とある魔術の禁書目録2
鎌池和馬
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから○字下げ]
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
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とある魔術の禁書目録2
「そこ、女の子が捕まってるから」
“超能力”が一般科学として認知された学園都市、その「三沢塾」で一人の巫女《みこ》が囚われの身となった。そして、どうやら首謀者は、|魔術《まじゅつ》側の人間らしい。|上条当麻《かみじょうとうま》は|魔術師《まじゅつし》ステイルからそう説明され、すなおにうん、と返事をした。
「簡単に頷かないで欲しいね。君だって一緒に来るんだから」
「…………はあぁ!?」
真夏の日差しの中、不気味にそびえ立つビルに二人は向かっていく。
|魔術師《まじゅつし》、|吸血殺し《ディープブラッド》、禁書目録《インデックス》、そして|上条当麻《かみじょうとうま》。全《すべ》ての線が交差するとき、物語は始まる――!
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鎌池和馬
今回はなんと3Dアートです。しかしこの注意書きはフィクションなので頑張った所で何も見えません。なんか見えちゃった人はおそらくプラシーボ効果かと。レッツ心霊医療。
イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ
1973年9月7日生まれ。その時の気分で絵柄が変わる厄介な人。最近はHDD付きDVDレコーダーと電子レンジのどちらを先に買うかで激しく葛藤中…。
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とある魔術の禁書目録2
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c o n t e n t s
   序 章 相変わらずな日々 The_Beginning_of_The_End.
   第一章 ガラスの要塞 The_Tower_of_BABEL.
   第二章 魔女狩りは炎と共に By_The_Holy_Rood…
   第三章 主は閉じた世界の神のごとく DEUS_EX_MACHINA.
   第四章 殺しの七並べ Deadly_Sins.
   終 章 侵蝕のデイープブラッド Devil_or_God.
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序 章 相変わらずな日々 The_Beginning_of_The_End.
本棚を見るとその人の性格が分かるらしい。
「……マンガばっかじゃねえか」
そんなこんなで八月八日、本棚どころか部屋のどこを見回してもマンガ以外の本が見当たらない|上条当麻《かみじようとうま》は、見栄を張るために参考書を買いに学園都市の駅前へ行く事にした。
……、いや。行く事にしたのだが。
「まさか、一冊三六〇〇円もするとは思ってなかった……」
敗残兵のごとく上条当麻は口の中で|呟《つぶや》いた。しかも店員さんに聞いた限り、昨日まで夏の受験勉強フェアとかで参考書は全品半額だったらしい。
不幸だ。
とんでもなく不幸だ。
しかしこれが上条当麻の日常なのだった。何せ『アイツを|側《そば》に置いとけば、不幸が全部あっちに行く』という|避雷針《ひらいしん》ばりの扱いで重宝されるほどの男である。
とはいえ、ここまできて引き下がる訳にはいかなかった。
何としてでも、|本棚《こころ》の中は|マンガのみ《ゆめみがち》、という最悪のレッテルを|剥《は》がさなければならなかった。異常である。『本棚を見れば人の心が分かる』なんて学識なんだかオカルトなんだか分からない豆知識なんて、普通の人間ならそんなに気にしないだろう。
だが、上条には気にしなければならないほどの大きな事情を抱えていた。
上条当麻は|記憶喪失《きおくそうしつ》なのだ。
と言っても、右も左も分からない訳ではない。信号の渡り方とか携帯電話の使い方とか、そういう事で迷ったりはしない。
失ったモノはあくまで『記憶』であって、『知識』は生きているのだ。
だから、携帯電話の使い方を知っていても、『あれ? どこに携帯電話置いたっけ?  そもそもいつ契約したんだっけ?』という具合になっている。
『知識』とは辞書だ。
例えば、『りんご』は『バラ科の落葉高木で、春に花が咲き、球形の果実が実る』という事は分かる。だが、それが『|美味《おい》しい』かどうかは食べてみないと分からない。○月×日、美味しいリンゴを食べた、なんて絵日記調の『思い出』なんてどこにもないからである。
こんな状態に|陥《おちい》ったのは『思い出』を|司《つかさど》る『エピソード|記憶《きおく》』と『知識』を司る『意味記憶』の内、『エピソード記憶』のみが|破壊《はかい》されたから、らしいのだが、そんな事はさておき。
|上条当麻《かみじようとうま》はとにかく『記憶を失う前の』自分がどんな人間だったのかを知りたい。
本棚を見れば人の性格が分かる、なんて|与太話《よたぱなし》に|綻《すが》ってみるほどに。
とはいえ、上条の顔には死にもの狂いのような表情はない。
世界の中心に一人捨て置かれたのではなく、追い詰められるほどの特別な事件性もなく、とりあえず衣食住が保証されているし、知り合いと呼べる『味方』もいるからだ。
「とうま」
と、夏の帰り道。思わぬ出費に(基本的に上条は一〇〇〇円以上の|衝動買《しようどうが》いは『特攻』と評する人間だ)ぐったり死にかけな上条の横から|不機嫌《ふきげん》そうな少女の声が聞こえた。
視線を向けると、やっぱり不機嫌そうに|唇《くちびる》を|尖《とが》らせている少女が一人。
|歳《とし》は、一二か一四といった所の少女は一目で分かる外国人だった。腰まである長い髪は銀色で、
肌は雪のように白く、|瞳《ひとみ》の色は|翠玉《エメラルド》のような緑色。そして、それを上回る『外国の|匂《にお》い』は彼女の服装にあった。十字教のシスターが着る修道服である。ただし色は純白、|随所《ずいしよ》に金糸の|刺繍《ししゆう》が見られ成金|趣味《しゆみ》のティーカップのような属性さえ秘めていた。
少女の名前は|禁書目録《インデツクス》。
もちろん本名ではないが、世界中の|誰《だれ》もがこの名で少女を呼んでいるらしい。
少女とは病院で知り合った。
いや、上条は知り合ったと思っているのだが、実は記憶を失う前からの知り合い、らしい。
上条はいくら思い出そうとしても少女の事を思い出す事はできない。だが、その事を明かそう
とも思わなかった。
初めて病室で少女と知り合った日、
少女はベッドの上にいる上条を見て、|嬉《うれ》しそうにボロボロ泣き出す、なんて顔をした。
それは今ここにいる上条に対するモノではなく、記憶を失う前の上条に向けられたモノだ。
上条はそんな少女の胸の内を|壊《こわ》す事なんてできなかった。そして、少女の胸の内にある温か
さを守るためには、『記憶を失う前の』上条当麻を演じ続けなければならない。
複雑な気分だった。
まるで上条当麻という人間が二人いるかのような|錯覚《さつかく》がした。
で、そんな上条の事情にも気づかず(気づいてもらっても困るが)、|偽名《ぎめい》少女インデックス
は頭 個低い位置から、むーっと上条の顔を見上げたりしている。
「とうま、三六〇〇円あったら何ができた?」
「……言うなよ、それ」
「何ができた?」
さらにもう一度。いーわなーいでーっ! と、上条が両手で耳を|塞《ふさ》ぎ両目を閉じて現実の|全《すべ》てから逃げ出そうと思った時、ふと|隣《となり》を歩く少女が自分の顔を見ていない事に気づいた。
? と|上条《かみじよう》はインデックスの上目がちな視線を追い駆け、そこにアイスクリームショップの看板がくるくる回っている事に気づいた。
……いや、まあ八月八日だし、午後の炎天下だし、|地面《アスフアルト》からなんか|怨念《おんねん》めいた|蟹気楼《しんきろう》が揺らいでるし、何よりインデックスの修道服は|長袖《ながそで》なんだから暑いのは良く分かるけど……。
「……分かるけど、いくら何でも三六〇〇円分もアイスは食えないぞ、普通」
「む」
カチンときた、という表情でインデックスは上条の顔に視線を移した。
「とうま、別に私は一言たりとも暑い|辛《つら》いパテたなんて言ってないよ? まして他人のお金を使いたいと考えた覚えもないし、結論としてアイスを食べたいなんて|微塵《みじん》も思ってない」
「……。いや、シスターさんがウソつけねーのは良く分かったから、全身汗だくで捨てられた子犬のような目をすんな。素直にエアコン効いた店ん中でアイス食いてーと言えばよかろう。このクソ暑いのに季節感無視なステキ修道服なんか着てたらぶっ倒れるぞ」
そんな余裕の|台詞《せりふ》を吐く上条|当麻《とうま》だが、吐いた所で財布の中身が変わる訳ではない。いやアイスを買う程度のお金は残っているのだが、それを使うと帰りの電車賃が消滅してしまう。学園都市は東京の三分の一を占める大きさを持つ。|病《や》み上がりの上条や女の子のインデックスが歩いて帰れる距離ではないだろう。女の子、という言葉に性差別を感じる人もいるだろうが、しかしわざわざ真夏の午後の炎天下に直線距離で東京の三分の一ほど踏破しても平気へっちゃら、というのは女性的アピールとしてはどうかと思う。
と、何が気に入らないのかインデックスはますますむーっと|不機嫌《ふきげん》そうに|眉《まゆ》を寄せて、
「とうま、この服は主の加護を視覚化したものであって、私は一度たりとも不便だとか暑苦しいとかあー|鬱陶《うつとう》しい夏服冬服の区別もできないのとか思った試しはないんだから」
「……、あー」
正直者と|優《やさ》しい人は別人なんだー、とちょっと大人な事実を知る上条当麻。
それと一つ、そんなご大層な修道服は何で安全ピンがたくさんくっついているんだろう?
「それに私はこれでも修行中の身。お酒や|煙草《タバコ》は元より、|珈琲《コーヒー》紅茶に果物デザート氷菓子、その他もろもろ|嗜好品《しこうひん》の摂取は一切禁じてるんだから」
「む。そうなのか。この炎天下をアイスで乗り切るってのは季節感爆発で良い感じだと思ったんだけどな」
宗教上の理由、とか言われると強く出れないのが人間である。
上条はもう一度だけアイスクリーム屋の看板を目で追ってから、
「んじゃ、やめとくか。無理して食べる必要も――――」
―――ないし、と言い終わる前に音速で肩を|掴《つか》まれた。ギリギリと|万力《まんりき》のように締め付ける
少女の指に耐えられず上条がそっちを振り返ると、
「た、確かに私は修行中の身であるからして一切の|嗜好品《しこうひん》の摂取は禁じられているけれども」
「じゃあダメじゃん」
「しかしあくまで修行中の身なので完全なる聖人の振る舞いを見せる事はまだまだ難しかったり難しくなかったり! 従ってこの場合誤って口の中にアイスが放り込まれる可能性もなきにしもあらずなんだよとうま!」
「……、」
何か一言ツッコんでやろうと思った|瞬間《しゆんかん》、肩を|掴《つか》む少女の指がさらにギリギリ食い込んできた。何も言うなとの事らしい。|沈黙《ちんもく》は時に下手なツッコミよりしんどい空気を放つ、という事には気づかないまだまだ未熟者なインデックスだった。
と、
「なかなかに素敵な交渉中なんやけどな、ちなみにそこの子|誰《だれ》なんカミやん?」
……何だか、後ろから得体の知れないエセ関西弁が聞こえてきた。
振り返ると、さらに怪しい事に身長一八〇センチオーバーで青髪でピアスな怪人が立ってい
る。いや怪しい人なんだから怪人なんだろうけどそれにしたって怪しすぎる。
しかし、『|記憶《きおく》を失う前の』|上条当麻《かみじようとうま》は本当にこんなヤツと友達だったんだろうかと上条
は思う。人の記憶に関しては|綺麗《きれい》サッパリ忘れているから分からないが、それにしたって友達ぐらい選びやがれよ上条当麻! と上条はかつての自分を|他人事《ひとごと》みたいに|罵《ののし》ってみた。
「うん? どしたんカミやん、ぽけーっとして。なんか他人|行儀《ぎようぎ》な視線やなあ、もしかして夏の暑さにやられて記憶でも飛んでんのかいな?」
「んな……っ!?」
ギクリと上条は凍りついたが、青髪ピアスは片手をひらひら振って、「分あーってるって、|冗談《じようだん》がな。記憶|喪失《そうしつ》なんてな不思議系デンパ少女の特権ですよ?」
そんな青髪ピアスは(ただでさえ暑苦しいのに)上条の肩に腕を回すと、
「……で、カミやん。ほんまにコレ誰なん? 何でこんな|小《ち》っこい知り合いがおんねん? カミやんの|従妹《いとこ》……と違うよな。このギンパツにカミやん遺伝子が混じってるとは思えへんし」
コイツの悪い所は|内緒話《ないしよぱなし》が内緒にならないぐらい大きな声だという所だと思う。
『小っこい』という|台詞《せりふ》に上条はちょっとギクリとした。|隣《となり》を歩ぐ少女はこの台詞に|過剰《かじよう》反応して怒り出したりしないだろうか……と不安に思ったが、そんな様子もない。
「……しかしまあリアル話として、迷子の迷子の道案内ってトコ? 英語の成績|鎖国《さこく》状態のカミやんにはしんどかろう……って、あれ? そもそも英語話す国の子なん?」
上条には良く分からないが、インデックスはインデックスで『小さい』と言われる事に慣れているのかもしれなかった。彼女は割と平然と聞き流し、むしろ殺人的な熱気を振りまく太陽を|恨《うら》めしげに眺めている。暑くて何か言う気も起きないらしい。
「……けれどカミやん、どこでどうあの子と知り|合《お》うたか知らんけど、ここで安心するのはまだ早いで? こちとら一六年に及ぶ|信頼《しんらい》と実績の|負け犬《モテない》組。しからば『普通に女の子と出会う』なんてイベントがどれだけの|矛盾《むじゆん》をはらむか分からんとは言わせへんよ? ほら、ラヴコメとかであるやん。|憧《あこが》れの人が実は童顔のおかーさんでしたー、あっはっはー攻略不可能ですー、みたいな壮絶なオチ。あれと同じでさあ」
いやー良かった良かった、とにもかくにも使い古されたラヴコメみたいな展開にならなくてー、と|上条《かみじよう》が心の中でホッと一息ついていると、
「その子、実は女装少年とかってオチやないの? 女の子にしちゃぺったんこすぎるし」
ビギリ、と。少女の頭の血管がぶち切れる|幻聴《げんちよう》がリアルで聞こえた気がした。
きゃああ!? と上条は|喉《のど》まで出かかった悲鳴をかろうじで|呑《の》み込んだ。この少女、小さい幼いと言われるまでは|許容範囲《にちじよう》らしいが、思わぬ男の子|疑惑《ぎわく》には耐性がなかったらしい。にっこり笑顔のままガリガリギリギリと奥歯を|噛《か》み締める音が聞こえてくる。
不幸だーっ! と上条が頭を抱えそうになった所へ、
「えー、けどカミやん。ボクら信頼と実績の負け犬組に|三次元《リアル》女の子の知り合いなんぞできるはずないやん、なんか壮絶なオチが待っとる方が自然やん? うー、見える見えるでー、|震《ふる》える手で最後の一枚を脱がして待望の一八禁シーンを前にして、真相に気づいたカミやんが|驚《おどろ》きのあまりベッドから転がり落ちる|未来《オチ》が見えるでー」
「……、お前、|冗談《じようだん》だよな? もちろんそれは分かって言ってんだよな?」
「あん? やっぱ女の子なん? つまんねー」青髪ピアスはそれはそれは楽しそうな顔で、「じゃあ出会いが普通とちゃうんやね。カミやん、いくらモテへん負け犬人生やからて幼女|誘拐《ゆうかい》はあかんで? その|蛮勇《ばんゆう》、下手するとネットの掲示板でお祭起きるかも知れへんやん」
「ば……っ、ふざけんな! |誰《だれ》がそんな|真似《まね》するか!」実はどう知り合ったか身に覚えのない
上条だった。「コイツはただの|居候《いそうろう》です! 双方共に合意なのであります軍曹殿!」
「いそうろう? 居候? テメェ今女の子のイソーローに向かって『ただの』とか言いやがったかカミやん! アンタはお菓子ばっか食いすぎてお米のありがたみが分からなくなった小学生かーっ!」
「うるさーい! ホントに何にもねーんだから『ただの』以外に表現できるか! そんなラヴコメじみた素敵イベントは|乱発《インフレ》しません! コイツのおかげで上条宅のお財布事情がどうなってると思ってやがる、これなら|座敷童子《ざしきわらし》でも転がり込んできた方がまだマシ……ッ!」
八割方、絶叫しかけて、ふと上条は気づいた。
この一連の会話、当然ながら|隣《となり》を歩くインデックスにも全部聞こえている。
「………………………………………………………………………………………………、あ」
上条は見る。恐る恐る自分の隣を見る。
笑っていた。インデックスは聖母のような温かい笑みを浮かべつつマスクメロンみたいに青筋がビキバキ走りまくっていた。
困った。『|記憶《きおく》を失う前の』|上条当麻《かみじようとうま》は果たしてこんなインデックスをなだめすかすだけ
のスキルを持っていたんだろうか? だとしたら惜しい|記憶《モノ》をなくしたと本気で思う。
「とうま」
インデックスは言う。|極上《ごくじよう》の笑みを浮かべて言う。
終わった、と上条は思う。思いながらもかろうじて言葉を返す。
「……何でしょうか、しすたーさま」
「私はイギリス清教に属する修道女です。悔いがあるなら今の内に聞いてあげても良いんだよ?」
胸の前で十字を切って両手を組む聖女が一人。
|完壁《かんべき》な笑みは完壁であるが|故《ゅえ》に演技だと分かってしまう。
上条は思わず頭を抱えそうになった。
これは爆弾だ。ていうか不発弾だ。これ以上下手につついたりでもしたらこの時点で|俺《おれ》の物語が終わってしまう! と上条は本能的に察した。
(どうしよう、どうしようー!? はっ、そうだアイス! アイスでごまかすべし!)
混乱の|極《きわ》みに達した上条はもはや言葉も忘れてただアイスクリーム屋の入口、自動ドアをビシビシと指差した。む? と|認《いぶか》しげにインデックスは指先を追って、それから動きがピタリと止まる。むーっ、という感じでうなっているのが分かる。
何とかごまかせた、と上条はホッとする。ホッとするついでに、見た。
アイスクリーム屋の自動ドアにはなんか張り紙が|貼《は》ってある。
張り紙にはこんな事が書いてある。
『お客様各位
まことに申し訳ありませんが、店舗改装のため、しばらく休業させていただきます』
ギチギチと。果てしなくバッドエンドの予感に上条はゆっくりと|隣《となリ》の少女へ振り返る。
にっこりと。少女の笑みがブチリとキレる。
不幸だ、と叫ぶ間もなく上条当麻は|猛獣《もうじゆう》少女インデックスに|襲撃《しゆうげき》された。
結局安っぽいファーストフード店のシェイクで|妥協《だきよう》する事にした。
当然、妥協しただけで満足するインデックスではない。なので『冷房の効いた店内でのんびりする』という追加コンボを決めてごまかそうと上条は考えた訳だが、
午後の店内は恐るべき満員状態だった。
「………………………………………………………………………………………………………」
むっすー、と|黙《だま》り込んだインデックスの両手にはプラスチックのトレイがあって、トレイの上にはバニラとチョコとイチゴの三つのシェイクが載っかっていた。そんなにアイス食いたかったんかーい、とツッコむと死亡確定の予感がしたので|上条《かみじよう》は下手にいじれない。
不幸だ、と上条は切に思う。
三つのシェイクを独占する事で多少なりとも|機嫌《きげん》を直しつつあったインデックスだったが、夏休みの午後なので座席は満貝。かと言って今から外に出る事は考えられない。|誰《だれ》だってやっとの思いで|辿《たど》り着いた冷房全開の|店内《オアシス》から再び炎天下の|道路《さばく》へ戻りたいとは思わない。
そんな上条の絶望ぶりなど|露《つゆ》知らず、|呑気《のんき》に世間話をしている女子高生|達《たち》の会話が聞こえてくる。
「よーよー。そういえば前の期末で|安西《あんざい》が読心使ってたってウワサはホントーかYO?」
「それについては職員会議が起きたので|十中八九《じつちゆうはつく》間違いないかと。ですけど、満場一致でチ
カラも授業の一環なので不正には当たらない、だそうですわよ?」
「むむ。きったねーNYAAA! そんなら私もテスト中にチカラ使っちゃうZO?」
「……、|貴方《あなた》の専門は発火でしょう?」
「だからセンセの背中に火い|点《つ》けちやえば答え教えてもらえると思うけどどーなのYO?」
……一片たりとも世間話に聞こえないかもしれないが、これがこの街、学園都市の日常なのだ。何せ街の住人、二一二〇万人もの人間が|全《すべ》て何らかの超能力に目覚めているという、『一大能力開発機関』なのである。
かく言う上条も能力者の一人。『それが異能の力であるのなら、神様の奇跡さえ無効化させる』右手を持つ|幻想殺し《イマジンブレイカー》の少年である。
「……。とうま、私は|是《ぜ》が|非《ひ》でも座って一休みしたい」
と、インデックスが何やら感情ぜロの声でそんな事を|呟《つぶや》いた。
|怖《こわ》い。従わねば今すぐ丸かじりというシスターの目が。
|御意《ぎよい》にーっ! と上条が床掃除をしている店員さんの元ヘダッシュすると、
「はあ、それなら相席にしていただくしか方法はありませんねー」
|残酷《ざんこく》なまでの営業スマイルで、|窓際《まどぎわ》の一角を指差してくれた。
相席? と上条が店員さんの指先を視線で追い駆けてみると、
「うっ!?」
ここはラッシュアワーの駅の中かと思えるほど満員御礼の店内にただ一つ、ブラックホールのごとくぽっかりと人混みに穴の空いている四人掛けのテーブルがある。
そこに、
そのテーブルに、
|巫女《みこ》さんがいた。
巫女さんがテーブルに突っ伏して眠っていた。
長いサラサラの黒髪が浜に打ち上げられたクラゲみたいに広がって、巫女さんの顔をまるごと隠していた。
(な……、)
何じゃこりゃー!? と|上条《かみじよう》は心の中で絶叫する。
怪しい。怪しすぎる。上条の不幸アンテナは告げている。アレに|関《かか》わるな、アレに関わったら絶対不幸になる。|記憶《きおく》を失うどころの|騒《さわ》ぎじゃなくなるぞ、と。
上条|当麻《とうま》は不幸な人間だが、自ら望んで不幸に飛び込んでいくほどお祭好きではない。
彼は一度目を閉じて決意する。
(……、よし、帰ろう。アレに関わるぐらいならインデックスに|噛《か》み付かれた方がマシだ)
そう結論づけた上条だが、ふと振り返るとその他二人がどこにもいない事に気づく。
「……?」
上条はあちこちを見回して、
「……げっ」
やはり別の店員さんに相席を|勧《すす》められていたインデックスはすでに正体不明の|巫女《みこ》さんの目の前に座っていた。あの娘は危機感がないのか。それとも博愛主義が|極《きわ》まってるのか。どうでも良いけどシスターさんと巫女さんの組み合わせがそんな目を輝かせるほど素敵なのかとお前に問いたい青髪ピアス。
逃げたい。
けど逃げられない。ここでインデックスに背を向けたら|獅子《ライオン》のごとく食い殺されそうな気がするし、あんな目を輝かせた青髪ピアスを放置するのは危険すぎるし、
何より、
イチゴのシェイクを一口、口に含んだインデックスはとてつもなく幸せそうな顔でこっちに手招きしている。何だか、あの顔を|壊《こわ》す事だけは絶対にできないんじゃないかと上条は思う。
とはいえ、テーブルには正体不明の居眠り巫女さんが一人。
上条が恐る恐るテーブルに近づいてみると、ピクンと巫女さんの肩が動いた。
「く、―――――――」
口が動く。巫女さんの口が動く。上条は|嫌《いや》な予感がした。とてつもなく嫌な予感がした。|何故《なぜ》だろう? 記憶|喪失《そうしつ》な上条当麻は一切の思い出がないはずなのに、何故だか前にもこんな事があったような気がしてならない。
ごくり、と|喉《のど》を鳴らして、上条は巫女さんの言葉を待った。
巫女さんは言う。
「―――――食い倒れた」
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第一章 ガラスの要塞 The_Tower_of_BABEL.
その部屋には窓がない。
ドアもなく、階段もなく、エレベーターも通路もない。建物として全く機能するはずのないビルは、|大能力者《レペルぐ》である|空間移動《テレポ ト》がなければ出入する事もできない|最硬《さいこう》の|要塞《ようさい》だった。
そんな、核シェルターを優に追い越す強度を|誇《ほこ》る|演算型・衝撃拡散性複合素材《カリキユレイト=フオートレス》のビルの中に、一人の|魔術師《まじゆつし》は立っていた。
名前はステイル=マグヌス。
ルーン魔術を|極《きわ》め、特に炎の術式に|長《た》けた魔術師であるステイルは、同時にイギリス清教の神父でもある。弱冠一四歳の少年は魔術師を殺すために魔術を極めた[#「魔術師を殺すために魔術を極めた」に傍点]、例外中の例外なのだ。
本来、彼はここにいるべき人間ではない。
『ここ』というのは『この建物』ではなく『この街』の事だ。十字教の一派、イギリス清教第零聖堂区『|必要悪の教会《ネセサリウス》』に所属する|神性《オカルト》側の人間である彼は、一切の|非現実《オカルト》を廃し超能力者ですら薬物と生体刺激と|催眠《さいみん》暗示によって量産する学園都市の中では、五二枚のトランプの中に一枚タロットカードが混じっているぐらい異彩を放っている。
そんな、いるべきでない『彼』がここにいるのには訳がある。
今の彼は、『イギリス清教代表』という立場にあって主義主張の違う『|学園都市《にんげん》』と『対話』に来ているのだ。もっとも、彼は何かの組織の代表として立つ者としては、人格に著しい|欠陥《けつかん》がある人間なのだが。
彼は人を殺す事にためらいを覚える人間ではない。
生きたまま人間を炎に包む事さえ迷いはしない。
「……、」
だが、そんな彼でさえ、目の前の光景は何度見ても慣れる事ができなかった。
室内と呼ぶにはあまりにも広大な空間には、一切の照明がない。それでいて、部屋は星のよ
うな光に満たされていた。部屋の四方の壁を|覆《おお》い隠すように設置された無数のモニタやボタン
が|瞬《またた》く光である。大小数万にも及ぶ機械類からはさらに数十万にも及ぶコードやケーブル、チューブ類などが伸びて、血管のように床を|這《は》い、それらは|全《すべ》て空間の中央へと集まっていた。
部屋の中央には巨大なビーカーがあった。
直径四メートル、全長一〇メートルを超す強化ガラスでできた円筒の器には、赤い液体が満たされている。弱アルカリ性|培養液《ばいようえき》を示す色彩、らしい。説明された所で|魔術師《まじゆつし》であるステイルには科学的な事は専門外だ。
ビーカーの中には、緑色の手術衣を着た人間が逆さに浮いていた。
それは『人間』と表現するより|他《ほか》なかった。銀色の髪を持つ『人間』は男にも女にも見えて、大人にも子供にも見えて、聖人にも|囚人《しゆうじん》にも見えた。
『人間』としてあらゆる可能性を手に入れたか、『人間』としてあらゆる可能性を捨てたか。
どちらにしても、それは『人間』以外に表現する言葉は存在しなかった。
「ここに来る人間は皆、私の|在《あ》り方を観測して、皆同じ反応をするのだが―――」
ビーカーに沈んだ『人間』は言った。男にも女にも聞こえ、大人にも子供にも聞こえ、聖人にも囚人にも聞こえる声で。
「――機械にできる事を、わざわざ人間がする必要はないだろう」
つまり、それこそがこの『人間』の在り方だった。
己の生命活動は|全《すべ》て機械で補う事ができる。だから、わざわざ自分で行う意味はない。推定寿命は一七〇〇年にも及ぶ『人間』としての限界が、ステイルの目の前にあった。
ステイルは、|恐《こわ》い。
人間の生命活動を全て補う事ができる学園都市の科学力に、ではない。補う事ができるからと言って、何のためらいもなく肉体を捨て機械に命を預けてしまう、この『人間』の|在《あ》り方に。
『人間』とは、
ここまで|歪《ゆが》む事ができるのかと思うと、それがとてつもなく、|恐《こわ》い。
「ここに呼び出した理由はすでに分かっていると思うが―――」
学園都市統括理事長、
『人間』アレイスターは逆さに浮かんだまま、厳然と告げた。
「―――まずい事になった」
アレイスターの言葉に、ステイルは|眉《まゆ》をひそめた。目の前の『人間』、これがまずい事になった、などという『弱音』を吐く所など想像もつかなかったからだ。
「|吸血殺し《デイープブラツド》、ですね」
|普段《ふだん》は敬語を使わないステイルだが、ここでは違った。
それは『教会の代表』としての立場から、ではない[#「ではない」に傍点]。|一瞬《いつしゆん》でもアレイスターに敵意を感じられれば、その瞬間に八つ裂きにされる事が分かっているからだ。実際にステイルが敵意を抱いているかどうかは関係ない[#「関係ない」に傍点]。誤解だろうが|勘違《かんちが》いだろうが、アレイスターにそう思われただけでステイルの命運は尽きてしまうのだ。
ここは敵の|本拠地《ほんきよち》で、
ここは二三〇万もの『超能力者』を操る場所なのだから。
「ふむ」アレイスターは|戦標《せんりつ》するステイルを眺め、「能力者だけなら問題はない。あれは元々私が保有する超能力者の一つ[#「一つ」に傍点]だ。この街で起きたこの住人の事件ならば、それを解決・|隠蔽《いんぺい》する手法など七万と六三二程度の手段は|揃《そろ》えてある―――」
「……、」
ステイルは特に感想を持たなかった。学園都市がどんな|緊急手段《フエイルセ フ》を持っているかなど興味はないし、そもそも|科学側《あちら》の世界は説明されても理解できないだろう。
「――問題なのは、この事件に本来立ち入ってはならない|魔術師《きみたち》が|関《かか》わった事だ」
だから、ステイルはその一点のみを思考する。
|吸血殺し《デイープブラツド》。出典は学園都市の|書庫《バンク》ではなく英国図書館の記録より。その名の通り、いるかどうかも分からない『とある生き物』を殺すための能力と呼ばれる、それ。能力の実体は不明、|真偽《しんぎ》も不明。とにかく|吸血殺《デイープブラツド》しと呼ばれる少女がいるという、ただそれだけの話。
その|吸血殺し《デイープブラツド》を保有する少女が、|魔術師《まじゅっし》に監禁されている。
今回の事件を簡単に説明すれば、その一言に尽きた。
「ふむ。相手がこの街の『外』の人間だとすると、少し事情は|厄介《やつかい》になる」アレイスターは逆さに浮かんだまま、「別に二三〇万もの能力者を使い総力戦になれば魔術師の一人二人、|潰《つぶ》すのは|容易《たやす》いだろう。問題はそういう所ではなく、|科学者《われわれ》が|魔術師《きみたち》を倒してしまうという一点に尽きる」
学園都市にしても|必要悪の教会《ネセサリウス》にしても、それぞれが束ねる『世界』がある。
『|超能力《サイエンス》』と『|非現実《オカルト》』――――お互いにそれぞれの技術を独占しているからこそ、今の地位がある。仮に『超能力者』を|統《す》べる学園都市が『|魔術師《まじゆつし》』を倒すと言い張れば、魔術側の人間は決して良い顔はしないだろう。
例えるなら、敵軍の領地に落ちた最新鋭の|戦闘機《せんとうき》みたいなものだ。その|残骸《ざんがい》から自軍の独占技術が|洩《も》れていく可能性がある。
「そうなると、そちらの増援を迎えるのも難しそうですね」
ステイルはつまらなそうに言った。
超能力者と魔術師の統合部隊―――というのも、同じ理由で火種を|撒《ま》きかねない。科学側と魔術側、どちらが作戦指揮を執るかで|揉《も》め事を起こしかねない。味方の戦力調査、という名目でお互いの技術を盗み見る事ができるからだ。
そう考えると、一つの疑問が生まれる。ステイルは二週間ほど前にも学園都市に来て、一人の能力者と戦っていた。冷静になれば|何故《なぜ》あの戦闘は例外的に許されたのだろう? ステイルの知らない所で学園都市と教会の間に何か取り引きでもあったのかもしれないし、あの少年が|無能力者《レベル0》と呼ばれる重要度の低い人物として扱われているからかもしれない。
だが今回は違う。
|渦中《かちゆう》にいる魔術師も能力者も―――絶大な力を認められた『重要人物』だ。
「なるほど[#「なるほど」に傍点]。それで例外たる私を呼んだという訳ですか[#「それで例外たる私を呼んだという訳ですか」に傍点]」
ステイルは特に表情を変えず、事実を確認するぐらいの気持ちで言ってみた。
つまりは、その例外こそがステイル=マグヌスだ。|魔術側《あちら》の人間を|科学側《こちら》の能力者が|叩《たた》くと
問題がある。しかし、同じ魔術側のステイルが魔術側の人間を|潰《つぶ》す分には何の問題もない。身内の恥は自らが|濯《そそ》ぐ、という意味を含めれば、魔術師は教会の人間が倒さねばステイルの上司|達《たち》は|納得《なつとく》しない、という事情もある。
「それで、問題となる『戦場』の縮図だが」
どんな仕組みなのか、|暗闇《くらやみ》に直接映像が浮かび上がる。
それはCGで描いた|透視図《ワイヤフレーム》のようなものだった。描かれているのは何の変哲もないビル。そして今回の『戦場』の見取り図だ。
見取り図の端には整然とした文字で『|三沢塾《みさわじゆく》』と記されていた。
「建設時の設計図と、衛星の各種映像から内部を分析した」アレイスターの声に抑揚はない。
「魔術的な仕組みについては不明。畑が違うからな」
「……、」
「『三沢塾』というものに対しては少々特殊な環境にある」
アレイスターの話はこうだった。
元々、学園都市とは大小数百を超える学校の集まった 大教育機関だ。そしてその|時間割《カリキユラム》りの中には『超能力開発』という飛びぬけたものも含まれる。
『三沢塾』という全国規模の進学塾が学園都市に支部校を置いたのは、この学園都市特有の学習法を盗んでくる[#「この学園都市特有の学習法を盗んでくる」に傍点]ための、巨大な企業スパイの色が強い、との事だった。
ところが、ハンパに能力開発をかじった『三沢塾』は悪い感化を受けた。科学|崇拝《すうはい》と呼ぶべきか、能力開発という『自分|達《たち》しか知らない科学技術』を『=それを知ってる自分達は選ばれた人間』という新興宗教じみた考えに|囚《とら》われたらしい。
学園都市にある支部校は『三沢塾』グループの命令すら無視して暴走し、挙げ句の果てには|吸血殺し《デイープブラツド》と呼ばれる少女を『教え』に従って監禁。
「けど、何で『三沢塾』は|吸血殺し《デイープブラツド》を監禁したんでしょう? 十六世紀のカルト教と同じく、カインの|末喬《まつえい》に自ら身を差し出し不老不死となる事を目的とする教義とか?」
「|否《いな》。『三沢塾』は特に|吸血殺し《デイープブラツド》に|執着《しゆうちやく》は持たない。単に『この世に一つしかない、再現不能の能力者』であれば|誰《だれ》でも良かったようだ」
「?」
「|学園都市《このまち》における『|序列《チカラ》』とは、『学力』と『異能力』の二種によって分類される。そういう意味で|吸血殺し《デイープブラツド》を保管し、研究するのは意味ある事だろう。『限りなく|珍《めずら》しい能力を量産する事ができる』という触れ込みは、自身の|平凡《ポピユラ 》な能力に|劣等感《コンプレツクス》を持つ|異能力者《レベル2》や|良能力者《レベル3》
を釣るには良い出来かもしれない。……まったく、一度発現した能力を別のモノに変更する事
など脳を移植しても不可能だというのにな」
けど、それもおかしな話だとステイルは思った。レアな能力がステータスになる、というのは学園都市のローカルルールだとして、こんな科学まみれの場所ではオカルトに属する『ある生き物』など信じられないだろうに。
そんな事を考えていると、アレイスターはこともなげに答える。
「とにかく希少価値がある、と認められれば話の種ぐらいにはなるだろう。|幻想殺し《イマジンブレイカー》を始めとする『正体不明の能力者』はいくらでもいるし、『強大な力の持ち主ゆえに、誰も本気を出している姿を見た事のない能力者』などという種類も存在する」
ともかく、|吸血殺し《デイープブラツド》が監禁されただけなら話は簡単だった。『街の中の内輪もめ』なら、アレイスターの言う通り七万と六三二程度の手段を使って学園都市が処理しただろう。
問題なのはそこではない。
処分される直前。その『三沢塾』に『外』から|吸血殺《ヂイトプブラツド》し|狙《ねら》いの|魔術師《まじゅっし》がやってきて、しかも『三沢塾』を|破壊《はかい》せずにそのまま乗っ取ってしまったというから話がややこしいのだ。
「……、」
ステイルは|黙《だま》って『三沢塾』の見取り図を眺めた。
建物の中が『魔術的に』どこまで大改装されているか|窺《うかが》えない。先の読めない|暗闇《くらやみ》へ|突撃《とつげき》する|類《たぐい》の|緊張《きんちよう》がステイルの背筋をわずかに走り抜ける。|手馴《てな》れた感覚だった、心地良くはないが。単に今回も生きるか死ぬか、0かーかの攻防は必至というだけだ。
ただ、二三〇万もの|能力者《せんりよく》が|溢《あふ》れかえる街中でただ一人の|孤独《ごどく》というのは少し|愉快《ゆかい》だった。
「そうでもない」
まるで人の心を読んだように、アレイスターは言った。あるいは部屋に体温や血液の流れを読み取って思考を探る装置でもあるのかもしれない。
「|魔術師《きみたち》にとって天敵となる『一つ』を、私は保有している」
ギクリ、とステイルは硬直した。
|幻想殺し《イマジンブレイカー》。それは二週間前、ステイルと殺し合いを演じた少年の名前だ。それが異能の力であるならば、|魔術《まじゆつ》に限らず、超能力や神域の奇跡さえも、右手で触れただけで打ち消してしまうという、常識どころか異常からさえ外れてしまった、特異なる少年の名前。
「けれど、魔術師を倒すのに超能力者を使うのはまずいのでは?」
「それも問題ない」アレイスターはあらかじめ言葉を用意していたように、「まず始めに、アレは|無能力《レペル0》であり、価値ある情報は何も持っていない。魔術師と行動を共にした所で|魔術側《そちら》に|科学側《こちら》の情報が|洩《も》れる恐れはない」
「……、」
「続けて、アレは|魔術側《そちら》の技術を理解し再現するほどの脳もない。|故《ゆえ》に、魔術師と行動を共にした所で、|科学側《こちら》に|魔術側《そちら》の技術が流れる事はない」
このタヌキが……とステイルはアレイスターに初めて敵意に似た感情を抱いた。
目の前の『人間』の本音が読めない。あの|幻想殺し《イマジンブレイカー》が|役立たず《レベル0》などでない事は、実戦によってステイルは骨身に|染《し》みて良く理解している。
確かにあのチカラは、ステイルがパッと見た程度で仕組みが分かるものではない。ましてその技術を盗んで教会に持ち帰るなど絶対に不可能だろう。だが、それは学園都市も同じだと思う。いや、同じだとステイルは信じたい。|幻想殺《あんなもの》しが量産できてしまっては教会には立つ瀬がない。何せ、千年紀の神器でさえ右手で触れただけで粉々に砕いてしまうのだから。
その、|極《きわ》めて|稀有《けう》であるはずの|幻想殺し《イマジンブレイカー》を、けれどアレイスターはぞんざいに扱う。
まるで道を行く聖人に数々の試練を与えて|鏃《きた》え上げるように。
熱した|鋼《はがね》に重たい|槌《つち》を打ち付け真の一刀を鏃え上げるように。
「……、」
そして何より。あの少年の|側《そば》にいる一〇万三〇〇〇冊はタブーにはならないのか?
本音と建前の食い違い。ステイルは胸の内に疑念を抱いたが、顔には出さない。
悟られないように注意を払う。あの少女に対しては少しの波風も立てたくない。
「……|吸血殺し《デイープブラツド》」
ポツリと。|呟《つぶや》いたステイルの顔は、解けない疑問に突き当たった学者のそれだった。
「|吸血殺し《デイープブラツド》。そんなものが、ここには本当に存在するんですか? もし仮に、存在するのであ
れば、それは―――――」
ステイルはその先が言えなかった。
|吸血殺し《デイープブラツド》。そう呼ばれるからには、殺すべき『ある生き物』がいなければ話にならない。つまり、|吸血殺《デイープブラッド》しを認めるという事は、『ある生き物』が存在する事をも証明してしまう。
「ふむ。|非現実《オカルト》は|科学者《われわれ》ではなく|魔術師《きみたち》の|領分《フイールド》だと思うのだがね。ー君|達《たち》でも容認できぬ非常識がある訳か」
当然だ、とステイルは心の中で|噛《か》み締める。
|魔術師《まじゆつし》の使う『魔力』とは、言うなればガソリンみたいなものだ。寿命や生命力といった『原油』を、呼吸や血流、|瞑想《イメ ジ》などで使いやすい『ガソリン』に精製する。
だからこそ、魔術師は決して万能ではない。どれだけ道を|極《きわ》めた所で、精製できるガソリンの量は決まっているのだから。
しかし、『ある生き物』にはその際限がない。
『不老不死』などという|馬鹿《ぼか》げた属性を持つ『その生き物』は、つまり無限の魔力を|誇《ほこ》るのだ。世界の資源でさえ、膨大ではあるものの底はあるというのに[#「世界の資源でさえ、膨大ではあるものの底はあるというのに」に傍点]、だ[#「だ」に傍点]。
カインの|末喬《まつえい》―――吸血鬼。
それは絵本に出てくるような「十字架』や『|陽《ひ》の光』があれば|大丈夫《だいじようぶ》、などという易しい生き物ではなく、それ単体が核爆弾に匹敵する『世界の危機』なのだ。
「ふむ」
巨大なビーカーの中、逆さに浮かんだ者は興味もなさそうにステイルを見た。
「それ以前に、君は我々の言う『超能力』が何であるか分かっているのか?」
「……、何ですか?」
ステイルは分かるはずがないし、本当の事を教えてもらえるとも思わない。敵側の機密情報を得るという事は、生きてここを出る可能性を捨てる事を意味しているのだから。
「ただの認識のズレ[#「認識のズレ」に傍点]だ」なのに、アレイスターは事もなげに答えた。「君は『シュレディンガ
ーの猫』という話を知っているか。世界で一番有名な動物|虐待《ぎやくたい》なんだがな」
「……?」
「詳しい話は省くが、要は『この現実は、それを見る者の思う通りに|歪《ゆが》んでしまう性質を持つ』との事らしい。もっとも、ミクロとマクロでは物理法則も異なるので|一概《いちがい》には言えんがな」
|顕微鏡《ミクロ》サイズと|望遠鏡《マクロ》サイズ、この世界には二つの物理法則があるという。どこまでがミクロで、どこからがマクロと呼ばれるのか。それもアレイスターの研究内容の一つだと言う。
「……、|仰《おつしや》る意味が、分かりかねますが?」
「理解しなくて良い。理解すればここで君を殺さなければならない」アレイスターはやはり事もなげに答える。「……しかし私こそ分からないがね。|吸血殺《デイープブラツド》しが『ある』か『ない』かなど|些細《ささい》な事だろう。それこそ箱の中の猫のように」
能力者などリトマス紙の色が変わるようなものだ、とアレイスターは言う。
リトマス紙の色が赤から青に変わった事を喜ぶのではなく、|何故《なぜ》色が変わったのか、そこにどんな仕組みがあるのか―――さらには、その|法則《ル ル》を操る事はできないのか。二三〇万もの能力者を抱え、世界に対してケンカを売るだけの戦力を持ちながら、それは『目的』ではなく『手段』にすぎないとでも言う。
ステイルは|戦懐《せんりつ》した。
目の前の『人間』は、機械にできる事を人間が行う理由はない、と断言する『人間』だ。
果たしてこの人間にとってはどこまでが『機械』で、
果たしてこの人間にとってはどこからが『人間』なのか。
「けれど」
そんな『人間』は言った。男にも女にも、大人にも子供にも、聖人にも|囚人《しゆうじん》にも見えるその者は、等しく『笑み』を思わせる表情を作り、そう言った。
「―――さて。|吸血殺し《デイープブラツド》が吸血鬼の存在を証明したと言うならば、あの|幻想殺し《イマジンブレイカー》は一体何を証明してくれるのだか、ね」
何なんだろう、と|上条当麻《かみじようとうま》は絶句する。
ここはファーストフード店の二階、満員満席の禁煙席である。|窓際《まどぎわ》の一角の四人掛けのテーブル、そこに上条とインデックスと青髪ピアスが座っている。
うん、そこまでは良い。
「―――――――、食い倒れた」
で、何だってこんな俗っぽいお店に|巫女《みこ》さんがいて、その巫女さんがテーブルに突っ伏して、あまつさえそんな|謎《なぞ》な|台詞《せりふ》を投げかけてくるのか―――!?
巫女さんは上条と同い年ぐらいで、スタンダードな巫女|装束《しようそく》に腰まである黒髪と、なんか型にはめて作ったみたいな巫女さんだ。
「……」
「……」
エレベーターの中のような妙な空気の中、どうしよう? と上条が思っていると、ふとインデックスと青髪ピアスがそろって上条の顔を見ている事に気づいた。
「……、な、何だよ?」
「……ほらカミやん。話しかけられたからには答えてやらなっ!」
「……そうだよそうそう。とうま、見た目で引いてはいけません。神の教えに従いあらゆる人に救いの手を差し伸べるのですなんだよ。アーメン」
「……な、ばっ! ふざけんな! ここは公平にジャンケンだろ? ってかインデックス、始めっから|俺《おれ》が負けると思ってんだろ? テメェ神妙な顔して十字切ってんじゃねえ!」
そんなこんなで|生《い》け|蟄《にえ》はジャンケンで決める事にした。
グー、グー、チョキで|上条《かみじよう》の一人負け。
結論として、上条|当麻《とうま》はやっぱり『不幸』なのだった。
「あの、もしもし?」
一人チョキを出したまま|呆然《ぽうぜん》とする上条は、とりあえず突っ伏したままの|巫女《みこ》さんに声をかけてみた。巫女さんの肩がピクリと動く。
「あ、えーっと……食い倒れたって何ざましょ?」
とりあえず、当り|障《さわ》りのない会話をしよう、と心がけてみる。というか巫女さんから出てきた言葉だ、きっと何か聞いて欲しいに違いない、と上条は思ってみる。
「一個五八円のハンバーガー。お徳用の|無料《クーボン》券がたくさんあったから」
「うん」
思い出も何もない上条には、それがどんな味がするのか良く分からなかったが、『ぺちゃんこの肉としおれたレタスしかはさまってない金欠時の非常食』という知識だけは存在した。
「とりあえず三〇個ほど|頼《たの》んでみたり」
「お徳すぎだ|馬鹿《ばか》」
反射的に答えた|瞬間《しゆんかん》、巫女さんはピクリとも動かなくなってしまった。無言だからこそ、何だかとても傷ついているらしいのが全身から漂う|哀《かな》しいオーラで感じ取れる。
気まずい。こうも真っ正直に受け止められるとそれはそれで超気まずい。
「あー、いや違うんだ。言葉が足りなかった、『馬鹿だ、しかし|何故《なぜ》そんな事を?』という一連の会話を|円滑《えんかつ》に進めるものであり乱暴な言葉遣いは親愛の|証《あかし》で決して悪意ある|台詞《せりふ》ではないそれと業務連絡そこのシスターと青髪は後で顔貸せそんな目でこっち見るなーっ!!」
うわーん! と|沈黙《ちんもく》に耐え切れなくなったように上条は絶叫する。
「やけぐい」
と、死んだように動かなくなった巫女さんは不意にそんな事を言った。
「は?」
「帰りの電車賃。四〇〇円」
はあ、とぶつ切りな巫女さんの台詞を上条は無理矢理|呑《の》み込む。上条は『電車に乗った』という思い出は持たないが、『学園都市の電車やバスの料金は高いのだ』という知識は持っている。
「それで、帰りの電車賃が四〇〇円必要だと何故やけ食い?」
「全財産。三〇〇円」
「……、その心は?」
「買いすぎ。無計画」
「……、」
「だからやけぐい」
|馬鹿《ばか》だ、という言葉が再び|喉《のど》までせり上がってきたが、|上条《かみじよう》はかろうじて|呑《の》み込んだ。
代わりに言葉を選びに選び抜いて、言ってみた。
「ってか、お前一二〇〇円分でも電車乗れば良いじゃん、そうすりゃ歩く距離は一〇〇円分なんだし。それ以前に電車賃ぐらい|誰《だれ》かに借りられないのか」
「―――。それは良い案」
「|何故《なぜ》そこで|真《ま》っ|直《す》ぐこっちを見る? ってかテメェ期待の|眼差《まなざ》し向けんじゃねぇ!!」
ぎよっとして上条は|巫女《みこ》さんから離れるように身を|仰《の》け反らせた。上条はただでさえ(|無駄《むだ》な)参考書に三六〇〇円も払っている。その上インデックスの|機嫌《きげん》を直すためにシェイクを三
つも買っていた。たかが一〇〇円とはいえ、これ以上の出費は正直しんどい。
しかし、それよりも。
ここにきて初めて顔を上げた巫女さんは、予想に反してメチャクチャ美人だった。
外国人なインデックスとはまた別種の、日本人としての白い肌。それが黒い|瞳《ひとみ》と髪によってさらに|際立《きわだ》っている。眠たそうな瞳に宿る感情は|乏《とぼ》しいが、逆に言えば|攻撃性《こうげきせい》は一切ない。どれだけ近くに寄られても安心できるような、奇妙な包容力さえ持っていた。
と、
「…………………………………………………………………………………………………………」
むっすー、としたまま|黙《だま》り込んでこっちを|睨《にら》んでいるインデックスと、
「う、ウソや。カミやんが女の子としゃべってる……、今この場で初めて出会った女の子とナチュラルに会話してるなんてウソやーっ!!」
何かひどく|名誉殿損《めいよきそん》な叫びをあげている青髪ピアスがいた。
「うるっせえ|二次元星人《あおがみピアス》! 業務連絡テメェは後で体育館裏へ集合するように! あとそれと|巫女さん《おまえ》もどうにか残り一〇〇円調達してさっさとお|家《うち》に帰るように! 以上作戦終了!」
「どういう事? カミやん話は終わってへんで! 一六年も負け犬組だった男がこの二週問の内にシスターさんだの巫女さんだの属性強すぎな知り合い増やしてるってどういう事やねんな! 何? これは何の|電脳世界《ギヤルゲー》ですかセンセーッ!」
何やら半泣きで|錯乱《さくらん》している青髪ピアスを右手でぶん|殴《なぐ》って黙らせたい上条だったが、場所的に対角線上にいるため少し遠すぎる。こんな座席の位置一つ取っても不幸な上条だった。
「一〇〇円」
と、巫女さんは巫女さんで何やら難しい顔で悩んだ後、顔を上げて、
「無理?」
「無理。貸せないものは貸せない」
「……、」|巫女《みこ》さんはちょっとだけ考えて、「……チッ。たかが一〇〇円も貸せないなんて」
「……、たかが一〇〇円も持ってねーのはどこの|馬鹿《ばか》だオイ」
思わずムッとして言い返した|上条《かみじよう》だったが、
「カミやーん、何でそんな素の返事ができんねん。そないな美人を前にしたら普通ドギマギしてまともな受け答えできなくなるのが負け犬組の|宿命《さだめ》やろがーっ!」
青髪ピアスが|地獄《じごく》の底から|搾《しぼ》り出すような声を発していた。
「……。美人」
巫女さんは何を考えているか良く分からない視線をさまよわせた後、
「……。美人に免じてあと一〇〇円」
「っ! うるせえ|黙《だま》れ悪女! 自分の顔を売ってお金にする|性悪女《しようわるおんな》は美人なんて呼べませんっ! 大体こちとら|無駄《むだ》にシェイク三つも買って余裕はねーんだよ!」
「よ、良かったカミやん。美少女の心は等しく|清《きよ》いと思っている辺り、まだまだ二次元思考は死んでへんと受け取ってええんやね?」
「……、ていうか、とうま。このシェイクがなかったら一〇〇円を手渡して一件落着、と。そういう事が言いたいんだね。ふーん」
四方八方から声が飛んできて|上条《かみじよう》は処理能力の限界を迎えた。ああもうどっから手をつければ良いんだーっ! と頭を|掻《か》き|雀《むし》っていると、|不機嫌《ふきげん》そうにシェイクのストローをガジガジかじっていたインデックスは|巫女《みこ》さんへと敵意ある視線を投げ、
「ふん。その|緋袴《ひばかま》を見る限りあなたト|部《うらべ》流みたいだけど。卜部の巫女は顔も売るの? 『巫女』って平安時代では|娼婦《しレモつふ》の隠語だったみたいだけど」
ぶっ!? と上条は反射的に吹き出した。とりあえず『あっはっはーっ! シスターさんと巫女さんの東西対決だーっ!』とハイになっている青髪ピアスを|黙《だま》らせようと思っていると、
「私。巫女さんではない」
「は?」
写真を撮ったらそのまま百科事典の『巫女さん』の図解に使えそうな黒髪少女の言葉に、思わずその場にいる全員が巫女さんの方を見た。
「えっと、巫女さんじゃないなら、お前一体どこのどなたのナニ子ちゃん?」
|何故《なぜ》かみんなの代表っぼく上条が言ってみると、
「私。|魔法使《まほうつか》い」
「…………………………………………………………………………………………………………」
全員が黙り込んだ。店内の有線放送がひどく遠くから聞こえてくるような気がする。ていうか何だろう、と上条は思った。何だか知らないけど|記憶喪失《きおくそうしつ》のくせに前にもこんな事があった気がしてならない。気がしてならないのもあるけど、何だってインデックスがそんな小刻みに肩を|震《ふる》わせて爆発寸前になってるんだーっ! と上条は心の中で絶叫する。
バン! とインデックスが両手で思いっきりテーブルを|叩《たた》いた。
トレイの上のシェイクが|跳《は》ね回る前に、
「魔法使いって何! カバラ!? エノク!? ヘルメス学とかメルクリウスのヴィジョンとか近代占星術とかっ! 『魔法使い』なんて|曖昧《あいまい》な事言ってないで専門と学派と魔法名と|結社《オーダー》名を名乗るんだよオバカぁ!」
「???」
「この程度の言葉も分からず魔術師を名乗っちゃダメ! 大体あなた|ト部《うらべ》の巫女なんだからせめて|陰陽道《おんみようどう》の東洋占星術師ぐらいのボラ吹かなきゃダメなんだよ!」
「うん。じゃあそれ」
「じゃあ!? あなた今じゃあって言った!?」
バンバン! と二度三度とテーブルを両手で叩きまくるインデックス。
上条はため息をついて辺りを見回した。にぎやかな店内とはいえ、インデックスのヒートアップぶりは少々度がすぎていると言って良い。とにかく|速《すみ》やかに黙らせなければ。
「はぁ、そこの|巫女《みこ》さんが巫女さん改め|魔法使《まほうつか》いなのは良く分かったからちょっと|黙《だま》」
「なっー!? とうま、私の時とは明らかに態度が違うっぽいんだよ!?」
うがーっ! と今にも|噛《か》み付きそうな勢いで|上条《かみじよう》の方を|睨《にら》みつけるインデックス。と言われても|記憶《きおく》のない上条には昔の事は良く分からない。間違っても記憶にございませんなんて言えるはずがないが。
「本人がそう言いたいんだからそれでいーじゃねーか。別に実害ある訳じゃねーし、|誰《だれ》かを|騙《だま》そうとかしてる訳じゃねーんだからそっとしとけよ」
「……うぐぐ。私の時は本物って証明するのに服まで脱がされたのに」
「は?」
「何でもないっ! 何も言ってないし何とも思ってないっ!!」
ぷんぷん、という効果音が似合いそうな顔で、インデックスは勢い良くそっぽを向いた。何でも良いけどテーブルの下で何者かに上条の足がドカドカ踏み|潰《つぶ》されていた。何でも良くなかった。犯人はどう考えても一人しかいなかった。
「あ」
と、そっぽを向いたインデックスが何かを見つけたような声をあげた。
|馬鹿騒《ばかさわ》ぎに見るに見かねた店員さんからご|退場《レツドカード》かな、とか上条が思っていると、
(ん? ……人?)
