バカとテストと召喚獣 3.5
井上堅二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吉井明久《よしいあきひさ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)吉井|明久《あきひさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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井上堅二
Kenji Inoue
今回はついに真打の登場です! 今だから言いますけど、実は僕……最初から秀吉一筋だったんですよ? これで秀吉&姉の表紙なんて描かれてしまったら、僕はもう……っ! いえ、大丈夫です。このくらいの鼻血ならすぐ止まりますから。こうなると、次の表紙は誰にしたら良いのやら。困ったものです。
葉賀ユイ
Yui Haga
東京在住、純情硬派イラストレーター。旅行で行ってみたいのはアイスランドと鳴尾浜。長年辛党だと思っていたのが、最近同じぐらい甘い物が好きなことに気付く。コーヒー党だけど紅茶も大好き。日本酒党だけどビール大好き。この節操無しめッ! 次はどうしてほしいのかしらッ!?
http://hagayui.sakura.ne.jp/[#底本「http://haga.neko.ne.jp/」移転修正]
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明久《あきひさ》と葉《は》月《づき》の出会いを描いたハートフルな『予習編』、恋文をもらった明久をサーチ&デス?『僕と暴《ぼう》徒《と》とラブレター』、雄《ゆう》二《じ》が人生の墓場へ!?『俺と翔子《しょうこ》と如月《きさらぎ》ハイランド』の3本に加え、ムッツリーニ暁《あかつき》に死す!『僕とプールと水着の楽園』&たまにはこんな休日を『僕とバイトと危険な週末』の書き下ろし2本を加えた、青春エクスプロージョンショートストーリー集!「おかしくない? なんだか3人は死んじゃってるような気がするけど!?」(by明久)
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バカとテストと召喚獣 3.5
井上堅二[#地から2字上げ]ファミ通文庫
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[#地から3字上げ]口絵・本文イラスト/葉賀ユイ
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バカとテストと召喚獣 3.5 CONTENTS&HISTORY
バカとテストと召喚獣 〜予習編〜 P007
――――――――――――――――――――――――――――
二学年クラス振り替え試験実施 ※第1巻参照
――――――――――――――――――――――――――――
僕と暴徒とラブレター P051
――――――――――――――――――――――――――――
文月学園清涼祭開催 ※第2巻参照
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俺と翔子と如月ハイランド P093
僕とプールと水着の楽園 P159
僕とバイトと危険な週末 P231
――――――――――――――――――――――――――――
文月学園学力強化合宿実施 ※第3巻参照
――――――――――――――――――――――――――――
あとがき P280
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バカテスト 日本史[#「バカテスト 日本史」は太字]
【問題】[#3段階大きな文字]
以下の( )にあてはまる歴史上の人物を答えなさい。
楽市楽座や関所の撤廃を行い、商工業や経済の発展を促したのは( )である。
姫路瑞希の答え[#「姫路瑞希の答え」は太字]
『織田信長』
教師のコメント[#「教師のコメント」は太字]
正解です。
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島田美波の答え[#「島田美波の答え」は太字]
『ちょんまげ』
教師のコメント[#「教師のコメント」は太字]
日本にはもう慣れましたか?
この解答を見て先生は少し不安になりました。
吉井明久の答え[#「吉井明久の答え」は太字]
『ノブ』
教師のコメント[#「教師のコメント」は太字]
ちょっと馴れ馴れしいと思います。
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バカとテストと召喚獣 〜予習編〜[#「バカとテストと召喚獣 〜予習編〜」は太字]
こっちに引っ越してきてから、段々とお姉ちゃんの元気がなくなってきた。
学校で苛《いじ》められてるのかな? 嫌な人でもいるのかな?
でも、お家で聞かせてくれるお友達の話は面白いし、お姉ちゃんもその人たちのことが好きみたいだし……。
それならどうして元気が無いんだろう?
やっぱり勉強のことなのかな。うまくいってないって前に言っていたし。
元気になって欲しいな。
もうすぐお姉ちゃんの誕生日だし、おっきなぬいぐるみとかプレゼントしたら元気になってくれるかな。お姉ちゃん、ぬいぐるみ大好きだから。
うん、そうしよう! おっきなノイちゃんのぬいぐるみあげて、元気になってもらおっと!
……お小《こ》遣《づか》い、足りるかな?
[#中央揃え]☆
「全員動くな! 鞄《かばん》を机の上に置いて、中身が見えるように開け!」
朝の|H R《ホームルーム》が始まるや否《いな》や、いきなり担任の鉄じ──もとい西村《にしむら》先生がそんなことを告げてきた。
くっ! マズい! 今日は特に授業に関係ない物が満載《まんさい》なのに!
……鞄を抱えてダッシュで逃げるか?
一瞬そんな考えが脳裏に浮かぶ。でも、
「言っておくが、逃げようなんて考えるなよ?」
この担任から逃げ切るのは至難の業《わざ》だ。ヤツは鉄人《てつじん》の異名《いみょう》を持つほどの肉体派教師。どこまで逃げても、趣味のトライアスロンで鍛え上げた体力で追いかけてくるに違いない。
「よし、それじゃあ見て回るぞ。授業に関係の無いものは全て没収するからな」
廊下側の最前列から順に鞄を覗き込んでいく鉄人。トランプや雑誌といった小物が次々と没収されていく。
「坂本《さかもと》、お前はポケットの中も見せろ」
そんな中、とある一人の生徒は鞄の中だけではなく、ポケットの中までチェックされていた。
「……くそっ」
悔しげにそう毒づいたのは坂本|雄《ゆう》二《じ》。僕の悪友だ。
言われた通りに渋々ポケットを裏返すと、そこからはMP3プレーヤーが出てきた。
「やはりな。これは没収だ」
雄二のMP3プレーヤーを没収品袋の中に仕舞い込む鉄人。まさかポケットの中までチェックされるとは思ってもみなかった雄二は忌々《いまいま》しそうに鉄人を睨《にら》みつけていた。
(雄二、災難だったね)
小声で雄二に話しかける。
(本当に災難だ。普通ポケットまで確認するか? しかも、そこまでやられたのは俺だけだぞ?)
(仕方ないよ。雄二は日頃の行いが悪いんだから)
(……けっ)
見ていると、相手次第でチェックのレベルが違うことがわかる。品行方正な生徒には鞄の口を軽く開けさせるだけで、そうでない生徒は鞄の奥までチェックしている。
「次はお前だ、吉井明久《よしいあきひさ》」
「あ、はい」
鉄人が僕の前に来た。まさか僕まで雄二と同じようにポケットの中をチェックされるとは思えないけど──
「お前は制服を全部脱いでジャージに着替えろ」
「え!? それ警戒しすぎじゃない!?」
想像をはるかに上回る信頼関係だ。
「あの、西村先生。女子も見ている前で着替えるのはちょっと……」
「ダメだ。お前はズボンの中にすら何かを隠し持っている虞《おそれ》がある。ここで着替えろ」
「そんな! いくら僕でもそこまではしないです! 少しは僕を信頼──」
と先生に詰め寄った拍子《ひょうし》に、ガシャッと音をたてて僕のズボンの裾《すそ》から何かが落ちる。
「おい明久。DSが落ちたぞ」
「ん? ああ。ありがとう」
拾ってくれた雄二に札を言って携帯ゲーム機を受け取り、再び先生に向き直る。
「先生、少しは僕を信頼してください!」
「お前はジャージすら着るな」
ば、馬鹿な! 更に警戒レベルが上がるなんて!
「それにしても、ゲームソフト、漫画、小説、DVD……。お前は学校をなんだと思っているんだ?」
次々と没収されていく僕のお宝たち。よりによってこんなに沢山《たくさん》持ってきている時に持ち物検査だなんて。没収品の額を全部あわせると数万円になるかもしれない。
「──これで全部か? 前から言っているが、学校は勉強をするところだ。授業に関係ないものは持ってこないように」
没収品袋を引っさげて鉄人が教壇《きょうだん》に戻る。これで僕のお宝たちと再び会えることはなくなってしまった……
「さて、持ち物検査に時間を取られたのでHRは省略する。一時間目はいよいよ『試験|召喚《しょうかん》実習』だからな。全員|速《すみ》やかに体育館に移動するように」
締めの一言を告げ、鉄人は皆のお宝を抱えて教室から出て行った。
[#中央揃え]☆
『──試獣召喚《サモン》っ!』
体育館内に響く声を聞きながら、僕は隣に座る雄二に話し掛けた。
「……朝からついてないよね」
「まったくだ。よりによって先月買ったばかりのMP3プレーヤーが没収されるとは。くそっ」
「うわ、アレ買ったばかりだったんだ」
「高かったんだぞ畜生」
野性味|溢《あふ》れる顔を歪め、悔しげに呻《うめ》く雄二。その気持ち、僕にもよ〜くわかる。
「明久はゲーム機とかだったな。それも、かなりの量」
「うん……。総額で軽く三万はいったと思う」
携帯ゲーム機、ゲームソフト、DVDにCD。没収された総額で言えば、多分今回のトップは僕かムッツリーニだろう。タイミング悪かったなぁ……。
『次、姫《ひめ》路《じ》瑞《みず》希《き》。前に出なさい』
『は、はいっ』
「お、姫路が出るぞ。ムッツリーニ、折角の体操服姿だ。写真に収めなくて良いのか?」
「…………デジカメは没収された」
「そっか。残念だったね。クラスが違うから、姫路さんの体操服姿なんてなかなか拝めないのに」
「試験召喚実習もこれっきりだしな」
「…………(ガックリ)」
本当に残念そうにうなだれている。まぁ、無理もないけど。
柔らかで明るい髪、あどけなくて可愛い表情、シャツを押し返して自己主張をするふくよかな胸部。ムッツリーニでなくても彼女を写真に残したいと思うだろう。僕だって撮れるものなら撮っておきたい。
『こ、こうですか? 試獣召喚《サモン》っ』
姫路さんが自信なさげに呟《つぶや》くと、彼女の足元に幾何学的《きかがくてき》な魔法陣らしきものが浮かび上がった。そして、傍《かたわ》らに現れる姫路さんの召喚獣。
「流石《さすが》は姫路。随分《ずいぶん》と強そうな召喚獣だ」
「そうだね。外見はあんなに可愛いのにね」
召喚獣自体の外観はとても可愛らしい。なにせ、召喚獣は召喚者の外見をデフォルメしたものだ。元が可愛いのだから当然だ。そしてちなみに、強そうに見える理由はと言うと、
「あんなにゴツい大剣持ってる奴、他にはいなかったな」
「うん。姫路さんくらいだよね」
彼女の召喚獣は背丈の倍はありそうな洋風の剣を引っさげていたからだ。しかも、軽々と。これで弱いわけがない。
『Cクラス 姫路瑞希 VS Cクラス 古河《こが》あゆみ
総合科目 3943点 VS 1264点 』
参考用の点数が表示された。これはこの前受けた中間試験の結果のはずだ。
「なるほど。道理で強そうなワケだ」
「4000点近いなんて。やっぱり姫路さんは頭良いねぇ」
うんうん、とうなずく僕ら。
受けたテストの点数が直接召喚獣の強さに比例する、試験召喚システムというものがあって、要するに、テストで良い点を取るとその分召喚獣が強くなるってことだ。
「そう言えば、明久は姫路と知り合いじゃなかったか?」
「う〜ん。小学校の頃にクラスメイトだったけど……。もう何年も話なんてしてないからね。忘れられてるんじゃないかな?」
今はクラスも違うからすっかり疎《そ》遠《えん》になっている。機会があれば話をしたいけど、他のクラスの女子と話をする機会なんて滅《めっ》多《た》にない。わざわざクラスまで行って『姫路さんに話がある』なんて言ったら告白の前振りにしか思われないだろう。
「そうなのか。来年同じクラスになる可能性は皆《かい》無《む》だし、そのままお前は姫路の記憶から消え去っていくんだろうな」
「来年って、クラス振り分け試験のこと?」
「ああ。お前と姫路が同じクラスになるのは不可能だろ」
「それはそうかもしれないけど……」
入学直後は普通の学校と同じクラス分けだったけど、来年は違う。クラス振り分け試験の結果でクラスが分けられることになる。今はCクラスに所属している姫路さんだけど、二年生になれば成績優秀な彼女は間違いなくAクラス所属になるだろう。そうなれば恐らくDクラスあたりに所属するであろう僕や雄二とクラスメイトになる可能性は皆無だ。
「忘れられちゃうのか……。なんだか寂しいなぁ……」
「確かに、お前なんかを覚えていても何の得もないからな」
「なんてことを言うんだ」
なんて、他のクラスをボケッと見ながら話していると、
「次! 吉井明久と島《しま》田《だ》美《み》波《なみ》!」
鉄人──もとい、僕らの担任である西村先生の声が響いてきた。気がつけば僕の前に召喚実習をやっていた連中が戻ってきている。
「んじゃ、行ってくる」
「おう。お前は≪観察処分者≫候補だからな。しっかり召喚獣の扱いを練習して来い」
「……あのね。僕は雄二と違って、全然問題児なんかじゃないんだからね?」
ジト目で雄二を見る。全く、≪観察処分者≫候補だなんて失礼な。アレは余程の問題児じゃないと認定されない肩書きじゃないか。そんな開校以来一度も出てきていないバカの代名詞を、僕が冠するわけないのに。
「吉井! 早くしろ!」
「ヘーい」
鉄人の怒鳴《どな》り声《ごえ》が聞こえてきたので足早に歩く。見ると、僕と一緒に実習を行う相手は既に召喚を終えているみたいだった。
「…………」
自分の召喚獣を遠い目で見ているのは、元気そうなポニーテールと綺麗な脚が魅力的な、僕のクラスメイトの島田さん。柄《がら》にもなく憂《うれ》いを帯びた顔をしているけど、どうしたんだろう? さては、召喚獣が予想以上にショボかったからガッカリしているな?
「島田さん、どうしたの? 自分の召喚獣があまりに貧弱だからショックだった?」
そんな彼女を気《き》遣《づか》うように、優しい言葉を投げかける。
すると、彼女はそんな僕の優しさに癒《いや》されたのか、一転して嬉しげな表情を浮かべた。
「あ、吉井が相手だったんだ。嬉しい……♪」
ほのかに頬《ほお》を染める島田さん。喜んでくれるのは僕も嬉しいけど──やれやれ。こんな皆の前でそんな態度をとるなんて。困った子だなぁ。
「吉井を殴るのって、すっごく気持ち良いもんね」
……本当に、困った子だ。
「島田さん。殴り合うのは召喚獣だよ? 僕らじゃないよ?」
心配になってルールを確認する。これは来年から行われる試験召喚戦争の為の召喚実習。あくまでも召喚獣同士の戦いのはず。
「そうね。ウチらは殴り合わないわね」
すぐに同意が得られる。良かった。わかってるみたいだ。
「ウチがアンタを一方的に殴るだけだから」
やっぱり全然わかってないみたいだ。
「あの、先生。校内暴力宣言ですよ? 僕らの持ち物検査なんてやってる余裕があるなら、こういったいじめをなんとかするべきでは?」
「……島田。いくら吉井が相手でも、暴力は良いことではない」
「でも、先生……!」
「でも、じゃない。ダメなことはダメだ。わかるな?」
「……はい」
「そうか。わかってくれたか。それなら──」
フッと嬉しそうに笑みを浮かべて一言。
「──今回だけは特別だぞ?」
「あれ? その会話、なんかおかしくない?」
気のせいか、綺麗にまとめて校内暴力を容認されたような。
「はいっ! 頑張ります!」
「よし、頑張れよ」
「あはは。先生も島田さんもバカだなぁ。僕がそう簡単にやられて許しを請うとでも思っているの? それどころか逆に返り討ちにごめんなさい許してぇっ!」
謝ったのに許してもらえなかった。
もしかすると、気遣いの一言がまずかったんだろうか?
[#中央揃え]☆
「ふぅ……。今日は朝の持ち物検査に始まって、一日中災難続きだったよ……」
やっと本日の授業も終わり、放課後。僕はいつものメンバーと教室でグチっていた。
「明久は随分と不要品を持ち込んでいたからのぅ」
隣で僕を気遣うように微笑《ほほえ》みかけてくるのは、雄二やムッツリーニと同じくクラスメイトの木下《きのした》秀吉《ひでよし》。爺言葉《じじいことば》を使うだけでも変わっているというのに、更に外見はどう見ても美少女にしか見えないというツッコミどころ満載の男だ。とは言っても、中身はこの中では僕の次に普通だと思う。他のふたりがあまりにも異常だという話もあるけど。
「そう言う秀吉は被害を受けなかったの?」
「いや、ワシも衣装や小道具をやられた。演劇用と言っても、取り合ってもらえなかったんじゃ」
秀吉の所属する演劇部には学校から小道具や衣装がきちんと支給されている。個人で持ち込む必要性がない以上、確かに不要品と言えるかもしれない。でも、
「少しくらいは見逃してくれても良いのにね。鉄人は頭が固いなぁ」
「…………(コクコク)」
「きっと頭の中まで鉄で出来てんだろうな」
ムッツリーニや雄二も同感みたいだ。ま、ふたりもそれぞれ没収されてたもんね。
「せっかく今日は『召喚実習だけで授業のない楽な一日』なんて思ってたのにな〜」
楽は楽だったけど、これなら普通の授業があって持ち物検査のない一日の方がマシだった。
「召喚実習か……」
僕のボヤきを受けて、雄二が感慨深そうに呟く。
「どうしたの、雄二」
「いや、俺達も来年からは試験召喚戦争ができるようになるんだな、と思ってな」
そう告げる表情はどこか嬉しそうにも見えた。
試験召喚戦争とは、教室の設備を賭けて行われるクラス単位の試験召喚獣勝負のことだ。来年無事進級して二年生になると、この戦争の制度が僕らにも適用される。
「でも、どうして試験召喚戦争なんてやるのかな? 学力の上下をはっきりさせるだけなら、点数を貼り出すだけで良いと思うけど」
「単純に点数を競い合わせるよりも、戦いって形にした方がモチベーションが上がるからだろ? クラス単位の戦いとなれば皆に迷惑をかけまいと努力もするだろうし」
「なるほどのう。チームワークの向上なども図れるワケじゃな」
「ああ。この学校の好きな『社会で実力を発揮できる生徒』を作るのにはうってつけの制度ってワケだ」
「う〜ん、そうなのかなぁ?」
そうやって四人で雑談をしていると、
『ハァ……。まったく、吉井ってば。ウチに掃除押し付けてどこに隠れてるんだか』
そんな声が廊下から聞こえてきた。あれは島田さんの声かな?
「なんだ明久。お前掃除当番だったのか」
「うん。同じ班の島田さんに任せて逃げてきちゃったんだけどね」
「ふむ。相変わらずお主らは仲が良いのう」
「…………(コクコク)」
「あはは、そんなんじゃないってば」
『もうっ。見つけたら、手足を縛って三階から突き落としてやるんだから』
それはスタントマンもびっくりのアクションだ。
「ごめん! 命に関わりそうだから先に帰るね!」
鞄を引《ひ》っ掴《つか》んで廊下に飛び出す。僕だって命は惜しい。
「あ、吉井! こんなところにいた! 待ちなさい!」
「待たない! 殺されるから!」
「怒ってないから待ちなさい!」
絶対|嘘《うそ》だ。
「やっぱり仲が良いのう」
「…………(コクコク)」
自称怒っていない島田さんは、何故か手にロープを持っていた。
「ふぅ……。怖かったぁ〜」
全速力で学校から逃げること三十分。気がつけば僕は商店街まで走ってきていた。
「さて。買い物の予定もないし、おとなしく家に──ん?」
帰ろうとした矢先、知っている後ろ姿が店に入るのを見かけた。あれはもしかすると、姫路さんかな?
「ここで会うのも何かの緑。思い切って声でもかけてみようかな……?」
小学校では同じだったけど、中学校では別々のクラスになっちゃって、気がつけばもう随分と疎遠になっていた姫路さん。せっかくの偶然だし、数年ぶりに話をしたい──なんて思うのは、今日の実習で雄二に『忘れられるぞ』なんて言われたからだろうか。
そんな考えを実行しようと、僕も姫路さんを追いかけてそのお店に入ってみた。入ってみたけど……、なんだか随分ぬいぐるみが多い店だなぁ。まるでファンシーショップみたいだ──ってこの店、本当にファンシーショップじゃないか!
「か、帰ろう。この店に僕は場違いだ」
出口に向かって早足で歩き出す。とにかく一刻も早くここを出たい。
『葉《は》月《づき》一生のお願いです、おじさんっ!』
『そうは言っても、うちも商売だしねぇ……』
と、出口付近でそんな口論が聞こえてきた。どうやらレジの傍《そば》で店員と話をしている女の子がいるみたいだ。随分必死そうな口調だけど、なんだろう?
気になったので声の元に向かってみる。すると、そこには予想通り店員らしきおっちゃんと小学生と思われる女の子がいた。
「どうしても、このノイちゃんが欲しいんです。お願いですっ」
「そんなにお願いされても……。ホラ、お嬢ちゃんだけにオマケしちゃうと、皆にもしてあげないと不公平だろう? お店の人はそんな不公平をしちゃいけないんだよ」
「それでもお願いですっ」
「うぅ……。弱ったなぁ……」
やり難そうに頬をかいている店員のおっちゃんに、女の子は一生懸命頭を下げていた。こんなに小さな女の子が必死にお願いしている姿なんて見ちゃうと、放っておいて帰るなんて精神衛生上良くないなぁ……。
「ねぇキミ。どうしてそんなにそのぬいぐるみが欲しいの?」
余計なお世話と思いつつも、ついつい口を挟《はさ》んでしまった。
思わぬ第三者の登場に、女の子もおっちゃんも驚きの表情を浮かべた。
「さ、最近お姉ちゃんの元気がないから、前から欲しがっていたこのぬいぐるみをプレゼントして、元気になってもらおうって思ったんです……」
「元気がないって?」
「きっとドイツから引っ越してきて、日本語がうまくできないから元気がないんです」
引っ越しか。日本国内での引っ越しでも友達や環境が変わって寂しい思いをするんだから、海外からの引っ越しはその比じゃないだろう。
「それなのに、お姉ちゃんはいつもいないパパやママの代わりにお掃除とかお洗濯とかして、葉月と遊んでくれたりもして……」
話しているうちに感極まってきたのか、葉月ちゃんは大きな目を潤ませ始めていた。
「わわっ! な、泣かないで! お兄ちゃんがなんとかしてあげるから!」
「……本当?」
「うん、本当」
「……お兄ちゃん、ありがとう!」
涙を拭って、嬉しそうに笑う葉月ちゃん。
「それで、このぬいぐるみはいくらですか?」
葉月ちゃんが抱えているぬいぐるみは1メートルぐらいだ。下手をすると五〇〇〇円以上するかもしれない。
「税込みで二万四八〇〇円になります」
「ごめん。お兄ちゃん頑張ったけど、無理だったよ」
「……お兄ちゃん?」
葉月ちゃんの悲しそうな顔。
しまった。あまりの値段に、つい条件反射でギブアップ宣言が。
「ちなみに素月ちゃんはいくら持ってるの?」
「一万円しか持ってないの……」
つまり一万五〇〇〇円くらい足りないわけだ。僕の全財産と合わせても一万一六九九円。二万四八〇〇円には遠く及ばない。半額程度だ。
「すいません。コレ、一万一六九九円で売ってもらえませんか?」
「いや、だからうちも商売だからねぇ……」
葉月ちゃんが交渉していた時と同じ反応が返ってくる。
(お兄ちゃん、それじゃ葉月がお話ししていた時と変わらないよ)
小さな声で葉月ちゃんが僕に耳打ちしてきた。
確かに彼女の言うとおりだ。ここまでは葉月ちゃんのやり方と変わらない。けど、ここから先が違う。小学生とは違う、大人(※高校生)の交渉の仕方を見せてあげよう。
「ところで一万一六九九円だと、だいたい半額くらいですよね?」
「ああ、ちょっと足りないけどね」
「葉月ちゃんはぬいぐるみが欲しくて、おっちゃんも売ってあげたい。でも、いくらなんでも半額じゃ売れない。そこで、僕からの提案です」
「ふむ。なんだね?」
「ぬいぐるみを半分に裂いて右半身だけを売ってもらえば──え? なに? どうしてふたりともバカを見るような目で僕を見ているの?」
「……キミは本当に高校生かね?」
「……バカなお兄ちゃん」
しょ、小学生にまでバカと呼ばれるなんて……!
「オマケはできないけど、少しの間売りに出さないでおいといてあげるから、その間にお父さんやお母さんに相談してまたおいで」
結局おっちゃんがそう結んで、この交渉は終了となった。
「葉月ちゃん。お父さんやお母さんにお願いはできないの?」
店を出て、僕らは近くの公園で作戦会議をしていた。
「ふたりとも、あんまりお家にいないの……。お金はお姉ちゃんが預かってるから、欲しいって言ったら理由を言わないといけないし……」
「そっか。う〜ん…」
大好きな姉の為に何かをしてあげたい、という葉月ちゃんの行動は僕にはとても眩《まぶ》しく見える。学費が勿体無いから、という理由で僕を文月学園に進学させたうちの家族とはえらい違いだ。葉月ちゃんの家族を想う優しい気持ちを失わせない為にも、ここは是非とも協力してあげたい。
けど、どうしたらいいんだろう。僕がもっとお金を持ってたらいいんだけど、あいにく今月の仕送りはほとんど使っちゃったし……。
「そうだ! 葉月のマンガを本屋さんに買ってもらえばお金になるよね?」
これぞ妙案と言わんばかりに目を輝かせる葉月ちゃん。確かにお金にはなるだろう。けど、それでも充分な額になるとは思えない。今朝僕が没収されたゲーム機器ぐらいの価値があれば別だけど──
「ん? そうか。その手があったか!」
「……どうしたの、お兄ちゃん?」
「どうせ戻ってこないと思っていた物だし、うまくいけばその位の額には……」
ダメで元々だし、うん! やってみる価値はありそうだ!
「よしっ! 葉月ちゃん、明日の今ぐらいにこの公園に来られるかい?」
「う、うん。だいじょぶだけど……」
「じゃあ、また明日ここで集合だ。今日はもう遅いからお家に帰ろうね」
手を振って葉月ちゃんと別れる。とりあえずは、明日雄二たちに相談かな。
「あ、うん。ばいばい……」
そういえば、姫路さんは結局あの店にいたのかな?
[#中央揃え]☆
「没収品を取り返す、だと?」
翌朝。いつもの教室で僕はいつもの三人に相談を持ちかけてみた。
「確かに昨日没収された物は、手放すには惜しい物ばかりじゃが……」
「う〜ん……。相手はあの鉄人だし、下手を打てば≪観察処分者≫に認定される可能性もあるしなぁ……」
顎《あご》に手を当てる雄二と秀吉。どうやら気が乗らない様子。困ったな。そうなると僕ひとりでやるしかないんだけど。
「…………明久に賛成」
「え? ムッツリーニ。手伝ってくれるの?」
「…………(コクリ)」
やった。これで少なくとも隠密行動に長《た》けた人材を確保できた。
「……まぁいい。やってみるか」
「あ、雄二もOK?」
「ああ。買ったばかりの物だったし、鉄人には散々貸しがあるしな。丁度いい」
ニヤリと笑う雄二。悪人面だなぁ。
「それならば、ワシも手伝おうかの。ワシとて取り返せるものなら取り返したい」
最後に秀吉も同意してくれる。結局は全員参加だ。さすが問題児一年生代表グループ。
「んじゃ、まずは目的の物の所在を明らかにしないとな」
「そうだね。鉄人が没収品をどこにしまってるかわからないと、取り返しようがないもんね」
最終的には廃《はい》棄《き》されるのかもしれないけれど、没収されたのは昨日だ。鉄人の手元に残っている可能性は充分にある。
「そんなワケで、明久。携帯のマナーモードをOFFにしろ」
「え? なんで?」
「いいからやれ。没収品を取り返したいんだろ?」
「?? よくわからないけど、マナーモードを切ればいいんだね?」
「そうだ」
別に授業中に鳴り出すわけでもないし、問題ないか。ここは雄二の言う通りにしよう。
ポケットから携帯を取り出して操作をしていると、
「こら、お前ら。出席を取るから席に着け」
担任である鉄人が教室に入ってきたので、慌てて携帯をポケットにしまう。
「よし。作戦開始だ」
こうして、僕らの没収品奪還作戦が始まった。
「島田」「はい」「清《し》水《みず》」「はい」
毎朝恒例の出席確認。教室内に鉄人の野太い声が響く。
「山口《やまぐち》」「はい」「渡辺《わたなべ》」「は──」
──ピロピロピロ♪
そんな中、電子音が聞こえてきた。これは誰かの携帯電話かな。全くバカなヤツもいるもんだ。授業中に鳴らしたら即没収されるっていうのに。
「……吉井。出せ」
「……はい」
問題はそのバカなヤツが僕だってことだ。
くぅぅっ! よりによってこんな時に鳴らなくても! 相手はどこのどいつだ!
≪着信 坂本雄二≫
「ゆ、雄二!? キサマ裏切ったな!?」
「没収だ」
「ああっ! 携帯! 僕の携帯!」
無情にも鉄人に連れて行かれる僕の携帯電話。
「いいぞ、今日は遅刻欠席がひとりもいないな。今後もこの調子で頑張るように」
出席簿を閉じ、鉄人はのっしのっしと教室を出て行った。僕の携帯を持ったまま。
「よし。最初の作戦は成功だ」
「雄二! 僕に何の恨みがあるのさ! 携帯電話まで没収されちゃったじゃないか!」
「あれは目的物の在《あ》り処《か》を知る為の囮《おとり》だ。あとで回収すればいい」
「え? 囮?」
「ああ。鉄人が没収品をどこにしまうかを調べる為にわざと没収させたんだ」
「それならそうと、早く言ってくれればいいのに……」
それと、できれば自分の携帯を使って欲しかった。
「…………ただいま」
「おわぁっ!」
いきなり背後から声が聞こえる。びっくりしたぁ〜。
「お、ムッツリーニ。どうだった?」
「…………目的のブツは職員用ロッカーにある」
「さすがはムッツリーニじゃ。気配を消しての尾行はお手の物じゃな」
どうやら鉄人が僕の携帯をどこにしまうかを、ムッツリーニが尾行して調べていたようだ。目立たない行動が不可能な雄二や秀吉にはできない芸当だ。
「…………ただし、鍵がかかっている」
「そうか。その鍵は?」
「…………鉄人はズボン左後ろのポケットにしまっていた」
「なるほど。そうなると、その鍵を奪う必要があるな」
「そうだね。どうしようか?」
「大丈夫だ。俺に考えがある。掃除の時間に次の作戦をやるぞ」
ひとまずはいつも通り授業を受けて放課後を待つことになった。
[#中央揃え]☆
で、放課後。
「それで、作戦って?」
昨日サボった罰として、今日は廊下の掃除をひとりでやらされる羽目《はめ》になったので、ゴシゴシとモップをかけながらの作戦会議だ。ちなみに誰も手伝ってはくれない。
「それを使う」
雄二が顎で示したもの。それは──
「バケツ? これを使ってどうするのさ」
「鉄人に水をぶっかけて着替えさせる」
なるほど。その時に服をちょろまかして、例の鍵を奪おうってことか。
「ふむ。単純ゆえにやりやすそうな手口じゃな」
秀吉の言うとおり、失敗することはなさそうだ。だとすると、この作戦の問題点はひとつ。水をぶっかける係が鉄人に目をつけられるという──
「この作戦の問題点はひとつ。水をぶっかける明久が[#「明久が」に傍点]鉄人に目をつけられるという点だが」
あれ? 実行犯は僕に決定済みなの?
「まぁ、取るに足らない問題だ」
僕にとっては大問題だ。
「ねぇ、何かおかしくない? 水をかける人はジャンケンとかで決めるべきだと──」
「む。ターゲットが来たぞい」
「よし、上手くやれよ明久」
「…………ファイト」
「え? ちょっと!」
三人は音も立てずに一瞬でその場を離れていた。鉄人は階段を昇って来ているし、こうなったら僕がやるしかない!
目標を肉眼で捕《ほ》捉《そく》。相対速度、調整完了。武器の準備、問題なし。
──攻撃開始っ!
「ああっと! 足が滑ったぁっ!」
モップを右手に持ち、躓《つまず》いたかのようによろけて、左手のバケツを階段の踊り場に立つ鉄人目掛けて放り投げる。貰ったぁ!
「! むうっ!」
バ、バカな!? 流石は鉄人! 突然の事態にも瞬時に反応して回避運動を取るとは! けど──
「逃がすかぁぁっ!」
モップを叩きつけて、鉄人が回避した方向にバケツを飛ばす。こっちも負けられないんだよっ!
バッシャァァア──カラカラカラ
見事に中に蓄えていた水を鉄人に吐き出し、地面に転がるバケツ。作戦成功だ。
足元の水を踏まないように気をつけながら、散らばったバケツとモップを拾い上げ、立ち尽くしている鉄人に告げる。
「すいません。足が滑り──あがぁっ! 先生! 百科事典は鈍器として作られてはいないはずですよ!?」
「『逃がすかぁぁっ!』と、聞こえたんだが?」
「空耳です」
「真顔で嘘をつくな。歯を食い縛れ」
「せ、先生、百科事典の角だけはっ!」
雄二達、早く来てよ! このままじゃ僕は鉄人に顔がパンダのようになるほど殴られちゃう!
「やれやれ、明久。やらかしたな」
どこからともなく現れる雄二達。助かった〜。
「あれほど『先生に水をブチ撒けるなんてやめておけ』と忠告したのに……」
「い、痛いっ! 先生! 本当にわざとじゃありませんから!」
ぜ、全然助かってない! この野郎! 僕をフォローする気はさらさらないな!?
「先生。明久の処刑は後にして、とりあえず着替えた方がいいっすよ。俺のジャージで良ければ貸しますけど」
「そうだな。済まない貸してもらおう。吉井は床をきちんと拭《ふ》いておけよ」
そう告げて、鉄人は濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》状態で雄二達と教室の中に消えていった。
「……貧乏くじだ」
とりあえず言われた通りに床を拭く。掃除用具は手元にあるし。
そうやって後始末をしていると、教室の中から秀吉が出てきて僕の所に来た。
「明久。鍵をゲットしたぞい」
「そっか。それならあとは職員室に侵入してブツを取り返すだけだね」
「うむ。鉄人に気づかれないうちに素早く済ませるのじゃ」
「了解」
モップを壁に立てかけ、職員室に向かう僕と秀吉。
「それじゃ、ちょろっと行ってくるよ」
秀吉から鍵を受け取り、僕は職員室の扉に手をかけた。
「大丈夫かの?」
「心配要らないよ。目立たないように職員室に入って、目的の物を回収するだけだし」
一応、鉄人以外の先生には目立たない一般生徒として認識されているはずだから、外見が美少女の秀吉より僕の方がこの役は適任のはずだ。
「そうか。ならば、ワシはここで待機していよう」
「うん。それじゃ──失礼しま〜す」
そっと職員室の扉を開ける。大丈夫。この僕が目立つワケがない。
「吉井か! ちょっとこっちに釆なさい!」
「なんで!? どうしていきなり目をつけられるの!?」
入った瞬間に古典の先生に捕まった。なんでだろう。
「この前の宿題の『徒然草《つれづれぐさ》の現代語訳』について、お前の言い訳を聞きたい」
「あれ? その宿題はきちんと提出したはずですけど」
「その語調が何故ラップ調なのかを教えてくれ」
「え? だって、現代語って言われたから、最近の日本語を──」
「あ、吉井君。そっちの話が終わったら私のところにも来るようにね」
「吉井。この前提出してもらった化学のレポートだが、あれはないだろう。ちょっと後で話を聞かせなさい」
いつの間にか先生方に取り囲まれた。こ、これじゃあ、作戦どころか日が暮れるまで先生方に束縛されてしまう! どうにかしないと!
