とある魔術の禁書目録11
鎌池和馬
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【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
|…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま
[#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから〇字下げ]
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
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とある魔術の禁書目録11
「えー、“来場者数ナンバーズ”の結果、あなたの指定数字は一等賞、見事ドンピシャです! 商品は『北イタリア五泊七日のペア旅行』、おめでとうございます!!」
|大覇星祭《だいはせいさい》最終日。“不幸”であることしか自慢できない男・|上条当麻《かみじょうとうま》が、なんと海外旅行のペアチケットを引き当てた。
思いがけずやってきた幸運に、上条とインデックスのテンションは最高潮。そして舞台はアドリア海に浮かぶ『水の都』、ヴェネツィア本島へ! 憧れのイタリアンバカンスには、ドキドキ★ラブイベントもあったりして!?
上条当麻と幸運の女神が交差するとき、物語は始まる――!
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|鎌池和馬《かまちかずま》
今回は海外のお話です。普段、上条がインデックスに学園都市の知識を教えているこの関係が大ぎく変わったら面白いかな、などと考えていたのですが、いかがでしたでしょうか。
イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ
1973年生まれ。フードプロセッサーを買って自炊の効率UP……と思ってたら忙しさのあまり、ロクに便う時間も無いです。最近ファミしス利用率が高いなあ。
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とある魔術の禁書目録11
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c o n t e n t s
   序 章 北イタリアの旅行 Un_Viaggio_in_Italia.
   第一章 キオッジアの街並 Il_Vento_di_Chioggia.
   第二章 ロンドンへの準備 Un_Frammento_di_un_Piano.
   第三章 水の都の船の上で Il_Mare_e_la_Sconfitta.
   第四章 火船と砲火の戦い Lotte_di_Liberazione.
   第五章 アドリア海の女王 La_Regina_del_Mar_Adriatico.
   終 章 学園都市への帰還 L'inizio_Nuovo…….
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序 章 北イタリアの旅行 Un_Viaggio_in_Italia.
|上条当麻《かみじようとうま》は不幸な人間だ。
この|大覇星祭《だいはせいさい》の七日間を振り返ってみるだけでもそれは分かる。|誰《だれ》でも分かる。大覇星祭とは能力者同士がぶつかり合う体育祭のようなものなのだが、|何故《なぜ》か初日から上条は|魔術師《まじゆつし》との戦いに巻き込まれたり、学園都市が制圧されるかされないかの大勝負に出たりと、何だかとんでもない状況に追われている有様だった。
その問題が片付いた後の二日目以降にしたって不幸だった事には変わりはない。うっかり|小萌《こもえ》先生の着替えを|目撃《もくげき》したり、さっさと完全回復した運営委員の|吹寄制理《ふきよせせいり》に硬いおでこで頭突きされたり、インデックスに|噛《か》み付かれたり、|車椅子《くるまいず》に乗っていた|姫神秋沙《ひめがみあいさ》にゴムボールをぶつけられたり、|御坂美琴《みさかみこと》に手を引っ張られて強引にフォークダンスを踊らされている最中に|空間移動《テレポート》で背後に出現した|白井黒子《しらいぐろこ》に後頭部をドロップキックされたりと、何だかもう色々とボロボロなのだった。
たとえどれだけの不幸を|目《ま》の当たりにしても決してへこたれず、むしろ笑顔で|這《は》い上がってくる辺りがこの少年の特殊な体質だったりするのだが、とりあえず『不幸』である事に変わりはない。
もう一度繰り返すが、上条当麻は不幸な人間だ。
スーパーの特売の時間をほんの数分の差で逃したり、コンビニで買った漫画雑誌の真ん中辺りのページがグニョッと曲がっていたりというのは当たり前、スクラッチカードを|擦《こす》れば出てくるのは|全《すべ》てハズレ、アイスの棒やジュースの自販機についてる液晶画面でも当たりが表示されるなど絶対にありえない。
さらに繰り返すが、上条当麻は不幸な人間だ。
「えー、来場者数ナンバーズの結果、あなたの指定数字は一等賞、見事ドンピシャです! 賞品は北イタリア五泊七日のペア旅行、おめでとうございます!!」
何だそりゃ、と平ぇな高校生・上条当麻はガランガラン鳴り|響《ひび》くハンドベルの音を聞きながら、むしろ肩を落とし|呆然《ぼうぜん》とした様子でその声を聞いた。彼の黒くてツンツンした髪が風を受けて間抜けに揺れる。
ここは東京西部を占める学園都市、時期は超巨大規模の体育祭・大覇星祭最終日。どこにでもあるような大通りに面した歩道の一角に彼は立っていて、その目の前にはベニヤ板と角材と|釘《くぎ》で作った、いかにもお手製な屋台がある。店番をしているのは|霧ヶ丘《きりがおか》女学院とかいうお|嬢様《じようさま》学校の女子高生だ。ここは学生主導で行われる『来場者数ナンバーズ』の会場なのである。
やり方は簡単だ。
お金を払って紙でできた専用力ードを買う。それに|大覇星祭《だいはせいさい》の総来場者数を予想して書き込み、受付に渡す。後は実際の記録に近い者から順位が決まる、というものだ。
当然、テレビなどでは『ついに一千万人突破!』とか|大雑把《おおざつば》な情報が出るため、期間後半の方が当てやすい。しかし同数の場合は早く提出した方が優先されるというメリットもある。
|半袖《はんそで》のTシャツに赤いスパッツというスポーツ少女な店番は、屋台のカウンターの下にある物置スペースから設計図でも収まりそうな|馬鹿《ばか》でかい封筒をごそごそ取り出すと、
「本来は学生向けではないんですけど、大覇星祭終了後の振り替え休日期間を利用して参加するプランでして」少女は営業モードのにっこり笑顔で、「旅行に関しての詳しい日程、観光予定、必要書類などは|全《すべ》てこちらにありますので、後で目を通して転いてください。なお質問がある場合は当女学院ではなく旅行代理店の方にお願いします。ささ、どうぞどうぞ」
ずずい、と巨大封筒を向けられたが、この|期《ご》に及んで|上条当麻《かみじようとうま》はこの降って|湧《わ》いた事態に、とんでもない落とし穴がないかと|勘繰《かんぐ》っていた。
上条は両手を組むと、うーんと首を斜めに傾けて、
「あのー、ちょっと聞いても良いですか?」
「旅行に関する詳しいご質問にはお答えできない場合があります。それでもよろしいなら」
「一等賞って、あの一等賞ですよね」
「ご質問の意味が分かりかねますが」
「一番運の良い人が当たるあの賞なんですよねッ!?」
「ええと、もう行っても良いですか」
「いや待った! これは北イタリアの旅なんですよね?」
「これぐらいなら答えられるので答えますけど、書面にそう書いてあると思うのですが」
「気がついたら飛行機が|得体《えたい》の知れない科学宗教の私設空港に向かっていたりとかっていう壮絶展開はありませんよね?」
「……あ、分かった。もしかして海外旅行はこれが初めてですか?」
|呆《あき》れたというより、むしろ何だか優しげな目で見られてしまった。どうも霧ヶ丘お嬢様視点では、上条がまだ見ぬ外国の光景に恐れをなしている困ったちゃんに見えているらしい。
「とにかく二等賞以下の発表がありますので、質問は旅行代理店の方にお願いします」
「あっ、ちょっと! いや|俺《おれ》も分かってるよ、十中八九そんなイレギュラーは起きないって事ぐらい! でもなんかありそうじゃね? 飛行機がいきなりハイジャック犯に乗っ取られたり、目を覚ましたらそこは南極のど真ん中だったりとか! 分かってるよ考えすぎだって事ぐらいでもなんか落とし穴がありそうな気がするけどこれ本当にペアで北イタリアに行けるんだよな!? ねえってば!!」
一等賞なんて取れる方がおかしいのだ。
だからどうせなんか見落としがあるんだ、と|上条《かみじよう》は思っていた。
そしてその見落としがあるせいで旅行になんていけないんだ、と考えていた。
「そうだ、パスポートがないじゃん!」
上条は学生|寮《りよう》の自室で叫んだ。
それを聞いたインデックスが床の上をゴロゴロしながら上条を見た。腰まである長い銀髪に緑の|瞳《ひとみ》をした一四、五歳ぐらいの色白の少女だが、|大覇星祭《だいはせいさい》期間中はずっと炎天下にいたせいか今はちょっと日に焼けている。といっても、彼女は色素の|薄《うす》い白人さんなので肌が小麦色になる事はなく、ほんのりと赤みが差している状態だった。ちなみに服装は紅茶のカップのような白地に|金刺繍《きんししゆう》の修道服に安全ピンがいっぱいという、かなり|得体《えたい》の知れないものだった。
「とうま、とうま。『ぱすぽーと』ってなーに?」
いつもに比べて口調がゆっくりなのは、珍しくインデックスが満腹だからだ。閉会式後のクラスの打ち上げに乱人し、即座に皆に受け人れられたインデックスは、もうそういう職業のプロなんじゃないかと疑うぐらいの大食い早食いを実行してきたのである。
上条はインデックスの方を見ず、封を開けた巨大封筒から色とりどりの書類やらパンフレットやらを取り出しつつ、
「パスポートってのは海外旅行に必要な物。確か申請してから発行されるまで一ヶ月ぐらいかからなかったっけか?」
というか、イギリスから日本にやってきたはずのインデックスが|何故《なぜ》パスポートの存在を知らないのだろう、と上条は少し疑問に思ったが、彼女はそもそも日本国憲法どころか国際法すら通用しない|魔術《まじゆつ》世界の住人である。空飛ぶ|絨毯《じゆうたん》にでも乗って超低空飛行で制空レーダーの|網《あみ》の目でもかいくぐったのかもしれない。|大丈夫《だいじようぶ》か自衛隊の防空性能、などと上条は適当につらつら考えつつ、巨大封筒に人っていた各種資料をガラステーブルの上に広げていった。
どうもツアープランを見る限り集団でのコース旅行の一種らしく、北イタリアの空港で旅行者が集合して、そこから団体行動が始まるらしい。つまり日程が最初からキッカリ決められていた。
現地集合予定日は、九月二七日。
あと二日しかない。
大覇星祭の後には、業者による設備の|撤収《てつしゆう》や警備状態の移行などのため、学生|達《たち》には数日間臨時の休日ができる。おそらくそれに合った旅行プランを無理矢理探してきたため、こんな急な日程になったのだろうが―――この状態でパスポートを申請したところで、万に一つも間に合う訳がなかった。
「……、ほーらな。そうくると思ったんだ。本当に思ってたんだぞ? だから悔しくなんかないやい! 最初っから分かってたんだから、覚悟は決めてたんだからーっ!!」
|上条《かみじよう》は巨大封筒を投げ出し、床の上にバタンと倒れると、ゴロゴロゴロゴロゴロゴローッ!! と超高速で左右に転がり始めた。悔しさを紛らわせるための行為だったのだが、彼の右足のくるぶしが、ゴン! とガラステーブルの脚に思い切り激突した。ぐぬおおっ!! と|格闘家《かくとうか》みたいな悲鳴を出す上条に、近くで丸まっていた|三毛猫《みけねこ》がビクッと|震《ふる》えて逃げるようにベッドに飛び乗り、さらにそこから壁に掛けた服に|爪《つめ》を立てる形でクローぜットの上へと飛び移る。
その時、三毛猫の後ろ足が|蹴飛《けと》ばしたのか、パサパサした|埃《ほこり》の玉と|一緒《いつしよ》にクローゼット上部から何かが仰向けの上条の顔面ヘストレートに落ちてきた。
「うわっ! 猫にまで軽くあしらわれたっ!! っつか何だこれ!?」
上条は自分のおでこの辺りに|直撃《ちよくげき》した物体を見極めるべく右手でそれを|掴《つか》み取る。倒れたまま顔の前に持っていく。ドラマで見る警察手帳をちょっと大きくした程度の、赤い合成革の表紙を持つ小さなノートみたいなものだ。表紙には金文字で『日本国旅券』と|箔押《はくお》しされている。
パスポートだった。
上条|当麻《とうま》は思わず、ガバッ!! と起き上がる。
「な、何で? 何で|俺《おれ》のパスポートがこんな所に!?」
教科書英語がすでに赤点というぐらい海外文化に縁のない上条である。気になって中をペラペラめくってみると、どうも数回サイパンやグアムへ行った過去があるらしい事が押されたスタンプで分かった。もしかしたら家族で旅行にでも出かけたのだろうか?
「とりあえずパスポートは何とかなったが……なんか|不気味《ぶきみ》だ」
この辺り、上条当麻は|記憶喪失《きおくそうしつ》なので詳しい話が分からない。しかもそれをみんなに隠しているため下手な相談もできない。上条はチラリとインデックスの方を見たが、彼女は上条が自分のパスポートの存在に|驚《おどろ》いている事にあんまり興味を示していないらしい。そもそも、パスポートという物品そのものがどんな役割を果たしているのかも分かっていないから、判断のしようがないのだろう、と上条は適当に考える。
「あっ。って事はインデックス、やっぱりお前はパスポート持ってないのか?」
「『ぱすぽーと』って、とうまの持ってるそれ? だったら私は持ってないかも」
「じゃあ結局旅行は無理じゃん。お前、一人でここに残ったら三日で動かなくなりそうだし」
「む、何なのかなその言い草は。でも、持ってないものは持ってないよ」
「……ってか、インデックスさん。さっきからやたら冷静なのですが、イタリアですよ? 海外旅行なんですよ!? 意地でも行きたくなるのが普通の反応ではないのか!!」
「とうま、とうま」
インデックスは何を今さら、という目でこちらを見た後に、
「そもそも私にとっては学園都市だって外国だよ?」
「ううっ!? さりげなく歩み寄りすら拒絶された!!」|上条《かみじよう》は|愕然《がくぜん》とした顔で白い少女を見て、「……、あれ? って事は、お前にとっては毎日が|俺《おれ》と二人で海外生活みたいなモンなの?」
ガタガタン!! とインデックスが寝転んだまま唐突に床に頭を打ち付けた。
彼女は勢い良く顔を上げると、
「な、なな何を唐突に意味深な事を言ってるの、とうま!? わ、私は|敬慶《けいけん》なるシスターさんであってそんな誤解を招くようなコメントされても困るかも!!」
「え、だって」
「と、とにかく、とうまが持ってるみたいな『ぱすぽーと』なんて持ってないの! 似たようなのならあるけど」
「似たようなもの?」
「うん。こんなの」
言いながら、修道服の|袖《そで》をゴソゴソ|漁《あさ》って出てきたのは英国式パスポートだった。上条はデザインがちょっと違う海外のパスポートに感心する。
「ま、まぁそうだよな。いくら『|必要悪の教会《ネセサリウス》』だって、旅行に行く時には飛行機ぐらい使うもんな! 良かった良かった、お前が実はラクダを現地調達してシルクロードを渡ってきたんじゃないかと上条さんはほんのり|得体《えたい》の知れない想像を働かせていました!」
「……さっきから、そこはかとなく|馬鹿《ばか》にされてるような気がするんだけど。でもとうま、その『ぱすぼ?と』ってどうやって使うの?」
「ち、ちょっと待てインデックス。お前のパスポートを見せ―――って何だこりゃ!? 何でお前のは中身が全部新品なんだ!? 最低でもイギリスから出てくる時にスタンプが一個ぐらいつくもんだろ!!」
しかも名義はそのまんまIndex=Librorum=Prohibitorumだった。
恐るべし国家宗教、と|戦懐《せんりつ》する上条をよそに、少女はつまらなそうなあくびと共に、
「とうま、とうま。これにはそんな自動書記効果なんて付随している訳がないかも」
「コイツ、せっかく『|必要悪の教会《ネセサリウス》』に発行してもらっただろうパスポートを全無視か? やっぱりお前シルクロード経由でやってきたんじゃねーのか!!」
「とうま。さっきから意味不明に盛り上がっているみたいだけど。結局それがあれば、私もとうまと|一緒《いつしよ》に旅行に出かけても……|大丈夫《だいじようぶ》、なの?」
インデックスは多少そわそわした調子でそんな事を尋ねてきた。
……、あれ? と上条はそこで目を点にする。
今の所、大丈夫な気がする。
このまま北イタリア五泊七日の旅に出かけられそうな気がする。
上条|当麻《とうま》は不幸な人間のはずなのに。
こういった事から世界で一番縁がなかったはずなのに。
そんなこんなで翌日の朝。
|上条《かみじよう》とインデックスは体内に旅行用の|発信機《ナノデバイス》を入れると、学園都市の第二三学区―――一学区|全《すべ》てが航空・宇宙開発のために用意された特別学区に到着した。彼らが今いるのは、学会などの際に学園都市の外からやってくる客のために作られた国際空港だ。
いっそ|無駄《むだ》だと感じるぐらい広々とした空港ロビーは、壁が全面ガラス張りになっており滑走路側から入る日差しでピカピカに|輝《かがや》いている。|大覇星祭《だいはせいさい》期間中はそれこそラッシュアワーのように混雑していたとニュースでささやかれたロビーだが、今はその帰宅のためにそこそこの人だかりができている程度だ。もっとも、これを効率良く帰すために休日期間を数日用意しているらしいのだが。|騒《さわ》がしい|雑踏《ざつとう》と化したロビーに、上条がガラゴロと引きずり回しているスーツケースの車輪の音が吸い込まれていく。
上条の格好はいつも通りの|半袖《はんそで》Tシャツにカーキ色のズボンだったが、む財布用のチェーンがポケットからズボンのベルトに伸びていたり、ふくらはぎにバンドを巻いてズボンの内側に予備お財布を隠していたりと、話にだけは聞いているそこはかとない海外への不安が思いっきり現れていた。しかも|半端《はんぱ》に細いチェーンはお財布の場所を他人に示しているだけで今にも簡単に切れそうだったし、ふくらはぎの予備お財布に関してはズボンの|裾《すそ》を上げるにしても取り出しにくい位置のくせに歩いているとすっぽ抜けそうだった。一方で、お財布をこれだけ警戒しているのにパスポートはズボンの反対側のポケットへ無造作に突っ込んでいる辺り、いかにも海外旅行に慣れていない感じが|滲《にじ》み出ていた。
ちなみにスーツケースは上条の手にある一。つだけで、インデックスは手ぶらだった。下着や|寝間着《ねまき》は数種類持っているものの、基本的に修道服一着しか私服のない彼女の荷物は全部上条のスーツケースに収まってしまったのだ。なお、出発前にインデックスは顔を赤くして『これも荷物に人れて』と小さな|籐《とサつ》のケースを差し出してきた。中身は何だろうと思ったが口に出すと物理的に|噛《か》み付かれそうなのでそっとしておく上条|当麻《とうま》である。
あと荷物と言えば、彼女はいつも両手で|三毛猫《みけねこ》を抱えているが、あの猫は現在|小萌《こもえ》先生のアパートに貸し出し中である。彼女は『か、上条ちゃんが海外旅行? 本当に|大丈夫《だいじようぶ》なのですか!? いえその、イロイロな意味で!! 外国に先生はいないのですよ!?』などと失礼な事を言っていたが余計なお世話である。
上条はロビーから、その奥にある出人国管理ゲートを眺めつつ、
「あれ? ……、忘れ物とかってねーよな。お財布あり、パスポートあり、飛行機のチケットあり、旅行に必要な書類あり、着替えあり、ドライヤーあり、携帯電話あり、いざという時のお金も銀行から下ろしてきたし……うん。大丈夫、だよな? ここから『不幸だー』に|繋《つな》がるド忘れ展開はないはず」
「とうま、とうま。さっきから何をそんなに心配性になってるの?」
そわそわしながら尋ねてくるインデックスは胸の内の楽しさがそのまま表に|漏《も》れ出ているようだ。彼女の様子を眺めている内に、弦鷲脚自分のモヤモヤが即膨即庸しく思えてきた。
「……そうだよ、な。ああ、楽しんでも良いんだよな! いつも不幸だ不幸だ言ってるから調子がおかしくなってたけど、|俺《おれ》だってたまには幸福であっても良いはずなんだッ! こんな有意義なお休みなんて滅多にないんだ! よおし、北イタリア五泊七日の旅、久しぶりの久しぶりに幸せ気分を満喫するぞお!!」
ここにきてようやく上条は吹っ切れた|清々《すがすが》しい笑みを浮かべる。それを見たインデックスもにっこりと|微笑《ほほえ》んで、
「その調子だよ、とうま。うん、前向きな気持ちでコミュニケーションを取れば多少言葉が分からなくても意思は通じるかも」
「だああ!! 外国語!? それを忘れてた!!」
いきなりとどめを刺された上条は思わずその場に突っ伏してしまいそうになる。|何分《なにぶん》、彼は英語の小テストが二二点という一人|鎖国《さこく》制度実施中。そういった身の上を思い出した上条は、恐る恐るインデックスに尋ねてみる。
「あの、インデックスさん」
「なに、とうま?」
「あなた様はイタリア語が話せるのでございましょうか?」
「話せるけど。とうま、オルソラみたいな口調になってるんだけど、どうしたの」
「イタリア語というのは、イタリアで使われているあのイタリア語の事でしょうか?」
「とうま、何を唐突に当たり前すぎる事を言っているの? 伊文法で不安な所があるなら教えてあげても良いけど」
「……、ではお手数ですが、まずはイタリア語の『はい』と『いいえ』から」
「とうま、とうま。失礼を承知で言うけどイタリアまで何しに行くつもりなの?」
だって分かんねえモンは分かんねえんだよ! と今度こそ完全に空港ロビーの床に突っ伏す上条を見て、インデックスはいかにもガッカリといった感じのため息をつく。
「あのね、とうま。今時の国際社会できちんと生きていくなら、せめて三ヶ国語ぐらいは使えるようにしておいた方が良いかも」
「こんな不思議シスターに今時とかせめてとか言われたッ!! でもとりあえず向こうに着いたらとにかくお前に|頼《たよ》りまくる事をここに誓っておく! |何故《なぜ》なら『はい』と『いいえ』がすでに分かんないから!!」
「まぁ、別に通訳になっても良いんだけどね。でもとうま、良い機会なんだしどうせなら現地で直接言葉を覚えちゃった方が早いんじゃ……」
「それは物覚えの良い人の理論だっ! |俺《おれ》みたいなのが付け焼き刃で挑戦しても絶対とんでもない事になるに決まってんだ!!」
「また|大袈裟《おおげさ》な……」
「その|呆《あき》れ顔も常識的に複数の外国語が使える人間が初めて得られるものなんです! ってかインデックスは何気なく日本語もペラペラだしな。ならイタリア語もそんな感じなのか……」
「一応、私はこれでも世界中に散らばる一〇万三〇〇〇冊を読めなくちゃいけない身なんだよ? イタリア語なんて簡単簡単。難しいのは体系化されてない語圏ぐらいかも。歌みたいな感覚で記述されてるのが一番|手強《てごわ》いかな。あの手のヤツは、実際のリズムや音階が削られたまま|半端《はんぱ》な詞だけが石板に記されちゃう場合が多いから、歌い方を別に学ばなくちゃいけないし。でもそういうのは一部の島国や密林の文化圏特有のものだからね」
「……何だか話はサッパリなのですが、ようは|頼《たよ》りにしてもオッケーなのですか?」
「うん。いつもはとうまに引っ張ってもらってるけど、今度は私が引っ張ってあげる番なんだから。こっちがいくらでもフォローするから、とうまはトラブルを恐れずに好きなように楽しめば良いんだよ」
そう言って堂々と|薄《うす》い胸を張ったシスター様は、|上条当麻《かみじようとうま》視点では光り|輝《かがや》く聖女様のように見えた。救いってのは本当にあったんだ、あのインデックスがここまで断言しているからにはもう|大丈夫《だいじようぶ》だ、ようし思い切り楽しむぞ北イタリア五泊七日の旅! とばかりに上条はスーツケースの車輪を勢い良く転がして出人国管理グートに向かう。
「それではよろしくお願いしますガイド様!!」
「任せておいてよ。とうま、向こうのお店では|人《はい》ったら最初に店員さんに|挨拶《あいさつ》するんだよ」
「ガイド様。向こうから話しかけてくるんじゃないのですか」
「どっちかと言うと『客と店員が|一緒《いつしよ》になって品物を探す』って感じだからね。垣根は低いんだよ。ふふん、これぐらいは知っておかないと海外では生活できな―――」
ビーッ! と。
その時、ゲートの金属探知機が変な音を立てて、インデックスがいきなり両サイドから屈強な係員|達《たち》に取り押さえられた。
む? とインデックスは|怪誹《けげん》そうに|眉《まゆ》をひそめる。
ガイド様に向かって何しやがる、という目つきだ。
「えっと……何ですか。その体中についている無数の安全ピンは?」
一方、不審者を拘束した彼らはこめかみを|震《ふる》わせ、とても低い声で尋ねてきた。
「わあっ! 言われてみれば見るからに凶器満載!! でも違うんです、これ取っちゃうと修道服はボロボロのバラバラになってしまうのです!!」
国を出る前からすでにインデックスのトラブルに対するフォローに人っている|上条当麻《かみじようとうま》。
一方、インデックスの方は|何故《なぜ》安全ピンが|駄目《だめ》なのか、そもそもゲートから変な音が出たのは何なのかすら理解していない。
やっぱりコイツにフォローをお願いするのは不安っぽくねーか? と上条は背筋に寒いものを感じながら、係員にお伺いを立ててみる。
「いやこの服がヤバイのは分かります! でもそれならどうしましょう? 飛行機が出るまでもう一二〇分ない訳ですが……」
「そうですね……。一応、当空港内にショッピングモールがあるので、そちらでまっとうな衣類を購人していただくしか」
どこモールどこどこ!? と上条はゲート近くの壁に|貼《は》り付けてあった案内パネルへ目を走らせる。すると、
『お買い物エリア―――ここから一・五キロ』
「遠ォい!! 第二三学区の空港って絶対|敷地《しきち》を|無駄遣《むだづか》いしてる気がする!でもそれ以外には飛行機を|逃《のが》すかラクダでシルクロードを行くしかないっ! くそ、走るぞインデックス! もっとまともな服じゃねえと飛行機乗れねえってよ!!」
「え、何とうま。……もしかしてお洋服買ってくれるの!?」
「ちくしょう、そのキラキラと|輝《かがや》いた両目が果てしなくムカつく! こんな所で無駄出費なんて、やっぱり今回も不幸な事になりそうだーっ!!」
嘆きながらも少女の手を取って上条はバタバタと空港の長い長い連絡通路を走る。
|離陸《りりく》まであと二八分。
そろそろ旅客機のエンジンも良い感じに温まってきている|頃合《ころあい》だった。
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第一章 キオッジアの街並 Il_Vento_di_Chioggia.
北イタリア、特にヴェネツィア玄関口と言えばマルコポーロ国際空港が有名だ。
アドリア海に浮かび『水の都』と呼ばれるヴェネツィアからは対岸に当たるイタリア本土沿岸にある空港で、用途も観光客の輸送が大半だ。ここからバスや鉄道を使って唯「の陸路である全長四キロ前後のりベルタ橋を通り本島に入るか、後は対岸からボートを使った海路で入るかで観光客の流れが大きく分けられる。
ヴェネツィア本島以外にも、ヴィツェンチア、パドヴァ、バッサーノ・デル・グラッパ、ベッルーノなどの観光街へのルートもある。とにかく海外から北東イタリアへ観光客が降り立つならまずはこの空港であり、|上条《かみじよう》とインデックスを乗せた旅客機もここに着陸した。本来、この空港は日本からの直通便は受け付けていないが、学園都市は例外らしい。
出人国管理ゲートの外国人係員からの質問をアドリブイタリア語で乗り切ったり、ベルトコンベアの前でじーっと待っていてもなかなかやって来ないスーツケースに冷や汗をかいたりと様々なドラマが展開されたが、それでも一応空港から外へ出る事に成功した。
ちなみに現在のインデックスは学園都市の空港で買った簡素なブラウスとスカートから、再び元の白い修道服に戻っていた。機内では安全ピンを持ち込めないため分解されていた布切れを、マルコポーロ国際空港に着くなり安全ピンを現地調達して再び組み直したのだ。イタリアまで来て一番初めに女の子からおねだりされるのが数十本の安全ピンというのは一人の青少年としてどうなのだろうか、と上条は少々真剣に悩む。
とはいえ、無事に空港を出て、外国の地を|踏《ふ》んだのは事実。
後は別便で来るコース旅行のメンバーと落ち合って、現地ガイドに引っ張ってもらう形でツアー開始である。北イタリアの目玉と言えば、もちろん世界遺産にも指定されているヴェネツィア本島だろうが、それ以外にも見所はたくさんある。実は夜も眠れずにパンフレットに目を通しまくったから上条でも何となく分かる。
(ヴェネツィアと言えばサン・マルコ広場にドゥカーレ宮殿に|鐘楼《しようろう》にアカデミア橋に自然史博物館に海洋歴史博物館に世界一のフェニーチェ歌劇場! お|土産《みやげ》にはガラス細工に仮面工芸ーヴェネツィアから|離《はな》れてもガリレオが|教鞭《きようぺん》を取った街とか見所満載! 全部ガイドブックの受け売りだけどな! でもこれから全部本当の経験と思い出になるんだ!わははははーっ!! すげー、すげー旅行楽しみ!!)
とか色々と思っていたのだが。
「来ないねー………とうま」
「ああ、っつーかガイドどころか|誰《だれ》一人として集まってねーぞ……」
集合時間からもう二時聞も経過している。
行きたい場所は色々あってもガイドによって観光できる所に偏りがあるとは聞いていたが、まさか一番最初の時点でコケるとは。
彼らが今いるのは、空港の前にあるバスターミナルだ。と言っても、ほとんど屋内のようなもので、空港の一部となっている|天井《てんじよう》と柱が整然と並んでいるこの一角は、太陽光ではなく天井の四角い蛍光灯に照らされている。地面から天井から|全《すべ》てが平面で構成されており、少しも『外』という感じはしなかった。どちらかと言うと、光の取り込み方を工夫した立体駐車場のように見える。
先ほどから目の前を素通りしていくバスには車体がブルーやオレンジなど何パターンかに色分けされていて、どうも運行ルートか制度に違いがあるらしい、と|上条《かみじよう》は何となく|掴《つか》んでいた。
とはいえ、|流石《さすが》に運行表を軽々と読めるほどではないが。
(なるほど。オルソラがバスの乗り方で迷ってたのって、こんな感覚だったのか……)
上条は少々スローテンポな元ローマ正教のシスターの笑顔を思い出しつつ妙に納得した。一方、インデックスは暑さにやられたのか、早くもぐったりし始めている。
ヨーロッパは平均的な緯度で言えば北海道と同程度であり、日本よりも湿度が低い事から快適に過ごせる……とかいう話がガイドブックにあったのだが、どうも例外は付き物らしい。
空港のすぐ|脇《わき》はアドリア海だ。そちらから潮の|匂《にお》いを含んだ温かい風が流れ込み、それがひっきりなしに行き来するバスの排気と混ざって渦を巻いている。気温そのものは快適かもしれないが、顔や体にぶつかってくる局地的な風がとにかく生暖かい。長時間いると、波で岩が削られるように心が参りそうだ。周囲を行き来する西欧系の観光客やビジネスマンらしき人々も、空を見上げてはハンカチで顔の汗を|拭《ぬぐ》ったりしている。
「とうまー、もしかして私|達《たち》は置いてきぼりを食らってるの?」
「くっそー、時間通りに来たんだけどな……。ったく、電話の方も|繋《つな》がらねえし、こりゃ|俺《おれ》達だけでひとまず動くしかねえかもな」
学園都市製だからか電話会社の努力の成果か、|上条《かみじよう》の携帯電話そのものはイタリアでも使えるようだ。が、事前に教えられた番号にかけても日本語の録音アナウンスしか返ってこなかった。向こうが出ないのだ。
メンバーは集まらない、ガイドも来ないとなっては話にならないと上条は思ラ。しかし、話にならないからと言ってこのまま飛行機に逆戻りするのではギャグにもならない。一応、旅行の日程やホテルの部屋などは確保してあるので、
「こっちには海外に強そうなシスターが一人いるから|大丈夫《だいじようぶ》か。とにかく突っ立ってても仕方ないし、荷物だけでもホテルに置きに行くか。泊まるトコは同じなんだから、そっちでガイドと合流できるかもしれないし」
「あ、あうう……。とうま、まだ休めないの? 私はここに来て五歩で、もうクタクタかも」
「心配するな、俺も八歩でグダグダだ。でも、とにかくホテルまで行けばベッドもエアコンもあるだろうし、ちょっと体を休ませたら勝手に観光しちまおうぜ」
「うう。それぐらいじゃ気分は晴れないんだよ。私はイタリア名物のジェラートがないと復活できないかも。食べた事ないけど名前が広まっているからきっと|美味《おい》しいはず」
「そんなもんかね。ま、観光なら有名どころを攻めるのは基本か」
「うん。ちなみにヴェネツィア名物はイカスミジェラート」
「……一つ聞くけど、本当に有名か?」
微妙にキワモノ臭を感じるリクエストを受けつつ、上条は柱に取り付けられた、四角い看板状の運行表に目をやった。差し当たって、最初の関門はどのバスに乗るかだ。
「―――、悩んでも仕方なし、自力で読むのはスッパリ|諦《あきら》めまして……インデックス! 悪いけどホテルまで行くにはどのバスに乗れば良いか読んでくんない?」
「え、うん。良いけど―――」
柱の看板へとトテトテ近づいていくインデックスを見て、本当にコイツと。一緒で良かったと上条はそっと息を吐いた。正直、英語なら多少の取っ掛かりはあるものの、イタリア語では理解の接点がない。もしも一人きりで放り出されていたらどうなってた事か、などと|上条《かみじよう》が|日頃《ひごろ》忘れがちなシスターさんへの感謝の気持ちを新たにしていた所で彼女は=言、
「―――でもとうま。バスの運行表ってどうやって読めば良いの?」
「ぎゃああっ!! |乙女《おとめ》チックに小首を|傾《かし》げられたっ!!」
結局。
逃げ腰の二人がバスに乗ったのは、それから一五分も|経《た》ってからだった。
北イタリア五泊七日の旅の目玉はヴェネツィア本島だ。
が、上条|達《たち》の泊まるホテルはそこから直線|距離《きより》で二〇キロほど南下した所にある(実際は弧を描く海岸線を行くのでそれ以上)、キオッジアという小さな街にある。
これは宿泊費をケチっているのではなく、ヴェネツィアは全体的にお店の閉まる時間が早く、ナイトレジャーに乏しいかららしい。二四時間遊び尽くすなら、|敢《あ》えてヴェネツィアから少し|離《はな》れた所にホテルを取る方法は珍しくない、というのがパンフレットの説明だった。……高校生の上条からすると、あんまり縁のない情報のような気もするが。
「しっかし、また海が近いなぁー」
上条はバスから降りるなり思わず|呟《つぶや》いた。スーツケースをゴロゴロ引っ張る手が早くも重くなってきている。
空港も海の|側《そば》だったが、キオッジアも全体的に潮風の|匂《にお》いの強い街だ。
しかし、砂浜はない。海岸線は|全《すべ》て石造りの運河となっていた。まるでノコギリで陸地を切断したように直線的な海水の川が続いている。
と、彼の|隣《となり》に立っているインデックスが、
「海が近いというより、海に囲まれているっていうのが正しいかも」
「どういう事?」
上条は行き交う人々の中で立ち止まって、インデックスに尋ねた。スーツケースを持っているのは彼だけなので、周りにいるのは近辺から仕事や遊びに来た人達だろうか。
「私達が今いるキオッジアの中心部は、三つの運河に分断されたアドリア海に浮かぶ島街なんだよ。横切るだけならわずか四〇〇メートルしかない小さな街。どうあっても土地は大きくならないから、その分ぎっしり建物が並んでいるの。パッと見回せば分かると思うけど、家と家の|隙間《すきま》なんてすごく狭いんだよ」
ふうん、と上条は改めて周囲を見回す。
彼の目の前に、|件《くだん》の運河がある。青の中にわずかな緑の混ざった海水が、定規で線を引いたように街を分断していた。幅は二、三〇メートルといった所だ。その両岸に沿って平行に二本の道路が走っていたが、その途中でいきなり家に|塞《ふさ》がれていた。ベージュや白の平べったい家の壁々は、まるでそれ自体が堤防であるかのように運河のギリギリまでせり出している。一軒一軒の間隔も極めて狭く、サッカーボールも通らないように見えた。どうやって掃除するんだろう、と|上条《かみじよう》は首をひねる。
と、そんな上条の視界を横切るように、運河を小型のモーターボートが流れていく。
運河の両岸には、|隙間《すきま》もないほど大量のボートが接岸してあった。運河の幅の半分ほどが占拠されてしまっている。つまりそれぐらいの数が生活に必要で、交通の基盤そのものに海が組み込まれているのだ。ボートはレジャー用のように|磨《みが》かれておらず、どれも使い古した色合いのものが多い。ちょっと|覗《のぞ》いてみると、ポロ布やバケツなどが無造作に放り込んであるのが分かる。
そういったものに慣れていない上条は、素直に面倒臭そうだ、と|呟《つぶや》いた。
「実際、面倒臭いはずだよ」
|呆《あき》れられると思いきや、インデックスはあっさりと賛同した。
「たくさんの運河で分断されてるって事は、歩いて進むなら橋のある所まで|迂回《うかい》しなくちゃいけないんだから。船を使ったら使ったで、今度は運河に沿ってしか進めない。はっきり言えば、全部道路になってる方が楽ちんなのは当たり前だよ」彼女は苦笑いして、「この辺はヴェネツィアと似ているかもね。キオッジアは一六世紀以降に観光地化する以前の、ヴェネツィア本来の風景を今も残している街、って言われているぐらいだから。つまり、欠点もそのまま残しちゃってるって訳」
「……、」
すらすらと出てくる言葉に、上条は思わずちょっと|黙《だま》り込む。
と、そんな彼の様子にインデックスは|眉《まゆ》をひそめて、
「どうしたの、とうま?」
「インデックスが……インデックスが、|魔術《まじゆつ》以外の側面で人の役に立つなんて……」
「とうまにそこはかとなく馬鹿にされた! 何で親切に説明してあげただけでこんな悔しい想いをしなくちゃいけないの!? とうまがそういうつもりなら、私だって|容赦《ようしや》なくガブッといくかも!!」
「いくかもじゃねえよ!! 大体だな! 容赦なくって宣言するというのはこれまでとどっか違うのか―――っていいよ試すな分かるって試さなくても痛いのは想像つくってぇ!!」
上と下の歯をカッチンカッチン鳴らすインデックスに上条は思わず後ろに下がる。いざとなったらスーツケースを盾にするつもりだが、しかしこの程度の防御力ではやすやすと|噛《か》み破られるのでは、と少々真剣に身の危険を感じてしまう。
しかしビクビク|震《ふる》えている上条の予測に反して、意外にもインデックスは飛び掛かってくる事なく、肩の力を抜いてため息をついた。
「ま、楽しむために旅行に来たんだから、あんまりカリカリしても仕方がないのかも。ほらとうま、旅行カバンの陰に|屈《かが》んでいないで出ておいで」
「……殊勝な|台詞《せりふ》カウンターで、出て行った|瞬間《しゆんかん》にアギトが|襲《おそ》ってきたりはしませんか?」
「しないよ」
「という二重カウンターで、ホッとした所を|襲撃《しゅうげき》する|魂胆《こんたん》ではありませぬか?」
「しないしない」
「え、最後の確認なんですけど……マジで?」
「だからしないってば」
「ラっそだあ! お前絶対怒ってるし! 男の子より成長早めな大人びた少女の演技で人を|騙《だま》そうったって|上条《かみじよう》さんはそう簡単に引っかかりませんの事よ!!はっはっは、|臼頃《ひごろ》から不幸な|俺《おれ》がそんな期待を抱くとでも思ったか! どうせいつも通り最後には思い切りガブッとやられるに決まってんだ! 警戒せよ、|檸猛《どうもう》シスターインデックスはこうしている今も|虎視眈《こしたんたん》々と俺の頭頂部を|狙《ねら》ってるに違いないのだから!!」
「……、」
「ほうら怒ってますよー? だんだん|胡散臭《うさんくさ》い演技が崩れ始めてますよー……って、あれ。お前、もしかして、本気で怒って、ます? ぎゃああ! 心優しいシスターさんのお口が音もなく左右に裂けて!? くそう、やっぱりこうなると思ってたんだ! 俺の言った通りじゃねえか!! ちっとも|嬉《うれ》しくないけどォええァあああああああああ―――ッ!!」
お肉を|噛《か》む音が|響《ひび》いた。
同時に、インデックスを|無駄《むだ》に怒らせた少年の|断末魔《だんまつま》の叫びが放たれた。
北イタリアに着いて、最初におねだりされたのは安全ピン。
キオッジアに着いて、最初に作った思い出は頭に噛み付き。
「……、一言で言うそ。どうなってやがる」
「とうま、血の涙でも流しそうな顔で何言っているの?」
キョトンとした顔のインデックスは、先ほどに比べればイライラが|緩和《かんわ》されているように見える。
ここはホテルに向かう道すがらの、ちょっとした通りだった。実際に少し歩いてみて分かったのだが、どうもこの街、極端に道が細いか太いか、ほとんど二択に近い状態となっている。車が行き交うのも難しそうな小道を出たと思ったら、今度。は道幅だけで広場のようになっている大通りが待っている。
上条とインデックスが今歩いているのは大きな通りの方だ。三車線ぐらいありそうな道幅だが、道路に白線はない。車道と歩道の区別もなく、道いっぱいに人が歩いていた。どちらかと言うと歩行者天国に近いのかもしれない。当然いつも学園都市で見る東洋系の人はほとんどおらず、映画で見る西洋系の人|達《たち》ばかりだ。
道の左右には赤茶や黄色い建物が並んでいた。三階から五階ぐらいの高さの建物は喫茶店や料理店らしく、お店の二階部分から張られたテント状の|陽射《ひざ》し|除《よ》けが、建物の幅そのまま伸びて、オープンカフェのスペースを|完壁《かんぺき》に|覆《おお》っていた。通りに面したお店が|全《すべ》てパラソルなり陽射し除けなりを使っているため、通りの両サイドは布でできたアーケードかトンネルのようになっている。
ここは飲食店が集中する一角だ。
インデックスの機嫌が直りつつある理由は単純で、つまり自分の周りに食べ物がいっぱいあるからだった。単純と言えばそれ以外に表現のしようがない感じの少女の反応に、|上条《かみじよう》はため息をついて、
「食べるのはホテルに荷物を置いてからな」
「くっ、|釘《くぎ》を刺さなくても分かってるかもッ!!」
慌てたように顔を赤くしたインデックスは叫んだが、本当に分かっていたかどうか上条には判断できない。何しろ言っている|側《そば》から視線があちこちの店先に向いているのだから。
「はぁー。あのさ、食べ物も良いんだけど、こっちに来なくちゃ見れない所の事を考えようぜ。ほら具体的にはこの何だっけナントカ寺院とか行きてえんだよ! パンフレット見てみ、全然さっぱり由来は分からないけどとにかく格好良いじゃんこれ!」
「とうま。それは聖マルコ寺院って言って、ヴェネツィアの守護者、聖マルコの|遺骸《いがい》を保管するために建てられた水の都の|魔術的《まじゆつてき》中心核だよ」
「そんな|鬱陶《うつとう》しい説明なんてどうでも良くなるぐらい行ってみてえんだっつの!!」
「ううっ!? とうまに人の親切を|弾《はじ》かれた!?」
「ホテルのチェックイン済ませたらガイドの|馬鹿《ばか》をとっ捕まえてヴェネツィア行くそヴェネツィア! ゴンドラばんざーい!!」
「聞いてよとうま! 私だって食べ物の事ばっかりなんて考えてないんだから!! ……うわあ|駄目《だめ》だ、とうまってば実はイタリアの空気に浮かれて人の話を聞いていないかも!?」
両腕をぶんぶん振り回して語るインデックスだったが、上条は取り合わない。こちとらイタリアと言ったらピザとサッカーど|戦闘《せんとう》シスターぐらいしか思いつかない日本産高校生。いきなり映画みたいな街にポンとやって来れば|興奮《こうふん》するというものだ。
「Quanto costa?」
だの、
「Posso fare lo sconto del 10%」
とかいう意味の分からないイタリア語の呼びかけっぽいワイワイガヤガヤに包まれているだけで遠足気分が爆発しそうになる。
「Desidera?」
「うわっ! あ、あれはまさか本場のイカスミジエラートかも……?」
「Sto solo guardando.Grazie」
おや、今なんか日本語混じってなかったか? と|上条《かみじよう》は首をひねったが、まぁ空耳かなと思い直す。スーツケースを、ゴロゴロ引きずって先頭を歩く上条は、ふと後ろに振り返って、
「そうだインデックス。お昼食べてからなんだけどさ―――」
言いかけた言葉が止まる。
上条|当麻《とうま》はイタリアまで来て『絶句』という日本語を思い出す。
理由は簡単。
三秒前までそこにいたはずのインデックスがどこにもいなかったからだ。
「早速イタリア式迷子!? さっきの空耳ジェラートはインデックスだったのか!」
ギョッとした上条は周囲を見回したが、あれだけ派手な修道服の少女がどこにもいない。
「くそ。人混みのせいか、小道に人ったせいか、どこにいるか食欲シスターの行方が全く|掴《つか》めない! ちくしょう、やっぱりお前の頭の中は食べ物だけじゃねえか!!」
嘆く上条に答える声はなく、どこを見回してもインデックスの姿は|完壁《かんぺき》に見つからない。一応お財布を持っているのは上条なので、彼女が一人でどこかに行ってもできる事は限られている。だから追わなくても自然と帰ってくるはずなのだが……|何故《なぜ》だか上条は今すぐインデックスの首根っこを欄まないと、さらなるトラブルが舞い込むような気がしてならない。
「おーいインデックス!」
上条は始めに周囲を見回し、それから大通りから外れた小道へと恐る恐る入る。あちこちに目を走らせながら歩いていくと、今度は自分の現在位置が分からなくなった。慌てて小道の奥へと走って行ったら、奥へ進んでいたと思っていたのに先ほどの大通りに戻っていた。
訳が分からない内に、時間だけが経過している。
「うわ、|俺《おれ》の方が迷子になりそう……ッ!?」
やや冷や汗が出てきた上条は、そこで一度立ち止まった。
(た、|頼《たの》みの|綱《つな》は携帯電話か!)
が。
いつもと言えばいつも通り、インデックスの〇円携帯電話は電源が切りっ放しだった(おそらく飛行機に乗る前に、上条が彼女の携帯電話の電源を切ってそのままなのだ)。規則的な合成音声(イタリア語ではなく、やはり日本語だった)の案内に、上条は通話を切ると携帯電話をポケットに仕舞うのも忘れて、掴みっ放しのままスーツケースに向かって|比喩《ひゆ》抜きで崩れ落ちた。
上条|当麻《とうま》は、今の心境を一言で語る。
「どうすんだよォォおッ!!」
叫びに周りを歩く人々が振り返ったが、|上条《かみじよう》にはそれを確認するだけの余裕もない。すると、スーツケースの上におでこを押し付けるように崩れている彼の元へ、地元の人らしいおばさんが近づいてきた。
彼女は力仕事でもしているような、どこか豪快さを感じさせる笑みを浮かべつつ、
「Ci sono delle preoccupazioni?」
「は?」
何か悩み事でも? と言われているだけなのだが、上条に分かるはずもない。一方、おばさんの方は特に気を悪くするでもなく、今度はゆっくりと、単語を一つずつ区切るような発音で、
「Non puoi parlare I'itliano? La ce un ristorante dove un giapponese fa ilcapo」
イタリア語はできないの? それなら日本人が店長を務める日本料理店があっちにあるわよ、と|懇切丁寧《こんせつていねい》に教えていただいているのだが、上条にはもはや理解の取っ掛かりがない。ただ、声の調子や顔の表情から何となく友好的である事だけは感じるので、
(い、イタリア語は分かんないけど、このチャンスを逃したら本当に天涯孤独になる気がする! よし、このおばさんに日本語……は|駄目《だめ》かもしんないけど、せめて英語で話してもらおう。でも、そもそも『英語でしゃべって』っていうイタリア語の注文がすでに想像もつかない! それが分かればイタリア語で悩む事もねえんだよ!!)
壮絶なジレンマに|囚《レ ら》われる上条。実は相手が英語の通じる相手なら、片言の単語を並べてプリーズイングリッシュと言うだけでも何とかなりそうなものだが、やっぱり外国語に慣れていない上条はその辺の回り道に頭が追い着いていない。上条はついに|知恵熱《ちえねつ》を出して頭の中をぐるぐるさせ始めたが、
「Senta」
そんな彼の元へ、不意に横合いから女性の声がかかった。
「Lui e un mio amico>la ringrazia per la Sua gentilezza」
スラスラと流れてくるような言葉に、おばさんは『おや』という感じで顔を上げ、
「Prego」
気楽な調子で言うと、上条からあっさり背を向けて人混みに消えてしまった。
一方、置いてきぼりの彼としては何が起きたか理解できないので、
「だあ! おばさんから唐突に|諦《あきら》められた? おのれ、本来ならここから心の交友を果たした|俺《おれ》とおばさんがインデックスと再会するために汗と涙の二時間ドラマを展開する予定だったのに!! っつーかいきなり割り込んできたのは|誰《だれ》だ? もう日本語で良い、たとえ言葉が通じなくてもツッコんでやる!!」
思わず叫んだ。
この広い世界では、どうせこんな叫びだって|誰《だれ》も聞き取れないんだ、と|上条《かみじよう》は半分以上いじけ虫思考に頭を乗っ取られそうになっていたが、
「あら。それは申し訳ない事をしてしまいました。私はてっきりあなた様が言語の事で困っていらっしやるように見えたのでございますから」
ふと、聞き慣れた言葉が耳に入った。
日本語という部分もあったが、それ以上に女性の声そのものに聞き覚えがある。
「お前……」
上条は振り返る。
学園都市から時差八時間、遠いキオッジアの地で再会したのは、
「ちなみに先ほどは、彼は私の友人です、ご親切に感謝いたします、と言ったのでございますが……友人などとは、少々厚かましかったかもしれないのでございますね」
「オルソラ! 何でここに!?」
上条が叫ぶと、こんな時にも真っ黒な修道服を着たほのぼのシスターさんはにっこりと|微笑《ほほえ》んだ。
オルソラ=アクィナス。
元ローマ正教のシスターで、今はイギリス清教に|鞍替《くらが》えしている身だ。原因は『法の書』という|魔道書《まどうしよ》の解読にあたって、それを阻止しようとしたローマ正教と対立したからである。その 件はもう決着がついており、現在はロンドンでのんびり暮らしているはずだった。
シスターさんは最後に会った時と同じく、頭の上から足の裏までぴっちりと修道服で肌を隠していた。手にも白い手袋があり、髪もウィンプルによって|完壁《かんぺき》に|覆《おお》ってある。唯一素肌が見えているのは顔ぐらいのものだ。肌の|露出《ろしゆつ》の少なさに反比例して体つきは豊満というか女性的というか、地味な修道服が逆に体のラインを|際立《きわだ》たせているお色気シスターさんだった。
彼女は言う。
「かく言うあなた様は|何故《なぜ》こんな所に? 確か、日本にある学園都市にお住まいでございましたよね?」
「っつか、こっちは単に旅行のチケットが当たっただけ。そっちは?」
「実はつい先日までこちらに居を構えていたのでございますよ」
「待った。オルソラ、お前は確かロンドン在住のはず。|大覇星祭《だいはせいさい》の時は英国図書館から電話でアドバイスしてもらったんだし」
「ですから、そのローマ正教からイギリス清教へ移る時に少々バタバタしてしまいまして、まだ荷物がこちらに残っているのでございます。なので、今日は家財道具をロンドンへ送るために戻ってきたのでございますね」
「ここ、お前の地元なの?」
|上条《かみじよう》が質問すると、オルソラは『ええ』と簡単に答えた。何気ないやり取りだが、安心して会話できるというこの状況に、実を言うと上条はちょっと|涙腺《るいせん》が|緩《ゆる》みそうになっている。とにかく偶然だろうが何だろうが助かったぁ! と心の中では胸の前で両手を組んでいた。
「ふ、ふうん。にしても、お前イギリス清教に移ったっていうのに相変わらず修道服はそのまんまなんだな。『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の連中って怒らないのか?」
「はぁ。でも家財道具を運ぶと言いましても|天草式《あまくさしき》の皆様がお引っ越し屋さんのようにお手伝いしてくださるとかで」
「うえ!? あ、なに。さっきの会話に戻ったのか!? でも、天草式って、あの天草式か。確か|建宮《たてみや》とかがいる所だっけ。あいつ今どうしてんの」
「衣服に関しては|大丈夫《だいじようぶ》でございますよ。イギリス清教は|魔術《まじゆつ》対策の一環として様々な術式・文化を取り込む事に積極的でございますから。差し詰め、今の私はイギリス清教ローマ派といった所でございますので。天草式の皆様が天草式という枠組みを残しているのと同じでございますね」
「今度は修道服の方に話が!!しかも話を完全に無視してるんじゃなくて一応天草式にも触れてるし! なんていうかすごく会話のリズムが|掴《つか》みにくい!!」
この会話パターンは適当ではなく、どうも彼女の頭の中では独特のルールに従って順番通りに話しているだけらしいのだが、受け手としては相当会話しづらい。
一方、当の本人は全く気にせず、|可愛《かわい》らしく首を|傾《かし》げると、
「ところで、あなた様はお買い物ですか?」
「いやそれが……インデックスと二人でここまで来たのは良いんだけど、あいつイタリアンジエラートに夢中でどっかに消えちまったんだよ! どうしようオルソラ。釣り糸の先にアイスを|縛《しば》ってぶら下げたら引っかかるかな!? |俺《おれ》的にオッズは五対五の好勝負だと思うんだけど!」
「まぁまぁ、お気を|鎮《しず》めてください。ようはあなた様とインデックスさんのお二人はご旅行でやってきただけなのでございましょうか? 特に学園都市のお使いなどではなく」
「また会話が戻って! ……ない? でもお使いにしては、ほぼ地球の反対側っていうのは遠すぎると思うそ」
「ともあれ、少々お時間に余裕があるのでございますね? ここで会ったのも何かの縁、ちようど良かったのでございますよ。実は引っ越しの荷物整理のための人手が不足していまして。暇で暇でやる事がないのでしたらお昼を作ってあげますからぜひ手伝ってください」
「いや戻ってる! 旅行を楽しむために来た所が都合良くキャンセルされてる!? だ、大体、|俺達《おれたち》はこれから観光地を回るんだし、飲食店なんて結構いっぱいあるからわざわざご飯を作ってもらわなくても」
普通に返したつもりなのだが、オルソラは|怪誹《けげん》そうに改めてこちらを見直した。|上条《かみじよう》の顔というより服装を、じろじろーっと眺めている。彼女はお財布チェーンや手荷物などを確認すると、
「あら。一応お尋ねしますが、その格好で、でございますか?」
「服装に関してお前にどうこう言われる筋合いはない!!」
残暑も熱波も引いたとはいえ、まだ|半袖《はんそで》か長袖か迷うぐらいの暑さの中、上から下まで真っ黒な修道服で身を包んだシスターさんに上条は|吼《ほ》える。
が、オルソラは何をつまらない事を、という目でこちらを見て、
「日本と違ってこちらには修道女なんていくらでもいるのでございますけど」
「あれ、オルソラなのに普通の答え!?」
「それよりも」
オルソラは上条の|驚《おどろ》きなど気にせず、ピッと人差し指で一つ一つ指を差して、
「新品同様のスーツケースを転がし、旅行用のパンフレットを片手に、カメラ付きの携帯電話などまで持ち合わせて……はぁ。それでは|詐欺師《さぎし》やスリ師の皆様に『いらっしゃいませ。ご希望の品はお財布ですか、パスポートですか?』と言っているようなものなのでございますよ」
「ううっ!?」
上条は慌てて携帯電話とパンフレットを仕舞う。
「で、でもオルソラの口から、詐欺師とかスリ師とかって言葉が出てくるのはちょっと意外かもしんない」
オルソラは|呆《あき》れたようにため息をついて、
「ここはまだ小都市でございますから、大した事はないのでございますけど。世界的に見て、イタリアの大都市は旅行者に対してシビアな環境なのでございますよ。料理店にしても同様。
ぼったくり系のむ店なんて観光街ならいくらでもあるのでございます。支払いが表示価格の一〇倍なんて当たり前。大きな通りに面しているからとか、日本語の紹介文の看板が立っているからとか、その程度の情報で判断するととんでもない目に|遭《あ》うので…、」ざいますからね?」
「うわあ! 本場の言葉ってスゲェ|響《ひび》く!! じゃあ俺はこれからどうすれば!?」
「ですから、私が食事を振る舞えばその手のお店に引っかかる事もないという結論はどうでございましようか? そういうお店かどうか見極めるためのコツも、食べながらお教えできますし。ほらほら、こんな所で立ち話というのも何ですし、禁書目録の修道女様と合流するにしても集合場所は必要でございましょう? と言ってもキオッジアの中心部は縦が一三〇〇メートル、横は四〇〇メートル程度の小さな場所でございますから、そんな|大真面目《おおまじめ》に考えなくても問題ありませんけどね」
すらすらと迷いなく出てくる言葉に、|上条《かみじよう》は思わずちょっと感動した。当然だけどイタリアの事はイタリア人に|頼《たよ》るのが一番なんだよな、というかなり基本中の基本な教訓を得た訳だが、そこでふと思う。
「でも一応、観光に専念したいんだけどなぁ……」
「いえいえ、そこのジェラート専門店ではインデックスさんもあんなに楽しそうでしたし」
………………………………………………………………………………………………………………、ん?
