夏と花火と私の死体
乙一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)濃い緑色の木々が生《お》い茂《しげ》り、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)サンダルが片方|脱《ぬ》げたのが
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夏と花火と私の死体
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かごめかごめ
かごの中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀とすべった
うしろのしょうめん
だあれ
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一 日 目
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九歳で、夏だった。
神様を祭ったお宮には濃い緑色の木々が生《お》い茂《しげ》り、砂利の地面に日陰を落とす。夏の太陽を掴《つか》もうとするかのように伸びた枝の間から蝉《せみ》の叫び声が降ってくる。
「おにいちゃんたち、まだ話し合ってるのかなあ。五月《さつき》ちゃんはどう思う?」
弥生《やよい》ちゃんがわたしに訊《き》いた。長い黒髪を指先でいじくりながら、眉根《まゆね》に縦皺《たてじわ》をよせて、少し怒ったような声だ。
「どうって言われても……」
橘《たちばな》弥生ちゃんは私の同級生だ。一番の仲よしで、わたしは毎日、弥生ちゃんやそのおにいさんの健《けん》くんと一緒に遊び回っていた。
わたしたちは二人で、木陰になっているお宮の木造のやしろの階段に座っていた。健くんは数日後にせまった村の小さな花火大会の打ち合わせに参加しているのだ。わたしたちは打ち合わせが終わるのを首を長くして待っていた。
「本当におそいなあ。弥生たちもあそこに上《のぼ》らせてくれればいいのに……。
あーあ、ひまだなあ」
わたしたちは二人、広いお宮の敷地にある石の建物を見た。倉庫ほどの大きさに積み上げられた石のそれは、まるで石垣だけになった小さなお城のようだ。おそらく昔は立派な建物がその上に建っていたのに違いない。しかし今は石垣の上にはなにもなく、数人の男子が座っているのが見える。その高さは家の屋根とそう変わらず、最近、隣の村の子供が上ろうとして落っこちて怪我《けが》をしたという話を聞いたことがある。今そこで、村の上級生の男の子たちが花火大会の打ち合わせをしているのだ。
「いいね、男子はあそこに上れて」
わたしは羨《うらや》ましそうに石垣を見ながら呟《つぶや》いた。背の高い木々が周りに生《は》えているために石垣の周辺は涼しそうだ。上に上ればさぞかし気持ちがいいだろう。遠くまで見渡せるだろう。しかし、女子は上らせてもらえない。上ろうとすると村の男の子たちが怒りだすのだ。「上らせて」の一言《ひとこと》が上級生の男子には言えないものなのだ。でも、わたしは健くんから聞いて知っている。石垣の上に上るとわたしの家の屋根が見えることを。石が冷たくて気持ちよいことを。そして一か所だけぽっかりと穴が開いていて、子供たちはそこにお菓子の屑《くず》を投げ込んでいることを。その穴がけっこう大きいから下級生に落ちないように言い聞かせていることを。わたしは健くんからすべて聞いて知っている。
「本当だね。弥生、男の子に生まれたかったな。男の子だったら石垣に上れるし、おにいちゃんとも一緒に遊べるもんね」
村の男子は女子を遊びにまぜてくれない。
わたしたちは男子の会議が終わるのをひまそうに眺めていた。お宮には鉄棒とぶらんこと滑り台が設置されていたが、今は遊びたくない。ぎらぎらと照りつける夏の高い太陽がそれらを焼いているからだ。触《さわ》ると熱いし鉄錆臭《てつさびくさ》い。それならば涼しい木陰で座っているほうが好きだった。
しかし弥生ちゃんはそうではないらしい。弥生ちゃんは飛《と》び跳《は》ねるように立ち上がり、それまでの鬱屈《うっくつ》をはね飛ばすかのように背伸びしてわたしに言った。
「ねえ、何かして遊ぼうよ。退屈で死んじゃうよ!」
「でも木陰の外は暑いよ。わたしは涼しい所が好き」
「それじゃあ、何の遊びならいい?」
問われてしばし考えた。
「『かごめかごめ』がしたい」
「そんなの、二人じゃできないよお……」
弥生ちゃんは困ったようにまた座り込んだ。
座っている場所はやしろの木の階段だった。五、六段ほどの古い階段だ。お宮で行なわれる、夏の花火大会や、広場で大きな焚《た》き火《び》を囲む冬の『どんど焼き』などの時、賽銭箱《さいせんばこ》が置かれる木の階段だ。やしろは、古い、乾燥した木で作られている。村の中心にあるお宮は、年に数回の行事の時だけ、主役となって飾られるのだった。
アブラゼミが近くにとまっているのだろう、じーじーという声は響いているだけで暑苦しい。砂利に指先で絵を描《か》いているだけでも汗が浮き出る。青い空には山のような入道雲が動物の形をして浮いていた。
「わあ、じょうず。それって犬の絵だね。あの雲と同じ形だ」
空と地面を交互に見て、弥生ちゃんは感激したようにわたしに言った。
「正解。66《ロクロク》もこれくらいかわいけりゃいいのにねえ」
そう言って二人で笑う。66とは、この村に住みついている犬の名前だ。獰猛《どうもう》で靴泥棒の白い雑種である。
と、その時。わたしたちの笑い声を聞きつけたかのように、それを咎《とが》めるかのように犬の唸《うな》り声《ごえ》がした。
「きゃあ! 66!」
そこには白い犬がいた。近くで見るとかなり大きい。剥《む》きだしの牙《きば》と憎々しげな目は見ているだけで背筋が寒くなってきてしまう。
「弥生ちゃん、逃げよう……」
それは66に睨《にら》まれた村の子供たちのとる普通の行動だった。しかし弥生ちゃんは動かない。いや、動けないのだ。逃げようと提案したわたしも、蛇《へび》に睨まれた蛙《かえる》のように動けなかった。動いた瞬間に飛びかかられそうな気がした。
そんなわたしたちに、そこを退《ど》けと言わんばかりの66は一歩ずつ詰め寄ってくる。
わたしと弥生ちゃんの頭に、66に噛まれて怪我をした上級生の話が蘇《よみがえ》る。それはなまなましく、わたしたちの恐怖を誘う。
しかし、その時、突然66に大粒の石が投げつけられた。その石がお尻《しり》に当たり、66はきゃいんと一声あげる。
「おにいちゃん!」
そこに立っていたのは健くんだった。健くんは優しげな瞳《ひとみ》を66に向けながらも、もう一度石を投げつけた。66は健くんを睨んでお墓の下から聞こえてくるような唸り声をあげるが、悔《くや》しそうに何度も後ろを振り返りながら去っていってしまった。66が負け犬となるのは珍しい。
「二人とも大丈夫?」
年下の女の子を労《いたわ》る優しげな笑みで健くんは言った。その優しい物腰とは裏腹に、66をやっつける勇敢さを持っているのだ。わたしたちより二歳年上の、弥生ちゃん自慢のおにいちゃんだった。
「うん。平気! 花火大会の打ち合わせ終わったの? じゃあ家《うち》に戻ろうよ、緑《みどり》さんがアイスクリーム持って家に来てるかもしれないよ!」
弥生ちゃんはそう言って健くんに飛びつく。
66の恐怖から解放されたことで力が抜けたのか、わたしは弥生ちゃんを羨ましげに見ながら木の階段にへたりこんでしまっていた。
「そうだな、緑さん来てるといいな。それより、五月ちゃん大丈夫?」
健くんがわたしのほうを見ながら言ってくれた。にこやかな笑みを浮かべたその顔に、わたしはこくりと頷《うなず》いた。
健くんと弥生ちゃんの家はお宮からけっこう遠い。夏の強い陽射《ひざ》しに青々と染まった稲の絨毯《じゅうたん》、それに囲まれた砂利道を、橘家に辿《たど》り着《つ》くまでくねくねと曲がっていく。たんぼには水が張られていない。田干《たぼ》しといって、わざと稲の喉《のど》を渇かして、稲が水を吸おうと地中に深く手を伸ばすのを待つのだ。田干しは夏の暑い日に数日行なわれるが、干涸《ひから》びて亀裂《きれつ》が入った地面を見るたびに稲がかわいそうになってくる。でも根を強くするためには重要なことなのだ。
期待した通り、緑さんが来ていた。
「わあい、アイスクリームだ! 緑さんありがとう!」
「どういたしまして弥生ちゃん。さあ、みんなも溶けないうちに食べて」
緑さんがわたしたちに笑顔で言った。
橘家の居間。活躍の時期が去り、布団《ふとん》だけが取り払われた炬燵《こたつ》をわたしと健くんと弥生ちゃん、緑さんと橘のおばさんが囲んでいる。炬燵も夏になると衣替《ころもが》えして卓袱台《ちゃぶだい》となるのだ。その上には今、カップのバニラアイスが山となって積まれている。
「いつもごめんね緑ちゃん。こんなにもらっちゃって」
「いいのよ叔母《おば》さん、どうせほとんどただなんだし。それよりアイスクリーム買うときはうちの会社のをよろしくね」
そう言って緑さんはおばさんに宣伝した。緑さんはおばさんのおねえさんの娘なのだそうだ。純白の服と白い肌が村の女の人には珍しい清潔さを感じさせ、外の明るさをそのまま持ってきたかのように、少し薄暗い家の中でも光って見える。高校を卒業して今年から緑さんはアイスクリームの工場で働き始めた。同じこの村に住んでいて、休日になると、ときどき工場のアイスを持って橘家にやって来る。
冷たくて舌が変になるまで、まるで犬のようにわたしたちはアイスを食べた。わたしは家族同然の扱いをしてもらっているのだ。
「ねえ、テレビつけて。もうすぐアニメがあるから」
弥生ちゃんがおばさんに言った。おばさんは娘になにも言わずにテレビをつけてくれる。わたしの家では食事中、テレビを見ると言い出すといろいろと文句を並べられるのだが。優しいお母さんを持った弥生ちゃんが羨ましかった。
テレビ本体のスイッチを押すと、ちりちりと音をたてて電源が入る。しばらく画面は暗いままだが、やがて絵が映った。
そこに現れたのは男の子の写真。
「またこのニュースね、かわいそうに……」
緑さんが男の子の写真を見て、泣くように哀《あわ》れむように呟く。男の子は一週間ほど前に行方不明になった小学生だ。その子で行方不明になった子供は五人。彼らは誘拐されたんじゃないか、と大人たちはうわさしていた。
「本当にねえ。あら、けっこう近いじゃない、この子の住んでた家」
おばさんがそう言った。それだけではない。他の誘拐されたらしい子供も周辺の県の男の子だ。
「健くん、あなたも気をつけなさいね。可愛《かわい》いから誘拐されちゃうよ」
緑さんはその場を盛り上げるように笑いながら健くんに言った。飛びかかるような仕種《しぐさ》をした時、腰まである繊細《せんさい》な髪の毛がさらりと揺れた。
言われた健くんは顔を赤らめて頷く。緑さんの前だとそういうことが多い。
笑いが巻き起こる居間の中で、その笑いに反発するように弥生ちゃんが叫んだ。
「ねえ、チャンネル早く変えてよ! アニメ始まっちゃうじゃない!」
「はいはい。まったく、この子たちは食べ物とアニメさえ与えておけば静かになるんだから」
やれやれというふうに、テレビに一番近いおばさんはテレビのつまみを回した。
六時になるまでアニメのリレーは続き、それまでにあの大量のアイスがたいらげられてしまった。六時からはなぜかニュース番組だけになり、わたしたちは急に退屈を覚える。
だからわたしたちは、橘家の裏に広がる森に遊びに行くことにした。
夏の日の午後六時はまだまだ明るい。森の木々は枝葉で天井を作り、その隙間《すきま》から零《こぼ》れ落ちる光は、石や木の根が剥きだしの地面に模様をつける。辺《あた》りには森の匂《にお》いが充満し、胸いっぱいに吸うとむせてしまいそうだ。
健くんは緑さんを送ってから森に来ると言っていた。だからわたしたちは二人で木登りをすることにした。それはこの森にやってきた時、わたしたち三人が必ずやることなのである。
森の登り坂をいくらか進むと少し開けた場所がある。その向こうは斜面になっていて、南側から村が一望できるのだ。その広場には背の高い木が一本生えている。その木の南側のほうの枝はわりと低い所から生えているので、木登りには最適なのだった。これを見つけたのは健くんで、それ以来木の上がわたしたち三人の秘密基地となっていた。
「へえ、五月ちゃんちではごはんの時間にテレビ見ちゃいけないんだ。弥生の家では怒られないんだよ」
「いいなあ、わたしも弥生ちゃんちに生まれたかったなあ」
「……弥生は違う家に生まれたかった」
なぜか弥生ちゃんは笑顔を引っ込めてそう言った。そして木の横に置かれた大きな石に飛び乗る。そうすると一番下の木の枝に簡単にのることができるのだ。その石は、まだ背の低いわたしたちが木登りしやすいように、健くんが近くから転がしてきたそうだ。それは大変な仕事だったろうと思う。
「なんで違う家に生まれたかったの?」
わたしも石を踏み台に木の枝を登り始める。どういう手順で、どういう道順で登れば簡単に上に行けるかを健くんに教えてもらったことがある。上のほうに生えている太い枝、その枝が目標地点だ。そこから見渡す村の風景は、下の広場から見るよりもずっと美しく、遠くにはお宮や石垣が小さく見える。ちょうど三人掛けできるその枝は、三人だけの秘密だった。
「ねえ、なんで?」
「う〜ん、だってえ……おにいちゃんと……」
「健くんと……?」
思いがけない名前が出たので、わたしは弥生ちゃんを見上げた。先に登り始めた弥生ちゃんは、すでに目標の太い枝に腰かけている。
わたしも手足を伸ばしたり縮めたりしながら、まるで階段を上るようにたやすくそこへ辿り着いた。
太い枝に腰かけて深呼吸をする。森の密な空気と違って、そこの空気は涼しく、爽《さわ》やかだった。
眼下に広がる青いたんぼの中に、きらりと光る赤と銀色のテープや黄色の目玉が見える。たまに『かかし』なんかも立っていた。どれも雀《すずめ》から稲を守るためのものだ。ときおり、おなかの底に響くような、頭に震動が残るような爆発音が聞こえる。それは『雀おどし』といわれる装置で、タイマーを使ったガス式の機械だ。音にびっくりして雀が逃げていくのだと健くんは言っていた。
そんな世界を眺め下ろしながら、わたしは弥生ちゃんに訊いた。
「もしかして健くんと結婚できないから違う家に生まれたかったの?」
弥生ちゃんは大きな目をさらに大きく見開いて、隣のわたしを振り返った。そして沈み込むようにこくんと頷く。
「……弥生もおにいちゃんのこと、健くんって呼びたかった……」
口を尖《とが》らせて、足をぶらぶらさせながら言った。
この枝はかなり高い場所にあるが、落ちることはほとんどないと思っている。ざらつく樹皮はすべらないし、子供は身軽で器用なものだ。
「でも健くんは緑さんのことが好きなんでしょう?」
「知ってるよう……」
長い髪は緑さんに似せているのか。わたしは思った。弥生ちゃんが髪を伸ばし始めたのは一年前ぐらいである。そして弥生ちゃんもわたしも緑さんが好きだ。他人のわたしにも差別なく接してくれるし、アイスを食べさせてくれる。それにお母さんから買ってもらった花のついたサンダルを可愛いと褒《ほ》めてくれた。健くんが好きになるはずである。
兄妹《きょうだい》だから結婚できない。それでもわたしにはいつも一緒にいられる二人が羨ましかった。
「そうか、知ってたのか。……じゃあわたしも健くんが好きだってことは?」
弥生ちゃんの心を暴《あば》いてしまったことをわたしは悔《く》やんだ。このままでは不公平だからと、わたしも頬《ほお》を朱《しゅ》に染めて告白する。
「えっ!?」
小さい悲鳴にも似た声をあげ、驚く弥生ちゃんがわたしを見た。まだ夕日になるまで時間があるのに弥生ちゃんの瞳は赤くなっている。
「わたしも……健くんのことが好きなんだ……」
もう一度、自分に酔《よ》うようにそっと呟く。
その時、遠くから健くんが歩いてくるのが見えた。緑さんを送り終え、こちらに向かっているのだろう。
「おーい、やっほー!」
わたしは大きな声で健くんに叫び、腕をぶんぶんと振った。健くんもわたしに気づいて両手を元気に振り返す。わたしは嬉《うれ》しくなった。
しかし健くんの姿は森の木の葉の天井に隠れてしまってわからなくなった。しばらくは姿は見えないはずだけど、それでもわたしは木の枝や葉の隙間から健くんが少しでも見えないかなと身を乗り出した。
「あ、見えた!」
ちらりと健くんが駆けてくる姿が見える。
その時だった。
薄い上着越し、わたしの背中に小さな熱い手を感じた。弥生ちゃんの掌《てのひら》だと思った瞬間、その掌は力強くわたしを押し出した。
わたしはバランスを崩してそのまま枝から滑り落ちる。まるでスローモーションのように周りの景色がゆっくりと上に流れ去る。いましがた登ってきた何本もの枝をぱきぱきと折りながら、わたしは止まらずに落ちていく。一本の枝にしたたか体をぶつけ、自分の潰《つぶ》れる音が聞こえる。変な方向に体がねじ曲がり、声にならない叫びを吐き出しながら、わたしはさらに落ちる。空中で、お気に入りのサンダルが片方|脱《ぬ》げたのがとても悲しい。
最後に、踏み台にしていた大きな石の上に背中から落ちて、わたしは死んだ。
鼻の穴や耳の穴、いつも涙が出てくる部分など、体中の穴から赤黒い血が流れ出している。それはほんの少しの量だったが、そんな顔を健くんに見られるのかと思うと悲しくなってきた。
折れた木の枝がどさりと近くに落ちて、ぱらぱらと高い所から降ってきた葉がわたしの上に落ちてきた。
「おーい。今、なにか音がしなかったか? 木の枝が折れるような……」
そう言いながら駆けてきた健くんは、わたしの死体を見つけて立ち止まる。
弥生ちゃんが泣きながら木を下りてきた。踏み台の石は死んだわたしが占領しているため、踏まないように、最後の枝から大きく飛んで地面に下り立つ。そして泣き叫びながら健くんの胸にしがみついた。
「一体全体どうしたんだ、弥生?」
まるで子供を泣きやませるように、弥生ちゃんとわたしの死体に優しい微笑《ほほえ》みを向けて、健くんはそう訊いた。そしてわたしに近寄りながら言った。
「五月ちゃん、死んでるじゃないか。弥生、泣いてちゃわからないだろ、なにがあったのか話してみなよ」
わたしが死んでいることを簡単に確認してから、健くんは笑みを浮かべたまま弥生ちゃんに言う。その笑みを見て、弥生ちゃんは泣きやみ、それでも苦しそうに、ぽつりぽつりと涙声で言った。
「あのね……いつもの枝でお話ししてたらね……五月ちゃん滑って落ちちゃったの」
「そうか、滑って落ちちゃったのか。それじゃあ仕方ないさ。弥生はなにも悪いことなんかしてないんだろ、だから泣くのはやめなよ」
大人が言い聞かせるように健くんは言った。そしてふたたびわたしに向き直る。
「とにかくお母さんに知らせてこよう。弥生、行こう」
そう言って、わたしをおいて弥生ちゃんの手を引っ張ろうとした。しかし、弥生ちゃんはいやいやと首を激しく振ってその場から動かない。
「どうしたんだ弥生?」
「だって……。だって、お母さんがこのことを知ったら哀《かな》しんじゃうよ! そんなの弥生、嫌《いや》だよ」
弥生ちゃんはそう叫んで、また泣き始めた。
そこには、恐怖とか不安といった思いがあった。自分が突き落としたことがばれるのではないかといった感情だ。今のわたしにはそれがはっきりと感じ取れた。
「……そうだな、きっと緑さんも悲しむだろうな……」
健くんはそう呟き、そして名案を思いついたように顔を輝かせた。
「そうだ、五月ちゃんを隠そう! ここで死んだことがばれなけりゃいいじゃないか!」
その提案を聞いた弥生ちゃんは悲しそうに、それでも嬉しそうに健くんを見上げた。
見開かれたままのわたしの目は、そんな二人をただ羨ましそうに見つめていた。
「でもどうするの? 埋めようにも、ここにはスコップも何もないんだよ?」
「わかってるさ、だからここまで運んできたんじゃないか。僕にまかせていれば弥生は何も怖《こわ》がらなくていいんだよ」
何かに怯《おび》えたように心配する弥生ちゃんに、すべての心配を氷解させるような優しい笑みを浮かべて健くんが答える。その背中には、流れた血がつかないよう、慎重にわたしが背負われていた。
そこは森の端のほう。森の脇《わき》を通る人気《ひとけ》のない道路と森の中に入ってくる道とがぶつかる所だった。
「ここでどうするの、おにいちゃん? どうやって五月ちゃんを隠すの?」
弥生ちゃんの質問に応《こた》えるように、健くんはわたしを地面に寝かせて、そして近くの地面を軽く払った。その下から現れたのはコンクリートの蓋《ふた》がされた溝《みぞ》。
健くんは中腰になって力を入れて、連《つら》なっているまな板くらいの大きさの蓋を一枚開けてみた。森の土の下から現れたその溝は、たんぼの脇を縦横《たてよこ》に走るクリーク(水路網)に繋《つな》がっているはずだ。しかし今は干涸びていて、溝の中には虚《うつ》ろな空間が広がっているだけだった。もういくつかの蓋を開ける。そこから覗《のぞ》ける溝の幅はけっこう広く、ちょうどわたしがすっぽりとはまった。
わたしを溝に寝かせた健くんは、またもとの通りに蓋を閉めようとする。コンクリートの蓋は一枚でかなりの重量があるはずだ。それなのに健くんは黙って作業していた。
「あ、ちょっとまって、おにいちゃん!」
弥生ちゃんの声に、蓋の最後の一枚を閉めようとした健くんの手が止まる。
閉められていない蓋一枚分の窓からは、わたしの足の先が見えていた。片方の足にはサンダル。もう片方の足は素足で、泥がついていた。素足のほうをまじまじと眺められて、わたしは少し恥ずかしくなった。
「……そうだな。なくなった片方のサンダルを探さなくっちゃな……」
そう簡単に呟いて健くんはわたしを闇《やみ》に閉じ込めた。閉めた蓋の上に土を被《かぶ》せて、そこに溝なんかないように見せるのを忘れない。
太陽がほとんど沈んだ時、健くんは弥生ちゃんと協力して、そこが周りの土と変わらないように工作し終わっていた。
橘家の居間に家族みんなが集まる時刻だ。卓袱台がわりの炬燵の上には夕飯が並べられていて、小さな居間においしそうな匂いを充満させている。健くんのおじいちゃんとおばあちゃんは畑の仕事から帰ってきたばかりのようだ。扇風機の強風に当たりながらテレビの野球中継を見ている袖無《そでな》し肌着の男の人は橘のおじさん。
「お父さん、チャンネル替えてよ。もう『宇宙船サジタリウス』が始まってるじゃないか。毎週、弥生は見逃《みのが》さないんだぞあの番組、なっ」
健くんはそう言って弥生ちゃんに同意を求めた。『宇宙船サジタリウス』とはアニメの番組のひとつで、三人の可愛いキャラクターたちが力を合わせてサジタリウス号で宇宙を旅する話だ。弥生ちゃんは会話を聞いていなかったのか、ごはんを頬張ったまま慌《あわ》てて頷く。
「はいはい、わかりましたよ。どうせ俺《おれ》の意見なんか関係ないんだろ」
おじさんはいじけたようにテレビのつまみを回した。
「それから扇風機の首を回してよ、僕たちも暑いんだぞ」
おじさんは何も言わずに扇風機の首振り機能のスイッチを押した。その旧《ふる》い扇風機は、羽を回すモーターの部分についているピンのような部分を押すことで、首をふり始めるタイプのものだ。
首を回すと聞いて、弥生ちゃんの肩がぴくんと震えた。奇妙な方向に折れ曲がったわたしの首を思い出したのだった。
そんな弥生ちゃんにかまわず、アニメは始まっている。おじいさんとおばあさんはたんぼのことや、畑の西瓜《すいか》の玉が大きくなったこと、使っていた茣蓙《ござ》が古くなったので捨てなければならないことなどを話していた。
そんな時、橘家の玄関から「ごめんください」という声がかかった。おばさんは「はあい」という高い声で返事をしてから居間を出ていく。
玄関から聞こえてきた声に弥生ちゃんが大きく震えた。健くんも声の主《ぬし》を知っているはずなのに、動揺した様子は微塵《みじん》も感じられない。黙々とアニメを見ながらごはんを食べていた。
ほどなくして、おばさんが居間に戻ってきた。どうやら玄関にお客を待たせてあるようで、短く二人に尋《たず》ねる。
「ねえ、今、五月ちゃんのお母さんが来てるんだけどね、五月ちゃんまだ帰ってきてないんだって。あなたたちなにか知らない?」
おばさんの質問に、おはしを握《にぎ》る弥生ちゃんの手が震えた。その震えを止めるように健くんが答える。
「うん、知らない。五月ちゃんとは森の中で別れたよ。いつもそうしてるじゃないか」
「あら、そうなの……」
言いたいことは後回しにして、おばさんはわたしのお母さんに報告しに玄関へ戻っていった。返事を聞いたお母さんは「そうですか」と力なく残念そうに、泣き出しそうに言って帰っていく。その背中はやけにか細く、ごはんを食べている時にテレビを見るなと鬼のように怒るお母さんとは別人のようで、わたしは辛《つら》かった。
わたしのお母さんを見送ったおばさんは、居間に帰ってきて、家族にさっきの話をし始めた。
「心配ねえ、もう辺りは暗いっていうのに、五月ちゃんどこに行ったんだろうね。最近は誘拐事件も多いしねえ。本当に心配だねえ」
そう言って白いごはんを口に運ぶ。おばさんが「心配だねえ」を口にするたびに、弥生ちゃんの頭は力なく、まるでおばさんから目を逸《そ》らすかのように下がっていった。
「五月ちゃんちのおばさん、村中を探し回ってるの?」
質問したのは健くんだった。
「うん、そうらしいねえ。五月ちゃんが一人っ子だから、よけいに心配なんだよ。本当にどうしたんだろうね。警察に届けたほうがいいって、お母さんは言ったんだけどねえ」
「警察!?」
二人は声を合わせておばさんを振り返る。弥生ちゃんは絶望的なまなざしで、健くんはどこか楽しげなまなざしで、おばさんを見た。
「ほら、もしかすると最近の誘拐事件と関係あるかもしれないじゃないか。最後に見たのは森なんだろ。ひょっとすると明日あたりにでも森を捜索《そうさく》するかもしれないね。あそこで遭難したってことも考えられるだろう? 五月ちゃんのお母さんもこれから森を探してみるってさ」
森と聞いて二人は驚いた。確かに一番疑われるのはあそこだった。ここら辺で誰《だれ》かが遭難しそうな場所といえば、橘家の裏に広がる森以外になかったからだ。
