふぅ。危ない危ない。ここは感情を抑えるんだ。
≪おおーっ! これは男性陣にはとても嬉しいお話です! どうですか、協賛かつ審査員の小畑さん≫
≪携帯番号を教えてくれたらオジサンがあとでお小《こ》遣《づか》いをあげよう≫
≪はい。あなたがスポンサーでなければ殴り倒していたところですがそうもいかないので質問を変えさせて頂きます。吉井秋子さん、今回はミス沿衣コンテストということですが、今日の浴衣を着る上で気をつけたポイントなどは?≫
な、なんでこんなに質問項目が多いんだ!?
とにかく、ボロを出さないように実話を交《まじ》えて……。
「その……あまり、か、身体の線が、出ないようにと……」
秀吉が気を配っていたはず。骨格で男だとバレないように。
≪先ほどから真っ赤になって俯いていることからもわかるように、吉井秋子さんはかなりの恥ずかしがり屋のようですね。浴衣を提供された小畑さんは、吉井さんの着こなしについて何か質問はありますか?≫
≪下着をつけているかどうかをお聞かせ願いたい≫
≪一周回って心地よくなってしまいそうなほどゲスな質問をありがとうございます。気のせいかわたくし、先ほどから冷や汗が止まりません≫
し、下着!? それってまさか──女物を、ってこと!? 冗談じゃないっ! いくら僕でも、そこまでの女装をするほど堕《お》ちちゃいない! そんな誤解はなにがなんでも解いておかないと!!
ここだけは、はっきりと、大きな声で──
「し、下着なんてつけてませんっ!」
僕はトランクス一筋だ!
『『『うぉおおお──っ!!』』』
≪よ、吉井さん!? こんなセクハラな質問に答えなくても大丈夫なんですよ!? 男性客の皆様、ウェーブはおやめ下さい! ここはそういう会場ではございません!≫
≪決めたよ。彼女は決勝には進ませない。衆愚《しゅうぐ》に晒《さら》すにはあまりに惜《も》しい人材だ≫
≪はい皆様空耳ですよー。スポンサーがお客様を衆愚などと呼ぼうはずがございませんからねー。とにかく、吉井秋子さん。色々ありがとうございました。そして、本当にすいませんでした……≫
係員が僕の持っているマイクを受け取って次の人へと回しに行った。
よくわからないけど、決勝に進めないと言われたし、僕の目《もく》論《ろ》見《み》は大成功を収めたと言ってもいいだろう。やたらと注《そそ》がれている妙な視線はミスコンに出場しているからには仕方のないものだろうし。
≪失礼しました。では、気を取り直して4番の方≫
『はいっ。井《い》村《むら》みどりです。福岡から旅行で来ましたっ』
これで僕の番は終わった。あとは5番のムッツリーニ、7番の雄二を見守るだけだ。こういう場面での機《き》転《てん》が利《き》く僕と違って、あの二人はとんでもないヘマをするかもしれない。ちょっと楽し──心配だ。
≪そうですか。井村さんはサーフィンがお好きなのですか。活動的で良いですよね、小畑さん≫
≪私はサーフィンに興味はありません≫
≪日焼けの跡も浴衣に合いますよね、小畑さん≫
≪いいえ。着物と言えば色白に決まっているでしょう≫
≪いかにも夏という感じですね、小畑さん≫
≪あなた何を当たり前のことを言ってるんです? 今が秋や冬だとでも思っているんですか?≫
≪大丈夫ですよー。わたくし、こう見えても司会のプロですからねー。決して現場でスポンサーを殴ったりなんてしませんよー≫
気のせいか、審査員席に殺気が渦《うず》巻《ま》き始《はじ》めたように見える。
≪井村さん、ありがとうございました。今度は5番の土屋さん、自己紹介をどうぞっ≫
『…………土屋香美です』
前髪で顔を隠しつつ、かすれた小さな声で名前を告げるムッツリーニ。どうにかして目立たずやり過ごそうという気《き》概《がい》がありありと感じられる。やっぱり考えることは同じということか。
≪ちょっとハスキーな感じの声がたまりませんね。今日はお友達と海水浴ですか?≫
『…………はい』
≪その浴衣の着付け、大変お上手ですけどよく着たりされるのですか?≫
『…………いいえ。友人にやってもらいました』
≪そのご友人は会場に来ていらっしゃいますか?≫
『…………はい』
基本的に はい ≠ニ いいえ ≠セけで淡々と話を進めるムッツリーニ。あの態度ならきっと興味をそそることもなく、無《ぶ》難《なん》に予選落ちができるだろう。
≪──では、浴衣の他にはどのような服がお好きですか?≫
『…………チャイナドレスや着物は言うに及ばずレースクイーンにチアガール看護婦にキャビンアテンダント更にはファミレス店員に女性警官制服やレオタードとOLスーツにセーラー服やブレザーや巫女《みこ》服に加えてメイド服やテニスウェアなども素晴らしいと何でもありません』
多分その 何でもありません ≠ヘ火葬後の心臓マッサージくらい手遅れだろう。
≪こ、これは驚きました……。土屋さんはこのクールな態度と可《か》憐《れん》な外観に加えて、コスプレが趣味のご様子。一部の方にはたまらないでしょうね≫
『…………忘れて下さい……っ!(ブンブンブン)』
あ。俯いて必死に首を振る姿がちょっと可愛い。小動物みたいだ。
『『『こ・う・み! こ・う・み!』』』
『…………こ、困る……っ!(わたわた)』
会場からの香美コールに焦《あせ》るムッツリーニはあたふたと取り乱していた。これは……残念ながら決まった、と言わざるを得ないだろう。まさかムッツリーニに男を虜《とりこ》にする才能があるとは思わなかった……。
≪これは凄い手応え! 土屋さんの決勝進出は決まったも同然でしょう! 土屋さん、ありがとうございました!≫
『…………あ、あの……本当に困る……っ!』
なんとか取り消させようとするも、マイクは次の人に渡ってしまった。こうなってはムッツリーニの決勝進出を阻《はば》むことは不可能だ。さようなら、僕の悪友……。
「…………なぜ……こんなことに……」
視界の隅でムッツリーニががっくりと肩を落とす。日頃から人の女装写真を売ったりしてるから罰《ばち》が当たったんだろう。言うなればこれは自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》だ。
そんな悪友から視線を外し、ゆっくりと周囲を見回す。
さて。これでムッツリーニの出番は終わったから、最後は雄二か……。どんな顔をして自分の番を待っているかな?
そう思って雄二の方を見ると、ヤツは不《ふ》敵《てき》な笑みでこちらを見ていた。
(ふふん。バカどもが。所詮《しょせん》お前らは男らしさが足りないってことなんだよ)
いつもの目線で語りかけてくる。む……。なんだか余裕な態度が気にくわない。
(そんなことを言ってられるのも今のうちだよ雄二。きっと自分の番になったら慌てふためくはずさ)
こちらも同じように視線を返した。自分だけ余裕なんて、そんなことは甘い! きっと何かがあるはずだ!
(何をバカなことを。俺のこのガタイを見てみろ。身長だけならまだしもこの骨の太さだ。どう考えてもマイナス要因にしかならないだろ。俺の予選敗退は決まったも同然なんだよ)
勝ち誇ったように胸を張る雄二。確かにヤツの言う通り、あの体格はミスコンに出る人としては不向きのように思える。く……っ、汚い……っ! 一人だけ楽をして抜けだそうなんて……っ!
≪はい。ありがとうございました。それでは7番。今度は中国からのご参加です。洪さん、どうぞっ!≫
(まぁそこで俺の隠し切れない男らしさを見ていることだな)
雄二はそう目線で語り、前に出てマイクを受け取った。くそ……っ! あの体格はずるい。もっとアイツも苦労するべきだ!
『洪雄麗デス。ヨロシクオ願イシマス』
中国人という設定なのでわざと片言の日本語で喋る雄二。リアクションが難しい質問がきたら言葉がわからないフリをしたらいいだけだし、つくづく恵まれた設定だ。卑怯な……!
≪これはまた……背の高い方ですね。どうですか、小畑さん≫
司会も雄二の扱いに困ったのか、審査員に話を振っていた。このままだと、どう考えても雄二の評価は低くなる。それがわかっているのだろう。雄二も余裕の笑みを浮かべていた。
そんな中、決勝進出の決定権を持つ審査員が声高に告げる。
≪素晴らしいですね。個人的に私、背の高い方が大好きなんですよ≫
ぉおおーっと雄二すっごい困った顔してる──っ!!
≪おおーっ! 審査員の高評価が得られました! では小畑さん。洪さんに何か質問をどうぞっ≫
≪ハネムーンはカンボジアなんてどうですか?≫
≪はいわたくしツッコミませんよー。色々言いたいことがあっても相手次第で全て堪《こら》えて飲み込むのがプロフェッショナルですよー≫
審査員の食い付き方が異常だ。身を乗り出さんばかりに雄二を見つめている。舞台裏から「……あの審査員、始末してくる」なんて声が聞こえたのは気のせいじゃないだろう。
あまりのショックにしばらく絶句していた雄二は、なんとか自分を取り戻して質問に答え始めた。
『こ、国籍違ウノデ困リマース』
≪愛があれば大丈夫です。マイハニー≫
『愛ナンテアリマセン』
≪私には愛が生まれる自信がある≫
『ワタシアナタノコト嫌イデース』
≪友達からでも構わない。一生大切にする≫
『いい加減にしろ殺すぞおっさん』
≪君になら殺されても構わない≫
剥《は》がれてる! ところどころ演技の仮面が剥がれてるよ雄二!
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≪はい、小畑さんも大喜びの洪雄麗さんでした。ではお次──≫
≪待て。まだ私の質問は終わってない。雄麗、ご両親への挨拶はいつ行けばがふっ!?≫
≪殴ってませんよー。蚊《か》が飛んでいただけですよー。それよりそろそろ次の方に行きましょうね小畑さん≫
≪……仕方ないな≫
≪それでは気を取り直して……エントリーナンバー8番。渡会《わたらい》さんです!≫
『渡会|美紀《みき》です。宜しくお願いします』
≪渡会さんは地元からの参加のようです。小畑さん、同じ地元民として何かお聞きしたいことは?≫
≪興味ないね≫
≪そう言わずに何か質問を。洪さんの時のようにやる気をみせて≫
≪仕様がない……。そうですね。それでは8番さん。貴女の目から見た洪雄麗さんの印象を教えて下さい≫
≪お前もう裏行って洪さんを口説いて来いよ! そして二度と戻ってくるな!≫
≪なんだ貴様スポンサーに向かってその口の利き方は!≫
≪今更常識人面かコルァ! 上等だ! 司会なんてこの場で辞《や》めてやらぁ!≫
≪か、顔はよしたまえ! 雄麗のご両親に会う前なのだから!≫
≪殴った方がちったぁそのブサイク面もマトモになるってもんだ!≫
≪……雄二は、渡さない……!≫
結局、審査員席で始まった暴動は関係者が全員病院か留置所に入るという結末を迎えるまで続いた。
このミスコンの第2回が開かれることは、恐らく未来永劫《みらいえいごう》ありえないだろう。
[#中央揃え]☆
「結局、恥をかいたのは僕らだけじゃないか……」
「…………心の傷を負った……」
「色々な意味で一生忘れない夏になったな……」
祭の会場を後にしてペンションに戻った僕らは、その庭に設置されているコンロでバーベキューの準備をしながら黄昏れていた。
もう、お婿《むこ》に行けない……。
『冷静になってみると、ウチらもステージに上がらなきゃいけなかったのよね』
『そ、そうですね……。怒っていたから気になりませんでしたけど、今思うと危なかったです……』
『……中止になって良かった』
『私もああいった催し物はあまり得意ではないので助かります』
『ボクはちょっと面白そうだと思ってたんだけどねー』
少し離れたテーブルの辺りでお皿や飲み物の準備をしている女子勢が胸を撫《な》で下《お》ろす。結局皆は受付をして控え室にいただけか……。ずるいなぁ……。
「でも確かに、ミスコンの結果は気になるなぁ。あのまま続けたら誰が優勝していたんだろうね?」
今はもう皆着替えちゃって普通の格好だけど、あの浴衣姿……かなりハイレベルだったと思う。あの中から優勝が出たとしても何の不思議もないくらいに。
「そうだな……。まぁ、妥《だ》当《とう》に秀吉じゃないのか?」
「雄二よ。男のワシが挙がる時点で妥当という言葉とは縁遠いと思わんか?」
「…………全員甲乙つけがたい」
「だよねぇ。皆可愛かったし」
男三人で女性陣の浴衣姿批評。本人たちのいる傍でこういうのって、失礼かな?