「待てオルソラ。今、どこに話が飛んだ?」
「そうです。観光ならキオッジアの一般住宅をご覧になるというのはいかがでございましょう。お|綺麗《きれい》な観光名所ならお金を払えば好きなだけ見て回れますけど、反面そこに住む人|達《たち》の自然な|雰囲気《ふんいき》というのは、ガイドの後ろについていくだけで得られるものではございませんよ」
「ちょ、戻すな! その意見は一理あると思ったけど、その前に今インデックスって……ッ!」
「もー。いちいち確認しなくても分かっているくせに。この幸せ者さんめーでございましょう」
「うわーっ!? もう進んでいるのか戻っているのかどっちなんだ!!」
上条は思わず叫んだが、オルソラはほのぼのと|微笑《ほほえ》み続けるだけ。
「インデックスさんならそちらのジェラート専門店のウィンドウに張り付いている所を|先程《さきほど》見つけたのでございますよ」
「できればそれを最初に言っておいて欲しかった!! ……でも、それならインデックスは今どこに?」
「ですからバス停の読み方は」
「速攻で話の軌道を戻すけどインデックスはどこに!?」
あら? とオルソラは首を|傾《かし》げて、
「そうそう、そうでした。私の友人にお願いして、先に自宅の方へご招待しているはずでございますよ」
「あの野郎、|俺《おれ》を置いてか!?」
「これからお昼だと言ったら|嬉《きき》々としてついて行っていたように見えましたけど」
「くっそおおおおッ!!」
|誰《だれ》だよイタリアでは私を頼っても良いとか言っていた修道女は、と上条は心の中でグチグチ言いながら崩れ落ちていく。
「うっ、ひっく……。ねえオルソラ、俺どうしたら良いと思う? いつもいつも|噛《か》み付かれてばかりの俺だけど―――今日という今日はこっちの番だ。待ってろよインデックスーっ!!」
がじーっ!! と、スーツケースの取っ手に歯を立てる上条に、オルソラは『まぁ』とにこやかに笑いかけると、
「返り討ちには|遭《あ》わないのでございましようか?」
「ううっ!?」
|一撃《いちげき》で我に返る|上条《かみじよう》。
にこにこにこにこー、とオルソラは喜色いっぱいの顔で、
「ともあれ、インデックスさんと会うなら私の家に行くのが手っ取り早いのでございますよ。もう色々と面倒臭いので結論言いますけどついてこいでございます」
そう言われてしまうと確かにオルソラの家に行くのが最短コースの気もするし、何より断ったら。再び無意味に一人ぼっちだ。
「……また不幸な事になってる気がする」
「まぁまぁ。海外旅行なんて予定通りには行かないものでございますよ」
人生の教訓なんだか投げやりなんだか良く分からない事をオルソラに言われて、上条はこくりと|頷《うなず》いた。
改めて考えると、旅行なんてそれがあるから楽しいような気もする。
旅行と言っても、|記憶喪失《きおくそうしつ》なので学園都市の外に出た経験はそんなにないけど。
[#改ページ]
行間 一
二頭立ての馬車が石畳の街に|停《と》まっていた、
と言っても馬車を引いているのは|腫馬《ろば》。昔は愚者の乗り物と呼ばれた|可哀想《かわいそう》な動物だ。
馬車は赤を基調として金細工を|施《ほどこ》されたものだ。ナンバープレートを取り付けたり、サイズなど細部の調整などで公道も走れるように工夫が|凝《こ》らされている。観光用としてなら、さして珍しくない馬車だ。ヴェネツィアのゴンドラと同じく、客からの需要さえあれば何百年前の乗り物であっても商売として成り立つのである。
しかし。
馬車は道の流れに反して真横に停まっていた。横滑りしたようにも見えるが、違う。馬車にある四つの車輪の内、前方右側の車輪が外れて転がっているのだ。明らかに不自然な、|誰《だれ》かの意図によって分解されたものだった。
ゴン!! という|打撃音《だげきおん》が聞こえた。
若い男の悲鳴も後を追ったが、まるで声を断ち切るように、もう一度暴力的な音が|響《ひび》く。
「っく……。|往生際《おうじようぎわ》の、悪いッ!!」
叫びながら馬車の陰から出てきたのは、背の高い修道女だ。シスター・ルチア。聖カテリナの『車輪伝説』に基づき、馬車の車輪を武器とする|戦闘《せんとう》シスターである。女性的な丸みよりも、引き|締《し》まった印象を与える彼女の手は真っ赤に染まっていた。
返り血だ。
ルチアの修道服は黒を基調として、|袖《そで》やスカートをファスナーで着脱できるように作られているが、今はそこに黄色の袖とスカートが取り付けてあった。黄色は修道服として認められない色であり、これは修道服を拘束服へと変じる[#「修道服を拘束服へと変じる」に傍点]『|禁色《きんじき》の|楔《くさび》』という|霊装《れいそう》だ。
『禁色の襖』は装着者が生命力から|魔力《まりよく》を練ると、それを霊装が勝手に使ってしまう仕組みを持?霊装自体は『布を発光させる』程度の効力しか持たないが(下手に特別で強大な効力を持たせると、それを逆手に取られる危険があるためだ)、そこで魔力を|無駄遣《むだつか》いされてしまうため、どれだけ練っても|魔術《まじゆつ》が使えなくなる、という結果を招く。
しかし現在、その『禁色の懊』の要所要所に赤い|染《し》みがあり、それが霊装として必要な機構を一時的に|堰《せ》き止めていた。無論、それを遂げたのは彼女自身の血である。
「シスター・アンジェレネ! そちらは終わりましたか!?」
「な、何とか終わりそうですけど……」
幼い少女そのものの声が聞こえた。ルチアが中を|覗《のぞ》くと、表の|豪奢《ごうしや》な作りから想像もつかないほど|薄汚《うすよご》れた―――壁や|天井《てんじよう》にまで|得体《えたい》の知れない|染《し》みの跡が残る陰気な車内で、声の印象そのままな感じの背の低い修道女が四苦八苦といった様子で作業をしている。
ルチアの修道服はやや|袖《そで》が短めなのに対し、アンジェレネの方は指先がわずかに見えているぐらいだ。あれで作業はしやすいのだろうか、とルチアは少しだけ心の中で|呟《つぶや》く。
「……できましたっ! せ、|施術《せじゆつ》キーを解放、中身を取り出せます!」
ガチン、と小さな音が鳴る。
アンジェレネと呼ばれた小さな少女は、馬車の内壁に直接。固定されていた四角い金属の箱を取り外した。中に人っているのは脱走者対策の|魔術《まじゆつ》武器だ。通常、指定された護送人以外は使用できないように封がされているが、アンジェレネはその|鍵《かぎ》を強引に外していた。
よし、とルチアは|頷《うなず》く。
馬車の外に目をやれば近くに観光街があるらしく、威勢の良い掛け声の|残澤《ざんし》が|山彦《やまびこ》のようにうっすらと聞こえてくる。潮風に乗ってやってくる声には発音に特徴的な|響《ひび》きがあった。本来イタリア語にないはずのthの発音が混じっていたり、逆に標準語に使われるgliやsciといった響きがない。それとzがsに聞こえる言葉がある。
「この言葉遣い……やはり『ラグーナ』近辺……しかし本島とは|若干《じやつかん》違うようですね……」
細長い金属の箱を両手で抱えたアンジェレネはポツリと言った。
「となると、や、やっぱり私|達《たち》はもう一度『女王』に連れ戻される所だったんでしょうか、シスター・ルチア。『女王』……そもそも、一体何のためにあんな|大袈裟《おおげさ》な……」
「それを確かめるために抜け出したのです、シスター・アンジェレネ。シスター・アニェーゼの身も心配です。その護身具だけでは|心許《こころもと》ないですし、まずは身を|潜《ひそ》めて|霊装《れいそう》の準備を固めましょう」
はい、とアンジェレネは小さく頷いた。
小さなシスターが馬車から降りるのを確認して、ルチアは馬車から外れた車輪を両手で|掴《つか》んで持ち上げた。彼女の武器は聖カテリナの伝承に基づいた、車輪の爆破と再生の術式だ。
二人のシスターはそれぞれの武器を手に取って、音もなく道を走る。|漆黒《しつこく》の修道服に似合わない、|眩《まばゆ》い黄色の袖やスカートのついた異質な衣装が風に舞う。まるで|蜂《はち》の腹のような警戒色はそれだけで周囲の注目を浴びそうだが、そんなハンデなど無視してそのまま風景に溶け込むように。
(私は、認めません)
走りながらルチアが思うのは、
(シスター・アニェーゼは、見ている私が寒気を覚えるほど純粋に祈りを捧げる修道女です。それを主が罪人として裁き、教会が道具として使い捨てるなど……。私はローマ正教を信じているからこそ、そのような振る舞いは決して認められません)
足元を見そうになる視線に力を込め、顔を前に上げて彼女は走る。手の中にある、間に合わせだけのあまりにも|頼《たよ》りない武器を握り|締《し》め。
覚悟は固く、
しかしだからこそ、内面に意識を|割《さ》いていた彼女|達《たち》は、外面に遅れを取った。
ゴキン!! という|轟音《ごうおん》。
「ご……ッ!?」
いきなり胸を強打されたように肺の中の酸素が|全《すべ》てルチアの体の外へ吐き出された。|踏《ふ》み出そうとした足から力が抜ける。車輪を握っていた両手の指の感覚がなくなり、手が|離《はな》れた。唯一の武器であるはずの馬車の車輪が、ふらふらと転がった後に、バタンと倒れた。
(この圧迫感……何か|霊装《れいそう》が!?)
ルチアは思うが、言葉を出すだけの酸素が吸い込めない。
|埃《ほこり》の多い石畳の上に、彼女の体が倒れ込む。受身を取る事もできず、その柔らかい|頬《ほお》に砂粒がこびりついた。|隣《となり》を見れば、ルチアと同じ|攻撃《こうげき》を受けたのかアンジェレネはすでに気を失っている。酸欠ではなく、最初の|衝撃《しようげき》そのものにやられたのだろう。
|朦朧《もうろう》とするルチアの視界に、何かがキラリと|輝《かがや》いた。
必死に首を動かせば、馬車の屋根から赤い光が飛び出している。
(馬車と、修道服の『|禁色《きんじき》の|楔《くさび》』を連動させた……逃走防止の術式、ですか。おそらくは、馬車から一定以上の|距離《きより》が離れるか、馬車が運行不能になってから、一定時間が経過すると……) げほっ、と息の塊が口から飛び出る。
もはや酸素ではない。用を|為《な》さない二酸化炭素の塊だ。
(……こんな、所で)
横倒しになった視界の中、新しい馬車がこちらに近づいてくるのが見えた。この霊装が機能してからでは|流石《さすが》に対応が早すぎる。おそらく馬車の御者や護送人を倒す前に、|緊急《きんきゆう》事態のシグナルが別の所に伝わっていたのだ。
反撃しようにも、指先がすでに動かない。
|魔術《まじゆつ》を扱うだけの頭が働こうとしない。
すぐ手を伸ばせばそこに武器となる車輪が転がっているのに、もはや打つ手を失ったルチアは、意識が|遮断《しやだん》される寸前に思った。
浮かんだのは、ただ一つの人名だ。
(し、スター・アニェーゼ……)
直後、彼女の意識は完全に途切れた。
修道服の|襟首《えりくび》を片手で|掴《つか》まれて、布袋のように馬車の荷台へ放り込まれていった。
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第二章 ロンドンへの準備 Un_Frammento_di_un_Piano.
オルソラの住んでいた家は、大きな通りから一本小さな道へ人った所にあった。すぐそこに海水の運河が流れていて、潮の|匂《にお》いがした。石畳の道路に、小さな員がへばりついている。
どうやらアパートメントの=至を借りていたらしく、彼女が立ち止まったのは五階建ての四角い建物の前だ。と言ってもオートロックに床暖房完備の現代的な建物ではなく、壁の表面は藩いベージュ色に塗られた蹴躍作りで、何だか歴史的建造物のような風格がある。屋上から伸びたテレビのアンテナだけが妙に浮いていた。
「ここらの建物ってみんなこんな感じだよなあ。古めかしいっつーかなんつーか」
「古めかしいのではなく、実際に古いだけなのでございますけどね。私の場合、逆にピカピカな建物だらけの日本の風景に圧倒されましたけど。たかだか築二〇年でオンボロ扱いなんて、あの国は少々時の流れの感覚が早すぎる気がするのでございますよ」
「オルソラのご先祖様って、ずっと昔からこの街にいたの?」
「いえいえ。単純にこの近くに配属していましたので、部屋を借りていただけでございますよ」
「その辺は|俺《おれ》の|寮《りよう》と変わんねーのか。じゃあ、後さ。建物ごとに壁が青とか黄色とか派手に色分けされてるのは何でなんだ?」
「ここは海の街ですので。遠い船の上からでも自分の家が見分けられるように、というのが由来のようでございます。もっとも、今では海に面しているかどうかはあまり関係ないのでございますけどね」
特定の大きな港に船が集まるのではなく、自分の家から直接小船を出すからそういう見分け方が必要だった、という事らしい。
オルソラの案内で|上条《かみじよう》はアパートメントの中に入る。彼女の部屋は四階との事だったが、当然のようにエレベーターはなかった。重たいスーツケースを持ったままの上条としては、延々と続く金属の階段が少々|辛《つら》い。
「さあ、こちらでございますよー?」
オルソラに言われて上条が視線を向けると、彼女はずらりと並ぶドアの一枚の前に立っていた。これまた古めかしい木のドアだが、一応|錠《じよう》の所だけは取り替えているのか、そこだけ不自然にピカピカと|輝《かがや》いている。
オルソラは修道服の|袖《そで》の中に手を人れて、ゴソゴソと|鍵《かぎ》を取り出した。
しかし、|鍵《かぎ》を差し込む前にドアが勝手に開いた。
中から東洋系の……というか、|上条《かみじよう》にとっては見慣れた日本人の少年少女が四人出てきた。
服も似たようなものだが、どうも色の組み合わせというか着こなし方というか、そういったものに微細な違いを感じる。というより、不自然なお財布チェーンをベルトからポケットへ伸ばしたり、ふくらはぎに予備お財布を隠し持っている上条の方が浮いているのであって、彼らの衣服はこの街の人|達《たち》とピッタリ合致していた。オルソラは元々買い出しでも|頼《たの》まれていたらしく、たくさんの日用品が人った、フランスパンみたいな色の紙袋を笑顔で彼らに手渡している。
彼らが|会釈《えしやく》をしてきたので、上条も慌ててそれに|倣《なら》おうとした所で、
「あっ! とうまだとうまとうまーっ!」
部屋の奥から聞き慣れた少女の声が飛んでくると、室内にはあんまり|相応《ふさわ》しくない|大覇星祭《だいはせいさい》みたいな足音がこちらへ近づいてきた。
少年少女達の人垣を割って玄関から出てきたのはインデックスだった。
彼女はアイスクリームの容器を抱えていた。抱えていたというのは、そのアイスの四角いケースが漫画雑誌を四、五冊山積みしたようなサイズだったからだ。
インデックスは、アイスを丸く|快《えぐ》ってコーンの上に載せるために使う業務用のスプーンをザクリとバニラの壁に突き刺すと、
「とうま、こっちのジェラートってこんなに|美味《おい》しいのに、これでまだ安売りのお徳用なんだって! んまーっ!!」
「お前……人が心配してたのに、口の周りをベッタベタにするほど幸せな顔でアイス食いやがってーっ! いや、|俺《おれ》を置いてきぼりにした事は後だインデックス。そんな人の家のデザートを|遠慮《えんりよ》なく豪快に食ってんじゃねーよ!!」
「え? でもお引っ越しするから冷凍庫の中を片付けるの手伝ってって言われたよ?」
ニッコニコの笑顔なインデックスを見て、上条の顔が泣き出す直前みたいに崩れていく。
「くそ、理には|適《かな》っている……。しかしこれでお前が一方的に感謝されるのはどっか納得がいかないっ!!」
もはや|地団駄《じだんだ》を|踏《ふ》むしかない上条の前で、インデックスは業務用のスプーンでアイスを掘り返す。
それを見たオルソラがまぁまぁと笑い、東洋系の四人の少年少女達は特に言葉も交わさずこちらをじーっと見ている。
彼らがインデックスをここまで連れてきてくれたのだろうか、と上条は考える。この辺りって日本人街でもあるのかなとも考えたが、
「そうか、手伝いで来てる友人って|天草式《あまくさしき》って言ってたっけ」
天草式十字|凄教《せいきよう》。元々は日本に伝わる十字教宗派の一つだが、現在ではオルソラと同じくイギリス清教の|庇護下《ひごか》に収まっている組織である。『時代時代に合わせて溶け込んでいく事』に特化しているらしいが……なるほど、と|上条《かみじよう》は感心した。衣服一つ見てもそういった色が|窺《うかが》える。
と、思っていたのだが。
ふと耳を立ててみると、彼らは風景に不釣り合いなひそひそ話をしていた。
「……あれが教皇代理が一目置いていた|御仁《ごじん》……。しかし実力はいかほどのものか……」
「そこに疑問を抱くのは、あなたがオルソラ様救出戦に参加していなかったから……」
「……かの御仁は、ローマ正教が誇る二五〇名の|戦闘《せんとう》シスター相手に武器も持たず、たった一人で宣戦布告をした殿方なのですよ……」
「あとこれは|近頃《ちかごろ》になって教皇代理が得た情報だが、学園都市では|七天七刀《しちてんしちとう》を手にしたあの|女教皇様《プリエステス》に|拳《こぶし》一つで立ち向かい、顔面を|殴《なぐ》り飛ばして地に手をつかせたとか……」
|天草式《あまくさしき》の面々の会話が、ピタリと止まる。
最初に話を始めた少年が音もなく首だけをこちらに向けて、
「……、怪物?」
「おいテメェら人の顔を見るなりその曲がりに曲がった評価は何なんだよ?」
上条は唇の端をひくひく|震《ふる》わせながら尋ねた。それを見た天草式の面々は顔色を真っ青にすると慌てて部屋の中へと逃げ帰る。
というか、実は|記憶喪失《きおくそうしつ》なので|神裂《かんざき》をうんぬんのくだりは心当たりがないのだが、下手に尋ねると記憶を失っている事がバレそうなので怖い。女の子の顔を殴るなんて何をやってるのよ上条|当麻《とうま》! と心の中では|戦々恐々《せんせんきようきよう》である。
オルソラはため息をつくと、そんな上条に振り返って、
「……あまり怖がらせては|駄目《だめ》なのでございますよ?」
そうは言うが、ドアの向こうからは『その他にも、夏の終わりには|女教皇様《プリエステス》の裸体を|目撃《もくげき》して|七天七刀《しちてんしちとう》の|鞘《さや》で強打されたらしいですが、|絆創膏《ばんそうこう》すら必要なかったとか!』『なんと、相手は主に認められた聖人だぞ! あの御仁はどれほどの|鍛錬《たんれん》を積んでいるのだ!?』などと、割と好奇心|旺盛《おうせい》な声が飛んできている。あれは本当に怖がられているのだろうか?
「今は何もしないで床に|屈《かが》み込みたい……」
「唐突に脱力していないで、早く人って欲しいのでございますよ」
オルソラがドアを開けて勧めてきたので、上条とインデックスはそこをくぐって部屋の中へお|邪魔《じやま》する。
彼女の借りている所は上条の学生|寮《りよう》のようなワンルームではなく、家族も住めるような複数の部屋がまとまっている形式を取っていた。学園都市の場合、住宅のほとんどが一人または相部屋の学生寮しかないため、こういった部屋は上条にとって新鮮だ。
「うわ、良いなあ広い部屋……。って、アパートなのに上に続く階段がある!?」
「ふふ。そちらは屋根裏みたいなものでございます。差し詰め、四・五階といった所でございましょうか。チーズを置いておくためだけの場所でございますので、立つと頭をぶつける程度のスペースしかございませんけど」
いちいち|驚《おどろ》く|上条《かみじよう》にオルソラは軽く笑って、
「さて、と。それでは最初にご飯の用意をしてしまうのでございますね」
いくつかある部屋の内の一つ、リビングで彼女はそう言った。インデックスの目がキラリンと|輝《かがや》いたが、それに対して上条はわずかに|眉《まゆ》をひそめて、
「あれ? でもお昼ご飯って引っ越しの手伝いのお礼みたいなもんだろ。|俺達《おれたち》まだ何もやってないけど」
「まーまーでございますよ」
「何に対する返事だそれ!?」
上条は思わず叫んだが、オルソラはすぐに話の軌道を修正してくる。
「まずはあなた方をもてなすのが先でございますよ。それに、作業を全部終わらせるとお夕飯の時間になってしまいますし、お引っ越しのために荷物を全部箱に詰めたら調理道具を取り出せないのでございます。流し台なども再び洗わなくてはなりませんし」
ああそっか、と上条は納得した。
改めて周囲を見回してみれば、リビングの端には畳まれた段ボール箱が積んである。|天草式《あまくさしき》のお手伝いさん達は、ここで捨てる物とロンドンまで持っていく物の|采配《さいはい》はオルソラに|委《ゆだ》ねているのだろう。確かに、今を逃すと家財道旦ハを自由に使う機会はなくなりそうだ。
上条が形の違うイタリアのコンセントをじーっと眺めたり、インデックスがテレビのリモコンのボタンを一つずつ順番に押していったりしていると、オルソラが食器皿をたくさん載せたトレイを両手で持ってキッチンから出てきた。
メインとなるのがアサリの人ったパスタで、その他にはほぐしたカニの身が人った冷たいスープや、なんかお皿に真っ黒なイカスミがベチョッと載っているだけのものもあった。オルソラに聞くと、どうもポレンタというトウモロコシの粉をスープで練って作ったものにつけて直接食べるらしい。
上条が席に着こうとすると、オルソラと|一緒《いつしよ》に料理の乗った食器を運んでいた天草式の女の子が、
「使います?」
と白い熔しぼりをこちらに差し出してきた。
「あ、どーも」
上条が頭を下げて受け取ると、『いえいえ』と言いながら女の子はそそくさと部屋の外へ出て行く。二重まぶたが印象的な子だな、と上条は思った。向こうから『|五和《いつわ》、おしぼり作戦の感触はどうでしたか!』『|馬鹿《ばか》、結果を求めるのはまだ早い。まずは外堀を埋めていーのが重要なのだ』『これは少々遠回り過ぎませんか』などという声が飛んでくる。何なのだろう? |一緒《いつしよ》に食べていかないのだろうか。
「えっと、|天草式《あまくさしき》の連中は?」
|上条《かみじよう》はテーブルにやって来ない四人の少年少女の事を尋ねると、
「現在は|鍛錬中《たんれんちゆう》だとかで、決まった食料を決まった食事作法で採らなくては体が鈍るのだとか|仰《おつしや》っていて……」
「天草式は食事や睡眠、人浴や散歩とか、とにかく日常生活の中にあるわずかな宗教様式を利用する宗派だからね。場合によっては食べられる物も限られてくるのかも」
「はぁ。好き嫌いの多い方|達《たち》なのでございますね」
ほんのりとズレた結論に至ったオルソラに料理を勧められて、上条とインデックスは|揃《そろ》って『いただきます』と声を出した。
「うまっ!? 何これ、パスタってこんなに|美味《うま》くなるモンなのか?」
「うん、なんかとうまがいつも作ってるご飯の五〇〇倍ぐらい|美味《おい》しいかも!」
「いつも手伝いもしねえテメェに言われる筋合いはねえけど、でも本当に美味いからもう良いや! うまーっ!!」
微妙に悪意が|交錯《こうさく》する料理評価に、オルソラは苦笑いしつつ、
「有り合わせの物で、手早く作っただけでございますけど」
「手早く作ってこの出来かよ……。ガイドブック片手にお店の方も色々回ろうと思ってたけど、もう目的は達成しちまったんじゃねーのか」
「……とうま、私は早くもこの旅行で最大の思い出を作っちゃったっぽいかも」
直線|距離《きより》で二〇キロの所にある海上の世界遺産など目もくれず、すでにこの場で満足してしまった観光客二人。本来なら|褒《ほ》められているはずのオルソラの方が、逆にフォローに回らなければならないほどの状況である。
「と、ところで……やはりこちらに来たという事は、目的はヴェネツィアの方でございますか?」
「一応さー、旅行のプランじゃそうなってだんだけど、なんか現地のガイドと連絡つかねーんだよな。ホテルのチェックイン済ませたら本格的にどうにかしなくちゃなんねーんだろうけど。やっぱりこの辺じゃヴェネツィアが一番の見所なのか?」
「見るならヴェネツィア、住むならキオッジアでございますけどね。ヴェネツィアは車の利用ができませんし、湿気やカビ、底冷えなどの問題もありますから。……何より月々の家賃がよその数倍もかかるのでございます」
オルソラは特に迷わずに、スラスラと答える。
「でも、その不利を|呑《の》んででも見るべき価値はあるのでございますよ。何しろあそこは『水の都』『アドリア海の女王』『アドリア海の花嫁』……とまぁ、様々な言葉で絶賛されるぐらい|綺麗《きれい》な街でございますから」
「なんか、アドリア海シリーズが多いんだな」
|上条《かみじよう》はチーズの塊みたいな色のポレンタに真っ黒なイカスミをつけて口に運ぶ。イカスミの見た目はそのまんま|墨汁《ぼくじゆう》っぽいのだが、実際に食べてみると意外にあっさりした味だ。
「まぁ、元々ヴェネツィアはアドリア海の支配者たる海洋軍事国家という経緯がございますので、ワンセットとして扱うのが妥当だったのでございますよ。ヴェネツィアには『海との結婚』という年に一度の国家的|儀式《ぎしき》がありました。当時の|総督《ド ジエ》……国を束ねる者が、アドリア海に金の指輪を投げてヴェネツィアとアドリア海を結び付ける婚礼の儀でございますよ。それぐらい海は身近にあったのでございましょうね」
「ありゃ? ヴェネツィアって、元々国だったの?」
上条が尋ねると、ほぐしたカニの人った冷たいスープをスプーンですくっていたインデックスが答える。
「とうま。『イタリア』っていう国家の枠組みは近世に人ってからできたものなんだよ。それまではイタリア半島って大きな領土の中に小さな都市国家が集まっていた感じなの。戦国時代の日本みたいなイメージかも」
「……、」
「なに、いきなり|黙《だま》って?」
「―――いや。物知りだな、お前」
「む。な、何を今さらそんな事を言うの?」
インデックスはわずかにスープの皿に視線を落とした。ほっぺたがわずかに赤くなっているような気もする。
オルソラはフォークをくるくる回してパスタを|搦《から》め捕りながら先を続けた。
「ヴェネツィアはその中でも強い力を持った都市国家で、他者からの支配を嫌ってローマ教皇様と対立、破門状まで|叩《たた》きつけられた経緯を持っています。特筆すべきは破門状ではなく、それによって『ローマ正教の敵』と認識されても構わず|繁栄《はんえい》が続いた事でございますね。そういった事の|他《ほか》にも一四世紀の全盛期にはパドヴァ、メストレ、ヴィツェンチアなど、イタリア北東部の主要都市国家を次々と制圧した強国としての歴史も持っているぐらいでございますよ」
「ってーと、ここ[#「ここ」に傍点]も?」
「ええ。キオッジアはヴェネツィアのライバル的な海洋都市国家でございましたが、数度の争いののちに、といった感じでございます。実際、ヴェネツィアのように塩や外来品の交易で力をつける海洋国家は当時のイタリア半島にはたくさんありましたが、戦争、政治、災害、その他の様々な要因によって数を減らしていき、残ったのがヴェネツィアでございますよ」
ふうん、と上条は|相槌《あいづち》を打った。
となると、歴史にちょっとした偶然が起きていれば、世界的に名を残していたのはキオッジアの方だったかもしれないという訳だ。そういう話を聞くと、歴史に|疎《うと》い|上条《かみじよう》も少し感心する。
なんか三国志や戦国時代のテレビゲームをやっているみたいな感じだ。
「ともあれ、ここまで足を運んだのならヴェネツィアは見ておくべきだと思います。私のような十字教徒にとっては非常に興味深い様式を学ぶ場所でもありますが、そうでなくとも単純に|綺麗《きれい》な街でございますし。キオッジアにはモーターボートはございますけど、ゴンドラはございません。あちらの街では、ここでは見られない光景があるのでございますよ。このイタリアで、車がなくても都市機能を維持している街なんてヴェネツィアぐらいしかありませんし」
「へー、なんか面白そうだな。ありがとうオルソラ。そんじゃインデックス、荷物整理をやったらヴェネツィアの方に行ってみるか」
「うーん……。私はこのご飯があれば良い。もうずっとここにいても良いかも」
「お前、引っ越し一日前の人に向かってなんて無理な注文突きつけてんだ?」
「んじゃ、さっさと荷物整理を手伝いますか」
という訳で、上条とインデックスは家財道具に向かった。
オルソラの家には部屋がいくつかある。なので、オルソラと同じ部屋にみんなが集まって、家財道具を『捨てるか持っていくか』一品一品尋ねながら段ボール箱に詰めていく事になる。
それが終わると棚やベッドなど大型の家具を運び出して、最後に床や壁を掃除したら、次の部屋へ……といった感じで作業が進む。すでに一部屋二部屋ぐらいは、オルソラと|天草式《あまくさしき》で済ませていたらしい。
とりあえず上条|達《たち》は、お昼ご飯を食べたこのリビングから片付ける事にした。上条は食器を新聞紙で包んで段ボール箱に人れたり、テーブルや|椅子《いす》を建物の外へ運んだりした。アパートメントの外に|停《と》まっている|幌《ほろ》のついたトラックの荷台にそれらを詰め込んでいく。どうも、この運転手のおばさんも天草式の人らしい。
そんなこんなで一時間ほど作業を続けていた|頃《ころ》だった。
「うあー。とうま、何だか修道服のあちこちが汚れてきたかも」
どかした本棚の裏に|溜《た》まっていた|埃《ほこり》と|格闘《かくとう》していたインデックスがそんな事を言った。それを聞いた上条は|呆《あき》れたように、
「あのな。引っ越しの作業をしてんだから少しぐらい汚れるのは当然だろうが」
「まぁまぁ。確かにそれはその通りではございますけど」
オルソラが横から仲裁に入る。
横からの声にふと上条がそちらを見ると、オルソラが自分の修道服の胸の辺りについていた|埃《ほこり》をぽすぽすと手で払い落としていた所だった。当然ながらその拍子に彼女の色々な物が色々揺れて、ギュバ!! と|上条《かみじよう》は高速で顔を|逸《そ》らした。そういう事をしている最中には話しかけてこないで欲しい。インデックスのムッスーとした視線が突き刺さる。
当のオルソラ本人は全く気にしていない様子で、
「あなた|達《たち》は飛行機に何時間も乗ってこちらへ来たのでございましょう? まだホテルにも行っていないのなら気になるのも当然でございますよ。何ならシャワーなどいかがでしょうか」
得意げに言った彼女の頭の上に、蛍光灯のランプシェードに|溜《た》まっていた巨大な埃の塊が落っこちた。もさっとした塊が黒いフードにへばりつく。
オルソラはにっこりと|微笑《ほほえ》んで、
「さあさあインデックスさん。お|風呂《ふろ》はこちらでございますよ?」
「いやお前は!? この場で最も埃を|被《かぶ》っているのはあなた様だと思うのですが!!」
そうでございましょうか? とオルソラに|可愛《かわい》らしく首を|傾《かし》げられた。頭にふわふわした巨大な埃を乗っけたままのオルソラはインデックスの両肩を後ろから|掴《つか》むと、
「とにかくまずはインデックスさんでございますよ。ええと、ドライヤーはこっちにあるのでございますよー」
「『どらいや』ってなに?」
部屋の外へ出て行く彼女達の声に、上条は脱力したように肩を落とし、
「あ、そうだ。オルソラー、新聞紙のストックってどこにあったっけ?」
「こっちにあるのでございますよー?」
向こうからオルソラの声が聞こえる。それから、バタンとドアが開閉する音が聞こえた。
(……汗とか埃とかいちいち気にするってのは、やっぱり女の子って事なのか?)
いちいち再確認を取っている事を知られたらインデックスに|噛《か》み付かれそうな感じだが、上条は適当な感想を抱くと部屋の掃除や整理に戻った、荷物の詰まった段ボール箱にガムテープで封をしたり、その箱を部屋から玄関の方へ運んだりしていく。手近な床に高そうな大きい絵皿が置いてあったので、|緩衝材《かんしようざい》代わりの新聞で包んで箱の中へ入れようとする。
と、
「ありゃ?」
そこで上条は、ふと声を出した。新聞紙のストックがちょうど切れていた。
(この絵皿、値段は分かんねーけど、割と高そうだし……。床に置いておいてうっかり踏んづけました、なんて事になるのはマズそうだよな)
上条は床掃除用のモップを壁に立てかけると、あちこちを見回した。確か、オルソラは新聞紙の補充はあっちのドアだと言っていた気がする。
ところが、実際にそちらのドアをくぐると、そこは部屋ではなく短い廊下だった。壁の片側にのみ、同じデザインの白いドアが二つ並んでいる。
(どの部屋だ? でもまぁ、片っ端から人ってみれば良いだけなんだけど)
と、|上条《かみじよう》が大して考えもせずにドアノブを|掴《つか》もうとした時、ドアの向こうから、
『ふんふんふふんふんふんふーん♪』
気持ち良さそうな鼻歌と共に、何やら雨が降っているような水音が聞こえてきた。
(こ、この声と水のワンセットは……)
上条はギクリと動きを止めると、
(まさかシャワー……って、あっぶな!? これはお|風呂場《ふろば》という名の|罠《トラツプ》か! あ、危うく引っかかる所だった。そしてそこらじゅうからボコボコにされる所だった!!)
上条はそっと|安堵《あんど》の息を吐き、そしてドアノブから手を|離《はな》す。消去法で考えれば、もう片方のドアの方にオルソラの言っていた新聞紙が保管されているはずだ。
だが。
『ふふんふんふーんふふんふーん♪』
(こっちからも声が聞こえる? 何だこれ、一体何がどうなってやがる!! ば、バスルームってプレートはどっちにもついてないし……。ん? イタリア語でバスルームって?)
|謎《なぞ》が謎を呼ぶ状況の中、女の子の無防備な鼻歌に実はちょっと心拍数が上がりつつある上条だが、ここは冷静に考えてみる。大前提としてお風呂場は二つもない。オルソラが『こっちに新聞紙がある』と言っていたのだから、どちらか片方は普通の部屋だろう。まさか二つのドアが同じ部屋に|繋《つな》がっている訳でもあるまい。
となると、
(壁が|薄《うす》いとかで、どっちのドアからもお風呂場の声が聞こえてきてるのか……? 片方は当たり、片方は外れ。くそ、何なんだこの究極の二択は!?)
上条は慎重にドアの向こうから聞こえてくる音を吟味して、
(右、いや左? 違う、これは……左だ。左はシャワーの音と鼻歌がセットに聞こえるけど、右は鼻歌だけ! それはつまり本当の音源は左のドアで、遠回りルートな右のドアからは小さいシャワー音は届いていないって理屈だー従って大きめな鼻歌しか右からは聞こえないという訳である!! もう|大丈夫《だいじようぶ》、上条さんはそう何回も肌色イベントに遭遇したりはしませんの事よ!!)
「見切ったぁ!!」
上条は己の耳を|頼《たよ》りに、絶対の自信をもって右のドアを開け放つ。
目の前に広がるのは湯気の|溢《あふ》れるユニットバスだった。
「あら?」
と、むしろキョトンとした声を出したのは、オルソラ=アクィナスだ。彼女はユニットバスのカーテンを開け、棚からシャンプーのボトルに手を伸ばしている。ジャージャーと音を立てるシャワーの温水が、|普段《ふだん》は分厚い修道服に隠されている彼女の大きな胸を伝っておへその方に流れているのが良く見えた。見えてしまった。
「う、うぎゃああ!! こっちが|風呂《ふろ》!? しっかりシャワーも出てるし!! ごめんオルソラ、でも確かに|俺《おれ》の耳では危険なのは左のはずだったのに……ッ!!」
気が動転するあまり、ドアを閉めるのも忘れて思わず左のドアへ逃げ込もうとする|上条《かみじよう》。
そこへ。
今度は左のドアから、ドライヤーらしきモーター音が聞こえた。
同時に、
「きゃあああっ!? な、なんかブオーンって、変な形のステッキから暑苦しい風が|襲《おそ》い掛かってきたんだよ……ッ!!」
ズバーン!! と勢い良く左のドアが内側から開け放たれ、裸のインデックスが転がり出てきた。片手にバスタオルを|掴《つか》んでいるが何の意味もない。ほんのりと赤みを増した肌はタオルで|拭《ふ》いてもいないらしく、手足をバタバタ振るたびに丸いお湯の玉が張りのある肌から|弾《はじ》かれていく。長い髪にも水気が多く、それが彼女の|薄《うす》い胸にべったりとへばりついていた。
そちらを見ると左のドアの先もユニットバスだった。
上条は目の前の光景に|唖然《あぜん》として、
「右も|風呂《ふろ》なら左も風呂!? ふざけんな、これじゃどっちにしたって待っているのは地獄だけじゃねーか!! |理不尽《りふじん》だこんなの、大体何でこの家にはお風呂が二つもあるんだよ!!」
もはや逃げ場のなくなった|上条《かみじよう》はその場に崩れ落ちる。オルソラも|流石《さすが》に少しは照れているのか、半透明のビニールカーテンを引っ張って体を隠して、少し身を縮めつつ、
「は、はぁ。聖バルバラは浴室を改造して洗礼場を築いた伝承がありますので、それに基づいて一つは生活用、もう一つは宗教用に用意していたのでございますけど。今は引っ越しのために洗礼場としての機能を解除していますので、普通のお風呂として使っただけでございますよ」
「また|魔術的《まじゆつてき》非科学ワールドの話か! もううんざりだ!!」
上条は人の家の床にちょっと|拳《こぶし》を|叩《たた》きつけながら絶叫する。
と、
「……そもそも、何でとうまはここにいるの?」
|傭《うつむ》いて床にへたり込むインデックスは、むしろゆっくりとした|丁寧《ていねい》な動きで体にバスタオルを巻いていく。
「は?」
「……そして|何故《なぜ》、人の裸を見てもごめんなさいがないの?」
「い、いや、違うんですよインデックスさん? わたくし上条|当麻《とうま》はさっきの部屋で取り残された絵皿を発見しましてね、|衝撃《しようげき》吸収用の新聞紙はこちらにあると伺いましたから……って、あれ? そういやオルソラ、新聞紙ってどこだ!? まさか浴室に保管されてるなんて事はねーだろ普通!!」
「ええと。部屋ではなく、廊下に置いてあるのでございますけど」
「が……ッ!? ちくしょう、本当に廊下の隅っこに束になって置いてある! くそ、どうしてこの存在にもっと早く気づけなかった上条当麻! そしたらこんなトラブルには―――」
一人で泣き言を始めた上条に、ついに全裸のインデックスのこめかみが不自然に動き、
「だ・か・ら、何でとうまの中では人の裸の優先順位が低いのかなァあああああああああああああああああああああああああッ!!」
「ぎゃああああああああああああああッ! 今日のインデックスは何だか二倍増しィいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
上条当麻、異国の地にて二度目の|噛《か》み付きスキンシップを体験。オルソラがこれを日本の変な伝統文化だと勘違いしない事を切に願うばかりであった。
頭をガブリとやられた上条が床を転げ回ったりオルソラが食器皿の整理を行ったりしている内に、すっかり空は夜の色になっていた。
「では、よろしくお願いいたしますね」
オルソラがペコリと頭を下げると、|幌《ほろ》のついたトラックはゴトゴト揺れながら走り去っていった。ちょっと割れやすい食器が心配になる揺れ方だ。
ともあれ、これで引っ越し作業はおしまいである。
キオッジアの街全体がこうなのか、単にこの一角だけなのか、周囲に人はいなかった。少し遠くから夕飯を採る家庭的な音や談笑が聞こえてくる。
オルソラは最低限の荷物だけ人った四角い|鞄《かばん》を手に。取ると、
「お二人とも、お疲れ様でございました。長い間引き止めてしまって申し訳ありません」
「いや別に良いんだけど、オルソラはこれからどうするんだ。こっちはホテル戻ってから色々行くつもりだけど、|俺達《おれたち》と|一緒《いつしよ》に|観《み》て回るか?」
「いえいえ、そんな」
軽く聞いただけなのに、|何故《なぜ》かオルソラは片手を|頬《ほお》に当てると顔を赤くしてわずかに目を|逸《そ》らした。彼女はそのまま言う。
「これからホテルに向かうお二人の後をついていけと|仰《おつしや》るのでしょうか。……そんな、大人数だなんて」
「こぼっ!?」
|上条《かみじよう》は思わず吹き出したが、インデックスは|眉《まゆ》をひそめて、
「??? なに、おおにんずう?」
「聞かなくて良い! そして知らなくても良いんだインデックス!!」
オルソラが|懇切丁密《こんせつていねい》丁に説明する寸前で上条が絶叫した。インデックスは『?』とまだ理解できていない顔をしている。
「こちらもロンドンでのお仕事を休ませていただいて来ている身ですから、あまり長居はできないのでございますよ。それに」
「それに?」
上条が聞くと、オルソラは唇のわずかな動きで笑みの形を作って、
「これからキオッジアにお別れを告げに回りたいと思っていますし……。それはあんまりあなた様にはお見せしたくないのでございますよ。少々みっともない顔をするかもしれませんしね」
あ、と上条は今さら気づいた。
ここはオルソラがずっと住んでいた場所で、そしてこれからは住まなくなる場所だ。それも彼女が自分から望んだ引っ越しではない。ローマ正教という大きな組織とのいざこざがなければ、場所を移す必要はなかったはずだ。
アニェーゼの件で、上条はオルソラを助けたと思い込んでいた。
それは厳密には間違っていないだろうが、決して無傷という訳ではなかったのだ。
いつもの日々を失った上での、やっと果たされた救出劇。
そんなものは、|中途半端《ちゆうとはんぱ》の妥協点も良い所だ。
「……悪いオルソラ、気が|利《き》かなくて」
「いえいえ。別に針轍際ここへやって来れなくなるという訳ではございませんから。ほらほら、そんな顔はしないでください。私はキオッジアと同じぐらいロンドンという街も気に人っているのでございますよ」
月と星の光に照らされたアパートメントの前で、オルソラの方に笑って気を遣われた。|隣《となり》にいたインデックスが無言で|上条《かみじよう》の|脇腹《わきばら》を軽く|肘《ひじ》でつつく。それ以上は|踏《ふ》み込むな、というサインだろう。上条にも、それぐらいは分かる。分からなくてはいけない。
「では私はこれで。機会がありましたら、ロンドンのお部屋にも招待するのでございますよ」
「ああ。お前も、また日本に来る事があったら」
「その前に、とうまもお部屋を掃除しなくちゃいけないかも」
言って、三人とも笑いながら|陽《ひ》の落ちた暗い道のそれぞれ反対へと歩き出そうとした、
まさに一歩前で、
ピクン、とインデックスが顔を上げて、
「まさか……これ[#「これ」に傍点]って」
突然彼女が叫んだ。
「みんな伏せて!!」
上条とオルソラは、キョトンとした顔でインデックスを見る。
(伏せるって……何で?)
ガチンと、どこか遠くから金属のような音が聞こえた。
インデックスの顔に|緊張《きんちよう》が走る。
「|狙いを右へ《AATR》!!」
ほとんど頭上に向かって放つように声を放ち、
ばん、と。
不自然な音を立てて、突然オルソラの四角い|鞄《かばん》が横に飛んだ。
「あら?」
その時、オルソラは鞄をもぎ取られた自分の手を、不思議そうに眺めていた。ふわりと浮かんだ鞄が、地面に落ちる。金属の留め具が外れて、二枚員のように鞄が開く。その中から、|櫛《くし》や口紅などがバラバラと道路に散っていく。替えのものであるらしいアイロンをかけられた黒いフードが、道路に沿って流れる運河の縁ギリギリに引っかかる。
上条は、大きく開いたまま路上を滑っていく鞄を見た。
その表面に、一辺一センチぐらいの四角い穴が不自然に|穿《うが》たれている。
「とうま、そこから|離《はな》れて!!」
|緊迫《きんぱく》したインデックスの大声。
(コイツが|騒《さわ》ぐって事は……今のは|魔術《まじゆつ》、なのか?)
疑問と共に彼女の方を振り返ろうとしたが、|上条《かみじよう》は途中でギクリと動きを止めた。オルソラの修道服。その表面が、判子を押したようにわずかに|窪《くぼ》んでいた。衣服の上の点は、そのまま音もなくオルソラの肩から胸へ向かう。
まるで、照準を補佐するレーザーポインターのように。
(飛び道具の……)
「|狙撃《そげき》!? オルソラ!!」
上条はスーツケースから手を離し、|隣《となり》で突っ立ったままのインデックスの胸を突き飛ばして地面に転ばせ、そのままオルソラのお|腹《なか》へと突っ込んだ。
路上に押し倒す。
ガチン、と小さな音がした。
上条の背中に、右から左へ線を引くような痛みが走る。
何かが|皮膚《ひふ》の上を|掠《かす》っていったのだ。
(どこから!? |誰《だれ》が!! どうやって!?)
ジクリと|滲《にじ》む痛みに耐えて周囲を見回す。周囲は五階建てぐらいの四角い建物か、直線的な運河があるだけ。|素人《しろうと》の上条にはこれが狙撃に適した環境なのかどうかも判断がつかない。ぐるりと見回した範囲で、|馬鹿《ばか》デカいライァルを構えた人間が見える訳でもない。鞄そらく|鞄《かばん》が|弾《はじ》かれた方向の逆から何かが飛んできたのだろうが、そちらを見てもあるのは建物の壁だけだ。ただ、インデックスは攻撃の予兆のようなものを|掴《つか》んでいたようだが、
「とうま!!」
インデックスの叫び声が聞こえる。
思考が|遮断《しやだん》された。
上条が注意を内側から外側へ向け直す前に、冷たく|濡《ぬ》れた手が上条の首根っこを掴んだ。ギヨッとして振り返ると、道路に沿って流れる運河から一本の手が伸びていた。黒い|長袖《ながそで》の手だ。誰かが運河の海面から|這《は》い上がり、上条の首の後ろを掴んでいるのだ。
「ッ!!」
何か思う前に一気に引っ張られた。
バランスを崩した上条はオルソラの上から引き|剥《は》がされ、そのまま運河へと落ちた。|濁《にご》った海水が|喉《のど》を焼く。背中の傷が爆発したように痛みを増していく。光の乱反射によって|歪《ゆが》んだ視界の中、人れ替わるように誰かが路上へ上ろうとしているのが見えた。その右手には、ギラリと光る金属質の|輝《かがや》きがある。
ナイフ、あるいは剣。
(ちっくしょ……|誰《だれ》なんだテメェは!)
|上条《かみじようし》は|襲撃者《ゆうげきしや》の足に手を伸ばしたが、すんでの所ですり抜けられた。上条は手足をバタバタ振って上方向への力を得ると、「気に水面に顔を出す。
満潮のせいかもしれないが、水面から道路までの高さは数十センチしかない。しかしそのわずかな高さが上条の視界を|塞《ふさ》いでいる。
「っく!」
運河の縁に両手をかけて勢い良く|這《は》い上がる。
と、視界の先にオルソラがいた。不思議と|片膝《かたひざ》をついて|屈《かが》んでいるような姿勢に見える。上条が押し倒した状態から、何とか立ち上がろうとしている途中なのだろう。その顔には、恐怖というより|驚《おどろ》きが張り付いていた。
そして。
そんな彼女のすぐ前に、襲撃者はいた。上から下まで真っ黒な修道服を着た小柄な男だ。オルソラ同様、肩の所に|袖《そで》を着脱させるためのファスナーがついている。上条に背を向けているため顔は見えないが、紫色に染めた髪が特徴的だ。
そのびしょびしよに|濡《ぬ》れた手が握っていたのは、予想に反してナイフでも剣でもなかった。|槍《やり》だ。強引に短く切ったようなイメージを与える七〇センチぐらいの黒塗りの木の柄の先端に、刃渡り一〇センチ程度の鋭い刃がついた武器。
突き刺せば間違いなく人が死ぬ。
そんな物を襲撃者の男は両手いっぱいに振り上げている。
まるで地面に杭でも打ち込むような動きで。
すぐさま止めなくてはならないが、運河から這い上がったばかりの上条はちょうど路上にへばりつくような格好で、|距離《きより》数メートルのオルソラ|達《たち》の元へ飛び込むには数秒かかる。そうこうしている内に、襲撃者は振り上げた槍を思い切り振り下ろし、
「死ねクソ|馬鹿《ばか》!!」
上条は散らばっていたオルソラの荷物の中からドライヤーを|掴《つか》んで思い切り投げつけた。
無防備な襲撃者の後頭部に直撃する。
槍の軌道が外れた。
オルソラの顔のすぐ手前を|掠《かす》め、地面に槍の先端が勢い良くぶつかる。
「!!」
襲撃者が勢い良く振り返る。標的の前に|邪魔者《じやまもの》を消すとばかりに、そのまま上条の|懐《ふところ》へ突っ込んできた。その刃が、この夜の中で夕日のように不自然なオレンジ色に|輝《かがや》く。やはり|魔術《まじゆつ》か。
上条は地面にへばりついたまま、右手の|拳《こぶし》を握り|締《し》め、
「|刃の切れ味は己へ向かう《ISICBI》!」
インデックスが妙な言葉を叫んだ|瞬間《しゆんかん》、男の持っている槍が、スパン! とひとりでに輪切りにされた。突然バラバラになった自分の武器に、思わず修道服の男がギョッと身を固め、
「!!」
起き上がった|上条《かみじよう》が、低い姿勢から突き上げるように男の|懐《ふところ》へ突っ込んだ。そのまま右の|拳《こぶし》を男の顔面へ|撃《う》ち放つ。下から斜め上に|衝撃《しようげき》が走り、男の頭が揺さぶられる。
「あ、ぎっ!」
|坤《うめ》き声をあげ、後ろへ下がろうとする男の顔へ、上条はさらに拳を|叩《たた》き込む。
ゴン!! という音と共に。
全体重を乗せた一撃は|容赦《ようしや》なく男の鼻の真ん中に食い込み、今度こそそのまま地面に叩きつけた。背中から落ちた男はそのまま動かなくなる。
ホッとする間もなく、
「ッ! |狙撃《そげき》の方は!?」
「|大丈夫《だいじようぶ》。……こっちはもう済ませたよ[#「もう済ませたよ」に傍点]」
「済ませたって、何を!?」
インデックスの軽やかな言葉に、上条は逆に混乱しかけた。
直後。
「あがががががががァッ!!」
どこか遠くから、太い男の叫び声が飛んできた。ギクリとする上条の耳に、落ち着いたインデックスの声が滑り込んでくる。
「遠くからこちらを|狙《ねら》っているって事は、こちらの様子は|逐一敵《ちくいち》に伝わっているって事。なら、相手がどこにいようが私が放つ『|強制詠唱《スペルインターセプト》』を受け取るはずだよ」
どうやらインデックスが何かやったようだが、具体的にどうしたのか上条には|掴《つか》み切れない。
ダッ、という靴底が地面を|蹴《け》る音が聞こえた。
上条が通りの角へ目を向けると、そこから男らしき人影が飛び出してきた。側頭部を片手で押さえ、ふらふらした足取りだった。耳元で爆発音でも聞いたような動きだった。暗いので細部は分からない。その男は上条|達《たち》にではなく、海水の運河に向かって一直線に走ると、
「|前衛は見捨てる《Abbandoniamo la vanguardia》! |今すぐここで撤退の船を出せ《Ora si ritira di qua》! |あの女は船の上で殺してやる《Quella donna la uccidero sulla nave》!!」
イタリア語らしき言葉で何か|喚《わめ》いて、そのままためらわずに道路と堤防を兼ねた縁から海水へと飛び込もうとする。
(あの逃げようとしてるヤツ、さっきの|狙撃手《そげきしゆ》か!? くそ、追うか、深追いは|避《さ》けるか!?)
上条が迷っている間に、水を破る音が聞こえた。
ただし。
人が一人海水に飛び込むだけにしては、あまりにも巨大すぎる|轟音《ごうおん》が。
ドパァ!! と運河の水面が破られる。
まるで滝を逆さにしたように海水が舞い上がり、男は飛び出した物体の上に着地する。
「な……ッ!」
|上条《かみじよう》の息が止まりかける。
運河の底から飛び出したのは、一隻の|帆船《はんせん》だった。大航海時代に|海原《うなばら》でも渡っていたと想像させる、四本のマストのついた古めかしい作りの船だ。ただの船と違う点は、その素材か。新大陸を求めて海を渡っていた船が木で作られていたのに対し、今ここで飛び出した船は半透明の冷たい印象を与える物質で作られていた。あたかも水晶でできているようだ。マストの帆やロープまで同じで、本当に帆船として機能するか疑問に思えるほどだった。街や月の明かりを浴びているせいか、うっすらと白っぽい電球色の光を帯びている。
しかし。
それ以上におかしいのは、この船のサイズだった。
「うわっ!!」
「とうま!!」
運河の幅は二、三〇メートルはあったはずだが、飛び出した船は横幅だけで運河の壁となる左右の道路を砕き、強引に本体を膨らませていた[#「強引に本体を膨らませていた」に傍点]。
「こんなもん、今までどうやって隠れてたんだ!?」
まるで駅前の自転車の列のように|停《と》めてあったたくさんのモーターボートが|噛《か》み砕かれて海水の底へ沈み、あるいは半透明の船体にぶつかって宙を舞った。上条はインデックスの頭を|襲《おそ》うボートの破片を|拳《こぶし》で|叩《たた》き落としたが、直後にまるで鉄砲水のように|溢《あふ》れ返った海水が彼の足元を思い切りすくった。お|風呂《ふろ》の湯船に子供が飛び込んだのと同じだ。上条は流される洗面器のように転ばされ、地面を滑る。
「痛っつ! 何だっつーんだよ!?」
水浸しの地面に倒れたまま頭上を見上げれば、すでに三角形のマストの頂点は四〇メートルに届いている。しかも、なお船体は海中から海上へ飛び出し続けていた。
おかしい、と上条は思った。実際に運河に引き落とされたから分かるが、底までの深さはせいぜい三メートル程度しかなかった。これだけ巨大な船を隠せるほどのスペースはないはずだ。
ドパン!! とさらに船体が跳ねる。
今までかろうじて船体の甲板は道路の高さに維持されていた。それが 気に真上へ突き上げられる。その拍子に、
「きゃ……ッ!!」
オルソラが船の縁に引っかかる形で、そのまま地面から飛び出してきた船体へ持ち上げられた。それを見る間もなく、上条の体に下からの|衝撃《しようげき》が加わる。まるでアッパーカットのように、淡く|輝《かがや》く半透明の船体の縁が食い込んできた。
|轟《ごう》!! と風が|喰《うな》りを上げる。
|一瞬《いつしゆん》だけ浮遊感を得たと思ったら、すでに足元に地面がなかった。ずるりと体が滑ったと思った途端に、|上条《かみじよう》の体が船体の手すり、、」と二〇メートルほど真上へ押し上げられた。そのまま船体の縁から落ちそうになる。
この高さから|墜落《ついらく》したらひとたまりもない。
「っつ!!」
上条は両手で慌てて手すりの代わりにもなっている縁を|掴《つか》む。
ついさっきまで海中に沈んでいた船体の壁は、二〇メートル強の|崖《がけ》となってそびえていた。
ざっと七階建てぐらいはある。周囲のアパートメントより視点は高くなっていた。その縁にぶら下がった上条が横を見。ると、同じように縁に引っかかっているオルソラと、前後に一〇〇メートル以上の長さにわたって船体の壁が続いているのが分かった。
「オルソラ! とにかく船に上がれ!!」
(そりゃあ、できればこんな|得体《えたい》の知れないモノになんか乗りたくもねえけどな!!)