「失礼します……」
そんなことを考えていると、職員室の中に新たな闖入者《ちんにゅうしゃ》が。ん? あれは秀吉?
「おお、木下か。一体どうした?」
「きゆ、急に……具合が悪く……。保健の先生も……いなくて……」
口元を押さえている秀吉。なんだか顔色も悪い気がするけど、大丈夫なんだろうか。
「秀吉、だいじょう──」
と、駆け寄ろうとすると、秀吉が僕にだけ見えるように片目を瞑《つむ》ってきた。そうか、これは芝居か! 流石は演劇部。危うく騙《だま》されるところだった。
「すいません。少し休ませ──」
言葉の途中で、急にバタンとうつぶせに倒れた。
「き、木下! 大丈夫か!」
「とりあえず保健室に運びましょう!」
「そ、そうですね! それじゃ、先生は足の方を持って下さい!」
喧々囂々《けんけんごうごう》と騒ぐ先生達。結局その場にいた全員が秀吉を連れて職員室からいなくなっていた。ナイスフォロー、秀吉。
「この隙《すき》に目的のブツを頂きますか。えーと、鉄人、じゃなくて西村、西村と……」
職員用ロッカーに貼られている名札を順に見ていく。お、あったあった。
「……鉄人のロッカーか。中で虫でも湧いてそうだなぁ」
とは言え、ためらっている場合じゃない。秀吉から受け取った鍵を取り出し、ロッカーの取っ手を引く。すると扉はいとも簡単に開いてくれた。
「お、綺麗にしてある。意外だ……」
ロッカーの中はきちんと整理されており、没収品袋はわかり易い位置に置いてあった。
「さてさて。見つからないうちに退散っと──ん?」
鍵をかけて袋を肩に担ぐと、ロッカーの上にビニールの紐《ひも》でまとめられた古本が置いてあるのが見えた。きっと捨てる為にまとめてあるのだろう。
「う〜ん……。どうせ捨てるなら貰っておくかな。もしかすると売れるかもしれないし」
ついでにまとめられた古本を両手に抱え、僕は大急ぎで職員室を後にした。
「よっしゃっ! 目的達成!」
あの後、戦利品の没収品袋を雄二に渡し、僕は自分の物と古本を抱えて行きつけの店に向かった。もちろん戦利品をお金に換える為だ。
僕の持っていたゲーム類は予想よりも低い値段だったけど、代わりに古本がそれなりの値段で売れた。これは嬉しい誤算だ。今日だけは鉄人に感謝しておこう。
「さてさて、あの子はいるかな〜っと」
「あっ! お兄ちゃん! 来てくれたんですねっ!」
待ち合わせの公園に入ると、葉月ちゃんが一目散《いちもくさん》に駆けてきた。なんだか子犬を見ているみたいで心が和む。いつもはバカどもや鉄人や暴力少女が傍にいるからなぁ……。
「うん。約束だからね。って、そのぬいぐるみはどうしたの?」
見ると、葉月ちゃんは目的のノイちゃん(だっけ?)と似たような、手作りとおぼしきぬいぐるみを抱えていた。
「あのですね、さっきとっても綺麗なお姉ちゃんが来て、『もしもあのお兄ちゃんがうまくいかなかったら、これをお姉ちゃんにあげて』って言ってくれたんですっ!」
「???」
「それで、『あのお兄ちゃんがぬいぐるみを持ってきてくれたら、これはあなたにあげる』って!」
小さな子特有の話し方に一瞬頭が混乱する。
えーっと、葉月ちゃんの言っていることを整理すると──
・今日、綺麗なお姉さんが葉月ちゃんのところに来た
・そして葉月ちゃんに手作りのぬいぐるみをくれた
・そのぬいぐるみは、僕がうまく目的を達成できなかった時には葉月ちゃんの姉へのプレゼントにするようにと言われた
・うまくいった時には葉月ちゃん自身へのプレゼントに、と言われた
──ということだろうか。
「うんうん。そっか。それじゃ、そのぬいぐるみは葉月ちゃんの物だよ」
「え? 本当?」
「うん。それで、こっちが葉月ちゃんのお姉ちゃんの為の物」
抱えていた大きなぬいぐるみを葉月ちゃんに持たせる。小さな彼女がそのサイズのぬいぐるみ二つを抱えるのは大変そうだけど、とても嬉しそうに受け取ってくれた。
「やったー! お兄ちゃん、ありがとうですっ!」
「どういたしまして。お姉ちゃんの元気が出るといいね」
頭をくしゃくしゃと撫《な》でてみる。すると、葉月ちゃんは気持ち良さそうに目を閉じた。
「んにゃ〜……。あ、そうだ。お兄ちゃん、ちょっと耳貸して下さいっ」
「うん? どうしたの? 内緒のお話かな?」
「いいからちょっとだけっ」
お礼でも言う気なのかな。感心感心。お札とお詫《わ》びはきちんとできないとろくな大人にならないからね。
「はいはい。なんですか?」
腰を屈《かが》めて彼女に高さを合わせてあげる。すると──
「ありがとう、お兄ちゃん!」
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チュッ、と頬に可愛らしい感触が伝わってきた。。…ん? これは……まさか…?
「な、な、な……!」
「お兄ちゃん、おバカだけど、とっても優しいから好きですっ! おっきくなったら葉月がお婿《むこ》さんにしてあげますっ!」
言うや否や、葉月ちゃんはバタバタと駆けて公園から出て行った。
……さ、最近の小学生は……!
頬に残った感触を拭うように頬に手を当てる。自分でもはっきりとわかるほど顔が火照《ほて》っていた。な、情けない……。相手は小学生だというのに……
「はぁ……。とにかく帰るか……」
鞄を肩に担ぎ直して、公園の出口に向かう。その出口付近にさしかかると、昨日も見かけた後ろ姿があった。あれは──
「あのー、もしかして姫路さん?」
「あ、はいっ。なんですか──よ、吉井君っ!?」
やっぱり姫路さんだった。こんなに綺麗な子は二人といないだろうし、間違いない。
「ごめん。驚かせちゃったかな」
「い、いえ。私がぼーっとしていただけなので……」
そこで会話が途切れる。な、なんだか気まずい……。久しぶりに会う友達って、どんな会話をしたらいいんだろ?
「えーっと……こ、こんな場所で偶然だよねっ。学校帰りかな──って、随分眠そうだけど?」
「はい。ちょっと、昨夜は徹夜で裁縫《さいほう》をしていたもので……」
「ふーん。姫路さんも徹夜なんてするんだね」
規則正しい生活を送っているイメージがあるので、少し意外だ。
「いえ、昨夜は特別なんです。どうしても、今日までに完成させないといけないものがあったので……」
言いながら欠伸《あくび》をする姫路さん。目に涙を浮かべている姿が少し可愛い。
「それじゃ、私はこっちなので、失礼します」
「あ、うん。じゃあね」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げる彼女に手を振って別れる。
しばし家路を歩みながらふと思う。
……ところで、どうして姫路さんはあんなところにいたんだろう?
[#中央揃え]☆
「……昨日、職員室で盗難が発生した」
翌朝のHR。開口一番鉄人がそんなことを言い出した。これは間違いなく僕らが奪還した没収品袋のことだ。
「これは大変|嘆《なげ》かわしい事態だと思わないか、吉井?」
何故か僕に話が振られる。きっと鉄人のことだ。僕が実行犯だと目星をつけてカマをかけているに違いない。誰が動じるもんか。
「そうですね。全く嘆かわしいことだと思います」
自然にさらりと受け流す。余裕余裕。
「そうか。ところで、その犯人は先生の私物の本を盗んでいったんだが」
ん? 私物の本? それってあの古本の事? あれは捨てた物じゃなかったの?
「度胸のあることに、盗難の犯人は身分証明書を提示して、堂々とその本を売《う》り捌《さば》いたようだ」
「そうですか。それはまた豪胆ですねぇ」
「全くだ。はっはっは」
「あっはっは」
お互いにからからと気持ちよく笑い合う。心の底から楽しげに、大口を開けて。本当に、目以外は[#「目以外は」に傍点]楽しそうに。
「吉井ぃっ! 歯を食い縛れぇっ!」
「す、すんませんしたっ! まさか先生の私物だとは──」
「思わなかったと言うのかっ!」
「いえ、ちょっとは思ったけど、『鉄人だし、まぁいっか』と思って痛いっ! 先生! 頭《ず》蓋《がい》が陥没しそうです!」
「やはりキサマにはバカの疑いがあるな。今後は充分気をつけて視《み》ていく必要がある」
「先生! これ以上目をつける余地があるとは思えないのですが!」
「いや、あるだろう? とっておきの、お前にぴったりの栄誉ある肩書きが」
「え? それって……」
「今朝の職員会議で、満場一致で可決した。受け取れ。先生からお前への贈り物だ」
いつの間にか鉄人が手にしていた紙には、飾り気の無い淡白《たんぱく》な文章が一行だけ書いてあった。
──吉井明久。上記の者を文月《ふみづき》学園指定≪観察処分者≫として認定する──
[#中央揃え]☆
「お姉ちゃんっ」
「うん? どうしたの、葉月?」
「あのね。これ、プレゼント!」
「え? これって、前からウチが欲しがってたノイちゃんのぬいぐるみじゃない。どうしたの?」
「お姉ちゃんが最近元気ないから、元気になって欲しくて用意したですっ!」
「葉月……。アンタって子は……。ありがとうね。お姉ちゃん、すっごく嬉しい!」
「お勉強とか大変だけど、頑張って、美波お姉ちゃん!」
「うん。頑張ってみる! 確かにこのまま不貞《ふて》腐《くさ》れていても、負けたみたいで嫌だし、それに……」
「それに?」
「今の学校に、ちょっと気になるヤツもいるしね」
「え? 気になる人? だれだれ? どんな人ですかっ?」
「そうね〜。ぬいぐるみのお札に、葉月にだけは教えてあげちゃおうかな。あのね、同じクラスにいるすっごいバカなんだけどね──」
[#改ページ]
[#改ページ]
文月新聞[#2段階大きな文字]
[#ここから2字下げ]
二年F組 吉井明久さんのコメント[#「二年F組 吉井明久さんのコメント」は太字]
僕が小さな頃、祖父がよくこう言っていました。
『明久。泥棒でも何でもいい。一番を目指して精進《しょうじん》しなさい』[#「『明久。泥棒でも何でもいい。一番を目指して精進《しょうじん》しなさい』」は太字]
今、僕は天国にいる祖父にこのことを教えてあげたいと思います。
爺ちゃん……
これで、いいかい……?
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
以上、
[#ここから太字]
【女装が似合いそうな男子ランキングNO.1】
【こいつにだけはバカと言われたくない生徒ランキングNO.1】
【モテそうな男子(同性愛編)ランキングNO.1】
[#ここで太字終わり]
の三冠を達成した吉井明久《よしいあきひさ》さんからのコメントでした。
※尚、女装が似合いそうな男子にノミネートされていた木下秀吉《きのしたひでよし》さんは審議の結果、アンフェアであるとの結論に達した為除外されています。
[#ここから5字下げ]
予定されていた第二特集
【須川亮、また失恋!? 連敗の裏側にある真実とは!】
は都合により延期となりました。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#改ページ]
僕と暴徒とラブレター[#「僕と暴徒とラブレター」は太字]
吉井明久《よしいあきひさ》さまへ
突然ですが、吉井君にどうしても伝えたいことがあって、お手紙を書かせていただきました。驚かせてしまったらごめんなさい。
吉井君は覚えているでしょうか? 私と吉井君は小学校三年生の頃、初めて一緒のクラスになったんですよ? そのときから、ずっと面白い人だなあと思っていました。クラスのムードメーカーで、いつも楽しそうで、何か問題が起きた時は皆を励《はげ》ましてくれたり、初めて私がクラス委員になったとき、色々助けてくれたり。そんな吉井君のことを、偉《えら》いなあとも思っていました。グループに加わって遊んだりとかはしていませんでしたけど、吉井君がグラウンドや教室にいるのを見ているだけで、心が温《あたた》かくなりました。
中学はクラスが別々になってしまいましたが、噂《うわさ》は時々聞こえてきました。たまにバッタリ会って、挨拶《あいさつ》すると、なぜだかドキドキしてしまって。あれ? なぜだろう、と思っていました。
高校も偶然でしたが、同じ学校だと知って、本当に嬉しかったです。
そして、振り分け試験の時に私をかばってくれたことで、吉井君のことを本当に意識するようになって──これは好きだってことなんだなぁ……って、今更なんですが、気がつきました。
あなたのことが好きです。
今はこの気持ちを伝えるだけで精一杯《せいいっぱい》なんですが、吉井君に私の気持ちを知ってもらって、徐々《じょじょ》にもっと仲良くなれたらいいな、と思っています。
一方的な手紙でごめんなさい。あと、誰かつきあっている人や好きな人がいる場合は、本当にすみません。
でもでも、好きです。大好きです。
[#中央揃え]☆
「う〜ん……ありえない登校時間だ」
晴れ渡る空。澄んだ空気。暖かな日差し。
いつもより一時間早いだけで、混み合うはずの通学路はガラリと様相を変えて、ひとけのない爽《さわ》やかな散歩道のような雰《ふん》囲《い》気《き》になっていた。
「早起きは三文《さんもん》の得って言うし、何かイイコトがあるといいなぁ〜」
昨日学校から帰った後ちょっと昼寝のつもりで横になったのに、気がつけば朝まで寝ていた。おかげで今朝はいつもより二時間も早く目が覚めてしまった。
早朝にすることなんて思いつかずに学校に来ちゃったけど、こんなに天気がいいなら洗濯でもしてきたら良かったかもしれない。
「さてさて、こんな時間から何をしようかな──ん?」
そんなことを考えながら歩いていると、校門の近くに見知った後ろ姿を見かけた。刈《か》り揃《そろ》えられた髪に浅黒い肌、無《ぶ》骨《こつ》なシルエット。あれは鉄人──もとい、西村《にしむら》先生か。一応担任だし、挨拶でもしておくかな。
「先生、おはようございまーす」
後ろから元気に声を掛《か》けてみる。すると、鉄人は今まで見たこともないような爽やかな笑顔で振り向いて、
「おう、おはよう! 部活の朝練《あされん》か? 感心だ──」
動きが止まった。
「先生?」
「──すまん。間違えた」
「人違いですか? いやそんな、別に謝る必要なんて」
「吉井、こんな早朝に学校に来て、今度は何を企《たくら》んでいる」
そう言って爽やかな笑顔から一転、警戒心《けいかいしん》をあらわにした表情になった。
「あの……間違えたのは接する態度ですか?」
僕、そんなに悪いことばかりしていたかなぁ。
「お前を警戒するのは教師として当然のことだが……。それはそうと、丁度良かった。≪観察処分者≫のお前がいるなら手間が省《はぶ》けるからな」
「げ。≪観察処分者≫ってことは、また力仕事ですか?」
「そういうことだ。古くなったサッカーのゴールを撤去《てっきょ》してくれ」
「やれやれ。早起きなんてするんじゃなかったなぁ……」
ついつい溜息《ためいき》が出てしまう。
≪観察処分者≫。これは僕の通う文月学園にある『試験召喚システム』という特別なシステムを使った罰則《ばっそく》で、主に教師の指示した雑用を召喚獣を使ってこなす係のことだったりする。
科学とオカルトと偶然によって作られた『試験召喚システム』というものがある。これはテストの点数によって強さが決められた召喚獣を喚び出すことができるもので、ここ文月学園はそれを使って生徒の勉強に対するモチベーションを上げさせるという試みを行っている実験校だ。その召喚獣を使った試験召喚戦争なんていう制度があって、確かに普通に勉強するよりはやる気が出ているかもしれない。
「後悔《こうかい》するのは早起きではなく、観察処分を受けたお前の態《たい》度《ど》だということに気付くべきだと思うがな」
呆《あき》れたように鉄人が僕の顔を見て溜息をつく。
「うぅ……。僕はそんなに悪いことなんてしていないのに……」
「……どの口でそんなことが言えるんだ。いいからグラウンドに来い」
「へーいへい」
鉄人に連行されるように校庭へと足を向ける。トラックを走っているのは、朝練をしている陸上部だろうか? 朝から元気だなぁ。
「吉井、頼んだ」
「了解です。──試獣召喚《サモン》」
鉄人の立会いの下、試験召喚獣を喚び出す。
足元に浮かび上がる魔法陣のような幾《き》何《か》学《がく》模様。そして傍《かたわ》らに現れるデフォルメされたもう一人の僕。三頭身程度の姿は愛嬌《あいきょう》満点だけど、その腕力は凶悪なほどに強い。召喚者の点数によって変わるけど、僕程度の点数でも成人男性の何倍もの強さを持っている。だからこそこうやって雑用に使われちゃうんだけどね。
「それじゃ、そのゴールを持たせて」
「はいよ」
僕の指示を受けて召喚獣が身《み》の丈《たけ》の何倍もあるサッカーゴールを軽々と担《かつ》ぐ。
「街外《まちはず》れの産廃場《さんぱいじょう》まで行ってこい」
「何キロあると思ってんですか!?」
せめて近くに運搬《うんぱん》用のトラックぐらいは用意しておくべきだと思う。
「冗談《じょうだん》だ。ゴールネットを外して校門前に邪《じゃ》魔《ま》にならないように置いておけばいい」
「なんだ、ビックリした〜」
「お前が破壊した校舎の修繕費用《しゅうぜんひよう》を考えれば、その程度の罰《ばつ》も当然だと思うがな」
「うぐ……」
そりゃ、ちょっとは悪いと思うけど、こっちにはこっちの事情があったわけで……。
「外したネットは別口で処分するから、とりあえずは体育用具室にでも置いといてくれ」
「はぁ……。今日も一日イイコトなんてなさそうだなぁ……」
早起きは三文の得、なんて誰が言い出したのやら。
[#中央揃え]☆
鉄人の指示通りネットを外してゴールを運んでいたら、あっという間に朝の|H R《ホームルーム》の時間寸前になっていた。外したネットを体育用具室に運んでいる時間はないし、一旦《いったん》教室に持って行くことにしよう。
そんなことを考えていた僕を迎えたのは、靴箱《くつばこ》に置かれていたラブレターのような何かだった。
「なっ、なんじゃこりゃぁぁっ!?」
思わぬ事態に叫び声が出てしまう。おおお落ち着け、吉井明久! 早《はや》合《が》点《てん》は命取りになるぞ! まずはじっくりと中身を確認してから──
「どうした、明久?」
「おわぁぁっ!」
声を掛けられて、咄《とっ》嗟《さ》に手紙をポケットに隠す。ビックリしたぁー!
「あ、ああ。雄《ゆう》二《じ》か。おはよう」
「おう」
片手を上げて挨拶に応《こた》えたのは、クラスメイトの坂本《さかもと》雄二だ。どこから見ても頭が良さそうには見えないけど、一応僕の所属するFクラスの代表をやっていたりする。
「い、いや〜、良い朝だねっ! 凄《すご》くイイコトがありそうな朝だよねっ!」
「? 何を動揺《どうよう》している?」
「べべべ別に動揺なんて…………!」
「まさか、さっきチラッと見えた手紙のようなものは──」
くっ! 見られていたか! まずいな。こんな手紙を貰ったことが発覚したら、クラスの連中は妬《ねた》みで僕をボコボコにしようとするはず!
「た、ただのプリントだよ! それよりもそろそろHRが始まるから急ごう!」
ごまかす為に、サッカーゴールのネットを担いで走り出す。実際に時間もギリギリだし。
「お、もうそんな時間か。校内にいるのに遅刻にされても癪《しゃく》だな」
僕の後ろに雄二も続いてくれた。良かった。どうやらごまかせたみたいだ。
さて、問題はこの手紙をどこで読むかだけど……。人目につくところだとイロイロとまずいしなぁ……。どうしよう?
[#中央揃え]☆
「工《く》藤《どう》」「はい」「久保《くぼ》」「はい」
チャイムと同時に教室に駆け込むと、間髪《かんぱつ》容れずに鉄人がやってきて出席を取り始めた。顔に似合わず時間に正確な教師だ。
「近藤《こんどう》」「はい」「斉藤《さいとう》」「はい」
淡々と進む気だるい毎朝の恒例《こうれい》行事。鉄人の呼び声にクラスの皆は眠そうに返事をしていた。
静かな教室にのどかなひとときが訪《おとず》れている。春の陽気の中、今日といういつもと変わらない平穏《へいおん》な日常が──
「坂本」「…………明久がラブレターを貰ったようだ」
『殺せぇぇっ!!』[#3段階大きな文字]
雄二の一言でブチ壊《こわ》された。
「ゆ、雄二! いきなりなんてことを言い出すのさ!」
明らかに小声だったのにクラスの誰もが聞《き》き逃《のが》さなかった様子。ここの連中は本当にどこかおかしいとしか思えない。
『どういうことだ!? 吉井がそんな物を貰うなんて!』
『それなら俺たちだって貰っていてもおかしくないはずだ! 自分の席の近くを探してみろ!』
『ダメだ! 腐りかけのパンと食べかけのパンしか出てこない!』
『もっとよく探せ!』
『……出てきたっ! 未開封《みかいふう》のパンだ!』
『お前は何を探しているんだ!?』
怒号が飛《と》び交《か》う我が教室。予想通りクラス全員の妬みに狂う光景が展開されていた。
「お前らっ! 静かにしろ!」
──シン
と、鉄人の一喝《いっかつ》でクラスに静寂《せいじゃく》が舞い戻ってくる。ふぅ、良かった。
「それでは出欠確認を続けるぞ」
出席簿を捲《めく》る音が教室内に響く。
「手《て》塚《づか》」「吉井コロス」「藤堂《とうどう》」「吉井コロス」「戸《と》沢《ざわ》」「吉井コロス」
「皆落ち着くんだ! なぜだか返事が『吉井コロス』に変わっているよ」
「吉井、静かにしろ!」
「先生、ここで注意するべき相手は僕じゃないでしょう!? このままだとクラスの皆は僕に殴《なぐ》る蹴《け》るの暴行を加えてしまいますよ!」
「新《にっ》田《た》」「吉井コロス」「布《ぬの》田《だ》」「吉井マジ殺す」「根《ね》岸《ぎし》」「吉井ブチ殺す」
き、聞いてない……。なんて扱いの悪さだろう。
「よし。遅刻欠席はなしだな。今日も一日勉学に励むように」
出席簿を閉じ、教室を後にしようとする鉄人。この男には教室内に漂《ただよ》う殺意が感じられないのだろうか。
「待って先生! 行かないで! 可愛い生徒を見殺しにしないで!」
保身の為に、必死に鉄人を呼び止める。もうなりふり構ってなんかいられない。
「吉井、間違えるな」
鉄人が扉に手をかけたまま告げる。間違い? 何が言いたいんだ?
「お前は不《ぶ》細《さい》工《く》だ」
「不細工とまで言われるとは思わなかったよバカ!」
「授業は真面目《まじめ》に受けるように」
「先生待って! せんせーい!」
僕の叫びも空《むな》しく、鉄人は教室を出て行ってしまった。これでもうクラスに満ちる殺意に歯止めをかけるものはない。一時間目担当の先生が来る前に教室内で暴動が起きるのは必《ひっ》至《し》だ。
「アキ、ちょ〜っと話を聞かせてもらえる?」
グワシ、と関節が外れてしまいそうな勢いで肩を掴《つか》まれた。
「あ、あはは……。美《み》波《なみ》、顔が怖いよ?」
「手紙を貰ったの? 誰からなの? どんな手紙なの?」
愛嬌のある吊《つ》り目《め》がいつもより更に吊り上がっている。トレードマークのポニーテールが角に見えるほどに怖い表情だ。
「あー、えっと、そのー」
正直言って、咄嗟に隠したせいで手紙のことは殆《ほとん》どわからない。むしろ教えて欲しいくらいだ。うぅー、早く一人になって内容を確認したい!
「いいからおとなしく指の骨を──じゃなくて、手紙を見せなさい」
なんだ!? 断れば僕の指の骨に一体何が起こるんだ!?
「あの、明久君」
と、鈴を転がすような声が後ろから聞こえてきた。
[#改ページ]
[#改ページ]
「ん? なに?」
声の主は我らがFクラスの紅一点[#「紅一点」に傍点]、姫《ひめ》路《じ》瑞《みず》希《き》さんだ。ふわふわと柔らかそうでボリュームたっぷりな髪と胸に、可愛らしい顔。この姿を見たら今日も一日頑張れるって男子も少なくはないはずだ。
「その……できれば、ですけど……私にも手紙を見せて欲しいです……」
もじもじと困ったように俯《うつむ》いている姿も可愛い。けど、だからと言ってそのお願いを聞き届けるわけにはいかない。
「その……ごめん」
だからその分、誠意を込めて謝った。
「でも、でも……!」
それでも食い下がってくる姫路さん。けど、
「いくら姫路さんの頼みでも、コレばっかりは」
「でも、私は明久君に酷《ひど》いことをしたくないんです!」
「ちょっと待って! 姫路さんまで僕に暴行を加えることが前提なの!?」
すっかり姫路さんも最低学力を誇るFクラスに馴染《なじ》んできたみたいだ。
「皆、ちょっと落ち着け」
そんな中、パンパンと手を叩く音が教卓の方から聞こえてきた。このFクラスの代表であり、僕の悪友でもある坂本雄二の声だ。
「今問題なのは明久の手紙を見ることじゃない」
雄二がクラスの皆に言い聞かせるように言葉を紡《つむ》ぐ。ふむふむ。さすが、腐《くさ》っても友達は友達だ。
「問題は、明久をどうグロテスクに殺すかだ」
「前渡条件が間違ってんだよ畜生《ちくしょう》!」
荷物を引っ掴んで教室からダッシュで逃走。もはや信じられるのは自分自身のみ!
『逃がすなぁっ! 追撃《ついげき》隊を組織《そしき》しろ!』
『手紙を奪《うば》え! 吉井を殺せ!』
『サーチ&デス!』
「そこはせめてデストロイで!」
廊《ろう》下《か》に響いてくる声を聞いて、嫌な団結力を持ったクラスだと改めて実感した。
[#中央揃え]☆
『いたぞ! 吉井だ! 空き教室に向かったぞ!』
『了解だ! 見逃さないように追ってくれ! こっちは全部隊に連絡を取る!』
『オーケー! B部隊は正面から、C部隊は逆側から回って挟《はさ》み撃《う》ちにするんだ!』
『応っ!』
廊下を走っていると背中ごしにそんな会話が聞こえてくる。まさかこんな短時間で部隊編成を終えるなんて。どこまで無駄《むだ》にスペックの高いクラスなんだ。
上等だ。そっちがそういうつもりなら、こっちだって手加減はしない!
「吉井! 観念して手紙をよこせ!」
「一人だけ幸せになろうなんて甘いんだよ!」
目の前に五人のクラスメイトが立《た》ち塞《ふさ》がった。さっき聞こえてきた挟み撃ちの連中だろう。後ろからも追いかけてきている連中がいる。
このままでは逃げ場がなくなるので空き教室へと身を滑《すべ》り込《こ》ませる僕。敵は全員僕を追って教室に群《むら》がってきた。
教室に入ってくる瞬間、入り口が限られている為に向こうは否《いや》が応《おう》でも一ヵ所に固まらざるを得ない。その行動は、追われている僕にとってチャンス以外の何物でもない。
「よいしょっ」
用意していた仕掛けを発動。
今朝方外したサッカーのネットが皆の頭上から覆《おお》いかぶさる。
「な、なんだ!?」
「落ち着け! ただのネットだ! 端《はし》に近いヤツから抜け出して吉井を確保しろ!」
「くっ! このネット、びしょびしょに濡《ぬ》れているから身体に張り付いて──」
一瞬|戸《と》惑《まど》うものの、すぐに次の行動に移ろうとする判断は大したものだと思う。けど、 残念ながら手遅れだ!
「保健室のベッドでゆっくりしてくるんだね」
僕が手にしている、とある事情で借りていた危険物を見て皆が目《め》を剥《む》く。
「なっ!? 吉井、それは……!」
「離れろ! 全員ネットから離れろ!」
「おやすみ、皆」
びしょびしょに濡れたネットの隅に、電源を入れっぱなしにしたスタンガンを投げつける。バチバチという激しい音と少しの焦《こ》げ臭《くさ》い香り。
「「「ぎゃぁぁぁぁっ!!」」」
悲《ひ》鳴《めい》を聞きながら空き教室を後にする。
落ち着いて手紙を読む為には、Fクラスの全員を行動不能にするしかないだろう。こうなったら、徹底抗戦だ!
『どこだ? 確かにこっちに来たはずだが』
『気をつけろ。きっと近くに潜《ひそ》んでいるぞ』
『F部隊とG部隊もやられたらしい。向こうは一人だが、油断はするなよ』
旧校舎の古書保管庫。その中で緊張《きんちょう》した様子のクラスメイトが囁《ささや》き合《あ》っている。怒《ど》涛《とう》の勢いでクラスメイトを撃破してきたせいか、随分《ずいぶん》と僕を警戒しているみたいだ。身を潜ませている本棚の陰から様子を窺うと、互いに背中を合わせて死角を潰《つぶ》している姿が見えた。
一ヵ所に集まっていると身動きが取りにくいのになぁ……。
息を潜めて彼らの近くにある本棚まで素早く移動。適当な本を一冊抜いて、僕の潜む場所とは対角の方向にこっそりと放り投げる。
バサッ
『なんだ!?』
『吉井か!』
音に反応して全員が同じ方向を見る。これで死角ができた。
「せぇ──のっ!」
あとは一気に力をかけて本棚を倒すだけ。
『な……っ!』
『しまっ──』
倒れてくる本棚とは逆の方向に注意が逸《そ》れていた彼らの反応は鈍《にぶ》い。結果、全員が本棚の下敷きとなった。
「ハッハー! 人の恋《こい》路《じ》を邪魔しようとするからそんな目に遭《あ》うのさ!」
脱出しようともがく彼らを尻目に古書保管庫から退室する僕。
『おのれ吉井! 裏切り者め!』
『覚えていろ! お前の幸せは必ずブチ壊す!』
「……本当、どこまで歪《ゆが》んだクラスメイトなんだろう」
とどめに外からモップを使って出入り口を封《ふう》鎖《さ》する。これで追っ手はほとんど始末できたはずだ。
「さてさて、残っている連中は──っとぉぉっ!?」
嫌な気配を感じて跳《と》び退《すさ》ると、さっきまで僕が立っていた場所にボールペンやシャープが突き立っていた。
「誰だっ!」
「…………裏切り者には、死を」
手に各種文房具を構《かま》えているのは、クラスメイトの土《つち》屋《や》康《こう》太《た》だった。その旺盛《おうせい》な性的好奇心とその気持ちを隠そうとする姿勢から、ムッツリーニとも呼ばれている僕の友人。いや違う。今は友人じゃなくて、倒すべき敵だったな!
「ムッツリーニ、覚《かく》悟《ご》!」
拳《こぶし》を固め、ダッシュをかける。悪いけど、おとなしく眠ってもらう!
「…………次はカッターを投げる」
「よし。まずは話し合いをしようじゃないか」
やっぱり友人に暴力を振《ふる》うなんて、僕にはできない!
「…………わかった」
「それじゃ、まずはそっちの要求を聞かせて欲しい」
聞かせて欲しいと言いながらも、向こうの要求はわかっている。きっと、『手紙を渡せ』と言ってくるに違いない。さてさて。どうやって交渉をしたものか。
「…………こちらの要求は──」
ムッツリーニが静かに要求を告げてくる。
「──グロテスク」
「待って! それは既に僕が処刑される方法の話になっている!」
これほど難しい交渉を僕は今までしたことがない。
「…………交渉|決裂《けつれつ》」
「くっ! やっぱりやるしかないのか!」
構えられたカッターに意識を集中する。
それにしても、普通ラブレター一通の為に友達に刃物を向けるだろうか?
「…………大丈夫。目は狙わない」
「ムッツリーニ。それだけで安心できるほど僕はバカじゃないからね?」
「…………そう」
ヒュッ
風切り音をあげてカッターが飛んでくる。その目標は──僕の右目!?
「う、嘘《うそ》つきぃぃっ!!」
咄嗟に手でカバーする。カッターは、かしゃっと軽い音を立てて床に落ちた。え? 刺さっていない? 刃を出していなかった!?
「…………隙《すき》あり」
「っ!」
呆《あっ》気《け》に取られる僕に一瞬で肉薄するムッツリーニ。しまった!
「ムッツリーニ! 姫路さんの胸のサイズを知ってるか!」
咄嗟に身を守る為、ムッツリーニの好むような話題を振る。うまく食いついてくれ、ムッツリスケベ……!
「…………そんなものは、常識……!」
ダメだ、ヤツの注意は逸らせない! というか、常識だったの!? 僕は知らないよ!?
「じゃあじゃあ、もしも僕に彼女ができたら、秘蔵のコレクションを贈呈《ぞうてい》するから!」
「…………(ピタッ)」
僕の目の前でムッツリーニの動きが止まった。よしっ! 食いついた!
「…………いつ?」
友達ながら大した男だ。コレクションの内容、量を確認せずにいきなり引渡し日時から交渉に入るとは。
「えーっと、今度の週末にでも」
「…………交渉成立」
恐ろしいほどに買収《ばいしゅう》は簡単だった。今度からムッツリーニが敵に回った時はこの方法で行こう。
「それじゃ、僕は先を急ぐね」
と、この場を立ち去ろうとする僕をムッツリーニが手で制する。なんだろう?
「…………護身用に」
そう言いながら僕に小さな袋を渡してくる。
「護身用って?」
「…………中に刃物が入っている。いざというときに使うといい」
正直、そんな簡単に刃物って持ち歩く物じゃないと思う。けど、今の僕にはありがたい。まだ倒していない曲者《くせもの》連中が残っているのだから。
「ありがとう。困ったら使わせてもらうよ」
「…………(グッ)」
親指を立て、僕に背を向けるムッツリーニ。僕もこうしてはいられない。早く手紙の内容を確認しないと。『昼休みに屋上《おくじょう》で待っています』なんて書いてあって、読んだのが昼過ぎだったりしたら洒《しゃ》落《れ》にならない。
「そうだ。下見も兼《か》ねて屋上に行くかな」
屋上なら人が来ないので手紙も読み易いし、告白の場所になる可能性だって高い。うん。我ながらナイスアイデアだ。よし、早速屋上に行こう!
現在地は二階だから、とりあえず目的地へ向かう為に階段を昇る。すると、その踊り場で、
「アキっ! 見つけたわよ!」
「げっ! 美波!?」
僕の天敵と遭遇《そうぐう》した。
肌にビリビリと伝わってくる殺気。一触即発《いっしょくそくはつ》の雰囲気。
全身を緊張させながら、階段の踊り場で向こうの出方を見る。すると、彼女は意外にも落ち着いた足取りで僕に歩み寄り、こんな選択を迫《せま》ってきた。
「おとなしく手紙を渡して殺されるか、殺されてから手紙を奪われるか、好きな方を選びなさい」
おかしい。僕が生きている選択肢が見当たらない。
「どうしてそんなにこの手紙にこだわるのさ! 美波には関係ないじゃないか!」
はっきり言って相手が悪い。ここは説得で切り抜けるのが吉《きち》だ。
「ウチには関係ないって、酷い……! アキは本当にそう思っているの……?」
「え……?」
美波が急に傷ついたような表情になる。さっきの言葉の意味を考えると、美波は僕に彼女ができるということに対して関係があるってこと?
