鮎川哲也
朱の絶筆
目 次
第一部
Aの1〜Aの5
Bの1〜Bの2
Cの1
Dの1〜Dの2
Eの1〜Eの3
Fの1
Gの1〜Gの2
第二部
一 鏡は横に……
二 第一の殺人
三 動機の問題
四 カーテンの紐
五 オルゴール
六 第二の殺人
七 深夜の珈琲
八 髭づらの男たち
九 第四の殺人
十 無目的殺人
(読者諸氏への挑戦)
十一 真 相
第一部
Aの1
通いなれた道であった。結婚して世帯を持ってから七年間、夕食の買い物に商店街へ行くときも、雨の日に夫を駅へ迎えに行くときも、一人っ子の明彦《あきひこ》を幼稚園へ連れて行くときも、この道を通らなくてはならなかった。そこは彼女にとって生活の一部であり、あるいは肉体の一部であるといっても言い過ぎではない。だのに、ある日その道と訣別《けつべつ》して以来(そうだ、夫の家を出て行くときも、この道を通ったのだ。身の廻りの品を詰めたスーツケース一個をさげて……)、二度と足を踏み入れることがなかった。しかしそれも当然のことだろう。夫と子供を捨てたからには、夫の手前、そして世間の手前、戻れるものでもない。というよりも、彼女のほうからふたたびこの道を歩くまいと固く決心していた。それほど、あの男に参っていたのである。
彼女の夫の泰彦《やすひこ》は、近くの高校の美術の教師をつとめていた。美術大学で油絵を学んだというがずばぬけた才能はないらしく、夏休みに制作した作品が秋の美術展覧会の選をパスしたためしはない。だが泰彦は落選しても懲《こ》りもせずに、また翌年の夏休みになるとキャンバスに向かうのであった。
そうした夫の態度を、はじめのうちは不屈な精神の持主であると考えて、尊敬の眼で見ていた。が、それが三回四回とくり返されてくると、次第《しだい》に軽蔑の眼差《まなざ》しでながめるように変わってきた。元来が勝気の彼女は、何事にせよ相手を批判的に見る習慣が身についていたのだが、それは夫に対しても例外ではなかった。というよりも、四六時中鼻をつき合わせている夫であるだけに、その一挙手一投足が批判の対象になるのだ。そしていったん侮蔑《ぶべつ》の眼で見るようになったが最後、夫のすることは何から何までが気にくわなかった。この美術の教師はマイホーム主義の、そうした人間に共通した温厚で誠実な性格の持主であったのだが、彼女にしてみると、温厚|篤実《とくじつ》といった長所が、愚図《ぐず》でのろまな短所のように思えてくる。マイホーム主義はこのうえなく結構なことであるにもかかわらず、キャバレー遊び一つできない臆病者であり、甲斐性《かいしよう》のない男のように見えてくるのであった。
夫は、職場である学校でもおとなしかった。生徒を叱《しか》ったことがないというし、職員会議の席上でも自己を主張するようなラジカルな発言はしたことがないという噂だった。その話をしてくれたのは同僚の数学教師の夫人で、讃美の意味をこめて「おとなしい先生ですことねえ」といったのだけれど、彼女にはそれが皮肉に聞こえた。そうしたことも、夫を疎《うと》ましく思う原因の一つであった。
夫婦のあいだに子供は一人しか生まれなかった。だがこの息子の明彦が父親にそっくりの消極的な性格を持っていた。いつだったかデパートの屋上に連れて行ってやると、喜んで滑《すべ》り台のところまで走って行ったものの、そこにいた同年輩の女の児《こ》にひと睨《にら》みされただけで、べそをかいて駆け戻って来たことがある。そうした明彦を見るにつけ、負けず嫌いの彼女は、意気地《いくじ》なしの息子が腹立たしくてならなかった。目の大きなところが夫にそっくりであり、それはむしろ長所だとも考えてよいはずであるのに、この母親はほそい眉《まゆ》をひそめた。彼女にとっては、何であれ夫と似ていることが気にくわなかったのである。
彼女が夫を軽んじる理由の一つに、自分では気づいているかどうかは判《わか》らないが、収入が夫よりも多いということがあった。本来ならば内助の功として美談になるところであるのに、美談となり得なかったのは、彼女がそれを鼻にかけて家庭内で我儘《わがまま》一杯に振る舞ったからだった。彼女はアラビアンナイトのなかの驕慢《きようまん》な女王のようであり、そしてその夫は女王にかしずく黒人の奴隷のようであった。泰彦はタバコを吸わない。だが、家庭内では灰皿の掃除をするのがこの夫の役目であった。細君が、細巻タバコを日に三十本もふかすからだ。おとなしい夫は、自宅においてさえ、自己を主張するようなことはなかったのである。
彼女には、その頃からすでに蒸発の下地は出来上がっていた。夫を捨てることにも子供を捨てることにも、何の未練もない。誰かすてきな男性から誘いがかかれば、その夜のうちにでも家を出るつもりでいた。実際にその機会がめぐってきたのは、それからさらに一年と一ヵ月のちのことであったけれども――。
Aの2
彼女がその男とはじめて口をきき合ったのは、まるで安物の三文《さんもん》小説の設定に似て、新幹線の座席に隣り合って腰をかけたときだった。厳密な意味からすればどちらもそのときが初対面ではなく、いままでにも遠くで顔を合わせる機会は何度かあったが、口をきくまでには至らなかったのである。
「なんだ、あなたか」
そのときの男の第一声を、彼女はいまでもはっきりと覚えている。古い表現を用いれば、彼女はいまこの男から弊履《へいり》のごとく捨てられそうな立場にあるのだが、それでいながら最初の会話を忘れ得ないのは、やはり未練があるからだろうか。それとも、それが女の性《さが》というものなのであろうか。
当時この男は三十|半《なか》ばになるかならないかの齢頃《としごろ》であった。髪に脂気《あぶらけ》がなく、一見したところでは服飾に無頓着《むとんじやく》のように思えるが、よく見るとじつに金のかかったいいセンスの持主であることが判る。そのがっしりとした体格にしても、色の浅黒い精力的な風貌にしても、見るからに活動的であり精力的であり、覇気《はき》のない夫とは比べものにならない。彼女は、そこに強烈な男性を感じた。これがほんとうの男というものなのだ、と思った。
上り列車が京都を過ぎる頃から、二人はかなり打ち解けた気持ちになって、まだ幾分《いくぶん》は他人行儀であるにせよ、共通した知人を題材にしてはずんだ会話を交わしていた。他人から見れば夫婦だと思われるかもしれないな。そう考えると、満更《まんざら》でもない気持ちになる。そして、こういう男性を夫に持てたら女|冥利《みようり》につきるのではないだろうか、と思ってみる。相手の男がまだ独身でいることを、最近の週刊誌か何かで読んだ記憶があったからである。
名古屋《なごや》あたりで手を触れ合った。そして静岡を通過したときには、熱海《あたみ》で途中下車の約束をするまでに親しくなっていた。ちょっと見にはタフな男だが、外観に似ず女性には親切で、そのうえ優しかった。彼女が細巻のタバコを唇にはさむと、間髪《かんはつ》をいれずライターをカチリと鳴らして、鼻の先にロンスンの赤い炎をさしだしてくれるといった按配《あんばい》である。万事に気のきかない泰彦とは段違いだった。夫ときたら、彼女がタバコをくわえて一年間つっ立っていても、火をつけてくれようとはしない。その知恵が湧かないのである。
熱海ではひと風呂浴びてとびきり旨《うま》い夕食を食べると、ふたたびこだま≠ノ乗って帰京するという約束であったが、体があたたまりアルコールが全身にまわってくると、夫と子供のことがひどく疎ましいものに思われてきた。どうにでもなれという心境で、誘われるままに一泊した。
彼女が世田谷《せたがや》区|三軒茶屋《さんげんぢやや》の夫の家を出たのは、それから三ヵ月のちのことになる。今後の住居は田端《たばた》にあるので、方角はまるで違っていた。夫と顔を合わせることもまずないといってよい。加えてあと一、二年もすれば田端のマンションを出て近県に家を建てる計画になっている。すでに土地は購入してあった。そうなれば東京とも訣別するわけであり、泰彦とのあいだの距離はいよいよ大きくなる。それまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせた。彼女は、電車のなかか路上でひょっこり夫と顔を合わせ、夫に強引に連れ帰られることを何よりも心配していたのである。いや、あの勇気に欠けた泰彦のことだから腕ずくで引きずっていくということはあり得ないが、こっそりと尾行して、田端のマンションを突き止めるかもしれなかった。家出した当初、彼女はそう考えて用心深く過ごした。仕事のとき以外は、つとめて外出することを避けていた。
二度ほど、新聞で妻に呼びかける広告を見かけたことがある。そのときの彼女は情にほだされてホロリとなるようなことはせず、逆に、未練たらしく広告を出した夫を軽蔑した。と同時に、ある種の優越感をくすぐられて、むしろ上機嫌でフランス語のシャンソンを唄っていた。
半年ほど過ぎてから、書留便で、籍を抜いてくれるようにいってやった。六ヵ月もたてば、泰彦も諦《あきら》めて、請求されたとおり手続をとってくれるものと計算していたのである。しかし、いまもなお思い切れずに恋々としているようだったら、頭から一喝《いつかつ》してやるつもりだった。この夫には、命令形で怒鳴りつけることが何よりも効果的であることを、七年間に及ぶ結婚生活で完全に呑み込んでいたからである。
泰彦からの返事は一週間ほどで届いた。夫がどんな女々《めめ》しいことを書いてくるであろうかと思いながら封を開けてみると、案に相違して、あっさりと離婚をみとめてくれたばかりでなく、淡々とした筆致で、妻であった女の多幸を祈る旨《むね》が書き添えられていた。文面を読んだかぎりではもうすっかり冷静さを取り戻したようであり、予想されたような未練たらしい態度はどこにも見られなかった。彼女は拍子《ひようし》抜けのした思いでしばらく呆然とつっ立っていた。
Aの3
彼女が自分の誤算に気づいたのは、あたらしい夫の篠崎豪輔《しのざきごうすけ》が入籍を拒《こば》んだときのことである。いままで豪輔の前で籍の問題が話に出たことはなく、それは彼女のほうがつとめて触れることを避けていたからだった。前夫とのあいだにある程度の冷却期間をおくことがぜひとも必要であり、そのため籍を抜くわけにはいかなかったのだが、彼女はそれをつねに負い目に感じていたのである。だから、泰彦が彼女の申し入れをあっさりと聞き入れてくれたことは、豪輔にとってもグッドニュースであるに違いない。彼女は頭からそう決め込んで、外出から帰宅した豪輔がまだ服も脱がないうちに、はずんだ声で報告した。
意外にも豪輔の反応は冷淡だった。
「よせよせ、つまらん」
「あら、なにをおっしゃるのよ」
「そんな形式的なことは止めろといっているんだ。おれときみとは結婚式もあげなかったが、それでいいと思っている。問題は夫婦間の愛にある。どれほど豪華な式をあげても、別れるやつはすぐに別れるものだ」
早口でまくしたてた。顔が怒ったように赤くなっている。その怒った顔の背後に、チラと狼狽《ろうばい》の色が走ったように思えた。もしかすると、と彼女は考える。豪輔は自分の目をぬすんで浮気をしているのではあるまいか。
豪輔は自由業である。もう少しくわしくいえば作家であり、もっと正確にいうならば以前は放送作家であったが、現在はマスコミで華々《はなばな》しく活躍している小説家であった。放送作家時代のことはよく知らないけれど、ホームドラマの作家として売れっ児であり、それにつれて収入もかなりなものだったという。
しかし、放送作家の悲哀は苦心して書いた作品がオンエアされると、それきり永遠に消えてしまい、後には何も残らないことにある。つねづね豪輔はそれを虚《むな》しく感じていた。残るものを書きたいと思っていた。たとい読み捨てになってもいいから、少なくとも紙に印刷されるような作品を書いてみたい、そう念じていたのである。その思いは、台本作家としての名声が喧伝《けんでん》されるのと比例して、いよいよ大きくふくれ上がっていった。
彼が、とある中間誌で推理小説募集の記事を目にしたのは、その頃のことである。「優秀なる新人|出《い》でよ!」という呼びかけを、豪輔は福音《ふくいん》のごとくに聞いた。このチャンスに賭けよう! 失敗しても元々だ。成功したら推理小説を踏み台にして、さらに高く飛躍するのだ!
多くの台本作家は文章がアラいと評されているのだが、豪輔は例外であった。しかも筆が早く描写が的確で、ヴォキャブラリイが豊富だった。つまり、生まれながらにして小説家の才能を身にそなえていたことになる。
応募作品が入選して活字となったのがそれから半年後のことであり、それからさらに半年たった時分には、豪輔は押しもおされもせぬ流行作家になっていた。出発は推理小説であったけれど、せまい枠《わく》に入れられることを嫌ってあらゆるジャンルの創作をこころみ、それはすべてひろい読者層に受け容《い》れられた。多忙になるにつれてたまには愚作を書くこともあるが、読者は寛大であり、どれほど凡作であってもそれが豪輔の名で発表されれば、少し大袈裟《おおげさ》な表現をすると、彼らは随喜《ずいき》の涙をこぼして読むのである。
一緒に生活するようになってから知ったことだが、豪輔は月の半分をホテルで暮らしていた。締切りが迫ると編集者が彼を拉致《らち》してホテルに缶詰《かんづめ》にするからである。ときには、自宅で仕事をするとつい世間話などに興《きよう》じてしまい能率が下がるといって、自分からホテルにこもることもあった。浮気をする機会はいくらでもある。
同棲してみて判ったことだけれども、豪輔は相手が女性であれば老若美醜《ろうにやくびしゆう》を問わず、つねに親切であり優しかった。それを、自分だけが対象であると思い込んでいたところに、彼女の大きな誤算があった。マンションに来て四週間も過ぎた頃から彼女は自分の思い違いに気づいて、ときどきふっと嫌な予感におびえることがないでもなく、そのためにも早く入籍して正式の夫婦になりたいと念じていた。
彼女は一喝されたからといって引き下がるような意気地のない女性ではない。おりを見てもう一度その件を持ち出そうと考えているうちに、また機会がめぐってきた。前回から数えて六日目のことで、その夜の豪輔は出版社の招待でかなり酔い、いい機嫌で帰宅した。もう夜中の二時を過ぎており、送って来た編集長と出版部長とは気をきかせて扉口で挨拶をすると、そのまま帰って行ったのである。
豪輔は酔うと機嫌がよくなるたちで、その夜も目尻を下げて恵比須三郎《えびすさぶろう》のような顔をしていた。手伝って服を脱がせ、シャワーを浴びさせた後、居間のソファにすわったところでおもむろに例のことを切り出した。豪輔が上機嫌だったのは、その直前までであった。一瞬、形相《ぎようそう》が変わった。
「形式主義は嫌いだとあれほどいったのが判《わか》らないのか!」
「でも、これは形式じゃないのよ。結婚式はしないならしないでいいけど、お籍は入れないわけにはいかないわ」
「問題は愛情だといったはずだ」
「でも――」
「何がでもだ。いっておくが、おれは一人の女に束縛されるのが嫌いなんだ。女ばかりじゃない、あらゆるものに束縛されるのが大嫌いなんだ。いいか、覚えておけ。きみが泣いて頼んだところでおれの気持ちは変わらない。おれが好きなのは自由だ。自由に発言し、自由に振る舞い、自由に行動する、これがおれの生き甲斐だ。その自由にブレーキをかけるものがあれば、おれは断乎として闘う」
「あなた酔っていらっしゃるのよ」
「何を基準にして酔っているというのかね。おれはワインの二本ぐらいで酔っぱらいはしない。たとい酔っているにせよ、その程度のアルコールで頭の回転がにぶるような、そんなお粗末な脳じゃないんだ。もう一度宣言するが、自由を侵《おか》すものとは断乎として闘う。相手がファシストであろうが女房であろうが、変わりはない!」
「でも――」
「黙れ」
「黙りません」
途端に彼女の頬がピシャンと派手な音をたてて鳴り、それをきっかけに同棲してはじめての喧嘩となった。壁が厚いからプライバシーを侵される心配がないというのがこのマンションの客寄せの文句なのだが、それでも夜中によその部屋のトイレの水音がはっきりと聞こえてくることがある。それを考えて、二人とも声の大きくならぬように、セーブした声で言い合った。
一時間ほどやり合って疲れてしまい、どちらからともなく一時休戦となってべつべつのベッドに入った。が、それで平和が戻ったわけではない。翌日、ホテルに仕事に行くといって出た豪輔は、それきり一週間たっても帰って来なかったからである。いってみれば二人は持久戦に入ったも同様であった。そして八日目にホテルに電話をかけると、豪輔はその朝チェックアウトしており、行き先は知れなかった。ようやく彼女は、重大な局面を迎えたことに気づいたのである。
流行作家の豪輔のことだから、その所在は、出版社に訊《たず》ねればすぐに判るはずであった。しかし、妻たるものが夫の居場所を知らないというのはいかにも間のぬけた話であり、家庭内の恥をさらけ出すことにもなりかねないと思って、彼女のほうから行動に出ることは避け、ひたすら豪輔からの連絡を待っていた。
待ちかねていた電話は、九日目になってかかってきた。勝気な彼女にとってみれば、自分が悪くないのに謝《あやま》るということはできなかったが、夫婦の危機をのりきるためには、忍び難《がた》きを忍ぶことも必要であった。
そう考えて謝りかけると、豪輔は中途でそれをさえぎった。
「謝る必要はないさ、世間的な常識からいえばきみが正しいのだから」
「…………」
「だが、この前もいったようにおれは物事に縛りつけられるのは嫌なんだ。だから、当分のあいだは別居しようと思う。そのためにマンションを買った。場所は麹町《こうじまち》だ。用があれば、またこちらから電話をする」
「女ね? 女がいるのね?」
「馬鹿、邪推をするな。いやしくも篠崎豪輔夫人ともあろうものが夫婦喧嘩をしたぐらいで騒ぎ立ててはみっともない。そのうちに気が向いたらまた帰って行くよ」
一方的に喋り、通話は切れた。
Aの4
後になって考えると、その頃すでに豪輔は彼女に飽きがきていて、ほかの女を物色していたに違いないのである。仕事部屋が必要になったのも、原稿書きというより、女との密会の場に不自由を感じたからではないのか。疑心暗鬼《ぎしんあんき》を生じるというか、彼女の憶測《おくそく》は次第にふくれ上がっていった。
豪輔は前身がテレビ作家であったから、その頃に知り合った女優が幾人《いくたり》もいる。なかには芸歴五十年というお婆さんも混じっているけれど、大半は美人であり、美人である以上は当然のことだがセクシーであった。電話で話をするのを聞いていると、豪輔は彼女たちをターちゃんだのお恵《けい》だのといやに狎《な》れ狎れしい呼び方をするのである。いまや夫は細菌の培養液のなかに投げ込まれたも同然であった。感染しても不思議はない。
彼女には、空想することのすべてが事実であるように思えてきた。こうして独《ひと》りぼんやりと考えているときでも、豪輔のほうはあたらしい愛人と交歓しているかもしれないのである。それを考えると彼女はじっとしていることができずに、立ち上がると、リビングルームのなかをぐるぐると歩き廻った。だがそれでも気が鎮《しず》まらない。不安と嫉妬と怒りとで顔がほてってくる。耳の奥がキーンと大きな音をたてて鳴り始めた。そうなると彼女はヒステリイ状態である。後先も考えずに職業別の電話帳を開き、目に入った私立探偵の事務所のダイアルを廻した。
破局は、私立探偵が調査を開始して三日目に突如としておとずれた。予告なしに帰って来た豪輔が服も脱がずに彼女の前に仁王《におう》立ちになると、文字どおり額《ひたい》に青筋をたてて、夫の行跡をひそかに探らせるというのは亭主を信頼していない証拠であり、きっぱりと別れるほかはないと一息にまくしたてた。
「馬鹿な探偵に依頼したもんだな。あいつはテレビ局へ行って嗅《か》ぎまわったものだから、情報はおれの耳に筒抜けなんだ。もう少し頭のいい探偵に頼むべきだったな」
「それならなぜあたしと一緒になったの?」
「気の迷いだな。ふっと家庭を持ちたくなった。きみの作った家庭料理なるものを喰って、世間の亭主なみのことを味わってみたかったんだ。だが、やはりおれは家庭に束縛されることが好きじゃなかったね。言い換えれば一人の女だけで我慢ができる人間ではないんだ」
「理屈に合わないわ。そんな我儘がとおると思っているの?」
「いまのきみの発言なり思考なりは、世間一般の亭主に対していうことさ。おれ、この篠崎豪輔のような大天才と並みの男性とを同日に論じるなんて腹立たしき限りだ。いいか、いっておくがおれは別格なんだぞ」
豪輔は尊大にかまえて宣言した。つねづね豪輔が同僚作家を一段と低く見ていることは知っていたが、これほどまでに自分を高く評価しているとは迂闊《うかつ》にも気づかなかったのである。
「ハハ、呆《あき》れ返った顔をしているな? だが、作家の細君というのは夫の才能を信じていなくちゃならん。夫が売れっ児になれないのは夫に才能がないからではなくて、夫の才能を見抜ける優秀な編集者がいないせいだと考えなくちゃならんのだ。それが夫婦間の愛情というものなんだ。だが、きみは違う。同棲してはじめて発見したことだがきみはつねに批判的だった、おれに対してね。おれが仲間の作家の書いたものをけなすのは彼らの作品の出来がわるいからなんだが、そういうおれを見るときのきみの目はいつも批判的だった。またこの男の大言壮語《たいげんそうご》が始まった、たいした力量もないくせに、といわんばかりにね。おれにいわせると、それも不満だった。きみが亭主を尊敬することを知っていれば、浮気をする気にはならなかったと思う。遁辞《とんじ》のようだが」
それだけまくしたてると、相手の反論も弁明も聞こうとはせずに、ちょっと片手をあげると「じゃあな」といったきりで出て行った。たとい非は豪輔のほうにあるとしても、この場を丸くおさめるためには謝ればいいのだが、そうとは判っていても、勝気な彼女にはそれができなかった。ただ怒りに身をふるわせてつっ立っているだけであった。
しかし、それきり縁が切れたというわけではない。マンションに置いてある資料や洋服だんすにしまってある着替えの服が入用になったりするときには、手|土産《みやげ》の洋菓子の箱をさげて戻って来る。そうしたときの彼女は、以前とおなじ態度で、まるで世話女房のように優しくもてなした。木炭を買って来て豪輔の好きなステーキを焼いたり、タバコの吸いすぎを注意したり……。そして豪輔が一泊して帰って行くと、気が抜けてしまって一日中ぼんやりとすわりつづけるのであった。心のなかで願うのは、豪輔がふたたびこのマンションに戻って共に生活をしてくれることであった。
その彼女が豪輔から徹底的なダメージを受けたのは、おなじ年の初秋のことである。久しぶりで電話があり、生活費を払い込んでおいたの、近頃は体重がふえたのと雑談が交わされた後で、豪輔はまったくさり気ない口ぶりで軽井沢《かるいざわ》に家を建てたことを知らせた。
「この電話は軽井沢からかけているんだ」
軽井沢に建築することは前々からの計画だったが、それが進行していることも、竣工《しゆんこう》したから移転するという挨拶もなかった。その頭から彼女を無視したやり方にむかっとした。
「まあ怒るなよ、きみとは正式の夫婦だったわけでもないんだし、いまや別居中なんだから、他人も同然じゃないか。それに、いまきみが住んでいるマンションは熨斗《のし》をつけて贈呈するよ。名義を書き換えてやるから、その後は煮て喰うなり焼いて喰うなり、好きなようにするんだな」
そう告げられると文句はいえなくなる。国電の田端駅を眼下に見下ろすこの部屋は、安く見積って八千万の値がついているのだ。
「東京に出たら寄るぜ。きみも、暇になったら泊まりに来いよ。ただし、冬は止《よ》したほうがいい。すごい寒さだそうだからな」
いうだけのことをいってしまうと、例のごとく通話は一方的に切られた。
豪輔が東京を離れたと聞かされた瞬間、彼女は、残されていた一本のパイプが切断されたような空虚な気持ちに陥《おちい》った。いままでは、浮気の発作がおさまると戻って来てくれるのではないかとひそかに期待していたのだったけれど、それが虫のよい希望にすぎぬことを思い知らされたのである。たとい招待されたとしても、誰が軽井沢なんぞへ行ってやるものか。彼女は邪慳《じやけん》にテレビを消すとベッドにブランデイを持ち込んで、いつもの倍以上の量を、まるで毒でも嚥《の》むように胃のなかへ流し入れた。
その夜、酔いすぎた彼女はベッドの上で正体を失っておいおいと声を上げて泣いた。それは豪輔に冷たくあしらわれたことに対する口惜《くや》しさからであったが、同時に、別れた以前の夫が無性に恋しくなったためでもあった。マイホーム主義の泰彦を、優柔不断などといって軽蔑しきっていたことが誤りであり、遅まきながら彼こそが理想的な夫であることに気づいたのである。彼女は間歇《かんけつ》的にしゃくり上げながら泰彦と明彦の名をくり返し呼んだ。家出をして以来、はじめてのことだった。そしてまったく唐突に、もとの家をそっと訪ねてみようと思いついた。もちろん正面から堂々と訪ねるわけにはいかない。物陰から夫と子供の様子を見つめてみたいと考えたのである。
Aの5
通りの角にカナメモチの生垣《いけがき》で囲まれた洋風の家がある。夫が外務省に勤める役人で、鼻眼鏡をかけたドイツ人の奥さんがいる。その家から数えて五軒目が彼女の古巣なのだ。家々のたたずまいは家を出たときとまったく同じであり、静かで平和そのものだった。どの家からもテレビの絞った音が洩《も》れてくる。ドイツ婦人の家の前を通ったときだけ、ソプラノで歌う≪鱒《ます》≫が聞こえてきた。あの奥さんはアルトだから、これはレコードの声だな、と見当がつく。
ひとりでに靴音をしのばせるような歩き方になっている。まるで泥棒みたいじゃないの。苦笑すると背筋をしゃんと伸ばして、大手を振って歩き出す。だが、向こうから通行人が来るのを見ると思わず顔をそむけてしまい、またコソコソとした泥棒猫のような態度になってしまう。知った人には会いたくない。そのためにわざわざ眼鏡店に寄って濃いブルウのサングラスを求めたのだが、夜道を歩くのに陽除《ひよ》け眼鏡をかけていることが逆に人目をひくらしく、ここに来る途中で何度となく顔を見られているのである。
ようやく旧居の前に立った。ほんの三十秒ほど立ち止まって、目と耳に全神経を集中して様子をうかがう。居間と客間とダイニングキチンという小さなその家は、昔のままの姿を見せていた。木の門柱も、そこに打ちつけられた木の表札も、その下の赤い金属製の郵便受けも、ガラスのはまった扉も、なにもかもが昔のままだった。
居間と炊事場に蛍光灯がついている。窓に夫の影が映《うつ》りはせぬかと思って見ていたが、その期待はむなしく裏切られた。肩を落とすと彼女はふたたび歩き出した。
ブロックをひと巡りしてからもう一度もどってみた。途端に耳に入ったのは子供の甲《かん》高い声だった。まぎれもない明彦の声である。別れたときに幼稚園児だった明彦は、いま小学一年生になっているはずだった。その間の成長を示すように、口調も言葉もはっきりとしていた。
「ねえ、リンゴ剥《む》いてちょうだい。ねえ……」
甘えた声でねだっている。炊事場には依然として蛍光灯がついており、水道の水音が聞こえてくる。時刻から判断すると、父親が食器の後かたづけをしているところらしかった。母のない子が、泰彦の腰にまつわりついて果物をねだっている。そう思うと、彼女の頬にはおのずと微笑がわき、じわじわと拡がっていった。
「すぐ剥いてあげるわ、ちょっと待ってね」
女の声がした。三十前後の、これもハキハキした、それでいて優しい声である。家政婦だな、と思った。男やもめの泰彦が家政婦をやとっていることを知って、彼女はほっとした。男手一つで子供を養っていくのがどれほどむずかしいことであるか、彼女にも想像がつくからである。それにしても、優しそうな家政婦にめぐり合えたのは何よりだ。
「ねえママ」
と、明彦の声がした。ママ? ママだって? 彼女は自分の耳を疑った。家政婦だとばかり思っていたいまの女が、明彦の母親だというのか。自分の顔から血の気の失《う》せていくのがよく解った。
しかし、彼女を打ちのめしたのは単にそればかりではなかった。というよりも、明彦のママという呼びかけに衝撃を受けたのである。その親密な口調は、彼が継《まま》母にすっかりなついていることを示していたからだ。
彼女はすべてのものを失ったことを悟ると、呆然としてその場に立ちつくしていたが、やがて力のない足取りで歩き出した。角の外務省の役人の家の前まで来かかったとき、ソプラノが歌うドイツ歌曲は≪笑いと涙≫にかわっていた。しかしいまの彼女には笑いの感情はなく、あるのは苦《にが》い失望と後悔の涙だけであった。
Bの1
徹夜をして書き上げたせいだろうが、その日の篠崎豪輔は機嫌がよくなかった。いつものように酒をすすめてくれることもしないし、ご苦労ともいわない。原稿を受け取って礼をいったのに、返事さえしなかった。ふくらんだ顔一面に不精髭《ぶしようひげ》が生《は》え、細い目はあかく充血している。不機嫌になるのも無理ないことだと思った。彼自身も昨夜はほとんど眠っておらず、頭の中心に空洞ができたような気分なのだ。少しイライラしている。
しかし、彼の場合は徹夜マージャンをやった結果の睡眠不足なのである。いってみれば自業自得《じごうじとく》なのだ。気持ちがとげとげしているからといって、豪輔みたいにそれを剥き出しにするわけにはいかない。
「先生、どうかぐっすりお寝《やす》みになってください」
別れぎわにそういって一礼してきたが、腹のなかでは、眠たいのはお互いさまだい、と呟《つぶや》いていた。
カートン紙の封筒に入った原稿を小脇にかかえて田端駅の階段をのぼると、おりからフォームに入って来た外廻り線に乗る。暁方《あけがた》に小雨の降ったうすら寒い日で、山手《やまのて》線はこの秋になってはじめて暖房をとおしていた。午後の二時という中途半端な時間のせいか、車内はやたらに空席が目立っている。彼は手近の場所に腰をおろしたが、ヒーターの快《こころよ》い温かさが全身につたわってくるにつれ、昨夜の寝不足からすぐに眠気をもよおしてきて、つぎの西日暮里《にしにつぽり》駅に着いたのは覚えていたものの、それから先の記憶はとぎれていた。
彼の勤める出版社は御茶《おちや》ノ水《みず》にある。社に戻るには山手線を秋葉原《あきはばら》で降りると、総武《そうぶ》線に乗り換えなくてはならなかった。しばしば電車のなかで居眠りをする彼は、身についた修練とでもいうか、秋葉原の駅員が駅名を連呼する声を聞くと、どんなに熟睡していてもパッと目をさまし、反射的に立ち上がってフォームに飛び出して行くのである。
だが、その日に限って睡《ねむ》りが深かったとみえて、目をあけたときは発車寸前だった。あわてて立ち上がるとあわやという瞬間にとび下りた。扉が、彼のオーバーの背中をこするようにして閉まった。冷たい空気に鼻孔をくすぐられて思わず大きなクサメをすると、急に頸筋《くびすじ》がゾクッとしてきた。その頸をちぢめるようにして両手をポケットに突っ込み、総武線のフォームに上がっていった。
彼が原稿を山手線のなかに置き忘れたことに気づいたのは、御茶ノ水駅の改札口を抜けて一歩踏み出したその一瞬である。しまった! 途端に蒼《あお》くなった。山手線にすわっていたときは原稿を網棚に乗せるような不注意なことはせず、膝の上でしっかり押さえつけていたのである。だが、秋葉原駅で狼狽《ろうばい》して立ち上がった拍子に滑り落ち、それに気づかずに下車してしまったのだ。編集長の怒鳴る声が聞こえてくるような気がした。
すぐに御茶ノ水駅のフォームにとって返すと、駅長室に駆け込んで事情を述べ、至急連絡をとってくれるように頼んだ。助役は封筒の色や型や、電車が秋葉原を発車した時刻や、何両目のどの辺《あた》りにすわっていたかといったことなどを訊《き》き、テキパキとした動作で新橋《しんばし》駅と浜松町《はままつちよう》駅に電話をかけてくれた。彼は蒼ざめた顔に祈るような表情を浮かべながら、宣告を待つ被告の心境でつっ立っていた。
十分あまり後に、彼は失望しきって駅長室から出た。すでに誰かが拾って持ち去ったらしく、床の上にも網棚の上にも封筒は発見されなかったというのである。あるいは、奇特な人が拾って編集部に連絡をしてくれぬとも限らないが、篠崎豪輔がめきめきと頭角をあらわしてきた流行作家であることを考えると、拾い主が豪輔のファンであった場合には、こっそり持ち返って本箱にしまい込むことも考えられた。いやファンでなくとも、いまや名を知らぬものはない豪輔の原稿なのだから、それが好事家《こうずか》に高価な値で売れることに気づかぬものはないはずであった。神田《かんだ》近辺の古書店に行けば、かなりいい値で買ってくれるのである。
予期したとおり編集長からは怒鳴られ、副編集長からは嫌味をいわれ、進行係の先輩から何としても明日中には取り戻すようにときつく要請された。売れっ児だから当然だが、豪輔は原稿がおそいことで有名である。この編集部でも、ほかの作家の原稿はすべて書き上げられて、印刷工場へ入れてある。ただひとり豪輔に限って締切りを三日延ばして、出来上がりしだい印刷にとりかかれるよう手ぐすねひいて待機しているのであった。その原稿を紛失してしまったのだ、怒られるのも無理はない。
机に向かって小さくなり、彼は拾得者からの好意の電話を待ちつづけた。ベルが鳴ると思わず眸《ひとみ》をかがやかすが、すぐに他の電話であることが判って肩を落としてしまう。そうした状態が夕方までつづいた。そして夜まで待っても連絡のないことを知ると、もう一度豪輔に頼んで、書き直してもらうことを決心した。嫌味をいわれることは覚悟の上である。誠心誠意頼み込んだら、こちらの気持ちも判ってくれるに違いない。
明日から全員が出張校正で印刷工場に詰める、という切迫した夜である。退社時刻は六時だが、帰るものは一人もいない。すべての編集部員が三人もしくは四人の作家を受け持たされて忙しく動き廻っている。彼はそうした仲間に目をそむけてオーバーを着ると、社を出た。ああした事件があったものだから昼食をとりそこねている。すでに夕食の時間も過ぎようとしているのだが、少しも空腹を覚えなかった。胃袋が収縮したきりでまるきり食欲がない。
「なにか食べないと風邪ひくわ」
この四月に入社した若い女子編集員が小声で注意してくれ、場合が場合だけに、その一言《ひとこと》がひどく身にしみた。
御茶ノ水駅の赤電話で豪輔のマンションにダイアルを廻した。作家のなかには夜|毎《ごと》銀座のバーで酒を呑むものもいる。しかし原稿を書き上げた日の豪輔は自分が組み立てたオーディオを思いきり大きな音で鳴らし、その音の洪水にどっぷりとひたりながら、葉巻をふかしてはワインを呑むことが趣味であった。
ともかく、一応は電話をかけて、在宅を確認しておく必要がある。
「何の用かね?」
マーラーのシンフォニイの厖大《ぼうだい》な音響のなかから豪輔の咎《とが》めるような声が聞こえた。午睡《ひるね》をしなかったのか、音楽の鑑賞を邪魔されたせいか、この作家は朝とおなじように不機嫌であった。
「明日からつぎの仕事にかからなくてはならん。くつろいだ気持ちで音楽を聞くのも今夜きりなんだぜ。用もないのに来られては困るな」
そういわれてみると、なぜ訪問するかという理由を説明しなくてはならない。
彼の話を、豪輔は途中でさえぎった。一段ととげとげした口調になっている。
「何だと? おれの原稿を失《な》くしただと?」
「はい。まことに申し訳ございません」
「言い訳はたくさんだ。おれの原稿を紛失したというのは、きみがおれの原稿をかるく見た結果だ。駆け出しの新人とおなじ程度にな」
「それは誤解でございます、先生!」
「五階か六階かは知らんがね」
と、この作家はその場の雰囲気にそぐわぬ下手《へた》な洒落《しやれ》をいった。
「しかし現実にきみは原稿を失くしている。それがおれの原稿を軽視したなによりの証拠じゃないか。もしこれがダイヤだったら、後生《ごしよう》大事に抱えていたはずだ。けっして落とすようなことはないだろう」
「はあ、それはおっしゃるとおりでございます。でも先生、ダイヤモンドはポケットに入りますが原稿は大きすぎて――」
「何をいってるか、この馬鹿!」
怒鳴りつけたかと思うと、受話器を叩きつける音がひびいた。彼は受話器を戻すことも忘れて立ちつくしていた。馬鹿呼ばわりされてまで原稿を貰いたいとは思わなかった。なにが馬鹿だ。あの野郎、ちょっと売れてくれば増長しやがって……。
「おじさん、話がすんだら電話かしてよ」
若い定時制の女子学生らしい子に注意されてわれに返った。気がついて振り返ると五、六人の列ができており、いっせいに非難するような目つきでこちらを睨《にら》んでいた。
赤電話の前を離れた彼はそれきり社には帰らずに、新宿の呑み屋へ直行した。すでに胸中では社を辞《や》めることを決意している。退職して当分のあいだは失業保険で食いつないでいれば、そのうちにまた、どこか別の出版社に就職することができる。あせる必要は少しもなかった。
ゆきつけの郷土料理屋で山菜を肴《さかな》に呑んでいると、忘れていた空腹を思い出し、すると急に全身から力が抜けてヘナヘナと崩れそうになった。
「どうなすったのよ、顔色がわるいわ」
「わるいわけさ、朝からなにも喰っていない」
「あら」
「たのむ、酒は後廻しだ、めしを喰わせてくれよ」
Bの2
彼の退職とひきかえに豪輔はひと晩で原稿を書き、編集部の危機を救ってくれた。豪輔にしてみれば出版社を相手にしてまで喧嘩をする気はなかったのだろうし、あるいは、この辺りで恩を売っておいて反対給付を期待したのかもしれない。豪輔の狙いはどうであれ、会社に大きな迷惑をかけずにすんだのは何よりのことだ。そのいきさつを耳にしたとき、彼はそう思った。
浪人になった彼が、出版界の友人や知人のつてを求めて就職運動をはじめたのは、それから一ヵ月のちのことであった。もとはといえば自分の不注意によって前の会社をしくじっているのだから一応は謹慎《きんしん》期間をおくべきだと考え、一ヵ月間を自宅(といっても安アパートだが)に蟄居《ちつきよ》していたのである。その時点までの彼は明るく陽気であり、誰が見ても失業者とは思えなかった。彼自身が有能な編集者であることを自覚しており、いずれは大きな出版社に入れるものと楽天的な考え方をしていたからだった。
最初の社でことわられたときは格別どうということもなかった。第二志望の社からことわられたときも、欠員がないという口実を信じて、空《あ》いたイスがなければ仕様《しよう》がないサなどと他人事《ひとごと》のように考えていた。だが、五番目、六番目の社から首を横に振られるに及んで、ようやく、これは妙だと思うようになった。そこで斡旋《あつせん》を依頼した友人を訪ねて問い詰めた結果、意外なことを知ったのである。相手は同じ大学の独文を出た男で、学生時代は一緒にサークル活動をした気心の知れた男であった。いまは書評紙の編集部に勤めており、将来は作家になるつもりでいる。二人は社の近くの珈琲《コーヒー》ショップに入った。
「どうだろうかね、ぼくの先輩が音楽雑誌をやっているんだが――」
「とんでもない。ぼくが音痴だってことは知ってるじゃないか」
「音痴だって歌謡曲しか知らなくたってかまやしない。先方の欲しがっているのは優秀な営業部員なんだから」
それを聞くと彼ははげしく首を振った。テーブルの上の珈琲カップがカタカタと音をたててゆれ、なかの液体がこぼれそうになった。
「冗談は止してくれ。ぼくは根っからの編集者なんだ、セールスマンなんぞになる気はない」
「でも――」
「ぼくが入社をことわられたのはこれで六度目だ。変だと思わないかい? なかにはひどく調子のいい会社もあった。空席があるから明日にでも働いてもらいたいようなことをいう。それでいて掌《てのひら》をかえしたようにことわりやがる。妙だよ、変だよ。なにか理由があるんじゃないか」
相手が友人だから、遠慮なしに突っ込むことができる。
「……弱ったな」
「きみが弱ることはないよ。説明してくれ」
その友人は鉢のひらいた大きな頭を傾けると、考え込むようにちょっと沈黙した。
「……じつはね、篠崎豪輔から手が廻っているんだよ。これこれしかじかだからあの男を入社させてもらっては困る、もし強《し》いて採用すれば、今後お前の社には一切《いつさい》書かないことにするからそのつもりで……とね。篠崎からそう脅かされてみると編集長も考えちゃうんだな。なんといっても彼はビッグファイブの一人なんだ、彼の作品が載《の》るか載らないかで雑誌の売れゆきが四十パーセント違ってくるんだから、仮りに編集長がOKしたとしても営業部が承知しない」
「…………」
「……じつはね、きみがいままでにも二、三の出版社でことわられたというもんだから、それとなく理由を調べてみたところが、いまいった事情が判ったんだよ。こうなると、篠崎の影響力の及ばない出版社に入るほかはない。つまり経済誌だとか医学雑誌だとかいうところだがね」
「いやだね、断じて」
「それじゃやむを得ん。当分、浪人生活をつづけていくほかはないね。そうして篠崎がくたばるのを待っているんだ。いくら彼が人気作家だとしても、死んでしまえばそれまでヨだからね」
「彼はまだ三十五歳だよ。やつがくたばる頃にはこっちもよぼよぼだ」
彼は声を殺して笑った。多分に絶望的な笑いでもあった。
「なあに、そう悲観したものでもないさ。危険がいっぱいの世の中なんだ、篠崎が天寿《てんじゆ》をまっとうするという保証はどこにもないのだからね」
「そうかなあ」
懐疑的に彼は答えた。
「彼はタフだから、ダンプとぶつかりゃ向こうが壊れるってくらいだ、どうみても命をまっとうしそうだね……ぶっ殺してやらない限りは」
最後のほうは独《ひと》り言《ごと》である。いってしまってから、彼ははっとしたように顔を上げて友人を見た。心にもない発言であるとはいえ、穏当《おんとう》を欠いている。良識あるものが口にすべきことではない。
「ダンプが壊れるくらいの男じゃ簡単にぶっ殺されやしないな。大砲でも持って来なくちゃ駄目じゃないのかね」
友人はニヤニヤしながら応じた。彼のいまの独語を、あくまで単なる冗談として受け取ってくれたようであり、それにつられて彼も含み笑いをした。この数日来、声をたてて笑うことがなくなっている。
「篠崎の力がそれほど偉大だとは思わなかったよ。出版社でめしを喰っていたくせに、お恥ずかしいことだが」
「なんといっても五|奉行《ぶぎよう》の一人だからね。というよりも筆頭なんだから、彼の機嫌を損じまいとしてどの雑誌社も汲々《きゆうきゆう》としている。しかし現実の問題として、いまもいったように篠崎の原稿が載らなくなると発行部数がガクンと落ちるんだ。出版社が低姿勢になるのもやむを得ないよ」
その友人は彼をなぐさめる一方では出版社の肩を持つという、どっちつかずの発言をした。戦前の作家|牧逸馬《まきいつま》は≪海のない港≫≪双《ふたつ》心臓≫のようなロマン物を書くほかに、林不忘《はやしふぼう》の筆名で丹下左膳《たんげさぜん》を主人公とする時代物を発表し、もう一つ谷譲次《たにじようじ》のペンネームで探偵小説や犯罪の実話物を各誌に載せて、旺盛な筆力を示したものである。いまや篠崎豪輔は牧逸馬の再来といわれ、現代物に時代物に推理物にゆくとして可ならざるはなしと称されていた。彼の鼻息があらいのも当然だし、編集者が豪輔に三顧の礼をとろうとするのも無理ないことであった。
「ぼくは最初から篠崎の担当だったんだよ。つまり、彼がまだ懸賞に当選して小説を書きはじめたばかりの新人時代からね。あの頃は若僧のぼくにまでペコペコしていた。そうした頃の篠崎を知っているぼくには、頭の片隅で彼を見くびるところがあるんだな」
そう答えると、急に不機嫌になったように黙り込んでしまった。あの男が生きている限り、おれは編集者になれないというのか。伝票をつかみ、彼は絶望感に圧《お》しひしがれたように力なく立ち上がった。
「もう帰るのか」
「ああ、邪魔をして悪かった」
「よく考えてみることだな。音楽雑誌の営業部員なんてものも、入社してみると結構楽しいかもしれん」
「我儘《わがまま》をいうようで悪いけど、おれは文芸雑誌の編集をやりたいんだ。おなじ水は水であっても、真水に住む魚を海に投げ込めば死んでしまう。音楽雑誌の、それも営業部なんかに入ったら精神的に死んだも同然だよ」
「それもそうだな」
と、相手は素直にうなずいた。
「だが、さしあたって喰う問題がある。どうやって暮らしていくつもりだ? そのうちには失業保険も打ち切られるんだろう?」
「ああ」
「といって肉体労働はできないだろうからな」
「心配をかけてすまない。だがそうなればなったで、社外校正でもやるつもりだ。幸いなことにきみとは違って独身だからね、喰うくらいのことはできるだろう」
「おい、伝票をよこせ」
無理にレシートを取り上げると、その友人はダメを押すようにいった。
「浮き世の風はつめたいもんだぜ。近頃は校正マンも数がふえて過当競争の時代だからなあ」
「判った、判った。でもなんとかやっていくさ。まあ、少し古風でアナクロの感がしないでもないが、暇なときには篠崎先生の藁《わら》人形でもつくって、丑《うし》の刻|詣《まい》りでもやってみようかね」
われながら、嫌な冗談だと思った。しかし、それを承知でいながら、しかもなお、そうしたことでもいわずにはいられない心境だったのである。
Cの1
作家志望の彼は、篠崎豪輔の熱烈なファンであった。できれば篠崎の書きそこないの原稿、あるいは使い古したボールペン、万年筆、それにゴム消しに至るまで、創作にかかわり合いのあった品物なら何でも欲しかった。話に聞いたところでは、昔は背中にカゴを背負って紙|屑《くず》の類《たぐい》を買って歩く屑屋という商売があったということだ。一軒一軒、勝手口からヌーッと顔を出して「クズーイ、お払い」といって歩く。十軒に一軒あるいは二十軒に一軒のわりで「屑屋さん」と声がかかる。声をかけるのは女中かおかみさんで、昔の旦那は一家のあるじとして権威があったから、台所なんぞへは出て来ないのである。お払い物といっても大半は古雑誌や古新聞、反古《ほご》の類とボロ切れぐらいであったそうだ。「へえ、毎度どうも」「忘れずに木戸を閉めてってちょうだいよ」などと女中にいわれ、こんなお多福に威張られる筋合いはないのだがこれも商売だから仕方がねえや、などとぶつくさぼやきながら、一日の仕事がすむと日の暮れ方にバラック住宅に帰って来て、すぐに仕分けにとりかかる。雑誌は雑誌、古新聞は古新聞と分類するのである。
彼はチリ紙交換などという不粋《ぶすい》な新商売の生まれたことをかねがね残念に思っていた。もし戦前とおなじように屑屋という職業があったなら、彼は大きなカゴをかついで、三日にあげず豪輔の家のまわりをうろつくことだろう。そして払ってもらった屑物を自分の部屋に持ち帰って、夢中になって紙屑のしわを伸ばすだろう。百枚に一枚、あるいは二百枚に一枚のなかには、書きそこないの原稿用紙が混じっているに違いない。彼はそれに噴霧器でキリを吹きかけ、適温のアイロンで念入りにしわを伸ばして、額に入れるだろう。そして日に何回となくそれを眺める。アイディアが浮かばぬときに、筆が止まってしまったときに、眠くなったときに、そしてもっともっといろいろなときに……。豪輔の書き損じた反古を見ることで彼の眠気は吹きとばされ、勇気が湧き出るだろう。
だが……、と彼は溜息をついて頭を振る。時代は変わった。あのチリ紙交換の野郎が一切合財《いつさいがつさい》を持って行ってしまうのである。できることなら彼もチリ紙交換業を始めたいのだが、屑屋の場合とは違っておいそれと安直《あんちよく》に開業するわけにはいかなかった。第一にトラックを買う金がない。借金をするにしても、一介の貧乏書生に資金を貸してくれる好人物がいるわけもないのである。第二に、これは資金の問題以上に大きな難関なのだけれど、彼には吃《ども》る癖があった。こころみに「チリ紙コオカアン……」とやってみようとして、早くも冒頭の一字でつまずいてしまうというていたらくであった。これでは街のなかをわめきながら流して歩くわけにはいかない。
断簡零墨《だんかんれいぼく》の入手は諦《あきら》めることにして、せっせと豪輔の作品を買い求めては、片端から読了した。彼の場合は書物に淫するのではなくて作者の篠崎豪輔に淫していた。だから豪輔の著作であれば、それが時代物であれ恋愛物であれ、そしてスリラーであれ、多少は出来がわるくても、ただもうおもしろくてむやみやたらに感服してしまうのだった。
読了した彼は書物を大切そうに机に載せると、ごろりと床に寝転んで溜息をつくのがつねである。ああ、おれも作家になりたい……。
いままでにも彼は、あらゆるチャンスをつかんでは原稿を投じていた。長篇時代小説募集。短篇推理小説募集。そして江戸川乱歩《えどがわらんぽ》賞……。豪輔がそうであるように、彼もまたオールマイティの作家となるつもりで、募集の広告を目にするたびに、安物のチャブ台を机がわりにして、インクのにじむような原稿用紙にせっせと文字を綴《つづ》った。だが、彼にとって不幸だったのは選者に具眼《ぐがん》の士がいないことだった。彼らは泥にまみれたダイヤには気がつかず、いつもサファイヤ、ルビー、水晶クラスの新人に賞をあたえており、苦杯を喫した彼はその度毎《たびごと》に焼き鳥屋に行って焼酎を呑みモツを喰い、辛《かろ》うじて心の憂《う》さを捨てていた。
しかし、何度落選をしても、くじけることがなかった。口を糊《のり》するための糧《かて》は、ガリ版を切ることで得た。そしてその仕事がすむと、ザラ紙の原稿用紙をひろげて、興がのるままに一気呵成《いつきかせい》に短篇を書き上げるのであった。眠気をもよおしてくれば、口絵の豪輔の写真にじっと見入る。するとこの流行作家が声にならぬ声で「しっかりやれよ」と励《はげ》ましてくれるような気がする。一瞬、彼の睡魔は退散し、ふたたび鉛筆を走らせるのである。
彼にとって豪輔は神様であり羅針盤《らしんばん》であり、教師であり父であった。ときには創作に飽き怠け心が頭を持ち上げることもないではなかったが、そうした場合の彼は例によって口絵の写真を眺め、週刊誌のインタビューで「睡眠時間はわずか三時間にすぎんよ」と語っていたことを心に思い浮かべる。すると、怠けの虫は、たちまちどこかへ消え失せてしまうのだった。
そうした状態が三年ほどつづいたある日のこと、ふと彼は一つの思いつきを得た。もっと早く気がついてもよかりそうなものを、うっかりと過ごしてきたことに軽い後悔を感じた。彼のその思いつきというのは、直接豪輔に原稿を送りつけ、一読してもらって、しかるべき出版社の編集部に紹介を依頼することであった。自分がマニアといってもいいほどの熱心な豪輔ファンであることを言い添えれば、暇のときをみて通読してくれるだろうし、内容さえよければ、すぐにもダイアルを回転させて、親しい編集者に新人発見を伝えることだろう。あの江戸川乱歩の≪二銭銅貨≫の原稿を一読した森下雨村《もりしたうそん》編集長が、興奮した余り原稿を名古屋在住の小酒井不木《こさかいふぼく》博士に送りつけたようなことが、彼の場合にも起こるに違いなかった。彼は、自作に対してそれほどの自信を持っていたのである。
Dの1
いろんなコマーシャルがある。
そう、関西制作の「灘《なだ》の生《き》一本!」というのがあった。しかし、読み手が読点《とうてん》の打ち方を誤ったために「灘の木、一本」というふうに聞こえたものだ。本来ならば「灘の、生一本」というべきところを……。
このコマーシャルは、ある週刊誌のコラム欄で嘲笑されていたけれど、いっこうに改めようとする気配がなかった。関西には関西のプライドがあるからだろうか。それとも、改めるには経費がかかり過ぎるからだろうか。
それから「いの一番」というべきものを、「胃の一番」と発音したコマーシャルもあった。いろはの「い」と胃袋の「胃」とでは、わずか一字ではあるがアクセントの上で微妙な相違があるのだ。もっとも、それは東京弁あるいは標準語を話す人間の耳にとって奇異に感じることであって、テレビコマーシャルの聞き手には九州人もいれば東北人もいるのだから、なにも一握りの東京人に迎合する必要はないともいえる。「胃の一番」式のアクセントをついに改めようとしなかったスポンサーも、偉大なる関西の負けじ魂の持主だったのかもしれない。
そう、「中味が濃オい」というコマーシャルもあった。何の中味だったか忘れたが。それに、「あら見てたのネ」といった多分に下町的な気取りのないコマーシャルも、つい先頃までブラウン管の横のスピーカーから聞こえていたはずである。これも、何を見てたのか、何を見られちゃったのか、その辺りのことになるとちっとも記憶にはないが――。
彼女の愛もまた、あら見てたのネ的なアクシデントによって終結をみた。それは彼女にとってみると、このうえない悲劇であったかもしれないが、客観的にいわせてもらうと、間の抜けたファルスでしかなかった。
現代的な言い方をすれば、彼女は銀座のデパートで売り子として働いているところを豪輔に「スカウトされ」たのであり、そしてあえて古風な表現に従うならば「寵《ちよう》を受けた」のであった。これは事実に相違する、いわばコケの生えた伝説なのかもしれないけれど、全国どこのデパートでも、ネクタイ売り場には売り子のなかから選《え》りすぐった美女を配するものだという。目と目のあいだが離れた、口の大きな彼女を美人と呼ぶには意見のわかれるところだろうが、彼女が店内きってのコケティッシュな女性であることは確かな事実であった。だからこそ、何人かのテレビ女優とねんごろになり、女の審美眼については自他ともに許す豪輔がひと目見た途端に、後に彼が語った言葉を引用すれば「二百ボルトの電流にふれて脳髄がしびれた」ように、目の色を変えたのである。
そのとき豪輔の財布には一万円札が三十枚あったそうだが、彼はネクタイを二ダース買い求め、残りの額をはたいて真珠のネックレスを買って来ると、呆然としている彼女の前にジャラリと音をたてて置き、「これ、きみに似合うと思うよ」といったきり、後も見ずに大きな歩幅で立ち去った。
彼女が、この気前のいい客が流行作家の篠崎豪輔であることを知ったのは、勤務時間が終わって帰る途中であった。何気なく国電の中吊《なかづ》り広告に目をやった彼女は、スペースの三分の一を占《し》めている大きな小説の題名と、彼の大きな写真を見て、心臓に矢でも射込まれたように息がつまり、思わず床に倒れそうになった。
視点を豪輔に移そう。彼にしてみれば、三日に一度は必ずどこかで顔写真入りの広告が出ることは知っているから、黙っていても自分の正体が判ることは計算の上であった。みずから名乗るような不粋な真似《まね》をするよりも、そのほうが遥かに効果的であることを、数々の女人遍歴からマスターしていたのである。
豪輔ははやる心をぐっと抑《おさ》えておいて、一週間目にそのデパートに立ち寄ると、ことさらに知らぬ顔をしてネクタイ売り場の前を通りかかった。キョロキョロと横目をつかったりしては駄目である。彼女のことなど念頭にないよう、まるで反対の方角に目をやって、急ぎ足でなく、といってゆっくりとした歩き方でもなく、通りすぎる。
「あの……篠崎先生!」
期待した声がかかる。豪輔はこのときもはやる心をぐっと抑えて、ひと呼吸してから「ああ、きみですか」と応じる。それからあとは一瀉千里《いつしやせんり》だ。たちまちデートの約束をとりつける。
二人の交流はこまやかなものとはいえないにせよ、楽しく、一年間は無事につづいた。といっても、流行作家たる篠崎には篠崎としての体面があるから、場末のアパートを借りて同棲というように、安直なことはできない。彼女は従来どおりネクタイ売り場の売り子をつとめる一方では、豪輔とのひそかな逢瀬《おうせ》をたのしみにしていたのである。
なんといっても人気作家であるだけに、咳《せき》を一つしたことまでがどこかの週刊誌の囲み記事になるという有様だから、豪輔としても行動には慎重を期さなくてはならない。情痴小説の作家のように奔放に女をつかまえ、ラブホテルに連れ込むというわけにはゆかぬのである。豪輔自身も、また出版社の側も、この売れっ児作家のイメージダウンをひじょうにおそれていた。
愛の巣をどこに構えるかということでさんざん頭をひねった揚句《あげく》に、彼女が浅草《あさくさ》の公園裏にアパートを見つけ、そこに住むことになった。マンションという柄《がら》ではないにせよ、安アパートの多いこの辺りにしては思い切って金をかけた高級な設計になっており、二人ともそこが気に入ったのである。そして、地下鉄の銀座線に乗りさえすれば、彼女は雨の日も濡れずにデパートへ通うことができた。
入居に際して彼女は本名を名乗ったが、豪輔はそうするわけにはいかない。そこで彼のごく初期の推理短篇に登場する二枚目の名をとって、大道寺数馬《だいどうじかずま》、セールスマンと称した。不在がちであるのは、日本各地に出張するからである。管理人にはそういう触れ込みで住み込んだ。豪輔はその翌日、はやくも東北のある県へ向けて出発する、と見せかけておいて、自分の仕事部屋に戻ったのであった。この一人二役といういたずらが、短期間ではあるにせよ別人に化けられるおもしろさが、彼を有頂天にさせた。鼻の脇のつけボクロ、素通しのロイド眼鏡、飛びきり派手な部屋衣などで変装すると、連れ立って近くの縁日などへ出かけたり、すし屋や天ぷら屋に入ったりした。
「気が楽でいいや。篠崎豪輔というのは裃《かみしも》を着た姿だからね、安物の饅頭《まんじゆう》を喰うなんて冒険はできないんだが、大道寺数馬なら何をしても人目をひかない。これはすてきな隠れ簑《みの》だぜ」
彼は上機嫌で自分の思いつきを自賛した。
彼女にとっても確かに楽しい日々であったが、強いて不満をいえば、豪輔が仕事を持ち込むことで、情事のあとで寝巻姿のまま机に向かい、その恰好で徹夜仕事をすることぐらいであった。締切りの迫った原稿を書くなら仕事部屋ですればよさそうなものだけれど、豪輔にいわせると、彼女の顔がチラついて落ち着いた気分で仕事をつづけることができないのだそうだ。
そうかと思うと、取材旅行や、講演旅行がつづいて二週間もご無沙汰《ぶさた》がつづくことも珍しくはない。そうしたときの彼は土地の名産を求めて帰り、管理人をよろこばせた。そうすることによって、大道寺数馬はますますセールスマンらしく見えてきた。
だが、こうした不在の状態がつづくと、多情の彼女は孤閨《こけい》を守ることが困難になる。もっとも、彼女が醜かったらドンファンどもから相手にされることもないだろうから、罪は彼女にではなく彼女の美貌にあるという論理も成り立つに違いない。そうした遁辞《とんじ》はべつとして、豪輔のいない淋しさを、彼女は代用品で補うことを思いついた。美しい彼女がそれらしい素振りさえすれば、狼どもは何匹でも寄って来るのである。
それは本州が梅雨《つゆ》空におおわれて不快指数が上昇しつづける六月の中頃のことだった。豪輔は降り止まぬ雨にあいそをつかしたように、出版社から口がかかると待っていましたとばかり、北海道の講演旅行に行ってしまった。二週間、場合によっては二十日間に及ぶ旅で、北海道の小都市までまんべんなく訪ねて歩くという、雑誌社が読者サービスのために行なう顔見世興行的な企画であったが、うっとうしい梅雨から脱出できるというそれだけのことで彼は大喜びで発って行ったのである。仕事は行く先々の旅館なりホテルなりですればよく、速達で間に合わぬ場合は東京から編集者が空路駆けつけてくれるし、いよいよ時間切れとなったときには電話で送稿するという手もあるのだ、仕事にさしさわりはない。
「みやげは何がいい?」
「トウモロコシとラーメンとアイスクリーム」
「ばかいうなよ。唐もろこしはまだ実っていないし、ラーメンは伸びてしまう」
「それじゃ今度連れて行って」
「いいともさ、仕事が暇になったら行こう。とりあえず今回はバター飴《あめ》でも買って来るかな」
そういって指の先で彼女の赤い頬っぺたをチョイとつっつくと、手を振って出て行ったのである。もっとも、大道寺数馬はセールスマンだから、都内にある仕事部屋へ帰って行くときも、ややオーバーと思えるくらいに大きな手を振って別れるのだが――。
もうその頃になると、彼女は何の抵抗感もなく狼を招じ入れることができるようになっていた。彼の飛行機が羽田《はねだ》を離陸しないうちに、兄あるいは従兄《いとこ》もしくは教会の牧師さんと称する男性のうちのだれか一人が、彼女の部屋を訪問していた。その日、生憎《あいにく》なことに札幌《さつぽろ》方面が濃霧のため航空機の離着陸が不能となっている事実を、彼女も相手の狼もまるきり知らなかったのである。
一時間ほどして男がシャワーを浴びに行こうとした。ベッドに起き上がった彼はバスタオルを引き寄せようとして手を伸ばしかけ、ギクリとして息をのんだ。その妙な様子に気づいた彼女が、どうしたのサといいながら顔をめぐらすと、玄関からリビングルームにつづく扉口に豪輔が立って、色の浅黒いエネルギッシュな顔に口をへの字に結び、二人のほうを見下ろしていたのである。そこに浮かんだ表情は、怒りというよりも憐れみに似ていた。やがて正式に籍を入れ、晴れて天下の篠崎豪輔夫人となる女が、みずから好んでその機会を失ったことに対して、軽蔑と憐れみとの入り混じった感情をこめて見ていたのである。
彼女は反射的に飛び起きると、うすものの夏毛布で胸をおおった。
「アラ、見てたのネ」
そういったきり彼女は絶句した。
Dの2
後日聞いた話を総合すると、豪輔はその日の夕方の便で、ほかの連中とともに羽田を発って北海道へ向かったという。
あわよくば許してくれるかもしれない。何といっても自分は美人なのだから。彼女は虫のいいことを考えながら、講演旅行の終わるのを心待ちにしていた。帰る日が判ったら羽田空港に迎えにゆき、胸に顔を埋めて泣きじゃくりながら許しを乞《こ》うてやろう。ネクタイが涙にぬれてしまうだろうから、そのときはお店でいちばん上等な品をプレゼントすればいい。七掛けで買えるのだからたいしたことはないもの。
彼女は講演旅行を報じる記事を見逃すまいとして、職場の連中が持ち込む週刊誌や新聞のたぐいに洩れなく目をとおしていた。彼らの動静が中央に伝えられることがないと知ると、図書館の地方紙閲覧室に毎日立ち寄っては、一行が前日はどこで喋り翌日はどの都市を訪ねるかといった情報をつかんだ。できれば宿舎に電話をかけたかったのだが、そうすると羽田のドラマの迫力がうすくなる。予期せぬ場所に予期しない女が飛び出してきてかじりつくからこそ、効果も上がるというものではないか。そう考えて、彼女は手にした受話器をそっとのせた。それが一度だけではなく、少なく数えても四、五回はあったのである。
そうした頃に、豪輔のあたらしい長篇恋愛小説が週刊誌で始まった。「北海道旅行中の巨匠が満々たる自信をこめて発表する意欲作!」といったポスターが電車の中吊りや駅の売店の店先にでかでかと並べられ、主だった書店には屋上から赤地に白抜きという派手なたれ幕がぶらさがった。「早くも映画化決定!」としるされてある。
デパートからの帰途、彼女は地下鉄のフォームの売店でその週刊誌を求めると、席にすわるももどかしくページを開いた。豪輔と再会した際に第一回目から読んでいることを話題にすれば、それだけ点数が稼げる。そうした打算的な考えがあったことは否定できないにせよ、豪輔の作品が買わずにはいられぬほどおもしろいことも事実であった。だが、半分も読み進まないうちに、血色のいい彼女の顔から見るみる血の気が失《う》せて真《ま》っ蒼《さお》になった。そして一分もしないうちに、今度は充血したように赤味がさしてきた。驚きと怒りと屈辱とで、彼女は気が遠くなりそうだったのである。
冒頭からベッドシーンが出てくる。登場人物は少し頭の弱い女で、それがあられもない痴態を演じるのだが、そのすべてが彼女のしたことを拡大化し、カリカチュアライズし、同時に徹底的に蔑視した描かれ方をしていた。しかも名前までが一字違いになっており、帽子店の売り子という設定である。しかも画家に写真を見せたとみえて、挿絵《さしえ》の顔も彼女そっくりとなっていた。
人気作家の作品だから職場の同僚、高校のクラスメート、アパートの住人の半数がこれを読むに違いなく、そして読者のすべてのものがベッドの上で演じる姿を、彼女にダブらせて考えることが予想されるのであった。この小説が今後何回にわたって連載されるのか判らぬけれど、長篇であるからには三ヵ月や四ヵ月はつづくものと見なくてはならない。そしてその間中、彼女はさらし者にされ嗤《わら》い者にされるのである。
彼女は豪輔に復讐されていることを知った。そして同時に、敵に廻した彼がいかに陰湿でねちねちと執念深く絡《から》んでくる男であるか、ということも知ったのであった。
Eの1
どんなパーティに出席する場合も、かつてネクタイを締めて出たことがないというのが彼の自慢であった。それにはそれなりの理由もあるのだけれど、性格からいっても、キチンとしたことの嫌いな男なのである。
自分でもハッタリ屋だ、と思っている。そしてハッタリ屋結構、と思っている。長くもない人生、ホラを吹いて吹きまくり、爽快《そうかい》に生きるべきではないか。誠実な男といえば聞こえがいいが、要するにそれは小心|翼々《よくよく》とした男のことであり、そうした連中に限って悪への欲望なり鑽仰《さんぎよう》はなみはずれて大きいものなのだ。ただ臆病であるがゆえに悪事に手を出すことができず、聖人ぶっているに過ぎないのである。そうした意気地なしを、彼は心から軽蔑した。唾棄《だき》すべき虫けらどもだと思っている。
おれは違う。おれには勇気がある。愚にもつかぬ道徳律など足蹴《あしげ》にできるくらいの勇気を持っている。だから気にくわない連中や恋仇《こいがたき》などをぶち殺したり、盗みや詐欺を働くことは平気だが、ただ刑罰がこわいから遠慮しているだけの話であった。罰さえ免《まぬが》れることができれば、殺したいやつは片端からぶっ殺す。それでこそストレスは解消するのだし、爽快な気分で人生を送ることができるというものである。
彼は怪談というものを信じない。民谷伊《たみやい》右衛門《えもん》が亡霊におびやかされ、いじめ抜かれて精神的に参ってしまったのは要するに彼が小心者であったからであり、おれのように図太く構えていれば亡霊だの幽霊なんぞが出て来るわけがない。意気地のない弱虫なら人殺しなどやらなければいいのだ。
そうした性格の男だから、いまだかつて自分を反省したことはない。自分はノーマルであり世間の馬鹿者どもがアブノーマルだと信じている。機会とゼニとコネとがありさえすれば随筆家というくだらぬ肩書を返上して政界に打って出、天下国家を論じてみたいと空想する。政治にも人並み以上の関心があった。
しかし、それはあくまで夢想であり、彼にはチャンスもなければ資金もなく、まして政界にコネなどあろうはずもなかったから、文筆をもってめしのタネとする他はないのである。といって、これは彼の随筆家としての資質にも関係があるのだが、随筆を書いて得る収入はたかが知れていた。それだけでは喰うのがやっとのことであり、四十の半ばを過ぎた今日まで独身でいるのは、女房を養っていくだけの稼ぎがないからであった。
神経の太い楽天家ではある彼も、五十歳という年齢を目の前にしてみると、行末を思って暗然とした気持ちになることがしばしばだった。女房もなければ子供もなく、親類縁者からも毛嫌いされ見放されている自分が、やがて老年を迎えたとき、身を寄せるところは老人ホーム以外にはないのである。彼は、なにかにつけ詩人の児玉花外《こだまかがい》のことを思い浮かべるようになった。
おれも人並みに女房を貰わなくてはならん。彼はそう考える。器量なんかはどうでもいい。どうせ婆さんになればどんな美人でも汚くなるのだから。それよりも問題は性格だ。勝気でガミガミいう女もいやだが、おれのすることにケチをつけたり文句をつけたりするような、道徳家ぶった女もごめんだ。理想的なのは、おれがスリをやれば一緒になって財布を掏《す》って歩くような女だ。
そうした空想をふくらませて何ヵ月かたつうちに、次第に彼は結婚して世帯を持ちたくなってきた。女房さえいれば、雨の日に傘をさして大衆食堂へ喰いに行くこともしないですむ。汚れ物も洗濯してくれるだろうし、掃除も女房がやってくれる。考えると万事がいいことずくめだ。世間の男が争って結婚したがるのも当然ではないか。
事実、雨の日や雪の日にめしを喰いに出かけるのは億劫《おつくう》なものであった。そうした場合にそなえてインスタントラーメンを買ってあるのだが、三日降りつづけば、朝昼晩の三食を三日間にわたってラーメンですまさなくてはならない。たいして旨《うま》くもないこの喰い物を前にすると、五食目あたりで食傷してしまい、結局は布団にもぐって降り止むのをじっと待つことになる。そうしたことが年に何回かあり、外食することの不便さを痛感していたのである。
それに、冬になれば流感というやつがある。その年の二月には香港《ホンコン》風邪のB型にとっつかれてまるまる一ヵ月を寝床のなかで暮らしたとき、これだけ長期間にわたると決まりきったメニューの店屋物《てんやもの》にも飽きがきて、しまいには食欲が失せてしまった。こんなときに女房がいればなあ……。つくづくと彼は思ったものだった。
だが、いまのような低収入ではどんな女も逃げ出すに違いない。彼としてはある程度の月収を確保した上で、しかるべき周旋業者なり仲人《なこうど》マニアにたのんで、手頃な女を見つける気になった。では、その収入をどうやって得るか。
これでも文筆家の端くれだから、こうなった場合に小説でも書こうという気を起こすのは当然のことである。といって、彼には時代物を書くだけの素養はないし、甘美な恋愛小説なんぞは馬鹿馬鹿しくて書く気にはなれなかった。結局、もっとも取っつきやすいのは推理小説であるという結論に達した。
推理小説のなかでも本格物はうまく書けそうもない。あのトリックというやつが簡単には思いつけなかったし、たとい上等のトリックが頭に浮かんで傑作ができたとしても、プロ作家として立つには第二作第三作のトリックを考案しなくてはならない。それは考えただけでも身の毛がよだちそうな、地獄の責苦《せめく》を味わわされるような気がした。
そう思って気がついたのだけれど、本格物の作家というのは大半が禿《は》げているのである。甲賀三郎《こうがさぶろう》、江戸川乱歩、浜尾四郎《はまおしろう》……。降《くだ》っては鮎川哲也もすっかり薄くなってきた。トリックの案出に憂《う》き身をやつして七転八倒《しちてんばつとう》し、そのうえ自分でも夢中になって髪の毛をかきむしるものだから、禿げるのは無理もないのである。それに引き替え、本格物以外のジャンルの作家はほとんどが、ふさふさとしている……。この崇高にして厳粛な事実! 彼には、これらの作家の写真を見ただけで本格物を書くことがいかに困難であるかがよく理解できた。本格物なんて真っぴらごめんだ、おれはスリラーかハードボイルドでいこう。
だが、そのスリラーもハードボイルドも彼には書けなかった。いや、ホラーも書けない、奇妙な味のものも書けない。原稿用紙はいうまでもなく、下書き用のメモ用紙も真っ白のまま三日目が過ぎ、四日目が過ぎた。こうして絶望的な気持ちになった彼の心に浮かんだのは、戦前の大衆作家の誰彼のことであった。
聞くところによると、戦前に名を馳《は》せた時代物の作家AあるいはB、ユーモア作家として一世を風靡《ふうび》したCあるいはD等々の作品をいま見ると、当時は純然たる創作と考えられていたものが、じつは翻案である例がかなりの数にのぼっているという。横文字を縦《たて》に書き直しただけという安直なものもあれば、外国の二つもしくはそれ以上の長篇を混ぜ合わせて、あらためて一つの物語を創り出すという器用なことをやった作家もある。
おれもその手でいこうじゃないか、と彼は思った。幸いなことに、原書を読破するぐらいの語学力は身につけている。図書館に行って、日本では陽《ひ》の目を見ることのなかった作家を探し出し、その作品を焼き直せばいいではないか。そして、書き上げた小説を誰か名を知られた作家のところに持って行って、その紹介で雑誌社に売り込む……。なんだか成功しそうな気がした。果然《かぜん》、目の前がバラ色に見えてきた。
こうして彼はその翌日から図書館に出かけることにした。一週間というものは何の発見もなかったが、八日目に駿河台《するがだい》の図書館で遭遇《そうぐう》したのが、ガイ・ブースビイという作家の通俗冒険長篇小説であった。軽くてサスペンスに富んでいて、物語がおもしろい。天性のストーリイ・テラーだ。
これだ、こいつに決めた! 彼はひそかに快哉《かいさい》を叫んだ。
Eの2
経済事情が許せば一巻全部をコピーにとって、ゆっくりと自宅で翻訳すればいいのだが、生憎《あいにく》なことにこのところ懐中が淋しかった。だから、彼のほうから図書館に赴《おもむ》くほかはないのである。彼はインスタントラーメンの朝食をすませるとピーナッツバターを塗った食パンをビニールの風呂敷にくるんで、手弁当で出勤した。
学生時代に熱心に勉強したわけではないのだが天分があったとでもいうのだろうか、彼は英語がうまかった。ただし、得意なのは英語だけであり、第二外国語のドイツ語はとうとうものにならなかったから、必ずしも語学の才能があったとはいえない。ただ英語だけは自分でも不思議に思うほど進歩が早く、中学、高校、そして大学を通じてクラスのトップを切っていたのである。
その彼にとってブースビイの文章は楽に読むことができた。気取りのない素直な英語で書かれているからである。
図書館にあるブースビイは五冊。それを読了するのに一週間かかり、そのなかで最もおもしろい作品をノートに訳出するのに二週間かかった。あとは自分の部屋で机に向かい、ノートを参照しつつ登場人物を日本人に置き換え、舞台を日本国内に移して書き直す。なんといったってお手本があるのだから、創作することに比べれば楽なものである。六百五十枚の長篇を三週間で脱稿した。
いまでこそ篠崎豪輔は牧逸馬の再来とうたわれる巨星だが、原稿が売れない新人の頃には屋台のおでん屋でコップ酒を呑んだ仲間であった。だから、編集者のいるところでは一応豪輔の顔をたてて篠崎さんと呼びかけることにしているけれど、二人きりになると呼び捨てである。篠崎のほうで露骨にいやな顔をしてみせることがあっても、彼はいっこうに気づかぬふりをして、依然として「おい篠崎」と呼んでいる。
ともかく二人はそうした間柄なので、原稿の紹介をたのんでも断わられるという心配はなかった。果たして、なんの予告もせずに郵便で軽井沢の新居あてに送りつけると、十日ほど後に電話がかかってきて、豪輔にしては珍しく手放しで褒《ほ》めてくれた。
「文章がちょっと気取りすぎている。やっぱり随筆家の文章だなと思ったが、プロットがすばらしい。こういっては失礼だけれども、きみに、一介の随筆屋のきみにだよ、あれだけの構想力があるとは思ってもみなかった」
「イヤ、なに」
短く答える。いかにも謙遜しているようで、奥床《おくゆか》しく聞こえるはずだ。
「それに登場人物の性格づけがよくできている。特に磯部《いそべ》かつ子なんてのはおもしろく書けてるなあ。ああいう女を創造することができたというのはたいした才能だよ」
「イヤ、なに」
「それから、山あり谷ありというプロットだがねえ、あれだけのものを案出できるというのは凡手ではないね。くり返すようだけど、きみにそれだけの才能があるとは思いもしなかった。じつをいうと、見くびっていたんだよ、能なし猿だなんてね」
「イヤ、なに」
かるく受け流したものの、能なし猿は事実なのだから、胸中おもしろくなかった。だが、大望を抱く身なのだ、こんなことで腹を立てるわけにはいかない。
「で、なにかね、どこかの出版社に売り込んでくれというのかね?」
「ああ。多忙なきみにそんなことを頼んではすまんと思うんだがね、なんてったって第一人者であるきみに口をきいてもらえば、いやだという出版社はないだろうからね」
「そんなことはない。もし出版社がOKを出したら、それはきみの作品がすぐれているからだ。ま、親しい編集者がないわけでもないから、おりを見て紹介してやろう。だが、目下のところ多忙でね、夏頃には暇になると思うから、それまで待ってくれないか」
「いいとも」
「もし印税の前借りをしたいというなら、出版社にかわっておれが金を出してもいいんだぜ」
やはり旧友だけのことはある。編集者に対しては不遜《ふそん》だといわれ陰口を叩かれている豪輔も、彼に対しては思いやりのある態度をみせてくれるのである。
「いや、ありがとう。だが、それほど貧乏をしとるわけではないよ。心配しないでくれ。ハハハ」
痩《や》せ我慢をしてみせた。
Eの3
夏のはじめに豪輔からまた電話がかかり、もう一ヵ月ばかりすると暇になる、暇になったらさっそくお前の原稿をしかるべき出版社に持ち込むつもりでいる、という親切な内容の連絡があった。
その日の彼は朝めしと晩めしをゴマ塩の握りめしで過ごすといった窮迫した状態にあったが、相変わらずのから元気で豪放磊落《ごうほうらいらく》に笑って余裕のあるところをみせた。あと三日待てば、わずかではあるにしろ、随筆の稿料が入るからである。
それから二十日ほどたった頃のことだった。朝刊をひろげた彼は、ある出版社の全五段の広告を見て衝撃をうけ、蒼白になった。ガイ・ブースビイ全集が発刊されるというからである。そこにはブースビイの長篇の題名が列挙してあり、流行作家や映画俳優の提灯《ちようちん》記事が幾つか載せられていたが、彼の目には何も映らなかった。
これは大変なことになった。もしあの原稿が翻案であることを知ったら、豪輔の性格からして激怒するに違いないのである。単に怒られるだけなら平気だけれど、いったん怒ったら執念深い豪輔のことだ、あらゆる手段に訴えて彼の進出を妨害することは明らかだった。現に、豪輔の原稿を紛失したという理由で、一人の編集者を出版界から追放したといわれるほどの意地のわるい男であり、同時に強大な影響力を持つ男なのである。
さすがに楽天的な彼も今度ばかりは打ちのめされてしまった。人間イザとなれば肉体労働をやっても喰っていけるものだが、後に触れる事情で非力な彼の場合は、それができなかった。公共職業安定所へ出向いても、ひと目見ただけで断わられてしまう事情にあった。だから彼としては、遅蒔《おそま》きながら作家として出発するほかはなかったのである。
すでに彼には意中の人がいた。近くの小料理屋で働く二十九になる淑江《よしえ》という女で、出戻りではあったが朗らかで器量がよかった。別れた夫がアルコール中毒でなにかというと細君を撲《なぐ》ったという。それに対して同情したことが彼女にとってみると嬉しかったらしく、以来、どちらからともなく好意を抱いて接近するようになっていた。いまの彼は二十《はたち》代の青年のように、淑江に夢中だった。執筆に疲れるとペンを投げ出して彼女のことを想い、将来の生活の設計を描くのである。だが、作家の道を閉ざされたが最後、彼には喰っていく途《みち》がなく、同時にそれは淑江の喪失を意味することになる。
机の上に肘《ひじ》をつくと、掌《てのひら》に顎をのせた恰好で、彼は一時間ちかく考えつづけていた。そしてようやく到達した結論は、軽井沢の豪輔を訪ねて、なんとか口実をもうけて原稿を取り返すか、さもなくば盗み出すことであった。それ以外には方法がない!
