井上ひさし
ドン松五郎の生活
目 次
おれの生い立ち
おれの日常
おれの勉学
おれの抗争
おれの発心
おれの栄達
おれたちの作戦
おれたちの挙兵
おれたちの言い分
おれたちの出発
おれたちの機知
おれたちの戦い
おれの生い立ち
なんでも人間属の世界には、夏目漱石《なつめそうせき》という大へんな文豪《ぶんごう》がいて、彼《かれ》には『吾輩《わがはい》は猫《ねこ》である』なる表題の、戯文調《ぎぶんちよう》の小説があるそうだ。戯文|仕立《じた》てとはいえ、これはなみなみならぬ傑作《けつさく》であるらしい。
「……そうだ」とか「……らしい」とか、曖昧《あいまい》な言い方をしたが、じつはこの小説の冒頭《ぼうとう》を、おれはちゃんと暗記している。人間から見れば一匹《いつぴき》の犬畜生《いぬちくしよう》にしかすぎない雑犬のおれが、なぜ『吾輩は猫である』の出だしの一節をそらんじているのか。理由は簡単である。おれの飼《か》い主《ぬし》が漱石愛好家で、とりわけこの『吾輩は猫である』を座右から手放さず、ときおり声をあげて読む。それを聞いているうちにひとりでに頭に入ってしまったのである。人間の世界の格言《かくげん》をもじっていうなら、「門前の雑犬、習わぬ小説を読む」というやつだ。
さて、なんでまた『吾輩は猫である』がのっけから出て来たかというと、この理由もまことに簡単である。おれは、おれの飼い主以上にこの小説に尊敬の念を抱《いだ》いているので、おれの物語をはじめるにあたって、ぜひともこの小説の書き出しを借用したい、と考えたのだ。
なにしろ漱石という人間はえらい。おれの飼い主も、漱石と同業の小説家であるが、漱石はおれの飼い主の一万倍はえらい、と思う。ほんとうはすくなくとも十万倍はえらい、と考えているが、飼い主には一宿一飯《いつしゆくいつぱん》の恩義がある。正確にいえば、おれがこの家に拾われてから百五十日になるから、百五十宿四百五十飯の恩義がある。恩義を重んじることでは人後、いや犬後に落ちないおれとしては、大いにゆずって一万倍という甘《あま》い点をつけたわけだ。
ではなぜ漱石という人間はえらいのか。この理由もまた簡単である。猫を主人公に持って来たばかりではなく、その猫に語り手をつとめさせた趣向《しゆこう》がえらい。おれは犬だから猫は好かぬ。おれたちよりちびのくせに大ぐらいの無駄《むだ》めし食い、主人の帰館を尻尾《しつぽ》ふって出迎《でむか》えることもせぬ礼儀《れいぎ》知らず、人間の子どもの遊び相手もせぬぐうたらな怠《なま》けもの、どうせ死んでしまえば三味線《しやみせん》の皮になり酒席の馬鹿《ばか》さわぎの傍役《わきやく》つとめるくせに、生きている間は行いすまして妙《みよう》に陰気《いんき》で、その上、このごろの猫属はネズミをとるのも面倒臭《めんどうくさ》くなったと見え、日向《ひなた》でごろ寝《ね》ばかりをきめこんでおる。「働かざるものは食うべからず」というコトバが人間の世界にはあるが、連中は働かずに食っている。そこまで連中を甘やかしたのは人間であるから、人間が悪いのは言うまでもないが、飼われる身でありながら図々《ずうずう》しくも増上し、つけあがる連中はもっと悪い。それでいて人間がすこしでも辛《つら》くあたるとすぐ「化《ば》けて出てやるぞ」と半分すねて半分すごむのだから言語道断《ごんごどうだん》もってのほかだが、しかし、犬という、あるいは猫という生物的かつ階級的区別をとりはらい、〈人間の家庭で飼われるもの〉として同じ立場に立てば、たとえ猫が主人公で語り手をつとめた小説であっても、あれはすばらしい作物である。なんとなれば〈人間の家庭で飼われるもの〉のよろこびや哀《かな》しみを、あの小説は世間に喧伝《けんでん》してくれたからである。
ではその『吾輩は猫である』にならっておれの生《お》い立《た》ちを語りはじめることにしよう。
……おれは犬である。名前はまだ無い、というのは嘘《うそ》で、ドン松五郎という。
仲間のはなしによると、犬には春生まれがもっとも多く、以下、秋、冬、夏の順になっているそうだが、おれの生まれたのは、いちばんその例の少ない夏、去年の夏の七月である。おれの性格が多少ひねくれているとしたら、そのせいかもしれぬ。
生まれたところは、東京の東の境界を流れる大きな川の、東岸のそばである。この辺一帯には安普請《やすぶしん》の建売《たてうり》住宅がひしめき合って建っているが、そのうちの一軒《いつけん》の軒下《のきした》で、ある夏の朝、おれはこの世に呱呱《ここ》の声をあげた。
そのときはちょうど、新聞の配達人がその家の新聞受けに新聞を投げ込もうとしていたところで、おれの母親は、
(この仔犬《こいぬ》たちはきっと将来、新聞とか、活字とかいうものになにかかかわりのある家で飼われることになるかもしれない)
と、直感したという。
人間の世界には「女の直感はよく当たる」というコトバがあるらしいが、おれたち犬の社会にも、「雌犬《めすいぬ》の直感を軽んじると棒に当たる」なる格言がある。「棒に当たる」とは痛い目にあうぞ、というほどの意味だが、現におれはこうやって自分の身の上を活字で披瀝《ひれき》しているのだから、「なにか新聞とか、活字とかいうものにかかわりがある」どころではない、これは大かかわり。この格言はすくなくとも三分の一は的中したことになるだろう。
三分の一、というのはおれに二匹の兄弟《きようだい》がいたからで、二匹とも生後十日ほどの間に、他所《よそ》へ貰《もら》われて行ったきり、音信が絶えているから、どこでどう飼われているかは知らないが、この格言が、言い直せば母親の直感が正しいとすれば、おれの兄弟はいまごろは新聞記者か活字工かなんかのところで居候《いそうろう》でもしているにちがいない。
おれの母親の飼い主は、近くの高校に奉職《ほうしよく》する地学の先生で、朝から晩まで石ころばかりいじっていた。母親のはなしでは、
「うちの先生はそうとうな|かたぶつ《ヽヽヽヽ》らしいよ」
ということだったが、かたぶつだから石ころに興味があったのか、石ころに興味を持ちすぎて|かたぶつ《ヽヽヽヽ》になったのか、そのへんのところはいま考えてもよくはわからぬ。
母親と一緒《いつしよ》に暮《く》らしていたころのおれは、まだ目が見えなかったので、この石ころ先生の顔を拝むことはできなかったが、声だけは聞き、匂《にお》いだけは嗅《か》いだ。おれたち犬は視覚はてんで駄目《だめ》の皮だが、聴覚《ちようかく》と嗅覚《きゆうかく》は乳呑児《ちのみご》も成犬なみなのだ。
で、おれが聞いたところでは石ころ先生の声の調子はのっぺらぼうで、高低もなければ強弱もなく、今にして思えば坊主《ぼうず》のお経《きよう》を読むような声音《こわね》であった。石ころ先生が、あるとき、
「どうも生徒が授業中に居眠《いねむ》りばかりして困る」
と、奥《おく》さんに嘆《なげ》いているのを耳にしたことがあるが、七月の暑いさかりにあののっぺらぼうな調子でごにょごにょと講義をされては、これは眠気《ねむけ》をさそわれるのが当然で、起きて講義を聞いている生徒のほうがよっぽどどうかしている。
石ころ先生の体臭《たいしゆう》も変わっていた。人間の成人男子ならたいてい、酒や煙草《たばこ》の匂いをぷんぷんさせているものだが、この先生ときたら石ころとチョークの匂いがするばかり。石ころ先生はおそらく建売住宅を手に入れるために酒も煙草も節約せざるを得なかったのだろう。
石ころ先生は、そのあだ名が示すように、石の如《ごと》く無口な人だったが、彼の奥さんはおそろしくおしゃべりだった。おまけに甲高《かんだか》いきんきん声。その声を五分も聞くと、頭ががんがんして、おれはきまって頭痛を起こしたものだが、そのたびに母親はおれの体をやさしく舐《な》めまわしながら、
「ここの奥さんはおしゃべりをしている間はまだ機嫌《きげん》がいいのだよ。ひと月に一度か、二度、ぴたりとしゃべらなくなることがあるけど、そのときの奥さんは不機嫌のかたまりだから、気をつけたほうがいい。御飯のお預けを食うとか、サンダルで蹴《け》とばされるとか、なにかよくないことがきっと起こるのだからね。奥さんのおしゃべりはそういったことは当分起こらないという、わたしたちにとっては仕合《しあ》わせのしるしなんだよ」
と、慰《なぐさ》めてくれた。
はじめのうちは、へえ、そういうものかと思って辛抱《しんぼう》していたが、そのうちにおれの心に疑問がひとつ湧《わ》いてきた。
犬を飼うぐらいだから、石ころ先生もその奥さんも犬好きのはずである。なのになぜ、虫の居所《いどころ》がちょっと変わったぐらいで、御飯のお預けをしたり足で蹴っとばしたりするのであるか。たとえばここに着物の好きな奥さんがいるとする。その奥さんは不機嫌なときに、着物を箪笥《たんす》から出して畳《たたみ》の上に散らかし、踏《ふ》みにじったり蹴っとばしたりするであろうか。また、読書の好きな奥さんがいくら不愉快《ふゆかい》なことがあったとはいえ、書棚《しよだな》の本を外へ投げつけたりするか。おそらくしないだろう。
「なのになぜ、おれたち犬にだけは当たり散らすのだろうなあ」
いくら考えてもわからないので、おれはとうとう母親にそう聞いた。
「ここの御夫婦《ごふうふ》はほんとうに犬が好きなんじゃないんだよ」
と、母親はすこし悲しそうな口ぶりでおれの問いに答えた。
「好きではないけれど、世間体《せけんてい》というものが人間の世界にはあるのだねえ。隣《となり》近所ではみんな犬を飼っている。それではわが家でも……というのが人間の考え方なのだよ。好き嫌いとは関係がないのさ」
これがおれが「世間体」というコトバと出っくわした最初である。このコトバとは以後行く先々でお目にかかることになり、このごろでは「へん、また人間さまお得意の世間体か」と軽く聞き流す余裕《よゆう》も出来てきたが、はじめのうち、おれは世間体とは人間世界の王様か殿様《とのさま》であろう、と思っていた。なにしろ世間体というコトバに、人間はすこぶる弱いようだったからである。
さて、生まれて十二、三日ほどたったある朝のこと、おれはなんとなく世の中の様子がおかしいということに気がついた。前の日までとくらべあたりが妙に静かなのである。首をかしげながら母親の乳房《ちぶさ》をくわえて乳《ちち》を飲んでいるうちにおれはなぜあたりが静かなのか、そのわけに思い当たった。石ころ先生の奥さんがどうしたわけか、その朝は口をきかないのだった。
鼻をうごめかして様子をさぐると、母親の前の食器も空っぽのようである。
「御飯もらえなかったんだね」
と、おれは母親に言った。
「それなのに、おればっかりお乳を飲んで悪いなあ」
「いいからいまのうちに腹をいっぱいにしておきなさい」
と、母親はなぜだか、湿《しめ》っぽい口調で言った。
「いまのうちに!」
母親のこの言葉にこめられていた悲しい意味を、おれはそのときは理解することが出来なかった。
この「いまのうちに乳を腹いっぱい飲んでおくのだよ」という母親のコトバの意味が、おれにもおぼろげながら見当がついたのは、石ころ先生の奥さんにいきなり首筋を掴《つか》まれて、母親の乳房から引き離《はな》され、宙にぶらさげられたときである。彼女の邪慳《じやけん》な動作から、おれは、
(あ、石ころ先生の奥さんはおれを母親の傍《そば》からどこかへ連れて行くつもりだな)
と、ぴんときた。
「おれどこへも行きたかないや。ここに置いてくれるよう、石ころ先生の奥さんに頼《たの》んでくれよ」
と、泣き声をあげると、下方から母親がおれをやさしく叱咤《しつた》した。
「飼い主が一旦《いつたん》そうと決めたら、飼われている身のわたしたちにはどう逆立《さかだ》ちしたって、それを止めることはできないんだよ。いまのわたしに出来ることは、おまえの幸運を神さまに祈《いの》ることだけ。達者《たつしや》でお暮らし。どうかやさしい飼い主にめぐり逢《あ》えますように」
聞いているうちになんだか悲しくなり、胸がつまって声が出ない。宙にぶらさげられたまま手足をばたつかせていると、どさりと音がしてまだ見えぬ目から火が出たような気がした。
おれはどうやら木箱《きばこ》のような容器の底にほうり込《こ》まれたらしい。鼻と尻尾《しつぽ》で探《さぐ》るに、四方はざらざらした板の壁《かべ》で、ぷんと木の匂いがした。それから木箱が四、五回、大きくゆらゆらと揺《ゆ》れて、ごとんとどこかの床《ゆか》の上に置かれたような気配《けはい》がした。同時につんと鼻の穴めがけて、怪《あや》しい臭気がとびこんできた。あとで知ったことだが、それはガソリンの臭気だった。
母親の声はそれっきり聞こえなくなってしまった。ちいさくなってくんくん鼻を鳴らしていると、やがて木箱をのせた床ががたがた震《ふる》えだした。そしてぶるんぶるんという面妖《めんよう》な音が聞こえはじめた。
今、考えればなんのことはない、おれは木箱のまま自動車の後《うしろ》の座席に乗せられていただけのはなしだが、そのときはこの世にそんなものがあるとは知らぬから、ただ怯《おび》え、ひたすら震えているばかり。
そのうちに、木箱の前に二人、横に一人、人間が坐《すわ》った。木箱の横に坐った人間からは石ころとチョークの匂いがした。となると匂いの主は石ころ先生にちがいない。木箱の前の右からはおしろいの匂い、これは石ころ先生の奥さんである。そして、木箱の前の左手に、小便の匂い。これは石ころ先生夫妻のひとり息子《むすこ》だ。寝小便《ねしようべん》がまだ治らず、年中、奥さんに叱《しか》られているからすぐにわかる。
「さあ、小学校と高校へ送って行ってあげます」
と、奥さんがなにかをごとごとと操作しながらぶっきら棒な口調で言い、それからこうつけ加えた。
「……帰りに仔犬を始末してきますからね」
始末というコトバの意味は、そのときのおれにはよくはわからなかったが、奥さんの声にはなにか知らぬ思わずぞっとして身の毛がよだつような響《ひび》きがあった。
(逃《に》げよう!)
と、おれはとっさに心を決めて板の壁をさかんに手で引《ひ》っ掻《か》いたが、口惜《くや》しいことにまだ目が見えない。どこに手のかかるところがあるのか、まるで見当がつかぬ。
ぶるんぶるんぶるんという音が高くなり、車が勢いよく前に飛び出した。おれはその弾《はず》みを食らって思い切り木箱の板壁に鼻をぶっつけてしまった。鼻の奥がきいんと|きな《ヽヽ》臭《くさ》くなり、しばらくのあいだ、様《さま》ざまな匂いが一緒くたになって鼻の穴のなかで渦巻《うずま》いていた。前にも言ったと思うが、犬にとって鼻はもっとも大切な器官である。人間にたとえれば目の玉ほども大事なところである。物事を識別するのもまず鼻からだ。そこをぶっつけたのだから、おれは痛いのが半分、恨《うら》みが半分の唸《うな》り声をあげた。
「ママの運転は乱暴だなあ」
前の席の左側で(あとで知ったことだが、前の席の左側を助手台、右側を運転席というのだそうだ)、小学生の男の子が言った。
「こんな運転でよく人を引っかけないですんでるね」
「ママだって、周囲に人の気配があれば静かに発進するわよ」
と奥さんが答えた。
おれは木箱の底で仰天《ぎようてん》しながら親子の会話を聞いていた。自分と同じ種族の「人間」を引っかけるだの引っかけないだのというコトバ遣《づか》いがまず不穏当《ふおんとう》ではないか。引っかけるとは轢《ひ》くというコトバと同意だろう。そして轢くということは殺すというコトバと同義だろう。「殺す」「殺さない」というおそろしいコトバを気楽に交《か》わし合う母と子の、その神経がおれには理解できなかった。おれに言わせれば二人とも神経が鈍感《どんかん》である。この調子では飼い犬の生命など石のかけらほども重いとは思っていないにちがいない。
(……さっき奥さんは「おれを始末する」と言っていたが、その始末とは、ひょっとしたら、おれの生命をどうにかする、ということなのじゃあなかろうか)
おれははじめてここでこう思い当たり、木箱の底にべったりと尻《しり》をおろした。つまり腰《こし》を抜《ぬ》かしたのだ。
「……この仔犬を家に置いてやるわけには行かないものだろうかねえ」
と、石ころ先生がおずおずと言った。この石ころ先生の態度もじつはおれの理解を超《こ》える。彼は一家の主人である。彼が働いているからこそ、奥さんも息子も飢《う》えずに済んでいるのである。おれは男だ、おれが一家を養っているのだ、という誇《ほこ》りがあれば、なにもおずおず口をきく必要はないはずではないか。なのに「……行かないものだろうかねえ」などと二重三重に持ってまわった口のききかたをするのは、自分の稼《かせ》ぎが少ないと思っているせいだろう。口はばったいことを言うようだが、おれたち犬の世界にはこんな男、というか雄《おす》はいない。雄は一所懸命《いつしよけんめい》に働き、それで妻子を養うのを誇りに思っている。稼ぎ高の多い少ないはまったく問題にはされぬ。ただどれだけ真剣《しんけん》に汗《あせ》を流したか、だけが問題なのである。
案《あん》の定《じよう》、奥さんが石ころ先生にいや味を言った。
「あなたが研究をまとめて本になさるなり、家庭教師をしてもっと稼ぐなりしてくだされば、犬の一匹や二匹|殖《ふ》えてもどうということはありませんけどね、いまの収入では、建売りの月賦《げつぷ》、車の月賦、テレビや冷蔵庫の月賦など、月賦の支払《しはら》いでかっつかつ。とてももう一匹、犬を飼う余裕などありませんわ」
車が止まった。耳を澄《す》ますと、たくさんの車の音や人の声がする。車はどうやら住宅地から街に出たらしかった。
おれをのせた車はやがてまた動き出した。しばらくは石ころ先生の奥さんの独演会が続く。
「たしかに犬も一匹ぐらいなら残飯で間に合うかもしれないわよ」
奥さんの声音《こわね》はあいかわらずつんけんしている。
「だけど二匹となるとそうはいきませんからね。それに仔犬の世話は大変なのよ。夜中に起きてミルクを飲ませなきゃいけない。下《しも》の世話もある。風呂《ふろ》を使わせなきゃいけない。ちょっと様子がおかしいと見れば獣医《じゆうい》さんのところへかけつける……。人間の赤《あか》ん坊《ぼう》より始末が悪い。その上、犬の世話は一切《いつさい》、わたしの役目でしょう? あなたはいつも石っころと睨《にら》めっこ、坊やはなんだかんだといって逃げる。つまり、犬を飼うということは主婦の労働量がふえるってことなのよ。その犬が二匹にふえたら、主婦はまるで女|奴隷《どれい》よ。読みたい本も読めやしない」
「ママは本なんか読まないじゃないか」
小学生の息子がここで半畳《はんじよう》を入れた。
「読んでいるのはたいてい女性週刊誌か芸能週刊誌だろう。それでさ、家にある週刊誌を読み終えると、隣近所のママたちと週刊誌の貸しっこをする。ぼく、このあいだ、ママが一週間に何冊《なんさつ》の週刊誌を読むのか、記録をとってみたんだ。パパ、ママは一週間に週刊誌を何冊読むと思う?」
「さあ、わからん。でも、一日一冊として週に七冊ぐらいは読んでいるだろうな」
「世の亭主族《ていしゆぞく》が女房《にようぼう》族の実体に無智《むち》なことはおそるべきものがあるなあ」
小学生の息子はませた口をきいた。
「一週間に十八冊だぜ」
「おだまり!」
奥さんが雷《かみなり》を落とした。
「自分のママをスパイするなんて子どものやることですか。だいたい、うちに犬なんてものを持ち込んだ張本人は坊やなんですよ。犬を飼ってください。飼ってくれたら勉強します。もちろん世話もします。だいたい、ぼくのクラスで犬を飼ってない家は、ぼくを入れて五軒だけです≠セなんてうまいことを言って。ママは坊やの言葉を信じて犬を飼ってあげましたけどね、坊やが勉強したのは犬が来てから一週間ぐらいのものじゃない。犬の世話をしたのも一週間。あとはなにもかもママに押しつけて。……ああ、坊やの言葉を信じたママが馬鹿だった」
「そういう台詞《せりふ》をいっちゃいけないよ、ママ。それはテレビの昼のメロドラマによく出てくる台詞。すこし昼メロの見すぎだぜ」
息子《むすこ》はここで奥さんに車を停《と》めるように言い、車から降りるとこうつけ加えた。
「ねえ、ママ、こんどは自転車を買ってくれないかな。自転車を持っていない子はクラスで三人しかいないんだぜ。おたがいに外聞《がいぶん》が悪いと思うよ」
つづいて石ころ先生も車を降りた。どうやらそのへんには学校がいくつかかたまってあるらしかった。
「行ってらっしゃい」
と石ころ先生と息子に声をかけながら、奥《おく》さんもおれの入った木箱《きばこ》を抱《かか》えて車から出た。木箱の中で三分ぐらい揺《ゆ》られているうちに、おれの耳に川の音が聞こえてきた。奥さんはおれを川へ運ぼうとしている。いったいおれをどうするつもりなのだ?
と、そのうち急におれの身体《からだ》がふわりと宙に浮《う》き、すぐにばしゃっという水音が木箱の下でした。
まことに|うかつ《ヽヽヽ》な話であるが、自分の耳が木箱の下に水音を聞き、自分の鼻がまわりに水の匂《にお》いを嗅《か》ぎ、自分の平衡感覚《へいこうかんかく》が己《おの》が身体のゆらゆら揺れるのを感じてはじめて、
(あっ、川流しになるのだな)
と、おれは自分の運命に思い当たった。だがもう遅《おそ》い。木箱はかなりの速度で動きだしており、木箱の底が川底の砂利《じやり》に擦《す》れて砂利々々《じやりじやり》と鳴った。浅瀬《あさせ》だから流れの速さは相当なものである。
「だれかに拾われるといいんだけどねえ」
木箱を追《お》う靴《くつ》の音がする。石ころ先生の奥さんが、河原を、木箱と並《なら》んで歩いているらしい。人情紙の如く薄《うす》い奥さんもさすがに捨て犬は気が咎《とが》めるものと見える。
「拾われる前に木箱が転覆《てんぷく》しても、あたしたちを恨《うら》まないでね」
なにを虫のいいことを言ってやがる、とおれはそのとき思った。勝手にポイと捨てておいて恨まないでもないものだ。人間に苛《いじ》め殺された猫《ねこ》が化けて出たくなる心境がよくわかる。
「だいたい、おまえの器量が悪いのがいけないんだわ。おまえをどこかに引き取ってもらおうとずいぶん歩き回ったのだけど、おまえの不格好《ぶかつこう》なのを見てどこでも二の足を踏《ふ》むのよ。おまえの兄弟たち二|匹《ひき》がそれぞれ引き取り先が決まったのはとても可愛《かわい》かったからなの。そこへ行くとおまえは……」
木箱はますます速さを増し、奥さんの声は瀬音《せおと》に消されて聞こえなくなった。奥さん自身も木箱を追うのはよしにしたらしい。
だがそれにしても、自分の冷酷《れいこく》さをおれの容貌《ようぼう》の醜《みにく》さにすりかえるとは、人間という生物も身勝手きわまる。たとえばここに花の顔《かんばせ》とはとてもいえぬ土手南瓜《どてかぼちや》もどきの器量を持った人間の娘《むすめ》がいるとしよう。彼女《かのじよ》は美しくなりたい一心で整形医の門を叩《たた》く。整形医は手術をする。だが不幸にして手術は失敗し、彼女の鼻は毒きのこの如き醜悪《しゆうあく》なる形状を呈する。しかもさらに不幸なことに、手術の経過いちじるしく悪く、彼女は死ぬ。このとき、整形医が、
「わたしが悪いのではない。彼女が醜く生まれついたのがいけないのだ」
という談話かなんぞを発表したらどうなるか。世論の袋叩《ふくろだた》きにあうにちがいない。つまりいくら醜くても、それだけでは生命を奪《と》られる理由にはならぬはずである。だが石ころ先生の奥さんはおれの不器量さを川流しの刑《けい》の理由にした。自分たちがそうされて怒《おこ》ることを他には平気でやってのける。これが身勝手でなくてなんぞや。
と、腹を立てているうちに木箱の底を擦る砂利の音がしなくなった。木箱の速度もだいぶ落ちついてきたようである。どうやら木箱は川の本流に出たらしい。急に淋《さび》しくなった。どうしたらよかろうかと考えてみたが、生後半月足らず目さえまだ見えないそのときのおれにこれという確かな分別の出るはずはない。腹も減ってきた。母親の乳房《ちぶさ》が無性《むしよう》に恋《こい》しい。泣いたら母親が来てくれるかもしれぬと思いつき、ワンワンと試みにやってみたが、むろん母親がかけつけて来るわけはない。さあ、どうしよう。たったの十日ちょっとでこの世とお別れか。おもわず涙《なみだ》がこぼれそうになったが、そのとき、急に目の前が明るくなった。おれの目が開《あ》いたのである。
おれたち犬の視覚は正直いって人間さまよりはだいぶ落ちる。せいぜい百メートルぐらい先までしか見えぬ。考えてみればこれは理の当然で、犬は四つん這《ば》いであるから眼高が低い。したがって視界が狭《せま》くなり、その分だけ遠眼《とおめ》がきかないのである。遠眼のきかないことのほかに犬の視覚にはもうひとつの欠点がある。じつはおれたちは色盲《しきもう》なのだ。白梅《しらうめ》の花は白くは見えない。おれたちには緑がかった白色である。そうして桃《もも》の花は緑がかった桃色、桜《さくら》の花は緑がかった桜色、すみれの花は緑がかった紫色《むらさきいろ》、菊《きく》の花は緑がかった黄色。また緑の松《まつ》の色もやはり緑がかった緑色に見える。もっともこれは当たり前だ。
おれたち犬は、泥棒《どろぼう》をはじめとする、常日頃《つねひごろ》あまり姿を見かけない人間に対してはさかんに吠《ほ》え立て、飼《か》い主《ぬし》に警戒信号《けいかいしんごう》を発するが、飼い主たち人間がいくら無計画に山林を伐採《ばつさい》しても別に警戒信号を発することはしないのはこの「なんでも緑がかって見える」色盲のためであって、べつに怠《なま》けているわけではない。木を切り倒《たお》しブルドーザーで草を剥《は》ぎとった山の赤肌《あかはだ》もおれたちにはなんとなく緑に見えるから、警戒信号の発しようがないのである。
このように欠点の多い眼ではあるが、それでも|もの《ヽヽ》が見えるということはありがたいもので、おれは少しばかり元気をとり戻《もど》した。
「おれも雄《おす》の子、男の子。この苦境を自分の力でどうにかして乗り切ってみよう」
こう雄々《おお》しくも決心し、木箱の縁に前肢《まえあし》をかけてよいしょとひとつ背伸《せの》びをし、己《おの》れがいったいどのような状況下《じようきようか》にあるのか、ざっと観察を試みる。
広い大きな川である。右岸にはゴルフ場があり、ゴルフ場の向こうは土手である。これは後に聞いたことだが、右岸の土手の向こうには日蓮《にちれん》という偉《えら》い坊《ぼう》さんの彫刻《ちようこく》した帝釈天《たいしやくてん》像で知られる柴又《しばまた》の題経寺《だいきようじ》というお寺があり、その題経寺は「男はつらいよ」だったか、「女はらくだよ」だったか忘れたが、なんでもそのような題名の人気映画で日本中に知られているそうである。あのときのおれがそれを知っていたら、右岸に接近しようとしていたにちがいない。そして、その題経寺の境内《けいだい》をうろつき、ロケーション隊に尻尾《しつぽ》を振《ふ》り、ちんちんかなんかひとつ憶《おぼ》えの芸を披露《ひろう》して、映画のどこかにちょろっと出させてもらう。むろんこれが大好評で、次回作からは主人公の風来坊《ふうらいぼう》が古本を街頭販売するときにそばでじっと坐《すわ》っている忠犬の役を貰《もら》う。出演料はドッグフード一年分。こうなったらしめたもの、犬の世界での出世頭である忠犬ハチ公や、レコードの商標《しようひよう》になっている|あの《ヽヽ》坐り犬ぐらいの人気は楽に取れたのだが、おれはこの右岸から左岸に眼を転ずるや、これはもう断然左岸に着岸をするにしくはなしと決めたのである。
それはなぜか。理由は簡単である。左岸には緑が多かったからだ。緑が多いだけあって閑静《かんせい》のようである。そして、そのへん一帯に森があり林があり公園がありすべて緑ずくめだった。緑だけはよく見えるから犬としてはその緑に強く惹《ひ》かれたのだろう。それにもうひとつ、おれたち犬は閑静を好む。散歩と雪と静けさ、これが犬の三大好物なのだ。
おれは木箱の左壁《ひだりかべ》に身体《からだ》をつけ体重を左方に掛《か》けた。木箱はゆっくりと左岸に近づいて行った。
左方に流れて行くためには木箱の左半分に体重をかければよい、ということを生後半月も経《た》たぬ仔犬《こいぬ》のおれがどうしてわきまえていたのか。それは当のおれにもよくはわからぬ。本能でそう直感したのかもしれないし、またおれの知能がすこぶる上等で、川に捨てられてからそのときまでの二、三十分の木箱乗りの経験からすでに、右へ重みをかければ右方へ、その逆なら左方へ木箱が流されて行くという法則性を会得《えとく》していたのかもしれない。
と、こんなところで|おだ《ヽヽ》をあげるのはよしにして話を続けると、とにかくおれはこの法則性を十二分に活用しながら左岸へ近づいて行ったのであるが、なにごとによらず過ぎたるは及《およ》ばざるが如しだ。左の岸へ近づいて行くのが嬉《うれ》しくて、さあもうすこし、それもうひといきと木箱の左壁にどんどん体重をかけているとそのうちに、木箱がくるっとひっくりかえってしまったのだ。
あッという間もあらばこそおれは水中に投げ出され、鼻と口からしこたま川水を飲んだ。
(もはやこれまで)
と、おれはいさぎよく観念した。
(母親と生き別れ、捨てられ、流され、溺死《できし》する。これがおれの一生だったのだ)
……だが、このとき|まか《ヽヽ》不思議な事態が生じた。誰《だれ》にも教えてもらった憶《おぼ》えはないのにおれの身体がぽっかりと水面に浮かんだのである。さらに驚《おどろ》くべきことは、水泳教室に通ったはずもないのに、おれの二本の前肢《まえあし》と二本の後肢《あとあし》がまことに見事な連関を保ちつつひとりでに動き出したのである。つまり気がついたらおれは必死になって犬掻《いぬか》き泳ぎをしていたというわけだ。犬が犬掻きをするのは当たり前といえば当たり前だが、すがる藁《わら》とてもない大川の水の上、おれはあのときぐらい犬に生まれてよかった、と思ったことはない。
死にものぐるいの力泳《りきえい》五メートル、おれはようやく左岸まで泳ぎつき、その途端《とたん》、
(……よかった、助かった!)
の声も口のなか、その場にばたりと打ち倒《たお》れ気を失ってしまった。生まれてはじめての大冒険《だいぼうけん》におれは精も根も尽《つ》き果ててしまったのである。
それからどれぐらい経ってからかわからぬが、人間の手のひらに載《の》せられてスーと持ち上げられる気配におれは正気に返った。漱石《そうせき》の猫君《ねこくん》の口調《くちよう》を借りれば「おれはここで始めて人間というものを見た」のだ。むろん石ころ先生のところに寄宿しておったときに、おれは人間の声を聞き、人間の匂《にお》いを嗅《か》いでいた。だがそのときのおれはまだ眼が開いておらず、したがって人間がどういう格好《かつこう》をした生き物かについては全く知るところがなかったのだが、ふたたび漱石の猫君の台詞《せりふ》を借用すれば「この時|妙《みよう》なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾《そうしよく》されるべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶《やかん》だ」。第二に目玉が四つある(あとで知ったことだが、四つのうちの二つは眼鏡という面妖《めんよう》な代物《しろもの》だった)。第三に頭の上が黄色でつんつるてんである(これもあとでわかったことだが、この黄色くてつんつるてんのものは小学生のかぶる|自動車よけ《ヽヽヽヽヽ》の安全|帽子《ぼうし》という|けったい《ヽヽヽヽ》な道具だった)。
さて、生まれてはじめてお目にかかったこの人間は、おれの顔を四つの目玉でじっと眺《なが》めていたが、やがてひとこと、
「……なんてかわいい」
と言った。存外やさしい声である。
不細工《ぶさいく》、不器量、不格好と、おれは「不」のつく名詞には馴《な》れっこになっているが、かわいいと評されたのは始めてである。大いに驚いてその人間の顔をじっと見つめると、これがなんとなく優《やさ》しそうな感じだったから、おれはすこしばかりほっとした。しかし、人間によって川流しの刑《けい》に処せられたという心の傷痕《きずあと》もまだふさがっていないから、全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》を置くの愚《ぐ》はくり返さぬ決心、一旦緩急《いつたんかんきゆう》あればすぐに逃《に》げようという構えは崩《くず》さなかった。
「ずいぶん痩《や》せている」
四つ目のやさしい声の持ち主が呟《つぶや》く。
「ずっとなんにも飲んだり食べたりしていないみたいよ」
おれは、そのとおりだ、と情けない声でくんくん啼《な》いてみせた。
「和子、そんなに気に入ったんなら家へ連れて帰ればいいじゃない」
横手でこう言ったのは、和子と呼ばれた人間と同じように自動車よけの黄色い帽子をかぶったやつである。このとき気がついたのだが、二人とも背中に大きく四角い黒い|コブ《ヽヽ》があった(これまたあとで学習したのだが、その黒いコブはランドセルと称する物入れだった)。
「和子んちには犬がいないんでしょ。だから、この犬、飼《か》えば?」
「そりゃ飼いたいわ。でもだめ」
「どうして?」
「お父さんは犬が嫌《きら》いなの。あたしが、犬飼って、っていうと、犬なんてものは金持ちが飼うものだ、って大声で怒鳴《どな》るのよ」
「でも和子の家はお金持ちでしょう。だって和子のお父さん、小説家じゃない? うちのママがこのあいだこういってたわよ。世の中に医者と土地|成金《なりきん》と小説家ぐらい|ぼろい《ヽヽヽ》のはない、って」
「ぼろいってどういう意味?」
「もうかる、ってことらしいわよ」
「うちのお父さんはぜんぜんもうかってないみたいよ。だって仕事が遅《おそ》いんだもん。たとえばあたしが綴《つづ》り方《かた》を原稿用紙《げんこうようし》に一枚書くでしょう、するとお父さんはその間に三字か、四字ぐらいしか書いていないの。それもわたくし≠ノするかわたし≠ノするかで悩《なや》んでいるんだから。煙草《たばこ》を何本もすって、お茶を何杯《なんばい》も飲んで、脂汗《あぶらあせ》を流して、熊《くま》みたいにごそごそ歩きまわって、見てると可哀《かわい》そう」
「和子が代わって書いてあげればいいのに。あんた綴り方がとっても上手なんだから」
「うん。ときどき子どものための小説の題名なんか考えてあげるのよ。こないだ考えたのは天狗《てんぐ》がおごってくれたうどんかけ=Bあたし、二十円もらっちゃった」
「安いわよ、二十円じゃあ」
「二十円がいいところじゃないのかなぁ。だって、あたし、学校の図書館で北風のくれたテーブルかけ≠ニいうの読んで、それで思いついたんだもの」
和子と呼ばれた人間はやさしい上に正直な心の持ち主らしい。行先のあてのない身の上としては、こういう人間のところへ寄食したいものだ、と思いながら、おれは彼女の手のひらの上で二人の会話《やりとり》にぴんと耳を立てていた。
「とにかくお父さんが第一の難物だわ」
「第一っていうと、第二、第三の難物もあるの?」
「あるわよ。第二がお母さんで、第三が昭子姉さん。二人とも生き物が嫌いなの」
和子君が口を尖《とが》らせる。
「お母さんなんか魚を料理することも出来ないのよ。とくにお頭《かしら》つきの魚はだめ。魚の目玉が怖《こわ》いんだって。姉さんもそう。お頭つきの魚は絶対にたべないわよ」
「臆病《おくびよう》で気がやさしいのよ」
と、和子君の友だちは頷《うなず》き、
「それならかえって犬を飼うかもしれないわよ」
「どうして?」
「だってそんなに気がやさしいのなら、まさか自分の家に迷い込《こ》んできた生き物を追い出したりはできないじゃない? そしてそんなに臆病なら、迷い込んできたものを追い出す勇気もないはずだわ」
「迷い込んできた? この犬はまだうちには迷い込んではいないわよ」
「この犬を自分の家に迷い込ませればいいじゃない。それでね、和子以外の誰《だれ》かにこの犬を発見させるのよ。発見した人は責任を感じる。気がやさしければやさしいだけ、仕方がないから飼うことにしようか、ということになるんじゃないかしら」
「そうか、それはいい手ね」
和子君はうれしそうにおれを抱《だ》き直した。
「そうすることに決めたっと。でも、家に連れて帰る前に、どこかで牛乳を買ってこの犬に飲ませてあげなくちゃ。ずいぶんおなかを空《す》かせているみたいだから……」
「およしなさいよ、そんなこと」
和子君の友だちは断々固とした言い方をした。
「おなかを空かせた哀《あわ》れな仔犬、そのほうが家の人の同情を買うわ。見ていられなくなってだれかがきっと牛乳を仔犬にやる。仔犬は大よろこびで牛乳を飲む。犬の、そのうれしそうな様子を見れば、どんな犬嫌いでもころっと参《まい》っちゃうと思うわ。なんてかわいいんでしょ。こんなかわいい犬がうちに迷いこんできたのもなにかの因縁《いんねん》なんだわ。しばらく家に置いてやろうかしら≠ネんてことにおそらくなるわよ」
「うん、わかった」
和子君は大きく首をひとつたてに振《ふ》って土手の方へ歩き出した。
「言われた通りにやってみるわ」
和子君と彼女《かのじよ》の友だちは土手の上で右と左に別れた。おれは和子君に抱かれたまま、土手の下の雑木林《ぞうきばやし》に入る。林を吹《ふ》き抜《ぬ》けて行く風はまことに涼《すず》しく、どうやらこれでなんとか救われそうだという目安《めやす》の立ったこともあって、おれは大いに愉快《ゆかい》な気分になった。これで腹さえ空いていなければ言うことはないのだが。
間もなく雑木林が尽きた。目の前にはマッチ箱《ばこ》の如《ごと》きちゃちな普請《ふしん》の住宅が二十|数軒《すうけん》、建っている。
「いいこと、仔犬君……」
和子君が小声でおれに囁《ささや》いた。
「あたしが仔犬君を縁《えん》の下に隠《かく》すまで決して声をあげてはだめよ。でないと、家の誰かに発見させようという作戦が|ペケ《ヽヽ》になってしまうからね」
百も承知、二百も合点《がつてん》とおれは頷《うなず》いたが、むろん和子君には、犬のおれが人語を解するとは知らぬ。彼女はおれの口に掌《て》で蓋《ふた》をして、とある門の中に入るや、縁の下に、おれを押《お》し込《こ》んだ。察するところ、そこが彼女の家らしい。
縁の下からおれはまず周囲に鋭《するど》い観察の矢を放った。おれの頭上を覆《おお》う安普請の家屋は、六|畳《じよう》とふたつの四畳半と八畳の居間《いま》、それに六畳ほどの食堂|兼《けん》台所がその間取り。縁の下の柱を点検するに、あちこちにだいぶ節《ふし》のある木材が用いられている。安普請の安普請たる所以《ゆえん》がその節だらけの柱からも窺《うかが》われるようである。庭は二十|坪《つぼ》ばかりある。一面に芝生《しばふ》が植えてあるが、値《あた》いの下直《げじき》なる芝のせいだろう、うまく根付いてはいないようだ。隣家《りんか》との境は灰色のブロック塀《べい》でこれは殺風景《さつぷうけい》である。
と、そのうちに頭上で電話が鳴った。今朝《けさ》まで十日間ほど寄宿していた石ころ先生のところにも、この電話というものがあったから、おれはその金属性の、耳ざわりな音にも一向《いつこう》に驚《おどろ》かぬ。かえって耳をそばだてて、誰《だれ》が電話に出て、いったいどんな話をするのかに注意を向ける。これからおれを飼《か》ってくれるかもしれぬ家庭の構成員の、それぞれの人となりを下調べしておこうというつもりなのだ。
「はい、松沢ですが」
受話器をとったのは、間のびしていて不活発《ふかつぱつ》で、その上|不機嫌《ふきげん》そうな声の持ち主である。これがたぶん和子君の父親である小説家の先生だろうと見当をつけ、おれはなおも耳を澄《す》ましていた。
「まだです」
向こうからなにか問われていた小説家先生がぶっきら棒な声で答えた。
「むろん締《し》め切《き》りが過ぎていることは知っていますよ。しかし何といわれても書けないものは書けないのだから仕方がないでしょう」
なんだか書けないのを得意がっているような口調である。
「……わかりました。今日中になんとか手をつけますよ」
面倒《めんどう》くさそうな声につづいて受話器を元に戻《もど》す音がした。
やがてそのうちに、小説家先生がのっしのっしと頭の上を歩き回る気配がしはじめた。ここでおれは低い声でひとつ「キャン」と啼《な》いてみた。小説家先生は原稿《げんこう》が書けずにいらいらしている、そんなときにキャンキャン啼いたのでは足の先で蹴《け》っ飛ばされる危険もなくはない、先生に発見されるのは下《げ》の下《げ》の下策だろうとは思ったが、腹が減って腹の皮と背中の皮がくっつきそうで一刻も猶予《ゆうよ》ができなくなったのだ。すこしでも早く誰かに発見されて食べ物にありつかぬことにはどうにもならぬ。キャンとは啼いたが、頭上の足音はまだやまぬ。おれの啼き声が小説家先生の耳に入らなかったのだろう。と見ると庭に和子君が出てきた。彼女は芝生の上に蹲《かが》んで、早く啼きなさい、早く発見されなさい、と手を振《ふ》っていた。そこでおれはとっておきの大声で「キャンキャン!」を三回ほど繰り返した。ぴたりと頭上の足音がやんだ。
「おい、和子、いまどこかで犬の啼き声がしなかったか?」
小説家先生が和子君に訊《き》いている。
「わしはたしかに犬の声を聞いたがね」
「さあ、知らない。気がつかなかったわ」
と、和子君は表に出て行く。ここで和子君に見放されては大へんだと思い、おれはよろよろしながら縁の下から外に這《は》い出た。とたんにおれはいきなり首筋をつかまれて宙に吊《つ》り上げられてしまった。目の前に小説家の先生の顔があった。いやに長い顔である。
小説家先生は顎《あご》の不精髭《ぶしようひげ》を撫《な》でながらおれの顔をしばらく眺《なが》めておったがやがて、
「ずいぶん痩《や》せた犬だな」
と、呟《つぶや》いた。その声の調子にはかすかながら「可哀想に」という色合いがこもっている。おれはすかさずそこにつけこんで出来るだけ哀れっぽくクンクン鼻を鳴らしてみせた。
「腹が減っているようだぞ」
小説家先生はおれの首筋をつかんだまま庭先から家の中に入る。さすがは小説家だけあって家の中はどこもかしこも書物の山である。先生はおれを宙にぶらさげたままにして台所の隅《すみ》の、白い大きな箱《はこ》の扉《とびら》を開いた。あとで聞くとそれは冷蔵庫という人間の用いる家財道具中で一番高価なものであったそうだ。この冷蔵庫も、その後でお目にかかったテレビや洗濯機《せんたくき》も等《ひと》しく電気というもので動くという話である。となるとその電気というやつよほどの働きものに違《ちが》いないが、おれはまだ一度もそいつにお目にかかったことはない。そのうちに是非《ぜひ》お目にかかりたいものだと思っている。
さて、冷蔵庫の中から、小説家先生は白い液体の入った広口の壜《びん》をとりだし、それを小皿《こざら》に注いだ。とたんにぷうんといい匂《にお》いがおれの鼻の穴に侵入《しんにゆう》してきた。母親の乳房《ちぶさ》から出る母乳とよく似た匂いである。ああ、早く飲みたい! おれは空中でばたばたと四肢《しし》を振った。よしよし、と言いながら小説家先生はおれを小皿の前におろした。もうあとは夢中《むちゆう》であった。本当ならばすこしあっためた上|哺乳壜《ほにゆうびん》に入れてもらいたいところだが、この際、そんな贅沢《ぜいたく》はいってはおられぬ。おれは小皿の中の白い液体を息を継《つ》ぐのも忘れて一気に飲んだ。これも後で知ったことだが、この白い液体は牛乳というものだったらしい。
小皿の白い液体をあらかた飲み終えたころ、玄関口《げんかんぐち》で「ただいま」という声がした。女性の声である。声から察するに三十|歳凸凹《さいでこぼこ》といったところ。おそらく小説家先生の奥《おく》さんだろう。奥さんと称する種族について、おれは石ころ先生のところのしか知らないが、彼女には川流しの刑《けい》というひどい目に遭《あ》っている。奥さん族だと思った瞬間《しゆんかん》に、おれは全身総毛立って矢庭に庭へ走り出そうとした。そこを小説家先生がむんずと掴《つか》み、
「おう、お帰り。早くこっちへ来てみろ。おれの書斎《しよさい》の下に、こんなものが迷い込んで来ていたのだ」
「……こんなものってなぁに?」
言いながら台所に入ってきた奥さん、丸顔に丸い目、丸い鼻の陽気な顔立ちの女である。
「きゃっ犬!」
奥さんはおれを見て、悲鳴をあげた。悲鳴をあげるついでに手に持っていた買い物|籠《かご》を取り落とし、籠の中のものがごろごろと床《ゆか》を転がった。おれたち犬はまことに動くものに弱い。目の前にころころ動くものが見えれば、咄嗟《とつさ》にそいつに跳《と》びかかるという習性を有する。おれも犬だからこの習性からはのがれられず、おそろしい奥さん族のひとりが傍《そば》に立っているのも忘れて、そのころころ転がるものに跳びかかり、がしっ! と爪《つめ》を立てた。立てた途端《とたん》におれは泣きたくなってしまった。これまた後で聞いたことだがおれが爪を立てたのは玉ねぎとかいうものだそうである。
「なかなか可愛《かわい》いだろう? うちへ置いてやったらどうだね?」
小説家先生は顔の真ん中の穴からぷうぷうと烟《けむり》を吹《ふ》きながらいった。玉ねぎとこの烟、どうも咽《む》せっぽくておれは弱ってしまった。これも後で知ったことだがこの烟を人間は煙草《たばこ》と称しているようである。
奥さんは台所の床の上にべったりと尻《しり》をおろし、しばらく呼吸を整えていたが、やがて、
「うちには犬なんか置きませんよ」
と、小説家先生に言った。
「だいいちに犬であれ猫《ねこ》であれ生き物は嫌《きら》いですから」
「まてまて」
小説家先生が顔の穴の中からぷうっと烟を吹きながら、
「おれも決して生き物は好きではない。だが、いましがた、おや? と思うようなことがあったのだ」
「なにが、おや、です?」
「牛乳を飲ませるまでは、おれは牛乳を飲み終わったらすぐこいつを外に叩《たた》き出してやろうと思っていた。だが、こいつが無心に牛乳をぺちゃぺちゃ舐《な》めているのを見ているうちに、なんとなく可愛いな、うちに置いてやってもいいな、と思いはじめてきたんだよ。つまり、ここに一個の小さな生命がある。その生命の活殺《かつさつ》を握《にぎ》っているのはおれひとり。おれの扱《あつか》い方ひとつでこの小さな生命は生きもし、死にもする。そう思ったら、よし、こいつの生命を守ってやらなくてはならぬ、という気がしてきたのさ」
石ころ先生の奥さんならここで、
「お人好しなのね」
「おセンチなのね」
「いい大人がテレビドラマの主人公みたいなことを喋《しやべ》くってよく恥《は》ずかしくないこと」
と、機関銃《きかんじゆう》よろしく次々に悪罵《あくば》を放つところだが、小説家先生の奥さんは黙《だま》って聞いている。おれは彼女の物静かな態度に大いに感服しつつ、小説家先生の次の言葉を待っていた。
「もうひとつ、この犬を飼ってみようかな、と思った理由がある。おれは新聞に連載《れんさい》小説を書かなければならない。しかも今日が第一回の締め切り日なのだが、じつは何を書いていいのかわからず、手がつかないでいる。だがね、牛乳を飲むこの仔犬《こいぬ》を眺めているうちに、ぴかっと閃《ひらめ》いたことがあるんだ。この仔犬を主人公にした小説を書いてやろう。夏目漱石《なつめそうせき》には吾輩《わがはい》は猫である≠ニいう傑作《けつさく》があるが、あれの|もじり《ヽヽヽ》で吾輩は犬である≠ニいうのはどうだろう、と思いついたのさ」
おれは小説家先生の話を聞いているうちにあれれ? となった。小説家というものはもっときびしい世渡《よわた》りをするものではないのか。何日も何日も、いや事によると何年も何年も苦吟《くぎん》しつつ題材を温め、練り、ふくらまし、しかるのちにようやく書く、これが小説というものではないのか。なのにこの先生は、五分前に迷い込んできたこのおれを題材にして、連載小説をでっちあげようとしている。ふん、小説家というものはじつに楽なものだ。もしも来世《らいせ》、人間と生まれたら小説家になるに限る、おれはそう思った。なにしろ、題材につまったら、窓の外をじっと睨《にら》み、蠅《はえ》が飛び込んできたらその蠅を主人公に、蚊《か》がぷーんと這入《はい》ってきたらその蚊を主人公に、蜂《はち》がぶうんと侵入してきたらその蜂を主人公になにか書き連ねればよいのだから。
「お仕事のために飼うとおっしゃるのなら、わたしがいくらいやだいやだと言っても仕方がありませんわね」
しばらくなにか考えていた奥さんがやがてきっぱりした口調で言った。
「あたし、犬に馴《な》れるように心掛《こころが》けてみます」
亭主《ていしゆ》の仕事のためならば、自分の嫌いな生き物であろうとなんであろうと、どんと引き受けてみせましょうという、この奥さんの心意気におれは思わずじんときて、
「おかみさん、あなたにはあんまり手をかけさせないようにいたします」
と、心の中で誓《ちか》った。
「あら、仔犬じゃない!」
このとき、こう叫《さけ》びながら台所に入ってきたのは、かの和子君である。おれを自分の家に迷い込ませ、だれかに発見させるという計画が見事に図に当たったので、満面に喜色《きしよく》が溢《あふ》れている。
「和子、おまえは長い間、犬を飼いたいといっていたろう。そこでお父さんがおまえの願いを叶《かな》えてやることにしたのさ」
小説家先生は、すべてが和子君の企《たくら》んだ|からくり《ヽヽヽヽ》とは知らぬから、大いに恩着せがましい口調で言った。
「よく世話をしてやるのだぞ」
「いいわよ」
和子君はおれを膝《ひざ》の上に抱《だ》きあげてやさしく背中を撫《な》ではじめた。腹は牛乳でいっぱいである。どうやら落ち着き場所もこれで決まったようだ。腹の皮の張ったのと、ほっとしたのとで気がゆるみ、おれはたちまち目がとろとろとしはじめた。
「ただいま!」
玄関口から女の子が入ってきた。重い目蓋《まぶた》をこじあけて見ると和子君よりひとまわり大きい子である。これが和子君の姉の昭子君だろう。
「昭子姉さん、うちで犬を飼うことになったのよ。これがその犬……」
和子君はおれを抱きあげて、昭子君の鼻先に掲《かか》げた。昭子君はじろっとおれを冷たく一瞥《いちべつ》し、
「ふん、雑種ね」
と、冷淡《れいたん》に言い放った。
「でも、可愛いでしょう?」
「可愛いのは仔犬のうちだけじゃないの。雑犬なんて大きくなってからもてあますわよ」
「わたし、ぜったいにもてあましたり邪魔《じやま》にしたりはしないわ」
和子君はおれをしっかりと抱きしめた。抱かれるのは光栄だが、胸を圧迫《あつぱく》されるので苦しくて仕方がない。思わずばたばたともがく。
「へんな動作をする犬ね」
昭子君はまたも冷たく言い放ち、自分の部屋に姿を消した。
「お姉さんのことを気にしちゃだめよ」
和子君がおれに言った。
「そのうちお姉さんもチビ君がきっと好きになると思うわ」
和子君の言葉のおしまいの方が、おれには聞こえなかった。おれはもう眠《ねむ》りに落ちていたのである。
……ふと気が付くとおれはダンボールの中に横になっていた。ダンボールの底にはボロが敷《し》いてある。おそらく和子君の心遣《こころづか》いだろう。立ち上がってダンボールの外の世界を眺める。西日が庭を赤く染めていた。背後の書斎《しよさい》では小説家先生が机に向かってしきりになにか書いている最中である。さっそくおれを主人公にした小説をでっち上げているところなのだろう。時折、おれの方へ眼《め》を走らせているのが、その証拠《しようこ》である。おれは先生の視線がこっちへ及《およ》ぶたびに、にこりと愛想笑《あいそわら》いをしてやったが、先生はむろんそんなことには気が付かず、ただせっせとペンを走らせていた。
おれの日常
人間は犬を飼《か》い、犬は人間に飼われる。これがおれたち犬属と人間との関係のすべてである。人間なしでは犬の世界はほとんど成り立たないのである。むろん犬の世界も十人|十色《といろ》ならぬ十|匹《ぴき》十色で、人間の庇護《ひご》をがんとして受けつけぬ自由犬がいないではないが(これらの自由犬のことを人間は「野良犬《のらいぬ》」と称しているようだ)、これら自由犬連中はたいてい馬鹿《ばか》である。なぜなら連中は自由とかいう役にも立たぬものを守るために、ごみ容器をあさり、露路《ろじ》をうろつき、絶えず怯《おび》えながら食物を探さなくてはならない。そこへ行くとおれたち飼い犬はどうか。まるで王侯貴族《おうこうきぞく》の生活である。上げ膳|据膳《すえぜん》で人間が食物を給付してくれるのだ。人間の世界では近ごろセルフ・サービス式の食堂が多いという。社員食堂などすべてこの式で、なにもかも自分でやるのが大はやりだそうだ。人手不足のせいだというがまことにお気の毒である。おれたち飼い犬はむかしもいまも人間にサービスさせている。犬の世界に人手不足はない。
もうひとつ突《つ》っ込《こ》んで言うと、おれたちは人間に飼われているふりを装《よそお》ってほんとうは人間を飼っているのである。
人間の主人は雨の日も風の日も雪の日も、そして順法闘争《じゆんぽうとうそう》の日も黙々《もくもく》と働きに出かけて行く。こっちはその間、犬舎に寝《ね》そべってのうのうと過ごす。主人は妻子を養っているつもりだが、こっちもちゃんと抜《ぬ》け目なく分け前に預かっているのだ。
また尾籠《びろう》なはなしで恐縮《きようしゆく》だが、人間は用を足すときには一々|後架《こうか》へ飛び込む。居間《いま》で用を足す人間の子どもがもし居れば、それこそ糞味噌《くそみそ》にいわれるはずである。
だがおれたちは不自由な飼い犬という身分を選んだためにかえって自由なのである。居間だろうと床《とこ》の間《ま》だろうと、どことして可ならざるはなしだ。人間の子どもは粗相《そそう》をすると罰《ばつ》として「自分で始末なさい!」などと言われる。だがおれたちはこれまで一度だって、「自分で始末なさい」と言われたことはない。ぶつぶつと不平は洩《も》らすけれど、結局は奥《おく》さんたちが始末をつけてくれる。もちろん尻《しり》を叩《たた》かれたりする場合もあるが、おれたちの尻の皮は人間の面《つら》の皮ほどは厚い。いくらぶたれようがちっとも痛くはないのである。
つまり、主人はおれたちのために働いてくれる使用人、奥さんは下《しも》の世話もしてくれるお手伝いさんなのだ。飼い犬になる、ということはしたがって、使用人とお手伝いさんを雇《やと》うこととほとんど同じ意味なのである。
自由犬を馬鹿だ、ときめつけたのは、連中にはここのところの理屈《りくつ》がわかっていないからだ。
さて、おれの主人(ということはじつはおれの使用人)である小説家先生の働き振《ぶ》りはどうか。
年中机にへばりついているようだが、それにしては稼《かせ》ぎは悪い。毎月七万五千三百円の建売住宅の借金をようやっと払《はら》っているぐらいだから小説家としては貧乏《びんぼう》な部類に属するだろう。
主人の書く小説の評判はさほど悪くはない。小説家には「純」と「大衆」の二種類あるらしいが、彼《かれ》はどっちかというと「大衆」の方に入っているようだ。
もっとも、主人は「大衆」の二字のつく小説家であることがあまり気に入らぬ様子で、ときおり酒とか称する不思議な液体を喰《くら》っては、
「おれはいつかきっと純≠ニ大衆≠フ間にある垣根《かきね》を取《と》っ払《ぱら》ってやるぞ。いやあ愉快《ゆかい》!」
などと、怪気炎《かいきえん》をあげている。
垣根を取り払うのがなぜそんなに愉快なことなのか、おれにはさっぱりわからぬ。思うに「垣根」とはレッテルのことだろう。しかも他人の貼《は》るレッテルのことだろう。そんなものは放って置くがいいのだ。在《あ》るものは在らしめよ、要はその垣根やレッテルに左右されなければよいのである。
こんなことを言うと、へん、おまえは犬畜生《いぬちくしよう》の分際《ぶんざい》でいやに偉《えら》そうなことを曰《のたま》うではないか、と冷笑なさる方がおいでだろうと思うが、そうではない。この「レッテル」と「内容」との関係はおれたち犬属にとっても重要事であって、犬は両者の関《かかわ》り合いについて常に考えざるを得ぬ。したがっておれたちはみなこのことについては詳《くわ》しいのである。
この家に寄食してからひと月ほどたったころ、おれは主人の留守《るす》の間に彼の仕事部屋の机上に登ったことがある。なぜ登ったのかというと、その日は朝から運動もせず胡坐《こざ》したきりで、食べたものの消化が悪いような気がしたからである。つまり腹ごなしだ。
さて、机上には一冊《いつさつ》の辞書がひろげてあったが、そのうち一陣《いちじん》の風が机上を通り過ぎて行き、辞書の頁《ページ》がぱらぱらとめくれた。風が止《や》むと同時に、頁のめくれもおさまったが、このときおれはおそろしいものを見た。風がめくって行ってくれた頁には「犬の糞《くそ》」とあったのだ。その下に「きたないもの、軽蔑《けいべつ》すべきもの、多くあって手に負えないもの」という注釈がつけてある。
排泄物《はいせつぶつ》が汚《きたな》いとする人間固有の考え方の是非については今は問わず、人間の「排泄物は汚い」なる主張に立って考えてみるに、排泄物が汚いのが事実ならどんな生物の排泄物も汚いというべきである。お姫《ひめ》さまのも、テレビという妙《みよう》な箱《はこ》に面《つら》を出して一時間ドラマで何百万もせしめるスター女優のも、そのへんのおばさんのも、馬のも、豚《ぶた》のも、鳩《はと》のも、そして犬のもみんな汚い、のならわからないでもないが、とりわけ犬のを汚いとし、汚いものの代表を「犬の糞」と呼びならわすとはいったい何事だろう。
こみあげてくる怒《いか》りのためにおれは思わずその辞書に向かって低く一声|唸《うな》った。が、その「犬の糞」の左右を眺《なが》めたとたん、怒るよりもむしろ呆《あき》れた。その左右にはよくもこれだけ集めたと思うほど、犬を肴《さかな》にした品の悪い言いまわしが列挙《れつきよ》してあったのである。
武士を罵《ののし》るときに使う「犬侍《いぬざむらい》」、無駄《むだ》な死を意味する「犬死」、涙《なみだ》を流すことなど絶えてない非情な人間を指して言う「犬目」、盗人《ぬすつと》仲間が警官に奉《たてまつ》った隠語《いんご》の「イヌ」、施《ほどこ》すべき方法や手段がなく「ままよ、どうにでもなれ」という状態を意味する「犬のつら」、犬は雑食でなんでも喰《く》うが、その犬さえ喰わぬというところから非常にいやがられることをいう「犬も喰わない」など、馬鹿々々しいからもうよすが、とにかく犬を悪いものにたとえた言いまわしがそこには並《なら》んでいたのである。
主人の机上の辞書の「いぬ」の項《こう》はさらに驚《おどろ》くべき犬に対する偏見《へんけん》で満ちておった。
たとえば「犬に念仏」という言いまわしがある。これは、猫《ねこ》に経《きよう》、馬に念仏などと同意で、他人の意見を聞かない、たとえ聞いてもそのありがた味がわからない、なる意味だが、馬や猫のことはいざ知らず、犬については全くの濡衣《ぬれぎぬ》である。犬ぐらい傍《はた》の言うことをよく聞く生物は珍《めずら》しいのだ。疑う者は忠犬ハチ公のことを想起せよ。わが同胞《どうほう》ハチ公君は、主人の「夕方、いつものように迎《むか》えにおいでよ」というひと言を何年間も死守して、渋谷《しぶや》駅頭に日参した。ハチ公君は馬鹿だから馬鹿のひとつおぼえを実行したのだ、という批評も犬の世界にはあるが、それにしてもたいしたものではないか。
それにひきかえ、人間の、他者の言い分を聞かぬ頑迷《がんめい》さはどうであろう。保守系議員は左翼系《さよくけい》議員の言い分を聞かず、左翼系議員は保守系議員の意見に耳を傾《かたむ》けず、保守系議員も左翼系議員も国民の要望にはとんと耳をかさぬ。家庭では、夫は妻の意見を聞き流し、妻は夫の見解を鼻先であしらう。親は子が理屈《りくつ》を言うと生意気《なまいき》だと一喝《いつかつ》し、子は親の考えを古いとひとことで退ける。そのくせ夫と妻は双方《そうほう》で性格不一致《せいかくふいつち》であると騒《さわ》ぎ立て、親と子は世代の断絶などと背中を向け合う。
おれたち犬から見ると、このような光景はまことに噴飯《ふんぱん》ものでおかしくてたまらぬ。夫と妻の性格が不一致だのとよくいえたものだ。夫と妻はもとをただせば互《たが》いに赤の他人、性格が一致するはずのないことははじめからはっきりしているのではないか。一致していないからこそ、お互いに、自分にないものが相手にあるのに惹《ひ》かれて一緒《いつしよ》に住むつもりになったのだろう。つまり、性格の不一致が結婚《けつこん》の理由なんじゃないか。それをそっくり離婚《りこん》の理由にするなどまるで筋が通らない。
親子間の世代の断絶などはさらに滑稽《こつけい》である。世代の断絶していない親子がもしどこかにいるならばお目にかかりたい。いや、お目にかかるだけでは足らぬ、そこの飼《か》い犬に志願して、毎日その親子を拝見していたいぐらいだ。人間の場合、親は子を持つのにすくなくとも二十年の年月を必要とする。いうならばどんな親子の間も二十年という歳月《さいげつ》の断絶があるはずだ。断絶がそんなにいやなら、三|歳《さい》か四歳でわが子を作らなくてはならぬ。そうすれば父は五歳、母は三歳、そして子は一歳という世代の断絶のない、同世代の親子ができあがるが、これは不可能だ。つまり親と子の間は断絶しているのが正常、当たり前なのである。このようなわけで、互いに相手の言い分も聞かず、当たり前なことを理由に背を向け合うなど、おれには狂気《きようき》の沙汰《さた》としか思えぬのである。
以上のことからも、人間が理由にならぬことを理由に、いかに他の言うことを聞かずに済ませているかはっきりしたと思う。したがって、犬に念仏という言いまわしはむしろ「人に念仏」と改訂《かいてい》されるべきなのである。
主人の辞書には「犬医者」とか「犬枕《いぬまくら》」とか「犬侍者《いぬじしや》」とかいう言葉も並んでいた。犬医者とは|にせ《ヽヽ》医者のことである。犬枕とは近世文学用語のひとつで、清少納言《せいしようなごん》という人の『枕草子《まくらのそうし》』を手本に書かれた随筆《ずいひつ》の類《たぐい》を総括《そうかつ》して示す語で、つまり|にせもの《ヽヽヽヽ》の枕草子というほどの意、また犬侍者とは|にせ《ヽヽ》信者のことだそうである。右をまとめていえば「犬」は「にせもの」という意味をあらわす接頭語なのだ。おれが犬だから言うわけではないが、これはあんまりだ。
人間がおれたち犬をなんとなく怪《あや》しげなる存在として見ていることは、「犬」を「にせもの」という意味を現す接頭語として使っているこの事実からも明々白々である。が、人間はまた犬をなにか卑劣《ひれつ》なもの、下らないものとして蔑視《べつし》していることも疑いようのない真実である。
おれの主人の愛用する辞書には「犬医師」「犬坊主《いぬぼうず》」「犬傾城《いぬけいせい》」などの語が並んでいる。いずれも、医師や僧侶《そうりよ》や女郎《じよろう》をいやしめて言うための、強意の接頭語だ。また、「犬槍《いぬやり》」というコトバもあるが、これは隠《かく》れて敵を待ち伏《ぶ》せし油断しているところを槍でぐさっと突《つ》くことをいうらしい。|卑劣な《ヽヽヽ》槍の使い方だから「犬槍」なんだそうだ。
「犬の糞に手裏剣《しゆりけん》」なる言いまわしも主人の辞書にはある。つまらぬことに貴《とうと》いものを費やすことをいう、と注釈がつけてある。おれには人を殺すための武器にしかすぎぬ手裏剣が貴くて、肥料《ひりよう》として大いに役に立つおれたちの排泄物がつまらぬものなのか、とんと解《げ》せぬ。きっと人間は人間を、つまり仲間を殺すことを貴いことだと思っているのだろう。そうでなきゃ殺し合いである戦争を「聖戦」などと名付ける知恵は働かないはずだ。
主人の辞書の「いぬ」の項に載《の》っていたことで、最もおれたちを侮辱《ぶじよく》している表現は「犬悦《けんえつ》する」というやつである。この意味は「反吐《へど》をつく」こと、すなわち食物を吐くことだという。つまり、反吐をつくとそれを犬がよろこんでたべる、だから「犬悦する」なのだ。冗談《じようだん》ではない、だれがそんな汚いことをするものか。
さあれ、人間はおれたち犬に対して「卑劣の権化《ごんげ》」というレッテルを貼《は》っている。そのくせ辞書の「いぬ」の項の冒頭《ぼうとう》には〈犬・イヌ科の動物。家畜《かちく》となった最初の動物で、家畜の中で最も賢《かしこ》く、人に忠実である。いわば|犬は人間のよき友《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》〉(傍点《ぼうてん》を振《ふ》ったのはドン松五郎《まつごろう》)と麗々《れいれい》しく掲《かか》げてあるのだから恐《おそ》れ入る。「犬の屁《へ》とは毒だみ草の別称。なぜなら悪臭《あくしゆう》を放つ植物だからである」「犬蹲《いぬつくばい》とは相手にへつらい機嫌《きげん》をとること」などと印刷してある同じ頁に「|犬は人間のよき友《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と定義するとは狡《ずる》いやり方だ。人間のほうこそ卑劣である。
おれは思わず逆上し、主人の辞書のその頁に小水を引っかけてやった。それっきりおれは人間の用いる辞書には近づかぬことにしている。辞書には犬に対する偏見《へんけん》があまりにも満載《まんさい》されすぎているからだ。君子《くんし》、偏見に近寄らず、さ。
もっともあれから四カ月を経《へ》た現在では、おれは「犬は卑劣」というレッテルを気にもかけていない。レッテルが問題なのではない、問題なのは内容だ、と達観《たつかん》したからである。前に述べたように主人は酒という液体を飲むたびに、「おれはいつか純≠ニ大衆≠ニの間にある垣根《かきね》を取っ払ってやる」と叫《さけ》ぶのが常だが、おれはその叫び声を耳にするたびに、主人におれの得た達観をおすそわけしてやりたくなる。純文学と大衆小説との区別なぞどうでもいいではないか、問題は内容ではないですか、とこう言ってやりたくなるのだ。
ところで、主人があまり「うまい、うまい」といって飲むので、おれも一度ためしにその酒というやつを舐《な》めてみたことがあるが、あのときはひどい目にあった。たちまちまわりの世界がぐるぐると回りだし、気が付いたときは、おれは縁側《えんがわ》から落ちて庭にのびていた。
よろよろっと起き上がってあたりを見回すと不思議ではないか、この世に生をうけて以来、ずうっと目の前にかかっていた薄緑色《うすみどりいろ》のフィルターがきれいさっぱりとなくなっている。犬の眼《め》にはすべての色がみな緑がかって見える、それが犬の視覚の宿命のようなものであると、前にも言ったことがあるが、その緑がなくなって、その上世界中が薄桃色《うすももいろ》に見えるのである。
動悸《どうき》は常よりは高く打っているが、なぜか知らん非常に愉快な気分がする。槍《やり》でも鉄砲《てつぽう》でも棒でもなんでも持ってきやがれ、という気分である。
(なるほど。これが酒に酔《よ》うということなのであるか。うむ、はなはだもってよい気分である。わが主人が毎晩、こいつを飲みたくなる気持ちもわからなくはない)
と、考えながら歩き出したが、妙なことにまっすぐに歩を運ばしているつもりなのに、躰《からだ》が右に寄ったり左に傾《かたむ》いたりするではないか。われながらおかしくなってつい、
「うわわわわん」
と、笑い出したが、その笑い声も普段《ふだん》のようではなく、げっぷまじりである。ブロック塀《べい》にぶっつかったり、反対側の縁の下に入りこんだりしながら、せまい庭内を漫歩《まんぽ》しているうちにふと、
(塀の外の世界はどうなっているのかしらん?)
という疑問に捉《とら》われた。
おれはそのとき生後二カ月、松沢家に飼《か》われるようになってからは、まだ外界へは一歩も足を踏《ふ》み出したことがなかったのである。
(この家の中だけを自分の世界と心得て、|ちまちま《ヽヽヽヽ》した一生を送るか、それとも雄犬《おすいぬ》らしく外へとび出して自分の生きる世界をひろげて行くか、思案《しあん》するのは今だぞ)
こんなことを思いながらブロック塀の隅《すみ》の潜《くぐ》り戸《ど》、すなわち外界への出口を睨《にら》んでいると、風が立って、その潜り戸がギイと開いた。いつもなら、ひやァ怖《こわ》い、と吠《ほ》えながら尻尾《しつぽ》を巻き、玄関《げんかん》のコンクリ床《ゆか》のダンボール箱《ばこ》、すなわちおれん家《ち》へ逃《に》げ帰るのだが、このときは酒で度胸がついている。
(おっ、戸が開いたぞ。これこそ渡《わた》りに船、天のたすけ)
と、おれは潜り戸から外へ堂々と歩み出た。
(考えてみれば、生後十日ちょっとしかたたなかったのに、大きな川をたった一匹で下るという大冒険《だいぼうけん》をやってのけたこのおれだ。天下になにひとつおそれることがあろうか)
と、尻尾をぴんと立て、道をとことこ駈《か》けて行くと電信柱が一本立っていた。
(うん。この電信柱に今日の記念すべき遠出を祝し、松沢家飼い犬ドン松五郎ここに用を足す、というしるしを刻みつけておこう)
おれはこう思いつき、さっそく電信柱に小水を放った。するとそのとき、道の向こうの畑地から、
「おい、おいらの電信柱になにをしやがる!」
という大きな声がした。
「やい、チビ、おめえおいらの縄張《なわば》りを荒《あ》らすつもりか。それならこっちにも覚悟《かくご》があるぜ」
風の如《ごと》くに走って来たのは茶色の柴犬《しばいぬ》、双眸《そうぼう》はらんらんと光り、耳は断崖絶壁《だんがいぜつぺき》の如く切り立っている。
「失礼しました」
と、おれは素直《すなお》に詫《わ》びた。
「縄張りを荒らそうなどという大それた気持ちは露《つゆ》ほども持ってはおりません。知らなかっただけです」
「知りませんでしたやすみませんでしたで事がすむと思っているのか。知りませんでしたやすみませんでしたで事が済むなら警察はいらないぞ」
柴犬はおれが仔犬《こいぬ》でしかも雑種と見てみくびったのだろう、最初から高姿勢である。
「だいたいおまえの小用の足し方はなんだ。雄犬《おすいぬ》というものは電柱に向かって小用を足す際、後肢《あとあし》のうち、電柱に近い方の肢を高く掲《かか》げるのが作法だ。おまえの今のやり方はその作法にあまりよくかなっていなかったようだったな」
「せいぜい高く後肢を上げたつもりだったのです」
と、おれは弁解を試みた。
「あれ以上、高く上げると横に倒《たお》れてしまうのではないでしょうか」
「屁理屈《へりくつ》をこねるのではない!」
柴犬は前の右肢でおれの左頬《ひだりほお》を引っかけるようにして殴《なぐ》った。
「われわれ犬属には、小用のとき、たとえそうすることで横に倒れようと命を落とそうと、後肢を高く上げなくてはならぬ理由があるのだ。おまえはそれを知らないのかい?」
「……知りません。なにしろ、生まれ落ちてからすぐに母の許《もと》から離《はな》れなければなりませんでしたので、そういうことを教えてくれる者はまわりに一|匹《ぴき》としていないのです」
と、おれはできるだけ哀《あわ》れっぽく言った。
「あなたにお目にかかったのが神のお導きです。どうかその理由をお教え願います」
「よし。よく耳の穴をかっぽじって聞くがいい」
柴犬はもっともらしい咳払《せきばら》いをひとつして、
「昔《むかし》、犬には肢が前肢二本に後肢が一本、都合三本しかなかった。にもかかわらずよく働くので神様が可哀想《かわいそう》に思われて、五徳の足を一本取って犬につけてくださったのだ。したがって小用を足すときは、その神様からいただいた肢をよごさぬように、高く上げなくてはならんのだ」
柴犬の語った理由は神を信ずる犬にはありがたいおはなしだろう。だが、あいにくこのおれは無神論者だから、心の中ではおかしくってたまらない。もっともここで笑い声をあげてはまた前肢で剣突《けんつく》を喰《くら》うおそれがあった。おれは神妙《しんみよう》な顔で頷《うなず》いて、
「よいおはなしをおきかせくださいました」
と、ていねいに礼を申し述べた。
「これからは小用のときは後肢をせいぜい高く持ちあげることにいたします。ところで、あなたはこの近くにお住まいですか?」
「うむ」
と、柴犬は大きく頷き、尻尾で得意そうに五、六|軒《けん》先の家を指した。尻尾の指し示した家はこのあたりの建売住宅では最も大きい。
「自分はあの家の飼い犬である」
「はーん、立派な家ですね」
「このへんの建売りはせいぜい一千万円どまりだ。だがあの家には二千万円という大金がかかっている」
柴犬は自分の手柄《てがら》のように得々《とくとく》として話す。主人が金持ちなら自分までがそうだと思っている手合いのようである。虎《とら》の威《い》をかる狐《きつね》、ならぬ犬というやつだ。
「なにしろ、このへん一帯の建売住宅を造ったのはうちの御主人さまなのだ」
柴犬はまた大きく胸を反《そ》らせた。犬は飼い主に似るそうだ。きっとこの柴犬の主人も、なにかというとすぐ威張《いば》って胸を反らしたがる人種にちがいあるまい。
「自分の名前は柴の平吉というが、おまえはなんという名だ?」
と、柴犬が訊《き》いた。
「ドン松五郎《まつごろう》です」
「ドン松五郎だと? ふざけた名前だな」
「あのう、そうでもありません」
「いや、ふざけている! ドンは西洋風で、松五郎は日本風、つまり和洋|折衷《せつちゆう》だ。くだらん」
和洋折衷がどうして「くだらない」のかおれにはよくわからない。和洋折衷がくだらないのならカレーライスもハヤシライスもトンカツもみんなくだらないということになってしまう。これらはすべて西洋の料理を和風に処理した代物《しろもの》ではないか。
「いったいぜんたい、ドンとはどういう意味だ?」
「スペインあたりの貴族の名前にはみなこのドン≠ェついたといいます。主人は自分のところの飼い犬が貴族らしく振舞《ふるま》ってくれるようにと願ってドン≠フ称号を付けてくれたのでしょう」
「ふん。で、松五郎にはどんないわれがあるのだ」
「主人は東北の農家の出身です。それも大きな農家の出です。ですから家には作男《さくおとこ》が大勢いたらしいのですね。松五郎はその作男のうちのひとりの名で、主人のよい遊び相手だったそうです」
「それでは貴族の称号と作男の名前の折衷ではないか。やっぱりくだらんね」
おれはすこし腹が立ってきた。自分の名前をやたらに「くだらん」ときめつけられるのは決して気分のいいものではない。
「……それではこれで失礼します」
おれは家に戻《もど》ろうとした。
「待て!」
柴犬の平吉はおれの前をさえぎった。
「おまえ、坂下の御隠居様《ごいんきよさま》に挨拶《あいさつ》はしたのか」
「坂下の御隠居?」
「と聞くところを見るとまだのようだな」
「はあ。でも、その方いったい何者です?」
「このあたり一帯の犬の大親分よ。シェパードの、大きな躰の持ち主で、長い間、警察犬をなさっておった方だ」
犬の世界で最も幅《はば》のきくのは各種の品評会の優勝犬と、この警察犬である。おれはこういう風潮をあまり好ましいとは思っておらぬ。なぜかといえば、品評会も警察も人間の世界に属する催《もよお》しであり、組織である。その人間の催し物や組織を尺度に犬の値打《ねうち》をきめるのはおかしい。もし、人間のちからをそこまで認めるのなら、保健所の捕獲人の存在をも犬は容認しなければならぬことになるだろう。おれは捕獲人は嫌《きら》いである。A犬は生かしておいてよいがB犬は死ぬべきである、と犬の運命を犬ではなく人間が決めることに異議を申し立てたい、とつねづね考えている。したがって平吉のようにそう簡単に警察犬をありがたがるわけには行かないのだ。たかが警察のイヌではないか。
「よし、おまえを坂下の御隠居様のところへ連れていってやろう」
平吉が尻尾《しつぽ》で東を示し、そっちに向かって歩き出した。逆らってもつまらぬから、おれは平吉の後について行った。五百歩ほどで大きな門構えの家に着いた。門の向こうに城のような建物が聳《そび》えている。そしてよく手入れの行き届いた庭にシェパード犬が一頭、のんびりと坐《すわ》っていた。
かかる巨大《きよだい》な犬を見るのは生まれてはじめてである。おれの十倍はたしかにあった。おれは嘆賞《たんしよう》の念と好奇《こうき》の心に前後を忘れ、かのシェパード犬の前に佇立《ちよりつ》して余念もなく眺《なが》めていると、ひと撫《な》での初秋の風が、庭の梧桐《ごとう》の枝《えだ》を軽く揺《ゆす》って、気の早い二、三枚の葉を彼《かれ》のふさふさとした毛並《けなみ》の上に落とした。シェパード犬はゆっくりとその|きれ《ヽヽ》の長い眼《め》を開いた。その眼はやさしく輝《かがや》いている。警察犬というからにはずいぶん威張ったやつだろう、というおれの予想とはまるでちがう眼の輝きだった。
「これはこれは御隠居様、おやすみのところを失礼申し上げました」
と、平吉が恐縮《きようしゆく》して尻尾を振《ふ》った。
「もしなんでしたらまた後ほどまいります」
「せっかくやってきたのだ。べつに出直すこともあるまい」
シェパード犬は悠然《ゆうぜん》たるものだ。
「それで何の用だね?」
「へい。わたくしの住んでおります建売住宅街にまた一匹犬がふえましたので、御隠居様に御挨拶を申し上げさせたいと思い連れてまいりました」
平吉はおれの方を振り返って、前へ出ろ、と目で促《うなが》した。おれはシェパード犬の前に出て尻尾を振った。
「この雑犬が新入り野郎《やろう》でして、ドン松五郎というふざけた名前を名乗っております」
それから平吉はおれに向かって次のように言った。
「こちらが坂下の御隠居様ことキング様だ。キング様は二年前まで警視庁|鑑識課《かんしきか》に奉職《ほうしよく》なされていた名犬であらせられる。一|歳半《さいはん》で警察犬となられ、以後八年間に二百六十三回出動、総監賞を二回、課長賞を四十七回、受賞なさっているという名刑事犬《めいけいじけん》様だ。ほんとうならわれわれなどこの方の前に出ることさえはばかられるお偉《えら》いお犬さまなのだぞ」
シェパード犬キングは苦笑して、
「平吉、わしの前でわしを賞《ほ》めあげるのはよしてくれないか」
と言った。
「おまえのお追従《ついしよう》を聞いていると歯が浮《う》いて困る」
「へいへい」
平吉は頭を下げて数歩、あと退《しざ》りした。
「ドン松五郎といったかな?」
キングは双眸《そうぼう》の奥《おく》から春の陽《ひ》の如《ごと》き柔《やわ》らかな光をおれの額の上に集めた。おれは彼の優《やさ》しい威厳《ヽヽ》に打たれて、思わず頷《うなず》いた。
「もうすこしわしに近づきなさい」
おれはおとなしく前に出ながら、キングの声に籠《こも》る、他の犬をたやすく従わせてしまう力はいったいどこからくるのであろうか、と考えた。キングはおれの顔をしばらくの間じっと眺めていたが、やがて、
「おまえの顔には|なにかがある《ヽヽヽヽヽヽ》」
と、呟《つぶや》くように言った。
「なにか、とはなんでございますか、御隠居様?」
おれのかわりに平吉が訊《き》いた。
「わからん。わからんが、なにか尋常《じんじよう》でないものを、わしはこの仔犬《こいぬ》の顔に感じる」
キングはなおも双眸の奥からおれをやさしく見守っている。
「平吉、たのみがあるが聞いてくれるか」
と、長い間、おれの顔を眺めていたキングが、やがて平吉に言った。
「ちょっと座を外《はず》していてくれないかね。わしはこのドン松五郎と名乗る仔犬と話がしたいのだが」
「……へえ」
平吉はすこぶる面白《おもしろ》くないといった顔付きをしてのろのろと庭から出て行った。
「おまえは平吉のはなしをどう聞いたかな」
平吉の姿が杉垣《すぎがき》の向こうに消えるのを待ってからキングがおれに訊いた。
「わしのことを平吉は……二年前まで警視庁鑑識課の名刑事犬で、一歳半で警察に入ってから八年の間に、二百六十三回出動し、総監賞を二回、課長賞を四十七回も貰《もら》った名犬だ≠ニ紹介《しようかい》したが、わしのこの経歴をどう思うかね?」
「たいしたものだと思います」
「それで……?」
「はい。でも正直いってわたしはあなたが可哀想《かわいそう》で仕方がありません。あなたは人間にただこき使われただけでしょう」
おれはかなり思い切ったことを口に出した。まだ酒の酔《よ》いがすこし残っていたのだろうと思う。そうでなければもっと当たりさわりのないことを言っていたはずだ。
「さきごろわたしは人間の辞書を見ておどろきました。辞書は犬≠フ項《こう》で犬は人間の友である≠ニ定義していたのですが、別のところを見ると犬の糞≠セの犬悦《けんえつ》≠セのという、犬をひどく卑《いや》しめるコトバが並《なら》んでおりました。人間は嘘《うそ》つきの二重人格者であることが、これからもよくわかります。そんな人間に八年間もこき使われたあなたが哀《あわ》れです」
腹を立てると思いきや、老シェパードは目をしばたたかせ、
「少年よ、おまえの洞察力《どうさつりよく》は敬服に価《あた》いする」
と、言った。
「たしかにわしは人間にこき使われただけだった。おまえは知らないかもしれないが、警察犬は交尾《こうび》厳禁≠ネのだよ。わしが警察に居《い》た頃《ころ》、十五、六|匹《ぴき》の警察犬と一緒《いつしよ》だったが、全員、交尾を経験した犬は勘《かん》が鈍《にぶ》くなり、働きも悪くなる≠ニいう理由から、童貞《どうてい》と処女を守らされていたのだ。恥《は》ずかしいはなしだが、わしは十一歳半になる今日まで雌《めす》を知らんのだ」
キングの声音《こわね》は、あの優《やさ》しい威厳《いげん》を失っていた。ただの老いぼれ犬の心細い調子になっている。
「わしは同じ職場の婦犬《ヽヽ》警察犬と恋《こい》をしたことがあるが、そのときは鞭《むち》でこっぴどく叩《たた》かれた。わしら犬には職場恋愛もご法度《はつと》だったのさ」
「ひどいなあ……」
「ひどいのはそればかりではない。排便《はいべん》も一日三回に限られていた。これは出動中に機敏《きびん》さを欠く、という理由からだった。そのほか、三日に一度は当直まであった。つまり夜間勤務だ。おまえも知っているように、犬には十六時間以上の睡眠《すいみん》が必要だが、徹夜《てつや》勤務となるとそうは行かぬ。だから勤務中にどうしても居眠《いねむ》りが出る。そのときはきまって主人の警官の鞭が飛んでくるんだよ。まさに地獄《じごく》の毎日だった……」
キングの右の目に涙《なみだ》がひと粒《つぶ》たまっていた。
「つまり人間たちはわしの鼻を利用しただけなのだよ。犬の嗅覚《きゆうかく》は人間の六千倍も鋭《するど》く敏《さと》い。連中が珍重《ちんちよう》したのはわれら犬属のこの嗅覚にしか過ぎん」
キングはのっそりと立ち上がりおれの傍《そば》に歩み寄った。傍へきてどうするつもりなのだろう、と訝《いぶか》っていると、キングはおれの背中をぺろぺろと舐《な》めはじめた。犬一倍《ヽヽヽ》経験を積み、知恵にも溢《あふ》れた大犬物《ヽヽヽ》(人間なら大人物と書くだろう)が、青二才のおれにこの丁重な挨拶である。おれは感動のあまり、ぶるぶる震《ふる》え出した。キングはおれを舐める合間にこう言った。
「自分が人間に利用されていただけだということを、わしはようやっと近ごろ気付いた。だが、おまえはこの世に生まれ落ちてまだ二カ月にもならぬうちにそれを知っている。これはおどろくべきことだ」
おれは思ったことを口の外に出しただけである。おれにはべつに穿《うが》ちのきいた名《めい》台詞《せりふ》を吐《は》いたという覚えはない。おれはこそばゆい思いをしながらただ舐められているだけだった。
と、そのうちにキングが不意に舐めるのをやめて、ううっと低い声で唸《うな》った。
「キングさん、どうしたんです?」
と、言いながら振り返ると、愕《おどろ》くではないか、キングが雑犬のおれに向かって土下座《どげざ》をしているのだ。
「キングさん、おなかでも痛むのですか。朝食にわさびでも召し上がったのですか? それとも甘《あま》いお菓子《かし》かなんかをお口にされたのですか? でなければ、タコ、イカ、貝の類《たぐい》ですか? ひょっとしたら硬《かた》い骨でも嚥《の》み込《こ》まれたのではないのですか?」
わさびなどの刺激物《しげきぶつ》、甘いお菓子、タコ、イカ、貝などの硬い魚肉、そして硬い骨などはおれたち犬の胃には禁物である。刺激物は胃壁《いへき》を荒《あ》らし、糖分は胃炎《いえん》の因《もと》になり、硬い魚肉は消化不良を起こし、硬い骨は腸出血の元凶《げんきよう》なのだ。つまりおれはキングがおれに向かって土下座をするわけはないから、腹痛を起こして地べたに坐《すわ》り込《こ》んだのではないか、と考えたわけである。
「ドン松五郎君、わしが最初に睨《にら》んだ通り、貴君は選ばれた犬だった」
キングはおれに三拝九拝しながら言った。いままでおれを呼び捨てていたのが「君」づけになり、「おまえ」が「貴君」にかわっている。いったいこれはどうなっているのだ。
「……選ばれた犬とはどういう意味です? わたしはただの雑犬ですよ」
おれは狐《きつね》に鼻をつままれたような気持ちである。
「シェパードやエアデルテリアやコリーやボクサーやドーベルマンピンセルなら警察犬になって出世する可能性がある。ブルドッグやスピッツやダックスフントや歴《れつき》とした日本犬なら犬の品評会に出場して栄光と称賛を手に入れることもできるでしょう。チンやチワワなら人間の奥さんやお嬢《じよう》さんの柔らかな腕《うで》に抱《だ》かれて大切に飼《か》われるという栄にも浴することができます。しかし、キングさん、わたしはただの雑種犬です。駄犬《だけん》です。そのわたしがどうして選ばれた犬≠ネんですか?」
「きみの躰《からだ》にその証拠《しようこ》があるのだよ、ドン松五郎君」
キングはおれの肩《かた》を目で指し示した。
「きみの肩には牡丹《ぼたん》の形の赤い斑点《はんてん》がある。それこそ聖痕《せいこん》なのだ」
「セイコンってなんですか?」
おれはキングに訊いた。
「どういう字を書くのですか?」
「セイは聖人の聖、コンは痕跡《こんせき》の痕だよ。つまり貴君の肩口のところに牡丹の花のような模様の、赤い、聖なる|あと《ヽヽ》があると言っておるのです。わしは噂《うわさ》には聞いておったが、見るのは始めてだ」
「わたしはじつはさっき人間の愛飲している酒という液体をひと口飲んできたところです。そのせいなんじゃないでしょうか?」
「たとえ酒のせいでも聖痕は聖痕、選ばれた犬のしるしだよ、ドン松五郎君」
「……|選ばれた《ヽヽヽヽ》とおっしゃいますが、いったいわたしは何のために選ばれたのです?」
「むろん、われら犬属を救うために選ばれたのだよ」
「犬属を救うですって?」
おれはこの老犬の頭がすこしおかしいのではないかと思った。正直いっておれは自分さえも救えないでいるつまらん犬である。主人の小説家先生はおれを肴《さかな》にして新聞に連載《れんさい》小説を書いているが、筆がうまく滑《すべ》らないときは癇癪《かんしやく》を起こして、縁側《えんがわ》で寝《ね》そべっているおれに、くしゃくしゃにまるめた書き損じの原稿《げんこう》用紙を投げつけてくる。なにしろ主人は高校時代、野球の投手をやっていたそうで、紙のボールはいつもおれの尻《しり》に命中するのだ。あの紙のつぶてからも上手に身をかわすことができないでいるおれに、どうして犬属を救うだのという芸当ができるのだろう。
また主人の奥さんはときどきおれに食事を供するのを忘れて外出することがある。主人や昭子君や和子君がいれば空腹を訴《うつた》えればなにか食物が貰《もら》えるが、家にだれもいないときは悲劇である。なにしろ犬を飼うのは始めての経験なので、奥さんはときどき、自分の家に犬がいることをきれいに忘れてしまうことがあるのだ。つまりおれは|飼われ方《ヽヽヽヽ》が下手《へた》なのである。
おれたち犬は「お宅には犬がいるのですぞ。それをお忘れなきように」と絶えず吠《ほ》え声、唸り声をあげて示威《じい》しなくてはだめなのだ。それさえもできないおれに犬属を救うなどという大事業ができるはずはない。
「……それに、犬属を|なにから《ヽヽヽヽ》救うのです?」
「それはわしにはわからん」
キングは首を横に振《ふ》った。
「とにかく貴君はただの犬とは違《ちが》うようだ。ひとつ身体《からだ》をいたわって生きてくれたまえ」
なんだか雲を掴《つか》むような話である。ひょっとしたらこの老犬は退屈《たいくつ》のあまり、どんな犬にもやれ「聖痕だ」、それ「選ばれた犬だ」などと言ってからかっているのではないだろうか。おれは老犬の話を信用しないことにした。キングはおれの顔を見て悲しそうに首を振った。信用しないぞ、という気持ちがたぶんおれの顔に出たのだろう。
「そのうちにわしの言ったことの意味がわかると思う。これからの貴君は寄生虫にたかられやすい年齢《ねんれい》にさしかかる。傴僂病《うるびよう》もおそろしい。ジステンパーは命取りだ。ドン松五郎君、日光と運動を友としたまえ。また栄養にも留意するのだよ。ドッグフードが出たら断固として絶食することも忘れてはいかん。そのときは辛《つら》くても是非そうするのだ。ドッグフードでは十分な栄養がとれんからねえ」
キングは噛《か》んで含《ふく》めるような口調で言った。いちいちごもっともな御説であるので、おれはふむふむ頷《うなず》きながら老犬の言葉に耳を傾けていた。
「この悪党!」
このとき、座敷《ざしき》が急に騒《さわ》がしくなった。
「この助平《すけべえ》じじい!」
金切《かなき》り声《ごえ》をあげているのは六十|歳《さい》ぐらいのばあさんである。六十五、六の老人が小さくなって、ばあさんの罵声《ばせい》を聞いている。
「このくたばり損《ぞこな》いめ!」
そのうちにおれたちのいる庭先にまで、座布団《ざぶとん》や灰皿《はいざら》や湯呑茶碗《ゆのみぢやわん》が飛んできた。
「とうとう主人の浮気《うわき》がばれたらしいな」
キングはおれににやりと笑ってみせた。
「このまま、この庭先にいては危ない。脳天《のうてん》に灰皿なんぞが降ってきたらとんだ災難《さいなん》だ。場所を移した方がよさそうだね、きみ」
「外へ逃《に》げ出しましょう」
と、おれは起き上がった。するとキングは首を横に振《ふ》って、
「夫婦喧嘩《ふうふげんか》は犬も喰《く》わないというが、これから座敷ではじまる喧嘩だけはきみにも見ておいてもらいたいのだよ。きみ、わしの後についてきたまえ」
と、言い、素早《すばや》く縁《えん》の下に躰をすべり込《こ》ませた。おれもキングのあとに続く。
新築間もない家であるから縁の下もきれいなものだ。蜘蛛《くも》の巣《す》があっちにひとつ、こっちにひとつと、都合三つほどあるばかり。風通しもよくなかなか快適である。頭の上の座敷からは物音ひとつしなくなった。
「夫婦喧嘩はおさまったようですよ」
おれはキングに言った。
「静かなものです」
「きみはまだ何も知らん」
キングは縁の下の土を前肢《まえあし》で掘《ほ》っている。
「いまが嵐《あらし》の前の静けさ、というやつなのだ。主人はどうやって奥《おく》さんの舌鋒《ぜつぽう》をかわそうかと考えている。奥さんは胸に渦巻《うずま》く憎《にく》しみをどう口に出したらもっとも効果的かと思案している。だから静かなように見えるのさ。なあにそのうちに凄《すご》いことになるよ」
キングが土の下から掘り出したのは二枚の塩せんべいである。手焼きで大きく、なかなかの上物のようだ。おれは咽喉《のど》をごくりと鳴らした。おれはビスケットよりもせんべいやおかきを好む。つまり日本|趣味《しゆみ》なのである。
「すこし湿《しけ》っているかもしれないがお茶菓子のかわりだ。きみがその二枚を喰い終わるころには座敷《うえ》の喧嘩も再開されることだろう」
おれはさっそく塩せんべいに武者《むしや》ぶりついた。そのおれをにこにこして眺《なが》めながら、キングは次のような話を始めた。
「わしの生まれるよりも前、この丘陵《きゆうりよう》地帯は陸軍|砲兵《ほうへい》部隊の演習地だったそうだ。が、戦争が終わってからは、犬の年月にして八年間、人間の年月でいえば一年間、荒野《こうや》のまま放置されていた」
おれは塩せんべいを噛《か》みながらふむふむと頷いていた。
「……やがて政府がこの荒野に三十世帯の農民を送り込んだ。三十世帯とも満州というところからの引き揚《あ》げ農民でな、むろん、そのなかに、わしのいまの主人もおったわけだ。農民たちはこの荒野を開墾《かいこん》した。掌《て》に|まめ《ヽヽ》をこしらえ、額に汗《あせ》しながら、だ。だが、何度もいうようにこの一帯は丘《おか》の上だ。水はけがよすぎる。いつも水不足で作物はみのらない。首をくくって死んだ農民も二、三人いたらしい。目先のきく農民はこの丘陵地帯を捨てて他所へ転出して行った。そのときの土地の値段は一|町歩《ちようぶ》三百五十円だったというから、いまでいえば十万円かそこいらだろう」
「しかしここの主人は必死でがんばった、とこういうわけですか?」
黙《だま》ってせんべいばかり喰っているのも意地汚《いじきたな》いはなしなので、おれはここでお座なりの質問を発した。
「いや、有体《ありてい》に言えばわしの主人は愚図《ぐず》だった。土地を売って他所へ移ろうと思うのは他の人と同じだが、愚図々々しているうちにとり残されてしまった。だが、じつはその愚図なところが幸いしたのさ」
「なぜです?」
「なにしろ丘の下を流れる江戸川をひとつ越せば東京だ。この丘陵は住宅地として評価されはじめた。丘だから水はけがよい、景色《けしき》も絶佳《ぜつか》だ、閑静《かんせい》でもある、開墾し残した林が風趣《ふうしゆ》を添《そ》えている……農地としては役に立たなかった条件が住宅地としてはこの上のない好条件となったわけだ。わしのいまの主人は貧乏な農民からあッという間に地主に早がわりしてしまった。おまけに主人は愚図だが、おかみさんはすこしばかり目はしがきいた。それッとばかり主人の尻《しり》を叩《たた》いて、仲間《なかま》が置きざりにしていった土地を買い占《し》めた」
「なーる」
「いまこのあたりの土地は坪《つぼ》三十万もする。二十年前の一町歩三百五十円は夢《ゆめ》のようなはなしさ。ドン松五郎君、きみの主人の買い求めた建売住宅も、もとはここの主人の大根畑だったところなのだよ」
「人間の運命なんてやつはわからぬものですねえ」
口のまわりに付着したせんべいの塩味を舌で舐《な》めとりながらおれは言った。
「昨日の乞食《こじき》が今日は王様だ」
「その通り」
キングは大きく頷いて、
「そして今日の王様は明日の乞食ということもあり得る。というのは、わしのいまの主人は持ちつけぬ金を持ってすっかり頭がおかしくなってしまった。まず、家を新築した。総檜造《そうひのきづく》り、屋根は銅ぶき、玄関《げんかん》は自動ドア、二階しかないのに、エレベーターが一基ある」
「ばかですねえ」
「総工費一億八千万円。……とはいっても千坪の土地を売ればそれぐらいの金は一日で出来るから、主人にとっては朝飯前のお茶の子さ。家に金を注《つ》ぎ込むのに飽《あ》きると次は庭だ。主人は総合商社に頼《たの》んで二千万円の庭石を五個も買い込んだ。いずれも中国産の獅子石《ししいし》というやつだがね」
と、キングは庭先へ視線を移した。なるほど、獅子に似た巨石が五個、池をかこむようにして並《なら》んでいた。ぴしゃッぱちゃんという水音がして、池では鯉《こい》がはねた。
「おっといまはねた鯉だが、やつは百五十万円の錦鯉《にしきごい》だよ。なんでも、昨年度の錦鯉コンクールで総理大臣賞を授けられた逸品《いつぴん》だそうだ。ほかにも農林大臣賞や水産庁長官賞がぞろぞろ泳いでいるのだよ」
ここでキングは苦笑しながら、前肢《まえあし》で自分の顔を指した。
「このわしもあの池の鯉と同じことさ。名刑事犬《めいけいじけん》というレッテルを買われ、退職後はここへ引きとられてきたのだからな。主人は別に犬や鯉が好きなんじゃないのだ。難《むずか》しくいえば自分を権威付《けんいづ》けるために、レッテル集めをしているだけなのだ」
「キングさん、あなたのおはなしを伺《うかが》っているうちにわたしはあなたがなんだか可哀想《かわいそう》になってしまいました」
と、おれはキングの前肢を舐めながら慰《なぐさ》めた。
「あなたほどの名犬が、余生を犬好きでもない主人に仕えて送らなくてはならないなんて、この世は闇《やみ》でございますよ」
「ありがとうよ、ドン松五郎君」
キングはお返しのつもりだろう、おれの首のあたりを舐めた。
「ところで、わしのいまの主人、そのうちに家や庭に金を注ぎ込むのにも飽きてきて、こんどは別のことに金を費やしはじめたのだ」
「別のことってなんです?」
「女だよ、きみ。江戸川を越えたところに小岩という繁華街《はんかがい》があるがね、その小岩のキャバレーの女に惚《ほ》れてしまったのだ。マンションを買い与《あた》える、香港《ホンコン》へ旅行にやる、ダイヤを求めてやる、パパン車が欲《ほ》しいンというおねだりにも首をタテに振る……」
「なんでパパンとそんなに鼻にかかるのです?」
「女が下心《したごころ》あって年長の男に甘《あま》えるときパパン≠ニ鼻声を出すのだ」
「妙《みよう》な習慣ですねえ」
「たしかに妙だが、人間の男はこの鼻声にじつに脆《もろ》い」
「ふうん。で、キングさんの主人が自分とは別の女と仲よしになったということを、おかみさんはずうっと知らなかったのですか?」
「うむ。知らなかった。わしだけだよ、最初から気がついていたのは。なにしろ、こっちの鼻は人間の六千倍は鋭《するど》い。しかも、このわしは九年近く刑事犬をしておったのだから、口紅やお白粉《しろい》や香水《こうすい》の匂《にお》いなどいっぺんで識別する。最初の晩、主人がにやにやして帰ってきたとき、主人の躰《からだ》から匂ってきたのは国産の香水だった。次の晩はそれがランバンに変わっていた。ランバンというのはフランス製の高級香水だ。ははーん、主人は女になにがしかの金を呉《く》れてやったな≠ニわしは睨《にら》んだね。女はその金でまず化粧品《けしようひん》を国産から舶来《はくらい》の高級なものに変えたにちがいない=c…。人間の女は金が入ると食物よりも衣服、衣服よりも化粧品に、まずその金を投じる習性があるのだ」
おれはただただ感心してキングの推理に耳を傾《かたむ》けていた。人間の世界にはシャーロック・ホームズという名探偵《めいたんてい》が居《い》ることを、おれは主人の蔵書から知っている。だがそのシャーロック・ホームズの推理力もこのキングというシェパードの老犬の敵ではあるまい。
「だが、隠《かく》しごとはできないもので、わが主人の浮気がついに|ばれる《ヽヽヽ》ときがきた。主人はこの夏、女と銚子《ちようし》の犬吠崎《いぬぼうざき》へドライブに出かけて行ったが、このとき、女の運転する車がトラックとぶっつかってしまったのだ。幸い命には別条なかった。主人は銚子の病院で一カ月入院、女は奇跡的《きせきてき》にかすり傷ひとつ負わずにすんだ……」
「ではどうして|ばれた《ヽヽヽ》んです?」
「おかみさんがなぜうちの主人は犬吠崎へ行く用事なんかあったのだろう?≠ニ疑問を抱《いだ》いたのだよ」
「なるほど」
「犬吠崎の方角には、親戚《しんせき》も知人もいないはずなのに、主人がなぜそのへんをうろうろしていたのか。それを不思議に思って問いつめて行くと、とうとうたまらず白状した。それがさっきのことなのさ」
「うちの土地はあんただけのものじゃありませんよ」
座敷にふたたび土地成金の妻の罵声《ばせい》があがった。キングが、さあ始まった、骨肉《こつにく》あいはむ人間世界の悶着《もんちやく》、ひとことでも聞き逃すのは損だよ、というように太い竹をそいだような耳を立てる。おれもキングにならって全身を耳にした。
「うちの土地はあたしのものでもあり、子どものものでもあるんです。それをなんですか、あんたは残らずホステスに注《つ》ぎ込んだりして。だいたい年齢《とし》を考えなさい、年齢を。あんたは六十を越したじいさん、相手の女とは三十以上も違《ちが》うんでしょう?」
「……年齢は関係ないよ」
土地成金がぼそっと呟《つぶや》いた。
「女を好きになるのに年齢は関係がない。嘘《うそ》だと思うなら世間を見てみるがいいんだ。娘《むすめ》のような女房《にようぼう》を持ったり、孫のような愛人を持った年寄りはいくらでもいる」
「な、なんて図々《ずうずう》しい男なの、あんたって人は!」
どすんどすんと取っ組み合う音がおこった。
「ばかばかしいですねえ」
と、おれはキングの耳に囁《ささや》いた。
「旦那《だんな》もだらしがないが、奥さんも悋気《りんき》が過ぎる。人間の世界には川柳《せんりゆう》という短い詩があるんですがね、キングさん、その川柳の風|吹《ふ》けばどころか女房あらし也《なり》≠ニいう句を知っておいでですか?」
キングは首を傾けた。
「大|先輩《せんぱい》に向かって僭越《せんえつ》ですが、いまの句を説明いたしますと、むかし、業平《なりひら》という人間があって、これが大変な女蕩《おんなたら》し、奥さん以外の女の許《もと》へしょっちゅう通いつめている。ところがこの奥さん、焼餅《やきもち》ひとつ焼かぬ出来た人で、そればかりか、ある風の強い晩などは風吹けば沖《おき》つ白波たつた山|夜《よ》はにや君がひとり越ゆらむ≠ニ詠《よ》んで夫業平の身を案じたそうです。ところがこの川柳作者の妻はどうやらすごい悋気の持ち主で、風吹けば……≠ヌころか、通りで女の後ろ姿に見とれていたというだけであらしのように荒《あ》れ狂《くる》うというみっともなさ。そこで川柳作者は風吹けばどころか女房あらし也≠ニ一句ひねり出したわけです。こんな川柳が人間世界に秀句として語り伝えられているところを見ると、女房族はみなあらし也≠ネのでしょう。愚《おろ》かなものではありませんか」
うーむ、とキングは唸《うな》って、
「きみは驚《おどろ》くべき勉強家だ。よくもまあそんな川柳なんてものまで知っているねえ」
「わたしのはすべて耳学問ですよ。なにしろ主人が小説家で雑学にくわしい。しかも知ったかぶりをする性質《たち》で、妻子や友人に仕入れたことをすぐにぺらぺらと喋《しやべ》る。それを傍《そば》で聞いて憶《おぼ》えているだけです」
「それにしても驚くべき博識だ」
キングはまた唸った。
頭上の座敷のどたんばたんはまだ熄《や》まぬ。犬も喰わない夫婦喧嘩というぐらいで、おれは少しく退屈《たいくつ》しだした。尻悶《しりもだ》えがしてどうも落ち着かぬ。そろそろおさらばしようと思い、腰《こし》を浮《う》かしかけたとき、天地を揺《ゆ》るがすような大音響《だいおんきよう》と共に、黒い車と赤い車が前後して庭へ突《つ》っ込《こ》んできた。
「な、なんです、あれは?」
と、おれが訊《き》くと、キングはにやりと片目をつむって、
「どうやらどら息子《むすこ》と尻軽娘《しりがるむすめ》の御入来のようだね」
と、答えた。
黒い車から飛び降りたのは年齢《とし》のころ三十一、二の、がっしりした体躯《たいく》の男である。
「あれがここのどら息子だ」
キングが解説する。
「いい洋服を着ているだろう? 銀座の高級洋服店で作らせた一着二十五万円の背広だ。英国の生地、しかも上等品だからそれぐらいするのさ。ネクタイはランバン、靴下《くつした》とハンカチはサンローラン、ワイシャツは国産だが、一枚八千円の上物だ」
そういわれてみるとなるほどぱりっとしている。おれの主人の服装《ふくそう》とはだいぶ違う。小説家もかなりボロい商売だと聞くが、主人の収入ではとても、あんな格好《かつこう》は覚束《おぼつか》ない。
「車はベンツだ。そして靴はイタリア製。以上でざっと一千万円はかかっているだろう」
おれは唖然《あぜん》とせざるを得ぬ。なにしろ主人の住む建売住宅の値段と同じぐらいの金額にあたるものを身につけているわけで、おれはいささか主人が可哀想になった。男は庭先に立って、座敷の騒ぎを眺《なが》めながら煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
「あのライターがまたすごい。純金|手彫《てぼ》りで百十五万円」
「へえ。ライターに百十五万もかけるようじゃ、喫《す》っている煙草もさぞやたいした舶来品なんでしょうねえ」
「ところがなぜか煙草は新生さ。高価なライターで安煙草に火を点ける。それがどうやら彼のダンディズムらしいよ」
「彼の仕事はなんですか?」
「それがこのあたりのタクシーの運転手だからおもしろい」
キングは「おもしろい」と評したが、おれにはそうは思えぬ。一千万円がとこひきずって歩いている人間が、なにもあくせく働くことはないではないか。土地成金の息子という特権をせいぜい活用し、遊んで暮《く》らすのが正解だろう。ほんとうの金持ちは皆《みな》そうしているはずである。
「成り上がり者には遊ぶ≠ニいう度胸がないんだよ」
おれの心中を察して、キングがすかさず注釈を加えた。
「あの息子も土地ブームが来るまでは、毎日、野良《のら》へ出ていた。その癖《くせ》が抜《ぬ》けず、毎日、なにかしていなくては不安なのだよ。貧乏性《びんぼうしよう》が第二の天性というわけだね。いずれにせよ、あの息子の運転するタクシーに乗ったお客は災難《さいなん》だ。たいていの客よりは金持ちであると思うから、それが態度に出て、万事《ばんじ》につけてぞんざいでね。その上、午後になるとタクシー乗り場の前に車を停《と》めてラジオの競馬|実況《じつきよう》に熱中する。それが行列を作って待っている客の前でだから図々しいというより人でなし的|行為《こうい》だ」
男は赤い車の傍に歩み寄って、運転席の娘とにやにやしながらなにか話しはじめた。
「赤い車に乗っているのは、座敷で取っ組み合っている老夫婦の娘だよ」
「たいした顔はしていませんね」
「しかし、あれでも歌手だよ。レコードを三枚も出している」
「へえ。するとやはり顔は|おへちゃ《ヽヽヽヽ》でも声がいいんですね」
「それが割《わ》れ鐘《がね》よりひどい。彼女《かのじよ》の実演を聞いて|ひきつけ《ヽヽヽヽ》を起こした子どもがこのひと月の間に三人もいる」
「なのになぜ三枚もレコードが出せたのです?」
「それはつまり、彼女の両親が売れ残った分を買い取ってくれるからだね。レコード会社としては商売になるのだ」
おれはもう聞くのも阿呆《あほ》らしくなり、ただ茫《ぼう》として赤い車の方へ目をやっていた。
やがて赤い車のドアが開いて娘が地面に降り立った。車の色に合わせたのだろう、赤シャツと赤いパンタロンを着用している。ご丁寧《ていねい》に靴《くつ》も赤色、髪《かみ》まで赤く染めていた。
娘は息子と並んで縁側《えんがわ》の近くまでやってくると、座敷《ざしき》の中で取っ組み合いを演ずる両親に声をかけた。
「まあまあ、真《ま》っ昼間《ぴるま》からいちゃいちゃするなんて仲の良いこと!」
子が親に向かって言うにははなはだ穏当《おんとう》を欠く表現であるようにおれには思われた。親の取っ組み合いの喧嘩《けんか》を性的なものとして見ることが出来るというところにすでに子としては堕落《だらく》がある。子なら親の性的な面に眼をつむるのが人情というものではないか。にもかかわらずそれをわざわざほじくり出すのは異常である。
土地成金とその老妻も娘の毒のあるお茶らかしにひるんだのか、ドタンバタンと埃《ほこり》を立てるのをよしたようである。よしたばかりではなく、まず、
「なんだい、おまえの格好は?」
と、土地成金の老妻がすばやく逆襲《ぎやくしゆう》に転じた。
「上から下まで赤ずくめじゃないか。みっともないねえ」
娘は縁側に腰《こし》を下ろし、足をぶらぶらと振《ふ》っている。おれたち犬はちらちら動くものに対しては本能的に飛びかかる習性を持っている。おれは何回も彼女のパンタロンに飛びつこうとし、その都度、キングに尻尾《しつぽ》を引き戻《もど》された。
「好きで赤ずくめをしているわけじゃないのよ。あたしの今度の歌が赤い椿《つばき》の港町≠ニいう題なのよ。つまりキャンペーンのためよ。レコード会社の方針なの」
「ところで、父さんよ」
と、今度は息子が言った。
「父さんがうちの土地を一坪《ひとつぼ》のこらずキャバレーの女に入れあげてしまう前に、おれたち頼《たの》んでおきたいことがあるんだよ」
「……また金か?」
「まあな。おれもいつまでも人に使われているのはなんだからさ、このへんで青年実業家になろうと思うんだ」
「なんだ、その青年実業家というのは?」
「うん。独身でだね、パチンコ店やトルコ風呂《ぶろ》やキャバレーやボウリング場や不動産屋を経営している男を芸能界では一括《いつかつ》して青年実業家≠ニいうんだよ」
「芸能界の女の子には青年実業家はもてるのよ」
と、娘がそばから兄の援護射撃《えんごしやげき》をはじめた。
「女性歌手や女タレントの結婚《けつこん》相手は一が青年実業家で、二がお医者、三、四がなくて五がディレクターってぐらいなんだから」
「おれ、駅前でパチンコ店でもやろうかと思うんだ。それで妹の紹介《しようかい》で女性歌手のよさそうなのとつき合って結婚する。女房を地方|巡業《じゆんぎよう》で稼《かせ》がせ、おれは店をやり、どんどん儲《もう》けて、親孝行するよ。このままじゃ、父さんの女道楽で土地がなくなっちまう。それぐらいなら、おれにパチンコ店を経営させてくれよ。なあ、母さんもたのむよ。おれを青年実業家に仲間入りさせてくれよ」
「あたしもお金がいるんだ。新曲の赤い椿の港町≠とりあえず五千枚ぐらい買い占《し》めなくっちゃ。そうすりゃそれがさそい水になって、レコードが本当に売れ出すと思うんだけど……」
兄と妹は勝手なことを並《なら》べたてた。
「どうしてこうみんなお金をつかうことばかり考えているのだろうねえ」
と、土地成金の老妻が嘆《たん》じた。
「うちには土地がもう千坪かそこいらしか残っていないんだよ。それなのになんだい、歌手でござい、青年実業家でござい、女遊びでござい、と勝手なことをいって。真面目《まじめ》に地道に生きているのは母さんだけじゃないか」
「その千坪の土地売っちゃおうよ」
と、青年実業家志望の息子が縁側に靴を脱《ぬ》ぎ捨て座敷に上がりこんだ。
「三億円にはなるよ」
「税金がかかるんだよ」
「税金で半分持ってかれたとしても一億五千万だ。それを三等分しようよ」
「うん、そうしようよ」
と、赤ずくめの妹が縁側から兄に相づちを打った。
「母さんもその五千万円で好きなことをすればいいのよ。たとえば若い燕《つばめ》を見つけて遊び回ったらどう? 歌手の卵の男の子のなかには、金になるならどんな婆《ばば》あとでもつき合うっていってるのがいるわ。なんなら紹介するわよ。なにも父さんばかりにいい目を見せることはないんだから」
人間世界のことに犬が口を出す義務も権利もないのだが、このときだけはおれも義憤《ぎふん》を禁じ得なかった。万物《ばんぶつ》の霊長《れいちよう》であるべき人間が自分の実母に向かってなんたる言い草であろうか。おれは娘の赤いパンタロンを目がけて猛然《もうぜん》ととびかかっていった。
「わあ、なによ、この犬は!?」
悲鳴をあげながら娘は縁側に這《は》い上がった。
「父さん、また新しく犬を飼《か》ったの?」
「いや、そんな犬は知らんな」
煙管《きせる》を啣《くわ》えた土地成金が縁側からおれを眺《なが》めおろして言った。
「ふん、雑種か」
雑種で悪いか! とおれは土地成金を睨《ね》めあげた。
「しかし雑種にしては面構《つらがま》えがいいな」
「それになかなか可愛《かわい》いじゃないの」
と言いながら赤いパンタロンの娘はおれの顔を見おろしていたが、なにを思いついたのかすぐに膝《ひざ》をぽんと叩《たた》いた。
「この犬、貰《もら》ってっちゃおうかな」
「飼い主に悪いんじゃないのか」
と言いながら、青年実業家志望の息子も縁側へ出てきた。
「たいした犬じゃないから、居《い》なくなっても飼い主は騒《さわ》がないと思うわ」
「でも、おまえ、この犬をどうするんだ?」
「ぴかっと閃《ひら》めいちゃったことがあるのよ、兄さん。この犬を美容院に連れてって、赤く染めてもらうの。あたしいま新曲の赤い椿の港町≠フキャンペーン中でしょう。だから、車も赤、洋服も赤、靴の色も頭の毛も赤、ぜんぶ赤ずくめ。それに連れて歩く犬も赤ってのはどう?」
「そうか、そいつはいいなあ」
なにがいいものか! こちとらは飼い主の趣味《しゆみ》でちんちくりんな洋服を着せられ、頭にリボンなぞつけて歩いている都会の軟弱《なんじやく》な犬どもとはちがうのだ。歌手のアクセサリーなんぞ真《ま》っ平《ぴら》である。おれは大いそぎでこの面妖《めんよう》な屋敷《やしき》から逃《に》げだした。
土地成金の、城郭《じようかく》のごとく宏壮《こうそう》なる屋敷から脱け出して、畠《はたけ》の中の一本道を歩いていると、キングが追いついてきた。
「ドン松五郎君、ちょっと待ちたまえ。どうして貴君は急に|うち《ヽヽ》のおたふく娘に咬《か》みついたりしたのかね?」
「はあ。わたしはどっちかというと淡泊《たんぱく》を愛する茶人的犬です。つまりあまり物事に拘泥《こうでい》しない性質《たち》です。しかし、娘が実の母親に向かって母さんも若い燕と遊んだら?≠ネどとそそのかしているのを黙《だま》って聞いていられるほど無神経な頓痴気《とんちき》犬でもありません。つい、かっとなって茶人的態度をとり損ねたのですよ。それにしてもキングさん、人間という生物は救いようがないですね」
「そこだよ、問題は」
キングは重々しく頷《うなず》いた。
「人間は愚《おろ》かである。これは何人《なんぴと》といえど否定すべからざる大前提だ。問題は、わし等《ら》犬属がその愚かな人間に飼われている、ということだよ。犬属は、この救いようのない生物である人間から餌《えさ》を貰って露命《ろめい》を繋《つな》がなくてはならない。ここに犬属の道徳的危機がある。犬は飼い主に似る≠ニいう言葉があるがね、この言葉が真実だとするなら、じつに怕《こわ》い。犬は人間を手本にしてみんな愚かになってしまうからだ。ここは一番、考えなくてはならぬ時だよ」
「するとキングさんは、わたしたち犬属は人間の支配から脱《だつ》せよ、とおっしゃるのですか?」
キングは悲しそうに否々《いないな》と頭を振《ふ》った。
「人間の支配から脱する勇気も実力《ちから》も現在《いま》の犬属にはないだろう。わし等犬属は何千年の間、あんまり家畜《かちく》化されすぎた。犬属は人間に自分たちのあらゆる自由をおとなしく献上《けんじよう》しすぎたのだ」
「そうでしょうか?」
「そうだとも。たとえば鎖《くさり》について考えてみなさい。たとえば猫属《ねこぞく》はわし等犬属と同じように人間の愛玩《あいがん》用動物だが、猫属は首に鎖を付けているかね?」