「まさか、それって」
「だって、今まで恥ずかしくて言えなかったけど、ウチはアンタの……」
いつもと違ってしおらしい美波の様子に、何故《なぜ》か僕の鼓《こ》動《どう》が速くなる。この感覚は一体なんだろう。
「アンタのせいで、『彼女にしたくない女子ランキング』の三位になってるんだからぁああっ!」
「さらばだっ!」
この感覚は紛《まぎ》れもない恐怖だった。
本能の赴《おもむ》くままに逃走行動へと移る僕。屋上を目指していたけど、ひとまずは恐怖から逃れるために階段を三段飛ばしで駆け下りる。
「逃がすもんですか! 人をこんな立場にしておきながら自分だけ幸せになろうなんて、そんなことは許さないわよ!」
「まだ上に二人いて良かったじゃないかっ!」
「いいわけないでしょう!? 下には何人いると思っているのよ!」
えっと、二年生は全員で三百人くらいだから、
「ざっと百五十人くらい?」
「ひゃくご……!? どうしてくれんのよっ! 責任取りなさい!」
「責任って言われても!」
「とにかく、まずは手紙を渡しなさい!」
「嫌だ! 絶対に破かれるから!」
「そんなことしないわ! 再発防止の為にコピーをとって校内にばら撒《ま》くだけ!」
「そっちの方が酷い!」
マズい。本気で走っているのに全然引き離せない。なんとかして、一旦美波の動きを止めないと!
「ところで美波、階段を走っていてわかったんだけど!」
「なによ!」
「今日は白なんだねっ!」
「なっ……!」
立ち止まり、スカートの裾《すそ》を押さえる美波。バカめ! こんな状態で見る余裕なんてあるわけないじゃないか!
「おおおおおっ!」
この隙に一気に距離を稼《かせ》ぐ。チャンスは今しかない!
階段ダッシュが終了し、今度は廊下を駆け抜ける。
「あっ。吉井君。廊下は走っちゃダメですよ?」
と、この時間は授業がないのか、廊下を歩いている英語の先生がやんわりと僕に注意してきた。遠藤《えんどう》先生か、丁度いいところにいてくれた。
「すいません、遠藤先生。ちょっと用事を頼まれていたもので」
先生の前で立ち止まって頭を下げる。
「用事ですか?」
「はい。急いで空き教室から机を持ってくるように、と」
もちろん嘘だ。けど、遠藤先生は疑うこともなく納得してくれた。
「そうですか。でも、廊下は走ってはいけませんよ?」
「気をつけます。それで、お願いがあるんですけど」
「はい、なんでしょう?」
「召喚許可を貰えますか? ちょっと荷物が重そうなので」
召喚獣を喚び出すには先生の許可が不可欠だ。
「アキぃっ! よくも騙《だま》してくれたわね!」
やばっ! もう追いついてきた!
「先生、とにかくこっちへ!」
「え? あ、はい」
先生の手を取って近くの教室に飛び込む。旧校舎は空き教室が多いから助かるなぁ。
「さぁ先生! 早く許可を!」
「はぁ……。よくわかりませんけど、許可します」
「よっしゃ! 試獣召喚《サモン》っ!」
喚び声に応え、浮かび出た魔法陣の中から現れる僕の召喚獣。こいつがいれば、たとえ相手が美波でもなんとかなる。
「今日はライトグリーンなんだから、白が見えるわけないでしょうが!」
一拍《いっぱく》遅れて美波が登場。それはいいんだけど、
「美波、わざわざ教えてくれなくてもいいのに」
「あ……っ!」
僕の指摘を受けて赤面する美波。ムッツリーニあたりが聞いたら大喜びの情報だ。
「隙ありっ!」
「きゃっ」
動揺する美波の背を押し、教室の隅《すみ》に追いやる。そして、
「ぃよいしょぉっ!」
教室の後ろに設置されている生徒用ロッカーを召喚獣に持たせ、バリケードを作った。
「こ、こらっ! 卑怯《ひきょう》よ! 出しなさい!」
ガンガンと美波がロッカーを叩く音が響く。こんな大きな物、女の子の力じゃ動かせっこないだろう。美波の無力化成功!
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「吉井君、何をしているんですかっ!」
その様子を見て遠藤先生が僕を叱責《しっせき》する。それと同時に召喚獣の姿は掻《か》き消《き》えた。先生が召喚許可を取り消したんだろう。
「すいません! 緊急事態《きんきゅうじたい》なもので!」
「あっ! 待ちなさい!」
先生の制止の声を背に、再び廊下へ舞い戻る僕。もう少し、もう少しでこの手紙を読める……! 後から訪れるであろう幸せを想像すると、屋上へと向かう足取りは自然と軽くなった。
そして、二階を通過して三階の廊下。
「吉井、待っていたぞ」
そこにはクラスメイトの須《す》川《がわ》君が待ち構えていた。
「須川君。君まで僕の邪魔をするのかい?」
「もちろんだ。吉井にはここで死んでもらう」
そう告げて、彼は背中から何かを取り出した。
「ぼ、木刀……」
「剣道部から借りてきたんだ。吉井を止める為になっ!」
「うわっ! とっと──!」
突然須川君が斬りかかってきた。寸止めじゃなくて、完全に振り切られる木刀。それをなんとか横に跳んで避ける。
「吉井。手紙を渡すんだ」
「くっ……!」
思わず唇《くちびる》を噛《か》む。まさか武器まで持ち出してくるなんて。そうなると、丸腰《まるごし》じゃあ勝ち目は薄い。せめてこっちにも何か武器があれば──ん? 武器?
「そういえば、アレがあった!」
ポケットの中に手を突っ込み、小さな袋を取り出す。そう。これはさっきムッツリーニが僕に渡してくれた、刃物の入った袋だ。
「くっ! 丸腰じゃなかったのか!」
自分の優位性が消え、焦《あせ》りを見せる須川君。
「よし! コレで勝負は五分五分だ!」
袋から刃物を取り出し、須川君との間《ま》を一気に詰める。勝負だ、須川君──!
「くそっ! 俺はまだ負けたわけじゃない!」
須川君が木刀を振り下ろしてくる。けれども、
「甘いっ!」
半歩横にステップした僕にその攻撃は紙一重《かみひとえ》で届かない。そして、目の前には木刀を振り切って無防備な須川君の身体がある。隙だらけだ。
このタイミングを逃さず、僕は手に持った爪切りで須川君を──
「って、爪切りで勝てるワケないじゃないかバカぁっ!」
思わず廊下に膝《ひざ》から崩れ落ちる僕。そりゃ、刃物は刃物だけどさあっ!
「吉井……。お前って! 本当にバカだなぁ……」
須川君の憐《あわ》れみの視線が物凄く痛い。
「ち、畜生! こうなったら爪切りでもやってやる! 素手よりはマシなはずだ!」
「いや、明らかに素手の方がマシだろう!?」
「黙《だま》れぇぇっ!」
静かな旧校舎三階の廊下で、僕と須川君の怒号が重なった。
「ぐぅぅ……! 爪が、爪がぁぁ……!」
廊下に倒れ伏し、手を押さえる須川君を見下ろす。
まさか、本当に勝てるとは思わなかった。
「これはこれで自分の才能が怖いけど、今はとにかく先を急がせて貰おう」
「よ、吉井……。裏切り者……」
なぜか深爪しか外傷がないのに息も絶え絶えな須川君を残し、階段を昇る。屋上まではもう少し。四階の廊下を越えて、階段を昇れば──
「やはりここまで来たか、明久」
「明久君、言うことを聞いてください」
「雄二に姫路さん……!」
屋上へと続く階段。その前に立つのはラスボスの雄二と姫路さんだった。
「どうして僕がここに来ると?」
「屋上はこの学校の告白スポットだからな。単純なお前なら下見も兼《か》ねてここに来ると思っていた」
くそっ。さすがは雄二だ。僕の思考を完全に読んでいる。
「トイレにでも行けば、誰にも邪魔されずに読めるはずなんだがな」
あ。
「ごめん雄二。僕、ちょっとお腹《なか》が痛いから先にトイレに行ってくるね」
「明久君、ずっと気付かなかったんですか……?」
姫路さんが心配そうな目で僕を見ている。その視線は耐《た》え難《がた》い!
「雄二、どうしてそこまで僕の邪魔をするのさ! そんなことをしても、雄二にとってのメリットは何もないはずなのに!」
それ以上つっこまれない為にも、気になっていたことを確認する。
僕の質問を受け、雄二は真剣な顔で答え始めた。
「そうだな。確かにお前の言うとおり、こんな行動は俺にとってなんのメリットもない。いや、それ以前に俺は、彼女が欲しいなんていう気持ち自体が全くない」
「だったら、どうして……?」
「そういう問題じゃないんだよ、明久。俺はただ、純粋に……」
迷《まよ》いのない目で悪友が言葉を紡ぐ。
「お前の幸せがムかつくんだよ」
「アンタは最低の友達だ!」
そもそも友達かどうかも疑わしい!
「さて明久。『おとなしく手紙をよこせ』なんて野暮《やぼ》なことは言わねぇ。本気でかかってこい」
雄二は学生服の上着を脱ぎ、ネクタイを外《はず》した。改めて見せ付けられる悪友の身体は、しなやかで無駄のない理想的な筋肉のつきかたをしていた。
「姫路。上着を持っていてくれるか?」
「あ、はい」
姫路さんに上着を渡して身《み》軽《がる》になった雄二は構えを取って軽くシャドーをしてみせた。シュッと鋭い風切り音が鳴る。それだけでわかる、喧《けん》嘩《か》の素人《しろうと》と玄人《くろうと》の違い。あの野郎……本当に僕を殺《や》るつもりだ。
「吉井君、やめておいた方が……」
姫路さんが近くに来て心配げに僕の表情を窺っている。その心配も無理はない。雄二は見ての通りかなり喧嘩慣れしている。僕の勝率はかなり低い。でも、
「心配ありがとう。けど、僕はやめる気なんてないから」
勇気を出して手紙をくれた女の子の為、僕自身の未来の為、こんなところで僕は逃げるわけにはいかない!
「そうですか……。わかりました。もう止めません」
「……ごめん。心配してくれたのに」
「いえ……。なんだか明久君らしいです」
「僕らしい? ──っと。これ、僕のも持っていてもらえる?」
「あ、はい」
僕も雄二にならって上着を脱いで、少しでも身を軽くする。それにしても、こうして本気で喧嘩をするなんて随分と久しぶりだ。しかも相手は雄二。ほとんど勝ち目はない。この身震いは上着を脱いだせいだけじゃないだろう。
「…………明久」
「雄二、勝負だ!」
拳を握って構えを取る。
コイツを倒して、僕はあの手紙を──
「…………お前、バカだろう」
「へ?」
呆れたような雄二の視線。その先にあるのは僕──ではなく、姫路さんが持っている僕の上着だった。
「あ、あの、手紙がポケットに入っているみたいなんですけど……見ちゃってもいいんですか……?」
姫路さんが僕の上着のポケットから封筒を取り出している。え〜っと……
「だ、ダメだよッ! 戦わないでそれを見るのは反則だよ!」
「お前がバカなだけだろうが! やれ、姫路! その手紙を始末するんだ!」
姫路さんのところに向かおうとする僕を雄二ががっちりと羽交《はが》い絞《じ》めにしてきた。くっ! 全然解けない! この馬鹿力め!
「…………あれ?、これってまさか……?」
一方姫路さんはというと、手紙を手にして戸惑っていた。あまりにも呆《あっ》気《け》なく手に入ったから何か裏があるのかと警戒しているんだろうか。
「…………」
いや、違うな。そんな様子じゃない。優《やさ》しい姫路さんのことだ。きっと人が想いを込めて書いた手紙を勝手に読んだり捨てたりなんてできない、と困っているんだろう。そうか。それなら僕にも勝機はある!
「姫路さん」
「えっ!? あ、はい。なんですか?」
「僕にはわかってるよ。優しい姫路さんは手紙に込められた人の気持ちを踏《ふ》みにじることなんてできないってこと。だから、おとなしく──」
「手紙を細《こま》切《ぎ》れにするんだ」
「違うっ! そうじゃない! 雄二、卑怯だぞ! そうやって僕の台詞《せりふ》みたいにつなぐのは反則だ!」
「はいっ! わかりました!」
「いや、『はいっ!』じゃないよ姫路さんってああああっ! そんなに丁寧に手紙を裂かなくても! それじゃあもう絶対読めないよね!? 返してっ! 僕の幸せな未来と大切なラブレターと七行前の台詞を返してぇっ!」
叫んでいる間にも破られていく手紙。それはもう既《すで》に原型を全く留《とど》めずに、紙クズという名前で廊下中に散らばっていた。
「まさか、本当に姫路が破るとは思わなかった。……すまん、明久」
雄二が驚いた様子で姫路さんを見て、その後僕に謝った。驚いたのは僕も一緒だ。そんなことは絶対しない子だと思っていたから。
「せめてものわびだ」
そう言って廊下中に散らばった紙クズを集めて持ってきてくれる雄二。そうか。まだ可能性は残っていたんだ。
「ありがとう、雄二。最後の可能性にかけて、この紙クズをつなぎ合わせ」
「──未練を断《た》ってやる」
シュボッ メラメラメラ……
ああ、暖かい……。まるで僕の凍《い》てついた心を溶《と》かしてくれるような炎だよ……。
「ってうそぉっ!? ここまでやった挙《あげ》句《く》、容赦《ようしゃ》なく燃やすの!? もうこれ100パー読めないよね!? 僕の幸せな未来はどこへいったの!?」
「明久。お前は知らなかっただろうが」
「なに!? なんでもいいから早く水を持って来て!」
「俺はお前の幸せが大嫌いなんだよ」
「知ってるよバカ! ちくしょー!」
必死の消火活動も空《むな》しく、手紙は綺麗サッパリ灰になってしまった。
「坂本君は手紙の主が誰だか気にならないんですか?」
灰になった手紙を見て、なぜか安心したかのような声で姫路さんが雄二に話しかけている。
「全然興味がないな。俺は明久の幸せを妨害《ぼうがい》できたらそれでいい。もっとも──」
「は、はい。なんですか?」
「誰からの手紙だか、目星はついたがな」
「え……っ!?」
「確かに、他人の書いた手紙[#「他人の書いた手紙」に傍点]を破り捨てたら問題があるよな?」
「そ、それは、その……っ!」
なんだか姫路さんと雄二が妙な話をしているな。まさか手紙の主がわかったのか!?
「雄二! その話、もっと詳しく」
「あああ明久君は聞いちゃダメですっ!」
「こペっ!?」
「姫路。明久の首が真後ろを向いているぞ」
「ご、ごめんなさいっ! 私、大変なことを!」
「まぁ気にするな。どうせ生かしておいてもあの連中に殺されるだけたからな」
朦朧《もうろう》とした意識の中、雄二の示した方向に耳を傾ける。
『ア〜キ〜〜〜! アンタよくもやってくれたわね〜〜!』
『吉井ぃっ! 絶対殺すぅぅっ!』
『ガンホー! ガンホー!』
願わくは、無事明日の太陽が拝《おが》めんことを。
[#中央揃え]☆
──まさか、落としちゃったと思ってた手紙が明久君の靴箱に入っていたなんて! きっと拾った人は親切でやってくれたんだろうけど……。
私のせいで酷い目に遭《あ》わせてごめんなさい、明久君。
でも、前に明久君が言ってくれたように、この気持ちは手紙じゃなくて……直接伝えたいから。
だからもう少しだけ、待っていて下さい。
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坂本夫妻の[#マル秘 Unicode3299]恋愛テクニック講座[#「坂本夫妻の[#マル秘 Unicode3299]恋愛テクニック講座」は太字]
「……おい翔子《しょうこ》。とりあえず俺にわかるように状況を説明しろ」
「……これは、私たち夫婦が恋愛の秘《ひ》訣《けつ》を皆に教えるコーナー」
「驚いた。このタイトル、『の』以外全部|嘘《うそ》のことしか書いていないぞ」
「……では、ハガキの紹介」
「たまには俺の話を聞け」
「……『突然ですが、仲良し夫婦のお二人に相談です』」
「ハガキの差出人よ、よく聞いてくれ。俺は今、手足を縛《しば》られて床に転がされている。コイツが本当に恋愛相談の相手に相応《ふさわ》しいか、もう一度考えてみて欲しい」
「……『私には婚約者がいるのですが、その人が周りの女の人の誘惑に負けて浮気をしないか心配です。どうしたら良いでしょうか?』」
「いや、どうしたらと言われてもな」
「……夫の浮気には私も困っている。他人事《ひとごと》とは思えない」
「頼むから他人事だと思ってくれ」
「……だから、私の考えた浮気防止法を教えてあげる」
「翔子よ。それは俺の身に降りかかる不幸の予告と見なしていいんだろうか」
「……用意するものは三つ」
「? 浮気防止に道具が必要なのか?」
「……一つ目は──」
「──『手錠《てじょう》』」
「翔子、ストップだ。いきなり犯罪臭がする」
「……二つ目は──」
「やっぱり聞いてないな。んで、二つ目は?」
「──『エプロン』」
「ちょっと待ってくれ。急にお前の考えが読めなくなった。というか、その組み合わせで俺に何をするつもりなんだ」
「……そして、三つ目は──」
「三つ目は?」
「──『ビデオカメラ』」
「貴様何を撮るつもりだ!? エプロンと手錠でドレスアップされた俺の何を撮るつもりだ!?」
「……その三つを用意して、夫に浮気の怖さを教えてあげるといい」
「俺は今、何よりお前が怖い」
「……以上、『バカなお兄ちゃん大好き(十一歳)』ちゃんからのおハガキでした」
「差出人小学生かよっ!? 世も末だな!」
「……ところで翔子。さっきのは冗談だよな?」
「……カメラは五台以上が望ましい」
「まぁ待て。じっくりと話し合おうじゃないか」
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俺と翔子と如月ハイランド[#「俺と翔子と如月ハイランド」は太字]
「明久《あきひさ》」
「ん? なに、雄《ゆう》二《じ》」
「そういえば、例のチケットはどうした?」
「例のチケットって──如月《きさらぎ》ハイランドのプレミアムチケットのこと?」
「ああ。確か今週末がプレオープンの予定日のはずだが、姫《ひめ》路《じ》を誘って行ってみたりはしないのか?」
「な、何を言っているのさ雄二! だって、あのチケットを使って入場したら、如月グループの力で一緒に行った人との結婚を強要されちゃうんでしょ? そんなことになったら姫路さんが可哀想《かわいそう》じゃないか」
「そりゃ、向こうも『如月ハイランドを訪れたカップルは幸せになれる』なんてジンクスを作り上げようと必死だからな。来園するカップルが結ばれるように色々な手出しをしてくるだろうが──」
「うんうん。そうだよね」
「だが、姫路も満更《まんざら》じゃないと思うぞ」
「……ほぇ?」
「いいじゃないか。勇気を出して誘ってみたら。意外とすんなりOKをもらえるかもしれないぞ」
「あ、あはは。またまた雄二ってば、冗談《じょうだん》ばっかり〜。僕なんかが姫路さんと結婚なんて、そんなのあるわけないじゃないか」
「ふむ。まぁ、お前がそう言うならそれはそれで構わないが。けどそれなら、チケットはどうしたんだ?」
「丁度《ちょうど》身近に結婚を考えている人がいたからね。その人にあげたよ」
「そうか。そんなヤツがいるなら都合が良いな。そのままうまく結婚になれば、如月グループも喜ぶだろうしな」
「そうだね。うまくいけば全員が幸せだもんね」
「その連中、うまくいきそうなのか?」
「うん。あとは時間ときっかけの問題だと思うんだ」
「そうか。うまくいくといいな」
「大丈夫。きっとうまくいくよ」
[#中央揃え]☆
とある休日の朝。
カーテンの隙間から差し込む陽の光と雀《すずめ》の鳴き声で目を覚ますと、
「……雄二、おはよう」
俺のベッド脇に翔子《しょうこ》がいた。
「……今日はいい天気」
シャッとカーテンを開く翔子。陽光が更に強く部屋の中に差し込んできた。
「ん? ああ、そうみたいだな」
強い光に目を細めながら、まじまじと幼《おさな》なじみの姿を見る。
今日は休日だからか、いつもの制服姿ではないようだ。上は白い長袖《ながそで》のカーディガンで、その下に薄いピンクのカットソーを着ている。下は薄手の膝上程度のスカートで、下着が透けない為のインナーが中に見える。ペチコートとかいうヤツだったか? いつもはTシャツにジーンズやデニムのミニを合わせている格好《かっこう》なので、今日はこいつにしては随分《ずいぶん》と気合の入っている格好だと言えるだろう。
なんて、柄にもなくファッション観察をしている自分に驚く。寝惚《ねぼ》けているのかもしれない。
眠気を振り払うように頭を大きく振って、翔子に向き直る。
「改めて、おはよう。翔子」
「……うん。おはよう雄二」
「よいしょ、っと──」
布《ふ》団《とん》を押しのけ、ベッドから出る。
そういえば、どうして翔子が俺の部屋にいるんだ? 今日はコイツと何かの約束をしていたっけ?
寝起きのため本調子には程遠い頭で記憶を掘り起こす。ダメだ。覚えがない。
覚えがないのなら、約束ではないのだろう。だとすると……。
他の理由を少し考えて、一つの結論に辿《たど》り着《つ》く。そうか、そういうことか。
「悪い翔子。俺の携帯《けいたい》を取ってくれ」
「……電話でもするの?」
「ああ、そうだ」
翔子が渡してくれた携帯を操作し、番号をプッシュする。
コイツがここにいること。それは──
「ああもしもし? 警察ですか?」
不法侵入《ふほうしんにゅう》だ。
[#中央揃え]☆
ドドドドドドドド! ガチャッ!
「おふくろっ! どういうことだっ!」
「あら雄二。おはよう」
キッチンに駆け込むと、おふくろは流しで洗い物をしながらにこやかに朝の挨拶《あいさつ》をしてきた。
「おはようじゃねぇっ! どうして翔子が俺の部屋にいるんだ! おかげで俺は警察のオッサンに二次元と三次元の区別ができない妄想《もうそう》野郎だと思われちまっただろうが!」
幼なじみが無断で俺を起こしに部屋に入ってきた、と告げた時の相手の反応は俺の心に深い傷を残してくれた。寝惚けていたとはいえ、一生の不覚だ。
「……え?」
そんな俺の言葉を受けて、おふくろが何度か大きな瞳を瞬かせる。もうすぐ四十歳になろうかというのに、その仕草は子供っぽかった。持ち前の童顔《どうがん》もあるせいか、おふくろは実際の年齢よりも若く見られる。『よく女子大生に間違えられるんだから』というのは本人の談。俺と親父は微《み》塵《じん》も信じていないが。流石《さすが》に女子大生は無理があるだろ。
「翔子ちゃんが……?」
おふくろが頬《ほお》に手を当てて困ったような顔をする。
この態度、もしや翔子単独の行動か? おふくろの手引きじゃないのか? もしもそうだとしたら、いきなり朝から怒鳴るのは少々|浅慮《せんりょ》だったかもしれない。
「ああいや、怒鳴って悪かった。俺はてっきりおふくろがアイツを勝手に俺の部屋に上げたものだと──」
「もう、翔子ちゃんってば奥手ねぇ。折角《せっかく》お膳《ぜん》立《だ》てしてあげたのに何もしないでいるなんて勿体《もったい》な──あら雄二。どうしてお母さんの顔を鷲掴《わしづか》みにするのかしら?」
「やっぱり、アンタのせいか…………!」
この母親には一度きっちり常識を教えてやるべきだろう。
「……雄二。お義母《かあ》さんを虐《いじめ》めちゃダメ」
「止めるな翔子。俺は息子としてこの母親の再教育をしないといけないんだ」
遅れて現れた翔子が俺の腕を掴んで邪魔をしてくる。なんとなく、翔子の言う『お母さん』の発言が普通と違うような気がするが、そこはツッコまない方が安全だろう。
「……言うことを聞かないと、この本をお義母さんと一緒に読む」
翔子が取り出したのはA4サイズの冊子。うん? あれは……まさか!?
「ま、待てっ! それは女子供の読むものじゃない! 早くこっちに寄越《よこ》すんだ!」
よりによってあの本か! ムッツリーニですら唸《うな》らせた至《し》高《こう》の一冊が見つかるなんて最悪の事態だ! っていうかどうやって見つけ出したんだ!? 一緒に暮らしているおふくろですらわからないような場所に隠したはずだぞ!?
「あら翔子ちゃん。それは雄二が世界史の資料集の表紙を被《かぶ》せて机の三番目の引き出しの二重底の下に隠している秘密の本じゃない?」
今ほど明久の一人暮らしが羨《うらや》ましいと思ったことはない。
「わ、わかった。おふくろは解放しよう」
言われた通りアイアンクローを取りやめる。なんて汚い脅迫《きょうはく》なんだ。
「……そう。それなら、この本は──」
くそっ。取り返したら今度こそ絶対に見つからないように隠してやる。いっそのこと鍵でもつけて厳重《げんじゅう》に──
「燃やすだけで許してあげる」
「すまん翔子。どう考えてもそれは許された時の対応じゃない」
普通は許してくれたのなら本を返してくれるはずだ。
「……じゃあ、この本を燃やしても許さない」
「燃やさないという選択肢《せんたくし》はないのか!?」
小学校からの付き合いだが、たまにコイツの考えについていけなくなる。
「ふふっ。相変わらず二人は仲良しねぇ」
ちなみに解放されたおふくろは特に慌《あわ》てた様子もなく、最後の洗い物を終えてエプロンで手を拭《ふ》いていた。なんともマイペースな母親だ。
「俺にはこれが仲の良い光景とは全然思えないんだが……」
「あら、そうしら?」
にこにこと微笑《ほほえ》み続《つづ》けるおふくろ。
この母親は俺が車に撥《は》ねられても「あらあら、楽しそうねぇ」などと言いかねない。
「やれやれ……。んで、どうして翔子が来ているんだ?」
「……約束」
「約束? 今日俺と何か約束をしていたか?」
「……うん」
いつもの調子で頷いてポケットから小さな紙切れを取り出す翔子。
どうやら何かのチケットのようだ。え〜っと……
「あら。如月ハイランドのプレオープンチケット? しかもプレミアムって書いてあるから特別なチケットなんじゃないの? 凄いわ翔子ちゃん、よくこんなもの手に入ったわね〜」
「……優しい人がくれた」
「そう。良かったわね〜。あら、雄二? どこに電話をしているの?」
「ちょっとゲス野郎に用ができたんだ」
携帯電話の番号通知をOFFにして明久の番号を呼び出す。
数秒の呼び出し音の後、怨敵《おんてき》は軽快な声で電話に出た。
『はいもしもし? どちらさまですか?』
「………………………………………………………………キサマヲコロス[#「キサマヲコロス」は太字]」
『え!? なになに!? 本当に誰!? メチャクチャ怖──(ブツッ)』
電話の向こうで狼狽《ろうばい》する声を聞きながら通話を切ると、少しだけ気分が晴れた。
「……雄二、行こう?」
俺の手を翔子がそっと握る。余程行きたいのだろう。
「絶対に嫌だ」
けど、その願いを叶えるわけにはいかない。
これが普通のアミューズメントパーク程度なら考えてもいい。だが、これは如月グループの企みが裏に存在する危険な企画だ。そんなものに翔子と参加するなんてハメになったら、そのままなし崩しで結婚まで持ち込まれてしまうだろう。そんな事態は絶対に避けなければならない。
「あら。どうしてそんなに嫌がるの? 翔子ちゃんと一緒に行ってきたらいいじゃない」
何も知らないおふくろは暢《のん》気《き》なことを言っていた。
「色々と事情があるんだ」
例の如月ハイランドの企みは俺や明久などの一部の人間しか知らない。同じ学園にいる翔子も知らないことだ。きっと『如月グループの力を以《もっ》て結婚を強要してくる』なんて事実を知れば、翔子はどんな汚い手を使ってでも俺との参加を狙ってくるだろう。コイツはそういう女だ。
「……私は、雄二と一緒に行きたい」
翔子がジッと俺の目を見ながら言った。
もう七年くらいになるだろうか。コイツがこうやって好意を示し始めてから。いくら言って聞かせても、全然変わりやしない。ある意味尊敬できるほどの思い込みの強さだ。
とはいえ、いい加減ビシッと断っておかないといけないな。このままだと本当に結婚まで話が及んでしまう。いくらなんでも高校生で結婚の話なんて嫌過ぎる。俺はもっと気楽な立場で人生を謳《おう》歌《か》したい。
よし。こうなった以上は仕方ない。今日こそはハッキリと『翔子、俺のことは諦めてくれ』と言ってやろう。大きく息を吸って──
「翔子」
「イヤ」
「……俺のこと……」
早い! 早すぎる! まだ名前の部分しか言っていないというのに!
「だ、だがな、翔子」
「……どうしても行きたくないのなら──」
俺の言葉を遮り、翔子はトートバッグから何かの冊子を取り出した。
「──選んで」
翔子が取り出したのは、結婚式場案内のパンフ。
「すまん。話の流れがさっぱりわからない」
「……約束を破ったら即挙式って誓ってくれた」
誓約《せいやく》の内容が変わっている気がする。
「お母さんはハワイとかの海外がいいな〜」
「おふくろ。アンタはどうしてそんなにマイペースなんだ」
「……雄二。早く選んで。予約するから」
「あっ。ヨーロッパもいいわね。雄二、どこがいいかしらね?」
「く……っ!」
どちらを選んでも結婚の話がチラつくという恐ろしいこの状況。だが、この程度の困難に屈する俺ではない。なんとかして脱出を──
[#中央揃え]☆
「……俺は……無力だ……」
電車とバスで二時間ほどかけ、俺と翔子は如月ハイランドの前にいた。
こ、これは仕方がなかったんだ! 翔子一人だけならともかく、おふくろまで面白がって結婚の話を進めだしたのが悪いんだ! あの妙な雰囲気から逃れる為に出かけてしまった俺を誰が責められようか!
「……やっとついた」
嬉しそうにアミューズメントパークを見ている翔子。
……ふむ。そんな姿を見ると、少しは遠くまで連れてきた甲斐《かい》もあるかもしれないな。うんうん。
「よし。それじゃ、翔子」
「……うん」
「帰ろう」
ミシッ
「……ダメ。絶対に入る」
「はっはっは。翔子、俺の肘関節《ひじかんせつ》はそっち側には曲がらないぞ?」
肘を極《き》めてきた翔子に脂汗《あぶらあせ》を流しながら笑いかける。
まずい。指先の感覚がなくなってきた。
「……恋人同士は皆こうしてる」
「待て翔子! お前は腕を組むという仲睦《なかむつ》まじい行為とサブミッションを同様に考えていないか!?」
「……???」
素で疑問符を浮かべているとは、なんて恐ろしい女だ。きっとコイツには、世の中の恋人同士は相手を逃がさない為に肘関節を取り合っているように見えているのだろう。
「……とにかく、入る」
「ぐぁっ! せめて関節技を解いてから歩いてくれ! 本当に肘が逆方向を向いてしまう!」
左腕を人質に取られたまま入場ゲートへと連行される。プレオープンという限定的な期間である為か、特に待つこともなく係員の青年の前に進むことができた。
「いらっしゃいマセ! 如月ハイランドへようこソ!」
その男は日本人ではないのか、若干訛《じゃっかんなま》りの混じった口調《くちょう》で俺たちに笑顔を振りまいた。顔立ちはアジア系っぽいので日本人かどうかはよくわからないが。
「本日はプレオープンなのデスが、チケットはお持ちですカ?」
「……はい」
翔子がポケットから例のチケットを取り出す。
「拝見しマース」
係員はそのチケットを受け取って俺たちの顔を見ると、笑顔のまま一瞬固まった。
「……そのチケット、使えないの……?」
翔子がそんな係員の様子を見て不安そうに表情を曇《くも》らせる。
「イエイエ、そんなコトはないデスよ? デスが、ちょっとお待ちくだサーイ」
係員はポケットから携帯電話を取り出し、俺たちに背を向けてどこかに電話をし始めた。
「──私だ。例の連中が来た。ウェディングシフトの用意を始めろ。確実に仕留《しと》める」
「おいコラ。なんだその不穏当《ふおんとう》な会話は」
この係員、急に目の色が変わりやがったぞ。まさか例のジンクスを作る為の工作員か?
「……ウェディングシフト?」
翔子が首を傾《かし》げている。如月グループの企みを知らないコイツにはよくわからない単語だろう。
「気にしないデくだサーイ。コッチの話デース」
取り繕ったように元の雰囲気に戻る係員。あからさまに怪しい。
「アンタ、さっき電話で流暢《りゅうちょう》に日本語を話していなかったか?」
「オーウ。ニホンゴむつかしくてワカりまセーン」
こいつムカつく。
「ところで、そのウェディングシフトとやらは必要ないぞ。入場だけさせてくれたらあとは放っておいてくれていい」
もはや潔《いさぎよ》いとも言えるネーミングのおかげで向こうのやろうとしていることはよくわかった。だが、そんなものに乗る気はない! そうしないと、俺の人生が……っ!
「そんなコト言わずニ、お世話させてくだサーイ。トッテモ豪華なおもてナシさせていただきマース」
「不要だ」
「そこをナントかお願いしマース」
「ダメだ」
「この通りデース」
「却下《きゃっか》だ」
「断ればアナタの実家に腐《くさ》ったザリガニを送りマース」
「やめろう! そんなことをされたら我が家は食中毒で大変なことになってしまう!」
あの母親は間違いなく伊勢海老《いせえび》だと勘違いして食卓に上げるだろう。なんて恐ろしい脅迫をしてくれるんだ、この似非《えせ》外国人め……!
「では、マズ最初に記念写真を撮りますヨ?」
「……記念写真?」
「ハイ。サイコーにお似合いのお二人の愛のメモリーを残しマース」
「…………雄二と、お似合い……(ポッ)」
翔子は似非野郎の言葉に灰《ほの》かに頬《ほお》を赤らめていた。
「お待たせしました。カメラです」
そこに帽子を目《ま》深《ぶか》にかぶったスタッフがカメラを片手に現れた。
うん? なんだか見覚えのあるヤツだな。帽子で顔を隠しているのが怪しいが……
「アナタが持ってきてクレたのデスか。わざわざありがとうございマス。助かりマース」
似非野郎が札を言いながらカメラを受け取る。やはり妙だ。そこらのコンビニならともかく、こういった場所のスタッフが客の前で同僚に丁寧《ていねい》な礼を言うだろうか?
──ふむ。少し試してみるか。
「悪いがちょっと電話をさせてくれ」
「わかりまシタ」
携帯を取り出し、番号非通知で『吉《よし》井《い》明久』という名のバカに電話をかける。
Prrrrr Prrrrr
「ああ、すいません。僕の携帯ですね」
すると、先ほどカメラを持ってきたスタッフの尻ポケットから電子音が響きだした。
ビンゴだ。
「……いよう明久。テメェ、面白いことしてるじゃねぇか……!」
「人違いですっ」
ダッ!
「あっコラ! 逃げるなテメェ! ええい、放せこの似非外国人!」
「彼はココのスタッフのエリザベート・ハナコ(三十五歳)、通称スティーヴでース。吉井ナントカさんではありまセーン」
「黙れ! 人種性別年齢氏名全てに堂々とウソをつくな! しかもどう考えてもその名前で通称スティーヴはないだろ! ついでに俺は吉井なんて苗字《みょうじ》は一言も言っていない!」
似非外国人に絡まれているうちに明久の姿は見えなくなった。
あの野郎、絶対に俺をハメる気だ……! 俺の人生をなんだと思っていやがる! さてはいつもの仕返しか!?
しかし、ここのスタッフになりすましているとなると、かなり大掛かりな話だ。明久の単独行動とは考えにくい。ババァ──もとい学園長も一枚|噛《か》んでいると見て間違いないだろう。あのババァには貸しがあるから、明久が頼めば断れないだろうしな。
いや、ババァだけじゃない。他にも協力者がいる可能性が高い。
「翔子、すまんがちょっと我慢してくれ」
「……???」
きょとんとしている翔子のスカートを掴《つか》み、軽く捲《めく》り上《あ》げる。
下着が見えるか見えないかというギリギリの高さまでスカートが持ち上がった。
「…………っ!!(ギラッ)」
その瞬間、視界の隅で懐に手を伸ばした人影があった。人影というか、キツネの着ぐるみだが。
「咄《とっ》嗟《さ》に懐のデジカメに手を伸ばすあの動き……。やはりムッツリーニも来ていたか」
俺が視線を向けると着ぐるみは脱《だっ》兎《と》の如《ごと》くその場から消え失せた。
明久とムッツリーニがいるのなら、秀吉《ひでよし》や姫路もどこかにいるのだろう。どいつもこいつも人の不幸を楽しげに……!