これからわたしのお母さんが森を探すと聞いて、弥生ちゃんの表情が強張《こわば》る。わたしの死体は見つかるはずもなく、流れた血の跡《あと》も二人でちゃんと消してきた。ただ、わたしの片方のサンダルはどこを探しても見つけることはできなかった。健くんは木に登って、枝に引っかかっていないかを入念に調べ、弥生ちゃんは腰が痛くなるまで地面を調べ回ったのだ。
このままサンダルが見つからなければ、誘拐事件として警察が森を捜索することはないかもしれない。しかし、わたしのお母さんが森でサンダルを見つけたらどうなるのだろう。近くにわたしがいると信じて山狩りをするだろうか。お母さんがあのサンダルを見聞違えるはずはない。なぜならわたしの喜ぶ顔を見て、お母さんはとても嬉しそうだったのだから……。
「本当に心配だよ。わたしも五月ちゃんを探す手伝いをしようかしら……」
そう言ったおばさんの言葉が聞こえなかったのか、健くんは愉快そうにアニメを見ていた。
健くんと弥生ちゃんは同じ部屋で寝起きしている。八畳のその部屋は二人には大きすぎるほど広い。
蒸し暑い夜。少しでも涼しくなるよう、窓は大きく開け放たれていた。泥棒なんか入らない場所なのだ。豆電球だけつけられた橙《だいだい》の光の中、部屋の中央に二つの布団が並べて敷かれている。その中で健くんは静かな寝息をたてていた。しかし弥生ちゃんは、目を閉じると夕方の出来事が頭に浮かんで眠れないらしい。部屋の中には二人を覆《おお》い隠すように青い蚊帳《かや》が吊《つる》されていて、二人を蚊から守っている。
「ねえ、おにいちゃん……」
暑いのを我慢してタオルケットに潜《もぐ》り込んでいた弥生ちゃんは、泣き声のような声で言った。汗で前髪が額《ひたい》にこびりついている。
「……ん?」
眠そうに健くんは呟き、起き上がる。暑いからだろう、掛け布団もタオルケットもおしのけてしまっている。立ち上がって電気をつけようとする。普通なら寝たまま電気をつけられるように、スイッチの紐《ひも》に長い紐をつけ足しているのだが、蚊帳が邪魔してつかめない。蚊帳の天井にたまっている紐を引っ張ろうとするが、蚊帳越しでは滑ってなかなかうまくいかないのだ。
「いいよおにいちゃん、電気つけなくて……」
「それで、どうしたんだ弥生?」
ねぼけ眼《まなこ》で健くんが言う。まだ半分夢の中らしい。
「……怖いの。おにいちゃん……そっちに行ってもいい?」
汗で湯気が出そうな弥生ちゃんは、泣きそうに、恥ずかしそうにそう言った。
「……ああ、いいよ……」
そうそっけなく言って健くんはまた布団に倒れ込む。この暑いなか、弥生ちゃんは何かから隠れるように被っていたタオルケットをそのままに、健くんの布団に転がり込んだ。そして健くんの背中に、熱くなった額をぺたりとくっつけて目を閉じる。
やがてその部屋の寝息は二つ、混じりあって夏の夜に消えていった。
健くんと弥生ちゃんにも、溝に隠されたわたしの死体にも、そして夜の森で泣きながらわたしを探しているお母さんにも闇の帳《とばり》は降りてくる。
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二 日 目
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次の日、朝のまだ早い時間に、健くんと弥生ちゃんは夏休みの間お宮で行なわれているラジオ体操に行った。朝のお宮は清々《すがすが》しく、まだ涼しい空気は吸い込むほどに生き返る感じがする。さっきまで数匹しか鳴いていなかった蝉《せみ》も、太陽が空に高くなっていくと同時に大合唱を始める。
体操の後、村の小学生の中で一番年上の者がカードにハンコを押してくれる。六年生のその人は、わたしが体操に来ていないことをなにやら言っていたが、健くんは関係ないというように聞き流していた。というより、別の声を聞いていた。
後ろで、村の小学生の親が声をひそめて囁《ささや》きを交《か》わしているのだ。その内容はわたしやわたしのお母さんのことだった。お母さんは一晩中、寝ないでわたしを探し回っていたらしい。そのことをおばさんたちは哀《あわ》れむように話題にしていた。昨晩《ゆうべ》のことなのにすでに話は村中に広まっていて、今目の昼から警察が森を捜索《そうさく》することまで知られていた。でも何の手がかりも証拠もないので、森で見つかるかどうか、みんなは半信半疑らしい。あの連続|誘拐《ゆうかい》事件に巻き込まれたと話しているおばさんもいる。
そんな声を健くんは聞いていた。自分の知らない情報を集めているのだった。おかげで健くんは、警察の捜索のこと、サンダルについては何も話題になっていないことなどを知ることができた。
静かに遠くを見つめるようにして何かを考えている健くんの腕にしがみつきながら、弥生ちゃんは不安そうにその顔を見上げていた。
ラジオ体操から帰ってきて、二人はすぐに森へと向かった。お宮から家に戻る道すがら、枯れた水田に囲まれた砂利道をふみしめながら健くんが提案したのだ。
まだサンダルは見つかっていないらしいから自分たちが先に見つけてしまおう。そうすればきっとわたしが森に居るという証拠はなくなる。きっと誘拐されてどこかへ連れ去られたのだろうと、みんな考えるはず。健くんはわたしがいなくなったことを誘拐犯人のしわざにしようと考えたのだった。
サンダルが落ちていないか調べながら二人は森の奥へと入っていく。今日、健くんは急な斜面の所を調べるつもりだ。だからいつもの草履《ぞうり》ではなく、草野球用のスパイクを履《は》いていた。斜面を調べる前に、わたしが隠されている溝《みぞ》の周辺を調べた。それでも見つからないので、地面に目を向けたまま、昨日とは反対に、わたしが死んでいた木のほうへと道を辿《たど》る。わたしを背負って溝に運ぶ途中で片方のサンダルが足から脱《ぬ》げたのではないかと、健くんは考えたのだ。
「斜面は危ないから、弥生は家に帰っててもいいんだぞ。後はおにいちゃんにまかせなさい」
健くんは労《いたわ》ってそう言ったのだが、弥生ちゃんは首を横に振って健くんの腕にしがみついた。
「弥生はおにいちゃんについていく!」
そう言って離れない。
「……じゃあ、弥生は五月ちゃんが死んでいた辺《あた》りをもう一度調べていてくれ。サンダルは弥生も覚えてるだろう? がんばるんだぞ」
健くんは目線を弥生ちゃんと同じ高さまでもってきて、子供を諭《さと》すように言った。その表情は優しく、弥生ちゃんの頬《ほお》が見る間に赤く染まっていった。
「……うん、でも弥生が呼んだらすぐ来てね、絶対だよ。絶対に絶対だよ」
健くんに念を押すように言った。健くんは人の震えを止めるような笑みを浮かべてうんうんと頷《うなず》く。
二人はそんなことを話しながら、サンダルを見つけられないまま、わたしが死んだ場所まで来ていた。南側の斜面を見下ろすように立っている三人の秘密の木は、昨日《きのう》の事など嘘《うそ》のように静かに佇《たたず》んでいた。踏み台にしていた石に血はついていない。昨日のうちに拭《ふ》き取ったのだ。折れて落ちていた木の枝も葉も散らかっていない。昨日のうちに健くんと弥生ちゃんが掃除したからだ。残る不安な要素は、普通なら、森の中になどあるはずもない花のサンダルだけだった。
この斜面を下まで転げ落ちていったのかもしれないな。そう考えながら健くんは南の斜面を見下ろした。村のお宮や小学校、遠い町の家並みが小さく見える。
弥生ちゃんも同じことを考えて下のほうを見つめた。スパイクを履いていない弥生ちゃんにはこの斜面はきついだろう。死なないまでも、足を滑らせて大怪我《おおけが》するかもしれない。
二人は捜索を始める決心をした。
しかしその時、弥生ちゃんが声をあげた。
「大変! おにいちゃん、あれ!」
指さしたのは斜面に見える細い車道。車道はこちらに向かって延びていて、ちょうどわたしが隠された場所のすぐ横を通り過ぎる。普段|滅多《めった》に車は通らないはずなのだが、その道を今こちらに向かって二台の茶色の乗用車が走ってくる。
二人はすぐにピンときた。おそらく警察の車なんだと思い当たる。捜索が始まるのは昼辺りからだと、健くんは思っていたのだった。
健くんは、すぐそこまで近づいてきた車に目を向けたまま、どことなく楽しそうに考えをめぐらせた。
弥生ちゃんは不安に顔を歪《ゆが》めて、斜面を下りかけていた健くんに強くしがみつく。
そうしている間にも二台の乗用車は車道からそれて森の中へと入ってきた。偶然にも車はわたしが隠されたすぐ上を通り過ぎる。そのとき、コンクリートの蓋《ふた》の隙間《すきま》からぱらぱらと土がわたしの体の上に降ってきた。しかしわたしは避けることも、開いたままの目や口を閉じることもできない。森の小道へと繋《つな》がっている広場で車は停《と》まった。
車から降りてきたのは山歩きの格好をした数人の男の人。その人たちの会話から、わたしを見つけようとする捜索隊だということがわかった。ときおり巻き起こる笑い声から、彼らはわたしがここで遭難したという考えに半信半疑であることもわかる。
そんな光景は、健くんや弥生ちゃんのいる斜面からは見えていない。
健くんは耳をすまして、捜索隊の車が森で停まったことを確認した。森の広場に車を停めることは予想していたらしい。それが当たったからなのか、それともわたしの居る溝にタイヤの跡《あと》がついた皮肉のためか、健くんの顔に笑みが浮かんだ。
「弥生、作戦を変更しよう。僕たちは隠れているんだ。そして警察の人の様子を木陰からスパイしようよ」
そうやって、捜索隊の調査の結果をできるだけ多く知ろうと考えているのだ。
健くんは不安に震える弥生ちゃんの手を優しく掴《つか》んで、普段は入らないような、道のない場所へと入っていった。
弥生ちゃんが滑らないように、怪我しないように、歩きやすいように、それでいて捜索隊に悟《さと》られないように、方向を選びながら健くんは進んでいった。
森の地形がぜんぶ頭に入っている健くんは、十数分で捜索隊の人数や動き、現在の位置までつかみとっていた。
もちろん捜索隊の人たちは、自分たちがこっそり見られていることに気づいていない。
調査に慣れた捜索隊によるわたしの調査と、森に慣れた二人による捜索隊の追跡が今、蝉の鳴き声がこだまする夏の森の中で始まっていた。
しかし夕方になっても、捜索隊は何も見つけることはできなかった。みんなはいよいよ仕事を投げやりにこなしはじめる。それもそのはずだ。本当にわたしがこの森にいるのかどうか、本当に自分たちは実のあることをやっているのか誰《だれ》も知らないのだから。少々疲れたような感じのただよう中、捜索が打ち切られようとしていた。
そんな様子を、健くんは少し残念そうに眺めている。健くんにぴったりと寄り添って、弥生ちゃんのほうは安堵《あんど》の息を漏《も》らした。
森の中に散らばっていた捜索隊は、トランシーバーから聞こえてきた作業打ち切りの知らせを喜んでいる。そして集合場所の広場のほうへと集まってきた。
「みんなが集まっていく。僕たちも行ってみよう」
低い声で囁くように言って、不安で肩を縮めた弥生ちゃんの手を引っ張る健くん。行き先は広場の見える辺りだ。うまくすれば何か重要なことが聞けるかもしれないと考えている。
しかし、わたしが隠されている溝の近くの木陰で、健くんの足は止まった。
わたしがいる溝の周《まわ》り。森の泥や土で巧《たく》みにカモフラージュされたその辺りで、二人の捜索隊員が会話していたのだ。
弥生ちゃんの顔が蒼白《そうはく》になっていく。健くんはそんな弥生ちゃんの肩を抱いて、二人は叢《くさむら》に隠れた。息を殺して二人の会話に聞き耳をたてる。健くんは汗を浮かばせることすらなく、会話を聞き取っていた。
「おい、そんなのいいじゃねえか。もう今日は終りなんだぜ、とっとと車に戻ろうぜ、これから酒を飲む約束だろう」
「そういうわけにはいかないさ、確かに女の子……五月ちゃんって言ったっけ? その子は誘拐されてここにはいないかもしれないけどな。どうもこの辺りだけ妙に不自然だと思わないか?」
捜索隊員の一人が森の一角を指さす。そこはまぎれもなくわたしの居る場所だった。
完璧《かんぺき》に森の地面と同じにしたはずだ。健くんの心はそう言っている。その顔にはどこかしら余裕があるようにも見えた。
もう一人のほうは興味なさそうな態度で煙草を吸っている。
「ふーん、どこが?」
「見ろよ、この辺りにだけスパイクの跡が密集している。子供用のスパイク。野球のやつだな」
ラジオ体操から帰って、二人はまずその辺りからサンダルを探し始めた。斜面を下りるために、健くんがスパイクを履いてきたのが裏目に出てしまったらしい。健くんはじっと黙って会話の続きを聞いていた。瞳《ひとみ》はなにかを計算しているようだった。
「おいおい、探してるのは女の子だぜ。それに母親の話だとサンダルを履いていたそうじゃないか」
乗り気のない相棒を無視して、捜索隊員の一人はわたしが隠されている場所に近寄った。そして地面を調べ始める。
弥生ちゃんは今にも恐怖に押《お》し潰《つぶ》されそうな気分でそんな光景を見ていた。
とうとう地面を手で払い始めた隊員の後ろで、相棒はやれやれと首を振る。
「なあ、今日の捜索は打ち切られたの。どうせまた明日もう一回やるんだから、その時に穴掘ればいいだろ。みんなもう待ってんだぞ!」
そんな言葉をまたもや聞き流し、わたしに近づいてきた男の人は、溝の存在を感じ取った。
「おい、コンクリートだ。水路かな? 地面に隠されてたぞ」
「それは違うね。長い間に土が降り積もって、森の地面の一角になったのさ。ごく自然にそうなるんだよ」
それでもこの隊員は納得できないらしい。
まな板のようなコンクリートの蓋をおもむろに持ち上げた。
弥生ちゃんは息だけの小さな悲鳴をあげた。
「ほら、なんにもないじゃねえか。さあ、もう行くぞ、俺《おれ》はこんな泥くせえ仕事とは早くおさらばしたいんだよ!」
蓋を開けてみると、そこには虚《うつ》ろな乾いた空間があっただけ。そこはわたしが寝かされているところから、少し場所がずれていた。もう三つほど左の蓋を持ち上げていれば、わたしの足の先が彼らの瞳に映っていたことだろう。
「そんなに急がなくてもいいだろ、まだまだ死ぬまで何十年も生きなけりゃならないんだからさ!」
言葉の最後に力を込めて、また左隣の蓋を持ち上げた。一つ、わたしに近づいた。
「はずれ」
「うるさい! もう金を貸してやらないからな、覚えてろよ」
仲間のおどけた声に憤慨《ふんがい》する男の人。さらに左の蓋にその手がかかる。あと一つだ。
「おにいちゃん、逃げようよ! 弥生と一緒に逃げようよ!」
とうとう恐怖に耐えられなくなったらしい。弥生ちゃんは泣きながら健くんの腕を強く引っ張った。しかし健くんに動く気配はない。じっと二人を睨《にら》むその瞳は、か弱い子供のそれではなかった。
「わりいわりい、その調子で次の蓋もがんばれよ」
「その調子ってなあ……」
隊員が手をかけていた蓋を持ち上げた。わたしの足の親指に斜めから太陽の光が当たる。冷たくなったわたしの体の一部に、生命のぬくもりにも似た夏の熱がこもった。もし男の人の目線がもう少し低ければ、わたしの爪先《つままき》が見えていただろう。残念ながら、わたしに気づいた様子はない。しかし次の蓋さえ持ち上げられれば、どんなに鈍感な人間でもわたしに気がつくのだ。
「おにいちゃん!」
周囲には聞こえないように、だが懇願《こんがん》にも似た響きで弥生ちゃんが叫んだ。
健くんは弥生ちゃんを無視して、地面に転がっていた拳《こぶし》より大きな石を静かに持ち上げた。弥生ちゃんにはわけがわからない。
「どうでもいいけどな、次ので終りにしようぜ。本当にみんな待ってんだぜ」
「ああ、わかったよ。これが最後だな。続きは明日にするさ……」
そういって、男の人はコンクリートの蓋に手を引っかけた。その具合が違っていれば、わたしの冷たい足先に指が当たっていただろう。
弥生ちゃんの全身から、血《ち》の気《け》が音を立ててひいていく。
その時、健くんは異常とも思える行動を起こした。
掴んでいた石で、力いっぱい、自分の顔を殴《なぐ》りつけたのだ。正面から、何度も何度も本気で顔に叩《たた》きつけた。
隊員の手に力がこもり、わたしの上の蓋が開き始めた。
健くんの鼻からどくどくと血が流れ出している。それは勢いよく、すぐにぽたぽた顎《あご》から滴《したた》り落ちていく。
「おにいちゃん!」
弥生ちゃんは思わず、二人にも聞こえるような大声で叫んでしまった。絹《きぬ》を引き裂くような悲鳴だった。
突然響きわたった声に、途中まで持ち上げられていたコンクリートの蓋が、捜索隊員の手から滑り落ちる。
二人の大人が勢いよく悲鳴の方向に振り返った。
振り返られた健くんは、顔を血だらけに染めながら、弥生ちゃんにこっそりウインクをしてそろそろと歩み出る。
大声で泣き叫ぶ真似《まね》をしながら、健くんは隊員たちの前に立った。弥生ちゃんもそれにしがみついている。
「うわあ、ひでえ鼻血!」
「どうしたんだい坊や。こっちへおいで、診《み》てあげるから」
血だらけの健くんを見て、わたしと数十センチと離れていなかった捜索隊の人が、そっちへ近寄っていった。
その時、その腰のベルトに引っかかっているトランシーバーから一方的に、『早く戻ってこい』の声がした。捜索隊の二人は苦笑する。どうやら本当に、今日はこれで終りにしなければいけないらしい。
「たしか救急用具が車の中に入ってたよな。俺はこの子を車に連れていくから、おまえはその蓋を戻しといてくれ。そこが閉まってないと車が上を通れないからさ」
そう言って、わんわん泣き叫ぶ健くんと、不安そうに泣いている弥生ちゃんの手を引っ張って歩き出した。
「おいちょっと待てよ! なんで俺がおまえの散らかした跡なんかを……」
相棒のわめき声を聞き流して歩いていく男の人に手を引かれて、弥生ちゃんは怖《こわ》くなった。このまま警察に連れていかれるのではないかと不安でたまらず、何度も後ろを振り返りながら歩く。
わたしのそばでは、残された一人がぶつくさと文句を並べ立てながら、けっこう重い蓋を閉じていた。
「坊やは、どこでなにをしていて怪我しちゃったんだい?」
泣きわめく真似をしている健くんに、捜索隊の人が優しく訊《き》いた。
健くんは少し泣きやみ、嗚咽《おえつ》を交《つまじ》えながら答える。
「転んで滑ったの、斜面で……」
そして片方の手で、血が溢《あふ》れ出して止まらない鼻をつまんだ。
男の人は健くんの答えに納得したのか、それ以上なにも聞かなかった。
健くんの鼻血は服を赤黒く染めて、それでもなお流れ続ける。
鼻をつまんでいる手を伝って、赤い滴《しずく》は肘《ひじ》からぽたぽた落ちていった。
寄り添った弥生ちゃんにその血は飛んでいき、健くんの好きな緑さんに少しでも近づこうと伸ばした長い髪に、吸い込まれていった。
それより少し前、緑さんはお宮のやしろの木の階段に腰かけていた。下から二段目、上から三段目だ。
今日、わたしの捜索が始まるということで、橘家にお邪魔して、それから何かお手伝いをしようとも考えているようだ。
その途中、ほんの気紛《きまぐ》れでお宮に来てみたのだった。
大きなつばのある白い帽子から長い髪を垂らし、ほんの少しの風にもゆれるような白いスカート。丈《たけ》が長くて地面についてしまうので、細くてしなやかな手の指でスカートを押さえて座っている。わんわんと鳴いている蝉を見上げて、緑さんは花火大会が二日後に迫《せま》っていることを思い出した。
村の子供たちが村の家々を回って三百円ずつ集めたお金で、盛大に花火を買うのだ。お店で買えるような小さなものばかりだけれど、みんなこの花火大会を楽しみにしている。その夜は、村の大人たちも一緒に花火を楽しんだり眺めに来たり、お宮に祭られた神様にお参りをしに来たりするのが、毎年のことだった。
たしか今、わたしが座っている辺りに賽銭箱《さいせんばこ》が置かれるんだったな。緑さんはそんなことを思い出しながら、木々の葉の間から零《こぼ》れ落ちる太陽の光を眺めていた。変化し続け、二度と同じ形に戻らない地面の木陰模様は、緑さんの心の奥を複雑な思いでいっぱいにする。
「子供の頃《ころ》はここでよく遊んだっけ」
独《ひと》り言《ごと》を言って、緑さんは古く乾いた木の階段を手でなぞった。木の筋が浮き出ていてざらざらする。
緑さんもこの村の子供だったという話を、聞かされたことがある。近所の男の子を好きになったけれど、とうとう実らなかったという話もしてくれた。その子は健くんに似ていたと緑さんは笑っていた。
「あらあら、これは犬の絵かな?」
揺れる木の葉の影絵を見ていた緑さんが、自分の足元の地面に描《か》かれている絵に気づく。それはわたしが死んだ日に描いた犬の絵だった。
「ああ、懐かしいなあ。あの頃は泥で汚れることも気にせずに、こうして絵を描いていたんだ」
よく見ようと、緑さんは地面に顔を近づけた。腰まである長い髪がさらりと揺れる。
その時、犬の唸《うな》り声《ごえ》が聞こえた。
はっとして、緑さんは顔を上げる。目の前に、今にも跳《と》びかかりそうに構えていたのは白い犬だった。
「あら、おひさしぶり、66じゃないのさ」
身構えていた66は、尻尾《しっぽ》を振って緑さんに跳びかかった。白い服に泥をつけながら、緑さんの顔を嘗《な》めた。
「それにしても本当にひさしぶりだね66。たしかこの辺りで君に餌《えさ》をあげてたんじゃなかったっけ? たしかわたしが君に意地悪して、この階段の後ろに餌を投げ込んだりとか」
66は緑さんに服従のポーズをとっていた。
この犬の変な名前も緑さんがつけたことをわたしは知った。
「そういえば君、みんなから評判悪いぞ」
化粧っけのない綺麗《きれい》な指先で66の鼻をちょんとつつく。その表情は幼馴染《おさななじ》みに出会ったように嬉《うれ》しそうな、まるで太陽のような笑顔だった。
「靴の大泥棒だってさ、盗んだ靴を君はいったいどこに隠しているんだい?」
66はくうんと可愛《かわい》らしく鳴いた。そして緑さんの座っていた階段の裏に回る。側面には木の板がはられていないので、犬ぐらいの大きさのものならば、裏側に回ることができるのだ。
緑さんはピンときて中を覗《のぞ》きこむ。
「おー、あるある。……にしてもよくこれだけ集めたもんだ」
階段の裏には村中の靴の片方だけが山となって積まれていた。その量に緑さんは呆《あき》れを通り越して感心してしまう。
66はそのままそこに寝そべってしまった。
緑さんはやれやれという表情で顔を上げようとした。そろそろ橘家に向かおう。その後の調べでなにかわかったのだろうか。そんな思いを巡《めぐ》らせていた。
しかし、上げようとした顔が途中で止まった。目の端に気になるものが引っかかったのだ。
それは66のコレクションの山の一角。緑さんは服が汚れるのも構わず、奥にあるそれに手を伸ばす。66は唸りもせず、不思議そうに首を傾《かし》げている。
指の先に目的物を引っかけて、腕を階段裏から引き抜いた。
暗がりから引っぱり出されたもの。それは片方のサンダルだった。花のついたそれを履いていた女の子を、緑さんは知っている。
細められていた緑さんの目に影がよぎる。未来をのぞきこむような、瞳の奥の知性の光が輝きをました。形の良い眉《まゆ》の間に怪訝《けげん》そうな細い縦皺《たてじわ》を寄せて、橘家の方角を見た。
そしてわたしのサンダルを66に返して帰っていく。自分のうちに帰っていく。
今日はやめた。橘家に行くのは明日にしよう。そういえば冷凍庫の中に、うちの工場で作ったアイスクリームの試作品があったはずだ。今日のお昼はそれを食べながら、連日ワイドショーを騒がせている、連続誘拐事件のその後を追ってみよう。緑さんはそんなことを考えながらお宮の広場を横切っていった。
夏の陽射《ひざ》しはじりじりと、靴の底を通しても、砂利の熱は伝わっているようだ。
昼間あれほど騒がしかった蝉の鳴き声さえも、聞こえなくなる夜。
空に浮かんだ星と月の淡く青白い光が夜を照らし出す。辺りは深海のように深い眠りに包まれていた。
わたしの体が隠されている溝の蓋が、健くんの手によって持ち上げられる。その隣には不安そうに、怖そうにわたしを見ている弥生ちゃんがいた。
わたしの移動の時間がやってきたのだ。次の日になればまた、捜索隊がわたしを探しに来る。そしてあの勘《かん》の鋭い隊員がわたしを見つけてしまうだろう。そう健くんは悟ったのだ。
あの後、健くんは二台の乗用車のところに連れていかれて鼻血の治療を受けた。大きな石で鼻の頭を殴ったのだから、鼻には大きな傷が残っていた。治療を受けた健くんに、家の場所や名前などが質問された。健くんと弥生ちゃんの二人がわたしを目撃した最後の人間だということを知っていたらしい。名前を答えると、多くの質問が待っていた。
不審な人物を見かけなかったか? そんな質問にも、健くんは正直に「見なかった」と答えた。でたらめに答えて、あの誘拐事件に巻き込まれたと思わせればいいのにと弥生ちゃんは思ったのだが、弥生ちゃんも健くんに合わせて答えた。嘘《うそ》で周りを塗り固めずに、大切な部分だけを偽《いつわ》ることが最も安全だと、健くんは直観的に悟っていたのだ。つきすぎた嘘が大きくなって崩壊《ほうかい》していくのを恐れたのだった。
弥生ちゃんの持つ懐中電灯の光の中で、健くんはわたしを抱《かか》えて溝から持ち上げた。その顔の中心には大きな絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》ってある。
「怖いよう、怖いよう……」
そう小さく繰り返しながら周りの夜の森を見回す弥生ちゃん。健くんが夜中に起きたとき、ぺったりとくっついて寝ていた弥生ちゃんも起き出したのだ。残っていろと健くんに言われたのだが、夜の森よりも、健くんにおいていかれて一人にされるほうがよっぽど怖かった。一緒に蚊帳《かや》をくぐり、古びて鳥の鳴き声のような軋《きし》む音をあげる廊下を慎重に歩いてきた。家族が起き出さないように、いくつかの道具も揃《そろ》えてやってきた。
溝から出されて、夜の冷たい外気よりももっと冷たいわたしは、そのまま健くんに抱えられて、地面に敷かれた茣蓙《ござ》の上に寝かされる。変な方向にだらしなく曲がった首や手足をきちんと揃えてくれた。そしてわたしは茣蓙の上で『きをつけ』した格好になった。