ふと疑問に感じた|瞬間《しゆんかん》、ようやく自分達のテーブルを取り囲むように一〇人近い人間が立っている事に気づいた[#「ようやく自分達のテーブルを取り囲むように一〇人近い人間が立っている事に気づいた」に傍点]。
「―――――――ッ」
何で今まで気づかなかったのか、と上条は思う。
まるでレストランの注文を取りにきたウェイトレスぐらいの距離、まるで一つのテーブルを取り囲むように、一〇人近い人間がじっとこちらを見ているのに、少しも気づく事ができなかった。
そして、
今もなお[#「今もなお」に傍点]、満員満席の他の客は誰一人何も異常に気づいていないように見えた[#「満員満席の他の客は誰一人何も異常に気づいていないように見えた」に傍点]。
つまりは、それほどまでに気配の消えた、暗殺者じみた連中だった。
「……、」
彼らは皆同じようなスーツを着た、二〇代から三〇代ぐらいの男|達《たち》だった。
ラッシュ時の駅の中にいれば、顔と名前も分からなくなるほど無個性に見える『彼ら』。だが、その|瞳《ひとみ》には何の感情も浮かんでおらず、その完全すぎる無個性[#「完全すぎる無個性」に傍点]が逆に『彼ら』は決して風景に溶け込む事ができないように見える。
(何の感情も浮かんでいない、瞳:…?)
どこかで見た事がある、と上条は考え、そして視線をテーブルの内へと戻した。
目の前にいる、名前も分からない|巫女《みこ》さん。
彼女の|瞳《ひとみ》は、一〇人近い男に取り囲まれてなお、同じく何の感情も浮かんでいなかった。
「あと一〇〇円」
巫女さんは言った。
言いながら、無音で席を立つ。『彼ら』に警戒しているようには見えない。まるで待ち合わせの相手のような気軽ささえそこにはある。
『彼ら蛙の一人が、巫女さんに道を|譲《ゆず》るように一歩後ろへ下がった。『彼ら』の一人が、|律儀《りちぎ》にも音もなく一〇〇円玉を一枚、|掌《てのひら》に載せて巫女さんへと手渡している。
「え、あ、何だよ? この人|達《たち》って知り合いなのか?」
良く分からないまま|上条《かみじよう》は言った。
「……、」
巫女さんは少しだけ視線を泳がせた。何かを考えているようにも見えて、
「ん。塾の先生」
答える声は何の気なしの即答だった。
巫女さんが通路を歩き一階へ|繋《つな》がる階段へ向かう。一〇人近い男達は、それこそ影のように護衛のように、音もなく声もなく従っていく。
聞き慣れた|喧騒《けんそう》が、有線放送の音楽がひどく遠くから、色あせたように聞こえてくる。
『彼ら』の姿が消えてから、ようやく青髪ピアスが|呟《つぶや》いた。
「けど、何で|塾のセンセ《サラリーマン》が生徒の面倒見んねんな。小学校の生活指導やないんやし」
夏の夕暮れ。
あの|謎《なぞ》な巫女さんとスーツの男達の事を忘れるためあちこち遊び倒した上条達は、五時のチャイムで家に帰ろうという小学生みたいな取り決めを律儀に守る事にした。
ばーいばーい、とそれこそ小学生みたいにぶんぶん腕を振って青髪ピアスは夕暮れの街へと消えていった。青髪ピアスは上条のような学生寮暮らしではなく、パン屋さんに下宿というレアな生活を送っている。何でもパン屋さんの制服がメイド服に|酷似《こくじ》しているとか。
大きなデパートが並ぶ駅前の大通りには上条とインデックスの二人きり。
はぁ、と上条はため息をつく。
二人きり、という言葉が|脳裏《のうり》に浮かんだ|瞬間《しゆんかん》、何か|痺《しび》れるような|緊張《きんちよう》が脳の中心から背骨を伝って全身の|隅《すみずみ》々まで広がっていった。
理由は言うまでもない。
「とうま、どうかした?」
にっこり無邪気にそんな事を言われたとあっては、何でもないと答えるしかあるまい。|上条《かみじよう》は|隣《となり》を歩く少女に気づかれないように、そっと息を吐いた。
なんて言っても『|同棲《どうせい》』だった。
しかも『男子寮』に『こっそりと』である。
挙げ句の果てに『こんな小さな女の子を』だった。
病院から学生寮に戻って数日|経《た》つが、彼女は夜になると当たり前のように上条の横で眠っていた。しかも寝相が悪かった。暑いのが苦手なのか、ごろごろ寝返りを打つたびにパジャマから足やらへそやらが見え隠れするのでは、上条としてはユニットバスにカギをかけて立てこもり事件をするしか道がなかった。そんなこんなでここ最近は寝不足な上条|当麻《とうま》である。
「……|俺《おれ》、ひょっとしてニュースに載っちゃうぐらいのダメ人間では?」
ぐったりと上条は|呟《つぶや》いた。『|記憶《きおく》を失う前の』上条当麻は一体この現象をどう受け止めていたんだろう、と思う。ていうかそもそも『同棲』を始めたのは『記憶を失う前の』上条当麻が原因だ、一体身に覚えのない間に何やってたんだ上条当麻ーっ! と心の中で絶叫してみる。
「あ」
隣を歩いていたインデックスが、何かに気づいたように|唐突《とうとつ》に立ち止まった。
あん? と上条は|憂欝《ゆううつ》な気持ちでインデックスの視線の先を目で追い駆ける。風力発電の柱の根元に、段ボールに入った子猫が一匹みーみー泣いているのが見えた。
「とうま、ネ――」
「ダメ」
――――コ、とインデックスは続ける前に上条は割り込んだ。
「……、とうま、私はまだ何も言ってないんだよ?」
「飼うのはダメ」
「何で何でどうしてどうしてスフィンクスを飼っちゃいけないの?」
「ウチ学生寮だしペット禁止だしお金はないしもう名前つけてんじゃねーよしかも何だスフィンクスってバリバリ日本産の|三毛猫《みけねこ》に付ける名前じゃねえっ!!」
「Why don't you keep a cat! Do as you are told!」
「??? ……はっ! ええい英語でまくし立てれば何でも言う事聞くと思うなよ!」
「やだっ! 飼う飼う飼う飼う飼う飼う飼う飼う飼う飼う飼う飼うかーうーっ!!」
「そんな得体の知れないスタンド|攻撃《こうげき》みたいに叫んでもダメなものはダメっ! ていうか|野良猫《のらねこ》びびって裏路地に逃げちまったじゃねーか!」
「とうまのせいっ!」
「俺かよ!!」
ぐぎゃあ! と夏の夕暮れに叫び声が二人分。上条は思う。漠然と思う。『記憶を失う前の』上条当麻はこの少女をどう扱ってたんだろう、という疑問。その答えはきっとこんな感じではあるまいか、と。
それは|嬉《うれ》しい。
けれど、同時に少し|寂《さび》しい。
何せ、目の前にいる少女は上条を見ていないのだから[#「目の前にいる少女は上条を見ていないのだから」に傍点]。彼女が安心して力を抜き切って、とびっきりの笑顔を見せているのは、『|記憶《きおく》を失う前の』|上条当麻《かみじようとうま》のためなのだから。
|辛《つら》いと言えば、辛い。
それでも、上条は演じる事をやめようとは思わなかった。
「ふん、ジャパニーズ|三味線《しやみせん》ってネコの皮|剥《は》いで張り付けてるんでしょ! どうしてこの国はネコに対してひどい事ばっかりするんだよう!」
「……っ、国の文化引っ張り出して悪口言うのやめとけ|馬鹿《ばか》! 大体それ言ったらテメェら《イギリス》|だって寄ってたかってキツネを追い回してイジメたりしてるじゃねーか!」
「なっ……キツネ狩りは英国の伝統と|誇《ほこ》りの――――ッ!!」
ぎにゃあ! と絶叫しかけたインデックスは、そこで何かに気づいたようにピタリと動きを
止めた。
「な、何だよ? ネコか、さっきのネコ戻ってきたんか!?」
上条はあちこちを見回しながら言った。が、ネコらしい影はどこにもない。
「……、何だろう? とうま、近くで|魔力《まりよく》の流れが束ねられているみたい」
と、インデックスはそんな上条に、ポツリと|呟《つぶや》いた。
「……属性は土、色彩は緑。この式は……地を|媒介《ぱいかい》に魔力を通し、意識の介入によって……」
まるで考え事の中身が独り言で口から出ているような感覚。
何だ何だ? と上条が様子を|窺《うかが》っていると、インデックスは一言。
「……、ルーン?」
眩くと、まるでナイフの切っ先でも思わせるような鋭い眼光を見せて、インデックスは道路の|脇《わき》―――ビルとビルの|隙間《すきま》の路地裏へ向かって勢い良く走り出した。
「ちょ、おいインデックス!」
「|誰《だれ》かが『|魔法陣《まほうじん》』を仕掛けてるっぽい。調べてくるからとうまは先に帰ってて!」
あっという間だった。インデックスの姿が路地裏の奥へと消えていく。
「先に帰ってて、とか言われてもなぁ」
どうにも奇行の目立つ女の子だ、と上条は思う。思うのだが、放ったらかしにして帰る訳にもいかないだろう。何せいかにも怪しい裏路地に女の子が一人、だ。事件との|遭遇《エンカウント》率なんて出来の悪いRPG並だと思う。
また不幸な事になってきた、と上条はため息をつく。
ため息をつきながら、インデックスの後を追って裏路地へ入ろうとして、
「久しぶりだね、|上条当麻《かみじようとうま》」
背後から、声。
路地裏へ向けようとしていた足は、止めざるを得なかった。
何せ『久しぶり』ときたもんだ。上条にとって、それは|禁句《タブー》と言って良い。上条は『日本語』とか『一年の数学』とか、そういう『知識』は忘れていない。けれど、『思い出』は別だ。『いつゲームを買ったっけ?』とか、『期末テストは何点だった?』とか、そういった『思い出臨は一切存在しない。
人の顔と名前が『思い出せない』以上、『久しぶり』と言われたからには最大限のジャパニーズスマイルで応じるしかない。
ある少女の|幸福《ねがい》を守るためには、
上条当麻は、決して|記憶《きおく》を失っている事を悟られてはならないのだから。
振り返る。
「あ」
そこにいた男は、やはり見覚えがなかった。
男、というか少年である。ただし身長ニメートルを超す大男に向かって『少年』という表現もどうかと思うが。インデックスと同じく日本人ではありえない白色の肌を持つ男は、|漆黒《しつこく》の修道服を身にまとっていた。
だが、神父と呼ぶには漂ってくる香水の|匂《にお》いがあまりに強烈だ。長い髪も|真紅《しんく》に染め上げ、耳にはピアス、五本の指には銀の指輪、右目の下にはバーコードの形をした|刺青《タトウ》まで刻んであ
る。|破戒僧《はかいそう》、もしくは背信者という言葉がしっくりくるほどの|堕落《だらく》っぷりだった。
見覚えがあるはずがない。
というか、こんな男に見覚えがあって欲しくない。
「ふん。久しぶりだというのに|挨拶《あいさつ》もなしか。うんうん、結構結構。やはり僕|《たち》達の関係はこうあるべきだ、一度の|共闘《きようとう》で|日和《ひよ》ってはいけないからね」
だっていうのに、香水|臭《くさ》い神父はいかにも親しげに笑いながらそんな事を言う。
(何なんだよ、コイツ……)
目の前の神父のおかしさもさる事ながら、こんな|胡散臭《うさんくさ》い人間と知り合いだった『記憶を失う前の』上条当麻に対する|違和感《いわかん》の方が強い。
そして、もう一つ気がかりな事がある。
上条はチラリと裏路地へ視線を走らせた。インデックスはあの中へたった 人で飛び込んだ。こんな得体の知れない神父|崩《くず》れにかまけている|暇《ひま》はないのだが……、
「ああ、|禁書目録《あのこ》なら気にするな。そこらに『|人払い《Opila》』のルーンを刻んだからね、魔力の流れを見つけて調べに行っただけだろう」
|上条《かみじよう》はギョッとした。
ルーン|魔術《まじゆつ》。二世紀より使われ始めたケルトの魔術文字。簡単に言えば『チカラ持つ文字』の事で、紙に『|火炎《Kenaz》』と書けば、文字の通りに紙から『火炎』が出てくる、という魔術だ。
(……、何だよ。これ)
上条の|喉《のど》が引きつった。
目の前の神父が得体の知れないルーン魔術について語ったから、ではない。
そんな得体の知れない知識が[#「そんな得体の知れない知識が」に傍点]、何の違和感なくスラスラと出てくる自分の頭のせいだ[#「何の違和感なくスラスラと出てくる自分の頭のせいだ」に傍点]。
それは明らかに異常だった。まるで清らかな河の真ん中に、ぶっすりと|錆《さ》びたバイクが突き刺さっているような、ぽっかりと穴の空いた異常。青信号になったら横断歩道を渡る、ケータイでメールを送るたびにお金がかかる、といったごく普通の知識と|一緒《いつしよ》に、当たり前のように魔術なんてモノが日常に混じっている異常[#「当たり前のように魔術なんてモノが日常に混じっている異常」に傍点]――――ッ!
『|記憶《きおく》を失う前の』上条|当麻《とうま》は、
一体、どんな世界に住んでいたのか、と。
上条当麻はここにきて初めて、自分で自身の|在《あ》り方に|身震《みぶる》いした。
「ふん?」
香水|臭《くさ》い神父は、そんな上条の顔色に何を感じ取ったのか、片目を閉じて小さく笑った。
上条は訳が分からない。他人と会話を合わせるだけの余裕もない。とにかく|曖昧《あいまい》に笑って、自分の中の|違和感《いわかん》を無理矢理に押し殺そうとして、
|刹那《せつな》、赤髪の神父はカードのようなモノを一枚取り出し、
「いちいち笑うな《Don't smile with everthing》、ぶっ殺すぞ《Are you ready the die?》」
赤髪の神父の笑みが、|蝋《ろう》で作った人形の顔を溶かすように横へ裂ける。
ゾグン[#「ゾグン」に傍点]、と。
上条の中にある『記憶を失う前の』知識が、体に電気を流すように危機感を訴えた。
「……ッ」
考えるより先に上条の右手が動いた。
上条がとっさに右手を顔の前へー目に飛び込むライトの光を|遮《さえぎ》るように構えた|瞬間《しゆんかん》、神父の右手の|掌《てのひら》から炎が噴き出した。まるで神父の手の中からガソリンでも噴き出したかのように、それは一瞬で|紅蓮《ぐれん》に輝く炎剣を生み出す。
神父は一秒すら待たない。
一切のためらいもなく、一片の|容赦《ようしや》もなくー上条の顔面へと炎剣を勢い良く振り下ろす。
炎剣は激突と同時に|膨《ふく》らみ、風船が破裂するように辺り一面へ炎を|撒《ま》き散らした。炎が酸素を吸い込む|凶悪《きようあく》な音が|響《ひび》く。|摂氏《せつし》三〇〇〇度もの炎の|地獄《じごく》が|渦《うず》を巻いて辺りを犯し尽くす。
|轟《ごう》! と、炎の勢いは|留《とど》まる所を知らず、
|清《しん》……と、|一瞬《いつしゆん》で凍えて砕けるように消滅した。
「はあ……ハァ……ッ!」
|上条《かみじよう》はとっさに顔を守った右手の構えを解かず、そのまま荒い呼吸を繰り返す。
|幻想殺し《イマジンブレイカー》。
上条の右手に宿る、それが異能の力であるならば、神の奇跡さえも触れただけで無効化させるという正体不明の異能力。
「ハァ……はぁ……っ!」
|強張《こわば》り、|震《ふる》え、ろくに身動きも取れない上条を見て、神父はようやく満足そうに笑った。
「そうだよ、その顔。上条|当麻《とうま》とステイル=マグヌスの関係はこういうものだろう? 何度も言わすな、たった一度の|共闘《きようとう》ぐらいで|日和《ひよ》ってもらっちゃ困るんだよ」
裂けて溶けて引き伸ばされたような、神父の笑み。
だが、上条は答えられなかった。それは自分の体に宿る力の異常性に|怯《おび》えているからではない。まして、ステイル=マグヌスと名乗った神父に対する|脅《おび》えであるはずもない。
そう、あるとすればただ一つ。
いきなり炎剣なんて訳の分からないものを振り下ろされたくせに、ほとんど何も考えず条件反射だけで、さも当然のように『|攻撃《こうげき》』を受け止めていた自分自身の『|知識《じようしき》』が。
|恐《こわ》い。
「な……、に。を――――」
上条はとっさに後ろへ二歩、三歩と下がる。『知識』が、『|記憶《きおく》を失う前の』上条当麻が命の危機を訴えていた。
内なる敵[#「内なる敵」に傍点]に構う|暇《ひま》はない、と上条は思う。今は|外《へち》の|敵《へ》をどうにかするべきだ、と。
「――――する、つもりだ。テメェ!!」
これも|染《し》み込んだ『知識』のおかげなのか、格闘技の型にはまらない、自分でも|驚《おどろ》くほどケンカ慣れした構えを取りつつ上条は吼えた。
それに対して、神父の姿をした|魔術師《まじゆつし》は小さく笑い、
「うん? |内緒話《ないしよぱなし》だけど」
何言ってんだ? と上条は思う。……思うのだが、ステイルは|懐《ふところ》から何やら大きな封筒を取り出した。いかにも重要な書類が入っていそうな大きな封筒だ。まさか本気で内緒話するつもりなのか、と上条は|眉《まゆ》をひそめる。ただでさえ片側三車線の、滑走路にもなりそうなぐらい広い大通りで、しかもあれだけの爆破|騒《さわ》ぎを起こしておいて、ここで内緒話を――――?
(……?)
と、そこまで考えて、上条はようやく気づいた。
あれだけの爆破騒ぎを起こしておきながら[#「あれだけの爆破騒ぎを起こしておきながら」に傍点]、一向に騒ぎが起きる様子がない[#「一向に騒ぎが起きる様子がない」に傍点]。
(……ッ!?)
違う、と。|上条《かみじよう》は一歩遅れて現実を直視した。
|騒《さわ》ぎが起きない、のではない[#「のではない」に傍点]。そもそも|誰《だれ》もいないのだ。片側三車線の滑走路にもなりそう
な大通りで、左右には大きなデパートがいくつも建ち並んでいるというのに、気がつけば通りには人もなく、車もなく―――上条とステイルの二人しか存在しなかった。
からから、と。風力発電のプロペラが|髑髏《どくろ》の笑いのように無人の街に|響《ひび》き渡る。ひどく遠くから、同じく無人の踏み切りのサイレンが届いてくるのが分かる。
「だから、言った―――」
夜の湖のような|静寂《せいじやく》をそっと破るように、ステイルは小さく笑った。
「――――ルーンを刻み、|人払い《Opila》は済ませておいた、ってね」
行け《Ehwaz》、という声。ステイルは手に持っていた大きな封筒を、葉書でも弾《はじ》くように人差し指で飛ばした。分厚い封筒はまるでフリスビーのようにくるくる回りながらゆっくりと|上条の手元へ収まっていく。
封筒の口には、まるで封をするように奇妙な文字が刻んであった。
「受け取るんだ《Gebo》」
ステイルが|呟《つぶや》いた|瞬間《しゆんかん》、封筒の文字が光り、その封が刃物で切ったように真横に裂けた。
「『三沢塾』って進学予備校の名前は知ってるかな?」
ステイルは歌うように言った。|膨大《ぼうだい》な書類の一枚一枚にはやはりルーンが刻んであるらしく、まるで|魔法《まほうじ》の|絨毯《ゆうたん》みたいに必要な書類だけが封筒から飛び出して、上条の目の前でふわふわ浮かんでいる。
「みさわ……?」
上条|当麻《とうま》は|記憶喪失《きおくそうしつ》だ。
あらゆる思い出を持たない彼は、自分の中の『知識』と照らし合わせるしかない。だが、『三沢塾』なんて名前にはやはり覚えはなかった。どうやら『記憶を失う前の』自分は大学受験にあんまり興味がないようだった。
「一応、この国ではシェア一位を|誇《ほこ》る進学予備校らしいけどね?」
ステイルはつまらなそうに言う。
予備校、というのは読んで字のごとく、予備の学校だ。大学受験に失敗した浪人生が勉強するための塾、と思ってもらえれば良い。
学園都市で言う『進学予備校』の定義というのはそれに一工夫加えたもので、本当は大学に受かるだけの実力があるのに[#「本当は大学に受かるだけの実力があるのに」に傍点]、さらに上の大学へ進むため[#「さらに上の大学へ進むため」に傍点]にわざと浪人して一年間受験勉強をしよう、という人間のために作られた予備校だったりする。
ひらり、と上条の目の前に資料の 枚が飛んでくる。
どうやら、三沢塾は『進学予備校』と、さらにまだ浪人生になってない、つまり普通の高校生が通う『現役予備校』の二つの顔を持つらしい。
「……で、その『みさわじゅく』に何の用があるってんだ? お友達を紹介すると授業料でもまけてもらえんのか?」
不信感も|露《あらわ》に、|上条《かみじよう》はステイルの顔を見た。
目の前の香水|臭《くさ》い神父と予備校という言葉があまりに遠すぎるような気がしたからだ。
ああ、それね―――とステイルはつまらなそうに答え、
「そこ、女の子が監禁されてるから。どうにか助け出すのが僕の役目なんだ」
上条はギョッとしてステイルを見た。
監禁、という|物騒《ぶつそう》な言葉に対して、ではない。目の前の男の正気を疑ったのだ。いや、ステイルが単に狂ってるだけなら問題ない。問題ないのだが、コイツは火炎放射器みたいな|魔術《まじゆつ》を自在に操るだけの力があるから|厄介《やつかい》なのだ。
「ふん。資料を見てもらえれば分かるとは思うけどね」
ピン、とステイルは人差し指を立てる。上条の持つ封筒から次々と飛び出したコピー用紙が、まるで|紙吹雪《かみふぶき》のように舞って上条の周りを取り囲む。
―――それは『三沢塾』の見取り図だった。
ただし、図面の見取り図と、外から赤外線や超音波を使って測った実寸とでは食い違いがあるらしい。所々に虫食いのように|歪《いびつ》な隠し部屋があるのは明白だった。
―――それは『三沢塾』の電気料金表だった。
ただし、|全《すべ》ての部屋、全ての電気製品を調べても料金は合わなかった。この建物の中で、人の目を隠すように大量の電気が使われている事は明白だった。
―――それは『三沢塾』を出入する人間のチェックリストだった。
ただし、生徒にしても教師にしても、大量の食料品を買い込んでいる事が分かった。ゴミの回収業者を装ってゴミ箱の中身を全て調べても、数が合わなかった。建物の中にいる『|誰《だれ》か』
に食べさせているのは明白だった。
―――そして、最後の一枚。
今から一ヶ月前、一人の少女が『三沢塾』のビルに入っていく所を|目撃《もくげき》した。
学生寮の管理人から話を聞く限り、彼女はそれから一度も部屋へ戻っていないらしい。
「今の『三沢塾』は科学|崇拝《すうはい》を軸にした新興宗教と化しているんだそうだ」
ステイルはつまらなそうに言った。
科学崇拝……? と上条は|訝《いぶか》しげに|眉《まゆ》を寄せて、
「って、あれか? 神様の正体はUFOに乗ってやってきた宇宙人とか、聖人のDNAを使ってクローンを作ろうとかっていう……?」
科学と宗教は|相容《あいい》れない、という考えは短絡だ。西洋圏の医者や科学者の中には十字教の信者だってたくさんいる。
ただし、同時に科学宗教は追い詰められるととんでもない事件を起こすのも事実だった。何せ相手は最先端の科学技術を持っている。毒ガスや爆弾の生成ぐらいは訳はないのだ。
科学技術の最先端であり、同時に『学習・教育』の場である学園都市は、そういった科学宗教を特に警戒している。何しろ元が『モノを教える』という環境であるため、ふとした事がきっかけで教育現場が洗脳工場になりかねない。
「教えについては不明だけどね。それに正直、『三沢塾』がどんなカルト宗教に変質していようが知った事じゃないんだ。現在はもう|潰《つぶ》れている事だしね」
「……?」
「端的に言って」ステイルは、吐き捨てるように、「『三沢塾』は乗っ取られたのさ。科学かぶれのインチキ宗教が、|正真正銘《しようしんしようめい》、本物の|魔術師《まじゆつし》――いや、チューリッヒ学派の|錬金術師《れんきんじゆつし》にね」
「本物……?」
「ああ、|胡散臭《うさんくさ》い|響《ひび》きだとは|魔術師《ぼく》でも思う……って、ちょっと待て」
「何だよ?」
「……、少し、物分かりが良すぎないか? 君、ひよっとして畑が違うからって右から左へ聞き流しているんじゃないだろうね?」
|上条《かみじよう》はギョッとした。
別にステイルの言っている事が図星だったからではない。上条はそこそこ真剣にステイルの話を聞いていたし、自分なりに分からない言葉を|噛《か》み砕いて正直に受け答えしていたはずだ。
そこに[#「そこに」に傍点]、違和感を覚えられた[#「違和感を覚えられた」に傍点]。
今ここにいる上条|当麻《とうま》と、『|記憶《きおく》を失う前の』上条当麻にズレがあると指摘されたような気分だった。
(気づかれるな、気づかれるな……ッ!)
目の前の魔術師が、あの少女とどんな関係なのか『今の』上条当麻には分からない。だが、たとえどんな他人にも、上条当麻が記憶|喪失《そうしつ》である事は知られたくない。
上条は見た。上条は病室で見た。白い修道服を着た一人の少女が泣き出す姿を。目の前にいる男を『記憶を失う前の』上条だと思い込んで[#「思い込んで」に傍点]救われたような顔をした一人の少女を。
彼女の救いを|壊《こわ》す訳にはいかない。
だからこそ上条は世界を|騙《だま》す。自分すらも|偽《いつわ》ってみせる。
「チッ、たまに|真面目《まじめ》に聞いてやったらこれかよ? お前はアレか、マゾですか? 会話の腰は片っ端から折られなけりゃ気が済まないタイプですか?」
だが、『今の』上条当麻には、『記憶を失う前の』上条当麻とどこが違うのか、それが良く分からない。地図を見て歩いているコースが間違っていると気づいた所で、三六〇度見渡す限り砂漠しかなかったらどっちに進んで良いのか分からない。
ステイルはしばらく|上条《かみじよう》の顔を不審そうに眺めていたが、
「まあ、いいか。話がスムーズに進む分には問題ないし」
やがて、気を取り直したように本題に戻った。
「重要なのは、その|錬金術師《れんきんじゆつし》が『三沢塾』を乗っ取った理由さ。ま、一つは簡単だ、元々ある『三沢塾』って|要塞《システム》をそのまま再利用したいと思ったんだろうね。|生徒《しんじや》のほとんどは|校長《きようそ》の首がすげ替わってる事にも気づいていないはずだよ」
けどね、とステイルは小さく息を吸って、
「錬金術師のそもそもの目的は、『三沢塾』に捕らえられていた|吸血殺し《デイープブラツド》なんだ」
|吸血殺し《デイープブラツド》?
上条はそんな名前を知らないし、そんな『知識』もないようだった。だが、その言葉に含まれる意味は、あまりに|不吉《ふきつ》が過ぎる。
「元々、『三沢塾』では|巫女《みこ》としての役割を持たせるために監禁していたらしいけど。ま、女をダシに|位《レベル》の高いモノを呼び出すって言うんだから巫女で間違いないとは思うけどさ」
「……、」
「かねてから|吸血殺し《デイープブラツド》を|狙《ねら》っていた錬金術師なんだけど、一歩先に『三沢塾』が|吸血殺し《デイープブラツド》に|辿《たど》り着いた訳だ。いや、ヤツにしても面倒だったはずさ。|誰《だれ》にも気づかれずに|吸血殺し《デイープブラツド》を奪って学園都市から逃げるはずの計画が、『三沢塾』が派手に動いたせいで全部水の泡になったんだから」
「つまり、『三沢塾』から|強引《ごういん》に手柄を奪い返したって訳なの……か?」
大泥棒が用意周到に美術館からこっそり絵画を盗もうとした所へ、美術館そのものがド派手な爆弾テロリストに|占拠《せんきよ》されてしまったような……ものだろうか?
大泥棒はとりあえず美術品の価値も分からない|不躾《ぶしつけ》な|破壊魔《はかいま》から標的の絵画を守る事はできたものの、美術館の周りは警官だらけ。仕方がないから美術館の出入口にバリケートを作って立てこもるしかない……とか?
「そうだね。錬金術師にしてみれば、|吸血殺し《あ  れ》の獲得は悲願だろうからね。……いや、それを言うなら|全《すべ》ての魔術師の悲願か。あるいは人類全ての、かもしれないけど」
「???」
上条が何を言って良いのか分からない顔をしていると、
「あれは『ある生き物』を殺すための能力なのさ。いや、それだけじゃない。実在するかどうかも分からない『ある生き物』を生け捕りにできるかもしれない|唯一《ゆいいつ》のチャンスでもある」
上条にはまだ分からない。
「ある生き物っていうのはね、僕|達《たち》の間じゃカインの|末裔《まつえい》なんて隠語が使われているけれど」
ステイルは小さく小さく笑い、それこそまるで|内緒話《ないしよぱなし》でもするかのような声で、
「簡単に言えば、吸血鬼の事だよ」
言った。
「お前、それ本気で言ってんのか?」
その言葉を聞いた時、最初に出てきた言葉はそれだった。
吸血鬼。どこの神話がルーツになってるのか、なんて話は|上条《かみじよう》には分からない。ただ、ゲームやマンガに出てくる限りだと、
吸血鬼は十字架やお日様の光に弱い。
吸血鬼は胸に杭を打たれると死ぬ。
吸血鬼は死ぬと灰になる。
吸血鬼に|噛《か》み付かれた人は吸血鬼になる。
……これぐらいの知識しかない。しかも|何故《なぜ》か上条の『知識」にあるマンガやゲームはそのことごとくが十字架クソ喰らえのパンクなアクションモノだった。
「……、|冗談《じようだん》で言ってられる内は、幸せだったんだけどね」
だというのに、ステイルは歯を食いしばって上条から視線を逸らしていた。
あれだけの炎を操る|魔術師《まじゆつし》が、まるで何かに|脅《おび》えているかのように。
「ふん。吸血鬼を殺すための|吸血殺し《デイープブラツド》が存在する以上、『殺されるべき吸血鬼』がいなければ話にならない。まるで正義の味方のための悪者、みたいな|悪循環《あくじゆんかん》だけどね、こればっかりは
絶対だ。……僕だって、ありえる事なら否定したかった」
「……って、何だよそれ? そんな絵本みてーな吸血鬼が、まさかホントにいるってのか?」
上条の心は否定している。
だが、単純に突っぱねるにしては、目の前の男の放っ空気はあまりに深刻すぎる。
「それを見た者はいない――――」
自信の|塊《かたまり》のようなステイル=マグヌスは歌ヶように言った。
「―――それを見た者は死ぬからだ」
「……、」
「もちろん僕だって|鵜呑《うの》みにしている訳じゃないけどね。|誰《だれ》も見た事はない、なのに|吸血殺し《デイープブラツド》
の存在がそれを証明してしまった。それが問題なのさ。相手がどれだけ強いかも分からない、相手がどれだけの数かも分からない、相手がどこにいるかも分からない。分からない分からない分からない、分からないモノには手が出せない」
歌うように繰り返すステイルだったが、『吸血鬼』という言葉を呑み込めない上条にはいまいち実感が|湧《わ》かない。まあ、世界中に散らばった見えないテロリストを相手にするようなモノか、と頭の中で|翻訳《ほんやく》する。
「けど、分からないモノには同時に未知の可能性があるのさ」ステイルは皮肉げに笑った。「|上条当麻《かみじようとうま》、君は『セフィロトの樹』という言葉には……覚えがあるはずないね」
「……、んな事言われたって傷はつかねーけどな」
「結構。『セフィロトの樹』っていうのは神様、天使、人間などの『|魂《たましい》の|位《レベル》』を記した身分階級表さ。簡単に言えば、人間は修行すればここまで昇れる、けれどここから先に人間は踏み込んじゃいけないよ、という感じだね」
「……で、人けなしておいて何が言いてーんだよ?」
「傷ついてるかい? 僕が言いたいのはね、人間には、どれだけ努力しても辿り着けない高みがある[#「どれだけ努力しても辿り着けない高みがある」に傍点]、という|事《ヘへも》さ。それでも上に昇りたいのが人間だ。|辿《たど》り着きたいと思うからこそ|魔術師《まじゅつし》だ。なら、どうすれば良いか」
ステイルは、皮肉げな笑みを引き裂くように、
「簡単さ[#「簡単さ」に傍点]、人間以外の力を借りれば良いだけだ[#「人間以外の力を借りれば良いだけだ」に傍点]」
上条は、何も言えなかった。
「吸血鬼ってのは不死身だからね。えぐり出した心臓を魔剣に組み込んだって生き続ける。差し詰め生きる魔道具って感じかな?」ステイルは吐き捨てるように、「事の|真偽《しんぎ》は関係ない。そこにわずかな可能性があるならば、それを試すのが学者という生き物だ」
つまり、ステイルはこう言いたいのだ。
吸血鬼、なんてものが実在するかどうかは関係ない[#「関係ない」に傍点]。ようは、それを信じて事件を起こしてしまった人間がいる事、そして事件が起きた以上|誰《ぜれ》かがそれを解決しなければならない事。重要なのはそこなのだ。
「それじゃ、結局吸血鬼なんてのは『いるかどうか分からない』ままなのか?」
あるかどうかも分からない古代の財宝を巡って戦う話、なんてのはアクション映画ならいくらでもありそうだが、実際に|目《ま》の当たりにするとこれ以上|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい話もない。
「元々『あるかどうか|分《オカ》からないモノ』を|扱《ルト》うのが僕|達《たち》の仕事だからね」だが、ステイルは皮肉げに笑い、「『三沢塾』や|錬金術師《れんきんじゆつし》も本気みたいだよ? 本気で吸血鬼と|交渉《ゲ ム》しようとしてる。そのために|切り札《カード》が必要だから|吸血殺《デイープブラッド》しなんてものが入用なのさ」
「……、」
「それと、|吸血殺し《デイープブラツド》の過去を知ってるかい? あの子は元々京都の山村に住んでいたらしいけど、村はある日全滅したそうだ。最後に通報した村の人間はよほど|錯乱《さくらん》していたらしく、化け物に殺されると言ったらしいけどね。それで駆けつけた人間が見たものは無人の村と、立ち尽くす一人の少女と―――村を|覆《おお》い尽くすように、|吹雪《ふぶき》のごとく吹きすさぶ白い灰だけだった、って話さ」
灰。
吸血鬼は死ぬと灰になる。
「確かに吸血鬼なんて『いるかどうかも分からないモノ』なんだけどさ。良く考えてご覧よ。|吸血殺し《デイープブラツド》とは『吸血鬼を殺す力』だ。ならば、まずは|吸血殺し《デイープブラツド》は吸血鬼と出会わなければならない。|是《ぜ》が|非《ひ》でも吸血鬼に|遭遇《そうぐう》したいと願う者なら、まずは|吸血殺《デイ−プブラツド》しを押さえておく事に越した事はないんじゃないかな。……もっとも、『吸血鬼を殺すほどの絶大な力』の持ち主をどう御するかは大きな問題だとは思うけどね」
それはもう異世界の会話と言って良い。
これ以上聞くのは危険だ、と|上条《かみじよう》は本能的に思った。これ以上コイツの話を聞いていると、自分の中の常識がどんどん狂っていくような気がする。このまま放っておくと取り返しがつかないぐらい|歪《ゆが》んでしまうような、そんな|錯覚《さつかく》さえ覚える。
上条は早々に話を打ち切るために、手っ取り早く質問をした。
「で、さつきっからさんざん『|内緒話《ないしよぱなし》』やってっけど、お前結局何が言いたいんだよ?」
「ああ、そうだね。お互い時間はない、さっさと済まそう」ステイルはうんうん、と二回|頷《うなず》いて、「―――とまあ、端的に言って、僕はこれから『三沢塾』に特攻をかけて|吸血殺し《デイープブラツド》を連れ出さないとまずい状況にある」
うん、と上条も簡単に頷いた。だが、
「簡単に頷かないで欲しいね。君だって|一緒《いつしよ》に来るんだから」
…………………………………………………………………………………………………………。
「はぁ!? テメェ今なんつった!?」
「単純な事実を。あ、それとさっきのは|突入前の打ち合わせ《ブリーフイング》だから。会話の中身は覚えてるだろうね? 資料の方は一度目を通したら燃えるように|炎のルーン《Kenaz》を刻んであるから暗記をサボると後で痛い目見ると思うよ」
「ちょ、!」
|冗談《じようだん》じゃない、と上条は思う。目の前のステイルだって人殺しをためらわず、人殺しに最適な力を持った人間なのだ。ここにさらに『敵』の|錬金術師《れんきんじゆつし》なんてワケワカラナイモノが待つ|本拠地《ほんきよち》になんか忍び込んだら、それこそ殺人事件に巻き込まれかねない。
「ああ、それとね」ステイルは感情のない声で、「拒否権はないと思うよ。従わなければ君の|側《そば》にいる|禁書目録《インデツクス》は回収する、という方向になるから」
「!」
ドスリ、と。その言葉は|何故《なぜ》か胸の中心に突き刺さった。
『知識』が。残された『|記憶《きおく》を失う前の』|上条当麻《かみじようとうま》の|残骸《ざんがい》が、何かに対して|脅《おび》えている。
「|必要悪の教会《ネセサリウス》が君に下した役は『首輪』の外れた|禁書目録《インデツクス》の裏切りを防ぐための『|足枷《あしかせ》』さ。
だが、君単体が教会の意に従わないなら効果は期待できない」ステイルはため息をつきながら、
「けどまあ、君が教会にとって『不用』なら個人的にはすごく助かる。感謝もするよありがと
う。効果のない『足枷』に意味はないからね、僕も気兼ねなくあの子を回収できる」
それは|脅迫《きようはく》だ。
従わなければすぐ近くの少女に危害が加わるという脅迫だ。
「……、」
ゾグン、と。|鼓動《こどう》はまるで己の心臓に|杭《くい》でも突き刺すような|凶悪《きようあく》ぶり。上条当麻には記憶
がない。あの少女と知り合ったのだって『記憶を失う前の』上条当麻がやった事であって、今の自分とは関係ない。きっと鼓動がおかしいのも、頭が何も考えられなくなるのも、『記憶を失う前の』自分の残骸のせいであって、今の自分には何の関係もないはずだ。
なのに、
どうして、
「……テメェ[#「テメェ」に傍点]。本気で言ってやがんのか[#「本気で言ってやがんのか」に傍点]、それ[#「それ」に傍点]?」
こんなにも|苛《いら》ついている自分の事が、こんなにも正しい事だと信じる事ができるんだろう?
上条は思う。
確かにインデックスと知り合ったのは『記憶を失う前の』上条当麻だ。インデックスが|信頼《しんらい》し、笑みを向けているのも『今ここにいる』上条ではないだろう。
けれど、それでも良いと思った。
かつて、白い病室で出会った一人の少女は、ボロボロの上条を見て泣いていた。
その涙を止めるためならば、
たとえ世界を|騙《だま》し自分を|欺《あざむ》いてでも、ウソを貫き通すと誓ったんだから――――ッ!
「……、ふん」
ステイルはつまらなそうに目を逸らした。
まるで自分の役目を取られた役者のような顔をしているのが、不思議と言えば不思議だった。
「殺し合いなら『三沢塾』に|潜《ひそ》む|錬金術師《れんきんじゆつし》を仕留めてからにしよう。それと、言い忘れたけど。|吸血殺《デイープブラツド》しの本名は|姫神秋沙《ひめがみあいさ》だ。写真はその中に入ってるから確かめた方が良い。助けに行ったのに目的の顔が分からなければ手の打ちようがないだろうからね」
封筒の中から一枚の写真が|滑《すべ》り落ちる。
それもやはりステイルのルーンによって支えられているらしく、空中を舞うとピタリと上条の顔の前で停止した。
上条は写真を見る。
|吸血殺し《デイープブラツド》。|物騒《ぶつそう》な名前を持つ能力者の顔はどんなもんか、と思い
そこに、昼間出会った|巫女《みこ》さんの顔があった。
「え……?」
|上条《かみじよう》の|吐息《といき》が凍りつく。
生徒手帳か何かに使う証明写真を拡大したような写真は、確かに|姫神秋沙《ひめがみあいさ》―――そして昼間の巫女さんの顔だった。
上条はステイルの言葉を思い出す。
―――元々、『三沢塾』では巫女としての役割を持たせるために監禁していたらしいけど。
上条は昼間の少女の言葉を思い出す。
――――私。巫女さんではない。
上条は|魔術師《まじゆつし》の言葉を思い出す。
――――そこ、女の子が監禁されてるから。どうにか助け出すのが僕の役目なんだ。
上条は姫神秋沙の言葉を思い出す。
――――ん。塾の先生。
「……ッ!」
けど、何で……と上条は考える。ステイルの話では、姫神秋沙は『三沢塾』の中に監禁されているはずだ。仮にあの巫女さんが|吸血殺し《デイープブラツド》だったとして、何であんなのんびりとファーストフード店で食い倒れてたりしてたんだ?
――――帰りの電車賃。四〇〇円。
まさか、逃げ出したんだろうか、と上条は思う。監禁されているはずの姫神が外にいるならば、『三沢塾』から脱走したとしか考えられない。
――――全財産。三〇〇円。
そう考えれば、姫神の所持金の少なさも|窺《うかが》える。とりあえず着の身着のままで逃げ出して、電車やバスなどの交通機関を乗り継いでいけば自然とお金も減っていく。
けど、だったら何でファーストフード店にいた? 上条は考える、死にもの狂いで『三沢塾』から逃げ出したのなら、あんな所でまったりしている理由は
――――やけぐい。
「あ」
|唐突《とうとつ》に、上条はその言葉を思い出した。
仮に、もう全財産が尽きてしまって逃げる事ができなくなってしまったら? もう逃げる事ができないから、せめて最後に思い出を作ろうとしていただけだとしたら?
少女は、あと一〇〇円を貸して欲しいと言った。
それは、あと一〇〇円さえあれば三沢塾から逃げ切るだけの勝算があったから、なのか?
それで。少女のたった一つの願い。それを断ったのは、一体どこの|馬鹿《ばか》だ?
――――だから、やけぐい。
「く、そ……ッ」
しかも|姫神《ひめがみ》は、『塾の先生』に取り囲まれた時、何の抵抗も見せなかった。もちろん、抵抗したかったに違いない。死にもの狂いで『三沢塾』から逃げ出しておいて、簡単に連れ戻される事を良しとするはずがない。
普通の人間なら、まず逃げ出す。
一人で逃げ出すのが無理なら、|他《ほか》の人に助けを求めるはずだ。
だけど、
助けを求めるという事は[#「助けを求めるという事は」に傍点]、助けを求めた他人を事件に巻き込む事を意味している[#「助けを求めた他人を事件に巻き込む事を意味している」に傍点]。
「くそったれが……ッ!!」
イライラした。|上条《かみじよう》は何も考えられなくなるぐらいイライラした。そんな少女をモノみたいに監禁していた『三沢塾』、それを横取りするためにやってきた|錬金術師《れんきんじゆつし》、そして|吸血殺し《デイープブラツド》は吸血鬼に首輪をつけるための切り札だ、と言っていたステイル。
けれど、一番頭にきたのは、上条を|庇《かば》って自分を殺した姫神|秋沙《あいさ》だった。
だって、間違ってる。上条がほんの一〇〇円さえ払っていれば少女の人生は変わっていたかもしれないのだ。なのに、少女は自分を絶望させた人間を助けるために、死にもの狂いで逃げ出した『三沢塾』に連れ戻されるなんて間違ってる。
その『新興宗教』がどういう|類《たぐい》のものかなんて知らない。
だけど、女の子が一人。そんな場所に監禁されて、どんな扱いを受けるかなんて想像もできない。想像もしたくない。
その痛みは、本来上条が味わうべきものだ。
(人の、|負債《ふこう》を――――)
上条は|唇《くちびる》を|噛《か》み締める。己の犬歯に血の味がこびりつく。
(―――勝手に、背負いやがって!)
思えば、そこが一番イライラした。そこだけで頭が|沸騰《ふつとう》するかと思った。
上条には、『思い出』なんて何もない。
ただ、その生き方。周りの|全《すべ》てにモノとして扱われながら、それを良しとする思考。自分の痛みを殺して他人を助けようと、それが心底幸せだと語る思考回路。
他人のために傷ついて、それでも笑っていられる一人の少女。
かつて。
そんな少女と出会ったような気がして、上条は何も思い出せない自分にひどく頭にくる。
助けに行かない訳にはいかなかった。
なんていうか、もう、上条|当麻《とうま》は勝手な事ばかりする姫神秋沙を一発ぶん|殴《なぐ》らなければ気が済まなくなっていたのだから。
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行間 一
―――少女は、灰の海に立っていた。
今から一〇年前の話だ。
イギリス清教にある十三の|騎士団《きしだん》の一つ、|先槍騎士団《1stLancer》はその設立目的を守り、『何者よりも早く敵陣を視察する』任に就いていた。
今回、『敵陣』とされるのは東洋の島国、その山間にある京都の小村。『異常なまでに|膨《ふく》れ上がった|魔力《まりよく》の流れ』の正体を突き止め、害意があれば排除せよ、というお決まりの任だった。
―――京都のある山村からあらゆる連絡が|途絶《とだ》えて六時間。
―――様子を見に行った警察官が|行方《ゆくえ》不明になって三時問。
『問題』の起きた山村はすでに|壊滅《かいめつ》状態だろうとその場の|誰《だれ》もが思ったはずだが、同時に|珍《めずら》しい事でもない。英国には|大英博物館《アーセナル》という『世界各地から|強奪《ごうだつ》した|霊品宝具《れいひんほうぐ》を収集する』血の|祭壇《さいだん》がある。宝物に宿る、怒れる古代王の|亡霊《ぼうれい》などを相手にするのと比べれば危険度は低い。
現に、支給された装備も通常通りの|施術鎧《せじゅつがい》に十字|槍《やり》のみで、|量産聖槍《ロンギヌス=レプリカ》すらない。施術鎧単品でも『装甲に魔力を通し装着者の運動能力を二〇倍に高める』|聖鎧《せいがい》なのだから一級|霊装《れいそう》と呼べるが、お偉方がまともに取り合っていないのは誰が見ても明白だった。
だが、それでも一文。気になる事がある。
電話を使った生存者最後の連絡には、以下のような内容が含まれていたらしい。
『助、け――。あれは――人間じゃな……い。あれは   だ』
もちろん誰も信じていない。
教会のお偉方だって信じていないからこそ、まともな装備も渡さなかったのだ。
しかし、歴戦の|先槍騎士団《1stLancer》全員に、どこか|嫌《いや》な重圧が加わっていたのも事実だ。
英国国立図書館に古くから記録だけは残っているものの、誰もその姿を見た者はおらず、|捕縛《ほばく》したという事実も存在しない『ある生き物』。その、いるかどうかも分からない『ある生き物』が、|何故《なぜ》今日まで存在を否定されていたのか、その理由を考えれば『重圧』の訳は明白だ。
そんな生き物が存在するなら[#「そんな生き物が存在するなら」に傍点]、世界はとっくに終わっているからである[#「世界はとっくに終わっているからである」に傍点]。
別に『ある生き物』の腕力が|恐《こわ》い訳ではない。腕力で|敵《かな》わないなら、腕力以外の力で敵を倒すのが人間だ。そのために様々な道具を、武器を、兵器を作り上げたのだから。
別に『ある生き物』の不老不死が恐い訳ではない。相手が殺しても死なないのなら、殺さずに勝つ方法を探せば良い。例えば南極の永久凍土の下に閉じ込めたり、|不死身《ふじみ》の体を二〇〇のパーツに解体して|瓶詰《びんづ》めにしたり。
問題なのはそこではない。
問題なのは『ある生き物』が持つとされる、その|膨大《ぼうだい》な『|魔力《まりよく》』だ。
魔術における魔力とは、簡単に言えばガソリンだ。寿命や生命力といった原油を体の中で精製して、より使いやすいガソリンを作り出す。元から限られた寿命しか持たない人間にとって、魔力の『強い』『弱い』の違いなど、この精製が上手いか下手かの違いでしかない。
ところが、『ある生き物』は違う。
根本から、原油である寿命や生命力のケタが違う。|否《いな》、ケタの違いではなく、彼らの生命力は文字通りの『無限』なのだ。当然、使える魔術にも差が生まれる。弾に限りのある|拳銃《けんじゆう》では、終わりのないミサイル|攻撃《こうげき》に|太刀打《たちう》ちできるはずがない。
|故《ゆえ》に、彼らは自らの不安を一笑し、けれど完全に不安を|拭《ぬぐ》い去る事ができない。
そうして、山の草木をかき分けて時代から取り残された山村へと到着した彼らは、目の前の光景に心臓を握り|潰《つぶ》された。
辺り一面には、真っ白な灰。
時代から取り残されたような東洋の廃村は、まるで|吹雪《ふぶき》のような一面の白い灰が吹きすさんでいた。民家の屋根も田んぼの土も細い農道も、その|全《すべ》てが|薄《うす》く薄く灰に|覆《おお》われている。
灰。
『ある生き物』の、|死骸《しがい》……だろうか?