上条は心の中で吐き捨てると、妙に滑る自に近い電球色の構成素材を掴んでどうにか船体の甲板へ乗り上げる。
巨大な船だった。
全長一〇〇メートル超、甲板から船底まで二〇メートル弱。甲板からマストの先まで|全《すべ》て半透明の素材で作られていて、白っぽい電球色に淡く|輝《かがや》いている。上条|達《たち》がいるのは船の中央近くだったが、船の前後には階段状に、船室が階を重ねていた。ちょうど彼らの現在地はすり鉢の中心みたいな所だ。
上に三階、下はおそらく五階から七階はある。上条の学生|寮《りよむつ》よりも大きな船なのだ。運河の両岸はべキベキと砕かれ、押し上げられた海水が細かく伸びる道の奥へ奥へと流れ込んでいる。
「|馬鹿《ばか》げてる……。そんなモンが突然運河から飛び出してくるなんて……」
船体も半透明の奇妙な物質で作られていて、内部で月明かりでも乱反射させているのか白っぽい電球色に淡くぼんやりと輝いている。
(これ……ガラスや水晶だと思ってたけど、違う。むしろ氷に近いんじゃねえか)
氷を利用した実用的な建造物と言えば、カナダのイヌイットの住居であるドーム状の『冬の家』が有名だが、こちらとは規模が全く違う。
上条は試しに甲板へ指を|這《は》わせてみる。確かに氷と似ているものの、|皮膚《ひふ》が張り付くような冷たさはない。まるでプラスチックのような|生温《なまぬる》さだが……水は〇度で凍るもの、というのは一気圧下での常識でしかない。一定の条件を整えれば沸点や|凝固点《ぎようこてん》を上下させる事ができるため、世の中には二〇度の氷や八〇度で|沸騰《ふつとう》するお湯なども存在するのだ。
やはり、|魔術《まじゆつ》で作られたものなのだろうか。
氷という割に、足元はツルツルと滑ったりはしない。氷が滑るのは、溶けた水分の膜が|摩擦《まさつ》を減らすからという話を聞いた事がある。|融点《ゆうてん》の変動した氷は人肌に触れても溶けないから、水分の膜ができないのかもしれない。|魔術的《まじゆつてき》な物だとしても|上条《かみじよう》の右手で触れた程度では|壊《こわ》れないようだが、ステイルの『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》』のように何か仕掛けがあるのだろうか。
と、さらにもう一度、船体が大きく上へ跳ねた。下から|衝撃《しようげき》が|襲《おそ》い掛かる。モタモタしていたオルソラの片手が、船の縁から外れた。
「きゃあ!?」
「|掴《つか》まれ!!」
とっさに甲板から手を伸ばした。もう片方の手が|離《はな》れる寸前でどうにか握り|締《し》める。|所詮《しよせん》は女の子の体重に過ぎないが、不安定な姿勢で支えると感覚的に数倍の重量を感じる。上条は冷や汗をかきながらも、それでも何とかオルソラの体を甲板へ引きずり上げた。
そのままの勢いで上条とオルソラは氷の上を転がる。
「とうま!! |大丈夫《だいじようぶ》、とうまってば!?」
|遥《はる》か絶壁の下からインデックスの心配そうな叫び声が聞こえてきた。
しかし上条にはそれに答える余裕がない。
ガゴン! と船が大きく|震動《しんどう》したと思ったら、今度は前から後ろへ慣性がかかった。ぐぐっ、と上に|覆《おお》い|被《かぶ》さっているオルソラの体が上条の胸板に食い込んでくる。
上条は周囲を見回す。二人以外に人はいなかった。無言のままの巨大な氷の船は、しかし上条に一つの答えを突きつける。
(まさか、進んでる? 普通ここまで大きなサイズじゃ、運河に挟まって身動き取れなくなるだろ。こんなの砂浜に打ち上げられたクジラと同じじゃねえのかよ!?)
|驚《おどろ》く上条の予想に反して、巨大|帆船《はんせん》はスムーズに進んでいく。まるで氷の上を滑るカーリングの石のようだ……と思って、気づいた。この淡い光を放っている船体は融点の変動した氷で作られているとすれば、船底の方だけ一時的に水の膜を生んで|摩擦《まさつ》を減らしているのかもしれない。
「オルソラ、大丈夫か?」
「え、ええ……」
上条の言葉にオルソラは不安げに答えてから、ふと自分が覆い被さっている事に気づいたらしい。いつものんびりしている彼女にしては珍しく、パパッと離れようとして―――そのままバランスを崩して真後ろへ転んだ。
上条としても海水で肌に張り付くシャツに女の子の|匂《にお》いがこびりつくのに少しドギマギしたが、今はそれどころではない。
船体の縁、手すりの代わりにもなっている一段高い壁から手をついて下を耀く。灯台の上から身を乗り出すような高度に上条はゾッとする。氷の帆船は相変わらず運河を強引に押し広げ、|停《こ》めてあったボートを次々と食い|潰《つぶ》しながら水路の流れに従ってひたすら直進していた。
「一体、何がどうなってんだよ!」
嘆くが、それでも目の前の状況は何も変わらない。
さらに目を|凝《こ》らし、彼は少しでも抜け道となるヒントを得ようとする。
「ここから下まで、高さは二〇メートル以上……。下は水面っつっても、飛び込んだら骨が折れるかもな。いや、船体が運河の幅より大きいって事は、あの川底は本当は石畳か? くそ、下が水面に見えるのは船が海水を道路に押し上げてるせいか!」
海水は玄関下部の|隙間《すきま》などから建物の中にまで入り込んだらしい。あちこちの屋内でバタバタと慌てたような物音が聞こえ―――その『原因』を|目《ま》の当たりにして|唖然《あぜん》と動きを止める。
「ッ!? ちょっとお待ちください!!」
と、オルソラが不意に手すりに身を乗り上げた。
そのまま目を見開いて、前方へ視線を投げる。
「なんて事でございましよう……」
「な、何だよオルソラ?」
「この船は運河を強引に進んで、キオッジア中心部を北上してアドリア海へ抜けようとしているようでございますけど」
それがどうしたんだろう、と|上条《かみじよう》が疑問に思う前に、
「伏せてください。この先には運河をまたぐヴィーゴ橋がございます! この船は強引に石橋を砕いて外へ出るつもりでございますよ!!」
「|嘘《うそ》だろ!?」
上条が慌てて手すりから身を乗り出しているオルソラの背中を鷹んだ直後、
ゴガァ!! という重たい|震動《しんどう》が|炸裂《さくれつ》した。
一|撃《いちげき》で橋が|破壊《はかい》されたのだ。
「げうっ!?」
掴んでいたはずのオルソラの衣服から上条の手が|離《はな》れる。受けた|衝撃《しようげき》に、彼はほとんど呼吸困難に近い状態となって甲板の上を転がる。
(が……ぁ! オル、ソラは……ッ!?)
甲板に手をやってふらふらと起き上がると、幸いオルソラは船の内側へ吹き飛ばされたらしく、上条と同じように床に倒れていた。正直、ホッと胸を|撫《な》で下ろす。外側に向かっていたら二〇メートル下まで落ちていた。
(くそ……)
上条は途方もない状況を前に、それでも何とか頭を動かして、
(変な連中に突然|襲《おそ》われるわ、氷でできた妙な船に乗せられるわ、インデックスとは離れ離れになっちまうわ……。どうなってんだ、本当に)
オルソラは手すりの代わりにもなっている船体の縁の向こうを眺め、ぼんやりと|呟《つぶや》いた。
「陸から……|離《はな》れていくようでございますね」
「ああ。一体どこに向かう気なんだ、この船は」
ゲホゲホと呼吸を整えつつ、|上条《かみじよう》は小さくなっていく陸地を眺める。
しかしその静寂も長くは続かない。
今度は遠く―――と言っても同じ船の内部から、バタバタと複数の足音が聞こえてきた。
「|捜せ《Cerca》。|奴らはこの中に乗っているはずだ《Loro devono essere a bordo》!」
太い男の怒声に上条はギョッとした。
言葉の意味は分からなかったが、そこに込められた敵意だけは汲み取れた。
オルソラが声の大きさを抑えて、
「どうしましょう。私|達《たち》の事を捜しているようでございます……」
「分かってる! 飛び込んで逃げるのは……|駄目《だめ》か。こう暗いと東西南北が分かんねえし」
ゾッとするほど周囲の海には何もない。もうそんなに進んだのか、と上条はむしろ|呆《あき》れてしまった。沖へ向かうにつれて、船の高さが下がっていく気がする。今まで船が運河の底に乗り上げていたのに対し、きちんと海に浮かんでいる状態に移行しつつあるのだ。基本的に船は高さの半分ぐらいは水の中に沈むように作られている。となると、実質的な海面までの|距離《きより》は一〇メートルか。
しかしそれ以前に、波のある海で衣服を着たまま遠泳するには特殊な技術が必要だ。無理に挑戦しても、十中八九陸地に着く前に沈んでしまう。
見た所、この氷の船は古い|軍艦《ぐんかん》を模しているらしー、側面の壁には半透明の大砲が何十門も飛び出していた。酸素ボンベやシュノーケルがなければ海面に顔を出して泳ぐ事になる。船の上から見れば、不自然に波の立っている場所などすぐに判明してしまうだろう。もしもあの砲台から本当に弾が出るとしたら、水面にいるのを見つかった時点で即死する。
どんどん小さくなっていく陸地を眺めながらも、上条達は船から下りる事ができなかった。
「くそ……ッ!!」
船のあちこちからガツガツという足音が近づいてくる。
対してこちらには安全な逃げ場はどこにもない。
船の光源自体はそれほど強くはない。
氷の表面がうっすらと光っている程度で、中空には暗がりがわだかまっている。
しかし淡いとはいえ、床も壁も|全《すぺ》てから光が出ているのだ。上条やオルソラの姿はシルエットとして明確に浮かび上がってしまう。|闇《やみ》に紛れるのは難しいだろう。
不幸中の幸いか、全長一〇〇メートル強もの大きな船は、大きい|故《ゆえ》に様々な|遮蔽物《しやへいぶつ》や船室がめるようだ。
「オルソラ、船の中に行くそ。このままここにいても間違いなく見つかっちまう。とにかく一度隠れてチャンスを|窺《うかが》おう」
「は、はい! 分かったのでございますよ」
|上条《かみじよう》はオルソラの手を|掴《つか》んで、身を|屈《かが》めたまま氷の船の上を走る。
楽しく始まったはずのイタリア旅行は、思わぬ形で別の側面を見せ始めていた。
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行間 二
時間は数週間ほど|遡《さかのぼ》る。
道路のわずかな起伏を敏感に受け取り、馬車の車輪がゴトゴトと小さな振動を生む。ゆったりとした速度で進む馬車は、しかしそのわずかに鋭角的な印象を与える揺れによって、眠気を|誘《さそ》うまでの安らぎは与えなかった。
アニェーゼ=サンクティスはそんな馬車の荷台に腰掛けていた。布を骨組みで整えた|幌《ほろ》ではなく、オーク材を使った本格的な車室を作っている。
彼女の|歳《とし》は十代前半から中盤に届くぐらいか。同世代の少女よりもやや背は低いだろう。色の白い肌に、レモンティーのような色の|瞳《ひとみ》。茶色から金髪へ移りつつある、いわゆる赤毛の髪は鉛筆ぐらいの太さの三つ編みを何本も作っていた。
服装は|漆黒《しつこく》の修道服に、足には高さ三〇センチもの厚底サンダルを|履《は》いている。機能性の高い生地で作られた衣服だが、不自然なぐらい|綺麗《きれい》だった。普通は|洗濯《せんたく》などで少しずつ|傷《いた》んでいくものだが、それすらない。そこだけが、浮いていると言えば浮いているか。
小さな修道女は窓の外を見る。
四角い窓はトレイほどの大きさもない。そしてフェンスのように交差する角材が窓のすぐ外に組んであった。窓は閉じたままだったが、それでもうっすらとした潮の|匂《にお》いが鼻についた。
ガラスを挟んだ先にあるのは、世界的観光地の恩恵を受けている衛星都市の光景だった。スーツケースを引きずる親子連れや、店の前で彼らに話しかける喫茶店の店員などが見える。
「こっちの地方は初めてかい?」
馬車の前方―――それを操っている御者の席から声が聞こえた。と言っても、オーク材の壁に|遮《さえぎ》られているため、アニェーゼからでは見えないが。
やや太い中年男性の声は特徴的で、イタリア語の中にフランス的な単語が混ざっている。ミラノ出身か、とアニェーゼは適当に考えた。
「ええ。あまり縁はないですね。北と言っても私はミラノの方なので」
日本語は覚え方の問題からかやや粗暴な彼女だが、イタリア語は|丁密《ていねい》丁なものだ。
同じイントネーションで言葉を返すと、御者の|雰囲気《ふんいき》から一気に角が取れた。
「いいね。おれもどっちかっていうと、内陸側の方が好きだ。なんつーか、あっちって空気がパキッと整ってる感じでさ、身が引き|締《し》まるんだ。ま、こっちもこっちで見所はたくさんあるけどね。こんな職ではあるんだけど、あちこちを見て回れるのは|魅力的《みりよくてき》なんだよな。本当に職場がイタリアで良かったよ、どこも特徴的でさ。|他《ほか》の国なら景色に飽きてる」
その言葉に、アニェーゼはうっすらと笑う。
彼女は窓の外を眺めながら、
「国の外にも、良い場所はたくさんありますよ」
「本当に?」
「ええ。ミーハーですけどね、世界遺産って言葉があるでしょ。実際に行ってみると、ああ、確かに選ばれるだけの価値はあるなって分かるんですよ。フォンテーヌブローの庭園はルネッサンスの生んだ水と緑と平面の芸術ですし、ケルン大聖堂は青空に向かって鋭角に刺さる建築の集大成です。東洋は、|美醜《びしゆう》の前に不思議って感じが先立ちましたけどね」
そんなもんかな、と御者は興味なさそうに答えた。
馬車はゆっくりと進む。速度が遅いのは御者の操作の他にも、引いているのが馬ではなく実は|臆馬《ろば》である事もあるだろう。文字通り、馬力がないのだ。
「世界中を飛び回っていた人の言葉はやっぱり違うなあ」
「いえ、私もどちらかというと、ほぼ欧州に集中していたという感じでしたけど」
「おれはほとんどどころか、出た事はないなあ。ほら、仕事が仕事だから。馬車で移動できる範囲でしか回れない訳で」
「外周の場合は飛行機を使うんですか」
「らしいね。でも確実性を考えるとやっぱり陸路かなあと思うよ。|科学側《あつち》が|関《かか》わると逃亡防止の術式を組めなくなるって話だし。……おっと、今の君には|辛《つら》い話か。悪かったな」
「いえいえ。でも、確かに飛行機は|窮屈《きゆうくつ》な感じがしましたね」
「そうかい、やっぱりなぁ。飛行機って、無理を通して強引に飛んでるって感じがするからなあ。だって、穴が空いたら気圧差で空中分解するっていうんだぜ。高空特有のルールなんだろうけど怖いよな。気球ぐらいならのんびり乗ってみたいって思うんだが」
「ちなみに気球も飛行機の一種ですよ」
「あ、そうなの? まぁどっちにしても|科学側《あつち》の分野だから、この先もおれには縁がないかな。っと、着いた着いた」
慣性の力がかかり、ぐぐっとアニェーゼの体がわずかに傾く。縢馬の引く馬車が|停《と》まったようだ。彼女は窓から目を|離《はな》し、代わりに後方の両開きの扉を見た。
まだ閉じたままの出口を眺め、彼女はポツリと告げる。
「行き先はやっぱり……『アドリア海の女王』に、『女王|艦隊《かんたい》』ですか」
それが合言葉のように、扉の|鍵《かぎ》が外された。
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第三章 水の都の船の上で Il_Mare_e_la_Sconfitta.
外も氷なら、中も氷だった。
通路や壁、|天井《てんじよう》などが半透明の氷で作られている。ドア板、ノブから|蝶番《ちようつがい》のネジ一本に至るまで、その全部が同じ素材だった。中には本当に機能しているのか怪しいものまである。|徹底《てつてい》された氷の船内は、やはり外側と同じく壁や床が白っぽい電球色に淡く|輝《かがや》いていた。月明かりでも取り込んで、乱反射させているのだろうか?
照明は蛍光灯のように強くなく、壁や天井といった全体の輪郭はハッキリと浮かぶくせに空間そのものは|薄暗《うすぐら》かった。スクリーンに弱い光を当てた映画館に近いかもしれない。
|上条《かみじよう》とオルソラは、甲板から船内に|繋《つな》がるハッチを開けた後、一番近くにあった部屋に駆け込んだ。実際に見張りが|邪魔《じやま》をしていた訳ではないし、そもそも発見されていたらその時点でおしまいだ。しかし|誰《だれ》もいなくても、何か見えない重圧のようなものが通路の奥から吹いている気がした。一刻も早く安全な場所に隠れたいという心理もあったのだろう。
二人が部屋の中に入り、ドアを閉めて内側に張り付いた途端、外のハッチが開閉する音が聞こえた。バタバタという複数の足音と共に、聞き取れない言葉で怒鳴り合う声が耳に入る。男のものだという事ぐらいしか分からない。言葉が通じないからこそ、その声から戦況が読めない。それが余計に心を|炎《あぶ》る。
「くそ、何がどうなってんだ?」
上条|当麻《とうま》はポツリと|呟《つぶや》いた。
せっかくイタリア旅行のチケットを当ててここまでやってきたのに、変な連中には|襲《おそ》われるわ|馬鹿《ばか》デカイ船に乗せられるわと散々だ。
オルソラと|一緒《いつしよ》に隠れた場所は、砲台を扱う部屋らしい。船体の壁から飛び出すようにズラリと並んでいたアレだ。どうやら一つ一つが小さな部屋に区切ってあるようだった。
こちらからは砲台の底部が見える。砲の手前にはいくつかの|椅子《いす》があり、|壁際《かべぎわ》には棚が、部屋の隅には大きな|樽《たる》が置かれている。その|全《すべ》てが半透明の、白っぽい氷でできていたが―――逆に言えば、それしかない。本来樽の中に人っているだろう砲台用の火薬も、バレーボールのような砲弾もない。あくまでも砲台はイミテーションなのか、それとも物理法則を無視した|魔術《まじゆつ》砲台なのか、上条には判断がつかなかった。
内壁から調度品まで、船内は全てが淡い光を放っている。質感が均一であるため、全体的につるりとした|滑《なめ》らかな印象を与えてくる。どこを見ても光はあるくせに文字を読むのには苦労しそうな、不思議な空間だった。
「この船も気になりますけど、どうしてこんな大それたものを使ってまで私を|襲《おそ》ってきたのでございましょう……?」
オルソラは不安そうに言った。それはまぁそうだろう。自分の命が|狙《ねら》われているのだ。理由が分からない事には対策の立てようがない。
|上条《かみじよう》は突然運河の中から短い|槍《やり》を持って現れた男の事を思い出して、
「襲ってきた|馬鹿《ばか》って……オルソラの修道服を男物に変えたって感じの格好だったよな」
「ええ。確かに男子修道者の装束でございました。となると、あの方はローマ正教の手の者と|捉《とら》えるのが妥当でございましょうか?」
「って事はやっぱり『法の書』事件|絡《がら》みなのか? それ以外にトラブルの種は思いつかないし」
「ですが、あの一件は私がイギリス清教へ移った事で決着したはずでございますけど……。今の状態で私を|闇《やみ》に|葬《ほうむ》れば、不利になるのはローマ正教の皆様のはず。……わざわざ氷の|軍艦《ぐんかん》などを用意してキオッジアの運河を|破壊《はかい》し、ヴィーゴ橋を崩してまで実行する事でございましょうか」
「ってか、派手だよなぁ……」
上条は頭を抱えた。
学園都市や日本の中での|魔術的《まじゅつてき》な|騒《さわ》ぎは、魔術師の方も表に出ないように工夫していた気がする。しかし、今回の氷の軍艦にはそれがなかった。堂々と現れ、堂々と破壊し、堂々と去る。|今頃《いまごろ》キオッジアはパニックになっていないだろうか? もっとも確かに、氷の巨大|帆船《はんせん》が狭い運河から飛び出して街を|壊《こわ》していった、などと言っても|誰《だれ》も信じないだろうし、信じた所で魔術師の存在が明るみに出る事はないのだろうが……。
「この船、どこに向かってんだろう?」
「キオッジアから北土しているという事は、熔そらくヴェネツィア方面でございましょうか。南下しない限り地中海には出られませんけど……。あっ、そちらに窓があるのでございますよ」
オルソラが指差したのは、室内から砲の照準を合わせるための|覗《のぞ》き窓だ。だが、そちらに目をやっても見えるのは暗い海面だけだ。水平線まで平べったい海が続いていて、その先は同じく暗い空。現在地を示す手がかりは何一つない。
と。
ドパァ!! と海面が爆発した。水を割る|轟音《ごうおん》と共にシャチのように飛び出したのは、上条|達《たち》が乗っているのと同じ規模の氷の帆船だった。そうしている間にも五隻、一〇隻と次々に海面を砕いて半透明の軍艦が現れる。こちらからでは一方向しか見えないが、カそらく四方で同じ事が起きているだろう。
水平線まで何もなかったアドリア海が、無数の船で埋まっていく。
暗い色彩でしかなかった海面が、白っぽい電球色の淡い光に染まっていく。この船の光そのものは強くもないが、数が集まってしまえば話は別だ。
「……この船は敵の本拠地ではなく、その一部に過ぎなかった、という事でございますか」
「元々本隊がこっちにあったのか、キオッジアじゃ狭すぎて展開できなかっただけなのか」
|上条《かみじよう》は|歯噛《はが》みした。
この一隻だけでも手に余るのに、さらに規模が増した。ますます逃げ場がなくなった感じだ。もはや海上での途中下船は|諦《あきら》めて、どこかの港に着くまで隠れていた方が良いのだろうか。
「ったく、インデックスの方は|大丈夫《だいじようぶ》なんだろうな。携帯電話は……|駄目《だめ》か。|流石《さすが》は学園都市製、海水に落ちても大丈夫だったってのは素直に|褒《ほ》めたいんだけど……。アイツの〇円携帯電話は飛行機に乗る前に電源を切ったままか。っつか、そもそも海の上って電波届くのか?」
「はぁ。私の手荷物は|完壁《かんぺき》に流されたと思うのでございますよ。|鞄《かばん》が開いて中身を道にばら|撒《ま》かれた状態のまま、この船が運河の水を押し上げてしまいましたので……」
女性として色々な物を鞄に詰め込んでいたのか、オルソラはちょっぴり気恥ずかしげに言った。上条は少し|呆《あき》れたような、それでいて感心したような声で、
「……この問題が終わった後の事も考えているお前は本当にたくましいよな」
「あら。イカスミはキオッジアではなくヴェネツィア名物でございますけどね」
またもや人の話を聞かずにおかしな方向に話題を振り回したオルソラに上条は本格的に脱力しかけたが、それも長くは続かなかった。
がちゃり、と。
突然船室のドアノブが回ったからだ。
「!?」
ドアの間近にいた上条とオルソラはギョッとした。
二人はとっさにドアの方へ振り返る。
ノブの音は一つではない。
がちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!! と数十もの音が一気に重なった。この階層、もしくは船内|全《すべ》てのドアが自動で開いたのか、右から近づいてきた音の大群が左の方へと駆け抜けていく。
部屋の中に隠れるスペースはない。
そしてドアの外―――|融点《ゆうてん》の変動した氷で作られた通路には、早足で部屋を見て回ろうとしていた人物が、ちょうど上条の前で動きを止めていた。
甲板で聞いたような、野太い声を出しそうな人間ではない。
開いたドアの先にいたのは、一人のシスターだった。特徴的なのは鉛筆ぐらいの太さの三つ編みをたくさん作った赤毛の髪か。どこか|悪戯《いなずら》好きな子供を思わせる目つきの、インデックスよりも背の低い少女。オルソラと同じ黒い修道服を着ているが、ドレスのように肌が大きく|露出《ろしゆつ》している。極めつけに、足元の三〇センチもの厚底サンダルを見て、
「アニェーゼ!?」
|上条《かみじよう》は思わず叫んでいた。
アニェーゼ=サンクティス。
ローマ正教の一部隊を率いていた|戦闘《せんとう》シスターで、かつて『法の書』を巡る事件でオルソラロアクィナスを暗殺しようとした修道女だ。
(おいおい、冗談じゃねえぞ! 何でこんなトコに乗ってんだよ? オルソラが|襲《おそ》われた事といい、コイツも|関《かか》わってんのか!!)
あまりにも不意打ち過ぎて、上条は次の言葉が出ない。
「―――、」
彼女の方も、まさかすぐそこのドアの向こうに上条|達《たち》がいるとは思っていなかったのだろう。自分のすぐ近くに立っている少年の顔を、わずかに目を見開かせて|凝視《ぎようし》すると、
ドバン!! と。
迷わず、真横から上条の|頬《ほお》に握った|拳《こぶし》を|叩《たた》きつけた。
「が……ッ!?」
上条の視界が揺らぐ。オルソラの小さな悲鳴が聞こえた。痛みそのものより、いきなりの事に反応できず彼は|眩暈《めまい》に似た状態に|陥《おちい》る。その間にアニェーゼはさらに一歩|踏《ふ》み出し、腰を回すように腕を振るう。顔に防御を集中させようとした上条の意識の|隙間《すきま》をすり抜けるように、彼女の小さな拳は少年の|脇腹《わきばら》へ、下から上へと斜めに突き上げるように食い込んだ。
ズドン!! という、革の|鞄《かばん》を|金槌《かなづち》で|叩《たた》いたような鈍い音が鳴る。
メシミシという嫌な|残響《ざんきよう》が上条の体内で|軋《きし》む。くの字に折れ曲がった上条の背中に、アニェーゼは上から拳を振り下ろす。何もできずに氷の床に伏した上条から|距離《きより》を取るように彼女は一歩横へ|逸《そ》れると、今度はオルソラの方へ目を向けた。
「ちょっ、少々待ってほしいのでございますよ……ッ!?」
オルソラが慌てたように両手を前に広げた。アニェーゼはわずかに|眉《まゆ》をひそめたが、両手の拳を開く事はない。と、そんな警戒を続ける彼女の耳に、
「……ずみまぜんんごべんなざいいや実を言うと少しドキッとしましただってほらお前の修道服って背中が大きく開いているしお|尻《しり》の方までちょっと見えそうだしお|腹《なか》の方だって後ろから両手で抱きついたみたいな形で切り込みが人ってて肌色がいっぱいで……」
床の上で相変わらずくの字な少年の、念仏みたいな声が届いてきた。
アニェーゼは狭い部屋の中で、上条とオルソラから等距離を保つ位置に移動すると、
「ッ!! そこ!!」
声を|荒《あら》らげ、ダン! と彼女は厚底サンダルの底で上条のふくらはぎを踏みつけた。そのままズボンの|裾《すそ》を足で引き上げる。
「|貴方《あなた》は! やはり武器を隠し持って、この『アドリア海の女王』の中に……ッ!!」
アニェーゼの警戒した声は、言い終える前に途切れる。
ふくらはぎにバンドで固定されていたのは、海外に不慣れですと宣言しているような、予備のお財布だったからだ。
「……、」
予測が外れた気まずさより、むしろ相手の意図が読めない警戒感からアニェーゼは|黙《だま》り、さらにジリジリと|上条《かみじよう》やオルソラとの間合いを計り直す。
アニェーゼのガードは解けないが、逆に一定の|膠着《こうちやく》は『手を出さずに会話を行える』状態とも言える。オルソラは軽く息を吐くと、彼女にしてはやや口数多く、
「はぁ。お引っ越しの準備が終わったと思ったらいきなりローマ正教の方々に|襲《おそ》われて、後は成り行き任せで船に乗る事になったのですけど。『アドリア海の女王』……というのは、この氷の|艦隊《かんたい》の名称でございましょうか?」
オルソラがキョトンとした顔で|呟《つぶや》くと、アニェーゼはようやく肩の力を抜いた。まだ油断は見せない視線の動きで床の上条を見る。
「彼女のあれは……相変わらず、性格的な問題なんですか?」
ややうんざりした声に、しかし人の話を聞いていない上条は倒れたまま、
「―――なのであってごめんアニェーゼ謝っている最中に告白するけど実は初めて会った時からぴったりしたミニスカ修道服ってすごくエロく見えると思ぐおっ!?」
三〇センチの厚底を|脇腹《わきばら》に食い込まされて上条が跳ね起きた。アニェーゼがもう一度全く同じ質問をすると、上条は上半身だけ起こして、グホゲホと|咳《せ》き込みつつ、
「いや……え、なに、何で怒ってんの? オルソラまた変な事言ったのか。アドリア海の女王? 何だっけ、どっかで聞いた事がある気がするけど」
「まぁ。私はちゃんと人の話を聞いているのでございますよ?」
それはいつの|台詞《せりふ》に対する返事なのか不明なので、二人ともオルソラには取り合わない。アニェーゼは、今度こそうっかり警戒を解いてしまったという感じで脱力すると、
「……艦隊名は『女王艦隊』です。この船はその護衛艦の一隻。どうやら、本当に何も知らねえみたいですね。駆け引きが下手というか、顔に全部出ているので丸分かりです。それが演技なら素直に感心しますが」
「こんなトコでお前は一体何やってんだ……」
「貴方にだけは言われる筋合いはねえんですがね。こっちは侵人者捜索の手伝いですよ」
アニェーゼが続けてとんでもない事を言った。
「ですけど、まぁ、侵人者が貴方|達《たち》だったとはね。これは少し利用できそうです。私が一人で行くと厄介な閾題が解決できねえと思って|難儀《なんぎ》していましたが、貴方達を使えるなら話は早いです」
ちょっと待った、と|上条《かみじよう》は思わず口に出す。
厄介、問題、|難儀《なんぎ》、使える、話は早い―――どれもこれも|不穏《ふおん》な言葉ばかりだ。
「なんか嫌な予感がするぞ。オルソラが難われたり変な船に乗せられたりって、鷹選だって巻き込まれたばかりなんだ。お前がここで何してんのか知らないけど―――」
「グダグダ言ってるようなら大声出しちまいますよ。ここから逃げたいなら私の機嫌は損ねない方が良いと思いますけどね。この「女王|艦隊《かんたい》』からの脱出方法を知りてえなら」
上条とオルソラは、ギョッとした顔でアニェーゼを見た。
アニェーゼは大して気にせず、
「ま、嫌なら良いですけど、こっちは素直に人を呼びますから後はご自由に。勝手に海にでも飛び込んで陸まで泳いでみたらどうです? 何キロあるか知りませんし、海面でバチャバチャ音を立てれば即座に砲をぶち込まれると思いますけど」
改めて言われると上条には反論のしようがない。
そう、ここは海の上であって、普通に考えれば逃げ場はないのだ。素で泳ぐのはもちろん、救命ボートのようなものを奪っても、やはり簡単に沈められるだろう。
上条がそう考えている内に、オルソラが言った。
「……それを私達に教える事で、あなたに何のメリットがございましょう?」「|報酬《ほうしゆう》、と。そう受け取ってもらえりゃ結構です」
アニェーゼはきっぱりと答えた。
ただでさえ困惑している状況で、さらにややこしくなってきた気がする。アニェーゼは野太い声の男達と同じ捜索隊のはずだが、彼らとは別の目的でもあるのか。オルソラはため息をつくと、上条の方を改めて見た。
「ひとまず、従うしかないのでございますよ。どの道、ここで協力しなくては脱出方法は分からないと思いますし、何よりアニェーゼさんを怒らせると、よその方々までこちらへやってくるのでございますよ」
「へぇ。分かってんじゃないですか」
好戦的なアニェーゼの笑みに、上条は舌打ちした。
状況がどんどん混迷していくと感じながらも、彼はほとんど投げやりに尋ねる。
「あんまり気乗りはしねえけど、話を聞こうか」
「そもそも『女王艦隊』ってのは一体何なんだ?」
狭い砲室の中で上条は最初にそう質問した。
「ま、アドリア海の監視のために作られた|艦隊《かんたい》なんですけどね」
アニェーゼはようやく|緊張《きんちよう》が解けてきたのか、必要以上にはこちらへ近寄らないものの、手足の先から少しずつ力は抜けてきている。
「星空や風、海面などからデータを採取して、それらからアドリア海のどこでどれぐらいの|魔力《まりよく》が使われているかを調べんのが目的です。陸地と違って海ってのは見張りを立たせられませんからね。洋上で妙な|魔術《まじゆつ》実験をされても困りますし」
「……、アドリア海の監視」
オルソラは、やや|怪諺《けげん》そうな顔で氷の部屋を見回し、
「これほど巨大な施設を作る必要があるのでございましょうか?」
「今ならもっとコンパクトにできたかもしんないですけど、ええと、『女王艦隊』が作られたのは数百年前……それこそ常に監視し続けなくちゃなんないほどアドリア海の治安が危ぶまれてた時代の事ですから」
退屈そうな声でアニェーゼは告げた。
「それに、他宗派への|牽制《けんせい》っつー意味合いもあんでしょうね。|近頃《ちかごろ》は魔術サイドの組織図にも揺らぎが出てきてますし、ソイツを整えるためにもデカいぞベントが欲しかったんでしょ」
となるとイギリス清教やロシア成教は、この『アドリア海の女王』の動きを知っていたはずだ。そうでなければ『見せびらかす』目的が果たされないのだから。
上条がそれを言うと、
「はぁ。どーせトップの連中は知ってて|黙《だま》ってたんでしょ。牽制ごっこなんていちいち波風立てるようなモンでもないし、下手に部下の連中が先走っちまって過剰反応示したら、それこそデカい問題になんでしょうが。ほら、ちょうど今みてえに」
「……、ちょっと待った。まだ状況が読めないそ。|俺達《おれたち》は別に『アドリア海の女王』なんて知らなかったし、こんなヤバい状況だって分かってたらみすみす……」
「相手がそっちの事情なんて考えると思ってんですか。つまりですね―――」
アニェーゼの言葉が途中で切れた。
ドアの向こうからバタバタという足音が聞こえる。アニェーゼは氷のドア板に耳を当て、音が静まるのを待った。この船には一体どれぐらいの人数が乗っているんだろう? |上条《かみじよう》達を|襲《おそ》った修道服の男や、氷の甲板で指示を出していた野太い声の男などは、アニェーゼ部隊の人間とは思えない。
「でも、私がローマ正教にいた頃には話を聞いた事もございませんでしたけど」
「私もここへ来るまでは知りませんでした。ローマ正教ってな二〇億もの信徒を抱えてますからね、部署の数もヶタが違うんでしょ。私達が知ってるトコなんて、自分が|普段《ふだん》利用してる場所か、すっごく有名でお偉いトップぐらいのモンだと思いますがね」
「……言われてみれば、確かに部隊の全体数すら分かりませんが」
アニェーゼに言われて、オルソラは改めて部署や組織の事を思い返しているようだ。
しかし、
「なぁ。本当に監視のためだけの施設なのか、この|艦隊《かんたい》」
|上条《かみじよう》は|怪認《けげん》そうな顔でアニェーゼに尋ねた。
「現に|俺達《おれたち》はこの船の乗組員っぽい野郎にいきなり|襲《おそ》われるわ、運河ぶっ|壊《こわ》して|馬鹿《ばか》デカい船は現れるわ、気がつけば大艦隊のど真ん中だぜ。っつか、何で俺達がこんな目に|遭《あ》わなくちゃならないんだ」
「ふん」
|何故《なぜ》かアニェーゼは鼻を鳴らして、
「一応もう一度確認しますけど、|貴方《あなた》達は『アドリア海の女王』とは無関係なんですよね」
「ですから、お引っ越しの途中だったのでございますよ。そういえば、|天草式《あまくさしき》の皆様は|大丈夫《だいじようぶ》でございましょうか」
オルソラがやや心配そうに言うと、アニェーゼは疲れたように息を吐いた。
「文字通り監視に引っかかったんじゃないですか。貴方達は過去にローマ正教のプロジェクトを|破壊《はかい》した人物なんですから、ブラックリストに載ってて当然ですし。しかも片方は遠路はるばる日本から、もう片方は天草式って|戦闘《せんとう》集団を引き連れてロンドンからやって来てんです。
『法の書』を巡って争った連中が|揃《そろ》い|踏《ぶ》みってな状況で、『また何かやらかすんじゃ……』と思われた所で何の不思議があんですか」
そんなモンか、と上条は首をひねる。
正直、|魔術《まじゆつ》サイドの『|普段《ふだん》の対応』というのがどういうものかが想像つかない。
と、アニェーゼはそこでニヤリと笑って、
「ま、でも『監視だけの施設』ってトコに引っ掛かりを覚えたのは鋭いですけどね」
「あん?」
上条が不審な声を出すと、アニェーゼは続けて言う。
「『監視だけの施設』ってのは建前ですね」
「どういう事でございましょうか」
「本当の理由ってのは、あれです。ここは一種の労働施設なんですよ」アニェーゼの笑みに、暗い色がよぎる。「私みてえな罪人、失敗者などを集め、ローマ正教が受けた損失分を支払うための、ね。だから船にいるのは私の部隊……いえ、元部隊のシスター達がほとんどです。残りは労働者を束ねる職制者とかですか」
となると、アニェーゼもここで働いているという事なのだろうか。侵人者の捜索も仕事の一環だったのかもしれない。しかし、突然襲ってきた連中といい存在が隠されている事といい、妙に|不穏《ふおん》な空気が漂っている気がする。
具体的に何やってんだ? と上条が尋ねると、
「作業内容自体は単純なんですけどね。|何分《なにぶん》、労働時閲が多くて。平均で一日一八時問ぐらい働かされてます。環境に慣れないシスターにとっては地獄に見えるみたいですよ」
ギョッとした。
(それって、似たような刑罰があったような……)
徒労系、と呼ばれる今は禁じられた刑罰がある。
とにかく単純で|無駄《むだ》な作業を延々と続けさせる事で人間の精神を|磨《す》り減らすというものだ。作業は意味がなければないほど心に|響《ひび》く。『ここまでやっても何の役にも立たない』という感覚は、マラソンでようやくゴールだと思った所でタイムを計り直すと言われた時と同じ苦痛を何度も何度も与えるような感じだろうか。
「で、こっからが本題です。ここで|貴方達《あなたたち》を見逃す代わりとして……シスター・ルチアとアンジェレネ。私の部下の名前ですが、とりあえずこの二名をここから助けうってなトコです」
ルチア、アンジエレネ。
|一瞬《いつしゆん》ピンと来なかったが、よくよく思い直してみると、『法の書』とオルソラを巡って戦ったあの一件で顔を合わせたシスター達の事だ。確か、パラレルスウィーツパークで思い切りどつかれた気がする。
「でも、助けるというのはどういう事でございましょう」
「はぁ……。それについちゃ因果応報なんですけどね」アニェーゼは|呆《あき》れたようなため息をついて、「あの二人、この『女王|艦隊《かんたい》』から脱獄しちまったんです。私や|他《ほか》のシスター達を解放するとかってつもりらしいですが。私から言えるのはご苦労様ってだけですけどね。彼女達はとりあえず外に逃げて、準備を整えてから私達を助け出そうとしてたみたいですが」
アニェーゼの答えは退屈そうというか、冷めていた。
「方法は、何でしたっけ。確か『女王艦隊』の索敵の特性の裏をかいた術式だったと思いますけど……まぁ、実際に脱獄には成功してんです。その辺りの|信頼性《しんらいせい》は高いでしょう」
脱獄したヤツを助け出して欲しいというのはどういう事だろう、と上条は質問しかけたが口を開く前に答えを思いついた。
一度逃げ。た後に、再び捕まって連れ戻されたのだ。
「で、その二人は連れ戻されて、お説教の最中だってのか?」
「お説教っつーか」アニェーゼは退屈そうな声で、「……ここは|牢獄《ろうごく》なんで。私も含めて、ここにいる修道女は全員ローマ正教の囚人ですよ。最優先すべきは『脱獄の穴を|塞《ふさ》ぐ事』なんですよ。だから、脱獄術式の防止が先でしょうね。っつっても、ここは処刑場じゃないんで、いきなり口封じで殺されるってな事はないです。せいぜい、二度とその術式を使えなくなるように加工される程度でしょう」
「加工だって?」
上条が何気なく聞いたが、アニェーゼはわずかに|黙《だま》った。代わりに、オルソラが珍しく嫌そうに|眉《まゆ》をひそめて、確認を取るように告げる。
「……|魔術《まじゆつ》の使用を禁ずるという事は、思考力そのものを奪うという事で一、〕ざいますか。つまり、脳の構造を砕くと[#「脳の構造を砕くと」に傍点]?」
その言葉に、|上条《かみじよう》は氷の床に座ったままギョッとした。具体的な方法を述べられた訳ではないが、逆にそれが嫌な想像力を働かせてくる。
アニェーゼもため息をついて、
「ヴェータラ術式の死体じゃあるまいし、頭の足りない労働力なんざ見ているだけで|惨《みじ》めです。ですから、そうなる前に彼女|達《たち》を助けて欲しい、というのがこちらの願いです」面倒臭そうに頭を樹きつつ、「……当面はこの二人、ですね。鵬のシスター達は最低限の衣食住は保障されてますし、下手に反抗する気力も残ってねえでしょうから。シスター・ルチア、アンジェレネ。彼女達の脳がぶっ|壊《こわ》される前に回収すりゃあ、脱獄術式も手に入るでしょ」
「ですけど、その脱獄術式はすでにローマ正教側にもバレているのでございましょう?」
「『女王|艦隊《かんたい》』では、これから大仕事があります。詳しい事は上の人間にしか分かりやしませんがね。そちらに人員を|割《さ》く以上、一人二人の脱獄など気にしていられないのですよ。|些事《さじ》に目を奪われて大事を逃すほどローマ正教は|馬鹿《ばか》でもありませんので」
アニェーゼはわずかに気を引き|締《し》めて、
「だから、逃げるなら今しかねえでしょう。|貴方《あなた》達が動いてくれるなら話は早い。私は陽動のため、『女王艦隊』の旗艦の方へ行っちまいますが、その間に何とかしてください」
旗艦へ行く、という事は、この護衛艦から旗艦へ渡る方法でもあるのか。魔術の施設なんだし、|得体《えたい》の知れないワープ装置でもあるのかもしれない。
「……お前が助けてくれるってのか?」
「助けるのではなく利用するんですが。嫌なら旗艦へは行きません。代わりに通報します」
アニェーゼは意地悪そうに唇を曲げて笑ったが、それに対してオルソラは『まぁ』と一言|呟《つぶや》くと、にっこりと|微笑《ほほえ》んで、
「まぁまぁ。そんな事を言って、照れ隠しなどしなくてもよろしいのに。協力する気がないなら話を持ちかける事もございませんしねー」
「むがっ!? ちょ、何で抱き着いてくんですか!?」
アニェーゼは善意たっぷりのオルソラに両手で抱かれて大きな胸に顔を|埋《うず》めてしまったので、上条は|瞬間的《しゆんかんてき》に首を回して視界から外した。グキリと嫌な音が聞こえる。
今はそれよりも、
「その間にって……お前も捕まってんだろ? だったら|一緒《いつしよ》に逃げようぜ」
上条は床の上からアニェーゼを見上げて言った。
対して、彼女はオルソラの拘束から逃れると、
「私は象徴的役割なので」
「あの、ものすごく|曖昧《あいまい》な言葉で良く分からないんだけど」
「もう一度簡単に説明すると、この|艦隊《かんたい》に乗っている大部分は捕まった私の部隊の人問です。
それを管理する側が恐れているのは、労働者の反乱です。言っちまえば、私はそれを防ぐ精神的な安全装置みてえなモンなんです。例えると、何でしょうね。|牢名主《ろうなぬし》みてえに、|全《すべ》ての囚人を束ねるボスってトコですか」
皮肉げに彼女は|薄《うす》く笑ってから、
「元アニェーゼ部隊の中で一番|影響力《えいきようりよく》のある私が「女王艦隊』には絶対反抗しないと従っちまう事で、その下にいるメンバーも『あの人で|駄目《だめ》なら私|達《たち》でも駄目だ』と思わせる。……ま、実際にはほぼ|錯覚《さつかく》なんですけどね」
アニェーゼは薄い息を吐いた。
彼女がグループ単位でなく一人で動いていたのにも、それが許されるだけの権限があったから、という事らしい。どうもアニェーゼは捜索がてらにルチア達の様子も見に来たようだが。
「私は|囚《とら》われているものの艦隊の中を自由に歩く権限もありますし、労働も免除されています。
一日三食のメニューと、食後にカッフェかスプレムータを選ぶ程度の|贅沢《ぜいたく》が許されてんです。結構良い環境でしょ? ソイツを整えるために皆には働いてもらってんですけどね」
「……、」
「そんなゲスト扱いの私からすれば、シスター・ルチア、アンジェレネの両名は空回りなんですよ。|馬鹿《ばか》みたいですよね。|他《ほか》のシスター達は実に素直に従ってるってのに。逆らうならさっさと自分達だけで逃げれば良いものを、わざわざ警備の厳重な私の部屋の前まで来て、『いずれ必ずお助けします』とか言っちゃって」
アニェーゼの声には、あまり真剣味が感じられなかった。
ただ口からついて出ただけの言葉が続いていく。
「そもそも、脱獄なんてしなくても私に労役の義務はありません。ソファに身を沈めていれば、いずれ現場に復帰できるのに。ね、|可哀想《かわいそう》でしょう?」
アニェーゼの物言いに、|上条《かみじよう》はわずかにイラついた。当の本人にとっては迷惑だったかもしれないが、それでもそんな言い方はないだろうと思う。
「貴方達の意思はどうあれ、どの道この洋上の艦隊から無事に逃げるためには彼女達の協力が重要です。多少の荒事もあるでしょうが、まぁせいぜい頑張ってください」
「せいぜいって」
「率直な意見ですがね。ついでに言わせてもらえば、運良くこっから出られたら、もう二度とローマ正教には|関《かか》わらない事ですね」
その決定口調も気に入らないが、確かにアニェーゼの言う通りでもある。いつまでも一ヶ所に隠れていられない。逃げるなら早い方が良い。そして手段は目の前にある。
上条は座り込んだまま、しむれた息を盛大に吐くと、
「……分かったよ。でも、多勢に無勢ってなったら助ける余裕なんかなくなっちまうそ」
「それが以前二五〇人のシスター相手に一人でケンカを売った男の|台詞《せりふ》ですか?」
一応、敵として[#「敵として」に傍点]|上条《かみじよう》の実力は認めているらしい。アニェーゼは皮肉げに口の端を|吊《つ》り上げて笑うと、握手を求めるように腰を曲げて手を差し伸べてきた。
立て、というサインらしい。
「っと、ありがとう」
上条は素直に右手でアニェーゼの手を|掴《つか》み、
その細い指と|一緒《いつしよ》に、修道服のぶかぶかの布地を握り|締《し》めた途端、
ストン、と。
アニェーゼの修道服の|縫《ぬ》い日が|壊《こわ》れて真下に落ちた。
あら、とオルソラが|頬《ほお》に手を当てる。
「まぁ。どうも変わったデザインだと思ったら、その|露出《ろしゆつ》の多い修道服は全体が|魔術的《まじゆつてき》な拘束効果を与えるための特殊な装飾でございましたか」
そんな事はどうでも良い。
今ここで最も重要なのは、上条の目の前で腰を折っているアニェーゼが下着だけになってし
まった事であり、相変わらずレース満載なのにどこか|可愛《かわい》らしい白いショーツだったという事。であって、背中が大きく開いた衣服だからブラすら着けていなかった事でもあり、腰を折った事でそのささやかな胸が|微笑《ほほえ》ましげにちょっぴり自己主張している事なのであった。
アニェーゼは、最初何が何だかという顔をして、次に下を向いて……つまり己の格好を再確認するように視線を投げると、
「き、―――」
ようやく、|喉《のど》がひくっと動いて、
「―――ッ!!!???」
大騒ぎぎになる前に|上条《かみじよう》とオルソラが全力で|羽交い絞《はがいじ》めにして口を|塞《ふさ》いだ。
インデックスは、暗いキオッジアの街に立っていた。
その小さな海の街は、混乱の渦の中にあった。歴史的な運河や石橋が|破壊《はかい》された事もあるが、それ以上に『どうやって?』という声が大きい。惨状を眺める者は疑問をぶつけ、切れ切れの言葉でそれに答える声を聞いてはさらに疑問を|膨《ふく》らませ、後は延々と|繰《く》り返されていく。
海水は運河から一〇〇メートル以上|離《はな》れた道路まで水浸しにして、平行する別の運河にこぼれ落ちるほどだった。今は船がないため|溢《あふ》れた水も運河に戻ろうとしているが、それでもドアの|隙間《すきま》から屋内に入り込んだ家屋もあるらしい。特にレストランや喫茶店など、客商売の建物からパパッと明かりが|点《つ》いて、慌てた感じで掃除をする音が聞こえてくる。
そんな中。
インデックスはポツリと立って、氷の|帆船《はんせん》が消えた方角をじっと眺めていた。
「イタリア北東部の歴史に深く|関《かか》わったとされる……『アドリア海の女王』」
口に出された言葉には、|膨大《ぼうだい》な知識の裏づけが存在する。
「ううん、それを補佐する『女王|艦隊《かんたい》』の一隻かな」
彼女の頭の中で一〇万三〇〇〇冊分もの|魔道書《まどうしよ》の知識が目まぐるしく整理されていく。必要な知識を引き上げ、不要な知識を|弾《はじ》き、出てきた推測が実際に正しいかどうかの検証が始まり、それを頭の中で立証すると、
(だとすると、やっぱり動いていたのはローマ正教。でも何で『女王艦隊』が|襲《おそ》ってきたの? ……、オルソラ=アクィナスと|天草式《あまくさしき》。この二つが一|緒《いつしよ》にいたのが原因かな。『アドリア海の女王』を動かすのに、とうま|達《たち》は絶対の障害というほどでもないもん)
今度は、その対策の方に頭が動く。
(『女王艦隊』相手に|魔術《まじゆつ》を使えない私が一人で行っても|駄目《だめ》。違う、そもそも魔術師が一人で立ち向かうべきスケールの敵じゃない。かと言ってこのままじゃ、とうま達が……。なら)
インデックスは顔を上げる。
それからあちこちを見回すと、やがて一点に向けて走り出した。
|上条《かみじよう》とオルソラは砲室から|叩《たた》き出されていた。
アニェーゼはオルソラが|袖《そで》から出した|裁縫《さいほう》セットを借りると『……とにかく体裁だけでも整えないと即バレしますから。良いからさっさと出てってください』と、とても低い声と共に特注の修道服をチクチク|縫《ぬ》い始めていた。おそらくそれが終わってから|旗艦《きかん》に向かうはずだ。
そちらに意識を|割《みじ》いても仕方がない。
上条は通路の角から顔だけ出して、先を見た。
月の光を乱反射させ、白っぽい電球色に|輝《かがや》く|融点《ゆうてん》の変動した氷で作られた直線通路は、その船のスケールに反して極端に狭く、細い。軍艦という特性なのだろうか。ちょっと人が集まったら、もう詰まって移動できなくなるような気がする。
艦内は四方がスクリーンとなった映画館のようなもので、床や壁がクッキリしているのに対して通路の中空が極端に見づらい。上条は奥を|覗《のぞ》くために思わず両目を細めて、
「……|誰《だれ》も、いないな」
「アニェーゼさんの|仰《おつしや》る通りでございますね」
上条とオルソラは互いに言い合ってから、そろそろと角から先へ出た。
それだけを確かめるのに、随分と時間が|経《た》っていた。最初の一歩を|踏《ふ》み出すまでに、|無茶苦茶《むちやくちや》勇気がいる。
アニェーゼの話によると、
『艦隊の制御は、操船、|砲撃《ほうげき》ともにほとんど|魔術頼《まじゆつだの》みです。乗組員の大半が元私の部隊の人間なので、彼女|達《たち》に|頼《たよ》ると造反の危険があるんで。部隊は二五〇人ほどいますが、艦の数も一〇〇隻近くありますからね。一隻辺りで換算すると、ほとんど無人って感じです。少ない職制者で多くの労働者を束ねるにはそれなりの工夫があるって訳です。だからこその弱点もあるってモンですが』
という事らしい。
(でも、船を操るのが自動制御なら、彼女達は何の仕事をしてるんだろ?)
