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死神とチョコレート・パフェ 1
[#地から2字上げ]花鳳神也
[#地から2字上げ]口絵・本文イラスト 夜野みるら
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)薄暗《うすぐら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)工事|現場《げんば》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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もくじ
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目を開くと、そこは薄暗《うすぐら》かった。
鉄と少しだけ錆《さび》の匂《にお》いのする狭《せま》い空間。
腕《うで》を満足に動かすこともできないその場所で、少年は倒《たお》れていた。
小学生の彼は虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》で隣《となり》を見る。目と鼻の先で幼馴染《おさななじみ》の少年が気を失っていた。
「……おい……おいって……」
幼馴染に呼《よ》びかけると、少しずつ自分の意識《いしき》も、どうして自分がここにいるのかもはっきりしてきた……。
日曜日の昼時に、二人で工事|現場《げんば》に忍《しの》び込《こ》んだ。
周《まわ》りは資材《しざい》だらけで、クレーン車もそのまま。忍び込む前に、一緒《いっしょ》にいた少年のお姉さんに呼び止められたが、好奇《こうき》心《しん》の方が勝った。見たことのない機械《きかい》や、壁《かべ》や天井《てんじょう》のない柱だけの場所、地面には穴《あな》が開いている所もあった。
奥《おく》には一際《ひときわ》大きな鉄骨《てっこつ》が立てかけてあり、それは上の階へと延《の》びていた。これを登れば高い所に行けるだろう。上からの見晴らしはきっといいはずだ――そう思って鉄骨をよじ登ろうとしたとき、不安定だったそれは、まるで鉄の波のように彼らに覆《おお》いかぶさってきたのだ。
危《あふ》ない! そんな声が聞こえて……気がつくと自分はここにいた。立てかけられていた鉄骨の下敷《したじ》きになったのだ。
だが不思議と痛《いた》みや圧迫《あっぱく》されている感覚はなかった。
「……良かった……気がついた?」
優《やさ》しい少女の声。だが、か細い声に彼は上を見た。
「……千夏《ちなつ》姉ちゃん……?」
痛みも重みも感じないはずだった。彼女は両手両|膝《ひざ》を地面につき、自分と彼女の弟を守るように小さな空間を作ってくれていたのだ。
「うん……祐《ゆう》ちゃんを起こして、先に外へ出てくれる?」
そう言った彼女の腕は震《ふる》えていた。その姿《すがた》を見た少年は急に不安になり、うっすらと涙《なみだ》を浮《う》かべた。
「千夏姉ちゃん……」
「お願い……私が支《ささ》えている間に早く……外に出なさい……」
強く言われ、彼は頷《うなず》きながら幼馴染の少年を揺《ゆ》り起こした。気がついた幼馴染は周りの状況《じょうきょう》と薄暗さに、少年と同じく泣き始めてしまったが、千夏がそれをなだめる。
二人の少年は彼女に言われるがまま、鉄骨と鉄骨の小さな隙間《すきま》をくぐり、地面を這《は》うようにして外に出た。
そしてすぐに二人は千夏の上に覆いかぶさる鉄骨を退《ど》けようと必死になった。だが、彼らの力ではびくともしない。
彼女はすぐそこ、見える距離《きょり》にいる。だが千夏がそこから自力で動けるような状態《じょうたい》ではなかった。どうすることもできず、彼女の弟は再《ふたた》び泣き出してしまった。
「千夏姉ちゃん!」
鉄骨の奥へ向かって、少年は諦《あきら》めずに叫《さけ》ぶ。
「……心配しないで……」
すると彼女はこんな状況にもかかわらず二人に微笑《ほほえ》んで見せた。いつもと変わらない優しさに満ちた顔。その笑顔《えがお》のまま、彼女はこう言った。
「……私の分まで、絶対《ぜったい》に生きてね?」
その言葉の意味が少年にはすぐに理解《りかい》できなかった。
ただ泣くのを止め、静かに頷く。
それを見た千夏は……安心したように頷き返した。
「千夏姉ちゃんっ」
思わず少年は彼女へ腕を伸ばそうとした。
だが、その瞬間《しゅんかん》――千夏に覆いかぷさる鉄骨がギシッと音を立て、彼女の笑顔は鉄骨の奥へと消えていった……。
少年は呆然《ぼうぜん》と佇《たたず》む。五年前の、冬の出来事だった……。
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差し出された茶|封筒《ぶうとう》。
それを見た彼の目は輝《かがや》いていた。
「ありがとうございます!」
封筒を両手で受け取り、少年は深く頭を下げる。
中身は今月のバイト代。平日は学校が終わってからの五時間と、土日も含《ふく》めて週五日間働いて稼《かせ》いだお金だ。
「悪かったな、神名《じんな》。渡《わた》すのが遅《おく》れて……」
「いや、いいんですよ。こうしてちゃんともらったし」
神名と呼《よ》ばれた少年は、気にしていない、と笑顔で応《こた》えた。
給料日からは二日ほど過《す》ぎていて、店長の不在《ふざい》がその原因《げんいん》だった。
神名の周りには美しく咲《さ》く色とりどりの花――おおよそ彼には似合《にあ》わないこの場所は、この街《まち》に一|軒《けん》しかない花屋<<リュヌ・パルテール>>。この店でたった一人のバイトである神名の給料日を忘《わす》れ、店長は遠くへ営業《えいぎょう》に行ってしまっていたのだ。
「――おやじが忘れてなきゃ、こんなことにはならなかったんだけどな」
「ほんと、もういいですって。達也《たつや》さんも忙《いそが》しそうだったし……」
神名の目の前にいるのは<<リュヌ・パルテール>>の店長ではなく、その息子《むすこ》さんだ。彼は神名の言葉に苦笑《くしょう》しながら、閉店《へいてん》の準備《じゅんび》を始めた。
「お前がいてくれて助かるよ。今日の片付《かたづ》けはいいからさ、明日も頼《たの》むな」
「はい。じゃあ、お疲《つか》れ様です!」
「おう! あ、授業《じゅぎょう》はサボるなよ!」
「わかってますって! それじゃ!」
達也に挨拶《あいさつ》して、神名は店を後にした。
店から少し歩いて左に曲がり、意気|揚々《ようよう》という感じで公園へと入っていく。周りを小さな森に囲まれた巨大《きょだい》な公園なのだが、バイトからの帰りだと家までの近道になる。
神名はとても上機嫌《じょうきげん》で今にも鼻歌まじりに踊《おど》りだしそうなぐらいだった。その理由はもちろん右手に握《にぎ》られた給料だ。
月に一度の給料日。彼にとって至福《しふく》のときであった。
「よく働いたよなぁ、俺《おれ》!」
バイト代は先月働いた分だ。その額《がく》を確《たし》かめながら今月も期待できそうだと彼は笑う。
少年の名前は天倉《あまくら》神名――高校二年生。
お金がからむと少々うるさいことを除《のぞ》けば、どこにでもいる普通《ふつう》の少年だ――と、自分では思う。
「よし! 明日も頑張《がんば》るぞ!」
神名は思わずその場でクルリと回り、動物の置物を乗り越《こ》えた。よほど嬉《うれ》しかったのか置き忘れてあった三輪車も飛び越え、さらにその勢《いきお》いで目の前にあった小石を蹴《け》ろうとして、
「?」
ふと、何かを感じて空を見上げた。
別にいつも見上げる夜空となんら変わりはないが、小さく輝く何かが神名には見えた。小さいが、その輝きはどんどん近づいてくるような……。
「なんだ? あれ……」
光がさらに近づく。
神名は悟《さと》った。落ちてくる光は明らかに自分への直撃《ちょくげき》コースだったのだ。
とっさに神名は最小限《さいしょうげん》の動きで身体《からだ》を半歩|後退《こうたい》させながら落下物のコースから逃《のが》れた。恐《おそ》ろしいまでの動体|視力《しりょく》と運動|神経《しんけい》。
「ふっ、この程度《ていど》なら――」
簡単《かんたん》だ。自慢《じまん》ではないが、学校内でも自分の運動神経は誰《だれ》よりも勝《まさ》ると自負していた。このぐらいの落下物などに自分が当たるわけがない。
そう思ったが――落下物は突然《とつぜん》、進路を変えた。しかも頭上、三〇センチぐらいで。
「な、何ぃぃ――っ!?」
回避《かいひ》する間もなく、落下物は神名の頭に直撃した。
ガツッ!
一瞬《いっしゅん》、星が見えて意識《いしき》がうっすらと遠のいていく。ついでに今日一日の出来事だとか、花屋でのバイトのことなどが頭の中を通り過《す》ぎる。
(うわ、これが世に聞く走馬《そうま》灯《とう》のようなってやつか……)
次はもう三途《さんず》の川か? そう思った矢先、意識はすぐに公園へ戻《もど》ってきた。
土と砂《すな》が頬《ほお》に当たる。妙《みょう》に地面が近い。それは自分が倒《たお》れているせいだと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。
自分に当たったはずの落下物はどこかに消えている。
(くそっ、どうなったんだ……?)
身体が思うように動かず、言葉も出ない。聞こえてくる鼓動《こどう》は激《はげ》しく、体温が冷たくなっていくのが微《かす》かにわかった。
突然《とつぜん》の状況《じょうきょう》に、神名はこのままここで死んでしまうのかと本気で考えた。
(せっかく給料日だったのに……)
自分が死にかけているのに給料のことを思い浮《う》かべる神名。右手に握られていた封筒は風にあおられ、ふわっと神名の手を離《はな》れた。舞《ま》い上がる給料をなんとか目で追うが、動かない身体では追いかけることもできない。
(ち、ちくしょー。最悪だな……)
諦《あきら》めてたまるかと身体に力を入れる。だが、やはり反応《はんのう》しない。
と、給料の消えた空を見上げるしかできない神名に影《かげ》がさしかかった。影の方向に意識を向けると、いつの間にかそこには足があった。
すらりと伸《の》びた少女の足。視線を上げると彼女はおどおどした様子でこちらを見下ろしていた。
「うわぁっ、この人、死んでます〜っ!」
ホルターネックのインナーに、両肩を出した白いケープのような服とスカート。金色のラインで縁取《ふちど》りされた不思議な服に身を包んだ少女は、腕《うで》に白い卵《たまご》のような物体を抱《かか》えていた。
『これはまた見事にクリティカル・ヒットしてるな……』
その卵のような物体から声が聞こえてくる。
だが彼らの顔は残念ながら暗くてよく見えない。この公園は外灯が少ないのだ。
「と、とりあえず応急処置《おうきゅうしょち》をしましょう! こんなときはまず、足を高くするんでしたっけ?」
『それは足が疲《つか》れているときの対処法だったような……それより早くなんとかしないと、こいつマジで死んじまうぞ?』
「あれ? まだ死んでないんですか?」
『お前、死体に応急処置するつもりだったのか?』
未《いま》だに足を高く上げようとしている少女に、神名は微かな意識の中で「逆《ぎゃく》だよ、逆!」と叫《さけ》びつつ一人と一|個《こ》(?)を見上げた。
不思議な服をまとう少女と白い卵。どう見ても彼らは普通《ふつう》ではなさそうだ……。
『とにかく傷《きず》をふさいでやれ。回復《かいふく》させることぐらいはできるだろう?』
「はい、わかりました」
そう言うと少女はしゃがんで神名の頭に手をかざした。すると暖《あたた》かく優《やさ》しい光が神名を包む。それ以外たとえようのない感覚に、もともと神名に痛《いた》みなどなかったが、それが和《やわ》らぐ気がした。
十秒ほどたって、少女は立ち上がった。
「はい、完壁《かんぺき》です!」
『うむ。じゃ、あとは面倒《めんどう》になる前にこいつの記憶《きおく》を消しておこう』
「了解《りょうかい》です」
記憶を消す? なんじゃそりゃ? と神名が思ったとき、再《ふたた》び少女は神名に手をかざした。再び淡《あわ》く光る彼女の手。今度こそ完全に意識が遠のき、神名は静かに目を閉《と》じた
○
翌日。空は晴天。時刻《じこく》は朝の八時半。
街の中心にある大通《おおどお》りを、神名は自転車で疾走《しっそう》していた。
今日の気温は低く、最高でも五度前後しかないらしい。だが、そんな冬空の下を彼は汗《あせ》をかくほど急いでいた。
「ちくしょーっ! まさか寝坊《ねぼう》するなんて!」
息を切らせながら、彼は誰にともなくそう叫ぶ。
(とにかく急がないと……)
自転車の速度はすでに全開だ。それでもまだ遅《おそ》く感じる。
もうすぐ学校のホームルームが始まろうという時間だったが、彼の寝坊を食い止めてくれる家族は今いなかった。
神名は現在《げんざい》一人|暮《ぐ》らしで、両親とは別々に暮らしている。父親が転勤《てんきん》することになり、母親もそれについて行ってしまったためだ。予定では神名も一緒《いっしょ》に行くはずだったのだが、神名は住み慣《な》れたこの街に残ることを選んだ。
別に後悔《こうかい》はしていないが、こんなときだけは少し考えてしまう。
昨日は気がついたら公園の真ん中で眠《ねむ》っていた。しかも、そうなった経緯《けいい》が全く記憶にない。不思議に思った神名だったが、とりあえず疲れていたので家に帰ってすぐに寝てしまった。そうしたら朝は寝坊だ……。
「だが、皆勤《かいきん》賞だけはっ!」
とにかく学校へ急ごうと、そんな思いを振《ふ》り払《はら》って自転車をこぐ。
残り時間はあと十分。それを過《す》ぎると遅刻《ちこく》だ。
無遅刻、無欠席で学校からもらえる皆勤賞――図書|券《けん》。学期末ごとにもらえるのだが、去年は一年を通して皆勤賞を取った神名にとって、今年の目標はもちろん二年連続皆勤賞だ。二年連続だともらえる額《がく》も増《ふ》える。
信号をできる限《かぎ》り無視《むし》し、四つ角を曲がって坂に差し掛《か》かった。この坂を登りきれば学校の正門が見えてくる。
最後の力を振りしぼり、街路《がいろ》樹《じゅ》が立ち並《なち》ぶ坂を一気に駆《か》け上がる。
「あと少しか……んっ?」
そのとき、歩道の片隅《かたすみ》にうずくまっている少女が目に入った。長い横髪《よこがみ》と、桜《さくら》色のリボンで二つにまとめられた後ろ髪。
彼女が着ている服は、神名と同じ綾月《あやつき》第一高等学校のものだった。胸《むね》に付いた大きなリボンとブローチが特徴《とくちょう》で、この辺りでは珍《めずら》しいデザインだ。
同級生だろうか……? 微《かす》かに神名は彼女のことを気にかけた。
どうしてこんな場所でうずくまっているのだろう?
ふと彼女の横顔に涙《なみだ》が見えた――泣いているのか?
いや、それよりも……この少女をどこかで……。
とそのとき、少女はこちらに向かって顔を上げた。
自転車の神名と目線が合う。
「あ、あの――」
少女の言葉に神名は一瞬《いっしゅん》、反応《はんのう》して――そのまま無言の全速力で坂を駆け上がろうとした。
全・速・力で!
すると泣いていた少女の反応は意外――というか異常《いじょう》なほど早かった。
パッと立ち上がり、過ぎ去ろうとした神名の制服《せいふく》の裾《すそ》をがっしり掴《つか》んで彼を自転車ごと引き止める。すると坂を上っていた神名の自転車は簡単《かんたん》に勢《いきお》いとスピードを殺されて止まってしまった。
二秒ほど気まずい沈黙《ちんもく》を保《たも》ち、神名はゆっくり後ろを振り返った。
「なぜ止める?」
「なぜって、無視ですか!? 女の子が道端《みちばた》で泣いてて素通《すどお》り!?」
「当然だろ」
即答《そくとう》しつつ、神名は自転車をこぎ出そうとするが、見知らぬ少女に服を掴まれて進めなかった。制服を着た彼女は食い下がって聞き返す。
「ど、どうしてですか!?」
「だってお前、うちの学校の奴《やつ》だろ? だったらここで泣いているより学校に行ったほうが早いし、それに俺は今、急いでいる。なにより怪《あや》しいし、嫌《いや》な予感がする……ということで無視。さらば!」
「ああぁぁ――っ! ちょっと待って!」
再《ふたた》び待ったをかけんと謎《なぞ》の少女は神名の制服をがっちり掴んだ。
負けじと神名は無理矢理《むりやり》ペダルをこぎ始める。
「ぐっ! 放せぇぇ――っ!」
「待ってくださいぃ――っ!」
「うおぉぉ――っ、放せ! 俺の皆勤賞が! 図書券が! 生活がああぁぁ――っ!」
「図書券じゃ本しか買えませんよ!? どうして生活が関係あるんですか!?」
「アホか、お前は! よく本を買う奴に現金《げんきん》と交換《こうかん》してもらうからに決まってるだろーが!」
「わ、私が交換してあげますから!」
「お前と話をしてたら、そもそももらえないだろ!?」
時間はあと五分。神名はなんとか少女の手を振り払い、自転車を加速させることに成功した。思わぬ邪魔《じゃま》が入った――が、今ならまだ間に合うはずだ!
すると、
「私の話を聞いてくれたら、お金払いますよ!」
その言葉で神名は急ブレーキ。
ゆっくりと振り返って少女と視線を合わせた。
「……小切手は受け付けんぞ?」
「もちろんキャッシュです!」
すると初めて神名はまともに彼女の話に耳を傾《かたむ》けた。
「いくらもらえるんだ?」
「ええっと……三〇ドルです」
そう言ったかと思うと彼女はニコッと笑い、手元から三|枚《まい》の一〇ドル札を取り出した。
神名はさっさと自転車にまたがり、
「じゃ、そういうことで」
「ああぁぁ――っ! 待ってぇぇぇ――っ!」
「やめろ! 放せ!」
「あなた鬼《おに》ですか!? こんなかわいい女の子が助けを求めているのに放っておくなんて!」
「助けを求めてたのか? 俺には皆勤賞を邪魔する謎の女にしか見えんが……」
「この際《さい》、それでもいいです。だから助けてくださ〜い!」
謎の少女はうっすらと涙を浮《う》かべてそう言った。
確《たし》かに彼女は整った顔立ちをしていて、街ですれ違《ちが》ったら振り向かずにはいられない、そんな美少女だった。こんな少女が自分の学校にいたとは少し驚《おどろ》きだ。
それを横目に神名は腕《うで》時計を見る。時刻《じこく》は三十七分。あと三分しかない!
神名の頭の中で天秤《てんびん》がゆらゆら揺《ゆ》れ動いていた。少女の涙か皆勤賞か……。
ガターンッと音をたて、心の天秤は傾いた。
皆勤賞。
「さらばだ!」
「あぁ! 薄情者《はくじょうもの》です――っ!」
「誰が薄情者だ! こんな金がものを言う現代の日本でドル札だと!? 先に銀行、行ってこい!」
「その間、待っていてくれますか?」
「無論《むろん》、待たん!」
「そ、そんなに皆勤賞が大事なんですか?」
「ふっ、一般庶民《いっぱんしょみん》に皆勤賞の良さはわかるまい……休まないだけでくれるんだぞ? もらえるものはもらっておくべきだ」
「は、はぁ……」
どう見たって神名も一般庶民である。
「と、いうわけだ。俺《おれ》は急いでいるから、悪いが別の人を――」
探《さが》してくれ――そう言いかけた言葉が青空に響《ひび》く鐘《かね》の音に遮《さえぎ》られた。
キーンコーン、カーンコーン。
「な、なに!?」
それは始まりの鐘であり、終わりの鐘。
澄《す》みきった空気の中を、駆《か》け抜《ぬ》けるように聞こえる音色に少女は耳を傾けた。
「あ、なんかいい音ですねー」
「だぁぁぁ――っ! 暢気《のんき》なこと言ってる場合か!」
「きゃあ! 耳元で叫《さけ》ばないでくださいっ!」
彼女は耳を塞《ふき》いでその場にうずくまる。
しかし、そんなことは今の神名にはどうでもよかった。
どうやっても遅刻《ちこく》という現実の波が彼の頭を津波《つなみ》のように襲《おそ》う。自転車でも一分はかかる距離《きょり》を、鐘の音が鳴り止《や》む前に教室に入るなど絶対《ぜったい》に無理だった。
「あぁ、ま、まさか……そんな」
神名は自転車から降《お》りて学校の方角を見つめる。そちらから鳴り響いていた鐘の音は無情《むじょう》にも鳴り止み、神名は力なくその場に膝《ひざ》をついた。
「バカな……俺の皆勤賞が……」
さようなら皆勤賞。さようなら現金。さようなら学食のスペシャルBランチ。
今、終わったのだ。長い一年間と十か月の苦労が……。一筋《ひとすじ》の滴《しずく》が神名の頬《ほお》を伝って流れ落ちた。
「あー、いい音でしたねぇ。ここら辺では毎日、あの音が鳴るんですか?」
謎の少女は奇妙《きみょう》なことを言った。
今のが学校の始まりを知らせる鐘の音であることを、まるで知らないみたいだ。
「……あぁ」
「そうなんですか。なんだか、こう、身を引き締《し》めてがんばろうって思える感じですね!」
「……あぁ」
「じゃあ、とりあえず手伝ってくださいね?」
「……あぁ」
「…………」
地面に両手をついている神名を見下ろし、謎《なぞ》の少女は微笑《ほほえ》んだ。
「契約《けいやく》成立です」
「詐欺師《さぎし》か、お前は!」
出せる限界《げんかい》量の声で叫ぶ神名だったが、謎の少女は「わーい」と両手を上げて喜んでいた。
まったく人の話を聞いてない素振《そぶ》りを見せる彼女に、神名は仕方なく立ち上がった。
「……まぁ、いい。こうなったら意地でもお前からその金をもらうからな」
かなりダメ人間の台詞《せりふ》――もはや行く意味を失った学校の授業《じゅぎょう》は忘《わす》れ、神名は目先の利益《りえき》に走ることにした。
「手伝ってくれるなら喜んで」
「うむ。で、一体、何を手伝えばいいんだ?」
すると彼女は少しうつむいて静かに言った。
「――実は私、今日初めてここへやってきたんですけど、来る途中《とちゅう》で大事な物とはぐれてしまったんです……」
「大事な物と……はぐれた?」
物とはぐれる――普通《ふつう》ならばそんな言い方はしない。
「とりあえずそこは気にしないでください」
「うむ、わかった」
かなり不自然だったが、神名はあえて彼女の言葉をさらりと聞き流した。
今の自分にはおそらく関係ない……はず。
「で、その大事な物ってのを探《さが》せばいいのか?」
「はい」
「ふーん。で、大事な物って何なんだ?」
「ええっと、このぐらいの大ききで、卵《たまご》みたいな形をしていて、黄色い輪が付いていて、白くてふわふわです」
彼女がこのぐらいと言った大きさは三〇センチほどもあった。
卵みたいな形。で、白い。
「ダチョウの卵だな!」
自信満々で神名は断定《だんてい》した。
「ぜんぜん違《ちが》います! 私の大切なものなんですから! ちゃんとおしゃべりも出来るんですよ!?」
「――話すのか? 卵が?」
「はい」
「……孵化《ふか》寸前《すんぜん》の卵?」
「さっさと卵から離《はな》れてください」
急に彼女の視線《しせん》が冷たくなったので、神名はとりあえずまともに考え始めた。
「んー、じゃあ、一体何なんだ? 最新型のおしゃべりアイテムか?」
「そうですね、そんな感じです。ちょっと違いますけど」
「……なんか引っかかる言い方だな。そもそも黄色い輪というのが、いまいちわからん」
神名は彼女の挙げた特徴《とくちょう》に首《くび》をひねった。
白い卵。ふわふわ……ということは柔《やわ》らかいものなのか?
「一目見れば、『あー、なるほどー』って思いますよ」
そう言いながら誇《ほこ》らしげに彼女は笑った。
神名もそんなものかと深く考えるのを止める。特徴はいろいろあるのですぐにわかるだろう。
「まぁ、いいや。で、それを無くした場所の見当とかはつかないのか?」
「初めに言いましたけど、私、この街は初めてなんです……」
「要するにさっぱりわからんということだな」
「そうです。困《こま》りました……」
「確《たし》かに困ったなぁ……で、とりあえず前金はいくらくれるんだ?」
は? と一瞬《いっしゅん》、聞き返しそうになる少女だったが、神名の目は本気モードだったので仕方なく、
「……成功|報酬《ほうしゅう》ってことじゃダメなんですか?」
「愚《おろ》か者。人生はそんなに甘くないぞ」
「うぅー、じゃあ一〇ドルで……」
「うむ、よかろう。これでいつでもおさらばできるな」
「それは詐欺です――っ!」
「痴《し》れ者《もの》が! これが人生だ!」
「ええぇっ? さっき私を詐欺師|呼《よ》ばわりしたばっかりなのに……」
ガクッと肩《かた》を落とす少女だったが、そんな彼女をよそに神名はさっそく動き出した。
道で落とし物をしたら、まずは警察《けいさつ》だ。
「交番には行ってみたか? もしかしたら誰《だれ》かが届《とど》けてくれてるかもしれないぞ?」
「あ、はい、行きました。でも、そんな物は預《あず》かってないって……」
「そうか……大体の場所もわからないとなると、かなり難《むずか》しいな……。とりあえずお前が今日、歩いてきた道を戻《もど》ってみるしか――」
ビューン。
と、そのとき目の前を何かが通り過《す》ぎた。
三〇センチぐらいで、丸くて、黄色い輪が見えたような見えなかったような……。
「あ、あれです――っ!」
「なんだとっ!?」
その声に神名は慌《あわ》てて彼女が指差した方向を見た。大きな卵の下に輪のついた謎《なぞ》の飛行物体が高速で過ぎ去っていく。
その奇怪《きかい》なモノを見た神名は、
「んー、あれは無理」
「諦《あきら》めるの早っ!」
「だって飛んでるんだぞ!? どうやって飛んでるんだ、あれ! 魔法《まほう》か!? それとも反重力システムか!?」
「ええっと……たぶん、危《あぶ》ない電波です」
「マジで!?」
「というか、そんなことはどうでもいいですから、とにかく捕《つか》まえてくださ〜い!」
「……んー、前金ももらったしな……よし! いいだろう!」
怪《あや》しい飛行原理は無視《むし》。
言うが早いか神名は颯爽《さっそう》と自転車にまたがり、卵の消えた方向に自転車を向けた。
「早く乗れ! 追いかけるぞ!」
「は、はい!」
神名は彼女が後ろに乗り、自分の肩を掴《つか》んだのを確認《かくにん》して、猛《もう》スピードで自転車を発進させた。
謎の卵はかなりの速さで飛んでいたが、報酬を目の前にした神名の敵《てき》ではない。極限《きょくげん》の脚力《きゃくりょく》でペダルをこぎ、ぐんぐん近づいた。
「おい! それで、どうやってあれを捕まえるんだ!?」
追いかけながら、神名は謎の物体を捕《と》らえる術《すべ》がないことに気付いた。あちらは止まってくれそうもない。すると後ろにいる少女は、
「綱《あみ》で!」
「んなものあるか!」
目標は飛んでいる。彼女の言う通り、ここに綱でもあれば捕まえるのも容易《たやす》いが、手元にあるのは鞄《かばん》に教科書、筆箱ぐらいだ。
やはりここは素手《すで》しかない。だが、自分は自転車を運転中だ。これだけのスピードを出している中、手放し運転は危険《きけん》だろう。
となると……
「――最高速で奴《やつ》に近づき、寸前《すんぜん》のところで飛びかかる! これしか手はないな!」
「えっ? 飛ぶんですか?」
「そう、飛ぶんだ」
「……あー、えっと、誰がですか?」
「お前が」
「ええぇぇ――っ!?」
「目標はすぐそこだ! 飛べ!」
「イ、イヤです――っ!」
「いいから、飛べ! 自分の身に起こる災厄《さいやく》は飛んだ後で考えろ!」
「無理です――っ!」
神名の作戦を彼女は完全|拒否《きょひ》。
確かに少し危《あぶ》ないかなぁとは思ったが、何より生活費を稼《かせ》ぐためである。なんとしてもあの卵(らしきモノ)を捕まえなくてはならない。
「くっ、仕方がないな。じゃあ、俺が飛ぶ!」
「えっ!? 本気ですか!?」
「まかせておけ! この俺の実力を見せてやろう!」
神名は限界だったはずの自転車のスピードをさらに上げた。通学の相棒《あいぼう》がギシギシと各所から悲鳴を上げるが、謎の卵を射程《しゃてい》内に捉《とら》えることができた。そこで神名はハンドルから手を放し、ペダルを蹴《け》って空に舞《ま》う。
「とうっ!」
鮮《あざ》やかすぎる跳躍《ちょうやく》。体操《たいそう》選手も真っ青なフォームで華麗《かれい》に神名は飛んだ。
飛行する白い卵の上空から落ちるように接近し、その両腕を広げる。
「ふっ、俺から逃《に》げられると思うなよ……」
金に目が眩《くら》んだ瞳《ひとみ》で神名は謎の卵へ急|降下《こうか》した。完壁《かんぺき》に捕《と》らえられるコースでその腕を伸《の》ばし、彼はついにそれを掴《つか》んだ。
「よしっ!」
神名は空中で一回転すると鮮やかに着地してみせ、余裕《よゆう》の表情《ひょうじょう》で脇《わき》に白い卵らしきものを抱《だ》きながら立ち上がった。
「どうだ? この俺にかかれば、ざっとこんなもんだ……」
青い空と静かな朝日を背《せ》に神名の笑顔《えがお》が輝《かがや》く。
だが、
「あの〜! これはどうしたら止まるんですか〜っ!?」
「あ……」
少女は自転車の荷台に乗ったまま、完全に操縦不能《そうじゅうふのう》で目の前を通り過ぎて行った。
それからすぐにガチャーンという痛々《いたいた》しい音が響《ひび》いて自転車が止まる。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》か!?」
慌《あわ》てて神名は少女の所に駆《か》け寄《よ》った。
「うぅ……な、なんとか……」
派手《はで》なコケ方だったのでどこかを打ったのか、彼女は痛そうな表情を浮かべる。だが幸い彼女に怪我《けが》はなかったようだ。
「ふぅ、良かった。お前に何かあったら大変だからな……」
「え? は、はい。ありがとう、ございます……」
思っていた以上に彼が心配そうな表情を浮かべていたので、少女は少し照れながら笑顔を見せた。
神名もそれにつられてニッコリ笑い、
「本当に良かった……お前にもしも何かあったら、明日からの通学がどれだけ不便になるか想像《そうぞう》もできないぜ……」
と、優《やさ》しく自転車を撫《な》でた。
「って自転車ですか!?」
「何を言う! こいつは今まで俺と共に二年近くもの間、皆勤《かいきん》賞のために苦楽を共にした相棒だぞ!?」
「私、頭を打ったんですよ――っ!? 痛かったんです! ちょっとぐらい心配してくれてもいいじゃないですか!?」
「だから、お前が飛べって言っただろ」
「うぅぅ……」
神名には何を言っても通じないと悟《さと》ったのか、少女はカクッと肩《かた》を落とす。
「それよりも、ほら。捕《つか》まえてやったぜ、卵」
そう言って神名は謎の卵を少女に差し出した。白くて黄色い輪の付いた卵……の形をした何か……。なんとも不思議なのは黄色い輪は付いているというより卵の側で浮いている状態《じょうたい》に近いということだった。地面に置けば輪が台座《だいざ》になりそうな感じだ。
それを見た少女はパッと笑顔を取り戻《もど》し、嬉《うれ》しそうに受け取った。
「わぁ、ありがとうございます!」
「ふっ、人助けと思えばこのぐらいなんでもない。ってことで残りの報酬《ほうしゅう》を」
「……なんだか言っていることが矛盾《むじゅん》している気がするんですけど……」
「気のせいだ」
とりあえず約束は約束なので、少女は神名に残りの二〇ドルを手渡《てわた》した。
ドル札の枚数《まいすう》を確認《かくにん》しつつ、神名は白い卵《たまご》に視線《しせん》をを落とした。
「なぁ、確《たし》かに白い卵みたいで黄色い輪はついてるが、どこがふわふわなんだ?」
「え? ふわふわ飛んでるから……」
「それを先に言え!」
こんな小型なものが空を飛んでいたことはすでに無視。しかもふわふわどころか猛《もう》スピードだったのだが……。
少女は白い卵に向けて話しかけた。
「ベルちゃん、大丈夫ですか?」
『うー、鳥に……なれ、そう……』
それはとても小さい声で、辛《かろ》うじて少女に聞こえる程度《ていど》のものだった。だが、持ち主の少女はどこか困《こま》ったようた表情を浮かべる。
「なんだ? どこか壊《こわ》れたのか?」
「まぁ、いろいろな意味で……でも、放っておけば治《なお》ると思いますから」
今度は額《ひたい》に汗《あせ》を浮かべる少女。だが、これ以上は神名にできることはない。
「そうか――まぁ、いい。じゃあ、達者《たっしゃ》でな」
「あ、待ってください! 逆《ぎゃく》に一つ教えてほしいことがあるんですけど……」
「ん? なんだ?」
「あなたは綾月第一高校の人ですよね?」
その少女は神名の服装《ふくそう》を見ながらそう言った。神名が着ているのは藍《あい》色のブレザーとチェックのズボンで、汗をかくほど動いた後だが、ビシッと着こなしていた。
「ああ、そうだけど……」
「あのですね、実は私、この街にある人を捜《さが》しに来たんです」
彼女は捕まえた卵らしきものを腕《うで》に抱《かか》え――
「あなたと同じ高校に通っているはずなんですけど、<<天倉神名>>っていう人を知りませんか?」
と、聞き覚えのある名前を口にした。
その少女の言葉に、
「知らんな」
と、神名は即答《そくとう》した。
「そうですかぁ。残念です」
「なんだか知らんが、頑張《がんば》って捜せよ。じゃあな」
「あ、待ってください! まだあなたの名前を聞いていませんでした。私の名前は<<ナギ>>って言います。あなたは?」
「いや、気にするな。どこにでもある名前だから」
そう言って彼は自転車でその場を離《はな》れようとする。
「いえ、そういうわけには……って、ここに書いてあるじゃないですか」
と、少女は自転車のフレームに貼《は》られたシールに気がついた。
高校名と名前の記載《きさい》されたシール。自転車通学の者はこのシールを貼った自転車で通学すること、というのが校則《こうそく》だ。
「ええっと……<<天倉神名>>さん……あれ?」
「じゃ、そういうことで!」
「あ、あれ? ちょ、ちょっと待ってください!」
だがすでに神名の自転車はトップスピードになっていて、みるみるうちに遠ざかっていく。
「待ってくださ〜い! 天倉さ〜ん、天倉さ〜ん!」
遥《はる》か後ろで自分を呼《よ》ぶ声がしたが、神名は完全無視で走り去った。
ここで止まると何かがまずい……そんな気がして。
○
「あぁ、なんてこった……あとちょっとだったのに……」
手の届《とど》かなくなった皆勤《かいきん》賞を悔《お》しみながら、学校へたどり着いた神名はのろのろと教室へ向かっていた。
すでに一時間目が始まっている時間なので教室には入りづらい。
廊下《ろうか》にはもちろん誰もおらず、不思議な静寂《せいじゃく》に包まれている。授業《じゅぎょう》中の廊下がこんなに静かなものだったとは知らなかった。遅刻《ちこく》知らずの神名にとっては当然だが……。
しかし自分の教室に近づくにつれ、一つだけ微《かす》かにざわめきの聞こえる教室があった。
授業中にしてはやけに騒《さわ》がしい。
「って、俺《おれ》のクラスか?」
廊下の突《つ》き当たりにある教室は二年一組。神名の教室だ。
「! もしかして……」
神名は希望を見つけたように目を輝《かがや》かせ、教室に急いだ。
この時間帯で教室が微かに騒がしい……ということは、まさか――。
神名はガラガラと勢《いきお》いよく教室の扉《とびら》を開けた。
教卓《きょうたく》に教師《きょうし》の姿《すがた》がない。生徒は席に着いてはいるものの、周りにいる友人たちと会話に花を咲《さ》かせている最中だった。まっさらの黒板には「自習」の文字。
「やっぱり自習か!」
「やぁ、神名。珍《めずら》しく遅《おそ》かったね」
クラスメートの一人がやってきた神名にそう声をかけてくる。
優《やさ》しそうな笑顔《えがお》でこちらに手を振《ふ》っているのはが小川《おがわ》祐司《ゆうじ》。彼は神名の親友であり、幼馴染《おさななじみ》というやつだった。
「よっ、祐司! 先生は?」
「見ての通り。今日は自習だってさ。ついでに言うと芹沢《せりざわ》さんも職員《しょくいん》室に行ってるからホームルームもなかったよ」
「なっ!? ほんとか!」
祐司の言う芹沢さんとは、このクラスの学級代表のことだ。
「うん。おかげで出席|確認《かくにん》もしてない。つまり、君の皆勤賞はまだ無事だ」
「よし!」
そう言って神名は小さくガッツポーズをとった。
一時間目の授業は古典で、担当の教師は神名のクラスの担任《たんにん》でもある。一時間目が自習だった時点で、ホームルームがないことはなんとなく予想がついた。
神名は微かに涙《なみだ》ぐみ、
「まだ俺の夢《ゆめ》は続いているんだな……」
「……否定はしないけど、なんとも小さい夢だね」
「ほっとけ。で、先生はなんでいないんだ?」
「さぁ? 風邪《かぜ》らしいけど……よくわからないな。それより珍しいね、まさか君が遅刻なんて……」
皆勤賞を取るだけあって、神名は今まで遅刻回数、欠席回数、共にゼロだ。だが、今日に限《かぎ》って寝坊《ねぼう》した上、行き道で変な少女を助けていたのでこんな時間になってしまった。
神名は朝の出来事を思い返しながら、呟《つぶや》くように言った。
「……まぁな。朝、学校前の上り坂で妙《みょう》なやつに声をかけられてな……」
「妙なやつ?」
「うちの制服《せいふく》着てたんだけど、見たことないやつだった……」
「まぁ、学年が違《ちが》えばほとんど誰《だれ》だか分からないからね……転校生かもしれないけど」
「こんな時期にか? 確《たし》かに三学期は始まったばっかりだけど……」
すると祐司は少し興味《きょうみ》を持ったようで、クスっと笑って続けた。
「男子? 女子?」
「女子だった」
「へぇ。可愛《かわい》い人だった?」
「そうだな……」
すると祐司の目は明らかに輝いて神名を見つめた。
「なるほど。で、君はそんな女の子と朝から何してたんだい?」
祐司の目はどこか期待するような眼差《まなざ》しだったが、残念ながら彼の期待しているようなことは何もない。神名はさらりとありのままを話した。
「別に何もないぞ。落とし物を一緒《いっしょ》に探《さが》してくれと頼《たの》まれたから有料で承諾《しょうだく》した」
「……鬼《おに》だね、君は」
「金を払《はら》うと言ったのはあっちだぞ? もらえるものはもらっておくべきだ」
神名のいつもの口癖《くちぐせ》に、祐司は苦笑《くしょう》しつつ応《こた》える。
「相変わらずだね……それで、その女の子はどうしたの?」
「その辺に置いてきた」
祐司は神名の予想を超《こ》える返事に眉《まゆ》をひそめた。
「え? どうして?」
「落とし物を見つけてやった後に『天倉神名っていう人を知らないか?』って言われてな。なんか、ものすごくイヤな予感がした……」
「へぇ、面白《おもしろ》いじゃないか。道端《みちばた》で困《こま》っていたところを君が助けて、その君が彼女の捜していた人物だったなんて、まるで運命の出会い?」
「アホか。そんな都合のいいことがあってたまるか」
「どっちにせよ、置いてきたのはヒドイと思うよ?」
「そうですよ。置いて行くなんてヒドイです……」
すると突如《とつじょ》、神名の後ろから声がした。
さっきまで耳にしていた声に神名はハッとなって振《ふ》り返る。
後ろで二つに分けた髪《かみ》。整った少女の顔。先ほどまで話していた少女がいつの間にかそこに立っていた。
「なっ!? いつの間に!?」
「今、来たところです」
確かナギと名乗っていた少女は、ニッコリと微笑《ほほえ》んで神名を見つめた。
その神名はまず、彼女の足元を見て――それから辺りを見回した。
「お前、何処《どこ》から入ってきたんだ?」
そう言ってナギの足元を指差す。彼女はなんと靴《くつ》を履《は》いたままだった。
「え? 窓《まど》ですけど……」
「ここ三階だぞ」
冷たい風が二人を撫《な》でる。
神名は彼女が壁《かべ》を這《は》い登る姿《すがた》を連想しようとしたが、ちょっと怖《こわ》くなって止《や》めた。
そこへ祐司が話に割《わ》り込《こ》んでくる。
「神名、その可愛い子は誰なんだい?」
突然|現《あらわ》れた少女に祐司は興味|津々《しんしん》の眼差し。気がつけば祐司の言葉を聞いたクラス中の生徒がこちらを向いていた。
神名はその状況《じょうきょう》に一瞬《いっしゅん》顔を引きつらせたが、すぐに平静を装《よそお》った。自分も彼女が誰なのか詳《くわ》しくは知らないのだ。とりあえず――
「窓から来た自称《じしょう》、宇宙人《うちゅうじん》だ」
と紹介《しょうかい》した。
「私、そんな自称してませんよ!」
「あー、そうだっけ? なんかお前の説明をしようにも、よくわからなくて……」
「わからなかったら誰もが宇宙人なんですか?」
「UMA(未確認生物)のほうが的確だったな……」
「うぅ、違うのに……」
「おーい、神名〜! 質問《しつもん》に答えろ〜」
祐司の後ろでクラスメートが「そうだ、そうだ」と後押《あとお》しする。神名はこういうことにはすぐに一致《いっち》団結《だんけつ》する自分のクラスメートたちにいろいろな意味で感心しつつ、無視《むし》してナギの側に寄《よ》ると小声で話しかけた。
「で、こんなところに何しに来たんだ?」