「……雄二、えっち」
処刑法を考えていると、翔子が少し怒ったような顔で俺を見ていた。
「なっ!? ち、違うぞ翔子! 俺はお前の下着になんか微《み》塵《じん》も興味がないっ!」
「……それはそれで、困る」
「ぐぁああああっ! 理《り》不《ふ》尽《じん》だぁあっ!」
翔子の握力で俺の頭《ず》蓋《がい》が軋《きし》む音が聞こえてきた。
「でハ、写真を撮りマース。はい、チーズ」
近くでフラッシュが焚《た》かれ、ピピッという電子音が聞こえてきた。
「スグに印刷しマース。そのまま待っていて下さイ」
「……わかった。このまま待ってる」
「ぐぁあああっ! このままだと俺の頭蓋がっ!」
律儀《りちぎ》にも、翔子は握力を緩《ゆる》めることなくそのままの状態を保っている。
コイツ、本当に俺のことが好きなのか……?
「──はい、どうゾ」
程なくして似非野郎が写真を持ってきた。それと同時に解放される俺。
「……ありがとう」
翔子は嬉しそうに写真を受け取った。
「……雄二、見て。私たちの思い出」
咳き込む俺に翔子が写真を突きつける。
「……なんだ、この写真は」
写っているのは翔子の後頭部と折檻《せっかん》に悶《もだ》える俺。そして──
「サービスで加工も入れておきまシタ」
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その二人を囲うようなハートマークと『私たち、結婚します』という文字。
アイアンクローをかましている女とそれに苦しむ男の周りを、未来を祝福するように天使が飛び回っている。余人が見ればどういった経緯で結婚に至ったのか気になるところだろう。
……どう見てもこの二人に幸せは訪れそうにない。
「コレをパークの写真館に飾っても良いデスか?」
「キサマ正気か!? コレを飾ることでここになんのメリットがあるというんだ!」
見に来る客はドン引き間違いなしだ。
「……雄二、照れてる?」
「すまない。どこからどう見てもこの写真には照れる要素が見当たらない」
なんて、印刷された写真を見ていると、
『あぁっ! 写真撮影してる! アタシらも撮ってもらおーよ!』
『オレたちの結婚の記念に、か? そうだな。おい係員。オレたちも写ってやんよ』
偉そうな態度でチャラいカップルがやってきた。
「すいまセン。こちらは特別企画でスので……」
似非野郎が断ろうとする。どうやらあの写真撮影は例のウェディングシフトとやらの一環で、俺たちだけが対象なのだろう。
『あぁっ!? いいじゃねーか! オレたちゃオキャクサマだぞコルァ!』
『きゃーっ。リュータ、かっこいーっ!』
男が下から睨みつけるように似非野郎を威《い》嚇《かく》し始《はじ》める。絵に描いたようなチンピラだな。その姿を見て喜ぶ女もどうかと思うが。
『だいたいよぉ、あんなダッセぇジャリどもよりオレたちを写した方がココの評判的にも良くねぇ?』
『そうよっ! あんなアタマの悪そうなオトコよりもリュータの方が一〇〇倍カッコイイんだからぁ!』
まぁ、とりあえずチンピラカップルが係員の注意を引いている間に逃げるとするか。
「……(ツカツカツカ)」
「っておい、翔子。どこに行くんだ」
急に勢いよく歩き出した翔子の腕を掴んで引き止める。
「……あの二人、雄二のことを悪く言ったから」
「あのなぁ……。その程度でイチイチ目くじら立てていたらキリがないぞ?」
あのテの連中は下手に相手をすると執拗《しつよう》に絡んでくることが多い。悪口程度で構ったりすると面倒事を抱え込むことにもなりかねないので、ここは無視という選択肢が一番楽だろう。あんな連中に何を言われても気にならないし、何より視界に入れておくだけで不《ふ》愉《ゆ》快《かい》だ。
「行くぞ、翔子」
「……雄二がそう言うのなら」
翔子もその光景は嫌だったようで、促《うなが》すと渋々ついてきた。
『あぁっ!? グダグダ抜かすとマスコミにここの態度について投書すっぞコルァっ!』
『そーよっ! アタシたち、オキャクサマなんだからねっ!』
背後からは更に大きく騒ぎ出すカップルの声が聞こえてきた。
宣伝の為のイベントでこういう客が来るとは、如月ハイランドも運がないな。
[#中央揃え]☆
「さて。それじゃ、テキトーに回って帰るか」
「……楽しみ」
園内は前評判通りの最新アトラクションが沢山あった。3Dの体感アトラクションから絶叫《ぜっきょう》マシン、コーヒーカップやメリーゴーランドなど、知っているアトラクションは全て揃《そろ》っているようだ。中には見た目だけでは想像もつかないようなものまである。
「映画館でもあれば楽なんだがな」
「……折角一緒にいるんだから、そんなのはダメ」
翔子に却下されたので、仕方なく面倒が少なくて妙な雰囲気にならないようなアトラクションを探す。すると、そんな俺たちにヒョコヒョコと着ぐるみが近寄ってきた。さっきのキツネの着ぐるみに似ている。違いは服装だ。さっきのと違って大きなリボンをしているところを見ると、こいつはきっとメスなのだろう。
『お兄さんたち、フィーが面白いアトラクションを紹介してあげるよ?』
着ぐるみから聞こえてくるのは若い女の声。ボイスチェンジャーなどは搭載《とうさい》していないのか、その声は普通の人間の声だった。……というか、聞き覚えのある声だ。気のせいか、クラスメイトの優等生に思えてならない。
こいつも確認しておくか。
「そういえば、さっき明久がバイトの女子大生に映画に誘われていたな」
『えぇっ、明久君が!? それはどこで見たんですか!?』
本当にコイツらは、揃いも揃って……。
「おい姫路。アルバイトか?」
『あ……っ! ち、違いますっ! 私──じゃなくてフィーは姫路なんて人じゃないよ? 見ての通りキツネの女の子だよっ♪』
それでも取り繕う姫路は真面目《まじめ》だと思う。
「じゃあ、フィーとやら。お前のオススメを教えてもらえるか?」
『あ。う、うんっ。フィーのオススメはねっ、向こうに見えるお化け屋敷だよっ』
姫路──ではなくて、フィーの手が噴水《ふんすい》を挟《はさ》んだ向こう側に見える建物を示す。ふむ。廃病院を改造したとかいう例のアレか。
「そうか。ありがとう」
『いえいえっ。楽しんできてねっ』
「よし翔子。お化け屋敷以外の[#「以外の」に傍点]アトラクションに行くぞ」
翔子の背中を押して歩き出す。すると、姫路が慌てたように俺の腕を掴んできた。
『ままま待って下さいっ! どうしてオススメ以外のところに行くんですか!?』
「どうしてもクソもあるか。お前の口ぶりから察するに、お化け屋敷に余計な仕掛けが施されているのは明白だろう。わざわざそんなところに行く気はない」
いくら成績優秀とは言え、姫路は騙《だま》し合《あ》いはサッパリのようだ。簡単にボロが出る。
『そ、そんなの困りますっ! お願いですからお化け屋敷に行って下さい!』
「断る」
そのお願いとやらの為に残りの人生を捧げる気はない! 断固として拒否し、俺は自由を謳歌するんだ!
『お顧いです〜っ! お化け屋敷はきっと楽しいですから〜っ!』
「い・や・だ!」
ずるずると姫路が引きずられるようについてくる。邪魔なので振り払ってしまおうか、なんて考えていると、そこに何かが近づいてきた。
『そこまでだ雄二──じゃなくって、そこのブサイクな男っ!」
「その頭の悪そうな仕《し》草《ぐさ》……明久かっ!」
颯爽《さっそう》と登場したのは、先ほども見た雄ギツネの着ぐるみだった。
『失礼なっ! 僕──じゃなくてノインのどこが頭が悪いって言うんだ!』
「黙れ! 頭部を前後逆につけているヤツをバカと言って何が悪い!」
本来は可愛らしいであろう着ぐるみは頭部の装着が前後逆になっており、とてもシュールな生物になっていた。
「……雄二。ノイちゃんはうっかりさんだから」
「翔子。うっかりで頭部の前後が逆になる生物は自然界で即座に淘《とう》汰《た》されると思うぞ」
一度うっかりしたら即死なんて生物は食物連鎖《しょくもつれんさ》の底辺もいいところだろう。
『あ、明久君っ。頭が逆です! ああっ! 今小さな子が明久君を見て泣き出しちゃいましたよ!?』
『うわっ、しまった! どうりで前が見えないと思った!』
『早く直さないと坂本君にバレちゃいます!』
未だにごまかせると思っているこの二人ばつくづく似合いのカップルだと思う。
「ハイ、すいまセーン。お待たせしまシタ」
更に面倒なヤツが現れた。さっきの似非野郎だ。もう追いついてきたのか。
「坂本《さかもと》雄二サン、お化け屋敷に行って下サイ」
「だからイヤだと言っているだろうが」
そんな危険地帯に自ら踏み込む気はない。
「断れバ、アナタの実家にプチプチの梱包材《こんぽうざい》を大量に送りマース」
「やめろっ! そんなことをされたら我が家の家事が全て滞《とどこお》ってしまう!」
あのおふくろは全ての梱包材を潰《つぶ》し終《お》えるまで他のことは何もしないだろう。なんて地味かつ微妙《びみよう》な嫌がらせをしてくるんだ……!
『ところで明久君。さっき女子大生に声をかけられていたって聞きましたけど? まさか、大事な作戦の最中に他の女の人と……』
『え? なんのこと? 僕は別に何も──あれっ? どうして携帯電話を取り出すの? 誰かを呼ぶ気?』
『美《み》波《なみ》ちゃんが今すぐ来てくれるそうです。お話、ゆっくり聞かせて下さいね?』
『だ、ダメだよっ! オープン初日で刃傷沙汰《にんじょうざた》なんてここの評判に──ひぃぃっ! なんだか凄《すご》い勢いで誰かが走ってきてるみたいなんだけと!? 土下座《どげざ》でもなんでもするから殺さないで下さいっ!』
離れた場所でファンシーなキツネの痴《ち》話《わ》喧《げん》嘩《か》という珍しい光景が展開されていた。
「坂本翔子サン。お化け屋敷は彼氏に抱きつき放題デスよ?」
「……雄二。お化け屋敷に行きたい」
「汚いぞキサマ、翔子を使って罠《わな》にハメようなんて! それと、勝手に翔子を入籍《にゅうせき》させるな! ソイツの苗字は霧島《きりしま》だ!」
「……大丈夫。すぐに変わるから」
油断している隙に翔子に肘関節を極められた。これじゃあ抵抗できない!
「では、こちらにサインして下サーイ」
似非野郎が取り出したのは何かの書類とボールペン。なんだコレは?
「ただの誓約書デース」
誓約書が必要なお化け屋敷ってなんだ。そんなに危険なのか?
「だがまぁ、面白そうではあるな」
誓約書が必要ということはそれほどまでにスリルに満ちているということでもあるだろう。それはそれで面白いかもしれない。
少し楽しみになったので、ボールペンを受け取って書類に手をかける。
[#ここから太字][#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
【誓約書】
1.私、坂本雄二は霧島翔子を妻として生涯《しようがい》愛し、苦《く》楽《らく》を供《とも》にすることを誓います。
2.婚礼の式場には如月ハイランドを利用することを誓います。
3.どのような事態になろうとも、離縁しないことを誓います。
[#ここで字下げ終わり][#ここで太字終わり]
「……はい雄二。実印」
「朱肉《しゅにく》はこちらデース」
「俺だけか!? 俺だけがこの状況をおかしいと思っているのか!?」
こいつら全員正気じゃない。
「冗談でス。誓約書はいいので中に入って下サイ」
「……うん。冗談」
「カーボン紙を入れて写しまで用意しているくせに冗談と言い張るのか」
色々と言ってやりたいことはあるが、この連中に常識を求めるのも酷《こく》というものだろう。
「それデハ、邪魔になりそうなノデその大きなカバンをお預かりしマース」
「……お顧い」
翔子が似非野郎にバッグを渡す。そう言えばヤケに荷物が大きいな。
「……零《こぼ》れちゃうから、横にいないで欲しい」
「このカバンをですカ? わかりまシタ。気をつけマース」
零れる? あの鞄《かばん》に何が入っているんだ?
「デハ、行ってらっシャいマセ」
「……雄二、行こう」
「痛だだだだっ! 肘がねじ切れるっ!」
抵抗|空《むな》しく、お化け屋敷の扉の前に立たされる。演出なのか、その扉は横開きの自動ドアでありながら電気が入っていないようで手動で開けるようになっていた。
『私だ。お化け屋敷にターゲットが入った。吉井さん考案の作戦を実行しろ』
扉が閉まる寸前、似非野郎のそんな台詞が聞こえた。
明久考案の作戦か。一体どんなものになっているのかはわからんが、ヤツ如きの策に引っかかってたまるか!
薄暗い廊《ろう》下《か》を翔子と二人で歩く。カツン、カツンとリノリウムの廊下は足音を必要以上に大きく鳴らしているような気がした。
「流石廃病院を改造したたけのことはあるな。雰《ふん》囲《い》気《き》満点だ」
「……ちょっと怖い」
「こういうものにあまりビビらないお前が怖がるなんて、珍しいな」
「……そうかも」
時折壁に貼られている≪順路≫というポスターに従って進んでいく。
一階は特に何が起こるというわけでもなく、二階に上がり、少し進んだ廊下で初めて何かの演出が顔を出した。
【──じの方が──よりも──】
冷たい風に乗って幽《かす》かに聞こえる声。
ふむ。怨《えん》嗟《さ》の声の演出か?
「……この声、雄二……?」
「ん? そうなのか?」
どうやらこれは俺の声そっくりらしい。秀吉に声真似でもさせたのだろうか。確かに自分の声が聞こえてくるなんて怖いと言えば怖いが、明久にしては普通の演出だと──
【姫路の方が翔子よりも好みだな。胸も大きいし】
「……雄二。覚悟、できてる……?」
「怖ぇっ! 翔子が般若《はんにゃ》のような形相《ぎょうそう》に! 確かにこれはスリル満点の演出だ!」
なんて恐ろしいことを考えるんだあの野郎。まさか俺を生かしてここから出さないつもりか!?
なんてビビっていると、パンッと背中で何かの仕掛けが作動する音が聞こえた。
よっしゃ! ナイス演出! 助かったぜ!
「翔子! 何か出てきたぞ!」
音のした方に首を向けると、そこにはさっきまで何もなかったはずなのに、突如《とつじょ》あるものが現れていた。それは──
「……気が利《き》いてる」
……釘《くぎ》バット?
「畜生《ちくしょう》っ! よりによって処刑道具まで用意してくるとは! 全く趣《しゅ》旨《し》は違うが最強に恐ろしいお化け屋敷だっ!」
「……雄二。逃がさない」
釘バットを持った幼なじみに追いかけられるという斬新《ざんしん》なアトラクションを一時間近く楽しむ羽目《はめ》になった。
しかし、明久はコレで俺と翔子がくっつくと思っているのか……?
[#中央揃え]☆
アレは秀吉の声真似だと逃げながら説明し、なんとか落ち着いた翔子を連れて俺はお化け屋敷を出た。
「お疲れサマでシタ。どうでシたか? 結婚したくなりまシタか?」
「アレと結婚を結びつけて考えることができるのはお前と明久ぐらいだろうな……」
絆《きずな》どころか溝《みぞ》が深まった気分だ。
「オカしいデスね? 危機的状況に陥《おちい》っタ二人の男女ハ、強い絆デ結ばれルという話なのデスが……」
「まぁ、襲い来る危機が結ばれるべき相手自身でなければそうなるかもしれないが……」
この似非野郎、きっと明久と同レベルのアレなヤツだろう。
しかし、おかげで少し安心した部分もある。明久の作戦ということなら、ヤクザを使っての脅迫や詐欺《さぎ》まがいのことはされそうにないからな。これなら死に物狂いで脱出するような真似はしなくても良さそうだ。……面倒なので、できればすぐにでも帰りたいが。
「……そろそろ、お昼」
翔子が噴水の上の方を見ながら呟いた。そこにある大時計は午後一時過ぎを示していた。そうか。そろそろ昼飯か。
「……あの、私のバッグ──」
「デハ、豪華なランチを用意してありマスので、こちらへいらして下サイ」
似非野郎がスタスタと歩き出す。昼飯も用意してあるのか。さすがはプレミアムチケットだな。
「翔子、どうした?」
「……なんでも、ない」
「???」
一陣|寂《さみ》しげな顔をしていたような……?
「……雄二。急がないとはぐれる」
「お、おう」
俺たちがついてくるという自信があるのか、似非野郎の姿が随分と遠くに見える。まぁ、豪華な昼飯と聞いたからには馳《ち》走《そう》になるつもりではあるが。
早足で野郎を追いかける。
しばらく歩くと、小《こ》洒《じゃ》落《れ》たレストランが見えてきた。
「コチラでランチをお楽しみ下サイ」
そう言って似非野郎が案内したのはパーティー会場のような広間だった。そこら中に丸テーブルが設置されており、前方にはステージとテーブルが用意されている。この雰囲気、レストランというよりは──
「……クイズ会場?」
そう。一応丸テーブルの上には豪華な料理が用意されているが、TVでよく観るクイズ会場のような雰囲気になっていた。
「いらっしゃいませ。坂本雄二様、翔子様」
ボーイが現れ、俺たちを席に案内する。……コイツも見覚えがある面《つら》だな、オイ。
「秀吉。ボーイの真似事か?」
「秀吉? なんのことでしょうか?」
顔色一つ変えずに切り返してくるクラスメイト。こいつ、役者モードになってやがるな。こうなるとそう簡単に化けの皮は剥がせない。
それならば、明久の時と同じように道具を使うとしよう。
「違うと言うのなら、確認させてもらうぞ」
携帯電話を取り出し、アドレス帳から『木下《きのした》秀吉』を呼び出す。すると、俺が通話ボタンを押すよりも早くボーイが動いた。
「おぉっと、手が滑ってしまいました!」
ポケットから携帯電話を取り出し、噴水のある方向に思いっきり投ばつける秀吉(?)。 遠くから小さくポチャン、と何かが水没する音が聞こえた。
「そ、そこまでやるか!? アレもう確実に壊れたぞ!?」
「なんのことでしょうか?」
変わらないポーカーフェイス。
いくらあまり使っていないとは言え、まさか携帯を捨ててくるとは……。敵ながら大した役者根性だ。
「それでは、こちらへどうぞ」
「あ、ああ……」
ボーイに連れられて会場の中を移動する。
「お客様は未成年とのことなので、こちらをご用意させて頂きました」
席につくと、ボーイがグラスにノンアルコールのシャンパンを注いでくる。ラベルが見えるように持っているあたり、徹底した演技だ。流石は演劇部、といったところか。
「オードブルでございます」
グラスを置くと、すかさず運ばれてくる料理。豪華な、という前置きは間違いではないようで、慣れない料理に苦笑しながらナイフとフォークを手に取ることになった。
もっとも、翔子はこういった席には慣れているのかもしれないが。
そしてデザートも食べ終え、ここには特に何の仕掛けもないのか、と安《あん》堵《ど》しかけたその時。
≪皆様、本日は如月ハイランドのプレオープンイベントにご参加頂き、誠にありがとうございます!≫
会場に大きくアナウンスの声が響き渡った。
≪なんと、本日ですが、この会場に結婚を前提としてお付き合いを始めようとしている高校生のカップルがいらっしゃっているのです!≫
飲んだ水が少しだけ鼻から逆流した。
≪そこで、当如月グループとしてはそんなお二人を応援する為の催《もよお》しを企画させて頂きました! 題して、【如月ハイランドウェディング体験】プレゼントクイズ〜!≫
出入り口を閉《へい》鎖《さ》する重々しい音が聞こえてくる。退路を断つとは、おのれ明久。俺の行動パターンは予測済ということか……!
≪本企画の内容は至ってシンプル。こちらの出題するクイズに答えて頂き、見事五問正解したら弊社《へいしゃ》が提供する最高級のウェディングプランを体験して頂けるというものです! もちろん、ご本人様の希望によってはそのまま入籍ということでも問題ありませんが≫
大問題だバカ野郎。
≪それでは、坂本雄二さん&翔子さん! 前方のステージへとお進み下さい!≫
ご丁寧にも司会が俺たちの席を示してくれたおかげで、レストランにいる観客が一斉にこちらへと目を向けた。
「……ウェディング体験……頑張る……!」
「落ち着け翔子。そういったものはだな、きちんと双方の合意の下《もと》に痛だだだだっ! 耳が千切《ちぎ》れるっ! 行く! 行くから放してくれっ!」
ただの体験だと自分に言い聞かせ、渋々と壇上《だんじょう》に上がる。
スタッフの誘導の下、俺と翔子は解答者席へと案内された。
≪それでは【如月ハイランドウェディング体験】プレゼントクイズを始めます!≫
俺と翔子の間に大きなボタンが一つ設置されている。コレを押してから解答するというオーソドックスなシステムのようだ。
そうだな……。正解したらプレゼント、ということは、間違え続けたら無効になるのだろう。それなら俺が間違え続けるとするか。
≪では、第一問!≫
ボタンに手を伸ばす用意をし、出題を待つ。
さて、どんな問題が来る……?
≪坂本雄二さんと翔子さんの結婚記念日はいつでしょうかっ?≫
おかしい。問題文の意味がわからない。
──ピンポーン!
しまった。油断しているうちに翔子が勝手にボタンを! だが、いくらコイツでも正解の存在しない問題に答えることなんて──
≪はいっ! 答えをどうぞっ!≫
「……毎日が記念日」
「やめてくれ翔子! 恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ!」
≪お見事! 正解です!≫
しかも正解!?
司会者を睨みつける。すると、司会者は観客に見えない角度で、俺に向かって片目を瞑《つむ》ってきた。さては……出来レースかっ! そこまでして俺たちにウェディング体験とやらをやらせたいのか!?
いいだろう。それならば──俺は意地でも間違えて見せよう!
≪第二問! お二人の結婚式はどちらで挙げられるのでしょうかっ?≫
──ピンポーン!
素早くボタンを押し、マイクに口を寄せる。既に問題自体がクイズではなくて質問と化しているような気もするが問題ない。不正解を出すなんて、造《ぞう》作《さ》もないこと!
≪はいっ! 答えをどうぞっ!≫
「鯖《さば》の味噌煮《みそに》!」
≪正解です!≫
「なにぃっ!?」
馬鹿な! 場所を聞かれたのに鯖の味噌煮が正解なのか!?
≪お二人の挙式は当園にある如月グランドホテル・鳳凰《ほうおう》の間《ま》、別名【鯖の味噌煮】で行われる予定です!≫
「待ていっ! 絶対その別名はこの場で命名しただろ! 強引にも程があるぞ!」
≪第三問! お二人の出会いはどこでしょうかっ?≫
ダメだ、聞いてねぇ……! だが、向こうのやり口はわかった。今度は確実に間違えてみせる。翔子が動くより早くボタンを押し、間違った解答を──
「……させない」
ブスッ
「ふおぉぉぉっ!? 目が、目がぁっ!」
──ピンポーン!
≪はい、解答をどうぞ!≫
「……小学校」
≪正解です! お二人は小学校の頃からの長い付き合いで今日の結婚にまで至るという、なんとも仲睦まじい幼なじみなのです!≫
今俺が目を突かれたのは見えていないのか!? どこをどう見たら仲睦まじいという言葉が出てくるんだ!
問題を聞いてから動き出すようでは遅すぎるようだ。翔子の妨害が間に合わないタイミングで解答する必要がある。こうなったら──
≪第四問参ります!≫
──ピンポーン!
問題文が読み上げられるよりも先にボタンを押し、妨害が入る前に解答を済ませる!
どんな問題がくるかはわからんが、【わかりません】と解答したら100%間違いになるはず!
「──わかり」
≪正解です! それでは最終問題です!≫
うぉっ!? 俺の解答を無視したぞ!? 問題を無視した仕返しか!?
もはや間違えることは不可能だ、と諦めそうになったその時、
『ちょっとおかしくな〜い? アタシらも結婚する予定なのに、どうしてそんなコーコーセーだけがトクベツ扱いなワケ〜?』
不愉快な口調の救いの神が現れた。
その場の全員が声の主を探る。すると、彼らは呼ばれてもいないのにステージのすぐ近くにまで歩み寄ってきていた。
『あの、お客様。イベントの最中ですので、どうか──』
『あぁっ!? ゴタゴダとうるせーんだよ! オレたちゃオキャクサマだぞコルァ!』
茶髪で顔中にピアスをつけた男がスタッフを威嚇するように大声を出す。どこかて見た連中だと思ったら、入場口で似非野郎に絡んでいたチンピラどもか。
『アタシらもウェディング体験ってヤツ、やってみたいんだけど〜?』
『で、ですが──』
『ゴチャゴチャ抜かすなってんだコルァ! オレたちもクイズに参加してやるって言ってんだボケがっ!』
『うんうんっ! じゃあ、こうしよーよ! アタシらがあの二人に問題出すから、答えられたらあの二人の勝ち、間違えたらアタシらの勝ちってコトで!』
『そ、そんな──』
慌てるスタッフをよそに、そのカップルはズカズカと壇上に上がり、設置してあるマイクの一つをひったくる。
これはチャンスだ。あの司会者が相手なら間違えられなかったが、この連中が相手なら間違えることができる。あとは翔子の妨害を邪魔しておけば……!
「……ゆ、雄二……?」
解答者席の陰で翔子の手を握る。これで目潰しは出来ない。あとは向こうの問題に間違えるだけだ!
『じゃあ、問題だ』
チンピラがわざわざ巻き舌の聞き取りにくい発音で言う。
さて、どんな問題だ? 安心してくれ、どんなに簡単な問題でも間違えて──
『ヨーロッパの首都はどこだか答えろっ!』
「…………」
言葉を、失った。
『オラ、答えろよ。わかんねぇのか?』
確かにわからないと言えばわからない。俺の記憶では、ヨーロッパは国というカテゴリーに属していたことは一度もないのだから。その首都を答えるなんて不可能だ。
≪……坂本雄二さん、翔子さん。おめでとうございます。【如月ハイランドウェディング体験】をプレゼントいたします≫
『おい待てよ! こいつら答えられなかっただろ!? オレたちの勝ちじゃねぇかコルァ!』
『マジありえなくない!? この司会バカなんじゃないの!?』
バカップルがぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる中、ステージに幕が下りてくる。
明久以上のバカがいるとは、世界って広いもんだな……。
[#中央揃え]☆
「おメデとうございマス。ウェディング体験が当たるなんテ、ラッキーでスね」
「……凄く嬉しい」
レストランを出ると、未だに翔子の鞄を抱えている似非野郎がヒョコヒョコと近付いてきた。まったく、何がラッキーだ。ハナから計画に入っていたくせに。
「そういえば翔子。お前の持ってきた鞄は何が入っているんだ? 随分と大きいが」
「……別に、何も……」
翔子が困ったように答える。何かあるのだろうか?
まぁ、俺の実印すら持ち歩いているようなヤツだ。荷物が大きくても不思議はないが。
「翔子サン、ウェディング体験の準備があるノデ、このスタッフについていってもらえマスか?」
似非野郎の後ろから三十前後の女性スタッフが歩み出て頭を下げる。いかにも業界人といった風貌《ふうぼう》の人だ。
「初めまして。貴女のドレスのコーディネートを担当させて頂きます。一生の思い出になるようなイベントにする為、お手伝いをさせて下さい」
そう言ってスタッフは翔子に笑顔を向けた。
おいおい、随分と本格的だな。まさかスタイリストまでつけてくるとは。
となると、如月ハイランドの狙いはアトラクションじゃなくて最初からこのウェディング体験だったってことか。どうやら今からの時間を目一杯使って結婚式の疑似《ぎじ》体験をさせてくるようだ。
「ってことは、俺は長い時間待たされるのか?」
ドレスを着てメイクをするってことは数時間もかかるような大作業になるだろう。その間俺は何をしていればいいんだ?
「ご安心下サイ。坂本雄二サンについての対応は吉井サンから聞いテ──ではナク、ワタシが考えてありマース」
「もう今更隠す必要もないだろ。明久から指示が出ているのか?」
猛烈に嫌な予感がする。
「ハイ。坂本雄二サンにはコレを使うように、ト」
そう言って野郎が取り出したのは、見覚えのあるスタンガン(二十万ボルト)。
「坂本雄二サンは逃亡を考えるだろうかラ、コレで気絶させてカラ着替えさせるように、との指示デース」
「あ、明久ぁあああああっ!!」
「少しガマンして下サーイ」
首の後ろでバチンッと大きな音が響き、俺は意識を失った。
[#中央揃え]☆
≪それではいよいよ本日のメインイベント、ウェディング体験です! 皆様、まずは新郎の入場を拍手《はくしゅ》でお迎え下さい!≫
園内全てに響き渡るのではないかと思える程の拍手が聞こえてきた。このうちの何割かはサクラだと思うが、周囲の熱気に圧《お》されて一般入場客も拍手をしているようだ。
「坂本雄二サン、お願いしマス」
舞台袖で似非野郎が耳打ちしてきた。
コイツをブチのめして逃げてやろうか。
「抵抗すれバ、海栗《うに》とタワシの活け造りをアナタの実家に送りマース」
くっ。そんな物を送られたら、あの母親はきっと全部海栗だと勘違いしてタワシにも手を出してしまう……!
「やれやれ……。まぁ、あくまでもただの体験だしな。適当に付き合ってさっさと終わらせるか……」
油断を誘う為、似非野郎に聞こえるように諦めの言葉を呟く。
恐らくこいつらの狙いは、指輪交換から誓いのキスまでの一連のシーンだ。それらを大々的にメディアに発表することで、俺と翔子を世間的に結婚させるつもりだろう。確かに世間にそういった目で見られてしまえば、違うやつと歩いているだけで何を言われるかわかったもんじゃない。いやらしいが巧いやり方だ。勝手に映像を使われる──要するに肖像権云々《しょうぞうけんうんぬん》についての知識はないのでわからないが、向こうは大企業だ。なんらかの方法があるのだろう。
だがそれなら、俺は誓いの言葉に入るまでの間に脱走したら良い。好都合にも衆目《しゅうもく》の前だ。ちょっと大げさに仮病でも使ってやれば、相手側も式を断念せさるを得ないだろう。この場を逃れたらあとはどうとでもなる。
「さぁ、どうゾ」
「あいよ」
トントン、と小さな階段を昇る。そのままステージに上がると、その光景に一瞬|眩暈《めまい》がした。
「おいおい……。なんだよこのセット……」
数え切れないスポットライトにライブステージのような観客席。スモークの設備はおろかバルーンや花火の用意までしてあるように見える。向こうにある電飾なんていくらかかっているか見当もつかん。
≪それでは新郎のプロフィールの紹介を──≫
ん? 俺のプロフィール紹介か。まるで本物の結婚式だな。目的のシーン以外の部分もきちんとしているようだ。さっきのクイズもそうだが、きっと明久にでも聞いて細かく下調べを──
≪──省略します≫
手ぇ抜きすぎだろ。
『ま、紹介なんていらねぇよな』
『興味ナシ〜』
『ここがオレたちの結婚式に使えるかどうかが問題だからな』
『だよね〜』
最前列に座っている連中からそんな声が聞こえてきた。
声の主は……さっきクイズ会場で騒いでいたチンピラどもか。しかし、最前列に座っているのに大声で会話とは。外観に相応しいマナーの持ち主だな。
≪……他のお客様のご迷惑になりますので、大声での私語はご遠慮頂けるようお願い致します≫
『コレ、アタシらのこと言ってんの〜?』
『違ぇだろ。俺らはなんたってオキャクサマだぜ?」
『だよね〜っ』
『ま、俺たちのことだとしても気にすんなよ。要は俺たちの気分が良いか悪いかってのが問題だろ? な、これ重要じゃない?』
『うんうん! リュータ、イイコト言うね!』
調子に乗って下卑《げび》た笑い声が一層大きく響き渡る。
主催側もイベントの邪魔になる要因は排除したいだろうに──やっぱりあれだけ騒ぐ連中だと手を出せないだろうな。宣伝目的でやっているのに悪評を流されたら意味がないから仕方ないが。
≪──それでは、いよいよ新婦のご登場です≫
心なしか音量の上がったBGMとアナウンスが流れ、同時に会場の電気が全て消えた。スモークが足元に立ち込め、否応《いやおう》なしに雰囲気が盛り上がる。
……ははっ。コレで翔子に花嫁衣装が似合っていなければ興ざめもいいところだな。
脱出はもう少し待つとしよう。折角来たんだ。翔子のドレス姿くらい見ておくのも一興だ。
そんなことを考えながら待っていると、目が暗がりに慣れるよりも早く、一条のスポットライトが点された。
≪本イベントの主役、霧島翔子さんです!≫
アナウンスと同時に更に幾筋ものスポットライトが壇上の一点のみを照らし出す。暗闇から一転して輝き出す壇上で、思わず目を瞑ってしまう。
そして、再び目を開けた時に飛び込んできた姿に──俺は一瞬、言葉を失った。
幼い頃からの知り合いでありながら今日この場で初めて出会ったような、そんな感覚を抱かせるほどに見違えた姿。彼女は花嫁と呼ぶに相応しくたおやかに佇《たたず》んでいる。あれは……誰だ?
『…………綺麗』
静まり返った会場から溜息《ためいき》と共に洩《も》れ出《で》た、誰のものともわからない台詞。だが、その言葉は何に阻《はば》まれることなく壇上の俺のところにまで届いてきた。
余程入念に製作したのか、純白のドレスは皺《しわ》一つ浮かべることなく着こなされている。スカートの裾は床に擦らない限界の長さに設定されているようで、アイツがステージの中央まで歩いてくる間、一度も床に触れることはなかった。
「……雄二……」
ヴェールの下に素顔を隠し、シルクの衣装に身を包む幼なじみが、どこか不安げにこちらを見上げてくる。
胸元に掲げている小さなブーケが所在なげに揺れた。
「翔子、か……?」
「……うん」
頭の中が真っ白になり、言わずもがなの質問が口をついて出た。あまりの変わりように、確認せずにはいられなかったのかもしれない。
動揺する俺に、翔子は恥ずかしげに問いかける。
「……どう……? 私、お嫁さんに、見えるかな……?」
コイツが見知らぬ少女に見えたせいか、会場の雰囲気に飲まれたのか、それとも他の要因か。俺は考えを巡らせることもなく勢いで返事をしてしまった。
「──ああ、大丈夫だ。少なくとも、婿《むこ》には見えない」
先ほど頭に浮かんだ『似合わなければ興ざめだな』なんて言葉は既にどこかへ飛んでいた。婿には見えない、なんて言葉を付け加えられただけでも上出来だと思う。
「……雄二……」
翔子は小さな声で俺の名を呼び、ブーケを抱え直した。
そして、その場で動きを止める。
「お、おい。翔子……?」
なんだ? 様子がおかしい。俺の返事が何かマズかったか?
駆け寄るべきか、一瞬迷う。すると、俺が迷っている間に、翔子は再び言葉を紡いだ。
「……嬉しい……」
目の前で少女が俯《うつむ》き、ブーケに顔を伏せる。そして、それ以上言葉を発することなく静かに震え出した。
≪ど、どうしたのでしょうか? 花嫁が泣いているように見えますが……?≫
仕事を思い出したかのようにアナウンスが入る。
泣いている?
言われてみて初めて気がつく。俯いて肩を震わせて──翔子は静かに泣いていた。
「お、おい。どうした……?」
ヴェールとブーケが邪魔で表情が見えない。なぜ急に泣き出したんだ?