徒労系の単純作業だとは聞いていたが、具体的な内容は聞いていなかった気がする。ともあれ、そちらを聞くのはルチアやアンジェレネ達と船を出てからだろう。
実際に人がいない事を確かめても、相変わらず|襲撃《しゆうげき》の不安は完全には|拭《ぬぐ》えない。ズラリと並ぶドアの奥、直角に曲がる通路の死角、そういう所に|誰《だれ》かが息を|潜《ひそ》めているような|錯覚《さつかく》がする。
これもアニェーゼの話だが、ルチアやアンジェレネは現在、甲板より上、三階部分に連れて行かれたらしい。本来、|落伍《らまし》労働者を収容するのは船底近くの船倉らしいのだが、例の『脱獄術式を二度と使えなくする』ための心理制御設備は上層にあるようだ。
|崖《がけ》のように急な階段を使って上に向かう。
三階部分の通路は、一面に窓が並んでいた。甲板より下の場合は砲室がズラリと用意してあったが、上部構造には必要ないため、通路が「番外側に配置されているのだろう。
「あら」
と、オルソラが何気なく窓の外へ視線を投げた。
|上条《かみじよう》もつられるように目を向けて、それから息を|呑《の》んだ。
「……確かにこりゃ、|一筋縄《ひとすじなわ》じゃいかねえな」
三階と言っても、甲板から数えた階層だ。実際には甲板から海面まで、さらに一〇メートルほどの高さがある。五階建て以上の眺めだった。
塔の上から街を見下ろすような感じだが、眼下に広がっているのは|大艦隊《だいかんたい》だった。この船と同じ、氷で作られた全長一〇〇メートルサイズの巨大な|帆船《はんせん》軍艦が、まるで魚群のように所狭しと|敷《し》き詰められている。数は、窓の一つから見ただけでもざっと五〇以上か。白っぽい電球色にぼんやりと|輝《かがや》く船体が、暗い海一面を光の膜で包み込んでいた。
「ん? ……アニェーゼの方も動いてくれてんのか」
上条は辺りを警戒しながらも、窓の外を注視する。
船と船の問を、パキパキとアーチ状の氷の橋が作られていく。その上をポツンとした人影が歩いていた。人影が通り過ぎると、再び氷の橋がパキパキと消えていく。向こうも陽動で動き始めてくれているようだ。
目指す先、アニェーゼの言っていた『旗艦』はあれだろうか。ざっと数百メートル先、|全《すべ》ての中心点に、多くの船に囲まれるように|一際《ひときわ》巨大な帆船が浮かんでいた。縦横共にこの護衛艦の二倍ぐらいの大きさがある気がする。さながら城下町から背の高いお城を眺めているようだ。
上条は窓の外から視線を戻して、
「数を数えたくもねえ……。世界最大宗派ってのはスケールのデカさもハンパじゃねーな」
「……というか、艦隊全体でちょっとした都市ぐらいのサイズがあるのでございますよ」
再び通路を歩きながら上条は考える。やはり、最優先で考えるべきは『立ち向かう事』ではなく、『上手に逃げ出す事』のようだ。そのカギとなるらしい術式を持っている、ルチアとアンジェレネは、
「―――っと!?」
通路の角に差し掛かった所で上条は思考を断ち切り、オルソラの手を引っ張って、慌てて壁に張り付いた。それから、恐る恐る顔だけ出してみる。
アニェーゼに教えられた目的の部屋が、一〇メートルぐらい先に見えた。
そのすぐ前に、|誰《だれ》かがいた。
いや、本当にあれは人なのだろうか。ドアを|塞《ふさ》ぐ巨岩のような『それ』は、氷で作られた三メートル強の|鎧《よろい》だった。電球色に|輝《かがや》いているため、透明度は低い。頭の上から足の下までが|全《すベ》て重兵器のように見える。手に握られているのはメイス……|杖《つえ》か|棍棒《こんぼう》の一種だろうか? が、どちらかと言うと輪切りにした四角い鉄骨を|掴《つか》んでいるように見える。
|上条《かみじよう》は顔を戻し、うっすらと光る壁の角に背中を預け、
(ちくしょう。|一撃《いちげき》で|黙《だま》らせるにはゴツ過ぎるし……モタモタやり合ってる内に仲間を呼ばれたらその峙点で|完壁《かんペき》にアウトだ)
通路は狭く、逃げ道も少ない。一〇人ぐらいの人間が通路の前後から来たら、もうすれ違う事もできない。後は数の理論で消耗戦に敗北するのを待つだけだ。
くそ、と上条は口の中で吐き捨て、改めて通路の狭さを確認するように視線を走らせ、
ドッ!! と。
その直後、彼の視界が|轟音《ごうおん》と共に電球色の氷で埋め尽くされた。
最初、上条は目の前のそれが何であるか、本当に理解できなかった。
角の向こうでドアの前を見張っていた氷の鎧が、|一瞬《いつしゆん》で通路を走り抜け、角を曲がって上条の眼前に立った……そう気づくまでに時間が必要だった。
鎧の足は、キリキリとわずかに横滑りしている。
|融点《ゆうてん》の変動した氷は溶けないから滑らない。しかし、良く見ると鎧の足の先は溶けて床と接合していた。まるで氷の上を泳いでいるように見える。
しかし、上条はそれを冷静に確かめていられない。
(な……ッ!?)
|驚《おどろ》いて目を見開く上条の前で、すでに氷の鎧はその腕を思い切り振るっていた。下から上へと一撃。鉄骨のような棍棒は分厚い床を軽々とえぐり、その威力を落とさずに上条の胴へと吸い込まれていく。
貨物コンテナぐらいなら空き缶のように|潰《つぶ》せる重さと速さだ。
「ッ! ―――ァがあああっ!!」
|避《さ》けようとする上条の|頬《ほお》に風圧が当たる。前髪が揺れると同時、|回避《かいひ》は無理だと本能が知った。ほとんど反射的に右手が動く。下からの攻撃に対し、上から|叩《たた》きつけるようにがむしゃらな動きで|掌《てのひら》を押し付ける。
ビキィン!! と、甲高い音が船内に|響《ひび》く。
上条の掌から|肘《ひじ》、そこから肩にかけて、嫌な汗がびっしょりと浮かぶ。
「……っつ」
上条は、思わず|呻《うめ》き声をあげた。
目の前の|鎧《よろい》は、動かない。
バギン! と氷の鎧の|棍俸《こんぼう》が、真ん中から二つに折れた。続いて棍棒を握っていた肩口が砕け、胸から下腹部へ縦に|亀裂《きれつ》が走り、|太股《ふともも》や|膝《ひざ》が割れて、最後には横倒しに倒れてしまう。
ガラン、という音が|響《ひび》く。
氷が砕けた事で光の屈折度合いも変わったせいか、鎧から身にまとうような淡い光が消えた。
すぐ近くで息を詰めていたオルソラが、ようやく声を出す。
「だ、|大丈夫《だいじようぶ》でございますか……?」
「一応な」
気のせいかもしれないが、少しだけ手首が痛い。
「|壊《こわ》れちまったけど……これって、|魔術《まじゆつ》で動くロボットみたいなヤツなのか?」
「ええと……、明確に術者が指示を飛ばすゴーレムなどではないようですけど。ゴーレムよりは船の一部が形を変えた、というのが正確でございましょうね。|軍艦《ぐんかん》の|攻撃的《こうげきてき》側面だとすると、内側に向いた砲台のようなもの……かもしれません」
オルソラは動きを止めて転がった氷像に手を|這《は》わせて、ゆっくりと|噛《か》むように告げた。
「船の一部……?」
|上条《かみじよう》は右手でペタペタと近くの壁に触る。が、分厚い氷は壊れない。
(……常に魔術で動き続ける鎧と、|完壁《かんペき》に変化が終わってる船壁の違いってヤツか)
適当に考えるが、今は細かく検証しているだけの時間はない。
(それにしても……)
魔術が使われていて良かった、と上条は素直に胸を|撫《な》で下ろす。あれが下手に純粋な白兵戦だったら、現代戦の戦車を使っても勝てたかどうか。上条など秒殺だろう。
ともあれ、実力ではなく相性で関門は潜り抜けた。
上条は今度こそ、|誰《だれ》もいない通路の角に出て、
「それじゃ、ルチアやアンジェレネを助けに行くか。面倒だけどな」
「それについてでございますけど」オルソラは、やや心配そうに、「あの部屋の中にルチアさん|達《たら》しかいない、なんて事があるでしょうか。少なくとも、彼女達に魔術的な処置を|施《ほどこ》す術者が何名かいるはずですし、ドアを開ければ荒事になると思います」
言いながら、オルソラは床に落ちていた氷の塊を拾い上げた。氷の鎧が持っていた、半分に折れた棍棒だ。まるで両手で楽器のケースでも抱えているような仕草だ。
「私の武器でございますよ」
にっこり笑顔がすでに場違いだった。
しかも「これもこれも、こっちの方が強そうでございます』とか言いながら追加で拾っているのは、氷の鎧の脚部だった。、攻撃力は漬物石と同じぐらいだろうか?
「……、そうだな」あんまり役に立たなそうだけど、という言葉は|呑《の》み込んでおく。「|流石《さすが》にこればっかりは出たトコ勝負か。コイツみたいなのがワラワラ出てこない事を祈るしかねえな」
「ええ。では」
碁?オルソラ翫ぎ。うと、通路を走った。進んで戦いたいというより、もう・れ以上通路で|誰《だれ》かに見つかるのは嫌だという後ろ向きの気持ちの方が強い。
ドアの前まで一気に|辿《たど》り着く。
ノブを|掴《つか》む。|鍵《かぎ》はかかっていないようだ。
正直、怖いがためらっても仕方がない。迷わず開け放つ。
バン!!という大きな音が鳴り|響《ひび》いた。
「ッ!」
清潔な部屋だった。医務室のようなものかもしれない。とはいえ、ベッドも氷で作られているため、どこまで機能するかは分かったものではないが。
狭い部屋にいるのは七人前後の男女。二人は黄色い|袖《そで》やスカートをつけた修道服を着たシスター。ルチアとアンジェレネだ。布の額当ての上から金色のサークレットのようなものをはめているが、布地に強引に食い込ませているようにも見える。残り五人は、針金のように細い不健康そうな男|達《たち》だった。研究者のように見えるが、着ているのは|外套《がいとう》のついた深い黒の修道服だ。彼らの近くにある氷のサイドテーブルには、それだけは氷とは違う、何に使うか分からない金属の棒がたくさん並べてあった。ペンのように先が|尖《とが》っていて、どこか不気味さが漂っている。映画館のスクリーンのように特殊な照明もそれを手伝っていた。
先ほどのような、氷の|鎧《よろい》はいない。
が、それにしても一人で五人を相乎にするのは単純な人数で分が悪い。
(チ……ッ!!)
まともに相手をしては負ける。相手が|驚《おどろ》きで硬直している間にいかに先手を取れるかだ、と上条は考えて部屋の中へ大きく一歩踏み出そうとする。
しかし。
それより先に、割り込んできた影があった。
「動くな[#「動くな」に傍点]」
オルソラ=アクィナスだ。彼女は両手で抱えていた氷の塊を、無造作にアンダースローで部屋に放った。ガンゴン、と鈍い音を立てて|棍棒《こんぼう》の|残骸《ざんがい》が床を滑っていく。投げたというより、すっぽ抜けたという感じだったが、
ギクリ、と。
数の上で勝っているローマ正教の男達が、一斉に動きを止めた。
「それ、どうやって壊したと思います[#「どうやって壊したと思います」に傍点]?」
オルソラは袖の中に手を人れて、自信ありげに告げた。
上条は己の右手に視線を投げたが、彼女が何をしようとしているか、ようやく掴めた。
彼らは幻想殺しなど知らないのだ[#「彼らは幻想殺しなど知らないのだ」に傍点]。
「あら、思わず日本語のまま言ってしまいましたけど、分かりますよね。分からないならそれでも良いのでございますけど。警告を聞かないのでしたら、これを使うだけですし」
言いながら、オルソラは|袖《そで》の中に自分の手を差し込む。
「待て……」
男の中の一人が、日本語で言った。
言葉を合わせてきた時点で、相手はすでに|譲歩《じようほ》を始めていた。
「……貴様。そこにどんな|霊装《れいそう》を隠している」
オルソラが答える前に、別の男が口を開いた。
「氷の塊だけならいくらでもある。適当に砕いて持ってきただけかもしれん」
「あら。この船にはこういう物が生えているのでございましようか?」
ゴン、とオルソラは次の塊を投げる。
今度は氷の|鎧《よろい》の足の部分だ。|棍棒《こんぽう》の破片よりも、より|精緻《せいち》で生々しい造型が、|膝《ひざ》の辺りで強引に砕かれている。
「―――、」
男|達《たち》が、一歩後ろへ下がる。
対して、オルソラは強気に一歩前へ進んだ。
「先ほどの質問ですけど、どうやったか知りたいのなら、実際にお見せしてもよろしいのでございますよ。ただ、目にする前に消し炭にならないように注意してください。あらあら、ガードに頼る程度の腕でこれを凌げるのでございましょうか[#「ガードに頼る程度の腕でこれを凌げるのでございましょうか」に傍点]?」
手を突っ込んだままの袖を軽く揺らすと、男達は面白いぐらい身を|強張《こわば》らせる。関係のないルチアやアンジエレネまで顔に|薄《うす》く恐怖の色を浮かび上がらせた。
|上条《かみじよう》は内心で舌を巻く。
バッタリというのは、事前に相手の戦力を正確に予測できて初めて使える技術だ。
「では、すみませんが、彼らの手足を拘束してください」
当のオルソラは、にっこりと|微笑《ほほえ》んで上条に告げた。
ローマ正教の男達は、簡単に両手を挙げた。
オルソラは『秘密兵器を持っている』バッタリをしているため、男達に不用意には近づかない。代わりに上条が彼らの手足を|縛《しば》った。船が全部氷でできているので、ロープの代わりとなる物はない。仕方がないので男達のズボンのベルトなどを外して使った。男のベルトを|緩《ゆる》めるなどという気持ちの悪い経験は、本当にこれで最後にして欲しい。
|上条《かみじよう》が|縛《しば》った男|達《たち》の結び目を確かめると、オルソラはようやく力を抜いて|袖《そで》の中から手を抜いた。ホッと息を吐いているのは、おそらく表面以上に|緊張《きんちよう》していたからだろう。彼女はアンジェレネやルチアの方を振り返ると、
「さて、助けに来たのでございますよ」
声に、二人は逆に後ろへ半歩下がった、
シスター達は、突然上条達がここへやってきた事にギョッとしているようだ。
極端な二人組だ、と上条は思う。背が低い方がアンジェレネ、背の高い方がルチア……だったと思う。アンジェレネは顔を青くし、ほとんど涙を浮かべそうな|瞳《ひとみ》をこちらに向けて、|傍《かたわ》らにいるルチアの腰を|掴《つか》んでいる。対してルチアは白い顔を敵意でわずかに赤くして、|隙《すき》を|狙《ねら》う鋭い眼光を突きつけ、くっついてくるアンジェレネの肩に片手を竃いていた。
二人とも、着ているのはオルソラと同じ黒の修道服をベースに、袖やスカートに長い黄色のパーツを取り付けている。船で働く労働者としての制服だろうか。ルチアは袖が短めなのか|滑《なめ》らかな白い腕が少し|覗《のぞ》いていて、対してアンジェレネはぶかぶかで指先が出ている程度だ。
「……助けに来た。そんな言葉を私達が信じると思うのですか。そもそも、|貴女《あなた》達に敗北したからこのような場所に放り込まれたというのに」
警戒の低い声を放ったのは、やはりルチアだ。アンジェレネの方は歯の根が合っていない。上条は自分に向けられた敵意より、アンジェレネの様子の方が気にかかった。
「えーっとだな、|俺《 おれ》達もこの船に乗りたくて乗ったんじゃない。こっちだって何か訳が分からない内にローマ正教の連中に追われる羽目になっちまってる。だから、とにかくここから出たいってのが第一目標だ」隠しても仕方がないので、上条は目的を明かす。「アニェーゼに話を聞いた限りじゃ、お前達がそのカギとなる|魔術《まじゆつ》を使えるって事だった。逃げるならお前達の協力は重要だし、だったら変な処置を受けそうになってるお前達を助けて欲しいって言われたんだけど」
「し、シスター・アニェーゼに……ですか?」
聞き覚えのある名前に、アンジェレネはわずかに|怯《おび》えの色を解いた。それだけで、パッと顔が明るくなったように見える。元々は活発な子なのかもしれない。
が、ルチアは短めの袖を振るうと、アンジェレネの頭を上からグイと押して、
「シスター・アンジェレネ。異教徒の言葉です。|罠《わな》の可能性も少しは|考慮《こうりよ》なさい」
「す、すみませんっ! でも、あの、この人達がシスター・アニェーゼに会ってるって事は、もしかすると、あっちの方も……」
「ですからそれも希望の話でしょうっ! 彼らはシスター・アニェーゼと私達の関係を知っています。その上でこちらの食いつきそうな|嘘《うそ》をついているだけかもしれないのですよ!」
グイグイと頭を上から押し続けるルチアに、アンジェレネは身を縮ませながらも、時々チラチラと上条の顔に視線を投げてくる。
(くそっ、手っ取り早くアニェーゼに手紙でも書いてもらえば良かったな)
どう説明したもんか、と|上条《かみじよう》はため息をつく。実際問題、彼女|達《たち》が|懸念《けねん》する通り、上条とアニェーゼはそれほど仲良くもない。なし崩じ的、という言葉をきちんと論理だけで説明する事ほど難しいものはないだろう。
と、悩む上条の|隣《となり》で、オルソラが口を開いた。
「では逆に、あなた達は|何故《なぜ》私達がここまで来たとお考えでございましょう?」
「え?」
「ご懸念の通り、ここは敵の本拠地。私達は見張りを倒してまでここへやってきました。あなた方を助ける以外に、そんなリスクを負うメリットがこの部屋にあるのでございましょうか?」
オルソラは、部屋の隅で|縛《しば》られてまとめられている男達に一度だけ視線を投げて言った。
「………、それは」
ルチアはやや|撫然《ぶぜん》とした調子で、何とか口を開いた。
しかし考えがまとまらないのか、言葉は途中で消えてしまった。
「まさか、あなた方と敵対するためにここまでやってきたと? 放っておいてもダメージはございましたよね。そんな中、わざわざ危険な道のりを経て、アニェーゼさんの名前を使ってまであなた達を助ける理由は、なかなか想像がつかないのでございますけど」
オルソラはチラリと部屋の隅へ目をやる。
そこにはリスクを|冒《おか》してでも拘束した男達が集められていた。
「―――、」
オルソラの言葉に、ルチアは今度こそ|黙《だま》り込んでしまう。
答えの出ない問題に対し、無理に説得するのではなく逆に相手に答えられない状況を作る。
|上手《うま》い駆け引きだ、と上条は内心で|驚《おどろ》いた。。実はこちらは一言も|譲歩《じようほ》や言い訳をしていないのに相手を黙らせたのだ。何だかこれはいつものオルソラのやり取りではない気がする。
と、彼女はコソッと耳打ちする感じで、
「……(異教の地で、主を知らない方々を説得するのが私の仕事でございますから)」
言われてみれば、と上条は素直に感心した。
実は|命懸《いのちが》けの言葉の|応酬《おうしゆう》は彼女の得意分野なのかもしれない。
ルチアは探るように上条とオルソラを交互に見た後に言った。
「助ける価値がないなら素直に見捨てている、という訳ですか。……余裕ですね」
「シスター・ルチアっ!」
ぶかぶかの|袖《そで》を動かし、ぐいぐいとルチアの腰の布を引っ張るアンジェレネに、背の高いシスターは疲れたようなため息をついて、
「分かりました、そちらの言い分にも一理ぐらいはあるでしょう。あとシスター・アンジエレネ。|太股《ふともも》が|擦《す》れるのでそれはやめなさいといつも言っているはずです」
さらりと言われて、何だか|上条《かみじよう》の方が顔を|逸《そ》らしたくなった。
女の子同士だとあんまり気にしないんだろうか?
思わず顔を赤くして顔を逸らす上条に、ルチアはピクリと|眉《まゆ》を動かすと、
「何を想像しましたか?」
「い、いえ! 何でもあ。りませんの事よ!?」
上条は全力で取り|繕《つくろ》って、強引に話題を元に戻していく。
「いやあの、こっちとしてはさっさとこんなヤバイ船から逃げたいんだけど、具体的にどうやって脱出するんだ? っつか、必要な道具が没収されてたりとかって話はねーだろうな」
「だ、|大丈夫《だいじようぶ》ですよ。そもそも道具の没収で防げるような術式なら、彼らも同じローマ正教徒の私|達《たち》にこんな手荒な|真似《まね》はしなかったと思います……、」
「シスター・アンジエレネ。本気で言っているのなら頭を|撫《な》でてあげます」
ルチアはムクれるアンジェレネを極めて適当にあしらいつつ、
「結論を言えば、海を泳いだり|救命艇《きゆうめいてい》を奪ったりという海上移動では『女王|艦隊《かんたい》』の警備の目をかいくぐるのは不可能です。そして一度でも気づかれれば無数の砲の|餌食《えじき》となるでしょう」
「……ちょっと待った。お前達はそれでも一度、ここから脱出してんだよな。まさか、空でも飛んだっていうのか?」
「その方法を取っても対空砲火が待っていますが……説明するのも面倒です。手っ取り早く見てもらいましょう。シスター・アンジエレネ」
「はいっ、シスター・ルチア。あっ、えっと。意図はどうあれ、あ、ありがとうございました。
もう少しで、この術式も心と|一緒《いつしよ》に|破壊《はかい》される所でしたし」
アンジェレネはペコリと頭を下げようとしたが、ルチアに名前を呼ばれて慌てて作業に戻る。
ルチアとアンジエレ、不はお互いの|掌《てのひら》を合わせた。ピタリとではなく、良く見ると触れている指と触れていない指を細かく考えているようだ。
「通常、|魔術《まじゆつ》に使う道具というのは、術者が自分に合った専用の一品を用意するものでございますけど……」オルソラはちょっと感心した声で、「彼女達は間に合わせとして、自分を|縛《しま》る拘束服を逆手に取って利用しているのでございますね。二人分の拘束術式に、本来とは違うルートで|魔力《まりよく》を通す事で、全く別の魔術的成果を得る。これだけ制限の多い環境で、良く思いついたのでございますよ……」
スプーンとか|靴紐《くつひも》とか、しょうもない物を最大限に利用して難攻不落の|牢獄《ろうごく》から脱獄するようなものだろうか。
と、そんな事を考えていた上条の目の前で、それは起きた。
ルチアとアンジェレネが、一つに合わせた掌を水平に上げた。社交ダンスのようだ。そして手の先には、白っぽい電球色に|輝《かがや》く氷で作られた戸棚が置いてあった。
ギュルリ、と。
まるで|瞳孔《どうこう》が開くような動きで、半透明の戸棚に直径一・五メートルほどの大穴が空いた。
「氷を使った造船術式の亜種で、このように空洞を空けられるのです。これを応用し、海水を固めて自由に海底コースターを作り上げる事ができます。そこから脱出しましよう」
「こ、氷の壁をちょっとずつ削って仕組みを必死で調べたんですよ。『女王|艦隊《かんたい》』は海上防衛は得意なのですが、海中に苦手な側面があるんですけど……痛つっ!」
アンジェレネが顔をしかめた途端、戸棚の大穴が拡縮するように一気に閉じた。合わされた|掌《てのひら》が、ふらりと|離《はな》れる。彼女のこめかみに、嫌な汗が一滴伝った。
彼女はゆっくりと首を横に振って、
「や、やっぱり、拘束衣服の方にも|迎撃《げいげき》術式を追加されたようですね」
痛たた、とアンジェレネはこめかみの辺りを押さえて|呟《つぶや》いた。そこにはフードの額当ての上からはめられた、金色のサークレットがちょうど食い込んでいる。
「拘束機能の一部を|破壊《はかい》すれば済む話です。布地の織り方や|縫《ぬ》い目を|魔術的《まじゆつてち》に利用しているのですから、手順に|則《のつと》って縫い口を|壊《こわ》せば、どうとでもなります」
ルチアはテーブルの上から氷で作られた機能性のないペンを拾い上げる。
壊す? と|上条《かみじよう》は自分の右手に視線を投げて、
「なぁ。だったら手っ取り早く|俺《おれ》のごぁっ!?」
言いかけて、後頭部に|緩《ゆるし》い|衝撃《ようげき》を受けた。
振り返ると、オルソラが片手を|頬《ほお》に、もう片方の手でグーを作り、
「まぁまぁ。まさかあなた様はここで彼女|達《たち》まで素っ裸にするつもりでございましようか?」
「痛っ!? ごめんオルソラ、確かに俺が悪かった! でも何でお前がそんな怒って―――痛てぇ痛いってば!!」
意外に的確なグーを笑顔で連発するオルソラを見て、ルチアとアンジェレネはわずかに首を|傾《かし》げた。彼女達は氷のペンを狗束服の黄色い|袖《そで》にザクザク刺して穴を空けていく。壁や|天井《てんじよう》だけが|輝《かがや》いて中空が見えづらい状況では細かい作業は難しそうに思えたが、ルチア達の手の動きには迷いがない。
「海底コースターって、つまり滑り台って事か? ちんたら滑ってて「女王艦隊』の方に追いつかれたりしないのか」
「いえ、け、結構な速度が出るんですよ。最大で……じ、時速三〇〇キロぐらい」
「平均では時速九〇キロ程度ですね。|摩擦《まさつ》を削れますから」
二人の言葉に上条は顔を青くした。時速三〇〇キロと言えば新幹線と同じぐらいだと思うのだが、呼吸とか|大丈夫《だいじようぶ》なのだろうか。どうやって速度を落とすのかも気になる。現に一度それを試したルチアやアンジェレネがピンピンしているのだから問題ないとは思うが、魔術を使ったトンデモ理論のオカルトブレーキとかだったらヤダなあ、と自分の右手をチラリと見る。それ以前にコースターそのものが壊れなければ良いが……。
|上条《かみじよう》は彼女|達《たち》の手の動きを目で追い駆けながら、
「ともあれ、ソイツがあれば今すぐここから出られるって訳か」
「……、実際には、もうちょっと複雑なんです」アンジェレネがポツリと答えた。「この海底コースターは海水を使って作ります。なので、まずは船底まで下りないと」
「船体の床に穴を空け、海水でコースターを作ります。私達が|潜《もぐ》った後、船側に|繋《つな》がっている出入り口を封じ、切り|離《はな》せば『女王|艦隊《かんたい》』の方から|追撃《ついげき》するのは難しくなる、という訳です」
まだ安心できないのか、とため息をつく上条に対し、ルチアとアンジェレネの二人はどちらかと言うと楽観的な心の動きがあるらしい。
「シスター・ルチア。今度こそシスター・アニェーゼと|一緒《いつしよ》にここから脱出できるんですね!」
「可能ならそれで終わりにしたくありませんが、まずはシスター・アニェーゼの保護が最優先でしょう。彼女が動かなければ、|他《ほか》の皆も動く気を起こしませんし。ちょっ、シスター・アンジェレネ! そこに穴を空けては|駄目《だめ》です!」
慌ててルチアはアンジェレネの手を|掴《つか》む。
おそらく警戒が少しずつ解けているのだろう。その仕草はどこか|大雑把《おおざつぱ》というか、感情が表に出てきている気がする。小さな変化だが隠れた期待感のようなものが伝わってきた。
「し、シスター・アニェーゼとはいつ合流できるんでしょうね」
「そう簡単にはいかないでしょう。おそらく、彼女も極秘で動いてくれているのですよ」
だからこそ、上条は言うべきか迷った。
アニェーゼの言葉を思い出す。
『私は象微的役割なので』
確かに彼女はルチアやアンジェレネを助けてくれと言っていた。だが、その言葉はどこか冷めているというか、離れた所から人を見。ているようなニュアンスだった。
『それほど悪い環境じゃないでしょう? ま、ソイツを整えるために皆には働いてもらってんですけどね』
仲間として人を思いやるというよりも、|憐憫《れんびん》や同情心からの言葉だ。それは一緒に同じ場所に立っていたいと願うルチアやアンジェレネにとっては、|棘《とげ》にしかならない。のではないか。
『そんなゲスト扱いの私からすれば、シスター・ルチア、アンジェレネの両名は空回りなんですよ』
何でこんな事になっているんだろう、と上条は思う。
目の前のルチア達が少しずつ笑みを見せ始めているからこそ、その光景はどこまでも痛々しかった。人が笑うのは良い事のはずなのに。彼女達は悪意からではなく、心からの善意で表情を作っているはずなのに。
「……、悪い。アニェーゼは、多分来ない」
上条が言うと、ルチアとアンジェレネの動きがピタリと止まった。
それまであった表情が、死ぬ。
ようやく土の上に出始めた小さな芽が、思い切り|踏《ふ》み|潰《つぶ》されたように。
「何で、ですか?」
最初に口を開いたのは、アンジェレネだ。
「だって、シスター・アニェーゼと会ったんでしょう? 私|達《たち》を助けて欲しいって、お願いされたんでしょう? そ、そうです。そもそもシスター・アニェーゼはどこにいるんですか?」
ルチアは何も言わないものの、探るような|瞳《ひとみ》を|上条《かみじよう》に向けた。
「アニェーゼは……」
上条は間を省いて、事実だけを告げる。
「……お前達を助けるために、陽動に出るって言ってた。今一番危険なのはお前達だから、助けるならそっちを優先して欲しいって。この、『女王|艦隊《かんたい》』……だっけ? その旗艦に行ってるらしいけど」
「そんな……旗艦ですって!?」
ギョッとした声を放ったのは、意外にもルチアの方だった。
怒りなのか|焦《あせ》りなのか、元々白い顔からさらに色が抜けていく。
「冗談ではありません! 私達がどうして自分の身を危険にさらしてまで、脱獄なんて方法を考えたと思っているんですか!? それを防ぐためなのですよ! 一番危険なのは|誰《だれ》かって、そんなのシスター[#「そんなのシスター」に傍点]・アニェーゼに決まっているじゃないですか[#「アニェーゼに決まっているじゃないですか」に傍点]!!」
ちょっと待て、と上条は思う。
何か、上条と彼女達の間に温度差を感じる。お互いが大前提として考えている事に、違いのようなものを受け取れる。
アンジェレネは、再び泣きそうな顔に戻ると、
「そもそも、こ、この『女王艦隊』が何をする施設だか、分かっていなかったんですか?」
「確か……アドリア海周辺を監視するための艦隊なんだっけ?」
「そちらは建前だとアニェーゼさんは言っていたではございませんか」オルソラは|眉《まゆ》をひそめて、「……ローマ正教にとって不利益を働いた方々に対する、労働施設のような場所だとお聞きしたのでございましたが……」
「まさか」
ルチアは、ほとんど息を詰まらせて、
「……『女王艦隊』は旗艦『アドリア海の女王』に収められた、同名の大規模|魔術《まじゆつ》及び|儀式場《ぎしきじよう》を守るための護衛艦隊です。私達に課せられた『労働』とは、その下準備なのですよ。たかが監視や労働の目的だけで、これほどの大施設が必要となるはずがないでしょう!」
「アドリア海の……?」
上条は繰り返す。
確か、アニェーゼとここで再会した時も、ポツリと口から|漏《も》れていた気がする。
「何だ……そりゃ。これだけの|大艦隊《だいかんたい》が、全部そのアドリア海のナントカってヤツの前座だってのか。そもそも、その船がやろうとしてんのは一体どんな|魔術《まじゆつ》なんだ?」
「さぁ……詳細を知るのは労働者を束ねる職制者―――『女王艦隊』に配属されたローマ正教の上官|達《たち》だけでしょう」
「わ、私達に分かっているのは、大規模魔術『アドリア海の女王』は旗艦で行われる事。その発動キーとして、『刻限のロザリオ』という別の術式が|関《かか》わっている事」
アンジェレネは、一つ一つ指折りするように告げていく。
「そ、そして、『刻限のロザリオ』にシスター・アニェーゼが使われるって事です」
その言葉に、|上条《かみじよう》はギョッとした。
アンジェレネが慣れない日本語の使い方を間違っているのかとも思った。
しかし、
「詳細は私達にも分かりません。ですが彼女を使用するのは絶対で、少なくとも確実に脳を|破壊《はかい》されると。私達が|施《ほどこ》されそうになっていた『加工』とは比べ物にならない規模と手間をかけるそうです。シスター・アニェーゼは……心臓を動かす『だけ』の存在になるかもしれません」
後から並べられていくルチアの言葉は、あまりにも的確で冷たい。
上条の背骨を伝い、頭の|芯《しん》まで一気に|痺《しび》れが|襲《おそ》う。
自分はただの象徴的役割でしかなく、ここはある程度の自由が保障された良い環境だ……そう言っていたアニェーゼの言葉は何だったのか。
『ですけど、まぁ、侵人者が|貴方《あなた》達だったとはね。これは少し利用できそうです』
アニェーゼの言葉が脳裏に浮かぶ。
独り言のように|紡《つむ》がれた言葉の意味が、今ようやく理解できる。
『私が一人で行くとややこしい問題が解決できねえと思って|難儀《なんぎ》していましたが、貴方達を使えるなら話は早いです』
ややこしい問題とは、警備状況ではなかったのだ。アニェーゼがルチアやアンジェレネを助けて、二人は先に逃げうと言った所で、彼女達が納得するはずがない。
もっと早く気づくべきだった。
『法の書』を巡ってアニェーゼ=サンクティスが上条やオルソラに行った事は、確かに善意的とは言い|難《がた》い。だけど、彼女にだって|誰《だれ》かを|想《おも》って行動する権利はあるのだと。
『女王艦隊』は、|全《すべ》て『アドリア海の女王』のための前座だとルチア達は言った。
ここまで大規模に展開される一大術式のカギとなるのがアニェーゼだ。彼女がルチアやアンジエレネと|一緒《いつしよ》に逃げれば、追っ手は死にもの狂いで追い駆けてくるだろう。
『「女王|艦隊《かんたい》」では、これから大仕事があります』
しかし、アニェーゼはこうも言っていた。
『詳しい事は上の人問にしか分かりやしませんがね。そちらに人員を|割《さ》く以上、一人二人の脱獄など気にしていられないのですよ』
それが本当だとすれば、旗艦へ行くと言っていた彼女は、まさしく本当の意味で陽動を行うという事だったのだ。|全《すべ》てを切り捨てて、自分を助けようとしてくれた仲間のために。
どんな気持ちだったのだろう、と|上条《かみじよう》は思う。
『その間にって……お前も捕まってんだろ? だったら|一緒《いつしよ》に逃げようぜ』
このギリギリの|土壇場《どたんば》で、そんな言葉を告げられた時の気持ちは。
そして。
それでもなお、全てを偽ってルチアやアンジェレネの方へ上条|達《たち》を|誘導《ゆうどう》した時の気持ちは。
『それが以前二五〇人のシスター相手に一人でケンカを売った男の|台詞《せりふ》ですか?』
軽口の中に込められた感情。
アニェーゼが口に出せなかった願いを知り、上条は|呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす。
そんな、役立たずの少年の耳に、
ゴガッ!! と。突然、氷の壁を打ち破る爆発音が|炸裂《さくれつ》した。
その爆発音と|衝撃波《しようげきは》だけで、上条達は床に投げ出された。
氷の壁は外からの衝撃で|壊《こわ》されたらしい。上条達から|離《はな》れた=面が、まるでガラスのような破片の雨となる。倒れた彼らのすぐ上を、散弾と化した|残骸《ざんがい》が恐ろしい速度で通過していく。
「……痛つっ!?」
上条が思わず声を上げたのは、倒れた事ではなく耳の中からにじむような痛みに対してだ。
「何だよ、今の……ッ!?」
ヘッドホンを挟んで人の声を聞いているように、音という音が遠ざかっていく|錯覚《さつかく》を得る。「こ、攻撃!? でもどこからですか……ッ!!」
アンジェレネが|震《ふる》える声で言った。彼女はとっさに伏せたルチアの下に保護されている。そのルチアの顔にも困惑があった。無理もない。この護衛艦にしても、同じような船に囲まれているのだ。外部からの攻撃など可能なのだろうか。
と、同じく床に倒れていたオルソラが、ハッと顔を上げる。
「まさか……」
彼女が見ているのは、|破壊《はかい》された氷の壁の向こう―――地上五階分の夜景だ。
「……これは[#「これは」に傍点]、同じ味方艦から撃たれているのでございますよ[#「同じ味方艦から撃たれているのでございますよ」に傍点]!!」
冗談だろ、と|上条《かみじよう》は叫びたかった。
「だって、自分|達《たち》の船なんだろ!?」
「いえ」ルチアは苦痛を|噛《か》み|締《し》めるように、「|護衛艦《ごえいかん》の素材は海水です。アドリア海が干上がらない限りはいくら|壊《こわ》れた。所で修復も造船も問題ありません!!」
壊れた壁の向こうから、チカチカと光が|瞬《またた》いた。
大量の砲口が火を噴く光だ。
ただの|砲撃《ほうげき》とは違うらしく、砲火は細かく砕ける波のように風に流される。
「―――ッ!?」
発射音の|嵐《あらし》は、雷撃のように|一瞬《いつしゆん》遅れてやってきた。
上条が何か行動に移る前に、無数の砲弾が部屋のみならず、船体一面を|破壊《はかい》した。砕かれた方だけの壁から淡い光が消えた。壁の近くにいた、|縛《しば》ったままの男達が夜空を落ちていく。手を伸ばそう、と思う前に砲弾に壊された氷の破片がこめかみに激突した。一撃で手足から力が奪われていく。密集した艦隊の中で砲撃が行われたためか、上条達の周りの艦にまで|容赦《ようしや》なく後続の砲弾が当たる。マストが折れ、船室が|潰《つぶ》れ、それを必死で海水を凍らせて補修している様子が、壊れた壁の向こうに見える。
しかし、この船だけは違う。
自動再生機能を切られているのか、船は大きく傾いた。
氷の床にしがみついていたオルソラが、
「痛ッ……砲の仕組みは、聖バルバラの伝承に|則《のつと》ったもののようでございますけど……」
「っ!! ようは|魔術《まじゆつ》なんだよな。だったら|俺《おれ》の右手で!!」
「これだけ大きな船全体を|狙《ねら》う砲弾を|全《すべ》て防ぐなど不可能でございますよ!!」
叫び声をかき消すように、さらにたくさんの爆発音が|炸裂《さくれつ》した。重なり合った砲撃の音は、一つにまとまって稲妻のような|衝撃波《しようげきは》を|叩《たた》きつけてくる。上条は床に伏せていたのに、下からの|震動《しんどう》でわずかに体が浮かび上がった。立て続けに|撃《う》たれる砲撃に、床全体がガクンと斜めに|傾《かし》ぐ。部屋全体を支えている、柱のような物が砕かれたのかもしれない。ぐるりと視界ごと壁や床が回ったと思ったら、ザァ!! という砂をぶつけるような音が間近に聞こえた。水面を割る音だ。
沈む。
上条がそう実感を得た時には、小さな模型に|金槌《かなづち》を振り下ろすように、氷の船は容赦なく打ち砕かれていた。
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行間 三
両親を殺された。
その後に|紆余曲折《うよきよくせつ》があったとはいえ、やはりアニェーゼ=サンクティスが路上生活を始めるきっかけはそんなものだった。
食料は、質さえ選ばなければ手に人れるのはそれほど難しくもなかった。料理店裏手のゴミ箱の中に突っ込んである物を食べ物だと認識できるようになるまでが|辛《つら》かったぐらいだ。それより恐ろしかったのは冬の寒さか。ヨーロッパを|覆《おお》い尽くすような寒波に|襲《おそ》われると、寒空は人を殺す凶器に|変貌《へんぼう》する。
幼い彼女のいたミラノはビジネス街だ。|完壁《かんぺき》に整いすぎた街並みには、新聞紙やポロ布などといった防寒具の代わりとなるような物も落ちていない。何百年も前からある石造りの建物やアスファルトに固められた地面は昼間の|温《ぬく》もりを夜まで残さず、ひたすらに硬く鋭利な冷凍庫の世界を演出する。
下手に眠れば翌朝には指や耳が取れているかもしれない状況なのだ。
ゴミ箱を|漁《あさ》っても『食べ物』は|釘《くぎ》が打てるほど固まっている事もあるのだ。
そんな状況からアニェーゼを拾ったのがローマ正教だった。
アニェーゼの|他《ほか》にも、大人も子供も男性も女性もいろんな人|達《たち》が拾われていたと思う。理由はそれぞれだったが、アニェーゼのように事件に巻き込まれたり|命懸《いのちが》けの路上生活を送っていた人間はいなかったようだ』どちらかと言うと普通の生活を送っていて、選ばれた事を幸運だと感じている人の方が多かったように思える。
当時のアニェーゼに知る|由《よし》などなかったが、ローマ正教は二〇億人もの信徒を抱える一大宗派だ。才能のないぇ人をプロに仕立てるより、元から才能のある人間だけを拾ってきた方が色々と『手っ取り早い』のである。一千万人に一人の才能であっても、二〇〇人は確保できる計算になる。この辺りは数の勝利という所か。
選ばれるにはいくつかの条件が必要のようだったが、それは判然としなかった。
「こ、これから、どうなっちゃうんでしょうか、私達」
と言っていたのは、アンジェレネと呼ばれた少女だ。、彼女は元々フランスに住んでいたようだが、両親にミラノまで連れてこられてそこで捨てられたと言っていた。その気になれば帰る事もできるようだったが、帰ってどうなるのかと苦く笑うだけ。アニェーゼに比べればマシだろうが、彼女もこの集団の中では比較的シビアな理由を持っていた。
「疑問を抱く必要はありません。主が必要と|仰《おつしや》るならそれに|応《こた》えるのが信徒の務めでしょう」
そういう硬い言葉を放ったのはルチアと呼ばれた少女だ。アニェーゼやアンジェレネよりは一回り年上で、こちらは自分からローマ正教に選ばれるよう意識的に働きかけていたようだった。アニェーゼは|他《ほか》にもアガターやカテリナといった少女|達《たち》とも知り合いになっている。
「どうなんでしょうね」
アニェーゼは言う。
神様というのは確かにいると思う。が、呼べばすぐさまやってくるようなものではないはずだ。現に神父だった親は祈りながら死んだ。アニェーゼは犯人に向かって名前を尋ねる前にぶち殺して捨てた。神様が身近にいたらこんな事にはならなかった。
「それよりも、私は今日の晩ご飯の方が気になっているんですけど」
今でこそ、日本語は学び方が特殊だったせいか粗雑な|匂《にお》いがするアニェーゼだが、元々のイタリア語は|丁寧《ていねい》なものだ。
一方、それを聞いたルチアは、
「それよりも、というのはどういう事ですか。この世界に主より重要なものなど―――」
「わ、私も気になります。もう一二日連続で隠し味がオリーブばかりでウンザリです。おる、オル、何でしたっけ、あのほのぼの見習いシスター。絶対にレパートリーを途中で忘れていると思います。あとお|風呂《ふろ》も変です。ちょっと熱すぎますよね。ルチアさんもそう思うでしょう?」
「隠し味などどうでも良いのですッ! それにあの浴場は少しぬるいぐらいでしょう!!」
「そ、そうでしょうか。言われてみれば、大人の方達はあんまり気にしてないように見えましたけど……えと、そうすると、あなたの|歳《とし》って……。あっちにいる見るからに年上のアガターさんとかカテリナさんも熱い熱いって言っていましたし。ま、まさか……それ以上に」
キッ! とルチアが指差された方を|睨《にら》む。と、少し|離《はな》れた所にいた少女達が慌てて目を|逸《ぞ》らす。
ぎゃあぎゃあという|騒《さわ》ぎ声を耳にして、アニェーゼはわずかに目を細めた。
神様が身近にいるとは思えない。
呼べばすぐさま何でも助けに来てくれるような便利屋でもないのだろう。
だが。
ルチア、アンジェレネ、アガター、カテリナ―――こういった人達と巡り合えたのがローマ正教のおかげだというのなら、アニェーゼは素直に神様に感謝しようと思う。感謝と共に十字教の教えを信じてみたいとも思う。
そして。
巡り合わせてもらえただけで幸運なら、与えられた幸運はこの手で守る。
何があっても。
神様が渡してくれたチャンスを|活《い》かし実らせる事を、自分なりの信仰の|証《あかし》にしてみせる。
「どうかしましたか。いつになく真剣な顔つきで」
「る、ルチアさん。アニェーゼさんもお風呂の熱さには|我慢《がまん》できないという意思を表しているんですよ。じ、|直談判《じかだんばん》なら私もご|一緒《いっしょ》します! ほら、アガターさんやカテリナさんも立ち上がりました!!」
そうですね、とアニェーゼは見当違いな|憶測《おくそく》に対してあっさり|頷《うなず》いた。
これからはここが自分の居場所になるのなら。
まずは快適と呼べる環境を整えてみるのも良いかもしれない。
[#改ページ]
第四章 火船と砲火の戦い Lotte_di_Liberazione.
アニェーゼ=サンクティスは、『女王|艦隊《かんたい》』の旗艦『アドリア海の女王』の一室にいた。ただでさえ|他《ほか》の護衛艦とは何もかもが違う旗艦の中でも、ここは|一際《ひときわ》異彩を放っている。
四角い部屋だった。
一辺が二〇メートルに近い、|完壁《かんペき》な正方形の部屋に見える。が、良く見ると四方の壁は、ほんのわずかに内側へ傾いていた。立方体ではなく、|四角錐《しかくすい》の部屋なのだ。うっすらと白い電球色に|輝《かがや》く壁をなぞるように視線を上げれば、|遥《はる》か頭上にその頂点があるのが分かる。
しかし、その頂点にはおかしな所がある。
ここからの高さは、ざっと一〇〇メートル以上あるように見えるのだ。当然、この|帆船《はんせん》はそれほどの高さを持っていない。船のサイズに納まらない空間を|魔術的《まじゆつてき》に収めているのか、はたまたトリックアートの一種なのか。
妙な点はそれだけではない。白っぽい電球色に輝く四角錐の部屋は、|全《すべ》て正三角形の氷のパネルで組まれていた。実際には底が正方形の四角錐を正三角形だけで作る事はできないはずで、どこかにそれ以外の妥協点となるパネルがあるはずなのだ。
だが、どこを見てもそんな物は発見できない。
論理的に存在できない机上の空論のような図形が、そのまま無理を通して作られていた。それは端的に、ここが通常の物理法則では説明できない神聖な空間だと示している。
装飾品は一切ない。
白い電球色の光を跳ね返す氷で作られた完全な平面は、他者への拒絶を示すようだった。絶対という言葉はどこまでも冷たく、外周から中心部にかけて見えない重圧が放たれている。
アニェーゼは部屋の中心を見た。
どうやって床に固定されているのか、そこにあるのは透明な直径七メートルほどの氷の球体だ。シャボン玉のように中の空いた不可思議なオブジェは、アニェーゼが本来いるべき『|牢獄《ろうごく》』でもある。
ズン……、という低い|震動《しんどう》がアニェーゼの耳に届く。
彼女は|眉《まゆ》をひそめて、
「『聖バルバラの神砲』……? 一体、何に向けて|撃《う》っているんですか」
声は、広々とした四角錐の中に|反響《はんきよう》する。
ややあって、
「分からないのか、シスター・アニェーゼ」
ぼんやりと|輝《かがや》く部屋の中、氷の球体に背中を預けた人間はそう答えた。
人影は男だ。
重たく引きずりそうな|法衣《ほうい》に、首には四本のネックレスがある。切り株の年輪のようにも見える。そこには数十の十字架が取り付けてあった。メノラーだ、とアニェーゼは思う。セフィロトの|樹《き》の別表現、七本のロウソクによって例えられる四界の象徴だ。
『ビショップ・ビアージオ』
突然、二人とは別の声が割り込んだ。その男の持つ十字架の一つからだ。
『三七番艦は沈みました。もう|砲撃《ほうげき》は|止《や》めた方が良いのでは……。これ以上は陸からの干渉も|懸念《けねん》されます。ただでさえ艦隊の展開にはヴェネト州の―――』
「人目の処理はよその部署に回しておけ。わたしの|管轄《かんかつ》ではない」
一方的に言って、ビアージオと呼ばれた男は首元の十字架を指でなぞった。それが通信術式のスイッチなのか、付き人らしき声は寸断される。
彼はアニェーゼの顔を見て笑い、
「わたしも色々な部署を回ったが、能のある部下というのはなかなかいないものだな」
「能がない部下がいるようなら、それを引き出すように面倒を見るのが上官の務めだと思いますけど」
「理想論だな。そして、それが君の人生の敗因だ。シスター・アニェーゼ。部下の選定に手間をかけないから、君はそうしてそこにいる」
でしょうね、とアニェーゼは適当に流した。
ビアージオは|忌々《いまいま》しげに舌を打って、
「……本来、ネズミが見つかるまで三七番艦は本隊に近づけるなと言ったのに。挙げ句、『接続橋』まで|繋《つな》いでしまうとはな。ネズミがよその艦に移っていたらどうするつもりだったのか。君の身に何かあったら取り返しがつかないだろう」
彼の言葉に、アニェーゼは自分の体を抱くように両腕を回した。
とはいえ、すでに修道服の機能が|破壊《ぽかい》されている事は隠せないだろう。
彼女の修道服は特別製で、その大きく肌をさらすデザインには十字教の刑罰の文化・術式が―――、織り込まれている。さらし刑―――生き恥を利用したこの刑罰は、自殺・他殺を問わずあらゆる死に対する防止策を付加されている。思いやりから命を守るのではなく、より一層苦痛を伸ばすために死を防ぐという訳だ。|莫大《ばくだい》な『負荷』が|襲《おそ》うため、長時間の使用はできないが。
「しかし皮肉なものですね」
「言うなよ、シスター・アニェーゼ」
ビアージオはくつくつと笑いながら答える。
「ローマ正教が古くからアドリア海を守ってきた大規模術式の適性を、まさか背信者の君だけが持っているとはな」
『アドリア海の女王』のカギとなる『刻限のロザリオ』。アニェーゼには詳しい仕組みや効果は分からないが、それはアニェーゼの精神を|壊《こわ》す事で機能するものらしい。
「人間は、その頭を使って体内で|魔力《まりよく》を練る。しかし『刻限のロザリオ』は普通の人間が作る魔力では|上手《うま》く機能しない。そこでシスター・アニェーゼ、君の出番という訳だ。その才能を存分に発揮すると良い」
大仰な言葉だが、ようは『普通とは違う魔力』を作るために、人間を『普通とは違う頭』に改造する―――つまり廃人にする―――だけの話だ。アニェーゼの素質とは、その頭の『壊れ方』の方向性が『刻限のロザリオ』に向いているという訳である。
|忌々《いまいま》しいが、それを口に出した所で何も変わらないのは分かっている。
そんなものは、ここへ足を|踏《ふ》み人れた時点で覚悟を決めていた。
「それよりも、三七番|艦《かん》は沈みました、というのは?」
「言葉以上の意味が欲しいか?」
「……、職制者という、|貴方《あなた》の部下もいたはずですが」
「人間の使い方はこちらで決めるものだ。違うのか?」
アニェーゼはわずかに|黙《だま》る。それから、|撃沈《げきちん》前にあの少年|達《たち》が船から出られた可能性を考えてみたが、
「彼女達[#「彼女達」に傍点]の脱獄術式にすがるのは楽観的が過ぎないか」
「……何の話でしょう?」
「死体を見せるのが手っ取り早いが、アドリア海にばら|撒《ま》かれた破片を拾い集めるのも骨が折れるのでな。あの状態では身元を確かめるのにも時間がかかるだろう。さてどうしたものか」
ギリッ、とアニェーゼは奥歯を|噛《か》んだ。
そのわずかな音に、ビアージオは満足そうな笑みを浮かべる。
と、
『ビシヨップ・ビアージオ! |緊急《きんきゆう》です!!』
彼の首にある数十もの十字架の一つから、|切羽詰《せつばつ》まった声が割り込んできた。
ビアージオは|眉《まゆ》をひそめ、
「何だ?」
『三七番艦撃沈跡の下部[#「下部」に傍点]に巨大構造物の反応あり! 船の|残骸《ざんがい》を回収しているようですが……』
チッ、と彼は吐き捨てる。
「|潜水《せんすい》術式……以前のシスター・ルチア達と同じ、また海の底からか、『女王艦隊』の制海機能を組み直す必要があるな。大体、巨大構造物だと。そんなものを個人が用意できるとは思えないが……となると、やはりキオッジアには『集団』がいたか。だから早めに|潰《つぶ》しておけと言ったのだ。指示は出したのに、これも部下の失敗だったな。まったく、『集団』を仕留め損なうわ、船の侵人者|達《たち》にも逃げられるわ……」
ビアージオはアニェーゼの顔を見る。
今度は笑みではなく、|瞳《ひとみ》にイラついた色を帯びつつ、
「……本当に、ドイツもコイツも使い物にならない連中ばっかりだ」
|喉《のど》を焼く海水の味で、|上条《かみじよう》はぼんやりと意識を外側に向けた。
水の中にいる。
ゆらりと漂う手足が見えた。水深は何メートルか分からない。暗い夜の海は|闇《やみ》のカーテンに|遮《さえぎ》られているようで、頭上を見ても海面は黒一色に包まれている。周囲には例の氷の|艦隊《かんたい》があるはずだが、分厚い膜にでも|覆《おお》われたように光は全く見えない。
ぼごん、と口の中から外へ白い泡が|漏《も》れる。空気の塊は細かく砕けながら上へ上へと流れていく。
(お、ルソラ、達は……?)
意識の端に引っかかるように、人の名前が浮かぶ。
氷の船は、もう|残骸《ざんがい》もない。おそらく|融点《ゆうてん》の変動した氷を元の海水に戻したのだろう。新しい船を別の場所で生み出しているのかもしれない。
(ル、ちアに、アン、ジェレネ。アイツらは……)
とにかく海面を目指すべきだろうが、心が動作まで追い着かない。
極限に達した眠気に屈するように、目的から行動、そして結果までの思考が|繋《つな》がらない。
ごぼっ、と。
空気の泡が口から|漏《も》れ、上へ上へと流れていく。
(ま、ずい……。……これは、本当に、死ぬかも……)
海面までが遠い。
|崖下《がいか》から頭上の出口を眺めているような|錯覚《さつかく》すら感じる。
(……、あれは)
|上条《かみじよう》の視界の先、正面に広がっていた暗い海の色が、不意に割れた。
シャチかサメでも近づいてきたのかと思ったが、縮尺を間違えていると遅れて気づいた。遠く遠くからやってくる『それ』は、ざっと三〇メートル近い全長を誇っている。
(まさか、―――)
上条が思う前に。
グバァ、と。細長い構造物の前面が、四つに分かれて花のように開いた。
まるで、浮かぶ少年を飲み込む巨大な口のように。
木でできた床の上に、全身びしょ|濡《ぬ》れの上条|当麻《とうま》は仰向けに倒れていた。
それを見下ろしているのはインデックスだ。彼女の両サイドには、四角い旅行|鞄《かばん》とスーツケースがそれぞれ置いてある。キオッジアの街で運河の海水に流されそうになっていたのをしっかり拾っておいたのだ。
ここは縦長の|薄暗《うすぐら》い空間だった。高さと幅は八メートル前後、長さは三〇メートルぐらいか。壁や|天井《てんじよう》は四角くなく、トンネルのように曲線を描いている。黒っぽい、年代物の木を組んで作られているようだ。木製ジェットコースターの柱みたいにしっかり計算されたものだ。
「そんなに心配そうなツラしなくても、もうすぐ自分で目を覚ますだろうよ」
横合いから男の声がかかった。
「|敵艦《てきかん》ごと|容赦《ようしゃ》なく沈められた時は|流石《さすが》にビビっちまったけどよ。まぁ、結果だけ見りゃ不幸中の幸いってヤツなのよな」
そういう問題じゃないとインデックスは思う。
そして声の主もそれぐらいは分かっているだろう。だから彼は端的に言う。
「ほら、目を覚ました」
インデックスは、バッ! と勢い良く倒れている|上条《かみじよう》の方へ改めて振り返った。
|濡《ぬ》れた前髪に|若干塞《じやつかんふさ》がれたまぶたが、うっすらと開く。
「インデックス……」
上条|当麻《とうま》は彼女の名前を呼んでから、ゆっくりと床から起き上がった。
「体は平気なの、とうま?」
言ったのは真っ白な修道服を着た銀髪|碧眼《へきがん》の少女だ。上条の顔を見てホッとしたようだが、またすぐにムッと表情が戻ってしまった。
その|傍《かたわ》らにいるのは、
「た、|建宮《たてみや》、|斎字《さいじ》か?」
「おう、お久しぶりよな。|天草式《あまくさしき》十字|凄教《せいきよう》の教皇代理さんだ。今は手前にイギリス清教所属ってつくけどよ一
元々黒い髪をさらに真っ黒に染め直した、クワガタみたいな光沢のある|尖《とが》った髪に、ぶかぶかのシャツやジーンズ。長身だが、服のサイズに反して極端に体は細い。首には小型扇風機を四つほど|紐《ひも》を通して引っ掛けてあり、足の靴紐は|何故《なぜ》か一メートル以上もある。
上条は|安堵《あんど》の息を吐いた。
彼もまた、アニェーゼやオルソラと同じく『法の書』事件で知り合った人間だ。
「となると……天草式、か」
確か、オルソラの引っ越しの手伝いにキオッジアへ来ていたはずだ。インデックスは上条|達《たち》と別れた後、天草式の連中を捜すために街を走ってくれたのだろうか。
上条は額の汗を|拭《ぬぐ》おうとしたが、千も服もポケットの中も海水でベタベタしていた,彼が閉口すると、ふと横からにゅっと白いおしぼりが差し出されてきた。見ると、二重まぶたの女の子がすぐ近くにいる。
「どうぞ」
「あ、どうも」
上条が受け取ると、『いえいえ』とその子は立ち去っていく。
「っつか、何で……お前達はこんなトコに……? 大体、ここはどこなんだ……?」
やや困惑気味に上条は言う。
改めて周囲を見回すと、|薄暗《うすぐら》い空間の奥に、数十人もの人の気配や視線を感じた。どうも、この木製トンネルみたいな場所には天草式の本隊が|揃《そろ》っているらしい。彼らは『|五和《いつわ》、どうでしたか?』『もう少し|一緒《いつしよ》にいれば良かったのに』などと言っている。何なのだろうか?