Fの1
豪輔が推理小説の第一作を書いたときから、二人はコンビを組んでいた。題名の下に作者の名がふとい活字で篠崎豪輔としるされ横に彼女の名がつつましやかにより添っている。挿絵《さしえ》画家はつねに女房役だから小さな活字で並べられるのもやむを得ないが、その大小の字面《づら》やピッタリとくっついた姿を眺めていると、いっそのこと篠崎とほんものの夫婦《めおと》になれたら、と思うようになった。豪輔が独身をつづけているといった噂は編集者の誰彼から耳にしている。そうした話を聞くたびに、彼女は身ぶるいが出るほどの興奮を感じるのである。
彼女には古風なたしなみが身についていたから、直接に行動に出るようなはしたないことはできない。まして電話をかけてデートを申し入れたり手紙を書いたりすることもはばかられた。そこでそれとなく自分の真意を示そうとして、豪輔以外の作家の絵を描かないことにしたのである。
「せっかくですけど、あたくし、他の作家の方とは組みたくありませんの。やっぱり、呼吸がピッタリ合った方とでないと、よいお仕事はできませんものねえ」
話を持ち込んだ編集者はオヤといった顔で帰ってゆき、彼女は彼女でうまくいきそうだわとほくそ笑むのであった。
電話あるいは直接に訪ねて来て依頼される仕事の話を、彼女は片端《かたはし》から蹴った。はたから見ていると、懸命に、必死になって蹴っているという感じがした。それは彼女の希《ねが》ったところであったから、作戦は成功といってもよいだろう。もちろん、豪輔の挿絵は入念に描いた。身を焦《こ》がしながら、身も細る思いで描きつづけた。
編集者のあいだでそれが噂となるにつれ、他の作家は腹を立て、名ざしで彼女に描いてもらいたいという声が聞かれなくなった。彼らのあいだには「豪輔がなんだ」という反撥がある。そして、その豪輔一辺倒の画家に対しても、当然のことだが白い眼がそそがれるようになった。美人女流画家として騒がれた一年前に比べると、収入は半分ちかくに減った。しかしコピーにとって送られてくる豪輔の生《なま》原稿を読み、各場面の図柄をあれこれと考えているだけで一切の苦労を忘れることができた。彼女は、ある種の選ばれた信徒がそうであるように、法悦《ほうえつ》にひたっていたのである。
そうした頃のこと、彼女は三浦三崎《みうらみさき》の城《じよう》ケ島《しま》に日帰りの旅をした。高校時代の旧友たちにさそわれて、童心に戻って半日を楽しく遊んだ。そのとき、白秋《はくしゆう》の碑にしるされた相合傘《あいあいがさ》のいたずら書きを目にした瞬間、このアイディアが浮かんだ。彼女は豪輔の挿絵のなかで大きな板塀を描くとその片隅に、無教養な若者がするような相合傘のいたずら書きを添え、右側にG・Sとしるし、反対側に自分のイニシアルを記入した。これを目にしたときの豪輔がどんな顔をすることであろうか。それを考えると彼女の頬に微笑がじわじわとひろがってゆき、朱《あか》い唇が割れて白い歯が――といってもタバコのヤニに染まってうす黒く汚れてはいるが――顔をのぞかせた。
だが、この相合傘の件は豪輔には一向に通じないで、皮肉なことに、編集者や作家のあいだで大きな評判となっていった。週刊誌がコラムで冷やかしたり新聞の文芸欄で意味ありげに取り上げられたりするに及んで、ようやく豪輔の耳に入ったのである。
そのときに居合わせた編集者の話をまた聞きしたところでは、豪輔は真っ赤になって雑誌を叩きつけると、「あの売女《ばいた》!」と叫んだそうである。若い編集者は「バイタ」という言葉の意味を知らぬものだからケロリとした顔で話して聞かせるのだが、彼女はそれが女性に対する最大級の侮蔑《ぶべつ》であることを知っていた。彼女は見る見るうちに顔面蒼白となり、目がクルッと半回転したかと思うと黒目が上瞼《うわまぶた》の下にかくれて、白目を剥《む》いた表情になった。そしてつぎの瞬間、ドサリと音をたてて編集者の前につんのめってしまったのである。
彼女は、豪輔がひじょうに気位《きぐらい》の高い男であることなんぞまったく知らなかった。後で考えると、それは顔が赤くなるほどの滑稽な独《ひと》りずもうであった。
豪輔が、コンビの解消を各誌の編集部に申し入れたことによって、彼女はますます世間に顔向けができなくなった。しかも、かつて彼女のほうから断わったこともあり、他の作家も彼女をつまはじきしていた。つまり、それ以後の彼女には、ぽっと出の新人の挿絵を担当するほかはなかったことになる。が、そうそう新人が出現するわけでもなく、手っ取り早くいえば、彼女は飢える一歩手前にあった。
豪輔のほうは役者が一枚も二枚も上だから、頭から絶交を申し入れるような子供じみたことはせず、逆に軽井沢の山荘に遊びに来るように誘う有様である。彼女はますます逆上し、その手紙を丸めて床に叩きつけたりする。
Gの1
いまでこそ彼は報道写真家として世界的に著名な存在だが、若い頃は山岳写真を専門に撮《と》りまくっていた。事実、写真に関心を持つ人々のあいだでは、風景の専門家、それも山の写真の専門家として有望株のトップに数えられていたのである。その彼がいままで撮りまくった山岳写真をことごとく焼却して、社会派に転向したことについては、一つの秘話があった。
それはある年の冬のこと、彼が矢《や》ノ根《ね》の樹氷を写しに行ったときのことであった。東京から同行したのは友人の篠崎豪輔と、彼がまだ写真学校の学生だった時分にしばしばモデルになってもらった紀久代《きくよ》の二人だった。豪輔とは郷里が同じであるということから県人会で知り合い、たいして深いつき合いでもなかったが、矢ノ根で滑りたいということでついて来たのである。一方、彼と紀久代とはまだ婚約をしておらず、いってみれば仲のよい友人であった。一人前の写真家になったら、胸を張って求婚する気でいたし、紀久代のほうも彼の気持ちはよく判ってくれていた。だからこそ、誘いをかけたのであった。
当時の彼女は日本橋のある化粧品会社の専属モデルとなって、カラーポスターが全国の化粧品店の店先に飾ってあった。いうまでもなく、誰と比べても見劣りのしない美女である。一般的にいって美人であることを意識した女はそのことを鼻にかけて驕慢《きようまん》になるものだけれど、紀久代にはそうした嫌らしさがなかった。単なる美人モデルならばいくらでもいる。だが性格のいい美人というのは数が少ない。彼が紀久代に強く惹《ひ》かれたのはその点にあった。
「紀久代さんは綺麗なひとだねえ」
と、豪輔がまぶしそうにいったのは、上野《うえの》を出てから一時間ほどした頃である。列車はようやく宇都宮《うつのみや》に入ろうとしていた。紀久代は蜜柑《みかん》を買うのだといい、デッキに立って行った。座席には二人だけだったのである。
「それほどでもないさ」
彼は、腹のなかとは逆のことを答えた。おれは彼女に参ってなんかいないぞ、という見栄がそうさせたのだ。
「ほう、傑《えら》いもんだな。おれなんぞ横顔見ただけで目がくらっとする。一度でいいから手を握らせてもらいたいもんだな」
「口説《くど》いてみるんだな。どうせ振られるのが落ちだろうが」
「ほんとか、おい? 口説いてもいいのか」
「おれに訊くことはないだろう。べつに婚約をした間柄でもないんだから」
彼には自信があった。どうせ拒否されることは決まっているのだし、断わられてションボリとする豪輔の顔を見てやりたいと思った。このラジオ作家の卵は女にかけても名打ての豪の者であり、事実、つい先日ひらかれた県人会のとき、あっという間にお座敷女中を手なずけてしまったという。おなじ男性として、彼は豪輔のドンファン気取りが気にさわっていた。一度こっぴどく肘鉄《ひじてつ》を喰わされ、ぐうの音《ね》も出ない目に遭《あ》わせてやりたい。それが彼の本音でもあった。
列車がその駅についたのは午後の三時過ぎ。駅から矢ノ根温泉の宿までは、タクシーを避けて乗り合いのソリで行った。それだけに時間がかかって、旅館に着いたのは五時に近く、もうあたりはほの暗くなっていた。
湯に入り、納豆《なつとう》汁なるものをはじめて味わってから、彼は一人で自分の部屋に引っ込んだ。サロンに紀久代と豪輔とを残したのは、口説きのチャンスをあたえるためである。彼には自信があった。間違っても紀久代が首を縦に振るようなことはしないという、確信を持っていた。だからその二時間ちかいあいだを終始テレビを見ながら、ときには腹を抱えて笑っていたのである。
ドアが叩かれて紀久代が入って来たのはちょうどブラウン管の喜劇が終わって、コマーシャルが始まったときだった。彼はすぐテレビを消した。
「どうした、様子が変だぜ」
とぼけて訊いた。
「おかしいったらないの、篠崎さんがあたしを口説こうとしたのよ」
「あいつは豪傑だからね。女とみれば口説きたくなるんだ。で、どうした?」
「もちろん、断わったわよ。あたしには心に決めたお方がありますからって」
「で、彼はどうした?」
「いまのは冗談だ、きみの出方をテストしてみたんだって弁解していたけど、なんだか照れかくしみたいだったわ」
紀久代はクスリと声を殺して笑い、彼もまたそれに合わせて忍び笑いをした。豪輔は隣りの部屋にいるはずだから、笑い声を聞かれては困るのである。
Gの2
翌日は朝から晴れ上がっていた。三人はそれぞれ派手なアノラックを着てロープウェイで矢ノ根の頂上に登った。彼の目的は滑ることではなく、樹氷の撮影にあったので、単独行動に移り、豪輔と紀久代の二人はスキーに専念した。紀久代は今日の青空のように明るく朗らかで、しばしば声をたてて笑った。仕事をしていて急に笑い声が聞こえてき、オヤと思って振り返ると、赤い彼女のアノラックが雪煙りを上げて滑って行ったりした。豪輔のほうは彼女ほど巧《たく》みには滑れないので、いつの間にか三人は別々の行動をとるようになっていた。
彼女の行方《ゆくえ》が判らなくなっていることに気づいたのは、その日の夕方のことである。宿に帰って待っていたが、一時間たち二時間過ぎても紀久代は姿を見せなかった。豪輔はひと足はやく帰っており、すでに入浴をすませて、硫黄《いおう》のにおいをプンプンさせながら、これもサロンで夕刊を読んでいる。
八時になっても帰らないため遭難は確実ということになって、地元の警察署員と消防団員とが動員され、宿の番頭、それに彼もそのしんがりに加わって捜索が始まった。豪輔もオーバーを着てダルマのようにふくれ上がった姿で参加した。
午前中の晴天が午後になると一転して雪|催《もよ》いの空になり、夕方から綿をちぎったような雪が降り始めている。下手《へた》をすると紀久代の凍死という事態にもなりかねない。サーチライトと松明《たいまつ》の灯りの交錯するなかで、彼のひきつった顔が異様に歪《ゆが》んで見えた。捜索隊員は口々に紀久代の名を呼んだが、応える声は聞かれなかった。
彼女の屍体はその翌《あく》る日になって、まるで方角違いの谷底で雪につっ込んだ恰好で凍《こお》っているのを発見された。見つけたのはスキーツアーの若い学生たちで、大学の寮のある村に向けて走行中に、雪の上に横たわっている真っ赤なアノラックを見つけ、双眼鏡のピントを合わせてそれが半ば雪に埋もれた屍体であることに気づくと、そのなかの一人が急を駐在所に告げたのである。
紀久代はまったくの事故死であって誰も咎《とが》めるわけにもいかなかったが、なぜこんな見当違いの方向に滑り降りたかというのが疑問であった。
彼が後になって知ったのは、黄色いアノラックを着た男が赤いアノラックの女に対して、しきりにその方角を指さして何かを指示しているのを見た、という目撃者の談話だった。女は一つ頷《うなず》くと、雪煙りを上げて滑降して行ったが、その方向に紀久代の遭難した谷底があるのである。黄色いアノラックを着た男は幾十人となくいたし、赤いアノラック姿の女性もその倍はいた。だからそれが豪輔と紀久代であったと断定することはできないが、仮りに豪輔が「きみの大切な人が呼んでいたぜ」といって指させば、紀久代はただちに教えられた場所へシュプールを描いて直滑降したに違いないのである。そして遭難現場は、土地の人が恐れて接近しようとはせぬ硫化水素の噴湧《ふんゆう》地なのであった。前の年にもスキーツアーに出かけた新婚夫婦が不運な死をとげ、二、三の週刊誌に報じられたことがある。
彼は、豪輔が昨夜の復讐をしたことを直感した。
第二部
一 鏡は横に……
1
「この部屋のクーラーの造り出す冷気は人工的なものだからね、どうも工合がよろしくない。不自然なんだな」
編集長は盛大な音をたてて洟《はな》をかみ、夏風邪はしつこいからと低い声でぼやいた。
「そのかわり信州《しんしゆう》はいいな。夏場の信州は天国だと思うよ。金さえあれば向こうに家をぶっ建てて、別荘暮らしとやらをやらかしてみたいもんだ」
立ち上がると編集室の隅にある手洗い場で、指先を洗い、ハンカチで手を拭《ふ》きながら戻って来た。いま、この編集部では全員が出はらって、あいたイスが思い思いの方角をさしている。
「しかしだな。おれみたいに|※[#「木」へん+「兌」]《うだつ》の上がらぬ編集者は別荘なんてものとは生涯縁がない」
「はあ」
「お前、へんなときに相槌《あいづち》を打つな。いまのは謙遜だぞ」
「はい……」
「というわけでだ、あちらの冷たい空気に当たってくるのもいいと思うが、どうかね。第一、気分転換にもなる。この仕事をきみにやろうか」
「…………」
「ほかの連中のいるところで持ち出すと、彼らやっかむからね。編集長はエコヒイキをしていかん、なんていってね」
「…………」
「だからさ、いまのうちに話をまとめてしまおうと思うんだが、どうだね」
「…………」
「帰りは少しぐらい遅くなってもいいんだ」
東京は暑さでうだっていた。編集長がいうように社内の冷房が不愉快だとは思わないが、信州の「天然冷房」とは比べものにならない。わたしは一も二もなく承知した。北佐久《きたさく》郡に住む作家を訪ねて原稿を受け取り、近くの別所《べつしよ》温泉でひと風呂浴びて、日が暮れてから帰京する……。こんな結構な出張はない。
「行ってくれるか」
「参ります」
「よし、それでこそきみだ!」
編集長は文法的にわけのわからぬことをいい、すぐ経理に社内電話をかけて旅費を切らせた。
「出かけるのは今日ですか」
「ああ。昼めしは駅弁ですませるといい。急行に乗ると、ちょうど横川《よこかわ》駅を通過するのが正午頃になる」
「はい」
「だが原稿を貰ったら紛失しないように気をつけるんだぞ」
いわれるまでもないことだ。
「電車のなかに落としたためにクビになった編集者もいる。いまから四、五年前の話だ。あの先生がまだ東京に住んでいた時分だ」
「…………」
「この二、三年のうちに文名いよいよ高くなっている。それに比例してますます傲岸《ごうがん》不遜になったというのがもっぱらの噂だ、気をつけろよ」
話がおかしい。
「もしかすると、編集長のいうのは篠崎豪輔さんのことではないですか」
「ご名答だ、まさしくそのとおりだよ」
「ひでえなあ、篠崎さんのところなら割増料金をはずんでもらいたいなあ。ほかの連中がやっかむとか何とか調子のいいことばかりいうんだもの」
「アハハ、別所温泉ならおれが行ってもいいよ。まあ、きみの名で旅費を切ってしまったのだから、今回は観念して出発するんだね」
さすがの編集長も目のやり場に困ったのか、あたふたと上衣のポケットをまさぐってシガレットケースを取り出すと、一本を口にくわえ「きみもやらんかね?」とお愛想をいった。わたしが酒もタバコものまぬことは知っているくせに。
篠崎豪輔は編集長のいうとおり傲岸無礼の名がたかく、偏屈者で意地がわるくて評判のよくない作家だった。だが傲岸であり不遜であるのは、彼にそれだけの自信があるからにほかならない。豪輔には陰にブレインがいるのではないかと噂されるほど、旺盛な作家活動をみせていた。
ある新聞が二十世紀のアレクサンドル・デューマに例《たと》えたら、さっそくこの作家じきじきの長距離電話がかかってきて、クレームがついた。デューマの作品は創作工房というべき弟子のグループが協力して成ったのであるが、自分はあくまで単独でやっておる、デューマがごとき輩《やから》に比べられるのは迷惑至極だというのである。このことで豪輔の文名は一段と高くなった。
出版社がちやほやすれば彼が慢心するのも当然だ、と唱《とな》えるものもいる。豪輔を天狗《てんぐ》にしたのはジャーナリズムだと説くものもいた。いずれにしても篠崎豪輔が一、二を争う流行作家であることは事実であり、各雑誌が豪輔|詣《まい》りと称して軽井沢の山荘へ行き、なんとかして執筆してもらおうと叩頭《こうとう》することも事実であった。昨今一部の編集者のあいだでは軽井沢天皇と呼ばれているのだが、この呼称は、古風な表現をするならば「燎原《りようげん》の火の如く」ジャーナリストの世界に浸透しつつあった。いまや豪輔は雲の上の人となったのである。
そうした奢《おご》りたかぶった豪輔が、編集者たちに評判のいいわけもない。だからある社では担当者を決めずに廻り持ちということにしたり、また別の社では豪輔当番の編集者に「不愉快料」といった名目で手当をつけたりしている。だがその特別手当も、不快さを忘れるための焼酎《しようちゆう》代に化けたり、ゲームセンターへ行って鬼の標的にぶっつける癇癪玉《かんしやくだま》の代金になってしまったりで、逆に足が出ることもあるという。
うちの編集部でもこの輪番制に近いやり方をとっていた。編集部のなかにも強情なやつもいれば口下手なやつもいる。そしてわたしのようなお人好しもいる。編集長はこうした好人物、頼まれればイヤとはいえない、男のなかの男一匹といえば聞こえはいいが、実際には命令を拒否するだけの度胸もバックボーンも持ち合わせていないイエスマンたちを交互に狙い、脅かしてみたり泣き落としてみたりして軽井沢詣りをさせるのだ。もちろん、これは不愉快きわまりない仕事だけれども、わたしが他の編集者ほどに嫌がらないのは、豪輔の秘書をしている女性とウマが合うからであった。単なる秘書としてばかりではなしに、豪輔の広い山荘のきりもりを委《まか》されているくらいだから頭のいい女性であることはいうまでもなく、他の編集者のなかには彼女を煙たがる向きも多い。だがどうしたわけか、わたしと彼女は気が合うのである。豪輔から受けるマイナスの面は彼女によって中和され、毎度わたしは愉快な気持ちで社に戻って来るのだった。もっとも、このことは同僚にも喋っていない。だから、これは彼女とわたしだけの秘密ということになる。
2
指定券が買えなかったため軽井沢駅まで立ちつづけだった。ただ立っているだけならいいが、片足にかけた体重をべつの足に移すこともままならぬくらいの超満員である。いうまでもなく大半が避暑客だ。夏場は都会の暑気を避ける人々で、冬季はスキー客で混むのは判り切った話なのだから、国鉄も車輛をふやした臨時列車を走らせたりすればよかりそうなものなのに、そこまで知恵が廻りかねるらしい。すし詰めで客をいじめ抜いておいてなにが乗客サービスか。運賃を値上げされたときの腹立たしさが、終始わたしの心のなかでくすぶりつづけた。
編集長も、横川駅で弁当を買えなどと非現実的なことを、よくもぬけぬけとほざいたものだ。釜めし弁当もゴルフ弁当も買えたものではない。こうと知っていれば社を出る前にラーメンでも喰っておくのだった。駅弁をあてにしていたわたしは空《す》きっ腹をかかえて列車のなかで何度か気がとおくなりかかったものである。
ようやくのことで軽井沢駅につき、列車から押し出された。わたしは蘇生《そせい》した思いで何回か深呼吸をし、にぎり拳《こぶし》で交互に肩を叩いた。そして両腕を宙にさし伸べて、思い切りノビをした。
駅前の食堂で、冷やし中華というけったいな代物を喰わされ、どうやら人心地を取り戻してからタクシーに乗った。軽井沢に別荘を持つ作家はほかにも沢山《たくさん》いるから、わたしも何度となくこの駅に下車したことがあるのだが、それでもなお地理がのみ込めない。豪輔の山荘がどこにあるのか見当もつかないのである。だが、タクシーの運転手に一言、篠崎豪輔邸へと伝えれば、あとは眠ったままで運んでもらえる。軽井沢の運転手で豪輔の山荘を知らないものはいないからだ。
篠崎豪輔が軽井沢の奥深いところに家を建てて東京脱出をはかったのは、もう三年も昔のことである。場所が不便なせいもあって地価が安く、何年か前に三百平方メートルほどの土地を持っていた豪輔はあらためて周りの山林を買い取ると、これを整地して、しめて九千平方メートルという広大な敷地を手に入れたのである。庭に狸《たぬき》が出るといった噂を耳にしたとき、東京の編集者たちはまさかと笑ったものだが、これだけ広ければ狸がいても狢《むじな》が住んでいても不思議はない。わたし自身が夜中に牡狐《おぎつね》のコンコーンと啼《な》く声を耳にしたことがある。リスなんぞに至っては、日中から周辺の木の枝で見かけるくらいであった。
豪輔はその「原野」の真ん中に馬鹿でかい鉄骨造りの家を建てた。竣工なった新邸は、上下合わせて二十ちかい部屋がある。四十歳すぎてなお独身の彼にそんな大きな塒《ねぐら》は必要ないではないかという意見があちこちで囁《ささや》かれ、口の悪いジャーナリストのあいだでは「持ちなれぬ大金を持つとああなるものだよ」などとやっかみ半分の陰口が交わされた。部屋数が二十などと聞かされても、二DKのアパートに住むわたしには見当がつきかねたものだが、はじめてこの山荘を目にしたときにはぶったまげた。さらに邸内に入ってその内部装飾、特に私室のインテリアを見せられたときは息の根が止まりそうになったものだ。われも人なり彼も人なりという古諺《こげん》がある。その言い古された言葉がなんともそらぞらしく思えることを、わたしはつい一週間前のようにはっきりと記憶している。
豪輔は生来タフな男であり、ときには非情な男だといわれるのだけれども、そのふてぶてしい豪輔が世間の噂を気にしたとは思えない。おそらくは最初からの計画だったのだろうが、やがて彼は、空いている部屋を作家やジャーナリストに提供したいと言い出し、各室に小さな洗面台と押入れとを取りつけると、われわれに開放してくれたのである。それはまさしく開放であった。利用者はビタ一文の料金も払わずに泊まることができたし、タダめしを喰うことができた。欲望は無限なりとは経済学でいわれることだが、ずうずうしい編集者のなかには、これで酒まで出してくれれば申し分ないなどとないものねだりをする連中もいた。だが、これは少し虫のいい願いだというべきだろう。
とはいっても、豪輔の計画が百パーセント活《い》かされたとは思えなかった。ジャーナリストや画家、その他に校正マンだとか写真家などが喜んでこの山荘を利用するに反して、同業たる作家は、いまだかつてただの一人も泊まりに来たことがない。戦国時代の話として、関白《かんぱく》となった秀吉《ひでよし》から招きを受けた往年の同僚が、その招請《しようせい》をいさぎよしとせず自殺をとげたというエピソードが誌《しる》されている。その憤然として死んだ城主と似た心情を、多くの作家が抱いているのは当然のことであった。口には出さないものの、彼らは一様《いちよう》に豪輔に対して敵愾心《てきがいしん》を持っているようであった。敵視したといってはおだやかでないというならば、ライバル視していたと言い直してもいい。しかもこのライバルは、誰がどう逆立《さかだ》ちをしても敵《かな》うはずのない相手なのである。豪輔に対する彼らの反撥はそれに反比例して強烈であり、より徹底的であった。
多分、後でそれを知った豪輔は激怒したかもしれない。あるいは同僚作家の肝っ玉の小さいことに呆《あき》れ返り、憫笑《びんしよう》を浮かべたかもしれない。あるいはまた、自分のお人好し加減を指摘されたように思って、そっと苦笑を洩らしたとも想像されるのである。それはともかく、やがて四年になろうというのに、作家は依然として誰ひとりやって来なかった。彼の周囲につどうものはすべて豪輔におべっかを使う連中ばかりであり、作品について忌憚《きたん》のない意見を聞かせてくれるような人間は一人もいないのである。負けず嫌いの豪輔が胸中の充《み》たされぬ想いを洩らすわけもなかったが、共に語る友人のないことを、秘《ひそ》かに淋しく感じているのではないだろうか。車に揺られながらわたしはそうしたことを考えていた。タクシーは落葉松《からまつ》の林のなかを走りつづける。いつもならば、白秋の有名な詩を思い浮かべ、そっと口ずさんでみるところである。
豪輔は、この山荘に一年をつうじて住まっているのであって別荘ではないのだから、部屋は四季をつうじて提供されている。しかしいくら物好きの揃ったジャーナリストたちも、寒気のきびしい真冬に軽井沢くんだりまで出かけるはずもなく、利用客が来るのは晩春から初秋にかけてのことで、特に夏場がもっとも多かった。シーズンになるとこの山荘はホテル並みの賑《にぎ》わいをみせ、前もって予約をしておかないと部屋をとれぬこともある。今日はどんな顔触れが泊まっているのだろうか。旧知のジャーナリストと思わぬ対面をする可能性もあって、それもまた楽しみの一つになっていた。
やがて落葉松の枝をとおして山荘が見えてきた。道が大きなカーブを描いており、車がそれに沿って曲がると、豪輔邸は真正面に建っていた。大半の窓が開け放たれているので、誰かの姿でも見えるのではないかと眸《ひとみ》をこらしたが、動くものは何一つ目に入らなかった。
前にもしるしたように、土地だけで九千平方メートルもあるという広大なものだから、周囲に柵をめぐらせるだけでも莫大《ばくだい》な費用がかかる。そのせいかどうかは知らないけれど、豪輔は垣をしないので、どこから彼の敷地なのかはっきりしない。だから庭はいよいよ広いものに見える。
3
「あらまあ、お暑いところをわざわざお越しくださって……」
お滝《たき》さんという四十半ばの、いってみれば女中頭とでも呼ぶのだろうか、気立てのいい人に迎えられて、一階の右翼にある一室に案内された。お滝さんのご亭主は軽井沢の市役所の吏員《りいん》だったそうだが、結婚して一週間もたたぬうちにポックリ病で死去してしまった。この未亡人は多分に古風な考え方をするたちであるとみえ、貞女は二夫にまみえずといった教えを忠実に実践して、以来小さな文房具屋を営んでいたのだが、その店も、近所に大手のスーパーが進出して来るに及んで、売行きがパッタリと絶え、お滝さんも生活の立て直しを真剣に考えないわけにはいかなくなった。そこに人を介して山荘に住み込みで働いてくれないかという申し入れがあって、渡りに舟とばかり喜んでこちらに移って来たのである。
商売をやっていたせいか如才がなくて客あしらいが巧《うま》い。しかも誠実な性格の人だから、訪れて来る編集者たちにも受けがよかった。勘ぐってみれば、豪輔は自分があたえるであろう否定的なイメージを幾分なりともやわらげるために、この未亡人を迎え入れたのかもしれない。
「もう、なかのことはご存じでしたわね?」
「ええ。二、三度泊めていただいたことがありますから」
「ではお見えになったことを野川《のがわ》さんにお知らせしておきます。喉《のど》がかわいていましたら食堂に麦茶がおいてありますから」
「ありがとう。ではさっそくご馳走《ちそう》になりますか」
お滝さんの痩せた体が引っ込むと、わたしは汚れた手を洗って、食堂へ行くことにした。駅前で喰った(というよりも、無理矢理に喰わされた、と表現すべきだろう。なにしろ冷やし中華一品しかできないばかりか、一歩踏み込んだが最後、ただでは帰すまじといった凄《すさ》まじい雰囲気に充ちている店であった)昼食が酸っぱくてしかも塩からくて、おかげで喉がカラカラにかわいていたのである。
冷たい麦茶をコップに一杯|注《つ》いで飲みほし、ひと息ついてから二杯目を注いでいると、かろやかなスリッパの音がして野川ふみ子が入って来た。前にもしるしたように、豪輔の助手でもあり秘書でもあり、この邸の一切をとりしきっている女性でもある。
「ごめんなさい。ちょっとした事情があったものだから遅れてしまって……。まだ原稿は上がっていないのよ」
いかにも申し訳なさそうに身をちぢめ、ふみ子はよくとおる澄んだ声で謝った。パーティに出るときは豊かな長い黒髪を肩の上に波うたせているが、山荘で仕事をするときの彼女はそれを黒いリボンできゅっと束ねるのが常であった。黒のノースリーブのブラウスに同じく黒のタイトスカートを無造作に着ている。真夏に黒い服だと暑苦しく見えるものだけれど、空気の爽《さわ》やかな軽井沢だとそうした感じはまったくなく、ひどく上品であった。女好きで面喰いの噂がたかい豪輔が、さる大手の芸能事務所で働いている彼女に目をつけ、大金を積んで「身請《みう》け」をしただけあって、ふみ子は顔の小さな清潔感にあふれる美人だった。単に美人であるばかりでなく、いまは豪輔にとってなくてはならぬ秘書となっているのだから、必ずしも顔にだけ惚れ込んだというわけでもなさそうだ。女を見るしっかりとした目が、この流行作家にそなわっていたことになる。なお、スカウトしたと表現すべきところを身請けしたといったのは、口さがないジャーナリストたちであって、わたしではない。
見たところ、彼女は体つきがかぼそくていかにも弱々しげな印象を受ける。しかしこれが意外に丈夫で、三日ぐらいの徹夜は平気だというから、豪輔の目はいよいよ確かなものであることが判る。流行作家になれたのも、彼がひとかどの具眼の士だったからではなかったか、とわたしは思う。
「あれ? まだなんですか。編集長は出来上がっているはずだといってましたが」
昨夜軽井沢から編集長のところへ電話が入って、今夜中に仕上げておくから取りに来るように……ということだったのである。
「そうなの、出来上がる予定だからそう申したのよ。ところがその後で急用が生じて……」
「先生に……ですか」
「いいえ、あたしのほうなの。本当のことをいいますとね、急に歯が痛くなってお仕事どころじゃなくなったの」
と、彼女は蒼白い頬を、といっても不健康な蒼白さではないが、その左の頬をそっと押さえてみせた。
「ムシ歯ですか」
「ええ、この頃になって冷たいお水がしみるものだから、歯医者さんに行こうと思っていたんだけど不便でしょ、つい一日延ばしにしていたのがいけなかったのね」
人里離れたところに住んでいると、急病の場合に困るのは当然である。いざとなれば救急車に頼んで指定病院へ送り込んでもらうという方法があるが、歯痛《はいた》ぐらいで呼ぶわけにもいかないし、仮りに来てくれたとしても、救急病院に歯科医がいるわけもない。夜間に発生した歯痛というのはまったく困りものだ。
「どうしました?」
「痛み止めのお薬をのんで、氷を頬っぺたに当ててしのいだわ」
「じゃ、今日はもう歯医者さんに行ってらしたわけですね?」
ふみ子はニンマリと笑って首を振った。赤い舌をペロリと出しそうな笑い方だった。
「痛みが止まるとつい億劫《おつくう》になってしまって……」
それも無理はないと思う。家事のきりもりばかりでなく、東京の出版社からかかってくる原稿|督促《とくそく》、執筆依頼の電話、座談会や講演、テレビの出演といったことまで、彼女が一人でさばくのである。
ほかに秘書の卵みたいな若い女性がいるのだが、生憎なことに彼女は夏の休暇をもらって、目下ハワイへ遊びに行っているのだという。
「そりゃ大変ですね」
「でも、いまの若い子ってそのくらいのご褒美《ほうび》を出さないと、こんな山奥に居ついてはくれないものよ」
「そんなら、あなただって交替で息抜きをしなくては……。ま、どうぞ。ぼくにはかまわずに仕事をなさってください」
「いいのよ、気にかけてくださらなくても。暑いなかを悪かったわね。いまは列車が混んで大変だというじゃないの」
「上野から立ちどおしでした。でも結構楽しかったですよ。美人とくっついたきりでしたからね。ただ残念なのは背中合わせで、向きを変えることができなかったこと」
「いいわよ、負け惜しみをいわなくても。でもね、あたしも怠けていたんじゃないことよ。今朝からずうっとお清書をつづけていたの。あと二、三枚で終わるところまで漕《こ》ぎつけたわ」
そう聞かされてみると、今日のふみ子はいつもと違っているように見えた。根をつめて仕事をすれば当然のことだが、疲れからくる翳《かげ》りのようなものが白い頬のあたりににじみ出ていた。
多作家の豪輔は、おなじ多作家のガードナーからヒントを得たのだろうか、ペリイ・メイスン物のこの作家がやったように小説の内容をテープに口述録音しておき、それを後で助手に清書させるという創作方法をとっていた。テープを回しておいて、原稿用紙に写していくのがふみ子の主たる仕事になる。
昨今の読者は漢字の読解力が落ちたため、各作家ともなるべく平易な文字を綴《つづ》ろうとつとめている。しかしそのあいだにもおのずと作家によって相違があるのは当然で、たとえばA作家が「成程」と書くところをB作家は「なる程」とし、C作家は「なるほど」と仮名書きするように癖を持っている。ふみ子は、豪輔のそうした習慣の一切を呑み込んでいたから、彼女にテープを渡しておけば、後は安心してつぎの創作に打ち込むことができるのだった。こうした優秀な助手でもいないことには、多忙をきわめる豪輔が、一夜のうちに短篇を二本も書き上げるといった離れ技が可能となるわけがないのである。
直接原稿に書く場合は、ときおりペンをおいて読み返してみて、気に入らぬ個所に筆を加えることができる。だがテープにはそれが困難だという欠点があった。必ずしも不可能でないにせよ、リールを巻き戻して問題の部分を探し出すだけでも時間がかかる。これをもとにふみ子が清書するわけだが、豪輔は、清書された原稿に目をとおすと満足するまで朱を入れた上で、決定稿として編集者に渡すのであった。売れっ児の作家にしては異例なことだけれども、そこに豪輔の作家としての良心があるというわけで、この方法は編集者のあいだでも好評だったのである。したがって、いまふみ子は二、三枚で清書がすむといったのだが、上述の理由から、それを受け取って東京へトンボ返りをするわけにはいかない。豪輔がチェックをすませてわたしの手に入るまでには、さらに一、二時間はかかるのだ。
こいつは終列車になるぞ、と思った。
「お願いした枚数は五十枚ですけど、どのくらいふえそうですか」
編集者にとって気になるのは枚数である。プロ作家となると当然なことだが、五十枚という注文に対しては五十枚、百二十枚といった注文には百二十枚といったふうに、ピタッと合わせてくれるのが普通だ。だが職業作家でいながらうまくまとめることができない人もいる。それも、約束した枚数よりもふえた場合は予定していたほかの作品を落としたりしてページ数を調節することが可能だけれども、いざ原稿を貰ってかぞえてみると二十枚たりないなんていうことがあり、こうなると編集部は頭をかかえてしまう。不足分が四十枚というなら、こうしたケースを予想して、組置きにしてある新人の作品をほうり込んで、ページ数を調整することもできる。だが、二十枚という中途半端な枚数ではどう工夫してみても小説一本分にはあたらない。こうした不器用で無責任な作家は編集部泣かせなのである。
その点、プロ中のプロである豪輔がそんなミスをやるわけもなく、安心していてよいのだが、編集者ともなると、原稿を貰ったあとでまず最初に確かめるのは枚数なのであった。
ふみ子は小さな首を横に振り、にっと微笑《ほほえ》んだ。
「いま四十八枚までお清書が進んでいるから、あと二、三枚というところじゃないかしら。オーバーしても一枚くらいよ。それじゃ急いで書き上げるから待っててね」
「はあ」
「お天気がいいから、この後でドライブでもしないこと? 先生が車を使ってもいいとおっしゃるの」
豪輔が清書した原稿に朱を入れているうち、部屋でぼんやりしているのも気がきかない話だ。混んだ終列車で帰京するのは辛《つら》いことだけれども、美人秘書とドライブができるというのは願ってもない幸いであった。
「誰が運転するんです」
いまどきの青年には珍しいといって褒《ほ》められるのだが、わたしは車をいじらない。
「あたくし」
「大丈夫ですか」
「心配なら上手な人をお誘いするわ。みんなで鬼押出《おにおしだし》へ行ってみようと思うのよ」
「いいですね、鬼押出はぼくもはじめてです」
わたしは声をはずませて答え、しかし心のなかではつまらぬことを質問したものだと後悔していた。彼女と二人きりでドライブするから愉快なのであり、どこの馬の骨だか判らぬやつが同乗したのでは楽しさが半減してしまうではないか。
「女の人にたのみましょうか」
こちらの胸中を見抜いたのか、彼女の口調にはわたしをからかうような響きがあった。
「それとも男の人?」
「そんなにいろんな滞在客がいるんですか」
そう訊いてしまってから、また馬鹿な質問をしたもんだと思った。夏場の山荘は千客万来なのである。
「珍客がそろってるわ。お夕食のときは嫌でも顔を合わせるわよ。ね、あなたも晩ごはんをすませてからお帰りになるといいわ」
「そう願えるとありがたいですね」
と、わたしも遠慮はしなかった。この山荘の料理については、編集者のあいだでも定評があるのだった。
「じゃ、車を廻してくるわ」
「そのあいだに少しでも清書しておきましょうか」
「お願いできるかしら。やることは簡単なんだけど」
「できるだけ綺麗な字で書きますから」
ふみ子の手伝いができることを思うと、正直のところ嬉しくてつい言葉の調子もはずむのであった。
すぐに立ち上がって食堂を出た。彼女はわたしの手を引っ張るようにして(やわらかくて冷たい指であり、これもわたしをホクホクさせた)二階の右翼のはずれにある彼女の部屋に連れてゆかれた。そこは彼女の私室ではなく仕事部屋であり、壁にはユトリロの複製画があった。東と南側に一つずつ窓があって、二つの窓にはさまれた恰好で大きな机が置かれていた。机上にはテープをセットしたカセットデッキとイヤホーン、それに原稿用紙とボールペンの青と赤とが載せてある。清書したぶんは片側にまとめて置いてあった。
「うちの先生は全部のお清書がすまないうちは朱を入れようとなさらないのよ」
「誰かからそんな噂を聞かされたことがあります。で、題名はなんというのですか」
答えるかわりに、ふみ子は清書原稿の一枚目を見せてくれた。≪暗闇祝言《くらやみしゆうげん》≫としてある。
もちろん、これは時代物で、執筆する前に豪輔が語ったところによれば、三人の登場人物の独白をならべることで首尾一貫した物語になるという、凝《こ》った趣向のものであった。編集部でも脱稿を心待ちにしていたのである。
「自信作だっておっしゃってたわ」
「編集長がよろこびますよ。いまは優秀な時代小説の作家が少なくてね……」
昨今、推理作家の数はやけに多いのだが、それに比べると時代物の書ける作家が少なくて、どこの雑誌社でも時代小説の作家の出現を待望している。だから時代物の作家を志向するものにとって、いまほど世に出やすいときはないといわれているのである。そうしたときでもあり、豪輔の時代小説が呼び物になることは明白であった。
わたしが机に向かって腰をかけると、ふみ子がカセットデッキの操作の仕方を教えてくれ、「じゃあね」と手を振って出て行った。
4
慣れぬせいもあるのだろうが、テープの声を聞きながら清書するという作業は、やさしそうでいてなかなか時間を喰うものだった。加えて、東北出身の豪輔は発音に癖があるので、うっかりすると意味をとり違えそうになる。それやこれで神経をすり減らさなくてはつとまらない。それでも二枚目を書き上げた頃から調子が出てきて、十五分ちかくかかって脱稿をみた。
「ねえ、同行者が決まったわ。千恵子《ちえこ》さんよ」
書き上げた原稿を三枚ほどチェックしたところに、ふみ子が息をはずませて入って来て、そう報告した。
「あら、もうできたの? 早かったじゃない。ご苦労さま」
「いえ。で、その千恵子さんて誰です?」
「並江《なみえ》千恵子さんよ、知らないの? ベテランの速記者」
「うちでは一度もお願いしたことないですね」
「美人よ。それに独身だわ。こんな奥さんを貰うとご主人は左《ひだり》団扇《うちわ》でいられるんじゃないかしら」
と、彼女は仲人《なこうど》口みたいなことをいった。
「でもあなたには向かないわね、千恵子さんのほうがずっと年上だし、それに……」
いいかけた言葉を途中で切ると、手早くわたしの清書と先に出来上がっていたぶんとを一緒にして、机の上でとんと揃え、小脇にかかえ込んだ。
「まだお昼寝の時間にはならないわね」
ふみ子は腕時計を見て独語した。これも噂で耳にしているのだが、夏場の豪輔は午後になると仕事部屋のベッドにごろりと横になって仮眠をとる習慣がある。涼しい軽井沢での彼のまどろみは、暑い東京であくせく働いているわたしなどからすると、羨望に堪《た》えなかった。
「じゃ行きましょう」
ふみ子はわたしの片手をとると部屋を後にした。
「シャワーを浴びてさっぱりなさるといいわ。食堂で待ち合わせることにしましょうよ」
彼女は清書原稿に朱を入れてもらうべく廊下を歩いてゆき、わたしは階段の裏手にあたる浴室で汗を落とした。と、さっぱりとした気持ちになって髪に櫛《くし》を入れているわたしの耳に、開いたドアをとおして女性の話し声がつつぬけに聞こえてきた。一人はふみ子だが、もう一人は艶《つや》のある低音の持主で、一瞬わたしはてっきり声楽家が泊まりに来ているものと思った。
「いま書いているのは時代小説なのね?」
「あら、どうして知ってるの?」
「木の陰で本を読んでいたら、お清書した原稿の最初の一枚が飛んできたのよ。見たらあなたの部屋の窓が開いているじゃない。声をかけたらお留守のようだったから、二階へ行ってあなたの机の上に載せておいてきたの」
「あらすみません。留守にしてたっていうと、いつ頃のことかしら」
「そうね、三十分ぐらい前だわ」
「じゃここで田中くんと喋っていたときだわ」
聞くとはなしに聞いていたわたしは、自分の名が出たのではっとなった。べつに悪口をいわれたわけではなくとも、噂されていることを知ると、自然に聴覚神経が鋭敏になる。わたしはナルシストみたいに鏡を覗《のぞ》き込んで、何度となく髪を梳《くしけず》りつづけていた。
「お滝さんに聞いたんだけど、ハンサムなんだって?」
「そうなの。どういうわけだか編集者ってものはブオトコが揃ってるもんだけど、珍しく田中くんは例外なのよ。突然変異だわね」
「わあ素敵。美男子とドライブするなんて、めったにないチャンスだわ。感激」
わたしとドライブするというのを聞いて、これが速記者の並江千恵子であることが判った。向こうは感激だなんて女子高校生みたいなことをいっているが、こっちは客観的にいってやはりブオトコの同類項だから、そんな噂をされているところにノコノコと出て行くほどの度胸はない。わたしは改めて鏡を見る。この細長いシャモジみたいな顔のどこがハンサムだというのか、理解に苦しむのだ。
ふと気がつくと彼女たちの話題はファッションに移行していた。わたしはようやく鏡の前から離れることができた。
千恵子は声から想像したとおり大柄の女性だった。年齢はふみ子よりも三つ四つ上であろうか。顎《あご》の大きいところを除けば目鼻立ちのくっきりとした派手な美女で、紹介されるときに立ち上がったので気づいたのだけれど、フィギュアの選手かテニスプレーヤーのような白くて短いスカートをつけていた。上半身は真っ赤なブラウス。かなり刺激的な服装である。
「さっぱりしたでしょ? それじゃ出かけることにするわね。並江さんは車歴が五年なの、あたしの倍だわ」
「よしてよ、齢《とし》が知れちゃうじゃないの」
二人の女性は声をたてて笑った。どうして彼女らは年齢のことをそうも気にしなくてはならないのだろうか。わたしはそんなことを考えながら後につづいた。
ホールを抜けて金網の大きな扉を開けると、そこは白樺《しらかば》の柵でかこまれたテラスになっていて、大地を踏むためには幅のひろい階段を下りなくてはならない。その階段の正面には、すでにマリーンブルウの車が廻してあった。車に興味のないわたしには何という車種なんだか解らなかったが、流行作家の持物だけあって扉が四つついた、重心の低い、見るからに豪華なものだった。明るいテラスに出る。ふと気がつくと、眩《まぶ》しいのだろうか、千恵子はダークグリーンのサングラスをかけていた。
わたしが階段を下りかけたときに、車の向こう側から、ヘルメットをかぶり白の半袖シャツに白の半ズボンといういでたちの四十男がひょっこりと現われて、二人の女性に気取った会釈《えしやく》をした。
「や」
随筆家で自称詩人の園田団平《そのだだんぺい》である。近頃は映画女優なんかまでお手軽に詩集を出版する世の中だから、団平が詩人を自称したってべつに不思議はないのだけれども、この男の外観は詩人という言葉から受けるイメージとはほど遠く、少年物の冒険小説に描かれている探検家に似ていた。最近リバイバルされた戦前の猛獣狩り小説の挿絵画家、樺島勝一《かばしまかついち》だとか鈴木御水《すずきぎよすい》といった往年の人気イラストレーターの挿絵から抜け出てきたようなスタイルであった。しかも、気の毒なことに右腕がないので、人喰い虎と一騎打ちをやって喰いちぎられた勇猛果敢《ゆうもうかかん》な冒険家とでもいったところだ。だが、この日発生した殺人事件において、片腕であることが彼にとってひじょうに有利な条件となったのだから、両腕が揃っていないことを一概に悲観する必要もなかったのである。
「よオ、どちらへ?」
団平はわたしの存在を故意に無視した。そしてそれには理由があった。二年ほど前にわたしの雑誌でこの男に随筆を依頼したことがあるのだが、団平は稿料の前借りをしたきり何度督促しても書いてはくれず、結局そのままになっている。当時団平を担当し、面目玉《めんぼくだま》をつぶされたのはこのわたしなのであった。いまの団平はわたしの顔を忘れたようにさり気なく振る舞っているのだが、胸中では、とんでもないやつと会ったものだと思い、狼狽《ろうばい》しているに違いなかった。
「美人が二人も揃うと眩《まぶ》しくていかんよ。今度来るときは、わしもサングラスを用意しておく必要があるな、アハハ」
下手な世辞をいった。豪傑笑いは、わたしに対する照れくささを誤魔化《ごまか》すためであったろう。ついで彼は許しも得ずに二女性にカメラを向けると、片手で器用に操作して、すばやくシャッターを切った。
「あ」
ほとんど同時に千恵子が声を上げ、片手を腰にあてて、階段の降り口のところで棒立ちになった。わたしは、てっきり彼女が団平の無礼を咎《とが》めたものだろうと思った。だがよく見るとそうではなく、もう一方の手を額にかざし、緑色のサングラスは団平の頭越しに、はるか前方に向けられていた。
わたしと、階段の下に立っているふみ子の二人はつられたように前方に目をやり、そしてそのときはじめて一人の男がとぼとぼと歩いて来ることに気づいたのである。タクシーに乗らなかったのだろうか、ひろい敷地を横切る男の足取りには疲れたように元気がなかった。この炎天下を帽子もかぶらずに歩いて来れば、くたびれるのも無理はないのである。
「あーらしばらく。車に乗らなかったの?」
ふみ子がよくとおる甲《かん》高い声で呼びかけた。男はそれに応えてお世話になるからどうかよろしくとかいったようだが、声が小さくてわたしの耳にははっきりと聞き取れなかった。痩せて頬がこけており、歩きぶりにも表情にも青年らしい覇気《はき》がない。
「知らせてくれれば誰かを迎えに出したのに」
「いいんです、いいんです。ひとに迷惑をかけるのは嫌いだから……」
弱々しい声で彼はそう答えた。額から頸筋《くびすじ》にかけて汗がぐっしょりと吹き出している。
「お滝さんにそういってすぐシャワーを浴びさせてもらいなさいね」
「はあ、どうも……」
彼はひょこりと頭を下げてわれわれの前を通りすぎると、階段を上がったところで仁王立ちになっている千恵子にも挨拶をして、スクリーンドアの背後に消えて行った。
「手間どっちゃったね。さ、出かけましょう」
「……わるいけど、今日のドライブは辞退させていただくわ。またこのつぎの機会にお願いしたいの」
突然に千恵子がそう宣言したので、ふみ子もわたしも呆気《あつけ》にとられた。傍観者である団平までが気をのまれたように、おでこの汗を拭く手を止めて千恵子の顔を見上げている。
「あら、どうかしたの?」
「あたしって我儘《わがまま》なの。ふっと気が変わっただけよ」
理由を説明しようとはせず、まるで駄々《だだ》をこねる幼児みたいな言い分である。片手を腰にあてて傲然《ごうぜん》として突っ立った千恵子の姿からは、いったん嫌だといったらテコでも動くまいとする気魄《きはく》みたいなものが感じられた。
「じゃいいわ。あたしでも運転できるから」
「悪いわね、ほんとに」
「いいの、いいのよ」
ふみ子は相手の気持ちをそこなうまいとするかのように、ことさら明るい微笑を浮かべ、白い歯を見せて手を振ると、運転席に乗り込んだ。
「どうして気が変わったのかしら……」
彼女が怪訝《けげん》そうにいったのは、敷地を出て、車が白樺並木の一本道を走っているときのことであった。ふみ子の運転もなかなか上手なので、その頃のわたしはすっかり安心しきって、のんびりと構えていたのである。
「え?」
「千恵子さんのことよ」
「ああ、並江さんの――」
「園田さんが悪いんだわ、園田さんてあのリビングストン博士のことだけど」
「知ってます」
「あら、ご存じなの? お互いに挨拶もしなかったじゃないの」
「ぼくは知ってるけど、先方じゃ忘れているんでしょう。会ったのはもう二、三年前のことなんだから」
忘れるわけもないのだが、そう答えておいた。
「そう。大体あの人が悪いんだわ。無断でカメラを向けるんだもの。礼儀知らずもいいとこよ」
「そうかな。ぼくには、あの痩せた男の人を見かけた途端に並江さんの態度が硬化したような気がするんだけど」
サングラスをかけているので千恵子の眸《ひとみ》の動きは解らない。
「誰なんです、あの人」
「あの人はね、田辺義夫《たなべよしお》さんといって以前は編集者だったの」
同業である。だが、過去形であることがちょっと引っかかった。
「いまはフリーの校正屋さんよ」
「それが……」
尾の長い野鳥が羽音をたてて飛び立った。ふみ子は慎重なハンドルさばきをつづけていた。
「なぜ校正マンになったんですか」
おなじ編集者ということになると、やはり気になる。それに、あの尾羽《おは》打ち枯らした恰好……。なにか事情がありそうだ、という好奇心。
「現役時代はうちの先生の担当だったという話だわ。その頃先生はまだ東京住まいだったし、あたしも芸能事務所にお勤めしていたんだから、くわしいことは知らないのよ」
「はあ」
「先生もそのことについては触れたがらないみたい。ですから、うちに見えた編集者から断片的に聞いた噂話を総合したものなんだけど」
「…………」
「あの人、先生の原稿を紛《な》くしてしまったらしいの。帰りの電車のなかで」
あっと思った。編集長もそのことを引き合いに出して注意してくれたばかりである。
「でもね。若気のいたりとでもいうのかしら、先生はとてもお怒りになって、あの人の謝罪をはねつけられたのよ。そればかりでなく退社せざるを得なくなるように仕向けたの」
「へえ……」
酷《ひど》い仕打ちだなとは思ったが、相手が豪輔ともなると迂闊《うかつ》なことはいえない。
「ところがそれでもお腹《なか》の虫がおさまらなかったのね。ですから、あらゆる出版社に手を廻して、再就職ができないように邪魔をしたのよ。結局、あの人は校正マンに転向するほかはなかったというわけ」
「……ふうん」
「でもね。いまになってみると先生も後悔してらっしゃるのね。少しやりすぎたんじゃないかなって。ですから単行本を出すときは出版社の校閲部のほかに、わざわざあの人にも校正してもらうようにしているわけ」
それは豪輔が後悔しているというよりも、悪評の立つことを恐れて懐柔《かいじゆう》策をとったのではあるまいか、とわたしは邪推した。近頃の豪輔は文名いよいよ高い。その彼が、かつて冷酷な措置をとったがために、前途ある編集者が葬《ほうむ》られてしまったのである。そのことが公《おおやけ》になれば豪輔のイメージダウンにつながる。彼はそれを恐れたのではないだろうか。
「先生は、あの人がこのところオーバーワークで疲れ気味だってことを人伝てに聞いたもんだから、二週間ばかり静養に来るようにとすすめて、お部屋を空けておいたというわけ。校正というお仕事はここにいてもできますもの」
「そいつは羨《うらや》ましいなあ」
わたしは真実それが羨ましいようにいった。だが、じつをいうと田辺義夫の心中がけっしてそのようなものであろうとは思えなかったのである。彼が痩せても枯れても面子《メンツ》を重んじる男子であるならば、かつての仇敵《きゆうてき》の恩恵を受けて、のんびり豪輔邸で二週間を送られるわけもあるまい。本来ならばその甘い猫なで声の誘惑を、断乎として拒否すべきではなかったか。それとも、そう考えるのはわたしが執念深すぎるせいであろうか。過去のいきさつは一切を水に流し、校正の仕事に飽いたら小鳥の声を聞き落葉松林を逍遥《しようよう》して、呑気《のんき》に日を送る気であろうか。
「あなた、クリスティを読んだことある?」
いきなりふみ子の話が飛躍した。彼女は、もう田辺義夫のことなんぞ頭にはないらしかった。
「アガサ・クリスティですか」
「そうよ、あの偉いお婆さんよ」
「読んだことは読みましたが、あの人の小説はぼくの趣味からするとなまぬるくて、夢中になれるといった作品は少ないですね。ただし、抜群の才能のある人だということは認めますよ。ただ、好き嫌いといった点からいえば、あまり好きではありません」
わたしも推理小説が好きだから、つい返事がくどくなる。
「それじゃ≪鏡は横にひび割れて≫という長篇を知らないわね?」
「読んでません」
「そのなかに、いまの千恵子さんとよく似た場面があるのよ。もう記憶があやふやになっているけど、階段の上に立ったヒロインが何ともいえない奇妙な表情を浮かべるわけね」
「…………」
「周囲の人たちには、その意味するものが解らないの。事件を解決するカギがそこにあったというのに、誰も気づかなかったのよ」
「ほう……」
「あたし、そのことを連想してしまったんだけど」
なるほど、これは偶然の一致ではあるけれど、おもしろそうな話だ。
「それじゃあ、この山荘のなかでクリスティ好みの殺人事件が起こるっていうのですか」
ふみ子は肩をすくめてクスクスと忍び笑いをした。
「まさか。そううまくはいかないわよ」
しばらく沈黙がつづいた。するとふみ子がまた思い出したように、いまの話をつづけた。
「……でも舞台は軽井沢の山の中の一軒家だし、登場人物はひとくせあり気な人たちだし、不謹慎なことをいわせてもらえば、クリスティの推理劇みたいな殺人ドラマが起こるとおもしろいと思うな」
「ポアロなんて粋《いき》な探偵が登場すればなお楽しいですね」
わたしたちは他愛ないお喋りに熱中していた。だが、そのときのわたしは、それから間もなく殺人事件が発生して、続発する殺人ドラマのなかに、われわれ全員が否応《いやおう》なしに巻き込まれようとは思ってもみなかったのである。そしてまた、ポアロとはまるで違った、豪輔に輪をかけたような傲慢にして不遜な探偵に出遭うことになるとは、予想もしなかったのであった。
二 第一の殺人
1
じつをいうと、わたしたちは鬼押出へは行かなかったのである。途中で松虫草《まつむしそう》の群生する草原を発見して車を停《と》め、草のなかに分け入って手頃の場所に腰をおろした。そして童話の絵本に出てくる少年少女のように、松虫草を摘《つ》んで花束をこさえたり、それを交換したり、ドイツ民謡を原語で二重唱したりした。二人が≪ローレライ≫やヴェルナーの≪野バラ≫をドイツ語で唱《うた》ったのは、ふみ子もわたしも独文を専攻したからであって、べつに奇をてらったわけではない。そうしたことで時間をつぶしてしまったものだから、目的地へ行くことは諦《あきら》めて、車首を半回転させると、帰途についたのである。期待していた鬼押出が見られなかったことを、わたしは少しも残念だとは思わなかった。
こうした次第で二時間の予定は大幅に延びてしまい、山荘に戻ったのは五時を少しすぎた頃だった。ドライブが快適であっただけに、楡《にれ》の梢《こずえ》のあいだから山荘の白い煙突が目に入ったときは、口には出さなかったけれども内心がっかりしたものである。わたしは、このドライブがもっともっと長く続いてくれたらどんなに楽しいことだろうと思っていた。そして同時に、並江千恵子が身を引いてくれたことに対して、深く感謝しなくてはならぬ、と考えたものである。三人で出かけたならば、ふみ子もわたしも互いに遠慮しただろうから、こんなに愉快なドライブにはならなかったに違いない……。
絵ハガキみたいだとか、チョコレートの化粧箱の絵のようだなどといわれているこの山荘は、イギリスの農家を模《も》してつくられたのだそうだ。窓枠は茶色に統一され、外壁と、左右あわせて二本ある煙突は白|漆喰《しつくい》で塗られている。屋根は昨今では珍しくなった草|葺《ぶ》きだが、黄色くなったその草は、乙女のペチコートの縫い取りを連想させる白い模様で縁取りされてあった。壁の大半をおおっているのは四季咲の蔓《つる》バラであり、いまも色とりどりの花をつけていた。実用一点張りの日本の農家に比べると、生活にゆとりがあるというのだろうか、見た目の美しさをも配慮しているのはいかにもイギリスらしい百姓家だと思った。といっても、わたしは一部の人間のようなイギリス崇拝者ではない。わたしが好きなのはイギリスの推理小説なのであって、イギリス人の執念深く陰険な国民性はどうしても好きにはなれないのである。
話が脱線したようだ。脱線ついでにいっておくと、わたしがドイツ人|贔屓《びいき》なのは大学で独文学をやったせいではないかと思う。もっとも、ドイツ人あるいはドイツという国が好きだからドイツ語を学んだのか、ドイツ文学を専攻していたからドイツ好きになったのか、その辺のことは自分でもよく判らない。
「あらっ。テラスにいるのは団平さんじゃないこと?」
ふみ子の声でわれに還《かえ》った。見ると、車の音を耳にしたからだろうが、テラスの上のデッキチェアに長々と寝そべっていた男がのっそりと起き上がったところだった。片腕の不自由なその姿は、まちがいなく園田団平である。
われわれの車がテラスの下に停まるのと、階段下に立った彼がカメラを構えたのとは、ほとんど同時であった。
「よっ、美人のご帰還。鬼押出はどうでした? ひどく楽しそうですな。ドライブ記念に一枚|撮《と》ってあげる。そう、車の前に立って。さ、こっちを向いて!」
否《いや》も応《おう》もない。こんな男のいいなりになる気はなかったから、わたしはそっぽを向いたままだったが、彼は、相手の思惑なんぞは頭から無視してかかるような、図太い神経の持主であるらしく、つづけざまにストロボをたいて二枚撮ると、意味のない高笑いをしてみせ、テラスに上がってスクリーンドアのなかに消えた。彼の、われわれの到着を待っていたような様子から判断するならば、このスナップには何かしらわけがあるに違いないのだが、ふみ子もわたしもただ呆気《あつけ》にとられた表情で、毒気をぬかれた面持《おもも》ちで立ちつくしていた。
「まるでカメラをはじめて買ってもらった小学生みたいだ」
「ほんと。いい齢《とし》をして変なひと!」
ふみ子も腹を立てたらしく、口調がいつになくとげとげしかった。
「まあ、もうこんな時間になっちゃったわ」
腕時計から顔を上げると、彼女は慌《あわ》てた口調になった。わたしが欲しくてたまらぬ最新式の時計である。さもしい根性だけれど、その高価な腕時計をはめていることから、ふみ子のサラリーが並ならぬ額であることに想いを馳《は》せ、彼女がずばぬけて有能な秘書であることを改めて思い知ったのである。
「ちょっと失礼するわね。お滝さんに手を貸してやらなくちゃ。とても楽しかったわ。また機会があったらご一緒したいわね」
「お陰さまでぼくも愉快でしたよ。またぜひお願いしたいですね」
わたしも心から礼を述べた。
「じゃね」
車をそこに停めたままで、階段を上がりかけたふみ子は、途中で足を停めるとわたしを顧《かえり》みた。
「先にお原稿を見たいでしょうね? もう書きあがった頃ですから」
「ええ、できればそうしていただきたいですね。一刻も早く拝見したいですから」
即座に同意した。多忙な作家やそそっかしい作家にあることだけれども、原稿を受け取って編集部に帰って勘定《かんじよう》したら、ノンブルが一つ抜けていたなどという話をときたま耳にする。いやノンブルはちゃんと打ってあるくせに、通読してみると一枚たりなかった、などということもあるのだ。篠崎豪輔がそそっかしいたちの男だとは思わないし、ふみ子という優秀な秘書がついていることだからそのようなミスが発生するとは思わないが、念を入れるに越したことはない。いずれにしても、原稿は受け取った時点で目をとおすのが編集者の習慣なのである。
「それじゃいただいてくるわね」
「お願いします」
一歩上がったところで彼女はまた足を停めた。
「せっかく見えたんだから、ちょっとご挨拶していったらどう?」
昨今、豪輔の原稿を貰うのはなかなかむずかしいこととされている。現に、長篇の約束をとりつけただけでボーナスが三倍出たという編集者がいるほどであった。そんな有様だったから、編集者が豪輔と一対一で会うというのは、まず不可能なこととされているのである。だからわたしは、ふみ子のこの好意がありがたく、一も二もなく申し出にとびついた。
「すみません、ぜひ!」
「ではどうぞ」
ふみ子の後につづいて家のなかに入った。歩きながら無意識のうちにシャツのボタンがはずれていまいか点検していた。豪輔にサシで会うとなると、やはり緊張するのである。
わたしが気を落ち着かせるため、ふみ子に話しかけようとしたとき、一瞬はやく彼女のほうから語りかけてきた。
「ねえ、あなたの雑誌では新人の作品をとる気ないの?」
雑誌のなかには尊大にかまえて新人を相手にしないところもあるし、その反対に、積極的に新人に誌面を提供しようという方針のところもある。どちらかといえばわが編集部も弾力性に富んだ編集の仕方をしていた。
「ないわけじゃないですが……。要するに内容次第でしてね。なにか有望な新人でも発見なさったんですか」
いくぶん及び腰になる。妙な作品を押しつけられ、編集長に拒否されて、板ばさみにはなりたくない。
「まだ海のものとも山のものとも解らないんだけど」
「誰です?」
「さっきテラスの下ですれ違ったでしょ?」
「校正マンの――」
「ええ、田辺義夫さんよ。あの方、作家になりたいという気持ちがおありなの。その話をうちの先生が聞いて、じゃ作品を見せてごらんということになったのよ。そんなわけで短篇を三本お預かりしているんだけど」
編集者が作家になるというケースはしばしばあるから、わたしはべつに意外だとも思わなかった。それよりも、作品の質のほうが気にかかる。
「現代物ですか」
「現代小説と時代小説、それに推理小説」
「出来はどうです」
「半年ばかり前に読んだのよ。そのときの印象では三作とも七十五点だったわ。やはり前身が編集者だから、一応のコツは呑み込んでいるのね」
彼女が水準作だと認めたなら、それを信用してもいいと思った。しかも異《こと》なった三つの傾向の作品を書いて、それぞれが水準に達しているとなると、成長株とみていいかもしれない。
「一度その原稿を読ませてもらわないことには、なんともいえませんがね」
口ではたいして関心がなさそうなことをいいながら、心のなかでは預かって帰ってもいいと思っていた。どこの雑誌社でもそうだが、予定していた執筆者が急病になった場合を想定して、いざというときの穴埋め用に新人の原稿を用意しておく。なかには、ちゃんと挿絵まで書いてもらい、すぐに輪転機にかけられるように組置きにしている編集部もあるほどだ。だからわれわれ編集者は、よその雑誌の広告に「今月の新人!」などという惹句《じやつく》を目にするたびに、フンフン、やっとるわいとニヤニヤするのである。そして、急病でぶっ倒れた作家は誰だろうな、などと、あれこれ詮索《せんさく》してみるのが常であった。
わたしの編集部でもそうした緊急事態がつづけて三度まで生じたものだから、目下のところ穴埋め原稿が底をついているのである。田辺の作品は、それ用にうってつけではないか。
「先生はどんなご意見です?」
「それがねえ、ここだけの話だけどまだ読んでいらっしゃらないのよ。忙しいところへ持ってきて、いろんな人から原稿を送りつけられるでしょ。だからつい一日延ばしになってしまうわけ」
「田辺氏、催促に来たんじゃないですか」
「だと思うの。ですから、あなたにお願いできればって考えたのよ」
「豪輔先生の推薦文がついたら、うちの編集長も御《おん》の字で載《の》せるんじゃないかな」
と、わたしは思いつきを述べた。うちの雑誌の編集長は反骨精神の持主であるくせに、昭和|一桁《ひとけた》の例に洩れず権威に弱いところが多分にある。豪輔のお墨付《すみつき》ともなれば、内容の良し悪しはべつにして、雑誌のトップに掲載するかもしれなかった。
「いい考えだわ。あたしからもお願いしてみる」
「よろしく」
2
二人は横にならんで階段をのぼった。一間幅のこの段階は途中の踊り場から二直角に折れて、二階へ延びている。ただし、幅はここで半間にせばまってしまう。
階下と同じように二階も北側に廊下が延び、南側に部屋がならんでいる。それらはいずれも豪輔の私室であり、居間や寝室や書庫、それに音楽室や娯楽室などであった。音楽室というのはレコードを聞く部屋のことで、五万枚の盤を収容する部屋と、防音壁をはりめぐらしたオーディオ室から成り立っていた。豪輔自身は無芸の大食というか、歌うこともできなければ楽器を奏することもできない。もっぱらレコードを回転させて、スピーカーから出てくる音を聞くことが唯一の趣味だった。
しかし流行作家の彼にはくつろいでレコードに耳を傾ける暇がなく、ここ数年来、LPはほこりをかぶったままになっているという。
娯楽室のほうは模型列車を走らせて楽しむ部屋で、春夏秋冬の四つの季節をあらわすために四つの部屋があてられている。春の部屋は桜や桃や桐の花がいっせいに咲き揃っていて、その間を縫って貨物列車や急行列車が驀進《ばくしん》する。冬の部屋は白|皚々《がいがい》たる曠野《こうや》をD51やラッセル車が走り、天井からはプラスチックの雪が降ってくるようになっている。そして壁にはめ込まれたスピーカーから、テープにとった列車の轟音が聞こえてくるという凝《こ》った仕組みである。だがこれは単なる趣味ではなくて、豪輔は無心な目でおもちゃの列車が走るさまを追いかけながら、頭のなかでは次作の想を練るのだそうだ。
しかし、子供じみた模型列車遊びが編集者に知られることを、極力警戒していたという。したがって、こうしたことは後で説明されて知ったのである。そのときのわたしは、白い壁とミルク色の扉がずらり並んでいるのを見て、どれが何の部屋だかいっこうに見当がつかなかった。ただふみ子に導かれるままに廊下をすすみ、いちばん西寄りのドアの前に立った。そこが仕事部屋なのであった。
ふみ子は遠慮気味にそっと咳払《せきばら》いをした。
「先生……。先生……」
いっこうに返事がない。
「先生……。先生……」
何度か声をかけたが、なかからは依然として返事がない。あるいは彼女が声をセーブしているので内部の豪輔には聞こえないのかもしれなかった。
ふみ子は自分でもそう思ったのか、今度は白い華奢《きやしや》な拳《こぶし》でドアをノックした。一度、二度、三度……。それでも返事がないので、ノブを握ってそっと回転させてみた。しかし内側から施錠《せじよう》されているとみえ、ふみ子はわたしを振り返ると、小さな首を横に振ってみせた。
「お疲れになって、眠ってらっしゃるのね」
「後にしたほうがいいでしょう」
「そうね。もう少し待ったほうがいいわ。邪魔をするとご機嫌がわるくなるの」
いたずらっぽくクスッと笑ってみせたので、わたしもそれに応じて片目をつぶった。豪輔の機嫌をわるくしてしまっては元も子もない。窓の外は蝉の、特にアブラ蝉の鳴き声がかまびすしく、セーブしたふみ子の話は聞きとりにくいほどだった。
わたしたちは足音がしないように気をくばりながら、ふたたび階段のところまで戻って来た。
「目がさめるのは何時頃でしょうか」
終列車で帰る覚悟はしているが、できれば少しでも早い急行に乗りたい。
「そうねえ、前の晩おそくまでお仕事をされたときは午睡時間も延びるし、一概にはいえないわ」
「昨夜はどうだったんですか」
「それが判らないのよ。あたし歯が痛んだものだから、そういっては何だけど、先生のことなんか構っていられなかったの」
一階に下りたところでふみ子は調理場へ入ってゆき、わたしはわたしでシャワー室で再度汗を流してから、さっぱりとした気分になって食堂に入って行った。よく冷えた麦茶を飲みたいと思ったのである。
ホールの隣りにあるこの部屋は、元来は接客用として設けられたものを、途中で設計しなおして食堂にしたのであった。だから、例によって口の悪い編集者にいわせれば施療院《せりよういん》の待合室みたいだということになるのだけれど、それは多分にオーバーな表現であって、そんなに殺風景なものではない。そこには常時湯茶の用意がしてあるので客はここに寄って喉《のど》をうるおすことになり、だから必然的に誰かと顔を合わせて、客同士のあいだで話がはずむのである。
ついでにしるしておくと調理室はホールをはさんで食堂と反対側にある。食事どきになると、女中たちは車のついたアルミ製の函《はこ》に料理をつめ込んで食堂まで運んで来なくてはならぬわけで、はなはだ非能率的な仕組みになっているのだが、いまも述べたように、途中で接客室を食堂に変更したものだから、こうした不合理が生じたのもやむを得ぬ仕儀であった。運搬車の車輪にはゴムがついているので騒音はしないのだが、金属製だからやはり音がする。じつをいうと、食堂で駄弁《だべ》っている客たちはこのワゴンの音を耳にして、改めて食欲を掻き立てられるのが常であった。いってみればその音は、ある意味では食前酒《アペリチフ》の役をつとめることにもなっていた。
壁際の冷却器の前に立つと、わたしは伏せてある紙コップの一つを持って、小さなコックのほうに手を伸ばそうとした。
「あら、田中さんじゃないこと?」
いきなり背後で声をかけられた。わたしは振り向きもせずにコックをひねり、ビール色した麦茶を紙コップに注ぎながら応じた。
「さっきはどうも。とても楽しかったです。仕事で軽井沢まで来て、あんな愉快な思いをするとは思わなかった」
「え?」
「でもおかげで腹すいたな。晩めしまであとどのくらいかかるんですか」
喉がかわいている上に、わたしは空腹でもあった。茶腹も一刻《いつとき》というとおり、わたしは渇きと飢えとの双方を充たすことに懸命で、依然として彼女のほうを見向きもせずに麦茶を飲んでいた。わたしの家でこしらえる麦茶には砂糖を入れるが、この山荘のそれは砂糖っ気抜きである。客のなかには甘い物の嫌いな人間もいるだろうから、万人向きにするためには砂糖を入れぬがよく、そのほうが親切というものであった。甘味のない麦茶も、喉のかわいていたわたしには甘露《かんろ》のようにうまかった。一杯目を飲みほしてしまうと、またコックに手をかけようとした。
「愉快だ愉快だって、一体なんのことなのよ」
反問されてオヤ? と思った。ふみ子にしては言葉の端に蓮《はす》っ葉《ぱ》なひびきがある。人違いをしたことに気づいたわたしはびっくりすると同時に、いささか慌て気味に振り返った。食堂には白い布をかぶせた長いテーブルが二列に並んでいる。その二列目のテーブルに、こちらを向いてすわっている若い女性がにっと笑いながら立ち上がった。糊《のり》のきいた小ざっぱりとした浴衣《ゆかた》姿に赤い帯がなまめかしい。髪の毛は栗色に染めてあった。はて、誰だったかな……?