だが、彼らが|驚《おどろ》いたのはそこではない。死骸とすれば一〇や二〇ではきかない、この灰を見
てなお、目の前の光景には太刀打ちできない。
灰の吹雪の中心に、一人の少女が立っていた。
|歳《とし》にしてみれば五歳か六歳に満たない、東洋人特有の黒髪を持つ少女。だが、その愛くるしい顔立ちを見てなお、異端を滅する|騎士達《きしたち》は止まった心臓を動かす事さえできなかった。
村中を覆い尽くす『ある生き物』でさえ、全滅し灰の吹雪と化したこの|地獄《じごく》の中、
その少女には、傷の一つさえ存在しなかったからだ。
風が舞い、灰が|渦巻《うずま》く。
山に囲まれた廃村を埋め尽くすように灰は吹きすさぶのに、少女の周りだけは聖域に守られるがごとく灰の侵入を受けない。まるで、死した灰がそれでも恐怖に|脅《おび》え|避《さ》けているように。
「わたし――――――」
少女は言う。
「――――――わたし、またころしたのね」
まるで、それが自分の日常だと言わんばかりの声で。
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第二章 魔女狩りは炎と共に By_The_Holy_Rood…
|禁書目録《インデツクス》という少女について考えてみる。
|上条《かみじよう》の『知識』は言っている。彼女は一度覚えた事を絶対に忘れないという完全|記憶《きおく》能力という体質を持ち、その体質を使って一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を頭の中に記憶している。
けれど、それは|諸刃の剣《もろはつるぎ》だ。決して忘れない、という事は、逆に言えば忘れたくても忘れられない、という事を意味している。三年前のスーパーのチラシからラッシュ時に駅ですれ違う人の顔一つ一つに至るまで、覚えていても何の意味もない記憶は彼女の頭へ一方的に蓄積されるだけで、『忘れる』という方法で取り除く事ができないのだ。
そのため、彼女は魔術を使い、一年ごとに自分の思い出を|全《すぺ》て消去しなければならない。そうしなければ脳がパンクして死んでしまうからだ。
だが、そんな彼女は今、何だかのんびりと上条の横で笑っていたりする。
彼女の話によると、その絶望的な状況を救ったのは上条本人らしい。だが、上条には分からない。その時に何を思い、何を実行したのかという事が。
さて、と上条は思う。
ひとまずステイルと別れ、インデックスを学生寮に連れて帰って来たのは良いが、上条はこれから『三沢塾』という戦場に向かわなければならない。インデックスを連れて行くなんて論外だし、だとするなら『三沢塾』に向かう事すら隠し通した方が賢明だ。
しかし何の理由もなく出かけてくると言ってもインデックスは不審がるだろうし、|一緒《いつしよ》についていく、とか言い出しかねない。
「とうま?」
|掌《てのひら》に汗が|滴《したた》る。
死地。当然だが、そんな所ヘインデックスを連れて行く事など絶対にできない。
「とうまってば?」
となれば話は簡単。
とりあえず自分の不安は|呑《の》み込み、とにかく一気にまくし立ててみる。
「ちょっとこれからチョーハイテクプライマリーカルチャー施設行ってくる。え、ついてくる? やめとけやめとけお前機械オンチだから超磁力式大脳皮質検出器の使い方とか分かんねーだろそんなんじゃドアのオートロックに閉じ込められるぞセキュリティレベル4だし塩基調べてエクソン未登録だったらお前ビリビリするぞビリビリマイナスイオンビーム―――ッ!!」
ぎゃわーっ! と|案《あん》の|定《じよう》インデックスは専門用語の|嵐《あらし》に知恵熱を出してしまった。
無理もない。駅の切符券売機に『いらっしゃいませ』と言われて思わず頭を下げてしまうほど現代知識のないインデックスである。
「じゃ、とにかく行ってくるから。晩ご飯は冷蔵庫に入ってるからチンして食べる事。電子レンジん中にスプーン突っ込んで火花で遊んだり冷蔵庫のドア開けて涼んだりしないように」
「え? あ、う……電子レンジは、苦手かも」
一体どこをどう間違えれば電子レンジの扱いを失敗するのか分からない、という人もいるだろう。だがインデックスはコンビニ弁当のドレッシングをそのまま電子レンジに入れて爆発させたり半熟卵を温めようとして爆発させたり弁当を温めすぎて爆発させたりと、とにかく爆破オチがついて回る失敗ぶりを見せていた。ひょっとすると『電子レンジとは爆発するもの』と間違った覚え方をしているのかもしれない。
(……この分なら怪しまれてるって事はなさそーだな)
|上条《かみじよう》は、今日こそ失敗すまいと電子レンジと|睨《にら》めっこをしているインデックスを見ながらそっとため息をついて、
気づいた。
「こら。テメェ服の中に何隠してる? より正確に言うならお|腹《なか》の辺り」
「えっ?」ギクリ、とインデグクスは上条を見た。「な、何にも隠してないよ? 天にまします我らの父に|誓《ちか》って、シスターさんがウソをつくはずがないんだから」
言った|瞬聞《しゆんかん》、インデックスのお腹から『みー』という子猫の鳴き声が聞こえてきた。
「ぐるあ="テメェの信仰心はその程度か思いっきり誓い破ってんじゃねえか! 何でも良いからさっさと服ん中に隠した|野良猫《のらねこ》出しやがれ!」
ステイルと話していた時は|緊張《きんちよう》して気づかなかったが、|随分《ずいぶん》と長い間インデックスは裏路地にいたような気がする。ルーンがどうのと言っていたが、途中から野良猫探しに目的が変更していたようだった。
「む。と、とうま、この服は『歩く教会』って言うんだよ?」
「だから何だ」
「教会は迷える子羊に|無償《むしよう》で救いの手を差し伸べるのです。よって路頭に迷ったスフィンクス
は教会の手で保護しました。アーメン」
「……、」上条の|唇《くちびる》が引きつった。「……で、お前その中で野良猫飼ってくんだな。よし分かった。で、猫用のトイレの砂はやっぱり|襟元《えりもと》からザザーっと流し込みゃ良い訳か?」
「……」
「……」
「い、いいもん! スフィンクスは教会が|匿《かくま》うって決めたんだもん!」
「うわあ計画性ねえなテメェ、生き物の命を扱う責務ぐらい考えろーっ!」
「家族と思って飼えば|大丈夫《だいじようぶ》だって!」
「|野良猫《キサマ》にお|義父《 とう》さんなどと言われる筋合いはないっ!」
後味が悪いがこの|野良猫《のらねこ》は『三沢塾』へ行くついでに捨ててかなければなるまい、と|上条《かみじよう》は思う。……思うのだが、そんな事をしたらインデックスは一〇〇%野良猫を取り戻すために上条の後をついてきそうな気がした。
「ばかっ! とうまのばかばかこの子は絶対飼うって決めたんだもん!」
「……、そういうたわけた|台詞《せりふ》はまず自分で|稼《かせ》いでから言おうな」
「けど安心して! 『ばか』って言ってもひらがなの『ばか』だから!」
「聞けよ! っていうか意味分かんねーよ!」
けど、逆に言えば、この猫を飼う事を決めればインデックスは引き下がる気がする。
(……なんていうか、不幸だ)
上条はため息をついた。野良猫の食費を考えると、今日からおかずが一品減るらしい。本当、
何だってよりによってこんな時に野良猫なんか拾ってくるんだと本気で脱力する。
「………………………………………………………………………………………………、よし」
「は? とうま、なんて言ったの?」
「………………………………………………………………………仕方ないから、飼ってよし」
けど、まあ。
そんな一言で涙さえ浮かべそうなほど喜んでいるインデックスの顔が見れればそれもまた良いかな、とは思うけど。
「ああ、天にまします我らの父よ。あなたの温かな光が非情で残忍で冷血で|嗜虐趣味《サディスト》でヘビみたいな目をしたとうまにもようやく届いたみたいです。 一匹の|野良猫《のらねこ》、その|無垢《むく》なる|魂《たましい》をお救いいただいたご恩は一生忘れません」
……思うけど、何か|釈然《しやくぜん》としない|上条当麻《かみじようとうま》だった。
寮の部屋を出ると、別れたはずのステイルが通路に何やらトレーディングカードのようなものを|貼《は》り付けているのが見えた。
「何やってんだアンタ? 」
「見ての通り、結界を張りこの場に神殿を築いている」ステイルは作業を|止《や》めず、「僕|達《たち》が『三沢塾』にかまけている間に、|他《ほか》の|魔術師《まじゆつし》が|禁書目録《インデツクス》に手を出さないという確約はないからね。ま、気休めとは思うけど、|魔女狩りの王《イノケンテイウス》を置いていけばあの子が逃げ出す時間ぐらいは稼いでくれると楽観してみるよ」
|魔女狩りの王《イノケンテイウス》。
上条の『|記憶《きおく》』には覚えがない。だが『知識』は語っている。|摂氏《せつし》三〇〇〇度もの炎に形作られた、自動追尾能力を持つ人型の最終兵器。弱点は――――。
「―――ルーンをばら|撒《ま》いた『結界』の中でしか使えず、ルーンを|潰《つぶ》されるとカタチを維持できなくなる、か」
「……言っておくけど」びく、とステイルの耳が動いた。「あれは決して僕の実力が君に劣るという訳ではない。たまたま地理的な問題があっただけで、スプリンクラーのない場所なら」
「は? 前にケンカした事なんかあったっけ?」
上条の中にあるのは『思い出』ではなく『知識』だ。『|魔女狩りの王《イノケンテイウス》の倒し方』は分かっていても、『どこでそんな情報を仕入れたのか』は分からない。
「くっ……、あれはそもそも記憶するにも値しないと、そう言いたい訳だ君は」何か|勘違《かんちが》いしたままステイルは話を進めてしまう。「まあ良い。この一枚を貼れば結界準備は完了だ、僕達も
|三沢塾《ほんだい》へ向かおう。……まったく、世話が焼ける。魔術師を退けるための結界だというのに、あまり強力すぎるとあの子に気づかれてしまうんだから」
何やらブツブツ文句を垂れているステイルは、何だかとても|嬉《うれ》しそうに見える。
それで、上条は何となく気づいてしまった。
「お前、インデックスが好きなの?」
「ぶっ!?」ステイルは心臓がひっくり返ったように顔を|真《ま》っ|赤《か》にして、「なな何をいきなり言い出すんだ君は! ああれは保護すべき対象であり、けっ決して恋愛対象には―――ッ!」
そうかい、と|上条《かみじよう》は笑って話題を打ち切った。
下手に深入りすると自滅する、と悟ったからだ。それは『今、上条がインデックスをどう思っているか』ではない。『今の上条の気持ちと、「|記憶《きおく》を失う前の」上条|当麻《とうま》の気持ちにズレがあると困る』からだ。
『記憶を失う前の』上条当麻が、インデックスをどう思い、どう接していたかが分からない。
下手に今の上条が何かを言って『記憶を失う前の』上条当麻の発言とズレがあった場合、そこから『記憶を失っている事』がバレてしまう恐れがある。
(まるで自分が二人いるみたいだ……)
上条は心の中で吐き捨てた。二人、という表現も少し違う気がする。まるで入れ替わった|偽物《にせもの》が必死に本物の演技をしているような、そんな|滑稽《こつけい》さすら感じてしまう。
「それじゃ、『三沢塾』へ向かう間に『敵』について触れておこうか」
さらなる|追撃《ついげき》を|避《さ》けるための話題逸らしなのか、ステイルはそんな事を言った。
学生寮を出て、夕暮れの街を歩きながら上条は話を聞く事にする。
「敵の名前はね、アウレオルス=イザードという」
ステイルはそう切り出した。
「アウレオルスと言えば一人しか存在しないが……、うん? なんだい、あまりに有名な名だから|驚《おどろ》いているのか。だがあれはあくまで|末喬《まつえい》だ、力は伝説に聞くほどではないさ」
「? ってか、あうれおるすって|誰《だれ》さ?」
「……、そうか。君は|魔術側《こつち》にはとんと|疎《うと》かったんだな。だがいくら何でもパラケルススという言葉ぐらいは聞き覚えがあるだろう?」
「???」
「くっ……! 知名度の上なら世界で一、二を争う|錬金術師《れんきんじゅつし》の名だ!」
ステイルはイライラしながらそう言った。
上条は夕暮れの街を歩きながら聞いてみる。
「って事は何か、そいつってメチャクチャ強いのか?」
八月の夕暮れは燃えるようで、ビルの窓も風力発電のプロペラも何もかもがオレンジ一色に染め上げられている。まるで色あせた写真みたいだな、と上条は思った。自分|達《たち》の会話があまりに現実離れしているせいかもしれない。
「アレ自体は大した事ないが……何せ|吸血殺し《デイープブラツド》を押さえつけるだけの『何か』を持っているからね。それと、考えたくはないが……最悪、|吸血殺《デイープブラッド》しを使って『ある生き物』を飼い慣らしているかもしれない」
ステイルはアウレオルス=イザードよりも、むしろそちらを気にしているようだった。
だが|上条《かみじよう》には|納得《なつとく》できない。いかに状況が特殊だと言っても、『敵』そのものを二の次に考えるのは何か間違っている気がする。
「おい、そんなんで|大丈夫《だいじようぶ》なのか? 吸血鬼だの|吸血殺《デイープブラッド》しだのってのがどれだけイレギュラーなのか知んねーけど、優先すんのは敵の大将だろうが。火事場のケンカだって、火の海ばかり
気を取られてたら相手にぶん|殴《なぐ》られるぞ」
「ん? ああ、それなら気にする事はないさ。アウレオルスの名は一流だが、力は|衰《おとろ》えている
からね。そもそも|魔術《まじゆつ》世界において、錬金術師なんて職業は存在しないんだ[#「錬金術師なんて職業は存在しないんだ」に傍点]」ステイルはつまらなそうに、「占星、|錬金《れんきん》、|召喚《しようかん》。これらは君|達《たち》で言う国語、数学、歴史なのさ。国語の先生
だって、何も全く数学を勉強しない訳じゃないだろう? 魔術師を名乗る以上、一通りは全部かじってみて、それから自分に合った専門を見つけるのは基本だよ」
それでもアウレオルス=イザードが錬金術師と呼ばれているのは、単にそれ以外に能がないからだ、とステイルは言った。
「それに……そもそもその錬金術にしたって、完成された学問じゃないからね」
「……、」
そんな事を言われても、上条にとって錬金術とは『一六世紀に盛んに行われた|詐欺行為《さぎこうい》。王侯貴族を相手にペテンを仕掛け多くの金を|摂取《せつしゆ》した』という歴史年表みたいな知識しかない。
「錬金術―――特に後期のチューリッヒ学派の錬金術とは、ヘルメス学って学問の亜流さ。一般には、|鉛《なまり》を金に換えたり、不老不死の薬を調合したり……というイメージが強いが」
自分の専門ではないせいか、ステイルの口調はつまらなそうだ。
「それは実験に過ぎない[#「それは実験に過ぎない」に傍点]。科学者だって『〜の定理』『〜の法則』を知りたいから試験管と|睨《にら》めっこをするんであって、試験管の中で何かを作る事が目的って訳じゃないだろう? それと同じだね。錬金術師の本質は『|創《つく》る』事ではなく『知る』事なのさ」
「……、アインシュタインの目的は相対性理論を調べる事であって、核爆弾はその|副産物《オマケ》にすぎないって感じか?」
だとすれば、学者なんて生き物はひどく|傲慢《こうまん》な気がする。モノを創る人間である以上、それが世界に与える|影響《えいきよう》を常に考えられないようでは狂人と呼ぶしかない。
「そうだね。だが錬金術師には『公式』『定理』を調べる先に、究極的な目的が存在する」ステイルは、一呼吸空けて、「―――世界の|全《すベ》てを、頭の中でシミュレートする事さ」
「……、」
「世界の法則を全て理解すれば、頭の中でそれを完全にシミュレートする事ができる。もちろん、|膨大《ぽうだい》な『法則』の一つでも間違っていれば、それだけで頭の中の世界は|歪《いびつ》になるけどね」
「??? 何だそりゃ? |偽装能力《ダミースキル》の事か?」
例えばフィジーやメラネシアなどの南の島では『空を見ただけで、明日の天気を正確に予言できる才能を持つ者』というのが島の|長《おさ》になる必要条件だったりする。
一見すると超能力のように見える『天気予報』は、しかし実際には風の流れや雲の形、気温や湿度などを無意識の内に感じ取り、それを元に頭の中で|膨大《ぼうだい》な計算を繰り返した結果にすぎない。彼ら島の長は、こうした無意識の計算に全く気づかず『ただ、風の声を聞いただけで』明日の天気を正確に予言するのだ。
似ていると言えば、ステイルの話も似ていた。
確かに『島の長』の頭の中には『明日の|天気《せかい》』が|完壁《かんぺき》に再現されているだろう。しかし、それは頭の中にある完壁な計算式がわずかでも揺らげば|崩《くず》れてしまう想像世界だ。
「……けど。そんなもん、何の役に立つんだ? 天気予報みたいに未来を知るための計算機械が欲しいのか?」
いいや違うね、とステイルは吐き捨て、
「仮に自分の頭の中に思い描いたモノを、現実世界に引っ張り出せたらどうなると思う?」
と言った。
「エクトプラズムとか、テレズマ像による天使の|召喚《しようかん》とか、|魔術《まじゆつ》の世界において『頭の中の想像を現実に持ってくる』というのはそれほど|珍《めずら》しい手法ではないんだ」ステイルは腕を組ん
で、「だとすれば、『頭の中で正確に世界を思い浮かべる』力は大きな意味を持つ。簡単な話、神や悪魔を含む『世界の|全《すべ》て』を己の手足として使役する事ができるんだからね」
「……、おい」
「もちろん、それはとても難しい。川の流れ、雲の流れ、人の流れ、血の流れ―――世界には数え切れないほど膨大な『法則』がある。その内、一つでも間違いがあれば『世界』を頭の中に生み出す事はできない。|歪《いびつ》な世界は歪な|翼《つばさ》と同じ、召喚した所ですぐさま自滅し消え去るのが道理だからね」
その辺はプログラムと同じか、と|上条《かみじよう》は思った。いかに素晴らしいプログラムでも、たった一行の書き忘れがあればエラーが起きて動かなくなる。
「けど、それって逆に言えば完成したら手の打ちようがねーじゃねーか[#「完成したら手の打ちようがねーじゃねーか」に傍点]。世界の全てが相手なんて、そんなの絶対勝てないそ」
割と冷静に意見が言えたのは、上条がまだ心のどこかで信じていないからだろう。
だが、確かに人間は『世界の全て』に勝つ事などできない。別に神や悪魔が圧倒的に強いから、とか、そういう問題ではない。
『世界の全て[#「世界の全て」に傍点]』には[#「には」に傍点]、そこで暮らす自分自身も含まれるからだ[#「そこで暮らす自分自身も含まれるからだ」に傍点]。
単純な話、映したモノを引っ張り出せる不思議な鏡がある。この場合、|上条《かみじよう》がいくら強くな
っても、全く同じ|偽者《にせもの》を引っ張り出されれば、待ってる結末は|相討《あいう》ちしかない。
だが、それにしてはステイルの顔にはそれほど不安はない。
「だから、|大丈夫《だいじようぶ》だと言った。錬金術は[#「錬金術は」に傍点]、まだ完成されていない学問なんだ[#「錬金術は、まだ完成されていない学問なんだ」に傍点]」
「は?」
「例えば、世界の|全《すべ》て……砂浜の砂粒一つ一つから夜空の星々の一つ一つに至るまで、その全
てを語ってみうと言われたら―――君なら何年かかると思う? 一〇〇年や二〇〇年では済まないと僕は思うけどね」
「……」
「そういう事さ。呪文自体は完成している[#「呪文自体は完成している」に傍点]。だが、それを語り尽くすには人間の寿命は短すぎ
る」ステイルは吐き捨てるように、「そのために色々努力してはいるみたいだけどね。例えば|呪
文《じゆもん》から|無駄《むだ》な部分を省いて少しでも短くしようとしたり、あるいは一〇〇ある呪文を一〇ずつ
に区切って、親から子へ、子から孫へと少しずつ|詠唱《えいしよう》させたり、ね」
だが、それにしても成功例は存在しないらしい。
元より完成された呪文に無駄な部分など存在しないし[#「無駄な部分など存在しないし」に傍点]、親から子へ、子から孫へ……というやり方は伝言ゲームのように呪文が歪んでしまう[#「呪文が歪んでしまう」に傍点]。
「だが、逆に言えば……、」ステイルはそこまできて、初めて戦意を見せた。「……寿命を持たない生き物ならば、長すぎる呪文だって詠唱できる[#「寿命を持たない生き物ならば、長すぎる呪文だって詠唱できる」に傍点]。そういう意味でも、『あの生き物』は|魔術師《まじゆつし》にとって立派な|脅威《きようい》なのさ」
あるいはそれが吸血鬼を手に入れる目的かもしれない、と上条は思う。
学者にとって『答え』が分かっているのに『証明』できない、なんてのは相当の苦痛だろう。
そして、人の身に|叶《かな》わぬ願いなら、
人の|範疇《はんちゆう》の外にあるモノを魔術に組み込めば良いだけの話なのだから。
「まあ、|錬金術《れんきんじゆつ》は確かに脅威だけど、今のアウレオルス=イザードにはそれを使いこなすほどの技量はない。ヤツにできるのはせいぜいがモノ作り……舞台となる『三沢塾』を|要塞化《ようさいか》し、侵入者を|拒《こば》む無数のトラップを用意する事ぐらいが関の山さ」
「……?」
やけに自信たっぷりに言うステイルに、上条は少しだけ|違和感《いわかん》を覚えた。
「何だ、ひょっとしてお前とそのイザードって知り合いなのか?」
「そりゃそうだ。僕もヤツも同じ教会の人間だからね」ステイルは吐き捨てるように言った。
「僕はイギリス清教でヤツはローマ正教……宗派は違うが顔見知りだよ。友達じゃないけどね」
教会で魔術師、という|響《ひび》きが上条にはどうもしっくりこない。
ステイルやインデックスの所属する|必要悪の教会《ネセサリウス》は、魔術師を殺すために魔術を学ぶ、という目的を持つ。けれど、それは異端中の異端だ。イギリス清教の中では認められていても、宗派の違うローマ正教に同じような機関があるとは思えないが……。
その事を話すと、ステイルは|片眉《かたまゆ》をわずかに上げ、
「|必要悪の教会《ぼくたち》なんてのは例外中の例外だよ、|他《ほか》の教会ではありえないね」
ステイルはつまらなそうにため息をつき、
「僕|達《たち》が例外中の例外なら、ヤツは|隠秘記録官《カンセラリウス》という特例中の特例だ。簡単に言えば教会のために|魔道書《まどうしよ》を書く人問さ。書き記すのは同じ魔道書だが使い道は正反対でね、『最近の魔女はこんな技を使ってくる、対抗するには聖書の何ページを読めば良い』という注意書き[#「注意書き」に傍点]なのさ」ステイルは片手をひらひら振って、「教会の人間が注意書き目的で魔道書を書く事は|珍《めずら》しくな
い。教皇ホノリウス三世や国王ジェイムズ一世の教会魔道書なんて有名すぎると思うけどね」
「……、そっか。それでさっきっからお前、アウレオルス=イザードは実力的には大した事はない、とかってさんざん繰り返してたのか」
「そ。ヤツは知識は豊富だが実戦向きじゃない。体育会系ではなく文系なのさ。しかし、同時に|厄介《やつかい》な相手でもある。ヤツはローマ正教内でも数少ない|隠秘記録官《カンセラリウス》だからね、権力は強い。その『背信』を|罰《ばつ》するためにローマ正教は戦争でも起こすような準備を進めているよ」
「いや、そうじゃなくて。アウレオルスってさ、教皇だの国王だの偉そうなのと肩並べてるじやん。お前ひょっとしてソイツに|嫉妬《しつと》してんじゃねーの?」
「……つまり君は僕にケンカを売っていると、そう意訳して構わない訳かな?」
「|殴《なぐ》り合いは大変結構だけど相手間違えんなよ」|上条《かみじよう》は前を見て、「見えたぞ、戦場だ」
上条とステイルは足を止めた。
燃えるような夕焼けに照らされ、そのビルは彼らを待ち構えていた。
「しかし、まぁ」
上条はビルを見上げながら|呟《つぶや》いた。
不規則なカタチをしたビル、と表現して良い。いや、ビルそのものは何の変哲もない四角いビルだ。だが、一二階建てのビルは四棟もあった。そして、四棟のビルは十字路を中心に据えられ、漢字の『田』の字を作るように配置されている。空中の渡り廊下は歩道橋のように道路をまたいでビルとビルを|繋《つな》げていた。
あれは土地区画整理法に違反してるんじゃないだろうか、と上条は渡り廊下を眺めながらそんな事を思った。基本的に『空中』の権利は、その『地面』の所有者にある。つまり『道路』の上は『公共』の場所のはずだ。
「ま、そんな事はどうでも良いんだけど」
上条は口の中で眩いてから、改めて四棟のビル『三沢塾』学園都市支部校を眺めた。
こうして見る限り、話に聞くような『科学宗教』という常識外れなイメージは|湧《わ》いてこない。そこにあるのはあくまでごく普通の『進学予備校』だ。時折出入りする生徒|達《たち》を見ても、やはりおかしな所は見られない。
「とりあえず最初の目的地は南棟の五階―――食堂|脇《わき》だね。隠し部屋があるらしい」
ステイルはのんびりと|呟《つぶや》いた。見取り図は|上条《かみじよう》が目を通した後に火を|点《つ》けている。となると|全《すべ》て頭の中にあるんだろうか?
「隠し部屋?」
「ああ。おそらく|錯視や錯覚《トリツクアート》でも使って中の人間には気づかせない作りになっているとは思うけどね。あのビル、子供が積み木を並べたみたいに|隙間《すきま》だらけなのさ」ステイルはビルを眺め、
「……図面を見て確かめただけでも一七ヶ所。一番近いのが南棟五階の食堂脇って訳」
「……ふうん。見た感じじゃそんな怪しい忍者屋敷には見えねーけどな」
上条が何となく眩くと、|隣《となり》でステイルが|忌《いまいま》々しそうに眩いた。
「……怪しくは見えない、ね」
「あん?」
上条はステイルの顔を見た。ステイルはしばらく天地を貫くビルを見上げていたが、やがて息を抜いたように首を横に振った。
「何でもないさ。実際、専門家の僕が見ても怪しい所は見当たらない。怪しい所なんて何にも見当たらないさ、専門家の僕がキチンと見ているのにね」
そう言っている割には、何か|釈然《しやくぜん》としない顔をしているステイルだった。例えるなら、レントゲンで明らかな異常が見えているのに、患部を見つけられない医者のような。
「……、」
怪しい。何だか知らないけど超怪しい。
ステイルはさっきから『怪しい所は』『見当たらない』と言っているだけで、『このビルに危険な所はない』と断言している訳ではない。あのビルは見つけられないだけでたくさんの地雷が埋まっているのか、それとも本当に何もないのか、それさえも|掴《つか》めない|暗箱《ブラツクボックス》なのだ。
しかし、そんな|魔術《まじゆつ》の専門家の心に火が|点《つ》いてしまうほど危険な施設だったら、|迂闊《うかつ》に足を踏み入れて|大丈夫《だいじようぶ》なんだろうか?
「大丈夫なはずがない」ステイルはあっさりと答えた。「けれど、入るしかないだろう? 僕|達《たち》の目的は救助であって殺しじゃない。いやビルごと炎に包んで良いって言うなら僕だって大助かりだけどね」
間違いなく、半分以上本気でステイルは言っていた。
「入るしかない……って、ちょっと待て。まさか正面からお|邪魔《じやま》すんのか? もうちょっと策とかねーのか、気づかれないように侵入する方法とか安全に敵を倒す方法とか!」
「何だ。それなら君は何か得策に持ち合わせでもあるのかい?」
「……っ! ふざ、テメェ本当にこのまま突っ込む気かー!? ようはテロリストが立てこもってるビルに正面から|突撃《とつげき》するようなもんだろ! 安物のアクション映画だって一つ二つ敵の裏をかく作戦ぐらい練ってくるモンだろうが!?」
「……、ふむ。まあ|身体《からだ》にナイフで『|神隠《ンコぱニ――ざげ 》し』でも刻んでやれば気配を断つ事ぐらいはできるけどね」
「じゃあやれよ! 痛いのヤダけど!」
「最後まで聞くんだ」ステイルは心底つまらなそうに、「たとえ気配を断とうが透明人間になろうが、『ステイル=マグヌスが魔術を使った』魔力だけはごまかしようがないのさ」
「……、は?」
「君は『魔力』という言葉に|馴染《なじ》みがないようだからいちいち説明するけど」ステイルはため息をついて、「例を挙げれば、赤絵の具一色の絵画があったとするよ?」
「……、心理学的にまずそうな絵画だな」
「聞く耳は持たない。で、この赤絵の具はあのビルの中に充満してるアウレオルスの魔力だ。この赤一色の絵画の中に僕の青絵の旦ハを塗りつけたら|誰《だれ》だって気づくだろう?」
「……、良く分からんが。つまりお前は歩く発信機デスか?」
「そんなもんだが、君よりマシだと思うけどね」
何でだよ、と|上条《かみじよう》が問いかける前に、
「君の|幻想殺し《イマジンブレイカー》は赤絵の具をごっそり|拭《ふ》き取っていく|魔法《まほう》の消しゴムだよ? 自分の絵画が
どんどん虫食いされていけば|誰《だれ》だって異常に気づくだろう? 僕の方は魔術さえ使わなければ異常は感知されないけど、君の場合は異常が常時ダダ|洩《も》れじゃないか」
「……、じゃあ何か? |俺達《おれたち》は二人して腰から発信機ぶら下げてる状態で、何の策も持たずにテロリスト満載のビルん中に正面からドアベル鳴らしてお|邪魔《じやま》するってのか?」
「そのために君がいる。|蜂《はち》の巣になりたくなければ死ぬ気で右手を|盾《たて》にしろ」
「ふざ、思いっきり|他人事《ひとごと》だな! テメェの無策のツケが全部こっちに回ってるだけじゃねーかー!?」
「あっはっは。これは|面白《おもしろ》い事を言う。|錬金術師《あんなの》相手の策など|聖《セント》ジョージの竜の|一撃《いちげき》すら防い
だ君の右手があれば十分さ。大体こっちに|頼《たよ》られても困る、|魔女狩りの王《イノケンテイウス》もあの子を守るために使っているし、今回僕の手持ちは炎剣一本しかないんでね」
「うわーっ! コイツ本当に何にも考えてねーっ!」
「じゃあどうする? 君、ここでお留守番でもしてるのかい?」
「……、ッ!」
|上条《かみじよう》は入口―――何の変哲もないガラスの自動ドアを見る。
本音を言うなら、あんな所には入りたくはない。当たり前だ、自分を殺そうとする人間がワナを張って待ち構えている所へなんて行きたくない。それが得体の知れないカルト宗教の総本山だって言うならなおさらだ。
けれど、
だとしたら、なおさらダメだ。
大の男が入ロを目にしただけで鳥肌が立つような場所に、一人の少女は|吸血殺し《デイープブラツド》なんて名前をつけられてずっとずっと閉じ込められているだなんて、そんなのはダメに決まってる。
「行くよ」
魔術師ステイル=マグヌスは小さく言った。
上条は無言で自動ドアの前に立った。
ガラスの入口をくぐり抜けても、そこにあるのはごく普通の風景だった。
日光を多く取り入れるため、全体的にガラスの多いロビーだった。ロビーはかなりの広さを持ち、高さも三階分ぐらいはある。ここは予備校で言うなら『|外面《そとづら》』だ。生徒のための施設ではなく、これから入校しようというお客様を引きつけるための場所なので、飾りが豪華になるのも無理はない。
ロビーの奥にはエレベーターが四基並んでいた。その内、端の一基は荷物搬入用のものだろう、少しだけ|他《ほか》よりも大きい。エレベーターが並ぶ場所から少し横へ入ると階段があった。飾り気の少ないそれは、非常階段として最低限の役割しか果たさない事を示している。
今は時間帯が夕暮れであるせいか、普通の学校なら昼休みに値する長い休み時間のようだった。外へ食べ物の買い出しへ向かう生徒がロビーを行き来している。
|上条《かみじよう》やステイルは特に注目を集めたりはしなかった。彼らだっていちいち生徒全員の顔を|把握《はあく》している訳ではない。それに最悪、『部外者』と思われてもここは正面ロビーだ。単に入校の受付をしにきただけ、と思われているのかもしれない。
(……|俺《おれ》はともかく、コレ[#「コレ」に傍点]が受験生ってツラかあ?)
上条はこっそりため息をついた。彼の|隣《となり》にいるのは|歳《とし》は『少年』であるものの、香水|臭《くさ》く髪を赤く染めピアスいっぱい指輪いっぱいというふざけた格好の神父なのだ。まあ、予備校だって客商売だから来る者を|拒《こば》んでは仕方ないのだが。
とりあえず、どこを見回しても不審な点はない。
行き交う人々を見ても特におかしな所は見当たらない。
「あれ?」
だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、ぽっかりと空いた一点だけが妙に浮かび上がる[#「ぽっかりと空いた一点だけが妙に浮かび上がる」に傍点]。
四基並んだエレベーター。その右から一基目と二基目の間の壁に、何か人型のロボットのようなものが寄りかかっていた。寄りかかっていた、というより、立てかけられていた、と表現した方が良い。手も足もグシャグシャにひしゃげ、何か交通事故を連想させる金属|塊《かい》と成り果てたモノが転がっている。
カタチとしては西洋の|全身鎧《ぜんしんよろい》に近い。だが流線的なフォルムはどこか現代的な―――そう、|戦闘機《せんとうき》に見られるような計算ずくな機能美があり、銀光を放っ素材もただの鉄ではないような気がする。
これもロボットの装備なのか、全長八〇センチある巨大な弓が近くに転がっていた。
|潰《つぶ》れたロボットの右腕には機体の名前なのか、『Parsifal』と刻まれていた。
だが、そのロボットが機能を果たさないのは|誰《だれ》の目から見ても明らかだ。
すでに手足と呼べる部分がひしゃげ、折れ曲がり、|壊《こわ》れた関節部分からコールタールのような|粘《ねば》つく黒いオイルが|溢《あふ》れている。
|錆《さ》びのような|匂《にお》いを感じ取り、上条は思わず|眉《まゆ》をひそめた。
あれは、何だ?
まず、あのロボットの正体が分からない。学園都市には警備ロボットや清掃ロボットなどが存在するが、それはドラム缶のようなものだ。あそこまで人のカタチに似せた、非効率極まりないロボットが動いているなんて話は聞いた事がない。
次に、あのロボットが何で壊れているのかが分からない。あのロボットがどれだけの強度を持っているかは分からないが、あんな交通事故を連想させるほど徹底的に|破壊《はかい》するにはそれなりの力が必要だ。予備校のロビー、なんて場所で一体何が起こったのか。
そして、最後に。
(……一体、何で|誰《だれ》もこの事を|騒《さわ》ぎ立てない?)
|上条《かみじよう》の、一番の|違和感《いわかん》がそれだった。
この場にいる誰もが、あのロボットについて話題にしようともしない。目を合わせようともしない。見たくもないもの、思い出したくないものに目を逸らしている訳ではない。まるで路上に転がる石ころのように、いちいち意識を向ける必要もないという感じなのだ。
まるで、
あの|壊《こわ》れたロボットさえも『日常』に溶け込んでいるかのごとく。
「どうした? ここには何もない。|姫神《ひめがみ》を探すにしろイザードを|潰《つぶ》すにしろ、移動した方が賢明だと思うけど」
ステイルはごく当たり前のように言った。
「あ、ああ」
上条はようやくロボットから目を離した。あまりに誰も気にしていないため、まるで自分一人が見えない|幽霊《ゆうれい》を見ているような、そんな|錯覚《さつかく》に|陥《おちい》ったからだ。
けど、そんなはずはない。
あの|異常《ロボツト》は、確かに上条の前に存在するのだから。
「何だ、アレがそんなに気になるのかい? ま、確かに君にとっては|珍《めずら》しいものだろうけど」
と、ステイルがようやく上条の視線に気づいたように言った。
「ま、まあな。……って、待て。ロボットなら|科学側《こつち》の領分だろ」
うん? とステイルは |瞬《いつしゆん》だけ上条の言葉に|眉《まゆ》をひそめて、
「何を言っている? あれはただの死体だよ」
言った。
「は……?」
訳が、分からない。
「|施術鎧《せじゆつがい》による加護と天弓のレプリカ―――おそらくローマ正教の一三|騎士団《きしだん》だろう。裏切り看の首を取りにきたは良いけど、その様子じゃ全滅みたいだね。まったく、騎士団はイギリス清教の|一八番《おはこ》だというのに、下手に盗作するからそういう事になる」ステイルは口の端の|煙草《タバコ》を揺らし、「……チッ。それにしても、あのホルマリン野郎もやってくれる。|他《ほか》の教会のメンツが|揃《そろ》っていながらバラバラに|突撃《とつげき》させるように仕向けるだなんて、わざと失敗する事を|狙《ねら》ってるのか……? 確かに事後処理に来る連中は皆、教会の精鋭だろう。一人でも頭数を減らせれは向こうとしては|僥倖《ぎようこう》と言った所だろうが……」
|忌《いまいま》々しげに|呟《つぶや》くステイルの言葉は良く分からないので上条は無視した。
代わりにもう一度見る。もう一度エレベーター横の壁にくずおれたソレを、見る。手も足もひしゃげ、交通事故みたいになった金属の|塊《かたまり》。銀色の金属で作られた体を|潰《つぶ》され、中から赤黒いオイルをこぼしているロボットの|残骸《ざんがい》。
|否《いな》。
あれは赤黒いオイルではなく、もっと赤黒い液体だとしたら?
否。
あれはロボットなどではなく、単に|鎧《よろい》を着ただけの『人間』だとしたら?
「何を|驚《おどろ》いているんだ?」ステイルは、ごく当たり前のように言った。「ここは戦場だろう?
死体の一つ二つ転がっていたって何の不思議がある?」
「……、」
|上条《かみじよう》は、言葉が出なかった。
分かっていた。本当は分かっているはずだった。ここは人と人とが殺し合う戦場なのだ。
『敵』は上条|達《たち》『侵入者』を殺すためにワナを張り、待ち構える。それを|迎撃《げいげき》する上条達だって、|刃《やいば》を向ける『敵』に話し合いで解決しようなんて思っていた訳ではないはずだ。
そう、分かっていなければならなかった。
だけど、分かっていても|黙《だま》っている事なんてできなかった。
「くそ……ったれが!」
上条は走った。走ってどうなるかなんて分からない。せいぜいできるのは包帯を巻く程度、本格的な応急処置の方法なんて|素人《しろうと》の上条には分からない。第一、あれだけ派手に|破壊《はかい》された鎧の中の人間が生きているかも分からない。あれだけ潰れた鎧の中から人間を引っ張り出す方法だって思いつかない。
それでも、まだ鎧の中にいる人間が『死んだ』という明確な|証拠《しようつこ》はどこにもない。
なら、急げば何とかなるかもしれない。
広いロビーを上条は一〇秒で走り抜ける。鎧は顔面さえ完全に|覆《おお》い尽くしているため、どんな表情をしているかも分からない。ただ、鉄塊じみた|兜《かぶと》の|隙間《すきま》から、わずかに空気の|漏《も》れる音が上条の耳に届いた。
(まだ息をしてる……ッ!)
上条は幸運を|噛《か》み締めると同時、ならばなおさら下手に動かせない事実を知る。救急車を呼ぶべきだ、と思った時、不意に間近のエレベーターの扉が音を立てて左右へ開いた。
たくさんの、同じぐらいの|歳《とし》の少年少女が降りていく。すぐ横でくずおれた人間を気にも留めず、それが当たり前の風景であるかのように。学食のランチは高いし|不味《まず》いしすぐ飽きるし、これならコンビニ弁当買ってきた方がマシだとか、そんな事を笑いながら話している。
「て、めぇ――――」
真っ先に優先するべきは潰れた鎧の救助だ。そんな事は分かっているのに、分かっていながら上条は黙っている事ができなかった。
|上条《かみじよう》は、思わず近くにいた生徒の 人の肩を勢い良く|掴《つか》んで、
「―――――何やってんだよ! さっさと救急車呼べって――――ッ」
言葉は途中で|遮《さえぎ》られる。
上条の腕が、逆に思いっきり引っ張られたからだ。
|否《いな》。
それは『引っ張る』などという生易しいものではない。まるで、走行中のダンプカーの荷台に手を引っ掛けたような、あまりにケタの違いすぎる『|衝撃《しようげき》』だった。
「なっ―――――」
肩が外れるかと思った。
しかし、上条が絶句したのはそこではない。その生徒は、特に上条の腕を擢んだりはしていない。車に引っかかった風船のように、肩に置いた手が、そのまま引っ張られたのだ。
しかも、相手は上条が肩に手を置いた事さえ気づいた様子はない。それは彼一人ではない。あれだけの叫び声をあげたのに、広いロビーにいる|誰《だれ》もが気づいていないようなのだ。
まるで、目の前で|潰《つぶ》れている|鎧《よろい》と同じように。
「―――――なんだ、今の」
上条は自分の|掌《てのひら》の感覚を思い出す。
柔らかなはずの衣服の布地は、まるで|瞬間《しゅんかん》接着剤を浸して固めたように硬かった。違う[#「違う」に傍点]、生徒の体を引っ張るどころか、柔らかい布に指を食い込ませる事さえできなくなっている[#「柔らかい布に指を食い込ませる事さえできなくなっている」に傍点]。
「そういう結界なんだろうさ。コインで言うなら表と裏だね、ここは。『コインの表』の住人――何も知らない生徒|達《たち》は、『コインの裏』である|魔術師《まじゆつし》の姿に気づく事ができない。そして『コインの裏』の住人――僕達外敵は、『コインの表』である何も知らない生徒達に一切|干渉《かんしよう》する事ができない。見なよ」
歌うように言ったステイルは、エレベーターから出てくる少女の足元を指差した。
床。そこには鎧から|溢《あふ》れる赤黒い血液が|水溜《みずた》まりのように広がって、 少女は[#「少女は」に傍点]、水の上を歩くように進んでいく[#「水の上を歩くように進んでいく」に傍点]。
「……、」
上条は目の前を通りすぎる少女の後を目で追った。少女の|靴底《くつそこ》には何の汚れもない。赤黒い足跡が残る事もない。あの血の海が、まるで固まったプラスチックのような扱いだった。
「ふむ」
ステイルは何の気なしに、口の端に|蛭《くわ》えていた|煙草《タバコ》を取る。その火の|点《つ》いた先端を、プラスチックでできたエレベーターのボタンにぎゅっと押し付けた。
だが、プラスチックのボタンは溶けるどころか|煤《すす》一つつかない。「なるほどね。建物そのものは『コインの表』なのか。まあ、その方が対|魔術戦《まじゆつせん》の|砦《とりで》としては|相応《ふさわ》しいね。|上条当麻《かみじようとうま》、どうやら僕|達《たち》は自分の力でドア一つ開ける事ができなくなったらしい。出入口の自動ドアも同義だから、閉じ込められたようなものだね」
「……、」
結界。
科学の世界に住む上条にはあまりに|馴染《なじ》みの|薄《うす》い言葉。だが、それが『異能の力』であるならば、それこそ上条当麻の出番であるはずではないのか。
上条は己の|拳《こぶし》を硬く強く握り締める。
|幻想殺し《イマジンブレイカー》。右手に触れただけで、神様の|奇跡《システム》さえも無効化させるという異能中の異能。
上条は一度、大きく握った拳を振りかぶると、
この結界そのものを打ち砕くように、思い切り拳を床へと|叩《たた》きつける―――――ッ!
……いや。叩きつけた、が。ごん、という鈍い音しかしなかった。
「ばっ! みゃあ! みぎゃああっ!?」
「……君は一体何をやってるんだい?」
のた打ち回る上条にステイルは|呆《あき》れたようにため息をついて、
「おそらく僕の|魔女狩りの王《イノケンテイウス》と同じさ。魔術の『核』を|潰《つぶ》さない限り、この結界を破る事はできない。そして|定石《セオリー》だけど……『核』そのものは結界の外に置いてあるんだろうね。内に閉じ込めた人間が、万に一つも逆転できないように。いやまいったまいった」
上条はその事実をどう処理しようか少し迷ったが、
「……、ちっくしょう。じゃあどうすんだよ。目の前に傷ついた人がいるってのに、医者を呼ぶ事もできなければ外に運び出す事もできねえなんて」
「別段何をする必要もない。そいつはもう死んでるよ」
「|馬鹿《ばか》言ってんじゃねえよ、ちゃんと息確かめろ! まだ生きてるだろうが!」
「そうだね、心臓が動いているという一点のみならそれはまだ生きている。けれど、折れた|肋骨《うつこっ》は肺を突き破り、|肝臓《かんぞう》は潰れ、手足の大動脈はとうに破れている。……これはもう助かる傷じゃない。こいつの名前は|死《し》に|体《たい》だよ」
それもルーン魔術によって調べたものなのか、ステイルの言葉は不治の病にかかった|患者《かんじや》へ|冷酷《れいこく》な事実を伝える医者のように的確で|容赦《ようしや》がない。
「……ッ!!」
「何をそんな顔している? 本当なら一目見ただけで分かっていただろう? 仮にこれが息をしていても、もう絶望的に違いない、ってね」
|瞬間《しゆんかん》、上条は両手でステイルの胸倉を|掴《つか》んでいた。
分からない。上条には全く理解できない。目の前の男はどうしてこんなに冷静でいられるのか。どうして死に|逝《ゆ》く者の目の前で、そんな話ができるのか―――ッ!
「どけ。そいつには時間がない―――――」
なのに、ステイルは簡単に|上条《かみじよう》の手を振り払った。
「―――死人には身勝手な同情を押し付けられるだけの時間もないだろう。死者を送るのは|神父《ぼく》の役目だ。|素人《しろうと》は|黙《だま》って見ていろ」
「……、」
ステイルの言葉には、妙な気迫が感じられた。
思わず手を離してしまってから、上条はようやく気づく。上条に背を向け、|潰《つぶ》れひしゃげ今にも命の|灯火《ともしび》が消え去りそうな『|騎士《きし》』に向かい合う、一人の神父の背中は、
(怒ってる……のか? )
あの皮肉と|嘲笑《ちようしよう》に満ちた|普段《ふだん》の顔からは想像もつかない。が、それしかない。今のステイル疑マグヌスは|魔術師《まじゆつし》ではない。その、触れれば|弾《はじ》かれるような静電気じみた何かを身にまとっている背中は、間違いなく神父としてのステイル=マグヌスのものだ。
ステイルは何か特別な事をした訳ではない。
「   」
ただ一言、何かを言った。それが外国語だったため、上条には意味が分からない。
魔術師としてではなく、神父としてのステイル=マグヌスの言葉。
そこにどれだけの意味があったのか、今までピクリとも動かなかった『騎士』の右手が、よろようと動いた。まるで天に浮かぶ何かを|掴《つか》むように、ステイルに向かって右手を差し出し、
「   。    」
何かを、言った。
ステイルは、小さく|頷《うなず》いた。そこにどれほどの意味があったか、上条にはやはり分からない。だが、『騎士』の全身から、|緊張《きんちよう》が解けた。まるで伝える事は|全《すべ》て伝え、残すべき未練を全て断ち切ったと言わんばかりの、満ち足りた|弛緩《しかん》がそこにあった。
『騎士』の右手が、落ちる。
ごん、と。|鋼《はがね》の右手はまるで|葬送《そうそう》の|鐘《かね》のように床を打ち鳴らした。
「……、」
ステイル=マグヌスは神父として、最後に胸の前で十字を切った。
イギリス清教もローマ正教も関係ない、一人の人間を送るための|儀式《ぎしき》。
それで、上条はようやくたった一つの事実に気づいた。
ここは、|紛《まぎ》れもない本物の『戦場』である事を。
「行くよ――――」
ステイル=マグヌスは神父ではなく、魔術師の声で言った。
「―――戦う理由が、増えたみたいだ」
気が|滅入《めい》っていた。
とりあえずの目的はビルのあちこちにある|隙間《すきま》――隠し部屋の探索だ。一番近い隠し部屋はこのビル――南棟の五階にある食堂の横、という事なので非常階段を昇っている訳だが。
狭い非常階段を昇りながら|上条《かみじよう》は思う。最初はあの『|騎士《きし》』のせいだと思った。次にこの暗く狭い階段のせいだと思った。
けれど、そんな精神的なモノとは別に、物理的な問題が一つあった。
「足が……、」
上条は早くも疲れの色を見せ始めた自分の足を見る。
」コインの『裏』と『表』―――|全《すべ》てを知る『裏』の|魔術師《がいてき》は、何も知らない『表』の住人に|干渉《カんしよう》する事ができない、というルール。ステイルは、この建物そのものも『表』に属すると言っていた。
それはつまり、床を踏んだ|衝撃《しようげき》が全部自分の足に|跳《は》ね返る、という事を意味している。
簡単に言えば人を|殴《なぐ》る事とコンクリートを殴る事の違いだ。あまりにも『硬すぎる』床を歩いているため、|普段《ふだん》より疲労のペースが二倍にも三倍にも跳ね上がってしまう。
「敵、も……対等の条件である事を祈るしか、ないね」
ステイルもあまりに早く訪れた『疲労』に|困惑《こんわく》しているようだった。体は大きいステイルだが、元々飛んだり|跳《ま》ねたりするようには|鏃《きた》えられていないらしい。
「チッ……こんな事なら、やっぱエレベーターに乗ってた方が良かったんじゃねーか?」
「『コインの裏』にいる僕|達《たち》が、『コインの表』にあるボタンを押す方法があれば|是非《ぜひ》とも教え
てもらいたいけどね」
「……、」
「仮に、乗り降りする『コインの表』の生徒達に混じって、開いたドアからエレベーターに乗ったとして、どうする? 次の階で大勢の人達が乗り込んできたら、僕達は圧死するぞ」
『コインの裏』の人間は『コインの表』の人間に|干渉《かんしよう》する事ができない。
それは簡単に言えば、『コインの裏』の自動車が思いっきり『コインの表』の人間に激突しても、大破するのは自動車だけで人間は傷一つ負わない、という事らしい。
エレベーターが|寿司詰《すしづ》めになれば、
まるで生卵を持って満貝電車に乗り込むように、あっという間に体が押し|潰《つぶ》される。
(……うっ、なんかリアルに|鬱《うつ》モード入っちまった)
上条はぐったりと下を向いた。ただでさえ疲れが群まっている所へ、暗い想像をぶつけられたせいで一気に心が折れそうになったのだ。
楽しい事、何か楽しい事はあるまいかー、と上条の心は|貧欲《どんよく》に休息を求める。
と、あった。
「そうだ、電話はどーなんだろう?」
「は?」
「いや、『コインの裏』と『コインの表』の話。電話もやっぱり通じなくなってんのかな、と」
言いながら、上条はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
そんな事を言ってはいるが、上条自身それが建前である事に気づいていた。異常な出来事が連続して起きているため、電話を使って『正常な出来事』を感じなければ気が狂いそうなのだ。
電話をかける相手はためらわなかった。
自分の部屋-別の言葉で言うなら一人の少女が待つ部屋へ電話をかけ……ようとして、ふと気づいた。
「……、てか。この電話に反応して敵さんが|襲《おそ》ってくるとかって話はね!だろーな?」
「さあ? けど、どの道僕|達《たち》の侵入にはもう気づかれているだろうね。正面突破だし」
「じゃあ何で連中襲ってこないんだよ?」
「さあね。余裕なのか|一撃《いちげき》で|速《すみ》やかに必殺したいのか。ま、あの|錬金術師《れんきんじゆつし》の事だ。大方、僕達の反撃を封殺するために色々下準備でもしてるんだろう」
「……、」
だったら何でコイツはこんなに余裕なんだ、と|上条《かみじよう》は不審に思ったが、敵に気づかれているなら今さら足音に気をつけても仕方がない。上条は堂々と電話をかける事にした。
コール音が三回鳴った。
(やっぱりダメか……?)
コール音が六回鳴った。
(……、|諦《あきら》めるか)
コール音が九回鳴った。
(ええい、さっさと出ろよ!)
心の中で悪態をつくが、不思議と電話を切る気にはなれない。そうしている内に、上条の心に別の考えが浮かんできた。これは『コインの裏』や『コインの表』は関係なく、単にインデックスが電話に出ないだけなんじゃないのか、と。そして仮に、『電話に出ない』のではなく、
『電話に出られない』理由があるとしたら?
まさか[#「まさか」に傍点]、
インデックスの身に[#「インデックスの身に」に傍点]、何かあったのでは[#「何かあったのでは」に傍点]?
(イン―――――ッ!)