言われておれは「なるほど」と思った。猫の連中は、なかには首に鈴《すず》をぶら下げているお調子者もいるけれど、鎖はつけていない。
「すなわち、猫属はわし等犬属よりも鎖がないだけ自由なのだよ。また、犬は飼い主の声が近づくとなかば本能的に尻尾を振る習性があるが、猫属は飼い主が近づこうが誰《だれ》が来ようが、一切《いつさい》知らん振りをしている。つまり残念ながら猫の方が犬よりもはるかに主体的であるのだ。さらに猫属の諸君はビスケット一枚あるいはおかき一個を目当てに、伏《ふ》せ≠セのおあずけ≠セのお手≠セのちんちん≠ネどの芸当をするかね」
「そういえばしませんねえ」
「つまりそれだけわし等犬属は、あの愚かな人間という種族に対して迎合《げいごう》しておるのだよ」
「キングさん、たしかにおっしゃる通りですね。最近東京の渋谷《しぶや》とかいう盛り場に|犬専用のレストラン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が開店したとききます。わたしは主人のお相伴《しようばん》をして、その犬専用レストランの探訪番組をテレビで見たのですがね、まさに噴飯《ふんぱん》ものでした」
「どう噴飯ものだったのだね?」
キングは大いなる興味をその相貌《そうぼう》の上にあらわしながら訊《き》いてきた。初秋の午《ご》に近い太陽の光線はけっこう強い。日なたで話をしていると暑苦しくてならぬ。犬には皮膚《ひふ》に汗《あせ》の吹《ふ》き出し穴がないので暑いのはかなりの苦痛である。おれは畠の傍《そば》にたつ、下総《しもうさ》国分寺という古寺の縁《えん》の下へ、キングを誘《さそ》った。古寺の縁の下はまことに涼《すず》しい。躰内《たいない》に蓄積《ちくせき》された暑気は、この自然の冷房装置《れいぼうそうち》によって程なく駆逐《くちく》され、おれもキングも平常心を取り戻《もど》した。
「ところでその犬専用レストランですがね、ブレック・ファーストからスペシャル・コースまで、その献立表《こんだてひよう》は薄《うす》いノート一冊分ぐらいの厚さがありましたよ」
「ブレック・ファースト?」
「朝食です。朝食の内容は、ドッグフーズ、ミルク、牛肉とチーズ、そして野菜ジュース」
「ほう、豪華版《ごうかばん》じゃねえ」
キングは思わず嘆息《たんそく》を洩《も》らした。
「片方に、わしのように年柄年中《ねんがらねんじゆう》味噌汁《みそしる》のぶっかけ飯《めし》の犬あれば、他方には高級レストランで牛肉に舌鼓《したつづみ》を打つ犬もある。この貧富の差はどうにかしなくてはいかんな」
「キングさん、名犬の誉《ほま》れ高いあなたがこれぐらいの献立で涎《よだれ》を垂《た》らされては困ります。驚《おどろ》くべきは、その犬専用レストランのスペシャル・コースです。なんとそのコースのメインディッシュは神戸肉のテンダーロインステーキなのですからね。しかも、人間の給仕女が、|生焼き《レア》ですか、それとも|充分焼き《ウエル・ダン》ですか、あるいは|普通焼き《ミデイアム》ですか≠ニ、焼く前に訊くのです。馬鹿々々《ばかばか》しいじゃありませんか。答えるのは人間の飼い主、犬にはレアもウェル・ダンもへったくれもありません、飼い主の趣味《しゆみ》を押し付けられるだけのはなしですよ」
「それはまあそうだ」
「これもテレビから得た知識ですが、人間の世界では現在《いま》、六秒間に一人ずつ飢《う》えて死んで行くものがいると言います。自分たちと同じ種族の仲間たちが飢えているのに、他の種族へのこの過剰保護《かじようほご》、これは人間の品性がすでに、いやな言葉ですが、犬畜生《いぬちくしよう》にも劣《おと》りつつあることを雄弁《ゆうべん》に物語っていると思うのです。そして最も憂慮《ゆうりよ》に耐《た》えないのは、愚劣《ぐれつ》な品性の持ち主である人間に尻尾《しつぽ》を振り胡麻《ごま》を擂《す》って、そういうレストランに連れて行ってもらっている一部の特犬階級《ヽヽヽヽ》のあり方です。しかも彼等《かれら》特犬階級の姿はじつは同時にわたしたち犬属、人間にすっかり飼育《しいく》されてしまった犬の姿でもある。キングさんは猫属はその点立派だとおっしゃいましたが、残念ながらわたしもそれを認めざるを得ません」
「……わし等犬属はどう立ち直ったらよいと、貴君は考えるのかね?」
キングは縁の下に放置してあった古下駄《ふるげた》をしきりに齧《かじ》りながらおれに訊いた。
「皆目《かいもく》、見当がつきません」
と、おれは答えた。
「ただわたしも犬と生まれた以上、この大問題に頬《ほお》かぶりして通るわけにはいきません。わたしの一生の課題として考えてみるつもりではいますがね……」
「ぜひ、そうしてくれたまえ」
と、キングはおれの眼《め》を凝《じつ》と見つめながら言った。
「わしはもう間もなくこの世から去らねばならぬ。貴君と共に、犬属いかに生きるべきか、について考えたいと希《ねが》ってはいるが、それはほとんど難《むずか》しかろう。貴君しかそれをやりとげるものはおらぬ。ひとつ躰《からだ》をいたわり長生きして、犬属を昨今の頽廃《たいはい》から救い出してくれたまえ」
キングの双眸《そうぼう》は濡《ぬ》れていた。おれは、とにかく力一杯《ちからいつぱい》やってみます、と答え、キングと共に古下駄を噛《か》んだ。だれが履《は》いた下駄かは知らないが、塩味のほどよくしみ込《こ》んだなかなか結構な味|塩梅《あんばい》の下駄であった。
おれの勉学
坂下の御隠居《ごいんきよ》こと、老シェパード犬のキングと邂逅《かいこう》して以来、自分で言うのも変だが、おれはずいぶん賢《かしこ》くなったと思う。
人間の言うことなど十中八九は碌《ろく》でもないことばかりである、と悟《さと》ったから、わが主人である小説家先生の命令もいい加減に右から左へ聞き流している。とはむろん露知《つゆし》らぬ先生は、いくら熱心に教え込《こ》んでも、おれが「チンチン」はおろか、「お手」も「伏《ふ》せ」もしないので、
「やはり雑犬は馬鹿《ばか》だ。知能が低いから芸ひとつしない」
と、ぼやいているようである。
勿論《もちろん》おれは先生とその家族にも尻尾《しつぽ》など振《ふ》らぬ。もっとも奥《おく》さんが食器に餌《えさ》を盛《も》っておれの前に置いてくれるときだけは、感謝の意を表して三回ほど尻尾を振ることにしているが、
「まあ、なんて現金な犬だこと」
と、奥さんはそのたびに呆《あき》れたように言う。
「食事を貰《もら》うときだけだわ、ドン松五郎《まつごろう》が尻尾を振るのは……」
姉の昭子君は生来の動物嫌《どうぶつぎら》いでおれの傍《そば》へは滅多《めつた》に近寄らぬ。これはありがたい。おれは勉強熱心な犬であるから、学ぶべきことが山ほどある。なのに時間はすくない。子どもの相手を仰《おお》せつかってその貴重な時を空費するのは、おれには耐《た》えられないのだ。
ただし、妹の和子君に対しては、おれは礼を尽《つ》くしているつもりである。和子君のおかげでおれはこうして命を長らえているのだから、これは当然だろう。
おれは和子君のあとについて小学校へ出かけるのを一時日課としていたことがあった。べつに忠犬ハチ公を気取ったわけではない。おれは勉強したかったのだ。すなわち、教室の窓の下に寝《ね》そべって、国語や算数の授業を盗《ぬす》み聞《ぎ》きするのである。我《わ》れながら驚《おどろ》いたことに、おれは一週間で、小学三年生の授業に飽《あ》きてしまった。授業が分からないので飽きたのではない。授業内容がおれには低すぎて飽きたのである。
そこでおれは六年生の教室の外に蟠踞《ばんきよ》して授業を聞いた。これも二週間で退屈《たいくつ》になってしまった。次に出かけて行ったのは、小学校からさらに犬の足で千四百六十三歩先にある中学校である。が、しかし、三年生の授業にも一カ月で欠伸《あくび》が出るようになった。
こんな伝でおれは高校の課程も三週間ですませ、現在は江戸川の川べりに建つ某《ぼう》私立商科大学へ日参している。
「それはすこしおかしいではないか」
と、おっしゃる向きがあるかもしれぬ。
「人間の言うことなど十中八九は碌でもないことばかりだ、とほざきながら、その舌の根も乾《かわ》かぬうちに、人間の学校で学ぶのは矛盾《むじゆん》するはなしではないか」と。
おれはそうは思わない。というのは真理を数多く含《ふく》む学問、たとえば数学や物理学や天文学は犬にとっても役に立つ。「1+1=2」は犬の世界も人間の世界といっしょなのだ。
警戒《けいかい》しなければならないのは歴史や法律学などの学問である。これは真実よりもそれの扱《あつか》い方をより重んじるようで、その扱い方は人間固有の習性をもってなされるが故《ゆえ》に、犬にはそれこそ犬の糞《くそ》ほどにも役立たぬ。とくに法律学なぞは面妖《めんよう》な代物《しろもの》だ。同じ勉強をした者が検事と弁護士に分かれる。そしてAという事件を検事と弁護士は全く違《ちが》う角度から見つつ是非を論じる。しかも検事も弁護士も己《おの》れの見方が正しいと主張する。つまり同じ教室で同じことを学んだ者が、検事の職を選べばA事件を甲と見、弁護士の職を選べばA事件を乙と見る。こんな馬鹿なことがあるものか。
愚《おろ》かな犬属の分際《ぶんざい》でもって人間様の法律を「下らん」と侮蔑《ぶべつ》するのはちと出すぎた発言ではないか、いい加減にしろよ、と憤慨《ふんがい》なさる方がたもおいでだろうと思うが、おれは決して間違《まちが》ったことは言っていないつもりだ。
たとえば、おれはこの間、中学校の教室の外から、教室の中で教師が生徒たちにこう教えているのを聞いた。
「……わたしたちの日本国憲法第三十条には国民は法律の定めるところにより納税の義務を負ふ≠ニ定めてあります。これはつまり総理大臣であろうがアルバイト学生であろうが、収入あるところに税金がある、という大原則で……」
嘘《うそ》をつけ! とおれはそのとき思わず吠《ほ》え声をあげた。というのはその前日、おれは主人の読む新聞を傍《そば》から覗《のぞ》いて、都心の一等地に三千|坪《つぼ》の豪邸《ごうてい》を所有し、一尾百万円の鯉《こい》を池に放ち、六人の庭師に庭木の手入れをさせている日本国の総理大臣の申告所得《しんこくしよとく》が、過去十年間、年四、五千万円にもならない、という記事を読んだことを思い出したからである。申告所得が年に数億か十数億なら話の辻褄《つじつま》が合うが、数千万の所得じゃ、三千坪の、一尾百万円の鯉の、庭師が六人の、豪勢《ごうせい》な生活は不可能だということぐらいは、犬のおれにもわかる。簡単な算術ではないか。
そこでおれは教室の外から教師へこう警告《けいこく》を発した。つまり吠えたてた。
「先生、憲法のその条文は国民は法律の定めるところにより納税の義務を負う。ただし、総理はじめ大臣諸公や与党《よとう》の|えらい《ヽヽヽ》さんや商社などについてはこの限りにあらず≠ニ改正すべきですよ!!」
この、おれの親切な警告に対して、教師は「うるさい犬だ」とチョークを投げつけてきた。さらに彼《かれ》は花瓶《かびん》の水をもおれにふりまかんばかりの勢いであったから、人間というものはおれたち犬属の言語を解し得るほどには天の恵みに浴しておらぬ動物であるわい、と嘆《たん》じつつ校庭へ走り逃《のが》れたが、それはとにかく、人間の庶民《しよみん》は重税を背負って辛苦《しんく》の日々を送っている。所得を胡麻化《ごまか》せばたちまち御用! とあいなる。ついこのあいだも、Sというテレビタレントが株の売買で得た収入を申告しなかったのを脱税行為《だつぜいこうい》と見なされ、税務署の摘発《てきはつ》を受けた。ために彼はタレントとしての生命を絶たれたようであるが、総理やおえら方の収入は目隠《めかく》しで事が済み、庶民の収入は明々白々であることを要求されるなぞ、法治国日本の看板《かんばん》も怪《あや》しいものだ。
おれは一介《いつかい》の駄犬《だけん》であるから、政党に好き嫌《きら》いはない。ただ、おかしいことをおかしいと思い、下らんことは下らんと言っているだけだが、国内での支持率が二十パーセント台でありながら依然《いぜん》として政権を担当している与党|内閣《ないかく》の存在も妙《みよう》なものである。犬の世界では金輪際《こんりんざい》こんな妙なことは起こらぬ。野良犬《のらいぬ》の集団にしたところで、半数以上の犬に支持されなければリーダー犬にはなれないのである。
おれの主人は、毎朝、新聞を眺《なが》めては、
「あれもこれも政治が悪い」
などともっともらしく呟《つぶや》いているが、これは男らしくないと思う。悪いならやめさせればいいではないか。やめさせようという努力はなにひとつせずに、政治が悪いの念仏をくり返しているだけではなんにもならない。
右の如《ごと》き、人間が尊信してやまぬ法律というものについては山ほど疑問がある。それをいちいち並《なら》べ立てたのでは際限《きり》がないから、そのうちのひとつについてだけ語ることにしよう。
このあいだの正月のことである。庭先で初春のうららかな陽光を浴《あ》びつつ、うつらうつらしていると、仕事部屋で、
「じつにけしからん!」
という主人の声がした。その日の午前に、おれは主人の禿下駄《ちびげた》を片方、庭木の下に埋《う》めていたので、その一件が主人に暴露《ばれ》たのかと思い、こわごわ仕事部屋の気配を窺《うかが》うと、主人は一冊の外国雑誌を間にして来客と向かい合っている。来客の顔には見憶《みおぼ》えがあった。原稿《げんこう》をよく取りに来る雑誌社の若い編集者である。
「いったい日本の税関はなんの権利があってこのような不粋《ぶすい》な真似《まね》をするのかね」
主人はしきりに例の外国雑誌を指で叩《たた》いている。下駄の一件はまだ露見《ろけん》していないらしいので吻《ほつ》としたが、吻としたとたん、おれは主人が何に対して腹を立てているか知りたくなった。そこで縁側《えんがわ》の踏石《ふみいし》の上に登って問題の外国雑誌を遠望すると、外国人の娘《むすめ》が一糸まとわぬ姿で寝台《しんだい》の上に寝《ね》そべっている写真が見えた。もっとも写真の娘の股間《こかん》はマジックで真っ黒に塗《ぬ》りつぶしてある。
「こっちは何百円もの金を払って買っているのに、肝腎《かんじん》の個所《ところ》を黒く塗ってしまうとはひどいではないか」
「先生、ぼくに向かって怒鳴《どな》っても仕方がないじゃありませんか」
編集者は憮然《ぶぜん》たる表情で顎《あご》の下の剃《そ》り残しの髭《ひげ》を撫《な》でている。
「ぼくは先生に頼まれて買ってきただけですから」
「それはそうだが、あんまり腹が立つのでねえ。わたしは外国雑誌のヌードの股間を汚《きたな》く塗りつぶすマジックの黒い色を見るたびに、理不尽《りふじん》なる国家権力と対峙《たいじ》している気になる」
主人は週刊誌や小説雑誌のインタビュー取材や写真|撮影《さつえい》に応じるときは枯木寒巌《こぼくかんがん》たる顔つきをしてかしこまっているものの、そのじつ女性の美しさには決して冷淡《れいたん》な方ではない。それどころか、奥《おく》さんの目を盗《ぬす》み、机上に外国雑誌をひろげ、相好をくずしてヌード写真を眺めるのが日課である。この間まではヌードの股間には黒い紙が貼《は》ってあったが、主人はこの黒い紙を剥《はが》す作業に情熱を燃《もや》していた。仕事部屋の石油ストーブの上の薬缶《やかん》の吹《ふ》き出す湯気にかざしたり、すべての糊《のり》づけを剥すという薬品を塗ったりして、粒々辛苦《りゆうりゆうしんく》の末にその黒い隠《かく》し紙をとり、「うむ、毛深い女性だ」だの「頭髪《とうはつ》が栗毛《くりげ》の女性はやはり下部構造を覆《おお》う毛も栗毛色だな」だのと愚《ぐ》にもつかぬことを叫《さけ》んでいた。しかし、最近、税関の股間を隠す手段が黒い紙か黒マジックの二本立てから、黒マジック一本槍《いつぽんやり》になると、主人の生甲斐《いきがい》がひとつ消え失せてしまったのだが、主人のこの怒《いか》りはもっともである、とおれは思う。
花の美しさも女体《によたい》の美しさも美しさにはかわりがない。なぜ花は美しいのか、どうして女体は美しいのかと尋《たず》ねる者があれば、彼は救いようのない朴念仁《ぼくねんじん》であり、相手にするに足らぬ大野暮《おおやぼ》である。それらは美しいが故に美しいのであり、ほかに理屈《りくつ》はいらぬはずだ。したがって女体の美しさを損うことを業とする税関吏《ぜいかんり》は朴念仁のチャンピオンであり、野暮の選手権保持者である。
人間に較《くら》べるとおれたち犬属などは気楽なものである。無理解で、かつ虚栄心《きよえいしん》に富む飼《か》い主《ぬし》のおかげでタータン・チェックの洋服などを着せられている愛玩犬《あいがんけん》などもなかにはいるが、たいていの犬は生まれ落ちたときのままの姿で行住坐臥《ぎようじゆうざが》、行屎送尿《こうしそうによう》ことごとくを弁《べん》じておる。したがって美形の雌犬嬢《めすいぬじよう》が通れば「うむ、美しい」と賛美しつつ眺め、美丈夫《びじようふ》の雄犬君《おすいぬくん》が駆《か》けてくれば「あらまあ、すてきね」と称賛しつつ観賞する。
その上、おれたち犬属にとって最も丁重なる挨拶《あいさつ》は、お互《たが》いに尻尾をあげながら密着し相手の臀部《しり》を嗅《か》ぎ合うことであるから、相手のすべてが眼前にある。己《おの》れのを開陳《かいちん》しつつ相手のをたっぷりと眺め、互いに眼福《がんぷく》を与《あた》えあう。これこそ賢者《けんじや》の方法ではないか。人間は防寒のために衣服を発明したが、その衣服が羞恥心《しゆうちしん》などという益体《やくたい》もないものを生みだしたわけで、考えてみれば気の毒なはなしだ。
「外国では露出《ろしゆつ》しても、また露出されたものを見ても罪にならんのに、日本だけがどうしてこのことについてはきびしいのだろうか」
主人は机上からインク消しを取り、それをちり紙に浸《ひた》して、ヌードの股間の黒いマジックの上を擦《こす》りはじめた。
「インク消しじゃだめですよ」
と、若い編集者が笑った。
「ベンジンならなんとかなりますが。ベンジンがあるかどうか、奥《おく》さんに訊《き》いてきましょうか」
「よせ」
主人が手で制した。
「使いみちを訊かれたらどうする気だ」
「それもそうですね」
「しかし、外国|追従《ついしよう》を専《もつぱ》らとする日本の体制側が、こと性に関するかぎり、きびしい実定法を守り切ろうとするのはなぜだろうねえ」
主人はとうとう諦《あきら》めて外国雑誌を閉じ、机上に抛《ほう》った。
「きみ、どう思うかね?」
「簡単です」
事もなげに編集者が言った。
「わが国の権力を握《にぎ》っているのが老人だからですよ。権力を掌中《しようちゆう》にした老人たちに怖《こわ》いものはなにひとつありません。悪知恵《わるぢえ》はある、金もある、地位もある、この世の中は思うがままです。ただ、その彼等にも弱味がひとつだけある」
「なんだね、それは?」
「もう若くはない、ということです。別に言えば性器の勃起力《ぼつきりよく》が弱い。この一点では老人は若者の敵ではない。高級待合の一室で売れっ子の芸妓《げいぎ》と寝《ね》る、高級マンションの一室で情婦と枕《まくら》を並べる、そのたびに老人たちは、女が愛しているのは己れの持つ金力や権力や勢力であって、決して己れ自身ではない、ということを痛いほど認識しなければならない。そこで彼等は性を禁じるのです。己れの弱味を隠すために、わたしたちに性を禁忌《きんき》とさせるのです。性が解放されれば敗者は自分たちであり、勝者が若者たちであるということをわれらの御老体たちはよく知っているんですよ。それが根本ではないんですかね」
「なーる」
と主人は声を引っ張り「ほど」を略して考えている。考え込《こ》むほどの卓説《たくせつ》ではないと思うが、主人はそれから二度も「なーる」を連発し、やがて、メモ用紙に文字を数行書きつけた。編集者の説を基《もと》に随筆《ずいひつ》か雑文をものするつもりなのだろう。
おれの理解するところによると、自然法はいざ知らず、実定法の第一の特徴《とくちよう》は〈その集団の意志により、制定、変更、廃止《はいし》できる〉というところにある、と思われる。したがって主人は、そんなにヌードの股間に黒色のマジックを塗られるのがいやなら、編集者相手にぶつぶつ言っている暇《ひま》に、実定法をさっそく改正する工面《くめん》でもすればよいのである。このあたりの人間の考え方が、どうもおれたちにはわからぬ。ところで主人はたちどころに別なことを思いついたらしく、
「ねえ、きみ、今日は閑《ひま》かね?」
と、編集者に訊いた。
「閑ならパラダイス座へ行ってみないかね?」
おれの散歩のコースにあるからよく知っているのだが、パラダイス座とは駅の近くにあるヌード劇場である。どうやら主人は外国雑誌のヌード写真に欠けていた個所を実見によって補《おぎな》おうという心算《つもり》らしかった。
「このごろのパラダイス座はすごいという評判だよ、きみ」
「それは多分、県下の各都市で市長選が近いせいでしょうね」
編集者は断定するように言って、卓上の正月料理の蒲鉾《かまぼこ》を箸《はし》で挟《はさ》んだ。
「選挙が近いと警察の取り締《し》まりがゆるやかになりますからね」
「ほう、そりゃまた何故《なぜ》だね?」
「風紀係《ふうきがかり》のおまわりが選挙|違反《いはん》の摘発《てきはつ》の方へ動員されるんですよ。東京なんかじゃ、学生運動が盛《さか》んになりますと、ヌード劇場の踊子《おどりこ》たちの見せっぷりがよくなるようです。これも同じ理由によります」
「なーる」
主人はまた「ほど」を略した。編集者は蒲鉾を噛《か》みながら、
「それでは先生、ひとつまいりましょうか」
「うむ」
主人は勢いよく立ち上がる。たいていの場合、主人の動作ははなはだ緩慢《かんまん》である。奥さんが「食事ですよ」と呼んでも、うむと生返事したまま、なかなか机の前から離《はな》れない。仕事に熱中しているので急には立てない、というのなら立派だが、耳掻《みみか》き棒で耳の穴をほじくったり、鼻毛を引き抜《ぬ》いて机の縁《へり》にさかさに植えつけたりしながら、なかなか腰《こし》をあげないのである。さて、一旦《いつたん》、机の前から離れたらこんどは容易《ようい》に机の前に戻《もど》らない。食卓《しよくたく》の前に根を生やし、たて続けに何杯《なんばい》もお茶をおかわりしながら、いつまでもぼんやりしている。飯を喰《く》うときは喰う、仕事をするときはする、眠《ねむ》るときは眠る、ともうすこし生活にけじめをつけてもよさそうなものだが、主人のこの、のんべんだらりのでんでろれん的|振《ふ》る舞《ま》いは、間断《かんだん》なく継続《けいぞく》しているのである。この主人のことを奥さんは「あなたってのんびり屋さんねえ」と言い、長女の昭子君は「お父さんは|怪 獣 《かいじゆう》|グズラ《ヽヽヽ》よ」とこきおろし、次女の和子君は「パパはいつも小説のことを考えてぼうっとしているのよ」と弁護する。おれにはどの意見が当たっているかはわからないし、どっちかな、などと考えたこともない。べつに昭和史を動かすほどの人物でもないのだから、どっちだろうが構いはしないのである――、なんてこのへんの言い方は漱石《そうせき》先生の「猫《ねこ》」そっくりだ。
それはとにかく、その主人がびっくり箱《ばこ》のばね仕掛《じか》けの人形のように勢いよく立ち上がったので、おれはすこしく愕《おどろ》いた。そして、ヌード劇場には|なにか《ヽヽヽ》がある、懦夫《だふ》をして立たしめるなにかがある、とおれは思った。ひとつ両人について行って、その|なにか《ヽヽヽ》をこの眼《め》でたしかめるとするか。
人間属の男性の憧《あこが》れの的であるヌード劇場パラダイス座までは、犬の速足《はやあし》で十分ぐらいで行ける。主人と雑誌社の編集者はタクシーを拾うつもりなのだろう、大通りの方へ降りて行った。おれは裏通りを徒歩で行くことに決めた。
「徒歩で行くことに決めた」と、いま言ったけれども、実はおれたち犬属はいつだって徒歩なのである。その証拠《しようこ》に犬が尻尾《しつぽ》を振ってタクシーを停《と》めたなんて話は聞いたことがないし、犬が国鉄のグリーン車にふんぞりかえって巻《まき》煙草《たばこ》をふかしていたという例もおれは知らぬ。犬が自動車のハンドルを握《にぎ》っていたなどという事例は更《さら》に皆無《かいむ》である。犬は天から授かった足だけを頼《たよ》りにどこへ行くときでも自分でとことこ歩くのが信条なのである。
わが主人は風呂《ふろ》から上がるたびに湯殿《ゆどの》の前の姿見に向かって、せり出した腹を撫でながら、
「……また、せり出してきたようだな」
と、嘆息《たんそく》まじりに呟《つぶや》くのを習慣にしている。
「おまえに必要なのは運動だ」
と、姿見の中の己れの裸《はだか》に向かって語りかけているときもある。そしていつも最後に、
「明日こそはサニー倶楽部《クラブ》へきっと行くぞ」
と、締《し》めくくるのを湯上がりどきの小|儀式《ぎしき》としている。
サニー倶楽部とは、この近くにある有料体育館のことである。去年の暮《く》れ、主人は十万円|払《はら》ってこの倶楽部の正会員になった。倶楽部の会則第二条に「本倶楽部は、専属トレーナーによる指導と様々なトレーニング設備によって、中高年層の健康保全に役立てることを目的とする。また、専属トレーナーは体育|専攻《せんこう》の女子学生をその主要メンバーとする」とあるが、主人はどうやらこの「専属トレーナーは体育専攻の女子学生ウンヌン」に大いに惹《ひ》かれたようであった。倶楽部の経営者は近くの地主である。パチンコ屋は頭打ち、マージャン屋は利が薄《うす》く、ボウリング場は林立しすぎて経営困難、それならば川向こうの東京で流行しつつある体育倶楽部をと、自分を社長に、奥さんを専務に、息子《むすこ》を常務に、家族総出で大いそぎででっちあげたのがこの倶楽部なのだ。「女子学生がトレーナー」などと麗々《れいれい》しく会則に掲《かか》げているところ、経営者のさもしい本性がはっきりと露呈《ろてい》しているが、それにまんまと釣《つ》られた主人も愚《おろ》か、夫の健康管理のためならばと、二年間|釣銭《つりせん》をへそくって貯《た》めた十万円をぽんと出した奥さんがひとり哀《あわ》れである。
倶楽部に入会した途端《とたん》、主人は大いなる幻滅《げんめつ》を味わったようだ。設備といっても一周三十|米《メートル》の屋内トラックと風呂と体重計があるだけ、おまけにお目当ての女子トレーナーは中学校の体操《たいそう》部の女生徒、小遣《こづか》い銭稼《せんかせ》ぎが半分、遊びが半分で、ただ板敷《いたじき》のトラックをうろちょろしているだけだったのだ。主人はつまり十万円で、中学校の女生徒のうろちょろしている、ばかでかい銭湯の会員権を買い込んだといっていい。
それにしても人間属のやることはよくのみこめぬ。健康がそんなに大事ならおれたち犬のようにただこつこつと歩けばよろしい。だいたいこの方が金がかからぬではないか。
そうぶつぶつ言って歩いているうちに、おれはパラダイス座に着いた。見ると、主人と編集者がいましも木戸を潜《くぐ》ろうとしている。
犬のおれには、当然のことながら人間属の女性の裸体《らたい》を眺《なが》めて興奮《こうふん》したり感嘆《かんたん》したりする趣味《しゆみ》はない。だいたいが、毛をもって装飾《そうしよく》されるべきはずの躰《からだ》がつるつるとしていてまるでステンレス製の薬缶《やかん》であるから、気色が悪い。鱗《うろこ》のない魚はさぞかし不気味だろう、枝《えだ》のない杉《すぎ》の木があったら丸太ン棒だ、表紙のない本は古本屋でも買ってはくれぬ、キャップのない万年筆は剣呑《けんのん》で持っては歩けぬ。それと同じことで、毛の生えてない躰なぞ、おれたちには薄《うす》っ気味《きみ》が悪いだけである。
そこでおれは、パラダイス座の立看板を眺めて時間をつぶすことにした。立看板は二枚ある。いずれも赤い泥絵具《どろえのぐ》で地を塗《ぬ》り、その上に白色や赤色や青色の筆で吐《は》きつけるように、乱暴《らんぼう》な文字が書いてある。
「見せますか? 見せますとも。なにをです? 裸《はだか》をですとも!」
パラダイス座の経営者が、自分の劇場へ足を運んでくれる顧客《こきやく》をどう見ているかが、この宣伝|惹句《じやつく》からはっきりとわかる。彼は顧客の知能を相当低く見積もっている。ヌード劇場へ行けば絵画や彫刻の展覧会《てんらんかい》が見れる、と思っている人がもしいれば、その人は間抜《まぬ》けであり、愚かであり、世間知らずであるが、パラダイス座の経営者は、お客がみなそうした愚か者であると信じているのだ。そうでなければ誰《だれ》が自分のヌード劇場の前に、「なにをです? 裸をですとも!」などと書いた看板を立てるものか。
もう一枚の立看板の文句はこうである。
「お色気ムンムン……。こんなところにこんなANBがあるなんて!」
これにはかなり首をひねった。ANBとはなんの略号かなかなかわからなかったからである。おれははじめ、Aはアナーキズム、Nはナショナリズム、Bはボルシェビズムの略かと考えた。しかし、ヌード劇場で思想講演会をやるわけもなし、だいたいアナーキズムがお色気ムンムンだなんて聞いたことがない。そこで次に、これは「アラビア国立《ナシヨナル》バレー団」かなんかが当劇場に出演中ですぞ、という謎《なぞ》かと考えた。しかし、これも変である。数年前なら知らぬこと、石油不足らしいいまの日本国に石油国アラビアは神にも等しき国、そのアラビアの国立バレー団をこんな場末のヌード劇場に出演させるようなことを、小利口な政治家どもがさせておくはずはないのだ。
そのうちに経営者の知能にこっちの知能を適《あ》わせないとこの略号はとけぬだろうと思いついた。つまりこっちの知能が高すぎるから高尚《こうしよう》なことばかり考えるのである。そこで意識して馬鹿《ばか》っぷりをしたら、立ちどころにANBの意味が解けた。どうやら「穴場」の略らしい。
おれは苦笑しながら立看板の傍《そば》を離《はな》れ裏へまわった。こういう立看板を見ていると頭が悪くなるばかりだ、それよりも散歩でもしてみよう、と考えたのである。裏へまわると、窓のひとつから見も知らぬプードル嬢《じよう》がおれに声をかけてきた。
「ねえ、あたし一人でさびしくおやつをたべているところなの。あなた、お相伴《しようばん》しない?」
おれもちょうど空腹を覚えていたところなので、ひらりと窓から内部《なか》へ入り込む。どうやらそこはストリッパーたちの楽屋らしい。脂粉《しふん》の匂《にお》いがむんむんとたちこめていた。
「ようこそ、さあ、どうぞ」
プードル嬢はおれを姿見の前へ案内した。おれは大人しくその前に坐《すわ》った。
姿見の前の床《ゆか》の上に、ビスケットを盛《も》った皿《さら》が置いてあった。おれはそのビスケットのお裾分《すそわ》けに与《あずか》りながら、プードル嬢と左の問答を試みた。
「君の名は?」
「お銀《ぎん》よ」
名は体、と言うが、なるほど彼女《かのじよ》の全身はふさふさした銀色の毛で覆《おお》われていた。
「おれの名はドン松五郎だ。おれの主人は三文小説家だが、君の主人の職業は?」
「ストリッパーよ」
と、お銀は姿見に向かって鼻を振《ふ》って見せた。姿見の中には化粧《けしよう》中の年配のストリッパーの後姿が写っている。なお、人間には「顎《あご》でしゃくって方角を教える」という言い方があるが、おれたち犬属はこういう場合、鼻を用いる。だから、生計の道を失って食えなくなるということは人間では「顎が干上《ひあ》がる」だが、おれたちの場合は「鼻の先が干上がる」と表現するわけだ。高慢《こうまん》な態度で指図《さしず》するという意味の「顎で教える」は「鼻で教える」だ。不可能なことをたとえて言う「顎で背中を掻《か》くよう」は「鼻で背中を掻くよう」であり、力の衰《おとろ》えた様子を現す「顎で蠅《はえ》を追う」は、「鼻で蠅を追う」となるわけだ。また、疲《つか》れ切ったことを言うときの「顎を出す」は「鼻を出す」である。このように人間なら顎という言葉で表現することが犬の場合はなぜ鼻になってしまうのか、これは比較《ひかく》言語学上の興味深いテーマであり、おれなりの見解もあるのだが、今はお銀との問答を追う方が急務であると思われるので割愛《かつあい》しよう。
「なぜ、君はおれにビスケットなぞおごってくれるのだい?」
「だからそれは最初に言ったでしょ、ひとりでおやつを食べるのは味気がないからって」
「それだけだろうか」
と、おれはお銀の尻尾を見ながら言った。
「他にも理由があるんじゃないのかい?」
犬の雌《めす》が雄《おす》にある好意を持つ場合、かならず尻尾を右か左に曲げる。人間の娘《むすめ》がひとりの青年に好意を持つとき、その青年の前に出ると顔をひとりでに赤くするが、それと同じことなのだが、お銀の尻尾は右に曲がっていた。
「きみは、おれに或《あ》る好意を抱《いだ》いているのではないだろうか?」
「かもね」
「光栄に思うが、おれはまだ君の好意を受けとることはできないよ。というのは、おれは現在、世の中のことを勉学中の身の上であり、まだ子ども同然なんだ」
「わたしだってまだ子どもだわ。それに結婚《けつこん》の相手としてはあなたに好意を持ったんじゃないのよ。単なる茶飲み友達として……」
「茶飲み友達という表現は人間のものだ。犬なら犬らしくビスケット友達と言った方がいいと思うね」
「じゃそのビスケット友達としてなんとなく心を惹《ひ》かれたのよ」
「うん、それならいいのだ」
おれはここで問答を中止してビスケットを一枚平げた。
「おいしいビスケットだね。舶来《はくらい》じゃないですか」
「そうよ。わたしの主人は自分は一枚二十円の塩せんべいを喰《た》べながら、わたしには一箱《ひとはこ》五百円の舶来ビスケットを奢《おご》ってくれるの。まるでわたしに仕えてくれているみたい……」
おれはうむと唸《うな》った。このお銀という少女犬はなかなかもって|飼われ方の達人《ヽヽヽヽヽヽヽ》、いや達犬《ヽヽ》ではないか。
「しかし、こういっては失礼になるかもしれないが、きみの主人はストリッパーというにはすこし年齢《とし》をとりすぎてはいないだろうか」
姿見の中に写っているお銀の飼い主の萎《しな》びた乳房《ちぶさ》を眺めながら、おれは彼女に訊《き》いた。
「というのは他《ほか》でもない、おれの主人がいま劇場に来ているんだ。彼は連れの編集者の分を含《ふく》めて六千円もの入場料を払っているのだが、あんな萎びた乳房を見るために六千円とは、主人に忠義顔をする気はないが、すこし可哀想《かわいそう》だと思うのだよ」
「心配しなくて平気よ。わたしの主人は五化《ごば》け≠ニいうあだ名があるぐらい芸達者なんだから」
と、お銀は己《おの》が主人の肩《かた》を持った。
「あなたのご主人、きっと満足して帰ると思うわ」
「いまきみの言った五化け≠チてどんな意味なんだい?」
「すこし長い話になるわよ」
「いいとも。ぼくはいまのところどうせ閑《ひま》なんだ」
「じゃあ話すわ」
お銀は床の上にぺったりと尻《しり》を落とし、すこし考えてから、こう切り出した。
「わたしの主人の名はパール真珠《しんじゆ》っていうんだけど、初舞台《はつぶたい》は昭和二十八年、そのとき、パール真珠は三十二|歳《さい》だったそうよ。だから以来二十二年間舞台一筋……」
おれは少なからず愕《おどろ》いた。人間の二十二年はおれたち犬の年数に換算《かんさん》すると、ざっと八倍の百八十年になる。百八十年も裸で踊《おど》り続けるとは並大抵《なみたいてい》の化物《ばけもの》ではない。それに、お銀の言葉を信ずればパール真珠は現在五十四歳。いくら芸達者だといえ、五十四歳の年配女の裸体《らたい》は、お客の厳《きび》しい視線によく耐《た》え得《う》るだろうか。
「劇場の支配人は、出演を依頼《いらい》したパール真珠が到着《とうちやく》すると、まず仰天《ぎようてん》するわ。こりゃあ、しまった。とんだ化物と契約《けいやく》しちまった≠チてね。ところが、化粧を終えて、また驚《おどろ》くんだわ。いやあ、うまく化けたものだ、どう見ても二十代だ≠ニね。パール真珠なんてハイカラな芸名をつけているけど、じつはうちの主人は日舞《にちぶ》が専門。若い頃《ころ》、日舞を本格的にやっていたから、踊りだせばこっちのもの。昨日までOLをやっていて、今日からはレスビアンの踊子、なんて女の子がいま多すぎるけど、そういう連中に較《くら》べたらたいへんな違《ちが》い、たちまちお客は踊りに引き込まれてしまう。しかも、局部|開陳《かいちん》の段になると、彼女はどうしてもまだ十代の女の子に見えてくる」
「な、なぜだろう?」
「局部の毛がもう年だから疎《まば》らになっているでしょう。それがまだ生え揃《そろ》っていないようにお客には見えるのね」
「しかし、皺《しわ》くちゃの顔や萎びた乳房は胡麻化《ごまか》せないだろう?」
「それが胡麻化せるのよ。論より証拠《しようこ》、パール真珠の化粧法を、あなた、自分の目でたしかめるといいわ」
そこでおれはパール真珠を眺め得る位置に躰《からだ》を移動させた。つまり彼女の横へ坐り直したわけである。パール真珠は、顔を造っている最中だった。まずセロハンテープの太目のやつを額の上方、左右二カ所に貼《は》って、えい、と斜《なな》め上方に持ち上げておき、そのまま固定させる。すると顔の皺がぴんと伸《の》び、しかも眼尻《めじり》がきゅっと釣《つ》り上がって、顔がいっぺんに十歳も若くなってしまったのである。彼女はそうしておいて日本髪《にほんがみ》のかつらをかぶった。セロハンテープはかつらの下に隠《かく》れ、顔に関するかぎりパール真珠はもうどこから見ても三十代といった感じになった。
顔の若造りを終えたパール真珠はつづいて乳房の改造に着手した。彼女の乳房は卑俗《ひぞく》な直喩《ちよくゆ》法を用いれば、あたかも胸板の左右にビール瓶《びん》を二本ぶらさげた如《ごと》くである。平ったく言えばだらりと弛《たる》んでいるわけだ。この弛みを摘《つま》み、パール真珠はすばやくその摘んだところを巻くようにして乳房の付け根のあたりへ埋没《まいぼつ》せしめる。これだけでは手を離《はな》せばすぐに旧に復するおそれがあるから、彼女はセロハンテープで押《おさ》える。とたんにビール瓶は、小さいが固そうで存在感に溢《あふ》れた若い娘《むすめ》のそれのような乳房に化けてしまった。
もっとも梅干《うめぼし》を貼ったような乳頭は胡麻化しがきかぬ。あんなでっかい乳頭を客に見せるのはどんなものだろうか、と他人事《ひとごと》ながら心配になったが、パール真珠はまことに簡便な方法で、それをも再生させた。彼女は乳頭に桜《さくら》の造花を貼《は》ったのである。
「このごろの観客はストリッパーの乳房なんてなんとも思っちゃいない」
プードル犬のお銀が傍からおれに注釈を施《ほどこ》す。
「それはストリッパーが最初《はな》から乳房を出して登場するからなの。つまり馴《な》れちゃったわけ。そこへわたしの主人が乳房を隠して、それも花で覆《おお》って出てくる。すると『おや、あの踊子は細かいところに気を配《くば》っているのだなあ』とか、『隠された乳房って結構エロチシズムがあるなあ』とかみなさん思うわけね。それでわたしの主人ずいぶんファンが多いのよ。どう、彼女って頭がいいでしょ?」
頭がいいどころではない、まるで詐欺師《さぎし》のようだ、とおれは思った。同時にお銀の言葉のなかに、おれはストリップあるいはヌードと称する人間世界のショービジネスの基本的な在り方があるのではないか、とも考えた。つまり人間属の男性は隠されているものに|なにか《ヽヽヽ》を感じるらしいのだ。ちがう言い方をすれば全部見せる踊子は商売が下手なのである。舶来の雑誌の女性ヌードの股間《こかん》に黒マジックを塗《ぬ》る税関も愚だが、すぐに股間を丸出しにする踊子も愚である。
「それじゃお銀ちゃん、ちょっと舞台に出てくるからね」
黄八丈《きはちじよう》を着込《きこ》んだパール真珠がわが友お銀の首を抱《だ》いた。
「大人しく待っているんだよ」
お銀は甘《あま》えて尻尾を振《ふ》った。娘に化けた婆《ばあ》さん踊子が飼《か》い犬を抱いて別れを惜《お》しむの図、なんだか知らんがはなはだ雅《みやび》であるとおれは感心してその光景を眺《なが》めていた。
「おや、雑種がいるね」
パール真珠はおれを見て言った。団栗《どんぐり》のようなまるい目の上に庇《ひさし》のような付け睫毛《まつげ》が張り出している。よく重くないものだ。
「お銀ちゃんのボーイフレンドなんだね」
パール真珠はひとりで合点《がてん》して付け睫毛をばさばさとしばたたいた。
「両方ともまだ仔犬《こいぬ》だからその心配はないだろうけど、お銀ちゃん、|やられないように《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》気をつけるんだよ」
パール真珠はそう言い残して楽屋を出て行った。お銀が、
「ごめんなさい」
と言った。
「わたしの主人、気はいいんだけど口が悪いの。『やられないように』だなんて気に触《さわ》ったでしょう?」
おれはお銀に大きく横に首を振って見せた。
「人間の口の悪いのには馴《な》れてる。それよりも、きみの主人のショーを見ようよ」
お銀の案内でおれは舞台の袖《そで》に出た。舞台ではちょうどパール真珠が踊りはじめたところである。
パラダイス座の場内はたいして広くはない。椅子席《いすせき》は百もないだろう。その椅子席の真ん中に花道が突《つ》き出しており、その花道はやがて直径《さしわたし》三|米《メートル》ほどのエプロンステージに連結する。パール真珠は『別れの一本杉』という古い歌謡曲《かようきよく》に合わせて日舞を踊りながら花道をゆっくりと渡《わた》って行った。
おれは日舞なぞには興味がないので、場内のどこかに居《い》るはずの主人と編集者の姿を探した。場内の照明が暗い上、おれたち犬は視力が弱いので、主人はなかなか見つからぬ。仕方がないから、花道で踊るパール真珠をぼんやり眺めていた。
と、そのうちに拡声機から聞こえていた音楽が変わった。フィンガー|5《フアイブ》とかいう子どものグループの『個人授業』である。うちの和子君の愛唱している歌だからすぐわかった。パール真珠は黄八丈の裾《すそ》をひるがえしながらゴーゴーダンスをはじめた。それにしても日舞に『別れの一本杉』はわかるがソウル・ミュージック風の『個人授業』とはわからぬ。これはまるで懐石料理《かいせきりようり》の膳《ぜん》の上にビフテキをのっけるようなものではないか。
エプロンの床下《ゆかした》に照明が仕込んであったらしく、音楽が変わった瞬間《しゆんかん》、それが点《つ》いた。おかげでエプロンを取り巻いていたお客の顔がはっきりと見える。主人と編集者もその中にいた。二人ともエプロンの上のパール真珠はそっちのけでなにか小声で話し合っている。せっかく一人三千円もの入場料を払っていながらもったいない話であると、思わず低い唸《うな》り声《ごえ》をあげると、
「お客さんが踊子を熱心に見るのは丸裸《まるはだか》になったときだけよ」
と、お銀が解説してくれる。なるほどそう言われてみると、誰《だれ》ひとりとしてエプロンを見ている者はおらぬ。目をつぶって沈思黙考《ちんしもつこう》をきめ込むやつ、競馬新聞に赤鉛筆《あかえんぴつ》で予想を記入するやつ、週刊誌をめくるやつ、居眠《いねむ》りするやつ、みんな勝手なことをしている。なかには弁当を使っているやつもいる。お銀の説明によると彼は放送局の集金人だそうだ。
「まことに慨嘆《がいたん》に耐えん!」
と、おれはお銀に言った。
「これでは時間の無駄《むだ》ではないか。ショーなどというまだるっこい形式をとらずに踊子全員裸にして並《なら》べ、客にたっぷり眺めさせ、堪能《たんのう》したところで次と入れ替《か》えればいい。そしたらなにもかも入れて三十分ですむと思うよ。そうすれば客も踊子もずいぶん時間の節約ができるはずだ」
「人間のやることはわたしたちには謎《なぞ》よ。だからあまり興奮《こうふん》しないで」
それもそうだと思い、おれはまたエプロンに目を戻《もど》した。音楽が変わり、琴《こと》の音《ね》が場内に流れ出した。お銀に聞くと、なんでもそれは『春の海』と称する名曲だそうだ。人間の名曲かならずしも犬にとっても名曲とはならぬ。おれは退屈《たいくつ》で欠伸《あくび》が出た。パール真珠はこの眠《ねむ》い曲のなかごろから着物を脱《ぬ》ぎだす。現金なもので、とたんに客の目の色が変わりだした。放送局の集金人は弁当箱《べんとうばこ》を鞄《かばん》に仕舞《しま》い、主人と編集者はひそひそ話をやめた。
パール真珠は襦袢《じゆばん》一枚になってエプロンの上に寝《ね》そべり、ゆっくりとその裾をまくった。周囲の客が立ち上がってどっとエプロンの間際《まぎわ》まで押し寄せる。これはどうにも浅間《あさま》しい。人間属の男性は、中年女性が安物をあさってスーパーなどへどどどと押し寄せるのを嗤《わら》うようだが、これでは自分だって同じ穴の狢《むじな》だ。
そんなことを考えていると、いきなりひとりの男がひらりとエプロンの上にとび乗ってパール真珠の手をむずと掴《つか》んだからおれは仰天《ぎようてん》した。
「パール真珠、ワイセツ罪現行犯で逮捕《たいほ》する」
男は呆然《ぼうぜん》としているパール真珠の手にがちゃりと手錠《てじよう》をかけた。
レコードの音がはたとやみ、場内は水を打ったように鎮《しず》まりかえった。しばらくの間、咳《しわぶき》の音ひとつしない。だがやがて、
「ほんとにあたしをしょっ引く気なのかい」
というパール真珠の気丈《きじよう》な声が場内の寂寞《せきばく》を破った。
「いったいあたしが何をしたっていうのさ」
「それはいま言った筈《はず》だ」
と刑事《けいじ》が圧《お》し殺した声を出した。
「刑法第百七十四条に定める公然|猥褻罪《わいせつざい》の現行犯だよ」
「なんで生まれたままの姿を見せるのが公然猥褻罪になるのよ。あたし、お客さんに、|あそこ《ヽヽヽ》を凶器《きようき》がわりにやい、もっと拍手《はくしゆ》をしな。しないと|この《ヽヽ》中にあんたがたを吸い込んじゃうぞ≠ニ脅《おど》したおぼえもないし、やい、金を出せ。でないと|これ《ヽヽ》であんたがたに噛《か》みついちまうぞ≠ニ悪迫《わるぜま》りしたおぼえもないわ」
「言い分は署で聞くよ。とにかくおまえは汚《きたな》らしい個所を丸出しにした。それは法に触《ふ》れる行為《こうい》なんだよ」
「汚らしい個所だって? 冗談《じようだん》じゃないよ。あんただって同じところから生まれてきたんじゃないか」
「静かにしろ」
「いやだよ。あたしは思いついたことはその場ですぐに言う主義なんだ。商社や石油会社や洗剤《せんざい》会社は商品を隠《かく》し値を釣《つ》り上げて大儲《おおもう》けをしているのにちっとも罪にならない。なのにこっちは商品を大っぴらに見せている。おまけに値を釣り上げているわけでもないんだ。商社なんかが罪にならないのにどうしてこっちが罪になるんだよ」
パール真珠の火のような舌鋒《ぜつぽう》に刑事は気押されて口をつぐんだ。これがますます彼女《かのじよ》の舌に油を注《さ》した。
「その上あたしの見せているのは両親からの授《さずか》りもの、どこの女も持っているものなんだ。しかもお客さんとは納得《なつとく》ずく。お客さんは見られて嬉《うれ》しい、あたしは生活費が稼《かせ》げるからこれまた嬉しい。だれも被害は受けていない。そこのどこが悪いのさ」
「だまれ、人でなし」
刑事がパール真珠をぐいと引き立てた。
「人でなしのくせに人間|並《な》みの口をきくな」
「あたしが人でなしだって?」
勇敢《ゆうかん》なるストリッパーは両足を踏《ふ》ん張《ば》った。
「あたしはこれでも人間だよ」
「人間だと? 笑わせるな、おまえたちは人間じゃない。ちゃんとした人間が人前で性器を丸出しにするか! おまえたちは犬同然だよ」
おれは刑事のこの一言を聞いたとたん、腹の底の方から頭の天辺《てつぺん》へぐうーっと怒《いか》りのようなものが吶喊《とつかん》してくるのを感じた。犬同然とはなんという言い草であるか。悪いが犬には公然猥褻罪なんていうつまらぬ法律はない。いたって大らかなものだ。だいたい刑法という代物《しろもの》は明治四十年に出来たものではないか。世の中は日進月歩、その世の中を明治四十年に作った古色蒼然《こしよくそうぜん》たる旧仮名づかいの法律で規制しようというのがよっぽどおかしいのだ。
おれがぷんぷん怒っているあいだに刑事はぐいぐいとパール真珠を引き立てて、舞台《ぶたい》の通路から裏口へ出た。
「ちょっと裸《はだか》で道中できないじゃないか」
と抗議《こうぎ》するパール真珠の背中に刑事は彼女の楽屋に吊《つる》してあった安毛皮のコートを羽織らせ、戸外へ押し出した。
おれの傍《そば》で、くんくん鼻を鳴らしながら己《おの》れの主人の連行されるのを見送っていたお銀がなにを思ったのか、身を翻《ひるがえ》して楽屋に飛び込んだ。お銀はデリケートな犬である。飼い主の逮捕を悲観のあまり自殺、などということも考えられないではない。
「おい、お銀さん、気持ちはわかるが早まったことをしてはいけないよ」
と、おれはあわてて大声をあげた。
「犬は犬同士だ。相談には乗ってあげるよ」
「心配ないわよ。あたし、飼い主にハンドバッグを持って行ってやるだけなんだから」
声がして間もなく、エナメルのハンドバッグを啣《くわ》えたお銀が楽屋から出てきた。彼女はおれの傍をすり抜《ぬ》けて戸外へ駆《か》けて行く。おれもその後に続いた。小屋の裏手は空地になっているが、その空地に黒塗《くろぬ》りの国産車が停車していた。パール真珠は刑事に押されるようにして車の後部座席に入り込むところである。お銀は首を捻《ねじ》ってハンドバッグを車の中へ抛《ほう》り込むと、わんわんと二声、吠《ほ》えた。
「あら、お銀ちゃん!」
パール真珠がお銀に手錠の嵌《はま》った手を振《ふ》った。
「すぐ戻《もど》ってくるからね。どこへも行かずに楽屋にじっとしているのよ。食事の世話は劇場の支配人がしてくれると思うわ」
パール真珠の言葉の後半は車のエンジン音にかき消されてよくは聞こえぬ。車は急発進し、土埃《つちぼこり》をあげながら空地から走り去ってしまった。お銀はその土埃に向かって力なく尻尾《しつぽ》を振っている……
「たしか権力側の取り調べの持ち時間は、警察が四十八時間、検事《けんじ》が二十四時間の計七十二時間だったと思う」
いつだったか、私立商大の校舎の窓の外から法学の講義を盗《ぬす》み聞《ぎ》きしたことがあるのだが、そのときの講義の内容を頭の中の収納所から引き出しながら、おれは背後からお銀をやさしく慰《なぐさ》めた。
「したがって三日後にパール真珠は戻ってくるはずだ。挫《くじ》けずに三日間持ちこたえるのだよ」
「今度は三日で戻ってこれるかどうかわからない……」
お銀はそのへんを|あて《ヽヽ》もなく歩きまわりながら呟《つぶや》いた。彼女の足どりは蹌々《そうそう》かつ踉々《ろうろう》としている。
「なんといったってうちの主人は爆弾《ばくだん》持ちの身の上だからねえ」
「爆弾持ちの身の上?」
「そう。執行猶予《しつこうゆうよ》期間中だったの」
「すると、拘留《こうりゆう》延長が二十日ぐらいつくかな」
「拘留延長ぐらいで済めばいいけど、今度は実刑を喰《く》いそうだわ。茨城県《いばらきけん》の笠間《かさま》女子刑務所で一カ月から三カ月ぐらい臭《くさ》い飯を喰うことになるかもしれない」
さすがストリッパーに飼われているだけあって、その方面の知識をお銀はよく仕込んでいるようである。
「とくに今回はうちの主人、刑事にずいぶん反抗《はんこう》したでしょう。刑事はおそらく主人を刑務所に送り込む気でいるにちがいないわ」
「ふうむ。たしかにパール真珠はあの刑事を挑発《ちようはつ》していたようだね。あれは拙《まず》かったなあ」
「仕方がないのよ。あれも生きるためなのだから」
「生きるため?」
「そう」
お銀は頷《うなず》きながらおれの方を振り返って見た。彼女の双眸《そうぼう》は涙《なみだ》でしっとりと潤《うる》んでいる。
「つまりうちの主人は刑事さんを挑発することによって、罪を自分ひとりで引き受けてしまったわけよ」
お銀は言いながらパラダイス座の軒下《のきした》にちょこんと坐《すわ》った。おれも彼女と並んで腰《こし》をおろす。
「じつは主人にもっと出せ、そして出来るだけ|えげつなく《ヽヽヽヽヽ》演《や》れ≠ニ命令したのは、このパラダイス座の支配人なの」
「それなら逮捕されるべきなのは支配人であり、この小屋の経営者ではないですか」
「たしかにその通り。でも、主人が刑事にそのことを正直に白状したらどうなると思う? 支配人の恨《うら》みを買って二度とこの小屋に出演できなくなるわ。この小屋ばかりじゃない、あッという間に噂《うわさ》はひろまって関東一円の小屋から閉め出しを喰ってしまうのよ。つまり、警察から出てきても働き口がない、ということになるわけ。たちまち顎《あご》が干上《ひあ》がってしまう。彼女はそれを避《さ》けるために、なにもかも自分で背負いこんだのよ。そればかりじゃないわ、支配人や経営者が捕《つか》まって小屋が営業停止にでもなってごらんなさい。この小屋に出演していた他《ほか》の踊子《おどりこ》さんたちが路頭に迷うことになっちゃうじゃない? だからうちの主人は刑事さんにことさら反抗して〈自分の裁量で出したのだ〉という芝居を打《ぶ》ったわけよ」
「きみの主人は心が優《やさ》しい人なのだなあ」
と、おれは感動の余り、彼女の話の中に断句を投げ入れた。
「咄嗟《とつさ》のうちに他の踊子さんたちのためも考えるなんて、そう誰《だれ》にでも出来ることじゃないよ」
「わたしの主人を褒《ほ》めてくださってありがとう」
お銀は軽く二、三度尻尾を振った。
「でも、うちの主人は五十四|歳《さい》の姥桜《うばざくら》、支配人を庇《かば》ったり、仲間の踊子のためを考えたりしなくてはこの世界を渡《わた》って行けないの。でないとすぐ突《つ》き落とされてしまう。主人は不幸な人なんだわ」
「そして、きみは不幸な犬だ」
おれは尻尾でお銀の臀部《しり》をやさしく撫《な》でてやったが、このときおれはひとつの真理に逢着《ほうちやく》して、思わず心の中であっと唸《うな》った。
その真理とは〈おれたち犬の幸不幸は飼《か》い主《ぬし》の幸不幸に左右される〉ということである。別に言えば〈おれたち犬が仕合わせになるにはまず人間が仕合わせにならなくてはならぬ〉だろう。強調法を用いて言うならば〈おれたち犬が幸福になるためには、|まず犬が人間を幸福にしてやらなくてはならぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》〉のではないかということである。
お銀は毛並みよく美形である。が、現在《いま》は不幸である。これはお銀のせいではない。彼女の主人が不幸であるゆえに、彼女が不幸のうちにあるだけなのだ。
おれはこれまで人間は愚《おろ》かものである、と断じて暮《く》らしてきた。が、ひょっとするとそれは犬のためにならぬ態度ではないか、と反省の念が湧《わ》いてきた。人間が愚かものであるために犬はその愚かさの余波を蒙《こう》むらねばならぬ。それがいやならおれたち犬は断固として人間を善導しなければならぬ。
と、おれが脱俗超凡《だつぞくちようぼん》なる問題についてあれこれ頭をめぐらせていると、お銀がしくしく泣き出した。急に淋《さび》しくなったものと見える。人間を救う前に、この可憐《かれん》なる少女を慰めるべきであろうと思い、おれは彼女に言った。
「お銀さん、キングさんのところへ行こう。キングさんならきみを傍に置いてくれるかもしれないよ」
キングと聞いて、お銀の泣き声はやんだ。
「キングさんの名前は知っているわ。だって有名な方だもの。でも、キングさんはわたしのことなんか気にかけてくださるかしら?」
「大丈夫《だいじようぶ》さ」
と、おれはぴんと尻尾を立てた。
「キングさんはおれの人生、いや犬生の師だもの」
お銀を連れてキングの屋敷《やしき》に入って行くと、大王は庭先の日向《ひなた》に寝《ね》そべってじっと眼《め》を閉じているところだった。ときどき髯《ひげ》を前肢《まえあし》で撫でたりして、まことに泰然《たいぜん》たるものだ。
「キングさん」
と、声をかけておいて、おれはこの半日の間にお銀の身の上に生起したことを手短かに報告した。
「それはお困りだろうな」
おれの話を聞き終えたキングはのっそりと立ち上がってこう言い、お銀を縁《えん》の下に案内した。
「屋内で育ったプードル種のあんたには、縁の下はちょっと苦手かもしれないが、まあ、住めば都、犬生いたるところに青山《せいざん》あり、でな、すぐに馴《な》れると思うよ。きみの主人が警察から戻ってくるまで、自由にここで寝起きしたまえ」
お銀はただ叩頭《こうとう》を繰《く》り返すばかりである。
「そのうちにわしの主人も縁の下に美しいプードル犬が居《い》ることに気づくだろう。わしの主人は欲が深いから、おお、これはもうけた≠ニ、あんたを座敷《ざしき》に上げて、飼い犬|扱《あつか》いしてくれるじゃろ。そのときまで、あんたにわしの餌《えさ》をわけてあげるよ」
お銀はキングの厚意にしばらく低い声で咽《むせ》び泣いていたが、その泣き声がやがて規則正しい寝息《ねいき》に変わった。キングはお銀の寝姿を見やって、
「……人間全体が幸福にならぬうちは個犬《ヽヽ》の幸福はあり得ぬのう」
と、慈愛深《じあいぶか》い口調で言った。それを聞いておれは仰天《ぎようてん》した。なんとなればおれもついさっき〈犬が幸福になるためにはまず犬が人間を幸福にしてやらなくてはならぬ〉という真理を発見したばかりなのだ。これでは盗作《とうさく》ではないか。
「キングさん、いまのお言葉はあなたの創作ですか」
と、おれが勢い込んで訊《き》くと、キングはゆっくりと首を横に振った。
「人間の世界に宮沢賢治《みやざわけんじ》という詩人がいるが、その詩人の遺《のこ》した言葉に宇宙全体が幸福にならぬうちは個人の幸福はあり得ない≠ニいうのがある。わしはそれをちょっともじってみたのだよ」
おれはへえ? と思った。人間の中にもなかなか出来るやつがいるではないか。そんな言葉を吐《は》くやつがいるあいだは人間も満更《まんざら》じゃないや。
「そうなのだよ、ドン松五郎、人間の中には犬同様に賢《かしこ》い人たちがいるのだ」
キングはおれの心中を見透《みすか》したのか、そう言った。
「鈍瞎漢《どんかつかん》ばかり揃《そろ》っているわけではない」
「鈍瞎漢? なんですか、それ?」
「禅宗《ぜんしゆう》の言葉で明《あ》き盲《めくら》≠チてことさ」
キングの学識には秀才少年という誉《ほま》れの高いおれもときどき叶《かな》わぬことがある。
「鈍瞎漢と協力するのは難しいが、利口な人たちと力を合わせることは可能だ。わしら犬はその利口な人たちに働きかけなくてはならない。それを忘れんようにな」
キングはお銀の傍に長々と寝そべった。大王は一緒《いつしよ》に昼寝を決め込むつもりらしい。おれはこれ以上長居をしてはならぬと思い、足音を忍《しの》ばせて縁の下を出た。
晴れていた空がもう灰色一色に変わっている。ちらちらと白いものも舞《ま》い降りはじめていた。おれはその中を歩きながら、人間全体が幸福にならぬうちは個犬の幸福はあり得ない、という大王の名言を心のうちで何回も繰り返し唱えていた。
おれの抗争
おれが寄食中の小説家先生の家の裏に、六百|坪《つぼ》ばかりの空地がある。ここは例のシェパード犬、キング大王の飼《か》い主《ぬし》の土地成金氏の所有になるもので、もとは畠《はたけ》だったそうである。
おれはいまついうっかり「もとは畠だったそうである」と書いてしまったが、じつを言うと現在でも畠は畠なのだ。よく見ると、ちゃんと葱《ねぎ》なぞが植えられている。ただ耕作者の土地成金氏は税金をのがれるために葱を植えているだけで、手入れなどは一切《いつさい》しないので、一見したところは空地に見えるのである。
このあいだの午後、ばかに陽気が暖かかったものだから、おれはこの空地の隅《すみ》の梅《うめ》の木の下に出かけて行き、しばらくそこで浩然《こうぜん》の気を養った。つまり、昼寝《ひるね》を試みたわけであるが、おれの午睡《ごすい》の夢《ゆめ》は横手から聞こえてきた次の如《ごと》き問答によってたちまち破られた。
「よオ、このへんで腰《こし》を落ちつけようじゃねえか。静かでなかなか住みよさそうなところだぜ」
「でも、充分《じゆうぶん》な食べ物にありつくことが出来るかしら」
「大丈夫《だいじようぶ》だってことよ。見渡《みわた》したところ、ずらりと小綺麗《こぎれい》な建売住宅が並《なら》んでら。建売住宅に住むような連中はたいていが例の小市民てやつよ」
「小市民?」
「みんなわが家の幸福《しあわせ》ってやつに性の悪い牡蠣《かき》よろしく吸いついているばかり、外界に向かって口を開いたことがないという手合いよ。この連中、近所づき合いは悪いが、奇妙《きみよう》なことに小動物には目がねえのさ。いってみれば満たされない社会的生活に対する補充作用《ほじゆうさよう》として小動物に熱中してるってわけだな」
「あんたの言うことはいつも難《むずか》しくてよくわからないわ。でも、あんたがそんなに大きな太鼓判《たいこばん》を捺《お》してくれるなら、しばらくこのあたりに住んでみようかしらね」
「ああ、そうしな。軒下《のきした》に立ってできるだけ哀《あわ》れっぽく啼《な》いてみな。他人の不幸には耐《た》えられても、小動物の啼き声には耐えられないという倒立《とうりつ》した感傷性《かんしようせい》も人間の小市民の特性だ。きっと餌《えさ》にありつけることだろうぜ」
いやに伝法《でんぽう》な口をきくが、妙に学問のありそうなやつである。いったい何者であろうか。おれは前肢《まえあし》で眼脂《めやに》をこすり落としながら、声のする方へ首を曲げてみた。問答をしていたのは猫属《ねこぞく》の夫婦者《ふうふもの》であった。亭主《ていしゆ》は純粋《じゆんすい》の黒猫で堂々たる体格を有している。妻君のほうも図体《ずうたい》はでかいが、こっちは白猫である。二|匹《ひき》とも野良猫《のらねこ》とはいえない或《あ》る種の品格を身辺にただよわせていた。妻君猫のうしろには四匹の仔猫《こねこ》がつき従っている。仔猫はいずれも黒白の斑《ぶち》である。
「さて、おまえたちが餌の物乞《ものご》いをしている間に、おれはちょっとこの界隈《かいわい》を探険してくるかな」
黒い亭主猫は道の方へのっそり歩き出した。
「あんた、探険はいいけど、雌猫《めすねこ》にちょっかい出したりしちゃ駄目《だめ》だよ」
と、妻君猫が亭主の背中、というか臀部《しり》に声をかけた。
「こんど浮気《うわき》をしたら承知しないから」
「うるせえ!」
亭主猫はどすのきいた声で怒鳴《どな》った。
「亭主の行動にいちいち口を出すんじゃねえよ。そういうふざけた振《ふ》る舞《ま》いは人間の小市民の妻君どもに委《まか》せておけ」
じつになんともたいした亭主関白《ていしゆかんぱく》ぶりである。
亭主猫の黒い尻尾《しつぽ》が道の向こうに消え去るとすぐ、妻君猫は仔猫たちに、
「いいこと。どんなことが起こってもここを動いちゃいけないよ」
と、言いきかせ、素早《すばや》い身のこなしで建売住宅をかこむブロック塀《べい》の上に跳《と》びあがった。やがて彼女《かのじよ》はゆっくりと塀の上を歩き出す。どこの家が最も小動物の啼き声に弱いか、それを探《さぐ》っているのだろう。と、そのうちに、彼女の四肢《しし》が一軒《いつけん》の家の前でぴたりと動かなくなってしまった。さては、格好《かつこう》の家を見つけることができたのだな、妻君猫が白羽《しらは》の矢を立てたのはいったいどこのなんという家だろうか、と思いながら目を凝《こ》らすと、なんとそこはおれが寄食中の小説家のところではないか。おれはたいそう愕《おどろ》いて、ただ茫《ぼう》として妻君猫の様子を眺《なが》めていた。
「みんな、ここへおいで!」
妻君猫が四匹の仔猫たちに下知《げち》をくだした。
「この家の人間たちはどうやら大甘《おおあま》ちゃんぞろいらしいよ」
四匹の仔猫たちも、母親の如くひと跳びに、というわけには行かなかったが、ブロック塀のあちこちの隙間《すきま》を手がかり足がかりに粒々辛苦《りゆうりゆうしんく》の末、塀の頂上に到達《とうたつ》した。
「では、母さんのせーの≠ニいう掛声《かけごえ》をきっかけにして、みんなで哀れっぽく啼くのだよ。いいかい、ミャーオ! とこうだよ」
母親は躰《からだ》をねじるようにして一声啼き、仔猫たちに手本を示し、それから尻尾をぴんと立て、「せーの」と声をかけながらそれを指揮棒《しきぼう》のように振《ふ》った。仔猫たちは母親の尻尾に合わせて四部合唱で啼き立てた。じつに哀れな声音《こわね》である。祇園精舎《ぎおんしようじや》の鐘《かね》の音《ね》をおれはまだ聴《き》いたことはないが、おそらくその鐘の音色《ねいろ》より数等も哀れっぽい、という確信がおれにはしたほどである。鬼神変化|幽冥果報《ゆうめいかほう》を信じぬ無神論者でもぞっと寒気がするだろうと思うほどの迫力《はくりよく》だ。仔猫たちの物乞い四部合唱がわが飼い主である小説家一家に果たしていかなる作用と影響《えいきよう》をもたらすか、これは近来の観物《みもの》といわねばならぬ。すくなくとも、最近、先生が好んで観《み》ている(したがっておれもお相伴《しようばん》して見ざるを得ない)少女歌手総出演の歌謡《かよう》番組よりは見応《みごた》えがあるはずである。おれは遠廻《とおまわ》りして庭へ戻《もど》った。
案の定、先生一家は細目に開いた窓の隙間からブロック塀上の仔猫のカルテットを見ながら、ひそひそ声で話し合っている最中だった。
「ねえ、ママ、仔猫に餌をやっていいでしょう?」
先生の奥《おく》さんのエプロンを引っ張りながら、次女の和子君が必死になってせがんでいる。
「猫はチーズが好きなんだって。小さく千切ったチーズをやってもいいでしょ」
「だめですよ」
奥さんは首を横に振る。
「餌をやったら最後、猫はうちから離《はな》れなくなります」
「そしたら飼えばいいじゃない」
と、長女の昭子君が言う。
「犬よりわたしは猫の方が好きなんだ」
「飼うのはいいとしても四匹の仔猫と親猫が一匹の都合五匹じゃ多すぎるぜ」
先生はどうやら猫には好意を持っているらしい口吻《くちぶり》である。
仔猫たちの、四部合唱の声はますます高くなってきた。四部合唱の内訳は、テノールが、
「おなかが空《す》いたよう」
と主旋律《しゆせんりつ》を歌えば、ハイバリトンが、
「ちょうだいな、ちょうだいな」
と主旋律に装飾《そうしよく》をつけ、その合間にバリトンが、
「たべものを、たべものを」
と囃《はや》し、バスがすべてを下から支えて、おどろおどろしく、
「くれなきゃ化けるぞ、化けるぞ」
とまあこんな具合、四声まとまるとまことに哀れで、かつ怖《おそろ》しきハーモニーである。とうとう次女の和子君が両手の甲を両目に押し当ててめそめそ泣き出した。泣くばかりではなく、
「仔猫が可哀《かわい》そう、仔猫が可哀そう」
と、間投句を挿《はさ》む。
「おい、餌をやったらどうだ」
主人が奥さんに言った。
「猫はチーズが好きだそうだ。チーズを千切って撒《ま》いてやれよ。仔猫と和子の泣き声でおれは気が狂《くる》いそうだぜ」
「でも、一度餌をやると猫はここに住みついてしまいますよ」
奥さんはさっきから同じ台詞《せりふ》を繰《く》り返している。
「ドン松五郎《まつごろう》だけでも、もて余しているのに、この上、猫が五匹も殖《ふ》えたらどうなりますか。そりゃもう手間がたいへん」
「猫がきっと住みつくとは限るまい」
「だいたい、餌代がばかになりませんよ」
奥さんは右の一句を強い口調で言い放った。
「あなたがもうすこし頑張《がんば》ってお仕事をなさってくだされば猫の五匹や六匹、なんてことはありませんけど」
このへんが人間属の女房族《にようぼうぞく》の油断のならないところである。浮浪《ふろう》の猫どもに一度だけ餌をやるのを口実に亭主の尻《しり》を鞭《むち》で遠慮《えんりよ》なく叩《たた》くのである。
「わかってるよ」
主人は憮然《ぶぜん》たる表情で、今朝|剃《そ》り残しの顎《あご》の下の髯《ひげ》をもてあそびながら言った。
「来月は中間小説誌に一、二本書くことにしよう」
主人のこの態度も、おれには疑問だ。猫に餌をやることと、小説を増産することとは別の問題だろう。なのにすぐに女房どもの意見に押されてしまうから、つけ込《こ》まれてしまうのだ。おれが冷静に見聞したところによると、人間属の女房どもは三十|歳《さい》を過ぎると断然|居直《いなお》るようである。
たとえば仕事に一寸《ちよつと》行き詰《づま》った主人が、
「どれ、映画でも観てくるか」
と、机の前から離れようとする。とたんにきっと奥さんの声がかかる。
「映画へ行らっしゃるのは大賛成ですわ。あなたは大の映画好き、きっと気分|転換《てんかん》になるはずです。でもねえ……」
この「でもねえ」が曲者《くせもの》なのだ。
「……でもねえ、いまかかってらっしゃるお仕事、一枚でも二枚でも先にお進めになったらいかがです? さっきも編集者の某《なにがし》さんが『まだ、一枚も出来ていないんですか』って、電話口で絶句なさっていましたよ。わたしべつにあなたに、映画へ行っちゃいけないと申し上げているんじゃありませんよ。あなたのお仕事が心配だからこんなことを言っているんです」
奥さんは主人にとって映画を観るのも仕事のうちだということを御存知《ごぞんじ》ないのである。
「映画を観に行ってはいけないと言っているんじゃないのよ。あなたの為《ため》を思って、今日映画へ行くのはどうかしら、と申し上げているのよ」
これが奥さんの論法なのだが、この論法は、目下この日本国に氾濫《はんらん》しつつあるように、おれには思われる。
マージャン好きの亭主《ていしゆ》を持つ女房は、右の論法の「映画」を「マージャン」に、酒好きの夫を有する妻君は「映画」を「酒」に、ゴルフ好きの旦那《だんな》さんのあるおかみさんは「映画」を「ゴルフ」に、それぞれ言いかえて連れ合いをじんわりやんわりじっくり責め立てるのである。
この女房論法を、「男の世界には女の想像もつかぬような辛苦万苦《しんくばんく》がある。その辛苦万苦を映画やマージャンや酒やゴルフで忘れようとしているのだ。そうしないとおれは息が詰まって死んでしまう。だから傍《はた》からつべこべと小賢《こざか》しい口を挿さむでない」と、亭主族がしりぞければどうなるか、たちまち、次の二種類の台詞をもって痛烈《つうれつ》な反撃《はんげき》を喰《く》うことになる。一は、
「あなたのためこんなに思って言っているわたしの気持ちがわからないの!?」
であり、二は、
「わたしと映画(あるいは、マージャン、酒、ゴルフ)と、どっちが大事なの!?」
である。
おれに言わせれば、前者は理不尽《りふじん》なる押しつけの台詞であり、後者は女房族の頓馬《とんま》でトンチキさ加減を自ら白状する台詞である。女房族といえど人間のはずだが、その人間であるという立場を捨てないと、後者のような台詞はなかなか口をついて出るものではない。好き好んで、人間である自分を映画やマージャンや酒やゴルフと同じひとつもふたつも下の次元へおとしめてしまうところが浅墓《あさはか》だ。そして、女房族のこの荒唐無稽《こうとうむけい》の台詞に押し黙《だま》ってしまう人間の亭主どもはもっと愚《おろ》かである。どうして「黙れ! おれの生き方に干渉《かんしよう》するな!」と一喝《いつかつ》できないのか、おれには不思議だ。なぜ「つべこべいうなら出て行け。いま日本は人手不足、とくに家政婦は引く手あまただ。家を出て家政婦にでもなるがいい!」と怒鳴りつけることができないのか、おれには人間属の亭主どもの気弱さ大人しさがどうにものみこめぬ。
もっとも、自動|炊飯器《すいはんき》や洗濯機《せんたくき》や電子レンジや掃除機《そうじき》などのたすけをかりねば碌《ろく》に家事も出来ぬ上、テレビと芸能週刊誌や女性週刊誌を相手に時間を空費することばかりが得意の日本国の女房族に、家政婦のきびしい仕事がつとまるかどうか、これも甚《はなは》だ疑問だ。もうひとつ言えば、家政の失格者に家政婦がつとまるわけはないかもしれぬ。
それはとにかく、猫どもに餌をやりますから、そのかわりもっと仕事に精を出してくださいよ、と主人に一本も二本も釘《くぎ》をさしておいて、奥さんは勝手から五分角のサイの目に切ったチーズを盛《も》った皿《さら》を持って来た。そして、その皿をブロック塀と家屋との間の、地面にそっと置いた。
たちまち白い母猫は尻尾のタクトを振るのをやめて、主人たちの様子を窺《うかが》いながら、塀の上から地上にひらりと降り立つ。仔猫どもも母親にならった。母親猫はしばらくチーズの匂《にお》いを嗅《か》いでいたが、やがて仔猫たちに声をかけた。
「どうやらこれは好物のチーズだよ。さあ、おたべ」
仔猫たちは皿の周囲に群がる。母親猫はすこし離れたところから、その様子を眺めながら、外敵の接近に備えている。子を思うが故《ゆえ》の警戒心《けいかいしん》、人間の母親よりはよほど立派だ。
仔猫がチーズを食べるあいだその傍に立って、周囲の警戒を怠《おこた》らぬ母親猫の態度をおれは立派であると評したが、なかにはおれのこの評言をお読みになって、
「けしからん!」
と、腹をお立てになる方があるかもしれない。
「貴様は毎回|偉《えら》そうなことをほざいているが、つまるところ犬ではないか。猫は鼠《ねずみ》を追い、その猫を犬が追うのは生物界の掟《おきて》であろう。しかるに貴様は犬の本能をうち忘れ、猫を追わぬどころか賞賛《しようさん》さえしている。これはちと変ではないか?」
せっかくのお腹立ちだが、ちっとも変ではないのである。おれたち犬はちらちら動くものに対しては非常に敏感《びんかん》に反応する。だから目の前を走って通り過ぎる猫などには猛然《もうぜん》と吠《ほ》え立て、ときには噛《か》みついたりするが、猫が凝《じつ》として動かなければ、それはもうおれたちにとって石ころと同じなのである。
皿の上のチーズが仔猫どもの胃袋《いぶくろ》に一個のこらずおさまるのを待って、おれは連中の傍へつかつかと近づいて行き、できるだけ優《やさ》しい語調をもってこう名乗った。
「やあ、なにかいいことないかね、仔猫ちゃん。ときにおれは生まれも育ちも葛飾《かつしか》江戸川|べり《ヽヽ》の、犬属雑種のドン松五郎と申すもの。以後よろしく」
やはり猫どもはおれたち犬が怖《こわ》いらしい。四匹の仔猫どもは|キャット《ヽヽヽヽ》叫《さけ》んで母親猫のうしろに隠《かく》れてしまった。英語で猫はキャットというから、キャットと叫んだのだろうか、そうだとしたら仔猫どもなかなかやるではないか、とおれが感心していると、母親猫が背を丸め、うゥうゥ唸《うな》り出した。
「わたしの仔猫たちにそこから一歩でも近づいてごらん。わたしがただじゃおかないからね。松五郎だか杉五郎《すぎごろう》だか樅《もみ》五郎だか知らないが、猫属母親の母性愛を甘《あま》くみると大怪我《おおけが》をするよ」
母親猫は凄《すご》んだ声で啖呵《たんか》を切りながら、右の前肢《まえあし》でときおり宙を引《ひ》っ掻《か》く動作を繰り返した。前肢の先端《せんたん》には鋭《するど》く尖《とが》った鎌《かま》のような爪《つめ》が光っている。
「おっとお母さん、お平《たい》らにお平らに」
おれは勢いよく尻尾を振ってみせた。
「おれはお子さん方に何の邪心《じやしん》も抱《いだ》いてはおりませんよ。ただ、おれはこの家の守衛役を兼《か》ねている飼い犬なのです。この五十|坪《つぼ》の敷地内《しきちない》に異変があれば職掌《しよくしよう》上吠え立てなければなりません。また、不意の侵入者《しんにゆうしや》があれば毎日餌を貰《もら》っている義理もあり、不審訊問《ふしんじんもん》も行わねばならないのですよ」
母親猫の丸い背中が僅《わず》かばかり平らになった。
「あんたがここの家の飼い犬かい?」
「そうなんですよ」
「ここの家の住人は涙《なみだ》もろいようね」
「お説の通りですよ。主人は小説家ですが、彼《かれ》はキケロ型のヒューマニストでしてね」
「キケロ型のヒューマニスト?」
「単純な理想家というほどの意味ですが、すべてを平等に愛するべく努力することによって人間の値打を見出《みいだ》そう、これが彼の処世訓《しよせいくん》で、まあわれわれ小動物にとって、彼ぐらい扱《あつか》い易《やす》い人物はおりません。主人の子どもたちもまた同様のヒューマニストたちです。住みつくならこのあたりではここの家が一番ですよ」
「なんだかあんた、旅館の客引きか周旋屋《しゆうせんや》みたいなことをいう犬ね」
母親猫はおれをまだ疑《うたが》っているようである。
「おれの女房を苛《いじ》めてやがるのはどこの何者だ?」
このとき、ブロック塀《べい》の上から|どす《ヽヽ》のきいた声が降ってきた。見上げると大きな黒猫がかっと真丸《まんまる》の眼《め》を開き、その眼の奥から射るがごとき光をおれの躰《からだ》の上に落としている。
「別に苛めてやしませんよ」
おれは塀の上に向かって答えた。
「この家の住人たちについて、知っていることをお教えしていただけですよ」
「嘘《うそ》だったら、相手が犬とはいえ承知しねえからな」
言い終わらぬうちに彼《か》の黒猫の躰が宙に浮《う》く。そしてくるくるくると空中で三回ほど回転しながら、すっくと地上に立った。なんという身の軽さであろうか。おれはしばらく声も出なかった。
「どうだ、すげえ着地だろう」
と、黒猫は右の前肢で得意そうに髭《ひげ》をひねった。
「人間の体操競技の選手が、鉄棒のときの着地にいろいろと凝《こ》るだろうが、え? でもよ、連中がいくら凝ったところで、おれの敵ではねえのだ」
おれは同感だというしるしに黒猫に向かって何回も頷《うなず》いてみせた。
「ところで女房よ、このチビ犬|野郎《やろう》はお前になにか危害を加えやしなかったかい?」
黒猫がそう問い質《ただ》すのに、白猫は首を横に振って、
「べつに」
と答えた。
「それどころか、この犬君はいろいろと親切な忠告をしてくれたんだよ」
「ほう、そうかい。そいつぁ|とんがらかった《ヽヽヽヽヽヽヽ》言い方をして悪かった」
黒猫はおれに向かって素直に頭をさげた。
「なにしろ、このごろおれは軽度の被害|妄想《もうそう》にとりつかれていて、人間だろうが猫《ねこ》だろうが犬だろうが、最初はみんな敵に見えて仕方がないのだよ」
「お見うけしたところ、あなたも奥《おく》さんも毛並《けな》みがよさそうですが、にもかかわらず、宿なし野良猫の生活をしてらっしゃる。いったいどうしたのです?」
おれは黒猫を庭の梧桐《ごとう》の木の下の芝生《しばふ》へ誘《さそ》いながら訊《き》いた。
「その仔細《しさい》、構わなかったらお教えいただけませんか」
「話せば長くなるが……」
黒猫は芝生の上にどしんと腰《こし》をおろした。
「出来るだけ要領よく語ってやることにしよう。おれはこの間まである大手の総合商社の部長の家に飼《か》われていたのだ。むろん、女房《にようぼう》も一緒《いつしよ》にだ」
黒猫は、塀の下で四|匹《ひき》の仔猫《こねこ》たちと一緒に寝《ね》そべってこくりこくりと船を漕《こ》ぐ白猫の方へ、顎《あご》をしゃくって見せた。
「大手の総合商社の部長というぐらいだから学がある。主人は、東京大学の経済学部の御卒業よ」
「エリートですね」
「ああ。その上、奥さんがその商社の重役の一人娘《ひとりむすめ》だから、ただのエリートではない。エリート中のエリート、金筋つきのエリートよ。住居は麹町《こうじまち》の最高級マンション、女の子は雙葉《ふたば》、男の子は暁星《ぎようせい》、毎月の生活費は三十万円前後という豪華版《ごうかばん》さ」
黒猫はふと遠くを視《み》るような目付きになった。麹町のマンションでの生活が懐《なつ》かしいのだろう。
「豪華版はそれだけじゃないのだ」
スモッグのために灰色に曇《くも》る都心の遠い空を見ていた黒猫が、やがておれの方に向き直って言った。
「主人の乗る自動車はムスタング。ゴルフのクラブは一組三十万円の舶来《はくらい》の最高級品。背広は英国製生地を丸善《まるぜん》本店で仕立てたもので一着二十五万円。レインコートが英国のバーバリで十五万円。ワイシャツとネクタイはサンローランで、それぞれ最低八千円。靴《くつ》はイタリア製、しかも手縫いで一足三万五千円。ライターがカルチェで七万円。煙草《たばこ》はダンヒル、二十本で二百二十円。映画を観るときはロードショー専門。通うバーは銀座の一級店。おれたちの餌《えさ》も、毎回ずいぶん張り込《こ》んでくれたねえ。冷飯に味噌汁《みそしる》をぶっかけたものなぞ、三年間飼われていたが、一度として出たことはなかった。いつも白身の魚の肉が主食よ」
ここで黒猫は舌舐《したな》めずりをした。聞いていたおれの咽喉《のど》もごくりと鳴った。
「最高級マンションだから室内の温度は常に摂氏《せつし》二十三度から二十五度。寒くはなく暑くもなく、あのころは極楽《ごくらく》だったねえ」
「なぜ、その極楽を出る破目《はめ》になったんです?」
「じつはこのあいだの朝、或《あ》る新聞記事を読み終えた主人が、おれと女房と四匹の仔猫の方を見て、『ふーん、猫の皮か』と呟《つぶや》いたのだ」
「……ふーん、猫の皮か、ですか?」
「そうよ。おれはそのとき、なんだかしらんがいやーな予感がした。本能的に『やばい』という気がしたのだ。そこで、その新聞記事をこっそり盗《ぬす》み見ると……」
「なんの記事だったんですか?」
「朝日新聞でいえば『青鉛筆』、読売新聞なら『話の港』、毎日新聞なら『雑記帳』、そして東京新聞なら『茶ばしら』といったような欄《らん》で……」
「つまりこぼればなしなどの類《たぐい》の載《の》っているところですね?」
「そうさ。その全文をおれはいまでも暗記しているが、ざっとこういう記事だったね。すなわち〈東京・本所署《ほんじよしよ》の署員がネコ四十匹を小型トラックに積んで逃走《とうそう》しようとしている若い男を逮捕《たいほ》した。調べによると、この男は二年前から京都でネコ取りをはじめ、これまで二千匹ぐらいを大阪の三味線《しやみせん》皮業者に一匹五百円で売っていたが、京都の警察が最近うるさくなったので、捕獲箱《ほかくばこ》四十三個を持って、東京に出稼《でかせ》ぎにやってきたところだった。……捕獲箱は、長さ六十五|糎《センチ》、高さ二十八糎、幅《はば》十九糎。この箱の奥にマタタビを置き、これにネコが近づけばネコの体重でふたが落ちる仕掛《しか》け。この男のほかにも都内には多数のネコ泥《どろ》が徘徊《はいかい》しているようなので、愛猫家《あいびようか》はくれぐれもご用心を〉」
「おそろしい記事ですね」
「いや、おそろしいのは記事ではない、この記事を読んだあとで、おれたち親子を見ながら『ふーん、猫の皮か』と呟いた主人のほうがずっと怖《こわ》い」
「なぜです?」
「わからないかなあ。おれの主人は総合商社の部長だぜ。商社というのは品物を買い占《し》めるのが仕事だ。猫の皮だって儲《もう》かるとなりゃ買い占めるはずだろう? その場合、主人はまず一番身近にいるおれたち親子の皮から剥《は》ぎはじめるのではないか、そんな気がおれにはしたのだ」
「いくら商社の猛烈《もうれつ》部長でも、自分の飼い猫の皮を剥いで儲けようとするほど残酷《ざんこく》にはなれないんじゃないでしょうか」
と、おれは黒猫に言った。
「あなたはさきほどご自分を軽度の被害妄想症だと自己|診断《しんだん》なさっていましたが、その診立《みた》ては正しいような気がしますね」
「きみはまだ商社マンの怖《おそろ》しい正体を知らん」
黒猫はおれの話を途中《とちゆう》で遮《さえぎ》った。
「あの連中は金が儲かるとなったら己《おの》れの女房子どもでも敵に売り渡《わた》す、それぐらいだから飼い猫の一匹や二匹、皮を剥ぐぐらい朝飯前さ。現にわが主人も、その日から東京中の三味線業者のところへ部下をつかわして三味線の売れ行きを調べ始めた」
「ふうん」
「そればかりではない、音楽評論家を五、六名会社に呼びつけ、『三味線音楽の今日性と将来性』というテーマで討論をさせたのだ」
「大がかりなものですねえ」
「そりゃあきみ、相手は総合大商社だから、いざというときの機動力は機動隊だってかなわないのさ」
「音楽評論家たちの討論の結論はなんと出ました?」
「三味線音楽は将来大いに有望である、と出たらしい。人間世界に直木賞《なおきしよう》という文学賞があるそうだが、この賞のごく最近の授賞作品が『津軽《つがる》じょんから節《ぶし》』、またキネマ旬報《じゆんぽう》ベストテンという由緒《ゆいしよ》ある映画コンクールの昨年度の第一位がやはり『津軽じょんがら節』……、どちらの作品にも津軽三味線が重要な役割を占《し》めている」
「ちょっと待ってください」
おれは尻尾《しつぽ》を激《はげ》しく振った。
「小説は『津軽じょん|か《ヽ》ら節』で、映画は『津軽じょん|が《ヽ》ら節』、どちらが正しいのでしょうか」
「そこまで猫のおれさまが知るものか。でも、おれはどっちかと言うと活字志向タイプの猫だから、小説家の方に軍配を挙《あ》げたいね。つまり『津軽じょんから節』が正しいと思うよ。ま、それはとにかく、都内で開かれた高橋|竹山《ちくざん》という人の津軽三味線の演奏会は大入満員のようでもあるし、三味線は今後ちょっとした流行になるのではないか、と音楽評論家たちは結論を出したのだ。おれはそのことを知った日の夕方、女房子どもを連れて主家を出奔《しゆつぽん》した。そして出奔後五日目に、ようやく江戸川を越えて、ここに辿《たど》りついたってわけさ」
なるほど、三味線の売れ行きや三味線の将来性などを本気で調査するところは、その商社の部長、大いに怪《あや》しい。黒猫の断ずるように、猫の皮の買い占めを策《さく》していたのかもしれぬ。そして、自分のところの飼い猫の皮も剥いでやろうと考えたかもしれない。
「しかしそれにしても連中はなぜそのように買い占めに狂奔《きようほん》するんですかね?」
おれがこう問うのに黒猫は、
「きまってる。金儲けのためだよ」
と、答えた。そこでおれは重ねて訊《き》いた。
「しかし、自分が儲かるわけではないでしょう? 儲かるのは会社でしょう?」
「会社に儲けさせて出世しようという魂胆《こんたん》だろう」
「なぜ出世です? いくら出世したところでせいぜい重役になれるかどうか、というところでしょう」
「だから、そこまではおれたち猫にはわからんのだよ。とにかく連中は『出世』という言葉に弱い。おれたち猫はマタタビの匂《にお》いを嗅《か》ぐと、とたんに理性もへったくれもなくなるのだが、連中にとっては『出世』が、そのマタタビなのだ」
黒猫は芝生の上に長々と寝《ね》そべって、
「それにしても、おれは諸処方々《しよしよほうぼう》を遍歴《へんれき》して様ざまな犬を見てきたが、しかし、おまえさんのような犬は始めてだぜ」
と、言った。
「なにしろ、おまえさんには学問があるよ」
「同じことをわたしはあなたに申し上げたいと思っていたところです」
と、おれも調子を合わせた。
「あなたもずいぶん勉強をしていますね」
「なになにおれのは耳学問よ」
「わたしは学校へ行きました」
「学校だと? 犬の学校かい?」
黒猫はむっくりと起き上がり、真丸《まんまる》な眼をきらっと光らせた。犬と猫は愛玩用家畜《あいがんようかちく》の二大|巨頭《きよとう》である。いってみれば、早稲田《わせだ》と慶応《けいおう》、巨人《きよじん》と阪神《はんしん》、三井と三菱《みつびし》、自然とそこに競争心が湧《わ》く。黒猫は、犬属に学校があり、猫属に学校がないのは、大いに沽券《こけん》にかかわる、と考え、むっくりと起きたのである。そこで、おれは言った。
「いや、人間の学校です。小学、中学、高校と、窓の下に坐《すわ》って授業を聴講《ちようこう》しました。現在《いま》は大学の教室の窓の下に通《かよ》っていますよ。時には大学図書館に潜《もぐ》り込《こ》んで、書棚《しよだな》の書籍《しよせき》を啣《くわ》えおろし、読書に励《はげ》んだりしてもおります」
「ふん。そんなことだろうと思ったぜ」
黒猫は吻《ほつ》としたように呟いて、また芝生の上に長くなった。黒猫の面体《めんてい》にはかすかに冷笑が泛《うか》んでいる。
「そんなことだろうと思った、とはどういう意味でしょうか?」
彼《か》の猫の冷笑がこっちの神経に引っかかって、おれもすこし意地になった。
「ふん! と鼻先でお嗤《わら》いになられたようですが、いったいどのようなおつもりの『ふん!』なんですかね?」
「きまってらぁな。おまえさんたち犬に、犬独自の学校を創《つく》る才覚《さいかく》などありゃしないだろう、という意味の『ふん!』よ」
「そうおっしゃる猫のあなたがたにも、猫のための学校なぞないじゃありませんか。あなたのような猫にぴったりの諺《ことわざ》がありますよ」
「なんて諺だい?」
「目糞《めくそ》、鼻糞を嗤う、というやつで」
黒猫は不平の気色を両頬《りようほお》にみなぎらせた。
「犬の分際でつべこべ言うんじゃねえ。おれたち猫はおまえさんがた犬とは身分がちがうのだ。おれたち猫は、食肉|目《もく》ネコ科ネコ属の獣《けだもの》、すべての生物が畏《おそ》れ敬《うやま》う獅子《しし》や虎《とら》の親戚《しんせき》だぜ。昔《むかし》は、皇帝《こうてい》や皇后《こうごう》、天皇《てんのう》や身分の高い女官しか飼《か》えなかったという誇《ほこ》り高い生物なんだ。十世紀末の一条天皇というお方などは、ご自分の飼い猫に、『命婦《みようぶ》のおもと』という人間なみに立派な名前までつけて、おれたちの祖先を大切にしてくれたんだ。しかもだ、飼い主が天皇だろうが、王様だろうが、おれたちの祖先は、おまえたち犬のように尻尾を振って胡麻《ごま》をするようなみっともねぇ真似《まね》はしなかったんだぜ。どんな愛撫《あいぶ》にも超然《ちようぜん》たるものよ。そこへ行くとなんだい、おまえたち犬は。人間に頭をひと撫《な》でされるとたちまちでれでろでんとなって、千切れるように尻尾なんぞ振りやがる。みっともねえったらありゃしねぇ」
「猫属の孤高《ここう》の精神は認めますがね、しかし、それだけを売り物にするのもいや味ですね。あなたたち猫は、人間に飼われているくせに人間に対してなにひとつ洒掃薪水《さいそうしんすい》の労に酬《むく》いたことがない。これすなわち忘恩《ぼうおん》の徒《と》ならではの行為《こうい》です」
「な、なんだ、その洒掃薪水の労ってのは?」
「教養がないんだなあ。人に仕えて骨身を惜《お》しまない働きのことですよ」
黒猫は教養がないと罵《のの》しられたのがよほど口惜《くや》しいのだろう、うううと唸《うな》りながら、芝生の上に逞《たくま》しい四つ足を踏《ふ》ん張《ば》った。
「やい、小僧《こぞう》」
黒猫は寒竹《かんちく》をそいだような耳をびくびくと動かし、大きな口を更《さら》に大きく横にぐわっと裂《さ》いた。
「貴様のいう『洒掃薪水の労』というやつだが、なにも日常の行動に限ることはないと思うぜ。もっと平ったく言えば、日常では人間の役に立たなくとも、もっと高い次元で人間の生活になんらかの寄与《きよ》が出来れば『洒掃薪水の労』に酬いることになるとおれは考えるが、その点についてどう思っているのだ?」
「もっと高い次元で人間の生活に寄与する……?」
「そうよ。たとえば芸術面で人間の役に立つことが出来れば、それも立派な報恩だろうが」
「まあ、そうですね」
「その点、猫は人間のために、芸術作品のモチーフを数多く提供しているぜ。ざっと思いついただけでも、小説では、ポーの『黒猫』、漱石《そうせき》の『吾輩《わがはい》は猫である』、藤代素人《ふじしろそじん》の『猫文士|気※[#「啗のつくり+炎」]録《きえんろく》』、岩野|泡鳴《ほうめい》の『猫八』、三宅幾三郎《みやけいくさぶろう》の『猫を捨てる話』、堺利彦《さかいとしひこ》の『猫の百日咳《ひやくにちぜき》』『猫のあくび』『猫の首つり』、蔵原伸二郎の『猫のゐる風景』、尾崎一雄の『猫』、北条民雄の『猫料理』、仁木悦子の『猫は知っていた』、おっとペローの『長靴《ながぐつ》をはいた猫』ってのもあったな。それからルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』にも猫が重要な役割をもって登場すらあ。講談になると、猫のひとり舞台《ぶたい》よ。なにしろ『鍋島猫騒動《なべしまねこそうどう》』も『有馬の猫騒動』も、猫が主役をとっているんだからねえ。芸能界へ目を移せば『クレージー・キャッツ』とか『江戸家猫八』。音楽には、
猫|踏《ふ》んじゃった
猫踏んじゃった
猫踏んづけちゃった
大変だ……
なんて名曲もある。絵の世界にはこれまた藤田|嗣治《つぐはる》という、猫を生涯《しようがい》にわたって描き続けた巨匠《きよしよう》もいる。どうだ、これでも猫は『洒掃薪水の労』に酬いてはいないというのか。それにひきかえ、おまえたち犬は芸術面で人間に何の寄与をした? 小説で『里見八犬伝』、童話で『フランダースの犬』、音楽で『小犬のポルカ』、食物で『ホット・ドッグ』……、それぐらいのものじゃねえか」
じつによく喋《しやべ》る猫である。おれはただ呆《あき》れて彼《かれ》のよく動く口を眺《なが》めているだけだ。
「おう、小僧、ぐうの音《ね》も出ねえと見えるな。それならおれたち猫と張り合うなんて愚挙《ぐきよ》は一刻も早くよしにして、小屋に潜《もぐ》って寝ちまいなよ」
おれは「はあ」と返事をした。少し間が抜《ぬ》けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。だいたいが論理学的に考えても名答は名問のあるところにしか出ないものなのだ。愚問《ぐもん》に名答など出っこない。
「……いかにも小屋に潜って寝ることにいたしますがね、黒猫さん。その前にひとつだけ申し上げたいことがあるんです」
おれは梧桐の木の下から犬小屋のある玄関《げんかん》の方角へ歩き出そうとしてふとあることを思いついて言った。
「やはりわたしは犬の方が猫よりも人間の役に立っていると思いますよ」
「まだうじゃうじゃ言うつもりか」
「うじゃうじゃ言うつもりはありません。簡潔《かんけつ》にある事実を申し上げようと思うだけです」
「ある事実だと?」
黒猫はまたぞろ寒竹をそいだような耳をびくびくと動かした。
「犬と猫の優劣《ゆうれつ》を一般論的レベルで戦わせてもこれは時間の浪費《ろうひ》です」
とおれは黒猫に言った。
「そこで論議を一点に集中せしめ、犬が猫に勝《まさ》るか、はたまた猫が犬に対してより家畜として有効であるか、競《きそ》おうではありませんか」
黒猫は黒光りする鼻をぷわっと脹《ふく》らませ、
「おう、百も承知二百も合点した」
と答えた。たいていの猫は戦意を高揚《こうよう》させている場合、背中を丸めながら持ち上げるものだが、この黒猫はそういうときに鼻を脹らませるのが習性らしい。どこまでも変わり種の珍《ちん》なる猫である。
「しかし、小僧。その一点を奈辺《なへん》に設定するか、これは難《むずか》しい問題だぜ」
おれは黒猫の反問に耳を貸さずにずばりと斬《き》り込《こ》んだ。
「借問いたします。人間用の炬燵《こたつ》として、もっと広く言えば人間の暖房器具《だんぼうきぐ》として、犬と猫のどちらが有効でしょうか」
「借問とはいやに古典的スタイルできやがったものだ」
黒猫は莞爾《かんじ》としてほほえんだ。
「だがな小僧、人間の暖房器具としてはおれたち猫の方がはるかに役に立つようだぜ。犬は特別なる小型|愛玩犬《あいがんけん》を除いてはほとんど戸外で飼《か》われている。戸外じゃ暖房の役に立ちようがないじゃねえか。しかもおまえたち犬の毛はばさばさ、こちとら猫属の毛はふさふさ、粗筵《あらむしろ》とビロードほども違《ちが》わあ。人間が抱《だ》いて寝るにはこちとらが一番よ」
おれは思わず「しめた、しめた、しめちゃった」と心のうちで快哉《かいさい》を叫《さけ》んだ。利口なようでも猫は猫、愚《おろか》なる本性まる出しにして、まんまと罠《わな》に嵌《はま》ってきた。さっそくおれは犬小屋へ走って行き、新聞紙の切れっぱしを啣《くわ》えて駆《か》け戻《もど》る。
「黒猫君、わたしは人間の新聞の記事のなかに犬に関する個所があれば噛《か》み千切って保存するというささやかな趣味《しゆみ》を有しております」
「ふん、それを犬特有の蒐集癖《しゆうしゆうへき》というのだ。下駄《げた》を集める、靴《くつ》をくすねる、ボールをちょろまかすでまったく手癖《てくせ》の悪い連中だ」
「べつにこれはちょろまかしたんじゃありません。この家の奥《おく》さんが犬小屋に座布団《ざぶとん》がわりに敷《し》いてくれた新聞紙からしかわたしは記事の蒐集を行いません」
「弁解なんぞ聞きたくはねぇや。おめぇのご大切にご保存遊ばしたる新聞記事にいったいどんなことが書いてあるってんだい?」
「この二月の末に、岐阜県《ぎふけん》の美山町《みやまちよう》というところで保育園児が山の中に迷い込むという事件が発生しましたがね、これはその事件の記事ですよ」
黒猫は鼻の穴からふーっと豪気《ごうき》に息を吐《は》きだした。が、しかし、新聞の|噛み抜き《ヽヽヽヽ》を持ち出したおれの実証的な態度に多少の脅威《きようい》を感じ、それを胡麻化《ごまか》すための虚勢《きよせい》の鼻嵐《はなあらし》であることは、一目瞭然《いちもくりようぜん》である。おれは猫が鼠《ねずみ》をからかい慰《なぐさ》みものにするときの呼吸を真似て、
「ええっと、この記事を黒猫君にお聞かせするのはちょっと気の毒だなぁ。よそうかな、どうしようかな」
と相手をいらつかせる戦法に出る。
「勿体《もつたい》ぶるのはよしやがれ。もたせっぷりをしねえで、とっとと読み上げたらどうだ!」
黒猫の鼻嵐はいっそう強く吹《ふ》き、芝草《しばくさ》を横倒《よこだお》しにする。あまりじらし過ぎて深い恨《うら》みを買っては、相手が猫だけに後が怕《こわ》い。化けて出られちゃ逆効果である。そこでおれは、
「それでは……」
と黒猫に軽く目礼をし、できるだけ淡々《たんたん》たる調子で新聞の噛み抜きを読んでやった。その記事の全容は以下の如《ごと》くである。
〈……二月二十八日午後五時ころ、岐阜県美山町の自動車運転手三島信雄さん(三二)方の庭で犬といっしょに遊んでいた信雄さんの次男、北山保育園児|雅之《まさゆき》ちゃん(六つ)がいなくなったのに、母親のさよ子さん(三四)が気づき大騒《おおさわ》ぎになったが、あくる日の午前六時半ごろ、信雄さん方から約一・二キロ離《はな》れた尾根のくぼみの雪の中に犬と一緒《いつしよ》にいる雅之ちゃんが発見された。
見つかったとき、雅之ちゃんはシャツ一枚にセーター、カーディガンという軽装《けいそう》。靴下《くつした》もはいていなかったが、発見されるまで連れていたポインターを枕《まくら》に、もう一匹の雑種犬を腹に抱《だ》き横になっていたという。二匹の犬はいずれも信雄さんが飼っている犬。雑種犬は「チビ」という名前で四年前から、またポインターは一週間前、どこからかやって来て住みついたという。警察では、雅之ちゃんが二匹の犬のあとをついて山の中に入っているうちに道に迷い、疲《つか》れて歩けなくなったが、犬を抱いていたために明け方の冷え込んだ時、犬の体温で温まり、助かったとみている〉
おれの声が新聞記事を読み進むにつれて、黒猫の動作がせわしくなって行った。梧桐《ごとう》のまわりを歩く、前肢《まえあし》でしきりに顔を撫《な》でる、爪《つめ》で芝草を引っ掻く、梧桐の幹で躰《からだ》をこする、まるで入学試験の成績発表の朝の超大物高校野球選手|某《ぼう》といったおもむきであるのは憫然《びんぜん》の至りだ。
「どうです、黒猫君、人間にとってわたしたち犬のほうがあなたがた猫より暖房装置《だんぼうそうち》としてより有効であることが、これで明々白々になったでしょう。これが猫だったら、雅之君もそして猫も、雪の中で凍死《とうし》していたでしょうねえ」
「うるせえ!」
黒猫の口が耳許《みみもと》まで裂けた。
「おめぇのやり口は論理学的にいっても誤《あやま》っているぜ。おめぇの持ち出した論法は『倒逆偶然《とうぎやくぐうぜん》の虚偽《きよぎ》』を犯《おか》している。つまり、特殊《とくしゆ》な一例を一般的《いつぱんてき》場合に拡張してやがるのだ。兵士は戦場で人を殺して勲章《くんしよう》を貰《もら》う、だからすべて人を殺すものは勲章を貰うべきだ、と主張するのと同じ誤りだ。拳闘《けんとう》選手は人を殴《なぐ》って金を貰う、だからすべて人を殴るものは金を貰うべきだ、というのと同じ間違《まちが》いだ。税関吏《ぜいかんり》はポルノヌードにマジックを塗《ぬ》って金を貰う、だからすべてポルノヌードにマジックを塗るものは金を貰うべきだ、と言い張るのと同じ虚偽だ!」
「でもねえ、黒猫君、とにかく、犬の体温で人間の子どもが命拾いしたことはたしかなんですよ。まあこれからは猫の分際《ぶんざい》で犬と張り合うのはおよしなさい」
おれはこう言い捨てて犬小屋に凱旋《がいせん》した。このときの気分たるやまことに爽快至極《そうかいしごく》で、われ生きてここに在り、みよや犬児《けんじ》のこの意気を、といった感じであったが、後にして思えば、おれはじつにこのときすでに一粒《ひとつぶ》の災《わざわ》いの種子《たね》を蒔《ま》いてしまっていたのである。つまり、
「猫の分際で犬と張り合うのはおよしなさい」
と言うことによって、黒猫におれと張り合う気持ちを植え付けてしまったのだ。
黒猫と白猫と四匹の仔猫《こねこ》はその日から、おれの主人の家の東側に居を定めた。といっても猫どもは主人一家から飼い猫として承認されたわけではない。主人一家のだれかが気の向いたときに、まだわずかに肉のこびりついた魚の骨、チーズ、ミルク、汁《しる》かけ飯《めし》などを皿《さら》に盛《も》って供し、彼等《かれら》はそれを食する。それだけの関係である。
と書くと「ほう、おまえの主人はなかなか思いやりのある人物ではないか。もとからの飼い犬であるおまえの面子《メンツ》を重んじ、猫どもを常雇《じようやと》いにしなかったのだな」とおっしゃる方があるかもしれぬが、それはちがう。なあに、主人に六匹も猫を飼うだけの余裕《よゆう》がないだけのはなしである。六匹の猫に三度々々|飽食《ほうしよく》させることが可能なほど主人の文運は隆盛《りゆうせい》ではないのだ。
ところで、たとえ常雇いでなくても猫が主人の家に住みついたことによって、おれの食生活に深大にして甚大《じんだい》なる変化があらわれた。毎日、皿いっぱいだった牛乳が皿半分になり、椀《わん》に六匹の出《だ》し雑魚《じやこ》が三匹になり、おやつに三枚ずつ貰っていた|おかき《ヽヽヽ》が一枚になった。減《へ》った分がのこらず猫どもの方へ流れて行ったことはいうまでもない。それにしても、おれの大好物のおかきまで取り上げるとはまったく憎《にく》たらしい猫どもではないか。
連中が住みついて三日ほど経《た》ったある夕方、犬小屋の前に供せられたばかりの汁かけ飯におれが鼻を突《つ》っ込《こ》もうとしていると、
「ちょっとお邪魔《じやま》していいかしら?」
という猫撫《ねこな》で声が背後でした。飯《めし》どきに声をかけるとはどこのどいつかしらないが垢抜《あかぬ》けない野郎《やろう》だ、と思いながら声のする方を見ると、なんとその垢抜けない野郎とは例の白猫である。
「わたしあなたにお話があるんですよ」
「後にしてくれませんか。ごらんの通りこれから飯なんですよ」
とおれはできるだけ不愛想《ぶあいそう》に言った。
「なにしろ、あんたたちがこの家に住みつくようになってから、こっちの食事の割当て量ががくんと減りましてね、腹ぺこなんです」
皮肉をきかせたが、白猫は、
「それでも仕合わせですわ。とにかく食事ができるんですから。あら、お豆腐《とうふ》の汁かけ御飯ね。出し雑魚もどっさり入っていて、おいしそうだこと」
と一向に応《こた》えた様子はない。
「出し雑魚がどっさりですって?」
おれは少々|癪《しやく》にさわったから、白猫に向き直った。
「たった三匹しか入っていませんよ。あんたたちが来る前は六匹は入っていたんだ」
「まあまあまあ、そう|とんがら《ヽヽヽヽ》からないで」
白猫はまた猫撫で声を挙げた。猫撫で声の家元は申すまでもなく猫属である。さすが家元だけあって、堂に入ったものだ。咽《のど》ちんこのあたりをビロードの布地《きれ》で撫でられているような気分である。
「べ、べつにとんがらかっているわけではありません。事実を申し上げているだけですわ」
白猫はおれの傍《そば》へ二、三歩寄った。とたんに鼻腔《びこう》を香水《こうすい》の匂《にお》いが刺《さ》す。おれは思わずくしゃみをした。
「あら、わたしのつけている香水がお気に召《め》さなかったのかしら。これ、ここの家の奥《おく》さんのつけているものを一滴《いつてき》くすねてきたんだけど……」
と白猫はおれに向かって嫣然《えんぜん》と頬笑《ほほえ》んだ。
「それでわたしになんの用ですか?」
白猫の香水の匂いに思わずたじたじとなって二、三歩後退しながら訊くと、白猫は鹿爪《しかつめ》らしい顔で、
「じつは町内会を結成したいと思いましたの」
と言った。
「町内会ですって?」
「ええ。人間たちのやっている町内会の制度をわたしたち飼い猫や飼い犬の世界にも持ち込むべきだと思いついたものですから」
「飼い犬や飼い猫が回覧板を回しあうんですか? そんなことをしてなんの役に立つというんです?」
「回覧板や溝《どぶ》そうじは二の次三の次です。学ぶべきは相互扶助《そうごふじよ》の、あの精神ですわ」
さすがにインテリ猫の妻君だけあって喋《しやべ》ることも結構インテリ然としている。
「困ったときは力を貸し合い、嬉《うれ》しいときは互《たが》いにその喜びをわけあう、そんなことがわたしたち小動物に出来たらすてきじゃなくて? あの天地真理さんだって歌っているわ。『ひとりじゃないって、すてきなことね』って。あの歌を町内会の会歌にしたらどうかしら」
「わたしは天地真理よりもフィンガー|5《フアイブ》が好きです」
断乎《だんこ》とした口調でおれがそう言ったとき、向こうから一陣《いちじん》の黒い旋風《せんぷう》が飛んでくるのが目に入った。
「やい! 他人様《ひとさま》の女房《にようぼう》を口説《くど》くとはなんて汚《きたな》い野郎なんだ」
黒い旋風はおれの眼前にぴたりと停《とま》って怒鳴《どな》った。黒い旋風と見えたのは目の錯覚《さつかく》、正体は黒猫である。
「こいつぁどうあっても勘弁《かんべん》できねえ」
「冗《じよ》、冗談《じようだん》じゃない! あんたの奥さんは町内会を結成してはどうか、という相談に見えられただけですよ」
「嘘《うそ》をつけ! おれさまの女房に岡惚《おかぼ》れしたのにちがいない。まだお天道様《てんとうさま》が西の空に輝《かがや》いているってのになんて|はれんち《ヽヽヽヽ》な真似《まね》をしやがるのだ。恥《はじ》を知れ、恥を!」
「な、なぜ犬のわたしが猫を好きにならなくちゃいけないのです? わたしは天に誓《ちか》って潔白《けつぱく》です。嘘だと思うなら奥さんに聞いてごらんなさい。ねえ、奥さん、町内会のはなしをしてただけですよね?」
おれが訊《き》くと、白猫は、
「さあ、どうだったかしら。わたしはあんたが話があるというから傍《そば》へ寄っただけだけどね」
と冷たく言い放って、おれの背後へ回って去ってしまった。
「嘘だ!」
と、おれは白猫の後を追おうとしたが、黒猫はおれの尻尾《しつぽ》を、むがっと噛《か》んでもとへ引き戻した。
「やっぱり嘘を吐《つ》いているのはおまえらしいな。さあ、このおとしまえをどうつける?」
「知るもんか!」
「この野郎ッ!」
睨《にら》み合いが数呼吸する間つづいた。が、やがて黒猫はにやりと笑って言った。
「考えてみれば、おまえは犬でおれの女房は猫だ。どうおまえが口説《くど》いたって犬と猫じゃア結婚《けつこん》は無理なはなしよ。まあ、今回は見逃《みのが》してやらア」
黒猫はぶるぶるっと躰を二|揺《ゆ》り三揺りしてのっしのっしと向こうへ去った。
(……妙《みよう》な因縁《いんねん》をつけられたものだが、古くから「仁者《じんしや》に|そしり《ヽヽヽ》なし」という。真の仁者というものはどんなときにも誰《だれ》からもそしりは受けないというわけだが、身に覚えのないことでそしられたのはおれがまだその真の仁者ではないからだろう)
と思いながら、豆腐の汁かけ飯の入った椀へ戻ると、おどろいたことに椀の中はからっぽになっている。
おれはすっかり胆《きも》を抜《ぬ》かれて、しばらくは茫《ぼう》として|おこり《ヽヽヽ》の落ちた病人のように地面にへたり込んでいたが、愕《おどろ》きの箍《たが》がゆるんでだんだんと持ち前の本態に復するにつれ、笑いの|かたまり《ヽヽヽヽ》が腹の底から口許《くちもと》へ一気に這《は》いのぼってきた。
白猫の提示《ていじ》してきた「向こう三軒両隣《さんげんりようどな》りの小動物たちのための相互扶助を狙《ねら》った犬猫町内会の結成案」も、また黒猫の「うちの女房と親しく話などしやがって、さては口説くつもりだな」という難癖《なんくせ》も、ふたつながら狂言《きようげん》でありまたお芝居《しばい》だったのだ。二匹の親猫はお芝居でおれの注意を前方に引きつけておき、その隙《すき》におれの背後の餌椀《えさわん》の中身を、己《おの》が四匹の仔猫たちに失敬せしめてしまったのである。
主人は熱狂的なアンチ巨人《きよじん》ファンである。中日、大洋、阪神《はんしん》、ヤクルト、そして広島の五球団のどれでもよい、とにかくどこかが巨人に勝てばその日一日まことに機嫌《きげん》がよろしい。奥さんにはやさしい声をかけてやり、長女の昭子君にはお小遣《こづか》いをはずみ、次女の和子君のオセロ・ゲームの相手をいそいそとつとめるのだ。この際、主人は勝ち方を一切《いつさい》問わない。巨人側の凡失《ぼんしつ》で勝とうが、巨人側の投手陣の自滅《じめつ》によって勝利を得ようが、つまり、どんなつまらない試合でも巨人にどこかのチームが勝ってくれれば嬉しいのである。
これに反し、巨人が勝った日はご機嫌が斜《なな》め、というより真直《まつすぐ》に突《つ》っ立《た》ってしまう。奥さんをやたらと怒鳴りつけ、昭子君に金遣いが荒《あら》すぎると叱《しか》りつけ、和子君に対しては「子どものくせにオセロ・ゲームで大人を負かすとは生意気だ」とわめいてゲーム盤《ばん》をひっくりかえす。この際も主人は負け方をまったく問題にしない。正々堂々、巨人とがっぷり四つに組み土俵|際《ぎわ》まで押しての惜敗《せきはい》でも、先行されたり逆転したりの追いつ追われつのシーソーゲームを展開した末戦いに利あらず敗れても、つまりそれがどんな素晴《すば》らしいゲームでもどこかのチームが巨人に負ければそれが口惜《くや》しくて不機嫌になるのである。主人のような種族はインテリ連に多く、これを判官《はんがん》びいきと称するらしいが、このおれは主人とは違《ちが》って、中身にはこだわるが勝敗の方はまったく気にとめぬ。つまり敵の美技には拍手《はくしゆ》を惜《お》しまないし、味方の拙守拙攻《せつしゆせつこう》には仮借《かしやく》なき批判を加えるのを旨《むね》としておる。
そこでおれはしばらく独《ひと》り笑いをしてからこう呟《つぶや》いた。
「黒猫に白猫め、なかなかやるではないか。じつに見事なトリック・プレーだったぞ。だが、おれはやられっぱなしで尻尾を巻くような甲斐性《かいしよう》なしの犬ではないのだ。あらん限りの奸智《かんち》を働かせて、おまえたちをこの家から叩《たた》き出してやる」
攻《せ》めるにはまず敵をよく知り抜くのが兵法の初歩である。おれは敵状を視察するためにこっそりと家屋の反対側へ廻《まわ》ってみた。
すると軒下《のきした》近くに四匹の仔猫がぱんぱんに脹《ふく》れあがったお腹《なか》をこっちに向けていい気持ちで寝《ね》そべっていた。
「ママ、ぼく生まれてはじめてだよ、こんなに腹いっぱいたべたのは」
「パパ、盗《ぬす》み喰《ぐ》いってスリルがあっておいしいよね」
「ママ、またあの間抜《まぬけ》犬の餌《えさ》をくすねようよ」
「パパ、こんどはいつくすねるの?」
と四匹の仔猫がつぎつぎに声をあげるのを、黒猫と白猫はにこにこしながら眺《なが》めている。
「伜《せがれ》どもよ」
と黒猫が仔猫どもに向かって偉《えら》そうに言った。
「前と同じ手を使って安直にものをくすねるというちゃちな考え方をしてはいかんのだ。おれ、すなわちおまえたちのパパはついこの間まで、ある総合商社の部長に|飼われてやっていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。だから相手の裏をかいてしこたませしめる方法には詳《くわ》しいのだ」
仔猫たちは敬意の眼《まなこ》を以《も》って黒猫を見あげている。
「さて、さっきは陽動作戦という方法をうまく用いて、表口の番犬|小僧《こぞう》の餌をくすねたが、こんどはちょっと手を変えてみたいものさな」
「パパ、どんな手を使うの?」
仔猫の中の一匹が訊いた。
「教えとくれよ、パパ」
「……それがまだ教えるわけには行かねえのだ」
黒猫はひらりとブロック塀《べい》の上に跳《と》びあがった。
「なにしろこれから考えようってんだからな。考えをまとめにちょいとそのへんをぶらついてくらぁ」
「頼《たよ》りにしているよ、あんた」
と白猫が尻尾を振《ふ》った。
「表口の番犬小僧をこの家から追い出すことのできるような、飛び切り上等の戦法を考えついておくれ」
黒猫はにやりと笑って頷《うなず》くと塀の上から姿を消した。
たかが猫ごときとこの家のペットの椅子《いす》を競《きそ》うのはいささか犬の威厳《いげん》に傷がつく気がしないでもない。また、猫どもを相手に真面目《まじめ》に曲直を争うのはいかにも大人気のない所業だろう、とおれはそれまでは思っていた。餌をくすねられてその復讐《ふくしゆう》を、と考えていたことは事実だが、それだって頭から尻尾まで本気で考えていたわけではなかった。だが、黒猫の企《たくら》みを小耳に挿《はさ》んだいまとなってはもう許せない。あべこべに連中をこの家から追い出してやろう。おれはそう考えながら、主人の仕事部屋の沓脱《くつぬ》ぎ石の上に坐《すわ》りこんだ。
(なにか有効な決定的戦法はないかしらん?)