「やあ、珍しいところで逢ったもんだね?」
彼女が席を離れて近づいて来たので、わたしは咄嗟《とつさ》にそう答えて工合のわるさを誤魔化そうとした。女はそれを見すかしたようにニッと笑った。片頬に美容整形でつくったような深いエクボができる。
「忘れるなんて薄情な方だわね」
体をよじるとわたしを叩こうとした。その拍子に、銀色にマニキュアした爪がにぶくかがやいた。食堂の天井には蛍光灯がついている。
「あたしよ。めぐみだわよ。近頃ちっとも見えないじゃないの。お見限り?」
そういわれてようやく思い出した。銀座でもトップクラスのバー「ビビ」のホステスである。銀座一流のバーの客は社用族と出版社員だといわれているくらいだから、わたしも以前は何かにつけ呑みに行ったものだが、どうした廻り合わせか、いま担当している作家や画家たちはそろって下戸《げこ》ばかり。誘っても腰を上げようとはしないので、自然にわたしの足も遠のいていたのである。といって、一晩に五万円もふんだくられるようなバーへ自腹を切って呑みに行くほどのアル中でもなし、金満家でもない。
この「ビビ」という店でなんとなく気が合い、毎度指名をしていたホステスがめぐみであった。本当のことを告白すると、目黒《めぐろ》の彼女の豪華なマンションに二度ばかり泊まった記憶がある。それはまるで外国映画のセットみたいに絢爛《けんらん》たるもので、彼女はピンクの優雅なキルティング・ガウンに着替え、細巻きのアントニーとクレオパトラかなんかをくゆらしながら、わたしにカクテルをすすめてくれた。もっともわたしが着せられたのは別れた亭主が残していったとか称する古物の浴衣で、それも洗濯しすぎたせいか縮まってしまい、すねの半分が顔を出すといったツンツルテンのしろものだったから、いささか興ざめがしたのは事実である。
わたしは、ホステス稼業がいかに儲《もう》かるかということを見せつけられた思いがして、ただただ息を呑んでいた。と同時に、着古した浴衣を客に着せるところから判断して、こういう女性と結婚すれば、やりくり上手のいい女房になるのではないかと思ったものだ。
その翌朝、めぐみがこしらえてくれたしじみの味噌汁がなかなか旨《うま》かったことも覚えている。なんとかいう名の三種類の味噌をブレンドすればこうした味になるのだそうだが、その混合の割合いに秘訣があるらしい。小柄な美人で派手によそおってはいるものの、いったん家庭に入れば貞淑な人妻になるのではないかというのがそのときのわたしが受けた印象であった。が、後になって、彼女がデパートのネクタイ売り場から引き抜かれていったんは豪輔の思い者になったものの、淫乱な性格が発覚して捨てられたという前歴を聞かされるに及んで、わたしは、自分の人間観察の甘さに自信を失ったのである。わたしは羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹くような愚か者ではないつもりだから、すべて女は化け物であるといった短絡的な結論にはとびつかなかったけれど、女のなかに化け物がいるということは間違いのない事実だと思うようになった。
「近いうちにまたいらっしゃって……」
早くも商談を開始した。熱心なものである。
「ホステスも半分は入れ替わったわ。雰囲気が一段とフレッシュになったわよ」
「ルシアはまだいる?」
「いないわ。『蒼白い馬』に引き抜かれていったの」
「聖名子はどうした?」
聖名子と書いてミナコと読むのだそうだ。なんでも両親兄弟ともに熱心なクリスチャンだとかで、彼女も両乳の谷間に小型の聖書をしまっておき、ときどき引っ張り出してはブツブツとお祈りをしているのを見たことがある。
「自殺したわ、失恋して」
「ふうん、気の毒にな。死ななくてもよさそうなものを」
「純情すぎるひとにはやっていけないのよ、この商売は。ねえ、今度ぜひ遊びに来て」
「マンションのほうかい?」
「あんなこといって。お店のほうによ」
「そのうちに女好きの作家を口説いて無理矢理《むりやり》連れて行くよ。一宿一飯サービス付きの恩があるから無下《むげ》にも断われないしな」
といったら、思い切りふとももをつねられてしまった。
「イテテテ」
思わず悲鳴をあげたとき、赤い服が視野の端をチラッと横切った。反射的に顔を向けてみると、速記者の並江千恵子が大柄の身を赤いブラウスに包んで入って来たところだった。めぐみは何事もなかったように取りすました表情をしている。わたしはつねられた悲鳴を聞かれてしまったのではないかと思い、なんとなくきまりが悪かった。
わたしはぎごちなく空咳《からせき》をした。
3
ポーカーフェイスといえば千恵子もおなじことで、先程テラスの上で見せた異様な振舞いなんぞとうの昔に忘れてしまったように、われわれを見るとすました顔で会釈《えしやく》をした。
「どうかなさったの? ドライブで何かあったの?」
とぼけてカマをかけたのかどうか知らないけれど、千恵子はそう訊《たず》ねかけると、ニッコリと歯を見せた。
「いえ、べつに。愉快なドライブでしたよ。ただそれだけです」
「それならいいけど」
「先生がまだ昼寝の最中でね、原稿をお待ちしているんです」
「こうなったら覚悟をきめて開き直ることだわよ。晩ごはんをご馳走になって、日が暮れてから出発したほうが利口だわ。少しは列車も空《す》いてくるし、涼しくなるし」
「そうするつもりです」
「ついでにお風呂に入っていくといいわ」
千恵子はこの山荘に慣れているのだろうか、まるで自分が主婦ででもあるような口調であった。こうやってめぐみと比べてみると片や小柄、片や大柄、なんだか薬研堀《やげんぼり》の七色トンガラシの口上みたいだが、どちらも甲乙《こうおつ》ない美人ぞろいである。二人とも陽気で明るくて、例えてみれば大輪と小輪のヒマワリのよう。しいて軍配を上げれば目元すずしく鼻筋のとおっためぐみのほうだが、これは美容整形の結果だから、その点を割り引けば、とんとんというところである。男性の常として、わたしもまた美女に囲まれると一段とハッスルするたちだから、改めてテーブルの前に腰をおろすと空腹を忘れて雑談をした。空腹を忘れるために雑談に夢中になった、といったほうが正確かもしれない。
めぐみと千恵子は数日前から泊まっているものとみえ、互いにかなり打ちとけた口をきいていた。だからわたしは、いっそう心おきなく、他愛のないお喋りができたのである。一般にホステスなんぞというと手練手管《てれんてくだ》にたけた無教養な女を連想することと思うが、どうしてどうして、銀座の一流バーに勤めるとなると単に美人というだけでは駄目なのだ。めぐみにしても、豪輔と同棲している時分に仕込まれたのか、その後ハッスルして勉強したのかは知らないけれど、好きな詩人はちょっと骨っぽいところで高村光太郎《たかむらこうたろう》、好きな音楽家はリヒャルト・ワグナーと近頃はやりのマーラー、趣味は近代版画の蒐集《しゆうしゆう》といった垢ぬけしたものである。そうしたわけでこのとき話題になったのは、階段の踊り場の壁にかざられているルソーの絵であった。そして話題はルソーからフランスの近代絵画全般に発展し、京都の展覧会場で盗難に遭《あ》ったロートレックの婦人像に及んだ。
話がさらに一転して責任感と自殺論になり、めぐみがこれからの人間はもっとルーズでチャランポランにならなくては生きてゆけないという説を唱えた。田辺義夫が入って来て少し離れた席にドサリとすわったのは、そのときであった。
先程、つい三時間ほど前にすれ違ったときの彼は、炎天下を歩いて来たせいもあっただろうが、かなり疲れた様子をしていたように思えた。いや、伏目がちに、他人の視線を避けるようにしてそそくさと建物のなかに入って行った、その怯懦《きようだ》な小動物みたいな後ろ姿から、彼が敵の軍門に降ったことを恥じているような印象をも受けたのであった。豪輔の執念深い妨害に遭って編集者としての生活権を放擲《ほうてき》せざるを得なくなり、やむなく校正マンとなって糊口《ここう》をしのいでいる彼にとって、古い表現をするならば、この文豪は不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵であるはずだった。仮りに豪輔が世間体をとりつくろうために猫なで声を出したとしても、この元編集者に男としての意地があったなら、尻尾を振って招待に応じるわけはあるまい。それなのに彼は、豪輔の好意を受け入れていそいそとやって来たばかりでなく、原稿を送りつけて、豪輔のバックアップによって文壇にうって出ようとしているのである。
おそらく田辺としては割り切ったつもりなのだろう。生きるためには恥をしのぶこともやむを得ないと悟ったのかもしれぬ。しかし、さすがに内心|忸怩《じくじ》たるものがあり、それがあのような消え入りなんというか、人目を避けるような動作をとらせた理由であろう。時間が経過するにつれ、わたしはそんなふうに解釈するようになっていた。
だが、いま目の前にいる田辺は違うのである。いまの彼は小ざっぱりとしたプリント模様のアロハに着替え、汗ばんだ顔も洗ったとみえてきれいになっている。髪にもキチンと櫛をあて、身だしなみのいい青年紳士という恰好だ。しかし、変わっているというのは外観ではなくて、彼の表情であった。いまの田辺は顎をつき出し、いかにもふてぶてしい目つきで食堂の内部を見廻している。元来ががっしりとした体つきであるだけに、そうした彼の姿は錦絵かなにかで見た壮士を連想させた。
わたしたちは話を中断して田辺義夫のほうを見やった。普通ならばすぐに視線をもとに戻して雑談のつづきをするところだが、われわれはそうしたことはせずに、気を呑まれたようにこの元編集者のほうを見つめていた。彼が横を向いているのをいいことにして……。
「声をかけてあげなくちゃ悪いわね」
「あたし、名前を知らないのよ」
千恵子とめぐみが小声で意見を述べ合っている。
「恥ずかしがり屋らしいの」
「でもいまは威張っているみたいじゃない」
「恥ずかしがり屋はつねに自己反省をするものなんだわよ。そうすると、反動から威張りたくなるの」
千恵子は心理学者みたいなことを囁いた。
「でも根本は依然として恥ずかしがり屋でしょ。だから、こっちから声をかけてあげないといけないの。そのかわり、そういった性格の人はすぐに打ちとけてくるわ。恥ずかしがり屋は善人なのよ、恥ずかしがり屋に限って腹黒い男はいないものだわ」
女流心理学者は独断的な意見を吐き、めぐみはお説ごもっとも、といった顔でいちいち頷《うなず》きながら拝聴している。だが、わたしはこの「学説」には疑問を持たぬわけにはいかなかった。編集者が恥ずかしがり屋だなんて、そんな見当違いのことがあるもんか。傲岸な政治屋、驕慢《きようまん》な売れっ児女優、ニヒリスト、殺人容疑者、乞食、プロレスラー、来日した大指揮者、ありとあらゆる階層の人間に体当たりして原稿を取って来るのが商売である編集者が、恥ずかしがり屋だの照れ屋なんかであるはずがないのだ。だがわたしは黙っていた。千恵子の高説にケチをつけて気まずい思いをさせるのは愚かなことだからだ。
「なんていう人なの?」
「田辺義夫さん。校正マンよ」
「あら、うちのお店にも厚生省のお役人がよく来るわよ、製薬会社の部長さんと」
「そうじゃないの、校正屋さんよ」
「わかった!」
客の半分が出版社員であるだけあって、めぐみは多少なりとも本造りの知識は持っていた。途端に自分の思い違いに気がつくと、声を殺して笑った。
「じゃ呼んでみるわ」
人見知りをしていては商売にならぬ点、編集者もホステスも似たようなものである。
「ねえ田辺さん、あたしめぐみ。こっちへいらっしゃいよ」
習い性となるなどというとおり、めぐみの呼びかけはどう見てもホステス調まる出しである。声をかけられた田辺は虚をつかれた面持《おもも》ちでこちらを見た。
「せっかくですが一人にしておいてください」
「だってこれから同じ屋根の下で暮らすんでしょう? 皆さんと仲よくやっていくには――」
千恵子がいいかけるのを、この校正マンはニベもなく中断した。
「仲よくやっていきたいのは誰だって同じです。だが、事情によってはそうもいかない場合もある。わたしはね、いまひじょうに腹を立てているんです。あまりに酷《ひど》い。あまりに人をなめていやがる。だから当人に、面と向かってその非を難詰《なんきつ》してやろうと思っているんです。一言いってやらないと腹の虫がおさまりませんからね。その後ですぐここを発つ」
「あら、ごはんも食べずにですか」
めぐみはびっくりしたように声を高めた。
「当たり前です。だれがこんなとこのめしなんか喰ってやるもんか」
われわれには、彼が憤然としている理由が何であるのか、さっぱり判らなかった。といって、それを訊ねるほどに親しい仲でもない。親しい仲でもなかったから、彼がなぜ立腹しなければならないのか、そんなことおれの知ったことかという気持ちもあった。
田辺はそれきり口をつぐんでしまい、われわれもまた黙り込んで、ぬるくなった麦茶を飲んでいた。
「……ねえ、夕飯のときに豪輔先生は一緒にするんですか」
「そうねえ、気にくわないお客さんがいるときは二階で食べるそうよ」
「すると今夜は会えないかな?」
「でもねえ、よほどのことがない限り現われるって話だわよ。あの先生は皆さんの前でワインを飲むのが楽しみなんだから、見せびらかしながら」
「そうなの。地下の酒蔵へ行ってごらんなさい。そりゃびっくりしちゃうから。フランスのシャトウ・マルゴ、シャトウ・ムートン・ロートシルト、シャトウ・ディケム、ドイツのシュロス・ヨハニスベルク・キャビネット・バイン・アウスレーゼなんかのヴィンテージ物がズラリと並んでるんだから。地震で潰《つぶ》れたらおもしろいな、いえその、残念だなァなんて思うこともある」
千恵子はちょっとしどろもどろとなり、それを誤魔化すように紙コップを手にしたが、麦茶は飲みつくされて一滴も残っていなかった。
4
負けず嫌いの豪輔は、荒野のど真ん中に住んでいるのが淋しくて客を招くのだという世評に反発を感じたらしく、仲間を呼ぶのはあくまで自分の好意によるものであることを強調しようとした。気にくわぬ客が滞在しているときは一切の接待をふみ子たちにまかせて、自分は二階から下りて来ようともしない。例によって編集者はこれを「拝閲拒否」と称していた。だが豪輔の意地悪はそれだけではおさまらず、山荘内では一切の飲酒を厳禁する、という挙に出た。
それは一年余り前のことであり、その風聞を耳にした東京の編集者たちは、彼らがたまり場にしているバーで、噂を肴《さかな》にして呑んだ。
「へえ、豪輔先生とうとう禁酒に踏み切ったね。えらいもんだ」
「噂じゃ糖尿の気が出たからやむを得ず酒瓶をぶち割ったらしいぜ」
「先生くやしがって、泣きながらマサカリを振りおろしていたそうだ」
篠崎豪輔はなにかにつけて話題になる男だった。そしてその大半があまり芳《かんば》しくない噂なのは、原稿を書いてもらえなかった編集者のそねみやっかみもあるだろうが、主たる理由は、この「文豪」の不遜な性格や言動によるものだと思う。
しかし、禁酒をしたというのは無責任なデマであって、真相は滞在客に対してのみ飲酒を禁じただけで、当人は千恵子が語ったように、客の前でさも旨《うま》そうにワインを呑んでみせるのである。
もっとも、この「法令」(編集者はこう呼んでいた)を施行したについては豪輔のほうにも言い分があった。二年ほど前のことになるが、酒好きの客が酔って放歌乱舞をしたものだから、その男の滞在中は豪輔も仕事が手につかず閉口したのである。それに懲《こ》りての禁酒宣言であった。だが自分まで酒を断つ必要はない。始皇帝《しこうてい》やヒトラーは国中の書物を火に投じたけれど、当人の蔵書は焼いていない。それと同じことなのだ。
「だから非難するのは見当違いというものよ。ただめしを喰って酒を飲むなんて虫がよすぎるわ」
千恵子は、女性にしてはいささか乱暴な言葉づかいをした。
「でも、あの人もよくないわね。ワインが飲みたければ二階へ行ってこっそりと飲めばいいじゃないの。なにも見せびらかすことはないでしょう。そんなことをするから傲慢だとかケチだとか、趣味がいやしいなどという批判を受けるのよ」
豪輔はそういった編集者の批判をハイエナの遠|吠《ぼ》えと評して一笑に付した。が、この発言がまた物議をかもしたものである。近頃のわたしは、それが豪輔の傲慢から生じたものではなく、つねに自分の存在を明らかにするためのPRではないかと考えるようになっていた。四六時中ひとの注目の的《まと》になっていたい目立ちたがり屋なのだ。
調理場のほうから肉を炒《いた》める匂いが漂ってきた。調理室には大きな換気扇が回転しているのだが、いったん外に出た煙がふたたび食堂の窓から入ってきて、われわれの鼻をひくひくさせるのであった。
その匂いにさそわれたのか、自称詩人で随筆家の団平がのそりと姿を見せた。外見が熊に似ているわけでもないのに、彼の動作は、毛深い大きな図体の動物を連想させずにはおかない。
入口のところでちょっと足を停めると、頬杖をついている田辺にチラと視線を投げ、ついで彼を頭から無視してわれわれのほうに近づいて来た。人を黙殺するときの彼の目つきというのは先程わたしも経験したことだが、じつに冷酷なものであった。お前には一文の価値も認めてはおらんぞと念を押すような、不快きわまる目をする。いまの田辺もそうした扱いを受けたわけだし、ついでわたしも冷たくあしらわれるものと思っていた。ところが団平は、意外なことにこのわたしに声をかけたのである。
「やあきみ、誰かと思ったら田中くんじゃないか。おお、そうだ。どうも似とると思ったがやっぱり田中くんだ。懐かしいなあ、じつに懐かしい。どうだい、元気かね」
先程の素っ気ない態度に気がとがめたのか、と思ったらそうではなかった。団平は小|肥《ぶと》りの体をどすんとイスにのせると、脂《あぶら》ぎったあから顔をつき出した。酒好きとみえて目がにごっている。彼もまた青年のような赤いアロハを着用しているが、頸《くび》が短いので、その胴体の上からいきなりニョキリと首が生えた恰好である。
「きみを男のなかの男一匹と見込んでたのむのだが、こいつを一つ預かってくれんかい?」
まだ返事もしないうちに、わたしの手を引っ張っておいて、掌に小さな紙包みをのせた。
「男一匹だなんて買いかぶりだな。ぼくにはそんな侠気《きようき》はないです。辞退しますよ」
「まあまあまあ、そんなつれない返事をするもんじゃない。世の中、持ちつ持たれつといってな、情けは人のためならず、明日ありと思う心の徒桜《あだざくら》というではないか。一つ快《こころよ》くたのまれてくれや」
この男の図々しさについては一時間ほど前に経験している。だが、いまの彼はそれに輪をかけたような押しつけがましい態度だった。有無《うむ》をいわさずに押しまくるのである。
「時限爆弾じゃないでしょうな?」
と反問したときは、完全に彼のペースに巻き込まれていた。
「アハハ、何をいうとるかね、きみ。きみを吹っ飛ばそうと思うなら人目のないとこで渡すよ。そんな危険なもんじゃない」
「じゃ何です」
「それはいえない。当分のあいだは秘密だ。しかしね、ひじょうに大切なものであることはいっておこう。だから粗略に取り扱われては困る。貴重品だと思ってくれたまえ」
「まだ預かるといった覚えは――」
「こういう貴重品を預けるには、きみが一番の適任者なんだ。用心深くて慎重で責任感があって、アジテイターがどれほど煽《あお》ってもけっして軽挙妄動《けいきよもうどう》するような男ではない」
さっきのわたしをことさらに無視した団平とはうって変わって目尻を下げ、口を大きく開けて、精一杯の愛想笑いをしている。海千山千《うみせんやません》の古狸から見れば、わたしは幼稚園児とさして変わるところがなかった。
「麻薬だってある意味では貴重品だが。それとも宝石かな?」
「まさか」
「宝石なら断わりますよ。あとで一粒不足しているなんてことになると困る。トラブルは嫌いなたちでね」
「わしが宝石を持っとるような金持ちに見えるかね? 年がら年中ピイピイしとるのは知っとるだろうが」
原稿料のただ取りをしたことがあるのだから、金満家でないのはわたしも知っている。
「宝石でなくても、盗まれたら大変だ。お褒《ほ》めにあずかったとおり責任感がつよいたちだから、場合によっては自殺に追い込まれないとも限らない。そういっては悪いけど、あなたのために死ぬなんて真っ平ですよ」
わたしとしても一応は抵抗をこころみた。二人の女性の手前もある。お人好しのデクのボーとは思われたくなかった。
「田中くん、そりゃ殺生《せつしよう》や。わしを困らせておもしろがるような人のわるいきみではないはずだ。ここんとこはウンといって預かってくれ」
「…………」
「なあ、頼む。きみを男と見込んで頭を下げているんだ。いまさら嫌だなんていわんでくれ。今夜東京に帰ったら、編集部の金庫に保管しといてもらいたいんだ。な、頼む」
どこの社でもそうだけれど、わたしの編集部には貴重な原稿を入れておくための金庫がある。といっても、原稿を後生大事に保管したのは何年か前までの話で、昨今は複写機という便利な機械が発明されているから、原稿はすぐコピーにとられて、一通は挿絵画家に、一通は印刷所に、一通は控えとして編集者の手に渡される。肝心の生《なま》原稿が紛失したところでどうということもないから、金庫は無用の長物に化した感が強い。しかし今夜のように遅く戻った場合には、一応その金庫にしまっておいて、翌日になって複写機にかけることになる。そのような事態にそなえて、社には依然として金庫が置いてあった。出版社に出入りしている団平としては当然のことだが、そうした事情をよく知っているのである。
しかし、選《よ》りに選ってなぜわたしに押しつけようとするのか。
「ほかの皆さんは信用がないんですかね?」
包みをポケットに入れながら皮肉をいってやると、詩人はまた上体をそっくり返してアハアハと笑った。
「そうじゃないさ、信用しとらんわけじゃない。だがね、ここの野川ふみ子女史に預けたのでは必要なときに取りに来るのが大変だ。といってこのめぐみ嬢に頼んだのでは、取り返すときに高価な酒を飲まされる。わしゃ貧乏だから高い電車賃を払うのも高い酒を呑まされるのも困るんだ。そうかといって、この並江女史とは知り合って日が浅い。わしみたいな昭和|一桁《ひとけた》の人間は礼儀というものを心得とるから、手当たり次第に口をかけることはせんのだよ」
「…………」
「その点、きみとは前々から面識はあるし、安上がりだし、誰がなんといおうときみほどの適任者はおらん」
咄嗟の場合の返答としては一応スジがとおっている。熊みたいな男のくせに頭の回転はなかなか早そうだった。
5
肉を炒める香ばしい匂いはいよいよわたしたちの胃の腑《ふ》を刺激した。それに混じって食器の触れ合う音が聞こえてくる。わたしは、雑音のなかにも美しいものがあるということを、改めて実感した。
「田辺さんを入れて、これで全員になるわけですか」
「いいえ、あと二人いらっしゃるわ。そのうちの一人は、さっきお滝さんに電話があって、到着が少し遅れるから夕食は要《い》らないって知らせてきたそうよ」
並江千恵子はふみ子と親しいせいか、なかなか情報通のようだった。これもこの山荘の戒律の一つなのだけれど、食事に遅れたらその人間はめしを喰わせてもらえない。といって空きっ腹をかかえてひと夜をまんじりともせずに過ごすわけにはいかないから、そこはお滝さんが気をきかせてこっそりとラーメンなどをこしらえてくれ、豪輔もそうしたことは大目に見ている。しかし、彼女が腕をふるったとびきり旨い料理にはありつけない掟《おきて》になっていた。
もっともこれも豪輔が一方的に決めたのではなく、客のなかにルーズな連中がたくさんいたものだから、食事時間が長びいてお滝さんがいつまでたっても解放されず、それを見兼ねて時間制をとることにしたのである。したがって豪輔が非難される筋合いは一つもないのだけれども、傲岸な人間はなにかにつけて世間から叩かれるものなのだ。わたしも、あえて豪輔を弁護してやろうという気にはならない。これは下司《げす》の勘ぐりだろうが、めぐみや団平たちが早目に食堂に入って来たのは、喉がかわいたとか麦茶が飲みたいとかいうのではなくて、喰いはぐれたら一大事と思ったからではないだろうか。
われわれが勝手なお喋りをしているところに、料理の手伝いをすませたふみ子が、真っ赤なリンゴのアップリケのついた前掛《まえかけ》をはずしながら姿を見せたので、わたしはすかさずかたわらのイスをすすめた。
「先生はまだお寝《やす》みですかね?」
「もうお目ざめだと思うわ。夕食は必ず時間どおりに召し上がる習慣なの。少し遅れると胃にもたれていけないっておっしゃるのよ」
編集者に比べると作家はどうしても運動不足になりがちだ。胃の工合がわるいというのも、すわって仕事をつづけているせいなのである。
「ゴルフでもなさるといいのになあ」
「駄目よ。うちの先生は負けず嫌いだから勝負事は一切やらないの。勝てる自信はないし、そうかといって負けるのは口惜しいし。でも、負けず嫌いだからこそトップクラスの作家になれたんだと思うわ」
「なるほどねえ」
編集者の知恵とでもいうか、わたしは進んで批判めいたことは口にしなかった。噂話というものはとかく変形されて伝わっていくものだし、それが豪輔の耳に入ってご機嫌をそこねてはつまらない。また、団平みたいな薄っぺらで思慮のたりなそうな人間は、故意に内容を曲げて豪輔に伝えるということもあり得るからだ。田辺やめぐみはともかく、団平という男を信じることだけはできない。
「先生の顔を見るのは何年ぶりかな。東京に住んでおいでだった頃、パーティでお見かけしたきりですからね」
「そういえばパーティなんかに出席する機会はなくなったわね。こちらに引っ込まれて以来三年になるというのに、東京へは、ただの一度も行かれたことがないんですもの」
パーティで見かけたといっても面と向かって正式に紹介されたのではなく、大きなホールの端から、はるか向こう側の壁際に立っている豪輔を遠望したにすぎない。だからわたしは今日の対面をひそかに心待ちしているのである。
「ほらほら、お滝さんがご用聞きにのぼって行くわ」
食堂の扉は開放されているので、われわれの位置から階段はまる見えである。
お滝さんは少し前こごみの姿勢で階段をのぼって行く。後頭部に白いものがチラッと見えたような気がしたのは目の錯覚だったろうか。
お滝さんの姿が見えなくなるのに合わせたように、調理室から聞こえてくる食器の音はいよいよ大きくなった。
「お滝さんはね、今夜は食堂で召し上がりますか、それとも二階でおすませになりますかって訊いてくるの」
「ほう」
「ついでに、どのワインにするかってことも訊いてくるのよ」
ふみ子が説明をした。
「早く奥さんをもらわれたほうがいいと思うな。いまの先生はライティング・マシーンといった感じがする」
「そうなのよ、あたしも折りにふれておすすめするんだけど、当分は忙しくてそんな気にはならないっておっしゃるの」
「ところでどんなものだろうかね、めしとベッドを提供してもらって贅沢をいえた義理じゃないんだが、先生の健康を祝して乾盃というわけにはいかんかね」
団平が無遠慮に割り込んできた。
「国産の安いやつでいいんだ。要するに健康を祝したいだけだからな。ついでに、いいお嫁さんが見つかりますようにって祈ることにしよう。働き盛りの彼が独身だなんて見ちゃおれんからの」
なんとかしてアルコールにありつこうと、団平は懸命に口説きにかかった。
「あたしワインって嫌いなの。カクテルなら呑んでもいいけど」
いままで黙々としていためぐみが甲高い声で提案し、それが職業的な習性になっているのだろうか、団平のふとももに白い手をのせて、マッサージ師みたいにぐりぐりと圧迫した。たちまち随筆家はでれりとなって、うれしそうに目を細めている。
「要するに健康を祝福するのが目的だからの、カクテルでも結構だわい」
「どんな口実をつけても駄目よ。先生はOKしやしないから」
と、速記者の千恵子が手きびしくはねつけた。彼女もまた豪輔のいやしい性格をよく知っているようにみえた。というよりも、知りすぎているような印象を受ける。速記者という職業上、かつて豪輔の仕事を手伝ったこともあるのだろうが、それにしては口のきき方に狎《な》れ狎れしいものがあった。
「それじゃ先生が自室へ引っ込んでしまってからはどうかね? せっかくこうして無料で招待してもらったんだ、ただめしを喰らって避暑をさせてもらって、ああ旨かった涼しかったというだけでは先生に悪い。せめて健康を祝すぐらいのことをせんと、恩知らずだなんてそしられるかもしれん。世間のやつはうるさいからの」
「駄目だったら駄目だわよ。いつだったか缶ビールを持ち込んだ人がいて、咎《とが》められると、ちょうどいまのあなたみたいに健康を祝すためだなんて言い逃れをしてたけど、先生は断じてお許しにならなかったわ。その場で退去命令を出されちゃって。以来、反篠崎派の急先鋒になっているけど……」
千恵子がそう語ると、めぐみは興味をそそられたように小柄な体を乗り出してきた。
「あーら、誰なの、その人。作家? 編集者?」
「まあそれに近い人種よ」
千恵子が曖昧《あいまい》な返事をしたときに、お滝さんが困った表情を浮かべて入って来た。それが豪輔の好みなのかどうかは知らないが、彼女は薄物のグリーン系統の和服を着て、きちんと帯をしめている。この山荘のなかでわたしが見かけた限りでは、着物姿はお滝さん一人であった。といっても、場所が軽井沢だから暑くて苦しいことはなさそうだったが。
「どうかしたの?」
「なんだか様子が訝《おか》しいんですけど……」
あたりをはばかるような小声だが、居合わせた全員の耳に入ってしまった。人々は雑談を止めるといっせいにお滝さんの顔を見た。
「訝しいっていうと……?」
「いくら声をおかけしてもご返事をなさらないんです。耳ざといお方ですから、これだけお呼びすれば聞こえないはずはないと思いますけど……」
お滝さんはふみ子に同行してもらいたいらしく、それが言い出せなくてもじもじしている。
「インターフォンか室内電話か何かないのかね?」
団平が早口で訊いた。食事が遅れるのが不満だとみえ、少し機嫌がわるそうである。
「お仕事の邪魔をされては困るとおっしゃって……」
「過労で耳がへんになったんじゃないかの。一過性難聴というやつ――」
お滝さんは団平の発言に耳を貸そうとはしなかった。
「縁起のわるいことをいうみたいですけど、まさか急病では……」
「じゃ行ってあげる。スペアのキイを取ってらっしゃいな」
ふみ子がテキパキした口調で答えると、お滝さんはすぐに飛んで出て行った。家中の鍵はすべてお滝さんが保管することになっており、それらは自分の金庫にしまい込んであるのだという。
一分もたたぬうちにお滝さんが戻って来た。それを見るとふみ子はわれわれに軽く会釈をしておいてから、足早に食堂を出て行った。先程と同様に、わたしの席からは二人が階段を上がっていく後ろ姿が見えた。
「おふみさんはしっかり者ですな」
団平は感に耐えぬといった口調である。
「先生の秘書としてはうってつけですね。わたしも二、三の女性秘書を見てますけど、あれほど理想的な人はいませんね」
わたしも正直な感想を述べた。作家の有能な女性秘書というのは他にもいるけれど、ふみ子のような才色兼備の秘書は見たことがない。
「わしだったら黙っちゃおらんがの。すぐプロポーズして嫁さんにしちゃう。第一、給料を払わんですむからの」
団平にふさわしい低次元の発想であり、それに対してわれわれはおつき合いといった意味から、ちょっと相槌を打った。
わたしは、今日のドライブ以来、ふみ子という女性がいよいよ好きになっていた。だからできることなら彼女を人手に渡したくないと思っている。相手が豪輔であろうと、その気持ちには変わりがない。ひょっとすると、このときのわたしの笑顔はぎごちないものになっていたかもしれなかった。
と、二階の廊下を走る乱れた足音がして、階段の上からお滝さんの悲鳴が降ってきた。
「だれか来て! 早く! 先生が……」
わたしたちははっとして顔を見合わせ、ついで棒立ちになった。つぎの瞬間、団平がものもいわずに飛び出してゆき、それにつられたようにわたしは後を追った。お滝さんは踊り場に立って口をわななかせており、ふみ子はその脇に放心したように突っ立っていた。
「どうした!」
お滝さんは何かいおうとするが、まともな言葉が出ないようだった。
「おい、どうした?」
「……先生が殺されて……」
仕事部屋のほうを指さすと、かすれた声で告げた。団平は無言のまま駆け上がってゆき、わたしはふたたびその後につづいた。
三 動機の問題
1
仕事部屋の手前まで行ったとき、強烈な紙を燃やしたようなにおいを嗅《か》いだ。妙だなと思いながら扉口に立ってなかを覗《のぞ》くと、そこは煙が充満していて、はじめのうちは室内の様子が判らなかった。むっとする熱気が頬を打つ。団平もたたらを踏んだように、入口のところに立ち止まってしまい、煙を吸い込んで咳《せ》き込んだ。天井に蛍光灯がついているが、これは合鍵でドアを開けたふみ子が、なかば無意識でスイッチを押したということであった。われわれが食堂でおしゃべりをしているうちに夏の日も暮れてしまい、いつのまにか建物の内も外もほの暗くなっていたのである。
わたしも彼と並んでその場にたたずむと、慌《あわ》てて胸のポケットからハンカチを取り出して鼻にあてようとした。しかし、煙を吸うことのほうが一瞬早く、団平とおなじように激しく咳をした。咳ばかりではない。煙に刺激されて涙が出てくる。水のなかで目を開けたときのように、一切のものがにじんで見える。
ハンカチで涙を拭《ふ》き取ってから、改めて仕事部屋を覗いた。まず最初に目に飛び込んできたのは、床の中央に倒れている豪輔の屍体であった。医学にはズブのしろうとのわたしが、豪輔の体に触れもしないで断定的な言い方をするのは乱暴な話だけれど、直感的に死んでいると思ったのである。後になって少し気分が落ち着いてから、その当時のことを思い浮かべてみると、わたしが一見して息絶えていることを見抜いたのは、豪輔の頸《くび》に緑色の、絹の紐《ひも》をより合わせたようなロープが巻きついていたからであった。
なによりも先に換気をすることだ。咳き込みながら、そして涙をながしながら部屋に飛び込むと、正面の壁にある窓を開けた。冷たい夜気に触れたとたん、生き返ったような気がした。団平が屍体のわきにかがみ込むのを横目で見ながら、廊下に出て、今度は北に面した窓を開けようとした。と、わたしは裏庭に思いがけなく人影を目にしてはっとなり、反射的に身を引いた。
すでに戸外はかなり暗くなっていた。庭園灯が離れたところに立っているのではっきりとは判らぬものの、人影は男性のようであった。その人物は上体をかがめ、まばらに生えた雑草をなめるようにして掻き分けている。懐中電灯や提灯《ちようちん》を持たないところからみると、明るいうちにやって来て捜《さが》しつづけていたのかもしれない。あるいは、人目を避けるために灯火をつけないでいるのかもしれなかった。しかし、その捜し物は容易に発見することができぬ様子であった。気のせいか、草を分ける手つきがイライラしているように思えた。紛失物でも見つけているのだろうか。
わたしの視線を肌で感じたように、男は不意に顔を上げた。そして窓から見下ろしているわたしに気づくとすっくと立ち上がり、横っ飛びに暗がりのなかに姿を消した。一切がわずか二、三秒にすぎない短いあいだの出来事だったが、わたしの網膜には、その男の髭《ひげ》だらけの顔がかなり明確な残像となって焼きついた。そして年輩は判らぬながらも、彼の敏捷《びんしよう》な動作から、青年もしくは中年だろうという見当をつけたのである。
わたしが廊下の窓を開けた瞬間に、仕事部屋の南側の窓からさわやかな風が吹きぬけてゆき、それとともに、充満していた煙もむっとするような温気《うんき》も、たちまち薄れていった。女たちは依然として寄り添った恰好で、扉口のところに棒立ちになっている。一人はどこかで見かけた顔だが咄嗟《とつさ》の場合に思い出す余裕もない。白のポロシャツに白のショートパンツといったあで姿だけれど、齢は三十歳に近く、まず姥桜《うばざくら》といったところ。お滝さんは心ここにあらずといった放心状態で、眼もうつろ、遠慮気味に紅を塗った口を小さく開けたままだが、ふみ子のほうは若いだけに、多少はしっかりしているらしく、わたしの様子からなにか異常のあったことに気づいたふうであった。わたしと視線が合うと、もの問いたげに唇を動かしたが、わたしはそれを無視して、目を室内に投げた。
本当のことをいうと変屍体などを直視する勇気も元気もないのだけれど、ふみ子の前で意気地のないところを見せたくなかったのである。こうした場合、昔の作家は「清水《きよみず》の舞台から飛びおりる気で」といった常套《じようとう》的なフレーズを頻用《ひんよう》したものだ。だが、そのときのわたしは、正に清水寺のあの高い廊下から跳躍するみたいに、決然として、無理矢理に視線を室内にひン向けたのである。
団平に医学的な素養があろうとは思えない。だが、この男は医師になっても成功するのではないかと思えるほどの図太い神経を持っているようであった。下手《へた》をすると脳貧血を起こしかねないわたしなんかとは違って、屍体のかたわらに跪《ひざまず》いたきりで、しきりに豪輔の骸《むくろ》を眺めまわしている。
「どうです」
恥ずかしいことに声が上ずっていた。それを隠そうとして、わたしは下腹に力を入れると、おなじ意味のことをくり返した。
「まだ息はありますか」
下腹に力を入れたのだが、効果はなかった。声がふるえを帯びている。
団平はわたしのほうを見向きもしないで、ぶっきら棒に「死んどる。殺されたんだな」といいながら立ち上がった。べつにホコリがついたわけでもあるまいに、掌をポンポンと叩きながら……。
「篠崎君の人生も一期《いちご》の夢と化したな。わしは虚《むな》しさを痛感しとる。傲岸《ごうがん》にして不遜、人をひとと思わぬ我儘《わがまま》な男だったが、屍体となってしまってはおしまいだ。これで本の売れ行きもぐんと減るのではないかね?」
団平はノホホンとした口調でいった。世間のひとは知るまいが、少数の例外をべつにすると、作家の著書は当人が死亡してしまうと売れなくなるのが普通である。団平がいったのはそのことなのだろうと思った。
ふみ子もお滝さんも悲しみとショックに打ちひしがれている。正直のところ、わたしはちっとも悲しくはなかった。豪輔はなぜ殺されねばならなかったのか、犯人は誰だろうかといった疑問が頭のなかで渦を巻いていた。
わたしはおそるおそる屍体に目をやった。豪輔は多少の抵抗をこころみたとみえ、白と黒のチェッカー模様のアロハはボタンが二つちぎれ、そこから毛深い胸がのぞいていた。何代か前に北方系あるいは西洋系の血が混じったのではないかと思ったほど、黒々と密生した胸毛であった。
仕事部屋の広さは十二畳ほどある。前にも述べたように二つの窓は南に向いて開いており、左手は隣室との境の壁で、そこには金属製のファイルボックスと仮眠用のキャンバスベッドが置かれている。豪輔は仮眠中を襲われたのだろうか、タオル地のピンク色をした掛布団はベッドの裾のあたりに乱暴に寄せてあった。パンヤの枕は床に落ちている。ボタンの一個は窓の下に飛んでいたが、もう一つのほうは何処《どこ》に落ちたのか判らない。
窓に向かって右側の壁には黒い木製の一枚扉がついている。多分、押入れか納戸《なんど》ででもあるのだろう。その壁と、廊下側の壁とが直角に交わった隅に、小さな流し台とガス台とが並べてあって、お茶ぐらいは沸かせるようになっている。おそらく、真夜中に珈琲が飲みたくなったときなどに、自分で湯を沸かしたのであろう。と同時に、室内に充ちた煙とむっとする熱気の原因となったものにも気づいたのである。
2
ガスコンロの上には意外なほど多量の灰がたまっていた。一見しただけで紙を燃やした灰であることが判った。それも紙屑などの燃えかすではない。誰かが後で叩きくずしたとみえ大半が砕けてこなごなになっているが、部分的に残ったものを見ると、四角い黒っぽい灰は幾層にも重なっていた。ノートか書類、もしくは原稿用紙の類《たぐい》に火をつけたものであることは間違いなさそうであった。
灰を砕いた際に飛び散ったものだろうか、ガス台に近い床の上に、焼けそこねて茶色にこげた切れ端が二、三片落ちていた。つまみ上げて目を近づけてみると、どうやら枡目や文字が識別できた。おそらく焼却されたものはすべてが原稿であり、それも五百枚あるいは六百枚はありそうな、かなりの枚数にのぼることが想像されたのである。
こういう緊急の場合でも職業意識が先に立ち、うちで依頼した≪暗闇祝言≫が焼かれたのではあるまいかということが気がかりだった。われを忘れて周囲を見廻したわたしは、二つの窓際に置いてある豪輔の仕事机の上に求めるものを見出して、思わず大きな溜息をついた。≪暗闇祝言≫は無事であった。このときのわたしのあたふたした様子は、はた目にも滑稽に映ったことだろう。
無事ではあったものの、ひろげられた原稿のノンブルはまだ32だ。それが豪輔の朱が入っている原稿のすべてだ。つまり、作者が加筆し訂正した決定稿は三十二枚ということになる。うちの編集長がどう判断するかは知らないけれど、つねに決定稿のみを読者に提供しつづけてきた故人の気持ちを尊重するならば、雑誌に掲載できるのはこの三十二枚目までだろう。この尻切れトンボの原稿を載せて、果たして読者がよろこんでくれるかどうかは疑問であった。
作者の死によって未完に終わった作品を、そのままの形で掲載した例は過去にもいくつかある。牧逸馬、谷譲次の別名を用いて旺盛な筆力を誇示した林不忘氏が急死したとき、雑誌「主婦之友」は同誌に連載中だった≪白梅紅梅≫の未完の遺稿を活字にしたそうだし、戦後では、これも急死した小栗虫太郎《おぐりむしたろう》氏の長篇の書き出しの部分を探偵雑誌「ロック」が載せた。
しかし、今度の場合は少し事情が違っていた。この豪輔の文字どおりの絶筆となった作品は長篇の一部ではなくて、口述筆記をさせたものではあるが、一応は脱稿した短篇なのである。ともかくまとまった作品になっているのだ。しかもなお、それを三十数枚の中絶した形で活字にするのは、担当者たるわたしとしては残念でならなかった。はなはだ勝手な言い分だけれど、わたしは豪輔の死を悼《いた》むよりも、豪輔の加筆という作業を永久に中断させてしまった犯人に対して、やり場のない怒りを感じたのである。
机の上には原稿のほかに、マイクをつないだカセットデッキ、メモ、筆記器具などが片方に寄せてある。後で再生してみて判ったことだけれど、このカセットテープには、つぎに執筆する予定だった現代小説のほぼ十枚分が吹き込まれていた。
「ここは何だ? 物入れか」
団平の声でわれに還《かえ》った。
「扉の向こうに小部屋があるのよ。あたしたちは資料室って呼んでいますけど」
入口から一歩なかに入った女秘書はそう答えて、怯《おび》えたような目つきで黒い扉を見つめている。犯人はとうの昔に逃亡したとは思うが、なにかの拍子で逃げるチャンスを失い、このなかに閉じこもっていないとも限らない。
団平も怯えが伝染したのか、ひるむような眼差《まなざ》しになっていた。
「……田中くん」
と、彼は囁いた。
「一一〇番たのむ」
小さな声だが切迫したひびきがあった。わたしはその緊迫した声に弾《はじ》かれたように部屋を飛び出すと、廊下を走り抜け、階段を駆け下りた。電話はホールにある。
階段の下でふと顔を上げると、扉の開いた食堂の入口をとおして、テーブルを前にこちらを向いてすわっている田辺の姿が見えた。わたしがのぼせ上がっていたせいもあるだろうが、いまのいままで、彼も二階の現場にいたものとばかり思い込んでいたのである。テーブルに肘《ひじ》をつき、両の掌に顎をのせた田辺のポーズは彫像のように動かなかった。二階の騒ぎなど我不関焉《われかんせずえん》といった態度で、わたしの足音にもまったく動じる様子がない。
「何かあったんですか」
そう声をかけてきたのは調理室にいた三人の女たちであった。揃って白い仕事衣を身につけ、揃って血の気の失せた蒼白い顔をしている。
「先生が急病なんだ。心配しないでいいから休憩していなさい」
殺されたといったら仰天し、ヒステリイを起こしかねない。それを急病だと告げてショックを和らげたのは、咄嗟の場合われながら上出来だと思って、胸中ひそかに自賛したものだ。
階段の陰になった部分、つまりそこはシャワー室に行く通り道にあたるのだが、電話はその小テーブルの上に載せてある。わたしはダイアルに人差し指をつっ込んで、全国共通のあの数字を回転させていった。一一〇番するのは生まれてはじめての経験であり、そのせいか指先が微妙にふるえて、第一回目には一二〇番を廻してしまった。幸い気がついたのですぐ切り、二度目にやっと警察を呼び出した。
このときもあえて豪輔が殺されたことはいわずに、ただ殺人があったことのみを告げた。被害者がいまをときめく流行作家であることがマスコミの耳に入ったとたんに、この山荘は忽《たちま》ち土足で踏み荒らされ、われわれは新聞記者の質問攻めにあうだろう。夏場の軽井沢はいざという場合にそなえて、各社とも駐在記者の数をふやしているのである。いずれは彼らがカメラマンともどもすっ飛んで来て遠慮会釈もなく質問しフラッシュをたくに違いない。わたしは、それを少しでも先に延ばしたほうがよいと判断したのである。
受話器を置き、ついで編集部に長距離をかけようとしたとき、わたしはまた調理室の女たちに取りかこまれて受話器を手にしたまま吊るし上げにあった。
「いま人殺しがあったとおっしゃったじゃありませんか」
しまったと思ったがもう取り返しがつかない。
「一一〇番なさったんでしょう?」
「ねえ、どなたが殺されたんですか」
「正直におっしゃって!」
「いや、その……、つまり、その……」
女の視線を浴びてわたしはしどろもどろだ。
「殺されたのは先生ね?」
「そんな……そんな……」
「だって二階にいらっしゃるのは先生だけじゃありませんか」
「だからその……」
へどもどしているわたしを、女たちはもう相手にしようとはしなかった。
「怖いわ」
「どうしよう……」
「早くお巡りさんが来てくれなくちゃ……」
向かい合って、いま見せた詰問《きつもん》調とは別人のように弱々しい口調で囁き合っている。
「警察はすぐに来てくれますよ。だから調理場に戻っていてください。心配ならドアに錠をおろしておけばいい」
「そうだわ、そうだわ」
ぞろぞろとつながって行ってしまった。わたしはほっとした思いになり、気をとりなおして東京の社のダイアルを廻した。もう六時を過ぎているから交換台は出ない。編集部直通である。
聞きなれた調子の呼び出しベルが鳴っている。いつもなら何とも思わぬその音が、いまはひどく懐かしく感じられた。
「……こちら編集部」
つい数時間前に別れたばかりの編集長の声までが、懐かしく聞こえてきた。
「ぼくです、田中」
「やあ、ご苦労。タクシーを奮発して来いよ」
上野駅からかけているものと思ったらしい。
「そうじゃないんです、まだ軽井沢です、山荘にいるんですよ」
「まだ脱稿しないのか」
噛みつくような調子になった。わたしに噛みついたって、仕様がないだろうに。
「いえ、脱稿はしてるんです」
「なにをモタモタしてるんだ、このうすら馬鹿。いま何時だと思ってる! おれは生ビールが呑みたいのを我慢して待っているんだぞ!」
「生ビールよりも奥さんの顔を見たいんでしょう」
「ご名答、ウヒヒ。馬鹿! まじめにやれッ」
「じつは編集長、大変なことが起こったんです。一大事です、どうしましょう」
「馬鹿、慌てるな、落ち着け、落ち着くんだ。一大事とはなんのことだ」
「篠崎先生が殺されたんです」
とたんに編集長は、げッというような妙な間投詞を発した。しばしの沈黙。
「……おいきみ、田中君、ほんとか。おれを担《かつ》いだらただじゃすまんぞ。クビだ!」
「ほんとです、ほんとなんです。二階の仕事部屋で絞め殺されているんです。もうじき警察がやって来ます」
本来ならば「犯人は誰だ!」というところだが、そこは痩せても枯れても編集長である。
「脱稿してあるといったな?」
「はい」
「よかった。野川さんの諒解《りようかい》をとりつけて、必ず原稿を持って帰れよ。何がなんでも持って来るんだ。いいか、判ったな? 篠崎さんの絶筆ともなれば読者はわっと飛びつく。雑誌の増刷ってのは滅多にないんだ。戦前の『新青年』に乱歩さんの≪陰獣《いんじゆう》≫が載ったときのほかに数えるほどしか例がない。戦後になっての例では、『小説新潮』の別冊が推理小説の特集を組んだときは売れてね、各作家に大入り袋が出たんだ。気の毒なことに、編集者たちにはなんにも出なかったそうだがね、イヒヒ」
さすがに編集長ともなると違うのである。いまもしるしたように、犯人は誰かなんぞという世俗的な問題は超越して、ひたすら雑誌の売行きだけを考えているのだ。しかも、すでに増刷が決まったもののように独り合点をして、満足気な笑いを洩らしているのである。
だが、それを聞くとわたしの気持ちは途端に重くなった。豪輔の朱が入った分はわずかに三十余枚にしか過ぎない。なんとかしてふみ子を口説いてみるつもりだけれども、彼女がウンというとは限らない。この齢になってこんなことを告白するのは恥ずかしいが、わたしはまだ女を口説いた経験がないのである。こうした羽目に追い込まれるのだったら、もっと腕を磨いておくべきだったと後悔した。わたしは元気よく受話器をかけ、しかし胸中は悄然《しようぜん》としていた。
通話をすませて二階へ戻ろうとしたわたしの耳に、いらだたし気に鳴りつづけるドアチャイムの音が聞こえた。いくら鳴らしても誰も出て来ないことに腹を立ててでもいるような、せわしない鳴らし方であった。
チャイムが聞こえたら手近のイスにすわっている田辺が出てくれてもよさそうなものじゃないか。そうしたことを思い、中《ちゆう》ッ腹《ぱら》になりながら、小走りになって入口の扉を開けた。夜間はスクリーンドアの他に木の扉を閉めてあるので、開けようとしても簡単にはいかない。ちょっと厄介《やつかい》である。
テラスにはボストンバッグをさげた軽装の男が立っている。ちょっと見には青年だか中年だか判らない。態度がどことなく粗野であった。少なくとも作家ではない。
「予約をいったん取り消してしまったんですが、空いた部屋があったら一泊お願いしたいんです。藤岡権九郎《ふじおかごんくろう》というものですが」
ドスのきいた低音だった。彼の名にはわたしも聞き覚えがある。ヴェトナム戦線の報道写真で知られたプロのカメラマンだ。戦争が終結した昨今はアフリカに飛んだりメキシコのユカタン半島へ飛んだり、超人的な活躍をつづけている有名な写真家である。
「仕事が今日中に終わるはずだったんですが、時間不足でやっぱり無理だと気づいたものですから」
「じつはわたしも泊まり客なんです、ここの人に訊ねてみないと返事の仕様がないんですが、ま、お入りください」
家のなかに入れたが、あえて鍵はおろさなかった。空室のあることは承知しているけれど、ふみ子が頭を横に振れば、また出て行ってもらわなくてはならない。
わたしはホールに戻ったものの、ふみ子は二階に行ったきりである。そこに調理の女の子が顔を出したので、飛び込みの客の来たことを告げた。
「いいですわ、それが先生の方針だったんですもの」
「取込み中だからどうかと思うんだけど」
「野川さんにはあたしからお伝えしておきます。それに、一度予約なさっていたわけですから、そのお部屋に泊まっていただけばいいんです。お料理だって二人前あまっていますから」
「二人前? 藤岡さんは二人連れの予定だったんですか」
「そうじゃないんです。藤岡さんはもともとお一人ですけど」
彼女は白い頭巾《ずきん》に手をやると、わたしの勘のにぶさを哀《かな》しむような目つきをした。
「先生が亡くなられたではありませんか。先生の分が残っているんです」
「あ、そうだったね」
「もう一人、遅く見えるお客さまがあるんです。でもこの方は外ですませて行くからとおっしゃって……」
「そのことは野川さんから聞いてる。千客万来であんたたちも大変ですね」
「それがお仕事ですから」
彼女はつつましく笑い、調理室に入って行った。
3
わたしたちすべてのものが、正確に書けば犯人をのぞいたすべてのものがということになるのだが、事件が連続殺人に発展するとは思ってもみなかった。わたし自身にしても、豪輔を殺さねばならぬ理由はなにもないのだし、犯行のあった当時はドライブに出ていたという明確なアリバイがあるのだから、すぐに疑惑が晴れて、今夜のうちにも帰京できるものと思っていたのである。ところが、そう簡単にはいかなかった。事件は予想もしない方向に発展し、予期しない人間が犠牲者となっていったのである。
藤岡権九郎は、まったく変なときに来たものだ。タイミングが悪いというか、故意にその時点を狙ったというか、正確なことは判らないが、他殺屍体が発見されて山荘全体が動顛《どうてん》している真っ最中に到着したものだから、お滝さんも女中も部屋に案内することを忘れてしまい、その間中、彼は頬の髭をなでながら、べつに文句をいうでもなく、食堂のイスに腰をおろしていた。食堂には田辺がいる。その田辺に言葉をかけたものの、彼のむっつりした態度に呆《あき》れ返ったのか、それとも最初から彼には見向きもしなかったのか、わたしが入って行ったときの両人はそれぞれ離れた位置にすわっていた。田辺はもとの席だが、権九郎のほうはべつの並びのテーブルに、それも田辺には背を向けた恰好に腰をおろしていたのである。
「なんだか落ち着かないが、何があったんです」
その質問に答えようとしたところに、二階から降りて来た全員が姿を見せて、近くの席についた。
「間もなく警察の人が見えるでしょ。そしたら訊問だのなんだので落ち着いてお食事することもできないから、いまのうちにすませようということになったの」
と、ふみ子がわたしに説明した。それと前後して、調理室のほうから食器の触れ合う音が聞こえてきた。だが、先程とは違って、いまは食事どころではないらしく、誰もがむっつりと不機嫌そうに押し黙っていた。いつもならば食欲を掻き立てるはずの調理場の雑音が、いまはむしろ不協和音みたいに響いてくる。そう感じるのは単にわたし一人ではないものとみえ、あたりを見廻すと、ふみ子もめぐみも千恵子もそろって細い眉をひそめていた。ただ団平だけが空腹をもて余したように、みじかい首を思いきり伸ばして調理場の様子をうかがっている。
「あら、お客さん?」
ふみ子は新顔の存在に気づくと、声をひそめた。
「ええ、藤岡さんです。カメラマンの藤岡権九郎さん。調理の人から連絡がいくことになっていたんですが、その暇がなくて……」
「いいのよ、歓迎することが先生の方針なんですから」
と、彼女は調理係とおなじことを答えた。豪輔の博愛主義ともいうべき主旨は、全員に徹底しているのである。
作家は当然のことだが、画家や編集者といった連中の大半と顔見知りの彼女も、カメラマンとなるとほとんど知っていない。作家と写真家とでは接触する機会がないからだ。それに比べると編集者であるわたしは毎号のグラビアに写真を載せる必要から、何人かのカメラマンとある程度のつき合いがある。といっても、中間誌のグラビアといえば何とかの一つ覚えみたいにヌード写真を並べたがるものであり、この点はわたしの編集部も例外ではない。だからわたしの知っているプロのカメラマンとなると、ヌードを専門に手がける写真家ばかり。報道カメラマンとは全然つき合いがなかった。わたしは権九郎とふみ子が挨拶を交わし、彼女が一同に紹介しているさまを他人事《ひとごと》のようにぼんやりと眺めていた。
ホールのほうからワゴンの音が聞こえてきた。これが平素だったらピクリと耳を動かさんばかりにして、子供のように眸《ひとみ》をかがやかせるところである。だが、この夜は、夕食時刻からずいぶん時間が経過しているというのに、団平をのぞいては誰もが反応を見せなかった。お滝さんも痴人のような無表情な顔で女の子を指図し、料理を並べさせていた。
死んだ豪輔の発案であったが、この家では、全員が一度に食事をすることになっている。調理師もお滝さんも少し離れた席にすわって、一緒におんなじものを喰う。だから食事中に給仕をするわけにはゆかず、四角い膳に一人前の料理や小さなお櫃《ひつ》をのせ、ワンセットとなったものを各自の前に配るのである。田辺義夫は食事をせずに発つなどといっていたが、本気で発つ気だったのかどうかはべつとして、事情がこうなってはとどまらざるを得ない。
その夜の遅い夕食も、そうして始められた。なんといっても現場を見たもののショックは強烈だったから、食欲がわかず食事もすすまない。それに反して権九郎は現場を見たわけではないので、食欲にブレーキがかかるはずもなかった。中国風の炒糸肉《シヤオスーロー》をさも旨そうに喰っている。
だが、いまもいったとおりこの藤岡権九郎が旺盛な食欲をみせてがつがつと食べるのは、食事時刻がずいぶん遅くなったのだから当然だとして、団平までがそれに劣らぬ勢いで肉にかぶりついているのは意外だった。
なんでも話によると医師のあいだで用いる神経切断剤という薬があって、肋間《ろつかん》神経痛などで悩む患者に注射をすると、痛む神経が中途からちょん切られてしまい、苦痛が去るということである。そういう便利な薬品のあるのが事実だとするならば、あるいはこの団平という男も神経痛を病んで切断剤を注射してもらったことがあり、その際に看護婦の手違いかなにかでデリカシイを司《つかさど》る神経まで切断されてしまったのではあるまいか。そうとでも考えないことには、この男の鈍感、鉄面皮、無恥といった性格を説明できないのだ。
他人の食事する様子を盗み見することほど浅間《あさま》しいものはあるまい。だが、ほかの連中がほんのお義理で箸《はし》を動かしているなかで、団平ひとりがひたすら喉を鳴らして喰う姿は、見まいとしても目に入ってしまうのである。
わたしは戦後の生まれだから戦前派から見れば至らぬことが多いと思っている。それでも両親がきびしかったので、ひととおりの礼儀作法は仕込まれたものだ。たとえば食事をするに際しても、舌を鳴らしてはいけないとか、迷い箸はみっともないとか、両肘はピッタリと脇にくっつけて喰えとか、ごはんをよそってもらっているあいだは副食物に手をつけずに待っているとか、作法上のタブーはいろいろとある。
ところが、この団平はどうだ、食事のエチケットに片端から反抗してでもいるように大きな音で舌つづみを打つし、つぎはどの皿に箸をつけようかと器の中身を見比べるし、箸の先をペロリとなめるし、よくいえば天衣無縫《てんいむほう》、わるくいえば不作法ここにきわまれりといった喰い方をしている。
だが、わたしの心は彼の上にのみあったわけではない。団平の動物みたいな喰いっぷりに対して、黙々としてひたすら健啖《けんたん》ぶりを発揮している権九郎という人物についても、関心を持たぬわけにはいかなかった。先にわたしが年齢不詳といったのは、この男が頬から顎にかけて真っ黒な髭を生やしており、その髭に隠された人相のほどもはっきりしないためである。そして関心を抱かざるを得ないとしるしたのは、体つきがつい二、三十分前に裏庭をうろついていた男にそっくりだったからだ。まさか、高名なプロのカメラマンともあろう人間がコソ泥みたいな真似をするわけもあるまいと思うのだが、疑ってみれば、あの落とし物を探しているように見えたのは、咄嗟の場合にとったポーズではなかったろうか。豪輔を殺した犯人はこの藤岡権九郎であり、逃走する途中で二階の窓から見下ろしているわたしの視線に気づいたものだから、ああしたお芝居をしてみせたのではないだろうか。日中の山荘は開放的である。人目を忍べば侵入することも容易だし、仮眠中の仕事部屋に侵入できたとしても不思議はないのである。
わたしがそのようなことを考えているのも知らず、彼はせっせとめしを喰い、お茶を飲んでいる。そして、わたしが胸中でそうした疑惑をふくらませていることは、ほかの連中も知ってはいないのである。目撃したのはわたし一人なのだから……。
「ご馳走さま。ああ旨かった、旨かった」
満腹した権九郎は誰にともなくいい、ポケットからウインナソーセージほどもある葉巻を取り出すと先端を噛み切って、ライターで念入りに火をつけた。やがて彼の口から、刺激の強い煙が吐き出された。
「ヴェトナム戦線にいたときはこいつの吸えないのが辛くてねえ。喰い物では苦労しなかった。いざとなればボクはトカゲでも鰐《わに》でも喰えるからな」
女性たちが一様に眉をしかめた。だが、彼女らの非難に満ちた目を、ウインクされたとでも勘違いしたのだろうか、権九郎はむしろ得意気に、爬虫《はちゆう》類の肉がどれほど美味であるかを語り出した。
「鶏《とり》だってもともとは蛇やトカゲの仲間だったんですからな、旨いのは当然で。しかし猿となるとさすがのボクもいやだったですよ。なにかこう共喰いをやってるような気がしてね。その点、ウワバミやトカゲなんてものは一段も二段も下等な動物だからね、抵抗感がない」
「一度わしも喰ってみたいと思うね。ゲテモノ料理というのはわしもかねがね興味があるんだよ」
喰い気の話になると団平は身を乗り出してくる。だが、あとの連中は一人として相槌を打つことをしなかった。ここにおいて尋常でない雰囲気に、ようやく権九郎は気づいたらしかった。
髭だらけの顔がわたしのほうを向いた。
「そういえば警察がどうとかいっておったですな。なにか盗難事件でもあったのですか」
「いや、先生が亡くなられたんです」
彼はパクリと口を開け、黄色い歯をのぞかせて絶句した。
「……信じられん。いつです」
「午後ですよ」
こんな得体の知れぬ男にくわしい話をする必要もあるまい。わたしはそう思って、簡単に説明して聞かせた。
「警察が来るって話でしたが、病死でないことは明らかだ。自殺でもないな」
「…………」
「すると殺人だ、そうでしょう?」
「警察が来れば判りますよ。あなたも覚悟しておいたほうがいいんじゃないですか。いろいろとほじくられますからね」
藤岡権九郎はとってつけたように高笑いをした。この家が凶々《まがまが》しい殺人の家であることなどまるきり念頭にないような、邪気のなさそうな開放的な笑いであった。
「ボクは潔白だ、警察になにを訊かれても困ることはありゃせんですよ、アハ、アハ」
もし豪輔が生きていたら、その不謹慎な笑い声にきっと腹を立てて追い出すことだろう、とわたしは思った。
4
軽井沢署から初動捜査班が到着したのは、権九郎の高笑いの余韻がまだ消えないうちのことだった。彼らはサイレンも鳴らさずにやって来た。入口の前で駐車する音すら、われわれには聞こえなかった。まるで猫みたいにこっそりと入って来て、だしぬけに食堂の扉口のところに姿を見せたものだから、誰もが一瞬言葉をのんで、びっくりして新来の客を見つめていた。
そのちょっと前に、調理室へ布巾《ふきん》を取りに行った秘書のふみ子がふと入口に靴音のするのを耳にして、扉を開けると彼らだったのだという。だがわれわれはそうしたいきさつは知らないものだから、ドキッとしたわけである。もっとも、後になって考えてみるとわたしは俯仰《ふぎよう》して天地に愧《は》じることなきシロなのだから、べつに魂消《たまげ》る必要もない。にもかかわらず、警官を見ただけで心胆《しんたん》がさむくなるのは、パヴロフ博士|唱《とな》えるところの条件反射説で説明がつくのかもしれない。わたしの幼稚園の先生は口癖のように、「悪いことをするとお巡りさんが来るわよ」といって園児たちをおどかしたからである。以来わたしは、婦人警官の姿を見ただけでドキドキするようになった。典型的な警察アレルギーとでもいうべきだろう。
「誰か、現場へ案内してくれませんか。いや、男の人がいいのです」
めぐみが率先して手を上げると、警官はちょっと会釈《えしやく》をして彼女の好意を謝絶した。
「適任者はわしだな……」
団平が独り言をいいながら立ち上がり、片方の手に持ったハンカチで口を拭くと、先導して食堂を出て行った。前にもいったとおり入口の扉が開いていると、ホールの正面の階段が見える。わたしたちは無言のままで、二階へのぼって行く団平のずんぐりした後ろ姿と、二人の警官の背中を見送っていた。
「長野市から県警が到着するまで、わたしの監視下におかせてもらいます。どなたも食堂からお出にならないように」
食堂に残った年輩の警官が注意した。いかにも場数を踏んだというような、落ち着いた物腰であり、口調であった。
女性の口から申し合わせたように溜息が洩れた。ひとくちに溜息といっても、諦《あきら》めの溜息もあり、抗議の意をこめての聞こえよがしの溜息もある。権九郎はまるきり無関心な様子でつま楊子《ようじ》を使っている。
「あの、あたくし着替えたいんですけど。この恰好ではお巡りさんにも失礼に当たりますから……」
手を上げて細い声で発言したのは、先程のショートパンツの女性であった。髪を神武《じんむ》天皇みたいに頭の中央から左右に分けて、耳に真珠色をした大きな輪をさげている。それが、彼女がものをいうたびに揺れ、にぶい光を反射する。漠然とではあるが、わたしは彼女が女流の書家ではあるまいか、と想像していた。
彼女はすでに立ち上がっていた。短いパンツから形のいい脚がスラリと伸びているのを見ると、近くにいた警官は激しくまばたきをし、慌て気味に視線をはずした。その目を田辺に預けたままで返事をするから、うっかりすると、この元編集者と語っているような錯覚を起こす。
「パンツを穿《は》いていたからといって、べつに失礼にはならんです。ただ、ちょっと挑発的な感じがして眩《まぶ》しいですが」
「でも、あなたはよろしくとも、二階のお巡りさんには失礼になりますわ」
「とにかく、いまは食堂にすわっていてください。あなた方を監視するのがわたしの役目ですから」
わたしは上体をねじって顔をふみ子のほうに持っていくと、声を絞った。
「誰なんです、あのショートパンツの婦人」
「挿絵画家よ。一時はうちの先生との名コンビを謳《うた》われたこともあった方」
「いまは解消したんですか」
「あの方も多忙になったもんだから、毎月何本もつき合ってはいただけないの」
「……とすると、松原《まつばら》さん、たしか松原|紅子《べにこ》さんとかいう人じゃないですか」
「紅子さんじゃなくて虹子《にじこ》さんよ。でも、よく覚えていたわね」
わたしはそれには答えずに、「美人ですなあ」と正直な感想を述べておいた。事実、おでこから鼻にかけての線の綺麗な、目もとの涼しい女性であった。もしショートパンツを穿いたのがテニスをするためであったなら、わたしも明日からこの単純な球戯を練習したいと思った。
いま豪輔の女性秘書は、最近の虹子が多忙のために挿絵をつき合ってはもらえないという表現をしたのだが、この一言がちょっと引っかかった。天下に名を知られた豪輔なのである。彼の作品の挿絵を描きたいという画家は数多《あまた》いるのだ。その豪輔が、相手が忙しすぎるので遠慮させていただいたなどとしおらしいことをいうはずがない。女性秘書の、いやに相手に花を持たせようとする言い方に、なにかいわくがありそうだ。
「……眉をよせて何を考えていらっしゃるのよ」
ふみ子に声をかけられてわれに還った。体をひん曲げ、首を突き出した恰好でポカンとしていたのである。だがわたしは、失神した柔道家が活《かつ》をいれられて息を吹き返すように、ふみ子の声で忘れていた記憶をよみがえらすことができた。そうだ、松原虹子の相合傘という有名な事件が起こり、それを機に、豪輔が彼女と袂《たもと》を分かったのだ。なにぶんにも豪輔が一枚加わった事件だから、有名人のスキャンダルとなると目の色を変えてとびつく芸能週刊誌から文芸誌にいたるまでが、もちろん、扱い方に相違はあるにせよ、派手にあるいは地味に取り上げたものであった。それまでの彼女は、豪輔に対する心中立てとでもいうのか、豪輔専用の挿絵画家をもって任じ、頼まれても他の作家の画を描こうとはしなかった。
その彼女が相合傘事件によって豪輔から捨てられると、かつて蹴られたことのある作家や編集者はそれ見たことかといわんばかりに袖引き合って嗤《わら》ったものだという。虹子にしてみれば豪輔によって手酷《てひど》く恥をかかされたばかりでなく、多くの作家のボイコットに遭って、古風な言い方をすれば生活《たつき》の道をとざされてしまったのである。
わたしの雑誌でも、かつては彼女の絵を採用していたに違いない。だが例の事件が起こって豪輔が虹子を遠ざけるようになると、わが編集部と彼女とのつながりも切れてしまい、今日に至っている。入社した当時のわたしに豪輔のごとき大作家を担当させてはくれないから、したがって彼女との面識もなかったことになる。そのわたしが虹子の顔をかすかに記憶しているのは、多分、彼女が編集部を訪ねて来たときに望見(というとオーバーだが)したからだろう。あるいは、相合傘事件当時に週刊誌かなにかで本人の写真を見たからかもしれない。
わたしが顔を上げると、ちょうど田辺も顔を上げたところで、思わず視線が合ってしまった。その拍子に彼が反射的にでもあったのだろうか頷《うなず》いてみせたので、わたしも微笑をふくんで会釈を返した。先程まではひどく怒って、こんなところのめしなんか喰うもんかと反《そ》り身になってタンカを切ったものだけれど、事態がこう急転換したいまとなっては帰るわけにもゆかず、気がすすまぬながらも結構うまそうに喰っていたのである。彼もまた現場を目撃しなかったグループのなかの一人だから、胃袋がストライキを起こすということもないのだ。
それにしても、彼を激怒させた原因は何だったのだろうか。あのとき田辺は憤然とした口調で「当人に面と向かって難じてやるんだ、さもないと腹の虫がおさまらない」といっていたが、犯人は田辺であって、その時点ではすでに殺人を敢行していたのではないだろうか。あのセリフは、おれは豪輔が死んでいることを知らないからこんなことを喋っているんだぞ、と宣伝するのが狙いだったのではあるまいか。わたしには、田辺という男がにわかに怪しく思えてきた。
しかし、怪しいのは田辺だけではない。先程から飽きることなく歯をせせっている髭づらの偉丈夫《いじようふ》も、同じように疑惑の人物であった。なにぶんにも黄昏《たそがれ》の光線のとぼしい裏庭でチラリと見かけただけだから、あの男が権九郎に違いないのかと反問されると確答することはできない。できないけれども、顔中髭だらけというむさくるしい男は、権九郎以外にはいないのであった。
まずいことはもう一つあった。わたしが二階の窓から目撃したことを何とかしてふみ子に伝えたいと思うのだが、こうして一室に閉じ込められていたのでは内証《ないしよ》話をすることさえできないのである。もし彼女がこのことを聞かされていたならば、ああもあっさりと宿泊の許可を出したかどうか疑問であった。
三十分たち一時間たった。二階に上がった三人は何をしているのだろうか。話し声ひとつ聞こえてこない。
5
車のエンジンの音がしたので居合わせた全員が思わず顔を見合わせた。時刻は十時になろうとしていた。県警から捜査員が乗り込んで来るとなると、シロであろうとピンクであろうと緊張しないわけにはいかなかった。
ふみ子は、こうした場合でも女秘書という立場を忘れない。
「あたくしが出ます」
「いや、本官が――」
「持ち場を離れると、その間になにが起こるか知りませんことよ」
「……それじゃ、二階に声をかけてくれんですか」
「わかりましたわ」
足早にホールに出て行った彼女は、階段の下に立って呼びかけようとしたが、逆に背後から声をかけられて、びっくりしたように振り返った。
「あら」
「予約しておいた井上《いのうえ》です。いまタクシーで着いたんです」
「あら」
「あらあらって、どうかしたんですか」
ハキハキした若い声である。県警から係官が着いたと思ったのは、われわれの早合点だった。
「悪いときにお見えになったわね。といって、もう終列車は出てしまったし、ホテルに泊まろうとしても満員でしょうし……」
「何かあったんですか。いやに静まり返っていますね」
軽快な、感じのいいハイバリトンが急にくぐもった調子になった。ふみ子がこっくりをしている姿が見える。
「なんだか変だな。どうしたんです、ねえ、野田さん」
「野川と申しますわ」
「失礼。ね、何があったんですか、野川さん」
次第にピッチが上がってくる。食堂のなかの男女は、おれは聞き耳を立てるようなはしたない真似はしないぞといった顔をしていたが、全員が聴覚神経をホールの問答に集中していることは確かだった。誰一人として私語するもののいないことがその証拠である。そして、かくいうわたしも例外ではなかった。
「大変なことになったのよ。あたし、緊張しているから平気な顔をして応対してるんだけど、本当はそれどころじゃないの、発狂しそうなくらいよ」