「そうだ……ッ! オルソラ達は!?」
「ま、一応全員拾っておいたのよ。身元が分かっているのはオルソラ、ルチア、アンジェレネ、だったか。後は拘束されてる男とかローマ正教の修道女とか、色々だな。今、そっちの方は別で話を聞いてるトコなのよ」
具体的にあの船に何人の人|達《たち》が乗っていたか分からないのが難点だが、|上条《かみじよう》はとりあえず|建宮《たてみや》の言葉に安心した。上条は辺りを見回して、
「ここって|天草式《あまくきしき》の秘密基地みたいなモンなのか? っつか、あの状況でどうやって海の中に落ちた|俺《おれ》達を拾ったんだ?」
はっはっは、と建宮は笑う。
「確かにちょっと想像しづらいかもしれんなあ。最初に言っておくけどな、こりゃ建物じゃねえ。乗り物だ」
「あ?」
上条が疑問の声を返す前に、ぐぐっと慣性の力がかかった。彼の体が、やや背中の方へと流れそうになる。このトンネルみたいな施設そのものが動いているのだ。ギョッとする上条は、思わず身を|強張《こわば》らせて、
「ってこれ、まさか―――ッ!?」
「|潜水艦《せんすいかん》、と言いたいトコだが、そこまで高性能じゃねえ。せいぜい潜行機能のついた|木舟《きぶね》ってのに近いのよ」
つまり、と建宮は口ずさむように答えた。
「上下艦ってヤツよ」
ドパァ!! とトンネルの外で水の膜を破る|轟音《ごうおん》が聞こえた。ぐわん、と視界が大きく縦に揺れる。まだ信じられない上条の眼前で、トンネル状の屋根が中心から縦に大きく裂けた。まるで両開きの扉のように、ミシミシと木の|軋《きし》んだ音と共に開放されていく。
見えたのは電球色に|輝《かがや》く夜空の月だ。
潮の|匂《にお》いが轟につく。まるで船に乗っているように、足元がふらふらと揺れた。
「まだまだ分かりづらいかもな。っと、こうすりゃ|流石《さすが》に信じられるか」
建宮が何の変哲もない木の壁をなぞった。
ガゴンー という音と共に長さ三〇メートル前後もの床が|全《すベ》て上へ上がっていく。ゴトガコと歯車の|噛《か》み合うような振動が|響《ひび》き、四〇秒ぐらいかけて床の高さが開かれた|天井《てんじよう》にまで達した。ちょうど、トンネルの屋根に登ったのと同じ構図となる。
見えたのは夜の海だった。
上条が立っているのは全長三〇メートル、全幅八メートルほどの、ラグビーボールのような構造物だった。開かれた天井は、まるで|翼《つばさ》のように両サイドに広がっている。海から顔を|覗《のぞ》かせるそれは、大量の木材を組んで作られた小さな人工島だ。
「|馬鹿《ばか》げてやがる……」
|上条《かみじよう》は思わず|呟《つぶや》いた。
確かにこれは上下|艦《かん》のようだが、機関室も司令室も|船槽《せんそう》も通信室も、何にもない。ただ漠然と『上下艦』という中にトンネル状の空間がぽっかりとあるだけ。そもそも材料が木という時点で常識がズレている。ハリボテがそのまま動いているような感じだ。
「……なぁ。溢前らって、引っ越しの手伝いするのにこんなモノなんか持ってくるのか?」
「あん? 我らの母体は隠れキリシタンなのよ。武器を|懐《ふところ》に隠し持つのは当たり前。そして我らが最も得意とするのは島原にもある通り、海戦よ」|建宮《たてみや》はニヤリと笑って、「紙は木で作られ、木は船をも作る。その|繋《つな》がりを上手に使えば、こんなに小さくも収めておけるって寸法よ」
言いながら、建宮はぶかぶかジーンズのポケットから札束のようなものを取り出した。輪ゴムで無造作に束ねてあるのは和紙の束だ。まさか、あれが全部船に変わるとか言うのだろうか? |得体《えたい》の知れない|呪文《じゆもん》でも書いてあるかと思いきや、それ自体はただの白紙だ。
(|魔術《まじゆつ》って……とんでもねえ話だ)
上条は首を振って息を吐くと、足元の上下艦から周囲へ視線を移す。
水平線の近くに、かろうじて陸地が見えた。キオッジアの街……ではないかもしれない。もっと光の数が多いような気がする。
一方、反対を見ると暗い洋上に白っぽい電球色の光の帯が見えた。下手すると街の明かりよりも強い光を放っているのは……おそらく、例の『女王艦隊』か。一歩|離《はな》れて眺めてみると、改めてそのスケールの違いが浮き彫りとなる。魔術業界どころか海戦の基本も分からない上条には、この位置が安全なのかどうかも分からなかった。
これまでも敵の本拠地自体なら正面から|踏《ふ》み込んだ事はある。が、どんなものであれ、施設の|概要《がいよう》は一つの|敷地《しきち》に指を折って足りる程度の建物の数でしかなかった。しかし今回は違う。
軍事構造物そのものが一〇〇近く集結しているのだ。
(……、アニェーゼ)
あんな所へ一人で残ると言外に語った少女の顔を思い出し、上条はわずかに顔をしかめた。
と、それを見たインデックスが、
「これからどうするにしても、まずは詳しい話を聞かないとね。安全な場所までは、どれぐらい下がれば良いのかも知っておきたいし。……何より、とうまはものすごく何か言いたそうな顔をしているし」
「いや……」上条はわずかに言葉を詰まらせ、「実は|俺《おれ》もあのポロ船については良く分からなかったんだ。多分、俺よりもルチアとかアンジェレネの方が説明には向いてると思うけど」
「……、」
「な、何だよ?」
「別に。敵地のど真ん中であっても、とうまはとうまなんだなぁと思っただけかも」
「だから何だよそれ!?」
|上条《かみじよう》はもう一度叫んだが、インデックスは不機嫌ムカムカ顔をするだけで答えてくれない。
らちが明かないので、さっさと話を進めようと彼は辺りを見回す。そうだった。問題の二人はどこにいるのだろう?
と、少。し|離《はな》れた所に立っていた|天草式《あまくさしき》の少年少女|達《たち》の人垣が割れた。
奥から前へ出てきたのは、ルチアとアンジェレネだ。|何故《なぜ》かやや逃げ腰なのだが、彼女達の後ろからオルソラがニコニコの笑顔で背中を押していた。
「おっ。そっちも無事だった……みたいだな。っつか、お互い良く生きてたよな。砲弾が|直撃《ちよくげき》しなかったとはいえ、五階とか七階ぐらいの高さから海に落ちたっつーのに」
上条は気軽に話しかけたのだが、ルチアとアンジェレネは顔を赤くすると、|黙《だま》って顔を横に向けた、あれ? と会話の空回り感に上条の表情が固まる。
ふふ、とオルソラは小さく笑うとローマ正教のシスター達に向かって、
「もう、そんなに恥ずかしがらなくてもよろしいのに」
「む、|無茶《むちや》な事をサラリと言わないでくださいよっ!!」
半分涙目のアンジェレネはぶかぶかの|袖《そで》を振り回し、ほとんど|噛《か》み付くように叫んだ。ルチアは声を荒らげなかったものの、目を閉じて口の中でブツブツ|呟《つぶや》くと小さく十字を切っていた。気を|鎮《しず》めているのかもしれない。
「???」
上条は訳が分からず、思わず|眉《まゆ》をひそめてしまった。
はっはっは、とそれを見ていた|建宮《たてみや》が笑う。
「いや、暗幕で四方を囲んで、その中で行われたから|俺《おれ》は詳しい事は分からないけどな」
「……、何その超不気味コメント?」
「つまりあれなのよ。ルチアとアンジェレネの修道服って、オルソラのモンとどっか違うのよな。ほら、|袖《そで》とスカートが黄色いヤツに変わっているのよ。ありゃローマ正教が用意した拘束装飾でな、取り付ける事で『ある一点から一定|距離《きより》以上離れられなーなる』|鎖《くさり》と首輪の効果があるんだと。脱獄経験があるお二人さんだけに後から追加されたヤツみてえだ」
「それの何がつまりなんだよ?」
「だーかーらー。察しの悪いヤツよの。ソイツをぶっ|壊《こわ》さない事には二人とも拘束効果で倒れてたのよ。そんじゃ困るからって訳で、まぁ、申し訳ないけどお前さんが気絶している間に勝手に右手を使わせてもらったって訳[#「気絶している間に勝手に右手を使わせてもらったって訳」に傍点]」
は? と上条は目を点にする。
「もっと簡単に言うとあれよ。あの修道服がー」
建宮|斎字《さいじ》は、口の端をグンニャリ曲げて下品な笑みを浮かべると、ルチアの顔を指差した。キョトンとしている背の高いシスターに対して、教皇代理は|厳《おごそ》かに一言。
「すっとーん」
ばばっ!! とルチアは顔を真っ赤にして|袖《そで》の短めな両手でアンジェレネを抱いて背中を向けた。まるで子供を守る母親が自分の体を盾にするような仕草だ。
よくよく見れば、彼女|達《たち》の修道服はインデックスと同じく、たくさんの安全ピンが取り付けてあるのが分かる。おでこを硬く戒めていた金色のサークレットもなくなっていた。
|上条《かみじよう》は大体の事に想像がついて、それからギョッとした。
「ちょっ……人がグッタリしてる間にそんなステキ……いやトンデモイベントが!? そして|傍《かたわ》らで思い出しムカムカを始めたインデックスにどう対処すれば良いんだ! だって|俺《おれ》は何も見てないしそもそもお前達が始めた事じゃない!! これで怒られるのは|理不尽《りふじん》だーっ!!」
口では反抗しつつも上条はすでに|土下座《どげざ》の前段階に移行しつつある。|喚《わめ》く上条に対してインデックスは静かなもので、しかし音もなくゆっくりと唇が動いて歯がギラリと|輝《かがや》く様子は余計に恐怖を|煽《あお》る。ゴゴゴガガ!! という殺気が彼女を中心に渦を巻いていた。割と|百戦錬磨《ひやくせんれんま》な|天草式《あまくさしき》の人々が慌ててうわあと逃げ出す。上下|艦《かん》全体が混乱に包まれる。
一方、ルチアのお|腹《なか》から顔を|離《はな》し、彼女の両腕から逃れたアンジェレネは、ふと思い出したように、
「そ、そうでした! こんな事をしてる場合では……シスター・アニェーゼがまだ……ッ! あの、皆様には助けていただいた恩もありますので、現状の説明だけでも……ッ!」
だが、ポツポツと告げる小さな言葉など、|命懸《いのちが》けで口論している上条と彼を取り巻く周辺の人達の耳には届いていない。
「とうまはいっつもそんな感じだよね!」
「インデックスもいつもそんな感じじゃん! 人間なら怒る時もある、そしてお説教だってありだと思う。しかしそこでスルメを|噛《か》み|千切《ちぎ》るトーンの|一撃《いちげき》が来るのはどうなんだっつの!!」「あの、あの……」
人の話を聞いてくれないギャラリーにアンジェレネが困った顔でそわそわと手を動かした。ノリとしては|駄目《だめ》な学級会議のようなものかもしれない。
「え、ええとですね。私達にはまだ目的があって、できればシスター・アニェーゼの事を説明……うぁー」
「変だって絶対変だよ! 大体そんな強烈な噛み付き攻撃があるなら|魔術師《まじゆつし》にもそれで戦えば良いじゃん! 一〇万三〇〇〇冊? それよりよっぽど脅威だよ!!」
「とうま、とうま。開き直り作戦が通用するほど私は甘くはないかも!!」
珍しく噛み付こうとするインデックスに背を向けて逃げる上条。白いシスターはそんな彼の背中に飛びついて、二人|一緒《いつしよ》にゴロゴロと床を転がる。それに巻き込まれた二重まぶたの女の子が『わっ、わああっ!!』と甲板の上で倒れた。持っていた白いおしぼりがばら|撒《ま》かれる。周りの天草式の連中から『|五和《いつわ》チャンスだ、行けってーっ!』『耳たぶにチュっとやってしまいましょうよ!』『せめて胸ぐらい押し付けてみては!?』『うるせえまずは強敵、禁書目録を遠ざけるのが先だ! |五和《いつわ》、女なら思い切って|蹴飛《けと》ばせ!!』とかいう声が飛んでくる。それを見た|建宮《たてみや》が笑い、オルソラがまぁまぁとほっぺたに片手を当てる。ルチアはうんざりしたように息を吐いた。
ハッキリ言えば、|誰《だれ》もアンジュレネの話を聞いていない。
「えーっと、ええーっと、そのうー……ッ!!」
アンジェレネのそわそわのペースが次第に速くなっていく。
そのピークが最高潮に達した途端に彼女は両目を、くわっ!! と見開いた。
意を決したアンジェレネは、|隣《となり》にいたルチアのスカートを両手でグッと|掴《つか》むと、
「ほ、ほらーっ! ちゅうもーく!!」
ルチアの修道服のスカートを、ブワサァ!! と勢い良く持ち上げた。
ピタリと。
会話が止まった。
ルチアは始め、耳が痛くなるほどの|沈黙《ちんもく》にキョトンとして、その場の全員がこちらを見ている事に|眉《まゆ》をひそめ、宮殿の窓から教皇様が手を振った時のような高揚に包まれた静寂に不審感
を得て、足元が妙にスースーする事に気づき、それから不思議そうな顔で下に視線を向けて、
「!?」
およそ二秒半で顔を爆発的に真っ赤にすると、空気をまとって夜空を泳いでいるスカートの布地を両手で|叩《たた》き落とした。
ルチアは音もなく首を回して|傍《かたわ》らの小さなシスターを見ると、
「……し、シスター・アンジェレネ?」
「い、いえ! 私|達《たち》の部隊内ではいつもこんな感じだったじゃないですか! ですからその、あの、いつものクセで!!」
アンジェレネは弁解のつもりで言っているのだろうが、|建宮《たてみや》や|天草式《あまくさしき》の少年達はルチアと同じぐらい顔を赤くすると、余計に気まずそうに目を|逸《そ》らした。そして硬直した|上条《かみじよう》はインデックスに拘束されて頭をかじられた。
|流石《さすが》に巨大な上下|艦《かん》のまま陸地に接岸するほど、天草式は常識知らずではないらしい。まず上下艦で陸の近くまで向かうと、建宮がポケットから取り出した紙束を海に向かって投げる。それらが二〇隻近い小型の木のボートに変化した。上条達はそれぞれ人員を分けてボートに乗ると、建宮が最後に上下艦を元の紙切れに戻す。和紙は回収するまでもなく、海水に溶けて消えてしまった。
|手漕《てこ》ぎのボートは、すぐ近くにあった|灯《あか》りの下へ向かった。島かな、と上条は思ったが、どうもよくよく夜の|闇《やみ》に目を|凝《こ》らしてみるときちんとした陸地だった。海に向かって鋭角に突き出した場所らしい。
「ま、キオッジアに逆戻りってヤツよ。っつっても、オルソラ|嬢《じよう》の住んでた中心部とは、海を隔てた|隣《となり》の地区だけどな」
ソット・マリーナと言うらしい。
岸まで着くと、天草式の面々は再び手漕ぎボートを紙切れに戻していた。さらに、今度は紙束をばら|撒《ま》いて木の|椅子《いす》やテーブルを作り出す。木製のスプーンやフォーク、食器皿やグラスまで用意されている所を見ると、どうも詳しい話は食事を採りながらするつもりのようだ。
と、背の高いルチアは少し落ち着きのない様子で周囲を見回すと、
「ご|一緒《いつしよ》したいのは山々ですが、私達はこれからシスター・アニェーゼの所へもう一度戻らないといけないので」
「今すぐ行っても|無駄《むだ》なのよ」建宮はあっさりと切り捨てた。「我らがさんざんかき回した後なのよな。連中だって警戒態勢を解いちゃいねえのよ。まずは時問を置かなくちゃならねえ」
との事で、暗い海をバックに遅めの夕食の準備が始まった。
|流石《さすが》に紙束をばら|撒《ま》いて料理が出てくる事はなく、こちらは金属製のキャンプ用の調理道具を取り出すと、|天草式《あまくさしき》の少年少女|達《たち》は手早く作り始めた。それを見ていた|上条《かみじよう》は、どこか手順に|無駄《むだ》があると思えた。もしかすると、天草式の様式に|則《のつと》った|儀式《ぎしき》みたいなものかもしれない。
と、料理を作る人達を同じように眺めていたアンジェレネが、
「私はコーヒーとか紅茶よりも、チョコラータ・コン・パンナが良いです」
何それ、と上条がアンジェレネの方を見ると、
「あ、知らないんですか。チョコレートドリンクの上に生クリームがたっぷり乗った飲み物なんですよ。基本はエスプレッソを使うんですけど、私はチョコの方がアギュッ!?」
得意げに激甘ドリンクの説明を始めたアンジェレネの頭を、|隣《となり》にいるルチアが上から押さえつけた。
「シスター・アンジェレネ……。|貴女《あなた》は先ほどから少し警戒心が|薄《うす》すぎますよ。彼らとは一時的に協力しているだけです。それと甘い物への執着も断てとさんざん注意してきたはずですが」
ルチアの怒り方に、むしろ上条は戸惑った。
「そこまで言わなくても。大体シスターさんってみんな|そんな感じ《よくぼうまるだし》じゃねえの?」
「何を基準にそんな|台詞《せりふ》を言っているのですか!? 修行中のシスター・アンジェレネを十字教徒|全《すべ》ての見本にしないでください!!」
信じられないものでも見るような顔で叫ばれたが、それに対してインデックスが気まずそうに目を|逸《そ》らした。ちなみに横ではオルソラが、まな板の上からもらってきたのか薄い生ハムを『あら。美味でございますよ』とか何とか言いながらモクモク食べている。……、やっぱりみんなそんな感じかもしれない。
そうこうしている内に料理はできた。
|建宮《たてみや》に勧められる形で、上条達はテーブルに着く。
すると突然、にゅっと目の前に白いおしぼりが差し出された。見ると、二重まぶたの女の子がいる。彼女はもう片方の手でほっぺたを押さえ、どこか顔を赤くして目を泳がせていた。
「あ、どーもー」
何気なく受け取ると天草式の女の子は、
「いっ、いえいえ!」
と慌てて立ち去っていく。『まだおしぼり作戦なのか|五和《いつわ》!?』『次のステップです! どさくさに紛れて手ぐらい握っちまいましょうよ!』『ええいまどろっこしい!』『いやこうなかなか進展しないのが五和の|魅力《みりよく》なのでは?』『ゆくゆくは|女教皇様《プリエステス》ともぶつかるのでしょうが、こればっかりは我々一同、五和を応援します!!』などという声に身を縮めているようだ。さっきから一体何なのだろうか? 上条にしかおしぼりを渡してこないのもちょっと気になる。
当然、天草式の全員が同じテーブルに着けるはずがないので、残りの人達は|他《ほか》のテーブルで固まりつつ、体をこちらへ向けている状態だ。
そんなこんなで、情報整理と作戦会議が始まる。
「まずは、アニェーゼって人が|囚《とら》われているっていう、あの|艦隊《かんたい》からだね」
最初に言ったのはインデックスだ。
「多分『アドリア海の女王』を守る『女王艦隊』だと思うけど、間違ってないかな?」
一発で言い当てられた。
ルチアとアンジェレネがギョッとした顔でインデックスを見る。|上条《かみじよう》もある程度慣れたとはいえ、こういう場面を見ると改めて彼女の特殊性を思い知らされる。
「守る……? ってーと、何よ。あれだけの大艦隊が全部オマケだっていうのよ?」
|建宮《たてみや》が不審そうというより、|呆《あき》れた声で言った。成金|趣味《しゆみ》の過剰な装飾を見たような顔だったが、無理もないと上条も思う。あんな戦力があれば、すでにそれで十分な脅威なのだ。
「は、はい、具体的には、私|達《たち》も『アドリア海の女王』がどんなものかは分からないんですけど……。こちらには理解もできないぐらい凄い施設だったんだって[#「こちらには理解もできないぐらい凄い施設だったんだって」に傍点]、思います」
「私達は、『法の書』の一件で|貴方《あなた》達に敗北した後、その|叱責《しつせき》を受けて前線から外されました。
ローマ正教が受けた負債を返すという名目で、あの『女王艦隊』で働かされていたのです。……と言っても、与えられるのは端的な命令ばかりで、具体的に自分が何に貢献しているのかも|掴《つか》めないという状況でしたが」
ルチアが続けて言う。アンジェレネの取り皿に野菜ばかりを人れて差し出すと、小さな修道女は泣きそうな顔でルチアを見返した。当然、背の高いシスターは気にも留めない。
「働かされていたって、何やってたんだ?」
|上条《かみじよう》が首をひねりながら尋ねると、ルチアとアンジェレネは顔を見合わせた後に、
「わ、私|達《たち》は海水から風を抜く作業を割り当てられていましたけど……」
「は? 風って???」
「あ、いえ、その。風と言っても、|魔術的《まじゆつてき》な意味での風です」
……、マジュツ的なイミでのカゼ? と上条は目を点にした。何がどう違うのかサッパリ分からない。なので、オイオイそりゃどういう事なんだよと改めて聞こうと思ったが、
「ふうん。風っていう事は初期の|錬金《れんきん》方面だね。作業って言っても精神的なもの、か」
「この場合は四属性の内の一つ、でございますか。それを抜き取るという事は」
「|敢《あ》えて不安定な状態のものを作る事に意味があるかもしれんのよな」
立て続けに魔術サイドの連中がコメントを飛ばし、周りの|天草式《あまくさしき》の皆様が『うんうん』という感じで|頷《うなず》いてしまった。上条は何だか質問のタイミングを失ってしまう。『動いている空気は|全《すべ》て風って言うのだ』という豆知識が|一瞬《いつしゆん》頭に浮かんだが、その程度の事しか考えつかない自分の脳に上条はぐったりする。
「|護衛艦《ごえいかん》の船体は通常の海水を使っているようですから、おそらくそれ以外の術式に使われるものだと推測できるのですが」
「だ、だとすると、『アドリア海の女王』ぐらいしか思い浮かぶものはないですし」
会話の輪の外にポツンと迫いやられた上条は、もう一度、輪に向かって突っ込んでみる。
「でも、その、アドリア海の女王、だっけ? 何かそれ、ローマ正教以外でもどっかで聞いた事があるような気がするんだけど」
上条は首をひねりつつ、細いタコの足がたくさん人ったサラダを取り皿に載せる。そんな上条にインデックスが言った。
「アドリア海の女王っていうのは、ヴェネツィアの別名だね」
「む? って事は、やっぱりヴェネツィアに深く|関《かか》わってる魔術だってのか。例えば、ローマ正教ヴェネツィア支部で開発された海の術式だとか」
「それなのでございますけど……」
オルソラはアンジェレネの取り皿に生ハムを載せてあげようとしたが、ルチアに甘やかすのは|駄目《だめ》だと丁重に拒否された。
「……元々、ヴェネツィアとローマ正教は同じイタリア半島にありながら、極端に仲が悪かった歴史を持っているのでございますよ」
あん? と上条は|眉《まゆ》をひそめる。オルソラは続けて、
「そもそも、ヴェ、不ツィアは他者からの侵略・支配を嫌う人々がアドリア海に逃げた結果、生まれた街でございます。そして、その後も独立心が極端に強い風潮が残り、ローマ正教やビザンチン帝国などから傘下に加われと突きつけられた勧告を|全《すべ》て跳ね|除《の》けるという事までやってのけたのでございますよ」
インデックスはバターで|妙《いた》めたアサリを食べながら、
「歴史的には八二九年に商人が一二使徒の一人、聖マルコの|遺骸《いがい》をヴェネツィア島内に持ち込んだ事で、『その眠りを守るために独立する』という姿勢を表しているの。これは同じ一二使徒の『聖ペテロの眠りを守るために』と主張するバチカンと対等に見て欲しかったのかもしれないね」
彼女の声に、ルチアも|頷《うなず》く。
「ヴェネツィアは塩や交易品で|莫大《ばくだい》な富を得て、一方でフランクやジェノバといった大国からの侵攻を幾度となく防ぎ、パドヴァやキオッジアなど周辺都市国家を次々と制圧していくだけの軍事力を誇っていました。……ローマ正教の本拠地、教皇領からそう遠くもなく、なおかつその支配を受けない海洋の強国として君臨していた訳です」
ルチアの|隣《となり》で、アンジェレネは切り取った|黒鯛《くろだい》の身を取り皿に載せて、
「ヴェネツィアは、その横暴ぶりを見た当時の教皇様から直々の破門状を幾度となく受けていたらしいんですよ。普通ならこれはもう死刑宣告にも等しいんですけど、それでもヴェネツィアは意にも介さず発展し続けていきました。……こんな、いつ自分|達《たち》に|牙《きば》を|剥《む》くか分からない都市国家に、ローマ正教があれほど巨大な|艦隊《かんたい》術式を贈るとは思えないんです。むしろ逆に―――」
「―――あれは対ヴェネツィア用に作られた、特殊な巨大艦隊って訳か」
|上条《かみじよう》はフォークの手を止めて、静かに告げた。
インデックスは、『うん』と答えた。
「当時のローマ正教が危機を抱き、そして大事となれば|一撃《いちげき》でヴェネツィアを|葬《ほうむ》れるように整えたのが、『アドリア海の女王』。対都市専用の大規模術式を艦隊の迎撃には回せないから、ヴェネツィア海軍用の防衛網として用意されたのが、『女王艦隊』だよ」
国家を丸々一つ|叩《たた》き|潰《つぶ》すための大規模術式。
その事実に|驚《おどろ》いたのは、上条や|建宮《たてみや》よりも、ルチアやアンジェレネの方だった。自分達が今までどこで何をしていたのか、それを改めて確認させられたからだろう。
「……また随分と古めかしい設備を持ち出してきたモンよな。連中はそんな大それたモンを用意して、 一体何を始めるつもりなのよ?」
建宮は首を振って、遠く|離《はな》れた海に浮かぶ電球色の光を眺めた。
インデックスも難しそうな顔で、
「大規模術式『アドリア海の女王』はヴェネツィアに対してしか発動できないの。理由は簡単で、|誰《だれ》かに奪われた時に、自分達に向けられる事をローマ正教が恐れたからなんだけど……」
「じゃ、じゃあ、彼らは本気でヴェネツィアを|破壊《はかい》するつもりで!?」
アンジュレネが顔を青くしたが、今度はオルソラが|眉《まゆ》をひそめる。
「ですけど、ローマ正教とヴェネツィアがいがみ合っていたのは、もう何百年も前の話でございますよ? 今ではむしろ世界的観光地として、ローマ正教が得る恩恵も少なくないはず。こ。こにきて急に|壊《こわ》す理由が想像もつかないのでございますが」
「……ヴェネツィアを|攻撃《こうげき》する事に、何かそれだけの意味があるのかも」
インデックスがポツリと|呟《つぶや》くと、場をシンとした静寂が|覆《おお》った。
|上条《かみじよう》は、ゴクリと|喉《のど》を鳴らして、
「『アドリア海の女王』って|魔術《まじゆつ》自体は、何百年も前からあったんだよな……。オルソラの言葉じゃないけど、何でこのタイミングなんだ?」
「うーん……普通だったら権力を外部へ示すって意味合いが強そうだけどね」
「でも、ローマ正教って元々最大勢力なんだろ? わざわざそんな事をやらなくちゃならないなんて、ここ最近で連中の間で何かが起きたの―――」
言いかけて、上条は少し|黙《だま》った。
それから告げる。
「……まさか、『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』か?」
ルチアとアンジェレネは思わぬ言葉にキョトンとして、事情を知っているインデックスやオルソラは上条と同じ表情になった。|建宮《たてみや》だけが、完全に何の事か分からないようだ。
「ありゃローマ正教が誇る、最大クラスの|霊装《れいそう》だったよな。それで|大覇星祭《だいはせいさい》期間申の学園都市を攻撃して、実際に少しも通じなかったんだ[#「実際に少しも通じなかったんだ」に傍点]。ローマ正教が|焦《あせ》りを覚えるのも無理はねえよ」
それだけで魔術サイドが科学サイドに屈した事にはならないだろうが、ローマ正教が受けた|衝撃《しようげき》は並のものではなかっただろう。ローマ正教最大のカードが全く効かなかったのなら、その他のカードはどうなるんだ、という感じか。
「でも、焦りを覚えた連中が動きを見せるにしても、何でヴェネツィアが|狙《ねら》われる事になっちまうんだ? そもそも、コイツを計画してる|馬鹿《ばか》は一体どこの|誰《だれ》で何を考えてんだか……。インデックス、『アドリア海の女王』って使うと得があるモンなのか? 『|使徒十字《クロ チエデイピエトロ》』みたいに街を支配できるとか」
「そういうのはないよ。『アドリア海の女王』には|破壊《はかい》以上の価値は存在しないもの。基本はソドムとゴモラに振るわれた天罰で、『あらゆる物から価値を奪う』効果を持つんだから。価値ある物を作る、という風にはいかないかも」
「ソドムとゴモラ……っつーとあれよな。大天使『神の力』が火の矢の雨を降らしたっていう」
建宮がぶどう酒の人った木のグラスを傾けながら言う。
彼は古い本でもめくるような声で、
「背徳の都を罰する命令を受けた天使だが、街の中には|敬虔《けいけん》な一家がいた。なので破壊の前に一家に対してだけ逃げるようにと伝えた。その折、天使は一つの規則を付け加えた。しかし破壊の当日、一家の妻だけはその規則を破ったため、街と|一緒《いつしよ》に|破壊《はかい》された……か」
「うん。『アドリア海の女王』は、まずヴェネツィアを背徳の都に対応させ、火の矢の術式を打ち込むの。それによって、ヴェネツィアは街の中心から外周まで、その|全《すべ》てが|完壁《かんぺき》に破壊される。これが第一段階」インデックスは平たい声で、「第二段階では、それだけでなくさらにヴェネツィアを|離《はな》れていた人や物品をも|狙《ねら》う。旅行に出かけていた人、美術館に寄贈された芸術品、ヴェネツィアを土台として広まった文化、そういったものが全部奪われていくの。ヴェネツィア派という学問や歴史すらも|一瞬《いつしゆん》で消えてなくなっちゃうかもしれないんだよ……」
ゾッとする言葉だった。
一口では想像もつかないからこそ、そのスケールの違いが浮き彫りとなる。
普通にイメージできる範囲など、とっくに超えてしまっているのだ。
「シスター・アニェーゼは……」
アンジェレネが、ポツリと|呟《つぶや》いた。
「……きっと、何も知らないと思います。『アドリア海の女王』がどんなものか知っていれば、絶対に購っているはずがありません。私酸は前に罰属環達を難…ったのだから、偉そうな事は言えないです。でもシスター・アニェーゼが、プロの人間ならともかく|魔術《まじゆつ》について何も知らない普通のローマ正教徒を殺す事まで良しとするとは、考えにくいんです」
「私はそこまで美化しませんが」ルチアは続けて言った。「……詳細を知らないというのは、おそらく本当でしょう。状況的に考えて、ローマ正教からすれば使い|潰《つぶ》すだけの彼女に説明を行う必要はありません。カギはあくまでカギ、ただの道具なのですから」
|忌々《いまいま》しそうな声だった。
|上条《かみじよう》は何となく二人どちらの意見も分かる気がしたが、ふと横を見るとインデックスがわずかに|眉《まゆ》を寄せていた。今の言葉に引っかかりを感じる、という風にだ。
|建宮《たてみや》はわずかに息を吐いて、
「ま、ようはその魔術が発動するタイムリミットまでにアニェーゼ=サンクティスをあそこから連れ戻せってんだろうけど、口に出すまでもなく難関よな。ヴェネツィアが潰されるってんなら、黙ってる訳にはいかねえのよってのが心情的なモンだろうが」
現実的な言葉を前に、ルチアとアンジェレネは思わず口を|噤《つぐ》んでいた。
「具体的なリミットがいつかは分かってんのよ?」
「……いえ。しかし|艦隊《かんたい》がああして本格的に集結した以上、おそらくもう|猶予《ゆうよ》はないでしょう。あれを維持し続けるのにも|莫大《ばくだい》な資源を使いますし、何より|陽《ひ》が昇れば|流石《さすが》に目立ち過ぎます。人払いなどを使うにしても、あの規模となると……」
「い、今までは、それぞれの艦がバラバラに準備を進めていたんです。船の数自体も、今の何分の一ぐらいしかなくて……。でも、ここに来て大きな動きが出てきた事を考えると、やっぱり彼らがわざわざ長期間『待つ』とは考えにくいと思います」
「……つまり、チンタラやってる場合じゃねえのよな」
|建宮《たてみや》はわずかに|緊張《きんちよう》した声でそう|言《 》った。
「なぁ。これって|魔術的《まじゅつてき》な問題なんだろ。だったらイギリス清教に|頼《たの》めば良いんじゃねえのか?」
|上条《かみじよう》は言う。詳しくは知らないが、確かインデックス|達《たち》の所属する 『|必要悪の教会《ネセサリウス》』はまさにこういう事件を解決するための部署だったはずだ。
しかし建宮は首を横に振った。
「もう呼んでるのよ。ただ、ロンドンからここまでは|距離《きより》がある。しかもあれは、そこらの魔術結社の施設じゃない。れっきとしたローマ正教正規のヤツよ。下手にイギリス清教が全力を挙げて|潰《つぶ》しにかかれば、それが世界に|亀裂《きれつ》を入れる問題に発展しかねんのよ。ここはただでさえローマ正教のお|膝元《ひざもと》―――他宗派の大規模部隊を召集・展開するだけで|難癖《なんくせ》つけられる」
彼の話では、上条達を助けた事ですら相当の|綱渡《つなわた》りだったらしい。
不利な条件ばかりが山積みになる状況に上条は|歯噛《はが》みするが、逆に言えば、
(まだ終わってない。少なくとも[#「少なくとも」に傍点]、俺達なら綱渡りはできるって訳だ[#「俺達なら綱渡りはできるって訳だ」に傍点])
例えば大規模な増援は呼べなくても、今ここにある戦力だけを使って正当防衛を行う分にはギリギリの所で言い訳が|利《き》くのだと思う。
だからこそ、建宮も|天草式《あまくさしき》を使って上条達を助けに来てくれたのだろうし、頭ごなしにルチア達との|関《かか》わりを断とうとはしないのかもしれない。
教皇代理はテーブルの上から、自分の取り皿やグラスを横にどけ、さらに近くにあったサラダの載った大皿をオルソラの方へと寄せた。
「現状を確認すんのよ」
建宮は塩の人った木の器を空いたスペースの真ん中に、コツンと置く。
「これが『女王|艦隊《かんたい》』。今はヴェネツィア本島から南へ一〇キロの位置にいるのよ。本島からは艦れてるし、ちょうど周りの細々とした島からもそれなりに距離がある。人払い的な術式を使わなくても、何とか見つからない死角だろうよな」
次に、彼はソースの人った器を、それより奥へ、三〇センチぐらい離れた場所に置く。
「で、こっちが我らの現在地。さらに南へ一〇キロってトコよな。こっからじゃ『女王艦隊』の光は見えねえな。あっちに見えるのはリド島の夜景だ。ここキオッジアからヴェネツィア本島まで伸びる、細長ーい島よの」
カジノが有名なんですよ、とアンジェレネがシスターらしからぬ豆知識を|披露《ひろう》してルチアに頭を上から押さえつけられる。
「そして」
建宮は木でできたフォークを|掴《つか》むと、
「『女王艦隊』から半径五・五キロ。砲の大きさや取り付け角度から考えて、これがおそらくヤツらの索敵圏内よ。この円の中に入ると、ヤツらの砲台に絶えず|狙《ねら》われる事になる」
ガーッ! と、|建宮《たてみゃ》は木のテーブルに直接円を描く。塩の容器を中心に描かれた円の縁は、ちょうどソースの容器との|等距離《とうきより》に引かれていく。互いの陣地を分けるように。
「実際には、射程距離ギリギリから|撃《う》ってくる事はないだろう。となると、|大雑把《おおざつば》に見てデッドは周囲四から五キロって所よな」
さらにその内側に、建宮は年輪のように円を描いた。
コン、とフォークの先端で五キロのラインの縁を軽く|叩《たた》いて、
「簡単に言えば、『女王|艦隊《かんたい》』に乗り込むにはこの距離を詰めなくちゃならん。この艦なら一発もらえば沈むのよ。船の数は一〇〇弱、砲は一隻辺り片側だけで三〇から四〇。あれだけ密集しているなら|全《すべ》ての艦が同時に撃つ事はできんだろうが……にしても、はっきり言えば雨のように飛んでくるだろうよな」
ザッ! と、建宮は塩の容器からソースの容器まで、テーブルに直線のラインを引くと、射程距離の円の内側を、カツカツとフォークで叩いた。
「さて問題、どう|避《さ》けながら突っ込むよ?」
突っ込んだとしても、さらに大量の敵と船の上で戦わなくちゃならんがな、と建宮は続ける。
ごくり、と|誰《だれ》もが|唾《つば》を飲んだ。
弾幕という言葉がある。砲弾で作る壁だ。彼が言っているのは、|隙間《すきま》のない分厚い壁をどう
すり抜けるのかという、机上の空論のような問いかけだった。
「五キロ……ってーと、電車で三分ぐらいか?」
「……お前さんの例えはどうにも家庭的よの」建宮は少し|呆《あき》れた顔で説明する。「陸の五キロと海の五キロは全く違うのよ。軍艦のエンジンを車に積んでみろ、そのまま空を飛ぶかもしれんのよ。いや、エンジンの重さだけで車体が|壊《こわ》れるか」
船というと、車や飛行機に比べて遅いイメージがあるが、それは水の抵抗力が|邪魔《じやま》しているからというだけだ。直線距離なら五キロだが、体感的にはその数倍。その引き延ばされた距離を、ひたすら砲弾を避けながら突き進まなくてはならない。
聞けば聞くほど気が滅入る。
食欲が消えるような話だ。
「あの、先ほどのように海の中に|潜《もぐ》ってこっそり進むというのはどうでございましようか?」
オルソラはおずおずと告げたが、
「……そ、その、私|達《たち》が脱獄した時も、海底コースターを作って逃げたんです。でも、だからこそ」
アンジェレネの言葉に、ルチアがとどめを刺す。
「三度目を見逃すほど、『女王艦隊』の指揮官も間抜けではないでしょう。艦隊の指揮者、ビアージオ=ブゾー二。階級は司教ですが、|狡猜《こうかつ》さにかけては|枢機卿《すうききよう》を越えると呼ばれる男です。そろそろ、対|潜水戦《せんすいせん》用に制海装備を整え直していると思います」
ビアージオ=ブゾーニ。
「単体での|戦闘力《せんとうりよく》よりも、複数を動かす事に特化した司教と聞いています。しかし、単に護衛に守られているだけの人間ではないでしょう。|完壁《かんペき》な防衛ラインを築けるという事は、その肌で敵の動きを覚えてきた|証《あかし》でもありますから。司教という地位も、そう簡単になれるものではないでしょうし」
「??? 司教って、どれぐらい偉いんだ?」
「わ、私|達《たち》修道女を一〇〇〇人ぐらい軽く動かせるのが司教様の位です」
アンジェレネが|自嘲《じちよう》でも何でもなく、ごく普通の声でそう言った。
|建宮《たてみや》は舌打ちして、
「それだけの人員が来なかっただけでも不幸中の幸い、なのか? にしても、話を戻すと問題なのは『女王|艦隊《かんたい》』の戦力の応用性かもしれんよな。氷で作られているから装備を替えるのに軍港へ寄る必要もなし、か。厄介な敵よ」
紙切れを上下艦に変える宗派に言えた義理はないと思うが、事実は事実だ。
あれはそもそもヴェネツィア海軍全体を退けるために用意された大艦隊だ。船や上下艦の一隻二隻で立ち向かおうという考えが間違っているのかもしれない。
ルチアとアンジェレネは、悔しそうに奥歯を|噛《か》んだ。
一歩|離《はな》れた所から部外者の声で戦力を分析された事で、改めて自分の立ち位置がどんなものなのかを確認してしまったからだろう。
「それでも……行かなくてはなりません」
ルチアは思い詰めたような顔で言った。
建宮は頭をガリガリと|掻《か》いて、
「おいおい」
「|貴方《あなた》達について来い、とは言いません。船を貸せ、というのも図々しいでしょう。私達には海底コースターを築く術式があります。やはり、あれを使って侵人するしかありません」
「し、勝算は、ゼロではないんです……」
アンジエレネもおずおずと言う。
|瞳《ひとみ》に|怯《おび》えの色がはっきり出ているし、肩も|震《ふる》えている。それでも、彼女は|黙《だま》らない。
「私達の作る海底コースターを、海の中で木の根のように張り巡らせれば……艦隊の動きを止められるかも。あるいは、|座礁《ざしよう》を|狙《ねら》って船底に穴を空ける事だって……」
「あの砲弾は一発でウチの艦を沈めるってのに、氷の船は自軍の|砲撃《ほうげき》を数十発と受けたってピンピン回復してやがるのよ。|壊《こわ》れた程度で動きが止まる相手と思えんのよな?」
|遮《さえぎ》るように、建宮は言った。
ルチアとアンジェレネは、思わず黙る。
シンと静まり返る中、彼女|達《たち》の押し殺した息だけが、波の音に混じって|上条《かみじよう》の耳に届く。
「……なら、どうしろと言うのですか」
やがて、ルチアは言った。
ギリギリと、奥歯を|噛《か》み|締《し》めながら。
「ヴェネツィアの|破壊《はかい》など、|誰《だれ》も望んでいないでしょう。このままでは、ビアージオの訳の分からない指揮の下に、シスター・アニェーゼは『アドリア海の女王』などという訳の分からないもののために使い|潰《つぶ》され、言葉も仕草も分からない廃人となります。それを|黙《だま》って見ていうというのですか」
両目を|瞑《つぶ》って、彼女は言葉を|紡《つむ》ぐ。
「|何故《なぜ》、私が彼女の下についていたと思っているのですか。シスター・アニェーゼは礼拝で私に寒気を感じさせたほどの信仰心を持つ、唯一の修道女です。教会が持つべき宝とは金品でも財宝でもなく、彼女のような者を指すのです。私は私が認めた者がこのような末路を迎える事を、良しと思いたくはありません。……何があっても」
「私は……きっとシスター・ルチアほど行動指針に信仰は深く|関《かか》わっていません」
アンジェレネは、小さく笑って続けた。
賛同を得ようというのではなく、ただ自分の意見を言うためだけに。
「理由なんて極めて個人的なもので、今までシスター・アニェーゼに助けてもらったからです。人生で一度とか二度とか、そんな大きな事件があった訳じゃなくて、いつもいつも助けてもらっていたから。だからこそ、何も返せないままシスター・アニェーゼとお別れなんて、絶対に嫌です。返すとしたら、きっと今しかないんです」
「……、」
上条はわずかに黙った。
いや、黙らされたのかもしれない。ルチアやアンジェレネの言葉には強制力はない。むしろ、人を遠ざけるような拒絶の色がある。
でも、
だからこそ、
「なぁ|建宮《たてみや》。もう良いんじゃねえのか[#「もう良いんじゃねえのか」に傍点]?」
あ? と建宮は上条の言葉に|眉《まゆ》をひそめる。
上条は続けて、
「勝算とか戦略とか現実的な問題とか五キロの|距離《きより》を詰めるとか砲弾を一発受けたら終わりとかさ、そういう話はもう良いんじゃねえのか。そうじゃねえだろ。今ここで|俺《おれ》達が議論するべきなのはさ、アニェーゼを助けたいか助けたくないかっていう、それだけなんじゃねえのか?」
ルチアとアンジェレネが、|驚《おどろ》いた顔でこちらを見た。
上条の言葉を聞いたインデックスが、肩を落として心の底から疲れた息を吐いた。オルソラは|慰《なぐさ》めるように彼女の背中を軽くさする。彼女|達《たち》は、|上条《かみじよう》のそういった側面を知っているからだろう。実際に、その目で見てきたのだから。
「|建宮《たてみや》」
その名を呼んだのは、|天草式《あまくさしき》というこの場の代表に向かっての意味だ。
それを知ったのか、彼だけでなく天草式の少年少女達が皆、上条を見た。
「確かにアニェーゼ=サンクティスは|完壁《かんぺき》な善人って訳じゃねえ。でも、そんなアイツだって自分の仲間達を逃がすために自分が助かるチャンスをわざわざ棒に振った[#「自分が助かるチャンスをわざわざ棒に振った」に傍点]。そして自分がこれから組み込まれる『アドリア海の女王』の正体がどんなものかも分かってない。アイツの|想《おも》いは、きっと|最期《さいご》まで|誰《だれ》かに利用されたまま|破壊《はかい》される。廃人っていう、本当に救いようのない末路で幕を下ろされてな。ようは、アイツを助けりゃ良いんだろ。ヴェネツィアの破壊だってそれで全部防げるんだろ。だったらやる事は一つじゃねえか」
上条は周りなど見ない。
ただ、建宮|斎字《さいじ》の目を見て告げる。
「お前はアイツを助けたくねえのかよ。だったら、|俺《おれ》は一人でもあそこに行くぞ」
ハッ、と建宮は笑った。
ドスッ!! と木でできたフォークをテーブルの上に突き刺して、
「ったく、これじゃまるで俺が悪者みてえじゃねえのよ……」建宮は本当に悔しそうに舌打ちすると、「ちくしょう、傷つくなぁ。そういう事が言いてえ訳じゃねえのに。こっちとしちゃ、そこは最初からクリアしてんだ[#「そこは最初からクリアしてんだ」に傍点]。だから次にどうしようって聞いていたのよ。|無茶《むちや》が通らないなら、無茶を通す方法を考えようってな」
建宮は、うんざりした調子で首を横に振った。
「策なら始めっから用意してあるのよ」
彼の言葉に、上条を含むその場の全員が絶句した。
「策を提案してソイツに乗ってもらうってのは、つまり皆が俺に成否の|要《かなめ》を預けるって事よ。失敗しても文句なし。というか、言った所でもう手遅れって訳よ。だから、それだけの覚悟があるか聞きたかったのよな。っつーのに、よりにもよって横から持っていかれるとはなぁ!!」
建宮は心の底からガッカリした顔で上条から視線を外し、周囲を見回す。
彼の仲間であり、おそらく宝物である少年少女達がそこにいる。
教皇代理は、彼らに告げた。
「ま、こっちとしちゃそんな訳よ。全員、必ず生きてここへ戻って来るぞ。ここで死にたくないとか、ここで死んでも主義を貫くとか、そういう風に考えているヤツは素直に降りて良い。一切の妥協はなしだ、我らが戦場に向かうからには全員で帰る。分かったか?」
異論は一つもない。
その|沈黙《ちんもく》の肯定こそが、皆の共通の意志だった。
|建宮《たてみや》は、まるで|馬鹿《ばか》な教え子に質問をする教師のように、静かに尋ねる。
「我らが|女教皇様《プリエステス》から得た教えは?」
|天草式《あまくさしき》十字|凄教《せいきよう》は意を|揃《そろ》えて大声で答えた。
「救われぬ者に救いの手を!!」
天草式と|上条達《かみじようたち》を乗せた上下|艦《かん》が、アドリア海をゆっくりと北上していく。
『女王艦隊』に向けてだ。
水面に浮かぶ上下艦の甲板に、彼らは立っている。
建宮の武器はフランベルジェと呼ばれる、一八〇センチを超える巨大な剣だ。両刃の刀身は波状に作られていて、傷ロを広げる役割を持つらしい。一般的な武器と違い、金属ではない。
どんな素材かも分からない、真っ白なものだった。
「本来コイツは泥臭い野戦向きなんだが……ま、臨機応変に行くしかねえのよな」
建宮はその辺に大剣をドカリと刺して一人でぼやいていた。やっぱり場所や状況に合わせて武器も変わるものなのだろうか? どこでも|拳《こぶし》一つな上条にはその辺の事情は想像がつかない。
ルチアは馬車に使う巨大な木の車輪を手にしていた。ズシリと重たいそれは、天草式の紙の札によって得たものだ。
「多少、独特の『|匂《にお》い』のようなものを感じますが……」
彼女は車輪を握り、ゆっくりと振り、体全体でその感触を確かめながら、
「……行けます。聖カテリナの『車輪伝説』を模した|攻撃《こうげき》術式も、これなら十分に扱えるでしょう」
確か上条の|記憶《きおく》では、彼女は大きな車輪を爆破して、その破片の雨で攻撃するのが得意だった気がする。
一方、アンジェレネの方は小さな布袋に金や銀のコインを詰め込んでいた。あちらはあの鈍器を自由に飛び回らせ、その打撃力を武器に戦っていたはずだ。
「あ……まだ入ります。でも、こんなに詰めたら痛いだろうし……も、もうちょっと、少なくても……」
細々と硬貨を詰めては、首をひねって再び袋から戻している彼女に、ルチアはイライラした顔で近づくと、
「シスター・アンジエレネ! 武器を作るのにケチケチしてどうするのですか!? これぐらいドバーッと入れなさいドバーッと!!」
「わわあっ! そんなの当たったら痛いじゃ済みませんよ!?」
「話し合うにしても、まずは話し合うべき環境を整えなければ始まりません。丸腰で両手を挙げて会話ができるなら最初から|誰《だれ》も苦労はしないでしょう!」
ぎゃあぎゃあと|騒《さわ》ぐ二人のシスターを遠くから見ていた|上条《かみじよう》は、やや|呆《あき》れたように、
「なんか……ローマ正教を誤解してた気がする」
「一口にローマ正教と言っても十人十色……とは、違うのでございましょう」
|隣《となり》に立っていたオルソラは静かに言う。
「誰かが悪いから、その人だけを排除すれば良いのではございません。皆はそれぞれ、色々なものを持っているのです。あなた様がローマ正教に抱いていた負の側面は、私も持っているものでございますしね。……私もかつては、|天草式《あまくさしき》の皆様を信じきれずにご迷惑をおかけしましたから」
そんなモンか、と上条は思う。
「……どうもお前と悪人ってのは結びつかないんだけどな」
「まぁまぁ。女には色々あるのでございますよ?」
何やら|不穏《ふおん》にもエロくも聞こえる言葉を言って|微笑《ほほえ》むオルソラ。服装といい言動といい、やっぱり無自覚なのが余計にあれこれ強調してくるシスターさんだ。
と、そんな二人の前に、ずいっとインデックスが割り込んできた。
彼女の手には一本の|杖《つえ》がある。
「はいこれ。天草式の人が貸してくれたけど、私は|魔力《まりよく》を練らなきゃいけない方式の|霊装《れいそう》なんて扱えないから、あなたが持っていた方が良いかも」
「まぁ」
オルソラが受け取った杖は、銀で作られていた。
先端部分に、うずくまる天使の小さな像がある。背中の六枚の羽は、自分で自分を包む|鳥籠《とりかご》のようになっていた。
アニェーゼが以前使っていた武器だ。『法の書』を巡る戦いで降伏したアニェーゼ部隊を一時的に拘束したのは天草式だったが、その折に回収しておいたのだろうか。
と、インデックスがこちらをじーっと見ている事に上条は気づいた。
「な、何だよインデックス」
「……、」インデックスはしばらく|黙《だま》った後に、「別に、何でもないもん」
「ええっ!? 何で不機嫌な感じで顔を|逸《そ》らすの!! いつもの|噛《か》み付き過剰反応も困るけど完全クール反応もそれはそれでキツイですってばーっ!?」
上条は叫ぶがインデックスは気にせずスタスタと立ち去ってしまった。それを見ていたオルソラが『……ちゃんと面倒を見てあげないからでございますよ』とため息をつく。
言われてみれば、本当だったら|今頃《いまごろ》インデックスと本場のパスタを食べたり色んな名所を巡ったり、楽しい思い出を作っていたはずなのだ。それが気がつけばこんな調子である。実は今回の旅行を一番楽しみにしていたのはインデックスだったのかもしれない。
「不幸だー、とか言いながら|止《とど》まる気は全くないのでございましょう?」
「……仕事に没頭する|駄目《だめ》お父さんみたいだ」
上下|艦《かん》はさらに前へ前へと進む。
先ほどより、『女王艦隊』の白っぽい電球色の|輝《かがや》きが少し強くなってきた気がする。
「この辺で良いか。では、始めんのよ」
|建宮《たてみや》はズボンのポケットから輪ゴムで束ねた紙束を取り出した。
|上条《かみじよう》は|眉《まゆ》をひそめて、
「始めるって?」
「|流石《さすが》にこれ一隻で『女王艦隊』とやらに攻め込むのは無理があんのよ。だからまぁ、こっちも戦力を適当に増強する訳だ。こんな風に、よ」
建宮は言いながら輪ゴムを外すと、バサッ、と紙束を上下艦の縁から海へ投げた。クス玉の中身みたいにばら|撒《ま》かれた大量の和紙はヒラヒラと舞って暗い水面に落ちる。|薄《うす》い紙は音もなく海水を吸い込むと、
ドン!! と。
水分によって|膨張《ぼうちよう》した紙切れが、大量の木材を生んで、それが|帆船《はんせん》を作り出した。『女王艦隊』と違って、細部の作りに和風の|匂《にお》いが感じられる。作られた船は長さが三〇メートル、幅は七メートル、高さは|帆《ほ》を人れても二〇メートル弱と、一〇〇メートル級の『女王艦隊』に比べればやや貧弱にも見える。
作り出された船は一隻二隻ではない。数十もの帆船が一気に海面から飛び出した。膨張する船は互いが互いを押しのけあい、半ば。強引に出現していく、上条の乗っている上下艦にもぶつかり、船体が大きく横に揺れた。
上条はその光景をギョッとした顔で眺めながら、
「……こっちも大艦隊かよ。これなら最初から作戦も何もねえじゃねえか。『女王艦隊』にだって、正面からぶつかれんじゃねえのか?」
「そこまでいくと流石に買い|被《かぶ》り過ぎってヤツよ。それに、良く見てみるのよ。コイッは『女上艦隊』と違って軍艦じゃない。どこを見ても砲はついていないだろ」
「……?」
確かに、言われてみれば砲台らしきものはない。船体の壁や装飾も、どこか細いというか|衝撃《しようげき》に弱そうに見えた。となると、これは本当にただの帆船なのだろうか?