「天倉さんが逃《に》げちゃうから追いかけてきたんですよっ」
彼女はぷくっと頬《ほお》を膨《ふく》らませると神名を睨《にら》んだ。
だが神名はさも当然のように、
「あれは逃げたんじゃない。戦術《せんじゅつ》的|撤退《てったい》だ。俺の意思が今すぐお前の前から立ち去れと告げていたのだ……」
「迷惑《めいわく》な意思ですね」
「意外に当たるぞ、俺の直感」
それはさておき神名は話を元に戻《もど》す。
「――で、もう一度聞くけど何しに来たんだ?」
「ええっと、とにかく天倉さんにお話があってきたんです……」
真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しを浮《う》かべるナギ。神名は仕方なく頷《うなず》いた。
祐司も隣《となり》に並《なら》び、
「よし、聞こう」
「お前じゃねぇよ」
「いいじゃないか。僕《ぼく》にも聞かせてくれよ」
「うるさい、うるさい!」
神名はあっちに行けと祐司を追い払《はら》うと、少女の手を取った。
「こっちだ。こんなところじゃ落ち着かないから屋上に行くぞ」
「あ、は、はい!」
今来たばかりだというのに、神名はガラガラと扉《とびら》を開け教室を出た。そのまま階段《かいだん》へ向かい、上に行くかと思わせて下へ向かう。
「あれ? 屋上じゃないんですか?」
「屋上だと祐司たちは絶対《ぜったい》、覗《のぞ》きに来るからな。フェイントだ」
下駄《げた》箱《ばこ》で靴に履き替《か》え、神名たちは裏門《うらもん》からこっそり学校を出た。
朝、登った坂道を下り、通学路を家の方まで戻る。
その途中《とちゅう》にある公園――バイト帰りにいつも通るこの公園で神名は足を止めた。
「よし、ここまで来れば大丈夫《だいじょうぶ》だろ」
公園の広場。端《はし》には滑《すべ》り台やブランコなどの遊具があり、その脇《わき》には三輪車が置き忘《わす》れられていた。砂場《すなば》には小さなスコップもある。
この公園は小さな森に囲まれていて、聞こえるのは木々のざわめきだけ。通勤《つうきん》、通学の時間が過ぎた今ごろならこんなものだろう。
「遠くに来すぎじゃないんですか?」
「あいつらを甘《あま》く見るなよ。それに盗《ぬす》み聞きされるのは嫌《いや》だしな……で、お前の話っていうのは?」
「ええっと、なんとなくわかりませんか?」
そう彼女が言ったので、神名は少し首《くび》をひねる。
「……ドル札なら返さんぞ」
「あれはもういいですよ。お礼はお礼ですから」
そう言って彼女は苦笑《くしょう》する。
ではなんだろう? 彼女とは朝初めて会ったばかりで、それぐらいしか思い当たることはないのだが……。
いや、それよりも、
「……だいたいお前は一体、何なんだ? 変な卵《たまご》は持ってるし窓《まど》から入ってくるし、それに俺の名前……どこかで会ったことがあったっけ?」
神名は自分の名を知る少女を見つめる。彼女を見ていると、何か大切なことを忘れている気がしてならなかった。だが、同時に思い出したくない気もする。
「そうですね……ではまず、最初の質問《しつもん》にお答えしましょう!」
すると彼女は誇《ほこ》らしげに胸《むね》を張《は》り、堂々と神名に告げた。
「私の名前はナギ。天界より遣《つか》わされた、第十三死天使機関|所属《しょぞく》の<<死神>>なのです!」
ど〜ん! そんな効果《こうか》音が鳴りそうな背景《はいけい》を背《せ》に、少女は不敵《ふてき》に笑った。
「……は?」
あまりに突拍子《とっぴょうし》もない話とツッコミどころの多さに神名は困惑《こんわく》した。
「死神?」
「はい、そうです」
「……どのへんが?」
「どのへんがと言われても……とりあえず事実なのです」
「あー、そう……」
「あれ? 驚《おどろ》かないんですか?」
「いや、どこで驚くか迷《まよ》っているところだ」
神名がそう言うとナギは目を輝《かがや》かせて、
「それはもちろん、私が<<死神>>ってところです!」
「宇宙人《うちゅうじん》じゃなかったのか……」
「だから違《ちが》います――っ!」
ナギが大声でそう叫《さけ》んでいると、
『ナギ、ふざけるのはそれぐらいにしておけ』
神名とナギ以外は誰もいない公園で、誰かの声がした。
「な、なに?」
慌《あわ》てて神名が辺りを見回すが、やはりそこに人影《ひとかげ》はない。しかしナギはその声と会話を始めた。
「……あ、ベルちゃん、ようやく正気になったんですね?」
『……まったく、ひどい目に遭《あ》った……まさか異《い》空間《くうかん》に放り込まれて地上に下ろされるとは……それよりナギ、どうして最初からこいつに事情《じじょう》を説明しなかったんだ? こいつが<<天倉神名>>なのはわかっていただろう?』
「昨日は周りが暗くて、天倉さんの顔がよく見えてなかったんですよ……彼が天倉さんだとわかっていたら、私だって初めからそうします……」
いつの間にか、ナギは小脇に白い卵のようなものを抱えていた。朝、神名が捕《つか》まえてやったあの卵だ。
「ま、まさか、こいつ? ホントに喋《しゃべ》ってるのか?」
そういえば彼女は「お話ができる」と言っていた。そのときの神名は言葉が話せるモノだと想像《そうぞう》していたが、まさか対話できるモノだとは夢《ゆめ》にも思っていなかった。
「そうですよ。私のパートナーの<<ベルちゃん>>です」
『よう、少年。昨日は災難《さいなん》だったな』
「昨日?」
卵が喋っている時点で驚きだが、その「昨日」という言葉に神名の中で何かが引っかかった。昨日――自分の中にある記憶《きおく》の中で、彼女やこの卵に会った覚えはない。ということは昨日の夜、すっぽり抜《ぬ》けている記憶は……。
「とりあえず天倉さんに昨日の記憶を返しておきましょう。今のあなたには必要でしょうから」
ナギはそう言って神名の額《ひたい》に手を触れた。それに驚くより早く、不思議な感覚が神名を襲《おそ》った。柔《やわ》らかな指の感触《かんしょく》と光が、記憶となってゆっくり神名の中に入ってくる。不快《ふかい》ではなかった――どちらかというと心地《ここち》良いと思ったぐらいだ。
「実はですね、天倉さん……あなたは昨日、死にかけていたのです」
普通《ふつう》ならば衝撃《しょうげき》的な言葉を、神名はすんなり受け入れられた。
「あ、ああ……思い出してきた……」
バイトを終え、その帰り道にこの公園を通った。
そのとき頭上から何かが落ちてきて……自分にぶつかった。痛みを通り越した衝撃に自分は死を覚悟《かくご》したのを覚えている。
「私たちはその天倉さんを手当てしました。ですが……どうやら天倉さんは元々あの場所で死ぬ予定だったらしく、あなたはイレギュラー化してしまったみたいなんです」
すべてを思い出した神名は彼女の言葉に首をかしげた。
「イレギュラー化? なんだ、それ?」
『魂《たましい》の輪廻《りんね》から外れた者――死ぬはずだった人間が、何らかの理由で死なずに生き続けたりすることだ。お前は昨日死ぬはずだった……しかし我々《われわれ》が助けてしまったために生きている。つまり、それでお前は<<死ぬはずだった人間>>――<<ソウル・イレギュラー>>になってしまったというわけだ』
卵、もといベルちゃんが神名の質問にそう答えた。
「俺《おれ》が死ぬはずだったっていうのか?」
「はい。その通りです」
「そんな話が信じられるか!」
だが、彼らを見ていると完全に否定《ひてい》はしきれなかった。自分の記憶を消したり元に戻《もど》したりしてみせ、ベルが飛び回っていた様子はしっかり見ていた。そして昨夜、頭に受けた強い衝撃。確《たし》かにあれではどんな人間だって死んでしまうだろう。
「……俺があの落下物に当たって死ぬはずだった?」
しかし、ナギはそうではないと首を横に振《ふ》った。
「いえ、正確《せいかく》にいうとそれは関係ないです」
「え?」
「あれが落ちてくる直前、天倉さんは何をしていたか覚えていますか?」
「何って……」
ご機嫌《きげん》で踊っていた。
動物の置物を乗り越え、置き忘《わす》れてあった三輪車を飛び越え、
「近くにあった石を蹴《け》ろうとして――」
「そう、そこです! 天倉さんは本来そこで石を蹴り、その反動で後ろに倒《たお》れた後、置き忘れてあった三輪車のサドルに頭をぶつけて死ぬ予定だったのです!」
「死ねるか――っ!」
神名は額に触れていたナギの手を払《はら》いのけて思いっきり叫《さけ》んだ。
空から何かが落ちてきて、それに当たって人が死んでもおかしくないだろう。だが、三輪車のサドルで死んだりしたら――。
「それじゃ、ただの笑い話にしかならんだろうが!」
「あはは、そうですねー」
「笑うなっつーに!」
「で、でも真実ですよー?」
「現実《げんじつ》じゃなくて幸いだ!」
「ま、まぁ、結局、<<エカルラート>>を見上げたおかげで死ななかった天倉さんですが、それを感知した<<エカルラート>>が自動的に天倉さんを魂の輪廻に戻そうとしてぶつかったと……そう考えられています」
神名は聞きなれぬ単語に再《ふたた》び首をかしげた。
「なんだ<<エカルラート>>って?」
「天倉さんにぶつかった落下物です。ベルちゃんと対《つい》を成すものでして、その<<エカルラート>>の回収《かいしゅう》も私の任務《にんむ》なんですよー」
「……なんで、その<<エカルラート>>ってやつがこんなところに落ちてきたんだ?」
「ええっと……私が落としたからです」
「お前か! お前のせいか!?」
神名がナギの首を掴《つか》みにかかる。
「わぁぁっ!? で、でも、でもですよ? 私が落とさなかったら天倉さんは死んでいたんですよ?」
「死ぬか!」
「ううぅ、だから死んでいたはずなんですよぉ……」
とりあえず神名は頭の中を大整理。
なるほど、どうやら自分は死ぬ予定だったらしい。しかも三輪車のサドルに頭をぶつけて……が、そうならなかったのは彼女が<<エカルラート>>というものを落としたからだ。空に光るその落下物に気付かず、自分が空を見上げなければ、今ごろかなり恥《はず》かしい死に方でこの世を去っていたらしい……。
だが結局、自分は死にかけた。
<<エカルラート>>の落下に伴《ともな》い魂の輪廻から外れた自分を、自動的に<<エカルラート>>が修正《しゅうせい》しようとしたためだ。で、落下物は見事、自分の頭に直撃……。
正直、自分でも死んだと思った。それを救ってくれたのが目の前にいるナギとベルだ。
「……なんとも変な話だな」
「そうですか?」
「だって、そうだろ? つまり俺は死神に命を助けてもらったわけだ」
どう考えても変な話だと神名は思った。
彼女のさらなる言葉を聞くまでは。
「でも、天倉さんの魂は今から回収させてもらいますよ?」
「はっ?」
「なんたって天倉さんは<<ソウル・イレギュラー>>ですから」
神名は少し考えて、
「……魂を回収ってことは……つまり?」
「はい、天倉さんにはここで死んでもらいます」
ナギはこちらに向かってにっこり微笑《ほほえ》んだ。今までで一番良い笑顔《えがお》で。
対して神名は開いた口が塞《ふさ》がらない。
「何ぃ――っ!? お前が俺を手当てしたんじゃないか!」
「あれは事情《じじょう》を知らなかったからですよ! 天倉さんが<<ソウル・イレギュラー>>になってしまった以上、放ってはおけません!」
「……回収ってやっぱり鎌《かま》か何かでするのか? 死神だし……」
そうだとしたら痛《いた》いのかなぁと考えながら、恐《おそ》る恐る聞いてみる。
「はい。これがそうです」
と、ナギはベルちゃんを指差した。
「その卵《たまご》が?」
『卵ではない。それに名前も<<ベル・フィナル>>っていうのがちゃんとあるんだ』
神名の言葉にナギの手の上でベルが反論《はんろん》した。
「あぁ、それでベルちゃんか……で、どこが鎌なんだ?」
「もちろん、これは仮《かり》の姿《すがた》です!」
ナギがそう告げた途端《とたん》、<<ベル・フィナル>>が淡《あわ》い光に包まれた。そのあと一瞬《いっしゅん》、眩《まばゆ》く光り、神名は思わず目を覆《おお》った。卵形の<<ベル・フィナル>>の下半分がスライドし、中から棒《ぼう》が現《あらわ》れる。ナギはその棒部分をしっかり掴み、神名に向けた。
「天倉さんの魂、ここで回収させていただきます――」
<<ベル・フィナル>>の本体部分がさらに光を増《ま》した。その光が新たな形となって<<ベル・フィナル>>の形状《けいじょう》を変化させる。だが、それは鎌というより――土を掘《ほ》り返すのに適《てき》した形だった。
「――この鎌で!」
<<ベル・フィナル>>を包んでいた光が消える。
こちらに向けられた棒状の物体に、神名は素直《すなお》な感想を述《の》べた。
「いや、それどう見てもスコップなんだけど……」
「そうスコッ……て、ええっ――っ!?」
思わずナギ本人も驚《おどろ》く。
だがそれはどう見ても鎌ではなくて、まぎれもないスコップだった……。
すると溜息《ためいき》まじりにベルが声を震《ふる》わせる。
『……こいつさ、今までこの私を一度も鎌にしたことないんだよ……ぐすっ』
「あぁ! ベルちゃん、本当のことを言っちゃダメですよ!」
『言いたくもなるだろ? 鎌は死神にとって力の媒介《ばいかい》であり、死神の力を増幅《ぞうふく》させる役割《やくわり》も果たす……それがスコップだぞ、スコップ! 鎌どころか武器《ぶき》ですらないじゃないか! スコップで魂|刈《か》り取る死神がどこにいる!?』
「ううぅ……」
「ガーデニングには便利だぞ、きっと」
『そんな運用方法されたくないから!』
神名の提案《ていあん》を完全|否定《ひてい》してから、ベルはなんとか気を取り直した。
『とりあえず、さっさとやろう』
「そ、そうですね……では天倉さん、さっくり死んでください♪」
語尾《ごび》にしっかり音符《おんぷ》マークをつけて少女がこちらを向く。
神名はさっくり死ぬつもりなど毛頭ないので、拳《こぶし》を握《にぎ》って身構《みがま》えた。
「あのな、だいたい死ぬはずだったと言われて『はい、そーですか』といくわけないだろ。その上昨日、俺はその落下物のせいで給料をだな……給料……?」
と、神名はようやく思い出した!
自分の中で最も優先《ゆうせん》すべきはずだったことを思い出したのだ!
「そういえば給料は!? 俺の給料! 風で飛んでいったの忘《わす》れてた――っ!」
「まぁ、夜の記憶《きおく》は消していましたし……」
「なんてことするんだ、お前は!」
「う……と、とにかく天倉さんには死んでもらいます!」
そう言った彼女は神名が思っていた以上のスピードでこちらに向かってきた。手にスコップを持っていながら、瞬《またた》く間に間合いを詰《つ》めてくる。
「くっ」
神名はあえて後ろには逃げず、横へと軸《じく》をずらしながら移動《いどう》した。
「たぁっ!」
一瞬前までいた場所にナギのスコップが振《ふ》り下ろされる。驚いたことに、その一撃《いちげき》はいともあっさり地面を陥没《かんぼつ》させた。
「ま、待て! なんだその威力《いりょく》は!?」
「なんといってもスコップですから……」
「どこがスコップだ!」
横振りされたスコップをぎりぎりのところで神名がかわす。続けて振り下ろし、袈裟斬《けさぎ》りと連続で繰り出される。その攻撃《こうげき》はどれもこれも一撃であの世行きだ……。
彼女の攻撃は速く、同時に的確《てきかく》だった。無駄《むだ》な動きは全くなく、こちらの行動の一歩先を読んで攻撃してくる。正直、かわすので精一杯《せいいっぱい》だ。だが、
「ぜ、ぜんぜん当たらないです……っ!」
『驚いた。まさか死神の動きについてくるとは……』
神名の動きもナギたちの予想を上回るものだった。
紙一重《かみひとえ》とはいえ、攻撃は当たらなければ意味がない。神名は巧《たく》みにナギの攻撃を回避《かいひ》していた。
「邪魔《じゃま》するな! 俺は給料を探《さが》しに行かねばならぬのだ!」
「残念ですが、天倉さんはここで死んじゃうので意味ないですよ!?」
「だから死なないって言ってるだろ!」
「死んでくれないと私、困《こま》るんですよ――っ!」
「大いに困れ!」
「ううぅ……」
さすがに息切れしたのか、ナギの動きが止まる。合わせて神名も間合いを取りつつ動きを止めた。こっちも息切れだ。
「任務《にんむ》失敗ってこともあるだろ? たまには」
「そ、そんな!? それだけは……」
任務失敗という台詞《せりふ》にナギの表情《ひょうじょう》が突然《とつぜん》青くなった。ぐっと拳を握り、微《かす》かだが身体《からだ》が震《ふる》えていた。
「それだけは避《さ》けなくてはなりません……っ!」
「? なんで?」
「この任務に失敗したら私……」
ナギは朝見せた泣きそうな表情を浮《う》かべてうつむいた。まるで戦意を喪失《そうしつ》したかのようにスコップを下ろし、うなだれてしまう。<<ベル・フィナル>>も何も言わず、黙《だま》って彼女の手に握られている。
「……失敗したら?」
重い空気に神名は問うた。
自分の知らない、彼女に課せられた何かが気になった。ナギにとって自分を殺すことにどんな意味があるというのか……。
神名の問いに、ナギはゆっくり口を開いた。
「失敗したら……私、チョコレート・パフェにされるんです……」
沈黙《ちんもく》。時が止まった。
錯覚《さっかく》だが、確《たし》かに辺りの時が止まって見えた。
神名はたっぷり十秒ほど考えてから、
「美味《うま》そうだな」
「なにが『美味そうだな』ですか! チョコレート・パフェですよ!? チョコ・パフェ! 確かに美味《おい》しいですけど、食べられる側になるなんて絶対《ぜったい》イヤですよ――っ!」
「俺だって死ぬのはイヤだ!」
「そんなのワガママです――っ!」
「どこがだ!?」
「天倉さんはここで死ぬ運命なのです!」
体力が回復《かいふく》したのか、ナギは再《ふたた》びこちらに向かってきた。どうやら諦《あきら》めるつもりはないらしい。
「ここはやはり……」
神名はナギを正面に捉《とら》え、拳を構えた。
『覚悟《かくご》を決めたか、少年!』
ナギとベルが迫《せま》る。
すると神名は方向|転換《てんかん》。全速力で走り出した。
「逃げる!」
「ああっ! ちょっと!?」
神名はナギの制止《せいし》を当然、無視《むし》して側にあった森に飛び込《こ》んだ。木々の間を通りぬけ、できるだけ木や茂《しげ》みが密集《みっしゅう》した場所を進む。公園を抜けたら住宅《じゅうたく》街だ。網目《あみめ》のように張《は》り巡《めく》らされた道を迷《まよ》うことなく走りぬけ、学校への通学路へと戻《もど》った。
そこでようやく神名は足を止める。
「まぁ、こんなものだろう……」
ナギはこの街を知らない。自分を追いかけるつもりで道に迷うだろう。
神名は呼吸《こきゅう》を整えながら近くにある橋の上まで歩き、手すりに腰《こし》かけた。ふぅっと一息ついてから辺りに注意を向ける。
しばらくして、全速力でこちらに走ってくる少女が見えた。
「お、意外に早かったな……」
「はぁ、はぁ……あ、天倉さんなら、絶対に学校へ戻るだろうと思いましたから……」
皆勤《かいきん》賞のために。
彼女の予測《よそく》どおり、神名はそのつもりだった。出会って間もないのに、神名の性格《せいかく》を理解《りかい》していたところは驚《おどろ》きだ。
「うむ、よくわかったな。で、まだ追いかけてくる気か?」
「と、当然です!」
ナギは肩《かた》を上下させて呼吸しながら神名を見つめた。走りやすくするためか、ベルは卵の状態《じょうたい》に戻っている。
「そうか……」
神名は手すりから降《お》り、ゆっくりナギに近づく。
「ならば!」
パシッ。
神名は目にもとまらぬ速さで彼女の腕《うで》からベルを取り上げた。
「なっ!?」
走って疲《つか》れているナギから、ベルを取り上げるのは思っていたより簡単《かんたん》だった。そしてすぐさま神名は無言でベルを橋の上から川へと投げ込んだ。
『うわ――っ!?』
「ああ――っ!?」
思わずナギは身を乗り出して川を見下ろした。ベルがパシャッと水面に落ち、みるみるうちに流されていく。『た、助けてー』と叫《さけ》ぶベルの声も遠ざかる。
「な、なんてことするんですか――っ!?」
「俺《おれ》はお前に構っている暇《ひま》はないのだ。皆勤賞のために学校に戻らなきゃならんし、給料も探《さが》さなくちゃならん! じゃ、そういうことで!」
神名はそう彼女に告げて走り出した。
「鬼《おに》――っ! 悪魔《あくま》――っ! 人でなし――っ!」
ナギが後ろから叫んでいたが、すでに神名は他人のふり。
彼は己《おのれ》のために走りだした。
○
夜。
「つ、疲れた……」
神名は自宅《じたく》のリビングにある椅子《いす》に座《すわ》ると、疲れで思わずぐったりとなる。
ナギを振《ふ》り切ったあとは学校へ戻り、午前の授業《じゅぎょう》を受けた。当然ながら、なくなった給料のことで頭がいっぱいで授業の内容《ないよう》はサッパリだ。
そして昼休みになった途端《とたん》、学校をこっそり抜《ぬ》け出して給料の捜索《そうさく》へ。公園の近くにある交番を訪《たず》ね、公園を通る人に片《かた》っ端《ぱし》から「俺の給料が入った茶|封筒《ぶうとう》を見ませんでしたか?」と尋《たず》ねて回った。
それでも神名の給料が入った茶封筒は見つからず、午後の授業を受けた後はバイト。さらにその後、再《ふたた》び公園へと向かったのだが、やはりない……疲労《ひろう》はすでに極限《きょくげん》状態だ。
「あぁ、俺の給料、どこに行ったのかなぁ……」
さんざん探したが見つからない。まだどこかに落ちているのか、それとも誰《だれ》かに拾われたのか……どちらにせよ、もう諦《あきら》めるしかない。
「もう、寝るか……」
はぁっと溜息《ためいき》をつき、明日も当然学校なので寝ることにする。リビングを出て、二階にある寝室《しんしつ》へ向かおうとすると、
ピンポーン。
来客を知らせるチャイムの音が鳴った。
「誰だ? こんな夜に……」
出前も頼《たの》んだ覚えはない。
「……まさか……」
神名がイヤな予感に襲《おそ》われた途端《とたん》、玄関《げんかん》のドアを叩《たた》く音がした。
「天倉さーん!」
聞き覚えのある少女の声に、神名は玄関まで猛《もう》ダッシュ。
カギはかけていない。祐司が夜でも時々やってきて、そんなときは勝手にあがってもらっているからだ。
「あ、なんだ、開いてるじゃないですか」
カギがかかっていないことに気づいたナギが、そっとドアを開ける。
「うおおおぉ――っ!」
ドアが十センチほど開く――その瞬間《しゅんかん》、神名はがっちりドアノブを掴《つか》んで引き戻し、カギをかけることに成功した。
「こ、この家は誰もいませんよ」
「いるじゃないですか、そこに! リビングの明かりも点《つ》いてますからバレバレです!」
「う……い、家まで来るなよ!」
「そ、それがですね、天倉さん、ちょっとだけ話を聞いてください……」
神名はとりあえず無視《むし》を続けるつもりだったのだが、彼女の声が急にか細くなったので聞いてみることにした。
「……なんだ?」
「私、三〇ドルしか持ってなかったんですよ! それを天倉さんに全部あげちゃったから、どこにも泊まれないんです――っ!」
「おぉ、それは大変だ」
「うわっ!? 信じてませんね!?」
「当たり前だろ。そう言って家に入ったら、俺のことを殺すつもりに決まってる!」
「ほ、本当なんですよ! そもそも魂《たましい》の管理局は夕方五時で閉《し》まっちゃうんです! だから夜は天倉さんを殺せないんですよ――っ!」
「公務《こうむ》員《いん》か、お前らは!?」
「ううぅ、だから助けてくださ〜い」
「俺は鬼《おに》、悪魔《あくま》、人でなしの三|拍子《びょうし》だから」
「ご、ごめんなさい! 謝《あやま》ります〜っ!」
「……信用できんな」
「ひ、ひどいです! 信じてください、天倉さ――ん!」
ドカドカと天倉家のドアを叩くナギ。
それからしばらくの間、近所|迷惑《めいわく》もかえりみず、ナギが玄関を叩く音と彼らの叫《さけ》び声が街の中に轟《とどろ》いた……。
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二つの市、山と海に四方を囲まれる街――綾月《あやつき》市。
中心区の近代的な街並《まちな》みに、自然もそのままに取り込《こ》んだ美しい都市だ。そのほぼ中央に位置しているのは蒼川《あおかわ》町。町を東西に走る蒼川という川が町名の由来だそうだ。
この町の住宅街《じゅうたくがい》に神名《じんな》の家はある。
小鳥が青い空を飛んでいる。彼が起きて最初に見たのはそんな光景だった。カーテンの隙間《すきま》から眩《まぶ》しい朝日がさしてくる。真冬でもやはり太陽は眩しくて、神名は微《かす》かに目を細めた。
「……朝か」
神名はゆっくりと身体《からだ》を起こし、窓《まど》の外を見る。
空は今日もいい天気だ。気分的なものだが、やはり天気が良いと気分も良い。朝日はすぐに神名の意識《いしき》を活性化《かっせいか》させてくれた。両腕《りょううで》を上に伸ばし、ゆっくり背《せ》伸びする。
「く〜っ、よく寝《ね》たなぁ。枕《まくら》を変えたからか? 実に快適《かいてき》な朝だ……」
そう言いながら新しい枕の感触《かんしょく》が確《たし》かめる。
仕事の都合で今は遠くに住む両親から届《とど》いた羽毛《うもう》の枕。二、三日前に届いたばかりで、とてもフワフワしている。実に――。
むにゅ。
「むにゅ?」
予想していたものと違《ちが》う感触が手に触《ふ》れて、神名は思わず振《ふ》り返った。
さらりとした長い髪《かみ》が神名の横にある。美しく整った彼女の寝顔。自分の手はその彼女の胸《むね》の上にあった。
「う、うわ――っ!?」
神名はいきなり大声で叫ぶとベッドから飛び退《の》いた。当然ながら、そのままベッドの上から転《ころ》がり落ちる。
「んん……?」
その声にゆっくりと彼女も目を覚ました。
どこから持ってきたのか、ナギはピンク色のパジャマ姿《すがた》で、目をこすりながら虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》でベッドの下にいる神名を見下ろした。
「あー、おはようございます、天倉《あまくら》さん」
「お、おはようじゃないだろ!? なんでお前がここにいるんだ!?」
そう聞かれた彼女は「はて?」と首をかしげた。目が半開きのところを見ると、どうやら完全に起きてはいないようだ。
「おーい、頭は起きてるか?」
どうやら朝に弱いらしい彼女は、ようやく頭の電源《でんげん》を入れて口を開いた。
「……私、リビングで寝かされていたんですよ?」
「だからどうした?」
昨日の夜。突然《とつぜん》、家に泊《と》めてくれとやってきた少女を神名は断固《だんこ》として拒否《きょひ》した。しかし彼女があまりに家の前で騒《さわ》ぐので、近所の住民に怒鳴《どな》られる前に彼女を家へ入れてやることにしたのだった。
ベッドは今、この家に一つしかない。両親の物は古くなっていたので、転勤《てんきん》に合わせて捨《す》ててしまった。
結果、必然的にナギはリビングのソファーで寝ることになったのだが……。
「どうしたって……夜中を過《す》ぎたらすごく寒くて……とりあえずもう一枚《いちまい》毛布《もうふ》を借りに来たんです。そうしたら天倉さんがベッドで一人、ぬくぬく寝ていたから……」
「だからって俺の布団《ふとん》に入ってくるなよ!」
「ええっと……えへへ」
神名に言われて今ごろ恥《はず》かしくなったのか、ナギが微《かす》かに照れる。そうなると神名も急に恥かしくなるもので、ふいっと視線《しせん》を逸《そ》らした。
「と、とりあえず早くベッドから出ろって」
「あ、はーい」
ナギも神名と同じようにベッドの上でぐぐっと背を伸ばした。
まったく……と神名は呟《つぶや》きながら、ナギから視線を逸らして時計を見た。時刻《じこく》は七時少し前――いつも通りだ。
ちなみにこの部屋には目覚まし時計がない。七時ごろに起きるのが習慣《しゅうかん》づいて、勝手に目が覚めるからだ。昨日はさすがにそれを過信していたと後悔《こうかい》したが……。
「とりあえず、さっさと用意しないとな……」
神名の通う綾月第一高校までは自転車で二十分ほど。それを考えても学校のホームルームが始まるまで一時間半以上ある。準備《じゅんび》に一時間もかからないが、朝はゆっくりしたいので余裕《よゆう》を持たせている。
すると、
「――では、泊めてくれたお礼に朝食を作りましょうか?」
まだベッドの上にいるナギが、突然そう言った。
「あ、朝メシ?」
思ってもいなかった彼女からの提案《ていあん》に、神名は驚《おどろ》いて聞き返した。
「はい」
頷《うなず》きながら微笑《ほほえ》むナギ。
まぁ、彼女がそう言うのなら断《ことわ》る理由もない。
神名は朝食と聞いて不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべた。
「ふっ、先に言っておくが俺は味に少々うるさいぞ?」
するとナギは後に退《ひ》くことなく、
「まかせてください。絶対《ぜったい》に美味《おい》しいって言わせてみせましょう!」
○
数十分後。
神名が学校へ行く用意やら着替《きが》えやらを済《す》ませてリビングに行くと、テーブルの上にはすでに料理が並《なら》んでいた。
「もうすぐできますから、座《すわ》っていてください」
キッチンからこちらを振《ふ》り返った彼女は、制服《せいふく》にエプロンをつけてフライパンを手にしているところだった。いつの間にか髪《かみ》も桜《さくら》色のリボンでまとめている。
「お、おう」
キッチンに人が立っているという光景に妙《みょう》な感覚を覚えつつ、神名は言われるままテーブルについた。神名は一人|暮《ぐ》らしで料理もしないため、キッチンを使うことはほとんどない。
目の前にはきれいに盛《も》り付けされたサラダと、少し熱めに淹《い》れられたコーヒーが置かれている。神名が飲む頃《ころ》には程《ほど》よい温度だろう。
置かれている食器は二人分。
こうやって誰かと朝食を食べるのは何年ぶりだろうか……。
『おはよう、少年』
と、斜《なな》め前から突然《とつぜん》声がした。見ると白い卵《たまご》のようなものが、四|脚《きゃく》あるイスの一つに座らされていた。
そういえば昨日、泊《と》めてやったのは一人ではなかった。
「おはよう。だけど俺《おれ》の名前は天倉神名だ」
『ん? ああ、そうだな、知っている。では神名と呼《よ》ぼう』
白い卵――死神の鎌《かま》であるベルは、神名の言葉にそう返した。
「じゃあ、俺もベルって呼ぶぞ?」
『かまわんよ。で、どうだ?』
「……何が?」
『この雰囲気《ふんいき》というか、情景《じょうけい》が、だ。まるで新婚《しんこん》夫婦《ふうふ》の朝のようじゃないか』
すると神名はベルを抱《かか》え、リビングの窓《まど》を素早《すばや》く開けた。
「飛べ」
『わぁっ! 待て待て! 冗談《じょうだん》だ! いやぁ、清々《すがすが》しい朝だな!』
そう言うとゆっくり神名が窓を閉めたので、ベルはふぅと安堵《あんど》の息をつく。いや、息はしていないのだが。
「できましたよ〜?」
ナギが後ろから神名を呼んだ。振り返ってみると、テーブルの上にはベルと話している間にトーストとオムレツが追加されていた。
見るからに美味《うま》そうな朝食を前に、神名はベルを元のイスの上に戻《もど》した。そのまま自分の席に座ると、反対側にナギも座る。
「じゃあ、いただきます」
「はい、どうぞ」
神名は右手に箸《はし》を持ち、準備|完了《かんりょう》。
まずは並べられた料理を見渡《みわた》してみた。盛り付け方も含《ふく》めて、見た目は完璧《かんぺき》と言っていいだろう。実に美味《おい》しそうだ。
(問題は味だな……)
ふと上目使いでナギを見る。彼女は神名が料理を食べるのニコニコしながら待っていをるようだった。一瞬《いっしゅん》、毒が入っていたらどうしようと考えたが、彼女を見る限《かぎ》りそんなふうには見えなかった。
(よし! 食べるぞ!)
神名は意を決してオムレツへ手を伸ばした。すっと箸を入れて一口サイズにすると、無言で口に運ぶ。もぐもぐ。
「……ぐっ――」
一口食べて神名の箸が止まった。
目を見開いてカタカタ震《ふる》えながら、改めて目の前のオムレツを睨《にら》む。
「あの……どうですか?」
味と神名が心配になってナギがこちらを覗《のぞ》き込んでくる。
すると神名は突然顔を上げ、
「美味《うま》い! 美味すぎる! こんな美味いものがこの世にあったとは!?」
と叫《さけ》びながら思わず席を立ち上がった。座っていたイスが後ろに飛んでいくほど、その味は衝撃《しょうげき》的だった。
嘘《うそ》や冗談ではなく本当に美味い。たとえようのないその味に神名は思わず棒立《ぼうだ》ちになった。
「ほら、美味《おい》しいでしょう?」
当然です、と付け加えながらナギが微笑《ほほえ》む。
今まで味わったことのない予想外の美味さに、神名は静かに呟《つぶや》いた。
「いや……予想では絶対《ぜったい》に食べられないものが出てくると思っていたんだが……」
どこか王道を期待する神名の目に、ナギが顔をしかめる。
「ひどいですねー。何が出てくると思ってたんですか?」
「そうだな……食パンに生き血と魂《たましい》を塗《ぬ》りこめた<<死神パン>>だとか、怪《あや》しい肉片《にくへん》と黒い野菜、赤いドレッシングの<<死神サラダ>>とか……」
「私を何だと思ってるんですか!」
「死神だろ?」
「かなり誤解《ごかい》していますよ!?」
「んー、そうみたいだな」
神名はイスに座りなおし、再《ふたた》び箸を動かし始めた。いつもなら朝食はパン一|枚《まい》にコーヒーでおしまいなので、今日の朝食は豪華《ごうか》といっていい。しかも美味い。神名はもくもくと箸を動かし続けた。
彼が食べ始めたのを見て、ナギも箸を手に取る。
『私にも一口』
と、イスに置かれた白い卵がそう言った。
「……お前、食べられるのか?」
もっともな質問《しつもん》を神名は投げかけた。
『――いや、お前たちみたいに食べることはできないが、間接《かんせつ》的に味わうことはできるのだ。食べている誰《だれ》かに持ってもらえれば』
「ほーう」
「じゃあ、私が持ちますね」
『ああ、頼《たの》む』
そう言ってベルを抱《かか》えるナギ。彼女がオムレツを食べるたび、ベルは『おぉ!? すごいな!』と言いながら、その味《あじ》を確かめる。
ナギはオムレツを食べた後、トーストには手を伸ばさずに一度席を立った。キッチンへ行くとすぐに戻《もど》ってきて、
「あとは食後のチョコレート・パフェですね!」
そう言ってテーブルの上にどんっとチョコレート・パフェを置いた。
「……今から食うのか?」
「もちろんですよ! あぁ、朝からチョコ・パフェが食べられるなんて至福《しふく》の時ですね!」
「太るぞ」
「私、死神ですから。太らないのです」
「都合のいい身体だな、おい……」
神名の言葉は無視《むし》して、ナギはスプーンを片手《かたて》にチョコレート・パフェを食べ始めた。
初めから用意してあったのか、綺麗《きれい》にトッピングされたそれを食べる彼女の様は、心底うれしそうだ。
神名は程《ほど》よい温度になったコーヒーを飲みながら、一息。だがすぐに再び食べ始め、無言でナギの料理を食べ続けた。
そして十分と経《た》たずに彼はテーブルの上の料理をすべて平らげてしまった。
「いやー、美味かった」
神名は満腹《まんぷく》になった腹《はら》に手を当てながらナギに感想を述《の》べる。
皿の上は綺麗に片付《かたづ》いていて、料理を作ったナギとしても嬉《うれ》しい。
「全部、なくなっちゃいましたねー」
「うむ。残すなんて勿体《もったい》無いしな。何より美味いから残す理由もない」
神名がそう言うとクスッとナギは笑った。
「ありがとうございます」
「代わりに今日も一日、お前にあのソファーを貸《か》してやろう」
その台詞《せりふ》にナギが表情《ひょうじょう》を変えた。
眉《まゆ》をひそめ、明らかに抗議《こうぎ》する視線を向けてくる。
「……普通《ふつう》、女の子をソファーに寝《ね》かせたりしませんよ?」
まぁ、もっともな意見だったが、対する神名はさも当然のように言い返した。
「何を言う。無料で俺の家のソファーを使えるんだぞ? 俺としてはかなり譲歩《じょうほ》したつもりだ」
「……ううぅ、天倉さんの鬼《おに》……」
ナギが上目使いで神名を非難《ひなん》するが、神名は気にとめた様子もなく、ふっと笑い飛ばしてしまった。
「……そういえば、例のなんたら管理局とやらはもう開いているのか?」
どうやらこの世界には魂《たましい》の管理局なるものが存在《そんざい》していて、そこが仕事をしていない間は神名を殺すことができないらしい。
「いえ、それが九時からなんですよね……ですがその時刻《じこく》になったら、すぐにでも天倉さんの魂を回収《かいしゅう》します」
そう告げた彼女は神名と同じ高校の制服《せいふく》を着ている。
「……お前、俺の学校に来るのか? やっぱり……」
「当然ですよ。そのためにわざわざ転入|届《とどけ》まで出しているんですから」
「なるほど……ふっ、だが残念だったな。九時といえばすでに授業《じゅぎょう》中――いくらお前でも簡単《かんたん》には手が出せまい!」
勝ち誇《ほこ》った表情で神名は笑う。さすがの彼女も、他のクラスからやってきて、授業中の神名を襲《おそ》うことなどできないだろう。
だが、笑《え》みには笑みを。神名の言葉に対して、ナギはふっと不敵《ふてき》に笑った。
「ふっふっふ……そこはしっかり計画|済《ず》みですよ……」
○
「皆《みな》さん、初めまして」
教師《きょうし》のいない朝のホームルーム。
教卓《きょうたく》の横で、ナギがこちらに向けてお辞儀《じぎ》している。
(まさか同じクラスだったとは……)
神名は頭を抱《かか》えて彼女の「しっかり計画済み」という言葉を思い出した。しかも彼女の席は神名の真後ろ。一番後ろだった神名の後ろに、さらに席が追加された形だ。これが当然といえば当然なのだが、ここまでくると見事としか言いようがない。
「ねぇ、神名。あの子は昨日の……」
隣《となり》に座《すわ》っている親友の祐司《ゆうじ》が小声で話し掛《か》けてくる。
他のクラスメートも何人かが神名を振《ふ》り返った。
「ああ、その通りだ……」
ナギのことは昨日の朝、皆も顔を見ている。
「てっきり他のクラスの子だと思ってたけど……転校生だったんだね」
「……みたいだな」
神名が前を見ると、黒板には白のチョークで彼女の名前が書かれていた。
風流凪《ふうりゅうなぎ》
死神である彼女には名字が存在しない。風流というのはナギの上司が付けてくれたものだそうだ。その際、名前の方も手ごろな漢字にしておいたらしい。
「本当は風流さんの自己《じこ》紹介《しょうかい》と、私たち全員の自己紹介をしたいところですが、あまり時間がないので質問《しつもん》形式にしましょう」
そう提案《ていあん》したのはクラスの学級代表――芹沢《せりざわ》サラ。髪《かみ》は肩口《かたぐち》で切り揃《そろ》えられ、美人ながらもどこか無表情な少女だ。
だが「満点以外の回答用紙を見たことがない」と言われるほどの才女でもある彼女は、生徒会の仕事を含《ふく》めた学校行事をそつなくこなし、クラスメートの相談にも親身になって乗ってくれる。ゆえに教師だけでなく、皆から絶大《ぜつだい》な信頼《しんらい》を得ている人物だ。
そんな彼女がこの場にいない教師の代わりに司会進行をやってくれている。担任《たんにん》の教師はインフルエンザだったらしく、しばらく学校を休むそうだ。
「風流さんもそれでよろしいですか?」
「あ、はい。質問があればどうぞ」
サラの言葉にナギも同意する。
すると一斉《いっせい》に発言|権《けん》を求めて挙手《きょしゅ》の嵐《あらし》が巻《ま》き起こった。
「はい、はーい!」
「質問! 質問!」
よほど聞きたいことがあるのか、全員どこか必死だ。
「芹沢さーん! 僕《ぼく》に質問させてください!」
その中で唯一《ゆいいつ》、祐司が立ち上がって手を挙《あ》げていた。
「……では小川《おがわ》君、どうぞ」
「ありがとう」
一番に発言権を手に入れた祐司は、一瞬《いっしゅん》だけ神名を見てから、
「で、単刀直入に言うと、神名とはどういう関係ですか?」
「おい、こら――っ!?」
同時に、祐司の質問を聞いたクラスメートたちが一斉に手を下げた。どうやら聞きたかったことは同じらしい。
昨日の朝に突然《とつぜん》やってきたかと思うと、すぐに神名と共に消えた少女。誰もが少なからずナギと神名の関係を気にしていたのだ。
暴《あば》れる神名は祐司が押《お》さえつけ、ナギは少し考えて口を開いた。
「ええっと……殺す側と、殺される側という関係です」
ざわっ。
思いもよらぬ言葉にクラス全員が一瞬、ざわめいた。
その言葉にさすがの神名も動きを止める。
(ま、まさか……こいつ……)
自分から死神と名乗るつもりなのか?