ぞわり[#「ぞわり」に傍点]、と。得体の知れない|悪寒《おかん》が上条の胃袋から|迫《せ》り上がってきた|瞬間《しゆんかん》、
電話が|繋《つな》がった。
『ひゃっ、ひゃい! こちあのこちらIndex-Libror―――じゃないっ、違うです、こちらカミジョーです、あのはい! もひもひっ!』
……と、なんかメチャクチャてんばってるインデックスの声が聞こえてきた。
「あの、一つ聞くけど―――」
上条は、どっか間違えたダイエットを試している人みたいにぐったりしながら、
「―――お前、ひょっとして電話に出るのって初めてか?」
『ひゃいっ!? って、あれ。この声とうまだ。あれ? 電話の声ってみんないっしょ?』
ごんごん、という音。
おそらくインデックスが不思議そうに首を|傾《かし》げながら受話器を|叩《たた》いている音だろう。
「インデックス、機械の調子が悪いと感じたからって|無闇《むやみ》に叩くな。何だかそれおばあちゃんがテレビ直すやり方とそっくりだぞ」
『……、おかしい。こんな|馬鹿《ばか》な|台詞《せりふ》吐くのはとうま以外にありえないのに』
おい、と上条は心の中でツッコんでみる。
間違いないと思う。どうもインデックスは電話を使うのはこれが初めてらしい(もしもし、という言葉を知っていた辺り、見たり聞いたりした事ぐらい[#「見たり聞いたりした事ぐらい」に傍点]はあったみたいだが)。おそらく待っても待っても鳴り|止《や》まない電話の前でオロオロして、もう仕方がないから意を決して受話器を取ってみた、という感じなんだろう。
一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を持つ『魔術』のスペシャリストのくせに、『科学』では一般
常識も分からないインデックス。その姿が|微笑《ほほえ》ましいと|上条《かみじよう》は思うが、同時に思う所はある。
『知識』は言っている。
インデックスは、 一年前から|記憶《きおく》を失っているのだと。
一見して微笑ましい行動も、記憶|喪失《そうしつ》からくる|歪《ゆが》みという側面を見るとひどく痛々しい。
『にゃい? それでとうま、わざわざ電話なんて|大袈裟《おおげさぎ》で|仰《ようぎよ》々しく|面《う》倒|臭《くさ》くて心臓に悪いモノ
なんか使ってどうしたの? なんかよっぽど困ってる事でもあるの?』
「あ、いや――――」
そもそも電話は一般的なもの、という認識がインデックスにはないらしい。
『あっ! 冷蔵庫の中にラザニア二つあったけど、もしかして一個はとうまの分?』
「食ったんかい。まあ良いけ――」
『あっ!』――ど、と言う前にさらなる叫び。『冷蔵庫の中にプリンがあったけど……ッ!』
「食ったんかい! 食ったんだな食ったんだろ三段活用!」
『だって一個しかなかったんだもん!』
「お前は家主に対する思いやりの気持ちとかないのか! |黒蜜堂《くろみつどう》の一個七〇〇円するプリンだ
ぞ!」ぐぎゃあ! と上条は叫ぶ。「〜〜ッ! ま、まぁ良い。脱線する所だった。とにかく電話が|繋《つな》がるなら良しとしなくては」
『? とうま、なんか用事があったんじゃないの?』
「うんにゃ。電話が繋がるかどうか確かめただけ。もう切るぞ」
『???』
おそらく電話の前で首をひねっているだろうインデックスの姿を想像して、上条は、
「あ、そうそう。知ってるかインデックス、電話って一分話すと一日寿命が減るらしいぞ?」
ぎゃわーっ! という叫びと共にいきなり電話が切れた。受話器を|叩《たた》き付けたんだろう。
「……単純なヤツ」
プリンの|逆襲《ぎやくしゆう》を果たした上条は携帯電話の電源を切りながら一人|呟《つぶや》いた。
と、
「………………………………………………………………………………………………………」
何やらものすごく何か言いたそうな顔をしている|魔術師《ステイル》が一人。
「な、何だよ?」
「いや別に」はあ、とステイルはため息をついて、「ただ、少し|緊張感《きんちようかん》に欠けると思ってね。まったくここは戦場だというのに|呑気《のんき》に女の子となんか会話しちゃってその|慢心《まんしん》が己の身を滅ぼすなら構わないというか僕としてはバンバンザイだけどこっちの足まで引っ張ってもらっちゃ|困《こま》」
「|妬《や》いてるの?」
「ぐっ…ぬうう……ッ?」
全身の血管の六割は破れました、という感じでステイルは|黙《だま》り込む。なんか段々コイツの|御《ぎよ》し方が分かってきたような気がする、と|上条《かみじよう》が思っていると、
「……、ああ。そうだよ」
その一言は、予想以上に上条の胸を貫いた。
|何故《なぜ》、そこにそんなにも|衝撃《しようげき》を受けたのか分からない。だが、ステイルは続ける。
「……、間違うなよ。僕は別に恋愛対象としてあの子を見ている訳ではないからね」ステイルは、上条の顔を見ない。「君だって、知ってるだろ。あの子は今まで、一年周期で全ての記憶を消さなければ生きていけない体だった[#「一年周期で全ての記憶を消さなければ生きていけない体だった」に傍点]。ならば、分かるだろう? 今、君が立っている位置には、かつて様々な人が|停《たたず》んでいた事ぐらい」
「……、」
「父親になろうとした人がいた。兄妹になろうとした人がいた。親友になろうとした人がいた。先生になろうとした人がいた」ステイルは、一人歌うように、「それだけさ。それだけなんだ。かつて僕は失敗し、そして君は成功した。僕らの違いはたったそれだけだよ」
ステイルは上条の顔を見る。
それは、もう決して届かなくなった|未来《ゆめ》を見ているかのような視線だった。
「ま、それでも未練がないと言えばウソになるけどね」ステイルはため息をつく。「何せ[#「何せ」に傍点]、僕らはインデックスに直接フラれた訳じゃないんだ[#「僕らはインデックスに直接フラれた訳じゃないんだ」に傍点]。彼女は今、忘れているだけで、思い出す事ができれば今すぐにでも抱き着いてくるはずなんだから」
「……、」
上条は、答えられない。
仮に、大切な人がいて。大切な人が|全《すべ》ての|記憶《きおく》を失って。何も知らない大切な人の|側《そば》に、全く別の人間が堂々と居座っていたら?
正気でいられるだろうか、と上条は思う。いや、それは堂々と居座っている『全く別の人間』[#「『全く別の人間』」に傍点]だけではない。
全てを忘れてしまった『大切な人』に、裏切られたとは思わないだろうか[#「裏切られたとは思わないだろうか」に傍点]?
だが、それでも自分を信じ、その信念を貫こうとする人間が目の前にいる。
それは、強い。
上条は自分の携帯電話を見る。たった五分程度の、何気ない会話。それだけのために全てを投げ打って、もう|辿《たど》り着けないと分かっていながら大切な者を守ろうとする人間がいる。
そんな人々の|想《おも》いを、
全て踏みにじってまで、あの少女を独占する権利が今の上条にはあるのだろうか?
(……、分からない)
仮に、それがインデックスの|唯一無二《ゆいいつむに》の願いであるならば、それを守り通そうとも思う。
だが、|肝心《かんじん》のインデックスは『ただ忘れているだけ』なのだ。そもそも|選択肢《せんたくし》がある事も分かっていない少女に、何かを選ばせる事など|土台《どだい》無理な話なのだ。
(分からない、けど。|上条当麻《かみじようとうま》がインデックスを助けたって言うなら)
そう、ならば助けた責任ぐらいは果たさなければならない。
捨て猫に気まぐれでエサを与えて、|飢《う》え死にするのが分かっているのに連れて帰らない、なんてのはなまじ『拾ってもらえるかも』という希望を与えるだけ下手な絶望より|性質《たち》が悪い。
だが、
(助けたのは『今の』|上条当麻《じぶん》じゃない――――)
突き詰めると、結局話はそこに戻るのだった。
(――――インデックスが求めているのは、『記憶を失う前の』|上条当麻《べつじん》なんだから)
階段を五階ほど上がって、上条とステイルは通路へ出た。
ステイルの頭の中には『三沢塾』の見取り図がある。この階へ来たのにはキチンと意味があった。どうも紙の図面と赤外線や超音波を使って外から測定した実寸とで、食い違いがあるのがこの階なのだ。
それはつまり、ここには隠し部屋があるのでは? という事だ。
「図面によると、ここらしいんだけど」
ステイルは直線の通路の真ん中で、何の変哲もない壁を軽くノックする。
「……、らしいんだけど、結局開かないならお手上げじゃねーか」
「だね」
そもそも『隠し部屋』でなくても『コインの裏』にいる上条|達《たち》は、『コインの表』にあるドア一枚開ける事ができない。部屋の出入りをするなら『コインの表』の生徒達がドアを開けた|隙《すき》に|潜《もぐ》り込むしか方法がない訳だが、『隠し部屋』なんて生徒が|頻繁《ひんぱん》に出入りするはずもない。
「けど、場所を確かめておく事に越した事はないさ。どんな強固な結界だろうが築いているのはアウレオルスなんだ。結界の処理ならヤツを|脅《おど》せば済む話だし―――何となれば殺したって構わない」
「……、」
上条は思わずステイルの方を見た。
ここが『戦場』でありアウレオルスが倒すべき『敵』なのは分かる。|生半可《なまはんか》な状況でないのは監禁されている|姫神秋沙《ひめがみあいさ》やロビーで倒れていた|騎士《きし》を見れば理解できる。
それでも、|上条《かみじよう》はアウレオルスを直接『殺す』と断言できない部分があった。アウレオルスが『|騎士《きし》』を倒したのは、正当防衛である可能性だってあるからだ。
しかし、目の前の|魔術師《まじゆつし》は違った。
殺す、と。倒すとかやっつけるとか、そんな|曖昧《あいまい》な言葉ではなく、殺すと告げた。
『隠し部屋』があるらしき壁を伝って一番近くの部屋を探る。と、そこは学生食堂らしかった。広い部屋を用意する事で遠近感を狂わせ、その|隣《となリ》にあるわずかな|隠し部屋《スペース》の存在をごまかそうとする|錯視《さくし》・心理トリックの一つだろう。
学生食堂の入口には特にドアはない。
上条とステイルは、人の波に|呑《の》まれないよう気をつけながら中へ入って行った。
結論から言うと、人の多い場所はかなりまずい。
何せ、『コインの裏』の人間は『コインの表』の人間には」切|干渉《かんしよう》できないのだ。数少ない席を巡って|椅子《いす》取りゲームをする少年|達《たち》が、トレイを持ってしゃべりながら歩いている少女の群れが、それぞれ猛牛の突進みたいなものだ。しかも通路と違って広い食堂では人の動きが読みづらく、人の流れを|避《さ》けるだけでも神経を張り詰めなければならない。
夕暮れ時という事もあり、食堂は生徒達で混雑していた。
誰も自分を見ていない[#「誰も自分を見ていない」に傍点]、というのはある種、新鮮な感覚があった。|普段《ふだん》、混雑する駅の中を歩いている時とは訳が違う。今の光景を見ていると、普段はぶつからないように無意識の内に人が|避《よ》けてくれていたのだ、という事を実感できる。
隠し部屋のある面の壁にはカウンターがあり、その奥には狭い調理場がある。業務用の大型冷蔵庫や調理器具のおかげでただでさえ狭い調理場はさらに狭苦しくなっていた。なるほど、あれでは『元々の部屋の広さ』が分からない以上、『壁の向こうにどれだけのスペースが広がっているか』なんて探るのは難しいだろうと上条は感心した。
「……、ふうん。科学宗教ってのは初めて見るけど、見た目は大した事なさそうだね。てっきり教祖様の顔写真でも額縁に入れて飾ってあるのかと思ったよ」
ステイルは退屈げに辺りを見回した。
「……、確かに危険度は低そうだけど」
上条も辺りを見回してみる。
科学側には『カルト宗教の危険度リスト』というものが存在する。信徒から財産を|徴収《ちようしゆう》する収入レベル、新たな信徒を|強引《ごういん》に入会させる拡大レベル、自爆も|厭《いと》わない絶対服従レベル、
毒ガスや爆弾などの危険物精製レベルなどなど。これらの項目にポイントを割り振って、得点が高いモノが『科学的に危険な宗教』という分類に入る。
あくまで『科学』]点においては、三沢塾はそれほど危険な宗教とは思えない。|標的《タ ゲツト》が学生である時点で信徒から|莫大《ばくだい》な収入を徴収する事は難しいし、予備校という場所では毒ガスや細菌兵器などを精製するのに適してもいない。
だが、
「……、いや。こいつは立派な科学宗教だよ」
|上条《かみじよう》は吐き捨てるように|呟《つぶや》いた。
多くの生徒|達《たち》でにぎわう学食だが、不思議とエレベーターの中のような重苦しい空気に包まれている。無理もない、と上条は思う。ここにいる人達は皆、騒がしいだけで楽しい会話はしていない[#「楽しい会話はしていない」に傍点]。どこの模試で周りを出し抜いて何点成績が上がった、この時期にその分野を勉強しないグズの気が知れない……などなど、他人を|蹴落《けお》とし|蔑《さげす》む事でしか笑い合う事ができない。
上条は食堂の壁に|貼《は》ってあるポスターを見る。
予備校や進学塾のポスターとしてはありきたりな、『今勉強すれば合格して幸せに/今勉強しなければ不合格で不幸になる』といった二極端の例が並べて描かれている。
まるで『幸福の手紙』だなと上条は思った。不幸の手紙の亜種で、『これを七日以内に七人に配ればあなたは幸福になります』とかいう|類《たぐい》のイタズラだ。逆に言えば、従わなければ必ず不幸になる[#「従わなければ必ず不幸になる」に傍点]、と暗に脅迫《きようはく》している辺りが何ともカルト|臭《くさ》い。
「……ふん。『今、ここで勉強している自分達だけが特別頭が良い』って信仰なんだろ。どうせ講義ん時でも講師は堂々と言ってるぜ、『ここは君達だけに教える試験必須ポイントだ。この夏にここを勉強しないのは頭の悪い劣等人種だけだ』ってな」
胸くそ|悪《わ》りい、と上条は口の中で眩いた。
本当に、胸くそ悪い。
その考えが少しだけでも理解できてしまった[#「その考えが少しだけでも理解できてしまった」に傍点]、自分自身が上条は胸くそ悪い[#「自分自身が上条は胸くそ悪い」に傍点]。
その上、受験というのは何だかんだで迷信が|絡《から》んでくるモノだと上条は思う。どれだけ勉強した所で、科学的な根拠があるかどうかも分からない『集中力が上がる料理』を試したりストレ!トに『合格祈願のお守り』を受験会場に持ち込む人も|珍《めずら》しくないと思う。
『不安』という、そのわずかな|隙間《すきま》。
そこにナイフの切っ先を|滑《すべ》り込ませたのが『三沢塾』という科学宗教の形なのだ。
「ふん。カルトの毒気に当てられたようだけど、当初の目的は忘れてないだろうね? とりあえず隠し部屋の入口だけでも確かめておきたいんだけど」
「あ、ああ、分かった。分かったよ!」
上条は深呼吸して、何とか気を落ち着けようとした。
それからもう一度だけ、食堂をぐるりと見回して、
|瞬間《しゆんかん》、食堂にいる八〇人近い生徒全員が上条へ視線を集中させた。
最初、上条は自分が大きな声を出したせいで注目されたのかと|勘違《かんちが》いした。
「ま、ずいかな。……第一チェックポイント通過って感じ?」
だから、ステイル=マグヌスの切迫した声を聞いても|上条《かみじよう》は反応できなかった。
「あ、え?」
「|呆《ほう》けるなよ。『コインの表』にいる人間に、『コインの裏』にいる|魔術師《まじゆつし》が見えるはずがない
だろう。なるほど、隠し部屋の近くにはこんな具合に自動の警報を設置している訳だ」
「……、」
上条は、辺りを見回す。
八〇人近くいる生徒|達《たち》は、間違いなく上条達を眺めている。先ほどまであった人間らしい仕草は何もなく、ただ棒のように立ち、レンズのような無機質な|瞳《ひとみ》で。
「ま、さか――――」
上条は、ぐるりと辺りを見回す。もはや|紛《まぎ》れもなく、『コインの裏』に属する八〇人の生徒達を。その、『コインの裏』に属するという事は、それが意味している事とは――――。
「―――――魔術師!」
訳も分からず上条が叫んだ|瞬間《しゆんかん》、ステイルは上条を置いてすでに一歩後ろへ跳んでいた。
だが、
「|熾天《してん》の|翼《つばさ》は輝く光、輝く光は罪を暴く純白―――――」
ポツリ、と。棒立ちの生徒の一人が、意味の分からない事を|呟《つぶや》いた。
「純白は浄化「の|証《あかし》、証は行動の結」果―――――」
一人の声に、二人目が重なり、
「結「果は未来、未来」は「「時間、時間は一」律―――」――」
二人目の声に、三人目が、四人目が、五人目が六人目が七人目八人目九人目一〇人一一人一二人一三一四一五一六一七一八一九――――ッ!!
「一律は|全《すべ》「て、全てを|創《つく》るのは過去、過去は原」因、原因は「一つ、」一つは「「罪、罪は人、人は」|罰《ばつ》を恐れ、恐れ」るは罪「悪、罪悪とは」己の中に、己「「「の中に|忌《い》み嫌うべきものがあ」るなら」ば、熾天の翼に」より「己の罪を暴」き内から|弾《はじ》け飛ぶべし――ッ!」
都合八〇もの大合唱が―――|否《いな》、建物中の全ての人間が作り出す、数千人にも及ぶ『戦場』そのものを揺るがしかねない言葉の|渦《うず》が巻き起こる。
生徒の一人の|眉間《みけん》から、ピンポン球くらいの大きさの青白い光が生まれた。それはやはり球体なのか、|狙《ねら》いも|曖昧《あいまい》に宙を飛ぶと、上条のすぐ横の床に落ちる。
じゅう、と。まるで強酸のように音を立てて薬品の煙がわずかに上る。
それ一つなら、ただの|火傷《やけど》で済みそうなレベルだが、
「そら、|最強の盾《イマジンブレイカー》。君の出番だ!」
「なに? ……って!?」
ふと振り返った瞬間[#「ふと振り返った瞬間」に傍点]、上条の視界を埋め尽くすほどの[#「上条の視界を埋め尽くすほどの」に傍点]、何百もの青白い球体が迫っていた[#「何百もの青白い球体が迫っていた」に傍点]。
「う、わ――――こんなもん、いちいち相手にしてられっか!?」
|上条《かみじよう》はステイルを追い抜くように出口へ走った。てっきり上条が|盾《たて》になると思っていたらしいステイルが少し|慌《あわ》てたように上条の後を追って食堂を飛び出す。
「な……、オイ逃げるな! 全く何のための盾なんだ、その右手なら|竜王の一閃《ドラゴンブレス》だって防げるだろうに、盾も使わず無防備な背を見せるだなんて気が触れてるのか君は!?」
「何じゃそりゃあ!? 大体人を盾にしといて良く言うぜ! 質はともかく量が絶望的だ! あんなもん右手一つで対処できるか!」
四本腕の相手とボクシングするようなものだ。二本の腕を警戒して顔に防御を固めていても、残る二本の腕でがら空きの胴を打ち抜かれる。『個人』で相手にするには大きすぎる『集団』なのだ。
|轟《ごう》! と食堂の入口から大量の球体が押し寄せてきた。まるで食堂の中に水を張っておいて、水門を一気に開いたような、そんな光景だった。
上条とステイルは、とにかく通路を走るしかない。
「ちっ、それにしても、レプリカとはいえ『グレゴリオの聖歌隊』を作り出すなんて、少しアウレオルス=イザードという生き物を見くびっていたかもしれない」
「何だよ、その『ぐれごりお』の何とかってのはー7鱒」
「元はローマ正教の最終兵器さ。三三三三人の修道士を聖堂に集め、その|聖呪《いのり》を集める|大魔術《だいまじゆつ》。太陽の光をレンズで集めるように、魔術の|威力《いりよく》を激増する事ができるんだ」ステイルは歯を食いしばって、「ここにあるのはレプリカとはいえ――生徒の数は二〇〇〇人程度だったか。この国には|塵《ちり》も積もれば山となるって言葉があるようだけど、コイツはまさにその具現だね」
上条はギョッとした。
言っている事の意味を半分も理解していないとは自分でも分かるが、それは結局―――二〇〇〇人もの人間に取り囲まれてケンカをしているようなものではないのか?
ここが『戦場』であり、『敵陣』の真ん中に|突撃《とつげき》した、という事は頭では理解していた。だが、現実に『二〇〇〇人を同時に敵に回す』なんて考えると|途端《とたん》に絶望が広がっていく。
「そんなもん、まともにやって勝てるはずねーじゃねーか="広いっつっても|所詮《しよせん》は建物の中だぜ、二〇〇〇人相手に鬼ごっこやったっていつかは捕まるに決まってんだろ!」
「それがまだ決まってない」が、ステイルは前を見たまま答えた。「『核』だよ。『グレゴリオの聖歌隊』は二〇〇〇人もの人間を同時に操らなければ成功しない。その|同調《シンクロ》のカギとなる『核』を|破壊《はかい》すれば『グレゴリオの聖歌隊』を食い止める事ができる」
長い直線の通路を走り、ようやく階段の近くまで|辿《たど》り着いた時、さらに前方から青白い球体の|洪水《こうずい》が|襲《おそ》ってくるのが見えた。
前と後ろの挟み|撃《う》ち。
「階段―――行くよ」
|上条《かみじよう》とステイルはとっさに横の階段へと飛び込む。上か下か、どちらへ走るべきか。上条はステイルに意見を聞こうとしたが、不意に|違和感《いわかん》を覚えた。
「お前……ッ! さっきっから|随分《ずいぶん》のんびりしてんじゃねーか! なんか策でもあんじゃねーのか!?」
そう、今まさに死線をかいくぐっているにしては、ステイルはあまりに冷静すぎる。
「ふむ。秘策があると言えばあるんだけど、こんな所で使って良いかどうか迷っているのさ」
「ふざ、そんなもんあるならさっさと使えーっ!!」
そうかい、とステイルは心底楽しそうに上条の顔を見た。
その場違いすぎる笑顔に上条は警戒して思わず息を|呑《の》み込もうとした|瞬間《しゆんかん》、
どん、と。ステイルは、上条を階段から下の階へと突き飛ばした。
「な……、」
上条が何か考える前に、上条はバランスを|崩《くず》して勢い良く階段を転がり落ちた。まるで五、六人にリンチされたような激痛が体のあちこちに走る。悲鳴も出せない。出せば舌を|噛《か》んでしまう。
「|お気の毒に《badluck》、|カカシ君《Scarecrow》♪」
頭上からステイルの楽しそうな声。半ば|朦朧《もうろう》とした意識で見上げれば、ステイルは正反対に
上の階へと駆け上がっていくのが見える。
直後、上の階と下の階を分断するように『球体の|洪水《こうずい》』が押し寄せてきた。それは水の流れ
のように、さも当然のように上条に狙いを定めて[#「さも当然のように上条に狙いを定めて」に傍点]、襲いかかってくる[#「襲いかかってくる」に傍点]―――ッ!
「あの野郎……ッ!」
上条は痛む体を無理矢理に動かしてさらに階段を駆け下りた。
ステイルの言葉が|脳裏《のうり》に思い出される。
ここはアウレオルスの根城で、ヤツの|魔力《まりよく》に満たされているらしい。それは例えるなら赤絵の具一色の絵画で、|青絵の具《ステイル》が魔術を使えばそれだけで異常が感知されてしまう、らしい。
けど、逆に言えばステイルは魔術を使わない限り、異常は感知されない。
そして一方で、上条の|幻想殺し《イマジンブレイカー》は常に赤絵の具を消していく。スイッチをオン/オフできるステイルと違い、上条は常に腰から発信機をぶら下げているようなモノなのだ。
ようは、上条は使い捨ての|囮《おとり》としてここまで連れてこられたのだ。
敵陣に突っ込むにしてはやけに無策だと思っていたが、こんな裏があったのだ。
(……ちくしょう! けど、待てよ。何かおかしいぞ?)
上条の中で何かが警報を鳴らしていた。だが、上条はそれが何に対してなのか分からない。そして心当たりもない。『思い出』を持たない上条に思い当たる事がないという事は、
『|記憶《きおく》を失う前の』|上条《かみじよう》が、
『知識』が何かを警告している。
と、上条の思考を切断するように新たな足音が聞こえてきた。
しかも、階段の下から。行く手を|遮《さえぎ》るように。
「……っ!」
上からは『球体の|洪水《こうずい》』が迫る。今さら足を止める事はできない。上条は全速力で階段を駆け下りながら階下を見下ろした。
階段の下、そこに待ち構えるように一人の少女が立っていた。見知らぬ顔だった。着ている制服にも見覚えがないが、おそらく上条より一つ二つ年上の『受験生』だろう。黒いお下げの髪と丸いメガネの少女は、『|魔術《まじゆつ》』はおろか『争い』にさえほど遠い顔をしていた。
「罪を|罰《ばつ》するは炎。炎を|司《つかさど》るは|煉獄《れんごく》。煉獄は罪人を焼くために作られし、神が認める|唯一《ゆいいつ》の暴
力――――」
だが、その|可愛《かわい》らしい|唇《くちびる》から|洩《も》れるのは、|錆《さ》びた歯車にも似た不快な声。
言葉を|紡《つむ》ぐたび、少女の|眉間《みけん》にある青白い球体が大きさを増す。許容量を超え、風船の口から手を放すように飛んでいく事を今か今かと球体は待ち|焦《こ》がれている。
やはりコインの表裏が裏返ったのか、本来『コインの表』にいるはずの少女は、魔術師として『コインの裏』に立っていた。それは今、『三沢塾』にいる|全《すべ》ての生徒に当てはまるだろう。つまり逆に言えば、今なら上条はこの少女を難なく押し倒す事もできる。
(いける……っ!)
上条は右手を握り締めた。何十何百となっては手に負えないが、逆に言えば一つ二つの球体など敵ではない。己の力、|幻想殺し《イマジンブレイカー》の存在を確かめるように、上条は|一際《ひときわ》強く|拳《こぶし》を握り、
ばじっ[#「ばじっ」に傍点]、と。
少女の頬が少女の頬が[#「少女の頬が少女の頬が」に傍点]、まるで皮膚の裏に仕掛けた爆竹でも爆発させたように吹っ飛んだ[#「まるで皮膚の裏に仕掛けた爆竹でも爆発させたように吹っ飛んだ」に傍点]。
「なっ……!?」
上条がギョッとする中、少女の指が、鼻が、服の内側が、次々と小さな破裂を巻き起こす。一つ一つの破裂は小さく、せいぜい数センチ程度の|皮膚《ひふ》が破れる程度だ。だが、
「暴力は……死の|肯定《こうてい》。肯、て――――は、認識。に―――ん、し―――――」
少女が言葉を紡ぐたびに次々と少女の体が破裂.していく。言葉を紡ぐ唇も破け、体の内側さえも破れているのか口の端から血を垂らして。それでも少女は言葉を紡ぐのを|止《や》めない。|否《いな》、
止められない。まるで機械に体を操られているがごとく、電極を刺されたカエルの足が、カエルの意思とは無関係に筋肉を動かしてしまうように。
(まさか……)
上条の中の|焦《あせ》りが、胃袋の中から一気に|迫《せ》り上がってきた。上条の『知識』は言っていた。どこで仕入れたかも分からない、得体の知れない『知識』はこう言っていた。
超能力者に[#「超能力者に」に傍点]、魔術は使えない[#「魔術は使えない」に傍点]。
いわく、超能力も|魔術《まじゆつ》も、似たような『異能の力』だが、中身は全く違う。超能力者は普通
の人間とは『回路』が違うから、魔術師と同じ事をしても魔術を使う事はできない。
けれど、ここは学園都市だ。
この街に住む学生なら、どんな人間だって能力開発の|時間割《カリキユラム》りを受けているはずなのだ。
では、仮に。
魔術を使えない超能力者が[#「魔術を使えない超能力者が」に傍点]、それでも無理矢理に魔術を使うとどうなるのか[#「それでも無理矢理に魔術を使うとどうなるのか」に傍点]?
「や、めろ――――」
|上条《かみじよう》は状況も忘れ、思わず|呟《つぶや》いた。
回路が違う。『知識』はそう言っていた。|非現実《オカルト》の仕組みなんてサッパリ分からないが、もしかして、それは|直流《でんち》で動く|電子機器《ウオ クマン》に、無理矢理|交流《コンセント》を|繋《つな》げているようなものなのか?
とりあえず『電気』が通っている以上、『回路』は動くものの、
それは単に、『回路』を焼き切りながらメチャクチャに動かしているだけではないのか。
「―――やめろ! おい、自分の体がやばくなってるって事ぐらい分かってんだろ!」
もう|拳《こぶし》を握る事さえ忘れていた。言うなれば|拳銃《けんじゆう》の銃口を向けられているに等しい状態なのに、上条は何もかも忘れて一気に階段を駆け下りた。
「……き、は――己の、中に。中、とは―――世界。自己の内面と世界の外面、を、繋げ」
何かをブツブツ言っていた少女は、ブチンという鈍い音と共に突然|黙《だま》り込んだ。
|眉間《みけん》が|爆《は》ぜ割れ、自ら呼び出したはずの青白い球体が消え去った。後に残されたのは|真《ま》っ|赤《か》な血を|溢《あふ》れさせる傷口のみ。
それが決定的[#「決定的」に傍点]だったのか、少女の体がぐらりと階段の段差に向かって倒れ込もうとした。
頭の中で、何かがささやいた。
人間の体は重い。たとえそれが小柄な女の子でも、『荷物』となれば話は別だ。こんな何十キロもの|錘《おもり》を抱えて、あの『球体の|洪水《こうずい》』から逃れられるはずがない、と。
頭の中で、何かがささやいた。
それに、この少女は|所詮《しよせん》、敵だ。助けた所で見返りはなく、逆に背中を|撃《う》たれる危険の方が高い。自分の身を最優先するならば、ここで敵は捨て置くべきだ、と。
頭の中で、何かがささやいた。
そして、何より。これだけの傷を負った人間が、もう助かるはずはない、と。体の傷は|誰《だれ》がどう見ても致命的だし、心の方だって科学宗教に染め上げられている。
(……、)
上条は、頭の中に|響《ひび》く声に無言で奥歯を|噛《か》み締め、
「うるっ―――――せぇ!!」
それでも、階段の段差へと倒れ込もうとする少女に全力で手を伸ばした。
確かに、この少女は重い。ただでさえ逃げ切れる状況でないのに、人間一人を抱えて『球体の|洪水《こうずい》』から逃れられる道理はない。この少女が敵だって事も分かっている。体の傷が深い事だって、心の傷はもっと深い事だって、そんな事ぐらい言われなくても分かっている。
それでも、
そんなものが、傷ついた女の子を後ろから迫る『球体の洪水』へ放り込んで許される道理なんて、どこにもない。そんなもの、この世界のどこを見回したってあるはずがない。
この少女だって、何も好き好んでこんな事をしている訳ではないはずだから。
ただの予備校だと思ってこんな所へ入り、知らない間に科学宗教に染め上げられ、挙げ句分からない内に使い捨てのパーツとして扱われて。
|上条《かみじよう》はエレベーターの前でくずおれた『|騎士《きし》』を思い出した。
あそこで何かを感じたのなら、敵だろうが何だろうが死に|逝《ゆ》く者を見捨てる事などできるはずがない!
「ぐっ……く、そ!」
どす、と上条の胸に倒れ込んできた少女は、予想よりずっと軽かった。ただし、それは『人間』としての話だ。『荷物』としてはやっぱり重たい。しかも階段の途中という事もあり、踏ん張りが|利《き》かなかった。そのまま転がり落ちそうになる。
血まみれの少女を抱いた上条はさらに階段を駆け下りようとして、ふと後ろを振り返った。
そこに、
(―――ッ)
ざあっと[#「ざあっと」に傍点]。まるで鉄砲水が押し寄せるように上条の鼻先まで球体の洪水が迫っていた。
上条はとっさに鼻先の球体を右手で|弾《はじ》くと、左手で少女の腰を|掴《つか》んで残る階段を一気に駆け下りた。いや、駆け下りようとした。だが意識をなくした人の体は予想以上に重い。まるで足に鉄球をつけて泳げと言われているようなものだ。
とっさに跳ぼうと思ったのに、体はガクンと重力に|縫《ぬ》い付けられた。
そのわずかなタイムロスを見逃すまいと、何十何百何千もの球体が|渦《うず》を巻いて
「…………………………………………………………………………………………………ッ!!」
思わず、上条は両目を固く閉じていた。
せめて少女の|盾《たて》になろう、と思ったまでは良い。だが、一つ二つの球体は防ぐ事ができても、何十何百となれば話は別だろう。まるで無数の虫に体を食われるがごとく、上条の体は強酸じみた無数の球体に少しずつ少しずつどろどろに溶かされて
「……?」
――――溶かされて、ない。いつまで|経《た》っても何も起きない。時間が止まったかのような|錯覚《さつかく》。上条は下手に目を開けられなくなった。目を開けた|瞬間《しゆんかん》、止まっていた時間が再び動き出すような、奇妙な|妄想《もうそう》に|囚《とら》われたためだ。
それでも、目を開けない事には何も始まらない。
|上条《かみじよう》は恐る恐る、時限爆弾のコードでも切るぐらいの|慎重《しんちよう》さで両目を開けた。
「……、あ?」
両目を開けてなお、上条は目の前の光景が分からなかった。
時間が止まった[#「時間が止まった」に傍点]、と|変《もあ》な考えに|囚《とら》われた。だって、そうでないとおかしい。鼻先まで迫り、何十何百という球体に|呑《の》み込まれようとした上条|当麻《とうま》。だっていうのに、何だってその球体の渦が[#「何だってその球体の渦が」に傍点]、ビデオの一時停止みたいにピタリと空中で止まっているのか[#「ビデオの一時停止みたいにピタリと空中で止まっているのか」に傍点]?
やがて、|緊張《きんちよう》の糸が切れたように球体は再び動き出した。
だが、それは|凄《すさ》まじい水流で上条を呑み込もうとするものではない。まるで|掴《つか》んだリンゴをゆっくり手放すように、無数の球体は|真《ま》っ|直《す》ぐ床へと落ちる。床へ落ちた球体は、まるで空気に溶けるようにそのまま消えていってしまう。
カツン、という足音。
上条は訳が分からない。訳が分からないが、足音がしたのは階段の下からだ。まるで答えを探し求めるかのように、上条は踊り場から、とにかく足音がした階下を見下ろした。
階段の下には通路へ続く出入口があり、夕暮れの日差しが暗い非常階段へと|射《さ》し込んでいる。
そこに、
まるで井戸の底から見上げるように、『|吸血殺し《デイープブラツド》』|姫神秋沙《ひめがみあいさ》が立っていた。
その|頃《ころ》、ステイル=マグヌスは使い終わった炎剣が消えていくのを眺めていた。
ルーンのカードが一枚、桜のように宙を舞う。
|上条《かみじよう》より上の階の通路。何の変哲もない直線の長い廊下に、けれどステイルは『グレゴリオの聖歌隊』の核が隠されている事を|掴《つか》んでいた。
彼は|魔術師《まじゆつし》だ。自分の専門とする『魔力』の流れを|視《み》る事ぐらい訳はない。ここにいる生徒|達《たち》の魔力は微々たるものだが、それでも二〇〇〇人もの魔力が一点に集中され、管理されれば|嫌《いや》でも『核』の場所を特定する事ができる。
「……なるほど、それで『隠した』訳だ」
のんびり|煙草《タバコ》を吸いながらステイルは|呟《つぶや》いた。
『コインの表』で言う隠す[#「隠す」に傍点]とは、『コインの裏』では絶対の防御[#「絶対の防御」に傍点]を意味している。|何故《なぜ》なら、『コインの裏』の住人は、『コインの表』のモノは、クリスマスプレゼントの包み紙でさえ|剥《は》がす事は絶対にできないのだから。
例えば、何の変哲もない壁の中に『核』を塗り込めておけば、それは最強の鉄壁となる。
仮に敵の魔術師に見つかっても、手出しができなければ問題ないと踏んだのだろう。
「ただし、完壁に塗り込める事ができれば[#「完壁に塗り込める事ができれば」に傍点]、の話なんだけどね」
ステイルはつまらなそうに煙を吐いた。ステイルの『炎』にカタチはない。例えば、壁や窓枠にほんのわずかな|歪《ゆが》みからできた、一ミリにも満たない『穴』があれば、そこから三〇〇〇度もの炎を流し込む事だって難しくない。
『コインの表』の常識は『コインの裏』では通用しない。|完壁《かんぺき》なる防御が欲しければ、ビニール袋にでも詰めて口を|縛《しば》っていれば良かったのだ。
かくして、ステイルは『核』が何であるかも見ないまま、とりあえず|破壊《はかい》してみた。
結果、どうやら『グレゴリオの聖歌隊』を食い止める事はできたらしい。
「……それにしても」ステイルは口の端で煙草を揺らしつつ、「血路とは、また見ない間に|錬金術師《れんきんじゆつし》も歪んだものだ。血路とは他人ではなく己を切り開いて作るものだろうに」
超能力者と魔術師とでは『回路』が違う。『回路』の違う超能力者に無理矢理魔術を使わせれば、暴走した魔力は全身の血管と神経をズタズタに引き裂く事だろう。
現に、この通路にも―――自分の足元にも、何人かの生徒が倒れ込んでいた。動いている者
もいれば、もう動かなくなった者もいる。さらに濃密な鉄の|匂《にお》いがどこからか流れてきた。そこらの部屋を|覗《のぞ》き込めば、きっと数倍数十倍もの|地獄《じごく》が待っているに違いない。
自分の言葉に、苦いモノが含まれている事にステイルは自分で|驚《おどろ》いていた。
まるで、自分の中にまだそんな人間らしい部分が残っているのかとでも言うように。
(……あてられたかな[#「あてられたかな」に傍点]?)
ステイルは、ある超能力者の少年の顔を思い出して苦い顔をした。
と、通路の向こうからあからさまな足音が聞こえてくるのをステイルの耳は|掴《つか》む。
急いでいるのでなく、足音を殺しているのでなく、殺意を押し殺す事もなく、それでいて物陰から先手必勝で暗殺するという訳でもなく。
|強《し》いて言うならば、これから|奇襲《きしゆう》する相手の家のドアにノックしているかのような、|大胆《だいたん》かつ不敵、絶対の自信、圧勝の確信を|匂《にお》わせる『宣戦布告』にして『勝利宣言』だった。
足音は言う。
「自然、『|偽・聖歌隊《グレゴリオ=レプリカ》』を使えばどこに|潜《ひそ》んでようが『核』の元までおびき出せるとは思ってい
た」足音は止まらない。「当然、侵入者は二人だったはずだが……。もう一人はどうした、現然、貴様の使い魔は『|偽・聖歌隊《グレゴリオ=レプリカ》』に|呑《の》まれたのか?」
「呑まれてくれれば大助かりだけどね」ステイルは歌うように言った。「あいにく、あれは想像以上にしぶといんでね。それと|使い魔《フアミリア》と呼べるほど|可愛《かわい》らしいものでもない」
足音は、ステイルから一〇メートルほど離れた通路の先でピタリと止まった。
ステイルは、一度笑い、それから正面を見据えた。
その|眼《め》は|微塵《みじん》も笑っていない。
その足音の正体は、イタリア製の|革靴《かわぐつ》の底だった。そこから伸びる長い脚も、ニメートルに届く細身の体も高価な純白のスーツに包まれている。
|歳《とし》は一八、性別は男、その名はアウレオルス。
髪の色は緑。|強引《こういん》に染め上げられたその色は、男の|司《つかさど》る五大元素の つ『土』を示す|属性色《シンボルカラー》だ。オールバックにしたその髪だけが、肌も服も白い男を一段と|際立《きわだ》たせている。
ともすれば笑い者になりかねないほど|煙《きら》びやかな格好は、けれど男の持つ中性的な|美貌《びぽう》によって、さも当然と変換されていた。
「それで、|戦闘《せんとう》向きでないお前が僕を招き寄せるとはどういうつもりなんだ? お前と僕じゃ足止めにもならない事ぐらい分かるだろう? それとも何かい、今日は何十の|魔道具《マジツクアイテム》を隠し持ってるんだ、|骨董屋《キユリオデイーラー》?」
「……、」
それはアウレオルスにとって禁句に近い。
元が戦闘を得意としない|錬金術師《れんきんじゆつし》が前線に立つには、その身を武装と|霊装《れいそう》で固めるより道はない。アウレオルスは何十何百という魔道具に|頼《たよ》って、ようやく目の前のステイルと同じ位置に立てるのだ。
「全然。貴様、今の私が魔道具を持たぬ事にも気づかんのか」
「だろうね。何せこの建物自体が一つの聖域ー巨大な魔道具の|塊《かたまり》だ。お前が魔道具で身を固めなくても、周りが勝手にお前を補強する。ふん、それで? 結局お前は何がしたい? |黙《だま》っていても聖域が勝手に戦ってくれる。しゃしゃり出ても聖域の力を借りるだけ。そら、結局お前はここにきて何がしたいんだ? いや、一体お前に何ができる[#「一体お前に何ができる」に傍点]?」
「貴様」
「|俄然《がぜん》やる気が|湧《わ》いてきました、という顔だが、あいにく僕はお前に用はない[#「あいにく僕はお前に用はない」に傍点]。そら、どけよ。子供の使い方は多少|瘤《かん》に|障《さわ》る所があるが、お前に当たっても仕方ないだろう? 何せそれは聖域が行った罪だ、お前に|罰《ばつ》を求めるのは|酷《こく》だよね?」
「厳然、貴様――――ッ!!」
ず、と穴から|蛇《へび》が|這《は》い出る動きでアウレオルスのスーツの|右袖《みぎそで》から黄金の刃物が飛び出す。
(|鏃《やじり》……?)
ステイルは|眉《まゆ》をひそめた。形は確かに鏃のそれだが、大きさは小ぶりのナイフほどもある。|投撫《とうてき》用に作られた|暗器《あんき》か、と心の中で結論づけた|瞬間《しゆんかん》、
「リメン―――――」
アウレオルスの右手がゆらりと上がる。まるで|鎌首《かまくび》をもたげるように、刃物の切っ先がステイルの顔を|睨《にら》みつけ、
「―――――マグナ!!」
瞬間、ソレは弾丸のように一直線にステイルの眼球目がけて|襲《おそ》いかかってきた。
「……ッ!?」
ステイルがとっさに身をひねって|避《さ》ける事ができたのは、寸前で『飛び道具』と当たりをつ
ける事ができたからだ。ただの刃物と思っていれば|今頃《いまごろ》、|頭蓋骨《ずがいこつ》は貫通されていただろう。
巨大な鏃の|尻《しり》には、やはり黄金の|鎖《くさり》が取り付けられていた。
ステイルは身をひねりながら、巨大な黄金蛇のようになった刃物の行く先を見る。黄金の鎖はアウレオルスのスーツの袖から伸び、宙を切り、ステイルの顔のすぐ横を通過して、
だちゅ、と。
果物を裂くような音と共に、先端の鏃は通路に倒れ伏す生徒の背中に突き刺さっていた。
(……、)
ステイルが何かを思う前に、
(……!?)
ぱん、と。まるで水風船に刃物を突き立てたように、生徒の体が液体となって弾け飛んだ。
まるで人間の体を強酸でドロドロに溶かしたようだが、違う。あれはただの液体ではない。金色に輝くそれは―――まさしく、高熱により溶解した純金に|他《ほか》ならない。
ヒュン、と鎖が巻き戻され、鏃はアウレオルスのスーツの袖へと舞い戻る。
「自然、何を|驚《おどろ》いている?」アウレオルスは右の手を再びかざし、「|我《わ》が役は|錬金《れんきん》の師。その名の由来、当然分からん正は言わせんよ」
ステイルは言葉が出ない。
|錬金術《れんきんじゆつ》の象徴とされる、|鉛《なまり》を純金に変換する|業《わざ》は確かに存在する。だが、その『大いなる業』は、現代の新素材を用いたとしても、日本円で七兆円近い費用と、時間にして三年以上の期間が必要となる、まさに『|大袈裟《おおげさ》な|魔術《まじゆつ》』なのだ。
だが、目の前のアウレオルスはそれをものの一秒もかけずに実現した。
それは最速どころか神速と表現して良い。もはや|誰《だれ》にも追い抜けない記録という意味で。
「|我《わ》が『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』はわずかでも傷をつけたモノを即座に純金へと強制変換する。防御は無効、|逃避《とうひ》も不可能。そら、貴様も|得物《えもの》を出せ。その|魔女狩りの王《イノケンテイウス》、実体なき炎の化身すらも変換できるかどうか、|俄然《がぜん》それはそれで興味がある」
錬金術師の|右袖《みぎそで》から|蛇《へび》の|鎌首《かまくび》のように黄金の|刃《やいば》が顔を出した。
「……、」
だが、ステイルは何も答えなかった。
目の前で起きた事が信じられないという感じで、凍りついたまま動かない。
「ふむ。必然、『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』の前では|愕然《がくぜん》せざるを得んだろうが、これで終わらせるなよ。私はまだ食い足りん。五秒前までの貴様の態度、あれは万死で済まされるものではない」
「……|驚《おどろ》くなって、そりゃあ無理だ」
|呆然《ぼうぜん》と、ステイル=マグヌスは|幽霊《ゆうれい》を見た子供のように|呟《つぶや》いた。
「お前、何だってそんな|無駄《むだ》な事をしてるんだい?」
な……、と錬金術師の動きが凍りついた。
「何を驚いてるんだ? 魔術とは『実験』であり『結果』ではないだろう? ふむ、例えば五秒で薬を作る職人がいる。けれど薬の効果には何の優劣もないだろうに」ステイルは|馬鹿馬鹿《ばかばか》しそうにため息をついて、「お前のやっている事はそれだよ。|瞬間錬金《リメン=マグナ》? くだらない、そんなもの、ようは人間に強酸をぶち|撒《ま》けて溶かしているのと何の違いがある?」
「……、必然」
「お前が努力したのは分かったけど、これに|魔女狩りの王《イノケンテイウス》を向けるのは弱い者イジメがすぎる。大体アレは留守番だよ、こんな所で使うほど|暇《ひま》でもないんだ」
「……、必然。失笑!」
|嘲《あざけ》りの声を打ち消すかのごとく、アウレオルスはスーツの右袖から『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』を射出した。刃の勢いは錬金術師の怒号そのものと言って良い。射出と巻き戻しの速度が速すぎるため、もはや|幾重《いくえ》にも残像を残す黄金の|光条《レーザー》と化していた。実に秒間一〇発にも及ぶ弾丸の|嵐《あらし》に、魔術師とはいえ生身の人間であるステイルがついていけるはずもない。結果、一〇発の内六発がステイルの顔面から下腹部までを電動ミシンのごとく一気に貫いた。
彼の持つルーンのカードがバラバラと宙を舞う。
だが[#「だが」に傍点]、
「それに、何だこれは? お前自身が魔道具の一つにすぎない事も気づけないのか[#「お前自身が魔道具の一つにすぎない事も気づけないのか」に傍点]?」
上半身を|蜂《はち》の巣にされ、顔面の真ん中に腕一本通るほどの大穴を空けておきながら、それでもステイル=マグヌスの退屈そうな声は止まらなかった。
「な、――――んだ、それは」
|愕然《がくぜん》に凍るアウレオルスは、さらに『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』の刃を射出する。すでにボロボロの上半身は元より、原型を|留《とど》める下半身までも徹底的に|穿《うが》つように秒間一〇発もの刃の弾丸を。
しかし[#「しかし」に傍点]、
「基礎物質にケルト十字を使ったテレズマの|塊《かたまり》とは、いかにも元ローマ正教の司祭らしいマニアックな造形だが、用があるのはアウレオルス=イザードなんだ。悪いけど|錬金の真似事《アウレオルスルダミー》は引っ込んでてくれないかな?」
ゆらゆらと。今にも消えそうに体を透かしたまま、|何故《なぜ》かステイルは立っている。
「何だ、それは? 自然、それでは第一の前提から|破綻《はたん》する。当然、|瞬間錬金《リメン=マグナ》は私が開発した私の|錬金法《れんきんほう》だ。必然、そうでなければこの力の源は何だと言うのだ?」
「もちろん、本物のアウレオルス=イザードに決まっている[#「本物のアウレオルス=イザードに決まっている」に傍点]。お前自身もそろそろ|違和感《いわかん》に気づきつつあるとは思うけどね。まあいい。ならば一つ質問だ、アウレオルス=ダミー。お前、一体何のために錬金を学んだんだ?」
「……、知れた事」アウレオルスは|瞬間錬金《リメン=マグナ》を構え、「錬金の目的は真理の探究に|他《ほか》ならない。とりわけ私の専門は『人間』だ、人が人のカタチを維持したまま、どこまで高みに昇れるのか。それを探るために学び|舎《や》の門を|叩《たた》いた」
|幻覚植物《ベラドンナ》に身を染めれば破滅と引き換えに|呪文《じゆもん》の組み立てと|詠唱《えいしよう》の速度は格段に上がる。南極の永久凍土の下に|潜《もぐ》れば何千年と眠る事ができる。
だが、そんな『人間を捨てた』限界突破でなく、『人が、人としての姿と尊厳を保ったまま』
どこまで昇り詰める事ができるか、それを探るための錬金なのだ、と。
|魔術医師《パラケルスス》の|末喬《まつえい》とされるアウレオルスはそれを人生の目的としていたし、それを|誇《ほこ》らしくも思っていた。
「ならば、何故『吸血鬼』などという『人間の外にいるモノ[#「人間の外にいるモノ」に傍点]』に触れようとする?」
だが、|魔術師《まじゆつし》の言葉はその|全《すべ》てを粉々に|破壊《はかい》する。
「……、」
「ふん。ほら、お前には分からない。お前には何も分からない。お前には本当に何も分からない。アウレオルス=イザードがやっている事、アウレオルス=イザードがやろうとしている事。あらかじめ|入力《インプツト》されただけの|偽物《ダミー》は、|本物《イザード》が己の信念をねじ曲げてまで行おうとする|予想外《エラー》を理解する事ができない」
そんなものを、|本物の錬金術師《アウレオルス=イザード》と呼べるのか、と。
|破壊《はかい》され尽くしたはずの|魔術師《まじゆつし》は、|何故《なぜ》だか|錬金術師《れんきんじゆつし》よりも勝っているように告げた。
「そして、その|瞬間錬金《リメン=マグナ》。調べ物をするための|魔術《じつけん》だというのに、結果ではなく魔術そのものを|誇《ほこ》るなんてアウレオルス=イザードではありえない。薬草を飲ませたら|風邪《かぜ》が治った、これで喜ぶのは子供の特権だろう?錬金術師の本分は薬草の中のどんな成分が風邪に効いたのか、それを調べる事じゃなかったのかい?」
「ぅ、あ……、」
否定しようと思えば、いくらでも否定できたはずだ。
だが、アウレオルスは聞き入ってしまった。何より、魔術師の言葉一つ一つが、まるでジグソーパズルのように自分の内面にキッチリ収まっていくため無視できなかった。
「だから何度でも言う、|偽者《にせもの》。僕が用があるのはアウレオルス=イザードだ、お前じゃない[#「お前じゃない」に傍点]。
警備装置の一つ二つ|壊《こわ》すのは|容易《たやす》いが、|流石《さすが》に知り合いの顔と同じでは気が引けるんでね、|失《う》
せるなら早々に失せると良い」
アウレオルス=ダミーは耐えられない。
自身が偽物である、という事などもはやどうでも良い[#「もはやどうでも良い」に傍点]。ようやくこの手で|会得《えとく》したと思っ
ていた、|唯一無二《ゆいいつむに》の切り札が実は単なる借り物でしかなかったという事実が耐えられない。
アウレオルス=ダミーは目の前の敵を全力で排除するため、|瞬間錬金《リメン=マグナ》を構え、
「それに、本当は分かってるんだろう? 錬金術師アウレオルス=イザ!ドは、こんなにあっさり負けるほど弱くはないはずだ、って」
声は[#「声は」に傍点]、後ろから聞こえた[#「後ろから聞こえた」に傍点]。
|一瞬《いつしゆん》、暖炉のような暖かい空気がアウレオルスの|頬《ほお》を|撫《な》でたと思った瞬間、いきなり何もない空間からステイル=マグヌスの姿が現れた[#「いきなり何もない空間からステイル=マグヌスの姿が現れた」に傍点]。
(|盛気楼《しんきろう》……!?)
アウレオルスはとっさに身を引こうとする。
唇気楼は空気を熱する事で、空気を|膨張《ぽうちよう》させ光の屈折率を変える現象だ。空気に溶けるように身を隠す事も、逆に何もない場所に映画のスクリーンのように映像を映す事も可能なのだ。
先ほどまで|瞬間錬金《リメン=マグナ》の|為《な》すがままになっていたのは偽物で、本物は空気に溶けるように身を隠しながらアウレオルスの背後へ回っていたのだ。
アウレオルスは、その時点で|完壁《かんべき》にステイルの戦術を見抜いていた。
上手に立ち回れば、確実に|回避《かいひ》できるはずの|攻撃《こうげき》だった。
だが、
|瞬間錬金《リメン=マグナ》に串刺しにされた|幻影《にせもの》。その在り方に、一瞬――一秒にも満たない一瞬だが、確実に己の姿を投影してしまったのが間違いだった。
思考の空白は致命的な|隙《すき》を作る。
アウレオルスがようやく我に返った時には、すでにステイルの右手に炎剣が生まれていた。のみならず、一直線に振り下ろされた炎剣は左腕と左足をまとめて切断していた。
まるで熱したナイフでバタ!を切り裂くような、|滑《なめ》らかな肉切り|行為《こうい》。
三〇〇〇度の炎に焼かれた断面は炭化し、出血すら許さない。
「ぅ、が」
だが、アウレオルスの頭を支配しているのは肉体的な苦痛ではなかった。
『それに、本当は分かってるんだろう? |錬金術師《れんきんじゅっし》アウレオルス=イザードは、こんなにあっさり負けるほど弱くはないはずだ、って』
|魔術師《まじゆつし》の言葉が巨大な|鐘《かね》の音のように脳を揺さぶる。そう、そのはずだ。アウレオルス=イザードは絶対であり、無敵であり、必勝であり、圧勝であり、敗走は知らず、逃走の意味など分からないほどの、圧倒的な完全聖人であるはずなのだ。
なのに、この|無様《ぷざま》は何だ?
