戌神はなにを見たか
鮎川哲也
[#改ページ]
目 次
一 櫟《くぬぎ》 林《ばやし》
二 瓦煎餅と浮彫《レリーフ》
三 縁でこそあれ
四 山国の旅
五 兇器の発見
六 不利な情報
七 指輪物語
八 花時計
九 もう一つのアリバイ
十 別れた女達
十一 伊藤四郎氏
十二 三重衝突
十三 霧の中
十四 教授の話
[#改ページ]
一 櫟《くぬぎ》 林《ばやし》
夫の大輔は三面鏡の前でネクタイを結んでいる。その手つきにも表情にも、今日の上京がうれしくてならない、といった気持が反映していた。本人は隠しているつもりだろうが、頬の筋肉はゆるみっぱなしだ。いまにも鼻唄でもうたいだしそうであった。
「楽しそうだわね」
松枝は皮肉っぽく笑った。
「お仕事がそんなに愉快なものかしら」
「感じわるいなあ。嫌味《いやみ》をいうなよ。今日は仕事じゃない、会合なんだ」
「そんなら連れていってくれてもいいじゃないの。会が開かれている間は、お友達のところで時間をつぶしてるから」
これも皮肉であった。どれほど頼んでみても、一緒に来いといわぬことは解《わか》っている。
大輔はそれを黙殺して片脚をイスにのせ、靴下をはいていた。松枝の嫌いな、赤いソックスである。
「あなたって人は、ちっともあたしのことを考えてくれないのね」
「…………」
「まるでひと組の同居人みたい。夫婦らしいところといえば、ただ妻が炊いたごはんを喰べるだけ」
「…………」
「ときどき不思議でならなくなるのよ。なぜあたしと結婚したのだろうかって……。あなたみたいな人は一生独身でいるべきだわ」
「おれは自分でめしを炊《た》いたり掃除をしたりすることに飽きていたんだ。誰かに替ってもらいたかったのさ。そこへたまたまきみが現われた。ただそれだけの話だよ」
大輔は脚をのせ替えると、手を動かしながら顔も上げずに、淡々とした口調で答えた。
「まあ。それ本気?」
「バカ。女はそれだから嫌いなんだ。どいつもこいつもユーモアのセンスが皆無ときている。いいか松枝、めしを炊いて欲しければめし炊き婆さんを雇えばすむことなんだ。めしの仕度が面倒だという、ただそれだけの理由できみと結婚するわけがないじゃないか」
松枝は口をつぐんだ。女性にユーモア感覚が欠如していることを指摘されると、反論できない。彼女自身がつねづねそのことを自覚しているからだ。
靴をはき終えた大輔は、靴ベラを返して、まだ怒った口調でいった。
「遅くなったら泊ってくる。十時をすぎたら先に寝てくれ」
これは上京の度毎にくり返される文句だった。終列車に乗り遅れた場合は止むなく一泊してくるなどというが、泊るのは最初からの計画なのだ。夫の出京は月に最低二度ある。ときには一週間に一度のわりで出掛けることがあったが、いまだかつて日帰りした例《ため》しがない。
松枝は無言でこっくりをしてみせる。まともに返事をするのが馬鹿々々しかった。
「戸締りに気をつけてくれよ」
「ええ」
「寝る前にガスの元栓をしめろ。忘れるなよ」
「ええ」
応答がぶっきら棒になってしまう。世間なみの亭主みたいなことをいっているが、それは妻の身を心配するからではなくて、大切な商売道具のカメラを盗難や火災から守ってもらいたい、というのが本音《ほんね》なのだ。
夫が出ていった後、松枝は何をする気も失せてしまい、居間のイスにどさりと坐り込んだ。全身の毛孔からいっせいに疲労感がにじみ出たような感じで、息をすることすら億劫《おつくう》だった。
「旦那さんが旦那さんなら、それに対抗してあなたも浮気したらいいじゃないの。相手なんていくらでもいるわ、男って男がみんな浮気したがってんだから」
おなじマンションの、蓮っ葉だと陰口をきかれている人妻から、そういってけしかけられたことがある。
「目には目よ。歯には歯だわ」
何度すすめられても、松枝は煮え切れぬ態度で、曖昧《あいまい》に頷《うなず》くだけだった。ファッションモデルという派手な職業の出身にしては、松枝は保守的ともいえる古いタイプなのだ。その細君も昨今は呆れ返ったとみえ、顔を合わせても何もいわなくなってしまった。
小日向《こびなた》大輔は、ジャーナリズムの寵児ともいえる売れっ児のプロカメラマンである。当然のことながら収入も多い。マンションの最上階にあるこの部屋も、装飾はその方面で名を知られたインテリアデザイナーの手になるもので、トイレから浴室にいたるまで、装飾は豪奢《ごうしや》をきわめていた。いま松枝が坐っているイスにしても、わざわざ南米の木工業者に発注してつくらせた特製品なのである。腕木にはアマゾンに自生する光沢のある固木を用い、革はリャマの仔を剥《は》いでインディオに木の実で染めさせたという、渋い民芸調の凝《こ》った品であった。絨毯《じゆうたん》にしろカーテンにしろ、すべてが金のかかった調度ばかりなのだ。
その贅をつくした雰囲気につつまれていながら、松枝の心はちっとも充たされることがなかった。夫の愛がうすらいでからというもの、なにもかも虚しい気持がする。本を読んでみても視線が活字の上をすべっていくだけで、少しも感興が湧かない。好きなチャイコフスキイの≪白鳥の湖≫を聞いても、いままでのように音の洪水のなかへ魅《ひ》き込まれるということがなかった。食事の仕度をすることさえ億劫になって、近頃はおざなりの料理で夕食をすませることが多い。戸棚に並んだ何種類ものスパイスは使う機会もなくなり、いたずらに香気が失せていった。
松枝がモデルになると言い出したときは一応の反対はしたものの、結局は好きなようにしなさいと許してくれた両親だったが、小日向との結婚については終りまで強硬に反対をされた。職業写真家だから悪いというのではなく、彼が女性の裸体写真を専門とする点に不安を覚えたからだった。
「風景や静物をとるカメラマンならいいよ。だがヌード専門となると、女出入りはつき物だからね。それをいちいち咎《とが》めていたら喧嘩は絶えないだろうし、そうかといって黙って放任していればますますいい気になる。お父さんの取り越し苦労かもしれないが、堅気のサラリーマンのほうがいいんじゃないかね」
そういう両親を押し切って結婚した以上、おめおめと実家に帰って結婚生活の愚痴をこぼすわけにはいかなかった。松枝は勝気なたちではないが、プライドは人一倍に高いほうだ。たとい相手が実の親ではあっても、弱味を見せることはできない。
つまるところ、彼女は自分独りで結論をくださねばならなかった。理性的判断にしたがえば、この場合は躊躇なく離婚に踏み切るべきであろう。しかし情緒的判断によるならば、女狂《おんなぐる》いというのは夫の慢性的な病気なのだから、相手を重症の病人だとみなして寛大な気持で目をつぶるべきであった。何十年かたって大輔が肉体的に枯れるまで待てば、夫婦の間に静謐《せいひつ》がおとずれることは間違いない。しかし松枝には夫を許すほど大きな心はなかったし、そうかといって、夫の頬に老人性のしみが浮き出るまで気長に待つことはできかねた。
かつてはミス・ユニヴァースの国内決選に出場したくらいだから、自分の容貌にもプロポーションにも自信がある。結婚生活に入ったことによって、独身時代にはなかった妖しい美しさも加わった筈だった。その美貌も、夫に対しては無意味に等しく、まるで歯がたたないのだ。それが口惜しかった。
その年の春のこと、大輔はたわむれに木戸をくぐった南千住の大衆劇場で、旅廻わりの一座が演じる時代劇をみた。総勢十人程度の小さなグループだったが、何人かいる女役者のうちの、八百屋お七をやった女優のあで姿に猛烈な職業的興味をそそられた。
当時、一年間の契約で、ある中間誌の口絵のカラー写真を担当していた大輔にとって、毎月の仕事が重荷でならなかった。その雑誌社の社長は明治生まれの気骨のある人だったので、誌格ということに八釜《やかま》しく、ヌードを載せることは断じて許さない。大輔は仕方なく衣裳をまとった女性を写しつづけてきたが、プロのカメラマンにいわせるならば、裸の女と着物をまとった女とでは、猿とゴリラほどの相違があり、断じて同じものではないのである。
イスに坐って八百屋お七を見物しながら、次号にはこの役者を使いたい、と思った。すでに頭のなかでは構図やカメラの位置、アングルをさまざまに検討していた。そして芝居がはねると楽屋に座長をたずね、モデルの交渉を始めた。ところが生憎なことにその夜はラク日であった。一座は翌朝の列車で函館へ向い、半年の予定で北海道を巡って歩くというのだ。
「北海道を巡演するのに半年もかかるんですか」
「はい、なにぶんにも小さな村で一つ一つ打って廻わりますから。礼文島《れぶんとう》へも渡ります」
座長にとっても千住の劇場《こ や》にとっても、そしてまた当の女優にとっても、著名な写真家の手になるカラー写真が一流雑誌に掲載されることは名誉であり、それ以上に宣伝効果は満点になる。
「どうでございましょうか先生。秋にはまた東京へもどってここでご厄介になる予定ですから、それまでお待ち願えませんでしょうか」
「うむ、そうだな」
大輔は小首をかしげたり手帖を覗き込んだりして勿体ぶり、その後でおもむろに相手が示した条件をのんだのである。
約束どおり六ヵ月が過ぎた秋の半ば、一座はふたたび千住の舞台に立つことになった。連絡を受けて上京した大輔は、東京の事務所に電話をして機材一式を弟子に持って来させ、指定された午後三時という時刻に、劇場に近い喫茶店で相手側と落ち合った。お目当ての中村菊之丞は頸のふとい中年男を同伴しており、これが彼女のヒモだなと思っていると、彼は自己紹介をして叔父であるといった。
「役者バカってことをよくいいますが、この子は文字どおりバカなほうで、世間のことは何一つ知っちゃいません。何処へいくにも叔父のあたしがついていかないと……」
笑うと犬歯の金冠がキラリと光る。それを見て大輔は、この叔父が半年前の舞台で悪代官をやった役者であることを思い出した。たしか中村柿右衛門といい、これがなかなかの演技力の持主だったので、ドサ廻わりの小芝居にも巧者はいるもんだなと感心させられたのである。大輔の頭のなかには、その代官が愛妾を抱きよせ、天井をむいて呵々《かか》大笑したときに、口のなかで金歯がかがやき、途端に興がさめてしまったことまで、はっきりとよみがえってきた。
女優の中村菊之丞は水色のワンピースを着て、踵《かかと》のひくい靴をはいている。目鼻立ちのととのった素顔《すがお》は人目をひくに充分だが、故意に目立たぬようにつとめているようだった。化粧にしてもほんのひと刷毛《はけ》はたいたといったつつましやかさがあり、目の周囲を眉墨でぬりたくったウェイトレスのあくどいメーキャップに比べると、おとなしくて好感が持てた。
芝居は夜の部だけである。で、今日はいつもより早目に衣裳をつけて貰って、開場前に撮影をすませることになった。
「撮影時間はどのくらい見込んでおけばよろしゅうございましょうか」
「ほんとうは四、五十分ほしいところですが、そうもいかぬでしょう。ぎりぎり三十分はかかりますな」
「三十分!」
と、柿右衛門はみじかい頸をすくめた。
「そんなにかかりますか」
「二つのカメラを使って五十枚ぐらいとるんです。そのなかから最もよくできた一枚を雑誌社にわたすのですから」
「五十枚もですか、ほう……」
せいぜい二、三枚もとればいいのだろうと考えていたらしく、柿右衛門はまたびっくりしたように声を上げた。女役者は終始無言で、ただにこにこと笑いながら話を聞いていた。
打ち合わせもすんでさて一服つけようとした大輔に、あらためて店内を見廻わす余裕が生じた。先程まではふた組の客しかいなかったのに、三十分もしないうちにあらかたのボックスがふさがっている。その殆どがわかい男女のペアで、彼等は申し合わせたようにジーパンをはき、男はキリストまがいのヒゲを生やしていた。彼等は一様になんとなく不潔で、その辺りからすえた体臭がにおってきそうな気がした。
当然のことながら、ただひと組しかいない和服の男女はひどく目立った。その二人はこちらに背を向け、並んで掛けているので、顔つきは判らない。判るのは男が小造りであることぐらいのものだった。女が小柄であることは相手と同様だったが、こちらは日本髪を結っているのでその分だけ高くみえる。
ふと助手が大輔に目をやると、彼は腰を浮かせ、半ば夢中で男女のほうを眺めていた。柿右衛門がなにか話しかけたが耳に入らぬらしく、返事もしない。二人の役者は遠慮気味に、距離をおいて写真家の様子を見守っていた。
そのうちに、ウェイトレスが男女のテーブルに近づいてゆき、注文の品を訊いた。二人の客は珈琲にするか紅茶にするかで意見がもめるふうに見えたが、その途端に大輔は手にしたマッチをぽとりと落とした。
「あーら、お珍しい」
マダムが派手な嬌声をあげると、それを耳にした二、三人のホステスが訓練された犬みたいに、いっせいに目をまるめて入口を見やり、入ってきた客をみて笑顔をつくった。どちらも中間誌の編集者である。
「常連の客じゃないか。珍しがるわけはあるまい?」
今井がだみ声で反駁した。二人とも足がふらついており、彼女等の商売用語でいうならば、「完全に出来上って」いた。
「そうじゃないのよ、ご一緒にみえたのが珍しいの。だってライバル同士じゃありませんか」
マダムは今井と吉田の顔を交互にみて、それからさっと駆け寄って抱きかかえ、ボックスに坐らせた。どちらも腰をおろすことすら大儀そうである。
彼女がいうとおり二人はライバル関係にある中間誌の編集者だが、だからといって世間で想像するように歯をむき合っているわけではない。近頃は編集者仲間の溜り場みたいな酒場も出来、そこで顔を合わせたり、人気作家の応接間で幾度となくゆき合ったりするうちに、肝胆《かんたん》相《あ》い照らす仲になるというケースが少なくないのである。そして今井も吉田も、大体それに似た経過で呑み友達となった。ただ、連れ立ってこのバーに顔を出すことが初めてだったのである。
「いいご機嫌じゃないの」
「アルコール分の弱いやつをくれよ。何かこう、さっぱりしたのが欲しいな」
「カカオフィーズなんかどうかしら」
「どうですか吉田さん、カカオフィーズでは?」
「いいですな。リオのカーニヴァルで呑んだことを思い出しますな。混血の、こうヴォリウムのある女を両側に侍らしてね」
「南米あたしも行きたいの」
と、マダムがすぐのってきた。
「アンデスの山んなかに入って、帽子をかぶったインディオのお婆さんと話をしてみたいのよ。文明社会から疎外されちゃったインディオの生活って羨ましいと思うな」
と、ママが心底あこがれているような声をだした。
「そういえば何だな、きみがもう二、三年たって婆アになってさ、山高帽をかぶって中古のスカートをはけば、インディオそっくりに見えるんじゃないかね。南米まで行かなくとも、姿見の前に立っていればいいと思うがねえ」
「いうわね、この人」
マダムが吉田の腕をつねると、彼は大袈裟に悲鳴をあげた。
「おれはアンデスなんて嫌やだね。退屈で気が狂っちまう。どういうわけだかインディオには美人がいないようだしね」
「男の人ってすぐ浮気すること考えるんだから。奥さまに言いつけますわよ」
「平気だ。うちのやつ、おれが外で浮気するぞって脅すと、どうぞって返事しやがる。亭主がもてないものと頭から決めて、なめてやがんの。だからさ、今夜ママと浮気してもいいんだぜ」
「お生憎さまね。今夜は先約があるの」
「明日の晩でもいい」
「明日もあるの」
「|明後日《あさつて》はどうだね?」
冗談めかしていってはいるものの、今井はこのママに思し召しがあるようだった。
「そのうちに落城させてみせるからな」
「お待ちしてますわ。でもね、不思議なの。あたしが暇なときには、決ってあなたが出張校正でお留守なのよ」
「そうかね、世はままならぬもんだね」
「それにしても」
と、カカオフィーズをなめていた吉田が、生真面目《きまじめ》な顔つきで話題をかえた。
「さっきは驚いたな。あんな大喧嘩になるとは思わなかったよ」
「おんなじ学校の同期生だからね、仲がいいものとばかり思ってた」
「坂下さんは三発|撲《なぐ》られたぜ」
「おれも小日向さんが撲られるのを勘定していた。やはり三発だったよ」
「われわれが止めなければどうなったか解らない」
「もう少し長びいたらパトカーが飛んできて、ひと晩留置されたことは確かだね」
話し合ううちに声が大きくなっていったのは、二人とも酔っているせいだろう。マダムもホステスもバーテンも、居合わせた四人の客も、女性週刊誌の噂話でもよむような軽い興味から、彼等の話に聞き耳をたてていた。
「その人達も編集者なの?」
「いや」
「作家?」
「カメラマンだよ。どっちも売れっ児でね。吉田さんの雑誌にもうちの雑誌にも、作品がのっている。彼等の名を知らないところをみると、きみはわれわれの雑誌を読んでいないんじゃないのか」
逆襲されたママは艶然と笑ってみせ、吉田のほうにちらっとウインクをした。つけまつ毛をしているせいか、そのウインクはなんとなく重た気にみえた。
「読みませんわ。お宅の雑誌は男性相手に編集していらっしゃるんですもの」
「そんなことはないぜ」
「だってカラー写真は女のヌードばかりじゃありませんの。女の読者はね、女の裸をみても面白くも可笑《お か》しくもないのよ」
「おれに文句つけたって駄目だよ。ヌードなんて止めろ止めろっていうんだけど、編集長が大好きなもんだから、いうこときかないんだ」
「それじゃ吉田さんとこの編集長も大好きなの?」
「わたしも編集会議で反対するんだが、なんてったって編集長が好き者ときてるもんで」
処置なしといった顔つきでカカオフィーズに口をつけた。
「男の世界って妙なものらしいわね。女好きでないと編集長になれないみたい」
「そうなんだ。だからおれ達みたいに人格高潔なやつは不適格者となる。世の中きびしいよ」
「さっき、確かあたしと浮気しようとおっしゃったけど、あれで人格高潔なのかしら?」
「お前さん美人のくせに知恵遅れだね。あれとこれとは話がべつだ」
今井はグラスを目のあたりに持っていって追加のサインをした。
「女はヌード写真なんて興味ないという話だが、そういえば坂下さんもそんなことを喚《わめ》いていたっけね?」
不意に吉田が口をはさんだ。
「坂下さんて女流カメラマンなの?」
「そうじゃない」
「あら、男のくせにヌードに興味がないの? それも変だわね」
「まあ喧嘩の原因はそのあたりにあるんだがね。おれにもお替りたのむ。今度はヴァイオレットフィーズがいいな。あの紫色がなんともいえない」
「いやだ、旧制高女の女学生の袴姿を思い出すわ。時代おくれの趣味ね」
マダムはくすくす笑った。彼女は新制に切り替えられてからの卒業なのであった。
エレベーターが六階でとまると、三人の男が降りた。編集長の高田市兵衛はそれと入れ違いに乗り込み、一階のボタンを押そうとしたとき、かるく肩を叩かれた。フリーのカメラマンである坂下|護《まもる》が、精悍《せいかん》な顔に人好きのする笑みをうかべて立っている。
「やあ、きみか」
「いま上って来たところです」
降りるのを思い止まると、編集長は函からでた。こちらはカメラマンとは違っておっとりとした男で、エレベーターから出る際にひょいと頸をすくめたほどの長身である。
「営業部へいこうとしてたんだ」
「部屋にいって待ってますよ。どうぞ、ぼくにはかまわずに――」
「いいんだ、大した用事ではない」
高田は早口でいい、先に立って、すぐ横の編集部につうじるスチールドアを押した。そこは奥行が一〇〇メートルはありそうな大きな部屋で、スチール製のダークグリーンに塗られた机が奥へむかって幾列ものびている。ところどころに立ったこれもダークグリーンのロッカーが、セクションの境界を示していた。
壁は白く、両側面は大きな窓になっている。その窓ガラス越しに、右と左に講談社と光文社の建物が見えた。少し視力のいいものには、先方の様子が手にとるようによく解る。だから、病気を理由に原稿執筆をことわった作家が、隣りの社の編集部で愉快そうに談笑したり、ゴルフのボールを打つ真似をする姿が望見され、たちまち仮病がばれてしまうということになる。
「まあ坐れや」
いちばん奥まった机までくると、編集長は空《あ》いているイスをすすめた。編集者の仕事というと作家を訪問して原稿を依頼したり、出来上った作品をもらってくるのが大きなウェイトを占めるから、編集会議のときを除けば全員の顔がそろうことは珍しく、誰かのイスがかならず空いているのだった。
ロングピースに火をつけた高田は、窓からみえる左右の出版社にちらりと目をやった。
「これはまだ企画の段階だからそのつもりで聞いてもらいたいんだが、うちの雑誌で物故した推理作家とその作品を紹介していくことになってね」
「はあ」
「第一線で活躍した作家の作品は、ほかの雑誌でもしばしば取り上げられている。だが、うちは推理専門誌だからね、乱歩さんや大下さんの作品ばかりではなくて、一般誌が注目しない作家とその作品にスポットライトをあてる」
「はあ」
「例えば大庭武年《おおばたけとし》だとか大阪圭吉《おおさかけいきち》だとかいう、中途にして倒れた作家や、わずか一、二編のきらめくような短編を残したきりで、忽然《こつぜん》として消えていった作家の作品を、毎号一点ずつ載せていくのだよ」
「なるほど」
「むしろ、いまは忘却されている作家のほうにウェイトをおきたい。西尾正《にしおただし》だとか橋本五郎《はしもとごろう》だとか瀬下耽《せじもたん》といった、戦後も作品を発表していながらいつしか筆を絶った人々。それから戦後派ではあるけれども僅かの作品を残して死去した独多甚九《どくたじんく》、北洋《きたひろし》、坪田宏《つぼたひろし》なんていう人達の代表作を掲載する。いまのわかい読者はこうした作家や作品を知らないのだし、年輩の読者にとっても、これ等の作品を再読するチャンスは滅多にないのだからね」
「確かにそうですね」
と、カメラマンは同感した。彼にしてもひととおりの推理小説は読んでいるつもりだが、編集長がいま並べた作家の名には馴染《なじ》みがなかった。いや、正確にいえばどれも初めて耳にするものばかりであった。同時に、これは推理専門誌の編集長にしてはじめて考えつけるいいプランだと思った。
「大庭さんというのはどんな作家ですか」
「旧|満洲《まんしゆう》国の鉄道総局に勤めていたんだ。京都の『ぷろふいる』にも作品を発表していたけども、『新青年』にも書いた。後者の初登場は瀬下耽氏と一緒だったがね」
「せじも・たん……」
と、カメラマンは口のなかで繰り返して呟いた。
「妙なペンネームですね」
「だからチェスタートンをもじったんじゃないか、と噂されたそうだ。その頃、といっても戦前の話だが、いまの推理作家協会が編纂している年鑑みたいなものが当時も発行されていて、≪柘榴《ざくろ》病≫というのが収録されているから、注目すべき作家だったんだろうね。ところがこれは本名で、新潟県のある地方に多い姓なのだそうだ」
「ほう。珍姓だな」
「そういった人々の正体をはっきりとさせるのも、今度の企画の狙いなんだ。とおりいっぺんの読者には受けないかもしれないけれど、ほんとうの推理読者は喜んでくれるに違いない。彼等は例外なく詮索癖の持主だからね」
高田はようやく一息ついてタバコをとりだすと口にくわえた。
「そういえばぼくにも詮索癖はありますよ」
坂下は素早くライターを鳴らした。
「そういう話を聞いてみると、推理小説の世界には、正体不明のままで埋もれてしまった人が多いようですね」
「一概にそうとばかりはいえないのじゃないかな。ほかの畑の文学青年のなかにもそうした例は多いと思う。が、推理小説畑でいえば、入り易くて長続きし難いのが推理小説だからね、中途で筆を絶つ人の多いのは当然のことかもしれない。戦後に限定してみても、じつに沢山の人が姿を消していった。なにしろ頁数の少ない薄っぺらな雑誌だから、なかなかお座敷がかからない。たまに注文がきたとしても、あたえられる枚数は二十枚か三十枚だ。いくら短距離が得意な人でも、これでは書きたいことも書けやしない」
「長編なんて書いても発表舞台がないわけですね?」
「そういうことになる。それに比べるといまの人は恵まれているね。書けば片端から活字になるんだもんな」
「しかし、消えていった人にはそれなりの理由があるんじゃないですか」
と、坂下はやんわりと反論した。
「理由とは?」
「紙の事情もあったでしょうが、それよりも、問題は実力だと思うなあ。才能さえあれば復活すればいい。紙の事情が好転したいまは長編短編を問わず、好きなものを発表できる時代なんですから。ぼくにいわせれば、消えていった人は、たとい発表舞台に恵まれていたとしても、やはり消えていくだろうと思いますね」
「一面ではそれも事実だろう。長続きしないのが推理小説なのだから」
机の電話が鳴った。ふたことみこと応答してから受話器をのせると、高田はおだやかな目でカメラマンを見た。
「いまいったように推理小説は一編ごとに創意を盛らなくてはならないのだから、ネタがなくなって息切れがしてくるのは無理もないことだ。だから経歴などをはっきりさせないうちに、持っているものを書き尽して退場していくんだな。話はもとに戻るけれど、そういったわけでこのシリーズは材料がうんとある。三年や四年は続ける予定でいる。ただ、問題は彼等の正体をつきとめる困難さにある。本名で書いていたならまだしも、殆どがペンネームだからね。われわれの側からすると始末がわるいんだ」
この場合、そこが一番の難関になるだろう、と坂下は思う。ある編集者が甲賀三郎氏の未亡人を訪ねるのに半日を要したことがあった。甲賀家は戦前から一貫しておなじ場所に存在しているのに、地番が改変されてしまったために、無駄な労力をしいられたのだった。生前に探偵小説の三羽鴉と称された甲賀氏にしてこの有様だから、無名に近い推理作家を探し出そうとする場合の難しさは、並み大抵のものではないだろう。
「そう、甲賀さんといえばこの人も戦争で命を失った犠牲者だね。少国民文学会の会長として九州へ出張した帰りに病死してしまったんだから。それに先に挙げた大庭、大阪両氏も、戦争さえなければ引き続き執筆活動をしたことだろうと思う。この二人はほぼ同時代に登場しているんだ、生きていれば好敵手になっただろうにね」
「戦死……ですか」
「大阪氏はルソン島で戦病死をとげた。一方、大庭氏は終戦後の混乱期に、満洲≪現中国東北部≫で消息を絶ってしまった。あるいはシベリヤの曠土に眠っているのかもしれないがね。まあ直接の戦争犠牲者としてはこの三人ぐらいだが、戦前の海外探偵小説の研究家だった井上良夫氏が病死したのも、寒い晩を防空壕のなかで過したのが発病のもとになっているから、やはり犠牲者といっていい。隠れた作家でもあり評論家でもある関西のある数学者は、井上氏の探偵小説論は今日なお充分に通用するすぐれたものだといっている。勿論その評論も、うちの雑誌に再録する予定だがね」
「それは楽しみですな」
「まだある。先頃亡くなった松野一夫氏とともに推理小説の挿絵に貢献《こうけん》した吉田貫三郎という人の作品も紹介したい。吉田氏もフィリピンで戦病死した筈だが……」
「面識があるんですか」
「冗談じゃない。ぼくはそんな老頭児《ロートル》じゃないぜ」
肩をそびやかせてみせたものの、彼は一年ばかり前から細かい活字をよむときは老眼鏡をかけるようになっていたのである。
「さて、ここで本題に入る。グラビアに作家の少年時代からの写真を入れることはいうまでもないが、推理小説の専門誌としては更に突っ込んだものが欲しい。生まれた町だとか墓碑だとか、そういったものだがね。いうまでもなく遺族に連絡をとって提供していただくつもりだけれど、型にはまった写真ばかりでは面白味がない。それを補う意味の写真を、きみに撮ってきてもらいたいのだ」
「やりましょう」
と、即座に答えた。といっても坂下は推理作家の赤ン坊時代の写真などに興味はない。ただ、編集長の熱意に打たれたのである。彼のいう面白味のある写真というのがどんなものかは解らぬけれど、それは自分で工夫して、なんとしてでも気に入られる作品を持って帰る気でいた。
「さっきも話がでましたけど、相手がアマチュア作家の場合、本人の、もしくは遺族の所在をつきとめるだけでも大変だと思いますがね。それが判明しなくては、撮りに行くことができませんから」
「いや、それはわたしから往年の編集者に手を廻わして調べるし、それでも解らぬ場合は私立探偵にたのんではっきりとさせることにしている。その点はこちらに委せてもらって、きみは写真に専念してくれればいいのだよ」
「それなら気が楽です。ついでに好きな旅を楽しむこともできる」
「そこで第一回目だが、四国へいってくれたまえ。徳島県と高知県だ。徳島県は海野十三氏の生まれた土地で、碑が立っている。高知県のほうは森下雨村氏の出身地なんだ。『新青年』の編集長時代の森下氏は小石川に住んでいたから、これはこれでまた写して貰うとして、ともかく四国のほうへ出掛けて欲しい。都合はどうかね?」
カメラマンは手帖をとりだしてページをくってみた。左のページにぎっしりと並んだ数字は呑み屋のツケだけれど、右のページに書き入れてあるのは出張の予定表である。彼の場合は風景写真が専門だから、東京に腰をすえていたのでは仕事にならない。
「……中旬ならばあいています」
「結構。四日もあれば充分だろう。夜行でいくのなら早目に寝台券を申し込んだほうがいいぜ」
「車でいきます」
「車もいいが居眠り運転はやらないでくれよ」
苦労性だとみえ、高田はそんなことまで心配した。
「で、土地鑑はあるのかね?」
「いえ、不思議に四国とは縁がないんです」
「じゃ編集部の今井君に訊くといい。いまの電話で三時に帰るといってたから。彼、この夏に阿波踊りを見にいったばかりなんだ。四国のことを喋りたくてうずうずしてる」
「阿波踊りをね」
「そう。あんな不真面目《ふまじめ》な蛸《たこ》踊りのどこがいいのか解らないがね。伴奏の唄や三味線からしてふざけた調子だ」
高田は、この出版社きっての謹厳居士でもあるのだった。
山田稔ははにかみ屋であった。五十三歳にもなって照れるのはみっともないことだと反省するのだけれど、それが性格だからどうしようもなかった。かつてはこの弱点をなおそうとして、忘年会の余興なども積極的に買ってでたりした。しかし何をやってもサマにならず、仲間の憫笑《びんしよう》をかうのが精一杯だった。それ以来、柄にもないことをするのが誤りであると悟って、ふたたび照れ屋に逆戻りをしたのである。酒席などに連っても、つとめて末席に坐ってひたすら刺身などを喰っているので、人々は彼を無芸大食と思い込むようになった。
しかし、山田稔には人知れぬ特技があった。口笛を吹くことがずば抜けて巧みなのである。素人衆は口をすぼめて吹くだけだからすぐに息が切れてしまい、旋律が断片的なものになる。それが口笛上手ともなると、メロディを奏しながら必要に応じて息を吸うことができるのだ。当然のことだけれど、吹く息と吸う息を巧みにまぜて用いれば、どんな長丁場《ながちようば》の曲でもこなせる。そして山田稔もまた、そうしたテクニックを充分に消化していた。
新婚時代の話だから三十年近く昔のことになるが、彼が何気なく口笛を鳴らしていると、それを聞いた細君が極めつけるような調子で「あたし口笛って嫌いなの」といった。彼の妻は、会社でも評判の勝気な性格の持主なのであった。それを機に、山田稔は家庭内では口笛を吹かなくなった。
そうかといって、恥しがり屋だから会社の昼休みに吹くということもしない。彼が思い切り名技を発揮するのは、会社に出勤する途中であった。職種上どうしても早朝に家をでなくてはならないのだが、時刻が早いこともあって路上には人影一つなく、駅までの三キロを自転車のペダルを踏みながら、思う存分に吹き鳴らすのである。誰でも嫌がる早朝出勤を彼が歓迎していたのは、裏面にそうした事情があったからだ。
その朝も、彼は上機嫌で唇をとがらせていた。野鳥の声もうつくしいけれど、小鳥たちは一定の旋律しか唄うことはできない。それに比べると彼の奏でる音楽は千変万化である。家をでて最初の曲り角をすぎると、アメリカのプライヤーという軍楽隊出身者が作曲した≪口笛吹きと犬≫を吹きはじめた。それを三、四回くり返したところで、今度は、なんとかいう少女女優が出演した古い映画の主題歌≪口笛吹けば≫にかわる。この歌がはやった頃は山田稔もニキビ盛りの青年であり、若者のだれもがやるように、やがて迎えるであろう結婚生活を、あれこれと想い描いてみたものだった。空想のなかにでてくる妻はみめ麗《うる》わしく情けがあって、しかも才たけており、彼には勿体ないような理想的な女性であった。だが、それから何年かのちに、上司のすすめで見合いをして貰った細君は美人でもなければ優しくもなく、ことごとに叱言をいう口喧《くちやかま》しい女だった。だからこのメロディを口笛で奏するたびに、失われた青春時代の甘い期待感と、その後につづいた挫折感とが胸中に去来して、五十男の胸はほろ苦い想いで充たされるのである。
ふいに道端から山鳥が飛び立ったので、ハンドルを持つ手が狂って、車輪をかたわらの草叢のなかに突っ込んでしまった。サドルから腰をうかし両脚をつっぱるという不精な恰好で、車の体勢をなおそうとした。が、その横着が祟ってバランスを失うと、つぎの瞬間もろに倒れそうになり、あわてた拍子に弁当函が左手の林のなかに投げ出された。
そこは櫟林であった。櫟の木も下草もすべてが枯れかけて黄色味をおびている。カネタタキとコオロギにまじってカンタンの声が聞えていた。山田稔は自転車をそこに立たせておくと、舌打ちをしながら靴の先で草をかきわけた。小さなコオロギがびっくりして跳び出した。そうしたことを五、六回くり返しているうちに、彼はなくした弁当函のかわりにとんでもないものを見つけ出した。靴のつま先に砂袋でも蹴ったような妙なショックを受け、何だろうといぶかりながら覗き込んでみると、草のなかに目を閉じた中年男の顔があった。
反射的に目をそらせたが、死相があらわれていることはひと眼で見てとった。酔っ払いが寝込んでいるのとはわけが違う。山田稔はもう弁当函どころではなかった。夢中で自転車にまたがったものの、体がふるえてペダルを踏むことさえ容易でない。しかもハンドル持つ手がガクガクするものだから真直に走ることができなくて、私鉄の駅前にでたときカーヴを切りそこね、角のポストにぶつかって引っくり返ってしまった。そしてその駅前の赤電話で、ようやく事件を警察に知らせることができたのである。
二 瓦煎餅と|浮彫《レリーフ》
それから二時間余りたった七時過ぎに、櫟林のなかでは型通りの検証がおこなわれていた。男は推定年齢が三十四、五歳の痩せ型で、黄色いうすもののカーディガンに灰色の上衣とズボンを着用している。栄養がよさそうなことと身につけている物がどれも一級品であることから、裕福《ゆうふく》な生活をしていることが想像された。
屍体《したい》は色白の、生前は好男子だと思われるような整った容貌をしており、刑事のなかには作家だろうというものもいた。書斎に引きこもっていれば陽焼けする機会のないことは事実で、それと上等の服を着ているところから、作家と判断したのであった。その刑事は、作家商売は儲かるものという妙な先入主を持っていたからである。
「作家じゃなさそうだね」
「違いますか」
「これだけ稼ぐためには機械のように書きまくらなくちゃなるまいが、それにしては手の指が綺麗すぎる。ペンダコが一つもないよ」
「はあ」
と、その刑事は一歩退いて顎をなでた。
左の背後に刺傷があって肺に達しており、それが死因になっていた。即死したか、さもなくばきわめて短時間のうちに死亡したようである。兇器は細身の短刀あるいはサーベル状のものと想像されたが、現場のどこを探してもサーベルはおろかナイフ一本すら発見できなかった。傷の位置と兇器がないことから、殺人という結論がだされたのは当然である。犯人は財布ばかりでなしに服の内側のネームも剥いでいた。手帖や身分証明書なども注意ぶかく取り去られてあった。
兇器を求めて草をわけていた捜査員の一人が無言のまま膝まずくと、小さなキラリと光ったものを拾い上げた。掌にのせてと見こう見していた彼は、やがてもてあましたように手近の同僚に声をかけ、鼻先に掌ごとつきつけた。
「何だ、これは?」
一部は泥にまみれているが、よく見ると金色の金属に人間の顔が彫られたものであった。目がくぼんでいるところと額がひろいところ、それに全体の印象から判断すると外人の男性のようにみえる。楕円《だえん》形をしていて一センチにも充たぬ大きさだから、うっかりすれば見落すところだった。いうまでもなく、それが被害者のものか犯人のものか、それとも事件には関係のない第三者のものかは解らない。
被害者の靴は、これもオックスフォードシューズの新品である。しかしその底には草を踏んだ痕がなかった。そればかりか、現場にはほとんど血痕が発見されず、そのこととあたりの草が薙《な》ぎ倒されていることから、犯人は屍体を搬《はこ》んできて、林のなかに引きずり込んだものとみなされた。肩にかついで来るということは必ずしも不可能ではないけれども、この場合は車を利用したものと考えるほうが順当である。だが、小石の露出しているその側道は、タイヤの痕を発見するのが困難であった。
当日の夕方発表された解剖の結果、犯行は前々日、つまり十月五日の午後二時から四時までの間という線がでた。その発表のなかで捜査員の興味をひいたのは、胃のなかに未消化の瓦煎餅と思われるものがあったことで、口中にも同じ菓子の破片が発見されていた。このことから考えると、被害者は煎餅を齧《かじ》っているさなかを襲われたことになる。
ここで問題となったのは煎餅のデザインであった。瓦煎餅だから模様や文字がしるされているのはごくありふれたことだけれど、口中から発見された破片にはかなり大きな活字体の文字で「賃」という焼き印が押されていたのである。尤も、それは完全な文字ではなく、右肩の「壬」の部分が欠損していたため、あるいは「貸」であるのかもしれなかった。
観光地の土産物として売られている場合はべつとして、元来が瓦煎餅は庶民的な菓子だから、消費される範囲はせまいのが普通である。したがって製造所が判明しさえすれば、第一現場の見当もつくものと考えられた。稲城《いなぎ》署に設置された捜査本部では、当然のことだが、この瓦煎餅がどこで製造されどこの菓子店で売られているかという点に質問が集中した。
「どうもね、これが『賃』だの『貸』だのという文字だとすると、貸借対照表でも覗いているみたいでひどく散文的な気持になるんですよ。菓子というのは元来ロマンチックなものだと思うんですがね」
「わたしは菓子のことはさっぱり判らんが」
と、本部長をかねた署長がいった。糖尿の気がでて医師から節酒をすすめられるまでは、彼は斗酒《としゆ》なお辞さずという酒豪でもあった。菓子屋の前をとおっただけで胸がやけるほど、甘いものは嫌いなたちなのだ。
「菓子とロマンチシズムの間にどんな関係があるのかね?」
「つまりです、和菓子には葛桜《くずざくら》だとか寒菊だとか、いってみれば風流な名のついたものが多いんです。瓦煎餅にしたって菓子の仲間ですから、京都名産御所煎餅だとか神戸名産楠公煎餅なんていう名前をつけると思うんです」
「するときみはこう主張したいんだね? 文字の格好は似ているが、『賃』や『貸』などではなくて、もっと菓子らしい字であるべき筈だと」
「ええ。先程から考えているんですが、どうも適当な文字がうかんできません」
「菓子のことはさっぱり解らんが、太古はゼニなんて便利なものはなかったから、貝をもって貨幣のかわりにしていたぐらいのことは知っとる。したがって貝の字がついている文字は経済に関係あるものと相場が決ってるんだよ。もし『賃』だの『貸』だのといった他に似たような文字があったとしても、貝の字がつく以上、そいつはやはり同じような意味あいの文字であるに違いないんだ。ロマンチックな文字を期待するのは、期待するのが間違っていると思うんだが……」
署長のその発言には全員を首肯させるものがあった。だが、だからといっていくら酔狂な菓子屋の主人であっても、売り物に賃貸煎餅などという馬鹿気た名をつける筈がないのである。
「よし。この問題は菓子製造業者の組合にでも訊いてみれば判るに違いない。ひとまず保留ということにして、つぎはこの小さな彫像について検討をしてみたい。顔の背面は平らになっているから、何かにくっついていたレリーフではないかと想像するんだがね」
本部長から左廻わりに、そのレリーフはゆっくりと全員の手を経て、ふたたび彼のところに戻ってきた。付着していた泥は鑑識で洗い落して検査され、いまは床屋から出てきたように綺麗になっている。
「外人であることは間違いないだろうね」
「外人で思い出したんですが、日本アルプスをどうとかしたウェストンの肖像じゃないでしょうか」
「こんな顔をしているのかね?」
「その点に自信はありませんが、もしウェストンだったら、アルピニストのグループの会員章じゃないかと思うのです」
「ふむ、ウェストンねえ。……彼はたしか牧師だったと記憶しているが」
べつの刑事が手を上げた。音楽好きの彼は、ピアニストのシュナーベルだと思う、といった。
「この口髭を生やしているところがシュナーベルに似ているんです」
「有名なピアノ弾きなのかね?」
「ええ。SP時代の人気は大したものだったらしいです。わたしの長兄なんかも、ベートーヴェンのピアノ協奏曲なんかを知ったのは、シュナーベルのレコードからなのです」
「菓子も苦手だが西洋音楽も苦手でね」
と、署長は抹茶でも振舞われたときのように苦い顔をした。
「日本に来たことがあるのかね?」
「いいえ。戦争が終って幾年もしないうちに死亡しましたから、わが国にはきていません」
「すると、そんなにファンの数も多くはないだろう? つまり、わたしがいうのは、これがファンクラブのメダルだと考えてだが」
「一概に否定することもできないと思います。死んだフルトヴェングラーのレコードを集める目的で、『フルトヴェングラー協会』なんていうものまで設立されていますから」
「なるほど」
「ですから『シュナーベル協会』なるものがあって、これが会員章であることも考えられるのです」
「そんなに熱狂的なファンがいるのかね?」
「はあ。われわれノーマルな人間からは理解できない現象ですが」
「異論があります」
同じ年頃のべつの刑事が手を上げた。それまで彼は虫眼鏡でレリーフを覗き込んでいたのである。
「シュナーベルという人のことは知りませんが、わたしはマーク・トゥエーンじゃないかと思うんです」
「アメリカのユーモア作家だったな。戦前の日本で諧謔《かいぎやく》小説家として知られた佐々木邦氏がお手本にしていたのじゃなかったかね?」
頷いたのは隣りに坐っている主任警部ひとりきりで、わかい刑事のなかには佐々木邦の名を聞いてもきょとんとしているのが大半だった。彼等は諧謔小説の意味すら知らなかったのである。
「そんなに有名な人なのですか」
「ああ、知らぬ人はなかった。この人の引退とともに日本のユーモア小説は終りを告げたというのがわたしの持論だ」
「いえ、その、マークなにがしのことですが」
「そりゃもう大したものだ。『世の中にベッドほど危険なものはない、その証拠にたいていの人はベッドの上で死ぬじゃないか』とか、『禁煙するなんてことは易しいもんだ、おれはもう三十回も禁煙をやった』などという警句はトゥエーンの作だ。しかしトゥエーンがこんな人相をしているとは知らなかったな」
「本部長、それがトゥエーンでしょうか」
と、べつの刑事が腰を浮かせた。
「トゥエーンのレリーフを刻んだりしたからには熱心な読者がいなくてはならぬ筈ですが、本国ならばいざ知らず、日本でそんなに熱心な読者がいるとは思えんのです。それほど人気作者でしょうか」
「うむ」
「わたしは北欧系ではないかと思うのです。これは絶対に北欧系の顔ですよ。タフに見えるけど、神経はするどそうだ。ちょっと陰欝そうなところから判断すると、作曲家かもしれません。デンマルク、ノルウェー、スウェーデン、それにフィンランド」
「作曲家というとグリークかな? 彼も鼻の下に髭を生やしていたんじゃないか」
「グリークとも違うようだ」
「ソ連じゃないかな?」
べつの意見がでた。
「いや違う。この顔はスラヴ系ではない」
その刑事は自信たっぷりに否定した。
「陰欝な顔というと哲学者はどうだろう」
異論が続出したが、決め手に欠けているので結論がでるわけもない。
「もうその辺でいいだろう。通行人が投げ捨てた可能性もあるのだから。しかし一応は頭に入れておいてくれ」
本部長はその発言を閉会の言葉とした。
菓子製造業者の組合は「東京都菓子工業組合」というのが正式な名称であった。翌朝、早速そこに訊ねてみたが期待したような返事は得られなかった。
「いや、そういう細かいことまでは解りかねますな。直接に瓦煎餅を焼いている業者を訪ねるしか、てはないでしょう」
「すると、瓦煎餅の製造業者達でつくっている組合はないのですか」
「あるとよろしいのですが、なんと申しましても大きな業者は都内で三、四軒程度しかありません。組合にせよ親睦団体にせよ、結成するだけのまとまった数がないのです。ですから、一軒ずつお調べになるほかはありませんですな」
「何軒ぐらいありますか」
訊かれた先方が溜息をついた。瓦煎餅というのは家内工業的に製造しているもの、夫婦二人きりで焼いているもののほうが多く、彼等は菓子工業組合にも加入していないから、実数を把握するのは困難なのだというのである。
甘党の刑事が選ばれてその調査に専従した。彼等はまず職業別電話帳をひらくと、そこに記載されている菓子製造業者に片端からダイアルを廻わし、瓦煎餅をつくっているかどうかを訊いた。そして瓦煎餅を焼いている相手に当ると「賃」あるいは「貸」の文字を使っていることの有無を確め、同業者のなかにこうした文様を用いているところがあれば教えてくれるように頼んだ。その単純な作業は正午過ぎまでつづいたが、遂に収穫はなかった。
求める相手が零細業者である場合、職業別の電話帳には記載されていないことも考えられる。そこで今度は部厚い三巻の電話帳をひろげると、そのなかから菓子業者をピックアップし、ダイアルを回転させるという根気のいる仕事が続行された。
見落とすことのないよう、電話帳のチェックは二人がかりで入念にやる。だから時間がかかるのは当然のことだが、五組十人の刑事が机の前から解放されたのは夜の九時を過ぎようとした頃であった。大半のものが目を赤くし声を枯らしていたにもかかわらず、得るものはゼロだった。
だが、都内に該当者がなかったからといって、それで諦めるわけにはいかない。翌朝になると彼等はふたたび都下の電話帳と首っ引きで、三多摩方面や武蔵野市、立川市、三鷹市、青梅市などといった各市にまで手をひろげてみた。けれど、依然としてどこからも手応えはなかった。
「ひょっとすると隣りの県じゃないかな。例えばさ、川崎の大師様あたりで参詣土産として売られているのかもしれない」
「馬鹿だな。あそこの名物はくず餅だ」
「だから前以って例えばとことわっている」
馬鹿といわれた刑事は自尊心を傷つけられたと思ったのか、いささか気色ばんでそう答えた。
「とにかく、こうなったら関東一円を対象にするほかはないな」
三人目の刑事がうんざり顔でいった。
被害者もまた甘党だったとみえ、しばしば歯科の治療をうけたらしく、上下合わせて七本の歯に金冠がかぶせてある。この金冠からも、彼が経済的にかなり恵まれた生活をしていたことがうかがえたが、同時に、この金冠にほどこされた技術的特徴から、治療を行った歯科医の出身校が判った。というのは、各学校によって技工に伝統的な特徴があるため、慣れた歯科医は一見しただけで、その金冠をはめた歯科医がどの歯大の卒業者であるか容易に識別できるからであった。
好運なことに、被害者の七本の金冠のうち五本までが同じ特徴を持っていた。つまり、永年にわたって同一医師に治療してもらった公算が大きいのである。だからひょっとすると、その医師が患者のことを記憶しているかもしれない。刑事はただちに神田近辺にある歯科大学を訪れて卒業者の名簿の閲覧《えつらん》を乞い、都内と都下及び隣県で開業している歯科医のリストをつくった。そして被害者の金冠の特徴を列挙した印刷物を彼等あてに発送して、協力の依頼をしたのである。
反応は翌日の午後になってとどいた。浦和から市外電話がかかり、この患者は自分が治療した小日向大輔という男に間違いないというのであった。カルテに依ると当年三十四になる筈だというから、年齢からみても間違いはなさそうである。
指定された午後七時に、刑事は浦和駅の西口にある堀越歯科を訪ねた。二階建ての小さなビルだが、一階が花屋と手芸店という綺麗な商売のせいか、歯科医院の看板からうけるイメージがぐんと和らげられていた。患者は中央の厚い扉をあけて緑色の階段を上がるようになっており、刑事もそのとおりにした。マットを敷いた階段は感触がやわらかく、廊下の壁には複製ながら明るい風景画がかざられていて、緊張した患者の気持をときほぐそうとする配慮のようなものがうかがわれた。
入口の横にかかげられた金属板には、治療時間が午後の六時半までとしてある。それを見た刑事は、面会時刻を午後七時に指定したわけが解ったような気がした。
堀越歯科医は四十なかばの鼻下に髭をたくわえた好男子で、気さくな態度で治療室の奥にある私室に招じてくれた。すでに客も看護婦の姿もなく、彼は細巻きのシガーをくゆらせながらカルテの整理をしていたところだった。船室を思わせる小さな部屋だが、すべてがきちんと整頓されていて見るからに気持がいい。
刑事は早速ポケットのなかの写真をとりだした。
「これが被害者です。屍体写真ですから少し変っているかもしれません」
「どれ拝見。わたしも学生時代には解剖を見学したこともあるんです」
屍体の顔写真を手にとると、彼は女優のブロマイドでも眺めるように、じっくりと見入った。
「よく似た兄弟でもいればべつですが、患者の小日向さんに間違いありません。いや、カルテの記載事項が一致している以上、小日向さんご本人であると断定できますな」
「住所はどこになっていましたか」
「広ケ谷戸の三、○〇九番地となっていました」
刑事は、堀越歯科医が過去形を用いていることに気がついた。
「といいますと、現在はそこに住んでいないのですか」
「一昨年の秋だったと覚えてますが、わたしが自宅へ帰ろうとして車を表に廻わしますと、下の花屋からひょっこり小日向さんがでてきて、ちょっと立ち話をしたのです。そのときに近々関西へ引っ越す予定だからと挨拶をされました。それ以来お見かけしませんので、あちらへ往かれたものと思っているわけです。そうはいっても確めたわけではありませんから、現在も浦和に住んでおられるかもしれないですがね」
「なるほど。で、職業は何でしたか」
「写真家だそうです。わたしはあまり雑誌を読まないたちですから知りませんが、一流誌に作品を発表されていたそうです」
「人物写真でしょうかね」
と刑事がいったのは、雑誌のカラーぺージで女優の写真などを見かけた記憶があるからだった。
「人物といえば人物写真かもしれませんけど、小日向さんが得意とする分野は婦人科専門でして」
刑事は婦人科という言い方を知らず、本来の意味に解釈したため、わけが解らなそうな表情をした。
「いえ、そうではなくてもっぱら女性の裸体写真を写しておられたのですよ。いうまでもなく芸術度の高い写真ですが……」
「ほう」
ヌード美人に思うがままのポーズをとらせてシャッターを切り、そいつでゼニを稼ぐのだから世の中にこんないい商売はないのである。そう思ったが、まさか正直にそんな感想をのべるわけにはゆかず、刑事はちょっと黙り込んだ。
「……わたしのような素人の目からみますと近頃の女性は体がよく発達しているように思えるのですけど、小日向さんの目にはそうは映らないようでした。東京には美人が少ないということを、よく話していましたからね」
「日本人には美人がいないということですか」
「そうじゃないのです。東京は人口流入によって不細工な女ばかりが増えている。その点、関西はそれほど異物が入り込んでいないから、昔どおりの浪速女がいっぱいいる、というんですな。和服の女を写したければ京都へいけばいいし、バタ臭い女をとりたいと思えば神戸へいけばいい。大阪の女は外見は野暮ったいが裸にした場合に美しい線をしている。大阪弁や大阪の商人気質というのは肌に合わないけれど、いい仕事をするためには大阪へ移住しなくてはならない……。大体そんなことを喋ったと思います」
刑事も出身は大阪である。だから大阪を批判されると愉快な気はしないが、そうした感情はおもてにださなかった。
「移転先までは判りませんか」
「そこまでは……。しかしジャーナリズムの世界ではかなり名のとおったカメラマンだそうですから、写真家の団体に当られたら簡単に判るのではないでしょうか」
反射的に刑事は、瓦煎餅の製造元を知ろうとして菓子業者の組合に電話をしていた同僚のことを思いうかべた。組合に訊ねさえすれば簡単に判明するだろうと考えていたのが、予想したようにうまくは進まずに、彼等はいまもって悪戦苦闘しているのである。その二の舞いをやるのはご免だ。
雑談のような調子で語っているうちに、早くも五十分が過ぎようとしている。堀越歯科医はこれから車を駆って南浦和の自宅まで帰らなくてはならない。
「すっかり時間をつぶしてしまって」
と、刑事が詫びながら立ち上ると、医師は先に立って治療室をぬけ、待合室をとおって入口の扉まで送ってくれた。
刑事はふと思いついたようにふり返った。
「近頃の医学の進歩は目をみはるばかりですが、歯を治療するときの痛みは軽減しましたか」
刑事には、今度の事件が解決したらすぐにも歯科医院にゆかねばならぬ蝕歯《むしば》がある。だが、痛いことを思うとつい一日延ばしにしてしまうのであった。細君に臆病だといって嗤われても、事実そのとおりだから反論することができない。
「いやいや、こればかりは旧態依然たるものですな。わたし自身も治療しなくてはならぬ歯があるんです。こうした場合、自分で自分の歯を削るわけにはゆきませんから友人のところへいくのですが、それが嫌やで、もう一ヵ月も延ばしているんです」
「アメリカでは笑気ガスを吸わせるそうですね」
「なに、笑気ガスは笑ったような顔になるだけの話です。顔で笑って心で泣いてという、あれですよ」
幅のひろい刑事の肩ががくりと落ちた。歯科医が嫌やがるようではどうしようもない。
「そう落胆したものではないですよ。まだ実験の段階ですが、イヤホーンで音楽を聞いていると痛みを感じないという説があって、専用のステレオが発売されています」
「はあ」
「もう一つは患者を催眠状態にしておいて削ったり抜いたりするやり方です。わたしも催眠術をマスターしようかと思わぬでもないですが、催眠術を使う歯科医というのが患者さんに対してどんなイメージを与えるか、それをまず充分に研究しませんとね」
術をかけられたついでに、ヘソクリの隠し場所まで喋らされてしまうのではないか。患者がそうした危惧の念をいだけば、次第に誰も寄りつかなくなる。堀越歯科医はそれを心配しているのだった。
「三番目は中国が世界にほこるハリ麻酔です。昨今はなにかといえば中国式が歓迎される風潮がありますから、これを取り入れればわたしは忽ち大金持になれるかもしれません。しかし、農村の人とちがって都会人はハリを刺すということに慣れていないです。おでこだの頬っぺたにハリを刺すということになると逃げ腰になるんじゃないでしょうか」
白衣の歯科医は迷える仔羊みたいに、とまどった表情をうかべた。
小日向大輔の身元を洗う仕事は、瓦煎餅の調査に比べるとはるかにスムーズに進展した。堀越歯科医が示唆《しさ》したとおり、プロカメラマンの団体に問い合わせると、いともあっさり判明したのである。「日本写真家連盟」会員、「日本プロカメラマン協会」正会員、住所は兵庫県西宮市上甲東園九ノ三ノ一、シャトオ・デュラン905号であった。
知らせに驚いた妻の松枝は即日“ひかり”で上京し、午後には遺体の確認をすませて、捜査本部に出頭した。事情聴取にあたったのはみずから陣頭に立って指揮をとる本部長と、本庁からきている主任警部の二人である。
松枝は三十一歳。だがあどけない丸顔のせいで二十五歳には通用する。時と場所を考えてか、おとなしやかな葡萄《ぶどう》色のワンピースに同じ系統のスウェードのパンプスという目立たぬ服装をしていた。だがそれにもかかわらず、大きな目と可愛らしい唇とが人目を魅き、すれ違った刑事のすべてが思わずふり返ったほどだった。
「この度はご愁傷《しゆうしよう》さまでした」
といった紋切り型の挨拶を口切りに、その事情聴取ははじまった。未亡人は愛らしい顔つきにも似ずしっかりとしたたちらしく、ハンカチを目にあてるような仕草はただの一度もみせないで、終始冷静な口調で応答し、それが係官には非常に印象的であった。
「夫婦仲はすっかり冷えておりました。仕事熱心な人でしたし、金銭的なことを申してははしたないと存じますけど、収入も多いほうでございます。本来ならば幸福な結婚生活のはずでしたが」
「円満を欠いた理由はなんでしたか」
「東京でこそこそやってましたから確めたわけではございませんけど、女道楽だったと思います。職業柄、わかい女性と、それも美人でプロポーションのすぐれた女性と接触する機会が多うございますから」
欲望は無限なりというのは経済学の法則だけれど、このような並はずれた美人を妻としていながら、他の女にうつつをぬかすとは贅沢にもほどがある。本部長は殺された大輔にちょっとした怒りを覚えた。だが、いくら美しい細君でも、性格がわるければ亭主たるもの逃げ出したくなるのも当然である。この未亡人にしてもちょっと見たところ気性の強いたちらしいが、それが夫に背《そむ》かれた原因ではないのだろうか。
「犯行は十月五日の午後となっているのですが、ご主人が家を出られたのはいつでしたか」
「その前々日の三日のことでございました。東京で顔見知りの作家の授賞式があるということで上京してゆきました」
「常宿というのはありますか」
「はい。第一ホテルとか丸ノ内ホテルをよく利用しておりました。多分、今度もどちらかに泊ったのではないかと思いますけど」
「今回は何泊される予定でしたか」
「存じません。元来が予定どおりに行動することができないたちですから、家を出ましたら、何処でなにをしているかさっぱり解らないのです。おれも勝手に行動するからお前も好きなようにやれ、といつも申しておりました。しかしこれは性格ですから、好きなようにしろといわれたからといってあたくしが気ままに遊び暮すわけには参りません。損な役割でしたわ」
未亡人は恰好のいい脚を組み替えた。彼女がファッションモデルだったことを知らない本部長は一瞬息をのみ、あわてた様子で目をそらせた。
「後で東京にいる親しい友人の名前を書きとらせて頂きます。ところで、ご主人は甘党でしたか辛党でしたか」
「一杯ぐらいのオンザロックならば時間をかけて呑みました。ですがどちらかといいますと、甘党だったと思います」
「瓦煎餅などはいかがです」
「あの、お菓子の瓦煎餅のことでしょうか」
だしぬけな質問に、とまどった表情をうかべた。
「そうです。メリケン粉と卵と砂糖をまぜて、鉄板で焼いたあまい煎餅です」
「さあ……。あの人の好きなのは洋菓子でした。ババロアとかシュークリーム、エクレールなどが大好きでして……。ですからお土産に瓦煎餅を買ってきたことは、といいましても夫婦仲がよかった頃のお話ですけども、一度もありませんでしたわ」
「すると、お客として接待された場合はどうですか」
「それは喜んで頂きます。新婚旅行のときも、その土地の名物だというのを買いまして、ホテルでたべたことがございました」
しんみりとした語調になったので、本部長はちょっと間をおくと、感情のしずまるのを待って質問をつづけた。
「瓦煎餅にこだわりますが、『貸』という文字の入った瓦煎餅に心当りはありませんか」
「……いいえ」
「あるいは賃貸の『賃』の字かもしれません」
「……存じません」
上目づかいに天井の一劃を見上げて考え込むふうだったが、やがて首をふると、はっきりした調子で否定した。夫の口中から菓子が発見されたことは知らないとみえて、本部長がなぜ瓦煎餅に固執するのか、その理由を忖度《そんたく》しかねているように見えた。
「そうしますと、こう考えてよろしいですな? ご主人は自発的に瓦煎餅を買ってたべるようなことはないが、相手からすすめられれば必ずしも辞退はしなかった……と」
「はい」
大きな目がきらりと光ってみえたのは、本部長がいった「相手」という言葉から女性を想像したからだろうか。しかしそれも一瞬のことで、はしたない行為を恥じたかのように視線を膝におとしてしまった。
「質問を変えます。奥さんにとって不愉快な話になりますが、ご主人が東京でひそかに交際していた女性が誰であったか、見当がおつきですか」
「いいえ」
硬い調子ではね返すようにいった。
「ずる賢い人でしたもの、妻に尻尾《しつぽ》をつかまれるような真似はいたしません。でも、森川さんなら知ってるかもしれませんわ。男同士の間では、妻に知られたくないような事柄でもあけすけに打ち明けるという話ですもの」
「誰ですか、森川さんというのは」
「お弟子さんですの。大阪には二人のお弟子さんがいますけど、東京にいるお弟子さんは森川さんただ一人です。単なるお弟子ではなくて、東京の事務所に出勤していて、雑誌社などから仕事の依頼がありますとスケジュールと睨み合せて返事をしたり、大阪の小日向のところに連絡をとったり、マネジャーみたいな役もつとめています。ですから、そうしたご質問には森川さんのほうが……」
適任だというのである。
「あたくし森川さんを非難するつもりはございません。でも、一般的に申しまして男性は卑劣だと思いますわ。ことよろめき問題に関すると共同戦線を張って、妻の耳には入らないように努力するんですもの。森川さんもそうでした。あたくしと会ったときもそんなことはおくびにも出さないで……。あれが男性間の友情なのでしょうか。あのうす汚ない馴れ合いのお芝居をすることが……」
主任警部はともかく、本部長は耳がいたいとみえてしきりに顎をなでていた。
その間にも、捜査はゆるやかなテンポではあるが進捗していた。事件の前々日に西宮のマンションを出てから後、屍体となって発見されるまでの数日間における小日向大輔の行動のうちで、判明したのはごく僅かのことでしかなかった。
ホテルに部屋を予約してきたのは三日の午後三時のことであった。その時刻からみて、新幹線で上京するとただちに駅から電話をしたらしい。トゥインベッドの部屋で二泊したいという申し入れだったが、生憎なことにシングルしか空いていない。その旨をホテル側が伝えると、小日向はそれで我慢しようと答えた。そしてそれから三十分ほどたった頃に、彼は小型の緑色の鞄をさげてフロントに姿を見せたのである。
ボーイやメイドの話を綜合すると、その日の大輔は入浴して外出したきり、部屋には戻っていない。彼がホテルに帰ったのは翌四日の午後のことで、このときもすぐにバスを使い、早目にかるい夕食をとった。当夜は六時からおなじホテルの宴会場で授賞式の祝賀パーティがあるわけだが、そうした席でがつがつ喰うのはみっともないということから、前以って胃袋になにかを詰めておくのが大輔の習慣だったのである。
当夜の会場では彼がいちばん先に到着した。受付の女の子が机の向うに坐るか坐らぬうちにやってきて、一万円札で会費を払っている。来会者の署名簿は二冊用意されていたが、その一冊の冒頭に、このカメラマンの毛筆による達筆な署名がのっていた。
刑事がこの日出席した作家や編集者を訊ねて廻わった結果、当夜のことはかなり細かい点まで正確に判明した。小日向大輔はパーティの途中で式場をぬけだすと、五、六人の気の合った仲間と銀座周辺のバーを梯子している。呑めぬくせに酒席の雰囲気を好むたちとみえ、二、三のバーに自分の名を入れたウィスキーを預けているほどなのだ。その夜の彼は、最後にゆきつけの握りめし屋に顔をだして看板になるまで他愛のないお喋りをしていたが、やがて編集者とおかみに送られてホテルに帰った。それが午前二時を過ぎた頃であった。
大輔はホテルの食堂が嫌いなたちなので、食事はいつも部屋でとる習慣だった。ところがその翌朝、というのは犯行のあった五日のことだけれども、食欲がないからといってメイドにルームサービスを断わると、九時にチェックアウトして発っていった。彼の行動で判明したのはここまでである。
ホテルを出た彼は、どこへ行くつもりだったのだろうか。刑事は従業員に手をかえ品をかえ追及してみたが、はっきりとしたことは解らなかった。ここを常宿としている彼はマネジャーやボーイとも顔見知りであり、メイドなどとも親しく口をきいていたけれど、そこまで立ち入ったことを話題にする筈もなかったのである。
未亡人の説明によると、鞄の中身はごくありきたりの衣類で、長期滞在の場合は汚れた下着類は小包みで送り返し、東京であたらしい品を補給することにしていた。だから鞄は小型のもので充分に間に合った、というのであった。東京を引き払ったとはいっても、東京でなければ用が済まぬ仕事もある。そうしたケースにそなえてビルの一室を借りて事務室とし、カメラその他をロッカーに入れてあるので、仕事で出京するときでも抱えていくのはグリーンの小型鞄一つだった。だが財布や身分証明書などとともに、その緑色の鞄の所在も不明である。あるいは犯人によって処分されているのかもしれなかった。
その大輔には東京に愛人がいるという。おそらくは「東京夫人」といった存在だったのだろう。そうした女性がいたからこそ、松枝夫人に対する愛情が薄れていったことになる。
一方、この陰の女にしてみれば妻の座を獲得したかったに違いない。大輔はジャーナリズムの寵児ともいえる売れっ児のカメラマンなのだ。その夫人となることは、彼女の虚栄心を充たしてなお余るくらいであった。
では、大輔が冷えきった仲にある松枝を離別しなかったのはなぜか。彼にそれだけの踏ん切りがつかなかったのかもしれないし、松枝のほうが意地を張って離婚を認めようとしなかったためかもしれない。その理由はともかく、「現地妻」が大輔の煮え切らぬ態度に腹を立てたとしても無理からぬことなのである。
瓦煎餅を茶菓子にだしたこともまた、犯人が女性であることを示しているようであった。男性が男の客をもてなす場合は、まずビールかオンザロックを持ち出すことが常識だろう。相手が下戸だったとすれば、手軽くインスタント珈琲をいれて飲ますであろう。お茶うけに干菓子《ひがし》をすすめるという思いつきは男性のものではなかった。
それに加えて、茶菓子を喰べさせておき、相手の油断しきった隙をついて刺したそのやり方が、女性特有の陰険さを暗示しているように思えるのだ。男の犯行だったらもっと直情径行的にいくだろう。非力な女だからこそ、大輔を安心させておいて虚を衝くという卑劣な手段をとらざるを得ないのである。
本部にとっては、弟子の事情聴取が焦眉《しようび》の問題となった。
大阪側の弟子と連絡をとりながら、森川青年は、葬儀の準備だの死亡広告の文案作成その他で多忙をきわめていたが、その手のすいたときを狙って刑事は、小日向の東京事務所の近所にある喫茶店で話を聞くことにした。
森川は睡眠不足とみえて目を充血させており、不精ひげの生えた角張った顔は冴えなかった。これから印刷所へいって死亡通知状を刷ってもらうのだという。
「早速ですが、小日向さんの女性関係について知っていることがあったら聞かせて下さい」
「そう訊かれても……弱ったなあ……心当りが一つもないんですよ」
「しかしあれだけ有名なカメラマンなのだから、世間の女が黙っちゃいないでしょう。しかも奥さんは関西にいて監視の目がとどかない。小日向さんにその気がなくても、女のほうから積極的にでてくると思うんだが……」
弟子としては、大輔の名誉のためにも彼のふしだらな行為を口外したくないだろう。刑事はそうした考えから、小日向に花を持たせ、モーションをかけてきたのは女性のほうだろうという言い方をした。
森川はライオンのたてがみに似たこわい髪をゆさぶって否定した。
「知らないんですよ、本当に。近頃の先生は大阪で仕事をされることが多いですから、以前に比べると、ぼくが助手をつとめる機会はぐんと減っています。電話ではしょっちゅう連絡をとり合ってますが、実際にコンタクトする時間はほとんどないんですよ。上京される度にオフィスに顔を出されるのは事実です。でもそれは文字どおり顔を出すだけで、ぼくと珈琲を飲みながら雑談をすると、すぐに出ていかれるんです」
「小日向さんは月に二度は上京するという話ですが、仕事でないとすると、目的は何だったのでしょうか」
「それはやはりつき合いのためじゃないですか。根っからの関西人ならば向うに友人がいるでしょうが、先生は東京人でしたから、友人の大半は東京にいるんです。ぼくは、本質的に先生は淋しがり屋ではなかったかと思います。だから友達なしでは生きていかれなかったんです」
「その友人のなかに女性がまじっていた、とは思いませんか」
「そう考えるのは自由ですが、先生の性格をのみ込んでいるぼくから見ると、そんなことはあり得ませんね。男性というものは、気のおけない仲間同士があつまると女の噂をして楽しむものですけど、先生はそんな雑談には決して加わりませんでした。といって、箸にも棒にもかからぬ融通のきかない堅物《かたぶつ》というのではないです。なんといってもヌードを専門にしているくらいですから。ぼくは先生をむしろ愛妻家だと信じて――」
不意に言葉を切って、なにか思い当る顔になった。瞳を落着なく動かし、どうやら狼狽しているふうでもある。それを刑事が見逃すわけもない。
「何かあるんじゃないですか。あなたは小日向氏あるいは未亡人の立場を考えてためらっているのかもしれないが、未亡人もわれわれも、事件の背後にはその女がからんでいるのではないかと見ている。話をあなたから訊き出してもらいたいというのは、未亡人の意向なんですよ」
周囲の客に気がねして声は小さかったが、言葉にも表情にも説得力があふれており、このカメラマンの卵は簡単に落城した。
「思い当ることというと、後にも先にもただ一つしかないです」
「何ですか」
「北千住の喫茶店でお茶を飲んでいたときのことなんです。向うのテーブルにわかい男女のカップルがいることに気づくと、先生の態度が急にうわの空になってしまったんです。それまでは熱心に仕事の打ち合わせをやっていたのに。後にも先にも、あんな異常な様子を見せたことはありません。ですから、あれが先生の愛人だったのではないかと……」
「どんな女でした?」
「下町ふうというんでしょうか。あの時間にランデブーしているんですから、勤めのある人ではないと思います。例えば家事手伝いとか……」
「服装はどうでした? 髪の形などは?」
「和服でした。髪型の名はよく知りませんが、わかい女性が正月によくやるやつです。ピンクの絞りの布をくっつけて……」
「すると新型かな? 本年度のニューモードとかいう……」
「いえ、テレビの時代物でもときどき見かけますから、ニューモードではないと思います」
「それじゃ桃割れかな?」
「そうそう、桃割れです。桃割れでなかったら島田だろうと思います。島田でなかったら銀杏《いちよう》返《がえ》し……」
本人はまともなことを語っているつもりらしいが、刑事からみると支離滅裂である。
「どうだろう、その土地の人間にみえたか、それともよそ者に見えたですか」
「さあ……。解りませんね」
「美人でしたか」
いまをときめくカメラマンがうつつをぬかした女性といえば、美人でないわけがない。
「解らないんですよ、向うをむいてましたから。でも、衿足《えりあし》がきれいでした、とても。だから美人でしょうね」
「どう? もう一杯……」
紅茶のカップがからになっているのに気づくと、刑事は機嫌をとるように訊いた。
「結構です。もうだぶだぶで」
と、青年は胃袋をゆさぶってみせた。することがどこか稚いのである。
「体つきの特徴は解りませんか。例えばグラマーだったとか……」
女性専科のカメラマンが接触しているのはヌードモデルであり、したがって大輔が愛人にしたのはそのモデルのなかの一人だろうと刑事は踏んでいた。
「解りませんよ、そこまでは。後ろからちらっと眺めたきりですから……」
しかし、と彼はさめた紅茶を飲みほすと、そのカップを手にしたままで考えてみる。女が屍体を運搬したり遺棄《いき》したりすることは体力的に無理だ。とするならば、喫茶店にいたその相手の男が一枚噛んでいるのではないか。
いや、女は無関係であり、男の単独犯行なのかもしれない。彼にとってみれば、小日向こそ憎きライバルなのだ。愛らしい日本髪の女性をなかに挟んでおきまりの三角関係が次第にこじれ、それが殺人へとエスカレートしたことも想像できるのである。男女の共同犯行という見方に比べると、こちらのほうがすっきりしているくらいだ。
「男はどんな人相でした?」
「解りません。二人ともこちらに背をむけて並んで坐っていたものですから」
「幾つぐらいに見えましたか」
「若かったですね。二十歳ぐらいでしょうか。頸や肩幅がほっそりとしていて、とても華奢《きやしや》でした」
ぽきりと折れそうな男だったと聞いて、刑事はちょっと意外な感じをうけた。だが、ひ弱な男だからこそ、隙を狙って背後から刺殺するという女性的な手段にでたのではないか。
「男の服装はどうでした?」
「これも着物です」
「和服?」
「ええ。呉服屋の番頭ではないかと思いました。板についているといいますか、とても着こなしが上手でしたから」
刑事はまた当てがはずれた顔になった。と同時に、男は土地者だとみて間違いないと思った。いまどき和服姿で遠出をする若者はいないからだ。
森川とわかれた刑事はその足で地下鉄にのると、北千住の喫茶店をおとずれて、マネジャーの協力でウェイトレスをはじめコックや居合わせた常連の客にまで訊ねてもらったが、問題の男女について知るものは一人もいなかった。
三 縁でこそあれ
捜査本部は瓦煎餅の追及をつづける一方で、第一現場及び屍体遺棄の目撃者の発見という地道な調査をつづけていた。しかし犯人の側も慎重に行動をしたとみえて、見慣れぬ車が停っていたといった程度の情報すら掴めなかった。尤も、元来が人通りの少ない脇道だから、深夜を狙ってやれば、人目にふれるおそれはまずないのである。こうして一種の足踏み状態にあるときに、その情報がもたらされた。
といっても直接に持ち込まれたわけではなく、本部に詰めている一人の新聞記者から仲のいい刑事に対して、こういう噂があるがと前置きをして囁かれたのである。
「これはぼくの知っている雑誌の編集者から知らされたことなんだけどね、ガイシャがなぜ美人の奥さんとうまくいかなかったかという問題の解答にもなるんだ。彼には同性愛の趣味があるというんだよ」
「ほう。同性愛って話には聞いていたが、実際にあるものなのかねえ」
「呆れたね、それでよくもデカがつとまるもんだ」
「そう嗤《わら》われてもまだ信じられないな。世の中にゃ女という結構なものがあるというのに、なにを好き好んで男に血道をあげるんだろうね」
「そこは蓼《たで》喰う虫もなんとやらというからね、当人の身になってみなくちゃ醍醐味は解らないさ」
「信じられないねえ。おれの女房はおかめだが、それでも男をかみさんにするよか女房を女房にしたほうがましだと思うよ」
「それは少し言い過ぎじゃないかな。優しくてさ、しっかり者で亭主思いの奥さんのことをそんなふうにいうと、罰が当るぜ」
「えへへ、そうかね」
刑事はたちまち軟化して目尻をさげた。
「で、その編集者は、ホモ同士の陰湿なもつれが動機で殺されたんじゃないかというんだがね」
「陰湿なもつれってのは、具体的にどんなことだい?」
「そんなことぼくが知るものか。こう見えてもぼくはノーマルな男だからね、男にゃ興味はない。うちのかみさんもお多福風邪にかかったお多福みたいな顔をしてるが、なんてったってやっぱり女房がいちばんいいと思ってるくちだ」
「ところでその雑誌記者のいうことは信じていいのかね? おれのいうのは、その旦那が、ガイシャの同性愛をなぜ知ってるかってことだが……」
「うむ、それなんだがね。そもそもの話というのはその編集者が担当している有名な作家から始まるんだ。仮りにA先生としておくが、このA先生が小説のなかで同性愛を扱うことになったものの、なにしろホモなんてものは自分で経験しないことには書けない。読者に嘘をつくのは罪悪だという信条を持っている作家だから、つてを求めて秘密パーティに潜入することにしたんだ。だが、独りでは心細いというんで同行したのが、その編集者なのだよ」
「なるほど。そこでカメラマンとばったり顔を合わせたというわけか」
「そうじゃない。ホストは素顔だがお客はみんな仮面をかぶって顔を隠している。しかも客は前以って別室で着物をぬがされるから、服装から見破られる心配もないんだ。秘密パーティである以上は当然のことだが、客の正体を知られぬために、万全の策がとられているんだな」
「それじゃ小日向大輔の混っていることがどうして判ったんだ」
「いくら裸になったとしても体つきは変えられない。デブはデブだしノッポはノッポだ。ズングリムックリした男はやはりズングリムックリだ。しかし小日向であることを見抜かれたのは、このカメラマンが昼間その雑誌社の編集部をたずねたときに指先につけたインクなんだ。洗っても簡単にはおちないインクだから小日向としても仕様がなかったんだろうが、同時に、まさかパーティに顔見知りの編集者がくるとは思わない。たかをくくっていたのが間違いだったんだな」
刑事は素直に同意はしなかった。小首をかしげて疑わしそうに反論した。
「体つきとインクの汚れだけじゃ当人かどうか解らない。偶然の一致というやつは幾らでもあるんだぜ」
「ところがこの編集者は嗅覚がすぐれた男でね、目をつぶっていても作家の体臭で相手が誰であるか識別できるという特技を持っている。というのは少しオーバーだけど、小日向はニンニク入りのピザが大好きでね、上京すると六本木のイタリア料理店に行く。そして鱈腹《たらふく》ニンニクの入ったピザを喰うんだが、当夜の小日向と目される男が非常にニンニクくさかったというんだな。だから二つまでは偶然の一致ですむが、三つ重なると、小日向大輔だと思わざるを得ない」
「ふむ」
「どうかね?」
「多少の参考にはなる。参考にはなるけどね……」
大して興味をそそられた様子もなく、刑事は物憂気な調子で答え、小さなあくびをもらした。
「いや失敬、睡眠不足なもんで」
気のない返事をしてみせたが、逆に胸中では大いに関心を抱いていた。美人の細君との仲が冷えていたこと、美人ぞろいのモデルに取り囲まれながら一度も問題を起さなかったこと等から考えると、ホモ説には肯かせるものが多いのだ。この記者がほのめかした陰湿な関係が動機となったのではないかという仮説は、一概に否定することができない説得力を持っていた。
「面白い話をありがとさんよ。そばの代金はおれに払わせてくれ」
と、その刑事はあくまですっとぼけて見せた。
事件の捜査がゆきなやんでいたという折りでもあったので、刑事の報告は本部にちょっとしたショックを与えた。
「ではその方面はきみに担当してもらおう。但し、ミイラ取りがミイラになってはいかんよ」
「は?」
「きみにはその気はないと思うが、後で奥さんに叱言をいわれると困るからな」
事件のあたらしい展開に本部長は気をよくしたのか、冴えない冗談をいった。
東京のはずれにある稲城署から都心に行くにはかなりの時間がかかる。その刑事が私鉄と地下鉄を乗りついで菊屋橋にでたのは午後の三時を大幅にまわった頃で、歩道をいく彼の影が灰色の敷石の上にながくのびていた。
菊屋橋は、上野駅と浅草のほぼ中間の地点にあって、刑事がこれから訪ねようとするのは警視庁保安一課菊屋橋分室である。ここは、転落した女性の指導更生を主要な目的とする特殊な部署として知られていた。本庁の捜査課の連中は自分達のことを硬派と呼び、こちらを軟派と称して一段低くみる傾向があった。
元の菊屋橋署だから場所はすぐに判った。三階建てのうす汚れた建物で、近頃の近代化された警察署を見慣れた刑事の目には、その古さが逆に懐しいもののように感じられた。彼はゆっくりと石の階段をのぼった。
本部をでる前に電話をかけておいたので、部長刑事の平山が外出をひかえて、待っていてくれた。二人の刑事は、敗戦直後の駆け出し時代に世田谷署に配属され、一緒に闇市のうどんを喰った仲であった。うどんといっても小麦粉などはないから、粉末の海草と寒天とで造った、味も素っ気もない喰い物だった。いや有り態《てい》にいえば、この海草麺は、物のない当時ですらまずくて飲み込むのに苦労をするほどのしろものであった。だが、空腹を忘れるためにはなにかしらを胃に入れなければならないのだ。
「やあ、よく来たな。よかったらそこの餅菓子屋で話をしないか。ぜんざいの旨いやつを喰わせる店でね」
「よかったらここで話をしたい」
「忘れていた。きみは辛党だったな。といって勤務中に呑むわけにもいかんし、じゃ、喫茶店はどうだい?」
「誘ってくれるのはありがたいんだが、人前では話せないような内容なんだ。じつは同性愛について訊きたいのだよ」
「そういわれてみると喫茶店はまずいな。といって、空いている部屋は取調室しかないんだが」
「そこで結構だ」
本庁の刑事は早口で応じた。
取調室といっても連行されてくるのが女性ばかりだから、机の花瓶や柱の一輪差しに黄色い小菊とりんどうがさしてあり、それが殺風景な部屋の空気をなごませていた。
「レズのなにを訊きたい?」
「レズというのは女同士の同性愛だろ? おれが知りたいのはホモのほうだ」
「そりゃお門違《かどちが》いだぜ。レコード屋に饅頭《まんじゆう》を買いに来たようなものだ」
「それは承知してるけどもさ、ホモもレズも変態である点は共通しているんだから、なにか参考になる話を聞かせてもらえるんじゃないかと思ってね」
「それもそうだが」
と、平山は心持ち顔をそむけるようにして頷いた。お互い五十歳に手がとどこうという年輩だから当然のことだが、彼の髪にも白いものが目立っていた。
「女性同士のいわゆるレズビアンというのは、何かこうレビュウの男役と女役みたいで綺麗事の印象をうける。だがこれがホモとなると、江戸時代の昔からうす汚ないものの代表とされているんだ。蔭間茶屋の客は坊主だとか医者だとかいった陰気な連中ばかりで、一方、それの相手をするのが市川花之丞とかなんとかいう若手の歌舞伎役者だ。これはおれの解釈だから当っているかどうかは知らないが、かつての歌舞伎役者が河原乞食なんていわれて蔑視されたのは、若手俳優のうちの何人かがこういう淫靡《いんび》な商売をやったせいではないかと思うんだ」
「なるほどね」
「ま、それはともかくとして、外面は似たような同性愛だけれど、ホモとレズを同一視するわけにはいかない。しかし、ごくおおまかな知識でよければ提供するにやぶさかではないがね」
平山はますます反り身になっていったが、ふとそのことに自分で気づくと、声をださずにくすりと笑った。
「どうもこれが癖になっちまってね。夜の女というのは十中八、九までが梅毒にやられているんだ。それを知らない男の客が病菌を持ち帰って家庭内にばらまくんだから堪ったものじゃないよ。おれの取り越し苦労ならばいいけども、親爺からおふくろを経て、学童のかなりの数が梅毒をうつされているんじゃないかと思う。日本が沈没する前に、大和民族が梅毒で亡びてしまうのではないかね」
「そんなにすごいのか」
「夜の女の保菌者の数は想像以上だ。だから女を調べていると、向き合っているものだから彼女等の唾がかかる。霧のような唾液の一滴に、スピロヘータがうじゃうじゃといるんだぜ。そいつが当方の顔の目に見えないくらいの小さな疵から侵入すると、おれは知らぬ間《ま》に感染して、何年か後には鼻が欠けたりハスキーボイスになったり、脳をやられて気違いになってしまうのだ。だからつい唾が飛ぶのをさけようとして、相手との間に距離をおこうとすることになるわけさ」
「しかしそれは考え過ぎじゃないのかな。そんなことをいってると、電車の吊り革にぶらさがることも、めし屋で茶漬けを一杯ということもできなくなるじゃないか」
「そのとおりさ。特に唇から伝染する可能性がいちばん大きいのだ、充分に気をつけたほうがいいよ。われわれにしても、頻繁に血を絞られて陰性か陽性かをきびしく検査されている。十日目毎にだぜ」
十日目毎といわれたときに、本庁からきた刑事の頭にも梅毒のおそろしさが初めて認識された。彼が血液検査をうけたのは、後にも先にも結婚式の直前だけであった、彼は神経質なたちではないので、話を聞いたからといって体中がむずむずするようなことはなかったが、近いうちに夫婦ともども血を調べてもらおうと思った。一匹のスピロヘータのために家庭の幸福を奪われてたまるものか。