そう思ってテーブルの方の様子を窺うと、向こうは向こうで男性陣批評をしていた。なんだ。それならお互い様だよね。
『私はやっぱり明久君だと思います。可愛い姿とあの天然っぷりがたまりませんっ』
『土屋もかなり可愛かったけど、ウチもやっぱりアキかな〜』
『……雄二はいまいちだった。……やっぱり男らしい方が似合ってる』
『ボクはムッツリーニ君の女装にキュンキュンきたけどね。あんなに似合うと思わなかったな〜。玲さんはどうでした?』
『私はアキくんの女装は見慣れていますから……。他のお二方が新鮮で良かったと思いますよ』
『え? 明久君の女装を見慣れてるって──』
『母がとにかく女の子が好きでしたからね。上が私ということもあって、小さな頃アキくんはよくお下がりのスカートなどを穿《は》かされていましたよ。名前も最初は 明《あき》菜《な》 ≠フ予定だったのですが、男でそれは何か違うだろうと祖父《そふ》が言いまして、現在の──』
なんか僕の恥ずかしい過去が暴《ばく》露《ろ》されてるーっ!?
「ちょちょちょちょっとやめてよ姉さん! 誤解だからね!? そういう格好させられてたって言っても、それは幼稚園に上がるより前の話で!」
テーブル傍に駆け寄り、姉さんの口を塞《ふさ》ごうと手を伸ばす。
「アキくん。嘘はいけませんよ。一昨日の晩にもスカートを穿かされていたじゃないですか。寝ている間に」
姉さんはその手をひょいひょいと避《さ》けて会話を続けた。というか、秘密の暴露よりも危険な台詞が聞こえたような!?
「それ初耳だよ!? アンタ僕が寝ている間になにやってんの!?」
「ふふっ。慌てなくても大丈夫ですよアキくん。半分嘘ですから」
「半分!? 半分って何!? どこをどうしたら今の話の半分が嘘になるの!?」
「スカートは膝の上程度までしか穿かせてません」
「半分穿かせたってことじゃないかぁーっ!」
「業界用語では 半脱ぎ ≠ニいうそうです」
さ、最悪だ……。そのうち自分の部屋に鍵《かぎ》をつけないと……!
「もう最悪だよ姉さん! 今後は勝手に僕の部屋に入ったら怒るからね!」
「怒る、ですか。それは困りますね」
「困ってるのは僕の方だよ!」
まさか写真なんて撮ってないよね!?
「ほらほらアキくん。ギュッてしてあげるから落ち着いて下さい」
「ええい離せっ! そんなもんで落ち着くワケがはふぅ……」
「思いっきり落ち着いてるじゃない」
「はっ!? ち、違うんだ! これはその、小さな頃からこうやって姉さんに育てられたせいで、別に心から落ち着くってワケじゃはふぅ……」
「よしよし。良い子ですねアキくん」
ぐぅぅ……っ! つい条件反射で落ち着いてしまう……!
『おーい、そろそろ焼けたぞー』
バーベキューを見ていた雄二の声が聞こえてきた。そして、少し遅れて肉汁の焦げる匂いが漂ってくる。他にも醤油《しょうゆ》の焦げる匂いもするってことは──アイツめ、さては焼きおにぎりや焼トウモロコシなんかも作ったな? なんて良い仕事をするんだ。その匂いを嗅いだだけで腹の虫が騒ぎ出してきちゃうじゃないか。
ってよく考えてみたら、今日一日動きっぱなしだったのに食べた物はお昼の焼きそばとかと、六時前くらいに食べた祭の屋台の物だけだ。女性陣はともかく、僕ら男子高校生の若い胃袋がそれだけで保《も》つはずがない。まぁ、仕送り前の僕はそれより貧弱な食べ物で無理矢理保たせているんだけど……。
「だってさ。ほら、かなり遅いけど夕飯にしようよ」
執拗《しつよう》に頭を撫でる姉さんの腕から逃げ出して、飲み物やコップをいくつか確保しつつ雄二のいるコンロへと向かう。それにしても……コイツはどうしてタオルを頭に巻いてトングを手にする姿がここまで様になるんだろう。いかにも夏の海、という感じがつくづく羨ましい。
「おう明久。丁度良く焼けてるぞ。たっぷり食え」
「うん。ありがとう。じゃあはいこれ、雄二の分の飲み物」
紙皿の上に雄二が焦げたラードを載せてくれたので、そのお札に僕は手に持っていたサラダ油を紙コップに注いで雄二に渡した。
「「………………!!」」
「ほれお主ら。睨《にら》み合《あ》っておらんで食わんか。焦げてしまうぞい」
「…………うまい」
秀吉とムッツリーニは既に焼けた肉を皿に載せて食べ始めていた。雄二なんかを相手にしている場合じゃない。僕も急いで食べないと!
「いっただっきまーす!」
網《あみ》の上には肉やおにぎりの他に、つぶ貝やエリンギなんかもあった。どれもこれも美味しそうで迷ってしまう。
「へぇ〜。美味しそう。坂本って、こういうことにはホント器用よね」
「……私の自慢の夫」
「バカなこと言ってないで早く食え。ボケッとしてるとなくなっちまうぞ」
「……うん」
食べ物をどんどん焼きながらも炭を足したり風を送ったりと、いくつもの作業を同時にこなす雄二。勿論その間に焼けてる食べ物を口に入れるのも忘れない。
「食事の準備をありがとうございます雄二くん。アキくんに止められなければ私がやろうと思っていたのですが……」
「私もお手伝いしたかったんですけど、外での科埋って勝手がわからなくって……」
姉さんと姫路さんが雄二にお礼を言っている。最初はこの二人が作ろうとしたんだけど、それは全力で阻止《そし》させてもらった。
「あ、いや。気にしないでくれ。俺はこういうのが好きなんだ」
本音を話すわけにはいかない雄二は苦笑いを浮かべていた。けど、実際に雄二はこういった屋外での作業とかを好む傾向もあるし、あながち嘘ってわけでもなさそうだ。
「まったく。アキくんも心配性で困ります。そんなに姉さんの包丁|捌《さば》きが信用てきないのでしょうか」
「玲さん。明久君は私にもこういう時はお料理をさせてくれないんですよ。包丁で怪我なんてしないのに」
違うんだ。包丁での怪我が問題じゃないんだ。包丁を使うまでもなく人を殺《あや》めることができるのが問題なんだ。
「それじゃ、今度はウチら女子全員でお料理対決なんてどう? いっつも男子ばっかりに作ってもらってるのも悪いし」
「あ、それは良い考えですね美波ちゃん!」
目を向けるまでもなく男たちの顔には『余計なことを……』と書いてあるのがわかる。
「それは面白そうですね。私も仕事がなければ参加させて頂きます」
「……私も」
「ボクも参加してみようかな〜」
楽しげな女性陣は男性陣の顔色がどんどん悪くなっていることに気がついていない。
「でも、お料理の勝敗ってどうやって決めたら良いでしょうか? 個人の好みとかもありますし……」
「あ。それもそうね。どうやったら勝ちになるかしら」
恐らくK.O.もしくはT.K.O.だろう。
「お、お前ら、そんなことよりも食え食え! 焦げちまうぞ!」
「雄二の言う通りじゃ! ほれ、こちらのとうもろこしも良い頃合じゃぞ!」
「…………こっちのホタテも良い感じ」
「飲み物持ってくるね! コーラとオレンジとウーロン茶、どれがいいかな?」
姫路さん一人でも致命傷《ちめいしょう》なのに、それに姉さんが加わったらと思うと足が震えそうになる。この話はなんとしても実現させまいと、僕ら四人は必死に抵抗を始めた。
そんなこんなで小一時間が過ぎて。
「うむ。良い食べっぷりじゃったな」
持ってきた食材は綺麗に空っぽになっていた。
「ん〜……。なんか、ちょっと食い足りねぇな」
名《な》残《ごり》惜《お》しそうに網の上を見る雄二。実は、僕もまだ少し物足りなかったりする。
「失敗したなぁ……。材料の計算を間違ったかな」
一応九人前は用意したつもりだったけど、皆想像以上によく食べていた。外で食べるという雰囲気と昼間動き回っていたという理由があるからだろうか。
「…………材料は、ご飯どころか野菜もない」
持ってきたクーラーボックスの中身は、あとはジュースと氷だけ。どちらも僕らの胃袋を満たしてくれたりはしない。
「そんじゃ、現地調達といくか明久?」
「へ? 現地調達って?」
「近くにあるだろ? 海が」
確かにあるけど、それって……
「海で何か採ってくるってこと?」
「砂浜だからな。アサリくらいならいるだろ。火もあることだし、焼いて食ったら結構美味いぞ」
アサリか。砂を吐かせてから焼いて、塩水で洗えば美味しいだろう。けど、
「今から海まで行って採ってくるのは大変じゃない?」
「まぁ、そうなんだよな……。何かゲームでもやって負けたヤツが採ってくるとか、そういう風にするか?」
「お主らは本当にそういう遊びが好きじゃな」
「…………罰ゲーム好き」
そんな雄二の提案に、秀吉とムッツリーニが苦笑い。とは言っても、流石にこれは雄二も本気じゃないだろう。ちょっとした冗談だと──
ゾ ク リ[#4段階大きな文字]
(────っっっ!!)
その時、何故か一瞬で僕の全身が総毛立っていた。
脊髄《せきずい》に大きな氷柱《つらら》を差し込まれたような、痛烈で鋭い感覚。激しく身体を切り裂くような、抗《あらが》うことの許されない絶対的な恐怖。。殺気とも違う、単純かつ純粋で、背後から忍び寄る死の気配。ば、バカな……! こんなにも平和で穏やかな食事の場で、そんな物騒なものが……!
畏《おそ》れで戦《おのの》く中。どうしてだろう。視界の隅で美波と話をしている姫路さんの唇《くちびる》の動きが妙に気になった。なんだ? どうしてこんなに気になるんだ?
『ソウ言エバ、私──』
そう言えば、私?