これでは無数の道具に身を固め[#「これでは無数の道具に身を固め」に傍点]、小突かれるたびに脅える醜悪な臆病者ではないか[#「小突かれるたびに脅える醜悪な臆病者ではないか」に傍点]。
「が、ぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
それがアウレオルス=ダミーの理性の終わりだった。
片腕と片足をなくしたまま、それでもアウレオルスは『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』を振り回す。
「!?」
ステイルは黄金の|鐵《やじり》を警戒して炎剣を構えたが、|瞬間錬金《リメン=マグナ》は予想外の方向へと飛び交った。そこらじゅうに倒れる生徒|達《たち》を片っ端から突き刺したのだ。
どろり、と床一面に|溢《あふ》れかえる黄金の溶岩。
さらに、溶けた純金へ|瞬間錬金《リメン=マグナ》を突き刺すと、アウレオルスはそのまま|瞬聞錬金《リメンリマグナ》を振り回した。純金を操るアンテナの機能もあるのか、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、一度
は一体化した溶けた純金は、遠心力に振り払われてそこらじゅうへと飛び散っていく。
当然、ステイル=マグヌスの元へも。
「チッ!!」
ステイルは顔へ飛んできた純金の|飛沫《しぶき》を、適当に振り払った。同時に炎剣を爆発させる。一つ一つ落としてはきりがない数百もの純金の飛沫は、爆風によって|一撃《いちげき》で|薙《な》ぎ払われた。
辺りに立ち込める煙を、新たに生み出した炎剣で切り裂く。
が、爆破の勢いに乗じて逃げ出したのか、アウレオルス=ダミーの姿はどこにもなかった。後を追うべきか、とステイルは考えたが、直後に|諦《あきら》めた。
目の前の通路には、振り払った高熱の純金が、溶岩の|水溜《みずた》まりのように横たわっていたからだ。長さにして五メートル程度のものだが、走り幅跳びが失敗すれば火だるまになる。
どうやら回り道をしなければならないようだった。幸い、『三沢塾』は四つのビルで成り立ち、空中の渡り廊下で各ビルを|繋《つな》いでいる。遠回りをすれば行けない場所はない、と割合のんびりした頭でステイルはそう考えていた。
「見た目が派手なだけ。傷はひどくない。手当すれば平気」
|上条《かみじよう》が引きずるように廊下へと『三沢塾』の生徒――お下げでメガネの女の子ーを連れて行くと、『|吸血殺し《デイープブラツド》』|姫神秋沙《ひめがみあいさ》はのんびりした声でそう言った。
「け、けど、コイツこんなに血まみれじゃねーか」
上条は廊下の床へ下ろした少女を眺めながらつい叫んでしまった。少女の、どこの学校かも分からない夏服は|真《ま》っ|赤《か》に染め上がり、顔や腕など肌が見える部分は破れた|皮膚《ひふ》がビニ「ルみたいにへばりついている場所さえある。
「皮膚を|剥《は》がされた事で毛細血管が傷ついているだけ。動脈を切られたらこれでは済まない。噴水みたいに血が出る」
「んな、けど、何で―――」
医者でもないのに―――いや医巻だって精密検査をしなければ分からないような事を、こんなにスラスラ断言できるんだろう、と上条が思っていると、
「血の流れについてなら。私は人より詳しい」
上条はギョッとした。姫神秋沙の持つ『能力名』を不意に思い出したからだ。
「手伝って」
だが、当の姫神本人は上条の様子に気づいた様子もない。傷の手当をするためなんだろうが、男である上条の目の前でいきなり|怪我人《けがにん》の服を脱がせ始めた。
「うわっ、ちょ……」
「うろたえない。怪我人に失礼」
そういう意味ではないのだが、冷静になればこの状況で『おんなのこのはだか』を意識する方が|不謹慎《ふきんしん》なんだろうか、と上条は思う。手術室で|興奮《こうふん》する医者なんて即クビだろうし。
そこから先は、まさしく医者や救急隊員の仕事ぶりだった。姫神はハンカチを使い的確に血を止めていき、布で押さえただけでは止まりそうにない手首の出血は、上条のズボンのベルトを使い腕ごと締め付ける事で動脈の血の流れを止めてしまう。裂けた腹の肉は、あろう事か怪我人の髪の毛と|裁縫《さいほう》セットの針を使って|強引《こういん》に|縫《ぬ》い止めてしまった。
上条は何もできなかった。姫神の指示通りに怪我人の腕を心臓より高い位置に持ち上げたり、ハンカチで傷口を押さえたりといった事をしただけだ。それだけでも両手は血まみれになった。人を傷つけてできたのではなく、人を助けてできた返り血だと思うと不思議な気持ちだった。
「とりあえず。おしまい」
|巫女装束《みこしようそく》までべたべたと血まみれにした|姫神《ひめがみ》は、けれど何でもない事のようにそう言った。
「止血は完了。血液の|凝固《ぎようこ》時間は一五分。それで傷は|塞《ふさ》がる。けど消毒が不完全。二時間くらいは安全。病院に連れて行って処置し直した方が確実」
「……っ」
|上条《かみじよう》は改めて横たわる|怪我人《けがにん》を見た。上条と同い|歳《どし》ぐらいの少女は、けれど考えられないぐらいボロボロになっていた。体も、そしておそらく心も。
命は助かった、という事実に喜びを覚えるのは問違っていないが、
けれど、それ以外の|全《すべ》てをなくしてしまったという事実を|拭《ぬぐ》い去る事はできない。
「やれる事はやったし、あとは……|学《ウ》園|都《チ》市の科学力に|頼《たよ》るしかないってとこか」
上条は少女の顔を見ながら言った。内側から破裂した傷により、まるで破れたビニールみたいにボロボロの|皮膚《ひふ》が張り付いている。
「整形手術なら平気。お|尻《しり》の皮膚を張れば治る」
「……、」
いや、姫神|秋沙《あいさ》は現代医療に基づく適切な答えを出したに過ぎないんだろうが、どうも『顔の皮膚』に『尻』を持ってくる事を良しとする思考は上条には|納得《なつヒく》できない。
「ってか、お前スゲェ腕だったよな、今の。なに、アナタ無免許の名医さんですか?」
「医者じゃない」
じゃあ何だよ、と上条が答える前に、
「私。|魔法使《まほうつか》い」
「……、」前にも聞いた気がする、と上条は思っていたが、「えっと、どの辺が魔法使い?」
一応、怪我人を助けてくれたんだから、と上条は最大限の|譲歩《じようほ》をしてみる、
「魔法のステッキ持ってる」
「はぁ……ってオイ! それスタンガン埋め込んだ警棒じゃねーか!?」
「新素材」
「ふざけんな!」
と、なんか間抜けな事を叫んでいた上条は、一歩遅れてようやく気づいた。
目の前の怪我人は、もう注意を逸らしていても|大丈夫《だいじようぶ》なぐらい、持ち直したのだ。
ぺたり、と。
たったそれだけの事が、けれど上条の全身から残らず力を抜いていった。心地良い感覚だった。涙が出ない事が不思議なぐらい、それは心地良い感覚だった。
人が死んだ。きっと見えない所ではたくさんの人が死んでいた。一人二人を助けた所で、きっとその何倍も何十倍もの|地獄《じごく》が口を開けて待っているに違いない。
けれど。それでも一人の人間を助ける事ができたという事実だけは、|誇《ほこ》っても良いはずだ。
「だったら……、」
状況が何であれ、この|怪我人《けがにん》を殺す訳にはいかない。『三沢塾』やアウレオルス=イザードをどうにかするにも、まずは|一旦《いつたん》ここから出て救急車を呼んだ方が良い。
「帰る。こんなトコに怪我人を置いてけるか。それに、外に救急車を待機してもらった方がやりやすいかもしれないし」
「うん。それはいい。怪我人は一人じゃない。あらかじめ救急車を用意しておけば、病院までの時間をある程度短縮する事もできる」
「……、|他人事《ひとごと》みたいに言ってんなよ。お前も帰るんだうが」
「?」
と、|姫神《ひめがみ》は心の底から不思議そうな顔で|上条《かみじよう》を見た。長い間監禁されているせいか、『逃げよう』という意識すらなくなってしまっているのかもしれなかった。
「はあ。だからこんなトコに押し込められてねーで、外に出ようって言ってんだよ。ってか、そのために|俺《おれ》はわざわざこんなトコまでやってきたんだぞ」
「……」
姫神は何も言わない。
ただ、なんかびっくりしたような顔をしたまま、凍りついたように動かなくなった。
「何だよ? なんか俺変な事言ったか?」
「……」姫神は、小さな声で、「……何で?」
「何でって、理由がなけりゃ人も助けられないのか?」
「……」
またもや姫神はびっくりしたままカチリと固まってしまう。
ただ、今度はなんか少し顔が赤くなっているような――――変な|錯覚《さつかく》がした。
「けど、私は」
姫神|秋沙《あいさ》が何かを言おうとした。
だが、それを|遮《さえぎ》るように、階段の方から何かずるずると引きずるような音が聞こえてきた。そして、荒い|息遣《いきつか》い。声は聞こえないが、その|吐息《といき》だけで|憎悪《ぞうお》や激怒と言った負の感情が耳の穴から脳に杭を打ち込まれるように感じ取れる。
「くそ、くそっ! 断然、何だこの重さは。たかが材料のくせに足を引っ張るとは……。くく、足、か。足を引っ張ると来たかアウレオルス=イザード! 今の|自分《オマエ》に引っ張る足もないだろうに! あは、あはは、どいつもこいつもそいつもあいつも|馬鹿《ばか》にしおってからに、必然|全《すべ》て溶かし尽くしてくれる……っ!!」
|常軌《じようき》を逸した、まるで限界を超えた|音量《ボリユーム》がハウリングを引き起こすような男の声。
そして。そうして。ずるり、と。何かを引きずるような音と共に、その男は非常階段の出入口から廊下へと歩いて出てきた。
「うっ……、」
|上条《かみじよう》は思わず絶句した。白いスーツを着た、緑の髪の外国人。だが、左腕と左脚は根元から切断され、何か金色の|歪《いびつ》な棒を傷口に無理矢理突き刺して義手と義足にしていた。相当の激痛が走るはずだが、けれど男の顔に苦痛の色はない。脳内麻薬を極限まで垂れ流しにしたように、苦痛に勝る激怒と|憎悪《ぞうお》と快楽と狂気が入り混じった、|脂《あぶら》まみれで壮絶な顔を浮かべていた。
そして男の右手と、歪な左の義手。
その両の手は、まるでゴミ袋でも引きずるように、左右三人、合計六人もの血まみれの少年少女の|襟首《えりくび》を|掴《つか》んでいた。
「は、何だこれは?」血走った目で、男は上条を見る。「|何故《なぜ》『ここ』にいる、少年? 『こちら』にいるべきは|魔術師《まじゆつし》のみだろう? 貴様も侵入者か、あの炎の顔見知りか?」
距離にして三メートルほど先で|唾《つば》を吐くように叫ぶ男に、けれど上条は動かない。
「お前……そいつら」
「当然、ただの材料だ。|錬金《れんきん》には材料が必要なんだ。だから何故材料など見る? おかしい、貴様は今もこのアウレオルス=イザードの|瞬間錬金《リメン=マグナ》に照準を定められているというのに。私は|完壁《かんぺき》なはずだ。どうしてそれほどの余裕がある、私に何か落ち度でもあるのか」
アウレオルス=イザードという言葉に上条はギョッと身を引いた。
だが、|隣《となり》にいる|姫神秋沙《ひめがみあいさ》の表情は変わらない。
自分を監禁している相手―――絶対の恐怖の象徴であるはずの錬金術師を前にして。
「かわいそう」
全く表情を変えないまま、姫神秋沙は言った。
「気づかなければ。アウレオルス=イザードでいられたのに」
「ぐっ……? き、さまァ!!」
アウレオルスの怒号と共に、残った右腕の|袖《そで》から黄金めいた巨大な|鏃《やじり》が飛び出した。鏃は錬金術師の周囲を高速で回転し、連なる黄金の|鎖《くさり》は結界めいたモノを張り巡らせる。
―――アウレオルスが引きずっていた、血まみれの生徒|達《たち》を貫きながら。
黄金の鏃に貫かれた六人の生徒は、その|瞬間《しゆんかん》にドロドロに溶解し、黄金の液体へと姿を変えた。ただの液体ではない、まるで水銀めいた金属の|煙《きらめ》きを|誇《ほこ》り、しゅうしゅうと|獣《けもの》の|吐息《といき》のように空気を焼く蒸気が、これが高熱により溶けた金属である事を証明していた。
「なっ……、テメェ! 自分が何やったか分かってんのか!?」
だが。その光景を前にして、上条|当麻《とうま》は溶けた生徒達の事しか|見《ヘへ》ていなかった。
アウレオルスは、己の『必殺』が少年の眼中にもない事に総毛立ち、
「当。然―――絶命!」
絶叫と共に、さらに黄金の鏃と鎖が錬金術師の周囲を高速で回転した。まるで竜巻に吹き飛ばされる烈風のように、周囲にあった黄金の|泥《どろ》が宙へ舞い上がる。
それば壁であり、津波だった。海面に|阻石《いんせき》を落としたように、アウレオルスを中心点にして全方向へ|天井《てんじよう》まで届く津波の花を作り出す。
ふと、視界の|隅《すみ》で|姫神《ひめがみ》が動くのが見えた。
音もなく床に|屈《かが》み込むと、倒れていた|怪我人《けがにん》の少女を抱えて後ろへ下がる。よたよたとした危なっかしい足取りだが、そこには|焦《あせ》りはない。まるで何メートルか後ろへ下がれば、それだけで射程圏外に逃れる事ができる、という事を知っているかのように。
幸い、溶けた金属は水のような『液体』というより溶けかけのチョコレートめいた『粘液』だ。津波が|崩壊《ほうかい》したとしても、それほど床を広がる事はないような気がする。
|上条《かみじよう》も少女を支える姫神の動きに|倣《なら》い、一歩後ろへ下がって、
けれど、|瞬間《しゆんかん》。黄金の津波の中心を真円に貫き、黄金の|鏃《やじり》が|凄《すさ》まじい勢いで|襲《おそ》いかかってきた。
「……ッ!?」
|避《さ》けようにも、上条の体はすでに一歩後ろへ下がろうとしている。今からさらに姿勢を立て直す事はできない。顔面の真ん中へ襲いかかってきた|一撃《いちげき》へ、上条はとっさに右手で|掴《つか》みかかるしか方法が残されていなかった。
手の中で、肉が裂け昏音が|響《ひび》いた。
黄金の鏃は捕まるまいと、さらに後ろへ身を引いて黄金の津波へと再び|埋没《まいぼつ》する。二重に切り裂かれた|掌《てのひら》が、焼けた鉄板を押し当てられたように熱かった。
一歩遅れて黄金の津波が|崩《くず》れ、一気に襲いかかってきた。
上条は後ろへ|跳《は》ね飛び、床を転がり、何とか|灼熱《しやくねつ》する金属の海から逃れる。
上条とアウレオルス、|彼我《ひが》を分かつ黄金の海はざっと三メートルほど。
(……く、そ。掌の、感覚が――――ッ!)
すでに五本の指を握る事も難しくなった自分の右手に、上条は奥歯を|噛《か》み締めた。神様の奇跡でも打ち殺す右手は、けれどカッターナイフ一本に|太刀打《たちう》ちする事もできないのだ。
「……|梢然《しようぜん》。なん、だ。それは?」
だが、黄金の津波のカーテンが引いた先に立つアウレオルスは、上条以上の焦りを持っていた。もはや混乱を通り越して|荘然自失《ぼうぜんじしつ》といった表現の方が近い。
アウレオルスの手の中にある黄金の|鏃《やじり》が、ぽろりと砂の像が崩れるように|壊《こわ》れた。
上条の右手、|幻想殺し《イマジンブレイカー》に反応して。
あの刃は『異能の力』でも込められた一品なんだろうか? だとすると、上条の掌は『右手に反応して、刃が壊れるまでの』わずかなタイムラグで傷つけられた事になる。
「自然、何だその右手は? 当然、|何故《なぜ》に変換されん。必然、|我《わ》が『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』は数ある|錬金《れんきん》の理想のカタチ。ボヘミア、ウィーン両学派すら実現不能とサジを投げたほどの奇跡だというのに。それでは全然おかしい、一体いかなる違法則にて我が学説を否定する?」
(りめん、まぐな……?)
|上条《かみじよう》は心臓の|鼓動《こどう》に合わせて脈打つ傷口の感触に|眉《まゆ》をひそめながら、漠然と思う。|錬金術師《れんきんじゆつし》は『変換』と言った。それは、あの黄金の金属溶岩の事か?
「は、愉快。はは、愉快! |面白《おもしろ》いぞ少年、それは一体いかなる人体神秘だ!  体を開け、この|魔術《まじゆつ》医師にその|全《すべ》てを解き明かさせよ!」
アウレオルスは右手を水平に振るう。新たな黄金の|鏃《やじリ》の先端を見せる。
錬金術師は殺意ある眼光と共に刃物の先端を、上条の|眉間《みけん》へ|狙《ねら》いを定め、
(くる……!?)
上条がとっさに顔の前に右手を構えた|瞬間《しゆんかん》、すでに鏃は上条の眉間の一歩手前まで迫っていた。とっさに鏃の腹を|叩《たた》いたつもりだったが、|拳《こぶし》を横一線に裂くような激痛が走った。
「チッ!」
せめてもの|反撃《はんげき》に黄金の|鎖《くさり》を|掴《つか》み取ろうとしたが、それより先に上条の右手に反応した黄金の鎖はガラス細工のように砕け散ってしまう。
アウレオルスの|右袖《みぎそで》からは、さらに新たな黄金の鏃の先端が出現する。
上条が、とっさに逃げようと思う前に、
まるで機関銃のような勢いで、アウレオルスの|裾《すそ》から黄金の鏃が連続して打ち出された。
速い。射出し、砕け、次弾を構えるまでの間に五分の一秒すらかからない時点で人の手に負えない。かと言って、下手に逃げる訳にもいかない。背中を向けるどころか注意を一瞬逸らせば、あの鏃に胸や顔の急所を貫かれる事は目に見えていたからだ。
幸い、速すぎる鏃は逆に軌道は単調だ。ただ『一直線に貫く』しか知らない射出の連続は、様々な方向から直線曲線を交えて|襲《おそ》いかかるボクサーの拳に比べればまだ読みやすい。
「ぐっ、あ――――――ッ!!」
|故《ゆえ》に、上条は切り裂かれると分かっていながら右手を使って鏃を払い落とすしか道がない。あの『変換』を見る限り、右手以外のモノを使っても溶けた黄金となるだけだ。
結果、あっという間に上条の周りには砕けた鏃や鎖の|残骸《ざんがい》が散乱していく。
「はは、あははは! なんという愉快な人体だ、魔力|喰《ぐ》いの|呪《のろ》いでもなければ|神様殺《ロンギヌス》しの|槍《やり》を装備している訳でもあるまいに。ただ素の手のみで我が|瞬間錬金《リメン=マグナ》を砕くときたか!」
対して、己の必殺を一〇や二〇も振り回して一向に敵を殺せないにも|拘《かか》わらず、アウレオルスは心底楽しそうに笑っていた。前人未到の秘境に|辿《たど》り着いた探検家のような表情だ。
「足りん。はは! 少年。貴様の限界、計測するには手数が足りん!」
砕かれ、さらに生成される黄金の鏃が倍加する速度で肉を貫かんと空を裂いて飛び出した。
上条の右手はすでに血にまみれ、まともに握る事もできない。
(ま、ず……ッ!)
指の一本でも切断される。|怖気《おそけ》が背骨を伝い全身を|強張《こわば》らせた|上条《かみじよう》だったが、予想に反して黄金の|鏃《やじり》は反応の遅れた上条の横を貫いただけだった。
相手の手元が狂った――――などという楽観は持たない。
上条の後ろには[#「上条の後ろには」に傍点]、怪我人の少女を抱えた姫神秋沙が立っている[#「怪我人の少女を抱えた姫神秋沙が立っている」に傍点]。
「ひめ――――」
上条はとっさに振り返り、叫ぼうとした。だが、横を通りすぎた弾丸へ対処するにはあまりに遅い。すでに黄金の鐡は|姫神《ひめがみ》の|眉間《みけん》を正確に|狙《ねら》っていた。|錯乱《さくらん》したアウレオルスは、己の目的であるはずの|吸血殺し《デイープブラツド》さえ見境がつかなくなってしまったらしい。
目の前には、何かびっくりしたような表情をしている姫神|秋沙《あいさ》の顔。
上条は、何かを叫ぼうとして、
だちゅっ、と。黄金の鏃が肉を破る音が|響《ひび》き渡った。
あ、と。その声は、果たして上条自身が出したものか、そうでないのか。
それすらも上条は分からなかった。目の前の光景は、それぐらい|凄惨《せいさん》で予想外だった。
黄金の鏃は、姫神秋沙には当たらなかった。
姫神に支えられていた、ボロボロの少女。指一本動かすのも危うく見える|怪我人《けがにん》の少女が、とっさに姫神の顔を守るように手を差し出したからだ。
柔らかい|掌《てのひら》へ深々と突き刺さる、黄金の鏃。
それでも少女は苦痛の顔色一つ見せず、逆の手で姫神の胸を軽く押した。姫神の体がわずかに揺れ、少女から一歩後ろへ離れる。
少女は口の中で何かを|呟《つぶや》いた。それは弱々しく、何を言っているのか分からなかった。
だが、少女は笑っていた。
自分のために浮かべる笑みではなく、|誰《だれ》かを安心させるために作った弱々しい笑み。
そうして。名も知れぬ少女は、溶けた黄金へと『変換』された。
その|瞬間《しゆんかん》。上条は何かを叫んだ。
自分で何を叫んでいるかも分からない、|喉《のど》を引き裂くほどの|砲障《ほうこう》。幸か不幸か、それに|驚《おどろ》いた|錬金術師《れんきんじゆつし》の手が止まり、黄金の|鎖《くさり》が巻き戻るのを 歩遅らせた。
上条は己の手で、黄金の鎖を|掴《つか》み取る。
そう、必殺の右手ではなく[#「必殺の右手ではなく」に傍点]、ただの左手で[#「ただの左手で」に傍点]。
上条の直感は告げている。|瞬間錬金《リメン=マグナ》を行えるのは鏃の部分のみ。鎖の部分は黄金変換するだけの力はないはずだ。もし鎖の部分でも同じ効果があるなら、『鏃を直線的に飛ばす』のでは
なく『|鎖《くさり》を振り回す』はずだ。その方が|攻撃《こうげき》範囲は圧倒的本広い。
「ぬっ……!?」
アウレオルスは自然と自分の手元へ鎖を引き寄せようとする。|綱引《つなひ》きのようにピンと張った鎖。だが、あろう事か|上条《かみじよう》は、その張り詰めた鎖を|強引《こういん》に足で踏み|潰《つぶ》した。
ぐん、と上条の方へわずかに引き寄せちれるアウレオルス。
そして、目の前には己が作り出した[#「目の前には己が作り出した」に傍点]、灼熱に溶けた純金がある[#「灼熱に溶けた純金がある」に傍点]―――――ッ!
「ぐおおおっ!!」
思わず黄金の|水溜《みずた》まりへ一歩踏み込んだしまったアウレオルスは、思わず身を|退《ひ》こうとした。だが、できない。黄金の鎖がそのまま|縛鎖《ばくさ》となり、後ろへ下がる事を許さない。
アウレオルスは絶叫しながら、スーツの中に隠した長い鎖をさらに伸ばし、それによってようやく黄金の溶岩から足を抜き出す事に成功した。足を埋めていた時間はわずか二秒。だが、|唯一残《ゆいいつ》っていた右足は、もはや足首から先がぶすぶすと煙を噴くほどに焼けていた。
縛鎖の役目を終えたと知ったのか、上条は黄金の鎖から血まみれの手を離す。
逃げるべきか、攻めるべきか。
|一瞬《いつしゆん》だが|躊躇《ちゆうちよ》したアウレオルスは、次の瞬間信じられないモノを見た。
上条はわずかに身を沈めたのだ。まるで足のバネを最大限に使おうとするかのように。黄金の水溜まりを飛び越して、そのまま|錬金術師《れんきんじゆつし》に|襲《おそ》いかかるために。
|鎖《くさり》から手を離したのは、|縛鎖《ばくさ》など関係ない。
ただ、目の前の敵を|討《う》つために|拳《こぶし》を握る。その動作の|邪魔《じやま》だから捨て去っただけの話。
だが、それは|誰《だれ》がどう見ても不可能な事だ。|上条《かみじよう》とアウレオルスの間にある|水溜《みずた》まりは直線距離で三メートル、十分な助走をつけた走り幅跳びならともかく、助走もなくその場でただ跳んだだけで、この溶岩を飛び越える事などできるはずもない。
それでも、上条の|瞳《ひとみ》に揺るぎはなかった。
まるで、|跳躍《ちようやく》に失敗し、黄金の溶岩の中に身を沈めたとしても。この身が燃え尽きるまでの時間で目の前の敵を食い|潰《つぶ》す、とでも言っているかのような。
|極《きわ》まったまでのその|剥《む》き出しの『感情』こそが、アウレオルスの身に危険を察知させ、
次の|瞬間《しゆんかん》。上条は何のためらいもなく飛びかかった。
|自暴自棄《じぼうじき》に見えたその跳躍は、けれどアウレオルスに向かったモノではない。
西日|射《さ》す、廊下の窓枠。
そのわずかな出っ張りに足を乗せ、そのまま一気にアウレオルスへ向かって駆け出す!
「……ッ!」
アウレオルスがとっさに|反撃《はんげき》しようとした瞬間、すでに上条は窓枠から―――一段高い位置から、|覆《おお》い|被《かぶ》さるようにアウレオルスへと飛びかかっていた。
迎撃しろ、とアウレオルスの生存本能が絶叫した。今すぐ黄金の|鏃《やじり》を使ってアレを|撃《う》ち落とせ、と。|錬金術師《れんきんじゆつし》はとっさに|瞬間錬金《リメン=マグナ》を突き付け―――気づいた。
上条|当麻《とうま》はアウレオルスの頭上へ、覆い被さるように飛びかかっている。
あれを|瞬間錬金《リメン=マグナ》で撃ち落とせば―――|灼熱《しやくねつ》した黄金の溶岩がアウレオルスに降り注ぐ!
「|情然《しようぜん》、失策……ッ!!」
なりふりも、プライドも、足の|火傷《やけど》すらも気に留める時間はない。
アウレオルスはとっさに背後へ転がり、上条の一撃を|避《さ》けるとそのまま敗走に移る。
|魔術師《まじゆつし》でも何でもないただの一般人に背を向ける事への苦痛は、より巨大な|悪寒《おかん》によって完全に塗り潰された。錬金術師はただ走る。ボロボロの両足で、ただ|暗闇《くらやみ》に転げ落ちるように。
アウレオルス=ダミーは無限に思える長い長い直線の通路を|這《は》うように歩いていた。
少年に|掴《つか》まれた|瞬間錬金《リメン=マグナ》は、それだけで力を失い砕け散った。だが、そんな事は問題ではない。黄金の鏃はあくまでエーテル体を固めた端末に過ぎず、|瞬間錬金《リメン=マグナ》の本体はこの『三沢塾』という|要塞《ようさい》そのものだ。端末に宿る魔力のストックが切れても、本体から再び供給してエーテル体のカタチを整えれば済むだけの話である。
|故《ゆえ》に、アウレオルス=ダミーが逃げたのはそれが理由ではない。
あの少年の右手。それがあまりに底なしだったからだ。本体から端末へ、|魔力《まりよく》を注いでも注いでも食い|潰《つぶ》されていく感覚。あのまま黄金の|鏃《やじり》を|壊《こわ》され続ければ、いずれ本体の魔力の底も尽きるのでは?という危険さえ背筋を|襲《おそ》うほどだった。
「く、そ……」
だが、アウレオルス=ダミーの思考はまだ生きていた。ステイルにしてもあの少年にしても、『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』が通じないものの、黄金の溶岩そのものは|避《さ》けていた傾向がある。
「……、つまり、分かっていても避けられんほどの黄金があれば良い訳か[#「分かっていても避けられんほどの黄金があれば良い訳か」に傍点]。は、手持ちの材料は一九八二人前。必然、これで倒せん道理はない」
いくら広大と言っても|所詮《しよせん》は建物の中。ビルの最上階から、ダムの|決壊《けつかい》のように圧倒的な分量の黄金を流し込めば、下の階を残らず|濁流《だくりゆう》に|呑《の》ませる事も難しくない。
その想像は楽しかった。想像するだけで|嫌《いや》な気分が吹き飛びそうだった。
「はは、破壊だ破壊、破壊の破壊を破壊と破壊! そうだ、私はまだ死に切れん、|吸血殺し《デイープブラツド》、あれだけの観察材料がありながら目の前で死ぬなど断じてありえん! はは、|否《いな》。あれだけではない、世界にはまだまだ調べる価値のある|人体《モノ》が五万と眠っているではないかー はは、全く惜しい! あの少年、その人体神秘を解き明かす前に殺さねばならんとは!」
幸い、すでに予備校の生徒を全員『コインの裏』へ招いてある。後は材料を一ヶ所にまとめる事だけだ。|瞬間錬金《リメン=マグナ》で一気に貫くのはそれからだ、と思い、それからはたと気づいた。生徒
|達《たち》を操る『|偽・聖歌隊《グレゴリオ=レプリカ》』の核はステイルの炎に|破壊《はかい》されている。
「まったく、どこまでも、|邪魔《じやま》ばかり……ッ」
怒号は熱した|刃《やいぼ》のように空気を引き裂いた。
だが、カツン、と。彼の背後から聞こえた足音は、それにも増して鋭利な刃だった。
「……っ!?」
見る者がいれば、アウレオルスの背中が|一瞬《いつしゆん》で二回りも縮んだと|錯覚《さつかく》した事だろう。
普通、人は恐怖を前に目を|背《そむ》ける心理を持つ。当たり前だ、|誰《だれ》だって嫌な事、苦しい事からは遠ざかりたい、受け入れたくない、視界に収める事だって避けて通りたいと思う。
だが、その足音はそんな人間として当たり前の生理反応すら許さなかった。一瞬でも目を背け|隙《すき》を与えれば、それだけでこの身を一〇〇の部品に解体されるような、そんな絶望的なまでの殺意が宿っていた。
故に、アウレオルスは振り返るしかない。|脇目《わきめ》も振らずに逃げ出したいのに、これ以上の苦痛は耐えられないというのに、ギチギチと、何者かに操られるように振り返るしかない。
そこに。その先に。
一〇メートルの距離を置き、|上条当麻《かみじようとうま》は、実験|濫《おり》を抜け出した|猛獣《もうじゆう》のように立っていた。
「な、んだ――――――?」
アウレオルスは理解できない。完全無欠と信じていた自分自身を、ここまで追い詰める事のできる人間など理解できるはずもない。
だが、現に|上条当麻《かみじようとうま》はそこにいる。
「……、いい加減にしろよ、テメェ」
ポツリ、と。|呟《つぶや》いた上条の声に、アウレオルスは|眉《まゆ》をひそめた。まるでどちらが追い詰められているか分からないほどの、冷たい雨に打たれたような声だったからだ。
|地獄《じごく》を見てきた。目の前で死に|逝《ゆ》く人を見届け、目に見えない所でもっとたくさんの人|達《たち》が死んだ事も理解した。それでも助ける事のできた、たった一人の|怪我人《けがにん》の少女がいた。なのに、目の前の|錬金術師《れんきんじゆつし》は、そんな|唯一《ゅいいつ》の救いさえも簡単に溶かして奪い取った。
だが、上条はそんな事は語らない。それ以外は何一つ告げようともしない。そんな事をする|暇《ひま》があるなら、もっと先にするべき事があるはずだ、とばかりに目の前の敵を|睨《にら》みつける。
その、|灼熱《しやくねつ》の|鋼《はがね》じみた殺意。
「ひっ[#「ひっ」に傍点]、」
アウレオルスはとっさに|瞬間錬金《リメン=マグナ》を構えた。それは戦意ではなく恐怖によるものだったが、その反応が上条当麻の背中を最後に押してしまった。
無言。―――上条の足が、爆発するようにアウレオルスへと駆けた。
恐怖と|焦《あせ》りに顔を|歪《ゆが》めるアウレオルスは、とにかく上条の前進を止めるために黄金の|鏃《やじり》を射出した。顔面を|狙《ねら》い放たれる|一撃《いちげき》を、上条は|蜘蛛《くも》のように身を|屈《かが》める事で難なく|避《さ》けた。避けながら、その前進を止める事さえしなかった。
「!?」
アウレオルスの焦りがさらに|膨《ふく》らむ。だが、焦りに性能が揺らいだ状態でも|瞬間錬金《じリメンリマグナ》は一秒に六発の射出と巻き戻しを繰り返せる。アウレオルスは苦もなく手元に鏃を引き戻すと、身を屈める上条の顔面を狙い第二射を|撃《コつ》ち放つ。
すでに身を屈めている上条には、続く退路は存在しない。
それを、今度は下から上へ打ち上げるように右の|裏拳《うらけん》が鏃の腹を打ち払った。黄金の鏃と|鎖《くさり》がまとめて氷細工のように砕け散る。まるで最初から、そこへ飛んでくる事が分かっているかのような正確な迎撃だった。
身を屈めたのは、相手の手を|誘導《ゆ をう》するための|囮《おとり》だったのだ。退路がなく、絶対の|隙《すき》を与えてやれば、そこを攻撃せざるを得なくなる。始めからどこに飛んでくるか分かっている直線の一撃など、ルール無用で手数の読めない裏路地のケンカに比べれば対処は|容易《たやす》い。
一〇メートルの距離。始めから一撃|凌《しの》いだ程度で詰める事はできないと踏んだ上条の知略だった。そして、逆に言えば二撃凌いでも詰める事ができない距離ではない――――ッ!
「|待《ま》」
|驚愕《きようがく》に|歪《ゆが》むアウレオルスが第三射を放とうとしながら何かを叫ぽうとした。だが、それより前に|上条《かみじよう》の|右拳《みぎこぶし》が|錬金術師《れんきんじゆつし》の顔面へ|直撃《ちよくげき》した。上条はまだ速度を落とさない。頭一つ身長の違う相手に、そのまま下から突き上げるように己の硬い額を敵の|顎《あご》へと直撃させた。
続けざまに脳を揺さぶられたアウレオルスは、たまらず床へと倒れる。難を逃れるために床を転がろうとしたが、上条はそれを許さず、黄金で練り上げたアウレオルスの義足を思い切り踏みつけ、足をずらして|強引《こういん》に引き抜いた。
ぐちゅり、と。果物を|潰《つぶ》すような音が、強引に接続した傷口から鳴り|響《ひび》く。
「がっ、あああああああああああ!!」
アウレオルスは絶叫しつつ、今まさに馬乗りにしようとしている上条の顔面へ|瞬間錬金《リメン=マグナ》を|撃《う》ち放つ。だが上条は、あろう事か左手で[#「左手で」に傍点]黄金の|鎖《くさり》を強引に|掴《つか》み取った。砕くのではなく掴む[#「砕くのではなく掴む」に傍点]ために。一歩間違えれば溶けた黄金になる可能性など最初から考えもせず。
上条はさらに左手を振り回し、黄金の鎖を己の腕に|絡《から》ませるように巻きつけた。|瞬間錬金《リメン=マグナ》の動きを完全に封じると、上条は真上から錬金術師を見下ろした。
(|唖《あ》、|然《ぜん》……。このままでは、|殺《ころ》)
アウレオルスの判断は速かった。スーツの中に隠した黄金の鎖を|破棄《はき》する。鎖の抵抗力を考えバランスを保っていた上条が、ほんの一歩よろめいた。その|隙《すき》にアウレオルスは床を転がり上条の下から脱する。心の中で絶叫した。自分の存在証明である|瞬間錬金《リメン=マグナ》を、砕かれるのでなく自らの意思で手放す事に、心が粉々に打ち砕かれようとしていた。
しかし、己の|全《すべ》てと引き換えに命は助かるはずだった。|否《いな》、そうでなければ割に合わない。なのに、アウレオルスはそれ以上動けなかった。義足を引き抜かれたせいで満足に歩く事すらできないのだ。
「……、」
しかも、上条は床を|這《は》うアウレオルスに|鞭打《むちう》つように、黄金の鎖を思いっきり|叩《たた》き付けた。重い一撃は肺の中の空気を根こそぎ吐き出させ、アウレオルスは床の上をのた打ち回る。
上条は無言だった。
無言のまま近づき、その背中を踏みつける。黄金の鎖を、持ち主の首へと巻いていった。後はこのまま鎖を引けば首が絞士る。|利《き》き手でないので骨を折る事は不可能だろうが。
上条は己の|行為《こうい》に対し、何の感情も持たなかった。いや、持てなかった。頭の中が白熱し、空白を生み、あらゆる現実が色をなくしていくようだった。だが、
「い、ぎ。た、―――――|助《たす》、 て」
その一言に、上条の思考は冷水を浴びせられたように熱を奪われた。
身勝手な願いだと思う。その身で一体どれだけの人間を殺してきたのか。それを考えれば取る道など一つしかない。子供向けの特撮ヒーローだってためらう事など感じないはずだ。
けれど、アウレオルスはボロボロの顔で泣いていた。
もう決して逃れられないと分かりながら、それでも|懸命《けんめい》に床を|這《は》おうと腕を伸ばしていた。
|上条《かみじよう》は思い出す。ロビーに打ち捨てられた『|騎士《きし》』、『グレゴリオの聖歌隊』の部品となり|呪文《じゆもん》を唱えながら体のあちこちを爆発させる生徒|達《たち》、|姫神《ひめがみ》の|盾《たて》となって|灼熱《しやくねつ》の黄金へと姿を変えた名も知らぬ一人の少女。
取るべき道など、分かっているはずだ。
上条は、無言で黄金の|鎖《くさり》を握る手に力を込めて、
けれど、鎖を手放す事しかできなかった。
アウレオルスはずるずると床を這って逃げていく。人の形をした|災厄《さいやく》から逃れるように。この身に起きた不幸を嘆き、同時に今日を生き延びる事ができた幸福に感謝するように。
彼は『人間』だった。殺す事など、できるはずがなかった。
アウレオルス=ダミーは、もうここが何階なのかも分からなかった。
転がり落ちるように階段をいくつか下りたが、もう今はそんな事さえできない。力が残っていない。|薄暗《うすぐら》い非常階段の壁に背を預け、片方しかない己の手を|呆然《ばうぜん》と眺める。
あの少年に|殴《なぐ》られた|瞬間《しゆんかん》からだった。それまで自分を支えていた力が、根こそぎ奪われる感覚。まるで、どこか別の所から供給されていたエネルギーのケーブルを、丸ごと切断されたかのような脱力感。
それで、アウレオルスは本当に気づいてしまった。
自分は人間でなく、|結界《がいぶ》からの供給がなければ立っている事さえできない、
|瞬聞錬金《リメンリマグナ》と同じ、替えのきく量産品だという事に。
「ああ、」
アウレオルスは鈍くなる指先の感覚に嘆きながら、けれど同時に満たされていた。
何だろう? |瞬間錬金《リメン=マグナ》と良い、この体と良い、触れただけで|魔術《まじゆつ》を打ち消すあの右手は 体何なんだろう? そう思うアウレオルスは、初めて望遠鏡を|覗《のぞ》いた少年の知的好奇心さながらに目を輝かせていた。
疑問。人が人の姿と尊厳を保ったまま、どこまで昇り詰める事ができるのか。
その果てを、見たような気がした。その異常なまでの能力だけではない。それだけの能力を持ちながら、けれど人として怒り、人として|哀《かな》しむ事ができたあの少年のカタチそのものに。
そう思えば、この|無様《ぶざま》な結末も受け入れられる。
答えを知った学者は、もう考えるために生き続ける必要などないのだから。
カツン、という足音。
気だるげに階上を見上げたアウレオルスは、そこにステイルが立っている事に気づいた。
「|梢然《しようぜん》。……まだ、私を殺し足りんか」|錬金術師《れんきんじゆつし》は|自嘲《じちよう》に笑う。「このまま捨て置いても、私は
自然と果て|逝《ゆ》く。そもそも、貴様に私を殺す意味などなかろう」
「そうだね。正直、僕はお前になんか用はないんだ。お前は特に『あの子[#「あの子」に傍点]』に触れてる訳じゃないからね」ステイルはつまらなそうに、「ああそう。一応、エレベーターの前の一三|騎士《きし》があったか。けど、あれはお前がやった訳じゃないだろう?」
アウレオルスは壁に寄りかかったまま、階上のステイルを見上げる。
アウレオルス=ダミーの|得物《えもの》は|瞬間錬金《リメン=マグナ》だ。あらゆる物質を黄金に溶かす事はできても、一三騎士の|施術鎧《せじゆつがい》を|強引《ごういん》に|叩《たた》き|潰《つぶ》す事はできるはずがない。
「……、ふ。それを言うならば、自然。私は 人も殺していないぞ?」
「なに?」
「当然、ただの負け惜しみだ。理解に苦しむと良い」アウレオルスは口の端を|歪《ゆが》め、「それで? 貴様はわざわざ用もない私の元へ、|何故《なぜ》現れた? 自然と果て逝くのが許せぬか?」
「逆だ間抜け。|手向《たむ》けだよ。お前の方こそそのままくたばる事に耐えられるのかい?」
「……、」
アウレオルス=ダミーはしばらくぼんやりとステイルの顔を見ていた。
それから、小さく笑った。
この男にしては|珍《めずら》しく、そして確かに笑っていた。
ダミーと言えど、アウレオルスは学者だ。そして今、『人体の限界を調べ尽くす』という最大の疑問の答えを見つけ出し、この上ない満足感に満たされている。
だが、アウレオルスにはほんの少しだけ、時間が残されている。
ほんの一〇分間にも満たないわずかな余命。
けれど、アウレオルスは学者だ。その空白の時間の中で、やがて気づいてしまうだろう。新たな|謎《なぞ》を。次の疑問を。その先に待つ、途方もなく|甘美《かんび》な研究題材を。
しかし、アウレオルスには研究に没頭するだけの『時間』はない。
謎に気づくだけで、研究に取り掛かる事もできないまま果て逝くなど学者にとっては|地獄《じごく》に等しい。それは未練だ。|避《さ》けようのない後悔だ。
だから、ステイルはこう言っている。
その甘美な謎を発見して|悶《もだ》え狂う前に、この手で|引導《いんどう》を渡してやろうか、と。
今の『目的を達成した』満足感を抱えたまま天に|還《かえ》してやろうか、と。
「く」だから、アウレオルスは小さく笑った。「貴様は。天使か|悪魔《あくま》か分からん男だな」
「両者の本質は同義だろうに。あるのは|誰《だれ》の下につくかという違いだけだよ」
ステイルはゆっくりと階段から降りてくる。
「|我が名が最強である理由をここに証明する《F  o  r  t  i  s  9  3  1》」
ステイルの|漆黒《しつこく》の修道服がはだける。服の中からルーンのカードが桜のように舞う。
「|魔法名《まほうめい》、か」
アウレオルスは階段を下りてくるステイルを眺めながらぼんやりと|呟《つぶや》いた。そういえば、自分の魔法名は一体何だったか。それを思い出す。
「ああ、そうか」
|我が名誉は世界のために《H o n o s 6 2 8》。
自らに課した『名』、自らに架した『意味』をようやく思い出して、アウレオルスは小さく目を細めた。
「神父として最後に祈ってあげようか、|錬金術師《れんきんじゆつし》?」
階段を降り、錬金術師の目の前までやってきたステイル=マグヌスは言う。
「歌うな、|魔術師風情《まじゆつしふぜい》が」
アウレオルス=ダミーが答えた|瞬間《しゅんかん》、ステイルの炎が錬金術師の口の中へ飛び込んだ。
錬金術師の口から入り込んだ炎は|速《すみ》やかに全身の内部を焼き尽くす。体の穴という穴から炎が噴き出した。それでも足りず、腹が破れ、上半身と下半身が二つに分かれ、断面から吹き荒れる炎によって、アウレオルスの上半身はロケットのように飛んでいってしまった。
その|頃《ころ》、学生寮の一室、より正確には|風呂場《ふろば》では家出少女改めインデックスと捨て猫改めス
フィンクスが|睨《にら》み合っていた。どうもこの|三毛猫《みけねこ》、元は飼い猫だったらしい。つまり|可愛《かわい》げがなかった。毛糸球を投げても追い駆けないし、名前を呼んでもテーブルの下で丸まったままだし、ご飯を食べようとすると人様の食事を横取りしていく。いや最後のが深刻だった。インデックス改め食欲少女にとって、|上条当麻《かみじようとうま》の作ったご飯というのはそれ相応の意味を持つ。
そんなこんなで一度テッテーテキに教育し直すべきか、とインデックスは|馴《な》れ合いモードを解除してお風呂で三毛猫を泡まみれにしている次第である。ちなみにお風呂の全自動湯沸し機能は上条の書き置いた親切なメモに従い、おっかなびっくり試してみた次第なのだった。
(……、けど。とうまはどこ行ったんだろう?)
頭の中にはいくつか疑問がある。一つは電話の事。『電話が|繋《つな》がるかどうか試しただけ』という所ではない。人のプリンを勝手に食われておいて、『まぁいいか』で済ませてしまった上条の態度に、である。
それを言うなら目の前でシャンプーまみれで毛を逆立てる可愛げない猫についても同じだ。
上条は基本的に自分が|嫌《いや》だと思う事は絶対にしない。それしか方法がないと分かっていても、それをやりたくないから別の解決策を自分で作ってみる、というぐらいの人間だ。
その|上条《かみじよう》が、自分の意に添わない事を二つも見逃した。何か変だと思わなければおかしい。
よし、とインデックスは一度|頷《うなず》いて、|風呂《ふろ》を出て修道服『歩く教会』に身を包んだ。それから玄関のドアへ向かう。考えなしにドアを開け、それから考えた。上条を問い|質《ただ》すにしても、どこにいるか分からない。電話、という手段は元より思考の外だった。はっきり言う。電話の使い方なんてサッパリ分かあない。特に上条宅の電話は『ふあくしみり機能つき』なのでボタンが多くてどこから手をつければ良いのか分からないレベルのお話である。
結局|諦《あきら》めるしかないのか、と部屋に戻ろうとした所で、ふとインデックスは気づいた。
壁に何か、タロットカードのようなものが|貼《は》り付けてある。
|魔術師《まじゆつし》ステイル=マグヌスの使うルーンの刻印だ。
「……、」
インデックスは無言でカードを眺めた。
何かあった。絶対、また、インデックス一人を置いてきぼりにして知らない所で何かが動いているに違いなかった。
インデックスは思い出す。ほんの数日前、病室で再会した透明な少年の事を。あの時感じた絶望と|焦《あぜ》りが再びインデックスの心を焼き|焦《こ》がしていく。
走る。追い駆けるしか方法はない。
幸い、インデックスは一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を頭の中に所有している。ステイルの魔術もどういうものか知っていた。ルーンの刻印は、常に魔術師から魔力を送られ続けなければ作動しない|類《たぐい》のものだ。
簡単に言えば|幽体離脱《ゆうたいりだつ》した肉体と|霊体《れいたい》を|繋《つな》ぐ細い線のようなものがある。インデックスは魔術を使えないが魔力を感知する事はできる。後を追えない道理はない。
こうして、インデックスは戸締まりも忘れて『戦場』へと駆けた。
実は、そうしている彼女こそが|迷惑《トラブル》の火種である事にも気づかずに。
[#改ページ]
第三章 主は閉じた世界の神のごとく DEUS_EX_MACHINA.
ステイル=マグヌスは四つあるビルの北棟の最上階を目指していた。
|囮《おとり》として放った|上条当麻《かみじようとうま》が予想以上に敵側の注目を集めたのか、ステイルに|噛《か》み付く者は存在しなかった。|魔術師《まじゆつし》は完全に|隠者《ハーミット》と化してあちこちの隠し部屋の出入口を確かめ、大体の目星をつける事に成功した。
どうも『|吸血殺し《デイープブラツド》』|姫神秋沙《ひめがみあいさ》は隠し部屋に閉じ込められている訳ではないらしい。
|全《すべ》ての隠し部屋の出入口は、|埃《ほこり》や魔力の|残津《ざんし》を見る限り、『コインの表』『コインの裏』双方共に人が出入りしている形跡がないのだ。
アウレオルスの|他《ほか》に、部下や兵隊といった人貝も見られない。いつ逃げるか分からない人間を、始終監視しておくような環境とは思えなかった。
そうなると、それはそれで|厄介《やつかい》だ。姫神秋沙が無理矢理に監禁されているのでなく、アウレオルス=イザードに進んで協力しているとなれば、正体不明の異能力『|吸血殺し《デイープブラツド》』が|牙《きば》を|剥《む》く事になるかもしれない。
(……、まったく。異能者なんてのはどいっもこいつもろくなのがいない)
そこまで考えて、ふとステイルは囮に使った少年の事を思い出した。
個人的にはあそこで死んでもらっても何の問題もない、とステイルは思う。初めから仲間ではないと告げたし、|盾《たて》にするとも明言していた。
なのに、あの少年は階段を突き飛ばされた|瞬間《しゆんかん》、裏切られたような顔をしていた。
まるで背中を預けた仲間に不意打ちされたような顔を。
「……、」
再会するなり炎剣を|叩《たた》きつけられ、無理矢理に死の|渦巻《うずま》く戦場に引きずり込まれたというのに。あの少年は、それでもステイルの事を『仲間』だとでも思っていたのか。
その事実は、何かステイルのどこかに突き刺さる。
ほんの小さな|棘《とげ》だが、|何故《なぜ》かそれがとてもステイルをイライラさせる。
(……、まったく。異能者なんてのは、どいつもこいつも―――ッ!)
だからステイルは狭い非常階段を駆け上がる。
本当に、何の役にも立たない話だが―――あの少年が囮になった以上、こちらもそれに見合う成果を上げなければ気が済まないと、彼の中の人間|臭《くさ》い部分が|駄《だだ》々をこねて、
「判然としないが。貴様は一体何を|焦《あせ》っている?」
不意に、ステイル=マグヌスの真後ろから冷たい声が飛んできた。
「……、」
ステイルはピタリと足を止める。
ステイルは狭い非常階段を駆け上がっていた。当然、|誰《だれ》かとすれ違う事を見逃すとは思えない。では、真後ろから聞こえた声は何なのか?
まるで、何もない空間からいきなり現れたような、男の声。
「……、」
ステイルはゆっくりと振り返る。知らず、背後を取られた事が、すでに致命的な結果を示している事に、心のどこかで気づきながら。
そこには――――。
「む。ここか」
夕暮れのオレンジに夜の紫色が混じり始めた|頃《ころ》、インデックスは『三沢塾』の前に立った。
何の変哲もない建物―――に見えるが、何の変哲もないのがおかしい。インデックスは学生寮に仕掛けてあったルーン|魔術《まじゆつ》から、魔力の持ち主を|辿《たど》ってここまで来た。なのに、あの建物の壁を境に魔力の糸がぶっつりと途切れている。
言うなれば、建物の中に『異常』があるのに、|強引《こういん》に『正常』だと思わせようとしている、その意図が見え見えなのだ。
人に魔力があるように、世界にも『力』はある。
十字教ではこれを『|神の祝福《ゴツドブレス》』と呼び、近代西洋魔術の|雛型《ひながた》たる魔術結社『|黄金夜明《S∴M∴》』では『テレズマ』と呼んでいるが、ニュアンスが一番近いのは東洋の|風水《ふうすい》思想にある『地脈』や『|龍脈《りゆうみやく》』という|概念《がいねん》だろう。その名の通り、世界中には力を巡らせる『脈』が、血管のように張り巡らされている、という|類《たぐい》のものだ。
もちろん、人の魔力が、生命力から精製したガソリンのようなものであるのと同じく、世界の『力』も単体ではそれほど力はない(と言っても星の寿命と人の寿命が比べ物にならない事から、人の『魔力』を軽く超越する『力』という事は分かると思うが)。神殿や寺院などを通し、ガソリンたる『|界力《レイ》』に変換する事で、それは|莫大《ばくだい》なエネルギーとなるのだ。
世界に満たされる『力』は空気と同じく、通常の入間(魔術師を含む)には感知できない。ソレを見る事ができるのは専門に特化した|巫薙《かんなぎ》や風水師のみだ。
だが、目の前にそびえる四つのビルには、その『力』がない。
|普段《ふだん》なら空気のように感じ取る事のできない『世界の力』は、けれど真空状態になれば息苦しさを感じるのと同じように、インデックスに例えようのない|違和感《いわかん》を突きつけていた。
単純に言えば、満たされているはずの『力』が、そのビルにだけ存在しない。
まるで四角く切り取られた、巨大な世界の墓標のような『死んだ|魔塔《まとりつ》』がそこにある。
あのビルは内部の|魔力《いじよう》を外に|漏《も》らさないための結界だろうが、これはあまりに行き過ぎだ。
|上条《かみじよう》の右手も絶えず『世界の力』を|破壊《はかい》し続けるが、アレはここまでひどくない。むしろ枯れ木が土に|還《かえ》り新たな生命の元となるような―――自然の|一部《サイクル》としての『破壊』だ。|故《ゆえ》にインデックスは実際に『歩く教会』を破壊されるまで、『調和の取れた破壊』に気づけなかった。
だが、この『魔塔』は違う。
まるで|強引《こういん》に森を切り開き石と|鋼《はがね》の街を築くような、人工たる|醜悪《しゆうあく》がここにある。
あのルーンの魔術師はこの異常に気がつかなかったのか?