「レズビアンを誇るわけにはいくまいが、といって人に知られたから恥ずかしいという性格のものでもない。女性ばかりの団体の間で噂が立つ例は珍しいことではないのだからね。ところがホモのほうは日陰に生える隠花植物みたいに、好んで陽のあたらぬ場所でひっそりと営むものなんだ。考えてもみたまえ、ヒゲの生えた野郎と野郎のコンビなんだぜ」
「それが不潔なことは想像しただけでよく解るさ」
「うむ。おなじ変態仲間であっても、サドやマゾはそれを売り物にして雑誌まで店頭にならんでいるのに、ホモが人目をはばかって秘密の場所で会合を持つのは、それが自慢できるしろものではないからだ。といって、それだけでは取り締りの対象とはならんからな、われわれもタッチする機会がない」
「すると彼等のアジトが何処にあるかということは判らないのか」
「ああ、そのとおりだ。秘密クラブが幾つあるかということだって判っていない」
「すると、秘密パーティに潜入したというその編集者に訊いてみても――」
「駄目だろうな。何区何町の何番地でパーティをやると知らされて集まるのではなくて、信用のある幹部会員が車で仲間を迎えにいくんだ。しかも臨時の会員は目隠しをされているから到着した場所がどこかも判らない。仮りに判ったとしても、パーティの主催者のほうでは会の後ですぐに居所を変えてしまうのが普通だからね。例えば、マンションの大きな部屋を借りて飾りつけをしたり酒肴の用意をする、パーティがすめば居抜きのままドロンしてしまうんだ。家具は貸し道具屋から借りたものなのだ、店の側にしても賃貸料と運搬費を払ってもらえば、それ以上のことを詮索《せんさく》する必要もない。したがって家具店をいくら調べてみても埒《らち》はあかないだろうね」
「どうも絶望的だな。となると、都内の各派出所に問い合わせる以外に手はなさそうだ」
「さて、期待できるかな? 戦前の戸籍調べをやっていた頃とは違うんだ。昨今は得体の知れぬ家がわんさとある、あらためてそれを一戸一戸チェックしていったら大仕事だぜ」
と、彼もまた悲観的な点では同様だった。そういう言い方をするときの平山は鬢《びん》の白さが目立って、いかにも年輩刑事らしい分別臭さがあった。
情報をまともに取り上げてくれなかったことに業を煮やしたのか、不発だった情報を捨てるにしのびなかったのか、その記者は大輔のホモを匂わせた記事を夕刊にのせた。慌てた本部側はいっせいに苦い表情になったものの、といって文句をつけることはできなかった。非はむしろ口止めをしておかなかった当局側にあるからである。
ところが、一夜明けた翌日には、事態は一変して、その記者に感謝しなければならぬような情勢になった。前夜の夕刊で小日向大輔のホモ説が素っ破ぬかれているのを読み、協力することを思い立ったといって一人の美少年が本部をおとずれたからであった。
宮永一夫、十九歳。二年前から銀座のバーでバーテンの見習いをしている、と彼は自己紹介をした。撫で肩で腰のくびれた、見るからに弱々しい体つきである。色が白く、白目が少女のように青い。形のいい唇は、ルージュを塗っているのかと思ったほど紅かった。女性に比べると男は目鼻立ちの彫りが深いので、化粧をすれば一段と魅力的になるといわれているが、宮永一夫を見ると、その俗説の正しいことが理解できた。
彼は小日向未亡人がとおされたのと同じ部屋に招じ入れられた。ひどく丈の高い男だなと思ってそれとなく脚元を見ると、女のようにヒールの高い靴をはいているのだった。ほんの瞬間的なことではあったけれども、ひょっとするとこの美少年はブラジャーをつけパンティをはいているのじゃあるまいか、と本部長は思った。
「小日向さんはあたくし達の会の正会員だったんですわ。あたくし、小日向さんを殺した犯人について心当りがあるんですの」
と、美少年は歌舞伎の女形みたいな、どことなく現実ばなれのした、妖しくもありまた滑稽でもある喋り方をした。
「呼び名をアドという子なんです。ギリシャ神話のアドニスからとった名で、うちの会のパパさんの命名ですの」
パパというのは、秘密グループの主催者のことなのである。
「あたくしは女性に興味を持ったことはありませんけど、同じホモでありながら、男性に愛されるのと同じように、女性を愛することにも喜びを感じるというタイプがあるんです。アドも、この両刀使いでした」
それが身嗜《みだし》なみというのだろうか、頬にはかすかに白粉《おしろい》をはき、瞼にはうすくブルウのアイシャドウを塗ってつけまつ毛さえしている。本部長も警部も、異形《いぎよう》の怪物と対面でもしたように、少年の美しい顔をまじまじと見詰めていた。
「ひと月あまり前のことですけど、上京した小日向さんがなにかの用事があって北千住へ廻わったんですって。駅のそばの喫茶店でお茶をのんでいたら、アドが美人をつれて入ってきて、小日向さんがいることも知らずに喋々《ちようちよう》喃々《なんなん》とやっているんです。喋々喃々て何のことか知りませんけど、要するにいちゃついてるってわけね」
二人の聞き手は黙って頷いた。
「それを見た途端に、小日向さんのアドに対する気持が冷えてしまったんです。小日向さんはご自分の奥さまに対する愛情の分までアドにそそいでいたんですもの、アドもまた全身全霊をもってそれに応えるべきなのよ。なのに彼は小日向さんにかくれて女を愛していた。小日向さんにとってみれば重大な背信ですわ」
「ふむ」
「それまではあたくしもアドに遠慮してましたけど、そうした事情が解ってからは堂々と小日向さんに接近して愛情を受け入れました。捨てられたアドはそれきり姿を見せなくなりましたけど……」
「姿を見せなくなったというと、会から脱退したのですか」
「ええ、クラブからですわ。うちのクラブは『廃園』という名なんですの。電話帳なんかみても載ってませんことよ」
美少年が歯をみせてにやりと笑うと、美しさに凄愴《せいそう》な感じが加わり、本部長はしばし讃嘆したように見とれていた。
「何処にあるんです?」
「それは申せませんわ。喋ったらパパにもお客さんにも迷惑がかかりますもの。少なくとも千住の方角ではございませんわね」
「ふむ」
「そのかわりに、アドのことを教えて上げますわ」
美しい顔をしているくせに、水商売で揉まれたせいか、駆け引きは心得たものだった。
「なんという男ですか。その、アドというのは」
「あらいやだ、男だなんて」
と美少年は本部長をぶつ真似をした。彼にしてみればホモなどという妙な動物を相手にするのはこれが初めてのことだから、ただまごつくばかりである。口を動かしかけたが言葉はでてこなかった。
「では何て呼べばいいんです」
無口な主任がはじめて口をきいた。美少年はそちらに視線をむけると、バーで客を迎えたときのように艶然とほほえんでみせた。
「ホミイというんですの」
「なるほど。で、小日向氏に捨てられたホミイさんの名は?」
「古川勘八といいますの。たしか先月はたちになった筈ですわ。くわしい住所は知りませんけど、なんでも北千住のもと遊廓のあった辺りだといってました。嫌やらしいですわ、遊廓だなんて……」
「なんで喰ってるのかな」
「本職は邦楽のほうで、そのうちに名取りになるんだとか……」
「するとなんですか、お師匠さんについて修業していたわけですか」
主任警部はふたたび黙り込み、質問するのは本部長である。
「お師匠さんの名は?」
「さあ。なんていったかしら」
しなをつくって小首をかしげる仕草はまるで女であった。いや、最近の男性化した武骨な女性と比較するならば、はるかにこちらのほうが女らしさを身につけていた。
「常磐津ならば常磐津文字助とかなんとかいう名だろうし、長唄なら杵屋だとか松永ということになる筈だが……」
「そんなんじゃありませんわ。あれは何といったかしら、木村庄之助……」
「それは相撲の行司です」
「あら」
「すると清元かな? 清元の師匠には清元なにがし太夫って名が多いようだが」
「そんなに大袈裟な名前じゃありませんの。もっとありふれた……」
「荻江節というのもあるが、これは荻江某といったふうになる。しかしありふれた姓ではないな」
と、本部長は独りごちた。彼は義太夫を語る趣味があり、落語の≪寝床≫の主人公のように、なにかというと部下に聞かせたがった。だから邦楽全般にも多少の知識は持っていたのである。
「あの子、好きな曲は≪らんちゅう≫だといってましたわ」
本部長と主任警部は顔を見合わせた。らんちゅうだの出目金というのは金魚の世界の話である。
「金魚とか花火なんてことになると、これは小唄か俗曲ですな」
「もしかすると≪蘭蝶≫の聞き違いではないでしょうか」
と、主任警部がおだやかな調子で口をはさんだ。
「そうですわ、≪蘭蝶≫だといってましたわ。どんな蝶々だか知らないけど」
「きみ、≪蘭蝶≫なら新内ですよ。新内だとすると富士松か岡元――」
「思い出した、それですわ。岡元っていうんです」
美少年は口をゆがめた。
「小日向氏が上京したら、なにはさておきあなたを訪ねただろうと思うんだけれど、どうでした?」
「それが訝しいの、今度は電話一本くれなかったのよ。きっと、アドがよりを戻そうとして誘惑したのじゃないかしら。だけど小日向さんが許そうとしないので腹を立てて殺してしまったんだと思うわ。そうよ、それに決ってるわよ」
美少年はまた朱い唇をねじ曲ると断定的にいった。瓦煎餅なんていう菓子をすすめたことから考えて、あながち的はずれの意見だとも思えない。
「ところでアドは甘い物が好きでしたかね?」
「ホミイはたいてい甘い物が好きなものよ。たといお酒が好きな子でも、お客さんの前ではそんな様子はみせないの。だってへべれけになったら可愛気がなくなるじゃない?」
甘ったれた口調になり、上体をしんなりとねじって笑ってみせた。
「新内語りにも組合かなにかあるんだろう、まずそこに訊いてみることだな」
署長にいわれて一人の刑事が電話帳をひろげ、ダイアルを廻わす作業にとりかかった。そして瓦煎餅の場合とは違って、二度目にかけた相手が師匠の岡元欣弥であった。
「古川? ああ、岡元勘八のことですな? ええ、おっしゃるとおり優《や》さ男です。目のすずしい、男にしておくのが勿体ないような美男子です。これが何か……?」
と、急に欣弥は思い当ることでもあるのか、心配そうな口調に変った。
「べつに。ただ当人にちょっと確めたいことがありましてね」
「はあ」
「ところで最近、そのお弟子がふさぎ込むとか怒りっぽくなるとか、あるいは目つきが変になるとか、そういう異常はありませんでしたか」
「そうですな、わたしは気づきませんでしたが、他の弟子に訊けば何か判るかもしれません。少々お待ちを……」
受話器をことんとおく音がして、しばらく沈黙がつづいた。通話がとぎれると、電話の向うから≪蘭蝶≫の口説きの場が聞こえてきた。女房持ちの外郎売りが遊女に入れ揚げ、とどのつまりは身を滅ぼすというありきたりの筋書だが、新内好きのものにはその艶っぽい語りと爛熟した旋律の美しさがたまらぬ魅力なのである。
弟子にしては上手すぎる。師匠がテープに吹き込んだものを回転させ、教材として弟子に聞かせているのだろうか。その刑事がそうしたことを考えながら聞き惚れていると、いきなり欣弥の声が伝ってきた。
「ひと月ばかり前になりますが、どうしたわけかふさぎの虫にとりつかれたみたいに口数が少なくなったことがあるそうです。好きな女から肘鉄砲でもくらったんだろうと兄弟子達が噂をしていたそうで。気の小さな男ですから警察のご厄介になるような悪さをする筈がないと思いますが……」
「ただ参考までにお訊きしただけです」
紋切り型の返事をして受話器をのせた。
この刑事が勘八の調査を命じられたのは、邦楽につよいという理由による。あとの捜査員はほとんどが無趣味なのだ。無趣味というよりも、趣味を楽しむだけの余暇にとぼしいのであった。
師匠の欣弥から聞いた古川勘八の住所は、足立区千住桜木町となっている。この近辺は遊廓のあった跡だと聞いたことがあったが、桜木町はそれよりもずっと奥まった荒川放水路のかたわらで、低湿地特有のじめじめとした場所だった。すぐ隣りに明治時代の遺物といった形の煉瓦の倉庫が建っており、二階建ての千寿荘アパートはその陰になっている。陽当りのよくない、見るからに寒むざむとした不健康そうな住居と、中年男を籠絡《ろうらく》することを商売としている美少年とのイメージが、刑事の頭のなかでは容易に結びつこうとはしなかった。
一階の奥の北側の陰気な部屋のなかで、勘八はタオル地の寝巻姿のままというだらしのない恰好で、即席ラーメンを煮ていた。洗面前だとみえて頬には不精ヒゲが生え、それが目の大きな美少年であるだけに一層むさ苦しくみえた。
「恥かしいですね、こんなとこ見られちゃって……」
六畳の真中に敷かれてあった布団を、あわてて押入れに片づけた。ここが第一現場なのだろうか。刑事は独特のいやな目つきで、室内を無遠慮に見廻わしていた。シーツは寝乱れてしわが寄っており、その枕元に、寝酒でもやったとみえて一・八リットル瓶とからのコップがおいてある。
「この頃なかなか眠れないんです。だから睡眠剤がわりにお酒を呑んでるわけ」
刑事の視線が酒瓶にそそがれていることに気づくと、勘八は言い訳じみたことを口にして、ガス台の上にもっていった。もしここが女性の部屋であったら台所との境にはピンクのカーテンでもさがっているだろうが、勘八にはそうした器用な真似はできないとみえ、剥き出しのままである。その乱雑な室内で商売道具の細棹《ほそざお》三味線だけがさも大切そうに、整理箪笥の上にのせてあった。
「わるいですわね、お待たせしちゃって」
窓を開けると、細い声でそう謝りながら上り框《がまち》に座布団をしき、自分は畳の上にきちんと膝をそろえた。そうした単純な動作のなかにも、なよなよとした女の匂いがあった。
「なにしろひと部屋しきゃないもので」
「小日向さんが殺されたことは知ってるでしょうな?」
「ええ」
「可愛がって貰ったそうだから、葬式にはいったでしょう?」
「いくいかないはあたしの勝手ですわよ」
勘八はとげとげした口調で言い返した。こういうヒステリタイプの男は、怒らせれば、興奮した拍子に口をすべらせる可能性があるものだ。それを刑事は期待した。
「冷たいな。邦楽をやるような人は義理人情にあついと聞いてたもんだが」
「それはそうですよ。こちらだってひととおりの義理や人情は心得ているつもりだけど、だからといってお人好しじゃありませんからね。それほど馬鹿じゃないですわ」
「しかし、いまもいったように可愛がってくれた人なんだ。そこは矢張り――」
「あたしを捨てた男ですよ、あいつは。だからあたしすごく腹を立ててるの」
「ホモの世界のことはよく解らないんだが、捨てられたら別の客をつかめばいいじゃないか」
「でもあたしの場合は特別よ。あの人が風邪をこじらせて肺炎になったとき、あたしはお百度踏んだのよ。奥さんだってそこまではしなかったんじゃない?」
ヒステリックになるにつけ、女言葉が顔をのぞかせてきた。ほそい眉と眉との間にたてじわが寄るのをみて、刑事は、柳眉《りゆうび》を逆立てるという表現をはじめて実感した。撫で肩で骨が細そうなところは宮永一夫に似ているが、向うが陽性であるとすれば勘八は陰性といってよさそうだ。
「捨てられた理由を知ってますか」
「女とお茶をのんでいたというんでしょ!」
「そう」
「冗談じゃないわよ、あれ妹なんだから。それをいくら説明してやっても、小日向にはつうじないの。口惜しいったらありゃしない」
「そこでプッツリと刺し殺した」
「まさか。面と向って唾を吐きかけてやったら胸がすくだろうなと思った程度よ。でも、そうする勇気もなかったの。その無念さを忘れるために、お稽古に身を入れたわけ」
「新内の、ですか」
「決ってるわよ。長唄なんかに興味ないわ」
「勇気がないというのは謙遜じゃないかな」
「謙遜っていうと……?」
「あの男を刺し殺したのはあなただろう、という意味ですよ」
「まあ、しどい!」
と、勘八はまた眉を逆立てようとした。刑事はそれを頭から無視した。
「小日向さんはね、お菓子を喰っているところを刺されたんです。つまり、犯人とお茶を飲んでいたわけだ。こうばしい番茶でもふうふうやりながら瓦煎餅を喰っていたところをグサリとね」
「あら、見てきたようなことをいうじゃない?」
新内語りは挑むようにいい、肩で大きく呼吸をしていた。隣室の住人に聞かれまいとしてか、声は押えたままである。
しかし刑事は、この想像がそれほど的をはずれているとは思わない。同じ菓子でもチョコレートやキャラメルならばピクニックで喰ってもおかしくはないが、羊羹だの瓦煎餅となると、これは室内専用だ。
「それでは訊くけど、彼が殺されたとき何処にいました?」
「止してよ、冗談じゃない」
「冗談で質問しているのではない。本気ですよ」
刑事が言い終らぬうちに、優さ男がいきなり立ち上った。いままでのなよなよとした女っぽさをどこかに置き忘れたような、男性的な敏捷さだった。
「そっちが本気ならこっちも本気で答えてやる。その前に訊くけど、小日向はいつ殺されたのさ。それを先にいってくれなくちゃ返事の仕様がありゃしない」
「いわなかったかな」
「とぼけるのもいい加減にしてよ」
「そう怒りなさんな。殺されたのは十月五日の午後二時から四時までの間、ということになっている。どうだね?」
「出し抜けにそんなことを訊かれてもすぐに返事ができるものですか。思い出すから待ってよ」
「いくらでも待つ。ゆっくり考えて正確なところを答えてもらいたいですな」
刑事は壁によりかかると、ピースをぬきだしてくわえた。
「お天気はどうだったか覚えてない?」
「雨じゃなかったね。あの頃は十日ちかく晴天がつづいた」
「困ったな。なにかひっかかりがないと無理よ。思い出せるもんですか」
「そう他人事《ひとごと》みたいにいうなよ」
「だけどその質問は意味がないと思うな」
勘八は刑事の前でどさりと坐った。
「なぜ?」
「この部屋にいたといえばここで殺したんだと考えるからよ。千葉にいたと答えても横浜にいたと答えても、あんた達の考えることは同じよ。何がなんでもあたしが殺したことにしたいんだから」
「無茶をいっちゃいかん」
「だからさ、あたしのシロクロをはっきりさせたいなら、『誰と一緒だった?』と訊くべきじゃないかな?」
風向きが変ってきたことを刑事は悟った。勘八の口調にも態度にも自信があふれている。
「やっと思い出したわよ。でも危いとこだった、もう少しで殺人犯にされちゃうところだものね」
「誰と一緒だった」
「|谷中《やなか》のおっしょさんとこで連《つ》れ|弾《び》きのお稽古をしてたのよ」
「師匠とかい?」
「いいえ、あにさんとよ。おっしょさんから、もうそろそろ流しにでてもいいだろうってお許しがあったもんで、そのお稽古をしていたわけなの。嘘だと思ったら、あにさんでもおっしょさんでもいいから、確めてご覧なさいな」
「ふむ。その兄弟子って人の名は?」
手帖を開くと、刑事は疑がわしそうに訊いた。
流しというのは文字通り三味線を弾きながら夜の町を流して歩くことだが、同時に、その際に演奏する曲の名前でもあるのだった。流しをする場合は気の合った仲間と二人でコンビを組み、各自が一丁ずつの三味線を持つ。二人が弾くメロディーは同じだけれど、この曲の場合は片方が一オクターヴ高い音をだすのである。つまり西洋音楽でいうユニゾンなのだ。流して歩くときに、彼等が手拭いを吉原かぶりにして顔を半ばかくす独特の恰好は、いかにも世を忍ぶといった印象をあたえるのだった。山ノ手の住宅街を廻わったところで新内が解るような粋《いき》な住人はいないから、彼等が歩くのはもっぱら下町に決っている。
「どっちが上《うわ》調子をやるのかね?」
と、刑事が訊いた。オクターヴの高い調子を受けもつものは細棹《ほそざお》の中程にこよりを結んで、その境界線から下のほうだけで弾くのである。西洋音楽のハイポジションと同様にデリケートな指使いを要求されるので、テクニックのあるほうが上調子を担当するのは当然である。
「兄弟子のほうだろうね?」
「ええ、あにさんです」
彼はこの刑事が新内に理解を持っていることを初めて知ったらしく、途端に態度が協力的になった。
「あたし一緒にいって上げる。そのほうが手間がかからないわよ」
と勘八はいい、返事を待たずにタオルの寝巻を脱ぎ出した。
「あらあら、ラーメンが煮くずれちゃった」
「ラーメンがとろけてしまった埋め合わせに、わたしがそばを奢《おご》ろうじゃないか」
刑事が同行させる気になったのは道案内をさせるという目的のほかに、この新内語りを終始自分の監視下におきたいと考えたからであった。逃亡されぬまでも、師匠や兄弟子に電話で口裏を合わせてくれるよう依頼されてしまっては、ことが面倒になる。
「あらま、雨が降ってたんですね」
窓越しに空を見上げてそう呟くと、天気がわるいせいか洋服を着てレインコートを羽織った。歌舞伎の女形が服を着用したときのようにどこか身にそぐわぬ感じがするが、身につけるものはすべて商売道具と心得ているせいか、服もツィードの上物である。
「弱ったな。傘を持ってくるんだった。車に乗せてくれるとありがたいね」
さもそうして貰いたそうな、ねだるような口吻で刑事がいった。ここが第一現場であるか否かはさておいて、屍体を第二現場の櫟林まで搬ぶためには車が必要となる。
「いやだ、車なんてないわよ」
「いまの若いもんは猫も杓子も車を持ちたがっているんだがな」
「あたし日本趣味なの。あんなものに興味なんてこれっぽっちもないわ」
「そうかね」
と、刑事は納得した。
「予報では曇りだといってたがな。気象庁はなにをしてるんだろう」
「よろしかったら相合傘でどう? うちには一本きりしきゃないの」
「べつに半平太を気取るわけではないですがね、わたしは濡れていこう。土砂降りじゃないんだから」
と、刑事は相手が気をわるくしないように、言い廻わしに注意を払った。武骨な刑事と優さ男とが一つ傘に入って歩くのはサマにならない。というよりも、彼はホモという人種に対して生理的な嫌悪感をいだいているのである。まだしも兇悪犯と手錠で手をつなぎ合って歩くほうが性《しよう》に合っている。
刑事はトレンチコートの衿を立て、相手から少し離れてうつむき加減に、ぬかるみを避けて歩いた。後ろからみると勘八は内股である。両膝の間になにかをはさみ、それを落とすまいとつとめているような恰好だった。
途中で柳町をぬけた。昭和三十三年の赤線廃止になるまで遊廓が軒をならべていた一劃だが、いまは学生相手の下宿屋ばかりだった。吉原や新宿などで見掛けるようなトルコ風呂は一つもなく、一帯は健全そのものである。刑事が感服の面持ちで見廻わしていると、振り返った勘八はなにを思い違いをしたのかくすっと笑って、男って嫌やねえと呟いた。彼は、いつでも女としての立場からものを見ているようだった。
日光街道の中華料理店でラーメンを喰い、ふたたび外にでたときは空は真っ暗になっていて、いまにも大降りになりそうな気配だった。が、刑事はそれでもなお傘に入ることを辞退して小走りで国鉄北千住駅の入口へ向った。
フォームのベンチに坐ると、勘八から話しかけられるのを避けるために朝刊をひろげ、読みふけるふりをしながら、相手の監視を怠らなかった。万が一にも飛び込み自殺をされたら大きな責任問題となる。上司に叱られるのはいいとして、減俸され、女房に恨みがましく愚痴をこぼされることは考えただけでも気が滅入るのだった。世間の女はどれもそうなのかもしれないけれど、刑事の細君は十年も昔の些細なしくじりを根に持って、いまだに折りにふれてぶつぶつと文句をいうたちである。
勘八は電車のなかでも口をきかず、日暮里駅で降りてからも黙りこくっていた。
「どうした」
「考え事をしてるんですよ。あたしがホモクラブのホミイだったことが知れたら、破門されるんじゃないかと思って……」
「きみが破門になると困るというなら、その辺は気をきかしてやろうじゃないか」
「うれしい、恩に着るわ」
勘八が媚《こび》をふくんだ言い方をすると、すれ違った酒屋の店員がびっくりして振り返った。頬を染めた刑事は唐突に会話を止め、今度は彼のほうがむっつりと黙り込んだ。
師匠の欣弥の家は谷中墓地にちかいしもた家で、あたり一帯は寺が多い。これが町の真中だったら三味線の音がうるさいといって稽古をする度に文句をつけられるだろうが、その点、敷地のひろい寺と隣り合わせているのは理想的というべきだった。
目の粗い、防犯上からみれば何の役にも立ちそうにない格子造りの門がある。それをくぐると、玄関まで飛び石がわりの四角いコンクリートの板が敷かれていた。二人が一歩踏み出したとたん、それにタイミングを合わせたように玄関の格子戸があいて、若い小柄な青年が口三味線でなにか唄いながらでてきた。
「おや、あにさん」
「勘さんかい。野暮用があるもんでお先に帰るぜ」
「ちょっとあにさん、わるいけど五分ばかしつき合ってくれない? こちらの旦那が訊きたいことがあるんだって……」
刑事と目が合った途端、それがデカであることを悟ったらしく、兄弟子は怪訝《けげん》な表情をうかべたものの、素直に頷いて玄関にもどった。上ったところが三畳の板の間で、その隣りの六畳の間が稽古場になっている。おなじ邦楽でも長唄や常磐津は全国的にお弟子がいるけれども、粋な新内を鑑賞するのはほんのひと握りの江戸っ子でしかない。ほかの音曲に比べると、万事がちんまりとしているのは当然のことなのである。
部屋の中央には磨きぬかれた欅《けやき》の長火鉢がおいてあり、その向う側に職人刈りの頭をした五十年輩の男がきちんと坐っていて、猫板にのせた湯呑みに茶をそそいでいるところだった。
「おっしょさん、こちら刑事さんですけど」
「なんだと? 財布でもすられたてえのか」
「あたしのアリバイを調べていらっしゃるんで……」
「なんでえ、その、アリベエてえのは?」
江戸っ子であるだけにこの師匠も気がみじかいらしく、怒鳴りつけるような口のきき方をしたが、そこでふと先程の電話を思い出したとみえて、あらたまった顔で刑事のほうを向いた。新内は高い調子の声を必要とするから、洋楽でいえばテノール歌手がそうであるように、欣弥も弟子達もそろって小造りであった。
「勘八がどうしたというんですかい?」
「とんだ巡り合わせで勘八さんには気の毒ですが、十月五日の午後二時から四時にかけてこの人がここで稽古していたのが本当かどうか、ちょっと思い出して頂きたいのです」
「…………」
「それが事実であるならこんな結構なことはない。しかし、これは重大な事件に関係していますからな、勘八さんをかばって嘘をつかれると、後で師匠にも非常に大きな迷惑がかかる。いいですね?」
前以って刑事は釘をさしておいた。脅すつもりは毛頭ないが、口調はそうなっている。兄弟子のほうは頷いて聞いているのに反して、負けぬ気のつよそうな欣弥はふンといった反撥の表情をうかべていた。
「なんだか知らねえが、藪から棒に訊かれても思い出せませんねえ」
「時間がかかってもかまわんです、そこをじっくり考えて下さい。十月五日の午後のことです」
「この勘八は出来のいい弟子でしてねえ、刑事さん。齢はまだ若《わけ》えが、ほかの弟子が一年かかることを半年で覚えちまうくれえで。いってみりゃああっしの愛弟子《まなでし》だが、その勘八が警察沙汰になるとは穏かじゃねえ。おい勘八、どうしたんでえ」
「はい、それがその、あたしにも何がなんだか解らないんで……」
優さ男はしどろもどろだった。家をでるときにヒゲを剃ってきたから、先刻とは打って変った美少年になっている。
「それよか、ねえ、おっしょさん」
「なんでえ」
「こないだ、あたしがお茶を沸かして、膝にこぼしたことがありましたね?」
「ああ。火傷《やけど》にゃ墨をぬるのがいちばんなんだ。どうでえ、効いたろ?」
「はい、効きました、効きました」
勘八はうわの空でくり返した。
「あのときは、なぜあたしがお湯を沸かしたんでしたかしら?」
「おやつを喰おうてんで茶を入れたんだ」
「おやつって何時に喰べるものでしょうか」
師匠は呆れ返ったように、しばらく目を剥いて弟子のなまっ白《ちろ》い顔を見つめていた。
「……夜っぴて起きて仕事をしてる人はべつだけどもよ、おれ達みてえな堅気の人間がよ、真夜中に茶菓子を喰うって話は聞いたことがねえ。気取った奥さんがお三時ってことをいってるように、午後の三時がおやつの時間だあな」
「それじゃ、なぜあたしが仕度をしたんでしょうか。いつもはおかみさんが出して下さるのに」
「だってあのとき、うちのやつぁ出掛けちまっていなかったからよ。手がねえからおめえが炊事当番ってことになったんだ」
欣弥は、この弟子がしつこく追及する理由が解らぬとみえ、怒りっぽい口調になった。
「すみません。わけは後で説明しますから、もう少し辛棒して頂きたいんです。ねえ刑事さん、あの日の午後三時にここにいたことは、これでお解りですわね?」
「ああ。三時にここでお茶を飲んだってことは解る。だが問題は、それが何日のことかという点でね」
勘八は自信ありげに頷くと、再度その目を師匠のほうに向けた。
「あの日、おかみさんは何処へいらしたんでしたっけ?」
「うーん、待ってくれよ。講《こう》じゃなかったかな?」
にぶった記憶力に笞打つように、彼は大きな声をだした。勘八は師匠の自尊心を傷つけまいとしてか、愛想のいいうす笑いをうかべ、ゆっくりと首を振った。
「講がある日は毎月の八日じゃありませんか。それじゃあにさんに訊きます。あにさんとこのお紺《こん》ねえさんが流産と間違えられて、救急車でつれていかれた日のこと、覚えてない?」
「こうっと、待てよ。ありゃ流産じゃなくて食当りだったんだが……」
「知らせを聞いてあにさんは病院へ駆けつけようとした。あのときは食当りってことが判っていなかったから、あにさんはすっかり慌てて――」
「あたりきよ。五年目にやっとさずかった赤ン坊がパアとなっちまうんだからな」
「そのときに、おっしょさんのおかみさんが何をくれた?」
「水天宮のお護りだ」
跳ね返えすように即答した。水天宮は地下鉄の人形町駅で下車するとすぐ近くにあり、安産や水商売にご利益《りやく》が多いということから、欣弥の細君もときたまお参りにいくのだった。
兄弟子は不意になにかを思いついたといった面持になり、坐りなおした。
「おっといけねえ。まだおかみさんに礼をいうのを忘れてた。師匠、どうもすいません」
「なに、いいってことよ。あのときゃおめえ、勘八のあたらしい下駄をはいて飛び出したじゃねえか。返《け》えしたか」
「すまねえ、それも忘れてた」
「いいんですよ、あにさん。恋女房が入院するとなれば慌てるのが当り前だもの。それよか、あのお札《ふだ》をくれたときにおかみさんが何ていったか、覚えちゃいないかえ?」
兄弟子は首をふった。
「こっちは頭に血がのぼってるときで、そういっちゃ悪《わり》いが何も覚えちゃいねえやな」
「わたしは思い出したよ」
と、師匠が口をはさんだ。
「昨日、|芳町《よしちよう》の親類へいったついでにお札を受けてきたばかりだ、といってた」
欣弥はそこで急に思い当ったように、ポンと手を打った。
「そうだ、お前《めえ》が火傷した日の家内は水天宮へお参りにいってたんだっけ」
「これではっきりしたと思いますけど」
勘八は白い顔に勝ち誇った笑みをうかべた。
「水天宮さんは五の日が縁日なんです。でもそれだけじゃ、おかみさんがお参りをしたのが五日だか十五日だか二十五日だかはっきりしません。ですから、おかみさんなり親類の人なりに訊いてみれば解ると思うんです。それだけでは不足だとおっしゃるんでしたら、あにさんとこのお紺ねえさんが病院へ運び込まれた日を、問い合わせてみて下さいな」
それが六日であれば、おかみさんが水天宮へお参りにいったのは五日ということになる。そして、そのとき師匠の家で稽古をしていた勘八には明確なアリバイが成立する、という次第なのである。
「それでは師匠、おかみさんに会わせて貰いたいんですがね」
「いいですとも。|一体全体《いつてえぜんてえ》なにがあったってんだ」
欣弥は勘八のほうを向くと、巻き舌で早口に突っ込んだ。
「銀座で万引きをした男があたしそっくりだったもんで、痛くもないおなかを探られてしまったんですよ」
問答をしているうちに考えていたのか、よどみなく勘八は答えた。
四 山国の旅
本来ならば新内語りのアリバイが成立したことによって本部の空気は沈滞するところであったが、そうなることを免れたのは、もう一つの有力な情報がもたらされたからだった。あらたに小日向殺しに動機を持つ男が発見されたというのである。
それを提供したのはやはり本部に詰めている新聞記者の一人で、彼の場合もまた、本部員からいいネタを引き出そうとする交換条件として、その話を持ち込んだのである。が、生憎なことに刑事のほうが役者が上であったため、一方的に、当人の表現を借用すれば「ふんだくられ」てしまったのだ。
「小日向とおなじプロのカメラマンで、写真大学を同期にでているんですけども、これがアルコールが入っていたことも手伝って、おとな気ない喧嘩をやりましてね。周囲のものの顰蹙《ひんしゆく》を買ったんですが、当人達にとってはおとな気ないで済ませるような単純なことではなくて、かなり深刻な対立がその後もつづいていたというのです」
「その程度のことで殺しをやるとも思えないがな。ともかく、当人に会って当時の話を聞いてきてくれないか。で、なんていう男だね」
「坂下護といいます。独身で、大塚のかなり上等のマンションに住んでいるそうです」
そのマンションの607号室に電話をしてみると、音羽の出版社に写真をとどけにいかねばならぬので、そちらへ来てくれという返事だった。いまは三時。下手をすると音羽に到着する頃には退社時刻の五時になってしまいそうである。刑事は東京のはずれに本部が設置されたことをいまいましく思いながら、あわてて署を後にした。
途中でパンタグラフが架線を切るという事故が生じたために、刑事がのった電車は大幅に遅れてしまい、タクシーを奮発《ふんぱつ》して音羽で降りたときには五時を十分も過ぎていた。正面入口はブロンズの扉で閉じられ、横の通用口から入っていくと、受付の女の子は無愛想な五十男のガードマンに替っていた。面と向った感じでは、本職の刑事のほうが色男に見えるくらいの武骨な顔付である。
営業部員は一般のサラリーマンと似て定時に退社するが、出社時刻がルーズな編集部員は退社時刻も同様で、大半のものがまだ勤務をつづけていた。
「高田編集長のところに、坂下というカメラマンがいる筈です。その人に会いたいのですが」
「あんたは?」
五十男は胡散《うさん》くさそうに刑事を一瞥しておいて、ふとい指先でダイアルを廻わした。
「すぐに降りてくるそうです」
といわれて一分もしないうちに、エレベーターの扉が開いて三十四、五の男が一人、こぼれるようにぽろりと出てきた。それが新しい容疑者の坂下護だった。小日向が殺害されたからには、遅かれ早かれ刑事がやってくることは勘定にいれていたに違いなく、彼は落着いた様子で挨拶をすると、先に立って刑事を、通りの向う側のしるこ屋に案内した。
「甘い物はどうですか」
「勘弁してもらいたいですな」
「それならばトコロテンがいい。カロリーがゼロにちかいというから、肥る心配もないですし……」
本人はあべ川餅を、そして刑事のためにトコロテンを注文してくれた。刑事は壁に貼られた値段表に目をやって、心天と書いてなぜトコロテンと読むのだろうと考えていた。そういえば本庁にもトコロヤマという有名な捜査一課長がいたが、あの場合はどんな字を書いたのだっけ? ……。
「さて、どういうお話でしょうか」
声をかけられてわれに還った。坂下はパイプホルダーをくわえ、その態度はいかにも余裕あり気にみえた。ヒゲのうすい一重瞼の敏捷そうな感じの男で、年齢は三十五歳だと聞いていたが少くとも五つは若くみえる。角張った顔は一刻な性格の持主であることを示しているようだが、かすかに関西風のアクセントを残した言葉つきは穏かであった。
「カメラマンの小日向大輔氏が殺されたことはご存知だと思いますが」
「知ってますとも。というよりも、興味をもって新聞記事を読んでいるくらいです」
「なぜです?」
「無関心ではいられなかったからです」
「だからなぜかとお訊きしているんです」
少し語調をつよめた。
「ぼく等は写真大学を同期にでているんですから、それは当然ではないですか。逆にぼくが殺されたとすれば、小日向はテレビのニュースを欠かさず見ているだろうと思いますね」
一応の説明にはなっている。
「派手な撲り合いをやったというではないですか」
「それも同期生という遠慮のない間柄だからですよ」
白い前だれをかけた店の主人が塗りの剥げた盆にあべ川餅とトコロテンとを持ってくると、黙って二人の前においた。半透明のとぐろを巻いたトコロテンの上に揉みのりと芥子がのせてある。二杯酢のいい香りが鼻をくすぐった。
「喧嘩の原因はなんです?」
「一般論としてですが、婦人科の写真家は女好きがそろっていることを指摘したんです」
まだ割っていない杉の箸を、坂下は指揮者が振るバトンのように動かした。
「それが証拠に、プロのカメラマンのなかには女流も何十人か混っていますが、ヌード派には女の写真家が一人もいないんです。ということは、女性はヌードに格別面白味もなにも感じていないからです。眺めたければ、好きなときに鏡の前で裸になればいいんですから」
しるこ屋の主人が調理場ののれんの間から、魂消《たまげ》た顔つきでこちらを見ている。
「つまりです、女性の裸体というものに純粋客観的に芸術性があるものであるならば、プロのカメラマンたるもの、男女を問わずいっせいに興味を持つべき筈である。ヌードに対して男性だけしか関心を抱かなかったとすれば、作者の目は写真芸術家としての目ではなく、ストリップ劇場のシートに坐っている観客の目と変るところがない。これが写真家としてのぼくの持論なのです」
「なるほど」
「女性専科である小日向にはこれが面白くなかった。それで銀座のバーでたまたま顔を合わせたときに、向うが撲ってきたのですよ。だからこちらも撲り返しました。ぼくは自分から暴力をふるうことは絶対にしませんけども、反戦論者ではないんです。だから五発撲られれば五発撲り返す。これがぼくの方針でして、あのときも三発撲られたので三発撲り返しました」
彼は箸の片側を口にくわえると、ぱりっと音をたてて二つに裂き、椀の蓋をとった。女性の前では見せられない図である。
刑事は行儀よく手を用いて割った。そしてトコロテンをつっかけて口へ運びながら、それだけでは殺人動機にはなり得ぬような気がした。一方的に撲られたというなら腹も立つだろうが、坂下の場合は冷静に撲られた数を勘定していて返礼したというのだから、それを根に持つとは考えられない。
「これは後になって気がついたことですけれども、小日向君はホモだったんですね。だから女の裸を前にしても一般の人間ほど心を動かさない。冷静に、ひたすら芸術写真をとることを念じてシャッターを押していたのです。だからぼくの発言にかっとなったのでしょう。ですが、いまもいったようにこれは後になって気づいたことです」
「小日向氏の同性愛はそれほど有名だったのですか」
「何人かのものは知っていたでしょう。第一、ヌードの専門家のくせに、モデルに指一本さわったことがないということがそもそも信じられない不思議ですよ。これは彼がホモであるということで初めて解ける謎ですからね」
彼は黄色い餅を噛みながら不明瞭な発音でいった。
これでは動機にならぬではないか。刑事は再びおなじことを腹のなかでくり返していた。しかしはるばる音羽までやってきたのだから、アリバイの有無だけでも訊ねてみよう。
「アリバイですか」
と、カメラマンは鸚鵡《おうむ》返しにいって椀に蓋をした。そして忙しく箸を動かして小皿の上のシソの実の塩漬を口に運んでいたが、やがて番茶をひと口ふくむと、ようやく刑事のほうを見た。
「東京にはいなかったんです」
刑事の失望するのを楽しむように、目を細めている。
「地方を取材して廻わって、東京に帰ったのは事件のあった翌る六日の夕方でした。多摩川の近くで屍体が発見されたというのは自宅のテレビで聞きましたが、まさかそれが小日向だとは思わなかったです」
「何処ですか、旅行先は」
「月末からずうっと沖縄へ行ってました。四日の正午に大阪へ着くと、新幹線で名古屋にでて、雑誌の仕事にかかったのです」
「沖縄のことはいいですから、名古屋に到着してから先のことを具体的に聞かせてくれませんか」
「預けておいた車に乗って愛知県へいきました。これは蟹江町の写真をとるために、出版社の人が前の日に名古屋まで運んでおいてくれたのです。三重県に廻わったのは、名張《なばり》市に用があったからでした」
蟹江という名も名張という名も、刑事は初めて耳にした。愛知県はともかく、三重県には足を踏み入れたことすらない。
「変った土地へいかれたものですな」
「雑誌社の注文です。いま、そのときの写真を高田さんに届けにいったところなのですよ」
「というと、何か小説に関係があることですか」
「ええ。蟹江というのは日本の探偵小説の創成期に活躍した小酒井不木さんの出身地でして、名張は江戸川乱歩さんが生まれたところなんです。どちらにも記念碑が建てられていますから、それを写すのが第一の目的でした」
「すると事件当日は蟹江にいたわけですか」
「いえ、蟹江にいたのは四日です。蟹江と名張とはそれほど離れてはいませんし、どちらも小さな町ですから取材に時間はかかりません。午後は蟹江を写して、日暮れ頃に名張へ到着したのです。その晩は名張に一泊して、翌る五日の午前中に乱歩さんの碑や町の風物をとりました。それから山道を越えて三重県側へぬけると、松阪に出ました。ここで乗ってきた車を返えして、この夜は松阪泊りです。国学者の本居宣長で有名な都市ですがね」
刑事がメモをとりいいように、彼はゆっくりと喋った。
「三日目に、つまり十月六日に新幹線で帰京したのです。いまいったとおり、帰宅したのは夕方でした」
「なるほど。すると五日という日の午後二時から四時にかけて何処にいたことになるんですか。いっておきますが、小日向氏が殺されたのはこの日の二時から四時までの間です」
「知ってます。いずれそういう質問をされるだろうと思ったものですから、日記や撮影記録を参照して答を用意しておきました。勿論、何時何分にどこにいたというような正確な返事ができるわけはないですが、大体のところをいいますと、その日はおそい昼食を名張駅前のレストランで済ませて、一時半頃に松阪へ向けて出発しました」
「一時半頃に、ですね?」
「ええ」
鞄を開けると折りたたまれた地図を取り出し、からの食器をとなりのテーブルに移しておいて、刑事の目の前に大きくひろげた。
「これが三重県です。名張市は奈良県との境に近いところにあって、交通はもっぱら近鉄に頼っていますが、特急が停りますからそれほど不便ではありません。近鉄の急行や特急は車輛がきれいですしね」
国道がその近鉄大阪線に平行して伊勢湾へ向い、さらに海沿いに松阪市まで伸びている。刑事は、カメラマンが当然この国道を利用したものと思っていた。
「いえ、ぼくは山を越えたのです。冬場になると猪がとれるという山です」
「べつに近道だとは思えないが……」
「理由はべつにあります。名張は平井太郎こと江戸川乱歩さんが生まれた土地ですが、名張の南の山中に太郎生《たろう》という部落があるんです。たまたま地図を見ていてそれを発見した編集長が興味を示しましてね、太郎さんが生まれた近くに太郎生という地名があるのは偶然にしても面白いし、ひょっとすると、この地名からヒントを得て太郎と命名されたのではないか、と言い出しました。そして命名の件はおれが調べるから、きみは太郎生を廻わって松阪にでてくれという注文を受けたのです」
「ふむ」
「太郎生はこの地図にもあるように手前から下太郎生《しもたろう》、中太郎生《なかたろう》、上太郎生《かみたろう》の三つに分れていますが、上太郎生のもう一つ上《かみ》に古太郎生《こたろう》という字《あざ》があるんです。その四個所を写してやろうと思って、手頃なところで車を停めると、十枚ぐらいずつシャッターをきりました。それが時刻にして三時前後のことだと思います。編集長は素人ですからいい写真だといって喜んでくれましたけど、ぼくにいわせれば面白くも可笑しくもない絵なのです。というのは絵柄に特長がないからで、その写真に九州の山だという説明がつけてあれば読者は九州の山里だと思ってみる、東北だと説明されればその気になって眺める。そういう写真ならばわざわざ三重県までいかなくても、房総か伊豆半島の山のなかで写せばいいことになります。ですから、カメラマンとしてのぼくにとっては、なんともつまらない土地でしたがね」
だが刑事にしてみれば、坂下護のプロカメラマンとしての芸術的良心が疼こうが痛もうが、そんなことはどうでもよかった。
「それからどうしました?」
「古太郎生をでると下り坂になります。いままで道連れになっていた名張川はいつの間にか消えてしまって、今度は雲出《くもづ》川に沿って走るんです。山のなかを四、五十分いったところに奥津《おきつ》という小さな町があって、国鉄の名松線の終着駅になっているんですが、ここの飲食店でひと息いれました。それが四時半頃になりましょうか。それから再びポンコツに鞭打って松阪市内の旅館についたのが六時前です。くたくたになっていましたからその夜はすぐに床につきました」
二本目のタバコに火をつけると、ひとしきり煙を吐いてから、結論づけるようにいった。
「小日向君が殺された頃のぼくは太郎生から奥津のあたりにいたことになります。だからぼくは全く無関係なのですよ」
「問題は、あなたのアリバイの証人がいるかどうかということなんですが、同行者はありましたか」
「仕事ですからいつも一人でいきます」
「すると下太郎生から古太郎生に至る間のアリバイは証明できないわけですな?」
「できませんな。しかしですね、午後一時半にめしを喰ったことは名張駅前のレストランが覚えていてくれると思います」
「でもそれはアリバイにならない。その直後に近鉄で名古屋まで戻って、そこから新幹線にのれば四時には東京で犯行ができるからです」
「それでは四時半に奥津駅前の食堂でサイダーを飲んだことはどうですか。これが証明できればぼくは完全なシロになると思いますが」
「確かにね。しかしその証人がいますか」
と、刑事は反問した。奥津というのも都会からはなれた山間の小さな町であり、交通の便はいたって悪い。仮りに小日向の殺害時刻が午後の二時であったとしても、その犯人がわずか二時間三十分後に東京から三重県に戻って奥津に姿をあらわすことは、どう考えても絶対に不可能だった。したがって、十月五日の午後四時半に奥津の食堂でサイダーを飲んだ男は果して坂下護であったか否かが重大なポイントになる。太郎生で写真をとるぐらいのことは、多少ともカメラをいじることができる男であれば、代役がつとまるからだ。
「食事はしなかったのですか」
「前にもいったとおり昼食が遅かったですから腹はへっていません。ただ、喉がかわいてたまらなかったので、サイダーをつづけざまに三本飲みました。ですから印象に残っているんじゃないかと思います」
「従業員は何人ぐらいいるんです」
カメラマンは煙にむせて激しく咳込み、刑事はそれがおさまるまで質問をひかえると、また壁の料金表に目をやった。心天と書いてなぜトコロテンと読ませるのか……。
「……どうも失礼。従業員だなんてオーバーですよ。割烹衣《かつぽうぎ》姿のおばあさんが一人で切り盛りしているんだから」
お婆さんの記憶力をどこまで信じられるものだろう……? 刑事が心もとなく思っていると、胸中を読んだようにカメラマンが明るい声で告げた。
「心配する必要はないです。ほかに客が三人もいました」
「どんな客です?」
「といっても一人は赤ン坊ですがね。でも、あとの二人は、母親だかお姑《しゆうとめ》さんとお嫁さんだか知りませんが、五十歳前後の婦人とわかい女性でした」
「赤ン坊がいたというと、旅行者じゃないようですね?」
「土地の人間であることは間違いなさそうです。名松線の列車から降りた客は、この店でお茶を飲みながら、バスがでるのを待っているんです。彼女達は飴湯を飲んでいましたがね」
「何処行きのバスです」
「ぼくが走ってきたコースを逆に辿って名張へ行くバスなんです。名松線という名前から想像できるように、この鉄道は松阪から奥津をとおって名張まで通じる予定だったんだそうです。それが奥津どまりになったばかりでなく、国鉄当局は廃線にするつもりらしいんですが、それはともかくとして、奥津から先へいく人はバスを利用するほかはないわけです」
刑事は地図に視線をおとした。現地にいったことがないから実感はわかぬにしても、山国に住む人の日常生活の不便さは想像がつくのである。
「その二人連れの婦人はぼくがまだ飲み足りないと思ったらしく、湯呑と薬缶《やかん》をとってくれたり、なかなか親切な人でした。ですから松阪に住む都会人ではなくて、山のなかの朴訥な住人だろうと思います。松阪市の親戚に、生まれて間もない赤ン坊を見せにいった帰りではないか。そんなことを想像したものです」
「なるほど。で、それからどうしました」
「バスの発車時刻が迫ったのでお姑さん達は食堂をでていきましたよ。ぼくもそれをしおに勘定を払ったんですが、東京を出発する前に、友人からこの土地の地酒を買ってきてくれと頼まれていたので、醸造元に立ち寄って『出世鶴』という酒を小瓶で半ダース買いました。ですからここの人も覚えていてくれるんじゃないかと思います」
刑事は酒の名と醸造元の名を手帖に記入すると、これで充分だと考えた。もともと動機の薄弱なこのカメラマンに、アリバイの有無を訊ねる必要性もないのである。
「松阪にも推理作家の碑があるわけですか」
「そんなものはありません。こと推理小説に関しては、松阪は不毛の地です」
「すると本居宣長にでも関心があったのですか」
「べつに。また名張へ戻るよりも未知の小都会へ泊ったほうが新しい発見がある。そう思っただけです」
「松阪という都会で……」と、刑事は執拗に訊ねた。しつこく訊くことが彼の習慣になっていた。
「なにか発見がありましたか」
「なにもないです。つまらない小さな町でして、本居宣長はさぞ退屈だっただろうと思ったのが唯一の感想でした」
カメラマンは地図をたたみ始めた。
カメラマンの坂下護は完全に嫌疑の圏外に去ったものと思われた。というよりも、動機の薄弱な彼は脇役にもなり得ない、その他大勢の端役のなかの一人にすぎなかった。捜査本部では彼の主張するアリバイを調べるまでもなく、一両日するうちに坂下という人間の存在をすら忘れかけていたのである。
この日の捜査会議は朝のうちに開かれ、瓦煎餅についてのその後の調査情況が報告された。この種の菓子は鉄板と鍋さえあればできるのだから小さな製造元が多く、家内工業までチェックして廻わるのは容易なことではない。いまようやく関東四県の調査が終了したところで、しかもなお、該当者を発見するまでには至っていなかった。
「もっと能率を上げるわけにはいかんのかね」
と、本部長は不機嫌そうにとがった声をだした。昨夜の記者会見の席上、捜査の進展しないことを批判されたものだから、この磊落《らいらく》な性質の署長もようやくいら立ちを感じ始めたらしいのである。
全員が激励をうけて会議が終了したのは九時過ぎであった。メモした紙片をそろえていた丹那刑事は、ひと足遅れて会議室をでた。
「丹那さん、ちょっと」
廊下で待っていたように声をかけられた。これもまた本部に詰めている顔見知りの放送記者であった。酒が強く、酔うと新婚の細君が待つアパートには帰らず、ホテルに泊ってしまう。本人はそれを自慢にしているふしがあるが、悪くするとこの癖がもとで夫婦仲がこじれるのではないかと、丹那は余計な心配をすることがあった。
「あんたの耳に入れといたほうがいいんじゃないかと思ってね」
「バーター協定を結ぶのかね?」
「そんなのじゃない。うちはテレビ屋なんでね、あちらさんと違ってがつがつしないんだ。育ちがいいからね」
と笑った。歯の質が弱いこの男は三十を越したばかりだというのに、もう総入れ歯をしている。笑うと、真白い歯がぞくりと揃ってみえるのは異様であった。
「局の連中がよくいくバーですがね、そこの女が小日向についてちょっとした情報を持っているというんです。こっちも商売だからガセネタかどうかは勘でぴんとくるんだが、どうやら本物らしい。よかったら、騙されたと思って彼女の話を聞いてくれませんか」
「情報があるなら連絡してくればよさそうなものだ」
「だって向うは、ホステスというがめついことで知られた職業婦人だからね、水割りを二、三杯呑んでやらないと話を聞かせてくれませんよ」
「ウィスキーを呑まなくちゃいかんのかね」
酒に強くない丹那は情けなさそうに反問した。洋酒の大嫌いな彼は日本酒が専門で、それも銚子に二本が適量なのである。
客がいては喋りにくかろうという配慮から、二人はバーが開店する時刻を狙っていくことになり、五時前に本部をでた。
バーの扉を押したのは六時半を少し廻わった頃で、開店したとはいうもののバーテンは袖をまくってカウンターに雑巾をかけており、柊朱実《ひいらぎあけみ》というお目当ての女給はグリーンの地に赤い果実を三つ四つあしらったツウピースを着て、せっせと鼻の頭におしろいをはたいていた。
指名されてボックスに坐った彼女は、相手がデカであることを見抜くと、胸に持っていった手の動きを一瞬止めた。刑事|風情《ふぜい》に営業用の名刺をわたしたところで無益だと考えたらしかったが、思いなおしたように懐中から、なま温くじっとりと湿ったカードを取り出した。
「今夜は呑みにきたんじゃない。話を聞かせてもらおうと思ってね」
放送記者は厳然とした口調で宣言したが、吸いつけタバコをくわえさせられると忽ち軟化してしまった。細君がこの図をみたらいかに嘆くことであろうか、と考えながら、丹那は憮然として記者の横顔を眺めた。
「あたし、ブルウ・スリランカを呑ませて頂くわ」
朱実は自分からそういい、二人の男は水割りをたのんだ。丹那は野暮《やぼ》なデカだと嗤われまいとして、あたりさわりのない話をした。キングコングの話、ゴジラの話。怪獣はなぜ国会議事堂を目の敵にして踏み潰すのかという問題についての丹那なりの見解……。
やがて酒がきた。朱実がちり紙をすすめるので意味を解しかねたが、それは指が濡れぬようコップを包むためのものであることを知った。一つ利巧になった、と丹那は思った。
「で、話というのは何だね?」
「坂下というカメラマンのこと。あたし、あいつが犯人に違いないと思うの」
「なぜ」
「だってあの人、小日向さんに反感を持っているからよ」
「ああ、そのことか」
と、丹那は失望を押し隠して頷いた。
「しかしね、かっとなって殺したというのならともかく、坂下という人間はあの程度の動機で人殺しをするほど馬鹿じゃない。世間の人は仮りに人を殺そうと思っても、時間をかけて計画を練っていくうちに熱がさめてくるのが普通だ。刑罰と天秤にかけると、人を殺すことの愚かさが解ってくるからね」
「あの程度ですって!」
朱実は吠えるように言い返すと、ブルウのカクテルをひと息で呑み干した。大型な女だが、そのむかし流行した言葉を借用すればトゥイギーとでもいうのだろうか、胸なんか肺病患者のように薄っぺらであり、丹那は目がそちらにいく度に、悪いものでも見たように慌ててそっぽをむいた。
「刑事さんはあの坂下ってカメラマンが独身でいるわけを知っているのかしら」
「独身? 知らんね」
独身というのも初耳なくらいだから、独身でいる理由を知るわけがなかった。
「教えて上げましょうか」
グラスを横にのけるとテーブルに肘をつき、化粧の濃い顔をつきだしてきた。
「殺された小日向さんて人は意外に意地っぱりなとこがあるのよ」
「ふむ」
「そう、話は変るけど、あの小日向さんが女性に関心のないホモのくせに、なぜ奥さんを貰ったか知ってるの?」
「いや、ご存知ないね」
わかい女の言葉づかいの悪さに辟易《へきえき》しながら丹那は答えた。
「小日向松枝さんが独身時代にモデルをしていたことは知ってるでしょうね?」
「いや、初耳だ」
「ある人が、仮りにAという名にしますけど、このAがモデル時代の松枝さんに夢中になったことがあるの。小日向さんのほうはあのとおりホモだから、べつに松枝さんに興味なんかなかったんだけど、Aにいい思いをさせるのが癪《しやく》だったわけね。だからAの鼻の先で松枝さんを掻《か》っ払っちゃったのよ」
女性にしては乱暴な表現だが、感じはでている。
「Aが独身をとおしているのはそうした事情があるからなの。噂によれば、いまもって人妻となった松枝さんを恋い焦れているっていうから、ロマンチストもいいとこだわ」
「全くね。いまどき古風な考え方をする男もいるもんだな」
「でもね、それが真実の愛ってもんじゃないかしら」
朱実は真顔でいった。が、丹那にとってはAが独身でいようがいまいがそれはA自身の問題であって、刑事の関知することではなかった。彼は曖昧にこっくりをすると、うまくもないウィスキーを口へ運んだ。
「ですから坂下にしてみれば、小日向さんが邪魔で仕方がないわけよ。しかも小日向さんがちっとも奥さんを愛してないってことが坂下の耳に自然に入ってくるじゃない、なおさら憎らしくなるわよ」
Aがいつのまにか坂下になっている。思わず丹那はグラスを宙に止め、彼女の朱い唇に目をやった。彼等が銀座のバーで派手な撲り合いをやった裏面には、こうした事情が伏在していたのか。
「だからあたし、小日向さんを殺したのは坂下だと思うの」
「ふむ」
黄色い顔にうすい眉をよせ、丹那はけわしい表情で考え込んだ。それが事実であるとすれば坂下は重大な容疑者となり、面倒でも三重県下まで赴《おもむ》いてアリバイを調査しなくてはならない。
「被害者と坂下とがライバル関係にあったことをどうして知っているんですか」
「みんなお客さんが喋ってるのを聞いたの。男って酔っ払うとなんでもかんでも喋っちゃうものよ。モデルやカメラマンの間では有名な話らしいわ」
「ふむ」
と、丹那は鼻を鳴らした。それが周知の事実であるなら、誰か一人ぐらいは情報を提供してくれてもよさそうなものじゃないか。彼は憮然とした面持でグラスを取り上げた。
その夜の会議は、まだ酔いがさめ切れなくて赤い顔をしている丹那から報告を聞くのが主要な目的であった。そして、彼の話によって坂下の容疑は決定的なものとなったのである。
「しかしね、坂下の単独犯ではなくて、西宮にいる未亡人が共謀したことも考えられますね」
「もし坂下のアリバイが成立したなら、未亡人の犯行ということも考えられるな」
「そうだね。夫の後を追って上京したのかもしれない。というよりも、一緒に上京したとも考えられるな」
「しかしホテルに宿泊したのは被害者だけですよ」
「そこはなんとでもなるさ。あたしゃお友達のところに泊るわよ、といった按配にね。とにかく、犯行当時の彼女の行動をはっきりとさせることだ」
「坂下の写真を現地の警察へ送って調査を依頼しますか」
「それもいいが時間がかかるからな」
と、本部長は記者会見で批判されたことがまだこたえている様子だった。
「乗りかけた舟だ、丹那刑事、きみが行ってくれ。たまには山奥の澄んだ空気を吸ったほうがいい」
「はあ」
「大阪へはべつの刑事に行ってもらおう」
“ひかり”は最初の停車駅が名古屋である。ここから松阪へいくには、国鉄と近鉄とが平行して走っているのだが、本数からいっても、車輛の美しさからいっても、国鉄は近鉄の比ではないという。同僚の刑事からそう教えられてきた丹那は、躊躇なく近鉄にのりかえて、松阪へ向った。
たまたま丹那が求めた特急券の座席は二階建ての車輛の上部のほうで、通路を歩くときには天井の低いのが気になったが、坐ってしまうと、後は快適な旅を楽しむことができた。乗客にお絞りのサービスが出るのも、丹那の経験では、近鉄が初めてのことであった。この電車に乗っている間は仕事のことを忘れよう、と丹那は思った。いや、そう思うより先に仕事のことを忘れて、窓の外の風景を楽しんでいたのである。
名古屋をでると間もなく水郷地帯にさしかかり、水面に青い空をうつした沼や堀が窓の左右につづいた。ある文士が、この辺りを中国の浙江省に擬したことを丹那は思い出した。さらに、カメラマンの坂下護が取材したという小酒井不木博士の生誕地がこの近辺であることに気づくと、丹那は一段と興味を深めて、水のある風景を熱心に眺めていた。
近鉄の松阪駅は、国鉄の松阪駅と仲よく同居している。ここで名松線に乗って伊勢奥津まで行かなくてはならないのだが、発車まで少し時間があったので、外に出てみようかと思った。駅の案内板に「加茂真淵・本居宣長会見所、徒歩五分」としるしてあるのを見て、それを訪ねる気になったのである。あやふやになった丹那の記憶では、国語読本で読んだのか修身の教科書でおそわったのか、細かい点ははっきりしない。おぼろ気に覚えているのは国学の大家である真淵が松阪の宿に泊ったことを知って、宣長が教えを乞いにいったというエピソードであった。
しかし、おれは物見遊山にやってきたのではない、と丹那は反省した。加えて、近頃の国鉄の運行時刻は必ずしも信用できるとはいえないのである。旧蹟を見物している間に名松線が発車してしまったとあっては、本部に戻って言いわけのしようがない。そう考えた丹那は不承々々フォームのベンチに腰をのせた。近鉄のベンチはすべてピンク色に塗られ、あんころもち「赤福」の広告|媒体《ばいたい》にされているが、国鉄のそれは白一色である。そのベンチに坐った丹那は、ぼんやりと周囲を眺めながら、土産に赤福を買って帰ることを考えていた。細君も子供も甘いものが好きだが、酒をたしなまぬ丹那の上司が、これまた甘味には目がないのだった。
名松線を走るのは気動車であった。それもせいぜい四輛か五輛の編成で、日中のせいか乗客の数も少なく、一見して斜陽路線であることが判るほどだった。奥津の途中までは畑地がひろがり、列車は思い出したように速度をおとして駅に立ち寄った。その半分ちかくは無人駅で車掌がフォームに降りて乗車券を受け取っていた。待合室が風化していまにも潰れそうな駅を目にしたとき、丹那は、国鉄が本気になって名松線の廃止を考えているのではないかと思った。
右側にかなりの幅の川が見えてきた。それが坂下護が語った雲出川であることに思い当った頃には、列車は山のはざまに入り込んでいた。そして終駅の伊勢奥津にいたるまで、雲出川は散歩につれだした犬のように、つかず離れず名松線と行を共にした。
東京を早朝の新幹線で発った丹那が、奥津駅に着いたのは正午過ぎであった。名古屋と松阪で合わせて一時間にちかい列車待ちをしたが、それにしても時間のかかる旅だった。ここまでくると乗客の数はさらに減ってしまい、舗装されたフォームに降りた人々は二十名にも充たない。あたりが森閑としているのは山国のせいもあったが、もう一つの理由は、この小さな駅には駅名を連呼するスピーカーが備えられていないからであった。その寂けさを乱すまいとするかのように、降車客は私語をかわすこともせず、黙々としてフォームの端までいって鉄路を横断し、改札口へ向った。歩きながら丹那は、旨い空気を吸ってこいといった本部長の言葉を思い出すと、早速深呼吸をはじめた。山国の空気は署長がいったとおりいい味がした。肺のなかの汚れが、見るみるうちに洗い落とされていくような気持であった。丹那は、テレビで見た洗剤のコマーシャル映画の一齣を思いうかべていた。
駅は小高い丘の上に立っている。改札口をぬけるとゆるやかな下り傾斜で一本道がのび、一〇〇メートルほど先の左側に無人のバスが停っているのが見えた。前に立って運転台の上の行先標示板を確めると名張行としてあった。坂下の話にでてくるバスがこれなのか。そう思いながら改めて周囲に目をやった。少しいった右手に二軒の商人宿が軒を並べ、手前の一軒は階下が小さな食堂になっている。このほかにはパン屋が一軒あるきりだから、坂下がサイダーを飲んだお休み処というのは商人宿のほうに違いあるまい。
丹那は、ジュース類を詰め込んだ冷凍ボックスの脇をすりぬけて店内に入っていった。せまい場所にビニールのテーブルカバーをかぶせた食卓と数脚のイスがおかれてあって、そこには男女ひと組の客がいるきりだった。男はバスの運転手らしく、テーブルの上に制帽がのっている。彼は音をたてて丼のうどんを啜《すす》っていた。もう一人は一見してバスガールだと判る制服姿で、これは立ったままで生卵をのんでいる。
丹那はイスに坐ると、壁に貼られた時刻表に目をやった。ここから名張までは一時間半もかかる。運転手にしても車掌にしても、弁当を喰った上に卵でものまなくては体が持たないだろう。
薬缶に手をだそうとする丹那をみて、運転手がすばやく取ってくれた。都会ずれのしていない親切な態度は坂下が語ったとおりで、東京の刑事はとっておきの微笑をうかべて頭をさげた。奥の台所のほうから食器を洗う音が聞えてくるが、誰も顔をだそうとする気配はない。
「おばさん、お客さんよ」
バスガールの声でようやく気づいたらしく、初老の女が濡れ手を前掛けでふきながら現れた。初老とはいっても、農村や山村の人間は老けてみえるものだから、ひょっとすると彼女も四十代なのかもしれない。
「なんにします?」
「そうだな、焼きそばを貰おうか」
メニューに書かれてあるのは、そのほかにうどんとあんパンぐらいであった。
「つぎのバスに乗るんだから、時間がかかるならパンでもいい」
「なあに、五分もあればできるよ」
「おばさん、ちょっと……」
引き込もうとする彼女を呼び止め、写真をみせながら坂下のことを訊いた。いくら空腹ではあっても、仕事のほうが先だ。
「はてね、そう訊ねられても思い出せないね。これでも日に十人や二十人は旅行者がくるんだから」
「サイダーばかり三、四本も飲んだ人だよ」
「そういえばそんなお客さんがいたっけな」
と、彼女はようやく記憶を探り当てたように心もとない声をだした。
「そうだ、この写真の人だった。だけど、何月の何日のことだったかと訊かれると、さっぱり思い出せないね」
「そのとき、赤ン坊を抱いた女の人と、そのお母さんだかお姑さんだかがいたという話なんだがね。バスを待ちながら飴湯を飲んでいたそうだけど……」
「それじゃきっと床並《とこなみ》さんのことだな。松阪の天神社にお詣りをした帰りだ」
女主人は運転手に同意を求めた。
「おれの車には乗らなかったんだろうな、そんな人のことは覚えていないから」
「床並さんならあたしが覚えているわ」
懐中鏡を覗きながらバスガールが口をはさんだ。小指の先でルージュを伸ばしている。
「あのとき、あたしもここで飴湯を飲んだもの。でも、サイダーを飲んだ男のお客さんのことは知らないな」
つまり、と丹那は考える。その日の彼女はべつの運転手と組んでいたに違いない。だから彼女だけが床並一族を目撃したのだ。坂下は自分が店に入ったのは、バスの発車時刻の直前だったといっている。おそらく、彼とこの女車掌とは、すれ違いになったのだろう。そう考えると、彼女が坂下を見なかったということも、理解できるのである。
その点について質すと、バスガールは即座に肯定した。発車時刻の数分前に車にもどることにしているから、その可能性はあるというのだった。
「でも、それが何日のことかは覚えていないわ。毎日がおなじことの繰り返しでしょう、だから」
「そうだな、昨日のことなら覚えているけど、一昨日のこととなるともうはっきりしないなあ」
渋茶をゆっくりと啜りながら運転手も肯いた。
「とにかく、あんたが見てなくても床並さんのほうが見てたんだから、直接あの人に訊けば判るんじゃないのかね」
と茶店の女主人が結論をつけるようにいい、台所にもどろうとした。三人が三人とも標準語を使うので話は解り易いが、彼等のアクセントは関西風である。
「おばさん、焼きそばの前に飴湯をくれないかな」
時刻表をちらと見やってから、丹那は注文した。朝食が早かったので急に空腹を意識してきた。せめて液体でもいいから腹のなかに流し込みたい。飴湯というものを、丹那はまだ味わったことがないのだった。
「時間がかかるものかね?」
「なあに」
水飴を煮溶かして片栗粉でとろ味をつけ、片栗の匂いを消すためにショウガの絞り汁をしたたらすだけだから、二分もあれば充分だという。
茶を飲み終えた運転手は女車掌をうながすと、発車時刻まで六分もあるのに急ぎ足でもどっていった。飴湯ができたのはそれから一分余り後のことである。
「旨い!」
ひと口啜った刑事は思わず唸った。それはまろやかな味わいを持った、予想していたより遙かに結構な飲み物であった。
台所から炒《いた》め物をする音と、油の焦げる香ばしい匂いが流れてくる。刑事は飴湯を飲んでは時計をみ、次第にせかせかとしてきた。
「お待ちどおさま」
「ありがとう」
箸を手にしてかぶりつこうとしたときに、道路のほうでクラクションが鳴った。
「残念だね、お客さん」
女主人の気の毒そうな声が頭の上で聞えた。
「バスが発車するといってますよ。あれを逃がすと、二時間ちかく待たなけりゃなりませんが……」
丹那は口惜しそうに箸をおいた。
発車したバスはすぐに丁字路につき当った。それを左に曲れば名松線沿いに松阪に戻るのである。この丁字路のあたりが村の中心部なのだろうか、二階建ての病院や村役場、種苗商に食料品店、呉服屋に写真機店などが並んでいた。
バスが右折して一〇〇メートルも走るとそこはもう村はずれで、左手の深い谷をへだてた対岸の樹林のなかに、木造の教会の建物が見えかくれした。このような山国に教会のあるのが丹那にはひどく意外であり、農民や炭焼きのような保守的な人々の間で果して何人が帰依することだろうか、刑事にはそれが心許なく思えた。
人家がなくなるのと前後して舗装が切れ、バスはむき出しの道路の上をほこりにまみれて走った。これはえらいことになったと思ってイスにしがみついていると、程なくまたアスファルトの道に入った。そうしたことを繰り返しながらバスは次第に勾配を上っていった。いまの茶店で聞いたことだけれど、奥津では冬季に入ると猪がでるという。あの奥津でさえそうなのだ、これから訪ねようとする古太郎生がどんな土地であるか大凡の見当がつこうというものだ。彼は貧弱な空想力を駆使してそこに棲む狐狸《こり》や狢《むじな》、むささびの類《たぐい》を想い描いてみた。
名松線の車窓からつかず離れず見えていた雲出川はいよいよ細くなり、生い茂げる草にかくされて殆ど姿をみせなかった。しかし、三重県の山奥というから深山幽谷を想像していた丹那が、少しばかり裏切られた感じを抱かされたことも事実であった。例えばバス道路の両側の山にしても、それは頭からのしかかってくるのではなく、つねにある距離をおいてこちらをじーっと眺めているといった感じを受ける。刑事が頭にえがいてきた日陰の村の暗いイメージとはかなり違っていた。
停留所のあるところには必ず小さな集落があり、山裾の斜面にまばらに人家がみえた。不便であることは事実だろうが、淋しいというほどでもない。丹那にしてみれば、むしろ東京に近い箱根のほうが遙かに深山という印象が濃かった。その山道を、バスは停留所毎に止って客を乗せ、降ろした。村人が遠くから手を上げて走ってくるのが見えると、運転手はいやな顔一つしないで待っているのだった。
車掌に声をかけられて下車した。上太郎生もまた同じような山あいの何の変哲もない集落であり、丹那の脳裡に率然としてうかんだのは、格好な被写体がなくて困ったという坂下の述懐であった。道路に沿って木造の平家が四、五軒並び、どの家も軒が低く、羽目板は雨に打たれて灰色にくすんで見えた。もうここまでくると雲出川は溝のように細くなっている。この部落から少し離れたところのトタン屋根の家が床並家だ、と車掌に教えられた言葉を唯一のたよりに、丹那はゆっくりと歩き出した。
家数が少ないこともあってトタンが目印のその家はすぐに目についた。これもまた道路沿いだが、石垣を積み上げた分だけほかの家よりも小高くなっている。床並家は暮しにゆとりがあるのだろうか、入母屋の屋根の下が白壁であった。
トタンの軒下に立って声をかけると、すりガラスをはめ込んだ格子戸が開いて、嬰児《えいじ》を横抱きにした女がでてきた。頬が赤く、みるからに健康そうな若妻だ。丹那は、これが宮詣でをしたあの女性に違いないと直感した。
東京からきた、と聞いてもさして驚いた顔をみせないのは表情に乏しいからではなく、テレビのせいだろうと丹那は考えた。ブラウン管は、一日中の大半が東京製の画面で占められている。この山中の人にとっても東京はもはや遠い都会ではなく、手を伸ばせばとどくような座敷のなかにある。
家のなかは静まり返っていて、物音一つ聞えなかった。上り框に腰をおろした丹那は、まず最初に、奥津駅前の飲食店で休憩した日付をただした。
「今月の五日です」
若妻はそう即答し、この秋になって遠出をしたのは十月五日以外にないこと、あれは松阪市南町の天神社にお宮参りをした帰りだったことを説明した。
「五日という日付に思い違いはありませんか」
そう訊かれた彼女は壁につるされたカレンダーの数字を指で押えてみせ、五日であることを確認してくれた。四日に主人独りに留守をさせて松阪に出、参拝をすませて親戚に一泊、翌五日に帰途についたという。同行したのは姑であった。
「この児は初子《はつご》なんです」
「女ですね? こりゃ可愛いい。目付《めつき》千両というから美人になりますな」
目が大きくて、嬰児のくせに鼻筋がとおっている。美人になるといったのはお世辞ではなく、丹那の実感なのだ。わかい母親は、その一語で警戒心がとけたらしく、以後は多弁になり、しばしば笑顔もみせた。
「時間はいつ頃でした?」
「バスが出る前ですから、四時過ぎでしたわ」
「名松線の列車が伊勢奥津に着くのは何時です?」
「四時十分です」
国鉄の改札口をぬけて飲食店に入るまで、ほぼ五分を要するとして、彼女達がお茶を飲み始めたのは四時十五分頃ということになる。そこに坂下がサイダーを飲みにやって来たのだから、これは四時二十五分前後とみていいだろう。こう計算してみると、カメラマンの主張するアリバイは事実であると考えられた。
「その列車のなかで知った人に遭いましたか」
丹那は、この女性の乗ったのが十月五日の午後四時十分着の列車であることを確認しておきたかった。
「知っている人は四、五人いました。あとの乗客も半分は顔見知りですわ。せまい村ですから」
彼女も相手の質問の意味を見抜いた答え方をした。丹那は、彼女が挨拶をかわしたという四人の乗客の名をメモしてから、嫁と姑とが一泊した松阪市内の親戚の名前と所在を訊き、これも忘れずに記入した。
「ところで、サイダーを飲んでいたという男ですが」
用意して来た五枚の写真を畳の上にならべた。急いで掻き集めたので止むを得ないことだが、本人以外は刑事の写真である。気のせいかカメラマンがいちばん善人らしい人相をしていた。なによりも先ず、目つきが穏やかだ。
このなかに混っていたらば指摘してくれといおうと思っているうちに、わかい人妻はあっさりと坂下の写真を指でさした。
「服装を覚えていますかね?」
丹那はその性格から、念には念を入れなくては気がすまなかった。だが、彼女が答えた内容は先に坂下が語ったことと符節を合わせており、カメラマンのアリバイは一段と堅実さを増したようだった。
「灰色のスポーツ服です。大きな衿が真赤でした。松阪にいるあたしの弟に着せたら似合いそうなので、よく覚えているんです」
印象にのこった理由を、わかい母親はそう説明した。嬰児は話の途中でそっと赤茶けた畳の上に寐かされたが、泣き声一つあげずに眠りつづけている。
「お姑さんは?」
と訊いたのはべつの人の口からも証言を得たいという丹那のあがきであった。
「母は古太郎生のお寺へいきました。誰かに仏像を壊わされたものですから、村の衆が集ってお経をあげています」
この平和な山里では、地蔵さんの首が転がり落ちた程度のことでも大事件になるのだろう。お経をあげるのは破壊された像の祟りが怖ろしいからでもあろうか。
「犯人はハイキングに来た学生だろうという噂もあります。たちの悪い骨董屋の仕業だともいいます。この村も物騒になってきました」
吐息するように彼女はいった。
古太郎生はバス道路からはずれた奈良県境にちかい山中にある。お姑さんに会って彼女の話も聞きたかったけれど、バスの都合もあって古太郎生までいく時間がない。丹那は古太郎生のほうを断念してつぎのバスで奥津へ戻ると、彼女の証言の裏をとるために、同じ列車に乗り合わせたという人々に会い、さらに地酒の醸造所を訪ねてみることにした。時間がかかって途中で日が暮れたときは、先程見かけたあの商人宿に泊ればいい。
袖をまくって時刻を確めると、丹那はゆっくりとした動作で立ち上がり、邪魔したことを詫びて外にでた。
五 兇器の発見
丹那ともう一人の大阪へ出張した刑事は、その翌日、前後して帰京した。本部ではただちに二人を迎えて報告会がひらかれた。
坂下護のアリバイに一分の隙も見出せぬまま、丹那はこれが真実のものに違いないことを認めて帰途についたのである。だから彼としては、松枝こそ夫殺しの犯人であることを信じて疑わなかった。それだけに、松枝にもまたアリバイが確立したことを聞かされたときは、ただ呆気にとられるばかりであった。
愛の薄れた夫の不在をいいことに、犯行当日の松枝はマージャン友達をマンションに呼んで、一日中|牌《パイ》をいじっていたというのであった。そのことは、テーブルを囲んだ四人の中年女達のほかに、すし屋の店員と酒屋の主人がはっきりと証言した。彼女等は昼食がわりに握りずしをとり、ウィスキーが切れたといって酒屋に電話をかけたのである。すしを配達したのは午後の一時過ぎ、そして洋酒を届けたのは三時半頃のことであった。したがって松枝に犯行のチャンスがなかったことが明白になった。
「気の合わなかった主人でしたけれど、殺された時分に呑気にマージャンなんかしていたことを思いますと、済まない気持になりますわ」
東京から来た刑事に向ってそう語ると、彼女は深くうなだれてしまったという。
それにつづいて丹那が調査の結果を発表したが、二人の容疑者がいずれもシロであることを知った捜査員の間からはかすかな吐息がもれ、本部長は本部長でむっつりと押し黙って苦り切っていた。こうして瓦煎餅の担当刑事達は、再び責任の重大さを感じることになったのである。
いまのままでは埒《らち》が開《あ》かない、菓子評論家門馬正雄の知恵を借りるべきだと主張したのは大岡刑事で、言い出した当の大岡がそれを実行する羽目になった。大岡も人後に落ちぬ甘党だから、門馬の著書を二冊ばかり読んだことがあり、その意味で適任者でもあった。
翌る日の午前中に電話で在宅を確めると、門馬は昨晩東北旅行から帰ったところだといって、国電の鶯谷駅で下車することや、自宅は有名な豆腐料理店の先にあるということを親切に教えてくれた。
そのお陰で大岡は迷うことなしに門馬家を訪ねることができた。板塀にかこまれた小ぢんまりとした平家に、子供に恵まれなかったこの評論家は秋田犬とシャム猫と、それに上方生まれの夫人と暮している。子規庵からもごく近いところであった。
五十年輩の門馬はやや猫背で色白の、総白毛《そうじらが》の好男子である。栄養学者にいわせると甘い物を摂取すると肥るのだそうだが、この評論家は絶食したボーフラのように瘠せていた。瘠せる秘訣でもあったらついでにそれを訊ねてみたい。大岡刑事にそう思わせたほどの痩躯《そうく》であった。大岡のほうは、喰うもののすべてが血となり肉となるタイプだ。
門馬は愛想よく刑事を迎え、陽の当る縁側に座布団をしいてくれた。小柄な夫人が渋茶と小皿にのせた菓子をおいて引っ込むと、評論家は早速それを口にもっていった。緑色がかった四角い板の上に直線の筋が何本となく走り、ところどころに白い砂糖がくっついている。
「なんですか、これは」
「時雨《しぐれ》の松という米沢産の通人に知られた菓子です。青大豆と水飴とが原料で、緑が松を、条痕が雨を表わしているわけでして」
「ほう」
「これは飽くまで私見ですが、日本の三大銘菓といいますと、この時雨の松と信州上田のそばくるみ、それから島根県の宍道《しんじ》でつくられる落雁、わたしはこれを挙げることにしています。落雁といっても上品ぶった小型の茶会の菓子みたいのじゃない、ヴォリウムのある、バターでいえば二ポンドぐらいの大きさがあります。代赭《たいしや》色をしているのは宍道湖の夕映えの表現です。ぱらりと散らばっている数粒の小豆《あずき》が游いでいる鴨でして、いってみれば、まあヘリコプターから俯瞰《ふかん》した図でしょう。知名度は低いですが味はなかなかよろしいです」
時雨の松をつまみながら大岡は頷いていた。評論家が推《お》すくらいだからよっぽど旨い菓子に違いない。いつの日か旅するおりがあったら、土産に買って女房をよろこばせてやりたい、と思った。甘党の彼は、糟糠《そうこう》の妻にも甘い男だった。
「問題の瓦煎餅の話になりますが、メリケン粉と卵と砂糖を原料とする煎餅はご承知のように上方のものなんです、元来が。上野にある亀井堂にしても、出《で》は神戸ですからね」
「なるほど」
「これに対して米を原料として、焼き上げてから醤油をぬる塩煎餅のほうは、むかしから関東のものと相場が決っています」
「そういえば」
と、大岡はむかしを思い出すような目つきをした。
「わたしは甘党ですから塩煎餅にはあまり関心がないのですが、子供の頃に千住大橋の袂《たもと》のせんべい屋で買ってもらった塩煎餅は大きかったですな。レコードぐらいの大きさがありました」
「あれは有名でした。店の前を荷車やチンチン電車が通っている時代でね、都電ではなくて市電といった頃です。わたしも若かった……」
評論家はあわてた様子で首をふった。
「懐古談はそのへんにしておいて、お訊きになりたいというのは何ですか」
電話では、瓦煎餅についてお話を聞かせて頂きたいと述べただけだったのである。
「瓦煎餅というやつは表面に模様があるのがつねですが、模様のかわりに『貸』という字が焼かれているものにお心当りはありませんか」
「……さあ」
「では『賃』という字はどうでしょうか」
「さて、『賃』ねえ……」
思い当るものはないというのだった。刑事はそろそろ落胆しかけてきた。日本中の菓子に通じているというこの評論家が首をかしげたら、もう望みはないものと思わねばならない。
「どうもね、そういう種類の文字をしるした菓子がありそうには思えませんな。経済あるいは流通機構に縁のある字は、侘《わ》びだの寂《さび》などとは縁がない。和菓子はおしなべて風流なものを好む傾向があるのですよ。餅菓子にしても、桃山だとかきみしぐれだとか鹿の子餅だとか、すべて風流な名がつけてあります。白い皮のところどころから黒い餡がすけて見える生菓子を、東京では吹雪と呼んでいます。白い部分を雪に見立てたいい名前ですが、熊本県では皮の裂目から餡がのぞいているというので、破れ饅頭と称しているんです。これでは散文的に過ぎて、だいいち旨そうに聞えません……」
捜査会議の席上でも似たような発言があった。大岡はそれを思いうかべながら頷いていた。落着いた口調で語っていた菓子評論家の言葉が、ふっと途切れた。頬のこけた顔に紅味がさしたかと思うと、細い目が急にかがやいてきたように見えた。
「ちょっと待って下さい。何処かで見掛けたことがある。いや、実際に喰べたことがあるんです。何処だったかな……。はて、何だったかな……」
茶碗を宙に止めた大岡は、これも瞳を光らせて相手の話のつづきを待った。
「からきし記憶力が衰えました。日常的な単語まで忘れてしまうんだから齢はとりたくない……。何といったっけな……」
急に膝を叩いた。声がはずんだ。
「思い出しましたよ。『賃』や『貸』ではなくて『貨』の字が書いてあるんです」
相手の興奮が伝染したように、刑事は緊張した表情になり、無言のまま身を乗りだした。瘠せた評論家は一瞬のうちにもとの平静さをとりもどすと、ゆっくりとした口調で予想外のことを訊いてきた。
「探偵小説家の江戸川乱歩さんという人をご存知ですか」
「いえ」
刑事はとまどい気味に頭をふった。
「会ったことはありませんが……」
「いや、会う会わないのことではなくて、江戸川さんの小説を読んだことはありますか」
「いえ、それが……」
と言い淀んだ。中学生時代にものすごい小説を中途まで読んで寝たら、夜中にそれを思い出してトイレにいくことが出来なくなり、外が白んでくるまで身をまるくして尿意をこらえていたことがある。それ以来、この作家の作品は敬遠していたのだ。
「それではご存知ないのも無理ありませんが、江戸川さんのごく初期の作品に『二銭銅貨』というのがあります。ところが近年になってあるお菓子屋さんが、明治・大正時代に流通していたこの貨幣をモデルにして、瓦煎餅を焼いたのです」
大岡は声にならない叫びを上げた。被害者が噛み残した一片は二銭銅貨の「貨」の字だったのか!