『家デ マドレーヌ ヲ 作ッテ──』
原因判明。
「行こう雄二! 海で貝を採るんだ! 一秒でも早く!」
「よく言った明久! いっぱい採ってこような! 他の物が何も入らなくなるくらい[#「他の物が何も入らなくなるくらい」に傍点]大量に!」
「夜の海は風《ふ》情《ぜい》があって良いものじゃしな、ムッツリーニ!」
「…………暗い方が、きっと貝も一杯採れる……!」
我先にと海辺へ向かって猛ダッシュ。行きの車で何も出てこないからと思って油断していたけど、まさか帰りの車のために用意していたとは……! 皆が疲れ切った帰り道にこそ甘い物をという姫路さんの心遣いがニクい……っ!
『? アイツら、急にどうしたのかしら』
『さぁ……?』
『まぁいいけど。……で、マドレーヌがどうしたの瑞《みず》希《き》?』
『あ、はい。マドレーヌを作ったんですけど、包んでテーブルに置いたままお家に忘れてきちゃったんです』
『へぇ〜。それは残念ね。折角作ったのに』
『はい……』
何かが後ろの方から聞こえた気がしたけど、それどころじゃない。とにかく今は、アサリを他のメンバーより多く採ることだけを考えよう。皆より一つでも少なければ、それは即ち死を意味する。これは食べる為の狩りじゃない。食べない為の狩りなんだ……!
「「「死んで……たまるかぁーっ!」」」
走りながらシャツとズボンを脱ぎ、トランクス一丁で海に飛び込む。真夏の海は夜でも暖かいから助かる。
「おっしゃ! まずはひとつ目ゲット──」
「させるか雄二ぃっ!」
「おぁっ!? てめぇ明久! ドロップキックは卑怯だろ!」
「雄二が落としたアサリはこの辺じゃな?」
「…………それは俺が頂く……!」
それぞれの命を賭した狩りが続く。
僕らがお互いの妨害とアサリの捜索で動けなくなって戻る頃には、もう既に日付が変わろうとしていた。
[#中央揃え]☆
翌日。帰りの車にて。
『まったく、コイツらときたら、子供みたいに寝ちゃって……』
『ふふふっ。こうして見ていると、同い年なのになんだか可愛いですね』
『……男の子は、いつまでも子供だから』
『あははっ。確かに子供みたいに無邪気な顔で寝てるよね』
『はしゃぎすぎて疲れてしまったんでしょう。楽しんでもらえたようで何よりです』
『はいっ。凄く楽しかったです!』
『ウチも!』
『……私も』
『ボクもだよっ』
『ふふっ。そう言って頂けると、私も嬉しいです』
『それにしても、本当に皆、あっという間に寝ちゃったわよね』
『……車に乗る前からフラフラしてた』
『そうだよね。朝ご飯を凄い勢いで食べたと思ったら、すぐに眠そうにしてたもんね』
『まったくよ。ウチらの分も残さず食べちゃって、もうっ!』
『本当に残念ですね、瑞希さん』
『はい。そうですね玲さん。皆がすぐに寝ちゃったおかげで──』
『『──折角作った朝食の感想を聞けませんでした』』
その頃僕ら四人は、何故か蓮の花の咲き誇る川辺で再会を果たしていたのだけど……それはまた、別のお話ということで。
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文月新聞[#3段階大きな文字]
【校内政治】[#「【校内政治】」は太字]
【地域経済】[#「【地域経済】」は太字]
最上級─最下級クラス[#2段階大きな文字]
両代表の婚約を発表[#2段階大きな文字]
〜試召戦争の遺恨残さず〜
[#私達、結婚します。 (img/1299_203a.jpg)]如月ハイランドの記念写真撮影にて仲睦まじい姿を披露する霧島翔子さん(写真左)と坂本雄二氏(同右)
[#ここから3字下げ]
近頃オープンしたという如月ハイランドにて、文月学園第二学年Aクラス代表の霧島翔子さん(16)と同Fクラス代表の坂本雄二氏(16)の婚約写真が開示された。両氏は本年度開始直後に勃発した試召戦争の対戦クラス代表同士であり、両クラスの級友間には遺恨もあったはずだが、この婚姻によって完全に両クラス間の和議が成立したと言える。先日上位であるはずのDクラスがFクラスに試召戦争を仕掛けたという上下逆転の話もあった為、この和議は学年の平穏に一役買うことになるだろう。尚、最上級クラスと最下級クラスの代表同士の婚姻は文月学園創設以来初の出来事。
地域経済の活性化に予想外の 幸せの報せ =m#「地域経済の活性化に予想外の 幸せの報せ =vは太字]
写真を開示した如月グループの発表によると、両氏は結婚可能な年齢になり次第同グループ経営の『如月グランドホテル・鳳凰の間』(通称:鯖の味噌煮)にて結婚式を執り行うとのこと。グループ関係者も「当園にイらしタ方ノ結婚とハ喜ばシイ限りデース。心ヨりお祝イ申し上げマース」と、この微笑ましいニュースに終始顔を綻ばせていた。また、「実は坂本雄二氏はこの婚約を受け入れていないという噂があるが」という我々の質問に対しては「そンなコトはアり得まセん。余計なコとを聞クようナらアナタの家に牛乳ヲ染み込マせテ一週間経っタ雑巾を送り付ケまスよ」と冗談で対応。新規オープンにはつきものの ネガティブキャンペーン ≠フ一部としてとらえているようだ。如月グループは彼らの結婚を祝し、全面的にその式をバックアップする方針であるとのこと。学生同士の結婚ということで経済面に苦しむ彼らを助けようという、大企業ならではの小粋なはからいだ。また同ハイランドには彼ら以外の結婚報告も続々と届いているとのことで、グループとしては思わぬ 縁結び効果 ≠ニいう嬉しい誤算が生じたようだ。これを受けて、今後同グループは如月ハイランドをアミューズメントパークのみならず 男女の関係が進展する憩いの場 ≠ニしても展開していく方針だ。地域経済の活性化につながるとして付近の住民もこれに積極的に協力していく構えを見せている。不況の影が見え隠れする中、坂本雄二氏と霧島翔子さんの婚姻はまさに 幸せの報せ ≠ニ言えるだろう。
疑問の残る終戦処理に情報開示の呼び声も[#「地域経済の活性化に予想外の 幸せの報せ =vは太字]
一方で、文月学園第二学生の生徒間ではこの婚姻には裏があるという噂も流れている。これは学年最優秀生徒でありながら見目麗しくスポーツ万能、由緒正しい家柄の霧島翔子さんに対して、成績不良、ブサイク、学習態度最低という坂本雄二氏が釣り合っていないという点が原因のようだ。また彼らが第一学年の頃から言われている「霧島さんは女子生徒に興味があり、男は嫌いである」という話もこの噂に一役買っているのだろう。件の坂本雄二氏は先の試召戦争でも「相手に何らかの条件を呑ませることで設備入れ替えを見逃す」という手法を用いており、実は試召戦争に負けたAクラスが代表の身を差し出すことで設備入れ替えを逃れたのではないか、との見方もある。
この件を受けて文月学園試召戦争管理委員会は「事実であれば由々しき事態だ。この上なく羨ましい」と厳しい姿勢を取っており、近日中には事実関係確認の為に情報開示を呼びかける方向も検討中とのこと。このようなクラスメイトを疑われるという事態に対してFクラス異端審問会は「事実関係などどうでも良い。まずは処刑の方法を議論すべきではないか」と、情報開示要求に難色を示している。事実関係の確認にはしばらくの時間がかかりそうだ。坂本雄二氏と霧島翔子さんの小学校のクラスメイトであった方の話によると、両氏の関係は小学校から続いているらしく、その間柄は幼なじみということになる。当時は 神童 ≠ニ呼ばれていた坂本氏が今のような人物に変わってしまったことも含め、彼らの小学校時代には何らかのトラブルがあったものと考えられる。
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【特別コラム掲載延期のお詫び】[#「【特別コラム掲載延期のお詫び】」は太字]
須川 亮の特別講座
ファーストキスの守り方 〜16年間守り続けたオレの伝説〜 =m#「 ファーストキスの守り方 〜16年間守り続けたオレの伝説〜 =vは太字]
は諸般の事情により掲載が無期延期となりました。
先号の掲載予定
俺は振られたわけじゃない。俺が認めなければ振られていない =m#「 俺は振られたわけじゃない。俺が認めなければ振られていない =vは太字]
の不掲載と併せて心よりお詫び申し上げます。
尚、今後のコラムについても掲載予定は未定となります。
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雄二と翔子と幼い思い出[#「雄二と翔子と幼い思い出」は太字]
『……お義母《かあ》さん』
『あら、翔子《しょうこ》ちゃん。おはよう』
『……おはようございます』
『相変わらず綺《き》麗《れい》ねぇ。雄《ゆう》二《じ》には勿体無《もったいな》いくらい』
『……そんなことない。私は綺麗なんかじゃないし……それに雄二は、世界中の誰よりも格好良《かっこうい》い』
『あらあら。翔子ちゃんは本当に一《いち》途《ず》ね。あの頃からずっと変わってないわ』
『……うん。だって──』
『だって?』
『……だって、あの時からずっと、雄二のことが好きだから』
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水《み》無《な》月《づき》小学校の五年生には神童がいる。
これは全国的なニュースになるほどではないことだが、実際に周囲で生活する人々にとってはそれなりに話題性のある話だった。
曰《いわ》く、中堅レベルの高校入試程度であれば淀《よど》みなく解答が導き出せる。
曰く、将棋や囲碁などはルールを覚えた時点で校内一の実力者に比《ひ》肩《けん》していた。
曰く、彼の知能指数は200に迫る。
流れている噂《うわさ》の全てが真実であるとは言えないが、事実無根というわけでもない。実際に中学一年生程度の学力の生徒を対象とした模試を受けさせたところ、彼は小学校の五年生でありながら成績上位者の中にその名を連ねている。水無月小学校の教員たちはこの結果を聞き、近隣の学校にも話が及ぶほど高らかにその生徒を賞賛《しょうさん》した。
かの少年は、その持って生まれた頭脳故か若干《じゃっかん》周囲を見下す嫌いはあるものの、特に問題も起こさず、勉学に対して真《しん》摯《し》に取り組む品行方正な生徒であった。
それなのに。
「……うちの雄二が、暴力を……?」
坂本雪乃《さかもとゆきの》は一瞬、息子の担任教師の言葉を聞いて自分の耳を疑った。息子である雄二は無愛想《ぶあいそう》ではあるが暴力的ではなく、周囲との摩《ま》擦《さつ》が発生したとしても無関心を決め込むようなタイプだ。口論どころか殴り合いの喧《けん》嘩《か》をするなんて、雪乃の知る雄二には考えられないことだ。
『──はい。坂本君は大変優秀な子なので、本当にこのようなことをするとは思えないのですが……私たちが何度確認しても、本人はずっと「あいつらがムカつくから殴《なぐ》った」の一点張りでして……』
担任教師も雪乃と同様の意見のようで、受話器からは動揺した声が聞こえてくる。寧《むし》ろ親である雪乃よりも取り乱していると言えるくらいだ。