「発狂する……、まさか」
男はとまどったように短く応じた。ふみ子がヒステリイの発作を起こすまいとして、歯を喰いしばって耐えているのは当然であった。食堂にいる千恵子にしてもホステス嬢のめぐみにしても、挿絵画家の虹子にしても、一触即発というか、いまにも悲鳴をあげて卒倒しかねない切迫した表情なのだ。
「あなたって運の悪いひとだわね。でも、こうなったら泊まっていくほかはないんだし、泊まる以上はお話ししといたほうがいいわ。じつはね、先生が亡くなられたのよ」
青年は返事をしなかった。相手が冗談をいっているのではないかと思ったのだろう。
「……まさか……まさか」
「それも殺されなすったのよ、ロープで頸を絞められて」
「酷《ひど》い……酷すぎる……」
「もう軽井沢署から係官が見えてるわ。間もなく長野市から県警の捜査員も見えるはずよ。観念してなかへお入りなさいな」
「…………」
その客はわたしが予想した以上の打撃を受けたらしく、背をまるめ力の抜けた足取りで食堂に案内されて来た。麻のスーツにカンカン帽というヴォードビリアンを思わせる服装だが、それはすらりとした長身によく似合っていた。声から想像したとおり見たところ二十七、八歳の若者のくせに、ふらふらした歩き方は老人ホームの長老みたいである。右手に、保険のセールスマンが持っていそうな黒い鞄を抱えている。
ははあ、とわたしは思ったものだ。この青年、豪輔とのあいだに生命保険にでも加入する約束ができていて、契約書に調印してもらうためにやって来たのだな。こんなに遅くはるばる訪ねて来たことから想像すると、ひと口やふた口ではあるまい。かなり高額の取引きだったに違いない。だからこそ、豪輔が殺されたと聞いて呆然自失したのだろう……。
彼は一座の注視の的であった。それほどこの青年の落胆した様子は真に迫っていた。
「お食事は要《い》らないってお電話だったから、仕度はしてないのよ。でもね、先生の分が余っているの、喰べたければそれを召し上がるといいわ」
青年はゆらりゆらりと首を振った。がっくりしたショックで声も出ない様子である。先程の溌溂《はつらつ》とした喋り方をする若者とは別人のようであった。
「どうしたんです、一体」
監視の警官が見兼ねたとみえて声をかけた。
青年は手にしたストローハットをテーブルに載せると、何か答えようとして口を開けかけたが、声にならなかった。輪郭のまるい、ありきたりの顔をした若者だが、つい今し方散髪をすませてきたように小ざっぱりとしている。事実、真っ黒な髪のあたりからポマードの甘いかおりが匂っていた。
「どうしたんです」
「この方は井上|精二《せいじ》さんというんですの。作家志望なんです。でも、作家として世に出るには何かのきっかけがなくてはなりませんでしょ? だから、うちの先生に原稿を読んでいただいて、出来がよければ先生が然《しか》るべき雑誌社に推薦するって約束が交わされていたんです。ところが先生があんな目に遭われたでしょう? だから、がっかりなさったんですのよ」
「そう悲観することはないと思うな。江戸川乱歩賞に応募するという方法もあるではないですか」
権九郎が慰《なぐさ》めるようにいった。
「もっとも、乱歩賞があっても当人に才能がなくては駄目だがね」
慰めたのか皮肉をいったのか解らない。当の井上青年も相手の真意を捕捉《ほそく》しかねて、とまどった顔つきをしている。
「ぼくが書くのは時代小説です。だから江戸川乱歩賞には関係がありません。推理作家を志向する人は恵まれているけど、時代物を書こうという連中は、そうした賞がないから困るんです」
「それは作品ですか」
田辺義夫が口をはさんだ。彼自身もまた作家を志しているのだ、井上を仲間と見たかライバルと見たかは解らないが、興味を示したことは事実である。
「作品なんていわれると照れますけど、習作です。短篇が五本ばかり入っています」
この作家の卵は次第に元気を取り戻し、それにつれて活発な発言をするようになった。
「じつは、ぼくも作家志望なんです。ぼくの場合は原稿を郵送しておいたんです、篠崎さんが読んでやるといってくれたから。出来映えがよければ、雑誌社に売り込んでやろうって……」
無口な田辺が発言した。
「あれ。あなたにもそう約束したんですか」
青年は拍子抜けした声になった。
「そうですよ、ぼくにもそういった。あの人はね、以前ぼくに対してむごい仕打ちをしたことがある。良心が咎《とが》めたというよりも、いまとなってみると、ぼくに向けてした行ないが大篠崎のイメージダウンにつながるんです。だから、猫なで声を出してぼくの機嫌をとろうとしたのですよ」
「…………」
青年をはじめとして、めぐみも千恵子も、調理室の女の子も、その場に居合わせた全員が田辺の言葉に耳をかたむけていた。
「現在ぼくの本職は校正マンです。それも主として篠崎大先生の校正をやっています。今回も、ここに泊まり込んで校正をやるかたわら、作品評を聞かせてもらうつもりだった。送りつけたのは三本なんです。時代小説と現代小説、それに推理小説ですけど……」
「…………」
「三作とも自信があった。ぼくは体質的に短篇しか書けないから乱歩賞に応募するわけにはいかない。だからあの人が頼りでした。あの人の推輓《すいばん》で世に出るつもりだった。ぼくには野心があった。同時に才能もあると思っていた。特に推理作家としての才能ですがね」
「…………」
「今回、あの人から仕事ついでに泊まっていかないかという誘いを受けたとき、預かった原稿の出来がよかったから、これこれの編集部に送ることにしたよ、なんていう話を聞かされるのではないかと思って、胸を躍《おど》らせていたんです。いまにして思えば、あんな男の甘言《かんげん》に乗せられたぼくが馬鹿だった。あの人はぼくの憎むべき敵なんだから、たとい猫なで声で招待されようとも、毅然《きぜん》とした態度で、断乎として拒否すべきだったんです。だけど、ぼくは知らなかった。あれほどまでに低劣な男だとは知らなかったんです」
「ちょっと田辺さん、言葉が過ぎやしないこと? 先生はもう亡くなっているのよ、神様になっているのよ」
「へえ、あれが神様ですか」
挑《いど》むように語尾をはり上げ、田辺はつっかかるような口ぶりになった。
「あなた何を怒っているのよ。先生には一度も会わなかったのでしょう? そんならなぜ憤慨しているのよ!」
「そう、あの人には一度も会わなかった。仕事の最中だったからね。だからぼくは、あの人に会うのが待ち遠しかった。一刻もはやく吉報を聞かせてもらいたかったんです。ぼくははやる気持ちを抑えつけて、この食堂で麦茶を飲んでいた。そうしているうちに、あの人に会う前にシャワーを浴びて、髪の手入れをしておこうと考えた。それがエチケットだと思ったから……」
彼は篠崎のことを「あの人」という代名詞で呼びつづけた。田辺の怒りの原因がどこに根ざしているのかは知る由《よし》もなかったけれど、その口調から、豪輔に対していかに立腹しているかがよく解った。周囲の男女も思いはおなじだとみえて、口をはさむものはいなかった。監視の警官までがじっと聞き入っていた。
「櫛《くし》を使ったぼくは、さてその櫛の汚れをとろうとして、鏡の横にたばにして吊るしてある反古《ほご》をちぎったんです」
贅沢|三昧《ざんまい》な日常生活をおくっているくせに、戦後の物資のとぼしい時代に育った人に共通したことだが、豪輔は思いもかけぬところでケチになるという。泊まり客に対してふみ子が最初に告げるのは、部屋を出る際にはまめに天井の灯りを消すようにということであったが、これも豪輔の要請によるものなのである。
鏡の横には、書きそこないの原稿用紙をハガキ大の大きさに切って、糸でとじたものが吊り下げられているが、これも豪輔の気まぐれなケチ精神のあらわれだった。
「ぼくは何気なく手にした紙に目をやった。そして驚いたんです。驚くと同時に腹が立った。猛烈に腹が立ってきたんです。頭がくらくらっとなって、目の前が暗くなってしまった。憤慨するのは当然でしょう、だってそれは、八つ裂きにされたぼくの原稿なんだから……」
四 カーテンの紐
1
捜査一課長を先頭に押し立てて、長野県警から係官が乗り込んで来たのは、それからさらに三十分ほど後のことであった。推理小説に出てくる捜査課長などというものはつねに脇役で、名探偵の引き立て役を演ずるたてまえになっているから、必然的に冴《さ》えない人間として描写されているものだが、この本物の捜査課長たるや威風堂々としていて眼光するどく、部下の刑事連中に比べると一段と近寄りがたい雰囲気を持っていた。齢の頃は団平と同じぐらいの働き盛りである。だが、人間的にはキリンとモグラ以上の大きな違いがあった。捜査課長が軽薄であっては部下に対してしめしがつくまいが、このキリッとした課長を見た目で団平を見ると、その落差の大きいことにわれながらびっくりするのである。人間、べんべんとして大めしを喰い駄法螺《だぼら》を吹いているとこうも違った出来上がりになるという、好個のサンプルがこの団平であるといったら酷に過ぎるだろうか。
といっても、わたしが両人を比較して感心かつ呆れたのは後の話なのだ。到着した一行はただちに二階の現場へ直行したからである。間もなく、女秘書のふみ子が呼ばれて上がって行った。アリバイのある彼女が第一番に指名されたのは奇異な思いもするが、これは事情を聴取するほかに、たとえば取調べ室をどこに設けたらいいかといった相談をするためだったのだろう。この山荘では、何をするにせよふみ子の手を煩《わずら》わさなくてはならぬことが沢山あるからだ。
ふみ子が二階へ上がって行ってから、小一時間ちかいあいだを、われわれは一階の食堂に缶詰《かんづめ》にされたままで、なんとも落ち着けぬ気持ちを抱いてすわりつづけていた。テレビでも見ていれば気もまぎれるだろう。が、殺人のあった直後に西部劇だのチャンバラを見るのも気がひける。神経が象の鼻みたいに太い団平でさえ、スイッチを入れようとはしなかった。こうしたときに喫煙の習慣のある連中は、煙を吐き出すことでストレスを解消することもできるからいい。しかし、タバコを吸えないわたしには気の鎮《しず》めようがなかった。
そうしたときに珈琲《コーヒー》を詰めた大きなポットが運び込まれたものだから、さっそくそれにとびついて、こげ茶色の熱い液体を飲んだ。平素は珈琲嫌いのわたしだが、この夜ばかりは何杯もおかわりをした。カフェインに敏感な体質のわたしは、夕食後にお茶を飲むともう眠れない。だがこのときは眠れぬことなど問題ではなかった。塩分の濃い食事をした後でひたすら水気の補給をしたくなるように、ただ夢中で珈琲を胃のなかに流し込んだ。砂糖もクリームも入れずに飲むなんて、珈琲嫌いのわたしとしてははじめてのことである。
タバコを吸わない田辺と千恵子も、わたしと同様に珈琲の追加をしていた。もちろん、珈琲好きの連中はいうまでもない。ポットは十分もしないうちに空になってしまい、賄《まかな》いの女性が調理室へとんで帰ってふた瓶目の珈琲をとどけてくれた。
ふと誰かに注視されているように感じて顔を上げると、テーブルをはさんだ席の虹子と眼が合った。彼女は白い歯をみせ、ちょっと小首をかしげる仕草をした。その少女っぽい動作が、わたしにはひどく初々《ういうい》しいものに思われた。
団平は気分転換のつもりだろうか、何度か監視の警官の前に立って抗議を申し込んだ。文句をいいたければ捜査課長を相手にすればよさそうなものだ。下っ端の若い警官に不平をのべても効果のないことは、当の団平が知らぬはずがないのだから、やはりこれは退屈しのぎにちょっかいを仕掛けたと解釈すべきだろう。こうした場合のきまり文句だが、長時間にわたって一室に監禁するのは人権|蹂躙《じゆうりん》だというのが彼の抗議の内容である。団平の気持ちを読みとったのだろうか、警官はまともに相手にはしなかった。
ドアを開けて秘書のふみ子が入って来たのは、ポットの珈琲が残り少なになった頃のことであった。
「つぎは田中くんの番よ」
「どの部屋です?」
「撞球《ビリヤード》室だわ」
「二階にそんな部屋がありましたか」
「あら、一階なんですのよ。現場検証も終わって、皆さん一階の撞球室に移られたんです。二階はなにかと不便ですもの」
入口の扉が閉まっていたせいで、彼らの移動する姿が目に入らなかったのだろう。わたしは飲みさしの紙コップをテーブルに載せると、人々の視線を背中に集めて廊下に出た。妙なものである、つい夕方までは大威張りで歩いていた廊下も、いまは警察に呼び出されたときみたいに足音をしのばせ、遠慮気味に歩かなくてはならない。廊下のあちらこちらに刑事が立っているので、べつに悪いことをしたわけでもないのに、お巡りさんアレルギーのわたしはなんとなく気持ちが萎縮《いしゆく》してしまう。
調理室の前を通り過ぎていくと、その先が撞球室であった。木製の大きな一枚扉がピタリと閉じられており、磨き上げられた真鍮《しんちゆう》のノブがひどくものものしく見えた。わたしはそっとノックする。そうっと叩いたつもりなのに、いやに大きな音をたてる扉だった。
「おう」
内側から武骨な返事が返ってき、わたしはそろそろと扉を押した。中学校の入学試験がパスしたあとで、第二次試験として口頭試問を受けたときも、こうしておっかなびっくりの及び腰で校長室のドアを開けたものだ。ふとわたしは、なかで待機しているのが髭を生やした校長であるような錯覚を起こした。
だが、捜査課長は髭なんぞは生やしていなかった。見るからに俊敏な感じのするこの課長は、それが訊問のテクニックとでもいうのだろうか、予期していたよりも紳士的な態度でわたしに接した。
「田中さん……でしたな? ま、イスにかけてください」
彼は机の前のスツールをボールペンの先で示した。部屋の中央に二台の玉突き台が鎮座ましまし、わたしは白い壁を背にして腰をおろした。気のせいかゲーム台に貼られたグリーンの羅紗《らしや》の色が、妙にくすんで陰気に見えた。机もイスもスツールも、大急ぎで他の部屋から寄せ集めたといった感じである。机の正面に腰かけているのはいうまでもなく課長だが、その右側にすわって机上にノートをひろげているのは一見して古参刑事であることが判る男だった。鉢のひらいた大頭で、鬢《びん》のあたりが白くなっている。テレビを見ているとよく感じることだが、近頃はストレスのせいか公害のせいか若白髪の男がやたらに目につく。長野あたりは空気のきれいな土地だろうから公害のためというわけもなかろう。とすれば、この刑事が白くなったのはストレスのせいだということになる。多分それはこの上役からピシピシと酷使されたためであろうと想像すると、心なしか課長の視線は一段ときびしく感じられた。この男に絞られるのはかなわない。そういった怯《おび》えに似た気持ちを抱かされた。
わたしが編集者であることはふみ子から聞いていたとみえ、イスにすわるのを待っていたように、今晩は泊まってもらわなくてはならないが悪く思わないようにといった。
「作家や編集者のなかにはうるさい人が――」
いいかけて失言に気づいたように言葉を切り、ニヤリとしてみせた。わたしもつられて歯を見せたが、後で考えると、この失言もちゃんと計算した上での発言だったのかもしれない。簡単に口をすべらせるような男ではないからである。
「まあ、殺人事件という異常な事態が発生したのですから、ここは我《が》を殺してわれわれにご協力いただきたいですな」
「我をとおそうとは思いませんけど、問題は篠崎さんの原稿でしてね。わたしはこれを取りに来たんです。これさえ社に送ってしまえば、あとは同僚にまかせておけばいいんで、わたしがいなくてもべつにどうってことはありません。二日や三日ぐらいここに留め置かれてもかまわないです」
この機会に、原稿を手に入れるための確約を得ておこうと思った。
「なにしろ篠崎さんは仕事の多い流行作家ですからね、わが社は特に締切りを三日延ばして待っているんです。だからこの原稿が今夜手に入らないと雑誌が出なくなるのですよ」
「篠崎さんだけが作家ではないんだから、あの人抜きで編集したらどうです?」
「とんでもない、あの人の小説が載っているかどうかで売行きが六十パーセントも違ってきます。それほどの人気作家なんです」
少しオーバーに表現してやると、この課長も大袈裟《おおげさ》に同情するような表情を浮かべた。
「そりゃ気の毒だ。来月号からはどの雑誌にも氏の作品は載らなくなるのだから、雑誌社は軒並みにぶっ潰れるわけだ」
「そんな皮肉はおっしゃらないで――」
「原稿は用がすみ次第返すことにします。しかし今日明日中にというわけにはいかんですな」
「そりゃ酷《ひど》い、そんな呑気なことをいっていられちゃ困ります。そんなことされたら編集長に半殺しにされてしまう」
「編集長がこわいならわたしが直接かけ合って諒解を求めますよ。あなたはまだ昼寝から覚め切っていないようだが、これは殺人事件なんだ。この家のなかですこぶる重大な犯罪が行なわれたことを忘れてくれては困る。現場では指紋の採取が続行されていますが、あの原稿に犯人の指紋なり唾液なり血液がついている可能性もある。ですから一枚一枚を入念にチェックした上で、なにも付着していないことが判ったら、その時点で返してあげるといっているんです。出来上がっている原稿は他にも一、二ある。そのなかで特にあの≪暗闇祝言≫を真っ先にチェックすることにしよう。われわれはそこまで好意的に譲歩しているんですから、あなたのほうでも協力してくれんことには困るですなあ」
2
課長の演説が終わった。だが、彼はなにも判ってはいないのである。わたしは原稿を今夜くれといっているのだ。といっても、最近の印刷会社は定時で機械を止めてしまうことになっているから、いずれにしても≪暗闇祝言≫が刷りにかかれるのは、明日になってからのことなのだが、遅くとも明朝のイの一番に原稿を入れないと、結果的にはゲラの出るのが大幅に遅れてしまう。
「明日の朝までに判明しませんか」
「無理だよ、きみ。これから全員の指紋を取らせてもらって、それと照合していくのだから時間がかかる。とかく文筆関係者だの編集者なんていう連中は、なにかというと反抗的な態度に出たがるからね、素直に指紋を取らせてくれるとはわたしも思っていない。この作業はかなり難渋《なんじゆう》するだろうな。スッタモンダの末に、仮りに九十九人がすんなりと指紋をとらせたとしても、最後の一人が応じない限り、指紋の照合は終わらないわけです」
わたしがハッとして気づいたときには、怪《け》しからんのは当局のほうではなくてつむじの曲がったわれわれ容疑者である、ということになっていた。
「そりゃまあ、作家や編集者に一言居士《いちげんこじ》の多いことは事実ですが……」
などと、わたしが相手のペースに巻き込まれた返事をしたのだから、自分のお人好しに愛想がつきるのである。だが課長は、わたしが協力的な態度に出たものと勘違いをしたらしく、原稿の一件を除外すると、むしろ好意的に応対してくれた。
もっとも、わたしには前にもいったとおり豪輔を殺すような動機がないのだし、清書した原稿をとどけるとすぐドライブに出たという立派なアリバイがあるのだから、誰が見ても百パーセント潔白なのだ。容疑者扱いをされるわけがないのであった。
「先程ざっとあの原稿を調べてみたのですが、終わりの二、三枚は筆蹟が違っていますな」
「ええ、あれはわたしの字ですよ。ちょっと手伝ったんです」
その件についてはすでにふみ子の口から聞いているに相違なかった。それを、何も知りませんといった顔つきで問いかけてくるのだから、刑事というのは陰険な職業だと思った。多分、わたしの応答によってふみ子の発言のウラをとると同時にわたしが真実を語っているか否《いな》かをチェックしていこうという作戦なのだろう。わたしは俯仰《ふぎよう》して天地に愧《は》じるようなことをした覚えはないから、知っている限りの事実を答えるつもりだった。ただし、ドライブに行った先の草原で花束の交換をしたことだけは、口が裂けてもいうまいと決心していた。ロマンチックに過ぎるからというよりも、あまりに子供っぽい行為だったからである。
「どうですか、誰がやったと思いますか」
「さあ……」
「篠崎さんという人は傲慢無礼な作家だそうですが、彼を憎んでいるものも多かったのではないですか」
「その質問にはお役に立てそうもないですね」
わたしは逃げの手を打った。この質問は園田団平に向けられるべきものであった。彼ならばあることないことを並べたてて、相手を大いに喜ばせるに違いない。
課長はべつに失望した色も見せずに、つぎつぎと質問をつづけ、わたしはわたしで毒にも薬にもならない返答をくり返した。
課長が喜色をあらわしたのは、わたしが二階の窓から目撃した髭男の話をしたときだった。
「落とし物を探していたというのですね?」
「いえ、そんなふうに思えたといっているのです。しかしわたしが見下ろしていることに気がついて、咄嗟の場合にそうしたポーズをとったのかもしれません」
「あなたが覗《のぞ》いていることが、下から見上げて瞬間的にわかりますかね?」
「廊下には灯りがついているんですから、逆光を浴びた人間が窓際に立っているということは、すぐ眼に入ったはずです」
男にしてみれば、わたしの体つきから目撃者が男性であることの見当はついても、人相までは判らなかっただろう。髭づらのカメラマン藤岡権九郎が裏庭の男であったものと仮定して、訪ねて来た彼と玄関ホールで顔を合わせた際に、わたしを見た彼が少しも狼狽した気配を見せなかったのは、覗いていた当人がこのわたしであることを、識別できなかったからではないだろうか。
「その髭男が逃げ出してから藤岡氏が現われるまでに、どのくらいの時間が経っていましたか」
「一時間ぐらいでしょうね」
「同じ人物だと断定できますか」
「無理ですよ。裏庭の男はチラッと見かけただけですから」
課長とわたしの質疑応答を、同室の刑事も熱心に聞いていた。
なんといってもわたしには明白なアリバイがあるのだから、訊問は多分に形式的なもので、十分あまりで「放免」されることになった。わたしがいそいそと立ち上がってドアのノブを握ろうとしたときに、背後から課長に声をかけられた。
「あ、ちょっと……。いまの話のなかで、千恵子さんがドライブに出かける約束を急に取り消したという件《くだり》ですが、どうして気が変わったのでしょうかね。この点についてのあなたの解釈はどっちですか」
「どっちというと……?」
「つまり、シャッターを切られたことに腹を立てたのか、田辺さんの姿を見たからか、ということですよ」
わたしは課長のほうに向き直った。問答が長びくかもしれぬと思ったからだ。いまのいままで殺人事件に気をとられ、そのことについてじっくりと考える余裕がなかったので、質問を受けたときは思わずハッとなった。
「……さあ、わたしは田辺さんの姿を目にしたからだと思いますね。だって、園田さんにスナップされたために立腹したことはあり得ることですが、腹を立てたからといってドライブを拒否したとは考えられない。むしろ車を飛ばしているうちに、モヤモヤとした気分は消えてしまうだろうと思うんです」
「なるほどね。すると田辺さんかな?」
「と思いますね」
わたしがそう答えると、課長は納得したように大きく頷いて、つぎに田辺に来てくれるように伝えてくれないか、といった。きっとこってり絞られるぞ。そう思いながら廊下に出ると、ホールのほうがなんとなく騒がしかった。何事だろう? わたしはそちらへ向けて足を急がせた。
3
近づいてみて判ったことだが、篠崎の屍体が車に搬《はこ》び込まれて、これから信州大学へ向けて発つところだった。入口の扉は大きく開け放たれ、そこから入って来た二、三匹の蛾《が》が壁の蛍光灯にぶつかって、鱗粉を飛ばせていた。その壁を背に、ふみ子やお滝さんなどの山荘側の人々と、団平や千恵子、めぐみたちの宿泊客が寂然《せきぜん》として立ち並んでいた。涙ぐんでハンカチを眼にあてているのはお滝さんただ一人で、ふみ子は感情を押し殺した、いってみれば仮面をかぶったような無表情の顔をしており、調理師の女の子は怯《おび》えたように同僚と身を寄せ合って立っていた。団平は例によってちゃらんぽらんな性質を剥《む》き出しに、隣りのめぐみの肩をつついては小声でなにか語りかけ、声を殺してクスクスと笑い合っていた。あとの連中は至極《しごく》神妙にかまえているが、これまた例のとおりというべきだろうか、田辺の姿はなかった。
わたしには透視の超能力などはないのだけれど、食堂のテーブルに頬杖をついてつくねんと考え事をしている彼の姿が、くっきりと眼に浮かぶような気がした。豪輔に二度までも無礼な仕打ちをされた彼の無念が判らぬでもない。だがその豪輔もいまは幽明界《ゆうめいさかい》を異《こと》にしてしまったのだから、気がすすまぬながらも見送りに出るくらいのことはしてもいいではないか。わたしは田辺の執念深さにいや気がさすとともに、その狭量をひそかに嗤《わら》いたくなった。
屍体の搬出という場面はアメリカのテレビ映画などでしばしばお目にかかるが、長野県警のやり方も似たようなもので、救急士だか若手の医局員だか判らぬ男が二、三人で毛布のかかった屍体をタンカに乗せると、それを両手で担《かつ》ぎ上げて、観音びらきの扉を開けて待機していた車の後部座席に積み込むのであった。若い白衣の男の一人が、そのとき「あらヨッ」と小さく声をかけたように聞こえたのは、わたしの空耳だったろうか。
車のテールライトが小さくなり、上下に揺れながら次第に見えなくなってしまうと、人々はほっと吐息をして食堂に戻って行った。彼らにとっても、そしてわたしにとっても、現在の食堂はその本来の意義を失った監禁場所でしかないのだが、だからといってほかに行くところもないのである。歩きながらちらりと振り返ると、ふみ子とお滝さんのふたりが立ち去りがたいといった面持《おもも》ちで暗い闇に眼をやり、じっと身動きもせずにたたずんでいた。
わたしが声をかけようとするよりも先に、監視の警官が早く食堂へ帰るようにとうながした。
「あら、ごめんなさい」
ふみ子は急にふだんの自分に戻ったようにハキハキとした声でいい、お滝さんはまだ放心したような顔つきで、うすボンヤリしていた。
お滝さんにつづいて警官が入って来る。全員が食堂に顔をそろえたとき、わたしは忘れていた捜査課長の伝言を思い出した。
「田辺さん」
「え?」
予想したとおり、彼はテーブルに両肘をつき、掌に顎を乗せるという自堕落なポーズで両の瞼《まぶた》を閉じていたのである。
「あなたの番ですよ」
「なにが……?」
「事情聴取です。県警の人が待ってます」
本来編集者というものは活動的な人間でなくてはつとまらぬものだが、田辺は、出版社に勤めていたという前歴が嘘みたいに、ノロノロとした動作で立ち上がった。失職して社外校正に打ち込んでいるうちに身についたのか、それとも訊問されることが嫌なのか、膝を曲げ、足をひきずった歩き方は老人のように覇気《はき》がなかった。
「ねえ、どんなことを訊かれたの?」
めぐみはチラと警官のほうに視線を投げておいてから、にじり寄って来た。妙なことだが、わたしの勘がにぶいというか性格が呑気《のんき》すぎるというか、豪輔を殺した犯人が食堂に集まった全員のなかにいることを、そのときまでは痛切に感じなかった。原稿さえ無事に手に入ればそれでいいといった、よくいえば俗事を超越した考えを、悪くいえばノンビリしすぎた考えを持っていたのである。それがどうしたわけか、めぐみに甘い声で囁きかけられた瞬間に、勃然《ぼつぜん》として警戒心が湧き起こってきた。ひょっとすると、豪輔の頸に緑色のロープを巻きつけたのはこの女なのかもしれない。ホステス稼業で身につけたコケティッシュな態度に、豪輔が目尻を下げて骨抜きになる。その油断を見すまして絞め上げるという作業は、彼女だからこそ可能だったのではないか。仮りにむくつけき団平が(団平には犯行不能であることは明白になっているが、仮りに、の話である)豪輔に接近したとしても、彼がそこまで気を許してあっさりと縊《くび》られたとは思えないのである。
わたしは相手に気取《けど》られぬように腰を引いた。
「べつに変わったことは訊かれなかったよ」
「たっぷり十五分は調べられていたのよ。時間的にみて、さぞかしいろんなことを訊かれたことだろうと思うんだけどな」
「住所氏名、本籍地、それに妻子の有無だとか勤務先だとか、ま、そんなことを訊かれた」
「もっとあるでしょ」
「篠崎豪輔氏はとかくの評判がある先生だったそうですな、とか」
「何て答えたのよ」
「世間の評判のことは存じません。やつがれにとってはいい先生でした……って」
「あーら、嘘が上手ね」
「いままで小説を書いていただいていたんだからね、余りあけすけなことは喋れない立場にいるんだ。正直な話はほかの人がしてくれると思ったもんでね」
「あたし、喋っちゃおうかしら」
めぐみはいたずらっぽく黒い眼をかがやかせた。そうしたときの彼女の表情は子供のように無邪気に見え、手練手管《てれんてくだ》で男性をメロメロにするヴェテランのホステスだとはとても思えない。
「何をです?」
「あなたの重大秘密のことよ」
「ぼくに秘密なんてない」
「あるわよ、あたし知ってるんだから。でもね、お店に来てくれるんだったら黙っててあげる」
「こいつは一大事だ。近いうちにだれか偉い先生を連れて行くから、その件は黙っててくれないかな」
わたしが片眼をつぶってみせると、彼女も左の眼をチカチカさせてそれに応じた。わたしは訊問がすんだということで気が軽かったし、めぐみはめぐみで、警部に事情聴取をされることなど歯牙《しが》にもかけていない様子であった。
「やり切れんな、まったく……」
ふいに離れたテーブルから団平のいななくような声が上がった。
「諸君はどうですか、アルコールでも注入せんことには神経が持たんの。わしゃ見かけよりもナイーブなたちでね。そういっても信じてくれるものはおりゃせんだろうが……」
この男、「諸君」をだしに使って酒にありつこうという魂胆なのである。彼の発想はどうもうす汚くて好感が持てない。
「どうです、めぐみ君」
「あたし賛成」
「おふみさん、先程のあんたの拒絶の弁は篠崎君に叱られるから酒類は出せないということだったが、もうおこられるおそれはなくなったんだから、ワインでも焼酎でもかまわん、サービスしてくれんかの」
「わたくしも大賛成ですわ」
めぐみが、いとも容易に女秘書の声色《こわいろ》を使って答え、一同のあいだから笑いが起こった。それは短い笑いではあったけれど、鬱屈した空気をほんの少しではあるにせよ、吹き飛ばす効果はあった。
ふみ子は冗談半分にめぐみを睨んでおいて、やおら団平のほうを向いた。
「あなたは先生のご親友だったのではなくて? その親しいお友だちがあんなお気の毒な死に方をなさったというのに、よくまあお酒が呑みたいなんて気が出ますことね」
小さな顔にキリッとした表情を浮かべると、挑戦するようにいった。彼女は、団平の傍若無人《ぼうじやくぶじん》な振舞いには我慢ができぬようであった。
「世慣れたあんたに説法する気はないが、通夜に酒を呑むのはわが国古来の美しい風習での、べつに不謹慎だなんてそしられるいわれはないぞ」
「でもあなたのは故人を悼《いた》むためじゃないのでしょう? たしか、アルコールを呑まなくちゃ神経が参ってしまうとかおっしゃっていたようだけど」
「わりかし記憶力のいいおな子《ご》だの、あんたって人は」
団平は栄養がたっぷりとゆきわたったような肉づきのいい顔に、頬の肉をひくひくさせ、苦笑を浮かべた。が、ふとい黒枠の眼鏡越しに、ギョロリとした大きな眼玉で女秘書を睨む表情は、いかにもにくにくしげだった。
ふみ子は何事もなかったようにテーブルに向き直った。豪輔がカセットテープに吹き込んでいた未完の現代小説を、片耳にヘッドホーンをあてて、せっせと原稿用紙に写しているのだった。豪輔とのあいだの契約が残されている限り、彼女は忠実にその秘書としての仕事をつづけるつもりでいるらしかった。
その仕事が一段落するのを待っていたわたしは、立って彼女のそばへ寄って行った。
「最終的にはそれが絶筆になりますね」
「ええ、でも短すぎて、これではどうしようもないわ。締切りが近づいているから、とりあえず書き上がっている分だけお清書してみたんだけど……」
「ストーリイが判っていれば、べつの作家が引きつぐということもあるでしょうね」
「でも、うちの先生は仲間内の評判がわるいから、そんな奇特なことをしてくださる親友なんていないと思うのよ」
未完の小説に手を加えて一貫したものにするという仕事は、労多くして酬《むく》われるものが少なく、彼女のいうとおり故人の親友ででもなければ引き受け手はないのである。彼女はそれを残念がっているふうだが、わたしは心のなかで手を打っていた。これで≪暗闇祝言≫が名実ともに絶筆となるからだ。編集長の言い種《ぐさ》ではないけれども、宣伝効果は二倍にも三倍にもなるのである。
だが、押収された原稿が早くもどりそうもないことを考えると、ずんと気が重くなる。
「すみませんけどね、後であの課長に会ったら、原稿を少しでも早く返してくれるように口説いてくれませんか」
「あら、どうして?」
大きな瞳で覗き込むようにわたしを見る。いつもの知的な眼は一転してあだっぽく光り、短い時間ではあったが、わたしの胸は妖《あや》しくときめいた。わたしは視線をはずしてから答えた。少しドギマギしていた。
「鑑識がすむまでは返せないというんですよ。そんなことしていたら大穴が開いてしまう。そうなるとぼくは運がよくてクビ、わるければ刺し殺されてしまう。編集長の机のなかには千枚どおしがありますからね」
「あら大変。でもそんな心配は要《い》らないんじゃないの。先生が吹き込んだカセットを東京に送って、五、六人がかりで手分けをして清書するのよ」
「そうさせていただけますか」
「いいわよ。速達で間に合わなければ、テープを電話口でまわして、編集部でカセットにとるという手もあるじゃない?」
なるほど、そいつは願ってもない名案だ。
「そうお願いできればありがたいけど。しかし朱の入っていない原稿を活字にしてもいいんですか」
「さっき園田さんがいったでしょ、もう叱言《こごと》をいう人はいなくなったって」
彼女はそう小声で答えると、白い歯を見せてわたしを見上げた。もしこの場に誰もいなかったら、ターザンのように叫びながら躍り上がったかもしれない。いや、彼女の白い頬っぺたをちょいと突っついて「サンキュー」といったかもしれない。わたしも男の端くれであるから、もっと男性らしく直接的な行動に出て謝意を表わしたかった。
このときのわたしには、食堂にいる二人以外の男女がすべて鬼か小姑《こじゆうと》に見えたのである。
4
訊問を受けたのは全員であった。そのなかにはお滝さんをはじめとして調理師や賄《まかな》い婦もいるから、すべてが終わるまでにはかなりの時間がかかった。はっきりと記憶はしていないが、最後に呼ばれた賄い婦が戻って来たときは午前二時前後になっていたのではなかっただろうか。
課長のかたわらでメモをとっていた初老の刑事が彼女とともに入って来た。賄い婦は朝がはやいとみえて、眠たいのだろうか、眼をまっかにしているのが印象的であった。彼女はほっとした面持ちで仲間の従業員のところに行くと、糸が切れたプペットのようにぺたんとイスに腰をおろした。いかにも一日の疲れがにじみ出たような、大儀そうな動作だった。わたしは服装に無頓着なたちだからうっかりしていたのだが、彼女らはそろって白い作業衣に白い帽子という恰好である。
「お疲れのところをすみませんが」
と、刑事が検札に来た列車の車掌みたいな口調で声をかけた。彼自身も陽焼けした顔が脂ぎって、見るからにくたびれた表情をしている。
「ちょっと集まってくれませんか。見ていただきたい品があります」
テーブルの上にはカートン紙の大型封筒が置いてある。作家が二つ折りにした原稿用紙を入れる袋だから、ふみ子から貰ったものだろう。その封筒に何が入っているのか、こんもりとふくらんでいた。わたしたちは無言のままで、彼の席の周囲に寄って行った。黙々としていたのは好奇心にとらわれていたこともあるが、われわれもまた疲れて口を開くのが大儀であったからだった。
一同が集まったところで刑事はかるく咳払いをした。昔の作家なら「おもむろに咳|一咳《いちがい》……」と書くところだ。
袋のなかからつまみ出したのは絹の紐《ひも》をよじったロープである。誰かが小さくあっと声を上げたが、わたしも胸のなかでそっと叫んでいた。そのロープはわたしの部屋のカーテン止めと同じものであり、他の客室を覗いたことはないが、たぶん彼らの部屋のカーテンもまた、日中はこのロープでくくられているはずであった。
「現場を見た人にはお判りだと思いますが、これが凶器です。豪輔氏の頸を絞め上げた非情な紐です。犯人は窓からこれをはずすと、ポケットに入れるかどうかして被害者の部屋に侵入した。そして、仕事中の豪輔氏の油断を見すましてすばやく絞殺した……というふうに考えられています」
「ちょっと質問させてもらいたいですが、いいですかな?」
ものおじということを知らぬ性格なのか、こうした場合にトップを切って質問するのは団平に決まっている。
「いいです。自由に質問してください。ただし、なかには返答を拒否することもあります」
「なに、誰でも答えられる簡単なことよ」
団平は鼻であしらうように短く応じた。
「これはわしが屍体をじっくり眺めたから知っとることだが、このロープは頸の後ろで結ばれておった。そのことからわしは、犯人が背後に立って絞めたものと想像しとるのです。とすると、篠崎君は犯人に対して気をゆるしておったのではないかの。まあ例えて申せば、秘書の野川君であるとか、あるいはこのお滝さんであるとか」
それが野川ふみ子に対する嫌がらせである、というよりも告発であることは誰の眼にも明らかであった。ふみ子は聞き流していたが、お滝さんは眼を大きく開いて、びっくりした顔つきで団平を見ていた。怒りの表情は少しもなく、自分の耳を疑ってでもいるように、口を小さく開けている。
「必ずしもそうだとはいえんですな」
刑事も団平の発言を苦々しく思ったのだろうか、素っ気なく応じた。
「被害者の頭に打撲傷があるのです。だから最初に一撃をくらわせておいて、昏倒したところを絞めたものと思う。被害者もかなり抵抗したようですが」
「もう一つ質問があるんですが」
と、今度は写真家が小学生かなにかのように片手を上げた。
「犯人に油断を見せていたとすると、例えば女秘書のこの方みたいに」
権九郎は髭むくじゃらの顎でふみ子を示した。
「豪輔先生の信頼を得ていたことになるですな。背後に立たれても知らんぷりをしとる。ロープをカーテン止めからはずされても、てんとして気にかけておらんのですから」
「いや、ロープのことは後で説明しますが、凶行のあった部屋のものを用いてはおらんのです。あらかじめ用意したやつをたずさえて、豪輔先生の部屋を訪れたらしいのです」
刑事は淡々とした口調で語った。
じつをいうとわたしは臆病な男だから、豪輔の死にざまを思い出すといまでも息がつまりそうな恐怖を覚えるのである。だから、努めてそのことは考えまいとしていたのだが、いまの刑事の一言によって、当時の光景がまたまざまざと脳裡《のうり》によみがえってきた。ボタンのちぎれたシャツ、そこからはだけて見えた熊みたいな胸毛、蜘蛛《くも》の死骸みたいにひん曲がった腕、そして豪輔の無念な形相……。果たして今夜は熟眠できるかどうかわれながら自信がなかった。できれば精神安定剤と睡眠薬を併用したいところである。
「撲《なぐ》るにしても、油断していたからこそ撲れたのではないかの」
「それは先生のお説のとおりです」
「とすると、相手はやはり弱き女ということになる。われわれ男性だったらけっして隙《すき》を見せるようなことはせんからの。けっして油断しはせん。なにしろ篠崎君は敵に囲まれておるような男だった。一部編集者には恨まれていたし、また仲間の作家からは嫌われとった。まあ、気を許すといえばわずかの編集者ぐらいのものではないかの」
「一部というのはどういう意味です」
すかさず刑事が反問した。
「編集者は三つに色分けできる。一つは篠崎君とは関係のない学術誌とか建築雑誌、それに映画雑誌にSM雑誌の編集者だの。第二のグループは篠崎豪輔にペコペコして執筆をお願い申したにもかかわらずハナも引っかけられなかった連中。そして三番目がここにおる田中君みたいにお覚えめでたい編集者たちだがの。わしがいう一部の連中とは、頼んでも書いてもらえなかった面々のことだ」
「なるほど。豪輔先生というひとはそんなに鼻息が荒いもんですか」
「まあな。人間、わしのように売れっ児になったとしても反《そ》り身にはならないタイプと、すぐ天狗になるタイプと二種類ある。篠崎君はどちらかというと後者での。どちらかといわなくても後者だわい」
わたしがちらりと辺りに視線をやると、千恵子もめぐみもくすっと笑っていた。団平が流行作家になったら威張ること豪輔の比ではないはずなのに、当人がケロリとして勝手なことを喋っているのだ、失笑しないわけにはいかない。だが、カメラマンの権九郎と作家志願の井上精二はそうした事情を知るわけもないから、いたってまじめな顔で傾聴していた。お滝さんは口に手の甲を当てると、つつましやかに、そっと欠伸《あくび》をした。
「犯行時刻は判りまして?」
千恵子に声をかけられ、刑事はびっくりしたように顔を向けた。そして、相手が美人だと知るとたちまち目尻を下げて、黒い顔いっぱいに愛想笑いを浮かべた。コロシのヴェテランも人の子だ、女性には弱いのである。
「はっきりしたことは解剖の結果を待たなくてはならんのですが、医者は午後の一時から二時までのあいだという見立てなんですよ」
医者というのは警察医もしくは嘱託《しよくたく》医のことなのだろう。
「もっと幅をちぢめることはできませんの? 何時何分に殺されたということがハッキリすれば、その時刻にはどこそこにいたとお答えできるかもしれませんもの」
「いや、その点はいまもいったとおり解剖の結果が出た時点で、あらためて全員にお訊《たず》ねする予定でいたのです。だから、当分のあいだ、皆さんにここを離れないようにお願いをしているわけなんです。しかしですね」
刑事はしきりに緑色の紐を片手でいじっていた。ところどころに白い粉がついているのは、指紋検出のアルミ粉なのだろうか。
「いまの段階でもかなり明確なことが判っています。というのは、最後に被害者に会われたひとはこの野川ふみ子さんなのです。最後といっても、本当に最後に会ったのは犯人なのですから間違えないように聞いていただきますが、こちらの田中氏が清書してくれた原稿を、秘書の野川さんが届けに行ったのが午後の一時半頃のことです」
眼をふみ子に向けると、その意味を察して彼女はこっくりをしてみせた。
「その後で被害者は赤インクで原稿のチェックを始めました。それが三十枚ばかり進行したところに犯人が入って来たのだから、平素のスピードから割り出してみると、つまり三十枚に朱を入れ終わるには少なくとも十五分はかかるだろうという野川さんの意見を参考にして計算してみると、事件が発生したのは、というのは犯行時刻はの意味ですが、まず一時四十五分か五十分頃のことではないかと考えられるわけですよ」
口調はおだやかだけれど、言葉を切って、反応をうかがうように一座を見回したときの眼つきは鋭かった。無理もない。このなかに確実に犯人は混じっているのだから。もっと正確にいえばアリバイのあるわたしと野川ふみ子、それにアリバイはないけれど犯行不能とみられる園田団平の三人を除いた残りの数名のなかに、犯人は間違いなくいることになる。
「その後で犯人は原稿用紙に火をつけて、それが灰になるのを待ってから逃げているのです。内側の取っ手のボタンを押して扉を閉じれば自動的に鍵はおりる仕組みですがね」
「なぜ燃やしたんですの?」
と、これはめぐみ。刑事は一段と目尻を下げる。田辺は先程からひとことも口をきかない。
「さあ、なぜでしょうかね」
刑事は愛想よく微笑んだつもりだろうが、それはお世辞にも微笑などといえたものではなかった。わたしは怪奇俳優として鳴らしたボリス・カーロフがフランケンシュタイン物の映画にモンスターの役で登場して、窓から民家を覗き込んでニタリと頬をひきつらせて笑ったときの、あの無気味な顔を思い浮かべていた。刑事の顔がモンスターに似ているというのではない。人間離れのした笑い方に共通したものがあるのだ。
「あの灰となった原稿から文章を読みとることができますし、筆蹟の鑑定も不可能ではないのですよ。鑑識が鋭意研究中ですから、間もなく誰の原稿だか判明します」
「その原稿が犯人に関係あるのでしょうか」
これはふみ子の質問である。刑事は女護《によご》ケ島《しま》に落っこちたパイロットみたいにうれしそうな顔をした。
「ないとはいえないでしょうな。篠崎先生を殺したあとで、わけもないのに他人の原稿用紙に火をつけるはずがないです」
刑事は満面に笑みをたたえている。わたしはふたたびあのモンスターを思い出した。
5
「さて、質問がなければ本来の用件に戻ります。じつはこの紐ですが、どなたの部屋の備品だと思いますか」
一同の顔に「それきた」とでもいったような表情が浮かんだ。理由もないのにこの重要な証拠品を持って来るはずがないのだ。
「…………」
「なるほど、お答えになりたくないとみえる。しかし、じつをいうとわれわれには判っているのです。というのは、失礼なことを承知の上で皆さんの部屋を覗かせていただいたからなのですが、皆さんのなかのある部屋のカーテンの紐が紛失していることが発見された。できれば本人の口から、紛失した事情について説明をうかがいたいのですが」
「ちょっと待ってくれませんか。ぼくはこの事件に全然関係ないのですけど、そうした種類の質問をみんなの前でするのはおかしいじゃないですか。事情聴取のときにやれたはずでしょう?」
そう口を出したのが文士志願の井上精二であることを知って、わたしはびっくりしてその顔を見た。それまでは日陰で育ったうらなりの文学青年というふうに軽く考えていたからだ。
一瞬、刑事は女護ケ島から現実世界に引き戻されて、苦い顔になった。
これだから男は嫌いだ、といっているような表情であった。
「そりゃあなたに指摘されなくとも、できたらそうしますよ。だが間に合わなかったのです。令状が届いたのがつい十分ほど前のことだったから」
「そう目くじらを立てないで刑事さんの話を聞こう」
と、団平は文学青年を制した。眼を細め、舌なめずりでもしそうな様子をしている。
「誰ですか、ロープが失くなっている部屋の主は?」
「いまもいったような理由で、再度訊問室にご足労を願うのは悪いからわたしのほうで出向いたわけですが、その点は諒解《りようかい》願うとして、ええ……」
刑事は言葉につまったように短くうめいた。
「五十をすぎると途端にもの忘れをするようになりましてね、あなた方もその年輩になると思い当たるでしょうが……」
「演説が妙な方向へそれたですな」
「いえ、つまりその姓をど忘れしたもんで、やむなく名前を呼ばせてもらいますが、めぐみさん――」
売れっ児のホステスはぎくんとして顔色を変えた。
「あなたの部屋のカーテン止めのロープが紛失していますが、どうしたわけですか」
「…………」
めぐみは二、三度口を小さく開閉した。鯉《こい》がフをつついているような口つきであった。
「……知らないわ」
「知らない? そりゃおかしいな。まさか盗まれたとでもいう気じゃあるまいの」
と、団平がしゃしゃり出た。こうなると黙っていられないたちの男なのである。
「園田さん、質問しているのはわたしなんです。あなたは黙っていてもらいましょう」
刑事が女性崇拝者であることはいままでの様子から見当がついていた。が、肝心の容疑者の本命に対してまでフェミニストぶりを発揮するとは意外であった。
「ロープはどうなさったんです」
「……いまもお答えしましたでしょう、存じませんの」
「ドアに鍵はかけてないのですか」
「はあ。日中は開けっ放しにしていることが多いですわ。ドアを閉めてロックするのは着更えのときぐらいですもの」
「最後に見たのはいつですか」
刑事はたたみ込むような早口で訊く。それに対してめぐみは、一句一句を考えるように、間をおいてゆっくりと答えていた。うっかりした発言をして、後で取り返しがつかなくなることを警戒するように……。
「最後に見たのは……今朝ですわ。起きてお窓を開けるときに、カーテンを結んだんです」
「ほんとかね……」
疑わしそうにまた団平がしゃしゃり出たが、刑事に睨まれて口をつぐんでしまった。後の連中は息を殺して二人の問答を聞いている。
刑事は手にしたロープを彼女の前に押しやって、調べてくれるように求めた。
「どうです、あなたの部屋のものですか」
「……判りませんわ。どのお部屋のも共通しているんですもの」
「ま、無理もないですがね。手に取ってじっくり見てください。指紋は検出できなかったから、自由に手で触れてもかまいません」
しかしめぐみはこわごわと眺めているきりで、手に取って見ようとはしなかった。だがそれは当然だろう。男性のわたしだって、こいつが豪輔の頸《くび》に巻きついていたしろものだと思うと、ボーナスを倍にしてやるといわれても手を触れる勇気は出ない。
「めぐみさんが知らないということになると、盗んだんだわね。犯人が」
千恵子が口をはさんだ。声が深々とした感じのアルトのせいか、当たり前のことを喋っていても発言に重味がある。
「そういう考え方もできますな」
「つまり犯行を転嫁《てんか》するのが狙いだわね?」
「そういう考え方もできます」
「しかしだの、犯人が一段と悪賢いやつだったら、わざと自分の部屋のロープを使うんじゃないのかね? 自分は犯人に仕立てられた哀れな小羊でござい、といったふうな顔をするためにの」
「園田さん、先程から申し上げようと思いながらご遠慮していたんですけど、少しお言葉が過ぎやしません?」
ふみ子にたしなめられても団平は平気だ。
「言葉が過ぎるとは思わんの。わしは可能性を検討しているだけだから」
「そういうことは刑事さんにおまかせなすったらいかが?」
「イカもタコもないね。本当のことをいうと、わしゃ他人をイビるのが大好きでの」
団平は妙な声で高笑いをし、まわりにいた全員が一様に露骨に眉をひそめてみせた。オーバーにやらないと通じないことを、人々はようやく悟ったようであった。
こうしたやりとりを、刑事は傍観者の眼で眺めていた。タバコに火をつけ、両腕を組み眼をほそめて、いかにも興味あり気な顔つきだった。
「……ま、その辺で話の先を聞いてください。まだ終わってはいないのだから」
吸殻を灰皿にこすりつけて消すと、彼はふたたびカーテンの紐を取り上げた。淡いグリーンのそのロープは絹に似た肌ざわりで、天井の蛍光灯の光を浴びて緑色ににぶくかがやき、わたしはテレビ映画で見た南方産の蛇を思い出していた。木の葉のなかに隠れていて、下を獲物が通りかかると、音もなくとびかかる毒蛇である。わずか三十センチの小柄ながら、噛まれた犠牲者は十歩もあるかぬうちに斃《たお》れてしまうという物凄さだ。
「……並江千恵子さん」
今度は彼女が表情を固くした。
「何でしょうか」
「じつはね、あなたの部屋のカーテン紐も紛失しているんですよ」
「まあ!」
「説明していただけますか」
刑事は、説明してもらえぬことを承知しているような調子で訊いた。千恵子は答えるかわりに、風に吹かれた里芋《さといも》の葉みたいに、ゆっくりと顔を動かした。
「……意外ですわ……」
「めぐみさんの場合と同じ質問になりますが、ロープを最後に目撃したのはいつでした?」
「……さあ。昼間はついうっかり見過ごしていますから、やはり朝ですわね。今朝までは確かにございました」
「よく調べてみてください。これがあなたの部屋のものだかどうかを……」
「判るもんですか。たといお部屋のロープになにか目立った特徴があったとしても、そんなことに気をつけてはいませんもの……。でも……」
「でも……? でも、何ですか」
「犯人が犯行を転嫁するために盗んだという説には賛成できませんわね。だって、それが目的ならばどちらか一方のロープを盗めば充分じゃありませんか」
「そう。だから解釈に困っておるのですよ」
と、刑事は正直に答えて、眼の前にとぐろを巻いている緑色の小蛇に視線をあずけたまま、口を閉じてじっと考え込んだ。それにつられたように、全員が小首をかしげた。いや、全員といっては正確ではない。犯人を差し引いた残りの全員が、と書くべきである。彼は(もしくは彼女は)ただ単に首をかしげるゼスチュアをして見せたに過ぎないのだから。
「……ところで皆さんにあらためてお訊きしておきましょう。午後の一時四十五分から五十分にかけて、何処《どこ》で何をしておいででしたか。いや、このご両人は結構です」
このご両人というのはふみ子とわたしのことである。
「わしも答えなくてもいいだろうの? このとおり片腕がないんだから。わしは自分の片腕のないことを、今日ほどありがたく感じたことはないのだからの」
「ま、あなたもオミットしてよいでしょうな。二本の手がなくては無理なことです」
そういわれて団平はまた奇妙な笑い声をたて、さも満足気であった。だが後になってプラスマイナスを計算してみると、片腕であることを単純によろこんでいいものかどうか、安直に断定することはできないのである。
「どうです、皆さん」
そう刑事に督促されても、男女はもじもじしているだけで答えるものはいない。
「めぐみさん、あなたはいかがですか」
刑事に眼を向けられためぐみは、顔を伏せてしきりに当時の記憶を呼び戻そうとするふうだったが、結局は成功しなかった。
「並江さんは?」
「あたくし……?」
女性速記者はまたドギマギとした様子を見せた。
「お部屋にいたものと存じますわ。たぶん……」
「ほう、部屋で何をしておいでだったんです?」
もし千恵子が嘘をつきたければ、手紙を書いていたとでも答えればそれですむはずのところなのに、どうしたわけか彼女は顔を赤くして怒り出したのである。
「……そんな、そんな質問は失礼じゃありませんか。ひとのプライバシーを――」
「そう怒らなくてもよろしい。答えたくなければ答えてくださらなくても結構です。あなたは真っ正直な性格だとみえますなあ」
「わしと両極端におるの」
団平がうそぶくようにいって短くウフウフと笑った。自分がハッタリ屋であることは、団平自身がよく承知しているようであった。
結局、凶行時刻における各人のアリバイを明確にし得たものは一人もいなかった。彼らのうちのある者は千恵子と同様に自室にいたと答え、ある者はこの食堂でボンヤリ考え事をしていたといい、またある者は独り庭のデッキチェアの上でまどろんでいたと称したが、いずれもその主張するものを立証することはできなかった。目撃したものがいても、それが何時頃であったかを記憶してはいなかったから、つまるところ何の役にも立たなかったのである。ただ三人の従業員だけが、夕食の下準備をするために調理室にいたことが判明して、相互間のアリバイが成立した。
「要するに皆さんの大半は山荘にいたということになる。つまり犯行をなし得る可能性を持っていたわけですな」
「残念ながら、そうなるですな」
団平がのんびりとした声で応じた。そして田辺のほうをくるりと振り返ると、太くて短い指を相手の鼻先につきつけた。
「いやにおとなしいですな、あんたは」
「…………」
「さっきはあれほどプリプリしておったのに。どうかしたのかね?」
「ぼくは喋るよりも考えるたちなんだ。沈黙は金なりという古くさい諺《ことわざ》を持ち出すわけじゃないけどもね」
逆襲された団平はひるんだように一歩|退《しりぞ》くと、その指先で自分の眼鏡をずり上げておいて、また攻撃に取りかかった。先程みずから冗談めかしていったとおり、この男は他人をイビることに生き甲斐を感じているのではないか、とわたしは思った。
「で、何を考えとったのかね?」
「二本のロープが紛失した事実について、ですよ」
「そりゃおもしろい。結論は出たのか?」
「ああ。ぼくなりの結論です。あなたが納得しようがしまいが、それはあなたの勝手ですがね」
「どんな結論なの? 聞かせて」
と、秘書のふみ子が小さな白い顔に熱意をこめていい、千恵子もめぐみもそれに同調した。
「お願い」
「ねえ、聞かせて」
「ぼくはね、やがて第二の殺人が起こるんじゃないかと思うんです。あの緑色をしたロープで絞殺される犠牲者が、つづいてもう一人出るんじゃないかと思っているんですよ」
「……まあ!」
ふみ子は、固いものでも飲み込むような顔つきをして、かすれた声で間投詞を発した。めぐみと千恵子は顔を見合わせ、怯《おび》えた表情を浮かべた。
と、いきなり爆発するような笑い声が起こったので、人々はおどろいてその男を見た。団平は文字どおり「腹の皮をよじる」といった恰好で、喉をぜいぜいと鳴らして笑いころげた。
「こりゃおもしろい。こりゃ傑作だ。田辺君は推理小説を書こうというだけあって、過去の作品をたくさん読んどるようだ。その多読からくる妄想だよ。よくいう『推理小説の読み過ぎ』というやつだの。小説の世界と現実の世界をごちゃ混ぜにしとる」
彼はとぎれとぎれにそういって笑いつづけていた。笑ったのは団平だけであり、あとの連中は田辺の発言の重さを測定するかのように、黙って考えていた。
田辺の発想が的中したのは、それから一時間とたたない頃であった。
五 オルゴール
1
団平の引きつったような笑い声がようやくおさまると、それを待っていたとでもいうふうに、女秘書のふみ子がゆっくりとした口調で刑事に話しかけた。大体この女性は積極性に富んだたちだから、ものの言い方もハキハキとしていて頭が切れる印象を受けるのだけれど、このときの彼女はひどく慎重な調子であった。
「……ロープがいつ盗まれたかという問題なんですが、あたしの記憶では午前十一時頃にはもう失くなっていたような気がするんです」
「なるほど、十一時頃にはね。しかし、当のめぐみさんや並江さんがうっかり見逃していたロープが、なぜあなたの眼にとまったのでしょうな?」
「なぜかと訊かれると困りますけど……」
刑事は一つ頷《うなず》くと、一同のほうをかえりみた。
「皆さんの中にロープを持った人間を目撃したひとはいませんかね。もしいたら名乗り出てください」
「…………」
答えるものはいない。文学青年の井上精二とカメラマンの藤岡権九郎の二人は、おれの知ったことかとでもいいたげにそっぽを向いている。団平は例によって肉づきのいい顔にうす笑いを浮かべ、意味もなく頬を撫《な》でていた。あとの男女は刑事の視線をまともに受けると、眩《まぶ》しそうに眼をそらせてしまった。
「そりゃあんた、無理というもんじゃないですか。たといその人物を見かけたとしても、誰それさんですといって仲間を告発するわけにはいかん。われわれ文化人は、そうしたはしたない行為はやらぬことにしておるんです」
「よく聞き取れなかったんですが、われわれナントカとおっしゃいましたな」
この刑事、意外に皮肉な男であるらしかった。ところが団平にはそれが通じなかったのだから、世間にはにぶい男もいるものだ。
「文化人ですよ、ブンカ人……」
「お見それしました。あなたが文化人でわれわれは野蛮人……。なるほど、言い得て妙といったところですな」
「刑事さん、そうひがんじゃいかんでの、わしは警察官を野蛮人だなんて侮辱する気は毛頭ないのだから。ただ、文化人だとは思うておらんだけの話よ。で、いまの件だが、無記名投票をやらせたらどうですか。われわれが知りたいのはロープを盗んだ人物であって、目撃者の正体が誰かということではないのだからの」
われわれがそうであったように、刑事も内心では団平に反発するものが多かったと想像されるのだが、そこは職務熱心というのか、監視の警官に手伝わせて白紙を何枚かに切り分けて、皆に配ろうとした。
「どうするんです?」
「目撃した人は、そいつの名を書いてくれればいいんです」
「そりゃあ困る。筆蹟を見ればたちまち告発者が誰であるか判っちまうじゃないですか」
強引に反対したのは田辺だった。
「じゃどうすればいいんです?」
「白紙を渡されてはまずいんです。だからあなたのほうが前もってわれわれ全員の名を記入しておいてもらいたいんです。心当たりのあるものは、その名前の上に印をつければいい。印といってもマルだのバッテンに統一するんじゃなくて、各自が思い思いの方法で印をつけるのがいいんです。あくまでぼくらが自由にのびのびとした気持ちで協力するのが理想的だと思うんだが……」
「ま、いいでしょう。わたしのほうとしてはロープ盗人《ぬすつと》の正体が割れればいいんだから」
配りかけた紙片を回収すると、少し離れたテーブルに向かって、一枚一枚に全員の名を記入しはじめた。しかし、厳密に言えば、これだけでは安心できない。全員の名を五十音順とかアルファベット順に統一しておくなら異議はないのだが、もし彼が一枚ごとに順列組み合わせによってわれわれの名を列挙する順序を変えれば、かなりの数のコンビネーションが生まれるはずだから、回答者がだれであるかは容易に指摘できることになる。だが、実際問題として、このような急な場合に、刑事が組み合わせを一つ一つ記憶できるわけでもなかろうから、そこまで突っ込む必要もないだろう。わたしはそう考えて傍観していた。という理屈はべつとしても、この「盗難事件」はわたしが到着する前に発生したことゆえ、わたしや田辺、権九郎、井上精二に投票権はないだろう。
団平はもみ手をせんばかりの上機嫌でにこにこしている。ロープ泥棒即豪輔殺しの犯人とみてよいだろうから、このテストによって犯人の正体があばかれることになるかもしれず、それを思うとひとりでに頬の筋肉がたるんでくる、といった様子。それとは正反対に、めぐみ、千恵子、それに女秘書のふみ子の女性軍は落ち着きを失って、言い合わせたようにそわそわしている。
「……あの」
速記者の千恵子が手を上げた。速記に疲れた腕を運動させるみたいに、上げた手の先をくるくると廻している。
「何ですか」
「あたし、お化粧をなおしたいんですけど」
「かまいませんよ、どうぞ。だが、口紅はちゃんとついているし、そのままでもひじょうにきれいですがね」
と、刑事はフェミニストぶりを発揮した。
「そんなことをいうから野蛮人だなんてレッテルを貼られるんですぞ、刑事さん。化粧をなおすというのは排泄作用をいとなむことを意味しとるでの」
「ハイセツ……? あ、これは失礼。どうぞ、どうぞ」
大柄な千恵子が立ち上がると、圧迫されつづけてきたイスが一息ついたようにギイと鳴った。その彼女と行動を共にするつもりか、監視の警官がそっと寄って来た。
「あら、あなたもおトイレ?」
「はあ」
「まさか、ピーピング・トムの真似《まね》をなさる気じゃないでしょうね?」
「でも、これは任務ですから」
「あたしが犯人で逃走する心配があるというの?」
「そうじゃありません、護衛だというふうに考えていただきたいんです」
「ま、おかしな説ですことね。あたしが犯人に狙われるような理由があるのかしら……」
彼女にも相手をイビる癖があるようであった。若い警官には、こうした場合にどう切り抜けるかといった才覚が浮かばぬとみえ、顔を赤らめてモジモジしている。
「……つまりです、犯人は破れかぶれになっているかもしれんのです。そうなると動機もなにもないのですから」
「だからあたしが殺されるかもしれないとおっしゃるのね」
「ええ」
「それ、ナンセンスじゃありません? 破れかぶれの犯人はこの皆さんのなかに混じっているはずでしょ? それならここにいて、誰も食堂から出さないように見張ってくださればいいじゃないの」
「はあ、まあ理屈はそういうことになりますが――」
「判った。やっぱりあたしが要注意人物で、逃走するのを防ごうというわけね?」
「いえ、あなたが要注意人物だなんて」
「そんなら、いっそのことこうしたらどう?」
横から早口で嘴《くちばし》をはさんだのはホステスのめぐみである。商売が身についたというべきか、こうした場合のとりなしはうまかった。邪気のない笑顔をまんべんなく二人に振りまいておいて、彼女の名案なるものを示した。
「簡単なことなのよ。あたしが一緒に行ってあげようっていうの。どう?」
鬢《びん》の白い刑事が、その白さを気にするように髪を掻き上げながら、若い警官に助け舟を出した。
「それは駄目ですよ。あなたが犯人でないということは立証されていないのだし、仮りにあなたが犯人だとすればです、この人がいったように破れかぶれの心境で並江さんを殺さないとも限らない。まあ、それは冗談だとしても、逆にあなたが殺される可能性もあるんです。だから誰が何といわれようと、同行させてもらいます」
「ちょっと待ってください、それはどうかと思うな」
と、文士志望の蒼白い青年が抗弁した。先程からこの若者は、自分に関係のないことに口をはさんで、そのたびに当局者の不快を買っているようであった。気むずかしそうな顔をしていながら、その本質はおっちょこちょいなのであろうか。
「なぜです?」
「なぜって、淑女に対して失礼だからですよ。先程田辺さんがいったとおり、犯人が二本のロープを用意しているのは二つの殺人に備えるためなのです。だが見たところ、並江さんもそしてめぐみさんも、ロープなんぞを隠し持ってはいません。言い換えれば……、そうだ、並江さんが犯人であると仮定してみましょう。そして何らかの事情で命を狙われているのがめぐみさんだとしてみましょう。だが並江さんとしてみれば、めぐみさんがトイレに同行するなんてことは計算外なのです。二本目のロープをどこに隠しているのか知りませんが、その凶器を取りに行く余裕もない。第一、下手《へた》にロープを取りに行ったら刑事さんの眼に触れてとっ捕まってしまうでしょう。ですから、ことトイレに行く程度だったらべつに心配する必要はないと思うのです」
「明解なご説明には敬服のほかはないですが……」
と、刑事は本気とも皮肉ともつかぬ言い方をした。
「しかし並江さんが必ずロープを使用するという保証もないわけだ。素手《すで》で襲いかかって絞め殺すという手だってあるんですよ」
「その点は刑事さんのいうとおりです。ですけどね、刑事さんもこの警官も、もう一つ見逃していることがある。当然のことなんですが犯人は自分の正体をあくまで秘めておきたいと考えているんです。絞首台にひっぱり上げられぬためには、最大の努力と犠牲を払ってでも、犯人が自分であることはカバーしなくてはならない。いま並江さんがめぐみさんとトイレに行って、めぐみさんが殺されたとするならば、誰が見ても並江さんの犯行であることは明らかです。並江さんが、そんな墓穴を掘るような真似はやりませんよ」
なるほど、立場を変えてめぐみが犯人であるとしても同じことがいえるのだ。わたしは論理的な考え方をするこの作家の卵にちょっとばかり感心し、彼が本格物を志向したらきっと大成功するのではないかと思った。いささか先物買いの感がないわけでもないけれど、帰ったら編集長に推薦してみようか……。
わたしがそうしたことを考えているうちに、速記者とホステス嬢とは連れ立って出て行った。ベテラン刑事も、筋の通った井上青年の主張を否定するわけにはいかなかったとみえる。
2
「ところで井上さん、ロープの隠し場所はどこだと思いますか」
刑事はカードに記入する手を休めて、高説拝聴という手に出た。彼にしてみれば、井上は完全な局外者なのだから安心して相談することができるわけだ。この刑事のブラックリストに載っているのがいま化粧直しに行っている並江千恵子とめぐみ、それに田辺義夫と松原虹子の四人であることは間違いない。お滝さんをはじめとする従業員は止め置かれてはいるものの、豪輔が殺された当時すでに調理場で夕食の準備にかかっていたというアリバイがあるので、容疑は希薄になっているはずだ。上司に報告してOKが出さえすれば、彼女たちは即刻放免されるに違いなかった。
「……さあ」
井上精二はしばらく考え込んでいたが、やがて首を振った。
「判りませんね。生憎《あいにく》だがボクは名探偵でもないし、透視術の大家でもない」
「そいつは残念ですな」
刑事はさして残念でもなさそうにあっさりと応じ、中絶されていたカードに名を記入するという作業に戻っていった。
廊下のほうで不意に女の声がした。用を足して帰って来る千恵子と、めぐみであった。一方はアルト、そしてもう一方はソプラノだからすぐに判る。話がはずんでいるのをみると、食堂を出て、解放された気分になったせいだろうか。
「……ねえねえ、食堂に戻ったら投票しなくてはならないでしょ。そのとき、あなたの名を書こうかなと思ってるの」
「やだ、変なことしないでよ」
話し声が食堂のなかにまで聞こえてきた。
「だって見たんだもん。一時をちょっと過ぎた頃だわ。あなた、二階から降りて来たでしょ」
「あら」
「ロープを盗《と》ったのはあなたじゃなくて?」
足音が停まった。二人は声をセーブして喋っているつもりのようだが、建物の構造のせいか建築資材のせいか、思いのほかハッキリと聞こえる。気のせいかもしれないが、並江千恵子が吸い込む息の音までが聞きとれたようであった。
「……見られたとは知らなかったわ」
間をおいて千恵子がポツリと答えた。
「あなたは何処《どこ》にいたのよ」
「テラスよ。デッキチェアでおひるねしていたの。ちょっと喉がかわいたから麦茶を飲みに行こうとしてホールに入ったら、あなたが降りて来るところだったの」
「じゃ、あたしがロープを持っていたとでもいうつもり?」
「そんなこといっちゃいないわ。何も持っていなかったことは確かよ。だけど、そうだからといってシロだとは思えないわ。たとえば、ふみ子さんの仕事部屋へ忍び込んだけど、ロープが気にくわなくて思いとどまったという解釈もできるじゃないの」
めぐみが相手を脅そうとしているのか、単に疑問点を確かめようとしているのか、これだけの会話からは判らない。だがこのときばかりは「文化人」ぞろいの食堂の連中が裏店《うらだな》のおかみさんみたいに、いっせいに耳をそばだてていた。
しかしわたしには、この頃になると話の内容がほぼ理解できるようになってきた。並江千恵子は、窓から外に落ちた原稿を拾い、それを二階のふみ子の仕事部屋に置きに行った、そして降りて来るところを目撃されたわけなのだが、そのような事情を知らぬめぐみは、それを変なふうに勘ぐって問題にしているのである。
しばらく沈黙がつづいた。たぶん、千恵子が相手の耳に口を寄せて、ふみ子の部屋に入った理由を説明してやったのだろう。やがて途絶えていた足音がふたたび聞こえはじめ、まもなく彼女たちは何事もなかったような顔つきで入って来た。食堂にいた連中はあわてて顔をそむけると、何喰わぬ面持ちで手近にいたものと額をくっつけ合い、まるで以前から話しつづけていたように喋り出した。ふみ子は挿絵画家の虹子と彼女の作品について論じ、田辺義夫と井上精二とは最近登場した新人作家の誰彼について忌憚《きたん》のない意見を交わし出した。シガーをくわえた権九郎は黙々として煙を吐きつづけ、人々のそうした様子を団平は皮肉な目つきで傍観していた。例外だったのは刑事だけである。
「めぐみさんに並江さん、ちょっとわたしの前にすわってもらいます」
「あら」
二人は同時に声を上げ、めぐみは朱《あか》い口を思い切り開けてみせた。千恵子のほうは眼を丸めて小首をかしげている。刑事に呼ばれた理由が思い当たらぬとでもいったふうな、邪気のない表情である。
「内証話をするときはもっと小さな声でやることですな。声がでか過ぎるから聞くともなしに聞こえてきたんだが、並江さんは他人の部屋に無断侵入をしたそうではないですか」
脇からふみ子が口を添えた。
「刑事さん、そのことはわたくしも存じておりますの。べつに不審なことではなくて、落とし物をとどけてくださっただけですわ。ね、そうじゃなくて?」
千恵子がこっくりすると、めぐみもつられて二つ肯《うなず》いた。
「ほんとかね?」
「めぐみさんが肯定しているんだから信じてくださってもいいんじゃないかしら。それよりもね、さっきはいいそびれてしまったんですけど、ロープが盗まれたのは十一時以前のことなんです。千恵子さんには関係ありませんわ」
「ほう、なぜ十一時前だってことが判るんですかね?」
刑事はふみ子の眼をまじまじと見つめて、当然すぎる質問をした。
「その頃に洗濯したシーツを配ってまわったんです。皆さんのお部屋に。そしたら強い風が吹き出したので窓を閉じておこうとしました。ですから自然にカーテンの紐に視線がいったんですわ」
「すると、紐はそのときすでに紛失していたというわけですか」
「ええ、めぐみさんと並江さんのお二人だけでしたけど」
「……でも、あたしんとこの窓は開いたままになっていましたわ」
と、挿絵画家が異議を申し立てた。
「そりゃそうよ。風が凪《な》いだのでまた開けておいたんだもの。だから忙しいのよ」
夜になるまでにロープを補充しておこうと思っていたが、事件が発生したためそれどころではなかった、というのが彼女の説明であった。