思案しつつ仕事部屋へ目をやると、机に向かって苦吟《くぎん》するわが主人の背中が見えた。見えたとたんにおれは、
(この際、被害者を装《よそお》うに限る)
と思いついた。
(わが主人は被害者意識の権化《ごんげ》、そのかたまりのようなお人である。この被害者意識の過剰性《かじようせい》は日本のインテリに共通する性質であるらしいが、これをうまく利用してやろう。被害者を装った戦法に出れば被害者意識の旺盛《おうせい》な主人はおれを仲間だと思い、おれの味方をしてくれるにちがいない)
その日の夕方、奥さんが餌椀にわかめと大根の味噌汁《みそしる》をかけた御飯を入れてくれるのを待って、おれはその餌椀をサッカーの選手よろしく、前肢《まえあし》で交互《こうご》に前へドリブルしながら、表の犬小屋から、猫どもの巣喰《すく》う裏の方へ廻《まわ》っていった。むろんドリブルといっても餌椀の中の汁かけ御飯をこぼさぬようにゆっくりと、かつ慎重《しんちよう》に、である。
おれの犬小屋は西に面した玄関《げんかん》の横手にある。そしてわが仇敵《きゆうてき》の黒猫と白猫と四匹の仔猫《こねこ》どもの|たまり《ヽヽヽ》場は正反対の東側だ。
おれは西から東へ家を半周し、猫どものたまり場へ餌椀を運んでいった。たまり場には四匹の仔猫がいた。親猫である黒公と白公の姿はない。
(作戦の性格からいっても黒公と白公が居《い》てくれないとまずいのだが……)
と思ったが、餌椀を運んできた以上は作戦を開始する一手である。そこで餌椀を、きょとんとした目付きでおれを眺めている四匹の仔猫たちの前へ前肢で押し出した。
「犬のお兄ィちゃん、どうしたの?」
と第一の仔猫が訊いた。
「ぼくたちに餌をくれるの?」
と第二の仔猫が問うた。
「お兄ィちゃんて、案外親切なんだね」
と第三の仔猫がかすかに笑った。
「呉《く》れるんなら遠慮《えんりよ》なくたべちゃうよ」
と第四の仔猫が嬉《うれ》しそうに笑った。
「どうぞ」
とおれはできるだけ優《やさ》しい口調《くちよう》で言った。
「どんどんたべとくれ」
四匹の仔猫はわっと餌椀を取り囲み、その中に鼻を突っ込んだ。しめしめとおれは餌を突っつく仔猫たちを見ていたが、餌椀の中身が半分ぐらいに減《へ》ったとおぼしきころ、突如《とつじよ》、すぐ傍《そば》の仕事部屋で書きものをしている主人の耳に届くようにと願いながら大きな泣き声をあげた。
「ご主人さま、猫どもがわたくしめの餌を取り上げて食べてしまったんでございますよう。この家《や》の正義は、ご主人さま、あなたの胸のうちにあるのでございます。その正義でどうか泥棒猫《どろぼうねこ》どものけしからぬ振《ふ》る舞《ま》いをお罰《ばつ》し下さいまし。このままではこの家の正義は滅《ほろ》びてしまいますぞ!」
おれの泣き声に四匹の仔猫はぎょっとなって餌椀からとび退《の》き、心配そうに顔を見合わせている。
「犬のお兄ィちゃん、どうぞといったから餌を食べたんだよね」
と第一の仔猫が第二の仔猫に言った。
「それなのに餌を奪《と》られたなんて騒《さわ》ぐのはおかしいよ」
と第二の仔猫が第三の仔猫に囁《ささや》いた。
「うん、このお兄ィちゃん、すこし頭が変なんじゃないのかな」
と第三の仔猫が第四の仔猫に首をひねってみせている。
これらの声には構わずにおれは更《さら》なる大声で泣き立てた。
「ご主人さま! 正義の士にして公明正大なるご主人さま、どうか泥棒猫どもの頭上に勧善懲悪《かんぜんちようあく》の鉄槌《てつつい》をお下しくださいまし!」
おれの主人がインテリの端《はし》くれであることは前にも述べたが、人間のインテリという種族はおしなべてみな、事の善悪はとにかく弱い方へ味方したくなるという興味深い性癖《せいへき》を有する。国家の言い分よりも個人のそれに、大企業《だいきぎよう》の言い分よりも市民のそれに、加害者の言い立てよりも被害者のそれに容易に加担《かたん》するのである。むろん、おれはこの性癖を悪いと言っているのではない。この性癖こそ世の中をすこしでもよいものにしている原動力であると信じているのだが、それはとにかく、おれは被害者を装うことによって、主人のこの性癖に訴《うつた》えかけようと試みたのである。
「どうしたんだドン松五郎《まつごろう》、なにを啼《な》いているんだい?」
と声がして主人が姿を現した。おれはしめたと思った。
「ご主人さま、ごらんくださいまし。猫どもがわたくしの餌椀を横取りしたのでございますぞ」
おれは姿を現した主人にこう訴えた。
「正義の塊《かたまり》であるご主人さまのお膝元《ひざもと》で、かかる不正が行われていてよろしいでしょうか。これを黙認《もくにん》なさいますならば、この家《や》の秩序《ちつじよ》が失われてしまうのは必定《ひつじよう》でございます。これを放置なさいますならば、妻は夫にそむき、子は両親に反抗《はんこう》するの風潮がたちまちのうちにこの家を支配いたします。なにとぞ良識あるご処置を!」
犬の言葉はむろん人間である主人にはわからぬ。しかしおれの声音から主人は一瞥《いちべつ》のうちに事情を察したようである。
「こらこら、ドン松五郎の餌椀を奪ったりしちゃいかん」
主人は庭下駄《にわげた》をつっかけながら四匹の仔猫どもに言った。
「犬が猫のものを奪るのならまだわかるが、猫が犬から餌を|かつ《ヽヽ》あげるなぞ聞いたこともないぞ」
主人は仔猫どもの前の餌椀を持ち上げ、それをおれの鼻の先に置いた。
「ドン松五郎、おまえもしっかりしなくてはいかん。犬であるおまえが猫に餌を奪られるなぞ、恥《は》ずかしくはないのか」
「まったくご主人さまのおっしゃるとおりでございますが、この連中はそこにもいるここにもいるというような生易《なまやさ》しい猫じゃございません」
おれは尻尾を振《ふ》り、鼻声をあげながら主人に訴えた。
「神出鬼没《しんしゆつきぼつ》、臨機応変、凶暴無比《きようぼうむひ》、傲慢無礼《ごうまんぶれい》の、三拍子《さんびようし》も四拍子も揃《そろ》った悪い猫なのでございますよ」
「よしよし、そう啼きたてるな」
主人はおれの首をぺたぺたと叩《たた》いた。
「もう一度、猫どもがおまえの餌を奪るようなことをしでかしたら、わたしが黙《だま》っちゃいないよ」
主人はおれの被害者ぶりにころっと参ったようだった。これですべてはこっちの計画通りである。人間のインテリを乗せるのはほんとに楽だ。おれは思わず北叟笑《ほくそえ》んだが、このとき、家の表口、おれの犬小屋のあたりで妙《みよう》な声がした。すなわち黒猫が、
「この家のご主人さま、ドン松五郎という犬はまことにけしからぬ奴《やつ》でございますよ」
と叫《さけ》んだのだ。
「わたしたちが頂戴《ちようだい》した夕食をドン松五郎が器《うつわ》ごと盗《ぬす》んだのでございます!」
とこれは白猫。
おれの胸が一時に騒《さわ》ぎ出した。黒公と白公もなにか企《たくら》んだらしい。おれは急いで表へ廻った。おれの小屋の前で黒公と白公がたがいに手をとり合って泣いていた。
「わたしどもはおなかが空《す》いても大人ですから辛抱《しんぼう》できます。でも四匹の仔猫たちが、これではあまりに可哀《かわい》そうで……」
白公はよよよよ、という感じで尻尾を振りながら啼いている。白公の前には餌椀が置いてあった。見るとそれは猫用の椀である。
「親として、子どもの空腹を訴える姿を見るぐらい辛《つら》いことはありませぬ」
玄関のドアが開いて、家の中から奥《おく》さんが出てきた。
「どうしたのよ、黒ちゃんに白ちゃん。なんだかひどく悲しそうな声で啼いているじゃない」
奥さんは白公の前の餌椀に気がついて、
「まあ!」
と叫んだ。
「ドン松五郎の小屋の前に猫の餌椀があるわ。これはいったいどういうことかしら?」
しばらくおれの小屋の前の猫用の餌椀と、その横で悲しげな泣き声を発している黒公と白公とを眺めていた奥さんが、やがて合点《がてん》のいったような口調で言った。
「餌泥棒はドン松五郎ね。ドン松五郎が猫の餌を器ごとちょろまかしたのにちがいないわ」
そうです、その通りです、と黒公と白公はいっそう高く啼く。
「黒ちゃんに白ちゃん、可哀そうに。それにしてもドン松五郎ったらなんて図々《ずうずう》しい犬かしら。ドンにはちゃんと餌をあげているのにねえ。あとでお灸《きゆう》をすえてやらなくちゃ」
奥さんは地面から猫用の餌椀を取り上げながら、黒公と白公に言った。
「ドン松五郎のお仕置きはあたしに委せてちょうだい。さ、餌椀をあなたたちのところへ持っていってあげますよ。ついてらっしゃい」
奥さんは表から庭のほうへ足を向けた。形勢我《けいせいわ》が軍に利あらずと見て、おれは潜《くぐ》り戸《ど》から塀の外へ飛び出し、その潜り戸の隙間《すきま》から塀内の様子を窺《うかが》っていると、奥さんは庭のまんなかで出くわした主人になにか訴えはじめた。
「あなた、たいへんよ。家にはどうやらたちの悪いギャングが一匹いるみたいですよ」
「一匹だと?」
と主人は、手に持っていたおれの餌椀を、奥さんに掲《かか》げてみせた。
「おれは一匹じゃないと思うぜ。ギャングの数は六匹だね。これはドン松五郎の餌椀だが、これがどこにあったと思う? なんと四匹の仔猫の前にあったんだぜ。そしてドン松五郎は自分の餌椀の中に鼻を突っ込んで餌を喰《く》い荒《あ》らす四匹の仔猫を見て、くんくんと悲しそうに泣いていた」
「そ、そうすると、あのう……」
「きまっているさ。黒猫がドン松五郎を脅《おど》すか欺《だま》すかして餌を奪《うば》ったのだよ。猫のやることにしてはすこし|あこぎ《ヽヽヽ》すぎるねえ」
「なんだかへんだわ」
「なにがへんなのだ?」
「ドン松五郎の犬小屋の前には猫用の餌椀があったのよ」
と奥さんも餌椀を主人の目の前で振って見せた。
「そして、黒猫と白猫がその傍《そば》でにゃあにゃあ恨《うら》めしそうに泣いていたの。わたしはドン松五郎が猫の餌を盗《と》ったのだと思うわ」
「そんなことはないさ。ドン松五郎は飼《か》い主《ぬし》のおれに似《に》てあれでなかなか良心的な犬なんだ。猫の餌を盗むような卑劣《ひれつ》なことをするはずはない」
「あなたに似て良心的?」
奥さんの口許《くちもと》にちらりと皓《しろ》い歯がのぞいた。
「あなたに似たらなまけものになるはずだけど」
「どういう意味だい、そりゃあ」
「べつにどうという意味もありませんけど」
「じつに不愉快《ふゆかい》だ」
主人は餌椀を地面に叩きつけた。
「こんなくだらないことにかこつけて、おれに皮肉をいうことはないじゃないか」
「皮肉をいったんじゃありませんよ。ほんとうのことをいったまで……」
「それならなお悪い!」
主人は庭下駄をあっちゃこっちゃに脱《ぬ》ぎ散らかして仕事部屋にあがった。
「今朝から一枚も書けていないのはなまけているからではない、なやんでいるからなのだ。それをおまえは……、えい、もう面倒《めんどう》くさい、この家から犬も猫も追い出してしまえ!」
仕事部屋の障子がおそろしい音をたてて閉った。
「犬を飼おう、猫を置いてやろう、と言い出したのは自分のくせに、いまごろ追い出せだなんて無責任だと思うわ」
奥さんは仕事部屋に閉じ籠《こも》ってしまった主人に向かって聞こえよがしの大声をあげた。
「うちでは電話に出るのはみなこのわたし、だから仕事の催促《さいそく》電話を受けるのもわたし。催促電話のたびに送話器に向かって米搗《こめつ》きバッタのようにお詫《わ》びばかりしていなくてはならないわたしの身にもなってちょうだい。なまけもの、ぐらい言いたくなるのは当然だと思うわ」
「やかましい!」
仕事部屋で主人が怒鳴《どな》った。
「おれの骨身を削《けず》って稼《かせ》いだ金でおまえたちを喰わせてやっているのだ。それを思えば、電話に出るぐらいなんでもなかろう。もしそれが厭《いや》なら犬猫もろともこの家から出て行け!」
仕事部屋の障子がとん! と鳴った。腹立ちのあまり主人が机上の原稿《げんこう》用紙をまるめて紙つぶてにして投げつけたのだろう。
「出て行くものですか!」
奥さんも猫用の餌椀を地面に投げつけた。
「この家はわたしのお城です。だからわたしは|てこ《ヽヽ》でも動きませんよ。出て行くのはあなたです!」
奥さんも戸内に足音高く引っ込んだ。
潜り戸をあけてそっと庭に戻《もど》ると、隅《すみ》のほうに黒公と白公が不景気な顔をして蹲《うずくま》っているのが目に入った。
「きみたちもどうやらおれと同じ手を使ったらしいね」
とおれは黒公に言った。
「きみたちも被害者を装《よそお》うとしたんだろう。犬のぼくに餌を奪られたと、この家の人たちに訴えて、ぼくの評判を落とそうと企《たくら》んだろう?」
「そうよ」
黒公は沈痛《ちんつう》な表情をしていた。
「だが、犬のおめえも同じ大芝居《おおしばい》を打っているとは思わなかったぜ。なかなかやるよな、おめえも」
「それはお互《たが》いさまです」
「ドン松五郎よ、おめえのほうがこの家に長く居《い》ついているから聞くのだが、おれたちはこの先、どうなるんだね?」
「夫婦|喧嘩《げんか》の嵐《あらし》の去るのをじっとおとなしく待つ一手でしょうね」
「夫婦喧嘩の嵐はおさまるかしら?」
と白公が心配そうに口を挿《はさ》んだ。
「ドン松さんはどう思う?」
「おさまらなかった嵐なんてこれまで一度もあったためしはありませんよ」
おれは二匹に真摯《しんし》に言った。
「また明けなかった夜も、止《や》まなかった雨も、散らなかった花もありません。ここはしばらく休戦して静かにしているに限ります。あなたがたが移住してきたおかげで、ぼくに対する食糧の割当量が若干《じやつかん》減りました。しかし、ぼくはそれには目をつむり一切《いつさい》不平を言わぬつもりです。だからあなたがたにも、耐《た》えるべきところは耐えていただきたいのです」
「わかったぜ、ドン松五郎」
黒公は頷《うなず》いた。
「いかにも諸々《もろもろ》の悪条件を敢然《かんぜん》と耐えることにしよう。この家で貰《もら》う餌だけで親子六匹が生きて行けないときは、この近在の飼い猫どもの間をめぐり歩き、喜捨を受けてもいいのだ」
黒公は大いに悟《さと》った口吻《くちぶり》である。
「それにしても変梃《へんてこ》りんな家だこと」
と、黒公夫人である白公が言った。
「最初は猫であるわたしたちと犬であるあんたとの抗争《こうそう》だったはずなのに、いつの間にかここの主人と奥さんとの喧嘩になってしまったじゃないの」
「それが賢《かしこ》い人間様のいつものやり方なのです」
と、おれは白公に答えた。
「地球上のありとあらゆる生き物のものであった青い空、清らかな空気、澄《す》んだ海、緑の山河を、人間はいつの間にか一人占《ひとりじ》めにし、そのすべてをだめにしてしまったじゃありませんか。こんどの喧嘩も同じことで、ぼくたちのものであったのが知らぬうちに人間に奪《うば》われてしまっていたのです」
「おれたちの喧嘩の種まで横どりするとは、人間ってやつ、まったく仁義《じんぎ》を知らねえな」
と黒公は舌打ちをした。
「もっとも、だからこそ『仁義なき戦い』なんて映画がばか当たりに当たるわけだけどもよ」
「おっしゃるとおりです。したがってそういう人間たちに上手《じようず》に飼われるには、われわれの方にもよほどの覚悟《かくご》と技術が必要になりますね。いま、われわれ人間に飼われる小動物にとって必要なのはひとつの美学です」
「美学?」
「ええ。『飼われ方の美学』の確立がいまほど急を要する時はありませんよ」
「おめえ、なかなかいいこというじゃねえか」
黒公は前肢《まえあし》で顔をぺろりと撫《な》でながら言った。
「まったくおめえは秀才だ、天才だ、神童だ。人間に生まれていたら東大法学部に合格は確実だ」
「ありがとう。ま、そんなわけですから、当分、風波を立てぬように仲よくやっていきましょう」
「おう、そいつは願ったり叶《かな》ったり、よろしく頼《たの》むぜ」
おれと黒公はそれからしばらく庭先の芝生《しばふ》に寝《ね》そべって、麗《うらら》かな春陽に甲羅《こうら》を干《ほ》しながら、人間に飼われる小動物は今後どのような生き方をすべきかについて熱心に話し合った。
黒公は、猫は化けて出るという迷信《めいしん》を人間が持っているから、その人間の迷信につけこんで、もっと|こわもて《ヽヽヽヽ》で行きたい、と述べた。できれば猫は真面目《まじめ》になって化け方を研究し、人間を怖《こわ》がらせるべきであるとも力説した。そして黒公はこう結論した。
「……つまり、人間は猫を怖がって大切にしてくれるだろうってわけよ」
「化け方をいくら研究しても無駄《むだ》ですよ」
と、おれは黒公の意見に反対した。
「化ける、なんて非科学的なことを武器にして戦っては所詮《しよせん》は負けです」
「じゃあ、おめえはなにを武器にして人間と闘《たたか》って行くつもりだい?」
「やはり科学でしょうね」
「ほう、人間なみにおれたち小動物も核兵器を開発して、核武装《かくぶそう》をせよ、とでも言うのかい?」
「われわれに必要なのはそういう科学ではなく、科学的な思想です。人間とはいかなる生物か。長所はなにか、短所はなにか。そして彼等《かれら》の長所を伸長させる法《て》はないのか。つまり、われわれ小動物から見た人間科学、これが必要でしょうね。それがないかぎりわれわれ小動物はいつになっても、土塀《どべい》の上に生えた蘆《あし》で、頭が重く、足かるく、根っ子は浅い。そして山の谷間の竹の子で、口はとんがり、皮あつく、腹はからっぽ、ということになりましょう」
「よっ、毛沢東《もうたくとう》先生の対句《ついく》を引用したね」
黒公が拍手《はくしゆ》をしながら言った。
「おめえは大した勉強家だ。ひとつ大奮発《だいふんぱつ》して、その人間科学とやらを究《きわ》めてくんなよ」
頷きつつ振り返ると春の陽《ひ》ははや西の山、あたりに紫色《むらさきいろ》の黄昏《たそがれ》が訪れはじめている。
おれの発心
おれはこのごろ、主人や奥《おく》さんの用事をするようになった。主人や奥さんの書いた注文メモを啣《くわ》えて丘《おか》の下の商店街へ行き、煙草《たばこ》や肉やお菓子《かし》や魚、ときには週刊誌などを運んで帰ってくるのである。奥さんは商店へ注文する手間と電話代が節約できるというので大満悦《だいまんえつ》のようであるし、主人のほうもおれのおかげで週刊誌や中間小説誌のグラビア写真に「作家松沢健氏と彼《かれ》の利口な飼《か》い犬ドン松五郎《まつごろう》氏」などというタイトルで二、三度登場することが出来たので、これまた大いに機嫌《きげん》がよろしい。
主家の用達《ようたし》をするようになったといっても、おれは第二のハチ公や第二のドラゴン号を志しているのではない。これにはじつは深慮遠謀《しんりよえんぼう》があるのだ。その深慮遠謀とはなにか。それについて語る前にハチ公とドラゴン号の説明をしておこう。
ハチ公は東京帝国大学、すなわち今の東京大学農学部の上野英三郎教授の飼い犬で、同教授が外出先で急死した大正十四年五月二十一日から、彼《か》の犬自身が昭和十年三月八日に生涯《しようがい》を終わるまでの約十年間、毎日、己《おの》が主人を迎《むか》えるために東京の渋谷《しぶや》駅に通い続けた愚鈍《ヽヽ》な忠義者である。ハチ公を愚鈍《ぐどん》と決めつけるのは暴挙のようだが、主人が外出先で急死したことを十年間(犬の感覚に直せば八十年間)も理解できなかったなぞ愚鈍以外のなにものでもない。普通《ふつう》の知能があれば数日で主人に変事があったことに気がつくはずであるが、それが十年もわからなかったというのが、どう考えても愚であり鈍である。人間たちは二言目には、すべての犬のお手本|忠犬《ヽヽ》ハチ公というが、事実は愚犬《ヽヽ》ハチ公であり、おれたちにかかる愚犬を手本にせよと言う人間も利口であるとはいえぬようだ。
ドラゴン号は十四世紀後期のフランス国王シャルル五世の王室射手オーブリの愛犬でグレイハウンド種であるが、主人がマケールという同僚《どうりよう》に恋《こい》の恨《うら》みで殺されたのを知り、敢然《かんぜん》として主人の仇《かたき》に飛びかかり咽喉《のど》を咬《か》み切って飼《か》い主《ぬし》の復讐《ふくしゆう》を成し遂《と》げたという犬である。このドラゴン号は現在《いま》でもフランスでは、なべての犬の鑑《かがみ》として高い評価を得ているようであるが、おれに言わせりゃこいつもとんだお調子者だ。人間の色恋沙汰《いろこいざた》に巻きこまれ一個しかない命を粗末《そまつ》に扱《あつか》うところがお調子者である。人間の夫婦喧嘩《ふうふげんか》に色恋沙汰、こういう低次元な争いごとに犬は超然《ちようぜん》としていたいものだ。
おれが主家の用達をするようになったのは、前述したように右のハチ公やドラゴン号の二代目を継《つ》いで天晴《あつぱ》れなる忠犬という美名を得ようとするためではない。あくまでも自分のためである。用達をする感心な犬という看板を利用し、保存のきく食糧を調達し、将来の自立と独立に備えようと思いついたのだ。生きて行くには衣食住が大事だと人間たちは口癖《くちぐせ》のようにいうが、おれたち犬には衣も住も不要、要《い》るのは食だけである。主家の用事を足すときに、ビスケットを一|箱《はこ》ずつ確保しておけば、そのうちにビスケットの山を築くことができるだろう。そうなればしめたもの、一|椀《わん》の餌《えさ》のために辛気《しんき》くさい飼い犬勤めなどせずにすむ。それが狙《ねら》いの主家の用事足しなのだ。
保存食確保の方法はいたって簡単だ。屑箱《くずかご》に捨ててあるビスケットの空箱《あきばこ》を拾っておき、主家の用で丘の下の商店街に行くときにそれを啣《くわ》えて出かけ、駄菓子《だがし》と乾物《かんぶつ》の双方《そうほう》を扱っている店に入る。店のおばさんはおれの啣えている空箱を見て、「や、これは同じビスケットをこの犬に渡《わた》してくれって合図だな」と現物を渡してくれる。おれはそれを啣えて帰る。店のおばさんは月一回の会計日に奥さんのところへ、ビスケット代を含《ふく》んだ金額を請求する……、これだけのことである。
さて、ある日の午後のこと、おれは「この犬にステーキ用の肉を二百グラム持たせてください」という奥さんのメモを啣えて、丘の下の商店街に出た。むろん犬小屋の奥深くかねて用意のビスケットの空箱をそのメモと一緒《いつしよ》に啣えて行ったことも申すまでもない。
乾物屋のおばさんは、おれが店の土間に放り出した空箱を見て、
「おや、まあ、松沢先生んとこのドン君、いらっしゃい。ふうんそれと同じビスケットを呉《く》れ、と言いつかってきたのだね。でも一箱かしら、それとも二箱かしら?」
と言った。すかさずおれは、
「ワン」
と啼《な》いた。おばさんは、
「まあ、ワンだってさ。わかってますよ、ワンは英語でひとつって意味でしょう」
と、こっちの言わんとするところをいち早く察して、棚《たな》からビスケットを一箱おろしおれの背中にくくりつけてくれた。おれは乾物屋から肉屋へ寄り、牛肉の包みを啣えすこし遠まわりして帰途《きと》についた。遠まわりしたのはシェパード犬キングの屋敷《やしき》に寄るためである。キング邸《てい》の縁《えん》の下におれの保存食料センターがあるのだ。
門の前で「もしもし」と軽く吠《ほ》えたが返事がない。
(キングが留守でも居候《いそうろう》のプードルのお銀ぐらいは居てもよさそうなものだ)
と思いながら、勝手知ったる他人の家の縁の下へのそのそと這《は》い込《こ》み、目印に空|かん《ヽヽ》を置いてある地面の下を掘《ほ》った。そのへん一帯に合計十三本のビスケットが貯蔵されているはずである。
(……これで十四本目か。まさかのときでも一カ月は空腹をしのげるぞ)
土を掘りながらも思わず満面がほころぶのを禁じ得ない。
(むかし、武蔵《むさし》坊弁慶《ぼうべんけい》という暴れ者の僧《そう》は九百九十九本の太刀《たち》を収集したというが、収集期間中はさぞかし幸福だったろうなあ)
おれは地中にずらりと並《なら》んだ十三本のビスケット箱に新たな一箱を加えつつ弁慶の心を忖度《そんたく》した。
(なにしろ十四本でもこの嬉《うれ》しさだ、九百九十九本だったら天にも昇るような心持ちだったろう。それにしても人間たちがかつて小学校で愛唱した「京の五条の橋の上」という唱歌では、牛若丸なる小冠者《こかんじや》のために、九百九十九本で刀狩《かたなが》りに挫折《ざせつ》した弁慶のことを哀れな愚《おろ》か者《もの》だというふうに断じているけれども、果たしてそれは事実だったのだろうか)
いや、弁慶は刀が目標の千本に達しなかったことを内心喜んでいたに相違《そうい》ない、とおれは自問自答した。目標に達したということはその後もうやることがないというのと同義であろう。そして「もうやることがない」ということは寂《さび》しいことなのだ。弁慶はそれを知っていてあと一本というところで故意に目標に達するのを諦《あきら》めたのにちがいない。目標にいまだ達せずということは未来を信じるということなのだから、弁慶は牛若丸に敗《やぶ》れることによって、己《おの》れのために己れの未来を確保しようとしたのである。平べったくいえば、弁慶はよりよく生きるために牛若丸に勝ちを譲《ゆず》ったのだ。
(……ビスケットを百五十箱、すなわち一年分の糧食を確保するというのが、こっちの計画だが、おれも弁慶のひそみにならって、百四十五、六箱でビスケットの収集を諦めようかしらん)
そんなことを考えながら、十四箱のビスケットに後肢《あとあし》で砂をかけていると、ひたひたと足音の近づくのが耳に入った。
「おや、来てたのか」
声の主はどうやらキングのようである。
「やあ、キングさん、お留守にあがって失礼しました」
おれはキングに向かって尻尾《しつぽ》を振《ふ》った。
「また一箱、ビスケットを分捕《ぶんど》ってきましたので、地中に隠《かく》させていただいていたところです」
「うむ。よく精が出るな。食糧をしっかり確保して、その上で人間たちから自立しようとするきみの心掛《こころが》けは全日本の犬児諸犬のお手本というべきだ」
キングは最高級の賛辞《さんじ》をおれに呈《てい》したが、その口吻《くちぶり》にはお義理くさい匂《にお》いがあった。つまり心が籠《こも》っておらぬのだ。どうしたのだろう? とおれはキングを窺《うかが》った。するといつもは茶色のキングの顔色が、なんだか妙《みよう》に蒼白《あおじろ》い。これは心になにか屈託《くつたく》がある証拠《しようこ》だ。そこでおれは、
「キングさん、なにか心配ごとでもあるんじゃありませんか」
と尋《たず》ねた。
「さしつかえがなければ、その心配ごとをわたしにお話しねがえませんか?」
キングはしばらく黙《だま》って考え込んでいたが、やがてうんと頷《うなず》いて、
「この丘の北の端《はし》の農家にブルテリアの長太郎《ちようたろう》という犬がいるのを知っているかね?」
と訊《き》いてきた。
「知ってますとも。十日前から飼われている仔犬《こいぬ》でしょう?」
「うむ、じつはその仔犬がたいそう可哀《かわい》そうなことになりそうなのだ」
「といいますと?」
「明日、断耳《だんじ》と断尾《だんび》をされることになったのさ」
断耳と断尾と聞いて、一瞬《いつしゆん》目の前が暗くなるような気がした。おれは雑種の犬である。決して負け惜《お》しみではなく、雑種として生まれたことをおれは幸運だったと思っている。すくなくとも、ドーベルマンやピンシェルやグレートデンやボクサーやシュナウツァやテリア系統の犬種でなかったのは仕合わせだった。なんとなればこれらの犬は人間のために仔犬時代に断耳と断尾をされることがあるからである。
ではいったい人間どもはなぜこれらの犬種の耳や尾をちょん切ろうなどという蛮行《ばんこう》を行うのか。ある人間は、〈犬格をあげるための美容整形である〉という。また別の人間は、〈犬の外形を利口そうに、あるいは勇敢《ゆうかん》そうに見せるためだ〉と弁ずる。さらに|わけしり《ヽヽヽヽ》の人間は、〈断耳は、猟犬《りようけん》が森の中で耳を樹《き》の枝《えだ》や蔓草《つるくさ》に引っかけて怪我《けが》をするのを避《さ》けるためであり、断尾はやはり怪我を防ぐと共に尾を振ると樹木の幹や草にあたって音をたて、獲物《えもの》を逃《のが》すことが多いので、それを防止するためだ〉と述べるが、いずれにしても、人間のためにおれたち犬の仲間の躰《からだ》を改造することに変わりはない。人間は犬に犬舎を与《あた》え、餌《えさ》をやって飼っているのだから、その犬をどうしようが勝手ではないか、とおっしゃる方があるかもしれぬが、やはりそれは人間の理屈《りくつ》だ。おれは生憎《あいにく》犬であるから、かかる考え方は断々固として排撃《はいげき》せざるを得ぬ。
それに百歩も二百歩も譲《ゆず》って、飼い犬は飼い主である人間のものだと仮定しても、飼い犬の尾や耳を切るのは損である。なぜ損か? たとえば尾だけに限ってみても、まず尾は犬にとっては単なる飾《かざ》り物《もの》ではない。尾には体の平衡《へいこう》を保ち、急なる方向|転換《てんかん》を助成し、急停止の際は制動装置《せいどうそうち》として働くという役目があるのだ。したがって、尾を切ることは、飼い犬を|のろま《ヽヽヽ》の仲間入りさせるのと同じことである。にもかかわらず犬特有の敏捷《びんしよう》さを切り捨てて得々《とくとく》としている飼い主がもしいるなら、ずいぶん愚《ぐ》なものではないか。
だいたい己が飼い犬に断尾の術など施《ほどこ》そうとする人間は、観察力の乏《とぼ》しさを自分から進んで白状するようなものだ。
寒い日の朝、おれたち犬は尾で鼻先を覆《おお》うようにして眠《ねむ》っているが、伊達《だて》や酔狂《すいきよう》や趣味《しゆみ》や道楽で鼻先を尻尾で囲っているわけではないのである。こうすることによって鼻の保温を行い、呼吸器を保護しているのだ。尾を鼻にくっつけて眠っている犬を見て、|それ《ヽヽ》と理解の出来ぬ連中は、もう柄《え》の抜《ぬ》けた|肥びしゃく《ヽヽヽヽヽ》でなんとも手がつけられぬ。
もうひとつ、断尾を実行する人間は情操《じようそう》面にはなはだ欠けるところがあるのではないか。なんとなれば、尻尾こそ情操そのものであるからだ。つまり、犬の体のうちで尻尾が最も表情の豊かな部分なのである。おれたちはこの尻尾を以《も》って、信頼《しんらい》や敬意や愛情や好意を表現する。その尻尾をちょん切るような連中は、土台、信頼や敬意や愛情や好意などの徳目《とくもく》と関係がないだろう。
犬の品評会ではこの断尾断耳のあるなしが審査《しんさ》の大事な基準になる。というより大多数の品評会では断尾断耳を施していない犬は失格だとしているようである。またほとんどの犬の飼い方に関する書物ではこの蛮風を奨励《しようれい》しているようである。一例をあげれば、わが主人の書棚《しよだな》にある『犬の百科』と題する入門書には、
「……断耳はたんに耳朶《じだ》を切除して立耳とするというだけのものではなく、明確に人為《じんい》の外科手術とわかるようなものでなく、犬体の美しい線にとけ込んで、一体になるようにしたいものです」
などという太平楽《たいへいらく》が並《なら》べてある。どうでもいいがひどい文章だ。こんな文章しか書けぬ人間だからどうせ碌《ろく》な手合いではないだろうと思って、著者|紹介《しようかい》の頁《ページ》を覗《のぞ》いたら、これが驚《おどろ》いたことに、四人の著者、ひとりは早稲田卒《わせだそつ》の犬の美容専門学校の校長、つぎは東大卒の元陸軍|獣医部《じゆういぶ》の部員で、日本シェパード協会や日本|畜犬《ちくけん》連盟の役員、三番目は日本獣医畜産大学卒のJKC審査員、そして殿軍《しんがり》が麻布《あざぶ》獣医大学卒の女学士と、なかなかの顔ぶれなのである。
それぞれ最高学府の出身者であるにもかかわらずこの程度の文章力しかないのだから呆《あき》れ蛙《がえる》の頬《ほお》かぶり、偉《えら》いのだか馬鹿《ばか》なのかちょっと見当がつかぬ。が、それはとにかく、こういうお歴々が「われこそは犬学のエキスパート、愛犬家の代表」という顔をして、断尾断耳を奨励する「愛犬家向き」の入門書を著《あらわ》すのだから、人間世界のことはどうもわからぬ。ほんとうにおれたちを愛してくれているのなら、尻尾が、そして耳が犬にとってどのように大切な器官なのか、すこしは考えてくれてもよさそうなものである。
誤解のないように念を押しておくが、「おれは犬を憎《にく》んでいる。つまり憎犬家だ。だから断尾だろうが断耳だろうが、構わずに実行するのだ」とおっしゃる方なら、これはこれでちゃんと筋が通っているからいいのである。むしろこの一貫した態度は尊敬に値《あた》いする。
だが、たとえば『犬の百科』のまえがき、
「……犬との生活には他の何ものにもかえることのできない楽しみがあります。主人に忠実で、純真|素朴《そぼく》な犬の心情は、人間と犬との深い愛情の間にこそはじめて育ちます。これは、現代社会で激《はげ》しく精神を消耗《しようもう》する人間の最上の慰《なぐさ》めと憩《いこ》いです。文化が進むにつれて犬の飼育《しいく》が盛《さか》んになる理由はここにもあります。犬を家族の一員として、動物愛護の精神をもって接することは、人間と犬との関係のみでなく、人と人との人間関係をすらよりよくし、相互《そうご》の理解と信頼を深めるものだといえましょう」
とこんな美辞麗句《びじれいく》を並べて愛犬家を自称しつつ、書中で断耳断尾を奨励するのは理屈に合わぬのではないかと思うのだ。たまたま主人の書棚にあった『犬の百科』なる書物におれの非難が集中し、悪いことをしたと思わぬでもないが、おれはこういう「愛犬家」を許すことはできぬ。彼等《かれら》はおれたち犬の敵だ。
だいぶ『犬の百科』という書物に八ツ当たりしてしまったが、じつを言うとこの書物の著者たちだけを非難するのはちと酷《こく》のようである。というのはこの書の著者たちの、
「愛犬家であることを唱えつつ、そのじつ犬にとってもっとも酷なる断耳断尾を奨励する」
という矛盾《むじゆん》は、人間|一般《いつぱん》に共通する悪習である、と思われるからである。
「子どもが可愛《かわい》い。だから吾《わ》が子にだけは他《ほか》の子よりもすこしでもよい学校に入ってもらわなければならない」
と言って、愛児の尻《しり》を叩《たた》いて学習塾《がくしゆうじゆく》に送り込む人間の主婦たち、彼女《かのじよ》たちも前記の「愛犬家」たちと同種の矛盾を犯《おか》している。真実子どもが可愛いのなら、その可愛い子どものためにこの住み難《にく》い世の中を住み易くするのが先決だろうとおれは思うのだが如何《いかが》かしらん。いくら東大を出たって公害病で早死したらなんにもならぬではないか。
受験|地獄《じごく》などけしからん、と日頃《ひごろ》堂々の論陣《ろんじん》を張る人間の週刊誌が、春三月になると、東大や京大や有名私立大などへの高校別合格者数などを麗々《れいれい》しく掲載《けいさい》するのも理由《わけ》がわからぬ。受験地獄が日本の教育を歪《ゆが》めていると本気で考えているのなら、その受験地獄をさらに煽《あお》るような記事は一切載《いつさいの》せないのが筋道ではないか。
石油危機が襲来《しゆうらい》したとたん財界のおえら方が「節約は美徳」だのと説く。がその一方で自民党あたりへ財界が政治|献金《けんきん》の大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》い。するやつもするやつだが、黙って見過ごす国民も国民である。どうでも助からない連中ばかりだ……。
「……ドン松五郎君」
キングがおれの顔を覗《のぞ》き込《こ》みながら言った。
「わしが断耳と断尾といったとたん、きみは声を発しなくなったが、どうかしたのかね」
「こ、これはどうも」
おれはキングにペコリと頭をさげた。
「その恐《おそ》ろしい言葉を耳にしあれこれと心が乱れて、つまらぬことを考えておりました」
「わかるよ、きみの気持ちは……」
キングが頷《うなず》いた。
「どんな犬も美しくなりたいなどとは思っておらぬ。生まれたままの姿で、親から授かった貌姿形《かおすがたかたち》に満足なのに、人間は犬のためにと称して、わしたちの躰を傷つけ、ナイフで切り取る。おそろしいことさ」
「おそろしいことさ、ですむでしょうか」
おれの声は少々|怒気《どき》を帯びだした。
「断尾断耳を施《ほどこ》される犬がブルテリアの仔犬だというところに、わたしは更《さら》に一層深い悲劇を感じるのです」
「というと?」
「ブルテリア種は英国の原産です。十九世紀のはじめごろ、英国北部の鉱山町《こうざんまち》で、新しい闘犬用《とうけんよう》の犬をつくる目的で、ブルドッグ種とホワイト・テリア種をかけあわされて出来た犬です。ブルドッグの剛健《ごうけん》さと闘争性、テリアの利口さと敏捷性《びんしようせい》、この両者の長所を兼ね備えた犬が出来たら、闘犬試合に連戦し連勝するだろうと、だれかが考えたのです。いわばブルテリアは人間のなぐさみものとしてこの世に誕生《たんじよう》したというわけ……」
「うむ、英国人てのも動物愛護を口ぐせにしている割には生き物に残酷《ざんこく》なところがあるからねえ」
「その人間のなぐさみものとして生まれたブルテリアがまたまた断耳に断尾、これは放っておいちゃいけません。犬の名折れです」
「かといってわしらになにができるというのだ」
キングは気弱な口調で言い、地面にぺたりと坐《すわ》り込《こ》んだ。
「ドン松五郎くん、わしらには打つ手がないのだよ」
「打つ手がないではすまされませんよ」
とおれはキングに言った。
「なければ考えるのです。だいたいプードルのお銀はどこにいるのです? 彼女をまじえて三|匹《びき》で相談しようじゃありませんか」
「プードルのお銀は、そのブルテリアの傍《そば》についている」
キングは地面に蹲踞《そんきよ》したままの姿勢で答えた。
「彼女は、断耳はいやだ、断尾が怕《こわ》い、と怯《おび》えるブルテリアを慰《なぐさ》めているのだよ」
「ではそこへ行ってみましょう」
おれはキングの尻を鼻先で押した。キングは自信がなさそうに腰《こし》をあげた。
「行くことは行くが、わしには大した思案が出そうにはないがねえ……」
屋敷《やしき》を出て坂道を登ったところがおれの主家のある建売住宅|群《むら》である。おれは主家の台所に肉包みを置くと、キングを追いたてるようにして、葱畑《ねぎばたけ》を漕《こ》いで行った。
「ドン松五郎、お使いごくろうさま。はい、お駄賃《だちん》の|おかき《ヽヽヽ》よ!」
奥さんの声が背後から追いかけてきたが、おれは構わずに先を急いだ。おかきはおれの好物で、後髪《うしろがみ》というか後|尻尾《しつぽ》をひかれる思いだが、おかきよりはやはり同胞《どうほう》の身の上のほうが心配である。葱畑を漕ぎながら、おれはキングと以下の問答をした。
「しかし、ブルテリアとは、その農家、珍《めずら》しい犬種を飼《か》ったものですね」
「うむ。見栄《みえ》さ」
「見栄?」
「その農家は、おれの主人と同じように土地成金なのだよ。まず立派な家をたてた。車を買った。奥さんのためにダイヤを求めてやった。だがその程度のことは、このへんの土地成金ならみんなやっていることだから、たいして目立たぬ」
「そこで犬ですか?」
「そういうわけだ。ただし、その犬もただの犬ではいかん。このあたりにはドーベルマンやグレートデンが珍しくはない。となると飛び切り上等の珍種《ちんしゆ》でなくては飼う甲斐《かい》がない」
「ばかばかしいったらありゃしない。ドーベルマンやグレートデンは城の番兵のかわりになるほどの強力な犬ですぜ。それだけに広い土地に放し飼いにしておく必要がある。たかが東京郊外の土地成金にそれだけの広い土地がありますか?」
「わしに咬《か》みついてもらっても困るな」
「そりゃそうですが、しかし……」
「たしかに、繋《つな》がれたドーベルマンやグレートデンは欲求不満になる。イライラクヨクヨストレスノイローゼの権化《ごんげ》になる。あげくの果てに鎖《くさり》を引き千切って外へ飛び出し、学校帰りの小学生を襲《おそ》ったりしてだいぶ物議《ぶつぎ》をかもしたようだよ」
「ほんとうに人間という生き物は信じられないぐらい愚《おろ》かですねえ」
「うむ、同感だ。ところでブルテリアは手頃《てごろ》な大きさだ。それに珍しい。そこでその土地成金は、わざわざ英国からジェット便で一匹とりよせたのだよ」
「ああ、見栄、虚栄《きよえい》! この見栄や虚栄のためにどれほど多くの愚かなことがこの世に起こることだろう」
おれは思わず長嘆息《ちようたんそく》し、思わず一声長く吠《ほ》えた。するとかなり近くでプードルのお銀がおれの声に応《こた》えて、
「ここよ! ドン松五郎さん、ここよ」
と啼《な》くのが聞こえてきた。
耳を澄《すま》すと、プードルのお銀の声は葱畑に繋《つな》がって続く松の疎林《そりん》の中から聞こえてくるようである。
「その可哀《かわい》そうなブルテリアの飼われている家というのは、あの松林の中ですね」
と、おれはキングに訊《き》いた。キングはおれの方は見ずにすたすたのんのんと先を急ぎながら、首だけをひとつ縦に振《ふ》ってみせた。
葱の匂《にお》いが切れて、かわりに松の香《か》がしはじめ、松林の向こうに三階建てのビルの聳《そび》えるのが目に入ってきた。
「おや、ビルですね」
と、またおれはキングに訊いた。
「周囲は畑と松林なのだから、わたしは和風建築の方が似合うと思うんだけどなあ」
「そう思うのはきみだけじゃない。わしだってそう思うさ。それどころかあのビルの持ち主だって和風建築の方がよかった、と考えているにちがいないのだよ」
キングははじめて立ちどまってひと息入れた。
「だが対抗《たいこう》上、ビルの持ち主はああいう西洋風のコンクリートの巨大《きよだい》な箱《はこ》を建てざるを得なかったのだ」
「対抗上って、だれと張り合っているんです?」
「わしの飼い主である土地成金とだよ」
「そりゃまたどうして?」
「ビルの持ち主もわしの飼い主もむかしは同じ満州からの引《ひ》き揚《あ》げ者《しや》、そして同時にこの丘《おか》の上に入植し、同じように額《ひたい》で汗《あせ》して大根や葱坊主《ねぎぼうず》を丹精《たんせい》した仲なのさ。誰《だれ》に負けても辛抱《しんぼう》できるが、ただ二人ともおたがいにだけは負けたくないと思っているのだろう」
「二人ともよほど退屈《たいくつ》だったんだな」
「なぜそんなことがわかる?」
「だってフランスの哲学者のエミール・シャルティエ・アランがその幸福論の中で言っているではありませんか。『喧嘩《けんか》の因《もと》になるのは退屈だ。その証拠《しようこ》にいちばん喧嘩好きなのは仕事や心配の最も少ない人間にきまっている』と。戦争だって同じことです。なんとなればあらゆる職業のなかで軍人ぐらい退屈なものはありませんからね、とくに平時においては……」
キングは目を細めておれを見た。
「どこできみはそれだけの学問を積んだのだ?」
「なあに、種明かしすれば簡単なことなのです。わが主人の小説家先生はたいへんに独創《オリジナリテイー》に乏《とぼ》しい人で、エッセイや雑文の注文が舞《ま》い込《こ》むと、さっそく『世界名言全集』なんていう書物を開くんですよ。そしてその中から主題に嵌《はま》る名言を二、三|抜《ぬ》き出して、その名言を導入と展開としめくくりに使うんです。わたしはそういうとき仕事部屋の窓の下に坐《すわ》り、名言集を読む主人の声にじっと耳を傾《かたむ》けます。ですから学問なんてものじゃありません。ただの聞きかじりですよ」
「それにしてもたいしたものだ」
キングは唸《うな》るような声で言った。
「まったくきみにはいつも驚《おどろ》くことばかりだよ」
おれはキングの過分な褒《ほ》め言葉に赤くなり、先に立って松林を抜けた。抜けたところから一面の芝生《しばふ》になっているが、その芝生に前肢《まえあし》をかけたとき、ビルの中からごうがたんごうがたんという音が聞こえてきた。
「な、なんです、あの音は?」
思わず足をとめて訊くとキングが苦笑して、
「エレベーターだよ。わしの飼い主の屋敷《やしき》にもエレベーターが一基あるが、このビルのは二基だ」
と答えた。
「むろん、わしの飼い主と対抗して据《す》えつけたのだよ」
「いくら競争心のなせる業《わざ》とはいえ、こんな小さなビル、しかもたかが三階建てのビルにエレベーターが二基とは大袈裟《おおげさ》すぎますよ」
おれはキングに訊いた。
「ここの家の人間たちはどういうエレベーターの使い方をしているのです?」
「エレベーターの使い方だと?」
キングは笑い出した。
「誰もエレベーターなど使っておらんよ。ま、主人が三階の寝室《しんしつ》と一階の茶の間を昇り降りするときに動かすぐらいさ。それと奥さんが屋上に洗濯物《せんたくもの》を乾《かわか》すとき動かしているかな」
「へえん、まるで無駄《むだ》ですね」
「無駄というばかりではない」
キングの声はすこし心配そうになった。
「エレベーターはここの主人をいささか不幸にしたのだよ」
「と、いいますと?」
「エレベーターのおかげで足を使わなくなった主人は急に老《ふ》け込《こ》んだようだ。つまり躰《からだ》が弱って、よく病気をするようになったのさ」
「でも、キングさん、エレベーターがここの主人の躰を弱くしたというはなしを聞いているうちに、このあいだ主人のところへやってきた東北の農村出身の編集者が、農家の囲炉裏《いろり》の追放がけっきょく農業をだめにしてしまった、とぼやいていたのを思い出しましたよ」
「はてこれは妙《みよう》なことを聞くものだ。囲炉裏や|かまど《ヽヽヽ》の改善は農村からトラホームを駆逐《くちく》したんではなかったのかね? 農村の近代化、あれは決して悪いことではなかった、とわしは信じておるが……」
「囲炉裏はすぐれた暖房具《だんぼうぐ》だったのです、あの煙《けむり》が屋内を暖めていたのですよ。また、煙によって燻製《くんせい》にされ、それ故《ゆえ》に長持ちしていた藁葺《わらぶ》きや|カヤ《ヽヽ》葺きの屋根が囲炉裏がなくなると早く駄目《だめ》になるようになってしまった。つまりトラホームを追っ払《ぱら》うために新しい暖房具や新しい屋根が必要になったわけです。しかも屋根が|カヤ《ヽヽ》葺きでなくなればカヤ刈《か》り場がいらなくなる。カヤ刈り場がなくなれば、カヤと一緒《いつしよ》に刈り出されていた雑草も出なくなる。これは雑草肥料が化学肥料に変わることを意味します。新しい暖房具、新しい屋根(つまりは新しい家)、新しい肥料、みんな金がかかる。農民たちはそこで冷害にも強く病気にも強いが、ちょっと不味《まず》い「レイメイ」という稲種を捨てて「ササニシキ」などを作りはじめる。ササニシキは耐冷《たいれい》、耐病の点でレイメイに劣《おと》るが、美味《おい》しいから高く売れるのです。また農民たちはもっと金が欲《ほ》しいと出稼《でかせ》ぎに出かけるようになった……。こうして農村は静かに崩壊《ほうかい》しはじめたのです。都会の偽《にせ》近代主義者どもがトラホームを追放しようとして囲炉裏に目をつけたが、これが間違《まちが》いだった。トラホームは別の方法で治せばよかったのです」
「なんだか、風が吹《ふ》けば桶屋《おけや》がもうかる、と同じ論法のようだね」
キングは笑いながら言った。おれは厳粛《げんしゆく》な面持《おもも》ちになってキングにこう答えた。
「そうですとも! 自然と人間や生物とのつきあい方はいろいろこみ入っているんです。勢い風が吹けば桶屋が儲《もう》かるという論法にならざるを得ません」
キングとおれが芝生の上で人間世界の農業問題を論じているところへ、プードルのお銀がやってきた。
「なにをこんなところでぐずぐずしているの。あんたたち、あの可哀そうなブルテリア坊《ぼう》やを慰《なぐさ》めにきてくれたんじゃないの。なのに、こんなところでのんびり春風に吹かれながら、埒《らち》もない議論に夢中《むちゆう》になっているところをみると、ははーん、ブルテリア坊やのことなぞ、もうどうでもいいのね」
「すべての犬はわしの友だちだよ、お銀さん」
キングがお銀の舌鋒《ぜつぽう》を苦笑して躱《かわ》しながら言った。
「となると彼《か》のブルテリア君もわが朋友《ほうゆう》だ。朋友たる者が断耳と断尾の恐怖《きようふ》に怯《おび》えておる。これを冷々|黙過《もつか》するわけには行かんじゃないか。さあ、ブルテリア君の許《もと》へ案内したまえ」
機嫌《きげん》を直したお銀が先に立って、キングとおれをビルの裏側の犬舎に案内した。新品の犬舎にやっと眼《め》が開いたばかりというような感じの幼いブルテリアが一匹|繋《つな》がれている。ブルテリアはぶるぶる震《ふる》えながらべそをかいていた。
「君の名は、たしか長太郎《ちようたろう》君だったね」
キングがやさしくブルテリアに訊いた。
「はい。ぼく、長太郎と申します」
ブルテリアが答えた。
「ひゃあ、月並《つきな》みな名前ですねえ」
とおれは思わず叫《さけ》んだ。
「飼《か》い主《ぬし》の脳味噌《のうみそ》の中身の月並みさ平凡《へいぼん》さ、そして凡庸《ぼんよう》さが飼い犬の名前に如実《によじつ》に反映しているじゃありませんか!」
「長太郎君、その後のきみの主人の様子はどうかね」
キングがまた訊く。
「張り切っています。たったいま、ペット・ショップから、断耳断尾用のクリップやメスや縫い針や糸が届いたところです。それから全身|麻酔用《ますいよう》の薬と注射器も……」
「す、すると断耳断尾《だんじだんび》の大手術を、獣医《じゆうい》でもない、全く素人《しろうと》のここの主人がやるつもりなのかね?」
「はい」
「なんということだ」
キングは天を仰《あお》いで呪《のろ》うような口調で言った。
「せめて獣医に手術を頼《たの》むだろうと期待していたのに……」
「これは最近|流行《はやり》の風潮ですよ」
と、おれはキングの背中を軽く尻尾《しつぽ》で叩《たた》いた。
「わたしの主人の書棚にも犬の飼い方に関する書物が数冊あるんですが、いずれも断耳断尾のやり方を写真入りで詳《くわ》しく説明してあります。とはつまり、この書物を参考にしてあなたも自分の手で断耳断尾をなさったら、と奨《すす》めていることと同じですよ。わたしの知るかぎりでは、断耳断尾を奨めていない書物は、平岩米吉という人の『犬を飼う知恵』というやつだけでしたね」
「素人が生き物の躰を面白半分《おもしろはんぶん》に切り刻む、というのは、つまり命を粗末《そまつ》に扱《あつか》うということと同義ね」
プードルのお銀もさかんに舌打ちを交えながら尖《とん》がった口をさらに尖《とん》がらかした。
「人間世界にこのごろ捨て子や殺人が多くなったはずだわ」
そのとき表の庭で、
「大丈夫《だいじようぶ》だよ、パパに委《まか》せておけって」
という嗄声《しやがれごえ》がした。
「おれはな、若いころ、二、三カ月ほど植木屋に奉公していたことがあるんだよ。なに、植木を剪定《せんてい》するのも、犬の耳を切るのも同じことだ」
「……いまのが、ぼくの飼い主です」
ブルテリアの長太郎が情けなさそうに言った。
「植木の枝《えだ》とぼくの耳を一緒《いつしよ》にするなんてひどいと思います」
「たしかにひどい」
キングが相槌《あいづち》を打った。
「植木の枝に血は流れていないが、わしたち犬の耳には真ッ赤な血が流れている」
「つまり長太郎君の飼い主は植物と動物とをごっちゃにしているんですよ」
おれは胸のうちから吹《ふ》き上げてくる憤怒《ふんぬ》を鎮《しず》めるために裏庭をぐるぐる廻《まわ》りながら言った。
「つまり彼《かれ》は科学的ではないのです。もっといえばイモサバ三流ドジ間抜《まぬ》けです。だいたい、わたしは猫《ねこ》も杓子《しやくし》もパパとかママとか言うのが気に入りませんね。お父さんでいいじゃありませんか。お母さんの方が語感が優《やさ》しくて素敵《すてき》じゃありませんか。人間の世界では『女中さん』を『お手伝さん』、『小使さん』を『用務員さん』、『盲《めくら》千人目明き千人』を『目の不自由な人千人に目明き千人』などと言いかえるのが流行《はや》っているらしいですが、まことに馬鹿《ばか》げた風潮ではありませんか。名前や呼び方をいくら変えても実体は変わりません。つまり日本の人間は一億総唯名論主義者なんですねえ」
「こんなときに学問をひけらかそうだなんて、インテリ犬に共通の悪癖《あくへき》だわ」
プードルのお銀がおれの口を封《ふう》じにかかった。
「高尚《こうしよう》な理論を何百何千|並《なら》べたてたって長太郎坊やの危機は救えないわ。いま必要なのは理論より行動よ」
「行動、といわれてもとっさに思いつかないなあ」
と、おれが小首を傾《かし》げたとき、表の庭でまた人の声がした。
「とにかくよした方がいいわ」
今度の声は若い女のものである。
「あれはここの長女です。たしか大学の二年生だったと思います」
ブルテリアの長太郎君が、また情けなさそうな声で注釈を加えた。
「ふん、この国はどこを向いても大学生だらけじゃありませんか」
と、おれはキングに言った。
「これはつまり大学の大衆化現象ですよ。大学ばかりではない。ゴルフ、別荘《べつそう》、ヨット、海外旅行、この国ではなにもかも大衆化しつつある。その必要のない人がマスコミの号令一下……」
「もうよしてちょうだい!」
お銀がおれを睨《にら》んだ。
「それ以上、なにか理屈《りくつ》をこねたら、わたしあんたの咽喉笛《のどぶえ》に咬《か》みつくわよ。そんな暇《ひま》に……」
「行動だったっけね」
おれはそう言い置いて、すたこらさっさと表の庭へまわる。庭の隅《すみ》からビルの一階を窺《うかが》うと、アルミサッシの広い窓を弥生《やよい》の春に開け放って、五十男と若い娘がお茶を飲んでいるのが見えた。
「とにかく長太郎の断耳断尾には、あたし、断然反対だわ」
娘は父親である土地成金に言った。
「パパが長太郎を連れて猟《りよう》にでも行くというのなら別だけど、そんなつもりはないんでしょう?」
土地成金は黙《だま》ってピンセットやメスや鋏《はさみ》をガーゼで磨《みが》いていた。ときどき娘に向かってもの言いたげな眼をあげるが、すぐその眼を伏《ふ》せてしまう。おそらく土地成金は娘が可愛くてならず、それだけに彼女から直言されるのは苦手なのだろう。
「長太郎を猟に連れて行くつもりがないのなら、耳も尻尾もそのままにしておけばいいじゃない」
「しかし、わしは将来、犬の品評会に長太郎を出したいと思っているのだよ」
土地成金は断耳断尾道具をガーゼにくるんで傍《そば》に置き、セブンスターを啣《くわ》えてライターで火を点じた。春の陽《ひ》にライターが鈍《にぶ》く黄金色に輝《かがや》いた。おそらくあのライターは坪《つぼ》三十万の土地三坪分に相当したのではないかと、おれは思った。
「品評会に出品するには、ブルテリアの場合、断耳断尾のしていない犬は絶対入賞できない。いや入賞できないどころか、出品さえ拒否《きよひ》されるのだよ」
「じゃ品評会に出さなきゃいいでしょう」
おれとキングは娘のこの言葉を聞いてにっこりと顔を見合わせた。おれもキングも我が意を得たり、わからず屋ばかりの多い人間のなかにも時にはよきことを言う|わかった方《ヽヽヽヽヽ》がいらっしゃる、と嬉《うれ》しくなったのである。
「長太郎を品評会に出すのなんかおよしなさいよ」
「おまえにそういわれるとわしゃ弱いのだよ」
土地成金はセブンスターを挟《はさ》んだ右手で胡麻塩頭《ごましおあたま》を掻《か》いた。
「だがね、おまえ、犬の品評会をそう悪者|扱《あつか》いにするのはどうかと思うよ。犬の品評会や展覧会は、犬種の改良のためには、なくてはならない行事なのだからねえ」
「あたしはそうは思わない」
娘もセブンスターを一本、唇《くちびる》に啣えた。
「犬の品種を変えたりするのは神様の仕事よ。人間がすべき仕事じゃないわ」
然《しか》り! とおれは思わず心の中で叫んだ。品評会や展覧会での入賞は飼い主である人間の名誉《めいよ》になにがしかの|もの《ヽヽ》を裨益《ひえき》するだけで、犬にとってはすこしも有難くないむだ騒《さわ》ぎにしかすぎないのだ。
「どうしても品評会や展覧会に飼い犬を出品したければ、断耳断尾の必要のない犬種を飼えばいいじゃない。ある愛犬家がこう言っていたわよ。犬は叱《しか》らない、芸をさせない、展覧会に出さないの三無主義をモットーとすべきだ、って。パパは多分、坂下の家に対する競争心があるんでしょう。坂下の家には警察犬としてナンバーワンだったキングというシェパード犬がいる。あのキングに対抗《たいこう》し得る名犬を所有したい、パパはそう思っているんでしょう?」
「まあな」
土地成金は渋《しぶ》い顔をして頷《うなず》いた。
「坂下の家にだけはどんなことをしても負けられないのだ。なあ、おまえ、おまえの意見はいちいちもっともだと思うが、なんとかここは一番目をつむっていてくれ。パパのやりたいようにやらせておくれよ」
娘は煙草《たばこ》を胸いっぱい吸い込んでから、ふふふと笑った。ふふふに合わせて紫煙が三つの塊《かたまり》になって彼女の口から外に出る。
「条件|次第《しだい》ではブルテリアの長太郎の断耳と断尾、見て見ぬ振《ふ》りをしてもいいわよ」
「……条件次第だと?」
土地成金は驚《おどろ》いて娘を見た。おれとキングも呆然《ぼうぜん》として娘を眺《なが》めていた。それまでおれたち犬になりかわって長太郎の断耳断尾に猛然《もうぜん》と反対していてくれた娘が、急に父親側へ寝返《ねがえ》ったので、キングとおれは、ありゃりゃりゃとなってしまったのだ。
「そうよ。パパ、あたしの条件を呑《の》んでちょうだい。そしたら、長太郎を焼こうが煮《に》ようがフライにしようが、メスで刻もうが棒で叩こうがシャベルで庭に埋《う》めようが、一切《いつさい》勝手仕放題よ」
「条件というと、また金だろうな?」
「御明察《ごめいさつ》」
「いくら欲しいのだ?」
「三十万」
「三十万?」
土地成金は目を剥《む》いた。
「三十万は大金だぞ」
「でもないでしょ。土地を一|坪《つぼ》売れば三十万になるじゃない?」
「そう簡単に言っちゃいかん。税金だって高いのだ」
「そうかしら。サラリーマンや作家の税金に較《くら》べれば嘘《うそ》みたいに安いわよ」
「とにかく三十万を何に使うのだ?」
「海外旅行よ」
「またかい。おまえはアメリカにも行った、カナダにも行った、そしてヨーロッパにも行った。あとは行くところがあるまい」
「世界は広いわ。アメリカやヨーロッパのほかにも国はあるのよ。大学の始まるのは四月の中旬《ちゆうじゆん》、それまでにわたしちょっとオーストラリアに行ってきたいの」
「オーストラリアへなにしに行くのだ?」
「べつに目的はないの。でも、目的のない旅こそ最高最良の旅だと思うんだわァ」
土地成金は右手の煙草を灰皿《はいざら》の中に押しつぶし、そしてそのままの形でしばらく考え込んでいた。
「ひどい娘じゃありませんか!」
おれはキングに囁《ささや》いた。
「あの娘は、いってみれば、三十万円でブルテリアの長太郎君の断耳断尾権を父親に売っているようなものですぜ。だが、その耳や尻尾は長太郎君のものです。したがってその三十万円は、長太郎君に受け取る権利がある……」
「他人《ひと》の褌《ふんどし》で相撲《すもう》をとる、というのが、人間のいつものやり方さ」
キングは情けなさそうな声で言った。
「人間は地球上のあらゆる生物や植物、そして鉱物《こうぶつ》から|ピンはね《ヽヽヽヽ》をして生きているのだ。いまさら驚くにはあたるまい」
「……で、キングさん、あなたは土地成金氏がどうすると思います?」
「たぶん娘に三十万円やることになるさ」
「あんな小狡《こずる》い娘でも、やはり自分の娘となりゃ可愛いんでしょうかね」
「それもあるし、この土地成金氏はわしの主人に対する競争心を捨て切れないのだよ。人間、とくに日本人は競争心なしでは生きられぬ、他人との競争、それが日本人の巨大《きよだい》なエネルギー源なのだ」
キングがお得意の「人間とは、とくに日本人とは」論を一席ぶちはじめたとき、土地成金氏は、キングの睨《にら》んだとおりに娘にこう言った。
「オーストラリアへでもどこへでも行くがいい。若いうちに見聞をひろめておくのは悪いことじゃない」
「ありがとう」
と、娘は立ち上がった。
「ブルテリアの長太郎はパパの好きにしていいわよ」
「考えてみれば、きみも不幸な犬だねえ」
裏手の犬舎に戻《もど》ったキングが、ブルテリアの長太郎に言った。
「きみの弁護人を勤めてくれていたあの娘は三十万円で簡単に父親側に寝返ってしまったよ」
長太郎はひと声うわぁんと弱々しく、そして悲しげに啼《な》いて、地面にべったりと長く伸《の》びてしまった。彼の双眸《そうぼう》からはぽろぽろと涙《なみだ》の粒《つぶ》がこぼれ落ちる。長太郎は断耳断尾が逃《のが》れられぬ運命であると知り、その運命を必死の思いで受け入れようとしているのである。可哀《かわい》そうだが、キングにもプードルのお銀にも、そしてこのおれにも慰《なぐさ》めようがない。それに下手《へた》に慰めてはかえって長太郎の悲しみや恐怖心《きようふしん》を助長してしまうだろう。
しばらくのあいだ、犬舎を囲んだ三匹の犬は一言も発することができなかった。犬舎を覆《おお》う空気は重苦しくなるばかりである。それに我慢《がまん》ができなくなったおれは、落ちていた棒切れを啣えて、地面に大きく「生死」と描《か》いた。
「長太郎君、人間の愛好する禅《ぜん》に『生死|透脱《とうだつ》』という言葉がある。生死の二字を間断なく、強く睨んで、永く生死を超脱《ちようだつ》する工夫《くふう》を純一にせよ、という教えなのだ。これは禅の正門|肝要《かんよう》であり、得悟力用の活面目だよ。やさしく言えばこれこそ、禅の要諦《ようたい》なんだ。さあ、この生死の二文字を睨んで大悟徹底《だいごてつてい》したまえ。そうすれば、断耳断尾なぞ松の枝を鳴らす風ほどにも感じなくなると思うよ」
「冗談《じようだん》もほどほどにしてくださいっ!」
長太郎は大地におれの大書した「生死」の二字に後肢《あとあし》で砂をかけた。
「人間に痛い目に逢《あ》おうとしているぼくが、なぜ人間の愛好する禅などというもので救われるのです? 敵の教えなどで救われてやるものですか!」
「長太郎坊やの言うとおりだわ」
プードルのお銀もおれに非難の眼差《まなざ》しを向けた。
「それに、禅にほんとうに生死透脱の力があるのなら、人間はもっと利口になっていていいはずだわ。あんなのはハッタリよ」
お銀の言葉にキングも静かに頷いた。つまり、長太郎もお銀もキングも禅を軽蔑《けいべつ》しているのである。
「人間はたしかに下らん生物です」
おれは三|匹《びき》の犬に向かって吠《ほ》えるように言った。
「しかし、その下らぬ人間にも取り得はあります。ビスケットと禅の発明がその取り得です。このふたつは掛《か》け値《ね》なしに素晴《すば》らしい」
「たしかにビスケットは素晴らしい食物だ。しかし禅については異論があるね。あんなもののどこが素晴らしいのだ?」
「禅には不可能を可能にする力があるのです。当意即妙《とういそくみよう》に――本来の仏教の用語では当|位《ヽ》即妙ですが――とらわれず、こだわらず、その場その場を自由自在に切り抜ける、そういう力が禅にはあるのではないでしょうか。たとえばある皮肉な男が絵をよくする禅僧《ぜんそう》に『あなたがどんな名画を描く巨匠《きよしよう》でも、物の匂《にお》いは描けないだろう』と言ったことがある。するとその禅僧はにやりと笑って、すぐさま馬脚を描き、それに一羽の蝶《ちよう》をあしらい、その上に一句、
花を踏《ふ》んで馬蹄香《ばていかぐわ》し
と賛を添《そ》えたそうです。どうです、これでちゃんと絵に香《かおり》が出ているではありませんか。また、博多《はかた》に仙崖《せんがい》という禅坊主《ぜんぼうず》がいましたが、この仙崖|和尚《おしよう》にある人が『和尚さんは絵がお上手だが、いかな和尚さんも、太鼓《たいこ》の音を絵にすることはお出来になりますまい』と言ったことがあります。ところが仙崖和尚は『ふん、出来ぬことがあるものか。どうだ、この絵の音を聞け』と、ひとりの仲間《ちゆうげん》が三間槍《さんげんやり》を空《そら》に向かって突《つ》き上げている素画《そが》をなぐり描きして示したんですね。『おやおや。これが太鼓の音ですか』とその人がからかい半分に言うと、仙崖和尚、からからと大笑して、『この愚《おろ》か者《もの》め。絵だけでは太鼓の音が聞こえぬとみえる。それならばすこし注釈を加えてやろう』と、画上にさらさらと一筆かき加えた……」
「なんと書き加えたのかね?」
とキングが訊《き》いた。
「わしにも太鼓の音が一向《いつこう》に聞こえないが……」
「テンツク、テンツク、テンツクと書き加えたのです。槍の穂先《ほさき》が天を突いている。だから天突く、テンツクだ。すなわち太鼓の音である、という洒落《しやれ》ですね」
「ふん、他愛のない語路《ごろ》合わせだね」
「たとえ語路合わせでも、太鼓の音が聞こえるような気がしてくるじゃありませんか。つまり、絵で音を現すという不可能事がまがりなりにも可能になったのです」
「だからなんだっていうの」
と、プードルのお銀が言った。
「禅のはなしをいくら並べたてたって、この長太郎君の危機はちっとも解消しないわよ。そんなに禅の肩《かた》を持つのなら、禅のその当意即妙とやらの助けをかりて、長太郎君が断耳断尾をしないで済む方策を立てたらどうなの?」
そうねじ込んで来るだろうとじつは思っていたところだった。そのときのために、禅家の逸話《いつわ》を並べ立てながら、おれはひとつ思案をつけていたことがあったので、さっそく、
「長太郎君は此処《ここ》を逃《に》げ出すべきですね」
と進言した。
「断耳断尾を避《さ》けるにはこの一手しかありませんよ」
「それこそ不可能よ」
お銀が猫《ねこ》がよくやるように総毛を逆立てた。お銀はだいぶ腹を立てているようである。
「長太郎君の首は太い鎖《くさり》で犬舎に繋《つな》がれているわ。この鎖をどうやって断ち切るのよ」
「鎖を切ろう、ということにこだわっていてはこの問題は解けませんよ。犬舎ごと逃げるんです」
「犬舎ごと!」
お銀はむろんのこと、キングも長太郎も仰天《ぎようてん》したように目を剥《む》いた。
「そう、犬舎ごとです。犬舎ごと逃げだせば、鎖がどんなに太く強くても問題にはなりません」
「だが、新しい問題が出て来たようだ」
とキングが言った。
「犬舎は重い。長太郎君の力ぐらいではびくともせんよ」
「わたしたちが手伝うんですよ。長太郎君を入れてここには四匹の犬がいます。四匹がかりで運べばなんとかなりますよ」
「するとぼくは一生、この犬舎から逃れられないわけですか」
と長太郎がいまにも泣きそうな声をあげた。
「ぼくは一生、この犬舎を引きずって生きなければならないんですか?」
「甘《あま》ったれたことをいっちゃいけないよ」
おれはブルテリアの長太郎をたしなめた。
「断耳断尾をしないですまそうというのだ。家を引きずって生きるぐらい辛抱《しんぼう》しなくちゃいけないぜ」
「それにしても、犬舎は大きくて重いや」
長太郎はおれに向かって鼻を鳴らした。
「こんなものを引きずって生きて行かなくてはならないなんて、ぼくの一生も先が見えたって感じだな。あのね、ドン松五郎さん、ぼくの望みは、ちゃんとした成犬になったら、夏のある日、そよ風のさわやかに吹《ふ》き抜《ぬ》ける草原をどこまでも走ってみよう、ということでした。でも犬舎を引きずって生きて行かなければならないぼくには、これはもう夢《ゆめ》ですね」
「きみはなにも知らないんだねえ」
おれは長太郎の背中を尻尾《しつぽ》で軽く叩《たた》いてやった。
「いまのこの日本国に、どこまでもどこまでも走って行けて、その上そよ風の吹き抜ける草原なんてあるものか。日本国中、どこもかしこも造成地と禿山《はげやま》と自動車高速道ばかり、そんな夢はかないっこないよ」
「ぼくの夢は夢としても、実際問題として、こんなものを背負って生きて行けるでしょうか」
「生きて行かなくてはいけないのだ。現に、きみよりも重い荷物を背負って生きている連中はざらにいるんだぜ。蝸牛《かたつむり》がそうだ。海の貝も然り。そして、人間属なぞもきみの仲間だよ」
「人間属がぼくと同じ?」
「うん。連中の背骨はそれぞれ背負っている家の重みでいまにも折れそうなのさ」
「ぼくにはそうは見えません」
「肉眼では無理だが、心眼をもってすればそれがはっきりと見えるはずだ。人間属は、たとえば中年なら住宅ローンなどという重い荷物を背負ってふうふういいながら生きている。青年なら『いつか小さいながらも楽しい我が家を持たなくてはならぬ』というこれまた重い使命を担《にな》いながら生きている。それに較《くら》べれば犬舎の一|軒《けん》や二軒ぐらいなんだというのだ。死んだつもりになってかつげば案外、犬舎なんぞ軽いものだろう」
「ちえっ、他犬《ひと》のことだと思ってずいぶん気楽なことを言ってくれるんだなあ」
とブルテリアの長太郎は口先を尖《とん》がらかしたが、それでも前よりはだいぶ顔色がよくなっている。おれの話をなるほどと思い、一生、犬舎を引きずって暮《く》らす覚悟《かくご》がきまったのだろう。
「ドン松五郎君、やはりきみは偉大《いだい》な犬だった」
シェパード犬のキングが感動して言った。
「なにしろきみはたったいま鎖を超《こ》える思想を明らかにしたのだからねえ。犬と鎖、この、犬にとっては呪《のろ》われた関係をいまきみは断ち切ったのだ。犬舎ごと逃げだす、おお、なんという簡単で、しかも偉大な逃亡法《とうぼうほう》であろうか!」
「キングさん、そんな大袈裟《おおげさ》に褒《ほ》めていただくと照《て》れ臭《くさ》くて身体中がかゆくなってしまいます。それにまだすべては解決したわけじゃありません。たとえば長太郎君は野良犬《のらいぬ》になるわけですが、犬舎を引きずっていれば餌《えさ》を探して歩く行動半径が小さくなります。ですから餌の確保には苦労することになるでしょう。……そういったことはこれから解決しなくてはいけません。まだまだ問題は山積していますよ」
「とにかく、きみは犬を鎖から解き放ったのだ!」
キングはここで急に声を低くした。
「で、決行はいつかね?」
「決行は今夜です」
おれはキングに言った。
「長太郎君の断耳断尾は明日行われることになっているのですから、逃げるのは今日中でなければなりません」
「たしかにその通りだけど、逃げた後はどうなるのかしらね」
プードルのお銀がおれに訊いた。
「犬舎を引きずったまま長太郎君はどこに住み、どうやって三度々々の餌を手に入れるの?」
「それについてはキングさんの力をかりる他《ほか》はないと思うな。キングさんの飼い主の邸内《ていない》のどこかに住まわせてもらい、キングさんが飼い主から貰《もら》う餌のお裾分《すそわ》けにあずかる、これが今のところ最も現実性のある方法でしょうね」
「お銀さんもわしの居候《いそうろう》、それなのにまたもう一匹、居候が殖《ふ》えるのかね」
キングは深い溜息《ためいき》をひとつ吐《つ》いた。
「これは大事業だ」
「同感だわ」
お銀がキングに向かって尻尾を振った。
「だいたい、一生、犬舎を引きずって暮らすなんて長太郎君にとって仕合わせなことかしら。よく考えてみると断耳断尾の苦痛はいっときのもの。いっときの苦痛を耐《た》え忍《しの》んで、一生を蝶よ花よ品評会よ犬の美容院よとちやほやされて暮らすほうが仕合わせなのではないかしら」
長太郎は黙《だま》って地面を睨んでいた。右にせんか左にせんか、考えあぐねている風である。
「ここで弱腰《よわごし》になるなんて法はありませんよ」
おれは口惜《くや》しくなって後肢《あとあし》で地面を引《ひ》っ掻《か》いた。
「たとえその結果がどのような悲劇で終わろうと、犬は不自由より自由であることの方を選ぶべきなのじゃありませんか。自由、これは近代犬の特徴《とくちよう》である個性の確立にとって必須《ひつす》の条件です。個性を確立した犬が一匹でも余計に殖えることによってわたしたちの犬の社会は一歩前進するのです」
「理屈《りくつ》はドン松五郎君の言うとおりだよ。しかし毎食々々|餌《えさ》をたかられるわしの身にもなってごらん。近代犬の個性の確立なぞ犬に喰《く》われてしまえ! と思うにちがいないから」
「そのことでしたら、わたしのビスケットに手をつけてくださって結構です。ほら、キングさんの家の縁《えん》の下にわたしが保存しているビスケットがあったでしょう。あれを召し上がってください」
おれは喋《しやべ》りながら紀貫之《きのつらゆき》の、
「さをさせど そこひもしらぬ わたつみの ふかきこころを 君にみるかな」
という歌を思い出していた。まったくこのおれこそこの歌を捧《ささ》げられるのにもっともふさわしい犬ではないかしら。他犬《ひと》のために尽《つ》くす海底のように深い心、おれはどうやらそれを持っているらしい。キングもこのおれの私なき真心《まごころ》に打たれたらしく、
「わしはすこし自分の都合ばかりを考えすぎていたようだ」
と言った。
「これまで吐《は》いた弱音はすべて撤回《てつかい》しよう。それでは今夜の決行時までそれぞれたっぷりと休養をとって体調を整えておくことにしよう」
キングは裏庭から去った。おそらく己《おの》が犬舎に戻《もど》ってひと寝入りするつもりだろう。
「あたしもキングと枕《まくら》を並べてお昼寝《ひるね》しようっと」
お銀も立ち上がった。
「長太郎君、また今夜|逢《あ》おうね」
「ドン松五郎さん、この御恩はぼく一生忘れません」
キングやお銀の後を追って去ろうとしていたおれに長太郎が言った。
「これからはドン松五郎さんを父と敬い母と慕い兄と畏《おそ》れ姉と親しみつつ生きて行くつもりですよ」
「かたいことは言いっこなしだよ」
とおれは照れながら前肢で頭を掻いた。
「それにおれをあんまり買い被《かぶ》ってくれるな。おれだってまだ駆《か》け出しの三下奴《さんしたやつこ》なのだから」
「でも、ドン松五郎さんの学識は人間以上に深いと聞いておりますよ」
「学識や学問ぐらいあてにならないものはない。おれはいま禅《ぜん》に凝《こ》っているのだがね、禅の世界に六祖大師《ろくそだいし》という偉《えら》い僧《そう》がいる。その六祖大師の門下に慧忠和尚《けいちゆうおしよう》という傑物《けつぶつ》がいた。これも相当に偉かったそうだ」
「でもドン松五郎さんほどじゃないでしょう?」
「いや、おれより数等上だ。この慧忠和尚があるとき、唐の王、粛宗《しゆくそう》の呼び出しを受けた。なにごとならんと、宮廷《きゆうてい》に出かけてみると粛宗|曰《いわ》く『じつはいま太白山人という学者がわしの許《もと》に召《め》し抱《かか》えられたい、と申して参っておる。慧忠国師よ、その方《ほう》はかの太白山人の学問がどれほどのものか試みてみよ』……」
「つまり入社試験の面接役を仰《おお》せつかったわけですね?」
「そういうことだ。慧忠和尚はさっそく太白山人の前に出て、杖《つえ》で大地に『一』という字を書き、山人に尋《たず》ねた。『これをどう読めばいいと思うかね?』山人はむかっとした顔付きになり『それは一と読む。そんなことは赤《あか》ん坊《ぼう》でも知っておる。どうせ物を訊《き》くならもっと難《むずか》しいことを試みてほしい』と答えた」
「ぼくはその太白山人に味方しますね。大地の上に横に棒を一本、だれが読んでも『一』だもの」
「ところが違《ちが》うのさ」
と、おれも慧忠和尚の故事《こじ》にならって、長太郎の前の地面に前肢で横棒を一本引いた。
「いいかい、土の上に一だよ。土の上に一なら『王』とも読めるはずだ。これが雪の上に一なら『百』とも読める」
「雪の上に一で百? どうしてです?」
「雪は白い。すなわち『白』の上に『一』は『百』だろう?」
「なるほど。しかし屁理屈《へりくつ》じみてますね」
「屁理屈だろうがなんだろうが、そう読めるのだから仕方がない。それにいやしくも学者ならばすべての可能性を勘定《かんじよう》に入れておかねばならないのだ。そこで慧忠和尚は粛宗にこう申し上げた。『この太白山人、字を問うに字を識《し》りません。彼は学者ではない、ただのぼんやり男でございます』この論法で行けば、このわたしなぞまだまだ修業が足りない。いくらきみにおだてられようとも、学問があるとは思えないのさ」
「でも……」
「それにこの慧忠和尚の逸話の最も大事なポイントは、学問そのものが不確かなものだというところにあるんだ。同じ『一』の字でも『土』の上なら『王』、『雪』の上なら『百』と、書く場所によって全く意味がちがってしまう。言い方をかえれば、同じ学問でも使い方によっては有益な道具にもなれば、人殺しの凶器《きようき》にもなる。そんな七面倒《しちめんどう》なものに、こっちはあんまり興味はないね」
と言い残しておれはとっとこわが飼《か》い主《ぬし》の家へ帰ってきてしまったが、長太郎はおれの背中を長い間見送っていたようだ。こういう故事を知っていること自体が、彼には愕《おどろ》きだったのだろう。
(長太郎救出作戦はおそらく深更《しんこう》にまで及《およ》ぶにちがいない。それに備えてすこし寝だめをしておこう)
そう考えて、おれは犬小屋にもぐり込《こ》み、躰《からだ》を横たえた。しばらくうつらうつらしていると、どこかでちゃりんという音がした。おれたち犬の聴覚《ちようかく》は嗅覚《きゆうかく》同様に鋭《するど》い。おれはたちまちこの音のために夢路《ゆめじ》から引き戻されてしまった。ちゃりんという音は四、五秒おきに聞こえてくるようである。
(はて、なんの音だろう?)
気にしているうちに眠気《ねむけ》よりも好奇心《こうきしん》の方が強くなって来て、おれはその奇妙《きみよう》な音の発生源を求めて門を出た。
ちゃりん!
音は四、五|軒先《けんさき》の家の庭から聞こえているようである。足音を忍《しの》ばせて近づき、半開《はんびら》きの潜《くぐ》り戸《ど》の隙間《すきま》からそっと塀《へい》の中を覗《のぞ》き込むと、平吉がスプーンを啣《くわ》えては上方へ抛《ほう》りあげている。ちゃりんというのは、そのスプーンが庭の花壇《かだん》を縁取《ふちど》っている煉瓦《れんが》に当たる音だった。
(そうだ、平吉も誘《さそ》うことにしよう)
おれはそう思いついて潜り戸を鼻で押した。
(長太郎救出作戦に助《すけ》っ人《と》が欲しいと思っていたところだ。ひとつ平吉をおだてて乗っけてやろう)
平吉はおれが見ているのにも気がつかぬ風で、スプーン投げを繰《く》り返している。それにしてもいい年をしてスプーン投げに興じるとは馬鹿《ばか》な犬だ。
「平吉さん、ご清遊を妨《さまた》げて申しわけありませんが、ちょいとあなたのお力をお借りしたいと思って参上いたしました」
「力なんて貸せないね」
平吉はにべもしゃしゃりもない。
「あたしゃ目下、スプーン投げで忙《いそが》しいのだ」
「ほほう!」
おれは感心の体《てい》を装《よそお》って大声を発した。
「スプーン投げとはまたおもしろいお遊びをご発明になったもので」
「お遊びだと?」
平吉ははじめておれを屹《きつ》となって睨《にら》んだ。
「これはお遊びなんかじゃないぜ」
「お遊びでないとすると、運動かなんかですか?」
遊びも運動も実体は同じようなものだが、おれは平吉の顔を立ててそう訊《き》いた。
「運動でもない」
平吉はえらそうに首を伸《の》ばす。人間なら後方に反《そ》り返《かえ》るところである。
「強《し》いて言えば修業だよ。もひとつ言えば、これは科学の実験だわさ」
フランクリンは凧《たこ》をあげて稲妻《いなずま》と電気とが同一であることを証拠立《しようこだ》てた。ライト兄弟は鳥の真似《まね》をして飛行機を発明した。凧をあげ、鳥を模倣《もほう》する、これはみな他人にはただの遊びのように見えたであろうから、おれは遊びと科学とが決して無縁《むえん》なものでないことを知っている。だが平吉はスプーンを投げていったい何を発明し、何を発見しようというのだろうか。
「ドン松五郎、おめえさんはこのあたりで一番の学者犬だという評判だが、あたしがスプーンを投げているのを見てもなにも閃《ひら》めかないようじゃたいしたことはねえな」
と言っておいて平吉はまたスプーンを啣えて上方に投げあげた。スプーンが口を離《はな》れた瞬間《しゆんかん》に、彼は小声で、
「曲がれ!」
と言ったようである。
スプーンを宙に投げあげて「曲がれ!」と掛《か》け声《ごえ》をかけているとなると答えはひとつしかない。
「平吉さん、あなたはまさかいま流行の超能力《ちようのうりよく》の開発などをなさろうというおつもりじゃないでしょうね」
おれが訊くと平吉は憤然《ふんぜん》たる面持《おもも》ちになって、
「まさかとはなんだ」
と言った。
「まさかという言葉を使うところを見ると、おまえは超能力を信じてはいないのだな。また、たとえ信じていても、あたしなどにゃ念力でスプーンを曲げることなど出来っこないと思っているんだな?」
おれは思わず笑い出した。なかなか笑いがやまないので、おれは庭を転げまわった。
「や、やい、貴様、なにがおかしいのだ」
平吉が低く構えて喧嘩腰《けんかごし》になった。
「待ってくださいよ、平吉さん」
おれは右の前肢《まえあし》をあげて平吉を制した。
「わたしははっきり言って超能力なんぞを信じておりません。ユダヤ人のユリ・ゲラー氏も、川崎の小学五年生関口|某《ぼう》君もテレビで見ましたが、あんなものはインチキですよ。それを人間ばかりか犬のあなたまで信じているのでおかしくなったんです」
「非科学的な犬め! 貴様は四次元の世界を認めないと言うのだな?」
「四次元の世界は信じます。しかし、超能力者などは信じません。そんなものはSF小説だけで沢山《たくさん》ですよ」
「おれは念力《ねんりき》を得て、超能力を持つ犬となり、テレビに出演しようと思っているのだ」
平吉は真面目《まじめ》な顔で言った。
「人間がスプーンを曲げてもあの騒《さわ》ぎだ、もしも犬のこのあたしがそれに成功したら、これはもう凄《すご》いことになる。おそらく宇宙犬以上にもて囃《はや》されることになるだろう。そうしたらこれは英雄《えいゆう》だ。金も稼《かせ》げる。金が稼げれば苦境のご主人を救うことも出来る」
「苦境のご主人?」
「うむ。わがご主人は知ってのとおり土建業者だが、例の石油危機以来、どうも仕事が思わしく運ばんのさ」
「それは当然でしょう」
「なぜ当然だ?」
「日本国の宰相《さいしよう》が土建業者の出身でしょう。あのお方が宰相に就任されたころ、土建業者の景気はたいへんによかった。これは宰相が土建業者的発想で政治を行うわけですから、土建業者の仕事がうまく行くのは当たり前です。だが、彼の宰相の人気は通貨不安や石油危機でがた落ちです。宰相自身も顔面神経痛にかかったりして散々のていたらく。つまり親亀《おやがめ》がずっこけつつあるわけで、その親亀の背の上の子亀孫亀がずっこけるのも自明の理でしょうが。土建業者はこれまでさんざん甘《あま》い汁《しる》を吸ったのですから、没落しようがどうしようが放っておきなさい。なにもあなたがテレビの見世物になりに出ることはありません」
「……貴様は超能力者を本気で信じないのかい?」
「ええ」
おれは断固たる口調で言った。
「たとえ、彼等《かれら》が、真実、念力でスプーンを曲げても、目の前でそれを見せられても、わたしは信じたくありませんね」
「な、なぜだい?」
「わたしの主義だからです。もっとべつに言えば超能力者を信じることは、ファシズムを招き寄せることになるだろうからです。わたしはファシズムは嫌《きら》いでしてね」
「ファシズムと超能力者といったいどういう関係があるんだ?」
平吉は団栗眼《どんぐりまなこ》をぱちくりさせながらおれに訊いてきた。
「あたしにゃまるでちんぷんかんぷんだがね」
「ファシズムと超能力者の輩出《はいしゆつ》との関係を解くには、まずファシズムとはなにかを定義する必要がありますね」
「ふん、勝手に定義でもなんでもしやがれ」
「わたしの理解するところによればファシズムとは、資本主義の危機に乗じて、不安定の責任を、議会あるいは政党政治に押しつけ、強力な指導者を押し立てて、対外|侵略《しんりやく》に社会不安のハケグチを求める政治形態です。そう言い切っていいと思います」
「それがどうした」
「右の定義で大切なところは、強力な指導者を押し立てて、という個所です。強力な指導者とはつまり独裁者のことで、これはお月様のようにただぬうっと現れ出るわけではありません。そのような強力な指導者の出現を国民が熱心に待ち望んでいるという状況《じようきよう》、素地、下地がなくてはならないのです。生活に疲《つか》れ果てた人々がそういう人物の出現を信じようと待ち構えている、もっと端的《たんてき》に言えば国民はなんでもいいから絶対的な存在を信じたがっている、これがファシズムの温床《おんしよう》です」
「それで?」
「超能力者が人々に簡単に信じられてしまうというのは、この温床がすでに用意されているということではないでしょうか。超能力者の次に登場するのはおそらく『強力な指導者=独裁者』ではないか。日本人はこの数年、社会心理的にイライラした生活を強《し》いられ、疲れてきている。そのせいで、人々は超能力者をごくあっさりと信じたように|政治的な超能力者《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》として彼《ヽ》をもたやすく信じてしまうのではないか。それをわたしは憂《うれ》えるのです。したがって、独裁者の登場を阻止《そし》するためにはまず超能力者を信じてならぬ、そういうものを簡単に信じ込む習性を捨てなければならない、と思うんです」
平吉はわざとらしい大きな欠伸《あくび》をひとつした。
「おまえの話はどうも七面倒《しちめんど》くさくていけないね。それに人間どもがなにを信じようとそれは人間の勝手だろうぜ。人間の社会が民主社会だろうとファシズム社会だろうと、おれたち犬とどういう関係がある?」
「犬が仕合わせになるためにはまず人間が仕合わせでなければならない、これがわたしにとってはこの世で最大の原理なんですよ。ファシズムには戦争がつきものです。戦時下の人間は果たして仕合わせでしょうか。決して仕合わせではないはずです。となるとおそらく犬も不幸になるでしょう。わたしにはそれが恐《おそ》ろしいのです」
「なんとまあ大袈裟《おおげさ》な野郎《やろう》だ」
平吉は舌打ちをした。
「それに、超能力を信じないとは、頭のお固いお犬様だ。まったく呆《あき》れるぜ。おまえは一八三九年に英国学士院会員のアルフレッド・スミィという男が『電気は科学的な玩具《おもちや》としてなら永久に残るだろう。しかし実用にはならないこともまた確かだ』と宣言したという事実を知っているのか。この男には電気の測り知れない可能性がわからなかったのさ。また、一九三二年に核分裂《かくぶんれつ》に成功したジョン・コックロフト卿《きよう》は『原子力はとうてい実用にはならぬだろう』と見得《みえ》を切っている。この人にも原子力の効用がじつはよくわかっていなかった。この人たちとおまえはよく似てらぁね」
平吉はいつの間に勉学したのか、意外な博識ぶりを発揮《はつき》して、おれを問いつめてきた。
「前にも言いましたけれども、わたしは超能力者の存在の可能性を全く否定しているわけではありませんよ」
おれは平吉に言った。
「ただ、現在《いま》大流行の超能力者たちがスプーンを曲げるだけしか能がないのが淋《さび》しいのです。平吉さんは十九世紀の英国にダンテ・ガブリエル・ロセッティという画家がいたことをご存知《ぞんじ》ですか?」
平吉は首を横に振《ふ》った。
「ロセッティはエリザベス・シダルという少女をモデルにしたいくつかの絵で有名です。現にそのうちの一枚が王立美術院に陳列《ちんれつ》されていますがね、このロセッティの描《えが》いたエリザベス・シダルの肖像画《しようぞうが》に不思議な因縁《いんねん》ばなしがあるのです」
「ほほう……」
平吉は膝《ひざ》を乗り出した。
「それはいったいどういうはなしだね?」
「ロセッティはエリザベスの絵を描いているうちに、やがてこの少女に恋《こい》をしてしまったのです」
「よくある話じゃないか。因縁ばなしでもなんでもありゃしないぜ」
「そこでロセッティはエリザベスと結婚《けつこん》しました。二人は熱烈《ねつれつ》に愛し合った。ロセッティは何枚もエリザベスの絵を描きました。と、あるとき、エリザベスが薬を誤って飲んで死んでしまった」
「ご愁傷様《しゆうしようさま》なこった」
「そこでロセッティは傷心を癒《いや》そうと思いイタリア旅行を企《くわだ》てました。が、ボローニャの美術館を訪れ、ある絵の前に立ったとき、あっと叫《さけ》んでしまった」
「ど、どうしたのだ?」
「『セント・アグネス像』と題したその絵のモデルが死んだエリザベスと瓜《うり》ふたつだったのです」
「なんだ、他人の空似《そらに》か」
「しかも、その『セント・アグネス像』を描いたアンジオレリという十五世紀の画家の自画像もその近くに展示されていたのですが、このアンジオレリがロセッティと生き写しだったのです」
「す、すると、十五世紀の画家のアンジオレリがロセッティという十九世紀の画家に生まれ変わり、十五世紀のセント・アグネスなる娘《むすめ》が十九世紀にエリザベス・シダルとなって復活したというのか」
「その通りです。しかも、十五世紀の画家とモデルは十九世紀には結ばれている。つまり十五世紀の画家とモデルはもう一度生まれ変わって愛を完成したわけですね」
さすがに平吉は呆然《ぼうぜん》として声も出ない。
「これは超能力ではありませんが、とにかく現在の科学で謎《なぞ》ときができないということでは共通しています。わたしはこういう話なら信じます。複雑|怪奇《かいき》でかつロマンチックで、そしてまたいかにも人間|臭《くさ》い話だからです。しかし、スプーンを曲げるだけが能である香具師《ヽヽヽ》たちは信じられませんね。こっちが惨《みじ》めになってしまいますから」
平吉はなにごとか言おうとして口を開いたが、うううという意味|不明瞭《ふめいりよう》な唸《うな》り声《ごえ》にしかならなかった。
「念力でスプーンを曲げるなんて愚《おろ》かなことは人間の香具師《やし》たちに委《まか》せて、今夜十時に坂下のキングさんのところへ来てください。あなたの力を借りたいことがあるのです。これだけははっきりと言っておきますが、今夜、わたしたちがやることはスプーンを曲げるよりずっと有益な仕事になるはずですよ」
まだ呆然としている平吉にこう言い残して、おれは自分の犬小屋へ戻《もど》り、しばらく眠《ねむ》った。
柴犬《しばいぬ》の平吉と別れてひと寝入りし、夕景に目を覚《さ》まして飯を喰《く》いまた眠った。そのうちに頭の上で、
「よく眠る犬だな。こいつはとんだ怠《なま》け者《もの》だぞ」
という主人の声がしたので、おれは目を覚ました。上目使《うわめづか》いに周辺の様子を窺《うかが》うと、主人はもちろん、奥《おく》さんに昭子君に和子君の主人一家四人が、犬舎の前に立っていた。むろん春の陽《ひ》はとうのむかしに西山に沈《しず》み、空には朧《おぼろ》の月がかかっている。
「怠けて寝ているのかしら」
奥さんが首を傾《かし》げた。
「ひょっとしたら躰《からだ》の具合でもわるいんじゃないのかしら。ドン松五郎がこんなに寝ていたのははじめてよ」
「わたしも病気だと思う」
次女の和子君がおれの首の下をやさしく撫《な》ではじめた。おれたち犬の躰は柔軟《じゆうなん》であるから、たとえば自分の躰のどこが痒《かゆ》くても、自由に四本の肢《あし》が届く。ただ難物は首輪の下だ。首輪に遮《さえ》ぎられてここだけは掻《か》けぬ。人間属にはもどかしいことをたとえて「靴《くつ》を隔《へだ》てて足を掻く」というコトバがあるが、おれたち犬にとってもどかしいことの最たるものは「首輪を隔てて首を掻く」である。したがって和子君のこの首撫では涙《なみだ》がこぼれるほど嬉《うれ》しくありがたい。おれは思わず目を細めた。
「ぜったいにドンは病気じゃないわよ」
長女の昭子君が冷たく言った。
「あの顔を見てごらんなさいよ。病気の犬があんな仕合わせそうな顔をするものですか」
「うむ」
主人はうなずいた。
「病気のふりをしておれたちの気を惹《ひ》いただけかもしれん。あるいは単なる怠け病かな」
「あなたとよく似ているわ」
奥さんがひとことの皮肉を放って昭子君と玄関《げんかん》の中に消えた。
「怠けているのではない、ぶらぶらしているように見えるが、じつは必死で考えごとをしているのだ。まったく女子と小人《しようじん》は養い難《がた》い」
と、ぶつくさ言いながら、主人は門扉《もんぴ》を押して外へ出た。
「どれ、朧月夜の道をひとまわり歩いてくるか」
「そして坂下の商店街のスナックでお酒をのもう、でしょう?」
和子君が主人の心底をずばと射抜《いぬ》く。
「ばれたか。でもママには秘密だぞ」
「いいわよ」
和子君は主人に手を振りながら家の中に入った。主人は煙草《たばこ》に火を点《つ》け、うまそうに一服|喫《す》い込《こ》み、
「|春 宵 一 刻 値 千 金《しゆんしよういつこくあたいせんきん》か。むかしの人はうまいことを言ったものだ」
と紫煙《しえん》を吐《は》き、坂下に向かって歩き出した。
おれは素早《すばや》く犬舎を抜《ぬ》け出し、庭へ回った。ガラス戸ごしに時計を見ようと思ったのである。時計は十時五分前を指していた。
(うむ、頃合《ころあ》いの刻限《こくげん》だな)
まわれ右して塀《へい》の潜《くぐ》り戸《ど》から出ようとしたが、そのとき、おれはテレビから聞こえてきたアナウンサーの声に思わず「うむ?」と立ちどまってしまった。アナウンサーはこんなことを喋《しやべ》っていたのだ。
「……手術によって声帯をとられてしまった犬はいくら吠《ほ》え立てても声が出ません。過密化した都会で他人に迷惑《めいわく》をかけずに犬を飼《か》うにはこれもひとつの方法だといえます。おそらくこの犬の声帯切除法は愛犬家たちの歓迎《かんげい》を受けることでしょう。では次の話題……」
四隣《しりん》への迷惑を考えて飼い犬の声帯を切除する法が流行しつつあるとはおどろいた。おどろいたというよりは悲しいといった方が正確かもしれぬ。犬から声をとってしまうのは、日本国憲法から第九条をとってしまうのと同じ暴挙である。鉛筆《えんぴつ》から芯《しん》を、万年筆からペン先を、テレビからブラウン管を、布団《ふとん》から綿をとるのと同じ暴挙である。
などと書くと「なにいってんのさ」と反論を喰《く》うかもしれぬ。「犬はただワンワン吠え、キャンキャン啼《な》き、クンクン鼻を鳴らすだけじゃない。声帯なんかなにさ。声帯をとられても人間に可愛《かわい》がられた方が得じゃないの」と、こういう異論もあるいは出るかもしれないが、犬の声に「ワンワン」「キャンキャン」「クンクン」の三種しかないとお思いの方は、さっそく耳鼻咽喉《じびいんこう》科へおいでになった方がよろしい。なんとなれば(この『ドン松五郎の生活』をお読み下さっている方は先刻御承知のことであるが)、おれたち犬の声帯は人間のそれに匹敵《ひつてき》するぐらい精巧《せいこう》に出来ており、人間の言語活動が複雑|多岐《たき》であるのと同様に、おれたち犬の言語活動もまた多彩をきわめているからである。
これが嘘《うそ》でない証拠《しようこ》にここで犬の言語体系について簡単なる説明を試みてみよう。おれは大学の校舎の窓外でフランス語の授業を立ち聞きして、このフランス語に「直接話法」や「条件話法」や「接続話法」などがあることを知ったが、犬の言語にもこれがある。
第一が「要求話法」である。これは仲間の犬、あるいは飼い主である主人に対してなにごとかを要求するときに用いられる話法で、「クンクン」とか「ヒンヒン」などの鼻声的副詞を使用するところに特徴《とくちよう》がある。
第二が「訴痛《そつう》話法」だ。これも仲間や主人に「おれはいま痛がっている」ということを訴《うつた》える話法で、この話法に於《お》いては「キャンキャン」という鋭《するど》い響《ひび》きを持つ助動詞が使われることになっている。「アイキャン」と吠えれば「私が痛い」のである。「ユーキャン」なら「あなたが痛い」のだ。このあたり英語と一脈通じるところがあるのではないか。
第三が「敵意話法」で、これも「ウーッ」という敵意を現す助動詞をきっと伴《ともな》う言い方だ。またかわったものに「呼友《こゆう》話法」というのがある。これは遠くの仲間とコミュニケートする場合に用いられる話法で、この場合は「オー」という遠吠え感嘆詞《かんたんし》を冒頭《ぼうとう》に付さねばならない。
煩瑣《はんさ》を避《さ》けるために、犬の言語体系の成り立ちについてこれ以上|詳説《しようせつ》しないが、右に指摘《してき》した如《ごと》く、おれたちはかなり精巧な言語を保有している。声帯切除はその言語をおれたちから奪《うば》おうとするもので、むかし、日本人は朝鮮人《ちようせんじん》から朝鮮語を奪ったが、これはそれと同じ暴挙ではないか。これはどんなことがあっても容認できない。己《おの》が飼い犬の吠え声に四隣から文句をつけられてお困りの方がもしあれば、そういう御仁は犬など飼わなければよろしい。こっちだってそういう主人に飼われるのは真ッ平である。
「……おい、ドン松五郎、ひとりでなにをぷんぷんしているのかね?」
潜り戸の隙間《すきま》からキングの鼻が見えていた。
「きみがあまりやって来ないので、みんなで迎《むか》えにきたところさ」
「すみません。ちょっともの想《おも》いに耽《ふけ》っていたものですから、大事な約束《やくそく》をつい失念しておりました」
おれは外へ出て、そして、キングやお銀や平吉たちと朧月夜《おぼろづきよ》の一本道を、ブルテリアの長太郎の家の方へ歩きだした。
間もなくブルテリアの長太郎が飼われている土地成金のビルが見えてきた。三階建てのビルの窓は下から上までことごとく煌々《こうこう》として明るい。一階の居間《いま》からはテレビの音が聞こえている。二階の右の窓からは麻雀《マージヤン》のパイをじゃらじゃらかきまわす音、左の窓からはギターの糸をぽつんぽつんと弾《ひ》く音がしている。三階の右の窓からは電気あんま椅子《いす》のぶるるるという振動音《しんどうおん》、左の窓からはステレオの音だ。
「ずいぶんと騒々《そうぞう》しい家でしょう?」
裏庭に顔を出したおれたちに向かってブルテリアの長太郎が挨拶《あいさつ》がわりに言った。
「一階でテレビを見ているのは奥さんです。二階で麻雀をやっているのは高校三年生のドラ息子《むすこ》とその悪友たち……」
とたんに二階の右の窓から「おっ、それで当たりだ。ちょっとでかいぞ。リーチ、ピンフ、一発のドラドラで満貫《まんがん》だ」という|にきび声《ヽヽヽヽ》があがった。
「あれがここのドラ息子です」
そのドラ息子がドラを二枚頭にしてあがったらしい。こいつはよく出来た語路合わせだ。
「高校三年といえば来春は大学受験か就職のはずだ。それなのにあんな風に夜|遅《おそ》くまで麻雀をして遊んでいていいのかね」
キングが他人事ではない、という顔をする。
「それともここの息子は高校卒業を|しお《ヽヽ》に勉強はやめて家業の農業でもやろうというつもりなのかね」
「大学へ行くことに決まってます。新しく出来た医科大学にもう入学が決定しているんですよ。だから受験勉強の必要がないんですね」
「どういうことだね、それは? 一年も前に入学試験を済ませてしまう大学なんて聞いたことがないが……」
「ここの主人がその新設の医科大学に五千万円、寄付したんです。なあに畠《はたけ》を二百|坪《つぼ》も売ればそれぐらいの金は簡単に出来るんですから、主人にとってはたいした痛手ではない。それで、その新設の医科大学はその五千万円と引きかえにあのドラ息子を来春、入学させると約束したわけで……」
「ひどいはなしだ」
キングは朧月夜の空を仰《あお》いで長嘆息《ちようたんそく》をした。
「医師は人間にとって最も古い職業だ。つまりそれだけ重要な仕事なのだよ、なにしろ他人の命を預かるのだからね。したがって頭がよく努力家の公平無私なる若者がこの仕事につくべきなのだ。それが結局は人間のためになる。だが、日本国ではそうではないようだねえ」
「キングさんのおっしゃる通りです」
と、おれはこのあいだ主人のところへエッセイを依頼《いらい》にきた医学雑誌の編集者が話していたことをみんなに披露《ひろう》した。
「一部の医学部を除いてですが、医学部に入るさいに父兄が支払《しはら》う寄付金の相場は、今春の場合でいうと一千万から三千万だそうです」
「らしいな」
キングは頷《うなず》いた。
「つまり、頭はよくなくても、努力家でなくとも、そして人間として最劣等《さいれつとう》の青年でも、金さえあれば医者になれるという世の中なのだな。そういう不適格医師で十年後二十年後の日本はいっぱいになる。不適格医師に診察《しんさつ》され、薬を貰《もら》い、とどのつまりは命を預けることになるのを、この国の大衆はいったいなんとも思っていないのだろうか」
キングはどうもわからんといった表情で首を振《ふ》った。
「日本国の大衆というのは、言っては悪いがまったく度《ど》し難《がた》き衆生《しゆじよう》ばかりです」
おれはキングに言った。
「この春、フィリピンから帰ってきた元将校がいるでしょう。いま国民的|英雄《えいゆう》としてまつりあげられていますが……」
「うむ。羽田に帰ってきたとき実況中継《じつきようちゆうけい》をわしも見たよ。喋《しやべ》るときにいやに口から泡《あわ》を吹《ふ》く人だ、という印象しかないが、彼《かれ》がどうかしたかね」
「彼を国民的英雄にしてしまうところがわたしに言わせれば愚《ぐ》の骨頂ですね。日本が戦争に敗れたことを知らなかった、あるいは信じなかった、これは個人の自由ですから、べつに構わない。しかし、その知らなかった、あるいは信じなかったことによって彼が他人に甚大《じんだい》な被害を与《あた》えたことは問題だろうと思いますよ」
「そういえば、ルバングのブリオ・ブロールという老人は、戦後《ヽヽ》、|元日本兵に殺された島民《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、最低で十名はいるだろう、と言ってたわよ」
プードルのお銀が補注を加えた。
「そのブロール老人もヤシの木に登っているところを元日本兵に射《う》たれて足が不自由なんだって」
「それに、彼の部下の島田庄一元伍長、小塚金七元一等兵の二人は戦後になって死んでいる」
と、これは平吉。
「その通りだ」
おれは頷いて、
「つまり、彼は『戦闘依然《せんとういぜん》継続中』と信じることによって、いくつかの人命を殺してしまっているんですよ。彼は羽田空港の記者会見で『小塚元一等兵をなくし、復讐心《ふくしゆうしん》の方が多くなりました』と言っていますが、小塚元一等兵を殺したのは、自分が妙《みよう》なことを信じたのが原因だとは気がつかないらしい。もしほんとうに復讐したいのなら、彼は自分自身に対して復讐すべきでしょうが。こういう元軍人をもてはやし、英雄に仕立てあげるのは、じつにへんてこりんなことだと思います。そりゃあ彼は今様|浦島太郎《うらしまたろう》ですから、大衆が珍《めずら》しがるのはわからないではありませんが、彼が妙なことを信じたためにどんな犠牲《ぎせい》が生じたか、それを考えればお祭りさわぎもほどほどにすべきでしょう。なんとかいう女性評論家が『わたしは彼の花嫁《はなよめ》さんになりたい』と叫《さけ》んだそうですが、彼女のこのひと声が日本人の思考の浅さ甘《あま》さを象徴《しようちよう》していますね。どうしてもっと事実を視《み》ないんだろう」
「あら、その女性評論家はそのコトバを引っ込《こ》めたらしいわよ」
と、お銀が言った。
「わたし、道ばたに誰《だれ》かが落としていった週刊誌で読んだわ」
「ならなおいけないな。本気でそう言ったのならまだ許せるが、冗談《じようだん》だったら、いい加減にしろ、と怒鳴《どな》りつけてやりたい。また途中《とちゆう》で気が変わったのなら、もう子どもでもあるまいし、コトバを口から外へ出すときはもっとよく考えるべきだ、と忠告したい。諺《ことわざ》にもあるじゃないか、一言|喋《しやべ》る前に百回考えなさい、と」
「一言喋る前に百回考えたりしてたら評論家なんかつとまらないんじゃないの。百言喋って一回考えるぐらいが関の山なのよ、きっと」
「いずれにもせよ、あんなドラ息子が金を積んで医者になるようでは、そしてまたそういう風潮を大衆が放っておくようなら、数十年後の日本の病院は|やぶ医者《ヽヽヽヽ》だらけになってしまうだろう」
キングが脱線《だつせん》していた話題を軌道《きどう》に戻《もど》した。
「しかしまあ、いいさ。そういう風潮を野放しにしていた責任はやがて大衆自身がとらなくてはならなくなるのだから。つまり、そういった|やぶ医者《ヽヽヽヽ》に自分の命を委せなくてはならなくなるのは大衆自身なのだからね」
「ギターを弾いているのはこの家の次女です」
ブルテリアの長太郎が二階の左の部屋を鼻で指し示した。
「このところレコード売り上げの第一位を独占《どくせん》していた『あなた』という歌があるでしょう。あの歌を作詞作曲し、かつ唱《うた》ったのは高校生ですが、彼女はそれに刺激《しげき》されて、ここ数日、ああやってギターを抱《だ》いて作詞作曲に没頭《ぼつとう》しているんです。曲の題名は『黄色いシャツ』というんですがね、『あなた』のように二百万枚売れたら、その金でスイスの高校へ行きたい、と主人に話してました」
このとき、その二階の左の部屋から、絹《きぬ》を引き裂《さ》く、というよりは雑巾《ぞうきん》を引き裂くという方が適切だと思われるような鵞鳥声《がちようごえ》で歌うのが聞こえてきた。
あなたのために、
シャツを縫《ぬ》ったわ、
黄色い絹地を、
赤い糸で。
そして胸には、
刺《し》しゅうをしたわ、
わたしの名前を、
青色の糸で……
「ひどい声だ。あれでは二百万枚は無理だろうねえ。十枚も売れたらめっけものだな」
と、キングが苦笑した。そこでおれは、
「同感です」
と、尻尾《しつぽ》を振《ふ》った。
「それに、黄色い布地を赤い糸で縫い、その上、青い刺しゅうの入ったシャツなぞ着ようと思う者がいったい居ますかね。赤、青、黄、そんなものを着たら、まるで信号機じゃありませんか」
「三階の右の部屋で電気あんま機にかかっているのは、わが主人です。左の部屋でステレオを聞いているのは例の長女です。ほら、ぼくを|だし《ヽヽ》にして父親に海外旅行の資金をせびっていた計算高い女子大生ですよ」
「言ってはなんだが、このビルには一階から三階まで碌《ろく》な人間が住んでおらぬようだ」
と、キングが溜息《ためいき》をついた。
「もっとも、こういう連中だからこそ、きみを断耳断尾の刑《けい》にしようと思いついたのだろうが。では、長太郎君、いよいよ犬舎ごとの逃走《とうそう》作戦を開始するよ。いいね?」
「よろしくお願いします」
長太郎はおれたちに向かって丁寧《ていねい》に会釈《えしやく》をした。
「一生犬舎を引きずって歩くという不自由な生活がこれからはじまるわけですが、ぼくは決して後悔《こうかい》はいたしません」
「そうだとも。犬舎を引きずるという不自由とひきかえに、きみは何よりも貴重な自由を手に入れることになるのだよ」
キングは長太郎にこう言い、それからおれたちに、
「わしがまず、全力で犬舎を傾《かたむ》ける。そのときにドン松五郎君と柴犬《しばいぬ》の平吉君は犬舎の下に潜《もぐ》り込《こ》み、犬舎の底をそれぞれの背中に乗せたまえ」
と、命令した。
「ドン松五郎君と平吉君が背中で犬舎の片側を担《かつ》いだところで、こんどはお銀さんと長太郎君が反対側にもぐり込み、同じように背中で犬舎の底を支える。長太郎君は犬舎に鎖《くさり》で繋《つな》がれているが、幸い鎖は長い。大丈夫《だいじようぶ》、それぐらいは動けるはずだ。おしまいにわしが犬舎の底の中央を背中で支える。五|匹《ひき》が力を合わせてかかれば、こんな犬舎のひとつやふたつ、決して担げないことはないのだ」
言い終わってキングは犬舎の底と地面との間に鼻先を突《つ》っ込み、えいと犬舎を押した。
キングの力に押されて傾いた犬舎の下に、おれと平吉が躰《からだ》をこじ入れ、そのために生じた隙間《すきま》にお銀と長太郎が背中を入れた。つまり、長太郎の犬舎がおれたち四匹の背中の上に、祭礼のときの御輿《みこし》よろしく載《の》ったのである。最後にキングが犬舎の中央の床下《ゆかした》にもぐって、犬舎の底に背中をあてた。
「どうだね、みんな、重いかい?」
キングがおれたちに訊《き》いた。
「これで一キロメートル近い道中が出来そうかい?」
「平っちゃらでさ」
と平吉が答えた。
「まるで空気をかついでいるようなもんです。ちっともこたえやしませんね」
「一キロメートルどころか十キロの道中だって大丈夫よ」
お銀も平吉に同意した。
「なんなら二十キロでも五十キロでもこのまま行きますわ」
「犬舎がこんなに軽いものだとは思いませんでした」
と、これは長太郎である。
「これならぼくひとりでも脱走《だつそう》できたなあ」
「冗談《じようだん》じゃないぜ」
おれは長太郎をたしなめた。
「五匹で担いでいるから軽いのだ。一匹だったら背骨がポッキンと折れてらァ」