「そうですか。雄二がそんなことを……」
『今日はもう帰しましたが、お子さんが家に着いたらお母さんからも事情を聞いてみて下さい。このままでは霜月大付属《しもつきだいふぞく》への推薦《すいせん》入学にも影響してしまいますし……』
「わかりました。あの子が帰ってきたら話を聞いてみます」
『宜《よろ》しくお願いします』
「うちの子がご迷惑をおかけしました」
二三言結びの挨拶《あいさつ》をしてから受話器を置き、雪乃は自分の子供の行動について少し考え込んだ。相手は上級生の男の子三人。雄二はその子たちに一人で殴りかかったらしい。
「確かにあの子らしくないかもしれないけど……」
雄二は頭の良い子だ。親の欲目という部分を差し引いても、それは事実と言っても良いだろう。その頭の良い子が上級生、しかも三人に殴りかかるなんて、とても考えられない。仮にその少年たちに腹を立てての行動であれば、雄二は確実に勝てる状況を用意しておくだろう。それくらいのことは考える子だ。
「何かあったのかしら……?」
だというのに、そうしなかったというのは何か特別な理由があったとしか思えない。
「これは確かに、事情をよく聞いてあげないと……」
そう考えた雪乃はゆっくりと話ができるようにと、お茶とお菓子の用意を始めるべく台所に向かった。
と、その途中。
「──あら?」
キンコン、と静かな居間に甲高《かんだか》い呼《よ》び鈴《りん》の音が響き渡った。どうやら訪問者のようだ。
「はいはい。ちょっと待って下さいね。……ええと……」
室内にあるモニターを覗き込むが、操作を間違えたのか、そこには一面黒い液晶《えきしょう》画面しか見られない。何かボタンを押せば映るのかもしれないが、以前同じような状況で適当にいじったら呼び鈴を壊してしまったことがある。また今度も同じことをしたら息子に怒られてしまう。
雪乃は少し考えてから、バタバタとスリッパを鳴らして直接玄関へと向かった。
「お待たせしました。どちらさまで──あら?」
「……おばさん、ごめんなさい……」
扉を開けると、そこには沈んだ顔の小さなお客様がいた。
[#中央揃え]☆
「……雄二はやっぱり凄い」
夕暮れと日中の境目のような時間帯。少年と少女は他に誰もいない教室で、机を挟《はさ》み向かい合わせに座って作業をしていた。
「喋《しゃべ》ってないで手を動かせよ翔子。こんな雑用、さっさと終わらせて帰るんだからな」
少女の方を見向きもせず、つまらなそうに少年──雄二が宿泊学習のしおりを作る手を動かしながら告げる。
「……でも、私は雄二とお喋りもしたい」
「オレは御《ご》免《めん》だ。さっさと終わらせて家に帰りたい」
「……お喋り、したい」
「ダメだ」
「……お喋り、したい」
「ダメだ」
「……お喋り、したい」
「………………」
言うことは言ったとばかりに無視を決め込む雄二。
「……雄二」
「………………」
翔子が何度か呼びかけるも、雄二は顔を上げることなく黙々と作業を進めていく。
このままでは望む反応が得られないと考えた翔子は、少しだけ手法を変えてみることにした。
「……あのね、雄二」
「………………」
やっぱり無視。
「……最近、私のおっぱい、おっきくなってきた」
ごつん、と机の天板と雄二の頭《ず》蓋《がい》が硬質な音を響かせた。
「オマエはいきなり何を言い出すんだよ!」
「……雄二が無視するから、オトコのコが興味のありそうな話題にしてみた」
「きょ、興味なんかねぇよ! いいから作業を続けろよな!」
「……作業は続けてる。でも、お喋りもしたい」
「お喋りなんか、友達としたらいいだろ」
「……うん。だから、今お喋りするの」
「友達って、オレのことかよ……」
あきれた表情で翔子の顔を見る雄二。少女は雄二が自分の友達であることは疑う余地もないといった様子で、にこにことこちらを見ていた。
その様子を見て、なんとはなしに雄二は考える。
(なんか最近、コイツって明るくなったよなぁ……)
ここ、水無月小学校に転校してきたばかりの頃は、彼女はここまで笑顔を見せることはなかった。あの頃からこうした笑顔を見せることがてきたら──もう少し早く周囲の連中と打ち解けられただろう。
転校してきた直後。翔子は苛《いじ》めこそ受けてはいなかったものの、明らかに教室の中では浮いた存在だった。
天然気質で世間とズレているところがある。話し方がスローペースでテンポが合わないことがある。どこか物静かて暗い雰《ふん》囲《い》気《き》のところがある。そして何より──彼女の存在はあらゆる面において恵まれ過ぎていた。
絹糸のようにきめ細やかでほつれのない黒髪。
翡《ひ》翠《すい》や藍玉《あいだま》を思わせる切れ長で美しい瞳《ひとみ》。
将来性を感じさせるどころか、現時点でも魅力的であると言えるほどにしなやかで瑞瑞《みずみず》しい肢《し》体《たい》。
それらは徐々に性に対する意識を持ち始めている年齢の少女には妬《ねた》ましく映り、少年にはある種の照れや萎縮《いしゅく》を促《うなが》すものとして見えていた。
小学校高学年ともなれば、周囲との差異を気にし始める思春期の入り口とも言えるような年頃だ。容姿が美しい上に家柄・頭脳・運動神経と、その全てが飛び抜けている翔子は、良くも悪くも周囲とはズレている。そのズレは上手く見せるとカリスマに、そうでなければ異端に受け取られるのが世の常だ。
そして、残念ながらこの場合の翔子は後者に当たる。
(ま、オレにはどうでもいいことだけどさ)
結果、『そんな子供の世界に興味はない』という斜《しゃ》に構えたスタンスで、何を気にするでもなく接していた雄二は、いつの間にか翔子に懐《なつ》かれてしまっていた。二人そろって成績優秀で二年連続クラス代表に選ばれた、ということもその一因であると言えるかもしれない。懐かれているという事実に対して、雄二自身はあまり良い感情を抱いてはいないが。
「……雄二。お話、しよう?」
翔子は悪意の欠片《かけら》も見あたらない、まさに子供の目をして雄二を見ている。こういった汚れを知らない純朴な性格がまた更《さら》に同性の反感を助長させていたのかもしれない。
以前聞いた話だと、ここ水無月小学校に来る前──二年ほど前のことだが──の翔子はいわゆるお嬢様学校にいたらしい。一般人の偏見かもしれないが、お嬢様というものは往々《おうおう》にして自意識が強いイメージがある。そんなところにこんな少女がいれば、その周囲との摩擦は世俗の小学校の比ではないと思われる。彼女が転校してきた原因はそのへんにあるのではないか、と雄二は漠然《ばくぜん》と予想していた。
「……雄二?」
急に黙った雄二を見て翔子が首を傾げている。
正直、相手をするのは面倒くさい。しかし、放置しておいて先ほどのような発言を繰《く》り返《かえ》されるのは更に面倒くさい。
仕方なく雄二は翔子の相手をすることにした。
「…………それで、何が凄いって?」
「……え?」
「さっきオマエ、言ってただろ。俺が凄い、って」
「……あ、うん。あのね、この前の模試の結果のこと」
無愛想この上ない雄二だが、翔子はその態度に特に腹を立てた様子もなくいつものことのように返事をした。実際、雄二の態度はいつもこのように淡白だ。むしろ翔子に接する態度はまだマシだと言ってもいい。本来の雄二は自分の興味のない相手には平然と無視を決め込むくらいに冷《さ》めた性格なのだから。
「模試なんて、あんなもの別に大したことじゃない」
「……でも、五年生なのに中学生の人たちよりも勉強ができるなんて、凄い。六年生の人たちも悔《くや》しがってた」
「社会の問題でミスったんだ。アレがなければ一位だったのに」
小学生なのに中学生に匹敵《ひってき》するという結果に対して賞賛する翔子と、中学一年生程度を対象とした試験ごとき[#「ごとき」に傍点]で一位を取れなかったと悔やむ雄二。翔子も決して学力が低いわけではないが、雄二と比較するとどうしても見《み》劣《おと》りしてしまう。
常に上を目指すという姿勢自体は良いことだが、雄二のそれは周囲を見下す態度と表裏一体《ひょうりいったい》だ。当然、反感も多く買っている。翔子の言っていた『悔しがっていた六年生』というのも婉曲《えんきょく》表現で、恐らくは雄二に対して憤激《ふんげき》していたのだろう。年下の生意気な少年が自分たちを相手にもしていないと知れば、彼らのその反応は無理のないことかもしれないが。
「そんなことはいいから、ほら。さっさと終わらせて帰ろうぜ」
トントンと机の上のプリントを叩いて促す雄二に、翔子は手を動かしながら尋ねる。
「……今日は家で何かあるの?」
「いや、何も無いけど。ただ……遅くなると、面倒くさい連中に絡《から》まれるからさ」
「……? 面倒くさい連中?」
「気にすんな。覚えておく価値もない馬鹿共だ」
見下す、蔑《さげす》む、そういった表現が当てはまるような口調で雄二が言い捨てる。
「……そうなんだ」
「そうなんだよ。まったく、人をやっかむくらいなら自分たちも家に帰って勉強してろってんだ」
それでもオレには勝てないだろうけどな、などと嘯《うそぶ》く雄二。
「……でも、私は家にいるより学校の方が楽しい」
「へ? 学校が楽しい? オマエが?」
「……うん。変?」
「変ってほどじゃないけど……」
驚いてしまったのは事実だ。
雄二の知る限り、(最近は増えてきたものの)翔子はそれほど友達も多くなければ、積極的に誰かと遊ぶわけでもなく、何かのクラブに所属しているわけでもない。それなのに、一体学校のどこに楽しいと言える要素があるのだろう。
雄二ほどではないとはいえ充分に聡《さと》い翔子は、言葉にされていないその疑問を察《さっ》して答えを返した。
「……だって、家にいると誰も遊んでくれないし、話もしてくれないし、広すぎて寂《さみ》しいし……」
「贅沢《ぜいたく》なやつだな。家が広すぎるなんて、オレには羨《うらや》ましいだけだぞ」
「……それなら、今度私の家に遊びに来る?」
何かを期待するかのように、翔子が上《うわ》目《め》遣《づか》いに雄二を見る。
「やだ。オマエと遊ぶんだったら本を読んでる方がいい」
しかし雄二の返答はとりつく島もなく、それを聞いた翔子の表情には僅《わず》かに不満の色が浮かんでいた。
「……意《い》地《じ》悪《わる》」
「なんとでも言え」
「……けちんぼ」
「ふん。それがどうした」
「……雄二は私のことが好き」
「げほっ」
思わずむせる雄二。
好き・嫌いを表現するような精神の成熟については、女子の方が成長が早い。流石《さすが》の雄二もその点においては例外ではなかった。
「……きっと、好きだから照れちゃって遊びに来れない」
(それはオレじゃなくて他の男子だっての)
そうは思っても口には出せない年頃だ。
「オマ工、なんでそこまでオレを家に呼びたがるんだよ。何かあんのか?」
挑発に乗らない代わりに質問を返すと、翔子は少し困ったような表情をした。
「……今すぐ何かあるってわけじゃないけど……」
「? なんだよ。はっきり言えよ」
「……最近、お爺様《じいさま》がよく聖稜女子《せいりょうじょし》の話をするから」