逆に自身が|膨大《ばうだい》な魔力精製炉であるルーンの魔術師には感知できなかったのかもしれない。濃い味付けに慣れた人の舌は微細な味つけの変化に気づけなくなる。ソレと同じだ。
しかしインデックスは魔力を練る力が一切ない。だからこそ、この『|薄味《うすあじ》』の微細な変化が、鳥肌が立つほどに感じ取れる。
「外敵から身を守るための結界でなく、内に入り込んだ敵を逃がさないための殺界。――むむ、モデルケースはエジプトのピラミッドっぽいんだよ……」
一人ぶつぶつ|咳《つぶや》きながら白いシスターは自動ドアをくぐる。
彼女に立ち止まる理由はない。
そこが異常な場所であるからこそ、一刻も早く連れ戻さなければならない少年がいる。
一歩踏み込んだ|瞬間《しゆんかん》、空気がガラリと変わった。|灼熱《しやくねつ》の炎天下から冷房の効いた店の中に入
った感覚に近い。活気|溢《あふ》れる|平穏《へいおん》な街並みが、いきなり死の溢れる無人の戦場跡に切り替わったようだ。それは決して間違いではない。広大なロビーの奥、エレベーターのある壁には、ローマ正教の法具に身を固めた|騎士《きし》が絶命していた。
インデックスは恐る恐る近づいて騎士の様子を観察する。
騎士の法具・|施術鎧《せじゆつがい》は魔力を用いて物理攻撃の|衝撃《しようげき》を吸収・分散させる効力を持つ。そこに重点を置いているために、魔術攻撃に弱い側面を持っているのだが―――これは、そんな特性を無視して、|敢《あ》えて強力な物理攻撃で押し|潰《つぶ》されていた。
(……魔術について何も知らないのか、あるいは真性の|数寄者《すきもの》なのか)
もっとも、クフカ王の墓を再現したこの建物を見れば、前者ではありえない事は分かる。だが、後者なら後者で|厄介《やつかい》だ。ローマ正教の施術鎧を力技で砕くなど、相手はテレズマによる大天使の|召喚《しようかん》か、金属製のゴーレム作りにでも|長《た》けているのか。
どちらにしても、こんな場所にあの少年は置いておけない。魔術の基本も分からない|素人《しろうと》が迷い込むには死の|匂《にお》いが強すぎる。
と、横合いから何か引きずるような音が聞こえた。インデックスはそちらを見る。エレベーターの並ぶ壁の横に、非常階段の入口があった。そこから何かを引きずるような音と、荒い|吐《と》|息《いき》がずるずるずるずる[#「ずるずるずるずる」に傍点]。聞こえてくる
「だ」
れ、と問う事さえできなかった。非常階段の入口から、|這《は》って出るそれ[#「それ」に傍点]を見たからだ。
そこに、何かがあった。|誰《だれ》かがいた、とは表現できない。|何故《なぜ》なら、それは明らかに人間ではない。下半身が|千切《ちぎ》れ飛び、左腕を根元から失い、顔面の右半分を吹き飛ばされ、残る部分も余さず高熱に|炙《あぶ》られ黒く炭化して―――それでもなお動き続けるモノなど人とは呼べない。
ぎ、し―――と。半分しかない顔が、ほんのわずかに揺れた気がした。
何だかそれが不思議そうに首を|傾《かし》げているように見える―――インデックスが場違いにそう思った|瞬間《しゆんかん》、ソレは片方しかない腕だけで勢い良く床を|叩《たた》き、彼女へと飛びかかった。
「……ッ」
|喉《のど》を|喰《く》われる。砲弾のように迫るソレに、インデックスはとっさに後ろへ下がろうとして、
くずおれる|騎士《きし》の体に足を引っ掛けた。少女の体がそのまま後ろへひっくり返る。|一旦《いつたん》は目標
を見失ったソレは、そのまま落下する事でインデックスの上に|覆《おお》い|被《かぶ》さろうとして
「砕けよ[#「砕けよ」に傍点]」
瞬間、厳然たる男の声が|凍《こご》える空間に|響《ひび》き渡った。
突然だった。横合いのエレベーターの壁がまるで|障子《しようじ》のように破かれ、中から男の手が伸びた。その大きな手はまるでボールでも取るように炭化し半分しかないソレの頭部を|掴《つか》む。
瞬間。
|仰向《あおむ》けに倒れるインデックスの目の前で、宣言通りソレの体が砕け散った。
まるで固めた灰を砕くような光景だった。バギン、と最初に三つの|亀裂《きれつ》がソレの体を分断し、空中で粉雪のように風にさらわれ、真下にいるインデックスの顔にかかる前に、それは残らず空気に溶けてしまった。
「開け[#「開け」に傍点]」
さらに声。内側から|強引《こういん》に破られたエレベーターのドアが左右に開いた。歪み[#「歪み」に傍点]、ドアポケットに収まるはずのない金属のドアが[#「ドアポケットに収まるはずのない金属のドアが」に傍点]。
己の言葉の通りに、周囲の現実を強引に書き換えてしまう、極限の|魔術《まじゆつ》。
「まさか……、」
|呆然《ぼうぜん》と|呟《つぶや》くインデックスなど構いもしないという感じで、エレベーターから長身の男が降りてくる。オールバックにした緑の髪、イタリア製の純白のスーツに高価な|革靴《かわぐつ》。
「ふむ、久しいな、と言った所で君は覚えておらんか。必然、アウレオルス=イザードという名にも聞き覚えはあるまい。|否《いな》、それでこそ私としては|僥倖《ぎようこう》と呼ばねばならんが」
世間話でもするように眩いた男の首の横に、虫に刺されたような|痕《あと》がいくつも浮かんでいた。|鍼《はり》―――東洋系の医療具は一見西洋人には不釣り合いに見えるが、実際はそうでもない。西洋|魔術《まじゆつ》結社『|黄金夜明《S∴M∴》』の創設者などは好んで仏教を取り入れていた節もある。
「いや、覚えておらん所で言わん訳にもいくまい。久しいな、|禁書目録《インデツクス》。相も変わらず|全《すべ》てを忘れてくれているようで、私としては変わらず君の姿がとても|嬉《うれ》しい」
男の手が、|呆然《ぼうぜん》と見上げるインデックスの視界を奪うように伸びてくる。
あの、人とも化け物とも呼べないモノを|一撃《いちげき》で『粉砕』した、文字通りの魔手を。
それでもインデックスは身動き一つ取れなかった。彼女はただ一言、
「ま、さか。―――|金色《こんじき》の、アルス=マグナ?」
声に、男は柔らかい笑みで答えた。
「もう、帰ろう」
黄金の溶岩を渡る事もできず、四つのビルを大きく|迂回《うかい》して|姫神《ひめがみ》の元へと合流した|上条《かみじよう》は、心底疲れきった声でそう言った。
「アウレオルスってヤツは倒してきた。別に殺した訳じゃねーけど、アイツはもうダメだよ。これ以上は絶対戦えない。体の傷より、心の方が死んじまってるからな」
だから帰ろう、と上条は言った。
守るべき者は失われた。『グレゴリオの聖歌隊』に使われた生徒|達《たち》はもう助からない。そして|錬金術師《れんきんじゆつし》とは決着を着けた。もうここで戦う理由が上条にはなかった。こんな死が|渦《うず》を巻く戦場跡から、一刻も早く帰りたかった。
もう帰りたい。さっさと帰ってインデックスと晩ご飯でも食べていたい。あの子といれば|大丈夫《だいじようぶ》だ、あの子に会えればまだ帰れる[#「まだ帰れる」に傍点]。この戦場から抜け出せなくなる前に、こんな死と|殺裁《さつりく》が平然と行われる|異常《せかい》に|囚《とら》われる前に、元の|常識《せかい》に帰らなければ本当に取り返しのつかない事
になる―――上条は|漠然《ばくぜん》と、だが確信を持ってそう考えていた。
だが、|憔憧《しようすい》日した心に|邪《よこしま》な影が落ちる。
一つ、ステイルの話によればインデックスは一年おきに全ての|記憶《きおく》を失っていた事。
一つ、ステイルの話によればインデックスは一年おきに新しいパートナーを見つけ、
一つ、ステイルの話によればインデックスは一年おきにその事さえ忘れてしまった事。
考えてみれば当然だが、そこには上条の知らないインデックスが笑.っていて、
インデックスの周りには、彼女を必要とする人間がいくらでも存在したという話。
言葉には出さなかったが、ステイル=マグヌスは暗にこう言っていたのだ。
|勘違《かんちが》いするな。あの少女は、別にお前の所有物じゃない。
「……っ、……ぐ!」
|上条《かみじよう》は突然|襲《おそ》われた|眩最《めまい》に思わず壁へ手をつけた。ここであの子に『その他大勢』と見られる事が、そのまま日常への|帰《いのちつ》り|道《な》を断ち切られたような|錯覚《さつかく》を生んだからだ。
(……なんつー|醜《みにく》い|所有《ヒロイン》願望だ)
極限の状況ではわずかな自己|嫌悪《けんお》が、そのまま自己|犠牲《ぎせい》や自殺願望などの自滅|衝動《しようどう》に|摩《す》り替わる事もある。上条は意図的に深呼吸して気を落ち着けると、その事については考えないようにした。それ以上進んでは、確実に内面を|破壊《はかい》されると気づいてしまったからだ。
とにかく|姫神《ひめがみ》を連れてここから帰ろう、とため息をつく上条だったが、
「アウレオルス=イザード。あれ。きっと|偽物《にせもの》」
あろう事か、姫神|秋沙《あいさ》は何の事もないような声で、そんな事を言った。
「な」
「|影武者《かげむしや》。本物に会った事があるから分かる。本物は|無闇《むやみ》に人を殺さない」
姫神の言葉がじわじわと|染《し》み込んでくる。
そうだ。考えてみればおかしい。|錬金術師《れんきんじゆつし》が『三沢塾』を隠れ|蓑《みの》にしているのは分かる。分かるが、『グレゴリオの聖歌隊』なんか使って生徒を|全《すべ》て自滅させたら、そもそも隠れ蓑が|壊《こわ》れてしまう。
それでも上条の心は待ったをかけた。冷静な思考などない。これから帰ると決めた。だから平静を保っていられた。なのに、今から戦場に引き返せなんて命令は認められるはずがない。
「待てよ、待ってくれ! 何だそれは。|俺《おれ》は確かにアウレオルス=イザードを倒したぞ!」
「だからそれは偽物」姫神の声に迷いはない。「本物はいつも鍼を常用してる。それがない時点で偽物。それに。本物はあんな安っぽくない」
上条は認められない。認めたくない。まず『帰る』という希望があり、そこから論理を展開させている以上、今の上条はこれ以上の敵の存在を認める訳にはいかない。
「けど。あれは自分の目的以外に興味はない。帰るなら止める事はないはず」
姫神の冷静すぎる言葉に、ようやく上条の思考が|駄《だだ》々をこねるのをやめた。
今の一言はおかしい。
「ちょっと待て。お前も|一緒《いつしよ》に帰るんだろ? あいつの目的が|吸血《おま》殺しである|以《え》上、アウレオルスが俺|達《たち》を見逃すはずねーだろが」
「何で?」
「何で、って」
「『見逃すはずがない』ではなく。『お前も一緒に帰る』という所に対する疑問」
「な、」
上条は絶句した。この|期《ご》に及んで、ひとまずは敵を退ける事ができたこの状況を前に、まだ姫神は『三沢塾』から逃げ出す事を考えていないらしい。
「|勘違《かんちが》いしないで欲しい。私も私の目的がある。それはここから抜け出す事ではなく。ここでなければできない目的。違う。あの|錬金術師《れんきんじゆつし》がいなければ不可能な目的というのが正解」
|姫神《ひめがみ》の言葉には迷いがなく、アウレオルスを知り合いと見ている様子すら感じ取れる。
何だこれは、と|上条《かみじよう》は思う。|誘拐《ゆうかい》や立てこもりなどの極限状態に置かれた犯人と人質の間には奇妙な連帯感が生まれる事がある、と心理学にはあるが、それの事だろうか?
「けど、どんな目的があるにしろ、アイツはお前の事なんか仲間だなんて思ってねーよ。仲間だったら人間一人を監禁して立てこもったりしねーだろ」
「それは『|三《こ》沢|塾《こ》』が乗っ取られる前の話」姫神の目は揺らがない。「元々、私がここでどんな扱いをされていたか聞く? 何のために建物のあちこちに隠し部屋があるのかとか。俗物すぎてきっと君は耐えられない」
「……、」
「あの錬金術師が来てからは。隠し部屋が使われる事もなくなった。私はただここにいるだけ。外に出ないのは必要性を感じないだけ。不用意に|結界《ここ》から出れば。アレを呼び寄せるから」
上条は、『三沢塾』に入る前にステイルがこぼしていた言葉を思い出した。
ここは、外から見れば何の変哲もないビルに見えるよう、|完壁《かんべき》に|偽装《ぎそう》された結界なのだ。
|吸血殺《デイープブラッド》し。
|魔術側《むこう》では伝説とまで呼ばれるほどの吸血鬼を|瞬殺《しゅんさつ》する力を持つ少女は、まさか……。
「じゃあ、何か。お前、吸血鬼とかっていう生き物に気づかれたくないから、無用な争いを|避《さ》けてこんな所にずっと隠れてるって言うのか?」
「……。私の血は。ソレを倒すのみならず。甘い|匂《にお》いでソレを招き寄せる。招き。集め。殺す。
まるで|極彩色《ごくさいしよく》の食虫植物のような一連の役割が。私の本質」
上条は目をみはった。
あのステイルでさえ名前を口に出すだけで|禁忌《きんき》に|震《ふる》えるほどの意味を持つ、吸血鬼。その吸
血鬼さえ|一撃《いちげき》で粉砕するほどの絶大な力を持つ、姫神|秋沙《あいさ》。けれど、そう|呟《つぶや》いた彼女の声は、冷たい雨に打たれたように|寂《さび》しげだった。
「吸血鬼。どんな生き物か。知ってる?」
問われても、上条には分からない。思い浮かぶのは絵本に出てくるような人を|襲《おそ》う悪いイメージしかないし、それ以前に吸血鬼なんて言葉に現実味が湧いてこない。
「変わらない[#「変わらない」に傍点]」だが、|姫《へもも》神は言った。「私|達《たち》と。何も変わらない。泣いて。笑って。怒って。喜
んで。|誰《だれ》かのために笑い。誰かのために行動できる。そんな人達」
姫神は小さく笑った。何か楽しい事を思い出しているような顔だった。
だけど、と彼女は言った。笑みは、一瞬で消えた。
「私の血は。そんな人達を殺す。理由はない。そこにいるから。例外はなく。特例もなく。泣いて。笑って。怒って。喜んで。誰かのために笑い。誰かのために行動できる。そんな人達を。ただ一度の例外もなく。――――殺し尽くしてしまう[#「殺し尽くしてしまう」に傍点]」
それは、血のにじむような言葉だった。
楽しかった思い出を、全部目の前で打ち砕いてしまった者の、声だった。
「学園都市はチカラを扱う場所だから。このチカラの秘密も分かると思ってた。秘密が分かれば取り除く方法もあると思ってた。だけど。そんなものはどこにもなかった」
|姫神《ひめがみ》は言う。
「私はもう。殺したくない。|誰《だれ》かを殺すぐらいなら。私は自分を殺してみせると決めたから」
だから、これで良い、と。
|吸血殺し《デイープブラツド》と呼ばれた一人の少女は、たった一人でそう言った。
「だからって……、」
「何も言わないで欲しい。それに。悪い事ばかりでもない。アウレオルスはもっと簡単な結界を作る事もできると言った。『歩く教会』と呼ばれる。衣服の形をした結界。それを着れば。私はもう街を歩いてもソレを招き寄せる事もないはずだから」
「……、」
「私には私の。アウレオルスにはアウレオルスの目的がある。私|達《たち》は。お互いがいなければお互いの目的を達成できない。だから平気。アウレオルスが自分の願いを|叶《かな》えたいと思う限り。私に危害を加える事はできない。君がこの戦場から一人帰りたいと言うなら。私は君に助力する。アウレオルスに話をつける」
|上条《かみじよう》は、もう何も言えなくなった。
目の前の少女の苦悩が分からない。目の前の少女の救いが分からない。自分が何をするべきか、それが分からない。
「……一つ、聞かせてくれ」分からないから、聞いた。「初めて会った時。吸血鬼を呼びたくないってんなら、お前は何で『外』に出て食い倒れたりしたんだ?」
「簡単。アウレオルスが私を必要とするのは。吸血鬼が欲しいから。私が常に結界の内にいては。吸血鬼を招く事はできない」
「けど、それじゃお前の目的と正反対じゃねーか。お前はもう吸血鬼を傷つけたくねーんだろ? だったら吸血鬼を呼んで来いなんて命令――――」
「そう。けどアウレオルスは約束した。吸血鬼は欲しいけど。絶対傷つけないって。彼らには協力して欲しいだけなんだって」
「……、何だよ。てっきり|俺《おれ》は命からがら『三沢塾』から逃げ出したんだと思ってた」
「……。疑問。私が逃げていると。どうして君はここまでやってくる?」
「助けるために決まってんだろ。そんなもんに理由なんてあるか」
ふてくされたような上条の顔に、姫神は目を丸くした。
自分でも忘れていた誕生日にプレゼントをもらったような、そんな顔だった。
「それは不思議。けど|大丈夫《だいじようぶ》。私は閉じ込められている訳ではないから。だから君は安心して帰っても問題ない」|姫神《ひめがみ》は、小さく笑った。「アウレオルスは言った。助けたい人がいるって。
けど、自分一人の力じゃどうあがいてもダメだって。彼らの協力が必要だって。だから私は約束した。私はアウレオルスを助けるために。殺すためでなく助けるために。生まれて初めてこの力を使うんだって」
「……、」
その話は本当だろうか? 姫神がウソをついていないにしても、アウレオルスがウソをついている可能性なんていくらでもある。何せアウレオルスは人殺しだ、死と|殺教《さつりく》の|渦巻《うずま》く戦場を作った張本人だ。姫神の言葉と目の前の現実は、あまりに一致しない部分が多すぎる。
それでも、仮に。
アウレオルス=イザードが、姫神|秋沙《あいさ》の語る通りの人物だとしたら。
「……、そんなの、ダメだ」
「?」
「もし、アウレオルス=イザードがお前の言う通りの人間だとしたら。まだ化け物になりきれず、かろうじて人の道を歩く人間だとしたら。もうこれ以上間違えさせる[#「これ以上間違えさせる」に傍点]事なんてできない。たった一度でも失敗した人間はもう絶対に救われないなんて言わねーけど、これ以上アウレオルスをこのまま進ませちまったら、本当に取り返しのつかない事になっちまう」
姫神は何も言わなかった。
彼女にしたって、本当は気づいているはずだ。アウレオルスの抱く、理想と現実の間にズレが生まれ始めている事に。目の前の戦場を見て、|誰《だれ》も傷つけないという理想が大きく傾こうとしている事実に。
「|間然《かんぜん》。 一体いかなる思考にて私の思想に異を唱えるか」
だが、突然降りかかってきた男の声は、上条の思考を断ち切るように告げた。
|鈴《りん》と。それ自体が|聖域《オカルト》じみた声は、|一瞬《いつしゆん》にして上条と姫神の雑話を|遮《さえぎ》り|静寂《せいじやく》を生む。
それはまるで耳元でささやくような小さな声だった。にも|拘《かか》わらず、声の主はどこにもいなかった。物理の法則を全く無視した、空気の伝達を使わない『声』としか表現できない。
カツ、という足音。
それは姫神の後ろから。ただし、距離にして三〇メートル以上先にある直線通路の先。
そこには誰もいないはずだ。
そこには誰もいないはずなのに、上条が一度|瞬《まばた》きするとそこに人間が立っていた。
隠れる場所などどこにもない。
そもそも最初から隠れていないとでも言いたげに、その男は平然とそこにいた。
「お前……、」
|上条《かみじよう》は己の目を疑った。
|虚空《こくう》から現れたのは、倒したはずのアウレオルス=イザードだった。ただし五体は満足で、それどころか傷一つ負っている様子はない。
何か、特殊な方法で傷を|癒《いや》したのか。上条は考える。だが、それにしてもおかしい。たとえどんな方法を使って傷を治したって、人間はここまで変質しない。同じカタチをしているくせに、本質がまるで異なるような―――まるで性格の違う双子を見ているような感覚。
そして、|威圧《いあつ》。
アウレオルスは三〇メートルも先にいるくせに、すでに刃物を|肋骨《ろつこつ》の合間に|滑《すべ》り込まされたような、絶望的なまでの威圧。
本物という言葉。それが示す意味が、人のカタチを取って立っていた。
危険だ。上条はとっさに思う。あれは危険。この|結界《ルール》の中では絶対に勝てない|支配者《ゲームマスター》。しかし、|故《ゆえ》に上条は|姫神《ひめがみ》を|庇《かば》うため前に出ようとした。彼女を|生賛《おとり》にして逃げる|選択肢《せんたくし》など存在し
ないからだ。
だが、
「寛然。|仔細《しさい》ない、すぐにそちらへ向かおう[#「すぐにそちらへ向かおう」に傍点]」
上条がたった一歩を踏み出す前に、すでにアウレオルスは上条と姫神の間を引き裂くように、三〇メートルの距離を詰めていた[#「三〇メートルの距離を詰めていた」に傍点]。
「な……ッ!?」
目の前に突然現れたアウレオルスに、|上条《かみじよう》の頭が理解を超えて体が凍る。その足が速いのではなく、まるでいきなり空間を割って現れたようだったのだ。
例えるなら、コマ落ちした映画を見せられているような。
「当然、疑問は|湧《わ》いて出るだろうが答える義務もなし」|錬金術師《れんきんじゆつし》は平然と語る。「|姫神《ひめがみ》の血は私にとっても重要なモノだ。むざむざ貴様に渡すつもりもないので回収にきた次第」
回収。その言葉に、止まりかけた上条の思考回路はどうにか再び動き出す事に成功した。
「……くそッ! テメェ!!」
ここまで来て引き下がれない。とにかく|囚《とら》われの姫神と黒幕たるアウレオルスを引き|剥《は》がす。そのために上条は目の前へと駆けた。アウレオルスとの距離は元々、ニメートルもない。
だが、
「これ以上[#「これ以上」に傍点]―――」錬金術師はゆったりした声で、「―――貴様は[#「貴様は」に傍点]、こちらへ来るな[#「こちらへ来るな」に傍点]」
|瞬間《しゆんかん》、起きた変化は劇的だった。
ハタで見ている分には変わらない光景。だが、変わらない事こそが異常[#「変わらない事こそが異常」に傍点]。上条はニメートルもない距離を詰めようと全力で走っていた。なのに、距離は詰まらない。まるで地平線に沈む太陽を追い駆けているかのように、走っても走っても目の前の距離が縮まらない。
まるで無限に伸びた廊下を、アウレオルスと姫神が後ろヘスライドしているような|儲覚《さつかく》。
上条は|焦《あせ》った。自分の右手、そこにある|幻想殺し《イマジンブレイカー》の事を考える。それが異能の力であるのなら、神様の奇跡でも打ち消す力。だが、
(それで―――一体、何を|殴《なぐ》れば良いってんだ!!)
「必然」アウレオルスは感情もなく、「私のどこが、取り返しのつかないと語るか?」
上条は背筋を走る|悪寒《おかん》に思わず足を止めた。近づけない。そうは分かっていても、これ以上近づこうとする事さえ危険と体が勝手に判断したからだ。
そんな上条の表情を、アウレオルスは感情のない|瞳《ひとみ》でじっと見ている。まるで標本にされる昆虫を眺め、一本一本針を突き刺していくような瞳。
ふと、アウレオルスは白いスーツの|懐《ふところ》から髪の毛のように細い|鍼《はり》を一本取り出した。消毒薬の|匂《にお》いがわずかに鼻につく。アウレオルスは|摘《つま》み出した|鍼《はり》を自分の首に当てると、何の気なしに突き刺した。|催眠《さいみん》暗示のスイッチでも入れているかのような動作だった。
その仕草の|全《すべ》てが死刑宣告のように見えて、上条は思わず後ろへ飛び下がろうとした。
だが、アウレオルスは首に刺した|鍼《はり》を横合いへ捨てると、
「|撫然《ぶぜん》。つまらんな、少年」
瞬間、後ろへ飛び下がろうとした上条は、け」れどどれだけ後ろに下がってもアウレオルスとの距離が開かない事に気づいて|愕然《がくぜん》とする。進んでも退いても一ミリの変化も見せられない奇妙な現実。
しかし、だからこそ敵の前で何もできない|上条《かみじよう》の心臓は|緊張《きんちよう》で破裂しそうだった。アウレオ
ルスは無言で右手を突き出す。ギリギリ、上条の胸板に届かない位置で、何かを|掴《つか》むように。
そのまま心臓でもえぐり出すかのように。
「吹き[#「吹き」に傍点]――――」
そして、|錬金術師《れんきんじゆつし》は厳然と告げ
「―――。待って」
ようとして、突然間に割り込んできた|姫神《ひめがみ》の声に言葉を|遮《さえぎ》られた。
上条はギョッとした。これだけ圧倒的な力を持った本物の錬金術師を前に、姫神は何の用意もなく上条の|盾《たて》になる位置に立ち|塞《ふさ》がっている。
(|馬鹿《ばか》、野郎……ッ! ふざっけんじゃねえぞ!)
上条は必死に姫神を押しのけようとするが、一ミリも距離が縮まらない。まるで何も分かっていない子供が|拳銃《けんじゆう》を持つ|強盗《こうとう》の前へのこのこと歩いて行くような危機感に、上条の全身は|震《ふる》
え上がり、
しかし、姫神|秋沙《あいさ》がなんと呼ばれているのか、それを|唐突《とうとつ》に思い出した。
|吸血殺し《デイープブラツド》。
ステイルでざえ震えるほどの吸血鬼を、さらに|一撃《いちげき》で粉砕するほどの伝説的な力。この場において彼女の存在は限りなくジョーカーだろう。使えばゲームバランスが一撃でひっくり返るほどの。
(勝算が……?)
……あるんだろうか? でなければこんな|真似《まね》はしないと思う。
だが、アウレオルスはそんな上条をつまらなそうに見た。
ジョーカーであるはずの|吸血殺《デイープブラッド》しなど、視界にすらいれていない。
「当然。そこに|一縷《いちる》の望みを抱くだろうが、|吸血殺し《デイープブラツド》は私の敵ではない」アウレオルスの声に感情はなく、「自然、姫神秋沙に|何故し吸血殺《なぜデイープブラッド》などという名がついたのか。吸血鬼を殺すほどのカ――ふむ、なるほどその通りだが、それほどまでの力なら、何も|吸血殺し《デイープブラツド》に収まるはずがあるまい? いっそ|皆殺し《オーバーキラー》でも構わんと思うが」
(……、まさか)
上条の思考がどんどん|狭《せば》まっていく。最後の期待を奪われようとする|焦《あせ》りから。
「必然。|拒絶する生き血《デイープブラツド》とは、『吸血鬼のみに作用する力』。それも怪力の|類《たぐい》ではなく、正体はただの血液にすぎん。甘い|匂《にお》いで|誘《さそ》い、一滴でも吸ったモノを例外なく灰に|還《かえ》す赤色。恐るべきは『死ぬと分かっていても吸わずにはいられない』|凶悪《きようあく》なまでの|誘惑性《ゆうわくせい》だが、当然、人間には何の害もない。|陽《ひ》の光を浴びて灰に還るのはカインの|末窩《まつえい》のみと決まっている」
アウレオルスは、|懐《ふところ》から取り出した|鍼《はリ》を再び首筋に突き刺しながら言った。一体どんな効果があるのか、感情のない錬金術師の|瞳《ひとみ》がわずかに高揚する。
「ふん。私を|糾弾《きゆうだん》するための|突撃《とつげき》だったのだろうが、結局は変わらんな。最後の最後で、貴様は|姫神秋沙《ひめがみあいさ》ではなく|吸血殺し《デイープブラツド》に|縄《すが》り、|頼《たよ》り、願った。そこに私と何の違いがある?」
ザグン、と。その言葉は、|上条《かみじよう》の中心へと|容赦《ようしや》なく突き刺さった。
|無駄《むだ》でも無理でも、今この状況で自分が|足掻《あが》こうとする、その心まで殺すような一言。
だが、
「そんな事ない。この人は|吸血殺し《デイープブラツド》の意味も知らなかった。吸血鬼の正体さえ分かっていなかった。この人がここまできたのは。単に今日顔を会わせただけの他人を助けるため。互いに自己紹介すらしていないのに。放っておけなかっただけ」
弁解したのは、上条ではなく姫神だった。
両手を広げ、|盾《たて》の形を取り、アウレオルスの言葉から守ろうとするかのように。
「アウレオルス=イザード。あなたの目的はなに?」
姫神の言葉に、|錬金術師《れんきんじゆつし》はほんのわずかに|眉《まゆ》を動かした。
「|魔術師《まじゆつし》でもなければ錬金術師でもない。ただの一般人を巻き込んで。いわれのない罪を押し着せ殺して満足する事があなたの目的?」
「……、」
「そんなつまらない事があなたの目的だというなら。私はもう降りる。あなたに|太刀打《たちう》ちでき
ない事は分かるけど。私にも舌を|噛《か》み自らの命を絶っ程度の選択権はある」
「……、」
「もう吸血鬼を殺したくないという。私の目的には。あなたが必要。そのあなたの助力が得られないというなら。もはや生きる理由はなし。それで。あなたはどうなの? 私の助力がなく
て。生きていく事はできる?」
姫神の|瞳《ひとみ》に揺るぎはない。
まるでどちらがこの城の|主《あるじ》か分からないほどに、|真《ま》っ|直《す》ぐで対等な視線だった。
アウレオルスは|懐《ふところ》から取り出した細い|鍼《はり》を、さらに己の首筋へ突き立てる。
「必然。こんな所へ時間を|割《さ》く余裕もなし」錬金術師はつまらなそうに答える。「後がつかえている。|懸念《けねん》すべきは侵入者より禁書目録の扱いか。ただ|叩《たた》き|潰《つぶ》すならば得意だが、正直、あ
れの扱いにはいつまで|経《た》っても慣れる事ができん」
アウレオルスの何気ない|咳《つぶや》きに、上条は呼吸が停止するかと思った。
(……ま、て。禁書目録? アイツ、まさかここに――――ッ?)
上条はアウレオルスに|掴《つか》みかかろうとする。何としても状況を打破しようとする。だが髪の毛一本分の距離も縮まらない。一度は下ろした錬金術師の手が、再び上条へと向き直る。
姫神は挑むようにアウレオルスへ一歩進んだが、錬金術師は特に|感慨《かんがい》もなく、
「案ずるな、殺しはしない[#「殺しはしない」に傍点]」首筋の|鍼《はリ》を抜き、「少年[#「少年」に傍点]、ここで起きた事は[#「ここで起きた事は」に傍点]―――」
(くそ、|冗談《じようだん》じゃねえ! こんな時、こんな状況で、リタイヤなんかできるか!)
だが、|錬金術師《れんきんじゆつし》はまるで|上条《かみじよう》の心の声でも読んでいるかのように小さく笑い、こう言った。
「―――全て忘れろ[#「全て忘れろ」に傍点]」
辺りは夜になっていた。
「?」
上条は座席から立ち上がり、辺りを見回した。座席? と辺りを見回して、ここが学バスの中だと気づく。路線図を見ても、上条の学生寮は|掠《かす》りもしない。一つ前の停留所の名前を視線で追うと、『第一七学区・三沢塾前』と書かれていた。
一般に学園都市の終電終バスは|完全下校時刻《P M 6 : 3 0》に合わせてある。夜に走るこのバスなんてものは例外だ。進学塾が用意した私バスなのかもしれない。
「みさわじゅく?」
上条は首をひねった。進学塾の名前だろうか? 何でこんな所で眠ってたんだろう? と上条は思う。心当たりはない。進学塾に通う、なんて事はまずありえない。受験勉強どころか夏休みの宿題さえ『似合わない』上条|当麻《とりつま》である。
|一瞬《いつしゆん》、『|記憶喪失《きおくそうしつ》』という言葉が|脳裏《のうり》に浮かんで寒気がした。ただ単に昔の思い出が消えただけ、と思っていたが、ひょっとすると事態はもっと深刻なのかもしれない。
「……、病院行くか」
一人|呟《つぶや》いて、とりあえずどこに向かっているかも分からないバスから降りる事にした。一番近い停留所で降りてみるが、やはり景色に見覚えはない。
バランス感覚に問題はなく、妙な眠気がまとわりつく事もない。一見して健康に見えるが、ここ数時間の記憶がぽっかり抜け落ちている以上、きちんと病院へ行って検査した方が良いに決まっている。
(となると保険証がいるな、そうすると一度寮に帰って、いやこの時間って病院受付やってんのか? でも非常事態だし、あれインデックスにはどう言い訳しよう急に病院行くとかってなったら絶対不審に思うしっていうかそれよりアイツ晩ご飯抜かれてキレてんじゃ……!?)
ごちゃごちゃした頭でとにかく上条は学生寮に帰ろうと思った。この停留所を通るバスの路線は学生寮の近くを通らない。不幸だ、と上条は思いつつ、
――何かに呼ばれたような気がして、ふと後ろ……『三沢塾』のある方向を振り返った。
「?」
上条は首をひねる。おかしい、何か大事な事を忘れているような気がする。まるでガスの元栓を放ったらかしにして旅行に出かけたような、何か取り返しのつかない危機感。じりじりと上条の頭の裏が焼けるような感覚。何だろう? と上条はまだ見ぬ[#「まだ見ぬ」に傍点]『三沢塾』に思いを|馳《は》せ、
「ま、思い出せないって事は思い出す必要もない程度の事だろ」
適当に言って、再び歩き出した。
とりあえず|断食《だんじき》状態で食の|恨《うら》み晴らすべからず状態なインデックスをどうなだめよう、やっば|黒蜜堂《くろみつどう》の一個七〇〇円のプリンかー、とか考える。予想外の出費が頭にこたえる。くそう一冊三六〇〇円の参考書なんて買うんじゃなかったとため息をついて頭をがしがし|掻《か》いた。
それが異能の力であるのなら[#「それが異能の力であるのなら」に傍点]、神様の奇跡さえ一撃で打ち消す右手で[#「神様の奇跡さえ一撃で打ち消す右手で」に傍点]。
バギン、と。|頭蓋《ずがい》が割れるような音と共に、|上条《かみじよう》の頭に今日一日の|記憶《きおく》が|雪崩《なだ》れ込む。
「……ッ!」
上条は|慌《あわ》てて振り返った。
景色はすでに夜に沈んでいる。バスの停留所一つ分離れているせいか『三沢塾『はここから見る事もできない。あれから何時間|経《た》ったのか。近くにステイルはいない。|姫神《ひめがみ》もいない。アウレオルスもいない。そして―――インデックスもいない。
アウレオルスの言葉『|全《すベ》て忘れろ』。たった一言で、今の今まで本当に忘れていた[#「今の今まで本当に忘れていた」に傍点]。戦場と化した三沢塾、アウレオルスに奪還された姫神、そして―――|錬金術師《きんれんじゆつし》の口から出た、禁書目録を手に入れた、らしき言葉。
「くそっ!」
この数時間で何が起きたか分からない。一人『三沢塾』に残るステイルは無事だろうか!?
色々な事を考えながら、上条は『三沢塾』へと走った。
全力で『三沢塾』へと駆け出す上条は、混乱のあまり最初は気がつかなかった。全力で走っ
ても人とぶつからない事、そもそも通行の|邪魔《じやま》になるほど人がいない事、夜とは言っても学園都市の繁華街に誰も人がいないという異常に[#「夜とは言っても学園都市の繁華街に誰も人がいないという異常に」に傍点]。
(……なんだ?)
上条がようやく異常に気づいたのは、もう『三沢塾』のビルが夜の天にそびえるのが見えた時だった。
街中だというのに|誰《だれ》一人として人間の存在しない空間。その|違和感《いわかん》を上条は知っている。ステイルが夕方に見せた、『|人払い《Opila》』の結界と同じ感覚だ。
だが、今回は『誰もいない』という訳ではない。
輪をかけて異常な事に、『三沢塾』を取り囲むように何人もの人間が立っている。
(……何だよ?)
上条は足を止めて振り返る。少し離れた所に、誰かが立っている。男か女かも分からない。何せ、頭のてっぺんから足の|爪先《つまさき》まで、余さず銀の|鎧《よろい》に身を包んでいるのだ。
辺りには通行人はない。それがさらに奇妙を|際立《きわだ》たせている。こちらに見える鎧の数は三つ、これが『三沢塾』四つのビルを『取り囲んでいる』ならばさらに多くの|鎧《よろい》がいるはずだ。
(……何だ? あんなヘンテコな格好してるのは……教会の連中か?)
気になる。とにかく|上条《かみじよう》はあの鎧|達《たち》の一つに話しかけてみようと考えた。|馬鹿《ぼか》みたいに|記憶《きおく》を飛ばされた間に何か状況が変わったのかもしれない。
「おい、何だよ? お前達、「教会』とかって連中の仲間なのか?」
言いながら、上条はふとエレベーターの前で絶命した|騎士《きし》を思い出した。
死者に似た鎧の一体は、『教会』という言葉にピクリと反応して、
「ー私はローマ正教一三騎士団の一人、『ランスロット』のビットリオ=カゼラである」むしろ|億劫《おつくう》そうに、「ふん。戦場から偶然に帰還した民間人か。貴様がかの|砦《とりで》から出てくる所は確認している。まったく本当に運が良い。死にたくなければ即刻|退避《たいひ》せよ」
何を言っているんだコイツ、と上条は全身鎧を注意深く観察していたが、
「我々とて|無為《むい》な|殺数《さつりく》は望まないと言った。グレゴリオの聖歌隊にて聖呪|爆撃《ばくげき》を行うにしても、
|無駄《むだ》に被害を拡大させる必要もないと判断したのである」
その言葉に、上条はギョッとした。
グレゴリオの聖歌隊。『三沢塾』の中で大勢の生徒達を使って行われたアレは、ステイルの言葉だとオリジナルはローマ正教のものだったはず[#「オリジナルはローマ正教のものだったはず」に傍点]。
―――元はローマ正教の最終兵器さ。三三三三人の修道士を聖堂に集め、その|聖呪《いのり》を集める|大魔術《だいまじゆつ》。太陽の光をレンズで集めるように、魔術の|威力《いりよく》を激増する事ができるんだ。
ステイルの言葉が|脳裏《のうりよ》に|蘇《みがえ》る。|偽典《レプリカ》であの威力なら、|原典《オリジン》はどれだけの|破壊力《はかいりよく》を秘めるのか?
「爆撃って……ふざけんな! それってどんな威力なんだ! 中に入っただけで巻き込まれるだなんて、まさかビルごと吹っ飛ばすつもりじゃねーだろうな!」
「それこそまさかだ、バチカンの大聖堂という世界最高の|霊地《れいち》を用意し、三三三三人分もの聖呪を用いる我らの神技は世界中のいかなる地域も正確に灰に|還《かえ》す。それで背信者の塔を残しては我らの|沽券《こけん》に|関《かか》わるだろう」
「ばか、な。待てよ、あの中には無関係の生徒達がたくさんいるんだぞ! ステイルだって、|姫神《ひめがみ》だって残ってるかもしれないし、アウレオルスだって――――」
――――アウレオルスは、誰かを助けたいから吸血鬼を呼びたいだけらしい。
「それにあんなデカいビル、このまま吹っ飛ばせば|瓦礫《がれき》がどこまで飛び散ると思ってんだ! 半径六〇〇メートルに|亘《わた》って砲弾みてーな|塊《かたまり》が|撒《ま》き散らされるんだぞ!」
「正しき目的のために手段は正当化されるのだ。流される血は明日の|礎《いしずえ》になると思え」
上条の頭は、その言葉に限界を超えて|沸騰《ふつとう》しそうになる。
一秒前と一秒後で言っている事が全然違う。一般人は巻き込めないから逃げうと上条に言っているくせに、『三沢塾』の中にいる人は気にしないなんて|支離滅裂《しりめつれつ》すぎる。
「ふざけんな! あの建物の中には、お前の仲間だって残ってるんだろ!」
「……『パルツィバル』は異国にて|殉教《じゆんきよう》した。己の流す血で、明日の|礎《いしずえ》を築くために」
|上条《かみじよう》はエレベーターの近くで絶命した『|騎士《きし》』の事を思い出した。
目の前の全身|鎧《よろい》の言葉は揺れ、狂気に満ちていた。完全に冷静な判断を見失っている。
「くそ、ちょっと待て! だったら時間をよこせ! 一時間、いや三〇分でいいから!」
「貴様の言葉は聞かない! |攻撃《こうげき》を開始する!!」
ランスロットと名乗った全身鎧は、腰に下げた大剣を一度天上へと掲げた。大剣が淡い赤色に輝く。まるで何かのアンテナみたいだな、と上条は思った。
上条が全身鎧に飛びかかる前に、アンテナは振り下ろされる。
「ヨハネ|黙示録《もくしろく》第八章第七節より|抜粋《ばつすい》―――」
まるで何かの合図のように。
「――第一の|御使《みつかい》、その手に持つ滅びの|管楽器《かんがつき》の|音《ね》をここに再現せよ!」
|魔術《まじゆつ》の効果なのか、|遠吠《とおぼ》えのように、淡く輝く大剣はラッパみたいな音を夜空に|響《ひび》かせ、
|瞬間《しゆんかん》、あらゆる音が消えた。
夜空に切れ切れに漂っていた雲が、根こそぎ吹き飛ばされたように見えた。
それは、|傍目《はため》に見れば巨大な雷に見えただろう。天上から下界に向けて放たれた、太く巨大な光の柱。だが、その雷は血のように赤い。何百何千と束ねられた赤い火矢が、束ねられ|融合《ゆヤネ う》
し、一つの巨大な|槍《やり》と化して、一撃で四棟ある『三沢塾』のビルの一つを貫いた。
|紅蓮《ぐれん》の神槍は、一瞬でビルの屋上から地下まで貫き通す。
|刹那《せつな》、まるで空き缶を踏み|潰《つぶ》すように、ビルが半分の高さまで押し潰された。ガラスが|全《すべ》て
|弾《はじ》け、内装が窓から外へと放り出される。
爆発は収まらない。『直撃』を受けたのはビル一棟だが、|隣《となり》のビルとは渡り廊下で|繋《つな》がってい
る。その渡り廊下に引きずられるように、隣のビルニ棟が|強引《こういん》に引きずり倒れされた。残る一
棟だけが、何かの墓標のように立ち尽くしている。
トカニ《ぎミボヵ》|カ
あまりの馬鹿馬鹿しさに、上条は声が出ない。
建物がひしゃげ壁に|亀裂《きれつ》が走るたび、まるでズボンについた砂を払うように人がバラバラと
落ちていく。それだけではない。まるで|陽石《いんせき》が降り注ぐように、大量の|瓦礫《がれき》は周辺の建物さえ
強引に|破壊《はかい》する。人払いによって周囲に人気がなかったのが|唯一《ゆいいつ》の救いだろう。
「くそ、ふざけんなよ……、」
上条は奥歯を食いしばる。あの中にはステイルがいた、|姫神《ひめがみ》がいた、|他《ほか》にも多くの生徒や講
師|達《たち》に、アウレオルスも―――そしてインデックスだっているかもしれなかった。
「ふざけんなよ、テメェ!!」
上条は弾かれたように走った。あの全身鎧に向かって、ではない。そんな事をしている|暇《ひま》はない。|上条《かみじよう》は|爆撃《ばくげき》現場へと突撃した。
そんな上条の行く手を|阻《はば》むように、まるで|砂嵐《すなあらし》のような|粉塵《ふんじん》が|襲《おそ》いかかる。前が見えない。目も開けていられない。それでも走る。目の前の現実を、何かの|冗談《じようだん》と思いながら。
だが、変化は突然起きた。
「?」
上条が最初に感じたのは、視界を奪うビルの粉塵が引いた事だ。まるで突風に|煽《あお》られるように、大量の粉塵が上条の前へ―――元の『三沢塾』の跡地へと一斉に流れていく。
「!?」
いや、それは粉塵だけではない。周囲に飛び散った破片が宙を浮かび、|崩《くず》れた壁が起き上がる。ジグソーパズルのように断面同士がくっつくと、まるで粘土をヘラで整えるように傷口が|滑《なめ》らかに|塞《ふさ》がっていく。
まるでビデオを巻き戻しているような光景だった。崩れたビルが起き上がり、バラバラと落ちた人々が|亀裂《きれつ》の中へ吸い込まれていき、ビルの傷口も塞がっていく。気がつけば、『三沢塾』の四棟のビルは何事もなくそこに建っていた。吹き飛ばされた瓦礫の砲弾に|破壊《はかい》された周囲の
建物まで。まるで|記憶《きおく》の中身さえ改ざんされたのでは? と思ってしまう。
待てよ、と上条は思う。
(巻き戻される[#「巻き戻される」に傍点]……まさか[#「」に傍点]まさか!)
上条が夜空を見上げた|瞬間《しゆんかん》、『三沢塾』の屋上から天を|穿《うが》つように、|紅蓮《ぐれん》の神槍が解き放た
れた。どこへ向かったか、など言うまでもない。文字通り、術者の元へ巻き戻ったのだ[#「巻き戻ったのだ」に傍点]。
「あ、ああ」
|呆然《ばうぜん》とした声に、ふと横を見ると全身|鎧《よろい》がいた。ビザから力が抜けて座り込んでいる。なまじ本物の『グレゴリオの聖歌隊』の|威力《いりよく》を良く知っているからだろうか?
何だこれは? と上条は絶句して夜空を見上げた。学園都市に七人しかいない|超能力者《レペルう》だって、あんなデタラメな奇跡は起こせない。
(あれが、敵)
アウレオルス=イザード。
(あれが、アイツの本当の実力……)
ここまで突き抜けた敵とどうやって戦えば良いのか。上条は呆然と立ち尽くしてしまう。
「くそっ!」
上条は|脅《おび》えを振り払うように、とにかく『三沢塾』へと走った。
ガラスの自動ドアを前に、上条はギョッと立ちすくんだ。
|薄《うす》いガラス一枚|隔《へだ》てた向こうは、一切の破壊を感じさせない『日常』が広がっている。
上条は恐る恐る自動ドアをくぐり、『戦場』へと帰還する。
『三沢塾』の中は相変わらずで、逆に何一つ変わっていない事に上条は鳥肌が立つかと思った。それだけではない。中にいる生徒|達《たち》は傷一つなく、平然と授業を受けている。『グレゴリオの聖歌隊』によって傷つき、|瞬間錬金《リメン=マグナ》によってドロドロに溶かされたはずなのに、何もかもなかった事にされたかのように。
ある教室の横を走り抜けようとした時、|上条《かみじよう》は目の前の光景に思わず足を止めていた。
(アイツ……ッ!)
広い教室の後ろの方の席に、一人の女子生徒が座っていた。見覚えのある顔だ。三つ編みでメガネの女の子―――|姫神《ひめがみ》を|庇《かば》い、アウレオルスの|瞬間錬金《リメン=マグナ》に溶かされたはずの少女。
彼女はそこにいた。
眠たそうな目をこすり、|頬杖《ほおづえ》をつきながら黒板の内容をノートに写し取って。
彼女はそこにいた。
まるで最初から何事もなかったかのように。ごく普通の世界に生きていた。
「……っ!」
その、あまりにも平和な光景が、逆に上条に|怖気《おそけ》を走らせた。アウレオルスの|魔術《まじゆつ》にかかれば、生も死も、幸福も不幸も、日常も異常も、その|全《すべ》てがこうも簡単にリセットされる。
それでも、とにかくビルの中を走る。一刻も早く皆の安否を確認したい。
どこをどう走ったか分からない。
何階かの直線通路に飛び出した時、ようやく知り合いの顔を見つける事ができた。
「何だい、そんなに|慌《あわ》てたような顔して?」
自分を見捨て、|囮《おとり》に使ってのうのうと笑っている、|憎《にく》たらしいはずのステイル=マグヌスの声。なのに、今の上条にとっては何よりも安心できた。
「ふむ。君がここにいるという事は―――ここはやはり日本なのか? 東洋人ばかりだから何だと思っていたけど、しかし何だ? この奇妙な結界構造、見覚えのある|魔力《におい》だが」
ステイルは目の前の上条などお構いなしで何かブツブツ言っていた。どうやら上条と同じく|記憶《きおく》を消されているらしい。いや、同じくではない。『三沢塾』に関する目的も分からなくなっている辺り、上条よりずっと昔まで記憶を消されているに違いない。
記憶を戻すには、右手でステイルの頭に触れれば良い。そう思った所で、ふと上条は悩んだ。今の|爆撃《ばくげき》から―――『生き返った』という事実も|一緒《いつしよ》に消えないだろうか? と。
アウレオルスに『近づくな』と言われた時には右手は全く通用しなかった。だが、命に|関《かか》わるとなっては安直な判断はできない。
「おい、お前さっきまでどこのビルにいた?」
「何?」
「いいから」
「??? 確か北棟だね。それが何か?」
上条はほっとため息をついた。北棟。四つあるビルの三つが倒れたが、北棟だけはポツンと立ち尽くしていた。ステイルにはそもそも『生き返る』も何もなかったのだ。
そうと決まれば話は簡単。
「おいステイル、今からお前の疑問をサックリ解消させるおまじないを教えてやる」
「……、東洋の|呪《まじな》いの専門は|神裂《かんざき》だと思うけどね」
「いいから聞け。話は簡単、目を|瞑《つむ》って舌を出せ。べーって」
「???」
ステイルは思いっきり不審そうな顔をしながら、それでも言われた通りにする。
|上条《かみじよう》は言う。
「祝☆ よくも人様を|囮《おとり》に使って逃げ延びやがったな記念ッ!」
「……は?」
直後、上条はステイルの|顎《あご》を突き上げるように右手でアッパーカットを繰り出した。
失われた|記憶《きおく》を取り戻すと同時、ステイル=マグヌスは舌を|噛《カ》んで床を転げ回った。
北棟の最上階にアウレオルス=イザードは|佇《たたず》んでいた。
最上階は『校長室』と名づけられた、一フロアを丸々使った巨大な空間だ。予備校という性質からか、校長室というより社長室というイメージの方が強い。
アウレオルスは|豪奢《ごうしや》な室内に目を向けていない。
|煌《きら》びやかな部屋に背を向けるように窓の外に目を向けているが、やはり眼下に広がる夜景を見ている訳でもない。
アウレオルスは窓に映る己の顔を眺めていた。
(……存外、遠くまで歩んできたものだ)
言葉一つ―――本当に『元に戻れ』の一言で―――生き物のように起き上がったビルを見ても|眉《まゆ》一つ動かない己の顔を眺めながら、アウレオルスはそんな事を考える。
昔の自分はこうではなかったと思う。
感情表現は苦手の部類だったが、|喜怒哀楽《きどあいらく》を表現できる『人間』だったはずだ。
顔の|皮膚《ひふ》が少しも動かず、|瞳《ひとみ》の光が|欠片《かけら》も揺らがないのは冷静でも平然でもなく、単に表情を作るだけの余裕がないだけの話だ。
それでも別に構わない、とアウレオルスは思う。
己の目的を果たそうとすれば、世界の|全《すべ》てと絶え間ない争いに巻き込まれて、神経を削り落とされる事は当の昔に分かっていた。
アウレオルス=イザードは、ただ一人の少女を助けたいだけだった。
アウレオルスの背後には|黒檀《こくたん》の大きな机があり、そこには一人の少女が寝かされている。
Index-Librorum-Prohibitorum―――禁書目録。
その、人間として最低限の名前すら与えられなかった少女と出会ったのは三年前の事だ。
アウレオルス=イザードはローマ正教の|隠秘記録官《カンセラリウス》だ。
彼は教会に所属しながら|魔道書《まどうしよ》を書き記すという特例中の特例だった。|既存《きぞん》の魔女の|邪法《じやほう》を解き明かし、対抗策を見つけ、それを文字に記して本にする。そうする事で魔女の|脅威《きようい》から罪なき人々を守る事ができると信じて。
実際、アウレオルスの書き記した数冊の本は多ぐの人々を助ける事ができた。
だが、ローマ正教はそれを自分|達《たち》だけの『切り札』とした。十字教に|関《かか》わらぬ者、さらにはイギリス清教やロシア成教など、同じ十字教の者にさえ『切り札』を伝えず、言外に魔女の脅威から逃れたければ我々に改宗せよと告げていた。
結果、|錬金術師《れんきんじゆつし》は解決策を導き出したのに、多くの人々は知らぬまま魔女の|餌食《えじき》となった。
簡単な手術さえ受けられないまま死に|逝《ゆ》く病人のような|理不尽《りふじん》さがそこにあった。
アウレオルスはそれが許せなかった。自らが編み出した『切り札』は|全《すベ》ての人々を救えると信じていた。
自らの記した『本』を外部へ持ち出す事を決断するまで時間はかからなかった。
とりわけ魔女の被害が高いのは『魔術の国』とまで呼ばれる英国だった。アウレオルスは細心の注意を払い、二重三重に|偽装《ぎそう》を重ね、イギリス清教の者と内密に接触する事に成功する。
そこに、決して救われぬ|少女《じごく》がいた。
一目で分かった。世界の全てを救いたいと願った錬金術師は、それでも目の前の少女だけは決して救うことができないと一目で分かってしまった。
世界中に存在する、一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を抱える一人の少女。常人ではたった一冊でも目を通しただけで発狂しかねない|邪本悪書《じやほんあくしよ》を星の数ほど抱える少女は、決して救われぬと分かっていながらそれでも童女のように笑っていた。
実際、少女は救われなかった。土台、一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を抱えられるほど人間は強くない。少女の体は魔道書の|知《どく》に犯され、少女の頭は魔道書の|識《どく》に侵されていた。
|知識《もうどく》を抜くには、一年置きに少女の思い出を消去しなければならないほどに。
そこに錬金術師は己の理想の終わりを見た。
これだけの不幸を他人に押し着せられ、それでも他人のために|微笑《ほほえ》む事ができる少女。彼女を救えずにして、世界の全てを救いたいなど語るのもおこがましいと。
錬金術師はただ一人の少女を助けるために魔道書を書き始めた。自分の書き記す本は世界の全てを例外なく救えると信じ続けて。一冊書き終わるごとにイギリス清教へ向かい、一〇冊二〇冊と失敗に終わってもアウレオルスは決して|諦《あきら》める事なく|魔道書《まどうしよ》を書き続けた。
そうして自分がどれだけの魔道書を書き終えたかも分からなくなった|頃《ころ》、アウレオルスは|何故《なぜ》自分が決して諦めないのか、何故魔道書を書き続けるのかと考えてみた。
そうして、不意に気づいてしまった。
アウレオルスは初めて少女を見た時から、この少女は決して救われないと思っていた。にも|拘《かか》わらず彼が諦めなかったのは、単に『魔道書を提供する』という名目の元、ただ一人の少女に会いたかっただけなのだと[#「ただ一人の少女に会いたかっただけなのだと」に傍点]。
なんて事もない話。
ただ一人の少女を救いたいと願った|錬金術師《れんきんじゆつし》は、逆に少女に救われていたという話。
分かってしまえば終わりは近い。アウレオルスは筆を握る事ができなくなった。ただの一人も救えぬと分かった以上、筆を走らせる目的と自信の二つを完全に砕かれてしまった。
救われない救われない―――この方法では誰も救われない[#「この方法では誰も救われない」に傍点]。
それでも一人の少女を助けたいと願うならば、後は天上より転がり|堕《お》ちる|他《ほか》に道はない。
この身が堕ちた理由はただ一つ。
もしも神が世界の|全《すべ》てを救う力を持つならば、何故目の前の少女は救われないのか。
そうしてアウレオルス=イザードはローマ正教を、十字教を、ひいては世界の全てを敵に回した。しかし、それでも少女は救われない。ヘルメス学類型、チューリッヒ派の錬金術を|駆使《くし》してすら少女は決して救われない。人体を調べ尽くせば全ての病を治せると信じてきた。人脳を語り尽くせば全ての心を|癒《いや》せると信じてきた。それでも少女は絶対に救われない。
もはや人の信仰にも人の技術にも救われぬ一人の少女。
ならばこそ、
人の理を外れたカインの|末窩《まつえい》の力に|頼《たよ》る事に、一体何の非があろう?