「判りました。それではご協力をねがってこのカードに目撃した人物の名を書いていただきましょう。いや、名を書くのではなくて、名前の上に印をつけてくれればいいのです。丸でもいいし三角でもいい。シロの人の名前を消して該当者の名前だけを残すという方法もある。要するに好きなようにやってください」
それだけいうと、指をなめなめカードを配って歩いた。この刑事は例外を認めるのが嫌いなたちだとみえて、わたしはもちろんのこと、ふみ子や権九郎、文学青年の井上精二までが対象にされた。
「記入するときはわたしのこのボールペンを使ってもらいます。こうすれば誰からも文句は出ない」
二、三名の男女が彼の発言を肯定するように首を縦に振ってみせた。こうして全員の同意を得た上で、刑事の試みが実行に移されたのである。
偶然にそうなったのか、類をもって集まるという説に従ったのか、そのときのわれわれは男女べつべつのグループに分かれていた。わたしの前には団平と藤岡権九郎が、そしてわたしの両隣りには文学青年の井上と校正マンの田辺がすわっている、一方お滝さんたち従業員を含めた女性軍は、入口を背にしてひとつ所に固まっている、といった按配《あんばい》であった。フェミニストの刑事のことだからきっと女性のほうに先にボールペンを渡すだろうと思っていたら、果たしてそのとおりだった。
こうして女たちが書き終えた後で、われわれ男性にその順番が廻ってきた。そして一分間余りで記入がすむと、刑事はそれを集めて大切そうにシャツの胸ポケットに入れ、そそくさと食堂から出て行ったのである。
誰がなにを書いたかということは、結局判らずじまいになった。
3
それはさておき、票を掻《か》き集めた刑事が出て行ってしまうと、いっとき一同のあいだから咳や溜息が聞こえてきたのは、やはり緊張から解放されたためであったろう。人々はまた新しいタバコに火をつけ、タバコが吸えない連中は珈琲ポットに手をのばした。みなは思い思いのポーズでくつろぎながら、言い合わせたように虚脱した表情を浮かべていた。一応は事件に無関係だと思われる井上青年までが、わずかのあいだに二本のタバコを灰にしてしまった。
傍観者の彼ですらそうなのだから、あとの連中が受けた精神的な重圧はかなりのものだったに違いない。そうしたことを思いながら、わたしは人々の顔を見廻していた。わたし自身は完全なるシロであり、課長もその点はよく理解してくれているので、気分的にはべつにどうということもない。異常な事態に直面して多少興奮の気味はあるにせよ、一座のなかでは落ち着いているほうだった。
わたしは二度ほど珈琲のおかわりをした。が、三杯目を半分ばかり飲んだときに、これでは胃をやられるのではないかと心配になった。珈琲を飲みすぎ、翌日の朝食が喰えなかったことが、いままでに何回かあったからだ。カップをおき顔を上げると、ふみ子と視線が合い、一瞬わたしは恋知りそめた少年のようにドギマギした。ふみ子の温かい笑顔が、わたしの心の動揺をあたたかく包んでくれるようだった。こぼれるような笑みとはこうした笑顔のことか、とわたしは思った。彼女がわたしに好意を持っているのは確定的だ。わたしはそう考えて飛び上がりたい気持ちになった。
と、しばらくつづいた沈黙を破って、不意に挿絵画家の松原虹子が音をたてて立ち上がり、中腰になって金切り声を上げた。その動作が唐突だったのと、その叫びがヒステリカルだったため、居合わせた警官までが呆気にとられて彼女の顔を凝視していた。
「ねえ、犯人はわれわれのなかにいるのよ! すました顔してすわっているんだわ! 先生を殺したのは誰なのよ、男らしく名乗り出たらどう?」
「…………」
「団平さん? それとも田辺さん?」
「馬鹿、片手のないわしにあんな真似ができるものか。冗談じゃない」
多血質の団平はたちまち赤くなり、声を荒げて喰ってかかった。が、急に表情をやわらげると、何かを思い出したようにニヤリとした。
「並江さん、並江千恵子さんとかいいましたな」
団平は詰問する相手に人差し指をつきつけるのが癖だとみえる。このときも節くれ立った太い指を千恵子の鼻の先につき出して、まるでトンボでも取ろうとするかのように眼の前で輪をえがいた。
「あんた、わしがカメラを向けた途端にドライブに行くことを止めにしたっけな」
ニヤニヤ笑いが顔一面にひろがっていった。立ち上がった団平はテーブル越しに身を乗り出して、もう一度その指を相手の鼻先につきつけた。
「ありゃどういうわけですかの」
「答える必要なんかないわよ」
「わしがシャッターを切ったことで臍《へそ》を曲げたのかな?」
「答える必要なんかないといったでしょ」
「田辺君の姿を見て、なにか工合のわるいことでも思い出したのかな? のんびりとドライブなんかを楽しんでいられない緊急の事態に追い込まれたのじゃないのかね?」
「うるさいわね」
「それとも、ドライブに行くなんて気ははなからなかったのじゃないのかね。きみには、豪輔を絞め殺すという大望があったのだからの……」
団平は相手を怒らすようなことによって真相を訊き出そうとしているようであった。ヒステリックになった千恵子が思わず口をすべらすことを期待して、そっちのほうへ誘導していこうとする魂胆がありありと見えていた。
「あんたは豪輔先生を憎んでいたはずだからの。優しい旦那と可愛い男の児を捨てて流行作家のふところに飛び込んだのはいいが、わずか一年かそこらで飽きられた。体《てい》よく捨てられてしまったんだ」
「…………」
「といって前の夫のもとには戻られない。旦那は再婚していたからね。しかも今度の奥さんは継子《ままこ》を可愛がるばかりでなく夫を尊敬して、夫が才能を発揮できるよう心を砕くという、良妻賢母を絵に描いたような女性だそうじゃないか。きみの子供もすっかりなついとる」
「…………」
「そうした噂を聞くにつれ、自分の幸福を踏みにじって省《かえり》みない篠崎豪輔に対する憎悪と怒りのほむらは、メラメラと燃え上がっていっただろうからの」
「おもしろいお話ですことね。ご忠告申しますけど、園田団平さんはヘボ詩人のほうを廃業して、芸能週刊誌のライターにでもなったほうが成功なさるんじゃないかしら」
団平の手を読みとったとみえて、千恵子は怒ることはしないで、逆にやんわりと、それでいて痛烈な皮肉をいった。それも、必死になって怒りの感情をセーブしているというのではなく、ニンマリと微笑をたたえた表情にも、ゆったりとした口調にも余裕があった。役者が違うという印象を、わたしは受けた。
「私生活に嘴《くちばし》をつっ込まれるのは愉快なことじゃないわ、確かに。あなたのいうことはまず事実に近いものとして認めてあげる。でもね、だから篠崎を殺す動機があるって結論づけるのは、考え方が少し単純じゃないかしら」
彼女が単純といったとき田辺義夫の頬が思わずゆるんだのをわたしの炯眼《けいがん》は見逃さなかった。まさしく団平の頭脳は単純そのものであり、こうした男に随筆が書け、まがりなりにも詩作ができるということは、大袈裟にいえば奇蹟ですらあった。だが当の団平は単純というのがおのれに対する当てこすりだとは思わぬらしく、ケロリとしている。
「しかし、なんだな、豪輔先生が死んだということは正直いってうれしいのじゃないのかね? 重曹《じゆうそう》をラムネで胃袋のなかに流し込んだとでもいうか、胸中のモヤモヤが解消してスーッとした気分になったんじゃないかの?」
「そうね、半分は当たってるわ。憎んでいたことは確かだから。でも、あのひとと円満に暮らしていた頃のことを回想すると、ちょっと哀しくなる。同棲してしばらくのあいだは、それはいい旦那さんだったんだもの」
彼女の勝気そうな顔に、ほんの一瞬ではあったけれど、豪輔との新婚生活をなつかしむような、おだやかな表情が浮かんだ。
園田団平はついでその太い指先を、一転してべつの女性に向けた。
「ま、その話はそこまでとしてだな、松原女史にも動機はある。例の、天下に知られた相合傘の事件で赤っ恥をかかされたんだからの。この恨みは寝てもさめても忘れられるもんじゃない。こういっちゃ失礼だが、挿絵画家として将来を嘱望《しよくぼう》されていたあんたが中途にして挫折したのは篠崎君のせいだ。あの男に世間並みの思いやりがあったなら、あれほど恥をかかせることはせんだろう。だがあれは人の二倍も三倍も自尊心のたかい男だった。わしの友人のなかでも桁《けた》はずれに気位のたかい、傲岸な男だった。そんな男にかかわり合ったのがあんたの不運なんだが、相手が傲慢であればあるほど、あんたが受けた心の傷は深いことになる。あんたにも動機はあるんだよ、強烈な動機が……」
「園田さん、横で聞いていて不愉快よ。いくら他人をイビるのが趣味だからといっても、少し度が過ぎやしません? あたくしこんなことは申したくないんですけど、あなたにだって立派な動機はあるじゃありませんか」
ふみ子に強い口調で抗議されると、途端に団平ははっとしてひるんだ眼つきをしたが、すぐに威勢よく反撃に出た。
「どんな動機だか知らんがの、豪輔殺しに関するかぎり動機もヘッタクレもありゃせん。片腕しかない男に、どうやってあの男の頸を絞めることができるのかね?」
自分でもいっていたように、今日の団平は片腕のないことがうれしくてならぬらしく、腕の話をするときにはレンズの奥の抜け目なさそうな眼が一段とほそくなった。
「だが、動機のあるものは並江くんや松原くんだけではない。めぐみくん、きみにもあるんだぜ」
今度はホステスのめぐみに指を突きつけた。
「いわれなくたって知ってるわよ。あたしが篠崎夫人になりそこねた話じゃないの。あんたって、黴《かび》が生えた話を蒸《む》し返すのが好きなのね」
「あの件ではきみも恥をかかされたもんだ。頭のよわいニンフォマニアとして、篠崎君の長篇のなかで徹底的に戯画化されていたからの。週刊誌にはおもしろおかしく書き立てられる。街を歩けば見知らぬ人がクスリと笑う、何処へ引っ越してもそうだ。まさにきみは三界《さんがい》に家なしといった状態だった」
「捨てる神あれば拾う神ありっていうじゃない。あたしがいまのお店に高給でスカウトされたのは、この事件で顔が売れたからよ。あなたみたいに売れない作家はヤキトリの屋台ぐらいしか知らないでしょうけど、あたしが働いている『ビビ』ってお店は銀座でもトップクラスのバーなんだから。ホステスのなかのエリートばかりが集まっているとこなのよ。お給料だっていいし、チップの額はそれ以上だし、こんなに働き甲斐のある職場はないと思うわ。それもこれも、もとはといえば篠崎さんのモデルにされたからじゃないの、感謝することはあっても、恨んだり悩んだりするわけがないわよ」
「わしのいうとるのはそんな黴が生えた事件じゃないでの。もっと新しい出来事なんだ」
団平がうす笑いを浮かべながら、引導《いんどう》をわたすようにいった。一瞬めぐみはわけがわからなそうに、朱《あか》い唇をかすかに開けて自称詩人の顔を見つめていた。
「なによ」
「ハハ、あんたは知るまいが、わしはちゃーんと聞いておったぞ」
「なにを聞いたのよ」
「ハハ、すっとぼけおって。一昨日《おととい》だったか一昨々日《さきおととい》だったか、篠崎君と口論してたじゃないか」
「いつのことよ」
「まだとぼけとる。夜だよ、夜の九時か九時半頃だ。思い出したかの?」
「あ」
やっと思い当たったとでもいうふうに朱い唇が小さく動き、同時に短い間投詞が洩れた。
「どうだね、思い出したかね」
しかし彼女は容易なことではウンといわなかった。
「知らないわよ、そんなこと」
「知らなきゃ教えてやろうか。あんたは自分の子を認知させようとして、懸命に篠崎君を口説いていたじゃないか。わしは立ち聞きするような下賤な趣味は持っとらんからの、早々に離れていったんだが、きみが『嘘つき! 卑怯者! 殺してやるからッ』とわめいとった声はわしの鼓膜《こまく》に焼きついとる」
「嘘ばっかり」
「嘘はつかないさ、わしゃ正直の上にバカの字がつくといわれとる男だからの。あのとき篠崎君は、子供ができんようにとあれほど注意しておいたのに、といってあんたを詰問しよったじゃないか。おれの言《げん》にそむいた以上、おれに責任はない。自分で勝手に処置しろともいうとった」
その場にいたすべての人間が、切迫した雰囲気に呑まれ、息をつめて二人のやりとりを聞いていた。わたしにしても例外ではない。
団平は勝ち誇ったように胸を反らせると、片手で眼鏡をはずし、ハンカチを取り出すと、器用にレンズを磨きはじめた。
「どうかね? わしのいうことを認めたかの?」
団平はレンズを宙に透かして見、さらにもう一度磨き出した。
「偶然よ、偶然なのよ」
と、めぐみは早口になり、激しく首を振った。
「なにが偶然かの?」
「あたしが殺すといったのと、先生が本当に殺されてしまったのは偶然の一致だっていってるのよ」
「ははア。偶然ね。するとお天道《てんと》さんが東から出てくるのも偶然だし、リンゴが地上に落っこちるのも偶然というのかの?」
「園田さん、何度いったら判ってくださるの? いくら人をいじめるのが好きだからといっても、時と場所を考えていただきたいですわ。あなたは冗談のつもりかもしれないけど、ここには警察の方もいらっしゃるんですからね、妙に勘ぐられて大変なことにもなりかねないのよ」
ふみ子が強い口調でたしなめた。
「紳士ってものはレディの味方をするものと相場が決まっているのに、あなたは女性ばかり攻撃してるじゃありませんか。あえて申しますけど、男性だって動機のある人はいらっしゃるのよ」
4
「というのはぼくのことですね?」
黙ってやりとりを聞いていた田辺義夫が、固い笑顔でふみ子の発言に応じた。
「出版界から追放されたという前歴があるし、今日は今日で、原稿が反古《ほご》あつかいされていることを発見して怒気心頭に発していたんだから、容疑は充分です。もっとも、この件は、できれば蓋《ふた》をしておこうと思いましてね、先程の課長の訊問のときは口をぬぐって素知らぬ顔をしていたんだけど……。ぼくとしては毛を吹いて疵《きず》を求めるような真似はしたくないですからね」
監視の警官は窓越しに庭に視線を投げている。その瞳が先程から一点を見つめたきり動かないのは、注意力を聴覚神経に集中しているからだろう。
「いや、待てよ。わしはね、この高名なるカメラマンの名を聞いたとき、なにやらふッと思い出しかけたことがあるんだ。それも、ずっと以前にきみの仲間の職業写真家の口から聞かされた話だ。愉快な逸話ではなくて、いまわしい事件なんだ……」
団平は誰かが発言しかかると手で制しておいて、眼をつぶり眉のあいだにしわをよせ、懸命に何かを思い出そうとしているようだ。当の権九郎は心持ち顔を緊張させると、団平の発言にじっと耳を傾けるふうであった。
「思い出さないほうがいいですわ。どうせろくなことじゃないんだもの」
と、ふみ子が冷ややかにいった。彼女の意見にはわたしも同感だった。団平の爆弾的な発言は週刊誌の暴露記事とさして変わるところがない。ゴシップの好きな人間にはおもしろいだろうが、下劣なスッパ抜きはわたしの性《しよう》には合わなかった。
「……や、思い出したぞ、思い出したぞ。あんたの愛しているモデル嬢が雪のなかで遭難死をとげた話だ。篠崎君と三人で万座《まんざ》温泉だか蔵王《ざおう》温泉だかへスキーに行って、そこで起こった事件だった。篠崎は、婚約していた君たちふたりを嫉妬していたものだから、そのモデル嬢にわざとちがった道を教えた。そのために、モデル嬢は遭難死した。たしかそんなふうな事件だったな」
くるりと頭をめぐらせると、労働者のような不細工な指でプロのカメラマンを指した。だが、権九郎はむさ苦しい髭づらに埋まった眼玉を、ほんの一、二度またたいたきりだった。
「あんたは詩人で随筆家だそうだが、先程並江さんがいったとおりトップ屋か週刊誌のライターになればよかったですな。団平先生は、愛人を遭難死させられたぼくが篠崎豪輔に対して岑々綿々《しんしんめんめん》たる怨念《おんねん》をいだいているように思っているらしいが、あんたの表現を借りれば安手の三文小説の読みすぎじゃないですかね。ぼくの愛人はむかしからカメラということになっていてね、モデルなんぞに心を動かした覚えはない。愛用のカメラを盗んだりこわしたりされると怒るだろうが、婚約者が死んだぐらいで豪輔君を恨みつづけるわけはないのだよ。それに、ぼくは彼女の死を単なる遭難死だと考えているんだ」
「ほう、モデルに関心がないところを見ると、あんたホモかの?」
「ああ、やんなっちゃうな」
権九郎は大袈裟に顔をしかめてみせた。
「発想が低俗ですな。詩人だと聞いたからもう少し内容のあるお方かと思っていたんだけどね。正直の話、幻滅の悲哀を感じちゃうんですよ。カメラマンだって洋画家だって、裸体のモデルを見て眼をまわしているようじゃ仕事にならない。あんなもんは皮をかぶった骸骨《がいこつ》にすぎないんで、本当のことをいうと、どだい人間だとは思っておらんのです。その証拠にモデルといざこざを起こした洋画家の話なんぞ聞いたことはない。同じことがカメラマンにもいえるんでね。あんたみたいに素人衆には信じにくいことかもしれないけど、ぼくにしても例外ではないです。ピチピチした水着のモデルを見ても、いや、なんにも身にひっつけていないモデルを眺めても心が動いたことはないし、結婚の対象として考えたこともない。したがってロマンスが生じるわけもないってこと」
「ほんとかね?」
「疑《うたぐ》り深いご仁《じん》だな」
カメラマンは冗談めかして笑ってみせた。
だが団平と同様に、わたしもまた彼の弁明を素直に受け入れるには抵抗がある。わたしが彼の説に同調できないのは団平とは違い、裏庭で目撃した髭づらの男と、この権九郎の髭むくじゃらの顔とが似ているからであった。といって、権九郎があの男と同一人物であると決めてかかることはできなかった。鼻の下に生やした髭は別として、中年男が頬から顎にかけてもっさりとした髭を生やしていると、当人がよほど突飛なご面相でもしていないかぎり、大抵の場合は似た顔に見えるものなのである。
団平は深追いをしなかった。暴露戦術がどれほどの効果を挙げたかをさぐるように人々の顔を見廻してから、満足そうな顔つきで葉巻をくわえて、二度、三度スパスパとやり、火が消えていることに気がつくとシャツの胸ポケットにしまい込んだ。
「ちょっとお待ちになって。あたくしが申したのは田辺さんのことじゃありませんのよ」
ふみ子が声をかけた。そのいやにとりすました調子に気がついた人々は、糸をひっぱられたあやつり人形のように、いっせいに彼女のほうを見た。
「ほう、じゃ誰のことかの?」
「あなたよ、あなたにも怪しいところがあるってことを申しましたの」
そう指摘された団平は、思い出したように吸いさしの葉巻をつまみ出して火をつけた。彼はいまや一座のスターであった。そして彼をスターらしく見せる唯一の小道具が、この場合は短くなった葉巻なのである。
「わしが?」
「そうよ。あたくしには人様の秘密をさらけ出してよろこぶような趣味はございませんけど、女性ばかりが悪者にされるのを、同性として傍観しているわけには参りませんものね」
「前置きはいい加減にストップして、早く本題に入ってくれ。わしゃその秘密とやらを聞きたくてウズウズしとるんだからの」
と彼はうそぶいた。さすがに千両役者だ、慌《あわ》てふためいたりはしないのである。
「あなたが盗み聞きをするご趣味がおありにならないように、あたくしも覗き見するような下劣な趣味はございません。でもね、パッタリ行き当たってしまった場合はどうしようもありませんもの」
「なにやら奥歯にものがはさまったみたいな言い方で聞き苦しいが、その先はどうなっとるのかの?」
「昨日の午後のことでしたわ。皆さんお部屋やテラスのデッキチェアでお昼寝していらっしゃいました。起きていたのは二人だけ。その一人はあたくしですけど」
女秘書は悠揚《ゆうよう》迫らぬ口調だ。
「篠崎先生が午睡からお目覚めになったとき、すぐにお仕事にかかれるように原稿のお清書を届けておかなくてはなりませんものね。で、書き上げたお原稿を持って二階の廊下を五、六歩ゆきかけたところで、先生のお部屋のドアが開いたのでオヤと思ったら、なかからあなたが出ていらしたじゃないの。こうした場合は下世話な比喩がいちばんピッタリするんですけど、あなたの物腰はまるでコソ泥みたいでしたわ」
「嘘いいなさい、廊下には誰もおらんかった」
「あたくしが反射的に手近のお部屋に飛び込んだからですわ」
「つまり隠れて透見《すきみ》をしようとしたわけだの?」
「そうじゃありませんの。ああした場合、パッタリ顔を合わせて気まずい思いをさせるのはいいことじゃないのよ、気づかないふりをするのがエチケットなの。エチケットというよりも思いやりだわね」
団平は平然として葉巻をふかしている。が、平素ならとぼけるなり強引に突っぱねるなりするだろうに、うっかり認めるような応答をしてしまったのは古狸らしからぬ失敗であった。
「ご説明してくださいますわね、そのことについて」
慇懃《いんぎん》な口調ではあるが、団平に向けられた眼には非情な冷たい光がたたえられていた。
「ねえ、おっしゃいましな。何をなさっていたんですの?」
「何をと訊かれても困るがの、篠崎君と雑談をしようと思って行っただけの話だよ。ドアを叩いたが返事がないのでノブを廻すと開いた。だからなかに入ったまでのことなんだ。コソ泥呼ばわりをされるのは心外だの」
「あの時間に先生が午睡なさることは、あなたもご存じのはずじゃなかったかしら?」
「そんなこというが、わしと篠崎とは二十年来の友人だからの、そういう他人行儀のことはせんのだ。人前でこそ彼を先生だの篠崎さんだの奉《たてまつ》っておったが、二人きりになると、おい篠崎といった調子での、いってみれば裸のつき合いよ」
「そうかしら」
「そうともさ。入って行ったら睡《ねむ》っとる。そういえば午睡の時間だったな、こいつはいかん。そう思ったから目を覚まさぬよう足音をしのばせて出て来たんだ」
団平は、もっともらしい説明を試み、ひとしきり短くなった葉巻をふかしつづけた。
「……そうでしょうか」
「そうでしょうかとはどういう意味かね? 事実を述べておるのに信じてくれんかの?」
「ねえ園田さん、あなたが女性を攻撃しなかったら、あたしだってこんなことは申し上げなかったのよ。原因は自分にあるのだと思って観念して聞いていただきたいんですけど、あなたは先生に預けておいた原稿を探しに行ったんじゃないこと?」
明らかに団平は息を呑んだ。彼は葉巻をふかすことも忘れ、ただしきりにまばたきをしていた。それは煙が眼にしみるためだったかもしれないが、わたしには、内心の驚愕の表われであるように思われた。他の連中も、まるで真剣勝負でも見物しているかのように、興味|津々《しんしん》といった面持ちで、二人のやりとりを眺めている。
「いかにもわしが原稿を預けたのは事実だ。だが、わしは脱稿した時点で徹底的に手を入れることにしておる。表現が適正であるか否かをチェックするばかりでなく、誤字や脱字の有無も調べて、これならどこへ出しても恥ずかしくないということになってから篠崎君に送ったんだ。だから、原稿を取り返して手を入れるなんてことはせんのだよ」
「ですから、あなたに原稿を取り戻す必要があったとすると、それにはべつの理由がなくてはなりませんことね」
虫が好かないというか波長が合わないというか、なんとなく気にくわない相手は誰にでもいるものだけれど、ふみ子にとっては団平がそうであるらしかった。そうした場合、いったん攻撃の火蓋《ひぶた》を切ると戦闘は熾烈《しれつ》をきわめるのが常であり、彼女としても例外ではなかった。だがそこは裏店《うらだな》のおかみさん連中とは違うから、慇懃無礼《いんぎんぶれい》な調子でじわじわと迫っていくことになる。団平にしてみれば真綿《まわた》で頸を絞め上げられるような気持ちだったろう。
「べつの理由? なんのことかの」
「例えば剽窃《ひようせつ》なんかはどうかしら? 随筆と詩しか書いたことのない人が小説を書こうとしても、そう簡単には筆がすすむまいと思いますわ。窮余の一策として、誰かの作品を下敷きにするということは考えられますわね」
「…………」
「日本の作家の作品だと気づかれるおそれがありますから、この場合は外国の作家かしら……?」
「馬鹿な。わしが仮りに、仮りにだよ、盗作をするなら誰も知らん作家の作品を失敬するの。すぐにバレるような、そんなありふれた作品を盗むようなことはせん」
「それ、案外本音かもしれませんわね」
口に手を当てるとクスクスと忍び笑いをした。団平とは逆に、ふみ子の表情にも声にもゆとりがあり自信があった。
「仮りに、仮りにですわよ」
団平の口調を真似てニッコリ笑うところにも、余裕がある。
「仮りに園田さんが外国の作品を借用なさったとすると、それは無名作家か、かつては名を知られた存在だったがいまでは本当に忘れ去られた作家か、そのいずれかということになりますわね」
「そうかの」
この随筆家は相手のペースに引き込まれたのか、いままでに比べると一段と神妙な返事をした。
「篠崎先生の手からそのイミテーションを取り返そうとしたのは、それが剽窃作品であることがバレかかったために違いありませんわね。では、なぜバレそうになったのでしょうか。あたくし、先程から考えているのは、これはほんの一例で当たっているかどうかは存じませんけども、近頃ある出版社が派手に広告をしているブースビイ全集のことですの。あのオーストラリア出身とかいうイギリス作家は戦後の日本では完全に忘れ去られていました。しかしひじょうに才能のある大衆作家でしたから、作品はとてもおもしろいのです。園田さんは英語が堪能だという噂ですわね。原書を読んで、誰も知るまいと思って、それを下敷きになさったのではないでしょうか」
「アハハ、こりゃおもしろい、珍説だの。だれかがわしのことをトップ屋になりそこねた男だと評しおったが、わしにいわすればあんたは秘書なんかしとるよか童話作家になったほうがええ。なかなか愉快な話だった。だが、あんたがどんな物語をでっち上げようと、わしが篠崎の部屋に入ったのは雑談をするのが目的であった。もしわしが原稿探しに入って行ったというなら、手に、その原稿を持って出て来なくてはならんことになる。どうかね野川くん、わしは原稿を持っていたかね?」
ふみ子はあっさりと首を横に振った。
「持っていませんでしたわ、なんにも」
「ほれ見なさい」
「でも、発見することができなかったからじゃないかしら。だから今日の午睡の時間を狙って出直して行ったんじゃない? ところが睡っていると思った先生が起きてお仕事をしていらっしゃった。咎められたあなたは遁辞《とんじ》に窮してあんな残酷な仕打ちに出たんじゃなくて?」
「そりゃ無茶だ、そんな無茶をいわれたらかなわん」
「そのあとで室内を物色すると運のいいことに原稿が眼についたのよ。といって持ち出した姿を目撃されたらアウトですものね、現場で焼いてしまうのが最上の策ということになるんじゃありませんこと?」
「かなわんな、ほんまに」
大阪弁で冗談めかしく呟き、さらに声を落としておなじことをくり返すと団平は討論を打ち切るようにドサリとイスに腰かけた。精も根もつき果てたとでもいいたげな、疲れた表情を浮かべていた。この図太い男ははじめて自分の敗北をみとめたらしかった。
5
寝室に戻ってもよろしいという許可が出たのは、それから小半刻《こはんとき》たった頃のことである。それを伝えに来たのは先程の初老の刑事で、彼の顔色が冴えなかったのはアンケートの結果に見るべきものがなかったことを示していた。
女流画家が手の甲を唇に当てて、慎み深いアクビをしたのをきっかけに、何人かの人々は思い思いにイスから立ち上がった。
「眠れないかもしれないけど、疲れたわね」
「女性のために弁じてくださってありがと。胸がスーッとしたことよ」
「やだわ。いま自己嫌悪に陥っているとこなのよ。女だてらに鬼検事の真似なんかしちゃって。ますますお嫁に行けなくなるわ」
ふみ子は無理に笑顔をつくっているようだった。率先《そつせん》して彼女が冗談をいわなくては、一座の空気が沈んでしまう。
「刑事さんたちは引きあげてしまうの?」
めぐみがとろんとした眼で刑事を見た。
「いやいや、犯人の逃亡にそなえて大半のものが残ります。交替で見張りに立たないとね」
「心配だわ。だって、カーテンの紐が二本|紛《な》くなっているんですもの」
「心配することはないですよ。あれは田辺氏の見解であって、われわれは第二の殺人があるとは考えておらんのです」
「あら、なぜ?」
「なぜならば動機がないからですよ。篠崎氏殺しの場合は皆さんが動機を持っていらっしゃる。殺されるほど憎まれていたのは豪輔先生ひとりきりです。残りの人たちは憎まれる事情もないし、失礼ながら大金を所持しているわけでもない。つまりどこにも狙われる理由がないのです」
「そういえばそうね。ほかの人はどうだか知らないけど、あたしは帰りの乗車券を買うお金しか持っていないんだから、殺される心配はないんだわ」
と、めぐみはほっとした調子で答えた。
「その点はわしもおんなじでの。片腕がないのとゼニがないことを今夜ほどありがたく思ったことはない、ウハハハハ」
団平はふたたび以前の元気を取り戻しているようであった。
めぐみと団平を先頭に、人々は食堂を出て行った。そして珈琲を飲みすぎてちっとも眠気を感じない幾人《いくたり》かがそこに残った。タバコを吸えないわたしと、速記者の並江千恵子、それに田辺義夫の三人である。
廊下のざわめきが急速に遠のいていくと、食堂のなかも静まり返ってしまい、しばらくのあいだは誰も口をきかずにぼんやりとすわっていた。
「……ほんとうは今夜がお通夜だわね」
「そうですね」
通夜は遺体が戻ってからやることになっている。
「こんなこと伺っちゃわるいけど、あなたは胸中複雑なものがあるんじゃないですか」
「そりゃあるわよ。さっきもいったようにあたしを捨てた憎いひとでもあるし、仲よく暮らしたことを思い出すと懐かしいひとでもあるし……。でもねえ、篠崎さんは一種のスーパーマンでしょう? スーパーマンにはそれにふさわしいスーパーウーマンでなくては妻の資格はないのよ。やっとそれが判ってきたの。あたしがあのひとの招待に虚心に応じることができるようになったのは、そうした悟りが開けたからだわ。それまでは矢張り人並みに怒ったり恨んだりしていた。泣いたこともあるわよ。泣くといっても、半分は口惜しくて、半分は恋しいからだけど……」
「なるほどね」
「でも今夜はおかしいわね、少しも涙が出ないもの」
「…………」
「考えるとあのひとも不幸だと思うわ。スーパーウーマンなんてそうざらにいるわけがないから、一生独身でとおさざるを得なかったでしょ。そりゃ男だから浮気はしたと思うわ。浮気しないようじゃノーマルじゃないもの。でも、結婚する相手とはついにめぐり逢えなかったじゃない」
「そうですね。その点は不運だといえるでしょうな」
わたしは煮え切らない返事をする。編集者として女流作家を担当するようになってから身についた知恵なのだが、女というのは心と反対のことを語って相手に相槌を打たせ、それによって敵の胸中を測量しようとする傾向が多分にある。初心《うぶ》だった頃のわたしはそうしたテクニックには気づかずに正直な返答をして、その結果ひどく憎まれるという痛い目にあったことは一度や二度ではない。以来それに懲《こ》りて、女流に対してはつとめてなまぬるい返事をするようになった。こうしたコツは、先輩もけっして教えてはくれぬものなのである。
われわれはどちらからともなく立ち上がって窓から外を眺めた。カーテンが引いてないので、花壇の草々が夜目にもクッキリと浮かび上がっている。ヒマワリの黄は自然の色に見えたが、百日草や金蓮花《きんれんか》はどす黒く濁って見え、毒でも含んでいそうな気がした。
一体あなたはなぜドライブに行かなかったのか。ふとそうした質問をしてみたい誘惑にかられたけれども、せっかく仲よく語り合っている雰囲気に水をぶっかけるのもどうかと思って、喉まで出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。
「田中さん……」
田辺に声をかけられてびっくりして振り返った。無口なこの校正マンの存在をつい失念していたからである。
「なんでしょうか」
「さっき野川さんから聞いたんですけど、ぼくが書いた短篇を編集長に見せてくれるそうですね?」
「ええ、野川さんも出来がいいと褒《ほ》めていました。現代物と時代物と推理物だそうですね。眼の肥えた野川さんが推奨してくれるのですから、破棄されてさえいなかったら社に持ち帰って、自信をもって編集長に推薦しようと思ってるんです」
「それはどうも。下書きのノートはとってありますから、もう一度清書をするのはなんでもないことなんです。しかし……」
「しかし、どうしたんです……」
「いえ、つまりその、話が反対の方向にいってしまいましたが、わたしは、作家になることを断念しようと思うのですよ。どうもそういう柄ではない、という気がするんです。半ダースかそこらの作品を発表したきり、ネタ切れになってゆき詰まってしまうんじゃないか、そんな心配があるんです」
「大抵の作家が、出発点ではそういう不安を感じるものです」
「励ましてくださるのはありがたいのですけど、わたしは編集者のほうが性に合っていると思うんです。あの活気にみちた出張校正がわたしの生き甲斐であることがハッキリと判ってきたんです……」
そのときわたしは急に視界が明るくなったような気がした。田辺が出版界に帰る気になったのは、篠崎という最大の邪魔者がいなくなったからではないか。田辺は自分の殺人の動機として篠崎に対する憎悪を挙げてみせた。彼を出版界から追放した篠崎、原稿を八ツ裂きにして反古紙にした篠崎に対する怒りが、動機として数えられていたのである。だが、いまここに田辺の持つ第三の動機が浮上した。そして、篠崎を殺して彼の影響力をゼロにし、念願の編集者として復帰することが、田辺の場合は最も強烈な、現実味を持つ動機であるように思えてきた。田辺こそ血まみれの手をした犯人なのではないか。そう考えると、にわかに彼の存在が不気味に思えてきた。千恵子が話しかけてきてもうわの空で返事をするものだから、怪訝《けげん》な表情を浮かべてわたしの顔を覗き込む始末である。もし離れたテーブルに監視の警官がいてくれなかったら、わたしは食堂を飛び出して自室に駆け込み、慌てて施錠したかもしれなかった。
田辺は、わたしのそわそわとした態度を訊問その他からくるためと解釈したらしく、そろそろ部屋に帰ってぐっすりと眠ったらどうかなどといった。わたしはわたしで自分の臆病を見すかされたような気がして逆に虚勢を張り、さらに小一時間ほど粘って雑談をつづけていた。無口だった田辺は気が冴えるのか、別人のように朗《ほが》らかになって、よく喋った。
「……ちょっと黙って」
不意に千恵子が唇に指を当てて耳をすませた。
「ねえ、オルゴールが鳴っているんじゃない?」
わたしと田辺、それに若い警官の三人が揃って聞き耳をたてた。……なるほど、かすかに聞こえてくるのは確かにオルゴールの鳴る音だ。「夕空晴れて秋風吹き……」という歌詞でよく知られた、あのスコットランドの民謡である。
「めぐみさんの目覚し時計だわ」
反射的に腕時計を見ると午前三時ジャストだった。深夜の三時という時刻に、なぜ目覚しが鳴っているのだろうか。わたしたちは蒼ざめた顔を見合わせていた。
オルゴールはわれわれの感情を無視して、かぼそい音でなおも鳴りつづけている……。
六 第二の殺人
1
オルゴールの奏《かな》でるメロディは≪故郷の空≫の歌詞で知られたものである。本来は≪|ライ麦の畑をとおりぬけておいで《カミン・スルー・ザ・ライ》≫といった題名のスコットランド民謡なのだ。もとの曲は付点音符のついたはずんだリズムを持っていたが、明治二十年代の日本人には少しむずかしすぎると考えられたのか、現今のような曲になおされ、大和田建樹《おおわだたけき》の歌詞もそれに合うように作られている。原詞と、懐旧の情にあふれた日本語の歌詞とのあいだには何の脈絡もなく、日本版のほうはこの明治の国文学者の創作なのである。そしていま鳴っている曲は、日本人向きに歌いやすくしたほうのメロディであった。そのかぼそい音に耳を傾けながらわたしの心に最初に浮かんだのは、付点音符を欠いているところから判断して、この時計が日本製品だなといった、その場に不似合いな感想でしかなかった。
余談だが、ドイツリートの好きなT氏と電話で雑談をしていた際に、このスコットランド民謡について興味あることを聞かされた。T氏は戦前の日本コロムビアで洋楽部長をつとめた人だが、氏の新説によると右の歌詞にある「ライ」はライ麦の畑のことではなく、そうした訳詩がまかり通っているのはおかしい、というのだった。氏の話では、あの辺りに小さな川が流れていて、その川の名が「ライ」なのだそうだ。したがって現在うたわれているようなタイトルは間違いで、ライ麦の畑を渡って来いというのではなしに、ライ川を渡っておいでと訳するのが正しい。
いわれてみるともっともな気がしてくる。畑の麦のあいだを掻き分けて行くというよりも、若い娘が靴をぬいで片手に持ち、浅瀬をぴょんぴょんと渡って行くほうが詩にもなるし絵にもなる。小さな川だというから底は浅いだろうし、誤って流されることもあるまい。
ある放送局でこの民謡をしきりに流しているので再考を求めるハガキを出したが、歌詞は依然としてライ麦畑のままになっている。T氏はそう語って苦笑したものだった。さて、話はここでふたたび軽井沢の山荘に戻る――。
いきなり千恵子が声を殺してくすくすと笑い出した。田辺がわけがわからなそうな眼で彼女を見つめている。
「めぐみさんたら嫌ねえ。目覚しの時計のストップボタンを押し忘れたのよ。人をびっくりさせるなんて悪趣味じゃないの」
なるほど、そういうわけかとわたしも納得した。就寝時に時計のゼンマイを巻いたのはいいが、目覚しのベルにストップをかけなかったためにとんでもないときに鳴り出されたという経験は、誰にもあることだ。ただ場所が場所だったので千恵子の神経が脅《おびや》かされたにすぎない。
彼女の忍び笑いに引き込まれたように、田辺もその蒼白い顔に微笑を浮かべた。途端にひろい食堂の空気がなごんだような気がした。それでいながら誰も話し出そうとはしないで、うつろな表情を浮かべて黙り込んでいたのだから、やはり三人が三人ともオルゴールが気がかりだったに違いない。
曲はなかなか終わりそうになかった。ひととおり旋律を奏でてしまうと、また最初にもどって「夕空晴れて……」とやり始める。
「めぐみさんも疲れたとみえて、眠りが深いらしい」
と、わたしが独語した。
「あたしだったら今夜は熟睡できそうにないわ。なんといっても人殺しが起こったんですもの。でもね、めぐみさんは案外に図太いところがあるのよ。図太いというかドライというか、死んだひとは死んだひとといった割り切った考え方ができるの。その点、あたしは柄ばかり大きくても意気地がないから、からきし……」
「男性だってそうですよ。部屋へ引っ込んだ人たちのなかで果たして何人眠っているか、疑問だと思いますね」
と、わたしが応じた。先程ここにいる田辺義夫からベッドに入ってぐっすり熟睡したら……といわれたが、神経は金平糖《こんぺいとう》のトゲみたいに尖《とが》っているのだ、熟睡できるはずがないだろう。
「あら、男の人もそうかしら」
千恵子がこう相槌を打ったあと、また会話がとぎれた。
めぐみのオルゴールは依然として鳴りつづけている。そのうちにゼンマイがゆるんできたせいか、次第にテンポが遅くなり、同時に音が弱くなったような気がした。音が小さくなればなるで、われわれの聴覚神経はいっそうそれに集中していく。と、「思えば遠し、故郷の空……」というところでプツンと切れてしまった。
しばらくのあいだ、なんとなく不安な沈黙がつづいた。めいめいが胸のなかで不吉なことを想像し、それを言葉に出すのははばかられるとでもいったような、不自然な沈黙であった。
「……ねえ」
と、千恵子がわたしとも田辺ともどっちつかずに声をかけた。われわれは返事をするかわりに彼女の白い顔を見た。彼女は眼をほそめ、無理に笑おうとしているかのようであった。
「……あたしね、変なことを考えたの」
「……変なことって?」
千恵子が後をつづけようとしないものだから、田辺が催促するように返事をうながした。
「笑っちゃ嫌よ」
「笑うもんですか」
「……あのね、めぐみさんの眼が覚めないのは眠っているからではなくて、……なんていうのかしら、つまり……」
「殺されているのではないかという……?」
「早くいえばそうなのよ。……だって、ロープが二本盗まれたわけでしょ? だからどうしてもそんなふうに考えてしまうのよ」
そうだ、二本目のロープのことを忘れていた。わたしを何となく不安にさせていたのは、このロープの件があったからなのだ。わたしがそう思って口を開きかけるのと同時に、廊下のほうからドアをノックする音が聞こえてきた。
「もしもし、ちょっと起きてください、めぐみさん!」
それが監視の刑事の声であることをわたしは直感した。彼もまたわたしたちと同じようなことを考え、めぐみが無事であることを確かめたくなったのだろう。
間をおいて、また刑事の声とノックの音が聞こえてきた。いまはもう遠慮会釈もなく、めぐみを叩き起こさなくては気がすまぬというような大声であり、乱暴なノックの仕方である。ほかの部屋のものが眠りを邪魔されても、そんなことは意に介さないといった強引さがあった。
千恵子の顔が蒼ざめると同時に、表情のこわばるのがよく判った。田辺の蒼い顔も、一段と蒼ざめたように見えた。振り返ってみると監視の刑事は二人ともそちらに気を奪われたのか、われわれのことはそっちのけにして、音がするほうを睨んでいた。彼らはいずれもその道の人だけあって、怯《おび》えた様子はしていなかった。浅黒い精悍《せいかん》な顔をぎゅっと引きしめ、闇のなかの鵺《ぬえ》をうかがう源三位頼政《げんざんみよりまさ》といった恰好である。
「きみ……」
初老の刑事が目顔で若い警官にうなずいてみせると、彼はすぐその意を悟って様子を見るために立って行った。田辺がつづいて出ようとすると初老の刑事は無言で首を振り、イスにすわっているように命じた。そこでわたしたちは全身を耳にして、いま出て行った警官と廊下の刑事とのやりとりを聞こうとした。が、二人とも声を抑《おさ》えて話し合っているせいか、一語も聞こえてはこない。田辺が口をとがらせて不平そうな顔つきをしたときに、その若い警官が戻って来た。
「めぐみさんの返事がないんです。ドアも内側から錠がおりています。たしか予備の鍵があったはずですね?」
前半は年長の刑事に対する報告で、後半の質問は女性に向けてなされた。
「はあ、お、お滝さんが預かっているといってましたけど」
と、並江千恵子が応じた。緊張したせいか、いつにないことだが吃《ども》っている。
「たぶんもう眠ってしまっただろうと思いますわ」
「かまわんです。叩き起こして借りてきてください。これがわれわれの早とちりであれば、こんな結構なことはないです」
「はあ……」
千恵子は踏ん切りがつかぬように愚図愚図している。若い警官はやっと思い当たるものがあったらしい。
「怖いんですね?」
「はあ」
「じゃ一緒に行ってあげます」
「すみません」
やっと腰を上げて出て行った。間もなく廊下の彼方《かなた》からお滝さんを呼ぶ声と、遠慮がちなノック、それにつづいてドアが開く音がして、お滝さんと問答する声が伝わってきた。その口調が意外にはっきりしているところを見ると、彼女はまだ眠っていなかったらしい。だがいまの場合、それも当然のことなのだ。いわば彼女やふみ子は身内なのだから、豪輔が殺されたことから受けた衝撃は並大抵のものではなかったろう。寝床に入ったからといって、すぐに眠れたとしたら、そのほうがどうかしている。
「悪かったわね」
「いいんです、どうせ眠れないんだから」
そういうやりとりだけが妙にはっきりと聞こえてきた。ついで鍵を手渡す気配がして、足音がこちらへ近づいた。警官はそのまま食堂の前を通りすぎてゆき、千恵子は入口にたたずんでその後ろ姿を見送っていた。
監視の刑事の音階をはずしたような叫び声が聞こえたのは、それから間もなくのことである。食堂の刑事がはじかれたように、ものもいわずに走り出て行った。そしてその後をわれわれ三人が追い駆けた。
すでにいままでの物音で眼を覚ましたとみえ、大半のものがめぐみの部屋に殺到していた。ひと足おくれた団平が、われわれの前を走っている。片腕がないのでバランスを取りにくいのだろうか、その走り方は不自然で、彼が部屋の前に到着したのはわれわれとほとんど同時であった。
めぐみの部屋はドアが開いていた。入口のところに井上青年と松原虹子が立ちすくみ、呆然としている。園田団平が残った片手で二人を左右に掻き分けたので、内部の様子が見えた。正面に濃緑のカーテンが引いてあり、右手の壁にそってベッドが、それと向かい合った壁に洋服|箪笥《だんす》がおいてあるのはどの部屋とも共通したことだった。しかしそこには、どの部屋とも共通していないものが一つだけあった。ベッドの上で仰向けに横たわっているめぐみの屍体である。顔にハンカチが載せてあるので表情は判らない。もっとも判らなくて幸いであって、死に顔を見るのは辛《つら》いことであり、そしてそれ以上に恐ろしいことでもあった。そのハンカチの下から頸部が覗いている。そしてそこに絡《から》みついているのは、まごうかたなきカーテンのロープだった。
突然、耳元で女の悲鳴が上がった。
「大変よ、大変だわ、田中さんおねがい、一一〇番……」
大柄の千恵子がまるで怯えきった子供のように、うわずった声で叫んでいた。
「並江さん、落ち着いて、……落ち着いてください」
「お巡りさんはそこにいるんだから、一一〇番しなくてもいいんですよ」
田辺とわたしが口々にそういってなだめたものだから、彼女もやっと落ち着きを取り戻したらしく、一歩さがって血の気をひいた蒼白な顔でひかえた。
部屋のなかでは、食堂を監視していた鬢《びん》の白い刑事と若い警官、それに廊下で張り番をしていたとみられる中年の刑事の合わせて三人が、明らかに度胆《どぎも》を抜かれたように平静さを失った様子で、屍体の上にかがみ込んだり窓が閉めてあることを確認したりしていた。
団平がなにか手出しをしようとして刑事の一人に注意された。団平のかたわらには秘書のふみ子、文学青年の井上、カメラマンの藤岡権九郎の三人が立っている。そして度胸のないわれわれ、つまりわたしと校正マンの田辺義夫、それに並江千恵子の三人は扉口に立ち、こわごわとなかを覗き込んでいた。
報道カメラマンと称するだけあって権九郎は被写体に興味をそそられたのだろうか、両手を顔の前にのばすと親指と人差し指でフレームを象《かたど》り、上からあるいは水平から角度を変えて、カメラの位置を検討しているふうである。見方によってはさすがにプロ写真家だということにもなるが、また一面ではキザで軽薄に思えた。こうしたときに職業意識をふりまわさなくてもいいではないか、といった批判である。
一人の刑事が身を動かすと、それまで体のかげになっていた机と、その上に置いてある旅行用の折りたたみ式の目覚し時計が眼に入った。あ、これがスコットランド民謡を奏でたやつだな、と直感した。そしてわたしのこの考えは後になって正しかったことが判ったのだ。
チラッと見ただけだったから、わたしの眼に映ったのはその程度のことでしかない。被害者のめぐみが寝巻姿ではなく、藍染《あいぞ》めの浴衣《ゆかた》に赤い帯という姿だったことを知ったのは、翌日になってからだった。要するにそのときはただのぼせ上がって、ごく限られたものしか眼に入らなかったのである。それでいながら、秘書のふみ子がとかした髪をネグリジェの肩にぱっと散らしていることや、団平が洗い古して正体の失せたような浴衣を着ていることは覚えているのだから、奇妙なものだ。
初老の刑事が若い警官に耳打ちをすると、耳打ちされた警官はうしろを振り返り、そしてわたしと視線が合うとつかつかと扉のところまで歩み寄った。
「田中さん」
「え?」
「ご覧のとおりです。とうとう二本目のロープが用いられてしまいました」
「ええ」
「表に刑事が張り番をしているんです。前庭に二人と後庭に二人と……。彼らに、事件の発生を伝えてくれませんか。そして引きつづき警戒をきびしくするようにいってください」
わたしは口のなかでもぐもぐと言葉にならぬことを呟いて承知した旨《むね》を答えると、ホール目指して廊下をつっ走った。食堂に閉じ込められていたわれわれには、捜査官のうち何人が居残って誰と誰が引きあげて行ったのかまるきり見当がつかなかったのである。が、いまの若い警官の言葉で、庭に計四人の刑事が張り込んでいることを知ったのだった。
わたしが入口の扉を開けて飛び出すと、その異様な気配にただならぬものを感じたのか、テラスのデッキチェアに横たわっていた刑事がすばやく立ち上がった。
「どうした?」
わたしは事情を述べようとするのだが舌がうまく回転してくれない。二、三度吃って、ともかく事件の発生を伝えた。
「よし。この建物のところに一人、裏庭に二人の刑事がいる。いまの話を彼らにもしてやってくれ。われわれの任務は犯人の逃亡を警戒するところにあるのだから、持ち場を離れるわけにはいかんのです」
わたしはうわの空でなにかを答え、伝令よろしく三人の刑事を訪ね廻っておなじ内容のことを知らせた。
「判った」
「了解」
「ご苦労さん」
応じる言葉は三者三様だったが、いずれも緊張した口吻《こうふん》であることには変わりなかった。
目的を果たしたわたしは、少し遠廻りになることを承知の上で、いま来たコースをたどってテラスへ向かった。わたしは、未知の暗いところを通るのが怖かったのである。
2
並江千恵子女史がうわずった金切り声で「一一〇番、一一〇番……」と叫んだときはいささか滑稽に感じたものだけれど、つまるところ、なかにいる刑事の誰かが一一〇番したのだろう、急な進展を報じるためにはダイアルを回転させるほかはないからである。
わたしが建物に入ってみると、つい一時間前と同じように、滞在客は食堂に集められ、思い思いのイスにすわっていた。わたしもその連中に合流させられたことはいうまでもない。一座を見廻すと、二度目の殺人のショックで眠気が吹き飛んでしまったためか、それとも誰もがベッドに横になったものの眠るどころではなかったせいか、寝呆けた顔をしているものは一人もなく、一様に色蒼ざめて、心ここにあらずといった表情だった。監視しているのはこれまた最前とおなじく老若二人のコンビである。たぶん現場の番をしているのはあの中年の刑事ひとりなのだろうが、こわもての彼がビクビクしながら本部の一行の到着を待ちわびる姿を想像すると、いささかユーモラスであった。
「田中さん!」
鬢《びん》の白い刑事にいきなり声をかけられて、わたしは胸中のニヤニヤ笑いが表面にあらわれ、それを咎《とが》められたのかと思った。
「ほかの皆さんには話してあることですが、めぐみさんまでが殺されたとなると、われわれの態度もきびしいものとならざるを得ません。今後トイレへ行くときも必ずことわってもらいます。同時に、われわれのどちらかが同行をする。非常事態ですから、お得意の人権|蹂躙《じゆうりん》だの文化人論なんぞを持ち出すことは遠慮していただきます。いいですね?」
「ええ、ぼくはやむを得ないことだと思います」
「それから、これは皆さんに対する警告ですが、建物の前に二人、後ろ側に二人、しめて四人の刑事が暗闇のなかで警戒にあたっていますから、逃げ出そうとしても無駄ですよ。いずれも柔剣道に合気道の達人だし、ピストルを所持しています。下手な真似をすると、結局いたい目にあうのはあなた方のほうです」
「それは脅迫ですかの?」
と、例によって団平がしゃしゃり出た。打撃を受けたことは間違いないとしても、彼がいうところの「反骨精神」は依然として旺盛であった。
「冗談じゃない、警告です」
「ふむ、警告ね、親切なこってす。ところでお訊《たず》ねするが、ほかの部屋のカーテン止めは無事ですかの?」
「なんだって?」
「いや、ロープは無事かと訊《き》いておるのです。われわれのなかには頭のいい人間がおるでの、こっそり誰かの部屋に忍び込んでロープを盗《と》って来ると、それでめぐみくんを絞め上げたのかもしれん。そうすれば今度のめぐみくん殺しの犯行も、最初の犯人によるものと考えられるからの」
「ふむ……」
監視の刑事たちにとってこの解釈は思ってもみなかったことだとみえ、特に髪の白い初老の刑事は一声うなったきり、後は黙って顎をなでるのみだった。
「名推理に水をさすようで悪いが、それは園田先生らしくないヌケた考え方ですな」
そこに、満面これ髭だらけといった顔の権九郎が身を乗り出した。先にわたしは滞在客の全員が色を失っているといったけれども、正確に表現するならば、ただ一人この藤岡権九郎だけは蒼ざめているんだか黒ざめているんだか、その辺のことがもう一つはっきりしない。なにしろ顔中が毛むくじゃらで露出している部分がきわめて少ないから、どんな表情をしているのか判断の下しようがないのである。
「ふン、どこが間違っておるというのかの?」
「だってそうじゃないですか、仮りに篠崎さん殺しの犯人をXとしてめぐみくん殺しの犯人をYとすると、Yはもう一本のロープを誰かの部屋から失敬しなくてはならない。そのロープをあなたの部屋から持ち出したにしても、あるいはこの田辺君の部屋から持ち出したにしても、いずれは紛失したことに気づかれてしまう」
「ふむ」
「フンフンといって感心してばかりいないで、少し頭を働かせてもらいたいですな。ロープの紛失が明るみに出たら、Xの犯行でないことは判ってしまう。いうまでもなくXは二本のロープを手許に用意してあるんだから、あなたもしくは田辺君の部屋からロープを盗む必要はないんですからな」
「ふむ」
「Xの犯行であるように見せかけるのがYの狙いであるならば、たちまちにして計画は失敗してしまうわけだ。ロープが紛失しているかどうかは、調べれば簡単に判明することですから」
「なるほど、能ある鷹はナントカを隠すというが、あんたも見かけによらず頭がいいの」
と、団平は負けずに嫌味をいった。
「それじゃこう考えたらどうだね。客室から盗んだからすぐ気づかれてしまったんだが、Yはそれほどのバカではない。だからさ、ふみ子くんが保管してあるスペアのなかからそっと盗って来れば判るまい? のう、ふみ子くん。めぐみくんと並江くんのロープがなくなったという話が出たときにあんたは、紛失したことに気づいていたから、後で補給するつもりだといった。そうだの?」
「ええ」
「だからさ、Yなる仁《じん》はそのなかから盗って来ればよかった。沢山あるやつの一本や二本が減っていても、まず気がつくものはおらんだろうて」
「せっかくですけど、そううまくはいきませんのよ」
野川ふみ子が横から反論した。言葉の調子が意地わるく感じたのは、わたしの気のせいか。
「ここではすべての予備品はチェックされているからですわ。例を挙げますと、トイレットペーパーがあと何本あるとか、浴用石鹸があと幾つあるかということまでノートに記入してありますの。そうでもしませんと、このとおり不便な場所でしょ、簡単に買いに行くことができませんの」
「ふむ」
「先生の原稿用紙があと何|束《たば》残っているかということも、ちゃんと記録してあります。そうしたわけですから、枕カバーにしてもシーツにしても、数が合わなくなればすぐに判りますわ。カーテンの紐にしても例外じゃございません」
「ふむ」
「それに、あの品物はローソクだの缶詰なんかとは違って、消耗品ではありませんものね、補給の対象にはならないんですの」
「……どういうことだの、それ」
「カーテン屋さんが余ったものを、何かのときにお使いなさいといって、おいていってくれたんです、二本だけ」
「ふむ」
「ですからノートを開いてチェックしなくとも、棚を覗いただけで簡単に判りますわ」
「ふむ」
「フンフンとおっしゃらないで、ちょっと頭をひねってご覧なさいな」
と、この女秘書は権九郎のいったことをくり返してみせた。
「きみ、すまんがこの野川さんに案内してもらって、家中のカーテンを調べてみてくれないか。ついでに補給棚の上もだ。ロープが果たしてもう一本紛失しているかどうかを徹底的にチェックしてもらいたいんだ」
「判りました」
若い、まだティーンエイジャーの稚《おさな》さを残したこの警官は、きおい立った口吻で答え、立ち上がった。その勢いにあおられた恰好で、ふみ子もイスから腰を上げた。ピンクのネグリジェを着たふみ子と制服の警官とは、人々の視線に送られて廊下に出て行った。
「おな子《ご》が一人減っただけで、こうも静かになるとは知らんかったの」
団平が毒づき、誰も相槌を打とうとはしなかった。が、この随筆家はそうしたことを意に介さぬたちの男だった。
「この写真の大家も秘書先生も、わしの説を攻撃することに熱心だったが、わしの結論はこうなんだ。ロープが紛失しているとはわしも思っておらんし、Yという人物が存在するとも思っておらん。そんな計画を立てたとすればYはずばぬけた頭のいい男であることになるし、頭がよければ藤岡君やふみ子くんが気づくような論理の欠陥にも当然気づくはずだからの。そんな愚かな真似はしないだろうて」
「それがあなたのいう結論ですか」
「いや、そうせっかちになるもんではない。わしの結論というのはだ、めぐみくんを殺した犯人は、篠崎君を殺したやつと同一人間だということなのだ。彼は、あるいは彼女は、最初から二本のロープを用意しておいて、いまやその所期の目的を完遂《かんすい》したというわけだ。したがって、一連の殺人ドラマには幕が降りたことになる。と同時に、犯人Xは篠崎殺しに動機を持っていたと共に、めぐみくんに対しても動機を持っていたことになる。なるほど篠崎豪輔を憎んどった人間はゴマンとおる。だが、同時にめぐみくんをも憎んでおった者となると、それは数えるほどしかおらんのです。刑事さん、これだけヒントを与えれば、誰がXだということも容易に判るではないかの」
初老の刑事は明らかにドギマギしていた。満座のなかでテストされたばかりでなく、彼にはそれに答えることができなかったからである。
「園田さん、あなたはほんとに人をイビるのが好きな方ねえ」
見かねたものか、平素は口数の少ない女流画家が口をはさんだ。言葉つきは丁寧だけれど、口をキュッと結んで胸中の怒気を抑えつけているように見える。
「そのとおり」
「じゃ反問させていただきますが、あなたは誰だと思っていらっしゃるの?」
「誰がって、なんのことだの?」
「おとぼけにならないで。あなただったらお答えになれますわね。めぐみさん殺しの動機を持っているのは、われわれのなかに誰と誰だとお考えなの?」
「誰と誰かと訊かれても、その――」
「あたくし?」
「いや、その――」
「それとも並江さん?」
「いや、その……わしはだの、形而下《けいじか》的なことには興味を感じないたちなんだ。つまりその、誰がなにしてなんとやらなんてことには、まるきり関心がない。わしが興味を持っとるのは――」
いいかけたときに扉口から先程の二人が入って来た。そして揃って首を横に振った。
「ロープは無事です。盗まれているのは例の二本だけですよ」
初老の刑事は考え込んだ眼差しで頷《うなず》いた。
「でも、よかったじゃない」
弾んだ声でいったのは女秘書のふみ子だった。ピンクのネグリジェだけでも刺激が強すぎるのに、豊かな黒髪を肩のあたりに波打たせた姿がまた妖艶に見える。わたしはそっと視線をはずすと、耳だけ彼女のほうに向けておいた。
「何がよかったんです?」
「だってこれで事件にピリオドが打たれたからですわよ。わたくしたち、枕を高くして眠れるわけですわ」
「まあね、そりゃあなたのいうとおりだが、まだ犯人が誰かという問題が残っている。これを解決してもらわぬことには、気分がさっぱりとはいたしませんな」
「同感だの」
と、団平は珍しく権九郎に相槌を打った。
「こんなことをいうとまたふみ子くんに怒られるだろうが、わしは篠崎君が殺されても心から悼《いた》む気にはなれなかった。あれだけ傍若無人《ぼうじやくぶじん》に振る舞えば、恨まれたり憎まれたりしても無理はない。しかしだの、めぐみくんを殺したのは許せんのだ。美人を殺すとは怪しからん」
「なるほど、それがあんたのいわゆる形而上的な意見かね?」
権九郎が髭だらけの顔をニヤリとさせるのと同時に、庭の方で車の音が聞こえた。本部の一行がおっとり刀で駆けつけて来たのであった。
3
こんなに早く到着するとは思わなかったので、少なからず意外だったが、考えてみればそれほど不思議がることはなかった。課長をはじめ県警側のメンバーは全員が軽井沢署の柔道場に泊まっていたのだし、それも寝巻なんぞは持っていないから、ズボンにシャツという恰好で横になっていたのである。靴を履いて車に飛び乗ればいいわけだから、早いはずだった。
食堂の前を通ってめぐみの部屋へ向かう課長の横顔がチラッと見えた。昼は課長としてのポーズをとるというか、一応は余裕のあるところを見せていたものだが、一瞥《いちべつ》したいまの表情はまるで別人のようだった。眉を寄せ厳しい顔をしているにもかかわらず、虚をつかれた驚愕と狼狽、それに犯人に対する怒りの感情がないまぜになっていた。いや、顔つきからだけでなく、せかせかと前かがみになった歩き方や、途中で部下をどなりつけたヒステリックな態度からも、その心境は手にとるように判った。
髭づらのなかで権九郎がくすっと笑った。団平は団平でわたしと視線が合うと片目をつぶってみせた。いずれも、「課長のやつ頭にきてるな」といっているに違いなかった。
「疲れたなあ、一体いつまで待たせる気だろうの」
例によって団平が先頭を切って鼻をならした。監視の警官がそれきたといった顔をし、故意に眼をそらせてそっぽを向いた。
「善良な市民の協力にも限度ってものがある。刑事さん、あんたは幾晩徹夜をしても職務上やむを得んだろうが、われわれはそこまでサービスをする必要はないと思うがの。そろそろ引き取らせてもらえんですか」
「あなたが善良な文化人であることはよく解っています。疲れていることも解ります。しかし、わたしの独断ではどうにもならんのです」
鬢の白い刑事は「文化人」にまだこだわっているのだろうか、口調は丁寧だが態度には断乎としたものがあった。
「それじゃ、課長を呼んでもらおうではないですか。本来ならば柔らかいベッドのなかでいい夢を見ておれるはずなのに、めぐみくんが殺されたために眠りを中断されたのだ。めぐみくんが殺されたのは警戒が手薄だったからではないですか。いうなれば手落ちはあんた方にある。半ダースかそこらの警官を残して引きあげて行った課長の責任だ。だからその責任者を呼び出してもらいたいでの」
「課長も忙しいですからすぐに来てくれるかどうか疑問ですがね、ともかくあなたの意向だけは伝えます」
若いほうの警官はいつも伝令の役である。このときも一つ二つ耳打ちされると、大きく頷いて食堂を出て行った。
「ねえ園田さん、いまの問答を聞いていると、あなたはめぐみさんが殺されたことよりもご自分が睡ることのほうが大切みたいですね。そうじゃありませんこと?」
黙っていられなくなったとでもいうふうに、挿絵画家が団平を皮肉った。この自称詩人にそそがれた切れ長の眼は、皮肉るというよりも相手を批難しているように見えた。
「そりゃ違う。そりゃ違いますがの松原さん。めぐみくんの死は痛恨きわまりないことと思っとるです。知に働けば角《かど》がたつというが、理屈からいえば死んだめぐみくんは今や単なる物体に過ぎん。それに対してわしやあんたは生身《なまみ》の体だ。生きとるうちは体を大切にせんならんというのがわしの持論での」
「理屈はたしかにそうですわ。でも、あなたみたいに冷たく割り切ってものを考えるということには、やはり抵抗を感じますわね。情に流された考え方かもしれませんけど……」
それに対して団平がなにか反論しようとして大きな口を開けたときに、まさかと思っていた課長が若い警官とともに入って来た。団平は口を閉じることを忘れ、一瞬あれといった顔つきで課長を見ていた。
テーブルを隔てて向かい合った課長の面《おもて》には、先程の慌てふためいた様子はまったくなく、日中会ったときと同じように落ち着いて俊敏な表情にかえっていた。
「園田さんの意見は聞きました。それについて、というのは警備を手薄にしたことについてですが、一応の釈明をして皆さんのご諒解を得たいと思う」
団平はやっと口を閉じ、イスの上にどすんと腰をおろした。太い黒ぶちの近眼鏡をとおして、彼の眸《ひとみ》は課長の顔に釘づけになっている。
「皆さんが批難なさるのも無理はないが、それにはそれなりの理由があるのです。じつは篠崎氏が殺された現場の隣りに、資料室と呼ぶ小部屋があります。小さな部屋だが南側に窓が一つついている。そこは建物の左翼のはずれの部屋ですから、西側の壁にも窓がある。部屋の大半を書架が占めていて、わずかに残った棚と棚とのあいだの空間に、ガラスのケースが置いてあります。ケースのなかは三段に分かれているんですが、上から仏像と壺、それに香炉《こうろ》が飾ってある……」
課長は喋り慣れているのかなかなか雄弁であり、われわれ資料室を覗いたことのないものにとっては興味のある説明であった。
「書庫はべつにあります。だからこの資料室というのは、執筆中の長篇小説に必要な書類をピックアップしてきて、完結するまで並べておく。ときに応じて参考になるような本だけを揃えておくことにしていたのだそうです。それから短篇を書くにあたって手許に揃えておかなくてはならない数種の辞書とか、百科事典などですな、そういったものは常時備えつけてある。それに版画集が十巻ちかくあるんですが、これは頭が疲れたときとか、つぎの作品執筆にとりかかる前の気分転換のときに眺める。流行作家の楽屋裏を覗いたという意味でおもしろく感じました」
団平がなにか口を入れようとすると、課長はそれと悟って、一瞬はやく手を上げて制した。
「判ってます、脱線するなといいたいのでしょう。では本論にもどって、われわれはいま申した西側の窓が開いていることを発見したのです。実際にそこから侵入したのか、侵入したように見せかけたのかは判りませんが、ともかく窓の下を調べさせました。ところが真下のゼラニウムの花壇が踏みにじられていて、土の上に左右|一対《いつつい》のほぼ長方形をした穴がみとめられた。つまり何かを置いた痕《あと》ですな」
「梯子《はしご》だわ。そうじゃありません?」
と、ふみ子が率先して発言した。
「そうです、梯子を立てかけた痕でした。後で裏庭の物置の軒下に寝かせてある梯子をチェックしてみたところ、梯子の地面に接するところにゼラニウムの花びらがついていたこと、一対あったくぼみのあいだの距離、それに穴の痕と梯子が一致したことから、犯人がこれを利用したことは間違いないと判断しました」
「足跡はなかったんですか」
と田辺。
「ないです。草花を踏みにじっているものだから靴の跡はつかないのです」
「残念だな。盗難品はないんですか」
課長は体操でもするように首を振った。
「美術骨董品は無事でした。資料室の棚の書物にも被害はないです」
いずれ、秘書のふみ子に立ち会ってもらった上で徹底的に調べたものなのだろう。先程、二階に呼び上げられた彼女の訊問が小一時間かかったわけが、ようやく理解できた。
「盗むのが目的でなかったとすると、犯人の目標は仕事部屋のほうにあったわけになります。つまり篠崎氏の命を奪うことか原稿を処分することのどちらかです。あるいは双方だったかもしれんですがね」
「資料室との境のドアは施錠されてなかったのでしょうか」
「仕事中は錠がはずれています。場合によっては十度も二十度も出入りしなくてはならないのですから、当然でしょう。しかし夜間は錠をおろすそうです」
「あたしは原稿を盗むのが目的だったと思うな。ところが、眠っていたはずの篠崎さんが目をさましたものだから、居直って殺したのよ」
と、千恵子が太い声で突発的犯行であるという意見を述べた。
大男総身に知恵が廻りかねという川柳《せんりゆう》があるが、大柄の女性だとて血のめぐりの悪いことは同じだろう。わたしがそう考えたのは、千恵子の意見がたちまち否定されてしまったからである。
「そんなことないわよ。犯人はあらかじめ凶器としてロープを持っていったのよ、殺意があったのは明らかじゃないの」
千恵子はペロリと舌を出し、あ、そうかといったふうに頸をすくめた。が、わたしもまた胸のなかで舌を出して頸をすくめたのである。ふみ子に否定されてはじめて気がついたのだから、わたしもまた総身に知恵がまわらぬ間の抜けた人間ということになるが、わたしの場合は中背であって、けっして大男だとはいえないのだから始末がわるい。
「殺人が目的であったなら急いで逃亡するところですが、ガスの火で原稿を燃やしているんですな。この事実から、単に篠崎氏殺害だけが目的だったとは考えられない。ガスコンロに残った灰の量から見当をつけると、焼却された原稿用紙はかなりの枚数だったことが判るんですな。野川ふみ子氏の推測では、ゆうに長篇一本の分量に匹敵するのではないかということです」
「すると篠崎さんが長篇を書き上げていたか、篠崎さんが誰かの長篇を預かっていたかのどちらかですな」
「いや、そうではありません。わたしは五、六百枚の原稿用紙が燃やされたといっただけで、長篇だとはいっていない。野川氏の話では篠崎氏は四本の長篇を雑誌や地方紙に連載していたというが、締切りに追われてその月のノルマの枚数をこなすのがやっとのことで、いずれも完結してはいないのです。では持ち込みの長篇があったのではないかという考えが出てくるが、灰を調べてみると何種類かの原稿用紙が混ざっているんですな。長篇を持ち込んだとしたら、おなじ種類の用紙に書くのが普通です。そうしたわけで、篠崎さんは何人かの人から幾本かの短篇を預けられていた。犯人はそれに火をつけたのではないかと想像するわけです」
「篠崎さん自身の原稿も被害にあっているんですの?」
と、挿絵画家が訊いた。豪輔が死んで十三時間余りたったいま、彼のことを先生と呼ぶのはふみ子ただ一人であり、あとはすべてさんづけである。
「いえ。これも野川さんに調べてもらったんですが、あのひとのは燃やされていません。無事だというのではなくて、書き上げると片端から雑誌社に送ってしまうものだから、ストックがないわけですよ」
「すると、燃やされたのはお弟子さんの原稿ですの?」
「そうじゃないんです。篠崎さんは弟子をとるほど暇ではなかった。しかし、この流行作家に推輓《すいばん》してもらえば活字になると思うのか、何人かのアマチュア作家から小説原稿が送られている。ここにおいでの園田団平さん、田辺義夫さん、それに井上精二さんもそうですな、いずれも原稿を送って読んでくれるように頼んでいる。もっと正確にいえば、しかるべき出版社に売り込んでくれることを期待している。ところが、これは先程知ったことなんですが、園田さん自身が自作と称して送りつけたものは翻案《ほんあん》であったという」
「嘘だ! 想像だけでものをいってくれては困る!」
珍しく、いつもは図々しい団平が狼狽し、大きな顔を真っ赤にした。
「では撤回します。多忙な篠崎さんとしてはそんな原稿に眼をとおす暇がなかったらしい。というよりも、持ち込み原稿なんてしろものは、あの流行作家の眼からすれば反古紙同然に見えたのでしょうな。だから田辺さんの原稿を刻んで、洗面所の櫛をふくティッシュペーパーの代用にしてしまったんです。田辺さん、あなたはそれを発見して激怒したそうですな?」
田辺は、しかしいままでのように陰にこもっていなかった。いずれは機会をつかんで出版界に復帰できるという明るい希望が、彼の周囲にまつわりついていた暗いかげりを吹き飛ばしてしまったようである。
「当たり前ですよ。元来が品性下劣な男だとは思っていたけど、あれほど低級なやつだとは知らなかった。猛烈に怒りましたよ、猛烈にね。なんだったらここに並んでいる諸君に聞いてみてください。彼らが証人なんだから」
破れかぶれともいえ、意気|軒昂《けんこう》ともいえる口調である。彼の小柄な体に触れると、ジュッと音をたてて指先が火傷《やけど》するのではないかと思うくらいであった。
「それとも課長さん、ぼくという男が、あれほどの侮辱をこうむって、しかもなお追従《ついしよう》笑いを浮かべているような卑屈者だと思っているんですか!」
「そうではない。そう興奮してはいかんです。まだ話の先があるんだから」
課長はそう制しておいて舵《かじ》を取りなおした。
4
「話がそれてしまったが、送りつけられた原稿は仕事部屋のファイルボックスの上に積み重ねてあったのです、ほこりがかぶるに委せてね。犯人はそれを全部ガスコンロの上に持って来て、火をつけています。それも、火をつけただけで逃げ出したというのではなく、その場についていて、少しずつ炎にくべていたんですな。そして、全部が灰になるのを待って、火掻き棒で灰を叩きこわしている。ま、若干の破壊をまぬがれた灰があったのは幸いでしたがね」