翔子の口から有名なお嬢様大学付属校の名前が出る。聖稜女子と言えば、資産家や政界に縁のある子供たちが通う全国的にも名高い学校だ。県外から集まる生徒も多く、重重しい門《もん》扉《ぴ》の中にある学生寮は常に満室というのが専《もっぱ》らの噂だ。
「ふ〜ん。そこに転校しろって?」
「……まだ言われたことはないけど……多分、そう」
「あ、そ」
「……私、転校なんてしたくない……」
翔子の表情が曇《くも》る。あまり他人の心情を慮《おもんばか》ることのない雄二だが、その姿は妙に印象に残った。何がそこまで気に入ったのかはわからないが、翔子は余程この学校にいたいらしい。あるいはそれは、お嬢様学校に対する嫌《けん》忌《き》かもしれない。
「なるほどな。だから友達を家族に見せて抵抗しようってわけか」
「……苛められてるんじゃないかって、よく聞かれる」
「オマエ、苛められやすそうだもんな。何されても黙ってそうだし」
引《ひ》っ込み思《じ》案《あん》な性格は苛めの対象になりやすい。翔子の祖父《そふ》の心配も無理からぬことだ。
しかしながら、少なくとも雄二の知る範囲では翔子が苛められているということはない。もっとも、仮に何かしらの苛めを受けていたとしても、この様子では翔子が家族に報告することはなさそうだ。言ってしまったが最後、転校は免《まぬが》れないだろうから。
「……やっと、雄二以外のお友達もできてきたのに……」
「なら、そいつらを連れてけよ」
「……まだ、そこまでは仲良くない……」
「ふ〜ん。ビミョウな関係なんだな」
「……うん」
物静かな翔子は周囲と打ち解けるまでには時間がかかる。転校当初の溝《みぞ》が埋《う》まり、やっと馴染《なじ》んできたというところで転校を勧めているという翔子の祖父に対し、雄二は幾許《いくばく》かの疑問を覚えた。
「まぁ、なんにせよ、オレにはカンケーないね。オマ工の転校なんてどうでもいいよ」
「……ひどい」
「ひどくない」
「……ひどい」
「ひどくない」
「……ひどい」
「ふん」
「……ひどい」
「………………」
「……実は私のおっぱい、クラスで一番大きい」
「げほっ」
その後も雄二は翔子のペースに乗せられ、結局しおり作りを終わらせることができたのは全体下校時刻を迎える頃だった。
[#中央揃え]☆
帰りが遅くなったために、普段はお喋りがしたくて家の前までついてくる翔子も真《ま》っ直《す》ぐ帰って雄二ひとりの下校ルート。昨晩読んでいた『音の伝わるしくみ』という本について考えていると、不意に目の前に数人の人影が現れた。
「おい、坂本」
現れた三人の少年のうちの一人が威圧的に声をかける。
雄二はつまらなそうに彼に目をやり、すぐさま視線を帰路へと戻した。
まるで電柱でも避《さ》けるかのように少年たちを迂《う》回《かい》しようとする。
「テメー、何無視してんだよ!」
「チョーシに乗るなよな!」
すると、両脇に立つ他の二人がその迂回路を塞《ふさ》いできた。
雄二は煩《わずら》わしそうに視線を向け、小さく呟《つぶや》く。
「何の用だよ。オレ、オマエらに構ってるほどヒマじゃないんだけど」
「うっせー。口答えすんな」
「オマエ、五年のクセに生意気なんだよ」
やれやれ、とため息をつく雄二。
こういった形で上級生に絡まれるのは初めてではないが、そう何度もあることでもなかった。しかし、例の模試の結果が発表されてからはこの連中がほぼ毎日のようにやってくる。最初のうちこそ無視を決め込んでいた雄二だったが、いい加減そのしつこさに辟易《へきえき》していた。
「オマエらさぁ……、一体何がしたいんだ? こうやって毎日オレんとこ来るけど、友達いなくて寂しいのか?」
明らかに友人の少ない雄二にそんなことを言われては立つ瀬がない。
案の定、三人の上級生は顔を真《ま》っ赤《か》にして激昂《げっこう》した。
「テメーいい加減にしろよ!」
「ちょっと勉強できるからっていい気になんなよな!」
「俺達六年だぞ! 敬語使えよ!」
そうは言っても、すぐに掴《つか》みかかってくるでもない。結局のところ、この三人は悪ぶって見せても根は小心者なのだろう。そもそも成績を気にして絡んでくる時点で不良とは考えにくい。
雄二はこれ見よがしに肩を竦《すく》めて見せると、
「敬語? オマエら馬鹿だろ。敬語ってのは『敬《うやま》う言葉』って書くんだぞ? オレより勉強のできないオマエらなんかの、どこに敬う要素があるってんだよ」
挑発するように言い放った。
「な……っ! テメー!」
「俺達上級生だぞ!」
はっきりと『オレより勉強のできない』と告げられて更に昂《たか》ぶる上級生たち。雄二はそんな彼らに今まで黙っていた鬱憤《うっぷん》を晴らすかのように更に言葉を投げかけた。
「上級生だからこそ[#「上級生だからこそ」に傍点]、尚更《なおさら》敬えないんだよ。オレより一年長く勉強してるクセに、オマエらはオレに負けたんだぞ? だったら、尊敬されるどころか馬鹿にされても文句は言えないじゃんか。オマエらがオレに敬語を使えよ」
「な、なんだとテメー!」
ここまで言われては流石に黙っておられず、少年の一人が雄二の胸ぐらを掴みあげようとした。
そこに雄二はすかさず殺し文句を告げる。
「おい、オレに手をあげていいのか? オレに何かあったら、すぐに先生やオマエらの親に連絡がいくぞ。オレは特別だからな」
「う……」
雄二の言葉に怯《ひる》む三人。
言われた通りここで雄二を殴るのは得策ではない。以前からもそうだったが、例の模試の結果が出てからは特に教師陣の雄二に接する態度は特別なものになっている。雄二に何かをしようものなら、内申への悪影響や彼らが最も恐れている両親への報告は必《ひっ》至《し》だ。
「わかったんならどけよ。それと、二度とオレんところには来んなよ」
わざと肩をぶつけて再び帰路につく雄二。三人の上級生はそんな彼を悔しげに見送ることしかできずにいた。
「アイツ、本当にムかつくな!」
「なんとかしてシメてやりたいな!」
「アイツ本人をやっちゃダメなら、ロッカーとかになにかしようぜ!」
「そうだ! そうしようぜ!」
「世の中のレーギってやつを教えてやらないとな!」
本人がダメなら持ち物。それは子供らしい安直な考え方で、神童と呼ばれる雄二には予想の範疇《はんちゅう》の行動だった。持ち物に悪戯《いたずら》をしているところを押さえれば、自分が殴られることもなく相手を懲《こ》らしめることができる。雄二の先の発言はそれを見越しての挑発だったとは、三人の少年は知る由《よし》もなかった。
[#中央揃え]☆
「ただいま」
玄関の扉を開けて呟く。こんな挨拶なんて意味がないと考えている雄二だったが、母の『お札とお詫《わ》びと挨拶はきちんとしなさい』という方針には逆らえない。言うことを聞かないと、怒られはしないものの──陰鬱《いんうつ》な表情でしつこくまとわりついてくるのだ。
「おかえりなさい雄二。今日は遅かったわね。翔子ちゃんとどこかで遊んできたの?」
奥からエプロン姿の雪乃が出迎えにくる。いつもの帰宅時の光景だ。
「なんでオレがアイツと遊ぶんだよ。くだらない」
「あら。だってお友達でしょう?」
「違うね」
「もう、そんなこと言って……。あの子、将来きっと凄い美人さんになるわよ。その頃になって『お母さんの言うとおり大切にしておけば良かった。お母さんみたいにこんな美人になるなんて思わなかった』なんて後悔しても遅いんだからね」
「思わないし、そもそも母さんは美人じゃない」
「あ、ひどい」
拗《す》ねた表情を作りながらも朗《ほが》らかな雰囲気を損《そこ》なわないという器用な真似《まね》をする雪乃。
「今日遅かったのは学級委員の雑用やってたからだよ。明日もちょっと上級生に教えることがあるから遅くなる」
「上級生に教えること?」
「色々とあるんだよ」
現場を押さえるためにカメラを用意するべきか、と一瞬考えたが却下する。何故カメラを持ち歩いていたのか、と余計なことを詮索《せんさく》されたら面倒だし、それにあの程度の連中にはカメラを使うことすら勿体《もったい》ない。何かし始めたのを確認してから先生を呼びに行っても充分だろう。持ち物を壊されたら弁償《べんしょう》させたら済《す》むだけの話だし。
そうやってざっと明日の段取りを決めてから、雄二は先ほどから気になっている懸案事項《けんあんじこう》にようやく話をもっていくことにした。
「ところで母さん」
「なぁに?」
「エプロンしてるけど……まさか、料理してんの?」
「ええ。今日は肉じゃがを作ってるの。今やっとサツマイモの皮を剥《む》き終えて」
「なんで肉じゃが[#「じゃが」に傍点]って言ってんのにサツマイモを剥くんだよ!」
「前にジャガイモが煮崩れしてドロドロになっちゃったから、今回は煮崩れしにくいお芋を使って」
「煮崩れの代わりに肉じゃがの定義が崩れてるからな!」
と言いながらも「まぁいっか……。まだ食べられそうだし……」などと呟く雄二。慣れというものは恐ろしい。
「それでね。お母さんお肉買ってくるの忘れちゃったから、お肉抜きの肉じゃがで──」
「それじゃただのふかしたサツマイモじゃないかぁーっ!!」
小学校に通い始めて早五年。雄二が世間の一般家庭と自分の家庭の違いについて知るには充分な時間が流れていた。
[#中央揃え]☆
翌日の放課後。
六年生が動き出すのを待つため、雄二はその日の授業が終わると即座に図書室へと向かった。そこで本でも読みながら時間を潰し、六年生の授業が終わって彼らが悪戯をするであろう頃合に様子を見に行く予定だ。
(あれ? そういえば、今日は翔子がつきまとってこなかったな……)
図書室に続く廊下を歩きながら考える。
いつもなら一緒に帰ろうだのお喋りしようだのと言ってくる翔子が何もしてこない。それは少しだけ不自然なことだった。
(最近仲良くなってきたってやつらと一緒にいるのか……? ま、別にどうでもいいけど)
昨日今日で急にそこまで仲が発展しているとも思えなかったが、そこまで深くは考えなかった。興味のないことだし、今の自分にはそれよりも大事な用がある。上級生を痛い目に遭わせるという大事な用が。
彼らが持ち物に悪戯をしてこないのであればそれはそれでよし。自分にデメリットはない。だが、悪戯をしてくるようであれば彼らには報いを受けさせよう、雄二はそう考えていた。
(朝のうちから悪戯されないように靴《くつ》を避難させておいたけど、アイツらもしかしたらオレの計画に気づくかな)
恐らく自分が逆の立場であれば相手に何らかの意図があることに気がつくだろう。靴に対策をしておいて他には何もしていないなんてあるはずがない。それに気がつかないのは余程の馬鹿だ。
(まぁ、オレなら気づけてもアイツらには無理だよな。馬鹿だし)
本気になれば自分の頭脳は大人にも比肩する。上級生といえども小学生程度では相手になろうはずがない。あのムカつく上級生たちが悪戯の現場を押さえられて泣きべそをかく姿を想像しつつ、雄二は図書室の扉を開いた。
[#中央揃え]☆
いつもならなんだかんだと文句を言う雄二にくっついて一緒に帰る翔子だが、今日は皆が帰ったあとの教室で一人、黙々と作業をしていた。昨日は雄二と話をすることに夢中になってしまって、自分の分のしおり作りが滞《とどこお》っていたからだ。