会場から静寂《せいじゃく》が消え、観客の間に少しずつざわめきが生まれ出す。そんな中、彼女は小さな、だがはっきりと聞き取れる声で呟いた。
「……ずっと……夢だったから……」
涙混じりの掠《かす》れた声。
≪夢、ですか?≫
「……小さな頃からずっと……夢だった……。私と雄二、二人で結婚式を挙げること……。私が雄二のお嫁さんになること……。私一人だけじゃ、絶対に叶わない、小さな頃からの私の夢……」
口数の少ない翔子が懸命に紡ぐ言葉は、俺に形容し難い何かの感情を喚《かん》起《き》した。
幼い頃のある出来事[#「ある出来事」に傍点]がきっかけで抱かれた、コイツの俺への想い。それは罪悪感と責任感からくる勘違いであるはずなのに──コイツはどうしてここまで強い気持ちを抱けるのだろう。
「……だから……本当に嬉しい……。他の誰でもなく、雄二と一緒にこうしていられることが……」
そこまで言って、あとは言葉にすることができずに翔子はまた静かに泣いた。
会場のどこかから鼻を啜《すす》る音が聞こえてくる。観客のもらい泣きだろうか? 随分と涙腺《るいせん》の弱いヤツもいたもんだ。
≪どうやら嬉し泣きのようですね。花嫁は相当に一《いち》途《ず》な方のようです。さて、花婿はこの告白にどう応えるのでしょうか?≫
どう応える? そんなものは決まっている。場所がどこであろうと、時間がいつであろうと、俺のやるべきことはただ一つ。コイツの勘違いを正してやることだ。
頭ではそう考えている。それなのに──不思議なことに俺の口はなかなか言葉を紡ぐことができずにいた。
「翔子。俺は──」
『あーあ、つまんなーい!』
何かを言いかけたところで、観客席から大きな声があがる。俺は慌てて口を噤《つぐ》んだ。よくわからないが、どこかでホッとしている自分がいる。ということは、これは俺にとって天の助けなのか。
『マジつまんないこのイベントぉ〜。人のノロケなんてどうでもいいからぁ、早く演出とか見せてくれな〜い?』
『だよな〜。お前らのことなんてどうでもいいっての』
どうやら俺の窮地を救ってくれたのは最前列に陣取る馬鹿二人組のようだ。会場が静まり返っていたおかげで発言者がはっきりとわかる。
『ってか、お嫁さんが夢です、って。オマエいくつだよ? なに? キャラ作り? ここのスタッフの脚本? バカみてぇ。ぶっちゃけキモいんだよ!』
『純愛ごっこでもやってんの? そんなもん観る為に貴重な時間|割《さ》いてるんじゃないんだケドぉ〜。あのオンナ、マジでアタマおかしいんじゃない? ギャグにしか思えないんだケドぉ』
『そっか! コレってコントじゃねぇ? あんなキモい夢、ずっと持ってるヤツなんていねぇもんな!』
『え〜っ!? コレってコントなのぉ? だとしたら、超ウケるんだケドぉ〜!』
口々に文句を言い、翔子を指差して笑い始める二人組。すると、
≪んだとテメェらっ! もういっぺん言ってみやがれ!≫
≪あ、明久君! 落ち着いてっ! ステージが台無しになっちゃいます!≫
そんな放送が入り、舞台裏の方から誰かが暴れるような音が聞こえてきた。どこかで今のカップルの発言に腹を立てたバカが暴走しているのだろう。
どこで暴れているのかと、チンピラどものいる席から舞台裏の音がした方に一瞬視線を移す。
そんな短い時間の間に、
≪は、花嫁さん? 花嫁さんはどちらに行かれたのですかっ?≫
翔子は壇上から姿を消していた。
さっきまで立っていた場所にブーケとヴェールを残して。
「……はぁ。やれやれ」
なんとなくヴェールを拾い上げる。
それは羽根のように軽いはずなのに、涙で湿って少し重たくなっていた。
≪霧島さん? 霧島翔子さーんっ! 皆さん、花嫁を捜して下さい!≫
スタッフがバタバタと駆け出す。
ふむ。どうやらこのイベントは中止のようだな。ここまで大々的に用意しておきながら失敗とは、経営側のお偉方はきっと真っ青になっていることだろう。
「さ、坂本雄二さん! 霧島さんを一緒に捜して下さい!」
スタッフが一人、息を切らせてこちらにやってくる。俺にアイツの行先に心当たりがないか聞きたいのだろう。
「悪いが、パスだ。面倒だし、便所にも行きたいしな」
「え? ちょ、ちょっと、坂本さん……!」
背を向けて歩き出す俺にスタッフが声をかけてくる。
が、無視の姿勢を崩さないでいると諦めたように去っていった。まったく、俺なんかに頼るのなら最初から自分で捜した方が早いだろうに。
そのまま退場していく客に混ざって会場を出て行く。五分もしないうちに目的地が見えてきた。あまり遠くでなくて助かった。
『いや、マジでさっきのウケたな!』
『うんうん! 私……結婚が夢なんです……。どう? 似てる? 可愛い?』
『ああ、似てる! けど──キモいに決まってんだろ!』
『だよね〜!』
さてさて。それじゃ、とっとと用を済ませるか。
ゆっくりと歩み寄り、背後から声をかける。
「なぁ、アンタら」
『ぁあ? あんだよ?』
二人組が真っ茶色な顔をこちらに向けてくる。
この二人がさっき俺を窮地から救ってくれたんだ。きちんと礼をしておかないとな。
『リュータ。コイツ、さっきのオトコじゃない?』
『みてぇだな。んで、その新郎サマがオレたちになんか用か、あァ!?』
男の方が一歩前に出て、威嚇するような仕草を見せた。
「いや。大した用じゃないんだが──」
借り物の上着を脱ぎ、タイを緩める。不思議なことに、身体は準備体操を必要としないほどに温まっていた。
「──ちょっとそこまでツラぁ貸せ」
[#中央揃え]☆
「よっ。随分と待たせてくれたな」
「……雄二」
如月ハイランドの中にあるグランドホテル前で待つことしばし。玄関から翔子がトボトボと俯きがちに出てきた。
「さて。それじゃ、帰るとすっか」
似非野郎から受け取っておいた翔子の鞄を担ぎ直し、駅に向かって歩き出す。
「…………」
翔子は何も言わず、静かに俺の少し後ろをついてきた。
夕暮れの中、黙々と駅に続く道を歩く。
どのくらいそうしていただろうか。如月ハイランドを出て人気のない道を歩いていると、翔子が聞き取れるかどうかギリギリの小さな声で呟いた。
「……雄二」
「……なんだ?」
「……私の夢、変なの……?」
例のバカップルに笑われたことをずっと気にしているのだろう。翔子は足を止めていた。俯いているから表情は見えないが、長い付き合いだ。どんな顔をしているのかぐらい見なくてもわかる。
「まぁ、あまり一般的ではないかもしれないな」
俺は少し言葉を選んでからそう答えた。
「…………」
再び黙り込む翔子。
さっきの言葉を鵜呑《うの》みにするなら、こいつは決して短くはない七年という時間をずっと、唯一《ただひと》つの揺るぎない夢を抱いて生きてきたということになる。それがあんな大勢の前で笑われ、否定された。今の心情がどのようなものなのか、俺には想像もつかない。
しかし、だからと言って嘘をついて慰《なぐさ》めるつもりもない。
「この際だから言っておく。お前のその気持ちは、過去の話に対する責任感を勘違いしたものだ」
七年も前に起こった出来事。翔子が俺に好意と勘違いした気持ちを抱くようになったきっかけ。今でもずっと、あの時のことを後悔《こうかい》している。もっとうまくやれたんじゃないか、と。
あんなことがあったせいで、コイツは俺のようなロクデナシに時間を費やすことになってしまった。だから、お前の気持ちは勘違いだ、と教えてやる必要がある。これ以上無駄な時間を過ごさせない為に。
「……ゆう、じ……」
翔子が息を呑む。俺に面と向かってこんなことを言われて、傷ついたのかもしれない。
「けれども──」
だが、どこにもコイツが傷つく必要なんてない。おかしいのはコイツの勘違いだけで、一人の人間を長い間想い続けるという行為は胸を張れる誇らしいことのはずだ。
だから、これくらいは伝えてやりたい。全てが間違いなのではなく、気持ちを抱く対象を勘違いをしていただけで、夢自体はおかしなものではないのだから。
「──けれども、俺はお前の夢を笑わない。お前の夢は、大きく胸を張れる、誰にも負けない立派なものだ」
会場で拾っておいた物を俯く翔子に被せてやる。
「但し、相手を間違えていなければ、だけどな?」
折角の体験だったんだ。これくらいの思い出はあってもいいんじゃないか?
「…… これ……さっきの……ヴェール……」
花嫁衣装の一つである白い薄布を手で押さえ、翔子は驚いたように顔を上げた。
なぜだか俺はその顔を見るのはまずい気がして、思わず顔を背《そむ》けた。
っと、そう言えば、もう一つ言っておかなきゃいけないことがあるんだった。
「それと、翔子──」
沈み切る寸前の夕陽を見ながら、
「──弁当、旨《うま》かった」
俺は軽くなった鞄を翔子に放った。
「……あ……私のお弁当……。気づいて……くれたんだ……」
「さて。さっさと帰るぞ。遅くなると色々誤解されるからな」
「……雄二」
「特におふくろのやつは、いくら言っても──」
「雄二っ!」
ここ最近では記憶にない翔子の大きな声を聞いて、思わず立ち止まってしまう。
「……なんだ?」
平静に、いつも通りの態度と声で言葉を返す。
そして少しだけ振り返ると、赤い光の中、自らの手でヴェールを持ち上げ、
「──私、やっぱり何も間違ってなかった」
満面の笑みを浮かべる幼なじみが、そこにいた。
[#中央揃え]☆
週明けの学校にて。
「おい、明久」
「ん? おはよう、雄二。どうしたの?」
「如月ハイランドでは随分と色々とやってくれたな」
「あははっ。何を言ってるのさ。僕は一日中家でゲームをやっていたんだよ? 如月ハイランドになんて行けるわけないじゃないか」
「……そうか。お前がシラを切るならそれでもいいだろう」
「な、何を言ってるのさ。変なヤツだなぁ〜」
「ところで、お前にプレゼントがある」
「え? なになに?」
「今話題の恋愛映画のペアチケットだ。気になる相手がいれば[#「気になる相手がいれば」に傍点]一緒に行くといい」
必要以上に大きな声で告げてやった。教室内にいる全員に聞こえるような声で。
「ペアチケット? う〜ん、そんなものもらっても、使い道に困って──」
「それじゃあな」
強引に明久の手の中にチケットを握らせ、明久の席から離れる。
『あ、アキっ! そういえば、ウチ週末に映画を観たいと思っていたんだけど──』
『あ、明久君っ! 私も丁度観たい映画があったんですけど!』
『ほぇ? なになに? どうして二人ともそんなに殺気だってるの!? このチケットは換金して生活費に痛あ《゛》あ《゛》っ! もげちゃう! 人体の大事なパーツが色々と取れちゃうよ!』
遠くからは予想通りの悲鳴が聞こえてきた。
まったく……。余計なことを企むからだ、大バカ野郎が。
[#改ページ]
[#改ページ]
土屋と工藤の性活小噺[#「土屋と工藤の性活小噺」は太字]
「…………土《つち》屋《や》と」
「工《く》藤《どう》の」
「「性活《せいかつ》小噺《こばなし》っ!」」
「はい。このコーナーでは、日々の生活に根ざしたちょっとエッチな小噺をボクこと工藤|愛《あい》子《こ》とムッツ──」
「…………土屋|康《こう》太《た》」
「ムッツリーニ君が紹介していくというものです」
「……最近、本名を呼ばれない……」
「では、今日のテーマですが──」
「…………本名……」
「──『シャワーの正しい使い方』です」
「…………っっ!!(ドバッ)」
「えぇっ!? もう鼻血!? ムッツリーニ君、想像力豊か過ぎない!?」
「…………構わず続けろ」
「う、うん。えっと、ちょっとエッチなお話ということなので、ボクの体験談をお話します。実は先日、学校帰りに急に雨が降ってきて」
「…………っ!(ダラダラ)」
「運の悪いことに、その日は部活でふざけていたらプールに着替えを落としちゃって、下着がビショビショになっちゃったんだ」
「…………っっ!!(ダバダバ)」
「下は流石《さすが》に我慢して履いていたんだけど、上は──ってムッツリーニ君!? もう二リッターくらい血が出ているみたいだけど本当に大丈夫なの!?」
「…………構わずに、続けるんだ……っ!!」
「そ、それで、雨でシャツが透けてきちゃって」
「…………っっっ!!!(ブシャァァァアア)」
「やっぱりこの企画無理があるよ! まだシャワーの話に入っていないのに相方がグロッキーになってるんだもん!」
「…………死しても尚、魂《たましい》で聞き続ける……っ!」
「そんなの無理に決まってるでしょ!? とにかく今回はこれで終わり! それではまた次回お会いしましょう! お元気でー!」
「…………続きが気になる」
「それより先に保健室!」
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僕とプールと水着の楽園[#「僕とプールと水着の楽園」は太字]
先週末に行われた『雄《ゆう》二《じ》&霧島《きりしま》さん結婚大作戦』も無事(?)に終わり、いつもどおり平穏な週末の夜。僕の家には悪友である坂本《さかもと》雄二が泊まりで遊びに来ていた。
「あれ? 雄二、何か買ってきたの?」
「食い物だ。お前の家にはろくな物がないからな」
そう告げてテーブルの上にビニール袋を置く雄二。
「へぇ〜。差し入れなんて、随分《ずいぶん》気が利《き》くね」
ガサゴソ、とビニール袋を開ける。すると、中には食べ物と飲み物が入っていた。
・コーラ
・アイスコーヒー
・カップラーメン
・カップ焼きそば
飲み物と食べ物がそれぞれ二つずつ入っている。これはありがたい。
「それで、雄二はどっちにするの?」
上着を脱いでいる雄二に問いかける。
どっちにする、とはもちろん飲み物と食べ物のことだ。僕は飲み物がコーラでもコーヒーでもいいし、食べ物だってラーメンでも焼きそばでもいい。食べられるだけで充分幸せだ。買ってきてくれた雄二に先に選ばせるくらいは当然だろう。
「俺か? 俺は──」
きっと雄二は焼きそばとコーラを選ぶだろう。コイツの好みくらい、本当は聞かなくてもわかるんだけど、
「──コーラとコーヒーとラーメンと焼きそばだ」
「雄二キサマ! 僕には割《わ》り箸《ばし》しか食べさせない気だな!?」
「待て! 割り箸だけでも食おうとするお前の思考に一瞬引いたぞ!?」
慌《あわ》てて雄二が止めに入る。
「というか、割り箸がないと俺は素手でラーメンを食う羽目《はめ》になるだろうが」
確かに、親指と人差し指で麺《めん》を挟《はさ》んで『熱い、熱い』と言いながらラーメンを食べる 雄二の姿はシュールかもしれない。
「まぁ割り箸はやらんが、代わりに他の物をお前にもきちんと買ってきてある」
「え? そうなの?」
「ああ。もう一つ袋があるだろ? そっちがお前の分だ」
言われてみて気がつく。一つ目の袋の下《した》敷《じ》きになっていてわからなかったけど、よく見るとビニール袋はもう一つ用意してあった。
「なんだ。やっぱり僕の分も買ってきてくれていたんじゃないか」
「まぁな。先週末は世話になったからな。感謝の気持ちだ」
「うんうん。そう言ってもらえると僕も苦労した甲斐《かい》があるよ」
下敷きになっている袋を取り出し、中身を見る。きちんと中には飲み物と食べ物が入っていた。
・こんにゃくゼリー
・ダイエットコーラ
・ところてん
「僕の貴重な栄養源がぁぁーっ!」
全てカロリーオフという事実に涙が出た。
「気にするな。俺の感謝の気持ちだ」
「くそっ! 全然感謝してないな!? あの計画を実行するのに僕がどれだけ苦労したと思っているんだ!」
袋からダイエットコーラを取り出して構える。
「うるせぇ! お前こそ、あれ以来俺がどれだけ苦労しているのか知っているのか!」
雄二も袋に手を爽っ込み、普通のコーラを取り出して構える。
僕らの間に剣呑《けんのん》な空気が流れた。
「……やる気かい、雄二?」
「ああ。お前とは決着をつける必要があると思っていたところだ」
「上等。早撃ちで僕に挑んだことを後悔《こうかい》するがいいさ!」
「ハッ! 口だけは達者だな!」
互いに相手を睨《にら》みつけ、牽制《けんせい》し合う。相手は雄二だ。下手な動きは命取りになる。
一触即発《いっしょくそくはつ》の状況の中、キッチンから水が一滴落ちる音が響いてきた。
──ピチョン
「「──っ!!」」
その音をきっかけに、状況は静から動へ。睨み合いから戦いへと動き出す。開始動作はほほ同時。それなら、勝負の行方《ゆくえ》はこの後の動き次第──
シャカシャカシャカ(僕と雄二がペットボトルを振る音)
ブシャアアァァァァ(お互いに向けてコーラを射出する音)
バタバタバタバタ(僕と雄二が目を押さえてのたうち回る音)
「「目が、目がぁぁぁああっ!」」
染《し》みる! コーラが目に染みるよ!
「やってくれるじゃねぇか、明久《あきひさ》!」
「雄二こそ。さすが僕がライバルと認めた男……!」
「だが、ここからは本気だ!」
「僕だって負けるもんか!」
そして、雄二はコーヒー、僕はところてんを武器に、互いの尊厳《そんげん》を賭《か》けて戦いに身を ゆだねた。
──しばらくお待ち下さい──
「……雄二。一時休戦にしない?」
「……そうだな。この戦いはあまりにも不《ふ》毛《もう》だ」
気がつけば全身がゼリーやところてんやコーラでべタべタになっていた。物凄《ものすご》く気持ち悪い。
「明久。シャワー借りるぞ」
「うん。タオルは適当なのを使っていいよ」
「言われなくてもそうする」
そう僕に告げると、気持ち悪そうに着ているシャツを摘《つま》みながら雄二が脱衣所の方へと消えていった。
続いてバサバサ、と景気良く衣服を脱ぎ捨てる音が聞こえてくる。
「あ、そういえばさ、雄二。言い忘れていたんだけど」
『なんだ?』
バスルームから響くドア越しの声。その少し後に蛇口《じゃぐち》を捻《ひね》る音が鳴った。
「ガス止められてるから水しか出ないからね」
『ほわぁぁっ──っ!?』
ガチャッ ズカズカズカ
「……先に言えやコラ」
腰にタオルを巻いた雄二は寒さで全身に鳥肌をたてていた。
「ごめんごめん。言い忘れていたよ。えっとね、心臓に近い位置にいきなり冷水を当てると身体に悪いから、まずは手や足の先にかけてから徐々に──」
「誰が冷水シャワーの浴び方を説明しろって言った!?」
「なに熱くなっているのさ雄二。そうだ。冷たいシャワーでも浴びて冷静に」
「たった今浴びたから熱くなってるんだボケ! ……くそっ。このままじゃ風邪《かぜ》引いちまう」
「う〜ん……。そんなことを言われても、僕の家のお湯が出ないという事実は変わらないし……」
仮にお金があったとしても、ガスを復旧させるには業者の立会いが必要になる。この時間じゃガス会社はやっていないだろうから、どんなに急いでも明日以降になってしまう。この辺で銭湯《せんとう》なんて見たことないし、いきなり友達の家に行ってシャワーを借りるというのもおかしすぎる。
「やれやれ……。仕方ない。明久、外に出るぞ」
僕が考え込んでいると、いつの間にか服を身につけた雄二がそう告げた。
「外? あ、そっか。雄二の家に行くんだね」
「それでもいいんだけどな。どうせならシャワーだけじゃなくてプールもあるところに行こうぜ」
「プールもあるところ?」
ちょっと遠くにあるスパリゾートのことだろうか? でも、今から行くには結構遠いはずだけど。
「ああ。シャワーもプールもあって、ここから近くて、尚《なお》且《か》つ金もかからないところがあるだろうが」
シャワーもプールもあって、ここから近くて、尚且つお金のかからないところっていうと──ああ、あそこか。なるほど。
「オッケー。すぐに用意するよ。雄二は水着どうするの?」
「俺はボクサーパンツで泳ぐさ。水着と大して変わらないだろ」
「りょーかい」
手早く準備を済ませ、僕と雄二は目的地である文月《ふみづき》学園へと向かった。
[#中央揃え]☆
「……で、何か言い訳はあるか?」
そして二時間後。僕と雄二は文月学園宿直室で鉄人《てつじん》こと西村《にしむら》先生の説教を受けていた。
「「コイツが悪いんです」」
綺麗にハモる僕と雄二の声。お互いを指差す姿勢まで全く同じだった。
「って、明らかに悪いのは雄二じゃないか! 雄二がまともな差し入れを持ってきたらこんなことにはならなかったのに!」
「それは違うだろ! お前がガス代を払っておけばこんなことにはならなかったんだぞ!」
「何を言うのさ! 水が出るだけマシじゃないか!」
「お前の家は水すら出ないこともあるのか!?」
「……もういい。よくわかった」
なぜか鉄人は頭に手を当てて溜息《ためいき》をついていた。
「わかってもらえました? それは良かったです」
「んじゃ、わかってもらえたところでそろそろ帰るか。いい加減時間も遅いしな」
「そうだね。それじゃ西村先生。失礼しま──ぐぇっ!」
頭を下げて出て行こうとしたら、鉄人の太い腕が僕と雄二の首を抱え込んできた。い、息が……!
「そう急ぐこともないだろう二人とも。帰るのは恒例《こうれい》のヤツをやってからでも遅くはないよな?」
グイグイと凄い力で首が締め付けられていく。ここで下手な抵抗をしたら首の骨を折られかねない!
「そ、そうですね……。是非《ぜひ》、そうさせてもらいます……」
「お、俺も、そうさせてもらおう……」
自己防衛本能が働き、僕と雄二は泣く泣く提案を呑むことにした。
「よしよし。それじゃ、早速始めるぞ」
僕らを解放すると、どこからか紙とペンを取り出す鉄人。僕らは黙ってそれらを受け取った。
「いいか。今から言う日本語を英訳しろ。『私は所有者の許可無くプールを使ったことを反省しています』」
言われた通り鉄人の日本語を英語に直して紙に書いていく。『反省する』って、確か"reflect on"だったはず。
「……さすがにこう何度も書かされていると、『反省する』という単語はすぐに出てくるようだな」
「そりゃ、週に二回は書かされてますからね……」
「それが嫌なら自分の行動を改めることだな。──どれ、できたなら見せてみろ」
「はい」
書き上げた英文を鉄人に渡す。鉄人はその文章を読んで──なぜか溜息をついていた。
「え? なんで溜息をつくんですか?」
おかしいな。完璧《かんぺき》な英文だったと思うんだけど。
「坂本、読んでみろ」
鉄人が僕の英作文が書かれた紙を雄二に渡す。雄二はその紙を受け取り、声に出して読み上げた。
「"I reflect on having used the poor withiout owner's permission."」
雄二が書いていた英文をほぼパクったのだから、間違えようがないはずなんだけど。
「訳してみろ」
「『私は所有者の許可無く貧民層の人々を使ったことを反省しています』」
「貴様は奴《ど》隷《れい》商人か」
「あ、あれ!? どうしてそんな文章に!?」
「この阿《あ》呆《ほう》が! よりによって"pool"と"poor"を間違えるな! 中学校で習うような単語だろうが!」
しまった。唯一自分で考えた部分なのに。
「さて、次々行くぞ。『私は反省しているので、来週末にプールの掃除を行います』」
「そうですか。それは大変そうですね。頑張って下さい」
「(ボゴッ)英訳しろ」
「うぅぅ……。鬼教師……」
グーで殴られた。暴力教師め!
「くそっ。鉄人に見つかったのが運の尽きだった」
「(ボゴッ)西村先生と呼べ」
こうして、僕と雄二は朝まで鉄拳付きの補習を受ける羽目になった。
[#中央揃え]☆
「ってなことがあって、おかげで散々な週末だったよ」
週明けの教室。朝の|H R《ホームルーム》が始まるまでの時間、僕らはいつものメンバーで卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》を囲んでいた。
「そうじゃったのか。それは災難じゃったのぅ……」
気《き》遣《づか》うように柔らかな表情を浮かべているのはクラスメイトの木下《きのした》秀吉《ひでよし》誰がどう見ても美少女以外の何者でもないというのに生物学的には♂という不思議な友達だ。
「オマケに今週末はプールの罰掃除だよ。はぁ……」
あんなに殴られた上に英語の反省文まで書かされたのに、更に罰掃除まであるなんて。鉄人は中身も外見も鬼だと思う。
「…………重労働」
隣で土《つち》屋《や》康《こう》太《た》ことムッツリーニがボソリと呟いた。
「だよね。あんなに広いところを掃除するなんて、考えただけでも気が滅入《めい》るよ」
せめて何かご褒《ほう》美《び》があればいいのに。
そんなことを思い浮かべていると、僕の考えを読んだかのように雄二がこんなことを言い出した。
「褒美というほどじゃないが、『掃除をするのならプールを自由に使ってもいい』と鉄人に言われたぞ」
「え? そうなの?」
ということは、今週末の学校のプールは僕らの貸切《かしきり》状態ってこと?
「ああ。だから秀吉とムッツリーニも今週末にプールに来ないか?」
折角の貸切なら僕と雄二だけで使うというのも勿体《もったい》ない。あまり多くの人を誘うと貸切の意味がなくなっちゃうけど、かといって二人だけでは味気ない。秀吉とムッツリーニには是非《ぜひ》とも来てもらいたいところだ。
まず最初にムッツリーニが頷《うなず》こうとして、
「ただし、ムッツリーニには掃除を手伝ってもらうけどな」
「…………」
雄二の言葉を聞いて動きを止めた。
さっきムッツリーニ自身が言ったように、プール掃除は重労働だ。迷うのも無理はない。
「ちなみに、姫《ひめ》路《じ》と島《しま》田《だ》にも声をかけるつもりだ」
「…………ブラシと洗剤を用意しておけ」
ここで即答するのも無理はない。僕だって姫路さんと美《み》波《なみ》と秀吉の水着姿が拝めるのなら何でもするだろう。
「うむ、そうじゃな。貸切のプールなぞ、こんな時でなければなかなか体験できんじゃろうし、相伴《しょうばん》させてもらうかの。無論、ワシも掃除を手伝おう」
「え? 結構大変だと思うけど、いいの?」
「うむ。お安い御用じゃ」
秀吉も快諾《かいだく》してくれた。秀吉は水着姿を見せてくれるのだから掃除をする必要はないのに、なんて良いヤツなんだろう。
「んじゃ、あとは向こうの二人だな。おーい、姫路、島田ー」
持ち前の良く通る声で雄二が呼ぶ。
「どうしたの坂本? 何か用?」
すると、まずやってきたのはドイツからの帰国子女である島田美波さん。吊《つ》り目《め》とポニーテールが特徴的な、とっても気の強い女の子だ。正直、何度生命の危機に追い込まれたのか数え切れない。
「呼びましたか、坂本君?」
続いてやってきたのが我がFクラスの清涼剤《せいりょうざい》、姫路|瑞《みず》希《き》さん。温厚な性格に愛らしい外見、成績優秀な上にスタイル抜群というオプション装備満載の恐ろしい女子だ。いや、美波も恐ろしいという点では引けをとらないけど……。
「二人とも今週末は暇か? 学校のプールを貸切で使えるんだが、良かったらどうだ?」
「「え……?」」
プール、という単語て二人が一瞬ピクンと反応する。どうしたんだろう。
「あ、さては二人とも予定があったりする?」
できれば一緒に遊びたいけど、かと言って先約をキャンセルさせるわけにもいかない。ここは二人の予定を優先させるべきだろう。
「い、いや、別に予定はないんだけと。その、どうしようかな……? プールっていうと、やっぱり水着だし……」
「そ、そうですよね。水着ですよね……。その、えっと……」
美波は自らの胸部へ、姫路さんは自らの腹部へ、それぞれ視線を送っている。一体何をそんなに悩んでいるんだろうか。
「まぁ、お前らにはお前らの悩みがあるんだろうが……。一つ言っておくと、秀吉は来るぞ。水着姿を明久に見せに、な」
答えに窮《きゅう》している二人に雄二が妙なことを告げる。確かに秀吉は来るけど、別に僕に水着姿を見せにくるわけじゃないのに。
そんな雄二の言葉を受けて、美波と姫路さんは急に目つきを変えて秀吉に鋭い視線を送った。
「ひ、卑怯《ひきょう》よ木下! 自分は自信があるからって!」
「そ、そうですっ! 木下君はズルいです!」
「??? お主らは何を言っておるのじゃ?」
突然二人に非難され、秀吉は困惑の表情を浮かべた。僕にもよくわからない。なんで秀吉が卑怯なんだろう。
「で、どうするんだ二人とも?」
「い、行くわ。その、イロイロと準備をして……」
「そ、そうですね。準備は大事ですよね」
複雑そうな顔をしているけど、一応二人ともOKのようだ。良かった良かった。
「そう言えば、いい加減水着を新調せねばならんのう。丁度良《ちょうどよ》い機会じゃから買いに行ってくるとするかの」
秀吉が顎《あご》に手を当てて呟《つぶや》く。秀吉はおニューの水着をお披露目《ひろめ》してくれるようだ。なんだろう。妙に気分が高揚《こうよう》してきた。
「う、ウチも新しいのを買おうかな……?」
秀吉につられたのか、美波も水着を新調するみたいだ。お金があるっていいなぁ……。僕はガスを止められているというのに。
「あれ? でも美波ちゃん。この前水着の話をしていた時には『去年買ったばかりだから今年は要らない』って……」
「み、瑞希! 余計なこと言わないの! こ、今回買うのは……そう! 勝負用だから別口なのよ!」
「島田。焦って更に墓《ぼ》穴《けつ》を掘っているぞ」
「……気のせいよ」
更にわけのわからない会話が繰り広げられている。勝負用ってことは競泳用ってことだろうか。そこまで気合を入れて水泳勝負をする気だなんて、美波は水泳が好きなのかな?
「あ、そうだ雄二。霧島さんにもきちんと声をかけておいてね」
「……言われなくてもそのつもりだ」
憮《ぶ》然《ぜん》とした表情で雄二が意外な返事をする。あれ? おかしいな。きっと雄二のことだから、声をかけずに済ませるつもりだと思ったんだけど。もしかして、先週のウェディング体験でようやく素直になったのかな。
「うんうん。雄二も大人になったね」
「いや、そういう問題じゃない」
「??? それじゃ、どういう問題さ」
「いいか、想像してみろ明久。俺の立場で、後々になってからこのことが翔子《しょうこ》に知られるという状況を」
雄二が妙に真剣な顔をしてそんなことを言ってくるので、僕も真剣に想像してみた。
えっと、雄二の立場で、水着の女子とプールで遊んだという事実が霧島さんに知られたら……、
「樹海の奥……いや、湖の底……」
「俺の死体の処理方法まで想像する必要はないが、まぁそんなところだ」
なるほど。道理で素直じゃない雄二が声をかけるわけだ。おかげで霧島さんの水着姿も見ることができるのだから、僕としては願ったり叶ったりだけど。
「とにかく全員オッケーのようだな。んじゃ、土曜日の朝十時に校門前で待ち合わせだ。水着とタオルを忘れるなよ」
そんな雄二の締めの台詞《せりふ》とほぼ同時に、鉄人がドアを開ける音が教室に響いた。
[#中央揃え]☆
「おはよー。絶好のプール日和《びより》だね」
その週末。雲一つない抜けるような青空の下、僕は校門前に立つ秀吉と姫路さんに手を挙げて挨拶《あいさつ》をした。
「おはようじゃ明久。良い天気じゃな」
「おはようございます明久君。今日は良い一日になりそうですね」
二人が笑顔で挨拶を返してくれる。この二人の姿が休みの日に見られるというだけでも今日は最高の気分でいられそうだ。けど、今日はそれだけじゃなくて水着姿まで拝める! これを天国と言わずしてなんと言おう!
と、拳を握り締めているところでもう一つの人影に気がつく。あれはムッツリーニ? 挨拶が聞こえなかったんだろうか。
「ムッツリーニ。おは──」
「…………(カチャカチャカチャ)」
ムッツリーニは鬼《き》気《き》迫《せま》る表情でカメラの手入れをしていた。
「あ、あのさ、ムッツリーニ」
「…………今、忙しい」
こちらに目線を送ることすら厭《いと》うように、口早に答えるムッツリーニ。
コイツの気持ちもわからないでもない。けど──
「ムッツリーニ。準備はいいけど、無駄になっちゃうんじゃないかな」
「…………なぜ?」
「いや。だって、ムッツリーニはどうせ鼻血で倒れちゃうじゃないか」
チャイナドレスで鼻血の海に沈んだんだ。それよりも露出の多い水着姿でムッッリー二が意識を保てるはずがない。そんな僕の考えを述べると、ムッッリーニは肩をすくめてみせた。
「…………甘く見てもらっちゃ困る」
言いながら大きなスポーツバッグを開けて僕に見せてくるムッツリーニ。
「…………輸血の準備は万全」
「うん。最初から鼻血の予防を諦めているあたりが男らしいよね」
鞄《かばん》一杯に入っていたのは携行用《けいこうよう》の血液パックだった。どういうルートで入手したのかはわからないけど、これだけあれば救急車を呼ぶような事態は避けられるだろう。プールの準備は万全のようだ。
「準備といえば、秀吉は新品の水着を買うとか言ってたよね? 忘れずに買ってきた?」
「うむ。無論じゃ」
胸を張って鞄を掲《かか》げる秀吉。そっか。それは良かった。忘れてきてプールに入れない、とかだと可哀想《かわいそう》だし。
「ちなみに、買ってきた水着じゃが──」
「…………!!(くわっ!)」
心ときめく秀吉の言葉にムッツリーニが目をむく。もちろん僕だって興味津々《きょうみしんしん》だ。秀吉はどんな水着を買ってきたんだ!?
「──トランクスタイプじゃ」
「「バカなぁぁあああっ!!」」
同時に地面に突《つ》っ伏《ぷ》す僕とムッツリーニ。トランクスタイプ!? 男物!? どうして神は僕らにこんな試練を与えるんだ! 男物なんかじゃ全てが台無しじゃないか!
「最近お主らはワシを女として見ておるようじゃからな。ここらで一度ワシが男じゃということを再認識させようと──二人とも聞いておるか?」
「酷《ひど》いよ秀吉! 君は僕のことが嫌いなのかい!?」
「…………見損なった……!」
「な、なんじゃ!? なぜワシは責められておるのじゃ!?」
「き、気にしなくていいと思いますよ。木下君」
畜生! 秀吉だけは僕を裏切らないと思っていたのに!
今からでも他の水着を調達できないかを検討していると、
──タタタタタッ
「バカなお兄ちゃん、おはようですっ!」
「わわっ!?」
後ろの方から足音が聞こえて、急に背中に何かが飛びついてきた。なんだ!?