「ちょっと茣蓙を切りすぎたかな?」
弥生ちゃんを元気づけるためだろうか、そう言って小さく苦笑した。
昨日わたしを背負ってみて、健くんはその運び辛《づら》いことに気がついたのだろう。力なくぶらぶらと揺れるわたしの腕や足にも懲《こ》りたのかもしれない。今度は、わたしを茣蓙で巻き込んで、疲れたときは弥生ちゃんと二人でわたしを持ち運ぶことにしたのだ。
捨てられていた古い茣蓙を裁縫《さいほう》用の裁《た》ちばさみで、わたしの背丈《せたけ》の大きさにじゃきじゃきと切る。だが切りすぎたため、のり巻きにされたわたしの爪先と髪の毛が両端から飛び出していたのだ。
そして健くんは、その上から茣蓙が自然に開かないように固く結ぶ。
家を出る時、ちょうどよい紐《ひも》が見当たらなくて弥生ちゃんは焦《あせ》った。お店でなにか買った時に商品を包んでいる包装紙や紐を、おばさんは「いつか役に立つ」と言ってとっておくたちなのだが、どこにしまっているのかを二人は知らなかった。おばさんを起こして訊くわけにもいかず、珍しく必要とされたお店の紐だが、せっかくの機会を逃《のが》してしまった。健くんはしばし考えて、自分たちの部屋の蛍光灯のスイッチの紐につけたされている紐を使うことにした。寝転がったまま明りを消すことができなくなってもかまわない。そういういきさつで用意された紐でわたしをくるんだ茣蓙を締《し》めた。
そして溝の蓋を閉めて、丸太を担《かつ》ぐようにわたしを運ぶ健くんに、弥生ちゃんが恐るおそる訊いた。
「おにいちゃん、これから五月ちゃんをどこに連れてくの?」
健くんは自分の家のほうに歩きながら答える。
「僕たちの部屋さ。今日の捜査を見てたら、そこが一番安全な気がしてきたんだ」
わたしは茣蓙に丸められているので、手足をぶらぶらさせることもなく、おとなしく運ばれている。
「押し入れの中に隠してさ、明日は一日中部屋で見張ってよう。
でもいつまでも置いておくわけにもいかないから、はやく次の隠し場所を見つけないといけないな」
弥生ちゃんの懐中電灯が足元を照らしてくれる。その光の中、健くんの表情は妙に楽しそうだった。
部屋に帰って、二人はわたしを押し入れに隠した。
健くんは宝物を隠すように、悪戯《いたずら》を企《くわだ》てる悪童のように押し込んだ。
弥生ちゃんは恐怖や不安の塊《かたまり》を隠すように、神様の目から自分の罪悪を遠ざけるように押し込んだ。
そして押し入れの襖《ふすま》は静かに閉じられた。
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三 日 目
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朝、ラジオ体操から帰ってきて健くんと弥生ちゃんは驚いた。おばさんが朝ごはんの用意とともに、二人を学校へ行かせる支度《したく》もしていたのである。
「なにつっ立ってんの二人とも。今日は登校日でしょう? 早くごはん食べなさい」
そして二人に朝ごはんを勧《すす》める。
二人とも、登校日のことをすっかり忘れていたのである。
夏の早い太陽はすでに熱をぎらぎらと発し、外は眩《まばゆ》いほどの明るさに満ちていた。
「お母さん、どこに行くの?」
わかめとたまねぎの入った濃い味噌汁《みそしる》にごはんを入れて食べていた健くんは、おばさんが自分たちの部屋に行こうとするのを見て尋《たず》ねた。
「あなたたちの布団《ふとん》を畳みにいくんですよ。それから蚊帳《かや》もね。あなたたちじゃあ天井から下がっている蚊帳に手が届かないでしょう?」
話を聞いて、怯《おび》えたように弥生ちゃんが健くんのほうを見る。いつも布団をしまっている押し入れには今、わたしが入っているのだ。おばさんがあそこを開けてしまうと、自分たちのやったことがばれてしまう。そんな不安が既に浮かんでいた。
しかし、健くんはさほど動揺した様子も見せずに涼しい顔で答えた。
「そんなこといいよ、たまには僕らがやる。何事も経験って言うじゃないか。だからお母さんも朝ごはんを食べなよ」
「なにませたこと言ってんのよ、この子は」
おばさんはそう言いながらも、自分の仕事が一つ減ったことを喜んでいるようだ。
そして台所のほうへと消えていってしまう。
健くんと弥生ちゃんは朝ごはんをかきこんで、自分たちの部屋へと戻ってきた。
「どうするのおにいちゃん! 弥生たちが学校に行ってる間に、お母さんが押し入れ開けちゃうかもしれないよ!」
部屋の天井の四隅《よすみ》から吊《つ》ってある青い蚊帳を、椅子《いす》を使って器用にはずしていく健くんに向かって、弥生ちゃんは言い放つ。その顔は今にも泣き出しそうだ。
「大丈夫だよ弥生。畳んだ布団を五月ちゃんの上に被《かぶ》せてしまえば、そうわからないって」
にこやかに、元気づけるように健くんは言った。
青い蚊帳が小さく畳まれて押し入れの中にしまわれる。押し入れは上段と下段に分けられていて、いつも布団が入れられている上段のほうに、茣蓙《ござ》にくるまれたわたしが寝かされていた。その上に蚊帳はのせられた。
押し入れの下段のほうには、市い座布団や冬服、昔使っていた旧《ふる》い掃除機などが入っている。
「でも、でも……」
「大丈夫だよ」
根拠はないのだが、健くんが微笑《ほほえ》みながらそう言うと、本当になんとかなる気がしてくるから不思議だ。
弥生ちゃんは目にたまった涙を手で拭き取り、いつも寝る時に自分がくるまっているタオルケットを畳んだ。黄色のそれは貰《もら》い物《もの》だ。
健くんは二枚の敷き布団を畳んで押し入れに運ぶ。最近は、弥生ちゃんは健くんと同じ布団で寝ているので実際には必要ないのだが、一応二枚とも敷いているのだ。
わたしの上に敷き布団がどさどさとのせられる。それはけっこう重く、わたしは圧迫感を感じた。もし生きていれば、この暑苦しい季節、死ぬほど辛《つら》い思いをしたことだろう。
「あらら、足がはみ出てるなあ」
わたしにのせられた敷き布団は、わたしの足までは隠せなかったようだ。切りすぎた茣蓙も全身を包みきれていないため、わたしの足――一方はサンダルを履《は》いて、一方は裸の足――が外から丸見えの状態なのだ。わたしは少し恥ずかしさを覚えた。
「おにいちゃん、これ使って」
弥生ちゃんは自分の黄色いタオルケットを差し出した。
健くんはそれを受け取り、わたしの剥《む》きだしの足に被せる。
「うんぴったりだ」
タオルケットですっかり足が隠れてしまったのを確認してから、健くんは嬉《うれ》しそうに言った。健くんが嬉しいと弥生ちゃんも嬉しくなる。少し赤くなった。
はみ出ている所がないのをもう一度確認して、二人は襖《ふすま》を閉じた。
そして、もう一週間以上使っていないランドセルに、連絡帳や今日の日付のところまでやっていた夏休みの宿題を入れる。
「たしか登校日は午前中で学校が終わるから、五月ちゃんが見つかる恐れは本当に少ないはずなんだ」
弥生ちゃんにそう言って、健くんはすばやく支度を終える。
そして二人一緒に玄関を出た。すでに蝉《せみ》の声は辺《あた》りに響き渡っている。まだ田干《たぼ》しの続いている稲は太陽の恵みをいっぱいに受けとって濃い緑色になり、木々は腕を伸ばして澄み渡る空を掴《つか》もうとしていた。
朝はわたし以外の全てのものの上にやって来て、わたし以外のみんなは生きていた。
わたしたちの小学校には、一学年に一クラスしかなかった。だから同《おな》い歳《どし》のわたしと弥生ちゃんは同じクラスだった。今は朝のホームルームの時間。
「先生、五月ちゃんがまだ来てません」
わたしの席があいているのを見て、隣の席の女の子が先生に報告した。わたしがいなくなった日からまだ三日目。クラスの子供たちはまだ何も知らないのだ。ただ一人を除いて。
弥生ちゃんは青ざめて、震えていた。その女の子のほう、そしてわたしの席のほうから懸命に目を逸《そ》らし続ける。
「……五月ちゃんは、夏風邪《なつかぜ》でお休みです。みんなは風邪をひかないように気をつけてくださいね」
担任の先生はつくった笑みを浮かべてそう答えた。どうやらわたしのお母さんから事情を聞いて知っているらしい。
クラスのみんなは「はーい」と元気よく合唱する。その顔には無邪気な笑顔が広がっていて、まるで将来が約束されているような、未来を約束したくなるような明るさに満ちていた。
「おにいちゃん……」
誰《だれ》にも聞こえないように、半分心の内で呟《つぶや》くように弥生ちゃんは小さく泣いた。身を縮め、足をがたがたと震わせている。「おにいちゃん」そう呼ぶと、健くんが自分を助けてくれるような気がしたのだ。
大丈夫、誰にも見つからないし、誰も知らない――弥生ちゃんの頭の中に健くんの言葉が響く。机の落書きに目を向けたまま、弥生ちゃんの心臓の高鳴りは静かに引いていった。
午前中の辛抱《しんぼう》だ。そう自分に言い聞かせたその時、先生がやけに自分を見ているのに気がついた。
そして先生は弥生ちゃんのほうへとゆっくり歩み寄ってくる。
気づかれたの!? 他人が見てもわかるほどの大きな震えを気づかれたのだろうか。
弥生ちゃんの心臓がまた早鐘《はやがね》を打ち始めた。全身から汗が滲《にじ》み出る。
そして先生は弥生ちゃんの横で立ち止まった。その細い肩に手を置く。
できれば、その場から逃げ出したかった。そして健くんのいる教室まで走っていきたかった。
きっとばれちゃったんだ! 弥生を捕《つか》まえて警察に連れて行っちゃうんだ!――弥生ちゃんの頭にそんな考えが浮かんだまま消えない。
先生は弥生ちゃんの耳に口を近づけて、他の子供たちに聞かれないように囁《ささや》いた。
「あなたは五月ちゃんが行方不明なのを知ってるのね。かわいそうに……一番のお友達だったものね。
でもお願い、他のお友だちには黙っててほしいの。先生の言っていることわかる?」
哀《あわ》れむように、労《いたわ》るように、先生は顔に悲しい色を湛《たた》えていた。
弥生ちゃんは、ぴくんと弾《はじ》けるように顔を先生に向けた。そして先生の言葉の意味を理解すると、ぶんぶんと頭を縦《たて》に振る。
「……弥生ちゃん……」
先生は元気づけるようにその手を優しく握《にぎ》り締《し》め、そして他の子供たちに気づかれないうちに弥生ちゃんに別れを告げて教室を出ていった。そして一時間目が始まるまでの短い休み時間に入る。
弥生ちゃんには、周《まわ》りを友だちが飛び回るように、踊り舞うようにぐるぐると回転しているように見えていた。
そして自分が助かったのだと気づいて嬉しくなる。
涼しげな風が吹いて、全身の汗がひいていくのがわかった。
「ただいまあ」
そう言って弥生ちゃんは玄関をくぐった。その後ろには健くんが続いている。
あの後は何事もなく時は進み、弥生ちゃんのほうが早く終わったのだが、健くんと一緒に帰るために数十分心細く待っていた。そして一緒に家まで帰ってきたのである。
「お母さん、どこ? 弥生はらぺこだよう」
そして健くんと一緒に自分の部屋に入った。
「お母さん!」
弥生ちゃんは短く叫んだ。
おばさんは二人の部屋にいた。二人の部屋の、わたしがいる押し入れを開けて、何やら探し物をしていたのだ。
「お母さん、何してるの?」
健くんが何気《なにげ》なく言った。おばさんが出したり入れたりしているのは、同じ押し入れでも、わたしの隠されている上段ではなく下段のほうだったのだ。しかし、ちょっとでも上段の布団やタオルケットを動かしてしまっていたら、茣蓙からはみ出たわたしの髪の毛や足の指が見えていただろう。
「それがね、今使っている掃除機の調子がおかしいんだよ。せっかくあなたたちの部屋をお掃除しようと思ったのにねえ。だから昔使ってた旧《ふる》い掃除機を出そうかと思ってねえ、たしかここに入れといたはずだろう?」
「そんなのいいよ、僕たちの部屋くらい自分で掃除するからさ、お母さんは『笑っていいとも』でも見てなよ。な、弥生」
弥生ちゃんは大きな目をびっくりしたようにおばさんに向けて、頭を何度も縦に振った。
「あらそう、それなら助かっちゃったわ、お母さん。頼んだわね」
そう言って、押し入れの襖を閉めて立ち上がる。そして部屋を出ていった。
弥生ちゃんは安堵《あんど》して胸を撫《な》でおろす。健くんはごく当たり前の様子でランドセルを机の上に置いた。
そして弥生ちゃんは、今後わたしをどうするのかを健くんに尋ねようと口を開いた。
「ねえ、おにいちゃん。これから……」
その時、何の前触れもなく部屋の襖が開いた。隙間《すきま》からおばさんの顔が覗《のぞ》き見える。
「お母さん、まだなにか?」
口を開いた状態で硬直してしまった弥生ちゃんに代わって、健くんが訊《き》いた。
「お昼ごはんできてるからね。掃除は後でいいから早くいらっしゃい」
「はいはい。わかったよ」
健くんのそっけない答えでも満足したのか、おばさんは襖を閉めた。
弥生ちゃんのかなしばりが解ける。
「あー、びっくりしたあ!」
その時、またもや襖が開けられる。性懲《しょうこ》りもなく現れたのはやはりおばさんだった。
「なにがびっくりしたの?」
弾かれたように弥生ちゃんは振り返り、泣きそうな顔でまた硬直する。
「ふうん、まあいいけどさ」
「お母さん、今度はなに? そのしつこさはまるでゴキブリかジョッカーみたいだぞ」
「なんなのよそれは……。あのね健、あなた最近妙にいい子だね。布団も掃除も自分でやるなんて、まるでNHKみたい」
「そっちこそ、なんなんだよいったい……」
珍しく健くんは小首を傾《かし》げた。
「とにかく、最近妙に弥生とも仲がいいし、まるで何かお母さんに隠しごとしてるみたいだと思って。ただそれだけよ、言いたかったのは」
そして襖が閉められた。健くんは耳をそばだてて、おばさんが歩み去るのを確認する。
「……お母さん行っちゃった?」
弥生ちゃんは恐るおそる健くんに訊いた。
健くんは無言で頷《うなず》き、弥生ちゃんのほうにふりかえって微笑んだ。
おばさんの最後の台詞《せりふ》を心にとめながら、二人は押し入れを開けてわたしが逃げていないかを確かめた。
昼食をとって二人は部屋に戻る。そして作戦会議をひらいた。
「おにいちゃん、これからどうするの? このままここには置いとけないよう……」
困ったように、泣きそうに、弥生ちゃんは言った。
しかし健くんは前からその問題についての答えを見つけていたようだ。健くんは弥生ちゃんに、何も難しいことなんかないんだというような顔をして答える。
「前から考えてたんだ。弥生も薄々気づいてたんだろ、お宮の石垣の穴の中に投げ込めばいいってことを。そうすれば誰にも見つからない。五月ちゃんはやっぱり連続|誘拐《ゆうかい》事件に巻き込まれたんだって、思わせることができることをさ」
健くんが言った作戦に弥生ちゃんは頷いた。
お宮の敷地のあの石垣。わたしが死ぬ前、健くんを待ちながら、弥生ちゃんと一緒に見上げていた、あのお城の土台のような所。
あの上には、石の一つが外《はず》れていて、ぽっかりと石垣に井戸のような空間が口を広げている。子供たちのお菓子の屑《くず》や空き袋を投げ入れるごみ箱と化している穴だ。その穴にわたしを投げ込もう。そう健くんは言っているのだ。
どうやら二人とも、だいぶ前からそうしたらいいと思っていたようだ。
「うん。それでいつ五月ちゃんを運ぶの?」
「そうだな、早いほうがいいな。この暑さじゃ、いつ五月ちゃんが臭《にお》いだすかわからないしな」
わたしが腐《くさ》って臭いだす。弥生ちゃんは想像してしまったのだろう、顔をしかめた。
もう数時間したら、わたしが死んでから丸二日になるはずだ。
「今日の夜中に行こう。明日の夜は花火大会だろ? たぶん明日の晩のお宮は夜遅くまで人がたくさんいるはずだ」
年に一度の花火大会だ。村規模の小さなものだが、村の半分近い人間が集まるはずだ。
「弥生わかった。それじゃあ今日も早く寝なくちゃいけないね。お昼寝しなくちゃ」
見通しがついて、弥生ちゃんはどこかしらほっとした様子だ。
そんな弥生ちゃんの様子を見て、健くんもどことなく嬉しそうだった。でもなぜか残念そうな表情にもとれる。健くんは意外とこの状況を楽しんでいたのだった。
昨日、妙に勘《かん》の鋭かった捜索《そうさく》隊員は、今頃もぬけのからの溝を調べているのだろうか。そしてあの口の悪い仲間に笑い者にされているのだろうか。そんなことを考えながら、健くんは捜索隊員が顔に貼《は》ってくれた絆創膏《ばんそうこう》をいきおいよく剥《は》がした。傷は塞《ふさ》がってかさぶたになっている。剥がした絆創膏をごみ箱に投げ入れて、おばさんとの約束どおり掃除を始めようと押し入れを開けた。旧い型の掃除機がそこに入っているはずだ。
「さあ、弥生、お昼寝の前にお掃除だ。掃除してないとお母さんに怪《あや》しまれるだろう?」
「うん。お掃除だね」
「じゃあわたしも手伝ってあげよっか」
突然襖を開き、部屋へ入ってきた人を見て二人は驚いた。目を大きく見開いて体が固まる。
「緑さん!」
「やっほー、今日のアイスクリームは新製品だぞー。まだお店には出回ってない商品なんだから感謝しなさい、この緑さんに」
両手にぶら下げた白いビニール袋をぶらぶらさせて、緑さんは胸を張って言った。袋には水滴がついている。
「それじゃあ居間で食べようよ緑さん」
後ろ手に押し入れの襖を閉めて、健くんは提案した。弥生ちゃんもぶんぶん首を振る。しかし、緑さんは賛成しなかった。
「それがね、叔母《おば》さんが……きみたちのお母さんが居間で爆睡中なのよ。だからここで食べましょ。大サービス、夏休みの宿題も教えてあげちゃうぞ緑さんは」
不安そうに健くんを見上げる弥生ちゃん。健くんはしようがないなという風《ふう》に頷いた。
「……そう。じゃあこの部屋で食べよう。待ってて、今、座布団出すから」
そう言って健くんは押し入れを開けた。弥生ちゃんは息が止まりそうになる。わたしの下、押し入れの下段から座布団を引っ張り出して、緑さんに渡した。自分たちの分も引っ張り出して、畳の部屋に三枚の座布団が並ぶ。
ふと緑さんが蛍光灯を見上げた。
「あれれ、スイッチに紐《ひも》がつけたされてないわね。最近までついてたんじゃなかったっけ?」
「切れちゃったんだよ。長年使ってたからね」
「そうなの? 普通、ああいう紐は子供がぶらさがっても切れないはずなんだけどな」
三人は座って、中心に置かれた新製品のアイスクリームを手に取る。
「わあお……」
弥生ちゃんは感嘆《かんたん》の溜《た》め息《いき》を漏《も》らした。
そのアイスは初めて見るタイプのもので、透明な背の高いカップに入っていた。まるでレストランのチョコパフェのように豪華な作りだ。
三人は、これも初めて見るような長い木のスプーンでそれを食べ始めた。
「おいしい!」
「そうよ、うちの工場のアイスはみんな美味《おい》しいのよ。弥生ちゃんもクラスのみんなに言いふらそうね。
でもこのアイスは特別なのよ。なんたっていつものアイスより値段が高いんだから」
そんな話で盛り上がりながら、三人は豪華なアイスを食べ終えた。
弥生ちゃんは食べ終わっても名残惜《なごりお》しそうにカップの内側を何度もスプーンでこすっては、舌で嘗《な》めている。
それからもひとしきり雑談して、健くんや弥生ちゃんの宿題の話になった。
「ふうん、『夏休みの友』か。変わってないんだね、昔からこの困った友だちは。
どれどれ……」
そんなことを言いながら、まず弥生ちゃんの宿題から眺めはじめた。宿題の本の名前は『夏休みの友 小3』。一学期の終りの日、わたしも同じものをもらって学校を出た。たしかわたしの勉強机の上に今も置きっぱなしだ。
「あら、結構できてるじゃない。優秀なんだね弥生ちゃんは。
十年前のわたしはこんなもの犬に食べさせてたよ。冗談だけど」
「来年は成人なの緑さんは?」
健くんが緑さんのほうを見て言った。緑さんは照れたように頭を掻《か》いて「うん」と頷いた。
「君はさらに優秀だねえ」
健くんの宿題を開いて、緑さんが驚いたように言葉を漏らす。
そういう風に会話しながら、健くんと弥生ちゃんは勉強を始めた。わからないところがあったら後ろでくつろいでいる緑さんに尋ねるといった感じだ。
そのまま三十分ほど経過した頃だろうか、暇な緑さんはわたしの話を始めた。
「ほんと、五月ちゃんどうしちゃったんだろ。無事だといいんだけどな」
二人の勉強する後ろ姿を見ている、というより観察している。
微動だにしない健くんと対照的に、弥生ちゃんの肩がほんの少しぴくりと動く。
緑さんはそれを見逃《みのが》さない。その黒い瞳は無表情に二人に圧力をかけていた。
「本当だね、誘拐犯人に殺されてなきゃいいね」
健くんのその言葉に、緑さんは興味深そうな表情と声音《こわね》で訊いた。なぜかおかしそうに、おもしろそうに形の良い唇《くちびる》が笑みをつくっている。
「へえ、健くんは、五月ちゃんが誘拐されたと思ってるんだ。まだテレビでは何の発表もやってないんだよ」
「だってそれしか考えられないじゃないか。捜案隊もまだなにも見つけてないんでしょ? この前もニュースになってた連続誘拐事件に巻き込まれたんだよ。他の誘拐のときも何の手がかりも見つからなかったって、テレビで言ってたし。あの事件はこの近くの県で起きてるじゃないか。今までうちの県で何もなかったのが不思議なくらいだって、お母さんが言ってたよ」
「うーん、そうだねえ。もしかすると犯人はわざと、この県で子供を誘拐するのを外《はず》していたのかもね。
それにしても健くんは本当に頭がいいんだね。おどろいちゃったよ」
緑さんは正直に褒《ほ》めた。健くんは珍しく顔を赤く染めた。そしてそれが恥ずかしかったのだろうか、
「あ、僕、コーヒー作ってくるよ」
そう言って部屋を出ていった。
緑さんはそんな健くんを少しにやけながら見送り、弥生ちゃんを振り返る。
「あらら、寝ちゃってるじゃないか、この娘《こ》は。疲れちゃったんだね……」
机にぐったりとつぶれている弥生ちゃんを眺め、くすりと微笑む。そして起こさないように気をつけながら畳に寝かせた。
頬《ほお》に鉛筆で鏡面印刷された計算式を見て、声を殺して緑さんは微笑んだ。
しばらく懐かしそうに弥生ちゃんの寝顔を見つめていたのだが、急に思い立つ。
「そうだ、なにか上にかけてやらないと風邪をひいちゃうじゃないか。そういえば黄色のタオルケットがあったよな。わたしの使い古しだっけ?」
そして立ち上がり、ゆっくりと足音をたてないように押し入れに近づいた。もちろん弥生ちゃんを起こさないように気をつけているのだ。
そして押し入れの襖を開ける。ゆっくり、静かに開ける。
「あったー」
すぐにそれは目に入った。
緑さんの真正面、そこに、いつも弥生ちゃんが使っている黄色のタオルケットが置かれている。正確に言えば、茣蓙からはみ出たわたしの足を隠すために被せてあるのだった。それは、わたしを隠すためにはあまりにも薄く、脆《もろ》い壁だった。
緑さんはタオルケットの端を摘《つま》む。そしてそろそろと引っ張っていった。
タオルケットはゆっくりと緑さんのほうに滑って流れていき、足にかかっている小さな圧力が徐々に減っていく。
そして最後の最後がわたしの爪先《つまさき》に引っかかった。
訝《いぶか》る緑さん。引っ張る力を強めたその時、とうとうタオルケットは全て取り払われてわたしの足があらわになった。その瞬間。
「きゃあ!」
緑さんにぶつかるように、健くんが転んだ。そのまま、勢いで緑さんは畳に倒れる。健くんもその上に倒れこみ、持っていた丸い盆とその上にあったアイスコーヒーを辺りにぶちまける。ガラスのコップは壊れなかったし、三人にコーヒーは引っかからなかったが、大変な惨事《さんじ》だ。
物音に気づいて、弥生ちゃんが眠りの世界から帰ってくる。
目をこすりながら見たものは青白いわたしの足だった。
弥生ちゃんの呼吸が止まる。そして一瞬で眠気が消え去った。こちらが夢ならいいのにと心が叫んでいる。
「あいててて……。あーあ、畳がびしょ濡《ぬ》れだねえ。まあわたしが濡れなかっただけましか。それにしてもドジすぎるぞ君は、暑くて泳ぎたい気持ちはよくわかるが……」
周りを見回して言う緑さん。ちょっと怒って、ちょっと笑って。その様子だとわたしを見てはいないようだ。
緑さんの目が畳の惨状に向いている間、弥生ちゃんは素早く押し入れに近づき、襖を閉める。緑さんはそれに気づいた様子はない。
「ごめんなさい。足が引っかかっちゃって……。まったく、世話のやける足だ……」
そして健くんは、盆やコップ、アイスコーヒーに入れていた氷を拾い集めた。そして緑さんに見えないよう、弥生ちゃんに「よくやった」のサインをした。
弥生ちゃんの顔が急に明るくなる。
「弥生、雑巾《ぞうきん》持ってくるね!」
そう言って部屋を出て駆けていこうとする弥生ちゃんを、緑さんは呼び止めた。
「ちょっと待って弥生ちゃん……」
呼び止められて弥生ちゃんは凍《こお》りつき、健くんと一緒に氷を拾っている緑さんを不安そうに見た。
「……あのね、叔母《おば》さんを起こさないようにね。この光景見たら怒るぞー」
両手の人差し指を立てて頭にもってくる。
「うん!」
そして弥生ちゃんは駆けていった。
夜はふけ、命のある者は眠りにつく時間となった。
道に人通りはまったくない。それを確認して二人はわたしの移動を開始した。誰にも見られてはいけない。誰にも見せてはいけない。それが大切だった。
「おにいちゃん、今何時?」
眠い目をこすりながら、夢の世界の残《のこ》り香《が》を味わいながら、弥生ちゃんは健くんに訊いた。
わたしを担《かつ》いだ健くんは夢の世界とは関係なさそうな醒《さ》めた声で答える。
「もう三時半だよ。弥生、急がないと朝になっちゃうぞ」
二人……わたしを入れて三人は、まだ家を出たばかりだった。
健くんたちの住む橘家からお宮まではずいぶん遠い。その道程《みちのり》をわたしを担いで進むのかと思うと、さすがの健くんもげんなりとしてしまうようだ。
どんなに大人《おとな》びたことを言っても、まだわたしと二つしか歳は違わないのだ。わたしを担ぐのは健くんにとって重労働だろう。
「大丈夫? 弥生が足のほうを持とうか? おにいちゃん、大丈夫?」
懐中電灯で砂利道を照らしながら寄り添って歩く弥生ちゃんが尋ねる。
懐中電灯の丸い光に照らされて、砂利道の両側の稲が緑色の細長い葉をぼんやりと浮かび上がらせる。
まだまだお宮までは遠く、その歩みは遅々としたものだった。