二十枚程度の紙を真ん中で二つに折り、表紙と重ね合わせてホチキスで留《と》める。一冊作ったら、また一枚ずつ四隅を合わせて二つに折り、ホチキスで留める。真面目《まじめ》で几帳面《きちょうめん》な翔子は、ピタリと四つの角が合わさるようにそれぞれの紙を一枚ずつ丁寧《ていねい》に折って冊子を作っている。傍《はた》から見れば効率の悪い作業だが、翔子はこの単純作業を割と気に入っていた。
話をしながらでも昨日の放課後だけで作業を終えた雄二とは違い、時間と手間をかけて丁寧に冊子を作る翔子。作業を終える頃には陽《ひ》も傾《かたむ》きかけ、そろそろ下校時刻を迎えようとしていた。
休まず続けていた作業で凝《こ》り固《かた》まった体を伸ばしてから、完成した冊子を揃《そろ》える。
昨日雄二が作った冊子も取り出してまとめて両手に抱え込むと、翔子は提出のために教室を出て職員室へと向かった。
無機質な木の扉をノックしてから「失礼します」と呟いて中に入る。何かの作業をしていた担任教師は翔子の姿を見つけると手を止めて立ち上がった。
「……先生。これ、できました」
抱えていた冊子を全て手渡すと、担任教師は「どうもありがとう」と丁寧に札を告《つ》げた。
「……失礼しました」
退室の挨拶をして教室へと引き返す。あとは荷物を持って家に帰るだけ。今日はあまり話せなかった分、明日は雄二といっぱい話をしよう、などと考えていると、誰もいないはずの教室からなぜか話し声が聞こえてきた。
『坂本め、外《そと》履《ば》きも隠しやがって、ヒキョーなやつ!』
クラスメイトの誰とも一致しない声なので、不審に思った翔子は廊下からこっそりと教室の中の様子をうかがった。
『アイツきっと、いっつも苛められてんだよ! 朝上履きがなかったのも、俺達の前に誰かが隠したからに決まってるさ!』
『だとしたら、ロッカーに悪戯するのはやりすぎかな』
「いいっていいって! 生意気なアイツが悪いんだからさ!』
『そうだぜ! これは後輩の教育だからいいんだよ!』
騒いでいるのは三人の男子生徒。体が大きくて、あまり見たことのない顔なので恐らく六年生だろうと翔子は見当をつけた。
でも、どうして六年生が五年生の自分たちのクラスにいるのだろう。
疑問に思う翔子をよそに、彼らはポケットから何かを取り出す。
『思いっきりカッコ悪いこと書いてやろうぜ』
『テストは全部カンニングしてます、とかは?」
『おー! それいいなぁ!』
彼らが取り出したのは油性マジック。そしてその矛先《ほこさき》は、誰かのロッカーから取り出されたと思《おぼ》しきノートや体操服。
(え……? あれ、雄二のロッカー……)
扉の開かれているロッカーは紛れもなく雄二のもの。つまり、悪戯をされているのは雄二ということになる。
自分の友達が酷《ひど》いことをされそうになっている。そう思うと、翔子は相手が上級生だとわかっていても、黙ってはいられなかった。
「……あ、あの……」
教室の中に入って、勇気を振り絞って声を出す。
すると、誰かに犯行現場を見《み》咎《とが》められたと知った上級生たちが、ビクンと体を跳《は》ねさせて翔子の方を振り返った。
「……そ、それ、雄二の……」
一斉に集まった上級生の三つの視線に萎縮しながらも懸命に言葉を紡《つむ》ぐ。人見知りが激しい上に気の弱い翔子にとって、それは大変な労苦だった。
しかしそんな翔子の努力もむなしく、少年たちは声の主が気の弱そうな下級生の女子一人だと知ると、緊張を解き、落ち着いた素振りで翔子に向き直った。
「なんだよ、オマエ」
少年の一人が威圧的に声をかけてくる。
翔子はその目を見ることができず、俯きながら小さく抗議の声をあげた。
「……そ、それ、雄二の、だから……。酷いこと、しないで……」
注意と呼ぶにはあまりにも弱々しく、か細い声。それは翔子にとっては精一杯の警告であっても、人数・年齢に優る少年たちの行動を抑制するにはあまりに弱過ぎた。
「なんだよ、オマエ」
「オマエにはカンケーねぇだろ」
翔子とは対照的に語調が強くなる少年たち。
「……でも、そんなのでラクガキされたら、可哀想だし、それに……」
「なんだよ」
「……雄二は私の友達だから、カンケーなくない……」
消え入るような声での反論。
翔子にしてみれば、それは何の他意もない言葉だった。
だが、少年たちにとってはそうではなかった。
『年下で勉強ができる特別なヤツだけど、アイツには俺達と違って友達がいない』
これは少年たちが誇る雄二への絶大的なアドバンテージになっていた。
しかし、目の前の少女は雄二の友達を名乗り、震えながらも彼の為に自分たちを諫《いさ》めている。しかも、その少女は見目麗《みめうるわ》しく御《ぎょ》し易《やす》そうな性格ときた。仲の良い異性は友達以外の大事な存在にもなりえると意識し始める年頃の少年たちにとって、その事実は筆舌《ひつぜつ》に尽《つ》くしがたい敗北感を喚《かん》起《き》するものだった。
「おい! こんなヤツに構わないでさっさと始めようぜ!」
「ああ! テッテーテキにやってやる!」
翔子に向けていた注意を再び雄二の持ち物に戻す少年たち。マジックのキャップを外し、近くの机の上に置かれた体操服にその筆先を下ろそうとした。
「や、やめてっ!」
目の前で行われる悪事に対し、翔子はいてもたってもいられずに思わずその腕に飛びついてしまった。
「じゃ、邪魔すんなよ!」
「ダメ……っ! 雄二が可哀想……っ!」
振《ふ》り解《ほど》こうとする少年の腕に無我夢中でしがみつく。クラスメイトの皆に言わせたら『体操服の落書き程度でアイツが傷つくとは思えない』なんて言葉が出てくるかもしれない。でも、翔子は傷つく雄二も見たくなかったが、それ以上に全く傷つかないほどに人の悪意に慣れていく雄二の姿を見たくなかった。
「オマエ、離せよ!」
「いい加減にしろよ!」
「うー……っ!」
他の二人の少年が翔子を引き剥がそうと掴みかかってくる。しかし、それでも翔子は必死に雄二の持ち物を守ろうとした。
持ち物に嫌がらせを働こうとする少年たちでも、女の子を叩くという行為は忌避《きひ》しているようで、お互いに力を籠《こ》めての押し合い引っ張り合いが続く。
「このヤロ、ウザいんだよ!」
その均衡《きんこう》が破られ天秤の穂先が傾いたのは、力に勝る少年たちの側だった。
少年の一人が翔子の脇の下に手を回すと、その胸を張らせるような──所謂羽交《いわゆるはが》い絞《じ》めの状態にした。
「はぁ、はぁ……。邪魔、しやがって……」
マジックを持っていた少年がようやく解放されて一息つく。
そしてなんとはなしに自分の体を見回すと、揉《も》み合《あ》いのせいで惨憺《さんたん》たる有様になってしまったシャツが目に入った。
「な……! オマエ、どうしてくれんだよ! オレの服、マジックでぐちゃぐちゃになっちゃったじゃんか!」
ペンを持っていた手や腕はまだいい。油性とはいえ洗えばなんとかなる。だが、シャツはそうはいかない。べっとりと太い黒線が幾《いく》重《え》にも描かれたそのシャツは、もはや人前で着られるものではなくなっていた。
「そんなの……知らない……っ!」
なんとか羽交い絞めから抜け出そうと力を籠めつつ、相手を睨みつける翔子。
「てめ……、ジョートーだよ! それならオマ工にも同じことしてやる!」
その台詞《せりふ》を受けて、少年は手に持つペンを翔子のブラウスへと近づけた。
「じゃあ、コイツにも坂本と同じように何かイタズラ書きをしてやろうぜ!」
「そうだな! そうしようぜ!」
相手の自由を奪い、気炎をあげる少年たち。
それは少年たちにとってはただのラクガキで、やられたことをやり返すだけの行為だった。
「や、やめて……」
しかし、今の翔子にはそれはただのラクガキでは済まない。
さっきの揉み合いでついてしまった線程度ならまだいい。なんとでも言い訳ができる。けれども、ラクガキとなるとそうはいかない。意味を成《な》す模様であればそれは事故ではなく人為的なものであり──翔子が苛めを受けたという動かぬ証拠になる。そしてその事実は、翔子が最も忌避する転校へとそのままつながってしまう。
「いや……」
必死に身をよじるが、その矛先が逸《そ》れることはない。
この時の翔子の目には、そのマジックは包丁よりも恐ろしいものとして映っていた。
「私、転校なんてしたくない……っ!」
[#中央揃え]☆
雄二は早足で自分の教室を目指していた。
というのも、図書室で何気なく手にとった本が存外面白く、つい夢中になって時間を忘れてしまっていたからだ。
(あの本、面白かったな。難しい話だからオレ以外のやつは理解できないだろうけど)
さきほどまで読んでいた本の内容を思い返しながら歩く。光の速度が不変であるために時間の流れ方が変わるという話は新鮮でとても興味深かった。それに、内容が難しくて自分以外の人間には理解できなさそう、という点がまた堪《たま》らない。
大人から見たら、その自己陶酔《じことうすい》こそがまさに子供の証なのだが、それに気づくことができるほど雄二の精神は成熟していなかった。
(さてと。アイツらはきちんと悪戯してるかな、っと)
自分の教室が見えてきたので思考を切り替える。
先生を連れてくるのは後だ。まずは彼らが悪戯をしていることを確認して、その後に連れてくる。確認しないで先生を連れてきて、何も無かったら面倒だからだ。
足音を殺し、遠くから教室の様子を窺《うかが》おうとする。まだ中の様子は見えないが、話し声が聞こえてきた。
(アイツらは、やっぱり馬鹿だな。まぁ、相手が悪かったってのもあるけどさ)
自分の作戦がうまくいっているとほくそえむ雄二。既《すで》に九《く》分《ぶ》九《く》厘《りん》成功を確信していたが、念の為物的証拠になるようなものがあるかを確認しようと、更に教室へと近づいた。
そして、その中の様子を見て──予想外の展開に目を見開いた。
『オマエ、離せよ!』
『いい加減にしろよ!』
『うー……っ!』
体を丸めて必死に何かを守っている翔子と、それを囲んで髪を引っ張ったり腕を掴んだりしている三人の見知った上級生たち。その姿はどこから見ても苛めの現場そのものだった。
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(え? え? なんだよコレ? どういうことだよ?)
予期せぬ事態に目を白黒させる雄二。
今までに翔子が苛められている現場なんて見たこともないし、ましてやあの三人と関係があったなんて聞いたこともない。
それなのに、何の関わりもないはずの彼らがこうして揉めている。
その彼らをつなぐ唯一の共通項。それは──
(オレ……なのか? オレのせいで、翔子は苛められてるのか?)
事の発端《ほったん》が何だったのかはわからない。悪戯の現場を見られて逆上した三人が翔子を苛めだしたのか、肩がぶつかったとかの些《さ》細《さい》な切っ掛けなのか、それとも他の要因か。
しかし、これだけははっきりとわかる。翔子は、雄二と上級生たちとの諍《いさか》いに巻き込まれただけの哀れな被害者だ。
(た、助けないと……!)