「で、その菓子屋は何処にあるんです?」
「三重県です。三重県の名張市ですよ。いまお話したのは、そこの駅前広場の近くにあるお菓子屋さんなんです。さっきの刑事さんの思い出話にあったような大型の煎餅です」
また名張という名がでた。そう思うと刑事は緊張で身がしまってきた。
「なぜ名張で――」
「江戸川さんが生まれた土地なんですよ、名張は。戦後の、あれは昭和何年でしたかはっきり覚えていませんが、生まれた家の跡に生誕碑が建ちました。それを機に、この瓦煎餅ができたのです。たしか、乱歩煎餅といいました」
「さすがは専門家ですな。われわれが一週間もかかってなお判らなかったことを、わずかの間にはっきりして頂けて……」
「いえ、辛うじて思い出せました。しかし、お役に立てて嬉しく思いますよ」
大岡の茶碗を手にとった評論家は、冷えた液体を茶こぼしに捨ててから、熱いやつを注いでくれた。改めて菓子を口に入れると、時雨の松は一段と美味しく感じられた。
だが一服する間もなしに、刑事の脳裡にはあらたな疑問がうかんできた。「二銭銅貨」という菓子は非常に特別な瓦煎餅であり、土地の人以外にはほとんど知る人もない存在なのだ。その菓子を喰っている最中に殺されたとなると、第一現場はいままで想像していたように東京もしくはその近辺ではなくて、はるか離れた名張ではないのだろうか。
そう考えたとき、反射的に心にうかんだのは、犯行当時三重県下にいたという坂下護のことであった。彼の容疑が否定されたのは犯行現場が東京であるとみなされていたからなのである。それが名張あるいはその近辺であるとなると、アリバイは忽ち価値を失い、このカメラマンはクロと考えられてくるのだ。
残された問題は、と大岡は腹のなかで思う。犯行現場の確認と、兇器の発見だ!
大岡刑事の報告は捜査本部を狂喜させた。いままで全員の肩に重くのしかかっていた沈欝な気分はその途端に一掃されてしまい、誰もが晴ればれとした表情をとりもどしていた。彼等は一様に、調査はやっと峠を越えたに過ぎないのに、解決がまぢかいことを錯覚していたのである。
坂下は、愛人を奪った小日向を快く思ってはいなかった。そしてそのことは当の小日向が充分過ぎるほど承知していた筈である。いってみれば坂下がいる三重県は蟻地獄のようなものであった。すり鉢型の穴の底には彼を宿怨の敵とみなす坂下が牙をむいて待ち構えているのだ。その危険な場所へ、何が小日向をおびき寄せたのであろうか。誘い出したのは坂下に違いあるまいが、その口実は何であったか。いや、究明しなくてはならぬ疑問はまだまだ他にも沢山ある。
本部長が例によって陣頭指揮の精神を発揮すると、みずからダイアルを廻わして西宮の小日向未亡人を呼び出した。夫が死亡した以上、彼女としては西宮に居住する必要がなくなったので、いずれはマンションを売って東京に帰ることになっている。が、それも当人の気持が落着いてからの話だった。
挨拶を簡単にすませてから、本部長は持ち前の大きな声をだした。そうでもしなければ、関西まで自分の声がとどかぬと思っているようであった。
「名張という地名をご存知ですか」
「は?」
耳慣れぬ名を聞いてとまどっているようだ。
「ご主人はその名張附近で災難に遭われたらしいのです。理由がなくて名張へいかれたとは思えませんが……」
「あの、名張ってどこでしょうか」
「三重県です」
「三重……」
声が途切れたのは、それが予想もしない場所だからだろう。そう本部長は考えた。
「東京だとばかり思っておりました。三重県とは想像もしませんでしたわ」
「われわれもびっくりしました。そこでお訊きしたいのですが、ご主人はなぜ三重県へ往かれたのでしょうか」
「さあ……」
「思い当ることはありませんか」
「……そういえば、一度だけ話題にしたことがございましたわ。三重県の山奥に隠し湯があるということを……」
「つまり温泉ですね?」
「はい。岩風呂というのでしょうか、天然のプールみたいなところで、そこに村の娘さんたちが入りにくるんです。主人はつねづねヌードモデルは美容整形しているので不自然だ、本物のピチピチしたヌードを撮りたいということを申していましたから、それを撮影しにいったのじゃないかしら……。これはあたくしの思いつきですけど」
「他国者がいって頼んだとしても、村の娘達がモデルになることを承知してくれるでしょうか」
「そこは商売ですから何とでもなりましょう。ことわられたら、藪に隠れて望遠レンズで撮るという方法もありましょうし……」
ふと彼は、小日向が竹藪のなかで撮影中を村人に発見され、死の制裁を受けたのではないか、と思った。
「で、三重県のどの辺です?」
「べつに気に止めて聞いたわけではございませんからはっきりとは覚えていませんけど、なんでもタロウとかジロウとか申しておりました」
ジロウには思い当るものがない。だがタロウというのは太郎生のことではなかったろうか。
「そういえばカミタロウとかシモタロウとかいっていたようですわ。でも、いま申しましたとおりあたくしは空《くう》で聞いていたものですから……」
はっきりとした記憶はないのだと、幾分残念そうな口吻で答えた。
「今度の旅行でそこへいくということは――」
「行先を申したことはただの一度もございません。ですから、三重県に立ち寄るということは思いもしませんでした」
想像した以上に、この夫婦の間の愛情は冷え切っていたようだ。
「坂下さんというプロのカメラマンのことはご存知ですか」
「存じております。ごく常識的な意味で、のことですけど」
警戒したような口ぶりであった。
「常識的な意味というのは?」
「むかしは親しいお友達の一人でしたけど、いまは単に賀状を交換するだけの儀礼的な間である、ということですわ。あのかたのほかにも、そういうお友達は何人かいらっしゃいますわよ。あたくしが結婚した以上、疎遠になるのは当然なことだと思います」
「ま、それはそうですが……」
気のせいか、相手の返事が少し弁解口調になっているように思えた。亭主との間が冷えてくるにつれ、往時の愛人である坂下とヨリを戻したくなることは想像するに難くなかった。山里の隠し湯のことを夫の耳に吹き込んだのは、彼女なのではないだろうか。
当りさわりのない挨拶を交わして受話器をおくと、本部長は両肘をテーブルにつき、掌に顎をのせて考え込むような表情になっていった。
「どうされました」
「被害者と太郎生の間に関連性がありそうなんだ。未亡人にいわせると、あの辺に隠し湯があって、沐浴《ゆあみ》している村の女を撮りにいったらしいのだよ」
「なるほど」
「これはわたしの臆測なんだが、小日向は村の少女達にモデルになってくれるように頼んだがことわられて、止むなく物陰から無断で撮影しているところを、運わるく村の青年に発見されたんじゃないのかね。なにしろあの辺は伐採業なんかやってる荒っぽいやつが揃ってるだろうから、すぐに殺気立つことも想像できる。とすると、坂下のほかにも容疑者はいることになる」
「しかし、山の人間には屍体を東京まで運搬することは出来ないんじゃないですか。東京の南多摩郡のこれこれこういうところに格好の櫟林がある、などという地理に通じてはおらんでしょう」
「ふむ」
「第二に、屍体移動によってアリバイを偽造するなどという知恵は、そういっては彼等に失礼ですが、荒っぽい山男の頭からは湧いてこないと思うんです」
「だからさ」
と、本部長は挑《は》ね退《の》けるようにいった。
「これはわたしの思いつきなんだが、そこへたまたま通りかかったのが坂下だ。犬猿の仲である小日向が屍体となって転っているのを発見したとき、彼の胸中をかすめたのは、このままでは自分が犯人にされてしまうという考えなんだな。彼がその日その時刻に太郎生を通過するというスケジュールは、編集長も知っている。こうなると坂下の立場が極端に不利になるのは自明の理だ。ところが山男と違って彼は頭がいいから、屍体を東京へ運べばアリバイが出来上ることを思いついた。そこで車のトランクに屍体を隠して旅行をつづけたわけだ」
「どうも、現場を通りかかったら小日向の屍体が転っていたというのは少々偶然性がつよすぎるように思いますが、肯ける推理ではありますな」
「きみもそう思うかね」
この本部長には単純な一面があった。褒められると途端に相好《そうごう》をくずしてしまう。
「すると瓦煎餅の件はどうなりますか」
「あれはきみ、名張に下車したときに買ったんだよ。愛のうすれた奥さんの土産に持って帰るつもりだったか、自分で喰う気だったかは知らんがね。ところが現場へいったときは午後の三時頃だ。むかしふうにいえば『腹の時計は八ツさがり』だよ、つまりおやつどきなんだ。空腹を感じて瓦煎餅を齧りながらも、しかしそこはプロのカメラマンだ、目はファインダーから離さない。だから背後に山男が立った気配も知らなければ、兇器を構えられたことも気づかなかった。あっという間に魂は昇天してしまったわけだ。少し詩的な表現になったがね」
「なるほど」
と、その部下は素直に肯定した。
「そこでだ、太郎生の近辺の隠し湯について調べてくれないか」
「承知しました。現地の村役場にでも訊いてみましょう」
すぐさまダイアルを廻わし始めた。本部長は立ち上って出ていったが、二、三分もすると戻ってきた。手にハンカチを持っていることからみると、手洗いにいったものらしい。
「どうだった?」
腰をおろす前にそう訊いた。部下は言葉をえらぶために即答ができなかった。
「……それがその、村役場でいうには隠し湯はないそうです。三重県内の有名な温泉というと湯の山温泉ぐらいのものだから、そちらのほうではないかといってました。そこは観光温泉だから、ヌードスタジオもある、というんです」
「湯の山ならわたしも泊ったことがある。太郎生とは方角違いだよ。きみのいうとおりあそこは観光地だ、隠し湯なんてある筈がない!」
「はあ、そういえばそうですが」
と、その部下は頸をちぢめた。
「隠し湯がないとすると、デマを夫の耳に吹き込んだのは細君である可能性が大きいな。勿論、坂下としめし合わせてのことだ」
「はあ」
「情報源を確認する必要がある」
「わたしも同感です」
刑事はつづけさまに二つ頷いた。丹那が近づいてきたのはそうしたときで、どうしたわけか彼は平素の落着きを失ったように興奮気味であった。
「先程、弁当を喰いながら弁当函をつつんだ新聞を読んでいたんですが、面白い記事がありました。それをご報告しようと思うのです」
丹那はしいてゆっくりとした口調で語った。
「新聞といっても東京の新聞ではありません。向うで買った地方紙です。列車の中で読むつもりでしたが、東京まで眠ってきたものですから、その記事はいままで目に触れなかったわけです」
前置がながすぎる。それだけ、語る内容に期待が持たれた。本部長は目で話の先をうながした。
「昨日のわたしの報告のなかで、お姑さんに会ってみたかったが生憎なことに留守だったと述べました。なぜいなかったかということは省きましたが、村の衆の寄り合いにでていたのです。少し山寄りに入った古太郎生というところに長寿院という廃寺がありまして、そこに鎌倉時代の仏像が何体か立っています。そのなかの一体で、新聞には戌神将《いぬしんしよう》と書いてありますから犬の顔をした神様だか大将なんだろうと思うのですけど、これは右手に抜き身の刀をふりかざしたポーズをとっているんだそうです。ところが、薪をとりにきた山人がおりからの時雨に遭って雨宿りをしようとして廃寺に駆け込んでみると、その戌神将の刀が根元からぽきりと折られているんです。驚いてあたりを探してみたが見つからない。そこで村中が大騒ぎになりました。なにしろ迷信深い人達ばかりですから、仏罰が当っては一大事というわけで、わたしが訪ねたときは村人が廃寺に集ってお経を上げていました。床並家のお姑さんもその一人だったのですよ」
犬の顔をした神様などというのは初耳である。しかしいまは口をはさまずに、黙って丹那の話を傾聴することにした。
「新聞の記事もそうですが、村の人々も同様で、ハイキングにきた若者がいたずらをしたものと考えています。しかし、これはわたしの想像ですけど、小日向と坂下はこの長寿院のそばで会っていたのではないでしょうか。その最中に不意に殺意を生じて、かたわらの仏像の剣をもぎとって兇器にしたのではないか。そう思うのです」
「ふむ」
「偶然に出遭ったとは思えませんから、双方が合意の上だったか、さもなければ、一方が東京から後を追ってきたか、待ち伏せしていたかに違いありませんが」
「しかし坂下が犯人だったとすると、兇器を用意していかなかったのは納得できないな」
「用意していったものの、それが使用不能の状態にあったのかもしれません。例えば、拳銃を構えたものの弾丸をこめ忘れていたとか、構えた途端に素早く蹴飛ばされてしまったとか……。小日向は狼狽する相手をせせら嗤いながら瓦煎餅を喰っている。周囲を見廻わしていた坂下の目に、ふと戌神将の剣が映る……」
「なるほどね。煎餅を齧っていたことから考えると、最初のうちは円満な雰囲気だったのかもしれんな。どちらが持っていたのか解らないが、『まあ喰えよ』という空気のなかで会談は始まったのではないかね」
「そうでしょうね。あるいは相手を油断させる目的で煎餅をすすめたのかもしれません」
「すると合意の上で会ったのかな?」
「そうとばかりは限らないでしょう。待ち伏せしていて、ひょっこり出遭ったふりをしたということもあるでしょうから」
本部長はテーブルに片肘をついて身を乗り出した。
「後を追ったか待ち伏せしたかという話だが、それはどっちだと思うね?」
「動機があるのは坂下のほうですから、彼が待ち伏せていたのでしょうな」
「じつはそれについての情報が入っているんだ。誰かが、坂下か松枝未亡人のどちらかだろうと思うのだが、小日向にガセネタを吹き込んでいる。太郎生の何処かに野天風呂があって村の娘が入浴するという話なんだ。小日向はそれを本気にして、あの山のなかへ出掛けていったらしいのだよ」
「ガセネタといいますと、そんな野天風呂はないのですか」
「三重県下で温泉が湧いてるのは湯の山あたりでね、太郎生一帯にはなにも出ないんだ」
「なるほど」
「ところで、仏像の剣が折られていることを発見されたのはいつかね?」
「新聞では七日としてありますな」
「櫟林で屍体が発見された日だね。五日に折られたのが七日まで気づかれなかったわけだな」
「そういうことになります。古太郎生はバス道路から奥に入った場所なもんで、普段は通行人のないところだそうです」
「その剣が兇器であるかどうかを確認することが先決問題だ。まず現地へ直行して、折れた剣の特徴を調べることが必要になるね。鎌倉時代の仏像ともなれば貴重品だ、どこか然るべきところに記録が残されているだろうから」
「そうですね」
「それが被害者の傷口と合致すれば、まずそいつが兇器だとみていい。向うにいってなにかと役に立つだろうから、屍体検案書のコピイを忘れぬことだ」
本部長は丹那をいかせることに決めているような口吻だった。尤も、本部員のなかで太郎生に土地鑑があるのは彼一人だから、それは当然のことであったが。
「管轄は名張署だったね?」
「いえ、太郎生は松阪署の管内に入ります。名松線の終点の奥津町に警部派出所がありますから、万事はそこが取りしきったものと思います」
先日、床並家の主婦の証言をはっきりさせるために、彼女とおなじ車輛に乗り合わせたという奥津の住人を訪ねて歩いたとき、丹那はこの派出所の前をとおったのである。その際に派出所が印象に残ったのは、鄙《ひな》には希《ま》れな青磁《せいじ》色のタイルで外壁を貼ったモダーンな建物だったからであった。
だが、現物を知らない本部長は心のなかに小さな駐在所を思い描いていた。入口の軒端に赤いホヤをかぶった電灯がついており、ガラスのはまった戸を横に払うと、田舎勤務の警部が所在なさそうにつくねんと坐って渋茶をすすっているような、のんびりとした風景であった。
先日とおなじように丹那は翌朝早く、“ひかり”で東京を発つと、正午過ぎに名松線の終着駅である伊勢奥津に下車した。二度目ともなるとそれほどの感激はないが、岩を噛む雲出川の眺めはやはり素晴しかった。そして前回は見落とした「廃線絶対反対」と筆太にしるされたスローガンが何度となく目についた。国鉄の赤字経営の問題は一介の刑事の理解の域を越えたところにある。だが、列車が走らなくなったときの沿線住民の不便さは充分に想像できるのであった。
改札口をぬけた。正面のゆるやかな一本道をくだっていくと、右手にあの飲食店があり、降車客の何人かが入っていく後ろ姿がみえた。手前に停っているバスの上には運転手の姿がないから、女車掌ともどもにうどんや生卵をすすっているのだろう。
つき当った丁字路を右折すれば名張へむかうバス道路だが、今日の丹那はそれを左に曲った。すると百メートルもいかぬうちに、エメラルド色の外壁の警部派出所が建っていた。県道をはさんだ向い側には屋根のひくいあばら家があって、ちょっと見には廃屋を思わせるが、近づくにつれて鋭い気合いと、どたりという鈍い音が聞こえてきた。先日はうっかり通り過ぎたこの建物は武道場に違いなかった。丹那の剣道は初段をもらったきりで進歩をしない。しかし柔道は三段であった。だからこうした物音を耳にすると、腕がむずむずしてくるのである。
畑仕事からもどってくる耕耘機をやり過しておいて、石段を三つ昇り、派出所のドアを押した。昨日のうちに電話を入れておいたので、二階の会議室の一隅で湯茶の接待をうけながら、彼は四十年輩の家城《いえき》警部から説明を聞かされた。
「はじめは単なる盗難事件として処理しました。それも、住職がいなくなって以来十年になる廃寺の仏像でしたから、そんなに貴重なものである筈がない。そう考えまして二人の刑事に担当させておいたのです。ところが昨日、寺の近くで折られた剣が発見されました。村の衆はこれで事件はともかく片がついたといって喜んでおりますが、われわれのほうからしますと、かえって面倒になりました。剣の表面に血がついていましたから、単なる盗難事件として処理するわけにはいかなくなったのです」
家城はがっしりとした体つきの、田舎芝居に登場する因業親爺《いんごうおやじ》といったタイプの男である。話の調子もいやにねっちりとしているが、根は親切なたちとみえ、茶碗がからになると立ち上って、わざわざ熱い湯をサービスしてくれた。昨日電話をしたときはまだ剣は発見されておらず、丹那としても初めて聞く話なのであった。
「あなたが見えるまでに一応の答をだしておこうと思って県警の技師さんに無理をいったのですが、つい一時間ばかり前に報告が入りました」
その血液型、剣の長さや幅といった特徴が屍体の傷口と完全に一致することを知った丹那は、不便な山の町まで二度足を運んだ甲斐があったと思った。
「現場を案内させましょうか」
壁の時計を見上げながら警部が訊いた。
「担当した刑事の一人が下におりますから」
「お手数をおかけして恐縮ですが、ぜひ……」
と、丹那はその申し出にとびついた。
「署の車をだします。帰りは名張へ廻わられるということでしたが、太郎生で一時間ほど調査をした頃に名張行のバスが通りますから、それにお乗りなさい」
「ご親切に、どうも」
もう一度丹那は頭をさげた。
挨拶をかわして外にでた東京の刑事は、派出所の前に立って、車がくるまでの間、あたりを見廻わしていた。舗装された道路沿いにまばらに家が建っているが藁《わら》で葺《ふ》いた屋根は一軒もなく、どの家も黒い瓦がのせてある。田園風景を期待してきた丹那には、それがいささか物足りなかった。人の姿はほとんど見かけない。目をつぶると風にのって何処かからブラスバンドの音が聞こえた。学校で、秋の運動会の予行演習でもやっているのだろうか。
ジープが近づいてきて停った。フロントグラス越しに中年男が黄色い歯をみせて笑っている。自分に似た冴えない顔つきをしていることを知ると、丹那は親近感を抱いて微笑をかえした。
車は、つい先頃乗ったバスと同じコースを、より早い速度で走りつづけた。小さな教会の白い建物も、今日は茂みの間からちらりと見えたきりである。
「犬の顔をした仏像というのは珍しいですな」
ゆるやかな勾配にさしかかったとき、丹那は初めて雑談をする気がでた。
「犬といってもべつにブルドッグみたいな顔をしているわけではありません。平たくいえば、薬師如来のボディガードなんです。子、丑、寅といった工合に十二人いる護衛官のうちの一人でして、どれも人間の恰好をして思い思いの武器をふりかざしている。戌神将は剣を持っているんですな。犯人はそいつを折って兇器にしたんですよ」
「犯人の見当はつきましたか」
「まだです」
「ボディガードが十二人いるとすると、ご本尊を加えて十三体の像があるわけですか」
「そうです。それほど大きな堂ではありませんが、そのなかに十三体が安置されています。近頃の人間は仏罰なんてものをちっとも恐れませんから、骨董ブームに便乗してひと儲けたくらむやつが現われるのではないかと内心案じていたところに、やられたという連絡が入ったでしょう、てっきり十三体が全部さらわれたのかと思いました。小型のトラック一台で運べますからね」
土地の刑事は語調を変えると、道路はここからしばらくの間となりの奈良県内を走るのだと告げた。
「ところが現場にいって調べてみますと、盗難に遭ったのは戌神将で、それも剣だけなんです。根元から強引にもぎ取っている。その乱暴なやり方をみて骨董ブームとは関係ないことは解りましたが、では真の狙いはなにかということになると犯人の目的が理解できなくて、じつは昨日まで首をひねっていたのですよ」
道を横切ろうとした野兎を見て、ジープは反射的にスピードをおとした。
「猪がとれるそうですね」
「猪ばかりでなくいろんな動物を見かけます。貉《むじな》、てん、それに最近話題になっているツチノコという、ビール瓶みたいなズンドウの蛇を轢きそこねたこともあります。蝮《まむし》が鼠を五、六匹まとめてのみ込むと、胴がふくれて短かくなりますから、わたしが目撃したやつが本物のツチノコであるかと反問されると、自信のある返事はできないのですが……」
「…………」
丹那は生まれつき蛇が嫌いだった。まして、蝮だの正体不明のツチノコがうろついていると聞かされては平静でいられるわけもない。
「ツチノコの血清はあるんでしょうか」
「いえ。ご本尊がつかまらんのですから、血清のつくりようがないわけです。蝮のほうはありますが」
道はふたたび三重県に入った。だが、そういう相手の言葉を、丹那はうわの空で聞いていた。
「血清がなくてもそう心配することはないです。蛇はもう冬籠《ふゆごも》りをしていますから」
「それなら安心だ」
と、丹那は途端にふてぶてしい声をだした。
「するとなんですな、冬場の山のなかを歩いてビール瓶ぐらいの穴をみつけたら、それを掘ればツチノコは簡単に捕えられるんじゃないですか。シーズン中におっかなびっくり山狩りをするよか、こっちのほうが安全でいい」
「しかし一説にはひどくおとなしいともいわれています。目撃者の意見が対立するのは、現物が滅多にいない証拠ですよ。なに、心配することはないです」
「ですが、どちらの観察も正しいのかもしれんですな。つまり、おとなしいのは雄で獰猛《どうもう》なのは雌であるというふうな」
「なるほど、そこまでは気がつきませんでした。蛇の世界にもウーマンリブがあるとは、味気ない世の中になったものですな」
山国の刑事は冗談めかしていうと、速度をあげておいて話を本題にもどした。
「長寿院、つまり犯行現場である廃寺ですがね、この寺の背後はかなり高い崖になっていて、南を向いているくせに一年中陽があたらないところなんですが、兇器はそこに捨ててありました。ここが現場だと考えられています」
「なるほど。で、どうして廃寺になったのですか」
丹那はそちらのほうに興味を感じた。
「一つは後釜の坊さんがあんな山奥はいやだといって来てくれないのですが、もう一つは近頃問題になっている過疎《かそ》のせいなのです。二、三年前に一軒だけ残っていた炭焼きの一家が上太郎生へ移ってしまうと、古太郎生は無人のゴーストタウンになりました。檀家のいない寺に坊さんを呼んでも意味がありませんから、廃寺になるのは止むを得ないことだったので……」
刑事の話がとぎれると、それを待っていたように木の間から妙な鳥の啼き声が聞こえてきた。人が笑っているようでもあり、その声はおしまいの頃になると、床の上でピンポン玉をはずませたみたいにせわしないリズムになる。
「なんですか、あの鳥は?」
「アカショウビンです。この辺にはいくらでもいますがね」
山国の刑事は即座に答えた。
車が上太郎生の近くまでくると、刑事は急にハンドルを左に直角に切り、途端に車体がはげしく揺れ出した。
「この方角をいくと奈良県になりますな?」
「古太郎生は県境に接しているんです」
刑事は慎重な運転になり、脇目もふらない。登り坂の傾斜はかなり急で左側の谷は底が見えぬくらいに深かった。道幅はせまく、対向車がきたらどちらかがバックしなければならないが、それを想像しただけで丹那の鼓動はたかまってきた。
「この道に入るような酔狂な人間は滅多にいないですから、そんな心配は無用です」
山国の刑事はこともな気にいった。
「いまはともかく、古太郎生に人が住んでいた頃はどうしたんです?」
「そこは生活の知恵ですよ。曲り角に沢庵石があったことに気づかなかっただろうと思いますが、あれを道の真中においておくのです。それが、この山道に車が一台入っているぞという合図になっていました」
「二台目の車は入れなかったわけですか」
「だからあの角で待っているんです。都会の人とちがって山の人間は気が長いですからね」
四キロ弱という距離を三十分近くかかって古太郎生の入口に辿り着いたときには、丹那は顔一面に冷や汗を吹きだしていた。ゴーストタウンというから朽ちかけた廃屋が残っているものと思っていたが、移転する際にすべて解体して運んでいったらしく、目につくのは白いすすきの穂ばかりであった。
住居跡の中程と思われるあたりに廃寺がぽつねんと建っていた。近づくにつれ、枝をひろげたツゲの木の向うに剥げ落ちた白壁と花頭窓《かとうまど》がみえてくる。窓の障子は破れて骨だけとなり、その骨もところどころが折れていた。
「浮浪者が塒《ねぐら》にするようなこともあったでしょうな」
「いえ、そういったことはありません。こんな山中では残飯をくれる家もないですから」
「なるほどね。で、仏像はどこですか」
寺よりも、気になるのはそっちのほうだ。
「本堂の横です。足許に気をつけて下さいよ」
車から降りた二人は雑草におおわれた敷石を踏んで本堂へ向い、途中で左手にそれて側面に廻わった。聞えるのは野鳥の声と靴音と、コオロギのかぼそい啼き声だけである。
薬師如来とその眷族《けんぞく》が安置されているのは、炭焼小屋にでも間違えられそうな、貧弱な建物だった。くすんだ漆喰《しつくい》の外壁はところどころが落剥して、茶色の荒壁がむきだしになっている。入口の観音扉も風雨にさらされて灰色になっていたが、閂に取りつけられた錠前だけが新しく、白い金属の部分がにぶく光って見えた。
「現場保管の意味もありましてね、事件の発生後につけたのです。泥棒をみて縄をなうとは正にこのことで……」
ポケットの鍵で錠をはずした。閂がきしんだ音をたて、扉もまた油のきれた蝶番の音をきしませて開けられた。丹那は職業的な興味と世俗的な興味にかられて覗き込んだ。
堂のなかは、周囲の壁の上部に無双窓に似た形の明りとりがあるためほのかに明るく、三方の壁を背にして立った十三体の仏像はどれも表情が読みとれるくらいにはっきりと見えた。見得をきった歌舞伎役者みたいに、そろって目をひん剥《む》いた、憤怒の形相すさまじきものばかりである。いずれも埃をかぶってうす汚れ、銹《さび》とも緑青《ろくしよう》ともつかぬものが一面に浮き出している。像はどれも裾をひるがえした仁王立ちで、ふりかざした武器は矛であったり槍であったりした。身長は不揃いだが、平均すれば丹那と同じくらいである。
案内の刑事はその一体を指さしてこれが戌神将だといった。
「なるほど、べつに犬の顔はしておらんですな……」
戌神は足をふんばり両手を脇のあたりで曲げた威圧的な姿である。右手に握りしめた剣は柄の部分をのこし、刀身が紛《な》くなっている。
人間の体をした十二支の像だというから、手足を欠いた巳《へび》はポーズのとりようがないだろうと思ったのだが、こうして実物を前にして、丹那はようやく自分の思い違いに気がついた。衣の上に鎧をまとった彼等はいずれも人間の姿をして頭に兜をいただいている。その兜の上に、十二支をあらわす動物の頭がのせられてあるに過ぎないのだった。
「折れた部分が二十九センチ、幅は柄のあたりで六センチ、尖端は少しほそくなって五センチ六ミリです。太刀ではなくて剣ですから刀身に反りはありません。直刀です」
「簡単に折れるものですか」
「女子供には無理だろうといわれていますが、中心まで銹《さ》びていたから案外もろかったんじゃないかと思いますな。犯人は太股《ふともも》のあたりに足をかけて折ったとみえて、靴の泥らしきものがついていました」
「指紋はどうでしたか」
奥津の刑事は首をふった。銹が吹き出しているので採取できなかったという。
「血液型のほうは検出できましたがね」
「ここが現場ですか」
闘争の痕跡を発見しようとして丹那はあたりを見廻わした。それらしきものがどこにもないので、検証がすんだ後で村人が清掃したのかと思っていた。
「いえ、現場は外なのです。いまご案内しますが、犯行の直前に、犯人と被害者はここを見物したのではないかと思うんです。ひと足先に相手を外にだすと、こっそり短剣を折りとって、それを服の下にでも隠して、なに喰わぬ顔で後を追ったのではないか……」
外にでると刑事は扉をとざし、丹那は眩しげに周囲を眺め廻わしていた。犯行現場はどこなのだろう。
「こちらです」
と、土地の刑事は先に立って寺の背後へ廻わった。
「この里の人は戌神将のことをお戌《いぬ》さまと呼んであがめているんですがね、そのお戌さまが損傷されたという知らせを聞くと、古太郎生出身者の間に動揺が起きて、ちょっとした騒ぎになりました。仏罰があたっては大変だというわけで、各人が花だの線香を持ってお参りにくる。その二、三日の間は、廃寺が昔にもどったような賑やかさでした。ところが、そのなかの一人が血のついたハンカチを拾ったのです。調べてみるとこの辺では見たこともない絹の上物でD・Kのイニシャルが縫い取られてあります。その時点では小日向大輔氏の頭文字だなんていうことは知らなかったわけですが、落ちていた場所が何処だったかと訊くと、それが寺の裏だというんですな」
寺の背後に彳《たたず》んだ刑事は丹那を省ると、足許を指さした。山裾一帯は山腹からにじみ落ちた清水でしっとりと濡れており、あたり一面に地衣類が繁茂していた。崖の真下は湧き出た水で小さな溜りが出来、それがあふれて底の浅い流れになっている。
「ハンカチは崖下につきでている木の枝、これは猫柳なんですが、それに引っかかっていたそうです。それから地面をみて下さい、コケが剥れて泥が露出しているところが三ヵ所あります。土地の人達がやったのでないことははっきりしていますから、まずここが現場ではないかと考えるわけです。争った際に、犯人か被害者のどちらかが靴の踵でこすったのでしょうがね」
「靴跡は残されていませんでしたか」
刑事は首をはげしく振った。
「ご覧のとおりコケが生えていて、まるで絨毯を敷いたみたいな状態ですから無理ですよ」
「ハンカチの血液型は判りましたか」
「型は兇器についていたものと同一です。だから、犯人が手についた被害者の血を、被害者のハンカチでぬぐったものと考えているわけです」
「血痕は検出できましたか」
「それも」
と、刑事は首をふってつづけた。
「場所が場所ですからな」
屋内ならともかく、露天の、しかも水が流れているような場所では血痕がないのも当然であった。
「兇器はどこにありました?」
と、丹那は質問を変えた。
「署でお聞きにならなかったんですか」
土地の刑事は意外そうに丹那を見た。刑事のその顔も、コケの色を反映して濃緑《こみどり》に染っている。
「発見されたのは上太郎生です。しかし落ちていた場所は判っていません」
「……?」
「というのは、雑種の飼い犬がくわえて遊んでいるのを飼い主が見つけましてね、取り上げてみると仏像の剣だったのです。迷信深い人間ばかりですから無理もありませんが、仏罰があたったら一大事というわけで、この主人はお寺にいって像の前で平身叩頭して謝ったのだそうです。ま、そうした次第で拾ったのは犬ですし、こいつが放し飼いにしてあるんであの辺を股にかけて走り廻わっている。そんなわけでどこで拾ったかつきとめることは不可能なんです。なんといっても相手はワン公ですから、解らずじまいになる公算が大きいですな」
思いついたように、腕時計をみると、その刑事は急に早口になり、間もなく名張行のバスがくる頃だから停留所へ急いだほうがいいといって、車のほうに歩き出した。
六 不利な情報
「驚いたな。酒を呑んだときはともかく、しらふじゃ虫も殺せない人なのにな」
大塚春樹はそういって太い眉をくもらせた。色が白いせいもあって、その眉はひときわ濃くみえる。原まち江は眉のうすい男は嫌いだった。なにか優柔不断な感じがするからである。一度、インターンを終えたばかりの医師の卵と見合いをしたことがあるが、相手の眉があるかないか判らぬほどに薄かったので、それだけの理由で断ったものだ。
まち江が春樹に好意を持ったのはその人柄よりも何よりも、見るからに男性的で思慮が深そうな、黒々とした眉に魅かれたからだった。そして第二は、まち江は一メートル七〇ちかい長身であり、それに見合う身長を春樹が持っていることだった。
坂下護が逮捕されてからというもの、春樹はまち江と会うたびに、まるで挨拶のかわりでもあるように「驚いたな」を連発する。しかしそれが春樹の口から聞かされると、実感があった。
ここ一、二ヵ月というものまち江は驚きと失望とをつづけさまに味わされてきた。ただ一人の血縁者である従兄の坂下が殺人容疑で逮捕されたときはびっくりもしたが、何かの間違いに決っているから近日中に帰宅を許されるものと考えて、それほど心配はしていなかったのである。ところが全く予想外なことに、坂下は検察庁送りになってしまった。事の重大さにびっくりして敏腕な弁護士を紹介してもらい、真相の究明を依頼してほっとしたのもつかの間のことで、坂下のクロは決定的だから調査をしても無駄だという理由でことわられてしまった。その頃から、まち江は従兄にかけられた嫌疑のなみなみならぬことに気づき始めたのであった。
「今日お会いしたのはそのことに関係があるのよ。誰がなんといおうと、護さんが犯人だとは信じられないわ」
「きみが実の兄みたいに慕っている坂下君のことだから心配するのは当然だけど、ぼくとしても絶対にシロだと確信している。坂下君のことは前々から名を聞いていたし、殊にきみと婚約をしてからは未来の最もちかしい親戚となる人だからね、なおさら彼の人となりには注意を払って観察してきた。なによりもまず正義感のつよい性格だという印象を受けている。それから考えても、絶対にあんな真似のできる人間じゃないよ」
すでに十二月の半ばになっている。喫茶店のなかは充分に煖房が効いてオーバーを脱いでも汗ばむくらいだが、収監されている坂下のことを思うと、まち江は自分一人がぬくぬくとしているのが済まないような、じっと坐っていることが苦痛であるような、追い立てられた気持になってくるのだった。
春樹はケースから抜き出したタバコに火をつけるでもなく、指の間でもむようにして思案するふうであった。彼が坂下を知っていたというのは、向うはカメラマン、こちらは推理作家ということで同じ雑誌の目次に名前が並んだり、出版社主催のパーティで同席することがあったからである。といっても、所属する世界を異にする写真家だの挿絵画家、作家といった連中が顔を合わせるのは大出版社が主催する大規模なパーティに限られるから、同席したといっても遙か彼方のテーブルにいるのを遠望したという程度でしかない。当然のことだが口をきく機会もなかった。その二人が正式に紹介されて接触するようになったのは、大塚春樹と原まち江との間に婚約が成立してからのことだった。
「こんなたとえは適切じゃないかもしれないけど、歩道をあるいていて、上から看板が落ちてきて怪我をする人があるわね。護さんの場合もそれに似た災難だと思うのよ。名張の山のなかをドライヴ中にそこで殺人が起ったのも、殺されたのが小日向さんだったのも、みんな予期もしなかった災難なんだわ。たまたま護さんが車を持っていたことまでがマイナスに働いたんだから、不運というほかないと思うの」
マイナス云々というのは、その車で屍体を運搬したと見なされていることを意味するのである。
「殺された小日向さんが護さんと仲のわるい人だったというのも、ただ災難としかいいようがないでしょ。あれだけ悪い材料がそろっていても、もし被害者が護さんと全然無関係の人間だったなら、犯人にされてしまうことはなかったのに」
感情に駆られたまち江は多分に詠嘆的な口調になった。春樹はまだタバコに火をつけるでもなく、手のなかで弄んでいる。テーブルの上に茶色の粉が落ちていくのも気づかぬようであった。
「いまもいったとおり、きみにとっては実の兄みたいな存在だから、そういう考え方をする気持もよく理解できる。だがね、あそこまで条件が揃えば、世間の人間が坂下君をクロだとみるのも無理はない。ぼくの言い方は客観的に過ぎるかもしれないけども……」
「でも、悪いデータばかりが重なるなんていうことは有り得ない筈だけど、だからといって必ずしも現実世界に起らないとは限らないと思うわ。五千万円の宝クジに当るのは不可能といってもいいくらいよ。だけど好運な当選者は必ずでてくるじゃないの。好運と不運の違いはあるけど、護さんの場合もそれなのよ」
相手に口をはさむ隙をあたえまいとするように、まち江は早口で喋った。いつもは微笑を絶やしたことのないふっくらとした顔が、今日はにこりともしない。
第一現場が三重県下だったことから坂下は名古屋の拘置所に収監されており、仲のよいいとこ同士のこともあって、まち江は週に一度は新幹線で差し入れにいくほどだった。彼女が坂下護の無辜《むこ》を信じるのも、また彼の身を案じて心痛するのも、無理のないことなのである。
殺人犯ということで坂下は独房に入れられている。一時間という運動の時間が与えられているが、活動家の彼にとってはその程度からだを動かしても何の役にも立たぬらしく、逢いにいく度に顔色がわるくなり、気のせいかむくんできたようだった。購読を許される新聞は一紙きりであり、それをつうじて坂下は、自分が置かれている不利な立場をよく理解していた。だがこの従兄は、いつかは自分の潔白が立証される日のくることを信じており、逆にまち江を励まそうとして冗談をいったりする。まち江にとってみると、それがまた痛々しくて、つい涙ぐんでしまうのであった。
坂下の亡くなった両親は和歌山県下で蜜柑の栽培をしていた。現在、坂下が相続した蜜柑園は知人に管理してもらっているのだが、それを売れば弁護の費用にあてることができる。この果樹園の存在が、彼の心の支えになっていたのだった。
「ぼくも坂下さんがシロであることを信じたいよ。しかし弁護士さんでさえ匙を投げたくらいの事件なんだよ。シロであることを立証するのは容易じゃないと思うね」
「そんな傍観者みたいな言い方はしないで頂戴。あたし、何としても護さんの潔白を証明してみせるわよ」
「心情的にはその気持理解できる。いまもいったように、ぼくだってシロだと信じたい。しかし警察や検察当局、それに刑事弁護士まで坂下君をクロだといっているんだ。専門家がそういっていることを忘れちゃいけないぜ」
「冷たい人なのね、大塚さんは」
批難するときの彼女は、名前のかわりに姓を呼ぶ癖がある。怨ずるような目つきで真向《まつこ》うから見詰められた春樹は、ちょっと慌て気味に吃《ども》った。
「そ、そういうわけではない、ただ、ひ、非常に困難なことだといっているんだよ。きみも知ってるとおり検察官なんて融通《ゆうずう》のきかない石頭がそろっているんだからね、彼等を徹底的に叩きのめす絶対的な証拠でもあればともかく、それが発見できないとなると、これは難しい問題だと思う。その絶対的な証拠というものが、逆に彼等の手に握られているんだから」
彼は現場の近くで発見された兇器のことをいった。
「それは覚悟の上だわよ」
朱い唇をぎゅっと噛みしめてから、婚約者は言葉をつづけた。
「だからといって、偶然の重なりによって犯人に仕立てられた犠牲者を見殺しするわけにはいかないわ」
「こういうとまた冷酷だと批難されそうだけど、この場合のぼくは、きみと違って客観的にものを見ることができる。だから敢えていうんだけど、坂下君を救うのは不可能に近いんだ」
「あなたは不可能だと断定していないじゃないの。不可能に近いというのは、一パーセントだか○・一パーセントだか知らないけど、ごく僅かの可能性が残されていることを意味してるんだわ。あたしはそれに賭けます」
女の憑かれたような固い視線に気圧《けお》された大塚は、お手上げだといった諦めの表情になった。いったんこうと信じ込んだらテコでも動かない女がいるものだ。まち江もまたそのなかの一人なのだろう。
「きみの熱意には感服したよ。及ばずながらぼくも手を貸したい。ただその前に断っておくが、偶然が重なり合って坂下君を犯人にしてしまったという意見には賛成できないな」
「あら」
「そうだろう? たまたま彼がなんとかいう山のなかをドライヴ中に、そこで殺人が行われた。その被害者が、これまた偶然にも仲のわるい男だった。犯人は屍体を東京に運んでアリバイを偽造したのだが、その犯人と同じように坂下君も車の運転ができた。そんなに偶然が重なるだろうか。それも偶然これも偶然で石頭どもを納得させることができるかね?」
「…………」
「きみも週刊誌で読んだと思うけど、小日向君は偶然にあそこを通りかかったんじゃない。多分犯人からだろうが、太郎生に野天の温泉が湧き出ていて、山の乙女がゆあみに来るという虚構の説を吹き込まれていたんだ。彼はその餌に釣られて山のなかまで出かけていったんだからね」
「…………」
「だから世間の人達と同様にぼくも偶然を否定せざるを得ないのだ。偶然を否定すれば、考えられることは二つしかない」
「二つ……?」
「そうさ。一つは誰がなんといおうと坂下君が真犯人なんだ」
「まあ」
「もう一つというのは、真犯人によって坂下君は犯人にされてしまったことだ。真犯人Xもまた小日向大輔に甚大なる恨みを持っていた。ひょっとすると出臍《でべそ》のヌード写真を公表された女であるかもしれないやね」
と、この推理作家はその場の空気にそぐわぬ冗談をいった。
「捜査本部にも、油断をみすまして刺したところから犯人女性説を唱える捜査員がいたという。そのX嬢もしくはX君が、最初から坂下君に犯行をかぶせる意図のもとに計画を練った、といったふうに推理することもできるのだよ。Xは、坂下君があの日のあの時刻に現場を通過することを利用しようとした。となるとXは、坂下君が車で旅行することを知って、これも利用しようとしたんだ」
「そうよ、それなのよ、それに決ってるわ」
と、まち江は興奮したように声を大きくした。いつもは慎しみ深いというか用心深いというか、どんな場合でも動揺する態度をみせたことのない彼女が、そのときはさすがに冷静ではあり得なかった。ウェイトレスが一瞬びくりとして顔を上げ、こちらを見た。
「ねえ、手を貸してやるとおっしゃったわね。あなたにお願いしたいの、春樹さんを私立探偵のかわりに雇いたいの。失礼かもしれないけど、こうした問題はざっくばらんにお話したほうがいいと思ったのよ。ね、一ヵ月に三十万ではどうかしら。税込みじゃないのよ、手取りで三十万なの」
「どれだけ貯金があるか知らないが、馬鹿なことをいうもんじゃない。それに必要な出費ぐらい自分で出すよ」
「悪いわよ。お願い、あたしに出させて」
「水臭いな、きみは。きみはぼくを他人だと思っているからそんなことをいうんだろうが、ぼくは未来のご亭主なんだよ。スコットランド人やオランダ人じゃあるまいし、ぼくはそれほど吝嗇《りんしよく》じゃない。自分の女房のためなら百や二百の金を無駄にしたってちっとも惜しいとは思わないよ」
「そういって下さるとうれしいわ」
「しかし、ケチじゃないからといって贅沢な結婚生活を夢みられちゃ困るよ。釣った魚に餌をやるのは、愚かな夫のすることだそうだからね」
春樹が笑いながらいうと、釣られてまち江もしろい歯をだした。この日はじめて見せる笑顔だった。
「だがぼくに探偵の真似ができるかどうか疑問だな。疑問というよりも、まるきり自信がないね。本職に頼むべきだと思うがな」
「私立探偵ってとてもお金がかかるらしいの。それに、ヘッポコ探偵と名探偵の見分けがつかないでしょう、素人《しろうと》には。場合が場合ですもの、下手な探偵に当ったら悲劇だわ。もう一つ、私立探偵なんて赤の他人ですものね、親身になって調査してくれるわけがないと思うの。そこへいくと春樹さんは違いますもの」
「親身になるのはきみのいうとおりだけど、自信ないなあ。ぼくに探偵の真似ができるかな」
「だって春樹さんは本格物の推理作家じゃないの。推理はお得意のはずじゃなくて?」
「いやあ」
春樹はてれたときの癖で、ベレ帽のてっぺんに生えている豚の尻尾《しつぽ》みたいなものをつまみ、ひょいひょいと二、三度ひっぱってみせた。
「あれは原稿用紙の上だけの話でね。推理作家というのは自分で都合のいい事件をでっち上げといて、そいつを解いていくんだから、謎が解明されるのは当然なんだ。たといどれほど錯綜《さくそう》した難事件であってもね。そこんとこを間違えられちゃ困るなあ」
「実際にやってみなくては解らないじゃないの。ドイルがドイツ系ユダヤ人の冤罪《えんざい》を霽《は》らそうとして乗り出した話は有名でしょ。ガードナーだって被告の無実を立証して救った事件が沢山あるっていうことだわ」
「弱ったね。ドイルやガードナーに比較されるのは光栄だけど、問題は才能があるかないかということでね」
「あたしね、春樹さんが調査して駄目だったら、それで諦める気でいるの。身内の人に真剣になって調べてもらったんですものね、それ以上を望むのは贅沢だわ」
急にまち江はしみじみとした口調になり、手にした伝票をくるくると弄んでいた。彼女が目を伏せると、高い鼻とながい睫毛《まつげ》とが強調されて、正面からみたときよりも一段と美人になる。ドアを開けて入って来た客が、思わずみとれてテーブルにぶつかったほどだ。
「問題は」
と、ベレの推理作家は相手をはげますようにきびしい声をだした。
「いや、問題というよりも方法論というべきだろうな。それは二つある。一つは坂下君のシロであることを立証することだ。これについては、弁護士さん達が最初から意欲をなくしたくらいはっきりとしている。もう一つは……」
ちょっと間《ま》をおいてつづけた。
「もう一つは真犯人を探し出すことだ。そこまでやらなくても、坂下君以外に犯人が存在し得る証拠を発見できたら充分だ。真犯人の追及は専門家がやればいいことなんだからね」
「面倒なことお願いしてしまって悪いと思うわ。お仕事の邪魔にもなるし……」
「なに、プロットは電車のなかでも考えられるし書くことは宿屋ででもできる。そんな心配はいらないよ。ただぼくの性格からして、景気のいい大ボラを吹いたり空手形を濫発することは嫌いなんだ。やる以上は全力を尽くすことを誓うけど、楽観はしないで欲しい」
「解ったわ。春樹さんのいうこと当然だと思う。で、どこから着手するの?」
「いま急に訊かれたって返事はできないさ。今夜、マンションに帰ってじっくりと考えてみる。あるいは一晩だけで知恵がうかばないこともあるだろう。いい案を思いつけたら、きみの会社なりアパートのほうに連絡をするよ」
それだけいうと、春樹は手を伸ばして伝票を奪い取り、立ち上りかけた。
「お願い、あたしに払わせて」
「また水臭いことをいう!」
「じゃおいしい鰻《うなぎ》をご馳走するわ」
「話がこうと決ったらそんな呑気なことはいっていられないよ。ぼくは部屋に帰ってインスタントラーメンでも作って喰う。じゃ失敬するよ」
「待って……」
まち江はあわててハンドバッグを掴んで腰を上げた。
大塚春樹は困惑していた。だが、一度言い出したら最後、自説を撤回しようとはせぬまち江の性格は、交際をはじめてからわずか半年にしかならない短期間ではあるけれど、彼にはよく解っていた。大柄な体つきをしてはいるものの、一見おとなしやかで和服がよく似合う日本娘ふうな容貌だから、てっきり従順なタイプの女だとばかり思っていたが、意外にしんが強いのである。彼女は少女時代に相ついで両親を失い、早くから孤児となっていた。浮き世の荒波を乗り切るためには、気丈でなければならなかっただろうと、春樹は思う。
それはそれとして、ではどこから手をつけていこうか。彼は机に両肘をつき頭を抱え込んでいた。自分ではべつに意識しないが、仕事のさなかにプロットの展開にゆきづまったりすると、彼はしばしばこうした自堕落《じだらく》なポーズをとるのだった。
途中でウィスキーを持ってくると鬼《おに》胡桃《くるみ》を囓りストレートで呑みながら、さらにあれこれと検討をつづけた。まち江を満足させるためには、とにかく現地へいってみることだ、と春樹は結論をくだした。
その翌朝、出勤前のまち江に電話をかけて三重県へ出掛けることを伝えた。
「あたしも行きたいわ」
「きみは宮仕えの身だ、ぼく一人でいってくる」
「名張ってどんな都会かしら」
「興味があれば新婚旅行のときにいくという手もあるじゃないか。とにかく今度は一人でいかせて貰う」
「お仕事の邪魔をさせて悪いわね」
「短編を書き上げたところだからよかったんだ。書きおろし長編を一つ抱えているんだが、こいつは締切りがあってないようなものだからね、急ぐ必要はない。昨夜もいったように、気が向けば旅館で書くこともできるんだ。そのために万年筆と原稿用紙だけは持っていくよ」
「何日ぐらいかかるかしら」
「行ってみなくちゃ見当がつかないけど、三泊か四泊ってとこじゃないかな」
「そうお、じゃ気をつけてね」
「ああ。吉報を待てといえないのが残念だが」
そういって受話器をおいた。
新幹線のグリーン車は比較的すいていた。すぐ後ろの座席には日本の青年と中年の外国人が坐っていて、ちょっと見たところアメリカの貿易商とその鞄持ちのように思えた。大塚はべつに右翼思想の持主ではないけれども、外国商社に勤め、彼等の顎使に甘んじている日本人を蔑視する傾向があった。おそらくこの青年も、英語を喋るほかにはなに一つ能のない男なのだろうと考えていた。だが、両人の間にかわされる言語がフランス語であることに気づくと、大塚はにわかにこの若者を見直す気になった。大学で仏文をやったことにはなっているものの、あの複雑な動詞の変化に手を焼いた彼は、原書を読みこなそうなどという大それた夢は、一年生の夏休みになる前に、早くも諦めてしまっていた。以来、フランス語を自在にあやつる人間を目にすると、ただそれだけのことで一目おきたくなるような癖を持っていた。そのときの彼も、断片的に聞えてくるフランス語の会話に聞き耳をたてているうちに、列車は名古屋に着いてしまった。
近鉄の窓口で名張までの特急券を求めた。近鉄は車の内部もきれいで快適な旅だったので、名張駅で降りるのが惜しいほどだった。他日、愛する女性をつれてこの電車に乗り、ゆっくりと大阪まで旅をしてみたいと思った。
特急が停車するだけあって名張駅のフォームは大きく明るかった。だがそれに反して地下道はうす暗く、清潔感に乏しい印象を受けた。彼は生まれて初めて名張駅の改札口から外にでた。
坂下が一泊したという染谷《そめや》旅館は、駅前広場をぬけた正面の大通りを右に五百メートル余りゆき、さらに消防署の角を左折したところにあった。モダーンな小学校の校舎と向き合った、武家屋敷ふうの門構えのある、いかにも格式ありそうな凝った造りだ。時刻は午後の一時を過ぎており、小学校は授業中だとみえて、校舎全体がしずまり返っていた。
さし当って彼がとるべき手段は坂下の係の女中から話を聞くことだった。スーツケースを二階の部屋まで運んでくれた女中にチップを手渡しながらそのことを告げると、生憎なことに当人は市内の友人宅に遊びにいって不在だという。四時までには戻る予定だといわれた大塚は、それまでの時間を利用して名張の町をぶらついてみることにした。といっても、名張銀座などには興味が湧かない。
「名張は初めてなんだが……」
言葉をのみ込んでふっと笑顔になった。
「これはナバリと濁って読むんだね? 東京の人間はなんとなくナハリと発音しているんだが」
「はい、濁るんです。そのかわり松阪のほうはマツサカというふうに澄んだ読み方をするんです。でも東京から見えたお客さまは皆さんがマツザカとおっしゃいますわね」
「するとマツザカ屋というデパートも正式にはマツサカ屋といわなくちゃならないのかな。あの経営者はたしか伊勢の出身だった筈だからね。ところで名張は初めてなんだけども、二銭銅貨という瓦煎餅を売っている店はどこ?」
「二銭銅貨とおっしゃいますと……?」
「ほら、江戸川乱歩さんの乱歩煎餅だよ」
乱歩煎餅というほうが通りがいいとみえ、女中はすぐに店の所在を教えてくれた。まち江への土産には、何よりもこの菓子がふさわしいと思っているのである。
「それから、江戸川先生が生まれた場所に碑があるって話だけど、それはどこ?」
彼も推理作家の端くれだから、この巨大な先輩の生誕した跡をのぞいてみたかった。名張まで来ていながら、ここに寄らぬというのも気がきかぬ話だ。
個人病院の角を曲って……という女中の言葉をメモにとると、テーブルにのせておいたカメラを掴んで立ち上った。
「あら、お茶もお出ししませんで……」
と女中は済まなそうにいった。
靴をはくと、いま来たコースを逆に辿って駅の近くまでもどり、広場に面した菓子店で問題の瓦煎餅を求めた。この作品が書かれた頃の二銭という金額は、いまの貨幣価値に換算していくらに相当するのだろうか。店員が包装してくれるのを待ちながら、彼はそうしたことを考えていた。
駅前から生誕碑までは徒歩で十分とかからぬ距離であった。途中、新装をこらした市立図書館が目についたので立ち止ると、入口の黒板に代表的な蔵書の名がしるされていた。そのなかには予期したとおり「江戸川乱歩文庫」の文字があり、名張の市民が≪二銭銅貨≫の作者を誇りとしていることが察しられた。
図書館の少し先に立派な外観の個人病院が建っている。宿の女中に教えられた標識は、その建物の横の通路に入ろうとする処に、「江戸川乱歩生誕碑」としるされて、つつましやかに置かれていた。大塚は足早にいそいそと横路をとおりぬけた。
病院の裏に、細い路をへだてて分院がある。碑は、その分院の小庭に立っていた。石材は御影石でもあるのだろうか、成人の身長ほどの高さがあり、正面から見た形は将棋の駒に似ていた。碑面の上部には故人の筆蹟で「幻影城」と右書きに刻まれ、その真下に「江戸川乱歩生誕地」と縦書きにした文字が浮き出ている。
大塚はこの作家の謦咳《けいがい》に接したことはなかった。彼が推理作家を志したとき、すでに物故していたからである。だがその作風に私淑してきた大塚としては、面識はなかったとはいえ、ここに彳《たたず》んである種の感慨を抱かぬわけにはいかなかった。
裏面にまわって碑文を読んだ後、何枚かの写真をとった。分院の看護婦が窓越しに、無表情な顔で彼のすることを傍観していた。
「お判りでしたか」
「お陰さんですぐに判った。かねがね訪ねたいと思っていたもんだからね。いい碑だった」
二人の間には夕食の料理の皿が並べられてある。大塚はいける口なので、旅にでると地酒を味わいながら、女中を相手に土地の話を聞くことが楽しみなのだった。そうした点からも、ホテルや団体客を相手とする観光旅館はつとめて避ける方針でいる。
「しかし乱歩さんは生後一年ぐらいで亀山へ移転しているんだね。一歳や二歳では、名張の記憶なんてものは殆ど残っていなかっただろうと思うな」
「あたしは頭が悪いから、一歳二歳どころか小学校に入る前のことは何も覚えていませんわ」
「亀山も一年間ほどいただけで」
と、彼は女中の話などまるきり聞いていなかった。女中の頭がいいか悪いか、そんなことは大塚の知ったことではない。
「後は少年期まで名古屋で過したんだね。だから、乱歩少年をはぐくんだ土地はむしろ名古屋であったわけだ。ぼくは碑の前の小路に立ってあたりをぐるりと眺めながら、お母さんが子守唄をうたって背中の乱歩さんを寝かしつけようとしている姿を想像したね」
一気にコップ酒を呑みほすと、熱くふとい息をついた。大酒家の彼は盃のような容量の小さな器では呑んだ気がしない。自宅にいるときも宿に泊ったときも、コップでぐいぐいと呑む。呑むというよりも、あおるといったほうが適切だ。
「それから、生前の乱歩さんがこの土地を訪れたことがあっただろうか、もしあったとしたらその感慨はどんなものだったろうか、ということも考えたね。年譜から逆算すると、たしか若いお母さんだった筈だ。土地土地によって子守唄には違いがあるものだけど、乱歩さんが聞かされた子守唄とはどんなものだったろうな。随筆をみても、そうしたことには殆ど触れられてない。乱歩さんは音楽には関心がなかったのかなあ」
話の後半は独語になっている。女中が相槌の打ちように困って、膝の上で盆をもてあそんでいるところに、廊下から声がかかった。すると彼女は救われたようにほっとした表情をみせた。
「はい、どうぞ。緑さんが参りましたわ」
それが坂下の係だった女中の名である。
入れ替わりに坐った緑はちょっと渋皮のむけた三十女で、これでもう少し色が白ければかなり男の気をそそるに違いなかった。おでこで目の大きいところがセルロイドの人形に似ている。
前の女中がしたように、彼女も燗徳利を手にすると、如才なく酌をした。
「あらましの話は通じてあると思うけど、十月の初めに一泊した坂下護という男のお客について、覚えていることを聞かせて欲しいんだ。勿論、それなりのお礼はするよ」
「さあ、それが……。毎日いろんなお客さまを接待するもんですから、混乱してしまって……」
「その男が人殺しの犯人として逮捕されたことは知ってるね? じつをいうと、彼はシロではないか、犯人は他にいるのではないかという立場から、事件を調べなおしているんだよ」
「あら、すると私立探偵ですの?」
土地柄だけに明智小五郎でも連想したのか、眸をかがやかせた。そうしたときの彼女の表情はいっそう西洋人形の顔に似ていた。
「そんなカッコいい商売じゃないよ。あの男と個人的なつながりがある、とでもいうかな」
曖昧な言い方をした。ゆきずりの女にくわしいことを語る必要はないからだ。
「どうだろう。思い出せたかね?」
「ええ。でもあら方のことは刑事さんにお話してしまいましたもの。他になにもありませんわ」
「どんなことを話した?」
「お着きになったときのことから、翌朝お発ちになるときのことまで、洗いざらい……。といっても、お食事のお給仕をしたりお床をのべたり、それだけのことですけど。べつに参考になったとは思いませんわ」
客と従業員の接触といえば、その程度のものが普通だろう。夜中に客が腹痛でも起せばともかく、ただ泊っていったというだけでは、記憶に残るはずもないのである。
「到着したのはいつ?」
「さっき宿帳を見たんですけど、十月四日の夕方ですわ」
「車で来たんだって?」
「ええ、裏に駐車場がございますから」
「どんな型の車だった?」
訊き込みのテクニックも何もあったものではない。思いついたまま、手当り次第に訊ねていった。
「あたしは見ても解りませんけど、番頭さんの話では紺のブルーバードだそうです」
坂下が所持しているのも紺のブルーバードである。
「泊ったのは本人に間違いないかね?」
写真を見せようとすると、緑はちらと一瞥したきりで手に取ろうとはしなかった。大塚のぞんざいな口調に、内心反撥しているのかもしれない。
「その写真は刑事さんからも見せられました。あの日お泊りになったお客さんに違いありません」
「部屋に誰か訪ねてこなかった?」
「いいえ」
「外出は?」
「なさいません。九時すぎにはもうお寐《やす》みでした」
「電話をかけなかった?」
「それも刑事さんから訊かれましたけど、お帳場を通じておかけになった記録はございません。でも、下のホールに赤電話がありますから、それを利用なさったのかもしれませんわ。そのほうが通話料が安くなりますので、近頃は皆様が赤電話でおかけになるんです」
大塚はコップをおいた。どの質問も不発ばかりである。彼はあけすけに失望の色をみせた。
その翌朝、彼は坂下とおなじようにゆっくり起きて朝食をすませると、九時過ぎに宿をでた。坂下は市内見物をしたあと車で太郎生へ向ったのだけれど、列車でやって来た大塚としてはタクシーを拾うかバスに乗るほかはない。駅前広場まできて、そこに並んで停車しているバスのなかから、話に聞いていた奥津行を見つけて乗車した。
駅前広場は、発着するバスや近鉄の乗降客で賑わっていた。すべてのバスがここを起点に四通八達しているのだから、混雑するのも当然なことなのだった。昨日はろくに眺めもしなかったが、いまこうしてバスの窓から見渡してみると、名張駅は大きな構えの二階建てで階上は事務室になっているらしく、外側の壁は幅のほそい南京下見が貼ってあった。見るからに古呆けて田舎駅然とした趣きで、それがまた地方の小都市によくマッチしていた。これが近代建築に改装したとなると、あたりの風物とは異質なちぐはぐなものが出来上ってしまう。
バスはほぼ満席で発車した。しばらくの間は商店の並ぶ町のなかを走っていたが、やがて名張川にぶつかると左に折れ、流れに沿ってゆるい傾斜をのぼり始めた。桜並木がつづき、それを抜けて郊外の住宅地に停車したりするうちに、バスは徐々に山のはざまに入っていった。名張川に平行して走るので車窓からは絶えず流れがみえる。川幅はかなりあるのだけれど、まだ下流のせいか、さして急流とは思えなかった。
二人降り三人降りして、下太郎生に停車する頃は客の数も四分の一ほどに減っていた。大塚がステップに足をかけたときに近くでヒヨドリの啼く声が聞え、山里に来た感慨をつよくした。
バスが走り去ってしまい、一緒に下車したのが言葉も通じそうにない老婆だけということになると、ものを訊ねるにも相手がなくて、大塚は心細そうな面持を拵《こしら》えてあたりを見廻わした。なにはともあれ、例の仏像が安置されてある廃寺を訪ねてみることだ。女というものは疑い深いから、山奥まで踏み入ったことを立証するために、剣が折れた仏像を写真にとる必要もあった。
運よく来かかった中年の女性に長寿院にいく道を訊ねると、重たい粗朶《そだ》の束を背負った彼女はいやな顔もせずに立ち止って、あそこを曲ってこう行って……と地理を教えてくれた。
「どうも」
と、彼は短くいって先へ向った。途中で右折して谷沿いの道を三、四十分歩いていくと、やがて右手の山裾に甍のおちた廃寺がうずくまったような姿で立っていた。そして、崩れかけた山門の前に一台のライトバンが停車しているのが、大塚の目をひいた。
凹凸のある石畳をふんで進んでいくうちに、なにやら脇のほうで人のいる気配がした。耳をすませると、槌でものを打つ音にまじって男や女の声が聞えてきた。何事だろう? 好奇心も手伝って横手へ廻わった彼は、村の住民らしい若い男女が堂の扉にクレオソートを塗っているのを見た。
「やあ、こんちは」
大塚は作家仲間に会ったときのような気軽さで声をかけた。人なつこそうな目と笑いを含んだ口調には、人をそらさぬ独特のひびきがある。だから彼に話しかけられると、大抵の相手がそのムードに引き込まれてしまい、返事をしなくては相済まぬとでもいったふうに、いそいそと応じるのだった。この山里の人達も例外ではなく、刷毛を握った青年を除いたあとの三人がいっせいにこちらを向くと、笑顔で会釈を返した。紺色のベレに赤いカーディガンという彼の恰好は、一見して都会人であることが解る。
「仏像はこのなか?」
「そうです」
「仕事中わるいが、見せて貰えるかね?」
「いいですよ、どうぞ。おい三ちゃん」
三ちゃんと呼ばれたのはこちらに背を向け塗料をぬっている長髪の青年だった。彼も笑いを含んだ顔で大塚に挨拶をした。
「大変だな」
「いままではこれほど価値のある仏像だとは思わなかったんで」
扉は上半分ほどが塗られていた。二枚の板戸を塗るのに男女四人がかりというのは少し大袈裟だが、土地の青年団の行事でもあるのだろう。
大塚は塗料にさわらぬよう身を細めると、ある種の感慨をこめて堂内を見廻わした。問題の像はまだ修復がならぬとみえ、戌神将は徒手空拳のままで威圧的なポーズをとっている。バランスを失ったその姿は六方を踏みそこねた歌舞伎役者を思わせ、滑稽に見えぬこともなかった。
「まだ修理はできないのかね?」
「警察が返してくれないんです。裁判の証拠にするんだとかいって」
「あ、そうか。大切な物証だからな、簡単には戻ってこないね」
大塚の目は黙々としてカンヌキの修理をしている青年に向けられていた。元来がはにかみ屋なのか無口なのか、彼だけがこのベレの都会人を黙殺していた。黙りこくって白木のカンヌキをサンドペーパーでこすりつづけ、ときどきくたびれたように手の動きを休めた。
頃合をみて若者に宿屋の有無をたずねた。腰をすえて訊き込みをやる気なら、一泊や二泊はしなくてはならない。
「こんな山奥に旅館なんてないです」
「商人宿でもいいんだがね」
「そんなのもないですね」
「民家でもいいんだ、泊めてくれるとこはないかね。お礼ははずむよ」
青年は首をふると、つき放した口調で答えた。
「それも無理だと思うな。なんといっても人殺しがあったばかりだもんね。殺したやつも殺された人もよそ者だから、村の人達はよそ者アレルギーなんです。見知らぬ人を泊めて夜中に居直られちゃたまらない。いくら泊り賃をだすといわれても、命のほうが大切ですから」
「冗談じゃないよ、ぼくが強盗をやるような人間にみえるかい?」
と、大塚は声をたかめた。
「そりゃ何ともいえないな。犯人の顔写真を新聞でみたけど、人殺しをやるような兇悪犯だとは思えなかった。人は見かけによらぬものって二宮尊徳もいってますからね」
推理作家は鼻にしわをよせて苦笑した。
「尊徳先生もつまらぬ教えをたれたもうたもんだ」
「泊るんならバスの終点の奥津までいくほかないですね。あそこなら宿屋が二、三軒あるから。名張にいけばもっといい旅館があるけどね」
「奥津から通《かよ》ってくるのは大変だな」
「通うって、なにをするんだね? この辺でできるものというと椎茸ぐらいだけど」
商社員が買い占めにきたと思われたらしい。
「ぼくは商社マンじゃないよ。もち米を買い集めて値段を釣り上げるような、あんな阿漕《あこ》ぎな真似はやろうたってできやしない。じつはね、調査をしているんです。いま話がでた殺人事件について、なにか新しい情報をつかみたいと思って……」
「情報を……?」
「そう。まだ世間に知られていないニュースがあったら知りたいんだよ。出鱈目は困るが、本物の情報だったらお礼をはずみたいと思ってね」
「するとあんたはトップ屋か」
と、その若者はパンダでも見るように目を丸くし、大塚のベレと赤いカーディガンという風体をとっくりと眺めた。だが大塚は肯定も否定もせずに、ただうす笑いをうかべて立っていた。
刷毛を握っていた高尾という青年が、その刷毛をブリキの缶に突っ込むと、大塚のほうを向いて厚い唇をなめた。
「ぼく等の仲間に酒屋って名の男がいるんですが、この間みんなで酒を呑んでいるうちに、おれだけが知ってる秘密があるんだと言い出したんです。勿論、あの事件についてですがね。そこで居合わせた連中がなんだなんだと訊くと、世間がびっくりするような話だから、ただじゃ教えられないよと笑っていました」
大塚は思わず目をまるめた。こう早く反応がでるとは、予想もしなかったことである。一体その青年が握った秘密というのはなんだろうか。
「なんでも、警察に教えてやっても一文の得にもならないから黙っていたのだそうです。そのうちに週刊誌か新聞記者がやって来たら売り込んで、大|儲《もう》けをするんだといってました。彼、なかなかがめついやつですからね」
聞いているうちに大塚の鼓動はいよいよたかまってきた。
「がめつくても結構だ、酒屋君と会って話を聞きたいな。礼はするから、会わせてくれないか」
「裏庭で椎茸の栽培をやってるからね、たぶん自宅にいると思うよ」
もう一人の青年が口をはさんだ。
「手間賃は払うから呼んできてくれないかな」
「じゃ、おれが行ってくるか。ついでに宿のほうも当ってみるよ」
と、その青年は駄賃に魅力を感じたようにぬうっと立ち上った。
「三十分もあれば往復できるから、待ってて下さい」
手についた埃を払いながら山門をでたかと思うと、車の走り出す音がした。後の連中は土地の言葉で軽口を叩き、笑い合って仕事をすすめていった。
「剣の修理はだれに頼む予定ですか」
「県から技師さんが像の下見にくるという噂はあるんですが、具体的なことはなにも考えていないんです」
雑談をしている間も右手の刷毛は動くことを止めない。先程の青年がもどってくるまでに、残りの半分がたちまち塗り上げられていった。
「すごいニュースなんだ、トップ屋さん」
と、使者役の男は大仰《おおぎよう》に息をはずませてみせ、同行した頸のふとい若者を紹介した。
「これが酒屋君ですよ、さっき話題のでた。うまい工合に椎茸の原木の手入れをしていたところでね。しかし宿のほうはやはり駄目だった。何処の馬……、つまり早くいえば、見も知らぬ旅人には気をゆるせないってわけでね」
酒屋は友人の紹介がすむと、それを待っていたように喋り始めた。のっそりとした感じの肌のうす汚れた男で、瞼に脂肪がたまっているせいか睡むた気な顔をしている。長い髪は汗臭く、仕事衣の肩のあたりにフケが点々と光ってみえ、見るからに不潔な感じがするのであった。だが大塚はそうした不快な感情は少しもあらわさずに、いっそう目を細めて彼を迎えた。
「どんなニュースかね?」
「その前に、いくら払ってくれるか教えてくれないかね」
「それは内容によるな。読者をあっといわせるような素晴しい特ダネだったら五万でも十万でもだそう」
トップ屋と間違えられたことを、わざわざ訂正する必要もない。というよりも、取材記者に化けていたほうが、何を訊いても怪しまれないから、かえって都合がいいと判断した。
「しかしだね、週刊誌に載せる値打ちもないようなつまらぬネタなら、せいぜい一万円どまりだな」
大塚は相手の足許をみてものをいった。小日向事件はすでに解決されたことになっており、忘れっぽい世間の人はもう話題にもしていない。この山里がマスコミ関係の人間で賑わったのはほんの一瞬のことでしかなく、いまでは誰からも見捨てられた存在なのだ。欲が深すぎて情報を売りそこねたこの男にしてみれば、大塚の出現は最後のチャンスなのである。大塚は、徹底的に買い叩ける立場にいた。
「そんなくだらないネタじゃないよ。話を聞いてしまったら、十万円払いたくなることは請け合いだ。だがね、貨幣価値がゼロみたいなインフレ時代に十万円というのは安すぎると思うな」
「幾ら欲しい?」
「五十万だね」
こともな気に酒屋が答えた。なるほど、噂どおりの貪欲な男だと思い、同時に、田舎者に似合わぬ抜け目のない男だと考えた。
「最高十万だな。これが編集長が決めた限界でね、どれほどいいネタでも十万以上はだせない」
つっぱねられた酒屋は慌てて四十万に値をさげ、三十万にさげ、結局は二十万というところで妥結された。大塚にしてみれば彼のいう「秘密」を無視することはできないのである。
「ただし、いまは金を持っていない。旅行するのに大金を持って歩く馬鹿はいないからね。だが必要となれば全国どこへいっても銀行の支店で現金をおろすことはできる。必要になれば、の話だがね」
「今日は駄目なのかい」
と、猪頸《いくび》の青年は失望したようにいった。
「普通の銀行は三時までだ。それじゃ明日もう一度会おうじゃないか」
「いいとも。明日までに二十万円を用意しておくんだな。なにしろ特ダネ中の特ダネなんだ。嘘偽りのない本当の特ダネなんだから」
「きみ一人が特ダネだ、本物だと意気込んでもだよ、それだけじゃ信じられない。どうだろうな、その意味で手付金を払うから、ごく一端を聞かせてくれないか。そうすれば二十万に価することも解るだろうからね」
酒屋は即答をさけ、狡猾《こうかつ》そうな小さな目であたりをきょろきょろと見廻わしながら、フケだらけの髪を何度となくなでていた。
「……あんたがそういうのも無理ないね。よし、ちょっとサワリの部分を聞かせてやろう。だが、他人の耳に入ると秘密でなくなってしまうからね、こっちへ来てくれないか」
周囲にいる仲間が不快な表情をうかべたが、酒屋はそれを無視して大塚をうながすと、肩を並べて山門の近くまで歩いていった。
翌日、大塚が上太郎生に下車したのは午後の一時を過ぎていた。昨日約束しておいたとおり、バス停には酒屋と、酒屋を呼びにいってくれた高尾という若者が揃って待っていた。高尾にも約束の駄賃を払わなくてはならない。
話を聞くにはひと気のない場所がいいという酒屋の提案にしたがって、ベレ帽の推理作家は小学校の庭にいくことにした。山峡の村はあらかた日陰になっているが、校庭だけはまだブランコのあたりにわずかに残された日溜りがあった。空気がすんでいるせいか、初冬の陽差しはまぶしいほど強烈だ。
「紫外線がつよいね。きみ等はよく平気でいられるな」
そういって作家は上衣のポケットから黒いサングラスをとりだし、鼻の上にかけた。そうすると彼は、一段と敏腕なトップ屋みたいに見えた。
三人は並んでブランコに腰をおろし、左右の綱を握ってバランスをとった。大塚は千円紙幣を二枚とりだして、昨日の駄賃だといって高尾青年に手交した。払うものは早く払ったほうが、信用がつく。
「初めにことわっておくが、ぼくが頭を悩ましたのは現金授受の問題なんだ。仮りに、仮りにだよ、酒屋君がその重大な秘密を打ち明けたのに、ぼくが金を払わなかったらどうする? いや、そう変な顔をすることはない、仮定の話なんだから」
「うむ、本当のことをいうと昨日からそのことを考えていたんだ。東京の人間はこすっからいという話を聞いているからね。だから先に半分ぐらい貰っておいたほうがいいんじゃないかと思ってる」
「フウ、都会人の全部が全部こすっからいわけでもないさ。ところで、きみがそういう懸念《けねん》を抱くのは無理ないことだ。立場は逆だけどぼくにしても同じことがいえる。しかし半金といえば十万円だ、その十万円を先に渡しておいて、愚にもつかない話をされたんじゃ間尺《ましやく》に合わない。そこで、昨日バスに乗って名張へ戻る途中いろいろと考えたんだがね、ようやくのことで、ぼくにとってもまたきみにとっても安心できる方法を発見したんだよ」
かるくブランコをゆすっていた酒屋は足を地につけて揺れを止めると、みじかい頸を無理にねじって大塚をみた。