「そうする。たのむよ弥生」
健くんはそう言ってわたしの足のほうを弥生ちゃんに差し出した。弥生ちゃんは懐中電灯を健くんに渡して、差し出されたわたしの足を両手で気持ち悪そうに持ち上げる。
農作業に使っている一輪の小さな荷車を使えばよかったと、健くんは珍しく後悔《こうかい》した。
お宮までの道がこんなに長く、わたしの死体がこんなに重いのだと、そのとき初めて知ったような気がしていた。
月明りも星明りも弱々しく、闇《やみ》の中を二人はゆっくりと進んでいった。ときには休み、励《はげ》ましあって歩く。
そしてお宮までもう百数十メートルといった所までやって来たところでまた休憩をとる。
「おにいちゃん、弥生疲れた……。続きはまた明日にしようよお……」
「明日か……。花火大会があるけど、今日と同じくらいの時間なら、さすがにお宮に人気《ひとけ》はないだろうな。
でも五月ちゃんをどこに隠しておくんだ?」
健くんの言葉に、弥生ちゃんは幼い顔で真剣に困った顔をつくって考える。健くんも、懐中電灯の光に寄ってくる虫を手で払いながら考えていた。健くんのほうは最初からの今晩中にわたしを運び、石垣の穴に投げ込む考えを変えてはいない。
「さあ弥生、お宮はもう少しだ。もう少しで五月ちゃんの行方をまったくわからなくすることができるんだぞ」
そう言って健くんは気力を振《ふ》り絞《しぼ》った。地面に座り込んでいた弥生ちゃんも立ち上がる。
お宮の石垣の中にわたしが投げ込まれれば、本当にわたしの行方は誰にも知られることはなくなるだろう。倉庫と同じくらいの石垣は大きく、その中に広がる暗闇色《くらやみいろ》の空間はどんなにごみを投げ入れても埋まることはなかった。もうずっと長い間風雨にさらされ続けながら、作った人が死んだ後も、村の子供たちの思い出をその中に閉じ込めて。
しかし、二人がやる気を出してわたしを持ち上げようとした時だった。
「おにいちゃん、あれ!」
健くんも同時に気がついていた。遠く、道の端のほう、家並みの向こうから明りが出てきたのだ。それは懐中電灯の光。おそらく人が明りを持って歩いてくるのだ。明りが近づいてくるのが見えているだけで、その持ち主が人間なのかどうかまだ認められないが、それが人間でなかったら何者だというのだろう。
休んでいる時のまま地面に置かれていた懐中電灯が、下から二人を照らし出していた。おそらく向こうの人間にも気づかれているだろう。たとえ人影として見えていなくとも、懐中電灯の明りは届いているはずだ。
「おにいちゃん、どうするの!? おにいちゃん!」
弥生ちゃんは混乱して、泣き叫ぶように健くんに問う。健くんは何事か考えている様子で、弥生ちゃんの問いには何も答えなかった。
「おにいちゃん!」
その間にも明りは二人のほうに近づいてくる。地面からの懐中電灯の光に気づいて、夏の虫のように寄ってくるのだ。
健くんは辺りを見回して、自分の考えに落ち度がないか素早く確認する。
近づいてくる明りの中に人影はまだ浮かんでいない。そして隠れる場所も何もない。砂利道の周りは稲の広がるたんぼ……。
「弥生、そっちだ!」
健くんは弥生ちゃんの体を押して、自分たちの後ろの暗闇に広がる緑の絨毯《じゅうたん》に突き落とした。あとから健くんもわたしを抱《かか》えて、懐中電灯の明りを遮《さえぎ》らないように注意して逃げ込む。
そして健くんは弥生ちゃんと一緒にたんぼの中を少し走って、自分たちの置いてきた懐中電灯が小さく見える辺りで腰を下ろす。夏の陽射《ひざ》しに命をもらうように背の伸びた稲は、ちょうど二人とわたしを隠す壁となり、ただ当たり前にゆらゆらと揺れていた。
近づいてきた明りを息を殺して観察する。蒸し暑い夜だから二人の全身を熱気が包みこみ、汗がじわりとわいてくる。稲の青くて若い香りに息がつまりそうだ。
ちょうど、たんぼの地面が露出している田干しの時で、運がよかった。いつものように稲の喉《のど》が渇かないよう満々と水が湛えられていたら、足が泥にとられて走れなかったかもしれない。それ以前に、たんぼに逃げ込むという考えすら浮かばなかったかもしれない。
「おにいちゃん……」
「しっ」
弱々しく呼んだ弥生ちゃんに、人差し指をたてて健くん。
近づいてきた明りの中に人影が浮かんだ。
遊びがすぎた子供をよく叱《しか》ることや、漫画にでてくる『カミナリさん』と呼ばれるおじいさんに似ていることから、子供たちに『カミナリじいさん』と呼ばれているおじいさんだ。毎朝早くから、ラジオ体操の始まる前のお宮の広場でゲートボールをしているお年寄りの一人。たしかそんなゲートボールクラブの代表だったと思う。
二人が残してきた懐中電灯に歩み寄り、そのおじいさんは音を傾げた。腰の鍵束《かぎたば》がじゃらりと音を鳴らす。お宮の倉庫の鍵だ。倉庫にはゲートボールの用具や農作業器具など、いろんな物が詰め込まれている。
二人は祈るようにおじいさんを見ていた。弥生ちゃんは健くんに体をくっつけて震えを止める。今夜も風が吹いていないため、ますます暑くなって汗が伝い落ちる。二人の汗は混ざり合い、乾いたたんぼの地面に転がったわたしの上、わたしをくるんだ茣蓙の上にと滴《したた》り落ちる。
弥生ちゃんは今にも泣きそうだ。
地面に落ちている懐中電灯を拾い上げて、カミナリじいさんは不思議そうな表情を湛えていた。なぜこんな所に明りのついた懐中電灯が? そんな感じの表情だ。
その表情から、自分たちはまだ見つかっていないことを健くんは悟《さと》る。予想どおりだった。こちらがそうだったように、向こうも懐中電灯の明りだけしか見えていなかったのだ。
しかし油断はしない。
おじいさんは落ちていた懐中電灯のスイッチを切って、持っていた自分の懐中電灯で辺りを見回した。念入りに、まるで逃げた鼠《ねずみ》を追うように。カミナリじいさんは落ちている懐中電灯に近寄った時、たんぼに逃げ込む小さな人影を見たような気がしたのだ。その逃げ込んだ辺りを念入りに調べる。二人は体を強張《こわば》らせ、重なり合うようにわたしにのしかかった。息を止め、必死で死人の真似《まね》をする。明りが目の前の稲を鮮やかに照らすたびに、自分たちが影絵となって稲の中に浮かんでいるのではと危惧《きぐ》する。なぜかこちらのほうばかりを光が往復して、まるで脱獄囚を追うサーチライトのようだと思った。明りにさらされるたびに、弥生ちゃんは警察に追われているような気がしてくる。
やがてカミナリじいさんはあることに気がついた。誰かが逃げ込んだと思った辺りの稲だけがゆらゆらと揺れているように思えるのだ。おかしい。風は吹いていないのに……。そう考える。
そしてカミナリじいさんは調べてみようとたんぼに入り込んだ。稲をかきわけてたんぼに下りると、靴の裏に乾いた土が砕けて粉になる感触がする。
おじいさんが近づいてくるのを悟り、二人はますます身を強張らせる。そして、健くんは必死で考えを巡《めぐ》らせた。
自分たちが見つかっても死体さえ見つからなければいいのではないか? でも親に知らされたらどう答える……。
そんな考えを巡らせている問も、カミナリじいさんは正確に二人のほうへ歩みを進めていた。そしてとうとう、もうひとかき稲をかきわければ見つかってしまう所までやってきた。
弥生ちゃんは涙を目にいっぱい溜めているが、必死で泣き声は漏らすまいと唇を噛《か》んでいる。
やるなら今だ。立ち上がり、悪戯《いたずら》をしているところを見つかった、と嘘《うそ》を言うなら今だ。
健くんはそう考えをまとめた。なぜならここには、おじいさんを殺して口を封じるような凶器はないのだから……。
そして立ち上がりかけたその時、カミナリじいさんに声をかける者がいた。
「なにやってんですか? 早くゲートボールの用意をしないと、みんなが来てしまいますよおじいさん」
それはおじいさんの奥さんだった。おじいさんは振り返り、恥ずかしそうに頭を掻《か》く。
「いや、ちょっとな……」
そして二人とわたしから遠ざかり、砂利道の上に戻る。
「ほら、これを拾ったんだ」
そう言っておじいさんはおばあさんに拾った懐中電灯を手渡す。
「あら、これは誰のでしょうねえ……」
おばあさんは訝《いぶか》りながらもおじいさんの手を引っ張ってお宮のほうへと歩き出した。二人とわたしが隠れている所を何度も振り返りながらだが、カミナリじいさんも一緒に歩きだす。もうみんなが来る時間だ。早くゲートボールの用意をして練習を始めないと、夏休みの間はラジオ体操のせいでお宮の広場が使えなくなってしまう。そんなことを話しながら二人は去っていった。
「あぶなかったあ……」
二つの人影が去っていったのを確かめて、弥生ちゃんは胸をなでおろす。緊張の糸がいっぺんにほぐれて、なんだか笑い出しそうな雰囲気だった。健くんも同じく、おもいがけないなりゆきに笑いがこみあげていた。
しかし、ふと眉《まゆ》をひそめる。
「……でもこれからどうしようか」
健くんが小さく呟いた。お宮には、すでにゲートボールをするお年寄りが集まっているかもしれない。そうなっていたら石垣の上にわたしを持ち上げて穴の中に投げ入れるところを見られてしまうかもしれない。どうやら移動の時間に手間どりすぎたようだ。
「おにいちゃん……」
弥生ちゃんが健くんを不安そうに見上げる。
「まあいっか。このまま五月ちゃんはここに置いていこう。どうせ田干しの間は誰もがたんぼに無関心になるんだから」
健くんは弥生ちゃんを元気づけるように言って微笑んだ。懐中電灯は持っていかれてしまったし、朝がやってくる直前の闇の中だったが、弥生ちゃんには健くんが笑ったのがはっきりとわかった。
田干しをしている間は、誰もたんぼを見回ったりしない。たんぼの水を塞《せ》き止《と》めているのは、ここではなく、もっと上のほうにある、水を調節する設備だ。そこでどこのたんぼも一斉に水を塞き止められるのだ。
「だから今日のところは帰ろう。花火大会の後か、それともあさってか。まだ時間はあると思うから」
そしてわたしをさらに見えにくい場所に移動させて、二人で家に帰ることにする。
懐中電灯もなく、暗闇の中を家まで歩くのかと弥生ちゃんは少々げんなりしていた。
しかし、東のほうからゆっくりと空が明るくなっていく。まるで深海に光が射したように、そして家に帰る道を照らし出しているかのように。
「わあ……」
弥生ちゃんは感動したように生まれたての朝の空を見上げ、心からの溜め息を自然に漏らす。
二人とわたしが橘家を出てから一時間半。しかし、太陽が空を赤く染めあげるにつれて、二人の歩む道はゆっくりと狭《せば》まっていくのだった。
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四 日 目
[#ここで字下げ終わり]
朝は何ごともないように、まるで何もなかったかのようにすぎていく。
あの後、二人は家の自分たちの部屋に戻ってまたひと眠りした。そしておばさんに起こされて、まるで何もない、いつも繰り返されてきた普通の朝を演じて体操に出発する。数時間前にわたしを担《かつ》いで通った道を通り、わたしを隠した辺《あた》りのたんぼの側《そば》もまるで無関心を装って通り過ぎた。健くんが無関心を装うと本当に関係がないように思えてくるから不思議だ。弥生ちゃんはそんな健くんの服をつまんで放さない。
「弥生は家に帰っててもいいんだぞ。どうせここにいてもやることなんてないだろ」
ラジオ体操が終わってカードにハンコを押してもらったら、もう家に帰ってもよいことになっている。しかし今日は違った。上級生の男子は残って、今晩の花火大会の用意をしなくてはならないのだ。用意とは、お宮の倉庫に眠っている木の長椅子《ながいす》や賽銭箱《さいせんばこ》を運び出したり、集めたお金で買った花火を確認したりするだけの簡単なものだった。それほど時間もかからないはずだから、弥生ちゃんは健くんと二人で帰るつもりだった。
「ううん、弥生も一緒にいる」
お宮の倉庫の鍵《かぎ》を探して歩いている健くんについて歩きながら、弥生ちゃんは微笑《ほほえ》んで言った。その首には紐《ひも》でぶらさがったラジオ体操のカードが二人分揺れている。
やがて健くんは、お宮の隅のほうでたむろしていたお年寄りの集団に近寄った。ゲートボールクラブの人たちだ。
「すいません、倉庫の鍵を貸してもらいたいんですけど」
健くんが声をはりあげた。弥生ちゃんはそんな健くんの背中に隠れてしまう。
「ああ、花火大会の用意かい。そういえば今晩だったな。
鍵なら田中さん、あんたが持ってたろう。この子たちに渡しておやりなさい」
恰幅《かっぷく》のよいおじいさんが健くんの言葉に頷《うなず》き、そして隣のおじいさんに鍵を催促してくれた。
少しだけ顔を出して様子を見ていた弥生ちゃんが、田中さんと呼ばれた人物を見て、ぎょっとなって健くんの背中にしがみつく。
田中さんと呼ばれたおじいさんは、白髪頭で眉《まゆ》の濃い、今朝姿を見られそうになった、あのカミナリじいさんだった。しかしそんなことをカミナリじいさん本人が知る由《よし》もなかった。
「わかっとるわかっとる。倉庫の鍵ならわしが持っとるよ。どうせじゃから小林さん、ゲートボールの道具も一緒に倉庫に入れてこようかい」
「そうじゃな。それじゃあみんな、ここで解散じゃ」
小林のおじいさんがそう言ったので、みんなそれぞれゲートボールのスティックを持って帰っていく。そしてカミナリじいさんと小林のおじいさんは、ゲートボールの球をくぐらせるコの字型の用具をいくつか抱《かか》えて、健くんと一緒に来ることになった。ゲートとでもいうのだろうか。それらの用具はお宮の倉庫に入れられることになっている。ゲートボールクラブのお年寄りたちは、毎朝それを出してきて練習を重ねているのだった。
カミナリじいさんを前にしても健くんはまったく動じなかったが、弥生ちゃんははたから見ていてもわかるほどに緊張していた。健くんの服をつまんだ手に力がこもり、つねにカミナリじいさんとの間に健くんが入るように移動する。
「君は橘《たちばな》さんちの息子さんだな。名前はなんだったかのう?」
「健です。それでこっちは弥生。ほら弥生、あいさつは?」
健くんに促《うなが》されて、弥生ちゃんはカミナリじいさんにおじぎした。恐るおそる、まるでいつ噛《か》みつかれるかわからないぞというふうに。
そんな弥生ちゃんを見て、おじいさんたちは顔に笑みを形づくった。しかしすぐに影がおちる。
「お嬢ちゃんのほうはたしか、最近いなくなった子供さんと友だちだったのかな……?」
小林のおじいさんが弥生ちゃんを見て言った。わたしのことを言っているのだ。弥生ちゃんは顔を暗く、強張《こわば》らせて頷く。その暗い表情は、不安や恐れからきたものだったが、お年寄りの二人はそうとらなかったらしい。
「そうか……悪いことを訊《き》いたね。でもお嬢ちゃんも気をつけなさい、誘拐《ゆうかい》犯人に連れていかれないように。健くんのほうは弥生ちゃんをしっかり守ってあげるんだぞ」
「はい!」
力強く答えた健くんを見て、二人のお年寄りは満足げに頷いた。それも演技なんだとわかっているのだが、弥生ちゃんは少しだけ嬉《うれ》しくなって頬《ほお》を赤く染める。
そんなことを話しているうちに、健くんと弥生ちゃん、そして二人のお年寄りは倉庫の前までやってきていた。古い倉庫は扉だけが頑丈に金属でできていて、その扉はかなり重そうだ。抱えていたいくつかのゲートを地面に下ろし、カミナリじいさんは腰にくくりつけていた鍵束《かぎたば》を外す。そして鍵束の中から『ソウコ』と書かれた鍵を鍵穴に入れ、ぐるりと回した。
「ほれ、鍵が開いたぞ」
しかし健くんが力いっぱいに扉を横に引っ張っても、重いそれはまったく動かない。
「全然動きませんよこの倉庫の扉。どうしちゃったのかな」
「ときどき開きが悪いんじゃ、その扉は。さっき道具を出した時はすんなりあいてくれたが。滑車《かっしゃ》のぐあいが悪いのかもしれないな。前から調べてみてくれと頼まれとったんじゃ」
小林のおじいさんがそう言って、持っていたゲートを地面に下ろす。そして健くんと一緒に扉を動かそうと力を込めた。弥生ちゃんも、カミナリじいさんも仲間に入る。みんなで力を合わせて扉を動かすつもりだ。しかし、がたがたと揺れはするものの、扉が動くにはもう少し力が必要らしい。
「やっほー。どうしたのみんな。なんだか頑張ってるように見えるけど」
そんなことを言いながら、顔を赤くして踏ん張っている四人に寄ってきたのは緑さんだった。ジーパン姿でやけに呑気《のんき》に駆けてくる。
「緑さんも手伝ってよ。僕たちは見た通り頑張ってるんだから」
傍観する緑さんに健くんが言い放つ。
「ははあ、そっか。健くん今日は花火大会の用意してるんだ。おつかれさま。
頑張ってるみたいだからわたしも手伝ってあげよう。感謝するんだぞ」
そんなふうに言って、緑さんも倉庫を開けるチームに加わった。
緑さんが加わったことでみんなの力が倉庫の踏ん張りを越えたのか、ついに倉庫の重い扉は耳障《みみざわ》りな音をたてて開いた。
「馬鹿力なんだ、緑さん……」
呟《つぶや》いた健くんの頭を軽く叩《たた》いて、緑さんは中に入っていった。みんなも後に続く。
中は薄暗く、湿っていた。農作業用のくわやすきが入っているからだろうか、藁《わら》の臭《にお》いが充満していて胸が詰まるようだ。やっとのことで開いた出入り口、そこから射し込んでくる太陽の光に浮かび上がって、辺りに漂う埃《ほこり》が水中の微生物のように目障りだった。
「いろんなものがあるねえ……」
興味深げに弥生ちゃんが呟いて周《まわ》りを見回した。農作業の用具やら、中になにが入っているかわからない段ボール箱、細長い材木などが雑然と積み上げられている。けっこう広い。
「田中さん、せっかくだから今から扉の滑車をつけ替えましょうか」
青いペンキの剥《は》がれおちかけたゲートを倉庫の隅に置いて、小林のおじいさんがカミナリじいさんに言った。そしてカミナリじいさんの答えを聞かずに、上のほうに積まれていた木の箱を下ろした。
そこには、にぶく銀色に輝く新品の滑車がいくつも入っていた。やけにそれらは大きく、滑車の上の部分に金具を差し込めるような穴がある。
それと工具を倉庫から持ち出して、二人は倉庫の扉に寄っていった。滑車を取り替えるために、扉を取り外すつもりなのだった。
そんなお年寄りたちには目もくれず、健くんは木でできた小さな賽銭箱を奥のほうから引っ張り出そうとしていた。こういう行事の時にしか使われないような小さな賽銭箱でも、健くんひとりでは持ち上げられないほどの大きさだ。
「わたしも手伝ってあげる。まったく、今日はこの緑さんに感謝の嵐ね」
緑さんも一緒に引っ張って奥から出し、そして片方を持ち上げて倉庫の外へと運び出した。弥生ちゃんは持つ所がないのでただ健くんの隣をついて歩く。どことなく所在なげで落ち着きなく二人を見ていた。
「ほらほら、危ないぞ。今から扉を寝かせるからな」
そんなふうに叫んでいるカミナリじいさんにお礼を言ってから、三人はそのまま神様を祭ってある木のやしろへと足を向けた。あの木の階段の所に賽銭箱を置けば健くんの仕事は終りなのだ。そうしたら上級生の人にさようならを言って、家に帰ることができる。
「ねえねえ、花火大会は何時からやるの? 健くんや弥生ちゃんも来るんだよね」
二人は頷いた。花火大会の間わたしのことを忘れるつもりだった。どうせその間は、わたしをお宮の石垣に運ぶことはできないのだ。人が集まっているので、二人がやろうとしていることを目撃される危険が大きい。わたしは安全にたんぼに隠されているのだから、その間くらい忘れるつもりらしかった。
「それじゃあわたしも米ようかな。
知ってる? 他の子供たちがおもしろいことやってたわよ」
「おもしろいこと?」
緑さんの言葉に反応したのは弥生ちゃん。
「そう。買ってきた普通の花火を紐に連《つら》ねてさ、一斉に火がつくようにしてたの。ナイアガラの滝を作るんだって言ってた」
そして向日葵《ひまわり》のように眩《まぶ》しい顔で笑い声をあげた。弥生ちゃんは瞳を輝かせ「本当? 本当?」と何度も訊く。想像したのだ。一斉に輝く綺麗《きれい》な光の花びらが散って、滝のような光の洪水が舞い散る姿を。迫力があって幻想的で、それでいて十数秒の短くはかない夏の花を。
「本当だぞ。だからそれに間に合うように来なさいよ」
弥生ちゃんは何度も激しく頭を縦《たて》にふった。
「こらこら、目を回しちゃうからやめなさいって」
そんなことを言われた弥生ちゃんの表情は明るかった。最近のすっかり気が滅入《めい》ってしまっていた顔からは想像できないほどに、それは季節にたとえるなら夏のようだった。
そんな弥生ちゃんを見下ろし、緑さんは嬉しいような、それでいてどこか哀《あわ》れむような瞳をしていた。
賽銭箱の片方を抱えて歩く健くんは、緑さんになにか質問されたときにはすぐ答えられるように、そんな二人の会話を聞いていた。しかし考えていたことはもっと別なことだ。
どうやって五月ちゃんを石垣の上に持ち上げよう――木の階段に賽銭箱を置きながら健くんは考えていた。
「じゃあ、健くんもちゃんと来なさいよ。花火なくして夏休みは語れないんだからね。なによりわたしの浴衣《ゆかた》姿が見られるかもよ」
健くんは緑さんの言葉に、はにかみ笑いを残しながら、お宮の端の石の建造物を見た。
今までどうにかなると思っていたようだが、それはあらためて見るとわたしを担いで上《のぼ》るには、あまりにも高い壁だった。
でも上らなければならないのだ。そしてそこに開いている穴にわたしを投げ込まなければならないのだ。なぜなら、それが考えつくことのできる最も見つかりにくい死体の隠し方なのだから。
そして健くんは楽しそうに、まるで今日の花火大会が楽しみだとでもいうように緑さんに微笑みを返した。
賽銭箱を階段に置いて、石垣の上に健くんは上った。そこに上級生たちが集まっていたので、健くんは仕事が終わったことを報告しに行ったのだ。報告が終わり、上級生から「帰ってよし」の言葉と「時間どおりにこいよ。健がこなくてもこっちは勝手に始めるからな」という言葉をもらって、健くんは弥生ちゃんと家へ帰ることにした。そして石垣から下りるとき、健くんは周りの確認をした。
石垣の上に木の板が敷いてある。それは下級生がその下に広がっている穴に落ち込まないようにとの心配りだった。上級生の一人が、その木の板をずらして『ビックカツ』と書かれたお菓子の空の袋を穴に投げ入れた。もう少ししたら、わたしもあんなふうに投げ入れられるのだろう。
そして上を見上げれば、石垣の上に太い木の枝がはりだしている。そのおかげで夏の陽射《ひざ》しは弱まり、石垣の上は木陰になっていて涼しい。
「お母さん、紐を集めてたでしょう? それってどこに保管してるの?」
家の中、居間に寝転がってテレビを見ていたおばさんに、帰ってきたばかりの健くんが聞いた。
「紐? いったい何に使うつもりなのよ、紐なんて」
「だって電気の紐につけたしてた紐が切れちゃったじゃない。新しいの自分で選ぶからさ、紐どこにあるの?」
憩《いこ》いの時間を邪魔されてやや機嫌《きげん》の悪いおばさんも、健くんの言うことに納得したのか、立ち上がり、納戸《なんど》のほうへと入っていく。しばらくして『チロリアン』と書かれた金属のクッキーの箱を持って戻ってきた。そのクッキーの空き箱は、橘家では裁縫箱《さいほうばこ》として有名である。一度、緑さんがその銘柄《めいがら》のクッキーを持ってきたことがあったが、その箱を見た弥生ちゃんが「なんだあ、裁縫箱かあ」と言って落胆《らくたん》したほどである。
「ほら、この中から選びなさい。選んだらまたここに置いとくのよ。
それにしても、ちゃんと役に立ったじゃない」
「数年に一回の割合だけどね」
胸をはった健くんのお母さんは、健くんの言葉を聞いて呆《あき》れる。
「……あんたまだ五年生でしょ。もう『割合』なんて言葉習ったの?」
「ええと、この紐全部部屋に持ってくからね、勝手に決めちゃうと弥生が怒るかもしれないから」
おばさんの言うことには答えず、健くんは箱ごと持って部屋に戻っていった。重さからして、箱の中に入っている紐は相当な数だろう。何年も使われずにたまっていった『お店で商品を買った時にそれを縛《しば》っていた、けっこう強い紐』を手にしながら、健くんは考えをめぐらす。
これだけあれば、なんとか五月ちゃんをあの上に引っ張り上げることができるだろう……。
明日には実行に移すつもりらしい。それまでに、思いついた簡単な仕掛けがうまくいくか試しておこうと思っていたようだ。
そんな健くんの足が止まった。健くんのおじいさんとおばあさんが健くんを手招きしている。
「なあに?」
「健くん、たしか花火大会は今晩だったね」
「うん、そうだよ」
「そうかそうか、わしらも行ってみるかい。のう、おばあさん」
おじいさんはおばあさんに向き直って言った。どうやらただそれだけを訊きたかったらしい。自分に返ってくる言葉がないので、健くんは一言《ひとこと》、
「うん、来てよ二人とも。きっとおもしろいから」
そう言って再び部屋へと向かった。
そんな健くんの後ろからおじいさんとおばあさんのゆっくりした話し声が聞こえてきた。
「そういえば今夜からでしたねえ」
「そうだな。明日の朝にでも様子を見てこようか」
「ええ」
「ちょうど花火大会が始まるころだな、上から水を流し始めるのは。こっちのたんぼまで来るにはちょっとかかるがな」
健くんは部屋に入りながら考えていた。どうやら今年はゆっくりと花火を観賞することができないらしい……。
そうしてわたしたちの最後の夜へと時間は流れてゆくのだった。
辺りが夜色に染まった時、健くんと弥生ちゃんは砂利道を手をつないで走っていた。
すでにお宮では花火大会が始まっているころだろう。田干《たぼ》しされていたたんぼに水が流れ込むまで、もういくらも時間がない。二人はわたしを回収するために、今朝のあのたんぼ目指して走っているのだ。そしてそのまま石垣の穴までわたしを運んで、すべての事に終止符をうつつもりだ。
「急げ弥生!」
健くんが叫ぶ。その背中には黒いリュックサックが下がっていて、健くんが走るたびに勢いよく揺れていた。その中に何が入っているかを弥生ちゃんは知らない。ただ、繋《つな》げられて相当な長さになった紐が入っていることだけは知っていた。今の時間まで、二人は部屋の中で何本もの紐を繋いでいたのだった。クッキーの箱の中に入っている紐をすべて繋ぎ合わせ、一本の長い紐にする。その作業にずいぶん時間をくってしまい、二人はかなり焦《あせ》っていた。
