ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説
〈底 本〉文春文庫 昭和五十六年七月二十五日刊
(C) Kimiko Umakoshi 2001
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目  次
玉、砕ける
飽満の種子
貝塚をつくる
黄 昏 の 力
渚 に て
ロマネ・コンティ・一九三五年
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ロマネ・コンティ・一九三五年
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玉、砕ける

ある朝遅く、どこかの首都で眼がさめると、栄光の頂上にもいず、大きな褐色のカブト虫にもなっていないけれど、帰国の決心がついているのを発見する。一時間ほどシーツのなかでもぞもぞしながら物思いにふけり、あちらこちらから眺めてみるけれどその決心は変らないとわかり、ベッドからぬけだす。焼きたてのパンの香りが漂い、飾窓の|燦《きらめ》きにみたされた大通りへでかけ、いきあたりばったりの航空会社の支店へ入っていき、東京行きの南回りの便をさがして予約する。香港で一日か二日すごしたいからどうしても南回りの便でないといけないのである。予約をすませてガラス扉をおして歩道へでようとするとき、改行なしにつづいてきた長い文章にピリオッドがうたれたように感ずる。つぎに改行になって文章はつづいていくはずだけれど何が書かれるのかまったくわからないとも感ずる。しかし、その未知には昂揚が感じられない。出国のときには純白の原稿用紙をまえにしたような不安の新鮮な輝きがあり、|朦朧《もうろう》がいきいきと|閃《ひらめ》きつつ漂っているのだが、帰国となると、点を一つうって、行を一つ改めるだけのことで、そのさきにあるのはやはり朦朧だけれど、不安の閃きもない。ちょっと以前までは、そんな、ただ行を一つあらためるだけのことにも、|褪《あ》せやすいけれどそこはかとない昂揚をおぼえたものだが、年をとるにつれて何も感じなくなってしまった。行と行のあいだに何か謎のような涼しい淵があったのに、いまは水枯れした、しらちゃけた河原を感ずるだけである。ホテルにもどってスーツケースの荷作りをはじめると、確実に体の背後か左右のどこかに|黴《かび》が芽をだすのをおぼえる。エレベーターで上ったり下ったりし、フロントへいって勘定をすませ、スーツケースをはこびだし、スーツケースと体を空港行きのバスにつみこみ、せいぜいてきぱきと身ぶりにふけってみても、黴はたちまちはびこって体を|蔽《おお》いはじめる。肩、胸、腹、足のいたるところにそれはみっしりと繁殖し、私の外形を完全に保ったままでじわじわと|蚕食《さんしよく》にかかる。東京に近づけば近づくだけ黴はいよいよくまなく繁殖して、私は憂鬱に犯されるままになり、無気力になっていく。長大なジュラルミンの円筒に入れられて綿雲の海を疾過しつつ、数カ月の浮遊をふりかえって、昨日か一昨日かに終ったばかりのことなのに、まるで十年以前のことだったような郷愁をさそわれる。知りすぎて嫌悪しぬいたあげくとびだしたはずのところへふたたびおめおめと帰っていかなければならない。戦争をしないうちに敗れてしまった軍の敗残兵のようにうなだれてもどっていかなければならない。毎度毎度性こりもなく繰りかえす愚行の輪、その一つをふやしただけにすぎないのか。いまさらのようにその思いに圧倒されて、腕も足も狭いシートに束縛されたままになる。羽田につけば税関のどさくさにまぎれてちょっと忘れるだろうが、一枚のガラス扉をおしてそこをでてしまえば、ふたたび黴の大群が、どうしようもなく、もどってくるのだ。一カ月か二カ月すれば私は青や灰のもわもわとした黴に蔽われて雪だるまのようになってしまう。わかりきっているのだけれど、そこへもどっていくしかない。適した場所が見つからなかったばかりにいやいやもどっていくしかない。消えられなかったばかりにはじきかえされる。
九竜半島の小さなホテルに入ると、よれよれの古い手帖を繰って張立人の電話番号をさがして、電話をかける。張が留守のときには、私は菜館のメニュを読むぐらいの中国語しか喋れないから、私の名前とホテルの名前だけをいって切る。翌朝、九時か十時頃にあらためて電話をすると、きっと張の、初老だけれど迫力のある、|炸《はじ》けたような、流暢な日本語の挨拶が耳にとびこんでくる。そこでネイザン・ロードの角とか、スター・フェリーの埠頭とか、ときには奇怪なタイガー・バーム公園の入口とかをうちあわせて、数時間後に会うことになる。張はやせこけてしなびかかった初老の男だが、いつも、うなだれ気味に歩いてきて、突然顔をあげ、眼と歯を一度に|剥《む》いて破顔する癖がある。笑うと口が耳まで裂けるのではあるまいかと思うことが、ときにはあるけれど、タバコで色づいた、そのニュッとした歯を見ると、私はほのぼのとなる。ニコチン染めのそのきたならしい歯を見たとたんに歳月が消える。顔を崩して彼がいちどきに日本語で何やかや喋りはじめると、私は黴の大群がちょっとしりぞくのを感ずる。それはけっして消えることがなく、いつでもすきがあればもたれかかり、蔽いかかり、食いこみにかかろうとするが、張と会ってるあいだは犬のようにじっとしている。私は張と肩を並べて道を歩き、目撃してきたばかりのアフリカや中近東や東南アジアの戦争の話をする。張ははずむような足どりで歩き、私の話をじっと聞いてから、舌うちしたり、|呻《うめ》いたりする。そして私の話がすむと、最近の大陸の情勢や、左右の新聞の論説や、しばしば魯迅の言説を引用したりする。数年前にある日本人の記者に紹介されていっしょに食事したのがきっかけになり、その記者はとっくに東京へ帰ってしまったけれど、私は香港へくるたびに張と会って、散歩をしたり、食事をしたりする習慣になっている。しかし、彼の家の電話番号は知っているけれど、招かれたことはなく、前歴や職業のこともほとんど私は知らないのである。日本の大学を卒業しているので日本語は流暢そのもので、日本文学についてはなみなみならぬ素養の持主だとはわかっているけれど、小さな貿易商店で働きつつ、ときどきあちらこちらの新聞に随筆を書いてポケット・マネーを得ているらしいとしかわからない。彼は私をつれて繁華なネイザン・ロードを歩き、スイスの時計の看板があって『海王牌』と書いてあれば、それはオメガ・シー・マスターのことだと教えてくれる。小さな本屋の店さきでよたよたの挿絵入りのパンフレットをとりあげ、人形がからみあっている画のよこに『直行挺身』という字があるのを見せ、正常位のことだと教えてくれたりする。また、中国語ではホテルのことは××酒店、レストランのことは△△酒家という習慣であるけれど、なぜそうなのかは誰にもわからないと教えてくれたりするのである。
最近数年間、会えばきっと話になるけれどけっして解決を見ない話題がある。それは東京では冗談か世迷言と聞かれそうだが、ここでは痛切な主題である。白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ(殺せ)!』、『ターパ(打て)!』、『タータオ(打倒)!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。何かそんな例はないものか。名句はないものか。
はじめてそう切りだしたのは私のほうからで、どこか裏町の小さな飲茶屋でシューマイを食べているときだった。いささか軽い口調で謎々のようないいかたをしたのだったが、張はぴくりと肩をふるわせ、たちまち苦渋のいろを眼に浮べた。彼はシューマイを食べかけたまま皿をよこによせ、タバコを一本ぬきだすと、鶏の骨のようにやせこけた指で大事そうに二度、三度撫でた。それからていねいに火をつけると深く吸いこみ、ゆるゆると煙りを吐きながら、|呟《つぶや》いた。
「馬でもないが虎でもないというやつですな。昔の中国人の挨拶にはマーマーフーフーというのがあった。字で書くと馬々虎々です。なかなかうまい表現で、馬虎主義と呼ばれたりしたもんですが、どうもそう答えたんではやられてしまいそうですね。あいまいなことをいってるようだけれど、あいまいであることをハッキリ宣言してるんですからね、これは。これじゃ、やられるな。まっさきにやられそうだ。どう答えたらいいのかな。厄介なことをいいだしましたな」
つぎに会うときまでによく考えておいてほしいといってその場は別れたのだったが、張はつよい打撲をうけたような顔で考えこみ、動作がのろのろしていた。シューマイを食べかけたままほうってあるのでそのことをいうと、彼は苦笑して紙きれに何か書きつけ、食事のときにはこれが必要なんですといった。紙きれには『莫談国事』とあった。政治の議論をするなということであろう。私は何度も不注意を謝った。
その後、一年おいて、二年おいて、ときには三年おいて、香港に立寄るたびに張と会い、散歩したり食事したりしながら――すっかり食事が終ってからときめたが――この命題をだしてみるのだが、いつも彼は頭をひねって考えこむか、苦笑するか、もうちょっと待ってくれというばかりだった。私は私で彼にたずねるだけで何の知恵も浮ばなかったから、謎は何年たっても謎のまま苛酷の顔つきの朦朧として漂っている。もしそんな妙手があるものとすればみんながみんな使いたがるだろうし、そういう状況は続発しつづけるばかりなのだから、そうなれば妙手はたちまち妙手でなくなる。だから、やっぱり謎のままでこれはのこるしかないのかもしれなかった。しかし、ときには、たとえば張があるとき老舎の話をしてくれたとき、何か強烈な暗示をうけたような気がした。ずっと以前のことになるが文学代表団の団長として老舎は日本を訪れたが、その帰途に香港に立寄ったことがある。張はある新聞にインタヴュー記事を書くようたのまれてホテルへでかけた。老舎は張に会うことは会ってくれたが、何も記事になるようなことは語ってくれなかった。革命後の知識人の生活はどうですかと、しつこくたずねたのだけれど、そのたびにはぐらかされた。あまりそれが度重なるので、張は、老舎はもう作家として衰退してしまったのではないかとさえ考えはじめた。ところがそのうちに老舎は田舎料理の話をはじめ、三時間にわたって|滔々《とうとう》とよどみなく描写しつづけた。重慶か、成都か。どこかそのあたりの古い町には何百年と火を絶やしたことのない巨大な鉄釜があり、ネギ、白菜、芋、牛の頭、豚の足、何でもかでもかたっぱしからほうりこんでぐらぐらと煮たてる。客はそのまわりに群がって|柄杓《ひしやく》で汲みだし、椀に盛って食べ、料金は椀の数できめることになっている。ただそれだけのことを、老舎は、何を煮るか、どんな泡がたつか、汁はどんな味がするか、一人あたり何杯ぐらい食べられるものか、徹底的に、三時間にわたって、微細、生彩をきわめて語り、語り終ると部屋に消えた。
「……何しろ突然のことでね。あれよあれよというすきもない。それはもうみごとなものでしたね。私は老舎の作品では『四世同堂』よりも『駱駝祥子』のほうを買ってるんですが、久しぶりに読みかえしたような気持になりました。あの『駱駝祥子』のヒリヒリするょうな|辛辣《しんらつ》と観察眼とユーモアですよ。すっかり堪能して感動してホテルを出ましたね。家へ帰っても寝て忘れてしまうのが惜しくて、酒を飲みましたな。焼酎のきついやつをね」
「記事にはしなかったの?」
「書くことは書きましたけれど、おざなりのおいしい言葉を並べただけです。よくわかりませんが老舎は私を信頼してあんな話をしてくれたように思ったもんですからね。それにこの話は新聞にのせるにはおいしすぎるということもあって」
張はやせこけた顔を皺だらけにして微笑した。私は剣の一閃を見るような思いにうたれたが、その鮮烈には哀切ともつかず痛憤ともつかぬ何事かのほとばしりがあった。うなだれさせられるようなものがあった。二つの椅子のあいだには抜道がないわけではないが、そのけわしさには息を呑まされるものがあるらしかった。イギリス人はこのことを“Between devils and deep blue sea”(悪魔と青い深海のあいだ)と呼んでいるのではなかったか?……
「これは風呂屋ですよ。澡堂というのは銭湯のことです。ただ湯につかるだけではなくて垢も落してくれるし、按摩もしてくれるし、足の皮も削ってくれるし、爪も切ってくれます。あなたは裸になって寝ころんでるだけでいいんです。眠くなれば好きなだけ眠ればいいんです。澡堂もいろいろですけれど、ここは仕事がていねいなので有名です。帰りには垢の玉をくれます。いい記念ですよ。一つどうです。布を三種類、硬いのやら柔らかいのやらとりかえて、手に巻いて、ゴシゴシやる。びっくりするほどの垢がでる。それをみんな集めて玉にしてくれる。面白いですよ」
明日は東京へ|発《た》つという日の午後遅く、張と二人でぶらぶら散歩するうち、『天上澡堂』と看板をかけた家のまえを通りかかったとき、張がそういって足をとめた。私がうなずくと彼はガラス扉をおして入っていき、帳場にいた男にかけあってくれた。男は新聞をおいて張の話を聞き、私を見て微笑し、手招きした。張は用事があるのでこのまま失礼するが明日は空港まで見送りにいくといって、帰っていった。
帳場の男は椅子からたちあがると、肩も腰もたくましい大男であった。手招きされるままについていくと、壁の荒れた、ほの暗い廊下を通って小さな個室につれこまれた。個室には簡素なシングル・ベッドが二つあり、一つのベッドに白いバス・タオルを巻きつけた客が|俯《うつぶ》せになって寝ていて、爪切屋らしい男が一本の足をかかえこんで、まるで馬の|蹄《ひづめ》を削るようにして|踵《かかと》の厚皮を削っていた。帳場の男が身ぶり手真似で教えるので私はポケットの財布、パスポート、時計などをつぎつぎと渡す。男はそれをうけとると、サイド・テーブルのひきだしにみんな入れ、古風で頑強な南京錠をかけた。その鍵は手ずれした組紐で男の腰のベルトにつながれている。安心しろという顔つきで男は微笑し、腰を二、三度かるくたたいてみせて出ていった。服やズボンをぬいで全裸になると、白衣を着た、|慈姑《くわい》のような、かわいい少年が入ってきて、バス・タオルを手早く背後から一枚、腰に巻きつけてくれ、もう一枚、肩にかけてくれる。手真似で誘われるままに個室を出ると、草履をつっかけてほの暗い廊下をいく。そこが浴室らしいが、べつの少年が待っていて、手早く私の体からバス・タオルを剥ぎとった。ガラス扉をおすと、ざらざらのコンクリートのたたきがあり、錆びた、大きなシャワーのノズルが壁からつきでていて、湯をほとばしらせている。それで体を洗う。
浴槽は大きな長方形だが、ふちが幅一メートルはあろうかと思えるほど広くて、大きくて、どっしりとした大理石である。湯からあがった先客がそこにタオルを敷いてもらってオットセイのようにどたりとよこたわっている。全裸の三助が手に繃帯を巻きつけてその団々たる肉塊をゴシゴシこすっている。おずおずと湯につかると、それは熱くもなく、冷たくもなく、何人もの男たちの体で練りあげられたらしくどろんとして柔らかい。日本の銭湯のようにキリキリと刺しこんでくる鋭い熱さがない。ねっとり、とろりとした熱さと重さでたゆたっている。壁ぎわにたくましいのと、細いのと、二人の三助が手に繃帯を巻いて全裸でたち、私があがるのを待っている。たくましい男のそれがちんちくりんのカタツムリのように見え、やせた男のが長大で図太くて罪深い紫いろにふすぼけて見える。それは何百回、何千回の|琢磨《たくま》でこうなるのだろうかと思いたいような、実力ある人のものうさといった顔つきでどっしりと垂れている。嫉妬でいらいらするよりさきに思わず見とれてしまうような逸品であった。それを餓鬼のようにやせこけた、貧相な小男がぶらさげていて、男の顔には誇りも|傲《おご》りもなく、ただ私が湯から這いあがってくるのをぼんやりと待っている。私が両手でかくしながら湯からあがると、男はさっとバス・タオルをひろげ、私に寝るように合図する。
張がいったように垢すりの布は三種ある。一つは麻布のように硬くてゴワゴワし、これは腕や尻や背や足などをこする。ちょっと綿布のように柔らかいのは脇腹とか、腋とかをこするためである。もっとも柔らかいのはガーゼに似ているが、これは足のうらとか、股とか、そういった、敏感で柔らかいところをこするためである。要所要所によってその三種の布をいちいち巻きかえとりかえ、そのたびにまるで繃帯のようにしっかりと手に巻きつけてこするのである。手をとり、足をとり、ひっくりかえし、裏返し、表返し、男は熟練の技で、いささか手荒く、けれど芯はあくまでも柔らかくつつましやかにといったタッチでくまなくこする。しばらくすると、ホ、ホウと息をつく気配があり、口のなかでアイヤーと呟くのが聞えたので、薄く眼をあけてみると、私の全身は、腕といわず腹といわず、まるで小学生の消しゴムの屑みたいな、灰いろのもろもろで蔽われているのだった。男は熱意をおぼえたらしく、いよいよ力をこめてこすりはじめる。それはこするというよりは、むしろ、皮膚を一枚、手術としてでなく剥ぎとるような仕事であった。全身に密着した垢という皮膚をじわじわメリメリと剥ぎとるような仕事であった。男は面白がって、ひとりでホ、ホウ、アイヤーと呟きつつ、頭のほうへまわったり足のほうへまわったりして丹念そのものの仕事にはげんでくれた。そのころにはもう私は羞恥をすべて失ってしまい、両手をまえからはなし、男が右手をこすれば右手を、左手をこすれば左手を、なすがままにまかせた。一度そうやってゆだねてしまうと、あとは泥に全身をまかせるようにのびのびしてくる。石鹸をまぶして洗い、それを湯で流し、もう一度浴槽に全身を浸し、あがってきたところで二杯、三杯頭から湯を浴びせられ、火のかたまりのようなお絞りで全身をくまなく拭ってくれる。
「ハイ、これ」
そんな口調でニコニコ笑いながら手に垢の玉をのせてくれた。灰いろのオカラの玉である。じっとり湿っているが固く固く固めてあって、ちょうど小さめのウズラの卵ぐらいあった。それだけ剥ぎとられてみると、全身の皮膚が赤ん坊のように柔らかく澄明で新鮮になり、細胞がことごとく新しい漿液をみたされて歓声あげて|雀躍《こおど》りしているようであった。
個室にもどってベッドにころがりこむと、かわいい少年が熱いジャスミン茶を持って入ってくる。寝ころんだままでそれをすすると一口ごとに全身から汗が吹きだしてくる。少年が新しいタオルを持ってきて優しく拭いてくれる。爪切屋が入ってきて足の爪、手の爪、踵の厚皮、魚の目などを道具をつぎつぎとりかえて削りとり、仕事が終ると黙って出ていく。入れかわりに按摩が入ってきて黙って仕事にかかる。強力で敏感な指と掌が全身をくまなく這いまわって、しこりの根や巣をさがしあて、圧したり、撫でたり、つねったり、叩いたりして散らしてしまう。どの男も丹念でしぶとく、精緻で徹底的な仕事をする。精力と時間を惜しむことなく傾注し、その重厚な繊細は無類であった。彼らの技にはどことなく重量級の選手が羽根のように軽く縄跳びをするようなところがある。涼しい|靄《もや》が男の強靭な指から体内に注入され、私は重力を失って、とろとろと甘睡にとけこんでいく。
「私のシャツ」
「………?」
「昨日まで着てたシャツですよ」
「………」
翌日、ホテルの部屋へやってきた張に、テーブルにのせた垢の玉をさしてそういったが張はひきつれたように微笑するだけだった。彼はポケットから一服分の茶の包みをとりだし、全香港で最高の茶をさがしてきました、東京で飲んで下さいといったが、そのあと黙りこんで、ぼんやりしていた。三助、爪切屋、按摩、少年、お茶、睡眠、一つ一つをかぞえて私はこまかく説明して絶讚し、あれほどまでに人と体を知りぬいて徹底的に没頭できるのは手に爆弾を持たないアナキストとでもいうしかないという意見を述べたが、張は何をいっても発作のようにうなずいたり、微笑したりするだけで、あとは暗澹とした眼になって壁を眺めて茫然としていた。あまりそれがひどいので、私は話すのをやめ、スーツケースの荷作りにとりかかった。澡堂の個室で私は完全に気化してしまい、形をとりもどして服を着て戸外にでたときは、服、シャツ、パンツ、靴、ことごとく肉とのあいだにすきまができて薄寒いほどで、街の音や匂いや風のたびによろめくかと感ずるほどだった。しかし、一晩眠ったら、骨も筋肉ももとの位置にもどり、皮膚には薄いけれど濁った皮膜ができて赤裸の不安を消している。垢の玉はすっかり乾燥して縮んでしまい、ちょっと指がふれただけでも砕けてしまいそうなので、注意に注意して何重にもティッシュ・ペーパーでくるんでポケットに入れた。
空港へいって何もかも手続を終り、あとは別れの握手をするばかりというときになって、突然、張がそれまでの沈黙をやぶって喋りはじめた。昨夜、新聞社の友人に知らされた。北京で老舎が死んだという。紅衛兵の子供たちによってたかって殴り殺されたのだという説がある。いや、それを嫌って自宅の二階の窓からとびおりたのだという説もある。もう一つの説では川に投身自殺したのだともいう。状況はまったくわからないが、少くとも老舎が不自然死を遂げたということだけは事実らしい。それだけは事実らしい。
「なぜです?」
「わからない」
「なぜ批判されたんです?」
「わからない」
「最近どんなものを書いてたんです?」
「読んでない。わからない」
「………」
ふるえそうになって張を見ると、いまにも落涙しそうになって、やせこけた肩をつっぱっている。日頃の沈着、快活、ユーモア、すべてが消えてしまい、怒りも呪いもなく、ただ不安と絶望で子供のようにすくんでいる。辛酸を耐えぬいてきたはずの初老の男が、空港の人ごみのなかで、眼を赤くして、迷い子のようにたちすくんでうなだれている。
「時間です」
「………」
「また来て下さい」
「………」
「元気でネ」
張はおずおず手をあげると、軽く私の手をつまんで体をひるがえし、うなだれたまま、のろのろと人ごみのなかに消えていった。
機内に入って座席をさがしあて、シート・ベルトを腰に締めつけたとき、突然、昔、北京の自宅に彼を訪問したときの記憶がよみがえった。やせこけてはいるが頑強な体躯の老作家が、突然、たくさんの菊の鉢から体を起し、寡黙で|炯々《けいけい》とした眼でこちらをふりかえるのが見えた。その眼と、たくさんの菊の花だけが鮮やかな遠くに見えた。なにげなくポケットから紙包みをとりだしてひらいてみると、灰いろの玉はすっかり乾いて粉々に砕けてしまっていた。
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飽満の種子

永続的快感の状態にある阿片喫煙者を見て堕落だと責めるのは、例えば大理石を見て、これはミケランジェロにそこなわれた結果だと言い張り、画布を見て、これはラファエルに汚されたのだと叫び、紙を見て、これはシェークスピアにけがされたのだとあわれみ、沈黙を見て、これはバッハに破られたのだと云うと同じことになる。
阿片喫煙者、これほど不純でない傑作はまたと他にはない。だがすべてに分配を求めてやまない社会が、この傑作を、目に見えない美、切売りの出来ない美だと認めて、排斥するのも、また極めて当然だ。
ジャン・コクトォは『阿片』(堀口大學訳)の一節にそう書いている。これは阿片中毒を治療するために療養所へ入ったとき彼が思いつくままにメモをとった語録である。《訳者あとがき》によるとコクトォは一九二五年と一九二八年の二回、療養所へ入ったが、阿片そのものとはその後も“中国人流の上手な喫み方”で接しつづけ、一生切れなかったらしい。一九三六年に世界一周旅行の途中、日本に立寄ったときも夜ふけにホテルのボーイたちが寝静まった頃を見はからって浴室にかくれて喫っていたらしい。香港で入手した“パリあたりでは絶対に得られない最高級品、赤獅子じるしのソル・カンペアドール”と訳者は親しく目撃したらしい筆致で書いている。そのときのコクトォの態度は“いじらしいほどつつましく、人目を恐れて”いたとある。
阿片中毒を治療するための禁断療法で患者がどれほど苦しむものか、私は知らない。コクトォはその苦痛をつぶさに、あらわに描出していないので、彼の場合どういうぐあいだったかは、ほとんどといってよいくらいわからないのである。あえてそれを書こうとしないところに彼の剛毅な|克己《こつき》の力を感じさせられはするのだが、その苦痛を想像するとなれば、たとえばヘロイン患者の闘病記や観察記などで読んだことをおぼろに思いだしたりするよりほかに、補いようがないわけである。
阿片につきまとう誤解、偏見、幻想、神話、伝説の類を彼はこの語録のなかで思いつくままにかたっぱしから論破している。そして阿片のひきおこす澄明でおだやかな|静謐《せいひつ》の特質を、それにおびえつつ、さまざまな角度から分析している。ときには即興でつぎのような小話を創作しているのだが、これには痛烈な正確さがある。
普通人――のらりくらりしている阿片喫煙者よ、なぜそんな生活をしているのか。いっそ窓から身を投げて、死んだ方がましではないか。
阿片喫煙者――駄目、僕は浮ぶから。
普通人――いきなり君の|身体《からだ》は地べたへ落ちるから、大丈夫死ねるよ。
阿片喫煙者――身体のあとから、ゆっくり僕は地べたへ行くはずだ。
その夜、宿へ帰って、わたしはアヘンの白夜なるものをはじめて経験した。のびのびと横になって、少しも睡りたいとは思わず、頭が冴えているのである。さまざまの思いに心みだれているときには、眼の冴えているのは苦しいものだが、この状態にあるときには心はまことにのどかである――幸福であるというのさえも当らないだろう――幸福なときは脈搏がみだれるものである。そうしているうちに、突如として、何の予告もなく眠ってしまう。これほど深い、完全な一夜の睡眠を味ったことがないほど眠って、さて眼がさめ、壁の時計の発光塗料の文字盤は、いわゆる現実の時間としては二十分しか経っていないことを示すのだ。(田中西二郎訳)
これはグレアム・グリーンが一九五三年にサイゴンを訪れたときに阿片を吸った経験の一節である。ヴェトミンとフランス連合軍の戦争が末期にさしかかっていた頃である。グリーンはヴェトナムに四度出かけ、『ライフ』や『サンデー・タイムズ』の特派員として記事を送ったりした。サイゴン、ハノイ、ヴィエンチャン、ルアン・プラバン、プノムペンなどと活溌に移動しながら行くさきざきで阿片を吸ってその経験を書きとめたが、しばしば最前線にも出かけ、砲声のとどろくなかで食事をしたり、村の教会で祈ったりした。それらの経験を蒸溜してできたのが『おとなしいアメリカ人』である。作品とルポを読みくらべてみると彼が経験のうちの何を捨て、何を生かしたかがよくわかって興味が深い。ときにはルポにも作品にも共通してとりあげられているものがいくつかあり、そのうちの一つが阿片、一つが戦場体験である。いずれもかくしておくことができず、作家として不利だとわかっていながら、二度書くのである。こういう点を読んでいると、フィクションを書くことを職業としているはずの人が、ことに私小説家ではないはずのイギリス人の作家なのに、意外に不器用で野暮で、やっぱり自身からは逃げられないものなんだなと、あらためて感じさせられる。一羽のアヒルを十六通りに料理しわけてみせる中国人のコックのみごとさをグリーンは指摘したことがあるが、彼ほどの才能ゆたかな作家でも、そういう点ではコックに譲らざるを得ないものらしい。そうと知らされても軽視どころか、むしろ好感を抱かせられるし、ときには尊敬をおぼえることさえある。おそらくそれは自己弁護や自己宣伝として書いているのではないからであろう。
グリーンのこの『インドシナ日記抄』を読むと、ある夜などはヴェトナム人の警察署長と私服刑事二人がさきにたって彼をフュームリー(阿片窟)に案内していたりする。当時この市ではかなりおおっぴらに、半ば公然と阿片が吸われていたものらしい。小さな予備校の二階、煉瓦のような革張りの枕のある裏町のアパート、漢方薬屋の倉庫の二階、運転手の杭上家屋、床を這っていかねばならないくらい屋根の低い|藁葺《わらぶき》小屋の二階、ネズミとゴミ箱のひしめく空地のなかの家など、ロンドン紳士の眼から見ればほとんど|塵芥《じんかい》捨場と映るような場所にもぐりこんでグリーンは吸い歩いている。四服から八服と、分量が次第にふえていく。はじめは白夜だったのに次第に夢が登場したりする。どんなにひどい悪夢でもそれが夢であるかぎり眼がさめさえすれば陽に出会った霧のようにたちまち散ってしまうはずだが、その二つ三つをくわしく書きとめているところを見ると、さめてからすぐにメモをとったか、一日中忘れるまいと意識を凝らしてすごしてから夜になって書きつけたか。どの感想も精密なのは阿片がまだ珍しくて新鮮だったからだろうと思う。そして、どこかで、『飽満の種子』という熟語を書きのこしている。
コクトォはマルセイユ・サイゴン航路の船に乗ったとき、ある港で阿片趣味のある事務長にさそわれて夜ふけにこっそり脱船して港町の阿片窟へいったことをメモしているが、それは東南アジア、近東、インド、地中海岸の何処とも知れない、何処ともとれる場所のように描写してある。しかし、彼の語録は大半の努力を阿片のひき起す内面的効果の分析にそそいでいるのが特長である。グリーンは中毒にはならなかったように見えるが、内面的効果のほかに|煙管《パイプ》の持ち方や軟膏を火にあぶるそのやりかたなども簡潔にだけれど描写している。ド・クィンシーは阿片をチンキにしたものを液のままで服用するのだが、コクトォとグリーンは煙管でいちいち煙にして吸っている。しかしコクトォは煙管の使い方をまったくといってよいほど書きのこしていないのにグリーンは簡潔だけれど的確に書きのこしている。二人に共通しているのは二人ともがこの煙管で吸う愉しみを何よりも好ましいものとして歓迎していることである。