「そんなモンを用意してどうするんだ?」
「海で戦うのは軍艦だけじゃねえのよって話なんだけどな。我ら|天草式《あまくさしき》はその土地その風土に溶け込む事で発展していく|隠密《おんみつ》型の宗派よ。当然ながら、イギリスの歴史も学んでいる訳だが」
|建宮《たてみや》はニヤリと笑って言った。
「なぁ。かつてイギリス海軍が、無敵|艦隊《かんたい》と恐れられたスペイン海軍をどうやって沈めたか知ってるか?」
『女王艦隊』四三番艦は索敵に特化した情報艦だ。
そこに常駐するシスター・アガターは甲板の最先端部にある巨大な|舵《かじ》の前で息を|呑《の》んだ。舵の|両脇《りようわき》には小さなテーブルがあり、そこには氷でできた書類がいくつも張り付いている。古い|羊皮紙《ようひし》を模した|薄《うす》い氷の板の上には、地図や海図から船の状態まで、様々な情報がリアルタイムで表示されている。
その内の一つ。
アドリア海近辺の海図を表示した氷の書類が、鈴を鳴らすような警告音を発した。『女王艦隊』を示すチェスのような|駒《こま》の群れの下方から、新たな駒がいくつも生まれ、こちらへ急速に近づいてくる。
「ビショップ・ビアージオ!!」
『見えている。詳細の説明を』
叫ぶと、空気が直接振動したような声が返ってきた。
「アドリア海ヴェネツィア湾南部より近づく船影、およそ三〇から四〇! 速度は……かなりあります! 本艦の座標まで五〇秒強で到達します!!」
出現した船影までの|距離《きより》はおよそ五キロ弱。時速換算で約三六〇キロだ。しかし陸と海では根本的に速さの基準が違う。空気と水中では抵抗力が大きく変わるからだ。
本来なら絶対に不可能な速度。
科学サイドの|高速艇《こうそくてい》でも時速九〇キロ前後が限界なのだ。
水上で時速三六〇キロを|叩《たた》き出すには相当のパワーが必要だし、下手に力でごり押しすれば船体が海水に押し|潰《つぶ》される危険もある。『敵』はその無理を通したのだ。
『沈められるか』
「『アドリア海の女王』南部に展開する第二五から三八番艦までは|砲撃《ほうげき》可能位置にいます。それらの艦が迎撃している間に|他《ほか》の艦が配置を変えれば、|撃《う》ち逃しを防げるかもしれません」
『手早くやれ。|狙《ねら》いは「アドリア海の女王」だろう。接触は許さん』
「了解です!」
アガターは告げながら、同時に全艦へ状況と照準を伝令する。彼女の両脇にあるテーブルの上に新たな氷の書類が浮かび上がり、『女王艦隊』の配置図や砲の射線などが表示される。
船影までの|距離《きより》は四・五キロ。
「およそ五〇秒で船影群は|本艦隊《ほんかんたい》に接触します! それまでに|撃沈《げきちん》を!!」
叫ぶと同時、爆発音が彼女の鼓膜を連続で|叩《たた》く。
『女王艦隊』から無数の砲弾が射出されたのだ。アガターが別の氷の書類を呼び出すと、紙面の中に映る夜の海に太い水柱が何本も立ち上り、敵の|帆船《はんせん》が二隻、三隻と次々と沈んでいく。
しかし、船影はそこで止まらない。沈みつつある味方の船をジャンプ台にして、水面を跳ね飛びながらさらに近づいてくる。
(前衛の船を盾にして……?)
アガターは疑問に感じる。それにしては、特殊な装甲や防御術式で固められているようにも見えない。あっさりと沈んでいく敵の船は、砲弾を|避《さ》けずにさらに近づいてくる。一〇隻以上の船が撃破されても、|回避《かいひ》挙動も取らずに。
あっという問に距離が縮まる。
もう数百メートルもないのに、まだ敵艦は一発も砲を|撃《う》ってこない。
(……待てよ)
アガターは改めて氷の書類に映る敵艦を見る。
そこでギョッと体を|強張《こわば》らせた。表示された船体には、砲がついていない[#「砲がついていない」に傍点]。
「となると……総員防御姿勢! 敵の|狙《ねら》いは―――ッ!!」
アガターが全艦に向かって伝達する前に。
猛スピードで突っ込んできた木製の船はそのまま勢いを止めず、|容赦《ようしや》なく『女王艦隊』の外周護衛艦の腹を貫いた。それだけでは|留《とど》まらず、木で作られた船は内側から|閃光《せんこう》を|漏《も》らすと、突如として大爆発を巻き起こす。まるで、船全体が一つの巨大な爆弾になっていたように。
ゴドン!! という|轟音《ごうおん》が耳を叩く。
海面が大きく揺れ、アガターは思わず|舵《かじ》に体を預けて叫ぶ。
「あれは火船―――自爆を前提とした無人軍艦です!!」
爆発音を聞いた|建宮《たてみや》は、静かに目を閉じる。
「火船ってのは魚雷ができる前に使われていた、初の海上走行型の兵器よな。普通はボートぐらいの小船を使うもんだが、無敵艦隊に対してイギリス海軍は本物の大型船に火薬を満載して無人で突っ込ませたそうだ」
|上条《かみじよう》は|呆《あき》れたように言う。
「で、海の上が|大騒《おおさわ》ぎしてる最中に、その|隙《すき》をついていくってのかよ。|大雑把《おおざつぱ》な計画だな」
『シスター・アガター』
「痛っつ……は、はいっ!」
次々と爆発する火船に耳を打たれながら、アガターはビアージオの声に応じる。
『連中の目的が「アドリア海の女王」発動の阻止ならば、外周を攻めるだけで終わりとは思えん。何かある。それを索敵しろ』
ザッとアガターはテーブル上の氷の書類に視線を走らせる。海図や地図といった情報は、爆破の|衝撃《しようげき》に呼応するように時折大きくプレてしまい、とても読みづらい。
(火船が本命ではないのなら……彼らの|旗艦《きかん》は別にある。しかし……)
縮尺を変更し、五キロ、一〇キロ、二〇キロと調べてみても、周囲にそれらしい船は見当たらない。海上に民間のクルーザーが三隻ほどあるが、これは違うだろう。
アガターはさらに縮尺を広げようかと思ったが、ふとその手が止まった。
(……、海『上』には?)
複数の氷の板が消える。その代わりに一つ、海図を表示していた氷の書類が垂直に盛り上がった。テーブルの上に、書類の幅と奥行きを持つ氷のブロックが出現する。そこに表示されているのは海に対して横への広がりではなく、縦への広がりの図だ。
すなわち、海の底に向けての索敵。
「ありました! 『女王艦隊』南部八〇メートル、深度四〇メートルの位置に巨大構造物確認。―――例の上下艦です!!」
「気づかれたか……」
|建宮《たてみや》はピクンと顔を上げた。
呼応するように、船を操る|天草式《あまくさしき》の面々が声を返す。
「敵艦の砲を確認! 推定発射角マイナス三〇度、明らかに海中に|狙《ねら》いを定めています!」
「敵艦隊の南方側に動きあり。対|突撃《とつげき》用の陣形を形成しつつあるようです!」
砲撃戦というのは目に見えないというか、目に見えた時にはもう遅い。元より、空中戦のように素早い動きのできない海での戦いでは、敵の攻撃を速度で|避《さ》けたり振り切ったりする事はほぼ不可能と言っても良い。
よって、敵に砲撃されず、こちらが一方的に攻撃を加えられる位置を探し出す事こそが海戦の基本となる。
その机上の戦いは、実際に砲撃が始まる前に行われる。
反応の返って来ない状態が当然であり、反応があればそれがすでに敗北を意味するという、重たい|沈黙《ちんもく》に満ちた頭脳|戦闘《せんとう》だ。
そして、
「複数の射線軸が上下艦を狙っています!」
「縦軸、横軸ともに対応! 予想よりも早いです! このままでは!!」
「最悪よな……」
|建宮《たてみや》は|忌々《いまいま》しそうに|呟《つぶや》いた。
「総員耐|衝撃《しようげき》姿勢!! 敵の砲弾に注意しろ! 一発でももらったらこの船は―――」
彼の声が終わる前に、爆発音が|全《すべ》ての音を吹き飛ばした。
「上下|艦《かん》への着弾を確認! 相手の移動速度が激減しました!!」
『よし』
アガターの言葉に、ビアージオの|緊張《きんちよう》がわずかに|緩《ゆる》んだ。
『同じ手が三度も通じるものか。こちらとて、対|潜水《せんすい》用の砲弾を用意していた』
彼が用意したのは、周辺の海水をまとめて凍らせる砲弾だ。これによって分厚い氷に包まれた上下艦は身動きが取れなくなる。そして氷には浮力があるので、|黙《だま》っていても上下艦は人工の氷山と|一緒《いつしよ》に海上へ頭を出す。後は通常の砲弾を|撃《う》ち込めば、確実に|破壊《はかい》できる。
「敵艦の完全浮上までおよそ六〇秒。その間に火船の残党処分を優先し―――」
『シスター・アガターッ! 緊急です!!』
と、通信にビアージオ以外の声が割り込んだ。同僚のシスターからだ。
「第二九番艦に敵戦力が乗船! 装備品や使用術式から考えて、例のアマクサ式です!!』
なっ!? とアガターは思わず耳を疑った。
それからテーブル上の氷の書類を見る。|件《くだん》の二九番艦は先ほど無人の火船が激突したはずだが……見れば、ダメージはない。自爆が起きればこちらの船は大破するのが普通なのに……。
となると、
「始めから爆発する予定のない船を一隻用意して、そこに本隊を乗せた上で火船に紛れて|突撃《とつげき》させた……。あの上下艦は二重の|囮《おとり》だったというのですか……ッ!?」
|上条当麻《かみじようとうま》は、横付けされた木の船から氷の船へと飛び移った。それを皮切りに、インデックスやオルソラ、ルチアやアンジェレネ、建宮や|天草式《あまくさしき》の面々が次々と乗り込んでいく、
「各艦の制圧は考えるな! どの道、数では圧倒的に負けているのよ! こちらは相手の核だけ|潰《つぶ》す事を考えれば良いのよな!!」
「旗艦……『アドリア海の女王』は!?」
上条が周囲を見回すと、数百メートル先に|他《ほか》の船よりさらに巨大な艦が見えた。しかし、その闇だけでも一〇隻以上の氷の船が立ち|塞《ふさ》がっている。
「艦から艦への橋はこちらで作ってやる! とにかくお前さん|達《たち》は旗艦へ―――」
建宮の叫びに、別の声が重なった。
まるで艦内放送のように広がっていく、女性の声だった。
『第二九、三二、三四番艦の乗組員は至急|退避《たいひ》を、間に合わないなら海へ! これより本艦隊は前述の三隻を一度沈めたのちに再構築し直します!!』
くそ、と|建宮《たてみや》は吐き捨て、
「また船ごと|潰《つぶ》す気よな! 急げ!!」
建宮は紙束を辺りにばら|撒《ま》いた。それは勢い良く|膨張《ぼうちよう》すると、氷の船から船へと伸びるアーチ状の木の橋へと形を変えていく。 しかしそれを渡る前に周囲から砲撃が来た。砲弾そのもの以前に、発射音の衝撃波だけで|上条《かみじよう》は甲板の上を転びそうになる。
「くっ!?」
舌打ちするだけの時間も惜しい。巨大な船のあちこちが土のように崩されていく。ボロリと|剥《は》がれた船壁が海に落ちて、太い水柱が上がった。
甲板の上まで|水飛沫《みずしぶき》が飛んでくる。
砲撃によって両手で抱えられないほど太いマストの柱が一撃でへし折られた。
「インデックス!!」
上条は近くで身を|竦《すく》めていたインデックスの手を引っ張って倒れつつあるマストの下をくぐるように走る。ゴドン!! と柱が横倒しに倒れた。それは|奇《く》しくも、|隣《となり》の船へと続く橋のように伸びている。
上条は迷わず飛び乗った。
建宮を始めとした|天草式《あまくさしき》の連中は自分|達《たち》で用意した木の橋に乗って|他《ほか》の船へ散り散りに移っていく。
インデックスの手を|掴《つか》んで海を渡り、隣の船へと転がるように移る。後ろを見ると、同じように天使の|杖《つえ》を抱えたオルソラがマストを伝ってこちらの船へ到着した所だった。直後、さらに第二波の砲撃を受けた氷の船が斜めに傾いていく。アーチを作っていた折れたマストが、引きずられるように海へと落ちていった。
「とうま、他のみんなは……?」
ほとんどは天草式の用意した木の橋を使ったようだが、何人かは海へ飛び込むのを見た。思わず奥歯を|噛《か》む上条に、横にいたオルソラは言う。
「彼らは橋やハシゴを作る札の術式を持っているのでございます。勝算があるからこそ、一度海へ向かおうと判断できたのでございましよう」
やや希望的とも言える意見だが、今はそれを信じるしかない。どの道、甲板から海面までの高さは一〇メートル以上ある。上条が手を伸ばした所で届くはずがないのだ。
「ちくしょう! さっさと『アドリア海の女王』を潰すぞ!!」
上条は改めて『女王|艦隊《かんたい》』の旗艦へ向かおうとしたが、
ザン! 上、新たな足音が彼の歩みを|堰《せ》き止めた。
演劇舞台のように大きな甲板に立っているのは、数十人のシスター達だった。ルチアやアンジェレネと同じく、黒を基調とした修道服に黄色の|袖《そで》やスカートを取り付けた、この艦隊の労働者|達《たち》。そして、アニェーゼ部隊の人達のはずだ。
おそらく|上条《かみじよう》達が何のためにここへ戻ってきたのかを知っていながら、シスター達は一言も言葉を交わさずに武器を突きつけた。剣、|斧《おの》、|杖《つえ》から聖書や|松明《たいまつ》まで、武器に見える物も武器に見えない物も全部合わせて。
ここにいるのはシスター達だけだ。
|他《ほか》に職制者と呼ばれる連中が乗っているはずだが、彼らの姿はない。|戦闘《せんとう》は労働者に任せて、自分達だけ安全な場所へ|退避《たいひ》しようという|魂胆《こんたん》か。船ごと敵を沈める戦術を取っている辺り、それが|上手《うま》く機能するとは思えないが。
「……、アニェーゼがどうなるか分かってんだろ。それでも協力する気はねえのか!!」
上条は叫ぶが、シスターの一人は首を横に振った。
「残念ですが、仕事に情を入れる余裕はありません」
彼女は、その場を代表して告げる。
「あれは、きっと裏返しでございますよ」
オルソラは、むしろ痛々しそうな口調で言った。
「ご本人達も気づいていないのでしょうね。ですけど、彼女達は確かにアニェーゼさんを認め、その下についていた方々です。リーダーならこれぐらい乗り越えてくれると信じているからこそ、|辛《つら》く当たっているのでございましょう。打ち破ってくれる事を、どこかで願いながら」
「………、」
言葉に表す事が許されなかったからこそ、言葉とは違う方法で放。たれたSOS信号。|想《おも》いとは裏腹に、互いを傷つけ合わなくてはならない状況。それを思って、上条は思わず|拳《こぶし》を強く握り|締《し》めた。
呼応するように、数十のシスター達は一歩|距離《きより》を詰めてくる。
敵の壁までの距離は、ほんの七メートルもない。
そんな中、
ヒュン!! と上条やシスター達の頭上に小さな影が走った。
見上げれば、一〇メートルぐらいの高さを飛んでいるのは、投げられた馬車の車輪だ。
「シスター・ルチ―――ッ!?」
敵の修道女の一人が名を呼ぶ前に。
バン!! と車輪が勢い良く爆発した。それは上条やインデックス、オルソラだけを|避《さ》ける奇妙な軌道を描いて、大量の木の破片を真下へ突っ込ませた。文字通り|破壊《はかい》の雨だ。シスター達は武器や術式を使ってこれを防ごうとしたが、それでも全体の隊列が大きく揺らぐ。
「こちらへ!!」
叫び声に振り向けば、別のルートからこの船に渡ってきたルチアとアンジェレネがいた。彼女達のすぐ後ろは甲板の縁で、そちらには木で作られた橋が|隣《となり》の船へ接続されている。
その直後、
『第四一番|艦《かん》の乗組員は至急|退避《たいひ》、不可能なら海へ! 本艦隊はこれより前述の船を沈めたのち、再構成し直します!!』
周囲に|緊張《きんちよう》が走った。船の詳しい番号は知らないが、おそらく|狙《ねら》いはここだ。
「早く!!」
ルチアが橋へ|誘導《ゆうどう》するように叫んだが、その時|怯《ひる》んでいたシスター|達《たち》が一斉に動いた。
逃げるためではない。|上条《かみじよう》らを逃がさないためにだ。
ザァッ!! と、複数のシスター達が一つの生き物のように上条達を包囲する。
「この……|馬鹿者《ばかもの》どもが! それだけの度胸があるなら、|何故《なぜ》シスター・アニェーゼを助けるために動けないのですか!!」
ルチアが手をかざすと、周囲に散らばっていた木の破片が集まって再び車輪の形を取り戻した。彼女はそれを手に、シスター達の元へと突っ込んでいく。
しかし、彼女らが|戦闘《せんとう》状態に入る前に、|砲撃音《ほうげきおん》が|炸裂《さくれつ》した。
「ぐああ!?」
鼓膜を打たれて上条は声を上げた。稲妻のような|轟音《ごうおん》と共に、すぐ近くにいた護衛艦が砲弾を|撃《う》ち込んできた。船の腹に直撃したのか、甲板全体が横へ大きく揺れる。
第二波はすぐに|襲《おそ》う。
今度は甲板の上のターゲットを直接|潰《つぶ》す気か、ギチギチと音を立てて砲が上を向く。
砲口が上条達にピタリと合わせられる。黒い穴が怪物の眼光のようにこちらを|覗《のぞ》く。
その時、
「|きたれ《Viene》! |一二使徒のひとつ《Una persona dodici aposill》、|徴税吏にして魔術師を撃ち滅ぼす卑賤なるしもべよ《Lo schiavo che rovina un mago mentre e quelll che recolgono》!!」
叫んだのはアンジェレネだ。
彼女の持っていた四つの金貨袋がこれに応じた。
赤、青、黄、緑。四色の|翼《つばさ》を生やした重たい小袋が、それぞれ|鉄拳《てつけん》のように手近なマストへ突っ込んだ。それは一点集中攻撃で氷の柱を根元から|叩《たた》き砕く。グラリ、と巨大なマストが大きく斜めに|傾《かし》いだ。
直後。
倒れつつあるマストに大量の砲弾が突き刺さった。上条らを|真《ま》っ|直《す》ぐ狙っていた氷の爆撃は、アンジェレネの一手によってかろうじて防がれる。
盾となったマストが、甲板に倒れる前に砲の|衝撃《しようげき》で砕けた。
バラバラに散らばった破片が降り注ぐ。破片と言っても、一つ一つが冷蔵庫より大きな物だ。
「ッ!!」
ルチアが巨大な車輪を頭上に掲げ、一気に爆破した。大量の木片が破片にぶち当たるが、それでも|全《すべ》ての氷の塊を|弾《はじ》ける訳ではない。
|撃《う》ち|漏《も》らした氷の塊が、ローマ正教のシスター|達《たち》へ向かった。
かつてアニェーゼ部隊と呼ばれた修道女の集団へ。
それを見たアンジェレネは、敵であるはずのシスター達の元へ走っていた。
「ちょ、どこに行くのです!?」
ルチアの|驚《おどろ》いた叫び声が|炸裂《さくれつ》した。
ギョッとする修道女を無視して、アンジェレネは四つの金貨袋を呼び集める。それで降り注ぐ巨大な氷を|弾《はじ》こうとしたようだが、
バラバラと、金貨袋の布地が破けてコインが飛び散った。
マストを砕いた|衝撃《しようげき》に、すでに金貨袋の方が限界を迎えていたのだ。
「退きなさい、シスター・アンジェレネ!!」
手を失ったアンジェレネに、ルチアが叫ぶ。彼女が周囲を見れば、|上条当麻《かみじようとうま》と呼ばれた少年がこちらに走ってくるのが見えた。おそらく、アンジェレネを突き飛ばすために。
しかし。
アンジェレネは、下がらなかった。
下がれなかったのではなく、さらに一歩前へ踏み込む。歯を食いしばって、一番近くにいたシスターの胸を突き飛ばした。身動きもできず、|呆然《ぼうぜん》どしていた彼女が後ろへ弾かれ、甲板の上へと倒れていく。
アンジェレネは、それを確認してから身を伏せようとして、
その一歩手前で、冷蔵庫のような塊が彼女のすぐ横へ|墜落《ついらく》し、
甲板に激突した氷が、さらに岩のような破片の雨を|撒《ま》き散らし、
ゴン!! と。
彼女の小さな体が、鈍い音と共に宙を舞った。
「し、」
ルチアが、信じられないものでも見るような叫びを上げた。
「シスター・アンジェレネ!!」
倒れた背の低いシスターへ駆け寄ろうとしたルチアを見て、周りのシスター達の動きがわずかに揺らいだ。それでも任務。と立場を思い出したのか、それぞれが武器を構え直そうとする、
そこへ、
「ったく。心の底からつっまんねえモンをこの|俺《おれ》に見せんじゃねえのよ!!」
よその船から木の橋を作って飛び乗ってきた|建宮《たてみや》と|天草式《あまくさしき》の面々が、アンジェレネとシスター達の問に壁となって|塞《ふさ》いだ。
彼はポケットの中から紙束を取り出すと、それをまとめてルチアへ投げ渡し、
「脱出用の上下|艦《かん》ってヤツよ。まともな設備もないが敵地の真ん中よりゃマシだろ。一隻だけで使うな。火船を周囲にばら|撒《ま》いて探査をごまかすだけで|撃沈率《げきちんりつ》は格段に下がんのよ!!」
駆け寄ったルチアは紙束を|袖《そで》へ仕舞う。|建宮《たてみや》はそう言ったが、簡単にこの札を使わせてくれるほどアニェーゼ部隊の戦力・思考は共に甘くない。気を|焦《あせ》って上下艦を出しても、集中攻撃によって沈められてしまう危険もある。
しかし、今はそれどころではない。
数字の上の勝算よりも、もっと重視しなくてはならない事がある。
ルチアはアンジェレネの前で|屈《かが》み込む。ぐったりとした彼女の手を取るルチアに、アンジェレネは|薄《うす》く笑った。
「……シスター・ルチア。手が、|震《ふる》えてますよ」
「当たり前でしょう!!」
「や、だな。こんな所で、死ぬはずがないのに……」アンジェレネは一言一言を|噛《か》み砕くように、「……みんなで、帰るんです、よね。シスター・アニェーゼも、私|達《たち》も、そして、あそこで戦っている人達も、本当の意味で、みんな|一緒《いつしよ》に」
ギチギチと、|隣接《りんせつ》する船の砲が|軋《きし》んだ音を立てて照準を合わせる。
第三波の準備が整えられていく。
それでも、ルチアはアンジェレネの目から視線を外さない。
「だったら、私は、死にません。それを約束してくれるなら、絶対に、私も、貫きます。だから、お願いします、シスター・ルチア。敵とか味方とか、そういうんじゃ、ないんです。もっと単純に、みんなを守るために、一緒に戦ってくれませんか……?」
「―――、」
ルチアは、奥歯を|噛《か》み|締《し》める。
ドゴン!! と|隣《となり》の護衛艦から|轟音《ごうおん》を立てて、そんな彼女を|狙《ねら》って砲が発射された。
しかし、その一撃はルチア達の肉体を砕かない。
絶大な威力を秘める砲撃を|遮《さえぎ》るのは一本の右手。
横から|邪魔者《じやまもの》を遮るように伸ばされた、何の変哲もない少年の右手が、|魔術《まじゆつ》を使って放たれた氷の砲弾を|掴《つか》み取って、五指の力で砕いて割った。
「断言しろよ、ルチア」
彼は告げる。
「その手伝いができるなら、|俺《おれ》はこんなクソつまらねえ幻想なんていくらでもぶち|壊《こわ》してやる。だから断言しろよ! コイツが今ここにいて良かったなって思える一言を! 歯を食いしばるだけの価値はあったんだって信じられる一言を!!」
はい、とルチアは答えた。
アンジェレネの顔を見て、彼女は静かに告げる。
「必ず、皆を守ってみせます。だから|貴女《あなた》も、自分自身と戦ってください」
声に、小さな修道女はわずかに笑った。
さらなる|砲撃《ほうげき》を受けて氷の船体が揺さぶられた。大量の砲弾を|全《すべ》て|上条《かみじよう》の右手一つで防げる訳もないのだ。ここも安全ではない。そんな場所などどこにもない。だからルチアは倒れたアンジェレネを両手で抱き抱えると、そのまま立ち上がった。それでは車輪も使えないが、気に留める様子もない。不利を負ってでも共に戦うのだ、という意志しかない。
下がるルチアを追うために、シスター|達《たち》が前へ出ようとする。
そこへ|天草式《あまくさしき》や上条達が壁となって立ち|塞《ふさ》がる。
彼らは全員で同じ方角を見据えた。
|旗艦《きかん》『アドリア海の女王』は、船をいくつか渡ればそこにある。
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行間 四
(私は、まだ)
意識が|朦朧《もうろう》としたまま、ルチアに抱えられながら、それでもアンジェレネは思う。
(|諦《あきら》めたく、ない……です)
爆発音を聞き、剣と|斧《おの》がぶつかり合う音を聞きながら、それでもアンジェレネは思う。
(シスター・アニェーゼは、教会のために、尽力して。危険な仕事で得た|報酬《ほうしゆう》で、聖書を刷ってもらって。古びて人の来なくなった、教会を一軒一軒回って、少しでも足しになるようにって、笑いながら、神父さん|達《たち》に、手渡して……)
氷の塊に|叩《たた》かれた全身からズキズキと鈍い痛みがにじみ出る。
|撒《ま》き散らされたマストの破片は彼女のこめかみにぶつかり、脳を揺さぶっていた。
(シスター・ルチアは、仕事のない時でも、教会の|鐘楼《しようろう》に登って。少しでも異変があれば、すぐに駆けつけられるように準備するためで。今ではそこがすっかり彼女の居場所になってるぐらい、ずっとずっと待機してて……)
ボロボロと、涙がこぼれる。
痛いのではない。ひたすらに、悔しい。
(|他《ほか》のみんなだって、絶対、絶対に、良い所はあって。本当に、悪い人なんて、きっと私達の中には、|誰《だれ》もいないのに。何で、こんな事になっちゃうんですか。悪者は、嫌です。善とか悪とか、そんな|天秤《てんびん》の上で線引きされて戦わされるのなんて、もう嫌なんです)
ぐったりと手足を揺らしたまま、彼女は思う。
シスター・アンジエレネは、ただ願う。
(助けて……)
歯を食いしばって。
|瞳《ひとみ》に涙を浮かべ。
(誰か、助けてください。私の、大切な仲間達を。こんな、くだらない、|闇《やみ》の中から……)
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第五章 アドリア海の女王 La_Regina_del_Mar_Adriatico.
「もうすぐだ」
ビアージオ=ブゾーニは船底から頭上を見上げる。
「ようやくこの仕事も終わりだな。まったく、たかだか街を一つ|潰《つぶ》すのにここまで手閻がかかるとはな。『アドリア海の女王』……最後に実用としてだけではなく、|骨董的《こつとうてき》な視点からも一度ゆっくりと眺めて回りたかったものだが」
一辺が二〇メートルに近い、|完壁《かんぺき》な正方形の部屋に見える。が、良く見ると四方の壁は、ほんのわずかに内側へ傾いていた。立方体ではなく、|四角錐《しかくすい》の部屋なのだ。うっすらと白に近い電球色に|輝《かがや》く壁をなぞるように視線を上げれば、|遥《はる》か頭上にその頂点があるのが分かる。船底から甲板まで二〇メートル程度の高さしかないこの船の中、その|天井《てんじよう》は軽く一〇〇メートルを超しているように見えた。
「……ふむ、まだ静まらないか」
声に応じるように、|旗艦《きかん》『アドリア海の女王』全体が低く|震動《しんどう》した。一度ではない。数回にわたって揺さぶりが来る。旗艦を取り囲む護衛艦が、共食いのように昧方の艦を次々と|撃《う》っているのだ。それでも|砲撃《ほうげき》が|止《や》まないという事は、敵は次々と船を渡ってこちらへ近づいているという事だ。分厚い氷の壁に阻まれた、この旗艦最深部まで|轟音《ごうおん》は|容赦《ようしや》なく|響《ひび》いてくる。
問題はこちらにもある。
『女王艦隊』を束ねる男の職制者|達《たち》は、元アニェーゼ部隊のシスター達と違って|戦闘《せんとう》には不向きだ。これは質の悪さではなく、単に種類の問題だ。最前線で武器を持って戦う軍師などいないだろう。数十人と数が少ない事もそういう経緯がある。
そこまでなら許容の範囲内だが、難点は手足となって動くシスター達が船上での戦いに慣れていなかった、という所だ。彼女達はあくまで労働者として船に乗せられただけで、艦での訓練を受けていないのだから、当然と言えばその通りなのだが……。
(だから、職制者の|他《ほか》にも船上専門の部隊を配備しろと申告したのだ。……それを)
上の連中は『女王艦隊』の性能だけを見て、『迫加の兵士を呼ぶまでもなく、この大艦隊は|安泰《あんたい》だ』と判断してしまった。戦いの形式によって万全のポジションも変わる事を|考慮《こうりよ》せずに。
(……上も下も役立たずばかり、か。グズどもが)
ビアージオは、ジロリと眼球だけを横に向けて、
「なかなかに刺激的だな。君を取り囲む環境というのは、こうも|生温《なまぬる》いのか」
「……、」
尋ねられたのは、同じ部屋の中にいる一人の少女。
部屋の中央には直径七メートルの、完全な氷の球体がある。中はシャボン玉のような空洞だが、『アドリア海の女王』起動のカギとなる『刻限のロザリオ』発動時には、中は氷で満たされる。適性のある修道女を凍結し、その球体ごと|魔術的《まじゆつてき》に砕く[#「砕く」に傍点]ために使われる。その彼女は現在、球体の外側から、丸みを帯びた壁面にすがりつくように身を預けていた。
名前はアニェーゼ=サンクティス。
切り裂かれたように|露出《ろしゆつ》の多い修道服を着せられた少女だ。
アニェーゼは、ビアージオの言葉に答えない。
あるいは、答えられないのか。|何故《なぜ》戦いが起きているのか、一体|誰《だれ》が何のためにここまでやってきたのか。それを考えるあまり、注意が自分の外側まで向かっていない表情だった。
「その顔だ」
ビアージオは、続けて言った。
胸元に下がる四本のネックレス、そこにある数十もの十字架が、ジャラジャラと音を立てる。
「たまらんな。この|期《ご》に及んでまだ図々しく誰かに期待している表情。自分が|陽《ひ》の当たる場所に立っているなどと語る心。そうでなくてはいけない。たかが罪人の分際で、悟ったような顔をされるのが一番気に食わん。動物は|這《は》いずれば良い。自分を取り|繕《つくろ》うのは人間の特権だ」
にやにやと、|薄《うす》っぺらな言葉と共に放たれる悪意。
アニェーゼはジロリとビアージオの顔を見る。
「……私が、何にすがるですって?」
「言わずとも分かっている。だから改めて尋ねたりはせんよ。ふん、ヤツ[#「ヤツ」に傍点]にこの場を押し付けられた時は落胆したものだが、こういう場面を見るならそれも抑えてみせよう」
アニェーゼは|嫌悪感《けんおかん》から顔を背けた。
ビアージオはそれを満足げに眺めて、
「君の希望をここで打ち砕く。部品に感情は必要ない」
|天草式《あまくさしき》のメンバーは五〇人程度しかいない。
対して、ローマ正教側はシスターだけで二五〇人もいる。普通に考えれば数で負けるはずだが、ここは船の上。|全《すべ》ての人間が一ヶ所に集まる事はないし、陸地と船上では戦い方の基本が違うらしい。とにかく間合いを詰め、超近接攻撃に集中する天草式は混戦状態の中でもスムーズに動き回る。それに対して人数の多いローマ正教側は、逆に仲間|達《たち》や自分の武器に体の動きを阻害されているようだ。多勢に無勢という状況をどうひっくり返すか、それを熟知した動きだった。|天草式《あまくさしき》という少数勢力が多くの敵と戦う問に覚えたものなのだろう。
|奇《く》しくも、『法の書』が|関《かか》わったあの一件と同じような状況だった。
違うのは一点。
アニェーゼ=サンクティスが、倒すべき者か守るべき者かという所だけだ。
「行け! 何が何でもあの子を連れ出して来い!主戦力はこっちで引き付けてやんのよ!!」
|建宮《たてみや》の言葉に背中を押されるように|上条《かみじよう》は走る。
すでに|旗艦《きかん》までは、およそ三隻ほどの護衛艦を渡るぐらいに迫っていた。
天草式がシスター|達《たち》の足止めをしている問に、上条とインデックスとオルソラの三人は船から船へと飛び移った。彼らの使っていた木の橋の術式は、上条達の中ではオルソラにしか使えない。彼女は普通の|魔術師《まじゅつし》よりも|丁寧《ていねい》かつ慎重な動きで|呪文《じゆもん》を|紡《つむ》ぐと、束ねてあった和紙を次々と放っていく。
旗艦『アドリア海の女王』が目の前に迫る。
多くの護衛艦に守られた|全《すべ》ての元凶。アニェーゼ=サンクティスを拘束し、ヴェネツィアを|一撃《いちげき》で|破壊《はかい》する大規模魔術装置。ここが全ての司令塔なら、まだ見ぬビア!ジオロブゾー二もここにいるのだろうか。
「行くそ! インデックス、オルソラ!!」
上条は叫び、木の橋を駆けて旗艦へ|踏《ふ》み込んだ。
巨大な甲板だ。
ただでさえ一〇〇メートル級の船が並ぶ『女王艦隊』の中で、その二倍はある巨大な船体だった。さらに氷の壁は|他《ほか》よりさらに|輝《かがや》いている。まるで艦全体が月明かりを浴びた白金のようだった。装飾も他の船が軍艦としての機能性を追及したものなら、こちらは|煙《ウなら》びやかな宮殿に近い。手すりやドアノブにまで芸術家の意志を感じるし、船の縁には等間隔で天使や聖母などの像がある。船首側まで回る気はないが、おそらー先端に取り付けられた船首像は美術史に名を残す一品だろう。
「|誰《だれ》も、いないようでございますね……」
オルソラが、天使の|杖《つえ》を抱えながら周囲を見回し、
「ヴェネツィアの権力者、|総督《ドージエ》の乗っていた|御座船《ござぶね》に似た作りを感じるのでございますよ。国家的行事である『海との結婚』に使っていた船でございます」
「いわゆる魔術的船体って感じかな。この船が『女王艦隊』全部の船を統括制御する機能を兼ねているの。氷の船の装飾、配置などを絶えず変更する事で、それぞれ対応した船を直接操って集中管理しているんだよ」
インデックスの|台詞《せりふ》に、上条も注意深く周囲を見回し、
「だからシスター達もここまで来ないし、砲も不用意に|撃《う》ち込まれねえって訳か。多分この旗艦だけは簡単に海水で直せねえんだな。じゃねーと|護衛艦《ごえいかん》で周囲を固める必要もねえだろうし」
船内に入るために、インデックスは一番手近にあったドアへ手を伸ばしたが、それぐらいでは開かなかった。見れば、ドアと壁の|隙間《すきま》がピッチリと氷で|塞《ふさ》がれている。これでは壁の一部に近い。
「待ってて。今、扉の|魔術的《まじゆつてき》な|錠《じよう》を解いてみるから……」
彼女の言葉は、しかし途中で|遮《さえぎ》られた。
|上条《かみじよう》が一歩前へ出たからだ。
「……そんなお上品にやらなくても良い。いい加減、こっちも色々考えるのが面倒臭くなってきた所だっつの!!」
本当にうんざりしたように叫ぶと、上条は握った|拳《こぶし》を思い切り氷の扉の真ん中に|叩《たた》きつけた。
バン!! と。
ドア板どころか周囲の壁まで一気に吹き飛ばされた。|殴《なぐ》った一点を中心に、一辺が三メートル四方の正方形に切り取られる。
「随分派手にいったな」
「護衛艦と違って、壁や床全体に魔術的な意味があるのでしょうから」
ドアの錠前だけでなく、|他《ほか》の仕組みまでまとめて|破壊《はかい》した、といった所か。
砕けた出入りロの先にあるのは旗艦『アドリア海の女王』の外観と同じく、豪華客船のような内装の通路だっただろう。が、その奥の空間もやはり三メートルにわたって|綺麗《きれい》に切断・消滅していた。四角形ではなく、立方体として|挟《えぐ》り取られたらしい。天使の像や壁掛けランプなどが|中途半端《ちゅうとはんぱ》に取り残されている。
「ブロック構造だね」インデックスが簡潔に答えた。「必要最低限な部分だけを切り取り、ダメージをできるだけ抑えるように作られているの。だから、とうまの右手を使っても一度じゃ全部|壊《こわ》れないんだよ」
護衛艦。の時は船体に触れてもこんな風にはならなかった。となると、やはり旗艦全体が絶えず形を変えて、それによって艦隊全体を操っているという彼女|達《たち》の説は正しかったのだろうか、と上条は思う。
しかし、質問を放つだけの余裕はなかった。
ズアッ!! と。
甲板の下から上へと、氷が山のように盛り上がった。左右と後方から、それぞれ取り囲むように。それはパキパキと細部を整え、削っていくと、氷でできた全長三メートルほどの西洋|鎧《よろい》へと形を変えていく。
一体二体ではない。
二〇から三〇に及ぶ氷の鎧が、一気に上条達を取り囲む。
「中へ!」オルソラが叫んだ。「それらは船を守るための存在でございましょう。ならば自身の|攻撃《こうげき》で内部を|破壊《はかい》する事にはためらうはずです!!」
オルソラの言葉が終わるまでもなく、すでにインデックスは|上条《かみじよう》の手を|掴《つか》んで走り出していた。右手で応戦しようとしていた彼は不意を突かれ、バランスを崩すように引っ張られていく。無数の西洋|鎧《よろい》が同じ材質の剣や|斧《おの》を手に、動いた。
旋風が|捻《うな》り、空気が切断される。
|轟《ごう》!! という|凄《すさ》まじい音と共に、複数の|斬撃《ざんげき》が交差した。インデックスのなびく髪を|掠《かす》め、上条の顔のすぐ横を突き、身を|屈《かが》めて走るオルソラの頭上を抜ける。上条の呼吸が止まりかけた。それでも足を動かさない訳にはいかない。
次撃が来る前に三人は立方体に破壊された人口から船内へ転がり込む。
外装に劣らず、内部も嫌味なぐらい|凝《こ》っていた。通路の左右には天使の像が並び、壁にかかったランプは一つ一つ、少しずつ形を変えていく。ドアノブどころかネジ一本にまで職人や芸術家の意地のようなものを感じた。そもそも、氷だけの船にネジなど必要ないのにだ。
「これで……」
床に座り込んだままのオルソラが何か言う前に、大量の氷の鎧が人口に殺到してきた。
「くそっ!!」
上条は氷の床から起き上がると、へたり込んだままのインデックスやオルソラの手を掴んで、引きずるというよりは振り回すように船内の奥へ下がる。
ゴギッ!! という鈍い音が聞こえた。
複数の巨大な鎧が人口に飛び込んできたため、そこでつっかえたのだ。身動きの止まった鎧の胸や腹から複数の剣先が突き出し、粉砕した。完全に砕かれた氷像を|踏《ふ》み|締《し》めるように、新たな鎧|達《たち》が通路に踏み込んできた。ついさっきまで上条達のいた場所を爆風が|薙《な》ぐように巨大な鎧の塊が突き進む。
「まだ、追ってくる……ッ!?」
インデックスは叫んだが、上条には何となく氷の鎧の優先順位が予想できた。
(……何が何でも、この右手を|潰《つぶ》したいって訳か)
すでに一度、人口と壁を同時に破壊している。詳しい理屈は分からなくても、とにかく|幻想殺し《イマジンブレイカー》は危険なものであると判断されたらしい。
(となると……ッ!)
上条は通路の交差点に差し掛かった所で、己の右毛を握り締め、
「インデックス、オルソラ! お前達は先に行け!!」
二人の少女を横の通路へ突き飛ばし、自分は通路の奥へと走った。
「とうま!」
インデックスが次の行動に移る前に、無数の鎧達が上条を追い駆ける。中にはオルソラ達に向かおうとする鎧もいたが、
「おおお!!」
|上条《かみじよう》が壁を右手でなぞって|破壊《はかい》していくと、|鎧《よろい》の視線が少年一人に集中する。武器を構え直し、|全《すべ》ての氷の自律ガードが殺到した。
「シスター・アンジェレネ! 無事ですか!?」
爆破した木製の車輪の破片を手元に集めながら、ルチアは背後に向かって言葉を放つ。
「……、ええ」
アンジェレネは氷でできたマストの柱に、体を預けて何とか座っている。彼女の金貨袋は破れてしまったため、今は頭のフードを外し、その中に|重石《おもし》となる硬貨を詰めて戦っていた。
本来、アンジェレネは戦えるような状態ではない。本物の戦場であっても、一度前線から後方へ下げておくのが正しいのだ。そのための上下|艦《かん》の札を|天草式《あまくさしき》の現トップからもらったが、シスター|達《たち》の方がそれを許さない。彼女達を振り払うために、ルチアは傷ついたアンジェレネを抱える事すらできなくなっていた。
ルチアは、|威嚇《いかく》するように巨大な車輪を自分の前に立てる。
それに合わせて周囲のシスター達の輪が少しだけ退く。ここにいるのは三〇人程度だが、敵一人に対する密度を考えると、ここが 番の激戦区かもしれない。まず弱い所から力を人れて確実に|潰《つぶ》していく、という彼女達の戦術だ。ルチアもアンジェレネもそれを良く分かっている。
(どう切り抜ければ……)
このシスター達はルチアの|攻撃《こうげき》の威力を知るが|故《ゆえ》に、|迂闊《うかつ》には近づいてこない。しかし同時に攻撃の仕組みを知るが故に、バッタリで恐怖を|煽《あお》られて下がる事もない。
『一二、一七、一九番艦の乗員は至急|退避《たいひ》、不可能なら海へ! 本艦隊はこれより前述の船を沈めたのち、再構成し直します!!』
聞き慣れた艦内放送。
それと同時に、
「つっまんねえな! |怪我人《けがにん》相手に遊んでんじゃねえのよ!!」
|隣《となり》の船から木の橋がかけられ、|建宮《たてみや》を始めとした天草式の面々が|雪崩《なだ》れ込んでくる。状況が大きく動き、ルチア達を囲んでいた人の輪の形が崩れていく。仲間から|五和《いつわ》と呼ばれていた少女がルチアに並び、|海軍用船上槍《プリウリスピア》を構える。
立て直すなら今しかない。
「シスター・アンジエレネ!」
「は、はい!!」
よろよろとアンジェレネがマストの柱から|離《はな》れ、ルチアはその前に立ち、道を切り開くよう
にシスター|達《たち》に向けて車輪を爆破した。
|上条当麻《かみじようとうま》は決して優等生ではない。
夜の街のケンカにも多少慣れているからこそ、彼は自分の実力を|大雑把《おおざつぱ》に|掴《つか》んでいる。きちんと勝てる見込みがあるのは一対一まで、一対二なら危ないし、一対三なら迷わず逃げる。これは彼が特別弱いのではなく、ルールのない戦いでは力の前に数が重要になるというだけだ、 当然一対二〇や一対三〇もの戦力差を、|拳《こぶし》一つで埋められるはずがない。
戦いが始まれば五秒で沈むはずだ。
ただし。
それはまともな人問と人間がぶつかった時のルールだ[#「それはまともな人問と人間がぶつかった時のルールだ」に傍点]。
「おおおォあ―――ッ!!」
上条の空気が風を引き裂く。
相手がきちんとした人間で、意識がなくなるまで戦いが続くならともかく、ただ触れるだけで潰せる[#「ただ触れるだけで潰せる」に傍点]というのなら、まだ上条にも勝算はある。
狭い通路を複数の|鎧《よろい》が体を削り合うように突っ込んでくる。上条の右手は、直進してくる敵に対してほぼ真横に振るわれていた。威力を無視して、どんなに軽くても良いからとにかく広範囲に当てるためのものだ。
|鎧達《よろいたち》の動きがガチンと歯車が外れたように停止する。
|上条《かみじよう》がそれを確認する前に、後続の鎧達が、単なる氷の塊と化した障害物に次々と|槍《やり》やハンマーを|叩《たた》きつけて進路を確保していく。
「っつ!!」
上条は慌てて後ろへ下がる。鎧の動きは止められても、塊の|残骸《ざんがい》は残る。一ヶ所で戦っていては生き埋めとなってしまうのだ。
先ほどからこの繰り返しだった。
が、
「行き止まり!?」
後ろ向きのまま下がり続けた上条は、ふと行く先を確かめようと振り返った所で、そこに壁がある事にようやく気づいた。
視線を戻す。
まるで何人もの人間を丸めたような鎧達が、通路いっぱいにひしめきながら突っ込んでくる。
これは防げない。
この|一撃《いちげき》は防げるが、後続に迫い詰められる。
「うおお!!」
上条はとっさに横へ飛んだ。通路の左右の幅は狭く向かう先もただの氷の壁だったが、
右手を突き出した。
氷の壁は立方体の形に砕け散る。
やはりインデックス達の読み通り、|旗艦《きかん》の壁は護衛艦と違うようだ。
上条がその中へ飛び込むのと、複数の鎧達が行き止まりに激突したのはほぼ同時だった。麗まじい勢いと重さをつけて壁に向かった鎧達は、その|衝撃《しようげき》で体をバラバラに飛び散らせる。
煙に似た氷の粒が大量に舞った。
だが、上条にそれを確認している暇はない。
壁の奥にある部屋を見回し、地形を把握しようとした彼は、そこで動きを止めてしまう。
劇場の二階席のような場所だった、左右へ数十メートル単位で半透明の|輝《かがや》く座席が長く続いているのに対し、奥行きは数メートル程度。意匠を|凝《こ》らした手すりの近くまで行くと、階下が|覗《のぞ》ける。まるで華美なオペラハウスだが、|遥《はる》か下にあったのは舞台や観覧席ではなく、扇状に並んだ多くの|椅子《いす》と机だった。テレビで見る議会に近い。
軍艦には明らかに不釣合いで、上下の命令系統がはっきりしている戦場には必要ないものだった。|魔術《まじゆつ》サイドでは勝手が違うのか、あるいはこれ自体が魔術的に意味のある記号であって議会場としては使わないのか。いずれにしても上条には判断がつかない。
そして暇も余裕もない。
ゴッ!! という|蒜音《こうおん》と共に、|上条《かみじよう》が空けた大穴から氷の|鎧《よろい》が突っ込んできた。
「……ッ!!」
これ以上は逃げられない。上条は背後の手すりを意識し、それから|拳《こぶし》を握る。逆に上条の方から氷の鎧の|懐《ふところ》へと跳ぶ。
氷の鎧は、同じ材質の大剣を水平に振るった。
上条から見て右側から、長さだけで三メートルを超す分厚い塊が腹を裂くために|襲《おそ》いかかる。
「おおっ!!」
これに応じるように上条が右乎で大剣を|叩《たた》こうとした所で、
氷の鎧の両足がひとりでに砕けた。
|太股《ふともも》にあたる部分から鎧の軸線が大きく斜めに、後ろ方向ヘズレていく。
横に|薙《な》がれていた大剣の軌跡が、呼応するように変化した。
水平に腹を|狙《ねら》う姿勢から、斜め下から上条の首を目掛けて突き上げるものに。
腹を守ろうとした右手から逃れるように。
(しま……ッ!!)
上条の|頬《ほお》に浮かんだ冷や汗を、大剣の風圧が吹き飛ばす。
「うおおおおッ!!」
全力で身を|屈《かが》めた。髪のいくらかが大剣に接触する。抵抗なく切断されたというより、頭皮を丸ごと引っ張られるような激痛が走った。ブチブチと嫌な音が聞こえる。
それでも|避《さ》けた。
痛みを|堪《た》え、上条は身を屈める動きを殺さず、そのまま身を倒すように体重を乗せて右拳を振るう。自ら足を折って後ろへ倒れつつある氷の鎧の胸板へ、床にぶつかる前に|一撃《いちげき》を叩き込む。動きを止めた鎧は、落下と同時に砕けて散った。
「……、終わった、か?」
後続を警戒して上条は呼吸を整えたが、どうやらこれが最後の一体だったようだ。待ち伏せの可能性も考えてジリジリと出口へ向かったが、結局それは|無駄骨《むだぼね》だった。
上条は自分が空けた大穴から通路へ戻る。
(くそ、インデックス|達《たち》の方は無事だろうな。さっさと合流するなら、壁や床をぶっ|壊《こわ》して進むのが手っ取り早そうだけど)
一方で、そういった|破壊《はかい》行為は敵側に伝わる危険がある。先ほどの氷の鎧のタイミングがまさにそんな感じだった。インデックス達の話では、この|旗艦《きかん》は再生速度が遅いし、艦隊全体の制御設備や|儀式《ぎしき》に使う施設などもあるため、下手に砲やシスター達を使って内部の上条達を排除できないらしい。が、それも今だけの話。本格的に旗艦が沈みそうになれば、リスクに目を|瞑《つぶ》ってでもこちらへ人員を|割《さ》くだろう。
|上条《かみじよう》は少し考え、
(どの道、話題の中心……アニェーゼの近くへ行けば敵の親玉はこっちを最優先で|叩《たた》こうとする。なら、早いか遅いかだけの違いだ。右手で|遠慮《えんりよ》する理由にはならねえな!!)
手っ取り早く結論を出し、手近な壁を右手で|殴《なぐ》り飛ばそうとした時、不意に彼のズボンのポケットから軽い電子音が聞こえてきた。携帯電話の着信音だ。
(……ケータイだって?)
上条は軽く辺りを見回し、追っ手がいないのを確かめてから取り出す。こんな海の上でも使えるのか、と少し|驚《おどろ》いた。陸地までの|距離《きより》はどの程度なのだろう?
画面に目をやると、なんと信じられない事にインデックスからだった。
通話ボタンを押して、携帯電話を耳に当てる。右手は|塞《ふさ》げないので携帯電話は左手だ。|普段《ふだん》から使い慣れている機種なのだが、指の動きに壮絶な違和感を覚える。
と、
『あっ、|繋《つな》がったのでございますよ』
「……、オルソラか。お前、インデックスの携帯電話借りて何やってんだ?」
『手っ取り早く連絡を取る方法はこれしかないと思いましたので。そちらは今どこにいらっしゃるのでございましよう?』
「どこって言われてもな……」
グルリと周囲を見回すが、目印になりそうなものはない。というより、逆だ。そこかしこに|豪奢《ごうしや》な芸術品が|溢《あふ》れているため、多少の目印は簡単に埋もれてしまうのだ。
「こっちはチョコチョコ逃げながら氷の|鎧《よろい》を二、三〇ほどぶっ|壊《こわ》すのに夢中だったんで、ちょっとどの辺にいるかは分かんねーな」
『……相変わらずサラリと恐ろしい事を言う方でございますね。こちらは……インデックスさんと|一緒《いつしよ》に逃げている途中です。例の守護氷像は|他《ほか》にもいるようでして……』
「―――、」
インデックスやオルソラには、上条の|幻想殺し《イマジンブレイカー》のような力はない。|魔術《まじゅっ》を使った戦いが得意という風にも見えないし、正攻法で叩くだけなら、あの氷の鎧は相当苦戦するはずだ。
「オルソラ。|俺《おれ》は今、お前|達《たち》と別れた交差点だ。お前達はそこからどつちの方角にいる?」
『方角、でございますか?』
「ああ。|大雑把《おおざつぱ》で良いから教えてくれ」
『ええと……細そらく、北の方だと思いますけど』
分かった、と上条は答え、
「すぐに行く[#「すぐに行く」に傍点]」
携帯電話を左手で|掴《つか》んだまま、残る右手を手近な壁に叩きつけた。バギン!! という音と共に、壁や内装が立方体にえぐれて消える。上条は自分が壊した壁から中に入ると、さらに豪奢な船室の壁を次々と破っていく。通路や壁の流れなど|完壁《かんペき》に無視していた。
『それと、インデックスさんから話があるそうなのでございますけど……』
『貸して貸して! とうま、聞いてる!?』
横から割り込むように、聞き慣れた声が携帯電話から聞こえてきた。
『とうま、オルソラからちょっと話を聞いたんだけど。「アドリア海の女王」の発動条件に「刻限のロザリオ」って別の術式が必要っていうのは本当?』
「そうらしいけど……待った。作戦会議の時に言わなかったか、それ」
『詳しい話は聞いてないかも。私の|記憶力《きおくりよく》を疑っているの?』
そう言われてしまうと返す言葉はない。一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を一字一句残さず正確に記憶している少女に間違いはないだろう。
|上条《かみじよう》はさらに氷の壁を砕き、別の通路へ飛び出しながら、
「何だっけ。|俺《おれ》も聞いてないんだよな。当のルチア|達《たち》にも、あんまり情報は回っていなかったみたいだし」
言うと、オルソラの声が返ってきた。
『「刻限のロザリオ」を動かすために、アニェーゼさんの精神を意図的に|破壊《はかい》する、というのが彼女達に聞いた話ですけど』
すると、電話の向こうでインデックスが悩むような声をあげた。
|魔術《まじゆつ》の事でそんな声を出すのは極めて珍しい。
『……とうま、「アドリア海の女王」の発動にそんな追加術式は必要ないんだよ』
「なに?」
上条は思わず立ち止まった。
周囲を警戒しながらも、やはり注意は携帯電話へ向いてしまう。
『「アドリア海の女王」っていうのは|骨董品《こつとうひん》クラスの魔術で、元々海洋国家ヴェネツィアが暴走した時に、これを|一撃《いちげき》で|鎮圧《ちんあつ》するために作られた大規模術式だっていうのは、前に説明したよね』
「それがどうしたんだよ?」
『良く考えてみて。それってつまり、いつでも時間を待たずに発動できなきゃ|駄目《だめ》なんだよ。
適性の合った人間を選んでくるとか、準備にえらく手間がかかるとか、そんなモタモタしていたらヴェネツィアの侵攻は止められないんだから』
あ、と上条は思わず声を上げた、
言われてみればその誉だ。灘の大きさに撃れていたが・これは基本的にカウンター獄いの術式なのだ。相手の攻撃に合わせていつでも使える|瞬発力《しゆんぽつりよく》がなければ何の意味もない。
『「アドリア海の女王」はそれ単品で発動可能だよ。なら、その「刻限のロザリオ」っていう面倒な術式は本当に存在するの? 少なくとも、私の一〇万三〇〇〇冊にはそれが必要だなんて記述は一つもないし、そもそも今のローマ正教がヴェネツィアを|攻撃《こうげき》する理由も思い浮かばないよ』
インデックスは一度だけ言葉を切って、
『完成当時から、「アドリア海の女王」はあまりにも威力が高すぎて使い所がないって言われていた大規模術式なの。世界的な交易の玄関口だったヴェネツィアの|影響《えいきよう》は絶大で、下手をすると同士討ちになりかねないほどでもあったから。最も必要とされた時代でもそんな扱いだった術式が、まして今になって|誰《だれ》かに求められるなんて、とても考えられないんだよ』
『でも、ルチアさん|達《たち》が|嘘《うそ》をついているようには見えなかったのでございますよ』
そうだ。
現にローマ正教の連中は計画のカギにアニェーゼを据えているし、『アドリア海の女王』がいつでも使えるものなら、彼らがそれを|躊躇《ちゆうちよ》しているのは『刻限のロザリオ』の準備が整っていないから、という事になる。
『刻限のロザリオ』。
ルチア達は発動キーに違いないと言っていたが、彼女達にしても『アドリア海の女王』の詳細は知らなかった。
「ソイッが『アドリア海の女王』と併用される事が何を意味しているか、だな。インデックス、『刻限のロザリオ』ってのがどんな術式なのかは分からないのか?」
『うーん……。術式の正式名というより、ローマ正教内部だけに伝わる計画名みたいなものだと思う。それだけでは難しいかも。でも、「刻限」と「ロザリオ」なら、単純に時間を計るって意味があるね』
|上条《かみじよう》は細かい氷の破片を|踏《ふ》みつけ、次の壁を右手で|壊《こわ》す。
「ロザリオっていうと、シスターさんが首に下げてる十字架の事だよな」
『実は十字架の|他《ほか》にも|首紐《くびひも》も重要でございますよ。紐に小さな玉を五九個通したものが、|旧教《カトリツク》正式のものです。各地の聖地を回る巡礼の方がこの玉を使って、自分が何度祈りを捧げたのかと数えておくための道具でございますので』
「……だとすると刻限に対するロザリオは、カウンター[#「カウンター」に傍点]って訳か。いかにもって感じだな」
上条のその|眩《つぷや》きが、本当にインデックス達に届いたかどうかは分からない,
|何故《なぜ》ならば、
ゴン!! と。
突然鋭い|轟音《ごうおん》と共に|天井《てんじよう》が崩れ落ちてきたからだ。
「ッ!!」
上条はとっさに後ろへ下がる。
が、それだけでは降り注ぐ氷の建材から逃げられない。インパクトの一点を中心に周囲の建材まで巻き込まれ、広範囲の|天井《てんじよう》が逆ピラミッドのような形の巨大な鈍器に変わる。
「くそ!!」
とっさに右手を|脇腹《わきばら》の横から真上へと射出した。
彼を押し|潰《つみ》そうとしていた天井が、立方体に大きくえぐれる。そこを|潜《くぐ》り抜けるように、|上条《かみじよう》の体だけを|逸《そ》れて天井が床へ激突した。|衝撃波《しようげきは》が耳を打ち、細かい破片が背中を|叩《たた》く。力加減を誤って、左手の携帯電話がミシリと音を立てた。
いちいちボタンを押しているだけの余裕もない。
上条は乱暴に本体を折り畳むと、それをポケットに押し込みながら、さらに後ろへ二歩、三歩と下がっていく。
前方には、砂煙の代わりに|霜《しも》のような微細な氷の粒が舞っていた。
その中心点、つい先ほどまで上条が立っていた場所に|大槌《おおつち》を叩きつけるように、一人の男が|狩《たたず》んでいる。
|豪奢《ごうしや》な|法衣《ほうえ》に身を包んだ、四〇代の白人だった。
豪奢な衣服と言っても、インデックスのような清潔感は一切ない。ひたすらべったりとこびりっく成金|趣味《しゆみ》の塊だった。首には四本のネックレスが年輪のように重なっていて、それぞれに数十の十字架が取り付けてある。ギラギラと|輝《かがや》くそれらは、|磨《みが》かれた金や銀で作られていた。まるで肉の脂でも|染《し》み込ませたみたいに、執着心がヌラヌラと光を照り返しているようだ。
男は神経質そうな仕草で、首元に下がった十字架の一つを指でなぞる。
視線は上条に向いているのだが、絶えず黒目が細かく動いていた。
「……、その右手」
放たれたのは、意外にも日本語だ。
「ハッ、|羨《うらや》ましいか?」
上条が適当に吐き捨てると、男は顔の表面に|鍍《しわ》を生んだ。音もなく表現されたのは、うっすらとした|嫌悪《けんお》と|苛立《いらだ》ちだ。
「承服できないな。主の恵みを拒絶するその性質もさる事ながら、それを武器として振り回すというのが何よりも。一度でも御言葉を耳にしたのなら、即座に腕を引き|千切《ちぎ》ってでも恵みを得ようと努力するのが筋だというのに」
ゾッとする言葉だった。
言葉の内容に、ではない。言葉に乗せられた、引き|潰《つぶ》した黄色い脂肪のような感情の濃度に対してだ。
「|所詮《しよせん》は異教の猿に、人の言葉は通じないか。せっかくそちらの言語に合わせたのに、返ってきた|台詞《せりふ》がその程度の品性とはな。ならばこのビアージオ=ブゾーニが主の敵に引導を渡そう。猿が人のふりをするのは、見るに耐えないんでね」
「テメェがビアージオ、か。なら、アニェーゼの居場所も知ってんだな」
「知っているのと教えるのとは全く別物だがね」
ビアージオと名乗った男の両腕が左右へ交差する。
キン、と小さな金属音が聞こえた。
それぞれの|掌《てのひら》には、首にあった十字架が一つずつ握られていた。
ヒュン、とそれらは|上条《かみじよう》の腹の前へ軽く放り投げられる。
「―――十字架は悪性の拒絶を示す」
ゴッ!! と二つの十字架が|膨張《ぼうちよう》した。
膨張速度は砲弾に等しい。|一瞬《いつしゆん》で長さ三メートル、太さ四〇センチにまで巨大化した十字架が|襲《おそ》い掛かる。まるで金属で構成された、鉄骨の爆風だ。
「おおァ!!」
上条は右手で壁と化した十字架を|殴《なぐ》り飛ばす。しかし|潰《つぶ》せたのは片方だけだ。その間に、もう片方の十字架の先端が、岩石のように彼の身を|叩《たた》いて真後ろへ吹き飛ばした。
ドン!! という鈍い激突音が|響《ひび》く。
一気に床へ叩きつけられ、そのまま二、三メートルは滑った。とっさに床へ手をつこうとしたら、その右手の動きに氷の床が反応した。バカン!! という音と共に立方体にえぐられ、上条は下階の通路へ落下する。
|全《すべ》てが氷で作られた船体に、クッションとなる物はない。上条は痛む全身に対して歯を食いしばり、今度は慎重に左手で床をついて起き上がる、
頭上の大穴から、ビアージオの声が飛んでくる。
「聖マルガリタは悪竜に飲み込まれた時も、十字架を巨大化させる事でその腹を内側から破ったそうだ。教会の屋根に立つ十字架もまた、外敵を廃し内部に安全地帯を作るための役割を持つ。―――このようにな」
|天井《てんじよう》の穴から、|手榴弾《しゆりゆうだん》でも投げ込むように二、三の十字架が落ちてきた。
ゴバッ!! と、それらは空中で一気に膨張する。
十字架というより、四方向へ飛び掛かるレーザー兵器のように見えた。上条が慌てて床を転がると、その鼻先を|掠《かす》める形で壁や床へ鉄骨と化した十字架の四端が突き刺さっていく。並びは乱雑でそれ|故《ゆえ》に読みづらく、直線的な通路をランダムに分断していく。
(まず……ッ。身動きを封じられる前に、早く退路を―――ッ!!)