「なぜ火をつけたのでしょうか」
挿絵画家の質問に対して課長は首を振った。
「判りませんな」
「これはべつに園田先生へのあてこすりじゃないんだからそのつもりで聞いてもらいたいんだが、たとえばですよ、その犯人先生もまた翻案物を創作だと見せかけて送りつけたんじゃないですかね? それがバレたら自分の名誉にかかわるからね、それで焼いちまったんじゃないですかい?」
髭の写真家がずけずけといい、団平は怒るのも忘れて眼をまるくしている。
「それなら自分の原稿だけを火にくべればいいじゃありませんか」
と、挿絵画家。近頃はイラストレーターと呼ばぬといやな顔をする画家が多いが、このなよなよとした美人画家は、やはり従来どおりの名称が似合っていた。
「失礼だが、考えが浅いですな。自分のだけ燃やしちまったら、犯人が誰だか判っちまうではないですか。なんてったって忠実な女秘書が控えているんですからな、ひとめ見ただけで『あらッ、園田さんの原稿がなくなってるわよッ』てなもんです。いや、すべて仮定の話です、そう眼に角《かど》をたてないでいただきたいですな」
権九郎の顔が髭のなかで笑った。団平は押し黙ったきりでふくれっ面《つら》をしている。
「争ったときに犯人の血が原稿の束に飛んだという解釈はどうですか。むかし何かの推理小説に書いてあったことですが、犯人は血痕を残していくわけにはいかなかった。自分の指紋を残すこととおなじですからね。だから焼いたというふうに考えるのですが……」
わたしの発言の終わりのほうは、幽霊の足みたいにかすんでしまった。喋っているうちに、灰をしかるべき方法で検査すれば血液型が判明するに違いない……と思ったからである。
「それではぼくも意見を述べます。ぼくのはひじょうに突飛《とつぴ》で意外性百二十パーセントというやつですが……」
思わせぶりな言い方をした後で、文学青年はにんまりとした面持《おもも》ちで一座を見廻した。
「いいなさいよ。ニヤニヤしてないで……」
千恵子に横腹をつっつかれるといっそう嬉しそうにニヤニヤとした。
「……ぼくの説はね、焼いたのは篠崎豪輔そのひとであった、というのです」
「なぜ焼いたのよ」
「それは判らない。強《し》いて知りたければ霊媒《れいばい》に頼んで直接本人から訊いてみることですね」
井上青年はけろりとした顔で答えた。千恵子がまた脇腹を肘で突いた。
「出鱈目《でたらめ》ばかり……」
「いや、かならずしも出鱈目ではないです。じつは刑事のなかにもその説を唱えたものがいたのですが、篠崎さん自身が燃やしたのなら、なにもコソコソとやる必要はない。窓を開けて堂々とするはずだという反論が出て、否定されたのですがね」
課長にそういわれて井上精二は胸をそらせた。それ見なさいといわんばかりに、またニヤニヤしている。
「結局、われわれは犯人外部説をとったのです。犯人は皆さんが午睡しているときを狙ってこっそりとやって来た。裏庭に廻ってみると、開いている窓からカーテンが眼に入り、カーテン止めが眼に入った。これは恰好の武器になるというわけで、そいつを失敬する――」
「なぜ二本も失敬したんですの?」
と、挿絵画家。課長の精悍な顔が一瞬ひるんだように見えた。
「ま、そこは議論の分かれるところですが、さらに辺りを見廻すと、物置の軒下に横たえられている梯子が眼に止まった。これはいいものがあるというわけで、そいつをゼラニウムの花壇まで引きずって来て、二階の窓枠に立てかけたのですな。梯子をつたって忍び込むというのはかなり危険なやり方であって、慣れたプロの泥棒ならばともかく、素人では人目につく可能性が大きい。この山荘のなかの誰かが犯人ならば、廊下を通って侵入するはずですからね」
「しかし、外部から入ったように見せかけたのかもしれないでしょうがの」
と、団平が反駁《はんばく》した。ふくれていた彼も、ようやく本来の団平にもどったようであった。
「家のなかにいたのが犯人|独《ひと》りという場合はそういう工作をする必要もあるでしょう。だが山荘のなかには十人ちかい滞在客がいるんですよ。そして誰もがとろとろとまどろんでいた状態だからアリバイは立証できない。そうした場合に、わざわざ梯子を搬《はこ》んだりして外部から侵入したように見せかけるわけがないのですよ。梯子をかついでくるだけでも人目に立ちやすいことですからね」
団平は素直にこっくりしている。自分の提起した問題が不発に終わってしまい、気が抜けたといった面持ちであった。
「ま、そうした次第でわれわれは犯人外部説に傾いた。傾いたというよりもそう確信したんですな。そんなわけで、軽井沢駅及び隣接の駅に刑事を張り込ませると共に、国道の要所要所で不審な人物をチェックするべく検問を実施しておった。全力をそちらに投入していたのです。五、六人の刑事を残しておいたのは一応皆さん方をまもるためでした。犯人がロープを二本盗んでいたことから、第二の殺人を警戒したわけです。しかし、いまになってみると甘い考え方を非難されてもやむを得ないが、めぐみさんがやられるまでのわれわれの側には、犯人が狙っていたのは外部の人間だという考え方が圧倒的であったのです。犯人は残ったもう一本のロープを持って、第二の犠牲者を求めてどこかへつっ走っている、そう解釈した。いずれにしても、警戒網を突破することは不可能だから、必ずどこかの検問にひっかかる。そうみておったのです」
苦《にが》い顔をして話をしめくくった。煎《せん》じつめれば、それは警戒を手薄にしたわけの説明であり、めぐみを殺させてしまったことの弁解であった。
一同は黙り込んでしまった。お先走りの大好きな団平も、このときは口をむすんだきり発言しようとはしなかった。当局の見とおしの甘さが招いた失敗を突き、非を鳴らすことは容易だが、あえて口をひらくものはいなかった。一つには、喋るのも大儀だといった雰囲気のせいかもしれない。誰の顔にも疲労のいろが濃くにじみ出、一、二の女性の眼のふちには黒ずんだ隈《くま》が浮かんでいた。
「……いまお話ししたとおり、われわれの結論はとんでもない間違いであったのです。犯人は外部の人間ではなくて、この食堂のなかにいる。もっとはっきりいうなら、事件当時ここにおられた田辺、並江、田中三君を除いたあとの五人のなかにいることは明白です。ですから調べがすむまでは食堂から出ないようにしていただきます」
「わしゃ疲れたね。加えてわしゃ片腕だから犯行は不可能だ。部屋に帰って寝たいがの」
「そうよ。眠らせてくださってもいいじゃないの。廊下なり、お庭なりの、警戒を厳重にしておけば逃げられませんわ」
「われわれの心配するのはそれだけではないのです。自分の部屋に閉じこもった犯人が自殺することを恐れているのですよ。めぐみさんを殺されただけでも取り返しのつかぬ失態だというのに、自殺されてごらんなさい、県警としてこんな不名誉なことはない」
彼は悲痛な調子で語り、それを聞いたわれわれはそっと眼を見合わせた。
「自分本位な考え方だわね」
「優秀な官僚というのはみんなああした発想をするものなのよ」
女性たちの眼はそう語り合っているように見えた。
「課長! もう一度いうが、わしゃ片腕でね」
「それは判っています。しかし殺人がつづいて二件も起こってみると、腕が一本しかないからといって見逃すわけにはいかんのです。あるいは、片腕でも可能な方法をあなたが開発しているのかもしれない。お疲れになったならソファを運ばせますから、それに寝ていただきたい。とにかく全員を監視下におきます」
こうなると理屈も何もあったものではない。だが、われわれはそのお陰で(というのは穏やかでない表現だけれど)眼前で発生した殺人ドラマを見ることができたのだった。課長は犯人の自殺を心配したようだが、これもまた考えが甘過ぎたといわなくてはならない。犯人はそんな気弱な人間ではなく、自分の犯行に百二十パーセントの自信を持っていた。そしてこうしているあいだにも、来たるべき殺人の趣向を、なに喰わぬ顔でしきりに練り上げていたことになるのである。
七 深夜の珈琲
1
「ま、以上が釈明です。皆さん方にすれば弁明とも受け取れたかもしれませんがね」
「わしには終始弁解であったように聞こえたの。警備を手薄にしたお陰でめぐみくんの命が失われたのだから、これは重大な責任問題に発展する可能性がある。まず、次回の異動で左遷されることは免《まぬが》れまいて」
まるでそうなることを期待しているような団平の口ぶりであった。と同時に、いかにもこの男の口にしそうな小意地のわるいセリフだと思った。この自称詩人が相手の弱点を見つけると、たちまち攻撃に転じていく姿は、南米の河に棲むという肉食の魚を連想させた。
「まるで預言者アモスみたいなことをおっしゃる」
課長は精悍《せいかん》な顔にふっと苦笑を浮かべ、皮肉ともつかずに応じた。
「左遷問題はちょっと脇にどけておきまして、事件発生当時の皆さんがどこにおいでだったか、それを一人一人おっしゃっていただきたいですな」
「ハーイ」
と、速記者の並江千恵子が手を挙げた。体つきは大柄だけれど、そのしぐさはまるで小学生か幼稚園児のようである。
「あたしと田中さん、それに田辺さんの三人はこの食堂にいました。だから絶対にシロですわ。証人はそこにいらっしゃる刑事さんと若いお巡りさん」
われわれ三人のアリバイは一瞬のうちに成立してしまい、ことに田辺義夫は日中の仏頂面《ぶつちようづら》が嘘みたいに、目尻を下げっぱなしの笑顔であった。
「これで三人がオミットされたでの。八人の嫌疑者が五人に減ったわけですから、それだけ調査もしやすくなったというもんです」
団平の口調を真似て田辺がはしゃいだ声を出し、当の詩人は不快げに鼻の孔をひろげると、この元編集者をねめつけた。そうするときの団平の表情は眼に険悪な光を帯び、これが「文化人」かといいたくなるような凶々《まがまが》しき人相になる。
「課長さん、そんな質問は無意味だと思いますがね。第一、犯人が本当のことを喋るわけがないでしょう。ベッドで寝ていたと答えることは決まっているではないですか」
長身の井上精二がムキになってものをいうときには、その長い頸を一段と伸ばすようにする。もしここに行灯《あんどん》があれば、伸ばしついでに小皿の油をなめるんじゃないのかと、ふと思ったくらいだ。
「井上君のいうとおりだの。わしゃ犯人じゃないが、やはりベッドで寝ておった。もっとも、よほどの臍《へそ》まがりでない限り、寝るのはたいていベッドの上だがの」
団平が眼鏡越しに眼玉をギロリとさせて、皮肉っぽく含み笑いをした。
「そういう井上さんも寝ていたのですか」
課長はべつに腹を立てた様子もなく、しかし団平の発言をてんから無視して訊いた。
「いや、ぼくはまだ起きていた。われわれ素人は殺人事件なんかには不慣れですからね、ぼくはけっして神経質じゃないつもりなんだが、神経が参っちまって、眠るどころじゃなかったんです」
「つまり自分の部屋にいたというわけですか」
「要約すれば、そうなりますな」
井上は敢然として胸を張ってみせた。田辺が別人のように明るくなったのと同じように、この文学青年も、豪輔の死を知って呆然自失したときの彼とは信じられないくらい元気になっていた。死んでしまった豪輔のことを悔やんでいても仕様がない、また有力なスポンサーを探せばどうにかなるさ。心のなかでそう考えているのであろうか、いずれにしても思い切りのいいたちの、ひところ流行した言葉でいうと「クールな男」であることは間違いなさそうであった。
「一人で、ですか」
「訊くだけ野暮ですよ」
「というと誰か女性と一緒だったんですか」
「いや、一人でいたという意味です。つまりアリバイはない」
そうならはじめから一人でいたと答えればよさそうなものだ。団平の感化を受けてつむじが曲がってきたのかもしれない。
「アリバイのないことは誰もおなじだと思いますわ」
女秘書が文学青年の肩を持つように発言した。
「あたくしだって証明してみろといわれても立証できませんことよ。松原さんだっておなじことじゃなくて?」
いきなり問いかけられたせいか、女流画家はびっくりしたように顔を上げた。めぐみの死にショックでも受けたのだろうか、彼女の死を悲しんでいたのだろうか、先程から面《おもて》を伏せたきりだったのである。いまのうつろな眸《ひとみ》から判断すると、課長対団平、あるいは課長対文学青年のやりとりなどは少しも聞いていなかったふうであった。
「……あのゥ、なにが同じなのでしょうか」
「あらやだ、聞いてなかったの?」
ふみ子が、無理をして明るい声を出していることはよくわかった。一日のうちに殺人が二件も発生すれば、どれほどタフな男でもいいかげんに参ってしまうものだが、彼女の場合はこの家のホステスなのだから、率先して沈んだ雰囲気を守《も》りたてなくてはならない。それがわたしにはよく理解できるだけに、ふみ子の努力がいっそういたいたしく感じられた。
「めぐみさんが殺されたとき、どこにいたかという問題よ」
「お部屋にいたわ」
「一人で?」
「ええ」
「ほらご覧なさい、あたしとおなじじゃない。そのことを話題にしていたのよ」
それに対して女流画家は口のなかでなにか呟きながら頷《うなず》いた。
井上精二が指摘したとおり、課長のこの訊問はついに不発に終わった。食堂にいた三人を別とすると、誰も彼もが自分の部屋に引きこもっていたと答えたからである。それを立証する手段のないことも、全員に共通していた。いうまでもないことだが、誰か一人が嘘をついており、それが犯人であることは判っていながら、嘘つきの正体を糾明する手段はなにもないのだ。
課長は苦《にが》い顔で腕を組み、黙り込んでしまった。
「ねえ課長さん」
ふみ子が遠慮がちに声をかけた。課長が顔を上げて女秘書を見た。その眼の光が、団平を見るときとは打って変わって和《なご》やいでいる。やはり彼も人の子だなァとわたしは思った。
「わたしも眠ることができずにいたものですから、オルゴールの音ははっきりと聞こえたんですの。真夜中に目覚しをかけてどうする気だったんでしょうか」
「どうする……?」
「ええ、めぐみさんのことですけど」
小さな顔を心持ち左にかしげ、じっと課長を見つめている。ピンクのネグリジェ姿だから、なんともなまめかしくて思わず唾を呑み込んでしまった。
「目覚しをかけてどうこうするというんじゃあるまい。わしもあの古い型の時計を使ったことがあるから知っとるのだけれど、ふつうの目覚し時計が長針短針を回転させる動力としてのゼンマイと、ベルを鳴らすためのゼンマイと分かれているのと違ってだの、めぐみくんの時計は一本のゼンマイですべてを賄《まかな》うんだ。だからネジを巻いた後で目覚しのベルが鳴らないようにするためには、ストップボタンを押しておかなくてはいかん。これを忘れると、目覚しの針が指している時刻がくると鳴り出すんだ、今夜みたいにの」
「…………」
ふみ子も課長も黙々として団平の高説を拝聴していた。
「これはわしの単なる想像にすぎんのだがの、めぐみくんはベッドに入る前に、時計のネジを巻いたんだろう。われわれがそうであるように、習慣になっていたことと思う。さて巻き終わってから、目覚しが鳴らないようにボタンを押してセットした。いや、セットしようとしたんだ。そのとき、ドアをノックされたんじゃないかの。そこで彼女は立ち上がって訪問者を迎え入れたわけだが、犯人はそんなことは知らないし、めぐみくんは殺されてしまったし、つまるところ目覚し時計はストップがかからぬままに放置されていたことになる」
「ちょっとお待ちになって」
と、大柄な速記者が嘴《くちばし》を入れた。
「めぐみさんがストップボタンを押すつもりでいたっていうお話だったけど、目覚しのベルを鳴らないようにするってことがどうして判定できるの? ホステスさんなんて夜型の人が多いでしょ、そうなると朝起きするのが大変なものなのよ。だから目覚しのベルで眼を覚ますつもりだったのじゃないかしら」
反撃された団平はおもしろくないらしく、すぐに言い返した。
「彼女は休養をとるためにやって来たんだぜ。眠たけりゃ遠慮なしに、いつまでも眠っていればいいじゃないか」
「あら、団平先生に似合わないこというわね。ここは時間厳守なのよ、遅くまで寝てたら朝ごはんを食べられなくなるじゃないの。めぐみさんは朝のオートミールが大好きだったんだから」
「へえ、変わった人もいるもんだの。わしゃあのモソモソした感触が大嫌いなんだ」
じつはわたしもオートミールは好きではないので、明朝これを喰わされるのかと、思わずギョッとなったのだが、嫌いなものはトーストを喰えばいいのだそうだ。
「すると彼女は午前三時に眼をさまして、大好きなオートミールの朝食の時間に遅れまいとしていたのかの?」
皮肉っぽい調子で反問した。が、千恵子は団平のほうを見向きもしないで冷ややかに答えた。
「あれはね、午後の三時に遅れないためにセットしたのよ。お昼寝する前にね」
「三時に?」
「そうよ、おやつの時間じゃないの」
この日のわたしはドライブに出てしまったため知らなかったのだが、この家では三時から三時半頃にかけて食堂でおやつが提供されるのだそうだ。内容は日によって異なるが、プディングとかゼリーとかいった簡単なもので、酒呑みの豪輔は見向きもしなかったけれど、女性客のあいだではよろこばれていた。われわれがドライブに出発しようとしたときに散歩から戻った団平とすれちがったものだが、いまにして思えば、あのときの詩人はおやつを喰いそこねまいとして、泡くって帰って来たところなのであった。
「なるほど。ではこういう解釈も成立するわけだ。めぐみくんはゼンマイを巻いた後で、目覚し時計の針を朝の起床時刻にセットしようと思っとった。そこに、いまもいったように深夜の訪問者があったもんだから、その作業は中断されてしまった。つまりだ、目覚しの針が三時にセットされていたのは、前の日におやつの時間に合わせたのがそのままになっておったというわけだの」
どうやら口ぶりから察して団平も納得したようである。
「そうなると犯人は、まさか真夜中にオルゴールが鳴るなんて思ってもみなかったのね?」
考え込むような眼つきで速記者が口をはさんだ。体が大柄であるばかりでなく、目鼻だちも大きく派手な顔をしている女性だが、このときは疲れたようなもの憂い表情を浮かべていた。そういえば、眼のふちにくろずんだ隈《くま》が見える。それとも電灯の加減だろうか。
団平がなにか答えようとする前に、井上精二が組んでいた長い脚をほどいて、身を乗り出した。
「多分そうだと思いますね。いくらそいつが図太くても、犯行時は気分的にあがっていたでしょうから、時計にまで気をくばる余裕はなかったろうと思うんです」
「そうね」
「もしオルゴールがちゃんと明朝にセットされていたら、事件が発覚するのは朝になってからのことなんです。言い換えると、食堂に残っていた並江さんや田中さん、それに田辺さんの三人も寝室に引きあげて眠りについた頃に犯行があったことになる。つまり、いまは完璧なアリバイのあるこのお三人の紳士淑女も、容疑者のなかに入れられてしまうはずです。犯人は、当然そうなるものと考えて計画を立てていたのですよ。ところがオルゴールが鳴ったおかげで事件が思いがけなく発覚してしまった。その結果として、並江さんたち三人にアリバイが成立したことになる、つまり容疑者は八人から五人に減ってしまったことになるんですね。いうまでもないですが、犯人にとってこれは計算外の出来事であり、その結果、犯人自身も不利な立場へ追い込まれてしまったのです」
「わりかしいい線をいってるじゃないですか。ちょっとしたホウムズだね」
と、権九郎が髭のなかで笑った。
「著名なプロの写真家から褒められるのは光栄のいたりですがね、ぼくはあのホウムズという男をそれほどすぐれた探偵だとは思っていないんです。彼が大変な名探偵のように見えるのはドイル先生の筆力のお陰にすぎんのでありまして、真の意味の名探偵というのはエラリイ・クイーン青年ぐらいのもんでしょうな」
「だからさ、ホウムズ程度だといったんです。クイーン探偵には及ぶべくもないけれど、平凡探偵のホウムズ程度ではある、とね」
皮肉たっぷりに応酬し合っている。これはおもしろいものになるぞと思って秘《ひそ》かに期待していたら、ストップがかかってそれきりになってしまった。
「よせよせ、時と場合を考えたらどうかの」
団平が悟りすました高僧みたいな口調で止めに入ったからである。彼自身、自分が軽佻《けいちよう》浮薄な分子であることを承知しているのだろうか、たまたま停め男の役柄をつとめるチャンスに恵まれたことがうれしいらしく、唇のあたりにうす笑いを浮かべて自己満足の体《てい》であった。
2
だが、この詩人とは逆に苦い顔をしているのが課長だった。本来ならば現場に立ち会っているべきだが、そちらのことは鑑識の専門家にまかせて食堂まで出かけて来たのは、容疑者群の発言に耳をかたむけ、参考になるヒントを掴むために違いないのである。それにはうんと喋ってくれなくては意味がない。しかも平板な会話ではなしに、感情的なやりとりのほうが収穫が期待できるのだ。人間立腹すれば、ついブレーキがはずれて抑制が効かなくなる。そこが課長のつけ目なのではなかったか。だから団平がストップをかけたのは、彼にしてみればきわめて苦々しいことだったのである。
「ねえ課長さん、犯人の見当はついていますの?」
並江千恵子が訊いた。課長は苦り切った表情になり、すぐには返事をしなかった。彼にしてみれば、いちばん触れられたくないことに触れられたように思ったのだろう。
ちょうどそのとき刑事が迎えに来たので、これ幸いとばかりそそくさと出て行った。
「並江くん。そういう質問はわしに向かってしてもらいたいですな。めぐみくんを殺した犯人については判らんが、篠崎君を殺したホシの名は判っとる」
「ま、ほんとですの?」
「信じられんですな。団平先生一流のハッタリではないですか」
と、権九郎が同調した。髭だらけの顔のなかから二つの小さな眼が懐疑的にまばたいている。
「そうじゃない。ネタも上がっとるんだ」
いつになく団平は生真面目《きまじめ》な調子である。居合わせた全員が思わず身をかたくした。平素はちゃらんぽらんをいっているこの男のことだから、本来ならば誰も相手にしないはずであるのに、そのときばかりは皆がみな団平の発言に注目した。語調に、いつになく真摯《しんし》なひびきが汲みとれたからである。
「ちょっと待ってもらいたいですな。いまあんたはめぐみくん殺しの犯人は知らないけれど、豪輔殺しの犯人は知っているといった。とすると、犯人は同一人物ではないと解釈してもよろしいんでしょうかね?」
「そんなことは知らん。わしゃ詩人であって探偵ではないんだからの」
「あなたが詩人? これはお見それ――」
「わしがいっとるのは篠崎殺しの犯人の正体が判っとることだ」
「なるほど。で、その犯人ってのは誰ですか」
一瞬、人々は息を呑んで団平の返事を待った。いうまでもないことだが、かくいうわたしも固唾《かたず》を呑んで詩人の顔を見つめていた。こうして全員が聞き耳をたてたときに、ホールから刑事の声がかかった。めぐみの遺体が搬出されるというのだ。やむなく一同は立ち上がると食堂を出て玄関ホールへ向かった。
「眠いとこを叩き起こされてさ、こっちの身にもなってもらいたいよ」
「犯人の野郎がいけないんだ。まとめて一度に殺せばいいのに」
いつ到着したのかちっとも気がつかなかったが、明るい庭園灯に照らし出されて運搬車が停まっており、白衣を着た三人の若い男が口々にぼやきながら遺体を乗せていた。顔に見覚えはないけれども、ぼやいている内容から察して、先程の豪輔の屍体を運んで行った連中と同じメンバーなのだろう。課長はとうにここに来ていて、白衣の一人の耳に口をよせると、小声で何か囁いていた。解剖をいそいでくれとでも頼んでいるのだろう。
やがて手慣れた順序で屍体が積み込まれ、傍若無人の音をたてて車の後部の扉が閉じられた。
われわれは夜露に濡れたテラスに立って車が出て行くのを見送った。もうあたりはほんのりと明るくなっている。近くの林のなかで、キクイタダキがこうした場面にふさわしくない声で啼《な》き出した。例の「焼酎一杯グイ」という、あの啼き方である。いくらめぐみがバーのホステス嬢であったにせよ、焼酎一杯というのはふざけすぎている。葬送のシーンに似つかわしく慈悲心鳥《じひしんちよう》か、さもなくば啼いて血を吐くといわれるホトトギスに登場してもらいたいところであった。
だがもっと不謹慎なのは、こうやって殊勝気《しゆしようげ》に見送る人たちのなかに、めぐみ殺しの犯人が何喰わぬ顔をして混じっている事実であった。そのことを考えるとわたしは何ともやりきれぬ気持ちになり、その場からさっさとホールに入ってしまった。他の男たちはどう思ったのか知らないが、わたしに誘われたように後につづいて食堂に戻って来た。
誰もが徹夜した後だから疲れていた。人々は申し合わせたように、砂袋でも投げ出したみたいなすわり方をした。大抵のものがテーブルに肘をつき、掌に顎をのせて、かるい放心状態になっていた。張り切っているのは団平と権九郎の二人きりであった。
「ところでさっきの話ですがね」
プロのカメラマンが口火を切り、それを聞いた人々は一様に上体をしゃんと伸ばして、権九郎に注目した。
「あんた篠崎殺しを知ってるといったですな」
「そう」
「篠崎殺しの犯人を知っているならなぜ課長に教えてやらないんだ?」
「警察に協力するのは善良な市民のやることでね。どうみてもおれは善良ってがらじゃないからの」
「確認のためにもう一度訊くけど、そいつはわれわれ八人のなかにいるわけだな?」
「八人じゃない。女性はオミットしてもかまわん。犯人はここにいる四人の男性のなかにおるんだ」
われら男性は遺骸が送り出されてしまうとさっさと食堂に入ったが、女性たちはそう割り切った行動はとれない。まして殺されたのが同性のめぐみであり、人々から愛されたとはいえないにしても、女性一般からある程度の好意を持たれていた仲間だったこともあって、彼女たちは立ち去りかねるといった風情《ふぜい》をみせてテラスにたたずんでいるのである。食堂にいるのは男ばかりだった。いま、四人の男どもといわれた一同は思わず互いの顔を見合わせた。苦笑する眼があり怯《おび》える眼がある。懐疑的な、あるいは腹立たしげな視線を団平に向けて投げ返すものもいる。
「団平先生にお伺いするが、あんた算術が下手なんじゃないですか。ここにいるのは四人ではなくて五人だ。編集者の田中君に作家志願の井上君、校正マンの田辺君とカメラマンの小生、それに団平先生ご自身ですよ」
「わしは勘定に入れないでいい。わしがシロであることは誰よりもわし自身がよく知っとるでの」
独断的なその返答にさすがの藤岡権九郎も呆れ返ったらしく、口をもぐもぐさせていたが、やがて勇ましく肩を張って反論しようとした。女性連中が入って来たのはそのときであり、それに気をとられた権九郎は気勢をそがれて口をつぐんでしまった。
女秘書の野川ふみ子と挿絵画家は眼を伏せている。なかでも虹子はその髪型から、さる著名な日本画家が描いた入水《じゆすい》直前の弟橘姫《おとたちばなひめ》の絵を連想させた。髪の形ばかりでなく、うすい化粧や日本風な顔立ち、憂いをふくんだ表情といった点が似かよっていたのである。
だがこの二人とは対照的に並江千恵子はどうしたわけか眼をかがやかせ、死者と別れを告げてきたとは思えぬような、増幅した表現をすれば、この場に不似合いないたずらっぽい表情を浮かべていた。
「いまね、信州大学から豪輔先生の解剖結果が知らされたとこなのよ」
事件が事件であるだけに、先方も特別に夜を徹して解剖したものとみえる。
「うむ。で、なんていってた?」
「仕事部屋で原稿を燃やしたでしょう、だから室内の温度が上がって、屍体の変化が、常態におかれた場合よりも早く進行してしまったんですって」
「なるほど。……で?」
「ですからね、正確な死亡時刻が割り出せなくて困ってるわけよ。結局、正午から午後の四時にかけて殺されたという、幅のひろい結論になったんですって」
わたしは思わずふみ子の顔に眼をやった。二人がドライブに出かけたのは午後一時半以後のことだから、いまの情報によるとわたしたちのアリバイは意義を失ってしまうのである。法医学の教授のボケナスめ! お陰でこっちまで疑惑の眼でながめられることになるではないか。
「それからね、豪輔先生は肥満防止のためにおひるを食べないでしょう。そうでなければ食後何時間たった頃に殺されたかという見当もつくんだけど、胃のなかがからっぽではどうしようもないのよ」
ますます困ったことになった。思わず眉をひそめてふみ子を見やると、彼女もおなじことを考えていたとみえて白い顔をくもらせていた。
「まだあるのよ」
まるでわたしたちの困惑した様子をみて楽しむみたいに、話の先をつづけた。
「カセットに録音してあった先生の絶筆……あら、絶筆といったらおかしいかしら」
「おかしくはないですよ」
誰かが否定した。
「声紋を調査した結果、あの声は間違いなく先生の声だったんだって」
「…………」
「つまり、誰かが先生の声帯模写をやったわけではないってことね」
「声帯模写?」
それまで珍しく黙々として話を聞いていた団平が、しわがれた声で問い返した。
「ええ。つまり先生は何時間か前に殺されていたんだけど、犯人が声色《こわいろ》を使ってカセットに吹き込んで、まだ生きていたように見せかけたという考え方ね」
「きっと長野県警は声紋の鑑別器を備えつけたばかりじゃないのかい? ことあれば使ってやろうと思ってウズウズしていたところに今度の事件だ。それっとばかり飛びついたんだよ。第一、われわれのなかに豪輔の声を真似られるような器用な男はいないし、第二に、豪輔のくせのある文章を真似て吹き込めるような器用な男もいないだろう」
と、カメラマンが早口でまくしたてた。いまや男性の大半のものが「豪輔」と呼び捨てである。
「声紋ばかりじゃないわ。≪暗闇祝言≫を清書した筆蹟が野川さんと田中くんのものであることも判ったの。朱で書き込み訂正をしているのは、これも間違いなく先生の字だったんですってよ」
この朱の入った原稿のことを、わたしはつい失念していたのである。彼らがいつどこでわたしの筆蹟をとっていったのかは知らないが、そこは蛇《じや》の道はヘビだ、豪輔宛に出した古い手紙かなにかをサンプルとしたのだろう。それはともかく、千恵子のこの一言によってゆらぎかけたわたしたちのアリバイは、ふたたび確立されたことになるのだ。ふみ子とわたしが共同で清書した原稿を仕事部屋に届けておいてから、われわれはドライブに出た。その清書した原稿に豪輔の手で朱が入っていた以上、わたしたちが出発した後まで生きていたことは明白な事実となるのである。わたしはホッとした。ホッとすると同時に、清書原稿にしるされた女秘書、わたし、そして豪輔の筆蹟を鑑定すればいずれはアリバイが再成立するはずであることを思い、無用の心配をした自分の迂闊《うかつ》さを嗤《わら》いたくなった。
裏庭のほうで不意にカナカナが啼き出した。するとその声で眠りからさめたように、あちこちの林のなかから同類の声が聞こえ始めた。それまでわたしは、カナカナという蝉は夕方に啼くものだとばかり思っていただけに、これは意外な発見だった。他の連中にとっても思いはおなじなのだろうか、彼らの疲れた顔には例外なく新鮮な驚きの色が浮かんでいた。
3
「ねえ、お珈琲《コーヒー》いれましょうか」
こうした場合にもかかわらず、ふみ子は接待役としての自分のつとめを忘れてはいなかった。なにかと気づかってくれるのが、わたしの眼には痛々しく映った。
「そうですな。暑い日中は冷えた麦茶もいいですが、夜中に飲むのは珈琲に限るですな。ホットの濃いやつをたのみましょうか」
カメラマンと団平が珈琲に眼がないことは、夕食の後の飲みっぷりを見ても想像がつく。
「皆さんはいかが?」
「お滝さんを叩き起こしてはわるいんじゃないですか」
と、痩せた文学青年がためらいがちにいった。めぐみ殺しのショックで誰の眠気もすっとんでしまっている。が、同様に誰も彼もが疲れ切った顔色をしていた。珈琲党はもとより、平素は珈琲嫌いを標榜している人たちも、ここは一つ濃いやつを飲んで頭をすっきりとさせたいところである。
「そんなご心配なさらなくともいいのよ、わたくしがつくりますから」
「それじゃご好意に甘えてぼくにも一杯」
「団平さんと藤岡さんと井上さん……」
一本ずつ指を折りながら数えていった。結局いらないといって辞退したのは並江千恵子ただ一人で、ふみ子は、終始黙々としてわれわれを監視しつづけていた二人の刑事を含めて九人分の珈琲をつくることになった。
「並江さんは好きだったはずでしょう?」
「さっき飲み過ぎて胃の調子がおかしいの、遠慮しておくわ。アメリカ人は朝から晩まで珈琲を飲んでいるっていうけど、よく胃をやられないものだと感心するわ」
「いや、感心する必要はないのだ。彼らが飲むのは水みたいにうすいやつだからの」
「ビールもうすいですね、アメリカのは」
文学青年が口をはさんだが、団平は見向きもしなければ肯《うなず》きもしなかった。
「以前にヨーロッパへ行ったことがあるが、あっちの珈琲は濃厚でボタボタしとる。たまたまアメリカの医者の団体とおんなじ観光バスで見物して廻ったんだが、彼らも閉口しとったね。ヨーロッパの珈琲がまずいという点で珍しく日米間の意見が一致したもんだよ」
まわりの連中はフーンとばかり感心した面持ちで聞き入っている。だがわたしにしてみれば、この自称詩人の随筆家がわずか五枚前後の随筆原稿の稿料を前借りしたことを知っているのだ。ヨーロッパを観光旅行するほどの経済的余裕があるとは信じられなかった。まず、知人に聞かされた話を、自分の経験したことのように喋っているのに違いなかろう。
「それじゃうすいお珈琲にしますね。団平先生のお口に合わなくては相済みませんもの」
ニコッと笑ってそう言い残すと、ふみ子は食堂を出て行った。あとの連中は急に疲れを意識したように黙り込んでしまい、静まり返った食堂のなかに聞こえてくるのは野鳥の声だけになった。オオルリ、カッコウ、それに遠くのほうでホトトギス。わたしの識別できるのはそのくらいでしかない。
「野鳥はともかくとして、カナカナが明け方に啼くとは知らなかったわ」
と、千恵子もわたしとおなじ感想を洩らした。
「いや、カナカナの啼き声を知っているだけでも大出来ですよ。むかしぼくの家を訪ねて来た関西出身のお嬢さんはカナカナの啼くのを聞いて小首をかしげると、『あれは何という鳥でおますかいな?』と訊いたもの」
文学青年は喉骨をヒクヒクさせて笑った。痩せ型の彼は人一倍に頸が長く、だから余計に喉骨が目立つことになる。
「すると関西にはカナカナはいないのかの」
「蝉で思い出したんですがね、ある作家が五月に蝉が啼くことを小説のなかで書いたら、滋賀県在住の読者から投書が編集部宛にとどきましてね、おれの地方でさえ初蝉は五月に啼くのだから、関東地方ではもっと遅く啼くのではないかというんです」
「読者はきびしいからね」
「その作者は神奈川県の南部に住んでいるんですが、そこでは五月に啼き始めるんだそうですね。特殊な蝉かもしれないけど」
「特殊といえば、満洲には草蝉というのがいて、名前のとおり草にとまって啼いているんだ」
中国の「東北地方」のことを「満洲」などと呼ぶのだから、発言者が団平老であることは断わるまでもない。
「バッタと同じでの、ススキなんかにとまってるやつを手でつかまえる。大きさも、オーバーにいえば蠅ぐらいだからの」
「あらま、なんて啼くんですの?」
「古いことで忘れたが、たしかチッチッと啼いたようだ。小柄だから声も小さい」
「蝉ってやつは羽根が透明なのとそうでないのがいるわけですが、草蝉はどっちなんです」
権九郎も乗り出してきた。
「無色透明だった。カナカナを小型化したものと思えばいい。体の色はグリーンだったかな」
「満洲へ行ったりヨーロッパへ行ったり、ご多忙ですな」
「いや、満洲のほうはほんとうなんだ。もっとも、このわしゃまだ中学生の頃だったがの」
「団平先生にも少年時代があったとは驚きですな。さぞかし眉目秀麗《びもくしゆうれい》――」
「ウハハ、そういわれると照れるがの。女学生からよく付け文をされたもんだ」
調子に乗って気持ちよさそうである。女性たちは顔を見合わせ、呆れ返った表情で頷いていた。馬鹿につける薬はないわね、とでもいったふうに。
またひとしきりカナカナが啼いた。この蝉は模倣性に富んでいるか、さもなければ負けず嫌いなのだろう。一匹の声がすると、必ずほかのやつが啼き出す。しばらくするとくたびれるのか競争するのが馬鹿馬鹿しくなるのか知らないが、パタリと声が途絶えてしまう。
「あの蝉は気温が十八度ぐらいになると気が冴えるのだ。夏の日の温度が十八度になるのは早朝と夕方としかないでの」
「ファーブルも三舎《さんしや》を避けると申しましょうか、なかなかの卓説ですな」
「ウハハ、ファーブルに比べられると恥ずかしいが、こと蝉に関しては自信があるでの」
レンズの奥の眼を細めている。千恵子と虹子の二人は呆れ返ったとみえ、今度は顔を見合わせることさえしなかった。
「一体いつまで閉じ込めておく気だろう。いいかげんに解放してもらいたいね」
「八人の部屋を丹念にひっかき回しているんだろうから、時間はかかるだろうさ。疲れているのは彼らにしてもおなじことなんだ、おとなしく待ってやりましょうや」
作家志望の青年と、作家志望だった男とが低い声で語り合っていた。日中のあのトゲトゲした田辺とは別人のように、いまの彼は物わかりのいい紳士であった。
盆を両手に捧《ささ》げるように持ってふみ子が入って来た。民芸ふうの渋い色のカップから湯気がたちのぼり、珈琲の香りが食堂のなかにゆっくりとひろがっていった。わたしはこの民芸ふうという、いやに素朴ぶった食器をあまり好まない。近頃はそば屋のなかにも焼き物の丼を使う店があるが、そばのまずさを丼で誤魔化《ごまか》そうとする魂胆が見えすいているようで、興がさめるからだ。しかも、いい器で喰わせたのだから、その分だけ余計に料金をふんだくろうとする、低俗な発想の店が少なくないのである。
「あらいけない!」
ふみ子の声でわれに還《かえ》った。
「お砂糖を忘れてきたわ」
「あたしが取って来る」
間髪をいれずに千恵子が立ち上がった。女だから炊事室にもたびたび出入りしている。砂糖壺がどこにあるかも知っていたのである。われわれ男性だとそうはいかない。
「悪いわね」
「いいのよ」
彼女たちの口調は明るく、動作もいきいきとしていた。表面から見たかぎりでは二人とも事件のショックなどまるきり受けていないようであった。だが、つとめて平静をよそおっているのはわれわれ全員に共通することなのである。
わたしを含めたすべてのものがさりげなく日常的に振る舞った。現に、挿絵画家の松原虹子は明らかに精神的なパンチをくらっており、下手をするとヒステリイを起こしかねない状態にあるのだが、それを爆発寸前で回避しているというのも、われわれのこの無意識的な協力のお陰ではないかと思う。
千恵子が出て行ったあと、ふみ子は湯気のたつカップをまず二人の監視役にくばった。年輩の刑事も若い警官も緊張の連続だったろうから、一杯の珈琲にありついたときは本当にうれしそうに見えた。
ついでわれわれのほうへ向いたとき、ふみ子は赤い舌をペロリと出した。
「やだわ、ミルクも忘れてきちゃった。やっぱし頭が変になってるのね」
「無理ないですよ」
「取って来るから誰か配っておいてね」
千恵子の後を追いかけるように出てゆき、かわって田辺が立ち上がると盆を抱えて、虹子、井上青年、団平の順で茶碗を配って廻った。
「藤岡さんは水でしたか」
「あれは並江さんだ。ぼくは日に十杯は飲まないと禁断症状を起こすほうでね」
「阿片吸飲者《オピアムイーター》みたいになるんですか」
「ぼくの禁断症状ってのは、女を見ると片端から抱きつきたくなるんだ」
「いやですわ。あたし髭の生えた男性って嫌いなの。痛いんですもの」
珍しく虹子が応じた。いま、食堂にいる女性といえば彼女ひとりだから、一言答えざるを得なかったのだ。
ほどなく千恵子が錫《すず》の砂糖壺を片手に小走りで戻って来ると、それをまず刑事にすすめ、ついで壺はわれわれの手許に廻されてきた。わたしが自分のカップにふたさじ落としてから田辺に渡すと、彼はそのまま団平に手渡した。
二分ばかり遅れてふみ子が帰って来た。電子レンジで温めたというミルク壺に入った牛乳を壺ごとテーブルに載せ、あとは人委《ひとまか》せにした。われわれは思い思いに壺をとって、ミルクを珈琲に混ぜたのである。
「ここの牛乳は牧場から分けてもらうのよ。お客さんは濃厚でおいしいといって褒めてくださるんですけれど……」
「どうもわたしは舌の音痴で困ってるんですよ。どのインスタント珈琲を飲んでも違いがわからない。通人が褒めるそば屋に入ってもいっこうに旨《うま》くなかったり」
「そりゃ田中君、いまさら嘆いたってどうもならんのだ。人格を形成するのは三歳からだといわれとるが、味覚神経をきたえるのも早いほうがいい。十歳になるともう駄目だの」
「団平先生はどうなんです?」
わたしは皮肉でなくそう訊ねた。
「わしゃ四歳にして酒の甘口と辛口を呑み分けた。五歳のときは宇治茶と駿河《するが》の茶を飲み分けるという早熟児での」
「ご婦人のほうも早熟児だったのではないですか」
と、権九郎が混ぜ返した。彼としては単なる冗談のつもりかもしれないが、語調にネチネチとした響きがあるものだから、第三者が聞いてもいい気持ちはしない。つねに団平を挑発し一戦をまじえようとしているふうに受け取れる。だからこのときも腹のなかでわたしはハラハラ(駄《だ》洒落《じやれ》みたいだが)しながら、団平を見ていた。いや、そう感じたのはわたしばかりではなかったとみえ、大半のものが目線を詩人に向けていたのである。
しかし団平は怒らなかった。というよりも珈琲を飲むことに夢中になっていた。
「こりゃきみ、ブルウマウンテンかね?」
「ただのインスタント珈琲ですのよ」
「うむ。それにしては旨い。美人がいれてくれるとこうも味が変わるものかの」
団平が機嫌をそこねた様子がないのを知ると、人々は胸をなでおろした。気のせいに違いないのだけれど、わたしの耳には彼らのホーッという吐息が聞こえたようであった。
しばらくのあいだはカップと受け皿とスプーンの触れ合う音がつづいた。団平は不作法な音をたてて啜《すす》り、そのたびに旨そうに唸《うな》っている。並江千恵子が手持ち無沙汰をかこつようにそっと欠伸《あくび》をしたほか、全員は黙々として茶色の液体を味わっていた。わたし自身はというと、最前までガブガブと意地汚く飲んだ反動だろうか食傷気味で、いささか持て余していた。元来が珈琲なんて好きではないのだ。
と、突然カップが床に落ちる音がして、人々はびっくりしていっせいに顔を上げた。床にはリノリウムが敷いてあるので音こそ派手だったが、茶碗は割れなかった。
「どうしたんで――」
誰かが叫ぶように問いかけたが語尾がかすんでしまった。団平がイスから立ち上がって喉を掻きむしっている。アロハのボタンがちぎれ、その一つがピュッと音をたててわたしの鼻先をかすめた。誰もが真っ蒼な顔になり、その眼は目前で演じられる恐ろしいパントマイムに釘づけにされている。
「おい! どうしたッ」
初老の刑事が飛んで来たときにはもう遅過ぎた。刑事が抱き止めようとする直前に団平はひと声みじかくうめいたかと思うと、テーブルのかげに崩れていった。
刑事と若い警官が床に跪《ひざまず》いて、慣れた手つきで脈をみたり心音を聞いたりしているふうだった。ふうだったというのは、テーブルを距《へだ》てているために向こう側の床の上の様子は見えないからだ。われわれは棒立ちになったまま、色を失っていた。
やがて若いほうが立ち上がると食堂から走り出して行った。テーブルのかげから刑事が姿をあらわした。彼は困惑と驚愕との入り混じった表情を浮かべ、ひとしきり耳の上の毛を掻いていた。
「どうしました?」
と、写真家が訊ねた。語調がつっけんどんで、刑事を難詰するように聞こえた。それに対して彼は無言で首を左右に振ってみせた。
「死んだんですか」
千恵子が男のような低い声で訊ねた。刑事は判りきったことは訊くなといった顔つきでこっくりをした。
一同の眼が刑事に集中しているさなかに、また珈琲カップが床に落ちる音が聞こえ、それと同時に誰かが倒れる気配がした。
「虹子さん!」
千恵子が絶叫し、ふみ子が悲鳴を上げた。日中はショートパンツ姿でわれわれ男性の眼を眩《まぶ》しがらせたこの挿絵画家は、いままたフリルの沢山ついた純白なネグリジェ姿で、緑のリノリウムの上に仰向けになっているのだった。茶碗は顔のすぐ横に転がっており、茶色の液体がネグリジェの下半身に褐色のしみをつくっていた。
「珈琲に毒が入っていたんだわ、きっと」
うわずった声でふみ子が呟いた。それを聞いた途端に、権九郎が悲鳴を上げた。
「刑事さん、医者だ、一一九番だ。死んだものは後廻しにして医者を呼んでくれ。たのむ早く……」
4
権九郎の叫びを聞くまでは、じつに迂闊《うかつ》な話だけれども、われわれまで毒を飲まされたということは考えてもみなかったのである。わたし一人でなく全員がそうだったとみえ、食堂のなかは権九郎の一言で恐慌状態に陥った。千恵子はぐったりとなってテーブルに上体を伏せてしまい、ふみ子は眼を丸めていまにも激痛がこみ上げてくるように固い表情でつっ立っている。田辺はいままでの元気はどこへ消えていったのか、また以前に戻ったようにイスに腰をおとして、両肘をテーブルにつくと、両の掌の上に顎をのせ、憂鬱そうな顔で半眼を閉じていた。
その間、文学青年がどうしていたかはまったく覚えていない。わたし自身は先程も誌《しる》したように珈琲を持て余していたくらいだからほとんど口をつけておらず、したがって毒にやられるはずはないと考えていた。だからこそ落ち着いて周囲を見廻す余裕があったわけだが、井上精二の存在をすっかり失念していたとすると、心中ではやはり慌《あわ》てふためいてなすことを知らなかったのだろう。
「みなさん、いま救急車を呼びますわ」
千恵子が早口でいう。
「そうだ、じっとしていることだ、動いてはいけない」
と、わたしも口を添えた。わたしには常識的な家庭医学の知識しかないのだから、咄嗟《とつさ》の場合になぜ動いてはいけないという注意が口をついて出たのか、その理由については後々になっても説明がつかなかった。
一同のなかで最も元気だったのは千恵子であった。珈琲を一滴も飲まなかったのだから、仮りにどんな猛毒が混ぜてあったとしても、彼女だけは無事でいられるのである。その自信が、始終この大柄の女性に、落ち着いた、しかもテキパキとした行動をとらせたことになる。
「救急車の手配をしてくるわ。お願いね」
大股で廊下へ出て行った。後事を托《たく》されたわたしはただうろたえるばかりだ。どんな処置をとるべきかまったく判らない。これがヒューズが飛んだとでもいうことならわたしだって修理の心得はあるのだが、半ダースの仲間が毒入り珈琲を飲まされて、下手をすると六人が六人とも枕を並べて討ち死に、などという切羽つまった環境におかれれば、狼狽するなというほうが無理なのだ。だが、そのときのわたしは親指の爪を噛んでただウロウロとするだけだったのだから、嗤《わら》われても仕方がない。
「田中さん!」
いきなり耳許で声をかけられて、飛び上がりそうになった。
「びっくりした。なんですか」
相手が刑事だと知って思わず安堵の息をついた。これもまた上気していたせいだろう、二人の監視人の存在をすっかり忘れていたのである。
「苦しいですか。胸がこうムカムカとかヒリヒリするとかいった異常を感じませんか」
「いえ、わたしはほとんど飲まなかったもんで……」
「そりゃよかった。しかし病《やまい》は気からというとおり、毒を嚥《の》まされたと思うと自己暗示にかかって、なんとなく気分がおかしくなってくるものですよ。ここにいる皆さんのようにね」
「というと……?」
「団平氏が毒殺されたことは間違いないでしょう、鼻を近づけると巴旦杏《はたんきよう》に似たにおいがしますから。……だが、松原虹子さんは毒殺されたんじゃない」
「じゃ何で殺されたんです?」
初老の刑事は髪の白髪《しらが》を掻き上げるような仕草をした。その部分だけ白くなっていることが気にかかるのだろう。
「殺されたんじゃない。単なる気絶ですよ。なんといっても打ちつづく出来事のため神経を傷《いた》めていましたからね。そこに今度は団平さんが毒死した。しかもそれを目撃したのですからショックが大き過ぎた。だから失神した。それだけの話なんです」
そう説明されているうちに、若い警官の手を借りて、挿絵画家が起き上がった。そして、しどけないネグリジェ姿を恥じるように、そっと顔を伏せた。
あとの連中の耳にも刑事の話は聞こえたのだろう。それを裏づけするように、死んだと思っていた虹子がむっくりと起き上がったものだから、彼らは一様に自己暗示から解放されたようであった。井上精二も田辺義夫も、写真家も女秘書も、わずかのあいだに元気を取り戻していった。彼らは言い合わせたように、なるべく団平の屍体を視野に入らせまいとして、この元詩人に背を向けた。
「あらッ」
食堂の扉口のところで金切り声がした。千恵子の後ろには課長の苦虫を噛みつぶしたような顔があった。
「虹子さん無事だったの?」
「お陰さんでね、松原さんばかりでなしに一同無事息災です」
「あら、どうしましょう! 消防署に電話したら、救急車を三台さし向けてくださるっていうのよ」
「そりゃ早とちりもいいところだな。ま、こってりと油を絞られるのはあんただがね」
髭づらのカメラマンがニヤニヤした。
「誰かすぐ消防署に一一九番して出動要請を取り消してくれ。事情は後で説明しますといってな。丁寧にことわるんだぞ」
課長は廊下にいる部下にどなると、不機嫌な表情を剥《む》き出しにして食堂に入って来た。そして刑事と顔をくっつけるようにして報告を受けていた。「自殺」だとか「毒殺」だとか「巴旦杏のにおい」といった言葉が断片的に聞こえてくる。
わたしたちは石になっていた。身動きもせず、誰もが凍りついたような表情を浮かべて、課長の横顔を凝視しつづけた。
八 髭づらの男たち
1
あとになって思い出そうとしてみたが、パニックに陥《おちい》った食堂のなかでそのとき誰が何をしたか、というようなことはほとんど記憶に残っていない。文学青年が「自殺だ、自殺だ、これは明白な自殺ですよ」と叫んでいたような気もするし、ふみ子が急にヘナヘナと床の上にすわり込んでしまったようにも思うし、初老の刑事と若い警官が大声でなにやら言い合っていたようにも思うのだけれど、それが無声映画でも見ているみたいにまるきり声が聞こえていないのである。
わたしがわれに還《かえ》ったのは、めぐみの部屋にいたカメラマンをはじめとする鑑識班が、どやどやと駆けつけて来て角度を変えたり距離を変えたり、途中でフィルムを交換したりして屍体の写真を撮《と》っているときだった。それがすむと床に転がっている団平の珈琲カップ、スプーン、受け皿などが白い半袖シャツの男によって持ち出されていった。べつに鑑識としるされた腕章をしていたわけではないけれど、そのテキパキとした手順のよさを見ていると、彼がベテランの鑑識係であることは誰の眼にも明らかであった。彼はこうした場合にそなえて所持しているらしく、アルミ製の手さげ鞄から小さな試験管を取り出して、カップの底に残ったわずかばかりの珈琲をそのガラスのチューブに移し入れ、固くゴム栓をすると、かすかに満足げな微笑をその無表情な顔に浮かべた。
コロシの現場に立ち会うなどというのは素人のわれわれにとってはまたとないチャンスである。その機会に恵まれたことを喜んだわけではないけれども、全員が息をひそめて係官のすることなすことを見つめていた。係官たちは屍体を完全に黙殺して、指一本触れようとしなかった。屍体はおれたちの知ったことじゃない、とでもいいたげなかたくなな様子が、彼らの態度からうかがわれるようだった。もっとも、これは気のせいかもしれない。
その様子を壁際に退《の》いて眺めていた課長がわれわれの前に立ったのは、鑑識の連中が仕事をすませて、食堂を出て行ってからのことだった。
「前後の様子からみて団平氏が自殺したとは思えない。自殺という線がはっきりするまで毒殺事件として調べます。よろしいか」
一同は口をつぐんだきり、誰も発言しなかった。頷《うなず》くことさえしなかった。
「で、珈琲をつくったのは誰?」
「わたくしですわ」
ふみ子が破れかぶれのように答えた。棒のようにつっ立った彼女が無表情に口だけパクパクと動かすのを見ると、まるで糸に操《あやつ》られている一体のマリオネットみたいだった。
「わたくしがこしらえました。いつものインスタント物です」
「こしらえたのは野川さんですが、お砂糖を取って来たのはあたしです」
フェアプレイの精神を発揮したのかどうかは判らないけれど、速記者の千恵子が横から口をはさんだ。大柄の、いかにも伸びのびと育ったという感じのこの女性も、いまは場合が場合であるせいかしょんぼりとして、体がひとまわり縮んだように見える。
「……あんたが砂糖をね」
「はい」
「あの、わたくしミルクを忘れたもんですから、千恵子さんと前後して炊事室まで取りに戻りましたの」
「牛乳を忘れた? ……」
「めぐみさんがあんな目に遭《あ》った直後でしょう、ぼうっとしていたんですわ」
「それは無理もないが」
課長は右手の親指と人差し指で顎の先端をつまむと、疑わしそうな眼でふたりの女性を交互に眺め、そのついでにわたしたちのほうまでジロリと一瞥《いちべつ》した。それも、顔を動かさずに眼玉だけ動かすのだから、なんとも凄味がある。シロであるわたしですら心胆《しんたん》が寒くなる思いがした。まして犯人の気持ちはいかばかりであろうと考えてそっと一同の表情をうかがったが、それらしき反応を浮かべたものは一人もいなかった。
「すると、毒は珈琲か砂糖か牛乳のなかに入っていたことになる」
「もっと厳密に考えたほうがいいのではないですか。団平氏のカップにだけ毒が塗ってあったのかもしれないし、彼のスプーンにだけ毒が付着していたのかもしれない」
井上精二がさかしらに発言すると、課長は一段と疑わしそうな眼つきをして、この痩身の青年を見た。だが、この作家の卵はいっこうに平気で言葉をつづけた。
「問題は見かけほど単純ではなさそうですな。毒が飲み物に入れてあったにせよ食器につけてあったにせよ、犯人の意志が作用したのはその時点までなんですから」
「なんだって?」
「珈琲カップを配ったのは野川さんでも並江さんでもないんです」
「じゃ誰だね?」
「監視役の警官に配ったのは野川さんですが、砂糖とかミルクとかを忘れたことに気づくと、あとを田辺さんに委せて、二人とも炊事場へ飛んで行ってしまったんですよ。したがって毒入り珈琲を団平氏にわたしたのは田辺義夫さんなのです。どのカップの珈琲に毒が入っているか、どのスプーンに毒が塗ってあるか、そうした事情をまったく知らないはずの田辺さんなのですよ」
田辺という姓が出るたびに、この元編集者は居心地わるそうにモゾモゾしていた。
「そう、いかにもぼくが配って廻りました。しかし配って歩いたという表現は正確ではないばかりでなく、誤解を招くおそれがあります。ぼくはカップが載った盆をみんなの前に持っていっただけの話で、盆の上のどの茶碗を取るかという選択権は相手側にあるんです。つまり、ぼくはどれが毒の茶碗だったかを知らなかったばかりでなく、カップを受け取る人も、どれが無毒でどれが有毒だったかは判らなかったと思いますね」
「そのとおりだ、ぼくらはまったく無作為的にカップをえらんだのだから」
権九郎がいい、あとの連中は揃って頷いてみせた。
納得ゆきかねるといった面持《おもも》ちで頷くと、課長は渋面をつくって考え込んでしまった。こうなると犯人は団平という特定の人間を狙ったのではなくて、誰を殺してもよかったわけだ。たまたま不運な籤《くじ》を引いたのが、出しゃばりの自称詩人だったということになるのである。もしそうだとするならば、殺人の動機はなんなのか。人々を恐慌状態におとしいれるのが目標だったなら、犯人はそのパニック状態から何を得ようとしたのか。
しばらく沈黙がつづいた。課長やほかの連中がなにを考えていたかは知る由《よし》もないが、わたしは心のなかでこの疑問と格闘していた。
「……もう少し整理する必要があるな」
課長が眼を開けて独語した。ほんの二、三人にしか聞こえないような小さな呟きであった。
「野川さんが牛乳を取りに行く前に、誰かが砂糖を取りに戻ったわけでしたな?」
「誰かでなくあたしです」
と、千恵子が応じた。べつに皮肉をこめて答えたわけでもあるまいが、彼女の返事には課長の忘れっぽさを嗤うような皮肉っぽさが混じっていた。
「なるほど。すると三段階に分けて検討したほうがよさそうだ。第一段階は野川君が珈琲をいれたときで、その際に飲み物に毒を入れた、もしくは食器に毒が塗ってあったということが考えられる」
「…………」
「第二段階は並江さんが砂糖を取りに行った際に、こっそり毒を入れて来たという解釈だが……」
「…………」
「第三段階というのは、再度野川さんが牛乳を取りに炊事場へ戻ったときのことで、この牛乳に毒を混ぜてなにくわぬ顔で帰って来る……。つまりだな、牛乳を忘れてきたというのは故意にしたことなんだな」
「それは確かに分類すればそうなるでしょう。しかしね課長さん、仮りにこの野川ふみ子さんがミルクに毒を入れたとすると、その毒が団平氏のカップに入ってほかのもののカップに入らなかったというのはなぜですか。一人ひとりに配られる生ミルクだったらそうしたケースも想像できますがね、われわれが珈琲に入れたのは一つの壺に入ったミルクなのですよ」
文学青年が語気するどく突っ込む。課長は二本の指で下唇をつまんだ。あまり見てくれのいい癖ではないが、本人は夢中になっているから気がつかない。
「おなじことは並江さんが持って来たお砂糖についてもいえるんじゃないですか」
井上青年のあとを受けて田辺がいい、ふみ子は追いつめられた小猫のようにデスペレートな眼をして元編集者を見つめていた。千恵子の表情も似たようなものである。
「つまるところ、毒を混ぜて来たと仮定するならば、その毒は平等に各人のカップに入れられたわけです」
「ちょっと、平等といっては正確ではないな。並江さんは飲まなかったのだから」
「なんだって?」
いきなり課長が大声を上げたので、当の並江千恵子ばかりでなく、虹子もふみ子もギクリとした。
「飲まなかった? あんたが?」
「ええ、さっき沢山いただいたせいか、胃の調子が変になったものですから」
「……ふむ。すると、待てよ……」
課長はつまんだ下唇をしきりに揉んだり引っ張ったりした。全員が不安そうな面持ちでその様子を見まもっている。ふと気づいたことだが、あれほど声をきそって啼いていたカナカナがピタリと止んで、聞こえるのは野鳥のさえずりばかりであった。
いま並江千恵子がひじょうに不利な立場におかれていることは、誰がみても明らかだった。彼女は珈琲を飲まないと宣言していた。だからどのカップに毒が入ろうとも、自分だけは絶対に安全であったことになるのだ。
だが、とわたしは考える。そこから先の課長の推理はどう発展するのだろうか。千恵子が持って来た錫《すず》の砂糖壺はまず初老の刑事に渡され、やがてわれわれの手を一巡したのである。先程だれかがミルクについて指摘したように、砂糖でも、角砂糖ならともかく、グラニュー糖に毒が混ざっていたとなると、被害者は団平のみにとどまらなかったはずではないか。
たとえ死に至らなくとも、気分がわるくなって卒倒するぐらいのものは出て来て当然である。にもかかわらず、全員がなんの異常もみせないのはどうしたわけなのか。その点を不問にしても、彼女は団平ひとりにどうやって毒を与えることができたのか。その動機は何であるのか。そしてまた、彼女が不特定殺人をあえてしたとするならば、その目的はどこにあったのか。殺人事件には慣れているだろうこの課長にも、これらの謎に首肯《しゆこう》させるに足る説明をこころみるのは容易なことではないだろう……。あれやこれやと考えているうちに、わたしは頭が痛くなりそうだった。元来わたしという男は日に十時間眠らないと、てきめんに仕事の能率が落ちるのである。
わたしはベッドが恋しかった。そしてやがて行なわれるであろう訊問のことを思うと、本当に頭痛が始まりそうな気がした。
2
めぐみ殺しの調査もすまぬうちに団平の事件が起こったのだから、当局側が神経をとがらせたのも無理はない。もちろん、まだ団平の死が自殺でないという反証はあがっていないのだけれど、衆人環視のうちに行なわれたあの唐突な死に方と、どう見ても団平は自殺しそうなタイプの人間ではないという考え方によって、当局側もわれわれの側も一致して団平が殺されたという見方をしていた。したがって、課長をはじめとする警察側がわれわれにきびしい態度で接したのは、無理のないことであった。
われわれは、当然のように食堂から追い出され、検証がすむまで、ふだん使われていない居間のような部屋へ追いやられた。
警察側から最初に呼ばれたのはめぐみ殺しの際に完全にシロだった田辺義夫だったが、撞球《ビリヤード》室から部屋にもどって来たときの彼は顔一面に脂汗をにじませて、興奮の極に達していた。
「どうしたんです」
「あの課長の野郎、まるでユダヤ人をとっつかまえたナチみたいな調べ方をしやがった」
どさりとイスに腰をおろすと、肩であらい息をしている。
「答えちゃいかん。訊問された内容は一切喋らぬようにしてください」
監視役の初老の刑事がとがった口調で注意をした。彼も当局の一員だから当然のことだが、先程の衝突以来、われわれに対する態度もかなり硬化したようであった。
「つぎは野川ふみ子さん」
入口で中年の刑事が声をかけた。
「やだな。あたしと並江さんが最高に睨まれているんだもの」
「なあに、自分さえ潔白なら心配することないですよ」
権九郎が人畜無害な慰め方をした。この男は好敵手を失ったせいか、それとも団平の死によってショックを受けたせいか、以前に比べると口数が減っているようであった。
彼女が撞球室に拉致《らち》されて間もなくのこと、庭先に車の停まる音がした。窓を開けるまでもなく、それが屍体を引き取りに来た車であることは判っていた。最初の扉を開ける音で白衣を着た若者たちが降り立ったことも、第二の扉を開ける音で車の後部が開かれ、運搬用のタンカを取り出していることも、手にとるように解った。
やがてホールの方から、複数の靴音が聞こえてきた。それは食堂の方へ直行したが、それから二分ほどすると、重たい足音となって戻って行った。扉の前を通るときに、頭から白い布をかぶせられた物体がチラリと見え、虹子が思わず顔を伏せた。
「もう十五分になるな」
「え?」
「野川君の訊問ですよ」
「ああ、そのこと……」
「なにしろミルクを取りに行ったのは彼女だからな、運がわるいんだ、絞られても仕様がない」
権九郎と千恵子が声をひそめて言葉を交わしていた。つい先程、この部屋から呼ばれて出て行く野川ふみ子を力づけた男とは別人のように、冷たい口調である。
二人の会話は始まるときと同じように急に途切れてしまい、部屋のなかには沈黙がつづいた。田辺もようやく平静を取り戻したとみえて、立ち上がって窓のところまで行くと、レースのカーテンをすかして庭の様子を眺めていた。もう外はほの明るくなっており、遠くの山の裾は朝霧にけぶっているように見えた。
「でも可哀相だわね。あんなに賑《にぎ》やかだったひとが一瞬の間に冷たい屍骸になってしまうなんて……」
「あなたは気が優しいんだなあ」
「賑やかな男だったことは同感だけど、同情したいとは思いませんね、ぼくは」
田辺と文学青年とが交互にいい、あとの連中は曖昧にこっくりをして見せただけで、意見を述べることはしなかった。わたし自身も、虹子の言葉が聞こえなかったように黙っていた。
正直のところ団平という男は以前から嫌いだった。正確にいえば稿料をただ取りされたときから嫌っていたのである。だから彼が死んだといっても、べつに気の毒だと思わない。眼の前で毒殺されたのだからショックを受けたことは事実だが、だからといって哀悼《あいとう》の意を表する気にはなれなかった。それを正直に述べると冷酷な男だという印象を与えかねないので、口を閉ざしていたのだ。
「刑事さん、見送りに行ってもいいでしょうな?」
そう訊ねた田辺は、もうイスから立ち上がりかけていた。
鬢《びん》の白い刑事はいつになくきびしい表情をした。
「一歩も部屋から出すなというのが課長の命令でね」
「だって同じ釜のめしを喰った仲間なんですから、見送るのが礼儀だと思うなあ」
「ちょっとホールに行くぐらいのことはいいでしょう」
横から井上青年が口を添えたが、監視の刑事は一歩もゆずろうとはせず、間もなく二人は諦《あきら》めてイスにすわった。
車が走り去る音がしたあと、人々は気が抜けたように黙りこくって、思い思いのポーズで時間の経過に対応していた。井上青年は落ち着かぬ様子でまた立ち上がると窓辺に近寄って庭を眺める、並江千恵子は読み捨てられた週刊誌を手にしてページを繰《く》る。田辺は冷えた麦茶をコップに入れて戻って来ると、それをテーブルにおいたきり考えごとにふける。そして挿絵画家の松原虹子は……彼女だけは何もしていなかった。ただテーブルに向かってすわっているだけである。一座のなかでこの美しい女流画人はつねに目立たない存在であった。
部屋のなかが静まり返っているのとは逆に、外では明るくなるに比例して野鳥の啼き声が賑やかになってきた。シジュウカラ、ゴジュウカラなどのカラ類に混じってホトトギスの声、カッコウの声、さらに筒を叩くような単調なツツドリの声も聞こえていた。山荘の外は平和そのものであった。
わたしは少しでも早く事件が解決をみ、この建物から解放されて外に出て、思いきり新鮮な空気を肺いっぱいに吸ってみたいと思っていた。われわれに背を向けた井上精二は野鳥の声に興味でも持っているのか、耳を傾けて身じろぎもしなかった。わたしも立ち上がると窓に近づき、窓外に視線をやった。太陽はまだ昇っていなかったが、寝不足の眼には明け方の空の色が、眩しくて、思わずくしゃみが出そうになった。
「田中さん」
肩のところで押し殺した声がした。振り返ると、これも睡眠不足でまぶたを腫《は》らした並江千恵子だった。
「なんですか」
と、わたしも声をセーブした。
「あなたが裏庭で見かけたのはどんな男だったの?」
「髭づらのむさくるしい男でしたよ」
「すると藤岡権九郎さんみたいの……?」
「似ているといえば似てますがね、男性が顔中に髭を生やすと、どれもこれもおなじ男に見えてきますから……」
わたし自身にしてからが決め手がなくて迷っているのである。彼女のこの質問に即答できるわけがないのだ。
「彼がどうかしたんですか」
「それはまだお話しできないの、その段階ではないのよ」
「しかし――」
思わず声が大きくなると、シーッと制された。
「だめよ、聞こえるじゃないの」
頸をすくめて盗み見した。聞こえたのか聞こえないのか知らないが、権九郎はこちらに背を向けたままだった。そして両手を前にかざして、親指とほかの四本の指とでフレームをつくっていた。奥の壁際にたたずんでいる初老の刑事を、カメラにおさめようというポーズである。
「なによ、あれ」
語気するどく批判した。
「ちょっと気障《きざ》ですね」
わたしが同意してみせると、彼女はどうしたわけか奇妙な顔つきになってわたしをまじまじと見つめていた。そして答えようとして口を開きかけたものの、結局は何もいわなかった。そのときのなんとも表現のできない彼女の表情は、のちのちまでもわたしの気がかりになったものである。
「ああ、やっとすんだわ」
そういいながら欠伸《あくび》を噛み殺して女秘書が帰って来た。片手でネグリジェの胸を掻き合わせるようにしている。
3
全員の訊問がすんだのは朝の八時半頃である。だが収穫はなかった模様で、われわれの禁足《きんそく》は依然として解かれず、一室に閉じ込められたままだった。しかし、これ以上自由を束縛するとなにかと問題になることが考えられ、当局側もその点に気をつかったらしく、ある程度の行動は許可された。
それはともかく、われわれは洗面をすませ、男たちは不精髭を剃ったり女性はうすく化粧をしたりした。九時半の朝食のテーブルについた人々は、眼が充血しているところを除けば、みな揃ってこざっぱりとした様子をしていた。
警察側の人間も腹がへるのは同じだから、これは招待ということにしておなじ部屋で食事をとった。ただし、テーブルは別である。
平素はオートミールもしくはパンが出されるのだそうだが、この日は個人の好みなどは無視され、全員が二切れのトーストにハムエッグという簡単な献立だった。豪輔がコレステロールを心配していたのでバターは一切使わない方針で、到来物はそのまま冷蔵庫にぶち込まれていたという。
だがいまやその豪輔も幽明界《ゆうめいさかい》を異《こと》にしてしまったので、お滝さんは誰に遠慮することもなく、本物のバターを提供してくれた。
捜査官も仕事を離れれば人間である。彼らは彼ら同士で語り合いながら、結構たのしげにトーストにバターを塗ったりスグリの自家製ジャムをつけたりして、談笑しながら食事をしていた。もっとも、喋るにしても話すにしても、すべてこちらに聞こえないような小声であった。
われわれの側でもときには話がはずんだ。めぐみが殺され団平が殺されるといった衝撃的な事件によって、ショックを受けていないとしたら嘘になる。が、それにもかかわらず話がはずんだのは恐ろしい事件が終結したことと、課長による訊問といった不愉快な場面を乗り切った反動であったのだろう。要するに、これで峠を越えた、あとは降り坂だという安堵感がわれわれを多弁にしたのに違いない。わたしとても例外ではなく、誰彼の別なしに他愛のないお喋りをした。
だが、申し合わせをしたわけでもないのに、事件のことを話題にするものは一人もいない。いってみればそれはタブーであった。人々は意識してその戒律には触れまいとしている。
しかし、われわれのタブーの束縛力が及ぶのはわれわれのあいだだけであり、当局側のテーブルでは、声をひそめてしきりにこの問題が論じられている様子だった。ときどき断片的に事件関係の単語が洩れてくる。もっとも、事件はまだ解決したわけではないのだから、それも当然のことだろう。
われわれのはずんだ会話も、だからといっていつまでも続いているわけではない。笑い声まで起こっていかにも和《なご》やかな食事風景に見えるかもしれないが、それが唐突に深い沈黙に陥ることが何回かあった。愉快に談笑しながらも、ふとこのなかに犯人の混じっていることを思い出すと、背中に氷塊を入れられたようにひやりとした気持ちにおそわれて、はずんだ心が収縮してしまうのである。そして一人が口を閉ざすと、あとの連中も敏感に連鎖反応を起こして、つぎつぎに黙り込んでいくのだった。
この食事中に電話のベルが鳴った。受話器はホールの階段の横にある。大きな家のなかに一個所しか受話器が置いてないのは不便なことであり、豪輔らしくもないしみったれた話だと思っていたのだが、後日になって耳にしたところでは、彼が電話嫌いのせいであった。
これはわたしが、フランス探偵小説の研究家|松村喜雄《まつむらよしお》氏が永井荷風《ながいかふう》の家に遊びに行ったときの経験談として聞いた話だけれど、編集者から電話がかかってくると荷風みずからが「先生はお留守です」といって切ってしまうのだという。荷風にいわせるとお金を払って電話を引いたのは自分がかけるためであって、他人が便利するためではないからだそうで、「荷風は変屈者だといわれていますが、荷風には荷風の人生哲学があって、彼なりに合理的だと信じる生き方をしたのです」と松村氏は説明してくれた。豪輔の電話嫌いというのも、そこにはわれわれにうかがい知れぬ豪輔独特の考え方があったのだろう。あるいは、ひそかに荷風を気取っていたのかもしれない。
それはそれとして、ベルの音にお滝さんが飛んで出て行ったが、すぐに戻って来、「並江さんにですわ」と告げた。千恵子は意外そうな顔をするのではないかと思っていると、案に相違していそいそとした様子で立ち上がり、部屋を出て行った。わたしは、なんとなく彼女がその電話を心待ちにしていたような印象を受けた。
入口のドアは開けたままになっている。だから千恵子の通話は筒抜けになるはずであった。わたしは他人の電話の応答を盗み聞きしようとする意志もなく、しきりにトーストを齧《かじ》っていたのだが、彼女の声がほとんど聞こえてこなかったところをみると、千恵子は聞き耳をたてられることを意識しているようだった。わたしの耳にかすかに入ってきたのは「あら、そう」だとか「やっぱりねえ」といった相槌だけである。