「つまりさ、大金を直接に受け渡しをするからトラブルが発生することになるわけだ。したがって中間にワンクッションをおけばそのような無駄な心配はしなくてすむ」
「…………」
「今朝、まず銀行へいって二十万円をおろすと、染谷旅館へ戻って、その金を金庫に預ってもらった。染谷というのが名張でもトップクラスの旅館であることはきみも知ってるだろう。ぼくは昨晩と一昨晩、そこへ泊ったのだよ」
「…………」
「金を預けたというこの話が嘘であるか否かを確かめるために、まず宿のご主人に電話をしてみて貰いたい。一流の旅館の経営者ともあろう人がだよ、預りもしない金を預っているなどと出鱈目をいうわけがないだろう」
「…………」
「ぼくにしてもそうだ。一流旅館のご主人だからこそ信用して現金を預けたんだ」
「…………」
「まず電話をして、二十万円という金額に間違いないことを確かめてくれ。話はそれからだ」
「……まだよく解らないけど」
「だからさ、仮りにきみの話を聞いたところが案に相違して五万円にも価しなかったとしてみよう。その場合にそなえて、ぼくは一通の書状を用意してきたんだ。内容は、本書の持参人が酒屋君本人である場合に限って五万円也を現金で支払ってくれ、というものだ」
「二十万円の約束じゃないか」
と、その若者はいきり立った。
「慌てるな。ぼくは同じ内容の書類を計四通用意してあるんだ。きみの話が十万の値打ちがあると考えた場合はそれを二通きみに渡す。十五万の場合は三通、といった按配だ」
ポケットから折り畳んだ四枚の便箋をとりだすと、酒屋に渡して目をとおさせた。時間をかけて読んだ酒屋は、それを仲間の青年に手渡してチェックさせた。
「ぼくが署名し捺印したら通用するんだよ。まず手初めに、昨日きみが聞かせてくれたサワリに対して、五万円を支払うことにする」
読み終えた四枚のうち、大塚は一枚だけにサインをし判を押して、改めて酒屋に手交した。
「さあ、これできみが染谷旅館に電話をかけさえすれば、あとは安心して秘密を語り得るわけだ。ぼくが聞き逃げ……そんな言葉があるかどうか知らないが、ぼくが一文も払わずにきみをペテンにかけるという心配はこれでなくなった。少なくともきみの手に五万円は入るのだから」
「しかし」
と、傍らの高尾青年がいくぶん皮肉っぽい口調で口をはさんだ。
「酒屋君の話がまるきり価値がなかった場合はどうなるんです。つまりその、酒屋君が愚にもつかない話を語って聞かせたくせに、いったんポケットに入れた書類を返したがらなかった場合のことだけどね」
「まさか。酒屋君がそんなえげつない真似をするとは思わない。ぼくは同君を信じているよ。すべての交渉は相手を信用することによって成立するんだから」
「…………」
「仮りに酒屋君の話が一万円にも価《あたい》しなかったとしても、同君がその書類を返してくれなければぼくは五万円をまるまる取られてしまうわけだが、それでもいいと思っているんだ。そのくらいの金は出張旅費をやりくりすればなんとかなるからね」
「…………」
「だからそうした心配は要らないのさ。そんなことより、ぼくとしては酒屋君の情報が文字どおりの特ダネであることを願っているね。そうすれば今夜は松阪に一泊して、明日はゆっくり市内見物をして東京に帰れるから。とにかく編集長に土産を、それもでっかい土産をぶらさげて帰りたいと思っているんだ」
「ところでよ」
いらいらした表情をうかべていた酒屋が、たまりかねたように割って入った。
「現金を受け取るためには、おれが名張までいかなくてはならないのかね?」
「それはそうさ。代理人をやって、そいつに持ち逃げされたらどうする?」
「うむ。疑ぐるわけじゃないけど、おれが名張へ向っている間にあんたが染谷旅館に電話をかけて、支払い停止を命じることだってできるんだぜ」
「ふむ」
「おれが旅館に入っていって約束の二十万を受け取ろうとすると、いまさっき大塚さんから連絡がありまして支払いは停止になりました、と宣告される。頭にきたおれがここへ帰ってきたときには、あんたはとうの昔に姿をくらましているんだ。こうなったら後の祭りだからね」
がめついと評されるだけあって、酒屋というこの青年は万事に抜け目がなかった。大塚は大袈裟に苦笑してみせた。
「やれやれ、そこまで疑われるとは思わなかったな。それじゃこうしたらどうだろう、きみが名張の旅館で現金を受け取るまで、ぼくはここに待っている。いわば人質だね。しかしいまもいったように、ぼくは夕方までに松阪の旅館に到着したいから、そういつまでも待っているわけにはいかんのだ。だから途草なんか喰わずにフルスピードで急行して貰いたい。そして金を貰ったら、その場でここに電話を入れてくれ。連絡があり次第、といってもバスが来なくてはどうにもならないが、ぼくは急いで松阪へ向う」
「了解、それなら間違いはない」
「人質を監視する役目は誰にする?」
大塚は少し意地のわるい調子になった。
「高尾、お前がやってくれるな?」
「ああ、今日は暇だからね」
「よろしい。しかし監視料は酒屋君が持つんだぜ。ぼくが支払う筋はないのだからね」
それを聞いて酒屋はちょっと嫌な顔をしたが、否む理由がなかった。ブランコから降りた三人は、そのまま横に並んで校舎のほうへ向って校庭を横断していった。
冬休みに入った校舎のなかはひっそりとして人気がなく、中央部の北側に面した用務員室を訪れると、壮年の用務員がイワナの干物を肴におそい昼食をとっているところだった。その用務員にちょっと断っておいてから、酒屋は交換手を呼び出して染谷旅館につながせた。
通話は短時問ですんでしまい、受話器をおいた酒屋は大塚を省みると満足気にニンマリと頷いてみせた。
「間違いなく預ってるそうだ」
「よろしい。話を聞かせてもらったら早速ひと走りして欲しいな。会談の場所はどこにする?」
「二十万円の値打ちのある話だからね、当事者以外の耳には入れたくないやな」
そういうと、酒屋は先に立って廊下にでた。暖気に慣れた皮膚がおどろいてきゅっと引き締まるほど、そこの空気は冷えていたが、陽の当った校庭にでると忽ち全身がほっかりと暖かくなった。
「車の用意はできてるのかい?」
「ああ。家の前においてある」
「昨日のライトバンか」
「うん。ああ見えても山のなかを走るにゃ調子がいいんだ」
「途中でパンクするようなことはないだろうね?」
「十日ばかり前に整備をすませたんだ、その心配はないね」
「片道どのくらいかかるかな」
「下りは一時間」
きっぱりとした口調で答えた。
「一時間か。するときみが染谷旅館に着くのは三時過ぎということになる」
「奥津行のバスは三時二十八分発だよ、たっぷり時間がある。慣れた道だから心配することはないよ」
子供の頃から通い慣れた道なのだと彼は自信あり気である。
「どれ、きみの車を見せてくれないか。ぼくはベンツを乗り廻わしているんだけど、他人《ひ と》の車が気になるたちでね」
大塚がねだるような口調でいい、二人は校門の外へ並んででていった。
酒屋が営業用のライトバンを運転して出発してから早くも一時間が過ぎようとしている。その間《かん》、高尾は忠実に人質監視の義務を遂行して、手洗いに立つときも後についてくる始末だった。これが田舎者の融通のきかぬところなのだとは思ってみたが、大塚は次第に彼の存在がうとましくなり、やがて腹が立ってきた。
「……話が狐と狸と比べてどちらが旨いかということになると、この村にも狐だというものと狸だというものと半々にわかれるくらい難しい問題ですが、どちらにせよ臭いのには閉口です。カチカチ山の爺さんは狸にだまされて狸汁を喰わされることになってるですが、臭いで気がつかにゃならん筈です。ほんとの話、あれは臭くて喰えたものじゃないですからな。葱を入れてもゴボウを入れても、生姜《しようが》の汁をたらし込んでも、臭いのほうがはるかにきついです。そらもうお話のほかで……」
大塚の胸中を知るわけもない用務員はいろりのはたで懐中電灯の電池を入れ替えながら、のんびりとした口調で山家《やまが》にふさわしい話を聞かせてくれている。大塚は彼に気づかれぬように何度となく腕の時計に目をやっていたが、話が一段落したところで、かたわらの高尾を振り返った。
「少し遅いとは思わないかね? 酒屋君は一時間で着くといってたが」
「名張の町に入ってから交通が渋滞しているんだと思うよ」
「たかが田舎町だ。端から端まで突っ走っても十分とかからぬくらい小さな町じゃないか。何がなんでももう着かなくちゃならない」
酒屋を非難する口吻になっている。
「途中でパチンコでもやっているのかもしれないな」
「そんなことはないと思うね。彼はこの間の日曜日に松阪へいって財布の底をはたいて遊んだものだから、パチンコをやる金もない筈だ。旅館で金を受け取った後なら、気が大きくなって玉をはじかないでもないけどね」
「すると金を手にした途端に気がゆるんでしまって、電話することを忘れたんじゃないかな」
「そんなルーズな男ではないんだが……」
仲間をかばってそういったものの、考えられるのはそのことでしかない。大塚は旅館に電話を入れてみることにした。
受話器をとったのは番頭だったが、居合わせた主人がすぐに替ってでた。
「大塚ですがご面倒なことをお願いして……」
「いえ、なあに」
「いま太郎生からおかけしているんですが、酒屋君は何時頃に立ち寄ったでしょうか」
「待っているんですがね、まだ来ないんですよ。そちらを何時発のバスに乗ったんでしょうな?」
「バスではなしにライトバンで出掛けたんです。名張市内のことはよく知っているそうですから、迷う筈はないんですが。無事到着したら、お預けしてある金額二十万円を、使いの者に渡して頂きたいのです」
「解りました。それにしても訝《おか》しいですな。縁起の悪いことをいうようですが交通事故を起したのではないでしょうか。警察の交通課に訊いてみたらどうです」
主人のすすめに従って名張署に電話を入れてみた。この警察は市内の中央よりも名張川寄りにあり、一昨日のことだが、大塚は宿に鞄をおいて散歩にでた際、その前を通っていたのである。推理作家であるだけに、警察署の建物はなによりも先に目につくのだ。
電話口にでたのはいかつい警官ではなくて、よくとおる声の女性交換手だった。用向きをのべると交通課につないでくれたが、そこの警官は、今日はまだ一件の事故も発生していないという返事をした。
大塚は音をたてて受話器をのせた。
「どうだった?」
「交通事故は起っていないそうだ。そうかといって蒸発したわけでもあるまいし、妙なことになったな」
「そろそろバスがくる時刻ですよ。乗りそこなうと更に二、三時間待たなくてはならんです。急いだほうがいいんじゃないですか」
いろりに粗朶をくべながら用務員が口を入れた。時計をみるとなるほどあと四分しかない。
「そうですな、出掛けるとしますか。高尾君、ぼくはこれ以上人質の役をつとめているわけにはいかないからね、失敬するぜ」
「仕方ないと思うよ」
「しかし気になるな」
「無事に戻ったら松阪の旅館に電話をさせますよ。二十万円も貰ったんだから、そのくらいのサービスするのは当然です」
一見不愛想な顔つきの用務員は、しかしなかなか親切なたちの人のようであった。
「それがね」
と、大塚は急に元気が失せた口調になった。
「酒屋君の特ダネは或る意味で特ダネに違いないんですが、ぼくが期待していたものとは内容が少々違っているんです。だもんだから、松阪見物はまたの日に延期して、今回は、このまま東京へ帰ろうと思うんですよ」
用務員も高尾もちょっと彼の意を計りかねた面持だった。
「奥津ってとこは初めてだから、せめて奥津廻わりで帰りたいと思って……」
「奥津経由では時間がかかるな。新幹線の最終に間に合いますかね?」
用務員は心許なさそうにいった。
大塚が原まち江と会ったのは、帰京した翌る日の夕方のことであった。彼のほうでオフィス帰りのまち江を、新橋の裏側にある小さな料亭に誘ったのである。
まち江にとって、そのような割烹料理店に入るのは初めての経験だったから、出てきた女将になんて応答すればいいのか解らず、ただ笑顔で白い歯をみせただけだった。
「あれでいいのさ。女性のなかには水商売の女を軽蔑してツンとしてみせるのがいるが、ぼくは嫌だな。そんな尊大な性格の持主とは結婚しても旨くいくはずがないと思うんだ」
挨拶をすませた女将がでていくと、大塚はそういった。二人がとおされたのは三階の小部屋である。他の座敷もそれぞれ客が入っているようだが、こうした場所にありがちの酔漢のだみ声も聞えず、その上品な雰囲気が好ましかった。
大塚のような作家稼業の人間はこうした場所へ頻繁に出入りするのだろうか、女中や仲居にも顔が売れていた。途中ですれ違った三人の従業員が三人とも、いかにも親し気に挨拶をするのである。
注文をとりにきた仲居に、彼は河豚《ふ ぐ》の刺身とスッポンの吸い物、蛤と甘鯛の焼物などを慣れた調子で注文し、食後のデザートを苺にするかメロンにするかというときになって、初めてまち江の意見を求めた。
「いつものとおり、ぼくのモズクには梅干を入れてくれよね」
心得ているといったふうに、仲居はにんまりと笑ってメモをとった。
「あら、梅干を入れるの?」
「ああ。酸味とうすい塩味とが溶け合って意外にうまいんだ。梅干ってのは体にもいいしね。結婚したら、まず梅干の漬け方をマスターしてくれないと困るな」
「まあ、ご婚約でしたの? 羨やましいですわ」
仲居はメモを帯にはさみながら、祝意をあらわすことを忘れて、真実うらやまし気な口吻だった。
「寒かったら席をかわろうか」
仲居がでていってしまうと、春樹が訊いた。彼のそばでガスストーヴが小さな音をたてて燃えている。
「いいの、いいのよ」
慌て気味に辞退した。彼の好意はありがたかったけれど、今夜は小笠原の上空から高気圧が張り出したとかで、汗ばむほどに気温が昇っていたのである。
「河豚を喰べても大丈夫かしら……」
「大丈夫だからこそ営業が許可されているんだよ。それに……」
「それに……?」
「きみとならば当っても本望だ。心中みたいなものだから」
「河豚で心中なんて止して頂戴。嗤われるだけだわ。のちのちまでも……」
口では否定しながらも、春樹が本心からそう思ってくれるのだったら嬉しいと思った。
「ねえ、河豚の毒で人殺しをする推理小説はないの?」
「あるさ。ずうっと以前にぼくも書いた。もう題名なんかも忘れてしまったがね」
「河豚毒はテトロドトキシンとかいったわね? それを注射するの?」
「そうじゃない。河豚鍋をつっつき合うのさ。そのなかに猛毒のマコを一切れ混ぜといて相手に喰わしてしまうんだ。いまもいったとおり、精しい内容は忘れちゃったがね」
「さすがは推理作家ね」
「満洲で実際にあったそうだよ、似たような事件がね。加害者も被害者も満洲の人だが、片方が魚の行商人でね、売れ残りだからただでやろうといってくれたんだ。平素いがみ合っている男なのに、気前のいいことをするもんだと思って煮て喰ったら、家族が中毒死してしまった。それで訴え出たという事件なんだ。引き揚げてきた人から聞いた話だけど」
それに対してまち江がなにか答えようとしたときに襖が開いて、酒とオードブルが運ばれた。大塚はビール、呑めぬまち江はジンジャーエールである。
料理は、一皿を喰べ終ると、それを何処かで覗き見してでもいたようなタイミングのよさで、つぎつぎに運び込まれた。
「熱いうちに召し上って下さい」
スッポンの吸い物をまち江の前において、仲居はそう注意してくれた。いつか同僚の女性達と信州へ二泊の旅をして、夕食に鯉こくをだされたときにも同じように注意されたことを、まち江はふっと思い出した。新婚旅行は信州にしたらどうかしら……。
だがそうした甘い空想も、坂下護のことを思うとシャボン玉のようにはじけ飛んでしまうのだった。今夜の料理にしても、材料を吟味してあるので旨い筈なのだが、それが心底から楽しめないのは従兄のことが気になっているせいに違いなかった。なによりもまず、調査の結果を先に聞かせてもらいたいと思う。安心した上で箸をとれば、料理はひとしお美味しく感じることだろう。
春樹が改った口調になったのは、メロンを喰べ終って、お絞りで口許と指先を拭いてからのことだった。彼はタバコに火をつけると、しばらくの間は煙の行方を目で追いながら黙りこくっていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「坂下君のことだがね」
「どうだったの?」
思わず膝でにじり寄った。
「……どういうふうに喋ったらきみを落胆させずにすむかと、そればかり考えていたんだ。きみには気の毒だと思うが……」
「駄目だったの?」
「うむ。太郎生の部落に酒屋君という青年がいてね、これが重要な情報を握っていると聞いてアプローチした。ところが話を聞いてみると、殺人現場をこっそりと目撃していたというんだ」
「犯人は……誰だったの?」
声がふるえているのが自分でもよく解った。
「それが間違いなく坂下君だというのだよ。彼の写真は事件当時いろんな週刊誌やテレビや新聞なんかにのった。酒屋君もそれを何度となく見ていたので、坂下君の人相風体も知っているんだ。だから、坂下君に相違ないという彼の発言には、真実性を認めぬわけにはいかない」
「あたしは信じられないわ。その人、護さんの写真を沢山みているうちに、自分が目撃した犯人像がそっちに引きつけられて、護さんのイメージに重なってしまったのよ。本人は嘘をついているつもりはないでしょうが、結果においては春樹さんを騙したことになるんだわ」
「きみがそう思いたい気持はよく解る。だけど……」
「だけど何よ」
「彼のいうことを鵜のみにしたわけではないのだよ。ぼくも徹底的に突っ込んでみたさ。あのときのぼくの目は、おそらく狂人みたいに妖しく光っていたことだろうと思うな。ところが彼の返事は決定的だった。その一つは、被害者である小日向君が間もなく殺される運命にあるとも知らずに、犯人と連れ立って歩いているときのことなんだが、なにかの拍子に犯人の左側に立ってものをいいかけると、犯人である男がはげしく首を振って、左耳は聞えないから反対側にまわれというゼスチュアをしたんだ」
「…………」
「犯人がずる賢い男であってだね、なにがなんでも坂下君に犯行を転嫁しようというわけで、故意に左耳がいかれてるようなふりをしたのじゃないか、という解釈は当らないんだ。目撃者である酒屋君は終始かくれていたのだから、そこに第三者が存在することは、犯人も知らなかった。言い換えれば、その場にいたのは被害者と加害者の二人きりだったのだからね」
左耳が遠いということは坂下の肉体的な特徴の一つである。だがまち江にしてみれば、そういわれてもなお、すなおに承伏する気にはなれなかった。
「その青年はなぜそんな場所にいたのかしら?」
ちよっと不服そうな顔で口をとがらせた。
「近くの山裾でかすみ網を張って野鳥の密猟をやってたらしいんだ、言葉の端から判断するとね。なんといっても山男だから野蛮だ。鳥であればなんでもいい、ウグイスまで喰うというんだよ。そんなわけでその日も鳥をとっていると、人の気配がしたので反射的に草陰に身をひそめた」
「ねえ、その人、口から出まかせをいったんじゃないかしら。春樹さんをトップ屋だと信じ込んでいたわけでしょ、だからいい加減なことをでっち上げてお金儲けをしようと企んだに違いないわよ。護さんの耳のことにしたって、新聞かなにかで読んで知っていたんだと思うわ」
まち江は自分の思いつき的な発言に春樹が乗ってくることを期待していた。そこで言葉を切ると、反応をたしかめようとするように彼の様子をうかがったが、当の大塚はすぐには返事をしようとせずに、まずそうにタバコをふかしていた。
「……きみがそう信じたいのは無理ないことだ。それに対して水をぶっかけるような発言をするのは辛いことだが、もう一つ決定的な事実があるんだよ。駐車してあった車の型とナンバーが坂下君のものに一致するんだ。酒屋君はがめつい男だというのが仲間|内《うち》の評判だが、ありもせぬことをいってぼくを騙すほどの悪人ではないね」
「でも、その秘密を内緒にしておいて、適当なトップ屋が現われるのを待っていたなんて一筋縄ではいかない男じゃないの」
「それはそうだ。その点は認めるよ。だがね、秘密を売って金に替えようとするくらいだから、彼の特ダネと称する情報の内容は決していい加減のものじゃないんだ。酒屋君の話によると犯行現場は目撃していない。寺の背後が現場だから彼のいた位置では見通しがきかないんだ。ところが数分間だか十数分間だか、彼自身にも時間の経過は解らなかったというが、ふと目を上げると犯人が被害者の屍体をかかえて自分の車に戻るところだったんだね。小日向君の胸のあたりが真赤に染っているのを見て、膝頭がガクガクしたといってる」
「…………」
「だが、そこはがめつい男だ。このチャンスを金に替えてやろうというくらいだから、いつまでも震えつづけていたわけではない。恐る恐る草の陰から出てくると、車の型とナンバーを確認した上で、有り合わせの紙片にメモした。ぼくも見せて貰ったが、その紙切れというのは松阪のデパートのレシートでね」
「…………」
完全にまち江は戦闘意欲を失っていた。
「お願い、ストーヴのそばに坐らせて。なんだか寒くなってきたのよ」
かぼそい声で彼女はいい、大柄な体をにじり寄せて来た。室内は依然として肌が汗ばむくらいに暖かかった。
料理屋をでたのは八時過ぎであった。春樹の靴の紐を結びながら、女将は意外そうに「お早いですね」といった。作家仲間や編集者ときたときは、九時か十時頃まで呑みつづけるのが例だからである。
「締切りがあるもんでね」
といっても僅か五枚の随筆原稿だが、五枚とはいっても、随筆となると小説を書くようなわけにはいかない。彼の場合はテーマを決めるだけでも三日かかるのが普通であった。今夜はテーブルの上にウィスキーソーダとパイプタバコを並べ、それを味わいながら徹夜をするつもりでいる。
女将の声に送り出された二人は、一ブロック離れた裏通りまで歩くと、駐車しておいたベンツに乗って夜の高速道路を走った。まち江を大井町のアパートまで送った大塚が、原宿のマンションに帰り着いたのは十時になろうとする頃であった。
シャワーを浴びて濡れた髪にドライヤーをあてていると、思いがけなく、ブザーが鳴った。大塚にとってはまだ宵の口だけれども、世間一般の人間にとってはベッドに入る時刻である。こんな遅い夜に誰が訪ねてきたのだろうか。
手早くガウンを身にまとって扉を開けると、貧相というには当らないが、なんとも冴えない顔付の男が立っている。一見したところ五十歳ぐらいであった。
「夜分遅くどうも。先程お訪ねしたら外出中だったもんで、改めて出直したんです」
丹那と名乗るその刑事は口のきき方がてきぱきとしており、引き締った体つきから判断しても四十の初めの年輩であった。ふけて見えるのはご面相のせいらしい。
「推理作家の思想調査ですか」
「まさか。思想調査は戦前の話です」
「一体どんな用件ですか。盗難に遭ったこともないですし……」
刑事を室内にとおしたのは相手に敬意を表したためではなく、問答が第三者の耳に入ることを警戒してのことであった。殊に、外国の石油会社の部長をしているという左隣りのアメリカ系の二世が、どうしたわけか推理作家の生態に興味を示して、ことある度に聞き耳をたてるのだ。
「用というのは他でもありませんが、三重県の松阪署から連絡が入りましてな、ちょっとお訊ねに上ったのですよ」
大塚はおやと思った。刑事のものの言い方が少しも刑事らしくなかったために、ひどく意外な感じがしたのである。彼は、推理小説はリアリズムでなければならぬという主張を持っていた。だから作中に登場する刑事は、例外なしに被疑者を拷問にかけたくてうずうずしているような、冷酷なタイプの人間ばかりであった。それに比べると、丹那というこの刑事は穏かすぎるのだ。
「上太郎生の酒屋さんという青年をご存知ですか」
「知るも知らぬもの段じゃないですよ。昨日と一昨日と、顔をつき合わせて話をしました」
「昨日は、あなたから預り証を貰って名張まで出掛けたそうですな?」
「ええ。ある情報を提供してくれた報酬です。その代金を取りにいったわけですがね。それが……?」
それがどうかしたのか。語尾をにごらせて表情で訊いた。
「名張へ下る途中で、ガードレールを越えて谷底に転落死しているのが発見されましてね。見つかったのは昨日の夕方のことでして、車ごと流れのなかに沈んでいたのだそうです。医師の検屍では即死です」
大塚は無言でうなずいた。こうした場合の同情の言葉は、得てして空虚な響きをともない易いからだ。
「責任を感じますね。名張へ向わせたのはこのぼくですから」
「なに、責任を感じる必要なんてない。気の毒ではあるが、本人の運転ミスなんだから。解剖の結果では酒を呑んだ痕跡もなかったそうです。といって対向車と接触した事故でもない。そこで質問に入りますが、なぜ金を支払うことになったのですか」
「いまいったとおり、情報を提供してもらった代償ですよ」
内容を伏せて、その間の事情を語って聞かせた。丹那刑事はしきりにメモをとった。要点を筆記するなら解るけれど、この男は大塚が喋ることを片端から書き取っているらしく、ほとんど口もはさまずに記入しつづけていた。
推理作家は、この刑事を少し軽蔑したくなった。
「どんな情報ですか、差支えなかったら聞かせて貰えませんか」
「それは勘弁して下さい。なんといっても二十万円で買った情報ですから」
笑いにまぎらせてきびしく拒否した。
「そういえば、トップ屋さんに化けていらしたそうですな」
「向うが勝手にそう思い込んでいたんです。ぼくとしてもその方が取材には便利だと考えたもんで、敢えて訂正はしませんでした」
「取材というと、カメラマン殺しの……?」
「ええ、まあ」
このときも、曖昧に返答をにごしておいた。
「二十万の情報というとわたしも好奇心をそそられますな」
「世間をあっといわせる大特ダネだといってましたが、期待はずれでした。しかし、ぼくもちっとは世間に名を知られた推理作家ですからね、もし正体がばれたときに、大塚のやつ案外しみったれた男だなあなどと噂されるのは不名誉な話ではないですか。虚栄心だとか見栄だといわれればそれまでですけど、やはり体面というものは無視できない。そこで値切ることは止しにして約束の金額を払おうとしたんです。一種の有名税だと思ってあきらめていますが、名を知られた人間というのは不便なものですよ」
「なるほど、有名税というやつですか」
刑事は他意のない笑顔になると手帖を閉じ、それで顎をこすりながら、さり気ない口調で質問をした。
「あなたも車をお持ちだそうですが、そのほうの興味はお持ちでしょうな?」
「人並みにはね。何でもそうでしょうが、自分が運転を習って車を購入すると、その途端に他人の車が目につくようになりますね。それまではロールスロイスとフォルクスワーゲンの区別すらつかなかったのに」
世間話のつもりで答えていたが、相手の意図はべつのところにあることがすぐに判った。
「酒屋氏の車はなんでしたか」
「ライトバンです」
「その車に触れたことはなかったですか」
「一度も。なぜそんなことを訊くんです?」
「なぜって、あなたにも酒屋君殺しの動機があるからですよ」
「だって事故死かもしれないでしょう?」
「ええ。だが殺人かもしれない」
「なぜ動機があるっていうんです?」
挑むような、逆に相手を詰問するような口調になっている。まさか、坂下の不利な証人を消すために殺したという気ではあるまいな。春樹はそう思って、息をつめて返事を待った。
「なぜかって、彼が死ねば二十万円を払わずにすむではないですか」
それを聞いた途端に大塚は吹き出していた。
「いや失礼。だが冗談じゃないですよ、本当に。二十万なんていう金額は短編を一本書けば取り戻せるんです。お釣りがくるくらいですよ。二十万円ぽっちで人を殺すなんてノンセンスもいいとこだ。刑事さん、笑わさないで頂きたいですな」
丹那刑事も仕方なさそうに苦笑している。
「立ち入った質問ですが、推理作家というのは短編を書くとどのくらい貰えるものですか」
「人によって違いますね。年功序列が加味されることもあるでしょうが、売れてる作家と売れない作家とでは大きな差があります。ぼくの場合は売れっ児でもないし、といって全く売れないというわけでもありませんが、一編が三十万円前後でしょう。不思議なものでして、どこの雑誌社でも稿料は似たりよったりでね、出版社同士がひそかに情報の交換をやってるんじゃないかと勘ぐりたくなります。その点を編集者に質しても、すっとぼけて答えませんがね。……それはそれとして」
推理作家は濃い眉の間にしわをよせると、真面目な顔になった。
「動機なるものが一応はあるとしてもです、ぼくは彼の車には指一本ふれたことはありませんからね、そのことはここにはっきりと断言しておきます。早い話がブレーキの油を抜いておけばいざというときに急停車することができないから、望みどおりに転落事故を起すでしょうが、残念ながらぼくのやったことじゃないです」
「いえ、それは向うでも調べがついているそうです。整備工場に入れたばかりだというのも事実でした。工場側は手をぬかずに完璧に整備をしたといってるそうです」
「そう聞かされて安心しましたよ。ぼくがエンジンに工作したなんてあらぬ疑いをかけられたのでは堪ったもんじゃない」
吐き捨てるような口調である。
「川から引き上げて検査をしたが、誰かが前以って機械に工作を加えた痕跡も全くなかったといいます。そこで眠り薬でものまされたんじゃないかというわけで胃を開いてみたが、薬品をのんだ、もしくはのまされた痕跡はなかったのです」
「ひょっとするとLSDの類いじゃないかな。彼、麻薬の常習者ではなかったですか」
「その方面も調べましたが、やはり否定的な結果がでました」
「そうなると、過失による事故死以外にはあり得ないじゃないですか」
「そういうことになりますかな」
刑事は他人事《ひとごと》のようにのんびりした返事をした。
刑事が帰っていくと、一人になった春樹はパイプに火をつけてしばらくふかしつづけていた。作家の多くのものは神経質だが、どちらかというと春樹は逆に図太いほうであった。徹夜仕事を終えた同僚達はベッドに入っても神経が昂ぶっていて容易に寝つくことができず、勢い、好きでもないウィスキーをストレートで呑んで催眠剤がわりにするほどである。が、大塚の場合は頭を枕につけるかつけぬうちに高鼾《たかいびき》をかきだすのが常であった。だがその彼にしても、刑事の訪問を受けた後味はいいものではなかった。随筆のテーマについて考えをまとめようとするのだが、どうにも気分が集中してくれない。
時計をみた。十一時半を過ぎている。まち江が就床するのはいつも十一時半だといっていたことを思い出してダイアルを廻わした。
「先程はご馳走さま。どうしたの、こんなに遅くなって……?」
「いま刑事が来た」
「あら。何かあったの?」
「さっき、太郎生の酒屋君という青年が名張へ向ったきり、先方の旅館に到着しなかったことを話したね?」
「ええ」
「そしたらね、到着しないのも当然だ。途中で運転事故を起して死んでいたことが判ったんだよ」
「まあ」
「それでさ、警察はぼくが車に細工をしたんじゃないかと疑っているらしい」
「そんな……」
「動機があるっていうんだ、動機が。そういわれたときぼくは、坂下君に不利な証人を消すために殺したと、そう突っ込まれるんじゃないかと思ったんだが、刑事の考えは違うんだ。酒屋君に支払う二十万円が惜しくて殺したんじゃないかと考えているんだよ。噴飯物じゃないか、ぼくにとって二十万が端下金《はしたがね》であることを知らないんだから嫌になっちまう」
「それで、納得してくれたの?」
大塚の身を気遣ってかげった声になった。
「だってそうだろう、車にはさわったこともないんだから、細工をしたくても出来やしない。そのぼくを疑ぐるなんてなんとも馬鹿々々しい話さ。なに、ほかに用はないよ。ただその一件を報告しておこうと思ってね。明日の勤めがあるんだ、早く眠んなさい」
挨拶をかわして通話を切った。
七 指輪物語
捜査本部が解散されてからかなりの日数がたっている。正月もすぎ蔵開きも終ったある日のこと、鬼貫は小学校時代の同窓会に出席して、老いた師やすっかり禿げ上ったクラスメートと数十年ぶりで歓談した。こうした会では、懐しさと共に人生の果敢なさを痛いほどに感じるものだが、鬼貫も例外ではなかった。散会後、友人が自宅まで車で送るというのを固辞して独り東京駅から電車に乗った。鬼貫の家は国分寺にあるので、電車は中央線ということになる。
ラッシュアワーはとうに過ぎてしまい、といってホステスが帰る時刻にはまだ間がある。車内はすいていた。鬼貫は腰をかけると売店で求めた夕刊をひろげて読み始めた。しかし、ともすると彼の思いは旧師やクラスメートの上に戻っていった。殊に彼をおどろかせたのは地方から出席した友人達でその大半が鬼貫よりも十歳あるいはそれ以上にふけ込んでいることだった。さらによく考えてみると、年寄りくさくなっているのは自家営業のものに多いことに気がついた。同じように地方にいても、官公吏をやっている連中は、それほどふけてはいない。
四ツ谷駅を出たときに何気なく前を見ると、あいた席に三人連れの四十男が坐って陽気に談笑していた。旧友のことに気をとられた鬼貫には、彼等がいつどの駅から乗ってきたのか解らない。彼等もまた新年宴会の帰りなのか、赤い顔をてらてらと光らせていた。
鬼貫はすぐに目をそらせると新聞を折り返して、あらためて読み始めようとした。だが彼の視線を強引にもとに戻したのは、そのなかの一人が左手の薬指にはめている金の指輪であった。いや指輪自体ではなく、そこに刻まれた金色にかがやく人物の顔である。
先方の男はその手をオーバーの上にのせ、顔を横によじって雑談に夢中になっているので、鬼貫は咎められることもなしに、指輪の像を観察できた。どうやらそれは、大きさといい輪郭といい、櫟林のなかの屍体のかたわらに落ちていたレリーフに酷似しているようであった。鬼貫は視力には自信を持っている。そのいい目で見たところ、同じデザインだと断定しても間違いではなさそうであった。本部では、あのレリーフは事件に無関係な第三者が落としたものとみている。だから鬼貫が興味を感じたのは、主としてその像が何者かということだった。捜査会議の席では異論百出でついに結論をみるにいたらなかったのだけれど、登山家だろうか、それとも音楽家だろうか……。
指輪を手にとってとっくりと眺めてみたいとは思ったが、見も知らぬ紳士に言葉をかけるのは不躾にすぎた行為だろう。そうしたことをとつおいつ考えているうちに、電車は吉祥寺駅で停り、三人のうちの一人が元気のいい挨拶をかわして降りていった。つぎの三鷹駅では当人が下車しないとも限らないのである。それを思うと鬼貫は気が気ではなかった。
三鷹、武蔵境ではどちらも降りず、二人の間の話は途切れることがなかった。どちらもアルコールが入っているせいか、よく声をたてて笑っている。つぎの東小金井では当の指輪の紳士がせかせかと立ち上がり、まだ話し足りないといった面持で、手を振って別れていった。これで指輪についての手懸りが失せたことを思うと、鬼貫はかるい後悔を感じぬわけにはいかなかった。
武蔵小金井駅をすぎ、つぎの国分寺駅では鬼貫自身が降りなくてはならない。駅が近くなり電車が速度をおとしたとき、立ち上った鬼貫は意を決して前の座席の客に声をかけた。彼が友人であるならば、先の紳士の指輪についても知っているに違いなかろう、と思ったからである。
「え? ああ、彼の指輪ですか。あれは推理作家協会の会員がはめる指輪なんです。わたしは編集者ですから会員ではありませんが。浮き彫りになっているのはドイルの顔ですよ」
そこまで訊いたときに電車はフォームに入って静かに停車した。扉が音をたてて勢いよく開き、鬼貫はそれ以上くわしい話を聞くことができずに降りなければならなかった。コナン・ドイルがイギリスの推理作家であり医師である程度のことは知っているが、そのドイルがどんな顔をしていたかという点になると、記憶がさだかではない。
翌朝出勤した彼は丹那を呼び、問題のレリーフを持って来させた。それが昨夜の指輪についていたレリーフに似ていることは事実だが、果して同じものかという点になると、断定する自信はないのである。彼はそのレリーフを持って図書室にいくとホウムズ全集を借り出して、口絵の写真と浮き彫りの肖像とを見比べ、それが間違いなくドイルであることを確認した。
部屋にもどった鬼貫は丹那を呼んで、肖像の正体が判明したことを伝えた。
「ドイルだとは気づかなかったね」
「なるほどねえ、これがドイル先生ですか。シャーロック・ホウムズの話は聞いてますが、作者がこんな顔をしている人間だということは、初めて知りました」
その刑事はホウムズ物が嫌いだった。ドイルの作品には間抜けな刑事ばかりが登場してくるので、本職の刑事としてはいい気持がしないからだ。
「ところでこの像がドイルであることがはっきりすると、どうなるんですか」
「そいつはまだ解らないさ。ただこれがアルピニストのバッジだとか音楽マニヤのバッジだったらどうということもない。だが推理作家の指輪から脱落したものだとすると、話はべつだ」
「……?」
「犯人は屍体を三重県から運搬するにあたって、おそらく自分の車を利用したのだろうが、さてその屍体を車から抱え出して櫟林のなかへ運び込もうとした際に、無理な恰好をしたものだから、指輪に何かがひっかかってレリーフを落としてしまったのではないだろうか。こんなふうにぼくは考えてみたのだよ」
「すると犯人は推理作家協会の会員であって、坂下護ではないといわれるのですか」
「そうとは限るまいよ。坂下もまた会員であり指輪を持っており、レリーフは彼の指輪から落ちたのだ、というケースもあり得るからね。あるいはまた、坂下が特定または不特定多数の推理作家に嫌疑を転嫁する目的で、あらかじめ用意しておいたレリーフを現場に遺棄した、という想定もできるからね」
「用意しておいたといいますと?」
「つまりさ、会員AもしくはA、B、C、Dに嫌疑をかける目的で、前以って、会員Qの指輪を盗んでおいたという場合さ。林のなかに落ちていたレリーフは、Qの指輪からはがしておいたものということになる」
「解りました。で、犯人がカメラマンの坂下ではなくて、推理作家の某であるという可能性がでた以上は、その線を追及しなくてはなりませんね?」
「そうなる。そこで、さしあたって推理作家協会を尋ねてくれないか。このレリーフを持っていって、これが協会員の指輪に相違ないという確認をとってもらいたいのだよ」
「それだけですか」
「協会員の指輪から脱落したものであることが明らかになれば、誰の指輪から落ちたかということをチェックする必要がでてくる。そこで会員の名簿を頒《わ》けてもらうなり、名簿が非売品の場合はノートに写してくるなり、その場に応じて適当にやるんだな」
「はあ」
「今日は時間がないからそれ以上のことは無理だろう。現にレリーフがここにあるからには、誰かの指輪が疵物になっていることは事実なんだ。その指輪の所持者が判れば事件の調査は一歩あるいは数歩前進するのだが、今日はとりあえず名簿のほうを頼むよ」
「はあ」
丹那は渡された金の像を大切そうにハンカチにくるみ、ポケットにおさめた。
机に戻って電話帳で探してみると、推理作家協会の所在は文京区音羽、講談社別館としてある。彼は早速ダイアルを廻わして、これから訪問したい旨を伝えておいた。
受付で別館のあり場所を教えてもらい、丹那は、社屋の裏を走っているハイウェイの下をくぐりぬけて、向う側の高台にのぼった。別館は古びてこそいるが、以前は個人の邸ででもあったのだろうか、三階建ての堂々たる洋館だった。丹那は裏口にまわって短靴をぬぎ、それをロッカーに入れると、スリッパにはき替えてうす暗い廊下を歩いた。
内部は外側と同様に洋風で、通路の両側の壁にクルミ色をしたぶあつい扉が並んでいた。それぞれに番号が打ってあるのだが、別館の宏壮なつくりに気圧されてしまったためか、丹那は受付で教わったルームナンバーを忘れてしまい、どれが訪ねる事務局であるのか見当がつかなかった。多分ここだろうと思ってノブをひねると、なかでは出版社の婦人社員がとりすました顔でお茶の稽古をしていたりした。その度に丹那は身をちぢめ、失礼と小声で謝らなくてはならないのであった。
ようやくのことで訪ね当てた事務局は、二階にあった。
「推理作家協会事務局」という札をかかげたその部屋は六畳ほどの洋室で、正面にクーラーをはめ込んだ壁と窓とがあり、左手に二つのロッカー、右側の壁には大きな書棚が立っている。それとなく目をやると、ガラス越しに推理小説の寄贈本らしいのや、推理雑誌のバックナンバーの類いが並べてあった。事務員は中央の二つの机に向き合って坐り、彼女等の前には宛名印刷器や複写器が並べられていた。それ等の様子を、熟練した刑事である丹那は、一瞥のうちに見てとってしまった。
「さっき電話をしたものですが」
「お待ちしておりました」
二人の事務員が同時に答えた。どちらもわかい美人で、一日中こんな部屋のなかに閉じ込めておくのが気の毒な気がした。
「早速ですがこの肖像をみて頂きたいのです。見覚えがありますかな?」
二人の女性はそれを交互に掌にのせると、じっと眺め入った。ちょっと緊張した思いで丹那は返事を待っていた。
「間違いないわね」
「そうだわね」
二人で囁き合ってから、大柄の美人のほうが、指輪についているドイルの像から判断して、協会で製作頒布したものに相違ないことを答えた。花のプリント模様がよく似合う明るい女性である。
「全会員が持っているのですか」
代って小柄の美人が説明をしてくれた。
「希望者だけが注文したように聞いていますわ。推理作家協会が法人組織になる以前は、探偵作家クラブという名称の集団だったんです。その頃、皆でドイルの肖像のついた指輪をはめようといった発案がありまして、お揃いのものを造ったのだそうです。あたし達は推理作家協会になってからお勤めしたものですから、それ以前のことは知りませんけど……」
状況がかなりはっきりしてきたので、刑事は身をのりだした。
「くわしい事情を知っている人はいませんか」
「講談社と光文社の間にスバルという出版社があります。指輪のことならそこの『月刊推理』の編集長さんがよくご存知の筈ですわ。ときどきここに遊びにみえるんですけど、今日は忙しいとみえてまだ……」
「わかい女性とお喋りすると若返るんですって」
「つまり、ホルモン療法のかわりなんです」
彼女等はそういってくすくすと笑った。
「なかなか立派な建物ですな。部屋数もかなりあるでしょう」
わかい娘とお喋りをする機会なんて滅多にないから、この機会にうんと話をしてやろうというさもしい魂胆でもあった。できれば自分もホルモンとやらを吸収して帰りたい。
「戦前の財閥一族のお邸だったんですって。お勤めして二年になりますけど、あたしにはまだ全体の様子が解らないんです、大きすぎて……。でも、ここにひと月ばかり缶詰になっていたある推理作家の話では、座敷牢みたいなお部屋があって、それを天井裏から監視できるようになっているんですって。その先生は退屈しのぎに、夜になるとお邸中を探険して歩いたんです。天井の上にのぼったりして……」
「屋根裏の散歩者ってわけですな」
と、刑事はわれながら感心するような発言をした。
「このお部屋も手狭《てぜま》になりましたわ。別館も汚くなったし、いちいちスリッパにはき替えるのも面倒ですわ。だからどこかに移転しようという案も出ているんです」
小柄の女性はそこで不意に話題を変えた。
「刑事さんでも推理小説を読まれるのですか」
「どうして?」
「だって≪屋根裏の散歩者≫っておっしゃったでしょ」
「そう、昔はよく読みました、探偵小説と呼ばれていた時代にね。≪股から覗く≫なんて短編も覚えてます」
「あの、刑事さんはウィスキーとお薄と、どちらがいいでしょうか」
大柄のほうに出し抜けに訊かれてまごついた。
「ウィスキーは大好きです」
「ではハイボールをこさえますわね」
「え?」
「作家協会のパーティのときに、各出版社からウィスキーやビールの寄贈がありますでしょ。そのときの余った分が何本かとってあるんですの。ですから、とっておきのお客さんにはサービス致しますのよ」
「いや、そ、それは有難いが勤務中ですから」
「それじゃお薄?」
「いえ、ご好意だけで充分です」
「よろしいのよ、ご遠慮なさらなくても」
小柄の女性が引き出しから抹茶の入った缶を取り出し、茶器の用意をはじめると、もう一人は老舗から発売されている薄墨羊羹を厚切りにして、小皿にのせフォークをそえてくれた。
「これも出版社からの頂き物ですわ」
「旨そうな羊羹ですな。この淡い墨色がいい。西洋の菓子がけばけばしく飾り立てるのに対して、これは東洋的です。一切の虚飾を排してヌードで勝負をしようとしている……」
脱線しそうになったことに気づくと、口をつぐんで慌てて茶をふくんだ。正直のところ、こんな旨くもない抹茶をなぜ勿体ぶって飲まなくてはならないのか、風流っ気のない刑事にはその辺の理由が解らない。
「この器は何ですか。古九谷でもないようだし……」
どこかで聞き囓ったとおりに茶器をほめた。まさかこんな場所に古九谷のあるわけがないが、そこは飛び切りのお世辞である。しかし手に持った感じは重からず軽からず、厚すぎもせず薄すぎもしない。つややかに光る黒い肌もなかなか美事であった。
「益子焼ですわ。信州の駅弁の容器を利用したんですの」
「素晴しいアイディアだ」
「使い捨てなんて流行遅れなんですのよ」
と、茶筅の雫をきりながら、彼女は得意そうに目をほそめた。
「ところで、指輪を注文した会員の名前は判っているでしょうか」
「それは担当者に訊けば名簿があると思います。ご入要なら後で問い合わせてみますけど」
「お手数をかけますが、是非……」
丹那は冴えないしなびた顔に、精一杯の愛想笑いを浮べてみせた。
「さっきのお話になりますけど、≪股から覗く≫って妙な題ですのね」
と、大柄の女性が訊いた。
「天の橋立にいって股覗きをした青年がそれ以来さかさまの風景に魅せられて、やたらに股覗きをする習慣が身についてしまうんです。その青年が鉄橋をわたっていると向うから貨物列車が進行してくるんですが、後ろをむいたので逃げ出すのかと思うと、彼はまたぞろ股覗きを始めて事故死をとげるんです。そういう風変りな青年と医学研究所員の間の殺人事件を絡み合わせた話でね、いまもって深く印象に残っていますよ。ただ、結末の部分が何度読んでも解らなくて頭を抱えたものでした。わたしが探偵小説から離れていったのはこれがきっかけではなかったかな。この種の小説は頭が悪いものには向かないと思ってね、あきらめたんです」
「頭がわるいだなんて……」
と一人が慰めてくれ、もう一人がなにを考えたのかくすくす笑った。
「いまの≪股から覗く≫で思い出したんですけど、あのハイウェイは各出版社の三階の窓に沿って走っているんです。そこがお手洗いの窓なものですから、何となく覗かれているみたいで気持が悪いんですって。車のほうは高速で走ってますから何も見えやしないんですけど、出版社の人からみるとつい被害者意識がでてきちゃうんですのね」
そうした話をかわしている間にも、目の下のハイウェイの上をひっきりなしに車が走りつづけていた。
「あれができる以前は静かで、音羽一帯はとてもいい場所だったんです」
小柄の女子事務員が独語するように呟いた。
スバル書房の受付に坐っているのは五十ちかいでっぷりと肥った婦人で、見るからにたのもしく、この出版社を独りで背負っているような印象をうけた。
丹那が意を告げるとすぐにダイアルを廻わして先方に伝えて、都合を訊ねてくれた。
「恐れ入りますがそこのエレベーターで三階に昇って下さいまし。編集長の高田がお待ちしております」
「ありがとう」
スチールエレベーターにのって三階でおりると、長身の年輩の男が待っていて、編集長の高田だと自己紹介をし、窓際にならべられたイスに招じてくれた。二つのテーブルにイスを配して、テーブルの間を衝立《ついたて》で仕切ったという簡易な応接室だが、採光がいいのと鉢植えの植物の緑がうつくしいのとで、坐り心地はわるくなかった。高田はすぐ横の自動販売機に小銭を入れると、紙コップに珈琲を注いで持ってきた。
「で、ご用というのは何ですか」
先程の女の子とおなじような切り出し方をした。彼女達が浮きうきした早口だったのに比べて、高田はひどく落ち着いた口調であった。
「いま推理作家協会を訪ねたところが、あなたならご存知だろうからと教えられましてね」
前回と同じようにレリーフを見せて会員指輪に相違ないことを確認させてから、それについての精しい話を聞かせてくれるように頼んだ。
「いいですとも。わたし自身が昔からの会員ですから、少しは事情に通じています。ちょっとくどくなるかもしれませんが、呑み込みいいように、そもそもの始まりからお話しましょう」
思いのほかに協力的な口吻であった。先頃、ある左翼の出版社を訪ねたときにけんもホロロの扱いをされたことがあり、丹那は、おしなべて出版社というのは無礼で傲慢な人間の集団だと思っていたのである。
「戦時中、軍の圧迫をうけていた探偵小説が、終戦とともに息を吹き返したことはご承知だと思います。その頃、プロの探偵作家とアマチュアの愛好家とが寄り集ってつくったのが『土曜会』でして、会員のなかにはまだ疎開先から東京に帰ることができずに、地方で創作活動をしておられた先生方も、何人か数えられました」
ゆっくりと珈琲を味わうと、編集長はふたたび話をつづけた。
「それから何年かたちますと、関西の探偵作家クラブと合併することになる、会員の数もふくれ上がる。会の名称も『土曜会』から『探偵作家クラブ』に変っていきます。そうした時分に、メンバーの間で誰からともなく、会員が会合に出席するときはお揃いのネクタイとか指輪をしようではないか、という案がでました。わたしはその件にはタッチしていませんから正確な事情はお話することができませんけど、とどのつまりは、ドイルの浮き彫りの像をはめ込んだ指輪をつくろうじゃないか、ということに決ったのです。勿論、なかには指輪なんてキザなものは真っ平だという会員もいます。そこで結局、希望者だけに頒布《はんぷ》するということになったわけですが、たしか金製と銀製の二種類があったように覚えてますな。わたしは注文しなかったほうの一人ですから、その辺になると記憶がうすいのは止むを得ませんが」
要点を手帖にメモしながら、目で先をうながした。高田は珈琲で喉をうるおしておいて更に話の先をつづけた。
「晩年の江戸川さんが乱歩賞を創設されたのですが、基金を供託するに当ってちょっと心配をされた。というのはその三、四年前に会の金が使い込まれるという不祥事があったからです。で、基金を個人の自由にならぬよう然るべき監督下におきたいということから、財団法人『推理作家協会』の設立がみられたわけです。何分にもわたしは直接にタッチしたわけではありませんのでよく知りませんが、財団法人の設立を申請してそれが認可されるまでの手数はなかなか煩雑なものだそうで、関係者の苦労は並み大抵ではなかったようです。ともかく、その努力が実って協会が発足しました」
法人組織に改めることがそれほど面倒だとは、話を聞くまで丹那も知らなかったのである。
「しかしこれは職能団体みたいな性格が濃くて、往年の同好者の集りのような仲間うちの会とは違います。早い話が、月に一回開かれていた土曜会もなくなりました。あの頃は食事の後で警視庁の幹部の話を聞いたり、奇術の名人の実演をみたり、じつに楽しい会でしたがね。月に一回発行される会報には江戸川、大下、木々氏がかならず原稿を書かれたものですが、協会に改組されてからというものは、今日にいたるまでただの一度も寄稿しない作家が何人もいる有様です。一切がこんなふうにがらりと変ってしまいました。ですから、お揃いのデザインの指輪をはめて会に出席しようというようなインチメイトな雰囲気も消えてゆきました。いまのわかい会員のなかには、指輪なんて見たことも聞いたこともないのが多いんじゃないかと思いますな」
「すると」
と、丹那は素早く頭のなかで彼の話をダイジェストしてみた。
「指輪の持主は『探偵作家クラブ』時代の会員に限るわけですか」
「まあそうでしょう」
「まあとおっしゃるわけは……?」
「協会組織になった後でも、つまり現在でも注文すれば手に入るからです」
「その指輪を注文した人は全部で何人ぐらいになりましょうね?」
「電話で訊いてみましょう。簡単に解ります」
「できれば注文者の名前も知りたいのですが」
と、丹那は虫のいいことをいった。
「それはすぐには解るまいと思いますが、いちおう訊ねてみます」
彼は嫌な顔もみせずに立ち上ると、廊下の角を曲って見えなくなった。話の内容と刑事の熱心な態度とから、編集長も事情の重大性に気づいたようであった。丹那刑事は紙コップをからにしてしまうとタバコに火をつけ、音羽通りを見おろした。昔、まだ都電が走っている頃に用があって大塚署を訪ねたことがあったけれど、その時分はお茶を飲みたくとも近辺に喫茶店がなかった。それがいまは珈琲店とすし屋、中華料理店などが軒を並べており、大塚署は十階にちかいマンションを思わせる建築物になっているのである。警察署が高層化したことはべつとして、飲食店が林立したのは出版社がふえたせいに違いあるまい。
彼が一服している間にもエレベーターが停まり、ワイシャツ姿の編集者だのベレを被った文士らしい男などが吐き出されては、廊下を曲って編集室のほうに消えていった。彼等の靴音が聞えなくなると、あたりは静まり返ってしまう。
一本のタバコを灰にして、二本目を吸おうか吸うまいかと思案しているところに、高田が戻ってきた。片手にメモらしき白紙を持っている。
「お待たせしました。お訊ねの指輪をオーダーした人の数は現在で一二九名だそうです。内側に一個毎にナンバーが打ってありまして、一番から一二三番まではずっとつづいています。ですが、一二四番から後はとびとびになっているそうで、売れたのは一二七、一二八、二二一、二三五、五〇〇、それに八八八番です。なぜこんな番号を指定したのでしょうね。当人にとっては重要な意味があるに違いないですが」
「しかし八八八番とはおめでたいナンバーですな。ジンクスに敏感な人だとみえる」
冗談をいいかけた刑事はそこでふっと生真面目な顔にもどった。
「一番から一二三番まで欠番なしというお話ですが、だからといって一二三人が注文したことにはならないでしょう? 縁起のわるい番号は敬遠されるでしょうから」
「そう、世間一般ではそうでしょう。ところがね、推理作家は当然のことですが合理主義者が揃っていますから、四番があっという間に売れてしまって、口惜しがった会員は九番だとか一三番、四二番に四四番、四九番に殺到したものです。勿論そこにはいくばくかの稚気も混っていたでしょうけど、特に本格物の作家にとってはこの稚気というものが大切でしてね。これを失った人の作品は乾燥したつまらぬ内容になり勝ちです」
稚気がなぜ大切だというのか具体的なことはよく呑み込めなかったが、さし当って呑み込む必要もなさそうに思えたので、敢えて質問することはひかえておいた。
「それから、購入者の名前は名簿を照合してから、おって事務局をつうじてお知らせするとのことです」
「それはどうも。ご迷惑をおかけしました」
手帖を閉じながら丹那は叩頭《こうとう》した。
金製の指輪をオーダーしたものの氏名は、その翌日、協会の書記をつうじて、電話で知らされた。丹那はボールペンを握ると手近のメモをひろげ、受話器から伝ってくる名前を写していった。当然のことだが大半は推理作家である。しかし残余の人は愛好家とでもいうのだろうか、推理小説が好きで入会したとおぼしき連中で、したがって職業も教師あり医師あり法曹あり、自家営業に主婦業まであるといった多士済々《せいせい》な内容であった。
調査はこの名簿にもとづいて再開されるのだが、坂下護が犯人だとみなされて捜査本部が解散された現状では、それを再検討するような動きが表面にでることは好ましくない。したがってこの段階における鬼貫の捜査はごく内密に行うこととなり、専従する刑事も丹那のほかに三人を加えるのみだった。
さてその指輪だが、所持する会員は必ずしも東京在住というわけではなく、その範囲は北海道から九州に及んでいる。それを限られたメンバーで洗って歩くのは時間的にも経済的にも無理があるので、それぞれの土地の警察に協力をねがうことにした。
東京側の担当者はその日から、リストに記載された人名と住所とをたよりに一人ずつチェックしていくという作業にとりかかった。会員の八割以上は作家であり、そのまた八割以上が午後になって起き出すという夜型であったので、刑事もそれにペースを合わせなくてはならない。四人の刑事は午前中はなんとなく手持ち無沙汰の様子だったが、昼食をすませると途端に活気づいて出ていくのであった。
とはいうものの、作家はほとんどが自宅を仕事場としているものだから、その場で用がすむという便利さがあった。なかには訪ねていった先がマンションの仕事部屋であり、そこから改めて自宅へ廻わって指輪の存在とナンバーを確認するという二重の手間がかかることもないではなかったけれど、概して速戦即決といった進捗ぶりをみせていた。
作家のなかにはつむじ曲りが多いことと思っていたが、推理小説家はおおむね常識円満な紳士がそろっており、手を焼かされることは少なかった。それでも数ある作家のなかには警察に敵意をみせて協力を拒否するケースもないではなく、しかし、いずれの場合も夫人のとりなしで結局は指輪を見せてもらうことができた。また、それとは逆に豆を碾《ひ》いて珈琲を飲ませ、労をねぎらってくれる作家もいた。
また鎌倉に住む作家は刑事に会うのはこれが初めての経験だといい、宇宙人でも眺めるような目付で頭から足の先までしげしげと見詰め、往訪者にくすぐったい思いをさせた。その作家は、刑事といえばドタ靴をはいているものという先入観があったらしく、捜査官の上等の短靴に目をやると、桃色の象を発見したときの動物学者みたいにひどく驚いた表情になった。つづいて刑事のサラリイに興味を示したり勤務状態をあれこれと訊ねたりした後で、やっとのことで指輪を見せてくれた。
会員のなかには何人かの物故作家もいた。平素あまり推理小説を読むことのない刑事は、訪ねていった先で初めてその作家が故人となっていることを知るといった次第であった。その度に刑事は柄にもなく人の命のはかなさを思って考え込んでしまい、重たい足取りでつぎの訪問先へ向った。
刑事の一人は、SF作家の音羽徹を訪ねたときに初めて手応えを得、思わず緊張に表情をかたくした。昨日スタートを切ってから七人目のことである。刑事はSFというものにも関心がなかったから、音羽のSF界における地位というものを知ることはなかったが、なかなかの流行作家とみえ、とおされた仕事部屋の壁には、雑誌社の名と締切日、枚数を朱書した紙切れが、二、三十枚ちかく貼りつけてあった。彼は無為な時間を惜しむかのように、早口で喋りまくった。
「落としたんだよ、あれは最初からゆるかったんだな。だから、するりと抜け落ちてしまったらしいんだ。そのせいか落としたことに全然気がつかなかった。ある日、おやっ、指輪がねえぞってことになったわけだがね。気がついたのは失くして何日もすぎてからだ。いつ落としたかと訊かれても、記憶が曖昧になってて、まるきり見当がつかないな」
彼は、刑事がなぜ尋ねてきたかということはまるきり意に介する様子もなく、気取ったポーズで外国タバコをふかしていた。
指輪を持っていないことは容疑者たり得る強力な条件である。刑事の報告を受けた当局側は二人の捜査員を投入して、被害者である小日向と音羽との間の利害関係、反目の事情、それぞれの交友関係から両人の支持政党にいたるまで徹底的に洗い上げたが、動機となるものを発見することはできなかった。
このSF作家がシロであることを確定的なものとしたのは、犯行当時のアリバイが成立したからである。数年前のことになるけれど、ニューギニアのポートモレスビーを中心として未確認飛行物体が頻繁《ひんぱん》に出現しており、なかには円盤上の宇宙人が手を振っているのを見たという目撃者まで出た。この事件を取材する目的で、音羽が週刊誌の記者とともに現地に滞在していたことが、当の編集者と、原住民との通訳にあたったイェズス教会の神父によって証言されたのであった。こうしてSF作家の黒い疑惑は、アンドロメダ星雲の彼方までふっ飛んでしまった。
指輪不所持の第二号は、音羽徹のシロクロがまだはっきりしないうちに登場した。挿絵画家として知られた林金助がそれである。四十八歳、脂がのりきった画家だというから見るからにアクの強そうな男を想像していた刑事は、玄関にあらわれた画家をみて期待を裏切られた。当人はほっそりと瘠せた顔色のわるい中年男で、反射的にその刑事は、軟白したアスパラガスを連想した。
刑事が指輪をみせて頂けないかと丁重な口吻で告げると、途端にとがった顔に狼狽の色をうかべ、ちぎれそうに首を振った。
「知らんです、指輪なんて知らん。それ、なにかの間違いじゃないですか」
「注文者の名簿にちゃんと林金助画伯の名が載っているんです。あなたは銀ではなしに金のほうを注文しておいでですな。ナンバーも判っています。それでも知らないとおっしゃるのですか」
「知らないものは知らんです」
興奮したせいか声が甲高くなった。
刑事につっ込まれた画家がへどもどしている処に、何事かという様子で夫人がでてきた。化粧をしているから若くみえるけれど、ひょっとするととうに四十を越しているかもしれない。
「持っていらっしゃったじゃありませんの、あなた」
「それはお前の思い違い――」
「思い違いはあなたのほうじゃありませんの、あなた」
詰問するのではなく、夫の度忘れを訂正してやろうという優しい口調であった。熟練した小児科の看護婦が嬰児をあやしているようでもある。
画家はちらりと刑事を見、相手が自分に視線を注いでいることに気づくと、また狼狽して目をそらせた。
「この間、仕事部屋のお掃除をしたときに見掛けましたわよ、あなた」
「そ、そうだったかな」
とぼけている。そして照れ臭さをごまかすように、額にたれたひと握りの髪をしきりに掻き上げていた。
「しっかりして頂戴、あなた。いまからそんなじゃ心細くなるわ。今年は千九百何年だか覚えていらして?」
「馬鹿、お前だってしょっちゅう度忘れをするじゃないか」
「そんなにお憤りにならないで、あなた。指輪、あたくしが探して参りますわ」
夫人が奥へ引っ込んでいくと、画家はあらたまった表情で刑事をみた。
「じつを申しますとわたしは養子でしてね、養子の多くに共通した心理として、女房がどうもけむたいのです。ましてわたしの場合は、雑誌社から注文がくるようになるまで女房の持参金で喰いつないでいたような有様ですから、なおさらのことですよ。よそのご亭主のように奥さんをぶん撲るなんてことはただの一度もやったことはありません」
「それが夫婦円満の秘訣というものですよ」
刑事は話を合わせた。しかし胸中では、細君を撲ったことのないというこの画家が、別世界の人間のように思えたのである。夫婦喧嘩をしたとき亭主は女房をひっぱたく、女房は皿をたたき割る。そうすることによって怒りが発散し、健康な結婚生活が維持されるのではないか。
「わたしは仕事をすませるとバーへいきます。酒を一滴もたしなまないわたしがバーへいくのは、ホステスを相手に、女房と一緒のときは到底いえないようなことを、なんの遠慮もなしにずけずけと喋るためです。つまり、そうすることでストレスを解消しているんです」
「…………」
「ところが馴染みのホステスから指輪を褒められたものですから、欲しけりゃやるよといった。その冗談を本気に受け取られて、とどのつまりは指輪をやる羽目になりました。わたしの指はご覧のように華奢《きやしや》ですので、彼女の指にもぴったりと合ったわけです。それが真相なのです。ただ、そんなことを女房に知られたらどえらい騒ぎが起るような予感がする。一見童女風な彼女ですが、それだけに腹を立てるとおそろしい。といっても、まさか寝首を掻かれることはないと思います。ないとは思いますけれど、刑事さんも職業柄よくご存知のように、亭主殺しの犯人は百パーセントその女房なんですからね」
「全く」
どこかに落し穴が仕掛けられているような論理だと思ったものの、なんとなく刑事は納得して頷いた。
「わたしの喋ったことは、そのホステスにお訊きになれば忽ちご了解頂ける筈です。だから女房の前では口裏を合わせておいて下さい。たのみます」
刑事が首をたてに振ったところに夫人が戻ってきて、心当りを探したが発見できないと告げた。
「こちらはね、出版社からみえたお方であの指輪をグラビアにだしたいといっておられる」
あらためてそう紹介しておいて、おもむろに刑事をふり返った。
「ご覧のような事情で……」
「いえ結構です。指輪はほかの作家先生をあたって拝借しますから」
と刑事は画家に調子を合わせた。
「お前、お茶をいれてきなさい」
「失礼申し上げました。うっかり致しまして……」
体よく妻を追っ払っておくと、林金助画伯は声をひそめた。
「わたしの指輪がどうかしましたか」
「まだ公表する段階ではありません。しかし、もしそのホステスが持っていないと、ちょっと面倒なことになります」
やんわりと脅して反応をみたが、案に相違して画家はにこにこしていた。
「指輪は間違いなく彼女が持っています。それじゃ刑事さん、いそいでメモをとって下さい。ホステスのマンションの電話番号は……」
指輪不所持の第三号はその翌日、べつな刑事によって発見された。挿絵画家の指輪が、当人のいうとおりにホステスの部屋にあることが判明した後でもあったので、その刑事は胸をはずませた。
第三号は随筆家の湯島|貂人《てんじん》で、かつてはアルピニストとして知られた登山家でもある。その貂人という奇妙なペンネームは、エベレストに挑んだときに協力してくれた地元の山男テンジンに因《ちな》んだものであった。また一説によると貂の毛ざわりを愛し、ジャンパーの衿にもチョッキの裏側にも貂の毛皮をつけているので貂人という筆名が生じたのだそうだが、刑事にとってはその由来などどうでもよかった。問題は、指輪紛失のいきさつにある。
「盗難に遭ったんです。わたしは山男だからね、人を疑ったり警戒するようなこせこせした真似はせん。だから堂々とここのテーブルの上にのっけといたら、いつの間にか失くなっておったです」
「いつのことです?」
「二年ぐらい前になるかな」
山男は、頬から顎にかけて雑草みたいに生えている濃いヒゲをなでながら、余裕のある口調で答えた。眉が太く、その太い眉の下に小さな目がついている。そしてその小さな黒い目は、刑事との問答を楽しむようにきらきらと輝いてみえた。
「もう一個つくって貰おうと思って協会の事務局に問い合わせたことがあったですが、つい面倒くさくてそれきりになっています」
「盗難届を出してくれましたか」
「まさか。だって空巣に入られたわけじゃないんですよ。うちで仲間を呼んで呑んだときのことなんです。お客さんを疑ぐるなんてことはできやせん。しかもダイヤの指輪ででもあれば悪意があって盗んだことは明白だが、あれは会員章みたいなもんですからね、値段はたかが知れてる。持っていったのは好奇心からなのです。悪気はないんだ。その気持が解っているのに訴えることができますか」
「招待したお客の名を覚えているでしょうな」
「覚えてはいるが教えるのはお断わりです。理由はいまいったとおりでね」
そう拒否されてみると、パーティで盗まれたというのが事実かどうか、疑りたくなってくる。
「昨年の十月五日の午後のことですが、あなたは何処においででした?」
「冗談じゃない、そんなつまらんことを覚えているものですか。ぼくは未来に目をむけることを信条としている男です。だから日記というものをつけたことがない。過去のことは一切これを忘れる主義でしてね」
「しかしね、思い出して貰えないと……」
「思い出さないと、どうなるというんですかね?」
山男はなおも訊問されることを楽しんでいるように、愉快そうに反問した。
「わたしが困るんです。ついでにあなたも困る。世間から妙な目でみられるのは気持のいいものじゃないでしょう」
「解らんですな。なぜ変な目でみられなくちゃならないんです?」
「説明していると長くなりますが、仕事の邪魔になってはいけないと思いましてね」
「時間はいくらでもあるんです。春の山開きまでは冬眠しているようなものだから」
山小屋風のこの家は、貂人が冬眠をするにふさわしく木造の質素なもので、昨今の表現を用いれば、1DKにトイレがついたものでしかなかった。刑事はそのダイニングキチンで主《あるじ》と向い合っているのだが、ここも余分の装飾はなにもなく、食器棚に並んだ食器類にしても、コッフェルや凸凹に疵ついたアルミのコップばかり、一般家庭の炊事場で見かける鍋釜のたぐいはなかった。
四十のなかばになるというのに、彼には妻もなければ子供もいない。登山家はつねに死と直面しているのだから、遺族を嘆かせぬために、独身であるべきだというのがその主張なのだそうだ。
独り身の彼は、山にいるときと同じように登山ナイフで野菜や肉を刻んで、不器用に料理をつくるのだった。その、山男が自分でいれてくれた珈琲が刑事の前で湯気をたてている。禿げちょろの金属容器だが、磨きぬかれて清潔感に充ちていた。
その珈琲を飲みながら、櫟林の現場にドイルのレリーフが落ちていた話を語って聞かせた。
「そういう事情があればぼくが疑われても止むを得ないですな。しかし、いまもいったとおり日記をつけていないものだから、思い出せといわれてもねえ」
ヒゲに指を突っ込んでじゃりじゃりと掻きながら目を宙に向けて考えるふうだったが、やがて吐息をして首をふった。
「やはり無理ですな。元来が記憶力のいいたちじゃない」
「では、こういえば思い出せるのではないでしょうか。十月五日というのは、新橋のホテルで推理作家協会の授賞式があった翌日なんです。式には出席されたのでしょう?」
「ええ、パーティは好きだから。平素は顔を合わせるチャンスのない推理作家と談笑する機会は、そういうときでなくてはないですから。……その翌日ねえ」
小首をかしげ、真剣な顔つきでちぢれた頬ヒゲをなでている。むさくるしい男だなあ、と丹那は思う。ひと思いに剃ってしまったらさっぱりするだろうに……。
「そうだ、思い出したですよ。あの晩はパーティを早目に切り上げて帰りました。というのは翌日が原稿の締切りだったから。バーにも寄らずに帰ると、半徹夜で書き上げましたね」
「すると、翌る五日には原稿を届けにいかれたわけですか」
「いえ、取りにきて貰いました。寝たのが暁方ですから、目が覚めたのは五日の午後一時頃です。すぐに電話をして、脱稿したから取りにくるようにと伝えたんです。本郷君というわかい編集者がわたしの担当なんですが、その本郷君がきました」
多くの場合に、編集者は理想的な証人となる。彼等は例外なく手帖を持っており、対作家との折衝は洩れなく記入する習慣があるからだ。彼等は誰にどんな原稿を依頼したかということから、枚数、締切り日、原稿受け渡しの場所、督促の電話をかける日までを丹念に書き込んでおく。彼等も複数の作家を受け持っている以上、そうでもしなければ失念して原稿を貰いそこねるおそれがあるからである。したがってこと執筆者に関するかぎり、手帖さえ保管してあれば、十年前のことでも容易に思い出すことができるのだ。
「原稿を取りにきたのは何時頃でした?」
「そこまでは記憶にありませんよ。しかしですね、夜は客に会わないことにしているし、徹夜した翌日は起きるのが正午過ぎと決ってます。それ等のことから考えると、本郷君に原稿を渡したのは五日の午後でしょうな。二時から五時頃にかけてだろうと思います」
「どこの出版社の人ですか」
「社は麹町にあります。わたしは作家ではないですから、原稿といっても山の話しか書きません。いや、書きませんじゃなくて書けませんというべきだな、正確にいうと」
なにが可笑しいのかくっくっと笑った。
「そういうわけでね、その訪問者というのは山岳雑誌の編集者なんです。本郷君といってまだ若い好青年ですよ」
刑事は出版社名を手帖にしるすと、それをポケットに戻しながら相手をみた。自分では意識しないが、こうしたときの彼の目はきびしいものになる。
「あなたのアリバイが成立した場合は、無断で指輪を持ち出したという、怪しからん人物が容疑者となります。したがって指輪が紛失した当時ここに招待されていたパーティのお客を調べる必要がでてくる。その辺の理屈はお解りいただけますな」
「それは解ります。しかし、ぼくが仲間を売りたくない気持も理解して貰いたいですな。そこで、こういうことにしてはどうです?」
ヒゲっつらをまともに刑事のほうに向けた。
「わたしはね、推理作家のなかには指輪を紛失したものはまだ他にもいるだろうと思うんですよ。彼等を調べて廻わってどれもがシロであることが明確になった場合に限って、改めておいで下さい。ぼくも協力を惜しみませんから」
そういうと、山男はなにか可笑しいのだろうか、冬眠中の動物らしくもない活気に充ちた笑い声をたてた。
刑事はその足で麹町へ向い、出版社を訪ねて本郷記者に面会を求めた。すでに貂人から連絡がいっていたらしく、彼は去年のくたびれた革表紙の手帖を手にして、入口の横の応接室に入ってきた。肩幅のひろいしなやかな体つきの男で、健康そうに陽やけのした顔ともどもに、見るからに山岳雑誌の編集者らしい雰囲気を持っていた。
「事実です。十月五日の午後三時に湯島先生を山小屋に訪問しています。山小屋というのはわれわれの間の呼び名でして、そう呼ばないとご機嫌がわるくなるんです」
「授賞パーティがあった翌日のことですよ」
と、刑事は念を押した。
「ええ。わたしのほうの会社は推理小説とは無関係ですので招待状もきませんし、出席もしません。ですが湯島先生はミステリイ好きで推理作家ともつき合いがおありですから、毎年お出になるんです。原稿を頂戴した日も、昨晩は楽しかったなどとパーティの話を聞かされました。会の後でバーに誘われたが、ことわって山小屋にこもると原稿書きをした、その埋め合わせにつき合え、などといわれたことを覚えていますがね」
本郷青年は人をそらさぬ愛想のいい口調で語った。こうして、湯島貂人のアリバイは苦もなく成立してしまったのである。
四人目の紛失者が見つかったのはその二日後であった。関口みず江、バーのマダム。刑事が目黒のスカイマンションを訪ねたのは午後の三時をかなり過ぎた頃であったが、彼女は洗面をすませ、クリンジングクリームを塗りたくった顔のままで、バターとジャムを塗ったトーストパンの朝食をとっていた。テーブルには苺、桃というありきたりのものから、ブドウ、イチジク、バラ、バナナ、パイナップルといったジャムの瓶が並べてあり、ひとさじずつ違った香りのジャムを楽しそうに喰べていくのだった。その辺のサラリーマンの朝食よりもはるかにデラックスだ、と刑事は目をみはって眺めた。