たんぼに水が流れ込み、わたしがずぶ濡《ぬ》れになっても、たいした被害が二人にあるわけではない。それでも二人は、わたしが水に沈むのを阻止《そし》したいらしい。
お宮のほうからロケット花火の音がする。それは空の高い所まで飛んで、パンと弾《はじ》ける。
「おにいちゃん、たしかこの辺だったよ。この辺に五月ちゃんが居るはずだよ」
「そうだったな……」
砂利道の上から、二人はわたしのほうを見た。しかし二人にはわたしの居る場所がはっきりとわからないらしい。
懐中電灯は弥生ちゃんが持っている。今日の朝のようなことになりはしないか、弥生ちゃんは危惧《きぐ》したのだが、健くんは大丈夫だと言った。もし誰《だれ》かに見つかってしまっても、花火大会に行く途中だと言えば、今晩のうちは簡単に騙《だま》せるはずなのだ。
「……もっと先かなあ」
困ったように弥生ちゃんが呟く。健くんも同じような表情でたんぼの中を見渡していた。二人はわたしと見当違いの方向を見ている。
「忘れちゃったな、正確な隠し場所……」
今度はお宮の空の辺りが、かすかに色を帯びてぼんやりと光っていた。噴水のように光を出す花火に火がついているらしい。
その間にも、まるで運命の砂時計のように水路に水が流れ出してきているのだった。
「弥生、行くぞ。中に入って五月ちゃんを探すんだ」
そう言って健くんはたんぼの中に入り込んだ。弥生ちゃんもそれに続く。
二人はわたしをどこに隠したか忘れてしまっていたのだった。たんぼはそれほど広く、子供にとっては広大だ。
下に懐中電灯の光を向けながら、何物も見逃《みのが》さないぞというふうにわたしを探す。二人で手分けして、緑色の稲をかきわけて探す。
それでもなかなかわたしを見つけることはできなかった。わたしのすぐ側を通りすぎることは何度かあったが、気づいた様子は微塵《みじん》もない。
そんな時、焦りを帯びた叫び声が健くんの耳に届いた。
「おにいちゃん! たんぼに水が流れ始めてる!」
その足元は水に濡れ、柔らかくなった泥に半分埋まっていた。わたしが居る所の土はまだ乾いたままだったが、水は確実にたんぼに広がっていった。
「弥生、早く五月ちゃんを探し出すんだ! 地面がどろどろになっちゃったら、歩きにくいからもっと探しにくくなっちゃうぞ」
暗闇《くらやみ》に満ちた夜。そして夏の強い太陽を受けて、子供一人を隠すには十分に伸びた濃い緑色の稲。その稲は弥生ちゃんの周りを覆《おお》い隠し、まるで弥生ちゃんを逃がさないように囲んでいるかのようだった。
そんな圧迫感と、靴からじわじわと染《し》み込んでくる水の感触に、弥生ちゃんは足元から這《は》い上がってくる恐怖を感じていた。
「おにいちゃん!」
震える、まるで泣き声のような声をあげて、弥生ちゃんは健くんのほうに走った。健くんに抱きついて震えを止めるために。
その間、わたしの冷たい背中に水が染み渡る。どうやらたんぼに入ってきた水が、わたしのところにまで広がってきたらしい。もう数分もたてば、わたしは半分泥に埋まってしまうだろう。
猛獣に追われているかのように走る弥生ちゃん。その心の底では、自分を追ってくる、さもなければ常に自分を非難している猛獣の姿が、たしかに見えているようだ。
健くんはそんな弥生ちゃんのほうに懐中電灯の光を向けて、困ったように頭を掻《か》いた。
走ってくる弥生ちゃんが丸い光の中に浮かび上がる。しかし、その姿が急に稲の中に消えた。
「弥生!?」
健くんは焦ったように叫ぶ。そして弥生ちゃんに向かって走る。
そこでは弥生ちゃんが、一緒に稲をも押し倒して倒れている。そして泣いていた。つまずいて転んだ拍子に、恐怖の糸が切れてしまったらしい。健くんが近づくと、必死にしがみつき、嗚咽《おえつ》を漏《も》らした。
「大丈夫だぞ弥生。それによくやった」
健くんは弥生ちゃんを慰《なぐさ》め、そして褒《ほ》めた。弥生ちゃんを蹴躓《けつまず》かせ、転ばせたわたしのほうを指さして。
弥生ちゃんにおもいきり蹴《け》られて、わたしの体は少し曲がってしまった。それでもわたしは文句を言わず、わたしをのり巻きのようにくるんだ茣蓙《ござ》の両端から爪先《つままき》と髪の毛を覗《のぞ》かせている。
「そら、弥生、五月ちゃんをお宮まで遊ぶぞ。たんぼに水が入っちゃったらみんなは水田の様子に敏感になるんだ。このまま五月ちゃんをここに置いとくわけにはいかないだろ」
そしてわたしを持ち上げた。弥生ちゃんも加勢をするように、涙を拭《ぬぐ》って足のほうを持ち上げる。
持ち上げられた拍子に、わたしの背中から水滴が滴《したた》った。たんぼの水はすでにいっぱいに広がっていて、わたしの体重もかかっている二人の足が泥の中に沈み込む。
そして砂利道のほうへと歩みを進めた。水を深く吸い込んだ泥は、まるでその足を掴《つか》まえて逃がさない手のように絡《から》みつく。
それでもたんぼが完全に水の中に沈み込み、水田という名にふさわしいほどに満々と水を湛《たた》えた時、わたしを担いだ二人はたんぼから脱出できた。転びそうになったためか、その時二人の体は泥だらけになっていて、まるで畑仕事の後のようにぼろぼろだった。
それでも二人は歩みを止めず、ついにお宮を囲む塀《へい》までやってきた。入り口から石垣まではかなり距離があるので、石垣に近い辺りのブロック塀を乗り越えることにしていたのだ。
ここまで来たら、お宮の中の花火の音がはっきりと耳に聞こえてくる。鮮やかに色のついた花火の煙も見えて、見物人の話し声までもが聞こえてきた。しかし、そんな話し声も、弥生ちゃんの不安を高めるだけだった。人が多ければ見つかってしまう危険が多いのだから。
「ここを越えればお宮の境内《けいだい》だぞ弥生。そうしたら五月ちゃんを担いで石垣まで走るからな。花火を見に来てる人たちに見られないように注意するんだぞ」
健くんの念を押すような忠告に、弥生ちゃんは真剣なまなざしで不安そうに頷く。
健くんはそれを見てブロック塀に向き直った。高さは健くんの頭の上くらい。弥生ちゃんの背の高さだと、手を伸ばしても届かない高さだ。
「じゃあ、まず最初におにいちゃんが弥生を押し上げるから、弥生は先にお宮の中に入るんだぞ。そしたら次に五月ちゃんを投げ込んで、最後におにいちゃんだ」
弥生ちゃんに言い聞かせるように健くんが言った。弥生ちゃんが一人で壁を越えられないと判断してのことだったのだろう。弥生ちゃんはやはり神妙に頷きを返す。
「ようし、速攻だからな。ここで人に見つからないようにするのが一番難しいんだ。塀の上から飛び下りる時に足を挫《くじ》かないようにするんだぞ」
そう言って弥生ちゃんを持ち上げた。ブロック塀の上にのせてやる。
そのころ花火大会は中盤にさしかかり、手に持って火をつける普通の花火よりも値段の高い仕掛け花火や、打ち上げ花火などが、子供たちの手によって花を咲かせていた。やしろにお参りに来る人たちのことも子供たちが接待しなければならないし、そんな親についてきた小さな子には何本かの花火を渡さなくてはならない。それは村の風習なのだ。やしろに祭られている神様を敬《うやま》う気持ちを、人々の心からなくさないようにするためだ。
ブロック塀の上にのせられた弥生ちゃんは、そのまま向こう側へ飛び下りた。お宮の敷地の中に入り込んだ弥生ちゃんの鼻に花火の強烈な火薬の臭いがつんとくる。
しかし、それは些細《ささい》な衝撃でしかなかった。
いま弥生ちゃんが飛び下りた場所、そこから数歩も行かない所に多くの人間がいた。人垣ができているのだ。人垣の目は向こう側、お宮の中央に花を開かせている花火へと向けられているが、いつ振り返らないともかぎらない。その拍子にわたしの死体を見られでもしたら大変だ。
弥生ちゃんは背中を這い上ってくる冷たい恐怖と戦いながら、がたがたと震える足を押さえて、塀の向こう側に居るはずの健くんにその事を伝えようとした。来ては駄目だ。人がいるんだ。五月ちゃんを投げ込んでは駄目だ。そう叫ぼうとした。
しかし、震えて口から紡《つむ》ぎ出されるはずのその言葉は、空から落ちてくるわたしの姿を見たためか、声となって出ることはなかった。
弥生ちゃんの背中のほうから色鮮やかな光の洪水が流れてくる。花火を見ている見物人の隙間《すきま》から零《こぼ》れ落ちてくる桃や緑の光に照らされて、茣蓙にくるまれたわたしの死体はどすんと地面に叩きつけられた。
「おにいちゃん……!」
かすれた小さなその声は、見物人にも健くんにも聞こえない。
わたしが地面に叩きつけられた音は、もしかすると人垣にも伝わってしまったかもしれない。弥生ちゃんは絶望と恐怖に彩《いろど》られた顔に涙を溜《た》めて、塀を飛び下りようとしている健くんを見上げた。
健くんは塀の上から見物人の壁を見下ろしてかすかに眉を歪《ゆが》ませた。そしてわたしの隣に着地する。
「弥生、泣くんじゃない……」
そう言って弥生ちゃんを慰め、見物人たちがこちらに気づく前に石垣へ向かおうと健くんが考えた時だった。やはりわたしがたてた音は見物人に聞こえていたのだ。
「あら、健くんに弥生ちゃんじゃないの……」
人垣の中の一人が声をかけて振り返る。弥生ちゃんは身を強張らせて健くんの腕にしがみつく。
花火の光の中で黒い影となり、その人の顔はよくわからなかったが、その声を二人は知っていた。目をこらしてみるとその人の表情は暗く悲しみに縁取《ふちど》られている。
「おばさん……」
健くんはわたしのお母さんに声をかけた。その声には哀れみや労《いたわ》りの響きがあった。しかしそれが演技であることをわたしは知っている。まだ健くんはわたしを隠し通すことを諦《あきら》めてはいないのだ。
「おばさん……五月ちゃんは? 花火大会には来てないの? まだ見つかってないの?」
わたしのお母さんは頭を横に振った。沈痛に、今にも崩れ落ちそうに。ただ一人の子供であるわたしの行方もわからず、思い出だけを胸に、記憶の中のわたしの笑顔を見にこの花火大会にやって来たのだ。
毎年、夏のこの夜に、わたしはお母さんにつれられてやって来た。そして健くんや弥生ちゃんと一緒に花火を見たり、花火をしたり、眩しすぎて今のわたしには耐《た》えられないような思い出をつくっていた。
そして今年も、こうして三人でやって来たのだった。
「そう……、見つかるといいね、五月ちゃん……」
健くんが言葉を選ぶ。わたしが行方不明であることは、まだテレビで報道されていない。どこを探してもわたしが見つからないので、やっと警察は誘拐事件とのつながりを調べ始めたところなのだ。おそらく明日あたり、テレビ局の人がこの村に溢《あふ》れるほどつめかけてくるのだろう。
「……健くん、ありがとう……。おばちゃんね、花火を見ているとなんだか五月のことを思い出しちゃうの。そしてすぐ側に五月がいるような気がしてくるの……」
弥生ちゃんの手に力がこもり、健くんの腕を強く締《し》める。弥生ちゃんは震えていた。すぐ後ろにわたしが寝転がっているのだ。花火で薄くなったとはいえ、闇が周りを覆っているからだろうか、お母さんはまだわたしに気づいていない。だが、いつ気づかれてしまうのか、弥生ちゃんは気が変になりそうなほど緊張していた。
お母さんがずっと探しているわたしは、ほんの足元に転がっているのだ。
「おばさん、五月ちゃんはきっと見つかるよ。だから元気を出しなよ」
健くんはそう言って、にっこり微笑んだ。わたしのお母さんの不安を取り除くかのように、まるで明日にでもわたしがひょっこりと帰ってくるのではないかとさえ思わせる笑顔で。
そんな健くんを見て、お母さんは、声をたてず、ただ涙を目の端から零して泣いた。周りの人垣には、そんなわたしたちに気づいているような雰囲気はなかった。お宮の中央で花開く花火に感嘆の溜め息をつき、どよめきをあげていた。
「ありがとう……、ありがとうね健くん……」
色のついた光を浴びながら、お母さんは健くんにありがとうを繰り返す。瞳には感謝の気持ちを溢れさせながら。
弥生ちゃんも泣きそうだった。わたしと遊んだ日々や一緒に見た花火を思い出しているのだろうか。自分の罪の大きさを知ったのだろうか。
そんな二人に挟まれても、健くんはわたしを石垣まで運ぶ隙を窺《うかが》っていた。
「おばさん、泣いちゃだめだって。泣いても五月ちゃんは帰ってこないよ。
ほら、見なよ、もうすぐ豪華な花火に火がつくから」
花火のほうを指さして健くんが言った。そこでは、上級生の男子が大きな筒を地面に置いている。それはお店で買った数百円の打ち上げ花火だった。かなりいい値段の花火だ。たいそう綺麗な花が開くのだろうと、見物人たちは注目してそれを待っている。
「本当ね……、おばちゃんが泣いてちゃ駄目だったね……」
わたしのお母さんもそちらを見る。
村の男の子が、その簡に恐るおそる火をつけようとしているところだ。
その瞬間。お母さんの視線がそちらに向いた瞬間を健くんは見逃さなかった。
弥生ちゃんの手を振りほどき、地面に横たわっていたわたしの頭を持ち上げた。そして弥生ちゃんに足のほうを持ち上げるよう小声で指示する。ちょうどお母さんからは、茣蓙の両端から覗くわたしの髪の毛や爪先が二人に隠れて見えない格好だ。
「おばさん、じゃあ僕たちは行きますから」
健くんはわたしのお母さんにそう言った。黙って立ち去ってしまったら不自然だ。弥生ちゃんはわたしの爪先を必死に隠している。
「……うん、健くん、本当にありがとう……。ところであなたたちが持っているそれは何なのかしら?」
お母さんは振り返って二人を見た。健くんや弥生ちゃんが得体《えたい》の知れない茣蓙の筒をかかえているのを見て、ちょっとだけ驚く。両端が隠されているので、お母さんには、胴体を覆っている部分だけしか見えていない。茣蓙越しにそれをわたしと判断するのは無理らしい。
「花火です。僕たち、これを運んでこいって上級生から言われているんです」
健くんがついた嘘《うそ》に納得したのか、それともあまり興味がないのか、お母さんはそれ以上なにも訊かなかった。
「それじゃあ、さようならおばさん。負けないでね。
弥生、行くぞ」
そして二人は石垣のほうへと歩きかけた。茣蓙からはみ出ているわたしの頭の頂点と爪先を隠しながら慎重に。弥生ちゃんは体を恐ろしく強張らせている。
しかし緊張に負けたのか、弥生ちゃんは担いでいたわたしを落っことしてしまった。
足のほうだけが地面に落ちて、茣蓙の中からさらにわたしが出てくる。爪先から足首までが露《あらわ》になり、夜の外気がわたしの足元から這い上る。
弥生ちゃんはそれを見て小さな悲鳴をあげ、健くんも同時に振り向いた。
「弥生、早く隠せ」
まだ見られたと決まったわけじゃない。そう健くんが言うより早く、弥生ちゃんはわたしを隠していた。その顔は半分泣いていた。
健くんはわたしのお母さんのほうを窺う。同時にお母さんが二人に声をかけた。
「……ねえ、健くん」
見られた!? わたしのお母さんが紡ぎ出す言葉を、二人は体を固くして聞いていた。まるで死刑の宣告を受ける罪人の顔で。
「……あのね、健くん。五月はあなたのことが好きだったのよ。知ってた?」
弥生ちゃんの顔が急に明るくなる。気づかれていないのだ。見られていなかったのだ。
「……ええ、知ってましたよ」
表情を幾分《いくぶん》やわらげて、健くんはわたしのお母さんに答えて返す。
それを聞いたお母さんは、またちょっとだけ泣いて二人に別れを告げた。
健くんと弥生ちゃんはさらに慎重にわたしを隠しながら石垣へと向かった。
後は石垣にわたしを持ち上げて穴に投げ込んでしまえば、健くんはこのゲームに勝つことができるのだ。終りは目前だった。
花火大会はそろそろクライマックスなのだろうか、打ち上げられる花火に豪華なものが多くなってきた。子供たちは買ってきた花火を出し惜しみして、豪華なものを最後のほうまでとっておく癖《くせ》があるのだ。
噴水のような花火が筒の口から光の粒をはき出している。それは金色に銀色に輝き、お宮を、石垣や木のやしろを幻想的に照らしだす。その光景はまるで夢のように人々の瞳に焼きつき、長い人生の思い出となっていつまでも残るのだろう。時が流れるにつれて輝きを増し、そして色鮮やかにいつまでも……。
健くんと弥生ちゃんはやっと石垣の側までやって来た。わたしのお母さんに呼びとめられなければもっと早く着くはずだった。
すぐ側で見上げる石垣は、天の星に届くかのように高くそそり立ち、たしかにわたしを担いで上ろうとするのは無理のようだ。
ここは見物人から見えにくく、闇に覆われているとはいえ、誰かが通りかかって二人を見とがめないともかぎらない。
「おにいちゃん、これからどうするの?」
二人はわたしを地面に下ろした。そして弥生ちゃんが不安そうに震える声で訊く。
「いいかい、弥生。五月ちゃんをこの上に持ち上げるんだ。今から手順を話すからよく聞くんだぞ」
弥生ちゃんは頷く。それを確認してから、健くんは作戦を簡単に話した。
背中のリュックから、昼間のうちに繋ぎ合わせておいた紐が取り出される。何本もの紐が固く結ばれて、一本の長い紐になっていた。健くんはそれを、茣蓙を縛っている紐に引っかけ、二つ折りになった紐の端を持ったまま石垣を上るつもりなのだ。そして上に辿《たど》り着《つ》いてから、まだ地面と別れを告げていないわたしを引っ張り上げる。それだけの長さを紐はもっていた。
だからあんなにたくさんの紐を結ばせられたのか。弥生ちゃんは少しだけ納得したようだった。
「いいな、これから僕は上に上るけど、弥生は下で誰か来ないか見張ってるんだぞ」
そう言って健くんは石垣の隙間に足を引っかけた。背中にリュックサックをしょって、手には紐を掴んだまま器用に上っていく。村の男子なら誰もができることだった。なぜならその上が男の子たちみんなの秘密基地なのだから。
頭より少し大きい程度の大きさの石が、お宮の倉庫の屋根と同じ高さまで積み上げられている。古く、ところどころ苔《こけ》がはえているその石の壁を上る健くん。それを見上げる弥生ちゃん。上にばかり気をとられていたので、すぐ近くに生えている木の根につまずいて転びそうになる。そして健くんに言われたことを思い出し、人が来ないか見張る。
石垣の裏側までは花火の明りがやってこず、幽霊が出そうなほど陰気に湿っていた。
やがて健くんは石垣の上に辿り着く。夜のそこは荒涼《こうりょう》としていて、石の冷たさが健くんに伝わる。そこからお宮が一望でき、見える花火はひたすらに美しかった。
健くんは手に持っている紐を引っ張って、わたしがちゃんとぶらさがるようになっているのを確認した。そして背中のリュックを下ろして、中から二つの道具を取り出した。
ゲートボールにつかうコの字形の鉄のゲートと、倉庫の扉につかう新品の滑車だった。滑車の上部には、扉に取りつけて固定するために穴がある。そこにゲートの足が片方差し込まれた。そして、もう一方の足を石垣の上にはりだした太い木の枝に引っかける。ゲートも滑車も、今朝、カミナリじいさんたちにさよならを言うとみせて、倉庫から持ち出しておいたものだった。
そして滑車にあの長い紐を通した。後は健くんがその紐にぶらさがり、そのまま下に飛び下りれば、健くんが落ちてくるのと入れ違いに、健くんの体重に引っ張られたわたしが上に上っていくはずだ。
石垣から飛び下り、わたしを上で回収して穴に落っことす。後はそれだけだった。
下にいる弥生ちゃんは、わたしのお母さんのほうばかりに気をとられていた。わたしのお母さんが近づいてくることを、そして全ての罪がばれてしまうことを恐れていたのだ。
健くんが上で作業をし終えて飛び下りようとした時、その声は弥生ちゃんの後ろからかかった。
「おや、橘さんとこの子供さんじゃないかね。こんな所で何をしているのかな?」
びくんと弥生ちゃんは後ろを振り返った。健くんにもその声は届いている。
そこに立っていたのは、カミナリじいさんと小林のおじいさんだった。不思議そうに健くんを見上げている。もし下のほうに目が向いていたら、茣蓙にくるまれたわたしが目に入っていただろう。
「……こんばんは」
石垣の上からあいさつする。健くんは紐を手に持ち、今にも飛び下りようとしている。それはなんとも滑稽《こっけい》な姿だった。
しかしお年寄りたちはそのまま歩みを止めない。ここで知り合いに会うのはそんなに珍しいことではなかったし、特になんの会話もないらしい。弥生ちゃんは心の奥で何事もおこらないことを祈り続ける。
「健くん、石垣に上るのはいいが気をつけなさいよ。たしか今年に入ってから誰か怪我《けが》をした子供がいるそうじゃないか」
そんなことを言いながら、二人は弥生ちゃんの横を通り過ぎようとしていた。どうやら、この石垣の裏を通って人垣のほうに出ようとしているらしい。
弥生ちゃんは心の中で歓声をあげた。その時。
「うわっ……とと。なんじゃあ?」
小林のおじいさんがわたしにつまずいてふらつく。弥生ちゃんの体は凍《こお》りつき、声にならない悲鳴が漏れる。
健くんも上からそれを眺めていた。
「なんじゃあ、いったい。こんな所に……」
そう言いながらおじいさんは自分を転ばせようとしたわたしを睨《にら》む。石垣の裏側に届く光は少ない。その地面に転がるわたしは半分影に沈み込み、おじいさんにはどうやらよく見えないらしい。しかし見つかるのは時間の問題だった。
弥生ちゃんは逃げ出したかった。しかし健くんと離れてどこに逃げればよいのか、健くん以外のどこに逃げればよいのかわからない。
小林のおじいさんは手探りでわたしを確認しようとした。
「……ん? 茣蓙か……?」
もう少し目をこらせば茣蓙の両端から覗くわたしの体の一部が見えていただろう。
弥生ちゃんは震えが止まらず、泣き崩れそうになっている。
その時、健くんが上から声をかけた。
「ほら、おじいさん急がないと。みんなの作った花火の滝に火がつきそうですよ!」
「え!? 田中さん、早く行きましょう。子供たちの苦心の仕掛けですよ」
健くんの言葉に、わたしに手を伸ばしていた小林のおじいさんが素早く反応し、手を引っ込めてカミナリじいさんと一緒に花火のほうを窺った。
その瞬間を健くんは見逃さない。
二人の視線が逸《そ》れた瞬間、健くんは石垣の上から飛び下りた。その手にあの繋ぎ合わせた紐を持って、健くんが落ちてくる。その体重に引っ張られて、わたしはたいした音もたてずに引っ張り上げられた。紐は貧弱そうでいつ切れるとも知れない。木の枝へ不安定に引っかけただけのゲートは、子供二人分の体重をかけられ、今にも外れて落ちそうだった。
そんな状態の中でわたしは引っ張り上げられる。紐の結び目が滑車にかかるたびにがくんと揺れ、その振動で枝は夏の木の葉をはらりと落とした。
「じゃあ、わしらは花火を見に行くからな。健くんは怪我せんようにな」
そう言いながらお年寄りたちが再びこちらを向いた時、すでに健くんは下に下り立っていた。その手には紐が握られたまま。今度はわたしが落ちてこないように下から引っ張っているのだった。
「健くんはいつの間に下りてきたんじゃ? おや、ここいらにあった茣蓙の塊《かたまり》がないのう。誰かが引っかかって転んだら大変じゃからどけとこうと思っとったのに……」
おじいさんは首を捻《ひね》った。弥生ちゃんは息もできない思いでそれらのやりとりを聞いている。
「あとでよく探して、僕が片づけときますよおじいさん」
健くんのそんな言葉がわたしには悪い冗談に聞こえる。たしか緑さんに見つかりそうになった時もそんな冗談を言ったことを思い出し、わたしの死体は笑い出しそうになった。まるで作り笑いに見えない顔で健くんが言った。その顔におじいさんも騙されたようだ。
「うむ、よろしくたのんだぞ」
そう言って向こうに行こうとした時だった。
茣蓙の上からわたしを縛っている紐が軋《きし》みをあげた。九歳のわたしの体重は軽いはずなのに、それでも紐は悲鳴をあげているのだ。
そして、かつて電気につけ足されていた紐が静かに切れた。
わたしは宙を舞い、どすんと音をたてて落ちる。茣蓙がはらりと半分開く。
「なんじゃあ……?」
おじいさんは不思議そうな顔をして見上げて言った。
わたしは石垣の上に落ちたのだった。もう少しずれていれば数メートル下の地面に落ちて、わたしの死体が見られることになっていただろう。
「……なんでもありませんって。それより早く行かないと花火の滝を見逃してしまいますよ」
握っていた紐からわたしの体重が消えたことで、健くんは起こった出来事を知った。それでも顔色を変えていない。弥生ちゃんは神様に感謝し胸を撫《な》で下ろした。
「そうじゃな。田中さん、行きましょうや」
そして石垣の表に向かった。
お年寄り二人が遠ざかるのを確認して、弥生ちゃんが安堵《あんど》の息を漏らす。まさに間一髪だった。
「危なかったね、おにいちゃん!」
「ああ、そうだな」
難が去っていつもの朗《ほが》らかな表情になった弥生ちゃんを見て、健くんも嬉しそうに言葉を返す。
もう終りだ。石垣の上には誰もいないはずだ。弥生ちゃんはそう考えると自然に顔に笑みが広がった。びくびくして過ごした日々にさようならを告げることができるのだ。わたしとの輝かしい思い出だけを残して、わたしと別れることができるのだと弥生ちゃんは心を躍《おど》らせる。
「さあ、上に上ろう。後は五月ちゃんを穴に投げ込むだけだ。弥生も来るかい、五月ちゃんに別れを言いに?」
健くんの明るい言葉に、弥生ちゃんは元気よく首を縦に振った。
そして石垣の上に上る。初めて木登りをした時のように健くんに指示してもらいながら、弥生ちゃんは上っていく。
弥生ちゃんは初めて石垣の上に立った。健くんもその隣に立つ。
ここから見る花火は美しく輝きをまし、ちょうど今、例の花火の滝に火がついたところだった。
紐に連なってぶら下がった花火に一斉に火がつき、赤や青、桃や緑の万色の輝く光をはき出した。それはまるで光の洪水のように、光の水が滝になって零れ落ちているかのように瞳に残る。それは子供が作ったにしては上出来だった。おそらく、今日の花火大会を見物にやってきた人たちは、この眩惑《げんわく》させられる光景を忘れることはないだろう。
「……なぜ、ここにいるんですか……」
悔《くや》しそうに、悲しそうに健くんが呟く。他の誰によりも見られたくなかった……。そう表情が叫んでいた。健くんには珍しい感情の高い波だ。
「遅れないでねって、そう言ったでしょう?