「もう葉《は》月《づき》ってば。アキがびっくりしてるでしょ?」
少し遅れて聞こえてくる憶えのある声。これは美波の声だから、そうなると今僕の背中に乗っているのは──
「やっぱり葉月ちゃんだ。おはよう」
「えへへー。二週間ぶりですっ」
僕の背中で天真爛漫《てんしんらんまん》という四字熟語を体言しているかのように笑っているのは、美波の妹の島田葉月ちゃん。確か小学校五年生だったかな? 召喚《しょうかん》大会以来だから、葉月ちゃんの言う通り二週間ぶりの対面だ。
「バカなお兄ちゃんは冷たいですっ。酷いですっ。どうして葉月は呼んでくれないんですかっ?」
「あ、うん。ごめんね葉月ちゃん」
けど、呼んだらきっと君のお姉ちゃんは僕を八《や》つ裂《ざ》きにしていたと思うんだ。
「家を出る準備をしていたら葉月に見つかっちゃって。どうしてもついてくるって駄々《だだ》こねてきかないもんだから……」
美波が溜息《ためいき》混じりに呟く。そっか。だから来るのが少し遅かったのか。
「あれ? 坂本はまだ来てないの? ウチが最後だと思ったのに」
「いえ、もう来ていますよ。今職員室に鍵を借りに行って──あ、丁度戻ってきたみたいです」
噂《うわさ》をすればなんとやら。姫路さんが説明していると、校舎の方から雄二と霧島さんが歩いてくる姿が見えた。
「おはよう雄二、霧島さん」
「おう。きちんと遅れずに来たようだな」
「……おはよう」
偉そうに言う雄二。その隣で静かに挨拶をしてくれた綺麗な女の子は、霧島翔子さんという雄二の幼《おさな》なじみだ。美人なだけではなく、文月学園二学年の主席でもあるという才女。運動神経も良いらしいし、おおよそ欠点の見当たらない人なんだけど……残念なことに男を見る目だけはなかったみたいだ。だって、雄二のことを好きになっちゃうくらいなのだから。
「お兄さん、おはようですっ」
雄二の粗野《そや》な外見に物《もの》怖《お》じもせず、元気よく挨拶をする葉月ちゃん。
「ん? チビッ子も来たのか」
「チビッ子じゃないですっ。葉月ですっ!」
「ああ、悪い悪い。よく来たな葉月」
「はいっ」
楽しそうに葉月ちゃんの頭にポンポンと手を置く雄二。顔に似合わず子供好きな雄二は葉月ちゃんの来訪を喜んでいるようだ。
「んじゃ、早速着替えるとするか。女子更衣室の鍵は翔子に預けてあるからついていってくれ。着替えたらプールサイドに集合だ」
雄二の言葉の通り一旦男女に分かれる。姫路さんと美波は霧島さんに、僕とムッツリーニと葉月ちゃんと秀吉は雄二に──って、あれ?
「こらこら。葉月ちゃんと秀吉は女子更衣室でしょ。霧島さんについていかないとダメだよ」
僕らについてこようとする二人の背中を押す。こういうお約束は男子が女子更衣室に行こうとするのが定番なのに。
「えへへ。冗談《じょうだん》ですっ」
「ワシは冗談ではないのじゃが……?」
一緒に着替えたりしたら、ムッツリーニは皆の水着姿を見ることなく天に召《め》されることだろう。本人はそれでも満足かもしれないけど、僕らとしては友人の死を見過ごすわけにはいかない。
「ほら、遊んでないで行くわよ葉月、木下」
「し、島田!? ついにお主までそんな目でワシをみるように!? 嫌じゃ! 女子更衣室で着替えるのだけは嫌なのじゃ!」
頑《かたく》なに女子更衣室を拒む秀吉。
けど、そんなに嫌がられても、男子更衣室で一緒に着替えるのはマズいし……。
「あの……。それなら、木下君は一人で別の場所で着替えるっていうのはどうですか?」
おずおずと姫路さんが手を挙げて提案した。なるほど。流石《さすが》は姫路さんだ。そうすれば全員文句はないだろう。
「ぬ、ぬぅ……。得心行かぬが、この際我慢じゃ……。水着姿を見せればきっと皆もワシのことを見る目が変わるはずじゃ……」
などとブツブツ言いながら、秀吉はギュッと水着の入っている鞄を握り締めた。う〜ん、トランクスタイプか……。男物なんて似合わないと思うんだけどなぁ。
「よし。決まったならさっさと行こうぜ。時間が勿体ない」
「うん。そうだね」
「…………(コクリ)」
こうして僕らはそれぞれの更衣室へと向かった。
──そして二十分後──
「やっぱり女子はまだ着替え終わっていないか」
「そうみたいだね」
「…………(コクリ)」
トランクスタイプの水着に着替えた僕ら三人はプールサイドで女子の登場を今か今かと待ちわびていた。まさに気分はお祭前。心なしか緊張までしてきたくらいだ。
「ムッツリーニ。心の準備はできてる? 命に関わるからね?」
「…………問題ない。イメージトレーニングを256パターン、昨晩済ませてある」
どんなパターンがあるのか聞いてみたいもんだ。
「…………そして256パターンの出血を確認した」
「致《ち》死《し》率《りつ》100%じゃないか」
どうあってもムッツリーニは助からないようだ。
「お、誰か来たぞ」
不意に雄二が呟く。顔を向けると、更衣室の方から小さな人影が駆け寄ってくるのが見えた。あれは葉月ちゃんかな。うんうん。小学生らしくおとなしめな紺《こん》のワンピースの水着が微笑まし──くないっ!
「とどとどどうしよう雄二!? あれってスクール水着だよね!? そんなものを着た小学生と遊んでいたら逮捕されたりしないかな!?」
「…………弁護士を呼んで欲しい(ボタボタボタ)」
「あのな……。落ち着け二人とも。小学生の水着姿でそこまで取り乱すな」
雄二の冷静なツッコミが入る。
そ、そっか。確かに相手は小学生だ。何も狼狽《ろうばい》する必要はない。落ち着け、落ち着くんだ僕。冷静に相手を観察しよう。
「お兄ちゃんたち、お待たせですっ」
息を弾ませて駆け寄ってきた葉月ちゃんを落ち着いて見てみる。胸元には大きく『島田』と名前が書いてあるけれど、小学生には不《ふ》釣《つり》合《あ》いな大きさの胸のせいでその字は形を歪《ゆが》ませていた。そして、水着に覆われず惜しげもなく晒《さら》されている手足は健康的にスラリと伸びていて、将来性がヒシヒシと感じられる。
ふむふむなるほど。雄二の言う通り、冷静に考えてみればどうってことはない。
「懲役《ちょうえき》は二年程度で済みそうだね」
「…………実刑はやむをえない(ボタボタボタ)」
「お前ら冷静なフリしてるだけだろ」
それにしても、とても美波の妹とは思えない。その、なんというか、名札のあたりの盛り上がり部分が特に……
小学生とは思えない一部の箇所に目をやっていいのかと躊躇《ためら》っていると、更に別の気配が更衣室からやってきた。
「こ、こら葉月っ! お姉ちゃんのソレ、勝手に持って行ったらダメでしょ!? 返しなさいっ!」
現れたのは、なぜか胸元を手で隠している美波。ソレってなんだろう?
「…………パッド」
「ほぇ?」
ポツリと呟いたムッツリーニの視線を追うと、その先にはお腹が膨《ふく》らんでいる葉月ちゃんの姿があった。
「あぅ。ずれちゃいました」
葉月ちゃんが水着の中に手を入れてゴソゴソと何かを弄《いじ》る。すると、お腹の膨らみは胸へと移動していった。ああ、なるほど。パッドが入っていたのか。道理で小学生なのに随分大きいと思った。
「ん? ってことは、今美波が返しなさいって言っていたのは、葉月ちゃんがつけている胸パッ──」
「この一撃に、ウチの全てを賭けるわ……!」
「だ、ダメだよ美波! その一撃は僕の記憶どころか存在まで消し去りかねないから!」
どうやら僕は気がついてはいけないことに気がついてしまったみたいだ。
「うぅぅ……。折角用意してきたのに……。葉月のバカ……」
哀しげに呟く美波。胸元はずっと腕で隠しているからよくわからないけど、多分美波が着ているのはスポーツタイプのセパレートだ。まるてビーチバレーの選手みたいで格好良い。
「な、何よ。やっぱりこの格好、どこか変なの……?」
美波が水着姿を隠すように身体を縮める。どうしてそんなに自信なさげなんだろう。
「い、いや。そんなことないよ! その、すっごく似合ってるよ!」
「え……? アキ。それ、本当……?」
「う、うん……。手も脚も胸もバストもほっそりとしていて、凄く綺麗だと脚の親指が踏み抜かれたように痛いぃぃっ!」
「今、ウチの胸が小さいって二回言わなかった?」
美波は勝気な目を更に吊り上げて僕を睨みつけていた。
でも、美波の水着姿は相当に可愛かった。元々顔立ちは可愛いし、カモシカみたいにスラリと長い手足は胸部の不足部分を補ってあまりあるほどに魅力的だ。そんな女の子が水着姿でいるんだから、可愛くないわけがない。
とは言え、美波が相手の場合は余計な発言はそのまま僕の死に直結する。ここは何も言わずに黙っておくのが吉だろう。
「島田、そう怒るな。明久は口ではああ言っているが、明らかにお前の水着姿を意識しているぞ」
「ゆ、雄二! 何を言ってるのさ! 僕は別に動揺してなんか……っ!」
「あ。そ、そうなの……? もう、アキってば。素直に言えばいいのに……バカ」
美波が蚊の鳴くような小さな声でそんなことを言い出した。そっか。それなら素直に言わせて貰おう。
「美波の胸、小さいね」
「アンタの目を潰《つぶ》すわ。左右均等に、丁寧に」
ほら。やっぱり死に直結したじゃないか。
そんな感じで美波や葉月ちゃんの水着姿を愛《め》でていると、更衣室の方から第三の刺客が現れた。
長い黒髪を翻《ひるがえ》しながら、まるでモデルのように優雅に歩いてくる。全てが高水準で整えられた肢《し》体《たい》を惜しげもなく晒しながらあるいてくるその姿は、とても現実のものとは思えないほどに綺麗で、僕は息をするのも忘れて彼女──霧島翔子さんに見入ってしまった。
そして、そんな何のリアクションもできずに立ち尽くす僕らのところに、彼女は自然な仕草で歩み寄ってきて──
「……雄二。他の子を見ないように」
──そのまま流れるような動きで雄二の目を潰した。
「ぐああああっ! 目が、目がぁっ!!」
「凄いわ……。坂本の目を潰す仕草まで綺麗だなんて……」
「うん……。あの姿を見られるのなら、雄二の目なんて惜しくないね……」
「そりゃお前らには実害がないからなっ!」
のたうつ雄二が何か言っているけど、それよりも今は霧島さんの方が重要だ。
「ふぇ……。お姉さん、とっても綺麗です……」
霧島さんが着ているのは、少しおとなしめな白のビキニと水着用のミニスカートを組み合わせたものだ。それだけだとそこまで目を惹《ひ》くような格好じゃないはずなのに、整った顔立ちや透けるような白い肌や艶《つや》のある髪と組み合わさって、綺麗と言うか華麗というか、とにかく魅力的な姿になっていた。
「……そう言われると、嬉しい……」
霧島さんがほんのりと頬を赤く染めて俯く。この仕草はもう反則と言ってもいいんじゃないだろうか。
「ほらほら雄二。雄二も霧島さんに言うべきことがあるでしょ?」
僕らに褒められても嬉しそうな霧島さんだけど、やっぱり一番気になるのは想い人からの感想のはず。ここは雄二にビシッと決めてもらわないと。
僕はいつまでたっても何も言わない雄二の背中をドン、と押してやった。
「翔子」
「……うん」
「ティッシュをくれ。涙が止まらん」
「このバカ雄二! もっと他に言うべきことがあるじゃないか!」
「視界を奪われて他に何を言えと!?」
これだから女心のわかってないヤツは。
「まったく、雄二にも困ったもんだねムッツリーニ」
さっきから輸血作業に忙しいのか、ほとんど喋《しゃべ》らないムッツリーニに水を向ける。でも、ムッツリーニは何の反応も見せずによそを見たまま固まっていた。
「あ、あれ? ムッツリーニ?」
魅力的な女の子たちの水着姿に囲まれているのに呆けているなんて、この男の性格から考えるとありえないことだ。明らかに様子がおかしい。一体どうしたんだろう。
「…………すまない、明久」
辛うじて聞き取れるような掠《かす》れた声で、ムッツリーニが息も絶え絶えに呟く。
「え? なに?」
「…………先に、逝《い》く……」
そして突然その場に崩れ落ちた。大量の出血とともに。
「む、ムッツリーニ!? ムッツリィニィ────!」
畜生誰だ! 誰がムッツリーニをこんな目に遭わせたんだ!
倒れるムッツリーニを抱きかかえる。そしてその視点から後ろを見ると、
「す、すいません。ちょっと背中の紐《ひも》を結ぶのに時間がかかっちゃって……」
そこに生物兵器がいた。
ま、マズいっ!
「危ない僕っ!(ブスッ)」
咄《とっ》嗟《さ》に自分の目に自分の指を突き刺す。秘技、セルフ目潰しだ。
「あ、アキ!? アンタ何やってるの!?」
危なかった……! あれ以上直視していたら間違いなく僕は死の淵《ふち》を彷徨《さまよ》うことになっていただろう。一瞬の判断が僕の命を救ったようだ。
「あの。明久君がどうかしたんですか?」
「あ、瑞希。なんだかよくわからないんだけと、急にアキが自分の目、を──」
美波が何かを見て息を呑む気配が伝わってくる。くそっ! ムッツリーニに続いて美波もやられたか!
「美波ちゃん?」
「Worauf fu[#ue Unicode00FC]r einem Standard hat Gott jene unterschieden, die haben, und jene, die nicht haben!? Was war fur mich ungenu[#ue Unicode00FC]gend!(神様は何を基準に、持つ人と持たざる人を区別しているの!? ウチに何が足りないっていうのよ!)」
美波もかなり日本に慣れてきたと思っていたけど、未だに混乱するとドイツ語が出てくる癖は直っていないみたいだ。
「うぅ……。やっと翔子に奪われた視界が回復して──」
「……雄二は見ちゃダメ(ブスッ)」
「ぐああぁっ! またか!? またなのか!?」
「ふわぁ……。お姉さんのお胸、凄いです……」
少し離れた場所では、雄二の悲鳴をBGMに葉月ちゃんが驚きの声を上げていた。いつもは冷静な霧島さんですら声が震えていたような気がするし。
「み、皆さん何をしているのでしょうか……?」
生物兵器という自覚がないのか、姫路さんが混乱している。
「あはは。なんでもないよ姫路さん。ただ、少しだけ時間をもらえるかな?」
「は、はぁ……」
大きく深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着ける。よし。これなら大丈夫だろう。
僕は心の準備を整え、ゆっくりと目を開けた。ふふっ。こうして落ち着いて冷静に対処すれば、水着ごときなんてことはないさ。
「姫路さん。今日はいい天気だね(ブババババッ)」
「あ、明久君っ!? 凄い勢いで鼻から血が出てますよ!?」
誰だっ! 今僕に『身体は正直だな』ってツッコミを入れたヤツは!?
「ごめん姫路さん。もう少しだけ待って」
「は、はい。よくわかりませんけど、待ってます」
「ありがとう。助かるよ」
鼻を押さえながら上を向く。身体の為に、今見た光景は一度忘れよう。心を真っ白にして何も考えないようにするんだ。心を真っ白に。そう。さっき見た姫路さんの透き通る肌のように真っ白に──
「た、大変っ! 明久君が出血多量で死んじゃいそうですっ!?」
出血量が増えた。なぜだろう。
「バカなお兄ちゃん、大丈夫ですか?」
「ああ、うん。ありがとう葉月ちゃん」
ありがたいことに、葉月ちゃんがティッシュを持ってきてくれた。これで血を止められる。
「さて、それじゃ改めて」
三度姫路さんの水着姿にトライ。その姿が視界に入った瞬間にまた鼻が熱くなったけど、今度はなんとか堪《こら》えることができた。
「あの……明久、君……?」
「…………」
何かを言おうと思ったのに、何も言葉が出てこない。
視界に飛び込んできた姫路さんの水着姿はとにかく鮮烈だった。露出の多い薄ピンクのビキニにゆったりとしたパレオ。いつもは清楚な姫路さんがそんな格好をしているというだけでも危険なのに、小柄な体格とはあまりに不釣合いな、とあるパーツがとにかくやばい。もはや人間の限界に挑戦って感じだ。
「そ、そんなに変ですか……?」
さっきの美波と同じように、自信なさげに身体を縮こませる姫路さん。いけない! 何か言わないと!
「へ、変じゃないっ! かなり似合っているよ!」
「本当ですか?」
「本当だともっ! なんなら命を賭けたっていい!」
実際にムッツリーニは命を賭けたわけだし。
「良かったぁ……。ここ一週間、ご飯を抑え目にした甲斐《かい》がありましたぁ……」
ご飯を抑え目? まさか、抑えてその質量なの!? 本気を出したらどうなるって言うんだ!?
「瑞希。アンタはやっぱりウチの敵《てき》ね……。覚えていなさいよ…!」
我に返った美波は姫路さんの胸を親の敵《かたき》のように睨みつけていた。あの五分の一でもあれば、美波も人並みになれたんだろうなぁ……。
「う、うぅ……。俺は未だに目が見えないんだが……全員|揃《そろ》ったのか?」
目を突かれた痛みのせいか、涙をポロポロと流している雄二が目を開けずにこちらを向いた。
「いや、秀吉がまだ来てないかな」
秀吉は男子更衣室でも女子更衣室でもなく校舎で着替えているので、ここまで来るのに時間がかかっているのだろう。
「……秀吉は、トランクスタイプ……」
輸血が間に合ったようで、復活したムッツリーニが寂しそうに一言洩らす。うんうん。君の無念は僕にもよくわかる。折角あんなに可愛いんだから、水着もそれ相応のものを用意するべきなのに!
「バカなお兄ちゃん。どうしてそんなに哀しそうな顔をしているの?」
葉月ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んできた。いい子だなぁ……。
「心配かけてごめんね葉月ちゃん。ちょっと寂しくなっちゃっただけなんだ。気にしないで」
「そうよ葉月。アキのことなんて心配するだけバカらしいから、気にしなくて──」
そんな言葉の途中で、美波が何故か絶句していた。なんだ?
「待たせてすまぬ。着替えはさほど手間取らんかったのじゃが、いかんせん校舎からプールまでが遠くての」
聞き慣れた声が響く。この声と口調は秀吉か。これで一応全員集合だ──
「|☆●◆▽□♪◎×《ううん。そんなに待ってないよ秀吉》」
「落ち着け明久。ここは地球だぞ」
雄二の冷静なツッコミが入る。でも、それは雄二が未だに目が見えていないからできることで、この光景を見たらそんなことが言えるワケがない!
「ど、どうじゃ……? これで少しは、ワシも男らしく見えるかの……?」
恥ずかしそうに、でも少しだけ見せ付けるように秀吉が歩み寄ってくる。
「わっ。お姉ちゃん、とっても可愛いですっ」
「んむ? 『可愛い』じゃと? 島田妹よ、何を勘違いしておるのか知らんが、ワシは見ての通り男じゃぞ?」
「ふぇ? でも、葉月はその水着、女の子用だと思うです」
「な、なんじゃと!?」
そう。秀吉の水着はトランクスと言えばトランクスだった。ただし、女物の。
「き、木下……! アンタ、どこまでウチらの邪魔をしたら気が済むの……!」
「木下君は卑怯です……! トランクスだなんて私たちを油断させておいて、最後の最後に裏切るなんて……!」
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基本構成は美波と同じようなスポーツタイプ。上は肌に張り付くようなショートタンクトップで、下は多分飾り気のない普通のパンツだ。そして、その上にショートパンツのようなズボンを、一番上のボタンを外した状態で重ねている。これはトランクスタイプと言えないこともないけど、まごうことなき女物だ。
「秀吉! やっぱり秀吉は僕らの気持ちを察してくれていたんだね!」
「…………永遠の友情と劣情をその水着に誓う」
「ち、違うのじゃ! ワシは本当に男物を買った筈《はず》なのじゃ! きちんと店員にも『普通のトランクスタイプが欲しい』と言ったのじゃぞ!?」
「多分、その店員さんは勘違いしたんでしょうね……。何も知らずに木下君に『トランクスタイプの水着が欲しい』なんて言われたら」
「……そうね。ウチでも間違いなくそんな感じの水着を勧めるわ」
「そ、そうじゃったのか……。ワシも少しおかしいとは思ったのじゃ。なにゆえ男物の水着に上があるのじゃろうかと……」
床に手をつきショックを噛みしめている秀吉。その時点で少ししかおかしいと思わないあたりが秀吉らしいよね。見知らぬ店員さん。グッジョブ……!
僕らのそんなやり取りの隣で、霧島さんは心配そうに雄二に声をかけていた。
「……雄二。目、大丈夫?」
「ん? ああ。大丈夫だ翔子。だいぶ見えるようになってきた。だが、心配するなら目潰しなんか──」
「……それなら、もう一度(ブスッ)」
「さ、三度目!? お前俺に何か恨みでもあるのか!?」
「……ここには雄二に見せられないものが多すぎる」
プールに来たというのに、雄二は水に入る前に病院に運ばれそうな勢いだった。
[#中央揃え]☆
「あの、明久君」
軽く準備体操をしてプールに飛び込むと、梯《はし》子《ご》を使ってそろそろと水に入ってきた姫路さんが近くにやってきた。
「ん? なに、姫路さん?」
「明久君は水泳は得意ですか?」
「あ、うん。まぁ、人並みには……」
「? 明久君。どうして目を逸らすんですか?」
それは姫路さんがパレオを外しているから。
「実は私、全然泳げないんです」
「あ、そうなの?」
ある意味予想通りだ。姫路さんには悪いけど、凄い速さで泳いだりする彼女の姿は想像できない。
「ん? 瑞希って水泳苦手なの?」
こっちは僕と同じように景気よく水に飛び込んできた美波の台詞。姫路さんとは対照的で、美波は運動全般が得意だったりする。走る跳ぶは言うに及ばず、球技もお手のものだ。
「はい。恥ずかしいんですけど、水に浮くくらいしかできなくて……」
真面目な姫路さんのことだ。きっと苦手でも練習して上手になりたいと思っているんだろう。
「そういうことなら、いつも勉強を教えてもらっているお礼に、ウチが瑞希に泳ぎを教えてあげよっか?」
ちょっと得意げに美波が胸を張る。常日頃は姫路さんに教わってばかりなので、こういった意趣返《いしゅがえ》しが嬉しいのだろう。
「は、はい。宜《よろ》しくお願いします」
「任せてっ。こう見えても水泳は得意なんだから」
このやり取りがいつもと逆の立場を見ているようで面白い。
勉強では、Aクラスレベルの姫路さんがFクラスレベルの美波にいつも教えてあげているけど──
「──こうして見ていると、美波がAで姫路さんがFみたいだよね」
「寄せて上げればBくらいあるわよっ!!」
「ぐべぁっ!?」
何!? なんでいきなり殴られたの!?
(「……来年には、きっと」)
美波が顔を逸らして小さく呟く。
なんだかよくわからないけど、今の最後に付け加えられた言葉は卑怯な気がした。
「あ、明久君……。そういうことは、面と向かって言われると、その……」
そして僕の正面では姫路さんが顔を真っ赤にしている。確かに本人を目の前に水泳がFクラスレベルだね、なんて言うのは失礼だ。もちろん、本人が目の前にいなくても失礼だけど。反省しよう。
『……雄二。ちなみに私はCクラス』
『? 何を言ってるんだお前は?』
離れた場所では雄二と霧島さんも不思議な会話をしていた。ムッツリーニが妙に目を輝かせているのが謎だ。
「……わかったわ瑞希。アンタが泳げない理由」
「え? なんですか?」
「そんな大きな浮き輪をずっとつけているからいつまで経っても泳げないのよ! 外しなさい! そしてウチに寄越《よこ》しなさい!」
「み、美波ちゃん落ち着いて下さいっ。目が怖いですよ!?」
「瑞希にはわからないのよ! 水の抵抗が少ないおかげで早く泳げるっていうウチの悲しみが!」
「そ、そんなこと言われても……」
どうやら二人は早く泳げるかどうかの談義に花を咲かせているみたいだ。邪魔をしない方がいいだろう。
「それじゃあ僕は向こうに行ってるから、二人とも頑張ってね」
「あ、明久君っ。なんだか美波ちゃんがとっても怖いですっ」
「ふふふ……。瑞希、ソレは無駄な脂《し》肪《ぼう》の塊《かたまり》なのよ? だから、いっぱい運動して燃焼させましょうね?」
美波はビシビシと水泳を教える気だ。助けを求める姫路さんには悪いけど、ここは心を鬼にしよう。姫路さんが泳げるようになる為に。
『み、美波ちゃん。あまり良い事ばかりでもないですよ? 肩が凝《こ》って大変ですし……』
『それでもいいの! 肩凝りくらい我慢するわ!』
離れ際に聞こえてきた美波の台詞は魂《たましい》が籠《こ》もっているような気がした。
「お兄ちゃんっ」
「わぷっ!?」
突然背中に何かが乗ってきて、こらえきれずに水中に沈んでしまう。
「な、何!?」
「えへへー。お兄ちゃん、葉月と遊ぶですっ」
水面に顔を出すと葉月ちゃんの笑顔が見えた。なんだ。さっきのは葉月ちゃんが飛び乗ってきた衝撃か。
「うん、いいよ。何して遊ぼうか?」
「じゃあ、『水中鬼《すいちゅうおに》』をするですっ」
「水中鬼? 要するに水中でやる鬼ごっこのことかな?」
なるほど。普通に外でやるのとはまた別の面白さがありそうだ。
「違うですっ。鬼ごっこじゃないですっ。『水中鬼』ですっ」
「? 鬼ごっことどう違うの?」
水中鬼と水中でやる鬼ごっこは同じだと思うんだけど。
「水中鬼は、鬼になった人がそうでない人を追いかけるです。それで、鬼が他の人を」
葉月ちゃんがちょっと胸を張って僕に教えてくれる。けど、やっぱり僕の考えと同じようなんだけど。それで鬼が他の人にタッチして──
「鬼が他の人を水の中に引きずりこんで、溺《おば》れさせたら勝ちですっ」
「鬼だ! それは確かに鬼だ!」
道理で『ごっこ』の部分がなくなるわけだ。最近の小学生は恐ろしい遊びをしているなぁ……。いや、葉月ちゃんのオリジナルかもしれないけど。
「でも、ダメだよ葉月ちゃん。そんな遊びは危ないよ」
「あぅ……。ダメですか?」
ちょっと不満そうに葉月ちゃんが頬を膨らませる。ここはお兄さんとして、『水中鬼』がどれだけ危険か教えてあげる必要があるだろう。
「いい、葉月ちゃん? その遊びはとっても危険なんだ。今からそれを教えてあげるね。──おーい、霧島さーん!」
ちょっと離れたところにいる霧島さんを呼ぶ。
「……なに?」
すると、霧島さんはすぐにやってきてくれた。泳ぎも上手だなぁ。
「雄二と水中鬼っていう遊びをやって見せて欲しいんだ。ルールは簡単で、雄二を水中に引きずりこんで、溺れさせたあとで人工呼吸をしたら霧島さんの勝ち」
「……行ってくる」
小さく頷くと、霧島さんはまるで魚雷のように静かに、そして遠く、水中から雄二に接近していく。
『お? なんだ? いきなり足が……おわぁっ!? だ、誰だ!? 誰が俺を水中に(ガボガボガボ)』
『……雄二。早く溺れて』
『ぶはぁっ! しょ、翔子!? 何をトチ狂って……!(ガボガボガボ)』
遠くで繰り広げられる水中鬼。
「ね? 危ないでしょ?」
「はいです……。葉月、水中鬼は諦めるです……」
わかってくれて良かった。こうして命の尊さを学んでもらえるのなら、雄二の一人や二人くらい安いもんだ。
「明久っ! てめぇの差し金だな!?」
「うわっ! ダメだよ霧島さん! きちんと捕まえておいてくれないと!」
「……ごめん」
「わっ。お兄ちゃんたち、泳ぐのとっても速いですっ」
僕と雄二と霧島さんの水中鬼、スタート。
[#中央揃え]☆
「あれ? プールを使ってるのは誰かと思ったら代表だったの?」
雄二と命がけの水中鬼をやっていると、聞き慣れない声がプールに響いた。
「……愛《あい》子《こ》?」
霧島さんが動きを止めて声のした方を向く。僕と雄二も死《し》闘《とう》を一旦中止して同じ方を見た。
そこにいたのは制服を着ているボーイッシュな女の子だった。ん? どこかで見たことあるような……?
「Aクラスの工《く》藤《どう》か。どうしてこんなところにいるんだ?」
雄二が名前を呼んでいる。工藤さん? ああ、そういえば前にムッツリーニが試召《ししょう》戦争で戦っていたっけ。あれ以来接点がないからなかなか名前が出てこなかった。
「ボク? ボクは水泳部だから」
「そうか。だが、今日は水泳部は休みになっているはずだぞ?」
「うん。すっかり忘れていて学校に来てやっと思い出したんだけど──人の声がしたから寄ってみたんだ。良かったらボクも混ぜてもらっていい?」
「ああ、別に構わないぞ。俺たちのプールってわけでもないし──」
言葉を区切って雄二が美波たちのいる方を指差す。
「──既に一人、誰か増えているみたいだしな」
見てみると、そこには一人知らない女子が増えていた。
『お姉さまっ! どうしてプールに行くのならミハルに声をかけてくれないのですか!? ミハルはこんなにもお姉さまのことを愛していますのに!』
『ミハル!? アンタどうしてここにいるのよ! プールで遊ぶなんて誰にも言わなかったはずなんだけど!』
『ミハルにはお姉さまを害虫から護る為のトクベツな情報網がありますから!』
あれは誰だろう? 美波の知り合いということは間違いなさそうだけど、仲良しってわけでもなさそうだ。現に美波はその子から逃げ回っているし。
「なにやら賑《にぎ》やかになってきたのう」
秀吉が危なげない泳ぎですいすいとこちらにやってきた。その後ろには姫路さんと葉月ちゃんが時折足をつきながらこっちに向かってくる姿が見える。葉月ちゃんは泳げないというよりは姫路さんのペースに合わせているみたいだけど。
「あれ? 優《ゆう》子《こ》──じゃないみたいだね。弟君だっけ?」
「ふむ。そうじゃが。お主は姉上の友人かの?」
「うん。クラスメイトなんだ」
秀吉にはAクラスに瓜二《うりふた》つの双子のお姉さんがいたりする。僕も最初に見たときはあまりに似ていて戸惑った覚えがある。
「あのさ、ボクも永いでいいかな?」
「ん? 遠慮することはなかろう。ここは学校のプールじゃからな」
「ありがと。それじゃ、水着に着替えてくるね」
スポーツバッグを掲げて更衣室の方に向かう工藤さん。すると、その途中で振り向いて、
「覗くなら、バレないようにね♪」
と言い残していった。
え、えっと……つまりこれは、本人公認の覗き、ってことかな……? 女の子にあんなことを言われたら、男としては動かないわけには──
「……雄二。今動いたら捻り潰すから」
「明久君。余計な動きを見せたら大変なことになりますよ?」
なんだろう。この象をも殺せそうな鮮烈な殺気は。これじゃあ迂《う》闊《かつ》に身動きが取れない……! こうなったら仕方がない。ムッツリーニに全てを託そう!
「って、ムッツリーニがいないね。どうしたんだろう?」
こんなに最高の環境が整っているのに、ムッツリーニがおとなしくしているなんておかしい! そこら中でシャッターを切る音が聞こえて然《しか》るべきだ!
「ムッツリーニならば、ほれ。向こうで血液の補充に忙しいようじゃぞ」
「……なるほど。道理で静かなわけだよ……」
カメラを構える余裕もなく、必死に血液パックを付け替えている姿がやけに哀れだった。
[#中央揃え]☆
しばらく遊んで、休憩《きゅうけい》のために僕と雄二はプールサイドのベンチに腰掛けて皆の姿をなんとなく眺めていた。
「あのさ、雄二」
「なんだ?」
バシッと水面にビーチボールが叩きつけられる音が響く。
「僕の気のせいかもしれないんだけど」
「ああ」
ズバン、と勢いよくサーブを打つ音が鳴る。
「あの二人、ヤケに険悪な雰囲気で水中バレーをやってない?」
「大丈夫だ。俺にも険悪な雰囲気に見える」
『美波ちゃん! 絶対に譲りませんからね!』
『上等よ瑞希! スポーツでウチに勝とうなんて思わないことね!』
ボールよ割れろ、と言わんばかりに全力で打ち合う姫路さんと美波。最初は仲良くやっていたように見えたんだけど、いつの間にあんなことになったんだろう?
「ときに明久」
「ん? なに、雄二?」
「この前俺がお前にやった映画のペアチケットはどうした?」
映画のペアチケットってあれかな? 雄二と霧島さんのウェディング体験のお礼って貰ったヤツのことかな? 確かアレは、
「姫路さんと美波が随分と観たがっていたから、それなら二人で観てくるといいよってあげちゃったよ」
「……間違いない。それが原因だ」
「へ? 何が?」
『負けた方が諦めるって約束、忘れてないわよね!』
『もちろんです! 美波ちゃんこそ負けてお約束を破らないで下さいね!』
『そっちこそ!』
ああ、何かを賭けているからあんなに二人とも熱くなっているのか。でも、美波はともかく姫路さんまであんなに熱くなるなんて意外だな。
「ほぅ……。姫路と島田の勝負とは面白いのう。どちらが優勢なのじゃ?」
疲れたのか、秀吉もプールから上がって僕らの座るベンチにやってきた。なんだか髪を掻《か》きあげているポーズが妙に色っぽいような……。
「今のところは姫路が優勢だな」
「んむ? それは意外じゃな。球技ともなれば島田の方に軍配が上がりそうなものじゃが」
「姫路と島田の一対一ならそうだろうけどな」
そう言って雄二はそれぞれの陣地と思《おぼ》しきところを顎で示した。
姫路さんのいるところでは霧島さんが、美波のいるところではミハル(?)とか呼ばれていた女の子がそれぞれボールを追っていた。
「なるほどのう。霧島は連動神経も良いようじゃな。島田と互角とは、なかなかやるではないか」
姫路さんと美波では力の差は歴然だけど、それだけで勝負は決まらない。姫路さんには幸いなことにパートナーの霧島さんはスポーツもできるみたいで、彼女は巧みにボールを美波のいないところに落として得点を挙げていた。
「それにしても、島田の相方は動きが不自然じゃな。故意に手を抜いておるように見えるのじゃが」
「あ、秀吉もやっぱりそう思う?」
一方、美波のパートナーはさっきからミスばかりしている。サーブは全部外しているし、ボールが飛んできたら落とすか場外へと飛ばしてしまう。構えや動きを見ている限りだと結構上手いような気がするんだけどなぁ……。
『美《み》春《はる》。アンタ、絶対手抜いてるでしょ……!』
『そんなことありませんお姉さま! 美春はお姉さまの為に全力で(手を抜いていま)す!』
『これにはウチの大切な物がかかっているんだから本気でやりなさい!』
『はい! 美春もお姉さまの為に本気で(手を抜いていま)す! あんなのとデートなんて、お姉さまの為になりませんから!』
『アンタ、さてはウチを負けさせる為にこっちに来たわね……!』
『ほらお姉さま! ボールがきましたよ!』
『あっ!? もう、早く言いなさいよっ!』
美波たちが何かを言い争っているうちに、姫路さんが打ったサーブが二人の陣地に静かに落ちた。
「はーい。これで十五点。一セット目は代表&姫路チームの勝ちだよ!」
審判をやっている工藤さんが手を挙げて、最初の勝負の終了を告げる。
「一セット目?」
「大方三セットマッチだろ。五セットもやるとは思えないからな」
「確かにそうだね」
遊びの割には随分本格的にやっているなぁ。コートチェンジもやってるくらいだし。
「お姉ちゃん、ファイトですっ」
無邪気に姉を応援している葉月ちゃん。両チームの間に流れる険悪な雰囲気には気がついていないみたいだ。
「続いて二セット目いくよ。サーブは島田さんチームだったよね?」
美波がいる方にボールが投げ込まれる。美波はそのボールを拾ってパートナーの子に渡した。
「それじゃ、二セット目っ!」
「ああっ! 手が滑ってしまいましたぁっ!」
工藤さんの合図と同時に宙に舞ったビーチボールは、なぜかサーバーの真後ろへと飛んでいった。
「はい、○対一だよ」
壁に当たって戻ってきたボールを再び工藤さんが美波のコートに投げ入れる。
「パートナーがあのザマじゃ、島田の勝利はないな」
その様子を見て、雄二が勝負の行く末をそう評した。
「そうだね。いくら美波が上手くても、一人じゃ勝ち目はないよね」
「もはや勝負は見えたも同然じゃな」
雄二の意見に僕も秀吉も同意する。あのパートナーの子がどうにかなれば話は別だけど、どうにもそんな気配はないしね。
『……美春。もう一度言うけど、次のサーブからは本気を出しなさい』
『ひ、酷いですお姉さまっ! 美春はお姉さまの為に一生懸命頑張っているというのに、その頑張りを疑うなんて!』
『下手な演技はいらないわ。よく聞きなさい美春。これが最後の警告よ』
『お姉さま信じてくださいっ! 美春はお姉さまに嘘なんてつきません!』
『いい? ここまで言ってもまだ本気を出さないと言うのなら──』
『ですから、美春は本気を出してますと何度も』
『──ウチは明日から美春のことを、「清《し》水《みず》さん」 って呼ぶことにするわ』
『…………』
「ねぇ、今のサーブ見た!? 垂直に変化したよ!?」
「どうやればビーチボールであんな芸当ができるのじゃ!?」
「流石の翔子もアレは取れないな……!」
『お姉さまごめんなさい! 美春は嘘をついていました!』
『いいのよ美春! これからも友達でいましょうね!』
ヒシと抱き合う二人。
なんだろう。妙な寸劇が繰り広げられている気がする。
「でも、こうなると形勢は一気に逆転だね」
「そうじゃな。可哀想じゃが、姫路はお世辞にも巧者《こうしゃ》とは言えんからのう」
あ、またサーブが決まった。美波のパートナーの子、さっきまでとは動きが雲泥《うんでい》の差だ。表情も鬼気迫るものがあるし。
「やれやれ。姫路も可哀想にな。折角のデートのチャンスが奪われるとは」
隣で雄二が頬杖《ほおづえ》をつきながらそんなことを呟いていた。
パアンッ!