「こんな商売してるとね、喰べることぐらいしか楽しみはないのよ。だからといって油断すればあっという間《ま》に肥っちゃうでしょ、だから困るの」
初対面の刑事に珈琲を振舞いながら、あけすけにそんなことを喋った。四十を二つ三つ越えているだろうか、顎は二重になりかけているが、どうして残りの色香はたっぷりとあった。若い刑事の目に、赤いキルティングガウンは刺激的でありすぎた。
「用があるんなら十分以内にすませて頂戴。近頃の女の子は図々しくて仕様がないんだから。あたしがちょっと遅れていくと、すぐにその真似をして怠けるの。そりゃあたしは雇われマダムだけどさ、でもマダムという名前がついている以上は模範《もはん》を示さなくちゃならないのよ」
「それじゃ早いとこ質問しますが、『推理作家協会』の指輪をお持ちだそうですね」
「持ってないの。海で紛《な》くしたわ」
「紛くした? 紛くしたとなると、事が少々面倒になるんですが」
と、その刑事は舌なめずりをするような顔つきをした。
「是非とも思い出していただきたいのですが、去年の十月五日という日のあなたは、何処でなにをしておいででした?」
どういうわけか、それを聞いた彼女はクリームを塗っててかてかに光った顔をにたりとさせた。
「このあいだ、バーに来た作家が噂してたわ。指輪を紛失したものは疑ぐられるからな、ママは大丈夫かいって。そのことで来たんでしょ」
横目づかいに刑事をみて、ウィンクをした。
「いずれそのうちに刑事さんが来るということはわかっていたから、訊問されたらすぐに答えられるように、日記を見て準備しておいたのよ。去年の十月五日はね、札幌にいたの。もっと精しく説明すると、午後の二時五分の便で羽田を発って、三時半に千歳に着いたわ。十分の延着だったけど」
「一人旅ですか」
刑事はアリバイの証人探しにかかった。
「偉《えら》いさんと登別《のぼりべつ》までいったの」
「誰ですか、その偉い人は」
みず江の説明によるとその男はある役所の高級官吏で、頻繁に彼女の店に呑みにくるのだという。業者の接待だから金主は彼ではないが、彼女にとってはどちらが料金を払おうがそんなことはどうでもいい。肝心なのはこの役人がみず江のバーを贔屓《ひいき》にしてくれることなのだ。
「もう少し具体的に教えてくれませんか」
「そこまでいわせる気? おことわりよ」
珈琲カップを音をたてておくと、目を吊り上げて気色ばった言い方をした。
「そこを是非」
「その人の奥さんは不器量な上に大変な焼餅焼きなのよ。旦那とあたしが旅行したことを知られたらどうなると思う? 偉いさんの命は保証できないんだから。女の恨みがどんなに凄いか知ってるでしょ。あたしだって殺し屋に狙われるかもしれないじゃないの。もし殺されたら、あんた責任とれる?」
マダムは不器量という個所にひどく力を入れて発音した。
「餅は餅屋というではないですか、そんな心配は無用ですよ。先方の奥さんに知れるような、そんな下手な調査をしやしません」
「でも駄目よ。本当のこというと、あんな役人なんて殺されても構やしないけど、お店が困るのよ。大事な収入源ですからね」
「――――」
若い刑事は相手の名を呼ぼうとして、何といっていいか解らず、ちょっととまどっていた。マダムというわけにもいくまいし、奥さんというのも変である。かといって姓を呼ぶのは狎れなれしい。
「……そんな呑気なことをいってる場合じゃないんですよ。あなたが指輪を持っていないことは、言い換えると、あなたが殺人犯ではないかということになるんです」
「だからいったじゃないの、泳いでるときにすっぽぬけちゃったって」
「そんなに簡単にぬけますか。海に入ると皮膚がふやけて、逆にぬけにくくなるものですが」
「だから男は話が合わないのよ。婦警さんを連れて海水浴にいってみたらどう? 女が海で泳ぐときはね、体中にオリーブ油をこてこてと塗るものよ。指だって例外じゃないわ」
「指にまで塗るんですかね?」
「オリーブ油ってのは自分の手で塗りつけるものなのよ。体中にこすりつけているうちに、親指から小指まで油だらけになるのは解り切った話でしょ。だから指輪がぬけやすい状態になっているの」
「しかし、皮膚というのは水分を含むと――」
「本当は体の線や水着をみせびらかしに出掛けたの。だけど砂の上に冷凍マグロみたいにどでーんと転ってるのは金槌なのよ。あたしのように泳ぎに自信がある女性は波の誘惑には勝てないわね。それに暑いしさ。だから飛び込んでひと泳ぎしているうちに、するりと抜けちまったわけなの。つまり、皮膚が水気を吸収してふくらむ状態になる前に抜けてしまったのよ。あっと思ったけど、もうどうにもならなかったんだ」
「しかし……」
と、その刑事は首をかしげ、疑りぶかい目つきでホステスのボスを見詰めた。
「あの指輪は会員章ですからね、日常生活ではめているものではなくて、作家仲間が会合するときにはめるんだと聞いています。海水浴にいく場合には、家においておくべきではないでしょうか」
「そこまで喋らせる気?」
恨みがましい艶《えん》なながし目をすると、ホステスは自嘲するような笑い方をした。
「こうした派手な生活をしてますとね、ときどき急にお金が要るようなことになるものなのよ。ですから、あの日も指輪を質に入れるつもりで持って出たの。そしたら期待したほどの値がつかないじゃないの。だから売るのを止めたってわけよ」
「ま、それはどうでもいい。指輪の紛失を問題にしているわけではないんだから。わたしが知りたいのは、あなたがその飛行機に乗ったのが事実かどうかということなのです」
女が悩ましそうな目つきをすると、その刑事は眩しそうに視線をそらせた。
「初めからそれを訊いてくれればいいのに」
関口みず江は細巻の外国タバコをくわえると、器用にライターを鳴らした。
「こういう商売をしていると一人でもお客さんをふやさなくちゃならないでしょ。だから、これと思う人にはそっとお名刺を配ることにしてるの。あたしの名刺ってうすい菫《すみれ》色をしていて、ジャスミンの香りが浸み込ませてある上に、平版刷《へいばんず》りという凝ったものなの。単価だってばかにならないくらい高いわ。だから、これはと狙いをつけた人でなきゃ上げないのよ」
得意そうに小さな鼻をうごめかすと、タバコを灰皿にのせて、最後の一切れにスグリのジャムをこってりと塗り、大口をあけて頬張った。
「……で?」
「あのジェット機が松島の上空にさしかかったときだったかな、連れがおトイレにいった隙を利用して、前に坐っている二人の男性にすばやく渡したわ。うちの偉いさんたら、奥さんに負けないほど嫉妬ぶかいたちなの。見られたらアウトだからちょっとスリルがあったけど」
「投資ですか」
「そう。お魚は二匹ともかかったわよ。あたしが東京に帰って一週間もすると、前後してお店にきて下さったんだもの。思ったとおりどちらも部長さん。一人は貿易会社の、もう一人は石油会社の」
「ふむ」
「ですからね、あたしがジェット機に乗っていたことはこのお客さん達に訊いてくれれば判るわ」
刑事は証人の姓名と勤務先をメモにとった。
それにしても、推理作家協会の指輪をはめているからには推理小説を読むのだろうが、このマダムはどんな傾向の作家が好きなのか。ハードボイルドかスパイ物か、それともSFの作家か。若い刑事は靴をはき終えると、靴ベラを返しながら訊ねてみた。
「どんな推理作家が好きなんですか」
刑事は作風について訊ねたのだが、彼女は勘違いをしたようである。
「あたしって誠実で逞ましい人がいいの」
そういって彼女は、ある推理作家の名を「指名」した。
八 花時計
事件が発生した頃の関口みず江が旅客機の上にあったことは、彼女が名刺を配ったという二人の部長の証言によって事実であることが判った。
東京における調査の進展と平行して地方からも情報がもたらされた。それによって全国各地に散在する会員はいずれもナンバーと合致する指輪を所持していることが明らかとなり、リストに誌された地方会員の氏名が一つまた一つと赤鉛筆で抹消されていった。
一方、調査の途中で東京側が手を焼かされたのは、海外旅行中の会員についてであった。四人が四人ともルーズなたちとみえ、留守宅の家族には問題の指輪の在り場所が判らず、鬼貫達は止むなく彼等がそれぞれ滞在しているヘルシンキ、ビエンチャン、ラスヴェガス、それにオーストリアの地方都市であるザルツブルクに国際電話で照会をしなくてはならなかった。
四人のうち二人はその場で指輪のある場所を思い出してくれ、それは直ちに留守宅へ赴《おもむ》いた刑事によって確認された。三人目の男はザルツブルクでモーツァルトを聞くのだという殊勝なPRをして出国したが、モーツァルトが生まれ育ったこの小都市のどのホテルにも泊っておらず、刑事が国内にいる友人を何人か当った末に、ようやくモンテカルロに滞在していることをつきとめた。彼の海外旅行は、最初からルーレットをやるのが目的だったのである。ギャンブル好きのこの会員は恐妻家でもあった。
しかしこの男の場合も前の二人と同じように、居所が判り電話で連絡がとれると、あとは簡単に片がついた。彼は指輪をしまい込んである場所をすぐ思い出し、留守宅を訪れた刑事は問題の指輪をたやすく発見して、レリーフの健在であることを確認した。
フィンランド滞在中の四人目の男はこれ等の三人の会員とは正反対のケースとなった。電話にでた彼は、いま蒸し風呂に入っているところで、指輪はロッカーに入れてある、というのである。
「帰国はいつになりますか」
「三月です」
「あと二ヵ月あるな」
「とんでもない、来年の三月ですよ」
と、遠い声はとげとげしくなった。しかし怒りたいのはこっちのほうなのである。冗談じゃない、そんなのんびりしたことをいっていられるものか。
「あの指輪は会員同士の会合があるときにはめるものだそうですが、どうして外国旅行をするのに持っていったんですか」
「ぼくはスウェーデンの作家と文通しているんです。どちらも非英語圏の作家ですから、書くものが世界的に評価されないという宿命がありまして、それが二人の友情を強固なものとしているんです。彼にあてた手紙のなかで日本の推理作家協会の指輪のことを書いたら、是非見せてくれという。そうしたわけで、今度の旅行は指輪を持っていくということが一つの目的だったのですよ」
「弱ったな。あなたを一方的に信用するわけにはいかないし……」
困惑した刑事の心を察したように、蒸し風呂の男が提案してきた。
「ではこうしたらどうです。明日中に大使館にいって、館員にこの指輪をみせます。あなたが知りたいことの一切を、あなたに代ってこの館員に調べてもらうのですよ。といっても、ドイルの顔を知らないような人では信憑性に欠けるでしょうから、推理小説をよく読んでいる館員にたのみます」
「それはいい考えですな」
「お互い、相手が外務省のお役人なら信用してもいいのじゃないでしょうかね」
それ以外に名案はないことを考えると、刑事はこの思いつきに同意するほかはなかった。
その翌日、ヘルシンキ駐在の参事官から電話が入って、ドイルの像であることを確認したという報告を受けた。彼は、ロンドンの大使館に在勤していた頃、ベーカー街を訪ねたこともある熱心な推理小説の読者でもあったので、ドイルの肖像を見間違うことはないというのだった。
指輪不所持の第五号が発見されたのは、フィンランドの一件が落着したつぎの日のことで、発見者は丹那であった。その日の彼は、すでに一度話をかわしたことのある大塚春樹を、原宿のマンションに訪問した。一応は面識もあるということから、丹那がその役を買ってでたのである。
先夜みたときのマンションは蒼白い照明にくっきりと浮び上って夢のなかのお城のような印象をうけたものだが、真っ昼間に眺めたこの建物はいよいよ豪華なものに思えた。このままヨーロッパの山奥の湖畔に持っていっても、ちゃんとサマになりそうな格調の高さと落着いた外観を持っていた。
ドアチャイムが鳴ると、本人自身が白塗の扉を引いて、顔をみせた。ベレをかぶり、そのむかし文士だとか画家の間ではやったと聞くルパシカを着ている。
「やあ、今度はどんな用ですか」
敬語をつかうべき客とその必要のない客とを、彼は厳密に区別しているようであった。
「推理作家協会の指輪をお持ちだという話を耳にしたものですからね、それを見せて頂きたいと思ってきたのですよ」
「訝しいな。あんなものを、局外者のあなたがなぜ見たいのです?」
「犯人が現場に落としていったと思われるからです。もっとはっきりいえば、指輪を持っていない会員のなかに犯人がいる、もしくはいる可能性が大きいということになるのです」
その時点での丹那は、まだ大塚をクロだとは思っていなかった。しかし、太郎生における酒屋青年の事故死の場合にも、容疑者の一人に数えられた男である。もしかすると……という期待感は抱いていた。
「弱ったな。じつはぼくも指輪を失くしてしまっているんです」
彼が告白めいた口調でそういったときも、だから丹那は大して驚くことをしなかった。驚くかわりに、心のなかでは一段と警戒的になった。
「いつ紛失されたのですか」
「まあ立ち話もなんですから、なかに入りませんか。いつもは別の場所の仕事部屋にこもっているんですが、今日は原稿を書き上げたところでね、ちょっと暇をもてあましているんです」
丹那は先夜とおなじ大きな部屋にとおされた。おそらく居間と客間とを兼ねたものだろうが、家具のチラシに刷られてある宣伝写真みたいに、洒落た、きらびやかな装飾が施されていた。深紅の長い毛のカーペット、クッションのよく効いた革張りのソファ、壁際のホームバア。どれを見ても溜め息のでそうな贅沢な家具ばかりであった。強いて難くせをつければ、このインテリアには主《あるじ》である大塚の個性がまるきり感じられないことだろう。
「で、いつ紛失されたのですか」
と、丹那はおなじ質問をくり返した。
「今年になってからだけど、紛失というのとはちょっとニュアンスが違うな。指輪の本体は手元にあるんだから。失くしたのはドイルの肖像だけなのですよ」
潔白なのかとぼけているのか、推理作家は淡々とした調子でいった。
「ぼくはね、都の交通局が路面電車をとっ払ったお先走りの行為にひどく腹を立てているものの一人なんです。規制すべき対象は車のほうであるのに、何を血迷ったか東京中の都電を廃止する挙にでた。いま残っているのは面影橋《おもかげばし》から王子《おうじ》のほうへいくやつと、須田町から錦糸町《きんしちよう》を経て葛西橋《かさいばし》へいくのと、あわせてわずか二系統ぐらいのもんです。いずれこれ等の線もとりはずされることは明かですからね、いまのうちに乗っておこうと考えて、一人で須田町へ出掛けたことがあるんです」
そこでふと気づいたように丹那を室内にとおした。大塚の住居は神宮にちかいマンションの八階だから、南向きの窓をとおしてスモッグにかすんで銀座の上空が望める。
「終点の葛西橋で降りると、橋をわたって向う側の江戸川区で夕めしを喰ってね、再び橋を……」
いいかけて推理作家は、ふと丹那に目を向けた。
「あの長い葛西橋を徒歩でわたったことありますか。とことこ歩いていると、いい加減いらいらしてくるものですが」
「歩いて渡ったことはないですが車ならあります」
「一度おやりになるこってすな。いい運動になります。ところで橋をわたって葛西橋の電停の安全地帯にもどりついたときのことですが、持っていた指輪を、これがいま質問されたドイルの指輪なんですが、そいつを停っている電車の下へぽろりと落としてしまったんです。慌てて拾い上げようとしたんだが何処に転っていったか判らない。あたりはもうかなり暗くなっていましたからね、電車の下までは光線がとどかないわけです」
弁舌さわやかというのか、なめらかな喋り方をする男である。頭の回転の早いことはいうまでもないが、丹那は、それが刑事の勘であろうか、この男に対してなにか油断のならぬものを感じていた。
「そこで電車がでていくのをやり過しておいてから拾ったんですが、レールのくぼんだ処に落ちていたもんで、いま発車した車輪にひかれてひらべったく潰れてました」
「それ、持ってますか」
「ええ。というのはね、当時二、三本の歯がいかれて、治療を受けるつもりでいましたから、そのとき金冠の材料にしてもらおうと思って大切に取っておいたんです」
「見せて頂けますか」
「そんなものを見てどうなるんです?」
濃い眉を動かして不審気な表情をしたが、刑事が答える前にくるりと後ろを向くと、テーブルの上の漆塗りの小箱を手にとった。浦島太郎が土産に貰った玉手箱のミニアチュアのような入れ物で、蓋をとるとオルゴールが安っぽい音をたてて鳴り出した。それを逆さにすると、大塚の手の上に黄金のリングがぽとりと落ちた。潰れてひらたくなっている。
「浅間しい姿になりましたが、これがその指輪です」
受け取ると丹那は掌にのせ、目を細めてと見こう見した。車輪に砕かれた以上は当然のことながら、肝心のドイルの肖像のあった部分は失せて跡形もなくなっている。
「指にはめていたのが抜け落ちたわけですか?」
「そうじゃありません。最近は指が太くなっちまって、ちょっとやそっとでは抜けないくらいでした」
「じゃどうして転げていったんです」
と、丹那刑事は知らず知らずに詰問口調になっていた。
「あのときは指から抜いて、そいつを手に握っていたのですよ」
「だからなぜ――」
「夕めしを喰っている最中にひょいと見ると、接着剤がいかれたせいかドイルの像がぐらついているんです。こいつは危かった、いったん落としたら見つけることはできない。そう思って、指から抜いてポケットに入れたんですが、根が心配性のせいか、電停まで戻ってくるとまた気がかりになった。ポケットに孔でも開いていたら一大事です。反射的に手をつっ込んで外灯の光にかざしてみたんですが、ドイルのレリーフも無事だった。そこでほっと安心したのがいけなかったんですな。ぽろりと取り落としたのが運のつきでした」
語り口が流暢すぎて、前々から練習しておいたセリフを喋っているような印象を受ける。
「指輪がどうかしたのですか」
いとも無邪気な調子で問いかけてきた。口調ばかりでなしに表情もあけっぱなしの、フランクなものであった。彼が事件に関係がないものとしても、先日来、何人かの刑事が指輪の持主を訪ね歩いている情報は、作家仲間の口から口へと伝わって、すでにこの男の耳に入っているに違いないのである。
丹那は、大塚というこの作家がとぼけているものと判断した。だがそうした胸中の疑惑はおくびにも出さずに、にこにこしていた。
「……知らなかったのですか。この五日あまりいろんな推理作家をお訪ねして歩いているんですが」
「そんな噂が耳に入るわけはないですよ。ぼくは作家づき合いというものをしていないんだから。煩わしくてね」
同業者を見下だしたような、傲慢なひびきが感じられた。これがこの男の真の姿だとすると、作家づき合いを避けているのではなくて、仲間からつまはじきされているのが本当のところなのではないだろうか。
相手がどんな反応をみせるかということに注意を払いながら、丹那は、櫟林のなかに落ちていた指輪のことを話して聞かせた。彼がシロであるならばあらぬ疑いをかけられたことに対して怒りの表情をみせるだろうし、クロの場合は動揺をみせるか、さもなければ一層のポーカーフェイスをよそおうに違いあるまい。
だが、丹那の予想を裏切って、話を聞き終った大塚は目尻にしわをよせてくすくすと笑い出した。
「ははあ、解りました。遠廻わしにいってるが、要するにお前がやったんじゃないだろうかってわけだ」
「そうはいいませんよ。ただ、指輪を紛失した人に対しては当日のアリバイをお訊きしなくてはならないのです」
「その前にこっちから質問しますがね、指輪が落ちていたというだけの理由で、当人の犯行だとみなされるのですか」
「べつにそう断定しているわけではないですよ。指輪を落とした人と犯人とは、別人であるかもしれないからです。でもアリバイがはっきりしない、加うるに動機があるということになれば、一応クロとみなされても止むを得んでしょうな」
「しかしね、いまどき推理小説の世界では通用しないプリミチヴな手法ですが、犯人が嫌疑を第三者に転嫁する目的で、故意に誰かの指輪を盗んだということは考えられませんか」
「一応はそうしたことも考慮しますが、現実の事件では滅多にありません。起ったとしても、われわれはそうした幼稚な手口には騙されない」
「そうでしょうか」
大塚はますます図にのったような皮肉な口調で反問し、丹那は返事をするのが面倒になった。
「そこで本題に戻りたいのですが、指輪が車輪の下敷きになってレリーフが潰れてしまったからといって、それだけの理由でぼくが容疑者の一人にされるのは間違いですよ」
推理作家は教え諭《さと》すようにいった。顔の輪郭が大きく、太い眉は黒々としており、その眉の下に物事に動じそうもない落着いた目がかがやいていた。依然として彼は、微笑することを絶やさなかった。
「第一に、ぼくには小日向君を殺さなくてはならんという動機がないからです。向うはカメラマンでこっちは推理作家だ、二人の間に共通する問題なんてありません。パーティなんかで会えば挨拶をする程度で、平素はほとんど口をきいたこともない間柄ですから。したがって関係のない二人の間には恨みもなければ、色事をめぐるトラブルもない。動機が発生する素地がないのです」
「…………」
「第二にぼくにははっきりしたアリバイがある。事件が起きたのは確か授賞式があった翌日だと憶えてますが、あの日のぼくは伊豆で釣りをしてました。はるばる三重県までいって小日向君を殺すなんて芸当はできませんよ」
「伊豆の何処でですか」
丹那は手帖をひろげて相手の顔を見つめた。
「ま、話が長くなりますからお茶でもどうです? わたしの小説に登場する刑事は、こうした場合に遠慮なくウィスキーを呑むことになっているんです。オンザロックにしますか」
「わたしは小説の刑事みたいに恰好いい男じゃない。勤務中は酒も呑まんことにしています」
こんな男にウィスキーを振舞われても旨い筈がないだろう。
「それじゃ紅茶の仕度をしますから雑誌でも読んでて下さい。もう何ヵ月かすると独身生活を解消する予定ですけど、いまのところは面倒でも万事自分でやらなくてはならない。失敬します」
台所へでもいくのだろうか、扉の向うに引っ込んでいった。丹那は足を組んでイスの背にもたれると、かるく目を閉じた。この数日来あちらこちらと歩き廻わっているせいか、ちょっと疲労気味なのである。齢のせいだなどとは思いたくないけれど、以前はこの程度で疲れを感じたことはなかった。やはり齢かな……。
紅茶カップの触れ合う音に目を開くと、盆を両手に持った大塚が戻ってきたところであった。
「伊豆のどこで釣りをしていたか、というのがさっきの質問でしたね?」
紅茶を丹那にすすめると、自分も向き合って腰をおろし、カップに砂糖を落し込んだ。
「本来は砂糖を入れないことにしてるんです。これ以上肥ると恰好がつかなくなるんでね。でも、あなたにだけ砂糖を入れると、ハハア、このなかに毒が入ってるんだな、なんて勘ぐられるでしょう。いうなれば刑事さんを安心させるためのおつき合いってとこですかな」
ごくりと音をたてて紅茶を飲むと、クッキーに手を伸ばして鷲掴みにし、それを一枚ずつ齧りながら話をすすめていった。
「あの日、ぼくは下田にいたんです」
「下田の何処ですか」
「下田湾の一帯です。主として柿崎海岸で釣りをしていました」
「なにが釣れました?」
「カイズが十匹ほどです。どうも思ったほどに釣果がないので、二、三度場所をかえてみたんですがやはり同じでね、結局はお恥しい結果に終りました。もう一度挑戦するつもりでいますがね」
下田に土地鑑のない丹那には、柿崎海岸といわれても見当がつかない。
「柿崎というと?」
「下田湾のいちばん奥のところで、波のしずかな砂浜です。景色もいいですよ」
話の合間にしきりにクッキーを齧っている。その視線は、大きな窓のガラス越しに、スモッグでかすんだ銀座のあたりに向けられたままだった。
「よく納得して貰うために、少しくわしく話したほうがいいと思いますが……」
「是非」
ひと膝のりだすような恰好になり、膝の上で手帖をひらいた。
「宿についたのは十月四日、つまり小日向君が殺される前の日ですね、その日の午後十時頃でした。本来はもっと早く行くつもりでしたが、例の、授賞式のパーティに顔をださなくてはならない事情が生じたもので、すっかり遅くなってしまったわけです」
「なるほど」
「翌る五日は八時頃に宿をでて、さっきもいったように下田湾で釣りをしました。旅館に戻ったのは六時前後だったと思います」
「宿はどこです?」
「爪木崎の『|石舟《せきしゆう》』です。爪木崎というのは下田からちょっと東にはずれた位置にあって、いまお話した柿崎海岸の先になります。宿は下田湾をのぞむ丘の上に建っているんです」
八時頃に外出して六時頃に帰宿した、と彼はいうのである。その数字をメモしておいてから、指を折って数えてみた。もしそれが事実であったなら、釣りをしたと称する時間は十時間ということになる。十時間で三重県の山中の現場まで往復することが可能であるかどうか、役所に戻ってからじっくりと検討してみるつもりで、質問をすすめた。
「常宿ですか」
「いえ、初めてです。そもそもぼくにとって下田という土地が初めてなんですから。宿は、友人にすすめられたんです」
場合によっては旅館を訪ねてウラをとらなくてはならない。
「なに、爪木崎の旅館は二、三軒しかないです。行けばすぐに判りますよ。駅前からタクシーに乗ると十五分もかかりません。バスもでていますしね」
と、推理作家の態度は協力的ですらあった。
「宿のほうで、あなたが釣りにでた時刻と帰ってきた時刻を記憶しているといいのだが」
「そうあれば願ってもないことだけど、なんといっても三ヵ月以上も前の話なんだから、期待は持てませんな。でもね、当日ぼくが下田にいたことを証明する方法はべつにあるんですよ」
自信にみちた口調に、丹那は思わず相手の顔を見た。
「写真をとって貰ったのです、花時計の前でね。つまり、こういうことです。釣りに夢中になっているうちに腹が減ってきたことに気がついたもんで、駅の近くへめしを喰いに行ったんです。帰りの電車の座席を予約しておく必要もありまして、そのとき、駅前広場にある花時計をバックに写したのです。時刻は一時を過ぎていたと思いますが、はっきりしたことは写真を見れば判ります。ところで刑事さん、小日向君が殺されたのは何時頃のことですか」
「十月五日の午後二時から四時にかけてです」
「それみなさい。午後の一時に下田にいたものが、わずか二、三時間のうちに三重県の山奥に現われることができますか」
勝ち誇ったように声を張り上げた。その時刻に写真をとったのが事実であるとすれば、大塚に指摘されるまでもなく、二、三時間で現場に到着することは不可能であり、彼の容疑は否定されてしまう。
とにかく現物を見てくれといって立ち上ると、窓と反対側の壁際にある大きな本箱の前に片膝をついて、下段の引き出しのなかを探し始めた。推理作家の自信ありげな口吻に気圧されたせいか、丹那は少しばかり迷った表情になり、ルパシカ姿の大塚の背中を眺めていた。
あまり整理のいいほうではないらしく、右、中、左側と片端から引き出して覗いてみるのだが、目当ての品は容易に見つからなくて、彼はベレをあみだにかぶり直すと、口中でなにやら呟きながら、本を一冊ずつ引き抜いては改め出した。表紙と裏表紙を左右の手に持ってゆすぶり、ページの間にはさまっている写真を落とそうという寸法である。
チェックずみの書物は床の上に積み重ねて、またつぎの本を引き出す。忽ちのうちに本の山が三列も並んでしまったが、依然として写真はでてこなかった。
丹那の家にある本箱とは違って大塚のそれは見てくれの立派な、豪華でどっしりとしていた。ずらりと並んだ背表紙から判断すると、上段を占めているのは大半が彼の著作であるらしく、大塚春樹の活発な創作活動が想像できるのであった。世間の人間ならばコケシ人形か洋酒のあき瓶を飾っておくに違いないその棚には、ビニールカバーのデザインも美しい二冊の自著が立てかけてある。そのどちらの作品も、丹那は新聞の広告や通勤電車の中吊《なかづ》り広告で見かけた覚えがあった。執筆する作業も苛酷な労働だろうが、収入のほうもそれに準じて大変な額にのぼるのだろう。
丹那がそうしたさもしいことを考えていると、大塚はようやく目指す写真を発見したとみえて、中学生のように邪気のない声を上げた。
「これこれ。これですよ、こいつを見て下さい」
黙って手をのばして一枚のカラー写真を受け取った。一見して解るがポラロイドカメラで写したものである。まだ下田に行ったことのない丹那には、そこに写っているのが下田であるのか、あるいは下田と称するものの、実は別の土地であるのか判断がつきかねた。駅前広場と思われる場所にほぼ卵形をした植え込みがあって、その片側に寄ったところが花時計になっている。白色セメントらしきもので縁をとり、その内側で矮性《わいせい》の草花が美しい模様をえがいている。針はプラスチックででも造られてあるのだろうか、黒くて光沢のある長針と短針、それに白くて細い秒針の三本仕立てである。時刻をあらわす数字はついていないが、その位置から判断すると、三本の針は、一時十四分二十秒を指していた。
大塚は、正確にいえば大塚だと思われるほど大塚によく似た男は、花時計の少し右に、こちらを向いて立っている。白地に藍の模様入りの浴衣を着、その上に淡褐色に濃茶の滝縞の半纒《はんてん》をまとい、頸に赤いタオルを捲きつけて新しいストローハットをかぶったところは、いっぱしの釣り人気取りである。左手に折りたたんだ竿らしきものとビクを持ち、右手を腰にかるくあててニンマリと笑っている。視線がレンズから少しはずれているので、カメラの背後を通り過ぎた美人を目線で追いかけ、「いかすなア」とでも思ったところであろうか。見るからに屈托な気なポーズであり表情であった。
丹那の注意は背景と点景に向けられた。ウイークデイのせいであろうかロータリイの周囲には人影がない。植え込みの向う側に道路が伸び、道の両側には商店が軒をつらねている。そして真正面にはさして高くもなさそうな山がうずくまり、その上の空は灰色に曇っていた。
「この写真を借用できますか」
「どうぞ。動機もないぼくがなぜ妙な目で見られるのか理解できないのですが、疑惑をはらすためならよろこんで協力します」
「ところで、誰に写して貰ったのですか」
釣りにいくのにポラロイドカメラを持ち歩くというのも、疑ってかかればなにか不自然であった。急いで現像する必要もないだろうから、普通のカメラで充分ではないか。
「写してくれたのは外人なんです。駅から外にでるといきなり英語で話しかけられましてね、会話は得意じゃないけど、ペルリ提督上陸記念碑を尋ねたいといっているのは解りました。で、駅の絵看板というんですか、パノラマ式の案内図を見せて教えてやったんです。タクシーで行ったらいいだろうというと、歩くのが好きなのだと笑っていましたがね」
「ふむ」
「ついでに花時計をバックにシャッターを切ってくれないかと頼むので、いやだと断わる理由もないですから、OKといって写してやったんです。すると、お礼にあなたの写真もとって上げようという。これまた遠慮する理由もないので位置を替わって写して貰った。それだけの話ですよ」
「その外人、住所なり名前なりは判っていますか」
「いえ。行きずりの旅行者です」
「男ですか」
「そう。ヒッピーというんでしょうかね、宗教画でみるキリストによく似た若者で、ヒゲだらけの顔をしていました」
胸のなかで丹那は渋い顔をした。大塚の話の真偽を確めようとしても、所在が不明では訊ねることができない。日本に滞在していればまだしも、一介の旅行者で、すでに帰国しているとでもいうことになると、探し出すのは容易ではない。十月五日に写したものであると主張する大塚にとっても、それを疑問視する当局側にとっても、この証人がいれば問題は一挙に解決をみるところなのである。
座席を予約した駅員が覚えていてくれると助かるのだが……。そう考えて、写真をテーブルにのせた。
「帰りの座席券を買ったという話でしたね?」
「そんなことはいいません。予約をしに行った、といっただけです」
「というと?」
「小銭は持っていましたが、まとまった金は帳場に預けておいたものですから、窓口の前に立っていざ買おうとしたときに財布のないことに気づいて、思い止まったわけです」
そこで座席券は買わずに、ふたたび海に戻ったというのである。
筋はとおっている、と丹那は思う。しかし疑ってかかれば、座席券を求めるというのは、花時計の前で写真をとったと称するための布石であるとも考えられるのであった。外人が写してくれたというのも嘘で、シャッターを切ったのは陰にいる共犯者だったのではないのか。
「ところで、昼食をとった食堂はどこですか」
「早呑み込みをされちゃ困るなあ。食堂に入ったとは一言《ひとこと》もいっていません。写真をとって貰った後のことになりますが、駅弁を買ったんです。駅弁と缶ビールを持って海へ戻ったのですよ」
国鉄の駅とおなじように、私鉄のこの伊豆急下田駅でも、フォームと構内売店とで駅弁を売っているのである。
「売店で買ったということになると、売り子が客であるあなたと接触したのはごく短時間だったわけです。あなたが十月五日の午後一時過ぎに弁当を買ったことなど覚えているわけがない」
「まあ、そういうことになるでしょう」
「あなたは落着いているけど、この写真が十月五日にとられたことを証明するデータはなに一つないのですよ。解っているのは曇った日の午後一時十四分にとったということだけです」
「それを立証するのが刑事さん、あなたの仕事ではないですか」
とりようによってはふてぶてしく思えるほどに悠揚せまらぬ口調で答えると、クラッカーを口に入れ、手についた粉末をテーブルの上に落とした。
残余の会員のチェックは翌日中にすべて終了した。彼等はいずれも台帳に記載されたとおりのナンバーを刻んだ指輪を所持しており、ドイルのレリーフにも異状のないことが確認された。大塚のアリバイをチェックするために丹那が下田へ赴いたのは、そのつぎの日のことである。
新幹線で熱海までゆき、そこで伊豆急の電車に乗りかえて正午前に下田に着いた。週末になると団体客で混雑する伊豆急も、その日は空席がかなりあって、丹那は久し振りで解放された気分になり、小旅行をたのしんだ。といっても伊東をすぎるとトンネルの連続で、大袈裟にいえば闇のなかをつっ走っているようなものだが、そのせいだろうか光のなかに出たときは、冬の陽を浴びてかがやいている海や枯れた山々の眺めがなんとも新鮮な感じであった。金と暇さえあれば、自分もこうしたしずかな土地に住んでみたいと思う。空気はきれいだし魚はあたらしいし、長生きすることは間違いない。
ふと、斜め後ろに坐った中年の夫婦者の会話が聞えてきた。
「そんなことをいうけどねえ、こんな山のなかに住むのは反対だな」
おや、あんな臍の曲ったことをいってやがる。思わず丹那は聞き耳をたてた。
「海が近いから塩害が酷い。テレビのアンテナだって屋根瓦だって、すぐにぼろぼろになってしまうんだ。だから特別に潮風につよい塩焼瓦ってやつで屋根を葺くんだが、ずるい瓦職人になると検定におちた瓦を持ってくる。外観はおなじように赤茶けているから素人の目にゃ判らないが、こいつで葺かれると二、三年でかけてくるんだな」
「あら」
「テレビアンテナにしたって塩害防止用の特製のやつを買わなくてはならない。万事がこの調子だから、住人にとっては不経済この上ないことなんだ。温泉を引くパイプをはじめ、金属類も腐蝕がはげしい。クーラーにしてもピアノにしても門の扉にしても、金属という金属が一年でいかれちまうんだ。土地会社の広告をみるといいことずくめだがね」
「まあ」
「伊東の支店長をしている佐藤さんを知ってるだろう?」
「いいえ」
「知らなきゃ知らないでかまわんが、東京にでてきた佐藤さんと昼めしを喰っていたら、ポタージュのなかに眼鏡が落ちてね、ボーイさんがすっ飛んできた。どうしたのかと思ったらきみ、眼鏡の蝶番《ちようつがい》がくさって、突然空中分解をやったというわけだ。この話、覚えていないかね?」
「いいえ、初耳ですわ。でもそんなに傷みが早いのなら、やっぱり考えなきゃだめねえ」
「そうともさ。なんてったって東京だね、東京がいちばんいいのさ」
奥さんはあきらめたように溜め息をつき、亭主のほうはほっとしたのかタバコに火をつける音がした。二人は黙り込み、ピースのつよい香りが丹那の鼻をかすめていった。
間もなく、下田到着のアナウンスが聞えてきた。
下田駅のフォームに降りた人影は思いのほかまばらだった。丹那は正面の改札をぬけると駅前広場の前に立って、眼前の植込みと写真とを比べてみた。が、訝しなことに、写真の植込みが卵形をしているのに、これは円形で、しかも肝心の花時計がない。反射的に丹那は、大塚が嘘をついたものと判断した。下田へ行けばすぐにばれるような出鱈目をいうとは、推理作家にも似ぬ単純な男だ。
ロータリイの縁に立ったまま、なおも写真と比較してみた。花時計のバックには山が写っているが、丹那の目の前の植込みは背景が二階建ての食堂であったり海産物の即売場であったり、薬局であったりする。すべてが写真とは違っているのである。あの野郎、おれを甘く見やがって……。丹那は腹が立ってきた。
丹那のいるところはすぐ隣りがタクシー乗り場である。そこに並んだ短い行列もちょっとの間に減ってゆき、降車客は彼一人になってしまった。整理員がこちらをちらと見て、丹那がタクシーに乗るつもりかどうか判断しあぐねた顔をしている。それに気づいた丹那は、駅の建物沿いにそこを離れていった。
丹那がまず気づいたのは壁に貼ってあるペンキ塗りの案内図であり、立ち止って見上げると、大塚が外人の旅行客に教えてやったと語ったペルリの上陸記念碑も、彼が二泊したと称する爪木崎もちゃんと記載されている。下田湾を探してその底部に目をむけると、彼が釣りをしていたと主張する柿崎海岸も記入してあった。丹那は案内図を見つめてそれぞれの位置を頭に叩き込んだ。
下田駅は降車口が南に、乗車口が東に面している。丹那が角をまがって乗車口のほうへ向おうとしたとき、そこにもべつの植込みのあることに気がついた。降車口側のそれは円形であったが、東口のほうは里芋形をしており、そこに植え込まれているソテツは胴廻わりがふた抱え以上もありそうな巨木であった。丹那はあわててポケットの写真を取り出しながらロータリイを渡っていった。海のほうから吹いてくる冷めたい風にあおられたソテツは、重たそうに葉をゆすっている。花時計はそのソテツの左側にあった。季節が違えば花の種類が異なるのは当然だが、いま植えてあるのは紅や紫のシネラリアとパンジイ、デイジイなどの可憐な草花である。しかし時計の針や白色セメントの縁《ふち》、背後に伸びているレストランや喫茶店街、正面のこんもりと盛り上った寝姿山《ねすがたやま》などと見比べると、大塚の写真にある花時計がこれであることは認めぬわけにはいかなかった。
花時計の実物を見たのはこれが初めてのことである。そのとき丹那が受けた印象は、思いのほか小さいものだな、ということだった。いや大きい小さいということよりも、なんとなくチャチな感じがした。細い秒針などは、ちょっと手を触れただけでひん曲がりそうな気がする。
どちらかというと日本趣味の丹那にしてみると、ワビもなければサビもなく、いたずらにけばけばしい西洋風な花壇に対してはあまり関心が持てなかった。けれども、手入れのゆきとどいた草花や芝生を眺めていると、これはこれで見ごたえがあり、造園技師の苦労が理解できたように思えた。
この日の丹那の調査は、大塚が二泊したという旅館「石舟」から始められた。ロータリイのバス停で五分あまり待つと、爪木崎行がでる。下田湾にそそぐ稲生沢《いなうざわ》川をわたったバスは、国道135号線に並ぶ大きなホテルの前を走りぬけた。どれも一流の観光ホテルばかりであることから考えると、この辺りが下田でも眺望絶佳の一等地なのだろう。そう思いながら右手の下田湾に目をむけた。
黒船が投錨した地点は、古い表現を借りれば「|指呼《しこ》の間《かん》」にある。そして吉田松陰が密航しようとして小舟を漕ぎ出した弁天島はすぐ目の前の柿崎海岸にあるし、首を左にねじるとハリスが仮りの領事館にした玉泉寺の青屋根がちらっと見えた。丹那は、日本史のなかでも特筆すべき一ページを、わずか一秒間で把握してしまった。彼にとって、下田は拍子抜けするほど小さな町だったのである。
バスはつねに右手の湾を視野におさめながら走りつづけ、終点の爪木崎で丹那をおろした。「石舟」は停留所から少し戻ったところにあって、名前で想像がつくように石を配した庭を自慢にしていた。冠木門《かぶきもん》をくぐると、玄関にいたる道の両側に大きな石の柱が立ててあり、古代のドルメン遺跡にまぎれ込んだような気持になる。石は白いのもあれば黒や青っぽいのも混っていて、どれも二十トンは越えそうな立派なものばかりである。しかし丹那の趣味からすれば、重量感は即威圧感に通じ、ワビやサビとはいよいよ縁遠いように思えた。彼の第一印象を率直にいうと、地震のときにこの石の下敷になったらひとたまりもあるまい、という散文的なものでしかなかった。
東京を発つ前に電話を入れておいたので、帳場に坐っていたおかみは、すぐさま大塚と接触した二人の女中を呼んでくれた。深紅《しんく》の絨毯をしきつめた帳場は採光がよく、明るい陽気な雰囲気を持っていたが、丹那の受けた感じではなんとなく閑散であった。
でてきた女中のうち若いほうは住み込みで、三十過ぎのほうは近所の主婦がパートタイマーとして働いているのだった。丹那は大塚の顔写真の入った新書判を三人に見せ、宿泊したのがこの男に相違ないことを確めておいてから、手慣れた調子で質問をすすめていった。あらかじめ頼んでおいたので帳場の机上には昨年秋の宿帳がのせてある。丹那はそれを手にとると、十月四日と五日の欄をひらいて、そこに記入されている大塚の筆蹟と、見本用に書いてもらった署名とを比べてみた。丹那が筆蹟の鑑定について専門的な知識を持っているわけではないけれども、長年の経験から、宿帳の文字が大塚のものに間違いないと判断した。
近頃は宿帳も形式的なものになり、旅館のなかには税金対策のため故意に知らぬ顔をする宿屋もあるのだが、大塚は自分のほうから宿帳を持ってこさせ、記入したのだという。おかみは大塚のそうした態度に好感を抱いている様子だったが、丹那からすると、逆に、目標はアリバイ工作にあったのではなかったかと勘ぐりたくなるのである。
それはともかく、四日、五日と二泊していった男が大塚春樹であったことは間違いなさそうに思えた。丹那は筆蹟を鑑定してもらうためにそのページをはずし、本庁へ持ち帰ることにして、つぎの問題に入っていった。事件発生当日、大塚は八時にここを出て一日中カイズ釣りを楽しみ、夕方の六時に戻ってきたと主張しているのだが、それが果して事実であるかどうか。
「それが、なにぶんにも三月《みつき》も前のことですので、三人でいろいろと思い出してみようと努力したのですけど、はっきりとしたことは何ひとつ……」
と、傍らのおかみが申し訳けなさそうに語尾をにごらせた。よく肥った柔和な顔つきの四十女で、色がぬけるように白く、和服の着付けがはっとするくらい巧い。ひょっとするとその方面の出身ではないか、と想像したくなるほどであった。
彼女の答は丹那が予期したものだった。三ヵ月も前の泊り客が何時に出かけて何時に帰ったかを覚えていたら、そのほうがかえって不自然だろう。大塚もまたそれを狙ってアリバイ偽造に利用したのかもしれない。つまり、八時に宿をでたといってはいるが、実際はもっと早目に出かけたのかもしれないのだ。そしてその時刻を女中やおかみが忘れてくれることも、ちゃんと計算に入れておいたのかもしれないのである。
丹那の計算によると、下田・太郎生間を往復するには、少なく見積って十二時間はかかる。しかしこれは電車やタクシーなどの乗り物に要した時間であり、実際にはこれに乗り換えの際の待ち時間が加わるから、下手をすると十三時間を越えることすらあり得るのである。
大塚が仮りに七時十三分発の電車にのるために朝の七時に宿を出、十二時間後に下田駅に戻ってきたとしてみると、それは午後の七時半だったことになる。タクシー乗り場ですぐ車にありついたと仮定すれば、「石舟」に帰着したのは七時四十五分頃になっただろう。
だが彼にしてみれば、「石舟」の客であることをタクシーの運転手に知られたくはないだろうから、手前で下車して、歩いて戻ったに違いないのだ。丹那はこれに費した時間を十分とみた。
さらにまた、三重県の現場まで浴衣姿で往復できるわけもなく、前以って手頃の場所に隠しておいた洋服と着更えてから電車に乗らなくてはならなかっただろうし、帰途もまた下田で下車したのち、途中で浴衣を着用してから宿に戻ったに相違ないのである。一回に五分間かかったとして合わせて十分。それ等に要した計二十分間という数字に、乗り換え駅における待ち時間というロスを加えれば、彼が往復にとられた余分な時間は内輪にみても一時間半になる筈であった。つまり、それ等の数字を加算すれば、宿に帰り着いたのは夜の九時頃になったものと考えられるのである。
午前八時に釣りに出て午後の六時に戻ったという主張と、朝の七時に発って夜の九時に帰ったのとではあまりに差がありすぎる。だがそうした違いも時間が経過するにつれて忘れられてしまう。特別な事情でもない限りは、番頭や女中の記憶にのこることもないのである。つまり大塚にしてみれば自分の主張を裏づけることもできないが、さりとて否定される心配もないわけだ。そしてこの場合は、アリバイを否定されるデータがあらわれぬ限り、彼の身は安泰なのである。
こうして大塚の花時計の写真には一段と重要性が加えられてきた。彼のアリバイを崩すためには、この写真が十月五日にとられたものでないことを立証するほかはないのだ。丹那は黙々として考え込み、二人の女中もおかみも沈黙をもてあました恰好で坐りつづけていた。
ふと宿帳に視線をやったとき、丹那は、あの推理作家が二泊していることにあらためて注目した。十月四日と事件のあった五日と、二日間にわたって宿泊しているのである。彼は授賞式のパーティに出席したから東京を発つのが遅くなり、ここに到着したのは午後の十時頃だったと語っているのだが、それをそのまま信じてよいものであろうか。もし彼が四日の日中に投宿したとするならば、その当日にも、浴衣を着て外出する機があったことになるのだ。花時計の前のスナップはそのときに撮影したのではないだろうか。
これはアリバイ工作としてしたことだから、ゆきずりの外人がとってくれたというのは嘘で、大塚自身がポラロイドカメラを用意して持ってゆき、誰かに頼んでシャッターを切って貰ったに違いなかった。ひょっとするとそれは、隠れた共犯者であったのかもしれない。
丹那はまず、大塚が四日の何時頃に投宿したかを確めようと思った。
「このお客さま、四日の晩に、それもかなり遅くなってお出でになったんじゃないかしら」
と、若い住み込み女中が記憶をたどるようにゆっくりと答えた。
「たしか、お部屋にお通しするとすぐに按摩を呼んでくれとおっしゃったわ」
「あたし覚えてない、全然」
パートタイマーが首をふった。
「それはそうよ。あなたの勤務時間は七時までじゃないの」
だから到着したのは七時以後になる筈だ、と彼女は主張した。大塚が泊った部屋は元来がパートタイマーの女中の担当である。だがその夜は彼女が仕事をすませて帰っていった後だから、止むなく自分が面倒をみたのだ。住み込み女中は、そういった意味のことを、それほど露骨にではなく、しかしはっきりとした口調で語った。
この場合も、大塚の投宿した時刻については正確なことが解らない。だが、それが日中でないことは間違いなさそうであった。そしてその点を丹那がさらに明確なものとしたければ、四日夜のパーティに出席した他の会員に訊ねてみればいいのである。
しかし、仮りにパーティに出ていたことが明白になり、四日という日には花時計の前に立つ機会がなかったからといって、それで疑惑が払拭《ふつしよく》されたことにはならない。別の日に一泊し、浴衣を着て下田駅まで出かけていって写したことも考えられるからだ。
「いえ、そんなことはございません。初めてのお客さまでした。お友達に紹介されたからとおっしゃって予約をなさいましたのです」
おかみが否定した。
「お名前は以前の宿帳にも載っておりませんし……」
「しかし変名で泊ったかもしれない」
「そういうことはありましょうが、こういう商売をしていますと、お顔は忘れません。何年の何月にお泊りになったかまでは覚えていなくとも、前にお目にかかったお客さまのお顔は不思議に記憶しております」
「なるほどね」
と、丹那は頷いた。接客業者の観察と記憶力については、彼もよく知っていたからである。大塚春樹にしても、こうしたことは承知していたに違いなく、同じ旅館に二度泊るような危険を犯すわけもなかっただろう。
となると、彼は他の旅館に泊ったのではないか。旅館の浴衣地などというのはどこでも似たような柄を用いているものだ。大塚はべつの日に下田もしくはその近辺の宿に泊って、そこの浴衣を着てレンズの前に立ったのではないだろうか。
「この写真をよく見て下さい。特に浴衣と半纒をね」
「浴衣と半纒……」
「着ているものがこの旅館のものであるか、よその旅館のものであるか、という点を確かめたいのですよ」
「はあ」
肥ったおかみが眉の間にたてじわをよせて写真に見入ると、楽天的な顔が一変して引きしまったものになった。ついで腕を伸ばして机の引き出しをあけ、眼鏡をとりだして鼻の上にのせた。まだ若いのに、早くも老眼の気味があるようだ。
「どうです?」
写真がひと廻わりしたところで返事をうながした。
「半纒のほうはなんとも申せませんわね。大して特徴のない柄《がら》ですから」
「なるほど」
「でも浴衣のほうは間違いなくうちのものですわ。ちょっと見ただけではお気づきにならないでしょうけれど、この意味もない模様みたいなのは文字なんですの」
「これがですか」
小首をかしげて見直したが、どう考えても文字とは思えない。何という字かまるで見当がつかなかった。
「はあ。『石舟』の舟という字をデザイン致しました。亡くなった主人が凝り性だったものですから、ちょうどその頃お泊りになった書家にお願いを致しまして……」
おかみはある女性書道家の名をあげ、彼女の筆になるのだと語った。自分が悪筆のせいもあって丹那は書には興味も関心もない。だがその彼にしても、おかみが述べた書家が勝気そうな美人であることは知っていた。それほどの有名人であった。
「書いて頂いた作品はあれなのでございますよ」
おかみはトドみたいな太い頸を無理にねじ曲げると、正面の長押《なげし》の上に掲げられた扁額を指さした。いわれるまでは気づかなかったのだが、そこには細い優雅な筆づかいで、「石舟」の二字が横書きにされてあった。その極端にデフォルメされた書体は行書《ぎようしよ》でも草書でもなく、丹那は無心な童児のいたずら書きを連想した。特に舟という字はさざ波の立つ湖面に映った三日月みたいに捉えどころがないので、教えられなければ読めなかったのである。
あらためて大塚が着ている浴衣に目を落とした。漫然と眺めていたときは気づかなかったが、意味のないミミズののたくりのような線は、いまになってみると、間違いなく「舟」の字であった。
「旅館同士が浴衣のデザインを盗用することは考えられませんから、この写真の浴衣はうちのものに違いないと思います。ちょっとちいちゃん、本物を持ってきてお見せしなさい」
すぐに若い女中が立ち上り、奥に入っていった。
「浴衣地はどこで染めさせるのですか」
大塚が染物屋に手をまわして浴衣地を求めたことも考えられる。丹那はそう思ったのである。
「東京の江戸川区の染色工場です。息子の嫁の実家なんですの。どちらも美術大学にいっていて、知り合って結婚しました。『石舟』専用の浴衣地を造ろうじゃないかと言い出したのは、この若い夫婦なのですわ」
だから、たとい端切れにしろ、親の諒解もなく他人に「石舟」の浴衣地を頒ける筈がないというのであった。が、いまの若い世代をそこまで信じていいものかどうか、疑問がないわけでもない。大塚に頼まれた彼等が、染め損いの生地を譲ってやったということも考えられなくはなかった。
染物工場の住所を控えた丹那が、ひととおりの訊き込みを終えて冠木門をでようとしたところにタクシーが停って、新婚らしい男女が降り立った。若妻はこの旅行のために用意したらしい新品のスーツを着て左手にオーバーを抱えている。丹那が道をゆずっても、幸福に酔った二人の目に入らなかったとみえ、会釈もせずに石の並んだ小路を歩いていった。丹那はべつに気を悪くするでもなく、目をなごませて後ろ姿を見送っていたが、ついで走りかけた車に手を上げた。
九 もう一つのアリバイ
動機がないことからすれば大塚はシロということになるが、シロと言い切るには躊躇するものがあった。第一に、事件当日の旅館をでた時刻と帰った時刻がはっきりしないこと、第二に、通りすがりの外人旅行者がとってくれたと称する花時計の写真がアリバイの証拠としてはいささか出来過ぎていること、この二点がその理由である。花時計の写真が出来過ぎているというのは写真技術のことではなく、タイミングよく外人が現われて写してくれたというお話そのものが巧く仕組まれていることを意味する。いまの段階で彼のアリバイを支えているのはこの写真一つなのだから、あらゆる面から検討を加えていく必要があるのだった。
本部では丹那の報告にもとづいて、問題点を入念にチェックする方針をとった。まず二人の刑事が手分けをして授賞パーティに出席した作家や編集者を訪ね、大塚が間違いなく出席していたことを確認する。一方、べつの刑事は江戸川区の染物工場にいって、「石舟」の浴衣地を誰かに頒《わ》けたことがあるかどうかをはっきりさせる。それがさし当ってとられた捜査方針であった。
作家と編集者にあたって歩いた刑事は、大塚に有利な収穫を持って帰った。十月四日夜のカクテルパーティは例年に比べてかなり盛会で、それだけ出席者も多かった。したがって大塚を目撃したという作家や編集者は多く、その話によると、大塚は平素よりもむしろ精力的に、ウィスキーのグラスを片手に持って、作家や編集者の間を泳ぎ廻わっていたという。
「精力的にね?」
「はあ。五人の出席者がおなじ印象をのべていますから、疑ってみれば訝しいですな。まるでチェックされるのを計算に入れた上で、パーティに出席したことの証人を製造している。そんな感じを受けました」
もう一人の刑事は逆に大塚に不利な情報をつかんできた。提供者は大塚とそりが合わずかねてから反目している作家で、さすがの大塚も彼の前は素通りしていったのだそうだ。
「無視されたことでカチンときたのかどうか知りませんがね、大塚と殺された小日向の間に、なにかの関係があったのではないか、という話を聞かせてくれました」
同席していた全員がその刑事の大きな口元に目をむけた。タタキやノビの前科を持つベテランの犯罪者の間では「蟇口」のニックネームで呼ばれているデカであった。
「その作家はパーティが始まる前の、ホテルのロビイでみんなが時間待ちをしているときの雰囲気が嫌いだそうで、なぜ嫌いなんだか作家なんていう連中の神経は解りかねますが、とにかくそういったわけで、会が始まった直後に顔をだすことにしているんだそうです。それまでは手近かの喫茶店に腰を据えて、時間をつぶしているのが毎度のことだそうで」
「変った男だ」
と一人の刑事が呟いた。
「いや、変っているお陰で情報がとれたんだ」
蟇口はたしなめるような目で同僚を一瞥した。
「その夕方も少し時間が早やすぎたので、銀座の喫茶店に入った。珈琲が旨いというんで通人の間で評判の店だがね。ところが、奥のスペシャルルームのカーテンが開くと、ひょっこり小日向がでてきた。そして、この作家の後ろ姿をみるとギクリとした様子になって出ていったというんだ」
「後ろに目があるのかね、その文士は」
「いえ、その珈琲店はぴかぴかに磨いた銀のポットを置いていくもんだから、表面が鏡の役をしたわけだ。で、スペシャルルームに入っていた以上、相手は女性だと思ったんだな、先生興味津々たる目つきで女が現われるのを待っていた。ところが五分ほどして出てきたのが大塚だったというのだよ」
「大塚が?」
「ああ」
「意外な話だな。もっと早く喋ってくれればいいものを」
「そういいたくなるのも無理はないが、大塚が疑惑線上に浮かんでいるなんてことはおれが行くまでは知らなかったんだから、責めたって仕様がないさ」
と、その刑事は情報提供者に好意を感じているとみえ、しきりに先方の肩を持った。
いままで大塚は、小日向とは視線が合えば目礼をかわす程度でそれ以上の関係はないと主張していたのである。しかしプライヴェイトルームで小日向と「密会」していたのが事実であったとするならば、彼等の間にはかなり親密なつながりが存在していたとみなければならない。しかも、それを極力隠蔽しようと努めているところに曰《いわ》くがありそうであった。
「丹那君」
「は?」
「ご苦労だがもう一度大塚を訪ねて話を訊いてきてくれないか」
と、鬼貫は押えた口調でいった。彼はどんな場合でも感情を表てにだすということをしなかった。喜怒哀楽をストレートに表現することに対して、なにやら恥らうような感情を持っているかに見えた。
「で、染物工場のほうはどうだった?」
「こちらのほうも芳しくありません」
老練な刑事は、鬼貫を真似たわけでもあるまいが、表情にとぼしい声で答えた。
「これが縁もゆかりもない市中の染物屋の話であれば、こっそり染め上げたやつを横流しすることも考えられるのですが、あの染物工場と『石舟』とは姻戚関係にあるわけですから、そういう出鱈目なことをやる余地がないのですね。型紙は、江戸っ子気質まるだしの主人が責任を持って保管しているというし、注文された分しか染めないから余分のものがでてくるわけがないといいます」
「染め損ないというやつがでるんじゃないかね?」
「はあ。主人の話によりますと上物は弟子にやらせずに主人自身が染めるんですが、問題の浴衣地も彼が自分で染めたのだそうです。そこは名人芸ですからヤレなんて出さなかったといってました。ヤレとは失敗作のことですけど……」
「そこの娘と『石舟』の息子とが結婚したといったっけね?」
「はあ」
「どんな夫婦だったかね?」
「わたしも、ひょっとするとドラ息子じゃないかなと思っていたんですが、案外にまともな男性でした。なんといっても、そこは芸術家の卵ですから、律義だの几帳面だなどといったタイプではないですがね。わたしが会ったときも、髪の毛がさがってうるさいといって、奥さんのストッキングで鉢巻をしていたくらいの人物ですから並みの人とはちょっと桁が違います。しかし、当人も奥さんのほうも正直そうな人柄でしてね、浴衣地をこっそり横流しするようなつまらぬことはしないといってました。夫婦そろって童話の本の挿絵なんかも描いていますから、収入の面でも恵まれていますし、経済的には安定もしています。小遣い銭をかせぐために不正なアルバイトをやる必要もない、という印象を受けました」
「なるほどね。すると『石舟』の浴衣が余分に存在するといった見方は捨てざるを得なくなるな。……丹那君」
「は?」
「あの浴衣が『石舟』内で盗難に遭ったということはなかったのかね? 盗まれるといった大袈裟なことでなくとも、物干し台から風にのって飛んでいったというケースもあるだろう。それが大塚の手に入って、やがて花時計のアリバイ工作に発展していくということも考えられなくはないじゃないか」
そのことについては、丹那も忘れずに「石舟」のおかみや女中に突っ込んで質問しておいたのである。
「盗まれたことは一度もないそうです。客種のいい旅館ですし、主として紹介されてくる客が多いようですから、そのようなえげつない事件は起きないといってました」
「なるほど」
「洗濯物は業者にまかせないで、毎日のように自分のところで洗っています。それを乾燥室で乾わかすのですから、突風で飛んでいくような心配もないのだそうです」
「解った。ことこの写真に関する限り、彼のアリバイは認めぬわけにはいかないようだ」
と、鬼貫は結論づけるように頷いた。
「しかし、だからといってシロだと断定するわけにもいかない。大塚と小日向との間にどんな関係があったのか、それを秘密にしておいたのはどんな理由によるものなのか、こうした点について首肯できるような説明がなされない以上は、やはり大塚はクロだということになる」
丹那は翌日の面会の約束をとりつけようとして何回かダイアルを廻わしたが、大塚は留守なのか仕事中なのか受話器を取り上げようとはしなかった。サラリーマンや商店主とちがい、作家というのは夜と昼とをとりちがえて暮している連中も少くないので、睡眠の妨害をせぬように、電話一本をかけるにも余計な苦労をしなくてはならない。
しかし、翌る日の正午に電話をするとすぐ当人がでて、屈托のない、むしろ上機嫌といってもいいくらいの声で、夕方からホテルに缶詰めになる予定だから、いまのうちに来てくれと答えた。相手がすぐにというので丹那は昼めしも喰わずに地下鉄にのった。
ルパシカ姿でベレをあみだにかぶり、その帽子の下からもじゃもじゃの髪の毛が乱れている大塚の姿は、推理作家というよりは絵描きを連想させた。この日は予報とは逆にどんよりとした曇り日で、大きな窓から眺めた東京という大都会のプロフィルには見るからに活気がなく、病んだ巨人という表現がそのまま当てはまりそうであった。天井には蛍光ランプがつけたままになっている。
大塚はいつもと同じように気軽に飲み物をつくってくれた。今日のはブルウマウンテインという上等の品だそうだが、丹那には上物とインスタント珈琲との違いさえ解らないのである。黙ってひとくち啜った。
「で、ご用というのは?」
「殺された小日向さんとあなたの関係について、もう一度はっきりしたことをお訊きしたいと思うんです」
おや、といった表情がちらりとうかび、すぐに消えた。全く予想外の質問であったらしいのである。
「今更そんな質問をされるとは……愚問ですな」
「関係はない、とおっしゃるのですか」
「勿論」
「パーティで視線が合えば目礼をかわす。その程度のつき合いしかない。そう解釈してよろしいですか」
「ええ」
「すると、例の授賞パーティが新橋のホテルで開かれるちょっと前のことですが、あなたと小日向さんが、銀座の『イスの王様』という喫茶店で密会した情報について、どう説明します?」
それまで薄笑いをうかべていた大塚は、この質問をされた途端に表情が一変した。薄笑いが顔にぺたりと貼りついたようになり、大きく見開いた目がかわいたように光を失った。右手で機械的に珈琲をかきまぜていたが、その動きも止めてしまった。
丹那はしめたと思った。これでとどめを刺すことに成功した。後は、彼の出方を待つばかりだ。
「……どうしました?」
「……どうしましたって訊かれても。ただ非常にびっくりした、それだけです」
彼は徐々に態勢をととのえているようだった。声に落着きがでてきた。
「誰がそんなことをいったのか知りませんが、出鱈目もいいとこですね」
「否定するのですか」
「勿論」
「昨夜この喫茶店にいってね、ウェイトレスに会ってきたんです。さすがに客商売だけあってよく覚えていましたよ。しかもあなたは特別室を予約した。だから記録にも残ってるんです。出鱈目なんぞではない」
「信じられない。全体がでっち上げだ。警察のお得意の手じゃないですか。第一にね、半年も前の客の顔を記憶している筈がないでしょう。わたしが無銭飲食でもやったというならともかく……」
「覚えていたことについてはそれなりの理由があるんです。あなたは予約する際に偽名を使った。他日の不利な証拠になることを恐れて変名を用いたのは用意周到ですが、マネジャーは小首をひねったわけですよ。大塚春樹ともあろう有名な作家がなぜ偽名を使おうとしているのか、とね。あなたが自分で考えているよりも、はるかに有名人であった。なんといっても顔が売れているんだから」
大塚はちょっと険悪な目をした。いつものにこにこした表情からは想像できないような邪悪な人相になった。しかしそれも一瞬のことで、とってつけたように以前の笑顔に戻ると、彼はいやいやをする幼児みたいに首を振った。
「なんといわれようと知らないものは知らないと答えるほかはないです。他人の空似に対していちいち責任を持たされるのはかなわない」
「他人の空似なんかではないです。あなたの同僚がちゃんと目撃しているんだから、見違えるわけがない」
丹那もちょっと意地わるく、執拗に追及した。大塚がすべての人に顔を覚えられるほどの有名人であるとはいえないが、マネジャーがミステリイをよく読んでおり、だからレシートを渡そうとして大塚に気づいたことは事実であった。ひと足先に帰った小日向の姿は見なかったので、てっきり女性とランデヴーをしたものと思っていたという。
「しかしねえ刑事さん、これは水掛け論です。仮りに一歩ゆずってぼくと小日向君とが会ったとしても、だからぼくが小日向殺しの犯人であるということにはならない。事件当日、ぼくが下田にいたことは明白な事実なんだから」
「明白とまではいかんですな。あの写真は別の日に写したものかもしれない。なんといっても、写してくれた外人が名乗り出てくれないことには、百パーセント信用するわけにはいかんのですよ」
「ぼくも小説のなかでは疑ぐりぶかい刑事を登場させていますが、現実の刑事ってそれ以上だなあ」
「それは止むを得ないことでしょうよ。こっちは生《な》ま身の殺人犯を相手にしているんだから、容疑者はとことんまで疑ってかからなくてはならない。あなたはあの写真を十月五日に写したと主張しているが、わたしにいわせれば六日にとったのかもしれないし七日にとったのかもしれないのです。着ている浴衣は間違いなく『石舟』のものだ。しかし、浴衣工場のほうへ手を廻わして、一着分を譲ってもらい、そいつを仕立てて着たということも考えられる。とことんまで疑ぐるというのは、そういうことです」
「かなわねえなあ!」
と、推理作家は独語した。口調は冗談めいているが、表情は真剣であった。落着きなく視線を移動させ、逃げ口上を考えるふうにみえた。
やがて彼は不意に顔を上げた。
「で、染め物屋ではなんといってます?」
「否定してますよ。だがそれを信用していいかどうかは別問題でね」
「そこまで疑ぐられたら処置なしだなあ」
また彼はひとりごち、卓上に肘をつくと、掌に顎をのせてぼんやりとした目付きになった。丹那は黙ってその顔を見詰めている。
「……仕様がない。隠しておきたかったのだがこの場合は止むを得ないでしょう」
「なにがです?」
「もう一つアリバイを証明する手段があるのですよ。ただし、そいつを公けにすると迷惑をこうむる人が出てこないとも限らない。だから、できるだけ避けようと努力していたんです」
非難するような視線を丹那にむけると、膝を組み替え、上体をイスの背にもたれかけさせた。
「ねえ刑事さん、ぼくがシロとなるためには、言い替えると現場まで往復できなかったことを証明するためには、どの程度の時間的制約が必要なんですか?」
「いうことがよく解らないが、現場まで往復するためには朝の七時前に宿をでなくてはならない。そして、夜の九時以前には戻ってくることが不可能です。つまり往復には最小限十四時間を要するわけだが、あなたが知りたいのはこのことですか」
「そうなんです、ありがとう。その点をもう一度確認しておきたかった」
彼は妙にリラックスした言い方をし、丹那をおや? と思わせた。
「前回ここで刑事さんとお会いしたときに、ぼくはアリバイを主張しました。事件当日ぼくは午前八時頃に宿をでて下田湾で釣りをすると、夕方の六時頃に戻ってきたといった筈です。あれから三ヵ月が経過していますが、じつをいうとぼくには、それを簡単に証明することができるのですよ」
「どうやって?」
「証人がいるんです。ある大きな出版社の、ぼくを担当してくれている編集者なんですが、平素いろいろと我儘をいったりしたものだから、慰安の意味でここに招待したのです。随分稼がしてもらったし、締切りを延ばしてもらったり約束の枚数をオーバーしたり、いろいろと迷惑をかけたりしましたからね。で、事件の前の日、というとつまり十月四日のことですが、この人は先に下田へやってきて市内を見物した後で、ぼくの到着を待っていた。ぼくはぼくで、ご承知のようにパーティに顔をだしたものだから、かなり遅れて『石舟』に着きました。お客さんを待たせてあったからこそ、遅くなったのをいとわずに下田へ行ったわけで、ぼく独りが釣りにいくのだったら、あの晩はこの部屋で一泊して、翌朝出発しましたよ。夜の十時に宿に着いても意味がないですからね」
「なるほど」
「都合二泊して、十月六日の午後の急行で下田を発ったのですが、ぼくが事件当日の午前八時に宿をでたことも、午後の六時に戻ったことも、この編集者が証言してくれます」
「いままで黙っていたのはなぜですか」
アリバイを小出しにするところが丹那の気にさわった。まるで愚弄されているように思えたからである。
「相手が女性だからですよ。三十過ぎの姥桜《うばざくら》ですがまだ独身です。男の作家と二人きりで温泉に行ったことが知れれば、口さがない連中からどんな噂をたてられないとも限りませんし、ひいては縁談の障害にならないとはいえませんからね。実際には部屋も離れてとったし食事も各自の部屋でべつべつにとったし、同行者であることを悟られないように努めました。多分、旅館側でも気がつかなかったろうと思います」
「それで慰安旅行になりましたか」
「温泉に入って旨い料理をくって、昼間は彼女が好きな幕末の歴史を勉強できて、ぼくがいなかったからといって、べつにどういうことはありませんよ。お陰様で楽しかったと、お世辞ぬきで礼をいわれました」
なんとなく納得の欠けた気持でもあったが、といって恋人同士の旅行とは違うのだから、二人の間にこの程度の距離をおくのは当然であるのかもしれない。これが良識だといわれれば、丹那としては反論のしようがないのである。
「なんという編集者です?」
「それはちょっと待って下さい。なんといっても当人の諒解を得てからでないとね」そういって早速ダイアルを回転させたが、生憎なことに先方は作家のところに原稿取りに出掛けて不在であった。
「それでは刑事さん、ぼくは一時間毎に彼女に電話をしてみます。彼女が証人になってくれるかどうかは言明の限りではないのですが、色よい返事であるにしろないにしろ、電話の結果は後刻あなたのほうに連絡します。そういうことで諒解ねがえませんか」
事態がこうなったことを残念がっているのか、彼はくぐもった声で刑事の同意を求めた。
丹那が問題の女子編集員と会ったのは、その日の夕方のことであった。神田神保町の古書店で本を探したいから、近くの喫茶店で待っていてくれないか、そこで話をしようということになって、指定された五時半に、丹那は鈴蘭通りの裏手にある珈琲店へ出掛けたのである。
赤い正チャン帽という目印のお陰で森川|初音《はつね》はすぐに判った。黄色いアノラックを着て、買ったばかりの古本をテーブルの上にひろげ、読みふけっていた。
森川初音は、初対面の人におおまかで好人物の印象をあたえずにはおかぬ顔付きをした女性だった。大柄で、女性特有のこせこせしたところがない。
早速、丹那は彼女が「石舟」に二泊した日付をたしかめ、それに間違いないことを確認した上で、一夜明けた十月五日の朝、大塚が釣りにでていった時刻を思い出してもらった。時刻が時刻だったので店内にはほかに客はなく、暇をもてあましたウェイトレスは香港フラワーのバラの花に鼻の頭を押しつけて、しきりに匂いをかいでいた。
森川初音はひと呼吸をおいてから、ゆっくりと考えた上で返事をするタイプの女であった。
「……やっぱり八時頃だったと思います。本来ならば休養のための旅行ですから、朝は思い切り寝坊をしたいところです。でも、史蹟廻わりという目的がありますから、ゆっくりはできません。七時に起きて、食事をとったのが七時半頃……。その後で、身仕度をととのえているところに大塚さんが顔をだしたんです。一人前の釣り師スタイルで……」
「一緒に釣りはなさらなかったのですか」
「|殺生《せつしよう》は嫌いですもの」
古風な言い方がおかしかったとみえ、白い糸切り歯をだしてにやりと笑った。
「下田には、見ておきたいところが沢山ありましたから」
「小説でもお書きになるのですか」
「ええ、勤めを止めたら作家になりたいと思います。ハリスの日記を見ますと、自分が領事として適任であるかどうか反省していますわね。敢えて問う、真に日本国の幸福になるであろうか、と。こうした学者肌のまじめな人がお吉を妾にして女道楽をするとは思えないんです。ですから、ハリスとお吉をもっと調べて正しい姿を描いてみたいと思って……。これを縦糸に壮大な維新小説を書きたいというのが念願ですわ」
「それは結構。出版されたら早速わたしも買いましょう。するとこの日はどこを見物して歩きました?」
「……ありふれたコースですけども、弁天島、玉泉寺、ペルリ提督上陸地、下田条約議定地なんかを廻わりました。ついでに日露条約締結の地だとかお吉のお墓のある宝福寺だとかも訪ねましたわ。なるべくバスやタクシーは利用しないで歩きましたから、かなり時間もかかりましたけど、空気はいいし、健康のためにはプラスになったと思います」
「曇った日でしたね?」
「ええ、生憎なことにこの日だけ曇りまして……」
「宿に帰られたのは何時頃でした?」
「六時に少し前だったかしら。お風呂からでて髪をいじっているときに、大塚さんが廊下から声をかけました。お部屋に入ってもらって、明日の下田発の急行の話なんかをしました。覚えているのはそのくらいですけど」
「食事は別室でとったのですか」
「いいえ。最後の晩餐だからというわけで、大塚さんが自分の部屋からお膳を運んできました。そんなに人目を忍んでこそこそやらなくてもいいのですけど、縁談にさしさわりがあってはならないというんです。おれの縁談だよ、おれ箱入り息子だからな、なんて笑っていました」
彼女は愉快そうに笑い、丹那もそれに調子を合わせて黄色い歯をみせた。
「往くときは別行動でしたね?」
「はあ。うちの社はあの授賞式には関係がございませんので誰もでませんの」
「なるほど。帰りは一緒ですか」
「はい、東京駅まで」
「作家が世話になった編集者を招待するという習慣があるのですか」
「……作家によりますわね。恩に着てくださる方もありますし、二、三年でお山の大将になってしまって、編集者なんて眼中にないという方もありますし……」
「大塚さんは前者ですか」
「そういうことになりますわね」
「こういっては失礼ですが、あなた自身、招待されるほど恩を売ったとお感じでしたか。恩を売るというのは適切でない表現かもしれませんが、わたしのいう意味はお解りでしょう?」