子供なりの責任感と正義感に動かされ、目の前の少女を助けようと考える雄二。まるでアニメのヒーローのように颯爽《さっそう》と助けてやろう。所詮アイツらは愚《おろ》かな馬鹿どもで、自分は賢い特別な人間だ。格が違うのだから臆《おく》することは何も無い。
何も無いのに。
(う……うぅ……う……!)
それなのに、雄二は一歩を踏み出せずにいた。
彼らが束になっても勝てっこないというのは、勉強という机上でのこと。今求められているのは、素早く正確な解を求める頭脳よりも単純な腕力だ。自分は一人の五年生で相手は三人の上級生。その差は歴然だ。
(そ、そうだ! 先生を呼んでくれば……!)
当初の予定とは違うものの、これも立派な苛めの現場だ。これを先生に報告すれば彼らは悪人となり、自分の目的は達成される。望ましい展開ではないか。
そう考えて、職員室へと駆け出そうとする。
(あれ……? でも、そうすると……翔子はどうなるんだ?)
苛める側の上級生たちは職員室に連れて行かれた後に家で両親に叱《しか》られるだろう。それはいい。だが、苛められていた翔子はどうなる?
(先生に話すってことは、翔子の親にも連絡が行くってことだよな。そうすると……)
翔子が学校で苛めを受けたという話は翔子の家族も知るところとなるだろう。もしもそうなれば、あれほどまでに翔子が嫌がっていた転校という話が現実のものとなる。いくら声を大にして、今回のことが偶然の出来事で今までには苛めなんてなかった、と言ったところで信じてもらえるわけがない。翔子にとってそれは実際に苛めを受ける以上に避けたい事態のはずだ。
つまり、先生を呼んでくるということは、間接的に翔子を追い詰める行動となる。
(な、なんだよ、なんだよコレ……!)
目の前には自分のせいで苛められている少女がいる。
助けるために人を呼ぼうにも、それは彼女を苦しめる結果となってしまう。
自分だけで助けてやろうにも、相手は年上で三人。対するこちらは一人の上に喧嘩なんてしたこともない下級生。戦う前から結果は見えている。
(な、なんでこんなことになるんだよ……! オレはただ、アイツらに仕返しをしてやろうと思っただけなのに……!)
先生を呼べば自分が翔子に酷いことをしているのと変わらない。
何もせず、見なかったふりをして帰れば罪悪感に苛《さいな》まれる。
勇気を出して踏み込んだとしても彼らに殴られて痛い目を見る。
どれを選んだとしても自分は無傷では済まない。必ず何かの傷を負う。
頭の中が真っ白でいつもの論理的な思考が全く回らない。頭を抱えてうずくまってしまいたい。
(オレはどうしたらいいんだよ……! 誰か、助けてくれよ……!)
弱音ばかりが頭をよぎる。
本当はわかっていた。この三択問題に正解があるとすれば、それは自分が勇気を出して踏み込むことだと。でも、恐怖が邪魔をしてそれができない。
(だって、アイツら上級生だぞ。三人だぞ……! 絶対にオレが勝てるわけないじゃないか……!)
殴られるだろう。蹴《け》られるだろう。泣かされるだろう。どう考えても揺《ゆ》るがない惨《みじ》めな自分の未来に震えが止まらない。打算的に考えると、ここで飛び込むことには何の得もない。
そして、そう考えると同時に、雄二は別のことも考えていた。
(どうしてオレはこんなに怖がってるんだよ……! だって、翔子が苛められているのはオレのせいじゃないか。オレが責任を取るのは当然じゃないか。なのに、どうしてこうやって余計なことばかり考えているんだよ……!)
生まれて初めて自分を情けないと思った。アニメのヒーローや漫画の主人公たちはこんな格好悪いことなんて考えない。自分が負けるとわかっていても、女の子を助けるために躊躇《ためら》いなく危険の中に飛び込んでいく。それなのに、自分はここでこうして震えている。今まで散々見下してきた馬鹿共を相手に、恐怖で動けなくなっている。自分こそが、目の前の女の子が苛められている原因そのものであるくせに。
どんどん自分が惨めで情けなく思えてくる。頭が良いというのはこの程度のものなんだろうか。やらなきゃいけないこと、怒らないといけないことを目の前にぐちゃぐちゃと余計なことを考えるのが、頭が良いということなんだろうか。だとしたら──バカで何も考えないで怒るべき時に怒ることのできるヤツの方が、こんな自分よりよっぽど格好良いじゃないか……!
涙が出るほどに唇《くちびる》を噛《か》みしめて、それでもやっぱり動き出せない。
そうやって葛藤《かっとう》する雄二の前で、教室の中の騒ぎは次の動きを見せた。
『いや……』
翔子の弱々しい呟きが聞こえてくる。
物陰《ものかげ》から見ているせいでよくわからないが、少年の一人が翔子を羽交い絞めにし、他の少年がなぜか翔子の胸元に手を伸ばしているように見えた。
ふと、雄二の脳裏に翔子との会話が蘇る。先日、翔子は胸が大きくなってきたと言っていた。もしかすると目の前で行われているのは、そういった類の悪戯ではないのか。
(アイツだって女なんだから、そんな目に遭ったら傷つくに決まってる……!)
性に対する倫理観も備《そな》わる年頃だ。そういった悪戯がどれだけ女の子を傷つけるのか、雄二とてそれはわからないわけがなかった。
(翔子、助けを呼べよ……! そうしたら、オレがダッシュで先生を呼んできてやるから……!)
翔子が自ら助けを求めたら、それは翔子自身が望んだことだ。自分が先生を呼んだところでなんの落ち度もない。その結果が転校に結びつこうとも、悪いのはそれを選んだ翔子自身だ。自分のせいじゃない。
追い詰められた人間ならではの理不尽な論理でそう考える雄二。
(転校なんて、酷いことされるのに比べたらずっとマシだろ……! だから、さっさと助けを呼べよ……!)
翔子の言葉を待ち続ける。
その一言は自分も翔子も助けてくれる魔法の言葉だ。言ってしまえば楽になる。言ってもらえば楽になる。
忍び寄る罪悪感や恐怖から逃れるため、雄二はその言葉を切望した。『助けて』でも、『誰か来て』でも、何でも良い。とにかく第三者の──特に大人の──介入を求める発言をして欲しい。転校なんかよりも、今酷い目に遭うことの方がよほど嫌だと、そう言って欲しい。
ただそれだけを望んで、望んで、待ち望んで……。
そして、やっと翔子は口を開いた。
『……私、転校なんてしたくない……っ!』
[#中央揃え]☆
「お、おおおオマエら何やってんだよっっっ!」
その突然の声に、翔子は思わず我が耳を疑った。
その声の主がこんなところにいるはずがない。こんなところにいたとしても助けてくれるはずがない。助けてくれるとしても一人で来るはずがない。
そんなありえないはずの要素を全て覆《くつがえ》し、翔子の大切な友達は彼女を助けるために一人でそこに立っていた。
「だ、誰だっ!」
少年たちが一斉《いっせい》にそちらを向く。狼狽《うろた》えているのは、相手が教師である可能性が顔をよぎっているからだろう。
予期せぬ闖入者《ちんにゅうしゃ》のおかげで翔子を束縛する力が緩《ゆる》む。
「……っ!!」
すかさず翔子は羽交い絞めを振り解き、一時的に難を逃れた。もっとも、少年たちとしては、この状況では翔子が逃げたことなどどうでもよいだろうが。
「や、やややって良いことと、悪いことがあるぞ! おおオマエら、最低だ!」
今までに聞いたことのない、震えている上にキーの高い雄二の叫び声。それはいつも斜に構えている雄二のものとは思えないほど取り乱したものだった。
「な、なんだ。坂本か……」
「先生が来たのかと思った……。……おどかしやがってこのヤロ!」
「へっ。ちょうど良かった。オマエに用があったんだよ」
相手が雄二ひとりとわかって威勢を取り戻す少年たち。先ほどまで小競《こぜ》り合《あ》いを続けて昂ぶっている彼らは、常よりも威圧的な態度を見せた。
「オレは……オマエらに用なんて、ない」
相手の雰囲気に呑《の》まれて声が尻すぼみになっていく雄二。
不良と呼ぶほどではないにせよ、そんな萎縮した下級生を相手に怯むほど三人の少年は小心者でも善人でもなかった。
「オマエにはなくても、俺達にはあるんだよ」
「オマエ、生意気なんだよ」
現れた雄二を逃がすまいとにじり寄ってくる三人。
「オレは、忙しいから……その用事はまた今度な。行くぞ翔子」
雄二はボソボソとそう告げると、奥にいる翔子の元に歩み寄り、その手を取って立ち去ろうとした。
「だから待てってんだよ」
そんな雄二の肩を上級生の一人が力任せに掴む。他の二人も雄二を逃がすまいと、その両脇で手を広げて立っていた。気分が昂揚《こうよう》しているところにやってきた、彼らの待ち望んていた獲物だ。そう簡単に逃がそうはずがない。
「何だよ。オレ、急いでるんだから……っ!」
と肩を掴む手を払おうとするも、その力は片手で払えるほど弱いものではない。なんとか両手で振り解くものの、他の二人の少年が出入り口への途上に待ち構えている。どう考えても逃げられない。
雄二は彼らからかばうように翔子を背中に隠すと、正面を向いたまま小さく告げた。
「翔子。オマエ……先、帰れ」
「……でも」
「いいからっ!」
震える声で雄二が叫ぶ。その声に身を疎めた翔子は、雄二の握《にぎ》りしめている拳《こぶし》が震えていることに気が付いた。
「ゆ、雄二……」
「いいからオマ工は先に帰れよっ! ここにいられると迷惑なんだよ!」
押し寄せる感情を堪《こら》えるように唇を噛み締める雄二。震えているのは声や手だけではない。自分より身体が大きく力も強い上級生三人を前に、雄二は恐怖で全身を震わせていた。
「……私、先生を呼んで──」
「うるさいっ! いいから先に帰れ!」
雄二は翔子がどれだけこの学校にいることを切望しているのかを知ってしまった。そして、こんな問題が表沙汰《おもてざた》になったら翔子の祖父がどのような対応をするのかも知ってしまった。そんなことを知っている以上、教師を呼ばせるなんてできるわけがない。
そして何より──あれほど必死に抵抗を続けていた翔子が、自分の身を案じて転校も厭《いと》わず教師を呼ぼうとしているという事実が、惨めで情けなくて嫌だった。自分は翔子が苛められていた原因でありながら、それでも尚《なお》廊下で頭を抱えて震えていたというのに。
格下と考えて歯牙《しが》にもかけていなかった上級生を相手に恐怖で震え、助けるべき女の子からは心配されて逆に情けをかけられる。それらの事実は、昨日までの自信に満ちていた雄二の価値観を覆すには充分な材料となっていた。
震える雄二の口から訥々《とつとつ》と泣き言が溢れ出る。──あるいはそれは、巻き込んでしまった翔子への懺《ざん》悔《げ》であったのかもしれない。
「オレ……勉強が得意だから、ずっと、自分が大人にも負けない凄いヤツだって、そう思ってた……」
「……ゆう──じ……」
「でも、全然そんなことなかった……。いくら数式が解けても、外人の言葉がわかっても、こんな酷いことする奴らに殴られるのが怖いんだ……!」
翔子からは雄二の表情は窺えない。ただ、雄二の頬《ほお》を伝って落ちる水滴には気が付いていた。
女の子を守りながら相手に打ち勝つどころか、たちどころに自分が打ちのめされる未来しか想像できない。どうあっても覆せないその予想を前に、雄二は自らの力の無さを噛み締めていた。
そんな雄二を見て、翔子は自分も泣き出しそうになる気持ちをグッと堪えて告げる。
「……うん……。……私、先に……帰る……ね……」