喫む者が阿片を見棄てることは極めて稀だ。阿片がすべてをめちゃめちゃにして、喫む者を見棄てることはよくある。阿片は生きており、気ままで急に喫む者に矛を向けることもする。分析しても解らない物質だ。阿片は病的に鋭敏な晴雨計だ。湿気の多いお天気の日は、パイプが漏る。海辺へ行くと、阿片は脹らんで、燃えなくなる。雪や、雷雨や、|北風《ミストラル》が近い時は、利かなくなる。ある種のおしゃべりが席にいたりすると、まるで効力を失ってしまう。
コクトォはそう書いている。
グリーンはあるときこう書いた。
ヘリコプターの音はアヘンの吸飲に奇妙な効果をおよぼした。そのために焔の上にかざした軟膏の泡をたてるひそやかな音が聞えなくなり、したがって煙管が何の音もさせないためにアヘンがその異香の大部分を失ったような気がするのである――戸外では巻煙草が味がなくなるのと同様に。
サイゴンでの私のわずかな経験では、南国の乾季なので雪や雷雨や北風のために煙りがきかなくなるということはなかったけれど、ヘリコプター、気まぐれな町角の銃声、日本製オートバイの洪水のような狂騒などの雑音がたえまなくひしめいていたから、それに耳や意識を奪われて、いわゆるユーフォリア、|拈華微笑《ねんげみしよう》といいたい状態は十回のうち三回生じたかどうか。しかも、私は完全な健康体であったし、黄昏になれば毎夜きっとなにがしかコニャック、ウィスキー、ウォツカ、焼酎、手もとにある酒なら何でも、口に含まずにはいられない習慣だったので、阿片につぎこんだ金のかなりの額はただの煙りとなって消えてしまったことになる。阿片はコクトォのいうように嫉妬深い。魔力はあるけれどひめやかな性質で、雪、雷雨、北風などのほかに、満腹、酒精、牛乳、酸っぱい匂いなどに出会うと、まるで日なたにおかれた薄氷の一片みたいに消えてしまうのである。たしかに戸外の物音に気をとられると魔力は半減するし、たっぷりした中国料理のあとではいつものチンキの小瓶一つでは足りなくてもう一瓶使って八服喫っても効果はあやふやなものだった。ことに一九六八年のテット(正月)攻撃のあとではサイゴンの空は昼となく夜となくヘリコプターのとどろきにみたされ、地上ではひっきりなしに日本製オートバイの爆音がとどろきわたっていたから、異香のかなたに異郷としての彼岸をかいま見るのはなかなか容易ではなかった。
満腹、酒精、牛乳、酸っぱい匂い、騒音などのほかに、このケシの実の敏感さを語る例としては、強い茶を一杯飲んだあとではただそれだけでもう阿片はそっぽ向いてしまうのだと教えられたこともあった。とくに増量しなくても、ひたすら飲まず、食わずで、タバコも吸わずに、静かな場所に体をよこたえて阿片を吸えば、初心者の四服でもたちまち効果が――ただし|眩暈《げんうん》ではなくきわめてゆるやかな、おだやかな、そしてさからいようのない潮として――手や足にあたたかく霧がさしてくる。ここに阿片の秘密と毒の特質があるように思われる。阿片の魅力を精緻に味わいたいばかりに富者も貧者とおなじように自身を無化しにかかる。富者は貧者とおなじ栄養状態に|陥《お》ちこみ、貧者は餓死までにあと一歩という状態へ陥ちこんでいく。嫉妬深いこの煙りは純粋主義者で完全主義者だから、吸う人の体内が完全に空白であるか、それにきわめて近い状態にあることをひたすら求め、拍手を一身にうけるかわりに一人で完璧な演技をやってのけようと肚をきめていて、ほかには何の関心も野心も抱いていない役者のようなところがある。吸う人はそういう性格を一種つつましくいじらしいとさえ感ずるようになって、それに呼応しようとしていそしむために、いよいよ破局を招いてしまうのであるかもしれない。ふつうに肉を食べ野菜を食べ、酒を飲み茶を飲みしたうえでけっして阿片につけ入らせることなく増量することなく吸っていたら――コクトォの“中国人流”というやり方だが――つまり垣根ごしに握手すれば、阿片は温和で爽快な疲労回復剤であるにとどまることだろう。南米のインディオがコカの葉を噛むのよりはいくらか程度の進んだものといったところにとどまるのかも知れない。しかし比類ない静謐という阿片の魔力はそれでまったくそこなわれてしまうだろうから、そんなものを何も無理して吸うことはないともいえる。彼岸をつくづくと眺め、しかも毒につけこまれずに引返すには、旅にでるしかない。
短いけれど|燦爛《さんらん》たる黄昏の雲の炎上が消え、無数のツバメとコウモリの乱舞も消えてしまうと、ウォツカのゆれる体をベッドから起して部屋をでる。薄暗い廊下を歩いて階段をおりていくと壁のあちらこちらに夕食のために這いだしたヤモリがキ、キ、キと鳴きながら影のように閃き、小さな帳場には蒼ざめた螢光燈がついて、顎に肉のつきかけた中年すぎの女主人がアオザイの首のホックをきっちりかけたまま、けだるそうに両足をそろえてソファに横坐りに坐ってカボチャの種を噛んでいる。じめじめした露地は立小便とニョク・マムと夕暮れのむらむら醗酵した匂いをたて、そこから表通りのレ・ロイ大通りに出ると無数の日本製オートバイとシクロとシクロマイの奔流で、眼が痛くなるほどの排気ガスの濃霧である。ポン引や闇ドル屋や新聞売りのはだしの子供がうろうろするチュドー通りをゆっくりと歩いてサイゴン河岸に出ると、おしゃべり岬と名のついた銀塔酒家が河につきだしたテラスにアルミのパイプ椅子を並べている。右側の突端から二つ手前の席に私は腰をおろし、33ビールとカニを注文する。カニは河口の汽水区のねっとりとした泥に棲むマッド・クラブだが、巨大な、頑強な鋏のなかに精妙な、白い、しまった、甘い肉をひそめている。それをいくつとなく叩き割ってニンニク、ニラ、タマネギ、コショウ、それに油をたっぷりまぜて大鍋でがらがらと|炒《いた》める。五年前にも、八年前にも、おなじ席にすわって食べたカニである。八年間に私は白髪だらけになったが、このカニの味はまったく変らない。
カニでなかったらハト、ハトでなかったらカニ、そうでなかったらハトとカニを同時にとるのがこの店にきたときの私の習慣である。しかも三日にあげず来るのだから、ボーイは私がつぶやいただけでビールとカニと殻を割るためのナット・クラッカーを持ってくる。そしてしばらくすると、手を拭くための蒸しタオルを持ってきてくれる。よく冷えた、ねっとりしたビールの泡がアパートを出がけにひっかけた二杯のウォツカの小さな炎を鎮め、散らしてくれる。河はすっかり昏れて暗くなり、黒人が白い歯を見せて哄笑している対岸の野立看板も、小さな漁船の造船所の火花も見えない。テラスのはしのほの暗い灯のまわりに無数の羽虫が舞い、ぼんやりした円光のなかを黄いろい河水が流れ、ウォーター・ヒヤシンスが小さな紫色の花をふるわせながら塩辛い南支那海へ流れていく。どうしてかこの花は《ニャット・ホア(日本花)》と呼ばれている。五年前にも八年前にもこの時刻にはおなじ席にすわっておなじ花が流れていくのを毎日のように眺めていたものだが、頭上にはたえまなくヘリコプターの爆音が聞え、夜空を赤い灯が点滅しながら旋回し、十分おきに照明弾がゆっくりと落ちてきて蘇鉄の林、椰子の木立、野立看板、河、花を蒼白にキラキラと照したものだった。砲声や銃声がひびきわたることもしじゅうだったがテラスにいっぱいの客たちはカニかハトか議論かにふけるばかりで誰一人として顔をあげるものもなかった。
ホテル、レストラン、宝石店、カメラ店、酒場などが軒なみにおしあいへしあいしているチュドー通りもほとんど灯が消えて、暗い、長い洞穴のようである。ホテルやレストランは窓という窓を手榴弾よけの金網で蔽い、入口には砂袋を積みあげて兵と機関銃をおいていたのに、いまは何もかもとってしまい、やっとホテルらしく、レストランらしくなったと思ったらアメリカ人が去るのといっしょに客がこなくなったので、大戸をおろしてしまった。無数のアメリカ兵、無数の新聞記者、無数のポン引、闇ドル屋、靴磨き、若い娼婦たちの眼や歯でこの通りはみたされ、ジャズと叫喚で沸きかえっていたのにいまは穴だらけの老人の口を見るようである。ところどころ暗い穴に灯がつき、がらんとした店内ではバーテンダーが肘をついて新聞を読み、何人もの娼婦たちが乾いた眼でけだるそうに戸外を眺めてぼんやりしている。田舎へ帰って口紅を落して爪を短く切って水牛を泥まみれになって追うことを考えているのか。びしゃびしゃ濡れた、くさい露地のなかの小屋のハンモックに寝かせてある六歳と四歳の子供に今夜食べさせるお|粥《かゆ》があるかないかを思いめぐらしているのか。早く熟して早く老いる南の貧しい女たちは二十七歳になると人形から突如として老婆になるが、その小さな乳房とぺしゃんこの腹にはおびただしい疲労と寄生虫があるだけではないだろうか。
毎週土曜日の夜はきっとファン・ヴァン・スン氏を訪ねることにしてあるので、酒屋でコニャックを一本買い、ビールとカニとハトで熱く重くなった体をシクロにのせ、町名と番地をいう。スン氏の家はレ・ロイ大通りをショロンに向ってまっすぐいき、ショロンの二つ手前で右に折れ、オートバイの修繕屋が店さきに積みあげたタイヤの山を左に入ると、そこにどこにでもある暗い露地が口をあけている。その長屋の二軒めである。私が声をかけようとするよりも早く家の内部で背の高い、やせた中年の男が体を起すのが見える。そそくさとドアがあいて、やせた、小さな、敏感なスン氏の顔が微笑しながらのぞく。タイル張りの玄関はさほど広くないが、そこに大学生の息子のオートバイを入れるので、私たちの小さなソファとテーブルはすみっこにおしこめられている。すでにそこには氷を入れた発泡スチロールのバケツと、ソーダ水の瓶と、コニャックが並んでいる。コニャックは私が持っていくから買わなくていいと何度いってもスン氏は毎週新しい瓶を買う。私と会う土曜の夜以外にはほとんど飲まないらしいことが、瓶の中身の減り方でよくうかがえるのだが、それでもスン氏は毎週新しい瓶を買うのである。私たちはバネのとびだしかけたソファにならんですわり、おたがいTシャツ一枚になり、スン氏は足を二本きちんとそろえてのばしたり折ったりし、私はあぐらをかいて、コニャック・ソーダのコップをカチンと鳴らしあう。スン氏の小さな、やせた顔は過労と、心労と、私の想像だがいささかの阿片のためにやつれてしぼんでいるが、眼を細めて笑うと、子供のようになる。骨の薄そうなその頭のなかにはいつでも自由にスイッチを切りかえられる四カ国語と、いきいきした博識と、数十冊のアメリカのSF雑誌がつまっている。
スン氏はコニャック・ソーダをそっとすすり、泡が氷と遊んでいるさまをじっと眺めながら、ひそひそとたずねる。
「今朝の『タン・ニェン』を読みましたか?」
「いや。読んでません」
「ひどいもんです。ひどいにもほどがある。ナンバー・テン。兵隊にいわせればナンバー・テンです」
「兵隊ならナンバー・テンではなくてナンバ・テン。または、ナンバ・テン・タウ(Numbah Ten Thau(sand))でしょうよ」
「それ。それだ。それです。私は『タン・ニェン』の編集部に勤めてる友人に電話をして事情を聞いたんですが、明日もう一回その記事の続きを出すというんですね。しかも第一面にですよ。バン・メ・トットの近くで墜落したエア・ヴェトナムのスチュアデスの一人が蝶々になってサイゴンの家へもどってきたという話なんです。今日の第一面のヘッド・ラインは拳骨ぐらいもある字で、スチュアデス、蝶々となるというんですからね」
「蝶々……」
「乗客全員が即死した飛行機です。それは確認されてるんです。事故の原因はまだわかりませんけどね。それが、乗ってたスチュアデスの一人が蝶々になって生きかえって、バン・メ・トットからサイゴンまで飛んで帰ってきて、お母さんに会って事故の模様を全部語ったというんです。大衆は新聞では小説と占いの欄しかこの国では読まないということになっていますけどね。だからどの新聞もこの新聞もゴースト・ストーリーでいっぱいなんですが、これはひどすぎる」
「面白いじゃないですか」
「何が?」
「読者ははじめから嘘だと承知してるんでしょう。それなら突飛な嘘のほうが面白いじゃないですか。その新聞の記者はよほど頭がいいのじゃないかしら。嘘をまじめに嘘らしく書くのはむつかしいですよ。嘘をまじめにほんとらしく書くよりむつかしいです。私はそう思うな」
「シニックだ。あなたはシニックすぎる。この国に何度も来れば、いずれ遅かれ早かれ、そうなります。そのことは私もわかってるつもりです。しかし、ヴェトナム人としては、私は、がまんできない。『タン・ニェン』の友人に今朝はくどくど文句をいってやったのですが、組んだプランはもう崩せないというばかりです。明日、もう一回、マドモアゼル・パピヨンが第一面に出るらしい」
「一カ月前のことですけどね。ワシントンとハノイのあいだに和平協定が成立して、日本の新聞はすべて第一面に拳骨みたいな活字で平和来たると書きましたよ。私は協定の内容を読んでとてもダメだと思ったんです。げんにその和平会議の大立者の一人だったアメリカの高官が、これは第三次ヴェトナム戦争を誘発することになるかもしれないといってるんです。ところが日本の新聞はみんな、今度こそは本物だといってサイゴンが喜びの声で沸きたってると書いてるんですね。ところがその翌日から政府とコミュニストはそれぞれの旗を家やらタクシーやら|椰子《やし》の木やらにたてようとしてたちまち殺しあいがはじまったですよ」
「サイゴンはあのとき全然、騒がなかったですよ。学生も労働者も沸かなかったですね。サイゴンが沸いたのはゴ・ディン・ディエムがクーで殺されたときだけです。あのときは若者が町角のあちらこちらでツイストを踊ったもんです。それは私も見ています」
「こちらに来て私が個人的に一人ずつ会って話を聞いてみると、記者たちは誰もサイゴンが沸くなどとは信じていなかったというんです。だけど、そういう記事をテレックスで送ってる。信じてもいず見てもいないことをまるで事実として見たかのように一日前に記事を書いてるんです。そしてその翌日からまるでアベコベの戦争のニュースが氾濫したんですけれど、みんな平気でしたね。こういうのにくらべればスチュアデスが蝶々になったというほうがよっぽど罪が軽いですよ。私はシニックじゃない。私はリアリストですよ。日本では歓迎されない。右からも、左からも」
「それは知りませんでしたね。旗をたてあってあちら側とこちら側が面積のとりあいで戦争を再開することになるかどうかまでを見通していたかどうかは別として、私たちはあの協定をまったく信じなかった。日本からは何十人もすでに入れかわりたちかわり記者が何年も来てるんですからそんなことはわかってるはずだと私は思っていましたけどね。私は東京へいったことがある。新聞社を訪問したこともあります。日本の新聞にくらべると『タン・ニェン』など、巨人と小人ですよ。だけど、あなたの話では、どちらもどちらということになりそうです」
「いや。こちらのほうがいい。蝶々のストーリーのほうがいい。嘘をまじめに嘘らしく書くのはむつかしいですよ」
スン氏はにがにがしく気弱に笑って、やつれた小さな顔をゆがめ、コニャック・ソーダをちびちびとすすった。いつかの年の暮れ、はじめてこの人と知りあいになって、毎日のようにその半官半民の経営のみすぼらしい新聞社のガラス張りの事務室にかよってこの国の人文、風俗、政治、文学、ニョク・マム、アオザイ、いっさいがっさいの教えをうけるようになったとき、まるで|句読点《くとうてん》のようにひとしきりの会話のあとで、きっと、そういう気弱な、やつれた笑いを小さな顔に浮べるのにこのうえない好感を抱かせられ、それ以後この都へくるたびにかならずこの人と会う習慣になった。彼がそういうやつれた微笑を浮べるときには、いっさいを知っているがすべて無益だと捨棄しているような澄明とおおらかさがどこかにあらわれてくる。内閣が新しくできて首相が新しくきまったけれどその就任演説に動詞がないので英語に翻訳しようがないといって草稿をいまいましげに爪ではじいたときや、アルバイトに毎日、七つの新聞に七つの論説を書いて六人の子供を養っているのだけれど、あちら側もこちら側もほどよく批判しつつどちら側からも暗殺されないように書くのはまったくくたびれてしまうといって深夜の便器のような長嘆息をついたとき、自宅の玄関のすみっこでコップをすすりつつウェルズや、チャペックや、ヴォークトや、ブラウンなどの悲痛と機智をくつろいでつぎつぎと語ったときなど、私はただいたましさにうたれて、耳を傾けるばかりだった。ここではときどき思いがけない場所で思いがけない人材に出会っておどろかされることがあるが、それが新鮮な愉しみである。塩辛い断食僧の体臭にみちた寺の小部屋で、突如すみっこから肉のあるボロぎれといった様子で上半身を起した若い仏僧から、流暢な英語で、挑むようなまなざしで、ドストイェフスキーと三島由紀夫の比較論を聞かせられたこともある。
夜の十二時はカーフュー・タイム(外出禁止時刻)だから、それまでにレ・ロイ大通りのアパートへ帰っていなければならない。蝶々の話が終って今日一日の悲憤を晴らすと、スン氏はいくらか気が楽になったらしく、コニャック・ソーダをちびちびすすりつつ中国の古典の武侠小説にあらわれる幻想のうちのSF的な要素についてひそひそと語った。私はそれに耳を傾けるふりをしながら、すきをうかがい、この人の口から一度も阿片吸飲者であることの告白は聞いたことがないけれど、そして、かねがね私が阿片を吸いたいというそぶりを示すたびに断固とした気配でさりげなく話題をそらすやりかたで彼は私の希望をすでに熟知しているものと考えることにして、コニャックの華やぎにまぎれ、一歩ずかずかと踏みこむことにした。
「ところで、スンさん。アドレスを一つ書いて下さい。フュームリーのアドレスです。私は五年前にきたとき一度やってるんですけれど、今度そこへいってみたら、見つかりませんでした。私は旅行者だから中毒にはなりませんよ。あれで中毒になるにはよほどの時間と金がかかります。旅行者にはそんなことはできません。ただの好奇心です。一つ、紹介してください」
スン氏はコップを手に持ったまま、その小さな、鋭い、黒い眼でしばらく私をまじまじと|凝視《ぎようし》した。教えていいのか、わるいのか、迷っているらしい気配があったが、阿片吸飯者だと私に見抜かれたことにまったく|狼狽《ろうばい》している気配がないこと、そこにむしろ私は彼の疲弊の深さを示されたように感じた。同時に、そのためらいのなかに、私のことを気づかってくれているらしい友情の一片が、かいま見られるようでもあった。
彼はひとりごとのようにつぶやいた。
「日本には阿片を吸う|煙管《パイプ》がない。ランプはあるだろうけれど、煙管がない。あなたには金があるから阿片は買えるでしょうけれど、中毒になるほどは買えない。煙管がなければ阿片は吸えないから、いくら日本に持って帰っても無駄です。そして、あなたは永くサイゴンに滞在するわけではない。そうすると、私が紹介したことが、知られるかどうかだけの問題だ」
私はいそいでいった。
「忘れっぽい小説家ですよ、私は」
スン氏はいたずらッ子のように微笑した。そして軽く頭をふり、いやそれは信じられないとつぶやき、かるくたっていって紙とボールペンを持ってくると、何か書きつけ、明日は日曜日だけれど、夕方の七時にこの家へいってみなさいといって、その紙片を私にくれた。電話はしておくけれど、ぜったいに私の名をだすことはないと、スン氏は短く淡々としているけれど断固とした口調で、つぶやいた。
翌日の夕方七時、スン氏のくれた紙片を持ってアパートを出た。熱くて湿った女の掌のような空気がねっとりと頬にからみつき、全身にたちまち蒸暑さがしみて、湯につかったみたいになった。めざすアドレスは市場前の広場を抜けたあたりだが、塩魚と果実と米袋の匂いがあたりにたちこめ、敷石のすきまに落ちた米粒や野菜屑をやせこけたニワトリがせわしなくついばんで歩いていた。老婆たちの吐きちらしたキンマの真紅のしみが血痕のように見える。八年前のある早朝、この広場で一人のやせこけた青年が銃殺刑にされたが、それは六時のことで、正午近くにきてみると消防車ののこした水たまりがあちらこちらにあり、その一つ、二つでは血が赤い煙りのようにからまりあってよどみ、やっぱりニワトリがあたりを歩きまわっていたものだった。米粒、野菜屑、キンマの滴落、すべてそのままである。棺にうつ釘と金槌の音が暗い朝のなかでひびき、まるで広場のすみからすみまでとどろきわたるようだったが、無数のオートバイの爆音のなかにそれを聞きわけることは、できるようでもあり、できないようでもある。
市場をぬけて住宅地区に入り、ライターでナンバー・プレートを一軒ずつ照していくと、すぐに見つかった。荒れた小さな庭と木立のある小さな二階建の家だった。呼鈴をおすと三十五歳ぐらいの髪をきれいにわけてなでつけた男が微笑しながらいそいそとあらわれ、ぎごちないが使いなれたらしい英語で、さあどうぞ、さあどうぞといいつつ、小さな鉄門をひらいた。男に案内されるままについていくと、明るく灯のついた玄関に入ったが、二、三人の若い女の笑声と揚げものをしているらしい熱い油の匂いが家のなかに漂っていた。男は私を玄関からそのよこにある部屋へ案内したが、そこはちょっと広いホールで、すみっこにテーブルと、楽譜台と、二つのドラムがあるほかは何もなく、天井にむきだしの蛍光灯がついていた。私の手も男の顔もその荒涼とした光のために死んで乾いた蛙の腹のように見えた。男はたえまなくニコニコ笑いながらいそいそとうごきまわり、どこからか古いパイプ椅子を二つ持ってきて部屋のまんなかにおき、その一つにすわるよう身ぶりをした。そしてどこからか照明のスタンドを一台ひきずってくると、ライトをとりつけ、タイル張りの床にみすぼらしいテープ・レコーダーをおき、それからあちらこちらのカーテンをひいて庭が見えないようにして、姿を消した。しばらくして男は古いアルバムを何冊か抱えてあらわれ、私のとなりの椅子に腰をおろした。それと同時に三十歳ぐらいの女と二十歳ぐらいの女があらわれた。年上の女は私を見て微笑し、男とおなじような英語でうやうやしく、ようこそおいでになりました、くつろいで楽しんで下さいといって、テープ・レコーダーのスイッチを入れて、壁にもたれた。『青きドナウの流れ』が、かすれかすれ流れはじめ、がらんとした室内にひびいた。すると若い女が微笑しつつパ・ド・ドゥーの足さばきで進み出て、ゆっくりと踊りはじめ、踊りながら一枚ずつ着ているものをぬいで優雅に小指をたててタイル床のあちらこちらへ投げた。やせこけた、貧しい裸が一心になってワルツを踊り、それを見て男はニコニコ微笑しながらアルバムの頁をつぎつぎと繰ってみせた。どの頁にも彼と年配の女が笑ったり、レイを首にかけたり、レストランで乾杯している写真があった。ダラット、バンコック、シンガポール、ペナン、ホンコンなどの地名がそれぞれの写真のしたに読みとれた。どうやら彼はダンサーである妻のマネージャーとして東南アジアをわたり歩いているらしかった。何枚となくステージの写真があって、どれでも彼の妻が歌うか踊るかしているが、ヌードにはなっていない。
男は裸の踊り子を眺め
「私の財産です。みんなの財産です。ティーズを勉強しはじめてから間がないのですが、ちゃんと踊れます。来月、マニラへいくんですよ。いい子でしょう。ね」
満足して眼を細めて顎をひくと、肉が二重になった。彼の妻も壁ぎわでうなずき、つつましやかだが満々の自信をこめて微笑し、踊り子をはげますように低く『青きドナウの流れ』をハミングした。
踊り子がブラジャーをそっと投げたときには眼をそむけたくなった。少年のような胸に二つの乳首がボタンみたいについているが、すでにまっ黒である。細い肋骨がざらざらの淡い茶褐色の薄い皮膚のしたで揺れると、いまにもこわれそうな鳥籠と見える。下腹はぺしゃんこで、盲腸の手術の痕が光り、そこにストリングが痛いたしく食いこむ。肉の落ちた太腿の内側はげっそり凹んで深い影になる。瀕死のスズメがもがくのだ。
あと三曲ほどテープが回ってスズメは一心になって踊ったが、ずっと私は眼を伏せてタイル床の幾何学模様を眺めつづけた。ときどき男が上機嫌で何かいい、いつのまにか壁ぎわから移って夫の椅子のうしろにたった妻が何かいい、二人は満悦していたが、私には何も耳に入らなかった。踊りが終るとみんなはたって窓のカーテンをあけて庭の夕風を入れ、テーブルを部屋のまんなかに持ちだし、踊り子は洗いざらしたアオザイを着て台所からつぎつぎとチャジョを山盛りにした大皿やニョク・マム用の小皿などを、いそいそとはこんできた。チャジョというのはここの人の常食でもあり、御馳走でもある。エビ、カニ、豚肉などをこまかくきざんで米の皮でしっかりくるんだのを油で揚げ、それをレタスなどで巻いて食べるのである。みんなはいそいそとテーブルにつくと、すっかりくつろいで、小鳥のさえずるような声音で笑ったり、冗談をいったりしながら、つぎつぎとチャジョをレタスに巻いてニョク・マムにつけて頬張った。男はときどき顔をあげて一座を見まわし、私の顔を晴ればれと眺めた。
「今夜はまるで家族のようですね。家族の夕食のようです。しっかりチャジョを食べて下さい。あなたはまるでヴェトナム人のようにニョク・マムを食べますね。おどろきましたよ。これは私たちだけが食べるものだと思っていたんですが、ほんとに、ほんとに、おどろきです」
彼の妻は何度となく同意してうなずき、箸をおいて、ほんとに、ほんとに、おどろきとつぶやいて私の顔をじっと|瞶《みつ》めた。微笑するその眼は大きくて丸くて、うっとりとうるみ、十年前の美貌が思いやられるようだった。私は顔を伏せてもぐもぐと、日本にもショッツルといってこれとそっくりのがある、私ははじめてサイゴンにきたのではない、今夜は家族のようだなどと、つぶやいた。一時間ほどして私はいたたまれなくなり、鄭重に礼をいって席をたった。みんなはニコニコ微笑しながら暗い庭をよこぎってわざわざ鉄門のところまで私を見送りに出てきた。私は市場をぬけてアパートにもどると、ベッドにころげこみ、小倉百人一首を何枚か読んで寝た。
「阿片のコックとは連絡がついたんですが、阿片が急に手に入らなくなったんだそうです。それであなたを失望させまいとしてヌード・ダンスを提供したというわけです。近頃、取締りがとてもきびしくなりましてね。憲兵隊長が邸を一軒借りきって、邸のまわりをジープと武装憲兵で固め、そうしたうえで自分は一室にこもり、全部処女だという評判のコンガイを全裸にして阿片をこしらえさせている。そういう噂も聞かないではないですが、取締りが非常にきびしくなったのは事実です。それはまことに当然で、少し遅すぎるくらいなんですがね」
翌日の夜、スン氏はそう説明した。そしてショロンの中国人で新聞社を経営している友人がいてチャン・ダイ・ティエットという名前ですが、この男をたずねてごらんなさいといい、紙片にそのアドレス、電話番号、社名などを書きこむと、コニャック・ソーダごしに私にわたした。見ると、少したどたどしいが正確な漢字で『陳大哲』とあり、社名は『人人日報』とあった。私がよたよたと中国語でそれを『レン・レン・リー・パオ』と読むと、スン氏は静かにうなずき、歌うようなヴェトナム語で『ニャット・バオ・ニャン・ニャン』といった。
翌朝、十一時頃に紙片を手にしてたずねたずね訪れてみると、『人人日報』社は運河のほとりにある小さな新聞社で、東京なら名刺の印刷屋とまちがえられそうなくらいであった。印刷機と植字室と校正室が仕切りなしにすべて一室に入っている、二階建ではあるけれど外観はマッチ箱にそっくりの家であった。名刺をインキまみれの植字工にわたすと、その男が印刷機のむこうに消えてしばらくしてから、|真摯《しんし》な顔だちの初老のでっぷり太った男がにこやかに微笑しながらあらわれた。彼は私を箱みたいに小さな階段下の小部屋に案内し、椰子の実の保温箱から欠け土瓶をとりだして茶をすすめてくれた。土瓶の口は欠けてからかなり古くなるらしくて茶渋で茶色になっていたが、茶は熱くて香ばしく、鉄観音の系統と思われる爽やかな香り高さが、くたびれて苔だらけになった舌にしみてきた。
「いい茶ですね。バオロックのヴェトナム茶ではないようです。香港で買いましたか?」
「バンコックです。あそこのチャイナ・タウンにはいい茶屋があります。友人がこないだ買ってきてくれたんです。バオロックの茶もいいんですが、豆の花を入れたのは感心できません。趣味のちがいですな」
陳氏はしっかりした英語でゆっくりとそういい、熱い茶を少しずつすすった。そして、淡々と、スン氏から電話で聞きましたが、阿片を吸いたいとのことですな、とつぶやいた。阿片はいまとても取締りがきびしくなっているのですが、ここから自動車で二十分ぐらいのところに自由村という村があります。そこではたいていいつでも阿片が吸え、私もときどき買いにいく。この村は介石の国民党軍が第二次大戦後に進駐してきてそのまま一部が残存してつくった村です。阿片やウィスキーや武器の密輸をして生計をたてています。その村長が私の友人です。いまからいってみましょう。
いささか他聞を|憚《はばか》りそうなことを陳氏はこともなげに説明し、悠々とたちあがった。一メートルはあろうかと思えるその巨大な腰のあとについて私はインキの匂いのつんつんたつあばら家をでた。陳氏はゆっくりと歩いてどこかに消え、しばらくすると、ランプもフェンダーもないよれよれのフォードをころがしてきた。乗ってみるとドアのノブがとれ、床には穴があき、シートはスプリングがとびだしそうになっているし、計器盤はあることはあるけれど、うごいている針は一本もなかった。しかし、陳氏が何かをどうかするとその車は身ぶるいを起してけなげに走りだし、町角での右回り、左回り、ストップ、すべて陳氏の巨大な掌の制圧下にあってのびのびと反応した。ショロンはサイゴンのすぐ隣りにあるチャイナ・タウンだが、サイゴンのヴェトナム人でここに一歩も入らないで一生を終ってしまう人はたくさんいるし、ショロンに生れショロンに育って中国語だけ喋り、ヴェトナム語を一語も解さないままで生涯を終る中国人もたくさんいるのである。パリに生れ育ってセーヌ河を一度も見ないままに一生を終るパリジャンもたくさんいるそうだが、そういう挿話は何度聞かされても私には体で理解できない。二つの隣りあった孤島、|櫂《かい》でもモーターでも帆でもわたれない急潮でへだてられた孤島の住民の話を聞くようである。しかし、事実としては二つの町は堂々とした大路でつながれているのである。それでいてそんなことになるのである。二つの町の住人の心にはよほど根深く奥深くひめやかな執着と拒否があると思いたいが、かつて私はそれに触れたことがない。いつだったか、チャジョをだされてうっかりこれは中国料理の春巻の一亜種でヴェトナム料理は中国料理の一亜種ではないのかと洩らしたとき、たまたま同席したサイゴン大学の学生が蒼白になって怒りたち、中国は中国、ヴェトナムはヴェトナムだ、チャジョはチャジョだ、われわれは断固として中国人の馬のよこを歩いたことはないのだと、まるで叫ぶような声で一気にまくしたてたことがあったが、それが深淵をかいま見た一瞬といえば、いえた。ナショナリズムは食卓と戦場で発露されると抑制を知らなくなる。