そのためならば|誰《だれ》でも裏切る。何でも利用する。|吸血殺し《デイープブラツド》さえもこの手に収めてみせる。
こうして錬金術師は人の道を外れた。自らの救いよりも、誰かを救う力を欲する者の、無残なまでの|残骸《ざんがい》がここに取り残されている。
「……、」
だが、アウレオルス=イザードは気づかない。
その背を無言で見続ける一人の少女がいる事を。|吸血殺し《デイープブラツド》と呼ばれたその少女も、誰かを助けたいからこそこんな所に立っているという事を。
|救い《ものがたり》は遠く。
|未《いま》だ、|救世主《しゆじんこう》が現れる気配もない。
「アウレオルスがローマ正教の『|真・聖歌隊《グレゴリオ=クアイア》』を|弾《はじ》き返しただと……そんな|馬鹿《ばか》な」
一通り炎剣片手に|上条《かみじよう》を追い駆け回す事を終えたステイルは、上条の言葉に絶句した。
「いやホントだって。なんかビデオの巻き戻しみてーに|壊《こわ》れたビルが直ったんだよ」
上条は通路を走りながら答える。
どうやら、ステイルは上条より深い所まで探る事に成功していたらしい。アウレオルスの|本拠地《ほんきよち》を見つけた後で|記憶《きおく》を消されてビルの中をさまよい歩いていたようだ。
「……だとすると……しかし、現存する|錬金術《れんきんじゅつ》でアレはありえない……」
ステイルは|苛立《いらだ》ったように|煙草《タバコ》の煙を吐き出しながら|呟《つぶや》いている。
「|他《ほか》にも『近づくな』『忘れろ』なんてのがあったげど。何だよ、|魔術《まじゆつ》ってのはあそこまで何でもありありの世界なのか?」
「……まさか。魔術とは学問だよ。キチンとした理論と法則の世界だ、そんなルール違反があっては馬鹿馬鹿しくて|誰《だれ》も魔術を学ぶ気にもならない」
「じゃあありゃ何なんだよ? 現に言葉一つで世界は何でも思い通りじゃねーか」
「思い通り……か。|嫌《いや》な言葉だね。アルス=マグナを思い出してしまう」
『思い通り』という言葉に妙な反応を示した上条は|眉《まゆ》をひそめたが、不意に思い出した。
世界を思い通りに|歪《ゆが》める力―――それはまだ誰にも到達できていない[#「それはまだ誰にも到達できていない」に傍点]、錬金術の究極の目的だと[#「錬金術の究極の目的だと」に傍点]―――前にステイルは説明していなかったか?
「待てよ。それじゃアイツは錬金術ってのを|極《きわ》めちまってんじゃねーのか?」
「そんなはずはないっ!」|珍《めずら》しく、ステイルが声を荒らげた。「アルス=マグナなど、そもそも人間に|為《な》せる|業《わざ》ではないと前に説明した。|呪文《じゆもん》そのものは完成していても、それは一〇〇年二〇〇年の不眠不休で完成させられる長さじゃないんだ。呪文を短縮しようにもカットできるような余分は存在しないし、親から子へ、子から孫へと作業を分割しても、伝言ゲームの要領で|儀式《ぎしき》そのものが|歪《ゆが》んでしまう。よって、寿命持つ人間にあの魔術は使えない!」
ステイルの反論は、おそらく魔術を学んでいればとても合理的に聞こえるものなんだろう。
だが、魔術師の声は|震《ふる》えていた。まるで、信じられないモノを見るかのように。
「……そりゃあそうか」上条は別の角度から考えてみる。「何でも思い通りになるってんなら、そもそも|俺達《おれたち》が生きてるのがおかしいもんな。『|偽・聖歌隊《グレゴリオ=レプリカ》』だの|影武者《かげむしや》だの使わなくたって、テメェが直接『死ね』って思えばそれで終わりなんだから」
そもそも、吸血鬼も|吸血殺し《デイープブラツド》も必要ない。必要なら自分で作れば良いんだし、そもそも何でも思い通りになるなら、吸血鬼に|頼《たの》まなくったって自分の手で願いを|叶《かな》えれば良いだけだ。
「それにしても、野郎の目的は何なんだ? 人を助けたいとか言いながら平気で他人はぶっ殺すし、いつの間にかインデックスは巻き込まれてるし……案外変な事件起こしたストレスで頭おかしくなってんじゃねーだろうな」
「なに、あの子が?」
「野郎がそれっぽい事口に出してただけだ、実際に見てねーよ。ただ単に変な幻覚見てるだけかもな」
気休めに―――それも己に対する気休めに、|上条《かみじよう》は軽口を|叩《たた》いてみた。
だが、ステイルは|錬金術《れんきんじゆつ》の話よりも深刻な顔になって、|不味《まず》そうに|煙草《タバコ》を吐き捨てた。
「チッ、そういう事か。なるほど、錬金術を学ぶために三年も人里を離れれば世情にも|疎《 つと》くなる」新しい煙草を口に|咥《くわ》えつつ、「ヤツの目的が分かった。|禁書目録《インデツクス》だよ」
「な……?」
上条には分からない。この事件、本来ならインデックスが|関《かか》わるはずのものではない。
「いいかい、上条|当麻《とうま》。インデックスは一年置きに|記憶《きおく》を消さなければならない少女だった。それはつまり、一年置きに人間関係をバッサリ更新して、彼女の|隣《となり》には一年置きに新しいパートナーが立っている、という状況を作り出す」
「それが……、何だよ?」
「今年は君、二年前は僕、そして―――」ステイルは、心底|忌《いまいま》々しそうに、「三年前のパートナーの名前はアウレオルス=イザードさ。役割は『先生』だったかな」
上条はギョッとした。
「歴代のパートナーの末路は皆同じでね、インデックスの記憶消去を食い止めようと必死に|足掻《あが》き、そして必ず失敗する」ステイルは吐き捨てるように、「当然、ヤツも同じ末路を|辿《たど》ったはずだが―――なるほど、結果が出ても認められなかった訳だ」
「……どういう?」
「簡単だ。僕|達《たち》歴代のパートナーは、別にインデックスにフラれた訳じゃない。単に彼女が覚えていないだけ[#「単に彼女が覚えていないだけ」に傍点]。だったら話は簡単さ、どうにかしてインデックスの頭を|治療《ちりよう》して思い出してもらえば、再びこっちを振り返ってくれるはずだってね[#「再びこっちを振り返ってくれるはずだってね」に傍点]」
上条は、心臓に杭でも打ち込まれたような気分だった。
|何故《なぜ》、|衝撃《しようげき》が|襲《おそ》ってきたのか分からない。インデックスの頭が治るなら、それはとても良い事のはずなのに。訳の分からない、漠然とした衝撃はいつまで|経《た》っても収まらない。
あの笑顔が、
|他《ほか》の|誰《だれ》かに向けられる事が、これほどの衝撃を伴うだなんて。
「……、だけど。そんな事が許されるはずもないだろうに」ステイルは、口の中で静かに|呟《つぶや》いた。「人の記憶を消すのが許せないなら、同じく人の記憶を改ざんするのがどれだけの非道か、そんな事も分からなくなるほど追い詰められたのか、アイツは」
声は小さく、上条は聞き直そうとステイルの顔を見た。
だが、ステイルは小さく|煙草《タバコ》の煙を吐くと、つまらなそうに首を横に振って、
「何でもないよ。ただ、アイツには絶対あの子を救う事はできない[#「アイツには絶対あの子を救う事はできない」に傍点]と言っただけだ」
「何だって?」
|上条《かみじよう》には分からない。あんな、言葉一つでビルを直し|記憶《きおく》を奪い人の命まで巻き戻した男に、絶対できない事なんて存在するのか?
「これもまた簡単でね、台無しにしたのは君なんだよ」
「?」
「君が彼女を救ったんだろう? すでに救われている存在を[#「すでに救われている存在を」に傍点]、もう一度救う事なんてできるはずがない[#「もう一度救う事なんてできるはずがない」に傍点]。話はこれだけさ、特に深い意味もない」
あ、と上条はその言葉でようやく気づいた。
アウレオルス=イザードは三年前のインデックスのパートナーだった。インデックスを失ってからの三年間、音信不通になっていたのでは情報が不足する。
つまり、アウレオルスは――――。
「着いたよ。ご|丁寧《ていねい》に扉が開いてる」
ステイルは前を見た。
『三沢塾』北棟の最上階――校長室への巨大な扉は、上条|達《たち》を迎え入れるように開いていた。
そこは広大な空間だった。
かつて『三沢塾』の支部校長が、そして科学宗教の教祖が居座った部屋。|歪《ゆが》んだ欲望に|相応《ふさわ》しく、部屋は|煙《きら》びやかだが品がない。まるでマナーばかりにうるさく接客の心得を知らないレストランに迷い込んだような|嫌悪感《けんおかん》ばかりが先立つ部屋だ。
部屋の中に入ってきた上条を見て、|姫神《ひめがみ》はびっくりしたような顔をした。だが、アウレオルスは逆に何の感情も浮かんでいない。当然の事が当然起きた。そんな顔でしかない。
周囲の空気はひどく|空虚《くうきよ》。まるで古ぼけて色あせた写真のような虚無。
それは|錬金術師《れんきんじゆつし》の心の在り方そのものだろう。
世界の|全《すべ》てを操るこの男には、おそらく手に入れられない物は存在しない。
しかし、それ|故《ゆえ》にこの男には、確固たるモノは何もない。
|優《すぐ》れた|洗脳能力《マリオネツテ》を持つ人間は、周囲にいる全ての人々が笑顔であっても、決してそれを幸せだと思わない。|何故《なぜ》ならば、その笑顔さえ洗脳者は指先一つで生み出す事ができるのだから。
|極上《ごくじよう》の笑顔を見ても、『指先一つ動かす程度』と思う事しかできない。
それと同じ。
全てを作り出せる者には、それ故に作り出せる物には何ら意味を|見出《みいだ》せない。
この空気は、決戦の場に漂うものではない。
アウレオルス=イザードが立つ場所が、空虚で虚無な決戦の場に変わるというだけの話。
「ふむ。その目を見る限り、私の目的には気づいているようだが」錬金術師はつまらなそうに、
「ならば|何故《なぜ》、私を止めようとする? 貴様がルーンを刻む目的、それこそが禁書目録を守り助け救うためだけだろうに」
アウレオルスはチラリと視線を落とした。
|錬金術師《れんきんじゅつし》の手前――立派な机の上に、銀髪の少女が静かに眠らされている。
思わず|上条《かみじよう》が走り出そうとしたが、横からステイルの長い手に|阻《はば》まれた。
「簡単だよ。その方法であの子は救われない。失敗すると分かっている手術に身を預けられるほど、その子は安くないんだけどね?」
「|否《いな》。貴様の|理由《ソレ》は|嫉妬《しつと》だろう。自然、今までは共に夢を失い絶望した『同志』だったが、一人出し抜くとあっては満足できん。くだらんとは言わん。私の|妄執《もうしゆう》も原理は同じだ」
ステイルはほんのわずかに|眉《まゆ》を引きつらせた。
アウレオルス=イザードが何の皮肉でもなく、自然に言っている事に対して。
「これまで禁書目録は|膨大《ぼうだい》すぎる脳の情報量のため、 年ごとに|全《すべ》ての|記憶《きおく》を消さねばならなかった。これは|必定《ひつじよう》であり、人の身に|抗《あらが》えん宿命だ」アウレオルスは厳然と、「だが、逆に言えば人ならぬ身を使えば済むだけの話。結論が出た今となっては逆に不思議だ、何故、今の今まで吸血鬼を使おうと進言した者が一人もいなかったのか、とな」
「……、」
「吸血鬼とは無限の命を持つ者。無限の記憶を、人と同じ脳に蓄え続ける者。しかし、多すぎる情報で頭が破裂した吸血鬼など聞いた事がない」錬金術師は言った。「あるのだよ、吸血鬼に
は。どれだけ多くの記憶を取り入れても[#「どれだけ多くの記憶を取り入れても」に傍点]、決して自我を見失わん[#「決して自我を見失わん」に傍点]『術[#「術」に傍点]』が[#「が」に傍点]」
「ふん。なるほどね。吸血鬼となかよしこよしになって、その方法を教えてもらおうって腹かい」ステイルは口の端で|煙草《タバコ》を揺らし、「念のために聞くけど。仮にその方法、同じく人の身には不可能と分かったら君はどうする?」
「当然。人の身に不可能ならば―――禁書目録を人の身から外すまで」
アウレオルスは一秒の間もなくそう答えた。
それは、つまり――――。
「噛ませる[#「噛ませる」に傍点]って訳か。チッ、カインの|末喬《まつえい》なんぞの|慰《なぐさ》み者にされて、喜ぶ信徒がいるものか。これは歴代のパートナーに共通して言える事だけどね、|誰《だれ》かを救いたければ、まずは自分を殺して人の気持ちを知る事こそが重要なのさ。ま、これは僕も最近覚えた[#「最近覚えた」に傍点]事だけどね」
「……、くだらん。それこそが|偽善《ぎぜん》。あの子は最後に告げた、決して忘れたくないと。教えを破ろうがこのまま死のうが、胸に抱えた思い出を決して忘れたくないと。指先一本動かせぬ体で、|溢《あふ》れる涙にも気づかずに――――笑いながら告げたのだ」
アウレオルス=イザードはわずかに歯を食いしばった、ように見えた。
何を思い出し、何を振り返ったのか。上条には分かるはずもない。
「どうあっても、自分の考えは曲げない、か。それならちょっと|残酷《ざんこく》な切り札を使わせてもらおうか」ステイルは、不意に|上条《かみじよう》の方を見た。「ほら、言ってやれよ|今代《もヘヘ》のパートナー。|目《ヘへもへも》の前の|残骸《ざんがい》が抱えている、致命的な|欠陥《けつかん》ってヤツを」
「……、なに?」
アウレオルスは初めて上条の方を見た。――――――――,
今の|台詞《せりふ》の、どこの部分が[#「どこの部分が」に傍点]|癇《かん》に|障《さわ》ったのか。上条は判断がつかなかったが、
「お前[#「お前」に傍点]、 一体いつの話をしてんだよ[#「一体いつの話をしてんだよ」に傍点]?」
な、に―――と。今度こそ、アウレオルス=イザードは上条の顔を|凝視《ぎようし》した。
「そういう事さ。インデックスはとっくに救われてるんだ、君ではなく今代のパートナーによって[#「君ではなく今代のパートナーによって」に傍点]。君にはできなかった事を[#「君にはできなかった事を」に傍点]、そいつは成し遂げてしまったんだよ[#「そいつは成し遂げてしまったんだよ」に傍点]」ステイルは|心《もへたヘヘカもへ》底|残酷《ざんこく》な笑みを浮かべた。「ほんの一週間ほど前だったかな。ああ、君が分からないのも無理はないね。
何せ三年もあの子の|側《そば》を離れていたんだ、今の彼女が実はすでに救われてるだなんて情報、伝わるはずもない」
「|馬鹿《ばか》な……、」
「ああ、信じられない気持ちは分かるよ。何せ僕は直接それを見たのに|未《いま》だ信じられない。いや、信じたくない、かな。永遠にあの子はこっちを振り向かない[#「永遠にあの子はこっちを振り向かない」に傍点]。その事実を突きつけられたようなものなんだからね」
「馬鹿な、ありえん! 一体いかなる方法にて禁書目録を救う方法がある!?人の身で、それも|魔術師《まじゆつし》でもなければ|錬金術師《れんきんじゆつし》でもない人間に何ができると言うのだ!」
「それについては|必要悪の教会《ネセサリウス》……いやイギリス清教そのものの|沽券《こけん》に|関《かか》わるから|黙秘《もくひ》するけど、そうだね」ステイルは、残酷に煙を吐いて、「そいつの右手は|幻想殺し《イマジンブレイカー》と言う。簡単に言えば、人の身に余る能力の持ち主だって言うのさ」
|愕然《がくぜん》と。
それまであった冷静は何だったのかと思わせる表情で、錬金術師は上条を見る。
「……、待て。それでは」
「ああ、ご苦労様。君、ローマ正教を裏切って三年間も地下に|潜《もぐ》っていたらしいけど、全くの|無駄骨《むだぼね》だよ。いや、努力が|報《むく》われなかった痛みは分かるが気にするな。今のあの子は君が望んだ通り[#「君が望んだ通り」に傍点]、パートナーと一緒にいてとても幸せそうだよ[#「パートナーと一緒にいてとても幸せそうだよ」に傍点]?」
「―――――、は」
その一言は、決定的だった。
アウレオルス=イザードは、自分を支える|全《すべ》てを|破壊《はかい》されたように|狂笑《きようしよう》する。
「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
……もうコイツは戻れない。
旦鴛脚漠然と、だが確信を持ってそう思った。だが違う。鷹れた時計のような曜け再び光が戻る。鎌鎌篠舵の手前-大きな机の上で何かが動いている。一人の少女、眠らされたインデックスが、アウレオルスの巨大過ぎる狂笑に反応して、ぼんやりと目を覚ましたのだ。
壊れ終えて、沈み始めたアウレオルスの最後の|砦《とりで》。
インデックスは、うっすらと目を開ける。まるで細い糸を|手繰《たぐ》り寄せるように|繊細《せんさい》に、
「……、とうま?」
だが。その目はすぐ近くにいるアウレオルス=イザードなど見ていなかった。
どこに、いつから、|誰《だれ》に、どうやって連れて来られたかも分からない状況で。自分の体の様子さえも確かめず、気を失っていた間に何かされたかもしれないという不安さえ無視して。
彼女は笑っていた。とても幸せそうに目を細めていた。
ただ、自分の視界に上条|当麻《とうま》がいるだけで。
「――――――、ぁ」
上条は、思わず一歩後ろへ下がった。
インデックスの、その態度はとても|嬉《うれ》しい。世界の何よりも、ただ自分の事を見てくれる、まるで目を開けたばかりの子猫のような仕草には、何よりも替えがたいモノを感じる。
だけど、それは同時にとても鋭利で、冷たい。
インデックスの背後。かつて、確かに主人公だったはずの錬金術師は守るべき少女に完全に忘れられ、世界の終わりを直視したような顔で凍り付いていた。
上条は、この現実を直視できない。
アウレオルス=イザード。かつて主人公だった男。ローマ正教を裏切り、自らの信仰を捨てて錬金術師となり、それでもたった一人の少女を助けるために死力を尽くした男。
それでも、彼を待っていたのは|最悪の失敗《バツドエンド》だった。
それは、一歩間違えば上条当麻にも|襲《おそ》いかかったかもしれない結末だったのだ。
少女は世界中の誰からも好かれる純性の|聖女《ヒロイン》であり、
けれど、少女は|聖女《ヒロイン》であるが|故《ゆえ》に、世界でただ一人の主人公にしか好意を向けられない。
たったそれだけの、しかしどこまでも冷徹な純性がここに|牙《きば》を|剥《む》く。
『私は|完壁《かんぺき》なはずだ。どうしてそれほどの余裕がある、私に何か落ち度でもあるのか』
不意に、上条は自分が倒した|影武者《かげむしや》の言葉を思い出した。
あれは粗悪な劣化コピーではなかった。真実、アウレオルス=イザードという男の本質を映した鏡像そのものだったのだ。
「く、―――――――――」
もはや、アウレオルス=イザードは声すらも出なかった。
ただ笑い……硬直したように顔を|歪《ゆが》ませ、しゃっくりで|喉《のど》が詰まったように息が|洩《も》れる。
インデックスの頭上で、アウレオルスの腕が振り上げられた。
まるで断頭台の刃物が落ちるような構え。インデックスはそれでも|上条《かみじよう》から目を離さない。
それが余計に|錬金術師《れんきんじゆつし》の心を|災《あぶ》る。振り上げられた腕に力がこもる。
「インデックス……ッ!!」
上条はとっさにインデックスの元へ走ろうとする。|焦《あせ》りでどちらの足を動かすべきかも分からなくなる。錬金術師は狂いに笑う。今の上条の、いかにも主人公らしい姿を見て。
上条は右手を伸ばす。だが遠い。間に合わない。錬金術師の腕が、勢い良く
振り下ろされない[#「振り下ろされない」に傍点]。
上条は、思わず立ち止まっていた。
「う、―――――――」
ぶるぶる、と。アウレオルスは断頭台の刃のようにインデックスの頭上で腕を構えたまま。
「う、ぅぅうううううううううううううううッ!!」
それでも、動けなかった。
自分の|全《すべ》てを失い、かつての仲間|達《たち》を|攻撃《こうげき》してまで錬金術師になって、たった一人の少女を
助けようとして。そんな少女はすでに赤の他人に助けられ、あまつさえ少女のために全てを捨て去った男の方など|一瞬《いつしゆん》も視界に入れないような状況で。
この状況。上条だったら、それでもインデックスを信じ続ける事ができるだろうか?
裏切られたと。そう思わずにいられないだろうか?
それでも、アウレオルス=イザードはインデックスを傷つける事はできなかった。
それぐらい、錬金術師にとって禁書目録は大切な存在だったんだろう。
「……、」
上条は、動けない。
上条|当麻《とうま》に『思い出』はない。どうやら自分がインデックスを助けたらしい事は人づてに聞いているが、どうやって、どんな気持ちで助けたのかなんて分からない。 知らない間に人を助けて、知らない間に|信頼《しんらい》を勝ち取っていただけ。
改めて、この男を前にして、思う。果たして、自分はあの少女の信頼を独占するだけの権利
なんて、一体どこにあるのだろうか、と。
ギィン、と。刃物の音すら|錯覚《さつかく》させて、アウレオルスが|上条当麻《かみじようとうま》を|睨《にら》みつけた。
言葉一つで人をも殺す男。その視線が死線である事を知りながら、しかし上条は心のどこかでひどく|納得《なつとく》していた。アウレオルスの激情は収まった訳ではない。噴き出したい殺意はインデックスに向ける事もできず、行き場を失って暴れ回っているだけだ。
ならば、その|矛先《ほこさき》がまず最初に向けられるのは、一体どこか?
考えてみればひどく当然の事だし、それぐらいの事はとても自然な事に思えた。
「―――倒れ伏せ[#「倒れ伏せ」に傍点]、侵入者共[#「倒れ伏せ」に傍点]!」
|炸裂《さくれつ》する怒号。
|瞬間《しゆんかん》、上条は何十本もの見えない重力の手に全身を押さえつけられ、銃を奪われた銀行強
盗みたいに床に組み伏せられた。侵入者共、という言葉にはステイルも含まれるのか、視界の
|隅《すみ》で赤髪の|魔術師《まじゆつし》が同じく床に|叩《たた》きつけられるのが見えた。
「ご…ッ、が……!」
内臓を丸ごと絞られるような感覚に上条は必死に吐き気を押し殺す。ギリギリ、と。強力な
電磁石に|縛《しば》られたような右腕を、一ミリ単位で自分の胸元へと引き寄せる。とにかく右手で自
分の体に触れる。そうすれば|記憶《きおく》を取り戻した時と同じく自由を取り戻せるかもしれない。
「は、はは、あはははは! 簡単には殺さん[#「簡単には殺さん」に傍点]、じっくり私を楽しませろ[#「じっくり私を楽しませろ」に傍点]! 私は禁書目録に手をつけるつもりはないが[#「私は禁書目録に手をつけるつもりはないが」に傍点]、貴様で発散せねば自我を繋げる事も叶わんからな[#「貴様で発散せねば自我を繋げる事も叶わんからな」に傍点]!」
|錬金術師《れんきんじゆつしふ》は|懐《ところ》から髪の毛のように細い|鍼《はり》を取り出す。|震《ふる》える手でを|鍼《はり》を首筋に当てると、体内のスイッチを押し込むように|鍼《はり》を突き刺した。
アウレオルスは|皮膚《ひふ》に食いつく毒虫を払うように、|鍼《はり》を横合いへ投げ捨てた。
まるでそれが|攻撃《こうげき》開始の引き金の|如《ごと》く、アウレオルスは上条を睨み、
「待って」
そこへ、|姫神秋沙《ひめがみあいさ》が立ち|塞《ふさ》がった。
かつて、上条の|盾《たて》になった時と全く同じ立ち位置。だが決定的に状況が違う。アウレオルスが|固執《こしつ》していたのは、姫神秋沙ではなく吸血殺しだ[#「姫神秋沙ではなく吸血殺しだ」に傍点]。『目的』であるインデックスが手に入らなくなった以上、単なる『手段』に気を配る必要などどこにもない――――ッ!
「ひめ、――――」
だが、上条は言えなかった。
姫神の背中は、本気で心配していた。上条の事はもちろん、|崩《くず》れつつあるアウレオルスの事も。決定的に終わってしまう前に、どうにか立て直さなければならないと無言で語っていた。
その背中に、そんな|残酷《ざんこく》な真実を告げられるはずがない。
「邪魔だ[#「邪魔だ」に傍点]、女[#「女」に傍点]―――――」
だが、それこそが失敗。
|上条《かみじよう》は銃口のようなアウレオルスの両眼を見た。本気の|眼《め》だった。|慌《あわ》てて右手を動かす。いや、動かそうとする。止めなければ確実に|姫神《ひめがみ》は巻き込まれる。じりじりと、一ミリ一ミリ床に張り付いた右手を|強引《こういん》に引き寄せて、顔の前まで|手繰《たぐ》り寄せる。己の人差し指を|喰《く》らうように、己の歯で必殺の右手に触れる。
バギン、と全身の骨を砕くような音と共に体の自由が戻る。チャンスだ、上条は起き上がる。
あとは姫神を突き飛ばし、アウレオルスを|黙《だま》らせれ
「――――死ね[#「死ね」に傍点]」
その|瞬間《しゆんかん》。アウレオルス=イザードの言葉は確かに時間を止めていた。
|刺殺《しさつ》。|絞殺《こうさつ》。|毒殺《どくさつ》。|射殺《しやさつ》、|斬殺《ざんさつ》、|撲殺《ぼくさつ》、|博殺《ばくさつ》|磔殺《たくさつ》|焼殺《しようさつ》|扼殺《やくさつ》|圧殺《あつさつ》|轢殺《れきさつ》|凍殺《とうさつ》|水殺《すいさつ》|爆殺《ばくさつ》。知りうる限りのあらゆる殺人法と照らし合わせても、姫神の死因は分からない。
傷はなく、出血もなく、病気ですらもありえない。
ただ、死ぬ。
まるで電池が切れたように。|魂《たましい》、なんてものが本当に存在するのなら、そっくり肉体から魂を抜き取られて抜け殻になったように。
姫神は、悲鳴すらあげなかった。
ぐらりと体が揺らぐ。後ろへ向かって、|仰向《あおむ》けに、つまりは上条に顔を見せるように姫神が倒れてくる。ゆっくりと。ゆっくりと。見えなかった姫神の顔が見えてくる。
姫神は[#「姫神は」に傍点]、くしゃくしゃに顔を歪めて笑っていた[#「くしゃくしゃに顔を歪めて笑っていた」に傍点]。
今にも泣き出しそうに、けれど決して涙を見せずに。それは突然の|驚《おどろ》きと|衝撃《しようげき》からくるものではない。あらかじめ覚悟していた、けれど変えられなかった結末に対する表情だ。
姫神|秋沙《あいさ》は、アウレオルスの前に立てばこうなる事を始めから分かっていた。
それでも、|一縷《いちる》に満たない最後の希望にすがって、アウレオルスを止めようとした。
|誰《だれ》にも求められず、最後までモノのように扱われた一人の少女。
|錬金術師《れんきんじゆつし》が主人公になれなかったのと同じく、最後までヒロインになれないまま、人型の背景を取り除くようにあっさりと死に|逝《ゆ》く事が決定した『|吸血殺し《デイープブラツド》』姫神秋沙。
そんなものを。黙って見ている事など、できるはずがなかった。
(ふざ―――――)
上条は、もはや錬金術師の事など視界に入れず、とにかく今にも倒れようとしている姫神秋沙へと飛びかかった。何の理由もない。とにかく彼女がこのまま床に倒れたら、『死』という|魔術《まじゆつ》は、もう変えられようのない現実へと決定してしまうような気がしたからだ。
「――――――っけんじゃねえぞ、テメェ!!」
|姫神《ひめがみ》が|崩《くず》れ落ちる寸前、その体をどうにか両手で抱きかかえる事ができた。姫神の体はひどく軽い。まるで大事なものが、体の中から抜け落ちてしまったかのように。
腕の中の、奇妙なほど柔らかい少女の体。
だが、弱々しいが確かに鼓動が伝わる。抱き止めた右手を伝って[#「抱き止めた右手を伝って」に傍点]。
「な……我が金色の練成を[#「我が金色の練成を」に傍点]、右手で打ち消しただと[#「右手で打ち消しただと」に傍点]?」|錬金術師《れんきんじゆつし》の目が凍る。「ありえん、確かに姫神秋沙の死は確定した[#「確かに姫神秋沙の死は確定した」に傍点]。その右手[#「その右手」に傍点]、聖域の秘術でも内包するか[#「聖域の秘術でも内包するか」に傍点]!」
「……、」
|上条《かみじよう》は答えない。
もういい。そんな理屈はどうでもいい。単なる偶然、奪われた|記憶《きおく》を取り戻した時と同じく、
『死ね[#「死ね」に傍点]』という命令を右手で打ち殺しただけ[#「という命令を右手で打ち殺しただけ」に傍点]の話なんて、本当にどうでも良い。
上条は、目の前の男が許せない。
同情もした。共感もした。インデックスに忘れ去られ、それでも大切な彼女を傷つけられな
かったその姿を見た時は、この男を前に|拳《こぶし》を握る理由さえ見失ってしまったような気がした。
だけど、今はもうありえない。
たとえ一番大切な人に目の前で裏切られても、一番大切な人を|他《ほか》の人間に奪われる|瞬間《しゆんかん》を|目《ま》の当たりにしても。行き場のない、自分を責める事すらできない怒りに|苛《さいな》まれても。
自分の事を、本当に大切に|想《おも》ってくれた人に対して、
その怒りを押し付けて、一人満足しようだなんて思考回路は、絶対に認められない。
上条は、『記憶を失う前の』上条|当麻《とうま》の事が何 つ分からない。
どんな思い出を持ち、どんな過去を歩み、どんな想いと共に未来へ進もうとしたのか。何が好きで、何が嫌いで、一体何を守ってきて、全体何を|護《まも》っていこうと思っていたのか。
だけど、これだけは言える。
目の前の錬金術師。|否《いな》、この『人間』を―――『上条当麻』は認める訳にはいかない。
バラバラだった二人の上条当麻[#「バラバラだった二人の上条当麻」に傍点]は、ここにきてようやく一つにまとまった。
「いいぜ、アウレオルス=イザード。テメェが何でも自分の思い通りにできるってならーし
上条当麻は腕の中の姫神|秋沙《あいさ》を、ゆっくりと床へ下ろす。そして立ち上がる。無音に、けれど触れればそれだけで静電気が|弾《はじ》けそうなほどの怒りを隠しもせずに、
「――――まずは、そのふざけた幻想をぶち殺す……ッ!!」
他ならぬ、『|幻想殺し《イマジンブレイカー》』上条当麻の声で、言った。
[#改ページ]
行間 二
―――だから、|魔法使《まほうつか》いになりたかった。
今から一〇年前の話だ。ある日のある夜、京都の山村は吸血鬼に|襲《おそ》われた。それは何の前触れもなく突然で、何の|脈絡《みやくらく》もなく突発だった。
警察署すら必要ないほどに|平穏《へいおん》だった小さな村は、一夜にして|地獄《じごく》之化した。吸血鬼を|撃退《げきたい》しようと挑んだ若者は次々と|葬《ほうむ》られ、残された村人は一つの建物に集まり、恐怖に耐え切れず村の外へ逃げ出そうとした者はそのまま帰らず、しまいには誰が人間で誰が吸血鬼なのかも分からなくなり、結束するべき仲間|達《たち》は互いが互いを殺し合う|泥沼《どうぬま》の状態に|陥《おちい》っていく。
夜が明ける前に村人は、死体か吸血鬼かの二種類しか存在しなくなった。
ならば、こうして一人生き残った自分は一体何なんだろう? と少女は幼心に思った。周囲にはぐるりと吸血鬼。夕方にばいばいを言ったばっかりの見慣れたおじさんおばさん達。
暗くなったから早く帰りなさい、と言った|八百屋《やおや》のおじさんが首筋に|噛《か》み付いてきた。
―――噛んだ|瞬間《しゆんかん》、吸血鬼は灰に|還《かえ》る。
また明日遊ぼうね、と言ったゆずかちゃんが首筋に噛み付いてきた。
―――噛んだ瞬問、吸血鬼は灰に還る。
早く逃げなさい、と少女を突き飛ばした母親が首筋に噛み付いてきた。
―――噛んだ瞬間、吸血鬼は灰に還る。
その内に、みんな気づき始めた。少女の首を噛めば、|逆襲《ぎやくしゆう》とばかりに吸血鬼は消滅させられ
る。そこに少女の意思はない。まるで少女の血が|硫酸《りゆうさん》になったように、口に含んだだけで吸血鬼は溶けて消えてしまうのだ。
それでも、みんな噛み付く事をやめなかった。
次々と灰になって形を失い風に飛ばされる村人達を、少女は|黙《だま》って見つめていた。
だって、言えるはずがない。
「ごめんなさい[#「ごめんなさい」に傍点]」
吸血鬼は、口々にそう言っていたから。
ある者は化け物になりたくないと言って、ある者は|誰《だれ》かを自分と同じ化け物にしたくないと言って。たった一つ、灰に還る事こそが、自分達の救いであると信じ続けて。
吸血鬼は灰に還る。
ごめんなさいと。あなた一人に罪を背負わせてごめんなさいと。最後まで泣き続けて。最後の最後まで笑顔を浮かべる事もできず。終わりの終わりまで救われないまま。
気がつけば、村は灰の|吹雪《ふぶき》で|覆《おお》われていた。
村は平和。|誰《だれ》もいないから平和。|元凶《げんきょう》であるはずの、村に迷い込んだ吸血鬼さえ存在しない。
一体いつの間に|噛《か》まれたか知らないが、良く分からない問に灰に|還《かえ》ったらしい。
何となく、少女は分かっていた。
村を襲った吸血鬼にしたって[#「吸血鬼にしたって」に傍点]、被害者だという事に[#「被害者だという事に」に傍点]。きっと、自分|達《たち》を|一撃《いちげき》で殺す力を持つ少女が、その吸血鬼はとても|恐《こわ》かったんだと思う。毎日毎日|震《ふる》えて、もうどうしようもなくて、殺すしかないと思うほど追い詰められて、けれど少女を殺すほどの力もなくて。
悩みに悩んだ結果、村人全員を吸血鬼にする事で戦力を整えようとして、
けれど、それすらも少女の力は簡単に全滅させた。
だから、|魔法使《まほうつか》いになりたかった。
救われない者さえも救ってみせて、見捨てられた者すら守ってみせて。被害者も犯人も、すでに死んでしまった人すらも|地獄《じごく》の底から引きずり上げる事ができるような、ルール無用で常識外れの絵本に出てくるような魔法使いに。
絶対に。何を言われても。ずっと思っていた。魔法使いになりたいと。ただそれだけを思い、そして|錬金術師《れんきんじゆつし》と出会った時、少女は|叶《かな》うはずのない夢がいきなり身近な進路のように思えてドギマギした。その日は眠れないほど|緊張《きんちよう》した。居心地の悪くない緊張だった。
そうして、今。少女の前には一人の錬金術師がいる。
「邪魔だ[#「邪魔だ」に傍点]、女[#「女」に傍点]――――」
彼女の目指していたはずのユメは、|唇《くちびる》の端を|残酷《ざんこく》に|歪《ゆが》めてこう言った。
「―――――死ね[#「死ね」に傍点]」
その|瞬間《しゆんかん》、何を思ったか分からない。少女の意識は保たない。自分が何を考えているかも分
からないまま、意識は深い|闇《やみ》に引きずり落とされていく。
だが、その寸前。
「―――――っけんじゃねえぞ、テメェ!!」
一人の少年の叫び声が聞こえたような気がした。
魔術師でもなければ錬金術師でもない、本当にただの人間でしかないはずの、少年。
少年は本当に怒っていた。
錬金術師の行いに、ではなく[#「ではなく」に傍点]、少女がこのまま死んでしまう事に対して。
その姿が、何だかとても|眩《まぶ》しく思えた。
|何故《なぜ》か、そこに決して|辿《たど》り着けないはずのユメがあるような、そんな気がした。
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第四章 殺しの七並べ Deadly_Sins.
色あせた、しかし確かに広大な空間に立つのは二人。
「……、」
|上条《かみじよう》は足元で|微《かす》かな息を繰り返す|姫神《ひめがみ》に視線を向けない。向けられない。そんな|暇《ひま》はない。彼女は全力をもって、死を|賭《と》してまで引き止めたい|誰《だれ》かがいた。一秒でも彼女の事を思うなら、|一瞬《いつしゆん》でも早く止めるべき人間が上条の視線の先にいる。
直線距離にして一〇メートル強。
言葉一つで思い通りに世界を|歪《ゆが》める男を前に、その距離は絶望的とも言えるだろう。
「……、」
それでも上条は一歩前へ。
立ち止まる必要はなく、背を向ける必然もない。ただ巻き込まれたから|否応《いやおう》なく戦っているのではなく、上条は己の足で戦場へ向かっていた。
「……、」
|故《ゆえ》に、言葉はなく、合図もなく。
超能力者と|錬金術師《れんきんじゆつし》は、互いが互いを倒すために、|速《すみ》やかに|潰《つぶ》し合いを開始した。
「―――――しッ!」
上条は小さく|吐息《といき》を吐き、アウレオルスの元へ爆発的に駆けようとする。アウレオルスは何
もしない。ただ|懐《ふところ》にある細い|鍼《はり》を一つ、己の首に打ち込むだけだ。
両者の距離は一〇メートル、気合を入れれば四歩で踏破可能な踏み込みは、
「―――窒息せよ[#「窒息せよ」に傍点]」
しかし、上条が最初の」歩を踏み出した所でいきなりガクンと勢いを失った。
ギリギリ、と。上条は己の首に|鋼鉄《こうてつ》の|綱《つな》でも巻きつけられたような苦痛に、思わず体をくの字に折り曲げる。毒薬を飲んで苦しむ人間のように、自分の右手で自分の首を押さえつける。
アウレオルスに失われた|記憶《きおく》はコレで|蘇《よみがえ》り、『死ね』と言われた姫神はコレで死を免れた。
しかし、上条の呼吸は元に戻らない。
まるで|喉《のど》の奥を瞬間接着剤で固められたように、呼吸ができない。
(落ち着け……、落ち着けッ)
上条はヒューヒューと|不明瞭《ふめいりよう》な音を立てる己の喉から、食い込んだ右手の指を離す。
(アイツはなんて言った? ロープで首が絞まる……じゃない[#「じゃない」に傍点]。もっと|曖昧《あいまい》に、もっと単純に、息が詰まって[#「息が詰まって」に傍点]死ねって言ってんじゃねーか……ッ!)
そうして、一度は離した右手の指を、|上条《かみじよう》は|強引《こういん》に口の中へと|潜《もぐ》り込ませた。まるで食べた
物を胃袋から吐き出そうという動き。|喉《のど》の奥に指先が当たり、吐き気が背筋を走り抜けると同
時、バギンとガラスが割れるような音と共に上条の呼吸が元に戻った。
この間、わずか五秒。
しかし、言葉一つを武器にするアウレオルスにとってはまだまだ遊びを含む五秒間。
アウレオルスは首に突き立った、髪の毛のように細い|鍼《はり》をつまらなそうに捨て、
「感電死[#「感電死」に傍点]」
|錬金術師《れんきんじゆつし》が|呟《つぶや》いた|瞬間《しゆんかん》、上条の四方八方を青白い電光が取り囲んだ。
上条の背筋が凍る前に、空気を焼く電光の|渦《うず》は我先にと上条へ殺到する。
(……ッ!?)
とっさに右手を突き出したのは計算しての事ではない。
だが、|唯一突《ゆいいつ》き出された右手の先を|避雷針《ひらいしん》にするように、電光は集中した。右手に触れた電
光は猛毒に触れた|蛇《へび》のように宙をのた打ち回り、けれど静かに消えていく。
(消せる……、)
だが、上条は|緊張《きんちよう》よりも高揚によって心臓の|鼓動《こどう》を高めていた。
反して錬金術師の両目がわずかに細まる。髪のように細い|鍼《はり》をさらに一本、首筋に打ち込む。
「絞殺[#「絞殺」に傍点]、及び圧殺[#「及び圧殺」に傍点]」
水面のように波打つ床から何十本ものロープが飛び出した。一瞬で上条の首をがんじがらめに|縛《しば》り付けると同時、同じく波打つ|天井《てんじよう》から|錆《さ》びた廃車が降ってくる。
(消せる……ッ↓
だが、上条が右手を振り回すだけで首を締めるロープは水に|濡《ぬ》れた紙の帯のように|千切《ちぎ》れ、頭上に降り注ぐ錆びた|鋼鉄《こうてつ》の|塊《かたまり》は砂糖細工のように砕けて|虚空《こくう》へ消えてしまう。
アウレオルスは首筋に毒虫でも|這《ま》われたように、首の|鍼《はり》を投げ捨てた。
(消せる、できる。コイツの|攻撃《こうげき》は右手で|回避《かいひ》できる。言葉一つで命令するなら、逆に言えば一度に来る攻撃も一回ずつしかない。冷静に対処すれば|恐《こわ》い敵じゃねえ!)
『言葉』による命令を攻撃方法とするアウレオルスは、逆に言えば言葉を聞いて攻撃を先読みする事もできる。カルタの早取りと同じだ。『感電死』なら、『かんで』の三文字ぐらいで何の攻撃がやってくるか察知する事ができる。
時間にして一秒にも満たない余裕。
けれど、元々|殴《なぐ》り合いに一秒の余裕などない。ボクシングなら|拳《こぶし》は〇・三秒で飛来する。一発一発の|威力《いりよく》は絶大であるものの、アウレオルスの攻撃速度は入間の拳と大差ない。
分かってしまえば『正体不明』に対する恐怖は|拭《ぬぐ》い去れる。ようは、ガキのケンカにナイフを持ち出す場違いな不良と|殴《なぐ》り合うのと同じ事なのだ。
アウレオルスも|上条《かみじよう》の表情にある余裕を感じ取ったのか、わずかに|眉《まゆ》をひそめ、
「なるほど。真説その右手、私の|黄金練成《アルス=マグナ》も例の外に|洩《も》れず打ち消すらしい」
上条は、余裕を|崩《くず》さない|錬金術師《れんきんじゆつし》の言葉にわずかな疑念を抱き、
「ならばこそ、右手で触れられぬ攻撃なら打ち消す事は不可能なのだな[#「右手で触れられぬ攻撃なら打ち消す事は不可能なのだな」に傍点]?」
上条は、今度こそアウレオルス=イザードの言葉に凍りつくかと思った。
「銃をこの手に[#「銃をこの手に」に傍点]。弾丸は魔弾[#「弾丸は魔弾」に傍点]。用途は射出[#「用途は射出」に傍点]。数は一つで十二分[#「数は一つで十二分」に傍点]」
錬金術師は楽しげに細い鍼を己の首筋へ突き立てる。
アウレオルスが軽く右手を横へ振った|瞬間《しゆんかん》、その手に 振りの剣が握られていた。
一見して絵本に出てくる王子様の持つ|西洋剣《レイピア》――に見えるが、違う。剣の|鍔《つば》に、大昔の|海賊《かいぞく》が使っていたようなフリントロック銃が埋め込まれた暗器銃だ。
何かが来る[#「何かが来る」に傍点]―――上条は思わず全身に緊張をみなぎらせ[#「上条は思わず全身に緊張をみなぎらせ」に傍点]、
「人間の動体視力を超える速度にて[#「人間の動体視力を超える速度にて」に傍点]、射出を開始せよ[#「射出を開始せよ」に傍点]」
空を裂くようにアウレオルスが|西洋剣《レイピア》を横に|一閃《いつせん》する――そう思った瞬間、火薬の破裂する爆発音が|響《ひび》く。一瞬遅れて上条の|頬《ぽお》を何かが浅く切り、次いで背後の壁に青白く輝く|魔弾《まだん》がぶち当たり、火花を散らす|轟音《ごうおん》が|炸裂《さくれつ》する。
「……、!」
簡単な話。剣に仕込んだ銃の引き金を引いた。それだけだ。だが、人間の眼球に飛来する魔弾を捉えるほどの性能を期待するのは|酷《こく》だろう。上条は、右手を構えたまま凍りついていた。|鉛《なまウ》の弾は容易に|破壊力《はかいりよく》が想像できる分、下手な超能力や魔術より全身に|緊張《きんちよう》を走らせる。
|影武者《かげむしや》の使った|瞬間錬金《リメン=マグナ》どころの速度ではない。
魔術や超能力以前の問題として、魔弾は人体には|避《さ》ける事も防ぐ事もできない『必殺』だ。
アウレオルスは満足そうな顔で首に突き立った鍼を投げ捨て、
「先の手順を量産せよ[#「先の手順を量産せよ」に傍点]。一〇の暗器銃にて連続射出の用意[#「一〇の暗器銃にて連続射出の用意」に傍点]」
|唇《くちびる》に言葉を載せた瞬間、アウレオルスの左右二本の手には、それぞれ五丁ずつ計一〇丁もの剣の仕込み銃が、まるで|鋼《はがね》の扇のように広げて握られていた。
アレが射出されたら最後、上条|当麻《と つま》は絶対に避ける事も防ぐ事もできない。
(逃、げ……ッ!)
|故《ゆえ》に、上条は射出される前に|回避《かいひ》しようとした。|無駄《むだ》な|足掻《あが》きと認識しながらも、とっさに横合いに転がろうとして、
ふと思った。
上条の背後―――――すぐ足元にはかろうじて息をする|姫神《ひめがみ》が、ずっと後ろの|壁際《かべぎわ》には倒れて身動きの取れないステイルがいる。
「|馬鹿《ばか》が! 何を立ち止まって―――ッ!」
ギョッとしたステイルの叫び声と、
「準備は万端[#「準備は万端」に傍点]。一〇の暗器銃[#「一〇の暗器銃」に傍点]。同時射出を開始せよ[#「同時射出を開始せよ」に傍点]」
アウレオルスの声と、一〇の青く輝く|魔弾《まだん》が|上条《かみじよう》の全身に|直撃《ちよくげき》するのは同時だった。
上条の総身を|叩《たた》く、|鉄拳《てつけん》じみた一〇の|衝撃《しようげき》。
飛んでくる、などという表現は許されない。目に見えない高速|狙撃《そげき》など、コマ落ちした映画のフィルムのようにしか感じ取れない。
「ごっ……がっ……!?」
魔弾に人を殺すほどの|威力《いりよく》がなかったのが|唯一《ゆいいつ》の救いだろう。上条は低速の古式弾に全身を|殴打《おうだ》される形で、血の尾を引きながらそのまま背後へと吹き飛ばされた。まるで|跳《は》ね飛ぶゴムボールのような動きで床を転がり、どん、と何かにぶつかって体が停止する。見れば、ステイルの体だった。直線距離で七メートル近くも吹き飛ばされたらしい。
全身の肉が|潰《つぶ》れ骨が砕けたかと思ったが、激痛のみで動かない部位はないと思う。
運が良いとは思わない。|錬金術師《れんきんじゆつし》は告げていた、『簡単には殺さない[#「簡単には殺さない」に傍点]』と。
「……チッ。何だそれは? 先の|記憶《きおく》の操作や一連の攻撃を見る限り、本当に言葉一つで思いの通りに現実を|歪《ゆが》めているみたいじゃないか」
だが、アウレオルスの言葉に|被《かぶ》せるようにステイルが先に言った。
注意を逸らされた錬金術師は床に倒れ伏すステイルの方へ注意を向ける。
「ふん。|黄金練成《アルス=マグナ》など錬金術の到達点にすぎん。確かにその到達は困難を|極《きわ》めるとされているが、到達点である以上は道を進んでいけば自然と|辿《たど》り着けるのは道理だろう」
「|馬鹿《ばか》な。|黄金練成《アルス=マグナ》は理論は完成しても|呪文《じゆもん》が長すぎて、一〇〇や二〇〇の年月で完成させられるはずもない。呪文はこれ以上短くする事はできないし、親から子へ、子から孫へと作業を分担しても伝言ゲームの要領で|儀式《ぎしき》が歪んでしまうはずだ……ッ!」
ステイルは言いながら、チラリと上条に視線を送った。
上条は|頷《うなず》いた。分かっている。アウレオルスが『言葉一つで、思い通りに』攻撃を行うというなら、注意を逸らして『攻撃しよう』という考えを|薄《うす》れさせれば安全になる。
ステイルはアウレオルスの注意を引きながら、暗にこう言っていた。
このわずかな時間|稼《かせ》ぎの間で、どうにか打算を働かせろ。
「意外に、気づかんものだな」アウレオルスは気づかない。「ふん。一〇〇や二〇〇の年月では儀式を完成できない―――確かに一人で行えばな[#「確かに一人で行えばな」に傍点]。親から子へ、子から孫へと作業を分担すれば伝言ゲームのように儀式が歪む―――道理だが、何も一子相伝にする必要もあるまい[#「何も一子相伝にする必要もあるまい」に傍点]」
「……、何だと?」
ステイルが|眉《まゆ》をひそめると、インデックスが|忌《いまいま》々しそうに言った。
「『グレゴリオの聖歌隊』だよ。二〇〇〇人もの人間を直接操って[#「直接操って」に傍点]|呪文《じゆもん》を唱えさせれば、作業の速度は単純に二〇〇〇倍。―――仮に四〇〇年かかる|儀式《ぎしき》だったとしても、これならわずか七〇日程度で完成させられるもん」
直列ではなく、並列演算。
|上条《かみじよう》はインデックスの顔を見た。彼女が言っているのは、頭の中にある一〇万三〇〇〇冊の知識……とも思ったが違う。そもそも|誰《だれ》も完成させた事のない|黄金練成《アルス=マグナ》なら、その答えが書かれた本が存在するはずがない。彼女は既存の知識を掛け合わせ自分の頭で組み立てたのだ。
「実際には、呪文と呪文をぶつける事で、さらに相乗効果を|狙《ねら》ったがな。わずか一二〇倍程度の追加速度では成功とは言いがたい」
上条は散り散りになる意識を無理矢理にかき集め、周囲を見回す。
体は動く。アウレオルスとの距離だって一七メートル―――それほど遠くもない。どうにかアウレオルスの|攻撃《こうげき》を|避《さ》けられれば、すぐにでも突撃する事ができるはずだ。一二〇倍……わずか半日で済ませたのか?」ステイルの言葉は、どこか演技が|拭《ぬぐ》い去られたような気がした。「だが、ここは異能者|達《たち》の集まりのはずだ。『グレゴリオの聖歌隊』などを使えば回路の違うヤツらは体を爆砕して果てるはずだ!」
上条はさらに周囲を見回す。周囲に武器になりそうなものは何もない。上条は自分のボケットを探った。武器にはならないものの、そこには冷たく硬い感触がある。
二撃。
アウレオルスの『言葉』を二回防げれば、何とか|懐《ふところ》へ飛び込める距離かもしれない。
「だから、|何故《なぜ》気づかんのだ」アウレオルスは口の端を|歪《ゆが》め、「壊れたものなら[#「壊れたものなら」に傍点]、直せば良いだけの話だろう[#「直せば良いだけの話だろう」に傍点]? ちょうど、あの|壊《こわ》れたビルを直した時と同じように」
|瞬間《しゆんかん》、上条はビクリと動きを止めてアウレオルスを見た。
|錬金術師《れんきんじゆつしル》は大して興味もなさそうに、
「ああ、伝えていなかったか。あの生徒達、何も死んだのは今日が初めてではない[#「何も死んだのは今日が初めてではない」に傍点]」
「て、めえ――――」
上条の思考に、|灼熱《しやくねつ》する空白が生まれた。
アウレオルスは上条に視線を移しながら、首筋に|鍼《はり》を突き立てる。
「そうだ、私とて自らの罪悪に気づかんほど|愚《おろ》かではない。……ああそうだ、私は自ら失敗し
た。それでも救いたい人間が確かに存在すると信じ続けて。その結末が、よもやこのようなも
のとは想像もつかなんだがな!」
アウレオルスは身の内の毒を|掻《か》き出すように突ぎ立てた|鍼《はり》を投げ捨てた。
「テメェ!!」
だが、アウレオルスが『言葉』を|紡《つむ》ぐ前に上条が立ち上がった。 |上条《かみじよう》はポケットの中の硬い感触を確かめる。
アウレオルスは当然のように、立ち上がった上条を|叩《たた》き|潰《つぶ》そうと『言葉』を出そうとするが、それより先に上条はポケットの中にあった携帯電話を思いっきりアウレオルスへ投げつけた。
「……な?」
アウレオルスが一|瞬《いつしゆん》、確かに戸惑った時には上条はすでに走り出している。
携帯電話なんかで|錬金術師《れんきんじゆつし》を必殺できるとは思わない。ようは相手の|懐《ふところ》へ飛び込むまでの、
ほんの小さな|隙《すき》を作れば良いだけの事。予想通り、アウレオルスの注意は携帯電話へ向かう。
「……、投擲を停止[#「投擲を停止」に傍点]。意味なき投石は地に落ちよ[#「意味なき投石は地に落ちよ」に傍点]」
そのわずかなタイムロス。その間に上条はすでに距離を半分にまで縮めている。あと|一撃《いちげき》。アウレオルスの攻撃をどうにか防ぐ事ができれば攻撃に転ずることも可能―――ッ!