そんな時、大きな破裂音がプールに響き渡った。
「むぅ。凄い威力じゃ。まさかビーチボールを割る程とは」
「え? 今の、ボールが割れる音なの?」
「うむ。島田の相方がサーブを打った瞬間に破《は》裂《れつ》したのじゃ」
プールに視線を移すと、確かに水面にはビーチボールだったと思われる破《は》片《へん》が浮いていた。あの子、どこまで強い力でボールを打っているんだろ……?
「あ……! ごめんなさい。美春、ちょっと力を入れすぎてしまいました。代わりを探してくるので、お姉さまたちは休憩していて下さい」
そう告げて美波の相方の子がプールを出て行く。プール用具室にでも向かったのだろう。
「……ちょっと疲れた」
「そうですね。ボールが見つかるまではお言葉に甘えて休みましょうか」
休憩の為に、バレーボールをしていた皆がプールから上がってくる。僕はその水着姿をあまり直視しないように気をつけながら、最初に上がってきた姫路さんに声をかけた。
「お疲れ様。皆凄く気合が入っていて、観ていて面白いよ」
「あ、はい。ありがとうございます。私も皆と一緒に遊べて嬉しいです」
「あはは。それは良かったよ」
そう言ってもらえると僕らも鉄人に制裁を加えられた甲斐があるってもんだ。
「ところで、どうしてプールを借りることができたんですか?」
姫路さんが顎に指を当てて尋ねる。そっか。そういえば事情を説明していなかったっけ。
「まぁ、ちょっとイロイロあってね。プールの掃除を引き受ける代わりに一日貸切にしてもらったんだよ」
もちろん体裁《ていさい》の悪いことは言わない。
「え? お掃除ですか? このプール全部を?」
「うん。でも、一人でやるわけじゃないよ。僕と雄二とムッツリーニと秀吉の四人でやるんだ」
もっとも、この楽しい時間の代償なら、その程度はなんの苦にもならない。
「プール掃除? それならウチお手伝おっか?」
その会話を聞いていたのか、傍にいる美波が掃除への参加を申し出てくれた。
「私もお手伝いします。遊ぶだけじゃ悪いですし」
姫路さんも当然と言わんばかりに手を挙げる。なんていい子なんだろう。
「ありがとう。でも、掃除は僕らだけで充分だよ。道具も四人分しか借りてないし」
その気持ちだけ受け取って、丁重にお断りさせてもらう。
そもそも、この二人のおかげでムッツリーニに掃除を手伝わせることができたんだ。既に充分手伝ってもらっていると言えるだろう。
「そうですか……」
「う〜ん、道具がないなら仕方ないわね」
「あ、そうでしたっ。それならっ」
姫路さんが何か良いことを思い出したかのようにポン、と手を打つ。その瞬間、僕と雄二とムッツリーニと秀吉は本能的に何かを感じ取った。これは、もしや……?
「ちょっと失敗しちゃって人数分用意できなかったから黙っていたんですけど──」
姫路さんがにこやかに言葉を紡《つむ》ぐ。
その間、僕ら四人は目まぐるしくアイコンタクトをやり取りしていた。
「──実は、今朝作ったワッフルが三つ」
「第一回っ!」(雄二の声)
「最速王者決定戦っ!」(僕の声)
「「ガチンコ、水泳対決──っ!!」」(僕と雄二の声)
「「イェーッ!」」(秀吉とムッツリーニの合いの手)
姫路さんの台詞を聞き終える前にタイトルコールが入る。
突然の事態についていけず、女子は全員目を丸くしていた。
「明久、ルール説明だ!」
「オッケー! ルールはとっても簡単。ここのプールを往復して、最初にゴールした人の勝ちという、誰にでもわかる普通の水泳勝負です」
そう、本当にただの水泳勝負。誰が一番速く泳げるかというものを競うだけの単純明快なもの。
ただし、この勝負は一位とそれ以外の順位の間には大きな違いがある。なぜなら、姫路さん特製殺人ワッフルは三つで、僕らは四人。つまり、生き残ることができるのは一人だけなのだから。二位だろうと三位だろうと待ち受ける困難に変わりはない。
「バカなお兄ちゃんたち、突然どうしたですかっ? 急に水泳勝負だなんて、葉月ビックリですっ」
「葉月ちゃん。男にはね、大切なものを賭けて戦わないといけない時っていうものがあるんだ」
「ふぇ〜。お兄ちゃん、かっこいいですっ。プライドを賭けた勝負ってやつですねっ」
いいえ。命を賭けた勝負です。
「よくわかんないけど、四人の中で誰が一番速いのかは興味があるわね」
「そうですね。体力なら坂本君が一番に見えますけど……」
「……動きの速さなら吉井や土屋も引けを取らない」
そんな暢《のん》気《き》な言葉が聞こえてくる。僕らにとっては誰が一番速いのか、なんてことはどうでもいい。それよりも無事に明日を迎えられるかどうかの方が重要なのだから。
「へぇ〜、面白そうだね。それじゃ、ボクが判定をしてあげるよ」
工藤さんがスタート兼ゴール地点に立つ。25メートルのプールだから、50メートル勝負は往復になる。
僕らは闘志を燃やしながらスタート位置に向かった。右隣には雄二、左隣には秀吉がつく。
「はい、行くよ! 位置について──」
工藤さんのコールが響く。
僕は飛び込みの構えを取りながら考えた。
ムッツリーニはいつもなら強敵だけど、今日は大量の出血で弱っているから大丈夫。秀吉も弱くはないけど、きっと体力で負けることはないはず。
「よーい──」
罰を免れるのは一人だけ。ムッツリーニは弱っているから問題ない。秀吉もなんとかなる。そうなると、敵はただ一人──
「──スタートっ!」
「「くたばれぇぇっ!!」」
工藤さんの合図と同時に、僕と雄二はお互い目がけて全力で跳び蹴りを放っていた。
「くそっ! やっぱり雄二も僕と同じことを考えていたね!?」
水面に飛び込まずに真横にいる僕に飛び掛るなんて、どこまで外《げ》道《どう》な男なんだ!
「てめぇこそ卑怯な真似してくれるじゃねぇか! この恥知らずが!」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるっ!」
体勢を立て直し、間髪《かんぱつ》容れずに雄二に飛び掛る。
跳び蹴りが不発だった以上、雄二を黙らせるには拳しかない! お互いに水着以外は着ていないから、投げ技や締め技はあまり有効じゃない。このゼロ距離では、マウントを制した方が勝利を掴《つか》む……!
『ねぇお姉ちゃん。水泳なのに、どうしてお兄ちゃんたちはまだプールの中に入らないですか?』
『見ちゃダメよ葉月。バカがうつっちゃうからね?』
遠くから何か失礼なやり取りが聞こえた気がする。
「あのさ、二人とも。取っ組み合いもいいけど、木下君とムッツリーニ君はそろそろ折り返しだよ?」
雄二が拳を振りかぶる動きに合わせて必殺の肘を叩き込もうとしたところで、審判からあまり嬉しくない情報が舞い込んできた。
「おい明久! ムッツリーニと秀吉がいつの間にか折り返して来ているぞ!?」
「ホントだ! 雄二なんかを相手にしている場合じゃない!」
ついつい雄二との格闘戦に熱くなっちゃったみたいだ。えっと、秀吉とムッツリーニの残りの距雑は──うわっ! 残り20メートルくらいじゃないか!
「雄二! このままじゃ僕らの負けは確定だよ!?」
「そうは行くかっ! 俺はムッツリーニを止める! 明久は秀吉をやれ!」
「了解! ここは一時休戦だね!」
雄二はムッツリーニのレーンに、僕は秀吉のレーンに飛び込む。こうなれば多少卑怯な手段を使ってでもゴールを阻止してみせる!
急いでレーンの半ばまで泳ぐと、折り返してきた秀吉の姿が目の前に見えた。なんとしてもここで止める!
「な、なんじゃ明久!? お主は隣じゃろう!?」
「ダメだよ秀吉! ここは通さない!」
脇を抜けて先に進もうとする秀吉にしがみつく。くうっ! 水の中だとうまく捕まえられない……!
「明久、放すのじゃ!」
秀吉が強引に先に進もうと手足を動かす。まずい、うまく捕まえられない……!
「逃がすもんかぁぁあっ!」
それでもなんとか必死にすがりつく。とにかくどこでもいいから掴んで──
ズルッ
すると突然、掴んでいたものから抵抗がなくなった。
「……? なんだろう?」
その場に足をついて手に残った物を確認する。なんだろ、コレ。何か大事な物のような気がするんだけど……
「あ、明久君っ! なにをしているんですかっ!?」
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「へ?」
「それです、それ!」
姫路さんが血相を変えて僕の手を指差している。
これって、えっと──
「あはは。そういえばコレ、秀吉の水着に似ているね」
「んむ? そういえば胸元が涼しいのう」
何か違和感を覚えたのか、秀吉もその場に足をついて立ち上がった。
その姿を見て、とても致命的《ちめいてき》なことに気がつく。あれ? ここからだと背中しか見えないけど、もしかして──秀吉の上の水着、取れちゃってない?
「……死して尚、一片の悔い無し……!!」
遠く離れたレーンから、ムッツリーニのそんな言葉が聞こえた気がした。
そして、どんどん朱に染まり始める水面。
「って、やっぱりコレ秀吉の水着!? ごごごごめんなさいっ! 神に誓って僕は何も見ていないから!」
「待つのじゃ明久! ワシは男じゃぞ! どうしてそこまで慌てるのじゃ!?」
「うぉっ! 大丈夫かムッツリーニ!? この出血量はマジでヤバくないか!?」
「…………構わない。むしろ本望……!」
「わああっ! ムッツリーニが大変なことに!? 血がもの凄い勢いで出ているんだけど!」
「き、木下っ! とにかく胸を隠しなさい! 土屋の血が止まらないから!」
「いいいイヤじゃっ! ワシは男なのじゃ! 胸を隠す必要はないのじゃ!」
「木下君、我儘《わがまま》言っちゃダメです! 土屋君が死んじゃいます!」
「……愛子。救急車の手配、頼める?」
「はーい。やっぱりFクラスの皆は面白いねぇ」
「バカなお兄ちゃんたち、いつも楽しそうで羨《うらや》ましいですっ」
「お姉さま、愛しています……」
結局、ムッツリーニは何度も峠を迎えながらも、僕ちと救急隊員の懸命な延命措置で一命を取り留めた。
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そして、週明けの朝。
「……吉井、坂本。ちょっと聞きたいことがある」
現れるなり朝の挨拶もせずに鉄人が低い声で僕らを呼び出した。
「断る」
「黙秘します」
それに対して、僕と雄二は拒否の構えを取る。
すると、鉄人はプルプルと震え始めた。
「……どうして──」
一度言葉を区切り、大きく息を吸う鉄人。
「──どうして掃除を命じたはずなのにプールが血で汚れるんだ!? 鉄拳をくれてやるから生活指導室で詳しい話を聞かせろ!」
響くは教室全体を揺るがすような大音声《だいおんじょう》。
「説教なんて冗談じゃねぇ! むしろ死人を出さなかったことを褒《ほ》めて貰いたいくらいだ!」
「そうですよ! 本当に危ないところだったんですからね!」
「黙れ! お前らの日本語はさっぱりわからん! 拳で語り合った方が早い!」
「ええい、この暴力教師め! 逃げるぞ明久!」
「了解っ!」
「貴様ら、今度は反省文とプールの掃除では済まさんぞっっ!!」
そして必死の抵抗も空しく鉄人に捕まる僕と雄二。
殴られながらも一応事情を話すと、鉄人は溜息混じりに一言、
「……今度の強化合宿の風呂は、木下を別にする必要があるようだな……」
などと呟いていた。
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〜特別コラム〜[#1段階大きな文字]
鉄拳人生相談[#3段階大きな文字]
三年生 T村Y作さんのご相談[#「三年生 T村Y作さんのご相談」は太字]
鉄拳先生、僕の悩みを聞いてください。実は僕には好きな人がいます。
その人はとても可愛らしくて人気があります。ですがそのK下H吉さんはどうやら戸籍上では♂のようなのです。これは同性愛になってしまうのでしょうか。
先生、僕はどうしたら良いか教えてください。
鉄拳先生のアドバイス[#「鉄拳先生のアドバイス」は太字]
すまない。いきなり凄い相談がきたので困っている。正直、このコラムを引き受けなければ良かったと後悔《こうかい》しているくらいだ。君が好きになったその相手には恐らく双子の姉がいるはずだ。容姿に惚れたのであれば彼女に思いを告げることだ。容姿ではなく内面に惹《ひ》かれたのであれば──冷静によく考え直すことだ。一部の生徒の間では、 彼は第三の性別『秀吉』である為同性愛ではない ≠ニいう説があるが、決してその説に惑わされないように。君が健全な学生生活を送れるよう祈っている。
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二年生 K保T光さんのご相談[#「二年生 K保T光さんのご相談」は太字]
最近、寝ても覚めても僕の頭から離れない人がいます。彼──Y井A久君が笑う姿を見ると僕も幸せな気持ちになり、彼が沈んだ表情をしていると僕も悲しくなります。相手は同性なのですが……この気持ちは恋愛感情なのでしょうか。
鉄拳先生のアドバイス[#「鉄拳先生のアドバイス」は太字]
君はここ最近の間に強く頭を打っていないだろうか。記憶にないとしても念の為に病院で診察を受けることを推奨する。同性愛|云々《うんぬん》の話はその後だ。
二年生 S水M春さんのご相談[#「二年生 S水M春さんのご相談」は太字]
私には一年生の頃からずっと好きなお姉さまがいます。ですが、最近そのお姉さまが悪い男に騙《だま》されています。
どうしたらその男を殲滅《せんめつ》できるか教えて下さい。
鉄拳先生のアドバイス[#「鉄拳先生のアドバイス」は太字]
貴様らには同性愛以外の悩みは無いのか![#2段階大きな文字]
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僕とバイトと危険な週末[#「僕とバイトと危険な週末」は太字]
『はい、もしもし?』
「あっ! やっとつながった! 良かったぁ〜」
『その声は──明久《あきひさ》? わざわざ国際電話なんて、どうかしたの?』
「どうかしたの、じゃないよ母さん! 通帳を何度確認しても残額が三九円のままなんだけど! 僕への仕送りを忘れてない!?」
『失礼ね。忘れているわけないでしょう。きちんと──』
「振り込んだ?」
『──きちんと私の財《さい》布《ふ》に入っているわ』
「息子への仕送りを横領《おうりょう》!? くそぉっ! 父さんに言いつけてやるっ!」
『安心なさい。お父さんの財布にも入っているから』
「父さんも共犯なの!? 僕の生命の源を二人で仲良く半分こなんて、アンタらは最低の夫婦だ!」
『……ごめんなさい。実はお父さんには二割しかあげてないの』
「しかも微妙に力関係が出てるし! 父さんが可哀想《かわいそう》だよ!」
『何も知らないお父さんは半分だと思って嬉しそうに受け取っていたわ』
「……父さん……どうしてこんな人と結婚したの……?」
『まぁ、その話は置いといて』
「え? ああ、うん」
『母さんは前に言ったわよね? 学校の成績を定期的に報告しなさい、って。アンタが二年生になってからまだ一度も聞いてないんだけど?』
「……ごめん母さん。電波が悪くて聞こえないんだ」
『電波が悪いぐらい何よ。こっちなんて息子の頭が悪いんだからね』
「なんだか微妙に会話が繋《つな》がってないような気がするよ」
『しかも人類の想像を遥《はる》かに超越するくらい悪いんだから』
「そ、そこまでは悪くないっ!」
『ふぅん……。それじゃあ、最近の成績はどうなの?』
「…………」
『答えなさい。返答次第では仕送りも考えてあげるから』
「……え、えっとね、母さん。前から母さんは若くて綺麗だとずっと思っていたんだ。でも、母さんの本当の魅力はそんな外見だけじゃなくて寧《むし》ろ内面的な美しさと言うか優しさと言うかそういった女性的な長所と決断力や行動力みたいな男性的な長所を併せ持った部分が息子として誇らしいと常々」
『前置きが長いわね。言い訳できないように英語で答えてみなさい。"|How about your result at school?《あなたの学校の成績はどうですか》"』
「……ア」
『ア? "a thousand? a little bad? about average score?"』
「アイム、ソーリー……」
──ブツッ
「えぇっ!? なにそのリアクション!? 冷たくない!? くそっ! こうなったらストーカーのようにリダイヤルを連打してやるっ! 息子の強さを舐《な》めるなよっ!」
[#中央揃え]☆
「……それで、嫌がらせ撃退音を鳴らされた後に着信拒否に設定された、と」
「うん。酷《ひど》いと思わない? あの人、きっと僕の母親じゃないと思うんだ」
「そうか。お前も苦労しているんだな……」
昼休みの教室で母さんとの会話について雄《ゆう》二《じ》に愚痴《ぐち》を言っていると、意外な反応が返ってきた。
「ど、どうしたの雄二? そんなに同情してもらっても気味が悪いんだけど」
「いや、母親についての苦労は俺もよくわかるからな……」
遠い目で窓の外を挑める雄二。その表情には粗野《そや》な外観にそぐわない哀愁《あいしゅう》が漂っているように見えた。
「して、明久はどうするのじゃ?」
飲み物のパックを片手に美少女──要するに秀吉《ひでよし》が問いかけてくる。飲んでいる物が豆乳《とうにゅう》というあたりが微笑《ほほえ》ましい。美容に良いってTVで言っていたので、秀吉には最適の飲み物だろう。
「う〜ん……。正直、困っているんだよね。向こうも意地になっているみたいでなかなか電話が繋がらないし、会いに行こうにも海外なんて遠すぎるし……」
そもそも、父さんや母さんがどこにいるのかもよく知らない。海外企業の経営コンサルタントみたいなことをやっているらしいんだけど……。
「……自分で稼ぐしかない」
何かの雑誌を見ながら呟いたのはクラスメイトの土《つち》屋《や》康《こう》太《た》。通称ムッツリーニ。その通称の由来はムッツリスケベからなんだけど──最近はムッッリですらない只《ただ》のスケベに見えてきた友人。
「だよね。何か良いアルバイト見つけないとなぁ」
できれば日払いでスグに働けるところ。高校生でもできる日払いのバイトの募集ってあったかな。
「バイトか。それなら、駅前の喫《きっ》茶《さ》店《てん》でバイトを募集していたぞ」
雄二が顎《あご》に手を当てながら呟《つぶや》く。
「駅前の喫茶店?」
「『ラ・ペディス』だったか? あの何語だかよくわからん名前の店だ」
「へぇ〜。あのお店、バイトの募集なんてしていたんだ」
結構|美味《おい》しい上に値段が手頃で、文月《ふみづき》学園生徒|御用達《ごようたし》の店だ。以前僕も(肘関節《ひじかんせつ》を極《き》められながら)美《み》波《なみ》と一緒に行ったことがある。
「確か、今週土曜日だけの募集だったな。11:00〜20:00勤務で八八〇〇円程度、未経験者歓迎とか」
「日雇いで未経験者歓迎? それは僕にとって都合がいいけど──何かありそうだね」
普通なら喫茶店のアルバイトなんて短期で募集したりはしない。しかも未経験者歓迎となると、益々もって普通じゃない。きっと何か事情があるのだろう。
「確かに珍しい募集の仕方じゃが、そう訝《いぶか》しむほどのことでもなかろう。大方、突然人員が減って急場をしのぐ為に募集をかけておる、とかその程度じゃろ」
それは充分に考えられる理由だ。もっとも、未経験者でも欲しがっているとなると、かなり切《せっ》羽《ぱ》詰った状況になっているのかもしれないけど。
「…………そもそも、明久に選《え》り好《ごの》みをする余裕はない」
「う……。それは確かに……」
ムッツリーニの言う通り今の僕にはそんな余裕は無い。命をつなぐ為にも、そのアルバイトに縋《すが》るしかなさそうだ。
「んじゃ、明久も面接に行くか?」
「え?『明久も[#「も」に傍点]』ってことは、雄二もやるの?」
「そのつもりだ。というか、元々俺がやろうと思っていたバイトだからな」
なるほど。道理で妙に詳しいわけだ。
「なんじゃ。雄二も何か入用《いりよう》じゃったのか?」
「ああ。ちょっと……自分の部屋に鍵をつけたくてな。とびきり頑丈《がんじょう》なやつを」
自分の部屋に鍵をつけたい、というのは僕らの世代は誰もが一度は考えることだろうけど──雄二と同じ理由でそう考える人はあまりいないだろう。
「それで、募集って何人くらいだったの?」
これで面接で競《せ》り合《あ》うことになるのなら、事前に雄二に一服盛る必要があるかもしれない。姫《ひめ》路《じ》さんの手作りクッキーってまだあったかな……?
「確か、三〜四名ってなっていたぞ。結構広い店みたいだし、それなりに人数が必要なみたいだな」
言われて、前に店に行った時のことを思い出してみる。フロアはちょっとしたファミレス並の広さだったし、メニューも結構豊富だった。キッチンの手伝いも含めるとそのくらいは必要なのかもしれない。経験者が入るのならもっと少なくてもいいのかもしれないけど。
「四人くらいか。それなら、秀吉とムッツリーニも一緒にどう?」
折角《せっかく》募集が四人なら気心の知れた皆とやった方がいいだろう。今週末の募集で未だに貼り紙があったってことは、お店の人も人数が足りなくて困っているんだろうし。
「そうじゃな……。演技の幅が広がるかもしれん。何事も経験じゃ」
「…………カメラの購入資金の足しになる」
二人とも予定はなかったようで、快諾《かいだく》してくれた。ムッツリーニはきっとキッチンで大活躍だろうし、秀吉は言うまでもないだろう。
「そうと決まれば、早速今日の帰りに面接に行こうよ。募集が終わっちゃっても困るし」
「そうだな。そうすっか」
「了解じゃ」
「…………(コクリ)」
そんなわけで僕ら四人は学校帰りに件《くだん》の喫茶店に寄り、その場で面接を受けて全員採用ということになった。
[#中央揃え]☆
「ああ……。よく来てくれたね……。今日一日|宜《よろ》しく頼むよ……」
「は、はい。宜しくお願いします」
そしてアルバイトの土曜日。開店一時間前に集合した僕ら四人を、店長は今にも倒れそうなほどの弱々しい姿で迎えてくれた。
(ねぇ。この店長さん、本当に大丈夫なのかな?)
(むぅ……。何かきっかけがあればスグにでも富士の樹海に向かいそうなほどに弱っておるのう)
秀吉の感想は正鵠《せいこく》を射《い》ている気がする。こんな人が電車のホームにいたら駅員さんを呼んで飛び込みの警戒を促《うなが》しているところだ。
(これは噂《うわさ》なんだが……この店長、どうやら奥さんと娘に逃げられたらしい)
雄二が一際《ひときわ》声を潜《ひそ》めて言う。もしかすると奥さんと娘さんがいないから人手が足りなくなったのかもしれない。そう考えると、日《ひ》雇《やと》いでバイトを募集していたことも頷《うなず》ける。要するに帰ってきてくれるまでの繋ぎということなのだろう。
(あれ? でも、前に来たときはバイトの女の子も何人かいたはずだけど……)
(その連中がどうしたのかは知らないな。ここにいないってことは何かあったんだろ)
その人たちも皆辞めちゃったのだろうか。まぁ、あんな状態の店長と一緒に仕事をするのは嫌かもしれないけど。
「それじゃあこれ、君たちの制服……。サイズが合わなかったら言ってね……」
店長が僕ら全員に畳《たた》まれた制服を渡す。
「「「サイズが合いません」」」
渡された瞬間、僕と雄二とムッツリーニの声が綺麗に重なった。
「性別が合いませぬ」
ちなみにこっちはウェイトレスの制服を渡された秀吉の声。
「あれ……? おかしいな……。きちんと目測《もくそく》したつもりだけど……」
店長が首を傾げている。でも、どう見てもサイズが合っていない。
「店長。僕のは若干《じゃっかん》小さいだけですけど、雄二とムッツリーニ──じゃなくて坂本《さかもと》と土屋のサイズは明らかに合っていないと思います」
もしかしたら渡す制服が逆なんじゃないだろうか。そうでなければ、余程目が悪いのかどちらかだと──
「そうかな……。でも、坂本君はSで、吉井君はMで、土屋君はエロ──じゃなくてLに見えたんだけど……」
この店長、意外と侮《あなど》れない。
「…………エロなどに興味は無い」
「「なにぃっ!?」」
今世紀最大のウソを前に、思わず僕と雄二の声がハモる。
「ムッツリーニ。いくらなんでもそのウソはないよ」
「そうだぞムッツリーニ。ウソは人を騙《だま》せる範囲でつくものだ」
「…………!!(プンプン)」
得意の否定ポーズも空々しい。まったく、なんて大それたウソをつくんだ。
「まぁ、それは置いといて僕のサイズは多分Lだから、ムッツリーニと交換しますね」
雄二と一緒にいると小さく見られがちだけど、一応僕だって平均よりは背が高い方だ。Mサイズだと幅はともかく丈が足りない。
「…………Mなら丁度《ちょうど》いい」
僕とムッツリーニの制服を取り替える。うん。Lなら丁度良さそうだ。
「店長。俺はきっとにLLになるので、交換してもらえますか?」
雄二は交換する相手がいないので、店長に制服を手渡していた。
「そっか……そうだよね……。うっかりして制服と性癖《せいへき》を間違えちゃったよ……」
なんて豪快な間違いなんだろう。
「じゃから、ワシのは性別が合わぬと言っておるのに……」
さて。着替えて一生懸命働くぞ!
[#中央揃え]☆
ロッカー室はあまり広くないようなので、まずは僕とムッツリーニの二人が着替えることになった。
「なんだか学際祭の時みたいだね」
「……喫茶店に縁がある」
ロッカーの中に荷物を置き、ムッツリーニと話をしながら着替える。
ここのお店の制服は、黒のズボンとYシャツに同じく黒のベストを重ねた一般的なギャルソンスタイルだ。ズボンの上に前掛けのような黒のエプロンをかけ、首もとに小さなネクタイをつけたら完成だ。
「お待たせ、二人とも」
「…………待たせた」
ムッツリーニとお揃《そろ》いの格好《かっこう》で部屋から出て声をかける。すると、雄二と秀吉の二人は僕らの姿を見て楽しそうに笑った。
「ははっ。意外と似合うもんだな。それっぽいじゃないか」
「なかなかの男前じゃぞ、二人とも」
「そ、そうかな……?」
「…………照れ臭い」
学校の制服とも私服とも違う、本物の喫茶店の制服。ちょっと気取った感じがしたので恥ずかしかったけど、そうやって褒《ほ》められると満更《まんざら》でもない。
「では、ワシらも着替えるとするかの」
「そうだな」
ひとしきり感想を述べた後、今度は雄二と秀吉が制服を手にロッカールームの中に入っていく──って、ちょっと待ったぁっ!
「バカ雄二! 何を堂々と秀吉と一緒に着替えようとしているのさ!」
「…………万死《ばんし》に値《あたい》する……っ!」
慌《あわ》ててドアを開けようとするけど、鍵がかかっていてノブが回らない。このままじゃ秀吉の身に危険が……!
ドアを蹴《け》破《やぶ》って突入せんばかりの僕らの心配をよそに、ロッカールームの中からは雄二の呆《あき》れたような声が聞こえてきた。
『お前らは何を言っているんだ。一緒に着替えも何も、男同士なんだから全然問題ないだろうが』
男同士? 全然問題ない? 何を言っているんだこのバカは!
「雄二! それはあくまで戸籍上《こせきじょう》の話だよ!」
『待つのじゃ明久! 事実でもワシは男じゃぞ!?』
やっぱり雄二は現実の認識が甘い。書類上の表記を鵜呑《うの》みにするなんて!
『あー、わかったわかった。着替えが終わったら話を聞いてやるから、今は落ち着け二人とも』
面倒くさそうな雄二の言葉。
ダメだ! 着替えが終わったらなんて遅すぎる! こうなったら──
「雄二っ! どうしても考えを改めないのなら」
『あん? 突入はするなよ? ドアの弁償《べんしょう》なんて冗談《じょうだん》じゃないからな』
「霧島さんにこの状況を包み隠さず暴《ばく》露《ろ》する!」
ガチャッ
「俺は廊《ろう》下《か》で着替えよう」
わかってもらえて何よりだ。
「よしよし。それじゃ、僕らは店長のところに行こうか」
「…………(コクリ)」
問題が解決したところでムッツリーニと一緒にホールへと向かう。
『むぅ……。背中のファスナーが上がらん……。雄二、すまぬが少々手伝って──うん? 雄二はどこに行ったのじゃ?』
「悪いな秀吉。俺は自分の命が惜しいんだ」
二人のやり取りを背中で聞いて一安心。まったく、秀吉の無防備さにも困ったもんだ。
「それにしても、本物の喫茶店か……。学園祭ともちょっと違って新鮮だよね」
「…………面白い」
これはこれで良い経験なのかもしれない。仕送りがなかったことに感謝するつもりはないけど、こういうのも悪くない。
「ムッツリーニはキッチン担当?」
「…………面接の時にはそう言っておいた」
「そっか。それならきっとキッチン担当だね」
ちょっと緊張しながら、二人で先に店長の待つホールの中に足を踏み入れる。
「…………(ぼー……っ)」
店長は椅子《いす》に座って口から魂を吐き出していた。
「て、店長。大丈夫ですか?」
「ん……。ああ、大丈夫、大丈夫さ……。こうやってボク一人でも立派に店を切り盛りしていたら、きっと二人も帰ってきてくれるさ……」
なんだか現実と空想の区別が曖昧《あいまい》になっているみたいだけど、本当にこの店は大丈夫なんだろうか。
(ムッツリーニ。やっぱりあの店長ヤバくない?)
(…………危険かもしれない)
(だよね。ちょっと確認してみようか?)
(…………どうやって?)
(軽い日常会話をしてみるよ)
ムッツリーニを残し、店長の前に歩み出る。さてさて。どんな話を振ってみよう。
「あの、店長」
「……ん? ああ、なんだい……?」
「今日は良い天気ですね」
まずは会話に困った時の定番。天気の話。
「ああ……。そうだね……。お父さんってウザいよね……」
良い天気が台無しなリアクションだ。
「えーっと……、お客さん一杯来るといいですね」
話題変更。お店の話なら無視できないだろう。
「ボクの可愛い可愛い娘はね……、一歳になるまでは『お父さん大好き!』が口癖《くちぐせ》だったんだよ……」
「店長。それは記憶の捏造《ねつぞう》です」
確か赤ん坊との会話が成立するのは二歳からだったはず。
(どうしようムッツリーニ。全然会話になっていないんだけど)
(…………娘の話は?)
(なるほど。それなら反応があるかもね)
さっきからずっと娘さんのことを呟いているし、その話題ならきっと乗ってくれるだろう。
「あの……」
「うん……。うん……?」
「店長の娘さんってどんな──」
「五秒やる。神への祈りを済ませろ」
一瞬で僕の首に冷たい何かが押し当てられた。
「ま、待って下さい店長! って言うかそのナイフどこから出したんですか!?」
「あ、ああ、ごめんね……。そういえば君はアルバイトに来てくれた子だったよね……。ボクの可愛い可愛い天使に手を出すクソ野郎じゃないもんね……」
「そ、そうですよ。嫌だなぁ」
「あはは……。ごめんね……」
店長が笑いながらナイフを懐に戻す。どうやら僕の頸動脈《けいどうみゃく》は救われたようだ。
さて、この店長は大丈夫なのだろうか? ムッツリーニの判定は?
(ムッツリーニ。この店長はセーフ? アウト?)
(…………チェンジ)
アウト三つ。妥当な判断だろう。
けど、どうしようか。僕には生活費が必要だし、店長がヤバいからと言って今から脱走するわけにもいかないし……。
今日一日、この店長をどう扱うかに頭を悩ませていると、
「むぅ……。やはりワシだけ別の制服というのは……」
「諦めろ秀吉。これも仕事だ」
「……確かにこれも給金のうち。諦めるかの……」
後ろから秀吉と雄二の声が聞こえてきた。
「あ、二人とも。結構時間がかかって──っ!?」
振り向いて二人の格好を見て、思わず目を剥《む》く。
上背《うわぜい》のある雄二にギャルソンの格好はよく似合っている。それはいい。問題はもう一方だ。
「すまぬ。この服は存外複雑な作りでのう。着付けに難《なん》儀《ぎ》しておったのじゃ」
秀吉は困ったようにヒラヒラのエプロンドレスの裾《すそ》を摘《つま》んでいた。これは誰がどう見ても、立派なウェイトレスだ。
えっと、何か言った方がいいのかな……?
「ひ、秀吉。その……、凄《すご》く似合って──」
とりあえず服装を褒めようとしていると、
「ディア・マイ・ドウタァアアアアア──ッッッ!!」
その姿を見るなり、店長は両手を大きく広げて怪鳥《けちょう》のように秀吉に飛びかかった。
「な、なにごとじゃ!?」
「て、店長!? 何をトチ狂っているんですか!?」
「ディア・マイ・ドウタァアアアアア──ッッッ!!」
ダメだ! 言葉が通じない!
「仕方ない! 雄二、迎撃を!」
「了か──ダメだ、あたらねぇ! なんて動きだ!?」
「ムッツリーニ! 店長にスタンガン!」
「…………目標が絞れない……!」
まるで残像でも伴うかのような店長の動きに、流石《さすが》の雄二とムッツリーニも対応できずにいる。これじゃ、秀吉が危ない!