陳氏のフォードはショロンをぬけてミト街道にさしかかったあたりで左へ折れた。そこはいかにも町はずれらしく広大な残飯と塵芥の捨場になっていて、水田がそれらの有機物と無機物の大群を呑みこみにかかったままで呑みこみきれず、口のまわりに吐きだしてのたれ死にしている。甘酸っぱい、強烈な、むらむらした腐臭が壮年の男の汗ばんだ肉からたつ体臭のようにあたりにみなぎり、眼にしみてくる。そのはずれに小さな住宅区があり、入口の柱に『自由村』と大書してあった。村はうるんだような白い暑熱と陽のさなかでひっそりと静かだったが、家はどれを見ても一部屋きりのマッチ箱のようだった。戸がついているかどうか、便所がついているかどうかも怪しまれるような掘立小屋の集群であった。巨大な陳氏はフォードをとめると、機敏だがひっそりした口調で
「ポリスがいる」
とつぶやいた。
広大なゴミ捨場のよこの道を、私たちのフォードのあとをつけるようにして、一人のヴェトナム人の警官が拳銃を腰にしてゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。
陳氏は
「そこのミェンジャ(麺家)で待ちましょう」
とつぶやいてフォードからおり、道ばたの湯麺屋へ入っていった。これまたつぶれかかったような、みすぼらしい麺家だが、道をへだてて自由村の入口に面している。陳氏と私はそこへ入り、ぐらぐらする椅子に腰をおろして茶をすすりつつ警官を観察した。警官は私たちのほうをちらともふりかえらず、はげしい日光にうんざりしたそぶりで、のろのろといったりきたりする。|倦《う》みきったそぶりだけれど、しかし、しぶとい。いつまでも消えようとしない。
結果からいうと、この日も私は目的を果すことができなかった。自由村に入っていって村長と会い、話をし、そのあと村のなかを歩いて二、三人の中毒者が小屋のセメント床に蛙のようにのびて蒼白な顔で昏睡しているのをつぶさに観察はしたけれど、それだけだった。陳氏は悠々と歩いていき、小屋をのぞきこんで中毒者を見つけると、そのたびに親指をちょっと口にくわえ、四本の指をひらひらさせて合図してみせたが、怒り、侮蔑、絶望、焦燥、何の表情も示さなかった。ただ淡々とそうやって合図しただけである。昏睡者はいずれも若い男たちだったが、みんなやせこけて肩と肋骨と腰骨がとびだし、セメント床に貼りつくようにして眠りこけていた。眼をあけていられないような正午の白熱の日光のさなかでも、パンツ一枚になって昏睡している彼らはいずれも汗一滴にじんでいないようだった。五年前にショロンの阿片窟にもぐりこんだとき、壁いっぱいにシャツやズボンがぶらさげられ、まるで古着屋の倉庫のようなネズミの巣のなかで貧しい人たちがおしあいへしあい眠りこけていた。甘い煙りのみっしりたちこめるなかをすかして見ると、老人、中年者、青年、あらゆる年齢の肉を失った残骸が寝息の音をたてていて、その体の餓鬼ぶりは今日見るのとまったくおなじだが、なかには秋霜の|塵労《じんろう》に削られつくした、とがった頬に夕焼けのような血色の射しているものもいないではなかった。だから、この|耽溺《たんでき》も人と段階によっては生体を活性にみちびくか、その相貌を帯びさせることもあるらしいと知らされたのだが、この村の耽溺者はことごとく蒼白であった。
村長の名は、わたされた名刺を見ると、劉練生といった。越南嘉定省治東自由村主任、越南伍軍人會華僑區會顧問、中華民國旅越難民代表、中華民國華僑總會理事……その他いくつとなく肩書が並んでいて、名刺の大半が字でまっ黒に埋もれていた。肩も首も腹もすべてが牡牛そっくりの逞しさであり厚さであった。それが革のサンダルをつっかけて家に入ってくると小さな家はいっぱいになってしまい、陳氏と私は戸外へはみだしてしまった。家といってもそれは小さな土間が一つあるきりの小屋で、あぶなっかしい、ブリキ板を張ったテーブルと、小さなぐらぐらの椅子が二つ。すみにハンモックがぶらさがり、板壁に黄いろくなった孫文と万寿山の写真があった。劉氏はざらざらの巨大な手でそっと柔らかく私の手を包み、豚のような眼を細くしてニコニコ笑った。よこから陳氏がしっかりした英語で通訳してくれたが、劉氏はたてつづけに一人で喋り、ほとんど口をはさむ余地がなく、喋るだけ喋ると、それで会談は終りとなった。ようこそ遠方をおいで下さいました。大歓迎であります。ここは自由村といって国民党軍の若干が居残って開いた村であります。大陸光復がわれらの理想でありますが、それまではヴェトナム国籍を持ち、ヴェトナム人として税金も払い、兵役にもつく。若者が見当らないのはみんな軍隊に入ったからです。われわれの息子たちは意志強健な精鋭部隊を作りました。五年前の正月にヴェトコンがサイゴンになだれこみ、えらい騒ぎになり、この村も戦場になりましたが、子供も婆さんも総出でたたかい、棍棒で追いかえしてやりました。意志あるところ道ありであります。大陸反攻を実現するまでに経済的実力を蓄積しなければなりませんが、それには貿易です。日本国政府は台北の政府を承認しておりませんが、政府と人民は別です。われらの友人は日本人民です。大いにおたがいに交流して、われらは阿片でも何でも輸出して村を振興させ、一日も早く大陸を光復したい。意志あるところ道ありです。今日は警官が来てるのでちょっとまずいが、他日かならず光臨頂きたいものです。大歓迎いたします。
「トーチ、トーチ!」
ニコニコ笑って巨大、盛大な劉氏は私の手を握ってふった。トーチは字で書くと、《多謝》なのだろう。はじめて聞く|訛《なま》りだが、どの地方のだろう。
劉氏と別れると阿片村を一巡し、陳氏はふたたび私をフォードに乗せてショロンへもどり、豪奢な中華料理店へつれていった。フカの|鰭《ひれ》のスープからはじまるみごとな、たっぷりした料理を食べながら陳氏はいろいろと私に日本の小説や詩のことをたずねた。そして自分は子供のときから『紅楼夢』が好きで愛読しつづけてきた。いまでも三年に一度は全巻を読みとおす習慣である。あのなかでもとくに傑出しているのは葬花之詞で、全部暗誦できる。この詞はいつでも慰めてくれる。御存知であろうか。
爾今死去儂收葬 未卜儂身何日喪
儂今葬人笑癡 他年葬儂知是誰
試看春殘漸落 便是紅顏老死時
一春盡紅顏老 落人兩不知
陳氏は箸袋をひろげてボールペンでさらさらと書き流したが、詞もさることながら、毛筆でしたたかにきたえたらしいその字は飛翔するような達筆であった。そのことに私はうたれてしばらく見とれた。自由村の猪八戒のような村長から大陸光復の演説を聞かされたあとで人と花のはかなさを訴える詩を読まされるのは怪異に似た距離であったが、陳氏は悠々と箸をさばいた。陽焼けして荒んだその初老の逞しくて厚い頬に、鋭い、暗い捨棄のいろが漂っていて、意外さに私はうたれた。
「よろしい。明日は日曜日ですね。夜の八時にアパートで待っていて下さい。阿片コックがあなたをたずねていきます。今度こそは絶対に確実です」
その夜、スン氏は私の話を聞いたあと、しばらく黙考してから、そういった。ソファにもたれたままそういい、たって紙片をとりにいこうとはしなかった。甘酢につけた干海老をつまみながらコニャック・ソーダをすすっていると、スン氏の長女が小さな琴を抱いてはだしであらわれ、椅子にすわると、膝に琴をのせて爪弾きした。深夜の谷に水が一滴ずつしたたり落ちるようにその曲はひっそりと壁にこだました。
日曜日の夜八時にドアをノックする音がし、やせこけた、小さな、事務員か教師を連想したくなるような男が猫背で私の部屋に入ってきた。無口な男だったが、ときたま口をきくと、低いけれど流暢そのもののフランス語だった。彼は部屋を見まわすとべッドのシーツをとってタイル張りの床に敷き、さっさとそこによこたわった。よれよれの古鞄から豆ランプと煙管をとりだし、豆ランプに火を入れたあと、鋼鉄の細い針で煙管の火皿のふちにこびりついた|滓《かす》を掻き落した。私はズボンをぬいでパンツ一枚になってその男とならんでよこになる。男は小さな茶色の瓶をとりだし、栓をとり、ねばねばの液を鉄針のさきに一滴ひっかけて豆ランプにかざす。|滴《しずく》は泡だってふくれ、パチパチと鳴る。それを瓶に浸して抜くと、針さきの滴はちょっと大きくなっている。二、三度そうやって滴を火にかざしてふくらましてはチンキにつけることを繰りかえし、たっぷりした玉になると、素速く煙管の火皿のまわりに塗りつけ、火皿の中央の穴にもさしこむ。そこで男が両手で煙管をささえて私にさしだす。それを両手でうけ、火皿を裏返してランプの火にかざす。このときにコツがある。大きく一息で吸いとってしまわなければならないのである。タバコを吸うように呼吸するとたちまち阿片は燃えて散ってしまう。大きく一息で煙りをことごとく肺に入れてしまい、それからゆるゆると吐いていくのである。
男は低い声で
「|吸う《フユメー》のではありません」
つぶやく。
「|食べる《マンジエー》のです。私たちはそういいます。食べる。阿片は食べるものなんです。吸うのではありません。食べるのです」
これを四回やると、小瓶のチンキがなくなり、男は金をうけとると、道具をまとめて部屋を出ていった。ランプの火でチンキを練って軟膏の玉にするとき、男の指がまるで鳥の足のように細くて骨張っていることに気がついた。眼の焦点がぼやけていることにも気がついた。手首、肩、腰、ことごとく子供のように薄くて細くて|脆《もろ》そうであった。彼が部屋にいたのは三十分か四十分くらいだったが、口をきいたのは阿片は食べるものなんだと説明したときと、またつぎの日曜日にといって部屋を出ていったときの二回きりであった。かなりの重症者と思われる。これから以後、何度も彼がやってきて、豆ランプをはさんで|床《ゆか》に二人で寝ころびあうことになるのだが、直視されたという感触や記憶がほとんどない。彼の顔は私の顔と向きあって近ぢかと迫ってくるけれど眼はけっして私を見ない。いつも彼の眼は遠景でもなければ近景でもなく、その中間のどこかをさまよう。スン氏も、スン氏に紹介されたたくさんの人も、しばしば話をしていてそんな眼をする。阿片のせいだけではない。この国の壁には耳と眼があるのだ。これまでも、今後も……
|食べれば《ヽヽヽヽ》阿片はきっと全容を見せてくれるというものではなかった。この煙りは一杯の強い茶に出会っても散ってしまうくらい敏感で、それゆえに気まぐれであった。コックが夜の八時にくるとわかっているのについうっかり酒を飲んだり食事をしたりすると、そのあとの阿片はふつうのよりはいくらか深い甘睡を分泌するくらいで終ってしまうのである。その眠りが満点だったか五〇点だったかは醒めてしまったあとでふりかえって評価するしかない。他のおびただしいこととおなじようにこれもまた去るか消えるかしたあとではじめて見えてくるものだった。しかし、たまに出会う満点のそれは、比類ない、気品ある、澄明そのものの無窮であり、静謐であった。三時間にも感じられる三十分を眠ったあと、ベッドによこたわってうとうとしていると、血管にほのぼのとしたあたたかい静かな潮がさしてきて、ふたたび甘睡にひかれていくのだが、耳は醒めきっていて深夜の遠い町角の銃声や、救急車のサイレンや、夜明け頃のオートバイのざわめき、窓の下をいくウドン売りの女の声など、ことごとくを聞いている。しかし、それは意識に掻き傷も爪跡ものこさないのである。昂揚もなく、下降もない。沸騰もなく、沈澱もない。暑熱もないが、凍結もない。希望もなく、後悔もない。期待もないが、逡巡もない。善もなければ、悪もない。言語もなく、思惟もなく、他者もない。ただのびのびとよこたわって澄みきった北方の湖のようなもののさなかにありつつ前方にそれを眺め、下方にそれを眺める。おだやかで澄明な光が射し、閃きも|翳《かげ》りもなく揺蕩している。それほど淡麗な無化はかつて味わったことがなかった。これは夢のない夢――いや、夢ともいえないように思う。澄みきった北方の湖とたったいま書いたばかりだが、それは、|のようなもの《ヽヽヽヽヽヽ》である。湖を目撃しているのではない。水や、森や、空を眺めていたのではない。何ならそれは稀れにしか出会えないどこかの渓流|のようなもの《ヽヽヽヽヽヽ》とおきかえてもいいのである。夢ならイメージや光景や感触に、汗ばんだり、こわばったり、恍惚となったり、おびえたりするけれど、戸外の物音のさなかによこたわって、そのため眼をあけているという知覚をときにはおぼえることすらあるのに、冴えきった無があるだけなのである。いつからはじまり、いつから終りかけたともわからないうちにそれは去る。戸外の物音が|叫喚《きようかん》となって部屋になだれこみ、かけぬけていく。私は手をのばし、ウィスキーの瓶につめた高原の茶を、ラッパ飲みに一口、二口すする。回復した体は爽快だが、汗や、骨や、肉もまたふたたびもどっている。ふたたび言葉や意識やイメージなどがつぎつぎとしのびよって無数の菌糸のように私をからめとり、釘づけにする。期待や諦観がはじまる。逡巡や決心がはじまる。|懈怠《けたい》や希望がはじまる。私は|穢《けが》されはじめる。
ある正午、銀塔酒家のいつもの席にすわって、私は眺めるともなく河を眺めていた。軽快な脂と肉汁のつまったハトをたっぷり食べたあとで、体内のあちらこちらでビールが泡だっていた。陽が白熱して黄いろい水や小さな紫の花などのうえでゆらめき、眼をあけていられないほど暑かった。私は電撃をうけたように一つの啓示にうたれたのだが、それが何であるのか、わからないでいた。ただ、もうこの国には二度と来ることがあるまいと、ひたすら思いつめていた。
淋しかった。
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貝塚をつくる

カー・ヴォンラウというのはナマズの一種である。海にも棲むが、海水の出入りする河口の汽水域の泥底にも棲む。ヒゲがあって猫のような顔をしているということでは他のナマズとおなじだが、銀・灰・青色をしていて、美しいのである。朝早くの市場のびしゃびしゃ濡れた薄暗いなかで跳ねまわるところを見ると幅広の大剣が閃くようである。ナマズは何種類もいるけれど、これがもっとも美味なので高価である。この魚を釣る名人を二人、噂を聞いてから見つけるまでに約十日かかったが、一人は大統領の身辺護衛の若いガン・マン、もう一人はキャラヴェル・ホテルのまえでいつも客待ちをしているタクシーの初老の運転手であった。二人を料理屋に呼んで話を聞いてみると、カー・ヴォンラウは餌をとるのが上手なので釣りにくい魚である。だからみんな追いかけるのだ、とのことであった。餌にいちばんいいのはゴキブリで、これはふだんから台所のすみでパンのかけらにバターをたっぷり塗ったのを食わせて箱のなかでまるまると太らせる。これを三匹か四匹、鉤に刺し、足をちぎって、川にうちこむ。足の穴からたまらない匂いと汁が流れ、それをしたって魚がやってくる。つぎにいいのはニワトリの腸で、なるべく緑いろの糞のつまったのがいい。それを兵隊の食うような安物のニョク・マムにまぶしてたまらない匂いのものに仕立てる。さいごにいいのは牛肉だが、これは安物でいい。場所はいろいろあるけれど、今ならニャベである。ここはサイゴン河に二つの河が流れこむところで、三つの河が一つの大きな三角点をつくっているから、いろいろの魚がいったりきたりする。
二人と別れてアパートにもどると、私は顔なじみの日本の新聞社の支局の一つを電話で呼びだして事情を話し、ナマズ鍋の用意として春雨、豆腐、青いレモン、春菊、それにニョク・マムと白ぶどう酒、ニョク・マムはフークォック島産の極上の紅茶色をしたの、白ぶどう酒はチュドー通りの『タイタック』で、先日、モンラシェの七一年を見かけたからそれを買っておくようにといった。電話のむこうでヒ、ヒ、ヒと品のわるい笑声がし、市場で買うにしては口上が長すぎるというようなことを冷たく呟いて切れた。その翌日、緑いろの糞のむっちりとつまったニワトリの腸に腐りきった魚の汁といいたいようなニョク・マムを顔をそむけそむけまぶしたのをビニール袋いっぱいにつめて出かけたが、釣れなかった。一日かかってやったが、あたりもかすりもなかった。朝の六時、戒厳令がとけるのを待ってアパートを這いだし、夕方の六時まで、合計十二時間、白熱のゆらめく黄いろい川のうえですごしたのだが、一匹の魚もこなかった。餌はいつもまめにとりかえ、そのたびに息をつめ、顔をそむけするのだが、どれだけ新鮮なひどい匂いを川に流しても、からかいにくる魚さえいなかった。アパートにもどって割れた鏡をのぞきこむと眼がまっ赤に充血していた。そのままベッドにころげこんでねとねとの腐臭にまみれたまま泥睡したが、頭が熱くて、ギラギラ輝く赤い|眩耀《げんよう》に全身を侵され、たえまなく浮いたり沈んだりした。夜おそくになってから三度か四度、しぶとく電話が鳴りつづけたが、ほっておいた。
それから何日かして、たまたま新聞社の支局に遊びにきた商社員に、あなたの取引先の紳士にきっと釣狂が一人いると思うが、ヴェトナム人でもいい、中国人でもいい、その人に紹介してもらえないものだろうかとたのんだ。四日ほどして、はずんだ声の電話がかかり、VIP級のが一人見つかった。ショロンの華僑の大物で、三つか四つの会社の社長をしている紳士だ、とほうもない釣狂らしい、釣りならいつでも御案内するが、そのまえに人物を見たいから菜館においで願いたいといっている、とのことだった。そういう電話があったのが朝で、その午後、昼寝をしているとドアをたたく音がした。でてみると、少年が一人微笑しながらたっていて、招待状を私にわたすと、すたすた帰っていった。招待状はどっしりと厚い紅唐紙で、みごとな達筆で、明後日の夜七時、チュドー通りの『雲園』に光臨下されたく、とあり、差出人の名は蔡建中とあった。あとで聞いたところでは、蔡は私のことを聞いたその場で招待の決心をし、『雲園』にでかけて二、三品の料理をとってコックの腕を見た。それでちょっといいと思ったので、その場でメニュをつくってコックに検討させ、五日後なら材料が全部そろえられるとわかったので、それから家へ帰って招待状を書いたとのことであった。その後の蔡との往来から見たところでは、彼は事にあたって即断即決をするいっぽうで慎重と鄭重をきわめるが、一度思いきめると、全精力をあげてとことんうちこむという気質のようだった。社長室や銀行での彼の姿態を見たことはないが、饗宴、歓楽、海岸、沖などでは、彼はしたたかに|貪欲《どんよく》、性急、好色で、精巧をきわめた美食家でもあった。プラスチック、金融、不動産、罐詰などの四つの会社の社長をしているが、サイゴンでは彼の事業は四つとも彼の精力を消化しきれない。午前十一時に社長室にあらわれ、一時間で事務の処理と指示を終り、あとは友人たちと食事をしたり、麻雀をしたりですごすのだが、その麻雀も一卓で四〇〇万ピアストル、七〇〇万ピアストルの金をうごかし、遊びとか賭博というよりは、金のまわしあいであるらしかった。それでも時間が余ってならないので、女漁りか釣りかに精をだすのだけれど、いつもおなじ顔ぶれの仲間なので、いささか食傷しているところへ私があらわれたので、|懈怠《けたい》の眠りからむっくり体を起した、というところであった。|貪婪《どんらん》は貪婪、精巧は精巧のまま、全域で質と量を更新したらしかった。ことに釣りは彼の少年時代からの、ほとんど|宿痾《しゆくあ》といってよいほどの耽溺であり、|研鑚《けんさん》であったから、蜂がとびたつように私にむかってきた。
『雲園』ではじめて会った蔡は、中背、小肥りの中年紳士だったが、顔は日焼けして浅黒く、唇が厚く、眼光|炯々《けいけい》としていた。どちらかといえば寡黙だけれど、ジョークには素早く反射して声をたてて笑う。しかし、眼はめったに笑わなかった。眉や頬をのびのびひらき、顎をそらせて哄笑するときでも、眼はけっして笑わなかった。ときたま眼も笑うことはあるのだけれど、すぐもとの鋭さにもどって沈思するか、観察するのである。
「潮だ。潮がわるかったのだ」
「潮ですか?」
「そうです。潮です。ニャベは私もよく釣りにいきますが、場所としてはたいへんいいところなんです。しかし、潮がわるいと、どう手のうちようもない。干満の差が、あそこは、たしか、四メートルか五メートルある。あなたがいった日は今月でも最悪の週でしたね」
ニャベでの私の大敗をつぶさに聞くと蔡は日付を聞いてその場でそういって断定した。ゆっくりとした、正確な、あちらこちら水洩れしていない英語で、彼は自信にみちて話をした。そのゆっくりとした英語にときたまフランス語と中国語の単語を挿むのが、これからあと私と話すときの彼のエスペラントとなった。インドシナ銀行で何年間か働いたことがあるのでフランス語はよく会話に挿入した。しかし、自身の母語である中国語は稀れにしか挿もうとしなかった。私のおぼえているところでは、新鮮な魚を蒸す《清蒸》料理のことを、彼がしきりにチンチン、チンチンというので、それは北京語でチンジョンというのではないかと私がいったとき、彼が鋭く眼をあげ、おれたちは北京語は喋らないのだといったのが一度と、コミュニストのやり方はワンタオ(王道)を看板にしたパータオ(覇道)だと、黄昏のフークォック島のタマリンドの大樹のかげで茶をすすりつつ呟いた、その二度きりであった。
二匹の昆虫が道で出会うと、軽く二度か三度ヒゲを触れあっただけでおたがいを了解しあったそぶりで別れあう。『雲園』のみごとな食事は二時間つづいたけれど、蔡と私が釣師としてたがいに相手をうけ入れあうのには三十分もかからなかった。おたがい静かに駒をすすめた。彼はヴンタウ沖でのバラクーダ釣り、インドネシアの沖でのカジキ釣り、フークォック島の沖でのめちゃくちゃ釣りの話をひそひそとした。私は川師だから、アラスカの川でのキング・サーモン釣り、スウェーデンのアブ社の山荘に招かれたときのパイク釣り、チロル国境間近の西ドイツの高原の牧場でのマス釣りの話などをひそひそとした。彼は私の話をだまって眼を光らせて聞いていたが、眼が乱れて、一瞬、|和《なご》んで揺いだのは、アブ社の山荘の話をしたときだった。私がその話をするあいだ、彼はじっとおとなしく紳士ギャングのような顔を伏せて聞き入り、ときどき子供のように首をふってうなずいた。その話が終ってから私はドイツの高原のマス釣りの話に移ったのだが、彼は上の空であった。いらいらしたようにうなずいて、
「よし。わかりました。いっしょに釣りにいこう。まず、ヴンタウの沖。ここにはいいバラクーダがいます。夜釣りです。それから、フークォック島へ二人で飛行機でいこう。ここの釣りは、以前にくらべると魚がちょっと小さくなり、ちょっと少くなったということがありますが、ちょっとです。まだまだ楽しめます。ここの釣りこそ、釣りだ。男の遊びだ。あんたはレイン・コートとスリッパを買うだけでよろしい。あとは一切私にまかせて頂きたい」
せかせかと早口にいった。その鋭い眼には満々の自信がひろがっているけれど、冷徹が消えて、焦燥と雀躍があるようだった。彼を挑発するために私は話をしたのではなかったけれど、知らないうちにバネに手を触れてしまったらしかった。
食事が終るのを待ちかねて彼は鄭重をよそおいつつもそそくさとたちあがり、私の脇腹を軽くつついて蒸暑い戸外に出ると、舗道にとめてあった運転手つきの巨大なクライスラーに私をおしこみ、ゆらゆらと揺れつつ、ショロン、グェン・チャイ通り六〇九番地の自宅へいそいだ。ここはショロンも入口からあまり遠くない場所だが、田舎廻りの京劇団が朝も夜もなくがんがんボンボンと|銅鑼《どら》をたたきまくっているような中華街のざわめきからはいくらか遠くてひっそりしていた。蔡は暗い舗道のわきにクライスラーをとめ、私を一軒の三階建か四階建の家につれこんで、階段をのぼっていった。階段は荒涼としたコンクリートのうちっぱなしで、粗い灰白色の地肌がざらざらと裸のまま剥きだしになっている。しかし、いくつかの階段を曲ったり上ったりして、突然ひらかれたドアのなかへ一歩入ってみると、爽快で深遠な森と花の香りがせまってきた。どうやらその室は彼の寝室であるらしかったが、トランポリンの体操ができそうなくらい巨大なダブルの寝台が室の中央にあった。周囲の壁には床から天井までぎっしりと黄金色の厚織クロスが貼りつめてあり、天井は硬木の沈々とした|格子《こうし》になっている。そして、ほの暗い灯のなかで、壁と天井のそこかしこに、荘重な朱の『』、双喜字の印が光を吸いつつ輝いていた。寝台のよこには黒檀らしい重厚そのものの鏡台があり、何十本と香水瓶が、まるで町の塔のようにならべられてあった。第一歩で嗅いだ森と花の香りはここからひめやかにたちのぼって、部屋いっぱいにゆっくりとうごいているらしかった。
蔡は寝台にも鏡台にも一瞥も払わず、壁ぎわにずらりと並べてある釣竿とリュックサックの群れに私を導いた。私は注意深くそれらを観察した。釣竿はことごとく海釣用の物で、金具が潮焼けして灰白色にただれて泡を吹いているところ、一本のこらずそうであるところを見ると、多年にわたってよほど使いこんだものであることが、一瞥でわかった。三、四の例外はあるけれど、ことごとくがアメリカのガルシア製とスウェーデンのアブ社製の物であることもわかった。さきほど『雲園』で彼がなぜアブ社の山荘に招待されたときの私の話に眼を輝かしたかが、これでよくわかった。何本と数知れない釣竿のよこにこれまたいくつとなく、おなじように使いこんでよごれた米軍のリュックサックがころがしてある。それを一つずつ指さして蔡は、このリュックはリールだ、このリュックは糸と鉤と錘だ、このリュックはランプとスリーピング・バッグだと、説明していった。それだけでは足りなくて、壁ぎわの黒檀の、たじたじとなるほどみごとなテーブルの両袖にあるひきだしを一つずつひきだして、これは糸、これは錘、これは鉤と説明をした。どのひきだしにもおびただしい用具がきちんとビニール袋や紙箱に入って、いくつとなく整然と積みかさねられてあり、底が見えなかった。茫然となって眼をあげると、この寝室には寝台と香水と垢まみれの釣道具のほかには壁の双喜字があるだけだと、わかった。
ものうげだが注意深いまなざしで壁にたてかけてあるガルシア製のボート竿をとりあげ、竿やリールを点検しながら、蔡がゆっくりと正確な英語で、呟くように話をはじめた。
「昔、中国に詩人がいた。詩人はたくさんいたけれど、この男は傑出していた。花や鳥のほかに、魚や獣のことについて、とくにそれの料理について、たくさんの詩を書いた。その詩の一つに、こういうのがある。松の河という名のついた河で、口が大きくて鱗が小さい、とてもうまい魚がとれるという。そういう詩を書いた。この詩人は誰だ。この魚は何だ?」
それぐらいならわかる。私はいそいでシャツやズボンのポケットをさぐったけれど紙がなかったので、左の手のひらに『蘇東坡』とボールペンで書き、よこに『鱸魚』と書きそえて、つきだした。
「その詩人と魚の名だ」
蔡は私の指をつまんで手のひらに眼を近づけ、かすかに、見えるともなく微笑して、頭をかるくさげ、フムといった。彼はゆっくりとつぎの竿に移り、トローリングの中型用のリールをとりつけた頑丈な竿をとりあげて、つくづくと眺めつつ、またしても呟くように話をはじめた。
「昔、中国に哲学者がいた。その哲学者が、ある日、弟子をつれて散歩にでた。河岸へくると、魚が泳いでいるのが見えた。それを見て、哲学者は、魚が楽しんでいるといった。弟子は、あなたは魚ではないのにどうして魚が楽しんでいるとわかるのですと、たずねた。すると哲学者は、おまえはおれではない。それならば、おれが魚の楽しみをわかってはいないと、どうしておまえにわかるのだといった。すると弟子は、私はあなたではないのだからもちろんあなたのことはわからない。あなたはもちろん魚ではないのだから、あなたに魚の楽しみはわからない。これはたしかだ、といった。この哲学者は誰だ。弟子は誰だ?」
よかった。それぐらいならわかる。それは有名すぎるほど有名な論争だ。読んだのはもうずいぶん昔のことになるが、こういう状況でなら思いだせる。私は左の手のひらに『荘子』とボールペンで書き、よこに『恵子』と書き、さきに書いた蘇東坡と鱸魚を消してつきだした。蔡はふたたび私の指をつまんで手のひらに眼を近づけ、竿をおいて
「フム」
といった。
「手を洗いたいな」
「トイレはそこだよ」
めだたない厚織クロスのドアをあけると、そこが浴室になっていて、タイル壁も、浴槽も、タイル床も、ことごとく清潔無比に洗われて輝いていたけれど、洗面台に林立するオー・ド・トワレットや香水の瓶はまたしても小さな町の塔の群れをつくっていた。ここは完全にヨーロッパ・スタイルであった。そして、その輝かしく深遠で澄明な町の塔の群れには、浴室も寝室もおなじように、まざまざと女の香りがした。それも一人の女ではなく、何人もの女のそれである。そういうことはどんなにベッド・メイキングをしても、浴槽を洗っても、消せないものである。
トイレからでてふと見ると黒檀のテーブルによれよれの小さな雑誌があった。よほど読み古したらしくて表紙も裏表紙もとれてしまい、垢じみた頁がむっちりとふくらんでいる。いささかこころを躍らして私はそれをとりあげた。一瞥で驚いたようにそれはまちがいなくスウェーデンのアブ社が毎年一回発行している英文の『タイト・ラインズ』である。これは七一年の号だった。手垢でよれよれになった頁をめくっていくと、一人の男の釣姿の写真がでてきた。早朝の森がのしかかる川に白い霧がわきたち、無数のアブの群れが金粉をまきちらしたように見えるなかで、川のまんなかにつきだした白い桟橋の突端に、一人の男が白いチョッキを着て竿をかまえ、リールを巻いている。