「ドン松五郎君の言うとおりだ」
キングの声はなぜだかしらないがぶるぶると震《ふる》えていた。
「一匹では不可能な仕事も五匹がかりでやれば朝飯前なのだ。諸犬、ここにひとつの真理があるとは思わないかね。つまり、犬だって力を合わせればこれだけのことが出来るのだよ。おお、諸犬よ、今年の今月今夜は、犬の歴史に特記されるべきであるし、また当然そうなるだろう。わしたちは犬の歴史はじまって以来最初に協力し合った五匹なのだ」
「それはすこし大袈裟《おおげさ》ですよ」
と、おれはキングに言った。
「エスキモー犬たちは何百年も昔《むかし》から協同で橇《そり》を引っぱっていますよ」
「それはちがう!」
キングがあまり激《はげ》しく首を横に振ったので犬舎が左右に揺《ゆ》れた。
「エスキモー犬たちはたしかに力を合わせて仕事をする。しかし、その仕事は人間のためでしかない。だが、わしたちの場合はちがう。わしたちは犬の歴史になかったことをしようとしているのだ。すなわち、犬の、犬による、犬のための仕事がそれだ……」
キングの声が湿《しめ》っぽくなってきた。どうやら彼は泣いているらしいのである。なるほど、たしかに複数の犬が仲間の犬のために自発的に力を合わせ合うというのは有史以来のことかもしれぬ。
「おっしゃる通りかも知れません」
と、おれはキングに言った。
「たしかにわたしたちのやろうとしているのは歴史的行動なのでしょう。しかし、犬舎を担いだまま、こんなところでわれとわが行為《こうい》にうっとりしていては、この家の人間どもに見つかってしまいかねません。いっときも早く出かけようじゃありませんか」
「うむ」
キングはうなずいて、
「では諸犬、出発だ!」
と、ヨーロッパ征服《せいふく》に出発するときのジンギスカン、あるいは西部の荒野《こうや》へ旅立つときの幌馬車《ほろばしや》隊の隊長の掛《か》け声もかくやと思われるような、重々しく勇ましい声を発した。
朧月夜《おぼろづきよ》の道を、おれたちはしばらくの間、無言のまま歩き続けた。道程《みちのり》を半分すぎて、ちょうどおれの家のある建売住宅の家群《いえむら》へ入る小路を通り越したとき、だれか歌いながらこっちへやってくる気配がした。
「これはまずい」
キングがぎくっとなって立ちどまった。おれたちもキングに右ならえして足を停《と》めた。
「この道は畑の中の一本道だ。したがってむこうからやってくる人間と、当然、すれちがうことになるだろう。人間はこんな夜更《よふけ》に五匹の犬が犬舎を担いで歩いているのは何故《なぜ》だろうときっと怪訝《けげん》に思うにちがいない……」
「夜更でなくったって、たとえ真っ昼間でも怪《あや》しいと思いまさあ」
と、平吉が言った。
「なにしろ、犬が犬舎を担いで行進している図なんてのは前代未聞《ぜんだいみもん》ですぜ」
「畑の中へ隠《かく》れて道を譲《ゆず》ったらどう?」
と、お銀が提案《ていあん》した。
「天を駆《か》けるわけにも行かないし、さりとて地にもぐるわけにもいかない。ここは畑へ隠れて、敵をやりすごす一手だわ」
「ちょっと待ってくれ」
おれはみんなを制して言った。
「向こうからやってくる人間の声、どっかで聞いたことがある……」
みんなが口をつぐんだ。歌声はゆっくりとこっちへ近づいてくる。歌声と言ったが、これは便宜的《べんぎてき》な表現である。ひどい音痴《おんち》でしかも酔《よ》っているので、とても歌声なんてもんじゃなかった。だいたい、声そのものが物凄《ものすご》い。鴉《からす》が焼酎《しようちゆう》のんだようながぁがぁ声だった。そのがぁがぁ声が、
菜の花畠に 入日|薄《うす》れ
見渡《みわた》す山の端《は》 霞《かすみ》深し……
と、歌っている。
音痴で、がぁがぁ声で、そして十八番の「朧月夜」となると、これはもう決まっている。
「キングさん、あれはわたしの主人ですよ」
「ドン松五郎君の主人? すると彼が小説家の松沢さんかね」
「そうなんです」
「ご機嫌《きげん》のようだねえ」
「酒を飲むといつもあの調子なんです」
「しかし、小説家にしては歌が下手だ」
「するとキングさんは小説家はみんな歌が上手だとおっしゃるんですか?」
「だってそうじゃないのかい。野坂さんて方は歌の方でも紅白歌合戦に出てもおかしくないぐらいうまいって噂《うわさ》だが……」
「あの方は別です。それに紅白歌合戦なんて歌の下手な歌手が出場する番組ですよ。その証拠《しようこ》に歌の上手な美空ひばりさんは去年出なかったじゃないですか」
「なるほど。それも一理だ」
「ちょいとキングさんにドン松君」
と、お銀がいらいらした口調で言った。
「なにもここで小説家は歌上手か否《いな》かだの、紅白歌合戦は是か非かだのと論じ合わなくてもいいじゃない。それよりどうするの。逃《に》げるの、戻《もど》るの、それとも畑に隠れるの?」
「畑に隠れるのが一番だ」
キングは畑に向かって方向をかえた。おれたちもそれにならった。
「あんまり遠くへ行く必要はないですよ」
おれはキングに進言した。
「うちの主人ときたら、小説家のくせに観察力は皆無《かいむ》に等しいのです。たとえ犬舎を見つけても『なぜ畑の中に犬舎があるのか』なんて考えやしません。『ほう、犬舎がある』と呟《つぶや》くのがいいとこ、簡単に見逃《みのが》してくれますよ」
おれたち五匹は畠に犬舎を担ぎ込み、道の気配を窺《うかが》った。おれの主人である三文小説家の松沢先生は、道ばたに立ちどまって中空にかかる朧月を眺《なが》めている。
(ほう)
と、おれは感心した。
(さすがは文士、月を愛《め》でる風流心ぐらいは、あれでも持ち合わせているとみえる)
だが、そのうちにこれはおれの買い被《かぶ》りだったと気がついた。というのは、先生の足許《あしもと》からじゃぼじゃぼじゃぼという怪《あや》しい水音が聞こえてきたからである。
「まったく人間の男ときたらいやらしいったらありゃしない」
プードルのお銀の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄った。
「他人の眼《め》が届かないところでは、だれでもあんな行儀《ぎようぎ》の悪いことをするんだから」
お銀の言はまことにもっともである。人間属の男はなぜ道ばたに放尿《ほうによう》するという悪癖《あくへき》を有するのであろうか。などと書くと、
「そういうおまえたちはどうなんだ? おまえたち犬と立ち小便には切っても切れぬ関係がある。なのに人間の男子ばかりを攻撃《こうげき》するのはおかしいではないか」
と、異論を唱える方がきっとあるだろうが、おれたち犬の戸外での放尿と日本の成年男子の立ち小便を同一視しないでいただきたい。この両者は、一見ほとんど同じ行為の如《ごと》く見えるだろうが、その本質には泥《どろ》と雪ほどの差異があるのだ。
人間属のサラリーマンは常に胸のポケットに名刺《めいし》を携帯《けいたい》する。日本のサラリーマンは名刺を濫発《らんぱつ》しすぎるのではないかという批判があるがこれはこの場合また別の問題で、サラリーマンにとって名刺は、戦場における兵士にとっての銃《じゆう》、試験場における受験生にとっての鉛筆《えんぴつ》、台所における主婦にとっての菜切包丁《なつきりぼうちよう》、釣場《つりば》における釣師にとっての釣竿《つりざお》、選挙戦における候補者にとっての札束《さつたば》、空中におけるパイロットにとっての操縦桿《そうじゆうかん》、西部の荒野を旅するガンマンにとってのピストルなどと同様、なくてはならぬものである。
おれたち犬にとって電柱への放尿は、サラリーマンが他人と逢《あ》うたびごとに差し出す名刺と同じであって、言ってみればおれたちは外出のたびに電柱に名刺を貼《は》っているわけである。
犬の嗅覚《きゆうかく》は、これまでもしばしば言及《げんきゆう》したごとく、人間属の数千倍の精密さを持つ。したがって、おれたちは電柱の傍《そば》を通りすぎるだけで、
「おッ、この匂《にお》いは一昨年の五月五日のこどもの日のものだ。この匂いの強烈《きようれつ》さから判断するに、かなりの暴れ者が放尿したものであろう。つまり、これはこの近所に、暴れ者の犬が居住するという意味だ。となると、この近所で大きな顔をしない方がいいかもしれぬ。いや、いっそこの匂いを辿《たど》っていってその暴れ者の犬の住まいを訪問し、挨拶《あいさつ》をしておこう」
などと思考するのである。またおれたちの電柱への放尿は一種の結婚申込《けつこんもうしこ》みでもある。電柱にしゃーっと一条の尿《によう》を放水することによって、おれたちは、
「ここに一個の雄《おす》の成犬あり。目下、発情中。眉目《みめ》うるわしく才たけたる相方《あいかた》を求む。わたしの人となり、ならぬ犬となりについては、匂いによってよろしく御判断いただきたい」
と、広告するわけである。この匂いを嗅《か》いで、放尿犬に対して一目惚《ひとめぼ》れならぬ一嗅ぎ惚れした雌《めす》の成犬は、その匂いの上に放尿し、そのことによって、「わたしでよければ……」
と意思表示する。人間が思いつきで放水するのとわけがちがうのだ。
ここで犬と人間との比較《ひかく》放尿学を蜿蜒《えんえん》と開陳《かいちん》するほどおれは暇人《ひまじん》、いや暇犬ではないが、ものはついでということもある。いましばらく筆を横道に遊ばせることにしよう。
ご存知《ぞんじ》のようにおれたち犬は放尿に際して後肢《あとあし》を高くあげる癖《くせ》がある。これを見るたびに人間属は笑っているようであるが、じつはこれにも理由がある。おれたち犬、とくに雄にとって電柱や立木や杭《くい》に、どれだけ高く小水をひっかけることができるかはまことに切実な問題なのだ。なんとなれば高くひっかけることができればその犬は強く、でなければ弱いという厳然《げんぜん》たる法則性があるからである。
前に、犬の放尿は人間の用いる名刺に相当すると言ったが、じつはこの言い方、すこし曖昧《あいまい》な言い方であった。犬の放尿は力の強い弱いも現すことができるのだから、名刺以上の、精密にしてより多い量の情報を含《ふく》んでいると言い直すべきだろう。
これに対し、人間属の放尿にはいったいどのような意味があるか。おれは断言してはばからないのだが、人間属の放尿にはまったく意味がないのである。ただいたずらに草を枯《か》れさせ、傍迷惑《はためいわく》な臭気《しゆうき》をたち昇らせるのみだ。
おれの主人である三文小説家松沢先生の立ち小便をおれたちがなかば冷笑し、なかば嘲笑《ちようしよう》した理由はここにあった。
「……ああ、今夜はすこし飲みすぎたかもしれん」
主人は天を仰《あお》いで呟いた。
「明日の朝|締《し》め切《き》りの新聞のエッセイにまだ手をつけていないが、今夜は仕事にならん。明日は早起きすることにして、今夜は眠《ねむ》ってしまおう」
主人は太平楽なごたくを並《なら》べて、歩き出そうとしたが、ふと目をおれたちが運搬中《うんぱんちゆう》だった犬舎の上に止めた。おれたちはどきっとして、思わず躰《からだ》を畠の土の上に伏《ふ》せた。
「あれは犬舎だ、犬小屋だ」
と、主人は酔眼《すいがん》をこっちに向けたまま独《ひと》り言《ごと》を発した。
「いったいぜんたい、京菜畑の真ん中に犬小屋などあっていいものだろうか」
主人はしばらく考え込んだ。がそのうちに、
「どう考えてもおかしい。がしかし、いまは乱世だ、おかしい事柄《ことがら》のまかり通る世の中だ、ま、気にしないことにしよう」
と勝手な理屈《りくつ》をつけて納得《なつとく》し、おれたちの方へ背を向けてふらふらと歩きだした。
「こんなところで人間に見つかったのではなんにもならぬ」
キングがおれたちに言った。
「さあ。早くわしのところへ犬舎を運んでしまおう」
おれたちはうなずいて犬舎を背にのせ、そろそろと歩き出した。とたんに道の方から再び主人の声があがった。
「……それにしても変だと思って振《ふ》り向いてみれば、ありゃなんだ? 犬小屋がひとりで動いているではないか!」
困ったことになった、とおれは思った。主人は詮索好《せんさくず》きな性質《たち》である。小説家だから、考えてみればこれは当然だが、旺盛《おうせい》な弥次馬《やじうま》気質の持ち主なのである。
(ひょっとしたら主人はおれたちを追ってくるかもしれないぞ)
そうおれが呟き終わったとたん、右の「ひょっとしたら」は現実となった。主人は、
「怪《あや》しい犬小屋め、待て!」
と、わめきながら畠へ足を踏《ふ》み入れてきたのである。ここで捕《つか》まっては大事《おおごと》だ。犬舎を担《かつ》いだおれたちの足の運びも速くなった。
「なんてことだ。犬小屋が走って行くぞ!」
犬舎を背負って疾走《しつそう》するおれたちの背後、というよりはおれたちの尻後《ヽヽ》と書くべきだろうが、とにかく後方でおれの飼《か》い主《ぬし》の三文小説家の松沢先生が叫《さけ》んだ。
「しかし、待てよ。いくらなんでも犬小屋が自力で移動するなどということがあり得るだろうか」
主人は犬舎を追うのを一時思い止《とど》まって、両眼を手の甲でこすっている様子である。
「もしかしたらなにかの錯覚《さつかく》ではないのか。おれは今夜、ビールを二本にウイスキーの水割りを八|杯《ぱい》も飲んでいる。錯覚でなければこれはアルコールによる幻覚症状《げんかくしようじよう》かもしれん」
おれたちは主人が畑の中央に突《つ》っ立ってあれこれ思案しているあいだに、畑を横切り、国分寺の境内《けいだい》を抜《ぬ》け、キングの飼われている坂下の屋敷《やしき》の縁《えん》の下に潜《もぐ》り込んだ。犬舎は横倒《よこだお》しにしたら、うまく縁の下におさまった。
「長太郎君、君はこれで断耳断尾の危険から完全に逃《のが》れることができたわけだ」
はあはあと全身で呼吸をしながら、キングがブルテリアの長太郎に言った。
「今夜から安眠《あんみん》できるだろうよ」
「ありがとうございます」
長太郎は半分泣いていた。
「キングさん、そしてドン松五郎さんやお銀さんや平吉さん、この御恩はぼく一生忘れません」
「なになに、そう改まって礼を言われちゃこっちが照れちまう」
おれは長太郎の臀部《しり》をやさしく尻尾《しつぽ》で叩《たた》いてやった。
「わたしたちは犬として当然のことをしただけさ。ああ、それから長太郎君、お腹《なか》が空いたら、君がいま立っている足許《あしもと》を掘《ほ》ってみたまえ。そこにわたしがまさかの時≠フために貯蔵しておいたビスケットが埋《う》めてある。自由にたべていいのだよ」
「なにからなにまでお世話になります」
長太郎はほとんど泣いているようだった。
「なにも泣くことはねえさ」
と、平吉が言った。
「犬は相身互身《あいみたがいみ》よ。困ったときは互《たが》いに助け合うのがいいのだ。おれも主人から支給されるソーセージの切れっ端《ぱし》やステーキの脂身《あぶらみ》をちょいちょい運んできてやらあ」
「鎖《くさり》が邪魔《じやま》だろうけど、しばらく辛抱《しんぼう》おし」
お銀が長太郎の首のあたりをペロペロと舐《な》めた。
「そのうちに、きっとあんたの鎖を切る方法を考え出してあげるから。でなかったら首輪を外してあげるわ」
「……よろしくおねがい申します」
長太郎はぐすんぐすんと鼻を鳴らした。
「ぼくは誓《ちか》います。きっと立派な犬になってみせます。そして、皆《みな》さんから受けたご親切を、ほかの犬にほどこします。たぶん、そうすることが最大の恩返しになる、と思いますから……」
「うむ、それがいい」
キングがうなずいた。
「犬から犬へ親切が受け継《つ》がれて行くなんてすばらしいことだ。一|匹《ぴき》が二匹に、二匹が四匹へ、そして四匹が八匹へ、と親切を引き継いで行くことが出来れば、やがてわしら犬は地球上で最高の、そしてもっとも有徳の動物になれるだろう」
このとき、頭上でがたぴしと雨戸の開く音がし、ついで若い男の、
「うるさい犬どもだな」
とぶつぶつ言う声が降ってきた。
「おや、あれはどうやら主人の伜《せがれ》の声のようだ」
とキングがおれたちに言った。
「両親から金を引き出すことばかり考えている怠《なま》け者だよ。定職について真面目《まじめ》に働いていれば両親も土地を売って金をつくり、彼にその金の運用を委せる気にもなるのだろうが、彼は最初《はな》から土地代金をあてにしているからかえって両親の信用がないのだ。そこに気が付かないとはまったく馬鹿《ばか》な男さ」
「静かにしろ! うるさくて眠《ねむ》れないじゃないかよ」
男の声と同時に、さっと懐中電燈《かいちゆうでんとう》の一条の灯《あか》りが縁の下にたむろするおれたちのところへ伸《の》びてきた。
「彼の不機嫌《ふきげん》な声から察するに、彼は今夜も両親から金を引き出すことが出来なかったらしいよ」
「うるせえったら!」
男は縁の下に小石を投げ込んできた。
「あんまり彼を怒《おこ》らせるのは考えものだ。なにせ粗野《そや》な男だから怒ればなにをするかしれやしないからな。諸犬、今夜はこれで散会としよう。ご苦労だった」
キングは横倒しにして縁の下に引きずり込んだ長太郎の犬舎を楯《たて》にし、そのうしろに長々と寝《ね》そべった。キングにならってお銀と長太郎も地面に躰を横たえた。
ばしん、と男の投げた何発目かの小石が犬舎に命中した。怯《おび》えて長太郎がきゃんきゃんとふた声ばかり啼《な》いた。
「おっ? これは妙《みよう》な箱《はこ》があるぜ」
男が懐中電燈を口に啣《くわ》え、四つん這《ば》いになって縁の下に潜《もぐ》り込《こ》んできた。おれと平吉は奥《おく》へ十歩ほど逃《に》げた。
「なんだ、こいつは犬小屋じゃねえか」
男は懐中電燈の灯りで犬舎を万遍《まんべん》なく撫《な》で廻《まわ》していたが、やがて犬舎の横に取り付けてある鎖に目をつけて、電燈を動かすのをやめた。
「いったいどうしたわけで犬小屋が縁の下なんぞにあるんだろ?」
また、懐中電燈の灯りが動き出した。こんどは鎖をゆっくりと辿《たど》っている。
「おっ?」
ふたたび灯りの動くのが止まった。
「こりゃブルテリアじゃないか」
懐中電燈の光の輪の中で長太郎がぶるぶる震《ふる》えていた。
「こいつは五万や十万じゃ買えねえという高級犬だが、なんだってこんなところに……」
男は懐中電燈を土の上に置き、煙草を啣えた。
「まてよ、そういえばさっき親父が、塩原のところでブルテリアなんて飼いやがってうちに差をつけてくれた、とぼやいていたが、ひょっとするとこいつはその塩原のところのブルテリアかな」
塩原というのは長太郎の断耳断尾をしようとしていたあの土地成金のことだろう、と思いながらおれと平吉は男の言葉に聞き耳を立てていた。
「塩原のところのなら、わざわざ返しに行くこともないぜ」
男がマッチをすって啣えた煙草に点火した。束《つか》の間《ま》のマッチの光が男の顔を浮《う》かび上がらせる。男はかすかに笑ったようだった。
「よし、うちの縁の下に塩原のブルテリアがどういうわけか犬舎ごと迷い込んできているってことは秘密にしておくことにしよう」
男は啣え煙草のまま、地面を這《は》って縁の下から出て行ってしまった。
「とうとう見つかってしまいましたね」
男が家の中に戻《もど》るのを待って、おれはキングに低い声で言った。
「長太郎君はこれからどうなります?」
「やつは、自分の家の床下《ゆかした》に長太郎君のいることは秘密にしておこう、と言っていた。おそらく、自分の家の飼い犬にするつもりだろうねえ」
「だとすると、また断耳断尾問題がむし返されるおそれがありますね。ここの家の人たちが長太郎君に断耳断尾を施《ほどこ》そうとするかもしれませんよ」
「そのときはまたみんなで犬舎ごと長太郎君を別のところへ移すさ」
キングは大きな欠伸《あくび》をした。
「わしたちは今日一日気を疲《つか》らし心を労《つか》らした。つまり疲労困憊《ひろうこんぱい》の極にある。こんなときに物を考えても悲観的になるばかりで碌《ろく》な結論も出ない。今夜はぐっすり眠ってまた明日方策を立てよう。むかしの人間が『明日は明日の風が吹《ふ》く』なんてことを言っているが、これはなかなかいい言葉だと思うよ」
「それもそうですね」
おれはうなずいて、平吉と一緒《いつしよ》に縁の下から出た。それからお銀が長太郎のためにやさしい声で子守唄《こもりうた》を歌うのを背中で聞きながら庭を横切って、靄《もや》の中を家路に向かった。靄のために月は見えぬ。
「長い夜だったな」
と柴犬《しばいぬ》の平吉が言った。
「まったくだ」
と、おれは答えた。
「ひと晩のうちにずいぶんいろんなことが起こった。しかし、またじつに教訓的な夜でもあった」
「異議なし」
「おれたちは犬、しがない犬だが、それでも何匹か集まって力を合わせれば、仲間の仕合わせのために役立つことができる。これがわかっただけでもたいしたものだ」
「異議なし」
「平吉君、これからはよろしく頼《たの》むよ」
「こちらこそ、だ」
おれと平吉は互いに臀部《しり》を舐めて友情の誓いを交わし合い、左右に別れた。門扉《もんぴ》を鼻で押して内部《なか》に入ると、台所で主人の興奮した声がしていた。
「本当だよ。たしかにこの眼で犬小屋が畑の中を飛んで行くのを見たのだ」
「馬鹿を言うのもいい加減にしてちょうだい」
奥さんが怒鳴《どな》っている。
「犬小屋が飛ぶわけはないでしょ。とにかく、三十分おきに『もう出来ましたか』『いま何枚ですか』という催促《さいそく》の電話が来ているんです。もう待ったはききませんよ」
「しかし、本当なんだがねえ」
「もうよしにしましょうよ、犬小屋が宙を飛んでいた、というはなしは。さあ、洗面器に氷を入れておきました。それにコーヒーの支度《したく》も出来ていますよ」
ぶつぶつ言いながら主人が顔を洗い出した。ときどき「ウォー、ウォー!」と|けもの《ヽヽヽ》の如《ごと》き叫び声を発している。氷の入った水で顔を洗い、精神統一を計《はか》るのが主人の方法なのであるが、その氷水がやはり冷たいのだろう。
(やれやれ、主人は今夜も徹夜《てつや》でおれの餌代《えさだい》を稼《かせ》ぐらしいが、御苦労様なことだ)
おれは外から台所の方角に向かって軽く尻尾を振り、犬舎にもぐりこんだ。
おれの栄達
あくる朝、おれは主人と某《ぼう》新聞社の文化部記者が玄関《げんかん》で声高《こわだか》に押問答するのに目を覚ました。昭子君も和子君も小学校へ出かけてしまったようである。目前の餌椀《えさわん》には、飯に昨夜の残りの鰺《あじ》の天麩羅《てんぷら》を混ぜたものが盛《も》ってある。鼻でちょっと押してみると、食餌《しよくじ》は冷え切って固くなっていた。
この二点から、おれは時刻は午前九時過ぎぐらいだろうと見当をつけた。こんなに遅《おそ》くまで前後不覚に眠《ねむ》ってしまったことは生まれてはじめてである。前夜の重労働がこの朝寝坊《あさねぼう》の原因であろう、と自己|診断《しんだん》をしながら、ゆっくりと鰺の天麩羅を咀嚼《そしやく》しはじめた。
「先生、考え直してくださいよ。いくら怪奇《かいき》現象ブームだといっても、新聞の文化|欄《らん》に『犬小屋が空飛ぶのをみて』なんて題のエッセイは載《の》せられませんよ」
文化部記者の声はいつの間にか哀願調《あいがんちよう》に変わっている。どうやら主人は犬小屋が畑を疾走《しつそう》するという前夜の異常な体験を徹夜《てつや》でエッセイにまとめあげたらしい。あの犬小屋を疾駆《しつく》させたのはおれたちであるが、主人はむろんそのことを知らない。心底からそれを信じているようである。主人の精神はどうも衰弱《すいじやく》しているな、とおれは思った。どこの世界に犬小屋が宙を飛ぶなどという珍現象《ちんげんしよう》が起こり得るだろうか。正常《まとも》な精神の所有者ならば、
「そんな馬鹿《ばか》なことが起こるはずがない。理性に納得《なつとく》の行く理由がきっとあるにちがいない」
と思い、考えに考え抜《ぬ》くであろう。だが主人はそのまま信じてしまった。考えることが苦痛なのだろう。すなわちこれ疲《つか》れている証拠《しようこ》である。その才もないのに注文をすべて引き受けるのがいけないのだ。注文をすべて断《ことわ》ってとっておきの題材をこつこつ書けば、結構いい作品が書けるはずなのに、これでは自滅《じめつ》ではないか。
「載せられないと言うのだな。よろしい、原稿《げんこう》は返してもらおう」
主人が紙袋《かみぶくろ》を記者の手から引ったくる音がした。
「この原稿は別のところへ回すよ」
「そういうつもりで申しあげたのではないんですよ」
また同じような音があがった。今度は記者が主人の手から紙袋を引ったくったのだろう。
「デスクとも相談しますが、多少書き直していただくことになりそうだというほどの意味で……」
「書き直すだと? 締《し》め切《き》りぎりぎりだと言っておきながら、書き直しの時間を見ていたのか。この嘘《うそ》つきめ!」
「と、とにかく、この原稿は預らせていただきます。書き直し、その他のことにつきましては後刻電話で御連絡《ごれんらく》申します」
「おい、待て!」
主人の怒声《どせい》から逃《に》げるように記者が玄関から飛び出してきた。記者はそのはずみでおれの餌椀を蹴《け》っ飛ばした。おれは主人に忠義立てして、ふた声三声、記者の背中に向かって吠《ほ》え、ついでに靴《くつ》の踵《かかと》に噛《か》みついてやった。
「いいぞ、ドン松五郎《まつごろう》! よくやった」
主人はおれが見せた忠義の振《ふ》る舞《ま》いに徹夜|呆《ぼ》けした顔を弛《ゆる》めて手を振ってくれた。こっちもおつきあいで尻尾《しつぽ》をふって応《こた》えた。
「おれの心情を理解してくれているのはドン松五郎だけだ。あとの石頭連中はみんなおれの敵だ」
主人は悲劇の主人公もどきの独白を呟《つぶや》きつつ二階へ登っていった。これから眠《ねむ》るつもりなのだろう。それではこっちも食後の腹こなし、散歩でもしようかな、とおれは門を出たが、そのときキングがかなりの速足でこっちへやってくるのが見えた。朝っぱらから御大《おんたい》じきじきのお運び、これはなにか事件が起こったな、とおれは直感した。
「キングさん、なにかあったんですか?」
おれはキングに軽く会釈《えしやく》しながら訊《き》いた。
「うむ」
よほど急《いそ》いで来たらしくキングは息切れがひどく、しばらくは声を発することができないでいた。気配で察して平吉もとび出してきた。
「これからわしの話すことを聞いても取り乱さないでもらいたい」
キングの呼吸《いき》がようやく整った。
「ドン松五郎君に平吉君、長太郎君とお銀さんが攫《さら》われたのだよ」
これにはおれも平吉も仰天《ぎようてん》した。背中の毛が大根おろし器で逆にこすられたような気分である。
「長太郎君とお銀さんを攫ったのはわしの飼《か》い主《ぬし》の伜《せがれ》だ。ほら昨夜、懐中電燈《かいちゆうでんとう》を構えて縁《えん》の下にもぐり込《こ》んできた若い男がいたろう? 犯人はあいつなのだよ」
「な、なぜ、そうとわかるのです?」
「わしはその現場をこの目で見た。いや、見たばかりではない……」
キングは前肢《まえあし》を曲げて地面に坐《すわ》り込み、臀部《しり》を高く持ちあげた。キングはおれたちに自分の背中を見せようとしているようである。
「わしは彼《かれ》と長太郎君やお銀を救うために戦おうともしたのだよ。だが、彼は木刀を持っていて、そいつをわしの首に振りおろしたのだ。わしは身を躱《かわ》した。だが、わしの躰《からだ》は自分で考えていたよりもずっと老《ふ》け込《こ》んでいたらしい。木刀が首に当たるのは防げたが、そのかわり背中で受け止めてしまったのさ」
たしかにキングの背中の上部に血が滲《にじ》み出していた。その血で附近《ふきん》の茶色の毛が黒褐色に変色している。
「警察犬として現役で活躍《かつやく》していた時代なら屁《へ》でもない一撃《いちげき》だったのだが……、年はとりたくないものだねえ。それにいくら彼が|ごろつき《ヽヽヽヽ》まがいの男でも主人の息子《むすこ》だ。己《おの》が家の飼い犬に木刀を振りおろすような非人間的行動はするまい、と思っていたのさ。その油断、その甘《あま》えにつけこまれたらしい」
「そ、それで、長太郎君とお銀さんが攫われたのはいつのことです?」
「朝早くのことだ。ちょうど国分寺の鐘《かね》が鳴っていたから、午前六時……」
「現在《いま》は九時過ぎ。その間《かん》の三時間、あなたはなにをしておいでだったのです?」
おれの声が思わず詰問《きつもん》の調子を帯びる。だって無理はないではないか。事件発生後すぐに知らせてもらえば、なにか打つ手はあったはずである。たとえば長太郎とお銀が車で連れ去られたとするなら、おれたちのよくきく鼻で車の匂《にお》いを追う方策だってあったのだ。だが、九時ではどうにも仕方がない。七時から九時ごろまでのこのあたりの道路の交通量にはたいへんなものがあって、濛々《もうもう》の排気《はいき》ガスの洪水《こうずい》のなかからあるひとつの匂いを探《さぐ》って辿《たど》ることなど、嗅覚《きゆうかく》にすぐれたおれたちといえどそれは至難《しなん》の業《わざ》、ほとんど不可能に近いのである。
「その三時間は失神したまま地面にのびていたのさ」
キングは少々|厭味《いやみ》をきかせた口調で答えた。
「思いきり木刀で殴《なぐ》られて、平気の平左《へいざ》でございなんて芸当はわしには無理だよ。いや、たいていの犬にも無理なのじゃないかしらん」
「あ、これは失言でした」
おれはキングに素直に頭《こうべ》を垂れた。
「お許しください」
「しかし、解《げ》せませんねえ」
と、今度は平吉がキングに尋《たず》ねた。
「彼は長太郎君とお銀さんを何の目的で攫ったんでしょうかね?」
「それはもう売り飛ばすために決まっている」
「……売り飛ばす?」
「うむ。ブルテリアは高い値で売れる。とりわけ長太郎君は英国から直輸入された名犬だ、叩《たた》き売っても十五万や二十万にはなるだろう。お銀さんだって高級プードル犬だ、五万にはなるね」
「あの野郎《やろう》、よほど金に困っていたんだな」
「まあな。賭《か》け麻雀《マージヤン》に競馬にパチンコがあの男の三大|趣味《しゆみ》、その上ご丁寧《ていねい》なことにそのどれもが下手の横好きときている。これじゃあいくら金があったって足りんだろう」
「しかし、キングさん、彼は血統書は持っていないはずですぜ。血統書のついていない犬なんぞ、買う人間がいるんでしょうかね」
「いないことはないだろう。それに奴《やつ》のことだ、どこかの畜犬商《ちくけんしよう》と手を組んで血統書を偽造《ぎぞう》することだってやりかねない。いずれにせよ、長太郎君もお銀さんも名犬中の名犬、どんなことをしたって買い手はつくさ」
「長太郎君たちを救出しなくてはなりません」
キングと平吉の会話《やりとり》のあいだにあれこれ考えた末、おれはこう結論を出した。
「でないと、わたしたちがなぜ昨夜あのような苦労をしたのか、それがわからなくなってしまいます。だいいちこのままでは昨夜のわたしたちの行動は長太郎君に不幸を招き与《あた》えただけになってしまいますよ。全くの徒労です。昨夜の行動を意味あるものにするには、長太郎君たちを救出する、これあるのみだ」
「おそらくドン松五郎君の言うことは正しいだろう。だが、どうやって長太郎君やお銀さんの売られた先をつきとめるのだい?」
キングは熱のない調子で喋々《ちようちよう》した。
「それをつきとめるのは江ノ島海岸に落とした十円玉を、パチンコ屋の玉箱《たまばこ》に落としたベアリングの玉を探し出すよりも難《むずか》しかろう」
「いや、意外に簡単かもしれません」
「簡単だと? まさか……」
「とにかく方法|次第《しだい》ですよ」
「ど、どんな方法があるというのだ?」
「テレビに出るんです。そして、マイクに向かって全国の諸犬に訴《うつた》えます。『わが親愛なる紳犬淑犬《しんけんしゆくけん》のみなさん、あなたの周囲にブルテリアの長太郎君はおりませんか。また、プードルのお銀さんの消息をご存知《ぞんじ》ありませんか。もしご存知なら、わたしのところへお知らせください』とね」
「お、おまえ、あまりのショックに頭がどうかしちまったんじゃねえのかい?」
平吉が心配そうにおれの顔を見た。
「おれが誰《だれ》だかわかるか?」
「平吉君、どうかしちまったどころか、生まれて始めてといっていいぐらい頭が冴《さ》えているところだよ」
おれは地面の上に坐《すわ》り直した。
「長太郎君もお銀さんも高価な犬だ。したがって彼と彼女《かのじよ》を買い入れる人間は、まずお金に不自由はしていないと見ていいだろう。金に不自由していないとなると、その家にはきっとテレビがあるはずだ。テレビを通じて訴えれば、ひょっとしたら長太郎君やお銀さん自身から連絡があるかもしれない。いずれにもせよ、すぐ行方《ゆくえ》はつきとめることが出来るはずだ。長太郎君を買い入れた人間がやはり彼に断耳断尾を試みようとしているなら、また救い出せばいい。キングさん、わたしの計画をどうお思いになります?」
「きみの思いつきはまことに卓抜《たくばつ》だね」
キングはわざとらしい声を発した。
「壮大《そうだい》にして出色《しゆつしよく》、巨麗《きよれい》にして奇壮《きそう》だ。いやまったくきみは、わしが考えていたよりも百倍も天才で、千倍も神童だよ」
「そう、やたらにほめられると、なんだかばかにされているような気分がします」
と、おれは言った。
「キングさんは、わたしなんぞがテレビに出演できるわけがない、と思っていらっしゃるのでしょう?」
「じつをいえば……まあ、そうだ」
キングはうなずいた。
「人間属の世界には一億総タレント化≠ネどというコトバがある。つまり、ちょいと気のきいた男、ちょいときれいな女、そしてちょいと歌のうまい男の子や女の子なら、テレビタレントになるのはたやすいことなのだ。だがわしら犬にとってテレビ出演の道ははるかに遠い。というのは、人間属には犬のコトバがわからないからさ。わしら犬のお喋《しやべ》りは、人間属にはただの吠《ほ》え声にしか聞こえない。これでは犬の俳優《はいゆう》も犬のニュース解説者も犬の司会者も出る余地はあるまい」
「いや、やり方によっては簡単にテレビに出演できると思います。もしなんでしたら、明日のモーニング・ショウに出演してみせましょうか?」
「おい、法螺《ほら》を吹《ふ》くのもいい加減にしろよ」
傍《そば》から平吉が口をはさんできた。
「明日のモーニング・ショウに出演してみせますだって? ふん、冗談《じようだん》いうな。それがもしほんとうだったら、おれはこれから先ずうっと逆立ちして暮《く》らしてみせらぁ」
「そのコトバを忘れないでおきますよ。とにかくですね、キングさん、長太郎君やお銀さんの行方を突《つ》き止めるためにも、わたしはテレビに出演することにします。その方法は、まあいまここでお話しするのはよしましょう。そのうちにおわかりになりますよ」
おれは門扉《もんぴ》を押して庭へまわった。奥《おく》さんは茶の間で新聞を読んでいた。仕事部屋を覗《のぞ》くと、主人は徹夜《てつや》の疲れで高いびきをたてていた。おれは地面を蹴《け》ってひらりと仕事部屋の畳《たたみ》の上に立った。そしてこんどはその畳を蹴って主人の仕事机の上にのぼった。机上には主人愛用の国語辞典があった。これがおれの狙《ねら》っているもの、テレビに出るための重要な小道具なのである。おれはその国語辞典を畳の上に前肢《まえあし》で蹴落《けお》とした。どさっ、と大きな音がした。主人は依然《いぜん》としてよく眠っている。だが、奥さんがこの音を聞きつけて仕事部屋へ顔を出した。
「まあ、ドン松五郎じゃないの! そんなところでなにをしているの?」
机上におれが立っているのを見て奥さんが叫《さけ》んだ。
「降りなさい! 庭へ出なさい! ここはあんたの来るところじゃないのよ」
そう怒鳴《どな》られるのはこっちも覚悟《かくご》の上である。であるから慌《あわ》てずにゆっくりとおれは机から畳に降り、国語辞典を口に啣《くわ》え、奥さんの方へ歩いて行った。
「どうしたのよ、ドン松五郎……?」
おそらく奥さんは辞典を啣えた犬などは生まれてはじめてなのだろう、目を丸くしておれを見ている。
呆《あき》れて見ている奥さんの足元に国語辞典を置くと、前肢《まえあし》でしっかりと辞典をおさえながら、おれは口で表紙をめくった。つけ加えるまでもなく、表紙の次の頁には、どんな辞典にも、その辞典を引く便宜《べんぎ》のために、「略語表」や「記号表」、そして「五十音|索引《さくいん》」が載っているが、おれが必要とするのは、この「五十音索引」だ。
「……ドン松五郎、あんたいったいなにをするつもり?」
奥さんがおれの前にしゃがんだ。おれは主人の机の上の灰皿《はいざら》の中からマッチの軸木《じくぎ》を一本啣え、それで「五十音索引」の第一列目の最下段の「お」の字を指した。次に「れ」、それから「は」「ト」「ン」「マ」「ツ」「コ」「ロ」「ウ」「テ」「ス」。
おれの啣えたマッチの軸木の動きを目で追っていた奥さんの顔色がみるみるうちに変わった。
「まあ、この犬おれはドン松五郎、だなんて言っている。この犬、言葉がわかるんだわ!」
奥さんは机にうつぶして寝《ね》ていた主人の肩《かた》をぐらぐらと揺《ゆ》すぶった。
「あなた、大変よ! ちょっと起きてください!」
「な、なんだよ。おれはたったいま眠りについたところなんだ。昨夜、徹夜で仕事をしたというのはおまえも知ってるだろ?」
「そ、それは知ってます」
「知っててなぜ起こすのだよ」
「たいへんなことが、起こったんです」
「たいへん? ……おれがなにか文学賞でも貰《もら》えることになったのか、内定したという電話でも入ったのか?」
「そうじゃなくて、ドン松五郎が、コトバを話すんですよ」
「まさか……。馬鹿をいうのもいい加減にしろ。犬が口をきくのはディズニーの映画だけでたくさんだ」
「口をきく、というのは正確じゃないわ、なんていったらいいかしら。つまりドン松五郎は五十音表の中の文字をあっちからこっちへマッチの軸木で指すのよ。それを辿《たど》って行くと『おれはドン松五郎です』という具合にちゃんと文章になっているの」
「嘘《うそ》をつけ。もしそれが本当だとすると、この犬は話せるばかりではなくアイウエオが読めるってことになるぜ」
主人は布団《ふとん》の上に坐り直した。
「世の中には読み書きはむろんのこと、算術までやってのける学者犬というやつがいるそうだが……」
主人はおれの顎《あご》に手をのばし、おれの顔を自分の方に向けてじっと睨《にら》んでいた。
「この犬、べつにそんな利口そうな顔をしていないがね。それに学者犬はほとんどがスピッツ種だそうだ。やっぱり、なんかの間違《まちが》いだろうな」
この主人の言葉はおれの自尊心をすこしばかり傷つけた。そこでおれは辞典の五十音表の上を口に啣えたマッチの軸木でしばらく撫《な》でまわした。濁音《だくおん》の場合は、その文字の上を二回、ぽんぽんと叩《たた》くことにした。
「……おまえ、いまのをなんと読んだ? おれには『ご主人さま、徹夜でお仕事ごくろうさんです』と読めたが……」
「ええ、わたしにもそう読めましたわ」
「すると……?」
「やっぱりなのよ。ドン松五郎は読み書きが出来るのよ」
「うーむ」
主人はおれの顔を穴のあくほどじっと眺《なが》めている。
自分の田へ水を引くような阿漕《あこぎ》な言い草になるかもしれないが、おれの教養はなかなかなものがある。読み書きソロバンなぞはなんの造作もなく出来るし、和歌や俳句《はいく》の心得も多少は持ち合わせているし、四書五経《ししよごきよう》だってちゃんと心得ている。だが、その教養のすべてを主人夫婦の前に残らず披瀝《ひれき》するのは拙《まず》いとおれは思った。
両人にあまり驚愕《おどろき》悦喜《よろこび》を与《あた》えてはならぬ。でないと彼等《かれら》はおれを見世物にし喰《く》いものにしてしまうだろう。喰いものになるのは一向に構わないが、主人が筆を捨てておれのマネジャーかなんかに転身したら大事《おおごと》である。非才ではあるが主人は一応文筆でなんとか喰っている。それを今さら違《ちが》う商売に誘《さそ》い込《こ》んでは気の毒というものではないか。おれはそう考えて学者犬がやりそうなことしかやらなかった。具体的に言えば小学一年生程度の読み書き、一|桁《けた》の足し算や引き算、それぐらいのところを披露《ひろう》するにとどめたのである。ま、これぐらいの能力がテレビには適《あ》っているだろう。あまり高度の教養を発揮《はつき》しすぎてはかえってテレビに出演できなくなってしまう。
「これはえらいことになった!」
小一時間ほどかかりっ切りで、おれの能力を試していた主人が、どうやら自分の飼い犬は尋常《じんじよう》の犬ではないと気がついたらしく、うわずった声で奥さんに言った。奥さんも気が顛倒《てんとう》しているのだろう、
「ええ、あなた、どうしましょう」
答えにもならないことを口走った。
「とにかくだれかに相談してみたら?」
「相談……?」
「そうよ。犬が人間の言うことを理解し、質問には五十音表を指して答える。五加える五は十だと計算する。……これはどう考えたって普通《ふつう》じゃないわ。それどころかなんとなく気味が悪いわ」
「気味が悪いか。同感だな」
「あなた、どなたか生物学者を知らない? ちゃんとした人に意見を聞いた方がいいと思うわ」
「ちゃんとした生物学者は知らないが、動物に詳《くわ》しいのなら一人いる」
「だれ?」
「ほら、学校放送の田島君だよ」
「ああ、理科班のディレクターね。田島さんならいいかもしれない」
主人はさっそく机の横の電話機に手を伸《のば》した。
これは後で知ったことだが、主人は小説を書く前、長いこと公共放送の学校放送の台本を担当して生計をたてていた。ある年、主人は「小学六年の理科」というテレビ教育番組を受け持ったことがあり、田島君というのはそのときのディレクターだった。
「はい、田島ですが……」
線が繋《つな》がって受話器から野太い声が洩《も》れてきた。毎度いうようにおれたち犬の聴覚《ちようかく》は鋭敏《えいびん》である。人間属には受話器の声は、一メートルも離《はな》れるともう聞こえなくなってしまうが、おれたちにはびんびんと響《ひび》いてくるのだ。
「おっ、田島君か。おれだ、松沢だよ」
「松沢さん……?」
「ほら、むかし、君の番組の台本を書いていた松沢だよ」
「ああ、これは先生、久し振《ぶ》りですなあ」
田島というディレクターはようやく電話の主がだれか思い当たったらしく、声が急にやわらかな調子になった。
「松沢先生、このごろは活字の世界でなかなかご活躍《かつやく》のようで、昔《むかし》の仲間のひとりとして陰《かげ》ながらよろこんでおります。が、しかし……」
田島ディレクターの声がここでふと微妙《びみよう》に変わった。いまごろ急に電話なんか寄越していったいどうしたんだろう、という疑問が彼《かれ》の声の変調にはこめられているようだった。
「うむ、電話したのは他《ほか》ではない。うちの飼《か》い犬の様子がちょっと変なのだ」
主人は田島の疑問をいちはやく察しとって、おれの顔を眺めながら送話器に向かって秘密めかして言った。
「君の専門はたしか動物学だったね?」
「はあ、東大で動物学を専攻《せんこう》しましたが、飼い犬の具合でも悪いんですか。そういうことは近くの獣医《じゆうい》さんに診《み》てもらったらどうです?」
「いや、様子が変だといっても病気ではないんだよ。ドン松五郎という雑種なのだが、この犬が、『おれはドン松五郎です』だの、『ご主人さまには毎晩徹夜でお仕事ご苦労さんです』だのというのだよ」
「またまた」
と、田島が笑った。
「朝っぱらから人を担《かつ》いじゃいけませんや。小説家ってよほど暇《ひま》な人種のようですな」
「いや、これは事実なのだよ」
「ほんとうなのよ、田島さん!」
奥さんも送話器に向かって叫んだ。
「それに一|桁《けた》の足し算に引き算も上手にやってのけるのよ!」
「ふうむ」
電話機の向こうで田島が唸《うな》った。
「もしそれが事実だとしたら凄《すご》い!」
「ねえ、田島君、こんなこと有り得るだろうか」
「有り得るでしょう、だって実際に有り得ているわけでしょう?」
「うむ、それはそうだが……」
「それに平岩米吉さんという犬の研究家の実験では、たとえばエビオスを四つやる癖《くせ》をつけておくと、三つしか与《あた》えずに去ると怒《おこ》って吠《ほ》え立てるし、また五つ目を出しても、四つをたべ終わるとさっさと立ち去ってしまうそうです。また、これは『太平記』に載《の》っているはなしですが、畑時能《はたときよし》という武将の飼っていた犬獅子《けんじし》なる犬が、人間より上手に物見の役を果たしたこともあるんですぜ」
「犬が物見の役を、かね?」
「ええ。畑時能が足利高経《あしかがたかつね》と対峙《たいじ》していたときですがね、犬獅子が足利の陣営《じんえい》に忍び込み、陣中に油断がないときは戻《もど》ってきてひと声吠える、陣中の兵士たちが眠《ねむ》っているときは声を立てずに戻ってきてただ尻尾《しつぽ》を振《ふ》ってみせたというんですね。そこで畑時能は犬獅子が尻尾を振ってみせたときに、足利軍に夜討《ようち》をかけました」
「それで結果は?」
「畑の軍勢の大勝利ですよ。それより時代は下って戦国の世には、犬は密使としても大活躍したそうです。なかでも有名なのは太田|資正《すけまさ》の飼い犬たちで、この犬たちは密書を封じ込めた竹筒《たけづつ》を首にかけて十里以内のところならどこへでも使いに出たっていいます。犬ってのはあれでなかなかの利口者なんですよ。特に犬の記憶力《きおくりよく》は抜群《ばつぐん》です。記憶力では象《ぞう》と匹敵《ひつてき》しますね」
「ほう、象も頭がいいんだねえ」
「ええ。八年前の出来事だって憶《おぼ》えているそうです。犬もそれぐらいの記憶力はあるんじゃないでしょうかねえ。とにかくですね、松沢先生、お宅の飼い犬が正真正銘《しようしんしようめい》、先生のおっしゃる通りの学者犬だったらこれはすごいことになりますよ」
電話機の向こうの田島ディレクターはここで声をひそめた。
「なにがどうすごいことになるかといいますと、まず第一にこれまでの動物学の教科書に若干手直しが必要になるでしょう」
「お、おい、田島君、あまり大袈裟《おおげさ》なことはいわないでくれよ」
主人が舌打ちを連発した。
「わが家の駄犬《だけん》が動物学の教科書の記述を変えてしまうなんて、ドン松五郎がそんな大それた犬だとはとても思えないがね」
「いやお宅の犬は大それた犬です。すくなくとも、犬の中にはゴリラ、チンパンジー、オランウータン、および手長猿《てながざる》などの類人猿《るいじんえん》に匹敵する知能を持つものがいる、と書き変えられる必要がありますよ」
主人はううむと唸って、おれの顔を眺めている。(この犬が動物学の常識を変えるだと。ふん、まさか!)といった顔付きを主人はしていた。
「第二に、現今のペット犬ブームが更《さら》に加熱しましょうね。ユリ・ゲラーが来日してから、われこそは超能力の持ち主だ、と自称する連中が雨後の筍《たけのこ》の如《ごと》く出現したでしょう。あれと同じことが起こりますよ。『うちの犬も学者犬だ』と言い出す愛犬家で雑誌社や新聞社や放送局は当分|悩《なや》まされることになります。そして飼い犬の居《い》ない家庭は『うちでも学者犬を育てよう』というわけで、先を争って畜犬商のところへ駈《か》けつけるでしょうね」
主人は送話器に向かってなにか言おうとした。だが、声にはならぬ。ただ、数度、口をぱくぱくさせただけだった。
「お宅のドン松五郎氏は雑犬でしたね。ははーん、するとこれは雑犬ブームが来ますよ」
「そ、そういうものなのかね」
主人の口からようやく言葉らしいものが出た。
「ほんとうにそうなるかね」
「なるでしょう。日本人というのはそういう人種なのですから。第三に、ドン松五郎氏の出現は戦争の形態を変えるかも知れません」
「戦争の……!?」
「然《しか》りです。もしも犬にそれだけの知能があるとすれば、犬の背中に核弾頭《かくだんとう》をくくりつけて敵陣に突っ込ませることも可能でしょう? 国と国との間がいかにこじれても、戦闘《せんとう》は犬に委《まか》せて人間は楽隠居《らくいんきよ》ということになりそうですよ」
「まさか!」
「まあこれは半ば夢物語《ゆめものがたり》のようなものですが、とにかく、ドン松五郎氏はルバング島から帰還《きかん》した日本軍元軍人以上の騒《さわ》ぎを、この国にもたらすかも知れません。なにしろ、この国の住人は空騒《からさわ》ぎやむだ騒ぎのたぐいが大好きですし、ルバング島から帰還したドンキホーテも、話題としてはそろそろ鮮度《せんど》が落ちてきているところですから、彼にかわってドン松五郎氏が英雄扱《えいゆうあつか》いされることはまず間違《まちが》いありませんね」
ふたたび主人が黙《だま》り込《こ》んだ。
「……ま、そういうわけですから、先生、わたしが行くまで、ドン松五郎氏のことは誰《だれ》にも口外なさっちゃいけません」
「……き、きみがこっちへ来る?」
「ええ、すぐまいります。報道部のディレクターも連れて行きますよ。むろん、カメラマンも、ね」
向こうで受話器を置く音がした。だが主人は受話器を持ったまま、ぼんやりとおれの上に眼《め》を据《す》えているだけである。
「このドン松五郎が名犬か。犬の歴史を変えるかも知れないほどの稀代《きたい》の名犬か」
受話器を元に戻した主人がおれの顔をしげしげと見た。
「わからないものだなあ。まったくこれはどういうことなのだろう」
「うちにもそろそろ運が向いてきた、ってことじゃないかしら」
と、奥さんがおれの背中に付着していた藁《わら》くずをつまみ取ってくれたが、これはなかなか細かい心づかいと言うべきで、こんなにやさしくされたのははじめてなので、おれは思わず戸惑《とまど》ってうろうろしてしまった。だいたいが、おれが土足で畳の上に上がり込むというのも本来なら許さるべからざる不作法で、いつもなら背中をごつんとどやされ追い出されるところであるが、いまはそれも咎《とが》められぬ。世の中が犬公方《いぬくぼう》こと徳川五代将軍|綱吉《つなよし》の時代へ急に逆もどりしたようで、なんだか薄気味《うすきみ》が悪い。
「……運が向いてきたとはどういう意味だ」
主人は煙草を口に啣《くわ》えた。
「この犬のおかげで大金でも転がり込むというのかね?」
「お金が入るかどうかはわかりませんわ。でも本が売れますよ。それにいま新聞に連載中《れんさいちゆう》の小説だってきっと評判になるでしょうし……」
「なぜだ」
主人は奥さんの顔に紫煙《しえん》を吐《は》きつけた。
「どうしてそうなる?」
「あなた、作家なのに想像力がないんですのね。天下の名犬を飼っている作家、としてみんなが興味を持つからですよ」
「浅間《あさま》しいことをいうんじゃない」
主人が荒《あら》っぽい声を出した。
「おれは飼い犬のおかげで人気作家や流行作家の仲間入りなぞしたくない。おれの仕事は自分のなっとくのいく作品を書くことだけにある。それが売れようが売れまいがこっちの知ったことではないのだ」
「とにかく本が売れます。あなたの読者がそれによって一人でも二人でも殖《ふ》えます。これは素敵《すてき》なことですわ」
「おまえは何も知らんな」
主人はまだ長い煙草を灰皿《はいざら》にぎゅっと押《お》しつけた。
「下手に本など売れてみろ。運が向くどころか税金で青息吐息《あおいきといき》ということになってしまうぜ。物書きにとってはこれが一番|怖《こわ》い」
「税金、ですか?」
「ああ」
と主人は頷《うなず》いて、机の引き出しからボール紙を二枚取り出し、その一枚にサインペンで五十音を書きはじめた。本が売れるとどういう仕掛《しか》けによって税金が高くなるのか、それを解説してくれるのかと思ったが、そうではないらしい。おそらく主人の作ろうとしている大きな五十音表は、おれと「会話」するための準備だろう。
「おれたち物書きには、政治家諸公や歌手諸君の如き裏収入が一文もない」
「……裏収入ってなんですの?」
「支払《しはら》い調書のない収入さ。税務署に申告しないでも暴露《ばれ》ない収入のことだ。ところがおれたちにはわずか三千円の原稿料《げんこうりよう》にも支払い調書というやつがついてくるから、収入のごまかしようがない。この点、おれたちはサラリーマン諸君と同じだ。むろん、おれは収入がごまかせないからつまらんといっているんじゃない。一方に収入をごまかす政治家みたいなのがいて、他方に収入をごまかせないおれたちがいる、というのを不公平だといっているのだ」
よほど税金の取り立てられ方に不満があるらしく、主人の口調にはひどく熱がこもっている。
「たとえば昨年の衆・参両院の議員諸公の数は七百三十五人だが……」
と、主人は机上のメモ帳に手をのばした。
「このうち、所得が一千万円を超《こ》えました、と申告したのは三百四十六人、半分以下だ。一般《いつぱん》議員の給与《きゆうよ》、研究費、ボーナスなどの合計は九百七十二万円余。給与所得|控除《こうじよ》をこれから差し引いても九百一万円、つまりあと九十九万円の収入があれば一千万円の公示対象額になるはずなのに、半分以上の議員が他に収入はなかったと申告している。これはすこし変ではないか。自治省が公表した政治資金は昨年の上半期だけで二百二十五億円。この大金はどこへ消えちまったんだい? それともこの大金が議員|ども《ヽヽ》の手には渡《わた》らなかったというのか?」
「そんなこと、わたしに問いつめたってだめですわ」
奥さんは皮肉たっぷりな口調で答えた。
「わたしは議員じゃありませんもの。それにあなた、よくそれだけ細かい数字を調べましたね。仕事がはかどらないはずだわ」
「まあ、聞けよ。いったい税務署は議員たちの申告をなんだと思っているんだろう。おかしいとは思わないのだろうかね。だいたい一国の首相の所得が七千八百万円というのも変だぜ。これは作家のランキングに入れると第八位、俳優のランキングでは第四位だ。その程度の所得で三千|坪《つぼ》の家屋敷《いえやしき》を維持《いじ》し、池の鯉《こい》の世話をし、家の子|郎党《ろうとう》を養うことなどできるだろうか。おそらくそれぐらいの金は庭木の手入れと鯉の餌代《えさだい》で消えてしまうにちがいないのだ。ここんところがおかしい。つまり、一国の首相ならこの百倍も所得があっていいし、あるのが当然だ。そのかわり、いくら収入があろうともそれを隠《かく》すな、とおれは言いたいわけさ。議員諸公もそれと同じ、彼等《かれら》はおれたちの生活をすこしでもよくするために働いている。だから所得はたくさんあっていい。ただし、それを隠すな、すくなくとも物書きやサラリーマンのように所得をごまかすことのできない人間がいる間は。……こういうことだ」
「まあね」
「これはおれと同じ仕事をしている人だが、昨年一億の収入があった。彼の税額はその八五%の八千五百万円だ。つまり彼の手元に残ったのは一億円働いてわずかの千五百万円だ。一方土地成金の税率は一五%、こんなべらぼうなはなしがあるか。彼は血汗をしぼっていい作品を書いた。だから一億円の印税が入ってきたのだぜ。なにも遊んで楽をしていたわけじゃないのだ。しかるにこの高税率。彼は出版社から金を借りて税金を払《はら》ったそうだが、そんなわけでおれは本が売れるのは真っ平なのだよ。次の年、税金を払うために馬車|馬《うま》のように働かなくてはならなくなるのは目に見えているからな」
主人は、日本文学が不毛なのは税金が高いせいだ、というようにここで目玉を剥《む》いて大見得を切った。おれは、主人はなんてばかなのだろうと思いながら、仕事部屋を出て犬小屋へ戻《もど》った。たしかに主人の不平は当たっているだろう。日本国の税制は改められるべきかもしれぬ。だとしたら不平不満に終わらせないで世に訴《うつた》えたらどうなのだ。主人にはペンというまたとない武器があるではないか……。
こんなことを考えているうちにおれは眠《ねむ》ってしまった。が、間もなく聞きなれない機械音がするので目を覚ました。見るとおれの目の前にカメラのレンズがあった。
薄目《うすめ》を開けて様子を窺《うかが》うと、カメラは公共放送の名入りである。カメラマンの横に二人の男が立っておれを見おろしている。ひとりはまだ年は若いが堂々たる恰幅《かつぷく》、もうひとりは痩《や》せていてサングラスをかけていた。
「おっ、田島君、犬が目をさましたようだよ」
サングラスの男が恰幅のいいのに言った。ははーん、すると肥ったのがさっき主人と電話で話していた学校放送のディレクターか、とおれは心の中で頷いた。
「目を覚ましたところで、すこしこのへんを歩いてくれるといいんだがな。そのほうが絵になる」
と、田島ディレクターが玄関《げんかん》の方を向いて言った。玄関には主人が立っていた。
「よし。ちょっと待ってくれたまえよ」
主人の顔が家の内部《なか》に消え、五秒もしないうちにまた現れた。主人は手に一片のチーズを持っている。
「この犬はチーズが好物でね。チーズにありつけるとなれば千里の道も遠しとせずさ」
言いながら主人はチーズを門扉《もんぴ》の向こうの道路へ放り投げた。ここで主人に逆《さから》ってみせてもはじまらないので、おれは門扉を押しておもてに出た。このとき、まだ頭の芯《しん》の方が完全に目を覚ましていなかったのだろう、門扉を押す右の前肢《まえあし》が震えて二、三度、宙を掻《か》いた。
「おおっ!」
田島ディレクターが頓狂声《とんきようごえ》をあげた。
「いまの動作を見ましたか、増山さん。ドン松五郎は門の扉《とびら》を押す前に、二、三度ノックをしましたよ」
「うむ、見たとも!」
増山と呼ばれた男が大仰《おおぎよう》に頷いた。
「さすが学者犬だけあって礼儀《れいぎ》が正しい。戸を開けるときは、いつもああやってノックをするのだろうな」
おれは笑いたくなるのを懸命《けんめい》になってこらえながらチーズを食した。ばかばかしい、だれが門扉を開くときなどにノックなどするものか。ノックはこれから自分が入ろうとするところにだれか先占者《せんせんしや》がいる場合に用いられるものだろう。しかるに道路は天下のもの、先占者もへったくれも居やしない。にもかかわらず門扉をノックして公道に出る者があればそいつはとんだ愚《おろ》か者《もの》だ。
(……どうやらこの二人、なにがなんでもおれを世に稀《まれ》なる名犬に仕立て上げたいらしい。そういう頭でいるから、こっちのつまらぬ肢《あし》さばきにも感嘆《かんたん》しているのだろう)
チーズを平らげ終わったとき、向こうの電柱の陰《かげ》から、
「おい、松五郎君、テレビ局の人間が飛んできたようだが、やはりきみは本気でテレビに出るつもりなのかね」
という声が聞こえてきた。見るとキングと平吉が電柱の陰からこっちを覗《のぞ》いている。
「本気ですよ」
「……えらい騒《さわ》ぎになるよ」
キングと平吉がおれの傍《そば》へ駆《か》けてきた。
「それにマスコミ攻勢《こうせい》できみは潰《つぶ》されてしまうだろう。これは保証するが、きみは健康を損うことになるよ」
「ブルテリアの長太郎君とプードルのお銀さんの行方を突《つ》きとめるためですから仕方がありません。それに、さっきわたしはテレビに出演してみせます、と約束《やくそく》しましたが、その約束をいま実現しつつあるところです。平吉さん、逆立ちの用意はよろしいですか」
主人が玄関口で呼んでいるのでおれはこう言い残して門の中へ入った。
「ドン松五郎とわたしのコミュニケーションはこの二枚の表によって行われる」
主人は改まった口調で言い、田島ディレクターと、もうひとりのサングラスの男の前に、例の手製の五十音表と零《ゼロ》から九までの数字を書き込んだボール紙を並《なら》べた。なお、後でわかったことだが、サングラスの男は増山といい、公共放送の報道部のプロデューサーだった。
「つまり、わたしがドン松五郎に問いかけると、この犬はこの二枚の表の文字や数字を示すことによって答えるという仕掛《しか》けになっているわけだ」
主人はおれの前に割り箸《ばし》の片割れを置いた。
「ドン松五郎、その箸を口に啣《くわ》えるんだ」
おれは大人しくそれを前歯で噛《か》んで身構える。田島ディレクターとサングラスの増山プロデューサーが異口同音に「ほほう」と嘆声を発した。カメラマンがかねて用意の照明灯のスイッチを入れ、撮影機《さつえいき》をまわしはじめた。テレビ出演できるかどうか、そしてテレビを通じて全国の諸犬にブルテリアの長太郎やプードルのお銀の安否《あんぴ》を問う機会を掴《つか》めるかどうかの、ここは境い目である。おれはさすがに緊張《きんちよう》した。
「ドン松五郎、おまえはいったい何者だね?」
まことにばかばかしい質問である。本来なら犬小屋にもぐり込んで|ふて寝《ヽヽね》を決め込みたいところであるが、ここが辛抱《しんぼう》のしどころだと思って、おれは口に啣えた箸で五十音表上の「イ」と「ヌ」を指した。田島・増山の両氏はただ呆然《ぼうぜん》としておれを見つめていた。主人はどんなものだい、と鼻高々で、おれに質問の第二矢を射《い》た。
「おまえの名前は?」
おれは「ト」と「ン」と「マ」と「ツ」と「コ」と「ロ」と、そして「ウ」を示した。田島・増山の両氏は、こんどは口をぽかんとあけておれに見とれていた。
「よし。次は算数をやってみよう。いいかね、五から三を引けばいくらになる?」
おれは迷わず「三」を指した。主人は舌打ちをした。
「おい、ドン松五郎、よく考えて答えてくれ。五から三を引くんだよ」
おれは依然《いぜん》として「三」を指し続ける。こんどは、主人が苦笑した。
「やはり引き算はまだ無理らしいな」
おれは激《はげ》しく首を振《ふ》って五十音表の上の文字をあちこち箸で示した。すなわち「コ」と「フ」と「カ」と「リ」と「ノ」と「ア」と「タ」と「マ」と「ヲ」と「サ」と「ン」と「フ」と「カ」と「リ」と「ニ」と「ス」と「レ」と「ハ」と「ヤ」と「ハ」と「リ」と「サ」と「ン」と「フ」と「テ」と「ス」というメッセージを主人に伝えたのである。右を文章にすれば、
「五分|刈《が》りの頭を三分刈りにすればやはり三分です」
となる。主人はおれの言った意味がわかったらしく、すこしく顔色を変えた。
「……こいつ、なかなか洒落《しや》れたことを言いやがる」
「なかなか洒落れたどころじゃありませんよ」
田島が主人に向かって怒鳴《どな》った。
「先生、これは奇跡《きせき》ですぜ」
「奇跡?」
「そうですとも」
田島ディレクターは大きくうなずいた。
「五引く三を、五分刈りの頭を三分刈りにすれば、と解くところが奇跡です。すなわち、このドン松五郎は犬でありながら数《かず》の観念を把握《はあく》しているばかりでなく、理髪店《りはつてん》だの、バリカンだの、長髪だの、五分刈りだの、人間の文明に対しても深い理解を示しているんです。これは驚《おどろ》くべきことです」
人間の文明とはすこし大袈裟《おおげさ》だが、田島ディレクターの気持ちもわからぬではない。おれは内心にやにやしながら田島ディレクターのおれに対する称賛の声を聞いていた。
「この犬は秀才です、天才です、いや、それ以上の存在です。おそらく神が犬に姿をかりているのです」
「この犬を松沢先生が私有するのは、すでにひとつの罪悪ですな」
サングラスの増山プロデューサーが田島ディレクターの後を引き取った。
「この犬を日本の国民の、いや全世界の人々の共有財産とすべきじゃありませんかねえ」
「ど、どういう意味かね?」
主人は増山プロデューサーに訊《き》いた。
「動物園に寄付しろというのかね。あるいは博物館に飾《かざ》っておくべきだとでも……?」
「テレビに出演させるべきです」
「テレビか……」
「テレビです。動物学者はテレビでこのドン松五郎を見て新しい学説を打ち立てるでしょう。哲学者《てつがくしや》には新しい世界観を考え出すきっかけになるかもしれません。そして大衆にはニュースになります。事件になります。事件こそ大衆の生きるための糧《かて》なのです。事件が起こらぬと大衆は退屈《たいくつ》して死んだも同然となってしまうのです」
「テレビは嫌《きら》いだなあ」
と主人は呟《つぶや》いた。映像文化は活字文化より数等|下《くだ》らない、と主人は考えている。つまり頭が古いのである。言葉をかえれば事大主義的なのだ。おれに言わせれば、うまく出来たテレビドキュメンタリィーは主人の書く滑稽《こつけい》小説よりは何層倍もましだが。
「べつにいいじゃありませんか。先生が出演なさるわけではないのですから」
田島ディレクターが傍《そば》から加勢する。
「テレビに出るのはこの犬なんですよ」
「それはそうだが……」
「出演料はごっそりと出しますよ」
増山プロデューサーが主人の弱いところをついた。
「人間ですと、ランクというものに縛《しば》られます。Aという俳優は三十分で十万、Bは二十万というふうに、出演料の相場は決まっています。しかし、犬にはランクなどというものがありません。つまり、いくらでも出せるんですよ」
「念のために伺《うかが》っておくが、おおよそのところどれぐらいかしらん?」
と主人が問うのに、プロデューサー氏はぱっと右手をひろげて答えのかわりにした。
「……五千円かい?」
「まさか!」
「では五万円!?」
「冗談《じようだん》じゃありません。五十万円です。ただし、条件がひとつあります。公共放送以外のテレビには当分のあいだ出演はご遠慮《えんりよ》ねがいたいですねえ……」
「つまり、専属料こみかね?」
「まあ、そういうわけです」
「ふうむ……」
主人は憮然《ぶぜん》たる面持《おもも》ちで顎《あご》を撫《な》でた。
「わたしは前に一度テレビに出たことがあるが、そのときの出演料は二万円だった。なのに、この犬はその二十五倍もとるのか」
「先生、ドン松五郎とご自分とを較《くら》べちゃいけませんよ」
田島ディレクターは主人を慰《なぐさ》めて言った。
「ドン松五郎は稀代の学者犬、それにひきかえ先生は言ってはなんですがただの人じゃありませんか。五十万と二万、出演料に大差がつくのは当然です」
これでは慰められているのやら、あなたは犬以下ですよとけなされているのやらわけがわからない。主人は渋面《じゆうめん》を作って田島ディレクターを睨《にら》みつけた。
「くどいようですがね、先生、ドン松五郎をほかのテレビ局へ出演させては困ります」
田島ディレクターは主人の渋面にいささかも頓着《とんちやく》することなくさらに言葉を続けた。
「これは約束していただけますね」
「わかっている」
「では明朝七時に迎《むか》えの車を伺わせます」
「迎えの車だと?」
主人の自尊心にまた|ひび《ヽヽ》が入ったようだった。その証拠《しようこ》に声の調子がかなり険悪《けんあく》になってきている。
「わたしがテレビに出たときは、国電で行ったはずだぜ」
「ですから先生、ドン松五郎とご自分を比較《ひかく》してはいけません、と申し上げたでしょう? ドン松五郎は天才的な学者犬なんですよ」
「わ、わかったよ。車だろうがヘリコプターだろうがよこすがいい」
「それで先生、ドン松五郎の好物はなんでしょうか。ドッグフードを用意しておきましょうかね。それともステーキ、ハンバーグの類《たぐい》を準備しておきましょうかね」
主人の自尊心にさらに一層大きな亀裂《きれつ》が走ったようである。目尻《めじり》がぐいと吊《つ》りあがったことでもそれは明らかだ。
「わたしが出演したときは、ケーキ一個とコーヒー一杯《いつぱい》で済ませたくせに、犬にはステーキの大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いか。きみはわたしをいったいなんだと思っているのだ!」
「人間だと思っていますよ」
田島ディレクターは平然たるものである。
「そしてドン松五郎は大天才犬。ねえ、先生、いちいちご自分とこの大天才犬を並《なら》べて考えては、結局、損ですよ」
主人はぶるぶる震《ふる》えているだけで、もう返答もせぬ。
「まあ、とにかく心配はいりませんよ。スタジオ内ではドン松五郎に老練な訓練士をつけるよう取り計《はか》らいますから」
とうとう主人の自尊心はまっぷたつに割れた。主人は拳固《げんこ》で畳《たたみ》をどんどんと叩《たた》いた。
「わたしのときはスタジオの内部《なか》に一時間も放ったらかしにしておいたではないか! なのにきみはドン松五郎に付き添《そ》いを用意するという。世の中はいったいどうなっているのだ!」
「世の中というやつは珍《めずら》しいものが好きでしてね。先生はただの人ですからそう珍しくはありませんが、この犬は珍《ちん》にして奇《き》なる学者犬です。いくら張り合おうったって勝負になりませんや」
言いながら田島ディレクターはおれを抱《だ》き上げて主人の膝《ひざ》にそっと置いた。
「主従が睦《むつ》まじくしているところをもう一度、撮《と》らせていただきます。先生、にっこり笑っていただけますか?」
にっこりするかわりに主人は、
「とっとと出て行け!」
と、怒鳴った。
田島ディレクター一行が帰った後、おれは犬舎に戻《もど》って長々と寝《ね》そべった。生まれてはじめて十六ミリ撮影機などというものの前に立ったのでさすがに疲《つか》れたのである。
うつらうつらしているうちに、屋内から主人のぶつくさとぼやく声が聞こえてきた。
「ドン松五郎がいかに名犬か知らないが、あれほどまで、わたしと差をつけることはあるまいじゃないか」
「いいじゃありませんか、そんなことを気になさらなくても……」
なだめているのはむろん奥《おく》さんである。
「それにドン松五郎は五十万も稼《かせ》いでくれるんですよ。五十万といえばあなたの一カ月分の収入に匹敵《ひつてき》するわね」
「まったく悪い世の中になったものだ」
「でも、五十万といえば大金ですよ」
「だから悪い世の中なのだ。いくら汗水《あせみず》流しても五十万稼ぐのは至難《しなん》の大事業だぜ。なのにたかが犬コロがテレビカメラの前でワンと啼《な》けば五十万になる。こんな馬鹿《ばか》なはなしがあるものか。土地成金は大全盛、珍奇《ちんき》な見世物も大全盛。額に汗をしない連中が大金を掴《つか》む世の中なんぞ犬に喰《く》われてしまうがいいのだ」
「それにしても五十万よ」
「うるさい!」
とうとう主人の癇癪玉《かんしやくだま》が破裂《はれつ》したようである。
「五十万、五十万と馬鹿のひとつ覚えのように言うな。そんなに五十万が大事なら、いまから、ドン松五郎をおまえの亭主《ていしゆ》にするがいい」
主人の怒《いか》りはおれにもよくわかる。が、しかし、おれを奥さんと添わせようなどとは悪い洒落《しやれ》というものだ。
「そのかわり、たったいまからおれがこの家の飼《か》い犬になってやる」
下駄《げた》を突《つ》っかける音がした。そしてすぐに玄関《げんかん》のドアが開いた。
「……おまえに罪はないが、とにかく呆《あき》れ果てた世の中だ」
主人はおれの頭上でそう呟いてから、からころ下駄を引きずって門の外へ出て行った。おれのかわりに犬舎に入る決心で飛び出してはみたものの、やはり犬になるのは無理な話だと気がついて、うさ晴らしにパチンコの玉を弾《はじ》くつもりにでもなったのだろう。四隣《しりん》ようやく鎮《しず》まったので、ふたたびおれはうつらうつらしはじめたが、間もなく、
「……おい、ドン松五郎」
という呼び声で夢路《ゆめじ》の入り口からひき戻された。声のする方へ目をやると、門扉《もんぴ》の間から平吉がこっちを覗《のぞ》き込《こ》んでいるのが見えた。平吉の背後にはキングの顔もある。
「ちょっと顔を貸してくんな」
「ちょうどとろとろっとしかけたところなんだけどなあ。ひと寝入《ねい》りしてからではいけないかい?」
「いくらテレビに御出演遊ばすからって、そうつけあがるんじゃねえ」
平吉は牙《きば》を剥《む》き剥き、どすのきいた声で言った。
「キングさんがおめえに言っておきたいことがあるそうだ。国分寺裏の墓地へ来てもらおう」
キングは平吉のうしろからただ凝《じつ》とおれを睨《にら》みつけていたが、その眼には殺気のようなものが漲《みなぎ》っていた。これはことによると私刑《リンチ》だな、とおれは思った。
国分寺裏の墓地はずいぶんと広い。その広い墓地のほぼ中央に、表に「井上家代々之墓」と刻んだひときわ目立つ大墓石《だいぼせき》が立っているが、キングと平吉はおれをその前に連れ込んだ。
「間違《まちが》っても逃《に》げようなどという気を起こすんじゃねえぜ」
平吉は凄《すご》んだ声を出した。
「みんな、気が立っている。毛筋ほどでもその素振《そぶ》りをみせたら大事《おおごと》だ。おまえなんぞずたずたに引き裂《さ》かれてしまうからな」
「忠告してくれているのか、それともおれを怯《おび》えさせようとしているのか、どっちかしらないけど、まあ、いい方にとることにして、平吉君、忠告ありがとう」
おれは内心びくびくものだったが、できるだけ平静を装《よそお》って平吉に軽く尻尾《しつぽ》を振《ふ》ってみせた。
「どういう理由から吊《つる》し上げを喰うことになったのかよくわからないけど、おれはいま生きづくりになる寸前の鯉《こい》の心境なのさ。だからどうぞ御安心を」
「生きづくりになる寸前の鯉の心境だと?」
平吉は魚が好物なので鯉と聞いたとたん、もう涎《よだれ》を一本、たらりと垂している。まったく単純なやつだ。条件反射の親玉みたいな犬である。こういうのがいるから、パブロフなんかに目をつけられて、おれたち犬が条件反射の実験材料にされてしまうのだ。
「殺される前の鯉はいったいどういうことを思っているんだ? そしてそれがおまえとどう関係してるっていうんだ?」
「殺される前、鯉は頭に奉書《ほうしよ》の烏帽子《えぼし》を冠《かぶ》せられるんですね」
「なんでだ?」
「なぜかは知りませんよ、人間が考えついたことなんですから。さて、次に鯉は俎板《まないた》の上にのせられ、胴体を包丁《ほうちよう》で三度|撫《な》でられますね」
「なぜ、三度だ?」
「推察するに、さあ覚悟《かくご》をおし、と人間は鯉に引導《いんどう》を渡《わた》しているんです」
「ご丁寧《ていねい》なこったぜ」
「まったく。さて鯉は包丁人によって胴体から一片の鱗《うろこ》を剥《は》ぎとられます」
「なんのまじないだ、そりゃ?」
「まじないじゃありませんよ。鯉はこの鱗を上をむいている方の眼に嵌《は》め込《こ》まれるんです。鯉は覚悟のいい魚ですから、眼をふさがれるともう大人しくなります。じたばたしませんよ」
「ふうん、それで?」
「つまりおれはいま、鯉にたとえれば眼に鱗を嵌められた感じ、決してじたばたいたしませんてこと」
「ちぇっちぇっちぇっ」
平吉は牙を剥いた。
「鯉なんか持ち出して他犬《ひと》の気をひきやがって、そんなことならはじめっから『ハイ、ボク、ジタバタシマセン』と簡潔《かんけつ》に言え。時間の不経済じゃねえか、まったく」
「おーい! ドリフターズではないが全員集合!」
それまで、おれと平吉の会話《やりとり》を黙《だま》って見ていたキングが、突然《とつぜん》、大声をあげた。
と、いったいどこに身をひそめていたのか、あちこちから十|匹《ぴき》近い犬が、ひらり、あるいはのっそり、またあるいはぬうっと姿を現し、おれの前の墓石にてんでに陣取《じんど》った。おどろいたことに集まって来たのは犬ばかりではなかった。猫《ねこ》もいたのである。
「よう、チビ公、久しぶりだな」
集まった猫の中で最も巨大《きよだい》な一匹が、でんと坐《すわ》って右の前肢《まえあし》を曲げ招き猫のようなポーズをとりながらおれに挨拶《あいさつ》をした。見るとそれは以前おれの飼い主の家に奥さんと四匹の仔猫《こねこ》を連れて居候《いそうろう》していた黒公である。
「やあ、しばらく」
おれはあんまりうれしくなつかしかったものだから、思わず|ちんちん《ヽヽヽヽ》をしてしまった。(「ちんちん」と平仮名で書いたのは、同じことを片仮名《ヽヽヽ》で綴《つづ》るより上品な感じがするように思われるからである)
「元気でなにより、と言いたいところだが、どうもそうはいかねえようだ」
黒公は声を落として、
「おめえ、テレビに出演することになったんだって?」
「じつはそうなんですよ」
「そいつはよくねえ魂胆《こんたん》だな。それに聞けば、人間と五十音表かなんかを仲立ちにして会話を交わしたのがテレビに出るきっかけになったそうだねえ?」
「それも事実です」
墓石に腰《こし》を下ろしたり寝そべったりしていた犬や猫たちが、一斉《いつせい》にぶるぶるぶるるると啼《な》きたてた。みんなはおれが人間と意思を疎通《そつう》させたこと、つまり、人間の言葉をもって人間と会話を成り立たせたことを怒《おこ》っているようである。黒公が言った。
「おれたち猫も、それから犬のお兄さんお姉さんがたも、おめえのように五十音表を仲立ちにして人間と意思を通わせ合おうと思えば通わせ合えるのだ。なにしろおれたち犬猫は人間の話していることや人間の使っている文字が理解できるのだし、これでみんな結構知能指数も発達しているんだから……。それなのに、おれたちの一番遠い祖先からこのおれたちに至るまで、ほとんどがおめえのように出過ぎた真似《まね》をしねえで通してきたのはなぜかね」
「つまり人間に利用されないためよ」
平吉が黒公の後をひきついだ。
「別に言えばおれたち自身を人間から守るためだ。たとえば人間と五十音表で会話をする、そうなるとおれたちの大切にしていた知恵が人間へ流れて行ってしまう。人間は強慾《ごうよく》だからこっちから知恵を吸い上げるだけで、そのお返しをしてくれやしない。また、人間がもし、ドン松五郎の如《ごと》き、英雄《えいゆう》気取りの抜《ぬ》け駆《が》けを見て、おれたち犬猫が自分と匹敵するほどの知能を有すると気付いたらどうなる?」
「おそろしいことになる!」
と、墓地に集合した全員が声を揃《そろ》えて叫《さけ》んだ。そして口々に、
「商人はおれたち犬猫を店番に使うだろうよ。なにしろおれたちは数のかぞえ方も、札《さつ》のかぞえ方も、これでなかなかお手のものなのだからね」
「工場経営者はおれたち犬猫を単純労働につかせるだろうね。またお猿《さる》の電車という好例があるように、犬電車だの猫電車だのというやつを走らせなければならなくなるにちがいない。つまり犬猫は待ってましたとばかりこき使われるのだよ」
「悪人どもがおれたちを悪の手先として利用するだろうな。『ドーベルマン・ギャング』という映画があったが、あれが現実となるのだ」
「戦争に狩《か》りだされるわよ。爆弾《ばくだん》をひとつずつ背負わせられ、敵陣《てきじん》へ突《つ》っ込《こ》ませられるのよ」
と叫んだ。
「その通り!」
おしまいにキングがおれに言った。
「だからこそ犬猫はこれまで人間の前ではその能力を隠《かく》してきたのだが、きみはわしら犬猫属のこの生き方に反逆した。これはいけなかったねえ」
「今ここに集《つど》いし町内の犬と猫の諸君よ」
キングは墓石のあちこちにたむろする犬猫たちに語りかけた。
「諸君がすでに糾弾《きゆうだん》された如く、わしら犬猫はこのドン松五郎君のために大いなる危機におち入りました。すなわち、わしらはこれまで人間に悪利用されるのをおそれて、故意《こい》に|馬鹿っ振り《ヽヽヽヽヽ》をしてきたのに、彼の抜け駆け的行動によって、わしらがじつは人間と同程度の知力を有することが暴露《ばれ》そうになっているのであります。諸君よ、このドン松五郎君の犯《おか》した罪はいったい何に値《あた》いするのでありましょうか?」
「死だ! 死に値いする!」
全員が異口同音に吠《ほ》えたて啼《な》きたてた。おれはそれまでなんとか平静を装っていたが、「死」という言葉を聞いたからはさすがに真《ま》っ蒼《さお》にならざるを得ぬ。恐《おそ》ろしさの余り躰《からだ》も縮みあがり、ついでがたがたと胴震《どうぶる》いが出はじめた。
「たしかにドン松五郎君の行為《こうい》は死に値いするだろう」
キングは大きくうなずいた。
「わしも諸君の決定を支持する」
「ようし。ドン松五郎よ、おれがおめえの頭に最初にこの右ストレートを喰らわせてやるぜ」
黒公が左の前肢《まえあし》で右の前肢を撫《な》でさすりながらおれの前に立った。
「おれのパンチ力はちょいとしたものなんだ。おまえは一発で脳震盪《のうしんとう》を起こすだろう。そうすりゃそのあとみんなにどんなことされたって平気の平左《へいざ》だ。つまり、おれの、これは慈悲《じひ》なのさ」
おれは思わず天に向かって「たすけてくれ!」と叫んだ。だが、その叫びは声にはならなかった。またおれは破れかぶれでその場から逃げ出そうとも考えた。だが、おれの四肢《しし》は硬直《こうちよく》し前後左右のどちらへも一歩も肢《あし》を踏《ふ》み出すことはできなかった。おれは他犬《ひと》に殺されるよりは自分から進んであの世へ行った方がいいと咄嗟《とつさ》に思いつき、舌を噛《か》もうとした。だがその勇気がどうしても湧《わ》いてこなかった。おれはまったく進退きわまった。
人は死ぬ間際の二秒か三秒間に、走馬燈《そうまとう》を見るが如く己《おの》れの一生を反顧《はんこ》するという。おれたち犬もそれは同じである。黒公が右の前肢を頭上高く振り上げ、そしておれの脳天めがけて振りおろすほんの二秒か三秒の間に、おれは高校の地学教師の家で母親の乳房《ちぶさ》をしゃぶっていたときの懐《なつ》かしい思い出を、鬼婆《おにばば》のような教師の奥さんに大きな川に捨てられたときの心細さを、木箱《きばこ》で川を下ったときのおそろしさを、現在《いま》の飼い主の三文小説家松沢先生の次女和子君に拾われたときの嬉《うれ》しさを、いまは行方《ゆくえ》不明になっている女友だちのプードルのお銀との楽しい語らいの数々を次から次へと思いだしていた。そして、それでも時間が〇・五秒ばかり余ったので、もしここで死なずに、もうすこし生きのびることが出来たら、自分はいったいどんなことをするだろうかに思いをいたした。おそらくおれは今夜の七時か九時のテレビのニュースを、和子君の膝《ひざ》に抱《だ》かれて、主人一家全員と見ることになっただろう、と空想した。そのニュースには、おれが登場するはずである。そしてアナウンサー氏はたぶん次のように語るはずなのだ。
「……この名犬ドン松五郎君は明朝のニュースショーに出演する予定になっております。みなさま、二十世紀最大の学者犬ドン松五郎君に御期待ください」
……このとき黒公の、さざえのような右の前肢はおれの脳天へ、あと十|糎《センチ》のところまで接近していた。そして黒公の、鉄|亜鈴《アレイ》のごとき右の前肢がおれの脳天にあと三糎か二糎のところまで迫《せま》ったとき、
「待て、黒公君、わしは自分の意見をまだすべて言い尽《つ》くしてはおらんのだ!」
キングが強く鋭《するど》い声で黒公に待ったをかけた。黒公の鉄拳《てつけん》はおれの頭をかすっておれの真横の墓石の方に流れ、ごおんと恐ろしい音と共にその墓石にめり込んだ。墓石がふたつに割れた。
「黒公君に、満場の犬猫諸君、たしかにドン松五郎君の行為は死に値いするかもしれない。しかし、わしは次に申しあげるふたつの理由によって、今回に限り彼《かれ》の抜け駆け的行動を許すべきだと思うのである」
居合《いあ》わせた犬猫たちが、一斉に不平を鳴らした。その不平の中には「議長横暴!」とか「坂下の御隠居《ごいんきよ》は独断専行にすぎるぞ!」とかいう声もあったが、キングはそれには構わずに、
「ドン松五郎君のテレビに出演しようと思い立った動機は、私利私欲から出たものではなく、テレビという強力な媒体《ばいたい》を利用し、目下《もつか》行方知れずの朋友《ほうゆう》プードルのお銀さんやブルテリアの長太郎君を捜《さが》し出そうといううるわしい動機から出たものであること、これが彼の命を助けようと思う第一の理由だ」
不平の声がすこし鎮《しず》まった。
「第二に、ドン松五郎君は聖痕《せいこん》を持っている」
キングは二本の前肢をおれの左の肩口《かたぐち》に乗せ、その辺一帯の毛を左右にかきわけた。
「どうか諸君よ、この牡丹《ぼたん》の花のような模様の、赤い|あざ《ヽヽ》を御覧いただきたい」
おれを輪に取り巻いていた犬猫たちが、その輪をちぢめた。もう誰《だれ》も不平を発するものはいなかった。
「聖痕を有する犬は天からの使者だということはみなさんもよく御存知《ごぞんじ》のはずだ。ひょっとしたらドン松五郎君のテレビ出演には、わしたちの思いも及《およ》ばぬ、崇高《すうこう》な動機や高度な作戦が隠《かく》されているのかもしれない。犬権運動(ドッグ・リブ)や猫権運動(キャット・リブ)の、それははじまりを告げる鐘《かね》の音《ね》かもしれない。……いずれにもせよ、われわれは聖痕のある犬を殺すべきではない。人間属はソクラテスを、キリストを、そして幸徳秋水《こうとくしゆうすい》や大杉栄《おおすぎさかえ》やマルコムXやキング牧師や浅沼稲次郎を殺した。殺された人間たちは、わしの考えではみんな聖痕を持っていた。この人間属の愚《ぐ》をわれわれがここでまた繰《く》り返すことはあるまい、と信ずる。そこでわしは、二つの条件をつけてドン松五郎君を釈放しようと思う」
キングはおれの肩口から二本の前肢をおろし、
「第一の条件。テレビ出演は明朝の一回に限るべきである」
と言いながら、おれの正面にまわった。
「……もう二度とテレビに出るべきではない。第二の条件、明朝のテレビ出演に際しては、まずまっさきにお銀さんと長太郎君の安否を尋《たず》ね、それが終わったら出来るだけ馬鹿っ振りをすること。……さあ、どうかね、ドン松五郎君、この二つの条件を呑《の》んでもらえるかな?」
もちろんおれは大きく頷《うなず》いた。そして頷き終わったとたん、すべてが朦朧《もうろう》となってしまった。つまりおれはほっとしたところで失神してしまったのである。
――気がつくとおれは犬小屋の傍《そば》に横になっていた。おそらくキングたちが墓地からおれを運んできてくれたのだろう。もう夜だった。深々と息をしながら天を仰《あお》ぐと満天、降るような星空である。おれは星空を仰いでひとりごちた。
(おれが天からの使者だって? ふん、ほんとかしらん?)
あくる朝、放送局さしまわしのハイヤーに乗ってスタジオへ出かけた。主人ももちろんいっしょである。
「たのむぞ、ドン松五郎」
車の中で主人はおれに何回も言った。
「おまえの学者犬としての才能が世の中に認められるときがきたのだ。たのむから世間をあッといわせてくれよ。でないとこのおれが恥《はじ》を掻《か》くことになるからな」
そのたびにおれは主人の顔を見上げてこう答えた。
「仲間と約束《やくそく》した手前もあって、今朝は馬鹿っ振りをするつもりです。ご主人、あなたはおそらく恥を掻く破目《はめ》におちいると思いますよ」
悲しいかな、主人は五十音表をなかだちにしないかぎりはおれが何を言っているかわからぬ。おれの神妙《しんみよう》な格好《かつこう》を見て、
「おお、おれの言っていることがわかると見える。さすがは学者犬だ。よしよし」
と撫《な》でるのには困った。
放送局の表玄関《おもてげんかん》で、番組の制作助手がおれの到着《とうちやく》を待っていた。彼に案内されて、スタジオの隣《となり》の打ち合わせ室に入った。打ち合わせ室では長髪《ちようはつ》の男をかこんで、前の日に主人を訪ねてきたサングラスの増山プロデューサーや作業衣の男たちが数人、なにやら談じ込んでいる。あとで聞くと長髪の男が番組を中心になって制作する役目のディレクターで、作業衣の男がカメラマン、そしてこの談合を技術打ち合わせと称するのだそうだ。全員、悪い目つきをしているので、おれはまた銀行ギャングが日本銀行|襲撃《しゆうげき》のプランでも練っているのかと思った。
「これは松沢先生、今朝はわざわざのご来局、ごくろうさまですなあ」
サングラスのプロデューサーが立ち上がって主人をソファに招《しよう》じ入れた。
「ドン松五郎君の今朝のご機嫌《きげん》はどんな具合ですか?」
「悪くないようですよ」
主人はソファに腰をおろし例の五十音表を膝《ひざ》にのせ、その五十音表の上にさらにわたしを置いた。
「ごらんの通り、ドン松五郎の様子はいたって正常です」
「それはよかった」
サングラスの増山はうなずいてから、主人に長髪の男を引き合わせた。
「松沢先生、彼がこのワイド・ショーのディレクターです」
「昨夜、ニュースでそのドン松五郎君のフィルムを一分ばかり流したらしいんですがね」
長髪のディレクターは煙草《たばこ》に火を点《つ》けながら言った。
「なんでもたいへんな反響《はんきよう》だったらしいですよ。すばらしい犬だという賛辞の電話が三百六十本、インチキにちがいない、そういうインチキ種《ネタ》を公共放送がニュースに流すとは見識がないという抗議《こうぎ》の電話が三百三十本あったそうです」
「つまり賛が三百六十本、否が三百三十本で、賛否があいなかばしているわけですが……」
増山が情勢の分析《ぶんせき》を試みる。
「番組としてはこういうのが視聴率《しちようりつ》も高くなりますし、相当の反響も期待できるんですよ。その意味ではドン松五郎さまさまで」
増山がおれの背中を撫《な》でた。
「ねえ、ドン松五郎君、名演をたのむよ」
「では、ここでドン松五郎君との打ち合わせに入ろう」
長髪氏はおれの前のテーブルに台本をひろげて置いた。
「ああ、そうか。ドン松五郎君の前に台本を置いても仕方がないな」
ディレクターの長髪氏が、一旦《いつたん》はおれの前に開いて置いた台本を自分の手元に引き揚《あ》げた。
「犬に段取りの説明をしてもしようがない」
「わたしが伺《うかが》っておきましょう」
主人が長髪氏に言った。
「なにしろ、ドン松五郎にとってはテレビ出演ははじめてです。スタジオの雰囲気《ふんいき》に気押《けお》されて暴れでもしたらたいへんですからな。ドン松五郎はいつもわたしがしっかりと抱《だ》いて出ることにします。ですから段取りはこのわたしが……」
「そうですね」
長髪氏はうなずいた。
「ドン松五郎君の出番は一個所です」
「たった一個所ですか」
主人は不服そうに言った。
「で、時間は?」
「五分前後」
「短《みじか》すぎませんかね」
「充分《じゆうぶん》ですよ」
長髪氏はおれに向かって煙草の煙《けむり》を吐《は》きつけた。
「ぼくは主義として、スプーンが念力で曲がるだの、犬が人間の言葉を解するだのということは信じないのです。たしかにこの世界には人間の知恵では理解の及《およ》ばぬ事象が数多く存在するだろうとは思いますよ。しかし、ぼくは人間の知恵の方を高く評価したいのです。したがってスプーン曲げや学者犬には興味がないのです。この人があまり凄《すご》い凄いと言うものですから……」
と、長髪氏はプロデューサーのサングラス氏を指して、
「……まあ、番組の色どりとして出ていただこうと思ったまでで、本当なら学者犬の出演は、わたしの番組から拒否《きよひ》したいくらいでしてね」
スプーン曲げの少年とこのおれを一緒《いつしよ》くたに論じるとは何事だろうか、とおれは内心で臍《へそ》を曲げた。スプーン曲げはいざ知らず、おれたち犬が人間の言葉を理解し、かつ計数にも明るく、そして形而上的《けいじじようてき》議論をたたかわす能力を持っているのは、これは事実なのである。そのことをどうしてもここで長髪氏に信じさせなくてはならぬ、とおれは考えた。でないと、おれは番組に出演できなくなる可能性だってなくはない。もしもそんなことになれば、テレビを通じて全国の諸犬に、
「プードルのお銀さんとブルテリアの長太郎君の消息をご存知《ぞんじ》の方は、東京郊外|下総《しもうさ》国分寺近くのドン松五郎までご連絡《れんらく》を!」
と、依頼《いらい》することが出来なくなってしまうではないか。
おれは主人の膝の五十音表の上からテーブルへひらりととび移った。
「お、おい、ドン松五郎、大人しくしていろ。こら、お坐《すわ》り!」
主人の叱咤《しつた》の声が飛んできたが、それには構わずにおれは彼の膝の上の五十音表を啣《くわ》え、それをテーブルの上に置いた。そして、長髪氏に向かって一声「わん!」と吠《ほ》えてから、五十音表のここかしこを指して、
「あなたはニュースのフィルムの中のわたしをご覧になってどういう感想をお持ちになったのでしょうか」
という文章を綴《つづ》った。
おれがちゃんとひとつの意味を持ち、文法的にも間違《まちが》いのない文章を綴ってみせたので、打ち合わせ室に集まったテレビ局の人たちは一斉《いつせい》にうーんと唸《うな》った。とくにディレクターの長髪氏は指の股《また》に挟《はさ》んだ煙草の灰を叩き落とすのも忘れて、おれの顔を呆《あき》れたようにただ眺《なが》めていた。
おれは第二弾の文章を五十音表の上に綴ってみせた。
「テレビのニュースの中で、わたしは今やっていることと同じことをしていたはずですが、やはりこれでもわたしの能力をお疑いになるのですか」
長髪氏は煙草を灰皿《はいざら》の中に投げ入れると、ぱちんと指を鳴らした。
「これはいける! ドン松五郎君の出番を二倍、いや三倍にふやそう。まず、番組のはじめにホスト役のアナウンサーに五分ほど会話をしてもらう。つまり松沢先生にその五十音表を持ってもらい、アナウンサーの質問に対し、ドン松五郎君が五十音表を指して答えるわけ。そして、前から予定していたドン松五郎君の五分間のコーナーを十分にのばす」
「そりゃ無理ですよ」
叫《さけ》んだのは演出助手らしい若者である。
「他《ほか》のコーナーが皺《しわ》よせを喰《く》って短くなってしまいます。朝早くから来てくれた主婦たちに申し訳がありませんよ」
「くだらない温情主義はおよしよ」
長髪氏が演出助手を怒鳴《どな》りつけた。
「だいたいおれはテレビのワイド・ショーに出演する主婦というのは嫌《きら》いなの。構うことはない、主婦とホストが物価問題について話し合うコーナーを三分の一ぐらいにしちゃってよ」
「そ、それはすこし乱暴すぎますよ。それに……」
と、演出助手が情けなさそうな顔になって、
「犬の出番が殖《ふ》えましたのであなたがたはひとことずつぐらいしか話していただけません、なんて言えませんよ」
「それを言うのが仕事じゃないか」
「いや、断じて演出助手の仕事じゃありません。それはプロデューサーがやるべきことでしょ」
と、演出助手は打ち合わせ室から出て行ってしまった。
「あいつ逃《に》げやがった。まったく近頃《ちかごろ》の若いやつときたら根性《こんじよう》ってものがないな」
長髪氏は自分もまだ結構若いのにそんなことを言い、増山に右手を立てて拝《おが》む真似《まね》をした。
「増山チャン、お願い。スタジオのおばぁちゃんたちに巧《うま》く引導を渡《わた》してよ」
サングラス氏は渋々《しぶしぶ》うなずいて席を立ったが、おれはこのときテレビ人の言語感覚について大いに興味を持った。大人がチャン付けで呼び合う習慣がテレビ人にはあるようだが、これがまずおもしろい。次に男性の語り口に女性風の言いまわしが混入するところも珍《ちん》である。道学者なら「甘《あま》えておる」と一喝《いつかつ》するところだろうが、おれはそうは思わぬ。おそらくテレビ局という職場は万事《ばんじ》|きびしい《ヽヽヽヽ》ところなのにちがいない。だからチャン付けという幼児っぽさ、そして女っぽい言葉遣《ことばづか》いがまかり通っているのではないか。
おそらくテレビ局の王様は時間なのだろう。ここではすべてが正確に運行されている。時間どおりに番組を作りそれを一秒の狂《くる》いもなく放映して行かなくてはならない。時間に仕えながら仕事をするのは相当にきついことだろうと思われる。しかも、ここはすべて共同作業である。だからだれだって疲《つか》れてしまう。おそらく、チャン付けで呼び合う習慣や女性的な言葉遣いには、テレビ局の人たちの疲れていら立つ神経をやさしく包む機能《はたらき》があるにちがいない。もっと言えば、テレビ人のチャン付けは仲間意識の確認のための道具なのだろう。お互《たが》いにチャンを付けあって仲間であることをたえず確かめあっているからこそ、どんな言い難いことでも|ずけり《ヽヽヽ》と言えるのである。しかも、その表現が女性言葉という柔《やわ》らかい方法をもってなされるから|かど《ヽヽ》が立たないので、つまり仕事がきびしいために、そこで働く人たちはこれだけ用心しているわけだ。
そういえばわが主人松沢先生に『深夜の長廊下《ながろうか》』と題した短編小説があった。まことに下らない題名である。お化け小説のようなタイトルである。しかし、内容はお化けとまったく関係がなくて、これは放送局の女子ディレクターを扱《あつか》った作品なのであるが、文章も下手で構成もいい加減の代物《しろもの》、高校生の回覧誌にだってこの程度のものはごろごろ転がっていそうだ。ただし、題材はちょいとおもしろい。
まだ録音テープが高価で、更生《こうせい》ものが出回っていたころ、放送局に泥棒《どろぼう》が入る。そして、制作部のデスクの上にあったテープを一本残らず盗《ぬす》んで行ってしまう。つまりその泥的《どろてき》は盗んだテープの音を消し、中古テープとして売り捌《さば》こうと目論《もくろ》んだわけだが、その盗まれたテープの中に一本、本番用のものがあって、これがある女子ディレクターの担当するドラマ番組の、あくる日の放送分だったのだ。
金が盗まれてもどこからか借り出せば補充《ほじゆう》ができる。宝石だって、よほどの名石でなければ金で代わりを見つけることができる。しかし、ドラマのテープとなるとそうは行かない。録音し直そうにも役者の手配がつかない。全員、もうちがうスケジュールで進んでいるから、おいそれとは集まらないのである。そこで進退きわまったその女子ディレクターは発狂《はつきよう》してしまい、放送局の深夜の長い廊下を全裸《ぜんら》で走り出す、というのが、この小説の荒筋《あらすじ》である。
おれはいつだったか、主人の仕事部屋にあった彼《かれ》の作品集で、この小説を読み、
(いやはや放送局というところは地獄《じごく》のようなところだ)
と、思ったことがあるが、つまりチャン付けで呼び合う習慣も女性言葉の多用も、こういったつらくきびしい仕事の糖衣の役を果たしているわけだ。
「そろそろ、ランスルーを始めます」
演出助手が打ち合わせ室にこう怒鳴って走り去った。
「それじゃ、松沢先生、スタジオへどうぞ」
ディレクターの長髪氏が主人に一礼して、「副調整室」という札《ふだ》の下がった部屋に姿を消した。おれは主人に抱かれて急な階段を降り、スタジオに入った。
スタジオは広い。主人の家は敷地《しきち》五十|坪《つぼ》の建売住宅だが、それが四|軒《けん》か五軒ぐらい、すっぽり入りそうである。
奥《おく》の一隅《いちぐう》に煌々《こうこう》と照明の当たっているところがある。泥絵具《ドーラン》で化粧《けしよう》した中年の男と、二十《はたち》前後の娘《むすめ》さんが、その照明の下で、ぶつぶつ口を動かしながら、台本の暗誦《あんしよう》に躍起《やつき》になっていた。
「船田さんに大曽根さん、こちらがゲストのドン松五郎君で」
と、プロデューサーの増山が、その中年男と娘さんにおれを紹介《しようかい》した。主人は、増山が中年男と娘さんに自分を紹介してくれなかったのがだいぶお冠《かんむ》りの様子で、おれをぽいと床《ゆか》に放り出した。増山は、自分の不注意に気づいて、
「おっと、それからこちらがドン松五郎君の飼《か》い主《ぬし》の小説家の松沢先生です」
と、あわてて主人を中年男と若い娘に引き合わせた。主人は頬《ほお》をふくらませたままぺこんと二人に軽く頭をさげた。
「松沢先生、この二人が番組のホストの船田さんとホステスの大曽根さんです」
「それにしても松沢先生、たいした犬をお飼いになったものですねえ」
ホストの船田が開口一番わが主人を持ち上げた。
「どういう教育をなさったんです?」
「べつにこれという教育をしたおぼえはありません」
主人は素《そ》っ気《け》のない返事をする。おれはホストの足元でこの問答を聞きながら、すこし呆《あき》れた。どういう教育をなさいましたか、とは愚問《ぐもん》である。教育で学者犬が出来るものか。教育をそう過信してはいけない。教育がそんなに万能《ばんのう》で強力なものなら、大学出の泥棒や詐欺師《さぎし》は皆無《かいむ》のはずではないか。いま、人間の世界では、医師の国家試験が洩《も》れた洩れぬで大騒動《おおそうどう》のようであるが、試験出題委員は大学教授、受験する方も大学卒業生なのに、かかる面妖《めんよう》な事件が出来《しゆつたい》するのは、すなわち、大学教育など人間の品性や知性とまったく関係のないことをそのまま証明しておる。
かといって、教育などない方がいいかと言えば、そうも断定できない。現今《いま》の日本国の大棟梁《だいとうりよう》は小学校しか出ていない立志の人であるが、だからご立派だとはとうてい言えぬのである。最近、彼は国民に対し、
≪五つの大切、十の反省≫
を角調$ウしく訴《うつた》えておったが、これなど正《まさ》しく噴飯物《ふんぱんもの》で大笑いした。あんまり笑いすぎていまだに腹具合がおかしいほどである。とくにこの「五つの大切、十の反省」のなかに、
≪生き物や草花を大事にしただろうか≫
≪|約束《やくそく》は守ったか≫
の、二項目が加えてあったのには唖然《あぜん》たらざるを得ぬ。彼《か》の大棟梁の列島改造計画は生き物や草花を虐待《ぎやくたい》し、虐殺するだけが能の珍計画だったが、その計画の責任者がよくまあこのような白々しいことを言えたものである。彼が大事にしているのは上野動物園のパンダと、ご自分の邸内《ていない》の池の貴族鯉《きぞくごい》だけだろう。
≪約束は守ったか≫に至ってはもう言うべきコトバを持たぬ。ご自分が国民との約束をいったいいくつ破ったか、ひとつ数えてみるがいい。まったくこの大棟梁は顔面のみならず、脳味噌《のうみそ》の中身までご変調をきたしていらっしゃるのではないか。
と、こんなわけで教育のない方もあまり信用できぬのであるが、こんなことを考えているうちにおれは下ッ腹のあたりがどうもむずむずしてくるのを感じて蒼《あお》くなった。
いまさら喋々《ちようちよう》するまでもなく、おれたち犬、とくに雄犬《おすいぬ》は、柱という存在に対して一種特別な感情を有している。平べったく言うと、地面や床の上に立つ柱状の細長いものを見ると、反射的に小用を足したくなるのである。
ホストの船田は背の高い、痩《や》せた人物であった。一見すれば電柱のようであった。おれはこの船田の足元に小用を足したくなってしまったのだ。
(ここはその場所ではない。そしてこの船田は電柱ではない)
理性はこう思っているのに、おれの、犬としての本能が、この理性の存在を許さぬのである。
電柱、もしくは電柱に似たものを見ると自然に後肢《あとあし》のどちらかをあげたくなるというおれたち犬の習性を「馬鹿々々《ばかばか》しく、かつまた滑稽《こつけい》である」と、読者|諸賢《しよけん》はお笑いになるにちがいない。
しからば借問す。なぜ人間属は煙草なる奇天烈《きてれつ》な紙棒を口に啣《くわ》え、口から煙を吸い込んで、鼻から吐《は》き出すのであるか、腹の足しや薬用にでもなるのならとにかく、百害あって一利もない代物をなぜ人間の大多数は喫《きつ》するのか。わが主人などは、机前に坐《すわ》ると自然に一服するのを習性とするが、人間にこれある以上は、おれたち犬が電柱や電柱に似たものを見るとひとりでに後肢のどちらかをあげたくなる習性を、馬鹿々々しいなどと咎《とが》め立《だ》てしてもらいたくない。
とにかくおれは、主人と打ち合わせをしている背高ノッポのホスト氏の足元を見ているうちに辛抱《しんぼう》たまらなくなって、ついに後肢の片方を高々と掲《かか》げて小水を放ったのだ。
ホスト氏は「ひやあ!」と叫《さけ》んで三、四歩、後へとびすさり、「うわあ!」と泣きそうな声をあげながら、濡《ぬ》れたズボンを見下ろした。
「……こ、これはすみません」
詫《わ》びながら主人はおれを捕《つか》まえにかかった。捕まれば平手打ちのひとつやふたつは喰《く》らいそうなので、おれはスタジオの別の一隅にしつらえられてあった椅子席《いすせき》の方へ逃《に》げた。
椅子席には主婦たちが十数人、腰《こし》を下ろしていた。そこへ、おれがいきなり逃げ込んだのでわぁわぁきゃぁきゃぁとまた悲鳴があがる。とても|段取り稽古《ランスルー》どころではなくなってしまった。
「なにをやっているのよ!」
ディレクターの長髪氏の声がスピーカーから降ってきた。
「ドン松五郎がホストの船田さんのズボンにおしっこを引っかけちまったんです」
演出助手が携帯《けいたい》マイクに向かって報告した。
「本番開始まであと十分もありませんが、それまで乾《かわ》くでしょうかね」
「ばかだねえ、乾くまで待っていられますか。衣裳《いしよう》さんところへ飛んでって、適当なのを一本借りといでよ」
「はあ」
演出助手はホスト氏のズボンを無理やりに脱《ぬ》がせると、それを持ってスタジオを飛び出していった。
したがってランスルーの後半をホスト氏はズボン下で勤めたわけである。そのせいかどうか、ホスト氏はまるで冴《さ》えなかった。おれはすこし申しわけなくなり、それに興奮が収まったこともあって後半は神妙《しんみよう》につとめた。ただし、ホスト氏の足元に近よるたびにやはり尿意《にようい》を催《もよお》し、それをこらえるのにかなり努力をしなければならなかった。
「今度はドン松五郎をわたしがしっかり抱いていることにします」
ランスルーが終わったところへホスト氏のズボンが届いた。スタジオの隅《すみ》でそれをはいているホスト氏に主人が詫びごとを言っている。
「ですから心配いりませんよ」
「ぜひ、そう願いたいもので」
とホスト氏はズボンをはき終えたが、ズボンはつんつるてんである。
「船田さんは背が高すぎるんだなあ」
演出助手が頭を抱《かか》えている。
「一番長いのをもってきたんだけど、それでも短いんだもの」
「電信柱が高いのも、わたしの背が高いのも、みんなこっちが悪いんです」
ホスト氏は恨《うら》めしそうな目でおれを見ながら、ベルトをしめた。
「本番一分前!」
というディレクターの声がスタジオ中に響《ひび》きわたった。おれは主人に抱かれて、ホスト氏の横に待機する。正面のカメラに赤いランプがついた。と、突然《とつぜん》、おれの躰《からだ》ががたがたと震《ふる》えだした。最初は地震《じしん》かな、と思ったが、じつは地震ではない、主人が緊張《きんちよう》のあまり慄《ふる》えはじめたのである。さすがにおれもかたくなる。
〈一黙雷《いちもくかみなり》の如《ごと》し〉
というコトバがある。
いつだったかおれが家の近くの国分寺の境内《けいだい》で昼寝《ひるね》をしていたとき、境内を散策中の住職がお弟子《でし》さんらしいのに語っているのを小耳にはさんだので知っているのだが、なんでも印度《インド》に維摩居士《ゆいまこじ》という高邁《こうまい》なる見識を持った在家《ざいけ》の一居士《いちこじ》がおって、これがあるとき病気になったのだそうだ。そこへ釈尊のお使いで七仏の師である文殊菩薩《もんじゆぼさつ》が見舞《みま》いにやってきて、
「何等《いずれ》かこれ入不二《につぶに》の法門《ほうもん》?」
と、維摩居士に問うた。お見舞いに来て、
「唯一無二、最上|至極《しごく》の法門に入る方法はこれいかに?」と質問するなどは馬鹿気《ばかげ》ているが、とにかくそう質問したという。すると、維摩居士は一言半句も口に説かず、ただ黙然《もくねん》と坐《すわ》っていた。そこで文殊菩薩が、
「善哉《よきかな》、善哉、文字言語あること無し、これ真に入不二の法門」
と、大賛嘆《だいさんたん》したという。つまり、答えがないのがよい答え、最上至極の法門に入る方法などコトバや思想で説けるものではない、無言無答こそまさに正答にして名答というわけである。無言無答が答えなら、最初っから訊《き》かなきゃよさそうなものだ。こんな珍問答《ちんもんどう》を大《おお》真面目《まじめ》でやっているのだから、文殊菩薩も維摩居士もたいした人物ではなさそうであるが、ただ、無言無説、すなわち沈黙《ちんもく》の重さ、恐《おそ》ろしさ、怕《こわ》さはおれにもよくわかる。本番前のスタジオの、しーんと鎮《しず》まりかえった雰囲気《ふんいき》。ここに実在するのは時間だけであって、この時間≠セけが雷の如く大|獅子吼《ししく》していま在るのである。この時間が、主人を緊張させ、おれを固くさせたのだ。
赤いランプのついたカメラの前で腰《こし》をかがめ、台本を頭上に掲《かか》げていた演出助手がさっとその台本を振《ふ》りおろした。
とたんにホスト氏とホステス嬢《じよう》が喋《しやべ》りはじめる。天候の挨拶《あいさつ》、昨夜から今朝にかけて発生したニュースの簡単な紹介《しようかい》。そしてとうとう二人の話題はおれのことに触《ふ》れはじめた。
「……人間のコトバを解し、さらに自分の意志を五十音表をなかだちにして主人に伝えるという話題の犬、ドン松五郎君を、今朝はスタジオにお迎《むか》えしております。この犬の飼い主は作家の松沢健さんですが、松沢さん、いつごろからですか、ドン松五郎君にそういう兆候《ちようこう》が見られるようになったのは?」
ホスト氏が主人に訊《き》いている。
「そ、それは昨日の昼からです」
主人は幾分吃《いくぶんども》りながら答える。おれはいまだ! と思った。今ならカメラがおれを写しているはずだ。全国の諸犬にプードルのお銀とブルテリアの長太郎の消息を教えてくれるよう頼《たの》むのはいまだ!