「すぐそこの上田《うえだ》にお嫁に行ったお友だちからなの。東京を発つ前にハガキを出しておいたのよ」
短い通話をすませてテーブルに戻った千恵子は、誰にともなくそういって、冷《さ》めたパン切れを口に運んでいた。
警察側の人間にとってもわれわれにとっても、食事の時間は休息の時間であると同時に休戦の時間でもあった。この三十分余りのあいだに人々はある程度の精神的な、あるいは肉体的なしこりをほぐすことができたのである。
この休戦を破ったのはふたたび鳴った電話のベルであった。例によってお滝さんが電話口に出て、戻って来ると「課長さんにです」と伝えた。前回の千恵子がそうであったように、今度は課長が立って行った。唇をぎゅっと結んだ彼の表情は、なにかに怒っているようにも見える。解剖の結果が出たな、というのがわれわれの直感だった。
彼の通話も、部屋のなかに断片的に洩れてきた。そして課長もまた千恵子と同様に短く頷いたり「なんだって?」と反問したりするだけで、そこから話の内容を想像するにはデータが不足していた。
「どうでした?」
課長が戻るのを待っていたように権九郎が声をかけた。それを聞いたこの公務員は明らかにむっとした表情を浮かべ、相手の髭だらけの顔を睨みつけた。
「関係のないものは黙っていてもらいたいな」
「おや、そりゃおかしい。われわれもまた事件に関係があるからこそ、こうして徹夜でおつき合いをしているのではないですか。それでもなお関係がないといわれるんでしたら、いますぐにも帰らしてもらいますよ」
つっかかるような口調だ。暫時《ざんじ》の休憩によって元気百倍とでもいったところである。
「え、どうです」
「…………」
「解剖の結果が判るにしては早すぎるから、珈琲に入っていた毒の正体が判明したというのではないですか」
きびしい追及に、課長は立ち往生をしていた。話すべきかどうかを決めかねるといった様子をしている。
「よろしい。特別にこの場で発表しよう。というのは、それによってあなた方になにか思い当たるものがあれば報告していただきたいと考えるからです。いうならば反対給付を期待した上での特別サービスですな」
文字で書けばユーモラスな発言として受け取られそうだが、そのときの課長の顔は依然として憤《おこ》ったままであった。
「園田団平氏の解剖はすみました。死因は青酸中毒によるものです」
「…………」
「とりあえず飲み物の残りを分析してもらったんだが、おなじ毒物が検出されました。つまり園田氏は毒入り珈琲を飲んだから死んだのであって、心不全だの心臓麻痺などの病死ではないです」
「それだけですか」
「ああ」
「自殺の線はどうです」
「それはあの場の情況から判定するほかはないですな。自殺をする原因がない、遺書がない、大勢の人の前で毒を嚥《の》むという不自然な死に方をする必要性がない。加うるに、ああいう楽天家で闘争的で陽気で多分におっちょこちょいの人間は自殺なんてしないものです。自殺を肯定するデータが皆無である以上は、殺人事件とみなさざるを得ん」
「しかしですね、自殺を図った動機は考えられるんじゃないですか」
と、権九郎は次第に反《そ》り身になっていった。眼前に団平の二代目が忽然《こつぜん》と出現したといった感じである。
「どんな……」
「つまりです、豪輔殺しもめぐみ殺しも彼が犯人であったとした場合のことです。ああしたドンキホーテが良心の呵責《かしやく》になやんだわけもない。ですから犯人の正体がバレたと早とちりでもしたのではないですかな。いささか当局の力量を買いかぶった感がしないでもないですが」
その皮肉な調子はいよいよ団平に似てきた。
「あんた忘れているんじゃないですか。園田氏は片手がないのですよ。片腕では犠牲者を絞め殺すわけにはいかん」
「課長こそ忘れているじゃないですか。昨夜のあなたは園田君に向かってこういった。殺人がつづいて二件も起こると腕が一本しかないからという理由で見逃すわけにはいかん、片腕でも可能な殺人方法を研究しているかもしれない、と」
「そんなことをいったかな」
と課長は視線を床に落として独語した。この頭脳明晰な男が忘れるわけもあるまいから、とぼけて見せたのだろう。
「忘れたら忘れたでいいですがね、園田団平君の犯行という可能性があることをよく考えていただきたいですな。そして彼が犯人であり、そのために自殺したというぼくの説に同意していただきたい。それが明らかになれば、ぼくらは東京に帰ることができるのだから」
「すると毒薬も東京から用意して来たというわけですか」
「当然ですよ。これだけの人殺しをやる以上は発覚した場合の覚悟をしていたはずです」
「なるほど。ではついでにお訊きしたいが殺人の動機はなんですか」
「こりゃ話があべこべだ。それを調べるのはあんたたちの仕事ではないですか」
この団平もどきは敗《ま》けてはいなかった。間髪を入れずとでもいうか、即座に斬り返した。課長はこれ以上空論をもてあそんでも無意味だと判断したのか、返事をせずにイスにすわって冷えた茶に口をつけた。
4
「わたしね、攻撃は最良の防禦《ぼうぎよ》なりって言葉を思い浮かべてましたの」
沈黙をやぶって、大柄の並江千恵子がだしぬけに語りだした。体が大きければ肺活量も大きいのは当然だろう。そのせいか彼女の声は広い部屋の隅々にまで聞こえそうだった。期せずして全員の視線が彼女に集中した。意表を衝《つ》いた喋り方におどろいた表情を浮かべたものもいたし、つぎに何を語り出すつもりだろうかと期待した顔つきのものもいた。
この速記者は自分がヒロインになったことを充分に意識しているとみえ、口のきき方にも、ゆったりとした視線の動かし方にも、そして大様《おおよう》な微笑み方にも、主役にふさわしい落ち着きがあった。
「なんですか、あなたの語ろうとするところは?」
千恵子の思わせぶりな発言に対して、待ちきれなくなったように話の先をうながしたのは課長であった。依然として不機嫌そうな顔つきであり、とげとげしい眼つきをしていた。
「ですから、自分に後ろ暗いところがあるひとはそれを誤魔化すために、無闇|矢鱈《やたら》と相手を攻撃することですわよ」
「どうもわたくしは頭が悪くてね、抽象論は苦手なんです。具体的におっしゃっていただけないですかな」
課長の声にはじりじりといらだった調子が混じっている。そして周囲にいたわれわれも同じ気持ちであった。なにもそう持って廻った言い方をしなくてもいいだろう。
「するとなんですか、この藤岡権九郎さんに怪しいふしでもあるというのですか」
元編集者がせき立てるように訊いた。千恵子は大柄であるだけに目鼻や口も大きく、したがってその白い歯も、ほかの女性にくらべるとひと廻り大きかった。そうした道具立てを見ただけでも、彼女には舞台におけるヒロインとしての風格がある。
千恵子はニンマリとした笑顔を見せた。
「昨晩ここに監禁されていたときのことですけど、読み捨てられた週刊誌を読んでいたんです。読むといっても気持ちは落ち着けませんから、眼が活字の上をなでていたようなものでしたわ」
それはわたしも覚えている。そしてその直後に示した彼女の異様な表情の変化も、はっきりと記憶に残っている。
「そのとき、ほんの二、三行の消息記事に目が止まったんです。偶然といえば偶然ですけど。そして自分の眼を疑ったんです、まさか読み違いじゃあるまい……と」
「…………」
「読み違いでないことを確かめますと、今度はふた月もみ月も前の古雑誌ではないかと思いました。そこで表紙を見ますと先週号なんです」
「…………」
「でも、予定を変更したということもありますわね。週刊誌の消息欄なんて信用するほうが間違っているのかもしれませんわね。ですから今朝洗面するとき、オフィスに出勤してくる頃を見はからって電話をしてみたんですの。そのとき電話口に出たのは掃除のおばさんで話が通じなかったものですから、後で電話をくださるようにお願いしておいたんですわ。それが食事中にかかってきたものなのですけど」
予定を変更するとは何を意味しているのか、彼女の話にはなんとなく掴み所がない。
「で、結論はどうだったんです」
課長が早口でせき立てた。つむじが曲がっているせいかどうかは知らないが、千恵子は一段とテンポを落とした喋り方になった。
「消息欄の記事が正しかったんです。本物は目下ユカタン半島のジャングルのなかでマヤ文明の遺跡を撮影中なんですわ」
「ホンモノ……撮影……」
と、課長は口のなかで繰り返してから、噛みつきそうな見幕に一変した。
「ひょっとすると並江さんが指摘するのは、この藤岡権九郎氏がニセモノだということですか」
「ひょっとしなくてもニセモノですわよ」
千恵子は確信ありげに答え、その途端に彼女の上に集中していた人々の視線は、一転してプロカメラマンを自称した男の方に向けられた。当の権九郎は(正確には権九郎に化けた偽者は、と書くべきところだが)否定も肯定もしないで、うす笑いを浮かべた眸《め》で人々を見返していた。
「なんとか釈明したらどうです」
「ぼくは藤岡権九郎だ。ユカタン半島へ行く予定は延期になった。それだけの話です」
事実をいっているのかもしれない。あるいは往生際《おうじようぎわ》わるく、あくまで否定しようとするのかもしれない。
「しかしね、裏庭をうろついていた怪しい男が目撃されておるのです。そいつが篠崎豪輔氏の資料室に忍び込んだとみなされているんだが、これが顔中に髭を生やしたむさくるしい人相でね。手っ取りばやくいえばあなたにそっくりなんです」
「そいつは人違いだな。ぼくは痩せても枯れても写真家の藤岡です。ヴェトナム戦争のときは『ライフ』にもぼくの報道写真が載ったくらいだ。虫ケラのようにヴェトナム国民が殺されていくのを告発するのがぼくの役目でね、人を殺すのは好きではないですな」
悪びれずに堂々と反論されると、否定材料を持たない課長はこの男の言葉を信じていいかどうかで迷わぬわけにはいかない。
「課長さん。東京の藤岡フォトスタジオにダイアルすれば、一発で解決がつきますわよ。女秘書の方が、先生はユカタン半島に出張中ですって断言しているんですもの」
「いい考えがあるわ。篠崎先生の書棚に文化人名録があるの。それを見れば簡単だわよ、顔写真入りだもの」
「藤岡氏もっていますかね?」
「一流のカメラマンですもの、百パーセント載ってますわよ」
ふみ子が断定的にいって腰を上げたときだった、髭男はあえなく陥落した。
「判った、判りましたよ。たしかにあたしゃ偽者だ。藤岡権九郎というカメラマンが海外取材で留守だと聞いていたもんでね。それにあちらさんも髭づらで似ているんだ、あたしとね。そこで彼に化けて泊まることにしたわけだが……」
名刺を出そうとしたのだろうか、服の上からポケットの辺りをさすっていたが、すぐに舌打ちをした。
「いけねえ、財布を落としちまったんだ」
「だから身分証明書を見せることはできない。そういうつもりなんだな」
「どうも疑り深くていけないですな。それじゃね、髭づらの男はあたしだけではないことを教えてあげようではないですか」
突然、妙なことを口走った。
「ま、信用しないなら信用しないでいいですがね。あたしの本職は私立探偵だから正体不明の人間には人一倍の興味を抱くたちなんです。で、いちばん後で到着した井上君という人間にちょっとした好奇心を感じた。なにしろ殺人のあった場所に立ち現われるんだから怪しまないほうがおかしい」
「…………」
「そこでチャンスをうかがっているところに、園田氏がああした死に方をした。そのどさくさにまぎれて、名刺入れをすばやく失敬して中味を確認したんですよ」
「……それで?」
と誰かが身を乗り出した。文学青年は信じかねる面持ちで胸のポケットを押さえていた。
「べつに怪しい人物ではありませんでしたな」
それを聞いて誰かが失望したような息をした。
「井上精二氏は車の運転ができるとみえて免許証を持っている。それを見ますとまぎれもなく当人の写真が貼ってあるんです」
「…………」
「ただその写真がね……」
中途で話を打ち切って人々の反応をたしかめた。この男もまた思わせぶりな話し方をする。
「勿体《もつたい》ぶらずにさっさと話しなさいよ」
と、千恵子がきつい調子でたしなめた。
「ただその写真の彼はあたし同様に髭もじゃなんです。何度もいうとおりあたしゃ私立探偵だから素人衆とは眼のつけ所がちがう。この青年が入って来た途端に、髭の剃り跡が新しいことに気づいたのですよ。これは朝方に剃った髭ではない、とね」
「…………」
「われわれは朝の洗面の際に剃ります。それが普通のやり方です。だから夕方になるとその辺りが蒼くなってくる。ところが井上氏は夕方であるにもかかわらず、赤ン坊のようにすべすべとしていた」
「…………」
「そこであたしゃ考えましたね。軽井沢の辺りで理髪屋に寄ったのではないか、とですな。だから免許証の写真を見たのです。果たして同君の頬は髭が生えていた。それもなかなか見事な髭です」
「…………」
「それをなぜ急に剃る気になったのか。ぜひとも弁明していただきたいものですな」
「井上さん、それは本当のことなの?」
珍しく虹子が問いかけてきた。井上精二は痩せた肩をそびやかすと、かすかに反り身になった。
「ええ本当なんです。軽井沢の理髪店で剃ってもらいました」
「まあ。……なぜ?」
「信じてもらえるかどうか知りませんけど、ま、聞いてください」
文学青年は少しも慌てずに、微笑を返した。
「ぼくも探偵さんと同じような髭を生やしていたんです。ところでぼくはマドロスパイプと俗にいわれるパイプでタバコをふかす習慣があるんです。列車が高崎を出た直後にタバコを吸おうと思いましてね、パイプをくわえてライターの火を近づけたら、生憎《あいにく》なことに炎が風にあおられて大切な髭に火がついたというわけですよ」
「あら」
「なに、ちょっと熱かっただけで火傷《やけど》はしなかったんです。でも、髭の四分の一がこげているなんてカッコわるくてお天道《てんと》様の下を歩くわけにはいかない。いや、夜であってもこの顔では人前に出るわけにはいきません。だから軽井沢に着くと駅の近くのバーバーで剃ってもらったのです。嘘だと思うなら、バーバー『追分《おいわけ》』というその店に電話を入れて確認してください。時刻は昨日の夕方です」
すぐに一人の刑事が立ち上がってホールへ出て行った。電話帳をひろげ、ダイアルを回転させる姿がわたしの位置からまる見えである。人々は黙り込んで、彼の報告を待っていた。
5
「やはり事実でしたよ。時刻も服装も人相も同じです。ついでに一つ質問しますが、理髪料金はいくらとられた?」
「千五百円です」
「よろしい、それも合っている。真実を述べているものと断定してよいでしょうな」
と、その刑事は重々しくいった。井上の痩せた顔にはればれとした表情が浮かび上がるとともに、人々の疑惑は再度この私立探偵に向けられた。
「財布を落としたとかいいましたな?」
改まった口調で課長が訊ねた。
「ええ。身分証明書を落としてしまったもんだから信用してもらえないのが残念だが、岩崎一郎《いわさきいちろう》というんです。いや、オフィスに電話したって判りゃしないですよ。つまり探偵商売も電話番も、すべてあたし一人でやってるんだから……」
「それじゃ一応きみのいうことを信用しよう。誰に何をたのまれてやって来たのかね?」
「依頼者の名はいえませんよ。これは医者や弁護士とおんなじことでね。だが仕事の内容なら話してもかまわない。四年ばかり前に東京のさるひとが仏像を盗まれてね。なんでも国宝級の重要文化財だとかいう貴重なもんだそうです。正式には鉄造|聖観音菩薩《しようかんのんぼさつ》像といって頭だけの像なんです。高さが七十センチ弱あって――」
あッという軽い叫びが起こった。声のしたほうを見るとふみ子が白い手を口に当てて、大きな眼をまるめていた。岩崎探偵は見向きもしないで話をつづけた。
「最近ある編集者からそのひとに、問題の仏像が軽井沢の篠崎家の二階の資料室に飾ってあるという情報が入ったんですな。盗難に遭って満四年間も経過していたものですから半ば諦めていたんです、その金満家は。そこに情報が入ったものだから大喜びをした」
「…………」
「ところがですね、世間の噂によると篠崎さんという男は傲慢無礼だそうで、まともにかけ合ったのでは見せてもらえそうにない。そこでわたしに写真の撮影を依頼してきたのです。写真を一見すれば盗まれた像であるかどうかはすぐ判る。もしそうだったら裁判に訴えても取り戻したいというわけですな。そこで先程もいったように藤岡氏に化けて泊まりに来た。そしてこっそり資料室に侵入して写真を撮るつもりだったんですが、到着してみておどろいた。皆さん揃ってグースカ昼寝をしておいでだ。しかも篠崎豪輔氏にも午睡をとる習慣があるという情報は入っていますから、これぞチャンスとばかり、物置の梯子《はしご》を借りたんです。待ってください、そうとがった眼つきをされると喋りにくくて困る」
課長に釘をさして発言を封じた。いかにも海千山千のしたたか者といった感じの男だ。
「家宅侵入罪だといって脅かす気でしょうが、あたしだってその点は心得ている。窓の外から写しましたよ」
「そいつはどうかな。外側から観音像のプロフィルばかり写していても仕様があるまい。もっといろんな角度から写そうというわけでなかに入ったところを発見されて争いが始まった、と考えたいね」
「女子とナントカは養い難《がた》してなことをいうけど、ありゃほんとだね。どう説明したら信じてもらえるだろうな。……いいですか、依頼者は像を一瞥しただけで識別できるといってるんですぜ。だから真ッ正面から写そうが横っちょから写そうが、知ったことじゃないんです」
説得力があるというか、結局は課長が言い敗かされた形となった。
「それじゃ庭で何をしていたのかね。用件をすませたらさっさと退散したらよかりそうなものじゃないか」
「いわれなくっても退散するつもりだった。用がすんだ以上、長居は無用だからね。駅まで行って小銭入れから十円玉を出して、予約してあった宿泊を取り消したまではよかったんだが、切符を買おうとしたら財布がないことに気がついた。仕方なく道々なくした財布が落ちてないかと探しながら、とうとう裏庭までやって来たんですよ。だが、どこからも出てきやしねえ。だから意を決して藤岡権九郎を名乗り、泊めてもらうことにしたわけで……。まさか篠崎豪輔が殺されたとは思わなかったね」
これで彼の釈明が終わった。当局側もわれわれのほうも、この男の説明をどこまで信じてよいのか判らなくて、とまどった面持ちであった。
「資料室に観音様の像が飾ってあったことはわたしも見ているんだが、野川さん、あれがそうですか。重要文化財という……?」
「いえ。重文ということも盗難品ということもいまはじめてお聞きしましたけど……。たしか東京の骨董屋さんから買わされた、といっておいでのようでした」
課長は渋面をつくって黙って頷いた。事件はいよいよ複雑な様相を呈してきたが、真犯人の追及は遅々としてはかどらないのである。彼が不機嫌になったとしても無理はなかった。
その日の十一時過ぎに、毒物検査の結果がもたらされたついでに豪輔の原稿が戻ってきた。といってもこれは重要な証拠物件だから編集部へ持ち帰ることは許されない。わたしはふみ子と相談しなおした末に原稿を電話口で読み上げ、社で待っていた同僚にカセットデッキのテープに録音してもらった。ともかくこれでわたしの編集者としての責任は果たしたことになる。
わたしがほっとした顔をしているのとは逆に、山荘の空気は一段と重苦しいものとなっていった。犠牲者がまた出たからであった。まるきり予期しない人物が殺され、しかも当局は殺人の動機をつかむことができずに、ただ右往左往《うおうさおう》するばかりだったのである。
九 第四の殺人
1
「ちょっと待ってください、思い出したことがあるんです」
発言する前によく考えてから口を開くタイプの人間がいるものだが、それに比べるとわたしは慎重さに欠けるとでもいうのだろうか、頭に考えが浮かんだ途端に喋り出すたちである。
一同はギョッとした顔でわたしを見た。もうこの頃は滞在客全員の誰彼が犯人に見え、すべてのものが、いや正確に書くと犯人自身を除外したすべてのものということになるのだけれど、そのすべてのものが互いに隣りにいる男性もしくは女性が犯人であり得ることを思って、戦々兢々《きようきよう》としていたのである。豪輔が殺されたときはともかくハッキリした動機の存在が考えられた。なんといっても憎まれっ子の豪輔だから、殺されても仕方がないといった考え方が人々の心底にあったことは確かである。だが、ホステスのめぐみが殺され、ついで団平が一同の眼前で毒殺されたとなると、動機について思いを巡らせることができなかった。無目的の、殺人狂による殺人ということしか考えられないのである。そうだとすれば、自分がつぎの槍玉にあげられないという保証はなかった。いまや彼らは、初老の刑事の頭から白髪が一本抜け落ちても飛び上がるほど神経質になっていた。
「なにを思い出したんだい?」
文学青年が腹を立てたようにツンケンした調子で訊いた。この男もすっかり神経質になっているのだ。
「園田さんがいった言葉を、です」
「彼が? なんていったんです」
「自分は犯人を知っている、犯人は男性だといったではないですか」
「なんだって?」
割り込んできたのはいうまでもなく課長である。黙って引っ込んでいられるわけもない。
「犯人を知ってるって?」
「ええ。だから殺されたのだと思うのです、その犯人に。それが、この場合に想定される唯一の動機じゃないですか」
「なぜもっと早くいってくれんのかね!」
と、彼は噛みつきそうな見幕になった。
「そうすれば手を打つこともできた。あの男を殺させずにすんだのですぞ!」
「ですが課長さん、田中さんばかりを責めるのは酷ですよ。いまになってぼくも思い出したんですが、たしかにあの人はそういいました。しかし連続殺人が起こって気が転倒していますからね、園田氏の発言なんてすっかり忘れてしまった」
「大体あの男はハッタリ屋でしたからな。わたしはてんから信用していなかったんだ。わたしの場合は忘れたというよりも、無視しとったんですがね」
田辺とカメラマンの藤岡権九郎(これからは正確に、私立探偵の岩崎一郎と書くことにする)が、わたしを弁護するようにいってくれた。課長は一段と身を乗り出し、かたわらの初老の刑事もギロリと眼を剥《む》いた。こうしたときの彼は典型的なデカづらになる。若い警官は遠慮気味に一歩さがって立っているが、その面上に強烈な興味の色を浮かべ、一言も聞き洩らすまいといった熱心さだった。
「犯人は誰だといったんです」
「それを訊く前にとぎれてしまったんです。それに、彼のいったことを再現してみると『篠崎殺しの犯人の正体が判っとるんだ』というのでありまして、めぐみさん殺しの犯人については何も知っていないようでしたね」
「すると推理に依《よ》ったものではなく、犯行を目撃したわけかな?」
「そりゃそうでしょう。あの先生、口こそ達者だが頭の中味はお粗末だったようだから、犯人を推理するなんてアクロバチックな芸当はできないですよ」
岩崎探偵が無遠慮なことを答えた。
「しかし、犯人が男だとはいっておらんではないですか」
「その後でハッキリと断言したんです。『この食堂にいる四人の男性の一人だ』とですね」
「その四人を具体的にいうと?」
「かくいう岩崎一郎。作家志望の井上君と田辺君。それに編集者の田中君」
わたしの名を挙げたときには、ご丁寧に人差し指をわたしの鼻先に突きつけてみせた。その嫌味な態度がいよいよ団平に似てくるような気がする。
課長は渋い表情を浮かべ小首をかしげていた。先程この私立探偵が語ったように、課長もまた、団平の発言を信じるべきか否《いな》かで迷っている様子が見えた。
「故人の悪口をいいたくはないが、あのひとは多分にチャランポランだったからねえ。しかし動機としてはそれ以外にないのだから、やはり犯人が口を封じたと考えるほかはない」
これは呟きに似た独語であった。胸のなかのことが思わず声になって出た、とでもいったボソボソとした声である。課長はそこでわれに還ったように面《おもて》を上げると、これまたデカ特有のいやな目つきになって、われわれ男性を端から端までジロリと見渡した。なんとも居心地のわるい一瞬である。女性たちは関係ないはずなのに、その場の雰囲気に呑まれたとでもいうか、ただもう怯《おび》え切った顔つきでたたずんでいる。彼女らのわれわれを見る視線には、毛虫でも眺めたときのような嫌悪感がこめられているようだった。もっともこれはわたしの被害妄想かもしれないけれど……。
「なるほど、篠崎氏を殺した犯人は男であったと。それを口外されまいとして園田団平氏を毒殺したという話になると、珈琲にタッチしたのはあなた以外にはおらんことが問題としてクローズアップされるですな、田辺さん」
元編集者はドスのきいた声で詰問されると、いまにも立ち上がって逃げ出しそうになった。平素から顔色のいいほうではないが、それが土気《つちけ》色に変わっている。
「……さっきもいったと思いますが、ぼくは盆を持って歩いただけです。仮りにカップに毒を入れておいたとしても、園田さんにそのカップを選び出させることは不可能じゃないですか」
「サテ、それはどうかな。奇術師が何枚かのトランプを広げておいて、好きなカードを観客に一枚だけ引き抜かせるということをやる。しかしこの場合も、カードを抜くのは観客の自由意思であるように見えるが、けっしてそうではない。熟練した奇術師になると、クラブのエースを抜かせるのもダイヤのキングを抜かせるのも彼の意のままだそうじゃないですか。客は自分の思うとおりにしているみたいだが、じつは奇術師にコントロールされているという……。あるいは催眠術でも応用するのかもしれないですがね」
「しかし、それはあなたのいうとおり熟練した奇術師に限ることじゃないですか。ぼ、ぼくは奇術なんてものはできない。まして熟練した奇術師であり得るはずがないです」
声がふるえている。
「課長さん。田辺君が豪輔氏を殺したかどうかはあたしの知ったことじゃないですがね、団平先生があの盆の上の毒入りカップを取ったのはどう考えても偶然としか思えませんな。あたしゃやっぱし女が怪しいと睨んでるね」
「ひどい。いいたい放題《ほうだい》だわね、このひと」
「今度このひとが殺されたら、容疑者はあたしたちってことになるのかしら」
「案外ご自分が犯人じゃないの? あたしたちを攻撃しているあいだは、自分は疑われないという作戦よ」
岩崎探偵は女性軍の非難の的となったものの閉口するどころか、逆にニヤニヤと下品な笑いを浮かべ、女たちの品定めでもするように一人ずつ眼をほそめて眺めていた。
「もう一度確認しておきますがね、男性のなかで盆や食器、珈琲や砂糖などに触れたひとはほかにおらんですか。これは女性の皆さんに答えていただきましょう。彼らのなかで怪しいものがいたら、おっしゃってください」
「怪しいといえば全員が怪しいわよ」
すかさず千恵子が答えた。
「そのなかでも特に怪しいと思えるのはやはり探偵さんだわね」
女というのは執念深い動物だそうだが、千恵子も例外ではないとみえて、先程の岩崎の発言にまだこだわっているようだった。
「ほかに誰か」
課長はこの大柄な女性を無視することにしたらしく、残った連中のほうに問いかけた。こうなると近代女性もへったくれもない。互いに顔を見合わせてもじもじしているきりで、積極的に発言しようとするものはいなかった。というよりも、喋るだけの材料を持ち合わせていないようであった。
「では男性諸君のほうはどうですか」
田辺を除いた三人の男はいっせいに首を振った。
「どうやら田辺君以外にはおらんようですな、園田団平氏を毒殺することが可能だった男性は。あんた催眠術の講習かなんか受けたことがあるんじゃないかね?」
依然として課長は手品使いとカードの話に固執しているらしかった。
「じょ、冗談じゃない。それよりも課長、園田団平氏が目撃した豪輔殺人の犯人がぼくだとすると、そのぼくがなぜ現場に長居するという危険を犯してまで、あの男の剽窃《ひようせつ》原稿を燃やしてやらなくちゃならんのですか」
「きみが燃やさなくともかまわん。火をつけたのは園田氏だったのかもしれないのだから。彼が犯行を目撃したというからには自分もまた現場の近くにいたことになる。犯人が逃げて行った後に園田氏が忍び込んで火をつけたというのは、大いに考えられることだからね」
課長としては当然のことだが、いったん掴んだ獲物を逃がす彼ではなかった。田辺義夫は腕を組むと憮然《ぶぜん》たる表情で眼を伏せた。
2
わたしは当時のことを思い出しながら綴《つづ》っているのだが、途中でふと筆をおいて、これでは挿絵担当の画家が困ってしまうのではないかと思うことがある。延々として百枚も二百枚もおなじシーンを書きつづけるなんて、もしこれが芝居だったら観客が大|欠伸《あくび》を連発するところかもしれない。いや、小説の読者だっていい加減に飽き飽きしてくることだろう。そして本格物に愛想をつかして、もっと派手に撲《なぐ》りっこをしたり追っかけごっこをする行動的な冒険スリラーの読者に宗旨《しゆうし》変えをしないとも言い切れない。しかし、この場面も、もう少しでおしまいになるのだから、嫌味なんかいわずに辛抱してつき合っていただきたい。
さて、口をぎゅっと結んですわり込んだ田辺を見ているうちに、わたしはもう一つ思い出したことがあった。
「またですか」
課長は半ばうんざりした顔になりながらも、耳だけはわたしのほうに向けてくれた。
「死んだ園田さんから品物を預かっているんですがね」
「そうだわ、あたしも思い出した。貴重品だとかいって無理矢理おしつけていましたわね」
あのとき居合わせたのは千恵子ばかりでなく田辺義夫もそうなのだが、いまの彼は機嫌をそこねた牡蠣《かき》みたいに黙り込んでおり、顔を上げようともしなかった。
「貴重品というと財布ですか」
課長がようやく関心を抱き出したらしく、わたしのほうに向き直った。
「それがよく判らないんです。紙に包んであったから……」
「なぜ預けたんです?」
「知りませんな。金庫を持っているわけでもないから保管の責任は持てないといって断わったんですが、結局押し切られたんです」
「狙われていたのかな?」
「いえ、そんなスパイもどきの話ではなかったようです。並江さんや田辺さんの前で、至極おおっぴらに預けようとしてましたから」
しかし預かった以上はわたしにも責任があった。後で部屋に帰ったら手頃の隠し場所に突っ込んでおくつもりでいた。
「刑事に取りにやらせます。どこにあるんですか」
そう突っ込まれたときに、わたしはここに着いたときのままの恰好をしていることに気がついた。とするならばその品物は、まだわたしのズボンのポケットに入っていることになる。
「多分ここに……」
手を突っ込んで引っぱり出すと、課長はものもいわずにひったくって、自分の掌にのせて縦から横からとっくりと眺めた後、包んだ紙を開けにかかった。
なかから現われたのは小さなプラスチックの筒で、一見してフィルムの入っていることが判った。
課長は緊張した面持ちで無言のまま蓋《ふた》を取り、中味を手に受ける。明らかにそれは撮影済みのフィルムであった。
「きみ、これを大至急現像させてくれ。必要があれば伸ばすんだ」
「はあ」
初老の刑事は大切そうに手に取ると、片方の手で意味もなく白くなった鬢《びん》のあたりを撫《な》でつけながら出て行った。わたしには白髪の生えかけた年輩者の心理は想像もつかないけれど、無意識に撫でているところを見ると、やはり気になるものなのだろうか。
「では諸君、山荘から一歩も出ないという条件つきで、諸君の行動の自由をみとめることにする。これ以上束縛をすると、人権がどうのこうのとむずかしい議論を吹っかけられるからね」
冗談とも皮肉ともつかぬ言い方をしたが、案外これが課長の本音だったのかもしれない。
一座のなかから控え目な喚声が起こった。
「刑事に監視させるようなヤボなことはしません。自由に振る舞ってくれて結構です。ただし田辺君」
「判ってますよ、お前だけは例外だといいたいのでしょう」
「おや、勘のいいひとですな。とにかくきみは唯一の被疑者だから厳重な監視下におく。それからきみ」
と、若い警官に命じてシャワー室の鏡の前に吊るされている櫛拭《くしふ》き用紙を保管しておくように伝えた。田辺に豪輔殺しの動機があることを証明するには、これ以上に適切なものはないのである。捜査課長が真剣に田辺犯人説を信じていることは間違いないものと考えられた。
「さ、ぐずぐずしないでさっさと出て行ってください」
追い立てられた。まったく勝手なものである。いままでは一歩も出てはいかんなどときびしく規制しておきながら、今度は百八十度逆転して、残っていてはいけないと咎《とが》めるように命じるのだ。しかし解放されることはわれわれにとって何よりもうれしかったから、あえて異をとなえるものもなく、ぞろぞろと廊下に出て思い思いの部屋に帰った。
ドアを開けるとむっとした熱気がこもっている。わたしは何はさておいて正面の窓の止め金をはずして、風が入るようにした。この窓も全館に共通したもので、鉄製の枠にガラスをはめ込み、枠の部分は白ペンキで塗ってある。ノブは止め金を兼用していて、それをつまんで廻せば、掛け金がはずれると同時に窓が開くといった按配《あんばい》だ。
もうすっかり明るくなっている。蝉の声も鳥の声も、都会で耳にするものとは違って一段と活気があるようであった。蝉はともかく、野鳥となるとほとんど知識のないわたしにとって、啼《な》き声からその正体を知るすべのないことが残念だった。野鳥ばかりではない。窓の外に花をつけている野草一つにしても、名前が判り生態が判り分類が判ったらどれほど楽しく心が豊かになることだろうか。ベッドに腰をおろして外を眺めながら、ぼんやりとそうしたことを考えていた。
こうやって放心状態ですわっていると、三人の犠牲者を出した殺人事件が地球の裏側で発生したかのように、まるで別世界の出来事のように思えてくる。豪輔や団平はともかく、めぐみとは多少の交渉があったのだからその死を悼《いた》んで当然であるのに、べつに悲しく思わなかったし哀れとも感じなかった。誰が犯人であろうともおれの知ったことではない、といった心境である。
肉体的には疲れていたが、ちっとも眠気を感じないのはやはり気が昂《たか》ぶっているせいだろうか。ベッドにごろりと寝て眼を閉じてみても、いたずらに瞼《まぶた》がピクピクと痙攣《けいれん》するばかりであった。眠ることを諦《あきら》めて起き上がると、不意に新聞かテレビを見ようという気になった。考えてみるとまだ二十四時間とはたっていないのだが、それにもかかわらず、一週間ちかくも外界と隔離されているような感じがする。一室に缶詰になっているあいだに、世間の事情が一変してしまったのではないかといった不安すら覚える始末だった。
わたしはシャツの乱れを直しておいてから廊下に出た。刑事の眼がどこかでわたしを睨んでいると思うと愉快な気持ちはしないが、そっと見廻したところでは人影もない。元編集者の田辺は監視つきのはずだが、その扉の前にも刑事の姿はなかった。すべてが事件の起こる前と変わったところはないのだが、ただ一つ違っているのは、どの部屋のドアもピッタリと閉じてあることだった。人々が、つぎの犠牲者となることを恐れて用心していることは明らかであった。
田辺義夫が豪輔殺しの犯人であることは確かな事実かもしれない。しかし、第二の殺人が行なわれた際の彼はわたしと千恵子と共に食堂にいたのだから、この件に関する限り完全なシロなのだ。したがってめぐみ殺しの犯人はほかにいることは明白であり、その犯人が野放しの状態であることもまた事実なのである。人々はそれを知っており、だから警戒する気になるのは当然のことだった。むしろノホホンとした様子でテレビを見に行くわたしのほうが、呆《あき》れられて然るべきだったかもしれない。
テレビは食堂に備えてある。迂闊《うかつ》にもわたしはそれを見るつもりだった。そして食堂の前まで来たときに、そこの扉がピッタリ閉じられているのを眼にして、食堂への出入りが禁止されていることを思い出した。すでに現場検証はすんだらしく内部はしずまり返っている。
わたしは食堂の前を通り過ぎるとホールを横切って、左手のドアの前に立った。開け放たれた入口をとおして白い仕事衣を着、頭に白い帽子をかぶった賄《まかな》い婦の姿が見えたからである。彼女たちは昼食の仕度をしているところのようだった。
「すみません、あの、野川さんはどちらでしょうか」
テレビが一台しかないとは思えない。二台目の所在をふみ子に訊ねるつもりだった。
「あら、その辺にいませんか」
ぬれた手を真っ白なタオルで拭きながら、お滝さんが愛想よく応対してくれた。
「廊下には誰もいないんですよ」
「刑事さんたちは撞球《ビリヤード》室で作戦会議をひらいているんです。野川さんに何かご用でしょうか」
「テレビを見たいと思って……。食堂は閉鎖されてしまったから」
「白黒のポータブルでよければここにもございますわ。でも画面が小さいですからどうかしら。大型のカラーでしたら撞球室にありますけど。あたくしどもはチャンネル争いをするかわりに、食堂と撞球室に分かれて好きな番組を見ていますの」
「しかし作戦本部にノコノコと乗り込むわけにもいかないしね……。篠崎先生はどうだったんです? テレビをしょっちゅうご覧でしたか」
「いいえ、先生はテレビには飽き飽きしたとおっしゃって、ニュースすらご覧になりませんでしたわ。そうね、お食事のときに横目でチラッと眺められる程度……。お仕事の虫でしたから……」
流行作家ともなればそれも当然だろう。自宅や仕事部屋にテレビを置かないという作家は、ほかにも二、三いるのだから……。
お滝さんはわたしを調理室に招き入れると、棚の上の小型テレビのスイッチを押した。炊事仕事をしながら見られるような位置である。ほかの女性たちはわたしと目礼を交わすと、せっせと仕事をつづけていた。
「……おかしいですわね。画も出ないし音も出ませんわ」
「故障かな?」
わたしは手を伸ばしてスイッチを点滅してみたが、パイロットランプも消えたままである。
「停電かもしれないですよ」
今度はお滝さんが天井の蛍光灯をつけようとしたが、これもともらなかった。やはり停電と考えたほうがよさそうである。
「抜き打ち停電ですから間もなくつくでしょうよ」
わたしはテレビニュースは諦めて朝刊を借りることにした。
「ところでお葬式はいつになりますか」
「それがまだ許可が出ませんの。そのことでも野川さんは課長さんと折衝したり葬儀屋さんと相談したりで大忙しですわ」
お滝さんは同情するようにいった。葬儀がここで執《と》り行なわれるならば、ついでにといっては故人に失礼な言い方だけれど、わたしも参列するつもりであった。
3
朝食のときと同じ部屋で、午後の一時過ぎにおそい昼食が始まった。徹夜をした後だったにもかかわらず、眠れないのは誰もわたし同様だとみえて、全員が顔を揃えた。今まではピンクのネグリジェ姿でわれわれ男性をなやましたふみ子も、いまは白の半袖のブラウスに黒のタイトスカートという活動的な秘書スタイルに戻っていた。ネグリジェ姿も結構だけれど、こうしたキビキビした装いもまた彼女らしくていい。
食堂には田辺義夫の黙りこくった顔も見えていた。彼が豪輔殺しの犯人と決まったものでもなかったから、われわれも白い眼で見ることを避け、何事もなかったように話しかけたりするのだが、彼はまた以前のかたくなな態度に戻ってしまい、伏せた顔を上げようともしなかった。ひょっとしたらこの男は振幅のはげしい躁鬱《そううつ》症ではないのか、と思ったほどである。
しかし浮かぬ顔をしている点では他の連中も、つまり千恵子も虹子もそうであった。仮りに田辺が逮捕されたとしても、めぐみ殺しの犯人は別にいるわけだから、釈然としないのは無理もない。そして気のせいか、三人の女性のわれわれを見る眼には、依然として毛虫でも前にしたときのような嫌悪感が充《み》ちていた。当然のことだといえばそのとおりだが、だからといって愉快ではない。
「今日はおひるが遅いものですから、おやつはお休みにさせていただきます」
食事の前にふみ子が宣言した。
「それからお泊まりのお客さまに申し上げますけれど、今日はお風呂を沸かす日です。四時から入れるようにいたします」
聞いてみると夏場は一週間に二度のわりで入浴日が設けられているのだそうで、そのほかの日はシャワーを浴びて汗を落とすことになっている。洋風のバスだから、すべての客に毎日サービスするのは大変に手間のかかることだろう。週二回というのもやむを得ないところだった。この山荘の名誉のためにあえてしるしておくと秋は一日おき、極寒の冬場は連日バスを使えることになっているという。
「順番はあとでジャンケンでもして決めていただきますわ」
捜査官も汗にまみれているのだからせめてシャワーぐらいはすすめるかと思っていたら、それについては一言も触れなかった。うっかりしていたのか、それともこの歓迎すべからざる連中にはサービスの必要なしと思っているのか判らない。
昼食なので一皿のライスカレーに冷たい水といった献立だが、さすがは舌の奢《おご》った豪輔の家だけあって、この家庭料理にしてもテレビのコマーシャルに登場する出来合いの固形カレーなんぞではなく、自家製のルウを伸ばしたものだった。久し振りに旨いライスカレーを喰わせてもらったという思いで、わたしはひどく上機嫌になった。あとの連中もあかるい表情をしていたところから判断するならば、旨いカレーに満足したに違いない。田辺はどうだろう? そう思って彼の皿を見ると、これもきれいさっぱりと平らげられていた。
食事がすんだあとで課長が立ち上がると、われわれに向かって、団平のフィルムを現像した結果を公開する旨を宣言した。どうやらこの課長は捜査にさしさわりがないと判断したことはすべて公開して、われわれの意見を聞くなり、われわれが示す反応なりに期待をかけるという戦法に出ているらしい。
われわれは首を寄せて、四つ切りに伸ばされたポジを覗き込んだ。写真は全部で八枚で第一枚目はテラスに立った千恵子のスナップであった。右手を腰に当て、左手を額《ひたい》にかざして遥か彼方を打ち眺めている、といったポーズである。そして二枚目は車の横に立ったわたしとふみ子。これからドライブに出発するところだ。その後に五枚をおいて、ドライブから戻った二人が写っていた。一見してストロボを燃やしたことが判る。
問題なのは間々にはさまった五枚で、それらはいずれも資料室に侵入する男の姿が捉《とら》えられていた。はじめの一枚は梯子をのぼって窓を乗り越えようとする姿だった。これはかなり離れた場所から撮《と》ったとみえて人物が小さすぎ、特徴は判らない。が、後の四枚は望遠レンズをセットしてシャッターを切ったらしく、細部にいたるまでかなり明確にキャッチされていた。団平は(厳密にいえばこの五枚の撮影者が団平であることを示す証拠は一つもないのだけれど)いささか慌てていたとみえ、連続してシャッターボタンを押しているものだから、写っているのはレンズに背を向けた後ろ姿ばかり、白のワイシャツの袖をまくり上げた男性というほかははっきりしない。
だが、最後の一枚で正体が明らかにされていた。地上に降り立ち、ほっとした様子でカメラのほうを向いたとき、すかさず団平は五枚目のシャッターを切ったのである。男は髭むくじゃらな顔をして、肩にカメラを吊るしていた。いうまでもなく私立探偵の岩崎一郎だ。
「こんな伏兵がいるとは思わなかったなあ」
当の名探偵が、自己反省ともいえる口吻《こうふん》でひとりごちた。
「園田団平氏が庭をうろついていると、この怪しき侵入者が眼についたんでしょうな。そこで後日なにかに役立てばということで撮影しておいた。しかし単にこれだけでは何月何日に写したという証拠がない。ところが幸いに、その前のコマで並江千恵子さんや野川さんと田中さんたちをスナップしておいた。そこで最後にもう一枚、野川さんたちがドライブから帰ったところをとっておけば、あいだにはさまれた資料室侵入のシーンがいつ撮影されたかという、おおまかなことが判るわけです。ドライブから帰って来るお二人を待ち受けていたのは、そうした理由だと思いますね」
課長に説明されて、あの日の団平の行動にようやく納得がいったのである。
「しかし、なぜわたしに預けたのでしょうか」
「それはこう考えられるのではないですか。園田氏は前もって有名なプロカメラマンの藤岡権九郎という人が一泊するということを聞き知っていた。ところがたまたま目撃した人物が髭を生やしカメラを持っていたもんだから、てっきり藤岡氏だと信じてしまったわけです。となればです、フィルムの中味はいよいよ貴重なものとなってくる」
どうやら課長の意味するところは、団平がこの写真をネタに権九郎から口止め料をせしめる点にあるらしい。しかしそう考えるのも当然のことだと思う。なんといっても団平は年中懐中がさびしかったのだし、あの押しの強さからするならば、口止め料を要求するぐらいのことはやりかねないからである。
「その写真にものをいわせようとする場合にですよ、あいだにはさまった五枚はべつの日に撮影したのだろうと反撃されることも考えられます。だが、あなたに保管しておいてもらえば、撮影者たる園田氏がフィルムに細工する余裕のなかったことがハッキリする。そこに狙いがあったのでしょうな」
しかし、侵入者が岩崎探偵であることはすでに判明しているのだから、いまとなってはこれらの写真も単なる紙屑でしかなかったのである。そう思うせいか、課長の口調にもどことなく元気がないようであった。
「せっかく写しておきながら、残念なのは時間の経過が示されていないことでしてね。単に仏像を撮影するなら二分間あれば充分だろうが、もしそこで篠崎殺しをやったとすると少なくとも十分や二十分はかかったと思う。これは、原稿を始末したのは別人のやったことだと仮定した話で、もし本人が燃やしたとすればさらに時間を喰ったに違いない。ところがいまもいうように、二分かかったのか三十分かかったのかいっこうに判然とせんのです。それが何とも惜しくてねえ……」
思わず洩らした本音であろう。当の私立探偵はべつに反論するでもなく、すっとぼけた顔つきで顎のあたりを撫《な》でていた。
「……そんなこというけど課長さんよ」
ややあって私立探偵が何事かに思いついたとでもいったように、ちょっと勢い込んだ調子で発言した。
「一歩ゆずって三十分かかったとしてみますぜ。その場合、いってみれば流しのコロシということになるんだが、なぜカーテン止めで絞め殺したんですかね? それまでこの山荘に入ったことのないあたしが、カーテン止めなんて紐があることを知ってるわけもないじゃないですか」
「…………」
「それによ、豪輔を殺したのは家宅侵入を見咎められたからなんだ、わざわざ誰かの部屋に忍び込んで凶器を用意していくはずもねえ」
「…………」
「しかも盗まれたカーテン止めは二本なんですぜ。言い換えれば犯人は最初から豪輔とホステス殺しを目論《もくろ》んでいたんだ。あたしにゃホステスを殺すわけがねえ。いまだって勿体《もつたい》ねえことをするやつもいるもんだと思っている。何といっても夏場の軽井沢には美人がいませんからねえ」
わたしは知らなかったが、軽井沢に避暑に来る若い女性に美人が少ないということは、通人のあいだで定説になっているのだそうである。美人は東京でチヤホヤされているから長野県くんだりまでやって来るヒマがない。誰からも相手にされずに退屈をもてあましている連中だけが、軽井沢に来るのだそうだ。
「そんなこといっては失礼だと思うな。少なくともここにいる三人のご婦人はべつですよ」
抗議を申し入れたのは文学青年である。冗談かと思ったが、口をとがらせて当人は大真面目だ。この辺で女性軍の点数を稼ごうというつもりだろうか、いかにも嫌味に感じた。わたしは女性蔑視論者ではないけれど、女にへつらう男性には好感が持てないたちであった。銀座のバーなんかでホステスのご機嫌をとって笑わせている男を見ると、吐き気と同時に寒気に襲われるくらいである。ああいうのを文字どおり「道化師」というんだろう、と思っている。
「課長、おなじことをぼくも問題にしたいですな」
黙々としていた田辺がいきなり声をかけてきたので、当の課長よりも周囲の女性たちのほうがびっくりしたようだ。三人が三人ともハッとした表情を見せた。
「ぼくが篠崎豪輔を殺したというのなら、二本目のカーテン止めをなぜ盗む必要があるんです? ご承知のとおり、めぐみさんがカーテン止めで殺されたとき、ぼくはこの食堂にいたというアリバイがある。ぼくがめぐみさん殺しに関係のないことは赤ン坊だって解るじゃないですか」
「しかしねえ、第一の殺人と第二の殺人とが同一犯人によって遂行されたわけではない、別人であるとも考えられるんですよ。これは仮定の話だから目くじら立てずに聞いてもらいたいんだが、あなたがカーテン止めを盗む姿を垣間見た第二の事件の犯人が、よしおれもこの手でいこうと思いついたのかもしれない。二つの連続殺人におなじ凶器が用いられれば、同一犯人の犯行であるように思われがちだ。第二の犯人はそれを計算に入れたんですな。いうまでもなくこの第二の犯人は、当初からめぐみさんを狙っていたわけです」
「そんな無茶な話があるもんですか。仮りにぼくがカーテン止めを盗んで、それを誰かに目撃されたとしても、ぼくがその品物を凶器にしようと考えていることがどうして判ったんですか。ぼくはそのカーテン止めで靴を磨こうと思ったのかもしれない。事実、あれでこすったらさぞかしよく光るだろうと考えているんだから……」
その設問に対して課長は応えることをしなかった。というよりも、返答できなかったと書くべきかもしれない。後から知ったことだけれど、彼はこの事件が手に負えぬことを賢明にも見通して、すでにしかるべきひとに解明を依頼していたのである。
4
わたしはクジ運が悪い。女房を持つ前にせめて建築費だけでも用意しておこうと思い、宝クジが売り出されるたびに並んで買うのだが、ビリに当たる率ですら微々たるもので、五等以上のクラスに入ったためしがない。商売柄賀状を沢山もらうほうだけれど、例のお年玉切手と称されるやつさえ当選しないのだ。だからこのときの入浴の順番をきめるジャンケンも、わたしは最後に入ることになった。
「がっかりすることはないですよ。トリを持つのは真打ちに決まっているんだから」
機嫌のなおった田辺がそういってニヤリと笑った。この元編集者は先程の問答で課長に一本取った瞬間から、ふたたび朗らかさを取り戻していた。だが、こう目まぐるしく機嫌の変化する男はつき合いにくくて、わたしの苦手とするところなのだ。わたしが受け持つ作家のなかにも田辺に似たお天気屋がいる。できることなら担当を同僚にゆずりたいと思っているのだが、そういうたちの作家は誰もが敬遠するものとみえ、代わってくれる仲間はいないのである。田辺義夫は、わたしにその作家を連想させずにはおかなかった。
入浴は四時頃から始まった。七時の夕食時間までには全員がさっぱりした体になろうというわけである。一人の所要時間を二十五分間とみて、係のお手伝いさんはその合い間にバスタブを洗ってつぎの入浴者に備えなくてはならない。七時に夕食というのはそうした計算から弾《はじ》き出された時刻のようだった。
依然として建物の外には一歩たりとも出ることが許されない。山荘の入口や裏口に刑事が頑張っていて散歩することさえできなかった。ほかの連中はともかく、わたしの番はラストなのだから、それまでの時間をもて余してしまう。すでにトップバッターに当たった画家の虹子は汗を流してしまい、ほんのりと上気した顔にうすく化粧をして、肌がすけて見えるようなブラウスに着更えていた。
部屋に入って来るとまず麦茶をおいしそうに飲んでから、所在なさそうにすわっているわたしを見ると、「お先に。悪いわねえ」と愛想をいった。
「ほかの人たちは何をしているんですか」
「さあ、おなかがふくれて眠くなったのじゃないかしら」
平素は無口のこの女性も入浴したために気が軽くなったのだろうか、わたしを相手によく喋った。あるいは、わたしの退屈をなぐさめてやろうという、親切心の発露であったのかもしれない。そのとき話題となったのは、彼女が挿絵を担当した作家の噂話や、好きな作品などだったが、ついに豪輔の話題は一度も出なかった。わたしもその間のいきさつは知っているから、あえて触れるような愚かな真似はしない。そうしたわけで、二人目の岩崎探偵が浴衣の胸をひろげながら入って来たのにも気づかずに、話に熱中していたのである。
彼もまた喉がかわいたとみえ、麦茶をコップに注いで、それを片手にわれわれの仲間に入った。
「いや、こんな恰好で失礼。もう二、三分待ってください。そのうちに汗が引っ込むから」
それでも多少はエチケットを心得ているとみえ、はだけた胸が彼女の眼に入らぬようこちらに背を向けて窓辺に立っていた。彼もまた気が軽くなったのだろうか、先ほど課長に喰いさがったときとは別人のような気さくな口調で、探偵稼業の失敗談を披露してみせたりした。
「今度の仕事も失敗のうちに入りますな。財布ばかりでなしに、フィルムも落としてしまったんだから。カメラが無事だったのがせめてもの慰めですがね」
「あとでもう一度写させていただいたら……?」
「ええ。ぜひそうしたいと思いますな。今度はプロフィルばかりでなく、いろんな角度から撮らせてもらいます」
そうした話をしているうちに、扉の外をお手伝いさんがせかせかした足取りで歩いて行く姿が見えた。バスタブを洗い終えて、つぎの客に知らせに行くところなのだろう。
「三番目は誰でした?」
「井上さんよ。そのつぎが千恵子さん。あなたはまだまだだわね」
女流画家がすまなそうにいった。虹子と向き合って話をするのはこれがはじめてだが、千恵子のバタ臭い顔に比べるとこちらはいかにも内気だし、体つきも撫で肩であるし、浴衣を着せたほうがいっそう似合うのではないかと思った。間もなく廊下を文学青年の井上が通りかかって、わたしと目が合うと「お先に」とでもいうふうに黙ってこっくりをしてみせた。肩にかけた白いタオルが妙にいなせな感じであった。
これで何人目になるんだっけな、と心のなかで数えてみる。昨日シャワーを浴びているくせに、もう長いこと体を洗っていないような気がして、バスを使うのが待ち遠しくてならない。あるいは単に汗を落とすだけではなしに、昨日来のおぞましい事件の思い出をきれいさっぱりと流してしまいたかったのかもしれない。理屈はともかく、早く風呂に入りたい。
入口にふみ子が立ったのはそうした頃であった。
「ちょっと、田中さん」
「あ」
「お仕事のお話なの。ちょっといらっしゃって……」
ひとをはばかるような口調である。それと察してすぐに立ち上がった。今頃になって仕事の話といわれても見当がつきかねるが、質問は、二人きりになったときにすればいい。
「こちらよ」
後につづいて階段を上がった。二階は「関係者以外立入禁止」のお触れが出ていたはずだが、彼女だけは秘書としての仕事もあるので、今朝からフリーパスになったという。
「ですから本当はあなたもダメなのよ。見つからないうちに早く行かなくちゃ」
行くといっても行先が判らないからまごつくばかりである。階段を上がって廊下を左に曲がると一番奥が資料室で、その一つ手前が豪輔の仕事部屋。つまり殺人現場だ。まさかそんな薄気味悪いところに連れ込まれるのじゃあるまいと思いながら、黙ってついていく。
ふみ子が足を停めたのは階段を上がって右側に行った突き当たりの、彼女の仕事室であった。わたしが、この山荘に着いたときに通された部屋で、机の上には小さな一輪ざしの花瓶が載せてあったり、欧文タイプの上に刺繍《ししゆう》のカバーがかけてあったり、一見しただけで若い女性の部屋であることが判る。そのうえかすかに香水のかおりさえ漂っていた。
「そこにお掛けになって」
「はあ……」
二人きりでさし向かいとなると何となく居心地がわるい。当方の立居振舞いまでがギゴチなくなってくる。
「じつはね、先生の遺稿があるのよ。仕事部屋の品物はすべて持出禁止になっているでしょう、だから原稿をそのまま複写しておいたんだけど……」
豪輔に遺稿があったとは信じられない話であった。この話を編集長に聞かせてやれば、うれしさと興奮とで狂い死にもしかねない特ダネである。
「遺稿といってもね、昨日今日お書きになったわけじゃないの。いってみれば習作よ。でもそこは大篠崎といわれた先生のことですから、内容は立派なものよ。ともかくお読みになって……」
「はあ……」
机の上には秘書の七ツ道具である卓上電子計算機と並べてコピー用の複写機がおかれている。午前中に捜査官たちによる作戦会議が開かれているあいだを利用して、こっそり二階に上がるとコピーをとってくれたのだという。わたしは彼女の好意がありがたかった。
「あらゆる意味で完成したものとなっていますから、先生ご自身も機会があれば発表してもいいなとおっしゃっていたの。絶筆といっては嘘になるけど、遺稿ということにすればいいと思うわ」
「それはそうですとも。さっそく拝見します」
わたしはイスの上ですわり直す。彼女はコピー原稿をキチンと揃え直してわたしの前に置き、さらにカーテンを全開にしてくれた。朝から曇り加減の天気なので、そうしないとちょっと読み辛《づら》いのである。
「あたしはその辺をかたづけていますから、ごゆっくりね」
「はあ、どうも」
わたしはまたギクシャクした応答をし、てれくささをまぎらわそうとしてすぐ原稿読みにとりかかった。当初は推理作家として登場しただけあって、この「習作」もスリラーだが、栴檀《せんだん》は双葉より芳《かんば》しなどといった古めかしい諺を持ち出すまでもなく、よくできた短篇だった。
テレビの台本作家は最初の一分間が勝負だ、ということをしばしば口にする。ドラマの冒頭で視聴者の心をキャッチしてしまわないと、彼らはほかの局にチャンネルを廻すからである。だからテレビ作家は、何がなんでも最初のシーンで人々の心を捉えようと努力する。豪輔がテレビ作家の頃にはそうしたテクニックで心を砕いたことと思うが、この習作にも当時の習慣が意識せずに顔をのぞかせるのだろうか、原稿の一枚目からしてベラボウにおもしろいのである。会話が活《い》きているのも、テレビ作家時代に勉強したからであろう。豪輔という人物は遠慮や謙遜を知らぬ男であったと噂されているのだが、作中の人間を描く場合にそのふてぶてしい物の見方がプラスに作用したとみえ、チョイ役の老人までがじつに活き活きとしていた。わたしは五十枚という原稿をものもいわずに一気に読了してしまった。ふみ子が机の上を整頓したり、蛍光灯を持って来て灯りをつけてくれたり、こまめに動き廻っていたが、それがけっして邪魔とはならなかった。わたしは雑誌をつくる側の人間だから小説には飽き飽きしているはずなのに、蛍光スタンドのスイッチを入れてくれても礼をいうことを忘れ、ただ夢中になって読みふけったのである。最後の一行を読み終えたわたしの口から、思わず大きな溜息が洩れた。
「いかが?」
「傑作ですよ。こういっては失礼だけど、改めて篠崎先生の力量を見直しましたね」
「でしょう? やはり先生は不世出の大作家だったのよ。誰がなんといおうと……」
女秘書は誇らし気に胸を張った。それは大流行作家の身辺に仕えたことを自慢すると同時に、大作家の豪輔に有能な秘書としての才能を高く評価され、重用された彼女自身を誇っているように見えた。
わたしもまたそのことを認めるに吝《やぶさ》かではない。そして豪輔を失った彼女が今後どんな職場につくであろうと考え、ふみ子ならばどんな困難なポストに迎えられても必ずや見事になし遂《と》げるに違いあるまいと思った。
階下からだしぬけに女の悲鳴が聞こえてきたのは、その一瞬である。はじめは何を叫んでいるのか聞き取れず、ふみ子と二人でイスから立ち上がったまま、顔を見合わせて、凝固した蝋《ろう》人形のようになっていた。
5
「なんていったのかしら?」
「さあ……」
ともかくその切迫した声から判断して徒事《ただごと》でないことは解る。つぎの瞬間、呆然として立っているふみ子を後に、わたしはものもいわずに廊下に飛び出し、階段を走りおりた。
居間からも岩崎探偵と松原虹子、それに井上精二が何事かという表情で首を突き出している。少し離れた田辺の部屋のドアが開いて、タオルを手にしたこの元編集者が半身を乗り出しているのが眼に入った。
「どうしたんです」
「さあ」
「お滝さんの声みたいだったけど」
「お滝さんはたしなみがあるからなあ、蛇を踏んだぐらいであんな悲鳴は上げないと思うな」
階段を降りたところのホールでわれわれは情報を交換し合った。
「たしなみの問題はべつとして、いまの声はまちがいなくお滝さんだと思う」
田辺が近寄って来て意見を述べた。彼はふみ子に視線を転じた。
「ぼくの入浴時間になったのになかなか呼びに来ないんですよ。そこで通りかかったお滝さんに注意したんです、少し長すぎやしないって。そしたらお滝さんが様子を見て来ますからといって浴室のほうへ入って行ったんですよ。だからぼくはタオルを持って待ってるんです」
「すると、いまの声はやはりお滝さんということになるわね?」
「だと思いますね」
彼は頸筋を伸ばして調理室の入口のあたりに眼をやりながら答えた。そこには白いキャップと白い調理衣を着用した三人の女性がたたずんで、心配そうにこちらを見ているが、お滝さんの姿はない。
「田辺さんの前に入浴したのはどなた?」
「並江さんです。体がでかくて洗う面積が大きいから、それで時間がかかるのかと思ったんですが……」
聞きようによっては冗談とも受け取れる発言を彼はした。が、表情は真面目そのものである。
われわれは黙って顔を見合わせるばかりだった。田辺にいわれてそれと判ったのだが、お滝さんばかりでなしに並江千恵子の大柄な姿もない。浴室でなにかが起こったことは明らかだった。
「こうした場合は男が行ってみるのが普通だが、相手が妙齢の女性となると遠慮しないわけにはいかないね。しかも並江くんは素っ裸でいる公算が大きい。後でエッチだの何だのといわれては間尺《ましやく》に合わないしさ」
私立探偵が皮肉混じりにうそぶいた。嫌味といえば嫌味だが、筋がとおっているから女どもは反論することができなかった。
「あたしたちで行きましょうよ」
「でも怖いわ。場合が場合ですもの、エッチだなんていわないから、男のひとにお願いしたいですわ」
ためらいがちに懇願口調でいったのは虹子画伯である。
「ね、お願い」
「でもね、裸を覗かれるのはあなたたちじゃなくて並江くんのほうなんだ。あたしは承知した覚えはないんだよっておこられるのはわれわれ男性ですからね。やはり辞退しよう」
「でも並江さんやお滝さんの身の上には重大な危機が迫っているのよ。いまだに応答がないところをみると、最悪の場合は死んでいるのかもしれないわ。たとい後でおこられることが判っていても、断じて行くのが男っていうものじゃないかしら……」
おだてられたんだか脅かされたんだか知らないけれど、ふみ子にそう口説かれると、われわれが様子を見に行かなくてはならなくなった。お滝さんのもの凄い絶叫から考えれば、浴室では想像を絶するような惨劇が行なわれているような気がして、わたしの足取りは重かった。わたしは元来気の優《やさ》しいたちだから、推理小説のなかで血まみれ殺人が描かれていると、十行なり二十行なりをすっとばして先のほうを読みつづけるのが例なのである。
われわれ四人の男性のなかでは探偵という職業柄か、岩崎が最もしっかりしていた。元編集者も作家志願の文学青年も色蒼ざめて、心ここにあらずといった頼りない顔をしている。二人とも視線の焦点がむすばず、遥か彼方の花の都パリかなんかを望んでいるような目つきである。そして第三者から見たならば、かくいうわたしも似たようなものであったろう。胸中ひそかにヘボ探偵と決めつけ蔑視していた岩崎探偵が、にわかに頼り甲斐のある英雄に見えてきた。逆にいえば、それほどわたしは臆病な男だということにもなるのだけれど、生まれつき血を見るのが嫌いな性格なのだから、虚勢を張っても仕方がないのだ。
浴室はシャワー室の隣りにある。階段の横が電話、その奥がシャワー室。シャワー室に向かって右がトイレで左が浴室である。だから浴室は北に面しており、真冬はさぞかし寒いことだろうと思う。
岩崎が扉を叩いて、「並江さん、お滝さん……」と声をかけているところに、背後からわれわれを掻き分けて二、三人の刑事が進み出た。彼らは閉め切った部屋で再度の捜査会議を開いていたので、お滝さんの声もきわめて小さく聞こえたらしい。
「悲鳴が起きたって?」
「ええ、浴室かららしいんです。なかに二人の女性がいるはずですが」
岩崎が説明すると刑事は返事もせずに、いきなり握り拳で板の扉を叩いた。
「もしもし、もしもし……」
小首をかしげて反応をうかがっている。が、依然として内側から返答はなかった。
「この風呂はプロパンですか」
「はい」
「すると二人とも一酸化炭素で中毒を起こしたのじゃないかな」
「でも、もの凄い叫びでしたわ。今夜は耳について眠れないんじゃないかと思うくらいの……」
刑事はまた以前にもまして激しく扉を叩いた。内側から鍵がかけてあるとみえ、ノブを引いても開きそうにない。
「二人の仲はどうでしたか。険悪ではなかったですか」
この刑事は、千恵子がお滝さんに襲いかかって殺し、その後で千恵子が自殺したか、さもなければ浴室の片隅で身をちぢめ、ふるえているものと考えたらしかった。
「そんなことはないですわ。いってみれば片方は女中さんで片方はお客さんですもの、それほど深い接触はありません」
「そうか。じゃ扉を破るほかはないな」
刑事たちはてんでに腕まくりをした。
6
「お滝さんもお滝さんだ。ただ中の様子を見るというのに、錠をかけなくてもよさそうなものじゃないか」
刑事のなかの一人が口をとがらせた。不平をいいたくなるのはもっともなことだけど、浴室の扉は閉じた途端に自動的に施錠される仕組みなので、こうした面倒な事態が生じたのである。
そうこうしているうちに、腕力に自信のありそうながっしりとした刑事は身構えた。ついで肉体と扉とのぶつかり合う音がした。刑事は興奮した闘牛みたいに荒々しく息を吸い込むと、再度木の扉に挑みかかった。音をたてて鏡板が割れた。
「みんな。後にさがって! 入っちゃいかん!」
ひとりの刑事がわれわれを振り返るとこわもてで注意した。もし彼がわたしを制したのだとすれば、それはわたしを、はなはだしく買いかぶったことになる。好奇心は人一倍旺盛なわたしだが、このときのわたしの好奇心は臆病風に吹きとばされて、跡形もなくなっていたからだ。そしてどうやら他の連中も似たようなものであった。平然としたつらがまえをしていたのは岩崎一郎ぐらいなものであり、さすがまがりなりにも私立探偵をやっている男だけあって、ひと味違うわいと思ったことを覚えている。
三人の刑事は破れた鏡板から浴室を覗き込んだ。出歯亀《でばがめ》氏とピーピング・トム君が勢ぞろいをしたみたいだと考えたのは事件が解決してからのことであり、そのときはそうしたふまじめなことを思う余裕もなく、わたしもみなと同様に固唾《かたず》を呑んで彼らの行動を見守っていた。
浴室はスリガラスの扉で距《へだ》てられている。入浴者はそのガラス扉を閉じてバスを使うのだが、様子を見に行ったお滝さんが半開きのままにしておいたらしく、刑事には浴室のなかがかすかに見通せる。彼らのいっせいに息を呑む気配がし、神経質になっているわれわれは思わず身を固くした。
年長の刑事がハンカチを取り出して内側のノブを引いた。ノブについている指紋はお滝さんのものだから、あんなに慎重にやる必要もあるまいと思ったが、本職ともなるとノブを見た途端にハンカチを引っぱりだすのは条件反射みたいな行動なのだろう。
扉が開けられた瞬間、われわれの眼に現場の全貌がとび込んできた。ガラス戸と浴室の境にあおむけの恰好で倒れているのはお滝さんだ。これは様子を見に来ただけだから和服を着たままである。その奥のタイルの床の上に、それこそ一糸もまとわぬ並江千恵子が白い丸太ン棒のようにゴロンところがっていた。
一人の刑事がお滝さんの脈をとり、ついで瞼《まぶた》を開けて瞳孔《どうこう》を覗き、もう一度入念に脈搏を確かめてから「生きているぞ」と叫んだ。後で判ったことだが、彼女は千恵子が倒れているのを発見し、驚愕のあまり足が滑って、転倒する拍子に後頭部を柱に打ちつけ、脳震盪《のうしんとう》を起こしていたのである。
お滝さんが生きていたというのは朗報だった。が、その後に悲報がつづいた。千恵子の体に触れたべつの刑事は、生きている何らの徴候も発見できなかったからだ。
この浴室はホテルで見掛けるような小さなものではなく、といって西洋風にトイレと兼用したものでもなく、いってみれば普通の民家の浴室に風呂桶のかわりにバスタブを持ち込んだとでもいった和洋折衷のスタイルであった。たくさんの客が来るのだから和風の浴槽では不潔でかなわない。といって息の詰まるようなせまいバスルームはまっぴらだ。そういう豪輔の希望を容《い》れて設計されたものであった。千恵子はその白いタイルの上に倒れていた。しかし奇妙なことに刺し傷もなければ絞めた痕もない。刑事たちは、心臓発作あるいは事故死であろうというありきたりの解釈をくだした。お滝さんのように転んで脳震盪を起こしたのだが、こちらは打ちどころが悪くて息絶えたのではあるまいか、と。
バスタブは左側の壁に寄せられてある。そしてタイルの床をへだてて右手の壁に窓がついている。といってもごくありきたりの、われわれの客室にあるのとおなじ構造の窓であった。鋼鉄の窓枠の内側には掛け金が掛かったままになっていたから、仮りにこれを殺人事件だと考えても、犯人がこの窓から逃げたものでないことは明白だった。
この掛け金は窓のノブを兼ねており、表面にはデコレーションケーキの上に絞り出したクリームみたいな凹凸がついている。それを四十五度にひねると、窓が開くのである。
後刻ひらかれた捜査会議の席上で、もしこれが殺しであるとすれば、千恵子は自分を襲った犯人をかばったのではあるまいか、という意見が出されたそうだ。犯人を逃がしてやった後で掛け金を掛け、力つきて倒れたといった考え方である。だが、窓の下の湿った土にはなんの痕跡もしるされてなく、靴の痕ならともかく、単に葉っぱが踏みつけられているというだけでは断定的な結論が出るわけもない。加えて、出口を固めていた刑事たちは異口《いく》同音に山荘から庭に出たもののないことを断言した。
とするならば、先程たたき破られた入口を通って逃げたとしか考えられないわけだが、玄関ホールに立って睨みをきかせていた刑事は、千恵子の入浴中に入って行ったのはお滝さんただ一人で、浴室から出て来たものはいなかったと述べた。その結果、彼女が殺されたものと仮定した上での話だが、加害者はお滝さん以外にはあり得ないという妙な結果が導き出されてしまったのである。千恵子を殺した後、自分も襲われたように見せかけるために精一杯の悲鳴を上げておき、われとわが頭を柱にぶち当てて脳震盪を起こしたというのだ。それが証拠に、お滝さんは軽症ではないか。そういってこの見解をとる刑事たちは胸を張った。
だがこの説の難点は、お滝さんには千恵子を殺す動機がないことだった。少なくとも、これまで表面にあらわれていた状況から判断した限りでは、彼女を殺人という大仕事に駆りたてるほどの動機はなさそうであった。
一方、病院で意識をとりもどしたお滝さんは、自分が浴室を覗いたときすでに千恵子はタイルの床に引っくり返っていたと語った。彼女にとって、それを信じさせるに足るデータのないことが不運というべきであった。
被害者の千恵子は、ふみ子が持って来た新品のシーツを頭からかぶされたままで、しばらく現場に横たえられることになり、「それじゃあんまり可哀相ですわ、せめて寝室のベッドに移してあげなくては……」といった虹子の懇願も無視されてしまった。しかしこれは女性特有のセンチメンタリズムにすぎない。軽井沢署の嘱託医が到着するまでは指を触れてはならぬこと、論を俟《ま》たないのである。
殺人か事故死かは判らないがとにかく大事をとって、というわけで一同はまたまた一室に監禁されることになった。
警察医がやって来たのは事件が発生して正味三十分の後であった。開業医なのか病院勤務なのか判るわけもないのだけれど、あたふたとおっとり刀で駆けつけたところからみると、よほど暇な医者らしいというのがわれわれの一致した感想だった。売れない芸者のもとに久々で声がかかり、三味線かかえて嬉々として置屋を飛び出して行く姿を、なんとなく連想したものである。
その医師が肥っているのか痩せているのか、美男子なのかブオトコなのか、ひとつ所に監禁されているわれわれには判らなかった。が、ひどく元気のいい男であることだけは想像できた。彼の刑事を相手に喋っている大きな声が、開けた窓をとおして筒抜けに聞こえてくるからである。