とっさに右手を振るおうとする上条へ、さらに頭上から声が響く。
「一方で、十字架はその重きにおいて人の|驕《おご》りを直す性質を持つ。光の乙女たる聖ルキアは一〇〇〇人の男と二頭の牛に|縄《なわ》で引かれても一歩も動かず、怪力で知られた若き聖クリストフォルスは背負った『神の子』の重さに屈服しかけた。―――それもまた、このように」
キュガッ!! と、|天井《てんじよう》が|弾《はじ》けた。
破れた天井から降り注いだのは、わずか数センチの小さな十字架だった。しかし、その速度は砲弾にも等しい。……のではない。重たいのだ。重力加速度が数千倍に増したように。
|上条《かみじよう》は通路を|塞《ふさ》ぐ巨大な十字架へ、ほとんど体当たりするように右手を押し付けた。障害物が砕け散るのも確認せずに前方へ転がったが、巨重の十字架がわずかに上条の肩を|掠《かす》める。ゴスン!! と。それだけで関節が外れそうな痛みが|炸裂《さくれつ》した。
「……ッ! ぐああッ!!」
それでも手近な壁を右手で|破壊《はかい》し、通路から船室へと飛び込む。とにかくランダムに動く事で、少しでもビアージオの|狙《ねら》いから逃れようとしたのだが、
「あまり|壊《こわ》してくれるなよ。直すのにも手間はかかるんだ」
さらに天井を砕き、無数の十字架が上条の頭上へ降り注いだ。その小ささに反して絶大な重さを持つ十字架は、|鉄杭《てつくい》と化して船室を粉々に砕いていく。上条は飛ぶというより、壁に背中を押し付ける形で何とかそれを|回避《かいひ》する。
開いた大穴から、ビアージオが飛び降りてきた。
ドン!! と。|踏《ふ》みつけられ、砕かれた床から|霜《しも》のような氷の粒が舞い上がる。
上条は氷の壁に背を押し付けたまま、
「壊すなっつっておきながら、テメェが派手にやる分には構わねえって感じだな」
「壊すべき物と壊すべきでない物の区別はついているつもりなのでね。君のそれはあまりにも乱雑だ。そうだな、知識のない|素人《しろうと》に|骨董品《こつとうひん》の整理をさせているのと同じか。|真面目《まじめ》にやっているのは分かるが、まずは学べ」
ビアージオの顔にあるのは、余裕の中にわずかに|滲《にじ》む|苛立《いらだ》ちだ。
インデックスの話では、この|旗艦《きかん》が|全《すベ》ての護衛艦を制御しているらしい。氷の装飾は絶えず形を細かく変動させていて、それをサインに連動させているようだが……となると、やはり少しでも上条の右手は艦隊制御にダメージを与えているのだろうか。
「ふん。このポロ船の回復速度が|他《ほか》に劣ってるってのはマジだったみてえだな。せっかく親玉の所まで|潜《もぐ》ってこれたと思ったのに、他より貧弱ってのはガッカリだよ」
「本来『アドリア海の女王』のポテンシャルは他の護衛艦の優に二〇〇倍を超す。しかし、艦の回復に力を|割《さ》いては向こうの完成度に|影響《えいきよう》が出るのでな」
「向こうだと?」
「『刻限のロザリオ』だ。この|期《ご》に及んで知らないとは言わせない」
「……、」
また『刻限のロザリオ』だ。
インデックスの話では、対ヴェネツィア専用の|鎮圧《ちんあつ》術式『アドリア海の女王』発動とは関係ないと言われている追加術式。ビアージオの話が|全《すべ》て真実とも限らないが、わざわざ不利を被ってまで執着するという事は、それだけの重要な意味があるのだろうか?
「ともあれ、テメェを|潰《つぶ》してアニェーゼを引っ張ってくりゃそれで終わりだ。|俺《おれ》は深くは考えねえよ、だから単純に終わらせてもらうぜ」
「主の意向に反する意思を示すとは、悪い言葉だ」
ビアージオは首元の十字架を七つ外した。
それを|饅別《せんべつ》のように宙へ放り投げ、
「―――ならば、その悪性は我が十字架が拒絶する」
同じ|艦《かん》に一分間といられない。
|建宮斎字《たてみやさいじ》は沈みかけている氷の護衛艦から、自分で作り出した木の橋を渡って|隣《となり》の艦へと飛び移った。視界の先では、ついさっき沈められた艦の代わりに、新たな護衛艦が海面を突き破って出現してくる。
「ああちくしよう! やってもやってもキリがねえってのよ!!」
|襲《おそ》ってくる元アニェーゼ部隊のシスター|達《たち》をフランベルジェの異様に長い剣の腹を使って二人、三人と|叩《たた》き倒しつつ彼は叫ぶ。同時にポケットから和紙を取り出した。紙束を使って|虚空《こくう》から出したのはサーフボードのような板だ。人数分のボードは気を失ったシスター達のお|腹《なか》や背中にガッチリと張り付いていく。
艦はすぐに|砲撃《ほうげき》で沈められる。かと言って倒したシスター全てを抱えて移動するのは人数的な問題から考えて不可能だ。従って|天草式《あまくさしき》はこういう『浮き輪』を用意して、意識のない修道女達が|溺《おぼ》れるのを防ぐ事しかできなかった。下手に巨大な木造船を呼び出すと、逆に砲撃の|餌食《えじき》となる。
(後で必ず拾うとはいえ、沈みつつある船に置き去りってのは良い気分じゃねえのよな)
舌打ちしつつ、建宮はやはりこの船にも砲撃が来る|旨《むね》の艦内放送に耳を傾ける。
艦隊の制御のほとんどは自動操船らしい。
従って、どれだけの人員を倒した所で艦隊そのものの動きには全く|影響《えいきよう》が出ない。二〇〇人超のシスター達も純粋な戦力として恐ろしくはあるが、やはり何よりの脅威は大量の砲撃だ。
それをどうにかしない限り、大きな意味において戦局を|覆《くつがえ》した事にならない。
彼ら天草式は、全てが終わるまでひたすら耐え続けるしかない。
(チッ。できればさっさと旗艦の方を、部分的でも良いから潰しちまいてえんだが……)
建宮はそれをしない。
|天草式《あまくさしき》の主力が|旗艦《きかん》に向かえば、シスター|達《たち》の大軍も同じく移動する。主戦場が変われば、それに巻き込まれるのは|上条《かみじよう》達だ。
「ま、縁の下ってのは土台の土台って事よな」
|建宮《たてみや》は波型の刃を持つ大剣を軽く振るって、
「仕方がねえ。ここを固めてやりやすくしてやるか!!」
叫びと共に、彼はシスター達の固まる一角へと飛び込んだ。
「―――ならば、その悪性は我が十字架が拒絶する」
ゴッ!! と七つの十字架がそれぞれ爆発的に|膨張《ぼうちよう》する。
感覚的にはクロス方向に咲き乱れる金属製の爆炎が|縦横無尽《じゆうおうむじん》に舞う。
上条は背中を預けていた壁へ、右手を強く押し付けた。|一瞬《いつしゆん》で立方体に|破壊《はかい》される壁の向こうへとそのまま一気に倒れ込む。
ドスゴスビスドスッ!! と床や壁や|天井《てんじよう》へ次々と太い鉄骨のような十字架の先端が突き刺さっていく。上条は続けて床を転がりながら、
「勝手な|真似《まね》ばかりしやがって、くそったれが!! テメェにヴェネツィアをどうこうするだけの特権があるとでも思ってんのか?」
「残念だが、その|憶測《おくそく》には間違いがあるぞ。わたしの狙いはそこではない[#「わたしの狙いはそこではない」に傍点]」
ビアージオは弾幕の向こうで静かに笑った。
「何だと!?」
「ただでは教えんよ。そうする事でわたしに何の得があるというんだ? だが、まぁ……。少なくとも、君が考えているよりはずっと面白い[#「君が考えているよりはずっと面白い」に傍点]」
「ッ!!」
上条は歯を食いしばり、転がる勢いを利用して跳ねるように起き上がる。
|右拳《みぎこぶし》を固め、自分が逃げた道を引き返すように、一気にビアージオの|懐《ふところ》へ飛び込もうと走る。
しかし、その前に、
「さて、十字架には様々な意味があるが、その多くは『神の子』が処刑された後に付加されたものだ。十字架自体はそれ以前からあったが、そういった前時代における役割のほとんどは十字教によって抹消された。|悪《あ》しき異教の文化であるからだ」
ビアージオの講義が続く。
彼は胸元にある無数の十字架から好みの物を選ぶと、神経質に指先でなぞり、
「そういった中、ただ一つだけ前時代から残った意味がある。十字教にとって最も重要であり『神の子』が直接|関《かか》わった、教史の中では最古の使用方法だ。それはな―――」
|上条《かみじよう》が両者を|塞《ふさ》ぐ巨大な十字架を右手で|破壊《はかい》し、ビアージオの|懐《ふところ》へ飛び込む一歩手前で、|豪奢《こうしゃ》な|法衣《ほうい》を着た男はシャツを|掻《か》き|毟《むし》るように十字架を取り外し、それを頭上に掲げると、
「―――処刑の道具という意味だよ[#「処刑の道具という意味だよ」に傍点]」
ビアージオの、低いが|厳《おごそ》かさに欠ける、|嘲《あざけ》りの声。
「―――シモンは『神の子』の十字架を背負う」
ガクン、と。
その言葉を聞いた|瞬間《しゆんかん》、上条の視界が大きく回った|[#「上条の視界が大きく回った」に傍点]。
「……、あ?」
右肩の辺りに|衝撃《しようげき》を受ける。痛みが走る。首を振ると、尾を引く残像のように視界全体が大きく崩れた。頬に硬い床の感触を得てようやく上条は自分の体が横倒しになっている……という事に気づかされた。現象が起きてから認識が追いつくまでに数秒もの時間が必要だった。
(な、にが……)
何らかの攻撃をされた、のだろうか?
しかし、そもそも何をされたのかが理解できない。
これまでは、まだ『攻撃されていた事』ぐらいは分かっていたから、防御も|回避《かいひ》もできた。だが、今のは例外だ。一体どのタイミングで攻撃が来たのかすら把握できなかった。
必殺。
その言葉が、上条のぐらつく脳裏に張り付く。
起き上がろうとしても、両腕にまともな力が人らない。腕立て伏せのような動きで身を起こそうとしても、ベシャンと|潰《つぶ》れてしまう。
思考に空白が生まれる。
そんな上条の意識を外側に向けるように、小さな金属音が|響《ひび》き渡った。
鳴っているのは、空中でぶつかり合う無数の十字架。
「―――十字架は悪性の拒絶を示す」
低い声と共に、肉を打つ音と氷の床を|叩《たた》き|壊《こわ》す音が連続した。
インデックスとオルソラの二人は|旗艦《きかん》『アドリア海の女王』の通路を走っていた。
外から見た時は|他《ほか》の護衛艦の二倍近い大きさがあったように見えたが、通路の幅はそれほど変わらない。……のではない。普通の柱の代わりに彫り出された天使の像が通路の|両脇《りようわき》にズラリと並び、ドア板一枚にも神話のワンシーンが|精緻《せいち》に彫り込んである。それら多くの芸術品
が、元々広いはずの通路を圧迫しているのだ。
その光景は、もう|豪奢《ごうしや》な宮殿とか|荘厳《そうごん》なお城とか、そんな言葉では|生温《なまぬる》い。黄金で作られた神殿とか、ダイヤモンドだけで築かれたピラミッドとか、伝承の中だけのオーバーな比喩表現がそのまま似合う。そして、それを実際に見せられると胸焼けを起こしそうだ。
オルソラは銀で作られた天使の|杖《つえ》を両手で抱えて直線的な通路を走りながら、周囲を見回して|傍《かたわ》らのインデックスに話しかける。
「……不気味なぐらい静まり返っているのでございますよ」
「役割が決まっているんだよ」インデックスは小さな声で答える。「元々、|旗艦《きかん》の中まで敵が入ってくる事を想定していないのかも。その前の段階で―――護衛艦が|全《すべ》ての敵を排除する、旗艦はそのためにスムーズに護衛艦を動かす事に特化している……って感じかな」
「となると」
オルソラは足音を|響《ひび》かせながら、
「|他《ほか》の修道女|達《たち》が追ってこないのは、味方である彼女達もこの『アドリア海の女王』の乗船許可をもらっていないのでございましょうか。彼女達が寝返る事への対策として」
さらに走っていくと、彼女達は階段に差し掛かった。
上りと下りがあったが、インデックスは迷わず下りへ駆け込んだ。オルソラは少し慌てたように彼女の後を追う。
「ちょ、アニェーゼさんの居場所は分かっているのでございますか!?」
「当然!」
インデックスは即答した。
「『アドリア海の女王』って船の機能は大体分かってる。『刻限のロザリオ』っていうのがどういうものかは分からないけど、『アドリア海の女王』に介人するなら最適な場所は決まっているもの! だからあそこしかないの!!」
巨大な鉄塔にでも巻きついているように、階段は長い。
延々と下っていくと、二人はやがて最下層に辿り|着《たど》いた。
「これは……」
オルソラは|呟《つぶや》く。
そこはホールのような場所だった。広大な空間があり、その正面にオルソラの背丈の二倍は
ある両開きの扉があった。厚さは分からないが、これもオルソラの幅より大きいように思える。
ホールへの出入り口はインデックス|達《たち》が来た階段だけではない。このホールに集中するように、無数の通路が接続されていた。
妙な構造だった。
造船技術の基本を忘れている。こんなデザインを無理に通せば、船体全体の柱や|梁《はり》などを歪めていく必要がある。それを強引に実行しているという事は、
「船の中に一室を用意したというより……」
「この部屋の周囲を飾って船の形を作ったみたいに見えるね」
インデックスは正面の大扉へ近づいた。
顔を近づけ、|掌《てのひら》で触れようとして、その寸前で思い|留《とど》まる。
「目の前の扉……防御術式が仕込まれているね。おそらくは聖ブラシウスの伝承に|則《のつと》ってるよ。池を渡った聖人を追い駆けた異教の兵隊が、水の上を歩けなくて沈んで行っちゃうヤツ」
「となると……入室許可のない方がドアに触れると氷の中に引きずり込まれる、という事なのでございましょうか?」
|旗艦《きかん》の中でさえ、インデックス達は|誰《だれ》にも会っていない。
その|徹底《てつてい》ぶりを見ると、このドアを開けられるのはアニェーゼとビアージオの二人だけか。
インデックスはチラリと横目でオルソラを見て、
「うん。正攻法ならね[#「正攻法ならね」に傍点]」
「と、いう事になるのでございましょうね」
インデックスは一〇万三〇〇〇冊の|魔道書《まどうしよ》の管理者、オルソラは魔道書や術式解析のエキスパートである。難攻不落という言葉を前に、最初に思い浮かんだものは同じだった。
インデックスが扉のギリギリまで鼻先を近づけて、改めて観察する。表面上の模様から扉を構成する分厚い氷の内部の作りまでも解析していく。オルソラは万が一インデックスが扉の防御機構に|呑《の》み込まれそうになった時のために、天使の|杖《つえ》を|緩《ゆる》く構えていた。
が。
ゾァ!! と、彼女|達《たち》の周囲の床から、人間より大きな逆さの|氷柱《つらら》が飛び出してきた。一つ二つではなく、一〇から二〇。それらは見えない刃に刻まれるように、次第に形を整えていく。
「これが」
「修道女達の代わり、でございますか!?」
作られたのは氷の|鎧《よろい》の|他《ほか》にも、二輪の台車に乗った大砲などもある。鎧どころか大砲までもが、車輪をひとりでに動かしてギチギチと照準を合わせてくる。
「ッ!」
オルソラは思わず天使の杖を構えた。
|戦闘《せんとう》は得意ではないが、そもそもインデックスは武器もないし、|魔術《まじゆつ》も使えないとの事だった。だから必然的に、オルソラがこれらと戦う事になると|踏《ふ》んでいたが、
「|狙いをこちらへ集中《C A H》!!」
その前に、インデックスが何かを叫んで横合いへ転がった。
鎧や砲台が、一斉に彼女の方へ向き直る。防御機能が働いたというより、強い磁石で強引に引き寄せられたといった感じだ。
インデックスはそのまま手近な通路の一つへ飛び込みながら、
「あなたはアニェーゼを! こっちは私が引き付けるから!! |大丈夫《だいじさつぶ》。このガードの思考には人の意思を感じられる。だから私の『|強制詠唱《スペルインターセプト》』で割り込めるもん!!」
インデックスの推測では、これらの氷像は『女王|艦隊《かんたい》』を束ねる『職制者』によって作られたものだ。それでいて、|完壁《かんぺき》に彼らが|手綱《たづな》を放している訳ではない。おそらく数分に一度、軌道を修正するか|否《いな》かの『情報報告』と『介入地点』が用意されている。
シェリー=クロムウェルが操っていたゴーレム=エリスを思い出せば良い。
完全自律でなければ、付け入る|隙《すき》はある。
どれほど高度な魔術であっても、それを操るのは人間なのだから。
「ですけど!!」
オルソラが反論する前に、突風が吹き荒れた。
小道の奥へ消えたインデックスを追うように、|全《すべ》てのガードが一斉にオルソラの横を突き抜けたのだ。猛スピードのダンプカーが通過した時と同じく、空気が押されて風となる。
|轟《ごう》!! という|捻《うな》りと共に、オルソラは反射的に目を|瞑《つぶ》った。
再び目を開けた時には、もうインデックスも鎧や砲台の姿もない。
「インデックスさん!」
オルソラは天使の杖を片手に叫んだ。
返事はいつまで|経《た》ってもやってこなかった。
アニェーゼ=サンクティスは氷の球体に寄り添うような形で、外の音を聞いていた。
「……、」
|砲撃《ほうげき》の音、剣を切り結ぶ音、火船の爆発する音、人と人の怒号―――そしてつい先ほど聞こえた、その部屋の扉のすぐ向こうでの|殴《なぐ》り合う音。
|全《すべ》ては、彼女を中心として起こっていた。
アニェーゼを奪うか、アニェーゼを守るか、それだけのために戦いは続いていた。
何だこれは、と彼女は思う。
これではまるで、みんなが自分を心配しているみたいだ。そんなはずがある訳ないのに、そういう風な誤解を抱いてしまう。
ここが自分の最高点だと思っていた。
ここの外に向かっても、後は下がっていくだけだと思っていた。
だけど。
自分は、まだ|誰《だれ》かにすがっても良いのだろうか。
自分は、まだ希望を抱いても良いのだろうか。
(……、)
アニェーゼ=サンクティスはぼんやりとした頭で考える。
それから、
首を横に振った[#「首を横に振った」に傍点]。
がちゃん、という音が聞こえる。
それは、この不自然なまでに|完壁《かんぺき》な|四角錐《しかくすい》の部屋を閉ざしていた、両開きの氷の扉が開け放たれる音だった。アニェーゼはそちらを見る。前に一度、|護衛艦《こえいかん》の中で出会った少年ではなかった。しかし一方で、一度もこの『女王艦隊』で見た事のない人間でもなかった。
「オルソラ……アクィナス?」
|漆黒《しつこく》の修道服を着たシスターだった。ローマ正教を追い出されたのに|未《いま》だに修道服はそのままで、何の冗談か没収されたはずのアニェーゼの|杖《つえ》を両手に握り|締《し》めていた。両開きの扉に掛けられた術的防御を解くのは並大抵の事ではない。実際、極度の集中を果たしたせいか、オルソラの呼吸はわずかに熱く乱れていた。
それでも、彼女は疲れの表情を少しも見せない。
あまつさえ、球体に寄り添っているアニェーゼの顔を見て、その表情を|微《かす》かに|輝《かがや》かせた。
「よく……」
オルソラは、告げる。
アニェーゼの耳には、それは聖女そのものの声に聞こえた。
「よく、ご無事でございましたね……」
そんな言葉が出てきたという事は、オルソラはアニェーゼを取り囲む状況を知っているのか。アニェーゼと同じか、あるいはそれ以上に。だからこそ、まだ無事だったアニェーゼの顔を見て、こんなにもホッとした表情を浮かべたのかもしれない。
自分はあれだけの事をしたのに。
自分はあれだけの事をしたのだから。
「……、何で、ですか?」
ポツリと、|呆然《ぼうぜん》とした調子でアニェーゼが|呟《つぶや》いた。
「今がどんな状況か、全部分かってんでしょう? あれだけ、『女王|艦隊《かんたい》』から逃げたがっていたじゃないですか。こんな危険な所にはいたくないって、ここがどれだけ不条理な施設か知ってて、だから私の策に乗ったんでしょう? なのに何で、よりにもよって|貴女《あなた》がそんな顔で戻ってきちまうんですか」
「それは買い|被《かぶ》りすぎですよ」
オルソラは苦い調子で笑った。
「パッと見た程度で|全《すべ》てが分かるはずがございません。『アドリア海の女王』の仕組みだって、インデックスさんに教えてもらって何とか理解が追いついている所ですし、『刻限のロザリオ』については|未《いま》だに何が何やらといった感じでございます」オルソラは、両手で銀の|杖《つえ》を握り|締《し》めて、「……分かっていれば、|誰《だれ》だってここから逃げようなどとは言いませんでした。皆を助けるために口を|噤《つぐ》んだあなたを置いて、自分|達《たち》だけ立ち去ろうなどと」
「だから……」
アニェーゼは、小さく言葉を返す。
目の前にいるオルソラが、どれだけ自分の基準から外れた人間かと考えながら。
「そこが、変だって言ってるでしょう?確かに私はシスター・ルチア達を助けるために、自分を|餌《えさ》にしちまいました。でも、
それだけなんですよ[#「それだけなんですよ」に傍点]。終わり良ければ全て|善《よ》し、なんて話になるはずがないでしょう。貴女はそれで満足できんですか」
その口で一つ一つ言うたびに、自分が|惨《みじ》めになる。
それでもアニェーゼは続ける。
「『法の書』巡って何をやったか覚えてんでしょ! わざわざ貴女を日本まで追いかけて捕まえてグチャグチャに|蹴《け》り飛ばしたのは私なんですよ! 普通は見捨てるでしょうが、そんな人間なんて!! 水になんか流せんですか、あそこまでやられておいて!?」
「その答えを、口で言う必要があるのでしょうか」
オルソラは静かに告げる。
「|全《すべ》て分かっていたからこそ、あなたはその全てを|黙《だま》って、私|達《たち》の意識をルチアさん達の方にだけ向けさせたのではございませんか。知れば、私達は必ずあなたを止めるために動くと。それでも明確に言葉として聞きたいのでしたら、私の答えを、この口を使って答えましょう」
彼女は、アニェーゼの顔を見て、
「結論を言えば、答えなんて分かりません。私は|所詮《しよせん》、修行中の身でございますからね。何が正しいか、何が間違っているか。そんなものを一人で決めて、他人の人生を左右するほどの博識と良識を兼ね備えている自信など、とてもございませんよ」
ですが、と彼女は続ける。
「少なくとも、ルチアさんとアンジェレネさんはあなたを助けたいと断言しました」
「……、」
アニェーゼは、黙り込んだ。
「ルチアさんは一度安全な場所まで|避難《ひなん》しても、それでもあなたを助けるためにまた戻ると言いました。アンジェレネさんは同じ仲間を傷つけるのが怖いと言って、武器を作る事にもためらっていました。……彼女達の言葉に偽りがあるとは思えないのでございますよ。あの場において|誰《だれ》よりも|完壁《かんぺき》なのは彼女達でした。私などは、とても足元に及ばないのでございましょう」
ゆっくりとした言葉には、強制力など少しもない。
にも|拘《かかわ》らず、アニェーゼは呼吸を止めていた。
「あなたは、ルチアさんやアンジェレネさんの言葉に文句がありますか?」
そんな小さな修道女に、オルソラは告げる。
「たとえ絶望的な状況を|目《ま》の当たりにしても、無数の刃を突きつけられても、それでももう一度皆と笑いたいと告げた彼女達の言葉に、まだ足りないと思っているのでございますか」
「―――、」
アニェーゼは、わずかにオルソラの目を見返した。
彼女の|震《ふる》える唇は、何かを|紡《つむ》ぎ出そうとしたが、
「不可能だな。それをローマ正教が黙っていると無邪気に信じられるか?」
男の声が割り込んできた、
「こちらとしても困るんだ。シスター・アニェーゼ、己の役割から簡単に逃げるなよ。確かに、ローマ正教の総数は二〇億だ。例えば君がここで死んでも計画は途切れん。|他《ほか》の適性者を捜すだけだろう。しかし、その二〇億の中から人員を振り分けていくのが一体どれほど難しいか分かっているのか。面倒臭いだろう? わたしは面倒臭いのは大嫌いなんだ」
全てを台無しにする|軽薄《けいはく》な言葉だった。
オルソラは声の飛んできた後方へ振り返る。
|豪奢《ごうしや》な|法衣《ほうえ》に包まれた四〇代の男。首には四本のネックレスがあり、ジャラジャラとたくさんの十字架が下げられ、顔には左右非対称の|歪《ゆが》んだ笑みが張り付いている。
ビアージオ=ブゾーニ。
そして、
その右手に、血が跳ねていた。
ビアージオのものではないだろう。目立った傷はないし、顔色に痛がる|素振《そぶ》りがない。
「……となると、その血は一体どういう事でございましょうか」
「冷たいな、わたしに対する心配はなしか。そしてその質問にはもう答えた。面倒臭いのは嫌いなんだ、とな。だから、まぁ、手っ取り早く潰してきたよ[#「手っ取り早く潰してきたよ」に傍点]
「……、」
オルソラは、自分が持っている天使の|杖《つえ》を|掴《つか》む手に、力を込める。
しかし、|傍目《はため》で見ているアニェーゼからしても、オルソラが|戦闘《せんとう》に慣れていないのは良く分かった。彼女は机の上で戦う種類の修道女だ。アニェーゼやビアージオとでは、根本的な部分が違う。強弱や優劣の問題以前に、まず大前提が間違っている。砂漠を歩く格好で南極を渡ろうとしているようなものだ。
ビアージオも一目で看破したのか、余裕の表情を崩さない。
構えすらも取らない。
「できればここでは|避《さ》けて欲しいな、そういう行いは。色々とデリケートなんだよ。何で『女王|艦隊《かんたい》』なんてものを用意して周囲を固めていると思っている? そりゃ、安易に傷つけられちゃ困るからだろう」
「……対ヴェネツィア用大規模術式。時代遅れの|骨董品《こつとうひん》に|輝《かがや》きを取り戻す事が、そんなに意欲のある行いでございましょうか」
「ふうん、そこら辺は共通の見解なのか。しかしそれは問違いだ。わたし達が行おうとしているのは対海洋国家用の|攻撃《こうげき》術式ではない。その先にあるものだ[#「先にあるものだ」に傍点]」
「随分と、余裕でございますね」
オルソラは告げる。
それは|上手《うま》くない、とアニェーゼは思った。ビアージオに気づかれぬよう会話を続け、その間に|距離《きより》を測るのが|常套《じようとう》手段なのに、
「まぁな、話した所でどうにもならん。その程度については余裕も|割《さ》ける。それに、散りゆく者には礼を尽くすのがわたしの|流儀《りゆうぎ》だ。できる範囲でだがな。そうそう、さっきの少年にも同じ事を言ったよ。いや、説明した、というのが正しいかな。抵抗が強くなって難儀したが、まぁそれぐらいがわたしの許容範囲だな。君にもそういう程度のわがままをお願いしたい」
「―――、」
オルソラは反射的に一歩前に進んでいた。
対して、ビアージオは動かない。
相手の動きに注視する必要もないと言っているように。
「さて、何の話だったか。そう、『アドリア海の女王』だな。君|達《たち》も知っているとは思うが、あれは本来、対ヴェネツィア専用に作られた術式だ。ヴェネツィアを|一撃《いちげき》で|破壊《はかい》するが、それ以外の用途では使えない。理由は簡単だな、敵側の手に渡ってしまった際、自分達に向けられるのが怖かったからだ」ビアージオは首の十字架の一つを指でなぞりつつ、「『アドリア海の女王』ができたのは九世紀……ヴェネツィアに一二使徒の一人、聖マルコの|遺骸《いがい》が持ち込まれた時だったか。聖ペテロの遺骸を守るバチカン―――当時のローマ教皇領と同じ宗教的環境を整えようとしたヴェネツィアの動きに警戒したローマ正教の手によって作られたのだ」
言われたオルソラは、ふと|眉《まゆ》をひそめた。
こんな事を言い合っている場合ではないと知りつつ、思わず尋ねてしまう。
「|嘘《うそ》をついているのでございますか? ヴェネツィアの発展も、当の九世紀辺りから始まっています。その時から『アドリア海の女王』が機能していたとすれば……」
「そうだ。これ以後に訪れる最盛期のヴェネツィアは、パドヴア、ヴィツェンチア、メストレ、キオッジアなど、周辺の都市国家を次々と侵略していった歴史を持つ。知っているよな」
「……その程度の知識で私の思考を|誘導《ゆうどう》できるとでも?」
「理由は実に様々だろうが、その内の一つに『アドリア海の女王』があるそうだ。どこに大規模術式の専用施設があったか、当時のヴェネツィア政府は|掴《つか》みきれていなかった。従って、怪しい所を|潰《つぶ》していくしかなかったという訳だ。そこまでやられたのなら当時のローマ正教も『アドリア海の女王』を使えば良かったものを……結局、恐ろしかったのだろうな。ヴェネツィアの力は絶大だ。失えば特に経済方面での打撃は図り知れん」
「……、」
「しかし結局ヴェネツィアはそれら侵略行為によって軍費がかさみ、最終的に経済難に見舞われて国家が滅亡に向かったというのだから笑えない。もちろん、これらは単純に『アドリア海の女王』のためだけではないだろうが……結果的に、目的は果たされていたのだよ」
「使わずして、その|畏怖《いふ》だけで国を滅ぼした大規模破壊|魔術《まじゆつ》……。しかし」
オルソラが|咳《つぶや》くと、ビアージオは笑う。
「そう、しかし、だ。『アドリア海の女王』はヴェネツィアに対してしか使えない。どれだけ|魅力的《みりよくてき》な威力を誇っていても、照準制限を解けない限りは意味はない。現在のヴェネツィアは健全な観光地だ。今のローマ正教にあの水の都を|疎《うと》んじる理由もないからな」
ならば|何故《なぜ》、と言いかけて、オルソラの動きが凍った。
今のビアージオの|台詞《せりふ》は、ある一部分に希望的なもしもの話が含まれている[#「ある一部分に希望的なもしもの話が含まれている」に傍点]。
「そうだ。気づいたな」
ビアージオ=ブゾーニは断言する。
「『アドリア海の女王[#「アドリア海の女王」に傍点]』の照準制限を解く[#「の照準制限を解く」に傍点]。そのための『刻限のロザリオ』だ」
オルソラの呼吸が止まる。
今まで聞かされていなかったのか、アニェーゼの目がわずかに見開かれた。
司教は構わずに続ける。その顔に、少しずつ笑みが|滲《にじ》んでいく。
「長かった。いや、実際に『刻限のロザリオ』を組んだのはわたしではなく、ヤツ[#「ヤツ」に傍点]なんだがな。まったく、|辛《つら》かったぞ? 『アドリア海の女王』という素晴らしい兵器が目の前にありながら、それを|上手《りつま》く応用するためにここまで手間がかかるとはな! おかげで今の今まで、それこそ何百年も放置されたままだったのだ!!」
「まさか……ッ!!」
オルソラは思わず叫び声をあげた。
「それでは、あなた|達《たち》は『アドリア海の女王』を使って|邪魔《じやま》と感じた街を|破壊《はかい》すると|仰《おつしや》るのでございますか! 海洋の強国にして様々な文化が交差する|魔術《まじゆつ》列強の国で知られた、あのヴェネツィアをも|一撃《いちげき》で破壊するような規模の術式を振りかざして!!」
「都市というのは誤解だな。より正しくは世界と呼ぶべきだ」
ビアージオは楽しそうに言う。
あたかも、王様の耳は|驢馬《ろば》の耳という童話のように。
「ハハッ、『アドリア海の女王』は都市だけではない。その都市に|関《かか》わった|全《すべ》てを破壊する。例えばヴェネツィアという街を破壊すれば、どこぞの美術館に収められた絵画や彫刻なども全て破棄されるという寸法だ! ヴェネツィア派という学問も消えるかもしれないな。んん? それと同じ事を、敵対する世界を束ねる都市[#「敵対する世界を束ねる都市」に傍点]に向かって放ったらどうなると思う?」
敵対する世界。
束ねる都市。
オルソラはそれら二つから、ビアージオの言おうとしている事を|掴《つか》む。
「まさか、学園都市を!?」
「その通りだよ、シスター・オルソラ! 『アドリア海の女王』は街が与えた|影響《えいきよう》全てを取り除く。あらゆる科学技術は学園都市の影響を受けている。|些細《ささい》な事であってもな! それを全て破壊するとなれば、科学という|忌々《いまいま》しくも世界の半分を包み込んでいるサイド全体を、一夜にして|駆逐《くちく》する事ができるのだよ!!」
ゾッとした。
ビアージオの言葉は自分の見ている場所にしか人間がいないと信じている口ぶりだった。自分のいない場所で生活している者は人の形をした背景にしか見えていないのだ。科学サイドの|破壊《はかい》。それは単純に世界地図を半分に切り取るのとは訳が違う。実際に人が死ぬはずなのに。
「学園都市を|壊《こわ》せば、それで皆が幸せになるとでも……?」
「思わんよ。害なす者は|魔術《まじゆつ》サイドの中にもいる。イギリス清教、ロシア成教、その枠から外れれば仏教や北欧神話なども加わるか。しかし続ければ良い。|邪魔者《じやまもの》は|全《すべ》て消せば良い! いずれ不純物は取り除かれる。ローマ正教だけになる!!」
「あなたは……ッ!!」
ヴェネツィアの暴走を止める『アドリア海の女王』には、二発目を|装填《そうてん》する機能は必要ない。しかしビアージオの言い方を考えるに、それすら克服されている可能性がある。
(あるいは、ルチアさん|達《たち》がこの|艦隊《かんたい》でさせられていた奇妙な作業……。それこそが、装順の問題を取り除くための下準備だったのかも……)
オルソラは思ったが、口には出さない。
一方で、ビアージオは彼女の|戦標《せんりつ》に対して、|呆《あき》れたように語り続ける。
興が|削《そ》がれたように、口調の速度が少しだけ減じる。
「|生温《なまぬる》いな。いつから宗教というのは便利な道具に成り下がった? ソドムやゴモラが焼かれた事に間違いはあるか。科学サイドは宗教裁判を十字教の誤りだと指摘するが、それこそが誤解も良い所だ。|何故《なぜ》、神が人のために|我慢《がまん》しなくてはならない。神にとって不利益を生む者がいるのなら、それを排除する事に不備などない。雑草を焼くのと同じだよ。その過程で周りの草が焼けた所で文句を言っては始まらない」
そんな思想であれだけの術式が振るわれれば、どれほどの被害が出るか。一人の敵を|炙《あぶ》るために街が全て焼かれるなどという事態に発展しかねない。それこそ十字教史上最悪の惨事となってしまう。
ビアージオはジロリとオルソラを見た。
戦標する修道女に、司教は歓喜で|震《ふる》えて|上擦《うわず》った声を放つ。
「ローマ正教の悲願なのだよ。だからここで暴れてもらっても困るんだ。まして、シスター・アニェーゼをここから連れ出すなどとは、とても承服できたものではない」
「承服できないのは、こちらの|台詞《せりふ》でございます!」
オルソラは天使の|杖《つえ》を勢い良く振る。
ビアージオはくだらなそうに息を吐いて、
「だから、暴れるなと言ったはずだが」
言葉が出た時には、すでに勝負は決していた。
オルソラは天使の杖を発動するために|呪《じゆ》を|紡《つむ》ぐ。だが遅い。いや|丁寧《ていねい》過ぎるのだ。意味だけを通せばそれで良い|戦闘《せんとう》時に、まるで彫刻の顔でも仕上げるような集中力で術式を構成し始めてしまっている。あれでは間に合わない。
対して、ビアージオは首元の十字架に触れるだけだ。
「―――十字架は悪性の拒絶を示す」
口の中で|呟《つぶや》くと同時に、|鎖《くさり》から外された三つの十字架が軽い調子でオルソラの元へ投げ飛ばされた。オルソラは警戒し、その十字架を|杖《つえ》で|叩《たた》き落とそうとしたようだが、
ゴッ!! と。
その直前で小さなアクセサリーが爆発的に|膨張《ぼうちよう》した。まさに爆発だ。その膨張速度は金属て表現された爆風に近い。まるでドア板を破る|鉄杭《てつくい》のような|攻撃《こうげき》に、一発でオルソラの手から天使の杖が|弾《はじ》かれた。
オルソラの背後にいるアニェーゼが息を|呑《の》む。
丸腰となった彼女に、さらに二つの十字架が|襲《おそ》う。
二発目はオルソラの肩の上で爆発膨張し、その関節を外すように上から下へ打撃した。彼女の上半身が|衝撃《しようげき》でくの字に折れると同時、さらに丸まった背中へ三発目が爆発する。|大槌《おおつち》で壁を|殴《なぐ》るような音が|響《ひび》き、オルソラの両足から力が抜けた。そのまま勢い良く氷の床へと叩きつけられる。
彼女はそれでも、のろのろと立ち上がろうとするが、
「ハハッ! やめておけ、シスター・オルソラ!!」
ビアージオは一歩も動いていない。
長い長い計画の|成就《じようじゆ》が間近に迫っているせいか、表情は笑顔でしかない。
さらに首元の四つのネックレスから、十字架を一つ取り外し、|投梛《とうてき》される。まるで海に花束でも投げるように、十字架は大きな弧を描いてオルソラの頭上へ流れていく。
「―――十字架はその重きをもって|驕《おご》りを正す」
ギン、と空中の十字架が振動するような音を立てた。
|瞬間的《しゆんかんてき》に数千倍の重力加速度を得た十字架が、オルソラの首のすぐ横を流れた。氷の床が衝撃に負けて爆発し、めくれ上がる。間近でそれを受けた彼女の体がうつ伏せの状態から、さらに横滑りして転がっていく。
それでも。
武器を失い、全身を叩かれても、オルソラはピクリと指を動かす。
|抗《あらが》うために。
「くっくっ。やめうと言ったはずだがな。わたしも|伊達《だて》に司教など務めていない。こちらは十字架が持つ複数の意味を解放する事で様々な力を振るえるのだ。わたしを殺す気なら大聖堂を爆破するつもりで来い! イギリス清教には『歩く教会』があるが、あんな物がなくともわたしは一人で聖域に匹敵するのだからな!!」
それから、ビアージオはオルソラから目を|離《はな》した。
その奥に立っているアニェーゼに告げる。
「少し早いが、そろそろ始めるか。シスター・アニェーゼ」
「え……?」
聞かれたアニェーゼは、キョトンとした顔でビアージオを見返した。
司教は特に|嫌悪《けんお》を示す事もなく、
「甲板の|天草式《あまくさしき》や、そこのシスター・オルソラは多少|目障《めざわ》りだが、『刻限のロザリオ』を使って『アドリア海の女王』の制限を解く事に絶対的な|影響《えいきよう》を与えるほどではないからな。ふふっ、焦がれるのはもうたくさんだ。わたしを|我慢《がまん》で殺す気か。さっさと始めて歴史に名を残すぞシスター・アニェーゼ!」
ビアージオの言葉と共に、アニェーゼが身を預けていた氷の球体に変化が生じた。
「さぁ調整に入るぞ。『刻限のロザリオ』と『アドリア海の女王』の双方と君の|魔力《まりよく》をそれぞれ同調させればそれで終わりだ。すぐに済ませてバチカンに吉報を送るぞ!!」
ギュルリと|瞳孔《どうこう》が拡縮するような動きで大きな穴が空いたのだ。
中に人れと、|誘《さそ》うように。
「……ッ! させる、ものでございますか!!」
「その体で抵抗する気か? それとも、さらに自由を奪って欲しいか」
ビアージオはオルソラの顔を見もしなかった。
彼は胸元の十字架を指で|撫《な》で、
「始めるぞ。喜べシスター・アニェーゼ。君は十字教の歴史上、最も多くの敵を|葬《ほうむ》った名誉を得る。君がずっと望んでいた事だ! その天使の|杖《つえ》を振りかざしていた時代からのな!!」
「……、」
アニェーゼはビアージオの言葉を受けて、ぎこちなく|頷《うなず》いた。
|傭《うつむ》くように下げた視界に、近くに転がっている天使の杖が映る。
彼の言葉は間違っていないはずだ。
実際、『法の書』を巡る一件でオルソラを追い詰めた行動理由はそういったものだった。ローマ正教の敵を葬る。それだけの事だ。あの少年|達《たち》が止めに人らなければ、きっとアニェーゼは楽しんでオルソラを殺していた。
自分を|脅《おびや》かす敵の排除は、アニェーゼが望んでいた事だ。
しかし、
「その、あなたの語る『敵』の中には、アニェーゼさんも含まれているのではございませんか……ッ!」
かつて殺されかけたオルソラは、アニェーゼの盾になるように移動した。
全身のダメージによって、体もまともに動かない状況で。
それでも自分の体を引きずって、ろくに立てもしないのに。
アニェーゼはそんなオルソラの様子を見て、体を|強張《こわば》らせる。
ビアージオは、オルソラの言葉を受けて笑う。
「今の君は、本当にローマ正教ではなくイギリス清教なのだな。だから|焦《あせ》る。ローマ正教の人間なら『アドリア海の女王』を突きつけられる|危惧《きぐ》を感じる必要はないのだから」
「かく言うあなたは、本当に|猜疑《さいぎ》でしか動けないのでございますね。私|達《たち》ローマ正教徒の典型でございますよ。利害の|秤《はかり》しか持たないから、人が|想《おも》いで動くという事を理解できない。いや、理解はできても信じられない」
アニェーゼは、前にもその言葉を聞いた。
オルソラ=アクィナスという修道女が、あの時から変わっていない事を知った。
「私は、そんなつまらない事を実現するために、アニェーゼさんが使い|潰《つぶ》されるのが納得できないと言っているのでございます! それによって多くの人が傷つくのが耐えられないのだという事が、|何故《なぜ》信じられないのでございますか!!」
「……、そうか[#「そうか」に傍点]」
ビアージオの頻から、浮かんでいた笑みが静かに消えた。
首元にあるいくつかの十字架を|弄《もてあそ》んだ。その内の一つを指で|弾《はじ》く。
「意思を変更しよう。やはり、障害は小さくとも潰しておくべきだ」
言葉に、オルソラは身を固めた。
実質的な危機だけではない。そもそも、おそらくこの修道女は|誰《だれ》かに殺意をぶつけられる事そのものに慣れていない。そういった世界とはほとんど無縁の所で生きてきたのだろうから。
アニェーゼは、思う。
そこまでする理由は何なのか。学園都市の人間なら分かる。科学サイドの住人なら理解できる。何故なら、自分自身の危機なのだから。ビアージオを止めなくては、自分の生活どころか直接的に命を奪われる羽目になるのだから。
しかし、オルソラぽ違う。
学園都市が|壊《こわ》れても彼女は死なない。ビアージオがイギリス清教を|狙《ねら》うなら、ローマ正教を捨てた時のように|他《ほか》の組織・宗派に|鞍替《くらが》えすれば良い。少なくとも、ビアージオは『刻限のロザリオ』の|邪魔《じやま》さえしなければ今すぐここでは殺さないと言っているのだ。
それを、何故立ち|塞《ふさ》がるのか。
一秒でも長く生きていたいとは思わないのか。
「十字教は|全《すべ》ての|隣人《りんじん》を愛するが、一方であまりにも遠い敵に対しては一切の|容赦《ようしや》をしない。カレンダーを|彩《いうど》る聖人達の伝承を見れば明らかだろう」
ビアージオは首の十字架に触れながら告げる。
指に加わる力は蛇のように|滑《なめ》らかで的確。これまでとは違う、本気の色が受け取れた。
死ぬ、と思う。
だからアニェーゼは、オルソラの後ろから告げた。
「……横にどいて、ください。どの道、|貴女《あなた》にビアージオは止められません。抵抗さえしなければ、きっと貴女は死なずに済みます」
嫌な言葉だ、とアニェーゼは思う。
伝承にある聖人が死ぬ前に、大抵異教の神官はこう言って十字教を捨てるように|誘惑《ゆうわく》する。
しかし、
「そんな事が、できる訳がないでしょう……ッ!!」
まるで神話に登場する聖女そのままに、オルソラ=アクィナスは突っぱねた。
即答だった。
声は|震《ふる》えていた。痛みのせいでもあるし、|緊張《きんちよう》や不安、それに恐怖だって混じっているだろう。しかし、オルソラはアニェーゼの言葉に即答していた。頭の中で深く考えて答えた訳ではないはずだ。考えるまでもないと信じているからこそ、すぐさま言葉が口から出たのだ。
「終わりだ、シスター・オルソラ」
ビアージオは告げる。
おそらく、オルソラとは全く別種の理論で|弾《はじ》かれた、迷わぬ声。ビアージオ=ブゾーニはそのままオルソラを殺すだろう。自分の中にあるものにただ従って、それが絶対に正しいと信じて、それ以外の|全《すべ》ては聞くべきではないと拒絶して。
オルソラは死ぬ。
『あの場において、|誰《だれ》よりも|完壁《かんぺき》なのは彼女|達《たち》でした。私などは、とても足元に及ばないのでございましょう』
おそらく抵抗らしい抵抗もなく、彼女は死ぬ。
『あなたは、ルチアさんやアンジェレネさんの言葉に文句がありますか?』
何の力も持たないアニェーゼに告げたオルソラが、
『たとえ絶望的な状況を|目《ま》の当たりにしても、無数の刃を突きつけられても、それでももう一度皆と笑いたいと告げた彼女達の言葉に、まだ足りないと思っているのでございますか』
アニェーゼどころか、ルチアやアンジェレネまで心配したオルソラが、
そう言ってくれた人間が、アニェーゼの目の前で
「ハハッ! 笑えシスター・アニェーゼ。君の夢が砕ける様を眺めて!」
ビアージオの言葉を聞いた|瞬間《しゆんかん》、アニェーゼの意識が爆発した。
ガッギィ!! という金属がぶつかる|轟音《ごうおん》が|響《ひび》いた。
「……、何の|真似《まね》だ」
ビアージオの質問に、しかしアニェーゼは答えない。
彼女の手の中に、床に落ちていたはずの天使の|杖《つえ》があった。オルソラの背後から腕を前に伸ばし、彼女の鼻先を|掠《かす》めるように杖の下端を床に突き立てた姿勢で動きを止めていた。
爆発的に|膨張《ぼうちよう》した十字架の鉄骨のような先端は、天使の杖に激突していた。|狙《ねら》われたのはオルソラのちょうど|眉間《みけん》の辺りだ。|直撃《ちよくげき》すれば首が丸ごと消えていたかもしれない。杖を握るアニェーゼは、その|衝撃《しようげき》の強さに思わず歯を食いしばっていた。
アニェーゼは床に|唾《つば》を吐く。
彼女はオルソラの前に立つと、天使の杖を乱暴に振るって水平に構える。その仕草に、オルソラのような|丁寧《ていねい》さはない。
「|万物照応《Tutto il paragone》。|五大の素の第五《Il quinto dei cinque elementi》。|平和と秩序の象徴『司教杖』を展開《Ordina lacanna che mostra pace ed ordine》」
その乱暴な扱いこそが、逆に杖に対する|信頼《しんらい》であるように。
この程度では|壊《こわ》れない事を信じているのだと言外に語るように。
「|偶像の一《Prima》! |神の子と十字架の法則に従い《segua la legge di Dio ed una croce》、|異なる物と異なる者を接続せよ《Due cose diverse sons connesse》!!」
対して、ビアージオは武器を向けられた事になど注目していない。
それ以前の問題として、質問を無視された時点ですでに頭に血が上っていた。
「シスター・アニェーゼェ!! 何の|真似《まね》だと聞いているのだ!!」
「ハッ、|貴方《あなた》の疑問通りですよ」
アニェーゼは|激昂《げつこう》するビアージオを見て、|薄《うす》く薄く、吐き捨てるように告げた。
それこそ、まるで悪党のような笑みを浮かべ。
「間違ってんでしょうね。こんな私が、まだシスター・ルチアやアンジェレネ、それに|他《ほか》のシスター|達《たち》の面倒を見たいなんて思っちまうのは! 貴方のクソみてえな命令で戦わされている彼女達を|想《おも》って|憤《いきどお》ったりすんのも!!」
断言しながらも、しかしアニェーゼは一歩も退こうとしない。
その態度に、ビアージオのこめかみが不自然にうねった。
「|舐《な》めた、口を……」
彼は奥歯を食いしばり、胸元にある無数の十字架の一つを|毟《むし》り取ると、それを握る手を頭上に突き出し、
「|利《き》いてんじゃねえぞ罪人がァああッ!!」
バギン、と妙な音が鳴り|響《ひび》いた。
直後、
「あ、ぐ!?」
アニェーゼの背後で悲鳴が聞こえた。彼女が慌てて振り返ると、オルソラが崩れ落ちていた。脂汗の浮いた顔で座り込んでいたが、ふるふると首を横に振った途端、その動きに負けたように体が横倒しに転がっていく。
「サルどもが、ドイツもコイツも人の言葉でわめきやがって……」
司教の口が真横に裂ける。
「―――シモンは『神の子』の十字架を背負うッ!!」
|爆撃《ばくげき》のようなビアージオの叫び声。
何が、と思う前にアニェーゼの視界がグルリと回った[#「グルリと回った」に傍点]。
「な、に!?」
壮絶な吐き気を抑えようとした時には、すでに体のバランスは失われていて思わず|片膝《かたひざ》をついていた。下手に立ち上がろうとすると、オルソラのように床へ崩れそうになる。
そこへ、
近づいてきたビアージオが、片膝をついたアニェーゼの|顎《あご》を思い切り|蹴《け》り上げた。硬い靴の|爪先《つまさき》が|頬骨《ほおぼね》に食い込んでくる嫌な感触が爆発した。彼女の小さな体が|仰《の》け反り、そのまま後ろへ倒れていく。
「が、ぁ……ッ!!」
|杖《つえ》を握ったまま床に手をつくが、力が人らない。腕立て伏せでパテた時のように、体が持ち上がらない。|手垢《てあか》がつくほど使い続けた天使の杖すら、ここでは役に立たない。
(術、式。今の、攻撃)
それでも、アニェーゼは|諦《あきら》めない。
頭を動かし自分の置かれた状況を推測していく。
(お、そらく、は……)
|呪文《じゆもん》の内容から察するに、今ビアージオが使ったのは『神の子』が十字架を使って処刑された時の伝承を元にした|魔術《まじゆつ》だ。しかし、『神の子』が手足を釘で打たれて殺されたのに対し、アニェーゼ|達《たち》にそのような傷はない。
となると、
(『神の子』と十字架の伝承は処刑前にもある。処刑場の丘まで、『神の子』が自分を|磔《はりつけ》にする重たい木の十字架を背負って歩かされた時のものが……)
「……確か、『神の子』は……十字架を背負うだけの、体力は残されていなかった……はず。彼に代わって……シモンという男が、十字架を背負って、処刑場の丘まで運んだ。違いますか」
ビアージオの|眉《まゆ》が、ピクリと動く。
それから、彼はニヤリと笑った。
「気づいたか」
「『装備品の重量を肩代わりさせる[#「装備品の重量を肩代わりさせる」に傍点]』……それが、私達を……|襲《おそ》っている攻撃の正体です。|貴方《あなた》一人の重量とは、思えませんね……。大方、今……『女王|艦隊《かんたい》』で動いてる人間、|全《すべ》ての……装備品の重量を……一ヶ所に集めて攻撃力に……変換している、といった所ですか……」
最低でも二五〇人強もの重量をまとめて|喰《く》らえば人間など|潰《つぶ》れてしまいそうだが、あくまで押し付けられているのは『重量』だけで、『速度』は存在しない。
|拷問《ごうもん》の一種に『|錘《おもり》を腹の上に乗せていく』手法があるが、これの記録上の限界は|驚《おどろ》くべき事に四〇〇キロ超である。速度なくゆっくりと乗せる分には人間は重量に強い耐性を持つのだ。
「オルソラ|嬢《じよう》が私より先に倒れたのは、おそらく|攻撃《こうげき》は上から下へ向かうタイプのものだから。意識が刈り取られんのも同じく、|身体《からだ》の一番上にあるのは通常、頭だからです」
「素晴らしい。|流石《さすが》にどこぞの異教のサルとは違うか」
ビアージオは、奥の手の正体を看破されたにしてはあまりに軽い言葉を放ち、
「しかし、分かった所で君には防げんがな!!」
彼の胸元にある無数の十字架の一つが引き|千切《ちざ》られ、頭上に掲げられた|瞬聞《しゆんかん》、アニェーゼの身体に|凝縮《ぎようしゆく》された『重量』が|襲《おそ》い掛かった。
意識が砕かれそうになる。
気絶すれば終わりだ。
アニェーゼは計画の|要《かなめ》なので簡単には殺されないだろう。しかしオルソラは違う。ここでアニェーゼが抵抗を|止《や》めれば、不要なオルソラにとどめを刺されてしまう。
分かっているのに。
分かっていても。