「するとドン松五郎君は、それまではただの雑犬だったわけですか?」
「そうです。大飯喰《おおめしぐ》らいの、怠《なま》け者《もの》の、ただの犬でした」
「それで、彼《かれ》はまず最初にどうしたんです?」
「いきなり机の上の辞典をあぐっと啣《くわ》えましてね、わたしの前へ持ってくると表紙の裏の五十音表を前肢《まえあし》で指し示しはじめたんですよ」
「びっくりなさったでしょう」
「ええ。肝《きも》を潰《つぶ》しましたねえ」
このあたりから、おれはカメラに向かって低く吠《ほ》えだした。といってもこれは人間の眼から見た表現で、つまりおれはカメラに向かってこう訴《うつた》えはじめたのである。
〈いま飼い主のお相伴《しようばん》をしながらテレビを御覧になっている犬の皆《みな》さん、ぼくは東京郊外の、下総《しもうさ》国分寺の近くに住む雑種犬ドン松五郎です。じつは昨日の朝、ぼくの友人のプードルのお銀さんとブルテリアの長太郎君の二匹が、悪者のためにどこかへ連れ去られてしまいました。ぼくはこの二匹の消息を知りたいと思っております。どうかご協力ください〉
「……ドン松五郎君、落ち着きませんね」
ホスト氏が主人に訊いている。
「さっきからしきりに唸《うな》っているじゃありませんか」
「おかしいなあ」
主人はおれの背をしきりに撫《な》でた。
「やはり、生まれてはじめてテレビに出たので上《あが》っているのでしょうな」
「なるほど。で、飼い主のあなたからごらんになってドン松五郎君の学力はどの程度だとお思いになりますか?」
「一|桁《けた》の加法や除法もできるようですから、まあ、小学校の二年生ぐらいでしょうか」
ホスト氏と主人との問答のあいまに、おれはさらにカメラに向かって次の如く犬語で語りかけた。
〈……ところで、ぼくは人間が仕合わせにならぬうちは犬の仕合わせもあり得ない、という立場をとっております。そして近いうちに人間を仕合わせにする行動を起こそうとも考えています。ぼくの意見に賛成の方は、第一土曜の夜、下総国分寺裏の墓地へお集まりください。志を同じくする方とぼくは話し合いたいのです。では、最後になりましたが、みなさんのご幸運をお祈《いの》りいたします。ご機嫌《きげん》よう!〉
「どうも変ですね。ずいぶん唸っていますよ。体調がよくないのかな?」
ホスト氏がおれの唸り声を気にしだした。
「はたして芸当をしてくれますかしらん?」
「なんとか黙らせてみせます」
主人はしゃがみこんで、おれを床《ゆか》の上に置いた。
「ドン松五郎、しっかりしろ」
主人は四つん這《ば》いになっておれを睨《にら》みつけた。
「ここが大事なところだぞ。いいか、大人しくおれの言うことをきくのだ」
主人はおれの口の前に割り箸《ばし》を差し出した。
「さあ、啣えなさい」
おれは命じられたとおりにした。主人はおれの前にボール紙に書いた五十音表を立てた。
「では、ドン松五郎、テレビをごらんのみなさんにご挨拶を申し上げなさい」
ひとつぐらい芸を見せないことには主人の立場がなくなってしまうだろう、とおれは考えたから、五十音表のあちこちを箸の先で指してやった。
「おお! ドン松五郎君はいま『全国のみなさん、おはようございます』と綴《つづ》りました」
ホスト氏が感嘆のあまり上《うわ》ずった声をあげた。
それからおれは、「主婦のみなさんもこの物価高でたいへんでしょう」とか、「地震《じしん》がこなければいいですね」とか、「しかし、いつかはやはり地震は来るでしょうね」とか、「どうかご主人をいたわってあげてくださいましよ」とかいうような文章を、主人持参の五十音表の上に綴った。
「たいへんなことですねぇ、これは」
ホスト氏が感動して言った。
「まさに奇跡《きせき》です」
「奇跡というのは大袈裟《おおげさ》だと思いますが、しかしまったくわたしにもわけがわからんのです」
主人は頭を掻《か》いたが、しかしさすがに嬉《うれ》しそうである。
「まあ、文学者の家にこういう犬が迷い込《こ》んだのも、おそらくなにかの因縁《いんねん》でしょう。これからしばらくはこのドン松五郎のことをこつこつ書きたいと思っておりますよ。正確に観察し、|みじん《ヽヽヽ》の嘘《うそ》もない文章で、ね」
「期待しておりますわ」
ホステス嬢がとっておきの微笑《びしよう》を主人に送った。
「先生の力でそれをなされば、きっとすばらしい傑作《けつさく》が出来上がると思います」
おれはこの三人の足元をうろうろしながら、じつはある本能を抑《おさ》えるので懸命《けんめい》になっていた。その本能とは、前にも書いたが、細長いものが地面、あるいは床の上に立っていると、そこへどうしても後肢《あとあし》のどちらかを挙《あ》げてしまいたくなるというあれである。
「……それでは、名犬ドン松五郎君にはまた後ほどたっぷりとその学識を披露《ひろう》していただくことにいたしまして、ここで今日スタジオにお集まりの主婦のみなさんに、ちかごろの物価高についてひとことずつ、ご意見をうかがってみることにいたしましょう……」
ホスト氏はこんなことを喋りながら、隣《となり》のセットへ移動して行ったが、これがじつはおれたち犬にとっては困ったことなのだ。これまた、これまで何回となく触《ふ》れたように、おれたち犬は動く|もの《ヽヽ》に対しては、敏感《びんかん》である。おれたち犬属は、かつて人間という主人《ヽヽ》、というか|召使い《ヽヽヽ》を見つけるまでは、まず匂《にお》いで獲物《えもの》の居所《いどころ》を探《さぐ》り、百|米《メートル》を五、六秒で駆《か》け抜《ぬ》く走力を生かして追いつめ(ちなみに、この「百米を五、六秒」なる速さは競馬の馬の速力とほとんど互角《ごかく》である)、そして最後に鋭《するど》い牙《きば》で倒《たお》す、という生活を送ってきた。つまり、自分から遠ざかりながら動いて行くものがあればどうしてもそれを追いかけたくなるのが習性なのだ。
電柱よろしく背が高いホスト氏がおれの前から向こうへ歩いて行くのを見て、おれの本能とこの習性がいちどに爆発《ばくはつ》した。すなわち、おれはホスト氏を追いかけ、彼が主婦たちの前に立って軽く挨拶をはじめたところを狙《ねら》って、後肢の片方をあげてしまったのだ。
しかも悪いことにカメラが一台絶えずおれを追っていたから、この光景は一瞬《いつしゆん》のうちに全国へ流れていってしまったのである。
ホスト氏はあッという顔をし、それから情けなさそうにびしょびしょに濡《ぬ》れたズボンを見下ろした。しかし、おれがこんなことを言うのも変だが、彼はプロであった。たちまちのうちに上品な笑《え》みを顔に浮《う》かべると、仕事を続けようとしたのである。
もっとも、そのときはもう主婦たちやホステス嬢がこらえ切れずに笑い出していて、彼が仕事を、つまりインタビューを試みてもだれもまともに答えるものはいなかった。
ホスト氏はどうやらおれの放尿《ほうによう》によって濡れてしまったズボンがお気に召さないようで、そのためだろう、それからはまったく冴《さ》えなくなってしまった。同じことを何度も繰《く》り返して質問したり、急に不機嫌《ふきげん》そうに黙り込んでしまったり、かと思うと突然《とつぜん》、装《よそお》った笑顔で慌《あわただ》しく喋り出したり――この笑顔はおそらくその前の不機嫌さを補うためのものだったのだろうが――ゲスト歌手の持唄《もちうた》の題名を間違《まちが》って紹介《しようかい》したり、どうにも様子が変だった。
ホスト氏自身も己《おの》が変調に気がついたのだろう、ゲスト歌手が持唄を歌いはじめると、Aカメラを操作しているカメラマンのところへ走って行き、怒鳴《どな》るような声でこう言った。
「Aカメさん、おねがいがあるんだが……」
「カメラの前をうろうろしないでくださいよ、船田さん」
Aカメさんはファインダーを覗《のぞ》き、副調室のディレクターからの指示どおりに歌手の姿をフォローしながら訊いた。
「おれの撮《と》っている絵がいま生きている、つまり、全国へ流れているんだ、話なら番組が終ってから伺おうじゃないですか」
「いや、そのままカメラを操作しながら聞いていてください。Aカメさんの身長はたしか一メートル八十三センチでしたっけね?」
「ちがいます、一メートル八十四です。しかし、この大事な時になんだってそんなことを訊くんですか」
Aカメさんはカメラをゆっくりと歌手へ接近させて行った。ホスト氏はそれに合わせて移動しながら、
「じつはわたしの身長もAカメさんと殆《ほとん》ど同じなのですよ」
「そんなことどうだっていいじゃありませんか」
「いや、よくないのです。わたしにとっては浮沈《ふちん》の瀬戸際《せとぎわ》なんですよ」
Aカメさんは面倒《めんどう》になったらしい、ホスト氏の問いかけを無視して、カメラを押しながら右の方へ廻《まわ》りこむ。
「いいですか、Aカメさん、あなたとわたしはほとんど同じ背の高さです。それはつまり、あなたのいまはいているズボンはわたしにも適《あ》うだろう、ということを意味します。ねえ、助けると思って、いまAカメさんのはいていらっしゃるズボンを番組の終了時まで貸していただけませんか」
Aカメさんはぎくっとなって立ち止まった。
「ちょっと! どうしてそんなところでカメラをストップさせてしまうのよ。Aカメさん、しっかりしてちょうだいよ」
Aカメさんが被《かぶ》っているレシーバーからディレクター氏の罵声《ばせい》が洩《も》れた。しかし、Aカメ氏はただ呆然《ぼうぜん》としてホスト氏を見詰《みつ》めている。
「……Aカメさんもご承知のように、ドン松五郎という今日のゲスト犬がわたしのズボンに二度もおしっこを引っかけたんです」
訴《うつた》えるが如く言いながら、ホスト氏はAカメさんのズボンに手をのばし、ベルトの留め金を外《はず》しにかかった。
「わたしはひどい癇症《かんしよう》でしてね、犬の小水を引っ被ったズボンをこれ以上はいていることはできません。もういまにも狂《くる》ってしまいそうなんです。どうか、ズボンを貸してください」
ホスト氏はそう言ううちにもAカメさんのベルトを引き抜き、こんどは前部のチャックへ手を伸《のば》した。
「き、き、気持ち悪い! 触《さわ》らないでくれ。ズボンはあげるから」
Aカメさんはズボンを自分からその場に脱《ぬ》ぎ捨て、ステテコ姿になり、カメラの操作に戻《もど》った。ホスト氏は嬉しそうにAカメさんのズボンをはきはじめる。
と、まあ、このような次第でホスト氏は首尾よくAカメさんのズボンを強奪《ごうだつ》することに成功したが、じつはこのAカメさんのズボンが、新しい悲劇を生む原因になったのだから、まったく世の中というやつは予断を許さぬ。
ホスト氏はAカメさんと自分とを身長だけで比較《ひかく》し、背の高さが同じだからはくズボンも同じサイズだろうと判断したわけだが、じつはその際、やはり自分とAカメさんの体重のちがいにも考慮《こうりよ》を払うべきであった。というのは、ホスト氏の体重が七十キロ前後だったのに、Aカメさんは九十キロ近くもあったからである。簡単に言えば、ホスト氏が痩型《やせがた》なのに、Aカメさんは肥満型、ズボンの胴《どう》まわりがまるでちがっていたのだ。
しかも悪いときには悪いことが重なるもので、ホスト氏は自分のベルトはむろんのこと、Aカメさんのベルトまで、スタジオのどこかへ置き忘れてしまっていた。
ホスト氏はそこで、それから番組終了まで、始終左手でズボンを押《おさ》えていなければならなかった。でないと、ズボンがずり落ちてしまうからである。これがやはり、番組に出演していた主婦たちの失笑を買った。主婦たちはホスト氏から何を訊かれても、ただくすくす笑うだけで、狂乱《きようらん》物価について意見をのべる、というその日の朝の、その番組のテーマはどこかへ吹《ふ》き飛んでしまった。
主婦たちのこの態度を不謹慎《ふきんしん》である、と責めることは誰《だれ》にも出来ないと思う。どんなつつしみ深い女性でも、自分にインタビューを試みている男性がぶかぶかのズボンをはき、しかも、それをずり落とすまいと悪戦苦闘《あくせんくとう》を演じているのを見れば、笑わずにはいられないだろう。しかも、目をカメラに転ずれば、カメラマンはステテコ一丁なのだから。
しどろもどろのうちにも番組は進行し、やがて、主人とおれの出番がまわってきた。
「……それでは名犬ドン松五郎君に再び登場していただきましょう」
それが合図で、おれは主人に連れられて、ホスト氏とホステス嬢の前へ出て行った。おれが近づくのを見てホスト氏は思わず怯《おび》えるような眼付《めつき》になったが、これは「またやられるのではないか。二度あることは三度あるのではないか」という惧《おそ》れを彼が抱《いだ》いたせいだろう。
「わたしたちは動物学者たちの指導を仰《あお》いでここに七個の質問を用意いたしました。ドン松五郎君に答えてもらおうと思います」
ホステス嬢が膝《ひざ》の上にパターンを立てた。ステテコ一丁のAカメさんが、そのパターンを撮《と》っている。スタジオのあちこちに置かれたモニター受像機に、その七個の質問が写っていたが、それは次の如《ごと》きものであった。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、なぜ貴犬は人間の言葉を解するのか。
二、人間の言葉を解するのは貴犬だけの特技か、それともすべての犬にその能力があるのか。
三、犬にとってもっとも嬉《うれ》しいのはどんなときか。
四、また、悲しいのはどんなときか。
五、もうひとつ、どんなときにもっとも腹が立つのか。
六、犬である貴犬は忠犬ハチ公をどう評価するか。
七、人間にどんなことを望むか。
[#ここで字下げ終わり]
いずれも容易《たやす》く答えることのできる質問ばかりである。
「……ドン松五郎君、君がもしこの七個の質問に答えてくれるなら、動物学は百歩も、いや千歩も前進するのです。わが国の動物学界はこれから君がどう答えるかを、大きな期待をもって待っているのです」
ホスト氏はなるべくおれに近づかないようにして、つまり半分|逃《に》げ腰《ごし》でそう切り出した。
「ひとつ、よく考えてお答えいただきたい」
「たのむぞ、ドン松五郎」
主人がおれの首ッ玉を撫《な》でた。
「しっかり答えるのだ」
「では、最初の質問です」
ホステス嬢が猫撫《ねこな》で声《ごえ》でおれに言った。
「ドン松五郎さん、あなたはなぜ人間の言葉がわかるのですか?」
おれは知らん顔をして坐《すわ》っていた。答えるのは簡単だが、キングや平吉や黒公たちと交わした約束《やくそく》を、おれは守らなくてはならぬ。でないと、家へ帰ったとたん、彼等《かれら》の私刑《リンチ》を受ける破目になる。その場合、おそらくおれは死ぬことになるだろう。また、キングが心配していたように、おれがここでひとり抜《ぬ》け駆《が》けして利口なところを見せてしまえば、≪犬や猫は人間に|飼《か》われるふりを装《よそお》って、じつは人間を自分たちの召使いとしてこき使っている≫という、おれたちの生き方が、人間に見抜かれてしまうことになる。つまり、
「おまえたちがそんなに利口だとは知らなかった。それだけ利口なら、人間の庇護《ひご》を離《はな》れて勝手に生きなさい」
と、人間に突《つ》き放されるおそれがあるのだ。また、
「人間と同等の知能を有するのなら、これからは犬猫を工員としてこき使ってやろう」
と、人間に利用され、搾取《さくしゆ》される可能性も出てくる。
「犬猫は兵士にも向くらしい」
と、戦場へ狩《か》り出される心配もあるし、とにかくいずれにしても≪人間に食費を|稼《かせ》がせて、のんびりと暮《く》らす≫という生き方を、犬猫は捨てざるを得なくなるのは確かなのだ。だから、おれは知らぬ顔の半兵衛《はんべえ》を決めこんだわけである。
「ドン松五郎、どうしたのだ?」
主人は五十音表をおれの鼻の先に押しつけて、それをぽんぽんと叩《たた》いた。
「やさしい質問じゃないか。さあ、答えなさい」
おれは答えるかわりに大きな欠伸《あくび》をしてやった。
「……松沢先生、どうしたんでしょう」
ホスト氏が心配そうな声で主人に訊《き》いた。
「ドン松五郎君の様子が、番組の最初に出てきたときと、ちょっとちがいますね。あのときはとても利口そうな印象を受けましたが、現在《いま》の彼はどう見ても馬鹿犬《ばかいぬ》みたいですが……」
馬鹿犬に見えるのは当然である。おれは馬鹿犬に見えるように演技をしているのだ。
「た、たしかに変ですな」
主人は責任を感じたらしく、おれを膝《ひざ》に抱《だ》きあげ、仔細《しさい》に観察をはじめた。おれは千切れるほどに尻尾《しつぽ》を振《ふ》ってやった。むろんこれも演技のうちである。
「こら、尻尾など振らなくていい。頼《たの》む、ドン松五郎、この五十音表を使って、早く質問に答えなさい」
主人の声には焦《あせ》りの色が出てきていた。
おれは主人が手に持っている五十音表を眺《なが》めてまたひとつ欠伸をした。
「ドン松五郎君はあくびばかりしていますねえ」
と、ホスト氏が主人に向かって責めるような口調で言った。
「しかし、先生、なんとかなりませんか。いまこの場面は全国に向けて放送されているのです。全国のお茶の間で主婦が、動物学者が、そして愛犬家たちがかたずをのみながらドン松五郎君が七ツの質問にはたしてどのような答えを出すかを、目を皿《さら》のようにして見守っているのです。それらの方々の期待に応《こた》えてやるよう、先生からドン松五郎君に言ってやってください」
おれはホスト氏の話術の巧妙《こうみよう》さに内心すくなからず舌を巻いた。この番組の最初でおれが五十音表を介《かい》していろいろな挨拶《あいさつ》を述べたとき、ホスト氏はしきりに「わたくしども公共放送がこの犬を」とか「わたくしどもとこの犬は」とかいうような表現をしていたはずである。すなわち、おれという犬を発見したのも、テレビに出演するよう働きかけたのも、それを実現したのもすべて「わたくしども公共放送」の手柄《てがら》だと言っていたはずだ。ところが、おれがなんの芸もしないのではないかと気がつくや否《いな》や、ホスト氏はすべての責任を松沢先生、すなわちおれの主人に転嫁《てんか》しはじめたのである。
「どうしたんだ、ドン松五郎?」
「たのむよ、ドン松五郎!」
と、主人は額に脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませながら、おれに語りかけている。このままおれがなんの芸もしないで、キングたちとの約束を守るなら、世の指弾《しだん》を受けるのは主人だろう。
「黙《だま》って小説を書いていればいいのに、飼い犬なんかの芸で自分の名前を売り込もうとするなど、ばかなやつだ」
と、主人の同業者たちは陰口《かげぐち》を叩くだろう。
「だいたい、あなたはおっちょこちょいだからいけないのよ。あなたのおっちょこちょいのおかげで、わたしたち恥《は》ずかしくて道も歩けなくなったじゃない」
と、主人の奥《おく》さんは騒《さわ》ぎ、かつわめきたてるはずである。
「同じインチキでも、スプーン投げの方がまだ格好《かつこう》いいわ」
と、主人の長女の昭子君は、自分の父親を生意気にも批判するだろう。
そう考えるとおれは、主人がなんだか哀《あわ》れになり、そしてまた気の毒になり、
「えい、もうキングとの約束などどうでもいい。この主人には一宿一飯、ならぬ百宿百飯の恩義があるのだから、放送局が出してきた七ツの質問に答えてやろう」
と、五十音表に前肢《まえあし》をのばした。
「あッ、ドン松五郎君がなにか答えようとしています」
おれが動作を起こしたのを見てホスト氏が叫《さけ》ぶ。
「わたくしども公共放送のスタッフが発見しました驚異《きようい》の名犬ドン松五郎君が、いよいよ、わたくしどもが提出《ていしゆつ》した質問に答えようとしております!」
おれはホスト氏のこのひと声を聞いたとたん、主人には気の毒だが、(答えてなんかやるものか)と決心した。都合のいいときはすべての功績を「公共放送」のものにしようとし、悪くなれば即《すなわ》ちすべてを主人に転嫁しようとする、そんな卑怯《ひきよう》な連中になにも協力しなければならぬ義理はないのだ。おれは主人の膝から床《ゆか》へとびおり、さっさとスタジオを横切って、外部《そと》へ出てしまったが、その後が大さわぎだったようである。
たとえば、ホスト氏はおれを呼びとめようとして、ズボンがだぶだぶでその上ベルトがないのを忘れて思わず、
「ドン松五郎君、どこへ行くの」
と、|手ばなし《ヽヽヽヽ》で立ち上がり、猿股《さるまた》一枚の姿をカメラの前にまともにさらけ出したというし、おれの後を追って駆《か》け出したホステス嬢は、床を這《は》うケーブルに蹴《け》っつまずいてずでんどうと横転したという。
スタジオを出たおれは、打ち合わせ室でモニターテレビを番組が終了するまで眺めていたが、おれが抜けたことによって話題をなくしてしまったホスト氏とホステス嬢は、何回も何回も、
「残念です。まことに残念です。ドン松五郎君から、具体的な話をなにひとつ聞くことができなかったのは、かえすがえすも心残りです」
と、同じ愚痴《ぐち》をくり返していた。
おれはここではからずも、薬山禅師《やくさんぜんじ》の「無説の説法」なる逸話《いつわ》を思い出した。薬山禅師は中国の|湖南※[#「さんずい+豊」]州《こなんれいしゆう》の薬山に幽棲《ゆうせい》して高邁《こうまい》の家風を掲《かか》げた、古今独歩の大宗師であるが、説法が大嫌《だいきら》い、なかなか高座にのぼらない。
とうとうあるとき、弟子《でし》たちがたまりかね、禅師に、
「大衆《だいしゆ》がずいぶん長い間、和尚《おしよう》の説教を待ち望んでおります。みんな、和尚の説法を悟達《ごたつ》の手がかりにしたいとねがっているのです。なにとぞ、高座へおのぼりねがいたいもので」
と、申し出た。
「よろしい」
禅師はなにを思ったのか即座《そくざ》にうなずいた。
「鐘《かね》を鳴らして大衆を法堂《はつとう》に集めなさい」
間もなく全山の大衆が法堂に参集した。どの顔も、名僧の高説をようやくのことで聞ける、という喜びでほころんでいる。やがて、静かに方丈《ほうじよう》を出て法堂に進んだ禅師はずいと説法の高座にのぼった。堂中、しーんと鎮《しず》まって、|しわぶき《ヽヽヽヽ》の音ひとつ聞こえない。誰《だれ》も彼も全身を耳にして禅師の口を見守った。
すると禅師はゆっくりとひとわたり堂中を見わたしただけで、一言半句も吐《は》かず、ひょいと高座から降りて、すたすたと方丈へ戻ってしまった。大衆はただ呆然《ぼうぜん》、ただ唖然《あぜん》。禅師の後をひとりの弟子が追って、詰《な》じるように問うた。
「和尚、あんまりではありませんか。どうして何も話してくださらなかったのですか。どうして法を説いてくださらなかったのですか」
「経の意を説くに経師があり、論を述《の》ぶるに論師がある。だがどこにも法師はおらぬ。法は各人が各人のために説くべきものだ」
薬山禅師の答えは右の如くであったそうだ。おれが思うに、この薬山禅師の言は正しい。犬のことを知りたければ、おれたちをよく観察し、その観察をもとにしてよく考えるべきである。その手間を省いて、犬に直接《じか》に訊くのはどうかと思う。だいたい人間は他の動物や植物の声をこれまで聞こうとしたことがあったか。問答無用で動物を殺し、植物を枯《か》れさせてきたのではないか。それなのに、今回だけは動物の、つまり犬であるおれの考えが聞きたいなど、あんまり虫がよすぎるというものだ。
薬山禅師の逸話をあれこれと頭の中で飴玉《あめだま》のようにしゃぶっているあいだに、番組が終わってしまったらしい。気がつくと、おれの前にホスト氏とホステス嬢と、そして主人が立っていた。
ホスト氏とホステス嬢はしばらくおれの顔をじっと睨《にら》んでいたが、やがて大きな溜息《ためいき》をひとつつき頭を横に振って化粧室《けしようしつ》の方へ姿を消した。その目付きから察するに、二人はおれがスタジオでとった行動にだいぶ不満があるようであった。
「いやはや、おまえにはずいぶん恥《はじ》をかかせられてしまったよ」
主人が煙草の先端《せんたん》にライターの火をかざしながら言った。
「おまえが芸を見せてくれなかったものだから、このおれまでが|うさん《ヽヽヽ》くさい人間に見られてしまったじゃないか。超能力少年を操《あやつ》って金を稼《かせ》ぐ父親、という目付きでみんながおれを見ているような気がする。これはあまりいい気分のものじゃないぜ」
主人は靴《くつ》の先でおれを蹴《け》る真似《まね》をして廊下《ろうか》の方へ歩き出した。おれも主人のあとについて広々とした廊下に出た。
公共放送の廊下はまったく広い。しかも長い。これは前に主人とプロデューサー氏との雑談を聞いて知ったことだが、この東洋一の大放送局の廊下を隈《くま》なく歩くと、十キロだか十二キロだかになるそうだ。そこで、深夜、局内を巡回《じゆんかい》する守衛さんなどは、その巡回の途中《とちゆう》で空腹のために野垂死《のたれじに》などせぬように弁当を携《たずさ》えて巡回に出るというが、ほんとうかしらん。もっとも近ごろは深夜の巡回に、守衛さんたちは自転車を用いるともいう。深夜の長い廊下を自転車に乗って守衛さんが行く……、なんだかばからしい図だが、これも伝聞だから正しいかどうかはわからない。
「お疲《つか》れさま」
廊下には例の長髪《ちようはつ》のディレクター氏が待っていた。
「松沢先生、出演料は銀行に払《はら》い込《こ》んでおきます。一週間以内には銀行に届くと思いますよ」
「すまんですなあ」
主人は頭を掻《か》いた。
「ドン松五郎のやつ、ちっとも芸をしやがらない。期待外れだったでしょうが?」
「期待外れといえばそうですが、しかし、番組の冒頭《あたま》んところで、彼は結構やってくれました。相手はなにせ犬畜生《いぬちくしよう》です。あれだけやってくれれば十分ですよ」
「ならいいんだが。で、放送中に反響《はんきよう》がありましたか」
「ありましたよ」
長髪氏はうなずいた。
「副調室の電話が鳴りっぱなしでした」
「で、それはどんな電話でした?」
「スプーン曲げまがいのインチキを局がとりあげるとはけしからん、というのが三分の一。よくやったおもしろい、というのがまた三分の一です」
「それで残りの三分の一は?」
「松沢先生に対する批判でしたね」
ここで長髪氏は気の毒そうな顔をした。
「角兵衛獅子《かくべえじし》の親方の真似《まね》をして犬の出演料を|ぴんはね《ヽヽヽヽ》する暇《ひま》に、ちっとはましな小説でも書いたらどうか、という意見が多いようでしたよ。それではご機嫌《きげん》よう」
主人はそれから家に着くまでひとことも喋《しやべ》らなかった。よほど右の批判がこたえたのだろう。
おれたちの作戦
おれと共にテレビに出演して以来、主人のところへかかってくる電話がすこし多くなったようである。
妙《みよう》な学者犬を飼《か》ったおかげで身辺なにかと騒《さわ》がしいことだろうがそれをひとつ小説に仕立ててみないかという中間小説雑誌からの電話が三本、犬についてのエッセイを依頼《いらい》したいという雑誌社や新聞社からの電話が五本、わが家の犬もテレビで拝見した先生のところの飼い犬とよく似た仕草や身振《みぶ》りをするが、ひょっとしたらわが家のも学者犬ではないだろうかという愛犬家からの問い合わせの電話が七本、殖《ふ》えた電話のあらましはざっと右の如《ごと》くである。
「ドン松五郎《まつごろう》のおかげで、ずいぶんたくさんの仕事が舞《ま》い込《こ》んだわ。ドン松五郎様々ねぇ」
と、奥《おく》さんは大満悦《だいまんえつ》のようで、二日に一度ぐらい、おれの餌椀《えさわん》にウィンナ・ソーセージを入れてくれる。主人は仕事が殖えたので神経をぴりぴりさせているが、それでもおれの顔を見るたびに、かすかにではあるが頬《ほお》の肉を弛《ゆる》め、頬笑《ほほえ》む。すなわち家業|繁盛《はんじよう》の因《もと》を作ったおれに、主人は愛想《あいそ》を使っているわけで、平和といえば平和、仕合わせといえばまことに仕合わせな毎日が続いている。
テレビ出演から四日ほど経《た》ったある午《ひる》下がり、例によって玄関傍《げんかんわき》の犬舎の前で、日向《ひなた》ぼっこを楽しんでいると、家の内部《なか》で電話が鳴った。
「はい、松沢です。……主人はいま散歩に出かけておりますが、どういう御用件でしょうか。……刑法改正草案に対する感想ですか?」
また、どこかの週刊誌から、コメント取材の電話らしい。電話で五分ぐらい喋《しやべ》れば三千円から五千円になるので、怠《なま》け者《もの》の主人はコメントの仕事が嫌《きら》いではない。嫌いではないどころか、坂下の赤提灯《あかちようちん》でいっぱい飲むための帆待《ほま》ち稼《かせ》ぎになるから、むしろ歓迎《かんげい》している気配がある。主人よ、早く散歩から戻《もど》れ、いま、ひと稼ぎ出来る機会が訪《おとず》れているのであるよ! そんなことを考えていると、門前に主人の下駄《げた》の音が近づいてきたので、おれもさすがに愕《おどろ》いた。小さな偶然《ぐうぜん》の暗合にすこしばかり仰天《ぎようてん》したのである。
近ごろの人間はオカルト熱で神経が少々損なわれているから、こういう偶然の暗合を、
「おお、わが念力が彼《かれ》を呼び寄せたのだ!」
とか、
「ひょっとしたら、おれは念力使いかもしれぬ」
とかいう具合に捩《ね》じ曲げて受けとってしまうが、おれたち犬は精神が強靱《きようじん》であるから、神秘学などへは決して逃《に》げ込《こ》まぬ。偶然の暗合のおもしろさに打ち興じるだけである。
神秘学は宗教改革の前後やフランス革命の前夜や幕末などに流行した(というようなことをなぜ犬のおれが知っているかといえば、深夜、主人の仕事部屋に上がり込み、書架《しよか》から神秘学関係の書物を啣《くわ》えおろして勉強したからである)。最近では第二次世界大戦の直前にももてはやされたようである。目の前の世界が行き詰《づ》まり、きまりきった原理ではその行き詰まりが打破できなくなると、きまって人間属はこの面妖《めんよう》な学問を書庫の埃《ほこり》の中から引っぱり出してくるのである。おそらく人間属はまだ自立していないのだろう。知的な動物としてまだ一本立ちしていない、乳《ち》ばなれもしていないのである。したがって、どう生きていいのやらわからなくなると、せっかくの理性を捨て去って、不可知論のなかへ逃げ込もうとするわけだ。
まことに哀《あわ》れなはなしである。
たとえば「黒い呪術《じゆじゆつ》」と称するものがある。超自然《ちようしぜん》の力を動かして他人に不仕合わせや災難《さいなん》をあたえようとするもので、丑《うし》ノ刻《こく》まいりなどがそれにあたる。この「黒い呪術」のなかに紙人形《かみにんぎよう》というのがあって、その方法は次の如くである。
まず、半紙で人形を折る。次に呪《のろ》い殺すべき相手の名を人形に書き入れつつ、深く念じて、相手の魂《たましい》を呼び込む。しかる後に、かねて用意の縫《ぬ》い針《ばり》で人形を刺《さ》しながら、
「何某《だれそれ》よ、死ね」
と唱えれば、その何某が死んじまうのだそうである。
こんな馬鹿《ばか》なことを人間属は本気で信じているのだろうか。こんなことで他人が殺せるものなら、殺し屋などは存在しないはずである。兵士だって不必要だろう。また核兵器《かくへいき》だって要《い》らぬ理屈《りくつ》になる。
A国とB国との間が険悪になる。あるいはこの両国の間に戦端《せんたん》が開かれる。この場合、もしも超自然の力が実在するならば、A国の首相とB国の大統領は、国民に紙人形を折らせ、その紙人形に相手国の国民のひとりひとりの名を記入せしめ、
「何某よ、死ね」
と唱えれば、それで戦争は済んでしまう。そして念力の強い方が勝利国となるだろう。となると軍備は、平常から紙人形を一億も二億も折っておくことと、縫針を何億本も用意しておくことと、他所《よそ》の国の国民のひとりひとりの氏名を普段《ふだん》から調べておくことの、この三つで十分ということになる。有卦《うけ》に入るのは折紙屋さんと縫針屋さんだ。なにしろ、折紙と縫針が最大の武器なのだから。しかし、実際はそうはならぬ。というのも超自然の力など存在せぬからである。
わが主人は一応世間に名が知られている。そこで十日に一枚ぐらいの割合で「不幸の手紙」とかいうのが舞い込む。
「四十八時間以内にこれと同じ文面の葉書を二十八人の人間に書いてください。でないとあなたの命は三カ月と保《も》ちません。葉書を出さなかったために沖縄《おきなわ》の甲某《なんとか》さんも徳島の乙某《かんとか》さんもこの間、死にました」
たいていこんな文面が鉛筆《えんぴつ》による金釘流《かなくぎりゆう》で書いてあるのだが、まったく阿呆《あほ》らしいことに折角《せつかく》の精力を費やしている連中がいるものだ。他人の不幸を願うという根性《こんじよう》が第一おれには判《わか》らない。それにこんな下らぬ葉書を二十八枚も書く暇《ひま》があったら、習字でもやったらどうだろう。習字に飽《あ》いたら、外面《そと》へ出て、胸を張って空を眺《なが》めるがよい。あるいは身をかがめて路傍《ろぼう》の草に目をやるがいい。空はスモッグで曇《くも》り、草は人間の文明とやらのおかげですこし萎《しお》れてはいるが、やはり空は空、草は草、空は悠々《ゆうゆう》としてひろがり、草はこつこつと必死になって生きようとしている。それを見れば他人の死を望むといういじけた根性などどこかへすっ飛んで消え失せてしまうだろう。不幸の手紙などに凝《こ》っている愚《おろ》かな人間属に参考がてらに申し上げておくが、わが主人は郵便受けのなかに不幸の手紙を見つけると、その場で即座《そくざ》に握《にぎ》りつぶしてしまう。しかし、死ぬどころか、ますますぴんしゃんとしておる。この事実によっても、呪《のろ》いや念力が、屁《へ》の支えにもならないことがわかるだろう。呪術や念力を信じるのはそれぞれの勝手だが、それに他人を巻き込むのはよしにするがいい。
主人に週刊誌からコメント取材の電話がかかってきたとたん、偶然にも、主人が散歩から戻ってきた、というところから話が横道へひん曲がってしまったが、ものはついでだ、もうしばらく横道をほっつき歩くことにしよう。
考えてみれば人間属、つまり日本人というのは珍妙《ちんみよう》なる民族である。地震《じしん》近し、というと一億一千万人の話題はそのことに集中してしまう。PCBは、水俣病《みなまたびよう》は、石油危機はいったいどこへ消えてしまったのかね。小野田という今浦島《いまうらしま》が帰ってくる。とたんにすべてが引き出しの中に仕舞い込まれ、当分は小野田、小野田の三文字の氾濫《はんらん》。印刷所では小・野・田の三つの活字が品切れになってしまったそうだ。
「これはいったい、どういうことなのでしょうか」
と、おれは前にシェパードのキングに教えを乞《こ》うたことがある。
「日本人は毎日お祭りをやっているみたいですね。『大地震』『PCB』『石油危機』『総選挙』『横井さん』『小野田さん』と、担《かつ》ぐ御輿《みこし》は一カ月単位でぐるぐると目まぐるしく変わりますが、とにかくいつも新しい御輿を担いでワッショイワッショイやっている。物価だけではなく人々の精神まで狂乱《きようらん》状態を呈しているようではありませんか」
「民族が単一であるせいだろうねぇ」
キングは言下にこう答えた。
「異民族の集合体であれば、民族性も種々雑多、なかなか統一はとり難《にく》い。そこで、民族性で括《くく》るのは無理だから、階級性で括ろうというような考え方も生じる。しかし、日本人は単一の民族だからそうはならない。青インクを一滴《いつてき》たらせば、すべての人があッという間に青く染まってしまうのさ」
これはちょっと変わった論旨《ろんし》であるわいと思い、おれはそのまま黙《だま》ってキングの高説を謹聴《きんちよう》した。
「米国にPという、写せばその場ですぐに写真が出来上がるというカメラを作っている会社があるが、そこの副社長がこのあいだこう言っていたよ。『日本人相手の宣伝は非常に楽です。Pはいいカメラだ。とても便利だ≠ニいう評判さえとれば、あとは何の手もかからない。カメラはひとりでに売れて行く。だから、最初がちょっと難《むずか》しいだけです』とね。つまり、民族が単一だから普及《ふきゆう》は早いわけだ」
「普及はたしかに早いでしょうが、そのかわり飽きるのも早いでしょう?」
「その通りだ。そこでその副社長がまた曰《いわ》く『飽きそうだな、と思ったら、ちょいちょいとアクセサリイを取りかえて新型を発売するのが|コツ《ヽヽ》です。この周期は米国の三倍ほど早いようですね』……」
この副社長の日本人観が正鵠《せいこく》を射ているとするなら、いま日本全土を席捲《せつけん》しているオカルト旋風《せんぷう》は間もなく熄《や》むはずである。
「人間は|考える《ヽヽヽ》葦《あし》である」という言葉を心の支えにしている理性的な人間は、あと一年も辛抱《しんぼう》なさるがいい。いま吹《ふ》き荒《あ》れているオカルト旋風はおそらく一年後には影《かげ》も形もないだろうから。
「あなた、ちょうどよかったわ」
主人の下駄の音を聞きつけたのだろう、奥さんが玄関のドアを押《お》し開いて大声をあげた。
「いま、刑法改正草案について、先生の御感想をうかがいたいという電話がかかってきているのよ」
「ほう、またコメントの取材かね。ドン松五郎とテレビに出て以来、おれは売れに売れてるねぇ」
主人はにっこり笑いながら電話に出た。
「はい、松沢ですが……」
おれの仕事は日向《ひなた》ぼっこ、したがって大いに暇《ひま》である。聞くともなく主人の声に耳を立てる。
「刑法改正草案についてなら山ほど意見はありますよ。たとえばぼくは公然ワイセツ罪がいまの六カ月以下の懲役《ちようえき》から一年以下の懲役に引きあげられたこと、ワイセツ罪の適用範囲を拡大《かくだい》したこと、このふたつに疑問を持つね。なぜというに、わいせつ感というのは、美に対する考え方同様、人それぞれによって違《ちが》うものだからだ。日本の人口は一億一千万人だが、これはすなわち日本には一億一千万のわいせつに対する考え方がある、ということと同義だ。それをたったひとつにまとめるのは、土台、無理な話でね、たとえていえば、ピカソの絵を美しいと感じない者は一年以下の懲役に処す、と決めるのと同じぐらい無意味だね」
なるほど、とおれはひとりうなずく。主人のコメントには傾聴《けいちよう》に値《あたい》するものがほとんどないが、これはまあ聞ける方かもしれぬ。
「だいたい、法制|審議会《しんぎかい》の顔ぶれを見てみたまえ。二十六名の委員の最年少が五十七|歳《さい》、最高が九十歳、委員の平均年齢が六十九・五歳だ。これはいい加減老人だよ。言っては悪いが、女と男との関係から引退なさった方だ。この引退老人たちが、現役のぼくたち、あるいはこれから現役になろうとする青少年たちに、女と男の関係について、あれはいかん、これはいかんと喋々《ちようちよう》する資格はあるかね。参考意見を述べる、あるいは、若い連中に己《おの》が経験を語って、もって他山の石としたまえよ、というのならわかるよ。ところがそうではない、これらの老公たちは、自分たちの考えた枠《わく》にぼくたちを嵌《は》め込《こ》もうとしているのだ。子どもたちが自分たちで隠《かく》れん坊《ぼう》をして楽しんでいるとする、そこへ大人が出かけて行って、その遊び方はいかん、こういうルールを採用したまえ、採用しなければお仕置《しおき》をする、これと同じぐらい下らぬことだ。だいたい、ワイセツ罪というものが六法全書の中に載《の》っていること自体が奇妙《きみよう》なはなしだね。ある男が女性の裸体《らたい》を見たくなり、彼女《かのじよ》の家の中に押し入る。この場合は家宅|侵入罪《しんにゆうざい》を適用すればよい。男が女を襲《おそ》えば強姦罪《ごうかんざい》だ。つまりそのう……」
主人の論旨がすこし怪《あや》しくなってきた。おれは思わず知らずはらはらする。はらはらするのも一宿一飯の恩義をおれが感じているせいだろう。
「……つまりワイセツそのものはちっとも罪ではない。ワイセツな考えが行動となり、しかも他人に被害を及《およ》ぼした場合にのみ、処罰《しよばつ》すべきだ。わかるだろう、きみ。とにかくワイセツ行為《こうい》が他人に被害を与《あた》えないかぎり、罰を加えるのは過《あやま》ちだよ」
取材記者は、これ以上いくら頑張《がんば》っても主人からは碌《ろく》な考えひとつ聞き出せぬと思ったのだろう、電話を切ったようである。主人も受話器を置いて、
「いやあ、忙《いそが》しい忙しい」
と、ぼやきながら仕事部屋に閉じ籠《こも》ってしまった。コメントの電話が一本入ったぐらいで、なにがそんなに忙しいのか、おれにはわからぬが、それにしても、作家のくせに主人は勉強が足りないと思う。こんどの刑法改正案について、ワイセツ罪がどうしたこうしたと騒《さわ》ぎ立てるのは、じつは愚《ぐ》の骨頂だからである。敵の真意はもっと深いところにあるはずだ。
おれの意見では、このたびの刑法改正案は、靖国《やすくに》法案の強行採決、日教組手入れ、田中という首相の国歌・国旗法制化発言、田中式五大十省≠ェよい例だが、徳育強化など教育問題への政府の積極的|攻勢《こうせい》等の文脈の中で捉《とら》えなくてはならないだろう。
つまり肥《ふと》りに肥った国家権力が個人の生活のみならず、その内面までも支配しようとしており、その尖兵《せんぺい》として刑法改正案があるのだ。おれは一介《いつかい》の駄犬《だけん》にすぎぬが、毎朝、家族の誰《だれ》よりも先に、門扉《もんぴ》の内部《なか》に投げ込まれた新聞の見出しを読む機会に恵まれておる。見出しだけ眺めていてもこれぐらいはわかるのである。
値上げ反対、公害反対、買占《かいし》め反対の声を発するは市民の正当な権利である。不当に値上げをされては困る、と思えば、人はだれかにそのことを話したり訴《うつた》えたりしたくなる。これは桜《さくら》が美しいと思うのと同じように自然の情である。そのうちに人は自分と同じ考えを持った者がまわりに居《い》ることに気づき、では一緒《いつしよ》に行政当局なりに訴えてみましょうか、ということになる。これもまた、ひとりで眺めるよりみんなで愛《め》でる桜の方が美しい、と思うのと同様に、人情である。さて、そこで人々は、
「物価が高くて、暮らしにくい」
という意味のプラカードを掲《かか》げて街を歩きはじめる。が、これが刑法改正案では〈多数が集合し、暴行または脅迫《きようはく》をしたときは、騒動《そうどう》の罪とし、次のように処断する〉というような恐《おそ》ろしいことになる。それどころか、二人以上が通謀《つうぼう》して多衆を集合させようとしただけで「騒動予備罪」に処せられてしまうのだ。
マーケットで主婦が二人、
「Aという洗剤《せんざい》を使っていたら手が荒《あ》れましたわ」
「あら、わたしもそうですわ」
「まったく困ったものね。ひとつメーカーに談じ込もうかしら。メーカーはこのすぐ近くなのよ」
「そうしましょう。ほかにもわたしの知っている奥さん方が、このA洗剤は手が荒れるといってらしたわ。そういう方もお誘《さそ》いしようかしら」
「ええ、そうしましょうよ」
と、こう話し合っただけで「騒動予備罪」なのだ。
また改正案のなかには〈公然、事実を摘示《てきし》して、人の名誉《めいよ》を侵害《しんがい》したものは、|その事実が真実であると否とにかかわらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、五年以下の懲役もしくは禁固または三十万円の罰金に処する〉という珍妙《ちんみよう》な条文がある。
真実を摘発《てきはつ》して罪になる、なんて馬鹿なはなしがどこにあるものか。この条文で喜ぶのは汚職《おしよく》をする政治家、お妾《めかけ》さんを持つ政治家、激《はげ》しい女出入りを記者に嗅《か》ぎつけられはしないかとびくびくするタレントぐらいなものである。こんなものがまかり通るようになったら、新聞記者、週刊誌記者、ルポ・ライター、そして作家はペンを折るしかあるまい。
その他、国民の知る権利を奪《うば》う「公務員の機密|漏示罪《ろうじざい》」、水増し買占《かいし》め便乗値上げで悪名をほしいままにしている企業《きぎよう》の秘密を手厚く保護する「企業秘密の漏示罪」など、珍にして妙なる条文が、この改正案の中にはごろごろしているが、いい年寄りが二十何人も集まってこんなくだらぬことしか考えつかないとは、よくもまあはずかしくないものだ。それも十年以上もかけて、だ。
「おまえは犬のくせに、人間の世界のことについてあまりつべこべと言いすぎる。刑法《けいほう》がどう改正されようと、たかが犬|ころ《ヽヽ》にしかすぎぬおまえになんの関係がある?」
という反論が出るだろうことはとうに覚悟《かくご》している。だが、この反論はじつはまるで的外《まとはず》れなのだ。このたびの刑法改正案の治安優先、重罰化《じゆうばつか》の傾向《けいこう》はおれたち犬の日常生活に多大の影響を及ぼすことは確実だからである。
たとえば、騒動罪《そうどうざい》の強化、同予備罪の新設、公務員機密漏示罪と企業秘密漏示罪の新設、外国元首らに対する侮辱《ぶじよく》などの罪の新設、性表現取り締《し》まり規定の強化などが実現したとしてみたまえ、「表現の自由」「知る権利」などに大きな制限が与《あた》えられることになるだろう。そうなると、人々は怏々《おうおう》として楽しまなくなり、心の中にさまざまな屈辱《くつじよく》をためこむことになるはずだが、おれたち犬にとって、心に屈託《くつたく》のある人間ほど恐《おそ》ろしい敵はない。なんとなれば、欲求不満の人間ほど理由もなく犬を蹴《け》っとばすものだからである。
法制審議会の老公諸君は「重罰主義」を信奉《しんぽう》し、自動|販売機《はんばいき》の不正使用者や無賃《むちん》乗車者まで刑法の対象としようとしているが、もしも老公諸君の重罰主義的|答申《とうしん》が国会を通ったらどうなるか。世の中が窮屈《きゆうくつ》になる。暗くなる。おもしろくなくなる。したがって人間たちはまたしてもその|うっぷん《ヽヽヽヽ》のはけ口を、犬を靴《くつ》の先で蹴っ飛ばすことに求めようとするだろう。これがおれたちには困る。犬の安心立命は人間様次第、人間が仕合わせにならぬうちは、おれたち犬の躰《からだ》から生傷は絶えぬだろう。
だいたい、自動販売機の不正使用者を罰するというが、そんなことを決める前に老公諸氏は自動販売機の存在そのものをどう思っているのかね? たしかにやつは働き者だ、二十四時間、骨身を惜《お》しまずよく働く。だが、やつらはすこしチップをねだりすぎてはいないか。たとえば九十五円の|かん《ヽヽ》ビールは自販機では百円だ。省力化してサービスを利用者に負担《ふたん》させ、その上、高い。ときどきは故障と称して利用者の硬貨《こうか》を巻きあげる。こんな代物《しろもの》を平気で野放しにしておいて、利用者側の悪さだけを罪におとそうだなんて片手落ちではないか。自販機を不正利用されるのがそんなにいやなら、人間の売り子に代えたらどうなのだろう。いずれにもせよ、自販機の故障で頭にかっときた人間どもが、その腹いせにおれたち犬を苛《いじ》めるので困る。
また、無賃乗車を刑法上の罪である、とするのも結構だが、その前にやるべきことがあるだろう、というのが、おれたち犬の一致《いつち》した見解である。国鉄職員の家族の優待パス、国会議員のパス、みんなきびしく取り締まるべきだ。というのは、たとえば電力会社の職員を見たまえ、彼等《かれら》にはパスなんぞないではないか。自分がこしらえた電力を普通人《ふつうじん》同様の料金を払《はら》って使っておる。郵便局員も然《しか》り、郵便局員だからといって、紙切れに文を書いてポストに入れる、というわけには行かぬ、ちゃんと十円出して葉書を買っている。なのになぜ、鉄道会社だけが、ああむやみに縁故者《えんこしや》を優待するのだろうか。しかも、赤字が出れば国民の税金をあてにするくせに。自分のことが自分できちんと始末できるようになったら、無賃乗車はいかん、と言いたまえ。
「ドン松五郎君、お帰り」
刑法改正案を頭の中で自問自答しながら、悪《あ》しざまにあげつらっていると、背後で、シェパードのキングの聞き覚えのある声がしたので、その方を振《ふ》り返っておれは軽く会釈《えしやく》をした。
「キングさん、わたしはテレビ局で精いっぱい馬鹿《ばか》っぷりをしてきたつもりですが、ご覧になっていてどうでした?」
「言うことなしじゃよ」
キングは片目をつむってみせた。人間の表現でいうならウインクをしてみせたわけである。
「知的|虚栄心《きよえいしん》を抑《おさ》えるというのは人間にとっても犬にとってもなかなか難《むずか》しいことだが、きみはそれを見事にやってのけた。わしはきみに満腔《まんこう》の敬意を表したい」
これで犬の仲間から私刑《リンチ》を加えられるおそれはなくなったわけである。おれは嬉《うれ》しくなって思わず尻尾《しつぽ》を何度も振った。
「ところで、ドン松五郎君、さっそくだがきみに朗報《ろうほう》があるのだよ」
「朗報、ですか?」
「うむ、飛び切りのね。わしのあとについてきたまえ」
キングはおれにまた片目をつむってみせ、道路を国分寺の墓地をめざしてのんのんずいずいと歩き出した。この「のんのんずいずい」という形容は明治期の講釈師二代目田辺南龍が発明した言葉だそうである。本来は、修羅場《しゆらば》、つまり合戦の模様を調子をつけて読む軍談に於《おい》て、軍勢の押し寄せる光景を弁ずるときに用いる形容らしいが、これはキングの自信に満ちて落ち着いた歩き方を現すのに最適のように思われる。しかし、それにしてもこれは素晴《すばら》しい表現ではないか。こういう表現に出っくわすと、さすがは人間、万物の霊長《れいちよう》だけあって大した言語感覚を持っているわい、と素直に感動してしまう。
かかる立派な、他の生物に対して誇《ほこ》るに足る言語感覚を持つ人間がいる一方に、同じ人間でありながら、言語に対してまことに馬鹿げた考えを所有する者も多数あって、このあたりはまことに混|とん《ヽヽ》としておる。そこが人間という生物のおもしろいところである、と説く犬の仲間もいるが、おれにはとうてい解《げ》せぬ。
では言語に対する馬鹿げた考えとはなにか。前にもちらと言及《げんきゆう》した覚えがあるが、禁句を作るというのがそれで、たとえばある大新聞では「漁夫」がすでに禁句である。漁夫には職業|蔑視《べつし》の色が濃《こ》いゆえに「漁船従業員」と言いかえるようにというのが、いま日本の人間属にまかり通っている常識なのだそうである。これは奇なことといわねばならぬ。また、異なことでもある。『万葉集』に「娘等皆咲答曰、児等者漁夫之舎児、草菴《そうあん》之微者、無[#「レ」]郷無[#「レ」]家」(大伴旅人《おおとものたびと》)とあり、『和漢朗詠集《わかんろうえいしゆう》』に「漁夫の晩の船は浦を分ちて釣《つ》る、牧童の寒笛は牛に倚《よ》りて吹《ふ》く」とあり、『太平記』に「海底に沈で已《すで》に百余年を経て後、漁夫の網《あみ》に引かれて、御辺の許《もと》へ伝へたる刀也」とある。引用文の意味や解釈はいまは問わぬ。おれはただ、この漁夫なる言葉に千数百年の歴史の重さがかかっているということをどう考えるか、禁句製造者どもに問いたいのである。「漁夫」を「漁船従業員」と呼びかえただけで山積する漁業問題がすべて解決するか? もし漁業という仕事が蔑視の対象になりかかっているとすれば、漁業問題をひとつも解決しようとしない為政者《いせいしや》の怠惰《たいだ》がその原因だ。「漁夫」を「漁船従業員」などと呼びかえる前に、為政者は漁業問題をひとつでもいいから解決し、この仕事に従事するものの生活をすこしでも向上させるべきだろう。
もしも、漁業が為政者の賢政《けんせい》によって、銀座のクラブのホステスほどの収入と、国立大学教授ほどの地位が約束《やくそく》されるようなことになってごらん、漁夫という呼び名は燦《さん》たる輝《かがや》きを帯び、誰《だれ》も「漁船従業員」などという珍奇《ちんき》な言いかえを思いつかぬにちがいないのだ。
だいたい「漁夫」が「漁船従業員」になったら、磯辺《いそべ》で海草を刈《か》ったり、|あわび《ヽヽヽ》や|うに《ヽヽ》を獲《と》って生活している漁村の人たちはどうするのか。彼等《かれら》は漁船に乗らぬ、したがって、もう漁業に従事する人間ではなくなってしまうのかね。本当に馬鹿々々《ばかばか》しいったらありゃしない。
また「漁夫の勇」(漁夫は水中で恐《おそ》れるところがないところから、体験によって得た勇気のたとえ。長い間の経験から体得した決断、気力などの意)や「漁夫の利」(当事者同士が争っている間に、第三者が利益を横取りすること)などの成句はどうなるのだろう。それぞれ「漁船従業員の勇」「漁船従業員の利」などとなってしまうのだろうか。
言葉は記号だ。したがって言葉の向こうに、その言葉によってさし示される|モノ《ヽヽ》がきっとある。その|モノ《ヽヽ》を改善せず、言葉だけを言いかえて、あたかもその|モノ《ヽヽ》が改善されたかのような錯覚《さつかく》を与《あた》えようとしている禁句製造者はひとり残らず詐欺師《さぎし》であり、偽善者《ぎぜんしや》だ。もうひとつ言えば、言葉という文化財を破壊《はかい》するならず者である。
ついでながら、この文化財を破壊するならず者の最も多く集まっているのがNHKだろう。「現地人」を「現地の人」、「原住民」を「元から住んでいる人」、「日雇《ひやと》い」を「自由労働者」などと言いかえるようにと「NHK番組基準ハンドブック」には書いてあるが馬鹿も休み休み言うがいい。
NHKの考査室のお偉方《えらがた》は本気で「日雇い」が自由労働《ヽヽヽヽ》だと思っているのかね。国民|春闘《しゆんとう》とか称する結構な|ゼニスト《ヽヽヽヽ》からも外され、福祉厚生施設《ふくしこうせいしせつ》もなく、身分保障も|あいまい《ヽヽヽヽ》で「その日|暮《ぐ》らし」を余儀《よぎ》なくされているからこそ「日雇い」なのではないか。それを「自由労働者」と呼びかえるなど、ここまでくればその詐術《さじゆつ》は犯罪的《はんざいてき》でさえある。実情を覆《おお》いかくして、呼び名だけ変えるなぞは、やり方が汚《きたな》すぎる。「日雇い」の人たちのことを真実|憂《うれ》えているならば、日銭《ひぜに》何億という収入の何%かをさいて、「日雇い」の人たちがどんな困難な暮らしを余儀なくされているか、その実態を番組にするべきではないのか。
また、「すけ」を「情婦」に、「ひも」を「情夫」に言いかえることも人間界の常識のようだ。NHKでは「おとしまえ」を「金銭のからんだ決着」などと呼びかえている。こういうのも馬鹿な配慮《はいりよ》だ。いずれも、すばらしく表現力のある言葉ではないか。何度も言うようだが、言葉は記号である、が、ただの記号ではない。交通信号とはちがうのだ。そこに文化や、文化とまでは行かなくても人間生活の陰影《いんえい》や垢《あか》がたくさんこびりついたものほどすばらしい記号なのだ。
「あの|スケ《ヽヽ》、はくいぜ」
と、若者が言う。このひとことで若者のすべて、生まれ、育ち、生業《せいぎよう》や性格などが彷彿《ほうふつ》としてくる。こういうのをよい言葉というのである。すくなくとも犬の眼《め》からはそう思えるのだ。
「あの女性は美しい」
と、言ったのでは「はくい」という感じのすべては尽《つ》くせぬ。「はくい」には「美しい」という意味と「自分のものにしたい、抱《だ》いてみたい」という願望がこめられているからである。たった三音の言葉にしかすぎぬのに「はくい」は「うつくしい」という五音の言葉よりはるかに雄弁《ゆうべん》なのだ。だから「はくい」もよい言葉なのである。
日本国に居住する人間属の言語感覚についてあれこれと取りとめのないことを考えながらシェパードのキングの後に従って歩いているうちに、やがておれは下総《しもうさ》国分寺裏の墓地に出た。墓地の中央に四|坪《つぼ》ほどの空地があるが、キングはおれをその空地へ招《しよう》じ入れた。
ここでまた話は横道に反《そ》れるが、おれにはこの国の官僚《かんりよう》たちのやり方がどうもわからない。官僚たちは、
一坪を三・三〇五七八五平方メートルに、
一里を三九二七・二七メートルに、
一合を〇・一八〇三九リットルに、
それぞれ言いかえるようにという法令を出したり、
「式部小路」や「拾九文横丁」を廃して日本橋通二丁目と一括《いつかつ》して表記せよ、
「鎗屋《やりや》町」や「弥左衛門丁《やざえもんちよう》」という呼び方をやめてただの銀座何丁目にせよ、
だのと言ったりしているが、右の如《ごと》き西洋文明に右ならえ方式がじつは、彼等の大棟梁《だいとうりよう》である天皇をすこしずつ追いつめて行っていることに気付いているのだろうか。おれたちは犬であるから、天皇制に借りも貸しもない。いってみれば天皇制がどうなろうと、一向に痛痒《つうよう》を感じないが、官僚諸君が和式の度量衡制《どりようこうせい》や旧町名を片っぱしから洋式の度量衡制や新町名に変更《へんが》えしているのを見ていると、他人事《ひとごと》ながら心配になってくる。
なんとなれば、和式を洋式に変えて行くうちにそれではひとつ「年号」も、西洋にならって廃《はい》してはどうか、敗戦の年が昭和二十年で西暦《せいれき》一九四五年、東京五輪が昭和三十九年で西暦一九六四年、今年が昭和四十九年で西暦一九七四年、というのは七面倒《しちめんどう》だから西暦一本にまとめたらどうか、こういう意見がきっと出てくるだろうからである。
だが、この国の支配層が、種々の便宜《べんぎ》を慮《おもんぱか》って、天皇制を存続させた方が得策である、と考えている限り、年号|撤廃《てつぱい》は出来ない相談だろう。年号がなくなってしまったら、天皇制の|値打ち《ヽヽヽ》がそれだけ下値になるだろうからである。べつに言えば、いまのところ、天皇制はすなわち年号制、天皇制はある年代に年号を冠《かん》するのに便利である、といった程度でしか活用されていないのだ。ことわっておくがおれは左翼犬《さよくけん》でも右翼犬でもない。ただの駄犬にしかすぎぬが、そのおれには天皇制がそう見えるのである。
さあれ、この国の官僚は支配層が最後の切り札《ふだ》として温存している天皇制を、ある意味では危機にさらそうとしているようで、このあたりがどうもよくわからないのである。支配層べったりの官僚にとっては天皇制=年号制を守るのが主務であるはずだ。なのに和式の度量衡制や旧町名という大事な外濠《そとぼり》をどうして自分の手で埋《う》めようとしているのだろう。その方が便利だから洋式の度量衡制に改め、町名も新しくする。ただし、いくら不便でも年号制だけは変えないぞ、では首尾が一貫しておらぬではないか。おっと「一貫」は三・七五キロか。ならば言い直して、日本の官僚の考えることは首尾が三・七五キロしておらぬ。
「……ドン松五郎、きみのテレビでの犬語による演説を聞いて、遠くは東京の浅草や本所あたりから、犬の仲間がこの国分寺へ馳《は》せ参じてきている」
キングが、この国の官僚たちの思考の不統一性について思索中《しさくちゆう》のおれに向かって言った。
「参集した犬の仲間の数はざっと三十|匹《ぴき》」
「わたしの演説を聞いて三十匹も犬が集まった、というのですか?」
おれは愕《おどろ》いてキングに尋《たず》ねた。
「……でも、本当ですか?」
「本当だとも。ドン松五郎君、これは朗報だよ。おそらく、参集した犬の諸君は、目下|行方《ゆくえ》不明中のプードルのお銀とブルテリアの長太郎に関する情報を、大なり小なりそれぞれ持ってきているはずだ。つまり、わしが思うに三十匹の諸君の情報を総合すれば、お銀と長太郎の消息はかなりくわしく掴《つか》めるだろう」
「テレビの力は恐《おそ》ろしいものですね。わたしがテレビに出てからまだ僅《わず》かの時間しか経《た》っていないのに、もうその成果が出たんですから」
「まったく同感だよ」
「しかし、キングさんは犬が三十匹も集まってきた、とおっしゃいましたが、その三十匹はいったいどこに居《い》るんです?」
おれは躰《からだ》をひとまわり回転させて空地の周囲を眺《なが》めた。周囲はただ畳々《じようじよう》たる墓石の波である。
「わたしには墓石しか見えませんがね」
「すぐに姿を現すさ」
キングは墓石のひとつにひらりと飛びあがり、前肢《まえあし》の一本を額《ひたい》にかざすようにして墓地の奥《おく》を見た。
「柴犬《しばいぬ》の平吉君がいま、三十匹の犬を面接中なのだよ」
「面接……?」
「うむ、三十匹が一度に叫《さけ》び立てたら、こりゃ収拾がつかん。そこで平吉君が一匹一匹と面接し、がせねたを持ってきた犬をふるい落とし、信頼度《しんらいど》の高い情報を提供《ていきよう》してくれた犬だけを、ここへ連れてくることになっているのだよ。もっとも三十匹の犬はみな真剣《しんけん》な眼をしておった。おそらくそれぞれみんな、たしかな情報を持ってきてくれた犬ばかりだろう、という気がするが……」
「さあ、こっちだ、こっちだ」
墓石の波の向こうから平吉の声が聞こえてきた。
「おお、三十匹全部が墓石の間を縫《ぬ》ってこっちへやってくるぞ」
キングがあいかわらず小手を、というか前肢の片ッ方を額にかざして前方を眺めながら言った。
「おそらく三十匹全部が確実な情報提供犬だったのだろうな」
かちゃかちゃかちゃ、ぴたぴたぴた、こんこんこん……、たくさんの足の爪《つめ》で墓石を叩《たた》く音が近づき、やがて三十匹の犬が、平吉を先頭に、一匹ずつ空地へ入ってくる。しかも、三十匹の犬たちは、囁《ささや》き声で、
シュシュ・シュシュシュシュシュシュッ
シュシュ・シュシュシュシュッシュッシュッ
と、おそらく平吉が教えたのだろう、『戦場にかける橋』のテーマを口遊《くちずさ》んでいた。胸がわくわくするほど格好《かつこう》いい。キングは墓石の上で、感動のあまりぶるぶると震《ふる》えている。
「……全隊|停《と》まれ!」
平吉の号令で囁き声の行進曲と足の爪の音がぴたりとやんだ。見ると三十匹の犬は、一列が十匹。三列に並《なら》んでおれと墓石の上のキングに正対している。
おどろいたことに三十匹全員がおれと同じ雑種犬だ。どうして情報提供犬が雑種ばかりなのだろうか。考えたがむろん分からぬ。
「墓の上においでになるのが、もうみんな知っているはずだが、シェパードのキング様だ」
三十匹の犬が一斉《いつせい》に尻尾《しつぽ》を振《ふ》る。人間なら、一斉に挙手《きよしゆ》の礼、といったところである。
「……そして、みんなのすぐ目の前に立っているのが、|あの《ヽヽ》ドン松五郎君である」
柴犬の平吉がひときわ高く声を張りあげた。
「そうなのだよ、諸犬。この雑種犬こそ、四日前にテレビに出演していまや日本中の人気を一身に集めているわれらの名犬ドン松五郎君なのだ」
三十匹の犬たちの熱っぽい視線が一斉におれに集中した。おれはすっかりどぎまぎしてしまい、ぺこんと頭をさげるのがやっとだった。それにしても平吉は大袈裟《おおげさ》である。日本中の人気を一身に集めているとは、誇大《こだい》宣伝もいいところだ。
「平吉君」
墓石の上からシェパードのキングは平吉に問うた。
「三十匹の諸犬の話をちゃんと訊《き》いてくれたかね?」
「もちろんですとも、キングさん」
平吉はしゃんと首を伸《のば》して答えた。
「一匹のこらず、わたしが直接《じか》に面接をいたしまして、くわしく身上調査をいたしました」
「それで、どうだったのだね?」
「はあ。これら三十匹の犬には共通点が三つありました。ひとつ、ごらんのとおり全員が雑種犬であること。ふたつ、過去において全員はなんらかの形で飼《か》い主《ぬし》を有していたこと。したがって狂犬病《きようけんびよう》予防注射は全員、済んでおります。みっつ、いま申し上げたように全員、飼い犬だったのでありますが、現在はドロップ・アウトしておりまして、いずれも現在は自由犬、すなわち、人間属の表現を借りれば野良犬《のらいぬ》であること。次にドロップ・アウトの原因はほとんどが、飼い主にたいする失望であります。つまり飼い主はこれらの犬を飼った当座は蝶《ちよう》よ花よソーセージよビスケットよ、とちやほやする。だが、そのうちに、飼い主は隣《となり》近所の飼い犬たちを見るたびに溜息《ためいき》をつくようになる。『隣はスピッツ、向かいはプードル、そして斜《なな》め向かいは柴犬。それにくらべうちのは雑種、肩身《かたみ》が狭《せま》いわい』と、いわれのない劣等感《れつとうかん》を持つようになるわけです。それを聞いてこれらの諸犬はがっくりとなり、流れる雲と光る風を追って自由の旅に出た、というわけです。もうひとつ全員、いずれも少林寺犬法《しようりんじけんぽう》の使い手ばかりであります」
この少林寺犬法は人間世界の少林寺|拳法《けんぽう》と深い因縁《いんねん》がある。拳勇、すなわち空手《からて》は明《みん》末に中国の少林寺で発達した護身術であるが、この少林寺の山門の前に住んでいたチンという野良犬が、人間のする拳勇を犬の吾《われ》もしてみん、と思い立ち、犬の身ながら少林寺拳法を見よう見真似《みまね》で体得し、それを犬の習性に適《あ》わせて練りあげた格闘術《かくとうじゆつ》がこの少林寺犬法なのである。この犬法の基本は、
一、蹴《け》る。
二、引っかく。
三、噛《か》みつく。
四、逃《に》げる。
の四つから成っている。「逃げる」というのが重要な項目《こうもく》となっているところが、ユニークである、とおれは思うがどうだろうか。人間属の武芸は勝つことを主に追求しているようであるが、おれたち犬は逃げるのも大事な戦法のひとつだと考えているのである。いってみれば「逃げる」ことをひとつの技術に高めることによって、無意味な死=犬死を避《さ》けているわけで、このあたりは人間属よりもおれたち犬の方が賢明《けんめい》だろう。べつに言えば、人間は自分だけはいつの場合でも勝てる、と夢想《むそう》するロマンチストであるのに、おれたち犬は、勝負においてはかならずどっちかが敗れる、その敗者はたぶん自分かもしれない、と考えるリアリストなのである。
「それではここでこの三十匹の諸犬の犬法の腕前《うでまえ》がどの程度か、実技をおめにかけましょう」
柴犬の平吉は誇《ほこ》らし気《げ》にこう言い、三十匹の犬たちの方を向いた。
「諸犬、墓石割りをやってみよう。では用意!」
平吉の号令がかかるや否《いな》や、三十匹の犬は四方八方へ飛び散り、各自歯をにゅっと剥《む》きながらてんでに好みの墓石と正対した。いずれの犬もその動作は眼を瞠《みは》るほど敏捷《びんしよう》であった。さすがは犬法犬《けんぽうけん》たちである。
「やれッ!」
平吉の声が終わらぬうちに全員は自分の前の墓石にがきっと歯を立てた。そして、愕《おどろ》いたことに、大部分の犬は、それぞれの犬歯で、墓石を割ってしまっていた。
「ごらんいただけましたでしょうか、キングさん」
平吉は墓石の上に寝《ね》そべって空地を見下ろしているキングに声をかけた。
「たったのひと噛みでそれぞれ平均五|糎《センチ》ぐらい墓石を噛み切っておりますよ」
「見事だよ、諸犬……」
キングが嘆声《たんせい》を発した。
「よくもこれだけ腕の立つ犬法の達人犬が集まったものだ。ところで平吉君、お銀さんと長太郎君の消息は掴めたかね」
「それがじつはさっぱりで……」
平吉は立てていた尻尾をだらりと股間《こかん》に垂らした。
「まるでわかりません」
「すると、なにかね、これらの諸犬は、お銀さんと長太郎君の消息を持ってきてくれたわけではないのか?」
キングが墓石から地上へ降りた。
「わしはてっきり、お銀さんたちについての情報を持ってきてくれたのだとばかり思っていたが。ドン松五郎君に朗報がある、と言ったのも、そう思ったればこそだったのに」
「はあ、じつはこれらの諸犬は、ドン松五郎君のテレビをあっちこっちで見て、下総の国分寺あたりで、なにかが始まるらしい、ついてはそれに力を貸したい、とそればかりで集まったものばかりなのです」
「その志には大いに感謝するが、わしらに必要なのは、お銀さんたちの消息であって、犬法犬の集団ではないのだ。諸犬、お気の毒だが引き取ってくださらんか」
「しかし、キングさん、それはすこし冷たい仕打ちでございますよ」
平吉がキングの前に進み出た。
「この三十匹は、力を貸すかわりに三度の食事を支給せよ、と言っているわけではないのです。そういう打算からではなく、自分たちと同じ雑種犬のドン松五郎君が、なにか企《くわだ》てているらしい、それに協力したい、ただ、それだけで、西は錦糸町《きんしちよう》や新小岩から、東は船橋や千葉から、南は浦安や行徳《ぎようとく》から、そして北は松戸や流山《ながれやま》から、馳《は》せ参じてきたのです。その気持ちを買ってはいただけませんか」
「いや、いますぐ引き取ってもらうのが、結局はお互《たが》いのためになるのだよ」
言いながらキングは耳を立てて墓地の周辺の気配を窺《うかが》った。
「一度にこれだけの犬が集まってごらん。人間たちが黙《だま》っちゃいないよ。このへんに住む人間のだれかが、野犬《やけん》の殖《ふ》えたことに気がつく。おそらくその人間は保健所に電話を入れるだろう。すると、どういうことが起こると思うかね?」
ここでキングはゆっくりとひとわたり三十匹の顔を見わたして、重々しい声でこうつけ加えた。
「……ただちに狂犬病予防技術員がやってきて野犬|狩《が》りをはじめるはずだよ」
狂犬病予防技術員による野犬狩り、と聞いて三十匹の犬はしんと静かになってしまった。これは無理もないことで、野犬にとって狂犬病予防技術員は、逃亡犯人《とうぼうはんにん》にとっての敏腕刑事《びんわんけいじ》、脱税者《だつぜいしや》にとっての税務署員、ぐうたら学生にとっての採点のきびしい教授、デモ隊にとっての機動隊員、東京都民にとっての東京|大地震《だいじしん》、ごきぶりにとってのゴキブリホイホイのような存在に相当するのである。
「そんなわけだから、せっかく集まってくださった三十匹の有志諸犬には気の毒だが、ここはひとまず引き取っていただくのが最良の策であろう、と思う。有志諸犬よ、ごくろうさまでした」
三十匹の犬たちは塩垂れて頭をさげた。おれはこの青菜《あおな》に塩の犬たちを見ているうちに、ふっとあることを思いついた。そこで大声でキングに言上した。
「キングさん、わたしに考えがあるのですが……」
「なんだね、ドン松五郎君?」
「このまま、三十匹の諸犬がここにとどまる方法がないではありません」
「まさか!」
キングは首を横に振《ふ》った。
「三十匹の野犬が共同生活をして、人間どもの目に触《ふ》れずにすむとはとても考えられないね。それに食糧をどう調達するのだ?」
「こそこそ逃げ隠《かく》れするから、狂犬病予防技術員に目をつけられてしまうのです。堂々と行動すればかえって怪《あや》しまれることはないと思うのですがね」
「どうも、きみの言うことはよくはわからんが……」
「つまり、この近所のだれかにこの三十匹の有志諸犬を飼わせるのです。もっと正確に言えば、三十匹の有志諸犬をひとまとめにして飼ってみたいな、という気持ちを起こさせるのですね」
「どうやってだね?」
「たとえば、三十匹が隊伍《たいご》を整えて一糸乱れぬ行動をしてみせる、あるいは、三十匹が犬法《けんぽう》の模範《もはん》演技を見せる。そうすれば『こりゃあ、凄《すご》い』と夢中《むちゆう》になる人間がきっと出てくると思います。つまりその人間に、この三十匹を自分のうちの飼い犬にすれば自慢《じまん》の種子《たね》が、他人に吹聴《ふいちよう》し見せびらかす種子が出来るぞ、と思い込ませるのですね。もうひとつ言えば、三十匹の犬を飼うことが、彼《かれ》の虚栄心《きよえいしん》や功名心《こうみようしん》を擽《くすぐ》り満足させればいいんです。プードルのお銀さんやブルテリアの長太郎君の消息はまだ掴めていませんが、ひょっとしたら、お銀さんたちを救出するためには、人手というか犬手が必要かもしれません。そのとき、この三十匹の有志諸犬の存在はきっと役に立つはずです。そういうことを考えても、ここでこの集まりを解散してしまうのは愚策《ぐさく》ではないでしょうか」
「なるほど。ドン松五郎君はいいところへ目をつけたね。しかし……」
キングはここですこし首を傾《かし》げて、
「この近くに、一度に三十匹もの犬を飼うだけの余裕のある家庭があるだろうか。三十匹の犬の食費、三十匹の犬を放し飼いにしておくことのできる広い庭。このふたつの条件を満たし、なおかつ、虚栄心の強い人間の住む家庭。そんなところがあるかね?」
「あります」
おれは言下に答えた。
「たとえば、ブルテリアの長太郎君が飼われていた家がそうです」
「ああ、塩原家のことかね?」
と、キングが訊《き》いた。
「そうです」
と、おれはうなずいた。
「あの塩原家はこのあたりではキングさんの飼い主と肩《かた》を並《なら》べる土地成金です。その気になれば痩《や》せ犬の三十匹ぐらい養うのはわけがない。庭だってずいぶん広いじゃありませんか。しかも、塩原家の当主ときたら虚栄心の塊《かたまり》のような人物です。キングさん、あなたは名警察犬でした。そのあなたをあなたの飼い主が手に入れたら、あの塩原氏は、口惜《くや》しい、と言って三日も泣き明かし、その挙句《あげく》、ブルテリアの長太郎君を英国から取り寄せたというではありませんか。塩原氏のこの競争意識、これをうまく擽ってやれば、わたしの計画は案ずるより生むが易《やす》しで、簡単に実現できると思うのです」
「きみの狙《ねら》いがなんとなく掴めてきたような気がするね」
キングがにやにやしながら言った。
「先を続けたまえ、犬の竹中半兵衛《たけなかはんべえ》君」
「はあ。まずここにいる三十匹の犬を十匹と二十匹との二手に分け、十匹の集団を第一小隊、二十匹の集団を第二小隊とします。まず、第一小隊は、キングさん、あなたの指揮《しき》の下《もと》、あなたの飼い主の家の庭で、行進や犬法の稽古《けいこ》を行います」
「ま、まちなさい。三十匹を塩原家に飼わせるのが、君の計画だったはずだよ」
「ですから、これは誘《さそ》い水です。わたしと平吉さんとで策を弄《ろう》し、キングさんの庭へ塩原氏をおびき出し一糸乱れぬ行動をとる第一小隊の演技を、彼に見させるのです」
「なるほど。塩原氏をまず羨《うらや》ましがらせるわけか」
「そうです。人間の女性は他の女性がダイヤモンドを指に嵌《は》めているのを見て、はじめて自分もダイヤが欲《ほ》しくなるのです。自然発生的にダイヤが欲しくなる、そんな主体性のある女性はじつはすくないんですね。他人が持っているから自分も欲しくなるという人間特有の心理を利用するわけで……」
「べらぼう!……いやブラボー」
キングは我意《わがい》を得たりと、前肢《まえあし》で墓地に敷《し》きつめてある玉砂利《たまじやり》を叩《たた》いた。
「塩原氏はわしの主人とこの三十年間、ことごとに張りあってきた仲だ。きっと口惜しいと思うぞ、自分も、そろって芸をする犬の集団が欲しい、と思うぞ」
「そのとき、第二小隊が塩原氏の前に姿を現すのです」
「塩原氏はきっと乗る。間違《まちが》いなく、第二小隊の二十匹を自分の飼い犬にする」
「そうしたら、第一小隊も塩原家の第二小隊へ合流します」
「完璧《かんぺき》だ!」
キングは墓石の上に飛び乗って、三十匹の自由犬たちに向かって訊いた。
「われらが同志諸犬、ドン松五郎君の作戦をどう思うかね?」
「すばらしい」
三十匹は、口をそろえて叫《さけ》んだ。
「最高です!」
「うむ。それでは、早速《さつそく》、行動に移ろう。右から数えて十匹目までの諸犬が第一小隊だ。では第一小隊はわしの後へついてきたまえ」
キングに引率されて第一小隊の十匹が墓地を出て行くのを見送ってから、おれは墓地に残った第二小隊の二十匹に言った。
「みなさんは、ここを動かないでいてください。この作戦が成就《じようじゆ》するか否か、それは神のみぞ知るですが、しかしわたしには『きっと成就する』というたしかな予感がするのです。ですから、わたしが合図するまで、ここで静かにしていていただきたいのです」
「失礼ですが、ドン松五郎さん、ひとつ質問してよろしいですか?」
第二小隊のなかの一匹が|いんぎん《ヽヽヽヽ》な態度でおれに尋《たず》ねてきた。
「ぼくは亀戸《かめいど》生まれの無宿犬|三八《さんぱち》と申しますが、なぜ、ドン松五郎さんはこの計画が成功すると信じていらっしゃるのです? どうしてそういう予感がなさるのですか? なにか科学的な根拠《こんきよ》でもおありなのですか?」
「べ、べつに科学的な根拠はありません。ただ、ほら、ここに、この下総国分寺の発行したおみくじが落ちているでしょう」
と、おれは足元の、雨に打たれ陽《ひ》に晒《さら》され薄茶色《うすちやいろ》に変色したおみくじを、前肢で引っかけ、みんなに示してみせた。
「このおみくじには大吉とあります。しかも、『よい打開策が見つかる時です。断じて行えば成功の確率はかなり高いでしょう』などと書いてあるじゃありませんか」
「すると、ドン松五郎さんは迷信信奉主義犬《めいしんしんぽうしゆぎけん》なので……?」
「まさか。ただ、精神衛生上、良い卦《け》は面白半分《おもしろはんぶん》に信じることにしているんです。では、みなさん、くれぐれもここを動かぬように」
そう言い残し、おれは柴犬の平吉を目で誘《さそ》って墓地を出た。
「おれたちの役目はなんなのだ?」
畠の向こうの塩原家の方へ速足で駆《か》け出したおれに平吉が訊《き》いた。
「おれたちは何をするのかね?」
「ですから、塩原氏を誘い出すのです、キングさんの飼い主の庭へ」
「と、簡単に言うがな、おれたちは生憎《あいにく》、人間の若い娘《むすめ》なんかではない。人間の若い娘なら、塩原家の前をストリークするなんて手もあるがねえ。塩原の親父《おやじ》は女に弱い。いやもおうもなくおれたちの後をついてくるだろう。しかし、やはりいくら考えてもおれたちは犬だ……」
「どういう手で彼《かれ》を誘い出すか、塩原家へ着いてみないとわかりません。まあ、臨機応変にやるつもりです」
やがておれと平吉は塩原|邸《てい》の前に着いた。鉄の門扉《もんぴ》が開いていたから、そこから邸内に入る。目ざす塩原の旦那《だんな》は|ぬれ縁《ヽヽヽ》にどっかとあぐらをかき、にこにこしながら書類に目を通していた。塩原家のぬれ縁はタイ国産のチーク材だというので評判である。タイ国産のチーク材は含《ふく》んでいる油が良質で、したがって非常に水ぎれがよく、長保《ながも》ちするのだそうだ。むろん成金だからこんな高価な木材が使えるのである。
「あの書類は土地の権利書のようだぜ」
と、平吉が小声で言う。
「どうも、いやに大切そうに扱《あつか》っていると思った」
「権利書か。あの旦那にとっては生命よりも大事なものだな」
おれはたちまち絶好の手段を思いついた。
「平吉さん、塩原の旦那の手の中にある権利書を奪《と》っちゃいましょう」
おれがこう耳打ちすると、平吉は仰天《ぎようてん》して、眼をまるくした。
「おい、本気か?」
「ええ、本気です」
「よした方がいいと思うな。塩原の旦那にとってあの権利書は生命の次に大切な|もの《ヽヽ》だ。あれを奪《うば》ったら旦那は自殺してしまうよ」
「平吉さんの言っていることは論理としてはおかしいですよ」
「な、なぜだ?」
「塩原の旦那にとってあの権利書は生命の次に大切なものなんでしょう?」
「うん。それはたしかだ」
「つまり生命が第一位で権利書が第二位。べつの言い方をすれば権利書より生命が大切だということでしょう?」
「ま、まあ、そういうことになるね」
「じゃあ、なぜ二番目に大切な|もの《ヽヽ》を奪《と》られたにすぎないのに、第一番に大事な|もの《ヽヽ》を捨てるのです?」
「なにを言いたいんだ?」
「もし、旦那が権利書を奪られたことが原因で自殺するようなら、生命より権利書が大事、要するに、あの人、生命《いのち》あっての物種《ものだね》ってことを知らないんですね」
「きみの言うことはなんだかよくわからん」
べつにおれは平吉のあげ足をとったり、困らせようとしたりしているのではない。常に論理的であれ、というのがおれの処世訓《しよせいくん》なのだ。
「……結論すれば、塩原の旦那は『へぼ将棋《しようぎ》、王より飛車《ひしや》を可愛《かわい》がり』のタイプだ。つまり、人生の達人ではないんです。人間としてはまだ質が落ちる。土地の権利書に振《ふ》りまわされ、引き摺《ず》られて生きるなんて可哀《かわい》そうなはなしです」
「能書《のうがき》はいつかまた暇《ひま》なときに聞かせてもらうがね、とにかくあの旦那から権利書を奪ることには断乎《だんこ》反対する。それはつまり殺人と同じだ」
「ご心配なく。権利書を盗《ぬす》むといっても本当はキングさんの家の前まで運ぶだけですから。塩原の旦那をキングさんの家までおびき出すために利用するだけです。キングさんの家の前で、旦那に返してやりますよ」
「ちぇっ、それを早く言うんだよ。どうも秀才というやつは持ってまわった言い方をするからつきあい難《にく》いやね」
おれはこういう皮肉には慣れているから、まるで平気である。
「では、平吉さん、ただのっそりと近づくと警戒《けいかい》されますから|漁夫の利の裏返し《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》で行きましょう」
平吉はうなずいた。「漁夫の利の裏返し」というのは一種の暗号である。AとBが御馳走《ごちそう》を奪いあって喧嘩《けんか》をしているとき、横合いにいたCにその御馳走を奪られてしまうというのが漁夫の利だが、これを裏返すとどうなるか。すなわちAとBが喧嘩をしてCの気を惹《ひ》き、Cの御馳走をかすめ奪《と》る、ということになるわけで、おれと平吉は猛然《もうぜん》と吠《ほ》え立て、睨《にら》み合いながら、塩原邸の庭へ入って行った。
「こらこら、犬どもなにを騒《さわ》いどる!」
塩原の旦那がおれたちに向かって怒鳴《どな》った。
「おい、芝生《しばふ》の上で喧嘩するのはよせ。その芝生はただの芝生ではないのだ。英国からわざわざ取り寄せたものだぞ」
ブルテリアの長太郎も英国からの輸入品、そして芝生も英国からの輸入品。塩原の旦那はよほど英国がお好きらしい。
「こら、やめろ! やめろというのに……やめないか」
おれと柴犬の平吉が偽《にせ》の喧嘩を派手派手《はではで》しく展開するのを見て、このあたりで随一《ずいいち》の土地成金だという噂《うわさ》のある塩原の旦那は大声を発した。
「……やっぱりやめないな。ふん、まったく二|匹《ひき》とも仕様がない。犬畜生《いぬちくしよう》、とはよく言ったものだ。それにつけても、わしの犬のブルテリアの長太郎はいったいどこへ行ってしまったんだろう。犬舎ごと姿を消したのは、ひょっとすると神隠《かみかく》しにでもあってしまったのか」
おれは、いまだ! と思った。そして、思った瞬間《しゆんかん》に、もうおれの口は塩原の旦那の膝《ひざ》の上の権利書を啣《くわ》えていた。塩原の旦那はぎょっとしておれを見た。
「……ち、ちび公、なにをする? おまえ、わ、わしの権利書をどうする気だ?」
塩原の旦那はそうっとおれの方へ右手をのばしてきた。
「さあ、書類をわしにお渡《わた》し」
大声で叱咤《しつた》すればおれがびっくりして逃《に》げ出すと思うからだろう、土地成金は猫撫《ねこな》で声《ごえ》ならぬ犬撫で声。
「書類を返してくれたら、ビスケットをあげるよ。それともウィンナ・ソーセージがいいかな……」
もう三|糎《センチ》かそこいらで塩原の旦那の手がこっちの首の根っ子に届くというところで、おれは駈《か》け出した。芝生を横切り鉄の門扉を通り抜《ぬ》け畠の中の一本道を突《つ》っ走《ぱし》る。
「泥棒《どろぼう》ッ! 権利書泥棒!」
塩原の旦那が裸足《はだし》で追ってきた。
「だ、だれか、その白犬をとっ捕《つか》まえてくれッ! 捕まえてくれた人に一万円! いや、五万円、うんにゃ十万円進呈する」
二分ほど走っているうちに坂下のキングの家の前に着いた。おれは地面に権利書を置き、風で飛ばされぬように、石の重しを載《の》せた。
「よ、よかった! たすかった……」
塩原の旦那は書類めがけて猛烈《もうれつ》なヘッドスライディングを試み、両手でしっかりと権利書を掴《つか》んだ。
それを見届けておれも平吉もなんだか、ほっとした。
「おやおや、そこにおいでになるのは塩原さんではないですか」
キングの家から誰《だれ》か出てきた。見ると、それはキングの飼い主である清水の旦那である。
「どうしたんです? 道路に腹這《はらば》いになったりして。しかも、裸足じゃありませんか」
「な、なに、ちょっとマラソンをしておるところなのさ」
「ほう。それはまた殊勝《しゆしよう》なお心掛《こころが》けだ。しかし、途中《とちゆう》で転《ころ》んでおられるところを見ると、マラソンはちと無理。年寄りの冷水なんじゃありませんか?」
「年寄りの冷水だと? ふん、自分も年寄りのくせになにを言っとる。あんたとわしはたしか同じ年だったはずだ」
「まあまあまあ」
清水の旦那は塩原の旦那に手を振ってなだめ、
「どうですか、塩原さん、お茶を一杯《いつぱい》、飲んでいらっしゃっては?」
「へん、また値の張った茶釜《ちやがま》か茶碗《ちやわん》でも手に入れたんだな? それをわしに見せびらかそうという魂胆《こんたん》でしょうが?」
と、塩原の旦那は清水の旦那をぎろりと睨みつけた。
「茶器や茶碗なんぞじゃつまらん。そんなものはありふれておる。わたしがお見せしたいのは、犬ですわ」
「犬ですと?」
塩原の旦那は犬と聞いてすこし吻《ほつ》としたようである。犬ならいくら高価でも百万どまり、別に劣等意識《れつとういしき》を刺激《しげき》されずにすみそうだ、と思ったのだろう。
「ふん。するとまた、新しくなにか珍《めずら》しい犬でも手に入れたのかね。どういう犬かは知らないが、値段はいくらぐらいだった? 五十万? 百万? それとも百五十万?」
ここでまた若干能書をたれるのを許していただけば、このあたりの土地成金諸氏はさまざまな趣味《しゆみ》に凝《こ》っているが、その趣味が結構なものであるかないかを互《たが》いに判定し、評価をくだす場合その|めど《ヽヽ》を、どれだけ金を注《つ》ぎ込《こ》んだか、の一点にしぼるのを慣例にしている。
たとえば写真を趣味とする成金氏は、よい作品を撮《と》ってそれを写真雑誌のコンクールに送り入選を果たす、などの方向へ進むのを最初から捨てて、どれだけの金をその写真に注ぎ込めるかで虚栄心《きよえいしん》を満足させようとするのである。
おれの散歩コースの途中に住むある土地成金氏は目下、この写真を趣味としているが、彼が最初にしたことはまずカメラの蒐集《しゆうしゆう》で、ピンホールカメラからドイツ製の最高級機まで、あッという間に五十台あまりのカメラを手に入れ、居間《いま》の棚《たな》に並《なら》べたてた。その中にはモータードライブつきのカメラなどもあったが、じつは彼はこのカメラをもてあましている。報道カメラマンが学生デモ隊と機動隊との衝突《しようとつ》の一部始終を片っぱしからカメラで撮る、こんな場合はモータードライブつきのカメラはいちいちフイルムを捲《ま》き上げる必要がないから、まことに重宝《ちようほう》だろう。またスポーツカメラマンが、サッカーや野球などの試合を撮るときもこの装置《そうち》の付いたカメラはその真価を発揮《はつき》する。フイルム捲き上げに気を使わずにファインダーを覗《のぞ》きっぱなしにしていられるから、試合の決定的|瞬間《しゆんかん》を撮り逃がさずにすむのである。あるいはまた、人物写真家が有名人のポートレートなどを撮影《さつえい》するときもこれがあれば鬼《おに》に金棒《かなぼう》だろう。フイルム捲き上げはこの装置にまかせ、瞬間ごとに微妙《びみよう》に変化する表情だけを、写真家は追うことができる。
だが、写真をはじめたばかりで、レンズの交換術《こうかんじゆつ》さえもまだ不案内な杢兵衛田吾作《もくべえたごさく》労働者にはモータードライブつきのカメラなぞ宝の持ち腐《ぐさ》れである。数坪の日曜菜園を耕すサラリーマンが耕耘機《こううんき》を買い込むのと同じく、これは無意味な背のび、高望みだ。
しかし、買ってしまった以上、使わないのも損だというので、彼はおれなぞがトコトコ走っているのをモータードライブつきのカメラで撮っている。そして、
「ははーん、犬は歩くとき、四本の脚を平等に、|むら《ヽヽ》なく使っている。なかなかたいしたものだわい」
などと、つまらぬことに膝《ひざ》を打っているようである。
彼の購入したカメラの中には、ほかにもプロ用の超《ちよう》高級機がいくつかある。たとえば、水中カメラ。これは海底の魚群の習性や海草などの繁茂《はんも》状態を記録するために特別に作られたものだが、土地成金氏は「高価である」というところに惹《ひ》かれてこいつに飛びついた。もっとも、手に入れてはみたものの、使いみちはない。そこで彼は満々と水を湛《たた》えた水田の中にこのカメラを沈《しず》めた。技倆《うで》は下《げ》の下《げ》だが、カメラは上物である。DPE屋から出来てきた印画紙にはちゃんとおたまじゃくしが泳いでいた。彼はその日一日、
おたまじゃくしは蛙《かえる》の子
鯰《なまず》の孫ではあるまいな……
という歌を高唱してすこぶるつきの上機嫌《じようきげん》で、それからしばらくの間、おたまじゃくしばかり撮って暮《く》らした。そのうちに、水田のおたまじゃくしは自然の摂理《せつり》の命ずるところによって一匹のこらず成長し蛙になってしまったが、このとき、彼は三日ばかり寝込《ねこ》んだ。これはむろん、馴《な》れ親しんだ被写体との訣別《けつべつ》を悲しみ、起き上がる元気を彼がなくしたからである。
水田からおたまじゃくしが姿を消すと、彼は今度は水中カメラを自邸の浴槽《よくそう》に持ち込み、レンズを自分自身に向け己《おの》が裸体《らたい》を撮りまくった。もっともこれにはすぐ飽《あ》きてしまい、やがてある日のこと、妻君にカメラを向けた。
「いやらしい!」
妻君は彼を諸手《もろて》で突《つ》いた。はずみというものは恐《おそ》ろしいもので、彼は湯殿《ゆどの》のタイルの床《ゆか》に見事に転倒《てんとう》し、ついでに失神した。このときも、たしか彼は三日ばかり寝込んだはずである。
水中カメラのほかに、彼の蒐集したカメラの中には夜間撮影専用の写真機がある。これはアメリカのシカゴ市警が開発したもので、暗闇《くらやみ》でも用を弁ずるという、邦価《ほうか》に換算《かんさん》しても数百万からする高級品だが、彼はこれを手に入れた日の夜、自邸の物干台の上から、四方八方の暗闇に向かってシャッターを切り続けた。
しかし、このときのフイルムがDPE屋から出来上がってきて、最初の一枚に眼《め》を落としたとたん、彼は激《はげ》しい|めまい《ヽヽヽ》に見舞《みま》われ、そのとき受けたショックのせいで、またも三日間、寝込む破目になった。フイルムには、庭先の芝生《しばふ》に横たわって抱擁《ほうよう》する男女高校生がはっきりと写っていた。(その点では、たしかにそのカメラの威力《いりよく》は大したものであった)がしかし、彼にショックを与《あた》えたのは男の高校生の横顔で、それは疑いもなく、彼の長男にちがいなかったのである。
いま、この土地成金氏は自分で現像や焼き付けや引き伸《のば》しをするのに凝《こ》っている。そのために、庭先に五坪の暗室を建てた。コンクリート製で冷暖房完備、工費として五百万ほど投入したというから、そのへんの写真短大の暗室顔負けである。
しかし、今のところ、彼よりも長男の高校生のほうがこの暗室をより利用しているようだ。
「暗室だと、受験勉強がはかどるんだ」
と、長男は言っていそいそと閉じこもるが、じつは勉強とは嘘《うそ》の皮、長男は恋人《こいびと》である女子高生との密会場所に活用しているのである。父親の土地成金氏はこの事実についてはまだ気付いてはいない。いずれそのうちこの事実を知って、また三日ほど寝込むことになるだろう。
とまあこんなわけで、この新興住宅地の俄《にわ》か金持ちたちはそれぞれ、己が趣味にどれだけ多くの金を注ぎ込んだか、この一点にすべてをしぼって競い合っているわけだが、塩原の旦那は、清水の旦那が「犬をお見せしたい」と言ったとたん、やれやれ助かった、と思ったようである。
(いったいどんな犬を飼ったのかはしらぬが、たとえいかなる貴種でも百万どまり。その程度の安道楽は、いっこうに怕《こわ》くはない)
と、こう塩原の旦那は考えたわけだ。
「チワワでも飼ったのかい」
塩原の旦那はキングの飼い主である清水の旦那に訊いた。清水の旦那は、
「うんにゃ、チワワなんぞじゃない」
と、首を横に振る。
「それじゃあ、セントバーナードかね」
うんにゃ、とまた清水の旦那は否定の仕草をしてみせる。
「グレートデン?」
清水の旦那はまたまたうんにゃ。
「コリー?」
清水の旦那は四度目のうんにゃ。
「……品評会の優勝犬?」
五度目のうんにゃ。
塩原の旦那の表情がすこし嶮《けわ》しくなった。
「ええい、もう、じれったい。あんた、いったい、どんな犬を手に入れたというのだよ」
「雑種さ」
「……雑種だと? なんだい、ばかばかしい。はらはらしただけ損をした」
「だが、その雑種犬がただの雑種犬じゃないのだよ。これが芸をするんだねえ」
「ふん。もう、おまえの|持たせっぷり《ヽヽヽヽヽヽ》戦術には引っかからないぜ。どうせ、たいした芸じゃあるまい。ゴムマリを追いかけ、拾って啣《くわ》えて戻《もど》ってくる、その程度の芸だろう」
「ところがそうじゃない。うちの犬は『クワイ河マーチ』をハミングで歌いながら行進するんだ」
「『クワイ河マーチ』を歌うだと!?」
「うむ、そうさ」
大きくうなずいた清水の旦那の額に、塩原の旦那は手を当てた。
「熱があるんじゃないのか、頭の具合がおかしいんだろう? ……はてね、熱はないようだが……」
「百聞は一見に如《し》かず、だ。まあ、じっくり見物してってくれよ」
清水の旦那は塩原の旦那を縁先《えんさき》へ引っぱって行き、縁側に坐《すわ》らせた。
「では、うちの雑種犬を登場させることにするが、いいかい?」
「ああ、いいとも」
塩原の旦那は腕《うで》あぐらをかき、はったと庭先を睨《にら》んだ。
「こうなりゃおれも意地だ。犬が『クワイ河マーチ』を歌うかどうか、この眼でしっかと見届けてやろう。万が一、おまえさんの言うとおりのことが起こったら、小岩のキャバレーを奢《おご》ってやってもいいぜ。一晩買い切って豪遊《ごうゆう》させてやる。しかし、もしも犬が『クワイ河マーチ』を歌わなかったら……」
「わかっている。そのときはこっちがあんたを錦糸町《きんしちよう》のキャバレーへ招待しよう」
おれたちの挙兵
「なあ、キングや……」
清水の旦那《だんな》が縁《えん》の下に向かってやさしく声をかけた。
「さっきの行進を、もう一度やって見せてくれないだろうかねえ」
縁の下からキングが顔を出し、主人を見あげてわんと軽く吠《ほ》えた。
「おお、キング、承知してくれるかい」
清水の旦那の右手がキングの首をゆっくりと撫《な》でる。
「なあ、キング、いま、わしはキャバレー遊びの費用を持たされるかどうかの瀬戸際《せとぎわ》に立たされておる。おまえが失敗《しくじ》れば軽く二、三十万は吹《ふ》っ飛んでしまう。だから、しっかりたのむぜ。そのかわり、さっきと同じように、うまく行進してくれたら、おまえにも、おまえの仲間たちにも、夕食に肉を奢《おご》ってやるよ」
キングはまたわんわんと二声軽く吠えたてて、庭の中央に向かって歩き出した。それが合図で、縁の下から、正確な音階とリズムで、犬の声が『クワイ河マーチ』を歌うのが聞こえてきた。むろん、歌っているのは例の十|匹《ぴき》の野犬の諸犬である。
「どうかね、塩原さんよ」
清水の旦那の鼻はいまや平常の五割|方《かた》高く聳《そび》え立っている。つまり、鼻高々という表情。
「わしんとこの犬たちの音感のたしかさは」
塩原の旦那はただ呆然《ぼうぜん》としている。清水の旦那はそれを得意気に眺《なが》めてから、キングに大声で命じた。
「それぇ、キング、お次は行進だ」
キングは今度は三声吠えた。縁の下から野犬が一匹ずつ現れ、最初のは右へ、二番目のは左へ、そして三番目のは前へと、歩き出す。それもただの歩き方ではない。首筋をしゃんと伸《のば》し、前肢《まえあし》、後肢《あとあし》とも高くあげる……、すなわち、「歩調を取れ!」というあの歩き方である。右、左、そして前と三方に分かれて散開した十匹の犬は、やがてそれぞれてんでに庭を縦行し、横行し、斜行《しやこう》し、やがて吸い寄せられるように真中に立って尻尾《しつぽ》をメトロノームの針の如《ごと》く正しく左右に振《ふ》って指揮《しき》をとっていたキングの背後に招会《しようかい》し、一列横隊となった。この間《かん》、十匹の野犬がキングの尻尾に合わせ『クワイ河マーチ』を歌い続けていたことはつけ加えるまでもない。
ところで、おれは「十匹の野犬が『クワイ河マーチ』を歌った」と書いたが、これは誤解を生む表現であるように思われるので、ここでもうすこし精切《せいせつ》を期すことにしよう。
おれの主人が、まだ放送台本を書いて口に糊《のり》をしていたころ、仲間の作曲家が三年がかりで、『豚協奏曲《とんきようそうきよく》・第一番』なる題の、演奏時間九分三十秒の作品を書いたことがある。「ピアノ協奏曲」や「ヴァイオリン協奏曲」なら耳に親しいが、「豚協奏曲」とは面妖《めんよう》である。では「豚協奏曲」とは何であるか。この作曲家はたいへんに前衛的な思想の持ち主で、
「ピアノやヴァイオリンは楽器としてはもう古くさい。なにか他にもっと斬新《ざんしん》かつ奇抜《きばつ》で、前衛的な楽器はないものか」
と、長い間、脳味噌《のうみそ》をしぼっていた。
さて、あるとき、作曲家の住む東京郊外の建売団地の隣《となり》に養豚場《ようとんじよう》が出来ることになった。彼《かれ》はその団地の豚害対策委員のひとりに選ばれ、毎日のように、養豚場の事務室で経営者と半分|喧嘩腰《けんかごし》で喧喧囂囂《けんけんごうごう》と舌戦《ぜつせん》を展開したが、そのうちにふとあることを思いついた。
「ずいぶん豚《ぶた》が啼《な》いている。少なくとも百匹は豚がいるようだが、おもしろいことに、豚の啼《な》き声をこうやって近くで聞くと、どれとして同じ音はない。或《あ》る豚は『ド』の音、また或る豚は『ミ』の音、そしてさらに別の豚は『ソ』の音で啼く。つまり、この養豚場のすべての豚の啼き声を録音し、その中から、ドと正しい音程《おんてい》で啼く声、レと啼く声、ミと啼く声、ファと啼く声、ソと啼く声、ラと啼く声、シと啼く声をそれぞれ選べば、豚声によるドレミファ……音階ができるわけだが……。むむっ! ややっ! はっ! おお! そうだ! この豚声によるドレミファ……音階を使って、たとえば『死を前にした、豚の恋人《こいびと》たちの哀歌《ラメント》』なんていう旋律《せんりつ》を作って、その旋律を生かすようなシンフォニックな伴奏をつければ……、おお、これで『豚協奏曲』が出来るぞ!」
さっそく、作曲家は豚害対策委員を辞し、それからは養豚場に親しくしげしげと出入りして、すべての豚の口元にマイクを突《つ》きつけ、百匹の豚の啼き声を録音テープにおさめた。そして、一年がかりで、その何百という豚の啼き声を聞き、整理し、ついに、三オクターブにわたる豚声によるドレミファ……音階を得たのである。
次に彼はこの豚声によるドレミファ音階を公共放送へ持って行き、そこの電子音楽実験室で、若干の電子加工を試み、ついに三年目に『豚協奏曲・第一番』の総譜《そうふ》と、豚声による主旋律をおさめたテープを完成した。すなわち、この豚声による主旋律テープが独奏者《ソロイスト》であって、NHK交響楽団《こうきようがくだん》であれ、ニューヨーク・フィルであれ、この協奏曲を聴衆《ちようしゆう》に聞かせる場合はこのテープを借りて大きな増幅器《アンプ》で会場に流し、それに合わせて演奏することになるわけだ。
もっとも、彼のこの破天荒《はてんこう》なコンチェルトはいまだにどんな交響楽団によっても採《と》りあげられてはいない。
「豚がいけなかったのかもしれぬ」
と、作曲家は反省した。
「豚には、騒々《そうぞう》しいとか、臭《くさ》いとか、汚《きたな》い、とか負《マイナス》の要素が多すぎる。それがおそらくお上品なクラシック音楽界の拒絶《きよぜつ》反応を招いたのだ。よし、それならば……」
そんなわけで作曲家は、現在《いま》、豚の啼き声をテープ化したときと同じ方法を以《も》って、猫《ねこ》の啼き声によるコンチェルトを創作中である。完成したら、彼は『にゃんにゃんコンチェルト・第一番』なるタイトルを付すつもりでいるらしいが、つまり、清水家の庭を行進したわれらが十匹の野犬たちの『クワイ河マーチ』も、原理的にはこの作曲家の方法論と同一である。いくら器用でも、おれたち犬はひとりでいくつもの音を出すことが出来ぬ。「ド」の音を発する犬は何某《だれそれ》、「レ」の音を出す犬は何某《なにがし》、「ミ」の音が必要なときに吠えるのは何某《たれがし》と分担《ぶんたん》をきめておいて、
ワンワン・ワンワンワンワンワンワン、
ワンワン・ワンワンワンワンワンワン……
と、やったわけだ。
「信じられん」
塩原の旦那は何度も目をこすった。
「犬が『クワイ河マーチ』に合わせて分列行進をし、そのマーチも自前の声……、どうも信じられん」
「分列行進はまだ序の口だ」
清水の旦那は勝利の美酒にうっとりと酔《よ》いつつ、塩原の旦那に言った。
「これぐらいで胆《きも》を潰《つぶ》していては、これから先が思いやられるね」
「これから先、だと? この犬たちはまだなんか芸当をやるのか」
「ああ、次はラインダンスだ」
「ま、まさか!」
「と思うだろうが、本当なのだ。横に一列に並んだ十匹の犬が、音楽に合わせて、前肢をあげ、尻尾を振る」
清水の旦那は傍《そば》においてあった携帯《けいたい》ラジオを膝《ひざ》の上に移した。
「……どこかで洋物《あちら》の音楽はやっておらんだろうかな」
清水の旦那はダイヤルつまみをまわす。とたんに、
グッバイ・ジョー、ヒゴッタゴー、ミオマイオー……
と、カーペンターズの『ジャンバラヤ』が聞こえてきた。
すると見よ。十匹の野犬たちはこれに合わせて、右へ「一、二、三」と三歩移動して「四!」で左前肢で空を蹴《け》り、次に左へ「一、二、三」と歩いて、こんどは右前肢で宙を蹴るという仕草を始めたのだ。これには庭の植《う》え込《こ》みのところで事の経過を眺めていたおれも柴犬《しばいぬ》の平吉も仰天《ぎようてん》してしまった。
「こいつは呆《あき》れた、おどろいた。大したものだ」
十匹の野犬のラインダンスが終わると、塩原の旦那はいつもの対抗心《たいこうしん》を引っこめ、清水の旦那に向かって素直に頭を下げた。
「まったくいまの芸当には恐《おそ》れ入った。おとなしく脱帽《だつぼう》するよ。しかし、あんた、こんな凄《すご》い芸当の出来る犬を、しかも十匹も、いったいどこで手に入れたのだね。ずいぶん高い金をとられたんじゃないのかい?」
「鐚《びた》一文も払《はら》わず、さ」
「まさか!」
「うちのキングがね、どこからかこの十匹を連れてきたんだよ。いってみればこれは天からの授かりものさ」
「それはうまいことをした」
濡《ぬ》れ手で粟《あわ》の犬十匹と聞いて塩原の旦那の声がかすれた。また、口惜《くや》しくなったのだろう。清水の旦那は塩原の旦那を座敷《ざしき》へ誘《さそ》った。
「それはそうと、どうかね、久し振りに将棋《しようぎ》を一局指さないかい?」
「いや、またこの次にしよう」
塩原の旦那はぺこんと頭を下げて、門を出た。おれはそのあとを追った。
「将棋だと? ふん、冗談《じようだん》じゃない。あの十匹の犬の自慢話《じまんばなし》を繰《く》り返し聞かせられるのが|オチ《ヽヽ》だ。やつの自慢話の相手になぞ、誰《だれ》がなってやるものか」
塩原の旦那はぶつぶつ言いながら、墓地に沿って続く道を歩いている。前へまわって旦那の顔を見ると、ひどい仏頂面《ぶつちようづら》である。
「それにしても不公平な話じゃないか。清水のところに一度に十匹も結構な犬が降って湧《わ》いたというのに、このおれのところへはなにも現れない。それどころかブルテリアの長太郎がどこかへ消えてしまった。まったく神も仏もない世の中だよ」
おれはそこまで聞いてから、墓地中央の空地に引き返した。空地にたむろしていた二十匹の野犬たちが、
「わたしたちの出動のときはまだ到来《とうらい》していないのですか?」
と、それぞれおれに目で問いながら集まってきた。そこでおれは言った。
「いまこそ出動のときです」
二十匹のうちの数匹が飛び上がった。つまりこれは彼等《かれら》にとって飛び上がるほど嬉《うれ》しい知らせなのである。
「塩原の旦那は心の底から清水の旦那を羨《うらや》ましがっています。そこへうまくつけ込むことが出来れば、あなたがた二十匹は、塩原の旦那のところで飼《か》われることに成功するでしょう。つまり、わたしたちが事を起こす時がくるまでの食と住が約束《やくそく》されるわけです。ひとつ、がんばってください」
「それで、わたしたちは塩原の旦那とどこでどうやって逢《あ》えばよろしいので……?」
おれの近くで訊《き》くものがある。見れば柴又《しばまた》のゴンというぶち犬だ。
「できればドン松五郎《まつごろう》さんの御高授を得たいのですが……」
御高授を得たい、なんぞはなかなか行き届いた言葉|遣《づか》いだ。おれはゴンに訊いた。
「あなたは教育がありますね。でも、どこでそのような教育を得られたのです?」
「柴又を舞台《ぶたい》にした『男はナントカ』というシリーズものが、いま人間の世界じゃ受けてるようですが、そのロケ隊にくっついて歩いていたことがあるだけの話です」
柴又のゴンは、ここで照《て》れ臭《くさ》そうに笑って、
「じつはわたし、あのシリーズの一本に出演をしたことさえあるのです」
と言った。
「出演といっても、通行犬として、主人公の寅《とら》さんだか熊《くま》さんだかのうしろを、ただ通り過ぎただけですがね。そもそも、わたしの映画好きは生まれのせいでして、なにしろキャンと生まれ落ちたところが小岩の場末のある映画館の中」
「すると、飼い主はその映画館の経営者かなんかだったわけですか」
と、おれが訊くと、ゴンは首を横に振って、
「いやいや、そのような|やんごとのない《ヽヽヽヽヽヽヽ》生まれではないのでしてね、わたしの母親がその映画館のスクリーンの裏側のゴミの山を寝《ね》|ぐら《ヽヽ》にしていたに過ぎません。それでもとにかくわたしが物心ついて最初に観《み》たものは、すぐ眼《め》の前にひろがる銀色の巨大《きよだい》なスクリーンにかかる映画でした。言ってみればわたしは高倉健《たかくらけん》や鶴田浩二《つるたこうじ》や菅原文太《すがわらぶんた》や、それからスティーブ・マックイーンやチャールズ・ブロンソンやジーン・ケリーの声を子守唄《こもりうた》がわりに育ったわけです」
「となると、その映画館は邦画も洋画も上映していたんですね?」
「その通り。ひとことで言うなら学生相手の名画座でした。ジーン・ケリーなんてひと昔《むかし》前のミュージカル・スターの名前が出てきたのは、館主がジーン・ケリーの主演するミュージカル映画の大ファンだったからですが、わたしも館主の趣味《しゆみ》には賛成です。つまり、わたしもジーン・ケリーのファンなのですよ。彼に憧《あこが》れて、タップダンスなんかも……」
「ほう、タップダンスをおやりになるんですか?」
「はあ、いささかたしなみます」
ゴンはぴょんと墓石の上へ飛びあがった。そして、四本足をたくみに動かして、カッチャカッチャカチャカチャカッと、爪《つめ》で墓石を叩《たた》いた。
「すごい!」
「なあに、ほんの自己流です。まあ、しかし、わたしにとって映画は学校でした。映画はわたしのエンサイクロペディアでした。あの映画学校のただひとつ難点を言えば、すべてが左右あべこべだったことで、たとえば高倉健は左手でドスを振りまわす……」
「どうして?」
「最初に申しあげたように、スクリーンの裏から映画を観たからです」
「なるほど」
「いずれにもせよ、わたしのたったひとつの取得《とりえ》は映画に詳《くわ》しいことです。映画についての質問でしたら、たいていのことにお答えできると思います。せいぜい御利用ください」
「それを伺《うかが》ってまことに心強く思いますよ、柴又のゴンさん。さて、それでは野犬のみなさん、さっそく行動を始めましょう。先まわりして塩原の旦那を待ち伏《ぶ》せし、とっておきの芸当を彼に披露《ひろう》することにしましょう」
二十匹の野犬の仲間たちが一斉《いつせい》にうなずいた。おれはそれを見届けておいて、墓地の中央から西に向かって走り出した。野犬たちもおれの後を追う。墓地の西端《せいたん》に到着《とうちやく》し、道の方へ目をやると、向こうから塩原の旦那が、とぼとぼと歩いてくるのが見えた。
「ではやってみましょう。旗上げまでみんな一緒《いつしよ》に住めるか住めないか、食と住を確保できるかできないかの、ここが分岐点《ぶんきてん》です。みなさんの奮闘《ふんとう》を祈《いの》ります」
おれがこう言い終わるや否や、二十匹の野犬はばらばらと墓地から道に飛び出した。そして、まず六匹が道幅《みちはば》いっぱいに横に並《なら》んだ。
(はて、なにを始めるつもりかしらん?)
おれは呆気《あつけ》にとられてただ茫《ぼう》と眺めているばかりである。
すると、六匹の背中の上に五匹、その五匹の背中の上に四匹、さらにその四匹の背中の上に三匹、そしてまたさらにその三匹の背中の上に二匹(これで二十匹である)が、あっという間にとびあがり、ピラミッドを組み上げたではないか。
(こいつはすごい、まるで体操チームの模範《もはん》演技のようだ。ただひとつ惜《お》しいのは、犬の数が足りないために、頂上に一匹いないことだ。頂上に乗る一匹が居《い》ればピラミッドが完成するのに、なんともはや残念なことである)
と、考えているところへ、ピラミッドの天辺《てつぺん》から柴又のゴンの声が掛《か》かってきた。
「ドン松五郎さん、どんなもんです、この趣向《しゆこう》は?」
「立派なものだ。たいしたものです」
と、おれはゴンに言った。
「じつに素晴《すばら》しい。ただ、頂上に一匹欠けているのが惜しいですね」
「しかたがありません。犬の数が足りないのですから」
「むろん、それはわかっていますよ。しかし、それにしても心残りだ。このままでは仏《ほとけ》作って魂《たましい》入れずだなあ。画竜点睛《がりようてんせい》を欠くってやつですよ」
「ドン松五郎さん、傍観《ぼうかん》して手を貸さないのに批判だけはするというのは悪い心掛《こころが》けですよ」
ゴンが少しきびしい口調で言った。
「それはインテリ犬に共通の悪癖《あくへき》ですね。そんなに残念なら、ご自分がなぜ頂上の一匹になろうとなさらないのです」
なるほどこれは痛い一言である。進歩的文化人と称する小説家のところに飼われているうちに、こっちまでいつの間にか進歩的文化犬になってしまっていたらしい。しかし、ピラミッドの頂上は二|米《メートル》はある。猫属《ねこぞく》なら軽業《かるわざ》は得意だろうが、このおれにあんな高みに登るだけの勇気と腕《うで》があるだろうか。
「……登ってもいいがわたしはまったくの素人《しろうと》だからなあ。バランスを失って転げ落ちはしないだろうか」
「たとえ転げ落ちてもたいしたことはありませんよ。せいぜい眼《め》から火花が飛び散るぐらいでしょう」
眼から火花と聞いて、おれはさらに怖気《おじけ》づいた。
「……みんなに迷惑《めいわく》がかかると悪いよ。おれが転げ落ちたために、みんなもバランスをくずし、ピラミッドが崩壊《ほうかい》してしまったら……、それこそ申し訳が立たない」
「そんなやわなピラミッドじゃありません」
ゴンは尻尾《しつぽ》をぴこぴこと振《ふ》って、おれにおいでおいでをした。
「では……」
おれは覚悟《かくご》を決めた。せーの、と調子をつけて犬の背中を一段二段三段四段五段と一気に駆《か》け登った。五段で頂上である。気のせいか頂上に吹《ふ》く風はかなり強い。おれは足下の犬の背中にがっしと爪《つめ》を立てて立ったが、ちょうどこのとき、塩原の旦那《だんな》が向こうからやってきた。
「ヤヤヤヤ!」
塩原の旦那は道の真ん中に聳《そび》え立つ犬のピラミッドを見て仰天《ぎようてん》した。
「わしは夢《ゆめ》を見ているのかね。夢でないとすれば狐《きつね》の仕業《しわざ》か。……もっともここは国電の駅へ十五分、私鉄の駅へ十分の市街地だ。狐なぞいる道理はない。となると現実かね」
塩原の旦那はおれたちピラミッドの周囲をぐるぐるまわった。そしてピラミッドを見ては考え、考えては見ている。
「現実だったら、これは大変なことだぞ。なにしろ、犬が人間の体操選手の真似《まね》をしているのだからな。清水の家には十|匹《ぴき》の犬がいて、分列行進をしてみせた。が、ここにいる犬は清水のところの犬よりももっとずっと芸達者だ。しかもその数二十一匹。すごい!」
彼《かれ》は周囲を熊《くま》のようにのしのしとまわって歩くのをやめ、道の中央に立っておれたちを睨《にら》みつけながら腕《うで》あぐらを組んだ。
「この犬がわしのものになれば、清水の野郎《やろう》を完全に見返してやれる」
塩原の旦那は腕あぐらを組んだまま、背後を振り返った。それから、右を見、左を窺《うかが》う。
「さいわいあたりに人影《ひとかげ》はない。この二十一匹をこっそりわしが家へ連れて戻《もど》っても、ふっふっふ、誰《だれ》にも文句は言われないだろう」
だが、ここで彼の顔の色が一刷《ひとは》け分ぐらい暗くなった。
「……でも、どうやってこの犬どもを家へ連れて行けばいいんだ? 一匹や二匹なら尻尾を引きずってでも連れて帰るが、なにしろ相手は二十一匹、とてもわし一人の手にはおえない。これは困った」
「あの大将、べつに困ることはないんですよ」
と、このとき、おれの右肢《みぎあし》の下でゴンが小声で言った。
「なぜかといえば、ドン松五郎さん、ぼくたちの方から、あの大将の家へ出掛《でか》けて行くつもりなのですからね」
とたんに、おれの躰《からだ》がふわっと宙に浮《う》いた。あっと思ったときは、目の前の光景が天地さかさまになった。
(ゴンたちがピラミッドを崩《くず》したのだ!)