わたしはずっと待ってたのよ、あなたたちにわたしの浴衣姿を見せるためにね」
うちわで扇《あお》ぎながら緑さんはくすりと笑った。
石垣の上。その縁《ふち》に、茣蓙にくるまれたままのわたしを腕に抱いて、緑さんが座って花火を見ている。その唇《くちびる》には赤い口紅が塗られ、夏の夜の闇の中で赤々と映《は》えている。
滝のような仕掛け花火は半分ぐらいになっていたが、その光に照らされて、緑さんはまるでこの世の者ではないかのように美しく、なまめかしく、微笑んでいた。
呆然《ぼうぜん》と、ただ驚愕《きょうがく》に目を見開いて、健くんと弥生ちゃんはそんな緑さんを見ていた。
「一度ここから花火を見てみたいって思ってたんだ。もっと小さい、子供のころから……」
「緑さん、それをこっちに渡して……」
健くんが痛みに身を切り裂かれるような声音《こわね》で、言葉を紡ぐ。
そんな健くんをちらりと見て、そしてまた花火のほうに視線を戻して、
「知ってるわよ。あなたたちは五月ちゃんをそこの穴に捨てようと考えてたんでしょう?」
緑さんは健くんと弥生ちゃんに言い放った。
そして夏の夜を彩る光の流れを眺める。まるで自分の子供時代を思い出しているかのように、眩しそうに目を細めていた。
死んだわたしが知るかぎり、緑さんは子供時代にけっこう辛《つら》い思いをしてきたようだ。お父さんがいなくなったり、お母さんに苛《いじ》められたり。緑さんの笑顔は、それらの辛く苦しいことを乗り越えて受け入れた、悲しいものだったのかもしれない。
そして健くんの言葉に従わず、緑さんは腕に抱いている茣蓙の包みを拡《ひろ》げようとした。縛っていた紐がついさっき切れてしまったので、半分ほど開いていたが、もう半分を開いてわたしの顔を確かめようとする。
「だめだ! 緑さんはそれを開けちゃだめなんだ!」
健くんは叫んだ。弥生ちゃんはそんな健くんを見て、ついに大声で泣き出した。
しかし緑さんの手は茣蓙を優しく拡げた。まるで死んでいるわたしを労るように、わたしの死体に花火を見せてあげるというように。
はらりと拡げられた茣蓙の中から、わたしは緑さんを見上げるような格好で顔を出した。
すでに傷《いた》み始め、色が醜《みにく》く変色し始めているわたしの顔を緑さんは覗き込む。死んだ時から見開いたままのわたしの瞳が、夏の夜に浮かんだ星と月をとらえていた。
緑さんはそんなわたしの瞼《まぶた》をやさしく閉じた。そして「おつかれさま」と、いつか健くんに言った台詞《せりふ》をわたしにも呟いてくれる。
そんなわたしたちを夜に浮かび上がらせていた花火の滝も終りに近づく。そして、唐突に、まるで人の生《い》き様《ざま》のひとつのように、まるではかなく激しい人生の終りのように最後の光の花びらを散らした。
そうして光の洪水は消え、人々の心の中にだけその残《のこ》り香《が》をとどめる。
それを待っていたかのように、夏の夜の闇がわたしたちの上に翼を拡げた。
星明りの闇の中、がらがらと崩壊《ほうかい》の音が遠くから聞こえている健くんと弥生ちゃんの耳に、くすくすと可愛《かわい》らしい緑さんの笑い声がやさしくしのびこんできた……。
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かごめかごめ
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たんぼの稲が黄色に染まり、大きな実《みの》りに頭《こうべ》を垂れたころ、お宮の石垣は取り壊されようとしていた。
石垣の周《まわ》りで今、ブルドーザーや作業服を着た大人たちが工事を進めている。
「おい、こっちに来てみろよ。おもしろいもんがあるぜ」
作業している一人が言った。男が指さしたその先には、半分取り壊されて、切り分けられたケーキのように中の壁をさらけ出した石垣がある。その一部分だけが縦《たて》に、まるで井戸のように空洞になっていたのだ。
「なんだいこりゃあ……。まるで、でっかいごみ溜《た》めじゃないか……」
また別の男が口をはさむ。その男の言う通り、そこには大人の背の高さのあたりにまでごみが詰まっていた。まるでそれが石垣の歴史だとでもいうようにごみが蓄積され、凝《こ》り固《かた》まっているのだ。
それでも、上のほうにあるごみは比較的|腐《くさ》っていない。ビニール製のお菓子の袋だからだろうか。
「おい、メンコやベーゴマまであるぜ。もったいねえ……」
それらは誰かが誤って落としたのだろうか、それとも子供時代の自分に別れをつげるために自分で捨てたのだろうか。袋にまとめられていた。
さらにその下のほうは紙が腐ったものが多い。なにやら筆で書かれたものや、変色して黄色くなった紙などが、雨水で原形をとどめないほどに崩れてかたまっている。あたかも子供たちの捨てた思いが押し込まれ、大人になって死んでいくまでの長い時間をかけてひとつに凝縮《ぎょうしゅく》されたかのように。
そして、男の一人がその中に変なものを見つけた。
「おい、見ろよ……」
それは髪の毛に見える。長さから想像すると、まるで女の子が穴に捨てられているかのようだった。
見つけた男は、恐るおそるその髪の毛を引っ張る。
髪の毛はずるりとごみの中から抜け出し、その下にある子供くらいの大きさの腐りかけた顔や体も、男たちの目の前に滑り落ちてきた。
「ひいっ……」
その異様な姿に男の一人が臆病《おくびょう》な声を吐き出してその場にへたりこむ。そんな男をもう一人が笑いとばした。
「おいおい、本物ならともかくなあ……」
そこに現れたのは日本人形だった。捨てられる前はさぞかし美しく、綺麗《きれい》だったであろう。良い時間の流れに腐れ崩れてはいるものの、それでもそれが女の子の人形だということが見てとれる。
秋ののどかな出来事に、わたしの棺桶《かんおけ》となるはずだったその場所の前で、二人の作業員を明るい笑いが包み込んだ。
「ね、わたしの言うことをきいてよかったでしょう。そう思わない健くん?」
取り壊しの作業を見ながら、健くんを挟んで弥生ちゃんと緑さんが、やしろの木の階段に並んで座っている。まるでわたしが生きていた頃、木の上の秘密基地に三人で座っていた時のような光景だ。
夏の強い陽射《ひざ》しを防いでいた木の葉も、黄色にその衣の色を変えて、はらりと落ちる。三人の前に延びているお宮の石畳はすでに焦《こ》げ茶《ちゃ》や黄色の点描《てんびょう》風景に彩《いろど》られていた。
「そうだね。緑さんの言うことをきいてなければ、今頃大騒ぎだったかもね」
その言葉を聞いた緑さんは嬉《うれ》しそうに表情をほころばせた。
「でしょう、十九歳の情報収集力をなめちゃいけないわよ。だいたい、あの石垣を取り壊して村の公民館を作るっていう話はけっこう前からあったんだ。でもせっかく戦災で焼け残ったやしろの跡なんだからっていうことで壊されなかったんだけど、今年、子供が落ちて騒ぎになったでしょう。それで急に取り壊しが決まっちゃったのよ。
大人って勝手な生き物よね。自分たちが遊んだ大切な場所を壊しておきながら、『現代っ子は外で遊ばなくなった』だもんね」
そう言って隣の健くんを見下ろした。もう五、六年も経《た》てば自分と同じぐらいの背に成長することだろう。そんなことを考えながら、緑さんは健くんを愛《いと》しそうに見つめた。
「本当に助かったよ緑さん。見つかった時はどうしようかと思っちゃった。まさか五月ちゃんの処理までしてくれるとは考えなかったなあ」
心底|感嘆《かんたん》の声で言う健くん。その瞳は尊敬のまなざしだ。
そんな瞳を受け止めながら、緑さんはいい気分になった。
「まかせなさい。秘密の死体の処理にはけっこう慣れてるのよ。
君を警察にも誰にも渡したりしないからね、安心してちょうだい」
そして紅《あか》い唇《くちびる》で笑みの形を作り、緑さんは健くんの頬《ほお》を優しく指でなぞった。紅いマニキュアの塗られた爪《つめ》が、いやらしく健くんの頬を滑ってゆく。
そして次の言葉を誘うように健くんの瞳を覗《のぞ》きこんだ。
「尊敬した」
健くんはそんな言葉を元気に放った。
緑さんは感激したように、嬉しそうにその体を抱き寄せた。そして健くんの息が詰まるほどに自分の胸に顔を埋めさせる。
体の奥が熱くなっていくのが緑さんにもわかった。そして考える。
――これでわたしの悪い癖とも別れることができるかな……。
そんな二人の会話を弥生ちゃんはじっと目を閉じて聞いていた。とうとう弥生ちゃんはわたしを殺したことを言わずじまいだ。わたしが木から落ちて死んだと嘘《うそ》をついていれば弥生ちゃんは罪に問われなかったかもしれない。そんな嘘すら親たちに言えなかったのは、弥生ちゃんの場合、負《お》い目《め》があって怖《こわ》かったからだ。自分が殺してしまったことがばれるのではないかと考えていたのだ。
お宮の境内《けいだい》に秋の風が吹き抜ける。もう冬なのだろうか、その風は少し冷たく感じる。風は秋色の木の葉を舞い散らせ、階段に座った三人の上にも降らせた。
健くんの髪の毛に引っかかった枯れ葉を取ってやりながら、緑さんは優しく天使のように微笑《ほほえ》んだ。今まで自分のしてきた罪深き行ないを思い出しながら、自分の心の奥底に眠る小悪魔にそっくりの男の子を体に感じながら。
あの穴は昔の人の手抜き工事だったのだろうか。戦前はその上に立派なやしろが建っていた石垣はあらかたその姿を取り壊され、今、ひとつの時代が流れ過ぎようとしていた。
石垣と共に眠っていたであろう、それぞれの時代の子供たちの思い出は秋の風に包まれて、まるで夏のはかない夢物語だったかのように消えてゆく。
そんな光景を、まだわたしのサンダルを隠したままの木の階段の上、やしろに祭られた神様の前に座って眺めながら、三人の罪深い人間は静かに微笑んでいた。
自分たちにやって来るはずの未来に、自分たちから去っていった子供の日々に……。
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わたしは緑さんに連れられて、この寒い所にやって来ました。
ここはアイスクリーム工場の冷凍設備つきの倉庫。誰もやってこないようなその奥底にわたしは連れてこられたのです。
事実、ここに足を運んでくる人間は緑さん以外にいません。
一年中冬の、季節という時間の流れのないその場所。生命のある者は一日もいれば凍死してしまうでしょう。
でもわたしはちっとも寂《さび》しくなんかありません。
なぜなら、ここに来てお友だちがたくさんできたのだから。
みんな男の子で、どこかしら健くんに顔が似ています。そしてわたしと一緒に『かごめかごめ』をして遊んでくれます。
みんな青白い顔をしているけれど、わたしはそれでもみんなと楽しく遊んでいます。
わたしと、その誘拐《ゆうかい》されてここに連れられてきたお友だちの歌う『かごめかごめ』の歌は、工場の倉庫に荒涼《こうりょう》と、寂しく響いてゆくのでありました。
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優  子
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その日、家の門に辿《たど》り着《つ》いた政義《まさよし》の見たものは優子《ゆうこ》の炎に包まれた姿でした。政義は叫び声をあげながら優子に駆け寄って炎を消しましたが、すでに何もかもが遅かったのです。
政義は泣き続けました。すまない。すまない。胸には優子を失った悲しみよりも先に謝罪の念でいっぱいでした。
昔、母から聞いた話を政義は思い出していたのです。
何代も前に鳥越《とりごえ》家へやって来た女とその子供のこと。
子供の手に握られていたという花のこと。
政義は優子を抱《だ》き締《し》めたまま空を仰《あお》ぎ見ましたが、そこに月の姿はありませんでした。
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一、清  音
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それは、あの大きな戦争が終わって、まだ間もない頃《ころ》だった。
清音《きよね》が鳥越家に住込みで働くようになって二週間がたち、そろそろ家の間取りや仕事の内容が清音の体になじみ始めようとしていた。働くのは生まれて初めてのことだったが、特に辛《つら》いとか苦しいとは思わなかった。清音はむしろ自分のような者に働ける場所を提供してくれたこの家の主人に感謝さえしていた。
今晩は何を作ろう。旦那《だんな》様はいったい何の料理が好きなのだろう。鳥越家の広い庭の片隅にある古い門の辺《あた》りで清音は考えていた。門の側にはひっそりとあじさいや黒い実をつけた植物が生《は》えていた。
その日は梅雨《つゆ》で、今にも雨が降りそうな曇り空だった。清音があじさいに見とれてそこに立っていると門の向こうから、からん、からん、という耳に気持ち良く残るような下駄《げた》の音が聞こえてきた。門の向こうに細く、半《なか》ば竹藪《たけやぶ》に押《お》し潰《つぶ》されそうに続いている石畳の道を見てみると家の主人がこちらに歩いてくるのが見えた。からん、からん、という音を遠くこちらまで響かせて彼はやわらかい瞳《ひとみ》で清音を見ていた。
「おかえりなさいませ旦那様」
家の主人が門の側《そば》までやって来た時、清音は丁寧《ていねい》に頭を下げてそう言った。
「ただいま帰りました清音さん」
家の主人は清音の横に来ると足を止め、頭を下げた清音の後ろに咲いているあじさいに目をとめた。
「あじさいが咲きましたね。もうそんな季節なのですね」
家の主人は和服の左右の袖《そで》に両手をそれぞれ入れて微笑《ほほえ》んだ。すると清音は彼の若い顔に一瞬|釘付《くぎづ》けになるのだった。
まるで女の人みたいだ。家の主人の顔を見るたびに清音はそう思った。もっと髪を長くして唇《くちびる》に紅《べに》をひけば、この人は日本人形のように魅力的だろう。
主人の名は政義《まさよし》。物音きをやっていて、その細くて白い指にできた万年筆のたこが清音には残念でたまらなかった。政義は清音の父の友人だった。
「清音さん、もう仕事には慣れましたか?」
政義が目を細くして尋《たず》ねた。
「まだ若いあなたにとって、ひとりで家事をするのは大変でしょう」
そんなことはなかった。清音はふくれあがる感謝の気持ちをうまく丁寧な言葉で言い表せず、ぎこちなく笑った。たったひとつのささやかな疑問を除いて清音は鳥越家が好きだった。
ふとそこで、家を出る時に政義が手にしていた茶色の分厚《ぶあつ》い封筒が見当たらないので、政義は今までこの集落にひとつだけあるポストの所へ行っていたのだと清音は思い至った。
「言ってくださればわたしがポストまで行きましたのに」
「いえ、いいのですよ。わたしもたまにはあの部屋から外へ出ないといけませんからね」
「そうですか。でも、あの部屋は掃除をしなくて本当にいいのでしょうか」
「ええ、あの部屋だけは優子が掃除をしてくれますからね」
優子と聞いて清音はどきりとした。聞くたびにどきりとする。
「あのう、奥様はお元気なのでしょうか?」
すると政義の顔は清音が見てもはっきりとわかるほど曇った。空と同じだ、と清音は思った。
「かんばしくありませんね、まだ当分の間はおそらく……」
しかし清音にはその気持ちが実感として伝わらなかった。鳥越家に来てからもう二週間もたつが、まだ清音は彼女の顔すらも見たことがなく、ただ政義の部屋で寝たきりに近い生活をしているということしか知らされていなかった。この人の妻とはいったいどういう女性なのだろう。政義の口から優子と漏《も》れるたびに清音はそう思った。
「あじさいは、ですね……」
政義は清音の側に咲いているあじさいに近寄った。すると清音に政義の服の匂《にお》いが漂ってきた。
「あじさいの花びらっていうのはこれじゃあないのですよ、知っていましたか?」
政義はうすく青に染まっているあじさいを指さした。
「この、青い花びらのような部分はあじさいのがく[#「がく」に傍点]なのですよ。偽物《にせもの》なのですよ」
なぜか清音の胸は高鳴った。なぜだかわからなかった。
「あじさいはよく雨に映《は》えますね。おや、この黒い実をつけた植物はいったい何だろう」
あじさいの隣に生《な》っている黒い実を見て政義が首を傾《かし》げた。屈《かが》んで、黒い実に鼻先を近づける政義の姿が妙で清音はどこかしらほっとした。
真っ黒い実だった。小指の先程度の小さな、光沢《こうたく》をもった黒い実だ。ぽつん、ぽつん、と生っていた。
「綺麗《きれい》な黒色をしていますね」
そう言うと政義は下駄を鳴らして家の玄関のほうへと歩いていった。からん、からん、という響きが透き通るように清音に聞こえた。
清音は大きく息を吸った。雨の降る直前の森の匂いの籠《こも》ったような空気で肺がふくらみ、おもわず清音は咳《せ》き込んだ。
政義の去っていったほうを見ると鳥越家が翼を広げるように建っていた。しかし清音はこのような大きな家で今自分が働いているなどとても信じられなかった。砂利の敷き詰められた庭も、門から玄関までの石壁や飛び石も今までは見たこともなかった。
清音は優子というまだ見たことのない女性のことを考えた。
政義はいつも優子と一緒に自分の部屋で食事をとっていた。だから清音は食事の時間になると、毎回二人分の食事を盆にのせて政義の部屋の前まで運ぶのだった。その時に通る廊下の両側は土のむき出した壁だった。連《つら》なる部屋の襖《ふすま》に挟まれて窓もなく、たいていいつも薄暗かった。廊下のすべすべした古くて黒い板は歩くたびに、きゅ、きゅ、と鳴いた。だから清音が食事を運んできたことがわかるのだろう。いつも清音が部屋の前までやって来て食事を運んできたことを声を出して知らせる前に、
「そこへ置いといてください、ありがとうございます」
と政義は襖の奥から言うのだった。
清音は政義と優子が居るはずの部屋の前に食事ののった盆を置き、そしてそのまま帰っていく。だから清音はその部屋の襖が開けられたところを見たことがなかったのだ。
旦那様も奥様も変な方だ。清音は思う。政義も優子も自分の前ではわざと襖を開けないようにしている気がして清音はたまらなかった。自分の廊下を歩く、きゅ、きゅ、という板のこすれあう音に二人耳をすませて警戒でもしていそうで、背筋がぞくりとなった。鳥越家の長く薄暗い湿った廊下は遠くのほうや隅っこのほうに闇が溜《た》まり、その中にたまらなく嫌《いや》な視線を感じてしまう瞬間がこの家に来て何度かあった。その廊下の壁に飾られた般若《はんにゃ》の面や天狗《てんぐ》の面、さらにはひょっとこの面さえも目を離した隙《すき》に表情を変えていそうで、清音はつい早足になってしまうのだった。
清音が鳥越家で働き始めてまもないある日、清音は政義と優子の部屋に盆を下げに行った。政義も優子も食べ終わった後の食器は部屋の前に置いておく。清音が食事を持ってやって来た時と同様に盆にのせられて廊下にぽつんと置かれているので、清音はいつも黙ってそれを調理場へ持って帰るのだ。
その日、夕食のおかずはてんぷらだった。清音は小さい頃に一度だけ父親に連れられててんぷらを食べに行ったことがあったが、それ以来食べたことはなかった。だからたったひとりでてんぷらを作って政義や優子に食べさせるのが不安だった。
これでいいのだろうか。はたしてこれで、てんぷらの正しい味になっているのだろうか。清音は記憶の中のてんぷらと目の前のそれを何度も見比《みくら》べて考えた。
清音はいつも隣の集落にある家まで野菜を買い出しに行くのだったが、そこでついでに料理のしかたも教わっていた。てんぷらもその通りに作ってはみたが、清音にはそれが正しい作り方なのかどうか知るすべはなかった。だから、食器を下げに政義と優子の部屋の前に行き、料理の半分が残されているのを見てしまった時は、二人に深くあやまりたい気持ちだった。
どうしようか。声をかけてみようか。そしてわたしのてんぷらのどのへんがいけなかったのかを聞いてみるべきだろうか。清音は料理の半分が残されている盆を持って部屋の前で迷った。
しかしその時、部屋の中から政義のやさしい声がした。襖は閉められたままで、襖越しの会話というものはなんだか変な感じだ、と清音は思った。
「清音さん、ちょっといいかな」
きた、と思った。
「清音さん、明日から、わたしと優子の料理を半分にしてはくれないだろうか」
半分にしてくれとはいったいどういうことなのだろう。それほどわたしの料理はいけなかったのだろうか。もう食べたくはないのだろうか。
「わたしたちはね、二人とも小食なのですよ。二人ともほとんど体を動かさないからね。だから明日から料理の量を半分に減らしてくれないだろうか」
「あのう……」
清音はおそるおそる政義に聞いてみた。
「あのう……、ひょっとしてそれはわたしの料理がいけなかったからなのでしょうか。もしそうならば、はっきりとそう言っていただいたほうが嬉《うれ》しいのですが……」
すると襖の奥から政義の気持ちいい笑い声が聞こえてきた。
「あなたの作ったてんぷらは本当においしくできていましたよ」
清音は急速に頬《ほお》が熱くなるのを感じて急いでその場を離れた。しかし、政義の笑い声は聞こえたが、優子の笑い声が聞こえなかったことに気づいたのは、その後ひとり寝床で寝返りをうった時だった。
料理に使う材料は、たいてい調理場から直接出入りできるように作られた物置のような場所に置かれていた。そこには乾いて白くなった土に覆《おお》われた段ボール箱やほこりを被《かぶ》ったストーブなど、色々なものが押し込まれている。その物置に入るといつも湿ったような藁臭《わらくさ》いような納屋《なや》の臭《にお》いが充満していた。
箱の中にはいつもじゃがいもやにんじんなど隣の集落から買い求めた野菜がつまっているのだが、ある日、清音が中をのぞいてみると空《から》だった。
どうしよう、これではお昼の用意ができない。清音は他のも順番に開けていった。段ボールは湿ってやわらかくなっているようで、それでいてその表面にへばりついた泥は乾いていた。そうやって触《さわ》っているうちに指は白くなり、だんだん冷たくなってくるのだった。
どの箱も空のようで、どうやら昼食の材料になるような野菜は入ってはいなかった。どうしよう、材料が切れているなんてことはもっと前に気づくべきだったのに、と自分の迂闊《うかつ》さを呪《のろ》った。それでもあきらめきれず、物置の埃《ほこり》っぽい石の地面に頬をくっつけるようにして料理の材料を探していると、清音はとうとうストーブの後ろに隠れていた段ボール箱を見つけることができた。
清音はほっと胸を撫《な》で下ろし、ストーブを移動させて段ボールの中身を確認しようとした。その時ストーブがずいぶんと重く感じられ、持ち上げた時にたぷんと灯油が入っている感触がした。
その箱の中にはやや黄みがかった色の古い大根とたまねぎがわずかに残っていて、なんとか政義と優子に出す料理くらいは作れそうだった。
わたしの分は……、まあいいか。自分は木の実でも何でも食べていればいい。
そう清音が思った時、物置の壁に作られた棚の上のほうに木の箱がずらりと並んでいるのを見つけた。表面の粗《あら》い木で作られたそれらの箱には「人形」と書かれていて、その文字も箱自体もずいぶん古いものらしかった。
人形という言葉に清音は惹《ひ》かれた。清音は漢字が読めないが、父が人形師だったため、「人形」という文字の形とその意味だけは覚えている。
あの並んだ箱の中身は全て人形なのだろうか。もしそうならばずいぶんとたくさんあるものだ。もしかすると、それらの中に人形師であった父の作品があるかもしれない。
清音は好奇心に負けてそれらの木の箱のひとつを開けてみることにし、背伸びをして注意深く箱を棚の上のほうから下ろそうとした。持ち上げた途端、おや、と思った。下におろしてみて木の蓋《ふた》を開け、その箱がやけに軽かったことに納得した。
木の箱は空だったのだ。他の木の箱も全て空で、そこにあるはずの大量の人形はひとつも見当たらなかった。
その日の午後、清音は隣の集落まで野菜の買い出しに行くことにした。政義にそのことを告げると、政義は清音にたっぷりと気前良くお金を渡してくれた。
「この家には自動車はないけれど、納屋の中にある荷車を使うといいですよ。ひとりで大丈夫ですか? もし重かったら向こうの家の人に頼んで運んでもらってきてください」
清音は感謝しながら、大丈夫ですからと答えて家を出た。
何ものせていない荷車でも動かすのには結構力が必要だったが、動き始めるとあまり力を加えなくても荷車は進んでくれた。
鳥越家の門を通り抜け、竹藪を切り開いて作られたような石畳の小路《こみち》を荷車と一緒に進んだ。
それにしてもわからない、なぜ旦那様はわざわざ隣の集落まで野菜を買いに行かせるのだろう。なぜこの集落でわたしが買い物をするのを避けさせるのだろう。
そういえばこの辺に住んでいる人の視線が固い感触をもって自分に向けられているのを清音は感じていた。荷車を引きながらあいさつをしても目を逸《そ》らされるばかりで、まるで自分はこの辺の人間にとって厄介者《やっかいもの》のようだった。
集落と集落の間は見渡す限りたんぼが広がり、がたがたの道をずっとまっすぐ行けば隣の集落で、そこにいつも鳥越家がお世話になっている家があった。野菜を清音に売ってくれたり、料理をあまり知らない清音に懇切《こんせつ》丁寧に作り方を教えてくれたり、その家の人間は清音にもやさしく普通に接してくれたので大好きだった。
珍しく晴れた梅雨の空のもと、大小の石ころの転がった道を荷車を引きながら清音が進んでいくと、隣の集落から三輪のトラックがやって来るのが見えた。道の幅は荷車とトラックが並ぶには危なっかしく、トラックは清音の手前までやって来ると道の端っこに停《と》まって、清音が横を通り過ぎるのを待ってくれた。
清音は礼を言って素早く邪魔にならないように横を通り抜けようとしたが、その時、トラックの運転手が清音を呼び止めた。
「あんた、ひょっとして鳥越家のおつかいかね?」
どうやらその運転手は隣の集落の男であるらしい。
「はい」
清音はそう答えた。
「ふうん」
運転手は顎《あご》を擦《こす》りながら、
「まあ、がんばれ」
とぶっきらぼうに言った。
その言葉はそっけなかったがどこかしら温かく、なぜ政義がわざわざ隣の集落まで野菜を買いに行かせるのかわかったような気がした。
麦の刈り入れの終わった畑がうっすらと暗くなり、見上げると太陽を隠すようにひとつ雲が浮かんでいるのが見えた。
[#ここから3字下げ]
二、部  屋
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政義は十畳ほどの広さを持つ自分の部屋で書き物をしていた。部屋の片隅にある座椅子《ざいす》に座り、原稿用紙に万年筆を滑らせる。
部屋のもう一方の隅には大きな古い三面鏡があり、その左右の扉の取っ手には勝手に開かないように赤い紐《ひも》がくるりと右回りに絡《から》められていた。部屋の反対側の一面にはたくさんの人形が飾られていた。髪のすらりと長い日本人形がそのほとんどを占《し》め、白い顔を皆いっせいに部屋の中心に向けて無表情に並んで立っていた。この部屋の中に入った人間はそれらの人形に囲まれて、知らない子供たちに無表情な顔で取り囲まれているような、そんな気がするのだった。
人形たちの前には布団《ふとん》が敷かれていた。
政義が文章を綴《つづ》る手を止めて布団のほうを見ると、そこに、政義が優子と呼んでいる女の姿が見えた。
優子は布団の中からじっと政義のほうを見つめていた。
ふと、政義の耳に優子の声が聞こえてきた。
あなた、わたし清音さんの顔を少しだけ見たわ。
小さくてほとんど聞こえないような細い声だったが、政義にだけははっきりと聞こえていたのだ。
「利発な娘だっただろう、あの子」
ええ、外を歩いているのを障子《しょうじ》の隙間《すきま》からちらりと見ただけだったけれど、まだ若い女の子だったわ。お仕事、辛《つら》くないかしら。
政義は立ち上がり、寝ている優子の側《そば》へやって来てふくらんだ布団にやさしく手を置いた。
あの子がいない時、調理場へ行ってみたら料理の作り方を記《しる》した紙があったの。ひらがなで書かれていたわ。
「ああ、あの子は学校を出ていないからひらがなしか書けないのだよ」
それでも素晴らしいことだわ。
あやうい声だ。政義に聞こえる優子の声は微《かす》かに震えて今にも消えてしまいそうな声だった。
学校を出ていないのにひらがなを読むことができるなんて素晴らしいことよ。
「そうだね。あの子の父親が結核で亡くなった時、家にひとりぼっちだったあの子を見てかわいそうだったから引き取ったのだけれど、うちで雇って本当に良かったと思っているよ。そういえばあの子、うちに来た時に父親の人形を持っていたよ。童《わらべ》の人形だった」
政義は優子の白いなめらかな頬《ほお》の曲線を三本の指で優しく撫《な》でた。すると優子は生気のあまり見られない冷たい色の顔をほころばせたように政義には見えた。