別の生徒が恐《おそ》る恐るという感じでさらに質問した。
「……どっちが殺す側?」
「私の方ですよー」
ナギの答えに思わず祐司たちは立ち上がった。
「意外だね……僕はてっきり神名かと思ったのに」
「そうだな。風流さんからって感じじゃなかったけど……」
「まぁ、それもありじゃない?」
物騒《ぶっそう》な話だったはずだが、クラスメートたちは「うんうん、とりあえず納得《なっとく》」という表情《ひょうじょう》を見せた。
「……お前ら意味わかってるのか?」
「要するに、初めて会った二人は風流さんの一目|惚《ぼ》れから始まったってことだよね?」
「なんだそれは!?」
「二人の馴《な》れ初《そ》め」
「話を勝手に幸せな方向へ歪曲《わいきょく》させるなよ!」
「何を怒《おこ》ってるんだい、神名? 良かったじゃないか、皆に理解《りかい》してもらえて」
「よくねーよ! そもそも理解してもらえてないし!」
大声で叫《さけ》ぶ神名をよそに、教卓《きょうたく》の静かな司会者は話を進めることにした。
「では、その質問《しつもん》の回答が出たところで、次の質問はないですか?」
「あぁ、芹沢さんまで無視《むし》か……」
「時間がありませんので」
朝から力を使い果たしそうな神名は「もういいや」と席に座《すわ》りこむ。
そんな彼は放っておいてナギへの質問は続く。
「好きなものはなんですかー?」
「チョコレート・パフェです! 美味《おい》しいお店を知っていたら、ぜひ教えてください!」
それは朝食のときになんとなくわかった。
「趣味《しゅみ》とかありますかー?」
「そうですね……料理かな?」
それも容易《ようい》に想像《そうぞう》できた。確《たし》かに彼女の料理は美味《うま》い。
「どこに住んでるの?」
「天倉さんの家ですー」
『……ええええぇぇ――っ!?』
突然、湧《わ》いて出たナギの問題発言に再《ふたた》び生徒たちは立ち上がった。
神名が一人|暮《ぐ》らしというのはクラスの誰もが知っている。その家に住んでいるということは、必然的に二人きりということだ。
ハッとなって神名は即座《そくざ》に立ち上がった。
「ま、待て! 昨日の夜、泊《と》めてやっただけだろ!?」
ここでの誤解《ごかい》はしっかり解《と》いておかなければと思った神名だったが、自分の発言に問題があったことにまでは気付かなかった。
「昨日の夜……か」
「ほーう」
「なっ!? 待て! 深い意味はないぞ!」
するとナギが、
「天倉さんってひどいんです。昨日もベッドで――」
「何ぃぃ――っ!?」
「お、おい、話は最後まで――」
「天倉、後で詳《くわ》しく聞かせてもらうからな……」
「人の話を聞け――っ!」
神名とナギを中心に教室中がわいわい、がやがやの大騒《おおさわ》ぎ。
「皆《みな》さん、お静かに――」
学級代表のサラが隣《となり》のクラスを気にしつつ、注意を促《うなが》す。だが話に花を咲《さ》かせたクラスメートたちにはサラの言葉がまったく耳に入っていないようだ。すると、
ドォンッ!
突然、教卓から空気を震《ふる》わすような音が響《ひび》き渡《わた》り、クラスメートたちはピタッと話すのを止《や》めた。
「……お静かに」
無表情のまま、サラの拳《こぶし》が教卓に叩《たた》きつけられている。異常《いじょう》な音がしたにもかかわらず、彼女の手が赤くなるどころか、教卓の方が逆《ぎゃく》にベコッと凹《へこ》んでいた……。
それを見た最前列の生徒は自分の乱《みだ》れた机《つくえ》をきっちり並《なら》べ、椅子《いす》と身体を正面に向ける。
両手はもちろん膝《ひざ》の上だ。それは連鎖《れんさ》反応《はんのう》のように教室全体へと伝わり、最後列にいた神名が同じようにきっちり座ってから彼女に告げた。
「申しわけありませんでした」
「はい。ご協力に感謝《かんしゃ》します」
教室は一瞬《いっしゅん》で静かになり、彼女はさらりと教室を見渡しながらそう言った。
「あ、あの……」
「お待たせしました、風流さん。あなたの席は天倉君の後ろです」
「は、はい」
言われるがまま、ナギは机と机の間を通って神名の後ろに座る。教室はシーンと静まり返っていたが、ナギは小声で神名に話しかけた。
「あのー、天倉さん。これは……?」
教卓は前から見ると、すでにちょっと歪《ゆが》んでいる。
「いいか、初めに言っておくが……芹沢さんだけは怒《おこ》らせるなよ……」
ナギの位置から神名の顔は見えないが、彼も他の生徒と同じようにきっちり座っている。
「……芹沢さん、怒ると怖《こわ》いんですか?」
「ああ。芹沢さんに逆《さか》らったら……ホームルームを欠席|扱《あつか》いにされるんだ……っ」
神名はぎゅっと拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》め、額《ひたい》に汗《あせ》を浮《う》かべてそう言った。
ナギは神名の言葉を心の中で反芻《はんすう》して、
「……それってありなんですか?」
「学級代表の特権《とっけん》だ。欠席扱いにされたら皆勤《かいきん》賞が水の泡《あわ》になる……しかも、後で担任《たんにん》から呼《よ》び出されるんだよ……今朝はどうした?って……」
その台詞《せりふ》にナギは微《かす》かな違和《いわ》感を覚える。
「……もしかして、このクラスの先生って毎日、朝はいないんですか?」
「ああ、風邪《かぜ》か遅刻《ちこく》でな」
「ダメ人間ですね」
神名はそれを否定《ひてい》せずに続ける。
「それに芹沢さんは俺《おれ》のバイト先の常連《じょうれん》客なんだ……機嫌《きげん》を損《そこ》ねて店に来てくれなくなったら困《こま》る」
「え? 天倉さんが困るんですか?」
「店の売り上げが落ちると俺の給料に関《かか》わるだろ?」
それはえらく考えすぎなような……。
「お客様は神様です」
「天倉さんが言うと、どこか嘘《うそ》っぽいですね」
「お前の存在《そんざい》の方が嘘っぽいだろーが!」
「なっ!? 私のことまだ信じてないんですか!?」
小声で話していた二人は思わず席を立ち上がった。
近くにいた祐司は神名を見ながら笑う。
「ダメだよ、神名。恋人《こいびと》には優《やさ》しくしてあげなきゃ」
「そんなんじゃねーよ! こいつと俺は何の関係もない、ただの知り合い程度《ていど》だ!」
「……普通《ふつう》、そんな人を家に泊《と》めたりしないと思うなぁ、僕は」
「うっ」
神名の態度《たいど》に「天倉――っ! お前って奴《やつ》は――っ」だとか「ちょっと詳《くわ》しく話を聞かせろ――っ」という声が再《ふたた》び教室中を飛び交《か》い始める。
「ああぁぁ――っ! もう、うるさい! お前ら黙《だま》れ――っ!」
神名の大音量の声に、再びサラの拳《こぶし》が唸《うな》るまで、そんなに時間はかからなかった……。
○
太陽がちょうど学校の真上を照らしている。
この日の授業《じゅぎょう》が半分終わり、神名は屋上で昼食を取ることにした。
今は冬だが、どこか日差しの中に暖《あたた》かさを感じる。小鳥のさえずりと雲一つない空が神名の頭上に広がっていた。
「空が青いな……」
ぼーっと神名は空を見上げる。
朝の一件《いっけん》で気力を使い果たした彼の視線《しせん》は遙《はる》か遠くに行ってしまっていた。
それとは対照的に、隣《となり》で祐司が楽しそうに笑う。
「お疲《つか》れだね、神名」
「当たり前だろ! あぁ、もうどうすればいいんだ……」
朝のホームルームも終わり、授業が始まっても、クラスメートからの視線がどこからか注がれる。その視線に目を向けると、クスッと笑うかニヤリと微笑《ほほえ》みかけられるのだ。
ただ、そのおかげで後ろに座《すわ》っているナギも動けないようだった。それだけは不幸中の幸いだ。
しかし苦に変わりはない。
「危《あや》うく芹沢さんから欠席扱いされそうになるし……これからこんな日が続くのか……」
「実に愉快《ゆかい》だよ。こんなことは滅多《めった》にないしね」
「……人の不幸を笑うなよ」
「あはは――うっ!?」
と、笑っていたはずの祐司がいきなりバタッと倒《たお》れた。
「う? お、おい、祐司?」
「いやー、良いお天気ですねー」
見るとナギが祐司の後ろで手刀を構《かま》えて微笑んでいた。にっこり微笑んで何事もなかったかのように空を見上げている。
「……こいつ今、実に愉快とか言ってたばっかりなんだが……」
「今のところの記憶《きおく》は消す予定なので問題ないです」
「そっか」
さらりと問題発言したナギを神名が受け流す。
「……で、何か用か?」
「何かって、天倉さんの魂《たましい》に用があるに決まってるじゃないですか」
「昼メシぐらい、ゆっくり食わせろ!」
「あの世でゆ〜っくり食べてくださいね」
「俺はこの空を見ながら食べたい気分なのだ!」
「うー、そんなの知りませんよ。勝負――」
ぐー。と、話の途中《とちゅう》で誰《だれ》かのお腹《なか》が空腹《くうふく》を知らせた。
「…………」
「…………」
神名は自分の腹《はら》に手を当てるが、自分ではない。祐司は隣で気を失ったままだ。
辺りには珍《めずら》しく神名たち以外に誰もいない。ということは……。
「ぐー」
神名はニヤリと笑い、そう言いながらナギを見た。
「うぅ、わ、私だってお腹はすくんです!」
「じゃあ、せめて昼メシを食べてからにしようぜ」
「う……確《たし》かにお腹はすいていますけど……」
そういえば彼女は一文無しのはずだ。
「じゃあ、これをやろう。最近、売店に並《なら》び始めたばかりでな……品薄《しなうす》な上、俺もまだ二回しかお目にかかれていない貴重《きちょう》なパン――<<チョコ・パフェ・サンド>>だ」
「そんなパンがあるんですかっ!?」
初めて聞いたその名前に、ナギは思わず目を輝《かがや》かせた。
神名がガサガサと袋《ふくろ》から取り出すと、彼女は神名の側《そば》に寄《よ》る。
「これだ」
ポンッとチョコ・パフェ・サンドをナギに手渡《てわた》す。
ホットドッグに使われるパンに様々なフルーツとコーンフレークなどをはさみ、チョコレートと生クリームをかけたパン――正直なところ、ただパンにチョコレート・パフェで使われるであろう食材をはさんだだけの代物《しろもの》なのだが、ナギにはとっても輝いて見えた。
「わぁ、ほんとに食べていいんですか!?」
「おう、味わって食べてくれ」
「ありがとう!」
そう言ってナギは神名の隣に座ると、さっそくチョコ・パフェ・サンドを食べ始めた。
嬉《うれ》しそうに袋を開けて、まずは一口。
はぐ。
「お、美味《おい》しいです!」
「そうだろ? 初めはベチャべチャしてるのかと思ったら全然そんな感じはしないし」
「フルーツの自然な甘味《あまみ》とチョコレートの甘味が程《ほど》よいですね〜」
「他《ほか》にもバリエーションがあってな。イチゴが入っているやつとか、バナナが普通のより多く入っているやつとかもあるらしいぞ」
「そうなんですか!? それも食べてみたいですね!」
「あんまり食べると喉《のど》が渇《かわ》くんだけどな……何か飲むか?」
「いえ、紅茶《こうちゃ》を持ってきたので大丈夫《だいじょうぶ》です!」
ナギはまだ見ぬチョコ・パフェ・サンドに期待を膨《ふく》らませながら、美味しそうにパンを食べている。それを横目に神名も自分の分を取り出した。
いつの間にか、青い空に雲が一つだけフワフワ浮いている。
風は穏《おだ》やか。パンも美味《うま》い。
はぐはぐ――。
「――って、こんなことをしている場合じゃないんですよ!」
口をもごもごさせながら叫ぶナギに、神名は冷ややかな視線《しせん》を送った。
「しっかりチョコ・パフェ・サンドは食ってるじゃないか」
「こ、これは美味しいから良いのです!」
ナギはチョコ・パフェ・サンドを食べ終えて臨戦《りんせん》態勢《たいせい》に入った。
これ以上は何を言っても無駄《むだ》なようなので、仕方なく神名も立ち上がる。しかしナギと向き合っても構《かま》えはしない。
「ここでやるのか? 学校の屋上だぞ?」
「入口にはカギをかけていますから大丈夫です」
そう言うとナギはその場で手のひらをかざした。
彼女の手が微《かす》かに光ったかと思うと、そこに大きな白い卵《たまど》のようなものが現《あらわ》れる。まるで手品のようだが原理はわからない。
「出たな、スコップ」
『スコップじゃない! 鎌《かま》! 鎌だから!』
ナギの手の上でベルが叫ぶ。だが、神名にとっては、ベルがスコップになったところしか見たことがないので仕方がない。
それはベルも分かっていて、視線(といっても目はない)をナギに向けた。
『……今日はしっかり頼《たの》むぞ、ナギ』
「はい、頑張《がんば》ります!」
とりあえず彼女の意気|込《ご》みだけは認《みと》められた。
ナギはベルへ意識《いしき》を送る。
「今回はちゃんと鎌にしてみせますからね……」
彼女の手から光が溢《あふ》れる。
今日こそはと思ったのか、はたまたパンでお腹が少し膨《ふく》れたからか、ナギは気合たっぷりでそう言った。
ベルを包む光が弾《はじ》け、その姿《すがた》が露《あらわ》になる。だが、光が姿を変えた形状《けいじょう》はどうも鎌ではなかった。やはりスコップ――いや、形そのものは似《に》ているが、それはどちらかというと庭でなくて食卓《しょくたく》で見るものだった。
その姿の正体は――
「……スプーンだな」
見事な巨大《きょだい》スプーン。
『……スコップのほうが良かったなぁ……』
自分の姿にベルはちょっと泣きそうだ。
「あれー? 変だなぁ、完璧《かんぺき》だったと思ったのに……」
ナギは自分で変形させたベルを見ながら呟《つぶや》いた。
『私の形状はお前のイメージとそれを具現《ぐげん》化させる力で決まる。イメージがあやふやだったり、力の配分を間違《まちが》えたりすると、その分だけ私の形状は異《こと》なってくるのだ……』
形はどう見てもスプーン。先端《せんたん》の部分はスコップとほとんど差がない。ただ、柄《え》の部分のデザインが凝《こ》っているところをみると、どうやら食べる用のスプーンではなく、かき混《ま》ぜる用のティースプーンのようだ。
『また武器《ぶき》ですらない……ぐすっ』
「……待っててやるから、もう一回やってみるか?」
なんだかベルが哀《あわ》れに思えて神名がそう提案《ていあん》した。だが、
「まぁ、時間ももったいないですから、このままでいいです」
『えっ!? このまま!?』
「行きますよ、天倉さん!」
ベルの言葉も無視してナギがスプーンを手に突《つ》っ込んでくる。
それに対して神名はようやく構えた。ナギの動きを見ながらまずは様子を探《さぐ》る。
「はっ!」
ナギの鋭《するど》い突き。神名は当たる寸前《すんぜん》で軸《じく》をずらして回避《かいひ》する。昨日もそうだったが、意外に彼女の攻撃《こうげき》は正確《せいかく》だ。正直、かわすのが精一杯《せいいっぱい》。
(だが、冷静に動きを読んでいれば不可能《ふかのう》じゃない)
正確ゆえに予測《よそく》も容易《たやす》い。
神名は落ち着いてナギの攻撃を次々にかわしていく。
「どうやらスプーンでの戦い方に慣《な》れていないようだな!」
「あ、当たり前です――っ!」
『そんな戦い方に慣れているヤツって、どんなヤツだよ……』
「いや、いるかもしれないじゃん」
少し間合いをとった神名が余裕《よゆう》の表情《ひょうじょう》でそう言った。
するとナギが「むぅ」と神名を睨《にら》む。
「そんな暢気《のんき》なことを言っていられるのも今のうちですからね!」
もう一度スプーンを構えなおし、ナギが再《ふたた》びこちらに向かってきた。
油断《ゆだん》したつもりはない。だが、次の攻撃は先ほどまでよりさらに速くなっていた。一瞬《いっしゅん》で間合いの内側に入ってきたナギは神名に向けてベルを振《ふ》るう。横薙《よこな》ぎ、振り下ろしの連続攻撃を神名はバックステップで回避する。
「くっ!」
「そこです!」
後ろに下がった神名の隙《すき》をつき、ナギのスプーンがまっすぐこちらに突き出された。動いたばかりの神名は逃《に》げられず、拳《こぶし》でベルを払《はら》い落とす。
「っ!?」
なぜか途端《とたん》に悪寒《おかん》が走った。身体《からだ》へのダメージはない。だが、ベルに触《ふ》れた瞬間に心が激《はげ》しく揺《ゆ》れた。
「なっ?」
その動揺《どうよう》を抑《おさ》え、神名はひとまずナギと間合いを取った。胸《むね》を押《お》さえて不思議な感覚に困惑《こんわく》しながら、原因《げんいん》であるはずのベルとナギを睨む。
「何なんだ、それ……」
「ふふ、どうですか? これがこのスプーンに備《そな》わった能力です」
「……能力?」
「そう、このスプーンには特殊《とくしゅ》な能力があります。砂糖《さとう》やクリームをかき混ぜるように、このスプーンは天倉さんの<<心をかき混ぜる>>ことができるのです!」
『おぉー、すごい!』
と、ベルが言った……ベルが。
「……その能力を知っていてスプーンにしたのか?」
「いえ、今、知りました」
『偶然《ぐうぜん》だ』
「やっぱり……」
「変化させた後に、能力がわかるんですよね……こう、心に響《ひび》く感じで……」
とはいえ、この<<心をかき混ぜる>>能力はかなり危険《きけん》だ。集中力や冷静な判断《はんだん》力が強制《きょうせい》的に拡散《かくさん》させられる。落ち着いて彼女の攻撃を見極《みきわ》められないとなると、回避すらままならなくなる。
(触るのもダメとなると、ガードもできないな……)
「さぁ、天倉さん! 大人しくここで死んじゃってください!」
「ふざけるな!」
俄然《がぜん》、優位《ゆうい》に立ったナギは巨大《きょだい》スプーンを手に向かってきた。
振り下ろしと突き。それが神名にかわされると、さらに彼を追撃する。
(こっちは避《よ》けるだけっていうのが辛《つら》いな!)
神名はナギの攻撃にもベルにも当たらないように間合いを取り続ける。
「そこまでです!」
ガツッと神名の背《せ》に屋上の柵《さく》が当たった。
「ちっ!?」
いつの間にか神名は屋上の端《はし》に追い詰《つ》められていた。
ナギが追撃のためにベルを横に構《かま》える。ここで横振りされると逃《に》げ場がない。
「はあっ!」
「だったら!」
神名は思いきり上に飛んだ。その瞬間、足の下、数センチをベルが空振りする。神名はそのまま後ろに飛び、柵の上に着地した。今更《いまさら》だが恐《おそ》ろしいまでの運動|神経《しんけい》だ。彼はバランスを取りつつ、柵の上を走って逃げる。
「逃がしません!」
柵の上にいる神名に向けてナギがベルで突く。
「あぶね!」
突きをかわし、横にベルが振られればジャンプで避ける。
巧《たく》みな回避行動だったが、柵の上という不安定な場所ではそれも長くは続かなかった。
横振りの攻撃を三回かわしたとき、神名は着地後のバランスを崩《くず》した。
「なっ!?」
「っ!?」
神名の身体が柵の外へと倒《たお》れる。
ここは四階建ての屋上だ。地面に落下すれば間違《まちが》いなく助からない。
「天倉さん!?」
そのときにはすでに、神名の身体《からだ》は柵の向こう側へ行ってしまっていた。いくら運動神経の良い神名でも、重力の呪縛《じゅばく》からは逃《のが》れられない。
(や、やばいっ!?)
身体が頭から真っ逆《さか》さまに落ちていく。
そのとき、ナギの手が自分に伸《の》びた。
「天倉さん!」
「え?」
神名は思わず目が点になる。その目の前に現《あらわ》れたのは美しい白い翼《つばさ》。二|枚《まい》の羽が彼女を包み込むかのように広がっていた。迷《まよ》っている暇《ひま》はなく、神名は彼女の手を掴《つか》んだ。翼を持つナギはそのまま神名を屋上まで連れ戻《もど》した。
「……た、助かった……」
神名はその場に座《すわ》り込み、冷や汗《あせ》を拭《ぬぐ》う。
「あ、危《あぶ》ないじゃないですか! 落ちて死んだらどうするんです!?」
「わ、悪い……って、なんだそりゃ!? お前が俺《おれ》を殺そうとしてるんじゃないか!」
さっきまでとは明らかに矛盾《むじゅん》した行動を取ったナギに、神名が眉《まゆ》をひそめながら問う。
あのままナギが手を差し出さなかったら自分は死んでいたはずだ。
ナギは焦《あせ》った顔で神名の質問《しつもん》に答えた。
「普通《ふつう》に死んでしまったら意味がないんですよ! <<ソウル・イレギュラー>>は死神の鎌《かま》に魂《たましい》を回収《かいしゅう》されることで、初めて輪廻《りんね》に戻れるんですから!」
「……そ、そうなのか」
「そうなんですよ! あぁ、もう、びっくりさせないでくださいよー。ここで神名さんに普通に死なれでもしたら、私はチョコ・パフェ確定《かくてい》なんですよ?」
「あ、ああ……」
とりあえず頷《うなず》く神名。するとナギも安堵《あんど》の息をつきながら屋上にぺタッと座り込んだ。
「……それより、何なんだそれ……」
神名は彼女の背に突然《とつぜん》生えた白い翼に目を向けた。
「え? 羽ですよー」
ナギはさも当然のようににっこり笑い、こちらに向かって羽をパタパタと動かして見せた。小さく羽ばたく翼。その翼が生む小さな風がナギの長い髪《かみ》をさらりと揺《ゆ》らす。その姿《すがた》はなんとも幻想《げんそう》的で、神名は思わず言葉を失った……。
が、
「うっ!」
「? お、おい、どうした!?」
「うぅ……羽を寝違《ねちが》えていたのを忘《わす》れていました……」
「寝違えるんだ、それ……」
なんだか一瞬《いっしゅん》で幻想的な感じが吹《ふ》き飛んだ。
そういえば昨日、彼女が突然、学校の三階に現れたのはこういう理由だったのかと今ごろ納得《なっとく》する。
人間には一生わからないだろう、羽を寝違えた痛《いた》みに唸《うな》る死神。だがベルが言葉を話していることを除《のぞ》けば、普段《ふだん》のナギは見た目、普通の少女だ。
「……なぁ、ちょっと聞いていいか?」
「はい、なんですか?」
「お前って……何なんだ?」
神名が真剣《しんけん》な顔でそう言ったので、ナギは彼の今更《いまさら》な質問に首をかしげる。
「何って、死神ですよ。さっき自分でもそう言ったじゃないですか」
「いや、だって羽とかあるし……」
「それは天使ですから……」
「天使? 死神だろ?」
「どちらでもあるんですよ。<<死神>>というのは天使のことですから」
「は? そうなのか?」
『まぁ、正確にいうと天使の中にある役割《やくわり》の一つだな。天使の中にもいろいろあるんだ。恋愛《れんあい》や平和を担当《たんとう》する者もいれば、魂の輪廻や生死を管轄《かんかつ》とする者もいる……』
「こいつみたいに?」
ひょいと神名がナギを指差す。
『そうだ。そしてその担当を任《まか》された天使たちは、総称《そうしょう》して<<死神>>と呼《よ》ばれる』
ナギの言葉をベルが補足《ほそく》する。
つまり彼女は天使であり、死神というわけだ。
神名はこの二つが相容《あいい》れない存在《そんざい》だと思っていたので、少なからず衝撃《しょうげき》を受けた。そもそも彼の中のイメージでは天使と死神は似《に》ても似つかない。
「んー、なるほど……」
「死神になるのって難《むずか》しいんですよ? 役割上、失敗は許《ゆる》されませんし……」
それはそうだろうなぁと神名は納得している。なんといっても失敗したら彼女はチョコ・パフェにされるのだ。
どうしてチョコ・パフェなのかは、よくわからないが……。
なんとも不思議な話だと神名は思う。だが自分を殺しにやってきた彼女と昼食を一緒《いっしょ》に食べ、今こうして話している自分自身もかなり不可思議《ふかしぎ》だ。
「なんか大変だな、お前も……」
「そうなんです。なので早めに死んでくださいね?」
「それは断《ことわ》る」
「むー、じゃあ、とりあえず次は天倉さんの番ですよ?」
「何が?」
「私のことだけ聞いておいて、天倉さんのことは教えてくれないんですか?」
「……ああ、面倒《めんどう》だからな。どうしても聞きたいなら話してもいいが、情報《じょうほう》料は高いぞ」
「お金取るんですか!? だったら良いです!」
そう言って無一文のナギは立ちあがると、すっと黒い財布《さいふ》を取り出して見せた。もちろん彼女のものではない。神名の財布だ。
「なっ!? いつの間に!?」
「さっき、戦っているときに神名さんのポケットから落ちたんですよー」
「こ、こら! 返せ!」
「嫌《いや》です」
財布を取り返そうとする神名に、ナギはそれを持ったまま空へ逃《に》げた。とりあえずナギが財布を開くと、何|枚《まい》かの紙幣《しへい》と小銭《こぜに》――それと数枚の写真が入っていた。神名と祐司が幼《おさな》い頃《ころ》の写真もある。
「小川くんとは長い付き合いなんですね……」
「ぐ……まぁな」
神名は空のナギを見上げながら相づちを打つだけだ。
予想はしていたのでナギも気にはしない。それよりも写真を見るのがなんだか楽しい。幼い顔をした神名は、今と違《ちが》ってとても素直《すなお》そうな少年に見えて、それが面白《おもしろ》い。何枚か見ているうちにまた祐司と写《うつ》っている写真があった。だが今度は二人だけではなく、彼らの真ん中には一人の少女が立っていた。
「これは誰《だれ》ですか?」
「ん?」
神名と祐司は十二|歳《さい》頃か。真ん中の少女は彼らより年上のようで、見たところ十六、七といった感じだ。少女は二人の手を取って楽しそうに微笑《ほほえ》んでいた。
ナギの指差した少女に、神名は一瞬《いっしゅん》だけ眉《まゆ》をひそめる。だが、すぐにいつもの表情に戻《もど》って一言だけ言った。
「祐司の姉さんだ」
「そうなんですか。小川くんにはお姉さんがいるんですねー」
「ああ。俺たちより五つ年上なんだけどな」
「……意外に話しますね?」
「俺のことじゃないからな……」
ナギはなるほど、と納得《なっとく》して写真に目を戻《もど》す。不思議とこの写真を見ていると笑顔《えがお》になれる。写っている三人がとても幸せそうだからだろうか……。
すると、ちょうど昼休みの終わりを告げる鐘《かね》の音が聞こえてきた。
「あぁっ!? 昼休みが終わっちゃったじゃないですか!?」
「お前が俺の財布を取ったりするからだろ?」
「そ、そもそも天倉さんがあんなところから落ちたりしなければですね――」
「落としたのもお前だし」
「う……」
神名の言葉に反論《はんろん》できず、ナギはとりあえずベルを振《ふ》り上げようとする。
だがそのとき、鐘の音に目を覚ましたのか、気絶《きぜつ》していた祐司がゆっくりと起き上がった。
「……あれ? 僕《ぼく》はここで何をしていたんだっけ?」
それを見たナギは慌《あわ》てて翼《つばさ》とベルを隠《かく》し、屋上へ下り立った。
「あ、起きたのか祐司」
「やぁ、神名……僕はここで昼ご飯を食べようとしていたはずなんだけれど……」
そう言った祐司は辺りをきょろきょろと見回す。そしてすぐにナギの存在に気がついた。
「なるほど。僕が気を失っている間に、二人で親交を深め合っていたんだね?」
祐司は自分が気を失っていたこと自体は疑問《ぎもん》に思わず、にこやかに笑いながら目の前にいた二人に視線《しせん》を向けた。
「いや、親交どころか、俺たちの間には決定的な溝《みぞ》があるんだが……」
殺す者と殺される者――ナギは死神である。
だが、祐司がそんなことを知るはずもなく、
「本当はそんなのないくせに。風流さんが持っているのは姉さんの写真でしょ?」
ナギが財布から取り出した写真を見て、祐司は微笑んだ。
「あの頃の神名はとっても素直な少年でね……姉さんの誕生日《たんじょうび》にプレゼントを買おうとしたけど、お金が足りなくて泣いちゃうぐらいで――」
「うわっ! お、おい、その話はやめろ!」
神名はその言葉に顔を真っ赤にして、祐司の口を塞《ふさ》ごうとする。
「へぇ、そうなんですかー」
意外な一面を知った、とナギが細く笑う。
「もっとお金があればいいもの買ってあげられたのに……とかってさー」
祐司は神名の手を振り払《はら》い、ナギに教える。
「あ、もしかして天倉さんがお金に執着《しゅうちゃく》するのって、それが理由なんですか?」
なんとも可愛《かわい》らしい理由だ。
「そ、そんなわけないだろ!」
「ホワイトデーのときも同じこと言ってたよね、確《たし》か。バレンタインデーのお返しができないとかって」
「…………」
「まぁ、あの頃の僕らのお小遣《こづか》いって百円とか二百円だったもんねー」
それを見たナギはクスッと笑い、
「天倉さん、そのお姉さんのことが好きなんですか?」
「う、うるさい!」
ダダをこねる子供《こども》のように、神名は「もう知らん」と視線を逸《そ》らした。その仕草がなんだか可笑《おか》しくて、ナギは声に出して笑ってしまった。
祐司もどこかニヤニヤしていたが、ところで、と話を変える。
「……神名、昼ご飯は?」
「あ? もう食べたぞ」
「そうか……残念だなぁ、今日は風流さんの手作り弁当《べんとう》だったんでしょう?」
「なんでそうなる!?」
「朝だってそうだったくせに……」
「なっ!? なんで知ってるんだ!?」
「あ、やっぱりそうなんだ。ふーん」
「ぐっ……」
つい自分から口を滑《すべ》らせてしまったことに気付き、神名は一歩さがった。祐司と話しているといつもこうなる。
「よし、じゃあ、今夜は神名の家に行こう! 夕食を食べに!」
「お、おい! お前が決めるなよ!」
「いいから、いいから。さぁ、早く行かないと授業《じゅぎょう》に遅《おく》れるよー」
神名の制止《せいし》も聞かず、祐司はまだ食べていなかったパンの袋《ふくろ》を開けつつ歩き出した。彼の言う通り、もうすぐ授業が始まる。
するとナギも仕方なそうに溜息《ためいき》をついた。
「はぁ……そうですね、教室に戻《もど》りましょう」
「え? 授業に出るのか?」
このまま夕方まで戦い続けると思っていた神名は、驚《おどろ》きの表情《ひょうじょう》でナギにそう聞いた。
「天倉さん、授業はサボっちゃいけないんですよ?」
「いや、確かにそうなんだが……」
死神にそんなことを言われても、いまいち説得力に欠けるような……。
「では、続きは放課後ですからね」
「まだやるのか……」
「当然ですよ。あ、次は理科室に移動《いどう》ですから、早くしたほうがいいですよー」
そう言ってナギは教室へと戻っていく。
結局、昼休みは体力を消耗《しょうもう》しただけ。なんとも落ち着かない学校生活の始まりに、神名は一抹《いちまつ》の不安を覚えながら静かに溜息をついた……。
○
「いただきます」
「はい……どうぞ」
夜の天倉家。
食卓《しょくたく》にはナギの作った美味《おい》しそうな料理が並《なら》んでいる。
「しかし、本当にお前の料理は美味《うま》いな」
神名はもくもくと箸《はし》を持つ手を動かしている。
「……料理を褒《ほ》めてくれるのは嬉《うれ》しいんですけど……」
その日の放課後は神名の逃《に》げの一手で終わった。
彼は授業が終わった瞬間《しゅんかん》、「俺はバイトがあるから」の一言で掃除《そうじ》当番を他人に押《お》し付け、学校を後にしてしまったのだ。
もちろんナギは神名を追おうとしたが、サラに引き止められたので無理だった……。
そして掃除をやり終え、いざ神名を殺しに! と走り出したのだが……よく考えるとナギは神名のバイト先を知らされていなかったのだった……。
「うぅ……天倉さんに会うこともできないなんて……」
「ふっ、情報収集《じょうほうしゅうしゅう》を怠《おこた》るからだ。戦場では一番最初に死ぬぞ、お前」
「じゃあ、バイト先を教えてくださいよっ」
「一万で手を打とう」
そう言うと神名は「ふっ」と笑い飛ばす。
「うぅ……私が一文無しだって知ってるくせに……」
彼の言葉にナギはどこかいじけたように細々と食事を再開《さいかい》した。
「まぁ、それはそれで良いとして――」
神名は箸を持つ手を止め、きょろきょろと辺りを見回した。
彼とナギ、そしてもう一人この食卓についていた者がいる。
その姿《すがた》を捜《さが》して――神名はテーブルの下を見た。
「……なんでこいつは倒《たお》れてるんだ?」
テーブルの下。
そこに祐司が白眼《しろめ》をむいて気絶《きぜつ》していた……。
「さぁ? どうしてでしょうね?」
神名と同じようにテーブルの下を覗《のぞ》くナギも、きょとんとしながら祐司を見る。
理由の解《わ》からない二人が首をかしげていると、反対側に座《すわ》らされているベルが料理を見ながら小さく呟《つぶや》いた。
『そりゃあ、こんなマズイもの食わされれば気絶するだろう』
「何いぃ、マズイ!? こんな美味いもの他にはないぞ!?」
神名の指差す料理は見た目、とても美味《おい》しそうな和食料理。
「そうです! 私、ちゃんと味見しながら作ったんですよ!? マズイわけないじゃないですか!」
『だから、お前ら二人とも味オンチなんだよ! こんな異次元《いじげん》物体、食べられるか!』
そう、ナギの料理は見た目、とても美味しそうな料理なのだが、その実体は食すだけで人体|破壊《はかい》を生じさせる悪魔《あくま》の料理だった……。
「い、異次元物体って……この味噌《みそ》汁《しる》なんて特に美味しいですよ? このなんとも言えない舌触《したざわ》りと、脳《のう》にまで浸透《しんとう》するような香《かお》りが――」
『謎《なぞ》のヌルヌル感と、精神《せいしん》が汚染《おせん》されるような異臭の間違いだろ! 何を入れたんだ?』
「ドリアンです」
『馬鹿か、お前は! 味噌汁に南国フルーツを入れるヤツが何処《どこ》にいる!?』
しかもドリアン。果物の王様。
「ここにいるじゃないか。美味いって、絶対!」
「そうです! 美味しいです!」
断固《だんこ》として言い張《は》る二人に、ベルも負けじと訴《うった》える。
『いーや、マズイって! 現《げん》に見ろ! こいつ、白眼をむいて倒れてるじゃないか!』
異次元物体を食べた祐司は、残念ながら一口目ですでにこの世界から一時的に離脱《りだつ》してしまっていた……。
そんな彼を見て、
「祐司にはちょっと早かったようだな……」
「大人の味というやつです。誰にでもいつか、きっとわかるときが来ます」
『来ねーよ!』
「じゃ、何か? お前は朝のオムレツもマズイと?」
『人間の食べ物ではないな。というか、生物の食べ物ですらない』
「そんな!? ベルちゃんだって美味しいって言ってたじゃないですか!」
『私は「おお!? すごいな!」としか言ってないだろ!?』
ベルの言葉に納得《なっとく》いかない神名はひょいとベルを持ち上げた。
「――ベル、お前は何もわかってないな。ほら、ちょっとダイレクトに味わってみろ」
そう言ってキッチンへ向かう。
ナべの蓋《ふた》は開いていた。
『なっ!? 私を味噌汁に浸《つ》ける気か!? おいっ、こら――やめろ――っ!』
「そもそも誰かに持ってもらうとかいう謎の間接《かんせつ》的な味わい方では、この至高《しこう》の味は理解《りかい》できんのだよ」
「そうですよね。ベルちゃんも直《じか》に味わってみるべきです」
『いや、だからこんな異次元|物質《ぶっしつ》は――ぎゃああああ――っ!』
ぽちゃん。
どこか妙《みょう》にギラギラした眼光《がんこう》を見せる二人を見上げながら、ベルは熱く煮えたぎるドリアン味噌汁の中に沈《しず》んでいった……。
そのまま少し待ってみるが、ベルの反応《はんのう》はない。
「……何も言わないな」
「そうですね」
「……まぁ、いい。放っておこう。お前の料理が冷めるのは嫌《いや》だし、さっさと食おうぜ」
「あ、はい」
二人は祐司とベルをそのままにしてテーブルに座り直した。
神名は再《ふたた》び箸《はし》を手に取るとパクパク食べ始める。朝もそうだったが、彼は料理を作ったナギが気持ち良いぐらいに美味しそうに食べる。
「天倉さん、食後にチョコレート・パフェはいかがですか?」
「ん? そうだな……たまには食後のデザートも悪くないよなー」
「はい! では、二人分用意しますね!」
ナギは嬉《うれ》しそうに立ち上がるとキッチンへ向かう。彼女はこの家の食器の場所はすでに把握《はあく》しているようで、チョコ・パフェを入れるためのグラスを取り出して作り始めた。
食後のデザートなんて豪華《ごうか》だよなぁ、と考えつつ、神名は料理を口に運ぶ。
そんなこんなで、彼らの二日目の夜は静かに過《す》ぎていった……。
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白い箱と黒い箱。
差し出された二つの箱は鎖《くさり》で厳重《げんじゅう》に封印《ふういん》されていた。
「それを運ぶんですか?」
ナギが初めて死神となった日、彼女は思ってもみなかった任務《にんむ》にそう聞き返した。
周りは床《ゆか》と壁《かべ》、天井《てんじょう》との境《さかい》が曖昧《あいまい》な白い部屋。
「そうだ。……確《たし》かに<<死神>>である君の仕事ではないように思えるが、この箱の中身はとても重要なものなのだ。確実《かくじつ》に頼《たの》む……」
そう告げられ、ナギは戸惑《とまど》いながらも二つの箱に手を伸《の》ばした。
箱の上には取っ手があり、それを掴《つか》んで受け取る。思ったより軽い。
「輸送《ゆそう》先は第七重要|保管《ほかん》区だ……今回の任務は機密《きみつ》ゆえ、詳細《しょうさい》は話せない。箱の中身についても同様にな。……頼んだぞ」
ほとんど一方的だったが、任務とはこういうものだろう。彼女は自分に与《あた》えられた仕事を成し遂《と》げるべく部屋を出た。
ナギは歩きながら二つの箱を見る。鎖で封印されているところを見ると、これらは封印指定を受けた危険《きけん》なものということだ。
「……どうして……私がこんな重要な任務を……?」
今日はナギにとって<<死神>>の初日だ。それにもかかわらず、封印指定を受けるような物を、死神になったばかりの自分に運ばせるのはどこか変だとしか思えない。
しかも、
「私、まだ鎌《かま》も持ってないのになぁ……」
そう、彼女はまだ死神の象徴《しょうちょう》たる<<鎌>>を授与《じゅよ》されていなかった。
予定では今日<<鎌>>をもらい、正式に死神となるはずだったのだが……。
とにかく今回の任務について書類が送られてきたことは確《たし》かで、たった今、直接任務の説明も受けた。承諾《しょうだく》の姿勢《しせい》を見せた自分としてもやらないわけにはいかない。
まぁ、どうにかなるだろうとナギは軽い気持ちで足を進めた。
部屋の出口を踏《ふ》み越《こ》えると、その先は光。眩《まぶ》しくはない。白い光は徐々《じょじょ》に青みがかっていき、彼女の視界《しかい》が開けると、そこにすべてを包みこむような青い空間が見えた。床の感触《かんしょく》はすでになく、落ちそうになる前にナギは翼《つばさ》を広げた。
二つの箱を手にした彼女の身体《からだ》はふわりと宙《ちゅう》に舞《ま》い、目指す場所へと翼を羽ばたかせる。
「今日もいい天気ですねー」
誰《だれ》にともなく、にっこり笑ってナギはそう呟《つぶや》いた。
そこは天使と死神が住まう空間。上は青、周りも青。果てしない空のような空間が広がっているこの場所は、いつも快晴《かいせい》だ。
ナギの眼下にも青い空間が広がっている。だがこちらは空のように見えるだけの結界だ。
その結界を越えると本物の空――地上へと繋《つな》がっている。
指定された保管区は遠かったが、ナギの表情《ひょうじょう》に疲《つか》れはない。むしろ楽しんでいるようにも見えた。
「……あともう少しですね」
ラストスパートをかけるようにナギは飛んだ。
天使の翼は羽ばたかずとも、それだけで浮力《ふりょく》を生む。ゆえに落ちることは絶対《ぜったい》にない。同時に彼らの羽は推進力《すいしんりょく》も生みだし、自在《じざい》に空を翔《か》けることができる。
翼を羽ばたかせるとさらに加速できるため、ナギは大きく翼で空を薙《な》いだ。目的地はもうすぐだ。
やはり普通《ふつう》の輸送任務だったとナギは安心した。運ぶ目的地や、運ぶ物についての疑問《ぎもん》はあったが、どうにか自分の最初の任務は無事に終わりそう――そう思ったとき、
シュン――
「?」
と、何かが自分の横をすれ違《ちが》った。空は微《かす》かにオレンジ色へと姿《すがた》を変えつつあったが、辺りはまだ明るい。すれ違ったのに見えなかったのは、それがとても小さかったからだ。
「何?」
シュン!