「……ええ。格別にわたしの社だけが大塚さんを優遇した、ということはございませんわね。そうかといって、大塚さんが編集者をもてなしておいて、うんと原稿の注文をだしてもらおうというような、えげつない下心があって招待なさったことにもなりません。仮りにあたくしが恩に着て、編集会議で大塚さんをもっと重用するように主張しても、決定権を持っているのは編集長ですもの。事実、この三ヵ月の間に、大塚さんにはまだ一度も作品をお願いしてはおりません」
「すると、立腹せずに聞いて頂きたいのですが、招待されたときに妙だなとは思いませんでしたか」
「……思いましたわ。あたくしだけ接待したのでは、ほかの編集者からそねまれるんじゃなくて? といいましたら、あとの連中は男ばかりだからバーでちょくちょく呑ませている、というんです。あたくしはお酒が呑めませんし、バーなんていう場所の雰囲気は嫌いですから、結局まあ、こんな招待の仕方になったのだと解釈しました」
「大塚さんの担当になって何年ぐらいになりますか」
「……三年になりますかしら」
指を折る仕草をしながら答えた。そうした動作の端にも、この女性が慎重な性格の持主であることが表われていた。丹那は内心、森川初音が偽証しているのではないかと疑っていたのだが、彼女の開放的な笑顔をみているうちに、そうした考えは霧散していった。
「大塚さんのところでは近々おめでたがあるそうですな」
ひょっとするとこの編集者と大塚とは愛人関係にあるのかもしれない。そうであれば彼女の証言も割り引いて聞かなくてはならぬ。丹那はそのように考えて、何気ない調子で、世間話でもするように切り出してみた。が、女性編集者は表情にひそかに期待していたような変化をみせなかった。
「それは初耳ですけど、なんだかほっとしましたわ。男というものは元来が不器用な生き物でしょう? それがお掃除したりお洗濯したりするのを見ていると、なんとなく不自然なのよ。大塚さんの場合も早く奥さんができるといいなあって思っていたんです」
「そういうあなたはどうなんです?」
「急に話がありまして、この秋にお式を挙げますの。当分の間は共稼ぎになりますけど」
白い歯をみせ、屈托な気に笑った。丹那の勘ぐりはまったく見当はずれだったのである。この女流編集者には、大塚のアリバイを偽証しなくてはならぬ事情はなに一つないようにみえた。
「ところで、先程の電話では、そのとき一緒にとった写真があるということでしたな?」
「おことわりするのを忘れましたが、白黒なんです」
「白黒で結構」
と、丹那はそつなく応じた。編集者はバッグの口金をはずすと白い手を突っ込み、社名の入った封筒をとりだして、テーブルの上で逆さに振った。何枚かの写真がパラリと落ちた。大半は下田の風物をとったものだが、そのなかの一葉が問題の写真であった。
「大塚先生が写っているのはこれ一枚きりなんですけど……」
手にとってしげしげと見つめた。二人の背後には、丹那も見覚えがある「石舟」自慢の石の一つがニョキリと立っている。森川初音はスラックス姿の軽装でヒールの低い靴をはき、ズックの鞄を肩からさげていた。大塚は竿とビクを持ち、浴衣に半纒を着た例のスタイルである。二人とも目と口のあたりにごく自然な笑みをうかべていた。大塚はレンズから目をそらしてあらぬ方を見ている。
「セルフタイマーですか」
「番頭さんがシャッターを切ってくれました」
「一緒に出かけたのですか」
「ええ、バス停まで。あたくしはバスの来るのを待って市内へ行きました。大塚さんは海岸へ降りていきましたわ。腕前を見てもらえないのは残念だなあといって……」
「獲物は何でした?」
カイズが十匹釣れたということを忘れたわけではないが、敢えて訊ねた。
「カイズが十匹ちかくとれたといってました。カイズってどんなお魚か知りませんけど」
「持って帰らなかったのですか」
「釣るそばから、海のなかへ投げてやったんだそうです。釣り上げる一瞬の期待と興奮のいりまじった気持が楽しいのであって、喰べるために釣るのではないといってましたわ」
丹那は黙ってこっくりをすると、機械的に珈琲をかきまぜた。うまい遁辞《とんじ》だと思う。
「これをね、二日ばかりお借りしたいんですがどうでしょう?」
「どうぞ。差し上げますわ」
なぜ写真が入用なのか。なぜ大塚のことをしつこく訊くのか。そうした質問を、彼女は唯の一度もしなかった。おそらく、前以って大塚から電話連絡があったものに違いない、と丹那は思う。そして推理作家の宿をでた時刻が八時過ぎであったことを確認して、この会見を終りにした。バスの発車時刻が八時十分であることを、彼女が記憶していたのである。
ふたたび丹那は下田へ向い、「石舟」を訪ねて、借りてきた写真を従業員に見てもらった。その結果、森川初音が二泊したことは間違いない事実となり、同時に、大塚のアリバイは一段と強固さを増していった。
二度目の下田旅行から戻ったのは九時を過ぎた頃であった。同僚の刑事はすべて帰宅した後で、鬼貫だけが待っていてくれた。
「やあ、ご苦労さん」
顎の張り出したこの上司は笑顔で丹那をねぎらうと、二つの湯呑みに番茶をそそいだ。そして熱いお茶をゆっくりと飲みながら、丹那の報告を聞いた。こうした場合に、途中で決して口をはさまないのが彼の流儀である。
「……なるほどねえ。そうなると大塚のアリバイを認めざるを得ないわけか」
報告を聞き終わると、彼はぽつりといった。
「しかしわたしの印象は逆にクロですね。アリバイが完全すぎることに引っかかるのです。否定するデータがないものですから、止むなくシロであることを認めざるを得ない、というところです」
「釈然としない理由は?」
「花時計のアリバイが作為的でありすぎる点ですね。外人がポラロイドでとってくれた、しかもその外人は旅行者で何国人だか見当もつかないというんです。ヒゲづらということにしているのも、そのために人種的な特徴をつかめなかったという逃げ口上にする布石だと思います。とにかく、考えぬいた偽アリバイの感じが濃いのですよ」
「なるほどね」
「もう一つ、これは理屈ではありませんが、彼の目ですね、写真にうつっている彼の目はどれもこれも、といってもまだ二枚しか手にしたことはないのですけども、その二枚が二枚ともレンズから視線をそらせているんです。これが気に喰わんのです。わたしの経験からすれば、こうした目つきをする人間は腹黒いやつか、心にやましいところのあるやつです」
「ちょっと花時計の写真を見せてくれないか」
丹那がとりだしたカラー写真を、鬼貫は初めて見るように熱心にかつ丹念に、時間をかけてチェックした。
「初歩的な質問でなんだけれども、ここに写っているのは間違いなく下田の風景なのだろうね?」
「ええ。間違いありません。下田駅の乗車口に面したロータリイです」
「ふむ。……曇っているね?」
「はあ。気象庁に訊ねてみましたら、静岡地方の当日の記録は『北東の風、曇り』となっています。もう少しくわしくいいますと……」
と、彼は開いた手帖に目を落した。
「低気圧が紀伊半島の南と関東のはるか東海上にありまして、ともに東進しています。一方、北海道付近には高気圧があって東南東に移動していたそうで、全国的に雲が多かったという話です」
「その前後の日はどうだったか、訊いたかね?」
「ええ。去年は夏から秋にかけて晴天がつづきましたね。この写真をとった日の前後もずうっと晴天ばかりだったそうです」
「なるほどね」
頷くと、鬼貫は自分の手帖のページをくって、しばらく黙って読んでいたが、やがて顔を上げると低い声で独語するようにいった。
「もう一度、指輪を紛失した会員についてチェックし直してみるかな?」
「はあ」
「画家の林金助の場合はホステスが指輪を所持していたから除くとして、まず湯島貂人だが、彼は盗難に遭ったと称していたっけね?」
「そうです。しかし事件当日は編集者と一緒に自宅にいたことが明らかになっています」
「そうだったな。で、話はパーティをした日のことに戻るが、招待客のなかに大塚はまじっていなかったのかね?」
「それについても訊ねてみました。顔は見知っているけれど、パーティに呼ぶほど親しくはないそうです」
「ふむ」
「大塚という男は作家仲間とはあまり深いつき合いをしないようです。そのかわり、一流雑誌の記者とは非常に親密ですね」
「なるほどね。割り切った考え方をする男だな」
鬼貫はちょっと考え込むふうだったが、それ以上は大塚のことに触れずに、手帖に目をおとした。
「つぎは科学小説の音羽徹だが、これはニューギニアに滞在中だったことがはっきりしているね?」
「ええ。指輪はいつ何処で紛失したか全く記憶にないといっています。推理作家仲間の会合にでるときはめていくことにしているが、近頃はほとんど出席しないので、指輪を手にする機会がなかったというのですね。したがって紛失に気づくのも遅かったわけです」
「なるほど。つぎは関口みず江で、これは北海道旅行にいっている」
「そうです。証人はとかくの評判がある商社に勤めている男ですが、このアリバイ証言に関する限りは信用してよいと思います。指輪について関口みず江は、海水浴中にぬけてしまったというふうに説明しているんですが」
「それは訝しいと思うな。水にひたっていれば指だってふやけてくるから、逆にぬけにくくなるのだろうにね」
「当人の話では、注文した際のサイズを間違えたらしくて、出来上ったものは最初からゆるかったのだそうです。しかし装飾品としての指輪ならともかく、一種の紋章みたいな特殊の指輪ですから直してもらうのも面倒で、そのままにしておいたというふうに説明しています」
「すると彼女も推理作家の会合に出席しているのかね? たしかバーのホステスだったんだろう?」
「いえ、会員じゃありません。しかし親しい作家にすすめられて、変っていて面白そうだから注文する気になった、といっています。客とホステスがしらふで話をするとは考えられませんから、互いに酔っていたのかもしれないですが」
「会員なら会合がある度にはめて出るということは考えられる。音羽徹が語ったようにね。しかし会員でもなし会合にでる機会もなし、しかもゆるくてブカブカだったという指輪を、海水浴にはめていったというのが訝しいね?」
「手元不如意だったため売るつもりで持って出たといってるんですがね。しかし値段の折り合いがつかなかったので売ることは思い止まった、と」
「そう、たしかそんな説明をしたっけね。だが、指輪とはいうものの、あれは会員章みたいなしろものなのだからね、潰したところで大した値になるものでもなかろう。ドイルの像がはめ込まれているところに値打ちがあるにすぎない」
「そうですね」
「世間の事情にうとい女性であれば話はべつなんだが、世故にたけたホステス業の彼女がだね、潰し値のことを知らなかったとは信じられない」
「同感です。一緒に泳いだホステスも、関口みず江が指輪を失くしたのは事実だといってますけど、ぐるになって嘘をついているのかもしれませんし、みず江が打ったお芝居を本気にしているのかもしれんです。こうなりますとやはり……」
「やはり何だね?」
「彼等のアリバイがすべて事実であると仮定しますと、犯人はべつにいることになります。ことわるまでもないですが。その犯人Xは、問題の指輪を偶然の機会に拾うかどうかして、屍体遺棄の際にそれを現場にころがしておいた。あるいは、指輪を計画的に盗んでおいて今度の犯行に利用した。いずれの場合も嫌疑を指輪の持主に転嫁するためですけども、もう一度この線を洗いなおす必要があるのではないでしょうか」
「それはぼくも考えないではなかったがね」
手帖を閉じると目を丹那にむけた。
「この場合の犯人の目的は犯行を第三者にかぶせることにあるわけだが、そうだとすれば、指輪のレリーフといった顕微鏡《けんびきよう》的な小さな品物を落すのは訝《おか》しいじゃないか。幸いにしてわれわれは拾い上げたから目的にかなったことになるが、うっかりすれば見逃すところだった」
「そうでしたね」
「更にだよ、拾ったことは拾ったけれど、われわれはすぐにレリーフの正体を追及するということはしなかった。大した価値を認めなかったし、興味も抱かなかったからね」
「そうですね」
「だからXとしてはもっとはっきりと目立つ物を、例えば、陳腐な考え方だが嫌疑をかけようとする相手のライターだとかハンカチだとかを遺留すべきだったんだ。あるいは名前入りのハンカチ、手帖、定期券入れなんかのほうが一段と効果的だろう。係官の目をひかずにはおかないもの、そして発見した以上は係官の興味をあおり立てずにはおかぬもの、それが最低条件になる。あのレリーフは、その点からいうと失格だ」
丹那も同感である。
「仮りに一歩譲ってだね、Xが第三者に嫌疑を転嫁する目的でレリーフを落しておいたとしてみよう。ともかくわれわれはそれを発見しているのだし、遅蒔きながらその重要性に気づいたのだから、ことはXの期待したとおりに進行したわけだ。ところで、Xが犯人に見せかけようとした指輪の持主に、小日向殺しの動機がなくては意味がない」
「ええ」
「しかるにだよ、音羽にしろ湯島にしろ関口みず江にしろ大塚にしろ、小日向とは全く関係がない連中なんだ。大塚と小日向とはプライヴェイトルームで密かに会っているのだから、秘密の関係があったことは確かだけれど、これは偶然に目撃されて判ったことなのだから、ここではそれを無視して話をすすめる。さて、作家達はなにかのパーティでこのカメラマンと顔を合わせることもあるだろうが、それも目礼を交わす程度で、関口みず江にいたっては会ったこともない間柄なんだよ。動機には金銭をめぐる利害関係、女性を間においた愛情のもつれ、その他もろもろあるが、小日向と彼等との間には殺人の動機とみなされるようなものは何もない。だからXが拾った指輪もしくは盗んだ指輪を利用して犯行を転嫁したところで、動機が存在しなければ、その計画は成功するわけがないのだ」
そこまで論駁されると、丹那としては相槌の打ちようもない。
「もう一つ否定材料がある。林金助を除いたあとの四人の男女のうちで、犯人は誰を偽装犯人に仕立てる気でいたかは知らないが、例えば関口みず江の犯行に見せかけようとするならば、前以って彼女のアリバイを潰しておかなくてはならない。ところが彼女ばかりでなく、四人が四人ともアリバイを持っているんだ」
「…………」
「アリバイを潰すという表現は適切でないかもしれないが、要するに、いざとなったときに湯島なり関口なり音羽なりがアリバイを立証しようとしても証明し得ないような状態に陥るように、あらかじめ工作をしておかなくてはならない。その痕跡が皆無であることからみても、Xなる犯人の存在は否定されてしまう」
「すると結論は、指輪を落したものが犯人であるという――」
「そう。あの四人のなかに犯人がいるということだ。言い換えれば、彼等が示した四通りのアリバイのうち、どれか一つは偽物だということになるんだよ」
丹那はもう一度頭のなかで四人の男女のアリバイを思い泛べてみた。大塚春樹のアリバイは自分が手掛けたものだから、自信を持って本物であることが断言できる。とするならば、湯島、音羽、みず江のアリバイのうちに偽物がまじっていることになるのだろうか。
「先程ぼくは、関口みず江がなぜ海水浴をするのに指輪をはめていったのかという疑問を問題にしたが、同じことが犯人についてもいえるんだ。第二現場へ屍体を遺棄しにいくのに、身分証明書ともいうべき指輪をなぜはめたままで出掛けたのか」
「…………」
「洒落や酔狂で屍体運搬をやるわけじゃない。現場に所持品を落としたら命取りになるという切羽つまった情況下にあるのだ。指輪ばかりでなく、ボタン一個なくすわけにはいかないのだ。だからあの場合の犯人としては、名刺や定期券などが入っている上衣をぬぎ、腕時計をとり、指輪をはずすぐらいの用心をしてしかるべきだと思うのだが」
丹那はちょっと小首をかしげた。
「犯人がそれほど用心ぶかい男だったでしょうか」
「だと思うね。彼はありきたりの人間じゃないんだ、原稿用紙の上ではあるにせよ、完全犯罪と取り組むことを職業としている推理作家もしくはその近辺にいる人物なんだ。われわれは狐みたいに悪賢い敵を相手にしているのだよ、そのくらいの用心をしなかった筈がないんだ。さてそう考えてくると、彼もしくは彼女が指輪をはずさずに屍体を搬んでいったわけは……」
鬼貫は言葉を切ると丹那の顔を見詰めた。
「……抜きたくとも抜けなかった!」
「そうだ丹那君、そう考えるほかはない。あのホステスのケースとは逆に、指輪が出来てきたときから窮屈だったのかもしれないし、あるいは中途で体が肥りだすとともに指まで太くなってきたのかもしれない。いずれにしても、昨今では抜きとることができない状態にあるんだ」
手帖をポケットにしまい込みながら、鬼貫はつづけた。
「ところでね、彼がその頃からすでに小日向殺しの計画を練っていたなら話はべつだが、そうでなかったとすると、指輪が窮屈であることを秘密にする必要もない。だから、指輪がぬけなくなった現象について、知人や友人達と雑談をする際に喋ったこともあるのじゃないかと思うんだ」
「そうでしょうね。話の間《ま》が持てなくなったときなんか、恰好の話題になるでしょうから。解りました、編集者や作家仲間を尋ね廻わって、音羽、湯島、大塚の三人のうちで指輪が抜けなくなったとこぼしていたのは誰であったか、それを訊き出してきます」
「あるいはもっと直截に、四六時中あの指輪をはめていた会員に心当りがあるかどうかと質問したほうが早いかもしれないね。会合に出るときにはめるものを、仕事をする際にもはめつづけている作家がいたとすれば、雑誌記者の印象に残るだろうからね」
「解りました」
そのときの丹那の心にうかんでいたのは、瘠せて丈の高い、髪の毛のちぢれた編集長のことだった。彼ならば何でも知っているに違いないし、積極的にではないにせよ、情報を提供してくれるに違いない。丹那は、推理小説界に通じているこの実直そうな編集長に、好意に似たものを感じていた。
スバル書房の前に立った丹那は、陽に焼けた顔にとまどった表情を泛べてあたりを見廻わした。玄関の扉や建物の窓ガラスのいたるところに赤い紙が貼りつけられ、「スト決行中」とか「要求貫徹」「断乎斗争」といった固いひびきの文字がしるされてあったからだ。上を見ると、蒼空をバックに数条の赤い旗が翩翻《へんぽん》とひるがえっている。
ストライキとは知らなかった、こいつはまずいときに来たもんだ。そう思いながら玄関に入って受付に声をかけた。あの無愛想な守衛も今日は赤い鉢巻をしめ、左の腕に赤い腕章をつけて、普段よりもいっそう棘々《とげとげ》しい目つきで丹那をみた。
「スト中でね、みんな講堂に集って抗議集会を開いてます」
口調もとがっている。守衛は丹那の顔を覚えているようだった。同時に、丹那が刑事であることも記憶しているに違いなかった。そう思うせいか、彼の小さな目は、「この資本家の犬めが」といわぬばかりに丹那を睨んでいるように見えた。
「編集長の高田さんに会いたいのですが、集会が終るのは何時頃だろうな」
「高田さんなら集会にゃでておらんよ。管理職だからね」
「そいつは結構。わたしは丹那です」
「そう、警視庁の刑事さんだ」
といって、鉢巻の守衛は針をふくんだ目で丹那を見返した。
エレベーターを六階でおりると、階段のほうからアジ演説がとぎれとぎれに聞えてきた。丹那はそれにちょっと耳を傾けながら、おれだって薄給なんだ、と思った。
広い大きな編集総局のあちこちに、管理職の編集者がぽつんと坐って机に向っていた。高田編集長はいちばん奥の席で入れ歯がおちそうな大口をあけ、誰はばかることなしに欠伸《あくび》をしているところだった。目と目が合うと、彼はそのままの恰好で丹那を手招きした。
「やあ。今日はまた何のご用ですか」
「作家の噂をお訊ねしたいと思いまして」
イスに坐った丹那は好人物そうに歯をみせて微笑した。風采《ふうさい》の上がらぬ彼の顔は、そうした表情をすると村夫子然《そんぷうしぜん》とした朴訥《ぼくとつ》そのものになり、相手に安心感を与えるのであった。丹那自身、それを意識して利用する傾きがある。
編集長の高田市兵衛は赤インクのペンを鼈甲《べつこう》まがいのペン皿にころがし、さてというふうに向き直った。ストのせいか睡眠不足のような、生気を欠いた目をしている。
「大変な騒ぎですな」
「殺気立っていけません。ストをやるのはいいんですが、職場の雰囲気がギスギスするのはいやなもんでして……。剣舞をやるんじゃないんだから、鉢巻はとったほうがいいと思うんです。あれをやられると経営者側は果し合いでも挑まれたような気持になりますな」
編集長は管理職らしいぼやきを洩らした。
「で、誰の噂ですか」
「ちょっと妙な、というよりも滑稽な噂になるんですが、例のドイルの指輪ですね、会員のなかで、あれをはめているうちに抜けなくなったという人はいませんか。つまり、指が肥ってしまったとか……」
「待って下さいよ。誰かからそんな話を聞いたことがあったっけな。……あれは、そう、大塚さんでした。大塚春樹さんという現役の推理作家です。この人の名はご存知でしたっけかね?」
「あの有名な……」
と、丹那はとぼけた。確定的な返答をしてよいかどうかの判断がつかぬときは、とぼけるに限るのだ。そして胸中でやはり大塚か、と思った。半ば予期したことでもあったので驚くことはなかったけれども、いざそのことが高田編集長の口から語られると、やはり緊張するのである。
だが丹那はポーカーフェイスを崩さずに、何気ないふうに問いかけた。
「ずばりお訊きしますが、大塚春樹さんというのはどんな人でしょうか」
「写真をお見せしましょうか」
「顔は判っています。わたしが知りたいのは大塚さんの人間像ですよ。性格とか人間関係とか。わたしが訪ねたときは独身のようにみえましたが……」
「うちは推理小説の専門誌ですから、一般的にいって推理作家とのつき合いは深いといえますが、わたし自身は大塚さんのことは余りよく知らないんです。大塚さん担当の編集者は、生憎なことに不在でしてね。集会に参加しているんです」
「あなたでも、多少のことはご存知でしょう? 推理作家には変り者が多いという話ですが」
と、丹那は誘導をこころみた。
「変り者がいるのはどの世界でも同じことじゃないですか。むしろ推理作家はノーマルな人が揃っているように思います。大塚さんも人当りのいい明朗な人間ですね。社交家肌といいますか、テレビから出演をたのまれれば二つ返事で承諾しますし、雑誌のグラビアに写真をのせたいと申し入れれば、これまた二つ返事でカメラの前でポーズをとってくれる。顔を売るということは宣伝になりますから、それだけ読者はふえる、読者がふえれば小説は売れる、小説が売れれば、ご本人はいうまでもありませんが出版社のほうも喜ぶわけでして、究極的には出版社サービスにもなるんです。つまり、われわれの側からしますと協力的といいますか、歓迎すべき作家ですな」
なるほど、編集者には評判のいい男である。
「打ち明けたことをいいますと、あなたもご存知の小日向事件ですが、一部の人の間で、大塚氏が絡《から》んでいるのではないかという声があるんです。わたしとしては信じられないことですけれども、そういう噂が耳に入った以上は放っておくわけにはいきません。それでお邪魔したような次第ですが、どうでしょう。人間である以上、大塚氏にしろ誰にしろ欠点はある筈ですが……」「絡んでいるというのは、具体的にいってどんなことでしょうか」
事が事であるだけに、編集長はまじめな表情で問い返してきた。
「具体的にいうことはできないんですが……」
「大塚さんが犯人だということでしょうか」
「いや、まだそこまでは……」
と、丹那はわれながら歯切れのわるい返事をした。
「欠点の有無はさておいて、いまのお話は冗談でしょうね?」
「なぜです?」
「大塚さんが小日向さんを殺したりなんかするわけがないからです。深いつき合いさえない二人の間に、殺したり殺されたりするような深刻な動機があるとは考えられないのですよ」
「どうしてつき合いがないと断定できるのですか」
喫茶店のスペシャルルームの件は伏せておいて、そう質問した。
「どうしてかと訊かれると説明に困りますけど、こうした仕事をしていれば、誰と誰とが不仲だとか、誰と誰とが釣り仲間だとか、そうした情報はひとりでに耳に入ってくるものなんです。ですから、大塚さんと小日向さんとが、パーティやバーなんかで顔を合わせても、儀礼的に目礼をかわす程度だぐらいのことは知っています。それに、うちで主催した大塚さんの出版記念会に小日向さんは顔をみせなかったし、小日向さんが写真の個展をやったときには大塚さんに招待状をださなかった筈です。そうだ、ちょっと待って下さい」
そういうと机のなかから手帖を取り出してページをくっていたが、やがてなにかを確認したように、自信のある顔つきを丹那にむけた。
「いままでにうちから大塚さんの著書が何冊かでています。その度に友人知人に本を贈呈するんですけれども、小日向さんには唯の一度も送ったことがありませんな」
「どうもはっきり呑み込めないですが」
「つまりです、よほどの吝嗇《りんしよく》な人はべつですけど、大抵の作家は新作ができたときに親しい人あてに本を贈ります。二十冊ぐらいの人から百冊を越える人まで、作家によって数は異りますが、ともかくそうした習慣があるんです。といって、その場合作者が本を買って帰っていちいち包装するんじゃない。出版社にこれこれ宛てに送ってくれというリストを渡しておけば、出版社側が代行して発送するんです。しかも宛先が国内であれば出版社の側で送料を負担することになっておりましてね。ですから大塚さんの場合も例外ではなくて、毎回贈呈者のリストをもらうのですけど、そのなかに小日向氏の名前は一度も挙っていません。言い替えれば、両氏の間に深いつき合いがなかったことにもなるのですよ。大塚さんは気前のいい人ですから、いつも七、八十冊は贈呈しています。そのなかに小日向氏が一度も入っていないとすると、つき合いがなかったと考えていいと思うんです」
「なるほどね」
と、丹那は頷いてみせた。だが自著を贈らなかったからというだけで両人の間に関係がないと考えるのは速断ではないか、と心のなかで丹那は思った。小日向が推理小説嫌いだったというケースもあるし、あのプライヴェイトルームの件から想像されるように、二人の間のことを秘密にする必要もある。あるいはまた、二人が接近したのは新著がでた後のことだったかもしれない。
「それにしても八十冊も送るとなると、出版社としては包装するだけでも大変ですな」
「いや、それを請負ってくれる商売がありましてね、そこへ一切を委すということになるんです」
「そんな業者がいるとは知りませんでしたな」
「ご存知ないことはいろいろあると思いますよ。例えばこの本……」
机の上の部厚い大型の書物を、瘠せた編集長は力んだ顔で持ち上げると、丹那の前にどさりとおいた。表紙をひろげたところに毛筆で著者のサインが入っている。丹那も少年時代に愛読した、有名な漫画家の復刻版であった。刑事の目がにわかになごんできた。
「や、懐しいですなあ」
「おや、刑事さんもお読みでしたか。わたしも熱心な読者でしたよ。これも社から出版した本なのですが、一万部の限定で、全巻に著者の署名が入っています。この大きな本を一万冊も運んでサインをして貰うには小型トラックを少くとも二台動員しなくてはなりませんし、だいいち、そんな沢山の本を運び込んだのでは著者の家の床がぬけてしまいます。どうしたと思いますか」
「ここへ足を運んで貰ったんじゃないですか」
「若い作家ならともかく、大家ともなるとそんなことは頼めません」
「はて……」
小首をかしげた丹那を、編集長はにやにやしながら眺めていた。
「解りませんか。コロンブスの卵みたいな、じつに簡単なことなのですが」
「さあ……。そういわれても……」
「つまりですね、署名をする扉の用紙のほうを一万枚用意して、著者の家に届けておくのです。著者は暇をみてそれにサインをされる。一万枚の署名がすんだところで担当者が受け取ってくると、それを製本屋に廻わして綴じ込んでもらうのです。したがってトラックなんて大袈裟なものは必要としません。担当者一人で充分なわけですよ。タクシーを拾えばいいのです」
編集者の間では常識的なことなのかもしれないけれど、丹那は、手品のタネ明かしをされた子供のように目をかがやかした。なるほど、そんな手があるのか。
「正しくコロンブスの卵ですな。説明されてみればそのとおりでしょうが、自分で考えたのでは一週間かかっても答がでない」
丹那は感心したように笑った。道によって賢しというが、まったくそのとおりだと思う。
「ところでもう一度お訊ねしますけど、大塚氏に欠点があるとすれば何でしょうか」
「どうもそういった種類の質問は苦手でして……」
高田編集長は迷惑そうに小さな顔をしかめると、ちぢれた髪にほそい指を突っ込んで、乱暴にかき廻わした。
「そりゃ誰にでも欠点はあるでしょう。パーティなんかに出席したときは人も羨むおしどり夫婦をよそおっていながら、一歩家に入ると奥さんをぶん撲るご亭主もいます」
「いまどきそんな怪しからん作家がいるんですか」
「作家といっても推理作家ではありません。それはともかくとして、奥さんを撲るのはまだいいほうです。奥さんにぶん撲られる亭主もいるんですから。尤も、この人はとうとう離婚しましたがね。……はて、何の話をしていたんだっけ?」
「大塚氏の欠点について、です」
それを聞くと編集長はまた苦い顔になった。
「刑事さんは本気で大塚さんが犯人だと考えておいでなのですか」
「そういう声がある、というのです」
丹那が重々しい口調で答え、高田はちょっと黙り込んだ。
「……大塚さんにも欠点はあることと思いますよ。しかし、編集者対作家の交渉というのはあくまでも表面的なものでしてね、家庭内のことまでは知るすべもないし、知る必要もないわけです。それ以上のことをお知りになりたければ、他に適任者がいるんじゃないですか」
「適任者というと誰ですか」
「われわれ編集者は残念ながらそういう質問に直接的にお答えするわけにはいかないのです。だって考えてもご覧なさい、大塚犯人説が誤解であった場合、わたしが教えたということがご本人の耳に入ったなら、大塚氏が不快に思うのは当然です。その結果としてうちの雑誌に執筆を拒否されることもまた当然至極です。なにしろ将来を嘱望されている、いわば金の卵だともいえる作家ですからね、下手をすればわたしが責任を問われ左遷されかねません」
「弱りましたな。あなたが左遷されてはわたしも寝覚めがわるい」
と、丹那は歯をみせて笑った。鋼鉄の扉でさえぎられているせいか、この編集局のなかは静り返ってシュプレヒコール一つ聞えてはこない。そうっと見廻わすと、ほかの編集者達はそれぞれの仕事に身を入れており、丹那達の対話にはまるきり無関心の様子だった。
高田編集長は茶をくんできて湯呑みの一つを丹那にすすめ、まるで世間話でもするような調子で語り出した。
「刑事さんが洒落や冗談であんなことをいわれたとは思いません。坂下さんの犯行ということでケリがついた筈の事件をいまになってほじくり返そうとするからには、かなりはっきりとした根拠があるに違いない。となると、わたしも単なる傍観者ではいられなくなります。いやでも捲き込まれてしまうのです」
「どうもおっしゃることの意味がよく解らんですが」
ひと呼吸入れた編集長は、大塚春樹が近く原まち江と結婚する予定であることを告げ、丹那を驚かせた。
「大塚さんが事件に絡んでいるというのが具体的にどんなことであるかを確めようとしたのは、裏面にそういう事情があるからです。仮りに大塚さんの犯行だったとしますと、婚約者の原さんは大きなショックを受けます。そうでなくても、従兄の坂下さんが殺人犯だというのでかなり参っている筈ですから」
「なんですって?」
「原まち江さんとカメラマンの坂下護さんとは従兄妹《い と こ》同士なんです。それも非常に仲がいいのですね。ですから坂下さんのことを自分の兄さんのように親身になって心配しまして、いまでも週に一回は名古屋へ面会にいってるそうですよ」
「そいつは初耳です」
「でしょうな。ですから、そこへもってきて、婚約者が殺人犯だったということを聞かされたら、彼女が受ける精神的な打撃はわれわれが想像する以上のものがあると思うのです。しかしそれはまだいい。結婚した後で自分の夫が殺人犯であることを知ったら悲劇です。場合によっては発狂してしまうかもしれません。わたしが腕をこまねいて傍観しているわけにはいかないといったのは、こうした事情があるからですよ」
「原まち江さんをご存知なのですか」
「え? ええ、偶然なことから知り合いになりました。大塚さんと原さんが銀座のビヤホールにいるところへ、わたしが入っていきましてね、一緒に呑んだことが始まりなのです。まち江さんはスポーツマンタイプの、それでいて優しい面のあるいいお嬢さんでしてねえ。ですから仮りに大塚さんの犯行だとしたら、わたしはなんとかして二人の結婚をぶち壊わさなくてはならないと思うのです」
「どういう方法で?」
「それはまだ考えていません。もっと冷静になってからでないと……」
言葉を切り、編集長は肩をおとして深い吐息をした。彼はその方法を思いつけないといっているが、丹那には明快な解決法がある。小日向殺しが大塚の犯行であることを立証しさえすれば、彼が好むと好まざるとにかかわらず、婚約は破棄される筈だからだ。
丹那は白い湯呑みにつがれた茶をひとくち含むと、上目づかいに相手を見た。
「大塚氏の女性関係を聞かせて頂けませんか」
大塚の内面について知るには、捨てられた女性に当ってみるのが早道である。同棲したことのある女性ならば大塚の内側についてかなりの知識を持っているだろうし、もしそれが一方的に捨てられた女であるとすると、男の悪口を喋りたくてむずむずしているに違いないからだ。
「彼が三十の半ばになるまで女っ気なしだったとは信じられないのですが……」
「まあそこは男ですからね、大塚さんが過去において二、三の女性と交際があったといって、それだけのことで非難するわけにはいかないでしょう」
と、編集長は笑顔をみせた。男性が男性の浮気に対して寛大なのは、自分もよろめく可能性があるからにすぎない。決して度量が大きいからではない、というのが丹那の考え方であった。
「交際があった女性というのは誰と誰ですか」
「複数の女性がいたということは聞いていますが、わたしが知っているのはそのなかの一人だけです。うちで出している女性週刊誌に彼女の写真がのったことがありました。それで知ったわけでして、流行歌手なんです」
「写真がでたというと、かなりの人気者でしょう?」
と、丹那は当然の質問をした。
「それほどの歌手ではなかったですな。当時すでに大塚さんの愛人でしたから、大塚さんの推薦《すいせん》で記事になったわけです。そうした事情がなければ、グラビアに取り上げられるような人気のある人ではありませんでしたね」
「何という名の歌手です?」
「本名は知りませんが、芸名は向ケ丘やよいといいます。本人はなんとかいう音楽事務所に属していますから、巡業中でなければ会える筈です。事務所の所在はあとで芸能記者に訊いて上げましょう」
「そいつはどうも」
かるく頭をさげた。
「向ケ丘やよいさん……と。あんまり聞いたことのない名ですな。この世界は運と宣伝だといいますから、伸びる伸びないはマネジャーの腕次第でしょうが」
「宣伝と運と才能です。ところがこの人には才能がなかった。ドレミファを歌うとだんだんさがっちゃうという笑い話がありますが、それに近いんです。音程がふらついています。その上、楽譜が読めない。これでは職業歌手とはいえませんからな」
編集長は湯呑みを手にすると、ゆっくりと時間をかけて喉をうるおした。
「ひとむかし前に、トランジスターグラマーという言葉がはやったことは刑事さんもご存知でしょう? 彼女は文字どおり小型なグラマーでしたけど、いくら美人でも、歌手の世界では実力がなくては通用しません。向ケ丘やよいも最近は落ち目だ、という人がいます。でもわたしにいわせれば、デビューしたときから落ち目でした」
流行歌が好きらしいこの編集長は、なかなか辛辣《しんらつ》な批評をくだした。
「どういう理由で別れたのでしょう?」
「それは向ケ丘さんにお聞きになって下さい」
予期したとおり、編集長は逃げの手を打った。
十 別れた女達
やっとのことで向ケ丘やよいと連絡がついたと思ったら、彼女は十六時三十分発の寝台特急“さくら”で九州巡業に出発するという。帰京するのは十日後になると聞かされて、それまで腕《うで》を拱《こま》ねいて待っているわけにはいかなくなった。そこで出発前のあわただしい時間を無理にさいて貰い、東京駅の地下街にある喫茶店で会うことに決めた。指定された時刻は午後の四時である。
「一分でも遅れたらいっちゃうわよ」
そうダメを押すと先方から通話を切った。勝気で我儘な性格の女であることが、この短い電話の会話から想像された。向ケ丘やよいが推理作家に捨てられたという理由が、局外者である丹那にも解ったような気がした。
地下鉄で東京駅に駆けつけたのは約束の時刻よりも三十分ばかり早かったが、丹那はせかせかした足取りで階段を昇ると、旅行客で混雑している通路を小走りに通りぬけ、八重洲口にでると再び地階におりていった。目指す喫茶店は、その階段のすぐ横手にある。
四時までにあと二十分余りだ。自分の腕時計をみ、壁の時計で時刻をたしかめてから丹那はほっとした面持になり、ウェイトレスに珈琲を注文した。あたりを見廻わすと、どの客も色どりあざやかなアイスクリームや洋菓子を喰っている。売れない歌い手とはいえ、芸能人ともなると贅沢な店を指定するものだ。
四時に五分前になった頃から、丹那は客が入ってくる毎にドアのほうへ視線をむけ始めた。お互いに顔を知らないので、向ケ丘やよいは濃緑のサングラスに白いメッシュの手袋をはめ、赤いオーバーを着ているのが目印であった。季節はずれの今頃サングラスをかける物好きもいないから、丹那はもっぱらグリーンの色眼鏡に注意していた。
だが、四時をすぎても歌い手は現われない。丹那は次第に心配になり、何度となく時計を見たり、さして広くもない店のなかを見渡したりした。あれだけ固い約束をした時刻を、彼女のほうから一方的に破るとは思えなかった。丹那の胸のなかで不吉な予感が遠い花火のように音もなく閃き、そして消えていった。指定の時刻に遅れまいとして急いだために、途中で事故を起したのではないだろうか。
気を鎮めようとして二杯目の珈琲を注文すると、丹那はまた腕の時計をみ、壁の時計に目をなげた。四時が五分すぎ、十分すぎたが向ヶ丘やよいは姿をみせなかった。店の客は大半が入れ替ってしまい、二杯の珈琲でねばっているのは丹那だけであった。
あと十五分で発車というときになって、向ケ丘やよいはやっとのことで小柄な姿を現わした。ミリタリールックとでもいうのだろうが、黒の長靴をはき、その長靴には銀色の拍車がついていて、歩くたびに固い床にふれて金属的な音をたてる。
グリーンのレンズと視線が合った途端に、彼女はためらいも見せずに近寄ってきて、色眼鏡をはずした。
「あなたが刑事さん?」
「そう」
「時間がないのよ、フォームの上で話をしたいの」
自分が遅刻をしておきながら、詫びらしいことは一言もいわずに、丹那を引き立てるようにしてその店をでた。
「どんなことを訊きたいのよ」
人混みをわけて歩きながら、丹那を見上げて問いかけてくる。
「大塚春樹さんをよくご存知だそうですが」
「当り前だわよ、同棲してたんだもの。あれでも八ヵ月ぐらいは一緒だったわ。でも、いま頃になってなぜそんなことを訊くの? あたしのプライバシーを侵害したら唯じゃおかないわよ。相手が警察だって承知しないんだから。そのつもりでいるがいいわ」
真赤な唇をねじ曲げ見るからに憎々しげな顔をした。なるほど、思ったとおりの勝気な女だ。
「そのつもりもあのつもりもないです。わたしが訊きたいのはあなたの私生活のほうじゃなくて、大塚さんのことなんだから」
それを聞くと、女は一瞬、拍子ぬけのした表情をみせ、押し黙ってしまった。
「で、急いでお訊きしますが、大塚さんというのはどんな人です?」
「あんた、あたしを怒らせる気?」
急に立ち止ると、目をぎらぎらと光らせて喰ってかかった。険《けん》がある顔は丹那の好みではないが、目鼻立ちはくっきりとしており、まずは美人といっていい。傍らを通りすぎる人々は例外なしに彼女の顔に注目し、丹那を完全に黙殺していった。だが目を吊り上げた流行歌手の顔は鬼女のお面を連想させた。
「なにか気になることをいいましたか」
「大塚のことなんて考えただけでむかむかするわ」
「そりゃそうでしょう、大塚って人はとかくの評判のある作家だから」
と、丹那は巧みに調子を合わせた。二人はふたたび歩き始めて、エスカレーターで一階に昇った。
「どうですか、腹が立ったときは洗いざらい喋ってしまうと気分がすかっとしますよ。どんな人でした?」
「腹黒い男だったわ。そとづらがいいっていうのかしら、表面はニコニコしているもんだから騙されちゃうけど、ほんとうはどうしてたちが悪いんだから。仲間の作品なんか褒めたことなかったわね。いつもコテンパンにこきおろしてたわ」
「だって出来の悪い小説なら褒めるわけにはいかないでしょう」
「そうじゃないのよ、どんな作品でも片っ端からぶった斬るんだから。それでいて、パーティなんかで顔を合わせると底抜けの善人みたいに目尻をさげているでしょ、誰だっていい男だなアって思うじゃない? だから、あの人と別れたときは、一方的にあたしが悪女にされたものよ」
「そりゃ気の毒だ」
と、丹那は心底から同情するように頷いてみせた。
「で、腹黒いという点をもう少しくわしく説明してくれないですか」
「例えばあたしに別れ話を持ち出してきたときがそうよ。一緒に住んでいると気が散って小説の構想がまとまりにくいから、試験的に別居してみたらどうだろう、なんていうじゃない。それも例によって目尻をペロンとさげて、遠慮勝ちに、しおらしい口調なのよ。あたしってこう見えてもうぶなとこがあるから、小説が書けなくては申し訳ないと思ってマンションを出たわ。そして、三日目に忘れ物をとりに戻ったら驚くじゃないの、もうあたらしい女が女房気取りでおさまってるのよ。口惜しがるよりも、ただ呆気にとられてぽかんとしてたわ」
それが事実だとすれば大塚の女性操縦術は鮮かなものである。
「その女は何者でした?」
「知るもんですか」
ヒステリカルに吐き捨てた。
「しかし」
と、丹那も少々義憤を感じてきた。
「そんな怪しからん男の言いなりになる必要はない。離婚に応じなければ――」
「大塚がずるいのはそこなのよ。最初から遊びのつもりだったんだから結婚する気なんてこれっぽっちもなかったんだわ。なんとかかんとか逃げ口上をいって籍を入れようとしなかったのは、飽きがきたら放り出そうと思っていたからよ」
「なるほど、聞けば聞くほど酷いやつだ」
「まだあるわよ」
十二番線の階段を昇りながら、彼女は一段と早口になった。
「こんなこと話すとあたしがケチな女に見えるかもしれないけど、同棲していた間中、生活費は全部あたしがだしたのよ。あの人ったら、将来スイートホームを建てる資金にあてるんだといって、自分の収入はみんな預金しちゃうの。ときどき素敵な住宅写真が載っている建築雑誌なんかをひろげて見せるもんだから、こっちも本気になってせっせと貢ぐのは当然でしょう? そういう卑劣な男なの。卑怯というよりも守銭奴といったほうがピッタシだわね」
すでにフォームには寝台特急の“さくら”が入線しており、マネジャーらしい中年の男がいち早く彼女の姿を目にして、口のまわりにメガフォンがわりの両手をあてると、何事か一声たかく叫んだ。
「早く乗れといってるわ」
やよいはそういうと相手に手を振ってみせ、自分は一向にあわてる様子もなく、落着いた足取りで歩きつづけた。新幹線に客足をとられた東海道本線はさぞかしがら空《あ》きだろうと思っていたが、結構利用客があるらしく、寝台車はどれも満席のようである。
「あたしが癪にさわるのは、大塚がつぎの女を釣り上げるために使った餌代まで、あたしが出してやっていたということよ。そんなこととも知らずに小遣い銭まで渡してやってた自分に、ときどきたまらなく腹が立ってくることがある。でもね、あんな男と結婚しなくてよかったと思ってるの。これ負け惜しみじゃないわ。あいつに捨てられた女は、みなそう思ってるに違いないと思うな。嘘だというんなら戸崎さんに訊いてみたらいいわ」
「戸崎さん?」
「戸崎八千代さんよ、もと大塚の愛人だった女性」
大塚が本当に腹黒い人物であったかどうか、それをもう少しはっきりさせたいと思っていた丹那は、戸崎という女に大きな興味を持った。
「どんな人ですか」
「どんな人って訊かれても困るわ。くわしい話は知らないもの」
歯切れのわるい言い方になった。
「あたしが大塚と親密になったときに、追い出されてしまったの。だから彼女、あたしを恨んでいるんじゃないかな。それとも目覚めて、あんな男と縁が切れたことをあたしに感謝してるかもしれないな」
「住所は判りませんか」
「知ってるわけはないでしょ、女の推理作家なんかと関係ないもん。それからね、女がもう一人いたわ。変な女なの、いつも電話かけてきて男の名を名乗るのよ。そうすると大塚はあたしを隣りの部屋に追いやって、小さな声で話をするの」
「ほう。男の名前でね」
「うん、伊藤四郎からです、なんて交換手みたいな言い方をするのよ」
走り寄ってきたマネジャーみたいな男にせかされると、流行歌手は丹那にちょっと頷いてみせ、昂然と上体をそらせてグリーン車に乗り込んでいった。少なくともポーズだけは一流人気歌手のそれのように、堂々たるものに見えた。
それにしても伊藤四郎、あるいは伊東史朗とは何者だろうか。声をひそめて通話していたところを見ると秘密を要する話であることは解るが、事件に関係があるのかないのか。発車しようとしている寝台特急を横目に眺めながら、丹那はそうしたことを考えていた。
前夫人が女流推理作家だと聞かされたときは驚きもしたが、作家同士で縁組している例はいくらもあるのだ、べつに仰天するほどのこともなかった。フォームの階段を降りて中央地下道の電話センターに寄った丹那は、ぶあつい電話帳のページをくってようやく戸崎八千代の番号を探し出すと、あいている電話機にとびついてダイアルを廻わした。
ベルが鳴るとすぐに甲高い女の声がでた。てっきり女中だろうと思ったら、これが当の推理作家なのであった。
「ちょっとご協力願いたいのですが……」
「あんまり邪魔をされたくないのよ、いま忙しいんだから」
高飛車な返事がはね返ってきた。どうやらこの女も勝気なたちのようだな。丹那はそう考えてちょっと鼻白んだ。男を男と思わぬ口のきき方から、アマゾンのような偉丈夫を想像したのである。
「でも、三十分以内ですませてくれるなら会って上げる。西武新宿線の上石神井《かみしやくじい》駅で降りるの。目の前のマンションの七階だわよ」
「一時間後にうかがいますからよろしく」
丹那は愛想よくいって通話を切った。こうした仕事をしていると、勝気な女に対応するコツも、いつの間にか身についてくるのである。
途中高田馬場駅で乗り換えて、私鉄の駅についたときは約束の時刻を二分すぎていた。十分の余裕をみておいたのに、思わぬ停電事故があったため遅延してしまったのだ。ヒステリカルに目を吊り上げている推理作家の顔を心にうかべ、丹那は足早に駅前広場を横断すると、大きなマンションヘ向った。その建物がクリーム色の贅をつくした近代建築であることを知ったのは、訊き込みをおえて外に出たときであった。
丹那はエレベーターを七階に停めると、固い茶色の廊下を歩きながら、七〇七号室を探した。それは西のはずれにあって、森克美としるされた標札の下に小さく遠慮気味に戸崎八千代としるされてあった。森克美がいまの旦那の名なのか、ご当人の本名なのか、あるいは森家に居候をしているのか、外から見ただけでは判らない。書くことが商売である作家にしては、稚拙な字だ。
ベルを鳴らすと待っていたように扉が開いた。丹那にとって当てがはずれたのは、電話の話しぶりから受けた印象とは全く逆に、八千代が小造りだったことで、そのくせ、バストが西洋人のように盛り上っていた。顔が小さくて目尻がさがり気味なので、笑いかける童女とでもいった趣きがあった。うすく口紅をぬったほかはおしろい気一つないが、どぎつい化粧の流行歌手をみてきた丹那の目には、かえってすがすがしい感じがした。
「大塚の話をしてくれということでしたわね?」
歯科医院の待合室のようなちんまりとした応接室にとおすと、向き合って腰をおろした彼女は、いきなりそう訊いた。
「そうです」
「最近のことは何一つ知らないわ。別れてからもう三年になるんだもの。あたしはパーティなんかに出ない主義だし、したがって彼とは顔を合わせる機会もないのよ」
「なるほど」
「別れた理由を知りたいんじゃないの?」
「出来たらそれもお訊きしたいですね」
「作家同士の夫婦というものは双方が賢明でなくちゃ駄目なものよ。つまり、お互いが相手の人格なり才能なりを尊敬することを知らなくては、旨くいく筈がないってわけ」
「…………」
「彼からプロポーズされたとき、作風がちがうからこの結婚は成功すると思っていたわ。でも、それが裏目にでたの。あたしの書くのは、女のいやらしさをねちねちとした筆で描いていって、それに犯罪を絡ませるというやり方だけど、大塚にいわせると、そんなものは推理小説じゃないのね。あたしの書いた小説なんかは、てんで認めようとはしないのよ。お前には推理小説の本質が解っていないというの」
「…………」
「だから、家のなかでも推理小説の話はちっともしなかったわ。すれば喧嘩が始まることは解っているんだから……。あたしはね、結婚するまで甘い夢をえがいていたの。作家の夫婦ってものは書斎に机をならべて、辞書を貸したり借りたりしながら仲よく創作をするものだ、というふうにね。そう考えていたから、嫁入り道具に大きな机を持っていったわ。ところが現実はそんなものじゃなかった。一緒に仕事をすると気が散るからといって、あの人は毎日のように仕事場へでていったものよ。まるでその辺のサラリーマンのように……。あの大きな机の上で仕事をしたことはただの一度もなかったわ」
女流作家はそれが不満であるかのように不平がましい口吻りをしたが、すぐにとってつけたように、タバコのやにで黒くなった歯をみせて微笑した。
「わるかったわね、脱線して……」
「いえいえ、大塚氏の性格を知るためにもなかなか参考になりました」
とはいったものの、大して参考になったとは思えなかった。丹那はなおも大塚の内側について探りを入れてみたけれども、嫌味な表現をすれば教養が邪魔をするとでもいうのだろうか、先の流行歌手のときとは違って、歯に衣を着せぬ大塚観を聞かせてもらうことはできなかった。
「それにね、多分に秘密主義なところがあったわ。例えば月々の収入なんか絶対に教えてくれないの。そのかわり、あたしがどのくらい稼いでいるかも訊かなかったけど。生活費は二人で折半するというのが当初からの約束だったのよ」
「珍しいシステムですな」
「あの人のことをそんなに知りたければ、桜木さんに訊けばいいわ」
「桜木さん?」
「桜木弓子さん。半年ばかり前に大塚と別れた女性だわよ。多分、ホットニュースが聞けるんじゃないかと思うんだけど」
「早速その人に会いたいんですが」
と、丹那は身をのりだした。
「住所をご存知ですか」
「知らないこともないわよ。女ってものはね、前の宿六がその後どんな女性と結婚したかってことに関心があるの。まして、彼がまた離婚したなんて話にはいっそう興味があるものなのよ。まるで女性週刊誌の読者みたいな話だけど、それが正直なところね」
言い訳がましい口調でいいながら、手帖に桜木弓子の勤務先をしるすと、そのページを男のような活発な仕草でちぎってよこした。
「何ですか、このシェリビビというのは?」
「喫茶店よ。神保町の裏側にあるんだけど、彼女そこのウェイトレスだったの。大塚と一緒になったときにやめて、捨てられたいま、またもとのお店に復職してるって話だわ」
「シェリビビってのは何です」
「フランスの探偵小説にでてくる人物よ。ロキャンボールとかファントマなんかと同じようなものだわ」
「……?」
どちらも聞いたことのない名前なので、丹那は曖昧にうなずくほかはなかった。
「アルセーヌ・ルパンなら知ってるでしょう? パリ警視庁の捜査課長だの名刑事だのを向うにまわして波乱万丈の大活劇を演じる怪盗だわよ」
あまり名刑事でもない丹那は、なんだか皮肉でもいわれたみたいな妙な気持だ。
「ルパンぐらいは知ってます」
「日本の作家は東京警視庁に遠慮してるのか空想力が乏しいのか知らないけど、警察を手玉にとるような怪盗物は書かないわね。せいぜい『怪人二十面相』ぐらいのものじゃないかしら」
「ははあ。どうせお話なんだから、べつに遠慮しなくてもいいですが」
「この喫茶店のご主人はフランス語がペラペラで、そのせいかどうか知らないけどフランスやベルギーの探偵小説の原書をたくさん持ってるんですって。だからお店にもシェリビビなんて名をつけたのね」
その「シェリビビ」へ丹那は即刻いってみる気になっていた。
「ところで最後にもう一つ。大塚氏の友人で伊藤さんという人を知りませんか」
「伊藤さん?」
「ええ、伊藤四郎さんです」
「さあ……」
「ときどき電話をかけてくるという……。それも女なのです」
「変ったお話ですのね。なんだか聞いたこともあるような気がするけど、覚えていませんわ」
「いやどうも。大変に参考になりました」
ふたたび西武新宿線に乗って高田馬場駅で地下にもぐり、ここで地下鉄に乗り換えて九段下で降りると、あとは神保町まで坂道をくだるというコースである。丹那は一時間ちかくかかって神保町の交叉点にたどりついた。
角の書店の赤電話で「シェリビビ」のマスターに電話を入れて場所を訊ね、ついでに目的を説明して聞かせた。
「三十分程度ならお貸ししますが、いったん店の裏口までお出で願って警察手帖を見せて頂きます。わたくしにも、女の子を預っている責任がございますから」
「いいですとも」
快諾した。先方の理にかなった話し方が気に入ったのである。
「手続き」を踏んで借り出したウェイトレスと並んで路地を歩きながら、丹那は、この若い女をどこに連れていこうかと考えていた。珈琲店に入ったのでは周囲の客に話の内容が聞えてしまうし、といってこの辺りには公園もない筈だ。丹那が黙っているものだから、弓子もうつ向き気味で黙々としてついてくる。顔が彼の肩のあたりにあるので、ふっと流行歌手の向ケ丘やよいと歩いているような訝《おか》しな錯覚を起した。
「どこか話をする場所はないですかね」
大通りにでたところで、考えあぐねた丹那が救いを求めるように問いかけた。左角は書店、そして右角はレコード店である。レコード屋のショーウィンドウにはしかめっつらをしたベートーヴェンの大きな写真が飾ってあり、それを見た丹那は、この男はスィートポテトを喰い過ぎたのではあるまいか、と考えた。丹那も、焼芋を喰べすぎて胸やけがすると、これに似た顔つきになる。
「どうだろうね、小学校の校庭なんか手頃だと思うんだが」
「学生街のくせに、小学校も中学校もちょっと距離があるんです。でも、ときどき八釜しくてあとは静かになるという場所でよければ、すぐそばにあります。入場料をとられますけど」
「そいつはいい。何処です?」
神保町の角を曲ったところに、彼女のいう格好の場所があった。迂闊《うかつ》なことにこの刑事は、地下鉄の駅がこんなところにあるとは知らなかったのである。なんだか追い剥ぎでもでそうな閑散とした階段をおりて、かなり深く潜っていくと出札口があり、丹那は入場券を求めて改札口をぬけた。弓子は通勤にこの駅を利用しているのだった。
「どんなことを訊きたいのでしょうか」
フォームのベンチに腰をおろすと、白い天井からさがっている大時計にちらっと目をやっておいて、丹那の質問をうながした。あたりには乗客がちらほらと散見するきりで、弓子のいったとおり静寂そのものである。
「大塚氏のことですよ。つまり、かつてはあなたの愛人だったあの人の素顔ですね。思い遣りのある性格だとか、我儘な暴君であったとかいろいろあると思うんですが、それについての客観的な話を聞きたいんです」
「暴君だなんて――」
「いえ、それは例として挙げただけです」
相手が抗議でもしそうな素振りをみせたので、丹那はあわてて言い足した。弓子は、岸田|劉生《りゆうせい》の≪麗子像≫に描かれた幼女を連想させるような、髪をお河童《かつぱ》にした愛らしい女性である。この女もまた大塚にポイと捨てられた被害者なのだから、胸中で大いに彼を恨んでいるものと思っていただけに、丹那はいささか意外だった。
「で、どんな人でした?」
「気むずかしいところもあったけど、大体は優しい人でしたわ。どっちかというとあたしってルーズなたちだから、あんまりいい家庭人にはなれないと思っていたんですが、叱言をいわれたことは一度もありませんでした」
悪口を期待していた丹那は当てがはずれた表情になった。どこかでボタンを押し違えたために、歯車が逆に回転しはじめたような気がする。
「差支えなければ別れた理由を話してくれませんか」
弓子は寸詰りのあどけない顔を上げると、ひたいにかかった髪を払って、恨めしそうに丹那を見上げた。彼女もまた小柄であり、小柄だから少女っぽくみえるのだった。
「無理に聞かしてくれというわけではないですが……」
相手の怨むような眼差しに、丹那はいわずもがなのことをいった。
「子供ができなかったからなんです。あの人は赤ちゃんを欲しがっているんですが、とうとうできませんでした。ですから、あたしのほうから遠慮して身をひいたんです」
「そいつは古い考え方だな。昔はね、嫁《か》して三年、子なきは去るといって……」
丹那はひょいと小首をかしげた。三年だったか二年だったか、それとも一年だったか急に度忘れしてしまったのである。
「とにかく、そいつは封建時代の話でね。いまどきの若い女性がそんなことで別れたとは――」
「でも、寝ても覚めても子供が欲しいといわれると、可哀想で見ちゃいられませんわ。欠陥があるのはあたしのほうですもの」
「失礼だが、正式に籍を入れていたんでしょう?」
と、丹那はさり気なく訊いた。そろそろこの女にも飽きてきたから、子供を欲しいという口実で追い出したに違いない。
「はい、きれいに抜いて出てきましたわ」
「ほう」
当てがはずれたような、少々間のぬけた響きになった。すると、遊び半分の流行歌手の場合とは異り、本気で一生を連れ添うつもりだったことになる。
「大塚氏があたらしいお嫁さんを迎えるそうですが、この話は知ってますか」
「ええ。ちょっと淋しい気がしますけど、仕方ありませんわ。今度の奥さんには丈夫な赤ちゃんを産んで頂きたいと思ってます。あの人が石女《うまずめ》だったら、大塚さんが気の毒ですもの」
現代娘の口から「石女」という古い言葉がでたことに、丹那はかるい驚きを感じた。そういえば、みずから身を退いたという彼女の行為にも、近代女性らしからぬ古さがうかがえるのである。
丹那が口を開いたときに電車が入ってきたので、彼の声はかき消されてしまった。二人は黙り込んだまま騒音のしずまるのを待っていた。仕事衣の上に赤いオーバーをまとった小柄の女に目をやりながら、古いというよりも、考えが幼なすぎて自己主張することを知らないのではないか、と思ってみた。
「……噂によると大塚氏は吝嗇《け ち》で腹黒い男性だというのですが、あなたの感想はどうですか」
走り出した電車の騒音がしずまるのを待ってから、丹那はウェイトレスのほうに向き直った。
「そんなことありませんわよ。例えば……」
ウェイトレスは適切な例を思いうかべようとするように、おかっぱ頭をかしげた。
「例えば、秋になるとあの人の服が真赤になってしまうんです」
「というと?」
「赤い羽根の前を素通《すどお》りすることができないからですわ。そのたびに百円玉をだして、羽根を貰うんですもの」
「赤い羽根を、ね」
「あの羽根ってわずか百円程度ですけど、世間の人はその百円が惜しくてそっぽ向いているでしょう? 良心的な人や思いやりのある人でも、一本を胸につけると、もう今年のノルマは果しましたとでもいった顔をして、大手をふって歩いてるじゃない」
「うむ、まあね」
丹那もそのくちだから、なんとなく煮え切らない返事になった。それにしても、と彼は思う。流行歌手の向ケ丘やよいに比べて、このウェイトレスの大塚観はまるで正反対ではないか。それは捨てられた女とみずから身を退いた女との立場の相違からくるものなのだろうか。丹那はフォームの白い床の上に目をおとして考え込んでいた。
もう訊くことも残っていない。そう考えて弓子をうながすと立ち上った。
「ところで伊藤さんという人のこと知らない? ときどき電話をかけてくるんだが」
「伊藤さん……?」
「伊藤四郎さんというんだがね。電話をかけてくるのは女の人だから、奥さんかもしれないな」
「さあ、知りませんわ」
戸崎八千代の場合と同様に、この少女もお河童頭を横にふった。
丹那がもたらした報告は、正直のところその曖昧な内容で鬼貫達を困惑させた。結局、内輪にひらかれた捜査会議の席上で要約されたものは、次ぎのとおりであった。
大塚の女性関係について-
(1) 知られた限りでは、過去において三名の女性と結婚あるいは同棲したことがある。
(2) 大塚と正式に結婚したのち離婚したのは戸崎、桜木の両名。
(3) 大塚と同棲し、現在その関係を清算したのは向ケ丘やよい。
(4) 目下は原まち江と婚約をしている。
(5) 伊藤四郎を名乗る女性は何者か。
大塚の人間性について-
(1) 向ケ丘やよいに依ると、吝嗇で腹黒い性格の男である。
(2) 桜木弓子に依れば、逆に人間味のある男ということになる。
(3) 戸崎八千代は発言を差し控えた。褒めもしないかわりに、けなしもしなかった。
何度読み返してみても明確なイメージがうかんでこない。一口に別れたといっても、捨てられた女とみずから身をひいた女とでは大塚に対する感情も大いに異なるだろうから、その点を頭において演算をしてみても、スッキリとした答はでないのである。つまるところ、彼は二律背反する矛盾した性格の男なのではあるまいか、という掴み所のない結論がでたところで、その会議は散会となった。
大塚の性格解剖が成果をあげなかったことから、鬼貫は従来の方針を若干変更して、小日向殺しの動機の発見に全力を投入することになった。それが見つかれば大塚の犯行であり、したがって彼が主張するアリバイは偽物だということになる。が、動機を見出すことに失敗すれば、無動機の殺人はあり得ないのだから大塚はシロとみなければならず、この場合はアリバイを認めるのである。
あらためて事情に通じていると思われる作家や編集者や新聞記者、作家と仲の悪い評論家などがリストアップされ、四人の刑事が地域別にそれぞれを分担することとなった。丹那が受け持ったのは北部にあたる六区で、この方面には出版社は一つもなく、訪ねて廻ったのは、わずか三人の文筆業者だった。いままでのとおりに午前中は遠慮をして、出掛けるのは午後ということになった。しかしこれは、調査する側にとってみると、何とも非能率的な話なのである。
最初に訪れた古参のSF作家は小日向とは同郷人だということで親しく、大塚とはかつて釣り仲間だったことから仲がよかった。彼はヤニのつまったコーンパイプをジイジイと音をたてて吸いながら、片手でゆたかな白髪をかき上げ、丹那の質問に対してしきりに小首をかしげていた。
「はてね。大塚さんと小日向さんとは出版社に作品を提供して報酬をもらうという点では共通してますが、互いに棲息する世界がべつなんだから、接触があったとは思えませんね。どちらかというとぼくは社交性のあるほうだが、友人はSF作家に限られている。大塚君をべつにすれば、推理作家とは話をしたこともないくらいです。それから類推してみても、あの二人の間につき合いがあったとは思えない。いってみれば宇宙人という点では共通しているけれども、住んでいる星は何万光年も離れているんだなあ……」
SF作家は丹那の顔から視線をはずすと、壁にかけられた空飛ぶ円盤のカラー写真に目を向け、宇宙の果てに住む隣人に思いを馳せてでもいるような茫漠《ぼうばく》とした眼差しになった。
荒川区から北区に廻わった丹那は、国電を西日暮里でおりると開成中学の裏に挿絵画家を訪問した。が、彼は殺された写真家とは呑み友達であったのに反して、大塚とは面識がなかった。
「挿絵を描いたことは二、三度ありますけどもね、だからといって仲がいいなんてことはないです。大体、挿絵画家と作家とは口をきいたこともないのが普通です。互いに、編集者というワンクッションをおいて仕事をしているんですから」
なるほど、そんなものなのか、と丹那は思った。雑誌の世界というのは、丹那が想像していたものとは違いがありすぎるようである。
収穫のない点では板橋の果ての高島平団地に居を構える評論家の場合も同様だった。初老の彼は眠むそうな顔とは逆に溌剌とした聞きとれないほどの早口で、問題の被害者と推理作とを結びつけるリングがあるとは想像できないという意味のことを語った。
「わたしは両方とつきあいがあるから断定的なことがいえるわけだけどもね、彼等は性格も違えば趣味も違っているんです。たとえばご存知のとおり小日向君がホモに興味を持っているのに対して大塚君は女性専門です。前者は賭け事になると夢中だが大塚君は競馬も駄目なら麻雀も駄目。いつだったかトランプをやろうということで仲間を四人集めたことがあるんですが、いざ始めようという段になって判ったのは彼がババ抜きしか知らないってことでね、一同大いにしらけたもんです」
彼は和服の膝の上にシャム猫をのせ、話の間中その頸をなでつづけていた。猫がいやがって逃げ出そうとしても頑として放そうとはしない。
「大塚さんという人間について参考になる話を聞かせて頂けませんか」
「気さくないい男ですな。商売柄、わたしは推理作家の作品をけなすことが多いのですが、どんなにこっ酷く叩いても彼は怒ったためしがないですね。評論家ってのは元来が馬に角が生えとらんといって文句をつけるような人種だから、おれは何ていわれようが平気だよ、なんて笑っているんです。太っ腹というか、とにかくいい男ですよ、彼は」
よほど気に入っているとみえ、評論家は「いい男」を何度もくり返した。
「評論家と作家とは仲が悪いそうですが、どこで知り合ったのですか」
彼は猫の頸をなでながらくすくすと笑った。
「あまり自慢になる話じゃないですが、ボクと彼が渋皮のむけたバーのホステスに血道を上げたことがありましてね、本来なら憎むべきライバルとなるべき筈だったんです。ところがその女を、横から現われた某省の課長補佐にさらわれちまいまして、われわれは揃って失恋した。そこでトンビに油揚《あぶらげ》をさらわれた失意の男同士がなぐさめ合っているうちに、なんとなく意気投合したというわけです」
隣室では奥さんらしき女性がミシンを踏んでいる。聞えはせぬかとひやひやしたのは丹那のほうで、評論家は意に介する様子がなかった。丹那は心持ち声をしぼって大塚の女性関係その他について質問してみたが、評論家の返事はすでに刑事が知っていることばかりであった。
丹那は失望の色をかくして辞去すると、街灯のともった敷地をぬけて地下鉄の階段を上った。そして空いた電車の座席に坐ってゆられているうちに、この線が神保町駅をとおることに気がついた。彼は、もう一度ウェイトレスの桜木弓子に会って、前夫の話を聞いてみようと思い立った。先日話し忘れたことがあるとすれば、それを思い出してくれぬとも限らない。
前回と同様に交叉点の近くの赤電話で連絡をとっておいて、「シェリビビ」の裏口から訪問をした。
「電話のときはうっかりしてしまいましたが、じつは桜木君が休暇なのです。明日は出勤しますがね」
と、マスターは済まなそうに謝った。
「いかがですか、三十分ばかり。自慢の珈琲をいれさせます」
さそいをかけられて幅のせまい階段を上がり、私室にとおされた。珈琲には魅力を感じなかったけれど、なにか参考になることでも聞けるのではないかという果敢《は か》ない望みを抱いていた。
私室は綺麗にかたづけてあり、マスターの整頓好きな性格がうかがえた。四方の壁は書棚になっていて、余った空間に大きな事務机がすえられ、一脚のイスがおいてある。丹那をそこに坐らせると、自分は窓の框に腰をかけた。
珈琲を一口すすってから、マスターはコップを手にしたままで口を切った。
「大塚さんのことですがね、あの人はなかなか才能のある作家でした。トリッキストという言葉がありますが、彼こそトリッキストの第一人者で、トリックを創案する才能は抜群なんです。つい半年ばかり前にも、止せばいいのにある同人誌に小文を寄稿して、トリックのオリジナリティとモラルについて一席ぶったことがあります。推理作家はすべからくトリックを創案すべきで、先人の案出したトリックを盗用するのは卑劣であるという論旨なんですね。厳密な意味からいえばこれは当然なことなのですけれど、現実問題としては不可能といっていいでしょう。そんなことを気にしていたら大半のプロ作家が書けなくなってしまいますからね。大塚さんが反撃をくらったのも、これまた当然なことでした」
丹那には、相手の話の内容が充分に理解できなかった。
「鼻っ柱がつよいというか、なかなかの自信家とみえますな」
「そうなんです。ところがね、自信に充ちている筈のこの人の作品が、最近になって急に色|褪《あ》せてきたのですよ」
手を伸ばしてからになった茶碗を事務机にのせると、マスターは体をのりだした。
「ご存知ないかもしれませんが、推理小説の一形式に倒叙物というのがあります。普通の推理小説が最後のページにいたるまで犯人の正体をかくしているのに対して、倒叙物というのは第一ページで犯人の正体をはっきりとさせておくのです。その男がどんな動機で殺人を犯すか、どんな計画を編み出すか、それがどんなことから失敗に終わるか。大雑把にいってこんなふうな形式のものなんです」
「なるほど」
「この種の倒叙物で一級品ともいうのは、犯人が完璧と思われる計画をたてて実行に踏み切るが、それがほんの些細なミスを見逃したために崩壊してしまうというパターンです。ところが近頃のあの人の設定は変ってきました。犯人の計画は完璧だったが、雨が降りだしたとか風向きが逆になったとか、真夜中に停電があったとかガス工事が始まったとか、つまり犯人の計算外の、天変地異とでもいった出来事によってばれてしまうという内容になったんです。いうならば二級品になってきたのですよ」
「なぜ自然現象を用いるといけないのですか」
依然として丹那には相手のいうことがよく理解できなかった。
「いけなくはないんですが、一段低い次元のものとなるんです。なぜならば、大塚さんの一連の倒叙物を読み慣れた読者は、作中の犯人が練り上げた完璧な計画がじつは百パーセント完璧ではないことを知っています。つまり、作者のさりげない描写のなかから犯人が見落したミスをいち早く発見するという楽しみがあるんです。言い換えれば作者との競争ですね」
「ふむ」
「ところが、天候の変化によって完全犯罪が失敗におわったというのでは、読者は競合することができないわけです。少なくとも本格物の作家は、読者と知恵比べをすることが根本姿勢であるべき筈ですからね」
「なるほど。すると、大塚氏が二級品を発表するようになったわけは、怠けて全力投球をしなくなったからですか」
「それも一つの解釈です。沢山の注文をすべて引き受けると、いきおい乱作になって作品の質が落ちるのは当り前のことですものね。トリックを考えるには時間がかかりますから、安直なものでお茶をにごすということになるでしょう。しかし、全力投球をしたくとも出来なくなった、というのも一つの解釈だと思うのですよ」
「というと、才能の涸渇ですか」
「そういう見方もあります。しかし、いまいったように半年前に大口を叩いた大塚さんなのですから、数ヵ月後に才能が涸れたとは思えないのです。水道が断水するみたいに急激に起るものではなくて、徐々に涸れていくわけですから、もしトリックを考案する能力がなくなってきたとしたなら、ああした勇ましい演説をぶつ筈がないと思うのですよ。むしろ逆に、トリック盗用を擁護《ようご》したに違いないのです」
「ふむ。大体のことは解りますが……」
と、丹那は正直な感想をのべた。
「すると、大口を叩いた時点ではまだまだ力作が書けるつもりでいた大塚氏が、その後で急におかしくなってきたというわけですか」
「ええ」
「多忙ということも理由になるでしょうが、体調をこわしたとかノイローゼになったとかいうことも――」
「いえ、この頃はそんなに書いていません。ゴルフのコンペで一等になったという話を聞いていますから病気でもないし、といってノイローゼになるような殊勝な人間でもなさそうですね。なんといったって、世間の噂では女|漁《あさ》りが道楽だというから……」
マスターが何をいおうとしているのか、丹那にはさっぱり見当がつかなかった。
「あなたの結論はどうなのですか」
「結論ではなくて想像です。それも非常に大胆な想像なんですけどもね、大塚さんは誰かと合作をやっていたのではないだろうか。ところが、最近になって相手が死んでしまったか、さもなければ仲間割れでも生じて、単独で創作をしなくてはならないような事態に追い込まれたのではあるまいか……」
「というとトリック独創の才能を持っていたのは大塚さんではなくて、陰にいる合作者のほうだったことになりますな」
思いもしない解釈だったので、丹那はちょっと興味を感じた。
「近頃はほとんど読んでいないので推理小説のことはよく解らないのですが、合作などというものができるのでしょうか」
「推理小説だからこそ、そうしたやり方ができるわけです。三人寄れば文珠の知恵、なんてことをいいますね、あれなんですよ。アメリカのエラリイ・クイーンなんかは最も成功したペアですけども、ほかにもパトリック・クェンティンだとか、ロジャー・スカーレットだとか、夫婦で合作をするロックリッジ夫妻だとかがいます。イギリスではコールという経済学者が奥さんと合作をしていましたし、フランスの現役ではボアロー・ナルスジャックという二人組が活発に作品を発表しています」
「日本では?」
「わが国ではどういうものか例が少ないんです。戦前ではほとんどありませんし、戦後では長編が二本……、たしか二本ぐらいのものです。しかもその一つは純文学畑の評論家と作家の合作だと噂されていますから、本当の意味での推理作家の手になる合作はただの一つしかないことになりますね」
「なぜ日本では少ないのですか」
「なぜでしょうかね」
と、マスターは小首をかしげ、くわえたタバコに火をつけた。
「わたしは、日本の推理作家の個性が強烈すぎるのも原因の一つではないかと思っています。つまり、合作者同士が寄り合って、じっくりとプロットを練ったりトリックを考えたりするには適していないのではないかと考えるのですよ」
「ふむ」
「もう一つは、他人の知恵を借りて創作することをいさぎよしとしない潔癖感からくるのではないか、という解釈ができると思うんです。……奇妙なことに、日本では連作のほうが多いですね」
「連作というと?」