それをさしだし
「これは私ですよ」
と蔡にいった。
ベッドのはしに腰をおろして手近の竿をとりあげてリールをまわしていた蔡は、写真と私を見くらべ、はじめてその眼から鋭さを消して子供っぽい驚愕をみなぎらせた。ガルシアとアブの用具に熱中しているらしい彼が香港あたりの釣道具屋でお愛想にこのパンフレットをもらったことは充分察しがつくところである。しかし、たった一回私が登場しているその号がこんなショロンの寝室にあるとは、暗合もいいところだった。むしろ私のほうが驚愕していた。アブの山荘に招待されたのは六九年、同行のカメラマンがその早朝の川の写真をとってどう使ってもいいからといってアブ社に送ったのが七〇年、掲載されたのが七一年の号である。
「ほんとか?!」
「この男はうしろを向いている。ごらんなさいよ。これは私ですよ。いずれ東京へ帰ったらあなたに本を送ってあげます。私の釣りの本です。そこにこれとおなじ写真がでていますよ。ごらんなさい、ホラ」
私はくるりとうしろ姿になってみせ、それから、もとにもどって、彼とならんでベッドのはしに腰をおろした。彼はすっかり不意をうたれ、ぼんやりとなって、雑誌の写真に見入っていた。そして、もう二度と、蘇東坡や荘子を持ちだして私をためそうとはしない気配であった。私は私で、もしこれ以上つっこんで質問をされたらどうしたものかと、内心はらはらしていた。
「……『雲園』でさきほど聞いたところでは、あんたは、サイゴンは教育によくないから奥さんとお子さんを香港に住まわせているということだった。けれど、こんなにたくさん香水瓶がある」
ほんの口さきの冗談としてそういってほのめかすと、蔡はちょっとうろたえて、眉をしかめた。じろりとあたりを眺め、早口でそそくさ
「おれはときどき密輸をやるんだ」
と呟いた。
フークォック島は漢字で書くと『富国島』である。ヴェトナム領だけれど、カンボジアとの国境線上にある。三角形を細長くのばしたような形をし、北には刑務所がある。島は全体が灌木の密林で蔽われているが、巨大な鹿が棲み、ちょっと以前までは川にはクロコダイル種の鰐がいた。精妙で香りの高い胡椒と、まったりとして柔らかく豊潤な味のするニョク・マムが特産品である。ニョク・マムはどんな魚でつくってもいいのだが、ここのはカー・コム、シコイワシだけでつくってあるので名声が高い。カー・コムとは米の魚という意味だそうだが、日本の漁師がイワシのことを海の米と呼ぶのにそっくりである。この島は南支那海ではなく、シャム湾に浮び、シャム湾は波がないことと栄養の豊かなことで定評があるが、網をひくとこのシコイワシの小さいのがめちゃくちゃにとれるので、この島の漁師たちは他の魚をあまりとろうとしない。ことに糸と鉤で一匹ずつ釣りあげなければならない底魚にはほとんど手をつけようとしない。彼らが狙うのは一度の網で大量にとれるイワシ、イカ、エビなどである。そこで蔡はこの捨てられたままの底魚を狙う。ことに彼が熱中するのは石斑魚、ハタである。この魚の清蒸に彼は眼がない。
ヴンタウの岬のはるかな沖に広い岩礁が海底からせりあがってきて、かなりの波がたっているが、夜半になるとそこへ巨大なバラクーダが浮上してきて餌をあさる。鉤にかかると一挙に海面に突進し、大跳躍をするが、コールマン・ランプの小さい円光のなかではそれが水しぶきを散らしてそそりたつ銀の塔のように見える。夜半にならないとこの魚は釣れないのだ、それまでは海岸のホテルでシエスタ(昼寝)だと蔡はいったが、海岸につくとがまんできなくなり、まだ午後三時のガンガン照りだというのにそわそわとランプや釣竿をとりだして私をせきたて、舟で沖へでた。その舟というのがサンパンで、これは舟べりが水面とすれすれぐらいの浅い舟だから、潮が上下するたび岩礁の波に木片のように翻弄され、しかもつかまるところが何もないので、背と背骨がたちまち音たてて痛がりはじめる。徹夜をして三匹の二メートルほどのバラクーダを釣りあげ、史前時代の大火を見るような積乱雲の朝焼けのなかを海岸へもどったのだが、サイゴンに帰ってベッドを見るやいなや、どろどろネバネバの潮をシャワーで流すゆとりもなく、そのまま倒れて眠りこんでしまった。ところが翌朝十時に蔡から電話があり、ベン・チュオン・ドゥオン三五番地の彼のオフィスへきてくれないかという。いってみると彼はガラス張りの社長室にすわっていて、飛行機のチケットを二枚とりだした。そして、無断でプランをたててわるかったが、二人分のフークォック島行きのチケットを買っておいた。フークォック島の釣りこそは男の釣りなんだ。こいつをあんたと二人で一週間ぐらいやりたいのだ。どうだという。いついくのだとたずねると、明日だという。明朝六時にアパートのまえで待っててくれ。自動車で迎えにいくからというのである。南支那海の海水を落した翌々日にシャム湾の水を浴びにいこうというのである。
たじたじとなったが
「よし、やろう。やりましょう」
というと、蔡は顔をくしゃくしゃにして笑い、何かよく聞きとれない叫声をたてた。そして巨大な、みごとなチーク材のデスクをまわってかけより、私の両手をとってカーペットのうえで二度、三度、子供のように跳ねた。いいぞ。今夜は宴会だ。今日の夕方六時にグェン・チャイのおれの家へきてくれ。いいな。いいな。といった。社長室を出しなにふりかえってみると、もう彼は椅子にもどり、テーブルにのしかかってせかせかと書類を繰り、仕事に没頭していた。
夕方六時にショロンの彼の家へいくと、屋上に案内された。そこでヴンタウへでかける前夜とおなじようにさっそく饗宴がはじまった。一つの大テーブルの中央に直径が一メートルほどもある|真鍮《しんちゆう》製の巨大な火鍋をすえつけて炭火をたっぷり底へ入れる。もう一つの大テーブルに牛、豚、鹿などの肉の山を並べ、そのよこにカニ、エビ、イカ、石斑魚、春雨、魚の浮袋、豚の網脂、春菊、豆腐、|香菜《シヤンツアイ》などをこれまたそれぞれ小山のように盛りあげて並べる。たくさんの中皿が並んで香辛料が入れてあるが、それは澄んだニョク・マム、赤いニョク・マム、花椒塩、蝦油、芝麻醤、醤油、マスタード、ケチャップ、酢、赤い唐辛子、緑の唐辛子などである。そのまわりに彼の仕事仲間、賭博仲間、釣り仲間などの老朋友や|大人《たいじん》などがすわり、悠々と箸を使って、とめどない食事と乾杯にふけりはじめるのである。夜の十二時が戒厳令で、その時刻にうろうろ町を歩いていると自警団の少年にカービン銃で射たれても抗議はできないということになっているから、それまでには饗宴は終らねばならないが、もし戒厳令がなかったらこの人たちは一晩でも二晩でもそうやって談笑と飲食をつづけるのかもしれなかった。それでいてどれだけ飲んで食べてもけっして乱れることなく、ネクタイをゆるめるものもなければベルトの穴をずらすものもない。どこまでいっても開始したときとおなじ快活さと謙虚さである。こういうのを以食為天、悠悠蒼天、肉山脯林、大漢全筵というのであろうか。あちらこちらの菜館の壁でうろおぼえに読みおぼえた対聯の句が明滅する。蔡は終始、眼光炯々、ときどき箸をうごかし、友人の冗談に軽くうなずいて一言、二言、口をはさみ、『サン・ラージュ』(年齢不詳)とだけレッテルに書いたコニャックの稀品を私についでくれる。口をきいてもきかなくても、飲もうが飲むまいが、まったく気にしないでのびのびとしていられるが、それはことごとく達人ぞろいだからなのだろうか?……
「……フークォックには、昔、クロコ(ダイル)がたくさんいたけれど、もうすっかりいなくなった。クロコを釣るのにフークォックでは面白いことをする。魚の腐った肉や豚肉の腐ったのに大きな鉤を刺して岸においとくとクロコが河からあがってきて一口に呑みこむ。それをロープで二人か三人してひっぱる。これがマレー半島のクロコ釣りだが、フークォックのはそうじゃない。右手に木の棒、左手にさきを尖らした鉄の棒を持って河にもぐる。クロコがいたら、その顔のまえに木の棒をつきだす。クロコはそれに噛みつく。噛みついて放さない。クロコの咽喉に水が入るが、それでもクロコは棒を放さない。あれは信じられないくらいバカなんだ。それで息ができなくなってジタバタしはじめる。つぎに鉄の棒でクロコの腋の下をちょっと突く。ここは柔らかいのだ。クロコはたまらなくなって泳ぎだす。そうやって鉄の棒でちょいちょい腋の下を突いていくと、クロコはくすぐったくてもがきもがき泳いでいくうちにとうとう岸へあがってしまう。これがフークォックのクロコ・ハンティングだ。愉快だったな」
蔡はコニャックでゆっくり舌を洗いつつ、眼光を沈痛にひそませ、かすかに微笑しながら、ひそひそと呟く。
エンジン部分のビスのあちらこちらから油洩れがしている双発のプロペラ機でサイゴンのタンソンニュット空港から飛びたち、ゆらゆらよろよろとメコン・デルタをよこぎり、ぼうぼうとした草むらのなかに干割れた滑走路が一本あるきりのフークォック島の空港につく。蔡の友人が一人、ハーフ・トラックで迎えにきていて、その荷台にあの双喜字にみちた香港ゴールドの寝室から総ざらいしてきたリュックサックをいくつとなく積みこんで、漁港のそばの旅館へいった。旅館といっても倉庫のようながらんどうの部屋が一つあるきりで、めいめい壁や柱にハンモックを縛りつけて寝るのである。数知れない男から滲出した脂と汗と垢でハンモックはまるで革のようにてらてら光っていたが、蔡は何もいわずによこたわり、長嘆息を一つついて寝返りをうったかと思うと、もう|鼾《いびき》をかいていた。夜なかに用便に起きると、蔡は泥のかたまりのようになって眠りこけ、部屋いっぱいに鼾の音をとどろかしていた。闇のあちらこちらでたくさんのヤモリが低く短く鳴きかわし、その声を聞いていると、ふと胸を小さな雪崩のように落下していくものがあった。蔡のせりだした、丸い下腹が呼吸のたびに上ったり下ったりしているのを見ると、奇妙な幼さと、はかなさをおばえさせられる。戸外には草と木にみたされたシャム湾岸の少し塩辛くてねっとりと蒸暑い夜がみなぎり、怪物的な活力がギシギシと音をたてんばかりにひしめきあい、つい土壁のむこうにまで針一本たてられないくらいの濃さで肉薄しているのがまざまざと感じられる。
翌朝、漁師の杭上小屋で熱い|粥《かゆ》を食べたあと、水と食料と果物、それに蔡のリュックサックと釣竿を一つのこらず積みこんで川をおりていった。この舟はヴンタウで雇ったのよりは大きいけれど、船艙らしいものはどこにもないから夜になれば甲板でごろ寝するしかない。舟べりが例によってごくわずかの高さしかないから寝返りをうつときには注意しないと海にころがり落ちる。舟は、黄いろい、とろりとした川をゆっくりとおりていく。川岸では屋根と柱しかない小さな魚市場で女たちの叫声や笑声がひびき、杭上小屋では赤ン坊を竹籠に入れて半裸の老婆がキンマでまっ赤になった口をひらいて笑い、椰子、蘇鉄、バナナなどの葉さきで日光が水のように|燦《きらめ》いている。初老だが頑強な体をした漁師夫婦が二人の助手の少年にあれこれと指図をしながら舵輪を操る。少年二人のうち、年下のは、やせこけて小さく、ぼろぼろのパンツ一枚をつけているきりだが、よく見ると小さな顔に端正な目と鼻をつけていた。よく働き、よく笑うが、ロープを持つとよろよろしていまにも水に落ちそうである。頭に古布をターバンのように巻きつけた漁師のおかみさんが、ジョニー・ウォーカーの空瓶に焼酎をつめて持ってくる。ハエの糞にまみれたコップについで少し飲んでみると、その澄明な滴はヒリヒリと舌にしみこみ、滴の外側でも中心でも|茴香《ういきよう》のきつい匂いがたちのぼって鼻へぬけた。いつかイスタンブールの公園の木のしたですすったアラックにそっくりの味がした。
この島の岸に沿って沖を北へ、北へとおりていくと、やがて島のはずれとなるが、そのあたりの広大な面積のあちらこちらに小島や岩礁が点々とあって、ちょっと多島海になっている。島や岩礁は海底でことごとく岩の根でつながりあっている。蔡はどの島、どの岩礁のかげが魚の巣であるかを知りぬいているので、漁師を指図してあちらで三時間、こちらで四時間とさまよい歩いた。潮が澄みきっているところもあり、にごっているところもあった。海底にギッシリとトコブシがひしめきあって敷きつめられているところもあり、ウニで海底が見えなくなっているところもあった。碧緑の澄みきった水のなかで華麗な、大きな亜熱帯の魚が右に左にゆれつつゆっくりと浮揚してくるのをのぞきこんでいると、空中に漂って釣りをしているようだった。昼のあいだは小物か中物が多く、暑熱がたまらないので、どこかの島かげに入ってシエスタをし、夕方頃に起きだして食事をし、潮がうごきだす九時、十時頃から、それがさしきって水が止まったところで一休み、しばらくしてふたたび水がうごきだして下げ潮がはじまるとまた釣りにかかる。コールマン・ランプの光のなかで仕事をするのは不自由だが、この夜釣りはしばしばめちゃくちゃ釣りになる。底魚、中層魚、表層魚がいっせいに荒食いをし、しばしばうわずって魚群が海面に盛りあがり、水しぶきたてて争いあったり、疾走したりする。はずしては甲板に投げ、釣っては甲板に投げしていると、たちまち足の踏み場もなくなるし、寝る場所もなくなる。赤、青、金、緑、銀、緑金、星斑、円斑、水に濡れていっせいに燦いたり、翳ったりし、地下の混沌とした無意識を発掘して一瞬ごとに脳に閃くまま、思いつくままの色彩をあたえたかのようである。カー・チェム! カー・ケム! カー・シンガポール!……釣れるたびにおかみさんが魚の名を叫んで笑う。ヴェトナム語は甲高い尻上りのイントネーションになるので誰が喋っても小鳥か少女の声のようにひびくが、中年すぎのおかみさんがまるで十六歳の娘のような声をたててはしゃぐので、慣れたつもりでもときどき思わずふりかえりたくなる。
蔡はバラクーダやヒラアジなどという引きの強烈な魚がかかったときにはフェリシタシオン(お祝い)と叫んではしゃぐが、大小にかかわらずいつ釣れても叫ぶのは石斑魚であった。これは日本でいえばハタにあたる魚だが、赤い模様のついたのが『紅斑』、黒い模様のついたのが『黒斑』である。どちらかというと赤いのが釣れたときに蔡は、セッパン! ホンパン! と叫び、慎重に舟のなかへとりこむと、他の魚とはべつにして、大切にひとところへかためておく。そして夜が明けると漁師をせきたてて舟を無人島の岸へつけさせるのだ。数あるリュックのうちの一つを選びだして少年に背負わせ、岸に上陸すると、岩を二、三箇組んで炉をつくり、鍋をかける。そのリュックのなかには台所道具が一式のこらず入っているのである。ある朝、目やにをこすりこすり見るともなく見ていると、蔡はそのリュックのなかからつぎつぎとさまざまな用具をとりだした。鍋、包丁、砥石、おろし金、竹箸、小皿、中皿、大皿、醤油瓶、ショウガ、ニンニク、香菜、唐辛子、ニョク・マム、蝦油、カキ油、砂浜にそれらをずらりと並べ、岩の炉に火を入れて鍋をかけ、昨夜のハタのなかから紅斑だけ、それを念入りに吟味して、調理にかかるのである。魚のさばきかたと包丁のさばきかたにはしたたかな熟練の冴えと、よどみのなさがある。
「その紅斑のどこがうまい?」
私が声をかけると、後姿のまま、彼は魚の、頭、目玉、唇、下腹、内臓などと順に指でついていき、さいごに背と横腹の肉をポン、ポンとつき、私が微笑するのを見て、ニヤリと笑った。やがて清蒸ができあがると、彼は、私や、漁師夫婦や、二人の少年を呼んで食べさせ、ときどき自分も箸をだして、うなずいたり、かるく舌うちしたりする。
「うまい。すばらしく、うまい!」
ときにはほのかに酒の香りがそえてあったりするその白い、脆い魚肉の気品ある淡麗さに私は思わず声をあげる。エビは小さいの。カニはたいていどれでも。この二つをのぞくと南方の海の魚は大半が大味で、ときには妙な脂臭があり、干魚や塩漬にでもしないかぎりあまり食べられたものではないと私はかねがね思っているのだが、石斑魚だけは、とくにこうして清蒸にしたとき、例外的に傑出している。ちょっとした菜館の食譜にはきっと清蒸石斑の字がある。しかし、こうして砂浜におびただしい用具と香辛料、それも多年の|手沢《しゆたく》でどれもこれもがねっとりと脂光りして、道具というよりはまるでぺットのようにうずくまったり、よこになったりしているのを見ると、蔡の食慾の徹底ぶりに感服せずにはいられない。他の国ならいざ知らず、これだけ多年にわたってひっきりなしに戦争のおこなわれてきた国で、銃声をよそに、この男は海岸でひたすら釣り、ひたすら料理し、ひたすら食べることに余念がなかったらしいのだ。以食為天、悠々蒼天も、ここまでくると、呆れたり、感嘆したりするよりさきに、ただ声を呑むしかない至境かと思えてくる。
しばらくして私が皿をおき
「あんたは料理店が開けるよ、蔡さん」
というと、彼はゆっくりとうなずいて
「みんなそういうよ」
といった。
上げ潮と下げ潮のときに水がうごいて海はいささか波だつが、潮のとまったときにはまるで湖のようになる。舟べりにぴちゃりぽちゃりと鳴る音もごくひかえめになり、月光のなかにのびのびとひろがるその無辺際の面積は、草も木も砂もない、柔らかい平野のように見えるのである。歩いてわたっていけそうである。しかし、舟べりにくくりつけたコールマン・ランプのほのかな円光のなかで水面をすかしてみると、上下左右、縦横無尽の吹雪である。それがありありと見える。生命体と非生命体の|阿鼻《あび》叫喚なのである。猛吹雪である。それは数知れぬ魚と貝と海藻の卵であり、幼生であり、プランクトンであり、マリン・スノーであり、ひとつひとつがしりぞけあい、食いあい、吸収し、同化し、反撥し、抗争しあう混沌の運動である。口をあけたままこの大集群のなかを突進する小魚があれば五〇センチと走らないうちに胃が濃厚ポタージュで破裂するのではあるまいかとさえ思われる。億でもなく、兆でもない大数を単位として数えるしかない触手、爪、鋏、鉤、牙、舌、眼、鼻、膜、その膜のなかのむっちりとした栄養と汁の、おしあいへしあいの、やるかやられるかの、逃げるか追いつくかの、反射と反射の、大動乱である。|劫初《ごうしよ》からそれは量も変らない。質も変らない。徹底して何も変らない。ただ、形状の変化があるだけだった。気まぐれに私がリールを巻きあげて、竿をふるってみると、六〇メートルのかなたへ闇のなかを一本の冷たい鮮光が走るが、釣糸にしがみついた夜光虫たちはふたたび水につかって大動乱にとけこみ、柔らかい、静謐な平野には斑点ものこらず、条痕ものこらない。
ある夜、国境あたりの海面を、錨をぶらさげたまま、潮に舟をのせて、ゆらゆら漂っていると、突然、陸で戦闘がはじまった。銃声は単発銃と連発銃、砲声は一〇五ミリか一五五ミリ榴弾砲であった。しばしば携帯火器のさえずりのなかで重機関銃が野太い咽喉声をたてて吠え、迫撃砲が花火のように鳴って、何発かの照明弾をうちあげた。鋭い、短い火線が闇を裂くのが見え、照明弾の濡れるような蒼白な光がジャングルの長城の線を浮きあがらせて消える。叫喚は三十分ほど連続したけれど、どの一発として腹にこたえなかった。これまでの私の経験ではたとえ一発の花火じみたカービン銃の銃声でも、もし銃口がこちらを向いていたら、それは花火ではなくなる。どんなに遠くでも、火器がどんなに小さくても、それはずっしりと下腹にひびいてくる。ひたひたと迫ってくる圧力波の鮮烈で不気味な迫力が体の前面につたわってくる。狙われているという意識が瞬間に作動してその圧力波を全身に流す。増幅する。想像力が鉤からはずれ、どこかの水門がひらいて、むらむらと恐怖や妄想の大群が走りはじめる。
しかし、その夜はそれだけで終ってしまった。シャム湾はふたたび静寂にもどった。舟で起きているのは蔡と私だけで、漁師夫婦も二人の助手の少年も眼をさまさず、起きてもこなかった。舟はひそかに揺れつつ、錨をひきずって、流れつづけた。しばらくしてランプごしに闇のなかから蔡の手がのびてきて、私に一枚の紙片をわたした。何かが書いてあって、ランプの光では、こう読めた。
月落烏霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外山寺
夜聲到客
ズボンのポケットに手をつっこむとサイゴンのアパートを出しなにちぎってきたトイレット・ペーパーの残りがくしゃくしゃの玉になっていたので、それをひろげ、蔡からボールペンを借りて、『楓橋夜泊』と書きつけた。それをランプごしに闇へ送ると、蔡のざらざらした手がうけとり、しばらくしてフムという声が聞えた。そしてそれきり彼は何もいわず、何も闇から送ってよこそうとしなかった。ときどき吐息をつくのと唾を吐く音がしたが、それはもぐもぐとドリアンを食べているらしかった。私はランプのかげでタバコに火をつけ、舟べりから体をのりだして、おぼろな円光のなかでの、微塵たちの、無量大数の吹雪に見とれた。
「……話があるんだ。今日これから釣りにいく島の近くに、もう一つ島がある、そこにこの舟の漁師の息子で三十歳になるのが住んでいる。たった一人で住んでるんだ。軍隊から脱走したんだよ。第四軍管区で歩兵をしてたんだが、去年のテット(正月)の休暇のときに脱走した。陸じゃ警官もいるし憲兵もいるので、なかなかむつかしい。そこでその島へかくすことにしたんだ。息子は炭を焼いて暮してるんだが、三カ月か四カ月に一度、米とニョク・マムを持っていってやることになっている。それで息子の焼いた炭をこのフークォックで売って、つぎの米とニョク・マムを買う。そういうことになってるんだ。もう一年半になる。その島までいくのに半日かかるから今日の釣りは夜だ。よろしいか」
「賛成だ。全然、賛成だよ」
「暑いけれどがまんしてくれ」
「気にならないよ。慣れたよ」
「今日の夜釣りはいい場所だよ。凄い釣りになる。一等地だね。これは保証するよ。凄いんだ。誰も知らない場所なんだ」
「それは楽しみだね」
三日めの朝、水、食料、燃料などの補給のためにフークォック島へもどったとき、蔡がそういった。肩をたたいて岸を指さすのでそちらを見ると、漁師夫婦と二人の少年が米の南京袋やニョク・マムの白い壷をいくつも肩にのせてこちらへくるところだった。それらを舟につみこむと、もう一度彼らは消え、しばらくすると、ニワトリ、バナナ、ドリアン、焼酎などを大きな竹籠に入れてもどってきた。蔡は竹籠をおろさせるとドリアンを一箇ずつとりあげ、尻の匂いを時計工のようなまなざしで嗅ぎ、もとにもどした。三箇のうち一箇を籠にもどし、二箇を漁師のおかみさんにわたし、もっといいのと替えてこいと、きびしい口調で命じた。しばらくしておかみさんが二箇持ってもどってくると、蔡はまた時計工の視線で一箇ずつ尻の匂いを嗅ぎ、しぶしぶ満足したそぶりで二箇とも籠に入れた。
彼は敬意をこめて
「ドリアンはむつかしいんだ」
呟いた。
「犬を選ぶのとおなじくらいむつかしいよ」
おそらく彼の精妙と熟練のおかげだと思うが、ヴンタウ沖でも、ここでも、毎日私はドリアンをたのしんでいる。これまで私はその果肉の魔味をアパートでも料理店でも、すべて室内でむさぼってきたが、蔡は夜の海上での魅惑をはからずも教えてくれた。蔡の厳選したこの果実をサンパンの舳にころがし、もしそれが風上であると、一晩じゅうたえまなく微風、軟風のたびに香りが流れ、きれぎれながらいつまでもつづく。豊熟の一歩手前のこの果実はむんむんと芳烈な香りのさなかにくっきりと爽涼をも含み、まるで細い、冷たい渓流が流れるようなのだ。豊満と爽涼のこの鮮やかな組合わせがあまりに絶妙なので、いつまでも味わっていたくなり、果肉を食べるのをあとへあとへとのばしたくなる。この香りがあるためにしばしば私は全身にねばつく潮や、きしむ背骨や、板のように張りつめたり縄のようによじれたりする筋肉の苦痛などを忘れ、春の温室にさまよいこんだような忘我に浸ることができる。翌朝になってそれをふりかえり、官能は一つのきびしい知性にほかならないのだと、さとらされるのだ。貪婪な蔡の眼にしばしば近頃の私は冷徹な賢者の片影を見るようになっている。
カモメも舟も波も何ひとつとして見られない白昼の炎熱ゆらめくシャム湾をゆっくりとよこぎってその島についたのは午後の三時頃だった。それは緑に蔽われて渚が砂浜ではなくて岩磯になっているありふれた小島で、そのあたりにいくつとなく点在している島や岩礁とけじめのつけようがないくらいすべてがおなじだった。漁師は沖でエンジンを消し、ゆっくりと静かに島に近づいた。あたりには白熱のゆらめく水平線と積乱雲しかなく、二人の少年が舟の舳にかけよってはしゃぎつつあげる叫声と笑声はまるで室内のようにひびきわたった。それが消えてしばらくすると、突然、渚の、白い、大きな岩のうえに一つの顔があらわれた。つぎの瞬間に顔が消え、オリーヴ・グリーンの野戦服を着た、はだしの青年が岩のうえにとびあがり、両手をふって叫んだり、跳ねたりしはじめた。舟がゆるゆると接近していくと青年は待ちきれなくなって岩から海にとびこみ、舟から投げられたロープを肩に背負って渚へ泳ぎもどり、熟練そのもののしぐさで舟をひっぱりよせてロープを手近の岩にゆわえつけた。父と母は米の南京袋やニョク・マムの壷を二人の少年につぎつぎとわたし、少年たちはそれを青年にわたした。すべての荷が渚にあがると、めいめいが肩にかついだり手にさげたりして持ち、岩から岩へひょいひょいと跳んでいき、深い木立のなかにちらほら見える崖を、木の根や枝につかまりつつ、のぼっていった。
岩から岩へわたっていくのはそれほど苦労ではなかったが、崖をよじのぼるのは楽ではなかった。土の肌は足に踏みならされてつるつるになり、あちらこちらに階段のように凹みがつけてあるのだが、凹みから凹みへわたっていくには根や枝をたよりにするしかない。ニコチン、阿片、酒、内的独白などですっかり蒼白くぶよぶよになった中年のぶざまな肉のかたまりをひきずってその急斜面をよじのぼっていくと、息が乱れ、肺がはためき、ねっとりと脂汗が全身に流れて、中腹にたどりついたときには唇が乾ききっていた。全身汗まみれになり、犬のように舌をだして、蔡と私は、口もきけず、ただ|喘《あえ》いだ。それを見て漁師の一家はおだやかな笑声をたてた。彼らはこの急斜面を南京袋やニョク・マムの壷をかついで苦もなくよじのぼったのだ。それらはすでにきれいに片づけられ、米の袋はさしかけ小屋のなかに、ニョク・マムの壷は小屋の軒下にきちんと並べておいてあった。そればかりか、父は薪に腰をおろしてゆるゆるとタバコをふかし、母はピャウピャウパウパウと小娘のような声をたててはしゃぎつつすでに一羽のニワトリの首をひねり、包丁で首を掻き切って血出しにかかっているのだった。青年は岩を組んだ小さな炉に火を入れ、まっ黒になった鍋をかけていた。二人の少年はあたりを跳ねまわっていた。
「おれが通訳しよう、何でも聞いてくれ」
蔡があえぎあえぎそういったので、好意に甘えることとしたが、蔡も私もしばらくは肩で大きくあえぎあえぎ、頬や顎からしたたり落ちる汗を、手をあげてふるいきることもできないでいた。
枯れた長い木の葉をたばねて編みあげ、それで小屋の壁と屋根がつくってある。小屋のなかには木の枝を|蔓《つる》でゆわえて組んだベッドが一つあるきりで、入口に手垢で脂光りした山刀が一つたてかけてある。粗末な棚が一つあって、二、三箇の欠け茶碗と、皿、箸と、アルミ製の薄っぺらなスプーン。ほかには何もない。シャツもなくズボンもなく、もちろん古新聞もなければ古雑誌もない。小屋の外には二、三箇の岩を組んだ、たっぷりと火焼けした炉があり、貧相なニワトリ小屋がある。山刀で粗くざくざく削った枝を蔓でゆわえたきりの小屋で、ニワトリたちは数羽いたけれど、どれもやせこけてせかせかしていた。戸もなければ敷居もないこのさしかけ小屋からさほど遠くない斜面に炭焼きの竃がある。土をこねてつくった小さなものだが、これで炭をつくるにはコツがあるという。炭にするための木を山腹の一方面だけで切ると、そこが裸になるから、沖を通る政府の巡視船から看破されてしまう。そこで、木はジャングルのあちらこちらからまばらに切りとってこなければいけない。つぎにそれを炭にするとき、煙りが濃くなっては怪しまれるので、煙道に枝道を二つも三つもつくって、山の向う側の腹に煙りがいくつにも薄くわかれてでるようにした。月夜に木を焚くと煙りがめだつので、いつも月のない夜に焚くようにしている。魚は海岸にでるといくらでも釣れるけれど、朝と昼は避け、夜だけしかできないから、あまりあてにできない。そのかわり、貝ならいくらでもとれる。夜になれば海岸へおりて貝やカニをとることにしている。カニはあまり期待できないけれど、貝はたっぷり食べられる。この一年半、ほとんど貝ばかり食べてきた。それに米と、ニョク・マムだ。
「風邪をひいたことはないか?」
「ないね」
「腹が痛くなったことはないか?」
「ないね」
「毒蛇はいないのか?」
「この島にはいない。ネズミのでかいのがいる。ネズミはうまい。とらえるのはやさしくないが、肉がたっぷりある。ニワトリよりうまい。ネズミはうまい」
「マラリアは?」
「ないね」
「病気になったらどうする?」
「おれは病気をしない。おれは生れたときから漁師だ。病気なんかしたことない。この島へきて一年半になるが、病気なんかしたことがない。おれはこのほうが気に入ってるくらいなんだ。うまいものは食えないし、腹はへるけれど、せかせか働かなくていい。漁師よりこのほうがいいよ」
風邪と腹痛のことを聞いたとき、みんなは声をたてて笑った。青年もおかしそうに笑った。それから漁師生活をするよりこの生活のほうがいいと青年がいったとき、蔡も一同もいっせいに笑い、父はニヤニヤと苦笑いしてそっぽ向いたり、うなだれたりした。青年は、すりきれた野戦服を裸にひっかけたきりで、その裸はやせてごわごわと筋張っていたけれど、筋肉も骨も強健そのものであった。足の指は五本とも、左右の足とも、ひらきにひらいて、一本ずつがしっかりと鉤のように舟べりや岸や岩をくわえるようになっている。