そう気づくのと、おれの躰が地べたに叩きつけられるのとはほとんど同時だった。眼から火花がぱちぱちと幾千《いくせん》も散った。激《はげ》しい衝撃《しようげき》のおかげで呼吸《いき》が出来ぬ。ようやく四肢《しし》を踏《ふ》ん張《ば》って立ち上がったが、ふらふらしてなかなか決まらない。
「ドン松五郎さんは受け身の心得がなかったのですね?」
ゴンはおれの躰を支えながら囁《ささや》いた。
「受け身ぐらいはご存知《ぞんじ》だと思ったのですが、失礼しました。さ、とにかく塩原家まで歩いてください」
ピラミッドを崩した犬たちは塩原の旦那を八方から取りかこむようにして道を西へ歩き出した。
「ほほーっ、これは餡汁《あんじる》より芋《いも》が安しだわい」
塩原の旦那は有頂天《うちようてん》である。あまり有頂天すぎて『案ずるより生むが易し』を『餡汁より芋が安し』などと間違《まちが》えている。
「犬どもが自発的にわしの家へついてくるつもりらしい。よし、この犬どもをわしが猫ばばしよう。その結果がどうなろうと、芋は屁《へ》と鳴れブウと鳴れ、だ。とにかくこれで清水の野郎をギャフンと言わせてやる」
彼はまた、『芋は屁と鳴れ、ブウと鳴れ』などとわけのわからぬ格言を発している。おそらくこれは『あとは野となれ、山となれ』の言い間違いだろうと推察される。
「おい、だれかいないか」
塩原の旦那は、門扉《もんぴ》に錠《じよう》をおろし、おれたち二十一匹の犬を邸内《ていない》に閉じ込めると、庭から居間《いま》へ足を踏み入れながら怒鳴《どな》った。
「なんですよ、騒々《そうぞう》しい」
と、奥《おく》で声がする。油気のないかさかさした声である。おそらく塩原の旦那のおかみさんだろう。
「勝手の電話から肉屋に肉を頼《たの》め。こま切れ肉を四キロ、至急届けさせるんだ」
塩原の旦那は奥さんにそう言いながら、居間の電話のダイヤルを廻《まわ》しはじめた。さすがはこのあたりで一、二を争う土地成金だ。電話線が二本ある。
「もしもし、清水さんのお宅かね?」
塩原の旦那は机の上の煙草函《たばこばこ》から一本とりだし、その端《はし》を紫檀塗《したんぬ》りの机でとんとんと軽く叩いている。
「さっきは十匹の犬による分列行進、まことに珍《めずら》しく拝見した。眼福にあずかる、とはあのことで。……ところで清水さん、これからうちへおいでにならんかね。いやなに、さっきのお返しに、こちらでも犬の芸当をお見せしようと思うのだよ。こっちは二十一匹。二十一匹による徒手体操よ。ほんとうだとも。まあ、百聞は一見に如《し》かずさ、ちょっとお寄りなさい。これは保証しておくが、十匹の犬の分列行進よりはずっと迫力《はくりよく》があるよ。まあ、そう口惜《くや》しがらんで、おいでなさいよ」
塩原の旦那は得意の笑みを満面に散らしつつ受話器を置いた。そして、純金製のライターで煙草に火を点《つ》け、ぷうっと天井《てんじよう》に紫煙《しえん》を吹《ふ》きつける。
「肉を四キロもどうするんですか」
切り口上で言いながら、奥から中年女がひとり姿を現した。おどろいたことに顔面がまっ白である。まるで白い仮面をかぶっているような具合だ。
(おや、まさか。ここのおかみさんは白人種か……)
と、一瞬《いつしゆん》、錯覚《さつかく》しかけたが、よく見ると、胴長短肢。白い仮面と見えたのは、人間属の中年女性が愛用するパックとか称する美顔術らしい。
「あんたが食べるんですか?」
「ばかいっちゃいかん」
塩原の旦那が煙《けむり》に噎《む》せ返って咳込《せきこ》んだ。
「だれがいっぺんに肉を四キロも喰《く》えるものか。おれはライオンでもなければ虎《とら》でもないぜ」
「では、なにをするんです?」
「犬に喰わせてやろうと思うのだ」
旦那が庭先のおれたちに向かって顎《あご》をしゃくった。
「全部で二十一匹いる。一匹あたり二百グラム弱あれば、連中も堪能《たんのう》するだろう」
「どこの犬です?」
おかみさんの声が尖《とん》がった。
「雑種ばかりのようだけど?」
「うちの犬よ。今日から、あの二十一匹を、うちで飼《か》うことにしたのだ」
「二十一匹も!?」
おかみさんの眉《まゆ》が吊《つ》りあがる。めりめりッと音がして、眉毛の周囲のパックが剥《は》げ落ちた。
「正気ですか?」
「正気だよ」
旦那は愉快《ゆかい》そうに紫煙を天井に向かって吐《は》き続けている。
「どいつもこいつもすごい犬どもなんだ。信じられないような芸をする。金で買えば、数千万はするだろうね」
「数千万だって?」
おかみさんはふんと鼻の先で笑い飛ばした。
「与太《よた》を飛ばすのもいい加減におしよ。雑犬の二十匹や三十匹で数千万だなんて、あんたすこし此処《ここ》がおかしくなったんじゃないの」
おかみさんは指先でこつこつと自分の頭を叩《たた》いてみせた。
「困るよ、いまごろから|ぼけ《ヽヽ》られちゃァ」
「与太だの|ぼけ《ヽヽ》だのと、それが亭主《ていしゆ》に向かって言うコトバか」
塩原の旦那のげじげじ眉がせわしなく上下する。
「よし。庭にいる二十一匹が、そこにもいるここにもいるという犬ではないことを見せてやろう。その団栗《どんぐり》|まなこ《ヽヽヽ》をよく見開いておけ」
言い捨てて塩原の旦那が庭に飛び降りた。
「わしの犬たちよ、頼《たの》む。さぞお疲《つか》れのことだろうが、さっきの犬のピラミッドをもう一度やってくれないだろうか」
なんとも気色の悪い猫撫《ねこな》で声《ごえ》だ。こういう馬鹿丁重《ばかていちよう》なもの言いは、虚飾《きよしよく》を好む猫ならあるいは喜ぶかもしれないが、おれたち犬にとっては閉口である。おれの背中の毛が|おろしがね《ヽヽヽヽヽ》でこすられた如く逆立った。
「あんなことを言ってますが、どうしましょう」
ゴンがおれに訊《き》いてきた。
「黙殺《もくさつ》しますか、それとも旦那をすこし有頂天にさせてやりましょうか」
「いまのところは旦那の言いなりになっていた方がいいだろうと思うな」
「同感です」
ゴンが了解したというしるしに尻尾を振った。ほかの犬たちも同じ仕草をしている。
「おっ、見ろ!」
塩原の旦那が拍手《はくしゆ》をしながら叫《さけ》んだ。
「犬たちが一斉《いつせい》に尻尾を振っている。壮観《そうかん》だな」
「そりゃ犬だもの尻尾ぐらいは振るさ」
おかみさんは全く平静である。
「単なる偶然《ぐうぜん》の一致《いつち》でしょう。犬が一斉にチンチンをして泥鰌《どじよう》すくいでもしたなら、一緒《いつしよ》に驚《おどろ》いてあげるけど、尻尾振ったぐらいでいちいちびっくりしていられるものですか」
こいつはいい、とおれは思った。犬の泥鰌すくいなぞは洒落《しやれ》ている。
「犬のピラミッドはおれが頂上に登らなくてはいけないからよそうよ。じつはおれ、高所恐怖症《こうしよきようふしよう》なんだ」
ゴンにおれはいった。
「そのかわりに、チンチンをして泥鰌すくいというお題をそっくり頂戴《ちようだい》しよう。どうかしらん?」
ゴン以下の全犬が一斉に尻尾を振った。
「よし。では、まず後肢《あとあし》で立とう」
おれの号令は即座《そくざ》に、そして完璧《かんぺき》に実行された。
「やっ、犬たちが一斉にチンチンをした!」
塩原の旦那がまた叫《さけ》ぶ。おかみさんもさすがに憎《にく》まれ口を叩く余裕《よゆう》をなくしたらしい、ただ凝《じつ》とおれたちを眺《なが》めているばかり。
「では、泥鰌すくいの振りを踊《おど》りながら、次第《しだい》に輪になって行き、最後を盆踊《ぼんおど》りでしめくくるという手で参りましょう。ワン・ツー・ワンツースリーフォー」
おれたちは踊りはじめた。
「ど、ど、泥鰌すくいだ!」
またまた旦那の叫び声。
「犬が泥鰌すくいをはじめたぞ。ざまみろ」
旦那は有頂天のあまり、おれたちと一緒に踊りはじめた。
「ちょっと待って!」
おかみさんが急に大声をあげた。
「あんた、この犬をどこで手に入れたんだよ」
「それが不思議なことに、そのへんの道端《みちばた》で、なんだよ」
「そのへんの道端だって?」
へん、とおかみさんは鼻先で笑いながら、塩原の旦那のそばへゆっくりと近寄った。
「笑わしちゃいけないよ、あんた。そんな幼稚《ようち》な嘘《うそ》はいまどき小学一年生でもつかないんじゃないかねぇ」
「嘘じゃない。おれがそのへんの道を歩いていると、こいつらが犬のピラミッドを作っていたんだ。へえ、こいつは凄《すご》い、これほどの芸を持つ犬どもがうちの飼い犬であったなら、さぞやいい気分だろうと思いながら、なおも歩いてくると、おどろいたことに、こいつらも後についてくるじゃないか。つまり簡単にいえば、わしはこいつらを道で拾ったんだよ」
「そんな都合のいい作り話に欺《だま》されるものか」
おかみさんは塩原の旦那の胸倉をむずと掴《つか》んだ。
「あんた、この犬どもを買ったんだろう?」
「ち、ちがうよ」
「いいや、買ったのにちがいない。その金はどうやって作ったのだい?」
「だからさ、拾ったんだよ」
「あたしに隠《かく》して、またどこか地所を売ったんだろう?」
「そうじゃないというのに……」
「どこを何坪《なんつぼ》、いや何十坪売ったのさ」
「どこも売らないよ」
「まぁ、口惜しい」
おかみさんはばりばりと歯を噛《か》んだ。
「うちの地所はあんただけのものじゃないんだよ。あんたとともに苦労してあっちに一坪、こっちに二坪と買い集めたあたしのものでもあるんだよ」
「そんなことは百も承知、二百も合点だよ。おまえに無断で、わしがうちの地所を手放したりするものか」
「よ、よくもそんなことをしゃあしゃあとして言えたものだね」
おかみさんはこんどは泣き声になった。
「このあいだのブルテリア、去年中国産の二千万円の庭石、一昨年の女遊び、みんなあたしには無断だったじゃないか」
「まあさ、過去はとにかく現在《いま》はそうではない……」
「いつだってあんたはそんなことをいってあたしをまるめ込《こ》んできたんだ」
「でも、わしにも言わせてもらえば、わしが何かしようとする、あるいは何か買おうとすると、おまえはかならずといっていいぐらい反対をする。だからつい、おまえに黙《だま》って地所を売って、そのう……」
「もういやだ。つくづくいやだ」
おかみさんは芝生《しばふ》の上にぺたんと腰《こし》をおろし、両手で何度も芝生を叩いた。
「うちの地所は、むかしは三|町歩《ちようぶ》もあったのにいまはたったの一町歩。このまま地所の切り売りでたべて行くなら、五年後はもう一文なし。あたしは乞食《こじき》にゃなりたくない!」
「そのときはわしが働くさ」
「あんたの躰《からだ》には贅沢《ぜいたく》がすっかりしみこんでしまっている。これから働くなんて無理なことだよ」
「それにもう地所は売らない。畑からは野菜、田《た》ん圃《ぼ》からは米、それを売って暮《く》らしを立てることにするよ」
「だからそれはもう無理だよ」
おかみさんはとうとう泣き出した。が、急に顔をあげ、
「もう、あんたにはまかせてはおけない」
と叫《さけ》び、家の中に駈《か》け込んだ。そして、すぐにまた外へ飛び出してきたが、こんどは右手に太いサインペンを掴《つか》んでいた。
「いいかい、まずこの家はあたしのものだよ」
おかみさんは塩原の旦那《だんな》に向かって語気|鋭《するど》くそう言い、家の壁《かべ》に、「塩原とき」と大書した。
「こ、これ、なにをするんだ。みっともないじゃないか」
塩原の旦那はおかみさんの手からサインペンを奪《うば》おうとしたが、
「あんたもあたしのものだよ」
と、あべこべに顔に「塩原とき」と書かれてしまった。
「ここの奥さんはどうやら脳天気《のうてんき》になっちまったらしいですね」
柴又《しばまた》のゴンがおれの耳に囁《ささや》いた。
「脳天気、すなわち精神異常……」
「らしいね」
と、おれもうなずいた。
「奥さんは、塩原の旦那がまた土地を処分し、処分した金でおれたちを買ったのだ、と誤解した。そして、このまま放っておくと、土地を全部売り飛ばされてしまうのではないか、とおそれた。そのおそれがもとで彼女《かのじよ》は強度の被害|妄想《もうそう》におちいった……」
「そのとおりです。見ててごらんなさい、ドン松五郎さん。奥さんは旦那が土地その他を勝手に処分することができぬよう、ありとあらゆるものに、自分の名前を書きますから」
ゴンの言った通りだった。塩原のおかみさんは、庭の松《まつ》や桜《さくら》の幹にサインペンを振《ふる》いはじめた。
「これは一種の悲劇ですね」
と、ゴンが言った。
「持ちすぎたものの悲劇です」
「というよりも、おれに言わせれば過程を抜《ぬ》かしたために起こった悲劇だな」
と、おれは答えた。
「つまり、普通《ふつう》の金持ちは、ある過程を経《へ》て、つまり、百円|儲《もう》け五十円損をし、また二百円儲けて百円損をし、というように、一喜一憂《いつきいちゆう》しながら金持ちに成り上がって行く。おかしな言い方かもしれないが、そういうことを通して金持ちになるための準備をし、金に対する免疫《めんえき》を得て行くのだ。ところが、土地成金の場合は、すべての過程を一切飛ばして億単位の大金を掴む」
「なるほど。それでぱっぱっと金を浪費《ろうひ》してしまうわけですね」
「と同時に、金を浪費してみないと金持ちになった気がしないのさ。刻苦奮励《こつくふんれい》しつつ、すこしずつ金持ちになった人間は、手に入れた金を費《つか》わなくても金持ちである、という実感は得ることが出来るが、土地成金たちはそんな苦労をしていないからその実感がない。したがって彼等《かれら》は金持ちになったことをたしかめるために、どんどん金を使ってみなくてはならない。ここに土地成金の悲劇の真因《しんいん》があるのだろう」
「卓説《たくせつ》です」
ゴンはおれに頭をさげてみせた。
「ドン松五郎さんは経済学にも、また心理学にも通暁《つうぎよう》していらっしゃるんですね」
「いやなに。商科大学の窓の外で立ち聞きした講義をちょっとひねくりまわしてみただけさ」
「土地成金のなかには生活保護を受けている者がいるそうですね」
と、柴又のゴンがふと思いついたようにおれに言った。
「土地が売れて金持ちになる。どれだけ自分が金持ちになったか、それを確かめてみたくて金を使う。が、そのうちに金を使う楽しさに魅《み》せられ、次々に土地を手放して結局は無一文、とどのつまりが、生活保護の適用を受ける破目になる。こういうのが案外多いらしいんですが、右のような話を聞くたびに、わたしは一万円|札《さつ》に化けて損した狸《たぬき》の話を思い出すのですよ」
「一万円札に化けて損した狸? なんだい、それは?」
「あるところに一匹の狸がいました。ある夜のこと、里の豆畑へ忍《しの》びこみ、枝豆《えだまめ》を盗《ぬす》み喰《ぐ》いしていたところ、お百姓《ひやくしよう》さんに見つかって棒で打たれ、捕《つか》まってしまいました」
「|どじ《ヽヽ》な狸だ」
「狸汁《たぬきじる》にされてはかなわない、と思った狸は、お百姓さんに『お許しください』と両手を合わせて頼《たの》みました。その様子があまり哀《あわ》れだったので、お百姓さんが言いました。『よしよし、狸汁にするのだけは見合わせてやろう。ただしこっちにも頼みがある。明日の朝、御寺の坊《ぼう》さんが御経《おきよう》の読誦《どくじゆ》にみえるので、御布施《おふせ》を差しあげなければならんが、あいにく手元に現金がない。そこで、おまえ、千円札に化けてはくれまいか。そして、お札に化けたまま寺まで行ってほしい。もし行ってくれるなら許してやろう』狸は大喜び。さっそく千円札に化けました。お百姓さんはその千円札を紙に包み、やがてあくる朝、坊さんが読経《どきよう》にやってきた。紙に包まれて坊さんの手に渡《わた》るのを待つうちに、狸はふと、『千円札じゃつまらんな』と考え出した。『おれは狸の仲間でもエリートといわれている。そのエリート狸が千円札では役不足。紙幣《しへい》のなかでは一万円札が最高にして最良である。よし、どうせなら、一万円札になってやろう』というので狸は紙包みの中で千円札から一万円札に姿を変えたのですが、じつはこれが悪かったんです」
「どう、悪かったんだろう?」
「お百姓さんは、坊さんに金を渡そうとしたとき、包んだ紙の隙間《すきま》からちらっと一万円札が見えたので、札の実体が狸だということを忘れて思わず手元に引き寄せた。坊さんの方も『あッ、一万円札!』というので欲が出てエイと引っ張った。哀れ、一万円札は真ん中から千切れてしまった」
「なるほど。すると狸もまっぷたつか」
「そうです。狸は『ああ、千円札のままでいたらこんな災難《さいなん》にあうこともなかったのに、我身の分限《ぶんげん》を守らなかったために、自分をよく見せようと欲を出したばっかりに、こんな罰《ばち》が当たってしまった』と嘆《なげ》きつつ、出血多量のため死んでしまったそうです」
「ほんとかねえ。そんな狸が実際に居《い》たのかい?」
「とにかく、人間にはこの狸と同じく、下手《へた》な化け方をしているのが多いように思います。一冊本を読んだだけで十冊読んだような顔をする、一万円しかないのに十万円持っているように振《ふ》る舞《ま》う、一しか知らぬのに十を知るかのように学者|振《ぶ》る……、人間特有の化け方が結局悲劇の因《もと》になるのではないでしょうか。土地成金の悲劇も右に然《しか》りですよ」
ゴンの話が終わるのを待っていた如《ごと》く庭へ、
「こんにちは!」
と、入ってきた若い男がいた。右手にこま切れ肉を入れたバケツをさげている。どうやら肉屋から肉が届いたらしい。
「塩原さん、肉を四キロもどうなさるんですか?」
肉屋の若者は、塩原の旦那から代金を受け取りながら言った。
「こんどは鰐《わに》でもお飼《か》いになったんですか。それともライオンですか。でなきゃ虎《とら》かな?」
「犬だよ」
塩原の旦那は庭のあちこちにたむろするおれの仲間たちに顎《あご》をしゃくってみせた。
「犬を二十一匹、飼うことにしたのだよ」
「おや、ほんとだ。でもみんな雑種ですね」
「きみ、外見で判断しちゃいかんよ。この連中は凄《すご》いんだぜ」
「なにが凄いんです?」
「芸をするんだよ」
「へえ、どんな芸ですか?」
「まあ、それは言わぬが花だ。そのうちにテレビに出演させるつもりだ。やがては週刊誌にもこの連中の特集記事が出るだろう。今年の前半は週刊誌やテレビは『スプーン曲げ』で賑《にぎ》わったが、後半はうちの二十一匹の犬が全国のお茶の間の話題を独占《どくせん》するはずさ、そのときを楽しみにしていてくれ。おっと、明日もまた肉を四キロたのむ」
「毎度ありィ」
「明日だけではない。これからは毎日、肉を四キロずつ届けてくれ」
「かしこまりました」
肉屋の若者は鼻唄《はなうた》を歌いながら庭を出て行った。
「さあ、御馳走《ごちそう》が届いたぞ」
塩原の旦那はバケツの中身をテラスの上に撒《ま》いた。
「腹いっぱい喰《く》いな」
おれたちが肉を平らげると、塩原の旦那は、庭に面した東端《とうたん》の座敷《ざしき》の戸を開け放った。
「この座敷は客間だが、今日からおまえたちの宿舎だ。わしはよろこんで此処《ここ》をおまえたちに開放する。うちのかみさんがまたつべこべ文句を言うだろうが、なに構うものか。なにしろ、おまえたちはわしの大事な客なのだからな」
おれの仲間たちが、青畳《あおだたみ》の上、床《とこ》の間《ま》の上、押し入れの中、ちがい棚《だな》の中など、思い思いの場所に落ち着いて、今しがた食べた肉の美味だったことなどをたがいに囁き交わしていると、塩原の旦那が改まった口調でこんなことを言った。
「なあ、犬たちよ。人間であるわしの言葉が犬の君たちに通じるとは思わないが、それでもわしは君たちにこれだけは言っておきたい。わしは君たちの友だちだ。したがって、わしは君たちを手厚くもてなすつもりだ。毎日、一食は肉食を提供《ていきよう》する。君たちの首に鎖《くさり》をつけることもしない。だから、君たちもここから逃《に》げようなどという気はおこさないでおくれ」
「なんて言っていますが、ドン松五郎さん、彼の言葉は信用できるとお思いですか」
ゴンが小声でおれに訊《き》いた。
「どうです?」
「信用はできないなあ」
と、おれは答えた。
「塩原の旦那は君たちを売り出して一財産こしらえるつもりさ。いってみれば君たちは打ち出の小槌《こづち》だ。それを鎖なしで放っておくものか。ただ、彼はいまは君たちの首に鎖をつけることはできない。なにしろ、彼は一人、こっちは二十一匹だからね。それに犬の数だけ鎖がない。そこで彼は準備が整うまではやさしく出ることだろう」
「同感です」
と、柴又のゴンがうなずいた。
「人手を揃《そろ》え、鎖を用意し、準備|万端《ばんたん》ととのったところで、塩原の旦那はわッとおれたちを捕《つかま》えにかかるつもりでいるでしょうね」
「うん。人手と鎖の準備が整うのはおそらく今夜だ。そこでゴンくん、夜食になにが出るか知らないが、十分に注意してくれたまえよ」
「……といいますと?」
「仕事をしやすくするために、彼は君たちに睡眠薬《すいみんやく》入りの夜食を供すると思うからさ」
「なるほど」
「首を鎖で繋《つな》がれては、いざというときに活動できない。鎖なしで飼われていること、これがなによりも大事なことだ」
「わかりました。他の連中にもよく念を押しておきます」
座敷のあちこちから仲間たちの寝息《ねいき》が聞こえはじめている。東京の下町からここ下総《しもうさ》国分寺までの短《みじか》からぬ急ぎの旅や精魂《せいこん》を傾《かたむ》けて演じなければならなかった犬ピラミッドや犬|盆踊《ぼんおど》りなどで仲間たちは疲《つか》れているのだろう。仲間たちが次々に長くなってのびて行くのを見た塩原の旦那はそっと立ち上がり、抜《ぬ》き足《あし》差し足忍び足で廊下《ろうか》へ出て行った。むろん彼はさり気ない振りを装《よそお》って襖《ふすま》を閉めた。たぶん、そしてやがて彼は庭へ出て窓や雨戸を一枚のこらず閉め切ってしまうことだろう。言うまでもなくおれたち二十一匹の逃走《とうそう》を防ぐために、である。
「ゴンくん、そろそろここを失敬することにするよ」
と、おれは御輿《みこし》をあげた。
「おれにはすでに飼《か》い主《ぬし》がいる。二重に飼われるわけには行かないのだ。それにいつだれがプードルのお銀さんやブルテリアの長太郎君の消息を知らせるために、おれの家へやってくるかもわからぬ。つまりおれは常に外界と自由に連絡《れんらく》のとれる場所に自分を置いておかなくてはならないんだ」
「吉報《きつぽう》を待っています」
ゴンは力強く、しかし低い声で言った。
「お銀・長太郎救出作戦のお手伝いのために、はるばるわたしたちはやってきたんです。作戦開始の合図を一日千秋の思いで待っています」
ゴンの声を背中で聞きながら、おれは庭に出た。陽《ひ》はもはや西山、庭木が夕映《ゆうば》えに赤く染まっていた。
「もしもし、高橋犬猫病院ですか?」
庭を横切るおれの耳に居間《いま》で電話をしている塩原の旦那の声が飛び込んできた。かなり声を押《おさ》えているが、おれたち犬の聴覚《ちようかく》は鋭敏《えいびん》である。いくら声量を押えようとおれたちにはそれがはっきりと捕捉《ほそく》できるのだ。
「……高橋先生はおいでで? ……おや、これは高橋先生、さっそくですが、犬用の睡眠薬を二十一匹分いただきたいのですよ。それから先生のところに鎖が二十一匹分、ありますか……?」
おれの睨《にら》んだとおり、塩原の旦那は仲間たちを鎖で縛《しば》ろうとしているようだ。
塀《へい》を飛び越え、畠《はたけ》から道に出ると、シェパードのキングがこっちへやってくるのが見えた。
「こっちは心配いりませんよ」
というおれの捺《お》した太鼓判《たいこばん》にキングはにっこりして、
「それはよかった。ところでじつはひとついいしらせがある。歩きながら話そう」
と、道を引き返しはじめた。おれは追いついてキングと並《なら》んだ。
「キングさん、いい知らせというのはどんなことです? まさか、プードルのお銀さんやブルテリアの長太郎君の行方《ゆくえ》がわかったというのじゃないでしょうね?」
「きみはじつにいい勘《かん》をしているねえ」
キングがおれの顔を見て何度もうなずいた。
「きみの推察どおりにお銀さんと長太郎君の行方を知っているという犬が現れたのだよ」
「まさか、こんなに早く……」
「まさかではなくほんとうに現れたのだ。その犬の名は渋谷《しぶや》のハチ公という秋田犬……」
「渋谷のハチ公ですって? どこかで聞いたような名前ですね。うん、そうだ、渋谷のハチ公というのは昭和初期に実在した有名な犬ではありませんか」
「そうだ。その秋田犬は渋谷駅頭のハチ公の銅像《どうぞう》とよく似ているところから、仲間にそう呼ばれているらしい。言うまでもなくあの有名なハチ公とは別の犬だ」
「で、そのハチ公がなんといっているのです?」
「まだなんとも言ってはいない。きみの出演したテレビを観て渋谷を発《た》ち、食事もせず水を飲まずただ歩きづめだったので、国分寺の墓地に到着《とうちやく》したとたんに卒倒《そつとう》した。柴犬《しばいぬ》の平吉君が看病しているところだよ」
「渋谷からねえ」
おれは立ち止まって考えた。
「するとお銀さんと長太郎君は渋谷方面にいるのでしょうか?」
「だろうね」
キングはうなずきながら、おれに先へ歩めと仕草で促《うなが》す。
「こんなに早くお銀さんたちの行方がわかるんだったら、清水の旦那や塩原の旦那をだますんじゃありませんでしたね」
思案しいしい歩きつつ、おれは言った。
「長期戦になるだろうと思って、その間の食と住を確保するために、分列行進だの、ピラミッドだの、盆踊りだのを仕組んだんですが、どうやらすぐ渋谷方面へ出動ってことになりそうです。食と住の心配は不必要だった……」
「わしはそうは思わんよ」
キングは慰《なぐさ》めるような口調で言った。
「たとえすこしの間でも、三十|匹《ぴき》の仲間が腹いっぱいたべ、ゆっくり休むことができるというのはすばらしいことだ。休養十分の犬と疲れた犬とでは、同じ犬でも、今後の働きがちがうだろうよ」
「それはまあそうですが……」
「ところで、ドン松五郎君」
「急に改まってどうしました?」
「渋谷方面に、お銀さんたちがいると知ったらどうするかね?」
「むろん、三十匹の仲間たちと、救出に出かけますよ」
「それを聞いて安心した」
キングは吻《ほつ》と安堵《あんど》の吐息《といき》をついた。
「わしは老《お》いぼれ犬だからその作戦には参加できないだろう。たとえ参加しても指揮《しき》はとれぬ。だからきみが指揮をとるのだ」
「それは困ります。まだ若輩《じやくはい》のわたしに三十匹の犬の指揮なんか出来るものですか」
「きみは自分の肩《かた》の聖痕《せいこん》をなんだと思っているのだ」
キングはおれの肩の|あざ《ヽヽ》を眼《め》で示した。
「その聖痕は|だて《ヽヽ》でついているのではない」
「それは知っています。わたしの肩の|あざ《ヽヽ》は選ばれた犬である証拠《しようこ》だということは前にもあなたから聞きました。しかし、わたしは自分をよく知っているつもりですよ。わたしにはまだ三十匹の犬の隊長になる器量はありません」
「それはきみの決めることではない」
シェパードのキングの声はいつになくきびしく鋭《するど》い。
「三十匹の犬がそれを決めるのだ。ドン松五郎君、きみの評判は悪くないよ。すくなくとも清水家に引き取られた十匹の間に於《お》けるきみの評価は満点に近い。若いが行動力がある、若いに似合わず的確な判断力がある、あの若さでたいした学識である、と、みんなが感服している。おそらく、塩原家の二十匹も同じ評価をしているだろうと思う。ドン松五郎君、きみは前に『人間全体が仕合わせにならぬうちは犬の仕合わせはあり得ない』という卓抜《たくばつ》なテーゼを打ち出した。このテーゼを基《もと》に行動するときが来たのだ。それにそもそもこういうテーゼを考え出せるということ自体、きみが指導者としての才に恵まれていることを証拠立てている。なにものもおそれずに前進したまえ」
おれはまだ決心がつかず黙《だま》っていた。
「ドン松五郎君、すべては因縁《いんねん》なのだよ。わしは国分寺の和尚《おしよう》さんがあるとき信徒に向かって次のような話をしているのを聞いたことがある。さる斎坊主《ときぼうず》が、市中を日々巡回《にちにちじゆんかい》して読経《どきよう》をしておった。ある夕暮《ゆうぐ》れ、その斎坊主がひとり暮らしのおばあさんの家の前を通りかかったところ、おばあさんが親切にもこう言った。
『坊さま、ちょうどいま御飯が炊《た》けたところでございます。どうか召し上がって行ってくださいまし』
斎坊主は喜んで膳《ぜん》の前へ坐《すわ》った。おばあさんはちょうどそのとき、釜《かま》から飯櫃《めしびつ》に御飯を移しているところだったが、なんと水洟《みずばな》が御飯の上にぽたぽたぽた。それを見て坊主は急に食欲がなくなって、
『どうもにわかに腹が痛み出してきた。おばあさん、またいつか御馳走《ごちそう》になります』
と、すたこらさっさと逃《に》げ出した。
その四、五日後、坊主は用事が出来て、おばあさんの家の隣《となり》へ出かけた。用事が済んで外に出たら、ばったりとおばあさんと出っくわした。知らん振《ふ》りもできないので、
『この間はどうも失礼しました』
と、声をかけたところが、おばあさんの曰《いわ》く。
『坊さま、今日はおいしい甘酒《あまざけ》がございますが、いかがです』
坊主はこの甘酒が大の好物。さっそく御馳走になったが、これがじつに美味《おい》しい。そこで坊主は三杯《さんばい》もおかわりしてから、おばあさんにきいた。
『おばあさんや、ひとり暮らしなのに、よくもまあこんなにたくさんの甘酒を造ったものだね』
するとおばあさんは答えた。
『なに、この間、坊さまが召し上がらなかったので御飯が残りましてね、あのときの御飯で甘酒を造ったのでございますよ』
さてはこれは水洟入りの甘酒であったか! と坊主はうッとなって、思わず、
(まことに因縁というものは脱《の》がれられぬものだわい)
と呟《つぶや》いたという。ドン松五郎君、きみは指導者になるのが定め、前世の悪因か善因かは知らないが、そういうことになっているのだ。すべて因縁と割り切れば、どのような憂世《うきよ》の窮達《きゆうたつ》でもなんのそのと気楽に通り抜《ぬ》けることができる。聖痕を持つ身がいまさらじたばたしてはいけないよ」
「わかりましたよ」
と、おれはキングに言った。
「清水家に十|匹《ぴき》、塩原家に二十匹、合わせて三十匹の犬たちの指揮をとるのがわたしの前世からの因縁ならば、あなたのおっしゃる通りにいたします」
「ありがとうよ」
キングは頬笑《ほほえ》んだ。
「わしはもう老齢《とし》だ。そう長くは生きてはおれぬ。だが、きみのようなすぐれた指導犬に自分の志を託《たく》すことが出来たのだからもう安心だ。心を平らにしてあの世からのお迎《むか》えを待つことができるよ」
「不吉なことを言わないでください。それにあなたはまだまだ長生きしますよ。おそらくほとんど永遠に……」
「ドン松五郎君、こんな話を知っているかな。釈迦如来《しやかによらい》の在世中のことだが……」
「おや、また抹香《まつこう》くさいおはなしですか? キングさんはこのごろいやに仏教に凝《こ》っていらっしゃるんですね」
「うむ、やはりそれだけ死ぬのが怖《こわ》いのだろう。ところで釈迦如来が在世中のこと、ひとりの長者の妻が駆《か》け込《こ》んできて、
『たったひとりの跡取《あとと》り息子《むすこ》がまだ五|歳《さい》なのに無常の風に散らされてしまいました。どうしてもあの子のことが諦《あきら》め切れません。持っている財産をすべて捨てても構いませんから、どうぞあの子をもう一度、わたしの腕《うで》の中に返してください』
と、必死の勢いで訴《うつた》えた。すると釈迦如来がおっしゃった。
『よしよし、蘇生《そせい》の妙薬《みようやく》を調合してあげよう。ただし、それには一合の白米が必要だ。それも、これまでひとりも死人の出たことのない家の米櫃《こめびつ》にある白米じゃ。そのような白米を持ってきたら、すぐにも蘇生の妙薬を作ってあげよう』
これを聞いて長者の妻は喜び、ありとあらゆる家戸を叩《たた》き、
『こちらにまだ死人は出たことがありませんか?』
と、尋《たず》ね歩いた。百|軒《けん》の戸を叩いてもそんなめでたい家は見つからぬ。千軒の家を叩いても見当たらぬ。そのうちにやがて長者の妻は生者必滅《しようじやひつめつ》の道理に思いあたって、わが子の蘇生は諦めたという」
「現今のような核家族《かくかぞく》時代にはあてはまらないおはなしですね。いまは若夫婦はそれぞれ結婚《けつこん》と同時に新しく一戸構える。したがって死人を出さない家なぞ|ざら《ヽヽ》ですよ」
「きみと話をすると、いつも混《ま》ぜっ返されるのでかなわない」
キングは苦笑した。
「……が、とにかく生者必滅だよ、ドン松五郎君。しかし、生者は滅《ほろ》びるが真の志は不滅《ふめつ》だ。世の中をすこしでも住みやすくしようという思いは決して滅びはしない。わしからきみへ、そしてきみからまた誰かへ、きっと伝えられて行くはずだ。それを思うと、死もそうは怖くはなくなる。まあ、この心境はやがてきみにもわかるときがくるだろう。おっと、話に夢中《むちゆう》になっているうちにもう国分寺だ」
下総《しもうさ》国分寺は松《まつ》の疎林《そりん》の中に在る。その松の枝《えだ》を風がさやさやと鳴らしていた。墓地の中央の松の木の根を枕《まくら》に秋田犬が一匹、横になっている。おれたちの姿を認めて、秋田犬の枕元から柴犬が立ちあがり、こっちへ小走りに寄ってきた。その柴犬は平吉で、彼《かれ》は首を横に振《ふ》ってみせながら、
「渋谷のハチ公はまだ昏睡《こんすい》からさめておりません」
と、言った。
おれは渋谷のハチ公に近づいた。ハチ公の左の後肢《あとあし》には傷があり、赤黒く乾《かわ》いた血がこびりついていた。渋谷から此処《ここ》へ来る途中《とちゆう》に道路上のガラスの破片でも踏《ふ》みつけたのだろうか。いずれにせよ、ハチ公の昏睡は疲労《ひろう》とこの左の後肢からの出血によるものであろう。
「出血多量で死んでしまうようなことはないだろうね」
と、キングが柴犬の平吉を顧《かえり》みる。
「手当てはしました」
平吉が答えた。
「煙草《たばこ》の吸い殻《がら》を拾い、それをほぐし、傷口になすりつけましたから大丈夫《だいじようぶ》でしょう」
「ほう。そんなものが止血にきくのかね。わしもこの年齢《とし》になるまで知らなかったが……」
「わたしもこんな療法《りようほう》を耳にしたのははじめてなんですよ。しかし、たしかに効能は絶大のようです。それが証拠《しようこ》にほぐした吸い殻をなすりつけた途端、ハチ公の出血はぴたりと止まりましたから」
「ふうむ。それできみにその療法を教えてくれたのはどこの誰《だれ》だね?」
「それがあいつなんですがね」
平吉は周囲に林立する墓石のうちのひとつを尻尾《しつぽ》の先で指し示した。
「清水家に居候《いそうろう》する十匹のうちの一匹で、名前は北小岩のシローとかいう雑種犬です」
平吉の指し示した墓石の前に小さな犬が一匹|寝《ね》そべっていた。白の雑種で、驚《おどろ》いたことに鼻の上に眼鏡をのせている。
「眼鏡犬とは豪儀《ごうぎ》なものだ」
と、思わずキングが嘆声《たんせい》を発すると、それが耳に入ったのだろう、北小岩のシローはこっちを向いて甲高《かんだか》い声で言った。
「この眼鏡、本物だといいんですがね、じつはこれ、生まれついての模様なのでして」
なるほど、言われてよく見ると、たしかにそれは生まれつきの斑模様《ぶちもよう》の変型である。
「シロー君、きみはどこで止血には煙草の吸い殻をほぐしてすり込《こ》むのが一番なんてことを習ったのだい?」
キングにかわって、おれは訊《き》いてみた。
「もしかしたら、きみの前の飼い主が漢方医かなんかだったのだろうか」
「ドン松五郎さんのご質問にお答えする前に、ひとつ訂正しておきたいことがあるんですけれど、よろしいですか」
「むろん、よろしいですよ。しかし、なにを訂正しようっていうんです?」
「ドン松五郎さんはいまぼくのことを『シロー』とおっしゃった。しかし、それは間違《まちが》いです。正確にはぼくは『北小岩のシリョー』なのです」
「シリョー? 変わった名前だなあ」
「漢字で書けば、資料です」
眼鏡犬は尻尾の先を筆がわりに、そして、宙を紙がわりに、大きくかつはっきりと、資料の二字を書き記した。
「なぜ、資料なんです?」
「北小岩の仲間たちの間では、ぼくは有名でした。というのはぼくにはある種の特殊《とくしゆ》な才能があるからでして……」
ここで眼鏡犬はぴくりと鼻をうごめかした。
「つまり、ぼくは記憶力《きおくりよく》がいいんです。たいていのことは一度で憶《おぼ》えてしまうのです。たとえば道端《みちばた》に新聞や週刊誌が落ちていますね。ぼくは読書が好きですから、それを啣《くわ》えて帰って丹念《たんねん》に読みます。するともうそれで読んだ記事がぼくの脳《のう》の中のカメラにぴしゃりと写ってしまうのです。ぼくの脳の中のカメラで撮影《さつえい》されたすべての活字は、そのままマイクロフイルムとなってやはり脳の中の資料庫に保存されます。あとは必要に応じて資料を出し入れするわけで。どうですか、ドン松五郎さん、『資料』というあだ名、|だて《ヽヽ》ではないでしょうが。もっとも、シリョーと呼ぶのが面倒《めんどう》でしたら、シローでも構いませんがね」
「つまり、きみは自分の記憶力が衆にすぐれているのである、とこう言うのだね」
おれが訊くと眼鏡犬は天真爛漫《てんしんらんまん》にうなずいて、
「自信があるというより、ぼくはそのまま一個の記憶機械なんです。どうでしょうか、ドン松五郎さん、ぼくをあなたの隊の移動資料室に任命していただけませんか」
「移動資料室?」
「はい。隊の移動図書室としてでも結構ですよ。名目《めいもく》がなんであれ、これからはすべてを記憶し、それを必要なときに隊のために引き出して差し上げますから。むろん、これまで記憶したことでも御用命があれば思い出してあげます」
「ではちょっとお手並《てな》みを拝見しようか」
「つまり試験をしたいとおっしゃるのですね。いいですとも。なんなりとどうぞ」
「……最近、人間世界のジャーナリズムにわれわれ犬についてどんな記事が書かれ、公《おおやけ》にされたかね?」
眼鏡犬は数秒間、目をつむってぶつぶつなにか呟《つぶや》いていたが、やがておそろしいほどの早口で、
「最近、犬について人間が公にした記事は、ぼくの憶《おぼ》えているところでは、次の四つです」
と、喋《しやべ》りはじめた。
「最初の記事はYという女性週刊誌に掲載《けいさい》されたもので、その記事の見出しは『犬にかみつかれた女子大生の顔の破損料は五十万円なり。大阪外国語大学生Sさんが二年間にわたる裁判で得たもの』です。次に本文記事を読みあげます。『犬に顔をかまれ、その損害|賠償《ばいしよう》を飼い主に請求していた独身女性に、大阪地方裁判所から五十万円の賠償金を支払《しはら》うべしとの判決がおりた。事件のあらすじはこうだ。今から二年前の八月十四日、家庭教師を紹介《しようかい》されたSさんが大阪・東住吉区の会社社長Hさん宅へ、家庭教師として訪問したときである。玄関《げんかん》わきで日傘《ひがさ》を閉じ、傘立てにたてかけようとかがみこんだとたん、放し飼いの犬がSさんの顔面めがけて飛びかかった。そのときのことをSさんは≪H家の飼い犬で名前がタロー。秋田犬の|牡《おす》で中学生ぐらいの大きさでした。ガーンときて目がくらみ、気がつくと玄関には多量の血が流れていたんです。しばらく休んだ後で、パトカーを呼んでもらい、救急病院へ行ったのです≫と述懐《じゆつかい》しているが、この結果、鼻と顎《あご》の二カ所に深い傷を負い、約一カ月通院|治療《ちりよう》をし、さらに病院のすすめで整形手術まで受けた。だがその間、加害者であるタローの飼い主側は梨《なし》の礫《つぶて》。≪治療状態を説明しても|見舞《みま》いの電話一本なく、誠意がまったく感じられなかった。それどころか傷なんて月日がたてば治る≠ニ整形手術をしたことを余分なことでもしたかのように言われました≫タロー側の無配慮《むはいりよ》な態度についにSさんはHさんを相手どって損害賠償請求の訴《うつた》えをおこした……』と、ここまでがちょうど記事の半分ですが、この先、どうします? お聞きになりたいですか?」
「われわれ犬にとってはあまり愉快《ゆかい》な記事ではないなあ。次の記事はどういうの?」
「次の記事は女性週刊誌のJに載《の》ったもので、たしか『人間の言葉をしゃべる犬に体当たり直撃《ちよくげき》取材』というばかでかい見出しがついていたと思います。この犬は山形県東|置賜《おきたま》郡|高畠《たかはた》町の食堂経営者Oさんのところにいるナナという柴犬のメスで、『オハヨウ』、『コンバンハ』、『イヤイヤ』、『サンキュー』、『バイバイ』の五つの人間語をしゃべるらしいんです。では記事を朗読《ろうどく》いたします」
眼鏡犬はそのへんを右に行き左に戻《もど》りしながら、ぺらぺらとしゃべりはじめた。一度として言いよどむこともなく、つっかえることもない。自慢《じまん》するだけあってたしかにおそるべき記憶力だ。全部で四千語ほどもある人間の言葉を使う犬の探訪《たんぼう》記事をしゃべり終わると、つぎに眼鏡犬は第三の記事にかかる。
「……三番目は千葉県松戸市のラットというコリー犬が朝の散歩で二十万円の現金を拾ったという記事ですが、これは朝日、読売、毎日、そして東京の四紙の記事をぼくはすべて暗記しております。どこの記事がいいですか?」
「どこでも好きなのをやってくれ」
「では、一番大きく扱《あつか》った読売のを読みあげてみます。おほん。『千葉県松戸市に住む会社員Sさん方の愛犬、コリーのラット号が朝の散歩で二十万円ものお宝を拾い、無事、落とし主の手に戻すというお手柄《てがら》をたてた。落とし主は以前にもタクシー内に大金を落としたが、そのときはついに戻らずじまいだった苦い経験があっただけにラット号の善意≠ノすっかり恐縮《きようしゆく》していた……』」
いったいこの眼鏡犬の脳味噌《のうみそ》の具合はどうなっているのだろうか、と驚《おどろ》き呆《あき》れて耳を傾《かたむ》けるうちに、彼はラット号の記事を暗誦《あんしよう》し終えた。
「四つ目の記事は朝日の『声』欄《らん》への投書です。投書主は神戸市に住む金持一郎さんという七十|歳《さい》の老人です。では……『作家|犬養道子《いぬかいみちこ》さんの〈ラインの河辺〉を読んで面白《おもしろ》い話に出あった。ミラノの駅へ着いたとき、寝台《しんだい》列車に客が連れ込んでいた何匹かの犬がプラットホームの砂場まで用≠足して戻ってくる。他の犬は一向お構いなし。吠《ほ》えもしないし噛《か》みもしない。犬養さんはこんな情景を三度も見たといって≪西洋では犬までが自主独立の精神を持っているようだ≫と面白く書いている。彼女《かのじよ》が日本から連れて行った犬も吠えなくなったという。
私にも小さい経験がある。ロンドンのウィンブルドン公園を友人と一緒《いつしよ》に散歩していた。向こうから大きな犬が二匹やってくる。主人はひもを付けていない。私は少々おそれた。友人は笑ってご安心なさい。ロンドンの犬は絶対に噛みませんから……≠ニいう。なるほど、二匹は私たちには関心がないかの如《ごと》くそばを通り過ぎて行ってしまった。その後、この友人の≪ロンドンの犬は絶対に噛みません≫という言葉が私の脳裏《のうり》にしみついて離《はな》れない。ドイツにしたって、ロンドンにしたって、グレートデンはやはりグレートデンであり、セパードはやはりセパードである。それが日本ではかみ$シ洋ではかまない=Bこれは、どうしても犬の子のしつけからくるとしか思えない。同じことは、いくらか人間の子のしつけにも関係がありそうに思えるのだが……』と、これで四番目はおしまい。ドン松五郎さん、以上が、最近の人間世界のジャーナリズムにあらわれた犬に関する四つの記事です」
「すごい。おどろくべき記憶力だ」
キングと平吉とおれが申し合わせたように同時に嘆声《たんせい》を発した。
「シロー君の、その暗記能力は天賦《てんぷ》の才かね。それとも後天的なもの、つまり努力の結果得たものかね?」
「どっちかと言えば後天的なものでしょうね」
と眼鏡犬のシローは答えた。
「もっと正確に言えば、主人に感化されたわけで」
「というと?」
「主人は現在大学|浪人《ろうにん》をしておりますが、ぼくが彼のところに飼われたときは、彼、高校浪人中だったのですよ」
「高校浪人?」
「そうです。頭の出来は普通《ふつう》なみなのですが、彼の母親が熱心な教育ママでしてね。普通の高校ではだめだ、ぜひともさる医科大学付属高校に合格してもらわねば困る、というわけで、可哀想《かわいそう》に彼は朝から晩まで勉強部屋に閉じ籠《こも》りっぱなし。で、その彼が暗記に精を出しておりましたので、自然に見よう見真似《みまね》で暗記を趣味《しゆみ》と心掛《こころが》けるようになったのです」
「ほう」
「主人は暗記の際に語路合わせや駄《だ》洒落《じやれ》を活用しておりました。英語の単語を憶《おぼ》えるにも語路合わせ。たとえばキャット=猫《ねこ》、を憶えるのに『姉さんは猫《ヽ》を踏《ふ》んづけて|キャット《ヽヽヽヽ》と言い』なんていう川柳《せんりゆう》を用いる。それを傍《そば》で聞いているうちにひとりでにぼくも|コツ《ヽヽ》を体得しましてね、以来すべてを語路合わせや駄洒落で憶え込むようになりました」
「それで、きみの御主人は医科大学の付属高校へは合格したのかい?」
「だめでした」
「するとやはり語路合わせ暗記術ではだめなのだねえ」
「そんなことはないと思います」
眼鏡犬のシローはおれの問いを言下に否定して語路合わせの肩《かた》を持った。
「ぼくの主人は語路合わせ暗記に徹底《てつてい》しなかったから失敗したのです。日本語の場合、語路合わせはびっくりするほど有効な働きをするんですよ。つまり語路合わせが日本語の特長なんです」
「ほう、珍説《ちんせつ》だね、それは。むしろ日本人は語路合わせを忌《い》み嫌《きら》っているように、わたしには思えるのだけれど。新劇の劇作家が語路合わせを使うと、『なんだ、商業演劇じゃないか』と軽蔑《けいべつ》される。商業演劇が新劇より軽んじられる日本の精神風土についてはまた別に項目《こうもく》を設《もう》けて論じなければならないだろうけど、いずれにしても、語路合わせを使えば軽蔑される。小説の世界に於《おい》ても同様だ。語路合わせの好きな作家は大衆作家というレッテルを貼《は》られる。つまり、『フィネガンズ・ウェイク』を書いたジェームス・ジョイスがもし日本人なら、精神病者扱いをされたろうよ。落語でも然《しか》り、落語のサゲの半数近くが「地口《じぐち》落ち」だが、落語研究家はこの地口落ちを買わない。彼等は間抜《まぬ》け落ちや拍子《ひようし》落ちを地口落ちよりもはるかに高く評価している。きみが言うように、真実、語路合わせが日本語の特長のひとつだとするなら、その日本語を使って生活している日本人が語路合わせを軽蔑するなど考えられないと思うのだがねえ」
「では、語路合わせが日本語の特長、というより宿命であることを証明しましょう」
眼鏡犬のシローは墓石の上で坐《すわ》り直した。
「たとえばここに『日本語』というひとつのコトバがあります。これを日本人は『ニ・ホ・ン・ゴ』と発音しますが、『ニ』も『ホ』も『ン』も『ゴ』もそれ以上、細かくわけることはできません。このようにコトバを成り立たせている音で、それ以上分解できないものを音節と申します。言い方をかえれば、音節はコトバの素《もと》ですね。さて、この音節は、国語学者の金田一春彦《きんだいちはるひこ》さんによれば、日本語には非常にすくない。百二十個足らずしかないそうです。つまり、日本語は百二十個足らずの音節の上に成り立っているわけですね。ちなみに世界で最も音節数のすくないコトバはハワイ語だそうで、日本語からサ行とタ行を抜《ぬ》いたものがハワイ語だといいます。そして、ハワイ語に次いで音節数のすくない言語がこの日本語なんです」
「音節数がすくないということと語路合わせが宿命であることといったいどういう関係があるんだい?」
「まあ、結論を焦《あせ》ってはいけません、そのうちにそれは自然に明らかになりますから。さて、それではこんどは逆に音節数の多い言語にはどんなものがあるか。たとえば英語は三千六百の音節=コトバの素から出来ているそうです。ここまでをまとめますと、英語には三千六百個のコトバの素があるのにひきかえ、日本語には百二十個足らずのコトバの素しかない。彼我《ひが》の差はじつに三十対一です。ところで英国と日本を較《くら》べてみた場合、人間の生活する環境《かんきよう》にそう特別なちがいがあるでしょうか? ぼくは殆《ほとん》どないと思う。英国でも日本でも太陽がひとつ、お月さまもひとつ、雨が降れば天気が悪い、風が吹《ふ》けば砂埃《すなぼこり》が立つ。たとえていえば英国にあって日本にないのはクリケットとジョンブル気質、日本にあって英国にないのは相撲《すもう》に武士道ぐらいのものです。すなわち、英国も日本も人間をとりまく環境はほぼ同じ、その同じ環境を英国人は三千六百のコトバの素で現し、日本人は百二十足らずのコトバの素で言い現す。となると……」
「なるほど、日本語にはコトバの素が足らないので同じ音のコトバが多い」
「ご明答です。日本語は英語よりも三十倍も同じ音のコトバが多いのです。三十倍も語路が似ているのです」
「卓説《たくせつ》だなあ」
「いや、これはぼくの手柄《てがら》じゃありませんよ。金田一春彦氏などをはじめとする言語学者たちの意見を受け売りしているだけです」
「それにしてもよくそこまで勉強したものだ」
「好きこそものの上手なれですかねえ。それはとにかく、日本語の辞典を引いてごらんなさい、それこそ同音異義語がぞろぞろ並《なら》んでいますから」
眼鏡犬のシローは、ここで、かたわらに置いてあった泥《どろ》だらけの国語辞典を口でぱらぱらとめくった。
「これはぼくの愛用する国語辞典です。ごみ捨て場から拾ったのですが、いまこいつをぼくは第一|頁《ページ》から丸暗記しているところでして……。おっと、偶然《ぐうぜん》『シソウ』という見出しのある頁をめくってしまいましたが、どうです、同音異義語のオンパレードでしょう?」
と眼鏡犬がおれの方へ前肢《まえあし》で辞典を押《お》し出してよこした。
眼鏡犬のシローが開いた国語辞典のページには「シソウ」という同じ音を持つ以下のようなコトバがずらりと並んでいた。
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四三 双六《すごろく》で二個の賽《さい》の目に、四と三が出ること。
四相 仏教語。生滅変化《しようめつへんげ》する無常のすがたを四種に整理したもの。そのうち、衆生の生涯《しようがい》を生老病死ととらえるものを「一期《いちご》の四相」という。
四葬 仏教語。インドで、水葬《すいそう》・火葬・土葬・林葬の四種の葬法をいう。
市葬 市が営む葬儀《そうぎ》。
司僧 カトリック教会で祭式・礼典をつかさどる高位の聖職者。
死相 死に近づいた顔つき。
死草 枯《か》れた草。
死送 死者を葬《ほうむ》るのを見ること。
芝草 きのこの一種で、瑞相《ずいそう》をあらわすとされた草。
死喪 死ぬこと。
伺奏 うかがい奏すること。
志想 こころざし。志向。
志操 かたく守って変えない志。
使送 使いの者に持たせて送ること。
刺草 あざみの異名。
刺創 針、くぎ、ぴん、とげなどの鋭利《えいり》なもの、とがったものが生体の組織内にささって生ずる傷。傷口は小さいが傷の深いのが特徴《とくちよう》。
使僧 使いとして参上する僧。
指爪 指の爪《つめ》。
思草 杉原紙《すいはらがみ》の一種。
思想 @考え。A哲学《てつがく》用語※[#「○にイ」]判断・推理を経《へ》て生じた意識内容。※[#「○にロ」]統一ある判断体系。B人生・社会などに対する一定の見解。
指嗾 そそのかすこと。
紙窓 紙を張った窓。明障子《あかりしようじ》をはめた窓。
師僧 師匠《ししよう》である僧。
紫草 植物「紫《むらさき》」の慣用漢名。
詞宗 詩や文章の大家。
歯槽 上下|顎骨《がつこつ》の各歯の歯根をいれるための陥入部《かんにゆうぶ》。
詞藻 文章の修辞。美しいことば。ことばのあや。
※[#「走+多」]走 はしること。
詩宗 詩の大家。
詩草 詩の草稿《そうこう》。
詩僧 詩を作る僧侶《そうりよ》。詩の上手な僧。
詩想 詩を生み出そうとする感情や想念。詩にあらわされている思想。
試漕 調子を整えるために、何回か漕《こ》いでみること。
嘴爪 くちばしとつめ。
駛走 はやく走ること。
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「どうです、ドン松五郎さん、日本語にはずいぶん同音異義語があるでしょう。それにほとんどが漢語であるところが特徴的《とくちようてき》ですね。つまり、日本人は上古時代から猿真似《さるまね》が得意だったわけで、それが明治で最高潮に達するのですが、それはとにかく、同音異義語、似た音が多いというのが日本語の宿命なんですよ」
眼鏡犬のシローは滔々《とうとう》と日本語語路合わせ宿命論を展開する。
「したがって、山の手のお上品な奥様《おくさま》方やPTA婦人たちが、語路合わせに眉《まゆ》をしかめるのは間違《まちが》いですね。だいたい、どんなに語路合わせのお嫌《きら》いなお方でも、日本人である限り、日本語を使う限り、どこかで知らぬうちに語路合わせをしているものでしてね、たとえば毎年、年の暮《く》れになりますと、政府が次年度の予算案を決めますが、このとき、かならず予算額を語路合わせにした『暮《く》らしいい』とか『世直しいいな』とかいうキャッチフレーズを付けるのが慣例になっている。糞《くそ》真面目《まじめ》な大蔵省|官僚《かんりよう》が、日頃《ひごろ》は語路合わせなどに縁《えん》はない、というような顔をしているエリート官僚が、語路合わせを考え出すために首をひねっている図を想像するとなんだかおかしくなりますが、とにかく政治の中へも語路合わせが滲透《しんとう》しているのは右の事実をもってしてもたしかなことです。また上流のご婦人方も大切な電話番号を語路合わせでお憶《おぼ》えになる。行きつけの美容院の電話がたとえば『四一四―一一九四』だったら『よいよい良《い》い櫛《くし》』、なじみの西洋料理店が『二九一―一一二九』だったら『憎《にく》い、いい肉』だなんてね」
眼鏡犬のシローの語路合わせ日本人論はなかなか終わりそうにない。おれも平吉もキングもこれは長丁場《ながちようば》になりそうだと思い、地面の上に腹這《はらば》いになって楽な姿勢をとった。
「しかしなんといっても、この語路合わせを最大限に活用し利用しているのは日本の受験生です。ドン松五郎さん、あなたは円周率がいくらかご存知で……?」
「ああ。三・一四だろ?」
「だいたい当たっています。が正確には三・一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六四三三八三二七九……」
おれは正直いってこのシローという犬がすこしこわくなってきた。こいつはまるで記憶力《きおくりよく》のお化けだ。
「なにもそうびっくりなさることはない。種を明かせば、これも語路合わせで憶《おぼ》えているにすぎないのですから。ぼくはつまり円周率を『妻子|肥後《ひご》(の)国(へ)向かう、産後益なく身ある山谷(で)死ぬに労しさんざん闇《やみ》に泣く』という文章に直して頭の中に叩《たた》き込《こ》んでいるのです。コロンブスが新大陸を発見したのは西暦《せいれき》で何年か知っていますか?」
「えーと、あれはたしか、十五世紀の末だったな。つまり……」
「一四九二年です。これはコロンブスが『いよー(一四)、国(九二)が見えた!』と言ったと憶えます。では国連が成立したのは何年でしょう?」
「太平洋戦争の終結とほぼ時期が同じだから一九四……」
「一九四五年です。これは『国連は平和を守っていく仕事(一九四五)』と憶えるのですが、受験生は朝から晩まで右のような語路合わせばかりやっている。つまり彼等《かれら》は勉強をやっているんじゃない、語路合わせをやっているのです。そして語路合わせ術の上手な者が東大に入るわけ。そういう連中がやがて日本国を牛耳《ぎゆうじ》るのですから、考えてみればおそろしいことです。といっても先に申し上げたように、日本語を用いる限り語路合わせを避《さ》けることはできませんがねえ」
「しかし、受験勉強がどうして語路合わせ勉強になってしまうのだろうな」
キングは憂《うれ》い顔《がお》で言った。
「いくら日本語に語路合わせが|つきもの《ヽヽヽヽ》だといっても、これはなんとかしないと拙《まず》いだろうと思うが」
「いまの入学試験は暗記に重点がかたよりすぎています。もっと別の、たとえばものの考え方や判断力、そういった能力を試《ため》すような試験が行われぬうちは、この傾向《けいこう》はまだまだ続きます……。ぼくはちょっと長々とおしゃべりをしすぎたようですが……」
と、眼鏡犬のシローはきまり悪そうに右の前肢《まえあし》で首筋を掻《か》いた。
「……とにかくぼくは主人が受験生で語路合わせ勉強に精を出しているものですから、門前の小僧《こぞう》習わぬ経を読むというやつで、語路合わせ暗記術をマスターしています。きっとドン松五郎さんのお役に立てると思います。ぼくはテープレコーダーのかわりにもなります。同時に移動図書室、動く資料庫でもあります。また、ドン松五郎さんの日記の役目も果たせる自信があります。どうか存分に使ってやってください」
「うん」
おれはシローに走り寄り、親愛の情をこめて彼の臀部《しり》を舐《な》めてやった。
「頼《たの》むよ。きみをわたしは三十匹の犬の世直し隊の書記犬に任命することに決めたよ」
「光栄です」
シローもおれの臀部《しり》を舐めはじめた。
「きっと全力を尽《つ》くします」
「おお、まことに麗《うるわ》しい光景ではないか」
キングがしきりに点頭する。
「才能と才能が世の中を住みやすくするために協力し合う。世の中にこれほど結構なことはないだろう」
「せっかくのところへ水を差したくはありませんが、わたくしも或《あ》る才能を持っているのでして……」
このとき、一匹の犬が正面の墓石のうしろからぬうっと顔を突《つ》き出した。
「わたくしには世直し隊の会計係をやらせていただけませんか?」
そいつは変わった格好《かつこう》をしていた。まず、全体に白い。が、右の横っ腹に、縦《たて》に四個、そして横にも四個、都合十六個の斑点《はんてん》がある。斑点はいずれも直径二|糎《センチ》ぐらい。
「ほう、きみは清水家に落ち着くことになった十匹のうちの一匹だね?」
キングが訊《き》くと斑点《ぶち》犬はうなずいて、
「わたくし、錦糸町《きんしちよう》から参りましたソロバンです」
「ソロバン? 妙《みよう》な名だねえ」
「名は体を現す、と申しますが、わたくし、加減乗除の計算が大得意です。つまり、わたくしは生ける計算機なのでして」
ソロバンと名乗った斑点犬は、己《おの》が横腹の十六個の斑点を右の後肢でちょいと引っ掻いてみせた。
「みなさんは、いま人間の世界で大流行の、電子ソロバンや携帯用《けいたいよう》の電|池《ヽ》計算機をご存知《ぞんじ》だろうと思いますが、つまりわたくしは|それ《ヽヽ》なんですよ。右はしの第一列の斑点は上からFC@※[#「○に0」]、第二列がGDA◆、第三列がHEB=、そして第四列が÷×−+となっております。ものはためしです。どなたでもよろしいですから、斑点を押してみてください」
そこでおれは、FとCと+とDとGと=の斑点を押した。これを数式に直せば「74+58=?」だ。押し終わったとたん、ソロバンは叫んだ。
「百三十二!」
地面を計算紙がわりに、前肢で数式を書き検算してみるとたしかに答えは合っている。
(まことに天下は広い)
と、おれは心の中で嘆声《たんせい》を発した。
(計算犬などというものがいるとは思ってもいなかったなあ)
「いま、ドン松五郎さんは二|桁《けた》のたし算をわたくしにお命じになりましたが、これはちょっと簡単すぎました。なにしろわたくしは、十六桁の計算までは楽々とできますから。そのほか、円周率の置数はもちろん、開平計算、対数計算なんでもござれです」
斑点犬の口調には昂然《こうぜん》たるものがある。眼鏡犬のシローはそれがちょっと気に入らないらしく、
「図体《ずうたい》の小さいくせに大きな口を叩く犬だね、どうも。開平計算や対数計算のキイ、つまり斑点がないのにどうやってやるのさ」
と訊いた。斑点犬はにやりと笑って、
「その場合は口頭でお命じください。なお、つけ加えるまでもありませんが、メモリーつきですから、複雑な計算も答えを次々に記憶し、最終的に総合計を|ワン《ヽヽ》タッチで出してごらんに入れます。犬のソロバンですからワンタッチ。すべてワンタッチがわたくしのキャッチフレーズ、かつモットーでして……」
と、自信満々に尻尾《しつぽ》を振《ふ》る。眼鏡犬のシローは、やはり自分と似たような奇才《きさい》を持つ斑点犬に対抗心《たいこうしん》があるのだろう、それからしばらく、加法減法乗法除法、それから開平計算に対数計算と、斑点犬の横腹の斑点を押し続けた。
「ふーん、あんたもなかなかやるね」
シローはとうとう尻尾を後肢《あとあし》の間に垂れて、ということは降参して、斑点犬に言った。
「あんたと同じ程度の計算機を店で買うとすると、二、三万円はするかもしれないよ」
「二、三万とは情けない。せめて五、六万とおっしゃってくださいよ。いま市販《しはん》されている電子ソロバンの最高級品はイタリー製で六万ほどします。わたくし、それよりは高性能であると自負しておりますのでね」
「あんまりつけあがるんじゃないよ」
「あんたこそなんですか、さっきから偉《えら》そうな口ばかりきいて」
「なんだと」
と、ここで眼鏡犬と斑点犬が取っ組み合いをはじめた。斑点犬が押し合いへし合い噛《か》みつき合いの最中に、ときどき、「百六拾参万八千六百参拾壱!」とか「一億六千万とびとびとびとびとびとびの五!」とか叫び声をあげる。おそらくこれは揉《も》み合いをしているうちに、眼鏡犬が斑点犬の横腹の斑点を押してしまうせいだろう。斑点をおされたらどんな場合でも反射的に答えを出す、これが斑点犬の習性になっているのだ。なお、おれやキングや平吉が、この二匹の喧嘩《けんか》をとめなかったのには理由がある。犬にとっては喧嘩も一種の対話なのであって、仲裁は余計な差し出口であると、おれたちは思っているのだ。
「あの斑点犬も役に立ちそうだね」
ひとまず帰宅しようと思って、墓地を出かかったら、キングがおれの後を追ってきた。
「会計犬としては打ってつけじゃないか」
「わたしもそう思います。それにしても、才能のある犬がずいぶん集まってきましたね。ひょっとしたらほかにもまだ異才奇才が三十匹のなかに隠《かく》れているかもしれませんよ」
「同感だ。これもやはりきみの犬徳によるものだろうよ。ドン松五郎君、蹶起《けつき》の秋《とき》は近い。きみが三十の才能を駆使《くし》して、目的を完遂《かんすい》することを心から祈《いの》っておる」
「ありがとう、キング」
おれはキングに会釈《えしやく》をして墓地の外へ出た。下総《しもうさ》国分寺の鐘楼《しようろう》でごーんと日没《にちぼつ》を知らせる鐘《かね》の音がしはじめた。あたりは紫色のたそがれ、風がだいぶ涼《すず》しくなっている。
おれたちの言い分
公共テレビ番組への出演、その番組を観《み》た三十|匹《ぴき》の仲間の来援《らいえん》、そしてその三十匹の仮の宿の工面《くめん》と、いやはやいろんなことのあった数日だったわい、と考えながら、家の方へ歩いて行くと、門のところにおれの飼《か》い主《ぬし》である三文小説家先生の次女の和子君が周囲《まわり》をきょろきょろ見廻《みまわ》しながら立っているのが見えた。
(そういえば夕食の時間である。和子君はおれが夕食になっても戻《もど》ってこないので、心配して立っているのだな)
と、ぴんと来たから、おれは和子君に向かってワンと一声|吠《ほ》えてやった。
「どこをふらふら歩いていたの?」
和子君が駆《か》け寄ってきた。
「ずいぶん心配したわよ」
和子君はしゃがんでおれの首を抱《だ》いた。生まれて二カ月か三カ月かの仔犬《こいぬ》ならとにかく、一|歳《さい》犬にもなると、この様な可愛《かわい》がられかたをされるのは照《て》れくさい。が、考えてみればこれも身すぎ世すぎのためである。こっちは人間にじゃれられるのと引きかえに生計を立てているのだから辛抱《しんぼう》するより他に手はない。おれは黙《だま》ってじゃれつかれるままになっていた。
「ドン松五郎《まつごろう》ありがとう」
和子君がおれの首をやさしくぺたぺたと叩《たた》いた。今日は一日、自分のことで忙《いそが》しく、お礼をいわれるようなことをなにひとつした憶《おぼ》えがないので、はてなと思っておれは和子君の顔を見上げた。
「お父さんがわたしと昭子ねえさんに自転車を買ってくれたの。お父さんがドン松五郎にありがとうを言えって。ドン松五郎のテレビ出演料から自転車代を出したんだってよ」
なんと律義《りちぎ》なことではあるまいか。おれはすこし感動した。考えてみれば、よく出来た飼い主である。たいていの人間なら、犬の稼《かせ》いだものは飼い主のものと信じて疑わず、ソーセージ一本ハム一枚|御褒美《ごほうび》にくれやしない。(もっともハムやソーセージにはAF2という毒薬が入っているそうで、これは頂戴《ちようだい》するのも迷惑《めいわく》だが)それなのにわが主人はちゃんとわが子に、おれに対して礼を言うように仕向けている。こういうことはなかなか出来るものではない。
「自転車を見せてあげるわ。いらっしゃい」
和子君はおれを抱きあげて、門の中に入った。見ると犬舎の横に赤い自転車が立てかけてあった。上等の自転車かそれとも並出来《なみでき》か、そこまでは犬のおれには判別がつけがたい。
「ねえ、すばらしい自転車でしょう?」
和子君は自転車のベルを鳴らす。
「それに呼鈴の音だってすてきよ」
このとき、おれはふとあることに思い当たって胸を衝《つ》かれはっとなった。この和子君は生後半月のおれを拾ってくれた命の恩人である。またこの松沢家の人たちも同様である。こまかく探せばアラはいくらでも見つけることが出来るが、しかし、この家は犬にとって住みやすいところだった。人間属のやくざなる種族は一宿一飯の恩を返すのにたったひとつしかない自分の命をもってしたという。そこへ行くとおれなぞは数百宿数百飯の大恩義がこの家にはある。猫《ねこ》じゃないが、何度も化《ば》けて出て恩返しをしなければとてもおっつかない。だが、それなのに間もなくおれはこの家から出て行こうとしている。むろん、おれにはプードルのお銀やブルテリアの長太郎を救い出すため、という大義はあるが、はてしかし、この恩義と大義どちらが重いのか。
「ペダルだってとても軽いの」
和子君はペダルを逆方向に空廻ししてみせた。カラカラカラと自転車がまるで楽器かなんぞのように軽快に鳴った。おれはその音を聞きながら、忘恩の徒となっても友人を救出するという犬としての大義に生きるべきか、大義を放擲《ほうてき》して恩義のあるこの家の忠実な番犬として一生を終えるべきか考えた。
むろんどっちが楽かについては議論の余地はない。松沢家にとどまって番犬で終わる方が忘恩犬にならずにすむし、あてがい扶持《ぶち》で喰《く》って行けばいいのだから、気も楽、暮《く》らしの方も楽である。ましてや、総理府の諮問《しもん》機関である動物保護|審議会《しんぎかい》や、動物愛護協会あたりが「動物の飼育《しいく》保管基準」などという法律試案を法制化しようと|やっき《ヽヽヽ》になっているようで、これがもし国会を通ったら、おれたちの暮らしはますます楽、いってみれば大名暮らしということになるだろう。
しかし、動物愛護協会の「動物の飼育保管基準」なる試案は、このあいだちらっと目を通しただけだが、まるで面妖《めんよう》な代物《しろもの》である。たとえばこの試案はまず、動物は本来、自由に行動する習性を持っているゆえできるだけその自由を尊重したい、そのためには動物に、「自由な運動を行いうる広さを与《あた》え、常時つないだ動物は綱《つな》や鎖《くさり》を長く」と説くが、こういうのを、自分の頭の蠅《はえ》を追わず他人の頭の蠅を追う愚《おろ》か者《もの》、と称する。
犬や猫やその他の動物に「自由な運動を行いうる広さを与え」てくださるのは、結構毛だらけ猫灰だらけであるが、その前に自分の、人間の子どもたちに「自由な運動を行いうる広さ」をお与えになるべきであろう。自分たちの子どもに十分な遊び場も与えてやれぬくせに、どうして人間以外の動物に遊び場を与えることができるのかね。動物愛護協会のおばさま方だって犬猫より自分の子の方が可愛いにきまっている。責めているのではない、それが自然の情というものだといっているのである。なのに可愛い子どもを飛び越して犬猫に遊び場を与えようとするのは所詮《しよせん》は気休め、画《え》に描《か》いた餅《もち》である。人間全体が仕合わせにならぬうちは犬の仕合わせもあり得ない、という立場に立つおれにはとんだ噴飯《ふんぱん》ものである。
またこの試案によると、「三十六時間以上(反|すう《ヽヽ》動物の場合は四十八時間以上)エサや水を与えないで放置しておく」と「犯罪《はんざい》」だそうであるが、これなどもいい気なものだ。動物愛護協会のおばさま方は、あなた方の住んでいる国の食糧自給率がわずかの四割であることをご存知《ぞんじ》なのかしらん。つまり日本国は、食糧の六割を国外からの輸入に頼《たよ》っているのだ。しかも日本には一カ月半から二カ月程度しか食糧の備蓄《たくわえ》がない。石油と同様、食糧の輸入がぴたりととまってみなさい。日本国が二カ月もしないうちに飢餓地獄《きがじごく》となるのは目に見えている。そうなった場合、まっさきに人間様に喰《く》われてしまうのはおれたち犬である。現にある大学には「犬食《けんしよく》クラブ」なる同好会が誕生《たんじよう》し、食糧危機に備えて、犬のおいしいたべ方を研究しているという。
したがって、動物愛護協会の脳天気《のうてんき》なおじさんおばさんがたよ、ほんとうに動物が可愛いのだったら、まず自分たちが飢《う》えないような算段をしてほしい。食糧の自給率がまず八割、備蓄がすくなくとも一年になってから、おれたちのことを考えてくださっても決して遅くはないのだ。手前が二、三カ月先にどうなるのか、腹を空《す》かせなくてはならないのかその必要はないのか、それすらもわからぬくせに、動物の空腹の心配をするなんざ、笑止千万《しようしせんばん》である。まったく馬鹿《ばか》もここまでくると挨拶《あいさつ》に困る。
また、たとえば試案の中には「実験動物には下等動物をもってあてること」という妙《みよう》なことが書いてあるが、これなどは「実験」のなんたるかをまったく知らぬ言い草である。人間は高級なる動物である。生体実験が許されない以上、人間の医学や心理学の研究は動物を代用して行う他《ほか》はない。その場合、実験動物はなるべく人間に近いものである方が誤差はすくない。したがって人間はできるだけ高級な動物を実験に用いるのである。おれたちは犬だが、そして、常に人間のために実験台にのぼる運命にある動物であるが、これくらいの理屈《りくつ》はわかる。
だいたい、考えてみてもごらん、みみずを実験動物にしていったい何がわかるか。なめくじを実験台にして人工心臓の研究なぞできるかね。ゴキブリを材料にして大脳生理学の実験が可能だろうか。ゴキブリを材料にして実験が可能なのは金権候補者の心臓の毛の生え方ぐらいのものだろう。
「貴様は犬のくせにいやに人間の肩《かた》を持つじゃないか」と反論なさる方が、おいでになるかも知れない。また「この卑怯者《ひきようもの》め! 犬の仲間を裏切るつもりか!」と牙《きば》を剥《む》く犬の同胞《どうほう》諸犬もいるかもしれぬ。そこでそれに対する反論をふたつ用意した。
第一に、人間の医学が進歩することは(実験に供された動物諸君には満腔《まんこう》の謝意を表しつつ言うのだが)、おれたち犬にとってもひとつの進歩なのである。なぜならおれたち犬も高級な動物のうちのひとつであるので、人間の得た知恵をそのまま頂戴《ちようだい》できるし、実験に役立てることができるのだ。人間が糖尿病《とうにようびよう》に対する食餌療法《しよくじりようほう》を考え出せば、おれたち犬もその知恵でもって糖尿病に対処することが可能になる。また人間が条件反射反応を発見してはじめて犬も条件反射反応の存在に気づくのである。誤解されるのを覚悟《かくご》で言えば、おれたち犬は人間に研究を|やらせている《ヽヽヽヽヽヽ》のである。おれたちが鵜飼《うか》いで人間は鵜なのだ。
第二に、ここ百七十五万年以来(すなわち最古の人類であるオーストラロピテクスの出現以来)、この地球を制覇《せいは》しているのは人類である。平べったくいえばいまのところ人間がこの地球のご主人様である。弱肉強食はこの世のならい、人間が他の動物を実験材料として使うのは、力の関係からいっても仕方のないことなのだ。そのうち、地球の主人公は人間から他の動物にかわるだろう。そのときはその動物が今度は人間を実験に使うだけのはなし、別に人間様の肩を持っているわけではないのである。
と、まあこのような次第《しだい》で、動物愛護協会のおえら方というのは、あまり利口なおつむの持ち主でないことがわかるのだが、それはとにかく、おれは犬として犬の仲間と共に行くべきか、それとも恩義あるこの家にとどまるべきか、大いに悩《なや》んだ。
「あ、ドン松五郎、お帰り。今夜はごちそうがあるのよ」
家の中から長女の昭子君がとび出してきた。彼女《かのじよ》の持つ餌椀《えさわん》の中には、ビフテキの残りが載《の》っているようだった。松沢家の夕食はどうやらビフテキだったらしい。多分、おれの稼いだ出演料の何十分の一かが肉に化けたのであろう。
昭子君と和子君に見守られて餌椀のビフテキを食べながら、おれはまだ忘恩の徒となっても犬の仲間と共に行動すべきかすべきでないか考えていた。
が、このとき、例の動物愛護協会の出した「動物の飼育保管基準」がおれの、考えるためのヒントになった。すでにおれが指摘《してき》したようにこの「動物の飼育保管基準」はまことに珍妙《ちんみよう》な試案である。ではなぜ珍妙か。おそらくその珍妙さは、動物愛護協会のお歴々が人間でありながら、犬猫などの動物の立場に立って考えているところに原因があると愚考《ぐこう》せらるる。相手の立場に立って|もの《ヽヽ》を考えるのは美徳であるが、これは同じ種(人間ならば人間界、犬ならば犬界)の間に成り立つことであって、種を超《こ》えたところにこれを持ち込むのはナンセンスである。人間はあくまでも人間の幸福を追求すべきであって、万物の霊長《れいちよう》だから他の動物の幸福にまで責任を持たなくては、と思うのはかえってこっちには迷惑《めいわく》である。「医者よ、自らを癒《いや》せ」という諺《ことわざ》があるが、それにならっていえば「人間よ、まず自らの仕合わせを考えよ」である。動物愛護協会はまずその名称を「人間愛護協会」と変更《へんこう》すべきだ。そうすれば、おれがさんざん悪態《あくたい》を叩いたあの「動物の飼育保管基準」も自動的に「人間《ヽヽ》の飼育保管基準」となり、これはこれで立派に役に立つだろう。すなわち、「人間《ヽヽ》には自由な運動を行いうる広さを与える」(子どものための遊び場、大人のための公園や運動場などをどうすれば確保できるか)「人間に水や餌を与えずに放置してはならない」(来《きた》るべき世界的|規模《きぼ》の飢餓|状況《じようきよう》からどうやってのがれるか)「人間を実験動物にしてはいけない」「毒殺はまかりならぬ」(公害や毒物入りの食物を速《すみ》やかに排除《はいじよ》して行くにはどうすればいいのか)と読みかえればそのまま通用するのである。
――と、ここまで考えてきて、おれの気持ちはようやく決まった。
(人間はすぐれた生物である。だが人間はいまや自らの手で推《お》し進めた自然科学の発達に、自分が追いつけないでいるという悲喜劇を演じている。つまり、人間には進んだ自然科学を制御するだけの哲学《てつがく》を持っていないのである。だから発達した自然科学に人間はひきずりまわされているのだ。人間より劣等《れつとう》な動物である犬は、ここんところを深く考えてみなくてはならぬ。まず、おれたち犬はしっかりと犬の思想をつくりあげなくてはならない。犬が犬であるということはどういうことであるか、とことんまで突《つ》きとめてみなくてはならない。ペット・ブームとやらで、おれたち犬は、いま未曾有《みぞう》の過保護のなかでのうのうと生きている。ある犬はドッグレストランで一食数千円の食事をたいらげる。またある犬は美容院で身だしなみをととのえる。さらにある犬は傷口を自らの唾液《だえき》で舐《な》めて治すことなく人間の提供《ていきよう》してくれる薬品に頼《たよ》る。そしてまた別の犬は、天与《てんよ》の衣服である毛皮の上に服や帽子《ぼうし》を着たりかぶったりして得意になっているが、これらの現象は犬の側になんの哲学もないことを如実《によじつ》に物語っているのではないか。哲学がないから人間の誘《さそ》いのままに茶番を演じてしまうのである。たしかにいま必要なのは犬の哲学の確立だ。よろしい、おれは犬であるということがどういうことか探求するためにこれからは犬として生きることに専心してみよう)
おれは自分の決心に自分で興奮《こうふん》し、ここでわん! と吠《ほ》えたてた。
(おれたち犬は長い間人間から「忠実な」という形容詞つきで呼ばれてきた。がしかし、これはおれたちにとって名誉《めいよ》なことだったのだろうか)
おれはビフテキの入った餌椀のまわりを、熊《くま》のようにのっしのっしと歩きながら、さらに自分の考えを練り上げた。
(ときとして慎重《しんちよう》さとは臆病《おくびよう》に通じる。自信のなさが忍耐力《にんたいりよく》として称賛《しようさん》されることもある。おれたち犬の忠実さはひょっとしたら「人間の権威《けんい》に対する盲自的《もうもくてき》な服従」ではなかったのだろうか。すくなくともときどきそう考えて自己の生き方について検討《けんとう》することは必要だろう。おれはいま、恩を受けた主家を出奔《しゆつぽん》して犬の仲間と行動しようとしている。これは「忠実」なことではない。が、あくまでも人間にとってはだ。犬の眼《め》から眺《なが》め直せば、またべつの評価があるだろう)
ようやくおれの決心が形をなしてきたようである。
(……これからおれは犬として行動するが、それは、人間のペット・ブームによって、犬であることを忘れて、人間の玩具《おもちや》に成りさがっている愛玩《あいがん》犬の諸犬に、犬の生き方、本来のあり方を考えてもらうひとつの資料になるだろう)
ここまでおれの考えが進展したとき、和子君が叫《さけ》んだ。
「へんだわ。お姉さん、ドン松五郎の様子がすこしおかしいわよ」
「わたしもそう思う」
昭子君が妹に同意してうなずいた。
「目がきらきら光っている。まるで燃えているみたい。それにうううう唸《うな》ってばかりいる。どこか悪いのかな」
「ビフテキのせいよ」
「ビフテキがどうかしたの?」
「だってビフテキなんてドン松五郎には生まれてはじめての御馳走《ごちそう》でしょう。だから嬉《うれ》しくて嬉しくて、興奮《こうふん》しているのよ」
「そうかなあ」
昭子君は腕《うで》を組んで考え込《こ》んだ。
「そうとは思えないな」
「じゃ、お姉さんはどこがどうしたんだと思うの?」
「狂犬病《きようけんびよう》じゃないかしら?」
「狂犬病!?」
和子君も愕《おどろ》いたようであるが、おれも仰天《ぎようてん》した。おれたちにとって狂犬病ほど恐《おそ》ろしいものはない。ガンノイローゼというのが人間の世界にはあるそうだが、犬の世界には狂犬病ノイローゼがある。自分は狂犬病ではないかと怯《おび》えて自殺する犬がずいぶんいるのだ。
――などというと「へえ、犬が自殺するかねえ」と首を傾《かし》げられる方があるかもしれない。「自殺は人間の専売のはずだ。つまり、自殺するということが逆に人間の知性を証拠立《しようこだ》てているのだ」とおっしゃる方もおられるだろう。そこでひとこと付け加えておくが、自殺はなにも人間の専売特許ではないのである。
たとえば次のような実例がある。江戸川《えどがわ》べりのある家庭で犬を飼《か》った。その犬がよく吠《ほ》えるので飼い主が隣近所《となりきんじよ》に気がねして、遠いところへその犬を捨てた。やれやれと安心しているところへ犬が自分で帰ってきた。
「また戻《もど》ってきたか」
と、家の者は舌打ちをし、布団《ふとん》をかぶって知らぬ振《ふ》りをしていた。犬は自分が嫌《きら》われていることをはっきり知って、引き返し、江戸川へとびこんで溺《おぼ》れ死んだ。
このような例はほかにもたくさんあるが、とにかく、犬も自殺をするのである。
「ドン松五郎が狂犬病かどうか試す方法があるのよ」
言いながら昭子君は庭箒《にわぼうき》を逆に持っておれの目の前へいきなり突《つ》き出した。
「ドン松五郎がもし狂犬病にかかっているとしたら、躰《からだ》の自由がきかなくなっているはずよ。まっすぐに突き出した棒を避《さ》け切れない……」
と、また箒の柄《え》をおれめがけて突き出してくる。子どもの、こういう知ったかぶりにはまったく閉口である。狂犬病なんてそんなになまやさしいものではない。声が嗄《しわが》れ、たべものを呑《の》み込《こ》むことが出来なくなる。それに水を恐《おそ》れるようになる。だいたい犬の目つきが違《ちが》ってくる。もっと狂犬病が進めば犬は薄暗《うすぐら》いところや物の下にもぐり込むようになる。もっともこれは狂犬病に限らない。死期が近づくと、おれたち犬は光を嫌い、光を避《さ》けて生きるようになるのである。
おれは狂犬病の疑いをかけられるのは不本意だったので、昭子君の繰《く》り出す箒の柄を右へ左へと避けていたが、そのうちに不意に気分が悪くなってきた。
(どうしたのだろう?)
おれは庭の潜《くぐ》り戸《ど》から道路に出て、なぜ、気分が悪くなったか自己診断《じこしんだん》をはじめた。おれたち犬は、それぞれが自分の主治医である。自分で自分の健康を診断する能力が生まれながらに備《そなわ》っているのである。
@鼻鏡が濡《ぬ》れているか。濡れていれば正常である。A眼《め》が濁《にご》っていないか。濁っていればどこか悪い証拠である。B口の粘膜《ねんまく》は桃色《ももいろ》だろうか。桃色であれば健康である。C動作は聡《さと》く捷《はや》いか。のろのろしているようなら危険信号だ。D食欲があるか? なければ本調子ではない。E糞《ふん》の状態はよいか。よくおれたちは自分のひり出した糞を嗅《か》ぐ。このことで犬の品性は下劣《げれつ》である、と判定する人間がもしいれば、彼《かれ》は犬については無知である。おれたちは道楽や趣味《しゆみ》で糞を嗅いでいるのではない。己《おのれ》の糞を嗅ぐ犬はそのとき自分の衛生検査技師の役を果たしているのである。Fあくびを連発しないか。連発するようならどこか悪い。病気による脱力感《だつりよくかん》があくびを催《もよお》させることをおれたちは知っているのだ。Gしばしば咳込《せきこ》みはしないか。咳がひどく出るようであればフィラリアのおそれがある。Hふるえないか。犬の場合、ふるえは重大な疾患《しつかん》のある証拠である……
綿密な自己診断を行なったが、どこにも異常はない。しかし、いやな気分はますますつのる一方だった。そのうちに低い声でおれは唸り出した。やがて唸り声が吠え声にかわる。
と、そのときである。道路をこっちの方へ三つの人影《ひとかげ》がやってくるのが見えた。
(そうか!)
と、おれははじめて合点《がてん》がいった。
(この不安は、いまこっちへやってくる三つの影に対して生じたもののようだ。すなわち、あの三人はおれの敵だ!)
おれは電柱のかげに隠《かく》れて三人の様子を見守った。三人の内訳は男二人に女一人、いずれもジーパンをはいている。男は丸首のプリントシャツ、そしてコルクの分厚いサンダルをつっかけている。女も男と似た格好《かつこう》だ。
(……いずれも学生だな)
おれは三人をそう踏《ふ》んだ。三人はおれの主家の門の前まできて、ぴたりととまった。
「おッ、松沢|寓《ぐう》って表札が出ているぜ」
三人組の中で一番背の高いのが門柱に眼を近づけて言った。
「姐御《あねご》、どうします?」
姐御と呼ばれたのはむろん女である。門灯の光線を浴びながら女はうなずいて、
「間抜《まぬ》けたことを聞くもんじゃないわ」
と嗄《しわが》れ声で言った。
「せっかく下総《しもうさ》国分寺くんだりまで出てきたんじゃない。松沢|某《なにがし》って物書きの先生に逢《あ》わずに帰るって法はないわよ」
背高ノッポがへいとかしこまって門柱のボタンを押《お》した。女はジーパンの尻《しり》のポケットからくしゃくしゃになった煙草《たばこ》を引っぱり出して啣《くわ》える。傍《そば》からさっとマッチの火が出た。火を差し出したのは、もうひとりのずんぐりむっくりした男である。女はありがとうともいわずにその火で煙草をすいつける。門灯にほんのり浮《う》かび上がっている女の横顔を見るに、眉《まゆ》はゆったり、目は細からず、口は小さく、耳が長い。肉づきは程よく胴長《どうなが》で、西鶴《さいかく》の好色ものに登場する美女そっくり。なぜ犬のおれが西鶴を知っているのかといえば、これは近くの高校の国語の授業を窓の外から聴講《ちようこう》したせいだ。玄関《げんかん》の戸が細目に開いた。
「どなた?」
奥《おく》さんの声である。
「J大の学生です」
背高ノッポが、さる私立大学の名を言った。
「そして、松沢先生の大ファンです」
「おや、まあ」
奥さんが玄関の戸を押して出てきた。
「それはそれは。それで御用は?」
「先生にお目にかかるわけにはまいりません?」
女が煙草を指先でぱちんと弾《はじ》いて足許《あしもと》に捨てた。
「わたしたち東京からやってきたんです」
わざわざやってきたんだから逢ってくれるべきである、という押しつけがましさが女の口調にはあった。
「おい、上がってもらったらどうだ」
すぐ奥さんの背後から主人が顔をのぞかせた。自分の小説の愛読者が来たと知って、しかもそれが西鶴ごのみの美女と知って、わが主人は坐《すわ》っていられなくなったのだろう。
「さあ、汚《きたな》いところだが上がってくれたまえ」
主人は玄関の戸を目一杯に大きく押し開いておいでおいでをした。
「あなた、お仕事の方は大丈夫《だいじようぶ》ですか。明日、締《し》め切りのエッセイが二本もあるはずですよ」
奥さんが釘《くぎ》をさす。
「いいんだ、いいんだ。エッセイの二本や三本、またたく間さ。なにしろおれは一晩で七十枚という記録を樹《た》てたことがある」
主人はさされた釘を抜き返す。
「さあ、早くおあがんなさい」
「失礼します」
三人組はぞろぞろと玄関の内部《なか》に姿を消した。が、それにしても怪《あや》しい大学生どもである。仲間うちではたしか、わが主人のことを、
「松沢|某《なにがし》って物書き」
と呼んでいたはずなのに、奥さんの前では、
「松沢先生の大ファンです」
などという嬉《うれ》しがらせをいう。まるで面従腹背を絵に描《か》いたようではないか。それに、おれがさっきから抱《いだ》いている、三人に対する不安感や恐怖感《きようふかん》、これはいったいなにゆえであろうか。おれは庭を横切ってそっとわが主人の仕事部屋にしのび寄った。
「先生は犬をどうお思いですか?」
仕事部屋の窓の下に忍《しの》び寄ったおれが最初に耳にした言葉は右の如《ごと》きものであった。女の嗄れ声であるから、声の主は疑いもなく例の「姐御」だろう。おれは窓の下の木箱《きばこ》にとび乗って部屋の中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「そんなことをいきなり聞かれても困るねえ」
先生は手に持った水割り入りのコップを軽く横に振《ふ》って、内部《なか》の氷をかちゃつかせながら苦笑している。
「先生は愛犬家ですか?」
姐御は質問の矢を、文字通り矢継早《やつぎば》やに射た。
「このあいだのテレビを拝見しますと、先生は愛犬家のように見受けられますけれど……」
「愛犬家ではないだろうな。なにしろわたしは自分のところの飼い犬を一度も散歩に連れて行ったことがないぐらいだ。たまたまうちの犬が人間の文字を解すると思われたので、一緒《いつしよ》にテレビに出たまでだよ」
「先生を恨《うら》みますわ」
姐御が先生を睨《にら》んだ。
「先生のテレビ出演はわたしたちのクラブに大打撃《だいだげき》を与えたんですのよ。昨日までわたしたちのクラブには二十三人の部員がおりました。それが先生のおかげで、今日、二十人の部員が退部届を出してきたんですよ。わたしたちのクラブはこの三人だけになってしまいました」
「どうもきみたちの話はよくわからん。なぜわたしはきみたちに恨まれなくてはならないのだね? だいたい、きみたちはクラブ、クラブというがなんというクラブに所属しているのだい?」
「食用犬愛好クラブです」
姐御の右横で煙草をふかしていた背高ノッポが言った。
「週一回、犬の肉を喰《く》うのが主な活動です」
おれの足の下の木箱ががたがた揺《ゆ》れだした。地震《じしん》ではない。食用犬愛好クラブと聞いて、おれが震《ふる》えているのである。
「ほかに月に一度|野良犬捕獲《のらいぬほかく》の実習をやっています」
姐御の左隣でガムをくちゃくちゃ噛《か》んでいたずんぐりむっくりの学生が言った。
「むろん、野犬狩《やけんが》りのプロフェッショナルを特別講師に招いて、です」
「……野犬狩りのプロフェッショナル?」
「つまり、保健所の狂犬病予防技術員のおじさんのことです」
姐御は青いズック地のショルダー・バッグから四角に畳《たた》んだ西洋紙を一枚取り出して、それをわが主人の前に勢いよく置いた。
「これ、わたしたち、食用犬愛好クラブの会則ですの。食用犬愛好クラブ設立の趣旨《しゆし》という個所をちょっと読んでいただけません? そうしたら、わたしたちのことがすこしはおわかりになりますわ」
「わたしの小説の愛読者だというから、忙《いそが》しいのをやりくりして会ってみればなんてことだ」
主人はぶつぶつとぼやきながら、姐御から受け取った西洋紙を膝《ひざ》の上にひろげた。
「わたしの小説は全然関係がないじゃないか。どうせおしまいには『わたくしたちのクラブの活動目的に御賛同いただけるのでしたら、カンパをお願いいたします』なんて、金をせびって行くつもりなんだろう。まったくちかごろの学生ときたら、ハイエナ同然だ」
「ぶつぶつおっしゃっていないで早くお読みになってください」
姐御がぴしゃりと言った。
「はなしはすべてそれからです」
「それでは食用犬愛好クラブの設立趣旨とやらをつつしんで拝読するか」
主人はすこしお道化《どけ》て、ひろげた西洋紙を両手で支えてひろげると、小学生が国語教科書を読むときのように、目よりも高くさし掲《あ》げた。おれは全身を耳にして主人の会則を読む声を聞いたが、西洋紙に謄写刷《とうしやず》りされたその会則の大要は次のようなものだった。
食用犬愛好クラブ会則
第一章 総則
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第一条 この会は「食用犬愛好クラブ」という。
第二条 この会は事務局を東京都×××区△△△町七、J大学学生会館内に置く。
第三条 この会の正会員になるにはJ大学の学生でなければならない。ただし維持《いじ》会員には人間であればだれでもなれる。
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第二章 設立の趣旨及び事業
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第四条 この会は、近く襲来《しゆうらい》を噂《うわさ》される世界的|規模《きぼ》の食糧危機に備え、もっとも手近にうろちょろしている犬を食糧として見直し、その調理法を開拓し、犬食習慣の普及《ふきゆう》につとめ、もって日本の味覚文化の向上に寄与《きよ》することを目的として設立された。最近の犬どもの増上慢《ぞうじようまん》ぶりは目に余るものがある。町を歩けばドッグフード専門店あり、犬の美容院あり、犬の病院あり、住宅地を行けば、人間は建売のボロ家に住み、犬は美麗《びれい》なる犬舎に住むなど、おそらく徳川期の犬公方《いぬくぼう》時代よりも、いま犬は不当に優遇《ゆうぐう》されているといってよい。加えて動物愛護協会などのわからんちんのお偉方《えらがた》の倒立《とうりつ》した愛護キャンペーンはこの傾向《けいこう》に一層|拍車《はくしや》をかけているが、これらの風潮はヒューマニズム(人間主義)に逆行するものであり、人間が人間であるためには、かかる悪風は一掃《いつそう》されなければならないだろう。すなわち犬の肉を噛《か》みしめることによって同時に人間であることを噛みしめる、そこにもまた本会設立の目的があるのである。
第五条 この会は前条の設立趣旨を達成するために、左の事業を行う。
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一、野犬の捕獲術の研究、およびその成果の発表。
二、野犬を食肉にするまでの処理法の研究、およびその成果の発表。
三、犬肉料理の普及。
四、優秀《ゆうしゆう》な野犬捕獲者の育成、ならびに助成、そしてその表彰《ひようしよう》。
五、飼い犬を捕獲可能にするための法制の改革。
六、関係団体との緊密《きんみつ》な連絡《れんらく》、および協力。
七、その他前条の設立趣旨を達成するに必要な事業。
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「そのへんまでで結構ですよ、先生」
と、姐御が主人の手から西洋紙を取り上げた。
「四日前まで、この会則に賛同してくれていた連中が、あのテレビ、ほら、先生と飼《か》い犬のドン松五郎がお出になったやつ、あれを見てぞろぞろと集団退会したんです」
「なぜかね?」
「ドン松五郎のように、すべての犬が人間のコトバを解し、五十音表を使って人間と会話が可能ならば、犬は人間にもっとも近い動物である、そんな動物を、いくら肉がおいしいといっても喰《く》うことはできない、退部した連中はみんなそういうんです」
姐御はここで口惜《くや》しそうに皓《しろ》い前歯で唇《くちびる》を噛んだ。
「つまり、先生が仕立てあげられた人間のコトバを解する犬なんていう眉唾《まゆつば》|もの《ヽヽ》のおかげで、わたしたちのクラブはいま危急存亡の淵《ふち》に立たせられたわけですわ」
J大学の食用犬愛好クラブのリーダーである姐御の舌鋒《ぜつぽう》は前に倍して鋭《するど》くなった。
「さらに大きな立場から見ると、先生の軽はずみなテレビ出演はわたしたちのクラブを追いつめたばかりでなく、犬をこれまでのように愛玩物《あいがんぶつ》としてでなく食用として考える絶好の機会を日本人から奪《うば》ってしまったんですよ。日本人が犬を食べることを学ぶことが出来れば、やがてやってくる食糧危機も多分|回避《かいひ》できるはずでした。なにしろ日本には犬が多いのですから。でも、先生が『犬はコトバを解するがゆえに、人間がこれまで考えていたよりずっと高等な動物である』とテレビでおっしゃったばかりに、その犬を喰うなんてとんでもない、という世論がやがて強力に出てくるでしょう。もし、何年か後に食糧危機がやってきて餓死《がし》する人間が出た場合、先生はその死に対して責任を……」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
このまま姐御に言わせておくと、自分がとんでもない大悪人に仕立てあげられてしまうと思ったのだろう、主人が彼女の舌鋒を遮《さえぎ》った。
「きみたちの言うことを聞いていると、わたしはまるで世紀の大詐欺師《だいさぎし》か大量殺人事件の凶悪犯人《きようあくはんにん》みたいだが、それは買いかぶりが過ぎるよ。それにうちの飼い犬がわたしのコトバを解し、五十音表を仲介《ちゆうかい》にしてわたしの質問に答えたのも事実なんだ」
「そんなこと信じません」
姐御は激《はげ》しく首を横に振《ふ》った。それに合わせて彼女の両脇《りようわき》に坐《すわ》っていた背高ノッポとずんぐりむっくりの青年も姐御と同じ仕草をした。
「犬にそんなことが出来るはずはないわ」
「とにかくうちの飼い犬は人間のコトバを解する。これは厳《げん》たる事実だ。それに諸君、動物は諸君が考えているよりはるかに高い各種の能力を持っている。カタツムリやモノアラガイなどの腹足類は外見は全く同一の澱粉《でんぷん》の粒《つぶ》と砂粒とを正確、かつ敏感《びんかん》に区別する。ツグミや駒鳥《こまどり》はバラ油とカーネーション油とを撰《え》りわける。コウモリは人間の文明が持つレーダーよりもすぐれた超音波反響《ちようおんぱはんきよう》調査|装置《そうち》を持っている。バッタやノミは温度の変化に対して水銀温度計より正確な反応を行う。ハエの目玉には望遠レンズに相当する機構がついている。ほとんどの魚は人間と同様に眼《め》以外でも光を感じることができる。ワニは三百六十度をすべて見わたすことのできるすぐれた魚眼レンズを持っている。ハトの視野だって三百度ある。人間には方向|音痴《おんち》が多いが、ハチ、アリ、ツバメ、イヌ、ネコ、ウマには信じられないほど高度な帰巣《きそう》能力がある。……とまあ、こんなわけですべての動物が人間より能力的に下等だと考えるのは間違《まちが》っているよ。犬に人間のコトバがわかるかどうかについて考えるときも、右のことを頭のどこかに入れておかなくてはならない。ひょっとしたら、犬の方が人間よりもコトバを使うことに長じているかもしれないのだからね」
「ばかばかしい」
姐御は先生をいかにも軽蔑《けいべつ》したような目で見た。
「そんなことをもし本気でお考えなら、先生はどこかの病院の精神科へいらっしゃるべきです」
「失敬だぞ、きみたちは!」
主人はとうとう癇癪玉《かんしやくだま》を破裂《はれつ》させ、手に持ったウイスキーグラスを机の上に勢いよく置いた。
「帰ってくれたまえ」
「わたしたちは夜道をはるばる下総《しもうさ》の国分寺くんだりまでやってきたんです。いきなり『帰れ!』はないでしょう?」
姐御が女子大学生らしからぬ抑揚《よくよう》で言った。仁侠《にんきよう》映画の女やくざそっくりである。右の台詞《せりふ》を聞いたとたん、この娘《むすめ》は仁侠映画のファンではあるまいか、とおれは思った。
「だいたいなんです。自分はウイスキーを舐《な》め、客にはお茶の一杯《いつぱい》も出すわけじゃない。これじゃあんまり失礼というものですぜ」
と、背高ノッポが姐御の援護射撃《えんごしやげき》をした。こっちの口調もやくざっぽい。
「犬の方が人間よりも高等だってやがら。笑わせるんじゃねえや。それでよく作家がつとまりますねえ」
と、つづいてずんぐりむっくりの学生が毒づいた。
「犬は人間よりも高等だとだれも断言はしておらん!」
主人は机をどんどんと叩《たた》いた。
「犬には人間の言葉が全くわからないときめつけ、これと違《ちが》う発言をする者を異端扱《いたんあつか》いするのはよせ、と言っているだけだ。ああ、不愉快《ふゆかい》だ。帰れ帰れ」
「そりゃあ帰りますよ。しかし先生、これだけは憶《おぼ》えておいてくださいね。先生がなんとおっしゃろうと、わたしたちは犬を食べることはやめませんよ」
「勝手にしたまえ」
「そのうちにお宅のドン松五郎とかいう小賢《こざか》しい犬をタータル・ステーキにしてきっとわたしたちの胃袋《いぶくろ》の中に納めてみせますからね」
おれはぞーっとなって思わず身震《みぶる》いをした。身震いが激《はげ》しすぎて危《あやう》く木箱《きばこ》から落っこちそうになった。尻尾《しつぽ》を左右に振《ふ》ってようやく平衡《へいこう》をとり戻《もど》し、ふたたび聞き耳を立てる。
「タータル・ステーキだと? ふん、きみたちは飼い犬を捕《とら》えて喰ったりしたらどうなるか知っているのかね」
「器物|損壊罪《そんかいざい》、あるいは窃盗罪《せつとうざい》でしょう?」
「……ふうん、知っていたのか」
「とっくに研究ずみです。それぐらいは覚悟《かくご》していますよ」
「へん、確信犯を気取っていやがる」
「でも先生、その点でしたらご心配なく。飼い主もそれとは知らぬうちに飼い犬を捕える方法はすでにいくつも開発中ですから」
主人はすっかり肩《かた》すかしを喰った感じで膨《ふく》れっ面《つら》をして黙《だま》り込《こ》んだ。
「それでは帰ろうか」
姐御が立って仕事部屋から玄関《げんかん》へ歩き出した。「お邪魔《じやま》しましたねえ」「手厚いおもてなし、ありがとうござんした」と、背高ノッポとずんぐりむっくりが皮肉たっぷりに言い捨て姐御のあとを追う。
「おや、もうお帰り?」
奥さんが玄関でズック靴《ぐつ》やサンダルをはいている三人組に台所から声をかけた。
「せっかくお茶を入れたのに……」
三人組はそれには答えず外へ出た。おれは怖《こわ》いものみたさが八分に好奇心《こうきしん》が二分で、庭を横切りこっそり物陰《ものかげ》から三人組の様子を窺《うかが》った。
「おや、近くに犬がいるよ」
さすがは食用犬愛好クラブのリーダー、姐御はよく鼻がきくようである。
「生後一年ぐらいかしら。喰《た》べていちばんおいしいときだよ」
姐御は鼻ばかりでなく猫《ねこ》のように夜目もきくのだろう、躰《からだ》を捩《ねじ》っておれの方をじろりと睨《にら》みつけた。
姐御にじろりと見られた途端《とたん》、おれは蛇《へび》に睨まれた蛙《かえる》の心境を理解した。それまでおれは、蛙ってなんて馬鹿《ばか》なやつだろうと軽蔑《けいべつ》していた。相手が青大将であろうがなんであろうが、睨まれたら睨み返せばいい、睨めっこに負けたら逃《に》げればいい、そう考えていたのである。だが、それは机上《きじよう》の空論で、実際に厭《いや》なやつに睨まれるとそうはいかない。金縛《かなしば》りの術にかけられたような塩梅《あんばい》で、身動きひとつできない。
「……どうやら、あんたが|あの《ヽヽ》ドン松五郎君らしいねえ」
姐御がぞっとするような冷たい声で言った。
「可愛《かわい》がってあげるよ。さあついておいで」
姐御は右手をゆっくりとおれの方へのばし、静かにおいでおいでをしはじめた。秋風になびくすすきの如《ごと》く、ゆらゆら揺《ゆ》れる彼女《かのじよ》の右手を見ているうちに、おれの瞼《まぶた》が重くなってきた。そして「もうどうなってもいいや」という脱力感《だつりよくかん》や無力感がじわじわと全身にひろがって行く。
(さっき、姐御が先生に「飼い主もそれとは知らぬうちに飼い犬を捕える方法がいくつも開発中である」といっていたが、そのひとつがこれだったのか!)
おれは朦朧《もうろう》たる頭でそう考えた。
(……これは催眠術《さいみんじゆつ》利用の捕獲法《ほかくほう》らしいぞ)
このとき姐御はにやっと笑った。
「ドン松五郎、わたしの後をどこまでもついてらっしゃい。それがあんたの運命なのよ」
前後に揺れていた彼女の右手が、おれのほうへのびはじめた。
(逃げなくちゃ。眉間《みけん》をハンマーで殴《なぐ》られてお陀仏《だぶつ》、タータル・ステーキにされてしまうぞ)
心のどこかでもう一|匹《ぴき》のおれがそう叫《さけ》んでいる。がしかし、やはり身動きがままならぬ。
「お利口さんだねえ、ドン松五郎。運命に従順だってことはとてもよいことなのよ。昭和四十九年の×月×日にあんたはわたしと下総国分寺で出逢《であ》い、そして、わたしの言う通りにするってことは、あらかじめ宿命としてきまっていたことなの。さあ、動かないで」
運命論や宿命論など糞《くそ》くらえ。すべてが宿命や運命できまっているとしたら、努力や向上心はどうなってしまうのだ。世の中をすこしでもよくしようと考え、それを実行する義人や義犬たちは木偶《でく》の坊《ぼう》なのか。運命論にだまされてはならない……
「ほっほっほ」
姐御はおれの方へまた一歩足を進めてきた。
「ひょっとしたらおまえは『運命論や宿命論に欺《だま》されてなるものか』と思っているかもしれない。でも、そう反対することすらそれ自体が宿命的に決まっているのだよ。さあ、おまえはもう完全にわたしの囚《とら》われ人《びと》なんだ。こんどはわたしのあとについておいで」
罠《わな》だ。それは論理の罠だ。おれは前肢《まえあし》を突《つ》っ張《ぱ》って前へは行くまいとした。
「悪あがきはおよし、ドン松五郎。さあ、ついてくるのよ」
姐御はおれをその大きな目ん玉で睨んだまま、後退《あとしざ》りしつつ門から出た。おれの突っ張った前肢は姐御の声を聞いたとたんぐんにゃりとなった。つまり、おれは彼女に誘《さそ》われるままに前へ歩き出したのである。
(もうだめだ……。なるようにしかならないのだ)
おれはそう思いながら足|速《ば》やになり、それまで姐御との間にあった三|米《メートル》ほどの間隔《かんかく》を二米にちぢめた。
「よしよし、いい子いい子」
姐御がすでに伸《のば》していた右手に添《そ》えて左手もおれの方へさしのべた。
「さあ、いらっしゃい」
おれは誘われるままに彼女の前へ寄っていった。催眠術は暗示にかかりやすいものに有効であることはおれも知っている。したがって、自分で自分の被暗示の心理状態をぶちこわすことができれば、むざむざ捕《つか》まらずにすむわけである。だがその方法が咄嗟《とつさ》には見つからないのだ。
(おれの一生も今夜でチョンかな)
と思いながら、おれが姐御の五十|糎《センチ》前まで引き寄せられたとき突発事《とつぱつじ》が起こった。彼女はおれから自分の左腕《ひだりうで》に眼を移し、そのあたりを右手でぴしゃりと打ったのである。
「どうしたんです?」
背高ノッポが姐御に訊《き》いた。
「蚊《か》に喰《く》われちゃったのよ」
姐御は右の掌《てのひら》を門灯の下にかざした。
「掌が真っ赤に染まっているわ。この蚊、ずいぶんわたしの血を吸ったみたい。憎《にく》い蚊」
「おれも姐御のどこかに喰いついてみたいや」
ずんぐりむっくりが羨《うらや》ましそうに呟《つぶや》いた。彼《かれ》は姐御に惚《ほ》れているのだろう。
「あんたなんてわたしの趣味《しゆみ》じゃないわ」
姐御は右の掌をジーパンの腰《こし》にこすりつけた。
「日本脳炎《にほんのうえん》の予防注射をすませましたか?」
背高ノッポが姐御に訊《き》いた。
「まだだわ」
「去年はやりましたか?」
「うん。去年はやったわ」
「なら大丈夫《だいじようぶ》だ。日本脳炎の予防注射は二年は有効ですからね」
「よかった」
むろん、この間におれは逃げ出していた。おれが恐《おそ》ろしかったのは姐御の視線である。彼女の眼でおれは金縛りになっていたのだ。彼女がおれから目を離《はな》せばもうどうってことはない。すたすた逃げ出して物陰《ものかげ》に隠《かく》れたというわけである。その意味でおれは彼女の左腕を刺《さ》した蚊に感謝しなければならぬ。おれは命の恩人である蚊の冥福《めいふく》を念じて、物陰で一秒間の黙祷《もくとう》をした。
「……あら、ドン松五郎がいないわよ」
姐御がきょろきょろしながら夜の闇《やみ》の中を眺《なが》めている。
「もうすこしでとっ捕《つか》まえることができたのに」
姐御はコルク底の踵《かかと》の厚いサンダルでこんこんと地面を蹴《け》った。
「逃げたんだよ、姐御」
背高ノッポが彼女の肩に手をかけて慰《なぐさ》めた。
「犬はどこにだっているよ。気を落としちゃいけないね」
「やかましい!」
姐御は自分の肩に載《の》っている背高ノッポの手を激《はげ》しく払《はら》い落とした。
「あんたたちが、あたしのどこかに喰いついてみたいだの、日本脳炎の予防注射がどうしただのと、下らないことを横から言い出すからいけないんだよ。それにあの犬は……」
「……あの犬がどうかしたんですか?」
「うん、なんだか気になるのさ。わたしたちの宿命的な好敵手って予感がする。だから、今夜のうちに片を付けておきたかったんだ」
「好敵手ってどういうことです?」
背高ノッポが姐御にたずねた。
「それほどの犬じゃないとおれは思うけどなあ。たかが雑種の犬コロじゃないか」
「あんたこれまで犬を何匹捕まえた?」
「十五、六匹かな」
「わたしは百五十匹。百匹を超《こ》えるとある種の勘《かん》が働くのよ」
「そんなもんですかね」
「たとえば宮本《みやもと》武蔵《むさし》と佐々木小次郎《ささきこじろう》。はじめてすれちがったとき『おっ、こいつは』『やっ、あいつは』とおたがいの間にエレキが働く。『いつかこいつと立ち合うことになるだろう』『そのうちやつと命のやりとりをすることになりそうだ』と、たがいにぴんとくるものがある。それと同じことで、わたし、あの犬を見た瞬間《しゆんかん》、『むむむ、出来るゥ』と思ったわけ」
「まさか」
背高ノッポとずんぐりむっくりの二人が笑った。
「過大評価がすぎるよ、姐御」
「そうかも知れない。でもひょっとしたらそうではないかも知れない。わたしの勘が当たっているかも……」
「へんだぜ、すこし。今夜の姐御はどこかへんだなあ」
「とにかく、この犬ただものではない、と思ったのよ。放っておくといまにわたしたち食用犬愛好クラブの命取りになりかねない。いまのうちに片を付けなければ……、そういう気がしたのよ」
姐御はここでひとつ溜息《ためいき》をつき、ぶらぶらと畠の中の一本道のほうへ歩きだした。背高ノッポとずんぐりむっくりは肩をすくめてから、そのあとに続いた。
おれは三人組の背中が闇に溶《と》けて見えなくなるまで見送った。そして、
「あの女子学生、なかなかやる」
と考えていた。
というのは、じつはおれも姐御と同じ予感を覚えていたからである。
(彼女とはもう一度|逢《あ》う機会がある)
こういう声がどこかでしていたのだ。
(それも彼女と命のやりとりをすることになるかもしれない)
星がひとつ中天から北の空へ尾をひいて流れた。山中鹿之助《やまなかしかのすけ》ではないが「われに艱難辛苦《かんなんしんく》を与《あた》えたまえ」と星の消えたあたりに向かって、おれは祈《いの》った。そして欲が深いようだが、「その艱難辛苦を乗り越える力をも与えたまえ」とつけ加え、犬舎にもぐり込んだ。
主家の電話がつぎつぎに鳴った。
「犬についてのエッセイを五枚? うむ、いいでしょう。承知しました」
「犬を主人公にした童話を書いてくれとおっしゃるのですか、なるほど。童話はかねがね書きたいと思っておりました。百五十枚ですね。今年中になんとかします」
「ほう、五巻本の愛犬講座をお出しになる? それで監修者のひとりになってくれ、といわれるのですね? わかりました。たしかに引き受けましたよ」
おれのテレビ出演が呼び水となって、主人に仕事が殺到《さつとう》しているようである。これでいささかなりとも主家に恩返しができた、とおれは思い、思っているうちに眠《ねむ》ってしまった。
おれたちの出発
「……ドン松五郎《まつごろう》、起きるんだ」
どこかでだれかがおれの名前を呼んでいる。
「朝の四時半だぜ」
どうやらそれは柴犬《しばいぬ》の平吉の声のようだった。おれは声のする方へ臀部《しり》を向け、半ば夢《ゆめ》の中で、
「ものすごく眠《ねむ》い。あと十五分だけおれを放っておいてくださいよ」
と頼《たの》んだ。
「それどころじゃないぜ、ドン松五郎」
「……というと、むにゃむにゃ、なにか起こったの?」
おれは平吉の方へ向き直って欠伸《あくび》をし、ついでに前肢《まえあし》を思いっ切り前へ投げだして、腰《こし》を後方に引き伸《の》びをした。
「いったいどうしたんです?」
「渋谷《しぶや》からやってきたハチ公という名前の犬がいたのを憶《おぼ》えているかね」
平吉が訊《き》いてきた。
「ほら、プードルのお銀さんとブルテリアの長太郎君の消息を知っているとかいう犬がいたろうが」
「ああ、いましたね。下総《しもうさ》の国分寺に辿《たど》り着いた途端《とたん》、日射病でひっくりかえってしまった犬でしょう」
「うん。そのハチ公が正気に戻《もど》ったんだ。やつはこれからキングさんにお銀さんたちの消息を報告するそうだ。おれさまはたったいま、キングさんの家へ朝の御挨拶《ごあいさつ》にいってきたが、キングさんはじめ大勢の諸犬は、渋谷のハチ公の周囲を取り囲んで、やつが喋《しやべ》りはじめるのを固唾《かたず》をのんで待っている。ハチ公のやつ、正気づいたが、まだよく口がきけないのだ。で、キングさんがおれさまに命じなさったのさ、ドン松五郎を連れておいで、とね」
「よし、わかった!」
おれは犬舎から飛び出した。もう完全に眼《め》が覚めている。おれは高血圧性だから、どっちかというと寝起《ねお》きはいい方なのだ。深呼吸を試みると、大気は涼《すず》しく、太陽はまだほとんど真横にある。
「行きましょう、平吉さん。犬舎の前でなにをぼやーっと突《つ》っ立っているんです?」
おれがせっつくと平吉は、
「おいおい、おれさまはまだキングさんの伝言を全部喋り終わっちゃいないんだぜ」
と、苦笑した。
「キングさんはこうもおっしゃったんだ。『ハチ公がお銀さんたちの消息、それに居所《いどころ》を告げたらすぐに行動を開始するがよかろう』とね」
「……すぐに行動を開始しろ、だって?」
「そうさ。キングさんはなおも続けて曰《いわ》く。『ドン松五郎君に、主家の人たちとそれとなく別れを告げてくるように言いなさい』……」
「……そうか。ひょっとしたら、おれは二度とここへ戻ってこれないかも知れないんだねえ」
「うむ、事情によっては生還《せいかん》は期し難《がた》い、ってわけだ。たとえばお銀さんたちが野犬センターに閉じ込《こ》められていたとしたら、これは生命《いのち》がけさ。じつはおれさまもいま、ご主人にお別れをいってきたばかりのところなのだ」
「で、ご主人は平吉さんの別れの挨拶にどういう反応をしました?」
「グーッ、だとさ」
「グーッ?」
「主人夫婦は枕《まくら》を並べて白河夜船《しらかわよふね》、いびきをあげておやすみなさっていたんだよ」
「あ、なるほど」
軽くうなずいて、おれは庭へ出た。
庭に出て主家をしみじみと仰《あお》ぎ見る。安普請《やすぶしん》の建売住宅も、もう二度と帰ってこれないかも知れぬと思って眺《なが》めれば、金殿玉楼《きんでんぎよくろう》のようである。おれはふと、
(お銀さんたちの救出なんかもうどうでもいいや。このまま主家に留《とど》まって、忠実な番犬として一生を終える方がずっと仕合わせではあるまいか)
と、考えた。が、すぐ、
(いやいや。それはいまさら出来ない相談だ)
思い直して、仕事部屋の方へ歩いていった。仕事部屋の戸が開いていた。電燈《でんとう》も点《つ》いている。わが主人である三文小説家の松沢先生は庭に背を向け、文机《ふづくえ》に突《つ》っ伏《ぷ》して仮寝《かりね》をしていた。文机の上のスタンドの灯《ひ》が主人の頭部を照らしていた。その光を受けて主人の頭の天辺《てつぺん》が鈍《にぶ》く光っていた。光るのはそのあたりの毛が薄《うす》くなっているせいである。
(……ご主人は仕事でまた徹夜《てつや》をなさったらしい。ご苦労さまなことだ)
おれはしばらくじっと主人の背中を眺めていた。癇癪《かんしやく》持ちだったがいい主人だった。また主人はおれの師でもあった。主人の蔵書のおかげでおれはずいぶん勉強することができた。また、主人のところへやってくる編集者たちの話から、おれは世の中についてたくさんの事柄《ことがら》を学ぶことができた。主人を師といった意味はつまりそういうことなのである。
主人の腰のところに毛布《もうふ》が落ちていた。それは、風邪《かぜ》を引かぬようにと、奥《おく》さんが主人の肩《かた》にそっとかけた毛布なのだろう。が、いつの間にかずり落ちてしまったのだ。
はくしょい!