身体の一番上にある所から狙われる―――なので、|杖《杖》を頭上に掲げたが、一撃で指に骨が押し|潰《つぶ》されそうな激痛が走った。天使の杖がガランと落ちる。たまらず手を引っ込めた所で、再び頭に|衝撃《しようげき》が突き刺さった。
そのわずかな抵抗を見たビアージオが|嘲笑《あざわら》った。
「ハハッ! 何のつもりだシスター・アニェーゼ!! そんな軟弱な手でわたしの一撃を防げるとでも? やるならもっと頑丈な腕を用意しろ!」
「く……ッ!!」
もう力はそれほど残されていないはずなのに、アニェーゼは奥歯を|噛《か》んだ。何もできない自分を恥じるように。そんなアニェーゼの頭にさらなる圧迫を押し付けようと、ビアージオは胸元の十字架を|弾《はじ》き、アニェーゼがそれでも床に落ちた天使の杖へ腕を伸ばした所で、
「そうかよ。じゃあ、こんな|右手《イマジンブレイカー》とかなら良いのか?」
バギン!! という|破壊音《はかいおん》が|響《ひび》いた。
音はビアージオの背後。この巨大な|四角錐《しかくすい》の部屋の出入り口たる両開きの扉から。それを四角形、あるいは立方体に大きく吹き飛ばし、何者かが部屋へ|踏《ふ》み込んできた。
その右手を頭上に掲げ、
上から下へ襲い掛かる重量攻撃を弾き飛ばして。
ビアージオは振り返り、そして侵人者に向かって叫ぶ。
「キ、サマ。異教のサルが―――ッ!!」
「死体ぐらいは確認しとけよ間抜け。テメェが思ってるより、|俺《おれ》の右手は甘くなんかねえんだよ!!」
その少年はアニェーゼについて一言も言及しなかった。どうしてオルソラの盾になっているのか、その場違いな行動は一体どういうつもりなのか。
そういった事は、一切聞かずにいてくれた。
おそらくビアージオを前にして、それどころではないからだろう。
今の|一撃《いちげき》だってアニェーゼよりもオルソラを助けるために振るわれたと考えるのが自然だ。
なのに、
アニェーゼは、助けてもらった気がした。
視界の先にいる|上条当麻《かみじようとうま》が、助けに来てくれた気がした。
「おおっ!!」
上条が叫び、ビアージオの元へと突っ走る。
ビアージオは胸元の十字架を|弾《はじ》き、やや|焦《あせ》った顔で舌打ちして一歩後ろへ下がると、
もう一度重量攻撃を放つ。
それは切り札に対する|信頼《しんらい》と、|這《は》い上がってきた上条に対する|驚《おどろ》きから、とっさに判断したものだろう。危機のレベルに応じて即座に攻撃方法を選ぶ思考力は極めて実戦的と言える。
しかし、何事にも例外はある。
「遅っせえんだよ! 同じ手を食うか!!」
少年は即座に右手を掲げて一撃で重量攻撃を弾き飛ばすと、一気にビアージオの|懐《ふところ》へ飛び込んだ。
「しまっ……!?」
ビアージオは慌てて次の十字架へ手を伸ばそうとしたが、
その前に、上条の|拳《こぶし》がビアージオの顔面の中央に突き刺さった。
ゴギン!! と。
肉と肉、骨と骨を打つ音が大きく|響《ひび》き渡った。
上条はビアージオの意識がない事を確認してから、ようやく肩の力を抜いた。オルソラやアニェーゼの方を振り返る。
「よし、ビアージオが気を失ってる問に、適当に|縛《しば》って十字架は没収するぞ。甲板の方でまだ戦いが続いてるなら、そっちも心配だしな。っと、アニェーゼ」
「は、はいっ」
まるでこれから|叱《しか》られると思っているようにぎこちない返事をする小さなシスターに、|上条《かみじよう》は笑って言う。
「ありがとうな。お前がオルソラを守ってくれなかったら、きっと大変な事になってた」
「……、」
礼を言ったというのに、アニェーゼは面食らったような顔をした後、ぷいっとそっぽを向いて|黙《だま》ってしまった。
上条は、ちょっと面白くなさそうな顔になり、
「(……ちくしょう、何だか|褒《ほ》め損だ)」
「(……マジでそう思っているのなら、あなた様は本当に|可愛《かわい》らしいお子様でございますよ)」
「(……あ、何?痛っ、ちょ、何で|叩《たた》くんだよ!)」
オルソラは|頬《ほお》に片手を当てたまま、もう片方の手でボコボコ|殴《なぐ》ってくる。上条はそれを必死で振り払いつつ、
「そういや、『女王|艦隊《かんたい》』……じゃねえ、もっと大きく『アドリア海の女王』全体をぶっ|壊《こわ》すにはどうすれば良いんだ? アニェーゼは『刻限のロザリオ』に使う大事な人間なんだろ。なら、その価値も殺しておきたい。『刻限のロザリオ』も『アドリア海の女王』も、もう二度と使えなくなるぐらい|完壁《かんペき》にぶっ壊したいんだけど、中心核みたいなものはないのか」
「えっと……」
アニェーゼは少し考えて、それから倒れたままのビアージオを見た。
「旗艦『アドリア海の女王』……っつーか、厳密には私|達《たち》がいるこの|四角錐《しかくすい》の部屋だけは、替えが|利《き》かねえそうです。現在の技術ではもう作れないそうなので、ソイツの機能を完壁に破壊できれば、もう二度と『アドリア海の女王』が直される事もねえと思うんですけど」
「しかし、『刻限のロザリオ』は元々『アドリア海の女王』にはなかった追加術式でございましょう? この巨大四角錐は『アドリア海の女王』の方であって、『刻限のロザリオ』はまた別だと思いますが」
ようはこの右手の出番か、と上条は自分の|拳《こぶし》に軽く視線を落とす。|魔術《まじゆつ》についてあ。れこれ考えたりするのは自分の仕事ではない。
「ま、『アドリア海の女王』か『刻限のロザリオ』、片っ端から全部ぶっ壊しちまえば問題ねえんだろ。替えが利かねえってんなら、とりあえずこの部屋からやっちまおうぜ」
それから上条はアニェーゼやオルソラの方に向き直って、
「ひとまず、この『アドリア海の女王』を|潰《つぶ》せば終わりだな。船は沈む……っつーか、氷が元の海水に戻るんだろうけど、そうなったら|天草式《あまくさしき》の連中に引き上げてもらうしかないか」
「ううっ……。やっぱり|天草式《あまくさしき》の皆さんもいるんですか……」
アニェーゼはわずかに身を縮めた。
それを横目に、オルソラはさらに続けた。
「しかし、一番の問題は船から下りてからでございましょうね。私には皆様の道を示す事はできないのでございますよ。これからの事はご自分でお考えにならないと―――」
オルソラの言葉は、最後まで進まなかった。
ガクン、と。不意にアニェーゼの|膝《ひざ》が崩れたからだ。
「アニェーゼ?」
|上条《かみじよう》が慌てて手を伸ばすが、一歩遅かった。彼女は上条の手をすり抜けるように、そのまま床に倒れ伏す。持っていた天使の|杖《つえ》が、ガランと妙に|響《ひび》く音を鳴らした。
「がっ……」
横倒しになったアニェーゼは、まるで赤ん坊のように手足を丸め、
「……ぃ、ぎ。がァァああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ガチガチと歯を鳴らしながら叫んだ。
何が起きたか分からない。
が、冗談ではないのは、その苦痛に満ちた表情から簡単に理解できる。痛みのほどは想像もつかないが、アニェーゼの顔から一気に泥のような汗が噴き出した。
「アニェーゼ!! どうし―――」
言いかけた上条は、ふと視界の隅におかしなものを|捉《とら》えた。
ビアージオ=ブゾーニ。
ついさっきまで気絶していたはずの司教が、よろよろと片膝をついて、こちらを|睨《にら》んでいた。血走った目はギロギロとせわしなく動き、本当に焦点が合っているのかも分からない状態だった。口の端から、だらだらと粘性の強いよだれが|溢《あふ》れている。
そして。
ビアージオの右手はまるで胸を|掻《か》き|雀《むし》るように、首にある四本のネックレスに|繋《つな》げられた十字架を全部まとめて握り|潰《つぶ》していた。その手は不自然に|震《ふる》えている。
倒れたオルソラを抱えようと、|屈《かが》み込んだオルソラが叫ぶ。
「『刻限のロザリオ』……。まさか、それ[#「それ」に傍点]が? |霊装《れいそう》を介してアニェーゼさんに何かしたのでございますか!!」
『刻限のロザリオ』の準備はすでに整っていたのだろうか。しかし、それができるなら|何故《なぜ》今までアニェーゼは放って置かれたのだろう。|魔術的《まじゆつてき》な知識がない上条には判断がつかないが、どうも状況的に考えると準備は未完成だという方が自然に思える。
しかし、ビアージオは笑う。
|興奮《こうふん》と|緊張《きんちよう》を伴う、熱した息の塊を吐き出しながら、
「ハッ、『刻限のロザリオ』か。未調整では使えんよ。今ではまだ正規の『アドリア海の女王』|程度しか[#「程度しか」に傍点]動かせん」ぐらぐらと揺れる|瞳《ひとみ》で、|上条《かみじよう》を|睨《にら》みつけ、「だが、『力』だけならすでにここにある。少しは考えなかったか。ローマ正教はこれを奪われて自分|達《たち》に向けられる事を恐れたが|故《ゆえ》に、照準制限や女王|艦隊《かんたい》など様々な手を加えたのだ。ならば実際に敵へ渡ってしまった際、最後の最後の手段として何を用意していたと思う」
つまりは自爆[#「つまりは自爆」に傍点]、と。
ローマ正教の司教は、自らをも|呑《の》み込むその言葉を、心底楽しそうに告げる。
「ビアージオ!!」
上条は思わず叫んだ。
詳しい理屈などどうでも良い。
ようは、自分の計画が失敗したから|全《すべ》てを巻き添えにしようとしているのだ。
それも、アニェーゼの心を廃人まで焼く事で。
「ッ!!」
映画の上映直前のように、周囲の照明がゆっくりと落ちていく。ほとんど光を失った|四角錐《しかくすい》の部屋に、ギリギリと|軋《きし》むような音が聞こえる。上条の真上から|響《ひび》く音の正体は、壁を構成する正三角形のパネルのいくつかがゆっくりと飛び出してくる作動音だった。
四角錐の|遥《はる》か先の|天井《てんじよう》から、一筋の光が落ち。
それは壁から飛び出した数十本の|三角柱《プリズム》にぶつかると、反射や屈折や拡散や収束を経て空中に巨大な紋様を描き出す。
作られたのは単なる平面ではなく、ドーム状の|天蓋《てんがい》。
まるでプラネタリウム―――人間にとって都合良く整えられた夜空の|瞬《またた》きだ。
「……、逃れられるとは思うな」
ビアージオは、天井を仰いで|嘲笑《あざわら》う。
「コイツはこの艦隊にいる二五〇の罪人が|錬金的《れんきんてき》な手法で補強した大規模|魔術《まじゅっ》装置だ。そこらの壁や床を軽く砕いた程度で|止《とど》まるなどとは思うなよ!!」
声に答えるように、|歪《いびつ》な天蓋の光が増していく。
あくまでも|冷徹《れいてつ》に、道具としての|待機状態《スタンバイ》を人間に指し示すように。
オルソラは|眉《まゆ》をひそめて、
「まずいのでございますよ……。国家を吹き飛ばすほどの大規模攻撃術式が暴発すれば……魔術的効果を無視した単純な爆発力だけでも、半径一〇キロは下らないはずです」
一〇キロ。
もはや想像が追いつかない単位を、オルソラの言葉が補正する。
「……ここが厳密にアドリア海のどの辺りかは存じませんが、キオッジアから北上しているという事はヴェネツィア近辺であって……おそらく、巻き込んでしまいます[#「巻き込んでしまいます」に傍点]。その他にもアドリアやパドヴァといった周辺都市も危険かもしれないのでございましょうよ……」
「それだけじゃない」
|魔術的《まじゆつてき》な爆発というのがどんなものかは知らない。
が、仮にこれが半径一〇キロを焼く戦術クラスの爆弾だったとしよう。
だとすると、被害は単純な爆風の範囲内では|留《とど》まらない。大量の海水が|一瞬《いつしゆん》で水蒸気となり、その高温の気体の塊はさらに広範囲にわたって一気に|嘗《な》め回す。数十キロにわたって|撒《ま》き散らされた摂氏数百度の蒸気の塊は、それこそ簡単に人間を|茄《ゆ》で上げる。さらには水蒸気の塊は大気の温度を変動させ、気圧に極端な大差を生む。平たく言えば、超巨大なハリケーンが誕生する。ただでさえ水蒸気の烈風に茄で上げられた街にとどめを刺すように、暴風の塊が建物をめくり上げていく事になる。
二重、三重と連なる|破壊《はかい》の|連鎖《れんさ》。
何が『アドリア海の女王』だと|上条《かみじよう》は心の中で吐き捨てる。そんなものを整えるまでもなく、これではすでにヴェネツィアなど簡単に破壊できるはずだ。
「あ、ぎ……ッ!!」
アニェーゼの叫び声が聞こえる。
星空のように冷めた光の下にいるせいか、顔色は余計に悪く見えてしまう。
上条はのた打ち回るアニェーゼの背中を右手でさすったが、それでも効果が解ける様子はない。やはりビアージオが握る十字架を|潰《つぶ》さない限り、中断はできないようだ。
ギチギチ、という音が聞こえた。
アニェーゼからではない。船全体が|軋《きし》んだ音を立てている。
ビアージオの|無茶《むちや》な命令に対して、船の構造の方に負荷がかかっているのだ。それが限界を迎えた時、『女王|艦隊《かんたい》』もろとも|全《すべ》てが吹き飛ばされるのかもしれない。
「オルソラ、アニェーゼを連れて先に甲板へ出ろ! 確か上下艦があったろ。|天草式《あまくさしき》の連中もそっちに引き上げさせろ! 可能ならローマ正教の方の説得も|頼《たの》む!!」
「え、ええ。でも、あなた様は?」
ふらふらと、まだぎこちない動きで、それでもオルソラは|震《ふる》えているアニェーゼの体を両手で抱える。ご|丁寧《ていねい》にも天使の|杖《つえ》まで握っていた。
上条は、オルソラから視線をビアージオに転じ、
「アイツを止めるしかねえだろ。後で必ず合流する。だから行けオルソラ!!」
「そんな……ッ!?」
オルソラは思わず声を上げようとしたが、アニェーゼの|呻《うめ》き声がそれに重なる。その上、ビアージオはゆったりとした動きで首元の十字架に指を添えた。
時間はない。
「絶対……。絶対でございますよ!」
この場でできる事はないと考えたのか、アニェーゼに何か応急手当のようなものはできないかと思ったのか、オルソラはそれだけ言うと出口へ走る。
巨大な|四角錐《しかくすい》の部屋に|上条《かみじよう》とビアージオの二人だけが取り残される。
ギシギシと|軋《きし》む船内で、司教は告げる。
「……だから嫌だったんだ」
血走った目で、彼はゆっくりと、|片膝《かたひざ》の状態から立ち上がる。|鳩尾《みぞおち》を思い切り|踏《ふ》み|潰《つぶ》されたダメージはまだ抜けていないはずだ。それでも、|歪《ゆが》んだ気力だけでビアージオは己の体重を両足で支えていく。
自らが作り上げたプラネタリウムの下、彼は告げる。
「くそ、あの野郎[#「あの野郎」に傍点]。何がローマ正教の歴史に残る大義だ。だからわたしは計画を聞いた時から早過ぎると言っていたのに。わたしはもうおしまいだ。罪人として消されるだけだ。『アドリア海の女王』はローマ正教が誇る、『|使徒十字《クローチエデイピエトロ》』を含む『|聖霊《せいれい》十式』の一つ……。そんなものを失うとなっては、わたしにはもう二度と復帰のチャンスなど与えられん」
「だから|全《すべ》てを巻き込むのか。そんなモンで何かが変わるのか。結局テメェがやってるのは、何の得にもならねえただの|慰《なぐさ》めじゃねえか!!」
そして、その慰めに大勢の人が|呑《の》み込まれる。
ビアージオの命で戦わされていたアニェーゼ部隊のシスター|達《たち》も、彼女達を殺さずに止めようとした|天草式《あまくさしき》の少年少女も、ルチアやアンジェレネも、オルソラやアニェーゼも、|建宮《たてみや》やインデックスも、その全てが。
この人工の|天蓋《てんがい》の下で放たれた命令によって、
これだけ巨大な|旗艦《きかん》を全て使って、|徹底的《てつていてき》な|破壊《はかい》で何もかもが砕かれてしまう。
「何を、言っている」
ビアージオ=ブゾーニはニヤリと笑う。
真横に裂けた、壮絶な笑顔。
「これだけの大人員と戦い、これだけの大艦隊を沈め、何よりこのビアージオ=ブゾーニという司教を|葬《ほうむ》るだけの状況に、危機感を覚えぬ者などいるものか……。その単体戦力、及び人脈はもはやローマ正教の脅威と認定できる。|誰《だれ》もがわたしの選択に納得する。|最期《さいご》に花を添えるのだよ。その敵性を|排《はい》するためならば、アドリア海沿岸などくれてやれば良いのだ!!」
それは上条|当麻《とうま》とは全く正反対の考えだろう。
前へ進むためではなく、後ろを振り返るために全力を尽くす。
守る事で満足するのではなく、奪う事で満足する。
自分一人が傷つくのではなく、周りの|全《すべ》てに傷を押し付ける。
「ビアージオ……」
|上条《かみじよう》は、音もなく右の|拳《こぶし》を握り|締《し》めた。
司教は構わず、両手を広げて告げる。
「……、その顔だ。その不屈こそが我々の脅威なのだよ。だからこそ、ここで確実に|潰《つぶ》しておく。それがわたしがローマ正教に捧げる|最期《さいご》の貢献だ!!」
「ビアージオォおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
叫び、上条はビアージオに向かって全力で走る。
ビアージオは後ろへ下がる事もせず、首から下がった無数の十字架へ両手を添える。それは祈りを捧げているような仕草に似ていたが、神聖さなど|欠片《かけら》も見当たらなかった。ヘドロのようにこびりついた執着心しか感じられない。
上条はビアージオの|懐《ふところ》へ飛び込み、その|脇腹《わきばら》へ拳を|叩《たた》き込もうとしたが、
「―――十字架は悪性の拒絶を示す!!」
司教の手の中にあった十字架が爆発的に|膨張《ぼうちよう》した。|一瞬《いつしゆん》で|棺桶《かんおけ》よりも巨大になった金属塊が盾となり、上条の拳の動きを止めてしまう。
右手の力によって、十字架の盾が砂のように吹き飛ばされる。
その先にいるビアージオは、胸元から五つの十字架を取り出し、上条の頭上に放った。
「―――十字架はその重きをもって|驕《おご》りを正す!!」
膨大な重力加速度を得た小さなアクセサリーは、それこそ砲弾のように真下へ|襲《おそ》いかかる。上条は頭上を見る事もなく、
「おおおっ!!」
ダン!! と、さらに前へと|踏《ふ》み込んだ。
ビアージオの懐へ、超至近|距離《きより》であるが|故《ゆえ》に安全地帯であるその場所へ。
上条は拳を放つ。
その右手に全ての力を込めて、ただ顔面に向けて|一撃《いちげき》を放つ。
「!?」
しかしビアージオは両手をクロスして顔面を|庇《かば》った。硬い骨がぶつかる感触がしたが、ダメージは敵の|芯《しん》から。|弾《はじ》かれる。
それはとっさの防御のための動きではない。
ビアージオには巨大な十字架を使った『盾』があるのだから。
ならば、
「―――十字架は悪性の拒絶を示す!!」
司教のクロスした両手の中に、それぞれ一つずつ十字架が握り込まれていた。
それは上条の眼前で爆発膨張する。
ボッ!! と。
まさにカウンターのように、鉄骨サイズになった十字架の先端二つが、|上条《かみじよう》の右肩と腹に突き刺さった。上条は歯を食いしばる余裕もなく真後ろへ吹き飛ばされる。氷の床の上を二、三回バウンドしてから、さらに何度も転がった。
「ぐ……ごぼっ!!」
呼吸の調子がおかしい。一秒で全身から汗が噴き出す。単純な痛みよりも込み上げる吐き気が優先された。起き上がろうとした体が斜めにかしいでいるような|錯覚《さつかく》がする。
それでも、上条は再び立つ。
右肩の痛みは、指を動かすと一気に腕全体を駆け巡った。
ビアージオはそれを見て笑う。表情と感情は直結しない。それを再確認させるような、どこまでも暗い陰りを帯びた笑みだった。
「よくもまぁ、立ち上がれるものだ……。内臓の位置が揺らぐほどの|衝撃《しようげき》を浴びせてやったのに……」
彼のダメージもゼロではない。ビアージオは|殴《なぐ》られた鼻先を軽く|撫《な》で、
「お前は|何故《なぜ》あがける? シスター・アニェーゼ単品がそれほど有意義な|報酬《ほうしゆう》か!? あんな修道女一人、どうせ死ぬに決まっている! 二〇億人もの人間を抱え、世界二三ヶ国に広がる巨大組織を相手に立ち回れるものか……。すでに、あの女を! 迎え入れてくれる場所などどこにもないのだ!!それが何で分かんねえんだよ異教のクソ猿が!!」
「……、分かって、たまるか」
上条は、歯を食いしばって答える。
アニェーゼはルチアやアンジエレネ|達《たち》を守るために、わざわざ自分が助かるためのチャンスを棒に振った。詳しい事情は分からないが、ビアージオの手からオルソラを守るために天使の|杖《つえ》を取って立ちはだかった。ちゃんと立ちはだかってくれた。
二〇億人だの、二三ヶ国だの、巨大組織だの、そんな枝葉は心底どうでも良い。
こんなヤツの手で、もはやローマ正教の意図すら無視した自暴自棄の一撃で、アニェーゼの心が砕かれて『女王|艦隊《かんたい》』にやってきたみんなが爆死するなんて最悪の結末を、上条は絶対に認めたくない。
ビアージオ=ブゾーニの言葉は、軽い。
その程度で|諦《あきら》められるのなら、最初から|誰《だれ》もこんな所までやっては来ない。
「くそったれが。納得なんかできねえよ……ッ!!」
|故《ゆえ》に、放ったのはそれだけだった。
水掛け論すら展開しない。もはや上条もビアージオも、お互いに会話のリレーを継続させようという気はない。ただ一方的に投げつけて終わらせるだけだ。
上条|当麻《とうま》は痛む肩を無視して床に|唾《つば》を吐き、右の|拳《こぶし》を握り|締《し》める。
ビアージオ=ブゾーニは首に下がった無数の十字架に手を添える。
最初の一呼吸が、合図となった。
ドン!! と、二人は同時に|距離《きより》を詰めるべく、走る。
「おおおっ!!」
三秒もかからず|拳《こぶし》の射程圏内に|突撃《とつげき》する。
ビアージオは胸に下がった十字架の一つを取り外すと、
「―――十字架は悪性の拒絶を示す!!」
|上条《かみじよう》の日の前に|掌《てのひら》ごとかざされる。
しかも、ビアージオは空いた片手で次の十字架をなぞっている。目の前の一撃を吹き飛ばせても、このままではビアージオの連撃を止められない。一撃一撃の威力そのものは、上条の拳より十字架の方が上だ。手数で押されれば確実に押し|潰《つぶ》される、
(普通のやり方じゃ詰められない)
至近距離で、上条は握り|締《し》めた己の拳を意識して、
(この一撃だけじゃねえ。コイツの作る流れ全体を止めねえと……ッ!!)
思った所で、今から準備しても間に合わない。
結局の所、上条はその拳一つに|全《すべ》てを|賭《か》けるしかない。
目の前にかざされた掌、その中にある十字架が、ぐわっ!! と|膨張《ぼうちよう》を開始する。
「ビアージオォォおおおおおッ!!」
上条はそれに合わせて、眼前のアクセサリーに向かって拳を放つ。
右ではなく、左の拳を。
|利《き》き手ではない一撃は、|素人目《しろうとめ》に分かるほど威力は落ちていた。彼が常に放つ右の拳に比べればやはり見劣りする速度でしかない。
しかし、左の拳には、右と違う所が一つある。
|幻想殺し《イマジンブレイカー》の力がないという点だ。
「ッ!!」
ビアージオの握っていた十字架は、上条の左拳にわずかに|弾《はじ》かれた。トン、と。小さな音と共に、司教の持つアクセサリーがその手の中で、わずかに向きを変えただけだ。
しかし、
十字架の向きがビアージオの予定から外れた状態のまま、一気に爆発膨張した。
ゴッ!! と。
自分の手の中にあった十字架の先端が、ビアージオの|顎《あご》を下から勢い良く突き上げる。
「ぐ、ぶあァ!?」
ビアージオの体が真上に跳ねる。
(コ、イツ―――。わたしの|攻撃《こうげき》を利用し……ッ!!)
心の中で思うが、声に出すほどの余裕がない。口の中全体に鈍い痛みが充満している。
|上条《かみじよう》はその間に、さらに一歩。を|踏《ふ》み出す。
「お―――」
|懐《ふところ》の最も奥深くへ。
今度こそ、己の武器たる|右拳《みぎこぶし》に|全《すべ》ての力を注ぎ込んで。
「―――おおおおおおァァああああああッ!!」
|咆哮《ほうこう》と共に、全力の一撃が放たれる。
ゴギン!! という、金属の砕ける音が|響《ひび》く。
狙ったのはビアージオの顔ではなく、その下方―――胸の中心点。
ビアージオの体が真上に跳ねていたが|故《ゆえ》に、|真《ま》っ|直《す》ぐに放たれた上条の拳は司教の胸を貫いていたのだ。
そこにあった四本のネックレスと、大量に下がった十字架に、彼の拳はめり込んでいた。その奥にある、ビアージオの胸板へ食い込ませるように。四本のネックレスの|鎖《くさり》が|千切《ちぎ》れ、床の
上に落ちると、アクセサリーの塊はシャンデリアが砕けるような音と共にバラバラに砕け散る。
ゴン!! と力を失った司教の体が|薙《な》ぎ倒される。
氷の床の上に転がるビアージオを見据えて、上条は息を整えながら、
「戦ってやるよ……」
それでも、言った。
「……二〇億の信徒だろうが、二三ヶ国だろうが、知った事か。テメェらがまたアニェーゼ|達《たち》を狙うってんなら、|俺《おれ》は何度でも歯向かってやる」
頭上を見上げる。
広がる視界の中で、無数の三角柱に支えられたプラネタリウムが揺らぎ、消えていく。コードを切られた家電製品のように、ただ冷たい機構の塊だけが取り残される。
光をなくした部屋に、|亀裂《きれつ》の走る音が大きく響いた。
『女王|艦隊《かんたい》』が崩れていく。
核となる十字架を|破壊《はかい》された事で。
全てを巻き込む大爆破を防げたと確信するのと同時に。
|四角錐《しかくすい》の部屋は崩れ、旗艦は砕け、少年は再びアドリア海へと落ちていく。
[#改ページ]
終 章 学園都市への帰還 L'inizio_Nuovo…….
イタリアの病院というのは新鮮だ。
旅行で海外に出かける人は数いれど、意外に病院のお世話になる観光客というのは珍しいのではないか、と|上条《かみじよう》は思った。現在彼は担架に乗せられたままガラガラと暗い通路を移動させられている訳だが、お医者さんや看護婦さんが何か話しかけてきてもサッパリ分からない。とにかく右肩や左手に包帯を巻かれ、顔にガーぜを貼られたりしているのだった。……というか、顔に消毒液をかけられたせいか、何だか目に|染《し》みる。
「消毒液のせいだもん。それ以外の理由なんかないんだぞ! くっそー、|他《ほか》の連中は|天草式《あまくさしき》のお|風呂《ふろ》術式でお肌がピカピカになるまで回復してたのに……」
「アドリア海って意外に冷たくなかったよねー」
「何でお前はそんなに|嬉《うれし》そうなんだよインデックス! |俺達《おれたち》二人|揃《そろ》って船の|残骸《ざんがい》と|一緒《いつしよ》にヴェネツィア湾に沈んだのに!! ハッ、まさかお前、今回は置いてきぼりにされなかったから、それでご機嫌なんじゃ―――」
「!!」
上条が言い終わる前にインデックスが自分の足を|絡《から》ませて廊下で転んだ。
「べっ、別にご機嫌なんかじゃないもん!!」
「分かったけどお前|大丈夫《だいじようぶ》なのか!? ったく、これぐらいの事でそんなに慌ててんじゃねーよインデックス。ほら、看護婦のお姉さんにも迷惑かけてるじゃドブぁあああッ!!」
新人金髪ナースさんに話を振った|瞬間《しゆんかん》にインデックスに|噛《か》み付かれた。
「とうまは担架に乗せられてもとうまなの!?」
「もう質問の意味が分かんねーよッ!!」
担架の上で暴れていた修道女が医者に押さえられて引き|摺《ず》り下ろされる。看護婦のお姉さんは言葉が分からないからか、首を小さく|傾《かし》げていた。
「ぜぇー、はぁー。と、とうま、とうま。これを|掴《つか》んでってお医者様が言ってるよ」
インデックスの言葉を聞いた上条が医者の方を見ると、|何故《なぜ》か彼はコードレスの電話機を握っていた。病院内で良いのだろうか、と思ったが、でも冷静に考えると電話ぐらいは置いてあるのが普通なのかもしれない。
とりあえず受け取った。
すでに|繋《つな》がっているらしく、耳に当てると聞き慣れた声が届いてきた。
『君は旅先でもそんな感じなんだね?』
カエル顔の医者だった、
学園都市ではいつもお世話になっている医者である。|無茶苦茶《むちゃくちや》な|怪我《けが》をしては|病院《ふりだし》へ戻る的な生活を送っている|上条《かみじよう》としては、実はこのカエル顔って腕は確かなんじゃないかな、と予測していたりする。
「ありゃ、何ですかいきなり。ハッ! まさか電話先で患者を診察するトンデモドクターとか!?」
『それができれば病院は携帯電話のアプリサービスを始めるべきだろうね? ま、それができない訳だから注文するんだけどさ。君、今すぐ学園都市に戻ってくるんだ』
……………………………………………………………………………………………、は?
『いや、冗談でなくてね。いかに学園都市協力派の施設とはいえ、やっぱり能力者の体をよその病院で調べたり整えたりするのは色々まずいと思う訳だね?』
「あの、だね? じゃなくてですね。でも、だって! もしかしてこの状態のまま飛行機に乗れってんですか、一〇時間近くも!? 言っておきますけど上条さんはケチョンケチョンなのですよ!?」
『ああ、それについては|大丈夫《だいじようぶ》。マルコポーロ国際空港に学園都市製の超音速旅客機が|停《と》まっているはずだから。あれだね、最大時速七〇〇〇キロメートルオーバーだそうだから、日本まで一時間ちょっとって感じかな?』
「大型旅客機で!? それは幻のノースアメリカンX−15研究機とかじゃねえの!? そんな並のミサイルより速い飛行機に何の訓練も積んでない|俺《おれ》が乗れるモンか!!」
『大丈夫大丈夫。実際に乗った僕だから言えるけど、ちょっと無重力を感じる程度だから』「それを一時間もか!? 胃袋の中身が全部逆流しちゃうと思いますけど!!」
『大丈夫大丈夫。実際に乗った僕だから言えるけど、そんな事を考えている余裕は最初の一〇分で消えるはずだから』
何がどう大丈夫なんだよ!! と上条は全力で頭を抱える。
「お待ちになって! だっ、大体まだイタリアに来て一日しか|経《た》ってないんですよ? アドリア海の海水は二回……いや脱出の時も合わせて三回飲んだものの、肝心のヴェネツィアには一歩たりとも|踏《ふ》み出してませんが」
『おやおやそれだけ経験を積めば満足じゃないか。まぁ、僕から言えるのは一つだけかな。……無理なものは無理だから|諦《あきら》めて帰って来い』
冷たいし何だか投げやりなんですけど!! と上条はさらに頭を抱える。
と、電話が続けて何か言った。
『そうそう。最近病院に来ている見舞い客の|可愛《かわい》らしい女の子がね、僕が君に連絡を入れると言ったら是非伝えて欲しい事があるとお願いされてしまってね?』
「はあ???」
|可愛《かわい》いって|誰《だれ》の事だろう、と|上条《かみじよう》は思う。今病院にいるのは、|白井黒子《しらいくろこ》か|姫神秋沙《ひめがみあいさ》か。姫神の知り合いだとすると、|吹寄制理《ふきよせせいり》か|小萌《こもえ》先生か、白井の方に目をやると|御坂美琴《みさかみこと》辺りが―――。
「―――待て。御坂美琴?」
うん、とカエル顔の医者は適当に|頷《うなず》いて、
『良く分かったね。何でも、「帰ってきたら|大覇星祭《だいはせいさい》の罰ゲームは覚悟しなさい」だってさ?』
「ぎゃああああああああああ!? すっかり忘れてたああああああああああ。ああああッ!!」
担架の上で暴れ始めた上条|当麻《とうま》を医者や看護婦|達《たち》が全力で取り押さえた。どうも急を要する状態だと勘違いしたらしい。
上条当麻と御坂美琴は大覇星祭でちょっとした勝負をしていて、それに敗北した彼は美琴の言う事を聞く、という罰ゲームを|強《し》いられるはずだったのだ。それをすっぽかした挙げ句、|呑気《のんき》にイタリアへ旅行へ出かけた事が知れたとなれば……。
「待っているのは地獄のみ! より一層帰りたくない! うわ、ちょ、放して放して! そのプロの道具で|俺《おれ》を固定するのは本当にやめてーっ!!」
ガラガラと担架が運ばれていく。
嘆く上条に、電話は言う。
『まぁ、その、何だね。お帰りなさい、上条当麻君』
日付が変わる前、深夜と呼べる時間帯。
ロンドンのランベスにある一角には、イギリス清教徒のための|寮《りよう》のようなものがあった。そこを積極的に利用するのはお金がない者……ではなく、不意の|襲撃《しゆうげき》に民間人を巻き込みたくないと思っている人間だ。周りの|全《すべ》てがプロの人間なら、|戦闘《せんとう》に入っても被害は最小限で済む。
「そうですか、苦労様です」
そんな寮の一室で告げたのは、|神裂火織《かんざきかおり》だ。東洋人の顔つきで、黒い髪はポニーテールにしても腰まで届くほど長い。服装は|脇《わき》で絞った|半袖《はんそで》のTシャツに、片足を根元の所でぶった|斬《ぎ》ったジーンズである。本当はさらに二メートル近い大刀『|七天七刀《しちてんしちとう》』を腰に|携《たずさ》えているのだが、今は壁に立てかけてある。
彼女が向かっているのは人ではなく電話機だ。
古風なダイヤル式のもので、赤い陶器に|金箔《きんぱく》で縁取りされた、|完壁《かんぺき》にアンティークな一品だった。ちなみに電話の相手は同僚の|土御門元春《つちみかどもとはる》である。
『にゃー。っつか、結果報告なら同じ|天草式《あまくさしき》に尋ねろっつーの。情報探るこっちだって割と危ないのよ? そこんトコ分かってんのかにゃー』
「いっ、今の私はもう天草式の人間ではありません。|馴《な》れ|馴《な》れしくも語り合うなど、考えるだけで|傲慢《ごうまん》というべきものです」
|神裂《かんざき》は受話器のコードを人差し指でいじりながら言う、
さらに、
「大体、どの道あなたはヴェネツィア辺の情報を収集していたでしょう。タイミングが良すぎるんです、天草式の|面子《メンツ》が引っ越しの手伝いでキオッジアへやってきた事も、そしてあの少年が禁書目録と|一緒《いつしよ》にイタリアへ人ってきた事も。……報告では、オルソラ=アクィナスは『アドリア海の女王』を止めるために送られてきたと勘違いされてローマ正教側から|襲撃《しゆうげき》されたとありましたが、どうだか。ローマ正教側の予測は正しかったのでは、と私は思いますけどね」
神裂は|裸足《はだし》の足でトントンと床を|叩《たた》きつつ言った。
内装は洋室だが、土足で部屋に入る事を神裂は禁じている。この辺りが|和洋折衷《わようせっちゆう》といった所か。
『んー、それについちゃ、こっちも色々あって答えられないんだけどさー』
「な、何ですか」
神裂は妙に聞延びした|土御門《つちみかど》の声に、逆に警戒心を高める。
そしてその予測は間違っていなかった。
『……ねーちーん、今回もカミやんに大迷惑をかけちまったにゃー?』
「ぶっ!?」
ただし、ダメージは神裂|火織《かおり》の許容量を振り切っていたが。
『もーどうすんのよー? ねーちん、こりゃすでにメイド服を着て一日奉仕程度じゃ収まりがつかねーぜい。あっ、それならこれでどうだにゃー。オレが持ってる頭の輪っかと白い|翼《つばさ》の女天使セットを貸す! メイド服+αだ、勝負に出ろよねーちん!! う、うおおっ! 何が天使だちくしょう、こんな|可愛《かわい》げな|堕天使《だてんし》が玄関にいたらカミやんどうなっちまうんだ!?』
「どっ、どこまでも|馬鹿《ばか》げた事を……ッ!! 大体どうしてあなたはそんなものを所持しているのですか!?」
『あーいや、本当は|舞夏《まいか》のために買ったんだけどにゃー。あの義妹、「メイドはコスプレじゃねえんダヨ」の一言と共に|拳《こぶし》でオレの|頬骨《ほおぽね》を打ちやがって……。いや、女の子の仕草として軍隊仕込みっぽい本気拳ってどうですにゃー?』
「……|妹君《いもうとぎみ》は|年頃《としごろ》なのですから、もう少し|配慮《はいりよ》があってもよろしいのでは?」
思い切り脱力しかけた神裂だったが、そこでハッとした。
本題はそこではない。
「ちょっと待ってください。今回の件はどうせイギリス清教と学園都市のトップ|達《たち》が事件を解決するために色々手を回して|上条当麻《かみじようとうま》を巻き込んだだけでしょう。そこにどうして私が|関《かか》わってくるのですか!?」
『ああーん? じゃあねーちん、カミやんに対して何も感謝してない訳?』
「ううっ!?」
『あーあー。せっかくカミやんは|天草式《あまくさしき》の皆さんを「女王|艦隊《かんたい》」の大爆破から守り抜いたっていうのに、それに対して感謝ゼロどころか私は関係ありません宣言ってか。|堕《お》ちたねー|神裂火織《かんざきかおり》。カミやんこれ聞いたら落胆するぜい。多分アイツは変に優しいから怒ったりもしねーんだ』
「そ、そんな……。確かにあなたの言葉には一理ありますけど、でもそうしたら私はこれ以上何をどうすれば!? 借りは|膨《ふく》らんでいく一方ではありませんか!!」
『だから取るべき道は誠心誠意の|堕天使《だてんし》メイドしかねえっつってんだろ! 仮にも世界で二〇人もいない聖人だってんなら覚悟を決めろよねーちん!! ……、って、あれ? ねーちん、聞いてんのか、ちょっと待て話はまだ―――ッ!!』
がちゃんと全力で受話器をフックに置いた。
しばらく|呆然《ぽうぜん》と電話機に目を落としていた神裂は、やがて顔を真っ青にすると、
「……だ、堕天使メイド……?」
神裂はわなわなと|震《ふる》える両手に目を落とす。それから電話機の横に置いてある熱帯魚の入った四角い|水槽《すいそう》を見る。壮大な疑問に直面した|元女教皇《プリエステス》の顔があった。
水槽に顔を寄せると『何だ何だ。エサくれるの?』という感じで熱帯魚が近づいてくる。彼女は水槽の横にあった小さめの絵皿を両手で|掴《つか》み、それを頭の上に添えると、
「わ、わっかというと、こんなかんじでしょうか。し、しかし、堕天使とは……どのような仕草と話し方を……|悪魔《あくま》と同義、この場合は女性的なもので、男性を対象とするものなら|可愛《かわい》げな小悪魔風―――」
ミーシャ=クロイツェフとして部分的に降臨した大天使『神の力』が聞いたら即座に|襲《おそ》いかかってきそうな感じだが、混乱の最中にいる神裂に自覚はない。
世界で二〇人もいない|荘厳《そうごん》たる聖人は、|一瞬《いつしゆん》だけ|沈黙《ちんもく》したのち小首を慨げて、
「―――、な、なのですよー、とうま?」
不意に、キンゴーン、とチャイムの音が鳴った。
「……ッッッ!?」
ビクゥ!! と神裂は肩全体で|驚愕《きようがく》し絵皿を慌てて頭の上から|離《はな》す。その様子を見た小さな熱帯魚が、ギュバーッ!! と高速で水槽の奥へ逃げ込んだ。神裂は高速で周囲を見回し、|誰《だれ》の人影もない事を確認すると、片手を胸に当ててそっと息を吐いてから、やがて出入り口のドアを見た。
|寮《りよう》には、各部屋の|他《ほか》にも玄関に来客用のベルが設置されている。それが鳴らされたという事は、何だろうか? 配達業者かもしれない。
|神裂《かんざき》は壁に立てかけた刀を|掴《つか》み、ドア前でブーツを|履《は》いて部屋の外に出た。長い木の廊下を通って玄関に向かう。
|寮《りよう》には管理人がいるのだが、どうもずさんで居眠りしている事が多い。神裂が玄関まで向かうと、すぐ|側《そば》にある管理人室では、やはり今日も婦人がうつらうつらしていた。テレビが|点《つ》けっ放しになっているので、おそらく意識はない。元々テレビは居眠り防止のために持ち込んだはずだが、お好みの番組がないとかえって眠気を|誘発《ゆうはつ》させるものらしい。
仕方がないので神裂が扉を開けた。
と、玄関の前に立っていたのはオルソラ=アクィナスだった、
「た、ただいまでございますよ」
「はぁ。お帰りなさい、オルソラ」
神裂はキョトンとした顔で寮の同居人を出迎える。
住人ならわざわざベルを鳴らす必要はないのだが、どうも今のオルソラは両手が|塞《ふさ》がっていて|鍵《かぎ》を取り出せる状態ではなかったらしい。というか、両手に旅行|鞄《かばん》を持って、背中にザックを背負い、さらにたすきのようにスポーツバッグの|肩紐《かたひも》を下げている。そのまま登山に出かけられそうな重装備だった。
「オルソラ、あなたの荷物は先に送ったはずでは?」
「えへへ。途中で荷物が増えちやったのでございますよ」
「???」
|訝《いぶか》しむ|神裂《かんざき》の前でオルソラは笑いながら、道を|譲《ゆず》るように横に|逸《そ》れた。
おや、と神裂はわずかに|眉《まゆ》を上げる。
オルソラの陰に隠れるように、彼女の修道服をちょこんと|掴《つか》んでいる、小さなシスターが立っていた。
名前は、アニェーゼ=サンクティスという。
「後からもっと大勢来るので、この|寮《りよう》も|賑《にぎ》やかになるのでございますよ」
事態をあんまり掴めていない神裂の前で、オルソラは割と爆弾的な一言を告げた。
バチカン、聖ピエトロ大聖堂。
ローマ正教の総本山たる世界最大の聖堂に、その|静謐《せいひつ》な空気を荒々しく引き裂くような足音が|響《ひび》いていく。
「チッ、結局ブゾーニの|馬鹿《ばか》が失敗したってコトよ。しかも『アドリア海の女王』の核部分まで|破壊《はかい》されて、二度と再現はできないときたモンだ。……まったく、『刻限のロザリオ』を考案し、組み立て、実用にまで|漕《こ》ぎつけたコトは|誰《だれ》のおかげだと思ってんだか。こっちとしちゃ納得がいかないのよ。何より納得できないのはアイツが行方不明だってコトよ! 誰だ|庇《かば》ってんのは! このストレスはどこに向けて発散すりゃ良いってのよ!!」
|闇《やみ》に包まれた聖堂の中を歩くのは、二人の男女だ。
ステンドグラスから差し込む月明かりはあまりに弱く、二人の細部は分からない。
浮かぶのはシルエット。
一人は老人らしき、腰の曲がった男のもの。
そしてもう一人は若い女性らしき、メリハリのある人影だった。
「……しかしな、いくらお前であっても、あれは少々早急に過ぎた。イギリス清教の介入は予想外とはいえ、そうでなくとも壁はいくつにもわたって点在しておった。……正直に語る。介入がなくとも、ビショップ・ビアージオは成功しなかった。あやつに、|破綻《はたん》に対処するだけの能力を期待するのは問違っている」
「アンタ誰にモノ言ってんのよ? 私がやれっつったコトはやんの。それが世界の法則ってモンでしょ。馬鹿馬鹿しい、この|期《ご》に及んでまだそんなコトも学んでないの?」
「貴様こそ、誰に口を開いているか理解は追いついているか」
老人の気配が|凄味《すごみ》を増す。
場の空気が、その一言で老人に支配された。それは平伏と呼ぶべき事態だった。頭を下げたいと願うのではなく、嫌でも下げさせる。声を聞いた者の頭を見えざる手で掴み、強引に下へ向けさせる。そういう種類の凄味だ。
それでも、女性のシルエットに変化はない。
「ローマ教皇でしょ[#「ローマ教皇でしょ」に傍点]。そんなコトがどうしたの?」
なんて事もない口調で、女性のシルエットは答える。
支配されていたはずの場を、粉々に砕くような軽さだった。
「……、」
教皇と呼ばれた老人は、わずかに|黙《だま》る。
やはり女性は気に留めない。
「やめてよねー。アンタも分かってるコトでしょ、ローマ正教っていうのは本当は|誰《だれ》が動かしているか。アンタがここで消えても別の教皇がその座に就くだけってコト。でも私が消えたら代わりは|利《き》かない。理解できないコトかな? だったら試してみましょうか」
「くだらぬな」
老人は、本当に興味がなさそうに|遮《さえぎ》った。
「主から十字教の行く末を直接その手で授かったのは聖ピエトロ一人のみ、のちの教皇も様々な|活躍《かつやく》を遂げたものの、それでも彼の遺産整理や管理という役柄が強い。私は人に選ばれたのであって、主に選ばれたのではない。私にも分かっておる。だからこそ口には出すな。分かりきっている事を今一度繰り返されるのは頭にくる」
「だからアンタも欲しいんだ。選挙の票数ではなく、そういう唯一無二の選ばれた|証《あかし》が。そしてアンタはローマ正教を戻したいってコトなのね。人の多数決ではなく、一なる教えと意志で道を決めてきた、かつての十字教の形に」
「……、繰り返すなと告げたはずだ」
「悪い悪い。でも、私から見てもアンタはまだ|駄目《だめ》ってコトよ。アンタはまだ足りない。だからこっちには来れない。そういえば、教皇って選挙で決まるのよね。それに選ばれるっていうコトは名誉だと思うけど、アンタはそれじゃ満足しない、理由はあっさり簡単、『神の子』やその使徒が|行伝《こうでん》していた時代では、むしろ十字教は多数決の少数派だったんだもん。そして少数派であってもその力が数に負けるコトはなかった。だからアンタは多数決の票数自体にあまり神聖な価値はないと思っている。その価値は、例えば多数決に全く囚われない私みたいな人間がが持ってると睨んでんのよね[#「例えば多数決に全く囚われない私みたいな人間がが持ってると睨んでんのよね」に傍点]。
なのに自分の所には票数ばかりが集まってくる。……|難儀《なんぎ》というか、|贅沢《ぜいたく》な悩みだと思うけどねぇ?」
「ッ!!」
直後、老人がグルリと首を回した。
バチン!! と不可解な破裂音が|響《ひび》き渡る。
理解のできない状況に対し、やはり女性のシルエットは動きもしない。ただ、両者の|緊張《きんちよう》と余裕の態度が、この理解不能の攻防の結果を示していた。
「良い悪意」
女性はくつくつと笑う。
「しかし、私に悪意を向ければアンタは死ぬってコトだけど?」
告げて、女性は舌を出した。
じゃりり、という金属を|擦《こす》る音が聞こえる。
彼女の舌にはピアスが留めてあった。そこからネックレスに使うような細い|鎖《くさり》が|繋《つな》がり、腰の下まで伸びている。鎖の先端には小さな十字架が取り付けてあった。
「……、」
老人は、女性から一歩分だけ|距離《きより》を取る。
|忌々《いまいま》しさと、同時にわずかな|羨望《せんぼう》を込めて|呟《つぶや》かれるのは、
「―――『神の右席』。教皇程度では|響《ひび》かぬか」
「私が属するその『枠組み』の名を知ってるコトだけでも、アンタは割と上部にいるってコトなんだけど。やっぱりそれじゃ満足できないんだ?」
何らかの|攻撃《こうげき》を受けたのだろうが、女性はまるで気にした|素振《そぶ》りを見せない。
彼女は笑ったまま、
「コイツに目を通してサインをしなさい」
「この私に命令形か。……、待て、この書類は……」
「アンタもいずれは用意するつもりだったコトでしょ。二年後か三年後かしら。それを私が縮めてあげたってだけのコト。面倒だけど、アンタのサインには力があるんだから。|陽《ひ》が昇る前にやりなさいよ。自分の名前を書くコトぐらいすぐに終わるでしょ」
「しかし……」
老人はわずかに|躊躇《ちゆうちよ》した風に、
「……私はやはり納得がいかん。|魔術《まじゆつ》に深く|関《かか》わる者ならともかく、|彼《か》の者は単に主を知らぬだけだろう。異教への信仰は罪だが、知らぬだけならまだ救いの道はある。それに対して、ここまでやるとなると、私も否定的な意見を述べねば……」
「この私に否定形はない」
女性のシルエットは一言で断じた。
「受動形、命令形、連用形、連体形、|已然《みぜん》形、未然形、終止形、仮定形、後は何だっけ? まぁ別に何でも良いんだけど、否定だけは認めていない。私がやれっつったコトはやるの。聖ピエトロだろうが『神の子』だろうが、その法則は変わらない。だからアンタは書類にサインをする。分かった?」
老人は書類を手にしたまま、小さく|頷《うなず》いた。
わずかに苦い色が受け取れる。
「よろしい♪」
告げると、女性のシルエットは|闇《やみ》に消えた。
本当に姿を消したのか、あるいはそういう風に見せかけたのか。老人は考えなかった。使われた術式が解析できなくても問題はない。どの道、あの女は自分の先を行く者だ。それが上なのかどうかは判断がつかないが。
代わりに書類に目を落とした。
明かりを落とされた大聖堂には、ステンドグラスから|射《さ》し込む淡い月の光だけしかない。ほとんど暗がりに紛れて見えなくなっている文字を、しかし老人は追い続ける。
(……少々早急すぎる。あやつの|癖《くせ》か)
思ったが、あの女が決めた以上はそれが決定なのだ。本人が言った通り、あの女に否定形は存在しない。
老人は|忌々《いまいま》しげに、自分の居室へ戻る事にする。
ここにペンはない。
そして書類にはこうあった。
『Toma Kamijo.
Potrebbe investigare urgentemente? Quando lui e pericoloso, lo uccida di sicuro.』
その意味は、『|上条当麻《かみじようとうま》。上記の者を速やかに調査し、主の敵と認められし場合は確実に殺害せよ』というもの。
実質的にはローマ正教が総力を挙げ、たとえ『神の右席』を使ってでも確実に暗殺を行うための申請書類だった。
命令は、五日も待たずに実行される。
[#改ページ]
あとがき
一巻ずつお買い上げいただいている|貴方《あなた》はお久しぶり。
一一巻もまとめてレジにお運びいただいた貴方は初めまして。
|鎌池和馬《かまちかずま》です。
のんびりのんびりと言っている聞に一一冊目です。今回は、まぁ、あれですね。……まだ衣替えじゃないです。罰ゲームも引っ張ってます。海外旅行編です。|神裂火織《かんざきかおり》ではなくその他の|天草式《あみくさしき》、|艦隊戦《かんたいせん》と言っても|砲撃《ほうげき》ではなく|火船《かせん》の|応酬《おうしゆう》などなど、ここぞとばかりに|脇道《わきみち》に|逸《そ》れまくった変化球でございます。
話の方は、ある組織のその後のストーリーといった所でしょうか。かつて一回名前が出たっきりの背の低い子とか背の高い子なども主要メンバーに仲間入りです。|完壁《かんぺき》な意味での新キャラは極めて少ないのですが、これのおかげで割とにぎやかになったかな、と思います。
オカルト方面の方も、今回はとある二つの組織がメインとなります。あとは十字架にまつわる伝承や、こっそりと一二使徒などにも触れています。
火船の方は造語ではなく、実際にそういう戦術が存在します。本格的な魚雷が登場する前の話でして、イギリス海軍は本気で大型船に火薬を満載して無人で敵艦に突っ込ませたらしいです。絶対に勝たなければならない大勝負だったとはいえ、何ともスケールの大きな話ですね。
イラストの|灰村《はいむら》さんと編集の|三木《みき》さんにはいつもながら感謝を。舞台がガラリと変わって資料などを探すのにも手間をかけると思います。本当にご苦労様です。それからイタリア語の|翻訳《ほんやく》を監修していただいた|吉見《よしみ》はるなさんと|福島由布子《ふくしまゆうこ》さんにもお礼を。どうもありがとうございます。
そして読者の皆様にもいつにも増して感謝を。毎回毎回、ページの最後までお付き合いしていただいて本当に感謝しております。
それでは、今回はこの辺りでページを閉じていただいて、
できれば、次回もページを開いていただける事を願いつつ、
本日は、この辺りで筆を置かせていただきます。
次こそ衣替えと罰ゲームです![#地付き]鎌池和馬
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とある魔術の禁書目録11
鎌池和馬
発 行 2006年10月25日 初版発行
著 者 鎌池和馬
発行者 久木敏行
発行所 株式会礼メディアワークス
平成十九年一月ニ十八日 入力・校正 にゃ?