と、またナギの横を小さな何かが通り過《す》ぎる。その正体を確かめようとするが、目で捉《とら》えることができない。戸惑うナギだが、とにかく今は任務達成を一番に考えるべきだと、彼女はそれを無視して翼を羽ばたかせた。
しかしパリンッと甲高《かんだか》い、金属《きんぞく》が割《わ》れるような音がして「ガタッ! ピューン」と何かが開き、何かが落ちていく音がした……。
「――なっ!?」
その音に気付いたナギは慌《あわ》てて自分の腕《うで》を見た。持っていた二つの箱から鎖が切り離《はな》され、蓋が開いていた。封印が解《と》かれている。中身は……空っぽ。
「お、落ちた!?」
任務失敗!? 顔面|蒼白《そうはく》になりながら、ナギはすぐさま辺りを見回した。すると自分のすぐ真下で、白い何かが落ちていくのが見えた。
(今ならまだ間に合う!)
そう思ったナギは落下物に向けて急|降下《こうか》。落下物との距離《きょり》はぐんぐん縮《ちぢ》んでいくが、あまりのスピードに、空気に触《ふ》れる目が痛《いた》くなる。だがナギはそれに堪《た》えて手を伸ばし、なんとか落下物を掴《つか》んだ。
「捕《つか》まえた!」
身を翻《ひるがえ》して急停止。落下物を片手《かたて》に、ナギはもう一つ落下していったはずのものを探《さが》した。手にしていたものは同時に落ちたので、近くにあるはずなのだが……。辺りをキョロキョロ見回しても何もない。
このまま落ちた中身が見つからないと、任務は完全に失敗だ。せっかく晴れて死神になれたのに――いや、それよりも任務失敗はマズイ。死神の任務に失敗は許《ゆる》されないと教わっている。
「あぁ! どうしよう!?」
『どうしようもないな』
独《ひと》り言《ごと》を叫《さけ》んでいたナギに突如《とつじょ》として言葉が返ってきた。
「っ!? だ、誰?」
先ほども周りを見たが、自分以外は誰もいない。
『ここだ。お前が手に持っているだろう?』
そう言われて初めてナギは自分が運んでいたものを見た。
白い卵《たまご》――丸く、底に黄色い輪の付いた卵のような物体を自分は持っていた。
「あ、あなたが喋《しゃべ》っているんですか?」
『そうだ。私の名は<<ベル・フィナル>>……。お前、死神か?』
驚《おどろ》くナギを尻目《しりめ》に、謎《なぞ》の白い卵のような物体はナギに話し掛《か》けてきた。その卵を不思議に思いつつも、ナギはその問いに素直《すなお》に答えた。
「は、はい、そうです……けど……」
『そのわりには鎌《かま》を持っていないようだが?』
その質問《しつもん》にナギは困《こま》った表情《ひょうじょう》を浮《う》かべる。<<鎌>>は死神にとって力の触媒《しょくばい》であり、増幅《ぞうふく》器だ。免許証《めんきょしょう》のような役割《やくわり》も持ち、基本《きほん》的に<<鎌>>を持っていない死神というのは存在《そんざい》しないのだが……。
彼女はおどおどしながら口を開いた。
「今日、鎌を受け取って、正式に死神になるはずだったんですけど……なぜか、ここにいます……」
状況《じょうきょう》が掴めず、肩《かた》を落としながらそう呟《つぶや》いたナギに、<<ベル・フィナル>>と名乗った卵のような物体は「あはは」と笑った。
『変なヤツだな。死神のくせに鎌も持っていないなんて』
「うっ……それはお互《たが》い様です。喋る卵なんて聞いたこともないですよ?」
むぅ、と頬《ほお》を膨《ふく》らませてナギが抗議《こうぎ》すると、手の上の白い卵は彼女の言葉を否定《ひてい》した。
『卵じゃないんだが……いいだろう。面白《おもしろ》そうだし、私を使ってみる気はないか?』
「はい?」
『鎌を持っていないんだろう? 最初に言っておくが、私は通常《つうじょう》階級の死神が所持できる鎌ではない。死神として半人前のお前を、すぐにでもトップクラスの死神にしてやるぞ』
通常階級の死神が所持できない鎌――死神の中にもいくつかランクのようなものが存在している。例えば死神をまとめる死天使長もその一つだ。そんな彼らは特別な鎌を手にしているという……。
だがその前に、
「あなた、鎌だったんですか!?」
驚愕《きょうがく》した表情でナギは白い卵を見つめた。
鎌は鎌であって……白くて丸い、卵のような物体じゃない――少なくともナギはそう思っていた。というより――死神の鎌は喋らないのだ。
だが、ベルはさも当然のように頷《うなず》く。
『その通りだ。ところで、お前の名前は?』
「ええっと、私の名前はナギです――と、その前に契約《けいやく》とかはどうなっているんです? 私、鎌と契約したことなんてないから、よく分からないんですけど……」
『触《ふ》れたら終わり』
とっても簡単《かんたん》だ。
「じゃあ最初から私に拒否《きょひ》権《けん》ないじゃないですか!?」
『まぁ、そうだな。だが普通《ふつう》鎌を持っていない死神なんていないから、間違《まちが》っても触《さわ》って契約しちゃいましたーなんていうことはないぞ』
「う……どうせ私は鎌を持っていませんよ」
『まぁ、そう言うな。よろしく頼《たの》むぞ、ナギ』
改まってベルがそう言うので、仕方なくナギも納得《なっとく》した。それによく考えれば悪い話ではない。自分が鎌を持っていなかったのは事実だし。
「……はい。よろしくお願いします」
『ああ。とりあえず私の封印《ふういん》が解《と》かれたのが気になるな。まさかお前がやったわけではあるまい?』
「当たり前ですよ。私はただ運んでいただけです」
箱は強力な力で封印されていた。それを解けるのは同じかそれ以上の力を持った者のみ。力の増幅|装置《そうち》でもある鎌を持たないナギには封印など解けるはずもなかった。
彼女はベルに今日の出来事をありのままに話した。
『なるほど……では、今はもう一人の私を探《さが》しに行くのが先決だな』
「もう一人の私って……落ちていったもう一つの箱の中身ですか?」
『そうだ。その落ちていった箱の中身は<<エカルラート>>という。私は二本で一|対《つい》の鎌でな……私は<<魂《たましい》>>、<<エカルラート>>は<<器《うつわ》>>を司《つかさど》る』
「じゃあ、二本ともないと力が発揮《はっき》できないんですか?」
『本来の力はな。だが、私だけでもお前が今日|授《さず》かるはずだった普通の鎌より断然《だんぜん》強い力が発揮できるぞ。とはいえ、お前の任務《にんむ》が私たちの輸送《ゆそう》だったことを考えると「<<エカルラート>>を落っことしましたぁ〜」なんて言ったら……』
その先を想像《そうぞう》してナギは表情を歪《ゆが》めた。
「うっ……やっぱり降格《こうかく》とか……」
『さぁ、どうだろうな……。とにかく地上に降《お》りろ。<<エカルラート>>が人間の頭に直撃《ちょくげき》でもしていたら酒落《しゃれ》にならんぞ』
ナギは考える――それは間違いなく死ぬ。
「そ、そうですね! そんなことになったら大変です……」
『うむ。急げ』
言われるまでもなく、すぐにナギは向かった。
結界を越《こ》えると、地上はすでに日が落ち、空には星が輝《かがや》いている。ナギは星を見上げる暇《ひま》もなく、逆《ぎゃく》に下へと急いだ。
だが、結局、その先に待っていたのは<<エカルラート>>に直撃されて死にかけている神名の姿《すがた》だったのだ……。
○
「それであなたは、その彼を治療《ちりょう》して、<<エカルラート>>の行方《ゆくえ》もわからず、ここへ戻《もど》ってきた、と……」
天界に戻ったナギは、報告《ほうこく》書の内容についてさっそく上司から呼《よ》び出された。
その名は死天使長――すべての死神を統括《とうかつ》する、死神の中の最高|責任《せきにん》者であり、現行《げんこう》最強の死神として恐《おそ》れられている存在《そんざい》だ。
胸《むね》まである横髪《よこがみ》に対してショートボブにカットされた後ろ髪。死天使長の象徴《しょうちょう》ともいえる真紅《しんく》のラインに縁取《ふちど》りされた漆黒《しっこく》の服――
「そういうことね? ナギ……」
名前を呼ばれ、その人物と視線《しせん》が合う。瞳《ひとみ》は空を連想させるような透き通ったブルー。
まるで彫刻《ちょうこく》のような美しさを持ち、死天使長の制服《せいふく》に身を包んでいたのは女性《じょせい》だった。
「は、はい……」
ナギはゆっくりと死天使長の方を向く。
彼女の名はイリス――見た目は二十歳《はたち》前後の彼女は、歴史をひもといても異例《いれい》としか言いようのないスピードで死天使長に昇格《しょうかく》した死神だ。常《つね》に冷静な判断《はんだん》力と圧倒《あっとう》的な戦闘《せんとう》技術《ぎじゅつ》で多くのソウル・イレギュラーを正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻し、その功績《こうせき》が認《みと》められて今の地位に就《つ》いたエリート中のエリートだった。
その彼女が、ナギに向かって微笑《ほほえ》む。
「ということは……任務失敗ね?」
「も、申しわけありません……」
まさか微笑みかけられるとは思っていなかったので、ナギは戸惑《とまど》いながらイリスの言葉に頷《うなず》いた。
「報告によると、封印していた輸送中の箱が突然《とつぜん》開いたそうね……」
恐る恐るといった感じのナギを見て、イリスはもう一度、報告書に目を落とす。
「<<エカルラート>>は落下に伴《ともな》い行方不明。もう一方の<<ベル・フィナル>>は――」
『ここだぞ、イリス』
どこからともなくベルがひょっこり姿を現《あらわ》した。
それを見たイリスは笑《え》みだけは崩《くず》さず、
「――とりあえず報告書の件《けん》だけど……」
『おい、無視か!』
「あなたは黙《だま》ってなさい。まったく、こちらの承認《しょうにん》もなしで勝手に彼女と契約《けいやく》してしまうなんて……」
「あ、あのー」
なにやら言い合い始めた鎌《かま》と死天使長に挟《はさ》まれているナギは、小さく手を挙《あ》げて発言権を求めた。すると二人(片方《かたほう》は正確《せいかく》にいうと一|個《こ》だが)は話をやめてナギを促《うなが》した。
「何かしら?」
「私……ベルちゃんと気がついたら契約していたみたいで……」
<<ベル・フィナル>>――は長いので、ナギはちゃん付けで呼ぶことにした。
「ええ、そのようね……ナギ、あなたはこの鎌のことを聞いているのかしら?」
「通常階級の死神が所持できない鎌だと……ベルちゃんからは聞いていますけど……」
ナギがそう告げると、イリスは少し迷《まよ》ってから口を開いた。
「ええ……この<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>は二本で一対の鎌――聞いたことがあるかしら? かつて……神に最も近い、最強と言われた死天使長ディスの所持していた鎌よ……」
「ヴァ、<<ヴァールリーベ>>ですか!?」
イリスの言葉よりも早く、ナギはその名を口にした。
「よく知っていたわね」
「…………」
知っているも何も、その名は死神ならば一度は耳にしているはずだった。
天界最強と言われた死天使長・ディスと、彼の所持していた鎌である<<ヴァールリーベ>>――彼らは生死の枠《わく》を超越《ちょうえつ》し、神に最も近い力を持つと言われていた。
だが、かつての死天使長であったディスはすでに存在しない。天使にも人間と同じように魂《たましい》の輪廻《りんね》が存在していて、彼はその任期を終えて新たな輪廻へと進んだからだ。
この話は千年近い前の話で、今では語り継がれているにすぎない。
<<ヴァールリーベ>>についても、知られているのは名と「普通《ふつう》ではない鎌」であったことぐらいで、ディスが新たな輪廻に進んだ後、絶大《ぜつだい》な力を持ちながらも主を失った鎌は、その力が乱用《らんよう》されることを恐れて封印《ふういん》されたと聞いている。
「それが……この卵?」
『だから卵じゃない! 鎌! 鎌だから!』
間違《まちが》えるなと必死で訴《うった》える<<ベル・フィナル>>だが、ナギにはなかなか実感が湧《わ》かなかった。つまり自分はもはや伝説となっている鎌と契約したことになるのだ。
だが、ちょっと冷静になってナギは考えてみる。この鎌は封印されていた。その鎌と契約した自分は――
「あれ? ということは……」
嫌《いや》な予感が脳裏《のうり》をかすめ、ナギはイリスのほうを向いた。
彼女は先ほどと変わらない笑みで、しかし瞳から鋭《するど》い光を放ちながら、
「ええ。はっきり言って重罪《じゅうざい》です。封印指定されているものを私物《しぶつ》化した上、その一部を消失させてしまった……明らかに許容《きょよう》しがたい重罪です」
「そ、そんな――っ!?」
ガクッとナギはその場に両膝《りょうひざ》をついた。
任務《にんむ》失敗の上、まさか重罪を犯《おか》していたとは思ってもみなかった。これでは完全に自分の死神としての道は絶《た》たれてしまう……。
だがナギが完全に絶望する前に、
「でもね、ナギ。どうやら封印を解《と》いたのはあなたではないようだし、<<ベル・フィナル>>との契約はほとんど偶然《ぐうぜん》だから……この件であなたを罪《つみ》に問うことはないわ」
その言葉にナギの表情《ひょうじょう》は生き返ったように綻《ほころ》んだ。
「ほ、本当ですか!?」
「ええ……そもそも今回の件にはどうも裏《うら》がありそうなの。<<ヴァールリーべ>>の輸送はあなたにではなく、別の死神に依頼《いらい》したはずなのに……」
「書類の配送ミスですか?」
「……人為《じんい》的な、ね」
なんとなくだが、ようやくナギは納得《なっとく》できた。鎌すら持っていないナギに、こんな重要な任務が回ってくるはずがないのである。
「――それと、不幸中の幸いというか……<<ヴァールリーベ>>は二本で一|対《つい》――<<ベル・フィナル>>だけでは真の力は発揮《はっき》できない。それに今のあなたでは<<ベル・フィナル>>を使いこなすのも難《むずか》しいはずだから……」
「よ、良かった……」
任務を失敗したものの、その原因《げんいん》が自分だけにあるのではないことが認《みと》められ、ナギは胸《むね》を撫《な》で下ろした……が、安堵《あんど》したのもつかの間、
「でもね、ナギ。それとは別の問題が生じているの」
「えっ?」
「報告書《ほうこくしょ》によると、落下した<<エカルラート>>が少年に激突《げきとつ》、その際《さい》に死にかけていた少年を手当てした……とあるけれど……」
「はい、天界の事故《じこ》で彼に死なれると困《こま》りますから……」
「そのことだけど……どうやら彼はその場で死ぬ運命だったようね」
「え?」
イリスは顔をしかめながら報告書を読み上げた。
「この少年はあの場所で石を蹴《け》り上げ、その反動で後ろに転倒《てんとう》したあと、置いてあった三輪車のサドルに頭をぶつけて死ぬ予定だった――かなり悲惨《ひさん》ね。その予定が突如《とつじょ》上から落ちてきた<<エカルラート>>を見つけてしまったために、そうはならなかった……」
報告書はそこで終わっていたので、テーブルの上にそっと置いた。
続きは推測《すいそく》だが、
「その後、輪廻《りんね》から外《はず》れた少年を感知した<<エカルラート>>は自動的に彼を輪廻に戻《もど》そうとして激突……」
ここまでなら大した問題にはならなかったはずだった。少年の死に方は変わってしまったが、その時期にはほとんどずれがなかったからだ。しかし、
「そ、それじゃ――」
「ええ。それをあなたと<<ベル・フィナル>>が手当てした結果、彼は死ぬはずだった輪廻から外れて、ソウル・イレギュラーとなっているわ……」
と、いうことは結局――
「重罪ね」
「そ、そんなぁぁ――っ!?」
「ええ、確《たし》かに状況《じょうきょう》から判断《はんだん》するとあなたの判断はおおよそ間違っていないと思うわ。同じ立場に置かれれば、多くの者があなたと同じ行動を取るでしょう……けれど、あなたのミスがあったのも確かよ……」
「…………」
封印が何かによって解かれたとき、自分は油断していた。落ちていく<<エカルラート>>を阻止《そし》できなかったのも自分で、その結果、少年を死にそうな目に遭《あ》わせたのも事実だ。
ついでにこのとき上司の指示《しじ》を仰《あお》ぐことなく、少年の傷《きず》を癒《いや》したのも自分だ。
話はややこしくなったが――終局、ナギは任務《にんむ》失敗と重罪を犯した上に、ソウル・イレギュラーをこの世に生んでしまったということである。
ナギは静かに顔を上げ、イリスの方を見た。
「……私はどうなるんですか?」
普通ならば死神の役職《やくしょく》は剥奪《はくだつ》されるだろう。いや、それだけでは済《す》まないかもしれない。
神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちで次の言葉を待つ彼女に、イリスは応《こた》えた。
「あなたに……新しい任務を与《あた》えるわ」
「新しい……任務?」
「ええ。今回の件《けん》に関しては、あなたのミスだけとは言い切れない……よって、特別にチャンスをあげましょう」
イリスは青き瞳《ひとみ》を細めて続けた。
「ソウル・イレギュラーとなった少年――天倉《あまくら》神名《じんな》を正常《せいじょう》な輪廻へと戻しなさい。そして同時に落下してしまった<<エカルラート>>を回収《かいしゅう》すること。期限《きげん》は一週間よ」
それを聞いてナギは混乱《こんらん》した。処罰《しょばつ》を受けるどころか新しい任務を任《まか》せられるとは思ってもみなかった――いや、これはイリスから与えられた挽回《ばんかい》のチャンスなのだ。
だが、それは逆《ぎゃく》に失敗すると……?
「あ、あのー、それにも失敗したらどうなるんですか?」
ナギは身を小さくしながら聞いてみた。するとイリスは別の報告書を開きながら、
「あなたは友人に『チョコレート・パフェになりたい』と言っていたそうね?」
イリスは突如、奇妙《きみょう》なことを言った。
「は? ええっと、確かにノリでそんなことを言っていたかも……」
ナギはそう言いながら、数日前のことを思い返した。死神になれると決まったとき、友人たちは自分のことを祝福してくれた。
「おめでとう、ナギ! お祝いに何かプレゼントするわ。何がいいかしら?」
「本当ですか!? じゃあ私、チョコレート一か月分がいいです!」
チョコ・パフェを作るのに使うから。
すると別の友人が、
「そ、そう……では、私は何を贈《おく》りましょうか?」
「では、コーンフレーク一か月分で!」
チョコ・パフェを作るのに使うから。
さらに別の友人も、
「……だったら、私は――」
「アイスクリーム一か月分で!」
ナギはチョコレート・パフェが大好きだ。理由なんてない。好きなのだから仕方がない。
見ているだけで胸が高鳴り、一口食べたら幸せすぎて、思わず地面を転がりたくなる。
結局、友人たちは三人で一か月分のチョコレート・パフェをくれることになり、
「……あなたはチョコレート・パフェに生まれたほうが幸せだったんじゃないかしら?」
「そうですね! 私、チョコレート・パフェになりたいです!」
と、思わず口にしていた。
まぁ、でも、もちろんチョコ・パフェになれるはずなんて――
「というわけで、あなたをチョコレート・パフェにすることにしました」
その言葉にナギは呆然《ぼうぜん》となった。
チョコレート・パフェに……する?
「……はい?」
「あなたをチョコレート・パフェにします」
「え、えええぇぇぇ――っ!?」
ナギは大声を上げながら顔面|蒼白《そうはく》になった。
それに対して、あまりに不可解《ふかかい》なことを言ったイリスは表情《ひょうじょう》を変えずにさらりと続ける。
「不満ですか?」
「い、いえ、その……私は次の任務に失敗したらチョコ・パフェにされるんですか?」
「ええ。良かったわね、夢が叶《かな》って」
真顔でにっこり笑うイリスに、ナギは思わず戦慄《せんりつ》を覚えた。
さすが死天使長。その行動も思考もこちらの予想を遙《はる》かに超《こ》えて……というより、もはや理解|不能《ふのう》だ。彼女は淡々《たんたん》と任務の細かい内容《ないよう》について説明し始めた。
「ソウル・イレギュラーとなった天倉神名という少年は現在《げんざい》十七|歳《さい》。父親の転勤《てんきん》で両親は不在。彼は実家に一人で住んでいるようね。綾月《あやつき》第一高校という場所に通っていて、一日の大半はこの学校にいるでしょうから……」
「……もしかして私も行くんですか?」
「ええ。もう入学手続きは済《す》ませてあります」
「は、早い対応《たいおう》ですね……」
「それだけ今回の件が重要だということです……あちらで必要になるかもしれない資金《しきん》は用意しておきました。足らない分は自分で補《おぎな》いなさい」
と、イリスから小さな財布《さいふ》を手渡《てわた》された。
「あ、ありがとうございます」
任務の期間は最大で一週間。食費に宿泊《しゅくはく》費などを考えるとかなり費用がかさむだろう。一体、どれぐらい支給《しきゅう》されたのか気になるところだ。とりあえず財布の中を覗《のぞ》いてみると三|枚《まい》の紙幣《しへい》が入っていた。
イリスはさらに言葉を続ける。
「初めに言ったけれど期限は一週間。こうしている間にも――」
『なんだ、ケチだな。たったの三万円か。もっと優雅《ゆうが》な暮《く》らしができるぐらい――』
「あなたはさっさと行きなさい」
バキッ。口を挟《はさ》んできたベルはイリスに殴《なぐ》り飛ばされ、彼女が瞬時《しゅんじ》に作った異《い》空間《くうかん》に放り込《こ》まれた。
『わあああぁぁぁ――っ!?』
「地上へは直通で行けるわ……たぶん」
そう言って今度はナギへと視線《しせん》を向けた。その視線を受けてナギの背筋《せすじ》に悪寒《おかん》が走る。
「わ、私は自分で行けます! ちゃんと飛んで――」
「行ってらっしゃい」
トンッ。
「きゃあああぁぁぁ――っ!」
抗《あらが》う暇《ひま》もなく、ナギはイリスに異空間へ押《お》し込まれて旅立った。みるみるイリスから遠ざかっていくが、ナギは彼女に向けて大声で叫《さけ》んだ。
「イリス様――っ! これ、この財布の中身! ドル札なんですけど――っ!?」
しかも一〇ドル札。ベルの言った額《がく》のおよそ十分の一しかない。しかも向かう先は日本なのでこれでは持っていないのと同じだ。
それを見たイリスは一瞬だけきょとんとしてから、
「……あら?……ええっと、努力なさい」
「そんな無茶苦茶なっ!?」
「強気でいけば、なんとかなります」
「ちょっとイリス様!? イリス様――っ!?」
ナギのどこか悲痛《ひつう》な叫びは届《とど》かず、彼女は異空間を真《ま》っ逆《さか》さまに落ちていく。
こうしてナギは何の用意も、決心もできないまま、ほぼ強制《きょうせい》的に地上へと送り込まれたのであった……。
○
ナギが地上に降《お》りてから五日目。
ぷかぷかと大きく白い雲が青い空を漂《ただよ》っているのを見上げながら、神名とナギは昼食を取っていた。
場所は校舎裏《こうしゃうら》にある木陰《こかげ》だ。ベンチに座《すわ》り、ナギは嬉《うれ》しそうにチョコレート・パフェを口に運んでいた。わざわざ小さなアイスボックスに詰《つ》めて持ってきたものだ。
「あぁ、チョコ・パフェを食べていると任務《にんむ》なんて忘《わす》れちゃいそうですね〜」
『いや、実際《じっさい》忘れてるだろ、お前』
同じく木陰で休んでいるベルが隣《となり》でそう言った。
その任務の対象である神名はというと、ベルをナギと挟むようにして座っている。
「天倉さんは何を食べているんですか?」
「見ての通り、パンだ……お前が『一緒《いっしょ》に、外で食べましょう!』とか言わなければ、今頃《いまごろ》は週一回のステーキ定食が食べられたのに……」
午前の授業《じゅぎょう》が終わり、神名が学食へと走ろうとしたらナギからそう言って止められた。
もちろん神名は「断《ことわ》る」の一言で無視しようとしたのだが、それを聞いたクラスメートたちに無理やり外へ行かされてしまったのだった……。
『というか、仲良くメシ食ってる場合か?』
ベルはナギと神名のやりとりを聞きながら不平を言う。
「ベルちゃん、心配無用ですよ。私たちはただ、食事中は休戦協定を結んでいるだけです」
『それだけで大いに心配だ……一昨日なんて、何もしないで終わったようなものだぞ?』
一昨日は土曜日で、神名のお金でチョコ・パフェの材料を買い、ナギが作ったものを、互《たが》いに自分のものだと口論《こうろん》していたら、夜になっていた……。
ちなみに昨日は日曜日で、神名は終日バイトだったため、ナギは寄《よ》り付けず。
「う……す、過ぎたことは気にしちゃいけないのです!」
彼女はチョコ・パフェをすべて食べ終え、ゆっくりと立ち上がった。
「よーし、お腹《なか》もいっぱいになったし、天気も良いのでぱっぱーっとやりましょう!」
「食後の運動みたいに気軽に言うなよ」
神名が最後のパンを食べながら上目使いでナギを見上げる。彼はナギより先に食べ始めたはずだった。
「……食事の時間を延《の》ばそうって思ってもダメですからね。早く食べてくださいよー」
「俺《おれ》はゆっくり食べたい気分なのだ」
「いいから早く!」
そう言うとナギは無理矢理パンを神名の口に押し込むことにした。
「お、おい! やめろ!」
「こっちは時間がないんですよー?」
『食事中の休戦協定なんて作るからだろ……』
傍《はた》から見ると仲良く食事しているように見えなくもない様子で騒《さわ》いでいると、どこからともなく彼はひょっこり現《あらわ》れた。
「やぁ、お二人さん、今日も仲がいいね」
優《やさ》しそうな笑顔《えがお》と、どこか優等生《ゆうとうせい》のような雰囲気《ふんいき》を持ってやってきたのは親友の祐司《ゆうじ》だ。
彼の笑顔に神名は眉《まゆ》をひそめながら言い返す。
「祐司。言っておくが、これは死闘《しとう》の延長線《えんちょうせん》上に存在《そんざい》する戦いだぞ」
祐司は意味不明なことを言う親友に、笑って質問《しつもん》した。
「パンを食べるのが?」
「より長く時間をかけることに活路があるのだ」
「ああ! やっぱり食事の時間を延ばそうとしてたんですね!?」
「当たり前だろ!」
その言葉に再《ふたた》びナギの手が神名のパンと口に迫《せま》る。それに必死で抵抗《ていこう》する神名の姿《すがた》はやはり仲が良さそうに見えた。
そんな二人を見た後、祐司はベンチに置かれていたベルの方に視線《しせん》を向ける。
「ところでさっき、これが喋《しゃべ》っているように聞こえたんだけど……」
祐司がそう言ってベルを持ち上げた瞬間《しゅんかん》、
「ていっ」
「うっ!?」
一瞬で祐司の背後《はいご》に回ったナギが彼の首筋《くびすじ》を手刀で打った。鮮《あざ》やかに決まったその攻撃《こうげき》を受けて、祐司は静かにバタッと地面に倒《たお》れる。
「彼の記憶《きおく》は消しておきますね」
にっこり微笑《ほほえ》む死神。
「……なんかさ、こいつ頻繁《ひんぱん》に記憶消されてないか?」
彼は自分たちの前に現れるたびに記憶を消されている気がする。実に運がない。
「後遺症《こういしょう》とかないだろうな?」
「神秘《しんぴ》の力に副作用はありません」
「ほんとかよ……」
「それに、いざとなったら戻《もど》せる記憶は戻してあげますよ。ベルちゃんスコップで」
それを聞き、神名はナギが祐司の頭をスコップで殴《なぐ》りつける様を思い浮《う》かべた。
「……ショック療法《りょうほう》?」
死ぬ確率《かくりつ》、大。
「違《ちが》いますよ。あのスコップには<<記憶を掘《ほ》り起こす>>能力《のうりょく》があるんです」
「おお、なるほど」
「それより早く始めましょう!」
「むぅ、仕方ないな……」
神名は祐司が完全に気絶《きぜつ》しているのを確《たし》かめてからナギと向かい合った。彼女の方はすでに戦闘|態勢《たいせい》で、いつでも戦えるといった雰囲気だ。ナギはさっそくベルを構《かま》える。
「行きますよ天倉さん」
彼女の言葉と共にベルが光る。いつものベルが姿《すがた》を変える前の光景だ。だが、その光が消えたとたん、ベルは新たな姿を見せた。それはまるで巨大《きょだい》な槍《やり》――いや、薙刀《なぎなた》という方が正しい表現《ひょうげん》だろう。
「なにっ!?」
てっきり今日もスプーンだと思っていた神名は驚嘆の表情を見せた。
するとナギがふっと不敵《ふてき》に笑うが――彼女は額《ひたい》に汗《あせ》を浮《う》かべていた。
不思議に思ってベルをもう一度よく見てみると、その薙刀には刃《は》がなかった。ただ、その刃があるべき場所にちょっとしたギザギザが付いている。
「……ナイフ?」
それは武器《ぶき》としてのものではなく、食器のナイフを大きくしたものだった……。
「あ、天倉さんにはこれで十分なのです!」
『正直、鎌《かま》には変えられないって言えよ……』
どこか諦《あきら》めたようにベルが小さく呟《つぶや》く。
対して神名はちょっと安堵《あんど》した様子で胸《むね》を撫《な》で下ろした。
「驚《おどろ》かせやがって……」
「むっ……安心するのはまだ早いですよ!?」
神名の隙《すき》をついてナギが突《つ》っ込んでくる。彼女はベルを持ち上げ、神名に向かって振《ふ》り下ろした。狙《ねら》いが甘《あま》い――そう思って神名は回避《かいひ》した。回避はしたのだが……後ろにあったベンチにナギの攻撃が当たり、それはスパッと真っ二つになった。
「……おいっ!? なんだ、それは!?」
「食器ナイフ……なんですけど……どうやら追加能力が<<すべてを切り分ける>>能力みたいでして……」
正直なところ、使った本人も驚いた。ベンチは紙を切るより容易《たやす》く二つにされたのだ。
「……鎌より強いんじゃないのか?」
「単純《たんじゅん》な攻撃力だけなら……たぶん」
ナギが変化させるベルは形こそ鎌ではないもの、神名にとって「触《ふ》れたら終わり」に変わりないものばかりだ。
「ふっふっふ……天倉さん、どうやら今日こそ終わりのようですね!」
「くっ!」
さすがにこんな危《あぶ》ない武器と正面から戦うわけにもいかず、神名はひとまず逃《に》げるつもりだったが、ナギはすでに神名を間合いに捉《とら》えていた。
「逃がしません!」
ナギはナイフに変わったベルを横に薙《な》ぐ。だが、神名は間一髪《かんいっぱつ》のところでそれを避《よ》けた。
彼の動体視力と運動|神経《しんけい》は相変わらずだ。
「当たるか、そんなもの!」
「くっ、だったら――」
ナギはベルを一度スプーンに変え、すぐさま突き出した。一度、変化させたものはイメージが固定化しているので変化させやすい。
「っ!?」
ベルのリーチは短くなったはずだが、彼女が一歩|踏《ふ》み込《こ》むのと同時に放たれた攻撃《こうげき》は神名を確実《かくじつ》に捉えていた。それを見た神名は後ろに飛ぶ。そのことで突き自体のダメージは軽減《けいげん》される。だが前に受けたものと同じ、心への衝撃《しょうげき》が神名を襲《おそ》った。
心が異様《いよう》なまでにざわつく感覚――焦《あせ》りに似《に》ているが、それとは少し違《ちが》う。強《し》いて言うのなら、<<絶望>>という感情を直接叩《ちょくせつたた》き込まれるようだった。
心が折れる。ダメージはないし、体力もまだ残っていたが、神名は地面に片膝《かたひざ》をついた。
「っ……半端《はんぱ》じゃないな、これは……」
そう呟《つぶや》きながら彼女を見る。ナギは感情と表情を抑《おさ》え、『死神』としてそこにいた。
「終わりですね……今の天倉さんに次の攻撃をかわす余裕《よゆう》はない……」
そしてスプーンをナイフに戻《もど》す。こちらの動きを止め、確実に神名を殺すつもりだ。
神名はそんなナギを無言で見つめ返す。確かに彼女の言う通りだった。この状態《じょうたい》でベルを避けるのは難《むずか》しい。なんとかできても防御《ぼうぎょ》が精一杯《せいいっぱい》だ。しかし防御はすなわち<<死>>。今のベルは触れるだけで命取りという存在《そんざい》だ。
「さようならです、天倉さん!」
ナギが迫《せま》る。身体《からだ》はやはり動かない。
(終わりか……)
振り下ろされるベルを見ながら、思わず神名はそう思ってしまった。
だが、やはりこのまま死んでいくのは納得《なっとく》できない。まだやりたいことがある。まだ――やらなくてはならないことが神名にはあった。
(死ねないな……)
神名の眼《め》に再《ふたた》び魂《たましい》が宿る。もともと身体にダメージはないのだ。神名の「まだ死ねない」という意思が、ベルに植えつけられた<<絶望>>を払拭《ふっしょく》する。
「悪いが俺は、ここで死ぬつもりはない!」
だがナギの攻撃《こうげき》は止まらない。
攻撃が当たる――だが、避《さ》けようのない事実であったはずのそれは、突如《とつじょ》として一変した。
ガツッ!