「この手には再び暗器銃[#「この手には再び暗器銃」に傍点]。用途は射出[#「用途は射出」に傍点]。合図と共に準備を完遂せよ[#「合図と共に準備を完遂せよ」に傍点]」
だが、逆に言えばあと一撃がどうしても間に合わない[#「逆に言えばあと一撃がどうしても間に合わない」に傍点]。
アウレオルスは両手にある一〇の剣の仕込み銃を手放す。ガシャン、と。空の暗器銃が床に落ちると同時、その音を合図にするように再び錬金術師の手には仕込み銃が握られていた。
上条が|緊張《きんちよう》に顔の筋肉を引きつらせ、アウレオルスが決定的な一言を告げようとした瞬間、
「|魔女狩りの王《イノケンテイウス》!」
だが、ステイルの叫び声にアウレオルスはビクリと動きを止めた。
上条はギョッとしてステイルを見た。ありえない。アレは部屋中にルーンを刻んだカードをは|貼《は》り付けなければ使えない|代物《しろもの》だったと思うし、何より|魔女狩りの王《イノケンテイウス》はインデックスを守るために学生寮に張り込みさせているはずではなかったのか?
ハッタリだ。
一瞬でも上条の命を永らえさせるために使った、何の意味もないバッタリだ。
アウレオルスの銃口じみた眼光、その|矛先《ほこさき》がステイルへと転ずる。
「宙を舞え[#「宙を舞え」に傍点]、ロンドンの神父[#「ロンドンの神父」に傍点]」
まるで処刑の前準備のようにアウレオルスが|呟《つぶや》いた。言葉に応じ、まるで無重力のようにステイルの体が|天井《てんじよう》近くまで浮かび上がる。上条は思わず立ち止まる。|幻想殺し《イマジンブレイカー》を使えばアウレオルスの『命令』はキャンセルできるが、当然のようにステイルまでの距離が遠すぎる。
「|馬鹿者《ばかもの》!
今の君ならばアウレオルスを潰す事など訳もないだろうに[#「今の君ならばアウレオルスを潰す事など訳もないだろうに」に傍点]! ヤツの弱点はあの鍼だ[#「ヤツの弱点はあの鍼だ」に傍点]、医学の事なら君だって分か[#「医学の事なら君だって分か」に傍点]――――」
ステイルは、凍りついた上条を解凍するかのように思い切り叫んで、
アウレオルスは、そんなステイルを刃物のような視線で|睨《にら》みつけて、
「内から弾けよ[#「内から弾けよ」に傍点]、ルーンの魔術師[#「ルーンの魔術師」に傍点]」
ぼん、という音はむしろコミカルにさえ聞こえた。
宣言通り、ステイルの体は|一瞬《いつしゆん》、風船のように|膨《ふく》らんだ。直後に、内側から勢い良く爆発する。血と肉と骨と内臓と筋肉がバラバラと|撒《ま》き散らされる。
血肉の部品は一瞬にして|天井《てんじよう》へ届き、そこからドーム状に大きく広がっていった。まるでプラネタリウムのように広大な部屋を|覆《おお》う、|魔術師《まじゆつし》の血と肉を使った芸術がここにある。
「……っ!」
しかも、恐るべき事に血管は繋がっていた[#「繋がっていた」に傍点]。内臓は壊れていなかった[#「内臓は壊れていなかった」に傍点]。まるで電車の路線図のように。|剥《む》き出しの心臓から送られる血液は長く伸びた血管を通り、あちこちに点在する内臓に届いて、再び心臓へと|還《かえ》っていく。
まだ、死んでいない。
あんな姿になっても、ステイル=マグヌスという男は確かに生きていた。
バラバラ、と。
魔術師の持ち物だろうか、ルーン文字を刻んだカードが|桜吹雪《さくらふぶき》のように舞い散った。
ゴトリ、という音。
あまりの現実を前に、机の上でぼんやりしていたインデックスが気を失って倒れた音だった。
「――――、く。そ」
あまりの事態に|麻痺《まひ》しかけた思考を、|上条《かみじよう》は必死に動かす。|喉《のど》まで出かかった悲鳴を全力で押し殺す。ステイルは最後まで『助けて』とは言わなかった。あの男が、こうなる事が分かってまで上条に伝えたかった事。それを、考えない訳にはいかない。
『|馬鹿者《ばかもの》! 今の君ならばアウレオルスを潰す事など訳もないだろうに[#「今の君ならばアウレオルスを潰す事など訳もないだろうに」に傍点]! ヤツの弱点はあの鍼だ[#「ヤツの弱点はあの鍼だ」に傍点]、医学の事なら君だって分か[#「医学の事なら君だって分か」に傍点]――――』
上条はステイルの言葉を思い出す。
(|鍼《はり》……医学?)
そう言えば、アウレオルスはさっきから何かを探すようにせわしなく手を動かしている。何度も何度も首筋に刺していた|鍼《はり》。ステイルはその事を言っているのか?
能力開発に薬物をも使用する学園都市では、薬や医学に対する『知識』は常識外れな所があるらしい。まるで小テストに出てくる英単語のように『|鍼《はり》』の『知識』が|湧《わ》いてくる。
気功だの東洋の神秘だのを無視した、医学としての[#「医学としての」に傍点]|鍼《はり》治療とは、言ってしまえば神経を直接刺激する事で、|興奮《こうふん》作用を引き起こして痛みを軽くしたり内臓の機能を制御するといった|代物《しろもの》だ。|麻酔《ますい》もない時代には痛み止めとして、それこそ魔法のように重宝された事だろう。
(……だけど、それが何だってんだ?)
上条は心の中で首をひねる。実際、現代の手術に|鍼《はり》を使わない事から分かる通り、|鍼《はり》治療なんて人の体にそれほど劇的な効果は生まない。麻薬のように|身体《からだ》や精神のリミッターを解除する事もできない。せいぜい、神経を直接刺激するんだから|脳内麻薬《エンドルフイン》の分泌を促し、興奮状態にして不安を取り除くぐらいの効果しかないはず―――――――
――――――不安[#「不安」に傍点]?
「内容を変更[#「内容を変更」に傍点]。暗器銃による射撃を中止[#「暗器銃による射撃を中止」に傍点]。刀身をもって外敵の排除の用意[#「刀身をもって外敵の排除の用意」に傍点]」
走る事も忘れて|呆然《ぽうぜん》とステイルの成れ果てを眺めていた|上条《かみじよう》は、その一言でアウレオルスの
方を向き直った。死の眼光を放っていたはずの剣の仕込み銃が、|錬金術師《れんきんじゆつし》の手の中でくるくると回る。
それでも上条は一度|湧《わ》き起こった疑問から逃れる事ができない。一つ疑問が生まれてくると、それに引きずられるようにいくつもいくつも疑問が生まれてくる。
(そうだ、おかしい)
|姫神《ひめがみ》も、ステイルも。『死ね』や『|弾《はじ》けよ』の一言で殺された。何でもかんでも思い通りになるなら、|何故《なぜ》上条に『右手の力がなくなる』という簡単な命令を下さなかったのか?
(そうだ、何かがおかしい)
それに、何でもかんでも思い通りになるなら、何で吸血鬼や|吸血殺し《デイープブラツド》を必要とした? 何で
も思い通りに作れるなら、どうして自分の手で吸血鬼を作らなかったのか[#「どうして自分の手で吸血鬼を作らなかったのか」に傍点]?
(そうだ、何かが絶対におかしい―――ッ!)
|否《いな》。プウレオルス=イザードが本当に何でもかんでも思い通りにできるのならば[#「思い通りにできるのならば」に傍点]。
一体どうして[#「一体どうして」に傍点]、インデックスはアウレオルスの方を一度たりとも振り返らないのか[#「インデックスはアウレオルスの方を一度たりとも振り返らないのか」に傍点]?
アウレオルス=イザードの言葉通りに現実を|歪《ゆが》める、究極の|黄金練成《アルス=マグナ》。
ではなく[#「ではなく」に傍点]。
アウレオルスの思った通りに、現実が歪んでしまう[#「歪んでしまう」に傍点]|魔術《まじゆつ》だとしたら?
「ま、さか。そうか……」
ステイルは、『君ならばアウレオルスを倒す事も難しくない』と言った。
アウレオルスは知っていた。ステイル、インデックス、姫神。彼らとは知り合いだったからこそ、彼らの実力では何をやっても自分には|太刀打《たちう》ちできない事を知っていた。
だけど、上条だけは違う。上条だけは、今日ここで初めて出会った、実力不明の得体の知れない人間なのだ。
『な……我が金色の練成を[#「我が金色の練成を」に傍点]、右手で打ち消しただと[#「右手で打ち消しただと」に傍点]? ありえん、確かに姫神秋沙の死は確定した[#「確かに姫神秋沙の死は確定した」に傍点]。その右手[#「その右手」に傍点]、聖域の秘術でも内包するか[#「聖域の秘術でも内包するか」に傍点]!』
それを『不安』に感じないはずがない。
そして、何もかもが思い通りになる人間にとって、自分の中の『不安』とは。
「そういう、事だったのか―――――」
上条は|呆然《ばうぜん》と|呟《つぶや》いた。なんて事はない。分かってしまえば簡単だ。
だが、
「ふむ。貴様の過ぎた自信の源は[#「貴様の過ぎた自信の源は」に傍点]、その得体の知れない右手だったな[#「その得体の知れない右手だったな」に傍点]」
そんな|上条《かみじよう》を、アウレオルスは|懐《ふところ》から取り出した|鍼《はり》を首に突き刺しつつ、何の気なしに見て、「ならば[#「ならば」に傍点]、まずはその右腕を切断[#「まずはその右腕を切断」に傍点]。暗器銃[#「暗器銃」に傍点]、その刀身を旋回射出せよ[#「その刀身を旋回射出せよ」に傍点]」
音はなかった。
アウレオルスが右手を振った|瞬間《しゆんかん》、恐るべき速度で扇風機の羽のように回転して|襲《おそ》い来る剣の仕込み銃の残像を、上条はかろうじて捉えるのが精一杯だった。
『何か』が『飛んできた』などと描写する事は不可能。
一瞬前には|錬金術師《れんきんじゆつし》の手の中にあった剣の仕込み銃は、
一瞬後には上条|当麻《とうま》の腕を切断して背後の壁へとぶち当たっていた。
まるで熱したナイフでバターを切り取るように、上条の右腕が肩口から|綺麗《きれい》に切断された。
ひゅんひゅん、と回転しながら宙を舞う己の右腕。
痛覚はない。熱さもない。上条は|呆然《ばうぜん》と、ただ呆然と切り飛ばされた己の右腕を眺める。
(―――|俺《おれ》の腕を、切り落とした?)
ひゅんひゅん、と。宙を舞う己の腕を見ながら上条は、
(――何でも思い通りにできるくせに、この心臓を言葉一つで握り|潰《つぶ》す事もできるのに)
苦痛にも恐怖にも顔を|歪《ゆが》めず、ただ一つの疑問を浮かび上がらせ、
(――まずは、この右腕を切り落とす事を優先した?)
疑問を一つの意見になるまで|捏《こ》ね上げ、練り上げて、
(―――何でも思い通りにできるはずなのに)
何かを思い出したように、切断面から勢い良く鮮血が噴き出しτ、
(―――この右手に宿る[#「この右手に宿る」に傍点]『力[#「力」に傍点]』だけはどうしようもないから)
痛みはやはりなく、熱さもやはり感じられず、
(―――右腕ごと切断する[#「右腕ごと切断する」に傍点]、なんて方法を取らなければ幻想殺しを奪えなかった[#「なんて方法を取らなければ幻想殺しを奪えなかった」に傍点]?)
ひゅんひゅん、と回転する腕が、ぽとりと生肉を|叩《たた》きつけるような音と共に床へ落ちた。
瞬間、疑問から生じた意見は確信へと接続された。
やる事が分かれば後は簡単。
ブチリ、と。上条のこめかみでスイッチが切り替わる音が聞こえた。
「「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――――――ッ!!」
画像
その|瞬間《しゅんかん》、あまりに予想外の出来事にアウレオルスは思わず後ろへ一歩下がっていた。
右腕を切り飛ばされたはずの少年が笑っていた。
あまりの激痛や恐怖に気が違ったか、とも思うが、違う。それはただ勝利を確信しているだけの、正常な笑いに過ぎない。
だが、この極限状態にあって『正常』でいられる事こそが真性の『異常』。
(何だ、あれは……?)
アウレオルスは『恐怖』より前に『不快』を感じ取った。あの少年が何を考えているかは知らないが、勝負はとうに決している。ならばこれ以上の『不快』は余分だ。|速《すみ》やかに殺してしまおうと、首筋の|鍼《はり》を|苛立《いらだ》ち|紛《まぎ》れに抜き捨てた。
「暗器銃をこの手に[#「暗器銃をこの手に」に傍点]。弾丸は魔弾[#「弾丸は魔弾」に傍点]。数は一つで十二分[#「数は一つで十二分」に傍点]」
右手を振るう。言葉に応じて|虚空《こくう》からフリントロック銃を仕込んだ|西洋剣《レイピア》が生まれる。アウレオルスは己の|完壁《かんぺき》な術式に一度自己満足すると、続けて命令を下した。
「用途は破砕[#「用途は破砕」に傍点]。単発銃本来の目的に従い[#「単発銃本来の目的に従い」に傍点]、獲物の頭蓋を砕くために射出せよ[#「獲物の頭蓋を砕くために射出せよ」に傍点]」
アウレオルスは引き金を引く。火薬に押されて飛び出した|魔弾《まだん》は笑い続ける少年の眼球を|狙《ねら》っていた。いかに低速の古式弾とはいえ、眼球に当たればそのまま脳まで貫くはずだ。
それは人間に|避《さ》ける事のできる速度ではなく、人間に防ぐ事のできる|威力《いりよく》ではない。
少年は何もできず、ただトマトのように頭の中身をぶち|撒《ま》ける、
はずだった[#「はずだった」に傍点]。
「な……?」
アウレオルスは己の目を疑った。少年が何かをした訳ではない。正確に射出したはずの青い
|魔弾《まだん》が、どこをどう間違えたのか少年の顔の横を通り過ぎて背後の壁に激突した。
(目測を誤った? いや……、)
アウレオルスはもう一度命を告げる。
「先の手順を複製せよ[#「先の手順を複製せよ」に傍点]。用途は乱射[#「用途は乱射」に傍点]。一〇の暗器銃を一斉射撃せよ[#「一〇の暗器銃を一斉射撃せよ」に傍点]」
|虚空《こくう》から一〇の暗器銃を取り出し、花束じみた銃口から弾丸を放つアウレオルス。
だが[#「だが」に傍点]、
精密|狙撃《そげき》であるはずの一〇の魔弾は、そろいもそろって少年に|掠《かす》り傷一つ負わせられない。
(不発!! |馬鹿《ばか》な……っ!)
アウレオルスは|愕然《がくぜん》と見る。二度も必殺を逃れた少年を見る。
ばしゃばしゃと。切断された肩口から信じられない量の鮮血を噴き出す少年。その|飛沫《しぶき》は少年の|頬《ほお》にも浴びせられ、その顔が|斑《まだら》に染め上げられていく。
しかし、少年はそれでも笑っていた。
まるで切断された腕の断面から、今まで体の中に抱えていた|闇《やみ》が噴き出したように。
少年は何もしていない。ただ笑っているだけだ。
アウレオルスは三度に|亘《わた》って目の前の敵[#「敵」に傍点]を必殺するため、命を告げようとして、
(けれど、何の策もなく、ただ偶然で二度も|黄金練成《アルス=マグナ》を|避《さ》けられるのか?)
自分の疑念に、|錬金術師《れんきんじゆつし》はギクリと動きを止めた。
己の術式の|威力《いりよく》は自分が一番理解している。偶然で逃れられるほど易しい部類ではない。
(まさか[#「まさか」に傍点]、何かしているのか[#「何かしているのか」に傍点]? 私が勘付いていないだけで[#「私が勘付いていないだけで」に傍点]!)
心底楽しそうに笑う少年は、|唇《くちびる》についたソースを|舐《な》めるように舌を出した。
堕ちた吸血鬼でさえ[#「堕ちた吸血鬼でさえ」に傍点]行わぬ―――自らの血の味を楽しんでいるかのように。
(何だ、あれは……ッ!)
だからこそ、アウレオルスの胸の内には不安を生まずにはいられない。
(何だ、あれは? まだ戦えるのか? あの体で? 右腕もなく? ありえん、そんな可能性は|皆無《かいむ》。あれはもう捨て置いても出血多量で勝手に死に|逝《ゆ》く身。|大丈夫《だいじようぶ》だ、問題はない、問題はないはずだ、問題はないはずなのに――――ッ!)
そう[#「そう」に傍点]、『不安[#「不安」に傍点]』に思った瞬間[#「に思った瞬間」に傍点]。
右腕を失い、|全《すべ》ての力を失ったはずの少年は、しかし壮絶なままに何かを|呟《つぶや》いた。その顔は
笑っている。錬金術師を見て笑っている。
「く、あ。おのれ……我が黄金練成に逃げ道はなし[#「我が黄金練成に逃げ道はなし」に傍点]、断頭の刃を無数に配置[#「断頭の刃を無数に配置」に傍点]。速やかにその体を切断せよ[#「速やかにその体を切断せよ」に傍点]!」
言葉と共に、まるで水面を引き裂くように少年の頭上、|天井《てんじよう》からいくつもの巨大なギロチンの刃が生み出される。一つ一つが重量一〇〇キロに届く処刑の刃。重力の手に振り下ろされる巨大な刃に、けれど|上条《かみじよう》は笑いに笑ったまま|避《さ》けようとも防こうともしない。
(大丈夫だ[#「大丈夫だ」に傍点]、あれは避けられん[#「あれは避けられん」に傍点]。あれは必ず直撃する[#「あれは必ず直撃する」に傍点]。直撃すれば必殺は必然[#「直撃すれば必殺は必然」に傍点]。そう命じた[#「そう命じた」に傍点]、確かに命じた[#「確かに命じた」に傍点]、命じた命じた命じた[#「命じた命じた命じた」に傍点]! 故に問題ない[#「故に問題ない」に傍点]、問題ないなら案ずる必要もなし[#「問題ないなら案ずる必要もなし」に傍点]!)
アウレオルスは心の中で何度も繰り返す。何度も何度も繰り返す。思った事が、思った通りに進むならこれで必ずあの少年は死ぬ。死ぬはずだ。死ぬはずなのに、思えば思うほど『疑念』はどんどん|膨《ふく》らんでいく。まるで祈るような言葉の|全《すべ》てが、心底に眠る巨大な『不安』を押し隠すためのものだとでも言うように。
事実、アウレオルスの思い通りにいくつものギロチンの刃が上条の頭へ|直撃《ちよくげき》した。
今度こそ、確実に捕らえた。
なのに、ギロチンの刃は[#「ギロチンの刃は」に傍点]、まるで砂糖細工のように触れただけで粉々に砕け散った[#「まるで砂糖細工のように触れただけで粉々に砕け散った」に傍点]。
少年は笑っていた。
苦悩する|錬金術師《れんきんじゆつし》を見ながら|憐欄《れんびん》に、皮肉に、|慈愛《じあい》に|軽蔑《けいべつ》に|愉快《ゆかい》に楽しく|嘲《あざけ》るように。
少年は笑っていた。
すでにその攻撃の弱点は完全に見破ったと言わんばかりの表情で。
(く、そ。何たる……ッ!?)
もはや|遠慮《えんりよ》は無用。アウレオルスは刺突するかのように鋭利な眼光を上条へ突きつけ、
「直接死ね[#「直接死ね」に傍点]、しょうね[#「しょうね」に傍点]――――ッ」
―――――――ん[#「ん」に傍点]、と叫ぼうとした所で、ノイズのような心の声が|滑《すべ》り込んできた。
(けれど[#「けれど」に傍点]。そんな言葉一つで本当に殺す事ができるのか[#「そんな言葉一つで本当に殺す事ができるのか」に傍点]?)
|震《ふる》える手で|鍼《はり》を取り出そうとしたが、|懐《ふところ》にあった無数のそれはバラバラと床へ落ちた。
だが、錬金術師は気にしていられない。
アウレオルス=イザードはゾッとするように上条を見た。鋭利なはずの眼光はいつの間にか|錆《さ》びて刃こぼれしていた。足が、思ってもいないのに不思議と後ろへ一歩下がっていく。|靴底《くつぞこ》が何かを踏み|潰《つぶ》した。床に散らばった無数の|鍼《はり》が折れていた。
何でも思い通りに現実を|歪《ゆが》める|黄金練成《アルス=マグナ》。
けれど、それは逆に言えば、アウレオルス自身が『これには|敵《かな》わない』『これは倒せない』と思ってしまったら、それさえも現実にしてしまう諸刃の剣[#「それさえも現実にしてしまう諸刃の剣」に傍点]。
吸血鬼や|吸血殺し《デイープブラツド》を『思い通りに』作らなかったのはそのためだ。簡単な話、『そんなものは
作れない』と心のどこかで思ってしまったために、作成する事ができなかったのだ。
アウレオルスの『言葉』は、イメージするなら弾丸だ。
心の中で『思っただけ』では様々な雑念が混じる。それでは『命令』は一定しないし自滅の
恐れもある。だから自分の口で『言葉』に出す事で、自らのイメージを固定化した弾丸に変えて|撃《へつ》ち出す。英単語の暗記をする際、口に出して覚えるのと原理は同じだ。
彼の|黄金練成《アルス=マグナ》は本来、『言葉通り』でなく『思い通り』に現実を|歪《ゆが》める|魔術《まじゆつ》なのだ。
だが、ここにきてアウレオルス=イザードは『言葉』の制御を誤った。
『言葉』に出して固定化する前の、漠然とした『想像』が勝手に具現化している。それは持ち主の意に従わず、独りでに暴発する|拳銃《けんじゆう》と何ら変わりはない。
こんな事態になった時のために、アウレオルスは一つの非常手段を用意していたのだが、
(くそっ、|鍼《はり》は……あの治療|鍼《ばり》は? |何故《なぜ》、床に取り落とした? こんな風にならないために、
『不安』を殺すために常用していたというのに! あれがなければ私は[#「あれがなければ私は」に傍点]―――)
アウレオルスは、ハッと息を|呑《の》んだ。
(あれがなければ[#「あれがなければ」に傍点]、何だ[#「何だ」に傍点]? 停止[#「停止」に傍点]、やめろ[#「やめろ」に傍点]、それ以上は考えるな[#「それ以上は考えるな」に傍点]。それは取り返しがつかん[#「それは取り返しがつかん」に傍点]、それを思考しては[#「それを思考しては」に傍点]――――ッ!)
|避《さ》ければ避けようとするほどに思考は深みにはまっていく。それが分かっているのにアウレオルスは思考を止める事ができない。止めれば認めた事になる。一度転がり始めた雪だるまのように、アウレオルスの『疑念』は際限を失い目的を|喪《うしな》っていく。
目の前の少年は語らない。
何も語らないまま、ただ|黙《だま》ってアウレオルスの元へと歩いてくる。
それが逆にアウレオルスを|焦《あせ》りのどん底に突き落とす。
この少年は止められない。どうやって止めて良いのか分からない。|故《ゆえ》に、アウレオルスは何もできない。ただ|案山子《かかし》のように突っ立って、少年の来訪を待つより|他《ほか》ない。
気がつけば、少年はもう目の前にいた。
インデックスの倒れた机を挟んで|対峙《たいじ》するこの情景は一体何の皮肉か。
そこまでしてなお、|錬金術師《れんきんじゆつし》は|蛇《へび》にでも|睨《にら》まれたように身動きが取れない。
(そうだ。ステイル、インデックス、|姫神秋沙《ひめがみあいさ》。その|全《すべ》ては顔見知りだった。|故《ゆえ》にその実力も理解し、|我《わ》が|黄金練成《アルス=マグナ》には|敵《かな》わんという事実を先に知っていた。だが、あの少年は何だ? あれは初対面だ、実力も分からなければ|黄金錬金《アルス=マグナ――》が通じるかどうかも――――ッ!)
「おい[#「おい」に傍点]」
突然少年が|呟《つぶや》いた声に、アウレオルスは説教される子供のようにビクリと肩を|震《ふる》わせた。
少年は言う。
「テメェ[#「テメェ」に傍点]。まさか右腕をぶち切った程度で[#「まさか右腕をぶち切った程度で」に傍点]、俺の幻想殺しを潰せるとか思ってたんじゃねえだろうなァ[#「俺の幻想殺しを潰せるとか思ってたんじゃねえだろうなァ」に傍点]?」
犬歯を|剥《む》き出しにし、|赤光《しやつこう》すら放つかと|錯覚《さつかく》するほどの眼光を見せて。
少年は、心底楽しそうに言った。
(な  待て  思うな 不安  まず    ――――――ッ)
アウレオルスは祈る事はできた。だが、思う事を止める事はできなかった。
|瞬間《しゆんかん》。
|上条《かみじよう》の右腕の切断面。そこから噴水のように噴き出す鮮血の流れに異常が起きた。ぞふり、と。まるで透明なガラスの彫刻に血を|撒《ま》き散らしたように、何か得体の知れない透明なモノが、そのカタチをゆっくりと表していく。
上条の右腕の断面から飛び出したのは、人間の腕などではなかった。
|顎《あぎと》。
大きさにしてニメートルを超すほどの、|檸猛《どうもう》にして|凶暴《きようぼう》、それ以前に伝説の中でしか見る事のできないような――――巨大に強大な、|竜王の顎《ドラゴンストライク》。
見えないはずの透明な|顎《あご》は血に染まり、少年はそれがまるで己の腕であるかのように、ノコギリのような|牙《きば》がズラリと並ぶ口をゆっくりと広げた。
まるで、それが右腕の中に詰まっていたモノの|正《チカラ》体だと言わんばかりに。
牙の一本が空気に触れる。
特別大きな変化があった訳ではない。だが、見えない部分が確実に変質した。広大な空間に満たされていた|錬金術師《れんきんじゆつし》の気配が消える。まるで、主導権を強引に変更されたように[#「主導権を強引に変更されたように」に傍点]。
(な……)
アウレオルスは思わず頭上を見上げた。ステイル=マグヌスの血肉を使って作られた、|悪趣味《あくしゆみ》な人肉のプラネタリウム。その部屋中に散らばった血肉がずるずると一点に集まっていく。まるで『弾けよ[#「弾けよ」に傍点]』という命令が打ち消されたように。
(ま[#「ま」に傍点]、さか[#「さか」に傍点]。蘇るのか[#「蘇るのか」に傍点]? 姫神の時と同じく[#「姫神の時と同じく」に傍点]、すでに破壊した人間を[#「すでに破壊した人間を」に傍点]――――ッ!)
そう思ってしまった瞬間、ステイルは傷一つない姿で床へと落ちた。
ギクリ、とアウレオルスの背筋に氷の柱が突き刺さる。
今のは、間違いなくアウレオルス自身の『不安』がステイルを|蘇《よみがえ》らせてしまったはずだ。
(待て  これ 私の 不安  過ぎん  落ち着け  不安 消せば  こんな |馬鹿《ばか》げたモノ  消せる はず  ――――ッ!!)
内から心臓を突き破りそうな恐怖を必死に押し殺し、アウレオルスは最後の抵抗を試みる。これはアウレオルスの『不安』が作り出す|代物《しろもの》にすぎないはずだ。ならば自分が落ち着いて、この『不安』をなくしてしまえば少年に宿る奇妙なチカラも消え去るはずだと。
だが、透明な竜王の眼光が静かにアウレオルスを|睨《にら》みつけた。
たったそれだけで、アウレオルスは恐怖で視界が|狭《せぱ》まっていく|錯覚《さつかく》すら覚え、
(無  理    |敵《かな》う  はず な)
そう思った瞬間、最大限に開かれた竜王の|顎《あぎと》が|錬金術師《れんきんじゆつし》を頭から|呑《の》み込んだ。
[#改ページ]
終 章 侵蝕のデイープブラッド Devil_or_God.
「まいどまいど思うけど、君って割とファンタジーな体をしてるよね?」
真っ白な病室の中で、中年でカエル顔の医者はそんな事を言っていた。
「……、」
|上条《かみじよう》は上手く答えられず、ベッドの上でギプスに固められた己の腕へ視線を落とした。
アウレオルスの|黄金練成《アルス=マグナ》によって|綺麗《きれい》サッパリ切断された右腕。だが、あまりに綺麗に切断されたのが不幸中の幸いだったのだろう。断面の細胞に傷はなく、応急処置を|施《ほどこ》して、腕の断面をくっつけて固定している内に、腕は一日程度で元の通りに|繋《つな》がってしまったのだ。
ヤクザが切り落とした小指を再び繋げる―――という『知識』はあったが、腕なんて巨大な体組織でもできるかどうかなんて考えた事もない。というかそんな|悪趣味《あくしゆみ》な『知識』があった
ら、上条は『|記憶《きおく》を失う前の』自分に対して本当に疑問を持ってしまう。
「ついでに付け加えるなら、一〇日以内に二回も入院を繰り返す患者というのは例外なく看護婦さん|達《たち》の間でウワサになるね? 君、もしかして看護婦さん属性なの?」
「……、何ですかそれ。手術台の上でいじられるなんて危険思想は抱いてませんよ|俺《おれ》」
「そう? 残念だね、せっかく同好の士と巡り合えたと思ったのにね?」
上条は無言でカエル顔の医者を見る。こんな理由で医者になったのかと思うと急激にむ世話になる気がなくなってきた。ていうか今すぐナースコールを押したい。
「うん? |勘違《かんちが》いしてもらっちゃ困るけど僕はいじられるよりいじる派だよ? それと手術台というよりは|分娩台《ぷんべんだい》――――」
「そんなこだわりは聞きたくないです。……っつーかうるさい|黙《だま》れ、ジェスチャー交えて説明すんじゃねぇ! 何でお前が看護婦さん役なんだよ気持ち悪りぃ!!」
今度こそ本気でナースコールに手をかけると、医者はしょんぼりして『帰る』と一言残し病室を出て行ってしまった。何だろう!?何かとても残念そうな顔をしていた気がする。
入れ替わりに|誰《だれ》かが入ってくる。
現代日本にはとてつもなく似合わない男、ステイル=マグヌスだった。
「|日和《ひよ》るつもりも|馴《な》れ合うつもりもないんだけどね、一応様子を見に来たよ」
「……というか、お前の方こそ一体どうしてひょこひょこ歩いてられるんだとわたくし上条|当麻《とうま》は切に疑問を投げつけたい」
む、とステイルは心底|嫌《いや》そうな顔をして黙り込んだ。
まあ悪趣味と言えばあれほど悪趣味な|怪我人《けがにん》も|他《ほか》にいないだろう。肉片レベルで体が粉々になったっていうのに、血管一本切れず、散り散りになったまま血液を|循環《じゆんかん》させて生き続けるだなんてレアな経験値はなかなか積めるものではない。
「一応、今回の件については礼を言うつもりだったが……何か考えてみると|馬鹿馬鹿《ばかばか》しいんだ
よね。君がやった事って、結局はアウレオルスを自滅させただけなんだから[#「結局はアウレオルスを自滅させただけなんだから」に傍点]」
「ふっ。それについては|上条当麻《かみじようとうま》のステキ演技力に感謝するこったな」
そう、上条当麻にはアウレオルス=イザードを倒すほどの力はない。
しかし、アウレオルスは『自分の思い通りに』現実を|歪《ゆが》める|魔術《まじゆつ》を使う。ならば話は簡単、アウレオルス自身にこう思ってもらえば良いだけだ。
アウレオルス=イザードは[#「アウレオルス=イザードは」に傍点]、上条当麻には絶対に勝利できない[#「上条当麻には絶対に勝利できない」に傍点]、と。
そのためのバッタリ大作戦だった。……いや、正直に白状すると上条は腕を切断されてからの事はあまり覚えていない。『とにかく演技しなければ』とは思っていたものの、実際には激痛とショックで頭が飛んでいたと言った方が近い。過度の失血は性的|興奮《こうふん》に|繋《つな》がると自殺マニアは言うが、あのキレた笑いの原因はそれだろう。
だがそんな事はおくびにも出さない。人間、格好つけたい時は思いっきり格好つける。
「しっかしまあお互い良く生き残れたよなー今回は。|俺《おれ》は片腕バッサリお前は人肉プラネタリウムだぜ、なんか人体の神秘を見た……って何だよお前。なに皮肉げに笑ってんだ?」
「いや、その分だと君は僕の助力に気づいていないらしいね」ステイルは心底人を馬鹿にしたように笑って、「腕を切断されてから二度、君は棒立ちのままアウレオルスの弾丸を|避《さ》けただろう? あれは一体どうして起こったと思っているんだい?」
「……は?」
「君は確かに演技をしてアウレオルスを|騙《だま》しきった。だが、演技を始めた直後にバッタリが|染《し》み込むはずがないだろう? 腕を切断され、|演技《わらい》を始めてから二度。己の|攻撃《こうげき》を難なく避けられたからこそ、ヤツは君の演技を信じる気になったんじゃないのかい?」
「……、えーと」
上条は馬鹿みたいにステイルの顔を見た。
「これだけ言ってもまだ分からないのかい? つまりアレだ、アウレオルスが最初の二撃を失敗したのはハッタリが効いたからじゃない。単に僕が魔術をかけて、アウレオルスの目測に狂いを生ませただけだよ」
「なっ……!?」
上条は|驚《おどろ》いてステイルの顔を見た。当のステイルは何でもない事のように、
「そんなに驚く事かい? 僕の専門は炎だ。熱気を使い|蜃気楼《しんきろう》を生み、光の屈折率を変えれば目測をズラす事など難しくもないだろうに」
「って、違う! 驚く所が違う! お前あの時バラバラになって宙に浮かんでたじゃねーか! この人肉プラネタリウム! あんな状態でもまだ魔術って使えんのかよ!?」
「人肉プラネタリウムとはまた|愉快《ゆかい》な表現だが……別に問題ないだろう? あの時僕はまだ『生きていた』。ならば生命力を練り|魔力《まりよく》を精製する事など訳はない。幸い、僕の体が|弾《はじ》けた時に、隠し持っていたルーンのカードもバラ|撒《ま》かれた事だしね」
|上条《かみじよう》は|愕然《がくぜん》とステイル=マグヌスの顔を見た。
吸血鬼や|吸血殺し《デイープブラツド》が|関《かか》わったこの事件、実はコイツが一番の化け物ではないだろうか?
「そんなどうでも良い事はさておき[#「そんなどうでも良い事はさておき」に傍点]。君も己の罪状については一応聞いておきたいだろうと思ってね。『三沢塾』のその後の事とか説明しておこうと参上したまでさ」
罪状。
上条はギプスに包まれた己の右腕を見た。竜の|顎《あぎと》。あれはアウレオルスの『不安』が生み出した自滅にすぎないが、彼を自滅に追い込んだのは|他《ほか》ならぬ上条自身だ。
「ああ、そんな顔はしなくて良い。アウレオルスはあの竜王を、物理的なものではなく精神的なものだと踏んだらしい。ようはゴーストさ、体に触れず|魂《たましい》を抜く、そういう|類《たぐい》のものを想像してしまったんだろう」
「???」
「簡単に言えば、君はアウレオルス=イザードの体には傷一つつけていない、という事さ。逆に言えば、傷一つつけずにアウレオルス=イザードの精神を|破壊《はかい》した訳だけどね」
「……、それ。|褒《ほ》めるような事か?」
「褒められる事さ。ようはアウレオルス=イザードの|記憶《きおく》を奪っただけで事件を解決したんだから。|砦《とりで》にこもる魔術師との団体戦において、|犠牲者《ぎせいしや》は、エレベーターにいた十三|騎士団《きしだん》の一人だけ。こんなモノは二〇〇〇年を超す魔術史上でもこれが三回目だよ」
それは喜ぶべきかな、とも上条は思ったが、ふと思い出した。ローマ正教の『グレゴリオの聖歌隊』は無事では済まなかったと思う。記憶を消されていたステイルはその時の事を覚えていないのかもしれない。
「……、それで? 記憶をなくしたアウレオルス=イザードはどうしたんだよ?」
まさか同じ病院にいるんじゃないだろうな、と上条は思っていると、
「ああ、簡単だよ。僕が殺した」
|一瞬《いつしゆん》、聞き間違えかと思うほどあっさりとステイル=マグヌスは答えた。
「何をそんな顔をしてるんだか。いいかい、アウレオルス=イザードはローマ正教を裏切って|錬金術師《れんきんじゆつし》となった。|吸血殺し《デイープブラツド》を監禁し『三沢塾』を|要塞化《ようさいか》した時点でこの学園都市を敵に回し、さらに『三沢塾』に挑んで返り|討《う》ちとなった十字教の諸勢力には賞金首扱いさ。―――そして当然、魔女狩りを専門とする|僕や禁書目録《ネセサリウス》にも命令は下っている」
ステイルは|煙草《タバコ》を吸えない病室に、|苛立《いらだ》ったように、
「ほら、これだけ多くの世界を敵に回して、|全《すべ》ての|記憶《きおく》を失ったアウレオルス=イザードに対抗できるかい? いや、そもそも何も覚えていない、何も守るものを持たない今のアウレオルスに、世界を敵に回して生きていけるほどの気力があると思うかい?」
「……、」
「アウレオルスは簡単には殺されない。報復、という意味を取ってもそうだし、それ以上に世界で初めて|黄金練成《アルス=マグナ》を成功させた|魔術師《まじゆつし》だ。当然、その秘法を探ろうと多くの組織はアウレオルスを|拷問《ごうもん》にかけようとするだろうし―――最悪な事に、アウレオルスは全ての記憶を失っているため、白状する事さえ許されない[#「白状する事さえ許されない」に傍点]」ステイルは|忌《いまいま》々しそうに、「ほら、アウレオルス=イザードに残されていたのは死か、それ以上の|地獄《じごく》のみだ。どちらか選べと言われたら、僕は迷わず前者をオススメするね」
だけど、と|上条《かみじよう》は思う。
「|納得《なつとく》、できない。納得できるか、そんなもん。たとえそれしか道がなかったとしたって。人の命を奪って笑い合える世界なんてのがあるなら、そもそも何で|俺達《おれたち》は『三沢塾』なんかに立ち向かって行ったってんだ」
そうだ。上条の戦う原動力は許せない事があったからだ。|切り札《カード》として扱われる|吸血殺し《デイープブラツド》、『グレゴリオの聖歌隊』や『|瞬間錬金《リメン=マグナ》』の歯車のように使い捨てられる生徒達、やり切れない怒りを押し付けるためだけに|姫神《ひめがみ》を殺そうとしたアウレオルス。人の命を何とも思っていない
ヤツらが許せないからこそ、上条はあの戦場から逃げ出す事なく前へ進もうとしたのに。
最後の最後で、人の死を『善』と認めてしまったら。
上条は、自分で振るった|拳《こぶし》の罪悪感に耐えられない。
「……、」
それに、確かにアウレオルスは許せないヤツだったけど、本当に最後の最後まで終わっていた訳ではないと思う。
|何故《なぜ》なら、本当にあの場がアウレオルスの思い通りになっていたとしたら。
インデックスがアウレオルスの方を振り返らなかったのは、たとえ拒絶されても彼女にだけは手を加えたくないと願った[#「彼女にだけは手を加えたくないと願った」に傍点]、|錬金術師《もれんきんじゆつし》の最後の人間らしさだったはずなのだから。
「だから君は甘いんだよ」
ステイル=マグヌスはつよらなそうに目を逸らして言った。
「殺す、と言うのは何も命を奪う事だけとは限らないだろうに」
は? と上条はステイルの顔を見た。
ステイルは、何か本当につまらなそうな声で、目を合わせないまま言った。
「いいかい、アウレオルス=イザードは全ての記憶を失った。仮に、この状態で整形して顔の作りを変えてしまったら? 外見も違えば中身も違う。ほら、真説こんな人間はもうアウレオルス=イザードとは言えない。それは世界からアウレオルス=イザードという人間を殺す事と何の違いもないだろう?」
「……………………………………………………………………………………、お前。良い人?」
「何だその|台詞《せりふ》は。僕はこれでも一応イギリス清教の神父なんだけどね。専門は炎だし、顔の表面を焼いて|治癒《ちゆ》をかければ顔の作りなんて簡単に変えられるもんだよ」
「……………………………………………………………………………………、お前。良い人!」
「ん? それはそれで予想外の反応なんだけど……って何だー!? 何でいきなり僕に抱きつこうとする!? 背伸びして無理矢理に頭を|撫《な》でようとするのはやめろ!!」
部屋の中で|上条《かみじよう》とステイルがバタバタ暴れていると、不意にノックもなしに病室のドアが開いてインデックスが勢い良く入ってきた。
「とうまーっ! 売店にマスクメロン味のポテチが売ってるんだよ! レアだから買いたいしお金が欲しいかもーっ! ……って」
インデックスの動きがピタリと止まる。
目の前には暴れるルーンの|魔術師《まじゆつし》と何か感動しながら無理矢理に頭を撫でている上条|当麻《とうま》。
三人の動きが止まる。
世界が凍る。
「……とうま。ごめん、間が悪かったね」
「ちょ……待て。おかしいだろ、何で目を逸らす? こら無言で出て行こうとすんな!!」
ぎいやぁあ!! と叫びながら上条は出て行こうとするインデックスを必死に引き止める。いや、かと言ってこの幼児体型に欲情するから|大丈夫《だいじようぶ》だよインデックスと言うのもかなり|反社会的な予感がしたが、いやしかしーっ! と上条の頭は混乱に混乱を極めていく。
「……、」
ステイル=マグヌスはそんな二人を見ていた。
激論する上条とインデックスは、けれどどこか楽しそうに見える。
まるで、そこに二人がいる事がとても自然な形であるかのように。
ステイル=マグヌスはそんな二人を見ていた。
|嫉妬《しつと》でもなければ|憎悪《ぞうお》でもなく。ただ、そういう風にインデックスが|微笑《ほほえ》む姿を守るために自らの道を進んできたのだから、と。守るべき少女の顔を、満足そうに眺めていた。
「ふう。僕は次の仕事が詰まっているし、そろそろ帰らせてもらうよ」
ステイルはつまらなそうに、しかしどこか満たされたような顔で、そう言った。
インデックスはステイルの顔を改めて見ると、上条の背中にささっと隠れて、まるで尾行する探偵みたいに陰からステイルの顔を眺めている。
ステイルは特に何も感じず、病室を出て行こうとした。
そうである事を、自ら選んで進んできたのだから。
「あの、」
ステイルが病室のドアをくぐる直前、インデックスは言った。
ステイルは振り返る。インデックスはきっと怒っている。|上条当麻《かみじようとうま》を『三沢塾』の事件に巻き込んだのはステイルだ。これに|罵署雑言《ばりぞうごん》を吐かない道理はない。
「一応言っとく。ありがとうね」
だけど、インデックスはそう言った。
「どうせあのビルの中があんな状態だって分かればとうまは一人だって|突撃《とつげき》するに決まってるもん。だったらあなたがいて良かったと思う。だから―――って、どうしたの?」
何でもないよ、とステイルは笑った。
それ以上は、何も言わない。ステイルは再び出口の方を振り返ると、=言もなくそのまま出て行ってしまった。
何だか、上条は初めてステイルの笑みを見たような気がした。
「とうま」
上条は部屋の出口からインデックスへ視線を戻した。と、自分に意識を向けられなかった事が何か|癇《かん》に|障《さわ》ったのか、インデックスはむっとした顔で上条の目を見る。
上条はそんな彼女の様子に、思わず小さく笑った。『三沢塾』という戦場は確かに壮絶だったが、こうして帰ってくる事ができた。そう実感する事ができたからだ。
だけど、と。上条は戦場に残してきた一つの疑問を思い浮かべる。
切断された右腕から飛び出した、竜王の|顎《あぎと》。
あれは、アウレオルス=イザードの上条に対する『不安』から生まれた産物にすぎない。
すぎない、と思うのだが……あの時、アウレオルス=イザードは本当に『上条の切断された右腕から、透明な竜の|顎《あご》が生えてくる』なんて事を、事細かに考えていたのだろうか[#「事細かに考えていたのだろうか」に傍点]?
まさか、とは思うが。
まさか、あれはアウレオルスの力とは関係ない、なんて事はないだろうか?
(……、)
ありえない、とは思う。
だけど、と上条は|姫神秋沙《ひめがみあいさ》の事を思い出す。『|吸血殺し《デイープブラツド》』姫神秋沙。吸血鬼のみに作用する特別な力を持つ少女。
たかが吸血鬼を殺す事しかできない彼女[#「たかが吸血鬼を殺す事しかできない彼女」に傍点]を巡ってあれだけの|騒《さわ》ぎが起きたのならば、神の奇跡をも殺す『|幻想殺し《イマジンプレイカー》』|上条当麻《かみじようとうま》の右腕には、一体どれほどの価値があるんだろうか?
いや、そもそも。
|幻想殺し《イマジンブレイカー》とは、一体何なんだ?
「とうま。マスクメロン味のポテチが売ってるんだってば」
ハッと。上条は、インデックスの言葉にようやく我を取り戻した。
「あ、ああ。そうだな。……ってかマスクメロン味って、やっぱ甘いのか?」
上条はどうにかインデックスと話を合わせて、|曖昧《あいまい》に笑ってみせる。
今はこれで良い、と思う。たとえどんなに得体の知れない力だろうが何だろうが、こうして一人の少女を守り抜く事ができたんだから。それ以上の事は求めない。
だから、今は良い。
今は。
「とうま、とうま。そういえばあのビルの中にひめがみあいさがいたはずだよね?」
廊下を歩き、売店に向かう途中でインデックスは|唐突《とうとつ》に言った。
「ああ、あの電波系エセ|魔法使《まほうつか》いね。んで、あれが何……って何ですかインデックス。自分で|尋《たず》ねておいてその人を疑うような視線は?」
「……、とうま。今回はあいさのために戦ったんだよね。私じゃなくてあいさのために」
「はい?」
上条は首を|傾《かし》げる。突然訳の分からない事を言ったインデックスは、|何故《なぜ》だかとてもご|機嫌《きげん》ナナメっぽい。むっすー、と|唇《くちびる》を|尖《とが》らせる姿をわざと上条に見せつけているほどに[#「わざと上条に見せつけているほどに」に傍点]。
「何でもないけどね、何でも」インデックスは口の中でブツブツ言った後、「うん。でね、あいさって実はこの病院に入院してるんだね。さっき話してきたんだけど」
ふうん、と上条は適当に|相槌《あいつち》を打った。
そういえば、姫神はこれからどうするんだろう、と上条は思う。吸血鬼を招き寄せたくないと言っていたが、もう結界たる『三沢塾』は存在しない。インデックスと同じ『歩く教会』でも代用できるらしいけど、それを作ると約束したアウレオルス=イザードももういない。
「それで、色々話した結果、あいさは|教会《ウチ》で預かる事になったみたい」
「……。何となくオチが読めてきたんだけど、先に言っちまって良いか?」
「ぐあ! 人がせっかく|お話り作《ストーリーテリング》してきたというのにっ! 先にオチを言ってしまうだなんてとうまは全く演劇殺しだね! シェイクスピアならとうまを刺してるかも!」
「笑いながら刺すとか言ってんじゃねえ」
上条は一度だけ小さくため息をつくと、|誰《だれ》でも予想できる答えを言ってみた。
「それって単に『歩く教会』も教会なんですよー、ってだけの話だろ」
[#地付き]了
[#改ページ]
あとがき
一冊目から手に取ってくれた人はお久しぶり、
いきなり二冊目から手に取ってくれた勇気ある|貴方《あなた》は初めまして。
|鎌池和馬《かまちかずま》です。
さて、あとがきです。どうもこのあとがき、人によっては最初に読む方もいるそうですね。いわく、あとがきは第二のあらすじだとか。とりあえずあとがきを読んでみて、気に入ったらレジへ直行、という方もいるとか。
しかし、今回は速攻あとがき派の方へ注意を促したい。これから先に書く事は多分にネタバレを含むため、本文に目を通していない方はできれば読まない方が良いと思うのです。
ここから先はあとがきは最後に楽しむ派、もしくはネタバレ上等の勇気ある貴方のための『あとがき』です。
[#改ページ]
今回のコンセプトは『バッドエンド』です。
そのものズバリ、『失敗した|上条当麻《かみじようとうま》』の姿がアウレオルス=イザードですね。一巻のラストで上条がもし失敗していたら、こんな人間になってただろうなー、と思いながら書いていました。|姫神《ひめがみ》にしても『ヒロインになりきれなかった』少女という|可哀相《かわいそう》なテーマです。
そんなこんなで本編も|随分《ずいぶん》と|殺伐《さつばつ》としています。敵だってとりあえずこっちの話を聞く事ぐらいはした一巻とは対照的に、ラスボスどころかヒロイン候補まで人の話を聞きません。
オカルトキーワードの方は『アルス=マグナ』を中心に展開しています。
本編中では『真の|錬金術《れんきんじゆつ》のカタチ』とか表記していましたが、実は|嘘《うモ》っぱちです。一番大元(らしい)のボヘミア派の錬金術(|鉛《なまり》を金に換えるという、あれです)が登場したのはローマ帝国時代後期、対してアルス=マグナが登場したのは一七世紀とかなり時間に差があります。しかも、折りしも一七世紀は錬金術が大ブームとなった『インチキ|魔法使《まほうつか》いが貴族を|騙《だま》して金を得る』暗黒の時代でもある訳です。つまり、アルス=マグナなんてのは錬金術ブームに便乗して生まれた新興宗教みたいなものですね。
さて、実在するアルス=マグナとは黄金を作るモノでも不老不死の薬を作るモノでもありません。何でも『人間とは「未完成」な神様である。つまり、人間が修行して「完成」すれば神様になる事ができる』だとか。新興宗教クサさ大爆発な|台詞《せりふ》ですが、『神様』という言葉が出てくる辺り、元の|錬金術《れんきんじゆつ》に十字教が混じってしまっている所が|窺《うかが》えたりします。
本編でアウレオルスの行っていた『頭の中でうんぬんかんぬん』というのは、むしろチューリッヒ派の錬金術です。こちらは元の錬金術にユング学という心理学を混ぜて、頭の中で錬金術をやっちまおうというのが|大雑把《おおざつば》な教えですね。
もう一つ、ウィーン派の錬金術というのもありますが、これは|性魔術《せいまじゆつ》というえっちい|儀式《ぎしさ》が絡むので|電撃《でんげき》文庫ではご|法度《はつと》です(笑)。
こんなにも錬金術のバリエーションが豊富なのは、一説によれば『錬金術のオリジナルが何だったか謬のため』らしいですが、実際には『錬金術師は「鍍ゲ金に換える事ができる」と言って貴族を|騙《だま》しているのに、いつまで|経《た》っても|肝心《かんじん》の金ができない。だからイライラする貴族をなだめるために様々なウソをついた』という方が正解っぽいです。
で、ここまで長々と書いておいて結局何が言いたいのかと申しますと。
結構調べた割に錬金術ってワードが全然活かされてないなー、と。
どうせならインデックスの出番を増やす意味も含めて、『台所でできる簡単錬金術』とか混ぜときゃ良かったかなと思いましたが、そういうコアなネタはどうなんでしょうね?
さて、最後はこの作品に|関《かか》わった方|達《たち》へお礼を。
担当の|三木《みき》さんは一七日で小説一本書いてねと注文してくるすごい人です。今回、特に穴だらけだった本作に最後まで付き合っていただき本当にありがとうございました。
イラストの|灰村《はいむら》さんとは実は一度もお顔を拝見した事がありません。見えないパートナー、というのはかっちょイイ|響《ひび》きだと思いますが、やっぱり直に会ってお礼を言いたいですね。とりあえず紙面にて予行練習させていただきます。ありがとうございました。
そしてこの本を手に取ってくださった読者の皆様、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。願わくば次回も、その先も、皆様の目に留まる機会がある事を願いつつ、本日はここで筆を置かせていただきます。
|御坂美琴《みさかみこと》、今回も出番をバッサリ(泣)[#地付き]鎌池和馬
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とある魔術の禁書目録2
鎌池和馬
発 行 2004年6月25日 初版発行
著 者 鎌池和馬
発行者 佐藤辰男
発行所 株式会礼メディアワークス
平成十八年十一月四日 入力・校正 にゃ?