青年は小屋に入り、二つにわかれた木の股を利用してつくったパチンコを持ってきた。それには強いゴム紐がついているけれど、一羽も鳥がとれたことはないとのことだった。その柄に、おそらくあの長大な山刀でだろう、鳥の横顔が不器用だけれど丹念にきざみこんであった。また、小屋の軒さきには、ふちの欠けた平底の植木鉢が吊してあって、香菜がたっぷりと茂っている。針金はここではいくらでも他に切実な用途があるはずなのに、その貴重品を青年は植木鉢の装飾に使って、日本人が軒しのぶをたのしむように香菜を見て眼をたのしませ、ときどき葉をつまみとって御飯とニョク・マムにそえて食べるらしかった。
「真水は?」
「ある。いくらでもある。海岸の岩に山から落ちてくる水をうけてためるところがあるんだ。それで顔を洗うんだ。服も洗えるし、体も洗える。どんなに使っても朝になったらいっぱいになってるんだ。真水があるとわかったのでこの島に住むことにしたんだよ」
あとで海岸へおりてみると、青年のいうように、一つの大きな岩の凹みにたえまなく水滴が落ちつづけていて、日光のために表面が熱湯のようになっていた。その凹みはちょうど人が一人、体をよこたえられるくらいの広さと深さがあった。岩と岩のかげにあるこの天工の浴槽につかっていると、沖からはまったく見えないけれど、こちらからは沖が右から左まで眺められるのだった。その浴槽の近くの崖の腹をちょっとえぐって炭がためてあった。例によって木の枝を蔓でゆわえてつくった寝台が一つおいてあり、そこに寝ころぶと、たれさがった木の枝や葉をこして、よこになって肘枕をしたまま、沖が全景、眺められるのだった。青年は山から炭を持っておりてくると、この穴に入って寝ころび、沖を監視しつつ、休憩するのであろう。
蔡は寝台に寝ころんで構図に感嘆し
「よくできた|離 れ《パヴイリオン》だ」
と呟いた。
二人でその穴を眺めているところへ父がやってくると、蔡に何かたずね、そのまま向うへいってしまった。蔡はしばらくだまっていたが、父の質問をそのまま直訳したらしく、君はバオチ(記者)だから何でも知ってるだろうが戦争はいつ終るのだと、たずねた。そうたずねたあと、彼はちらと私の顔を眺め、何もいわないでぶらぶらと歩いてどこかへ消えた。私はしばらくそこにたっていたが、誰かの呼ぶ声を聞いたような気がしたので、そちらへ歩いていった。
夕方、蔡が指図しておかみさんがつくったニワトリのスープに香菜を入れてみんなですすり、ふたたび木の枝から枝へすがりつきながら崖をおりて海岸へでた。二人の少年は穴からつぎつぎと炭をはこびだして舟につみこんだ。父と母はかわるがわる青年の肩を抱いて何かささやき、舟にのりこむとエンジンをかけ、岸からゆっくりとはなれた。父は舵輪を操り、母と少年たちは舳にたって、いつまでも手をふったり、叫んだり、笑ったりした。青年は岩のうえにたって、それにこたえ、手をふったり、叫んだりしていたが、やがて消えた。史前期の大火のような夕焼けの先駆が島のうえにあらわれかけていた。私の腕や胸が真紅と紫と|紺青《こんじよう》に光りはじめた。
甲板にすわってタバコをふかしつつ、一|刷《は》きの影となって遠ざかる島を眺め、私はさしかけ小屋のよこで目撃したものを思いかえしていた。青年はすべてを徹底的に利用しぬくので、小屋の内にも外にも廃物とかゴミなどはひとかけらもないのだ。しかし、貝殻だけはどうしようもないらしくて、小屋のよこに捨てられるままになっていた。一人の男が一年半のうちに手でひろって食べる貝の殻がどれくらいの量になるかを私はその小さな山を見て思い知らされた。巻貝もあれば二枚貝もあり、トコブシやサザエではあるまいかと思われる貝殻もあちらこちらにあったが、大半は二枚貝であったと思う。そのおびただしい|堆積《たいせき》の上層ではひとつひとつの貝の形が見られたが、中層ではすでに溶解がはじまり、底層ではすっかり石灰質が流出して貝の形が失われ、ただごわごわの頑強な|襞《ひだ》の群れが見られるだけだった。モンスーン地帯の雨季の雨が稀硫酸のように貝を分解し、とけあわせて、岩塊や壁に似た物につくりかえつつあるのがまざまざと見てとれた。私にはそれが廃物の変化というよりは、若い漁師の渋くて苦そうな肉からの分泌物そのもののように見えたのだ。彼は生きながら遺跡を滲出しているのだ。滲出しつづけるのだ。
蔡が憂鬱そうに眼を光らせ
「ドリアンをどうだ?」
とたずねる。
私はタバコを捨て
「いいね」
という。
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黄 昏 の 力

今もおなじだけれど、二十数年前のその頃も、毎日、夕方になると、飲まずにいられなかった。たいていそこらにありあわせの茶碗の底に黄いろい輪をつくってよどんでいる粗茶の出枯らしを床にすててからウィスキーをつぐのだが、ときどきはグラスでやることもあった。蒼白い螢光燈に照らされ、ケント紙や、フィルムや、本や、雑誌や、原稿用紙などの崩れかかった小山のかげで、死人のそれか、蛙の腹のように見える指で茶碗をつまみ、スプリングのとびだした回転椅子にぐったりのびて、一滴ずつ、すする。形のない疲労と|困憊《こんぱい》が泥のように全身につまってよどんでいるのだが、やがて一滴、一滴が暗い胃や腸のどこかで|炸《はじ》け、血がうごきはじめる。熱いさざなみが一波また一波とうごいてじわじわと体を浸していくのを感じながら、崩れていくものと起きあがってくるものの気配を茫然と眺めてすごした。
小さなモルタル張り木造二階建の二階の一隅で、毎日、ハイボールやオン・ザ・ロックの宣伝文を書きまくっていたのだが、誰かが歩くと床板がギシギシ音をたて、階段を速足でかけおりるものがあると、家全体にひびいて、部屋がゆれるのだった。家のまえは運河になっていて、団平舟がギッシリとつまって黒い水を蔽い、夕方になるとエプロン姿の肥ったおかみさんたちが舳にしゃがんでフンドシやズロースなどの洗濯物の下で七輪に火をおこすのが見えた。それが上げ潮どきとあうと、東京湾からまッ黒の水がおしよせてきて、ひどいどぶの匂いがたちこめる。腐って、錆びて、ねとねとからみつく、工場と海の嘔吐物といいたくなる匂いである。ときには窓をしめてもすきまからその匂いは|腋臭《わきが》のように部屋にしのびこみ、茶碗にまでからみついてくる。ツンツンする乾いたアルコールが鼻さきでいくら揮発してもそれは消せなかった。
名刺屋、オートバイ屋、ラーメン屋、下駄屋などがごたごたとひしめくなかで支店は入口のガラス扉に金粉で《世界の名酒》と書いている。階下のトイレから階段をつたい歩きして消毒液の匂いがやってくることもしばしばだったが、そんななかで明けても暮れても『この一滴の|琥珀《こはく》の讚仰!!』とか、『暮春に拍手がある!!』とか、『コップのなかの輝く嵐』など、新聞、週刊誌、月刊誌のために右から左へ書きまくる。プレイ雑誌を編集する日にはグラースの香水や、カンヌのルーレットや、海へ一杯のぶどう酒を投げるヴァレリーの詩や、ブランデーは掌でグラスをあたためて軽くゆすりつつ一滴ずつすするものですなどという記事を書いたりする。朝、出勤してきたときはたいていひどい宿酔なので、熱い番茶に梅干を入れたのをすすってすごし、正午になるとオデン屋のラッパを聞きつけて階段をおりていく。そして名刺屋の娘さんやオートバイ屋のおかみさんなどが鍋を片手に群がっているなかにわりこんで、一本十円のツミレやアオヤギなど、どの串にいちばんダシがしみているかと、ちょっと夢中になって吟味する。毎日毎日時計のようにどれもこれもおなじ味なのだが、ツミレがいつもはイワシの団子なのにときたまアジをたたいて作ってあったりすると、驚喜した。
自宅としてニューヨークのペントハウス
マイアミあたりに別荘が一軒
自動車が三台
年に三カ月、電話なしの休暇
もしアメリカに生れていてAクラスのウィスキー会社にコピーライターとしてはたらき、いまここであげているくらいの成績をあげていたら、そんな暮しになる。出入りの代理店に命じて資料をあちらからとりよせ、二日ほどかかって計算してみたら、それも安くもなく高くもなく、ほぼ等身大と思える感度であれやこれやを測ってみたら、どうしてもそうなるのだった。これ以下ということはまずなさそうであった。ガソリン臭のつまった冬の埃風のなかにたって仲間といっしょにイワシとアジとではツミレにどんな相違がでるかを噛みわけ噛みわけ、自家用飛行機をもし追加するならふつうの陸上用がいいか、それとも水上用がいいかと、真剣に三言、四言、議論しあったものだった。
宣伝部の部屋には毎日つぎつぎとたくさんの客がくる。製版屋、印刷会社、広告代理店、出版社、新聞社、玩具屋、バーテンダー、とめどがない。一人ずつ会って十分間話しあってそのたび粗茶を一杯すすっていたら、夕方には水ぶくれになってしまう。ときどき彼らはお覚えをよくして仕事をよけいに落してもらおうと“表敬”にやってくるが、用談がすんだあとで耳もとへ口を持ってきて早口で誘うのは、たいてい、チョット面白い店か、そうでなかったらエロショウ、そうでなかったらチョット面白い店で食事したあと席をかえてブルーフィルムを見ましょう、という相談だった。たいてい夕方になってからである。五時になってから黄いろい輪のついた茶碗でウィスキーなりジンなり、本のかげにころがっている瓶をたてて一杯ひっかけ、螢光燈や、人の視線や、机の角がとろりとにじんで見えるぐらいになるまでやってから繰りだすことになる。裏町の安料理店や三文バーの小部屋を借りて実演を見たり、チラチラする映画を見たりする。寿司屋の二階を借りて、雨戸をたてまわし、総金歯の初老の男が鋭いくせに焦点のない、奇妙だが慣れきった気配のまなざしでつれてきた和服姿の二人の若い女が乱取りを演ずるのを壁にもたれて眺める。女たちも総金歯の男とおなじ視線を持っている。けわしくて鋭いけれど焦点がなく、顔を何度直視されても記憶にのこらないようなまなざしである。その眼で座布団三枚をつらねたうえでパンティだけとり、上からと下からとコンドームを一枚ずつかぶせた綿棒でつるみあう。上になり、下になり、よこになり、むかいあい、柔道の型を演ずるようにつぎつぎとポーズを変えるが、そのあいだ一度もたがいのあいだにはさまった棒には手をそえない。棒はどんなに奔放に女たちがうごいても二つの|玄牝《げんぴん》に呑みこまれたままで、ぬけることもなく、落ちることもなく、はずれることもないのである。
金歯の男は、それを見て
「ここまでくると」
という。
「おおそりちいですわな」
女たちは無言で帰っていく。
『田園交響楽』とか『乙女の日記』とか『つぼみのおもひで』などという題のフィルムを何本見たか知れない。耳もとでひそひそ声でささやかれるたびに今度こそは、とか、ひょっとしたら、などと思ってでかけるのだが、いつも似たようなものだった。玄牝がバナナを食いちぎったり、タバコをふかしたり、卵を二メートルとばして座布団の上へ落下させたりするのを見ても、さむざむしくて、わびしくてならなかった。壁にもたれてあぐらをかき、ポケット瓶をときどき口にはこび、けだるくてみじめな酔いに体をゆだねて、ぼんやりしていた。フィルムはどれもこれもすりきれ、ただ白いまだらと黒いまだらがチカチカと交錯するだけである。セーラー服を着た年増女が野原の馬を見ながら窓ぎわにもたれて玄牝にサイダー瓶を呑みこませても、背中いっぱい倶梨伽羅紋々の若い男が女を床柱まで追いつめて遂情しても、血は冷えこんでいくばかりで、胃に落ちたウィスキーの滴だけは熱くて重いけれど、肉へ、血管へひろがっていくものが何もない。どこか場末の安旅館の一室を借りて撮影したらしいそれらのセルロイドの破片を明滅するままにぼんやりうるんだ眼で眺めていると、ときどき、川原のコスモスの花や、遠い電柱などが無傷のままで登場することがある。ふいに一瞬あらわれ、おやと眼をこすって体をたてなおそうとすると、もう消えている。倶梨伽羅紋々は汗だくになって仕事にはげむが、うなじの凹みや、肋骨のすきまや、臀の球のかげなどにクッキリと汚水のような影がよどんでいる。組みしかれた女の体もやせこけて筋ばっていて、眼のした、肋骨のかげ、腰骨のあたりに、何かの強い酸のように不幸が匂っている。男は顔をかくして眼を伏せ、女は天井をまじまじと眺めている。
「寒うなりそうやなあ」
「何とかならんのかネ」
「ふとんかぶって寝てしまいたいよ」
「大晦日あれも人の子樽拾い」
わびしい苦笑と舌うちの声が暗い部屋のあちらこちらで起る。背には薄い壁板ごしに自動車のきしり、鍋の音、子供を叱る声、水を流す音、黄昏から夜へ足速く浸透していく獣のような街の息づかいが聞える。それらに犯されるままになってうとうと酔っていると、セーラー服や、お河童や、入墨はどうでもよくなり、のたうつ男と女の頭上にある床の間の掛軸などに眼が走り、記憶にきざむ。『光風霽月』という字が見えたこともあったし、『物心一如』と読めたのもあった。
それでも毎日、夕方がくると、ウィスキーかジンかをひっかけずにはいられないし、ひそひそ声で誘われたら、でかけずにはいられない。ブルーフィルムを見たあと、とらえようのない荒寥になにがしかおそわれ、水でびしゃびしゃした暗い露地を表通りへでたら、いずれは安直な三文酒場へいくしかない。細長いグラスに氷片をガチガチといっぱいにつめこみ、それを十箇か二十箇並べておいてウィスキー瓶をまるで眼薬をつぐみたいにしてチョイチョイおじぎさせつつ走らせ、ソーダ水だけはやたらに音高くつぎこむ。そういう眼薬ハイボールは十杯か十五杯呑まないことにはキックがきいてこないし、そうなれば腹のなかではソーダ水とアルコールが分離したままでゴボゴボと泡音をたててわきかえり、もたれかかってくる。夜の酒場の壁には、詩人の見たような、暗い、大きな、緑色の穴などはどこにもあいていない。史前期か、史後期か、異星か、未開発の大陸か、新しい女の体の上で男が見る光景などが覗けるような穴はどこにもあいていない。もつれる足をはげましはげまし、眼をしかと閉じて、耳に雷のような心臓のはためきを聞きつつ、深夜電車にころがりこんで泥睡する。|森閑《しんかん》とした終着駅の冷たくてきびしい夜のなかへ車掌に追いだされ、ゲロを吐いたりこらえたりしつつ駅前タクシーになだれこむ。自身に追いつきたくて飲むのではないかと、夕方、運河からの化学腐臭のなかでおぼえた、ささやかな昂揚は、とっくに消え、唇に甘酸っぱい胃液のねばねばがあって、そこからは崩壊と荒涼しか分泌されない。翌朝は頭痛と吐気でよろよろしつつ口臭と屁臭でむかむかする満員電車に乗りこんで会社へいく。熱い番茶に梅干を入れたのをすすりすすり血が中和されるのを待ち、オデン屋のラッパで階段をおりていく。ツミレを食べつつ自家用飛行機の話を仲間とかわし、二階へもどって『スターリンも味を変えられなかったウォツカ』とか『一滴一滴が宝石です』とか、『ここから発し、ここへ回帰する』などと、右から左へ書きちらす。ふと気がつくと、胃のむかつきはおさまり、血は中和されて、夕方が運河から窓へにじりよっている。潮を体のまわりに感じつつ瓶をさがしにかかる。愚行の輪がのしかかり、そそのかしにかかる。死人のような指で。蛙の膚のような手で……
その頃の広大な浅草にはいたるところに穴があって、青い映画や、飛ぶ卵や、おおそりちいの乱取りが見られた。仲間の一人、二人と、ほとんど三日とあげずにかよったものだったが、紹介者や電話がなくても、気むずかしい註文をださないのなら、ちょっとした薄暗くて湿っぽい露地を歩けば、きっと暗がりから声がかかる。その声の主の顔や眼は目的の場所にたどりつくまでいつもまともに見られたことがないし、見たとしてもおぼえていられないのだが、穴の家へくると、声は戸をひいて玄関へ入り、そのまま足をかえしてすたすたと消える。穴へいくまでに四ツ辻にさしかかったり、露地へきたりすると、きまってあたりには焚火をしたり、立話をしたりしてる人影がある。声が影に何かちょっとしぐさをすると、影は声に見えるか見えないかのしぐさをしてみせる。ポリスにたいする歩哨の役を影はやっているらしくて、そうやって声に、安全だと知らせるわけである。声のつれこむ家はたいてい表通りや裏通りからちょっとはずれたあたりにあり、界隈には映画館もなければ劇場もない。とぼしい門燈がついているかいないか。戸もまっ暗、玄関もまっ暗。家のなかに人のいるらしい気配はあるけれど、声もしないし、匂いもない。どこからか襖をあけて一つの影があらわれ、エ、こちらですなどと口ごもりつつ二階への階段をあがっていく。それについてあがっていくと、あまり明るくない灯のついた小部屋に案内される。そこにあらかじめセットした映写機がおいてあるか、壁にもたれて十分ほど待つと女がやってくるかである。主人は階下へおりていき、女がやっぱり鋭くて暗くてけわしいけれど人を直視しないまなざしで灯の下にたって裸になり、玄牝に一〇〇エン玉を何箇も呑みこんで、客のいうままに二〇〇エン吐きだしたり、五〇〇エン吐きだしたりする。
女がおぼろな小声で
「いくらだそう?」
とたずねる。
誰かが
「三つ」
と呟く。
女がゆっくり腹をふる。とぼしい、ぺちゃんこの、薄い茶褐色の線が鳥の巣まで縦に走った腹だが、ゆっくりとふると、硬貨の鳴る音がする。腔、膜、肉、脂肪などが何重にもかさなった、ぺちゃんこの腹のなかで何枚もの硬貨がゆさぶられる。それらがぶつかりあってカチャ、カチャと、冬の夜半に低い音をたてて鳴る。
「ヤッ」
声をかけ、どすッと畳を足で踏むと、赤ちゃけて毛ばだった、しめっぽい古畳に硬貨がバラバラと散らばる。女は風呂のふちにしゃがむ姿勢でかがみこみ、一枚ずつひろって
「五枚だわ」
と呟く。
ぴたぴたと下腹をたたきつつ
「メンスのあとだもんだから」
という。
「たるみやがって」
という。
「なまけやがって」
という。
そしてまた硬貨をその枯痩しかかった腔におしこみ、ゆっくりと腹をふりにかかる。盲腸の手術の痕が白くぬめらかに光っている。わびしい、とぼしいカチャカチャという音が、つぶやくようにその小さな腹のなかで鳴っている。
こういう薄暗い小部屋で字を書く女もいた。軸の太い毛筆にたっぷり墨汁をつけ、古畳にピンで貼りつけた紙にまたがり、玄牝に筆をつっこみ、腰をひねるだけでみごとに書いてみせるのである。一枚、また一枚、客が納得するか、飽きるかするまで、女は何枚も書いていく。そのたびにピンを剥がしたり、紙を貼りかえたりを女はちょっと習字の教室にいるお河童の小学生のようなしぐさでやる。だまって、熱心に、不幸を匂わせず、淡々としたそぶりで、『江戸一代女』とか、『寿』などと、何枚も何枚も書いていくのである。某夜の、その、何枚ものうち、とりわけ眼をひいた『寿』の一字があったので、もらっていっていいかと低くたずねると、女はそっぽ向いて墨汁の罐に蓋をしつつ、いいわよ、どうぞと低く答える。千円札を一枚、ちょうど部屋のすみにあったラーメン鉢のよこへすべらせ、墨が乾くまで待ってから、注意して折りたたむ。女が消えてから、誰かが、そんなものどうするのだ、とたずねるから、ナニ、ちょっと思いついたことがあってと、答えておく。翌日、それを支店長室へ持っていき、重役の一人に見せて、これは名ある女流書道家に書いてもらったのですが、名前はだしてくれるなとのことなので、このまま新年の全紙広告に使おうと思います、といった。重役は紙を手にとってつくづく眺め、不安げな低い声で、篠田桃紅さんにしては頑健やな、と呟く。男の強い手首で書いたみたいでしょ、というと、ウム、強いと呟いてかえす。とってかえして二階へあがり、待っていた製版屋にわたし、朝日、毎日、読売、産経、それぞれ白地に墨ノセにしてみたり、スクリーンをかけてみたり、墨ベタ白ヌキにしてみたり、一紙ずつかえて賀春の全紙広告に仕立てる。全紙いっぱいに威風堂々、『寿』と、たった一字おき、そこへ
まためぐりくる
王城の春に献ずる
この無声歓呼
三行のせた。
元日の朝も遅くなり、正午近くに眼をさますと、やっぱりひどい宿酔である。むかむかするのをこらえつつふとんから手だけだして枕もとの新聞をひきよせ、全紙いっぱいにおどっている『寿』の、刷りはどうか、カスレはないか、効果はどうかとすみずみまで観察したあと、ふたたび甘くて深くて柔らかい湿地のような眠りにとけていく。やにだらけの眼を閉じるとからっぽの南京袋に似た体のどこかになにやら爽やかな愉しさがにじんで、眠りをおだやかにひろげてくれた。何か復讐をとげたあとのようであった。
某日。
仕事のひまひまに編集する小さなプレイ雑誌のための原稿をもらいにいったさきで、五十年寝かせてあったというオランダ・ジンを一本もらった。くれたのは初老の俳優で、ヨーロッパへ旅行したときに誰かにもらった物だということだったが、あちくしは女には手をだすけれど酒はからきしなんデといって、総革張りの舟ほどもあるソファをおいた応接室で原稿といっしょに手渡してくれた。この頃は外貨蓄積が乏しいので外国旅行が一般人には許されず、誰がいった、彼がいったと一人ずつについて噂のたつ時代であった。仕事部屋へ持って帰って包みをひらいてみると、茶色のくすんだ陶瓶が一本あらわれ、レッテルは|黴《かび》でぼろぼろになり、破片しかのこっていないが、コルク栓は古色で錆びながらもしっかりつまっている。仲間を集めて黄昏になるのを待ってから栓をこじあけ、グラスについでみると、無色透明な蒸溜酒のはずなのにリキュールのような艶と|肌理《きめ》の液がトクトクとでてきた。一滴、二滴、おそるおそる舌にのせてみると|杜松《ねず》の気高い爽涼の香りが口いっぱいにひろがって鼻へぬける。滴は磨きぬかれてこまやかでまろいが、水そっくりの温厚さをたたえている。咽喉へ送ってみると、羽毛で撫でたほどの痕も感じさせずにひっそり消えていく。いつも茶碗でひっかけるジンは咽喉、食道、胃、腸とヤキヤキした熱をどこまでもつたえていき、小さな火が走るようなのだが、この滴とくらべてみると、薬用アルコールでのばした|松脂《まつやに》といいたかった。その滴は訴えたり、叫びたてたり、足踏みしたりに夢中なのだが、この滴は自身であることに花のように満足して|静謐《せいひつ》であった。透明のなかに深奥があり、しかも優しいのである。
「………」
「……?」
「……!」
いつもの螢光燈のせいで誰の頬や指も蛙の腹のように蒼白いが、眼をかわしあったきり、何となくみんなだまりこんでしまう。
そんな貴品にふれたのだからそのまま帰ってしまえばいいのに、やっぱり黄昏の力がしのびよってきて足もとの砂をしゃくいとるような、それでいてうきうきと軽口をたたきたくなるような不安と昂揚を、そこはかとなく、肩や足にしみこませるものだから、みんなでぞろぞろ繰りだす。毎夜いきつけのトリス・バーを三、四軒、パチンコ玉のようにわたり歩いて、キックの遅い眼薬ハイボールをあおる。頭から侮蔑しながら、やっきとなって流しこみにかかる。重役、新聞社、製版屋、女房、属目ことごとくの悪口をならべてピーナツといっしょに呑みこむが、昨夜も一昨夜もおなじ人物についておなじ悪口をおなじ文体でやったものだから生湿りの花火みたいなものである。そのうち口をひらこうとして閉じてしまいたくなる。キラキラ輝く霧につつまれて、脳も腸もぼってりと|火照《ほて》りつつ形を失い、新しいグラスがくるたびに全身が一本のガラスの螺旋管となったようである。ソーダ水の泡にもまれつつアルコールとカラメルが分解してぐるぐるとまわりつつ落ちていくのがまざまざ目撃できる。
「浅草、いこか?」
「また無声歓呼かい?」
「物心一如かァ?」
入れかわりたちかわり塩素くさい水のほとばしるトイレからもどってきて長い吐息をつき、血走った陰惨な眼をかわしあう。どこかの湿っぽい、陰暗な、石牢のような地下室で五十年を戦争も知らずに甘睡しつづけたオランダ・ジンはとっくに東京湾へ流失してしまった。静謐も、澄明も、自足も、花に似た沈黙も、ことごとくひび割れた便器の穴に呑みこまれてしまった。
六区のいいかげんな郵便ポストのかげにひそんでいいかげんな声で鳴きかけてくる男をからかいつつ、何となく、暗い界隈へつれこまれる。焚火にあたる人影を二つほど通過して、門燈の消えかかった、ひっそりとした家につれこまれ、エ、こちらですの声のままにけだるくもつれあいつつ階段をのぼる。小部屋には映写機がセットしてあり、毛ばだった古畳はじっとり湿っている。垢で油光りした座布団を尻に敷いて薄い壁へもたれる。土曜日のせいかと、ずいぶんあとになってから気がついたが、その夜はつぎからつぎへと客がくわえこまれ、送りこまれてきた。どれもこれも宴会帰りのサラリーマンで、折詰をさげてるのもあれば、ネクタイをほどいてるのもある。みんな酒と喧騒でお土砂をかけられ、すっかりぐにゃぐにゃになっている。その家の主人が電燈を消して部屋をでていき、映写機がカタカタ回転しはじめても、部屋のあちこちではいびきや、小声の軍歌や、ヒ、ヒ、ヒというひとり笑いなどが煙りのようにたつ。
地図や川などが入りみだれる赤ちゃけた襖にチカチカと白黒が走りだす。酔ってうるんだ眼には田園交響楽か、乙女の日記か、つぼみのおもひでか、けじめもあやめもつかない。何やら大写しのシーンがあらわれても、それが陰門なのか、肛門なのか、見当のつけようがない。やたらにテラテラ黒光りするものが明滅出没するが、サラダ油をぬった男根なのか、グリースをぬったピストンなのか見当がつかなくなってくる。ぐったりと壁にもたれて、眼を閉じ、うとうとしていると、肩、腰、足、腕の関節のあたりから、新しい湯のようなものがにじんで全身にひろがり、甘睡がゆるやかな、あらがいようのない波紋のように足さきへしのんでいく。ふと気がついて眼をさますと、映写機が止まっていて、部屋には電燈がつき、いまさきまであちらこちらにいぎたなく寝そべったり、ヒ、ヒ、ヒと笑ったりしていた客たちが一人のこらず総立ちになっている。めいめい視線があわないようにそっぽ向きつつ、あちらの歯車、こちらの歯車といじり、フィルムをつっこんでみたり、たるませてみたり、いそがしがっている。からっぽの南京袋か水っぽい粘土塊のようになっていたのが一人のこらず協力しあっている。それでいて眼をそむけあい、声は直接にかけあわない。しかし、こちらの歯車をこうやってみるからそちらの歯車をどうかしてみろと、何となくつたえあっているところがある。見ず知らずの人びとが名刺も挨拶もぬきで敏捷に眼と指をうごかしあって協力しあっているのだ。機械は階下の主人をわざわざ呼ぶまでもなく、たちまち回復してカタカタと鳴りはじめる。するとみんなは壁ぎわやタンスのかげへいっせいに散らばり、しばらく明るい襖に白と黒がチカチカするのを眺めていたが、それでもやっぱり、いつのまにかもとのぐんにゃりした殻を着こんでしまい、おたがい無言のままで、眼をかわさないようにしているのだった。誰かがたって電燈を消すと、しばらくして、たちまち、いびきや、歯を噛みあわせる音や、くぐもったひとりごとなどが、あちらこちらで煙りのようにたちはじめた。映画が終り、主人が階下からあがってくると、めいめい眼をそむけあって一人ずつ部屋をでていった。
「……ゴーリキーだったかな。書いてるんだ。いつもは朝から晩まで、近所|合壁《がつぺき》、口ぐちにののしりあったり、喧嘩しあったりしている連中が、あるとき長屋が火事になったら、たちまち水をはこぶやら、梯子をかけるやら、めざましい一致協力で火を消してしまうんだね。ゴーリキーはそれを見て、人間は何ていじらしいんだろうと感動する。ところが、火事が消えてしまうと、翌日からやっぱりいがみあい、ののしりあい、悪口雑言がはじまる。それを見て、ゴーリキーは、いったい人間って何なのだろうと、迷いと絶望に落ちこむんだ。この話自体がいじらしいようなもんなんだけどね。そういう回想をゴーリキーは書いている」
夜ふけの場末の、むらむら悪臭のたちこめるラーメン屋で、|茹《ゆ》でさましの白い豚足にニンニク味噌をつけて|齧《かじ》りつつ、ツンツン鼻にくる|白乾児《パイカル》をすすりすすり、そんな話をしてみたが、誰も応じてくれない。血のひいた眼で豚足をいやいや齧りつつ、荒寥とした壁や、破れかかったトイレの入口を、何となく眺めている。脂でぬれた指をしゃぶりしゃぶり、皮、脂肪、肉などの精妙にからみあった豚の足を、一口、一口、注意深く齧ってはニンニクの匂いにむせそうになる。足がすっかり裸になって骨だけになると、横ぐわえにかぶりついて、骨を噛み砕き、とろんとした髄を唇つけてちゅうちゅうと吸いだしにかかる。醤油や汁でよごれた深夜の壁に、暗い、大きな、緑色の穴はあいていない。
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渚 に て

数年前、ふとしたことで右足の骨を折り、ギプスをはめられて、身うごきができなくなった。そのため何カ月か、自宅のソファで寝て暮したのだったが、ある夜、本を読んでいると、ふいに何人かの客があった。いずれも壮年の屈強な体つきの男たちで、顔見知りのもあり、はじめて会うのもあった。彼らはうごけないでいる私をかこんで前後や左右にすわりこみ、ほんのちょっとのあいだ私の折れた骨についての話を聞いてから、めいめい口ぐちに釣りの話をはじめ、そのほかの何の話にも興味を示さなかった。それも擬餌鉤の釣りの話だけで、ミミズやイクラや川虫には何の興味も示さない。どう投げるか。どう引くか。どうしゃくるか。何色がいいか。三本鉤がいいか。一本鉤がいいか。ときどき意見を求められると、私は寝たまま法螺と真実をとりまぜて話をし、混合率を四分六分にしてみたり、七分三分にしてみたり、その継ぎ目がめだたないよう慎重に注意しながらすすめた。アラスカのキング・サーモン釣りの話をしているときは真実が八分で法螺が二分だったが、つぎにグリーンランドでルアーを眼をつぶって投げたらサケぐらいもあるポーラー・チャー(北極イワナ)の頭に全弾命中するといっても誇張ではなかったという話では率が逆になった。真実ゼロに法螺が十となったのである。私はアイスランドにはいったけれど、グリーンランドは知らない。いったことがないのである。ただし、グリーンランドの釣りのことをよく知っているスウェーデン人の釣師にそういう話を耳に吹きこまれてくらくらとなったことがあり、それがどうしたものか話をしているうちにふいに暗部で発芽して、たちまち空までとどく豆の木になってしまったのである。
私が手短く話をしめくくると
「すげえな」
「いってみたいな」
一人か二人、声をだした。