金属《きんぞく》同士がぶつかる独特《どくとく》の音と衝撃。
「なっ!?」
驚いてナギが目を見開いた。神名に振り下ろしたはずのベルが、彼の数十センチ前で止まっていた。
ナギと同じように神名も驚いた表情で目の前を見る。ベルと神名の間に黒い何かが現《あらわ》れ、その場に浮遊《ふゆう》していた。黒くて丸い、下に黄色い輪の付いた浮遊物体がベルを受け止めている。
「な、なんだこりゃ……?」
どこか見覚えのあるような物体に眉《まゆ》をひそめる神名。
ナギはさらに驚愕《きょうがく》しながらその物体の名を呼《よ》んだ。
「エ、<<エカルラート>> !?」
<<エカルラート>>――それは<<ベル・フィナル>>と対《つい》の、半身ともいえる存在。
『なんだと……神名、お前が<<エカルラート>>を所持していたのか!?』
「知らん。なんだ? この黒い卵《たまご》は……」
神名にも状況《じょうきょう》が掴《つか》めず、それを右手に掴んで凝視《ぎょうし》する。そこにあるのはベルと瓜《うり》二つの形をした、黒い卵らしきもの。
神名の自問自答のような言葉にナギが答えた。
「なんだ、って、神名さんを殺しかけた物体ですよ。<<エカルラート>>――ちゃんと説明しましたよね?」
すると神名はハッとなって思い出す。
「こいつ、俺の頭に直撃してきたやつか!? なんでこんなところにあるんだ!?」
『それはこっちが聞きたいぐらいだ……』
この漆黒《しっこく》の物体は神名をソウル・イレギュラーへと変え、同時に神名を本来あるべき輪廻《りんね》に戻そうとした存在だ。神名を殺そうとして彼の頭に直撃し、その後はどこに行ったのか行方《ゆくえ》不明だったのだが……。
『いや、それより神名――お前、こいつを呼び出したな? ポケットだとか鞄《かばん》に入れて持っていたわけではなく、空間から取り出したな?』
「ん? いや……俺にもよく分からないんだが……」
確《たし》かにベルの言う通り、神名は<<エカルラート>>を隠《かく》し持っていたわけではない。ただ無我《むが》夢中《むちゅう》だったその瞬間《しゅんかん》、自分の意志《いし》とは関係なく、それは現れたのだ。
理由はただ一つ。
「――<<エカルラート>>は天倉さんを主に選んだんですか?」
『そういうことになるな……』
「おーい、何がどうなってるんだ?」
神名を無視《むし》して話を続けるナギとベル。
どうやら彼らにとってもかなり予想外の事態らしい。
『待て。こっちも整理するから……というか、私の所有者はナギだ。それなのに私の半身であるエカルラートの所有者が神名になったら……私たちは元に戻れないじゃないか!』
「ん? そうなのか?」
よく分からないがベルの話を詳《くわ》しく聞こうとしたら、その間にナギが割《わ》って入った。
「そんなことより、天倉さんずるいですよっ! 人間なのに死神の鎌《かま》が使えるなんて!?」
「いいじゃないか別に。これで対等だろ?」
「ううぅ……ベルちゃん、天倉さんがあんなこと言ってますよ?」
『……人間が死神の鎌と契約《けいやく》できるなんて知らなかったな……』
「そんな暢気《のんき》なこと言ってる場合じゃないです――っ!」
『いや、だがなナギ……<<エカルラート>>の所在が分かっただけでも良かったと思うぞ』
「え? あ……そうか……」
『このまま神名を殺すことだけに時間をかけていたら、結局お前はチョコ・パフェにされるわけだからな……』
「…………」
そう、ナギには二つの任務《にんむ》がある。一つは神名を正常《せいじょう》な魂《たましい》の輪廻《りんね》に戻《もど》すこと。そしてもう一つは<<エカルラート>>の捜索《そうさく》だった。
『――だったらこれで一石二鳥だろう? 神名を殺せば<<エカルラート>>も主を失って戻ってくる』
「そうですね……」
すると、
「殺せればの話だろ? 無理だな、絶対《ぜったい》」
神名が<<エカルラート>>を片手《かたて》に勝ち誇《ほこ》った表情《ひょうじょう》でこちらを向いていた。<<すべてを切り分ける>>能力《のうりょく》を持つはずのベルのナイフを、この<<エカルラート>>は止めたのだ。
「うっ……ううぅ〜〜〜そんなことないです!」
「どうだかな……ところでお前に初めて会ったとき、ベルをなくしたって言ってたよな? こうやって呼《よ》び出せばよかったんじゃないのか?」
イメージしながら呼べば出てきてくれる。
だが、この機能《きのう》には大きな問題があるのだった。
「自分で専用《せんよう》の空間に保管《ほかん》していれば、の話です。あのときはイリス様に変な空間に飛ばされて、ベルちゃんとは別々にこっちへ来たから……」
『あぁ、あれは地獄《じごく》だった……変な空間に変な波動で飛ばされて、頭がおかしくなりそうだったぞ……』
「んー、イリス様?」
この話題は二人を憂鬱《ゆううつ》にさせるのか、ガクッと肩《かた》を落としたように見えたので神名はそれ以上聞くのをやめた。
神名は自分の手の上に<<エカルラート>>を載《の》せ、小突《こづ》いてみる。
「なぁ、こいつぜんぜん喋《しゃべ》らないんだけど……なんでだ?」
ベルとは一対の鎌である<<エカルラート>>。だが、この鎌は一言も言葉を発しない。
『言っておくが、もともと人語を話す鎌というのは滅多《めった》にないんだぞ? 我々《われわれ》は二本で一対――私は<<魂>>を司《つかさど》り、<<エカルラート>>は<<器《うつわ》>>を司る。そのため、人語を話すのは<<魂>>を司る私の方だけだ』
「そうか! じゃ、静かでいいな!」
『うるさい!』
大声で騒《さわ》ぐ一人と一個に対してナギの方は真剣《しんけん》な面持《おもも》ちで神名を見つめる。
「とにかく天倉さん、無駄《むだ》な抵抗《ていこう》はやめて、今日こそおとなしく死んでください!」
「アホか! 俺にはまだやりたいことも、やらなくちゃならないこともあるんだよ!」
「私にだってありますよ!」
両者は互《たが》いに叫《さけ》びながら接近《せっきん》した。
ナギはナイフになったベルを振《ふ》り回しながら神名の隙《すき》を窺《うかが》う。神名はナギの攻撃《こうげき》を避《よ》けたり、<<エカルラート>>を使って防《ふせ》ぐ。形は卵だが、盾《たて》としては優秀《ゆうしゅう》だ。
「だいたい、その天倉さんのやらなくちゃならないことって何なんですか!?」
「それはだな……あー、つまり――」
神名がどういう言い方をしようかと口ごもっていると――シュン、と彼の前を何かが通り過《す》ぎた。
「?」
「!?」
神名は眉《まゆ》をひそめ、ナギはハッとなった。思わず動きを止めたナギのところに、それは再《ふたた》び通り過ぎた。
「こ、これは!?」
覚えのある感覚と情景――初めての任務で襲《おそ》ってきたものと同じだ。小さい何かがナギの側《そば》を高速で飛び去る。それを目で追おうとするがやはり捉《とら》えられない。ナギが焦《あせ》りながら辺りを見回すと、どこからともなく声は聞こえてきた。
「ふっふっふ……ようやく再び会えたな」
重たく響《ひび》くその声はすぐ側から聞こえた。近くにいる――だが、その姿《すがた》は見えない。
「どこ!? 一体、誰《だれ》なんですか!?」
「ふっ……まだ気付かないのか。やはり新人の死神だな……」
「くっ……」
ナギは空も見上げてみたが、やはりそこには誰もいない。
「何なんだ? この声は……」
神名も気になって声の主を捜《さが》し始めた。
「ふっ、愚《おろ》か者《もの》め。私はここだ!」
一際《ひときわ》、大きな声がして、ようやくナギはその姿を捉えた。
視線《しせん》は大きく下。足元にそれはいた。
「…………」
見えないはずだった。それは小さくて黒い。触角《しょっかく》もあって足は六本。家の中で時々見られる黒い虫――ゴキブリ?
「ふはは、ようやく気がついたな! 我《われ》の名は――」
「きゃあああぁぁぁ――っ!」
ナギは思いっきり叫びながら、ベルを一瞬《いっしゅん》でスコップに変えて地面を連打した。謎《なぞ》のゴキブリを意外に強力なスコップの圧力《あつりょく》が襲《おそ》う。
「ぐはっ!? ま、待て! 我の話を――」
「!? きゃああぁぁぁ――っ!」
「ま――」
「きゃあああぁぁぁ――っ!」
バンバンバン――。
制止《せいし》の声も空《むな》しく、ナギは無我《むが》夢中《むちゅう》で殴打《おうだ》し続けた。
しばらくして、地面にクレーターが出来上がったころ、ようやくナギは落ち着いた。
神名はピクリとも動かなくなった黒い虫をまじまじと見つめながら感想を呟《つぶや》く。
「死んだんじゃねーの?」
『ゴキブリって人語を話すのか。知らなかったぞ』
「俺《おれ》もだ」
「ゴキブリではな―――いっ!」
神名とベルのやり取りが気に入らなかったのか、ゴキブリらしき虫は怒《いか》りの声を上げながら起き上がった。
「あ、生きてた」
『さすがゴキブリ。並外《なみはず》れた生命力だな』
「貴様《きさま》ら、少しは人の話を聞け!」
「お前、虫じゃん」
「うるさい! いいか貴様ら! 我《わ》が名はフルール! 遥《はる》か昔、すべての死神を束《たば》ねし伝説の死天使長・ディスの生まれ変わりなのだ!」
『な、何――っ!?』
驚愕《きょうがく》するベル。疲《つか》れた表情《ひょうじょう》を見せていたナギも、その言葉にハッとなって顔を上げた。
一方、神名は、
「なんだ、それ?」
「今、説明したばかりだろう!?」
「それでもわからないから聞いてるんだろうが!」
「だ、だからディスの生まれ変わりなのだよ」
ちょっぴり逆《ぎゃく》ギレな神名に気圧《けお》されて、フルールはしぶしぶ説明し始めた。
「……一千年ほど前まで、すべての死神はディスと呼《よ》ばれる死天使長によってまとめられていた。ディス自身の力、そして彼の所持していた鎌《かま》の力は最も神に近いとされ、絶大《ぜつだい》な権限《けんげん》を保持《ほじ》するに至《いた》っていたのだ……」
その言葉を黙《だま》って聞いているナギとベルを見て、神名もとりあえず黙って聞く。
「だが、彼の任期《にんき》も終わり、新たな輪廻《りんね》へと進むこととなった。彼の愛用していた鎌は封印《ふういん》され、彼の魂《たましい》は新たな輪廻を巡《めぐ》り……こうして我《われ》となったのだ!」
「……なるほど」
おおよそだが、とりあえず神名は理解《りかい》した。
「――死神が生まれ変わってゴキブリになったのか」
「そんなわけあるか! 我はれっきとした死神だ!」
「……確《たし》かに薄汚《うすぎたな》い羽はあるようだな……。触角付きで」
「ええい、黙《だま》れ! 我は現《げん》・死天使長のイリスにこのような姿に変えられたのだ!」
「イリス?」
ついさっきも聞いたような名前に神名が思わず聞き返す。その名を聞いたナギがどこか恐《おそ》る恐る神名に説明する。
「ええっと、私の上司みたいな人です」
「そう……一年前、ようやく死神となれた我は、とある任務《にんむ》で失敗した……すると、イリスに呼び出され、奴《やつ》は我に何と言ったと思う?」
震《ふる》える声を出すフルールを見て、よほどのことを告げられたのだろうと察しはついた。
「んー、死神の権限を剥奪《はくだつ》する、とか?」
「違《ちが》う! あれは、そう……一年前のことだ……」
フルールはそう言いながら遠い目で空を見上げた。
彼が任務に失敗したとき、ナギと同じように彼女から呼び出された。
「……任務失敗ね、フルール……覚悟《かくご》はいいかしら?」
フルールには一週間以内に殺さなくてはいけない人物がいた。だが、彼にとって思わぬハプニングが起こり、その期限に間に合わなかったのだ……。
「任務には失敗したが……我に悔《く》いはない……」
「激愛《げきあい》している九官鳥がゴキブリを食べて死にそうだったんですって? その看病《かんびょう》に夢中《むちゅう》で、任務をすっかり忘《わす》れてしまうなんて……そんな話、他には聞いたことがないわ」
「あいつは私の家族も同然なんだ! 仕方がないだろう!?」
「……そう……で、その九官鳥はどうなったのかしら?」
「ふん、この通り元気になった」
彼はすっとカゴを持ち上げた。中には黒紫《くろむらさき》色の光沢《こうたく》を持つ九官鳥が、元気そうにこちらを見つめている。
そういえば九官鳥は人の言葉をまねて鳴くのが巧《たく》みな鳥だ。イリスは一言、その声を聞いてみたいと思った――そのとき、
『イリスのバカやろー、イリスのバカやろー』
「…………」
『イリスのアホー』
鳥の鳴き声に、イリスとフルールは黙って立ち尽《つ》くした。九官鳥は飼い主の言葉を覚えるという……。
フルールは苦笑いを浮《う》かべながら、
「き、希望は九官鳥で」
「では、ゴキブリにしましょう」
彼女は笑いながら、しかし額《ひたい》に怒《いか》りマークを浮かべてこちらに手を向けた……。
「どうだ!? そのぐらいで怒《おこ》るか、ふつう!?」
怒りに燃《も》える声を張《は》り上げ、ゴキブリは拳《こぶし》(ないけど)を振《ふ》り上げた。
その痛々《いたいた》しい話に神名は汗《あせ》を浮かべた。そんな上司は絶対《ぜったい》いやだ。
「自業《じごう》自得《じとく》な気もするが……すごい上司だな」
「なんといっても、我をゴキブリに変えた女だからな」
「なんたって私をチョコレート・パフェにしようとしている人ですから……」
「……変わってるな」
「鬼《おに》だ」
「悪魔《あくま》です」
話が逸《そ》れてきたので、ここらへんでと神名が本題へ戻《もど》した。
「で結局、お前はここへ何をしにきたんだ?」
「よくぞ聞いてくれた。つまり我は元の力を取り戻しにきたのだよ、すなわちディスの鎌《かま》であった<<ヴァールリーベ>>をな!」
ナギはその言葉でようやく確信《かくしん》を得た。
「やはりあなたなんですね? 私の初めての任務で、運んでいたベルちゃんたちの封印を解《と》いたのは……」
「そうだ。我が手にするつもりでな。新米の貴様が輸送《ゆそう》の任務に就《つ》けば、横から<<ヴァールリーベ>>を掠《かす》め取るぐらい簡単《かんたん》……のはずだったのだがな……貴様が片割《かたわ》れである<<ベル・フィナル>>と契約《けいやく》するとは思ってもみなかったぞ」
そういう点では、ナギはしっかりフルールの計画を阻止《そし》したといえる。
「あなたにベルちゃんは渡《わた》しません!」
「ふっ、まぁ、よかろう……それは時間の問題だ。我はすべてを取り戻し、ついでに我をこのような姿《すがた》に変えた生意気な小娘《こむすめ》に復讐《ふくしゅう》してやるのだからな!」
と、その台詞《せりふ》にナギは急に青ざめて聞き返した。
「イ、イリス様に?」
「そうだ!」
「……ぶち殺されますよ?」
「…………」
微《かす》かな沈黙《ちんもく》。
「……そ、そうならないために、天界最強と言われたその鎌を取り戻しにきたのではないか! ナギとやら! 手始めにお前からその<<ベル・フィナル>>をいただくぞ!」
「むっ……」
ゴキブリから指差され、ナギはベルを強く握《にぎ》り締《し》めた。ようやくなれた死神、そしてその象徴《しょうちょう》である鎌をそう簡単に手放すわけにはいかない。
相手の力は未知数だが、こちらには神名も――
「がんばれ、ゴキブリ〜」
あろうことか神名はフルールに声援《せいえん》を送った。
「なっ!? 天倉さん!? 応援《おうえん》する方、間違《まちが》っていますよ!?」
「何を言う。お前とこのゴキブリにどんな因縁《いんねん》があるか知らないけど、ここでお前が負ければ、俺の命も安泰《あんたい》じゃないか」
『よく考えろ。私はエカルとワンセットだぞ? ナギの次はお前が狙《ねら》われるんだ』
「…………」
よくよく考えれば当たり前だった。鎌との契約は契約者が死ぬまで続く。ナギが負けた後、フルールは神名の<<エカルラート>>を狙ってくるだろう。
神名は素早《すばや》く方向|転換《てんかん》して、
「このゴキブリめ!」
「うわっ! 手のひらを返したように態度《たいど》が変わりましたね!?」
「うるさい! さっさとやっちまえ、あんな虫!」
正直、神名にはベルとエカルがそんなすごい鎌とは信じられなかった。だが、現《げん》にフルールは本気で狙ってきている。
ともあれ戦況《せんきょう》は二対一。だが、フルールに諦《あきら》める様子はない。その視線《しせん》をゆっくりと神名に向けた。
「……天倉とやら。人間でありながら死神の鎌が使えるとは……なかなか興味《きょうみ》深い存在《そんざい》だな……。どうだ? 我と手を組まないか? 我と共に死神どもへ復讐しようではないか」
「何?」
突拍子《とっぴょうし》もない提案《ていあん》に神名は困惑《こんわく》した。
「お前も命を狙われているのだろう、ソウル・イレギュラー。お前は死ぬはずだったと勝手な理由を付けられ、毎日死神から命を狙われる……それをここで終わりにしたくはないか?」
「…………」
実際《じっさい》、それは神名にとって魅力《みりょく》的な提案ではあった。このまま毎日、ナギから命を狙われ続けるのも辛《つら》い。
するとそのとき、
「いかないでください、天倉さん……」
後ろからキュッとナギが神名の服を掴《つか》んだ。
「お前……」
「私……天倉さんがいなくなったら、私――」
彼女の瞳《ひとみ》にはうっすらと涙《なみだ》が浮《う》かんでいた。悲しそう表情《ひょうじょう》でナギは、
「私、確実《かくじつ》にチョコ・パフェにされる上、今日の泊《と》まるところが――」
「お前はちょっと黙《だま》ってろ」
神名はナギの頭を目掛《めが》けて拳《こぶし》を振《ふ》り下ろした。
「痛《いた》っ! 何するんですか!?」
「心配するな、手《て》加減《かげん》はした」
ナギを黙らせ、神名は再《ふたた》びフルールの方を向く。
「どうする? 天倉神名……」
「俺は――」
「ゴキブリさん! この人はやめておいたほうがいいですよ! 天倉さんは『一緒《いっしょ》に世界を征服《せいふく》しよう』とか言っておいて、事を成し終えたらあなたを殺虫スプレーで地獄《じごく》に叩《たた》き込《こ》むような人なのです!」
「な、なんだと!? 貴様《きさま》、鬼《おに》か!?」
「俺はまだ何も言ってないだろうが!」
「……では、我と手を組むというのか?」
フルールの言葉に神名は沈黙《ちんもく》する。
ナギは神名の次の言葉を待っているかのように見つめた。
「……俺の答えはノーだ」
「なぜだ? 貴様にとっても悪い話ではあるまい?」
「そうだな。だけど嫌《いや》なんだ。理由はわからないけどな……いや、そもそもゴキブリから手を組めって言われて、頷《うなず》くヤツはいないだろ。だいたい……お前、その状態《じょうたい》でどうやって鎌を持つんだよ?」
「……あ、そういえば……」
どうやら脳《のう》みそもゴキブリ並《な》みに低下してしまっているようだ。
「なにはともあれ、これ以上、命を狙われるのはうんざりだ。さっさと帰れ」
そうしないなら実力行使だ、と神名の瞳は告げている。
だがそこで退《しりぞ》くフルールではない。
「そうはいかん! 我とて<<ヴァールリーベ>>を諦めるわけにはいかんのでな。貴様らにはここで死んでもらうぞ!」
フルールの言葉に神名とナギはそれぞれ身構《みがま》えた。こうなったら戦うしかあるまい。そうと決まれば話は早い。
「ゴキブリのくせに生意気な。ぱっぱっと片付《かたづ》けてやるぜ」
「そうです。スリッパで潰《つぶ》しちゃいますよ?」
「ふん、そう粋《いき》がっていられるのも今のうちだけだ。我の力を見せてやろう!」
そう言ったかと思うと、ゴキブリはシュンと音を立てて消えた。いや、実際《じっさい》には消えていないのだが、移動《いどう》スピードが速すぎて神名たちには捉《とら》えられないのだ。
「は、速い!?」
そう思った瞬間《しゅんかん》、神名は腹部《ふくぶ》に衝撃《しょうげき》を受けて吹《ふ》き飛んだ。
「ぐはっ!?」
「ふはははっ! 我の力を侮《あなど》ったな!」
高らかに笑い声を上げるフルール。
「目にもとまらない速さのゴキブリ……! 怖《こわ》い。恐《おそ》ろしいです! というか迫《せま》ってくるのが恐ろしすぎます!」
「……褒《ほ》められているはずなのに、何故《なぜ》かムカツクな……」
『そりゃそうだろ。恐怖《きょうふ》じゃなくて、ただの嫌悪《けんお》感だから』
ナギはなんとかフルールを打ち落とそうと闇雲《やみくも》にスコップを振るうが、やはり捉えることが出来ない。スピードもさることながら、フルール自体が小さいので全く当たる気配がなかった。神名はもともと攻撃《こうげき》の手段《しゅだん》が拳だけなので手の出しようがない。
「攻撃が当たりません……っ!」
「く、くそっ、こうなったら今は逃げるか!?」
「逃がすものか!」
ここは退《ひ》くべきかと思った矢先、フルールの身体《からだ》から紫《むらさき》色の波動が広がった。神名とナギは逃げる間もなく大きく広がった波動に空間ごと閉《と》じ込められる。
「なにっ!?」
「ふん、これで逃げられんぞ!」
広がった波動の外側の景色がすっと消えていく。完全に外の世界と遮断《しゃだん》された証拠《しょうこ》だ。
上も下も紫色。隔離《かくり》されたフィールドに神名たちは閉じ込められた。
「ゴ、ゴキブリにこんな高度な術《じゅつ》が使えるなんて!?」
「くっ……」
ゴキブリのような姿《すがた》のフルールだが、その実力は確《たし》かだった。<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>の封印をいともあっさり解いたのも頷ける。
『――仕方がない。神名、<<エカルラート>>を使え』
ベルの突然《とつぜん》の提案《ていあん》に神名は少し驚《おどろ》いた。使え――つまり、<<エカルラート>>を鎌《かま》として使えということだ。
「使えって……俺《おれ》にもできるのか? そもそも使い方なんて知らないぞ?」
『今から教えてやる』
「……いいのか? ナギと戦うとき不利になるぞ?」
『今ここで奴《やつ》をやらなければ、私の主人はお前たちからゴキブリになるんだぞ? そんなのはまっぴら御免《ごめん》だ』
「まぁ、確かにそうだよなぁ……」
ベルの提案に、神名が決断《けつだん》するのも早かった。
「よし、教えてくれ」
『うむ――まずはイメージしろ。お前の強い鎌のイメージが<<エカルラート>>を本来の姿に戻《もど》す。あとは変化を念じろ。その力は<<エカルラート>>が貸《か》してくれるはずだ』
「よ、よし」
言うのは簡単《かんたん》だが、実際にやってみるのは難《むずか》しい。
鎌のイメージは何となく出来た。本や漫画《まんが》などで見る、ありふれたものだったが。しかし変化を念じるというのはよくわからない。神名はとりあえず心の中で「変われ、変われ……」と念じ続ける。
「天倉さん、どうですか!?」
「話し掛《か》けるな!」
ナギの言葉を制止《せいし》して、ひたすら神名は念じる。だが、一向に<<エカルラート>>に変化はない。
「ふん、所詮《しょせん》、人間に使えるのはその程度《ていど》だ。鎌を呼《よ》び出せても、使えんのでは話にならんわ!」
フルールの言葉にギリッと神名が奥歯《おくば》を鳴らす。
「ゴキブリに言われる筋合《すじあ》いはない! さっさと変われぇぇ――っ!」
神名は<<エカルラート>>を潰《つぶ》しそうな勢《いきお》いで握《にぎ》り締《し》めながら叫《さけ》んだ。
その瞬間、ついに変化は訪《おとず》れた。<<エカルラート>>から赤い閃光《せんこう》が四方に走り、神名を包む。ナギがベルを変化させるときに見られる光景と全く同じだった。
「こ、これは!?」
『やったか!?』
ナギとベルが彼を見つめる中、神名は片手《かたて》に長い武器《ぶき》を手にして現《あらわ》れた。彼の手に握られていたのは鎌――ではなかった。
「こいつは……」
武器の形状《けいじょう》は槍《やり》――に近い。先端《せんたん》は鮮《あざ》やかな真紅《しんく》で三つに分かれ、トライデントと言われる槍に似ている。だが、残念ながらそれは――フォークだった。
神名は黙《だま》ってフォークを睨《にら》んでから、
「……槍だな、うん」
『どう見てもフォークだろ!?』
ベルの言葉に「うっ」と神名が唸《うな》る。
「天倉さん、ぜんぜんダメじゃないですかー」
「お前が言えた台詞《せりふ》か!」
神名が黒と赤の巨大《きょだい》なフォークを持ってフルールを振《ふ》り返ると、彼は余裕《よゆう》の表情《ひょうじょう》で(実際にはよくわからないのだが)こちらを見据《みす》えていた。
「ふはははっ! 鎌どころか武器ですらないではないか!」
「う、うるさい!」
すると後ろからナギが、
「どうですか天倉さん、難しいでしょう? 私の苦労、分かりました?」
「むぅー、そんなことはどうでもいいから手を貸せ。あのゴキブリを追っ払《ぱら》うぞ」
「ふん! 貴様《きさま》らの力で我を退《しりぞ》けられると思うなよ!」
フルールは空中を飛びながら六本ある足をこちらに向けた。その六本の足の中心がカッと光ったかと思うと、巨大な光の束が神名たちを襲《おそ》う。まるでレーザー砲《ほう》のような一撃《いちげき》に神名たちはとっさの判断《はんだん》でその場から飛び退《の》いた。
「うわあぁぁっ!?」
「きゃああっ!」
一瞬《いっしゅん》の間もなく地面が揺《ゆ》れる。それほどの威力《いりょく》をもった一撃であった。
神名は素早《すばや》く体勢《たいせい》を立て直しつつエカルを構《かま》える。ナギもすぐにフルールに向けて反転した。
「な、なんだ!? あの反則《はんそく》的な攻撃《こうげき》は!?」
「驚《おどろ》いたか! これこそ死天使・フルールが誇《ほこ》る、神秘《しんぴ》の力だ! 貴様らに恐怖《きょうふ》と絶望《ぜつぼう》をくれてやろう!」
「いらん! すでに嫌悪《けんお》感だけで十分だ!」
「雑菌《ざっきん》とか持っていそうで、とっても嫌《いや》です!」
「貴様ら言いたい放題だな……だが、そんな余裕もここまでだ!」
フルールの足が光ると再《ふたた》び光の束が放たれる。だが、今度は二人とも冷静に回避《かいひ》行動に移《うつ》った。フルールの攻撃は直線的だ。しかも狙《ねら》えるのは基本《きほん》的に一人だけ。二人が互《たが》いに違《ちが》う方向へ逃《に》げれば追撃もされにくい。
「くっ! ちょこまかと!」
だが数打てば当たる。フルールはほとんど狙いもせずに力を乱発《らんぱつ》しはじめた。
「ゴキブリから逃げてばっかりなんて納得《なっとく》いかないな!」
ギリギリのところで攻撃の道筋を見極《みきわ》め、神名が回避しながらナギに言う。
「私もです! あのゴキブリには裁《さば》きが必要です!」
二人は互いの目を見て頷《うなず》いた。
「何をしても無駄《むだ》だ!」
神名とナギを襲う光の束。すると二人は一緒《いっしょ》にフルールに向けて突進《とっしん》した。フルールの攻撃を避《よ》けず、真正面から飛び込む。
「覚悟《かくご》を決めたか!?」
その言葉にナギがふっと笑《え》みを浮《う》かべた。覚悟は決めている。だが、それは勝利への確信《かくしん》であった。
「切り札というのはとっておくものですよ?」
ナギはそう言うと<<ベル・フィナル>>を先ほどのナイフへと変化させた。神名の前に立ち、放たれた攻撃に向けてベルを振るう。ベルに触《ふ》れた光はそのままナギを包み込もうとした――が、そこまでだった。
「な、なんだとっ!?」
ベルに触れた光はナギたちに到達《とうたつ》せず、その場で霧散《むさん》した。
「これがこのナイフの能力《のうりょく》――<<すべてを切り分ける>>力です」
<<ベル・フィナル>>の能力がフルールの攻撃を完全に無効《むこう》化する。
だが、まだフルールに手はあった。彼のスピードにはさすがに神名もナギもついてはいけない。
「やるではないか! だが、我《わ》がスピードとこの攻撃を併用《へいよう》すれば――」
ナギの反応《はんのう》を超《こ》える速さで動き、隙《すき》をつけばまだ勝機はある。フルールがそのための移動《いどう》をしようとしたその時、
「悪いな、チェックメイトだ」
ナギに気を取られている隙に神名はフルールの背後《はいご》に回りこんでいた。
「っ!?」
神名の<<エカルラート>>がフルールに迫《せま》る。まだ間に合うと思ったフルールは羽を羽ばたかせ、その場から逃げようとした。だが、どうやってもその場から動くことができない。
「な、なんだ!? 動けないだと!?」
「このフォークの能力は――<<空間に突《つ》き刺《さ》さる>>だ……お前のいる空間ごとな。範囲《はんい》は小さいみたいだが、それをこうやって押さえておけば、お前は自分のいる空間ごと、こうやって固着されるってわけだ」
「う……」
完全に身動きできなくなったフルールを二人が見下ろす。
「ば、ばかな。この我《われ》が貴様《きさま》らごときに……」
「逃げようなんて無駄なことは考えないほうがいいですよ? 私があなたのいる空間を、あなたごと<<切り分け>>ちゃいますから……」
「…………」
その言葉で完全に戦意を喪失《そうしつ》したのか、フルールは地面に膝《ひざ》をついた。
「さすが<<ヴァールリーベ>>……二本で一|対《つい》のことはあるな……」
「今はどう見てもただの食器セットだがな」
『うるさい』
それにしても絶妙《ぜつみょう》なコンビネーションだった。二人には共同で何かを考える時間などなかったのに、ほとんど土壇場《どたんば》で実行し、見事に勝利した。
フルールは息がピッタリな二人を見上げて問うた。
「お前たち……その鎌《かま》の能力をわかっていてやったのか?」
「いや、今知った」
「偶然《ぐうぜん》です」
「こんなアホな奴《やつ》らに負けたのか、我は……」
ゴキブリが力なく呟《つぶや》く。
「さて、これからどうする、こいつは……?」
「もちろん上司に引き渡《わた》しますよ」
ナギが眉《まゆ》をひそめて強い口調でそう言った。彼女にしてみれば、チョコ・パフェにされそうになっているこの現状《げんじょう》の責任《せきにん》はフルールにあるのだ。彼自身の証言《しょうげん》も含《ふく》めて、上に報告《ほうこく》すべきだろう。
それとは逆《ぎゃく》に神名は少し複雑《ふくざつ》な心境《しんきょう》だった。
「でもな……こいつがいなかったら、俺はもう死んでいたわけだろ?」
フルールがベルとエカルを盗《ぬす》もうとしなければ、エカルは神名の頭上には落ちなかった。そうなれば神名は転んだ拍子《ひょうし》に三輪車のサドルに頭をぶつけて死んでいたはずだ。
「ええっと……まぁ、そうなりますね……」
「そう考えると、ちょっとな……」
「ダメですよ、天倉さん。このゴキブリはいろんな規則《きそく》違反《いはん》をしているんです。その罪《つみ》は償《つぐな》わないといけないのです」
と、そのとき、紫《むらさき》色だった空間が揺れ始めた。慌《あわ》てて神名たちが辺りを見回すと、何もない場所に突然《とつぜん》、裂《さ》け目《め》ができた。空間はそこから崩壊《ほうかい》し始め、ガラス細工《ざいく》が砕《くだ》けるように消滅《しょうめつ》した。
「……空間が壊《こわ》れた……?」
神名が上を見上げると見慣《みな》れた空が見える。
「よくやってくれたわ、二人とも……」
フルールの結界から解放《かいほう》された二人に、すぐ隣《となり》から女性《じょせい》の声が聞こえてきた。
ナギは聞き覚えのある声にハッとなりながら、すぐにそちらを向く。漆黒《しっこく》の服に真紅《しんく》のラインが入った死天使長の制服《せいふく》。横は長く、後ろはショートボブにされた髪《かみ》。こちらへ向けて微《かす》かに笑《え》みを浮《う》かべながら、全ての死神を束ねる者がそこにいた。
「イ、イリス様!?」
「なっ!? イリスだと!?」
フルールの声を聞き、すっとイリスから笑みが消える。
フルールの作った空間を外から簡単《かんたん》に破壊《はかい》した彼女は、青く鋭《するど》い視線《しせん》を彼に向けた。
「……まさかあなたが今回の一件《いっけん》の張本人《ちょうほんにん》とはね……」
「ふん、黙《だま》れ。元はと言えば、貴様が我をこんな姿《すがた》に変えたからだ!」
「そう……どうやらゴキブリではまだ足らなかったようね?」
イリスはフルールに向けて手をかざす。ふわっと淡《あわ》い光が彼女を包むと、フルールの姿も同じように光り、見えなくなってしまった。
「あれ? ……イリス様、何をしたんですか?」
「ゴキブリでは満足していなかったようだから、今度はノミに変えてあげたわ」
「え?」
するとどこからともなく、
「おい、コラ――っ!? これはいくらなんでもひどすぎるだろう!? 誰《だれ》にも見えないじゃないか!」
「顕微鏡《けんびきょう》なら大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「ふざけるな! 今に見ていろ! 我をこんな姿にしたことを必ず後悔《こうかい》させて――」
その言葉をフルールが言い終わるより先に、イリスは取り出したスプレーをフルールに向けて発射《はっしゃ》した。
プシュー。
白い煙《けむり》がこれでもかというほど吹《ふ》きかけられ、イリスの周りが白く染《そ》まる。その光景を黙って神名とナギは見つめた。イリスの発射する白い煙はどこか神秘《しんぴ》的で……どこか悪魔《あくま》を連想させた……。
よく見るとスプレーの表面にはでかでかと『殺虫スプレー』と書かれている。
「ふぅ……これで彼も次の輪廻《りんね》に逝《ゆ》けたでしょう」
死天使長は満身《まんしん》に笑みを浮かべながら、にこやかにそう言った。
「鬼《おに》だ……」
「だから言ったじゃないですかぁ……」
イリスの笑みに背筋《せすじ》が凍《こお》る思いをしながら神名は小さく呟《つぶや》いた。ナギはそれを肯定《こうてい》しながら神名と同じ感覚に耐《た》える。
イリスは手にしていた殺虫スプレーを自ら作った空間にポイッと投げ込《こ》むと、死天使長の顔をしてナギの方へ向いた。
「ナギ、あなたには迷惑《めいわく》をかけたわね。フルールの消減をもって、<<ヴァールリーベ>>の強奪《ごうだつ》計画は阻止《そし》されました。あなたには引き続き、今の任務《にんむ》にあたってもらうわ」
「あ、はい……」
ナギが頷《うなず》くのを確認《かくにん》してから、イリスは初めて神名と視線を合わせた。その眼孔《がんこう》は強い光を放っていて、神名の心に突《つ》き刺《さ》さりそうな感じだった。
「あなたが天倉神名ね……」
「…………」
神名はとっさに身構《みがま》えてしまった。殺気はなかったが、身体《からだ》が不思議と反応《はんのう》してしまった。それを見たイリスはふっと表情《ひょうじょう》を柔《やわ》らかく崩《くず》す。
「そんなに警戒《けいかい》しなくてもいいわ。私はあなたの魂《たましい》まで狩《か》りにきたわけじゃない……今のところはね」
「…………」
それでも神名には警戒心を解《と》くことはできなかった。イリスは諦《あきら》めたように苦笑《くしょう》するとナギの方へ視線を戻《もど》した。
「それじゃ、私は帰るわ。頑張《がんば》りなさい、ナギ」
「は、はい!」
イリスはナギにそう告げると背中から白い翼《つばさ》を広げた。ふわりと浮き上がった彼女はそのまま飛んでいくのかと思うと、空へ溶《と》け込むようにしてその場から消えた。
「あれがお前の上司か……」
イリスの消えた空を見上げながら、神名は確《たし》かめるように呟く。
「はい。私たち死神をまとめる死天使長の座《ざ》にいる人です」
「そうか……」
神名は彼女から一瞬《いっしゅん》だけ感じた力の気配にふと思った。
(もし、あいつと戦うことになったら、一筋縄《ひとすじなわ》じゃいかないな……)
それほどまでに彼女から感じた力は強大だった。さすが死天使長といったところか……。
神名はくるりと向きを変えてその場を後にしようとした。
「天倉さん、ちょっと待ってくださいよ! もう戻るんですか?」
「ああ。時計を見てみろ、もう昼休みは終わってるぞ?」
時刻《じこく》は十二時五十二分。どうやら鐘《かね》が鳴った直後のようだ。
「ええっ!? ほ、本当だ! もう、一時になるじゃないですか!」
「授業《じゅぎょう》はサボっちゃダメなんだよなー?」
「うぅ……それは……」
ガクッと肩《かた》を落としたナギを見て、神名は苦笑しながら足を進ませた。もう用事はないと思っていた神名に、ナギは再《ふたた》び声をかけ彼を引きとめた。
「あ、天倉さん! 待ってくださいよ!」
「ん? まだ何かあるのか?」
「ええっと……」
するとナギは少し躊躇《ちゅうちょ》しながらも、聞きたいことがある、と口を開いた。
「あのですね……さっき言っていた天倉さんの『やりたいこと』って何なんですか?」
「は? なんだ、そんなの聞いてどうするんだ?」
「いいじゃないですか。教えてくださいよ」
「…………」
すると神名は珍《めずら》しく真面目《まじめ》な顔を見せた。何か深く考えていることがあるのか、その表情は真剣《しんけん》だ……だが、それも一瞬のことで、彼はいつもの顔に戻ってはっきりこう言った。
「それはだな……世界一周旅行だ。世界中にある珍味《ちんみ》を一度は味わってみたいという壮大《そうだい》な計画だぞ」
「え、え? そ、そうなんですか?」
「うむ。まぁ、俺《おれ》の舌《した》を唸《うな》らせる食べ物はそうそうないがな……」
神名は腕《うで》を組んで世界中の珍味を思い浮《う》かべる。自分の知らない食べ物なんていくらでもある。世界は広いのできっと自分を満足させるものがあるだろう。
するとナギは眉《まゆ》をひそめ、もう一つ聞いてみた。
「……じゃあ『やらなくてはならないこと』っていうのは……?」
「無論《むろん》、宝くじで一等を当てることだ。年末の宝くじは惜《お》しくもハズレだったからな。今度こそ一等を当てて豪遊《ごうゆう》生活をするのだ」
神名はかなり本気なようで、不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべながら自慢《じまん》げに答えた。
その言葉にナギの表情が急に不機嫌《ふきげん》そうになる。
「天倉さん、私は真面目に聞いているんですよ?」
「俺だって本気だぞ」
そう言うとナギはますます機嫌を損《そこ》ねたようで、神名を睨《にら》むように視線《しせん》を向けてきたが……唐突《とうとつ》に彼女は悲しそうに表情を変えた。
「?」
理由がわからず、神名は戸惑《とまど》った。てっきり怒鳴《どな》ってくるだろうと思っていたので、いつものように軽くあしらうつもりだったのだが……。
ナギは神名の眼《め》を真《ま》っ直《す》ぐ見て、静かに言った。
「天倉さん……そんな無駄《むだ》な生き方でいいんですか?」
彼女は不思議なことを言った。
ナギは自分を殺すためにいる死神だというのに。
「……俺を殺そうとしてるお前に言えた台詞《せりふ》じゃないだろ」
「だから、ですよ……私は天倉さんを殺さないといけません。だから、せめて生きている間に天倉さんには――」
「俺は死なないし、これは俺の命だ。俺がどういうふうに使おうと勝手だろ」
「それはそうですけど……」
ナギはその表情を曇《くも》らせたまま、少しだけ空を見上げた。神名がやっと聞こえるほどのほとんど消えそうな声で、彼女は言葉を続ける。
「――生きるって大切なことなんですよ……今の私にとっても……」
「…………」
神名にとって思いがけない言葉を彼女は言った。どこか悲しそうな眼差《まなざ》しのナギの横顔から神名は眼を逸《そ》らす。
「わかってるよ、そんなことは……」
「! わかってませんよ! 今の天倉さんは無駄に生きているようなものじゃないですかっ!?」