優子が時々ぼんやりと黙り込むのが政義には心配だった。どこを見ているのか視線がさだまらず、そういう時は政義の声も聞こえてはいないようだった。まるで優子が違う世界に行ってしまったようで、政義はひどく不安になるのだった。
清音が料理を運んでくる時の廊下のきゅ、きゅと鳴る音で、政義も優子も食事が運ばれてきたことを知る。政義は礼を言い、耳をすませて清音の遠ざかる廊下の音を聞いてから襖《ふすま》の前に置かれた料理の盆を部屋の中に入れる。
しかし優子がぼんやりと黙って布団の上に座っているような時、料理が運ばれてきても優子は何の反応も表さず、政義が優子の細い指に箸《はし》を絡ませてみても食事をする気配をまったく見せてくれないのだった。政義はそういう時、怖《こわ》くなって優子の名前を呼んだ。
「優子、優子!」
優子の薄い肩を揺さぶってみると滑《なめ》らかな長い髪が激しく揺れ、それから、どうしたのあなた、という声が聞こえると政義はほっと安堵《あんど》するのだった。
そういう時に政義の見る優子の顔はやさしく慈愛《じあい》に満ちていた。この世の者でないような恐ろしく整った顔立ちも白い肌の色も全てが大きくなって自分を吸い込んでしまうような錯覚を政義はいつも感じていた。
どうしたの、あなた。
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三、隙  間
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鳥越家の庭はまるで神社の境内《けいだい》のように広く、大きな形の良い石や石灯籠《いしどうろう》がさりげなく置いてあった。古い竹を荒く編んで作られた塀《へい》が庭をぐるりと囲んでいた。その外側は竹藪《たけやぶ》で、風が吹くたびにざわざわと竹が鳴るのを清音はよく聞いた。日の傾く夕方になると一面に橙《だいだい》に染まった空を背景に、竹藪は大きく黒い色に見えた。風が吹いて竹のしなる様《さま》はどこかしら遠くの何かに吠《ほ》えている動物のように見えるのだった。
この道は何だろう。
普段は立ち入らないような家の裏手を歩いている時、清音は竹藪の奥にひっそりと続いている小路《こみち》に初めて気づいた。もうそろそろ夕飯の支度《したく》を始めようかと思う時間だった。
何だろう。
清音は首を傾《かし》げて竹藪の奥を見ようとしたが、どうやら小路は竹藪の中でほんの少し入り組んでいるようで、先のほうに何があるのかをうかがい知ることはできなかった。結局、清音はその小路のことが気になりながらも家の中に戻ってさつまいもの皮を剥《む》き始めた。
次の日、清音は竹藪の奥に続く小路を歩いてみた。空は灰色に曇り、見上げると道を両側から囲む竹藪がまっすぐに空へ伸びていた。竹はまっすぐ空の一点へ収束し、清音には竹が自分のまわりをぐるりと取り囲んでいるように見えた。
道の両脇《りょうわき》には背の高い草が生《お》い茂《しげ》り、その中には清音の鼻先をくすぐるように長く伸びた草さえもあった。それでも道はとぎれることなく続き、最後には墓があった。
立派な墓だった。墓標がぽつんとひとつだけあるのではなく、大きな石がたくさん積まれた上に石の柱が立てられ、そこに誰《だれ》かの名前が刻まれていた。
まだそれほど古くない墓だ。
清音は近づいてみた。墓のまわりと竹藪の間にはわずかに隙間《すきま》があり、そこを蛇《へび》がくねりながら忙しく進んでいた。
誰のお墓なのだろう。漢字では、読めない。
墓に捧《ささ》げられた花はすでに黒ずんで、その傍《かたわ》らには腐りかけた小さな竹の子が置かれていた。
道を戻って庭へ出た時、曇っていた空からやわらかな雨が撫《な》でるように降ってきた。
大変だ、洗濯物をとりこまないといけない。清音は少しだけ小走りになって洗濯物を干している所へと向かった。
調理場の勝手口の脇に物干し竿《ざお》は屋根から紐《ひも》でぶら下げられていて、その色褪《いろあ》せた竹製の物干し竿に洗濯物は並んで干されていた。
清音は素早く洗濯物を両手いっぱいに抱《かか》えて家の中に運び込み、そしてもう一度それを繰り返す。最近ずっと小雨が続いていたからと、曇り空なのに無理して干すんじゃなかった、と清音は思った。
二回目に洗濯物を両手に抱え込んだ時、そこから見える政義と優子の部屋の障子《しょうじ》が小さく開いているのに気づいた。
洗濯物を全て家の中に運び終わり、清音はほっと息をついた。しかし頭の中には先程《さきほど》見た障子の隙間がちらつき、その光景が頭の中に染《し》みついて離れなかった。この家に来て清音はもう一か月もたつが、しかしただの一度も政義と優子の居る部屋の中を見たことはないのだった。さらにそれだけではない。清音は優子の姿さえもまだちらりとさえ見てはおらず、優子の白い寝間着を時たま洗濯することはあるが、しかしそれさえもどこか強く汚れているというわけではない。本当にこれは誰かに着せられていたものなのだろうかと清音が疑うほど寝間着は綺麗《きれい》だったのだ。
清音には、優子という人間が本当にこの家の中に住んでいるとはとても思えなかった。
ずっと寝たままなのだからそう簡単に着ている服が汚れるわけではない。だから洗濯物はいつも綺麗なままなのだ。清音はそう考えることにしていたが、やはり、優子とただの一度も顔を合わせたことがないというのは異常なことに思えてならなかった。
奥様はきっと素敵な人だ。清音はそう思う。だって旦那《だんな》様の妻なのだから。
妻なのだから。
そう思い始めるともう清音は駄目だった。草履《ぞうり》を履《は》いて外へ出た。
雨で外は霞《かす》むように煙っていた。
そこから政義と優子の部屋のほうを見る。するとまだ障子は開いていたが中を見ることはできなかった。
清音は半《なか》ば息を押し殺すようにして慎重に歩き、その部屋の前を通り過ぎようと思った。
慎重に、何気ないふうを装って、ただ通り過ぎるような感じで……。
障子の隙間に近づくにつれて清音の胸は高鳴った。政義と優子の部屋の外には縁側があり、その下には平たい大きな石がある。今その上には、雨がうっすらとたまっていた。そしてそこには草履がたったの一足だけ置かれていた。
わたしはただ前を通り過ぎるだけ。ほんの少し部屋の中が見えてしまうだけ。
ぎこちない歩き方になりながらも、清音は、障子紙の色がわずかに黄色く変色しているのを目の隅にとらえ、さらに、少しだけ開いた障子の隙間から三面鏡を確認できた。座椅子《ざいす》も見えた。今は誰《だれ》も座ってはいない。
雨が自分にも降りかかり服がしっとりと濡《ぬ》れ、握《にぎ》り締《し》めた掌《てのひら》も汗のせいで濡れていた。
障子の隙間から部屋の一面を飾る大勢の人形の白い顔が見え、その前には布団が敷かれていた。布団はちゃんとふくらんで中に誰か入っているようだった。しかし隙間の前を通る瞬間に清音が見たものは、布団に寝かされてこちらを無表情に見ている人形の姿だった。
次の日、清音は暇になると鳥越家を出て静枝《しずえ》の家へ行った。静枝は昔鳥越家で働いていた娘で、清音が鳥越家で働き出す六か月ほど前に鳥越家の手伝いを辞《や》め、隣の集落へ嫁《とつ》いでいたのだった。清音は静枝に時々料理や裁縫《さいほう》のことを教えてもらい、静枝はそのたびに清音をやさしく家に迎え入れてくれるのだった。
「どうしたの、今日は元気がないのね」
静枝がそう言ったので清音は微笑《ほほえ》んでみせたが、しかし微笑みはすぐに消えた。
二人は並んで縁側に座り、静枝がいれてくれたお茶をいただいていた。ふと顔を上げると目の前にあじさいが咲いていて、薄い青色が今日の曇った灰色の空によく似合っている、と清音は思った。
「ねえ、見てごらん、拾ったのよ」
そう言った静枝の手の中には毛足の短い小さな猫がいた。
「あ、かわいい……。珍しいですね、猫の人形ですか?」
「馬鹿ね、本物よ」
静枝は自分の手の中の猫を珍しげに見ている清音に目を細めた。
「この子、行き場所がなくて迷ってたの。きっとどこかで飼われてた猫なのよ、そうでないとこんなに懐《なつ》かないよね。わたしね、こういう迷子は必ず拾うことにしているの」
「今日はご主人いらっしゃらないんですか?」
お茶をすすって清音が聞くと、静枝は少し声を出して笑った。
「畑よ」
「なぜ笑うんですか?」
「だっておかしいのよ、あの人ったら。お前は家にいろ、だって」
何がおかしいのか清音はよくわからずに首を傾げた。
「赤ちゃんができたの」
「赤ちゃん!」
清音は静枝の腹を見たが、まだあまりふくらんではおらず、膝《ひざ》の上で猫が転がっていただけだった。
「すごいじゃないですか!」
清音は激しく興奮して喜んだ。
「いいえ、どういたしまして。それで清音ちゃんのほうはどう? お仕事は辛《つら》くない?」
「はい、わたしも父も旦那様には本当に感謝しています。ただ……」
清音が口ごもっても静枝は先を促《うなが》さずにお茶を飲んで続きを待った。
縁側の前には小さな畑があり、細い棒がいくつも並んで立っていた。緑色のつる[#「つる」に傍点]がそれに絡《から》まって小さな花を咲かせ、その先に見える道を腰の折れまがった人がゆっくりと歩いていった。
「あのう……、静枝さんは奥様を見たことありますか……」
清音はおそるおそる聞いて見た。
「奥様? ええ、あるわ」
「え!?」
「綺麗な人だったよ」
清音は意外な面持ちで静枝を見た。昨日《きのう》、障子の隙間から見えた光景の中に優子の姿が見えず、清音は優子という女性がはたして本当に居るのかどうかいよいよわからなくなってしまっていたのだ。ついに今日そこのところを相談しに、静枝のところまでやって来たのだが、今の静枝の言葉を聞いてそんな自分が馬鹿らしくなった。
す、と静枝は猫を膝から下ろして立ち上がると目の前に生《は》えている木に近寄った。幹は細いが背丈《せたけ》は清音の倍はあろうかというその木には赤い小さな実がなっており、それを摘《つ》んで静枝は口に入れた。
「ナツグミの実、清音ちゃんも食べる?」
静枝はそう言うと清音のためにナツグミの実を三つ四つ摘んで手渡した。
艶《つや》のある、小さな実だった。清音が口に入れて噛《か》んでみると甘く酸《す》っぱい汁が舌の上に広がった。
「おいしいでしょう? この実はちょうど今頃《いまごろ》が食べ時なのよ。でも、種類によっては苦《にが》い味のする木もあるのよね。甘いと思って食べてみたら苦い味」
静枝にならって清音は種を吹いて飛ばした。
「わたしも最近そういうことがありました。一口食べてすぐに吐き出したのに、いつまでたっても酷《ひど》い味が舌にこびりついて離れなかったんです。水で口の中を洗ってもだめでした。その夜、吐き気や目眩《めまい》で眠れなかったんですよ。死ぬかと思った」
もうひとつ、ナツグミの実を口に入れて清音は噛んだ。
目の前で静枝が笑っていて、清音は緩やかな幸福感に包まれているような気がしていた。不安、疑念、そういうものなど見当たらなかった。
「良かった……」
清音は掌の上で赤い実を転がしながら呟《つぶや》いた。
旦那様は幻《まぼろし》か何かを見ているわけではなかったのだ。そうなのだ、まったく、自分は何かばかげたものに取りつかれていたのだ。
「もっと奥様のことを教えてください」
清音を見て少し静枝は首を傾げた。その様はゆっくりと記憶を掘り返しているようだった。
「色の白い人だったわ」
「白人の方ですか?」
「違うわよ、馬鹿ね」
静枝は目を細くして笑った。
「色白で繊細《せんさい》な人だったのよ。本当に美しい人だったわ。旦那様とずっと肩を並べて縁側に座っていたの。あんな夫婦になれたらいいなあってずっと思ってた」
清音には、懐かしむように目を細めた静枝が少し羨《うらや》ましかった。
「わたしったら本当に馬鹿だわ」
清音がそう言うと静枝は驚いた。
「なぜ?」
「だって、鳥越家にそんな人なんていないと思ってた。だって一度もお会いしたことがないんだもの。馬鹿だわ、わたし、本当に」
すると静枝はさらに驚いた顔をして清音を見た。
「何言ってるの? 奥様は二年ほど前に亡くなられたのよ。竹藪の中にお墓があったでしょう。旦那様、かわいそうだったわ。あんなに激しく泣き狂った旦那様なんて初めて見た。怖《こわ》いくらいだったわ」
いったい静枝が何を言ったのか、清音には意味がよくわからなかった。その言葉の持つ意味が次第《しだい》に頭の中に入ってくると清音は持っていた湯のみを縁側に置いた。ことりと音がした。
立ち上がるとぐらぐら足元が揺れるようで、目が回るようでもあり、振り返ると不思議そうな顔をしてこちらを見ている静枝の顔があった。
「どうしたの、清音ちゃん?」
どうしよう、全部言ってしまおうか。それまでの政義の態度や障子の隙間から見えた人形のこと、まだ一度も姿を見たことのない優子という女性のことを、静枝に話してしまおうか。しかしそれを言ってしまうとどうなるだろう。自分の話したことが集落中に広まってしまうと、人々はいったいどういう目で政義をみるようになってしまうだろう。考えると清音はたまらなかった。からん、からん、と下駄《げた》を響かせて歩いて来る政義や、門の側《そば》であじさいのことを話す政義の姿が蘇《よみがえ》り、清音はいったいどうしたらいいのかわからなくなった。
「清音ちゃん?」
猫が鳴いた。
しかし清音にはまったく聞こえてはいなかった。
清音の手から音もたてず、甘酸っぱい味のする小さな実が地面に落ちた。
「いってきます、清音さん」
出かけていく政義を見送ると清音は覚悟を決めた。今ならば政義は家にいない。胸が苦しく狂おしい。清音の散々迷ったすえの決断だった。
きゅ、きゅ、と鳴るいつも薄暗い廊下を進み、政義の部屋の前で立ち止まる。今、その部屋の中には優子という女性がひとりだけで居るはずだった。清音は襖《ふすま》の前に膝をついて正座をし、震える肩に力をふきこんでぴんとはった。
「す……」
声がからからだった。目の前にある襖の向こう側に優子という人間が本当に居たらどれだけ自分はほっと安堵《あんど》するだろう。
「すいません、清音です。奥様、奥様、清音です、返事をしてください。どうか、返事を……」
しかし、どれだけ間《ま》を置いてみても襖の向こうから返ってくる返事など清音の耳にはわずかばかりも聞こえはしないのだった。
「奥様! どうか返事をしてください! 奥様……!」
清音は少しためらい、それでも勇気を振《ふ》り絞《しぼ》って襖に右手の指をかけた。おずおずと襖を滑らせると隙間が次第に開いていき、とうとう部屋の中全部を見渡せるようになった。
清音はその場に正座をしたまま部屋を隅から隅まで眺め回した。
障子をすかしてわずかに黄色い陽《ひ》の光は部屋の中をほのかに照らし、それと同じだけの暗闇《くらやみ》を部屋のあちこちに作っているのだった。暗闇の中に半《なか》ば体を溶けさせるようにして娘の姿の人形があり、ひとつふたつと数えていくとその数は五十をこそうかという数だった。血の色の失《う》せたそれらの顔は無表情に並んで泣いているようにも笑っているようにも清音には見えた。さらに不思議なことといえば、人形の前には白い布団が敷かれており、清音が覗《のぞ》き込むとそこには昨日と同じように髪の長い色白の人形がやさしく寝かされているのだった。やはり、その人形は他の人形に比《くら》べて不思議な妖《あや》しい力を持っているようであり、その細く白い顔を見ていると清音は吸い込まれるような、恐ろしく、しかしどこかしら夢のような錯覚を感じてしまうのだった。
清音は慌《あわ》てて人形から目をそらし、首を振って部屋の反対側を見た。
優子と呼ばれるような人間の姿など清音には見えなかったのだ。
部屋の反対側には襖に青い富士を描《えが》いた押し入れがあり、政義がいつも座って書き物をしているのであろう座椅子があった。座椅子の前には木目の浮いた光沢《こうたく》を放つ木の机があり、その上には数本ばかりの万年筆が整列して主人の帰りを待っていた。それを見ていると清音はなぜかしら寂《さび》しく悲しい気持ちになっていくのだった。
部屋の片隅におかしな古い三面鏡を見つけた。両の扉は閉められ、なぜか取っ手が赤い紐で右回りにくくられていた。しかし、その三面鏡のおかしな点といえば、部屋の他のものに比べて古ぼけているということだった。三面鏡には何か彫刻が施《ほどこ》されているということはなく、光沢のある木でできているということもない。しかし、古ぼけているというのに買いかえられもせず、鳥越家の中にその身をとどめているとはいったいどういうことだろう。
紐を解き、両の扉を静かに開いてみる。するとその中の鏡といえばまるで蜘蛛《くも》の巣のようなひびが網の目を作っていた。持ち主の顔を正面から投げ返してくれる所はほんのわずかひびの入っていない鏡の板の隅っこだけだった。
その時、ひびの入っていない鏡のほんの少しの隙間に、一瞬、色白の女の顔を清音は見たような気がした。ひゃあ、と小さく叫んで清音は振り返り、その瞬間、三面鏡に右肘《みぎひじ》をぶつけ、ぱらりと鏡の破片が数枚落ちてきた。ところがよくよく目を凝《こ》らしてみても自分の後ろに色白の女など見えるはずもなく、しかし、清音は背筋に冷たい蛇か何かのはいずり回るような恐ろしい気持ちになってくるのだった。
急いで鏡の破片を拾い上げて三面鏡の扉を閉める。赤い紐を取っ手に巻きつけると後はもう後ろも見ずに薄暗い廊下を駆け抜けた。
怖《こわ》くて泣きながら自分の部屋へと帰ってくると、父の作った人形をしっかりと抱き締めて部屋の片隅に小さくうずくまった。
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四、鏡
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「優子、今帰ったよ」
襖《ふすま》を開け、自分の部屋へ戻ると政義はそう言った。
「何か変わったことはなかったかい優子」
ええ、何も変わったことはありませんでしたよ。
「そうかい、それは良かった。誰もここへは来ていないのだね。それは良いことだよ」
しかし、ふと政義は部屋の片隅に置かれた古い三面鏡を見て不可思議な一点に気づいた。さらによく見ようと政義は三面鏡に歩み寄り、顔を近づけると声を上げた。
「これはどうしたことだろう。優子、嘘《うそ》をついてはいけないよ。今日ここへ誰かが入ってきたのだね。そしてこの三面鏡を開いてしまったね。優子、嘘をついてはいけないよ」
なぜですか、なぜそんなにもわたしの言葉を疑うのですか、本当に何も変わったことなどありはしなかったのですよ。
「そんなはずはないよ優子。ほら、この三面鏡の紐《ひも》を見なさい。この三面鏡は古いので時々両の扉が勝手に開いてしまうのだよ。だから勝手に扉が開いてしまわないように、ふたつの扉の取っ手をぐるりと赤い紐で絡《から》げてあるのだよ」
それがどうかしたのですか、今もそうなっているではありませんか。
「それが違うのだよ優子。いつも赤い紐は右回りに取っ手をぐるりと回っているはずなのに、ほら、見てみなさい、今日にかぎって左回りに紐が回っている。これはいったいどういうことなのだろうね」
ああ、あなた、それはわたしが開いてしまったのです。わたしが三面鏡の扉を開いてしまったのですよ。
すると政義は三面鏡の両の扉を開いて中を確認し、さらに驚いた声を上げた。
「優子、中の鏡が割れているよ。破片がどこかへ落ちているはずだよ」
あなた、鏡なら以前から割れていたはずではありませんか。
「いいや、違うよ優子。ひびは入っていたのだけれど、どこにも欠けたところなどありはしなかったのだよ。それなのに優子、こことここが欠けているよ。破片がどこかへ落ちているはずなのに、どこを探しても見当たらないよ優子」
政義は部屋の中に林立している白い顔の人形のひとつに近づいて髪をさらりと撫《な》でてやり、やさしい声で言った。
「さあ、正直に話しなさい優子。今日ここに清音さんが入ってきたのだね。君は清音さんをかばって嘘をついているのだね」
……ええ、その通りです。清音さんが部屋の中へ入ってきました。
「そうかい。しかしそれでは、君はいったいどうしていたのだね。この部屋に入って来てはいけないと清音さんに言わなかったのかい。あの鏡に触《さわ》ってはいけないよと忠告はしなかったのかい」
ああ、ごめんなさい。清音さんが部屋の中へ入ってきた時、わたしはどうやらぼうっとしていたようなのです。しかし運良く目が覚め、わたしはちゃんと清音さんに言ったのですよ。早くこの部屋から出ていきなさい。そうわたしは清音さんに言ったのですよ。でもあなた、どうか清音さんを叱《しか》らないでくださいな。
政義はまるで人形のように無表情で鏡の欠けた部分を見ていた。
「ああ、優子、わたしは清音さんを叱ったりはしないよ。ただ、わたしはやはり鏡の破片を返してほしいと思っただけなのだよ」
夕日に障子《しょうじ》は赤く輝き、この時ばかりは人形の頬《ほお》もまるで血の通《かよ》った赤子のように朱《あか》く染まってやわらかくなるのだった。
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五、優  子
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もうたえられないと清音は思った。
昨晩のこと、清音は政義の部屋へと食器を取りに行き、そこで清音の見た食器にはやはりおかしな点が見られたのだった。
襖《ふすま》の前に木の盆が置かれ、その上にいくつかの空《から》になった皿と茶碗《ちゃわん》があるということは正しいことだ。政義と優子の二人分の箸《はし》や湯のみがあるということも正しい。しかし政義と優子がまったく同じ料理に手をつけず、そのまま食べ残しているというのはいったいどういうことだろう。清音は不思議でたまらず、つい部屋の中に居るはずの政義に聞いてみた。
「旦那《だんな》様、旦那様、少しお伺《うかが》いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
すると襖の向こう側から政義の声が返ってくるのだった。
「なんですか清音さん」
政義はいつもと変わらずやさしい声をしていたので、清音は胸が締《し》めつけられるような気分だった。
「旦那様、今晩の料理の鰺《あじ》の煮つけは、どこかしらいけないところでもあったのでしょうか。どうぞ正直におっしゃってください」
「いいえ、あなたの作った料理にはどこにもいけないところなどありはしませんでしたよ。ただ、私も優子も鰺という魚が大変に苦手《にがて》なのです。あなたには言っていませんでしたね。だからこれは大変不作法なことだと思ったのですが、わたしも優子も鰺の煮つけを食べ残してしまったのですよ」
「しかし、しかし、旦那様も奥様も、二人とも鰺がお嫌いなのですか? 二人とも口にすることがたまらないというほどに鰺がお嫌いなのですか?」
「ええ、そうですよ清音さん」
そういえばずっと以前にも二人が料理を残したことを清音は思い出した。そうだ、あの時はまだ自分は右も左もわからない新米だったのだ。だから二人が小食だということも知らず、たくさんの料理を作ってお出ししていたのだ。
そこで清音ははっとした。あの時旦那様と奥様は食事を半分ずつ残していた。そして旦那様は、今度からはわたしの分の食事も優子の分の食事も半分でいいですよ、とわたしに言った。あれはいったいどういうことだったのだろう。旦那様の言う通りだとすると、二人とも普通の人の半分ほどしか食事をとっていないことになる。つまりそれは旦那様と奥様の二人分の食事を足《た》し合わせてちょうど一人分の量となるのではないか。いったいこれはどういうことだろう。旦那様の言うことが全て嘘《うそ》であると考えるならば……。
いいえ、そんなことありはしない。あってほしくない。でも、優子という人間が本当はこの世からすでにいなくなっているというのならば……。
清音は、政義が優子になりすまして二人分の食事をとっている様子を想像した。
最初は政義である政義が箸で料理を口に運び、そして次に優子になりきった政義が食事をする。
今度は政義がその場に居ない優子に向かってやさしく囁《ささや》き、すると政義が自分で優子の語り口調を演じながらそれに答える。
食事はそういうふうに進み、やがて食べ切れずに料理をそれぞれ半分ずつ残してしまう。
政義が食べることのできない鰺はやはり優子の皿の上にも残る。
なぜなら優子は政義なのだから。
優子の膳《ぜん》の前には布団《ふとん》に寝かされていたあの人形が座っているのに違いない。しかしそれでも政義は自分以外に優子という人間が部屋の中に居るのだと信じている。ああ、なんという夢なのだろう。清音はめまいがしそうだった。
旦那様、優子という名前の奥様はもう二年も前に亡くなって竹藪《たけやぶ》のお墓に葬《ほうむ》られたのではありませんか。
清音は政義の部屋の前から帰る途中、流れ落ちる涙をこらえることができなかった。涙は持っていた盆の上の茶碗にぽとりと落ち、廊下はそれでもきゅ、きゅ、と鳴いていた。
次の日、清音はとうとうある決意をした。そのきっかけは政義の突然の外出だった。
「清音さん、わたしは昼から少し遠くまで行かなければいけないのです。おそらく帰りはだいぶん遅くなってしまうでしょう」
政義は物々しいよそ行きの格好をして、滅多《めった》に持たない大きな黒い鞄《かばん》を持っていた。
「清音さん」
政義はその時ばかり清音の目をじっと見詰めて言った。
「決して優子の居る部屋に入ってはいけませんよ、わかりましたか」
清音ははっとなった。
「いいですね、決してあの部屋に入ってはいけませんよ。約束してください」
「はい、わかりました。奥様の居る部屋には決して入ったりなどいたしません」
そう答えた清音の声は少しばかり震えていた。
清音の返事を聞くと、政義は鳥越家を離れていった。今日は珍しく下駄《げた》を履《は》いてはいないので、からん、からん、という音は聞こえず、門のところで見送っていた清音はすぐにひとり取り残されてしまった。
今日でもう終りにします旦那様。清音はもう見えなくなった政義に向かって心の中で言った。旦那様、あなたが今日この家に帰ってきた時、あなたの頭の中に住み着いた奥様はもう本当にこの世からいなくなっているはずなのです。ああ、そうするとあなたはきっとわたしを嫌いになるでしょう。あなたはわたしを恨《うら》んでしまうでしょう。しかし、もうわたしにはたえられないのです。わたしも、あなたも、夢を見るのは終りにしましょう。あなたが目覚めた時、素晴らしく空気の澄んだ朝がそこにあることをわたしは信じていますよ。
「奥様、奥様、夕食を持って参《まい》りました」
清音はそう部屋の中に呼びかけたが、やはり清音に向かって返ってくる返事などありはしなかった。清音は、一応念の為に優子一人分の夕飯を部屋の前に置いておくことにした。もし食器を下げる時にそれらの料理がなくなってしまっていれば、優子という人間がそれらの料理を食べたということであり、優子は本当に実在するということになる。
わたしは旦那様を裏切るようなことをしているのだ。
ストーブの中に入ったまま忘れられていた灯油を漏斗《じょうご》で一升瓶《いっしょうびん》の中に移しかえながら清音はそう思っていた。物置の天井からぶら下がった裸の電球が弱い橙《だいだい》の明りを揺らめかせて手元を照らし、濃い緑色の瓶の中に流れて落ちる灯油はどこかしら暗い色に輝いていた。ふと清音が顔を上げると棚の上には人形の入れられていた木の箱が並んでいて、そこに書かれた「人形」という文字を見るたびに清音はせかされる思いがした。
灯油を瓶に移し終えると、清音は瓶とマッチを鳥越家の広い庭の真ん中へ運んだ。
ここならば何かを燃やしてもどこかへ燃え移る心配はない。
すでに太陽は姿を隠し、辺《あた》りは竹藪と夜空の境界線さえわからない闇《やみ》の中へと沈みこんでいた。どうやら今日は月も星も姿の見えない曇った夜のようだった。
わたしはこの闇を一生忘れはしないでしょう。どこまでも落ちるこの穴のような深い闇、実際そこにある竹藪や石灯籠《いしどうろう》を覆《おお》い隠して余りあるこの夜の闇は一生わたしを悩まし続けることでしょう。
清音は火を灯《とも》した蝋燭《ろうそく》を持って優子を呼びに行った。蝋燭の火はゆらゆらと揺らめいて、まるで踊るように清音の顔を照らしていた。
きゅ、きゅ、と鳴る廊下を歩いて政義の部屋の前へとやって来た。政義は外出中なのだから部屋の中に居るはずもないが、政義の言うことが本当ならば今この部屋の中には優子という女がひとり居るはずだった。しかし清音は部屋の前に置かれている盆に目をとめて悲しい気持ちになった。
そこには清音が運んできた時といっさい変わらない様子で料理が残っていて、どうやら誰も手をつけてはいないようだった。
旦那様、この部屋に優子という名前の女性が本当に住んでいるのならば、ここに置かれた料理は少しでも減っているはずではないですか。あなたの言う優子という女性はやはり二年も前に死んでしまっているのですよ。あなたはもういない妻の幻影を人形の中に見ているだけなのではありませんか……?