主人が突然《とつぜん》くしゃみをひとつ発した。そしてまた机の上に顔を伏せる。
(……土足で失礼いたします)
おれは心の中で言いながら、仕事部屋にあがった。
(主家のためにわたしはあまり役に立たぬ番犬でした。が、最後に、そしてせめてものご恩返しに、あなたの肩に毛布をかけてさしあげます)
毛布の端《はし》を口で啣《くわ》えて文机の上にのぼり、まず主人の右肩へ引きずりあげる。次に別の端を啣えて、左肩へかぶせる。
(これでよし)
主人はおれが毛布を掛け直したことなどむろん気付かず、すやすやと寝息《ねいき》を立てていた。文机の上の原稿《げんこう》用紙の右肩に、
「わが愛犬ドン松五郎の生活とその意見」
と、題名が書いてあった。が、それ以外は白紙である。
(ははーん)
おれは苦笑した。
(エッセイかなんからしいが、まだ一行も書けていないのだな)
どこかで鶏《にわとり》が鳴いている。
「……おい、名残《なご》りはつきないだろうが、早いところ別れをすませておしまいよ」
庭先で平吉がせきたてた。
(ではご主人、これで失礼いたします)
おれは主人のおでこを舐《な》めた。
(……変な純文学コンプレックスを捨てて、娯楽《ごらく》小説に徹してください。いい娯楽小説はひとりよがりな純文学小説に勝《まさ》ること数倍なのですから)
主人の耳許《みみもと》に囁《ささや》いて、おれは文机を降りた。
「奥さんや子どもたちにもお別れをいいたいのですが、もう一分だけ待ってくれませんか」
仕事部屋から庭に降りながら、おれは柴犬の平吉にいった。平吉は渋《しぶ》い面《つら》になってちょっと唸《うな》り声をあげたが、
「まあ、いいだろう」
と、結局はうなずいた。
「そのかわり早く切りあげてくれよ」
「わかっています」
おれは寝室から庭へ五十|糎《センチ》ばかり張りだして居る濡《ぬ》れ縁《えん》に上がって、虫除《むしよ》けの網戸越《あみどご》しに部屋のなかを覗《のぞ》き込《こ》んだ。奥さんと昭子君と和子君が眠《ねむ》っていた。
「みなさん、いろいろお世話になりました。とくに和子さんには生命まで救っていただきました。ほんとうにありがとう」
和子君が寝返りを打った。
「わたしはみなさんの家を出ていこうとしておりますが、むろん、みなさんのことがいやになって出て行くのではありません。これには深い仔細《しさい》があるのです。それについてお話しする機会はありませんが、とにかくがっかりしないでください。そして一所懸命《いつしよけんめい》に勉強してよい娘《むすめ》さんになってください……」
「……ドン松五郎じゃないの」
和子君が目をこすりながら上半身を起こした。
「なにをごろごろごろと唸っているの?」
おれは万感《ばんかん》の思いをこめて和子君を見た。
「わかった。ドン松五郎は散歩に行きたいのね。連れて行ってあげるからそう唸らないで。でも、時間がちょっと早すぎる。ひと寝入りしてからにしてね」
和子君はまたごろりと布団《ふとん》の上に横になった。おれは心の中で「さよなら」を言って、濡れ縁から庭におりた。
「もう別れを言わなければならない人はいないはずだな。では、ドン松五郎、行こうぜ」
平吉が庭の木戸から外へ出た。おれも思いを後に残しつつ平吉に続いた。モーターバイクの音が急速に近づいてきた。見るとそれは新聞配達のおじさんである。
「……ここにも犬が二|匹《ひき》か」
新聞配達のおじさんは、主家の郵便受けに新聞を突っ込みながら、おれたちを見て呟《つぶや》いた。
「たったいま、そこで野犬が二十匹ばかり、吠《ほ》え声ひとつ立てもせず、東に向かって歩いて行くのをおれは見たばっかりだが、なんだろうねえ、この近くで野犬の集会でもあるのかしらん」
「平吉さん、新聞配達のおじさんがあんなことを言ってますがね、東へ向かって歩いて行った野犬二十匹というのは、例の、塩原家へ寄宿していた犬たちのことじゃないんですか?」
「その通りさ」
平吉がうなずいた。
「連中のところへもキングさんから全員集合の命令が下ったのさ」
「すると、塩原の旦那《だんな》はがっかりですね。芸当をする犬二十匹を無料《ただ》で手に入れたと思って喜んだのも束《つか》の間《ま》、そのあくる日にはもう二十匹全員に逃《に》げられてしまうわけですから」
「まァ、そういうことだ」
「塩原の旦那は、昨日、野犬二十匹のために肉を何キロも買い込んでいましたが、すくなくともあの肉の代金分は損をしたってわけですね」
「そういうこと。世の中に無料《ただ》より高いものはなしさ」
数分後、おれと平吉は清水家の庭に着いた。
「ドン松五郎君に平吉君、こっちだ、こっちだ」
縁の下からキングの声が聞こえてきた。縁の下を覗《のぞ》き込《こ》むと、キングと渋谷のハチ公をかこむようにして、三十匹の野犬が坐《すわ》っているのが見えた。
「渋谷のハチ公君がやっと口をきけるようになったのだ。これから彼《かれ》はお銀さんと長太郎君の消息をわしらに話してくれるはずだ。早くこっちへ来たまえ」
おれと平吉は人垣《ひとがき》ならぬ犬垣をかきわけてハチ公の前に出た。ハチ公は水で湿《しめ》らせてふにゃふにゃになったビスケットをがつがつと喰《く》っている最中だったが、たちまち彼は皿《さら》を空《から》にして、
「やれやれ、これでやっと人心地というか、犬心地がつきました」
と、ゲップを連発した。
「食べてすぐ、というのも気の毒だが、さっそく質問を呈したい。ハチ公君、プードルのお銀さんとブルテリアの長太郎君はどこでどういう暮《く》らしをしているのかね?」
キングがハチ公に訊いた。
「きみは渋谷からやってきた。ということはお銀さんたちも渋谷に居《い》る、と考えられるが……」
「御明答です」
ハチ公が歯をせせりながら答えた。
「お銀さんと長太郎さんはいま渋谷の松濤町《しようとうちよう》という高級住宅地に住んでおいでです。が、お銀さんたちの話の前に、わたしの身の上ばなしの方を先に聞いてください。その方がお銀さんたちが置かれている状況《じようきよう》がより鮮《あざ》やかに浮《う》き彫《ぼ》りになると思うのです」
「きみの流儀《りゆうぎ》で話しなさい」
キングが言った。
「ただし、真実のみを語ってくれたまえよ。余計な脚色《きやくしよく》や潤色《じゆんしよく》をほどこさずに、ね」
「わかっております。では……」
と、ハチ公は坐り直した。
「わたしの飼《か》い主《ぬし》はさる国立大学の教授です。もっと詳《くわ》しく申しますと、専攻《せんこう》は西鶴《さいかく》で、一流出版社から註釈書《ちゆうしやくしよ》が七、八冊出ております。彼の祖先は三代前からこの松濤町の住人で、その意味ではかなり古手の住人ですね。さて、わたしの飼い主の右隣《みぎどなり》には七百|坪《つぼ》ほどの庭のある大きな屋敷《やしき》がありますが、これは鈴木栄太郎という人物の私邸《してい》でして……」
「ちょっと待ってくださいませんか」
と、おれは声をかけた。鈴木栄太郎という名前に心当たりがあったからだ。
「その鈴木栄太郎というのは政治家じゃありませんか。たしか、保守党の万年総裁|候補《こうほ》の……?」
「そうです、その鈴木栄太郎です。保守党タカ派の首領ですよ。ところでわが飼い主の左隣にも有名な政治家が住んでおります。その政治家の名前は佐山徹」
「知っています。革新党の書記長ですね?」
「その通り。もっとも佐山氏の庭は三十坪ほどしかありません。保守党と革新党との資力の差が七百坪と三十坪の庭に出ているわけですが、つまり、こうも言えます。わが飼い主は保守と革新の大物政治家の邸宅に、サンドイッチのように両側からはさまれている、と。さてわたしの飼い主の家を左右からはさんで並《なら》んでいるこの鈴木栄太郎家と佐山徹家はたいへんに仲が悪い」
渋谷のハチ公は話し続けた。
「いわば犬猿《けんえん》の仲というやつです」
「おっとハチ公君」
キングがハチ公の話を遮《さえぎ》った。
「犬猿の仲、という表現は人間たちの誤解に基づく慣用句だよ。『犬猿』という言葉を人間は仲の悪いもののたとえとして用いているが、それは必ずしも事実ではない。人間の修辞家連中がたまたま仲の悪い犬と猿《さる》のいたのを見てひねり出した成句にすぎないのだよ。つまり犬が人間の目を通して犬と猿との関係を把握《はあく》するのは、いちじるしく主体性を欠いている証拠《しようこ》であると、わしは思うのだが……」
「恐《おそ》れ入りました。以後、気をつけます」
ハチ公は素直に点頭した。
「とにかく、鈴木家と佐山家はとても仲が悪い。ことごとに張り合っているのですよ。しかもこの両家の確執《かくしつ》に更に火を注いでいるものがある。それは鈴木家の娘《むすめ》の純子さんと佐山家の息子《むすこ》の明君の交情でしてね……」
「つまり、保守党タカ派の首領の娘と、革新党の書記長の息子が恋仲《こいなか》だというのかね?」
「そうなんです。幼馴染《おさななじみ》である上に二人ともJ大学の学生でして、登校下校はいつも一緒《いつしよ》という仲のよさ……」
J大学と聞いておれは前夜の三人の来訪者のことを思い出した。あの食用犬愛好クラブの連中もたしか、J大学の学生だと名乗っていたはずである。偶然《ぐうぜん》の一致《いつち》だろうが、ここ一両日、話題にのぼる学生がすべてJ大学に在学しているという事実はおもしろい。
「……二人は口にこそ出してはいませんが、将来を誓《ちか》いあっているようです」
「証拠はあるんですか?」
と、おれはハチ公に訊《き》いた。
「きみの主観的判断にすぎないのではないのですか? きみ、シェイクスピアの読みすぎでしょう?」
「シェイクスピア?」
「だって君の語る渋谷松濤町の事情は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の設定と酷似《こくじ》しているようですよ。たがいにいがみあう二つの名家。そして皮肉にも、その仇敵《きゆうてき》同士の両家の娘と息子が恋し合う。これはまさに『ロミオとジュリエット』そっくりそのままじゃありませんか」
「シェイクスピアってどこのどなたです?」
ハチ公は首を傾《かし》げた。
「わたし、横文字にはまるで不調法でしてね。ま、これはわたしの飼い主が西鶴の専門家のせいかもしれません。わたしは西鶴はひととおり目を通しましたが、そのほかのことについてはまるで無智《むち》なんです。しかし、西鶴を人間の研究家たちがやたらに有難《ありがた》がるのは困った風潮です。西鶴は、研究をしてはだめなんです。読んで楽しめばそれで充分《じゆうぶん》でして……」
「話が横道に反《そ》れているようだぜ」
平吉がハチ公に釘《くぎ》をさした。
「その鈴木家の娘と佐山家の伜《せがれ》が恋仲であると見るきみの根拠はいったいなんなのだい?」
「はあ。二人は毎夜の如《ごと》く、歌問答でたがいの胸の内をたしかめあっているのをわたしは実際に見聞きして知っているのです。それが二人が恋仲であると見るわたしの根拠なんでして……」
「歌問答?」
おれはハチ公の古くさい言い方に興味を覚えた。
「なんです、それは?」
「前にも申し上げたように、鈴木家と佐山家との間にわたしの飼い主の家がありますが、鈴木家の純子さんの部屋と、佐山家の明君の私室は、猫《ねこ》の額ほどのわたしの飼い主の庭をへだてて向かい合っているのです。二人の部屋は直線|距離《きより》にして二十|米《メートル》もないでしょう」
ハチ公は右の前肢《まえあし》を器用に動かして、地面に爪《つめ》で簡単な見取図を描《か》いてみせた。
「……夜の八時ごろになると、純子さんと明君はそれぞれの部屋の窓を開け、窓辺に腰《こし》をおろします。たがいにギターを手に持って、ですよ。そして二人は歌問答をはじめる。たとえば、純子さんが、
※[#歌記号]風になびく黄色いリボン
丘《おか》を駈《か》ける麦わら帽子《ぼうし》
きっとあなた窓辺にもたれ
こんな私 見ていてくれる
急いで行きたいの
あなたの胸にとびこみたいの……
と、桜田淳子《さくらだじゆんこ》の『黄色いリボン』の一節を弾《ひ》き語《がた》りする。と、次に明君が、
※[#歌記号]愛する二人は はなれていても
さびしくはないさ 夜も朝も……
と、西城秀樹《さいじようひでき》の『薔薇《ばら》の鎖《くさり》』の一節ではげます。純子さんはこれに、
※[#歌記号]あなたに女の子の一番
大切なものをあげるわ
小さな胸の奥《おく》にしまった
大切なものをあげるわ
愛する人に 捧《ささ》げるため
守ってきたのよ……
という山口百恵《やまぐちももえ》の『ひと夏の経験』で応える。すると明君はこんどは、よしだたくろうの『結婚《けつこん》しようよ』を熱っぽく歌う。
※[#歌記号]僕の髪《かみ》が 肩《かた》までのびて
君と同じになったら
約束《やくそく》どおり 町の教会で
結婚しようよ MMMM(ムムムム)……
純子さんはそこで嬉《うれ》しそうに、天地真理《あまちまり》の『ひとりじゃないの』をはじめます。
※[#歌記号]あなたがほほえみを
少しわけてくれて
わたしが ひとつぶの
涙《なみだ》をかえしたら
そのときが ふたりの
旅のはじまり……」
ハチ公の歌がとても上手なので、おれたちもつい誘《さそ》われて、
……ひとりじゃないって
すてきなことね
あなたの肩ごしに
草原も輝《かがや》く
ふたりで行くって
すてきなことね
いつまでも どこまでも
と、いい気分で斉唱《せいしよう》した。
「しっ、静かに!」
と、キングが苦い顔をしておれたちを制した。
「わしたちは歌謡曲《かようきよく》をがなり立てるために集まったのではない。お銀さんと長太郎君を救出する作戦を練るために集まっているのです。それを片時も忘れてはいかん」
おれたちはしゅんとなって口をつぐんだ。
「……先を続けます」
と、ハチ公も真面目顔《まじめがお》になる。
「二人の、いま申し上げたような歌問答を、わたしは毎夜、庭の犬舎で聞いていたのですが、正直いって、恋《こい》し合う娘と青年のこの知恵には感動いたしました。家族の連中には『おや、うちの子がまた流行《はや》りの歌謡曲を歌っていますよ。好きですねえ』というふうにしか聞こえない。しかし、目指す相手には、歌謡曲をキューピッドがわりに自分の意中を伝えることができる。なんというすばらしい、そしてロマンチックなゲリラ戦法ではありませんか」
「ハチ公さんのおはなし、まことに興味|津々《しんしん》ですが、すこしおかしいところがありますね」
と、おれはハチ公にひとつ疑問を提出《ていしゆつ》した。
「鈴木家の愛娘《まなむすめ》である純子さんと佐山家のあとつぎである明君は同じ大学に通っているのでしょう。それなら大学でいくらでも接触《せつしよく》できるはずですよ。なのにわざわざ夜、窓辺に出て歌問答をとりおこなう、これはすこし変ではありませんか?」
「ドン松五郎君、きみは鈴木栄太郎氏の革新ぎらいがどんなものかご存知《ぞんじ》ないからそんなことが言えるのですよ」
ハチ公が言った。
「栄太郎氏は自分の娘が革新党書記長の伜《せがれ》の嫁《よめ》になるぐらいなら、いっそ死んでくれたほうがいいと思っている」
「まさか!」
「いや、彼《かれ》は日頃《ひごろ》からそう広言しているのです。だから彼は自分の娘に見張りをつけているんだ。娘が革新党書記長の伜と話をしたりしていると、見張りがすっと二人の間に立つ……」
「ひどい話だ」
「まったく。だからこそ二人は毎夜の歌問答に精を出しているってわけです。ところで数日前のこと、佐山家にプードル犬が一|匹《ぴき》やってきたんです。器量のいいメス犬で、朝から晩までめそめそ泣いていた。そこでわたしも見兼ねて垣根越《かきねご》しに『どうしなさったのかね?』と訊《き》くと、彼女《かのじよ》が言った。『下総《しもうさ》の国分寺が恋しいのです』……」
「プードルのお銀さんだったんですね」
「そうだったのです。お銀さんの話では、この家の……」
この家の、というところでハチ公は上方へ眼《め》を泳がせた。ここは清水家の縁《えん》の下である。「この家の……」と言いながら眼で上方を示したのは当然「この清水家の」という意味になる。
「……この家のドラ息子に連れ出されて畜犬商のところへ売り飛ばされ、そしてこの佐山家へ来ることになったということでした。お銀さんが佐山家へ来た日、鈴木家にもブルテリアの仔犬《こいぬ》が運ばれてきました」
「それが長太郎君だったのですね」
「ええ。これは偶然《ぐうぜん》の一致《いつち》ですが、両家に出入りしていた獣医《じゆうい》の先生が同一人だった。両家ではおそらくこの獣医の先生に『いい犬がいたら一匹世話してください』というようなことをいっていたのでしょう。そこでその旨《むね》を獣医さんが知り合いの畜犬商に話した。畜犬商はこれを聞いて、ちょうど入ったばかりのプードルとブルテリアを鈴木家ならびに佐山家へ届けた……。事情はこんなことだったのだろうと思います」
「それでハチ公君、お銀さんたちの様子はどうだね?」
と、キングが訊いた
「元気にしているかね?」
「いや、はっきり申し上げますが、二匹ともまったく元気がありません。さっきも言いましたように、プードルのお銀さんは下総の国分寺が恋しいといつもべそをかいていますし、長太郎君の方は、断耳断尾《だんじだんび》の手術が間近にせまっているらしく、怯《おび》えながら暮《く》らしているようです」
「うむ」
キングは沈痛《ちんつう》な面持《おもも》ちでうなずいてから、おれの方を向いて、
「さあ、ドン松五郎君、どうやら出陣《しゆつじん》の秋《とき》が来たようだね」
と、言った。
「やるのみです」
おれはキングに向かってはっきりと答えた。
「主人一家にもそのつもりですでに別れの挨拶《あいさつ》をすませてきてあります」
「うむ、それを聞いてわしも心強い。足手まといになるかもしれないが、わしもきみたちと共に渋谷松濤町へ出かけて行くつもりだ」
言うとキングは縁の下から庭へ飛びだし、
「全員整列!」
と、号令をかけた。おれたちもキングに続いて外へ出て行こうとしたが、そのとき、
「もうすこしきちんと計画を立てた方がいいと思うがなあ」
と、呟《つぶや》いたやつがいる。せっかく全員の気がそろったところへ水をぶっかけるような言辞を弄《ろう》するとはけしからん、と思って呟き声のした方を見ると、北小岩のシロー、例の暗記力の権化《ごんげ》がにやにやしながらおれたちを眺《なが》めていた。
「キングさん、渋谷の松濤町まで歩いて行くつもりですか」
「そのつもりだ」
キングが縁の下に戻《もど》ってきた。
「またそれ以外に方法はないだろう? それとも国電にでも乗って行け、ときみは言うのかね。わしたちには金がない。したがって切符《きつぷ》は買えぬ。よしんば金があったところで、どうやって国鉄駅の改札口《かいさつぐち》を通るつもりかね? 国鉄の改札|掛《がかり》はたしかにいつも居眠《いねむ》りしているように見える。しかし、三十匹以上もの犬が切符を啣《くわ》えてぞろぞろ改札口を通ったら、居眠りからさめて大声をあげるにきまっている。とどのつまりは狂犬病予防技術員がかけつけてきて|チョン《ヽヽヽ》だろう。国電が利用できないとなれば天与《てんよ》の四本肢《よんほんあし》で歩き通すよりほかに|みち《ヽヽ》はない」
「だいたい国電なんて|あて《ヽヽ》にならねえよ」
平吉が言った。
「年がら年中、順法|闘争《とうそう》ばかりしてやがる。のろのろ運転の満員電車なんぞ真《ま》っ平《ぴら》ごめんさ」
「わたしたちは時速八キロの速度で歩くことができます。ここから渋谷までは三十二キロですから……」
シローはそばに立っていた斑点《ぶち》犬の斑点をぽんぽんと押した。
「三十二を八で割ると、答は四、答は四」
電算機がわりの斑点犬が叫《さけ》んだ。シローはうなずいて、
「つまり四時間かかります。しかるに現在の時刻は午前六時。つまり渋谷に着くのは午前十時ということになりますね」
「当たり前じゃねえか」
平吉が牙《くば》を剥《む》く。
「それぐらいおまえに言われなくても先刻承知よ」
「でも、朝のラッシュとまともにかち合ってしまいますよ。それだけ、人間に見つかる危険も多い。わたしは今夜まで出発をのばした方がいいと思います。それに日中の行軍はハチ公さんのように日射病にかかるおそれもあります」
「こっちはせっかくその気になっているんだ。いうなら、こうぐっと盛《も》り上がっているところなんだぜ。のんべんだらりとこのまま夜まで待てるものか」
それからしばらく議論が続いた。シローに賛意を表する犬、平吉の意見に加担《かたん》する犬、その数はたがいに五分と五分だった。おれは放ってはおけない、と思った。長すぎる議論はしばしば士気に悪い影響《えいきよう》を及《およ》ぼすものだからである。そこでおれは大声で言った。
「自動車で行くという手はどうかしらん?」
自動車と聞いて全員ぎょっとしたようだった。しばらくの間、縁の下は水を打ったようにしーんと鎮《しず》まりかえった。
「自動車なら渋谷まで一時間で着けます。中型車なら一台にここにいる三十四匹が全員乗れるはずですし、日射病になる心配もありません。難点は犬が車を走らせているのを見た人間が騒《さわ》ぐことですが……」
「たしかに大騒ぎにならァ」
平吉が渋い顔をした。
「人間が犬に噛《か》みつきゃニュースだ、とよく言うじゃねえか。犬が車を走らせていたとなれば大ニュースになるぜ」
「しかし、まだ早朝です。ほとんど人出がない。飛ばせば案外気づかれずにすむかもしれませんよ」
「飛ばすだと? 簡単にそういうことを言ってもらっちゃ困るねえ。だいたい、犬に車の運転が出来るかよ。前肢二本でハンドルを支えることは出来ても、後肢が床《ゆか》に届かねぇぜ。となるとアクセルペダルが踏《ふ》めねぇじゃねぇか。アクセル踏まずにどうやって車を走らせるんだ、うん? それじゃァてんで、後肢をアクセルペダルに乗せるとこんどは前肢がハンドルに届かねぇやね。これも大さわぎだぜ、おい」
「一匹でなにもかもやろうとするからいけないんです。アクセル係が一匹、ブレーキ係が一匹、クラッチ係が一匹、ギア係が一匹、ハンドル係が一匹、そして、以上の五匹を総括《そうかつ》するのが一匹と、計六匹でかかれば車は動かせます」
あちこちで「ほう」「なるほど」「おもしろい考えだ」と囁《ささや》き交わす声があがった。が、平吉はまだ納得はしないようだった。
「ただ走ればいいってもんじゃないんだぜ、車ってやつはよ。ちゃんと交通法規ってものがある。それに従って走らなきゃすぐパトカーがかけつけてくるって寸法になっているんだ。だが交通法規を知ってる犬なんているかね?」
「わたしの暗記力が役に立つと思いますよ」
北小岩出身の眼鏡犬シローが前肢で胸を叩《たた》いてみせた。
「わたしはどんな本でも一度読めばすぐ暗記できます。百ページの本でしたら三十分もあれば充分《じゆうぶん》ですよ」
「そりゃ結構なこった。だがねえ、ドン松五郎、肝心《かんじん》の車はどうする? どうやって手に入れる?」
「平吉さんもご存知《ぞんじ》と思いますが、ここから北へ五分ほど歩くと自動車教習所があります。あそこには車が五十台から並んでいる。そのなかの一台をこっそり借り出すというのはどうでしょう?」
「つまり盗《ぬす》むのか?」
「そういうことになります」
「そりゃ悪いぜ」
平吉は言いかけたが、すぐ、
「……悪いことだけども、やってみるか」
と、訂正した。
「あそこはずいぶん儲《もう》けているって噂《うわさ》だから、一台ぐらいならそう懐中《ふところ》にひびかねぇだろう」
五分後、おれたちは自動車教習所の正門|脇《わき》の、破れた垣根のところから一匹ずつ構内にもぐり込んでいた。宿直室からは高いびきが聞こえていた。仕事《ヽヽ》をするには絶好の条件である。
おれたちは自動車教習所の事務|棟《とう》のまわりに駐車《ちゆうしや》してあった三十数台の中型車を一台ずつ仔細《しさい》に点検してまわった。いずれも運転席のドアには鍵《かぎ》がかかっていない。
「無用心なはなしじゃねえか」
自分が車を盗みに忍《しの》び込《こ》んでいるのを棚《たな》にあげて、平吉が嘆《なげ》いた。泥棒《どろぼう》が戸締《とじ》まりの悪いのを慨嘆《がいたん》するのとよく似た、これは滑稽《こつけい》な言い草である。
「これでいいんですよ」
おれは平吉に言った。
「誰《だれ》が自動車教習所の車を盗みにくるものですか。第一に周囲には厳重《げんじゆう》に金網《かなあみ》が張りめぐらしてありますから、正門の戸締まりさえしっかりとしておけばなんの心配もありません。第二に、ごらんなさい、教習所の車の車体にはでかでかと教習所の名前が書きこんでありますよ。それに屋根の上にはこれも教習所の名前を記したプレートが掲《かか》げてあります。こんな車をだれが盗もうと思うものですか」
「なるほど、ちがいないや」
平吉は右の前肢で頭を掻《か》いた。
「これじゃ盗んでも手がうしろにまわっちまうね」
「ドン松五郎さん!」
数台ほど向こうの車の横で眼鏡犬のシローと斑点《ぶち》犬のソロバンがおれを呼んでいる。
「どうした?」
「ちょっとこっちへ来てください」
おれが歩いて行くと、眼鏡犬のシローが運転席の計器のひとつを指して、
「この車、ガソリンが満タンです」
と、言った。
「つまり四十リットルぐらいはガソリンが入っておりますね」
「四十リットル? 四十リットルで何キロぐらい走れるだろうか?」
「普通《ふつう》の運転技術の持ち主なら一リットルで十キロ程度でしょうが、われわれは素人《しろうと》ですから、相当むだにガソリンを消費するはずです。まあ、一リットルで八キロというところでしょうね」
シローは斑点犬の横腹の斑点をポンポンポンと叩いた。
「八キロかける四十は三百二十キロ、すなわち三百二十キロ走れます」
と、斑点犬はたちどころに答えを出した。
「ここから渋谷まではざっと三十二キロです」
シローは得意そうに車体に寄りかかって、
「渋谷まで悠々《ゆうゆう》行って帰ってこれますよ」
「よし、それじゃこの車を借りることにしよう」
「そうしましょう」
シローはさっそく運転席側のドアから車の内部に入ると助手台の方まで這《は》って行き、助手台の上に放り出してあった教材用の『運転教則本』と『法令集』を二冊並べて、同時にめくりはじめた。
「ぼくはこの二冊の本を読んで暗記します。三十分もあれば運転法と運転に必要な法規はすべて諳《そら》んじることが出来ると思います。ドン松五郎さんは、この車のエンジン・キーの手配してください」
こいつは弱った、とおれは思った。眼鏡犬のシローはエンジン・キーの手配をしろと簡単にいうが、エンジン・キーは事務棟の内部《なか》である。そして事務棟の入り口のドアには鍵がかかっているのだ。
(どうして侵入《しんにゆう》したらよいのだろう)
おれは入り口のドアの前でしばらく途方《とほう》に暮れていた。
「エッヘン」
背後でだれかが咳《せき》ばらいをした。
「そのドアは睨《にら》んでいるだけでは開きませんぜ」
振《ふ》り返ると眼付《めつ》きの鋭《するど》い黒犬がにやにや笑いながら立っていた。
「あっしもテレビでドン松五郎さんを見て馳《は》せ参じた三十匹のうちの一匹でござんすがね、どうやらあっしの出番がきたようで……」
「というと?」
「あっしは錠前《じようまえ》には詳《くわ》しいんでしてね。なにしろ、あっしの飼《か》い主《ぬし》は前科十二|犯《はん》の猛者《もさ》で、金庫破りの大猛者なんでございますよ。針金《はりがね》一本でどんな錠前でも陥落《かんらく》させてしまうという無形文化財なみの技倆《うで》の持ち主でござんした。自然、飼い犬のあっしも見よう見真似《みまね》でたいていの錠前なら一分以内に開けることができますぜ。申しおくれましたが、あっしは泥棒《どろぼう》犬のクロでございますよ」
クロは後肢《あとあし》で立ち、前肢《まえあし》二本をだらんと前へ垂らし、つまり仁義を切るスタイルになって、上目使《うわめづか》いにおれを見た。
「あ、あのう、こっちこそ申しおくれました。ぼくドン松五郎です。よろしく」
「さっそくお控《ひか》えくださいましてありがとうござんす。青天井《あおてんじよう》むき出しの仁義、失礼さんにござんす。申しあげます言葉前後|間違《まちが》いましたら真っ平ごめんなさい。手前|生国《しようこく》と発しますは葛飾《かつしか》にござんす。葛飾と申しましてもいささか広うござんす。葛飾は小菅刑務所《こすげけいむしよ》横の裏長屋で呱々《ここ》の声をあげ、荒川《あらかわ》放水路の汚《よご》れた水で産湯《うぶゆ》をつかい、ただいまは錠前破りの親分のところに寄宿しております若僧《わかぞう》、稼業《かぎよう》昨今|駈《か》け出しのものにござんす。何処《いずこ》何処《いずこ》へ参りましても、親分さん、お兄《あに》ィさん、お友だち衆に厄介《やつかい》になり勝ちの粗相者《そそうもの》にござんす。面体《めんてい》お見知りおかれまして今日《きよう》後万端《こうばんたん》ご|じっこん《ヽヽヽヽ》にお頼《た》ん申します……」
「ご丁寧《ていねい》におそれいります。ここで同じようにご挨拶《あいさつ》をお返しするのが礼儀《れいぎ》だろうと思いますが、時間がありません。さっそくお手並《てな》みを拝見したいのですが……」
「へい。まあ、委《まか》しといておくんなさい」
このときはじめてクロは尻尾《しつぽ》を振った。が、彼《かれ》の尻尾は変わっていた。まず長い。そして先端が針金のように細くなっている。
「この尻尾は生まれつきのものじゃござんせんよ」
クロは持ちあげた尻尾で地べたを叩いた。するとちんちんと金属的な音がした。
「あっしはいつも尻尾の先に針金をくくりつけて歩いているんですよ。『治にあって乱を忘れず』をもじっていえば『治にあって盗みを忘れず』というわけでしてね」
「感服しました。が、クロさん、鍵穴《かぎあな》の高さは約一米、いくら尻尾を伸《のば》しても針金が鍵穴に届くかどうか……」
「心配いりませんや、ちょいと軽業《かるわざ》を使いやすから」
「……軽業?」
「へい」
うなずくと同時にクロは前肢二本で自分の躰《からだ》を支えて逆立ちをした。そのために尻尾のあたりがちょうど鍵穴の高さになった。
「どんなもんです」
逆立ちしたままクロが得意そうに言った。
「ちょいとしたものでしょ?」
クロは尻尾の先、針金の部分をそろりそろりと鍵穴に差し込み、しばらくのあいだ鍵穴をかきまわしていた。そのうちにカチャリという金属音がし、それと同時にクロが言った。
「ドン松五郎さん、鍵は外れたはずです。ドアをちょいと押してみておくんなさい」
うなずいておれはドアを軽く鼻先で押してみた。ドアが開いた。
「すごい腕《うで》だなあ」
おれが嘆声《たんせい》を漏《も》らすと、クロはくるりと躰を半回転させ、逆立ちから正常の四ツン這《ば》い姿勢に戻《もど》って、
「これぐらいはお茶の子で」
と、にゅっと白い牙《きば》を剥《む》いた。
「さァ、内部《なか》へしのびこみましょう。黙《だま》ってあっしの後についてきておくんなさいましよ」
言いながらクロは躰をドアの間から事務棟内部へすべりこませた。鮮《あざ》やかな身のこなしだ。おれもクロの真似《まね》をしてドアをすり抜《ぬ》けた。右の後肢がドアに引っかかってごとんと音をたてた。
「しっ!」
クロが鋭い目付きでおれを振り返った。
「静かについてきておくんなさいよ。それに床《ゆか》の上を歩くときはできるだけ壁際《かべぎわ》を。よござんすね?」
「どうして壁際なのですか?」
「床は壁際を、階段の踏《ふ》み板は端《はし》に近い方を歩く、これが泥棒犬の大通り、公道でさ。歩いても音がしないんですよ」
「へーん」
うなずいてしばらく行くと、そこはもう事務所の奥《おく》、衝立《ついたて》がひとつ立っている。衝立の奥からはごうごうたるいびきの音。こっそり衝立の向こう側を覗《のぞ》くと、四十五、六のおじさんが枕《まくら》を股《また》の間に挿《はさ》んで眠《ねむ》り呆《ほう》けていた。
「この衝立の裏が怪《あや》しいな」
クロは鼻をぴくぴくさせた。
「この衝立の裏側が教習用自動車のエンジン・キーかけになっているのじゃないかな。あっしの勘《かん》ではそうとしか思えないが……」
「ほんとですか?」
「まあ、間違《まちが》いねぇでしょ。勘というのはプロの将棋指《しようぎさ》しの大局観とよく似てるんですよ。素人《しろうと》の将棋指しは目の前の駒《こま》しか見えねぇ。いってみれば木は見えるが森は見えねぇってやつです。だから盤《ばん》の隅《すみ》から敵の角が中央にとんで出て『王手飛車とり』なんて手を打たれてはじめて、その敵の角の存在に気がつく。そこへ行くとプロはちがう。大局をいつもしっかりと視野の中におさめています。あっしらプロの泥的もその点は同じでしてね。あっしは衝立の前に立っていますが、同時に部屋全体を眺《なが》めてもいる。この部屋の机やその他の家具の配置を見れば大事なエンジン・キーをかけておく場所はこの大きな木製の衝立しかねぇと思いますぜ」
クロの御託宣《ごたくせん》どおりだった。衝立の裏へ首をのばすと、そこにはたしかにエンジン・キーが数十ぶらさがっていた。クロは衝立の下に四ツン這いになって言った。
「たしかあの車は十五号だった。ドン松五郎さん、あっしが踏台《ふみだい》がわりになります。あっしの背中に乗って、十五番のキーを啣《くわ》えおろしてくださいましよ」
おれは言われたとおりにした。十五番のキーを啣えて床《ゆか》におり、急ぎ足で入り口の方へ飛んでいった。「急いじゃいけませんぜ」というクロの声がしたが、おれの足はひとりでに早くなった。つまり、おれは怖《こわ》かったのだ。
「ドン松五郎さんよ」
ドアを前肢で手前に引いて、戸外《そと》へ出ようとしていると、泥棒犬のクロが背後からおれを呼びとめた。啣えていたエンジン・キーを床に置いて、おれはクロに訊《き》いた。
「なにか用ですか?」
「へえ。ここに公衆電話がありますぜ」
たしかに、事務カウンターの上に赤電話が二つ安置してあった。
「こりゃいいや」
「なにがこりゃいいや≠ネのか、ぼくにはちっともわかりませんがね」
と、おれはクロに言った。
「クロさんはこれまで赤電話を見たことがなかったのですか」
「そんなことはねぇです。しょっちゅう拝んでましたさ」
「なら赤電話などに気をとられていないで、早く戸外《そと》へ出ましょうよ。みんながぼくたちがキーを盗んで出てくるのを待っているのですから」
「あっしたち泥棒犬は、この赤電話のことをサンタクロースのおじいさん≠ニ呼んでおりましてね」
「サンタクロースのおじいさん?」
「まず、サンタも赤い洋服、赤電話も赤い色で、よく似てまさぁね。次に、サンタも赤電話も気前がいい。どちらも贈《おく》り物《もの》をくれますぜ」
「……贈り物?」
「まあ、ちょっと見ていてくださいな」
ひらり、とクロは事務カウンターの上にとび乗った。そして尻尾の先の針金を赤電話の横の鍵穴に差し込み、こちょこちょと動かす。それから前肢と鼻先を巧みに使いながら、料金箱《りようきんばこ》をひきずり出した。料金箱の中は十円|銅貨《どうか》でいっぱいである。
「昔《むかし》の人間は、裸《はだか》で道中なるものか、なんてうまいことをいいました。これからあっしたちは渋谷の松濤町まで旅をしますがね、小銭《こぜに》がこれだけあればなにかと重宝しますぜ。カップヌードルやアンパンなど、ちょいとした食糧は自動|販売機《はんばいき》に銅貨を落とすだけで買えますしね」
クロは料金箱をがきっと歯で噛《か》んで持ち上げ、カウンターから事務机、事務机から椅子《いす》、椅子から床へと慎重《しんちよう》に降りた。(さすがはプロの泥棒だな)と、内心で舌をまきながら、おれもキーを啣えて戸外《そと》に出た。
「もう大丈夫です」
おれとクロが十五号車の運転席のドアから内部《なか》へ顔を突《つ》っ込《こ》むと、助手台で運転技術読本と法規集を睨《にら》んでいた眼鏡犬のシローが言った。
「すべて暗記しました」
十五号車の後部座席は犬でいっぱいで、蟻《あり》の這い出る隙間《すきま》もない。もひとつ言えば、蟻どころか風の通う隙間もない。
「後部座席には二十一匹の犬が乗り込んでおる」
座席の真ん中にはキングが坐《すわ》っていた。
「残りの十匹の諸犬はトランクの中じゃよ。こっちの準備はよろしい。いつでも出発して構わんよ」
「では、運転係を六匹任命します」
シローが言った。
「柴又《しばまた》のゴンさんはアクセル係。わたしが状況《じようきよう》に応じて『もっと踏《ふ》みこめ』とか、『ゆっくり踏み込め』とか、『すぐにペダルから躰をはなせ』とかいろいろ申しますから、それに忠実に従ってください。でないと事故が起きます。なお、アクセルペダルはいつも踏んでいる必要があり、これには根気がいります。根気があるということはゴンさんのいちじるしい特長ですから、きっとうまく行くと思います」
ゴンは嬉《うれ》しそうにうなずき、後部座席から運転台の下に場所を移した。
「次にブレーキ係。これには亀戸の三八さんにお願いしたいと思います」
三八は車内の犬たちの拍手《はくしゆ》を浴びながら、柴又のゴンと同じように、運転台の下にもぐり込んだ。
「三八さんもわたしの言うことを聞きのがしてはいけません。とくにブレーキペダルは思わぬときに急に必要になる性質を持っております。つまりそれだけ神経が尖《とん》がっていないとブレーキ係はつとまりません。三八さんは三十匹のうちでは最も反射神経が鋭い。したがって最も適任であると考えます。よろしくおねがいしますよ。次にクラッチペダルの係ですが、これは柴犬の平吉さんがいいと思います。といいますのは、クラッチペダルというやつはどんな場合でも『強く踏《ふ》む』ことを要求されます。平吉さんはじつに威勢《いせい》がいい。威勢がいいという彼の性格はこの『強く踏む』ことを要求されるクラッチペダル係に向いていると思うのです」
平吉もまた拍手に送られて運転台の下にもぐった。
「ただし、クラッチペダルをはなすときは『ゆっくりと静かに』が鉄則です。でないと車はしばしばエンストを起こしてしまいます。平吉さんが威勢よくクラッチをはなさぬように祈《いの》ります。ギア・チェンジとハンドブレーキの係はこのわたくしが斑点犬のソロバンくんと協力してやります。方向指示器の操作やサイドミラーやバックミラーの監視係は泥棒犬のクロさんにお願いしたい。理由を申しあげる必要はないと思いますが、わたしはクロくんの眼の動きの素早さを買ったわけです」
クロは運転台のドアをバタンと閉め、そのドアに寄りかかった。その位置が方向指示器の操作に最も適しているのである。シローはバックミラーを口で啣えて動かした。ソロバンも助手台から外へ躰を乗り出してサイドミラーを動かす。
「おっとそれでよござんす」
クロが前肢をあげてシローとソロバンに合図をした。
「ミラーの方向、ちょうどいい塩梅《あんばい》になりましたぜ」
「おしまいにハンドル係ですが、これはドン松五郎君がいいでしょう」
また拍手がおこった。おれはすこしどぎまぎして、
「できるかなあ」
と、小声で言った。
「できますよ」
シローがおれに向かって片目をつむってみせた。
「それにすぐなれます。それではちょっと車を動かしてみましょう」
シローはおれの手からエンジン・キーをとって、計器板の下方に差し込み、右にひねった。ぶるぶるぶるというエンジンの音が起こり、車体がこまかくふるえはじめた。
「まず場内一周です」
「後車なし、右方にも左方にも側進車はござんせん」
と、叫《さけ》びながらクロがハンドルの軸《じく》の方向指示器を手前に引いた。
「クロさん、お見事!」
シローが言った。
「ではクラッチを踏んでください」
「おう! 踏んづけたぜ」
運転台の下で平吉が叫ぶ。
「次にアクセル。すこし強く踏み込んでください!」
「あいよ」
柴又のゴンの声がして、エンジン音がさらに高くなった。
「それではギアを低速、すなわちローに入れます」
眼鏡犬シローの右の前肢がハンドル軸から直角に出たギアにかかった。そしてシローはそのギアを強く手前下方に引いた。
「次にサイドブレーキをゆるめます」
斑点犬の右の前肢がハンドル軸の左側に沿ってとりつけてあるサイドブレーキの把手《とつて》にかかった。ソロバンは把手を上方にいったん引いておいて左にひねり、次に下方へおろした。
「アクセルをやや強目に! そしてクラッチペダルを静かに戻《もど》す!」
シローの声は緊張《きんちよう》のためにかすれている。
「さア、どうぞ!」
エンジン音が高くなり、やがてその音が変質した。とたんに車が勢いよく前方に飛び出した。
「アクセルを弱目に。しばらく所内を低速進行いたします」
人間属の有閑《ゆうかん》マダムの暇潰《ひまつぶ》しの運転技術習得とちがって、おれたちは命がけである。そして、命がけほど強いものはない。車はゆっくりと、しかし、見事に直進した。
「すごいぞ!」
後部座席でキングが嘆声を放った。
「犬が自動車を走らせている。これはすごいぞ。犬の歴史はじまって以来の、画期的な出来事だ。おそらく人間の月着陸にも比肩《ひけん》すべき偉業《いぎよう》ではないだろうか。犬が人間の創《つく》り出したテクノロジーを十分に使いこなしている。おお、まるで夢《ゆめ》のようだ。諸犬、わしらはおそらく犬の歴史の教科書に名前が載《の》るじゃろうよ」
後部座席から歓声《かんせい》と拍手があがった。おれも思わず手を叩《たた》いたが、そのとき、シローの罵声《ばせい》が飛んできた。
「ドン松五郎さん、だめじゃありませんか! あなたがハンドルを離《はな》してしまったらこの車はいったいどこへ行くんです!? しっかりハンドルを握《にぎ》っていてください」
おれははッとなってハンドルに獅噛《しが》みついた。
「そんなに力を入れてはだめです」
シローがまたおれに注意した。
「運転読本には、卵や羽毛を掴《つか》むような気持ちでやわらかくハンドルを握ること、と書いてありましたよ」
おれは言われたとおりに前肢の力を抜《ぬ》いた。前方に教習所の境界を示す土手が近づいてきた。おれはゆっくりとハンドルを右にまわした。車がそれにつれて右|旋回《せんかい》する。後部座席からまた歓声と拍手があがった。
「見事だ、ドン松五郎君。すばらしい!」
キングはすでに涙声《なみだごえ》である。おれはハンドルを左に戻しながら言った。
「わたしはいままで人間属をすこし甘《あま》く見すぎていたかもしれませんね。なにしろ人間は、犬が六匹集まってやっと出来るようなことをたった一人でやれるのですから」
後部座席でキングの深々とうなずく気配がした。
おれたちは所内の外周コースを三周して、高速走行の訓練をした。次に外周コースの中に入って、坂道発進、車庫入れ、S字コース、クランクコースの練習をした。エンストが三回あっただけだった。自分の田に水を引くわけではないが、これはほぼ完璧《かんぺき》に近い成績だといえるのではあるまいか。
「ぼつぼつ出発しましょうか」
おれたちが|そつ《ヽヽ》なく運転|装置《そうち》をこなせるようになったのを見て、シローが言った。
「ドン松五郎さん、ハンドルを上手にさばいて車を表門へ向けてください」
「よしきた」
おれは車を外周コースに出した。おれの横で方向指示器の操作をしていたクロがドアを開いて外に出た。
「表門には南京錠《なんきんじよう》がぶらさがってら。あっしが先廻《さきまわ》りして錠前を外しておきますぜ」
クロは尻尾《しつぽ》の先の針金《はりがね》をおれたちに三度|振《ふ》ってみせ、それから表門に向かって一目散《いちもくさん》に走りだした。
車はそれからもう一回、外周コースを廻ったが、ちょうど車が事務棟の前にさしかかったとき、思わぬ椿事《ちんじ》が出来《しゆつたい》した。例の宿直員のおじさんが欠伸《あくび》をしながら、事務棟から出てきたのだ。おじさんの出てくることがもうすこし前にわかっていたら、おれたちは車を停《と》めて息をひそめ、彼《かれ》の目をごまかしただろうが、いきなり出てこられたので、まったくなんの手も打てなかった。はっとなって姿勢を低くするのが関の山だった。
「こ、こりゃどういうことだ?」
宿直員のおじさんは目の前を走りすぎて行く車を見て素《す》ッ頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「だれも乗っておらんのに車が走っていくぞ」
つまり、おれたちが姿勢を低くしたので、おじさんには無人の車のように見えたのである。
「自分では起きているつもりなのだが、こりゃ夢を見ているのにちがいない。わしはまだ寝《ね》が足らんのだな。もうすこし寝ていることにしよう」
わけのわからない理屈《りくつ》をぶつぶつ並べて、おじさんは事務棟のなかに引っ込んでしまった。
表門でクロが待っていた。
「南京錠は外しましたがね、ごらんのように戸は鉄の格子《こうし》です。あっし一匹の力じゃびくとも動きやしませんや。みなさん、手を貸してくださいますか?」
後部座席とトランクの中の犬たちが総出で鉄戸を押し開き、それによって出来た空間をおれは慎重《しんちよう》なハンドル操作によって通り抜けた。再び全員が車内に戻った。
「諸犬、いよいよだね」
キングが感慨深《かんがいぶか》そうに言った。
「人間がひとり残らず仕合わせにならぬうちは犬の仕合わせはあり得ない、というドン松五郎君のテーゼは、同時にわしたちのテーゼでもある。このテーゼを実現させるために、わしらはついに数十キロの旅に出ようとしているが、ひとつだけ諸犬に要望したいことがある。それはどんなことがあっても仲間を裏切らない、ということだ。この車だって犬が一匹では動かせない。大勢の犬の協力があってこそ車は動く、そこを忘れんようにな」
キングの意見にみんなも同感だったとみえて、車内の犬が一斉《いつせい》に頷《うなず》いた。
「もうひとつ。内輪もめ内ゲバの類《たぐ》いは一切《いつさい》これを避《さ》けよう。手本は人間属の歴史のなかにゴマンとあるが、たとえば新撰組《しんせんぐみ》にしろ新|左翼《さよく》学生諸党派にしろ、結束《けつそく》がかたければかたいほど、皮肉なことに分裂《ぶんれつ》の危険も殖《ふ》える。そこのところに注意をしよう。では出発じゃ」
おれはハンドルを南に向けた。目指す渋谷は西の方角だが、その渋谷に達する高速道路の入り口は南にあるのである。陽《ひ》はまだ低い。時刻のおおよそは午前七時前後か。
おれたちの機知
おれたちの運転する自動車は、下総《しもうさ》国分寺近くの自動車教習所から渋谷に到着《とうちやく》するまでの間に、エンスト十五回、信号無視三回、路肩《ろかた》乗りあげ七回、ガードレール接触《せつしよく》五回、対向車線乗り入れ六回のミスを犯《おか》した。
しかし、早朝だったので、道路や高速道に他の車がすくなく、どのミスも事故にはつながらずに済んだ。が、しかしおれたちの車はだいぶ人心を攪乱《かくらん》したようだった。すくなくとも十五人の人間がおれたちの車を見て|おかしく《ヽヽヽヽ》なったらしい。この十五人のなかには交通|巡査《じゆんさ》もいたが、つまり、彼等《かれら》は|犬が車を運転する《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のを見て精神に変調をきたしたわけである。
たしかに彼等には同情すべきだろう。たとえばだれかが高速道を走っている。朝早いので高速道はすいている。彼の口からひとりでに鼻唄《はなうた》が出る。そのうちに彼は、自分を追い抜《ぬ》いて行く車のあることに気がつく。「おやっ?」と彼は思う。「あれは教習用の車ではないか。教習車が高速道を走るなんてずいぶん妙《みよう》なはなしじゃないか。それとも、ちかごろの教習所では高速走行の実習をやるようになったのかな」彼はさらに目を凝《こ》らす。と、運転席も助手台も後部座席も犬でいっぱいだ。
これはたしかに目撃者《もくげきしや》にとっては衝撃《しようげき》だろう。しかし、たいていの人間がここで「常識」という名の陥穽《かんせい》に落っこちてしまう。自分の目を信じて「へえ、近頃《ちかごろ》は犬も車の運転をするのかね」と素直に事実を認めれば、混乱は起こらぬのに、たいていの人間が「犬が運転をするなんて常識にあわない」と考えてしまうのである。「となると、犬が運転席でハンドルを握《にぎ》っている、と見ているおれがおかしいのではないか」と、みんなは考え、病院の精神科へ駈《か》け込《こ》む。これが一人や二人なら事件にはならぬが、十五人では事件である。新聞記者たちが騒《さわ》ぎ出したのも無理はないが、渋谷に着いたときのおれたちは、むろんそんな大事《おおごと》が持ち上がっているとは露知《つゆし》らず、高速道を代々木口で降り、神南町《じんなんちよう》の放送センターの広い駐車場《ちゆうしやじよう》に車を乗り入れた。
「まっすぐ松濤町《しようとうちよう》まで行っちまったらどんなものだい」
平吉たちは、放送センターの中へ車を入れようとするおれにいったが、おれはこう答えた。
「ここで腹ごしらえをしておこうと思うんです」
「放送センターで腹ごしらえ、とはわからないな。放送業務のほかに、ここでは犬のための食堂でもやっているのかい?」
「まさか」
おれはクロが教習所の赤電話からちょろまかしてきた数百枚もの十円銅貨を箱《はこ》ごと、車の外へ引っぱり出しながら、
「ここの一階のロビーに自動|販売機《はんばいき》があるんです」
と、言った。
「このあいだテレビに出演したときに目をつけておいたんですがね、牛乳やコーヒーや清涼飲料《せいりよういんりよう》のほかにハンバーガーなども売っているんです」
ハンバーガーと聞いて、全員が一斉《いつせい》に咽喉《のど》を鳴らした。
「たしか一個八十円だったと思います。これだけ十円玉があれば一匹に一個ずつはわたるはずです。だれでもいい、五、六匹、手を貸してくれませんか。ハンバーガーを運んでもらいたいのですが……」
放送センターはまるでひとつの要塞《ようさい》のようだった。出入り口も西口と東口と正面|玄関《げんかん》の三つしかない。時刻は朝七時半、正面玄関は閉まっていた。おれはクロや平吉たちと、西口を偵察《ていさつ》し、東口をこっそりのぞいてみた。が、西口にも東口にもガードマンらしい屈強《くつきよう》な男たちが立っており、尋常《じんじよう》なことではとても中へは入れそうもない。
「たかが放送局じゃねぇか」
と、クロが口先を尖《とん》がらかした。
「なんだってこう警戒《けいかい》が厳重《げんじゆう》なのだろうね」
「革命をおそれているんじゃないでしょうか」
と、眼鏡犬のシローが言った。
「革命というとすこし大げさかもしれませんが、なんでも四、五年前、過激《かげき》学生の一隊がここへ侵入《しんにゆう》して、電波を乗っ取ろうとしたことがあるそうですよ。革命でもクーデターでもなんでもいいですが、甲と乙とで権力の取り合いになったとき、放送電波を掌中《しようちゆう》におさめた方が有利であることはいうまでもないことです。電波を不逞《ふてい》の輩《やから》に制されぬように、厳重な警戒|網《もう》をしいているというわけですよ」
「不逞の輩とはだれのことだい?」
「過激な連中のことです」
「そこのところがよくわからねぇな。世の中がいまよりもっと悪くなってよ、国民の大多数が『世直しが必要だ』と考え、その前衛隊が放送局に侵入しようとする。そのとき、このNHKはどっち側につくんだい? 受信料を払《はら》ってもらっている国民側につくのかい? それとも、そうなってもやっぱりここは政府側の放送局かね?」
「さあ、それはこの放送センターで働いている人間たちにもわからないことじゃないんですか。だいたい、日本にそんな非常のときが実際にくるかどうかもわかりませんしね」
シローとクロが埒《らち》もないことを駄《だ》べっているあいだに、おれはあっちを向き、こっちを見しながら、西口や東口のような正規の出入り口のほかに、忍《しの》び込《こ》めそうなところを物色した。突然《とつぜん》、頭上にヘリコプターの爆音《ばくおん》がおこった。放送センターの屋上がヘリポートになっているようである。
(ヘリコプターがあれば楽々と侵入できそうだな)
と、思ったが、むろんおれたちにそんな重宝なものがあるわけはない。
(どうやらハンバーガーで腹ごしらえするというプランはおじゃんのようだな)
がっかりして呟《つぶや》いたとき、トラックが一台構内に入ってきた。トラックの横ッ腹には「ユニオン美術」と大書してある。
(テレビドラマのセットかなんか運んできたのだろう……)
と思いながらトラックを眺《なが》めているうちにおれははっとなった。つまりセットを搬入《はんにゆう》する入り口がどこかにあるはずだ、と考えついたのだ。おれはクロたちに言った。
「あのトラックの後をつけるんだ」
「なんだい、藪《やぶ》から棒に。あのトラックのあとをつけるとなんかいいことがあるのかい」
と、クロがきいた。
「うん。どうやらハンバーガーにありつけそうだ」
言い捨てておれは走り出した。クロたちがおれのあとに続いた。
トラックは放送センターの南の端《はし》の鉄の大扉《おおとびら》の前に停車《ていしや》した。間もなく鉄の大扉ががらがらと大きな音をたてながら左右に開かれた。トラックの人間とセンター側の人間が話をしている隙《すき》におれたちは大扉の中に入っていった。
放送センターの内部はしいーんと鎮《しず》まりかえっていた。おそらく放送局の午前七時半は世間|一般《いつぱん》の真夜中に相当するのだろう。長い、洞穴《ほらあな》のような廊下《ろうか》には人ッ子ひとり犬ころ一|匹《ぴき》見当たらぬ。というのはじつは不正確な表現である。なにしろ人ッ子はおらぬが、犬ころは、おれに柴犬《しばいぬ》の平吉に眼鏡犬のシローに泥棒《どろぼう》犬のクロに柴又のゴンの五匹がいるのであるから。つまりより正確にいえば、長い、洞穴のような廊下には人ッ子ひとり、おれたち五匹以外には犬ころ一匹見当たらなかった。
「ただただまっすぐに進むこと。百五十米ぐらい直進すると小さなホールがある」
おれはテレビ出演したときの記憶《きおく》をたよりにクロたちの道案内をした。
「その小ホールに各種の自動販売機が置いてあるんです」
廊下の右側にはスタジオの入り口が並《なら》んでいた。そして左側にはかつらの倉庫に小道具置場、そして衣裳《いしよう》部屋などが続いている。衣裳部屋の前を通りかかったとき、先頭のクロが不意に部屋の中に向かって牙《きば》を剥《む》き、唸《うな》り声をあげた。
「クロさん、どうしたんです?」
最後尾からおれが訊《き》いた。
「こんなところでうろうろしているのは、時間の不経済ですよ」
「し、しっ、静かにしろ」
クロは衣裳部屋の中を睨《にら》んだままの姿勢で言った。
「|やつ《ヽヽ》が目をさましたら、それこそ大変なことになる。おれたち五匹、二度と陽《ひ》の目を見ることが出来なくなっちまわァ」
「|やつ《ヽヽ》? やつっていったい何者です?」
「番犬だ」
「番犬?」
「それも凄《すご》い大きな野郎《やろう》よ。うおーッと唸って立ち上がれば、身の丈《たけ》はおそらく二|米《メートル》はあるね」
「そ、そんな犬なんているわけはないでしょう」
「ところがいるんだよ」
「たとえいたとしても、おたがい犬同士、話し合えばわたしたちの真意を汲《く》んでもらえるはずです。見逃《みのが》してくれますよ」
「ど、どうかね、それは……」
クロは相変わらず衣裳部屋の中へ団栗眼《どんぐりまなこ》を釘付《くぎづ》けにしたまま、後方のおれたちに首をひねってみせた。
「つまりよ、|やつ《ヽヽ》はいかにも冷血漢て感じなんだよ。ぞっとするような、冷めてぇ表情をしてやがるのさ。犬は犬でも、とうていおれたちの仲間とは思えねえ。話し合いなんかしたところでどうも通じそうもねえぜ」
おれたちはクロの肩越《かたご》しにこわごわ衣裳部屋の内部《なか》を覗《のぞ》き込んだ。たしかにむく毛の黒犬が、畳《たたみ》の上に長々とのびていた。クロが言ったようにそいつはじつに大きい。畳一畳を楽々と占拠《せんきよ》していた。
「堂々としているなあ」
柴又のゴンが嘆声《たんせい》をあげた。
「まるで獅子《しし》のようだ」
「しかし、よく見ると痩《や》せていますね」
眼鏡犬が顎《あご》の先に右の前肢《まえあし》を当てて考え深そうに言った。
「胴体《どうたい》が紙みたいに薄《うす》いじゃないですか」
「紙といやァ、やつは前肢で短冊型《たんざくがた》の紙切れを握《にぎ》っているぜ」
柴犬の平吉が眠《ねむ》れる大犬の前肢のあたりに向かって顎をしゃくった。
「ねえ、ドン松五郎君、あの紙切れにはなんて書いてあるんだ? ひとつ読んできてくれないかい?」
おれはみんなに背中を押《お》されて、衣裳部屋に躰《からだ》をそっと入れた。むろんいつでも逃《に》げ出せるように、入れたのは上半身だけである。
「どうだ? 紙切れにはなんと書いてある?」
クロたちが口々に言い立てるのを制しながら、おれは巨大《きよだい》な黒むく犬が右の前肢で握っている紙切れに目を向けた。が、よく見るとむく犬は紙切れを握っているのではなかった。正確に描写《びようしや》をすれば、紙切れは紐《ひも》で|やつ《ヽヽ》の前肢にくくりつけられているのだった。そして、紙切れには次のように記してあったのである。
「学校放送・みんなの図書室・犬の縫《ぬ》いぐるみ」
おれはつかつかと衣裳部屋に入って行き、むく犬の頭に腰《こし》をおろし、クロたちに向かってにっこりと笑ってやった。クロたちが顔色を変え、逃げ腰になった。
「な、なんて無茶なことをしやがるんだ」
むく犬を椅子《いす》がわりにするのはよせ、とクロがしきりに手真似《てまね》をしている。
「そ、そういうのを蛮勇《ばんゆう》というんだぞ、ばか野郎。むく犬が目をさましたらいったいどうする気なんだ?」
「目はさましませんよ」
おれはクロたちに言った。
「おそらくこの犬は未来永劫《みらいえいごう》、自ら行動を起こすということはないでしょうね」
「ど、どうしてそんなことがわかるんだ?」
「どうしてって、この犬は縫いぐるみだからですよ」
「縫いぐるみだと?!」
クロたちが絶句した。そこでおれは言った。
「紙切れには『学校放送・みんなの図書室・犬の縫いぐるみ』と書いてあります。たぶん人間の、売れない役者がこいつを着て、犬を演ずるって寸法なのですよ」
「やれやれ」
クロが舌をだらりと垂れ、はあはあとせわしく息をした。
「すっかり冷汗《ひやあせ》をかいちまったぜ」
「ぼくは心臓が停《と》まるかと思いました」
シローは大きな溜息《ためいき》をついた。柴又のゴンは床《ゆか》にべったりと坐《すわ》りこんでしまっている。
「あたしゃ吻《ほつ》とした拍子《ひようし》に腰が抜《ぬ》けちまいました」
「おい、みんな。ぐずくずしていないで早く自動販売機のところまで行こうぜ」
平吉がぶるぶるっと胴震《どうぶる》いしながら言った。
「駐車場の車では、キングさんたちが、おれたちの持って帰るはずのハンバーガーを首を長くして待っていなさるんだから」
「待ってください、平吉さん」
おれは縫いぐるみを口で啣《くわ》えて、土間へ引っぱり出した。
「ここで縫いぐるみが見つかったのは天佑神助《てんゆうしんじよ》です。こいつをわたしたち五匹が着ようじゃないですか?」
「おいおい」
平吉が嶮《けわ》しい顔付きになった。
「おれたちに遊んでいる余裕《よゆう》はないのだぜ」
「べつに遊ぶつもりはありません。このむく犬の縫いぐるみを、わたしは隠《かく》れ蓑《みの》として利用しようと思ったのです」
「隠れ蓑だと?」
柴犬の平吉が訝《いぶか》しそうな顔付きをした。
「天狗《てんぐ》の隠れ蓑ならとにかく、これはただの縫いぐるみだ。こいつを着たからっておれたちの姿が消えるわけでもねえだろう?」
「消えると同じ効果がありますよ」
と、おれは答えた。
「放送局は突飛《とつぴ》な格好《かつこう》をしていればいるほど人目につかないという不思議なところなのです。たとえば正午すぎの食堂へ行ってごらんなさい。お姫さまがハンバーグステーキにぱくついたり、武士が冷やし中華を啜《すす》ったり、水呑百姓《みずのみびやくしよう》がビールを呑んだり、お公卿《くげ》さんがサンドイッチをたべたりしていますから。つまり、ここでは突飛な様子をしていれば、あれは役者だと見られ、局の人やガードマンたちに誰何《すいか》されずに済むのですね。怪《あや》しい格好のやつが怪しくなくて、怪しくないのが怪しい、これがここでまかり通っている常識なんです。この縫いぐるみを着て歩けば、もう誰《だれ》にも怪しまれませんよ。犬が自動販売機でハンバーガーを買っている図は、人間から見ればあり得べからざる一大|椿事《ちんじ》です。しかし、縫いぐるみがハンバーガーを買う図は、放送局の人たちにとってはよく見なれた光景にすぎないのです。もうひとつ、ハンバーガー三十個をわたしたち五匹で駐車場まで運ぶのは、ちと骨です。しかし、この縫いぐるみがあれば問題は簡単に解決しますよ。なにしろ、この縫いぐるみは大きい、ハンバーガーの三十や四十、楽に隠《かく》せますからね」
「なーる」
平吉が点頭した。
「さすがはドン松五郎だ。悪はのばせ、善は急げだ、とにかく縫いぐるみを着てみようじゃないか」
五匹のなかで最も力があり、躰つきもがっちりしているクロが柴又のゴンを肩車《かたぐるま》した。そのゴンの肩の上に平吉、平吉の肩の上にシロー、そしてシローの肩におれが乗った。縫いぐるみは、誂《あつら》えた洋服のようにぴったりとおれたちに適《あ》った。
しばらく行くと化粧室《けしようしつ》があったので、おれたちは化粧室の大きな姿見の前に立って、自分たちの様子を仔細《しさい》に点検してみた。
「なかなか立派なものじゃねえか」
クロは、縫いぐるみの一部分を牙で噛《か》み切ってこしらえた覗き穴――クロばかりではなく、ゴンも平吉もシローも、そしておれも、自分に適《あ》った高さのところに覗き穴を設けていた――から、自分たちの姿を眺めて言った。
「まるで本物の犬のようだぜ」
「|まるで《ヽヽヽ》本物の犬だと?」
ゴンがくすくすと笑った。
「|まる《ヽヽ》も四角も三角もあるものか。本物の犬が犬になっているんですぜ。この世にこれ以上たしかな犬なんてものはありませんよ」
おれの心配はクロやゴンが、四匹、ないしは三匹の犬を肩車して、いったいいつまで体力がもつか、ということだった。そこでおれはクロとゴンに、
「三十分たったら、上下を入れかえましょうか」
と、提案《ていあん》してみた。
「大船に乗った気でいなせえよ、ドン松五郎さん」
クロとゴンは元気のいい声で答えた。
「三十分どころか二時間や三時間はたっぷり持ちこたえてみせまさァね」
化粧室から自動販売機の置いてある小ホールまでは三十米ほどの距離《きより》があったが、この三十米を歩くあいだに、おれたちは三人のおばさんたちとすれちがった。いずれも掃除《そうじ》のおばさんたちで、驚《おどろ》いたことに彼女《かのじよ》たちは、おれたちとすれちがいながら、
「朝早くからご苦労さま」
と、挨拶《あいさつ》していった。やはりこの縫いぐるみは天狗の隠れ蓑にもひとしい効力を持っているようである。
自動|販売機《はんばいき》でハンバーガーを三十四個出し、それらを縫《ぬ》いぐるみの内部《なか》のあちこちに隠《かく》して、おれたちは東口から外部《そと》へ出た。おれたちが車を停《と》めたのは東口前の駐車場《ちゆうしやじよう》、したがって西口へ廻《まわ》るよりこっちへ出る方がずっと近いのである。東口の受付の娘《むすめ》たちやガードマンたちの反応も、掃除のおばさんたちと同じだった。
「ご苦労さん、そんなものかぶってさぞや暑いでしょうね」
口々にねぎらいの言葉をかけてくれた。そのたびに、おれは縫いぐるみの頭を上下に振《ふ》って挨拶を返した。
「……な、なにものだ?」
おれたちが車の方へ近づいて行くと、突然《とつぜん》、車の中からキングたちが飛び出し、いつでも退却《たいきやく》できるように半身《はんみ》に構えた。
「貴様は犬の化け物だな」
亀戸の三八がキングをかばいながら、二、三歩、前に進み出た。
「おとなしく放送センターに戻《もど》れ。さもないと、おれたち二十九匹の犬が一斉《いつせい》に噛《か》みつくぜ。それにもうすこししたら、喧嘩《けんか》の強いのが五匹、帰ってくるんだ。おめぇさん、いくら図体《ずうたい》がでかいといっても、三十四匹にわっととびかかられたら尻尾《しつぽ》をまくぜ」
「五匹というのは泥棒《どろぼう》犬のクロたちのことかね」
おれは亀戸の三八をからかってやろうと思い、声音《こわね》を変えて言った。
「あの連中だったらもう帰っちゃこないね」
「な、なぜだ?」
「わしが五匹とも喰《く》っちまったのだよ」
三八は、ぎょっとなったようだった。
「ほ、ほんとか?」
「ああ、クロとゴンと平吉の三匹は不味《まず》かったが、シローとドン松五郎はすこぶる美味だった」
「こ、この化け犬|野郎《やろう》……!」
三八は低い姿勢になってうーうー唸《うな》り出した。それにならって他の犬たちも躰を伏《ふ》せて、一斉に牙《きば》を剥《む》き出した。
「おっ、なかなか元気があってよろしい」
下の方でクロが鹿爪《しかつめ》らしい声を出した。
「御褒美《ごほうび》にハンバーガーを呉《く》れてやらァ」
「ハ、ハ、ハンバーガー?」
三八がこんどは目を剥いた。
「ドン松五郎さんたちもハンバーガーを買いに出かけて行ったのだが……」
「だからそのハンバーガーを差し上げようっていってるのさ」
ゴンが縫いぐるみのチャックを引いた。クロがおれたち四匹を肩《かた》の上にのせたまま身体をすこしかがめ、縫いぐるみの底の方にたまっていたハンバーガーを車の中に次々にほうり込んだ。
「ガードマンに見つかると|ヤバ《ヽヽ》い。車の中で喰った方がいいぜ」
「こいつはまんまと担《かつ》がれちまった」
三八が苦笑しながら車の中にもぐりこんだ。他の犬たちも三八のあとに続いた。
「わたしたちも車のなかにもぐりこんで、ハンバーガーのお相伴《しようばん》にあずかりましょうか」
おれは犬の縫いぐるみの中の同志、泥棒犬のクロ、柴又《しばまた》のゴン、柴犬の平吉、そして眼鏡犬のシローの四匹に声をかけた。
「わたしはさほどでもありませんが、みなさんは腹ぺこでしょう?」
「まあまあ、ってところです」
おれを肩車してくれていたシローが元気に言った。
「いうならば適度な空腹状態ってところ」
「おれさまはかなりぺこぺこよ」
シローの下で平吉の声がした。
「といってぶっ倒《たお》れちまうって程でもねえがね」
「こっちはすっかり腹が減ってしまった」
平吉の下からゴンの気弱そうな声。
「あたしゃふらふらだね」
「おいらはいまにも死にそうだぜ」
いちばん下でクロが情けなさそうに言った。
「お腹《なか》の皮と背中の皮がくっついちまったよ」
無理もないことである。なにしろクロは、ゴンと平吉とシローとこのおれの四匹を肩車しているのだ。
「わかっています」
と、おれはクロに言った。
「クロさんにはわたしのハンバーガーを半分|進呈《しんてい》しましょう」
「そいつはありがてえ。いまのひとことですこしは元気が出たぜ」
「では、わたしから降ります」
と、おれが右の後肢《あとあし》をシローの肩から外そうとしたとき、向こうで、
「明さーん!」
という娘《むすめ》の声があがった。
「そこで縫いぐるみ着て立っているのは明さんでしょう?」
娘はこっちに向かって急ぎ足になった。コンクリートの床を歩いてくる娘の靴音《くつおと》がやけに高くひびきわたる。おれはその音を聞いているうちに胸騒《むなさわ》ぎがしてきた。
(……こっちへ近づいてくる娘は、縫いぐるみのなかにいるのが「明」という名の人間だと思っているらしいぞ。どうしようか。逃《に》げ出そうか、それともこのまま突《つ》っ立っていることにしようか……)
考えているところへ、車の中からシェパードのキングの声がかかってきた。
「そのままでいなさい、ドン松五郎。いま、下手に騒《さわ》ぐのは危い。なにしろ東口のところでガードマンがこっちを見ているのだ」
「し、しかし……」
「縫いぐるみのファスナーを締《し》め上げて中身が犬であるということを隠《かく》すのだ。なに、彼女は挨拶をすれば行ってしまうさ。わたしたちも車のドアを閉め、できるだけ小さくなっていることにするよ」
キングはおれたちに片目をつぶってみせながら、そっと車のドアを閉めた。
「お聞きの通りですよ、みなさん」
おれは下を向いて四匹の同志に言った。
「このままの体形でもうしばらく辛抱《しんぼう》していてください」
下から上へ、順々にリレー式でファスナーを締め終わったところへ娘がちょうど到着《とうちやく》した。
「おはよう、明さん」
娘は低い声で言った。
「そのままでいて。縫いぐるみを脱《ぬ》いじゃだめよ。顔を出すのも危険よ。わたしを監視《かんし》している人間がいるのだから」
年齢《とし》は十八、九歳ぐらいか、化粧《けしよう》っ気《け》はないが、きれいな娘だった。黒くて大きな眼《め》がやさしそうに輝《かが》やき、額が広くて利口そうである。着ているものはデニム地のシャツとスカート。
「パパはわたしと明さんが大学の人形劇研究会に入って、そこで逢《あ》っているってことに気がついたらしいの」
言いながら娘はおれたちに向かって、さあ放送センターの内部《なか》に早く入りましょう、というようにしきりに目配《めくば》せをした。仕方がないからおれはいちばん下の泥棒犬のクロにごくごく小さな声で、
「東口に向かってゆっくり歩いていってください」
と、指示した。
「明さん、風邪《かぜ》でもひいたの? いま、縫いぐるみのなかで、なんだかゴホンゴホンいってたような気がしたけど……」
おれは慌《あわ》てて縫いぐるみの頭を横に二、三度|振《ふ》ってやった。
「そう、なんでもないのね?」
おれはこんどは縫いぐるみの頭を縦に二、三度振ってみせた。
「ならいいんだけど」
にっこりしながら娘は背後を振り向く。
「今日の監視役は佐久間君だわ。パパの事務所では一番の猛者《もさ》よ。たしか剣道が四段、柔道が三段、空手が二段、それでパチンコは名人……」
おれたちは立ちどまって後ろを見た。たしかに黒っぽい背広を着た大きな男が立っている。濃《こ》いサングラスをかけ、口をへの字に結んでこっちの様子をじっと窺《うかが》っていた。
「あまりうしろを見ないで」
娘はこれもデニム地でこしらえたショルダーバッグを揺《ゆ》りあげて歩き出した。
「こっちがあまり彼《かれ》を気にしているとそのうちむこうも『これはおかしい』と思い出すわ。『ひょっとしたら、あの縫いぐるみの中に、主人の政敵の息子《むすこ》が隠れているのかもしれない』と見破られるおそれなきにしもあらずよ。だから、平然としてて」
おれは娘と並《なら》んで東口へ向かって歩きながら、脳細胞《のうさいぼう》を総動員して考えていた。
(……監視役つきの娘か、どこかでこれは聞いた話だぞ。この娘は明という青年と仲がいいらしい。それはおれたちに対する話し方からもよくわかる。がしかし、明という固有名詞にも聞き覚えがある……)
このとき、下からシローが低い声でおれに囁《ささや》いた。
「ドン松五郎さん、例のハチ公のいっていた『渋谷のロミオとジュリエット』のはなしを覚えていますか。ほら、保守党の大立物の娘と革新党の大物の息子が恋仲だという、|あれ《ヽヽ》ですよ」
おれはぴんときた。
「うん、思い出した。ひょっとしたらこの娘が渋谷のジュリエット……?」
「だと思いますよ」
「すると、わたしたちが渋谷のロミオか」
「まあね。すくなくともこの娘が縫いぐるみの中に入っているのが明君だと信じている間は、わたしたちが彼女の恋人《こいびと》ですよ」
「……たいへんなことになってしまったなあ」
おれは思わず胴震《どうぶる》いをした。
「こいつは胸がわくわくするような冒険《ぼうけん》だぜ」
平吉が言った。娘の方がどうしても足が速い。したがって、おれたちと娘との間には二、三|米《メートル》の距離《きより》がある。大声をあげれば別だが、抑《おさ》え気味に喋《しやべ》っていれば娘に聞こえる心配はない。
「こういう二枚目役を、おれ、一度でいいからやってみたかったんだよ」
「しかし、平吉さん、この役は損ですよ」
「なぜだい、ドン松五郎?」
「娘はわたしたちを恋人の明君と勘《かん》ちがいしている」
「そんなことはわかってら」
「この勘ちがいはすぐ暴露《ばれ》ます。明君が来たらすぐ……」
「あ、そうか」
「となると、これはひと騒《さわ》ぎ始まりますね。つまり、縫いぐるみの中に入っているのが明君でないとすればいったいだれか、という騒ぎになる……」
「なるほど。で、みんなは縫いぐるみの中を開けてみる。中には犬のおれたちが潜《もぐ》り込《こ》んでいる。またひと騒ぎだ……」
「ひと騒ぎなんてものじゃない。それこそ大騒ぎですよ」
「やばいな」
「と、わたしも思います」
「どうすればいい?」
「三十六計逃げるにしかず、です」
「それでいこう」
おれたちは歩調をさらにゆるめた。娘との距離が五、六米にひろがる。娘が「おはようございます」とガードマンに挨拶をして、受付に入った。とたんにこっちは左に折れて、そのままどんどん歩き出す。
「やあ、お早よう。明君」
まただれか声をかけてきた。ぎょっとなって立ち竦《すく》み、声のする方をおそるおそる見ると、年の頃は三十|歳《さい》前後、オレンジ色のパンタロンに白いシャツの女性が立っていた。焦茶色《こげちやいろ》のサングラスをかけている。
「本番の始まる一時間も前から歩き方の稽古《けいこ》をしているなんて感心じゃないの。今日の本番しっかり頼《たの》むわよ」
察するところ、この女性が『みんなの図書室』の担当《たんとう》ディレクターらしい。
「ところで純子さんは来ているかしら?」
純子とはさっきの娘のことだ。おれたちは慌《あわ》ててうなずく。もっとも縫いぐるみの中でうなずいても見えやしない。みんなを代表して、おれが縫いぐるみの首を振ったのである。
「そう。彼女も感心ね。じつに熱心だわ。ほんとうに大学の人形劇研究会を使ってよかった。専門の人形劇団は、そりゃたしかに技術は高度だけど、熱意がないもの。これからはちょいちょいわたしの番組に出てちょうだい」
ディレクター女史は縫いぐるみの手をとった。
「どお? 局の喫茶室《きつさしつ》でお茶でも飲まない?」
ディレクター女史は縫いぐるみの手を引いて歩き出した。
「……また取《と》っ捕《つか》まってしまったぜ」
平吉が舌打ちをし、低い声で言った。
「これでまた逃げられなくなっちまったが、いったいこの先はどうなるのかね」
それはおれにもわからない。とにかく運を天にまかせて、あとは出たとこ勝負で行くより仕方があるまい。
おれたちは十三階にある喫茶室でディレクター女史とアイスコーヒーをつき合った。もちろん、女史の前で縫いぐるみを脱《ぬ》ぐわけには行かぬ。したがってアイスコーヒーの氷が溶けて行くのを覗《のぞ》き穴《あな》から見ながら、女史のお喋《しやべ》りに頭を|たて《ヽヽ》や横に振って相槌《あいづち》をしているだけである。
そのうちに、女史が電話をかけに席を外したり、技術の人たちのテーブルへ打ち合わせに立ったりしはじめたので、その合い問に、すばやくファスナーを引きおろし、五匹がかわるがわるアイスコーヒーなるものを飲んだ。ちょっと苦いが、なかなかおいしかった。きっと咽喉《のど》がかわいていたせいだろう。
「ねえ、明君、こんなこと聞くのは失礼なことかもしれないけど、あなたと純子さんは恋人《こいびと》なんだってねえ、これほんとうなの?」
女史が戻《もど》ってきてこう訊《き》いてきた。おれは縫いぐるみの頭を「うん」とたてに振ってやった。
「じゃあ、いろいろたいへんでしょう?」
なにがたいへんなのかは知らないが、またあたまをたてに振った。
「あなたのパパは革新党の佐山書記長、純子さんのお父上は保守党の大物の鈴木栄太郎、これじゃあ話はまとまらないわね。でもね、無責任なことを言うようだけど、親も大事だけど自分が一番大切よ。話がまとまらず、それこそどうにもならなくなったら、駈《か》け落ちすることよ。そして、自分の力で純子さんを仕合わせにするのよ。じゃあ、またスタジオで逢《あ》いましょう」
女史は伝票を掴《つか》んでレジの方へ立ち去った。
「ゴン君にクロ君にシロー君に平吉さん、いまのディレクター女史のコトバで、わたし、ちょっと閃《ひら》めきました」
おれはみんなに言った。
「明君と純子さんを駈け落ちさせちまったらどうでしょうかね?」
四匹はぎょっとしたような顔でおれを見上げた。
「もっと詳《くわ》しく言えば、あの二人の恋人を誘拐《ゆうかい》して一緒《いつしよ》にさせるんです。当然、渋谷|松濤町《しようとうちよう》の鈴木家と佐山家は上を下への大騒ぎになる。その隙《すき》に両家に囚《とら》われの身になっているプードルのお銀さんとブルテリアの長太郎君を救い出す……、二人の恋人は一緒になれる、わたしたちはかねての念願どおり、二匹の仲間を救い出すことができる、まさに一石二鳥ですよ」
「まさに原爆《げんばく》級のアイデアだぜ」
と、クロが唸《うな》った。
「おらぁ、賛成だね」
「いや原爆級どころか水爆的アイデアです」
シローが拍手《はくしゆ》をした。
「ぼくもその話に乗りますよ」
「おれは乗れんね」
平吉は反対のようである。
「人間が人間を誘拐するのさえ至難《しなん》の業《わざ》なんだぜ。どうやっておれたち犬が人間を誘拐できるんだい?」
「わたしに考えがあります」
おれは胸を叩《たた》いてみせた。
「委《まか》せといてください」
おれたちは喫茶室を出て階段を使ってゆっくりと一階に降りたが、途中《とちゆう》の階に編集室の並《なら》んでいるところがあったので、そこにもぐり込《こ》んで誘拐に必要な道具を物色した。編集室とはラジオ用の録音テープをディレクターたちが、鋏《はさみ》と接着テープを駆使《くし》して切ったり貼《は》ったり繋《つな》いだりする、一|坪《つぼ》あるかなしかのせまい作業場のことである。おれはここで鋏一|挺《ちよう》に台本を一冊、それに読み古しの週刊誌を数冊、手に入れた。
その下の階には売店が並んでいた。化粧品店《けしようひんてん》に薬局、本屋にキャンデーショップ、洋品店に靴屋《くつや》、それに洋服屋、ホテルのショッピング・アーケードのような明るく華《はな》やかな雰囲気《ふんいき》がある。文房具《ぶんぼうぐ》店もあった。おれは文房具店で糊《のり》をひとつ買った。金はクロが自動車教習所の電話器からくすねてきた十円玉がまだ残っていたので、それをあてた。
「この暑いのに縫《ぬ》いぐるみを着てお芝居《しばい》をするなんてたいへんだわね」
文房具店の女売り子は、縫いぐるみの中に入っているのがまさかおれたち犬とは気づかず、月並みな台詞《せりふ》のお追従《ついしよう》を言った。
「シロー君、まず台本から紙を一枚、破りとってくれたまえ」
「いいとも。それで、それからどうする?」
「週刊誌のどこからでもいい、活字を切り抜《ぬ》いて、台本から破りとった紙に糊で貼りつけてほしいんだ」
「つまりドン松五郎君は切り抜き活字を貼り並べて手紙を作ろうと思っているわけだね?」
「ご明答だ。その手紙の文章はこうだ。『明さん、話があります。わたしの後についてきてください。そうすれば、あなたは純子さんと結婚《けつこん》できます。あなたの友人より』……」
「よしきた」
さっそくシローは鋏で週刊誌の活字を切り抜きにかかった。シローの下にいる平吉が、シローの切り抜いた活字を、台本から破りとった紙に、次々に貼る。
「手紙を作るのはいいが、肝心《かんじん》の明さんにどこでどうやって逢《あ》うのかなあ」
平吉の下で柴又《しばまた》のゴンの呟《つぶや》くのが聞こえた。
「おれたちはこれまで一度も明さんに逢ったことがないんですぜ」
「ゴンさん、明さんに逢うのは簡単ですよ」
「というと……?」
「明さんの今日の仕事はこの縫いぐるみの中に入ることです。その明さん、局に着いたらまっさきにどこへ足を向けると思いますか?」
「衣裳《いしよう》部屋だ」
ゴンの下で泥棒《どろぼう》犬のクロが叫《さけ》んだ。
「なにしろこの縫いぐるみは衣裳部屋にあったんだからね」
「そうなんです。衣裳部屋でこの縫いぐるみを探《さが》している青年がいれば、それが明さんです」
「よっしゃ」
おれたち四|匹《ひき》を肩車《かたぐるま》したクロが猛然《もうぜん》と衣裳部屋へ通じる廊下《ろうか》を走りだした。覗き穴から時計《とけい》が見えた。時刻は十時、放送局がようやく活気づくころである。
衣裳部屋には誰《だれ》もいなかった。そこでおれたちは部屋の隅《すみ》で明君の到着《とうちやく》を待つことにした。
「それにしても泥棒のクロさん、あなたという犬はタフですねえ」
おれが褒《ほ》めそやすと、クロはきょとんとした顔つきになって、
「タフかね、おれが。そうかねえ」
と、なんだか合点がいきかねる、というような声を出した。
「タフですよ。なにしろ、クロさんはこの二時間、ゴンさんに平吉さんにシロー君にこのわたしの四匹を肩にのせて、放送局の中を歩きまわったのですからねえ」
「なんだ、そのことかい。それだったらなんの不思議もねえよ。おれは主人からこればっかりは大いに鍛《きた》えられたのだ」
「鍛えられた?」
「そうよ。おれの主人は泥棒さま、それも忍《しの》び込《こ》み専門なんだよ。そこで主人はおれを踏《ふ》み台がわりに仕事に連れて歩いたってわけだ。つまりおれの主人は高塀《たかべい》を乗り越えるとき、おれをチンチンさせて、この肩を踏み台にして、えい! と忍び込むのさ。だから、昼間はその訓練ばかりさせられてたね。おかげでおれの足と腰《こし》と肩は柔道家《じゆうどうか》やプロレスラー、体操選手のように丈夫《じようぶ》なんだ」
「ふうん、なるほど」
感心して頭を何度もふったが、そのとき、クロが低いひそめた声で言った。
「だれかこっちへやってくるぜ。おっと、この、人の気配をいち早く察する能力も主人仕込みなのよ」
たしかにクロの言った通りだった。衣裳部屋の入り口にひとりの若い男が現れたのだ。おれたちは衣裳のかげに身をひそめながら若い男の様子を窺《うかが》った。
「衣裳部屋のおばさん! 縫いぐるみをとりにきましたよ。おばさん……、いないな。まだ来てないのかな」
縫いぐるみを取りに来たとなれば、この青年こそ明君にちがいない。おれたちは部屋の隅から明君の前へのっそのっそと出て行った。
「あれ? それはぼくの着る縫いぐるみじゃないですか。おばさんも人が悪いや」
明君は衣裳係のおばさんが縫いぐるみを被《かぶ》っていると思い込んでいるらしかった。
「それぐらいの脅《おど》かしじゃぼくはびっくりしませんよ。さ、縫いぐるみを貸してください。十時半から録画が始まります。ぼくは大急ぎで支度《したく》しなくちゃならない……」
おれはファスナーを十|糎《センチ》ほど引きおろし、そこから例の切り抜き活字を貼った手紙を差し出した。
「な、なんだい、これは……?」
明君は怪訝《けげん》そうに手紙を受け取った。
「……明さん、話があります。わたしのあとについてきてください」
声を出して明君は手紙を読みはじめた。
「……そうすればあなたは純子さんと結婚できます。あなたの友人より」
読み終わって明君はおれたちに向かって言った。
「だれだ? きみはいったいだれなんだ? それにぼくと純子さんとのことをどうして知っているんだ?」
明君が矢継《やつ》ぎ早《ば》やに投げてくる質問には答えず、おれたちは衣裳部屋を出た。
「おい、待て! それはぼくが着る縫いぐるみだ」
明君が追ってくる。これはこっちの思う壺《つぼ》である。おれたちは構わずに東口から戸外《そと》へ抜け出した。
「録画は間もなく始まる。縫いぐるみをこっちへ寄こせ!」
明君が手をのばす。さすがは泥棒犬のクロ、すっすっと足を早めてその手を逃《のが》れる。おれはシローに言った。
「駐車場《ちゆうしやじよう》へ着くまでに大至急、切り抜き活字の手紙をもう一通用意してくれないか」
「いいとも」
シローはさっそく切り抜きにする週刊誌と鋏とを構えた。
「それでどういう文面にするのです?」
「こうだ。『明さん、この車の中に坐《すわ》っていてください。どんなことがあっても車から出てはいけません。十分以内に純子さんをここに連れてきます。あなたの友人より』」
「よしきた」
シローはさっそく週刊誌の頁から使えそうな活字を物色にかかった。
「いったいどこまで行く気なんだよ」
明君の声音《こわね》に泣きが入ってきたようである。
「いい加減にしてくれよ。いったいきみは何者なのだ?」
駐車場の教習車からシェパードのキングの降りるのが見えた。
「おい、ドン松五郎君、あれから事態はどう進展しているのだね。みんなで心配しておったところだよ」
キングはこっちへ歩きながら言った。
「ドン松五郎君、きみの後を追いかけてくる青年はだれだい? 局のガードマンかね?」
「彼《かれ》が問題の佐山明君です。そしてさっき、わたしたちが車に潜《もぐ》り込もうとしたときに現れたのが、鈴木純子さん、二人ともJ大学の人形劇研究会の会員で、ここの子ども番組を手伝っているらしい」
「……鈴木純子さんは長太郎君の、そして佐山明君はお銀さんの飼《か》い主《ぬし》だったね?」
「そうなんです。しかも二人は相思相愛の仲です。しかも、家からはたがいにその恋《こい》を禁じられている。そこでわたしたちは二人を駈《か》け落ちさせようと計画した……」
「その狙《ねら》いは?」
「両家に混乱が生まれます。混乱が生まれればそれだけ、お銀さんたちを救う機会も多くなるでしょう」
「なるほど」
キングは眼を細くして縫いぐるみを見上げた。
「ドン松五郎君、きみは軍師だねえ。諸葛孔明《しよかつこうめい》や竹中半兵衛《たけなかはんべえ》やクラウゼヴィッツに匹敵《ひつてき》する大軍師だよ」
「とにかく、明さんをしばらく車の中に預かっていてください。すぐに純子さんを連れてきますから」
「よしよし」
キングはうなずいて車の中に引き返した。おれはまたファスナーを十糎ほどおろし、その隙間《すきま》から、シローの作成になる切り抜き活字の手紙を差し出した。手紙を読み終わった明君は、
「この車の中で待っていれば純子さんがやってくるってのかい。ほんとうかなあ……」
と、車の中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。そこにおれたちは体当たり、明君を車中に押し込んだ。
明君のことはキングたちに委せて、おれたち、縫いぐるみのなかの五匹はまた局の中へ引きかえした。
「シロー君、きみは切り抜き活字を貼った手紙の製作係、これからが忙《いそが》しくなるよ」
おれは激励《げきれい》の気持ちをこめて、シローの頭をポンポンと軽く叩いた。
「まず、第一の切り抜き手紙。宛名《あてな》は鈴木純子さま」
「本文は?」
シローが週刊誌を左|前肢《まえあし》に、右前肢に鋏を持って身構えた。
「本文はこうだ。『明さんが待っています。わたしたち縫いぐるみの後についてきてください』……。第二の手紙の受取人は明君と純子さんだ。その本文は『明さんに純子さん、ロミオとジュリエットの時代じゃあるまいし、お互《たが》いの父親がそれぞれ保守党の大物と革新党の書記長で対抗《たいこう》し合い、そのために反対しているからといって、好き合っている男女が仕合わせになるのを諦《あきら》め、なにひとつ行動しないでうじうじと暮《く》らすというのはどんなものでしょうか。英国の哲学者《てつがくしや》のバートランド・ラッセルはいみじくも申しております。愛を怖《おそ》れることは人生を怖れることである。そして、人生を怖れる者は、すでに十中八、九は死んだも同然である≠ニ。あなたがたは今のままでは生きながら死んでいるのと同じです。いまこそひたすら愛し合い、そのことによって生きるべき時なのではないでしょうか』……」
「愛を怖れることは人生を怖れることである≠キばらしい言葉だなあ。たしか、バートランド・ラッセルはノーベル文学賞も受けているはずですがね、ぼくはなぜ哲学者が文学賞か、これまでよくわからなかったんです。でも、これでやっとそのわけが理解できました」
「つづいて第三の手紙」
「まだあるんですか?」
「とりあえず三通は必要なのだ。がんばってくれよ」
「……はあ、どうぞ」
「受取人は同じく明さんと純子さん。本文はこうだ。『差し出がましいようですが、その気になれば働き口などいくらでもあります。お二人で喫茶店へ勤めるなどいかがでしょう。明さんはカウンターの中、そして純子さんがウェイトレス、同じところで働くなんてのもなかなか乙《おつ》なものです。書店の店員もいいでしょう、いまどこの書店も人手不足ですからね。とにかく勤め口は新聞の求人欄《きゆうじんらん》にたくさん載《の》っています。それを頼《たよ》りに自分たちの手で自分たちの未来をきり拓《ひら》いてみてください。こんなことを言ってはなんですが、あなたたちはこれまで温室育ちでした。いまが温室|栽培《さいばい》から脱《ぬ》け出す唯一無二《ゆいいつむに》の機会です』……」
さっそくシローは鋏をいそがしく動かしはじめた。
「クロさん、こんどの行く先はスタジオです。たのみますよ」
「まかしとき」
泥棒犬のクロはおれたち四匹を肩にのせ、しっかりした足どりで、東口から局に入った。スタジオでは美術部の人たちが装置《そうち》を組み立てている最中だった。縫いぐるみを目ざとく見つけて純子さんが寄ってきた。
「本番二十分前よ。いままでいったいどこにいたのよ、明さん。東口で急に見えなくなったから心配してたのよ」
それには答えず――といってもこっちは犬だ、答えたくても答えられないが――おれはシローが作ってくれた第一の切り抜き活字の手紙を、ファスナーをおろしてできた隙間から純子さんに差し出した。
「……明さんが待っています。わたしたち縫いぐるみの後についてきてください、ですって?」
小声で手紙を読み終えた純子さんは、縫いぐるみを見て首を傾《かし》げた。
「すると縫いぐるみの中に入っているのは明さんじゃないのね?」
おれは縫いぐるみの頭《かしら》をひとつ大きく縦に振《ふ》った。
「じゃ、誰なの?」
こんどはおれは縫いぐるみの頭《かしら》を横に傾けてみせた。返事のしようがないので、さあ、誰でしょうかねえ、ととぼけたわけだ。
「それに、この手紙には『わたしたち縫いぐるみ』とあるけれど、そうするとその中には二人以上の人間が入っているってわけ?」
おれは平吉に縫いぐるみの片手をぱっとひろげるように言った。
「す、するとその中に五人も?」
正確には「五人」ではなく「五匹」である。がしかし、仕草や身振りだけで「人」と「匹」を区別してみせるのは至難の業《わざ》である。そこでおれはクロに、
「構わないから東口へ向かって歩き出してください」
と、言った。クロはまわれ右をしてスタジオの入り口に向かった。縫いぐるみの頭を百八十度回転させて――この縫いぐるみの頭《かしら》は螺子《ねじ》式になっているので、百八十度回転はおろか三百六十度回転だって平っちゃらなのである――純子さんの様子を窺《うかが》うと、彼女《かのじよ》は疑り深そうな顔をしながらも、おれたちの後についてきている。
「いいぞ!」
と、おれは縫いぐるみの内部《なか》の仲間たちに言った。
「彼女が駐車場の教習車までついてきてくれれば、わたしたちの作戦は九割がた成功だ」
「おや、明君、どこへ行くの?」
いきなり縫いぐるみの肩を叩くものがある。仰天《ぎようてん》して頭《かしら》を正面に戻《もど》すと、ディレクター女史が目の前に立っているのが覗き穴から見えた。
「もう二十五分でランスルーよ。出来るだけスタジオの内部《なか》にいてちょうだい。他のみんなも揃《そろ》っているんだから」
スタジオの隅《すみ》に、膝《ひざ》あてのあるジーパンをはいた娘《むすめ》さんや青年たちが十人ばかりいた。それぞれ、棒使いの人形を手に持って、セーム皮で胴体《どうたい》や面を磨《みが》いたり、胴串《どうぐし》の操作の練習をしたりしている。彼等《かれら》はおそらく明君や純子さんたちの仲間、すなわちJ大学人形劇研究会の面々なのだろう。そして、本日の演《だ》し物《もの》は、棒使い人形と縫いぐるみ人形との共演か。
「どうしたの? なぜ、黙《だま》り込んでいるのよ」
愚図々々《ぐずぐず》していては疑念を持たれるおそれがある。おれは平吉に小声で言った。
「両手を前に当てて、小用を足しに行ってくる、という身振りをしてください」
平吉はその通りにした。ディレクター女史は笑って、
「なんだ、それなら仕方がないわね。早く行ってらっしゃい」
と、言った。
「それにしても明君の表現力、というか演技力は凄《すご》いわね。|えげつ《ヽヽヽ》ないほど『おトイレに行きたい』というさしせまった感じが出ている。今日の録画はいまの調子でたのむわよ」
おれたちは無事にスタジオを出た。
東口に向かって廊下を歩いて行くと、ふいに背後で、
「あっ」
という声があがった。
振り返ってみると、純子さんの横に佐久間が立っていた。佐久間は純子さんの父親である保守党大物の懐刀《ふところがたな》だ。彼は純子さんが明君とつきあうのを監視《かんし》し、妨害《ぼうがい》するためにしょっちゅう彼女の身辺につきまとって離《はな》れない。
「お嬢《じよう》さん、あの縫いぐるみについていっちゃいけませんよ」
佐久間の声は|どす《ヽヽ》がきいていた。
「でないと、わたしはあの縫いぐるみの土手ッ腹をこいつでひとえぐり|えぐら《ヽヽヽ》なくちゃならなくなります」
ぱちん! 佐久間は飛び出しナイフの刃をひき出して、純子さんの眼の前にかざしてみせている。
「しかし、お嬢さん、人形劇研究会にお入りになったとは考えましたねえ。しかも、明って野郎《やろう》が縫いぐるみに入っていたというのもおどろきだ。敵ながら天晴《あつぱ》れですよ。ディレクターが『明君、どこへ行くの』と、あの縫いぐるみに声をかけるのを聞いてやっと呑《の》み込めたんですが、そういう幸運に恵まれなきゃこっちはすっかり欺《だま》されるところだった」
「そんな物騒《ぶつそう》なもの、引っこめなさい」
純子さんは佐久間の飛び出しナイフを指して言った。
「大の大人がそんなものを振りまわして恥《は》ずかしいとは思わないの」
「そりゃあ恥ずかしいですよ」
佐久間はポケットからハンカチを出し、飛び出しナイフの刃をぐるぐる巻きにした。
「しかし、先生から言いつかってきたこともありましてね。余儀《よぎ》なくこんなものをちらちらさせているわけですよ」
「お父さんから言いつかった? な、なにを言いつかってきたの?」
「お嬢さんにちょっかいを出している明とかいう野郎をすこし思い切っておどかしてこい、と先生がおっしゃったのですよ」
「きらい! お父さんなんか大きらいよ」
「そんなことをおっしゃっちゃいけない。お嬢さんを愛すればこそ、先生はわたしにそうお命じになったのですから」
「とにかくそんなものを振りまわしちゃいけないわ。わたし、二万円ばかり持っている。それを上げるから……」
スカートのポケットから|がま口《ヽヽヽ》を出そうとする純子さんの手を佐久間がおさえた。
「おっとっと、わたしは金で買われるような男じゃない。それはお嬢さんもよくご存知《ぞんじ》のはずです。先生には幼いときに拾われ育てられたという恩義がある。先生の言いつけを二つ返事で守るのもその恩義のためです。わたしは、金で先生を裏切るなんていう垢抜《あかぬ》けないことはしませんよ。だいたい、わたしは、あの明という青年が気に入らないんだ」
佐久間はおれたちをじろっと睨《にら》んだ。彼の目は燃えていた。
「お嬢さんがそんなに好きなら、どうして堂々と先生のところにかけ合いに来ないんだ。こそこそこそこそ泥棒猫《どろぼうねこ》みたいな真似《まね》をしやがって、男らしくもない野郎だ……」
ははん、とおれは思った。おそらくこの佐久間という青年も純子さんが好きなのだ。明君を脅《おど》して純子さんから手を引かそうとするのは、この佐久間にとっては主命による仕事ではない、むしろ、彼は本気で恋仇《ヽヽ》を刺《さ》そうとしているのだ。
「やつは本気であの飛び出しナイフを使うつもりでいるらしいね」
柴又《しばまた》のゴンが、いままでは手持ち無沙汰《ぶさた》だがこれからは自分の出番だ、というように膝《ひざ》を乗り出した。
「こいつはおもしれぇや」
「おもしれぇって言い方があるものか」
平吉がたしなめた。
「あの人間野郎は明君を殺《や》っつけようとしているんだぜ。そして明君とは|じつはおれたちのこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのだ。つまり明君のかわりにおれたちが殺られるかもしれないのだ。それがなんで『おもしれぇ』んだよ」
「へえ、じつはあっし、喧嘩《けんか》がビスケットや骨つき肉より好物なんで。自慢《じまん》じゃありませんが、ずいぶん喧嘩の場数《ばかず》も踏《ふ》んでおります。これまでの戦績は五十八戦五十六勝無敗二引き分け。うちKO勝ちが二十三あります。引き分けたのは土佐犬とブルドッグが相手のときでして、このときは体調もよくなかった。それに相手の図体がでかすぎた……」
「つまり、おめえさんは喧嘩なら委せとけって言いたいのかい?」
「そ、そういうこって」
「しかし、あの野郎に勝てるかね。勝算はあるのか?」
「ないわけじゃありません」
「どうする?」
「廊下《ろうか》じゃ拙《まず》い。一対一の差《さ》しになることが必要だな」
「……差しになる?」
「おれたち犬は主人が傍《そば》で見てたりすると、とんでもねぇ空《から》元気を出すことがある。人間属だって同じですよ。周囲に見物人がいると変に悪ハッスルするんだ。人間属の愚連隊《ぐれんたい》なんかには『アベックを襲《おそ》うな』という鉄則があるぐらいでしてね。つまり、男の方が同伴女性にいいところを見せようと死にものぐるいになるんですね。命がけでかかってこられちゃ愚連隊といえど真ッ蒼、そこで連中はアベックを敬遠する。中にはアベックを襲う愚連隊もいますが、そういう手合いはだいたい駈《か》け出しもいいとこでさ」
「なるほど」
「一対一の差しになると、お互《たが》いに心細くなるもんです。あとは各人各犬の度胸がものをいう」
「そこにスタジオがありますよ」
シローが言った。
「今日は録画がないと見えて誰《だれ》もいないようですが……」
「よし。それじゃそこでひとつ野郎と一発やらかしましょうや」
ゴンはクロの肩《かた》を叩《たた》き、彼にその無人のスタジオの中に入るように、うながした。
「おれがゴンに平吉さんにシローにドン松五郎さんの四|匹《ひき》を肩に担《かつ》いで、立ち回りをやるのかい、あまり自信はねえなあ」
クロはぶつぶつ言いながらおれたち四匹を肩にスタジオに入った。
「心配いりませんぜ、クロの兄ィ、即戦即決《そくせんそつけつ》、立ち回りが始まる前に勝負を決めちまいますから」
ゴンには、なにか特別な考えがあるらしく、委しておけよ、というように胸を叩いた。
「おッ、おめえ、やるつもりだな」
言いながら、おれたちのあとから佐久間がスタジオに入る。
「なかなかいい度胸だ」
佐久間は腰《こし》を低くし、上目使いにおれたちを睨《にら》みつけながら、右手に構えた飛び出しナイフを前に突《つ》き出した。
「やつはなかなか出来るね」
飛び出しナイフを構えた佐久間を、覗《のぞ》き穴《あな》から見て、ゴンが唸《うな》った。
「型通りの構えだが、隙《すき》がない。それにやつには空手の素養も多少はありそうだ。息を吸ってはとめ、とめては吐《は》き、また吸う……、あれはブルース・リーの映画の影響《えいきよう》でやんすぜ」
「ばかやろう!」
ゴンの肩の上にまたがっている平吉がゴンの頭をこつんと小突《こづ》く。
「相手が強そうだなんてむやみにほめるんじゃねえ。こっちが心細くなっちまうじゃねえか。それにおそらくやつは飛び出しナイフでこの縫《ぬ》いぐるみの土手ッ腹を狙《ねら》ってくるにちがいねえのだが、縫いぐるみの土手ッ腹にいるのはこのおれさま、つまりおれさまがまっさきにやられちまうんだぞ。ゴン、おめぇ、いったい本当にやつに勝てるのか?」
「まあ、やってみましょうや」
「自信のねえ言い方をしやがる……」
「いや、自信はあるんです」
「ど、どういう戦い方をする気だ?」
「ストリップ作戦でさ」
「ス、ストリップだと!?」
平吉は思わず、ずっこけた。その余波をくらって、平吉の肩の上にまたがっていたシロー、そしてシローの肩の上に乗っていたこのおれがゆらゆらと揺《ゆ》れた。
「いつまでふざけているつもりだ、しまいにゃ張り倒《たお》すぜ。もっと真面目《まじめ》な格闘法《かくとうほう》を考えやがれ」
「あっしはこれでも大真面目ですよ」
ゴンが少し膨《ふく》れッ面《つら》になった。
「おれたちの喧嘩の相手であるあの佐久間って野郎は縫いぐるみの中身が|まさか《ヽヽヽ》犬だとは気がつかない。その|まさか《ヽヽヽ》につけ込《こ》むんですよ。つまり、|せーの《ヽヽヽ》でこっちはファスナーを下まで引きおろす。そして牙《きば》を剥《む》いて一斉に唸る。佐久間は驚《おどろ》きますぜ。喧嘩ではびっくりした方が負けだ。ファスナーを引き下げて縫いぐるみの正体をストリップする、これを題してつまりストリップ作戦でさ」
「なある」
平吉はうなずいた。
「こいつはなんとかなるかもしれねぇ」
「やい!」
佐久間が怒鳴《どな》った。
「やる気が失せたのかい、この意気地なしめ。どうしたんだ、かかってくるのかこねえのか」
飛び出しナイフを右手から左手へ忙《いそが》しく持ちかえながら、佐久間はおれたちの方へじりじりじりっと、にじり寄ってきた。
「では、わたしが号令をかけます」
おれは四匹に言った。
「号令がかかったら、一気に、そして順送りにファスナーを引きおろしてください。なお、スタジオの入口から純子さんが心配そうにこっちを見守っています。純子さんにはこっちの正体を知らせないのが得策だと思いますので、純子さんには背を向けましょう。いちばん下のクロさん、右方へ一米ほど移動してください。そうすればちょうど純子さんに縫いぐるみの背中が向きますから……」
「好《よ》う候《そろ》!」
旧海軍式の答えを発しながら、クロが右へ移動をはじめた。それにつれて佐久間もわずかずつこっちとの間合《まあ》いをつめてくる。
おれたち五匹が被《かぶ》っている縫いぐるみの背中が、スタジオの入口からこっちを覗いている純子さんの真正面を向いたとき、おれは言った。
「いまだ。いまなら純子さんに縫いぐるみのなかにいるのがわたしたちであると看破《かんぱ》されずに、佐久間に先制の一撃《いちげき》を加えることができそうですよ」
「よし、それじゃやってみようぜ」
いちばん下から泥棒犬のクロが答えた。
「上の者から順々にファスナーを引きおろすんだ!」
おれがまず〇・一秒ばかりかかってファスナーを下に引いた。それをシローが〇・一五秒でさらに下に引っぱった。柴犬の平吉がまたさらにそれを〇・一五秒で引き下げる。ゴンは〇・一秒、クロも〇・一秒でファスナーの引き下げを完了した。つまりおれたちは、縫いぐるみのファスナーを、のどもとから足首のところまで〇・六秒のはやさで引き下げたことになるが、当然のことながら佐久間は目を剥《む》いた。
「……あ、あん?」
呆然《ぼうぜん》となって、思わず右手の飛び出しナイフをとり落とした。たとえていえば、縫いぐるみがびっくり箱《ばこ》、おれたちがばね仕掛《じかけ》の人形だったわけだ。佐久間は縫いぐるみのなかから出てくるのが人間だと信じていたのに、そうではなくて、五|匹《ひき》の犬だったので、仰天《ぎようてん》したわけである。しかも悪いことに手から取り落としたナイフが彼の右足の足首に突《つ》きささってしまった。
「ぎゃっ」
佐久間は大声で喚《わめ》き、三、四足うしろへとびのいた。が、飛びのいたところも悪かった。そこはホリゾント、つまりスタジオの壁《かべ》、ホリゾント際《ぎわ》は、照明機具を仕込むときの便のために三十|糎《センチ》ほど低くなっているが、彼はそこへ落ち込んでしまったのである。したがって彼は腰から沈《しず》むように倒《たお》れることとなったが、そのときに彼は、さらに悪いことに、ホリゾントに後頭部をぶっつけてしまった。軽い脳震盪《のうしんとう》が佐久間を襲《おそ》ったらしかった。彼は、
「ぐう」
と言う暇《ひま》もなく気を失ってしまった。
「まるでチャップリンみたいな野郎《やろう》だぜ」
ゴンが呆《あき》れたように言った。
「チャップリンは、主演し、監督《かんとく》をし、音楽を作り、ときには製作者をも兼ねる。つまり一人で三役も四役も受け持って自作自演するが、この佐久間もそれと同じだ。勝手に驚き、ナイフを落とし、そのナイフを自分の足首に刺し、それにまた驚いて飛びのいて転び、一人で壁に頭をぶっつけ、これまた勝手に脳震盪を起こしやがったぜ」
「とにかく手間がかからなかったのはありがたいことです」
おれは言った。
「しかし、わたしたちにはあまり勝利の美酒に酔《よ》っている時間はありません。早いとこ、ここを出て純子さんを駐車場《ちゆうしやじよう》の車のなかの明君に逢わせてやらなくちゃ……」
「うん!」
クロがうなずき、おれたちはさっきとは逆の順序でファスナーを引き上げ、スタジオの入口に向かって歩き出した。
「あなたって強いのねえ」
スタジオの入口に立っていた純子さんが言った。
「佐久間君はあれでかなりの猛者《もさ》なのよ。それをあなたはひとにらみ睨《にら》みつけただけでやっつけてしまったわ。いったい、あなたはどこのだれなの?」
おれたちはもとより犬であるから純子さんの質問に直接《じか》には答えることができない。そこで彼女《かのじよ》の問いはとりあえずすべて黙殺《もくさつ》し、おれたちは廊下《ろうか》を通って、東口から外へ出た。
「どうして黙《だま》っているの?」
純子さんはおれたちの後を追いながら、根気よく同じ質問を繰《く》り返している。
「なぜ、答えてくれないのよ。いったい、あなたはだれ? わたしの知っている人? ねえ、明さんとわたしを一緒《いつしよ》にさせてくれるってほんとう? でも、その明さんはいったいどこにいるっていうの?」
この質問を十回か十一回、背中で聞いているうちにおれたちは駐車場の教習車に着いた。そして、ドアを開け、純子さんに車のなかを指さしてみせた。
「あッ、明さん……!」
純子さんは車のなかへ叫《さけ》んだ。
「こんなところでいったいなにをしているの?」
「やあ、君か。ぼくがここでなにをしているかはその縫いぐるみの中の人間に聞いてほしいな……」
と言いながら明君は車のそとに飛び出そうとした。その明君のズボンの裾《すそ》をシェパードのキングが、がきっと歯を立てて噛《か》んだ。
「この連中には全くお手上げなんだ」
明君は肩を竦《すく》めてみせながら、再び躰《からだ》を運転席に戻《もど》した。
「この十分間にぼくは少なくとも二十回は、この車から逃《に》げ出そうとした。でも、そのたびに犬がぼくを唸《うな》ったり、噛みついたりして引きとめるんだ」
「ず、ずいぶんたくさんの犬がいるのねえ」
純子さんはこわごわ車の内部を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「すくなくとも二十匹以上はいるわね?」
「正確には二十九匹。三度数えて三度とも二十九匹だったから、間違《まちが》いない」
「この縫いぐるみがわたしに切り抜《ぬ》き活字の手紙をくれたのよ。わたしたちについてくれば明さんと逢わせてあげる、その手紙にはそう書いてあったわ。だからわたし、ついてきたの」
「ぼくも切り抜き手紙をもらった。ここで待っていれば、君を連れてきてやる、という手紙を、だ。たしかにやつは嘘《うそ》をつかなかった」
明君はおれたちを指さして、
「無口だが、やつには実行力があるらしいよ」
「喧嘩《けんか》も強いの。空手の名人の佐久間君をこの縫いぐるみはひと睨みするだけでやっつけてしまったの」
と、純子さんが車の運転席にまた一歩近づいたところを狙《ねら》って、ぼくたちは彼女の背中をとんと押した。
「なにをするのよ!」
純子さんは悲鳴をあげながら、運転席の明君の横に手をついた。が、その彼女を明君がたすけ起こして、
「おい、女性を乱暴に扱《あつか》うのはよせ!」
と、おれたちを睨みつけた。
明君が純子さんを庇《かば》うのはやはり彼女が好きだからだろう。これなら、おれたちの計画どおりに、明君は純子さんを連れてかけ落ちしてくれるにちがいない、とおれは思いながら、ファスナーを四、五糎引きおろし、そこからかねて用意の、第二の切り抜き活字の手紙をそっとさし出した。
「……また、切り抜き活字を貼《は》った手紙かい」
明君が腕《うで》をのばし、ひったくるようにして手紙をとった。
「こんどはなんだ? おれたちになにをしろ、というんだい?」
明君は手紙に目を落とした。純子さんも傍《そば》からそれをのぞきこむ……。
「ふうん」
切り抜き活字を貼った手紙を二読も三読もしてから、明君が深々と溜息《ためいき》をついた。
「愛を怖《おそ》れることは人生を怖れることである。そして人生を怖れる者は、すでに十中八、九は死んだも同然である……、ラッセルはさすがいいことを言うなあ。たしかに、ぼくたち、このままでは死にかけていると同じかもしれないね。なにしろ、ぼくたちは理不尽《りふじん》なことを押しつけてくる親に対してまったく闘《たたか》おうとしていないのだから」
純子さんはしきりにうなずいて明君の言葉に耳を傾《かたむ》けている。
「ただ心配なのは、家を飛び出すのはいいが、ぼくたちだけでやっていけるかということだ。ぼくたちはまず、どうやってお金を稼《かせ》げばいいのだろう?」
革新党書記長の息子《むすこ》がどうやって金を稼げばいいのか悩《なや》んでいる。が、これでは革新の名が泣く、とおれは思った。革新党とは、常識的には働く者の利益を代表する政党のはずである。したがって革新党書記長の息子としてはまっさきに「働こう。骨を粉にし肉を砕《くだ》いて働いて、愛するものをたべさせてやろう」と考えてしかるべきだ。なのに「働く」ことに気が付かないとは、明君よほどの坊《ぼ》っちゃん育ちにちがいない。彼の父親である革新党書記長はいったいどのような子どもの育てかたをしたのだろうか。もっとも、組合の委員長になることが「出世」とされ、委員長から会社の役職へ百八十度の転換《てんかん》をするのがもっともありふれた出世コースとされているこの日本国では、これは仕方のない現象なのかもしれないが。
「階級|闘争《とうそう》を!」と反体制勢力の人間属は本気で叫び、その階級闘争というものを体制側はかなり真剣《しんけん》に怖れている……、こういう光景をおれたちはしばしば見かけるが、じつはこれは眉唾《まゆつば》もので、日本に階級なんてものはありゃしないのだ。組合の代表が時がくれば簡単に資本家側に立ち、一介《いつかい》のサラリーマンが社長の椅子《いす》を襲《おそ》う可能性を持つなんて国に、階級の対立なぞあるわけはない。もし、それがあるとすれば、企業間においてであろう。高給・高|福祉《ふくし》の一流企業に働く全社員と、低給・低福祉の三流企業に働く全社員との間に「階級」はある。
そして革新党は三流企業の労働者に対してはなんの手も打っていないのだから、階級打破を旗じるしにしながら、じつは階級保存に協力しているわけで、これはとんだ猿芝居《さるしばい》である。したがって革新党書記長の息子が貴族の子弟《してい》よろしく「どうやってお金を稼げばいいのか」と途方《とほう》に暮《く》れるのは当然といえばまた当然のはなしでもあるのだが。
おれはシローが活字を切り抜いて手紙を作るために持っていた週刊誌に、新聞が折り畳《たた》んで挿《はさ》んであったことを思い出した。そこでその新聞をシローから取り上げ、すこし引きさげたファスナーの隙間《すきま》から明君や純子さんたちにそれを差し出した。
「……昨日の日付の新聞じゃないか」
明君は新聞にちらっと一瞥《いちべつ》をくれてから言った。
「この新聞がどうかしたのかい?」
おれは縫《ぬ》いぐるみの頭を何度も振《ふ》ってみせた。
「ぼくたちに関係のあることが、なにか書いてあるのだろうか」
明君は新聞を膝《ひざ》の上にひろげ、頁《ページ》をめくりはじめた。明君が新聞の頁を「求人案内」のところまでめくったとき、おれは短く「うーっ」と唸った。明君はぎくっとなって新聞をめくる手をとめた。
「はーん、なるほど」
明君がうなずいた。
「縫いぐるみのなかの怪人物《かいじんぶつ》は、ぼくたちに、この『求人案内』を読め、といっているらしいよ」
「ということは、仕事を探《さが》せ、ってわけね」
純子さんも合点《がてん》した。
「働いて自活し、家との絆《きずな》を断ち切ってしまいなさい、というのね」
「そういうことらしい」
「求人案内」の冒頭《ぼうとう》には「楽しく働いてください」と大きく印刷してあり、あとは頁|一杯《いつぱい》にさまざまな企業主が使用人を求めて、
「高給|優遇《ゆうぐう》」
「社保完・通勤費全支給」
「昼食支給」
「保養所旅行その他有」
「年経不問、誰《だれ》にでも出来る」
「日曜祝日休」
「寮《りよう》完備制服|貸与《たいよ》」
「正規従業員登用制度有」
「新人向け海外旅行制度」
「大型ボーナス年四回」
などなどと、美辞麗句《びじれいく》を連ねている。
ああでもないこうでもないと議論の末、二人が選んだのは、さる食品会社の立食いそばチェーン店の店員の口だった。
「立食いそばの店員ならすくなくとも喰《く》いっぱぐれはないな」
「それに年経不問よ。おまけに、誰にでも出来る簡単な仕事、とも書いてあるわ」
「しかも夫婦の方にはアパート貸与だってさ。……八時間勤務で二部|交替制《こうたいせい》ということはいままで通り大学にも通えるということだ。この栄養食品という会社に決めようか」
「決めてもいいけど……」
ここで純子さんがふっと考え込《こ》んだ。
「でも……」
「きみは夫婦にはアパート貸与というところに引っかかっているんじゃないのかい? ぼくは夫婦者ということでアパートを貸してもらおうと思っていたけど、まだぼくと一緒《いつしよ》の部屋に住む覚悟《かくご》ができていないというのなら、別々に住む工夫《くふう》をしてもいいんだよ」
「一緒に住むのは平気よ。わたしだってもう子どもじゃないんだもの。ただ、ここには男の給料が七万六千円、女の給料が六万七千円とあるでしょう。だから二人合わせて十四万三千円。ところがわたし、こないだシャンテリ製レースのカクテルドレスを誂《あつら》えたの。とてもすてきなドレス。それが三十二万するのよ。十四万三千円の給料じゃとても払《はら》えないわ。わたし、家出するのはドレスが出来上がってからにしようかな」
「なるほどなあ……」
明君の口調が心なしか元気がなくなった。
「そういえば、ぼくも今年のクリスマスにパパから車を買ってもらう約束《やくそく》だったんだ。家出は車を買ってもらってからにしようかな」
なんというお坊っちゃんにお嬢ちゃんたちであろう。この二人は生きて行くためにカクテルドレスや自動車がどうしても必要だと思っているのだろうか。生きるのだ、という強い意志さえあれば、人はそれで十分生きて行くことができるはずなのに、二人はそれを知らないようである。
「ちょっと妙《みよう》な風向きになってきたようだぜ」
縫《ぬ》いぐるみの下の方で泥棒《どろぼう》犬のクロが舌打ちをした。
「あの二人、ほっとくと家出をよしちまいそうだがね」
「なんとかなると思います。ここで一発、権威爆弾《けんいばくだん》を見舞《みま》ってやりましょう」
と、おれは言った。
「二人は大学生、いってみればインテリの卵でしょう。日本のインテリは権威爆弾には弱いんですよ」
「なんだい、その権威爆弾というのは?」
「つまり、有名人のコトバ、名言のたぐいを二人にぶっつけてやるんですよ。日本の知識人は権威に頼《たよ》って、それを後《うし》ろ楯《だて》にしてものを言うのが癖《くせ》になっているんですね。たとえばだれかがAという意味のことを述べる。それに対して別のだれかがマイナスAという反対意見を言う。このとき、Aという意見が正しいか、マイナスAという反論がより妥当《だとう》であるかは、意見そのものによってではなく、その意見を述べている人物が権威があるかないかで決められることが殆《ほとん》どなのです。『東京大学の教授が言ったのだから』『有名な作家がああ言っているのだから』『あれほどの人が言っているのだから』正しい、と判定するのですね。戦前の日本国では『天皇《てんのう》の名において』聖戦がなされ、人々は『天皇の名において』兵士にされ、『天皇の名において』税金をおさめさせられていたのですが、現今では、進歩的知識人はこの天皇制に対して『マルクスの名において』、あるいは『レーニンの名において』、また『毛沢東《もうたくとう》や金日成《きんにつせい》の名において』反対しています。これは目くそ鼻くそを嗤《わら》うのたぐいでしてね、ほとんど成果はありませんよ。そのうち、風の向きが変われば、マルクスやレーニンの名が天皇の名に逆もどりしてしまうだけです」
「そんなもんかね」
「そんなものです。日本の知識人の論文にやたらに他からの引用が多いのですが、これも権威主義的なものの言い方で、つまり知識人たちは『他人の名において』ものを言い、その他人がヨーロッパの偉《えら》い人間であるから自分の意見は間違《まちが》っていないと主張しているわけです。そこでこれを逆用してやるんです。たとえば、一時、新左翼《しんさよく》が進歩的知識人の支持を受けていたことがある。そのうちその新左翼がセクト化し内ゲバで殺し合いをはじめた。またテロで民間人を殺しはじめた。知識人たちは困ってしまいました……」
「なぜだい?」
「そういうゲバ学生を肯定《こうてい》するにせよ否定するにせよ、『他人の名において』ものを言うことが必要なのですが、この他人の名がなかなか見つからなかったのです。が、そのうちに格好《かつこう》な名前が見つかった。カストロやゲバラの名前がね。『人民を巻きぞえにしない、傷つけない、敵としない、でなければ人民戦争は成立しない』。いま、ほとんどの知識人たちは『ゲバラの名において』ものを言っているようです。誤解のないように言っておきますが、わたしは、たとえばゲバラの言葉は間違いだと言っているのではないのです。『トロツキーの名において』『ゲバラの名において』なにかを述べる、そういう日本の知識人のやり方に疑問を持っているだけ、そして、逆に、このやり方で日本のインテリを説伏《せつぷく》するのはとても簡単である、と指摘《してき》しているだけです。シロー君、ところできみは、なにかいい名言を知らないかい?」
「名言ですか?」
シローがおれの顔を見あげた。
「ぼくはほとんどの名言を暗記していますから、お役には立てると思いますが、どの手の名言をお望みです?」
「家出をためらっている恋人《こいびと》たちがその名言を耳にした途端《とたん》、勇躍《ゆうやく》、家を飛び出そうというようなやつ」
「かなり難《むずか》しい注文ですね」
「それもできるだけ有名な人物の言ったコトバがいい」
「ますます難しくなった。が、こんなのはどうです? 『人生はむずかしいひとつの謎《なぞ》だ。愛だけがその謎を解く』……」
「かなりいいね。それを言ったのはどこのだれだい?」
「ルドルフ・フォン・ゴットシャル。十九世紀ドイツの詩人ですよ」
「知名度がないな。だからだめだね」
「では『愛の悲劇というものはない。愛のないことのなかにのみ悲劇がある』というのはどうです?」
「家出|駈《か》け落《お》ちをしようとしている男女には持ってこいだが……」
「フランスの女流作家のモーリス・テスカのコトバです。彼女《かのじよ》は今世紀の作家ですよ」
「これもだめだな。そんな作家をだれも知らない」
「『愛はあばら家をも黄金の宮殿《きゆうでん》にする』は如何《いかが》ですか? ルートヴィヒ・ヘルティのコトバです。ヘルティは十八世紀ドイツの抒情《じよじよう》詩人ですが……」
「もっと有名人の言ったコトバはないのかい」
「じゃあ、ドストエフスキーはどうです?」
「ドストエフスキー? うん、いいね。彼《かれ》はロシアの作家のなかでも最もインテリに好まれている。ドストエフスキーでいこうじゃないか」
「彼の『地下生活者の手記』という作品の中の一節に『愛! じつにこれが人生のすべてだよ』というコトバがありますが……」
「それにきめた!」
おれはシローの肩《かた》をぽんと叩《たた》いた。
「そのコトバを切り抜《ぬ》き活字で綴《つづ》ってくれ」
シローはうなずいてさっそく「愛」という活字を週刊誌の中に探しはじめた。
その間に、おれは覗《のぞ》き穴《あな》から車内の明さんと純子さんの様子を窺《うかが》う。
「……じゃあ、家出は来年まで考え直すことにしようか。きみの顔を見たいときに見ることが出来ないのは残念だけど、準備もせずにいきなり駈け落ちというのはやはりすこし冒険《ぼうけん》がすぎるかもしれないものな」
言いながら明君は純子さんの髪《かみ》の毛をやさしく撫《な》でている。