「死神のお前に、俺の何がわかるっていうんだ!?」
ナギの強い口調に、思わず神名の口調も強くなる。
「お前も言ってたよな? 自分にもやりたいこと、やらなくちゃならないことがあるって。どうせ、それも大したことないんだろ?」
「わ、私は――っ!」
すると彼女はまた身を小さくして、
「私だって……本当は……」
それきり、彼女は黙《だま》ってしまった。このままでは結局、彼女が何を言いたいのかはっきりしない。
「お前は何が言いたいんだ?」
「もう、いいです! 天倉さんの勝手にしてください!」
「お、おい!」
話の続きを聞こうと神名はナギを引きとめようと手を伸《の》ばしたが、彼女はその制止《せいし》を振《ふ》り切って校舎《こうしゃ》の方へ走っていってしまった。
神名はそれを追いかけることもせず、差し出した手をゆっくり下ろした。
「何なんだ……あいつ……」
突然《とつぜん》、質問《しつもん》してきて、怒《おこ》って、悲しそうな表情《ひょうじょう》を見せ、こちらの制止も聞かずにどこかへ行ってしまった……。
神名はナギが気絶《きぜつ》させた祐司を放っておくわけにもいかず、頬《ほお》をペシペシ叩《たた》いて彼を起こす。祐司は「う……うぅ?」とぼんやり目を開く。
それを苦笑《くしょう》しながら確認《かくにん》して、神名はナギの走り去った方を向く。
「本当は……何なんだよ……」
ナギが言いかけた言葉。
どんなに考えてもその先はわからず、神名は深く考えるのをやめた。
○
それから神名が教室へ戻《もど》ると、授業《じゅぎょう》が始まるというのにナギの姿《すがた》はなかった。
何をやっているんだ……そう思いながらも、神名は授業の準備《じゅんび》をする。
放課後、神名は自分の荷物をまとめて家に帰ろうとして――ふと、気づいた。
ナギの机《つくえ》は中身も空っぽで、鞄《かばん》も掛《か》かっていない――どうやら授業が始まる前に荷物をまとめ、先に帰っていたらしい。
「ふん……」
神名は踵《きびす》を返して教室を出た。
一人で家に帰るのはなんだか久《ひさ》しぶりのように思える。バイトもなく、神名は一直線に家へと帰った。だが、神名が帰宅《きたく》すると家の中に人の気配はなく、先に帰ったはずのナギはそこにいなかった。
「…………」
今のナギはお金も持っていないし、泊《と》まる場所もない。
どうせ放っておいても、お腹《なか》がすいたら帰ってくるだろう、神名はそう思ってリビングのテレビを点《つ》けた。
このまま待たされたら自分も腹《はら》が減る……たまには自分が作って、彼女に食べてもらうのも悪くないな……と、そう思って珍《めずら》しく神名はキッチンに立った。
しかし、結局その日――彼女は家に戻っては来なかった……。
[#改ページ]
ナギが帰ってこなかった日の翌日《よくじつ》。
神名《じんな》がいつものように登校すると、彼女は自分の机《つくえ》に座《すわ》っていた。何事もなかったように座っているナギを見て、神名は少し躊躇《ためら》ったが声をかけた。
「……よっ」
「…………」
だがナギは神名の言葉が聞こえていないかのように、ずっと前を向いたまま視線《しせん》を動かさなかった。仕方なく神名は自分の席――彼女の前に座った。
そのままナギとは一切《いっさい》会話をすることもなく、ホームルーム、午前の授業《じゅぎょう》と終わってしまった。昼休みになり、神名は後ろを振《ふ》り返る。ここ最近の二人ならば、決まってすぐに売店へ走っていたところだが、ナギは一人で教室を出て行ってしまった。
すっと神名も立ち上がり、教室を出る。
ナギが前を、神名が後ろを歩く。
「……ついてこないでください」
歩きながらナギは後ろの神名に向かってそう言った。
「俺もそっちへ行くんだ……昼飯は?」
「……天倉さんには関係ありません。それより、いつまでついてくるんですか?」
「俺は売店に向かっている途中《とちゅう》だ。その道筋《みちすじ》にお前がいるんだろ」
「……そうですか。じゃあ、私はこっちに行きます」
売店は食堂と共に別館に作られている。二人はそちらに向かっていたはずだが、ナギはそう言ってほとんど逆《ぎゃく》の方向を指差した。
「売店に行くんじゃなかったのか?」
「そんなこと一言も言っていません」
「じゃあ、どうするんだ? 弁当《べんとう》を持ってきているわけじゃないだろ?」
するとナギは明らかに怒《いか》りの表情《ひょうじょう》を浮《う》かべて、
「しつこいです! 天倉《あまくら》さんには関係ないって何度言わせるんですか!?」
「……何も食べないのか?」
「もう放っておいてください!」
ナギは思わずベルを右手で呼《よ》び出して思いっきり神名へ投げつけた。一瞬《いっしゅん》、驚《おどろ》いた神名だったが、持ち前の反射神経《はんしゃしんけい》でベルを受け止める。ベルを投げつけた彼女は走ってその場からいなくなってしまった。
これ以上は何を言っても無駄《むだ》だろうと、神名も追うのを諦《あきら》める。
『……周《まわ》りに投げつけるものがないからって、なにも私を投げなくても……』
投げつけられたベルが少し不満気に神名へ愚痴《ぐち》をこぼした。まぁ、もっともだ。
『――死神が自分の鎌《かま》を他人に投げつけて、どこかに行ってしまうなど前代|未聞《みもん》だぞ?』
「だろうな……仕方ない、今日は一人で食べるか」
『おーい、先に私をナギに返せよ』
「まぁ、たまにはいいだろ。今日は俺に付き合え」
神名はそのまま売店へ向かい、パンと飲み物を買って屋上へ上がることにした。
ちなみにベルは自分と契約《けいやく》しているわけではないので、<<エカルラート>>のようにしまうことができず、神名はそのまま堂々と持ち歩くことにした。傍《はた》から見ると明らかにおかしいが、こういうときは堂々としていれば意外に周りも「なんだ、あれ?」程度《ていど》にしか思わないものだ。
一応《いちおう》、教師《きょうし》に見られるとマズイので、それだけは避《さ》けるようにして屋上へ到着《とうちゃく》した。
冬の空はいつも通り。乾《かわ》いた空気だが、同時に澄《す》んだ空気が頭上に広がっている。神名はグラウンドが見下ろせる場所に座るとベルを傍《かたわ》らに置き、さっそくパンの袋《ふくろ》を開けた。
「やぁ、神名」
一口目を口に入れたところで、どこからともなく親友はやってきた。
「……いつも唐突《とうとつ》に現《あらわ》れるよな、お前は」
「神出|鬼没《きぼつ》が僕《ぼく》のモットーだからね」
気配もなくやってきた祐司《ゆうじ》は、そのまま神名の隣《となり》にやってきて同じように売店で買ったパンを食べ始めた。彼は何も言わずにパンを一つ食べ終えてから、一緒《いっしょ》に買ってきた野菜シュースの紙パックにストローを刺《さ》す。
会話もなく、二人はグラウンドの方を向いてもくもくと昼食を食べ続ける。だが、神名にも祐司にも違和《いわ》感などなく、むしろこれが普通《ふつう》といった感じだ。
ナギが来てから昼休みは毎日バタバタしていたが、彼女が来る前まではこんな静かな昼食が彼らの日課だった。もちろんずっと黙《だま》っているわけではない。少し話してパンを食べ、少し話してぼぉーっとする……大抵《たいてい》、沈黙《ちんもく》を破《やぷ》るのは祐司の方からだ。
「――そういえば、喧嘩《けんか》でもしたのかい?」
例外なく、今日も先に口を開いたのは祐司だった。
「……何のことだよ?」
惚《とぼ》けるように神名は視線《しせん》を逸《そ》らし、パンに齧《かじ》り付く。
クラスメートに気付かれないようにと、二人は割《わり》と自然体でいたつもりだったが、勘《かん》の良い祐司は何となく気付いていたようだ。
「隠《かく》さなくてもいいだろうう? 風流《ふうりゅう》さんとだよ。なんだか朝からあんまり話してないみたいだったからね」
「……関係ないだろ」
神名の視線はグラウンドを見下ろしたままだ。祐司は「ふぅ……」と溜息《ためいき》をつくしかない。
「……まぁ、君たちの問題だしね。確《たし》かに僕は関係ないけど……話し相手にはなれると思うよ?」
だが神名は何も言わずにもくもくとパンを口に運ぶ。
それを見た祐司は微《かす》かに苦笑《くしょう》した。同時にそれ以上、彼に何も言わない。もともと無理に聞き出すつもりもないし、話したくないのであればそれでいいと祐司は思っている。神名が自分のことをあまり話さないこともよく知っているからだ。
だが、少しだけ間を置いて、珍《めずら》しく神名はぽつりと聞いてきた。
「なぁ、祐司……」
「ん? なんだい?」
少し照れくさいのか、神名は視線を合わせることなく静かに問う。
「……例えば、だ……例えばお前は死ぬはずだったって……本当は死んでいたはずだったって言われたら……お前はどうする?」
難《むずか》しい質問《しつもん》だと、神名は自分で問い掛《か》けてそう思った。
運命なんて誰《だれ》にもわからない。死ぬはずだったと――普通《ふつう》ならば、そんなことがわかるはずもないのだから。
しかし予想に反して祐司はすぐに答えを出した。
「そうだね……僕はどうもしないよ」
予想外の答えに神名は祐司の方へ顔を戻《もど》した。
「は? なんでだよ? 驚《おどろ》くだろ、普通……」
「そうだね……でも、それだけだよ。それに――」
祐司は持っていたジュースをその場に置き、言葉に出すのを少しだけ躊躇《ためら》いながら神名を見た。
「死ぬはずだった――なんて、僕たちには今更《いまさら》じゃないか……」
『っ?』
傍《かたわ》らにいたベルがその言葉に驚くのを、すっと神名が抑《おさ》える。
「……ああ、そうだな……」
「そうだよ……死ぬはずだった……だった、から今は生きているんだ、僕たちは。その分だけ生きる義務《ぎむ》が僕たちにはある……」
誰にでもなく、自分自身に言い聞かせるように祐司はそう言った。彼がそんな考えを持っているのには理由がある。それは神名も同じ。
「そうだな……俺《おれ》たちは千夏《ちなつ》姉さんの分も、生きていかなきゃならない……」
「うん」
どこかを見つめる祐司の視線の先を、神名も追う。
神名のやりたいこと、やらなくてはならないこと。それは世界を一周することではなく宝くじを当てることでもない……。
神名はふと昔のことを思い出す。お金が足りなくて、千夏姉さんの誕生日《たんじょうび》にたいしたものが買えなかったときのことだ。
「お姉ちゃんにこれあげる」
貯《た》めたお金で買えたのは安物の指輪だった。
「ごめん……本当はもっといいものあげるつもりだったんだけど……」
それでも神名には精一杯《せいいっぱい》の贈《おく》り物《もの》――それは彼女にもわかっていた。
「ううん、嬉《うれ》しい」
彼女は神名に向かって微笑《ほほえ》んだ。その笑顔《えがお》を見るのが神名は大好きで、もっと見たいとも思った。
「ありがとう、神名くん」
「うん、今度は絶対《ぜったい》ダイヤの指輪をプレゼントするよ!」
そう言うと彼女は一瞬《いっしゅん》、驚いたような顔をして、照れるように微笑んだ。
彼女がまだ生きていた頃《ころ》……五年前の事だった……。
真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》だった祐司はいつもの顔に戻り、神名の方を向いて言った。
「結局さ、神名は今まで通りでいいんじゃないのかな?」
「むぅ……」
「――何だい? そんなことで彼女と喧嘩したのかい?」
「それは関係ないだろ」
「そうだったね」
祐司は笑いながら次のパンを手に取る。
神名は食べ終わってしまったのでお茶を片手《かたて》に立ち上がった。昼休みはまだ半分以上も残っていて、グラウンドでは何人かの生徒がサッカーをやっていた。
それを見ながら神名は思う……彼らの中の何人が、今まで『生きることの大切さ』を考えたことがあるだろう。おそらく真剣に考えたことのある奴《やつ》は少ないはずだ。
――生きることって大切なんですよ――
ナギが自分に言った言葉。その意味がわかっても、彼女の真意はわからない。
「――そういえばさ、神名……」
「ん?」
祐司が後ろから声をかけてくる。
「さっきの話の逆《ぎゃく》――っていうのはどうなんだろうね?」
「……逆?」
祐司の言っている意味もわからなくなって、神名はとりあえず聞き返した。
彼は何気なく、パンを食べながら続ける。
「そう。死ぬはずだった人がいるなら、その逆も――生きるはずだった人というのはいないのかな?」
「……それってもうすでに死んでいる人ってことになるのか?」
死ぬはずだった――だったが生きている。
その逆ということは、生きるはずだった――だったが死んでしまったということになる。
「ん? ああ、そうか、そうなるね……。それじゃ意味がないね……死んでしまったら、自分が死んだことさえわからないんだから……」
「…………」
「だとすると、『死ぬはずだった人』っていうのは幸せなのかもしれないね……」
「? どこがだよ……?」
「だって『死ぬはずだった人』は結局、生きている。生きていて良かったと思うこともできるし、未来だって見つめることができる。でも『生きるはずだった人』に未来はない。死んでしまって――もうすべてが終わってしまっているんだから……」
「…………」
「たとえ『生きるはずだった人』が死んだ後に考えたり思ったりすることができたとしても、夢《ゆめ》や希望を抱《かか》えたまま、過去《かこ》を振《ふ》り返ることしかできない……」
そう言われてみれば、そうかもしれない。
だが祐司が考えているほど、『死ぬはずだった人』も幸せではなさそうだ。自分のことを振り返ってみてもそう思える。
「でもさ、神名。結局、人は死んだらどうなるのかな? やっぱり『無に還《かえ》る』っていうのが有力かな? それとも輪廻転生《りんねてんしょう》?」
「……わかんねーよ、俺には」
「まぁ、人であるかぎり一生考えたってわからない問題だよね」
祐司は自分で変なことを言ったと笑い、昼食を再開《さいかい》した。
だが神名には祐司の言葉がどこか引っかかった。
死ぬはずだった人間と、生きるはずだった人間。
生きている者と、死んでしまった者。
そして――生きることって大切なんですよ――ナギが自分に言った言葉。
「……そうか……」
神名は唐突《とうとつ》に気がついた。
「――そうか……あいつは……」
天使と死神。
神名はどこか納得《なっとく》した表情《ひょうじょう》で、静かで青い冬の空を見上げた。
○
学校の授業《じゅぎょう》が終わり、日も傾《かたむ》いた頃《ころ》。
ナギは一人の少女と歩いていた。
外側に向けて跳《は》ねた髭は肩口《かたぐち》まで伸《の》びていて、彼女の横顔は凜《りん》として――いや、無表情ともとれる不思議な横顔をしていた。だが、そんな彼女はクラスの誰もが信頼《しんらい》している学級代表だった。
「……今日も家には帰らないおつもりですか、凪《なぎ》さん?」
こちらに振り向きながら彼女――芹沢《せりざわ》サラはナギにそう聞いた。
ナギは少し躊躇《ためら》いながら小さな声で答える。
「そ、その……できれば……」
「……仕方がありませんね」
昨夜、神名の家に帰らなかったナギは、偶然《ぐうぜん》出会ったサラの家に泊《と》めてもらっていた。「帰る場所がない」とサラに話したとき、彼女は驚《おどろ》きもせず理由も聞かずに、ただ少しだけ考えて「では、私の家に来ませんか?」と言ってくれた。その厚意《こうい》に甘《あま》えさせてもらったナギだが、
「……あの、やっぱり迷惑《めいわく》ですか? 二日も続けて、私みたいなのが芹沢さんの家に泊まりに行くのは……」
ナギが地上に降《お》りてきて、まだ六日。サラとは何度か話をしたものの、彼女の家に泊まりにいくほど仲が良くなったわけでもない。
だがサラはナギの言葉を否定《ひてい》するように静かに言った。
「ナギさん、私のことはサラでいいと言ったはずです。それにこれでも私は、あなたが泊まりに来てくれることを嬉《うれ》しく思っているんですよ?」
普段《ふたん》は無表情の彼女が、ふっと笑ったように見えた。
「え、ほんとに?」
「はい。私の両親も喜びますし」
「う、うん……」
昨日の夜、サラの家に着くと彼女から両親を紹介《しょうかい》されたのだが、サラの両親はそろってニコニコした笑顔《えがお》でナギを迎《むか》えてくれた。夕飯と着替《きが》えもすぐに用意してくれて、ほとんど至《いた》れり尽《つく》せりだった。
「優《やさ》しいお父さんとお母さんですね……なんだかすごく若《わか》く見えましたし」
「気のせいです。それより……二日連続で私の家に泊まるのなら、一つだけ聞かせてください」
「あ……そ、その……何ですか?」
聞かれることはなんとなく想像《そうぞう》できたが、あえてナギは自分から口にはしなかった。サラも少し迷《まよ》ったようだが、聞かなくてはわからないので続ける。
「……あなたが家に帰らない理由です」
「…………」
「あなたが彼の家に住んでいるという時点で、いろいろと問題があるように思えますが……今はそれよりも、あなたのことが気になります。やはり、天倉君との喧嘩《けんか》が理由なのですか?」
「う……そう……いうことになると思います……」
ナギはそのときの情景を振《ふ》り返ってみる。
彼のやりたいこと、やらなくてはならないこと――その答えに納得がいかなかったナギは神名と口論《こうろん》になって……今もそのままだ。
「原因《げんいん》は何です? 彼と喧嘩をしたままというわけにもいかないでしょう……」
「…………」
神名と喧嘩をしたまま……いや、かえってその方が良いのかもしれない。結局、自分は神名を殺すしかないのだ。仲直りしてもそれが変わるわけではない。
「――いいんです。きっと天倉さんだって、私のことなんか気にしていません。それに私にとっても、彼にとっても、今の状況《じょうきよう》はプラスになるはずなんです……」
いっそのこと、憎《にく》しみに近い感情を持ってもらったほうがお互《たが》いやりやすいはずだ。その方が気兼《きが》ねなく鎌《かま》を振り下ろせる……。
そんなナギの態度《たいど》に、サラは溜息《ためいき》をついてこう言った。
「天倉君なら、昨日の夜に電話してきました」
「え……」
サラの言葉にナギはハッとなって顔を上げた。
「……あなたが家に帰ってこないから……あなたの行きそうな場所を捜《さが》したけれど、どこにもいない……何か知らないか、と」
「天倉さんが?」
「……彼には私の家にいるから心配ないと伝えておきました。『だったらいい』と、それだけ言って、彼の電話は一方的に切れてしまいましたが……」
「…………」
神名が自分を捜してくれていた……普段の彼なら絶対《ぜったい》にそんなことはしないとナギは思っていた。それだけに彼の行動はナギを驚かせた。
「……天倉君はあなたを心配していたのではないのですか?」
確《たし》かにそうかもしれない。だが、それでも……。
「……私は天倉さんに、生きることの大切さを知って欲しかっただけなんです……」
ナギは静かに本心をサラに明かした。
このままいけば彼の終焉《しゅうえん》は近い。自分は死神で彼を殺す立場だが、生きている間はその命を無駄《むだ》にして欲しくないとナギは思っている。もちろん自分勝手な思いだということも十分に承知《しょうち》してはいるが……。
喧嘩の原因は、生きることの大切さ……突拍子《とっぴょうし》もない話に、サラは眉《まゆ》をひそめるだろうとナギは思ったが、意外にも彼女は普段《ふだん》通りだった。
「では、彼が……何も考えず、無駄に今を生きている、と?」
「……天倉さんはいい加減《かげん》なんです……いつもお金の話ばかりで……世界一周だとか、宝くじを当てないといけないだとか……まるで行き当たりばったりで生きているようにしか思えません……」
神名は死ぬはずだったと聞かされても何も変わらなかった。これから死ぬ運命にあるなど微塵《みじん》も思っていないようで、ナギの話もなかなかまともに聞いてはくれない。
ナギは怒《おこ》っているのか悲しんでいるのかわからない、不思議な表情《ひょうじょう》で真《ま》っ直《す》ぐにサラを見つめた。
「その日をただ生きる。生きて……ただ、それだけ。それが私には納得《なっとく》できません。同じ日は二度とやってこないのに……天倉さんは何事もなく、ただ生きてるだけなんです……」
その言葉にサラはすっと目を閉《と》じた。
「……本当にそうでしょうか?」
「え?」
「……彼は……あなたが思っている以上に、今を大切に生きている人だと思いますよ?」
「今の……天倉さんが?」
俄《にわ》かには信じられないという表情でナギはサラに聞き返した。
サラは立ち止まっていた足を進ませる。
「はい。彼には――いえ、それ以上は私の口からは言えません……私もあまり詳《くわ》しく知っているわけではありませんし……もう一度、彼と話してみてはどうですか?」
「……私は……」
サラの言葉が本当なら――。神名に向けて「あなたは無駄に生きている」と告げた自分を思い出し、ナギはひどく後悔《こうかい》した。
自分は彼のことを何も知らないまま、ただ彼の表面だけを見ていたのではないだろうか? もしそうだとしたら、彼に謝《あやま》らなくてはならないとナギは思った。
だが、それと同時に神名を殺さなくてはならない自分がいる……。
「……ごめんなさい……天倉さん……」
誰にも聞こえない小さな声で、ナギは静かに謝った。
それは今までの彼への謝罪《しゃざい》だったのか、それともこれから起こることに対する彼への謝罪だったのか……。
ナギは神名も同じ空を見上げているとは知らず、ただ無意識《むいしき》に空を見上げていた……。
○
翌日《よくじつ》。
神名が一人、学校へ登校すると、ナギは教室にはいなかった。
遅《おく》れてやってくるのかと彼女を待ってみるが、ホームルームが始まってもナギは姿《すがた》を現《あらわ》さない……。
ナギと出会って、今日でちょうど一週間。このまま気まずい雰囲気《ふんいき》でいるのは正直言って嫌《いや》だった。とにかく話をしないと何も前へ進まない。
(何をやっているんだ、あいつは……)
そんなふうに思っていると、授業《じゅぎょう》が始まる前にサラが神名の机《つくえ》の前にやってきた。
「……あなたに」
彼女はそう言ってすっと小さな紙切れを手渡《てわた》してきた。
「……芹沢さん……あいつは?」
「――その答えはそこに」
彼女の視線《しせん》が渡された紙を示《しめ》す。自分からは何も言わないつもりなのか、サラはそれだけ言ってスタスタと自分の席に戻《もど》っていく。
神名は適当《てきとう》に折られた小さな紙切れを広げた。そこには文が一行。
――夕方、あなたと初めて会った場所で待っています――
と書かれていた。差出人はサラに聞くまでもない。
初めて出会った場所……バイトの帰りに通る大きな公園だ。自分はそこで一度死にかけて、空から舞《ま》い降《お》りた彼女に命を救われた。
だが、今回はその逆《ぎゃく》になるかもしれない。
「……待っています、か……」
「来てください」ではなく「待っています」という言葉。
神名には<<公園に行かない>>という選択肢《せんたくし》がある。しかし何故《なぜ》かこの一行の文を見て、神名にそんな気はなくなった。
行かなくてはならない。
自分を殺すために待つ、彼女の所に……。
○
冬の空で早くも日が傾《かたむ》き始める頃《ころ》、ナギは公園の広場へやってきた。
神名には夕方と言って正確《せいかく》な時間を指定しなかったが、その場所にはすでに彼がいた。
いつもならば学校から下校し始める時間帯だが、神名は私服《しふく》に着替《きが》えてナギが来るのを待っていた。
「遅《おそ》いぞ」
片手《かたて》にナギが投げつけたベルを抱《かか》え、神名はデートの約束でもしていたような口調でそう言った。
待っているのは自分のはずだったナギは少しきょとんとして彼を見つめる。
「天倉さん……学校はどうしたんですか?」
「……午後は欠席だ」
「え?」
「お前がちゃんと時間を書かないからだろ。夕方だけじゃ、いつ来ればいいのか分からないじゃないか」
その言葉にナギは苦笑《くしょう》した。彼には初めから「ここへは来ない」という選択肢が抜《ぬ》けている。
「……皆勤賞《かいきんしょう》は良かったんですか?」
「芹沢さんがな……今日は特別だそうだ」
神名は学校を出ようとして彼女から言われた言葉を思い出す。「今回だけです」と念を押《お》されたが、それでも感謝《かんしゃ》の一言に尽《つ》きる。
「――それに、早く来ないと時間が足らないだろ……?」
時刻《じこく》は四時ちょうど。魂《たましい》の管理局が開いているのは五時まで――つまり、あと一時間しか残されていないはずだ。
「まぁ……明日もあるけどな」
「あ、そのことなんですけど……今日の管理局は一年に一回の強制《きょうせい》残業の日なので、時間はまだあるんですよ」
神名はたっぷり迷《まよ》ってから、
「なんだそれ?」
思いっきり聞き返した。
「だから、強制的に残業させられるんです。遅《おく》れ気味の仕事を一気に終わらせようってことと、普段《ふだん》から気ままな部下たちをまとめ上げる、上司のストレス解消《かいしょう》のためという不思議で意味不明なイベントなのです」
「……確《たし》かに不思議で意味わからんイベントだな。というか、それのどこで上司がストレス解消できるんだ?」
「このイベントはヒラ社員だけが対象なんですよ。係長クラスから上は午後からお休みで、上司の皆《みな》さんは『貴様《きさま》らは頑張《がんば》って仕事してくれたまえ!』と言って早々に帰宅《きたく》することでストレスを――」
「アホだろ。お前んとこの管理局」
「うっ、私の第十三死天使機関と管理局は別ですよ!」
ナギは強く神名の言葉を否定《ひてい》してから、すっと真顔に戻《もど》った。
「……でも、時間がないのは確かです」
「? 管理局は残業なんだろ?」
「……天倉さん、私の任務《にんむ》には一週間という期限《きげん》があるんです……」
「一週間――」
「はい。つまり、期限は明日の〇時まで――それまで生き残れば、天倉さんの勝ちです……」
「…………」
神名は何も言わず、ナギの眼《め》を見る。
今からの結果がどうであれ、すべてが今日で終わるということだ。それは喜ぶべきだったはずだが、何故か神名は素直《すなお》に喜べなかった……。
「一つ、聞かせてくれ」
「……なんですか?」
「お前は……何なんだ?」
「……私は死神で――」
「そうじゃない。そういうことじゃないんだ。その死神って……何なんだ?」
その根本的な質問《しつもん》にナギは意外そうな顔して……迷うような笑《え》みを浮《う》かべた。
「気付いたんですか?」
「……お前の言葉と、祐司と話していて思ったんだ。お前も……ソウル・イレギュラーだったんじゃないかって……」
「…………」
ソウル・イレギュラーとは正常《せいじょう》な輪廻《りんね》から外れた者のことを言う。神名のように『死ぬはずだった』が生きている者たちのこと。そして――
『かまわないだろう、ナギ。こいつはすでに確信《かくしん》しているんだ……』
神名の手の上からベルがナギに向かって話す。
ベルの言おうとしていることにナギも静かに頷《うなず》いた。
『……神名、お前の言う通り……ナギはソウル・イレギュラーだ……』
神名は少し驚《おどろ》きはしたもの、自分の推測《すいそく》が間違《まちが》っていなかったことを再確認《さいかくにん》した。
「……ただし俺《おれ》とは逆《ぎゃく》の……なんだろ?」
『……話が早いな。お前の親友、確か祐司とかいったか……なかなか良い発想ができる奴《やつ》だな』
「じゃあ、やっぱりいるんだな……『生きるはずだった』人間っていうのが……」
神名はナギに向かってそう言った。
彼女は胸《むね》の前でぎゅっと手を握《にぎ》りながら、ゆっくりと教えてくれた。
「……予定外の死。まだ『生きるはずだった』人が正常な輪廻から外れると、ソウル・イレギュラーとなります……ただ、ここからが神名さんとは違って、『生きるはずだった』その人は、地上で過《す》ごすはずだった残りの年月を別の形で与《あた》えられます。それが――」
すっとナギは自分の背《せ》から翼《つばさ》を出現《しゅつげん》させた。
「――天使という存在《そんざい》です」
空を包むかのように広がる美しい羽。その姿《すがた》は見る者を魅了《みりょう》する。
そして、それは人ではない彼女の存在を証明《しょうめい》する証《あかし》。
「でも、天使となった存在は空から地上にいる人々を見守ることしかできません。地上への干渉《かんしょう》は完全に禁《きん》じられています……ただ一つ、<<死神>>という例外を除《のそ》いて……」
ナギは翼を消し、代わりに一瞬《いっしゅん》だけ身体を光らせると、第十三死天使機関の制服《せいふく》――白い死神の衣装《いしょう》をまとった。
「死神にはいくつかの特権《とっけん》があります。一つは地上への行き来が自由であること……これは基本《きほん》的に任務|遂行《すいこう》の妨《さまた》げにならないようにという理由と、ソウル・イレギュラーの発生を未然に防《ふせ》ぐことが可能《かのう》な状況《じょうきょう》に遭遇《そうぐう》した場合、即座《そくざ》に対応《たいおう》できるようにという理由からです……」
『――二つ目は制限があるものの、地上への干渉が可能であること……まぁ、これも基本的には任務がやりやすいようにするためだな』
ナギの言葉にベルが続けた。
天使は人間への接触《せっしょく》が許《ゆる》されない。だが、死神はターゲットのソウル・イレギュラーに近づくためであれば、人間社会へ紛《まぎ》れ込《こ》むことも少なくない。干渉が可能とはそういう意味だ。
「その特権を求めて死神になる天使もいます。もちろん簡単《かんたん》になれるものではないけれど、私は必死になって頑張《がんば》りました……」
「……なるほどな。で、お前はそんな苦労をして、どうして死神になったんだ?」
神名が本当に聞きたいのはここからだ。
生きることの大切さを自分に説《と》いた彼女にはそれなりの理由があるはずだから……。
ナギはそれを隠《かく》すことなく、神名と向かい合った。
「――私もその特権が欲《ほ》しかったんです……私たち<<死神>>はもとより、天使には人だった頃《ころ》の記憶《きおく》がほとんどありません」
ナギは話を続けながら、自分の中にある微《かす》かな記憶を思い浮かべてみる。
自分は子供《こども》の頃、どんなふうだったか?
昔の自分は今と変わらなかっただろうか?
そんなことさえ思い出せず、記憶の中には小さな断片《だんぺん》しか残っていない。
「天使になり、人だった頃の記憶があると、そのときの思い出や夢《ゆめ》、家族、大切なもの、大切な人……それを想《おも》って辛《つら》くなるから……でも、完全に消えてしまうわけじゃないんです。私の中にも、人だった頃、私に向かって微笑《ほほえ》んでくれた人の記憶が微かにある……」
ぼんやりと浮かぶ笑顔。
「その笑顔を思い出すと心が暖《あたた》かくなるんです。落ち着くというか……懐《なつ》かしいというか……嬉《うれ》しくなるんです――でも、それが誰《だれ》だったか思い出せない……」
そう告げる彼女は辛そうだった。
「そして、約束……その人と交《か》わした、私にとっても大切な約束……」
「……約束か……どんな約束なんだ?」
神名に向かって、悲しそうな顔で……それでも彼女は笑った。
「わからないんです。約束の内容《ないよう》も、相手が誰だったのかも……でも、それが大切な約束だったことは確《たし》かで、この強い想いがあったからこそ私は死神になることができました」
死神を目指す天使は少なくない。だが、その死神になれるのはほんの一握《ひとにぎ》りだ。
強い想い……何よりもそれが必要になる。
「死神になって、地上に降《お》りることができれば、何か思い出すことができるかもしれないと私は思いました……でも、天倉さんから見れば滑稽《こっけい》に映《うつ》るかもしれませんね……私は死んでも尚《なお》、生きていた頃の幻影《げんえい》を追っている。そのために死神になったんですから……」
死んでしまったナギがいくら死神になり、地上に降りて<<それ>>に近づいたとしても、追い求めていたものにたどり着けるとは限《かぎ》らない……。
『死ぬ』とはそういうことだ。
ナギの話を聞いた神名は彼女をじっと見つめていた。彼にはナギが滑稽に見えることもないし、あざ笑うつもりもない。
ただ、神名はナギに謝《あやま》った。
「……悪かったな……お前のこと、ちっとも知ろうとしなくて」
ナギは任務《にんむ》に失敗して、チョコレート・パフェにされるのが嫌《いや》なのだろうと――いや、もちろんそれも嫌だろうが、彼女が死神である理由にそんな深い意味があるとは考えてもみなかった。
謝られるとは思っていなかったナギは、神名の表情《ひょうじょう》を見て首を横に振《ふ》った。
「いいえ。私も……天倉さんのことを誤解《ごかい》していたみたいですから……」
「……芹沢さんから何か聞いたのか?」
ナギが突然《とつぜん》、謝ってきたので、神名はすぐにサラのことを思い浮《う》かべた。
サラは神名のバイト先である花屋の常連《じょうれん》客だ。ふとしたことから、彼女には自分の昔のことを少しだけ話したことがある……。
『神名……お前の生きる理由とやらを、教えてはくれないか?』
「…………」
ベルは神名の隣《となり》で祐司との話を聞いていた。
それはわかる者にしかわからない会話だったが、それが彼らにとって重要なものであったことは確かだった。
「……子供の頃から……祐司とはよく遊んでた……」
神名は片手《かたて》をポケットに突《つ》っ込み、ナギと、ベルに言い聞かせるように話し始めた。
「――祐司に姉さんがいるのは話したよな? 千夏さんっていうんだけど……俺たちは小学生のガキんちょで、千夏姉さんだけ五|歳《さい》も離《はな》れた年上で――でも、千夏姉さんは俺たちとよく遊んでくれてた……」
ナギとは違《ちが》い、その頃の記憶は鮮明《せんめい》に残っている。
いたずら好きの神名と、それに悪乗りする祐司。そして二人を慌《あわ》てた表情で止めに入る千夏……。
「千夏姉さんは優《やさ》しくて、俺たちの面倒《めんどう》をいつも見てくれてたけど……あんまり身体《からだ》が丈夫《じょうぶ》な人じゃなかった……。ある日、俺と祐司がふざけて工事|現場《げんば》に遊びに入ったんだ。千夏姉さんは危《あぶ》ないって止めたけど、俺たちは遊ぶことで頭がいっぱいだった……立ち入り禁止《きんし》の工事現場で走り回って、いろんなものを触《さわ》って……そのとき……立てかけてあった鉄骨《てっこつ》が倒《たお》れてきたんだ。俺と祐司は下敷《したじ》きになりそうになった……」
倒れてくる鉄骨。
それは大人でも耐《た》えられるものではなかった。それが神名と祐司の上に倒れてきたとき、横から彼女は現《あらわ》れた。
「……気がついたら俺と祐司は鉄骨と地面の間にいた……でも、苦しくはなかったんだ。千夏姉さんが身体を張《は》って、隙間《すきま》を作ってくれてたから……」
日曜日の昼時。鉄骨の下敷きになった三人に気付いてくれる者はいなかった。
「千夏姉さんは『私が支《ささ》えている間に早く外に出なさい』って言った……俺と祐司は泣きながら地面を這《は》って外に出て……姉さんを助けようとしたんだ……でも――」
そのときの千夏の顔を、神名はよく覚えている。心配しないで、と優しさに満ちた顔だった。
「でも……姉さんの体力はもう限界《げんかい》だった……支えていた場所から動けず、力|尽《つ》きた姉さんは……そのまま下敷きになった……」
ぎゅっと神名は拳《こぶし》を握《にぎ》った。
そのときにどれだけ自分の行動を後悔《こうかい》したことか……。彼女の言葉をちゃんと聞いていれば、こんなことにはならなかった、と……そしてその状況《じょうきょう》で彼女を助けてやれなかった自分を激《はげ》しく責《せ》めた。
だが、神名と祐司の視界《しかい》から彼女が消える前に、千夏はその優しい笑顔《えがお》のままでこう言った。
――私の分まで、絶対《ぜったい》に生きてね?――
神名は深くその言葉を心に刻《きぎ》みつけ、彼女に向かって肯《うなず》いた。
「……だから俺は生きていかなきゃならない。千夏姉さんのためにも……それが俺にできる唯一《ゆいいつ》の償《つぐな》いで、姉さんとの約束だから……」
いつもとは違《ちが》う、強い意志《いし》を持った瞳《ひとみ》がそこにあった。
ナギはそれを見て小さく頷《うなず》く。
「その人のために……天倉さんは精一杯《せいいっぱい》、生きているんですね……」
その言葉にふっと神名は笑った。自分の話はここまでだ、と――神名は目でそれを語り、再《ふたた》び彼女と対峙《たいじ》する。
「最後にもう一つ。お前のやらなければならないことって何だ?」
やりたいこと。そのために、やらなければならないこと。
決意したナギは神名の瞳をしっかりと捉《とら》えて言った。
「……天倉さんを殺さなければなりません……本当の私に……近づくために」
「……そうか」
神名は予想していた通りの返事に笑ってみせた。
彼もまた、覚悟《かくご》は決めている。
「……身勝手な私を許《ゆる》してください……私は自分のためだけに……あなたを――」
「気にするな。俺も自分のために生きるんだ、お互《たが》い様だろ。でも……俺は死ねない」
自分はまだ生きなければならない。たとえそのために命の奪《うば》い合いになろうとも、神名には死ねない理由がある。
それはまた、ナギも同じ。
「はい。私もまだ、私自身を失いたくない……」
ナギがチョコ・パフェにされるということは、彼女の魂《たましい》は強制《きょうせい》的に次の輪廻《りんね》へ送られるということだ。そこにいるナギは魂が同じでも『ナギ』という個人《こじん》は存在《そんざい》しない。ナギにとって本当の意味での『死』が訪《おとず》れることになるのだ。
神名はナギにベルを放り投げた。
「恨《うら》みっこなしだな」
弧《こ》を描《えが》いて飛んできたベルをナギは右手で受けとる。
「はい」
ベルが淡《あわ》く光り、ナギは慣《な》れた感覚で変化させる。
神名もエカルを何もない場所から出現《しゅつげん》させ、変化を念じた。<<エカルラート>>は赤い光を放ち、卵《たまご》のような形から棒《ぼう》状へと姿《すがた》を変える。
「行くぞ」
「はい」
『待った! なぁ、お前たち……』
ナギの手に握《にぎ》られているベルが思わず口を開いた。
「なんですか、ベルちゃん?」
『……最後ぐらい、まともに変化させられないのか?』
ベルは半分|諦《あきら》め、半分|怒《いか》りの心中でスプーンになった自分と、フォークになったエカルを見ながら呟《つぶや》いた……。
「仕方ないだろ。俺はこいつをフォークにしかしたことないんだから」
「スプーンだって強いですよ?」
『もういい』
ベルが完全に黙《だま》ったところでナギは気を取り直して構《かま》えをとった。対する神名も<<エカルラート>>を構える。
もう言葉はいらない。
ナギはベルを両手で握り、神名に向かって突撃《とつげき》した。死神の服をまとったときの彼女は本来の力を発揮《はっき》できる。特にスピードは普段《ふだん》の倍近い速さだ。そのスピードで繰り出される彼女の攻撃《こうげき》は非常《ひじょう》に重たいものになる。
ベルが下から上へと振《ふ》り上げられるのに対し、神名は叩《たた》き伏《ふ》せる形でエカルを振り下ろした。パワーは神名の方が上。だが、その力に押《お》しきられる前にナギはベルを手前に引く。
力を受け流し、神名の体勢《たいせい》が崩《くず》れたところを攻撃する。それを神名が防《ふせ》ぐ。
(こうなっては互角《ごかく》……か?)