「失礼します」
清音は少し泣きそうになりながら襖を開けた。しかし部屋の中の電灯を点《つ》けてみても、清音には人影などどこにも見えはしなかった。ただ色の白い娘の姿をした人形たちが並んで立っているだけだった。電灯の温かい光に照らされると人形のふっくらした白い頬《ほお》やしっとりと流れる黒い髪が闇の中に浮かび、清音ははっと息をのんだ。
こうやって白い顔の人形たちに囲まれた夜はいったい何年ぶりだろう。子供の頃、人形師である父親の仕事場で夜を過ごしたことを清音は思い出していた。
清音は人形が怖《こわ》かった。彼女たちがじっと自分を見ているようで、どうにも気持ち悪い。今にも動きだすのではないか、自分が目を離した瞬間に無表情な仮面を脱《ぬ》ぎ捨《す》てて笑顔になるのではないか、それとも泣き狂った子供のように赤い着物をばさばさと振り乱して馬乗りに飛びかかってくるのではないか。そう考えると清音は恐ろしくて逃げ出してしまいたくなるのだった。
部屋の中には布団が二組敷かれていた。ひとつは政義の寝る布団なのだろう。もうひとつの布団に寝ているのが優子のはずだった。
しかし、布団で寝ている白い顔はどう見ても人間ではなく人形のように見える。
この人形が「優子」なのだ、と清音は確信した。
いや、この人形こそ父の作品かもしれない。
掛け布団を取ると彼女は白い寝間着を着せられているのがわかった。自分は人形の着る服を洗濯していたのだと思い至り、考えまいとしても清音は考えずにはいられなかった。
自分こそ今まで、この優子と呼ばれる人形に使われていた操り人形だったのではないだろうか。
そして、操られていたのは自分だけではないのだ。
清音は優子を抱き上げた。
部屋を出る時に電灯を消すと、並んで立っている人形たちもすべて闇に溶けた。
ひょっとするとその時、人形たちは笑っていたかもしれない。
泣いていたかもしれない。
庭の真ん中で清音は抱いていた優子を仰向けにして置き、蝋燭に火を灯した。火は一度大きくゆらりとゆれ、清音の顔と優子の無表情な顔にできた影を震わせた。庭にぼんやりとひとつ浮かび上がるような明るい空間ができあがった。
この人形が旦那様の今を迷わせ、お墓に眠っているはずの優子という人の名前で旦那様に呼ばれ可愛《かわい》がられているのだ。
そして思い切って瓶の中にたまっている灯油を優子に振《ふ》り撒《ま》いた。灯油は白い着物にじわりと吸い込まれ、着物をどこかしら透明な色に染めていく。清音は瓶の中身がなくなってしまうまで灯油をかけ続け、そして空《から》になった瓶を静かに地面に置いた。
地面の上の優子は灯油に濡《ぬ》れて蝋燭の光を反射していた。清音は、やはりこの人形は綺麗《きれい》なのだ、この世界で生きている誰よりも綺麗なのだ、そう思った。
清音は静かに火をつけた。
灯油を十分に吸った白い着物は一瞬で炎に包まれ、炎を大きく膨《ふく》らませた。優子を覆う炎は蝋燭の何倍もの大きな明りとなって鳥越家の庭を明るく照らし、清音は、まるで昼のようだと思った。炎のほうを見ると目のまわりが特に熱くなった。
人形が燃えていく。あの人の愛していた人形が燃えていく。清音の頭に何度も言葉はくりかえし響き、清音は一歩炎から遠ざかった。
炎は全身を包み込んでは止《とど》まるところを知らない勢いで優子をなぶった。
火の粉が飛び、風のない空に舞い上がっては高く飛ぶ。月も星もない暗黒の空に火の粉は遠く高い場所まで赤い点だった。
突然、政義の激しい声が聞こえた。
「何ということだ! 優子! 優子!」
政義は鳥越家の門の側《そば》に鞄を投げ捨てると必死の形相で炎の側まで駆けてきた。
「ああ、これは、これは……!」
政義はそれ以外に言葉の見つからない様子で何度も激しく叫び、自分の羽織《はお》っていた着物を一枚素早く脱ぎ捨てるとそれを炎に被《かぶ》せた。その上に自分も被さり、辺りは蝋燭の明りと地面に染《し》み込んだ灯油の炎だけになってしまった。
「旦那様! それは人形よ! 優子なんて人はいないのよ! 目を覚まして旦那様!」
しかし政義はそんな清音などそこにはいないかのように、優子、優子と叫び続け、目から涙がとめどなく流れ落ちていた。
「旦那様! こっちを向いてよ、旦那様……!」
自分の体で炎を消した政義は、炎に焼かれて元の美しさなど見当たらなくなった様《さま》の優子を強く抱《だ》き締《し》めた。何度も頬擦《ほおず》りをして泣きながら謝った。
「おお、優子、すまない、すまない……!」
強く、全身の隅々から声を出して、その声はまるで魂《たましい》でも削っているかのように掠《かす》れて震え弾《はじ》けるようだった。清吉はそういう政義の姿を見るのが痛々しく辛《つら》かった。
優子にしがみついたまま泣き続けている政義の背中に抱きつき、清音も声を出して泣いた。
地面に投げだされた蝋燭の炎は消え、地面で燃えているわずかばかりの炎がちろちろと清音の頬を伝う涙を照らしていた。
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六、ベラドンナ
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病院の古い木の扉は横に引くと引っかかってうまく開かなかった。中に入るとどこか湿ったような臭《にお》いと薬品の臭いが混ざり合っていて胸に溜《た》まるような不快な感じがした。茶色のスリッパも古く、探してはみたが、どこも破れていないスリッパなどありはしなかった。
薄暗い湿った病院の中と違い、窓の外は明るく輝いている。もう夏の光なのだろうか。
黄色い中身を所々見せる黒い革張《かわば》りの椅子《いす》が並んだ待合室を抜け、古びた木の廊下を歩き、政義の案内された部屋には医者がひとり座って待っていた。
まだ若い医者だったが顔は暗く沈み、部屋に入ってきた政義を暗い瞳でじっと見ていた。
政義は緊張し、自分でも知らないうちにハンカチを握《にぎ》り締《し》めていた。
「ああ良かった。わたし本当にそう思うわ。ねえ、お父さんもそう思うでしょう。だって旦那様はすぐに退院できるのだそうよ。ただお医者様とほんの少しお話をするだけでもう病院を出ることができるの。わたし心配になってお医者様に聞いてみたのよ。するとね、そのお医者様はこう言ったの。あの人にとって今いちばん大切なことはゆっくりした場所で落ち着くことなのだよ、だって。そう言ったの。旦那様は今、お医者様とお話をしているわ。お父さん、知っているでしょう、旦那様のこと。お父さんのお友だちよ」
政義が病院に入らなくともよいということを知って、清音は浮かれていた。清音にとって何よりも嬉《うれ》しい知らせといえば、酷《ひど》いショックが残っているものの政義はすぐに普通の生活に戻れるだろうということだった。
「さあ話してくださいませんか」
政義を背もたれのない丸い椅子に座らせて医者はそう切り出した。政義がほんの少し動いただけで椅子は切り裂くような高い音を響かせて、それがたまらなく耳障《みみざわ》りだった。
「優子は、優子は燃えていたんです。わたしが帰ってきた時、優子は炎に焼かれていたのですよ。ああ、わたしは今でもその光景を忘れることができません」
自分の声が震えていることに政義は気づいていた。目を閉じるとまぶたの裏側で、優子を包む炎が踊っているのだ。決して、炎は消えてくれはしなかった。
「ああ、優子……。先生、優子はいつわたしのもとへ戻ってくるのでしょうか……」
すると医者は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて静かに答えた。
「いえ、あなたはもう彼女を見ないほうがいいでしょう。彼女の死体は酷《ひど》い状態なものですから……」
政義の背中をゆっくりとひとつ汗が滑り落ち、額《ひたい》に浮かんだ汗を手の甲で拭《ぬぐ》うとべっとりと濡《ぬ》れていた。
「お気持ちは、お察しします……」
医者は痛々しい様子で政義に言った。
「優子は、二人目の妻でした。最初の妻はもう死んでいまして、思い出といえばあいつの使っていた三面鏡くらいでした」
政義が半分|前屈《まえかが》みになると椅子が大きな音をたててきしんだ。引《ひ》っ掻《か》くような音はすぐに部屋の片隅に吸い込まれて消えた。
「確かにひびの入った役たたずのものでしたが、あれは結核で倒れた前の妻との大切な思い出の品だったのです。だから清音さんが鏡の破片をなくした時、わたしは少し残念な気持ちになりました」
「最初の奥様はいつ頃お亡くなりになられたのでしょうか」
「二年前です。立派な墓を作って丁寧《ていねい》に埋葬してやりました。彼女が生きている時は村人からずいぶん理不尽な扱いを受けたものです」
「そうですか、それでは奥様を続けて亡くされたということですか……」
「……これは因縁《いんねん》です」
「因縁?」
「優子が、優子がまさかあんな死にかたをするなんて……」
政義も医者も黙り込んだ。長い間沈黙だけが部屋の中に横たわり、ひょっとするともう世界から音というものはなくなってしまったのではないかと政義は思った。
ふいに、沈黙を破ったのは医者だった。
「わたしはさっき清音さんと語をしたのですが……」
医者は青ざめていた。
「どうも、あなたのお話の内容とくい違《ちが》うことが多いのです。いったい、どういうことなのですか?」
政義は医者の質問にしばらく沈黙していたが、まるで重い物を置くようにして折り畳まれたハンカチを木の机に置いた。
「ひょっとするとあなたは信じないかもしれない」
政義は医者の目を見て言った。
「わたしが、何を信じないというのですか?」
政義は答えず、医者の注目している中、震える指で机に置かれたハンカチを静かに開いた。
はたして、中から現れた物といえば全ての光を吸い込んで輝いているような漆黒《しっこく》の小さな実が二つだけだったのだ。
鳥越家の門の側《そば》に生《は》えていた植物の実だった。
「この実はいったい何ですか?」
医者は机の上の黒い実に顔を近づけた。
「この実は、清音さんの部屋の片隅に転がっていたものをわたしが見つけ出してきたものです。光沢《こうたく》のある、小さな実でしょう。鳥越家の敷地内に生えている植物の実なのですよ。名前をベラドンナといいます」
「ベラドンナ?」
「はい……」
政義はそれこそ吐き気を我慢しているかのように青ざめた顔色をしていた。酷く唇《くちびる》が震えていた。
「……ベラドンナです。ハムレットの父親の暗殺に使われたとも言われる猛毒の実なのですよ」
机の上の黒い実に手を伸ばしかけた医者の動きが止まった。医者も酷い顔色をしていた。
「わたしの友人に出版関係の会社に勤めている男がいまして、その男に調べてもらいました」
「いったい、この毒の実がどうしたというのですか?」
政義は汗の浮き出た眉間に皺を寄せ、どこから話すべきかを迷っていた。話さなければならないことは結構な量だった。
「今回の不幸とは直接関係のない話ですが……」
医者は頷《うなず》いて政義を促《うなが》した。
「友人に聞いた話です。もう十年ほどの昔、山陰で起こったある出来事……、いや、噂《うわさ》と言ったほうが正しいでしょう」
政義も医者も汗を浮かべていたが寒そうにしていた。
もう十年ほどの昔、数人の男たちが山菜を採《と》りに深い山に入った。時は夕刻を迎えようという頃、男たちは山の奥で名前のわからない植物を見つけた。
植物には小さいながらも旨《うま》そうな実が生《な》っていた。
どういう味がするのだろうか。男たちは考えた。しかし、見ているだけで木の実の味などわかるわけもなく、ついに男たちのひとりが木の実を摘《つ》んで試しに食ってみた。
それが、その男の不幸だったのだ。
男たちは、木の実を食った男を囲んで、いったいどんな味がするのかを尋《たず》ねた。しかし、男は質問に答えず、突然、地面に四《よ》つん這《ば》いになったかと思うとまるで獣《けもの》のような動きで駆け出した。目は爛々《らんらん》と輝き血走っていたそうだ。
男たちがあっけにとられて見ているうちに、その男は山の奥へと消えていった。
しばらくして、人間とも狼《おおかみ》ともつかない奇妙な遠吠《とおぼ》えが三回、山全体に響いたそうだ。
開け放した窓から風が入ってきた。
「その後、遠吠えが聞こえてきた山奥におそるおそる分けいってみると、泡を吐いてこと切れた男が倒れていたのだそうです」
医者が顔をしかめて体を引くと、椅子が鋭い音をたてた。
「彼は毒の実を食べた後、自分を狼だと思い込んで死んでしまったのですか? それがいったい、清音さんと何の関係があるというのですか?」
政義も医者も机の上の黒い実から目を離すことができなかった。どこか遠くのほうで誰かの廊下を駆け回る音が聞こえていたが、政義のいる部屋からは全くの別次元に思えた。
「清音さんは、この致死量わずか〇・一グラムのベラドンナの実を食べてしまったのではないかと、わたしはそう思っているのですよ」
医者は目を見張って驚いた。
「そのような致死量の毒の実を食べて、生きていられるはずがないではありませんか。現に清音さんは生きている」
「致死量といっても、実際に計って人間に飲ませたわけではないのですから曖昧《あいまい》なものです。それに、清音さんは途中で吐き出したのかもしれないし、人によってはあまり効果を示さないのかもしれない。確かに清音さんは生きている。いや、生き残った……」
「なるほど、あなたの言いたいことが見えてきました。先程《さきほど》の、毒の実を食べて狼になった男と同じように、清音さんもまたそれに近い状態なのだとあなたは言いたいのですね」
「いえ、少し違います。ベラドンナの主成分であるアトロピンの前駆症状というよりも、清音さんがこの悪魔の実を食べてしまった時のあまりに強いショックが後遺症として出てきてしまったのだと、わたしは考えています。つまり、清音さんはベラドンナの実を食べて生き残った。そのかわりに命の代償として慢性的な譫妄《せんもう》状態が続くようになった。わたしはそう考えているのです」
「譫妄状態というと、妄想と現実の境目がぼやけ、意識の混濁が現れるという……」
「その通りです。ああ、なんということだろう!」
政義はこらえきれずにうめいた。
「清音さんは幼い頃、人形師の父親の仕事場に一晩中閉じ込められたという経験があるのです。それからしばらくのうち、清音さんは女の人形をたいそう怖《こわ》がったと聞きます。その恐ろしい体験が悪魔の実によって引き起こされた譫妄状態と絡《から》み合い、清音さんは人間と人形を決定的に区別し理解することが困難になっているのですよ! 清音さんにとって人間と人形の境界線など今や霞《かすみ》のようなものなのです!」
医者は目を大きく見開いた。
「それでは、清音さんは優子さんを人形だと思い込んでいた、つまりそういうことですか!」
「全て、その黒い実が悪いのです」
政義が指さすまでもなく、二人は机にのった小さな実に目を向けていた。
「ベラドンナは悪魔の植物だ。悪魔の実が、清音さんに夢を見せてしまったのですよ。なんてことだ。優子などという人間は実在しない、優子というのは人形なのである、という夢をベラドンナが清音さんに植えつけてしまったのです……」
「そして、悪魔の実に命じられるまま、清音さんは人形に火をつけた……」
政義は顔を両手で覆《おお》い、歯を食いしばるように泣き始めた。
「わたしは今でも信じられないのですよ!」
「なんということだ。かわいそうに。優子さんも、清音さんもかわいそうすぎる。清音さんは自分でも気づかないうちに悪魔の実に魅入《みい》られ、操り人形にされていたということではありませんか!」
「しかし、なぜあなた方は清音さんを部屋に近づけなかったのでしょうか。優子さんをなぜ清音さんに紹介しなかったのでしょうか。わたしには不思議でなりません」
「優子も……」
政義は鼻に声を引っかけながら答えた。
「優子もまた、肺結核だったのです。だから清音さんをあまり優子の側に近づけたくはありませんでした。病気を彼女に感染させたくはなかったのです。彼女はわたしの家で働き始めるほんの少し前にたったひとりの肉親である父親を結核で亡くしたばかりなのでね。だから優子の看病は全てわたしがしていたのです。そして優子が結核だということは誰にも許してはいけない秘密でした。清音さんにもです。あなたならおわかりになるでしょう、閉鎖《へいさ》的な村の人たちの冷たい目を。だからわたしは妻の病気を誰にも言いたくはなかったのですよ。前の妻のように優子までも陰口を叩《たた》かれたくはなかったのです」
部屋の中に沈黙がたちこめ、政義は何か重いものに押《お》し潰《つぶ》されそうな気がしていた。ずぶずぶと足元がやわらかく崩れ始め、いつのまにか知らないうちに沈んでいきそうだった。
じっとりと腕に汗をかき、その汗はもう冷たくなっていた。医者が溜《た》め息《いき》をついたので、政義も姿勢を正すと椅子がきしんだ。
「聞かせてください。優子さんはあの晩、あの子の作った夕飯に手をつけていませんでしたね。そして呼び声にも反応しなかったと清音さんは言ってました。優子さんは、清音さんに抱き上げられたのに反抗しようとしなかったし、灯油をかけられてさえ逃げようとはしなかった。いったいこれはどういうことなのでしょう、優子さんはいったいなぜそんなにも清音さんになされるがままだったのですか?」
ゆっくりと政義は考えた。吐き気を感じていた。それが、部屋の換気の悪いせいか、それとも暑いせいなのかわからない。ただ、どうしようもなく悲しかった。やるせない気持ちだったのだ。
「優子はぼんやりとすることが多かった。空中の一点を見つめたまま無表情にじっと動かなくなるのです。そう、まるで人形のようだった。妻があの状態になるとなかなか目が覚めなかったのですよ。肩を激しく揺さぶるか、それとも耳の近くで名前を叫ぶか、自分で目覚める時なんてほんの偶然だったのです。だからたとえ地面に寝かされたとしても……」
目を閉じると優子の燃える姿が浮かぶ。
すまない、思い出すたびに政義は謝らなければ気が済まされないのだ。
すまない。
私が不幸の張本人なのだ。
「ああ、ベラドンナの実だ」
医者は溜め息のように声を吐き出した。
「机の上のこれが清音さんと優子さんを罠《わな》にはめたとしか言いようがない。しかし、ひとりの少女から人間と人形の境目を奪ったこのような恐ろしい植物が、いったいなぜあなたの敷地に生えていたのですか?」
政義は額に指を当てたまま苦悩するようにしばらく顔をうつむけていたが、やがて薄暗い声音《こわね》で語りだした。
「鳥越家というのは、昔からある名家なのです。昔から、しかし、実をいうとわたしには鳥越家の血など流れてはいないのです」
政義の声は僅《わず》かに震えていた。
「何代か前、子供を連れた女が鳥越家の前で行き倒れていたという話を母から聞いた覚えがあります。それが因縁の発端でした」
「因縁、ですか」
「ええ、当時の鳥越家の主人がその子供連れの女を介抱《かいほう》してやったのがいけなかったのです。母ははっきりと言いませんでしたが、行き倒れていたその女は鳥越家の主人に取り入ったのだと思います。いえ、取り入ったに違いないのです。なぜなら、そのために鳥越家の前で行き倒れたのですから」
政義は酷く悲しかった。
「鳥越家の主人には妻がいましたが、子供を連れた女が鳥越家に米た途端になぜか死んでしまったのだそうです。そうなると鳥越家の主人は行き倒れていた女をすぐに新しい妻にした」
「新しい妻に……」
「ええ、そうです。ところがそれで終りではなかった! 行き倒れていた女が鳥越家の人間になるとすぐ、鳥越家の主人も死んでしまったのです!」
医者が唾《つば》を飲み込んだ。
「行き倒れていた女とその子供が鳥越家を引き継いだ。わたしは、その時に女が連れていた子供の血を引いているのであって、鳥越家の血を引いているわけではないのです!」
政義は涙をこらえることができなかった。
「突然死んだ鳥越家の主人とその妻! ああ、胸が張り裂けそうだ! わたしの祖先は二人を毒殺して鳥越家を乗っ取ったのに違いない! 女が鳥越家にやってきた時、連れていた子供の手には花が握られていたと聞きました。今なら花の正体がわかる。子供の握っていた花こそベラドンナの花だったのだ! 集落の人間が鳥越家に冷たいまなざしを向けるのは結核のためだけではないのですよ! 集落の人間は恐らく、わたしの祖先が鳥越の家にした仕打ちを知っているのに違いないのです!」
医者は政義を静めようとしたが、政義は立ち上がって固く握り締めた拳《こぶし》を震わせた。
「因縁なのです。これは、わたしの体に脈々と受け継がれた呪《のろ》われた運命。鳥越の先祖の復讐《ふくしゅう》なのです! ああ、どうすることもできない。優子を殺してしまったのは恐らく、悪魔と契約を結んだ者の末裔《まつえい》であるわたしなのだ! いや、優子だけではない! 前の妻も、清音さんも、全ての不幸の元凶はわたしなのだ!」
政義は天井に顔を向けて叫び、流れ落ちる涙を拭きもせずに泣き続けた。しばらく、政義がそうしている間も医者は眉間に皺を寄せ、政義の涙が涸《か》れ果てるまで黙って目を閉じていた。
必然だったのでしょうか。
静かに、政義は机の上の黒い実に目を向けたまま声を出した。自分が立ち上がっていることすら気づかない。心から全ての色が抜け落ちていた。
「こうなることは、悪魔の花を持った子供とその母親が鳥越家の門前で芝居を始めた時から決まっていたのでしょうか」
医者はしばらく黙っていたが、机の上の黒い実を元通りハンカチに包むと立ち上がって政義の手に握らせた。医者の手もまた震えていたことに政義は気づいた。
「すぐに燃やしてしまいなさい。この実だけでなく、敷地に生えているベラドンナを全て燃やしてしまいなさい。そしてあの子を迎えに行くのです。わたしがそれまでにあの子の後遺症を治療しておきましょう。いえ、治療できていなくとも、あなたは迎えに行くのです。なぜなら、二人ぼっちじゃあありませんか。心が落ち着いてきたらゆっくり時間をかけて話をしなさい。あなたも、あの子も辛《つら》いでしょうが、ゆっくり、ゆるやかに受け入れなさい。因縁など、あなたの代で終りにしてしまいなさい」
医者から手渡されたベラドンナの実を握り締め、政義は崩れ落ちるようにして木の床に膝《ひざ》をついた。医者が静かに部屋から出て行った後も、政義の漏《も》らす嗚咽《おえつ》は部屋の中に聞こえていた。
病院のどこか遠くから赤児の泣き声がした。
ねえ、お父さん、ちゃんと聞いてるの? わたしね、好きな人ができたのよ。立派な人。ねえ、お父さんも好きよ。
清音は自分の隣に腰かけた父の形見の人形に語り続けた。窓から明るい陽射《ひざ》しが射し込み、ベッドの上の清音にやさしく降りそそいだ。風が吹くと病室の白いカーテンはふわりとゆれ、まるでおいでおいでをしているようだった。
お父さん、今日は暖かい日ね。家に帰ったらあの人の洗濯物を干さなくてはいけないね。
しかし、人形がなかなか語りかけてくれないので清音は首を傾《かし》げた。
少し寂《さび》しかった。
[#改ページ]
単行本 一九九六年一〇月 集英社刊
底本
集英社文庫
二〇〇〇年五月二五日 第一刷