「数名の作家がバトンタッチをされたランナーのように小説を書きついでいって、一本の首尾一貫した作品を仕上げるやり方です。合作の場合は二人の作家が共同作業をするのに対して、連作のほうは個々のランナーが思いつくままに勝手に筋を発展させる、そして割り当てられた枚数まできたところで筆をおくのですから、無責任といえば無責任ですが、物語が予想もつかぬ展開をしてみせるという面白さがあるんです。その上に、最終ランナーが限定された枚数のなかでどんな工合に結末をつけるか、という興味もありますね」
タバコの火が消えていることに気づいたマスターは、またかちりとライターを鳴らした。
「首尾一貫した作品とはいいましたが、本当のことをいいますと、連作がちゃんとまとまった小説になるわけがないのです。つまるところその場限りのものなんですから。しかし推理小説本来の面白さは、そんないい加減の、一貫性に欠けたものである筈がないのですよ。練って練って、充分に練り上げてから筆をとらなくてはいい作品にはなりません。ですから、過去に試みられた連作のなかで後々まで残るようなものは少ないですね。それも当然だと思います」
話に夢中になって煙をふかく吸い込むとはげしく咳をし、その拍子に脱線したことに気がついたようだった。
「日本の推理作家の根底には合作することを恥じる風潮があるといいましたが、大塚さんが合作を内緒にしていた理由もその辺にあるんじゃないでしょうか」
そう説明されてみると、丹那にも思い当るものがあった。大塚が収入を秘密にしていたと戸崎八千代が語っていたけれど、彼としては稿料の半分を陰の協力者に払わなくてはならず、手取りはぐんと少なくなるのである。それを知られたくなかったから収入を伏せたのではないのか。また、仕事部屋をべつの場所に設けて、自宅では決して執筆をしなかったというのも、戸崎女史に、合作していることを気づかれまいとしたからだろうか。あれやこれやと考えていくうちに、丹那には、合作者があるのではないかというこのマスターの仮説は的を射ているように思えてきた。
もしそれが事実だとするならば、そしてマスターが指摘するように合作者と手を切ったのが事実であるとするならば、よき協力相手を失ったこの作家は没落する日の近いことを知り、先行きを不安に思っていたことは間違いないのである。その彼が、坂下の蜜柑山に注目したとしても驚くことはなかった。その蜜柑山は、所有者である坂下護が死亡することによって妻のまち江の手に入る。だからといって坂下を殺したのでは自分に疑いがかかるのは明かなことだ、疑われることなしに坂下を殺すためには、ワンクッションをおいて、カメラマンの小日向を殺し、その罪を坂下に転嫁して、彼を絞首台に追い上げるのがいちばんの良策である。
ようやくのことで動機を発見した、と丹那は思った。苦労をして推理小説を書きつづけていくよりも、気候の温暖な、空気のきれいな紀州に隠栖して果樹園の経営に身を入れたほうがはるかにいい。都会生活に慣れた彼が田舎暮しに耐えられなければ、蜜柑山を売って換金し、その大金を持って戻ってくるという手もあるのだ。いずれにしても坂下の持ち山が大きな誘惑となったことは否定できなかった。
しかし、話の筋はとおっているけれども、大塚が合作者を失って崩壊の危機に立たされているというのは、マスターの空想でしかないのである。それを実証するためには陰にいる合作の協力者を探し出す必要があった。
「俗な言葉でいえば、うまい汁を吸ったのは大塚氏のほうで、もう一人の共同執筆者は単に稿料の頒け前にあずかるだけの、縁の下の力持ち的存在に過ぎないわけだ。よく辛棒していたものですな」
「それはわたしも考えてみました。推理文壇の寵児《ちようじ》としてモテモテなのは大塚さんのほうなのですから、陰にかくれている合作者には、余程の事情があるに違いないと思うのです」
「事情がね。というと世間に顔を出したくともだせない事情でもあるのかな?」
これは丹那の独語である。その呟きにマスターが応じた。
「ええ。ざっと考えてみたところでは前科かなにかがあって、作家としてのイメージダウンを嫌った場合ですね。前科がなくても、詐欺師だとか借金踏み倒しの常習者だとか、理由はいくらでもあると思うんです」
「なるほど」
「あるいは指名手配をうけている犯罪者かもしれません。最近のことですが、アメリカでも知能指数の高い天才並みの男が犯罪者として射殺されたといいますから、この合作者もまた、悪党でいながら頭のいい男だったのかもしれないです」
「なるほどね」
マスターは吸殻を灰皿にこすりつけると、火の消えたことを確認してから顔を上げた。
「それから、これは犯罪者の話とは違うんですけど、蒸発した夫ということも考えられますね。彼が肉体労働のできないホワイトカラーであれば、推理小説のアイディアを提供して生活の糧《かて》とすることもあり得る話だと思います」
「なるほど」
「それからね、作家というのは大体において自己顕示欲のつよい人が多いと聞いていますが、なかには人前にでるのが極端に苦痛だというはにかみ屋だっているに違いありません。作家となった以上は新聞なり雑誌なりに顔写真のでることを拒むわけにはいきませんから、それが真《ま》っ平《ぴら》だという人ならば、裏面に隠れて作品を発表するほかはないでしょう」
「というと、大塚氏は単なる代筆屋にすぎなかったわけですか」
「いえ、そこまで極端なことはいえませんね。内容は落ちたものの、一応は書いているんですから」
マスターは、大塚に合作者がいることを確信しているようだった。彼の考え方は単なる空想として一笑に付すわけにはゆかぬ説得力があり、話を聞いているうちに、丹那自身がなかばその気になっていた。
十一 伊藤四郎氏
他の三人の刑事にはこれという発見もなかったので、丹那の提案はただちに採用され、その翌日から陰にいる合作者捜しにとりかかることになった。果してそうした人物がいるかどうか、確たる自信があるわけではない。しかし丹那は合作者の存在を信じていた。それは刑事の勘であるともいえたが、喫茶店のマスターに洗脳された結果でもあった。
この場合まず問題となるのは、大塚の仕事部屋をつきとめることだ。合作者達はその一室で鳩首協議して小説のトリックを練り筋書を考えたのだろうから、仕事部屋の所在が判れば、陰の作者の正体も判明するに違いないのである。そのためには大塚に訊ねるのがいちばん早道なのだけれど、自分に不利なことを、彼がすらすらと答えてくれるわけがなかった。とはいうものの、それ以外の名案が思いうかばぬままダイアルを廻わしてみると、大塚はいま起きたところだといい、げんなりとした声をだした。
「仕事部屋を訊いてどうするつもりか知りませんが、べつに隠す必要はないですから教えて上げますよ。足立区の綾瀬《あやせ》です」
彼のマンションのある原宿からみると、綾瀬はまるで反対の方角であった。仕事部屋に通うにしても、そこは余りにも不便すぎる。
「綾瀬というと遠いように思われるかも知れませんがね、地下鉄にのれば乗り換えなしでいけるんです。電車のなかで考え事もできるし、手頃の距離でね。それに、いま住んでいるこの辺りに比べると雰囲気ががらっと変わるんです。だから、気分転換にもなるわけですよ」
丹那の心を読みとったように、彼は訊ねもしないのにそう説明した。なるほど、そんなふうにいわれてみると、距離こそあるが、地下鉄千代田線を利用すれば坐ったままで「通勤」が可能であった。
「マンションですか」
「いえ、アパートです。住んでいるのは二号さんかホステスさんばかりでね、作家と同じように朝寝をする人種ですから生活のテンポが合うんです。そういった意味で住み心地のいいところですね」
本来ならばプライバシーの侵害を云々して逆ねじを喰わせかねない大塚が、協力的といってもいいような応答をしたことに、丹那は拍子抜けの思いがした。
アパートの所在を訊ねてメモにとると、丹那はその足で綾瀬へ向った。すみれ荘というそのアパートは西綾瀬四丁目の中学校の裏のしずかな一画に建っており、仕事部屋にするには打ってつけの場所でもあった。原宿のマンションに比べると、二階建てのすみれ荘はいかにも貧弱だけれど、売れっ児作家がだれからも煩わされることなく仕事をするには、ここは恰好の隠れ家であるといえた。
住人の大半がホステスだということは、窓の外に吊りさげられた洗濯物をみれば判る。普通の男性ならばこうした環境におかれると心が千々《ち ぢ》にみだれて仕事どころではないだろうにと思うと、好んでこうした場所に仕事部屋をえらんだ大塚という男がますます解らなくなってきた。
三十分もしないうちに、丹那は手慣れたやり方で知りたいことを調べ上げてしまった。管理人の老人も隣室のホステス達も口をそろえ、大塚はいつも単独で仕事をしており、来客のあったためしがないと語るのである。
ホステスのなかに推理小説好きが二人いて、それが前後して大塚の正体を見破ってしまい、以来、なにかというと彼は注目の的になっていた。場末のアパートだけあって住人も庶民性が濃く、そのせいか、彼女達は大塚が喰う店屋物にまで目を光らせていたのである。だから、この中年の推理作家のところに客がくれば、彼女等の目にふれぬことがないのだった。
とすると、彼等は筋の展開を電話で打ち合わせるのであろうか。そう思って訊ねてみたが大塚の部屋には電話がなく、管理人室のそれを利用したこともないという。なぜ電話をひかないのかというホステスの質問に対して、せめてここにいる間だけでも編集者から悩まされたくないからだ、と答えていた。ホステス達はその話を聞くと、流行作家はさすがに違うものだと一様に感心したのだそうだ。
しかし丹那は、大塚が合作をしていた以上、どこかで落ち合ってプロットを検討したに相違ないという考えを捨てかねた。推理小説がどんなふうにして書き上げられていくものかは知らないけれど、その性格からいって安直に書き飛ばせるものではあるまい。合作者が額《ひたい》を寄せ合い、時間をかけて綿密な内容のものを造り上げてゆかなくてはならぬ筈である。だから大塚のもとに訪問客がなかったとすると、合作者と接触した場所はマンションからここへ来る途中だということになる。陰の作者は、原宿と綾瀬をむすぶ千代田線沿線に住んでいるのではあるまいか。
アパートを後にした丹那は少なからず憂欝な顔をしていた。合作者の「アジト」をどうやって突きとめればいいのか。こればかりは大塚に訊ねても答えてくれるわけがないのである。
綾瀬駅の赤電話に十円玉を投げ入れると、鬼貫を呼び出していまの結果を伝えた。
「そいつは弱ったね」
と、この上司は大して困ったふうでもなく答え、ついで丹那の予期しないことを告げた。
「三十分ほど前に、神田の『シェリビビ』のマスターからきみに電話があった。そして、大塚の合作者が判っただろうか、と訊くんだ」
「…………」
「まだだと答えるとだね、自分はつきとめることに成功したというのだ。だからきみがいま綾瀬にいるのなら、途中で下車して神保町へ廻ってくれないか。どんな発見か見当もつかないが、先方はきみに聞いて貰いたくてうずうずしていた」
気の滅入った丹那の表情は、それを聞いたとたんに一変して明るいものになった。あの推理小説|通《つう》のマスターがどんな手段で発見したのかは知らぬけれど、なにはともあれ一刻も早くその話を聞きたいと思う。
ふたたび千代田線にのって新御茶ノ水駅で下車すると、淡路町にでて、神保町へ向った。丹那の脚で十分の距離だが、その十分間がひどく長い感じがした。駿河台下の交叉点で赤になったのを知らずにうっかり横断しかけ、交通係の警官にこわい目で睨まれたのもこのときである。
「シェリビビ」の裏口に立ったのはそれが三度目のことであった。出てきたマスターは丹那の袖をつかまんばかりに二階の私室に連れ込み、前回と同様に丹那にイスをすすめると、自分はそれが長年の習慣でもあるように、窓の框に腰をおろした。目尻をさげてにこにこしているせいか、マスターの丸い顔がいっそうまるく見える。
ウェイトレスがココアをおいていくと、彼はそれまでの雑談を止めて、ぐっと表情をひきしめた。
「話の内容というのはですね、先程の電話でも申しましたように、大塚さんの合作者の正体をつきとめたことなんです。ま、当人に会って訊ねてみないことには当っているかどうかは解りませんが、わたしは自分の推理が間違っているとは思いませんね」
「誰です」
「その前に、どうしてつきとめたかを聞いて下さい。そもそもの最初から話さないことには信用してもらえませんので……」
鬼貫がいったとおり、マスターはそれを喋りたくてウズウズしている。
「話がまた推理小説になりますが、推理小説にもいろいろのタイプがあります。そのなかで本格派の作家には稚気の持主が多いのです。刑事さんも雑誌で犯人探しの小説を読まれたことがあると思いますけど、作家は頭をひねって問題編を書き上げると、さあ当てられるなら当ててみよとばかり読者に挑戦をするわけですね。稚気がなくてはこうした小説は書けませんですよ。尤も、稚気だけで書けるものではないですけど」
「なるほど」
「で、そうした稚気のある作家は、活字の上でいろいろといたずらをやる傾向があるんです。読者がそれに気づいてくれるかどうかはべつとして……」
「というと、どんなことですか」
「そう、例えばこんなことがあります。江川蘭子だの歌川蘭子などという筆名をみますと、一見して江戸川乱歩氏をもじったような浅薄な印象をうけますが、この歌川蘭子というのはその推理作家の本名の改綴《かいてつ》文字なんですよ」
「カイテツ?」
「アナグラムともいいますけど、早い話、歌川蘭子をローマ字で綴って、そいつをいったんバラバラにして綴り直すと、ある知られた作家の本名がでてくる趣向です。そこで、歌川蘭子の正体はあの人だったのか、ということになります」
稚気がある作家とは、暇がありすぎる作家と同義語ではないのか、と丹那は思った。世間には呑気な小説家もいるものだ。
「これはアナグラムではありませんが、先頃ある作家の全集がでたとき、月報に見慣れないペンネームの人が随筆を書いていました。そこであれこれ推理してみたところが、各段の冒頭の一字を拾って、それを逆に並べなおすと、馴染みの作家の名前になることを発見したんです」
予め机にのせてあったタブロイド半截の月報をひろげてみせた。なるほどマスターがいうとおり、つなぎ合わせた文字を逆に読むと、丹那も聞いたことのある作家の名前があらわれてきた。
「なんだか焙《あぶ》り出しの絵みたいですな」
「正にそうなのです」
「しかし読者が、焙り出せば文字がでてくるということに気づかない場合はどうなるのですか。作者にしても、苦心して考え出したアイディアが不発に終ってはつまらないではないですか」
「読者のなかにはわたしみたいな物好きがいますからね、そこに一縷《いちる》の望みをかけているんだろうと思いますな。ところで話は大塚さんの合作者のことになるんですが、この陰の人物を仮りにX氏と名づけるとしてみます。これまでの作品から判断する限りでは、大塚さんとは違ってX氏はかなりの才能の持主であることが解るわけです。X氏にしても、そういついつまでも裏面にかくれている気はないかもしれません。もし彼が犯罪者であるとすれば、時効になるのを待って、やがて大手を振って推理小説界に登場するつもりでいることも考えられるからです」
マスターが「|登場《とうじよう》」をトジョウと発音したので、一瞬丹那はなんのことか解らなかった。
「最近のアメリカでは囚人が獄中でギャング小説を書いて評判になっていますし、有名なO・ヘンリも刑務所に入れられたことがあります。日本でも、亡くなった橘外男氏は≪私は前科者である≫という著書を発表して注目を浴びました。尤も橘さんは破廉恥な行為で罪に問われたわけではないのですが……、とにかく近い将来、わが国でも前科を問題にしない風潮が生じるかもしれません」
「…………」
「そうした時代がくればX氏は仮面をぬぎます。そして自分が合作者であることを堂々と主張すると思うのですよ」
「…………」
「あるいは、何年か後に大塚さんの個人全集がでることになった、という場合を想定してみましょう。そのときまで二人の友情がつづいていれば何ということはないのですけど、もし喧嘩でもして不仲になっていたら、大塚さんは合作したことには目をつぶって、印税を独り占めにするかもしれません。この場合、X氏がいくら合作だと言い張っても証拠がなければどうしようもない。わたしは、X氏もその程度のことは考えていただろうと思ったんです」
「なるほど。それで?」
「では、どんな証拠を残せばいいのか。いくつかの方法があるでしょうが、作品のなかに、それとなく自分が合作者であることを誌しておくのがいちばんはっきりとしたやり方です。それにはいまお話した伝で、文章中に自分の名をこっそりと隠しておくのも効果がある手だと思いました」
「なるほど」
「しかし、小説を書くたびにそうした工夫をするのは面倒だし、時間もかかることです。一度決めればあとはOKという手があれば、こんな旨いことはない。そう考えると、ゆきつく処はペンネームに工夫をこらすことです。もし大塚春樹というのが大塚さんの本名であれば、わたしがいまいったことは推理マニアの他愛もない勘ぐりにすぎません。しかしもし筆名だとすると、この四つの文字のなかに秘密が隠されている可能性があるわけです」
「大塚春樹という名前にねえ……」
「作家のなかには筆名をつくらずに本名で押しとおしているズボラな人もいますけど、推理作家だけに限っていえば、三分の二がペンネームを使っています。そこで推理作家協会に訊ねてみたら、大塚さんの本名は駒井勝郎だというのです」
「なるほど」
と、丹那はくり返しおなじ間投詞を発した。ほかに相槌の打ちようがない。
「本当のことをいいますと、推理作家協会に電話をする前に、アナグラマタイズしてみたんですけどね」
「何ですか、その穴熊なんとかいうのは?」
「いまお話した、綴り字を変えてほかの人名を発見することですよ。それをやってみますと、いくつかの答がでました。果して、わたしが予想したとおりのある解答がでた。その段階で推理作家協会にダイアルしたわけです」
上体をそらせていかにも得意気である。アナグラムを作る作家のほうにも稚気があるなら、それを解く読者の側にも稚気がなくてはなるまい、と丹那は思う。いまのマスターのまん丸な顔は、なんとも幸福そうで満足気で、稚気にあふれているようだった。
マスターは卓上カレンダーを取り上げて、そこにメモされた文字を読み上げた。
「ざっと考えただけでも、甲斐福太郎、奥田ひかる、鵜原菊人、木原初男、宇喜多ハル子、井倉はつ子、久原伊都子なんていう名前がでてきます。ところがですよ、これ等のなかで奥田ひかるという名に憶えがあるんです」
「……?」
「どこかで見かけた名前だなってことがピンときた。そこで記憶をさぐってみたところ、奥田ひかる氏というのは数年前に、ある推理専門誌のコンテストに応募し入選した作家なんです。そして大塚さんも、同じコンテストに短編を投じて活字になっています。但し、大塚春樹という筆名を用いたのは第三作からで、当時はまだ本名の駒井勝郎で書いていました」
「どうもよく呑み込めないのですが……」
と、丹那は正直にいった。どちらも話に夢中になったあまり、ココアに手をつけることを忘れていた。
「つまり、こういうことなのです。三、四年前になりますが、『ミステリ・ファン』という推理専門誌の恒例の短編コンテストに、五名の新人が入選して応募作品が掲載されました。そのなかに、駒井勝郎ならびに奥田ひかるという人がいたのです」
「ふむ」
「こういうコンテストの通例なのですけど、入選したからといって作家活動が始まるわけではなくて、そのうちの何人かは一、二作を書いたきり息がつづかなくて消えてしまいます。極端な場合には、その年に当選した新人の全員が消えていくこともあるんです。で、駒井、奥田両氏のときは奥田ひかる氏が消えて、駒井勝郎氏のみが大きく成長した。あとの三人の人達は消えることはしませんでしたが、いまもって年に短編を一、二本書くという、ほそぼそとした作家活動をしています」
「なるほど。そしてこの駒井勝郎氏が間もなく筆名を大塚春樹に改めた、というわけですな?」
「そうです。ところが、いまお話をしたような事情から、大塚春樹は奥田ひかるのアナグラムであることが判りました。このことからわたしは、奥田氏はなん等かの事情があって消えたようによそおいながら、ひそかに駒井勝郎氏と合作をしていた、そして合作をするにあたって、駒井氏に大塚春樹というペンネームを用いるように要求したのではないか、と考えるのですよ」
「なるほど、解りました。奥田ひかる氏は、胸中に考えるところがあって大塚春樹というアナグラムを案出すると、これを二人の共同ペンネームとして使用するよう申し入れた。こういうことですな?」
「ええ」
「奥田氏の作品の傾向はどうでしたか」
「駒井さんと似たようなものです。つまり二人とも本格派という範疇《はんちゆう》に入りますが、おなじ本格派といっても、コンテストの入選作品を比べますと、奥田ひかるのほうが純度がたかかったですね。だからそのとき、奥田さんは伸びる人だが駒井さんには大した期待は持てないと思ったのを覚えています。ところが半年もしないうちにわたしの予想が美事にひっくり返ってしまったもんだから、おれの勘も鈍ったものだとひそかに苦笑していたんです。しかし、奥田さんが知恵を貸していたとなると、その後の大塚春樹さんが驚異的な成長ぶりを示したのは、当然なことだという気がするのですがね」
冷えたココアには見向きもしないで、タバコに火をつけた。さすがに喋り疲れたらしく、しばらくの間は黙々として青い煙をふかしつづけていた。
丹那自身が問題の短編を読み比べたわけではないから断定的なことは何もいえないけれど、駒井の作品が劣っていたのが事実だとすると、彼が今日のように本格推理の第一人者としての地位をきずいた裏側に、奥田ひかるのバックアップがあったことは容易に肯定できるのである。
「駒井氏が……、つまり現在の大塚氏が成長したのは、作者自身が書き慣れてきたといいますか、推理小説のコツを会得したというふうに解釈することはできませんか」
「小説そのものは、書きつづけることによって巧くなる場合もありますよ。第一作から熟達した文章を書く作家がいる反面、最初は箸にも棒にもかからぬような、いわゆる探偵綴り方を書いていた人が、何本かこなしていくうちに見違えるような上達を示すケースがあるんです。駒井さんなどもそういった仲間の一人なのですが、トリックを考案する才能というんでしょうか、あればかりは勉強したところでどうなるものでもないですからね」
「とすると奥田ひかる氏と駒井勝郎とは、むかしからの友人だったか、推理作家を志向する仲間同士だったのかな?」
そうならば捜査の対象をぐっとしぼることができる。奥田ひかるを発見するのはそう難しいことではないのである。
「かもしれませんね。しかし、往々にして推理作家は、同期生達で結束をかためる傾向があるんです。会などに出席してみても、あたりにいるのは先輩ばかりということになると、気軽に口をきけるのは新人仲間しかないでしょうから。奥田、駒井といった人々が入選してから急速に接近した、ということもあり得るわけです。どちらも本格派ですから、たちまち話が合ったでしょうしね」
「その二人が、なぜ別れることになったのでしょうな?」
「仲間割れしたとか、奥田さんが死亡したとか、事情はいろいろあるでしょう」
そうしたことまでマスターが知っている筈もない。早速編集部を訪ねて奥田ひかるの住所を教えてもらおう、と丹那は考えた。
「雑誌の発行所はどこです?」
「去年廃刊になりましたよ。同時に雑誌社も解散しました。『ミステリ・ファン』だけを発行していた小さな会社でしたから」
マスターは、丹那ががっかりするようなことをいった。
「そいつは困った。編集者もちりぢりになっているだろうし……」
「いえ、当時の編集者の一人が脱《だつ》サラに踏み切って、すぐそこで商売をしています。ですから会うのは簡単ですが……」
歯切れのわるい口調でつづけた。
「奥田ひかる氏が大塚春樹さんみたいな売れっ児の作家ならば、当時の手帖を見せてもらえば住所なり電話番号ぐらいは記入してあるでしょうが、一、二編を書いたきりで消滅したような素人作家となると、どんなもんでしょうね」
マスターは悲観的であった。しかし、だからといって丹那まで絶望的になる必要はない。
「ともかく近所にいるという元編集者に会ってみたいのですが」
「駿河台の交叉点のそばでおしるこ屋をやっていますよ。わたしも甘いものが好きでして、その店へ今川焼を喰いにいったら、なんと当時の編集者が店先で焼いているではないですか。奇遇《きぐう》でした。わたしが、買い逃したバックナンバーを買いに雑誌社を訪ねたとき、この人と一時間ほど話し込んだことがあったんです」
マスターはそこで声を落すと、階下の客に聞えることをはばかるようにして、自分はやはり日本人なのだから洋ナマよりは今川焼が好きなのだといった。
喫茶店からしるこ屋までは、直線距離にしてほんの二、三百メートルしかない。丹那はオーバーの衿をたてて学生の間をぬって歩き、駿河台の交叉点をわたってしるこ屋に辿りついた。それは書店と古楽器店とにはさまった間口のせまい店であった。
マスターが語ったとおり、入口のガラスのなかで白い帽子をかぶり白い割烹《かつぽう》衣を着た四十男が、竹筒につめた餡を器用な手つきでさばいていた。細面ての近眼鏡をかけた顔はみるからに神経質そうで、こんなことをするよりも、机の上でゲラ刷りに朱を入れているほうが似合っている。
店に入って饅頭と薄茶を注文し、それをゆっくりと味わいながら主人の手のあくのを待っていた。近年、しるこを啜る若い女性がめっきり減ったというけれども、この店はかなり繁昌していて、小さなテーブルにはひっきりなしに客が坐って空くことがなかった。
「お待たせしました」
主人は帽子をとって丹那の前に坐った。濃い髪はきれいに撫でつけてあり、白い仕事衣は糊とアイロンが効いていて、清潔感にあふれている。店がはやるのもそのせいかもしれぬ、と思った。
「奥田ひかるさん? いや、よく覚えていますとも。名前のとおり光った存在でしたからね。発表した短編はわずかに三本に過ぎませんが、実力のある人で、編集部でも将来を嘱望していたのです。特に、着想にずばぬけた閃きがありましたね。奥田ひかるの出現によって本格派の地図が塗りかえられるのではないか、なんていう人もいたのですが、どういうわけか三作きりで筆を絶ってしまって……。みなが一様にがっかりしたものでした」
「なにか理由があったのでしょうか」
「知りません。編集部でも不思議に思いましてね、結局はわれわれの買いかぶりではなかったか、ということで何となく納得してしまったのです。素晴しいトリックがそう無限に思いつけるものではないですから、早くも息切れがしたんだろう、とですね」
この元編集者は、奥田ひかるが駒井勝郎と合作を始めたとは思ってもみないようであった。
「コンテストを担当していたのはわたしですから、黙って見ているわけにもゆきません。で、住所をたよりに訪ねてみますと、すでに転居して数ヵ月たっていました」
「移転した先は解りますか」
と、丹那ははやる気持を押えつけた。
「そうですね。管理人……、松風荘という高級アパートに住んでいたんですが、そこの管理人から聞いた宛名を手帖に記入したことは記憶しているんです。でも、その手帖がどこにあるか……」
ひょっとすると机のひきだしの奥にでも入っているかもしれないといい、はいていたサンダルを脱ぐと、ニスを塗った階段をとんとんと踏んで二階へ上っていった。その好意に報いる意味で、丹那はトコロテンを追加注文した。これならば喰い過ぎても胃にもたれることがない。
そのトコロテンを胃袋へ流し込んで口のまわりをハンカチで拭いているところに、ふたたび階段を踏む音が聞え、主人が降りてきた。手に、白いメモを握っている。
「いま思い出したんですが、管理人の話では、奥田さんのご主人の一身上に都合が生じて、急に郷里に帰ることになったのです」
「ご主人が? すると奥田ひかるというのは女なのですか」
「あれ? いやだな、いままで男性だと思っておられたのですか」
逆に訊かれる始末である。丹那は黙ってうなずき、出されたメモに目をおとした。岐阜県郡上郡白鳥町石徹白、としてある。郡上郡と書いてグジョウ郡と読むことは知っていたけれども、字《あざ》の名の発音が判らない。
「なんでしょうな、このイシテッパクというのは?」
「あ、ルビを振り忘れた。それはですね、イトシロと読むんです」
「イトシロ……?」
なるほど彼がいうとおり、ルビが振られてなくては到底読み得ない文字である。そう思って感に耐えた面持で字づらを眺めているうちに、ふと、この名をどこかで耳にしたような気がした。いつ、何処で、誰から聞いたのだろうか。
丹那のこの疑問が解けたのは役所に戻って鬼貫に報告をすませたときのことで、解いてくれたのは鬼貫である。
「大塚春樹の元の奥さんがいってたじゃないか、ときどき伊藤四郎と名乗る人の奥さんから電話がかかったと」
「そうだ、それだ、それなんです」
「多分、交換手が『石徹白からです』といったか、奥田夫人が『石徹白からだとお伝え願います』といったのを、早呑み込みして伊藤四郎だと聞いてしまったんだろう。それはともかく、郷里に帰った奥田夫人と東京の大塚春樹の間につながりがあったことが、これで解るじゃないか」
平素はあまり感情をおもてに出さない鬼貫だが、気のせいか語調がはずんでいるようだった。
「ご苦労だが丹那君、苦労ついでに石徹白までいってくれないか」
大塚の動機の発見。そこに目標をおいた丹那の調査は、いま最終段階にさしかかっていた。
その翌朝、新幹線で名古屋まできた丹那はここで高山線の急行に乗り換えて、岐阜経由で高山線へと入った。この線を走るのは初めてのことでもあり、しばらくの間は仕事を忘れて窓外の風景に見入っていた。戦前から飛行場のあることで知られた各務《かがみ》ケ原を通過したとき、それがあまりにも小さな田舎《いなか》駅だったので意外な思いに打たれたり、鵜沼をすぎた頃から右手に見えかくれする日本ラインの美しさに見惚れたりした。何年か前に川向うの桃太郎神社へ行ったことのある彼は、そこと思うあたりに見当をつけて眺めてみたが、それらしい神社を捉えることができずに軽い失望を感じた。
この急行のつぎの停車駅は美濃太田で、丹那はここで下車すると、フォームの反対側で待ち合わせていた三輛連結の越美南線に乗り移った。初めのうちは下校する通学生達で坐る席もないくらいに混んでいた車内も、途中までいくうちに殆どが降りてしまい、彼はあいたシートに腰をおろして、遠足にでた小学生のように窓からおでこを突き出して外の風景を眺めていた。鉄道と長良川とはつかず離れずゆるやかな傾斜をのぼってゆき、水をはった水田には一面に早苗がそよいでいた。
終着駅の二つ手前の美濃|白鳥《しろとり》駅で降りた。この町に奥田ひかるの知っている旅館があるので、いったんそこに寄って鞄をあずけ、ハイヤーを呼んで貰うように、というのが彼女のアドヴァイスである。丹那は忠実にそれに従うことにしていた。
白鳥駅前のちんまりとした広場には正ケ洞行の国鉄バスが客待ちをしているだけで、石徹白行のバスの姿はなかった。うまくそれにぶつかると、奥田ひかるの家まで直行することができるのである。
教えられたとおり広場を横切ると、町のほうに歩き出した。広場の角の土産物屋にはドブロク羊羹としるした紙が貼ってあり、いかにも山国に踏み入ったという感じがした。ひょっとするとそれは、山の谷間の密造者達の手でひそかに練り上げられた羊羹なのかもしれない。
かつて真冬の白鳥をおとずれた知人が、カフェーがたった一軒しかない町だったというのを聞いて以来、丹那の頭のなかには貧弱な田舎町のイメージしかなかったが、いざ大通りに入ってみると、そこは旧式な構えの店と明るい当世風な店舗がいりまじった賑やかな商店街であった。美濃太田から二時間ちかく乗りつづけてきた濃尾平野の果てに、このような近代的な町があることを知って、丹那は目をみはった。
しかし商店街そのものの規模はさすがに小さく、宿を探して少し歩くともう町はずれにでていた。
奥田ひかるが指定した旅館は商店街が終ったところにあった。今後ともこの町がこれ以上にふくれ上がることはあるまいから、宿屋は、いつまでたっても町のはずれに立っていることになる。
洗面具をつめた小さな鞄を女中に預けると、入口の框に腰をおろして、ハイヤーがくるまでの間を、サイダーを飲みながら待った。この小さな旅館は鮎釣りの季節に満員となるくらいで、ふだんは客の数も少なく、いたって静かなのだという。奥田ひかるの推薦してくれた理由が解ったような気がした。
「ハイヤーで何処へいきなさるのですか」
と、奥からでてきた老婆が訊いた。
「石徹白です、下在所の先の……」
「あんな山のなかへ何をしに……? 去年、わたしもこの齢になって初めていってみましたが……」
そこは土地の人間ですら滅多にいかぬ場所らしいのである。丹那はなんとなく心細い思いがし、このような山奥で、都会生活に慣れたはずの奥田ひかるの夫はどんな職業に従事しているのだろうかと訝《いぶか》った。だが、この素朴な疑問も間もなく明かにされることと思うと、車のくるのが待ち遠しく感じるのであった。
サイダーを飲み終えて話題がつきかけた頃に、ハイヤーが到着した。
「……石徹白へいけという電話でしたが」
若い運転手は発車するとすぐに、客扱いに慣れているような気軽な口調で話しかけた。
「奥田さんを知ってるかい?」
「お客さん、あそこは奥田姓が多いんです。四天王が全部おなじ奥田というんだから」
「四天王? なんだね、それは」
「山林地主でね、石徹白の山は四軒の奥田家が持っているんです。去年、分家のほうがほんの一部をゴルフ会社へ売ったら、億の金が入ったという噂ですがね」
「羨ましい話だな」
ゴルフ場ができるという話を聞いた途端に、丹那はなんとなく気が楽になった。石徹白が、山姥が住むような山奥ではないことがこれで解る。
「奥田一族は平家の落人《おちうど》だという噂ですよ。先祖に小才のきく人がいて、石徹白の人に金を貸しては借金のカタに山を取り上げたんだそうですが、これはやっかみ半分の悪口かもしれません」
しばらく鉄道と平行して走っていた車は、途中で気が変ったように左へ折れて丘陵地帯に入った。間もなく舗装された道路は尽きて、むきだしの凹凸のはげしい山道がつづいた。運転手は慣れた手つきでハンドルを切り、話を絶やさなかった。
「で、奥田のなんという人です?」
「奥田ひかるさんだ。二、三年前まで東京に住んでいたのだが……」
「じゃ本家の奥さんだ。白鳥もそうだけど石徹白も過疎の村でねえ、若いもんはみな名古屋へ働きにいってしまうんですが、本家の次男坊も東京の大学をでると、そのまま東京で会社勤めをしていたんです。家督をついだのは長男の初之助さんだったけど……」
運転手が用いた過去形の表現に、丹那はちょっとひっかかった。
「初之助さんがどうかしたのかい?」
「急に死んでしまってね。だからいやでも次男が郷里に帰って後をつがなくてはならなかったんです。初之助さんは変り者で、四十をすぎても結婚しなかったから子供もいない。次男坊にしてみれば棚からボタ餅といったところでしょうな」
「運のいい男だね」
「そうなんです。でも奥さんにしてみると、東京でサラリーマンの妻として暮していたほうがいいか、億万長者の夫人になって山家《やまが》の暮しをしたほうがいいか、どっちでしょうね?」
道は頻繁に曲折していた。そしてとある曲り角までくると、松の木にたたきつけた「蝮あります」という木の看板が目に入った。
「物騒だね」
「そんなに沢山いるわけじゃありません。だから素人のわれわれが探しにいったとしても、一匹つかまえられたら大成功ですよ。その点、商売人はうまいもんです。でも、一度だけですがこの辺で轢いたことがあります。降りてみると、蝮のやつタイヤに捲きついて鎌首をもたげていました。あのときは迂闊に手がだせなかったな」
車は杉の林のなかを走りつづけた。石徹白杉といって日本の杉のなかでも飛びぬけて上等の建築材なのだそうだ。
「敗戦後の農地解放で小作農が地主になったでしょう。ところが山林地主は小作人を使っていたわけじゃないから、持ち山を手放すこともなかったんです。運のいい人には敵《かな》いませんね」
「しかし、若死した初之助さんは運がいいとはいえまい?」
と、丹那は話をそちらの方向へ持っていった。
「そう、初之助さんは不運でした。氏神さんの祭の夜に、蝮に噛まれて死んだんですから。すぐに白鳥の町立病院へ運んだんですが、他の患者に血清を使って品切れになってたので、パトカーが|郡上八幡《ぐじようはちまん》の病院まで取りにいってくれました。でも、間に合わなかったんです」
「なるほどね。都会のように交通事故はないが、毒蛇にやられる危険はあるわけだな」
車はいくつかの集落をとおりぬけた。集落には寺があったり昔から経営をつづけている宿があったり、モダンなロッジがあったりした。ロッジのほうにはスキー客が泊まる。しかし古い旅籠《はたご》屋には、山を越えて福井県へいく旅人が一夜を明かすのである。いずれにしても、地図を眺めて想像してきたような、人外境といった趣きは稀薄であった。
やがて峠の頂にさしかかったときに洒落た構えのレストハウスの前を通過したが、もう丹那は驚かなかった。山道はそこから降り勾配になっている。
「ここが福井県との境だね?」
丹那が持ってきた時刻表の鉄道地図をみると、下在所も石徹白も、上在所も、すべて福井県側に記入されている。
「そうじゃないです。もうずっと前から岐阜県に編入されているんですよ。だからこんないい道が通じたんです。福井県側にいたら、石徹白の住民は昔どおりの不便な暮しをつづけていますよ」
ひとくさり彼は岐阜県の自慢をして、福井県人を悪くいった。県境の向うにいる越前の人間は独特の風俗をしているので一見してそれと判り、美濃の人間たちは「あれは越前だ」といって嗤うのである。その奇妙ないでたちが、岐阜県側のものが蔑笑する対象になるのだそうだ。
杉林は延々として道の左右にひろがっていた。そしてそれが途切れた頃に、ようやく車はゆるやかな丘の上で停った。
「ここが奥田さんの本家なんです」
黒瓦をのせ煤《すす》けた壁のその家は、億万長者が住むにしては質素にみえた。敷地もせまそうだし、家自体も四部屋か五部屋ぐらいのものだろうか、戦前の東京でいえば、会社の課長クラスでもこの程度の家には住めたものである。
「二時間もしないうちに帰りのバスが来ますから」
料金を受け取ると、運転手はそう言い残して帰っていった。
丹那は庭をぬけて主家《おもや》の前に立った。軒先で黒いつがいのチャボが餌をついばんでおり、軒下には褐色の雑種の犬が腹這いになってうたた寐をしているが、どちらも丹那を無視したように、振り向きもしなかった。
「あら、お疲れになったでしょう? お待ちしていたんですのよ」
戸口にあらわれた奥田夫人は歯切れのいい東京弁でいい、手早くビニールのエプロンをはずした。そして声を低めると、家に姑がいるので聞かれると工合がわるいと囁いて、丹那を外に誘い出した。
いま来た道をなおも先へと降っていくと正面に老杉のそびえ立った神社があり、人家も道もそこで終っていた。
「帰りのバスはここから出ますの」
標識をさしてそういい、丹那は機械的に腕時計をみた。時間はたっぷりある。
「境内でお話をしたらどうかしら。ベンチもあるし、聞いてるものは野鳥だけだし……」
丹那は後について大きな鳥居をくぐった。凸凹した歩きにくい敷石を踏んでいくうちに水の音が聞えて来、前方の杉木立の間から光った流れがちらっと見えた。参道を横切っているこの川はかなり幅があって水の勢いも激しく、材木を並べただけの橋をわたりながら、丹那は目がくらみそうだった。
午後も夕方にちかいせいか対岸はひんやりとしていて、じっとりと湿気た地面をおおっているのは濃緑の地衣類であった。右手にはかなり大きな社務所が、左側にはそれと向き合って社殿がある。彼女のいうベンチは山裾を背に、二つの建物にはさまれて遠慮勝ちにうずくまっていた。先程の橋と同様に、これも丸太をたて割りにした粗末なしろものである。
「で、お訊きになりたいのはなにかしら?」
「電話ではくわしくいえなかったのですが、あなたと大塚氏とが合作を始めることになったいきさつを知りたいのです。それに、合作を打ち切られたいきさつについても」
「合作をしていたことがよく判りましたわね」
「それは簡単なことですよ。最近の大塚氏の作品が急に色あせてきたのと、大塚春樹のペンネームがあなたの本名のアナグラムであるのとが解れば、あとはレントゲンで透視したみたいなものですよ」
「さすがは警察ですことね」
と、億万長者の夫人は細くひいた眉を大袈裟に上げてみせた。丹那はただニンマリとしただけだった。喫茶店のマスターに教えられたなどと正直なことを告白して、警察の威信を失墜させる必要はないのである。
彼女はうすいピンクのカーディガンを羽織って白いタイトスカートをつけ、あわい化粧をしている。顔立ちも平板で、東京にいた頃は目立つことのない平凡な女性だったろうが、山国ではなにかにつけ注目の的になる存在なのだろう。
「大塚氏と知り合ったのはいつでした?」
「コンテストに入選した直後ですわ。たまたま同じ町内に住んでいたこともあって、あの人のほうから訪ねてくれました」
「合作するようになったいきさつは、どんな理由からでした?」
「主人が書くことを好まないからですわ。女がお酒を呑んだりタバコを吸ったりするのを嫌うように、推理小説を書くことも嫌いました。田舎者ですから、そうしたことにはまるっきり理解がないんです」
「女がタバコや酒をやることにはわたしも批判的ですが、なぜ推理小説がいけないのでしょうな」
「女は人を愛することを考えていればいいというんですの。夫を愛すること、子供を愛すること、舅や姑や小姑や隣人や、あらゆる人を愛することを考えろって。人殺しのような殺伐なことに頭を使うのはもってのほかだというんです。いまもって主人の考えは変っておりませんけど」
「それが合作をするきっかけですか」
「はい。コンテストにパスして自信がつきますと、意欲が湧いてきます。いいトリックや面白いプロットが頭のなかにいっぱい詰っているんです。でも、書けば主人にばれてしまいますし、それやこれやで悩んでいたんですわ。大塚さんと会ったのはその頃のことなのです」
奥田ひかるは脚にとまった虫を払いおとして話をつづけた。
「あの人は、二、三本書いたらもうトリックがタネぎれになったと冗談めかしていいました。あたくしはトリックに自信があったものですから、それでは案を提供するから合作をしようじゃないのって申し出たんです。当時の大塚さんは駒井という本名で書いていらっしゃったのですが、合作をする以上は新しいペンネームをつけようと提案しまして、大塚春樹という名にしたんです」
「あなたが創り出した筆名ですね」
と丹那は念を押した。
「ええ。これはあたくしの勘ですけど、何度か会って話をしているうちに、大塚さんてあまり信用できない人間じゃないか、と思うようになりました。いずれはおれの作品だといって取り上げられるかもしれない。それに備えて、あたくしが合作者である証拠を残しておきたいと思うようになりました。その頃にアナグラムを思いついたんですわ」
「合作は幾つぐらい書きましたか」
「三本ですわ」
「たった三本?」
思わず聞き咎めた。
「合作は三本なんです。あの人は文章が下手ですし、あたくしが提供したトリックの活《いか》し方も伏線の張り方も下手でした。ですから、四本目からは自分で書きました。あの人は、それを清書すればよかったんです」
そう聞かされたとき、丹那には、大塚が自宅で執筆しなかった本当のわけが理解できたように思った。彼にも面子《メンツ》があるだろうから、単なる清書屋にすぎぬことを妻や愛人に知られたくなかったのだ。
「原稿料はどんなふうに分配されたのですか」
「フィフティ・フィフティですけど、稿料を受け取ることには気をつかいましたわ。ばれたら家庭争議になりますものね。ですから、岐阜市内の信用金庫に別名で送金してくれるように頼んであるんです」
「半々というのは馬鹿らしい話じゃないですか。清書屋にすぎぬ男に半分を取られるというのは……」
「でもあたくしのほうには資産がありますし、あの人はあの人で流行作家にふさわしい生活をしなくてはなりませんでしょ? いつまでたっても貧乏暮しをしていられたのでは、合作していることがばれてしまいますものね」
さすがに億万長者の夫人だけあって、しみったれたことはいわないのである。おれにはこんな気前のいい真似はできない、と丹那は心のなかで呟いた。
それはそれとして、合作を打ち切った理由はなんだろう?
「刑事さんはいま、駒井さんが清書屋にすぎないとおっしゃいましたけども、正確に表現しますと、多少の筆は加わっているんです。あの人はベッドシーンを書くことが大好きなものですから、必ずそれを挿入するんです。露骨で大胆でいやらしい描写を……。雑誌がでるたびに抗議をしたものですわ。こっちに引っ込んでからは長距離電話で文句をつけましたけど、いっかなあたくしの話を聞こうとはしません。本気でそう信じているのか、敗け惜しみかは知りませんが、あたくしの作品が読者に受けるのは適度のピンク描写が入っているからだというのです」
「しかし、それが時代の風潮というものではないですか。月刊雑誌なんかを覗いてみると、どぎつい挿絵ばかりが目につきますが……」
「あら、警察の方の口から肯定論をうかがおうとは思いませんでしたわ。ずいぶん理解がおありですこと」
真向うから丹那を皮肉った。
「風俗小説ならばベッドシーンが登場してもかまいませんけど、あたくしが書くものは純粋の推理小説なんです。論理の面白さで読者の興味に訴えるのが本筋ですわ。本格物の作家でありながら煽情的な内容で読者を釣るのは邪道です。そんな作家は、才能に自信がないからだと思っていますの」
「そんなものでしょうかな」
と、丹那は曖昧に相槌を打った。口吻から判断するところでは並ならぬ自信家であるように思えた。余程の大物か、さもなければドンキホーテみたいな楽天家ということになる。
「それに加えて奥田一族は平家の血をひく名門ですのよ。曾祖父の代から多額納税者でしたし、主人の父は貴族院議員を三期もつとめた人なのです。嫁であるあたくしにも、対世間的な立場というものがございますわ。もし、何かの拍子で大塚春樹があたくしだってことがばれてしまった場合、名門の妻たるあたくしがあんな下品な描写をしていたとあっては顔向けができませんでしょう? その意味からしても、あの人と合作することは耐えられなかったんですの」
「それが合作を中絶した理由ですね」
「いいえ。これはあの人との合作に嫌気がさしていたことの説明です。今後も引きつづいてベッドシーンを入れるなら、合作を止めようではないかと申し入れますと、あの人ったらお世辞をいったり泣きごとをいったり、果てはあたくしがこっそりと推理小説を書いていることを主人に知らせるといって脅したりしました。そうこうするうちに、あたくしも日陰者でいることが嫌やになってきたんです。正々堂々と大手をふって自作を発表するようになりたい、そう思うようになりました。そこで思い切って主人に談判をしましたの。大塚春樹名義で書いた長短編や、新聞雑誌にのった評論家の批評の切り抜きを並べまして、あたくしにはこれだけの才能と実力があるから書かせてくれといったんです。でも、やっぱり駄目でしたわ。ほんとうに、いやになるくらい解らず屋なんです」
あわい紅をひいた唇がねじられたように歪んだ。
「結局、書くためには別れるほかないのだということに気づきました。幸いなことに子供もいませんし……。離婚を決意するとともに、駒井さんにもその旨を申し伝えまして、それ以来あの人には原稿を送っていませんの」
「なるほどね、だいぶ事情が解ってきました。ところで、大塚氏の作品の質がおち始めたのは三、四ヵ月前ですが、そのことから割り出すと離婚を決心されたのはさらにその二、三ヵ月以前だったということになりますね?」
「おっしゃりたいことは解りますわ。あれ以来半年がすぎているのに、踏ん切りがつかないのが可笑しいというのでしょう?」
「そうじゃない。考え直して、離婚を思い止まられたのではないかと想像したのです」
丹那は、なにかというと簡単に離婚という言葉を口にする近頃の女性に対して、かなり批判的であった。奥田ひかるの場合にしても、推理小説を書くことが、離婚を賭けてするほどの重大事であろうか、と小首をかしげたくなるのである。
「とんでもない、決心はますます固くなっていますわ。実行に踏み切れないのは、主人が十二指腸潰瘍で入院したからなんです。病人を捨てて出ていくのは、いかにも不人情ですものね」
「それもそうですね。ところで大塚氏はあなたの申し入れを素直に承知しましたか」
「一応は駄々《だだ》をこねましたわ。自殺するなんて脅したこともあるんですのよ。でも、そんなことをしたら新聞に書きたてられて、かえって世間にあなたの秘密が知れてしまうことよって叱りつけてやりました。そして、いままでの代作の件は内緒にして上げること、大塚春樹のペンネームは引きつづき使用していいという約束をしたんです。そればかりでなく、大塚名義の長短編の版権をすべてゆずってやりましたわ」
「勿体ないですな」
「惜しいなんてことはありませんわよ。あの程度のアイディアは幾らでもうかんできますもの。あたくしってお洗濯をしているときに空想力が湧いてくるんです。だもんですから、うちには電気洗濯機はおいてありませんの」
丹那の視界の片隅を、白い人影がゆっくりと横切った。反射的に視線をむけると、白衣の神主が社殿の下で履物をぬぎ、階段を上りかけているところだった。
「あの神主さんの奥さんは東京のかたなんです」
「ほう」
丹那は目をまるめた。奥田ひかるの他にもこんな山のなかに嫁にくる女性がいるとは……。
「だってあのご主人も以前は東京にお勤めだったんですもの。その後、美濃太田の病院の事務長をなさって、それから神主になられたんですわよ」
鳥居のすぐそばにある平屋《ひらや》が、この神官の家なのだと教えてくれた。
「東京にいる時分も病院勤務だったんですか」
その頃に結婚したのだろうと想像した。結婚したての花嫁は、何十年か後に、停年退職した夫に伴われてこんな山奥に住むことになるとは思いもしなかっただろう。その点は奥田ひかると似ていなくもない。
「病院じゃありませんわ」
「すると神官?」
「神官でもありませんの」
どういうわけか丹那の顔を横目でみてにやにやとしている。
「何処かですれ違ったことおありではないかしら」
「え?」
「あなたと同じ警視庁においでだったのよ。ですから小説を書いていて警察機構で解らない個所がでてくると、何喰わぬ顔をして訊きにいくんです」
「…………」
丹那は返事をわすれて、階段を登り終った老先輩の白い後ろ姿を眺めていた。
十二 三重衝突
丹那がもたらした報告によって明かにされたのは、大塚が経済的にかなり追いつめられた事情にあることだった。兇器が発見され、動機の存在がつきとめられたいま、つぎにとるべき手段は再度彼のアリバイと取り組むことであった。大塚の犯行である以上は、下田海岸で魚釣りをしていたという主張が嘘であることはいうまでもない。が、では、短い時間内にどんな交通機関を乗り継いで下田と三重県とを往復することができたのか。それともう一つの疑問は、大塚が太郎生の小学校にいながら、酒屋青年をいかにして葬むることが可能だったのか。
丹那が調査した後を、鬼貫が自分の目でチェックしていくことになったとき、彼が最初にしたのは、三重県側に酒屋青年の検屍報告を求めることだった。その後なにか新しい発見があったのではないかという期待は、しかし、その検案書に添えられた報告書を読んだとき、裏切られてしまった。ブレーキそのほか車に手を加えた痕跡はまったくなく、胃の内容物からは毒物も睡眠薬も検出されず、すべての証拠が事故死であることを明示しているというのである。
半ダースに充たない刑事達がテーブルを囲んで内輪の捜査会議をひらいたとき、問題の焦点になったのはそのことであった。この遠距離殺人の手段においそれと思い当る解決策がでるわけもなくて、やがて昼食時がくると、その日の午前中の会議も散会となった。
鬼貫は刑事の一人にさそわれて、近くのビルの地階にあるレストランで食事をとることにした。時刻が時刻だから、せまい店内は満席である。客のほとんどが近所の警察庁や通産省の職員であった。鬼貫も顔見知りのだれかれと目礼を交わして、運よくあいた席についた。
「齢でしょうかね。近頃はどうも目が疲れやすくて……」
と、刑事は指先を両眼の瞼にあてた。先頃の調査で湯島貂人を訪ねた男である。
「齢だなんて心細いことをいうなよ。きみにも似合わない」
読んでいたメニューから顔を上げると、鬼貫がたしなめた。
「いや、ほんとなんです。そこで薬局がすすめる点眼薬を買ったのですが、これが霊験あらたかでしてね、一ついかがです?」
「わたしは目のいいのが自慢なんだよ。ご好意はありがたいがその必要はない」
と、顎のはりだした上司はおだやかな目で笑った。彼は目ばかりでなく歯も丈夫だった。同期の仲間の大半が入れ歯をしているのに、鬼貫のそれはすべて自前のものなのである。
「しかし充血しているようですがね。わたしは青年時代に目の疲れから眼球に激痛が起きたことがあるんです。いってみれば胃痙攣の発作が目にきたようなものでして、眼科のお医者に往診をしてもらったんですが、いまもって目の神経がズキンとすると、そのときのことがよみがえってくるんですよ。眼精疲労ってんでしょうか、疲れ目はこわいですよ」
鬼貫はわかい頃に一度だけだが胃痙攣をやっている。その痛さに匹敵するという殺し文句が彼を陥落させた。
「抗生物質など入っていないだろうね?」
「あれは禁止されている筈です。大丈夫ですよ」
ポケットから携帯容器をとりだして鬼貫に点眼させると、刑事は天井を向いて大口をあけ、自分の目にも薬をさした。
「どうです? すっきりしたでしょう」
「まだわからないさ」
料理が運ばれてきたので、二人は話題をかえた。少くともめしを喰っている間だけは、事件のことも齢のことも忘れたい。
食事がすむと鬼貫はすばやく伝票をつかんで立ち上った。刑事は恐縮して「どうも、どうも」とテレビの司会者みたいなことをいい、ポケットから黒いサングラスをだしてかけた。忽ち、刑事が指名手配の犯人に似た人相に一変してしまう。が鬼貫は、なぜ彼が色眼鏡をかけたのか、その理由について深く考えることをしなかった。
鬼貫が思わずたたらを踏んだのは、混んだ食堂を後にして、地上にのぼるコンクリートの階段に足をかけたときであった。どうしたことか視界がギラギラと輝いており、まぶしくて目を開いていることができない。ひたいに手を当てて庇《ひさし》をこしらえてみるが、そんなことで効果がでるような生易しいものではなく、真正面から百ワットの電球をつきつけられたような思いである。この段になって、彼は初めて刑事がサングラスをかけた意味を理解した。
「一服もられたな?」
「どうもどうも」
「きみが目薬をしつこくすすめるから妙だとは思ったんだが、美事にやられたよ」
「すみません。実際にテストをしないと信じて頂けないと考えたものですから。なに、三時間もすれば元のとおりに戻ります」
「三時間もかい」
と、鬼貫は嘆息した。
「テストもいいけど、どんな意味があるのかね?」
「さっきも議題になった遠隔殺人の方法なんですが、わたしは、大塚がこの手で目薬をすすめたのではないかと思うのです。季節が季節ですから被害者がサングラスを持っているわけもないでしょう。突然に視界がまぶしくなって目をあけていられなくなれば、場所が場所ですから、事故を起すのは当然です。検屍の際に瞳孔がひらいていたとしても、それは当り前のことですから怪しまれません。胃のなかを調べても毒物や眠り薬が検出されるわけがないのです。ですからわたしは、大塚がこの薬を用いたことは間違いないと思うのですが……」
鬼貫は眉をよせ、目をとじたままでいる。この場合、そうする他に手段がなかった。
「そうだな。それにしてもこの眩しさにはかなわないな」
「ですから、いまもお話したとおり瞳孔が開きっぱなしになっているんです。調節することができないわけで……」
「うむ、そういう薬のことは聞いた記憶があるぞ。あれは硫酸アトロピンではなかったかな? 初めてこの薬がオランダ人から伝えられたときには、蘭法医が狂喜したという話がある」
「ですけどね、硫酸アトロピンは劇薬に指定されていますから、簡単に入手することは難しい筈です。眼科医でない限りは……。どうです、もう一度なかに入ってお茶でも飲みませんか」
屋内にいれば格別どうということもない。それは先程の経験で解っているので、鬼貫は二つ返事で逆戻りした。
二人が入ったところは珈琲店の、奥まったボックスである。めし時だから食堂が混んでいるのに反して、ここはほとんどの席があいていた。珈琲に目のない刑事はブラウンカナカを、珈琲嫌いの鬼貫はトマトジュースを注文した。
刑事は隣りのボックスに客のいないことを確認した上で、それでも用心深く絞った声で語りだした。
「いまの話のつづきですが、硫酸アトロピンは素人が手に入れることが難しいのです。どこの薬局でも売っているというしろものでもありません。ところが、同じような効果のある薬が市販されているんですよ。堂々と、誰からも咎められずに、自由に入手できるのです」
「ふむ……」
すでに鬼貫は、酒屋青年がこの散瞳薬によって瞳をひらかれ、そのために事故を起したという解釈に同意していた。それ以外には遠距離殺人を説明する手段がないからである。いきおい彼は、この薬の正体について強烈な興味を感じた。
刑事はカップの中味をいつくしむように、スプーンでじっくりとかき混ぜながら、鬼貫の知りたいことに答えていった。
「商品名はミドリンというんです。仮性近視をなおすのが本来の目的でして、うちの中学生の息子も使っています。じつは、わたしもそこからヒントを得たわけでして……」
そう聞かされてみると、鬼貫も新聞かなにかで仮性近視の薬が発売されたという記事を読んだような覚えがある。
「伜が色眼鏡をかけているのを見まして、てっきり不良化したのかと思ってこっぴどく叱りつけますとね、ミドリンを点眼するとこういう事態になるという話を聞かされたわけです。それが昨夜のことで、今朝、早速に知り合いの眼科医に訊きますと、その先生も患者の散瞳にこれを使っているという返事なんです。わたしもそれまでは専門医は硫酸アトロピンを使用するものだとばかり思い込んでいたものですから、その点について質問してみますと、瞳を短時間ひらく場合にはアトロピンよりもミドリンを使うほうが便利なんだそうです」
「なるほどね、そいつは知らなかったな。すると、こういうことになるわけだ、大塚の酒屋に対する殺意が現地にいってから生じた以上、点眼薬を入手したのは向うの薬局である、とね」
「そうです。あの男が太郎生で酒屋と会って彼のいうネタのさわりを聞いた途端に、生かしておいては危険だと感じて、殺すことを決意したのでしょうね。その晩の彼は名張へ帰って泊ったわけですから、たぶん、名張市内の薬店で求めたのだと思います」
「薬局は何軒ぐらいあるのかな」
「人口が三万ちょっとのちんまりとした都会ですからね、数は大したものではないでしょう。ただ問題となるのは、薬店側が大塚のことを記憶しているかどうかということになります。なんといっても日にちが経《た》ちすぎていますから」
その刑事は昨夜来検討していたとみえ、すらすらと答えた。
「弱ったね。遺体のほうもとうの昔に灰になってしまったんだ、いまさら調べようがない」
鬼貫はサジを投げたように吐息した。店の内部にいるので眩しいことはなかったけれど、散瞳された目には、視野にある一切のものが白っぽく映る。目の前にいる刑事の顔さえが、ふやけた、土左衛門のように見えていた。平素とかわらぬのはトマトジュースの赤い色ぐらいのものであった。
東京側の見解はおり返し現地に伝えられた。そして数日後には、事件の前夜、駅前の香天堂薬局でミドリンが売られているという調査の結果が入った。薬屋の売り上げ伝票には間違いなくその事実が記入されている。だが、これは予期したことでもあったけれど、薬局の主人は客の人相を記憶してはいなかった。男か女かということすら覚えてないという。それは、思い出せというほうが無理であった。
三重県側の報告はなおもつづく。そして、太郎生における酒屋青年の死についての調査結果にも触れられていた。この若者が乗車する直前に、大塚が彼をさそって二人きりで人目のとどかぬ校庭の一隅へいったことを、仲間の青年が思い起してくれたのである。おそらくその際に、好意とみせかけてミドリンをすすめ、点眼させたのではないか、というのが三重県警の意見だった。勿論、その計画を成功させるためには、まず大塚自身が自分の目にこころみて見せる必要がある。だが当人にしてみると、自分まで散瞳してしまっては動きがとれなくなる。それにそなえて色の濃いサングラスを用意しておかなくてはならないわけだが、訊き込みの結果、当日に限ってこの「トップ屋」が黒のサングラスを着用していたとの目撃者がでた、という。
三重県側からの報告で大塚の犯行であることはいよいよはっきりとしてきた。だが残念なことに直接証拠に欠けており、大塚を攻略するために残された方法は、下田における彼のアリバイを破るほかはないのである。
翌る日に、鬼貫は朝の電車で下田へ向った。この伊豆の小都市は日帰りをするには時間がかかりすぎ、といって一泊するには大袈裟にすぎるという中途半端な距離にある。鬼貫も調査が長びけば、手頃な旅館を見つけて投宿するつもりでいた。
下田は新婚旅行のカップルが矢鱈に目につく土地だった。改札口をぬけ、まず問題の花時計に立ち寄ると、そこにもふた組の新婚夫婦が記念のスナップを撮っていた。ひと組が花時計をバックにして立つと、もうひと組のほうがシャッターを切る。こうして互いに撮影をすませた後で持っていたカメラを交換し、別れていくのである。鬼貫は彼等がたち去るのを待ってから、石廊崎行のバスが発車していくのをやり過ごしておいて、広場を横断した。
花時計というものを本で読んだり写真で見たりしたことはある。だが実物を目にしたのはこれが初めてのことで、それは丹那も語ったように、想像していたよりも小型であった。小型というよりも愛らしいといった感じだ。鬼貫はポケットから写真をとりだすと、かつて丹那がしたように実物と比べてみた。日本の花時計がこれ一つというなら格別どうのこうのということもないけれども、似たようなものが各地にもあるだろうと思うと、大塚がバックにして写した花時計はこれではなく、現地にもっと近い場所にある花時計だったのかもしれない。花時計をつくる工場も設計する技師もそう沢山いるわけではなく、ひょっとすると一人の専門家がすべてを手がけているということも考えられるのである。とするならば、同じ設計図による同じ花時計が存在しても不思議ではない。
鬼貫はまずその点から疑ってかかることにしたが、花時計の背景が現実の風景と一致しているのを確認した瞬間、その疑念は放擲《ほうてき》せざるを得なかった。だが、大塚がこの場所で写されたことを認めると、彼は下田駅前でポーズをとっているのと同時刻に、三重県下にいたという矛盾したことが生じてくるのである。そしてその矛盾を矛盾でなくするためには、どちらか一方を否定するほかはない。
この撮影をしたのは事件当日ではなくて、べつの日のことではなかったかという疑問は、関係者の誰もが一度は頭にうかべる仮説であり、その仮説があっさりと崩れてしまったのは、「石舟」の浴衣を着用していることと、当日が曇天であり写真の空もまた曇っているという二つの否定材料があるからだった。当然のことだが、鬼貫はこの二点を目標に徹底的な追及をしなくてはならない。
もしこの写真がべつの日に撮られたものであるならば、どこかに、例えば大塚の手のとどかぬところにそれを示唆するものが写っている可能性もある。下田は観光地であり、殊に駅の近辺は観光客の姿が多い。そうした旅行者なりよその都市からきた車なりがレンズに入っていれば、その人物あるいは車を訪ね求めて下田にいた日を確かめ、そこから大塚の撮影日を割り出すこともできる筈である。だが、あらためて写真に目を落してみると、そうした手頃の人物も車も写されてはいなかった。あたりが空白になるのを粘りづよく待ち、チャンスを掴むとすばやくシャッターを切ったことが想像されるのである。どこまで抜け目のないやつだろう、と心のなかで呟いた。
だが、鬼貫はそれでもあきらめようとはしなかった。写真がべつの日にとられたものに違いないということは、捜査班全員の一致した見方であった。
この写真が事件の発生した日とはべつの日に写されたというふうに仮定すると、それは十月五日よりも前のことであったかもしれぬし、後のことだったかもしれない。前者か後者かという問題についても、チーム全員の答が一致して出されていた。
おおまかにいって、天候は晴と曇りと雨天とにわけられる。事件があったのは秋であるから、この場合は雪その他のことは考慮しなくてもよい。さて、事件当日が雨天であったとすると、大塚は、雨の日に写した写真を、晴天だったら晴れた空の下でとった写真を証拠として呈出したに違いないのである。したがって、犯行より以前にその写真を用意しておこうとするならば、晴天の日と雨の日と曇りの日といったふうに少なくとも三度は下田を訪ね、花時計の前に立たなくてはならない。と同時に、「石舟」には合わせて三泊しなければならなかったことになる。それに反して事件の後で写したものと仮定すれば、事件当日の天候とおなじく曇った日をえらんで下田へ行けば、ただの一度で仕事はすんでしまうのである。「石舟」に何度か泊ることは従業員に顔を覚えられてしまう危険もあるのだ。こうしたことから、大塚があの写真をとったのは十月五日よりも後のことだと判断されていた。
おそらく大塚は日々《ひび》の夕刊なりテレビの天気予報に注意をはらい、明日は曇りという予報のでるのを待ち構えていたのだろう。そしてその翌朝は早目に起きだして空模様をながめ、予報のはずれていないことを確かめると、早速カメラを携《たずさ》えて家をでる。最近のポラロイドカメラにはセルフタイマーがついたから、なにもゆきずりの外人の世話になる必要はないのだ。
事件のあとの曇った日がいつであったかということについては、すでに気象庁に問い合わせたデータが手元にとどいている。十月中の曇った日というと、十一日、十五日、二十三日、二十四日、二十九日の五日間であり、そのなかの二十三日は晴天という予報がはずれて曇ったものだった。あとは予報がすべて適中している。しかし鬼貫達は、大塚が十一日に出かけたことはほぼ間違いないという判断をしていた。大塚にしてみれば身の保全のためには是非ともこの写真を必要とするのだから、のんびりと構えているわけにはいかない。一日でも早くアリバイ工作を完璧なものとして安心したい筈であった。したがって彼が最初の曇り日に飛びついたものと考えるのは、きわめて当然のことなのである。
ただ、ここに問題となるのは、この写真が事件よりも何日か後に≪たぶん十一日に≫とられたものであることを、どうすれば立証できるのだろうか、ということであった。あらためて写真を凝視してみたが通行人の姿はなく、写っているのは花時計と花と、そして太公望スタイルの大塚だけ。そのなかでわずかの可能性を求めるとすると、それは時計の内外に植え込まれている矮性《わいせい》の草花でしかなかった。
花壇のかたわらに彳《たたず》みながら鬼貫は、その色とりどりの草花が、事件の発生した十月五日と、大塚がポラロイドで写したと思われる十一日との間に、一部あるいは全面的に植え替えられたことはなかっただろうか、と思ってみた。もしそうした事実があったならば、つまり写真のなかの花と事件当日の花とのあいだに違いがあったならば、これは絶対的な否定材料となるのである。いうまでもなくそれは虫の好すぎる考えだったが、一応はチェックしてみる必要があった。鬼貫はそこにわずかな望みをかけると、駅前の交番を訪ねて、立番中のわかい警官から、花時計の管理が市役所の公園課であることを教えてもらった。
市役所は、花時計のロータリイを渡って土産物店のならんだ商店街をぬけ、交叉点を左におれるとすぐだった。駅から五分とかからぬ短距離で、消防署と隣り合っている。近頃は農村や漁村でびっくりするほど近代的な建物の村役場を見かけるものだけれど、下田市役所は、むかしふうの地味で小さな二階建てであった。庭に、手狭になった屋内からはみだした部課が、プレハブのバラックをつくっている。主家《おもや》のほうの玄関を入ると右手に公園課につうじる階段があるが、これも場末の映画館で目にするような古呆けたものであった。
鬼貫は公園課としるされた扉を叩いた。
「入って下さい、どうぞ……」
と、内側からしわがれた声が応じた。
白髪で陽やけした顔の課長は停年まぢかと思われる年輩で、好人物らしく、鬼貫の話を面倒くさがりもせずに聞いてくれた。そして本立からレザー表紙の帖簿をとりだすと、老眼鏡のずれをなおしておいて、短い指で記入された文字をたどりながら読んでいった。
「生憎ですが」
と、彼はしわの多い渋紙色の顔を上げた。
「お訊ねのような植え替えはやっておりませんな。ただ、十月七日に黄色の金魚草が一株枯れましたので、かわりの花を苗圃から取りよせて、植えさせました」
「べつの品種ですか」
「いや、おなじ金魚草ですよ。一種の模様花壇ですから、前と同じものを植えないと花観をそこねます」
「なるほど。で、色はどうです」
「やはり同じですな、黄色です。ですから実物を見ても判断はつきません。まして、カラー写真などで新旧の違いがわかるわけもないですよ」
鬼貫をがっかりさせるようなことを、彼はいった。
「では話を変えますが、時計の針を狂わすということはできませんか」
鬼貫が考えたのは、針を動かして撮影した時刻を誤認させたのではないか、ということであった。
「駄目ですね。そんな真似は不可能です。心ないいたずら者があらわれることを計算に入れて設計してありますから、一見したところではブリキかなにかみたいに弱々しいしろものですが、意外に丈夫にできているんです。家庭の柱時計みたいに簡単に針を動かすことはできませんな」
「停電かなにかで狂った、ということは考えられないでしょうか」
「駅の時計に連動させてありますから、そういうことはまずありませんね」
と、老課長は鬼貫の思いつきを片端から崩していった。だが考えてみると、仮りに時計の針を勝手に動かせたとしたところで、大塚のアリバイを否定する上に役立つことにはならないことに気づくのである。彼が下田を発ったのは朝の八時頃のこととみなされているのだが、もしそのときに写したとするならば、観光客を相手にする土産物屋はまだ戸をとざして眠っている筈だからだ。ポラロイドカメラで写された風景は、曇り日だから太陽の位置こそ判然としないが、日中にとったものであることは明らかなのである。
「ほかになにか不自然なところはないでしょうかね?」
そう念を押された公園課長は老眼鏡を指の先で押し上げると、あらためて写真を手にとって隅から隅まで覗いていたが、あたらしい発見はなかった。すべての期待を裏切られた恰好の鬼貫は、失望のいろをおし隠して、老課長に礼をのべると市庁舎をあとにした。
肝心の写真に疑問の余地がないとなると、では、どこを探ればいいのか。早くも鬼貫は途方に暮れた。そして足の向くままに駅前まで戻ってくると、おりから発車しかけている爪木崎行のバスに目をとめ、走っていって飛び乗った。ともかくも「石舟」を訪ねて、丹那の訊き込みを再チェックする必要がある。
発車したバスは商店街をぬけ、間もなく稲生沢川の橋をわたる。右手の海が下田湾で、それに目を奪われているうちに丹那から聞かされた弁天島が見えてきた。事件当日、大塚が朝から夕方まで釣りをしていたと主張するのがこの一帯であり、鬼貫はなみなみならぬ関心をもって周囲を眺めた。隣りにかけていた観光客までが、鬼貫につられてきょろきょろと窓の外の景色を見廻わしていた。
「石舟」では丹那のときと同じように肥ったおかみが相手をしてくれた。鬼貫が招じ入れられた場所もまた、前回と同様である。鬼貫はだされたお茶にちょっと口をつけてから、執拗なねばった質問に入っていった。それに対しておかみは終始一貫してにこやかな表情を変えなかったが、彼女の応答の内容は、丹那の報告に比べてちっとも異なるものがなかった。
大塚の撮影日が十月五日ではあり得ないとする鬼貫の考え方からすると、この容疑者は、十月十一日もしくはそれ以降の曇った日に下田へやってきて、なにはともあれ浴衣を借り出すために「石舟」に投宿しなければならない筈であった。しかしおかみも従業員も口を揃えて、大塚が初めての客であったことを主張するのである。
「五年も十年も間をおいてお泊りになったのならどうか存じませんけども、十月の五日と十一日にお泊りになったお客さんのことを忘れて、一度きりしかお出にならないなどと思い違いするわけはございません。こうした商売をしておりますと、お客さまに関する限り、不思議に記憶力がよくなるものですわ」
こういわれてみると、旅館側のいうことを信じないわけにはいかなくなる。鬼貫は宿帖を持ってきてもらって、五日、十一日、十五日、二十四日……と曇り日の泊り客の名をしらべていったが、彼女達がいうとおり大塚は泊っていない。勿論、大塚にしても宿帖に証拠をのこすような愚かな真似はしまいから、二度目にきたときは変名を用いたことだろうが、といって一週間か半月前に泊った男の名が変っているとあっては、従業員に怪しまれる恐れもある。この場合の、すべてのことを隠密裡にはこばなくてはならない大塚にしてみれば、おかみなり女中なりの印象にのこるような下手なことをするわけがないのだ。とすれば、変名を使ったものとも考えられないのである。
残された方法は変装することでしかない。変装といっても、ルパンやホウムズみたいに老婆になったり貴族に化けたりするのは物語の世界のことであり、大塚が変身したとすればせいぜいサングラスをかける程度でしかないのだが、そのくらいの変わり方でおかみや番頭の目を誤魔化しおおせたとは考えられない。体つきや声の調子、喋り方の特徴などで見抜かれるのがオチであった。念のためその点について質問をしてみたけれど、言下に否定されてしまった。
「ともかく、宿帖を見せてくれませんか」
肥ったおかみが肥ってるわりにしては身軽な身のこなしで立ち上がると、自分で帖場の机の上の書類立てから黒いレザー表紙の宿帖をぬきだして、鬼貫の前においた。近頃の宿泊名簿のなかには、客が記入したカードを貼りつけるといった形式のものもあるが、これは従来からある宿帖で、ノートそのものへ到着した順に書き込むようになっている。だから、前者の場合だとカードを互いに入れ替えるといったこともできなくはないのだが、「石舟」の宿帖にかぎっていえば、そうした工作をする余地はなかった。