そのなかで一同に聞き耳を立てさせたのは、つぎのような発言であった。
「……連続殺人のあとだからこれもまた殺人だと思いたがるのは無理もないが、そうではない、明らかに心臓麻痺ですよ。この人、ふだんから心臓が悪かったんじゃないの?」
これに対して刑事が応答している様子だが、その声は聞こえない。
「徹夜という肉体的な疲労に加えるに、連続殺人のショックと恐怖が彼女の心臓に限界以上の負担を与えたんですな。こういうときは平素心臓に異常のない人でもこたえる。熱い湯に入ったり冷たいプールに飛び込んだりすると、一巻の終わりということになりかねない。もちろん、解剖しなくては正確な答は出せんがね」
その会話は監視の刑事の耳にも聞こえているはずである。六人の虜囚《りよしゆう》がいっせいに刑事の顔に視線を向けた。
「ショック死だといってるじゃないか、さっさと解放したらどうだね」
十二の眼がそう語っている。だが、鬢《びん》の毛の白い初老の刑事は無表情の顔でわれわれの抗議を黙殺した。
十 無目的殺人
1
千恵子の遺体が搬《はこ》び出されていくのを、われわれはポーチに立って見送った。他の連中はどう思ったか知らないが、わたしは彼女の死を悼《いた》むよりも、送る側のメンバーの減ったことに感慨を覚えていた。会話もままならぬほど声高に蝉が鳴いているというのに、わたしは胸のうちを吹き抜ける秋風を聞いたような気がした。そしてわれに還《かえ》ると、千恵子の死が事故によるものか、それとも一連の殺人事件の犠牲者の一人であるのかということを考えた。考えたところで答が出るわけでもなかったが。
千恵子の遺体は例によって松本市まで搬ばれて、そこで解剖に付された。われわれ素人は軽井沢の病院でやれば手っ取りばやいのにと思うのだが、司法解剖ともなるとそう安直にはいかないらしい。そんなわけで時間もかなりかかる。
その間をボンヤリと手を拱《こまぬ》いているわけにもいくまいから、本部側は千恵子が殺されたという想定のもとに、われわれを個別に呼び出して事情聴取を行なった。わたしにしても他の連中にしても表情にゆとりがあったのは、これが四回目なので場慣れがしていたことと、もう一つは千恵子の死が過失であるかもしれぬ、という考え方が支配的だったことに依《よ》るものであったろう。殺人となれば身辺に忍び寄る危険を感じて神経質になるが、いきなり熱湯の浴槽に入った、もしくは、急に冷たい水を浴びたためのショック死ということであれば、彼女の不運に同情する気は生じても、われわれは唇の色を真っ白にする必要はない。
訊問室に当てられたのは前回とおなじ撞球《ビリヤード》室で、最初に呼ばれた井上青年なんぞは何に浮かれたのかスキップしながら戻って来たほどである。わたしは三人目だったが、課長の質問の内容は、千恵子が入浴中はどこにいたかという簡単なもので、それに対してわたしは苦もなくアリバイを証明することができた。
「じつをいうと二階にいたのですよ」
「二階に? 上がってはいけないことになっているんですがねえ」
と、課長は意外におだやかな調子で問い返した。
「これは野川ふみ子さんが好意で連れて行ってくれたのですから、彼女を詰問しないでいただきたいのですが、あそこに篠崎先生の未発表の作品があるというので、原稿のコピーを読ませてもらったのです」
「どうも雑誌関係の人は原稿というと眼の色を変えるからね」
処置なしといった口調でふっとうす笑いを浮かべたものの、べつに叱言《こごと》はいわれなかった。わたしは揉み手をしたい心境だった。これがもとでふみ子が立入禁止区域へ侵入したことを難詰され、ヒステリイを起こした彼女がわたしに対して遺稿提供を思い止まる、とでもいうような次第になっては困るのだ。
「……そういうわけですから、どうかあの人を責めないようにしていただきたいですな。もし彼女から篠崎先生の遺稿をもらえないとなると、今度はわたしが編集長からクビを宣告されます。並江さんの事件に関係ないことはお判りになったと思いますが、とにかく二人ともずっと二階で……」
コピーを電話で送稿してしまった後なら彼女がヒスを起こそうが起こすまいがどうということもない。が、いまのわたしの作業は原稿を読み終えた段階で中断されたままなのである。だからわたしは懸命になって課長を口説いた。
「いや、その点は了解ずみです、心配せんでよろしい」
「どうも」
「ところで野川さんは終始一貫して二階にいましたか」
「彼女が怪しいとおっしゃるのですか」
気色《けしき》ばんで反問するわたしに対して、課長は鷹揚《おうよう》に首を振ってみせた。
「特に野川さんが怪しいというわけではない。ですがね、これがもし殺しだとすると、犯人は浴室に入って行って、並江さんの心胆《しんたん》を寒からしめるほどの恐怖を与えたことが考えられるのです。しかしですよ、もし侵入者が男だったら、何はさておき並江さんは悲鳴をあげて助けを求めたのではないか。ところが彼女は黙っておとなしくショック死を遂げている。当然、入って来たのは同性であることが想像されるのではないですか」
「その考え方にはわたしも同感ですが、野川さんは最初から最後まで二階にいましたよ。わたしの傍《そば》でなにか雑用をしていました。机の上を整頓するとか、書棚のほこりを払うとか……」
「あなたが夢中で原稿を読んでいるあいだに下に降りた、ということは考えられませんか」
わたしはかぶりを横に振ると、彼の疑惑を強く否定した。階下にいたほかの女性たちのことは知らないけれど、こと野川ふみ子に関する限り、彼女のアリバイは百パーセント完璧なのである。
「そういえば篠崎さんが殺されたときも、あなた方はドライブに出ていたというアリバイをお持ちでしたな」
課長は何気なくいったつもりかもしれないが、わたしにはなにか含むところでもあるような、奥歯にものがはさまったみたいな発言として受け取れた。
「……さらにいえば、めぐみさんが殺されたときにもあんたにはアリバイがあった。あなたはすべての事件をつうじてシロです。園田氏が毒殺された際も、飲み物にタッチしなかったのはあなただった……」
「だから怪しいというわけですか」
「だから怪しくないというわけです」
お互いにちょっと気色ばんだ恰好で眼を見合わせた。寝不足の課長の眼が充血しているのが妙に印象的だった。だが鏡を覗いたならば、わたしの眼だってそれに劣らず赤かっただろう。
「……ほかに何か」
「そう、いや、さし当たってこの程度で結構です」
課長が手を挙げて合図すると、控えていた若い刑事がドアを開けてくれ、つぎに私立探偵を呼びたいのだが伝えてもらえまいかと頼まれた。わたしは承知した旨《むね》を答えて廊下に出た。文学青年のように弾《はず》んだ足取りになることはなかったものの、緊張から解放されてホッとしていたことは確かである。
考えるまでもなく事件はまだ解決したわけではない。正体不明の犯人は依然として大手を振って闊歩しているのであり、並江千恵子の死も事故に依るものではなく、彼あるいは彼女の手にかかって殺されたのかもしれなかった。仮りに彼女の死は殺人によるものではなく事故であったとしても、彼あるいは彼女の殺人計画がそれで終わったものと断定するわけにはいかないのである。つづいて次の犠牲者が出ないものとは限らない。
それやこれやを思い煩《わずら》っていたので、部屋に戻ったときのわたしは深刻な顔つきをしていたとみえる。眼ざとく虹子とふみ子が気づいて心配そうに寄って来た。
「きびしい訊問でしたの?」
「そうじゃないです。オーバーにいえば拍子抜けするほどあっさりしたものでした。質問にも……」
「質問がどうしたのよ」
「いままでのように迫力がないんです。本来ならば眼を吊り上げて畳み込んでくるはずですがね」
思ったとおりのことを口にした。事実、課長の訊問は生《なま》ぬるいと感じられるほどで、いままでの峻烈な調べ方をした彼とは別人のようであった。ひょっとすると犯人に翻弄《ほんろう》されて手も足も出なくなり、投げてしまったのではあるまいか、と思ったくらいだ。
「つぎは誰かな」
私立探偵がどうでもいいような訊き方をし、それでわたしは忘れていた伝言を思い出した。
「あんたの番ですよ」
と、わたしは答えた。
2
全員の事情聴取はスムーズに進行して一時間足らずのうちに終了した。質問の内容があっさりしていたことも短時間で終わった理由の一つであるが、もう一つは、それだけメンバーの数が減ったためであった。
われわれが訊問を受けているあいだも、浴室の現場検証は行なわれており、廊下を覗くと、忙《せわ》し気に出入りする係官の姿が見えた。しかしそれも事情聴取と前後して完了したらしく、やがて係官が車で帰って行く音が聞こえた。暮れるのが遅い夏の宵《よい》ではあったが日はとうに沈んでしまい、手洗いに行ったついでに外に眼をやると、遥か南の空で蒼い稲妻が光っていた。隣りの上州では毎日のように名物の雷が鳴っているのである。
遅い夕食は、意外なことに食堂でサーブされた。徹底的な検証をしてしまった以上、もはや立入りを禁止する意味がないと判断されたのだろうか、食堂は開放された。が、園田団平が倒れた床の上には、白墨《チヨーク》で人型《ひとがた》が描かれたままになっていた。行楽地をジュースの空瓶やビールの空缶で汚す観光客のことがしばしば非難され、若者のマナーの欠如が問題にされている。その伝でいえば鑑識課員にも、チョークの痕を消すぐらいのマナーがあって然《しか》るべきではないか。
「なにを考えていらっしゃるの?」
振り返ると、ふみ子の白くて小さい顔があった。ポニーテイルの髪、ピッタリとフィットした黒のスカート。白いブラウスには金色のロケットが息づくたびにキラリと光る。
「深刻な顔をしていたわよ」
「そうですか。べつにそれほど重大なことを考えていたわけでもないですが」
見廻すと食事のチャイムに誘われてやって来たのはわれわれ二人きりである。聴覚が鋭いといえば褒めたことになるし、喰い気が旺盛だというとけなしたことになる。彼女はともかくとして、わたしは後者だ。片端《かたはし》から仲間が殺されていくばかりでなく、いつ乃公《だいこう》も命を奪われるか判ったものではないという場合であるのに、食欲だけがますます盛んになってくるのはわれながら妙だ。まさか、今生《こんじよう》の名残りに喰い溜めをしておこうというわけでもあるまいに……。
「皆さん遅いわね。どうなさったのかしら」
「眠っているのじゃないですか、なにしろ神経がくたくたになっているから」
「無理ないわね。もう一度チャイムを鳴らさせたほうがいいわ」
言い捨てておいて廊下へ出て行った。その後ろ姿を見送っていたわたしの視線は、彼女が視界からはずれてしまうとあらたな焦点を求めて食堂のなかを見廻して、ふたたび床に白墨で引かれた線の上へ落ちていった。するとそこに、手脚を不自然にひん曲げて横たわっていた園田団平の姿が焙《あぶ》り出しのように浮かんでくるのであった。
あの陽気で出しゃばりでお喋りで、つねに一同の注目を浴びていなくては気がすまない自己顕示欲の強い男が、あんなふうにあっさりと退場していくとは予想もしなかったことだけに、こうして現場に立っていると、どこかから彼の野太い声が聞こえてきそうな気がしてならない。それにしても、彼を毒殺したやつはそも誰なのか。
その後耳に入った情報では、珈琲《コーヒー》のなかには青酸化物が混入されていたらしいということだが、投毒したのはいつだったのだろうか。いつということが判れば犯人の正体もおのずと判明してくるはずであり、犯人の正体が割れれば投毒した手段も判るはずだ。だがどちらか一方が明らかにならない限り謎が解けるわけもなかった。
わたしがわれに還ったのは、このときホールで電話のベルが鳴ったからである。ちょうど食事の仕度で人々がてんてこ舞いをしている最中で、誰も応答する様子がない。やむなくわたしがホールに出て受話器を取った。
「篠崎先生のお宅でしょうか……」
「はい。篠崎家ですが」
「出版社のものです。野川ふみ子さんを出してくださいませんか」
「ちょっとお待ちを……」
はて、どこの社だろうかと考えてみた。本来ならまず悔《くや》みでも述べたらよさそうなものなのに、それを省略していきなり女秘書を呼べという。その、いささか高姿勢な点が気にかかった。この社も、豪輔が生きていた時分は腰を低くして、ひたすら揉み手をしていたはずなのである。
「いま呼んできます」
受話器を置いてから急ぎ足で調理室まで行って覗いてみた。ふみ子はこちらに背を向けて台秤《だいばかり》の上にかがみ込み、しきりにバネの調節をしているところだった。
「あら。秤の工合がわるいといわれて調べているのよ」
「電話ですよ、出版社から」
「きっと先生の全集を出させてくれという依頼だわ。さっきもかかってきたの。でも、そう簡単に決められる問題じゃないでしょ。義理のある出版社は断わりにくいし、といって、刷り部数の多い出版社にも食指が動くし」
豪輔が死んだからといって、彼女が仕事から解放されたことにはならない。残務を整理して、地方に住んでいる豪輔の兄弟にバトンタッチするまでは女秘書をつづけなくてはならぬのだそうだ。
ふみ子は階段脇の電話へ出た。
食堂に戻ってみると私立探偵がすわっていて、わたしと顔が合うと黙ってうなずいてみせた。その眠たそうな顔は、不吉なことばかり起こってやり切れないなといっているようでもあるし、腹が減ったなと語っているふうにも思えた。わたしも目礼を交わすと、少し離れたイスにすわった。
わたしはふみ子の電話が気にかかっていたのである。はっきりいえばこっそりと盗み聞きしたかったのだ。岩崎探偵のくだらぬお喋りで邪魔されたくなかった。相手はどこの出版社なのか。用件は全集の発行についてなのか。できればこの企画はわが社の「いただき」としたいところである。
さあらぬ体《てい》で耳をすませると、ふみ子の応答はいつになく迫力を欠いていた。「ええ」とか「はあ」とか相槌を打つ程度で、それもそう長くはつづかなかった。最後に「わたくしの一存ではどうも……。先生が亡くなられたいまとなっては、お兄さんや弟さんの意向をお聞きしてみませんと……」といった歯切れのわるい返事をして通話を終えた。いまの一言から判断すれば、やはり全集の申し入れのようである。ふみ子が入って来たらさっそく問い質《ただ》してみよう、と思った。そしてわが社のほうでも早急《さつきゆう》に対策を練って、受け入れ態勢をととのえる必要がある。
ふみ子が受話器を置くのを待っていたようにチャイムが鳴り出した。そして今度はたちまちのうちに全員が食堂に集まって来た。ふみ子が少し遅れて現われたときは、全集の件でこっそり密談を交わすような雰囲気ではなく、残念ながらまたの機会を狙わなくてはならなかった。それにしても化粧を直して来た彼女の美しさはどうであろうか。わたしもそろそろ年頃(!)だから社内結婚しようかと思い、それとなく物色しているのだけれど、電話の交換嬢を含めてわが社の女性にわたしの食指を動かすような美形はいないのである。ふみ子がうちの社員だったら、わたしは頻繁に食事にさそい、そしてしげしげとプレゼントをするだろうに。
「いやだ。あたしの顔にごはん粒でもついていて?」
よほどじっと見つめていたのだろう、そう声をかけられてわれに還った。今度はわたしがみんなの視線を浴びる番になり、付け文している場面を教師に目撃された高校生みたいに顔を赤らめた。
調理場の女性たちが席についたのを機に、食事が始まった。千恵子、団平、めぐみに加えてお滝さんの姿もないから、カビの生えた比喩を用いれば櫛《くし》の歯の抜けたようで、そのせいか会話がはずむこともなく、陰々滅々というほどではないにせよ、いままでになく静かな食事風景であった。空腹だったはずなのに、そして夏向きの柳川《やながわ》鍋というわたしの好物が出されたのに、大して旨いとも感じなかった。ただ一同のなかで比較的によく喋ったのは田辺義夫で、痩せて肉のそげた頬の辺りにときには微笑を浮かべ、ドジョウをどうやって取り寄せたかとか、篠崎豪輔はドジョウ汁が好きだったとか、駒形をコマカタと澄んだ読み方をすべしという意見があるが浅草っ子はコマガタと発音しているとか、元来が能弁ではないから立て板に水というふうにはいかないものの、訥々《とつとつ》とした口調で語りつづけた。
珍しいことだな、とわたしは思った。先頃課長から、団平殺しの容疑の濃いのはお前だと指摘され、それ以来ずっとふさぎつづけふくれつづけていた田辺なのである。今度の連続殺人でこの若者ははしゃいだり怒ったり、笑ってみせたり拗《す》ねてみせたり変幻《へんげん》極まるところがなく、わたしはこの男の性格が機嫌買いではないかと思っていた。機嫌買いというのは東京の方言であるかもしれないが、気分屋とでもいえば判ってもらえるだろうか、朗《ほが》らかになったり憂鬱になったり、カメレオンのようにしょっちゅう気分の変化する人間を意味している。いうまでもなくあまり自慢になる性格ではない。
このときふとわたしの頭をかすめたのは、千恵子が死んだことが彼のふさぎの虫を追い払ったのではないか、ということだった。
千恵子の入浴中に現場へ出入りしたものはいない、という刑事の証言がある。これによってお滝さんを除いた全員の疑惑が一掃されたわけだが、これを百パーセント信じてよいかということになると断定的なことはいえなかった。その刑事も、ロボットではなくて生身《なまみ》の人間なのだから、鼻のまわりに虻《あぶ》が飛んで来るとか、調理室の窓から若い女の子がチラリと顔を見せたとかいったことでそちらに気をとられ、監視がおろそかになった一瞬がないとはいえない。だからわれわれに向けられた嫌疑が徹底的に払拭《ふつしよく》されたとは断言できないのだけれど、元編集者の田辺だけは完全にシロとなった。園田殺しの容疑がきわめて濃厚だったために、彼は一貫して刑事の監視下におかれていたからアリバイは文字どおりに完璧であり、その証人は最高に理想的なものであった。いま彼がはしゃいでいるのはその反動に相違ないのだ。
3
田辺の独演会の感があった食事も終わり、人々はいったん席を立つと、思い思いの場所に席を変えた。といっても、大半のものがニュースを見ようとしてテレビの前に移ったのである。
「弱ったな、葉巻を切らしてしまった。買いに行きたくとも外出は禁じられているし……」
こぼしているのは私立探偵だ。わたしは喫煙の習慣がないからどうということもないし、はなから泊まり込みのつもりでやって来た連中は数日分のタバコを用意しているから問題はない。が、彼のような風来坊にしてみれば余分のストックがあるわけもなく、慌てざるを得ないことになる。
「……そうだ、野川さん!」
お茶を飲みかけていた女秘書はびっくりした顔で私立探偵を振り返った。
「篠崎さんの買い置きがあるんじゃないですか。そうだとすれば、あの人はもう必要とする状態にはないんだから、二、三箱融通してもらえんですか」
「そうね、不便なところだから買い置きはあるわ。それをお頒《わ》けしてもべつに差支えないでしょうけど、一応は課長さんにお訊きしてみないと何ともいえないわよ」
「ま、なるべく早く願いたいですな。さっき最後の一本を灰にしてしまったもんでね。あたしゃ食後となると猛烈に吸いたくなるんですよ」
「でも、先生が喫《の》んでらっしゃったのはタバコなのよ、シガーではなくてシガレットなの。専売公社が輸入して国内販売をしている品なんだけど、それでよろしくて?」
「ありゃ」
と、探偵は肩を落として吐息した。
「ないよりはいいですが、タバコというやつは軽くてね」
「口から煙を出すんだから同じことじゃないの。お茶を飲み終わったら訊いてきてあげる」
そう答えておいて、テーブルに置いた湯呑みを取り上げた。が、彼女が私立探偵との約束を実行しようとしてイスから立ち上がりかけたときに、事態が一変してしまい、タバコを取りに行くことができなくなってしまった。
「皆さん、夕めしはおすみのようですな」
びっくりして入口を見ると、課長が入って来たところだった。後ろに、例の鬢の毛の白い初老の刑事や監視を担当した軽井沢署の若い警官たちをしたがえている。ほかに二、三人の刑事がつづいていたが、それは初めて見る顔であった。わたしは一座をそっと見廻してみる。ふみ子も虹子も、文学青年も私立探偵も何事ならんという表情で一言も発しない。そのときまでテレビの前で松原虹子を相手に挿絵画家の噂話に興じていた元編集者も、こわばった顔で闖入《ちんにゆう》者の一行を見つめていた。
捜査官たちはわれわれのほうは意に介さずに、空《あ》いているテーブルを見つけて小型のカセット録音機みたいなものをセットすると、刑事の一人がコードを引っぱって先端を壁のコンセントに差し込んだ。そのほかにも彼らはさまざまなことをした。一切は無言のうちに行なわれ、これからここで何事か始まりそうなことはその気配で察しがついたものの、それがどんなことであるかは見当もつかなかった。質問をしようにも刑事たちの表情は固く、しかも素っ気なくて、海千山千の私立探偵ですら黙って見守っているだけだった。
その作業を、黙々と眺めているもう一人の男がいた。邪魔にならぬよう壁際に立っている課長は、黒く陽やけした精悍《せいかん》な顔を一段と引きしめて、わたしの位置から見るとストイックな行者《ぎようじや》のように思われた。彼はなにやら重大な決意を秘めているようであり、そしてそれが成功するか失敗するかを計りかねて、胸中に不安を抱いているようであった。
作業はテキパキと進められて数分間で終わった。初老の刑事がそれを告げると課長はちょっと頷いたきりで、返事をしなかった。そしてやおら食堂の中央まで進み出ると、かるく咳払いをした。どうやら彼もひどく緊張している様子だ。
「お手数だが向こうのテーブルに移っていただきたいのです」
「…………」
「九時になると電話がかかってきます。受話器を取らなくとも、その声は増幅されて諸君に聞こえるようになっている。同時に諸君の声も、送話器なしで先方に届くようにしてあります。つまり、すわったままで対話ができるわけだ」
われわれは唖然としたまま顔を見合わせた。相手は誰で、何を聞き何を語れというのだろうか。そしてその目的は何なのか、さっぱり呑み込めないのだ。
「説明を願いたいですな。場合によっては協力できかねることもあるんだから」
強い口調で私立探偵が抗議を申し入れた。両手をズボンのポケットに突っ込み胸を反《そ》らせて、ちょっとしたナポレオンみたいである。
「連続殺人の犯人を発見するためですよ」
「……?」
「われわれ警察官は現実的な殺人事件には慣れているし、それなりの検挙率を上げています。しかし今度のような事件はべつです。誰が犯人なんだか動機は何なのだか、まるきり見当がつかない。そこですすめる人があって、東京にいるある名探偵に知恵を借りることになったんです」
一同身じろぎもしないで聞いていた。なにしろ話の内容が意外でありすぎる。
「そのかわりこの人はタタキだのノビだのといった荒っぽいヤマは苦手《にがて》だ。というよりも全然手に負えないのです。われわれとちょうど逆でね」
当局の存在理由をPRしておいて、話の先をつづけていった。
「名探偵といっても本職はまったく畑違いの貿易商で、しょっちゅう世界各地を飛び廻っている。まさしく席のあたたまる暇がないという人です。じつは明日の朝カナダへ向かうという多忙な方ですから、顔をつき合わせてじっくりと話をしたり聞いたりというわけにはいかない。そこでこういう手段に出たわけです。ただし与えられた時間は三十分ですが」
「だがねえ課長、事件の発端からくどくどと説明していたんじゃ時間がかかってかなわないですよ」
岩崎探偵は依然として反り身になったままである。
「そうじゃない。そんな無駄な時間はとらせんです。星影《ほしかげ》さん――星影|龍三《りゆうぞう》さんというのがその方の名なんですが、星影さんは昨日までの事情聴取のデータに眼をとおしています。だから、ほんの若干の補足的な質問をするだけでいいといっておいでなんです」
調書に眼をとおしたといっているが、実際は録音テープを持って行ったか、そうするだけの時間がなければ電話で読んで聞かせたのではないか、とわたしは想像した。
課長は太い手首にとぐろを巻いている頑丈そうな腕時計にチラと眼をやると、早口になって一同をせきたてた。
「さ、時間です、すわってください。松原さんに野川さんは正面がいいでしょう、話がよく聞こえますから。男性諸君は、そう、そっちの端から順に……」
こまごまと指示をして、さて一同が席についてイスの音が静まるのを待ってから、腕時計に目をおとし、ついで壁の時計を見やった。彼の緊張が伝染したように、われわれも固い表情になって、黙々として課長の動きを追っていた。
〈読者諸氏への挑戦〉
ここでページを伏せて、犯人を推理してください。いくつかの殺人事件が起こりましたが、もちろん、どの殺人にも確たる動機があります。無目的な殺人などあり得ないことは、文中で課長さんが述べたとおりです。
作者はあくまでフェアプレイの精神にのっとって、筆をすすめてきました。解明の手がかりとなるべきデータも、惜し気なくばら撒《ま》いてあります。犯人は一人。共犯者なし。あなたが少し注意深く読みさえすれば、動機もトリックも見破れますし、犯人の正体に肉迫することも困難ではありません。
あなたにとって、次章が無用のものとなることを祈ります。
十一 真 相
1
星影氏の声は歯切れがよく、ちょっといぶし銀のような渋味《しぶみ》があって、上品な感じだった。
気むずかしい人だからそのつもりでと前もって注意があったとおり、言葉の端々に癇《かん》の強そうな響きがある。
耳ざとくそれに気づいたときのわたしは、こうした神経質な亭主を持った細君はさぞかし気苦労をさせられることだろうと思った。彼が独身か妻帯者かも知らないのに、まず夫人に同情を感じたのはわたしがフェミニストのせいだろう。
「全員そろっております。さっそく始めていただきましょうか」
課長は腫《は》れ物にさわるような口調でプレイボールを宣した。
「よろしい」
と、遥か東京の声がうなずいた。防音装置のある部屋――わたしはレコードを聞いたりピアノを叩いたりする音楽室にすわっている姿を想像したのだが――にいるとみえ、アナウンサールームで喋っているように反響がなく、いわゆるデッドな音に聞こえた。それがこの人を情け容赦《ようしや》のない、クールな性格の持主であるように印象づけていた。
「よろしい。では最初にうかがうが、第一の事件が起こる前の、並江千恵子君がドライブに行くつもりでテラスに出たときのことを、思い出していただきたい。あのときの彼女がどんなポーズをとっていたか記憶にありますか」
「ありますわ」
と、ふみ子が即答した。
「足を踏ん張って左手をおでこに当てて、なにかこう眩《まぶ》しそうな様子でしたわ」
「それに、右手を腰に当ててちょっと傲慢《ごうまん》なポーズをとっていましたね。わたしは、学童を叱《しか》っている女教師といった連想をしましたから……」
「なるほどね」
と、声がうなずいた。
「そのときの並江君はサングラスを掛けていたはずではないですかね? 夏の午《ひる》さがりをドライブするにはサングラスは必需品だから」
「思い出しましたわ、たしかに掛けていました」
「とするならば、左手を額にかざしたのは陽をさえぎるためではなかったことになる。サングラスを使用していれば眩しいわけはないのだから」
「はあ……」
頭の回転のはやいふみ子が早くも一本取られた恰好である。おそらくその瞬間に全員が、これは並ならぬ相手だぞと感じて、一段と身が引きしまる思いを味わったのではないだろうか。
「こうなると左手を額にかざしたのは無意味な行為に思われる。しかし当たり前の頭脳活動をいとなんでいる人間は、たとい無意識に行動するにしても無意味な動きはしないものだ。では彼女がなぜ左手を額にかざしたのか。これはぼく流の解釈であって当たっているか否かは判らないが、ぼくは、この星影龍三はこう考えた。左手を意味あり気に額にかざしたのは、右手をさりげなく腰に当てたことを気づかれまいとしてではないのか……」
ちょっと話が途切れた。星影氏は聞き手に思考する時間をくれたつもりなのだろうが、わたしはまったくべつのことを考えていた。とんでもないときにフルネームをひらひらさせるこの人、案外自己顕示欲の強い仁《じん》ではあるまいか……。
「……ここでぼくの想像力は一段と飛躍をする。移り気のヒステリイ女ならともかく、ごくまともな女性である彼女が急に気を変えて外出を中止した理由はここにあるのではないか。そのために彼女は腰に手を当てたのではないかとね。では、ドライブを思い止まらせた事態を招き、しかも腰に手を当てることで一時的に糊塗《こと》できるのはいかなる場合であろうか」
いかなる場合などとは勿体《もつたい》ぶった表現をする男だ、とわたしは思う。「どんな場合」とでもいったらいいじゃないか。
「田中君!」
「は? はあ」
虚を衝《つ》かれたわたしはアワを喰って、いささか間延びのした返事をした。
「きみはどう思うかね?」
相手かまわず質問を発することによって、終始全員の注意を引きつけておくのが彼の狙いであったのだが、このときはそこまで見抜けるわけがない。
「つまりですね、なんというかその、つまり……」
「つまるところ判らないというわけですな、よろしい。ぼくはね、こう考えた。腰に手を当てることによって防げるものはただ一つしかない、パンティのゴム紐が切れたときだ、とね」
誰かがプッと噴き出した。と、星影氏の口調が途端に鞭《むち》打つようにきびしいものに変わった。空気を切るピシリという音が聞こえたような気さえした。
「笑ったのが誰だか判らないのは残念だが、最終的に笑われなくてはならないのはきみのほうなんだぜ。誰か、そちらの席に誰か女の方はいませんか。野川さんや松原さんでもいいんだけど、できれば山荘の従業員がいい。入院していなければお滝さんが理想的なんだがね」
一座のものが眼の前にいるように、それぞれの名を混乱することなく挙げるのを聞いて、改めて頭の冴《さ》えた男という感じを受けた。
「あたしじゃどうかしら。賄《まかな》いを担当している広岡《ひろおか》です」
「結構です、広岡君。刑事さんと一緒に並江千恵子君の部屋に行って洗濯物を調べてくれたまえ。ゴム紐の切れたパンティがあるはずだから。運が悪ければ捨てられて焼かれてしまったかもしれない。しかし、ゴム紐が切れたというだけで捨てるわけもあるまいから、汚れ物のなかに突っ込まれているか、すでに洗濯されているに違いない。ぼくはそう考えて楽観しているのだがね」
「判りましたわ、刑事さんお願い」
三人いる刑事のうちで最も若い男がものもいわずに立ち上がると、つき添って出て行った。残された連中は、わたしをも含めて言葉もなく押し黙っていた。並江千恵子のテラスで示した異常な行動が苦もなく解明されたことに、わたしは一種の爽快感をすら味わっていたのであり、他の人々も似たような心理状態にあったのではないかと思う。
「さて、いまの返事を待っているわけにはいかないから話をすすめる。そうだ、通話を長引かせずにすむように、最初に犯人の名を明らかにしておこう。多分、諸君は納得できなくてつぎつぎと疑問をぶつけてくるだろうから、それに一つ一つ答えることにする。いいかね?」
われわれは互いに顔を見合わせた。大半のものが、まるで自分が犯人であるかのように緊張した表情を浮かべている。
「都合四つの連続殺人が起こったわけだが、四つの事件をとおして犯人は一人だ。単独犯行であって共犯はいない……」
わたしは星影氏のこういった発言をにわかには信じられなかった。わたしばかりでなしに、犯人を除いたすべてのものがとまどった思いだったことだろう。この篠崎山荘の殺人事件の特徴は二つある、とわたしなりに考えていた。動機が不明なことがその一つで、たとえばめぐみがなぜ殺されなくてはならなかったか、食堂における無差別殺人の狙いはどこにあったのか、その理由がどう頭をひねってみても浮かんでこない。
そして第二の特徴は、四つの事件をつうじて一人の犯人に依る犯行は不可能であるということにあった。手っ取り早く例を挙げると、豪輔殺しの場合、山荘内もしくはその近くにいた虹子にはチャンスがあったわけだが、その虹子は団平殺しのときには砂糖にもカップにも触れていない、といった按配《あんばい》だ。おなじことが全員についていえるのである。にもかかわらず星影氏は、同一犯人による単独犯行であるという……。
「では犯人の名を明らかにしようかね」
星影氏が淡々とした調子でいい、一同は息をひそめてスピーカーを見つめた。
2
廊下を走る足音と共に、賄いの女性と刑事が戻って来た。
「ありましたわよ。やはりゴム紐が切れていました」
「そりゃよかった。ご苦労さん」
と、星影は短くねぎらった。
「刑事君が諸君に向かって、篠崎殺しの起こったとみられる午後の一時四十五分から五十分にかけてどこで何をしていたかと、訊ねたことがある。そのとき、並江君はプライバシーを覗くとは無礼ではないかと怒ったそうだが、多分、パンティを穿《は》き替えていたのだろうな。咄嗟《とつさ》に適当な嘘をつくことができなかったので怒ってごまかしたものと思う。さてこれから犯人の名を発表しようとしているところなのだ、広岡君もイスにかけてください」
いままでのいきさつを聞いていなかった両人は、いささか面喰らった顔つきでいわれたとおり腰をおろした。特に彼女のほうは度胆を抜かれたとみえ、まるで視力を失くした人のように、手さぐりですわるといったていたらくである。
「いいかね?」
と星影氏が念を押した。女流画家が黙ってこっくりをしている。あとの連中は返事をすることも忘れてイスのなかでひたすら身を固くしていた。
「それでは指摘しよう。篠崎君を殺し、めぐみ嬢を殺し、園田団平君と並江君を殺した犯人は、そこにすわっている野川ふみ子君なのだ」
「そんな! ……」
私立探偵の岩崎一郎にとっても予想外だったのだろう。ひとこと叫んだきり後がつづかない。しかし野川ふみ子の名のかわりに画家の松原虹子の名を挙げられても、元編集者の田辺義夫の名を挙げられても、あるいはわたしが指名されても、この私立探偵は「そんな!」と抗議をしかけ、そして絶句したことだろう。
「でも、そんなことってあるでしょうか。篠崎さんが殺されたとき、野川さんはドライブに出ていらっしゃったんですのよ」
虹子が無理に抑えたような静かな声で反論した。こんな明白なアリバイのある人に対して、なんと頓馬《とんま》なことをいうのか。
「そこがこの事件の重大なポイントなのです。野川君が作家を殺したのはドライブに出かける前のことなのですよ。ということはつまり、田中君にテープに口述した小説の清書をさせた直後に、当の作家先生はすでに屍体となって仕事部屋の床に転がっていたのです」
フェミニストというのか女に甘いというのか、それとも紳士というのは元来そうしたものなのか、星影氏は女性に対しては親切であった。一転して言葉遣いが丁寧になる。口調がぐんと優しくなる。
「だが、熟練した専門家が屍体を見れば、ドライブに出る前に殺されたのか、出た後で殺されたのかということは、時間の経過によって生じる屍体の変化から、ある程度識別がつくものです。それを狂わすために室温を上昇させることが必要であった。これが原稿用紙を焼いた理由です。夏場ですから、ひと束の紙を燃やしただけで室温は上がります。単に部屋の温度を上げるためならば手当たり次第に紙をぶち込めばいいわけだが、彼女は園田君の原稿も燃やした。園田団平君の翻案原稿も焼けば同君に疑惑の眼を向けさせることができる。それが狙いなんです。そこが野川君の頭のいいところなのですよ」
ふみ子の顔をチラと盗み見たが、彼女は表情一つ変えることがなく、冷静そのものだった。反対に周囲の連中が熱くなっている。
「しかしですね、篠崎さんがドライブに行く前にすでに殺されていたという説には、すなおに同感できないのです。田中さんが手伝ってテープの原稿を清書したことはご承知だと思いますが、野川ふみ子さんは、その清書した原稿を篠崎氏の仕事部屋にとどけておいてから、ドライブに出たのですよ。篠崎氏はその後で原稿に朱を入れた。それが篠崎氏の筆蹟であることは、鑑定の結果はっきりしているんです。このことから見ても、篠崎さんは野川さんがドライブに出発した後まで生存していた、生きていて原稿に朱を入れたことは明白です。したがって、何の疑問も生じる余地なしに、野川さんのアリバイは成立するではないですか」
田辺も、星影氏の説明に納得できないらしく、強硬にこう反駁《はんばく》した。名探偵だという触れ込みだが、それは捜査本部の買いかぶりではないのか。岩崎の顔にははっきりとそうした表情が浮かんでいた。
「だからさ、そこにも野川君の頭脳の冴えが発揮されているんだ。同君が口述テープから清書した原稿は二部あると考えてみたまえ」
東京の声は意外なことを告げた。それは、ライ麦の畑だとばかり信じていたものが川の名であったという新説のように、予想もしない話だった。
田辺は、急には呑み込めなかったらしい。
「二部? 二部あったというのですか」
声の調子が上がっている。かくいうわたしも、清書原稿が二部あったからといって、それが何を意味するかという点については理解しかねた。わたしは、いやその席にいた多くのものが星影氏の説明を待った。
「そう、二部です。うわの空で聞いていると判らなくなる。いいですね?」
星影氏は注意をうながした。
「呑み込みやすくするために、野川君が最初に清書したほうをAの原稿、二番目に清書したほうをBの原稿と呼ぶことにするが、野川君はまず最初に全編の清書をすませておいた、つまりこれがAの原稿ということになるわけだがね。歯が痛んで仕事ができないというのは口実であって、じつはせっせと清書を仕上げていたんだ、A原稿のほうをね」
一同が機械人形みたいにこっくりをする。
「そして翌日になると、同君はこのAの原稿を篠崎君の仕事部屋にとどけた。篠崎君はそれに朱を入れて完全原稿としたのだ。いいかね、篠崎君がすべての原稿に眼をとおし不満な個所を赤インクで訂正をしたそれはAのほうなんだよ」
大篠崎も星影氏にかかってはカタなしである。全員ひっくるめて、君づけで呼ばれる。身分に高低がないという考え方からすれば公平で結構だが、わたしから見ると、これもまた星影氏の自己顕示欲の表われであるような気がした。
「これとはべつに、いまいったとおり野川君は、おなじテープからもう一つ清書原稿を起こす。これがいうところのB原稿だ。ただしB原稿は全部書き上げないで、四十八枚でストップしておく。そして午後になって原稿を取りに編集者がやって来たとき、昨夜の歯痛で完成していないからという口実のもとに、残りの四十九枚目からあとの数枚を、田中君に清書してもらう。なんといっても彼女は秘書という立場にいるんだから、どこの社の人を何時の列車で来させるといったやりくりは自由に指定することができる。そうしたことから思いついたトリックでもあるのだろうね」
そこまで聞いても、わたしには星影氏のいう「トリック」なるものがよく呑み込めなかった。
「さてB原稿は田中君に手伝ってもらって完成したわけだが、そのB原稿を野川君は、作家の仕事部屋に持って行った。そこで隙をうかがって殺したのです。犯行に用いた凶器のカーテン止めは、嫌疑を他の人に転嫁するのが目的でね。もし事情が変わって殺人を他日に延期しようという場合は、紐をもとあった場所にこっそりと返しておけば気がつくものはいない。元来あまり目立つものじゃないからね」
星影氏の話がちょっと途切れた。パイプをくわえ火をつけたとみえ、ライターの金属的な音がした。
「ふみ子君の説明によれば清書原稿をとどけたのはドライブに出発する直前だったということだが、これは為《ため》にする嘘でね、ほんとうは当日の朝食のあとから昼食の一時間前のあいだだ。わたしはそう考えている。くどいようだがとどけられたのはA原稿だ。篠崎君はそれに加筆して、決定稿が出来上がっていたか、さもなければあと一息というところまでいっていたに違いない。ここのところを頭に入れておいてくれないと話が進めなくなるからそのつもりで」
身を入れて拝聴していたお陰で、星影氏のいうことは理解できた。女秘書が語ったところでは出発寸前に原稿を豪輔のもとに持って行った、したがって彼が朱を入れたのは自分がドライブ中のことだということになる。一方、星影氏の指摘では、原稿が豪輔のもとにとどいたのはずっと以前のことであり、ふみ子が出発する頃にはすでに仕上がって決定稿になっていたというのである。
「ふみ子君がドライブに出る直前に、篠崎君の部屋に原稿を持って行ったと主張しているが、これは事実だ。彼女は単に原稿といっているが、正確にいうならば、この原稿は田中君の協力で清書できたB原稿のほうなんだ。このこともしっかり頭に入れておいてもらいたい。いいね?」
まことに懇切《こんせつ》丁寧な注意であった。ご説ごもっともといった顔を全員がしていた。われわれの顔が先方に見えるわけはないのだから、欠伸《あくび》をしようが横を向こうがいっこうにかまわぬわけだが、星影氏の話にはわれわれを夢中にさせ、傾聴させずにはおかぬ何かがあった。
「さて話が前後したが、ふみ子君があの作家を殺したのはB原稿を持って行ったときだろう。B原稿が篠崎君の目にとまったなら、同じ清書原稿が二つあるというわけで怪しまれることは必定だから、こっそりと隠し持っていたことは断わるまでもない。そして、これまた隠し持って来たカーテンの紐で絞め殺したわけだが、犯行の後で彼女がしたのは、先程もいったように園田君らが預けておいた原稿用紙に火をつけて燃やすことなのだ」
パイプをふかす音が聞こえてきた。
「だが、その前にもう一つ重要な仕事が残されていた。すでに篠崎君の手で決定稿となっていた≪暗闇祝言≫、これはつまりぼくのいうA原稿にあたるんだが、この原稿のうち三十三枚から後を破棄して、かわりに、田中君と二人で清書したB原稿のうちの三十三枚目以降を併《あわ》せて、首尾一貫した原稿にしたことなのだ。いうまでもないことだが、三十二枚までのA原稿には篠崎君の朱が入っている。そして三十三枚目以降のB原稿にはまだ朱が入っていないことになる。しかしおなじ清書原稿が二部あることに気づかれぬ限り、篠崎君は、田中君が清書を手伝った≪暗闇祝言≫の三十二枚まで朱を入れ終わったときに殺されたものとみなされる。これによって、ドライブに出かけた後で事件が起きたように錯覚させることができたわけだがね」
「しかし野川さんは、篠崎先生を絶対的に尊敬していたのですわよ。サラリイだって芸能社にいた頃の倍も貰っているんだし、殺さなければならない理由なんてないじゃありませんこと?」
虹子が抗議口調でいった。星影氏の説明は簡潔であると共に明快でもあったけれど、しかもなお残された疑問が多過ぎて素直にうなずけないのだ。
「動機は明白ではないですか。篠崎君が野川君のおなかの子を認知しようとしないからです。その点ではこの文豪も、ありきたりのプレイボーイやチンピラと変わるところがなかった。軽蔑すべき女性の敵であったのです。野川君がいくら頼んでも認めようとはしないばかりか、ほかの男性の子だろうといった暴言を吐いた。それが野川君の殺意を駆りたてたのです」
野川ふみ子が豪輔の子を……と胸のなかでくり返したわたしは、唐突に、いまのいままで思い違いしていたあることに気がついた。このおなじ食堂で、元気だった頃の団平がこれまた元気だった時分のめぐみを捉《とら》えて、彼女と豪輔とのあいだに交わされた口論をすっぱ抜いたことである。そのときのめぐみは、豪輔から子供の認知を拒否されるや怒って、「嘘つき、殺してやる」と叫んだという。
「といいますと、園田団平氏が夜の庭でふと耳にしためぐみさんの声というのは――」
「そう、野川君の声だったのです。ぼくはめぐみ君の声を聞いたことはないが、同君がふみ子君の声色を使ってみせたという挿話から両君の声が似ていることを知り、同時に園田団平君の早とちりに気づいた。さらに、篠崎君と争っていた女性が野川君だったことに気がついたのです」
待てよ、とわたしは思う。団平が思い違いをしてめぐみを責め立てたときのことだ、彼女はそれを否定せずに「あたしが殺すといって脅したのと、篠崎先生が本当に殺されてしまったのは偶然の一致だっていってるのよ」という弁明を試みたはずである。だからわたしは、団平が立ち聞きしたのはめぐみの声だというふうに頭から信じ込んでいたのだ。それにしても、なぜそのときめぐみは、否定せずに疑われるままでいたのだろうか。
「ところが、ここに野川君にとって重大なピンチが生じた。何だと思うかね?」
何だと思うかねと質問されても、われわれの頭は星影氏みたいに回転が早くはないのである。訊くだけ野暮というものではないか。
「きみらに判らないのも当然だが、ここにふみ子君にとって思いもせぬハプニングが生じた。同君が田中君を出迎えに部屋から出た隙に、机に載せてあった≪暗闇祝言≫の原稿のうちの最初の一枚が、風にあおられて窓から外に飛んで行ったことがそれだ。最初に清書したA原稿はすでに二階の篠崎君の仕事部屋にある。したがっていま取り上げているのはB原稿のことなんだぜ。錯覚を起こすとわけが判らなくなるから、注意して聞いてくれなくては困る」
二、三人が黙って頷いた。いずれも、思い当たることがあるといった顔つきである。
「さて、飛んできた原稿に気がついたのは木陰で本を読んでいた並江千恵子君でね、さっそく拾い上げて二階の野川君の部屋に戻しておいた。そのことを並江君から聞かされた野川君は、予期しない出来事に驚くと共に、礼をのべて彼女の好意を謝した。だが、ドライブ中か、戻って来てからのことかは知らないが、並江君の一語に重大な意味が隠されていたことに気づいたんだ。幸いにして、いまの時点では並江君はなにも勘づいていない。だが、いつなんどき疑念を抱かないとも限らなかった。そう考えたふみ子君は、並江君殺しを決意するに至ったのだよ」
「なぜでしょうか」
「飛んだ原稿は冒頭の、つまり題名と作者名が記入された第一枚目だったという。いうまでもなく、この原稿用紙には並江君の指紋が付着しているわけだ。判るね?」
誰かが「はあ」と答えた。刑事たちは一様に無言だった。ひたすら聞き逃すまいとつとめている。
「さてと、並江君にとって不運だったのは、そのときふみ子君が自室にいるものと早合点して、野川君の部屋に持って行ったことです。そしてそれを黙っていればよかったのに、後になって野川君に知らせた、並江君としては深い考えもなしにしたことなのに、これが命取りになったのです」
「あら、なぜでしょうか」
女流画家は辛抱づよくくり返した。
「その説明は後廻しにしましょう」
相手が女性となると、星影氏の口調は一変する。みずから優しいおじさまを気取っているみたいで、聞いている男にはあまり愉快ではない。
「そんなことは夢にも知らぬふみ子君は、いまいったとおり、この原稿、いうところのB原稿を隠し持って二階の篠崎君の部屋を訪ねた。そして油断を見すまして背後から飛びかかったわけです。その後で、野川君は偽アリバイにそなえてつぎのようなことをした」
全員がさらに身を乗り出した。言葉を切った星影氏は皆をじらそうとしているかのように、時間をかけて、パイプをふかしつづけた。その「ぱふぱふ」という音がよく聞こえる。
「犯行のあとで何をしたか。ぐずぐずしていて邪魔が入るとまずいからてきぱきと行動したに違いないが、まず机の上にあるA原稿、くどいことを承知の上でいうと篠崎君の朱の入った加筆済みの原稿だね、そのA原稿の三十二枚目までをわきによせておいて、三十三枚目以降を燃やしてしまう。と同時に、秘かに持って来たB原稿を取り出すと、三十三枚目からあとを残しておいて、三十二枚目以前のものを同様に火にくべる。その結果、現場には朱の入った三十二枚のA原稿と朱の入らないB原稿が存在することになるんです。こうしてA原稿の前半とB原稿の後半を合体させると、首尾一貫した≪暗闇祝言≫が出来上がる。ラストの数枚は田中君の筆蹟がしるされているから、この原稿は間違いなく野川君と田中君が共同で清書したものであり、ドライブに出る直前に野川君が仕事部屋に届けたものだとみなされるんです。田中君に清書を手伝ってもらった背後には、彼女のこうした深謀遠慮《しんぼうえんりよ》があったのですよ」
好きになった男の弱みというのだろうか、そういわれてもなお怒りの気持ちは湧かなかった。そっとふみ子のほうを盗み見ると、顔を伏せていた。白いうなじが、このときは血の気が失せて蒼白《あおじろ》く見えた。
「彼女のアリバイ計画についてこれ以上の説明は無用と思うが、あえていうならば、二つの清書原稿があったことに気づかない限り人々は、机に載せられた作者が最後に書き遺した原稿を見て、篠崎君が三十二枚目まで朱を入れたものの、そこで邪魔が入って永久に自作を加筆訂正することができなくなったとそう考えるのです。つまるところ、犯行があったのはふみ子君がドライブに行った留守中のことだとみなされる。それが野川ふみ子君のじつに見事なアリバイトリックだったわけです」
わたしはふみ子の頭のよさに感服すると共に、星影氏の読みの深さに圧倒されて、相槌を打つことも忘れていた。
「それはよく判りましたけど、並江さんはなぜ殺されなくてはならなかったかという説明はまだですわ」
と、女流画家が執拗におなじ質問をした。
「これから話そうと思っていたところです」
星影氏は気をわるくした様子もなく、微笑みかけるような調子で応じた。
「先程もいったとおり、並江君が拾った原稿は最初の一枚だったのです。タイトルと作者の署名が入っている原稿ですね。いや、題名や篠崎君のサインなんかは無視してよろしい。問題はそれが≪暗闇祝言≫の一枚目だったということにあります」
一枚目であることにどんな意味があるというのだろうか、例によってわたしには見当もつかなかった。
「もう一度おさらいをしておきますが、並江君が拾った原稿はB原稿です。A原稿はそれよりも以前に篠崎君の部屋に届けられ、手直しが進行中であったか、さもなければすでに済んでいた頃です。そうした次第で、B原稿の一枚目には当然のことですが並江君の指紋がついていました。いいですね?」
「はい」
「さて、ここでわたしが話した野川君のアリバイ偽造計画を思い浮かべてください。殺人のあと、机の上のA原稿三十二枚を残して、あとは処分する。その上でB原稿を三十二枚目まで始末をして、三十三枚目以降の残りをA原稿につなげる。それが彼女の引いた設計図であり、ふみ子君はその設計図どおりに動いたのです」
「はい、覚えてますわ」
「わたしがいいたいのは、篠崎君の屍体のそばに発見された原稿は三十二枚目までがA原稿だったということです。ところがふみ子君は、並江君から思いもしないことを聞かされた。それを要約すれば、並江君はB原稿のしょっぱなの一枚目に自分の指紋をつけておいたということになるのです。さあ大変だ。ふみ子君の頭には一瞬かーっと血が昇って目の前がまっ暗になったでしょうな。ではなぜそれほどまでのショックを与えたのか。いいですか、耳をスピーカーに向けて聴いてくださいよ。なぜショックだったかといえば、犯行現場の机の上に載せてある原稿は三十二枚目までがA原稿だからです」
星影氏は言葉を切るとひとしきりパイプをふかした。
「まだ判らないかな。現場に遺されているのは、三十二枚目までがA原稿なのですよ。一方、並江君の指紋がついているのはB原稿のほうなんだ。そのB原稿の三十二枚目までは現場のガスコンロの上で灰になっている。つまり彼女の指紋のついたB原稿は存在しないものなんです」
「はあ」
「並江君はそんな裏面の事情は知らない。彼女ばかりでなくそこにいるすべての人がそうしたカラクリには気づいていない。そこへ持ってきて、何も知らぬ並江君が原稿を拾った話を誰彼の区別なしに喋りまくったとしてみなさい。彼女がそんなお喋りな人でなかったとしても、ふみ子君にとってみればいつ何処《どこ》で喋られるか知れたものじゃない。彼女にしてみればダイナマイトを抱えているようなものです」
「まだよく判りませんわ。なぜ喋られたら困るのでしょうか」
「簡単なことじゃないですか。並江君が誰かの耳にこっそりこう囁いたとします。わたしはB原稿を拾ってふみ子さんに届けてあげたのよ、と。だが篠崎君の机に置かれた原稿には並江君の指紋はついていない。いないのも当然です、こちらはA原稿なんだから。もしこの矛盾したことが捜査本部の耳に入ったら、ふみ子君としては弁明のしようがない。ひいては二種の清書原稿があったことまでばれてしまう。こうなるとふみ子君は、いつ破滅の淵《ふち》とやらに転落してしまうか知れたものではないのです。つまり並江君は、本人はそれを意識していなかったが、ふみ子君の生殺与奪《せいさつよだつ》の権を握っていたことになる。野川ふみ子君としては生かしておけぬ危険人物だったんですよ」
「しかしですね」
と、田辺が相手に聞こえるように、ことさら大きな声を出した。
「なにも殺さなくてもいい、解決の方法があるではないですか。いまの話では、A原稿には並江さんの指紋がついていないということですが、現場からその一枚目をそっと抜き出して、さり気なく並江さんの指紋をつけさせればいいでしょう。電灯の下でやっては気づかれてしまうけど、庭先かどこかのうす暗い場所でやれば巧《うま》くいくと思うんです」
なかなかいいことをいう。わたしは田辺義夫を過小評価していたことに気づいてちょっと反省した。
しかし星影氏は間髪をいれず反論してきた。やはり星影氏のほうが役者が上であった。
「田辺君、きみは勘違いをしている、思い違いをしているんだよ。いいかね、野川ふみ子君がドライブから戻ったのは夕方近い時分だったんだ。たしかに並江君から原稿用紙に関する報告を聞かされたのはその前のことだが、瞬時にはその重大さに気づかなかったのだ。やがて篠崎君の屍体が発見され、当局は事件発生を知って乗り込んで来た。いうまでもなく真っ先に現場検証が行なわれる。そして仕事机に載せてあった朱の入った絶筆原稿も押収されているんだ。ふみ子君が工作したくとも手の届かぬところに行ってしまったんだよ」
「あ」
小さくいったきり黙り込んだ。
「さて話を元に戻そう」
と星影氏は改まった口調になった。
「野川君は、二本のカーテン止めが当日の午前十一時頃にはすでに盗まれていたと語ったそうだが、それは嘘だね。最初の一本、つまり篠崎君を殺すために用いる分は十一時前に入手していたとしても嘘ではあるまいが、二本目を失敬したのはドライブから帰った後のことだ。いまも話したとおり、並江君が風に吹かれた原稿用紙を拾ってくれたことの重大さに気づいてはじめて殺意を持ったのだから、二本目の凶器を用意したのは当然のことながら午後五時以降なのだ。野川君が二本とも午前中に紛失していたように虚偽の発言をしておいたのは、そういっては悪いが、凡庸な刑事諸君に対してではないだろう。だから彼らは、この野川君の布石がどんな意味を持っているかについて、まったく理解できずにいたわけだ」
元来がズケズケとものをいう性格の人なのであろうか、それとも率直で正直な男なのであろうか、星影氏はいいにくいことを平気で口にした。ハッキリいうとわたしは、氏のようなタイプの男は好きになれない。豪輔も傲慢でその人間性には尊敬すべきものが一つもなかったが、星影氏もそれに似たところがある。
「でも、二本目のカーテン止めが巻きついたのは並江さんではなくて、めぐみさんの頸ではないですか」
と、田辺が反論した。
「そう。事態が推移するにつれて、並江君よりもこのホステス嬢のほうがより危険な人間に思えてきたからだよ」
「あの人がですか?」
信じられぬといった表情である。と同時に、なぜ彼女が危険人物だと判断されたのか、その間の事情が理解できかねて、とまどった面持《おもも》ちでもあった。
田辺と違ってわたしは興味|津々《しんしん》だった。場合が場合だったから露骨に表情に出すことはしなかったが、身を乗り出して星影氏の説明を待った。短い沈黙の時間があって星影氏はまたパイプをふかしていた。
「ところで、その食堂でロープの紛失問題について検討されたときのことを思い出してもらいたい。並江君がトイレに行くというのでホステス嬢が同行した。覚えているかね?」
「ええ、思い出しましたわ」
「問題はその帰りのことです。ホステス君が並江君に向かって、お前が二階から降りて来る姿を目撃したが、あれはカーテン止めを物色しに行ったのではないかと問い質《ただ》す場面があった」
「そう、あったですな」
と、岩崎探偵が応じた。
「並江君にとってみれば拾った原稿を戻しておいたのであって、カーテン止めを盗みに入ったなどとはとんでもない言いがかりだ。そこでその間の事情を説明した。正確にいうとこの辺のことは声を絞っていたため食堂にいる野川君の耳には聞こえなかった。だから並江君が何を喋ったかは判らぬけれども、食堂に戻って来ためぐみ君が万事を諒承したような顔をしているのを見て、野川君がこう推測したわけだ。並江君が風で飛んだ原稿を返しに行ったいきさつについての一切|合財《がつさい》を喋ってしまったんだな、それにちがいない、と」
3
「こうして野川君は自分の身を守るために並江君ばかりでなしに、めぐみ君の口もふさがなくてはならなくなったのだが、野川君はこのホステス嬢に対して警戒心を抱かざるを得なかった理由がほかにもあるのだ。何だと思うかね?」
「……つまり、それはですね、園田団平氏が夜の庭で立ち聞きしたときの話なんですけど……」
誰も発言するものがいなかったので、自信はなかったけれど思い切ってわたしが答えた。
「あのとき団平氏が、篠崎先生と口論している女性の声を終始めぐみさんだと勘違いしていたにもかかわらず、彼女は全然否定しようとしなかったんです。彼女にしてみれば、野川さんと声が似ていることには気づいているでしょうから、あれはあたしじゃなくて野川さんよと反論して当然だと思うんです。ではなぜ黙っているのか。ぼくはやはり腹に一物《いちもつ》あったからではないかと思います。後でこのことをなにかに利用できる、とですね。ぼくでさえそう考えついたんですから……」
いわんや野川ふみ子においてをや。そういおうとして言葉を呑み込んでしまった。いつしかわたしもふみ子犯人説を肯定するようになっていたのである。星影氏の冴えた推理には、それだけの説得力があった。
「そのとおり。野川君も危惧《きぐ》の念を抱いたことは想像に難《かた》くない。事件のあった夜、並江、田辺、田中の三君を残してあとの連中は自室へ引っ込んだわけだが、このときめぐみ君に耳打ちされたのではないか。話があるから後で会いたい、とね。野川君はそれきた、と思ったことだろう。そこで相手の部屋で話をすることにして、いったん自室に入って廊下に人影のいなくなったのを見すますと、ホステス嬢の部屋を訪ねた。かねて用意しておいたカーテン止めを隠し持ってね。ネグリジェに着更えたのは相手に油断させるためと、凶器をふところに隠すためだと想像するんだが……」
ふみ子は顔を上げ、唇を固くむすんで沈黙をまもりつづけた。肯定するでもなく否定するでもなく、まるで馬耳東風とでもいうふうな無表情である。
「さて、首尾よく恐喝者を殺して逃げ帰ろうとした彼女は、いつの間にか刑事が張り番をしているのをドアの隙間から覗き見して知り、びっくりしてしまった。多分、彼らは徹夜で警戒しつづけるのだろう。となると脱出のチャンスがないわけだ。このまま夜が明ければ見つかる可能性がある。野川君は何とかして逃げ出す方法を考えた。そこで眼についたのが目覚し時計のオルゴールだ。真夜中にこれを鳴らせば不寝番の刑事が聞きつけてやって来るに違いない。そのどさくさに逃げるほかに手はなさそうだ。おそらくそのような思考経過があってオルゴールを鳴らしたのだろうな」
目覚し時計のオルゴールは、一般のベルつきの時計と同様に、所定の時刻になれば鳴り出すわけだが、また、背面のツマミをねじることで音を出すこともできる。
「しかし彼女が鳴らしたというのは独断的に過ぎるんじゃないでしょうか。ぼくはやはり、めぐみさんがストップボタンを押し忘れた可能性も否定できないと思うんだけど……」
おとなしい文学青年がはじめて反対意見を述べた。彼が指摘するまでもなく、わたしもまた、星影氏の推理に独りよがりの傾向のあることを感じていた。だから井上青年の反論には同感であり、耳をすませてスピーカーから聞こえてくる星影氏の返事を待ったのである。
「そりゃきみの認識不足だ」
星影氏はニベもない調子で答えた。
「オルゴールという楽器は音階順に長いほうから短いほうへと並んだ鉄片と、それをはじくピンから成っていることはご承知のとおりだ。シリンダーが回転するにつれて、それぞれの位置に植えつけられたピンが鉄片をはじいて音を出すわけだな。ところがゼンマイが延びて回転が弱まってくると、抵抗の強い鉄片にぶち当たったときに力尽きて、これを鳴らすことなく止まってしまうのだよ。言い換えると高い音を出す短い鉄片に立ち向かったときのことだ」
「…………」
「ところであのとき聞こえてきたスコットランドの民謡だが、『思えば遠し故郷の空』と歌い切ったところで回転が止まったという。歌ってみれば判ることだけれど、これはこの民謡のなかでいちばん高い音を出す個所なのだ。もしゼンマイがゆるんで止まったとするならば、メロディは高音の手前で途切れなくてはならないのだよ」
「…………」
「ところが事実はそうではなかった。高音の後で止まっている。ということはシリンダーがゼンマイで回転したのではなく、誰かが人力で回転させたことになるんだ。いまいった理屈を無視した人間によってね。その結果、殺されたホステス君の室内には犯人がいたものと考えないわけにはいかなくなる」
わたしもオルゴールの構造ぐらいは知っているつもりだったが、星影氏にいわれるまでは気づくことができなかったのである。思いは誰しもおなじとみえ、ただ黙然としている。相槌を打つものもいなかった。
「現場に駆けつけたときの諸君の発言をみても、廊下を走っている野川君の姿を目撃したものはいないんだな。室内を覗き込んだら、すでに彼女は刑事君の後ろに立って、こわごわと屍体を見ていたという。このことからぼくは、オルゴールの音を聞きつけた刑事君が室内に飛び込んだとき、彼女はドアの陰に隠れているという古典的な手法を用いたのではないかと想像するのだ。そして、いち早く駆けつけた弥次馬のような顔をして彼の背後に立ったのだよ」
しかしそれは、星影氏みずからいうとおり、想像に過ぎないのではないか。証拠がないではないか、とわたしは考えた。
「一つ飛んで本命の並江君殺しに話を移そう。彼女の指先に火傷《やけど》の跡があることから感電死という結論が出た。この場合も野川君は、アリバイの証人に好人物の田中君を選んで、口実をもうけて二階の秘書室に連れ込んだのだ。これも想像だけれど、二階の廊下の窓から電線をたらして、先端を浴室の窓枠に接触させておいたのではないのかな。そうした準備をしておいて、田中君に篠崎豪輔君の遺作を読ませる。同君が夢中になっている隙に、ソケットをコンセントに差し込めばいい。後は並江君が浴室の内側から窓を開けるように仕向ければ、それでOKだ」
「どうやって窓に触れさせたんです?」
「これは一例だが、小型のカセットレコーダーを窓の外に吊り下げたらどうかね。そこでテープの声が浴室内の並江君に呼びかけるんだ。並江君にすれば野川君が窓の外に立っているものと思う。そして何事ならんと窓に手をかけた途端、電流に打たれてショック死する。あとでテープの内容を消去すれば証拠は残らないしね」
星影氏は言葉を切り、時計の針に眼をやったらしく、一段と早口になった。
「さて順序が逆になったが、三番目の園田君殺しだ。このときの彼女は混乱状態を利用して被害者のカップに毒を落とし込んだ。毒は、おそらくつねに手許に持っていたのだろうね。だからカップの底に残った珈琲を分析すれば毒が出てくるのは当然なのだ」
いつ自殺しなければならぬような事態に直面するか判ったものじゃない。そのためにも毒物は用意していたことだろう。わたしはそう考えていた。
「でも――」
「いや、待ちたまえ。園田君の前に運ばれた時点の珈琲には毒は入っていなかった。毒はカップの縁に塗ってあったのだよ。それができるのは、珈琲をいれて運んで来た野川君以外にない」
「ですが――」
「まあ待ちたまえ。毒を塗ったカップをいかにして被害者に選択させたか、それは不可能だといいたいのだろうが、けっして不可能ではない。毒はすべてのカップに平等に塗ってあったのだから」
「しかし――」
「黙って聞きたまえ。なぜ園田君だけが毒死して、あとの諸君は無事だったのかといいたいのだろう。考えられることはただ一つだけしかない。園田君は右腕がない。つまり左手でカップを持つしかないのだから、唇の当たる部分に塗っておけばいいのだ。あとの諸君は右手で持つ。毒を塗った部分を向こう側にして、無毒の部分に口を当てて飲むわけだ」
「しかし、それはちょっと独断に過ぎるのではないですか」
反論したのは文学青年だった。
「ぼくは右|利《き》きですけど、すごく気分屋ですからね、その場の雰囲気次第で左手に持つことだってあるんです。ぼくみたいなルーズな人間ってざらにいるんじゃないかなあ」
「そのことはわたしも考えに入れていたともさ。わたしの唯一の解釈は彼女が賭《かけ》に出たんではないかということだった」
賭とは何か。人々は一様にとまどった面持ちになった。
「つまりさ、仮りに井上君が、きみは井上精二君といったっけね? その井上君が運わるく左手でカップを手にとったとすると、犠牲者は二人出ることになる。だがふみ子君にしてみれば、死者が二人出ようが三人出ようが、大した変わりはないわけだ。むしろ被害者がふえることによって、命を狙われたものは誰だったのかという疑問が生じる。その結果捜査に混乱を来たすわけだが、これはふみ子君にとって願ってもない展開になるんだよ」
「ですが」
「あとの食器は洗ってしまったからぼくの推理は立証できないと思うだろうが、問題のカップは押収されたままになっているのだよ。先程電話でその旨を申し入れたら、ぼくのいった部分から反応が出たという返事がきた。このカップと並江君の指紋のついていない原稿用紙という物証があれば、野川君は逃れられまいね」
星影氏は、感情を混じえない喋り方をする。頭のきれる男であると同時に、きっと冷たい男だろうと思う。こんな性格の人間とは、頼まれても友だちづき合いをする気にはなれない。
「園田団平氏が殺されたわけについて、まだご説明がありませんが……」
と、私立探偵がいった。神仏におうかがいを立てるみたいに、どこか、おそるおそるといった風情《ふぜい》がある。
「じつは、出版社と称して、つい先程電話を掛けたのは、わたしでね」
まったく脈絡のないことを、星影氏は語り出した。
「あのとき、野川君に対してわたしが推理し想像した事柄を、かいつまんで述べたうえで、それが当たっているかどうかを確かめたのです。質問は一方的にわたしがした。彼女には、ただイエスとかノーと答えるようにさせておいたから、仮りに隣りに誰かがいたとしても、話の内容まで見当がつくはずもなかったろうけどね。野川君の犯行であるというのは推理による結論であり、カセットレコーダーを吊り下げて並江君を呼んだのではないかというのは、想像したことです。それをいちいちチェックして、いま話したような犯行の次第がはっきりしたわけです」
星影氏はそう前置きをして、キザっぽい咳払いをした。
「ところで並江君が食堂に居合わせた課長に向かって、犯人の見当がついているのかと問いかけると、そばにいた園田君が割り込んできた。そういう質問は自分にしてもらいたい、めぐみ君を殺したのが誰であるかは知らないが、篠崎殺しの犯人《ホシ》は判っている、ハッタリでない証拠にネタを握っている、と見得を切ったことがあるのですが、おぼえておいででしょうな」
全員が黙々として頭を縦に振った。
「皆さん記憶しているそうです」
課長がマイクに向かって答えた。
「よろしい。園田君がその説明をしようとしたときに、めぐみ君の遺体が搬出されることになったものだから、話が一時的に中断した。おぼえているでしょうな?」
全員がそろって頷き、課長がそれを「通訳」した。
「さて、遺体を乗せた車が出て行くと、男性たちはさっさと食堂に戻って来て、途切れた話がつづけられることになった。つまり園田君は、犯人がその場にいる男性のなかの一人であることを断言したのです」
「…………」
「一方、女性たちはまだテラスに残っていた。言い換えれば、いまの園田君の話を聞かなかった。いまからみると同君はまるきり見当違いのことをいっていたことになるのだが、野川ふみ子君は、それを知るわけがなかった。園田君の、犯人を知っている、証拠も握っているという発言を、てっきり自分のことだと解した。野川君にしてみれば、これは降って湧いたような災難であった。まったく予期しなかったことだったのです。わたしは故人の悪口をいうつもりはないけれど、園田君は口の軽いお喋りの男だったようだ。したがって野川君にとっては導火線に火のついた爆薬を抱えているようなものだったろう。一刻も早く火を消してしまわなくてはならない」
「…………」
「頭のいい彼女は、せっぱつまった窮地に身を置きながら、並江君殺しの手段を練る一方で、短時間のうちに、園田君を始末して、しかも自分は絶対に疑われないという妙手を発見した。わたしはその才能に、ただただ感嘆するばかりなのだがね」
淡々たる口調で説明し終わると、星影氏は「じゃ」と一言いったきりで一方的に通話を切った。われわれは一分間ちかくボーッとしていたが、やがてわれに還ってふみ子の弁明を求めようとした。そしてそのときはじめて彼女がテーブルに伏せ、まるで居眠りでもしているような恰好で息絶えていたことを発見して、大慌《おおあわ》てをしたのである。掌中に、小さなプラスチックの容器が握りしめられていた。
4
ふみ子の葬儀が郷里の北陸のある小都市で内輪に行なわれたという便りを聞いたのは、それから三ヵ月ほどたった頃である。遺族が世間に遠慮をして、誰にも連絡をしてよこさなかった。彼女が連続殺人の犯人であることは知っていても、わたしはふみ子を恐ろしい殺人鬼だとは思いたくはない。人間、追いつめられて絶体絶命の境地に立たされれば、ああした行動に出るのもやむを得ないではないか。誰しも、いちばん可愛いのは自分自身なのだから。わたしは、そう考えている。
あの日の夕方、出版社からだと称して電話を掛けてきたのは星影氏であった。
その電話の内容は、すぐれた推理力を駆使して彼女が犯人であることを指摘し、ふみ子に最後の覚悟をさせることにあったのではないだろうか。フェミニストの星影氏ならやりかねないことだ。
ふみ子も、通話の途中で星影氏の好意を理解すると、それに合わせて演技をした。「わたしの一存ではなんとも申せません……」などといって受話器を置いたのも、彼女としては精一杯のお芝居だったのだろう。その後でふみ子は化粧を直して食堂に入って来たのだが、あれは死出《しで》の化粧ではなかったのか。こうして彼女の心根を哀れに思うのは、わたしがふみ子を深く深く愛していたからに違いない。
それはともかく、電話の件を星影氏に質《ただ》すのはいとも容易なことだ。けれど、あの篠崎豪輔に輪をかけたような傲岸にして不遜な星影氏が、素直に肯定するとは信じられないのである。木で鼻をくくった返事をされるであろうことは眼に見えているので、わたしはあえてダイアルを回転させずに、疑問を疑問のままにしている次第だ。
わたしがショックを受けたのは、星影氏の話のなかにあった一語だった。すべてのカップに毒を塗っておき、誰が死んでもかまわないというふみ子の作戦を知らされたときであった。彼女がわたしに好意を持っていると信じたわたしは何とおめでたい男だったのか。
だが日がたち心の波紋が鎮《しず》まってきた一日、ふっと気づいたことがあった。ふみ子が、珈琲を飲むたびにわたしを凝視していたのは、わたしが右利きであることの確認をとるためではなかったか。何回テストしてもわたしがサウスポーではあり得ぬことを知ったからこそ、他日必要が生じて団平を殺そうという場合に、あの毒殺手段を用いようと決意していたのではなかったか。団平といういとも口の軽い男は、ふみ子にとって以前から要注意人物であったに違いないのである。
いまとなっては、おりにふれて心に浮かぶのは彼女と試みたただ一度のドライブのことであり、彼女がわたしに見せてくれた好意ばかりである。
ふみ子のお墓が何処《どこ》にあるのかは判らぬけれど、これも熱心に調べればはっきりすることだろう。多分それは、彼女の郷里ではないかと見当をつけている。いずれにしても来年の春あたりには、お参りに行けるのではないかと思っている。そのときは、生前の彼女が大好きだといっていたカスミ草の大きな花束を持って行くつもりだ。
本書は、一九七九年七月、祥伝社より新書判で刊行。さらに一九八九年二月、同社ノン・ポシェットに収録されました。
本書講談社文庫版は、一九九四年六月刊。