男たちのなかにまじって初老と思われる年頃の一人がいた。中背だけれど、やせていて筋肉質であり、眼じりの皺は深いが、眼光が鋭く、その鋭さにはどこか底暗いところがある。私が話をしながら、それとなくうかがってみると、人物はおおむね黙っていて、ときどき鋭くて短い声をたててわらった。私の話がすむのを待ってから人物は膝をのりだしてきて、名刺をさしだした。住所は大阪の下町だが、肩書は外科医で、博士である。
人物はじっと私を眺め
「あなたの本の愛読者です」
といった。
タバコに火をつけながら
「私は気ちがいですよ」
といった。
その声にみんなは黙りこみ、私も黙りこんだ。博士は淡泊に、ずけずけと、無飾の口調で話をはじめた。それによると、博士は友人の精神科医の精神病院から四日前に退院してきたばかりのところだ、とのことであった。自律神経がどうかした、とか、三半規管がどうとかしたという意味の二、三の学術用語が閃いたけれど、私にはよく聞きとれなかった。とにかく博士は狂ったのであり、自宅療養の努力をしてみたが、自分で自分の手足が|制禦《せいぎよ》できなくなってしまい、雲古も御叱呼も始末のしようがないので、赤ン坊の歩行器のような便器を作り、それにまたがって一日中看護婦に附添われながら部屋のなかをぐるぐるとまわっていたという。そのうちいくらかよくなったけれど、だといって狂疾が去ったわけではなく、東京へでてきて、友人の精神科医のところについ四日前まで入院していた。便器にまたがって部屋のなかを巡回していた時期に、マジック、絵具、筆、ペン、鉛筆、何でもいい、手にふれる物をとりあげて、襖といわず、壁といわず、つぎつぎと頭に浮んでくるままに画や、線や、言葉をなぐり書きした。それから、本といえば、あなたの釣りの本だけを読んだ。読んで、読んで、読みまくり、全文ことごとく暗誦した。嘘ではない。女房がよく知っている。看護婦も知っている。かねてから私は釣狂で、海といわず山といわず、春も秋も問わず、年中のべつにほっつき歩いていた。それが病気になって、たまたまあなたの本に出会い、はからずも没頭することとなったのだ。全文たちどころにいまこの場で暗誦できるし、してもみせたいが、いちばん気に入ってるのはあなたが、“悦楽を追及していくときっとどこかで剛健がでてくる、悦楽にはどこかに剛健があるし、なければならない”と書いているところだ。けれど、これはみごとな句だが、それを知ったからといって満足はできなかった。私はくる日もくる日も、必死になって、あなたの姓名の反語を考えることに没頭したのだ。さいわい私は満州育ちで、英語と、ドイツ語と、ロシヤ語のほかに、及ばずながら中国語もできる。そこで、北京官話の語感で、あなたの『開高健』という名前の反語は何かと考えたのだ。その結果、『閉低患』ということになった。どうしてもそうでなければいけない。これに落着く。正確にこれは一字ずつ照応しあっていて、しかも完全に反語である。開高健じゃない。閉低患なのだ。カイ・カオ・チェンじゃない。ピー・ティー・ファン――この、ファンが、ちょっと発音がむつかしいですが――これだ。これなんだ。そう思いつめた。今日たまたま釣りの会に顔をだしたらあなたの話がでたので、私はぜひ一度お目にかかりたいと思い、みんなをそそのかして、ここへきた。そういうわけです。ずいぶんお世話になりました。
博士は名刺のうらに
『閉低患』
と書いてさしだした。
「あなた、中国語ができますかな?」
「ほんの、ちょっぴり」
「どのくらいですかな?」
「料理店のメニュを読むくらいです」
「わるくない。わるくないですな」
「………」
「ピー・ティー・ファン」
「………」
「発音してごらんなさい」
私は寝たまま、低い声で、二度か三度、その発音をつぶやいてみた。みんなが黙りこんでいるなかで博士はじっと耳をかたむけ、何やら暗く光る眼を凝らして聞いたあとで、不満げに顔をあげ、ちょっと妙なところがある、南方訛りかな、とつぶやいた。
冬いっぱい私は寝て暮し、春も半ばになってから、やっとびっこをひきひき戸外を歩けるようになった。博士とはすっかり親しくなったので、その後寝たままで私は何度か手紙をだして釣法や穴場について問い合わせ、ことに穴場についてはちょっとでかける機会もないような場所なのに細密にたずねる手紙を書いた。それにたいして博士はどこにも狂疾の兆候は感知されないけれども徹底的に細緻、精妙な文面の返事をよこし、穴場については地図、仕掛については略図をつけてきた。それを読んだり、眺めたりしているだけでもずいぶん私はソファの|鋳型《いがた》にはめこまれたままの倦怠をしのぐことができた。そこで誘われるままに大阪へいってみると、博士は大阪や神戸の釣狂を集めて黒門市場の魚料理屋へ私を招き、ボラの|臍《へそ》を食べさせてくれた。その夜、したたかに酒を飲んで、私は混合率の朦朧とした、自分でもくらくらするか、うっとりとなるような話を吹いたあとで、博士の自宅へつれていかれた。これは空想したり、覚悟していたよりは、はるかにみすぼらしい構造物であった。『診療所』という看板はでているけれど、医院らしい匂いも、気どりも、何もない。クレゾールの匂いもしないし、待合室らしい待合室もなく、金属やガラスの冷血だが有能そうな閃きはどこにも見られないのである。まっ暗な、よたよたの階段をあがって二階へいってみると、その薄暗い、小さな部屋の古畳は赤ちゃけてにちゃにちゃとし、襖といわず、壁といわず、赤、黒、青のマジックでお化けのQちゃんや、メデューザそっくりのアメーバや、魚の絵などが描きなぐってあり、博士の意想奔出の混沌ぶりはまざまざと、まさぐれた。博士はその破れ畳にあぐらをかいて粗茶をすすり、宝石ほどの値がするハーディーやレオナードの六角竹のフライ竿をとりだしてきていちいち私の手に持たせてくれた。そして、余生はひたすら釣りあるのみです。急患もおことわり。重患もおことわり。往診もおことわり。そうやって時間を稼いで山へアマゴを釣りにいくです、というのであった。そういって眼を光らせ、鋭く短く声をあげてわらった。
おなじ話を何度も何度も書く小説家がときどきいて、いかにも見苦しいし、能なしだと思えたりするが、そういうことをする動機の一つに惚れた弱さというものがひそんでいると、放射能のようになかなか逃げられない。はたから見れば、あいもかわらずと鼻白みたいのに、本人は毎度“新手一生”と思って蒸しかえしている。そうするよりほかに呪縛のときようがないとどこかで感じているのでもあるが、結果としてはかえって呪縛を強めることになっている場合が多いようである。つまり書き損ねである。冷たくなれないために失敗するのである。これから書こうとする人物たちも博士とおなじように私としてはすでにデッサンがすんでいるのだが、破片を集めてもう一回だけ組みたててみたい。この人たちは博士が意想奔出しているときに読んだ私の本に紹介されていて、赤鉛筆や青鉛筆でひどいお化粧をほどこされている。私はこの短篇に博士を釣りだしてしまったのだから、どうしても糸のさきについているものもたぐりよせなければならない。じつはそれこそがはじめからの目的だったのだけれど……
博士に会う一年前に私は釧路へイトウを釣りにいって、二人の人物に会った。一人は画家で、もう一人は何ともいいようのない人物である。画家は釧路に暮していて、奥さんが茶や花を教え、自分は画を描いている。それが湿原の画だけである。富士山も、裸婦も、リンゴも描かず、ひたすら湿原だけを描いているのである。釧路のようなところにたてこもったきり、一生かかって、ただ湿原だけしか描かないとなると、画家としてはどういうことになるか。おそらく、おびただしくて、激しく、自身でも処理と名状に苦しむものがあるにちがいないと察したいのだが、私は湿原の川へつれていってもらって釣りの手ほどきをうけることにだけ没頭した。仕事の話はしないというのが戸外にいるときの釣師の不文律だからである。断固として心を語ろうとしない、それでいてのびやかなこの気風が私は好きである。私は川の読みかたを手をとるようにして教えられたけれど、それ以外のことは何も聞かされなかった。優しさはしみじみと全身につたわってくるが、それが憂いからくるのか、寂寥からくるのかは、たずねなくてもいいことだった。語りようもなければたずねようもないものがあるので水や木を眺める。湿原の川には小舟に船外モーターをつけて浸透していくのだが、船頭役をする男が一人、どうしても必要である。そこで画家の家に永年の相棒だといって紹介されることになる一人の男があらわれた。初老の年配だが、背が高く、筋骨たくましいけれど贅肉がなく、端正な鼻をしていて、いい顔だちである。どこもかしこも屈強でひきしまり、これまでに腐敗した部分もないが、これから腐敗する部分もなさそうに見える。画家のまえでは窮屈そうに膝を折って正坐し、ひどく寡黙で謙虚であり、画家のことを“先生”と呼び、従順そのものだったが、じつは底なしの大酒飲みだという。
「……人間が手でできる仕事ならこの人は何でもできるんです。酒も飲むが、家も建てますし、牛も操れます。やれないことってありません。病気は酒で治しますし、怪我は塩で治してしまいます。家のなかにいるときはぐんなりして元気がありませんが、|戸外《そと》へだすと一変します。北海道もこの人を入れるには小さすぎるようですな」
画家はそういってわらった。
この人物は生涯のこれまでにただの一度も税金を払ったことがないのだそうである。これといった定職についたことが一度もなく、かろうじて戦争中に軍隊にいたのがそれかといえばいえるという程度のものである。冬になると造材の|出面《でめん》で山へ入り、夏になると貨車に乗りこんで牛といっしょに寝起きしつつ日本全国へ流れていく。牛を護送するのが仕事だけれど、牛を目的地に送りとどけてからもしばらく帰ってこないことがある。サケが川にのぼってくる季節になるとひょいひょいと姿が消え、湿原にもぐりこんで密漁をしているのではないかという噂があるけれど、誰も見たものがないので見当がつかない。この季節には札幌あたりからヤクザが繰りこんできて湿原でサケを密漁し、筋子だけぬいてスーツケースへ入れ、身は腹を裂いたまま川に捨てて逃げていくというようなことをする。そういう密漁者たちがあるとき川へ浸透してみたらこの人物がふいに採卵場の監視員としてあらわれてピシピシと取締りをはじめたので、一同は|狼狽《ろうばい》したとのことであり、この人物の心は風とおなじくらいにとらえにくいという評が|流布《るふ》されたそうである。
人物は釧路の町はずれの海岸に住んでいる。画家につれていってもらって私は観察に努めたが、家はその生きかたにふさわしい非凡さであった。渚にうちあげられるトロ箱、流木、船材、そういうものをかたっぱしから拾ってきて、自分の手で組みたてて、家にしたのである。いささか|歪《ゆが》んではいるけれど、屋根も壁も窓もちゃんとしていて、台所もあり、手製のルンペン・ストーブもおいてある。どこでどうしてきたのだろうか、いささか年式の古いポータブル・テレビも一台おいてある。かわいい、おとなしい娘さんと、まるまる太ってよくはたらきそうな奥さんとがいて、咲きみだれるハマナスの群落のなかに自分たちの足だけで小道をつけた。鉄道の引込線が雑草に蔽われて錆びついていたり、塵芥捨場があったりして、このあたりは荒寥とした番外地の渚だが、ハマナスの群生はみごとで、暗い日には血を閃かしたように|花叢《はなむら》が見える。人物はここで寝起きし、どこへともなくでかけていき、どこからともなく帰ってきて、いわば本を書かないヘンリー・ソローとでもいうべき暮しをしているらしい。あらしの翌朝早く起きて海岸を歩くとホッキ貝が渚にうちあげられているので、それをバケツに何杯も何杯もひろって、売る。ときたまだがどこかで射たれた規格水準より小さいクジラが渚に漂着することもあるという。
「あるときクジラをひろったというので大騒ぎになり、仲間で集ってサァ、ドンチャンやらかそうというんで、私のところへ飲み|代《しろ》を借りにきたです。そのときは恐ろしい元気だったんですが、二、三日したらまるでションボリして風船がつぶれたみたいなんで、どうしたと聞いたら、宴会はよかったがクジラはすっかり腐ってて、どうしようもない。飲み代と二日酔いになった分だけ大損だと、こうですナ」
画家は愉しそうにわらい、人物はにがにがしげにわらって頭を掻いた。ルンペンのよこにすわりこみ、粗茶をすすりながら窓を見ると、六月というのにガスがたちこめて冬さながらの海が白く穂だっている。
人物は恥じているらしいが、どうやら字をよく知らないのではあるまいか。どのくらい読めるのかはわからないが、自分で自分の字を作って、それを使っている。絵とも、記号とも、字ともつかない、何とも妙なものだが、ときどきそれでこっそりメモをつけているのを見ることがある。画家が低い声でそういうことをささやくのを聞いた。けれど、夜明けに起きて画家と二人して釧路の町をぬけ、暗い湿原の入口へいってみると、人物がいきいきとはたらくのが見られた。舟をだし、モーターをとりつけ、荷物を積みこんで、ガスのたちこめる薄明の原野をさかのぼっていく。そういう動作をしているとき、人物の澄んだ眼はいきいきと輝き、よごれたセーターのなかで長くて筋張った腕や肩は正確に、着実にうごき、前方に穴場らしいものが見えてくるとモーターをとめて櫂で漕ぎ、舟を油がすべるようにそっと反対側の岸へ持っていく。そうなると舟はまるでネコのようにしなやかな身軽さで葦に接近していき、音もなくしのびこむのだった。浅瀬、急深、澱み、曲り角、沈木、二人は川をくまなく知りぬいていて、五万ヘクタールもあって、地平線のかなたまでただぼうぼうと葦がひろがるだけの、その広大な湿原をまるで自宅の裏庭のように感じていた。前方に|炸《はじ》けるような羽音がして、カモがとびたち、アオサギが空に舞い、野生のミンクが丸い、小さな頭をもたげて川をよこぎっていくのが見られ、二度ほど、タンチョウヅルがゆっくりと葦のなかを歩いていくのを見て、私は息を呑んだ。陽が昇り、空をゆっくりとよこぎっていき、西へ落ちる。その全行程をとぎれることなく一日じゅう眺めつづけ、感じつづけた。
黄昏とガスが水のうえに漂いはじめるころになって舟は|下《くだ》りはじめた。人物は何かというと、『一度はソ満国境で死んだ体だ』と伝法を口にする癖があり、釣った魚を解体して刺身にしながらも何やらそんなことをいった。また、子供のようにしぶとくつぎからつぎへとたずねにかかる癖もあって、たじたじとならされた。舟を流しながら胴の間にすわりこんで葦の密林に見とれている私に人物はまず女のことをたずねた。フランスの女はどうか、ドイツの女はどうか、チベットの女はどうか、エスキモーの女はどうかと、しぶとく食いさがってくる。私が何か混合率の朦朧とした答えをすると、よく聞きとろうとしてエンジンをとめる。舟はよこになって流されていく。私の話が終るとエンジンがかかり、舟は頭をふり、たてになって走りはじめる。そのうちホッテントットの女はどうかと人物がたずねる。エンジンがとまる。あそこがアリクイの舌みたいで風呂敷みたいにもなってるそうだと私が答える。舟がよこになって流れはじめる。そうやって舟はよこになったり、たてになったりして川を下っていったが、女の話がすむと、つぎは食べものの話になり、私の答えは短くなるばかりだが、人物はいつまでもくたびれなかった。
「フランスはどうですか?」
「カタツムリがうまい」
「フランス料理っていいますな」
「そう。そういうこと」
「ブラジルはどうですか?」
「肉がいいって聞くけどね」
「朝鮮はどんなもんですかな?」
「わるくない。ソバがうまい」
「朝鮮にソバがありますかな?」
「ある、ある」
「京都はどうですかな?」
「うまいけど閉じた味だね」
「モントリオールはどうですか?」
「トナカイのステーキじゃないの」
「チベットはどうですか?」
「うまいんだろうね」
「ローマはどうですかな?」
「かぞえきれないな」
「香港はいいんじゃないですかな?」
「これもかぞえきれないな」
「飛騨の高山はどうです?」
「江戸料理で京都料理ですよ」
「いってみたいもんですな」
「ぜひおいでなさい」
「カイロはどうでしょうな?」
「ハト」
「ロンドンはどうです?」
「ローストビーフ」
「ニューヨークはどんなもんでしょう?」
「いったことないんだ」
「サンフランシスコがいいっていいますな?」
「知らない」
「ワシントンだとどうでしょう?」
「わからない」
「ベイルートなんかどんなもんでしょうかな?」
「………」
「紀州の御坊は飯がうまいですな」
「………」
「あれは日本一ですな」
「………」
「御坊じゃエッと食べたです」
「………」
「紀州の御坊が日本一ですな」
「………」
私がウィスキーを飲むふりをしてまぎらしていると人物は舟をよこにしたり、たてにしたりしながらいつまでも紀州の御坊の飯を絶讚しつづけた。朝のうちに見たのとおなじのだろうか、カモが低い茂みから荒い羽音をたててとびたち、ミンクがいそいで川を泳いでいった。ふたたびツルが頭をもたげて藻の匂いのする|厖大《ぼうだい》な黄昏のなかを歩くのを見た。クヮー、ルーと、声が空にこだまするのを聞いた。
それから四年経って、今年の二月、|羅臼《らうす》へ流氷を見にでかけた。羅臼へいくのはそれが二度めである。去年いったのがはじめてで、そのときは近くの川でオショロコマを釣るのが目的だった。オショロコマはイワナの一種で、やはりひれのふちが白いが、|知床《しれとこ》一帯から然別湖ぐらいにかけて棲息し、味がまずいので土地の釣師たちに軽蔑されたので生きのこることができた。ヤマメは――北海道では“ヤマベ”と呼ぶが――味がいいので釣り荒されて絶滅してしまったが、オショロコマはたくさんいる。おそらくこれはアラスカあたりで“ドリー・ヴァーデン”と呼ばれているのとおなじ魚ではないかと思うが、イワナ族のうちでは珍しく華麗な色彩をしていて、腹が鮮紅色に染まっている。その腹が水のなかで閃くのを見ると眼を|瞠《みは》りたくなる。イワナやヤマメは内地だと山奥までいかなければ釣れないけれど、このあたりまでくると海の見える平地や河口で釣れるので、何度釣っても膚から異様さが剥げようとしない。かねてから念願していたこのオショロコマに出会うことができたので、北海道産淡水魚類では、あと一種、海へおりてから川へ帰ってきたイワナであるアメマスをのこすだけで、あとはみなお目にかかったということになる。これは経験であるから、話に混合率は含まれていない。
かねてから念願していたのはオショロコマのほかに流氷である。北海道には何度もきたが、まだ流氷は見たことがなかったのである。知床半島はある種の貝の管足に似た形をしてのびているが、それの網走側の氷は海に張りつめたきりでうごこうとしないからおもしろくない。けれど、反対側の羅臼の渚では根室へかけて氷が“とんで歩く”のがまざまざと見られるというのである。流氷は峻烈、|狷介《けんかい》、華麗だけれど、たいそう気まぐれなところもあり、夜っぴて港に入りこんで騒いでいたのに朝になると一片のこらずどこかへいってしまったり、そうかと思うと何日も何日もつめかけて漁船を封じこめてしまったり、まったくあてにならないのだそうである。だからはるばる羅臼まで流氷を見にきても、その場で見ることのできた人もあれば、一足ちがいで逃げられた人もあり、さまざまだという。では一週間も滞在する予定を組んでいけばそのうちいつかはきっと見られるだろうかとたずねると、それなら大丈夫だという。そこで私は飛行機で札幌までいき、札幌から釧路まで七時間近く、ほとんど一日がかりでディーゼル車にゆられ、釧路で一泊し、翌朝早く、画家といっしょに自動車で羅臼へ向った。
低気圧が北上している。あらしが接近しつつある。すでに函館や小樽では漁船に待避命令がでた。釧路をでるときにそう聞かされたので、広大な|別海《べつかい》原野をあらしに追いつかれないよう、そのさきをさきをと走りぬけ、海岸に沿って羅臼へ向った。海岸にでたのは午後になってからで、沖の水平線が白い一線となっているのを目撃し、あれが流氷だ、これからこちらへ攻めてくるところだと教えられたが、午後遅くに羅臼に到着したときは、もう海は氷でいちめんに埋められていた。土地の人が流氷の足の速さを“とんで歩く”と表現するのもけっして誇張ではない。羅臼は小さな漁港で、その突堤にたつと|国後《くなしり》島の影が沖に見られ、あまり近いので“対岸”といいたくなる。それほど狭い水道だからたちまち氷で埋められてしまったのだろうが、流氷群は水道を潮流に乗ってつぎからつぎへと根室の国へおしかけ、渚から沖までをぎっしり埋め、雪に蔽われた陸と海にけじめがつかなくなり、陽射しのぐあいによっては海と空もけじめがつかなくなってしまった。たった数時間のうちに糸のような白い線がぼうぼうとひろがる面となってしまったのである。黄昏のなかでカモメが絶叫し、岸壁に積みあげられて雪をかぶるままになっているスケトウのトロ箱にまるまると太ったカラスが群がって凍った魚をむさぼっている。暗い、激しい、冷たい海を氷原がぎっしりと埋め、氷塊の尖兵たちは潮に乗って媚びあったり、争いあったりしつつ流れていく。突堤のあちらこちらにはちょっとした小屋ぐらいもある大氷塊が海から這いあがり、港内へころがり落ちようとしてそのままの姿勢で凍りついている。そこで力尽きたというよりはつぎの攻撃か跳躍かのために小休止しているにすぎないのではあるまいかと見られる。瞬間の一瞥を浴びてその場で塩の像となった人があったが、これらは全身に冬の精力をみなぎらせた獣の群れである。
画家が寒そうに
「鳴ってるですな」
といった。
突堤のしたを、冷たい、暗い水が流れていく。ゆったりとうねりが背をもたげると、すぐ靴のさきへとどきそうになるまで迫り、とどきかねてあきらめて、しりぞいていく。その歯ぎしりかと思える。凍りつきそうになってもうふつうの水ではなくなり、といって氷になったのでもない、変貌の半ばにある水がシャワシャワ、シャワシャワと低くつぶやいているのだ。耳を澄ますと海いちめんにそのささやき声がみなぎっているかのようである。アリューシャン列島の沖あたりからそんなふうにつぶやきつづけてきたのだろうか。
このあたりの渚にはヨコノミと呼ばれる虫が棲んでいるそうである。虫のようでもあり、エビのようでもある小さな虫だという。あらしで海が荒れそうになるとヨコノミはすばやく感知して逃げにかかり、大群をなして旅館や漁師の家へ入ってくる。べつに咬んだり刺したりのいたずらはしない、おとなしい虫なのだが、おさえようとするとピンと跳ねて逃げる。ただし、顔は正面を向いたままで体はよこへ跳ねるという曲芸をやってみせるので、だからこの名がある。このヨコノミの大群に部屋へ入られると、ザワザワ、ザワザワと音がし、それが気になって寝つけないという人がいるほどである。けれど、あらしがおわると、いつとはなくヨコノミたちは家をぬけだして渚へもどっていくのだそうである。私はあらしをすりぬけ、到着したその場で流氷を見るという幸運にめぐまれ、その夜はあらしになったけれど、どうしてかヨコノミには出会えなかった。渚の近くの小さな旅館で干ダラをむしりむしり酒を飲んで待ったのだが、ヨコノミはあらわれてくれなかった。酒を飲みつつ画家から話を聞き、話がトドの悪賢さからアキアジ(サケ)の定置網にうつったころにあらしの主力部隊が追いつき、狂奔、叫喚、呻唸、乱打、夜っぴてつづいた。山が背で海が腹だというこの峻痩の領域を無垢の風が発生したばかりの精力を蕩尽して、くりかえしくりかえし分散して攻撃し、集合して攻撃し、徹夜で歯ぎしりしつづけた。私は寝床のなかで襲う風になったり、剥がれる家になったりしながらその音を聞き、耳だけとなるまで無化された。
翌朝、風で洗滌された空は澄みわたり、ゴマフアザラシの剥製をおいた旅館の薄暗い玄関から道へでて、キシキシと音をたてる新雪を踏んで港へいってみると、海は見わたすかぎり氷原となっていた。突堤からおりてそのまま歩いて国後島へわたれそうになっている。しかし、空には音はないけれど、暴風はまだ氷原のしたにひそんでいるらしく、東から西までの純白の面積が、規則正しく、ゆったりと、厖大な背をうねらせる。そのたびに周辺では騒乱と闘争が起る。氷塊と氷塊がぶつかりあい、ひしめきあい、敗北したのがじわじわとおしよせる氷原の圧力におされて水から這いあがるのである。巨大な、足のない、白い獣が身ぶるいしつつ突堤へ這いあがり、そのままそこにうずくまってしまったり、水しぶきをたてて港へころげこんだりするのである。そして、氷原はけっして平滑ではなく、近くによって見れば見るだけ凸凹している。平原があり、山脈があり、離島があり、列島があり、青く輝く湖がある。独立山塊があり、荒野があり、湾がある。隆起。角。傷。堆積。展開。峰。谷。麓。皺。口。筋。無数のそれらの一点一点と面で日光が乱反射し、銀が閃き、青が|炸《はじ》け、音と熱のない大饗宴である。正視していられない。じわじわと涙がでてくる。正面に体を向けると私の胸と腹が閃光にみたされ、左か右かに向くと体の半分が閃光にみたされる。精力にみたされ、気まぐれで、無邪気だが、容赦するところがなく、乱舞しながら無関心である。非情なのに優しく、おちゃっぴいなのに巨人でもある。|豊饒《ほうじよう》をきわめた不毛で、一刷きの濁りもない混沌なのである。眼を伏せて|佇《たたず》んでいるうちに膚の内と外にある圧力が純溜され、せりあいつつ上昇してきて|0《ゼロ》に近づいていくのがまざまざと感じられた。すべてが易しく感じられ、危険がこみあげてきた。静謐のうちに即興がはたらきそうであった。十六歳のときに憧れて、その後、決行する気力と偶然がないままに腐蝕して放棄してしまったものがいま見える。私は靴と靴のあいだにせりあがってきてはしりぞいていく蒼い水をじっと眺めた。それは深くて、冷たく、塩辛くて、優しそうであった。暗さがほのぼのと親しげに見えた。カモメが空のどこかで絶叫するのが聞えるが、あたりは澄みきっていて明晰をきわめ、人は影も声も感じられなかった。何をしようが、誰にも止められずに、遂行できそうである。
私は旅館にもどると、画家の部屋へいき
「よく眠れましたか?」
とたずねた。
画家はまばゆげに微笑し
「いや、晴れたですな」
といった。
釧路へもどったのはその日の夕方近くである。私は酒屋へいって、一升瓶を一本買い、画家といっしょに町はずれへいった。四年ぶりに見るのだが引込線の線路が枯れた雑草に蔽われて錆びているのはそのままだし、甘酸っぱい悪臭をゆらゆらとたてている塵芥捨場は眼をそむけたくなるほど大きくなりはしたものの、まずそのままだといえた。人物は奥さんを助手にしてちょっと離れたところに新しい家を建てようとし、そのやりかたはあいかわらずで、渚にうちあげられたトロ箱や、流木や、船材などがおびただしく雑草のなかに積みあげられ、家は骨格をとぼしい肉でかくすところにまでなっていた。釧路港に新しい突堤ができることになってその工事がはじまったらふいに潮の方向が変ってしまい、この二十五年間についぞ見たこともないたけだけしさで波がうちよせて、渚を削りはじめた。このままだと流木ハウスが根を削られて海へ持っていかれそうである。そこで、ちょっとはなれたところに、こうして家を建てはじめたのだということであった。
人物と画家と私はもとの家へいって一時間ほど雑談をした。ルンペンで茶を沸かし、人物は私のさしだした一升瓶の封をすぐさま切ってコップにどぶどぶと|注《つ》ぎ、私はそれを見ながら壁にもたれて、窓から海を眺めたり、タバコに火をつけたりした。しばらく見ないうちに人物は一変していた。眼じりの皺が深くなり、頬の肉がげっそりと落ち、背が曲り、コップを持つ手がぶるぶるするのである。眼に焦点もなければ、澄みもなく、|膿《うみ》に似た涙がつぎからつぎへとにじんでくるし、それを荒い手の甲で拭おうともせずにこちらへふりむける。酒をたったコップに一杯飲んだだけで舌がもつれ、くちびるのはしに白い唾の泡がわきあがってくる。画家が励まそうとしてつぎつぎに過去の壮業をあげてたずねにかかる。いつかどこやらへ牛を送っていくときに昼寝しているうちに貨車から一頭逃げだしたのでそれを追いかけていったということだがあの牛はどうなったのか。あらしのあとだとここの海岸でホッキ貝がトラックに一台分も拾えてたいしたことだそうだけれど、ホッキ貝は|おそそ《ヽヽヽ》そっくりの形をしているのにあらしには弱いのだろうか。いつだったかクジラがうちあげられた。えらいドンチャン騒ぎをやったが、その後ああいうことはないのだろうか。人物はたずねられるままに答えはするけれど、わずかの酒で舌がれろれろになり、ときどきうるんだ眼で私と窓をじっと眺め、話は独白というよりは意想奔出になってしまう。おびただしいけれど、とりとめがない。いったいこの四年間に何が車輪をめりこませて通過していったのだろう。この人物がこうまでたたきのめされてしまうとは……
クジラを見つけたときはまだ生きていた。|銛《もり》をぶちこまれているのに、えらい勢いであった。息子の進一と二人で見つけたので、かかっていったところが、クジラは尾をふってはたきたおした。それでもどうやらこうやら止めを刺して、宴会をやり、そのあとで解体して釧路の水産会社に売ったのだが、それからがいけなかった。二、三日して、家へ帰ってきたら、息子の進一が見えない。|かか《ヽヽ》に聞いたら水泳にいったんだというんだ。ところが、その夜も帰ってこないし、翌日も帰ってこないし、翌々日も帰ってこない。それきりだ。それきり帰ってこないのだ。もういけねえとわかったので出刃で|かか《ヽヽ》をどぶッとやろうと思った。出刃でどぶッと、やろうと思ったのだ。おれは暗いところへ入れられたってかまわねえ。そんなこと、かまうこっちゃない。何でもいい、とにかく|かか《ヽヽ》を出刃でどぶッとやっちまおうと思った。けれど、とど、やれなかった。
おおむね聞きとれたところでは、そういう意味のことを人物は口にした。出刃で|かか《ヽヽ》をどぶッと、というところでは、かつて湿原で《一度はソ満国境で死んだ体だ》と伝法を力んでみせた意力の影が閃いて、手真似で刺す|動作《しぐさ》をしてみせたが、その手だけは正確で、頑強で、くじかれていなかった。うるんだ眼に底深いいろが閃きもした。ほんとにそのときはその覚悟になったのだろうと思われたし、この手ならためらわずに直進しそうだと感じられる。けれど、私がそう感じこんで、濁りはじめ、凝縮をはじめ、どこへともなく墜ちはじめたときには、もう人物は、顔も、手も、|喪《うしな》っていた。膿のような涙が衰えた眼にあふれ、くちびるがコップのふちでふるえたが、感動からそうなったのでないことはまざまざと見てとれた。思わず私は眼をそむけた。