何度もぶつかる<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>。
だがベルがそう思った瞬間《しゅんかん》その均衡《きんこう》をナギが破《やぶ》る。
「私は負けられない……っ」
ナギはさらに自分のスピードを上げた。その瞬間、ナギの持っていたベルが消えたように見えた。
「何っ!?」
もちろん消えてはいない。白い軌跡《きせき》を残しながら高速でベルが振るわれていた。とっさに防御《ぼうぎょ》した神名の<<エカルラート>>が残像《ざんぞう》に弾《はじ》かれる。ガードのなくなった隙《すき》をナギは見《み》逃《のが》さなかった。スプーンの形態《けいたい》になっている<<ベル・フィナル>>は力まかせに叩き込む必要がない。触れさえすれば、相手の心をかき混《ま》ぜる――精神《せいしん》力や集中力を分散させることができるのだ。
軽く、とん、とベルが神名の横腹《よこばら》を突《つ》く。
「くっ!?」
たったそれだけで、神名の方はかなり気力を奪われたようになる。
ナギの攻撃はもちろん一撃では終わらず、次々に襲《おそ》ってきた。残像を残すような速さでベルが振るわれ、神名は持ち前の反射神経《はんしゃしんけい》でなんとか防ぐ……避《よ》けるのはすでに無理だ。
(これがこいつの本気か!)
初めて見るナギの強さにぐっと歯を噛《か》み締《し》める。単純《たんじゅん》な力ではこちらの方が遥《はる》かに上のはずだが、彼女の異常《いじょう》なスピードが力を拮抗《きっこう》させている。そしておそらく技量《ぎりょう》は彼女のほうが上だろう。
そんなことを考えている隙に、彼女の攻撃が再び神名を捉《とら》えた。右足にかするように当たっただけで力が抜《ぬ》ける。実際《じっさい》の体力はまだ十分にあるはずだが、それを支《ささ》える心に直接《ちょくせつ》攻撃を与《あた》えられているので、どうしても疲《つか》れを感じてしまう。
(だが、俺だってここでやられるわけにはいかないんだ!)
神名は必死でエカルを持つ右手に力を込《こ》めた。ナギの白い残像が神名を薙《な》ぎ、彼はそれを振り払《はら》うように弾く。だが、その攻撃を凌《しの》いだのもつかの間、ナギは一瞬で神名の背後《はいご》を取った。
(終わりです、天倉さん)
神名の背後に立つナギ。速すぎた彼女の行動に、神名はまだ気付いていない。ナギは<<ベル・フィナル>>を神名に振り下ろした――しかし、すっと神名は身を動かし、ベルの振り下ろされる軌道《きどう》から逃《のが》れる。
「えっ?」
そしてすぐに神名はナギとの間合いを取った。後ろを見ることなく、神名はナギの攻撃を瞬時に回避《かいひ》した。
「天倉さん……一体何を?」
「……ふん、力を隠《かく》しているのは自分だけだと思うなよ?」
こちらを見ずに、攻撃を回避した神名。攻撃がくるタイミングや、軌道がわかっていたような動きだった。
『やっぱり強いな、あいつ……』
「はい……」
神名はとても運動神経が良い。それは自他ともに認《みと》めている。
だがそれだけではない。どこか戦い慣れしている――そんな感じがするのだ。
普段《ふだん》の彼からそうは微塵《みじん》も感じられないのだが、いざこうして戦ってみると実に戦いが上手《うま》い。闇雲《やみくも》に突っ込むことはせず、あくまでナギの行動を読んでいるかのような冷静な動きをする。
「……天倉さんって、何か格闘技《かくとうぎ》みたいなものを習っているんですか?」
その質問《しつもん》に神名は少し考えてから、
「そうだな……習うというか、付き合わされている感じだな。バイト先の兄さんが休憩《きゅうけい》時間の暇《ひま》つぶしに教えてくれるんだ。間合いの取り方だとか、相手の行動をいかに冷静に判断《はんだん》できるかとか……」
「……天倉さんって、何かの道場でバイトしているんでしたっけ?」
「いや、街中の花屋さんだ」
『どんな花屋だよ……』
ベルはお客に花を売りながら格闘|術《じゅつ》を教える店員を想像してみたが、どうにも上手くいかなかった。よほど変な奴《やつ》に違《ちが》いない……。
「まぁな……視覚《しかく》に囚《とら》われない空間|把握《はあく》の仕方……ってやつらしいんだけど……」
神名が一番|優《すぐ》れているのは運動神経でも、反射神経でもない。彼の一番優れた感覚は空間を把握する能力《のうりょく》であった。
「……見えてなくても、なんとなくわかるんだ。さっきも後ろからお前がベルを振るうのがわかった……達也《たつや》さん曰《いわ》く、なんとなくわかるじゃ半人前らしいけどな」
達也という名前にナギたちは聞き覚えがなかったが、花屋の店員の名前だろうということは察しがついた。
『……ほんとに花屋なんだろうな? お前のバイト先』
「この街には一|軒《けん》しかないんだぞ。当たり前だ」
神名のバイト先である花屋……一度見ておくべきだったと後悔《こうかい》するベル。ナギの方はそれどころではない。ここまで来て神名も力を隠していたのが驚《おどろ》きだった。だが彼の表情《ひょうじょう》から、その力がかなりの負担《ふたん》になっていることにすぐ気付いた。
「……その感覚はあまり長くは使えないようですね……」
「……まぁな。だから止められてるんだよ、こいつは……」
神名の使う空間把握の仕方は大気の流れを読むことにある。この地球上で物体が動くためには必ずその場にある空気を押し広げて進むしかない。神名はそのときの大気の流れを理解《りかい》することで、あらゆる方向からの攻撃《こうげき》を認識《にんしき》することができる。だがその反面、常《つね》に極度の緊張《きんちょう》感を張《は》り巡《めぐ》らせた状態《じょうたい》となるために精神《せいしん》的な疲労《ひろう》感が倍増《ばいぞう》するという欠点を持つ。
だが、つまりそれは――。
「……だったら結局、神名さんの負けです……私の攻撃を回避してもしなくても、神名さんは徐々《じょじょ》に体力と精神力を失っていくことに……」
「それはやってみないとわからないだろ。俺《おれ》の体力が切れるか、お前の時間切れか……勝負だ!」
神名に迷《まよ》いはない。
ナギはその言葉に改めて構《かま》え直し、神名に向かっていった。先ほどと変わらない異常《いじょう》なスピードを有した攻撃を繰り返してくる。神名は極力、体力を使わないように自ら動くことはせず、動きも最小|限《げん》に留《とど》めなければならない。だが、ナギは一瞬《いっしゅん》の隙《すき》をついて神名の死角を突《つ》いてくる。神名は空間把握の力を発揮《はっき》して攻撃から身を逸《そ》らす。それと同時にエカルをナギヘと突き出した。
「っ!」
とっさにナギはエカルを振《ふ》り払った。狙《ねら》った一撃を外され、神名が舌打《したう》ちする。
『空間に突き刺《さ》さる能力か。忘れていたな……』
神名の<<エカルラート>>がフォークになっている間に発動する能力――対象者のいる小さな空間ごとフォークを突き刺し、その場に固着させることができる。前回はこの能力を使い、フルールの動きを完全に封《ふう》じ込めた。
『ナギ、あれに捕《つか》まったら厄介《やっかい》だぞ』
「わかっています」
ナギには攻撃するしかない。神名のエカルにも気を配りながら、彼へ攻撃を仕掛《しか》けた。
神名の間合いに飛び込み、横|一閃《いっせん》にベルを振るう。神名はあえて動かず、エカルで防御《ぼうぎょ》した。そこにナギが上からの攻撃。神名が再《ふたた》び防御してその衝撃《しょうげき》に耐《た》えていた瞬間、白い軌跡《きせき》がすでに下から上がってきていた。
「くっ!」
想像《そうぞう》以上の強力な攻撃に神名の体勢《たいせい》が大きく崩《くず》れた。エカルが弾《はじ》かれ、神名は無《む》防備《ぼうび》状態《じょうたい》――ナギはそこに向けてベルを振るった。
今思えば、彼との出会いは様々な不運の中にあった。封印《ふういん》指定を受けていた<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>を落とし、それが原因《げんいん》で神名をソウル・イレギュラーにしてしまい、そのせいで自分はこうして任務《にんむ》失敗の責任《せきにん》として彼の抹殺《まっさつ》を命じられた。まるで失敗続きの一週間だった――だったが……。
(楽しかった……のかもしれません、私は……)
彼と一緒《いっしょ》に学校へ通い、勉強して、食事をして、ふざけて笑っていた一週間。短いはずだったが永遠《えいえん》に近い長さだったように思える。
それも今日でお別れだ。クラスメートとも、彼の親友であった小川《おがわ》祐司とも、優《やさ》しく面倒を見てくれた芹沢サラとも……そして彼とも。
ふっと彼が自分にパンを差し出してくれた時のことを思い出した。毎日の昼休み、彼は自分にパンをよこして一緒に食べた。ああ、そういえば昨日も今日も一緒には食べていない――それでも一瞬、自分は毎日、彼と食べていたと錯覚《さっかく》していた。
(不思議……ですね)
ナギの攻撃を神名は再びかわした。空間|把握《はあく》の力を使って彼女の攻撃の軌跡を先読みしたのだ。続けてくるだろう彼女の攻撃を牽制《けんせい》しようと、神名はその体勢からエカルを突き出した。
その瞬間、ベルは彼女の腕《うで》の中――エカルはナギの首元で止まっていた。
「……お前……」
ナギからあるはずだった追撃。だが彼女からそれが放たれることはなかった。ナギはすっとベルを降《お》ろし……静かに顔を上げた。
「天倉さんの勝ちですね」
「バカか、お前は……どうして最後で力を抜《ぬ》いたんだ! 今のところで追撃すれば、勝負はわからなかったのに……」
「えへへ、どうしてでしょうね……」
するとナギはニッコリ笑い、
「たぶん――」
だが、その瞳《ひとみ》から頬《ほお》を伝って涙《なみだ》が流れた。
「天倉さんには……死んで欲しくなかったから……」
「…………」
神名はこの言葉にぐっとエカルを握《にぎ》り……静かにエカルを降ろした。
「……天倉さんは自分のためだけじゃない、千夏さんのために、小川君のために生きている……私はそんな天倉さんが羨《うらや》ましいです……でも、だからこそ、私はこれでいいんです」
「…………」
「――でも、やっぱりチョコ・パフェにされるのは嫌《いや》だから――」
ナギはぐっとベルを握り締《し》めて神名に言った。
「――せめて天倉さんに、次の輪廻《りんね》へ送ってもらいたいです」
『ナ、ナギ……』
すでに決意した目で、ナギは神名を見つめる。
「……俺に……お前を殺せって言うのか……?」
次の輪廻へ送るというのは、そういう意味になる。
「――普通《ふつう》ならば無理な話ですけど……<<エカルラート>>を持つ天倉さんになら可能《かのう》です。死神の鎌《かま》はいかなる魂《たましい》をも刈《か》り取り、次の輪廻へ送ることができます……」
時間はまだある。続けようと思えば、彼女はまだ戦いを続けられる。だが、ナギはそうしなかった……この戦いに引き分けはない。どちらかが生き残り、どちらかが死ぬのだ。
だからナギは神名に未来を託《たく》した。彼には生きる価値《かち》があると――そう思ったから。
しかし、
「お断《ことわ》りだ」
神名はナギの提案《ていあん》をきっぱりと断った。
「ど、どうしてですか? 私が死ぬか、天倉さんが死ぬか、それしかないんですよ?」
「知るか! 俺だって――」
よくわからない。結局、自分はどうしたいのか? 彼女がいなくなるか、自分が死ぬかしか選択肢《せんたくし》はない――そのどちらも神名は嫌だ。
神名は少しその続きを躊躇《ためら》った……が結局、小さな声でこう言った。
「――俺だって、お前には死んで欲しくないんだ……」
「天倉さん……」
二人はどうしようもなく、互《たが》いに武器《ぶき》を降ろしたまま立っていた。
「……早くやれ。このままじゃ、お前はチョコ・パフェだぞ?」
「できません。天倉さんこそ早く私を殺してください! このままじゃ私、チョコ・パフェにされるんですよ?」
「だから、俺を殺せばいいだろ?」
「できません!」
二人しかいない公園で、神名とナギは互いを想《おも》いながら言い争い始めた。このまま時間が経《た》てば結果は見えている。
「そこまでよ」
だが、その両者を止めるように空から声がした。
「っ!?」
『こ、この声は!』
聞き覚えのある声に神名たちは空を見上げた。いつの間にか暗くなってしまった空に漆黒《しっこく》の服をまとった女性《じょせい》が浮《う》いていた。それと対照的な白い翼《つばさ》を羽ばたかせ、彼女は地上へ降り立った。
「ナギ……時間切れね」
「……イリス様……」
すべての死神を束ねる、第十三死天使機関の長が彼らの前に現《あらわ》れた。そして時間切れ――その言葉は神名の勝利を意味していた。
「……これであなたの勝ちです、天倉さん」
イリスからの迎《むか》えは即《そく》、彼女の死だ。それなのに、ナギは神名の方を向いて笑顔《えがお》を見せた。だが、喜ぶはずの彼は納得《なっとく》がいかない様子で拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》める。
イリスはそんな神名に見向きもせず、ゆっくりとナギに近づいた。
「ナギ、残念だけどあなたは二度にわたって任務《にんむ》に失敗した……覚悟《かくご》はいいわね?」
「……はい」
「そう……では、行きましょうか」
イリスの言葉にナギは小さく頷《うなず》いた。そして拳を握ったまま動かない神名に向かってゆっくり頭を下げる。
「さっきは言い忘《わす》れていました……昨日は……心配してくれてありがとう」
「…………」
家に帰ってこなかったナギを懸命《けんめい》に捜《さが》してくれた神名。ナギはその日、神名はどうせ家でテレヒでも見ながら、いつも通り笑っているに違《ちが》いないと思っていた。だがそうではなかった……彼は自分を殺そうとしているナギを本気で心配して街中を駆《か》けずり回っていたのだ。そのお礼を、一言だけでも言っておきたかった。
無言の神名にナギは背《せ》を向ける。
イリスも再《ふたた》び翼を広げた。空へと帰るために。
「――ちょっと待て」
「?」
神名は飛びたとうとする二人の背に待ったをかけた。
イリスは神名には用がなかったので、これといって何も言うことなどなかったのだが、彼から呼《よ》び止められて振《ふ》り返る。
「何かしら?」
青い瞳《ひとみ》が神名を捉《とら》える。暗い公園に浮かぶその青き瞳に、神名はどこか吸《す》い込《こ》まれそうな気分になるのを振り払った。真《ま》っ直《す》ぐにイリスを見つめ、口を開く。
「……そいつがいなくなるとさ……今日の晩ご飯が困《こま》るんだ」
台詞《せりふ》とは違い、彼の顔は真剣《しんけん》そのものだった。
「……それはどういう意味かしら?」
「うちでご飯を作れるのはそいつしかいないんだ。そいつは……ここに置いていってもらう」
神名は手にしていた<<エカルラート>>を構《かま》え、矛先《ほこさき》をイリスへ向けた。
「あ、天倉さん!?」
明らかな戦闘《せんとう》体勢《たいせい》を取った神名に、驚愕《きょうがく》した表情《ひょうじょう》でナギが彼の名を呼んだ。
神名が今、鎌《かま》を向けている人物はただの死神ではない。すべての死神を束ねる、現行《げんこう》最強の死神だ。
「……私に戦いを挑《いど》む、と?」
「必要ならな。それに……そいつがいなくなったところで、俺の運命に変わりはないんじゃないのか?」
勘《かん》の良い神名の言葉に、イリスは完全にこちらを向いた。
「……そうね。ナギの後任があなたの命を狙《ねら》うことになるわ」
「えっ!? そ、そんな――」
「当然でしょう、ナギ……あなたが任務に失敗して、その責任《せきにん》をとったとしても、天倉神名がソウル・イレギュラーであることに変わりはないのだから……」
言われてみれば当然の話だった。神名はソウル・イレギュラーなのだ。その命を失うまで永遠《えいえん》に死神から狙われ続けることになる。
「やっぱりそうか……だったら頭から叩《たた》くのも悪くない」
神名はイリスを睨《にら》むように鋭《するど》い眼光《がんこう》を放つ。本気であることは誰《だれ》の目にも明らかだった。
「あなたに私が倒《たお》せる、と?」
「そいつが言ったんだ……<<エカルラート>>を持つ俺なら、死神すら殺せる……」
「確《たし》かに……死神の鎌とはいかなる魂《たましい》をも刈り取れるモノだけれど――」
イリスの右手の先にある空間がぐらりと歪《ゆが》む。ナギや神名がベルたちを取り出すときと同じ現象《けんしょう》だ。ほぼ一瞬《いっしゅん》の間に、彼女の右手に青い卵《たまご》のようなものが現《あらわ》れる。それを片手《かたて》にイリスは言った。
「――あなたと私とでは格《かく》が違う」
「上等だ!」
神名はイリスに向け、一直線に突《つ》っ込んだ。神名にはイリスとの戦闘|能力《のうりょく》の差など初めからわかっている。ナギとですら互角《ごかく》が精一杯《せいいっぱい》の自分に彼女を倒すのはほぼ不可能《ふかのう》だろう。それでも、いや、だからこそ全力で小細工もしない。
「はあああぁぁっ!」
ナギとの戦いで残った力をありったけ込めて<<エカルラート>>を振るう。その攻撃《こうげき》をイリスは初めから知っていたようにすっと避《よ》ける。さらに神名が追撃をかけるが、彼女は優雅《ゆうが》に、且《か》つ最小|限《げん》の動きでステップを踏《ふ》む。神名の執拗《しつよう》な攻撃を、イリスはまるで舞《まい》を踊《おど》っているかのような余裕《よゆう》のある表情でかわす。
「天倉さん!」
どうしたら良いのか分からず、ナギはその場に立ち尽《つ》くしているしかない。
「……あなたのことは後で考えるつもりだったけれど……」
イリスは神名を見ながら静かに舞う。
「――あなたにはここで、次の輪廻《りんね》に行ってもらうわ」
次の瞬間、避けてばかりだったイリスが突如《とつじょ》、攻撃に転じた。青い卵を空に投げ、神名が放った突《つ》きを左手で軽く弾《はじ》く。続いて空いた右手を神名の腹部《ふくぶ》に叩き込んだ。
「っ!?」
一撃。その痛《いた》みは声にならず、神名は数メートル後ろに吹《ふ》き飛ばされた。イリスは落ちてきた青い卵を再び右手で捕《と》らえ、神名を見下ろす。
「終わりかしら?」
「く……まだだ!」
イリスの攻撃を受けてもなんとか<<エカルラート>>だけは放さなかった神名は、すぐに立ち上がって走り出した。諦《あきら》めず、真正面からイリスに挑《いど》む。
彼女も攻撃の体勢で神名が自分の間合いに入ってくるのを待った。神名がイリスのテリトリーに入った瞬間、彼女は高速でその腕《うで》を突き出した。
「二度も同じ手を食うか!」
「っ!?」
その瞬間に神名は自分の感覚を最大限にして彼女の動きを察知した。イリスの一撃目をかわすと、神名はイリスの懐《ふところ》に入り込む。振れば彼女に当たる。神名は渾身《こんしん》の力で<<エカルラート>>を横に薙《な》いだ。
「甘い」
その攻撃をイリスは蹴り上げた。神名の腕を狙った蹴りはエカルの軌道《きどう》を大きく逸《そ》らし、間髪《かんはつ》をいれずに左手を先ほどと同じ神名の腹部に叩き込む。
「がはっ」
骨《ほね》が軋《きし》む衝撃《しょうげき》に神名は膝《ひざ》をついた。それでも身体《からだ》は止まってくれず、神名の身体は地面に倒れ込んだ。必死で痛みに堪《た》えるが、もはやそんなレベルではなかった。目だけを上に向けると、すぐ側《そば》にイリスがいた。
「……これが、あなたと私の差よ」
「ぐ……」
彼女に鎌《かま》を使わせるどころか、素手《すで》の彼女にすら歯が立たない。見せ付けられた現実《げんじつ》と体力の限界に神名の意識《いしき》はすでに朦朧《もうろう》としかけていた……。
「く……くそっ……」
神名はなんとか立ち上がりながら<<エカルラート>>を振るった。だがそんな攻撃がイリスに当たるはずもなく、彼女はすっと後ろに後退《こうたい》して間合いを取る。
神名には追撃する力はなく、立ち上がったものの、立っているのがやっとという状態《じょうたい》だった。エカルを杖《つえ》代わりにしてイリスを真《ま》っ直《す》ぐ見つめる。
(冗談《じょうだん》じゃない……予想以上の強さだな……)
なんとかなるはずだと思っていたが、考えの甘さに思わず神名は苦笑《くしょう》する。このまま戦っても勝ち目は薄《うす》いだろう……そうなれば自分はただ殺される運命だ。
「だったら……せめて……」
本当に神名にとっては最後の力だった。<<エカルラート>>を持つ右手に力を込め、心は落ち着かせる。そして念じた。ベルに教えてもらった、鎌を変化させる方法。
「俺《おれ》がお前の主なら……俺の意思に応《こた》えろ、<<エカルラート>>……」
その言葉と共に、突如《とつじょ》<<エカルラート>>は真紅《しんく》に光った。
「っ!?」
「天倉さん! 何を!?」
神名は最後の力を使い、<<エカルラート>>の形状を変化させた。それを神名は投げつける形で逆手《さかて》に持つ。変化した<<エカルラート>>――それは巨大《きょだい》な槍《やり》。
「行っけえぇぇ――っ!」
神名はそれを彼女に向かって投げつけた。
イリスは彼にそんな力が残っているとは思わず、一瞬|戸惑《とまど》った――が、イリスはギリギリのところで翼《つばさ》を出現させ、空に逃《のが》れる。
「狙《ねら》いは良かったわね。けれど、そんな攻撃が――」
だが、イリスが見下ろした神名は不敵《ふてき》に笑っていた。
「……狙ったのは……お前じゃない……」
「っ!?」
ハッとなってイリスは自分の背後《はいご》にいた人物を見た。
神名の投げた槍はイリスの後ろ――ナギを完全に捕《と》らえていた。一直線に飛んだ長く鋭《するど》い槍は彼女の身体《からだ》を易々《やすやす》と貫通《かんつう》していた……。
「あ……ま、くら……さん……」
「ナ、ナギっ!?」
イリスの眼下《がんか》でゆっくりとナギが膝をつく。
静かに、ナギは自分の腹部を貫通した槍を見つめた。痛《いた》い――というより、その感覚は熱い……。自分は確実《かくじつ》にこの一撃で死ぬだろう――そう思うと、自然に笑顔《えがお》がこぼれた。チョコ・パフェにされるぐらいなら、神名に殺される方がいい――彼は最後に自分の願いを叶《かな》えてくれたのだ。
最後に神名の姿《すがた》を一目見て、
(これで私……次の輪廻《りんね》に行けるんですね……)
それはとても美しい笑顔で――ナギは吸《す》い込まれるように地面へ倒《たお》れた。
同時に彼女の手から滑《すべ》り落ちたベルは驚愕《きょうがく》した様子でナギと神名を見る。
『じ、神名、お前っ!?』
最後の力を振り絞《しぼ》った彼は、<<エカルラート>>を投げつけると同時に倒れていた。そのままゆっくり顔だけを上げ、倒れこんだナギを見る。
「こんなことしか……もう、俺には……してやれないから……」
「っ!……彼女が自ら死を望んでいたとでも言うの?」
殺気に溢《あふ》れる鋭い眼光《がんこう》を放ちながらイリスは神名を睨《にら》んだ。ナギには責任《せきにん》を取ってもらうつもりだったが、今すぐにというわけではなかった。彼女なりにすべてを片付《かたづ》けてから――そう思っていたのに……。
「……慌《あわ》てるなよ……」
「?」
ナギの死を前にして、何故《なぜ》か神名は苦笑《くしょう》した。近くにあった小石を拾《ひろ》い上げ、無理な体勢《たいせい》ながら、ナギに向かってぽーんと投げつける。
「おい、いつまで寝《ね》てるんだ……」
コツンとナギの後ろ頭に小石は見事命中した。
「い、痛っ! 何をするんですか――っ!?」
『ナ、ナギ!?』
死んだと思われたナギは、神名に石をぶつけられて起き上がった。
「……あれ? どうして私、生きているんですか?」
思わずエカルの刺《さ》さった腹部《ふくぶ》に手を当てるが、そこに傷跡《きずあと》はない。出血どころか傷一つなかった。彼女の身体を貫《つらぬ》いていたはずのエカルは、彼女の隣《となり》に転がっている。
「こ、これは……?」
死んだと思った彼女が無傷で立ち上がるのを見て、イリスも驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。答えを求めて神名に視線《しせん》を戻《もど》すと彼は笑っていた。
「……俺がそいつを殺すわけがないだろ……」
「……でも、確《たし》かにあなたの槍は彼女を……」
「――槍じゃない……よく見ろ」
神名の言葉に急《せ》かされ、イリスは投げられた<<エカルラート>>を見た。長く、鋭く尖《とが》った先端《せんたん》――どう見ても槍ではないか……そう思ったとき、槍の先端から中ほどまで続くらせん状の凹凸《おうとつ》に気がついた。
「――これは?」
「俺が投げたのは槍じゃない――ドリルだ」
『は?』
神名の口から出て来た単語に、ベルは首をかしげるような声を出した。
死神の鎌は主が望めば様々な形状を取ることが可能《かのう》だが、その形状によっては予期せぬ力を発揮《はっき》する場合がある。ベルのスコップには『記憶《きおく》を掘《ほ》り起こす』能力《のうりょく》が、スプーンには『心をかき混《ま》ぜる』能力が……そしてエカルのフォークには『空間に突《つ》き刺さる』という能力がある。そしてこのドリルには――
「ドリル?……本来なら<<穴を空けるもの>>……?」
その能力をイリスが推測《すいそく》しようとするが、全く想像《そうぞう》できない。
神名はゆっくりと身体を起こす。
「いいや、違《ちが》うね……ドリルは<<回転するもの>>だ。俺はあいつの……<<魂《たましい》の輪廻を回転>>させてやったんだよ……しかも逆《ぎゃく》向きにな」
魂の輪廻は回転している。生から死へ、死から生へ。人から人へ、時に人から天使へと輪廻は回る。
「っ!? ま、まさか!?」
「察しがいいな……今のこいつは――」
神名とナギの視線が合う。きょとんとしているナギを見ながら、神名は不敵《ふてき》に笑ってイリスに言った。
「ただの人間だ」
『な、なんだと!?』
「え……えええぇぇぇ――っ!?」
本人が一番|驚《おどろ》きながら思わず後ろにさがった。神名の投げたドリル――<<エカルラート>>は、彼の予想通りの能力を発揮した。輪廻を逆向きに回転させ、ナギは死神から人へと戻《もど》ったのだ。
「あり得ないわ……いくら天界最強と言われた鎌《かま》の半身である<<エカルラート>>といえども、不完全の状態《じょうたい》でそんな力が……まして、所有者は何の力も持たない<<人>>だというのに……」
魂と肉体の再生《さいせい》――輪廻の逆転は神の業《わざ》に等しい。それをこんなただの人間が……ソウル・イレギュラーの神名がやってみせたのだ。
「……俺だって実際《じっさい》にやるまでできるかどうかわからなかったさ……」
「わからなかったって……失敗したらどうするつもりだったんですか?」
恐《おそ》る恐る、ナギは神名の行動に質問《しつもん》した。
「…………」
「ちょ、ちょっと天倉さん!?」
「ええい! そんなことはどうでもいいのだ! 結果オーライだろ!?」
「うわっ! 考えてなかったんですね!? 私の命を何だと思ってるんですか!?」
ナギはそう言って軽く握《にぎ》った拳《こぶし》を神名に振《ふ》るう。これでも体力の限界《げんかい》にきている神名は避《よ》ける術《すべ》もなくナギの洗礼《せんれい》を受けた。
「ぐはっ」
「あれ?」
『ナギ、そいつ本当に死にそうなんだって……お前がとどめをさしてどうする?』
「わぁ!? 天倉さん、大丈夫《だいじょうぶ》ですか!? ええっと、今|治《なお》してあげますね!」
初めてこの公園で彼に施《ほどこ》したように、ナギは彼に手を当てて体力を回復《かいふく》させようとした。だがあの時と同じように手は光らず、彼女の手が神名の上に載《の》せられただけだった。
「……力が……使えない……?」
ハッとなってナギは背《せ》に意識《いしき》を集中する。さっきまで何の意識もせずに使えていた翼《つばさ》の感覚もそこにはなかった。
「私……本当に人間になったんですね……」
力が使えなくなったことが何よりの証《あかし》だった。
「……ああ……どうだ? 昔は思い出せそうか……?」
ふっと神名はナギに笑いかけた。
人へと戻った彼女には少しずつ記憶《きおく》が戻っていくはずだ。
その笑顔《えがお》にナギも微笑《ほほえ》む。そう、微《かすか》かに残っていた記憶の中で、こんなふうに誰かが自分に微笑んでくれていたのだ。
周《まわ》りにはいつもたくさんの笑顔があって、その中でも……の笑顔が一番好きだった。
「……ええ。全部思い出せそうです……」
「本当に人へ戻ったのね、ナギ……」
その声に二人は意識をイリスに戻した。初めは信じられないという顔をしていたが、ナギの様子を見てイリスは確信《かくしん》した。神名の鎌で彼女は人へと再生されたのだ。
「天倉神名……やはりあなたをこのままにしてはおけないわ」
「ま、待ってください!」
イリスの先に神名がいる。それを遮《さえぎ》るようにナギが間に割《わ》って入った。神名は痛《いた》みの走る腹部《ふくぶ》を押《お》さえながらナギを振り払《はら》う。
「来るな! お前はもう何の関係もなくなったんだ……予定外の死から、正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻った……あとは俺だけだ……」
「そういうわけにはいきません!」
ナギはスプーンになったままのベルを右手に構《かま》え、神名の前に立った。
「ナギ……」
「イリス様……これは私のワガママです……このまま、彼をそっとしておいてはくれませんか?」
「……それはできないわ。あなたにもわかっているはずよ? 彼はソウル・イレギュラーであり、今の彼はすべての輪廻に影響《えいきょう》を与《あた》えかねない力を持っている……そんな危険《きけん》な存在《そんざい》を野放しにはできないわ」
神名がナギにしたことは恐《おそ》ろしく危険で、自然の摂理《せつり》にも反する行為《こうい》だ。人である彼に何故《なぜ》そんなことができたのかはわからないが、今は彼を正常な輪廻に戻すのが最|優先《ゆうせん》だろう。
イリスの言葉が正しいことはナギにもわかる。だが、それでも譲《ゆず》れないものがある。
「それでも……私は天倉さんを殺させるわけにはいきません」
ナギの表情《ひょうじょう》には自然と優《やさ》しさが満ちていた。そしてぐっとベルを改めて握《にぎ》りなおす。
『ナギ……』
「ベルちゃん……今の私は死神でも天使でもありません……そんな私と、一緒《いっしょ》に戦ってくれますか?」
その問いに、鎌は即答《そくとう》した。
『ふっ、何を今更《いまさら》……お前がどんな存在であろうと、お前がお前であるかぎり、お前は私の主に変わりはない』
「……ありがとう」
ナギは最高のパートナーに笑いかけ、イリスの方へ向き直った。
すると神名もエカルを片手《かたて》に立ち上がる。
「天倉さん、無理しないでください!」
「お前だけ戦わせるなんてできるか……こいつは俺の問題だぞ」
「……私たちの、ですよ……」
ナギは優しく神名の瞳《ひとみ》を見つめる。すると神名は諦《あきら》めたようにふっと笑い、ナギの隣《となり》に並《なら》んだ。
「そう……だな」
すると片手に握る<<エカルラート>>が微《かす》かに赤い光を放った。
「……こいつも、俺に付き合ってくれるらしい……」
「――まだ、私と戦うというの?」
神名とナギは沈黙《ちんもく》でそれを肯定《こうてい》した。
「そう……仕方ないわね」
イリスは手にしていた青い卵《たまご》のようなものを持ち上げた。
今までそれを使いもしなかった彼女だが、神名の言葉に応《こた》えるように力を解放《かいほう》させた。辺りを青く染《そ》めるほどの強力な光がイリスを包む。それを発しているのは青い卵のようなもの――彼女の鎌《かま》だ。その光に導《みちび》かれるように青い卵は棒状《ぼうじょう》に変化していく。棒の先から現《あらわ》れる鋭《するど》い刃《は》。美しい弧《こ》を描《えが》くその刃は上下に二|枚《まい》あった。
二枚の刃を持つ蒼《あお》き鎌。
「<<ブルーモール>>――この鎌を見た者はすべて無に還《かえ》り、新たな輪廻へ進む……」
「ぐっ……」
イリスの神々《こうごう》しく、また見る者を凍てつかせるような瞳《ひとみ》に思わず神名たちは一歩|退《しりぞ》く。
神名は自分の<<エカルラート>>とイリスの<<ブルーモール>>を見比《みくら》べながら呟《つぶや》いた。
「……おい、ベル」
『なんだ?』
「お前って、確《たし》か天界最強の鎌なんだよな?」
『そうだ』
「なんつーかさ……あっちの方がむっちゃくちゃ強そうなんだけど……」
『……そうだな』
「おーい! 納得《なっとく》するところじゃないだろ!?」
『私だって好きでスコップやらスプーンになっているわけじゃない! 明らかにお前たちの力不足だろうが!』
「うぅ……返す言葉もないですね……」
天界最強と謳《うた》われた<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>――のスプーンとドリル状態《じょうたい》。対するイリスが持つ鎌は死天使長であるがゆえの鎌。この<<ブルーモール>>も天界に数本とない巨大《きょだい》な力を持つ鎌だ。それを考えると……。
「……俺らちょっとヤバい?」
「ええ。死にそうなぐらいに……」
やはり現実《げんじつ》は甘《あま》くない。
「では、天倉神名。死天使長の名において、あなたを抹殺《まっさつ》します」
言うが早いか、イリスは<<ブルーモール>>を構《かま》えてこちらに向かってきた。
『気をつけろ! あの鎌に触《ふ》れたら強制《きょうせい》的に魂《たましい》を刈《か》り取られるぞ!』
今のイリスの狙《ねら》いは神名だ。ナギには目もくれず一直線に神名へ攻撃《こうげき》をしかける。
だが、ナギもそう簡単《かんたん》にイリスを通しはしない。彼女の道を遮《さえぎ》るようにベルを横|一閃《いっせん》に振《ふ》るった。
「行かせません!」
「ナギ、そこをどきなさい!」
ナギの攻撃をイリスは容易《たやす》く鎌で振り払《はら》った。人となった今のナギには死神だった頃《ころ》の力と速さがない。だが記憶《きおく》と技量《ぎりょう》はそのままだ。ナギはさらに追撃する。イリスに弾《はじ》かれた反動をそのまま利用して、再《ふたた》びベルを振り下ろす。
「ナギ……あなたと刃《やいば》を交《まじ》えるなんて思ってもみなかった……」
「私も……です」
イリスはそれだけ言うと強力な一撃を放った。圧倒《あっとう》的な力の差にナギはベルごと弾き飛ばされる。
「うっ!?」
ナギを振り切ったイリスは即座《そくざ》に神名へ詰《つ》め寄《よ》る。蒼き光を放つ二枚の鎌が神名を襲《おそ》う。
「くっ!」
神名はエカルを両手で握《にぎ》り締《し》めながらイリスの攻撃を受け止めた。だが、見た目は神名より遥《はる》かに細い彼女の腕《うで》から繰り出される攻撃は、岩でも落ちてきたような衝撃《しょうげき》と重さを兼《か》ね備《そな》えていた。その衝撃になんとか耐《た》え、鍔迫《つばぜ》り合いの状態でイリスの顔が近づく。
「……ここまでのようね……今のあなたは相当な力を使い果たしている……」
神名はナギと戦い、その直後にイリスとの連戦だ。そもそもエカルをドリルにした時点でほとんどの力を使い果たしている。彼を今立たせているのは気迫《きはく》だけだ。
「……ここまできて死ねるか。俺《おれ》は諦《あきら》めが悪いんだ!」
鍔迫り合いの状態から神名は離《はな》れた。だが、間合いをとるほどの距離《きょり》ではなく、二歩だけさがる。イリスへ再びナギがベルを振るう。
「その鎌を壊《こわ》させてもらいます!」
ナギはベルをナイフの形態へ。この状態のベルにはすべてを切り分けるという能力《のうりょく》が備わる。イリスの鎌さえ壊せば、彼女は戦闘《せんとう》能力を完全に失うはずだ。
だが、<<ブルーモール>>はナギの<<ベル・フィナル>>を受け止めた。
「え!?」
「無駄《むだ》よ……いくら<<ベル・フィナル>>といえど、真の姿《すがた》である今の<<ブルーモール>>をそんなナイフの形態では止められないわ……」
イリスは、ベルごとナギを弾き飛ばした。それを見た神名はほとんど無意識《むいしき》のうちに走り出し、吹《ふ》き飛ばされたナギを受け止める。これならばナギはダメージを負うことはない――が、神名は地面に身体《からだ》を叩《たた》きつけられ、全身に激痛《げきつう》が走った。
「ぐっ……」
「神名くん!?」
ナギは慌《あわ》てて神名の上から起き上がり、彼が立ち上がろうとするのに手を貸《か》した。
「はぁ、はぁ……ここまで……か」
思わず神名はそんなことを口にした。イリスと自分たちの力の差は歴然としている。それでも、おそらく彼女はまだ本気を出してはいないだろう。やはり鎌《かま》を持つ死神に勝つことはできないのか――。
「諦《あきら》めちゃダメです、神名くん!」
ナギは神名の横から大声でそう言った。
そんな彼女にイリスが静かに聞く。
「ナギ、どうしてそこまで、あなたが彼のために命を張《は》る必要があるの? 彼の言う通りあなたは正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻《もど》った……あなたにはもう何も関係ないのに……」
「……そうしたいんです、私が……」
神名の服を、そっとナギは掴《つか》んだ。
「……彼があなたを人に戻したから?」
「私は彼に死んで欲しくない……彼も私に死んで欲しくないって言ってくれたから……」
「……あなたが彼を好きだから?」
その言葉にナギは考える。いつからか、心のどこかで彼には死んで欲しくないとずっと思っていた。その理由に答えは出なかったが、今ならはっきり言える。
「――はい。でも……それだけじゃないんです。この人は――」
ナギは瞳《ひとみ》を閉《と》じる。そのたびに忘《わす》れていた記憶《きおく》が蘇《よみが》ってくる。
「――神名くんは、私が命をかけて守った命だから……」
「え?」
その言葉に誰よりも驚《おどろ》いたのは神名だった。
神名くんと自分を呼《よ》ぶ彼女は、いつもと少しだけ違《ちが》って見えた。
「神名くんは私に、絶対《ぜったい》に死ねないって言いましたよね? 私もまだ、神名くんには生きていてもらわないと困《こま》ります……」
そしてナギはふわりと表情《ひょうじょう》を和《やわ》らげた。それはどこか優《やさ》しく見守っているような温かな微笑《ほほえ》み――昔、どこかで見たような表情だった。
「ナギ……?」
「……私の分まで生きて――あのときの私は、神名くんにそう言ったはずですよ?」
その言葉で神名は彼女が――本当は誰だったのかを悟《さと》った。
「……そんな……まさか……」
確《たし》かに自分は彼女にそう言われた。
一生の約束だと心に刻《きざ》んだ言葉だ。まだ自分が小学生だった頃《ころ》に、親友のお姉さんが最後に自分たちに告げた言葉。
「――千夏姉さん……なのか……?」
姿、形は全然違う。けれど、そこにいる魂《たましい》は間違いなく彼女だった。
人が天使になるとき、失ってしまうのは記憶だけではない。人だった頃の身体はもともと失われているので、その代わりが天使となる魂には用意される。その身体が元のものと同じでないのは、自分の姿から記憶を取り戻すことを避《さ》けるためでもある。
驚いた顔で自分を見上げる神名に、ナギは少しだけ困ったような、躊躇《ためら》うような顔をして頷《うなず》いた。
「……はい。久《ひさ》しぶり……っていうのも、なんだか変な話ですね?」
自分は一週間、彼と一緒《いっしょ》にいたのだ。
こんなにも側にいて、自分は彼のことを思い出せなかった。
「ナギ……」