きっと雄二は、簡単にやられてしまう自分を誰にも見られたくないだろうから。散々殴られて、泣かされて、惨めに教室の隅に転がされる自分を認めたくないだろうから。だから翔子は、助けてくれた雄二を見捨てて逃げるという嫌な自分をも我慢して、雄二の言に従って教室から駆けていった。
『う……う……うぁあああ──っ!!』
涙声で突貫する雄二を背にして走ると、次から次へと涙が溢れ出た。
[#中央揃え]☆
「おかえりなさい、雄二」
帰宅すると、いつものように母が玄関まで出迎えにきた。
「………………」
無言で靴を脱いで家にあがる雄二。
何も説明しようとしない息子の背中に雪乃は静かに問いかけた。
「学校から電話がきたんだけど……上級生と喧嘩したんですって?」
雪乃の言葉に雄二が立ち止まる。
「何かあったの?」
「……別に……なにもない」
雄二は振り向かずに返事をした。
「何も無いわけないでしょう? 上級生を相手に喧嘩だなんて」
「アイツらがムカつくから殴った。他に理由なんて、何もない」
学校で話した理由を繰り返す。教師たちにも散々『何かわけがあるんじゃないのか』『本当は何かをされたのではないか』と聞かれたが、雄二は頑なに『アイツらがムカついたから殴った。自分から殴りかかった』としか言わなかったし、六年生の少年たちもそれを否定しなかった。教師たちは五年生の教室に六年生が三人いたという点を不審には思ったものの、本人たちがそう繰り返すからにはそれ以上の追及ができず、この件を雄二の起こした不祥事《ふしょうじ》として処理せざるを得なかった。有数の進学校への推薦入学を控《ひか》えた、優等生の不祥事として。
「ムカつくからだなんて……。本当に、それだけで喧嘩したの?」
「そうだよ。悪いかよ」
「お母さんは、喧嘩は悪いことだと思うわ」
「………………」
その言葉は無視して、黙って上階の自室に行こうとする。
雄二は最初に相手に一発入れただけで、あとは散々殴られて泣かされたということを話さない。その後に偶然駆けつけた教師に助けられて、職員室で質問やお説教をされたことも話さない。勿論、喧嘩をする前に教室の中で何が起こっていたのかも話さない。
「こら雄二、待ちなさい。お話を──」
「うるさいっ! オレはあいつらがムカつくから殴ったんだ! 他に理由なんて何もないんだよ!」
「あ、雄二っ」
怒鳴《どな》って階段を駆け上がっていく。上階からは勢いよく扉が閉められる音が響いてきた。
「ムカつくから殴った、ね……」
息子の言葉を反芻《はんすう》する。本来ならば悪い意味しか持たないはずの言葉が、妙に心に染み入った。
「……おばさん……」
雄二がいなくなったのを察して、翔子が居間からやってくる。雄二の前に姿を見せないように、と雪乃が言っておいたのだ。
「ごめんなさいね、翔子ちゃん。親子喧嘩なんて見せちゃって」
「……ううん。それ、私が原因だから……」
「あら。雄二はそうは言ってなかったわ。ムカつくから殴ったって」
「……でも、それは雄二が私をかばっているからで、本当は雄二は私を助けてくれて──」
「うん。わかってる。さっき翔子ちゃんが本当のことを話してくれたものね」
教室を抜け出した翔子は、公衆電話で学校の番号を調べてから職員室に匿名《とくめい》の電話を入れ、そのまま雄二の家にやってきていた。雄二に何が起きたのかを説明するために。
「……おばさん。雄二はどうしておばさんにも本当のことを話さないの? 本当は私を助けてくれたのに……。このままだと、雄二が悪者になっちゃうよ……」
これからの雄二の立場を考えてしまったのか、翔子が沈んだ表情を見せる。
しかし、母親である雪乃は表情に翳《かげ》りを見せることなく翔子に告げた。
「あの子はきっと、それでいいと思ったんでしょうね」
「……それでいいって……だって、悪者だよ……? 折角先生たちにも褒められて、霜月中学の推薦までもらってたのに……それも全部、ダメになっちゃうんだよ……?」
「う〜ん……。そうなっちゃうかもしれないわね」
「……雄二はそれで、辛くないの……?」
「それは私にもわからないけど、あの子が自分で考えてやっていることなのだから、母親としては知らないフリをするだけよ」
受け取り方によっては冷たいとも思えるような言葉を告げる雪乃だったが、その顔には先の言葉とはまるで逆の──温かさを感じさせる表情が浮かんでいた。
「……? 雄二が霜月中学に行けなくなったのに、おばさん嬉しそう……」
「そうね。今日ほどあの子の母親であることを誇りに思ったことはないわ。お勉強ができるだけの子になるより、よっぽど嬉しい」
そう言って雪乃は晴れ晴れとした笑顔を見せた。試験で満点を取ってくるより、全国模試で一位を取ってくるより、今日聞かされた不祥事の方が雪乃にとっては誇らしい出来事だった。
「……雄二は……優しいね……」
誰に言うわけでもなく、翔子がその場で小さく呟く。
雄二は自分を守ってくれた。
慣れない喧嘩をして、痛い目に遭って、悪者になってまで自分を助けてくれた。その為に、母親に嘘までついて。
そんなことを考えていると、胸の奥からとめどなく大きな想いが溢れてきた。
「……あのね、おばさん」
「なぁに、翔子ちゃん?」
「……私、大きくなったら雄二のお嫁さんになりたい」
「あらあら。気が早いわね」
「……きっと、幸せにするから」
「ふふっ。それは翔子ちゃんが雄二に言われる台詞よ?」
「……間違えた」
「じゃあ、いつか雄二にそう言ってもらえるように、おばさん翔子ちゃんのこと応援するからね」
「……本当?」
「本当よ。翔子ちゃんが雄二のことを嫌いになっちゃわない限り、ね?」
雪乃に問われ、翔子はもう一度自分の気持ちを確かめる。いつか雄二に対するこの気持ちが冷めてしまうのか、自分のために震えて泣きながら立っていた少年をなんとも思わなくなることがあるのか、と。
そして、考えた未に自分の気持ちをはっきりと雪乃に告げる。
「……大丈夫。きっと、いつまでも好きだから」
それは──確信とも言える予感を伴《ともな》う、未来の自分の心の形。
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あとがき[#「あとがき」は太字][#地から5字上げ]井上堅二《いのうえけんじ》
本作を手にとって頂き、誠にありがとうございます。小説担当の井上堅二です。
気がつけばついにシリーズ8冊目となりました。まさかここまで続くなんて……! ここまでお付き合い頂いている皆様。本当にありがとうございます。今後も頑張ります。
さて。今回はあとがきのページ数が少ない上に注意事項があるので、あまりきちんとご挨拶《あいさつ》ができなかったりします。大変申し訳ありません。本当は皆様へのお礼とか、色々と書きたい日々のネタとかが沢山《たくさん》あるのに……! 悔《くや》しいので、せめて今回書こうと思っていたあとがきネタのタイトルだけでも書いちゃいましょう。
『井上堅二 VS 引越業者のお姉さん
〜その箱の中身について言い訳をさせて下さい〜』
いいえ誤解です。別にエッチい何かが出てきたわけじゃありません。ただ、その……。なんというか、僕にも色々と事情があるんです……。
皆様にきちんと内容を説明したいのですが、残念ながらページ数が全然足りないのでまたの機会に。あとがきに10ページくらいもらえるチャンスがあるといいなぁ……。
なんて話は置いといて、そろそろ本題に入らせて頂きます。
本編のネタバレを含むかもしれませんので、未読の方は一旦《いったん》ここでお別れです。
まずは注意点です。
128ページの文月新聞《ふみづきしんぶん》コラム 姫《ひめ》路《じ》瑞《みず》希《き》の3分クッキング ≠ご覧下さい。
こちらのレシピですが、絶対に真似《まね》をなさいませんよう宜《よろ》しくお願い致します。[#「絶対に真似《まね》をなさいませんよう宜《よろ》しくお願い致します。」は太字]
よく比喩《ひゆ》表現で丈夫な消化器官を 鉄の胃袋 ≠ネどと言いますが、たとえ本当に鉄で胃袋ができていたとしても、この料理は容赦《ようしゃ》なくその鉄を溶解《ようかい》させます。食べ過ぎや消化不良の解消には役立つかもしれませんが、よく考えてみて下さい。その胃のムカつきは命と天秤《てんびん》にかけるほど辛くはないはずです。また、デンプンと硫酸《りゅうさん》は混ぜると確かに加水分解を起こしますが……だからと言ってなんてことはありません。甘みが欲しいのならば砂糖を入れましょう。それで充分です。同様に、酸味が欲しければクロロ酢酸《さくさん》ではなくレモン果汁が良いでしょう。スーパーで買える食材を無視してまで劇薬を入れる必要はありません。というか、肉じゃがに酸味を足す必要がありません。尚《なお》、防《ぼう》腐《ふ》剤《ざい》として使われるという硝酸《しょうさん》カリウムも料理に混ぜると危険です。長期保存がお望みであれば、密閉容器に入れて冷凍室に置いておくと良いでしょう。火にかけると反応してピンクや紫の煙《けむり》を出すシュールな肉じゃがは、三次元では化学兵器と呼ばれます。近所の方々に通報された後で「肉じゃがを作っていただけです」と言ったところで、取り調べ項目に精神鑑定が追加されるだけです。くれぐれも真似をなさいませんようお願いします。
続いて、短編の解説です。
企画の段階で担当さんと打ち合わせをしたのですが、その際に「もっと自由に書いてみてもいいよ」と言って頂けました。なので、これ幸いと思って自由にやってみた結果、実に四本の短編のうち三本が女装ネタという恐ろしい事態に。なんですか。井上堅二はどこに向かっているんですか。どうにも僕は自由という単語の意味を履き違えている気がしてなりません。
雄《ゆう》二《じ》と翔子《しょうこ》の過去の話は……バカテスらしからぬテイストになってしまってごめんなさい。苦手な方には巻末付録の設定資料だと思って頂けたら幸いです。
さてさて。気がつけば残りは数行となってしまいました。恒例《こうれい》の御礼は、恐縮ですが簡単にさせて頂きます。イラストの葉賀《はが》さん、担当編集のN様、デザイナーのかがやさん、そして読者の皆様。いつもありがとうございます。毎度|変《か》わり映《ば》えのしない謝《しゃ》辞《じ》ですが、感謝の気持ちに偽りはありません。是非《ぜひ》とも、今後とも宜しくお願い致します。
それではまた次回、バカテスの舞台でお会いしましょう。
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あとがき[#「あとがき」は太字][#地から5字上げ]葉賀ユイ
浴衣に水着、夏は華やかな絵が増える季節です。
今回は描いてるこちらも夏なんですよね。
あれ…水着も浴衣も着てないヨ?[#顔文字 (´・ω・`)]
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ファミ通文庫
バカとテストと召喚獣《しょうかんじゅう》6.5[#2段階大きな文字]
二〇〇九年九月一〇日 初版発行
著  者 井上堅二《いのうえけんじ》
発行人  浜村弘一
編集人  森 好正
発行所  株式会社エンターブレイン
担  当 長島敏介
デザイン かがやひろし
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