「秀吉っ!」
「な、なんじゃ!?」
「店長の動きを止める! 『父親に勝手に日記を読まれた思春期《ししゅんき》の女の子』の台詞《せりふ》を大声で叫ぶんだ!」
「よ、よくわからんが了解じゃ!」
テーマを告げると、秀吉の顔が役者のそれに変わった。
『……お父さんなんて、大っっっキライ!!!!』
たっぷりと嫌悪や怒りの込められた台詞。愛しい娘(偽)にこんなことを言われたら、店長もきっと動揺して動きが止まる筈《はず》──
「そうかっ! それじゃあ今夜はお父さんと一緒にお風呂に入ろうっ!」
って、全然効果がない! というか、会話のキャッチボールがおかしくない!? どこをどうつないでもお父さんと一緒にお風呂なんて選択肢《せんたくし》は出てこないよ!?
「こうなったら実力行使しかない! 秀吉は下がって急いで服を着替えて! 雄二、ムッツリーニ! 全力で行くよ!」
「「「了解っ!」」」
「ディア・マイ・ドウタァアアアアア──ッッッ!!」
最大出力のスタンガンを四回押し付けて、やっと店長は床に沈んだ。
[#中央揃え]☆
「で、どうしようか」
「どうするもクソも、店長がこんなじゃ何もできないだろ。『本日|臨《りん》時《じ》休業』とでも書いて入り口に貼っておこうぜ」
先ほどまで大暴れしていた店長は、白目を剥いて倒れている。幸いにも店内の被害は特になかったけど、僕たち四人だけでこのまま店を開けるのは無理がある。
「バイトはまたの機会じゃな」
店長の暴走対策の為、エプロンドレスからギャルソンスタイルに着替えた秀吉が呟く。こっちはこっちで凄く可愛いから困る。
「仕方ないな。また他のバイトを探すとするか」
「…………残念」
「え? ってことは、バイト代は──」
「出るわけないだろ。働いてないんだから」
「そ、そっか…。そうだよね……」
とても残念なことになってしまった。バイト代が手に入らないのはもちろん、プロの接客っていうのも楽しみにしていたのに。学園祭でもあまり接客とかができなかったからやってみたかったなぁ……。カウベルをカランコロンと鳴らしてやってきたお客さんに元気良く『いらっしゃいませっ』なんて
──カランコロン
「いらっしゃいませっ」
ってこんな感じで挨拶したりとか、楽しそうだったのに残ね…………あれ?
「良かった、あいてるみたい。時間潰す場所なくて困ってたのよね〜」
「ほんと、助かったね」
僕の言葉を返事と勘違いして、OL風のお姉さんが二人お店の中に入ってくる。しまった! これじゃあ今更『本日休業です』なんて言えない!
(おい明久! 何を勝手に招き入れているんだ!?)
(ご、ごめん! わざどじゃないんだ! ちょっと頭の中でシミュレーションをしていたらタイミングよくお客さんが来ちゃったから……!)
あまりにもタイミングが良すぎて自然に言葉が出てしまった。偶然って怖い……!
(参ったのう。もはや追い返すこともできぬような雰《ふん》囲《い》気《き》じゃし……)
(…………店長が目を覚ますまで頑張るしかない)
(うぅ……。ごめん……)
別室に寝かせてある店長がいつ目を覚ますかわからないけど、それまでの間は僕ら四人でなんとかするしかない。かなり危険な状況になってしまった。
(やれやれ、仕方ないな……。まぁ、メニューを限定したらなんとかなるかもしれないし、できるだけやってみるか。明久と秀吉はウェイター、ムッツリーニはキッチンを頼む。俺はドリンク関連を担当する)
(了解じゃ)
(…………わかった)
雄二がカウンターに入り、ムッツリーニは裏手のキッチンへと姿を消す。僕と秀吉はウェイターなのでホールに残る。
(明久。まずはワシが行くから、お主は次に客が来た時の準備を頼む)
(うん。わかったよ)
僕にそう告げると、ウェイター姿の秀吉はメニューを片手にお客さんの前へと歩み出て行った。
「二名様ですね? それでは、こちらへどうぞ」
本日一組目のお客さんを連れて窓際の席に向かう秀吉。お客さんが席にかけたところで一旦その場を離れ、お冷《ひや》をトレイに載せて再びその席へと向かう。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」
丁寧に頭を下げてカウンターに戻ってくる秀吉。良かった。お客さんは特に違和感なく席についてくれたみたいだ。
「雄二、飲み物は大丈夫?」
「ま、簡単な物ならなんとかなるだろ。食べ物もムッツリーニに任せておけば問題ないだろうし」
こんな時の雄二やムッツリーニの器用さは頼もしくもあり、羨《うらや》ましくもある。
少し複雑な気分を抱いていると、秀吉が案内を終えて戻ってきた。
「流石秀吉。違和感が全くなかったよ」
「うむ。舞台じゃと思えばどうということもないからの。むしろ観ている人数が少ない分余裕があるくらいじゃ」
確かに秀吉の表情には固さが見られない。僕も見習わないといけないな。
「よしっ。僕も頑張るぞっ」
「その意気じゃ。……が、あまり気負いすぎるでないぞ。緊張は身体の動きや滑舌《かつぜつ》に影響を与えるからの」
要するに、緊張していると転んだり台詞を噛《か》んだりすることがあるって言いたいのだろう。経験者の助言だ。きちんと心に留めておこう。大事なのは、『転ばないこと』『台詞を噛まないこと』。
──カランコロン
っと、お客さんだ。行くぞっ! ポイントは『噛まない』『転ばない』だ!
「いらっチゃッ!」
噛んだ。
「「「…………っ!」」」
入店してきたお姉さん三人租が必死に笑いを堪《こら》えて俯《うつむ》いている。なんだか今すぐにでもこの場から泣いて逃げ出したい気分だ。
け、けど、一度の失敗くらいで挫《くじ》けるもんかっ! 今度こそ落ち着いて、噛まないように、大きく息を吸って──
「──いらっチゃ」
ダッ!(僕、猛ダッシュ)
「あっ! キミ、案内は!?」
「大丈夫だよ! 私たち全然笑ってないから!」
「もう一回だけ頑張ってみて!」
くぅぅっ! どうして僕はこんなに不器用なんだ!?
「な、なんじゃ明久!? なにゆえダッシュで戻ってくるのじゃ!?」
戻ってきた僕を見て秀吉が驚いている。
ああ……。器用な皆が羨ましい……。って、逃げちゃダメだろ僕! 戻らないと!
「す、すいません。ちょっと気が動転してしまいました……」
お客さんの前に戻り、頭を下げる。すると、お客さんは笑顔で許してくれた。心の広いお客さんで良かった。
「それでは、こちらのお席へどうぞ」
気を取り直してお客さんを窓際のボックス席へと案内する。その後はメニューとお冷を出して、注文が決まるまで離れて待機。
「……む。そろそろ注文が決まったようじゃな」
最初に入ってきたお客さんの様子を見て、秀吉が近付いていく。
『ご注文はお決まりでしょうか?』
『エスプレッソとレモンティーと季節のシャーベットを二つ下さい』
『畏《かしこ》まりました。エスプレッソとレモンティーと季節のシャーベットをお二つですね。少々お待ち下さい』
メモを取り、秀吉が戻ってくる。
「エスプレッソ一、レモンティー一、シャーベット二じゃ」
「あいよ」
「…………(コクリ)」
注文を告げると、雄二とムッツリーニが動き出す。良い感じだ。
「明久。向こうの客の注文が決まったようじゃぞ」
「あ、ホントだ。行ってくるよ」
秀吉の言う通り、僕が案内したお客さんがこちらを見ていた。なるほど。『ご注文は お決まりですか?』で切り込めばいいわけだ。よし。今度こそ完璧《かんぺき》な接客をしよう。大きく息を吸って──
「ごチュっ!」
ブバァッ
お客さんが噴出《ふんしゅつ》した水が、店内に鮮やかな虹のアーチを描いた。
「………………こ注文は、お決まりですか……?」
凄く、いたたまれない。
「え、えっと、私はホットココアとチーズケーキ。頑張ってね」
「私はオレンジジュースとホットケーキで。頑張ってね」
「わ、私はミルクティーとモンブランを。頑張ってね」
「は、はい。ありがとうございます……」
簡単にメモを取り、雄二とムッツリーニに告げる。
「ホットココア、オレンジジュース、ミルクティー、チーズケーキ、ホットケーキ、モンブランを一つずつと、頑張ってを三つ」
「……なんでお前は客に励まされているんだ?」
「…………早速何かあった?」
接客じゃない雄二とムッツリーニにはこの気持ちはわからないだろう。
グラスを用意しながら料理を待ち、出来上がった順に持って行く。ただ持っていくだけなのに、お客さんに『よくできたね』と褒められたのが切なかった。
そして、少し時間が流れ、
──カランコロン
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
やってきたお客さんに秀吉が笑顔で対応する。忙しすぎず、暇すぎず、いいペースでお客さんが入ってきているなぁ……って、またお客さんだ。しかも今度は初めての男性客だ。よし、頑張るぞ!
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「おう。二人だ──って吉《よし》井《い》か!? お前何やってるんだ!?」
やってきたお客さんが僕の顔を見て驚いている。そういえばこの二人組、見覚えがあるな。坊《ぼう》主《ず》頭……ソフトモヒカン……二人組……頭にブラジャー……
「ああっ! 変態《へんたい》先輩だ!」
「それ人の名前じゃねえだろ!?」
「常村《つねむら》と夏川《なつかわ》だ! お前はどういう記憶力しているんだ!?」
そうだそうだ。常夏《とこなつ》コンビだ。
「失礼しましたお客様。お席にご案内します」
「本当に失礼だぞ……」
変態とは言え、相手は一応お客様。きちんと頭を下げてから席に案内する。そして一旦戻ってお冷とメニューを出す。
「それでは、ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」
会釈《えしゃく》をして定位置に戻る。離れた位置にお客さんを案内していた秀吉も戻ってきた。
「おい、二人とも」
お客さんが注文を決めるまでの間におしぼりを用意していると、カウンター越しに雄二が話しかけてきた。
「どうしたの雄二?」
「ドリンクなんだが、今日はミルクの搬入《はんにゅう》が遅れているようで、もう在庫がない。注文が入ったら気をつけてくれ」
そういえば、このお店は新鮮な牛乳が売りの一つだったっけ。注文が入ったら気をつけないと。
「了解じゃ。ミルクを使うものには気をつけよう」
「ああ。宜しく頼む」
言い終えると、雄二はカウンターの奥に戻っていった。
『すいませーん』
お客さんから声がかかる。あっちは秀吉の担当のお客さんか。
「はい。只今伺います」
秀吉がメモを片手に注文を取りに行く。
『お決まりでしょうか?』
『はい。えっと、アイスコーヒーとアイスミルクティーを一つずつ』
『申し訳|御座《ござ》いません。只今ミルクを切らしておりまして、アイスミルクティーはアイスティーになってしまうのですが、宜しいでしょうか?』
『あ、そうなんですか。それじゃ、アイスティーでいいです』
『畏まりました。アイスコーヒーとアイスティーですね。少々お待ち下さい』
一札して秀吉が戻ってくる。
なるほど。ああやってミルクを使う注文に断りを入れるのか。憶えておこう。
『おい、注文いいか?』
「あ、はい。只今」
常夏コンビの声が聞こえてきたので、メモを片手に席へと向かう。ミルクを使う注文には要注意だ。
「お決まりですか?」
「ああ。俺はアイスコーヒー」
ふむふむ。モヒカンの方にはアイスコーヒーが一つ。これは問題ない。
「俺はアイスミルクだ」
お、早速きた。けど、慌てることはない。さっきの秀吉の対応を真似したらいいんだ。
「お客様、申し訳ありません」
「ん? なんだ?」
「只今ミルクを切らしておりまして、アイスミルクはアイスになってしまいます。ご了承下さい」
「それただの氷だろ!?」
「では、少々お待ち下さい」
「話聞けよ!」
頭を下げてカウンターに戻る。注文を告げると、飲み物だけだったせいかスグに出来上がってきた。溢《こぼ》さないように気をつけながらトレイに載せて、っと。
「お待たせしました。アイスコーヒーです」
「おう」
アイスコーヒーをモヒカン先輩の前に置く。
「こちら、アイスになります」
「いらねぇよ!」
坊主先輩の方は品物が気に入らなかったのか、急に怒り出した。
とは言え、これはミルクを切らしているこちらの手落ちが原因のこと。何かサービスを……よしっ。
「こ安心下さいお客様。料金は半額で結構ですので」
「半額でも金を取るのか!?」
折角譲歩したのに、坊主先輩はお気に召さない様子。う〜ん、困った……
「ミルク切らしてるならブレンドでいい! アイスはいらねぇ!」
「ブレンド、ですか……? 畏まりました」
注文変更。今度はアイスじゃなくてブレンドを用意しないと。
「雄二、注文──って、あれ?」
カウンターに雄二の姿がない。何かを探しにでも行ってるのだろうか。弱ったな。あんなに興奮しているお客さんを待たせるわけにもいかないし……。仕方ない。飲み物は自分で作ろう。
「でも、ブレンドってどうやって作るんだろう?」
流石にブレンドっていうのがコーヒーだってことくらいは知っている。けど、どんな種類なんだろう。ブレンドってことは混ぜるわけだから──ああ、そっか。
雄二が作り置きしておいたコーヒーをカップに注ぎ、トレイに載せる。
「お待たせしました。ブレンドです」
「おう。持たされたぞ」
坊主先輩の前にカップを置くと、先輩は偉そうにふんぞり返りながらカップを手に取った。
「ところで、ここのブレンドは何を入れてるんだ?」
カップに口を寄せ、坊主先輩が尋ねてくる。えっと、混ぜたのは──
「アイスコーヒーとホットコーヒーのブレンドです」
「その二つは混ぜんなよっ! ぬるくなるだけだろ!?」
「備え付けのタバスコと爪楊枝《つまようじ》はお好みでお入れ下さい」
「そんな特殊な好みのヤツぁいねぇよ!」
坊主先輩は頭まで真っ赤にして怒鳴り出した。
どうしよう。お客さんが興奮して周りの迷惑になっている。こういう場合は一体どうしたら……そうだっ! ここは一つ、小《こ》粋《いき》なトークで気分を落ち着かせてもらおう!
「ところでお客様」
「あん? なんだよ?」
不機嫌そうに返事をする坊主先輩。その機嫌を直してもらう為、僕は満面の笑みで世間話を振った。
「本日は頭にブラを被《かぶ》ってはいらっしゃらないのですね?」
「てめぇ表に出ろやコラぁっ!」
作戦失敗。努力もむなしく坊主先輩は完全に逆上して、コーヒーの入ったカップを構えた。さては僕に中身をブチまける気だな!?
「食らうかっ!」
殺気を感じて、大きく横に跳ぶ僕。すると、目標を見失ったコーヒーはそのまま飛んでいき──
「っっ!?」
近くに来ていた秀吉に降り注いだ。
「「あ……」」
秀吉のYシャツがコーヒー色に染まっていく。
「す、すまねぇ。アンタを狙ったわけじゃねぇんだ……」
坊主先輩が秀吉に頭を下げる。流石にこれは悪いと思ったのだろう。
「いえ。お気になさらず、お客様」
対する秀吉は演劇用のにこやかなスマイルで返す。ぷ、プロだ……!
(巻き込んでごめん、秀吉)
(なに、気にするでない。着替えれば済むことじゃ)
(そう言ってもらえると助かるよ)
そうやって僕と小声でやり取りをした後、秀吉はお客さんに会釈をして奥へと消えていった。きっと汚れた制服を着替えに行ったんだろう。
──ところで、替えの制服ってまだあったっけ?
[#中央揃え]☆
──カランコロン
「はい、いらっしゃいませ!」
秀吉が着替えに行っているので、僕がお客さんを迎えに出る。すると、そのお客さんはこちらの顔を見るなり明るく微笑んだ。
「こんにちは、明久君。遊びに来ちゃいました」
「え? 姫路さん?」
やってきたのは、クラスメイトの姫路|瑞《みず》希《き》さん。今日は休みだから私服姿だ。そこらで見かけるような普通のスカートにシャツの組み合わせだけど、中身が良いからとても可愛いらしい。持って帰りたいくらいだ。
[#改ページ]
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「やってるわね、アキ。へぇ〜。結構似合ってるじゃない」
「あれ? 美波まで?」
そしてその隣にいるのは島《しま》田《だ》美波さんという、同じく僕のクラスメイト。こっちも普通のジーンズとTシャツの組み合わせだ。こっちはこっちで魅力的だけど、持って帰ったら(僕の部屋とか身体とかが)大変なことになりそうだ、
「ほらほら、店員さん。ぼーっとしてないで席まで案内してくれない?」
ニヤニヤと美波が僕に手を振って見せる。
くっ! 美波のSっ気が見え隠れしている気がする!
「そ、それじゃ。えっと、何名様ですか?」
けど、友達とは言えお客さんはお客さんだ。きちんと接客しないと。
「四人です」
「え? 四人?」
目の前には姫路さんと美波しかいないみたいだけど、あと二人は誰だろう?
「一人はちょっと遅れているわ。それと、もう一人は」
美波が言いながら指で店の奥を示す。
『……雄二。妻への隠し事は浮気の始まり』
『なんだ!? いるはずのない翔子《しょうこ》の声が聞こえるぞ!? 呪いか!?』
Aクラス代表の霧島さんがいつの間にか雄二の真後ろに立っていた。
「明久君たちがバイトをしているって教えてくれたの、霧島さんなんですよ」
「あ、そうなんだ」
ここで『霧島さんにも話していないはず』なんて言うのは野暮《やぼ》だろう。恋する乙女《おとめ》の行動力ってことにしておこう。
「とにかく、こちらへどうぞ」
「「はーい」」
二人を連れて四人席に案内して、お冷を出す。少し遅れて霧島さんも席にやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
メニューを覗《のぞ》き込《こ》んでいる三人に声をかける。
「う〜ん……何がいいでしょうか?」
「……どれも美味しそう」
姫路さんと霧島さんはメニューを前に小首を傾げていた。二人ともこのお店に来るのは初めてみたいだ。
何かお勧《すす》めがあればいいんだけど……あ、そうだ。
「そう言えば、前に来たときに食べたクレープは美味しかったよ」
ムッツリーニがその味を再現できるかどうかはわからないけど、きっとアイツのことだから上手に作るだろう。レシピもあったし。
「? 前に来たとき、ですか?」
クレープじゃない部分に反応する姫路さん。僕が言いたいのはそっちじゃないんだけどなぁ……。
「あ、あの、それって誰と、ですか……?」
「え? 美波と一緒にだけムグぅっ」
「ば、バカ! 瑞希、それはその、違うの! 別に二人で来たわけじゃなくて……!」
美波が急に僕の口を塞いできた。
(アキっ! 余計なこと言わないの! とにかくウチに話を合わせなさい!)
小声の美波の指示にとりあえず頷いておく。よくわからないけど言うことに従った方が良さそうだ。
「え? 二人じゃなかったんですか? そ、そうですか。それなら…」
「も、もちろんじゃない。ね、アキ?」
「う、うん。もちろんだよ! 雄二も入れた四人で来たのさっ」
ゴキン
右手首の関節を外された。
(どうしてアンタはそうやって底の浅いウソをつくのよ! すぐそこにいるんだから、本人に確認されちゃうでしょ!?)
「……吉井。残りの一人は、誰?」
そして左手首の関節に手をかけているのは無表情になっている霧島さん。ここは返答を誤《あやま》ると死に繋がるだろう。
「も、もう一人はあの人よね、アキっ」
「そ、そう! あの人だよ、えっと──」
この場にいる面子は確認されちゃうからダメ。かといって僕らとつながりのない人は現実味がないからダメ。オマケにこの店に来るくらいだから男よりも女の子の方が自然だから……
「えっと──高橋《たかはし》先生と一緒に来たのさっ」
ゴキンゴキン
「ふぬぁぁっ!? 手首の関節が一度ハメられてまた外された!?」
「だからどうしてアンタはそうやって頭の悪いウソしかつけないのよっ! 高橋先生と一緒に来るわけないでしょ!?」
「え!? え!? やっぱりウソなんですか!? そうなると美波ちゃんと二人できたんですか!?」
『……A helish gate has opened. Compensate the crime with your death. Are you ready,Yuji?』
『な、なんだ!? どうして翔子がいきなり戦闘態勢になっているんだ!?』
雄二は霧島さんの射程内で僕は美波の暴風圏内。これは極めて危険な状態だ。一体どうすれば……!?
──カランコロン
「ごめんね、遅れちゃった──って、皆何をしているの……?」
そんな一触即発《いっしょくそくはつ》の状況を打破してくれたのは、我らがアイドル木下《きのした》秀吉──じゃない。
あの子は、
「……優《ゆう》子《こ》」
そう。秀吉の双子の姉の木下優子さんだ。遅れてくるもう一人って、木下さんのことだったのか。ちょっと珍しい組み合わせだなぁ。
「代表に島田さん、ちょっとは落ち着きなよ。お店で暴れるなんて良くないよ?」
刑を執行しようとする霧島さんや美波に注意する木下さん。なんだか常識的な台詞を久しぶりに聞いた気がする。
「……でも、雄二が」
「アキのバカが」
「言い訳しないの。他のお客さんに迷惑でしょう?」
「……わかった」
「確かにその通りね……」
木下さんに叱《しか》られて動きが止まる二人。助かった、か……?
「うむうむ。姉上も良いことを言うのう」
「そうだね秀吉。お姉さんのおかげで助かった──って、その格好はどうしたの?」
いつの間にか近くにやって来た秀吉は、最初に着ていたウェイトレスの制服を再び身につけていた。
「うむ。それがじゃな、サイズの合う替えの制服が見つからんかったので、こっちで代用しておるのじゃ」
そう言って短いスカートの裾を摘む秀吉。そっか。やっぱり替えの制服はなかったのか。
「まぁ、いいんじゃない? お客さんもウェイトレス姿の方が嬉しいだろうし」
これだけ可愛い上に動きが無防備なのだから、きっと男性客の視線は秀吉の脚に釘《くぎ》付《づ》けになるだろう。
「そういうものかのう?」
「そういうもんだよ」
さてと。それじゃ、騒ぎも起こらずに済みそうだし、仕事の続きを──
「秀吉、ちょ〜〜〜〜っといいかしら?」
──しようと思ったら、木下優子さんが僕らの前にやってきた。
「んむ? なんじゃ、姉上?」
お姉さんにがっしりと手首を掴まれた秀吉が小さく首を傾げる。
「いいからいいから。吉井君、このお店ってトイレはどこにあるの?」
「え? 向こうの奥だけど」
「そう。ありがとう」
トイレのある場所を指すと、木下さんは秀吉の腕を掴んで笑顔のままそちらへと歩き出した。
「あ、そうそう。代表と島田さん」
そして、姿が消える前に一言。
「さっきの台詞、撤回《てっかい》するね。他のお客さんに迷惑でも、気に入らないものは気に入らないもの。存分にやっちゃいましょ♪」
そして、バタン、とトイレのドアが閉まる音が聞こえた。
『姉上、どうしたのじゃ? 何故《なぜ》ワシの腕を掴むのじゃ?』
『アンタ、どうしてそんな短いスカートで動き回っているのかしら? 前に私言わなかったっけ。アンタが余計なことをすると私までそういう目で見られるからやめろ、って』
『はっはっは。何を言っておるのじゃ。姉上は家におる時はほとんど下着姿で生活をしておるではないか。今更体裁を取り繕わんでも──あ、姉上っ! ちがっ! その関節はそっちには曲がらなっ──!』
『……雄二。許可が下りた。高橋先生とのデートのこと、全部聞かせてもらう』
『なんのことだ!? それと聞かせろと言いながら聞く耳持たないように見えるのは気のせいか!?』
「あ、あの、明久君! さっきの話ですけど、本当は美波ちゃんと二人きりだったんじゃ……!」
「ちちち違うのよ瑞希! アキはバカだから記憶が違っているだけで……!」
「あがぁっ! 美波、落ち着いてまずは僕の腕を解放して! このままだと僕の腕に関節が一つ増えちゃう!」
阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地《じ》獄《ごく》絵《え》図《ず》が店内で繰り広げられそうになったその時、
「き、君たち! お客様の前で何をしているんだ!」
鋭い叱《しっ》咤《た》が店内に響き渡った。
「て、店長……?」
「まったく、人が倒れている間に何をしているんだ君たちは。店をあけてしまったことはともかく、お客様の前でこんな真似をしているなんて、何を考えているんだ!」
力強い声に思わず背筋が伸びる。
流石は弱っていても店長だ。暴れ出そうとする美波や霧島さんや木下さんを抑えこんでいる。これなら僕も雄二も秀吉も殺されることはないだろう。良かった。本当に良かった……
「お客様、大変失礼致しました。どうぞお気になさらずにごゆっくりと──」
店長が頭を下げてお客さんにフォローを入れる。これで店に平穏が戻るだろう、と胸を撫で下ろしていると、
──カランコロン
直後、カウベルの音が甲高《かんだか》い音をあげた。見てみると、母娘と思《おぼ》しき二人組が店内に入ってきたところだった。
「どう、お父さん[#「お父さん」に傍点]。少しは反省した?」
店長に告げるのは、ドリルのような髪型をしている見覚えのある女の子。
ん? お父さん[#「お父さん」に傍点]? ってことは、あの子が例の店長の娘さん?
「み、美《み》春《はる》……!? ディア・マイ・エンジェル……!」
店長の動きが止まる。今にも泣き出さんばかりだ。
「店長、良かったですね。娘さんと奥さん、帰ってきてくれたじゃないですか」
「吉井君……。ありがとう…!」
良かった良かった。これで全部綺麗な形に収まった。処刑もなければバイト代も出る。店長は娘さんが帰ってきて、万事オッケーだ。
「美春……。もう、どこにも行かないで──」
涙を流しながらよろよろと娘さんに近付く店長。対する娘さんも、ゆっくりと店長に歩み寄って──
「ああっ! 美波お姉さまじゃないですか! さては美春に逢《あ》いに来てくれたんですね!? そうならそうと言ってくだされば、美春もベッドを用意してお待ちしていましたのに!」
「み、美春!? ここってアンタの家だったの!?」
その途中で娘さんは進路を変更して思いっきり美波に抱きついた。
「…………み……は、る……?」
「て、店長……?」
その様子を見て店長の動きが止まる。なんだか凄く黒っぽいオーラが店長の背中に見えた気がした。
「…………キサマが」
地獄の底から響くような、低く、小さい、店長の囁《ささや》き声《ごえ》。
「キサマが、娘を誑《たぶら》かす女かあぁっ!!」
そして動きが一気に急加速した。この動き、ムッツリーニの召喚獣《しょうかんじゅう》並かも!?
「て、店長! 落ち着いてください! 店長が落ち着いてくれないと、また皆が暴れ出しちゃいます! それと『娘を誑かす女』って言葉はどこかおかしいということに気付いてください!」
「ディア・マイ・ドウタァアアアアア──ッッッ!!」
ダメだ! 全然止まる気配がない!
『……雄二。処刑、再開』
『だから何を言っているんだお前は!? どうして俺が処刑されなきゃぐぁああっ!』
『秀吉、まだ気を失わないでね? ここからが本番なんだから』
『あ、姉上! ちがっ! その関節もそっちには曲がらな……っ!』
[#改ページ]
[#改ページ]
「明久君っ! まださっきの質問に答えてもらっていません! 美波ちゃんとデートしたんですか!?」
「お姉さまとデート!? この腐《くさ》った豚《ぶた》野郎が!? 許せません! 八《や》つ裂《ざ》きです!」
「ディア・マイ・ドウタァアアアアア──ッッッ!!」
「ち、違うのよおじさん! ウチは美春じゃなくてアキと──」
「み、美波! 僕を巻き込まないでよ! って、どうして店長が僕に襲いかかってくるの!? 誰か、助け──っ」
[#中央揃え]☆
『……それで?』
「うん。要するに──お母様の慈悲《じひ》の心で仕送りをお願いします」
『本当に、アンタはつくづく……』
「が、頑張ったんだよ? ただ、ちょっと運が悪いのと面子が特殊だったのが災《わざわ》いして」
『まぁ、今回は仕方ないから助けてあげるけど』
「ほんとっ!? ありがとうお母様!」
『ただし、今後もロクな生活を送らないようだったら──』
「送らないようだったら?」
『玲《あきら》をそっちにやるからね。アンタの監視役として』
「……誰ソレ? 僕ノ知ラナイ人デスカ?」
『アンタは家族の名前も忘れる程にバカなのかい?』
「母さん! どうかお慈悲を! 僕、この一人暮らしを凄く気に入っているんだ!」
『黙りなさい。一人暮らしを続けたいのなら、生活を改めることね』
「母さん! 母さんってば! お願いだから話を聞い──」
ツー、ツー、ツー……
「…………だ、大丈夫だよね? きちんとした生活を送っていなければ、って言ってたもんね?」
[#改ページ]
あとがき[#「あとがき」は太字][#地から5字上げ]井上堅二《いのうえけんじ》
このような半《はん》端《ぱ》な巻を手にとって頂き、大変ありがとうございます。小説担当の井上堅二です。本シリーズもついに四冊目と相《あい》成《な》りました。まず間違いなく皆様の応援がなければ途中で打ち切られていたことでしょう。感謝の念は尽きません。
さて、一応このシリーズには『テスト』というタイトルが入っています。そこで今回は大学時代に僕が受けたテスト問題を紹介させて頂きましょう。
それは『実用的な英語』が売り文句の教授が作った小テストの問題でした。
教授「それでは紙を配るので、今から言う単語を英語で書いてください」
回ってきた紙を受け取り、名前と学生番号を書きます。
教授「では、第一問」
手元の紙に(1)と書いて準備します。
教授「 心臓リウマチ =v
(1)は空白が決定しました。
それにしても、これは本当に実用的な英語なのでしょうか。値段交渉や挨拶よりも『心臓リウマチ』という単語の方が実用性があるとは、恐るべしメリケン王国。
教授「第二問」
紙に(2)と書きます。
教授「ジェームス・トーマス」
今度は固有名詞。僕の中にある『英語のテスト』の定義が揺るぎつつあります。
確かに実用性は高いかもしれませんが、相手の名前がジャックやスミスだったりするとどうなるのでしょうか。汎用性《はんようせい》に一抹《いちまつ》の不安が残る実用英語です。
とりあえず言われた通りに手を動かしますが、スペルに自信がありません。人名の勉強はあまりしたことがないので。
そんな僕の気持ちを察してくれたのか、教授が嬉しいことを言ってくれました。
教授「ヒントをあげます」
助かります。
教授「馬の名前です」
更に混乱しました。
結局適当に書いて提出するということに。ちなみに問題は全部で三つあり、最後の問題は『何でもいいから書きなさい』でした。どうやって点数をつけたのか、今でも疑問です。英語って難しいですね。
さて、くだらない話はこのくらいにして短編集らしく各話の解説でもさせて頂きましょう。ネタバレを含むかもしれませんので、本編未読の方はここで一旦お別れです。
『バカとテストと召喚獣 〜予習編〜』
一巻よりも先に世に出た僕のデビュー作とも言える話です。FBオンラインというWEB上の限定公開だった為、ご存じない方も多いかと。毎週金曜日に更新されているので、興味があったらチェックしてみて下さい。期間限定公開などもありますので、知らない間に見られなくなってしまう作品があるかもしれませんよ? ファミ通文庫の誇る人気作品の番外編や新刊情報などが盛りたくさん。是非とも一度ご覧になってみて下さい。読者のページで質問なども募集しています。以上、宣伝でした。
尚、二巻にいきなり登場した葉《は》月《づき》はここで登場していたりします。二巻を読んでわけがわからなくなった方も多いようでごめんなさい。
『僕と暴徒とラブレター』
これはFBSPという冊子に掲載された短編です。時系列で言えば一巻と二巻の間のお話です。冒頭のラブレター部分は知人に読まれたくない箇所ナンバーワンです。ですが、ご安心下さい。手を加えてしまったものの、元の文章はきちんと女性の手によるものです。いえ、違います。母に書かせたわけではありません。一応、未だに周囲の人間(肉親含む)には小説家だということはバレてません。このラブレターは過去に著者が貰《もら》ったラブレターという設定にだから違いますってば! 祖母に書かせたわけでもありませんからっ!
『俺と翔子と如月ハイランド』
雄二が主人公のお話です。時系列で言えば二巻と三巻の間ですね。いつもと少しテイストを変えて書いてみました。ジャンルはラブコメなのにコメ部分しかないという事実を気にしていたとかいないとか。どうでもいいですが、秀吉《ひでよし》の携帯電話はここで壊れてしまったので三巻では持っていないのです。本当に不親切な書き方でごめんなさい。
『僕とプールと水着の楽園』
ちらほらと秀吉的水着予想を見かけましたが、どうでしょうか? あなたの予想は当たりましたか? 何故かスクール水着という予想を多く見かけた気がします。次点でふんどし。不思議なことに、秀吉は男の子なのに上を着ていないとイラスト化が困難であるという特性を持っています。本当に不思議ですよね? ちなみに美《み》波《なみ》は競泳用水着じゃないか、という予想も見かけましたが、ごめんなさい。このお話は二巻と三巻の間の出来事なので、美波は競泳用水着|云々《うんぬん》については未だ知らないのです。
『僕とバイトと危険な週末』
これも二巻と三巻の間のお話です。明久《あきひさ》の母親が初登場! 以前関係者の方に『井上君の書く母親はちょっと変わっているよね』と言われたことがあるのですが、あまりピンと来ませんでした。なぜなら、僕は普通の母親を知りませんから! 余談ですが、先日母親に電話で『アンタはブサイクなんだから一生懸命結婚相手を探さないと!』と励まされました。テメェ、クソババァ! 上等じゃねぇか!
……失礼。少々取り乱してしまいました。母との仲は良好です。
さてさて。それでは最後に慣例の謝《しゃ》辞《じ》を。
イラストの葉賀《はが》ユイさん。表紙を見た瞬間に目を見開きました。マイPCの壁紙が世代交代の時期を迎えようとしています。相変わらず恐ろしいお人やで……! 担当のN様。家庭を顧《かえり》みず仕事に生きるその様はとても格好良いです。楽をさせてあげられなくてごめんなさいっ。デザイナーのかがやさん。巻を増すごとに仕事が増えてしまってすいません。ですが、これも全て貴方《あなた》の腕を信頼してのこと! だから見捨てないで下さい! 諸先輩方。飲み会やらメールやら電話やらでお世話になってます。皆様のアドバイスのおかげで無事デビュー一周年を迎えられそうです。ありがとうございます。そして、読者の皆様方! 本当にありがとうございます。この本を手にとって頂いているおかげで、僕はこうしてバカな話を書き続けることができるのです。何度お礼を言っても言い足りません。手作りブックカバーを送って下さった方もいて、やる気は鰻登《うなぎのぼ》りです。今一度、皆様に心より感謝を。
では、次回は美波のアグレッシブなアクションの続きとなる四巻でお会いしましょう。あまりお待たせしないように頑張りますね。
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ATOGAKI[#「ATOGAKI」は太字][#地から5字上げ]葉賀ユイ
こんにちは、葉賀です。
今回はサービス満点でしたね。
水着?いやいや秀吉が。[#「秀吉が。」は太字]
読者サービスという言葉がありますが、あれは欺瞞ですよね。
正しくは作者サービス[#「作者サービス」は太字]です。
…少なくとも葉賀にとっては!
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初出一覧
『バカとテストと召喚獣 〜予習繍〜』(「FBonline2007・1号」に掲載)
『僕と暴徒とラブレター』(「FBSPvol.2まかでみスペシャル」掲載)
『俺と翔子と如月ハイランド』(「FBonline2007・8号」掲載)
『僕とプールと水着の楽園』(書下ろし)
『僕とバイトと危険な週末』(書下ろし)
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ファミ通文庫
バカとテストと召喚獣《しょうかんじゅう》3.5[#2段階大きな文字]
二〇〇八年二月一二日 初版発行
著 者 井上堅二《いのうえけんじ》
発行人 浜村弘一
編集人 青柳昌行
発行所 株式会社エンターブレイン
担 当 長島敏介
デザイン かがやひろし
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