人物は
「先生、クジラを殺しちゃいけないよ」
といった。
しばらくしてから
「進一はいってしまったです」
といった。
画家に眼でうながされて私はたちあがり、暗くて低くて狭い小屋から、かがんで出た。人物と、妻と、娘が足で踏んでつくった小道をたどって、すぐそこにある渚へおりた。ハマナスは冬枯れしていて、ただの雑草としか見えなかった。渚におりてみると、まだ流氷群はきていなくて、暗い濁った水が白いしぶきをたて、人物の流木ハウスの土台にはひどい欠壊の歯跡が食いこんでいた。銀と青の炸けるようないちめんの閃光にみたされた朝の|光耀《こうよう》と、たわむれの決意の昂揚が消えた。ここへくるのではなかった。
私は閉じた。
低くなり、ふたたび患いはじめた。
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ロマネ・コンティ・一九三五年

冬の日曜日の、午後遅く、鋼鉄とガラスで構築された高層ビルの料理店で、二人の男がテーブルをはさんですわっていた。チェスナットのテーブルはどっしりとして広く、磨きあげられて湖のように輝き、薔薇の花と花瓶の影が木目に映っている。二本の酒瓶がおいてあって、一本はたててあり、一本は籠のなかで寝ている。室内には二人のほかに誰もいない。さきほどまで二組の家族連れが遠くの席でビールを飲みつつ食事をしていて、その笑声がときどき花のひらくように聞えたり、ガラスの砕けるように聞えたりすることがあったのだが、いつのまにか消えてしまった。室内は静かで、薄暗く、どこか水族館のからっぽのガラス槽に似ている。巨大な窓がガラスの壁としてそそりたち、うずくまった首都の背が見おろされる。広大な面積が見わたすかぎり石化した腫物に蔽われている。大小無数の、方眼紙のような穴のあいたコンクリートの箱がおしあいへしあいでひしめいている。潮がひいたあとの、泥もなければ、光る潮だまりもなく、海岸線も見えなければ陸も見えない干潟のようである。太陽は西にあり、どんよりした煙霧のなかで発熱はしているものの、やつれきっている。光耀が窓までとどきかねている。窓のそこかしこにはすでに黄昏のしるしが分泌されている。つつましやかで柔らかいけれど容赦なく進行するものが、淡さをよそおって、浸透しはじめている。
二人の男はひそひそと話しあった。
「ぼつぼつはじめるとするか」
「いいね」
「どちらからやろう?」
「おまかせするよ」
「若いのは六歳、古いのは三七歳だ。となりどうしの畑でとれたけれど、名がちがうから、異母兄弟というところかな。本場中の本場、本物中の本物、ヴレ・ド・ヴレというやつさ。けれど、こればかりはどんなに血筋や年がよくても、あけてみるまではわからないんでね。うらむわけにもいかないけれど、ときどきガッカリすることがある。ことにブルゴーニュはそうだね」
「おまかせする。今日はこれに集中しようと思って、朝からタバコも吸わずにがまんしてるんだ。|昨夜《ゆうべ》は昨夜で一滴もウィスキーを飲まなかった。毎晩、分量はべつとして、飲まないってことはないんだがね」
「たいそうな御精進ですな」
「それだけのことはあると思って来た」
「ようし。じゃ、順序だから、若いのからいくとするか。ラ・ターシュの一九六六年だよ。ブルゴーニュの、コート・ドールの、コート・ド・ニュイの、ロマネのドメェヌだよ。ブルゴーニュはエスプリをあたえてくれるそうだ。何がでてきますかな」
四○歳の重役はおだやかに微笑して四一歳の小説家をちらと眺め、首をひねって給仕に低く声をかけた。太い首である。首、胸、腰、どこもかしこも太いか、厚いか、重そうかである。羊のほんのりした体温が匂いそうなツイードの背広の袖口にティファニーの銀のカフス・ボタンが光っている。白い手には粗くてこわい毛が走り、筋肉質のずっしりとした厚さがある。何か堅固にしめられた物をゆるめるための頑健な道具のように見える。重役は静かに息づき、つつましやかさをよそおっているが自信にみち、精悍である。けれど、どこか行方の知れないようなところもある。
たててあったほうの瓶を給仕がそっととりあげてグラスに近づける。贅肉のない、気持よく乾燥した、骨張ってしっかりした手のうごきを小説家はじっと眺める。気をつけてくれ。カチンとあててはいけないよ。それから問題はさいごの一滴だ。どうやってこぼさないで瓶へもどすか。こぼれて瓶の首から肩へ流れるとレッテルがべとべとになる。“蝿とりリボン”になる。|注《つ》ぎながらほどよいところで瓶を外側へクルッとまわすのだ。これはパニョルのマルセイユ三部作でおやじが息子に酒場学を伝授してやる一幕にでてくる。飲むまえは小さなことが気になっていけない。つまらないことでずいぶんこわれたり、落着けなかったりすることがある。そう。うまい。うまくいった。
ホッと安堵して小説家はなみなみと注がれた風船玉グラスをじっと眺めた。さっきいったように今日と今夜は酒だけに集中するつもりである。グラスは変貌していた。|瑪瑙《めのう》の髄部だけで作った果実のようなものがそこにある。いや。それに似ていながら、定着もせず、閉じもせず、深奥を含みながら晴ればれとしたものである。太陽は濁って|萎《しな》び、広い干潟をわたってくるうちに大半を喪ってしまうが、それでも一条か二条かの光めいたものがまだあるらしく、果実は鮮やかな深紅をキラキラ輝かせた。その赤にはいいようのない深さがたっぷりとあり、暗い核心のあたりに大陸か、密林か、淵かがひそんでいそうである。風のなかを山腹にむかって斜めに、空か谷のほうへかすめ飛ぶ秋の|雉子《きじ》の、首、尾、翼、そのどこかにこれとそっくりの一閃があったように思う。この時刻に、こういう物を見ると、それだけでくぐもっていたものがほどけ、散乱が消え、何のあてもないのに眼が澄んできそうである。
重役は輝く異物を眺めて眼を細めた。
「今度の旅行ではずいぶん飲んだ。こんなに飲んだのははじめてだ。ボルドォもブルゴーニュもだよ。ブルゴーニュのコート・ドールなら、ヴージョだろうと、ニュイ・サン・ジョルジュだろうと、ジェヴレイ・シャムベルタンだろうと、軒並みだ。それもいちいち|酒倉《カーヴ》へ入っていって内部を見せてもらったんだよ。飲んではさめ、さめては飲みしたもんだから、毎日、朝からとろとろしていた。脳味噌が酒浸しになったね。それも逸品ばかりだから、全然悪酔いなどしなかったね。酒がいいと多少飲もうが食べようがこたえない。むしろ爽やかさをおぼえるくらいだね。よくわかった」
「だまって聞くよ」
「問題のロマネ・コンティだけれどね。これもすみずみまで見てきた。聞きしにまさるものだよ。畑も小さいが、酒倉も小さい。機械なんか何もない。薄暗いなかでおっさんが一人で瓶にコルクをつめている。それきりなんだ。レッテルを貼るのはおばさんの仕事だけれど、これも二人きり。酒倉の外で、さしむかいにすわって、ひっそりとやってる。原マニュだね。徹底してる。徹底して原始マニュファクチュアだ。手仕事もいいところよ。さすがと感動したね。いい光景だった。ク・セ・ボン、ノン・ド・ノンというのはああいうときにいうんだろうな」
「ゆっくりと聞きたいね」
「では一席のお粗末をやりますかな」
「どうぞ」
重役はそっとグラスを口にはこんで、一口、二口含むと、静かに噛みしめてから、グラスをテーブルにもどし、手帖もメモも見ないで話しはじめた。まだ記憶がういういしくて、誇りたかったり、話を作りたかったりはちょっとあるものの、ふりかえるよりは眼前にあるものを注視することに熱中しているまなざしである。小説家は耳を澄ませながら深紅に輝く、若い酒の暗部に見とれたり、一口、二口すすって噛んだりした。いい酒だ。よく成熟している。|肌理《きめ》がこまかく、すべすべしていて、くちびるや舌に羽毛のように乗ってくれる。ころがしても、|漉《こ》しても、砕いても、崩れるところがない。さいごに咽喉へごくりとやるときも、滴が崖をころがりおちる瞬間に見せるものをすかさず眺めようとするが、のびのびしていて、まったく乱れない。若くて、どこもかしこも張りきって、溌剌としているのに、|艶《つや》やかな豊満がある。円熟しているのに清淡で爽やかである。つつましやかに微笑しつつ、ときどきそれと気づかずに奔放さを閃かすようでもある。咽喉へ送って消えてしまったあとでふとそれと気がつくような展開もある。
……ディジョンから国道七四号をいく。コート・ドールは長さが約六〇キロ、幅が平均して約六五〇メートルという細い帯である。ぶどう畑の帯である。それが無数のぶどう園に分割されている。資格審査はきわめてきびしく、たった道一本をこえてとなりの畑に入っただけで、たちまち一級が二級になったり、二級が一級になったりする。何がちがうのか、|素人《しろうと》目にはまったくわからない。このあたりはバラバラの小石まじりの乾いた赤土で、ちょうど煉瓦の赤さだが、それがこのあたりの特徴であって、赤土には鉄分があるのだと聞くから、もしそうなら、ぶどう酒に鉄分はいいという原則のとおりである。この地域の極上品はたいていピノ・ノワール種である。問題のロマネ・コンティはロマネ領の中心にあって、リシュブール、ラ・ロマネ、ロマネ・サン・ヴィヴァン、それにこのラ・ターシュ、合計四つの畑がたがいにとなりあって、王座をとりかこんでいる。どの畑の酒も極上品なので、ここを通る道をルート・ド・グラン・クリュと呼ぶ。特級道路というわけだ。道路そのものがいいのでないことはいうまでもないだろう。自動車がやっと二台すれちがえるくらいの道路である。白い石を積んだ低い垣根があって、このあたりのぶどう園では境界の目印としてよく見かけるものだが、これが有名な《クロ》と呼ぶやつである。
ロマネ・コンティは王座で、いまいった四つの宝石にとりかこまれているけれど、とてもかわいい畑で、たった一ヘクタールくらいしかない。ぶどう畑というよりはちょっと大きな庭園というところ。その程度のものである。その畑のはしの道路寄りのところに例の十字架がたっている。これはお守りか何かなんだそうだ。|酒倉《カーヴ》も小さい。何しろそんな小さな畑であるうえ、一本の木に二房か三房くらいの|実《み》しか結ばせないようにしているから、豊作の年で樽がやっと一六本。不作だと、三本しかとれないという。一九四五年、つまり第二次大戦の終った年がいまだにどうしのぎようもない、空前絶後の大当り年、グラン・タンネだったのだが、それですら瓶にしてたったの六〇〇本だったというんだよ。こういう調子で万事徹底的なもんだから、ふつうロマネ・コンティは一本で売ってくれない。リシュブールなり、ラ・ターシュなり、何かロマネ領のやつを五本ぐらい抱合わせにして売る。そうして、やっと、ロマネ・コンティが一本買えるんだ。たいへんな酒だよ。こいつが日本へ入ってきてホテルのワイン・リストにでていたら、何もいわずに眼をつむることだね。目玉が眼鏡をつけたままでとびだしちゃうんじゃないかな。
古くてしかも極めつけのRCとなると、古美術品扱いだよ。さきの一九四五年物だが、おれはたまたまヴィエンヌの町でお目にかかった。お目にかかったといっても飲んだわけじゃない。瓶を見ただけだ。あそこの町にピラミッド広場というのがあるけれど、そこに『ポアン』という有名な店がある。その店の棚に二本並んでるんだ、四五年物が。『ポアン』のおっさんはもう地球上にこの年のはこの二本しかないのじゃないかというんだよ。ハワード・ヒューズが姿を見せて売ってくれといいにきてもノンといってやるつもりだと、おっさんはいうんだ。たいそうな鼻息だがいろいろと調べていくうちに無理もないという気持になってきた。何しろこのロマネ・コンティのあるコート・ドールではいまだにギリシャ時代の陶器が出土することがあるんだそうだ。紀元三〇〇年頃の学者が書いたものによると、当時すでにこのあたりは名酒の産地となってから何百年にもなると書いてあるそうだ。だから、それから逆算すると、このあたりでは西暦紀元のはじまりの頃からぶどう酒を作っていたのだということになりそうだぜ。しかもここはぶどうだけしか植えないんだ。野菜も穀物も作らない。ずっと、そうなんだ。ぶどうだけなんだ。二〇〇〇年近くも植えかえ、さしかえ、つぎかえして、ひたすらぶどうだけを作ってきたものだから、土の組成がすっかり変ってしまったというんだよ。だから、いま、かりに、ここに四五年物が一本あったとするね。すると今年は一九七二年だから、この酒は二七歳だということになる。しかしだよ、よく考えてごらん。その酒はぶどうだけを作って一九七二年間になる土からでてきた酒なんだ。だから、二七歳というよりは一九四五歳の酒が二七年間寝た、そういう酒なんだということもできるわけだ。古いだけがぶどう酒のメリットでないことは百も承知だよ。ことにブルゴーニュは感じやすい酒だから、古いだけでは話にならない。しかしだ、古さもここまでくると、ちょっと声がだせないのじゃないか。これは誇張でも、法螺でもない。ぶどう酒は土の唄なんだからね。もし一九三五年産のRCなら、これは一九三五歳の酒が三七年寝ていたのだということになる……
小説家は低い声で
「そのとおりだ。たしかに」
とつぶやいた。
重役は微笑して太い首をひねり
「おねがいします」
小さな声でいった。
それまで二人のうしろにたって話を聞いていた給仕が静かにテーブルに近づくと、白い籠をそッと、一本の髪をつまみとるような注意深さでとりあげた。乾いて、あたたかそうな手がおずおずと小説家のまえに籠をおいた。籠のなかには、濃緑で、口を赤い蝋で封をした、撫で肩の、古い瓶が一本、ひっそりとよこたわっていた。黄ばんだレッテルに、ちょっと古めかしい斜体の、細い筆記体で、Roman Conti とあり、すみに小さくゴチック体で、1935 とあった。フランスのぶどう酒瓶に見慣れない小さなレッテルが貼ってあり、アメリカ人の酒商人だろう、ニューヨーク市、フレデリック・ワイルドマンなる者の名が赤字ででている。瓶がニューヨークの波止場に上陸したあとで貼られたレッテルなのであろう。小さな藁が二つ、こびりついている。
小説家はぼんやりと眼をあげ
「ロマネ・コンティだ」
とつぶやいた。
「本物。らしいな」
重役はにがくわらい
「一九三五年だぜ」
といった。
給仕の顔にひどい緊張があらわれた。手はしっかりと、けれど籠とのあいだに紙一枚のゆとりをあけて、つかんだ。瓶の口は猫の慎重さでグラスにしのびよった。瓶がゆさぶられないか、酒が混乱しないか、|渣《おり》が舞いあがらないか、注がれているあいだずっと小説家は息をつめて眺めた。給仕は静かに、ゆっくりと、何度かにわけて二つのグラスに注ぎ、注ぎ終った瞬間、ホッと音をたてて息を吐いた。終った。儀式の第一は無事に終った、さいごの一滴はこぼれないで瓶へもどされ、渣も洩れないですんだようである。二つのグラスに歴史がなみなみと満たされ、二人の男はグラスごしに茫然としたまなざしをかわしあい、微笑しあった。重役の眼から精悍な自信が消え、指紋のついていないものがあらわれ、キラキラと黒く輝いた。小説家は近頃めったにおぼえたことのない裸のものが深くからたちあがって咽喉へかけあがってくるのを感じた。
小説家がつぶやいた。
「飲んでいいのかしら?」
重役が優しくいった。
「どうぞ」
変貌を終った果実がふたたびある。
暗く赤い。瑪瑙の髄部のように閃きはなく、赤からはるかに進行して、褪せた暗褐に近いものとなっている。さきのラ・ターシュは無垢の白い膚から裂かれて朝の日光のなかへほとばしりでた血であったが、これは繃帯に沁みでて何日かたち、かたくなな顔つきでそこにしがみつき、もう何事も起らなくなった古血である。澱んで腐りかかった潮のようなところもある。太陽はいよいよ冬の煙霧のなかで衰え、窓を蔽いかけている黄昏のすぐ背後には誤りようなく夜と名ざせるものが大きな姿をあらわしている。広い、無残な、ひからびた干潟のあちらこちらに赤や青の小さな閃光が音もなく炸裂しはじめている。光も、光めいたものも、何もこの室にはとどきそうにない。たとえ朝の日光があり、昼の日光があったとしても、このどろんとした暗褐の澱みには光耀も影も射すまいと思われる。もしその闇に大陸があるのなら、おそらくは史後期のそれか。
小説家はおずおずと体を起し
「では」
とつぶやいた。
「やるか」
暗い果実をくちびるにはこんだ。
くちびるから流れは口に入り、ゆっくりと噛み砕かれた。歯や、舌や、歯ぐきでそれはふるいにかけられた。分割されたり、こねまわされたり、ふたたび集められたりした。小説家は椅子のなかで耳をかたむけ、流れが舌のうえでいくつかの小流れと、滴と、塊になり、それぞれ離れあったり、集りあったりするのをじっと眺めた。くちびるに乗ったときの第一撃にすでに本質があらわに、そしてあわれに姿と顔を見せていて、瞬間、小説家は手ひどい墜落をおぼえた。けれど、それが枯淡であるのか、それとも枯淡に似たまったくべつのものであるのかの判断がつきかねたので、さらに二口、三口、それぞれのこだまが消えるのを待って飲みつづけなければならなかった。小説家は奪われるのを感じた。酒は力もなく、熱もなく、まろみを形だけでもよそおうとする気力すら喪っていた。ただ褪せて、水っぽく、萎びていた。衰退を訴えることすらしないで、消えていく。どの小流れも背を起さなかったし、岸へあふれるということもなかった。滴の円周にも、中心にも、ただうつろさしかなく、球はどこを切っても破片でしかなかった。酒のミイラであった。
さきほどのはどうだろう。
昨日の花を数ふれば |丈長髪《たけなががみ》の匂やかに かがやく額 |常蛾《つき》の眉 |眼《まなこ》凉しく|艶《えん》だちて なさけ盛りのながしめは鉄石心をも溶かすべし |形品《かたちしな》よき|耳朶《みみたぶ》や 鼻筋通り尋常に 水の滴る愛嬌は玉に|瑕《きず》なき|顔容《かんばせ》に花の蕾の紅い|脣《くち》 若やぐ顎の|下《しも》ぶくれ
さては優しい首すぢの 肩へ流れてすんなりと伸びた二の腕手の白さ 可愛い乳房と撫でられる むつちりとした餅肌は腰のまはりの肥り|膩《じし》床上手とは誰が眼にも ふともも|町《ちやう》の角屋敷 こんもり|茂《も》つた植込に弁天様が鎮座まします
これはどうだろう。
生者必滅世のならひ 額の皺に灰色の髪 ふりさばき 眉毛さへ|嫗《おうな》さびしてむくつけく花の笑まひ|秋波《めづかひ》の さしもに人を悩ませし眼もとの色香消え失せて|遐《とほ》き昔の花ならで 歪み曲れる鼻柱 |萎《しを》れし耳に毛も生えて 色艶のなき顔色は死人にまがふ蒼白さ|頤《あご》落ちて|脣《くち》は梅干
人の色香の|儚《はかな》さは 帰らぬ水の|泡沫《あわ》とのみ |腕《かひな》ちぢまり|掌《て》もしかみ |佝僂《せむし》めかして|屈《かが》む背に |胸乳《むなち》も骨と皮ばかり 腰とて同じさまなれば 男泣かせの何やらも名残とどめぬ|太股《ふともも》の|細《ほつそ》りなつたる|渋紙《しぶがみ》に |鹿子斑《かのこまだら》の|汚点《しみ》さへあるえ
小説家は眼をあげて
「………」
グラスをおいた。
重役はいらだたしげに
「いけねえ」
眼をそむけた。|狼狽《ろうばい》か当惑かで根深くゆさぶられたにちがいないと思われるのに、一瞬か二瞬、眼がゆれただけである。すばやくたちなおり、踏みこたえ、重役はこみあげてくるものを強引に窒息させてしまった。
「どこでどうやって手に入れたの?」
「某所さ」
「パリ?」
「………」
「ニューヨーク?」
「………」
「それとも、東京か?」
「………」
「香港か?」
「………」
「ロマネで?」
「ちがうね」
重役は吐くようにつぶやいて、それきりだまってしまった。いつのまにか眉がひらき、眼がうつろになり、グラスのふちで微笑していたときのほのぼのとした|無垢《むく》が消え、かたくななしぶとさがあるばかりで、顔でなくなっている。いつもの癖だ、と小説家は追及をあきらめた。もう二〇年近くつきあっているのにいつまでたっても治らない。頑固な男だ。敏感すぎるのでもある。あまりに完璧を求めすぎるので毛ほどの傷もがまんできないのである。羞恥、|倨傲《きよごう》、潔癖、何からか、傷や隙を容赦することができず、絶対|他人《ひと》に覗かせようとしない。仕事にかけてはちょっとよりつきようのない凄腕の持主だけれど、下半身はいつも影のなかにある。一をかくしたくてつい一〇〇までかくしてしまうねじれたこの過敏は、何であれ完璧であることを求めているが、どこかに傷を感じさせられる。いつまでも口をひらいたきりでいるらしい傷をおぼえさせられる。この男は優しいのだ。
小説家は瓶とレッテルを眺めた。レッテルを貼ったのはフランスで、生地のロマネ・コンティだったに相違ない。ニューヨークの酒商人のレッテルが貼られたのはロマネだったかもしれず、ニューヨークだったかもしれない。いずれにしても瓶につめられてレッテルを貼られるまではこの酒は生地にあったにちがいないし、それまでは豊年か不作かを問わず、これ以上ない保護をあたえられていたものと思う。けれど、その冷暗で|静謐《せいひつ》な酒倉を出たときから、おそらく災厄がはじまったのではあるまいか。田舎から港へ。港から船へ。船で海をわたり、波止場に上陸し、そこから酒商人の倉庫へはこばれる。それからあと、その倉庫で眠りつづけたか、小売商の棚で眠りつづけたか、それとも誰かに買いとられてアパートかお屋敷かへはこびこまれて、そこで眠りつづけたのか。あるいは、長旅でゆさぶられつづけて上下に傷つけられたり、左右に傷つけられたりしたのに、そこからまた転々と手から手へと旅をして今日ここにたどりついたのか。もともと感じやすくて、若いうちに美質を円熟させるようにと生れつき、そのように育てられていたこの酒は、フランスの田舎の厚くて、深くて、冷暗な石室のすみでじっとよこたわったきりでいるしかないのに、旅をしすぎたのだ。それが過ちだったのだ。ゆさぶられ、かきたてられ、暑熱で蒸され、積みあげられ、照らされ、さらされ、放置されるうちに早老で衰退してしまったのではあるまいか。ヨーロッパの戦争をアメリカで避けることができたのはよかったけれど、旅がこの酒には暴力だったのではあるまいか。老いて衰退したというよりは凌辱されて二度と回復できないまま老いてしまったのではあるまいかと、想像される。早熟だけれど肉がゆたかで、謙虚なのに眼のすみにときどきいきいきとした奔放が輝くこともあった、爽快そして生一本だった娘は、旅をさせられるうちにあるとき崩れ、それからは緑いろの闇のなかでひたすら肉を落しつづけ、以後の旅はただゆさぶられるまま体をゆだねてきた。今夜はじめて外へだされはしたものの、腕はちぢまり、掌は皺ばみ、鼻が曲り、耳に毛が生え、佝僂さながらに背を丸め、息をするのがせいいっぱいで、一歩も歩けそうにない。
重役は輝く六歳と澱む三七歳のそれぞれを一口ずつすすった。失望が少しずつ遠ざかり、酒がふたたび上昇をはじめ、頬が薔薇いろに輝く。シャッター反応が消えた。眼や口がそれぞれの位置にもどり、部厚い自信がどっしりとした肩のあたりに漂いかけている。
「……ロマネ・コンティで聞いたところによるとだね、六九年は若いに似あわず円熟している。六五年はまだ育ちつづけていて、若くそして力強い。六一年はみごとな出来で感嘆のほかない。ということらしい。それでも四五年はしのげないんだそうだ。よくよくの出来らしいね。戦争の終った年がぶどう酒の大当り年だったというのはたいそう皮肉だけれど、当時占領軍であのあたりにいたナチスの将軍は酒のわかる男だったらしくて、指一本つけずにドイツへ帰っていったそうだ。ロマネ・コンティにも。ほかのにも」
「ユダヤ人は煙りと石鹸とカーペットにしたけれど、ロマネ・コンティには指一本つけなかったというの?」
「そうらしいよ」
「その将軍の名は?」
「聞いたが忘れた」
「騎士道の最後の一滴か」
「そういうことらしいね」
「|昨夜《ゆうべ》はウィスキーをひとったらしも飲まなかったけれど、ちょっと調べものをした。この酒のできた年はどういう年だったか、年表を調べてみたんだ。ぶどう酒というのは|功徳《くどく》がある。ほかの酒ではこういうことを思いつかないね。ここへメモを持ってきた。ちょっと読んでみようか」
「おもしろい」
「なかなかむつかしい年だよ。まず日本だがね。この年、昭和十年だが、美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発された。左翼は袴田里見が検挙されて日本共産党中央委員会が壊滅する。『赤旗』が消えた。いっぽう大陸では支那駐屯軍が|何応欽《かおうきん》に期限付通牒を発して、いわゆる梅津・何応欽協定が成立する。モスコーじゃジノヴィエフやカーメネフが裁判にかけられる。ナチスはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を廃棄し、再軍備宣言だ。中国共産党が抗日統一戦線を提唱し、パリでは人民戦線が結成される。イタリアがエチオピアに侵入する。ヤスパースが『理性と実存』を書き、チャペックが『山椒魚戦争』を書いた。川端康成が『雪国』の第一回を書いたのもこの年だ。『夕景色の鏡』という短篇だ。石川達三の『|蒼氓《そうぼう》』が第一回の芥川賞になる。湯川秀樹が中間子理論を発表した。忠犬ハチ公が死んだ。おれは五つで、女中に手をひかれて花電車を見にいったり、その女中の手が霜焼でザラザラしてるのでトカゲの皮みたいだなどといって、母にしかられてた」
「思いだした。聞いてるうちに思いだした。じつはブルゴーニュやボルドォのほかにコニャックにもいったのだがね。あそこじゃ莫大な数の樽が寝かしてあるが、それから毎日少しずつブランデーが蒸発する。そのアルコール分は何でもぶどう酒にして全フランスで一日に飲むだけの分量が蒸発するんだそうだ。二万五千本といったかな。それはまあ、いいとして、例のコニャックのレッテルにあるV・S・O・Pの字ね。あれは Very Superior Old Pale の略なんだけれど、もうひとつ読みかたがあるというんだよ。Vieux Sans Opinion Politique、つまり、《政治的意見に関係なく古い》というんだ。君の話を聞いているうちに思いだしたよ。日本は敗れ、ドイツもイタリアも敗れ、人民戦線は一年でおじゃん。モスコー裁判はでっちあげの茶番。中国共産党は全土を制覇というぐあいになるが、そのあいだずっとこの瓶は眠りつづけていたわけだからね。何があっても眠りつづけていた。政治的意見に関係なくね。一九三五歳から毎年一歳ずつ眠って年をとっていった。ただそれだけをやっていた。この瓶もV・S・O・Pだ。歴史を肴にして飲む酒だよ」
「けれど、死んだ」
「こんな酒を批評してはいけないな」
「そうかもしれない」
「批評できないんだよ」
「虚無に捧げる供物といった人もいる」
「名言だね」
重役はひっそりとすすり、口のなかでゆっくりと右へやったり、左へやったりした。小説家はメモを丸めて灰皿に捨て、どろんとした暗褐の淵を眺めた。
給仕が輪切りにした牛の骨を持ってきた。焦げのついた、熱い、白い骨のなかで、淡桃色の髄がとろりとなり、パチパチと小さな泡を輝かせてはじけ、ちょっと塩辛いところのある香ばしい匂いをたてている。陽はとっくに消え、煙霧も消え、空も、窓も消えた。ネオンの荒野の上空に漂いつつ食事をしているようである。そう思ったとき、さきほどからしきりにうごいていたものが、ふいに顔になった。グンヴォールは顔だけが見えたり、手だけが見えたりした。顔はうつむいていたり、ゆっくりとわらったりした。どうしてかその部屋も灯も見えないけれど、全裸になった女がベッドに両膝をつき、晴朗にわらいながら力いっぱい半切りにしたオレンジをにぎりしめるのは見える。かなりの力を入れていることは強く張った肘のぐあいからもよくわかる。そうやって女は果汁をあちらこちらにふりかけ、とりわけ下腹には、自身のにも小説家のにも、念入りに注いだ。
グンヴォールに会ったときは何を飲んでいたのだろうか。赤にしても、白にしても、こういう稀品や名品でなかったことはたしかである。赤だとすればいつも飲みつけのコップ売りのサン・テミリオンかボージョレということになりそうである。キャフェでは瓶から飲んだことがなく、いつも一杯売りの風船玉グラスか、カラフからだったので、酒の名がわからないのだが、ひょっとしたらアルジェリアの赤をまぜて肉と腰を強くした無銘の正宗だったかもしれない。無銘ということなら労働者街の駅裏あたりのビストロでだしてくれる脱酸ぶどう酒があり、これは酒石酸をぬいた酒で、いわば肉体なき影とでもいってよいしろものだけれど、さばさばと軽快で胃にもたれないものだから、よくでかけたものである。しかし、それは労働者街のことで、出会いは学生街のキャフェだったのだから、これを飲んでいたのでもなさそうである。焼栗の皮をキャフェのコントワールに肘をついて|剥《む》いているうちに肩がふれあって眼を見かわし、それをきっかけにして口をききはじめたのだから、そうなれば飲んでいたのは赤ではなくて白の辛口である。焼栗とこれはぴったりなのである。
椅子に腰をおろして
「白。辛口。ヨク冷エタノ」
といって註文したはずである。
今夜のと形も大きさもそっくりの風船玉グラスがあらわれ、それは酒を|注《つ》がれると見る見るこまかい霜を吹いてくもっていき、柔らかい金いろに輝く|靄《もや》となったはずである。それに見とれながらレイン・コートのポケットから焼栗をとりだしてコントワールにおき、一個ずつたんねんに皮を剥いていったはずである。