「生活の苦労をしすぎて愛が|さめる《ヽヽヽ》、なんてことになってもいけないし……」
「ええ。それまでわたしはお小遣《こづか》いをためるわ。駈け落ち資金を作る……」
「ぼくもそうするよ」
二人がうなずき交《か》わして、車から出ようとしたとき、シローがおれの鼻先に切り抜き活字を貼《は》った紙を掲《かか》げた。おれはその紙を引き下げたファスナーの隙間《すきま》から二人に差し出した。そのときにちらっと見ると、紙にはこんな文章が切り抜き活字を並《なら》べて貼ってあった。
「それでよいのか。愛の成就《じようじゆ》を来年までのばしていいのか。ドストエフスキーも愛! じつにこれが人生のすべてだよ≠ニ言っているがね?」
「へえ、ドストエフスキーがこんなことを言っていたのか」
明君は切り抜き活字を貼った手紙を純子さんに見せながら言った。
「……『愛! じつにこれが人生のすべてだよ』か。いいコトバだね」
「それは当然よ。なにしろ、ドストエフスキーだもの」
おれの計算通りだった。二人ともドストエフスキーの権威に乗っかり始めたようである。
「ぼくたちは弱虫すぎたかもしれない」
明君がぎゅっと手紙を握《にぎ》りしめた。明君の顔にはすでに生気が満々とみなぎっている。
「ここで引っ込《こ》んだんじゃあぼくたちはまだ|ねんね《ヽヽヽ》だ。やってみるかい?」
「やってみましょうよ」
「栄養食品株式会社の本社はたしか銀座のMデパートの裏だったはずだ」
明君は新聞の求人案内の載《の》っている頁《ページ》をぱちんと手で叩いた。
「行ってみよう。……きみ、ついてきてくれるね?」
純子さんがきっぱりとうなずいた。
「レースのカクテルドレスはもう二度と買えないかもしれないよ。それでもいいかい?」
「ええ、いいわ。愛さえあればカクテルドレスなんかなくったって生きて行けるわ」
「よし。ぼくも車は諦《あきら》めた」
明君は純子さんをやさしく押しながら車から降り、おれたちに向かって言った。
「縫いぐるみの中にいる怪人物《かいじんぶつ》さん、きみはぼくたちの人生の教師だ。ぼくたちに生き方を教えてくれたことに礼を言いたいんだけど、その縫いぐるみから出て、顔を見せてくれるわけには行かないだろうか?」
お望みなら縫いぐるみを脱《ぬ》いでも構わないが、おそらく、二人は犬からドストエフスキーのコトバを教わったことをあまり名誉《めいよ》なこととは思うまい。そこでおれは縫いぐるみの頭を横に振《ふ》った。
「そうか。それならぼくたちはこれで失礼するよ」
明君はおれたちに手をさしのべてきた。縫いぐるみの両手を操っているのは平吉である。平吉がおれたちを代表して明君の手を握り返した。
「あなたのご恩は一生忘れないつもりだ。ドストエフスキーのコトバを座右の銘《めい》にして、がんばってみるよ」
明君は純子さんの肩に手を回して、駐車場から渋谷《しぶや》公会堂の通りの方へ歩いていった。二人の新しい出発のためになにか結婚祝《けつこんいわ》いを贈《おく》りたいとは思ったが、むろん、おれたちにその準備はなかった。そこで結婚祝いのつもりで、おれたちは二人の背中を長い間見送った。見送っているうちにひとつ思いついたことがあったので、おれは車のなかの亀戸《かめいど》の三八《さんぱち》に言った。
「三八さんはたしか刑事《けいじ》のところで飼《か》われていたはずでしたね」
三八が車の中から飛び出してきて、
「おっと、その先は言いっこなしですよ。刑事の飼い犬なら尾行《びこう》が得意だろうとおっしゃるんでしょう。まかしといてください」
と、言った。
「あの二人の行き先をつきとめて報告しますよ。連絡《れんらく》のために仲間を二、三匹、おかりして行きます」
「明君たちの行く先をつきとめる必要なんてないと思うがね」
柴犬《しばいぬ》の平吉が言った。
「あの二人の行く先は銀座のMデパート裏の栄養食品という会社だということはとっくにわかっているはずだ」
「そこは本社ですよ」
おれは平吉の過《あやま》ちをただした。
「明君たちは一応、銀座の本社で面接を受けますが、配置されるのは都内のどこかの、立ち食いそばのスタンドです。刑事犬の三八君に、そのスタンドをつきとめてもらいたいのです。それに出来れば二人が住むことになるアパートも、です」
平吉は黙《だま》った。三八は仲間を三匹ひきつれて、明君たちの後を追った。その背中におれは叫《さけ》んだ。
「わたしたちの連絡本部はこの駐車場です。なにかわかったら、連絡犬をここへよこしてください!」
三八は了解《りようかい》したという印《しるし》に尻尾《しつぽ》を二、三度ぴこぴこと振って、公会堂の向こうへ見えなくなってしまった。
「三日坊主《みつかぼうず》というコトバがありますが、明君と純子さんが立ち食いそばのスタンドの店員として働く日数もそんなもの、三日がせいぜいでしょう」
おれは縫《ぬ》いぐるみのファスナーを引きおろしながら、シェパードのキングに言った。
「まあ、しかし、三日あればお銀さんや長太郎君の救出には十分ですから、どうということもありませんが」
「と、わしも思うが、しかしそれでこれからの行動はどういう具合になるのかな」
キングが言った。
「ここまでの君の采配《さいはい》ぶりはまことに奇抜《きばつ》で、またおもしろかった。この先もこんな調子で運べばよいが」
「これからの仕事は簡単です。明君と純子さんの家へまた切り抜《ぬ》き活字を貼《は》った手紙を投げ込《こ》みます。それで両家は火のついたような大さわぎになりますよ。そのどさくさにまぎれてお銀さんたちを助け出すだけです」
「その手紙の文面を教えてくれませんか」
これもまた縫いぐるみの中から出ていたシローが訊《き》いてきた。
「いまのうちに手紙をこしらえておきますから……」
「脅迫状《きようはくじよう》だから文面は簡潔《かんけつ》にいきたいと思うんです。明君の家には『明はおれたちが預かった。身代金《みのしろきん》についてはあとで連絡《れんらく》する。警察に知らせたら明の命はない』と、こんなところかしらん。純子さんの家には『純子の命はおれたちの手中にある。身代金を出せば無傷で返してやる。警察には知らせるな。知らせれば葬式《そうしき》を出す破目になるぜ』と、これでいいでしょう」
「わかった」
シローはさっそく車体の下にもぐりこみ、そこを仕事場に脅迫状の製作にかかりはじめた。
「番組はどうなるだろうね?」
キングが訊いた。
「主役の明君が失踪《しつそう》してしまってはビデオテープがまわせまい」
「それも計算に入っています。まずディレクターが騒《さわ》ぐ。そのうちに念のために明君の家へ電話を入れてみようということになる。むろん明君は家に帰っていない。そこへわたしたちの脅迫状が届く。そうなればいかにも誘拐《ゆうかい》が真実らしく見えてくるでしょう?」
「なるほど」
キングがうなずいたとき、東口の方でだれかが、
「明君! 純子さーん!」
と、叫んでいるのが聞こえた。見ると、例のディレクター女史を先頭に若い男たちが数人、こっちへやってくるところである。
「さっそく探《さが》しにやってきましたよ」
おれは車体の下にもぐり込みながらキングたちに言った。
「犬が三十|匹《ぴき》もとぐろを巻いているところを見られるのは拙《まず》い。みんな隠《かく》れてください」
あるものは車内へ、またある者は車体の下へ、あッという間に身をひそめる。駐車場《ちゆうしやじよう》のコンクリ床《ゆか》の上には、おれたちの脱《ぬ》ぎ捨てた縫いぐるみが蛇《へび》の|脱けがら《ヽヽヽヽ》のように残っているだけである。
「……たしかに縫いぐるみと、あなた方の言っている純子さんらしい娘《むすめ》さんは、この車の中に入ったのです」
黒|皮靴《かわぐつ》に濃紺色《のうこんいろ》のズボンが車の横、おれのすぐ目の前で立ち止まった。どうやらこれは東口の守衛のようである。
「わたしがこの目で見ていたのですから、それはたしかですよ」
「明君はここで縫いぐるみを脱いだ。そして彼の姿はどこにも見えない……」
踵《かかと》の部厚い靴をはいたパンタロンが縫いぐるみを蹴《け》っとばした。これは言うまでもなくディレクター女史である。
「……つまり、明君と純子さんは逃《に》げたんだわ」
「申し訳ありません」
ズック靴にジーパンがパンタロンの前に進み出た。これはたぶんJ大学人形劇研究会のリーダーかなんかだろう。
「明のかわりにぼくがピンチヒッターで縫いぐるみの中に入らせてもらいます。芝居《しばい》のきっかけは知っているつもりですから、なんとかやれると思いますが……」
「そうねえ。それ以外に方法はなさそうね、なにしろ、もう五分でVTRスタートなんだから。それにしても、明君たちはいったいどうしたというのかしら?」
「ぼくにもよくわかりません。|やつ《ヽヽ》は気が小さい男なんです。ですから、約束《やくそく》を簡単にほうりだす勇気《ゆうき》はないはずなんですが……」
「恋《こい》の力がそうさせたのかしら?」
「はあ?」
「おや、あなたは人形劇研究会のリーダーなのになにも知らなかったの。明君と純子さんは恋人同士だったのよ」
「そうですか。たしかに二人は仲がよかったようですが、そこまで話が進展しているとは思いませんでした。……しかし、二人が恋仲である、という確率は低いと思うなあ」
「なぜ?」
「明君の父親は革新党の書記長です。そして純子さんの親父さんは保守党の大立物です。恋なんかしても、その恋がまとまりにくいことは二人ともよく知っていたと思うのですが……」
「だからこそ、恋仲になったのよ。恋風というものはいつも吹《ふ》いてはならない方へ吹いてしまうものなの」
「そういうものですか」
「そういうものよ。さて、それではスタジオに戻《もど》りましょう。縫いぐるみはあなたが着てちょうだい」
「はい」
このとき、ひと吹きの風が車体の下を通り抜《ぬ》けた。ただ通り抜けたのならなんということもなかったが、風はそのついでにシローが完成したばかりの二通の脅迫状を車体の下から、ディレクター女史の足元へ運んでいってしまったのである。おれたちは蒼《あお》くなった。
「おや、まあ、なにかしら、この紙切れは?」
ディレクター女史が、切り抜き活字を貼った脅迫状を拾いあげた。
「ほう、新聞か週刊誌か知りませんが、そんなものから切り抜いたような活字が貼ってありますな」
ガードマン氏が女史の手元を覗《のぞ》き込んだ。
「誘拐犯人《ゆうかいはんにん》が身代金を要求するときに送りつけてくる脅迫状とよく印象が似ておりますよ」
「誘拐犯人の脅迫状ですって? まさか。ここは放送局、たしかに夢《ゆめ》物語や架空《かくう》のおはなしや絵空事《えそらごと》のドラマを作って送り出す工場だわ。でも、だからってここで働いている人間がすべての出来事を絵空事のドラマとして受け取るというのは変よ。これはただの紙っ切れ。誘拐犯人の脅迫状を拾うなんて確率は一千万円の宝くじに当たる確率よりも低いんじゃないかしら……」
言いながら紙っ切れを読んでいたディレクター女史が、やがてがたがた震《ふる》え出した。
「どうしました? 風邪でも引いたんですか?」
ガードマン氏は心配そうな表情になって女史の顔をみた。
「それで寒気でも? もしそうなら胡麻《ごま》玉子というやつを飲んでごらんなさい。たいていの風邪なら一遍《いつぺん》で吹っ飛んでしまいますよ。これはわが家に代々伝わる秘伝ですが、その作り方をこっそり教えてあげます。まずですな、卵の黄身を一個分コーヒー・カップに入れてかき混ぜます。そして卵の黄身と同量の胡麻油と、ほかに少量の蜂蜜《はちみつ》を入れ、湯立ったお湯を注ぎ込む。そして手早くかきまわして、ふうふういいながらいただくんですな。これはあなた効《き》きますよ。ご婦人の前でなんですが、回春剤《かいしゆんざい》としても抜群《ばつぐん》ですわ。わが家系は多産系で、わたくしなど子どもが七人もおりますが、これも多分、この家子相伝・胡麻玉子の効き目によるものじゃないかと……」
「黙《だま》って!」
女史はガードマン氏を制した。
「おじさんが言ったとおりだったわ」
「……といいますと?」
「これは明らかに誘拐犯人の脅迫状よ」
「またまたまた……」
こんどはガードマン氏が信じない。
「こんなところに脅迫状など落っこっているものですか。わたくしはこの仕事の前は警察官でした。しかも本庁の刑事《けいじ》でした。しかし、そのわたしでさえ、脅迫状が道に落ちていたなんてはなしは聞いたことがありませんよ。つまり誘拐犯人はそれほど間抜けではない」
「じゃ、自分の眼《め》でたしかめなさいよ」
女史は二通の脅迫状をガードマン氏の手に押しつけた。ガードマン氏は脅迫状を読み進むにつれ女史同様がたがた震えだした。
「た、たしかに本当のようですなあ」
「でも、ひょっとしたら狂言《きようげん》かしら?」
「とは思えませんが……」
おれは二人のやりとりを車体の下から観察しながら、人間とはおもしろい生物だなあ、と思った。一方が信じれば他方はそれを否定する。そして一方が他方にひきずられて否定しはじめると、こんどは他方が信じる。つまりたがいに相手とは逆のことを考えながら平衡《へいこう》をとって行くわけで、この平衡感覚は残念ながら犬にはない。犬の場合は「一犬|影《かげ》に吠《ほ》ゆれば万犬声に吠ゆ」で、すぐ付和雷同《ふわらいどう》してしまう。人間が「民主主義」という制度を生み出せたのはおそらくこの平衡感覚にあるのだろう。
「やはりこれは現実のことではないと思うわ」
ディレクター女史は楽天主義の立場をとることに決心したようである。
「この脅迫状は嘘《うそ》よ。だれかが暇潰《ひまつぶ》しに面白半分《おもしろはんぶん》でこしらえ、そして捨てたのが風に吹かれてここへ飛んできたのよ」
「そう簡単に結論を出してしまっていいものですかねえ」
元刑事のガードマン氏はすっかり非楽天論者に転向してしまっている。
「もうすこし考えないと……」
「じゃあ、こういう考えはどうかしら。これは局のどこかの部で制作したドラマの小道具である……」
「小道具ですか、これが?」
「とにかく、どこかの部で誘拐を扱《あつか》ったドラマを制作した。そのドラマで使ったのがこの脅迫状。使用済みとなって捨てられ、それが風に運ばれてここまで飛んできていた……」
「あり得ませんな」
ガードマン氏は言下に否定した。
「ここは公共放送です。公共放送では誘拐を扱ったドラマなんて作り得ませんよ。それはディレクターであるあなたがいちばんご存知《ぞんじ》のはずでしょう。それがわが協会の制作するドラマのつまらなさの原因になっているとはいえ、明るく、楽しく、善意に溢《あふ》れ、家族|揃《そろ》って観賞できる、というのがわが協会のドラマの条件……」
「こんな考え方もあるわ。この明君と純子さんという名前にはわたしじつは心当たりがあるの」
「ほう……。それを早くおっしゃっていただきたかったですな」
「明君は革新党佐山書記長のひとり息子、純子さんは保守党の大物鈴木栄太郎氏の愛娘《まなむすめ》、二人ともJ大学人形劇研究会会員でわたしの番組の出演者。そしてこれは重要なことだけど、二人は目下あつあつの恋仲……」
「むむむむっ」
ガードマン氏は眼を剥《む》いた。
「そ、それで?」
「しかも二人が交際するのを双方《そうほう》の親は苦々《にがにが》しく思っている。それをわたし知っていたので、さっき明君にはっぱをかけてやったところなのよ。『愛を貫《つらぬ》き通しなさい。二人で駈け落ちしたっていいじゃないの』と。明君はその気になった。そこでこんな脅迫状まがいのお別れの手紙を残して姿を消した……。この脅迫状はつまり洒落《しやれ》よ。いまの学生はなんでも洒落にしてしまう傾《かたむ》きがあるし、きっといまわたしの言ったことが真実よ」
「いや、洒落とは思えませんな」
「じゃなに?」
「証拠《しようこ》はありませんが、元刑事の直感では新過激派《しんかげきは》の仕業《しわざ》ではないか、と……」
「新過激派ですって?」
こんどは女史が目を剥いた。
「まさか! それは考え過ぎだわ」
「新過激派と言うのは、過激派のさらに新しい一派でしてね、これまでの過激派がどっちかといえば、漫然《まんぜん》たる行動をとっていたのに較《くら》べ、彼等《かれら》の攻撃《こうげき》目標の捉《とら》え方はより尖鋭《せんえい》になってきている。これまで街頭で|なんとなく《ヽヽヽヽヽ》爆発《ばくはつ》させていた爆弾《ばくだん》を特定の個人に、政府要人、大企業《だいきぎよう》経営者に、という具合に焦点《しようてん》をはっきり絞《しぼ》ってきているのです。つまり、大衆に迷惑《めいわく》をかけてはとどのつまりは不利だ、と考えて、否定すべき目標にいままでよりさらに接近して攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けようとしている。政治家子弟の誘拐、彼等はいつかこれをやり出すだろうとは思っていたんですが、とうとうその気になり出しましたねえ」
「とにかくわたしには番組を作るというさしせまった仕事があるわ」
ガードマン氏の長広舌《ちようこうぜつ》にうんざりしていたらしいディレクター女史は縫いぐるみをくるくるとまとめて手に持って、はっきりと言った。
「間もなくランスルーだわ。この一件に関してはすべておじさんにおまかせします」
言い置いて女史は駈け足で東口の方へ戻っていった。
「まったくいまの若い連中ときたら無責任な……」
ガードマン氏は女史の背中に向かって三つ四つ舌打ちをし、
「なにもかも年寄りに押しつけて居《い》なくなってしまうんだからな」
丁寧《ていねい》に二通の脅迫状を胸のポケットに仕舞《しま》い込《こ》み、駐車場の横手の赤電話の方へ歩き出した。
「念のためにかつてのわしの古巣《ふるす》である本庁と、鈴木・佐山の両家に電話をしておこう」
「どうするかね、ドン松五郎君?」
キングがおれに言った。
「これまではわしらが主導権を握《にぎ》っていた。がしかし、いまやあのおじさんの手にすべての鍵《かぎ》が握られているようだよ」
「かえって好都合です」
と、おれは答えた。
「誘拐|騒《さわ》ぎを演出し、その混乱に乗じてお銀さんと長太郎君を救出するという作戦の基本は変わっていません。ただ、作戦の決行がすこし早まっただけです」
「ならいいが……」
キングは吻《ほつ》としたように尖《とん》がらかした肩《かた》をまるくした。
「それでわしらのとるべき次の行動は?」
「松濤町《しようとうちよう》の鈴木・佐山の両家へ急行することです」
「渋谷松濤町はわたしの地元です」
渋谷のハチ公が車体の下から外へ這《は》い出しながら言った。
「ご案内いたしますよ。松濤町は犬の足でここから西へ十二、三分のところにあります。すぐです」
「よし、頼《たの》む」
おれも外へ這い出した。他の仲間がおれの後に続いた。
「ちょっと待った」
クロがハチ公の後について走り出したおれたちに声をかけた。
「ちょいとひと仕事してくらあ。なに手間はとらせねえ。十数えている間に済む仕事だ」
クロは十米ほど逆戻りして、駐車中の小型トラックの荷台へ姿を消した。トラックの脇腹《わきばら》には『工藤精肉商会』と書いてあった。
「へっへ、お待《ま》ッ遠《とお》さん」
間もなくクロが人間が就寝時《しゆうしんじ》に用いる枕ほどの大きさのビニール包みを啣《くわ》えておれたちのところへ戻ってきた。
「肉を頂戴《ちようだい》してきたのよ。ここの食堂のカレーライスにでも入れるつもりなんだろう、あんまり上等の肉じゃないが、ドン松五郎さんよ、お銀さんや長太郎君にまさか手ぶらで逢《あ》いに行くわけにはいかねえだろう。お土産《みやげ》にしなよ」
まったくよく気がつく犬だ。おれはクロの好意に感謝しつつ、肉を啣えてハチ公のあとを追いかけた。
東口の方から『肉の工藤』という胸マークの入った白衣を着た男が、小型トラックの方へ戻ってくるのが見えた。肉を何回にもわけて運び込んでいるのだろうが、彼はその隙《すき》に乗じられたわけで、まことに気の毒である。
おれたちの戦い
渋谷《しぶや》のハチ公の先導で、おれたちは十二、三分後に、松濤町《しようとうちよう》に到着《とうちやく》した。品のいいたたずまいの、閑静《かんせい》な屋敷町《やしきまち》である。この町を一列になって行進するうち、おれは、自分の神経がすこしずつ、ぴりぴりしてくるのを感じはじめた。おれはシェパードのキングの横へ行き、並《なら》んで歩きながら、言った。
「……どうも胸騒《むなさわ》ぎがしはじめたんです」
「胸騒ぎ、だと……?」
「はい。いやなことが起こりそうな予感がするんですよ」
「それは気になるはなしだな」
キングは眉《まゆ》の間を寄せて、心配そうな表情になった。
「他の連中の予感はいざしらず、きみの予感の的中率は高いからな」
キングは仲間の犬たちに、
「全隊止まれ!」
と、命令した。
「いまから小休止をする。左手に松濤公園があるが、そこで疲《つか》れを休めよう」
「まだ十五分も歩いてませんよ」
平吉が言った。
「疲れを休めようったって、疲れてないんだから休みようがありませんや」
「屁理屈《へりくつ》はよしなさい」
キングは平吉を制してから、ぼくを目で促《うなが》し公園に向かって歩き出した。
「ところで、ドン松五郎《まつごろう》君、きみのその不吉な予感というのを、もうすこし詳《くわ》しく話してくれんかね?」
「そうですねえ。……第一に松濤町に近づくにつれてその予感がたかまってきました」
「それから?」
「第二は、これと同じ予感を前にも一度、感じたことがあります」
「前にも一度……? それはどんなときだったかね?」
「……それがはっきり思い出せないのです」
「それは残念だ」
キングは地面に腰《こし》をおろした。
「第三、この予感は事件《ヽヽ》に対するもの、というより人《ヽ》に対するものらしいように思われます」
と、おれもキングの隣《となり》に腰をおろそうとした。が、そのとき、公園の前の通りをぶらぶらと三人組の男女の歩いて行くのが目に入った。
「わかりましたよ、キングさん……」
「なにが?」
「なぜこの予感が起こったか、がです。ごらんなさい、公園の前を三人組の男女が通って行くでしょう?」
「うん? ……うむ。ヒッピー風のいでたちをしとるな」
「彼等《かれら》はじつはJ大学の食用犬愛好クラブのクラブ員なんです。野犬を捕《とら》え、さまざまな調理をほどこして喰《く》う、というのが彼等の属するクラブの、クラブ活動なのです。あの三人は前に主人のところへ訪ねてきたことがあり、それで憶《おぼ》えているのです」
「……危《あぶな》いところだったな。この公園で小休止せずに、あのまま行進を続けていたら連中に見つかっていただろうよ。やれやれ……」
「まったくやれやれです……」
だが、そのとき、三人組が一斉《いつせい》にこっちを振《ふ》り返った。ゴンとふざけていた平吉がワンワンと吠《ほ》えてしまったのだ。
「おや、ごらん。公園の中は犬だらけだ」
おれたちの憩《いこ》う松濤公園を、通りから覗《のぞ》き込《こ》んだ三人組のうちのひとり、ジーパンにサングラスの女が言った。この女はJ大学食用犬愛好クラブの、たしかリーダーだったはずである。
「犬の啼《な》き声はわたしの胃袋《いぶくろ》の目覚《めざま》し時計《どけい》、犬の匂《にお》いはわたしにとって食欲増進のためのアペリチフ、ああ、口の中が涎《よだれ》でびしょびしょだわ」
女リーダーは左右の男たちにこんな恐《おそ》ろしいことをのたもうた。
「うーん、犬のタータル・ステーキがたべたくなっちゃった」
「犬のすき焼もいいけどね、生肉《なまにく》を薄《うす》く切った刺身《さしみ》もこたえられないからな」
女リーダーの左に立っていた背高ノッポが舌嘗《したな》めずりをした。右のずんぐりむっくりが、
「しかし、犬はうどんと一緒《いつしよ》に煮込《にこ》むのがいちばんだよ」
と、口元から流れ出した涎を手の甲でしきりに拭《ぬぐ》っている。
「ねえ、われらがリーダー、さっそく五、六匹、犬を捕《つかま》えようよ。そして、その五、六匹をそれぞれステーキや刺身や肉うどんにして食べて、どうして食べるのが一番か決めようよ」
「賛成だな」
と、背高ノッポがずんぐりむっくりに同意して、手に持っていた大きな、黒い鞄《かばん》を地面に下ろした。
「道具《ヽヽ》も持ってきてあるよ、リーダー。さっそく始めようよ」
道具とはいったいなんであろうか、あの古典的な、棒の先に針金《はりがね》の|輪っか《ヽヽヽ》をくっつけた|やつ《ヽヽ》だろうか。それとも近ごろ開発された「囮《おとり》方式」だろうか。囮方式というのはメス犬に乳牛からとった卵巣機能促進《らんそうきのうそくしん》ホルモンを注射し、これを囮にするというやり方だ。注射されたメス犬はたちまち発情し、四方八方へ、あの|悩ましい春の匂い《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を発散する。そしてオス犬がこの匂いに釣《つ》られて寄ってきたところをポカリ……。
「みんなに集合するようにいいましょうか」
おれはキングに進言した。
「ここから早く逃《に》げ出すべきだと思います」
「慌《あわ》てないでもよろしい」
キングが答えた。
「あの女リーダーはすくなくとも今は、犬を捕えようとは思っておらぬらしい」
「そんなことがどうしてわかるんです?」
「表情だよ。彼女《かのじよ》の表情によってわしはそう判断したのさ。わしは警察犬として大勢の人間の顔を見てきたが、その経験でものを言えば、彼女にはやる気はなさそうだ」
キングの言は正しかった。女リーダーが背高ノッポとずんぐりむっくりをこう怒鳴《どな》ったのだ。
「馬鹿《ばか》だねえ、二人とも。もう十一時だよ。十一時にわたしたちは鈴木栄太郎衆議院議員と面会する約束《やくそく》がある。わたしたちはだいたいそのために早起きしてえっちらおっちらやってきたんじゃないか。ひょっとしたら鈴木代議士はあたしたちのクラブにぽんと百万円ぐらい寄付してくれるかもしれない。犬を捕えるのは後にしよう。さ、おいで」
言うと女リーダーはくるっと躰《からだ》をまわし、通りの向こう側の大きな門構えの屋敷の中に消えてしまった。ずんぐりむっくりと背高ノッポはあわてて女リーダーの後を追った。
「キングさんのおっしゃったとおりでしたね」
おれはキングに敬意を表して尻尾《しつぽ》を振《ふ》った。
「やつらは行ってしまいました。そしてやつらの入って行った家が鈴木栄太郎の家だとすれば、その左隣《ひだりどなり》のあの家がハチ公の飼《か》われていた家、そしてそのまた左隣が佐山家ということになります」
「シロー君!」
J大学食用犬愛好クラブの三人組が鈴木栄太郎邸に姿を消すのを見届けてから、おれはゴンやハチ公たちとじゃれあって遊んでいたシローを呼んだ。
「なにごとですか、ドン松五郎さん?」
シローがおれの傍《そば》へ寄ってきた。
「なにか御用で……?」
「鋏《はさみ》と週刊誌と台本の、脅迫状《きようはくじよう》製作のための三大道具をまだお持ちですね?」
「ああ」
シローが砂場の方へ尻尾を振りながら頷《うなず》いた。
「砂場に掘《ほ》った穴の中に隠《かく》してありますよ」
われわれ犬属は、大切なものを、煩瑣《はんさ》になるのはいとわずに、いちいち穴を掘って埋《う》めておくという習性を持っている。したがってシローのこの措置《そち》は犬属としてはまことに妥当《だとう》といわねばならぬ。
「せっかく埋めたところなのに申し訳ありませんが、大至急、脅迫状を二通、作っていただけませんかね」
「あて先は?」
「鈴木栄太郎氏と佐山徹氏あてで……」
「純子さんの父親であり、同時に保守党の大物代議士でもある鈴木氏と、明君のお父さんであり、革新党書記長でもある佐山氏へ、ですね。よござんす。で、脅迫状の文面はいかがいたしましょう?」
「……お子さんはおれたちが預かっている。じたばたせずに、次の連絡《れんらく》を待て。……という文面でどうでしょうか?」
「結構でしょう。では、暫時《ざんじ》のあいだお待ちを……」
シローは砂場へ飛んで行き、四本の肢《あし》を忙《いそが》しく動かして、砂を掘りはじめた。
「ドン松五郎さん……」
ハチ公がシローに代わっておれの前に出た。
「わたしの家は目の前にあります。鈴木家と佐山家の間に建っている小さな門構えの家がそうなのでして……。家へちょいと顔を出してはいけませんか」
「いまはちょっと拙《まず》いですねえ」
と、おれは答えた。
「わたしたちには鈴木・佐山の両家に脅迫状を投げ込む仕事が残っております。その最中を人に見られたくはないんですよ。ハチ公さんの気持ちはよくわかりますが、あなたが門前で家の方と抱《だ》き合われたりすると脅迫状を投げ込みにくくなります。飼《か》い主《ぬし》との邂逅《かいこう》はその後ではいけませんか」
「……仕方がありません」
ハチ公は尻尾を股《また》の間にはさみ、すごすごと引きさがった。入れかわって、シローが脅迫状を二枚|啣《くわ》えて戻《もど》ってきた。
「……出来ましたよ」
「ご苦労さま」
おれは二枚を口に啣え、ゴン、クロ、平吉に目で合図して、公園から出た。そしてまず、鈴木家の郵便受けの下で、ゴンたちに犬櫓《いぬやぐら》を作ってもらい、その上に駈《か》け上がって脅迫状を投函《とうかん》した。次に佐山家の郵便受けにも同じようなやり方で脅迫状を落とし込んだ。
この作業の終わるのを見計らって、渋谷のハチ公が公園から飛び出し、鈴木家と佐山家の間にある小さな家――門柱には「小山文樹」と墨字《ぼくじ》で書いた表札《ひようさつ》がぶらさがっていた――の前で、
「ただいま、ただいま!」
と、吠《ほ》え立てた。
「あらまあ、ハチ公ちゃんじゃない?」
とたんに声がして、門の中から年の頃《ころ》は五十前後の小柄《こがら》な婦人が走り出てきた。察するにこの婦人が小山夫人であり、ハチ公の飼い主なのであろう。
「まあまあ、やっぱりハチ公ちゃんだわ」
小山夫人は地面に蹲《しやが》み、ハチ公に向かって両手をさしのべた。ハチ公は尻尾を千切れんばかりに振りながら、小山夫人にとびついた。
「お懐《なつ》かしゅうございました、ご主人さま。お元気でなによりでございます」
ハチ公は涙声《なみだごえ》で啼《な》いた。
「それにしても御主人さまにはつつがなくお暮《く》らしのようで恐悦至極《きようえつしごく》でございます」
「どこへ行っていたのよ、ハチ公ちゃん。ずいぶん心配したわよ」
小山夫人は両の頬《ほ》っぺたをハチ公の舐《な》めるがままにまかせている。
「性悪《しようわる》犬の仲間でもできて、その連中に誘《さそ》われて家出をしたのか、それとも保健所の狂犬病《きようけんびよう》予防技術員にでも捕《つか》まってしまったのか、そのどっちかだろうと半分|諦《あきら》めていたところだったのよ。それにしてもよく帰ってきたわねえ。ご褒美《ほうび》にご馳走《ちそう》をあげますよ。今夜はすき焼にするつもりでお肉を買ってあるの。それをお裾《すそ》わけするわ。いらっしゃい」
小山夫人はハチ公を胸に抱《だ》きかかえ、頬《ほお》ずりしながら門内に入った。
「なんとうるわしい光景ではないか、のう」
キングがおれに言った。
「犬と人間との友情はなべて今の如《ごと》くであらねばならんよ」
「まったくです」
おれは頷いたが、そのとき、円山町《まるやまちよう》の方角、すなわち左手から、疾走《しつそう》してきた二台の黒塗《くろぬ》りの車がタイヤをきしませながら鈴木家の前に急停車した。
「……おや、なんでしょう?」
おれが訊《き》くと、キングが、
「刑事《けいじ》たちじゃよ」
と、答えた。
「すり切れたレインコートにすり減った踵《かかと》の靴《くつ》、それから埃《ほこり》っぽい匂《にお》い、鋭《するど》い目つき、素早《すばや》い目さばき、……いずれも刑事の特徴《とくちよう》だよ」
「刑事? するとさっきの、放送センターの東口のガードマンは本当に警察に電話したんですね?」
「そういうことになるな」
キングは重々しく縦にひとつ首を振った。
二台の車から降りた刑事たちは都合六人だった。
「くどいようだが、もう一度、念を押しておく。いいか、このふたつの事件《やま》は同一犯人《どういつはんにん》によるものだ……」
葉巻を指の股《また》にはさんだもじゃもじゃ頭の小柄な刑事が他の五人に言った。このもじゃもじゃ頭がおそらく一行の棟梁《とうりよう》なのだろう。
「しかも、これは単純な誘拐《ゆうかい》事件ではない」
もじゃもじゃ頭の刑事は煙突《えんとつ》よろしくもくもくと葉巻の煙を鼻の穴から吹《ふ》き出す。
「つまり営利誘拐ではなく、政治的誘拐だ。与党《よとう》と野党とをそれぞれ代表する政治家の子弟《してい》を攫《さら》って人質にし、なにかしらんが政治的な要求を、犯人どもは通そうとしておる。わしの勘《かん》では犯人どもは……」
「主任は、だれだとお思いです」
五人の中でいちばん若い刑事がもじゃもじゃ頭に訊いた。もじゃもじゃ頭の刑事はしばらくの間、また鼻の穴を煙突がわりにしていたが、やがて、
「……過激派《かげきは》分子の仕業《しわざ》だろうな」
と、言った。
「このごろはわしら刑事も仕事が楽になったね。ちょっとした事件はみな犯人は過激派分子らしいと言っときゃいいのだから。ま、それはとにかくとして、ここで二班に分かれよう。わしは鈴木家に行って様子を聞いてくる。きみは佐山家へ行ってみてくれ」
きみ、ともじゃもじゃ頭に言われたのは、長身|長髪《ちようはつ》の、部厚い眼鏡をかけた刑事である。それは円型の金縁《きんぶち》の眼鏡で、ビートルズのジョン・レノンがかけているものと似ている。長髪でジョン・レノン眼鏡とは、近ごろの刑事もなかなか粋《いき》である。
もじゃもじゃ頭の刑事は鈴木家へ、ジョン・レノン眼鏡の刑事は佐山家へ、そして刑事たちを乗せてきた黒塗りの乗用車は神山町方角へ走り去って、松濤町界隈《しようとうちようかいわい》は元の静けさに戻った。以前と違《ちが》うのは四人の刑事たちがそれとなく鈴木家や佐山家の前をぶらぶら歩いていることであるが、そのうちに刑事のうちの一人が何気なく鈴木家の郵便受けの中を覗《のぞ》き込《こ》んで、あッと声をあげた。他の三人の刑事たちが、彼《かれ》の声に吸い寄せられて鈴木家の前に集まる。
「さっき、わたしたちが投函《とうかん》した脅迫状を、刑事たちが発見したようですよ」
鈴木家のほとんど真向かいが松濤公園であるが、そこの便所の横の生垣《いけがき》の間から刑事たちの様子を見ていたおれは傍《そば》のシェパードのキングに囁《ささや》いた。
「さて、どういうことになりますか」
「ドン松五郎君、きみは見かけによらず悪《わる》だねえ」
キングは呆《あき》れ顔でおれを見ている。
「まるできみは騒《さわ》ぎを楽しんでいるように見えるよ」
「楽しんでますよ、たしかに。なにしろ、これは架空《かくう》の誘拐事件ですから気が楽であることはたしかです。楽しみついでに、すこし、金を巻きあげてやろうかしらん」
「よッ、そりゃいい考えだ」
おれの尻尾《うしろ》の方で泥棒《どろぼう》犬のクロが言った。クロは飼い主である泥棒氏の薫陶《くんとう》によって、他所《よそ》から金を奪《と》るということに異常なほどの興味を抱《いだ》いている。したがっておれが冗談半分《じようだんはんぶん》で発した台詞《せりふ》に賛意を表したのである。
「選挙のたびに保守党の総裁は子飼《こが》いの陣笠《じんがさ》たちに一万円|札《さつ》をつめこんだ買《か》い物袋《ものぶくろ》をひとつずつ選挙の運動資金として渡《わた》すっていうじゃないですか。鈴木栄太郎はその保守党の大物政治家だ、一万円札入りの買い物袋をふたつかみっつ、金庫の中に隠《かく》しているかもしれねえよ。買い物袋の中の札束《さつたば》を五、六束、猫《ねこ》ばばしたって罰《ばち》は当たるめえと思うがね」
「人間属の格言集には猫に小判《こばん》という諺《ことわざ》がある。これをもじっていうなら犬に一万円札だ」
滔々《とうとう》とまくしたてるクロにキングが待ったをかけた。
「わしたち犬があんな紙切れを手に入れてどうする? なんの役にも立たん。それこそ屁《へ》のつっかい棒にもならんよ」
「しかるべきところへ寄付したらどうでしょうかね」
ゴンが話の輪に入ってきた。
「たとえば、これは道ばたに落っこっていた週刊誌の記事を齧《かじ》って得た知識ですが、ガンの研究に支出しているお金が、厚生省文部省合わせてたった十九億円というじゃありませんか。それに国立がんセンターの部長級の先生の給料が二十万円だそうで、これじゃあんまり情けない。奪《うば》ったお金はそっくり国立がんセンターに放り込めばいい。つまらない陣笠《じんがさ》代議士をひとり誕生《たんじよう》させるよりこの方が、よっぽど世の中のためだと思いますがね」
「ゴン君、きみはどうしてそうガンに興味を持っているのかね?」
キングがゴンに尋《たず》ねた。
「なにか理由でもあるのかい?」
「あるといえばありますよ」
ゴンはうなずいた。
「ガンは人間を不幸のどん底に突《つ》き落とすばかりではない、おれたち犬まで不仕合わせにするんですぜ。だからあっしは犬の仕合わせのためにも、人間に早くガンを征圧《せいあつ》してもらいたいんですよ」
おれたち犬属とあの人間属がいまもっとも怖《おそ》れているガンと、いったいどういう関係があるのだろうか。おれたちはゴンの次の言葉を待った。
「このあいだあっしの飼い主の友だちがガンを宣告されましたがね、彼が最初にやったことは何だったと思います? これが尻尾《しつぽ》を振《ふ》って迎《むか》えに出た飼い犬を思い切り蹴《け》っ飛ばすことだったんですぜ。つまり、彼は、なぜ自分だけが間もなくこの世から去って行かねばならんのか、と考えているうちに腹が立ってきたわけでさ。花は咲《さ》き、鳥は歌い、恋人《こいびと》たちは甘《あま》い口づけを交わし合い、それぞれが生きることを謳歌《おうか》しているのに、なぜ自分だけがひっそりとこの世から消えて行かねばならないのか、という彼のこの腹立ちは判《わか》る。しかし、いくら判るといっても蹴っ飛ばされる犬の身になってみれば、これはたまらない、身が保《も》たない。彼《か》の犬は蹴られどころが悪くて脳震盪《のうしんとう》を起こし、それ以来、すこし頭がおかしくなりやがった。自分に近づいてくる人間がみんなガン患者《かんじや》ではないか、ガンと蹴っ飛ばされるんじゃないか、というガンノイローゼになっちまったんですよ。これなぞは、ガンで犬が不仕合わせになった典型的な例だ。またこれもおれん家《ち》の近くで起こった実例だが、ある会社員が『ひょっとしたら自分はガンではないか』と、自分の健康に疑いを持ち、そのうち、とうとう絶望して、奥《おく》さんと子どもを道連れに心中をしちまった。そのとき彼の飼い犬も巻き添《ぞ》えを喰《く》っちまったね。『わが愛犬も、自分が居《い》なくなれば路頭に迷う野良犬《のらいぬ》となり、結局は狂犬病《きようけんびよう》予防技術員の手にかかってあの世送りになってしまうにちがいない。それならいっそ……』というわけで、彼は愛犬の餌《えさ》に青酸加里を混入した。この事件なんざ、飼い主が愛犬家だったために生じた悲劇だけに、余計救われねえ思いがするのさ。こんなわけであっしゃ道で金を拾うようなことがあったら、予算不足で思うように研究もできないという国立がんセンターあたりへ、その金を寄付しようと思っていたところなのだよ。ドン松五郎さんよ、鈴木代議士から金を脅《おど》し奪《と》ろうじゃないか、そしてそれを国立がんセンターへ寄付しようぜ」
ゴンの言はまことに至当である、とおれは思った。たしかに、人間属の世界から病気がすこしでもなくなれば、病人に当たり散らされる犬の数も減るだろうというものだ。その分だけでも、犬は暮《く》らしよくなるだろう。
それにしても、政治家はもちろんのこと、日本の企業《きぎよう》や企業家には、どうしてかくも吝嗇《けち》ばかり揃《そろ》っているのか。企業のあげた利潤《りじゆん》を病院や研究所に寄付するような人間は皆無《かいむ》に等しいではないか。いや、これは吝嗇とか気前がいいとかいうような企業家それぞれの気質の問題ではない。おそらくこれは日本の企業家全体の道徳《モラル》の問題だろう。日本の企業家には企業家としての道徳が笹《ささ》の葉の先の露《つゆ》ほどもないのだ。たとえば私鉄がデパートをつくる。これはよい。沿線に動物園や遊園地をつくる。これもよかろう。さらに沿線の畑や山をつぶして分譲地《ぶんじようち》をつくる。これもまたいいだろう。がしかし、なぜ、沿線にひとつぐらい病院をつくろうとはしないのか。儲《もう》けることばかりに頭を使い、その儲けをお得意さんたちである沿線の住民たちに還元《かんげん》することをすこしも考えぬ。
たとえばまた電気器具の製作会社の経営者たちは、なぜ利益の一部で病院のひとつも建ててみようか、と思いつかないのだろう。わが主人の小説家先生などは参院選以来、
「大は冷蔵庫から小は乾電池《かんでんち》まで、H製作所の製品は一切《いつさい》買わないぞ」
を、モットーにしている。言うまでもなく主人は、H製作所が参院選に毛皮の大好きな美人タレント候補者を担《かつ》ぎ出したのが気に入らないのである。わが主人の、この態度はすこぶる正しい、とおれは考えている。一企業が参院へひとり、議員を送り込んで、それでいったいどうなるというのかね。H製作所はこのことでなにか得をしたのかね。反感を買うばかりで損得から言えば、大赤字のはずだ。それより、たとえばその金を基《もと》に病院でも作ってみなさい。うちの主人なぞは単純なる正義漢であるから、
「未来永劫《みらいえいごう》、わが子孫は、すべての電気製品をH製作所のマーク入りのものにすべし」
と、死ぬまで騒《さわ》ぎ立てるにちがいないのだ。この方がテレビに広告費を使うよりずっと効率のいい宣伝になると思うが、これは果たして犬知恵《ヽヽヽ》にすぎないだろうか。
とにかく日本の人間属の品性は、失礼ながら相当に低い。企業家に企業家としての道徳なく、民衆にはそれを衝《つ》くだけの勇気と熱意がない。H製作所の製品をボイコットしてこらしめるだけの知恵がない。ああ、妙《みよう》な国に犬として生まれ合わせたものだ。
……というようなことを、ゴンの話を聞きながら思ううちに、おれはひょいとこう考えた。(企業家の子弟を片っぱしから誘拐《ゆうかい》し、その身代金《みのしろきん》を貯《た》め、これをドッグ基金、あるいはケンネル基金と名付け、この基金をしかるべき正義の士に託《たく》して病院をひとつ作れないものだろうか)と。むろん、人間属の誘拐犯《ゆうかいはん》の如《ごと》く、人質の生命を奪ったりせずに、である。
「よし、ゴン君の言うように、鈴木・佐山の両家から、若干の身代金をせしめることにしよう」
ゴンが話し終えるのを待って、おれはみんなに言った。
「鈴木・佐山の両家から金をせしめ、プードルのお銀さんとブルテリアの長太郎君を救出したら、次は別の金持ちを狙《ねら》うんだ。そうやって次々に身代金を貯《たくわ》え、ある金額に達したら、その金で病院を建てよう。そうやって人間属をすこしでも仕合わせにできれば、やがてその仕合わせはわたしたち犬にも返ってくるはずだ」
このとき、公園の真向かいの鈴木家の門前に靴音《くつおと》が起こった。見ると家のなかから、例のもじゃもじゃ頭の主任|刑事《けいじ》が手に軍手をはめながら走り出てくるところである。主任刑事の後には、さっき、郵便受けの中に脅迫状《きようはくじよう》を発見して「あッ」と叫《さけ》んだ若手の刑事がつき従っていた。おそらく若手刑事が主任刑事を呼んだのだろう。
「ふーむ」
もじゃもじゃ頭の主任刑事は、軍手をはめた手でつまんだ脅迫状をしげしげと点検してから、道を隔《へだ》てた公園から様子は如何《いかに》、と見守るおれたちのところまで聞こえるような大きな唸《うな》り声《ごえ》を発した。
「これは変だぞ。この脅迫状には唾《つば》がついている。それに歯で噛《か》み啣《くわ》えた痕跡《あと》もある……」
これはさすがである。たしかにおれは、脅迫状を鈴木家の郵便受けに投函するときに強く歯で噛んでいたし、唾液《だえき》もべったりつけてしまっていたからだ。
「誰《だれ》かこいつを本庁の鑑識《かんしき》へ持っていってくれ」
主任刑事は他の四人の刑事たちに脅迫状を示しながら言った。
「そして、鑑識結果を早くこっちへ知らせてくれるように言ってくれ」
刑事の一人背の高いのが主任刑事の手から脅迫状を取った。
「わたしが行ってきますよ」
「うむ。しかし、どうも変だね」
「なにがです、主任?」
背高刑事が訊《き》いた。
「どこが変なんです?」
「脅迫状のこの歯型《はがた》はどうも人間のものじゃなさそうだぜ」
「なーる」
ほどを略して、背高刑事は脅迫状を睨《にら》んだ。
「そういわれてみると、この歯型の彎曲度《わんきよくど》は大きすぎる」
「その通り。それにだいたいが脅迫状に歯型や唾液がついていること自体が奇妙《きみよう》だ。もう一つ、犯人たちはなぜ直接《じか》にこれを郵便受けにほうり込《こ》むという危険をおかしたのだろう?」
主任刑事は右手を額に当ててしばらくなにか考えていたが、やがて、
「犯人たちの特徴《とくちよう》が一つおれの頭に浮《う》かびあがってきたぞ。連中はどうやら犬、猫《ねこ》などの小動物をうまく手なずけているらしいね」
と、呟《つぶや》きながら門内に姿を消した。背高刑事は脅迫状をハンカチで包み、大通りのある方角へ駈《か》け去った。
「なかなかやるねえ、あの主任刑事は」
シェパードのキングがおれに言った。
「小動物が事件に関連しているのではないかと見抜《みぬ》いたところなどはなかなかの千里眼だ。テレビ映画のコロンボ刑事そこのけだよ」
「そういえば、たしかにあのもじゃもじゃ頭はコロンボそっくりでしたね」
と、おれはキングに答えてから、シローに言った。
「もう一通脅迫状を作ろう。こんどのは身代金を要求するのが主目的だ」
「で、その文面は?」
おれは脅迫状の文章を口述し、シローはそれをもとに、週刊誌と鋏《はさみ》と糊《のり》とでたちまち二通の文章を作りあげた。
こんどの脅迫状の文面は次の如き内容のものである。
「前に、警察には知らせるな、と言っておいたはずだが、それを破ったな。といってもすぐに人質の生命を奪ってしまうほどおれたちは焦《あせ》ってもいないし馬鹿《ばか》でもないから安心しろ。さて、本日の午後三時、身代金参千万円を代々木公園のサッカー練習場に持って来い。そうしたら、人質の居所《いどころ》を教えてやる。ところで身代金の配達には飼い犬を使え。すなわち、犬の背中に身代金をくくりつけてサッカー練習場にはなせ」
身代金の配達に飼い犬を使え、と命じたところが、おれの知恵である。誘拐犯罪に於《おい》ては、犯人側は|ある時期を除いては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》常に被害者側の優位に立つ。人質を確保しているからこれは当然だ。がしかし、右の「ある時期」に犯人側は突然《とつぜん》、それまでの優位を一気にくつがえされ弱い立場に追い込まれてしまう。つまり「ある時期」とは犯人側が身代金を受け取るときのことで、このとき、犯人側は自分を捕えようとする者たちと接触《せつしよく》しなければならず、これが犯人側のいわば唯一《ゆいいつ》の泣き所。犯人側の立場は徹底的《てつていてき》に弱くなるのだ。したがって、これまでのどの誘拐事件に於ても、犯人たちは身代金の受け取り法についてはありったけの知恵をしぼっている。が、たとえどんな奇抜《きばつ》な方法を思いついても、その方法には|論理的には《ヽヽヽヽヽ》限界がある。身代金を受け取るために、とにかく犯人側は、身代金のある場所へ、出てこなくてはならぬからである。走行中の特急列車の窓から金の入った鞄《かばん》を外へ投げさせる、あるいは、飛行機に乗るように指示し、ある地点で身代金入りの鞄を投下させる、などさまざまな方法が考え出されたが、すべては不成功に終わっている。それは、くどいようだが、犯人側に身代金のところへ出てこなくてはならないという大弱点があるせいだ。
しかし、おれの考え出した方法は、この点でもまさに画期的だ。鈴木家と佐山家は飼い犬の背中に参千万円の札束をくくりつけて代々木公園のサッカー場にはなすだろうが、その飼い犬は当然、プードルのお銀さんとブルテリアの長太郎君のはずで、すなわち、二匹ともわが味方である。言いかえれば、被害者側がお銀さんと長太郎君の背中に身代金をくくりつけたとたん、その身代金はすでに犯人側=おれたちのものになってしまっているのだ。
「刑事たちの姿が鈴木家と佐山家の門前から見えなくなったようだぜ」
クロがおれの尻《しり》を鼻の先でつっ突《つ》いた。
「どうやら連中は町内|巡回《じゆんかい》に出かけたらしいね」
「なら、いまが脅迫状を投函《とうかん》する絶好のチャンスだ」
おれは仲間たちに言った。
「わたしとクロさんと平吉さんとゴンさんの四匹は鈴木家の郵便受けを受け持ちます。キングさんたちは佐山家の方をおねがいしますよ」
「よし、わかった」
キングはうなずいて、脅迫状を啣《くわ》え、すたすたと佐山家の方へ歩き出した。おれたち鈴木家|担当班《たんとうはん》も、キングの後に続いて、通りへ飛び出した。そして、例の犬櫓《いぬやぐら》を組み上げる。つまり、クロの背中にゴンが乗り、ゴンの背中に平吉が乗り、さらに平吉の背中におれが乗るといういつものやり方をとったわけだ。おれが口に啣えた脅迫状を鈴木家の郵便受けに押《お》し込《こ》んだとき、ばたばたばたと靴音がこっちへ走ってくる気配がした。そして、
「おッ、犬が郵便受けになにか投げ込んでいるぜ!」
という刑事の声。
しまった! と思った途端《とたん》、おれの躰《からだ》は宙に浮《う》いていた。クロやゴンや平吉たちがいきなり逃《に》げ出したためにおれは空中に投げ出されてしまったのである。背中から地面に叩《たた》き落ち、おれは思わずキャンと悲鳴をあげてしまったが、ここでもたもたしていては百年目だ、とっ捕《つか》まってしまう。背骨の痛みをこらえながらおれは無我夢中《むがむちゆう》で公園に逃げ込んだ。
「珍《めずら》しく失敗したね、ドン松五郎君」
シェパードのキングが公園の便所の横でおれを待っていてくれた。
「わしたち佐山家担当班の方は、きみたちより十秒ばかり早く仕事を終えたのでどうということはなかったがね」
「すみませんでした」
おれはキングに向かって頭をさげた。背中の痛みはますます激《はげ》しくなっている。ちょっとでも躰を動かすと、ぼうっと目の前に霞《かすみ》がかかる。キングがおれの背中をやさしく舐《な》めまわして、
「骨折の心配はないようだ。それに、脅迫状を投函しているところを刑事たちに見られたからといって、わしらの全計画ががたがたに崩《くず》れてしまうということもないだろう。どんな知恵者だって、この誘拐事件の犯人《はんにん》が全員犬だと、とても見抜《みぬ》けるものではないからね。だから、すこしも気にすることはないさ」
「……ありがとう」
キングの好意が身にしみた。
「ところでキングさん、仲間たちはどうしました?――」
公園の中には犬の姿が一匹も見えぬ。いったいどこに消えてしまったのか。
「木に登って姿を隠《かく》すようにと、命じたのだよ」
「木に登る? わたしたち犬は木登りが苦手のはずですが……」
「踏《ふ》み台があれば話は別だよ」
頬笑《ほほえ》みを浮かべた顔を、キングは傍《かたわら》の|鈴懸け《プラタナス》の樹に向けた。
「みんなは、便所の屋根を踏み台にしてこの樹の上に登ったのだよ」
驚《おどろ》いて見上げると、たしかに鈴懸けの樹の葉や実の間に、わが仲間たちの顔や尻尾《しつぽ》や胴体《どうたい》などが見えている。これでは鈴懸けの樹というよりむしろ犬懸けの樹である。
「背中をしたたかに打ったきみには辛《つら》い仕事かも知れないが、きみも樹の上に登った方がいい。わしが下からきみを押し上げてあげるよ」
おれはキングの尻押《しりお》しで便所の屋根に登った。
「いやあ、ドン松五郎君、すまんことをしてしまったねえ」
葉の間からぬっとクロが顔を出した。
「刑事の叫び声を聞いたとたん、前後の見さかいなく逃げ出してしまって、まったく面目次第《めんぼくしだい》もねえ。刑事の叫び声に仰天《ぎようてん》して取り乱すようじゃ、泥棒《どろぼう》犬としては、おれもまだ二流の域を出ないね。反省してますよ」
「クロ、詫《わ》びごとはあとにしたまえ」
キングがクロに言った。
「きみの尻尾をドン松五郎君の顔の前に垂らす。そしてドン松五郎君が尻尾を啣えたら全力をふり絞《しぼ》って引き上げるのだ。わしは下からあと押しをするから」
「へいへい」
クロはキングに向かってうなずいた。
「すこし痛《い》てえだろうが、さっきの罪ほろぼしで、仕方がねえ」
クロの尻尾を縄《なわ》ばしごがわりに、そしてキングの後押しにたすけられて、おれは鈴懸けの樹の、最下部の枝《えだ》に乗った。背中は相変わらず痛んではいるが、これで刑事たちに発見される可能性はぐんと減ったわけで、やれやれである。
葉と葉の間から鈴木家の門が見えた。おれたちの隠れている鈴懸けの樹と鈴木家の門までは直線|距離《きより》にして、十五、六|米《メートル》ぐらいか。門前で話し合っている刑事たちの様子が手にとるように明らかだ。おれが四苦八苦して樹に登っている間に、刑事のだれかが注進して連れて来たのだろう、例のもじゃもじゃ頭の主任刑事の姿もある。
「たしかに犬が四匹、櫓《やぐら》を組みこの脅迫状を郵便受けに放り込んでいたというのだな」
主任刑事は点《つ》けたばかりの煙草《たばこ》を深々と吸い込んだ。彼《かれ》を取りかこんだ刑事たちが一斉《いつせい》に点頭する。
「するとやはりおれが睨《にら》んだ通り、この事件には犬がからんでいるな。しかも、身代金《みのしろきん》の授受を犬にやらせようというのだから、犬は重要な役割を担《にな》っている。こうなると、都内の犬の訓練士も一応洗い出してみる必要がある……」
「そうしますと……」
若い刑事が訊《き》いた。
「主任が最初に言っていた過激派《かげきは》グループの犯行ではないか、という線はどうなります?」
「その線も捨ててはいないさ。当分、この二本立てだ」
主任|刑事《けいじ》は地べたにぽいと煙草を捨て、靴《くつ》でぎゅうぎゅうと踏《ふ》みつけた。
「いいか、今度また、犬が脅迫状を郵便受けに投げ込むようなことがあったら、決して逃《のが》すな。どんなことがあっても一匹ぐらいは捕《つかま》えるのだぞ」
言い残して主任刑事は門内に消えた。四人の刑事たちは主任刑事の背中にうなずいて、四方に散り、何気ないふうを装《よそお》って鈴木家と佐山家の門前にじっと監視《かんし》の眼《め》を注ぎはじめた。
間もなく四人の刑事たちがはっとなって躰を二、三歩前へ乗り出した。鈴木家と佐山家に左右からはさまれた小山家から犬が一匹|駈《か》け出してきたので思わずつられたらしい。むろん、この犬はハチ公である。
「そう引っぱらないで」
ハチ公の首輪には鎖《くさり》がついていた。その鎖を小山夫人が懸命《けんめい》になって引き戻《もど》している。
「鎖が切れてしまうじゃないの」
「ドン松五郎さん、そしてほかの同志諸犬よ!」
ハチ公はおれたちの隠れている公園に向かって吠《ほ》えたてた。
「ご覧のようにわたしは鎖で繋《つな》がれてしまいました。ですから、直接《じか》にはみなさんをお銀さんと長太郎君のところへご案内できません。しかし、わたしを連れて、この飼《か》い主《ぬし》のおばさんが散歩に出ますと家の中は空っぽになります。どうぞ、その隙《すき》にうちに忍《しの》び込み、垣根《かきね》ごしにでもお銀さんたちに逢《あ》ってあげてください!」
「どうしてそう吠えるんです?」
小山夫人はむろん犬語が理解できない。したがってハチ公の吠え声に右の如き重要な情報が織り込まれているとは想像もつかず、
「そんなに吠えては近所|迷惑《めいわく》ですよ。散歩に連れて行ってあげるから、大人しくなさい」
と、ただ叱《しか》り立てるだけである。
四人の刑事たちは、飛び出した犬が小山家の飼い犬と知って乗り出した躰をまた元に戻《もど》した。大学教授の愛犬が誘拐《ゆうかい》事件の片棒を担《かつ》いでいる、とは思えなかったのだろう。
「ハチ公君はあんなことを言っていたが、こう警戒《けいかい》がきびしいのでは、なかなかお銀さんたちに逢いにも行けないよ。弱ったねえ、ドン松五郎君」
シェパードのキングがおれに囁《ささや》いた。
「どうするかね?」
「この鈴懸けの樹に身をひそめている犬が全員、一度にお銀さんに逢うのはたしかに無理でしょうね」
おれはキングに囁き返した。
「しかし、二匹ずつ何回にもわけて、というのであれば不可能じゃありませんよ」
「何回にもわけて、か。時間がかかるがやむを得まいね」
「すこし勝手なようですが、わたしは最初にお銀さんたちに逢っておきたいのです。身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》し法について、お銀さんたちと打ち合わせておく必要がありますので……」
「それはいいが、しかし、大丈夫《だいじようぶ》かね」
キングはおれの背中を心配そうに見た。
「きみは背骨をひどく打っている。歩けるかね、そして走れるかね?」
「なんとかなるでしょう。別に骨が折れているというわけでもないようですから」
おれは鈴懸けの樹から便所の屋根の上に降りた。やはり動くと背中に疼痛《とうつう》があるようだ。
「わしがついて行ってあげよう」
キングが樹上からおれのそばにひらりと降り立った。キングは警察犬としての長い経歴がある。そのとき受けた訓練が身についているのか、こういう場合の一挙手一投足がまことに鮮《あざ》やかである。キングは屋根から地面へまたひらりと跳《と》んだ。前肢《まえあし》を緩衝器《かんしようき》がわりに、音ひとつたてず、見事な躰のこなしだった。おれも彼の真似《まね》をして地上へ飛び降りたが、前肢がおれの体重を支え切れず、地面で鼻先をいやというほど擦《す》り剥《む》いてしまった。背中の痛みはますますひどい。
「や、犬だ!」
おれとキングが通りを横切って小山家の門に向かって歩いて行くと、刑事のだれかがこう叫《さけ》んだ。
「捕《つかま》えろ!」
別の刑事が走り寄ってくる。
「待て!」
さらに別の刑事が横からおれたちの様子を仔細《しさい》に観察しながら言った。
「こいつら、べつに紙切れを啣《くわ》えているわけでもない。誘拐犯の一味の犬とはちがうんじゃないかね」
「ああ、犬が相手というのは全く困る」
さらにまた別の刑事が舌打ちをした。
「相手が人間なら、挙動|不審《ふしん》のかどで訊問《じんもん》もできるし、もし、それが必要ならとっ捕えて取り調べることもできる。が、相手が犬ではどうにもならない」
「いらいらするな」
最初に「犬だ!」と叫んだ刑事が同僚《どうりよう》を制した。
「この犬はおれに委《まか》せておけ。こいつらをおれは徹底的《てつていてき》に尾行《びこう》してやる。きみたちは通りの見張りを続けろ」
おれとキングは小山家の門内に入った。例の刑事はおれたちと四、五米の間隔《かんかく》を保ちながら、跟《つ》いてくるようである。
「尾行《つけ》られるというのは気色の悪いものだねえ」
と、キングがおれに言った。
「吠え立てて、追いかえしてやろうかしらん」
「およしなさい」
おれはキングをとめた。
「いくら尾行しても無駄《むだ》ですよ。なにしろ彼には犬の言葉がわからないのですから」
小山家の敷地《しきち》は八十|坪《つぼ》ぐらいである。そこに三十坪ほどの、二階建ての木造家屋が建っている。家屋というものは、南と東に大きな窓を設け、なるべく敷地の北に寄せて建てるのを常法としている。別に言えば、南を庭として、出来るだけ大きく、そして広く明けるのが常のはずである。がしかし、小山家の場合、ここのところがすこし常とは変わっていて、三十坪の家屋が八十坪の敷地の真ん中にでんと坐《すわ》っている。つまり、東西南北の四方に同じ面積のせまい庭があるのだ。そしてその庭の南と西が金網《かなあみ》の塀《へい》をへだてて鈴木家の庭と接し、北の庭は佐山家の庭と隣《とな》り合っている。これまた別に言えば、それだけ鈴木家の庭が広いわけである。
シェパードのキングとおれは、小山家の南庭を通り抜《ぬ》けて西庭へ達した。達したところで鈴木家の庭から、
「あッ、キングさんとドン松五郎さんではありませんか!」
という叫び声があがった。
「ぼくです。ブルテリアの長太郎ですよ」
見るとそれはたしかにあの長太郎である。最後に別れた時よりもさらに痩《や》せている。
「やあ、ずいぶん食事が悪いみたいだね」
金網に向こう側から前肢を引っかけ、千切れんばかりに尻尾を振《ふ》っている長太郎におれは言った。
「その証拠《しようこ》にずいぶん痩せている」
「食事はいいのです」
長太郎は悲しそうな眼《め》になった。
「ただぼくに食欲がないのですよ」
「躰の具合が悪いのだね。急に水が変わったのが原因なのじゃないかなあ」
「では、ないのです」
長太郎はさらに悲しそうな眼をして、短い首を横に振った。
「明日、ぼくは獣医《じゆうい》のところへ連れて行かれて、断耳《だんじ》と断尾《だんび》の手術を受けることになっているんです。それを思うと食欲がなくなってしまうのです」
こういう犬のことを「悲しい星の下に生まれた」というべきなのかもしれぬ。どこへ行っても断耳断尾の不幸が待ちうけている。
「……でも、キングさんにドン松五郎さん、あなたたちが来てくださったからもう安心です。明日の手術の前にぼくを救ってくださいますね」
「ああ……」
と、おれは長太郎に片眼を軽くつむってみせた。
「今日中に、それもお天道《てんとう》さまが西山に沈《しず》まぬうちに、きみを助け出すことができると思うよ」
「わお、わお、わお!」
長太郎は芝生《しばふ》の上を転げまわった。
「うれしいなあ!」
「ちょっと!」
このとき、北庭の向こうでキングとおれをだれかが呼んだ。
「いったいわたしはどうなるの?」
振り向くまでもない、いまは佐山家の飼い犬となっているプードルのお銀さんの声である。
「むろん、あんたも自由の身になれるさ」
キングが北庭へ駈《か》けて行った。おれもキングのあとに続いた。
「それを聞いて安心したわ。……でも、おひさしぶりねえ」
お銀さんは金網の向こうに潤《うる》んだ眼をして立っていた。
「お銀さんも痩せましたね」
おれは金網の向こうのお銀さんに言った。
「前はもっと肉づきがよかったはずだけど」
「原因はわかっているの」
お銀さんは金網に鼻を接して地面に腹這《はらば》いになった。
「これは益体《やくたい》もない議論ばかり聞いて暮《く》らさなければならないせいなのよ」
「どういうことなのかなァ、ちっとも意味がわからないけど」
「なにしろ、ここの家の主人は革新党の書記長でしょ、だから、秘書も来客も、それから出入りの商人もみんな議論好きで、おまけに議論に使う言葉が難《むずか》しいの。『アジア的生産様式』『アジア的|停滞性《ていたいせい》』『闘争《とうそう》』『規律』『永久革命』『階級』『貨幣《かへい》地代』『可変資本』『国家』『財閥《ざいばつ》』『搾取《さくしゆ》』『戦術』『戦略』『停滞的|過剰《かじよう》人口』『相対的過剰人口』……重い鎧《よろい》を着た言葉ばかり使うのよ」
重い鎧を着た言葉とは言い得て妙《みよう》である。おれも、すこしでも世の中がよくなることを望んでいるから、社会主義や共産主義に対して、犬の身ではあるが、なみなみならぬ関心を抱《いだ》いている。いや、好意さえ持っている。が、社会主義者や共産主義者が、重い鎧を着た言葉で議論をし、その重い鎧を着た言葉で世の中を変えることが出来ると信じている間は、彼等《かれら》の言う『変革』なぞ、棚《たな》の上のぼた餅《もち》だろう。
「それにわたし、ここへ来る前までは、ヌード劇場の楽屋で暮らしていたでしょう? あそこでは歌謡曲《かようきよく》ばかり聞いていたわ。歌謡曲と難解な日本語、このふたつの間にあまり落差がありすぎるのね」
なるほど、水が変わるよりもコトバが変わる方が健康にはこたえるかもしれない。
「ほんとうにこんなところは一刻もはやく飛び出したいわ。それで、いつ、どうやって、わたしや長太郎君を此処《ここ》から引っぱり出してくれるの?」
「そうです、それを早く聞かせてください」
長太郎も西の庭からせきたてた。小山家の北西の隅《すみ》は、同時に鈴木家と佐山家との境でもある。したがってここに集《つど》えば、三者の間はそれぞれ金網に隔《へだ》てられているにしても、たがいに鼻を寄せ合うことはできるわけだ。
「うむ、お銀さんたちにもこんどの計画の大よそのところを知っていてもらわなくてはならないからよろこんで話すけれども……」
おれはこっそり背後の気配を窺《うかが》った。
「……別に怪《あや》しい節はないな」
背後で刑事《けいじ》の呟《つぶや》く声がしている。
「犬がじゃれ合い、吠えあっているだけのことだ」
靴音《くつおと》が遠ざかった。刑事は門外に去ったらしい。
「……わたしたちは二つの誘拐《ゆうかい》事件をでっちあげた」
おれはお銀さんたちに言った。
「鈴木純子さんと佐山明君を誘拐した」
「明さんはわたしの飼い主の一人《ひとり》息子《むすこ》だわ」
「そして、純子さんはぼくのところの一人|娘《むすめ》ですよ」
お銀さんと長太郎君が同時に叫んだ。それをキングがしーっと制した。
「それは百も承知なのだよ。だからこそ、二人を誘拐したのだよ」
お銀さんと長太郎君はぽかんと口をあけたまま、キングとおれを眺《なが》めている。
「誘拐という言葉は、事情を知らないお銀さんや長太郎君には、すこし当たりが強すぎたかもしれません。いわゆる、きつい洒落《しやれ》というやつだった……」
お銀さんと長太郎君がぶるぶる、かつがたがたと慄《ふる》え出したので、おれは慌《あわ》ててやわらかい表現に直した。
「わたしたちは狂言《きようげん》誘拐事件を創《つく》りだしたのです。もうひとついえば、単なる駈け落ちを誘拐事件に見せかけているのですね」
「駈け落ち?」
「純子さんと明さんが相思相愛の仲だったことは知っているでしょう?」
「もちろん!」
お銀さんと長太郎は、同時に、大きく、うなずいた。
「でも二人は、自分たちの恋《こい》が禁じられた恋である、ということを承知していたはずよ」
お銀さんは金網の向こうで、銀色のヒゲを右の前肢《まえあし》で撫《な》でた。この仕草はものを考えるときの彼女《かのじよ》の癖《くせ》である。
「自分たちは保守党の大立物の一人娘であり、革新党書記長の一人息子である、だから、親が結婚《けつこん》を許してはくれないだろう……、こう覚悟《かくご》していたはずだわ。だから最近の二人はどっちかといえば諦《あきら》めの気分が濃厚《のうこう》だったわ」
「ぼくもそう見ていました」
長太郎も相槌《あいづち》を打った。
「昨夜、純子さんが日記を書き綴《つづ》っているのを、ぼくは傍から覗《のぞ》き込《こ》む機会に恵まれましたが、そのとき、純子さんはこう書きつけていましたよ。『ああ、わたしたちは勇気のないロミオとジュリエットなのだわ。初恋よ、さようなら』ってね」
「ところが、今朝、ドン松五郎君がある策略《さくりやく》をもって二人を勇気のあるロミオとジュリエットに変身させてしまったのだよ」
キングがすべてをおれの手柄《てがら》にしてくれた。ほんとうにキングは心が優《やさ》しい。
「その策略の細部については、後で『犬の近代史』かなんかをひもといて読んでもらいたい」
「……『犬の近代史』? そんな書物が出版されているの?」
「いや、いつか犬の歴史学者がわしらのこのたびの行動を詳《くわ》しく記述するだろうと思うのだよ。それほど大きな、重要な仕事をわしらは現在《いま》やっているのだ。まあ、それはとにかくとして、ドン松五郎君の善意の策略によって、明君と純子さんは、手に手をとって駈け落ちし、おそらくこれからは、立ち食いそばの店員としてゼロから出発、自分たちだけの力で自分たちの生活をはじめることになる」
「すてき!」
お銀さんはうれしそうに尻尾《しつぽ》を振《ふ》った。
「二人とも、坊《ぼ》っちゃま・お嬢《じよう》ちゃまの生活とは縁《えん》を切ったわけね」
「そういうことです」
おれはキングにかわって話の穂《ほ》を継《つ》ぐ。
「二人とも反対されるのをおそれて、それぞれの家へ連絡《れんらく》を断っている。そこにわたしは目をつけて、両家の郵便受けへ脅迫状《きようはくじよう》を放り込んだのです。『我が子の無事を望むならば、身代金《みのしろきん》として参千万円出せ』という脅迫状を、です」
「すごいなあ!」
長太郎はおれの貌《かお》をうっとりと眺めた。
「まるでテレビ映画のようだ」
「テレビ映画を観賞しているような気分でいてもらっては困るんだがなあ」
おれは長太郎に言った。
「きみには……、むろんお銀さんにもだけれど、これからこの誘拐事件の主役を演じてもらわなくてはいけないんだから……」
「ぼくが主役ですって?」
長太郎君がおれの鼻先へ、自分の鼻先をぬうっと近づけてきた。お銀さんも長太郎と同じ仕草をした。人間なら膝《ひざ》を乗り出すところを、おれたち犬は鼻先を相手に向かってぬうっと近づけるのである。
「ぼくの世界は、現在《いま》のところ、この七百|坪《つぼ》の庭がすべてです。庭木戸がいつも閉じているので外へ出ることができないでいるんです。いわばぼくは囚《とら》われ人《びと》、ならぬ囚われ犬なのです。そのぼくになにができるっていうんです?」
「こっちの事情も長太郎君とほぼ同じ」
お銀さんは、己《おの》れとおれとの間を遮《さえぎ》っている金網《かなあみ》を前肢《まえあし》でしきりに引《ひ》っ掻《か》いた。
「この金網さえなければ……!」
「いやいや、現在どのような悲劇的、かつ閉鎖的状況《へいさてきじようきよう》にあろうと、数時間後に、その状況は変わります」
おれの声が自分でもおかしいと思うほど、高く強くなった。もっとも、ここが大事な勘《かん》どころだから大声になって当然だ。ならない方がかえっておかしい。
「というのは、わたしは脅迫状に次のように指定したんです。『身代金は、飼い犬の背中にくくりつけよ』と。両家には、お銀さん、長太郎君以外の犬はいません。したがって当然お銀さんと長太郎君が身代金を身につけて戸外に出ることになる……」
お銀さんがいきなり金網に口を突《つ》っこみ、おれの口に接吻《せつぷん》をした。
「ああ、あなたは天才だわ」
「ほんとです。人間に生まれていたら東大確実でしたね。それから大蔵省《おおくらしよう》、そして政界に進出して、やがては大臣の椅子《いす》に坐《すわ》る……、ドン松五郎さん、惜《お》しいことをしましたね」
「東大なんてまっぴらだ。それにだいたい、本当の天才が東大に入れると思うかい? あの大学に合格するのは、大学受験術の達人ばかり、つまり暗記の上手な青年たちばかりなのだよ」
「あ、ごめんなさい」
長太郎は素直に頭をさげた。
「ドン松五郎さんはスケールが大きすぎて、とても赤門は通り抜《ぬ》けられませんよね。きっとつっかえてしまいます」
「東大のはなしはさておいて、お銀さんに長太郎君、わたしたちが身代金を持ってくるように指定した時刻は午後三時、場所は代々木公園のサッカー練習場です。わたしたちが先まわりしていますから、心配しないでやってきてください」
「それで、それから……?」
「わたしが頃合《ころあ》いを見計らって『わん・わん・わん』と三回|吠《ほ》えます。そしたら、わたしの吠えた方角へ全力で走ってきてください。その後のことはこれから計画を立て、お膳立《ぜんだ》てをととのえます。委せておいてください」
「では、お銀さんに長太郎君、午後三時に代々木公園で逢《あ》おう」
キングが腰《こし》をあげた。
「それまでしばらくのあいだ、ごきげんよう」
「あ、待ってちょうだい」
立ち去ろうとしたキングとおれを、お銀さんが呼びとめた。
「ドン松五郎さんにもうひとつぜひ聞いておきたいことがあるの」
「なんです?」
おれはお銀さんの前に戻《もど》った。
「あなた、さっき、鈴木・佐山両家から参千万円ずつ身代金を取り立てる、といってたわね?」
「うん、合計六千万円の荒稼《あらかせ》ぎ……」
「奪《うば》った身代金をどうする気なの。わたし、庭に投げ捨ててあった週刊誌で読んだんだけど、このあいだ『王烈号』という秋田犬が死んだとき、彼《かれ》の飼い主の工藤登美男さんという人が、府中の慈恩院《じおんいん》なるお寺で『愛犬告別式』をとり行なったそうよ」
「……それがどうかしたの?」
「王烈号は、なんでも、秋田犬保存会特別優秀大賞はじめ、生前たくさんの賞をとった名犬、それはそれは盛大《せいだい》な告別式だったらしいわ。お経をあげた坊《ぼう》さんが三人、参列者が五十余人、弔電《ちようでん》が五十数通、そして集まった香典《こうでん》がなんと百万円。まさか、ドン松五郎さん、あなた、お葬式《そうしき》の費用を貯《た》めるために身代金を奪《と》ろうだなんて魂胆《こんたん》じゃないでしょうね」
「冗談《じようだん》じゃない。わたしはその金を基金に、病院を建てるつもりなんだ」
「病院……?」
「大きな総合病院」
「六千万で建つ?」
「だから、この手の狂言誘拐《きようげんゆうかい》をこれからいくつも考え出して、世の中のあぶく銭《ぜに》や不浄《ふじよう》な金を何千億と集めるんですよ」
「……なるほどね」
お銀さんの目付きがすこしやわらかくなった。
「それはいいわ。一人でも二人でも病気で不幸な目に遭《あ》っている人間をなくそうってわけね」
「そうさ。不幸な人間がすこしでもなくなれば、不幸な人間の靴《くつ》で蹴《け》っとばされる不仕合わせな犬もそれだけすくなくなるのさ」
「でも、犬にどうやって病院が作れるんですか?」
長太郎が訊《き》いてきた。
「人間のための病院を、犬がどうやって?」
「これは! という医師を探《さが》しだすんだ。立派な人格の持ち主である医師を草の根分けても見つけだす。見つけ出したら、彼にわたしたちの集めた金を委託《いたく》する」
「わかりました」
と、長太郎君がうなずいた。お銀さんはおれに向かって、
「がんばるわ」
と、片眼《かため》をつむった。
「ドン松五郎さん、わたし、ますますあなたのことが好きになりそうだわ」
「ありがとう」
おれはすこし赤くなって、キングの後を追った。
「それじゃ午後三時に……」
「代々木公園のサッカー練習場で」
おれの背中を、お銀さんと長太郎君の声が追ってきた。
小山家の南庭へ出ると、突然《とつぜん》、キングがうーっ、うーっと低く唸《うな》りだした。おれは、「ど、どうしました。俄《にわ》かの腹痛ですか。腹痛なら正露丸《せいろがん》が効《き》くんだけど、あいにく持ち合わせがないなァ」
とぶつぶつ言ったが、その間にも、キングの唸り声はますます強くなって行く。
シェパードのキングの視線は隣《となり》の鈴木家の庭の一角に釘付《くぎづ》けになっていた。キングと鈴木家の庭の一角との間になにかただならぬことが起こっているらしいぞ、と思いながら、おれはキングの傍《そば》へ歩いていった。キングの視線には、凄《すご》いほどの殺気があったのだ。
「ドン松五郎君、先に行っていてくれたまえ」
キングは隣家の庭を睨《にら》みつけたままおれに悲痛な声で言った。
「公園にいる仲間を引率《いんそつ》して、わしたちの決戦場である代々木公園に早く出かけてしまってくれたまえ」
キングに肩《かた》を寄せるようにして並《なら》び、彼と同じ方向をおれは見た。金網の向こうの、意外に近いところから、人間の顔が三つ並んでこっちを睨《にら》み返している。
「キングさん、あの連中はJ大学の食用犬愛好クラブの三人組ですよ」
と、おれが言うと、キングはあいかわらず眼を据《す》えたままで、
「それは知っておる」
と、答えた。
「わしが前に逢ったときは、連中はまだ平和な顔をしておったはずだが、いまはそのときとはまるで違《ちが》う。金網がなければわしはおそらく一分も前に連中によって殴《なぐ》り殺されていたろうな」
たしかに三人の眼付きにもいやな殺気がこもっていた。
「もう一|匹《ぴき》、おいしそうな白犬が出てきましたぜ」
三人組のうちの一人、背高ノッポが真ん中の女リーダーに舌嘗《したな》めずりをしながら言った。
「あの白犬の肉を紙ぐらいに薄く切ってしゃぶしゃぶにして喰《く》ったらさぞかしおいしいでしょうね」
「いや、生《なま》の方がもっといけるわよ」
女リーダーは口元の涎《よだれ》を手の甲でぐいと拭《ふ》いた。
「タータル・ステーキにしたらそれこそ絶品よ」
「ぼくはシェパードの老犬の方に魅力《みりよく》があるなあ」
ずんぐりむっくりは腹をぐうと鳴らした。
「年寄りの肉の筋ばった硬《かた》いところ、あの硬さを、ぼくは好きなんです」
このままではキングもおれも殺《や》られてしまう、とおれは思った。三人の視線には妙《みよう》な粘《ねば》っこさがあるが、三人はおれたちに催眠術《さいみんじゆつ》をかけているのである。躰《からだ》全体が金しばりにかかってしまったようだ。「先に行っていてくれたまえ」とさっきキングは言ったが、その言葉の持つ意味の重大さが、おれはやっと呑《の》みこめてきた。彼等《かれら》は日頃《ひごろ》から犬を金しばりにする催眠術かなんかを稽古《けいこ》しているのだ。催眠術で犬を釘付《くぎづ》けにしておき、仲間のだれかが後からその犬を棒で殴りつける、それが連中の犬の殺し方なのだ。それにつけても口惜《くや》しい。汚《きたな》いやり方で金を稼《かせ》いでいる人間から金を巻きあげ、その金を病院の建設資金にしよう、という大計画がまさにスタートしようという時に、なぜ、おれはしゃぶしゃぶやタータル・ステーキにならなきゃならないんだ。
「痛ッ!」
おれがそんなことを考えていたら、急に女リーダーが悲鳴を上げた。
J大学食用犬愛好クラブの女リーダーはジーパンの尻《しり》を押《おさ》えてとびあがった。彼女《かのじよ》の左と右で四つん這《ば》いになり、キングとおれを睨《にら》みつけ催眠術をかけていた背高ノッポとずんぐりむっくりが、びっくりして、
「ど、どうしたんです?」
と、異口同音に女リーダーに訊いた。訊いた拍子《ひようし》に二人はおれたちから目を離《はな》した。
「犬があたしのお尻に噛《か》みついているんだよ。あっ、あっ、痛いよオ」
女リーダーは悲鳴をあげて芝生《しばふ》の上を転げまわる。見ると彼女の尻に喰いついているのはブルテリアの長太郎だった。
「長太郎君よ、ありがとう」
シェパードのキングが奮戦中《ふんせんちゆう》の長太郎の耳に届けよかしと、大声をあげた。
「きみの奇襲《きしゆう》のおかげで、わしたちは連中の視線による金しばりから解放されることができたよ。恩に着ますよ」
「……ど、どういたしまして」
長太郎は女リーダーのお尻から口を離《はな》し、おれたちに向かって言った。
「でも、お礼をおっしゃる暇《ひま》に早く出て行ってください!」
「……この野郎《やろう》」
背高ノッポは長太郎の前に四つん這いになって唸りだした。
「よくもクラブ活動の邪魔《じやま》をしてくれたな。睨み殺してやる」
「うん、その調子で睨んでいな」
ずんぐりむっくりがズボンの尻ポケットから、長さ二十|糎《センチ》ぐらいの鉄棒を抜《ぬ》いて、それを頭上に振《ふ》りあげながら、長太郎の背後へ廻《まわ》りこんだ。
「この鉄棒でおれが仕止めてやる」
「およし!」
女リーダーが二人を制した。
「憎《にく》ったらしいブルテリアだけど、この犬は鈴木栄太郎の、つまりわたしたちのクラブのスポンサーの飼い犬だわ。スポンサーは大切にしなくっちゃね。それよりもわたしは隣《となり》の庭にいる白の雑種犬に未練があるんだわ。どうしても、あの犬の肉をタータル・ステーキにしてたべたい……」
冗談ではない。そう簡単におまえなんぞにたべられてたまるものか。
「午後三時に代々木公園で逢《あ》おうね。きみとお銀さんに牛肉のお土産《みやげ》を用意してある。それをたのしみに出かけてきてくれたまえ」
と、長太郎に言い置いて、おれはキングと一緒《いつしよ》に小山家の庭から外へとびだし、向かいの公園で仲間たちと合流した。
おれたちが代々木公園に向かってそこを出発したのは、それから十五分後だが、松濤町《しようとうちよう》から神山町へかかったとき、どういうわけかおれたちは一斉《いつせい》に電信柱が恋《こい》しくなりだした。つまり、ありていにいえば尿意《にようい》を催《もよお》しだしたのである。
「松濤公園を出発するとき、腹ごしらえのために水道の水をたらふく飲んだが、あれがいけなかったようだ」
というのがキングの意見だったが、おれはそうは思わなかった。神山町のその通りにはいやに電柱が多かった。そのたくさんの電柱を見たとたん、全部の犬が条件反射的に尿意を催してしまったのではないか、おれはそう思った。奇妙《きみよう》なことに電柱のほとんどは高さが一|米《メートル》ぐらいで、とても低い。こんなもので電柱の用が足りるのかしらん、といぶかしく思いながら、おれはある一本に向かって片足をあげようとした。が、そのとき、背後に人の気配がした。はッと思ってその方を見ると例の女リーダーがおれに向かって鉄棒を振りあげていた。
「ふふふふ、よくいらっしゃいました。先まわりして待っていた甲斐《かい》があったようよ」
J大学食用犬愛好クラブの女リーダーは鉄棒を頭上に構えながら、おれの方へじりじりと接近してきた。
「さあ、タータル・ステーキにしてあげるわ。動いちゃだめよ」
下手に目をあげてしまっては、またあのおそろしい催眠術をかけられてしまうおそれがあった。おれはなるべく目を伏《ふ》せて逃《に》げ出す機会を窺《うかが》っていた。
(なぜ、この神山町に、背の低い電柱がたくさん並《なら》んでいたのか、その謎《なぞ》が解けたぞ)
生きるか死ぬかの境目にある、というのにおれの頭はそのときこんなことを考えていた。われながら呆《あき》れるが、事実であるからどうにも仕方がない。が、それはとにかく、おれは、この背の低い電柱を、神山町に持ち込んだのは、この女をリーダーとするJ大学食用犬愛好クラブの三人組だな、とそのときぴんときたのである。つまりこれは私製の、携帯用《けいたいよう》電柱なのだ。もうひとついえば囮《おとり》用の電柱だ。おれたちには、電柱の前をなかなか素通りできない、という本能がある。その電柱から他の犬の小便の匂《にお》いがしない場合は、この本能はさらに強まる。処女地ならぬ処女電柱に、どうしても己《おの》れの匂いを染《し》み込《こ》ませたくなるのである。三人組は、この、おれたちの本能を見抜《みぬ》いて手製の電柱をあっちこっちに設置し、そこへおれたちが片足をあげるところを鉄棒で叩《たた》きのめそうとしている。なんとまあ、悪知恵にたけた連中ではないか。
などというと、三人組を恨《うら》むのはよしたまえ、と反論なさる向きもあるかもしれぬ。むしろ処女電柱に片足をあげたくなる自分たちの本能を恥《は》じたまえ、と。
このような反論に対して、おれはさらに再反論したい。そうおっしゃる人間属の男性諸氏もおれたちと同じ癖《くせ》をお持ちではないのか。男性諸氏はすごい美人が前を通りすぎるとき、彼女を見ずにすますことができるか。できないだろう。それどころか「ああ、おれもあんな美女とせめて一度は……」と、胸が熱く切なくなるはずだ。さらに、男性諸氏には処女願望がある。「どうせ結婚《けつこん》するならば、他の男の匂いのまだついていない処女と……」と、男性諸氏はかように考えておいでになるはずである。女性の値打ちは顔の美醜《びしゆう》では決まらない。むろん処女非処女でも決まらない。なのに恥ずかしげもなく美女・処女願望をウンヌンされる以上は、おれたち犬が電柱や処女電柱に拘泥《こうでい》するのを、あまり大きな声で咎《とが》め立《だ》てしてはもらいたくないものである。美人はおれたちの電柱であり、処女はおれたちの新しい電柱なのである……
と、こんなことを考えているところへ、女リーダーはさっと鉄棒を振りおろしてきた。この一撃《いちげき》はむろん予想していたから、おれは横へ一米も飛んだ。がしかし、彼女の腕《うで》はなかなかに冴《さ》えていた。鉄棒で眉間《みけん》を割られることは避《さ》けることができたが、そのかわりにおれは左腰《ひだりこし》をしたたかにぶちのめされた。おれは悲鳴をあげながら逃げに逃げた。そして、辛《かろ》うじて彼女の追走を振り切り、十分後にようやく代々木公園の南西側の、芝生の斜面《しやめん》に辿《たど》りついた。松濤公園を出発するとき、途中《とちゆう》でなにか事変が生じてばらばらになったら、落ち合い場所は代々木公園の南西側芝生と申し合わせておいたのが役に立ったわけだ。が、そこに辿りついて、おれは愕然《がくぜん》となった。仲間のうちのほぼ半数が、肩や腰や背中を殴られ、打たれ、砕《くだ》かれて、芝生のあちこちに横たわっていたからだった。
「ゴンがいちばんひどくやられたよ」
キングがおれに言った。
「眉間に一発、脳天にも一発。それから、左の後肢《あとあし》をずんぐりむっくりの靴《くつ》で踏《ふ》みしだかれている。クロが横からずんぐりむっくりの右手に噛みついたので、やつは鉄棒を取り落とした。クロの働きがなかったら、ゴンは眉間か脳天にもう一発くらって生きてはいなかったろう」
おれはゴンの傍《そば》へ寄った。
「ゴンさん、ゴンさん……」
耳元に口をつけて呼んだが、反応はない。
「たぶんこのままお陀仏《だぶつ》だろうよ」
ゴンの肢《あし》の傷を舐《な》めていたクロが言った。
「おれがもっと早くずんぐりむっくりの野郎に飛びかかっていたら、ゴンもこうはならなかったんだが……。ゴンよ、すまねえ」
クロはゴンの傷の上にはらはらと涙《なみだ》を落とした。
「わたしの落ち度です」
おれもゴンの傷を舐めて言った。
「J大学食用犬愛好クラブの三人組が途中で待ち伏《ぶ》せしているのではないか、ということを、わたしは前もって考えとくべきだったんです。指揮官《しきかん》としては失格です」
「ドン松五郎君、そしてクロ君、あまり自分を責め給《たも》うな」
キングが言った。
「きみたち二人がいくら責任をとり合ったところで、ゴンの傷はよくならぬのだ。それよりも、次の戦闘《せんとう》でこのような犠牲者《ぎせいしや》を出さぬよう、万全《ばんぜん》の計画を立てるべきだろう」
「計画は練ってあります」
おれはキングと並《なら》んで坐《すわ》った。女リーダーに殴《なぐ》られた腰《こし》がずっきんずっきん痛む。しかし、お銀さんと長太郎君が身代金を持ってこの近くに現れる午後三時まで三時間しかない。おれには痛がっている暇《ひま》などないのだ。
「それで計画の大要は?」
「身代金を躰《からだ》にくくりつけてやってくるお銀さんと長太郎君を、代々木公園のサッカー練習場からここまでどうやって案内してくるか、それが一番のポイントです」
ここ、すなわち、現在《いま》おれたちが憩《いこ》っている場所はサッカー練習場と選手村の中間にある。サッカー場との直線|距離《きより》はほぼ五、六百米。この間に幅《はば》三十米の道路があるはずだ。
「……小手先を弄《ろう》するのはよそうと思います。わたしたちの仲間のうちで、特に足の速い犬五、六匹が、午後二時三十分にサッカー練習場に出向いて待機し、お銀さんたちが現れたら、その前後を護衛し、大|疾走《しつそう》して、ここへ戻《もど》ってきます……」
「うむ。しかし、警察は大勢の刑事《けいじ》をサッカー練習場に張り込《こ》ませることだろう。彼等《かれら》の包囲陣《ほういじん》を突破《とつぱ》できるかしらん?」
「警察側は、この誘拐《ゆうかい》事件を画策《かくさく》し、実行しているのが、全員犬である、ということにまだ気づいていません。犬を道具に使っているだけで主犯は人間だと信じています」
「ふうむ」
「そこがつけ目ですよ。素《す》ばやく行動すればなんとかなる、と思います。速さ、これが勝負の分かれ道です。わたしはお銀さんたちをむかえに出る決死隊の隊長をつとめます。キングさんには留守部隊の方をお願いします」
「ただ、ぼんやり待っているのかね。待つのも辛《つら》い……」
「ただ待っていただくんじゃありません」
おれはキングに言った。
「穴を掘《ほ》っといていただきたいんです」
「穴?」
「身代金を埋《う》めておくための穴です」
「なるほど」
「もうひとつ、このへんを物色しておいていただきたいのです」
「なにを、どう物色しておけばいいのだね?」
「根拠地《こんきよち》です。これからわたしたちが|ねぐら《ヽヽヽ》とすべき場所を探《さが》しておいていただきたいのです。明治神宮、東大教養学部、宇田川神社や隠田《おんでん》神社、あるいは代々木八幡宮に東郷神社、それから長泉寺に延命寺……、このへんを中心に、わたしたちがひっそりと隠《かく》れているのに適《む》いてそうな場所が、ずいぶんありそうな気がします。それを……」
「あたっておくのだね?」
「はい」
「承知した」
キングはうなずいた。
「ところでドン松五郎君、きみは決死隊の隊長となる、といったが、その決死隊の隊員はだれとだれとだれなのかね?」
「その人選、というか犬選はまだやっていませんが……」
「おれたちを連れて行ってくれなきゃ一生|恨《うら》んでやるからな」
キングとおれの話に聞き耳を立てていたのだろう、泥棒《どろぼう》犬のクロがおれの前にとびだした。眼鏡犬のシロー、柴犬《しばいぬ》の平吉、そして斑点《ぶち》犬の三匹も一緒《いつしよ》である。
「ドン松五郎君よ、おまえさんの足手まといには決してならねえつもりだ。だから一緒に連れていっておくれ」
たしかに、クロ、シロー、平吉、そして斑点犬と揃《そろ》えば、これはベストメンバーである。
「おねがいします」
おれは四|匹《ひき》に向かって頭を下げた。が、このとき、横あいから、白い雑種の仔犬《こいぬ》がよちよちとおれたちの前へ出てきた。
「ぼくもついて行っていいかい?」
「な、なんだよ、おめえは?」
クロが仔犬の尻尾《しつぽ》を啣《くわ》えて軽く振《ふ》りまわした。
「見かけねえ顔じゃねえか」
「ぼくは神山町からみなさんの後についてきた新入りです。年齢《とし》は今日で六カ月。名前はコロと申します」
「新入りだと?」
平吉が鼻先で仔犬の脇腹《わきばら》をつっついた。
「こちらのキングさんか、あるいはこのドン松五郎君の許可はもらってあるのか。仲間に加えてあげるよ、という許しはもらったのか?」
「まだです」
仔犬の態度には悪びれたところが一点もない。
「でも、ぼくが勝手にきめたのです」
天真爛漫《てんしんらんまん》に答える。
「わたしたちはいくさごっこをやろうというんじゃない。これは命がけなんだよ」
シローは仔犬の尻尾をやさしく噛《か》んで、
「子どもははやく飼《か》い主《ぬし》のところへお帰りよ」
「ぼく、これで結構、役に立つと思うんだがな」
仔犬はシローの顔をぱしんと尻尾で打った。なかなか巧《たく》みな尻尾さばきである。こいつはただの仔犬ではないな、とおれは思った。
「おッ、こいつ、小生意気なことをやりやがるぜ」
クロがコロと名乗った仔犬に向かって牙《きば》を剥《む》き出した。
「シローにかわって、このおれがちょいとお灸《きゆう》をすえてやるぜ」
「どうぞ」
コロは、人間属の男性がよくやるように、芝生《しばふ》の上にとんと小さな腰《こし》をおろしてあぐらをかき、前肢《まえあし》二本を胸の前で組んだ。
「ぼく、いくら叩《たた》かれようが殴られようが、ちっともこたえないんだ。おじさん、どっからでも好きなようにやっとくれよ」
「成犬《おとな》をからかいやがって、この野郎《やろう》。泥棒犬のクロさんといえば、犬の仲間うちではちっとは聞こえたおあにいさまだ。それなのによくも、おじさんなどと気やすく呼びやがったな」
クロが右の前肢を振《ふ》りあげた。
「あ、ちょっと待った」
コロが胸の前で組んでいた右の前肢をほどき、クロの鼻先に突《つ》き出した。クロはふふんとせせら笑って、
「おっ、待ったをかけやがったな。やっぱり怖《こわ》いんだろ?」
「ちがうよ。ぼくを殴る前にひとつ約束《やくそく》してほしいことがあるの」
「な、なんだ、その約束というのは?」
「殴られてもぼくが音《ね》を上げなかったときは、ぼくをみんなの仲間に入れておくれよ。そして決死隊に加えておくれよ」
右の前肢を振りあげたまま、クロはおれとキングの方を見た。
「ど、どうする? おれにはこいつを仲間に入れてやったり、決死隊に加えてやったりできる権限はないが……」
「殴るだけ時間の無駄《むだ》ですよ」
おれはクロに言った。
「このコロ君の不敵な面《つら》だましいを見てごらんなさい。これは少々なことじゃへこたれない顔だもの」
「おれもじつはそう思いはじめていたところだ」
クロは振りあげていた右の前肢で頭を掻《か》いた。
「おれは三度の飯よりも喧嘩《けんか》が好きで、それだけに殴りなれているが、その経験からいうと、こいつは殴り甲斐《がい》のない野郎だな。こっちの前肢が痛むだけよ」
「コロ君」
おれはクロを押しのけ、この不敵な仔犬に言った。
「きみを仲間に入れてあげてもいいよ」
「わあ、ありがとう!」
コロは立ち上がって前肢を天に向かって突きあげた。つまり万歳《ばんざい》をした。
「ただし、決死隊員になるにはきみはまだ若すぎる。決死隊は今度だけじゃない。これから何度だってある」
コロはぷっと膨《ふく》れた。が、正式におれたちの仲間に加えてもらったことで満足したのか、それ以上は文句はいわず、大人しく近くの植込《うえこ》みのかげに引っこんだ。
おれたち五匹の決死隊はそれから二時間ばかり午睡《ごすい》をとった。目がさめると午後二時半だった。身代金の受け渡《わた》しは午後三時である。おれたちはキングや他の犬たちに見送られて代々木公園の南西側の斜面《しやめん》を出発した。そして、原宿から井《い》ノ頭《かしら》通りへつながる幅三十|米《メートル》のオリンピック道路を渡り、サッカー練習場に入った。練習場では、一組のサッカーチームが円い大きな輪を作って、たがいにボールを蹴《け》り合っていた。
おれたちは代々木公園サッカー練習場の北東の隅《すみ》のベンチの下にもぐり込《こ》んで、グラウンドを眺《なが》めていた。おれたちのベンチの背後には国立屋内総合競技場の妙《みよう》ちきりんな屋根が空高く屹立《きつりつ》している。左手にはNHK放送センターや渋谷公会堂へ出る道があり、右手は井ノ頭通りへつながるオリンピック道路になっている。
「下手くそな連中だぜ、まったく」
練習場でボールを蹴っているサッカーチームにクロが乱暴な批評を試みている。
「ボールが来れば受け損じる。蹴れば蹴りそこねる。あれではご立派なユニホームが泣くってものだぜ」
「連中は刑事《けいじ》たちなんだ」
おれはクロに言った。
「つまり、サッカーの練習をしていると見せかけて、身代金を受け取りにくる誘拐《ゆうかい》犯人を張り込んでいるのですよ。刑事たちは慣れないボールを蹴っているのですから、下手なのは当然です」
「なるほど、連中も考えやがったものだねえ」
クロは感心して唸《うな》った。
「それにしても、ドン松五郎さんよ、あんた、いつごろからそうと見抜《みぬ》いていたんだね?」
「この練習場へ入ってきたときからですよ」
「それで、どうしてそうとわかった?」
「あの円陣《えんじん》の外にコーチがひとり立っているでしょう?」
「ああ、もじゃもじゃ頭の、口のうるさいのがいるね。……まてよ、あのもじゃもじゃ頭をどこかで見たことがあるぜ。おッ、そうだ! やつは鈴木家に張り込んでいた主任刑事じゃねえか」
「ご明答です」
おれはクロにうなずいてみせた。
「ここへ入ってきたとき、わたしもクロさんと同じことに気がついたのです。コーチがもじゃもじゃ頭の主任刑事なら選手たちは刑事にちがいあるまい、とね」
ぴいーっと、そのもじゃもじゃ頭の主任刑事がホイッスルを吹《ふ》いた。
「このへんでひと休みしよう」
選手たちが主任刑事のまわりに集まった。
「そろそろ三時だ」
主任刑事が選手たちに言った。
「身代金を背負った犬が二匹、ぼつぼつここへやってくるはずだ。当然、誘拐犯人たちも姿を見せるだろう」
選手たちはあわてて周囲を見廻《みまわ》す。
「ばか!」
主任刑事が大喝《だいかつ》した。
「きょろきょろするやつがあるか! 犯人たちはどこからわれわれを見張っているか知れやせんのだ。そわそわ落ち着かない態度をとっていると連中に気づかれてしまうぞ。平静を装《よそお》っているのだ!」
選手たちは深呼吸をしたり、軽く体操をしたりしはじめた。
「そうだ、その調子だ。それなら、いかにもサッカー選手らしくていい。ではそのまま、犯人《ほし》が姿を現すのを待とう。犯人らしいのが現れたら、わしがホイッスルを吹く。そしたら練習再開だ。あとは打ち合わせ通りだ。犯人の傍へわしがボールを蹴る。全員でそのボールに向かって殺到《さつとう》する……ように見せかけて、犯人を組み伏《ふ》せる……」
ということは、主任刑事はまだ主犯がおれたち犬である、とは気づいていないことになる。おれは吻《ほつ》として地面に腰をおろし、何気なしに右手の道を見た。すると、右手の道から犬が二匹、こっちへやってくるのが見えた。二匹とも背中に大きな風呂敷包《ふろしきづつ》みをくくりつけている。
おれはその二匹の犬の方へ二、三歩|駆《か》け寄ったが、ぎょっとなって辛《かろ》うじて踏《ふ》みとどまった。お銀さんと長太郎に身代金を背負わせてよこすように、と脅迫状《きようはくじよう》には明示しておいたはずなのに、その二匹はお銀さんたちではない。だいたい躰《からだ》がはるかに大きい。よく見ると二匹ともシェパードだった。
「警察犬だ!」
おれはクロたちに言った。
「警察《てき》はお銀さんと長太郎君のかわりに、警察犬に身代金を託《たく》してよこしたようです」
「ど、どうしよう?」
さすがの泥棒犬のクロも怯《おび》えて尻尾を巻きかける。シロー、平吉、斑点犬もクロと同様、負け犬的態度をとっている。
「計画どおりに行きましょう」
正直いっておれもこわい。警察犬はそれぞれ武芸の達人ぞろいであるし、だいたいが、獰猛《どうもう》な性格の持ち主ばかり、喰《く》いつかれたら半死半生の目に遭《あ》うだろう。が、しかし、ここで尻尾を巻いては、決死隊の名が泣くではないか。
「あの二匹をなんとか説得します」
「そ、それで、二匹がこっちの説得に乗ってこなかったら?」
「むこうは二匹、こっちは五匹。わッと飛びかかって身代金を奪《うば》いとるだけのことですよ」
「わッと飛びかかるだと……」
クロは肩をすくめた。
「口でいうような具合に行けばいいけどねえ」
「とにかくやってみましょう。そのときは死にものぐるいで戦いを挑《いど》みましょう。そのあとどうなるかは、神のみぞ知るです」
「うむ……」
クロがうなずいた。
「こっちも犬ならむこうも犬、まさか鬼《おに》でもあるまい。一丁、命がけでやってみるか」
クロたちは四方に散った。むろん、これは警察犬を包囲するためである。
「おい、小僧《こぞう》……」
警察犬がおれの一間ほど前に来て、立ちどまった。おい、小僧と、|ドス《ヽヽ》のきいた声でおれを呼んだのは、二匹のうちの、図体《ずうたい》の大きな方である。
「おれは警察犬のジョン号よ。そして、こいつは、おれの舎弟《しやてい》分のラッキー号だ」
小柄《こがら》なほう――といってもおれの五、六倍は大きいが――がペコリと頭を下げた。
「おめえたちにはある殺気が感じられるが、もしかしたら、おめえたちは、誘拐犯人の使いのものじゃないのかい?」
ジョン号は周囲に散らばったクロたちにじろりと鋭《するど》い一瞥《いちべつ》をくれながら言葉を続けた。
「おそらくそうだろう? おれの睨《にら》んだところに狂《くる》いはねえはずだが、そうだったら、はやく、おれたちをおめえたちの主人のところに案内しな」
「わたしはドン松五郎と申します」
おれは二匹の警察犬のほうへ一歩、踏《ふ》み出して言った。
「ジョンさん、あなたはいまわたしたちのことを『誘拐犯人の使いのものだろう』とおっしゃいましたが、それは間違《まちが》いです」
「な、なんだと? おれがこうと睨んだら、百にひとつ、どころか千にひとつの外《はず》れもねえのだ。おめえたちはたしかに匂《にお》う。臭《くさ》い。おい、ごまかさねえでおとなしく、おめえたちの主人のところへ案内しなよ」
ジョンと名乗ったシェパードはこっちへ一歩、のそっと踏み込んできた。
「おれの役目はおめえたちの主人、つまり誘拐犯人の居所《いどころ》をつきとめることにある。さ、早く案内しねえか」
「ですから、わたしたちに主人はおりません」
ここで気押《けお》されて尻尾を巻いてしまってはこっちの負け、説き伏《ふ》せて味方につけるどころではなくなる。おれは二匹の警察犬の方へさらに一歩踏み込んだ。
「この誘拐事件の主犯はわたしたちなのです」
「やい、小僧、冗談《じようだん》を言っている場合じゃねえぜ」
ラッキー号が耳をぴんと立てた。シェパード犬がこういう仕草をするのは腹を立てている証拠《しようこ》である。
「これだけの大事件を犬だけで仕組むなんて出来ねえ相談だ。法螺《ほら》を吹《ふ》くのもたいがいにしやがれ」
「まあ、聞いてください」
おれは余裕《よゆう》のあるところを見せて、地面に尻《しり》を落とした。
「そうはお暇《ひま》はとらせませんから」
「兄貴、どうしやす?」
ラッキー号がジョン号の顔色を窺《うかが》った。
「小僧の法螺を聞きますか? それとも、即刻《そつこく》、この連中の咽喉笛《のどぶえ》を噛《か》み切ってあの世へ送り込んでやりましょうか?」
「まず聞こうぜ」
ジョン号も地面に腰《こし》をおろした。
「おれにはこの小僧が満更嘘《まんざらうそ》ばかり並《なら》べているようにも思われねえのだ。やい、小僧、聞いてはやるが、要領よく頼《たの》む」
「ええ、まず、この誘拐《ゆうかい》事件ですが、じつを言うと|それらしく見えるだけで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、誘拐事件ではないのです。誘拐されたと信じられている鈴木家の娘《むすめ》純子さんと佐山家の息子《むすこ》の明君は、家出し、駈《か》け落ちしただけです」
ジョン号とラッキー号はただただ目をまるくして、おれを見ている。
「つまりその駈け落ちに便乗《びんじよう》して、わたしたちが誘拐事件をでっちあげました」
「な、なんでだね。なんで誘拐事件をでっちあげたのだ?」
「あなたがたが首からぶらさげておいでになる身代金が欲《ほ》しいからです」
「な、なぜ、金が欲しいのだ?」
「たとえば、病院を建てるために、です。財閥《ざいばつ》や大企業《だいきぎよう》は利益の何十分の一かを社会に還元《かんげん》すべきです。が、外国ではこれが習慣になっているのに、日本国では悲しいことにそうではない。寄付金に高い税金をかけるせいもありますが、財閥や大企業は、政治資金に利益のうちの少々をまわすだけで、あとはわれ関せず焉《えん》をきめこんでおります。そこでわたしたちが、彼等《かれら》の利益を、この国の庶民連にかわって取り立てることにしたのです。この事件を手はじめに、わたしたちはこれからは月に一度か二度、誘拐事件を仕組み、あくどく金を儲《もう》けている連中のうわまえをはねるつもりです。そうすれば、わが子がわが孫が誘拐されるのではないかとおそれて、財閥や大企業の間に利益のうちの何十分の一かを、世の中に戻《もど》す、という習慣がいやいやながらであれ、根づくかもしれません。そしてその結果、年にひとつかふたつずつ、三菱《みつびし》病院だの、三井大図書館だの、住友大遊園地だの、交通遺児のためのトヨタニッサン育英会だの、日立劇場だの、新日本母子|寮《りよう》だのが出来るかもしれない。それがわたしたちの、真の狙《ねら》いなのです」
「この誇大妄想狂《こだいもうそうきよう》犬め!」
ジョン号が唸り声をあげた。
「犬の分際《ぶんざい》を忘れて、あんまり人間属のお節介《せつかい》を焼くんじゃねえや。人間は、馬鹿《ばか》だろうと間抜《まぬ》けだろうと愚《おろ》か者だろうと、有史以来、おれたち犬の主人だ。主人のやってなさることに口ばしを突《つ》っ込《こ》むのは、あまり利口なことじゃねえだろうと思うぜ。おまえたちのやろうとしていることは、人と犬との関係をぶちこわそうとする大逆罪だ」
「そうだとも!」
ラッキー号が兄貴分のジョン号に義理立てをしておれに噛《か》みついてきた。
「おれたちにとって人間は飼《か》い主《ぬし》である、と同時に神様でもある。神様のおやりになることにつべこべ文句を言うのは、許されねえのだ」
「ばかだなあ。十九世紀に、すなわち一世紀も前に神は死んだんだよ」
このとき、おれの後方で邪気《じやき》のない声があがった。
「いまどき、人間は神様である、なんてことを信じている犬がいるとしたら、そいつはよほど遅《おく》れているよ。つまり前世紀の遺物だ」
振《ふ》り返ってみると、コロがいた。コロというのはついさっきおれたちの仲間に加わったばかりの、白い雑種の仔犬《こいぬ》である。
「お、おれたちを前世紀の遺物呼ばわりをしやがった野郎《やろう》、ここへ出てこい!」
ラッキー号が躰を低く伏《ふ》せて、牙《きば》を剥《む》き出した。
「まずその野郎から血祭りにあげてやる」
「ぼくだよ、あんたを前世紀の遺物だときめつけたのは」
コロがちょこちょことおれの前に出た。
「ず、ずいぶんちっこい野郎だな」
ラッキー号はコロがまだ仔犬なのですこしずっこけたようである。
「おれにくらべりゃおめえなんざ、吹《ふ》けば飛ぶようなゴミだ。ゴミを相手にするのはおれの沽券《こけん》にかかわる。ちびのくせに口幅《くちはば》ったいことを申して、すみませんでしたとあやまれ。そうしたら、噛みつくのは見合わせてやる」
「ドン松五郎さん、やつはぼくにあやまれ、といっているけど、どうしようか?」
コロがおれを見て言った。
「ドン松五郎さんは決死隊の隊長だ。これからの作戦もいろいろあるだろうからさ、穏便《おんびん》に引き下がっておけというのなら、ぼく、その通りにするよ」
「ど、どうしておまえはここにいるのだ」
おれはコロの尻尾《しつぽ》を啣《くわ》えて、彼を手許《てもと》に引き寄せた。
「キングさんの傍《そば》を離《はな》れるな、と言っておいたはずだよ」
「うん。でも、ぼく、なんだか血が騒《さわ》いでどうしても待っている気にはならなかったんだ。だから、ひとりでとことこ、ここへやってきたのさ」
「うーん。それにしてもおまえは、神は死んだなどと、すごいこと知っているな。どこで勉強したんだ?」
「この近くに東京大学の教養学部がある。ぼくの学校はそこさ。授業を窓の外で聴講《ちようこう》しただけ……」
おれはコロに自分の少年時代をみたような気がした。おれも家の近くの商科大学へ日参して知識欲を満足させたものだったが……。そんなことを考えながらコロの背中を眺《なが》めおろしていると、おれはコロの肩口《かたぐち》に大きなあざのあるのに気がついた。紫色《むらさきいろ》の、犬の足あとの形をしたあざ。疑いもなく聖痕《せいこん》である。犬の指導者となるべく選ばれた者はかならず持っているという聖痕だ。おれにも同じような紫のあざがあるが、コロのものよりはずっと小さい。そこで、おれはコロに言った。
「おまえが思うとおりにするさ」
「うん」
コロはうなずいて、ラッキー号の前へちょこちょこと近づいて行った。
「あんた、ラッキー号っていったっけ?」
「おう。おれがラッキーさまよ。そいで、こちらにおいでなのがジョンさまだ。ジョンさまは警察犬のナンバーワン、おれさまはナンバーツー。どうだ、おそれいったか」
「そうそっくりかえってばかりいないで、ぼくたちの仲間におなりよ」
コロがすらっと言ってのけた。
「そのお金を持ってぼくのあとについておいで。みんなに紹介《しようかい》してあげるからさ」
「ば、ばかもの!」
ラッキー号がびっくりして一尺もとびあがった。
「おれたちは警察犬だぞ。貴様たちの如《ごと》き犯罪犬の仲間入りができるものか!」
「ぼくたちは犯罪犬なんかじゃないよ。だって、人間のためにも、犬のためにもなるちゃんとした目的を持って行動しているんだもの。いってみれば|新しい犬たち《ヽヽヽヽヽヽ》なんだ」
「新しくていいのは人間の女房《にようぼう》と畳《たたみ》だけだぞ、坊《ぼう》や。書物だって切手だって銭《ぜに》だって古い方が値打《ねうち》があるんだ。古本、古切手、古銭に、べらぼうな値のつく世の中なんだぜ」
「そういうことだ」
ジョン号がラッキー号にかわって堂々たる体躯《たいく》を前に乗り出した。
「世の中はおまえさんたちの考えているように、そう簡単には変わりゃせん。みんなの納得《なつとく》ずくですこしずつ、そして自然に変わって行くのだよ。きみたちはその点、過激《かげき》だ。いや過激すぎる」
「ジョンさんは桃太郎《ももたろう》のお供をした犬をどう思う?」
コロが妙《みよう》なことを言いだした。
「あの犬を評価する? それともしない?」
「それはもちろんするさ。桃太郎さんはそのあたりの人々を苦しめ悩《なや》ませていた鬼《おに》どもを退治なすった。その桃太郎さんの偉大《いだい》な事業に努力を惜《お》しまなかったあの犬どのは、わしたち犬の手本であり、われわれの師表である。人間属と犬との関係はああでなくてはいかん。犬が人間の仕事の忠実な協力者になる、あれこそ望ましい関係だろうのう」
「桃太郎のお供をした犬さんは、鬼を引っかいたり囓《かじ》ったりしたのだよ。それでも評価する?」
「あたり前だ。悪者をこらしめるのに、なんの遠慮《えんりよ》がいるものか」
「でも、あの鬼は、その後の学者の研究によれば海賊《かいぞく》や山賊の別称だそうです。つまりあの鬼は人間だったんだ」
「だから、たとえ人間であろうと悪いやつは叩《たた》きつぶさねばいかんのだよ」
「すると、人間によりけりですね?」
「……?」
「つまり犬はどんな人間とでも仲よくしなくてはいけないってことではないんですね? よい人間とは協力すべきだけど、悪い奴《やつ》らとは断然手を切ってよいのでしょう?」
「ま、まぁな」
「では、あまり明朗《めいろう》とはいえない方法で汚《きたな》い金を手に入れている連中を、犬は引っかいても、囓ってもいいわけですね?」
「そ、そういうことになるかもしれん」
「では、ぼくたちのやっていることは、ジョンさん、あなたにも賛成してもらえるんじゃないかなぁ。ドン松五郎さんが狙《ねら》っているのはそういう連中なんです。悪い人間どもなんです。桃太郎のはなしでいえば、鬼どもなんですよ」
「う、ううむ」
ジョン号はぐっとつまってしまった。目を白黒させ、口からぶくぶく泡《あわ》を吹《ふ》き出している。
「と、とにかく、おれたちは犬だ。もっといえば犬にすぎないんだ」
兄貴分であるジョン号がコロに問いつめられてぐうとも言えなくなったのを見て、ラッキー号が助け舟《ぶね》を漕《こ》ぎ出してきた。
「つまり人間あっての犬、人間が神の前に跪《ひざまず》くが如《ごと》く、犬は人間の前に跪く。それでいい、それがすべてよ。彼等はおれたちより間違《まちが》うことが少ない」
「花咲《はなさか》じいさんの飼《か》い犬だったポチ君を、ラッキーさんはどうお思いになりますか」
こんどはおれが訊《き》いてみた。ラッキー号の双眸《そうぼう》からはたちまち涙《なみだ》が溢《あふ》れ出し、彼は鼻声で言った。
「ポチ君は可哀《かわい》そうな犬どのだったよ」
「まったくだ。憎《にく》むべきは、隣《となり》の、あのいじわるじいさんよ」
ジョン号も涙声を出した。
「花咲じいさんは神の如きお人だったが、あのいじわるじいさんは、やはり鬼だ」
「いや、花咲じいさんは神じゃない、彼こそ鬼ですよ」
「な、なんだと?」
「花咲じいさんは、長い間、いじわるじいさんの隣に住んでいた。ですから、いじわるじいさんの性格をよく知っていたはずです。したがって万が一、畑から大判《おおばん》小判が出なければ、いじわるじいさんは犬だろうがなんだろうが殺すだろう、ということもあらかじめ予測できていたにちがいない。にもかかわらず、花咲じいさんは自分の飼い犬のポチをいじわるじいさんに貸した。となると、花咲じいさんは、真実、真底から己《おの》が飼い犬を愛していたのだろうか」
「な、なにをいうか! おまえたちは詭弁家《きべんか》だ。屁理屈《へりくつ》こきだ」
「まぁ、そう興奮《こうふん》しないでもうちょっとお聞きくださいよ、ジョンさん。花咲じいさんが本当にポチ君を愛しているのだったら、たとえポチ君をいじわるじいさんに貸しても、心配でたまらなかったろうと思う。そして、ポチ君にもしものことがないように、こっそりいじわるじいさんの行動を監視《かんし》したろうと思う。もし花咲じいさんがそうしてくれたら、あの惨劇《さんげき》は防げたはずです。だが花咲じいさんはそうしなかった。つまり、彼にとってポチはどうでもいい存在だったのです」
「えい、やめい! 花咲じいさんをそれ以上、悪く言うな!」
「いや、もうすこしご辛抱《しんぼう》ください。とにかく人間属は犬をその程度にしか考えていない……」
「嘘《うそ》だ! とにかくわしたちは……」
「そういう人間属にわたしたちの生命を未来をそっくり預けてしまうのはよそう、これがわたしたちの運動の根本理念なのです」
「こ、この赤色犬コロめ! わしたちは警察犬……」
「つまり、犬は犬として自立しよう。そして五分と五分、対等の立場から、人間の仕合わせにいささかなりとも役に立とう。それが結局、わたしたち犬を仕合わせにすることにも通じるだろう」
「やかましいッ! わしたちは秩序《ちつじよ》を重んじる!」
「わたしたちの運動の中心犬は、あなた方と同じ警察犬だったキングさんです。どうでしょう、わたしたちの仲間にお入りになりませんか。一個の犬として、自立してみる気はありませんか?」
「だ、だまれッ!」
ジョン号はいきなりおれ目がけて飛びかかってきた。むろんこの攻撃《こうげき》をおれは最初から予想していたから、右に躰《からだ》をひねって、ジョンの牙を避《さ》けた。が、このとき、思わぬ伏兵《ふくへい》がおれたちの周囲をばらばらっととりかこんだ。
おれたちを包囲していたのは原始人が持っているようなイボイボつきの棍棒《こんぼう》を振りかぶったJ大学食用犬愛好クラブの女リーダーと背高ノッポとずんぐりむっくりだった。
「こんどこそ逃《に》がしゃしないわよ!」
女リーダーの棍棒が右へ跳《と》んだおれの頭上めがけて降ってきた。おれは更《さら》に右へ転がって、彼女《かのじよ》の棍棒から逃《のが》れた。が、そのとき、
「この仔犬もうまそうだな」
と、背高ノッポの棍棒がコロを狙《ねら》っているのが転倒《てんとう》したおれの目に写った。
「クロ君、ソロバン君、シロー君、平吉君、きみたちは二匹の警察犬を頼《たの》む!」
叫《さけ》びながら、跳び起きて、おれはコロの背中に噛みついた。そしてコロを啣《くわ》えて、キングたちの待っている代々木公園北西の芝生斜面《しばふしやめん》に向かって走りだした。背高ノッポの棍棒は、おれのこの動きを予想していなかったらしく空《むな》しく地面を打った。
「……こ、この小癪《こしやく》な犬め!」
背高ノッポがおれを追いかけだした。
「どんなことがあってもその白の雑種犬をぶちのめしてしまうんだ!」
女リーダーもおれの後を追ってくる気配である。当然、ずんぐりむっくりもおれを目標にしているはずだ。おれは狂《くる》ったように四本の肢《あし》を地面に叩《たた》きつけ、走った。走りながら右の前方を見る。右前方ではクロたちが駆《か》けたり停《と》まったりしてじらしながら、二匹の警察犬をキングたちのいる方角へ誘《さそ》っていた。
(その二|匹《ひき》をうまくみんなのところまでおびき出してくれよ)
おれは心の中で祈った。
(おれの仲間が総がかりで戦えば、二匹の警察犬は仆《たお》せるだろう。そうすれば身代金《みのしろきん》はおれたちのものになる……)
おれの鼻先を横切るようにして、サッカー部員たちが駆けて行く。言うまでもなく彼等は刑事《けいじ》、身代金を首から下げたジョン号とラッキー号がいきなり走り出したので、それで慌《あわ》てているのだ。
(……刑事たちはジョン号とラッキー号のことで頭がいっぱいで、おれを追いかけることはしないだろう。おれの当面の敵は、すると、J大学食用犬愛好クラブの三人組か……)
そう思ったとき、おれの頭上にがん! と雷《かみなり》が落ちた。目の前が一瞬《いつしゆん》のうちにまっ白になり、おれは意識を失った。
「……しっかり、ドン松五郎さん!」
耳許でコロの声がした。その声で意識が戻《もど》る。どうやら気を失っていたのは一秒ぐらいの短い間だったらしい。
「ドン松五郎さんの頭に棍棒が命中したんだよ。だいじょうぶ……」
なるほど、目の前に棍棒が一本、転がっていた。
「い、いいか、コロ君……。ここから先は自力で逃げるんだぜ」
舌が縺《もつ》れてうまく喋《しやべ》れないが、やっとの思いでおれはコロに言った。
「決死隊長としておれは命令する。早く逃げるんだ」
しかし、コロは心配そうにおれをみつめたまま、動かない。そこで渾身《こんしん》の力を振りしぼって立ちあがり、おれはコロの臀部《しり》に思いきり歯を立てた。きゃん! と悲鳴をあげてコロが駆けだした。やれやれ、と思いながらおれも走り出す。もうすぐ井ノ頭通りへつながるオリンピック道路だ。その道路を越えれば、キングや仲間たちに逢《あ》える……。
おれは死にものぐるいで走った。だが、背後のJ大学食用犬愛好クラブの三人組の声は一向に遠くならない。普段《ふだん》なら人間の足になど負けるはずはないのに、彼我《ひが》の差がひろがらないのはやはり、おれの脚力《きやくりよく》が落ちているからだろう。ときどき目が霞《かす》む。これはついさっきの棍棒|爆弾《ばくだん》のせいだ、また、数歩ごとに腰《こし》がふらつく。これは神山町で女リーダーに殴《なぐ》られたときの後遺症《こういしよう》か。
「……おい、ドン松五郎、散歩に連れていってやろうか」
不意に目の前にわが主人である小説家松沢先生の顔が現れた。
「やあ、ご主人、こんなところでお目にかかれるとは……、お懐《なつ》かしゅうございます」
腰の痛みを忘れて思わず走り寄ると、主人の顔がふっと消えた。幻覚《げんかく》だ。おれの脳味噌《のうみそ》はさっきの棍棒爆弾のおかげで相当にいかれてしまったらしい。
「ドン! 今日の給食のおかず、鯨《くじら》のステーキだったのよ」
こんどは和子君が五、六米先でおいでおいでをしていた。幻覚とはわかっているが、おれの足がまたすこしはやくなる。
「ドンは鯨の肉が大好きでしょ。さあ、いらっしゃい」
だが、和子君の立っているあたりに辿《たど》りつくと、幻覚だから当然といえば当然だが、おれを一番愛してくれたあの少女の姿はもうなかった。
「……ああ」
と、思わずがっかりしたとたん、おれは急な斜面に頭から突《つ》っこんでいた。オリンピック道路へ出たな、と斜面を転がりながら考えたが、そのうちに怖《おそろ》しいことに思いあたって愕然《がくぜん》となった。いくら四肢《しし》を踏んばっても躰がとまらないのだ。肢《あし》を折ってしまったのだろうか。ぞっと全身寒気だつうち、ずるずると滑《すべ》って、おれは斜面から歩道を通り越し、車道へ放り出されてしまっていた。霞《かす》む目を必死の思いでひらき右方を見る。ゆっくりとなにかが近づいてくる。
「……ドン松五郎、母さんですよ。もう見忘れたの? わたしはあなたの母さんなのよ」
「……お母さん!」
おれはこっちへ動いてくるものの方へ、顎《あご》を使いながら這《は》って行った。こっちへ動いてくるものが、不意に目の前で自動車のフロント・グリルにかわった。
……だいぶ長い時間が経過したようだった。耳許でいろんな犬たちの声がしている。
「あッ、ドン松五郎さんの意識が戻ったみたいだ!」
「……ドン松五郎君! 二匹の警察犬はわしたちに噛みつかれて、ほうほうのていで逃げ帰ったよ」
「六千万円はがっちりせしめたぜ」
声は聞こえるが、誰《だれ》が誰の声やら判別がつかぬ。
「ゆっくり養生をしなさい」
「おまえさんの養生している間は、コロ君に臨時に指揮《しき》をとってもらうよ」
「うん、ぼく、なんとかやれると思う。安心してまかせてよ」
「ドン松五郎君、だから、養生専一にするのだよ」
みんなの顔が見たい。なんとしてでもみんなの、仲間の顔をもう一度……。だが、瞼《まぶた》が重すぎる。まるで瞼をコンクリで塗《ぬ》りかためられてしまったみたいだ。
「……ドン松五郎」
みんなの声がすっと遠のいて、懐かしいあの声がまた聞こえてきた。
「あなたの母さんよ。あなたは短いあいだしか生きられなかったのに、ずいぶん大きな仕事をしましたね。おかげで母さんは鼻が高いわ……」
おれは、もう、どこにいるのだろう? あたりはまっくら、ただ躰だけがやけに冷たい。
この作品は昭和五十年一月新潮社より刊行され、昭和五十三年五月新潮文庫版が刊行された。
旧字置き換え
※[#「にんべん+夾」]=侠