すると彼女はにっこり笑って、
「初めて名前で呼《よ》んでくれましたね?」
「……そうだったか?」
「はい、そうですよ」
考えてみれば、いつもナギのことは「お前」としか呼んだことがなかったように思う。別に名前で呼ばないようにしていたわけではないのだが、だとすると今まで彼女に悪いことをしたと神名は思った。
「でも……今はナギ? 千夏姉さん? どっちで呼べばいいんだ?」
「どちらでもいいです……でも、ナギって呼ばれる方がちょっとだけ嬉《うれ》しい感じがしますね」
「そうか……」
彼は苦笑《くしょう》しつつ、ナギの手をとって立ち上がった。昔と変わらない柔《やわ》らかで温かく、そして優しい手だった。
「……この一週間、短かったけど楽しかったよ……お前が俺を殺そうとしていると知っていても……なんだかお前が俺の隣《となり》にいるのが自然だったし……いつの間にか、そうなってたことに気付かなかった……それくらい自然で……どこか心地《ここち》よかったんだ……」
神名は少しだけ強くナギの手を握《にぎ》った。
「だから……今の俺も、お前がいなくなると因る……」
恥《はず》かしそうに神名はそう言って視線《しせん》を逸《そ》らした。
「はい」
ナギはそれに頷いて前を向く。
神名と同じ視線の先にはイリスがいる。彼女を乗り越えなければ、自分たちに明日はない。
二人は手を繋《つな》いだまま、神名は右手にエカルを持ち、ナギは左手にベルを持った。
「覚悟《かくご》はできたようね……」
二人の目を見てイリスも鎌を構《かま》えた。もはや次はない。彼女は確実《かくじつ》にこの一撃《いちげき》ですべてを終わらせるつもりだった。
「これで終わりよ」
先にイリスが動いた。数メートルの間合いを一歩で駆《か》け抜《ぬ》けながらこちらに接近《せっきん》してくる。まさに神速といっても過言《かごん》ではないスピードだ。
それに対して神名とナギはしっかりとその手を握り締《し》め、<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>を振《ふ》るった。
振り下ろされる<<ブルーモール>>と二本の鎌が激突《げきとつ》する。
両者は一歩も引かず、激《はげ》しい力の奔流《ほんりゅう》が辺りに溢《あふ》れた。拮抗《きっこう》していた力を先に崩《くず》したのはイリスの方だった。死天使長である彼女の力と<<ブルーモール>>の力が、徐々《じょじょ》に神名たちを追い詰《つ》めていく。
ビシッ――その力に耐《た》えられず、ベルとエカルに亀裂《きれつ》が走った。
「っ! ベルちゃん!?」
「エカル!?」
不吉な音を立てながら、その亀裂は少しずつ大きくなっていく。イリスの力はさらに増《ま》し、今にも<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>は砕《くだ》け散りそうだった。
「……これで終わりだと言ったはずよ」
これ以上話すことはない、と彼女の瞳《ひとみ》が告げていた。
だがそれでも、神名とナギの瞳に諦《あきら》めの色はない。
「それでも私たちは――」
二人は強く、未来を願った。
「――これからを生きるんだ!」
重なり合っていた<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>――その二本が神名とナギの言葉に応《こた》えるように白く、そして赤く光り輝《かがや》いた。そしてナイフとフォークだった二本はその姿《すがた》を交わらせながらイリスの前から消える。
「っ!?」
だが次の瞬間《しゅんかん》、彼らの鎌《かま》は新たな姿で現《あらわ》れた。
漆黒《しっこく》と真紅《しんく》の鎌<<エカルラート>>――それが神名の右腕《みぎうで》と一体化していた。<<エカルラート>>の本体が神名の甲《こう》と同化し、人指し指から小指は全《すべ》ての光を飲み込《こ》むような漆黒の爪《つめ》。親指は大きく肥大《ひだい》化し、真紅の刃《は》を持つ鎌を形成していた。
片《かた》や、すでに人となったはずのナギの背《せ》には美しい羽が生えていた。<<ベル・フィナル>>が一|枚《まい》の美しく巨大《きょだい》な翼《つばさ》となり、その白き片翼は神名とナギを空へと誘《いざな》う。
「<<ヴァールリーベ>>……っ!?」
天界最強と言われた二本一|対《つい》の鎌――<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>の真の姿がイリスの目の前にあった。
神名が鎌を、ナギが翼を。まるで二人で一人の死神と言わんばかりの姿だ。神名と一体化した黒い爪と真紅の鎌が<<ブルーモール>>を掴《つか》む。
「俺たちは……諦めない」
その腕に力を込める。凶悪《きょうあく》なその腕は、二枚ある<<ブルーモール>>の刃の一枚をへし折りながら破壊《はかい》する。
「そ、そんな!?」
そのときの攻撃《こうげき》はすでに人間のものではなくなっていた。自分と互角《ごかく》――もしかしたらそれ以上の力を神名は発揮《はっき》していた。
だが<<ブルーモール>>にはまだ一枚、刃が残っている。イリスは横|一閃《いっせん》に鎌を振るった。
左にいるナギは無《む》防備《ぼうび》で、そちらから神名を狙《ねら》う。だが残った刃はこちらへ伸《の》びたナギの翼に砕《くだ》かれる。
「なっ!?」
『こいつらを甘《あま》く見たなイリス。こいつらは二人で一人だが、一人で二つのモノを持つ』
神名の<<エカルラート>>は鎌であり翼。同時に<<ベル・フィナル>>は翼でありながら鎌としての力も持つのだ。
「まさか、この状況《じょうきょう》で<<ヴァールリーベ>>を……」
「……言っただろ? 俺は諦めが悪いんだ」
ナギと繋《つな》いだ手を離《はな》し、神名は左手をぐっと握《にぎ》り締《し》めてみせた。
だがその瞬間――先ほどまで鎌だった右手とナギの白い羽は消え、純粋《じゅんすい》な白き鎌と真紅の刃を持つ漆黒の鎌となり神名とナギの手に握られた。
「えっ!?」
鎌は鎌でもこの状態《じょうたい》は<<ヴァールリーベ>>のものではない。<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>、単体としての鎌だ。
「あ、あれ? どうなってるんだ?」
『……持ち主が別々だからな……どうやらお前たちが手を繋いでいないと、<<ヴァールリーべ>>は使えないようだ』
ベルが現状《げんじょう》をぼそっと呟《つぶや》くように説明してくれた。
「なっ!?」
ベルの言葉に神名は再《ふたた》びナギの手を取った。するとたちまち二本の鎌は巨大な鎌と翼へ早変わり。神名が彼女から手を離すとそれらは二本の鎌へ戻《もど》った。
「使えねーな」
即答《そくとう》。
「動きにくいですよね」
溜息《ためいき》をつくナギ。
『くっそーっ! お前ら伝説の鎌に向かって使えねーとはなんだ!? 動きにくいのだってお前らが我々《われわれ》を別々に所有しているからだろう!?』
「だってさー、強いのは分かるんだけど、使うために片手《かたて》が塞《ふさ》がるんじゃあな……やっぱり使えねーだろ?」
『あーっ! また言ったな!? 別々で使ったって強いんだぞ!』
「ちょっと、あなたたち……私のこと忘《わす》れているでしょう?」
「おおっ!?」
イリスの声に慌《あわ》てて神名とナギがそちらを向く。だが、彼女は攻撃してくるどころか先ほどの場所から一歩も動いてはいなかった。
神名とナギは改めてイリスと向き合う。
「まだ……やるんですか?」
ナギは<<ベル・フィナル>>を片手に心配そうな顔でイリスを見る。もう、これ以上戦いたくないと、彼女の瞳は言っていた。
「今のお前に鎌はない……俺たちの勝ちだ」
「そのようね……」
自分の鎌である<<ブルーモール>>を破壊《はかい》され、パートナーを失ったイリスはすっと瞳を閉《と》じた。まるで死を覚悟《かくご》したかのような彼女に、神名は鎌を退《ひ》いた。
「?」
「一つ、約束してくれないか……俺のことは放っておいてほしい……」
イリスが神名に関《かか》わるのを止《や》めるなら、彼には彼女の魂《たましい》を狩《か》る必要などない。
神名はただ、生きたいだけなのだから。
「それは……あなた次第《しだい》よ……」
イリスはまだ戦う気なのか、その真意を測《はか》りきれない――そう思っていると、聞いたことのあるようなクラシックの音楽が聞こえてきた。
「あ、ちょっと待って。私のだわ」
そう言ってイリスはごそごそと服の中から携帯《けいたい》電話を取り出す。
「……死神のくせに携帯かよ……」
「念話より便利なんですよ。疲《つか》れないし」
ナギの説明をどうでもいい顔で受け流し、神名はイリスの会話に耳を傾《かたむ》けた。
「――ええ。お疲《つか》れ様。わざわざ連絡《れんらく》してくれてありがとう。ええ、それじゃ――」
そう言って携帯の着信を切り、イリスはこちらを向いた。
「……管理局の残業……たった今、終わったそうよ」
「え……?」
管理局の残業が終わった――つまり、それはそういうことだ。
「……私の鎌《かま》も壊《こわ》れてしまったし……今日はもう、おしまいね」
そう言ったイリスからは先ほどまでの強い殺気が感じられなくなっていた。
「……天倉神名……聞いてもいいかしら?」
すっと鋭《するど》くなったイリスの眼《め》に身構《みがま》えつつ、神名は口を開いた。
「……なんだ?」
「今のあなたはとても危険《きけん》な存在《そんざい》よ。あなたが不用意にその鎌の力を使えば、容易《たやす》く人の運命を変えてしまう……私たちはそんなあなたの存在を許《ゆる》さないでしょう……死ぬまで命を狙《ねら》われる――その覚悟があなたにはあるのかしら?」
人であり、ソウル・イレギュラーという存在でありながら、死神と同等――いや、それ以上の力を持つ神名。
イリスの問いに、彼は不敵《ふてき》に笑って見せた。
「当たり前だろ。そうでなきゃ、あんたには最初から挑《いど》まないよ……俺《おれ》は生きる。生きるためなら、エカルの力を使うことも厭《いと》わない……けど――」
すっと神名はナギの方を向いた。優《やさ》しく微笑《ほほえ》む彼女が少しだけ首をかしげる。それを見ながら神名は笑って続けた。
「――けど、こいつと一緒《いっしょ》にいられるなら……エカルの力は必要ないだろ」
「そう……じゃあ、もう一つ……」
「なんだ? ここまで来たらなんでも答えるぞ」
神名の態度にイリスは苦笑《くしょう》し、ナギを一度見てから真剣《しんけん》な顔で神名に視線《しせん》を戻した。
「あなたは彼女を人間に戻した……けれど、彼女はすでにこの世界からは受け入れてもらえない存在になっている……それを、あなたはわかっているのね?」
ナギは――千夏はすでに死んだ人間だ。
たとえ千夏の記憶《きおく》を持っていたとしても、もう小川千夏として生きることはできない。まして彼女の容姿《ようし》は別人になっている。
神名は少し考えて、素直《すなお》な気持ちを彼女に伝えた。
「……確《たし》かにナギを生き返らせたのは軽率《けいそつ》だったかもしれない……でも、こいつが世界から受け入れてもらえないなんてことはないよ。現にナギは、学校でもすでに自分の居場所《いばしょ》を作ってる……何より――俺はナギと一緒にいたいんだ……」
イリスは神名の気持ちを知り、今度はナギの方を向いた。
「……あなたも同じ気持ちなの?」
「はい。……初めは人に戻《もど》って戸惑《とまど》うことがあるかもしれないけれど……私も彼と一緒にいたいから……」
「そう……少し……安心したわ」
彼らの言葉にどこか納得《なっとく》した表情《ひょうじょう》を見せ、イリスはくるっと背を向けた。もう、それを神名は止めるつもりもない。
その彼女からふわりと白い翼《つばさ》が現《あらわ》れる。
「待って! 待ってください! イリス様!」
飛びたとうとするイリスをナギが呼《よ》び止めた。
「イリス様……神名くんはこれからどうなるんですか?……やっぱり、死ぬまで死神に狙《ねら》われ続けるんですか……?」
イリスは当然だと言わんばかりの視線で彼女を見る――そのはずだったが、ふと彼女は口元で笑った。そして惚《とぼ》けるように二人を見て、
「……さぁ、何のことかしら? 今、私の目の前にいるのは人でもソウル・イレギュラーでもない――二人で一人の死神だけど?」
「え?」
「……見逃《みのが》してくれる……っていうのか?」
イリスはそれに対して何も言わず、口元で微《かす》かに笑《え》みを浮《う》かべるだけだった。そのまま彼女はふわりと空に舞《ま》い上がる。
神名とナギはそれを追うように彼女を見上げた。
「ナギ……」
最後に、とイリスはナギの瞳《ひとみ》を見つめて言った。
「――あなたの進む道が、幸せな運命であることを祈《いの》っているわ」
すべての死神を束ねる死天使長は、最後に天使のような微笑《びしょう》を彼女に残し、月光の照らす、果てない空へと消えていった。
静かな公園に二人だけが残る。イリスが見えなくなって、唐突《とうとつ》に神名は呟《つぶや》いた。
「……生きていいんだよな、俺は……」
すべて終わった――その実感がなくて、神名の口からそんな言葉が出てしまっていた。
そんな神名の手を、ナギがそっと握《にぎ》る。
「神名くん、それを決めるのは誰《だれ》でもない、神名くん自身じゃないですか」
『そうだぞ、神名。いきなり弱気になってどうする』
「いや……そうか……俺らしくないな」
神名はナギの手を握り返して、死神の消えた月夜を見上げた。ナギはそんな彼の横顔に微笑みかける。
「そうですよ。神名くんはいつも通り――それでいいんだと思います」
「いつも通りか……」
そうだな、と神名はナギに微笑み返した。
蒼《あお》き月が公園の広場を照らしている。
二人はしっかりと手を握り締《し》め、夜がふけるまで、この幻想《げんそう》的な風景の中で佇《たたず》んでいた。
[#改ページ]
空が青い。
どこまでも広く、果てのない青。
雲の上ならどこまで行っても青い空が続いているんだよなぁとか考えながら、神名《じんな》は自分の家の玄関《げんかん》で空を見上げていた。
ホームルームの予鈴《よれい》まで後二十分しかないのに、自転車の用意だけはして、じっと待っている。待つのはあまり好きではなかったが、今はこうして彼女を待っていることが嫌《きら》いではない自分に気付く。
雲の動きが緩《ゆる》やかで、風も穏《おだ》やかだ……そう思っていると、タッタッタッと前の道をこちらに走ってくる音がした。それから五秒もせずに、肩《かた》で息をしながら彼女は走ってきた。
「ご、ごめんなさい神名くん! 寝坊《ねぼう》しました!」
「遅《おそ》――いっ! このままじゃ皆勤賞《かいきんしょう》が台無しだろうがっ!」
「うぅ……皆勤賞なら、いざというときに祐《ゆう》ちゃんがいるじゃないですか。頼《たの》めばサラさんも手を貸してくれますよ、きっと」
祐ちゃんとはもちろん祐司《ゆうじ》のことだ。千夏《ちなつ》だった頃《ころ》のナギは、彼のことをそう呼《よ》んでいた。もちろん学校では「小川《おがわ》くん」と呼んでいるが……。
「何を言っているんだ、お前は。それは本当の皆勤賞ではない!」
「……今更《いまさら》、まともなことを言ってもダメですよー。それに遅《おく》れそうだったなら少しは迎《むか》えに来てくれてもいいじゃないですかー」
イリスとの戦いから二日。
今のナギは神名の家ではなく、サラの家に居候《いそうろう》させてもらっている。
ナギのもっともな意見に神名はふっと空を見上げ、
「そう思ったんだがな……空が青くて……」
「何をわけのわからないことを言っているんですか。それより早く行かないと本当に遅刻《ちこく》ですよ?」
「そうだった! ほら、早く乗れ」
「あ、はい!」
ナギは前と同じように神名の自転車の荷台へ飛び乗った。
「行くぞ」
彼女が自分の肩《かた》を掴《つか》んだのを確認《かくにん》してから、神名は自転車をこぎ始めた。後ろにナギを乗せているにもかかわらず、スピードはぐんぐん上がっていく。この速度ならば学校へはギリギリ間に合いそうだ。
「あ、そういえば神名くん! 寝坊はしましたけど、お弁当《べんとう》はちゃんと作ってきましたからね!」
「お、でかした! お前のメシを食べると、他のは食べられなくなるからなぁ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
彼からの最高の褒《ほ》め言葉に、ナギは心底うれしそうに微笑《ほほえ》んだ。
だが、
『おそらく、それは中毒だろう』
どこからともなく声がして、<<それ>>はナギの右手から現《あらわ》れた。
「ベルちゃん、それは褒め言葉ですか?」
『何を言う。たとえ世界が貧困《ひんこん》で喘《あえ》ぎ、食べるものがなくなろうとも、お前の料理だけは絶対《ぜったい》に食わん!』
白い卵《たまご》のようなもの――<<ベル・フィナル>>は二人に向けてそう言った。
「ひ、ひどいです〜!」
「もともと何も食わないくせに……だがベル、お前にはまだあの味の良さがわからんようだな……嘆《なげ》かわしいぞ」
『一生わからんわ!』
相変わらず、ナギの料理のこととなると話は平行線だ。
神名とベルが言い争いながら、自転車は進む。朝から近所|迷惑《めいわく》なんてそっちのけだ。
いつか、こんな日常《にちじょう》が当たり前になるのだろうか――いや、もうすでに日常になってしまっていると思うと、ナギは不思議と笑いがこみ上げてきた。
「ふふ……」
「ん? なんだよ、ナギ」
「いえ、何でもありません……それにしても、あの神名くんがこんなに大きくなっていたなんて驚《おどろ》きです」
五|歳《さい》も年上だった千夏。だが、死んでしまった彼女の時は止まったままだった――あれから五年。人へと輪廻《りんね》を逆転《ぎゃくてん》した彼女の、十七歳だったときの歯車は再《ふたた》び動き始めた。それは偶然《ぐうぜん》にも、神名と変わらない歳《とし》。
「……いつの間にか、神名くんに追いつかれちゃいましたね」
後ろにいる彼女の顔は見えないが、神名にはナギが微笑んでいるのがわかった。
「そうだな……お前が千夏姉さんだったなんて……夢《ゆめ》にも思わなかったよ」
「ふふ……そういえば、神名くんは思い出してくれましたか? 約束のこと」
「約束?」
そこでふと、ナギの言葉を思い出した。彼女が死神を目指した理由は二つある。
一つは微《かす》かに残る記憶《きおく》の中で、自分に微笑んでくれていた人物を捜《さが》すため。そしてもう一つは、ある約束のため――。
「あの約束って……俺との約束なのか?」
「当然じゃないですか。ホワイトデーのときに、神名くんと約束したんですよ?」
「え……お金がなくて、マシュマロをプレゼントしたことは覚えてるんだが……」
神名は難《むずか》しい顔でなんとか記憶を探《さぐ》るが、なかなか当時の記憶が蘇《よみがえ》らない。
「……覚えてないんですか?」
「うっ……えーと、その……」
答えにつまる神名に「はぁ……」と溜息《ためいき》をつくナギ。だが仕方ないかもしれない。あの約束は彼が小学生だった頃《ころ》の話だ。
神名はホワイトデーの日、自分にこう言った。
「僕《ぼく》が大きくなったら、お姉ちゃんの恋人《こいびと》になるんだ!」
瞳《ひとみ》を閉《と》じると蘇った記憶が鮮明《せんめい》に思い出せる。その想《おも》い出《で》は色あせておらず、彼の言葉はとても嬉《うれ》しかった。
「私を恋人にしてくれるんだ?」
「うん! 約束!」
そう言って、神名は優《やさ》しく自分の手を取った。
目をゆっくり開けると、自転車をこぐ神名はまだ頭を抱《かか》えている。
「早く思い出してくださいね? じゃないと私、困《こま》ります」
「え? あ、ああ……努力する」
その態度《たいど》が可笑《おか》しくて、ナギはクスクスと笑った。彼には早く思い出せと言ったが、これからの自分たちにはいくらでも時間がある。
「そういえば……ベルちゃんはこれで良かったんですか?」
ベルの主である自分は、神名の力によって死神から人へと変わってしまった。死神ではなくなったナギの側にいても、天界最強の鎌《かま》としての<<ベル・フィナル>>は存在《そんざい》する意味がない。
するとベルは諦《あきら》めたような――だが、どこか楽しそうなようすでこう言った。
『――良かったも何も、ナギが死なないかぎり、私の主はナギただ一人なんだぞ? それにたとえ私だけ天界に戻《もど》っても、また封印《ふういん》されるだけだろうしな……お前が生きている間は、私もゆっくり地上で楽しませてもらうよ』
「そうですか……」
神名はナギからベルを受け取り、自転車の前に付いているカゴに入れてやった。すると今度はベルが神名に質問《しつもん》する。
『ところで神名。<<エカルラート>>はどうした? 我《わ》が半身をずっと空間にしまい込んだりしていないだろうな?』
「心配するな。ずっと外に出したままだぞ。今はサボテンと一緒《いっしょ》に半分土の中だ」
『な、なんだ、その扱《あつか》いようは!?』
「いやー、エカルの不思議な力でぐんぐんサボテンが育つんだよ。次は漬物《つけもの》石にでもしてみようかと思っているところだ」
『こらーっ!』
まぁ、こんな調子だが、おそらくベルとエカルは心配ないだろう。
<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>のこともそうだが、ナギにはもう一人、気になっている人がいた。
「イリス様は……どうしているでしょう?」
「……そうだな――」
いくら彼女がすべての死神を束ねる者とはいえ、神名の――ソウル・イレギュラーの存在を黙認《もくにん》したとなると、彼女の立場はかなり悪くなるだろう。そうなることを選んだのは彼女だが、そうなると余計《よけい》に気になる。
「まぁ……あいつのことだから、どうにかするだろ……」
○
白いオフィスでイリスは二|枚《まい》の報告書《ほうこくしょ》と格闘《かくとう》していた。
一枚はナギと地上へ落ちた<<ベル・フィナル>>、<<エカルラート>>の件《けん》。
二枚目は天倉《あまくら》神名についての報告書だ。
担当《たんとう》していたナギがいなくなり、イリスとしては報告書を書かないわけにはいかないのだが……。
「ナギは天倉神名の力によって輪廻《りんね》を逆《ぎゃく》向きに進み、人へと戻《もど》った……」
これは前代|未聞《みもん》の大問題である。前例もなく、今のところ他者の輪廻への影響《えいきょう》は出ていないが、いつ問題になるともわからない。
「……そもそも、不完全な状態《じょうたい》である<<ヴァールリーベ>>……しかも<<エカルラート>>単体で彼女の輪廻を逆転させるなんて……」
正直なところ、神名がナギにしたことは不可能《ふかのう》に近い。原因《げんいん》は今も不明のままだ。少なくとも<<ヴァールリーベ>>が完全な形であるか、所持者が巨大《きょだい》な力を保持《ほじ》していないかぎりは実現《じつげん》不可能だ。
「まさに謎《なぞ》ね……」
さて、どうしたものかと頭を悩《なや》ませていると、机《つくえ》の端《はし》に新しい報告書が置かれていることに気が付いた。
「?」
どうやら知らぬ間に提出《ていしゅつ》されたもののようだった。
それをイリスは手に取り、パラパラとめくってみる。内容は数日前に地上へ降《お》りていたフルールの件についてだった。天界最強と言われた<<ヴァールリーベ>>を手にしようとしていた、今回の一件の張本人《ちょうほんにん》だ。彼は神名とナギに敗《やぶ》れ、最終的にイリスの手により次の輪廻へ送られた。その報告書はナギに作らせたのだが、その内容について管理局から追加の報告書が回ってきていた。
「……『報告書によると、フルールはかつての死天使長、ディスの生まれ変わりであると主張《しゅちょう》していたようだが……こちらの管理局で確認《かくにん》したところ、そのような事実は確認されず』……?」
すっとイリスは眉《まゆ》をひそめたが、すぐに納得《なっとく》した表情《ひょうじょう》になり、その報告書を置いた。
「当然でしょうね……あの程度《ていど》の力で彼の転生体であるはずがない……」
フルールは確《たし》かには強敵《きょうてき》だったが、それはナギや神名からしてみればの話だ。フルールが本当にディスの生まれ変わりだったなら、彼の魂が持つ力は想像《そうぞう》を絶《ぜっ》するものになっていたに違《ちが》いない……。
だが、今はそれよりもナギと神名の報告書だ。
イリスは改めて書きかけの報告書に目を落とし――その場でハッとなった。
「――天倉神名はナギを人へと変えた……それには完全な力を発現《はつげん》できる<<ヴァールリーベ>>か、もしくは巨大な力が必要のはず……」
あのときの<<ヴァールリーベ>>の状態は明らかに不完全だった。それどころか二本で一|対《つい》のはずが<<エカルラート>>単体だったのだ。
そうなると、直接《ちょくせつ》の原因は神名自身ということになる。彼がそれだけの力を持っていたと……そういうことになる。
「……フルールはディスの生まれ変わりではなかった……けれど、ディスの転生体はこの世界のどこかに存在《そんざい》しているはず……」
その転生した姿《すがた》が……仮《かり》に天倉神名だったとしたら? 地上へ落ちた<<エカルラート>>が、輪廻から外れようとしていた神名を元の輪廻に戻《もど》そうとして彼に激突《げきとつ》したのではなく――偶然《ぐうぜん》に再会《さいかい》した、元の主のもとへ帰ろうとしていたのだとしたら?
神名は自分の知らない、魂に記憶《きおく》されたかつての知識《ちしき》と力を使い、<<エカルラート>>の力を完全に引き出す。ディスの魂に宿る力を使えば、たとえ鎌《かま》は不完全でも限界《げんかい》以上の力を引き出すことが可能《かのう》だろう――それこそ、ナギを人間に戻すような――。
「いえ……ふふ、考えすぎね……」
イリスは自分の考えを振り払った。今となってはどうでもいいことだろう。
報告書をもう一度|眺《なが》めてから、イリスはすらすらと報告を書き終えた。
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死神・ナギは最後の任務《にんむ》に失敗。よって死天使長・イリスの権限《けんげん》において、強制《きょうせい》的に次の輪廻へ送られた。同時に主を失った<<ベル・フィナル>>を回収《かいしゅう》。再び封印《ふういん》指定とし、厳重《げんじゅう》に封印す。また、<<ベル・フィナル>>の封印場所は最重要|機密《きみつ》とする。
天倉神名は死天使長・イリスによって正常《せいじょう》な輪廻へと送られた。同時に主を失った<<エカルラート>>は<<ベル・フィナル>>と同様に再度、封印指定とし、厳重に封印す。<<エカルラート>>の封印場所は<<ベル・フィナル>>と同じく最重要機密とする。
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「……偽装《ぎそう》工作も楽じゃないわね」
イリスは苦笑《くしょう》しながら、最後に報告書の右下に自分のサインを入れ、世間的には真実の報告書は完成した。その報告書はそのまま自分の机《つくえ》の引き出しにポイッとしまう。
最近、仕事が山積みだったので机の上はファイルやら他の報告書やらでいっぱいだ。イリスはそれを片付《かたづ》けようと適当《てきとう》な量を持ち上げ――ひらり、と出て来た紙切れに目を落とした。
手のひらほどの一|枚《まい》の紙。紙の右上にはこう書かれていた。
<<リュヌ・パルテール>>
給与《きゅうよ》明細書 天倉神名 様
「あ、忘《わす》れていたわ」
そう言ってイリスはその紙を掴《つか》み、
「証拠《しょうこ》隠滅《いんめつ》っと」
――シュレッダーにかけた。
○
「あ! そういえば昨日、そのイリス様から手紙が来たぞ!」
神名は唐突《とうとつ》に思い出して、後ろにいるナギに話し掛《か》けた。
「神名くん!? 自転車をこぎながら後ろを向くのは危《あぶ》ないですよ!?」
立つのは止《や》めて両足を揃《そろ》えて後ろに座《すわ》っていたナギが、慌《あわ》てて神名の首を前にやる。
「まぁ、聞けって! 俺《おれ》がお前に初めて会った日のこと覚えているか?」
「え? は、はい……」
もちろんだ。彼と初めて会った夜のことを、ナギは忘れることはないだろう。なんと言っても初めて見たときに彼は今にも死にそうだったのだから。空から落ちてきた<<エカルラート>>と激突し、瀕死《ひんし》の状態だった神名……確《たしか》か、給料をもらって上機嫌《じょうきげん》で帰宅《きたく》している途中《とちゅう》だったとか……。
「あの日、エカルに激突した拍子《ひょうし》に給料が入った袋《ふくろ》をなくしたって言ったろ? あのときになくした給料の額《がく》、そっくりそのままイリス様が送ってきてくれたのだ!」
「ええっ!? そうなんですか!?」
『ほう、あいつにしては珍《めずら》しく粋《いき》な計らいだな!』
「だろう!? ほら、見てみろ!」
神名は右手《みぎて》で運転しながら、左手で封筒《ふうとう》をナギによこした。ナギは中身を見ながら一緒《いっしょ》に入っていた紙を取り出した。
「すごい、本当ですね! ええっと……『ささやかだけれど、生活の足しになさい』って書いてあります!」
「うむ。俺はそれを見て正直、感動しそうだったぞ! イリス様、いい人じゃないか!」
よほど嬉《うれ》しかったのだろう、神名はイリスを様付けで呼《よ》んでいた。
ナギは頷《うなず》きながら、入っていた紙の続きに目をやる。そこにはこう綴《つづ》られていた。
――それから、ナギのことをよろしくお願いするわ――
紙に書かれた言葉はそこで終わっていた。
「……イリス様……」
「捨《す》てたもんじゃないな、お前の上司も」
「……はい」
ナギは嬉しくて、思わず涙《なみだ》をこぼした。人になった自分はもうイリスとは何の関係もなくなってしまった……けれど、彼女はこうして今も自分のことを気にかけてくれているのだと思うと、感謝《かんしゃ》してもしきれなかった……。
涙を拭《ふ》き、封筒に手紙を入れ直す。この手紙は死ぬまで持っていようと胸《むね》に誓《ちか》う。
「……あれ?」
そこで手紙を封筒に入れようとしたナギの手が、ふと止まる。
「ん? どうした?」
「あの……もう一枚、手紙が入ってましたよ?」
「何? それは気付かなかったな……なんて書いてあるんだ?」
「ええっとですね――」
ガサガサと取り出し、その手紙をナギは広げた。
手紙にしては少し大きいその紙を見て――ナギは顔面|蒼白《そうはく》になった。
「……ご、極秘《ごくひ》……指令書っ?」
「は?」
「――ち、『地上で極秘任務中である天倉神名とナギ、両名に新たな命令を伝える。ソウル・イレギュラーを生じさせる可能性《かのうせい》のある現象《げんしょう》が予測《よそく》されたため、両、死神はただちにこれらの原因《げんいん》をつきとめ、阻止《そし》することを命ず。詳《くわ》しいことはまた連絡《れんらく》するから、よろしくね』……?」
ナギはもう一度初めから読み直してみたが、やはりそこには同じことが書いてあった。
一同はしばらく沈黙《ちんもく》してから、
「な、なんだ、そりゃ!?」
『なぁ、お前らって極秘任務中だったのか?』
「知るか!」
「つ、『追伸《ついしん》――任務失敗、または任務|放棄《ほうき》の傾向《けいこう》が見られた場合、即座《そくざ》に両名をチョコレート・パフェにします。以上』……」
「…………」
『…………』
神名は無言で後ろのナギからすっと指令書を奪《うば》い取り――それを手放し運転をしながらクシャクシャに丸め、これでもかというくらい地面に投げ捨《す》てた。
「ああっ!? 指令書が!?」
指令書は地面の上を何度か跳《は》ねながら遠ざかっていく。
「いらん! あんなものは見なかったことにする!」
『い、いきなり任務放棄の傾向が!?』
「チョ、チョコ・パフェにされますよ!?」
「俺はチョコレート・パフェなんて大嫌《だいきら》いだ!」
「そんな問題じゃないんですよ!」
「くそ――っ! どこがいい人だ!? あの死神め――っ!」
神名は届《とど》かない彼女に向かって叫《さけ》ぶ。
ナギはイリスが最後に言った言葉を思い浮《う》かべた。
――あなたの進む道が、幸せであることを祈《いの》っているわ――
確か、彼女はそう言った。
『……どこが「幸せを祈っているわ」だ……』
「やっぱり、鬼《おに》でした……」
ナギは「はぁ……」と溜息《ためいき》をつく。だが、すぐに前を向いて笑う。
この先には様々な困難《こんなん》が待ち構えているだろう――それでもやはり、自分は生きていくだろう。
今は進むべき道などわからないが、自分の信じる道を行くことはできる。
二人は何気なく空を見上げた。
そこには空があって風がある。大きな雲が神名たちと同じスピードで進んでいた。あんなふうに――自分で見つけた、生きる意味を支《ささ》えにして、今日も明日へ進む。
その視界《しかい》の先に小さな白い影《かげ》が見えた。この世界にあって、この世界のものではない白い羽。
「――どうするんですか?」
ナギがふわりと笑う。
「決まってるだろ――」
神名がニヤリと笑う。
「――どうもしない。いつも通りだ」
二人は今までと変わらない日常《にちじょう》――いや、一週間前に変わった運命を、『生きていく』という日常を生きていく。誰《だれ》にでも運命を変える力はあるはずだから。
見上げた先は深く、そして澄《す》んだ青。
空に舞《ま》う白い羽を掴《つか》むように、二人で一人の死神となった少年と少女は、今を――そして明日を生きていく。
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初めまして、花鳳《かおう》神也《じんや》と申《もう》します。まずはこの本を手に取っていただき、ありがとうございます。
本作は幸運にも、第十八回富士見ファンタジア長編小説大賞で準入選をいただきました。
最終選考に選ばれたという情報がまだ手元になく、親友の一人であるW君と「これで先輩《せんぱい》たち(大学で大変お世話になった)を撃《う》ち殺すんだ!」とサバイバルゲームの準備《じゅんび》に追われていた矢先《やさき》、「準入選に選ばれました」とのお電話をいただき、このときは天にも昇《のぼ》るような気持ちで、W君と一緒《いっしょ》に歓喜《かんき》いたしました。
彼が帰った後、ひとまず落ち着こうとしたのですが、あまりに衝撃的《しょうげきてき》なできごとに脳《のう》と心臓《しんぞう》が臨界点《りんかいてん》を突破《とっぱ》しそうになり、「ダメだ、嬉《うれ》しすぎて死ぬ! これは夢《ゆめ》なんだ!」と現実逃避《げんじつとうひ》して心を落ち着かせました……。それほどに衝撃的で、こうして数か月|経《た》った今でも信じられない気持ちでいっぱいです。
この作品は当初、シリアスが八割、笑いが二割という構想《こうそう》で書き始めたのですが、シリアスな話を書いていると急に笑えるお話が書きたくなるもので、世界観はそのままに比率を逆転させて生まれました。笑いのネタはふと思いついたものから、僕《ぼく》と愉快《ゆかい》な仲間たちの興味《きょうみ》本位《ほんい》から生まれたものまで多岐《たき》に亘《わた》ります。具《ぐ》や味噌《みそ》の種類によるかもしれませんが、合わせ味噌にドリアンをそのまま投下したものは食べられませんでした。W君|曰《いわ》く「ドリアンパンは食べられる」そうで……すいません。
キャラクターの設定も友人たちからの影響を強く受けたと言えます。特に神名《じんな》は親友のN君の雰囲気《ふんいき》をベースにしたり、と……幸《さいわ》い、多くの個性的な人種に囲《かこ》まれているので大変、助かっております(笑)。
それではお礼を言わなくてはならない方々《かたがた》に謝辞《しゃじ》を。
担当様、そして編集部の皆様へ。初めて編集部へお邪魔《じゃま》させていただいた際、とても親切《しんせつ》にしていただき、ありがとうございました。また、自分でも驚《おどろ》いたのですが、誤字《ごじ》脱字《だつじ》が多く、大変ご迷惑《めいわく》をおかけしました……以後、十分に気をつけ、精進《しょうじん》したいと思っております。
この度《たび》、光栄《こうえい》なる賞を僕に与《あた》えてくださった審査《しんさ》委員《いいん》の先生方、本当にありがとうございます。この道に進むことを夢見ていた僕にとって、感謝という言葉だけでは語《かた》り尽《つ》くせません。
可愛《かわい》らしく、また魅力《みりょく》あるイラストで神名たちに命を吹《ふ》き込《こ》んでくださった夜野《やの》みるら様、キャララフを担当様からいただいたときは嬉しさのあまり、一日中、ニヤニヤしながら見つめておりました。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
そして僕のことを応援してくれた家族と友人の皆様に感謝を。特にA君へ。忙《いそが》しい最中《さなか》に貴重《きちょう》なご意見を多くいただき、土下座《どげざ》してしまうほど感謝しております。親友たちにはこれからもご迷惑をおかけすると思いますが、「あぁ、またか……」という感じで諦《あきら》めてください。
そして最後に、本作を読んでくださった皆様へ。いかがでしたでしょうか? まだまだ未熟《みじゅく》ながら、がんばっていきたいと思っておりますので、なにとぞ今後ともよろしくお願いします。また、すぐにお会いできることを願っております。
[#地から2字上げ]二〇〇六年七月 花鳳 神也
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[#地から2字上げ]富士見ファンタジア文庫編集部
第十八回ファンタジア長編小説大賞の準入選作『死神とチョコレート・パフェ』をお届《とど》けします。子の作品の良さは、読んでいて自然《しぜん》にあふれる微笑《ほほえ》みと読後感の爽《さわ》やかさ。それを醸《かも》し出すのは、登場人物である天倉神名《あまくらじんな》と死神《しにがみ》・ナギのキャラクター性だと言えます。二人はお互《たが》いの立場は違えど、自分の存在《そんざい》が危機《きき》に瀕《ひん》しています。そんな切羽詰《せっぱつ》まった状況であるにもかかわらず、どこか二人はズレていて、緊張感《きんちょうかん》に欠《か》けているように感じるかもしれません。それが面白《おもしろ》さを生《う》み出しているのです。
この作品は、緊張と弛緩《しかん》が、キャラクターたちのやりとりによって絶妙《ぜつみょう》なバランスで成《な》り立っている作品。もちろんそれは著者《ちょしゃ》の持ち味である登場人物たちを生《い》き生きと描《えが》き出す力によるところが大きいのです。そうした描写力+読み終えた後の満足《まんぞく》感によって、今回この作品は準入選となりました! 改稿《かいこう》にあたっては、作品中のキャラクター性を損なうことのないように注意しました。そこが肝《きも》なので当然といえば当然なのですが……。みなさんには、ぜひストレートな面白さを味わっていただきたいと思います。
こうして『死神とチョコレート・パフェ』は生を受けました。著者」の花凰神也《かおうじんや》は、天倉神名やナギをもっともっと描きたくてうずうずしています。この作品を読んでこれから神名とナギの関係がどう成長していくのか興味《きょうみ》を持ったら、ぜひファン・レターを送ってください! それが、花凰神也の描くエネルギーに繋《つな》がり、この作品を応援していただくみなさんへのご恩返しにもなっていくと著者&担当は信じています!!
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