となりの席に砂いろの無精ひげを生やした、くたびれきった様子の老人がすわっていて、何カ月風呂へ入らないのか、ねっとりと腐った匂いをたてていた。あまりにひどい匂いなので席をかわろうかと思ったけれど、老人が猿をつれていたので、とどまった。どうやら老人は猿まわしを仕事にしているらしい様子であったが、冬と舗道のために主従ともに大破していた。猿は小さくてやせこけ、毛がところどころ剥げ、ぶるぶる体をふるわせていた。老人は首の鎖をといてやり、小さな手にはめていたタンバリンもはずしてやったが、猿はコントワールにすわるのが精いっぱいという様子であった。彼が皮を剥いた栗をだしてやっても、猿はちらと見ようともしなかった。それでも栗をさしだしつづけていると、猿はうんざりした手つきでとりあげて|床《ゆか》へ投げ、投げたあと、グッタリとうなだれた。そしてうなだれたまま老人に背を向け、それきりうごこうとしなくなった。老人はぼんやりと猿を眺めているきりだが、淡い淡い瞳の青はすっかり溶けてしまって、いまはかすかな輪郭がそれとようやく認められるだけで、明朝になればそれすら消えてしまうのでは、と思われた。
右の肩のあたりで女の声が
「かわいそうに」
と低くいった。
女は猿をじっと眺め
「くたびれてるんだわ」
といった。
ここの冬はひたすら寒くて暗いが、その冬はことにきびしかった。小説家はいつものように学生街に泊ることにし、サン・ミシェル大通りから裏へちょっと入った安下宿で寝起きしていたが、寒さと暗さは、壁、床板、ドア、ベッド、あらゆるものから沁みだしてきて体のそこかしこに附着した。附着したものは容易に落ちようとしないばかりか、じわじわと体内に浸透し、それを感じさせることなく浸透しつづけた。朝、眼がさめて窓を見ても、井戸の底のようなので、朝なのか、黄昏なのか、しばらく判断がつかない。小説家は、毎日、ただぶらぶらと歩くか、うとうと眠るかしてすごし、たいてい夕方までベッドにいて、夜がくると外出し、朝近くになって帰ってくるということを繰りかえしていた。ここの夜はひっそりした石の森林だが、そこを歩きながら、ときどき屋台で焼栗を買ってみたり、|牡蠣《かき》や|雲丹《うに》をすすってみたりした。キャフェに気まぐれに入って焼栗といっしょに白の辛口をすすり、舌から腸までのその爽快で冷たい一条の航跡がぼやけて、熱い霧となって、とらえどころなく全身にひろがりはじめると、席をたち、ドアをおしてでていき、熱い栗や冷たい貝でところどころに句読点をうちつつ、脈絡のない、長い文章のような散歩をつづけた。南の国にいるときは全身を浸す湿気と暑熱、そのねっとりとうるんだ憂愁のために溶けかかったナメクジのようになり、ひたすら北の|凛冽《りんれつ》と収縮をあこがれていたのだが、きてみると何もかもが、壮大なものは壮大なまま、腐りかかったものは腐りかかったままで凍結していた。何もかもが、あまりに完成され、あまりに巧緻で、あまりに死後硬直している。優しさと無慈悲。塊と面積。浸透と氾濫。跳躍と凝固。|聳《そび》える物。つながりあう物。すべてが硬直し、容赦なく、手のつけようがない。ときどき橋のうえや、町角をふと曲った瞬間などに、たちどまってうずくまってしまいたくなることがある。たまさか朝のどんよりした窓のすみに一条か二条かの貧血した日光のたわむれを見つけて昂揚をおぼえることがあるが、靴をはいて大通りにでて歩きはじめると、飾窓が香水屋から毛皮屋、毛皮屋から文具屋と、二軒か三軒、変るか変らないかに地崩れが起るのをおぼえ、耐えきれなくなって、そのまま部屋にもどる。いまぬけだしたばかりでまだ殻にもなりきっていないそぶりのシーツのなかへそッともぐりこむ。ベッドのなかでも、キャフェでも、のしかかってくる圧力や、音たてて走る沈降や、分解や、視線を消してしまいたくて、酒をすすった。吐くほど飲んだり、へべれけになるほど飲んだりはしなかったが、瓶が子宮だとすると、酒精が羊水であったから、眼があいているあいだは、ずっと、のべつに、たゆたい、漂っていなければならなかった。暗い昼より、暗い夜のほうが、はるかに親しみやすく、おだやかで、優しかった。ベッドのなかで小説家は酒をすすりつつ、朝、昼、夜のいつ見ても開こうとしない向いの部屋の窓を眺め、狐火のように明滅して移動していく自我とたわむれた。酔って大通りを歩き、キャフェにすわって酔い、つぎからつぎへと無数の単語と成句と像が、集ったり、散ったり、閃いたり、流れたりするありさまを、うるんだ眼で眺めつづけた。膨脹のまま、収縮のままにゆだねていればいい。定着がなければ分解は起らない。疲労が澱んで外側からのもの、内側からのもの、昨日のもの、今日のもの、南から持ってきたもの、北にきてから発生したもの、からみあい、もつれあって、けじめもつかなければ、凝視もできなくなっている。赤、白、薔薇、パスティス、コニャック、ウォツカ、|粕とり《マール》、どの滴がどの|汚点《しみ》をつけたのか、あまりにまざりあって、形もなければ、香りもない。
石の森のなかを歩いていて遠くのキャフェを眺めると、それは明るく灯のついた、赤や、金や、黄や、黒の輝く金魚鉢に似ているが、そのなかに入って戸外を眺めると、闇のなかからあらわれてドアや窓に近づき、ちらとなかを眺めて去っていく人が、水にもてあそばれて浮きつ沈みつして流れていく溺死人のように見える。猿も疲れているし、老人も疲れているし、小説家も疲れていた。女にもそれはあらわれていて、眼じりや、口のわきにかすかだけれど見まがいようのない航跡が浮きあがりかかっている。それを見て小説家は自身のこめかみに出没している白い芽のことをまず思ったが、おだやかさと優しさが女の顔や体のまわりに柔らかい|陽炎《かげろう》のように漂っていて、そのことにひかれた。女はつつましくタバコに火をつけたが、その手つきや眼の細めかたに沈着さがあり、人や事物をちょっとはなれたところから冷静だけれどくつろいだ様子で眺めているようなそぶりであった。灰青色の眼は注意深く直視するけれど、凝視ではなかった。一瞥で眼のまえにあるものの質を見ぬきはするけれど、そのことをいろにだそうとしない成熟があり、わらうと眼に熟してはいるけれど腐ってはいないものがいきいきとうごいた。女はグンヴォールと呼んでほしいといい、スウェーデン人で、ジャーナリストであり、この季節のファッションの記事を書くためにきたのだといった。ときどき小説家の言葉のたどたどしさに愉しそうにわらったが、傷つける批評ではない気配があるので、くつろぐことができた。小説家が毎日酒を飲んでいるだけだといったときにしばらく考えてから何かいったが、それが聞きとれなくて二、三度たずねかえすと、静かにボールペンをバグからとり、紙に書いてわたしてくれた。小説家は話すより読むほうが、ほんの少し、|長《た》けている。
『二〇代 選ばない。
三〇代 ブルゴーニュ。
四〇代 カルメル。またはボルドォ。
五〇代 飲まない。味わうだけ。』
小説家は眼をあげて低くわらった。
「昨日、私、赤ト白トペルノーヲ飲ンダネ。今日、私、赤ト粕トリトコニャックヲ飲ンダネ。今、白ヲ飲ム。ブルゴーニュモ、ボルドォモ、私、ワカラナイ。私、何デモ飲ムナ。私、二〇歳ヨ。ウレシイ」
女は微笑してつぶやいた。
「結構ですわ。いいことですわ」
「私、少クトモ、蛙デナイネ」
「何ですって?」
「私、蛙デナイネ。水飲マナイネ」
「鳴くのでしょう?」
「エ?」
「水は飲まなくても、よくお鳴きになるんじゃない?」
「私、ヒトリヨ。私、嗚カナイヨ」
「休暇中なのね」
「ソレ、ウイデノンヨ」
「どうして?」
「私、小説書ク。小説家、休暇ナイ。何モ書カナイトキモ、小説家、休暇デナイ。私、休マナイ。私、休メナイ。ワカリマスカ?」
「わかったわ」
ふいに女が|真摯《しんし》なまなざしになり、タバコの煙りごしに、やや体をのりだしてきて、深々とのぞきこむような眼を見せた。灰青色の瞳がとつぜんはみだし、あふれだして、あたりにひろがり、小説家は湖をかいま見た。猿が消え、老人が消え、鏡が消え、酒瓶の列が消えた。|香《か》ぐわしくてあたたかい体温が鼻さきに迫り、爽やかな湯のように全身にしみていった。ふと女の白い指が触れ、彼の指さきにそのままじっとしているが、女は気づいたとも気づいてないともそぶりに見せず、そう見せまいというそぶりも見せずに微笑したまま風船玉グラスを眺めている。女の指はめざましいほど冷たく、そこから流れこんでくるのが厚皮のような疲弊のなかで一脈のいきいきとした不安をおぼえさせる。
しばらくして女はそッとたずねた。
「寒いけれど散歩しましょうか?」
「アナタ、寒クナイカ?」
「私の国はもっと寒いわ」
「私、行クヨ」
つれだって店をでたが、女はその界隈も、どの界隈も、鼠の穴まで知りぬいているらしく、あちらへ曲ったり、こちらへ折れたりして舗石に靴音をたてて歩いたあと、まっ暗な路地の古い壁のなかに消えた。看板もネオンも何もでていないが、壁に小さなドアがついていて、それをおして入った女につづいて入ってみると、ひどく小さな、暗い部屋があり、若い男がギターをかかえて爪弾きしながら低い声で歌をうたっていた。何人かの客が壁ぎわにすわり、肩をよせあったり、指をからませあったり、だまりこくって聞いている。女と小説家は壁ぎわにたった一つあいている席にすわったが、おたがいのかすかな息の気配がわかるほどテーブルが小さかった。大学生らしいキリスト|面《づら》というよりは山賊|面《づら》の陰毛ひげの若者がしのびよってきて、聞きとれないくらいの小声で註文を聞き、小さなデギュスタシオンにコニャックを入れたのを二つ持ってきて、またしのび足で消えた。闇のなかで小説家は壁にもたれ、ときどき言葉が拾える若者の歌とギターに耳をかたむけた。すぐ肩のところに女の顔があり、体温がしみじみと感じられ、ゆっくりとやすらかに正確にくりかえしている息の音を聞いていると、静かな山か、夜の海のそばにすわっているようだった。視線が消えかかっている。分解が進行をやめかけている。
若者の歌が終ると、よこに腰をおろしていた男がたちあがり、だまって操り人形をはじめた。糸は暗くて見えないが、骸骨である。燐光で蒼白く輝くたくさんの骨がおたがいに踊りあいながら近づいていって一つの人体骨格となり、それが闇のなかで行進したり、踊ったり、挨拶のため腰を折ったりする。そうしながらもしじゅうバラバラに崩れて散乱してしまうのだが、また一瞬後にはもとにもどって身振りをつづけるのである。歩きだそうとして肋骨や大腿骨を忘れたのに気がついてあわててとりにもどるギャグがはさまれたりする。辛辣で、精妙で、機敏である。みんないっせいにほどかれて、息を大きくついたり、クスクスわらいあったりした。
「この死の踊り、おかしいわ」
「オカシイネ」
「とっても上手だわ」
「上手ダ」
「感動しちゃった」
女はわらいながら嘆賞の声を洩らした。その声にある素朴な人のよさに小説家はうたれた。つづいて女はさきの若者の歌の大意を教えてくれたが、それはナイフの一生をうたったもので、赤ン坊の臍の緒を切って誕生を手伝うことから仕事をはじめたはずのナイフがさまざまな物を切っていくうちに鋭利になり、さいごには人を刺して川へ捨てられるという物語だそうである。《私は何も知らないのに》という繰りかえしが各節に入るという。
「生んだり、殺したり。生んだり、殺したり。ナイフもなかなか楽じゃないわ。この家はいつもこんなふうなの。お人形は骸骨ですし。いつもこうなのよ。でもね、いつきても上手なので感動しちゃう。頭も腕も、とてもいい。こんな暗いテーマばかりやってるくせに家は『白い家』というの。皮肉屋さんなのね。壁にドアがついているきりだからそうだというのよ」
「アナタ、何度グライ、来タカ?」
「何度も、何度もよ」
「アナタ、黒イユーモア、好キネ」
「どんな色のでも好きよ」
「ヨロシイ」
女は軽やかな含みわらいの声を洩らした。沈着でなごやかなうちにいままでにない|艶《つや》がある。さきほどから女がヴゾワイエではなくテュトワイエで話しはじめているのに気がついた。あの猿がうなだれていたキャフェをでてからである。期待していい、語られないものがそっとしのびこんで、こまやかな繊毛を微動させはじめているかと感じられる。小説家は闇のなかでのびのび手と足をのばして壁にもたれた。青白く輝きつつ踊る骸骨のずっとうえのほうのどこかに自我が漂っている。分解のきびしいけれどとらえようのない恐れは力を失い、胸苦しい疲弊は背を見せてゆっくりと沈みつつある。女もはっきりと変っている。静かな山のふもとにすわっているのでもなく夜の海の渚にいるのでもないと小説家は感じはじめた。女は形を失っているけれど、眼で、息で、香りで、体温となった。
女を誘いにでた。
「|夜食《スペー》ヲ食ベニイコウヨ」
「いいわね。どこへ?」
「市場ノ近クヨ」
「私もよくいくわ」
「|豚ノ血ノ腸詰《ブーダン・ノワール》。ドウ?」
「いってから考えるわ」
古い、湿った壁の穴から舗道へでたが、壁はもう腐りかかったまま凍りついて死後硬直を起しているようには感じられなかった。闇のなかで女がそっとよってくると、香ぐわしい髪が一筋か二筋、鼻さきにふれ、どっしりした船首のような胸がよりそい、柔らかい、重い腕が腰にまわってきた。小説家は顔をよせて女の冷たい鼻と、乾いてあたたかいくちびるを軽く吸った。女は低く、おだやかにわらった。
「……フランス人にいわせると、戦後は食事の時間が戦前にくらべて半分になったというんだよ。『ポアン』ではロマネ・コンティの四五年物を二本、見せられはしたけれど飲めなかったので、よし、戦前単位で一つ正式にどっしりとやってやろうという気になった。酒も料理もだよ。このメニュはいまでもおぼえている。前菜に自家製のフォアグラ、もちろんトリュフ入りですがね、これを一枚。酒はモエテ・シャンドンのシャムパンだ。つぎがウナギをどうかしたハンペンのようなもの。クネルというんだ。パテに似てるけれどちょっとちがう。これにはモンラシェの白の六一年をつけた。それから生ザケを|焙《あぶ》ってクリーム・ソースをかけたのがでて、肉はペッパー・ステーキをとりました。これにはシャムベルタンの赤の六四年をつけましたのさ。食後に妙なスピリッツがでましてね。自家製の粕とりブランデーらしいんだけれど、店の名前の『ポアン』をもじって銘にしてある。何とかポアン、何とかポアンとつづくんだ。そういう名前だった。正確なところを忘れちゃったが、要するに、『これを飲まないやつは阿呆だ』という意味だそうだ」
「なかなかやるね」
「やるなら徹底しなきゃね。それだけやってみてだね、何度めかしらないけれどもう一度わかったことはだね、酒がよくて料理がバランスがとれてたら、いくら飲んだり食べたりしても、ちっともくたびれない。眠くもならないし、へべれけにもならないってこと。これは和、漢、洋、どの料理でもいえるんじゃないかな。神気まことに晴朗かつ明晰をおぼえたな。昇華とはこのことかとさとった。食慾も徹していくと精神になるらしいね。これはいい勉強になった。そのロマネ・コンティ、そろそろ|渣《おり》がでかかってくる。瓶の下半身四分の一は渣溜めで飲めないだろう。まだもうちょっとだけはやれるかもしれない。もう一杯どう?」
「ありがとう」
「ラ・ターシュはまだまだある」
「肉と腰をつけるか」
「まぜようっての?」
重役が眼を|剥《む》いた。酒のことと思ったらしい。小説家は軽く手をふり、顔をふった。重役は安堵したように椅子に背をのびのびともたれさせ、深いが晴ればれとしている六歳をとりあげてくちびるにはこんだ。眼が風船玉グラスのふちごしに輝きながらうつろになっている。この男も何か女のことを考えているのだろうか。
一九三五歳になってから三七年間眠りつづけてきた酒はいつのまにか瓶の半分になっている。小説家は給仕に注いでもらったグラスを一口、二口すすったあと、注意深く斜めにしてみた。重役は正確であった。グラスの内壁にいままで見なかった何かの黒褐色の微粉がこびりついている。酒垢である。酒の老斑というべきか。おそらく下半身四分の一にはどろどろになって溜っているのであろう。この瓶は歳月の灰、世紀の塵の墓なのだといえばいいすぎだろうか。小説家は風船玉グラスをそっと両掌で抱くようにして持ちあげ、暗褐の|凄《さび》しい淵を一口ずつすすった。さすがだと思う。さすがだ、と思わずにはいられない。これほど犯され、奪われ、大破され、衰退させられていながら、まだ、女をみちびきだしてくるのである。その後、今日この瓶に出会うまで、グンヴォールのことはときどき思いだすことはあったけれど、多くは闇のなかで踊る骸骨の輝きや、オレンジの果汁のほとばしりや、眼と鼻を髪に蔽われながらわらっている顔など、破片の群れだったのだ。よもや一人の女として瓶のなかからあらわれようなどとは、思いもかけないことであった。もうあとわずかしかのこっていない。一滴ずつ噛んでみることだ。
その頃、市場はまだ空港の近くへ引越してなくて、ゾラの頃とおなじ場所にあり、夜ふけになると田舎からの長距離トラックがたくさん到着して、にぎやかになった。鉄骨を組みあげた建物は暗がりのなかで駅のようにも見え、体育館のように見えもするが、トラックや道ばたに積んだ白い木箱はまるで香水でもふりかけたようにあざやかに畑と森の匂いをたてている。きつくて、いきいきとして、爽やかな、濡れ濡れとした匂いの群れである。その闇のなかにところどころ明るく灯のついた金魚鉢があり、人びとが食べたり、笑ったりしているのが見える。その一軒に入っていくと、店は満員で、給仕たちはひしめきあう背や肩のあいだを右に左に体をひねっていききし、小説家はようやく席を見つけることができた。女は席につきながら、ちらと彼を眺め
「純粋に黒い」
といった。
「エ?」
聞きかえすと、女は眼を細め
「純粋に黒い、まっすぐな、アジアの髪」
一語、一語を切って、ゆっくりと舌のうえでころがし、そのひびきを愉しみつつ、つぶやいたあと、しゃっきりと背を伸ばし
「メニュ、メニュ」
指で軽くテーブルをたたきながら早口にいった。
女はメロンに生ハムをとり、小説家はブーダン・ノワールをとった。豚の血の腸詰だが、それを蒸して熱くし、ジャガ芋をすりつぶしたピュレーを添えて、だされる。ナイフで裂くと黒褐色のもろもろしたものが熱くて癖のある匂いといっしょに白い皿へこぼれでる。それをピュレーとまぜてすくって、食べる。年号は忘れたが、たしか、グラーヴの赤を一本とったと思う。女は寡黙に食べていたが、よく食べ、よく飲み、ときどきグラスごしに斜めに彼を見やって微笑した。蒼白な頬にやがて酒が昇って薔薇いろの輝きがゆっくりとあらわれてきた。灰青色の瞳は微笑しているときなごやかだが、それが消えてふつうの表情にもどると、黒い瞳を読むことになじんだ小説家は不安をおぼえる。のぞきこんでも視線がはじきかえされるか、迷ってしまうかしそうで、すくみそうになる。じっと凝視していると、文字とおなじように、とめどない分解が起ってきそうである。眼は女が使うように使わなければいけない。一瞥、一瞬でいいのだ。そのときに感光されてしまわなければならない。眼もまた一瞬の休みもなしに生き、それゆえ|陽炎《かげろう》や文字のように凝視には耐えられないのだから、指一本うごかさないで、ちょっとはなれたところから、一瞥で感じとらなければならない。
肉を扱っている市場の労働者が血まみれの作業衣のまま入ってきて、酒場のコントワールにもたれ、一杯か二杯飲んでしばらく放心してからでていく。腰が古樽のように厚くて、堅固で、頑強であり、これ以上は何十年たってもびくともしないように見え、ひっそりとだろうか、熱く泡だってだろうか、なみなみと精液がたくわえられていそうである。
給仕が皿のよこに紙きれをおいた。
読むと
『一番いい薬。夜は眠ること』
と書いてあった。
給仕は背を見せていそがしそうに消えた。小説家が眼をあげて後姿を追っていくと、その初老の給任は右に左にたくみに腰をひねって人ごみをぬけていき、ちょっとたちどまってこちらをふりかえった。丸い、小さな、茶褐色の眼は小説家の眼と合うと、一回軽くまばたき、そのまま料理場へ消えた。
優しいけれど、痛い。崩壊が胸のあたりから腹へかけて走るのをおぼえ、小説家は耐えた。肩がそのまま浮くようであった。崩壊は消えたのか、とどいたところで足踏みしているのだろうか、小説家は紙を丸めることでまぎらした。グンヴォールは何も気がつかないで、テーブルに両肘をつき、長くて骨張った指を風船玉グラスに這わせたまま放心している。口のはたの皺がクッキリとめだってきた。眼じりの皺もきざみこまれて見える。小説家は鏡から顔をそむけた。鏡は見るまでもなかった。熟練家に見ぬかれてしまった以上、眼はそむけるか、伏せるかしかない。グンヴォールの灰青色の瞳にためらいをおぼえ、労働者の壮年の腰に見とれているあいだにさらけだしてしまっていたらしい。壁も、鎧扉も、窓も、ドアも、落ちてしまっていたらしい。そのことに気もつかないでいたらしい。放心しているグンヴォールの顔からおだやかさや年増女の沈着な艶やかさが消え、眼が深い穴になり、頬にえぐられたような凹みがあらわれていた。淡い金髪のなかに灯が射して地肌が|透《す》いて見え、髪は冠というよりは弱い|靄《もや》と見え、頭蓋骨の輪郭がそのまま眼でなぞってみられそうだった。頭をかるくひとふりするだけで髪は一本のこらず落ち、顔に大きな穴があきそうに見えた。夜でもなければ朝でもないこの停滞の時刻の苛酷さがじわじわと|蝕《むしば》みにかかる。栄養で輝く亡霊たちがてんでんにしゃべったり、食べたり、飲んだりしている。
小説家は低く声をかけた。
「行コウ」
女はうなずいてたちあがった。たちあがりしなに骨張った手をのばして、果物皿からオレンジを二個とりあげた。
部屋に帰ってみると奇妙なことに暖房機がとぎれめなくブツブツ|喘《あえ》ぎの音をたてていて、いつにもなく壁も、|床《ゆか》も、ベッドもあたたかく息づいていた。女を柔らかく抱いてベッドに倒れると、体は静かに沈んでいき、すぐに広くて厚く、しっかりした岩床に落着いてとまった。あたたかさが女の体からも、毛布からも沁みてきて、全身にひろがっていった。猿のいたキャフェで女が体をのりだしてきて眼が湖に見えた瞬間や、骸骨が精妙におどけて踊っていた小部屋の壁にもたれていたときなどにおぼえたものが遠くからおずおずともどってきた。女のくちびるには舗道の冷たさと酒の匂いがあったが、小説家は自身のが移ったのだと感じた。女はそっと指をのばして彼のボタンや、ベルトや、ジッパーをはずしていき、小指をたて、指をそろえて反らし、たなごころで肩や、胸や、胴をゆっくりと撫であげ、撫でおろした。
「すべすべしているわ」
「………」
「毛がないわ」
「………」
「私にははじめて」
女の背に指をまわしてホックをはずすと、それまで船首のように盛りあがっていた乳房がふいにうごいてひろがり、胸のうえで柔らかい円となった。女は重そうな白い腕を持ちあげて、手を彼の髪のなかにさし入れ、ゆっくりと、低くうたうように
「純粋に黒い」
「………」
「まっすぐな」
「………」
「アジアの髪ね」
ある動作に彼が移ろうとすると女はそっと体を起し、料理店から持ってきたオレンジをテーブルからとりあげ、そのそばにころがっていたぶどう酒の栓抜きのナイフの刃をたてて半分に切った。そして彼をおしたおすと、自分はベッドに両膝をついて上体をたて、肘を張って強く力をこめてオレンジをしぼった。透明な金いろに輝く果汁が女の手から胸へ、臍へ、下腹へと走り、女は自分にふりかけおわると、もう半分をにぎりしめて小説家の体へふりかけた。とりわけ下腹には念を入れてふりかけた。ふりかけながら女はのびのびした、晴朗な声をあげて、わらった。いくらかしゃがれがまじって声は精悍にひびいた。淡い金髪が眼と鼻をかくし、広い肩が灯で光り、ふてぶてしいまでに女は部屋いっぱいになった。
女は小さく叫んだ。
「……!」
股が大きくひらかれ、|旺《さかん》な茂みがちらと見え、その瞬間、灯が消えた。小説家は体を起し、闇のなかで、鼻と舌で、小さな芽をまさぐった。なじみ深いおしっこの塩辛い味が舌にき、野卑な匂いが鼻にむっときた。野卑は一瞬か、二瞬、耐えると、親しさにかわった。つづいてオレンジの新鮮な香りと甘さが舌と鼻にあふれた。果汁でしとどに濡れしとった茂みに顔を埋めると、耳のうしろや肩のあたりに亜熱帯のうるんだ青い空と大河が感じられた。暑熱と湿気の憂愁に全身を犯されてただあえぎあえぎうなだれていたのに、その空と濁った大河がいまは澄明に輝いている。異様な空だった。豊饒さは亜熱帯なのに北の極地の爽快な澄明がみなぎっている。してみなければわからない。してみるまでは何もわからない。どんな女から、何が、あらわれるか。みちびきだされてくるか。何の前兆もなく、予言もできず、予感もできない。女は形を失い、部屋いっぱいになった。部屋そのものになった。やがて、濡れた、小さい、敏捷で聡明な動物が小説家の全身をかけまわりはじめた。あちらこちらに濡れた、熱い点がしるされる。どの点もみごとに正確で、生きている。しるされた瞬間に点からひろがって熱い|暈《かさ》となり、おたがいにとけあい、揮発して浮きあがり、その熱い朦朧とした霧のなかへ骨も筋肉もとけこんでいく。体が部屋そのものになる。いつのまにか小説家は一本の道をまじまじと眺めていた。どこの国で、いつ見たのだろうか。いま、はじめて見る国だろうか。ほの暗い小径があらわれていて、どこかへ消えている。まっすぐなまま消えているようでもあり、曲ろうとして消えているようでもある。ほの暗いのは|鬱蒼《うつそう》とした森のせいかもしれない。黄昏のようでもあり、未明のようでもあるほの暗さのなかに人も動物も影もない小さな道が見える。去ってきた道だろうか。これからいこうとしている道なのだろうか。睾丸と肛門のどうまさぐりようもない小皺のすみずみまでをくまなく舐められて小説家は呻唸した。シーツが白熱して溶けた。安息所をまさぐりあてて浸透していくと聞き慣れない国の言葉で嘆息と歯ぎしりが起った。熱いジャガ芋か肉団子を咽喉のところでころがしているような声である。空も消え、大河も消えたが、ほの暗い道はまだ見えている。膨脹したり、収縮したりしながらも、見えている。
しばらくして二人は体をはなし、あえぎあえぎシーツのなかによこたわった。女には肩や乳房やたくましい太腿がもどった気配があり、とろりとした甘い吐気と眩暈のあとで小説家には執拗な視線がもどった。闇は収縮して部屋になり、炉は急速にさめてざらざらしたシーツになり、狭い部屋のあちらこちらにふいに隙間風の冷たくて鋭い航跡の漂っているのが感じられた。暖房機はしばらくまえからあえぐのをやめていた。灯をつけると小説家の裸の肩のところに女の顔が落ちていて、のぞきこんでみると汗に輝きながらも傷だらけになっていた。その額と鼻に軽くくちびるで触れながら小説家は、この女は今後一回ごとに皺が半ミリずつ深まっていくのではあるまいかと思った。いたましさをおぼえながら二本のタバコに火をつけ、一本を女に持たせてやった。
「ねえ」
女は低く呼びかけて裸の長い腕をのばし
「この男、どう思う?」
バグをテーブルからひきよせて一枚の写真をとりだすと、小説家にわたした。写真には皺はないけれど、まんなかから深く裂けめがあり、一人の男と一人の女が戸外でテーブルに向っている。どこかの公園らしい。夏の日光を浴びて二人はまばゆそうに眼をしかめながらも微笑で頬を崩している。
「去年の夏、この男と別れたのよ。けれど何かがのこった。彼はいまオーデンセに住んでいる。そうだと知ってるの。何もかも知ってるの」
「アナタ、彼ヲ憎ンデイルナ?」
「そう。そういえるでしょうね」
「ナゼ、別レタカ?」
「長いお話だわ」
とつぜん女はシーツからのりだすと写真を小説家につきつけるようにしてみせ、指でつまんでほんの少し裂いた。裂いたのは見えるか見えないかだったが、瞬間、女の眼に激しい深さが閃き、頬がゆがんだ。
しゃがれ声で女はいった。
「一度に二つにしないの。少しずつ。少しずつ。ゆっくりと二つにしてやるのよ。よくって。今日はこれだけ。明日もまた少し。いつ二つになるか、それが楽しみなの」
長い爪の生えた、骨張った指で二、三度、写真をはじくと、バグに大事そうにしまいこんだ。長い指がたけだけしい何かの鳥のくちばしのように見える。少しずつ。少しずつ。プー・ア・プー。プー・ア・プー。口のなかで女が繰りかえしているそのひびきにしぶとさとかなしさがあった。流れていく水に躍起になって岸から何か叫んでいるようなものがあった。市場のよこの料理店で女が放心していたのはこのためだったのだろうか。それで髪が一本のこらず落ちかかり、顔に大きな穴があきそうに見えたのだろうか。部屋いっぱいにはびこって壁をぬけていったさきほどの激情も、ここからか。
小説家はそっと女の肩をたたいた。
「マダ朝デハナイ。寝マショウ」
「………」
女は獣のように呻いた。
終った。もう飲めない。ひどい渣である。グラスの内壁がこまかい粉でまっ黒になり、瓶にはまだ酒がのこっているけれど、ためしにちょっと斜めにしてからたててみると、どろどろにとけたタールのようなものがべっとりと瓶の内壁をつたって流れ落ちる。それを眺めているうちに小説家はとつぜんうたれた。この酒は生きていたのだ。火のでるような修業をしていたのだ。一九三五歳になってから独房に入って三七年になるが、けっして眠っていたのではないのだ。汗みどろになり、血を流し、呻きつづけてきたのだ。それでなくてこのおびただしい混沌の説明がつくだろうか。不幸への意志の分泌物ではないのだろうか。これもまた一つの劇ではなかったか?……
重役が
「では、いくか」
といった。
小説家は
「うん」
といった。
(文中に引用したフランソワ・ヴィヨンの詩は矢野目源一訳「卒塔婆小町」に拠りました。作者)
[#地付き]〈了〉
初出誌
玉、砕ける
文藝春秋 一九七八年三月号
飽満の種子
新  潮 一九七八年一月号
貝塚をつくる
文 學 界 一九七八年二月号
黄 昏 の 力
群  像 一九七六年十月号
渚 に て
新  潮 一九七三年一月号
ロマネ・コンティ・一九三五年
文 學 界 一九七三年一月号
単行本
「ロマネ・コンティ・一九三五年」は一九七八年五月文藝春秋刊。
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
ロマネ・コンティ・一九三五年
六つの短篇小説
二〇〇一年三月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 開高 健
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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