それを確認しておいてから、手帖をひらき、そこにしるされた事件後の曇天の日と、その日に泊った客の名とを一つ一つ照合していった。しかし、思ったとおり大塚の名はどこにもなく、予期していたこととはいうものの、落胆した鬼貫はそっと眉を寄せた。仮りに大塚が変装した上で、名を変えて投宿した場合を想定して検討してみたが、大半の客が家族連れであった。十月十一日、十五日、二十三日、二十四日および二十九日の五日間のなかから単独で泊った男性を拾い出し、さらに大塚に該当する年齢のものを選んでみると、それはたった三名にしか過ぎなかった。
おかみも女中達も、大塚が変装して泊ったのではないかという鬼貫の仮説を、これも予期したとおり頭から否定した。だから熱心に宿帖をチェックする鬼貫に対しても、無駄なことはお止めなさいといわないばかりの表情をうかべて見守っていたのである。
おかみは、鬼貫がリストアップした三人の客の名をみると、言下に首をよこにふった。
「せっかくですけど違っていますわ。お三人さまとも何度となくお泊まりねがっている常客なんですもの。大塚さんとは全然別人です」
鬼貫は世事にうといせいか一向に聞いたことがなかったけれど、そのなかの一人は名を知られたシナリオライターだそうで、新作の脚本の想を練るために、ときどき下田へやってきては泊っていく。もう一人は維新史を研究している歴史家であり、三人目の男は東京の医者だという。きれいな空気を呼吸するために、当人の言葉を借りていえば肺臓のドライクリーニングが目的で泊りにくる。妻子を同伴しないのは四十になろうというのに独身だからなのだそうだ。
だがそう説明されても鬼貫は、大塚が写真にとられたのは事件当日ではない、という考えを引っ込めることができかねた。いままでは、それ相応の理由から大塚が撮影したのは事件の後のことだと考えていた。しかしこうなると、犯行の前に写真を用意しておいたものと考えざるを得ないのである。
十月の四日、五日と泊っておいて、さらにその後で撮影のために一泊したとすると、前回の宿泊で人相を覚えられているから、どう巧みに変装したところで見破られてしまう危険がある。それに反して事件の前に投宿した場合は、変装した姿を先に、そして素顔のほうを後から見せるわけだから、気づかれるリスクは小さい。大塚が前以って写真をとりにきたのは、その点を考慮したからではないのか。そう推測してみると、彼が十月四日より前に変装して一泊したことは間違いのない事実であるように思えてきた。
だが待てよ、と鬼貫は考えなおす。事件の後で撮影した場合はただの一泊でことがすむのだけれど、事件前に写真を用意するとなると、問題の十月五日が晴れるか曇るか雨天になるかは予想できるわけがないのだから、それにそなえるためには、晴の日と曇りの日と雨の日と、少くとも三度は下田にやってこなくてはならないことになる。したがって旅館側に正体を見ぬかれる率はますます増大してくるのである。策士の大塚がそのような愚かなことをするわけがなかった。
しかし、と鬼貫はもう一度思い返えしてみる。事件の後に宿泊したことが否定された以上は、理屈はともかくとして、事件の前に投宿していなくてはならない筈である。彼は手をのばすとテーブルにおかれた宿帖をとり上げ、いままでとは逆に、十月四日よりも前のページを開いた。鬼貫にしては迂闊な話だが、気象庁に問い合わせたのは事件発生日以降のことだけで、四日以前の曇天についてはなに一つ知っていない。自分の軽率さに腹を立てながら、三日、二日、一日といった順に、逆行していった。
おかみは平然として正座をつづけているが、わかい女中には耐えられぬらしく、一人は膝をくずして横坐わりになった。もう一人が口に手の甲をあててそっと欠伸をして、おかみに目でたしなめられた。しかし鬼貫はそうしたことには気づかない。だが一心に記入された文字を入念に読みつづけていったが、八月一日までチェックしていったにもかかわらず、大塚の名は発見できなかった。
鬼貫は顎の張った顔を上げておかみを見た。
「この大塚氏が十月五日以降に一泊したことはないというお話でしたが、それ以前に泊ったことはないでしょうか。それも、間をおいて三度きた筈ですが」
「ございませんわね」
「多分、名を変えて、簡単な変装をしていたと思いますが」
「ございません。だって、とびとびに三度おいでになったとしますと、そのほかにも十月の四日、五日とお泊りになっているのですから、しめて五泊なさったことになりますわね。そうだとしますと、どんな変装をしていても気づかぬわけがございませんわよ。前にも申しましたとおり、わたくしどもは客商売でございますから」
例によっておかみは自信に充ちた口調で否定した。鬼貫は、納得したように頷いてみせ、しかし胸中では相手のいうことを信じようとはしなかった。大塚が宿泊したのは確かなことであり、おかみはそれを見逃しているに違いないのだ。ふたこと目には客商売だからというが、どうやら自信過剰の気味がある。
鬼貫は、あらためて泊り客を一人一人ふるいにかけ、そのなかからすべての中年男をピックアップする作戦に切り替えることにした。そのメモをもとに刑事が直接に相手と会って、変名を使って泊った大塚を洗い出そうというのである。時間と人手はかかるけれども、ほかに名案はない。
「迷惑ついでにもう一つ。この宿帖を三十分ほど貸して貰えませんか」
借用を申し入れると、おかみは嫌やな顔もせずに階下の客室に案内してくれ、おまけにお茶ともなかを女中に持たせてよこした。
「や、どうも」
頭をさげておいてテーブルに宿帖をひろげ、手帖と万年筆を用意した。先程と同様に、齢恰好の符合する男性の泊り客を片端からメモしておき、後で当人を直接に訪ねて大塚であるか否かを確認しようというのである。
ところが十人ちかく書き取った頃に、ふと妙なことに気がついた。鈴木美佐子という二十三歳の女性が、九月の二十八日、十二日、五日にそれぞれ単独で一泊しているのだ。バーのホステスかなにかが愛人と忍び逢いをするために泊ったのかもしれないし、女流作家かシナリオ作家が都会の喧騒を避けて想を練りにきたのかもしれない。しかし、これがもし作家であるならば、毎回決ったように一泊というのはおかしい。仕事のためにやってきたからには二泊か三泊ぐらいしなくてはプロットがまとまるわけがないだろう。
とすると顔の売れた芸能界の女性が情人とデートのために泊ったのであろうか。芸能週刊誌というものは女優のあることないことを書きたてるそうだから、売れっ児の役者ともなれば、人目を避けるためには遠出しなくてはなるまい。そう思ってみたが、気になるのはこの女性が一泊ずつ三度《みたび》投宿していることだった。つまり、大塚に必要な条件と符節を合わせていることだった。もしかすると、これは大塚が女装して現われたのかもしれない。一瞬そう考えたが、大塚は大柄な原まち江よりも長身な男なのだ、スカートをはき口紅をつけたところで女に見えるわけがなかった。
鬼貫は苦笑をうかべて先に進もうとした。だが、再び鉛筆をテーブルにおくと考え込んでしまった。条件の合い過ぎる点がひっかかってならないのである。勿論、偶然性を否定するつもりはない。たまたま一致しただけだというケースもあり得るからだ。しかし、それにしても……。
疑問をそのまま放っておくことはできない。そこで鬼貫は宿帖を抱えて帖場に戻ると、おかみに声をかけた。
「あら、もうおすみですの?」
「いえ。ただ、ちょっとお訊きしたいことがあるものですから」
「何でございましょう?」
「この鈴木美佐子さんというお客ですがね」
宿帖をひろげて彼女の前においた。
「職業は画家としてありますが、どんな女性だったか記憶にはありませんか」
「そうですわねえ……」
「九月の五日のほかに、十二日と二十八日というふうにそれぞれ一泊しているのですが」
「ああ、あの方!」
ようやく思い出した顔になった。
「ほら、あの小柄な絵描きさんよ、二十八日にお見えのときは綺麗なブーツを履いていらした」
「ああ、思い出しましたわ」
仲間同士で囁き合っている。が、鬼貫の耳はブーツという一語を聞き逃しはしなかった。長靴を履いていたという以上、その日は雨降りだったことになる。
鬼貫が早速その点について質すと、意外におかみはあっさりと肯定したばかりでなく、晴の日と雨の日、それに曇りの日にやってきたというのである。
「思い出しましたわ、画家としてありますけど油や水彩なんかではなくて、ご専門が切り絵なんです」
切り絵の歴史がどれだけ昔からつづいているのか知らないが、鬼貫が作品を見かけるようになったのは比較的最近のことでしかない。モダンアートと称する抽象画の難解さからいえばはるかに解り易いこともあって、鬼貫も人並みの興味は持っている。だが、鈴木美佐子という名はまだ聞いたことがなかった。
「切り絵にも色を用いたのもありますが、そのお客さまのは白いキャンバスに黒い紙を切りぬいて貼りつけるだけで一切のことを表現なさるんです。風景画がお得意だそうですけれど……」
息子を芸大に入れたこのおかみは、この画家に対してもかなり興味を持ったらしい。
「ここの石庭をテーマとした作品を依頼されたんだそうです。それも晴れた日の絵だけではなくて、雨にぬれたところだとか曇った日の庭だとか……」
「なるほど」
「曇った日を表現するのがいちばん難しいとおっしゃっておいででしたわ。なんと申しても色彩を使わずに表わすのですから」
「どうやるんです? その、曇った日の場合ですが」
「一つの例ですけれど、晴れた日は人間でも石でも影ができますわね。その影を描かないことで曇った日の雰囲気がでるんですって」
鬼貫は一つ利巧になった気がした。いままではうっかりしていたが、今度からは一段と深い目で鑑賞することができる。
「で、制作というんですか、実際にここで作品をつくっていましたか」
「いえ、制作はなさいません。お部屋中をちらかして大変だそうで。それに、心象風景を大切になさるということでしたから」
尤もらしい話であった。しかし鬼貫はそれを信じようとはしなかった。晴天と雨天と曇天の日に泊ったことを怪しまれぬための、逃げ口上であるとしか思えないのである。
「小柄ということでしたね?」
「はい、まだお若い方でしたわ。髪のながい、丸顔で可愛らしい感じの……」
丸顔というのは困るのである。近頃の女性は旨い物を喰いすぎるせいか、九割以上が大福餅みたいなまん丸な顔をしているからだ。いまとなっては瓜実顔などは貴重品といってよい。
「目鼻の特徴はどうでしたか」
「トンボ眼鏡というのでしょうか、大きな丸い眼鏡をかけていらっしゃるのでよく判りませんでした。濃い水色のレンズの……」
はっきりとした顔立は判らなかったという。しかし向うも意識して特徴をつかまれまいとしたのだろうから、おかみ達を非難するわけにはいかないのである。
「もう一つ疑問があるのですがね」
鬼貫は宿帖をひきよせると、九月五日、十二日および二十八日の欄をひらいて見せた。
「このとおり五日と二十八日は同一人の筆蹟ですが、十二日はべつの人が書いているのです。なにか事情があったのでしょうか」
どちらも一目みて女性の字であることは判る。が、十二日に記入してあるほうはやや崩した字体でかなり達筆であった。
「あら、それを書いたのあたしです」
パートタイマーが十二日の欄を指でさした。すると、五日と二十八日のほうは美佐子の自筆かと思っていると、住み込みの女中のほうが、それは自分が書いたのだといった。
「本人は何もしなかったのですか」
「悪筆だからいやだとおっしゃって……。こんな下手な字を書いているのかなんていうことになると、今後、作品が売れなくなるかもしれないなどと冗談をいわれて。でも、冗談にことよせて本気だということが判りましたから、あたしでよかったらといって代筆しました」
パートタイマーのほうも語った内容は同じである。そしていまもって彼女達は、鈴木美佐子が自分の拙筆を恥じたという言葉を本気にしている節がみえた。
おそらく、一切のことは大塚の入れ知恵であって美佐子が考えだしたものではあるまいと鬼貫は思う。切り絵の画家の件にしても、女性のセリフにしては出来過ぎている。彼女と大塚とがどのような間柄にあるかは解らないが、こうした重大な秘密の片棒をかつがせた点から想像すると、大塚から絶大な信用を得ている人物であることは確かだ。
では、彼女がつとめた役割はなんであったろうか。ここまでくれば鬼貫にも大体の察しはつく。美佐子の役目は自分用の「石舟」の浴衣を大塚に提供することなのだ。言い替えると、大塚はカメラの前でポーズをとるときに必要な衣裳を入手するために、美佐子を「石舟」に潜入させたことになる。
浴衣の授受については、大塚が「石舟」に取りにきた場合と、美佐子がバッグかなにかに隠し入れて外出し、大塚と落ち合って手交した場合とが考えられるが、大塚が宿を尋ねたのでは顔を覚えられてしまう恐れがある。だから、美佐子のほうが持ち出したものとみるのが妥当であった。大塚はそれを着用してカメラの前に立ち、美佐子がシャッターを切る。その後で再び宿にもどった彼女は、バッグから取り出した浴衣に着更えてなに喰わぬ顔をして女中の目に触れる……。
ほかの日のことはべつとして、問題の写真の場合は花時計の針が一時十四分をさしていることからみて、九月十二日の彼女は、おそくも正午までには「石舟」に到着していなくてはならなかった筈である。さもないと、撮影時刻に間に合わなくなるからだ。
花時計が示す時刻はかならずしも一時でなくともよい。二時であろうが三時であろうがかまわない。要するに事件当日の午後、大塚が三重県にいなかったことを証明することができればいいのだから、ある程度の余裕はあったものと考えられるのである。だが実際には一時十四分にシャッターが切られているのであり、それから逆算するならば、彼女は正午過ぎには投宿していなくてはならない。鬼貫はあらためて宿帖を開いてみ、当日の欄の冒頭に美佐子の名が記入されていることを確認して、自分の推理に自信を持った。
鈴木美佐子は住所を東京都世田谷区桜上水三―一五―二と記入している。もしこれが大塚のアリバイ工作の片棒を担いだ女であるならば、本名を記すわけがない。その点をはっきりさせるために東京へ電話をかけることにして、鬼貫は「石舟」を後にした。
バスを降りて駅の乗車券売り場へゆきかけた鬼貫の目に、派出所の白い建物が映った。先程、市役所の所在を教えてくれたわかい警官が立番をつづけている。
大塚が外人に写してもらったというあの日の午後も、こうして勤務していたのかもしれない。そうだとすれば、大塚が写された現場も視野にとらえていた筈である。そうしたことが鬼貫の胸中にまた未練を生じてきて、素通りすることができかねた。
「先刻はどうも」
と、鬼貫はなごやいだ眸で声をかけた。
「お陰ですぐに判りましたよ」
鬼貫が「同業者」であることを知った警官は、親しみのある微笑をうかべると、挙手の礼で応えた。
「ところでこの写真を見てくれませんか。本人は行きずりの、顎から頬にかけてヒゲを生やした青年にとってもらったと称しているんです。しかしそれは嘘であって、小柄の女性にシャッターを切らせたのではないかと睨んでいるのです。些細なことのようですが、これがなかなか重要な問題でしてね」
「その女性というのも外人ですね?」
「いえ、そうじゃない。わかい日本人の女です。行きずりの旅行者なんぞではなくて、同行者だと思うのです。親密な同行者といっていいかもしれない……」
警官は手にした写真をじっくりと見詰めていたが、やがて顔を上げて花時計に目をなげた。
「間違いなくここを写したものですな。しかし旅行者が記念撮影をするのは日常的なことですから、記憶しているほうが不思議ですよ。いつのことですか」
「当人は去年の十月五日に撮影したと主張しています」
「十月五日……といいますと、当時わたしは須崎のほうの交番勤務でしたから、目撃するわけもないです」
鬼貫をがっかりさせるようなことをいった。
「ですが、当日の勤務日誌をみれば立番していた者の名も判りますから、直接にその人から話を聞かれるのが早道だと思います」
そう言い残して奥の部屋に入ると、すぐに黒いレザー表紙の勤務日誌を手にして戻ってきた。そして机の上においてページをくり始めた。手持ち無沙汰の鬼貫は、仕方なしに彼の横顔を眺めていた。ピンと跳ねた眉がいかにも男性的な感じだが、おでこや頬のあたりにまだ幼なさが残っている。二十歳を出たか出ぬかの齢頃にみえるが……。
不意に警官が小さな叫び声を上げ、鬼貫も思わず日誌に視線を向けた。といってもそこまでは距離があるから、書いてある記事が読めるわけがない。
「ちょっとした思いつきなんですけどね」
警官の口調にはかすかに昂ぶりがみえた。ちょっとした思いつきだとはいっているものの、それがかなり重要な発見であることは鬼貫にもよく解った。彼は黙って話のつづきを待っていた。
「……わたしの思っていることが当っているかどうかは、消防署にいって当事者に訊ねるとすぐにはっきりする筈です。消防署はお解りでしょう? 市役所の手前ですから」
「ええ、さっき前を通りました」
「それでは直行なさって下さい。笹森という友達がいますから、そいつを呼んで、この写真を見せて頂きたいのです。うまくいけば反応があると思うんですが。いますぐに、わたしのほうから、当人に電話を入れておきますから」
「よろしく」
頭をさげておいてロータリイのほうへ歩きだした。いまの警官のいうことが理解できぬだけに、鬼貫はただとまどい気味の表情をうかべ、消防署を訪ねるほかはなかった。
市役所の手前隣りだから、消防署まではゆっくり歩いても五分とはかからない。鬼貫がその前に立ったとき、四、五人の署員が手に布きれをもって赤いボディーや真鍮《しんちゆう》の金具を、念入りに磨き上げているところだった。
鬼貫はいちばん手近にいる署員に声をかけると、笹森さんに会いたいのだがと来意を告げた。
「生憎ですな、笹森君は非番ですから自宅にいるんです」
「遠いのですか、その人の住居は?」
「近いですよ、柿崎海岸ですから」
柿崎というのは、吉田松陰が舟を漕ぎ出したところであり、大塚が一日中場所をかえて釣りをしていたと称する浜辺なのである。鬼貫は、いまバスで通りすぎたばかりだった。
「弁天島を中心にして、その向うですか手前ですか」
弁天島は柿崎海岸のほぼ中央にある小さな岬で、ここから、松陰が出発したとされているのである。
「ちょっと向う側になります。『笹屋』という民宿を経営していますから、すぐに判りますよ」
話の間中、彼は一度も磨く手を休めなかった。そのボロ布の下で、エンジンボディーの上の金具は、総理大臣の勲章のようにピカピカに光っていた。
バスに乗るほどの距離でもないので、鬼貫は歩いていくことにした。海沿いの一本道だから迷う筈もないのである。商店街のはずれの稲生沢川をわたると、左側は寝姿山の真下になる。岩石の転落を防ぐためのコンクリートで固められた崖がしばらくつづき、やがてホテルの並んだ観光地帯に入っていった。鬼貫は、浴衣に半纒の格好で駅まで往復したという大塚の姿を思いうかべながら、崖下に身をすりつけるようにして歩いた。歩道がないので、下手をすると車に跳ねられかねない。海を眺める余裕もなかった。
ようやくホテルの建物が途切れたあたりから、右手の海側の民家の軒先や屋根の下の壁に「民宿」の看板が目立ってくる。伊東へ向う国道からわかれて須崎、爪木崎に通じる道路に入ると、急に交通量が減ってほっとした思いになった。彼は看板にしるされた文字に注意しながら進んでいった。
「笹屋」という民宿は側道の奥にあった。すぐ裏から砂浜となって、その先が波一つないおだやかな海につづいている。まだ海のシーズンには間があるせいか、二階の窓のガラス戸は閉じられたままだった。
「あなたが見えられるということは電話で聞いていますが、どんなご用でしょうか」
髪を坊頭刈りにした非番の消防署員は庭の手入れをしていたとみえ、片手に移植ゴテを持ち、泥で汚れた木綿の手袋をはめたままだった。
「ちょっとこの写真を見て頂きたいのですよ」
あの若い警官にいわれたとおりに、鬼貫はポラロイドのカラー写真を手渡そうとした。
「持っていてくれませんか。写真が汚れるといかんですから」
そうして、鬼貫に持たせた写真を熱心に見入った。頭から日光の直射をうけているものだから、おでこの辺りに汗が粒になってにじんでくる。すると彼は手袋をはめた手で額の汗を拭い、また写真に見入った。
「どうも、よく解りませんな。本田君がなぜ写真を見ろといったのか……」
しきりに小首をかしげているが、思い当るものがなさそうであった。口のなかで「解らないな、解らんな」を連発している。
「この男の人とは会ったこともないし、背景におかしな点もないし、本田君がなぜ電話をかけてよこしたのか、さっぱり解らないんですよ」
だが鬼貫は引きさがらなかった。本田君というのがあの青年警官の名前なのだろうか、その本田君は十月五日の日誌を読んでいくうちに、思わぬ発見をしているのである。とするならば、問題は日付にあるとみなければならない。
「去年の十月五日にとった写真ですがね」
「十月五日……。するとつまり、十月五日の午後一時十四分ということになるんですね? はてね、十月五日の一時十四分……」
「この写真の人物はこれを十月五日に写してもらったと称しているのですが、わたしは嘘だと睨んでいます。あの警官の話によると、あなたが何かのヒントを与えてくれるという話だったんですが」
「それが解らないのです。なぜそんな……」
ふっと言葉を切ると汚れた手袋をぬぎ始めた。
「ちょっと日記を見てきます。そうすれば本田君のいうことが解るかもしれませんから」
「すみませんねえ」
と鬼貫は頭をさげた。
消防署員の姿が内庭のほうに曲って見えなくなると、鬼貫はすることがないままに、立ったままの恰好で下田湾の海を眺めていた。垣根の向う側から子供の甲ン高い叫びが聞えてくる。浜辺に寝そべっている大きな犬が、その声に目をさまされたように顔を上げると、大きな口をパクリと開けてあくびをし、ついでに鬼貫の姿をうさん臭さそうに一瞥しておいて、また前脚の上に顎をのせて瞼をとじた。
「お待たせしました」
と、耳許で元気な声がしたのは五分ほどたった頃であった。ついでに洗面をすませたとみえ、額についた砂もとれてさっぱりとした顔になっている。
「その人は嘘をついていますね、やはり」
「どうして判ります?」
「その前にわたしの自慢話を聞いて下さい、退屈なところは辛抱して……」
と、彼は歯をみせて笑った。
「わたし、記憶力はわりかしいいんです。それに、推理力のほうも。で、本田君が交番の日誌から何か発見したという話と、それがわたしにも関係があるということから、一つの仮説を組み立ててみたのです」
「…………」
「そこで日記を開いてみました、去年の十月五日のページをですね。しかし何度読み返しても参考になるようなことは書いてないんです。変だな、と思いました。でも、本田君がああしたことをいった以上、わたしと何かしらの関係があるのは確かです。直接的でなければ間接的に、ね。そう思ったもんですから署へ電話をして当日の記録をチェックしてもらいました。特に、駅の前に関したことがあったら何でもいいから知らせてくれろってですね。そしたら、果してありましたよ。そして、そのことが交番の日誌に記入されているのも当然なんです。なんといっても、鼻の先で起きた事件ですから」
鬼貫にも、彼のいおうとすることが朧気ながら理解できた。あそこで何かが起きたのだ。消防車が出動したとすると、ボヤででもあるのだろうか。が、敢えて言葉をはさまずに、黙って頷いてみせた。
「あの日の一時すぎに、ロータリイを出たところでレンタカーとタクシーの三重衝突が発生したのですよ。救急車が二台出動して負傷者の収容にあたりました。あの辺はスピードを落として走りますから事故は滅多にないんですが、あのとき運転していた若者は缶ビールを五本も呑んで、へべれけの状態でしたから八十キロで突っ込んだんですよ。当人は即死で同乗していた女が重傷を負ったほか、衝突された二台に乗っていた人が負傷しました。全治二、三週間の軽傷ですんだのは奇蹟だと思いますが」
「すると、救急車や救急士が写っていないのが訝しいというわけですね?」
「ええ。仮りに彼等が写っていないとしても、仕事の性質上じつにテキパキとやりますから、一時十四分までもたもたしている筈がないとしてもです、壊れた車はそこに置いてあったんです。警察の検証が終わるまで三十分ちかくかかったですし、修理屋のレッカー車が一台しかなかったもんで、これが三往復して片づけるのですから、さらに一時間ばかりかかりました。そんなわけで、いずれにしても、十月五日の午後一時十四分にこの場所で写真をとったなら、バックに潰れた車なり救急車なりが写っていなくてはならないのですよ」
鬼貫は返事をすることも忘れて相手の顔を見つめていた。そして数秒間がすぎてから、勝利感が幾何級数的にこみ上げてきたのである。しかも東京に帰ってみると、半ば予期したことではあったが、もう一つのいいニュースが待っていた。宿帖にしるしてあったあの住所に、鈴木美佐子なる人物は居住していないことが明らかにされていたのである。
十三 霧の中
すでに、大塚の花時計によるアリバイが偽物であることは判明している。そして鈴木美佐子が宿帖に記入した住所に居住していないことも明らかになったばかりでなく、職能団体である「切り絵作家の会」に問い合わせた結果、そのような女流作家の存在しないこともはっきりとした。鬼貫が推測したように、この女が大塚の偽写真づくりに一枚噛んでいることは、もはや間違いなさそうであった。
さし当って、この女の正体をつきとめることが問題である。
「小柄というと、戸崎八千代ではないですか」
「離婚した推理作家だね?」
「そうです。彼女、大塚を非難したり悪口をいったりしなかったでしょう? わたしはそれを、悪口をいいたくとも彼女の知性が邪魔をしているんだと解釈していたんですが、本当はそうではなくて、別れた亭主を愛していたわけですな。だから非難しなかったわけですよ」
「待ってくれよ、そういう言い方ができるなら、桜木弓子というウェイトレスね、彼女のほうが可能性がある。なんといっても、大塚を恨んでいないのだから、彼の依頼とあれば唯々諾々として従うんじゃないかな」
「しかし、小柄であることが条件なのだよ」
鬼貫がわきから口を添えた。
「小柄なんです、彼女も」
「そいつは訝《おか》しいな」
と、流行歌手と会った丹那が小首をかしげた。
「わたしが東京駅で話を聞いた向ケ丘やよいだがね、これも小柄だったんだ。彼女と戸崎八千代の二人が小さかったのは偶然の一致だと軽く考えていたんだが、ウェイトレスも小さかったとなると、大塚は小柄な女性好みだったんじゃないのか」
いままでの会議の席上では、調査の結果を報告し合うことはあったのだけれど、会った相手が大男だったとか毛深かったといった肉体的特徴にまで言及することはなかったのである。鬼貫をはじめ刑事達は、そのとき初めて大塚の女に共通したもののあることを知った。
「小柄でこう体がよく発達していてね、いうところの肉体美人だったな」
と、「シェリビビ」のウェイトレスとも会った丹那が記憶をよびさました。
「推理作家も流行歌手もそうだったぜ。一昔前の流行語でいうならばトランジスターグラマーというやつだ」
「なるほど、こうなると大塚が小型の肉体美人に格別の好みを抱いていたということは確かだな。すると、ちょっと妙なことがでてくる」
「妙なこととおっしゃいますと?」
「大塚の婚約者だよ。彼女は一メートル七〇という長身なんだ。大塚の好みとはまるで反対じゃないか」
「……?」
「つまり、彼は自分の好みに合わない女性を妻にしようとしているんだよ」
「しかし一概にそうとばかりは断定できないのではありませんか。小さな女と三人までもつき合ってくれば、いい加減鼻についてくると思いますが。その反動で背の高い女性に惹《ひ》かれたのではないでしょうか」
「かもしれない。しかしね、彼があれだけ重大な秘密の片棒を担がせたからには、その小柄の女と大塚との関係はなみならぬものであった筈だ。もし口外されれば彼のアリバイ工作は根底からくずれてしまうのだからね」
「…………」
「言い換えれば結婚を前提とするぐらいでなければならない筈だよ」
「すると原まち江はどうなります? 婚約解消ですか」
「そんなことをするとは思えない。なぜならば、坂下の財産を手に入れるためには彼女と結婚することが必要条件なんだから。つまり坂下が死刑になって唯一の血族である彼女が蜜柑園を譲り受ける、それが大塚の狙いなんだ」
「しかし、切り絵女史が黙っていますかね?」
「だからさ、その後で離婚へ持っていくつもりだろう。坂下の遺産を夫婦の共有財産にしておけば、別れるときに半分は自分のものとして持って来れるからね。だが、わたしが心配しているのは大塚が欲を出した場合のことだ。すでに二人を犠牲にしているあの男だ、全財産の横領を企んで妻殺しをやらないとはいえまい。わたしはその可能性が大きいとみているのだよ。それを防止するためにも、大塚を挙げなくてはならないと思うのだ」
こうした検討がされた後で、三人の女のなかのどれが鈴木美佐子であるかを「石舟」側に鑑定してもらう件について、さらに意見の交換がされた。もっとも簡単なのはおかみが上京して、公然とあるいは物陰にかくれて三人の女達の容姿を見、さらに声を聞くことであったが、多忙で出京する時間がない場合は、彼女等の写真とテープに収めた声を送り、それによって識別してもらうほかに名案はなかった。
「仮りに東京にでてきてくれることになったとしても、トランジスターの諸君が旅行にでてすれ違いになるケースもあるだろう。面倒だが、もう一度会って、こっそり声を採っておいてくれ。とかく女というのはヒステリックになりがちなものだが、怒らしてはいけないよ。怒ったりわめいたりした声では鑑別の役にはたたない。サンプルにするのが目的だから、平静な、あるいは機嫌のいい喋り方をしているのがいい」
「それは難問ですな、怒らせるなら得意ですが」
鬼貫の注文に刑事のひとりが溜息をついた。彼は細君に叱られてばかりいることで知られていた。
「どういうわけかわたしにはユーモアの感覚が欠けておりましてね、わたしがユーモアのつもりで喋ると、女性は逆に怒っちまうんです」
「悲観する必要はないさ。きみが悪いんじゃない、もともと女性にはユーモアが通じないのだ。さて話が変わるけども、太郎生の酒屋という青年が握っていた秘密は何だと思うかね?」
大塚にしてみると表面上は坂下カメラマンの潔白を立証するデータを求めにやってきたことになっているのだから、情報を持っている青年がいると聞いたからには、興味を感じたポーズをとらなくてはならない。だが犯人である彼にとって、酒屋の握っているネタが自分にとって不利なものかどうかという意味合いから、見かけだけではなしに、本気で関心を抱いたに違いないのである。
「さあ……。大塚にとって死命を制するほどに重大な内容のものであったことは想像できますが」
「彼がトップ屋に化けて、といっては正確な表現ではないが、ともかくトップ屋ということで酒屋青年と会ったときに、この若者がちょっとサワリの部分を聞かせてやろうといってトップ屋を離れた場所へつれていっている。その際にどの程度まで喋らせたかは解らないが、大塚にとってそれが致命的な内容であることは、いまの発言にあったとおりだ。ただ一つ変っているのは、酒屋のほうには自分の持っていたネタが相手を畏怖させるものであるとは夢にも思わなかったことだ。だから酒屋は警戒もしなかったし、大塚の操るままに、大塚が親切ごかしにすすめたミドリンを点眼して山道をくだっていったことにもなる」
「……まさか、犯行を目撃したのじゃないでしょうね? 大塚が原まち江に報告したところによると、酒屋が犯行を目撃した、犯人は坂下であったと語ったことになっていますが、いまとなってみるとそれは大塚の創作であったことははっきりしています。そこで考えられるのは、酒屋が大塚をゆすったのではないかということです。大塚の犯行を目撃したといって……。すでに大塚の写真のアリバイが偽物であったことは証明されているのですから、彼が何等かの手段で短時間に現地まで往復したことは間違いないと思うのですよ」
「大塚のアリバイが偽物であることは確かな事実だが」
と、鬼貫はなんとなく歯切れの悪い口調で応じた。
「しかし大塚が犯行を目撃されたというのはどうかな。いまもいったように、あの若者には大塚を少しも警戒した様子がなかったのだからね。もし殺人現場を覗いていて、大塚が殺人犯であることを知っていたなら、その危険な男を相手にゆすりをやろうという場合にノンビリと構えている筈もなかろう。多少の用心をするのは当然だからね」
「ですが、もし大塚が覆面をしていたとしたらどうでしょう。先日みた殺人犯がまさかこのトップ屋だとは気づかないから安心して――」
「きみの頭は混乱している。犯行時の大塚が覆面していたとしたら、その正体が彼であることがどうして判るのかね?」
「あ」
「長寿院の周囲には人っ子ひとりいないんだ。まさか目撃者がいるとは思わない。だから大塚としては顔をかくす必要もなかった筈だ。だいいち、覆面なんかしていたら被害者に怪しまれてしまう。まともに抵抗されたらどっちが勝つか判らぬだろうから、彼としては油断を見すまして背後より刺しているわけだが、相手に油断させるために、言い換えれば警戒心を起こさせぬためにも、覆面なんかすることはできなかったと思うんだよ」
その刑事は自分の読みの浅かったことに気づくと、ちょっと頬を赤らめた。
「ここでとつおいつ考えていても埒《らち》があかない。あの青年が掴んだ情報が何であったかをはっきりさせるために、もう一度現地へいく必要がありそうだな」
鬼貫はその一言を結びとして小さな検討会を打ちきりにした。
「それにしても犯人にはなぜ屍体移動の必要があったのかな」
ひとりごとのように呟いた。
丹那とはべつの目で見、耳で聞くために、鬼貫自身が太郎生へ出張することにした。彼はひとまず宿を名張の染谷旅館にとると、その足でハイヤーを飛ばして現地へ向った。
太郎生で鬼貫が尋ねて話を聞いて歩いたのは部落の青年会の若者や学校の用務員、土地の古老などであった。
鬼貫がまず初めにはっきりとさせたかったのは、酒屋が犯行現場を目撃し、口止め料をゆすろうとして殺されたのではないかという問題だった。彼自身は否定的な解釈をしているのだが、順序としてその点からチェックしていくことが必要だと考えたのである。
しかしこの疑問は、内職のアケビ細工をしている若い女性によってあっさりと否定されてしまった。事件が発生した十月五日という日に、酒屋はこの女性をつれて車で松阪ヘドライヴをすると、日が暮れるまで遊びほうけていたから、犯行を目撃できたわけがないというのである。
「家へ帰ったら九時を過ぎていたでしょう、だもんだからうんと叱られました」
だからその日のことはよく記憶に残っている、という説明であった。
「松阪のどこへ行ったのですか」
「映画をみたりお茶を飲んだり、レストランで夕ごはんを喰べたりして帰ったんです」
「酒屋君のおごりですか」
「ええ。急に誘われたんです、松阪へいって遊ばないかって。家に用があったんだけど、ご馳走してやるというんで一緒にいったんです」
「急にですか」
「ええ。月初めに韓国からきた学者のガイドをして、お礼を貰ったんです。それであたしのご機嫌をとろうとしたわけよ。あの人、あたしが好きだったんです」
「そりゃあなたが美人だからですよ」
と、鬼貫は平素に似合わぬ世辞をいった。
「あなたも酒屋君を愛していたのですか」
「ちっとも。だから彼、あせっていたんです。松阪へつれていってくれたのも、点数を稼ごうとしたのよ。好きなタイプじゃなかったけど、死んでしまって可哀想だと思うわ」
「まったくね。ところで、韓国の学者がこんな山奥へなんの研究にくるんですか」
「さあ」
「動物かな、植物かな?」
「知らない。遊ぶのに忙しかったから精しい話なんかしなかったですわ」
話は終ったとでもいうふうに、彼女はふたたびアケビの蔓《つる》を手にすると、花瓶を編みはじめた。土間の片側にはおなじ形をした花瓶の完成品がうず高く積んであり、それがこの女性の勤勉さを表わしているようにみえた。
酒屋という若者は不慮の死をとげたのだから同情されていい筈なのに、山の人の酒屋観はかなり辛辣《しんらつ》であり批判的であった。酒屋が仲間内からガメツイ男だといわれていることは丹那の報告にもある。しかし鬼貫は、それが友達同士の友情に裏打ちされた遠慮のない意見だとばかり思っていたのだ。ところが現地にきて村人の重たい口を開かせてみると、かなりきびしいので意外に感じたほどだった。自己中心的だ、金銭欲がつよい、打算的だといった声が大半で、芳しい噂は一つもない。
中学校の用務員に会って話を聞いたときも同じことだった。この四十男の独身者は古ぼけた電気炊飯器に米を仕掛けると、さて一日の用はすんだといった解放された表情になって、鬼貫に座布団をすすめた。部屋の一部が畳敷きになっているのである。
「いまもお話したように金銭に対する執着がつよかったですね。しかし単にそれだけならば非難されるわけもないのですが、人を押しのけてまで儲けようとすることになると、嫌われる結果となるんです。都会の人は喰うか喰われるかでしょうからべつに悪口をいわれることもないかもしれませんが、山の人間というのはこれでもまだ純朴さを残していますからね、酒屋の行動なり物の考え方といったものがことごとに目立つわけですよ」
「なるほど」
「こんなことがありましたな。名張の高校の先生からこの学校の先生に電話が入りまして、韓国の大学教授を案内してもらえまいかというのです。うちの学校の先生方は授業がありますからガイド役をつとめる余裕がない。そこで青年会に話を持ち込んだところが、酒屋君だけが椎茸を出荷して暇であることが判ったんです。しかし彼はいくら頼んでも頑としていうことを聞こうとはしません。わざわざ外国から学者が見えるんだから、一日ぐらいはいい顔をしてつき合って上げるのが礼儀ではないかといわれたのですが、それでもウンとはいいません」
「酒屋君らしき話ですな」
「これから先がもっと酒屋君らしい話になるのですよ。そのガイドが無料奉仕ではなくてしかるべき謝礼がでると聞いた途端に、彼はガラリと態度を変えてこの役を買ってでたんです。正直というんだか浅間しいというんだか知りませんが、よくまあ恥し気もなく豹変できたものだと思って、一同口あんぐりといった有様でしたよ」
「なるほどね。しかし韓国の学者がなにを調べにきたのですか」
「それがちょっと意外なのですが、長寿院の十二神将でした。尤も、あとで聞いてみると高松塚の古墳が発見されて以来、中国や北朝鮮、韓国の学者のなかには日本の古代文化に興味を持つ学者が増えてきたそうで、なかには鎌倉時代の仏教美術にまで関心をみせる専門家まででてきたというんですな。まあ、あちらから伝来した仏像ですから日本の仏像彫刻も当然その影響を受けていたわけですが、鎌倉時代の仏師はすでに彼等独自のスタイルなり手法を確立している。その点が外国の学者の目には面白く映るらしいんですよ」
どこで聞いたのか、なかなか精しいのである。
「するとそこの十二神将は鎌倉時代の作なのですか」
「ちょっと下って北条時代に入ってからだといわれています。一四〇〇年から十年間かかって仏師の朝兼《ちようけん》が彫ったということになっているんです。当時の長寿院はなかなか立派なお寺だったそうですから」
「しかしよく傷まなかったものですな。鼠に囓られることもあったと思いますが」
「それはありましたよ、腕が折れたり片目が落ちたり。しかし専門家に修理をたのみますと一体が百二十万円を越えるといわれていますので、学校の図工の先生が応急手当てをしたりして、どうやら持たせていたんですけどね」
今度の事件で県や市から補助金がでて、根本的に修理をするために、京都の日本美術院国宝修理所で手直しされることがほぼ決ったと、用務員はほっとしたように語った。
それはそれで結構な話だが、肝心の酒屋が持っていた情報というのが依然として判らない。わざわざ三重県の山中まで捜査費を使ってやってきた意味がないのである。
「さあ、何でしょうかねえ。この山のなかでも、酒屋君が事故死ではなしに殺されたらしいという噂はとんでいます。当然、なぜ殺されたのかといったことも話題になっているんですが、こればかりは見当もつきませんな。納得できるような説明をしたものは一人もいないのですから」
という一語で鬼貫は完全に打ちのめされたような気がしたのである。
時間がなくて長寿院を見ることができなかった。もう一つ残念だったのは、酒屋の車が転落した場所を略図まで書いて教えてもらったのに、そこを通過するときは日が暮れていて、なにも見えないことだった。明日もう一度出直してこよう、と考えた。
名張駅前でバスから降りた鬼貫は、広場に面した菓子屋に立ち寄って問題の「乱歩煎餅」を幾箱か求めた。何はともあれ、捜査にたずさわった刑事達に本物の瓦煎餅を見せてやりたかったし、味わわせてやりたいと思った。
その煎餅を、夕食の後で囓りながら鬼貫は、小さなサンルームの椅子に腰をおろして事件のことを考えていた。つい十分ほど前に消防署から救急車がサイレンを鳴らして出ていったほかは、あたりに物音一つしなかった。東京ではこんな静けさは味わえない。彼の自宅のある国分寺でさえも、昨今はテレビの音、ピアノをさらう音、そして車の音で耳を押えたくなることもあるのである。
いま彼の心に思っているのは大塚のアリバイのことであった。写真によるアリバイが偽物であることはほぼ判明している。その余勢を駆って、いかにして十時間で古太郎生まで往復することができたか、という謎を解明したかったのだ。
しかしどう考えてみても不可能であることが判ったとき、鬼貫の胸中には唐突にべつの解釈がひょっこりと首を持ち上げた。大塚が下田から姿を消していた「十時間」は間違いのない数値なのである。だから、この事実の上に立脚して推理を展開すべきではないか。
花時計の偽造写真を用意するくらいだから、いまや大塚の犯行であることを疑う余地はない。その大塚が十時間で往復したことから逆算すると、殺人現場は片道三時間半で到達できる地点にあるのではあるまいか。小日向を殺すのに最低三十分、多く見積って一時間は要したろうから、それを差し引いてまず片道四時間半。こうした場合に機動性に富んだ車を使わぬ手はないだろうから、殺害地点は下田を中心として、車で四時間半で到達可能の円周内にあることになる。鬼貫は列車時刻表の地図をひろげると、下田を中心にして、ほぼ半径が四時間半になると思われる円を描いてみた。東京都内がその範囲内になる。彼はあの稲城市が円周の内側に入っていることに気づくと、暫く呼吸することも忘れたように、その一点を凝視しつづけていた。いままで第二現場だと思い込んでいたところが第一現場であり得るとは……。
では、なぜ太郎生を第一現場だと錯覚したのか。まず第一に、被害者の口中から名張市で売られている「乱歩煎餅」が発見されたこと、第二に、長寿院の十二神将から折り取った剣が兇器として用いられたこと。第三第四が現場に残された闘争の痕であり、落とされていた小日向のハンカチであった。さらに見落してならないことに、小日向が細君に語ったという、山里の少女の沐浴の件がある。いまとなってみると、こんな途方もない出鱈目を吹き込んだものは大塚以外にいないことが判るのである。そしてこの布石によって、太郎生第一現場説がすんなりと受け容れられることになったのだ。
おそらく、こう想像することができるのではないか、と鬼貫は頭のなかでそっと呟く。大塚は花時計の写真による偽造アリバイだけでは自信がなく、もう一つ強固な偽アリバイの必要に迫まられた。そこで頭を絞った揚句に、彼としては大出来の名案を思いついた。それが三重県の山奥を殺人現場に偽造することであった。彼も推理作家であるからには、江戸川乱歩という先人の生まれた名張市には興味を持っただろうし、立ち寄ったこともあるだろう。つまりは名張にも太郎生にも土地鑑を持っていたことになる。長寿院もそこに十二神将が祀ってあることも、以前に訪れて知っていたに違いない。そうした知識の蓄積の上に、偽アリバイを築くことを思いついたのであろう。
いったん吐け口を見つけた鬼貫の思考は、毛糸で編まれたスェーターがほどけていくように、ほとんど停滞することもなく展開していった。そしてふっと気がつくと思い出したように煎餅を囓っては茶を飲んだ。
勿論この計画は、坂下が推理専門誌の依頼で各地に取材にいくことから着想したものだろう。そして実行に必要な詳細な情報は、婚約者の原まち江からも入手できるし、直接このカメラマンの口から聞くこともできた筈である。このベレをかぶった腹黒い推理作家が、目尻をさげ好人物そのものといった顔で軽口をたたきながら、坂下から名張旅行のスケジュールを訊き出している様子を想像すると、鬼貫はなんとも不快な気持に襲われてくる。が、それはともかく、坂下の名張取材のスケジュールは沖縄へわたる以前に組まれていたのだから、出発前にそれを聞いた大塚にしてみれば、充分な時間的余裕をもって準備をととのえられたことになるのだ。やがて彼はこっそりと三重県の山中へ出かけると、かねて目をつけておいた戌神将の剣を折り、それを持って東京へ戻ってくる。
さてこうした綿密な計画をたてておいてから実行に踏み切るのだけれど、彼の主目標は小日向を殺すことではなくて、坂下を殺人犯に仕立てることにあるのだから、当日当人が太郎生を通過してくれなくては意味がない。万一その日の天候が悪くて沖縄からの飛行機がとばなかったり、飛んだにしても大阪空港着が大幅におくれたりする場合には、ひとまず小日向殺しは中止しなくてはならないからだ。したがってその日の天候には充分の注意を払い、さらに羽田なり伊丹なりにフライト情報を訊ね、飛んでいることを確認した上で行動にでたものだろう。
さて当日の朝のことになる。宿をでた彼がまず第一にしなくてはならないことは、旅館の浴衣と服との更衣である。最も簡便な方法は洋服入りのスーツケースを駅のコインロッカーに預けておいて、駅の手洗いを利用して着更えることだった。洗面所の客は頻繁に入れ替わっているから、浴衣姿の男が洋服を着てでてきたところで人目に触れる心配もない。そして、いまは浴衣の詰っているスーツケースを再度ロッカーに入れて出発すれば、留守中に盗難に遭うおそれもないのである。
あるいは、と鬼貫は考える。駐車場に入れておいた車のなかに服を隠しておいたのかもしれない。しかし浴衣の男が駐車場に出入りしたのでは目立ち過ぎる欠点があり、やはり駅のロッカー利用がいちばん安全のように思えるのだ。それに、前以って駐車場にパークさせておいたのでは係りに覚えられてしまうという心配もある。鬼貫が想像するように大塚が車を使ったとしても、駐車した地点は下田・東京間の、例えば熱海、小田原、横浜といった土地の、利用者の多い、したがって目立たぬ駐車場だったに違いない。第一現場があの櫟林であるか、あるいは神奈川県内であるか、また静岡県内であるかは判らないけれど、殺人に投入する時間をたっぷりとるためには途中まで電車でいったほうが能率的であった。わざわざ下田から車でいく必要もないのである。
大塚がどんな口実を用いて小日向を誘い出したかも判らない。だが、銀座の喫茶店のプライヴェイトルームでこっそりと会っていたことからも想像がつくように、大塚は今度の計画にそなえて、前々から小日向に接近を図っていたことは明かである。そうした地ならしをしておいたからこそ、いざ本番という場合に、大塚のいうがままにおびき出されもしたのだろうし、すすめられれば気を許して瓦煎餅を喰いもしたのだろう。小日向にしてみれば、この菓子が相手の男のアリバイ偽造に一役買うとは思いもしない。大塚が車の座席の下から、あるいはトランクのなかから銹びのういた剣をとりだして襲いかかってくるとは、これまた夢にも思わなかった。なぜならば、彼には大塚によって殺されねばならぬような動機は一つもないからである。
ここまで考えてきたときに、鬼貫は、大塚がなぜ太郎生からはるばる東京まで屍体を運んでいったかという謎が解けていたことに気づいて、思わず頬の筋肉をゆるめた。だが、まだ手放しで喜ぶわけにはゆかない。不明の点はいくつも残っており、最大の謎である酒屋に対する殺害動機は、依然として彼の前に立ちはだかっているのだ。
帰京した鬼貫を待っていたのは、今朝、洪さんという外国人から電話があったという報告だった。洪姓は中国人と朝鮮人に多く、日本人には皆無といっていい。
「韓国の人かね?」
と反問したのは、太郎生で聞いた韓国人の学者の話が耳にのこっていたからである。
「ええ。今回来日して東京のホテルに泊っているときに、偶然のことから小日向事件のことを知ったのだそうです。興味を感じたものだから図書館にいって古い新聞を読んで、あらましを理解したと……」
「いやに熱心だな」
「はあ。というのは去年の十月にも来日しまして、太郎生の長寿院にいって調査をしたのだが、そのとき案内してくれたのが殺された酒屋だったそうで、無関心たり得ないというのです」
「韓国人の学者のガイドをつとめた話は向うでも聞かされたがね、それが洪氏だったということは初めて知った。しかし、それだけのことで電話をくれたのかい?」
「そうじゃありません。無関心たり得ないのは、坂下が犯人でないことを知っているからだというんです。自分はそれを証明することができるといっていました」
予期しない話だったので、一瞬鬼貫は返事につまって立ちつくしていた。
「……証明できると、そう断言したのかね?」
「はあ、意外なことなのでびっくりしました。くわしく訊こうとしますと責任者でなくてはお話するわけにはいかない、ことの内容が重大すぎるからといってことわられました。これからちょっと地方へ旅行をすることになっているが、四日ほどしたら戻ってくるからそのときにお会いしたいということで通話が切れました」
「洪さんだったね? 名は名乗らなかったのかい?」
「九星です。洪九星、京城の大学で東洋美術の講座を持っているそうです」
「残念なことをしたな、あと四日間か」
と、鬼貫はサンタクロースの来る日を待ちわびる子供のような顔をした。
鬼貫が思いがけず洪教授の名と再会したのは、その日の夕刊の社会面であった。独身の彼は夕食を役所ですませることが多く、この日も食事の後で新聞をひろげていたのである。
「韓国の大学教授、パスポートをすられる」といった見出しで、洪九星教授が東京駅でパスポート入りの財布をぬきとられたことが報じてある。教授は自己の不注意で落した可能性の大きいことを力説し、拾った人は神奈川県葉山の友人宅に一報して欲しい旨を語っていたという。
鬼貫はパスポートを紛くした教授の困惑が解らぬわけではない。情況からみてもすられたことは明白であるのに、日本人を疵つけまいとして、自己の不注意で落したように主張しているこの教授のデリケートな心遣いが理解できないでもなかった。だが、いま彼の頭のなかにあるのはそうした世間並みの感想ではなくて、この記事が大塚春樹の目に触れた場合のことであった。洪教授は、坂下が犯人でないことを立証できるといっている。犯人が大塚であることを証明できるといっているのではないのだから、それがこの推理作家の死命を制することにはならない。だが、坂下がシロであることが明らかとなれば、大塚が命をかけた計画の一切がご破算になってしまうのである。
問題は、教授が真相を把握したことについて、大塚がどの程度に知っているかという点にある。彼は酒屋青年に秘密を握られたことを悟るや、躊躇することなくこれを始末したのだが、その酒屋の口から、自分と行動をともにした韓国人の学者もまた同じ事実をつかんでいるといった意味のことを聞かされなかったとは限らない。勿論これは仮定の話にすぎなかった。といって頭から否定することもできかねるのである。鬼貫として最上の策は、洪教授に電話をかけて、身辺に注意をすることであった。これで鬼貫の気もすむし、万一大塚に狙われたとしても、教授のほうで用心をしていればまず安全だろう。この学者の所在は逗子の連絡先に問い合わせれば判る。
電話局に番号を問い合わせてから、ダイアルを回転させた。設楽信三が洪教授とどんな関係にあるのだろうかと思っていたら、こちらもまた鎌倉時代の仏教美術を専門とする教授であった。声から、まだ三十代の少壮学者であることが判る。
「今夜は犬山に一泊するといっていました」
「愛知県のですか」
「ええ、二泊して明後日は、三重県の太郎生という山のなかにある長寿院というお寺を訪ねる予定になっています」
「去年の秋に調査した筈ですが」
「よくご存知ですね。あれから長野県の北佐久郡にある十二神将を見まして、もう一度長寿院の薬師堂を調べなおす必要を感じたわけです。去年は滞在期限がすぎるために帰国されたのですが、今度の来日でその念願をはたせるといって、張り切っていました」
「犬山の旅館名はお判りですか」
「ゆき当りばったりに決めるといっていました。温泉に入れさえすればいいのだから、といって……。パスポートが見つかったそうですから連絡をとって安心させたいのですが、旅館の名が判らないので困っているんです」
設楽教授のほうで所在を教えてもらいたいような口吻である。
「パスポートが出てきたというのは朗報ですな。洪さんもほっとするでしょう」
鬼貫が相槌を打つと、設楽の声の表情がちょっと変化をみせた。
「こう申しては何ですけど、警察というところはもっと横の連絡がとれているものと思っておりましたよ。洪さんの所在を訊ねてくるのはこれで三度目ですから」
とりようによっては非難しているふうにも聞える。だが鬼貫は三度も問い合わせがあったという発言にひっかかった。
「三回目というのはわたしですね?」
「一回目は午後の四時頃のことで、すりを捕えてパスポートを取り返したから洪先生に知らせて上げたいが、どこに泊るか判っているかという内容です」
「ふむ」
「第二回目は五時半頃のことで、パスポートを取り戻したらただちに連絡をとりたい、どこの旅館に一泊するか教えてくれというのです」
「ふむ」
「訝《おか》かしいと思いました。スリは逮捕されたというではないか。そう反問しますとね、担当が違うから知らなかったという返事です。仕方なしに改めて犬山に一泊する予定であることを話しましたが」
「なるほど」
「それから一時間すると、今度はあなたからまた同じ問い合わせです。わたしが横の連絡について皮肉をいいたくなる気持もご諒解いただけると思いますがね」
「全く」
素直に頷いてみせ、しかし胸中では小首をかしげていた。あの韓国の教授が被害に遭ったのは東京駅なのだから、届出を受けたのは丸の内署ということになる。いま仮りにそのスリが新宿署に逮捕されたとしてみると、新宿署から丸の内署に通知がゆき、丸の内署から設楽教授宅へ連絡が入るのが正当な順序であった。したがって第一回目の電話が丸の内署からかかったものであることは解るが、すると、第二回目の電話はどこからなのか。
礼をのべて電話を切ると、すぐに丸の内署にダイアルして担当官につないでもらい、事情を訊ねてみた。その話によるとスリを捕えたのは鉄道公安官で、上野署に引き渡され、上野から本署に連絡が入ったのだという。
「早速パスポートのことを洪さんに知らせようと思いましたが宿泊するホテルの名が判らぬものですからね、そこで止むなく設楽さん方に問い合わせてみたわけです」
その後でもう一度設楽家へ電話を入れたことはないか。鬼貫がそう訊ねると、彼は同僚の何人かに当ってみた後、逗子に電話をかけたのは後にも先にも一回きりであると答えた。となると、二度目の電話の主は誰だったのか。
大塚春樹の仕業ではあるまいか、と鬼貫は考えた。あの男なら、話を手っ取りばやく訊き出すために警察の名をかたるぐらいのことはしかねまい。多分彼は、洪教授が来日していることを夕刊で読んだのだろう。スリが掴ったのは夕刊の締切後のことだから、記事にはなっていない。したがって、設楽家のダイアルを廻わした時点の彼が、パスポートが無事に取り戻されたことを知らなかったのは当然である。考えれば考えるほど電話をかけたのは大塚だったように思えてきた。
しかし、大塚であるという確信はないし、もしそれが大塚でなかったとすれば、どんな目的で洪教授が泊る旅館を知ろうとしたのか、鬼貫には見当もつかない。もしそれが大塚であるならば、洪教授が命を狙われていることは間違いないのである。残念ではあったがこの場合の鬼貫としては、ごく消極的な手段にでる以外に方法はなかった。教授が泊っている旅館を探り出して、身辺を警戒するようそれとなく注意をするのが関の山なのだ。この考えを、鬼貫はただちに実行に移すことにした。もしそれが取り越し苦労であったとすれば、それはそれで結構ではないか。
愛知県と岐阜県の電話帳をひろげておいて、犬山の旅館の番号を拾うと、片端からダイアルを回転させていくことにした。犬山は木曾川のほとりの観光都市であり、客のなかには橋をわたった岐阜県側の宿に泊るものもいる。川のこちら側で埒があかなければ岐阜県の電話帳をさがすつもりでいた。
外国人である洪教授はそれだけに目立つ存在である。投宿していれば、帳場なりフロントなりが宿帖を照合するまでもなく、すぐに思い出してくれる筈だった。鬼貫は、そうした意味からむしろ楽観的ですらあった。
最初の一軒で否定され、二軒目でも否定され、五軒目にかけたときに予期しない、しかし心の底では予期していたともいえる反応があった。洪教授が泊っていないことはこれまでの返事と同様だったが、そこの番頭は、十分ばかり前にも同じ問い合わせがあったというのである。
「男でした。声から判断しますと中年ですな。標準語を喋る人で……」
やはり大塚だ、と直感した。彼もまた鬼貫と競合するように、懸命に洪教授の所在を求めている。鬼貫は競争心のないたちだけれど、これだけは負けられなかった。大塚に先んじてつきとめ、警告を発しなくてはならない。
六軒目、七軒目とすすんでいく。鬼貫はその度に失望を味わわされる。そして九軒目と十軒目でつづけさまに「大塚」の足跡を発見すると、じっと坐っていることが苦痛になってきた。
すべてのダイアルを回転し終えたときには、受話器をあてた耳と受話器を握っていた手頸が痛くなっていた。彼は無意識のうちに手を振ってしこりをほぐしながら、索然とした思いで電話帳に目をやった。もう七時をすぎている。洪教授がどれほど貪欲に見物をしたとしても、この小さな観光都市では四時間とはかかるまい。とうに宿に着いて風呂に入り、寛いだ気分で夕食の膳に向っている時分なのである。一体彼はどこに泊ったのだろうか。
鬼貫にとってもう一つ奇妙に思えたのは、「大塚」の足跡がたどれたのは五軒の旅館と一軒のホテルだけであることだった。つまり、六軒目で目指す旅館を発見し得たか、さもなければ探索をあきらめたかのどちらかということになる。が、この人物が大塚春樹である以上、そう簡単に、思いきりよくあきらめたとは考えられない。とするならば、洪教授の所在をつきとめたと解釈するほかはないのである。
鬼貫は、己れの調査に遺漏があったとは思わない。一介の素人にしかすぎぬ大塚と競い合って彼が成功し、自分が失敗するとは考えられなかった。にもかかわらず鬼貫を出し抜いて居所をつきとめたのはどういうわけだろう。
小半刻ちかくかかって到達した結論は、その謎の人物は「大塚」ではなかったというものであった。大塚春樹はあの夕刊を見ておらず、したがって洪教授が滞日中であることも知ってはいない。だから教授の命を狙うわけもないのだ。あるいはまた、大塚は酒屋青年から何の話も聞かなかったということもあり得る。そうだとすれば、彼にとって洪教授は縁もゆかりもない赤の他人にすぎない。まさか重大な情報を握っているとは思いもしないから、殺意が起る筈もないのである。
では、警察の名を詐って設楽教授に電話をかけた男は誰なのか。想像を逞しゅうすれば、教授がホテルがわりのマンションを探していると知ってひと儲けをたくらんだ不動産屋ということも考えられた。それも、海千山千のセールスマンだ。だから官名詐称なんぞは朝めし前であったろう。犬山の宿泊先へ長距離をかけたのも、いったん喰いついたら放さないという商売熱心のあらわれと考えれば納得できる。だが、何回かダイアルを廻わすうちに小銭が不足してきたということもあるだろう。鬼貫は少し取り越し苦労がすぎたかな、と反省してみた。
鬼貫がふたたびその問題と取り組むことになったのは、翌朝の出勤途上の電車のなかにいるときであった。よくあることだが、鬼貫の隣に坐った男もまた、傍若無人に新聞をひろげて読みふけっており、鬼貫の鼻先には広告欄がつきつけられていた。目を開いている限り、それを見なくてはならない。そのページの下半分は、伊豆の別荘向け売り地が派手なキャッチフレーズと写真とで占められていた。鬼貫には関心のない広告である。
彼は「温泉」という大きな活字に目をとめると、洪教授のことを思いうかべた。昨日と今日は思いきり温泉にひたって疲れをいやし、明日は元気いっぱいで太郎生に向うことだろう。日程と旅費の関係で長寿院には寄らずに帰京した鬼貫は、いまになって、十二神将を見そこなったことが残念に思えてきた。
隣りの男が新聞を裏返えしたので、鬼貫の目の前で「温泉」の文字がはげしく動いた。そしてその動きに触発されでもしたように、彼は不意に目をそらせると考え込む表情になった。顎の張った鬼貫の顔は、哲学者のような思索型とはちがっている。だから考えに沈んでも、せいぜい昨日の弁当のおかずを思い出そうとしているぐらいにしか見えない。だが、いま彼が胸中で考えているのは弁当のことではなく、犬山には温泉がないという事実についてであった。
設楽教授はこういった筈である。洪先生は犬山に一泊する、温泉にさえ入れれば旅館が高級であろうが大衆向きであろうが意に介しない、と。このことから考えると、洪教授が泊った土地は犬山ではなくて温泉地であることになる。にもかかわらず設楽教授がこれを犬山だといったのは、洪教授の日本語の発音もしくはアクセントが正確さを欠いていたために、誤って犬山と聞えてしまったものではなかったか。
鬼貫は容易にその温泉地の見当をつけることができた。発音が犬山に近似しており、しかも距離的に太郎生に近いということになると、三重県の湯の山温泉しかないからだ。正確にいえば三重県三重郡菰野町湯の山、である。
役所につくと、すぐ丹那に命じて湯の山温泉の旅館に電話をかけさせた。最初から、今度こそ手応えがありそうな予感がしていたが、それは間もなく現実のものとなった。
「間違いありません。『藍峯』という旅館に昨夜から投宿しています」
「よし、部屋に閉じこもっているようにいってくれ、警官がいくまでは一歩も外にはでないように」
丹那は電話口でいわれたことを伝えていたが、そのうちに早口になると、みじかい相槌を打ちながら執拗になにかを訊き出そうとしている様子だった。「それで?」とか「それから?」とか、「いつですか、それは!」といった断片的な問いかけからは、丹那が何を質そうとしているのか判断がつかない。鬼貫は通話のおわるのを黙って待っていた。
送話口を掌でふさぐと、丹那が声をかけた。
「散歩にでてしまったそうです。丹前を服に着更えてでたそうですから、短時間のうちに戻ることはないと思う、といっています」
「湯の山ってとこは行ったことがないんだが、見物するようなものがあるのかね?」
「御在所岳に登るつもりらしく、女中に地理を訊いていたといいます。ところが出かけた直後に、男の声で電話がかかったと――」
「なんだって?」
昨夜の件は掻いつまんで丹那にも話してあった。
「三十年輩の声だったそうです。急用があるので至急会いたいといって、出てから何分たったかとか、行先とか、人相風体などをしつこく訊いたといいます」
「人相風体を訊いたというと、先方は教授のことを知らないことになるな」
「そうですね」
「出かけてから何分すぎたかなどといった点から考えるとだね、その男は湯の山近辺にいるというふうにも受け取れる」
「そうです。ひょっとすると大塚は昨夜のうちに東京を発って、今朝はやく行動に移ったのではないでしょうか」
「うむ。御在所岳についてちょっと訊いてみてくれ」
鬼貫はいつもと同じ落ちついた調子でいった。
丹那は礼をのべて受話器をのせた。
「すぐそばにある山だそうです。麓からロープウェイが通じていて、登山マニヤをべつにすると、まず殆どの観光客がロープウェイを利用しているという話です」
鬼貫は箱根や浜名湖の館山寺で乗ったことのある鋼鉄の函を思いうかべた。千葉県の鋸山でもロープウェイで昇ったことがある。
「湯の山へきた客の大半が登りますから駅では長い列ができるんですが、今日の現地は小雨が降っているので、あまり混んではいまいということです」
鬼貫は眉の間にたてじわを寄せるとむずかしい顔になった。登山客が少なければ、大塚は苦労せずに目標を発見するだろう。あとは油断を見すまして襲いかかればいい。狙われていると知ったならともかく、洪教授は隙だらけだ。勝負は一瞬にして決まってしまう。
もはや土地の警察に協力をもとめる他に方法はない。鬼貫は上司の許可を得るために立ち上った。
四日市署の庶務主任宮崎巡査部長が、殺人犯逮捕のため湯の山温泉へ急行するよう命じられたときは、一瞬わが耳を疑った。署の民謡サークルで尺八を吹くのが唯一の趣味であり、書道と算盤とはそれぞれの奥義をきわめているが、捕物とは縁のないポストに坐りつづけて二十五年になる。定年を前にして、こんな勇ましい仕事に駆りだされるとは思いもしなかった。
「たしかあんたは新義州の出身だったな」
一つ齢上の、しなびた顔の署長がたしかめるような訊ね方をした。
「はあ。鴨緑江の水でうぶ湯をつかったくちです」
「去年の忘年会でアリランを原語で唄ったっけな?」
「はあ」
モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」をイタリア語で歌ったわけでもあるまいに、原語とは大袈裟なと思いながら、相手の顔を見つめていた。
「県警から急な連絡が入ってね。御在所岳に登った大学教授の命を、推理作家が狙っているというのだよ」
宮崎巡査部長はずり落ちそうになった老眼鏡を指先でおし上げた。テレビドラマの筋書でも聞かされているみたいで、現実感が湧いてこない。
「くわしい事情は同行する雁金刑事と白木刑事から聞いてくれ。ただね、この学者が韓国人なんだ。場合によっては朝鮮語が役にたつのではないかと思ったもんで」
「日本語はできないのですか」
もっぱらそれが心配だ。
「県警に問い返えしてみたんだが、その点は東京側から何もいってこなかったそうだ」
「東京から?」
宮崎巡査部長は東京という大都会に漠然とした反感のようなものを抱いている。この齢になるまで東京にいったこともないし、退職して暇ができてもいく気はない。
「松阪署と共同でホシを追っているんだ。本来なら松阪署から刑事がくるところだが、なにぶんにも急を要することだからね。いま、松阪署長からも、よろしく頼むという電話が入ったばかりだ」
裏庭でクラクションが短く鳴った。
「じゃ気をつけてな」
署長は手を上げると追い出すような仕草をした。少くとも宮崎巡査部長にはそう思えた。
車には二人の刑事が待っていた。ハンドルを握る白木刑事は二十代の後半でまだ独身、雁金は四十になったばかりの年季が入った男である。どちらも肩幅がひろく、陽焼けのした顔と鋭い目つきは精悍《せいかん》そのものだった。それに比べると宮崎はなんとなくじじくさくて、頼りな気であった。さむらいでいえば自分は祐筆なんだ、と宮崎は胸中でおのれを慰めた。
どす黒い煙におおわれた市内をぬけ、しばらく郊外を走った。途中で湯の山行きのバスを追い越す。新婚旅行らしいふた組のカップルを乗せたきりの、空いたバスであった。花嫁の一人がコバルト色の羽根のついた帽子をかぶっており、それがひどく目にしみた。煙都に住んでいると、蒼空に似た色でありさえすれば何にでも反応するようになっていた。
車の上で雁金刑事から状況の説明をうける。狙われる大学教授とこれを追う推理作家との関係がほぼ理解できてきた。古太郎生の十二神将損壊事件や、山の若者が名張川に転落死した事件は土地の新聞で読んだ記憶がある。その犯人が、いま御在所岳のてっぺんで韓国の学者を殺そうとしているというのだ。宮崎はハンドルを握る白木刑事の手許に目をやると、イライラしたように渋面をつくった。刑事のなかでも車につよいといわれる白木の運転が、今日はいやにのろいような気がする。
「大塚春樹の人相は知ってますか」
「いや、全然」
「人気作家なんですがねえ」
大塚を知らないことを不思議がるような口吻で、雁金はシートの上から三冊の新書判を取り上げた。
「売れっ児作家となると手配写真なんか要らないんです。署の前の本屋へいって『大塚春樹コーナー』という棚に手を伸ばせば、鮮明なやつがごっそり並んでいるんだから」
「映画俳優だの人気作家だのといった連中はこうした場合になると不利ですな」
新書判の裏表紙の大塚春樹は眉のくろぐろとした、意志のつよそうな顔をしていた。うすい唇をきゅっと結んだところが酷薄な性格をあらわしているようだ。そして三枚が三枚ともレンズから視線をはずしており、本人は気取ってポーズをとったつもりかも知れないが、宮崎が受けた印象はそうではなくて、レンズを正視し得ぬのは心にやましいことがあるからではないか、というのであった。
「もっとスピードを出せないのか」
横から雁金がせかせる。
近鉄湯の山駅の前をとおりぬけると道は勾配が急になり、カーヴが多くなり、左右から緑色の山肌が迫ってきた。
ロープウェイの駅は山際にある。車を停めるとコンクリートの階段を駆け上った。ふだんの混雑した有様を見慣れている宮崎には、今日のひと気のない閑散とした切符売り場や記念写真の撮影場のたたずまいが異様なものに思えた。来たるべき惨劇にそなえて、全員が待避を終えたような錯覚を生じた。そのなかでゴンドラだけが黙りこくって動いている。その機械的な精確な動作が、宮崎にはまた妙に不気味に感じられた。
「きみはここで張り込んでいてくれ。もう一度この写真の人相をしっかりと叩き込んでおくんだな」
雁金は持っていた新書判の推理小説本を後輩刑事に手渡した。
「相手は作家だ。すぐに人権侵害だなんてねじ込んでくる。用心しろよ」
「ええ」
「表面は丁重にあつかうんだ、いいな?」
「了解」
白木をフォームに残して空いたゴンドラのくるのを待った。客の少ない日は乗務員の数を減らしているので、三、四輛は空車がつづく。
「毎度ご乗車――」
いいかけた女の子は雁金の警察手帳にチラと目を投げると、出かかった言葉をのみ込んでしまい、あとは終始無言のままだった。
ロープウェイは気が遠くなるほど距離がながく、そして気が遠くなるほど傾斜が急であった。宮崎がこれに乗るのは四度目だけれども、その度に居ても立ってもいられぬような不安を感じる。生命保険の掛け金を倍にしておけばよかった、などと思う。下方を見ると、三滝川の石だらけの川床と、その両岸に並んだ旅館の屋根が小さくなっている。すれ違った降りのゴンドラが奈落の底に吸い込まれていくみたいに遠離かっていく。
正面に見上げる御在所岳はすっかり霧に包まれている。霧というよりも雲といったほうが適切だった。その雲のなかからいきなりゴンドラが現われたかと思うと、みるみるうちに大きくなる。女子乗務員がポツネンと坐っていたが、同僚とすれ違うときに白い歯をみせた。
頂上のフォームにおり立った。霧はますます濃くなってくるようだった。つめたい粒子が頬を打ち、たちまち宮崎の眼鏡がくもる。ホテルのレストランのほうから微かにカレーの匂いが漂っていた。
改札口をぬけると、そこはもう頂上公園である。植込みの間をほそい散歩道がくねくねと伸びているのだが、いまはその道も霧に飲まれてしまい、二人は足さぐりで前進するほかはなかった。こうなると曲った小道はかえって歩きにくくて、ときどき灌木に足を突っ込んだり低いフェンスにぶち当ったりする。うっかりすると足をすくわれて急な崖から転落してしまう怖れもあった。
頂上公園はそれほど広いものではない。虱潰《しらみつぶ》しにチェックしてゆけば必ず相手に出遭う筈であった。仮りにゆき違いになってゴンドラで降りたとしても、そこには白木刑事が網を張っている。まず、大塚の逃れ道はない。だが、いまの目標は大塚の逮捕のほかに、事前に洪教授の命を救うことにおかれていた。のんびりと構えている時間はない。ときどき、霧が真赤ににじんで見えてドキリとすることがある。目を近づけると、それは朱色をしたツツジの花だった。いまは全山のツツジが満開なのである。
公園のほぼ半分を廻わって見晴し台に入ろうとしたときである。二人の耳は同時に、端のほうから聞えてくる低い男の声を捉えた。足を止めて耳をすませる。その声は、他人に聞かれることを警戒するように押えた喋り方であった。が、まだ距離がありすぎて話の内容まではキャッチすることができない。二人は靴音をたてぬよう気をつかいながら、一歩ずつ慎重に近づいていった。相手の声は聞えぬけれど、といって真逆ひとりごとをいっているわけではあるまい。その第三者をはばかるような、それでいて一方的な話し方から判断すると、大塚だとみなして間違いではなさそうに思えた。
不意に声が止んだ。人の気配を感じて聞き耳をたてている様子がうかがえた。宮崎も雁金もピタと足をとめ、吐く息までセーヴして、こちらも同様に全神経を耳に集中していた。一分たち二分たち、さらに何分かが経過したようだった。しかし相手は警戒心をゆるめようとはしない。乳色の重たい沈黙がつづいた。
「どうした、なぜ黙っているんだ」
詰問するような、嘲けるような調子の声だ。訛りのない正確な標準語でありながら、どこか日本人ばなれのした喋り方であった。
「シーッ」
「この霧のなかをやってくる見物客なんているわけがない。びくびくすることはないだろう」
「黙っていろ!」
「冗談じゃない、きみの命令に従う気はないし、きみに協力する気もない。ぼくは黙らないよ」
「シーッ、黙るんだ」
「どっちみちぼくは殺されるんだ。そうと決まれば、きみに反抗して死にたい。精一杯の意地悪をやって、きみの困り切った顔をみてから殺されたい。生憎この霧で顔の見えないのが残念だが」
そのイントネーションから、これが洪教授であることは間違いなかった。
「大塚、包囲されている。無駄な抵抗は止めろ!」
少し離れたところで雁金の声が湧いた。
「観念しろ、もう逃げられはしないぞ」
宮崎が怒鳴った。意外にドスのきいた声になっている。二人の男が発した声のステレオ効果が、大塚をおびえさせ、慌てさせたようだった。
「うるせえやい!」
立ち上がる気配がして小走りに逃げ出す足音が聞えた。と思った瞬間、足をとられて転倒する響きにつづいて男が悲鳴を上げた。その絶叫はみじかく尾を引いたが、すぐに途絶えてしまった。
「洪先生ですか」
「そうです」
「じっとしていて下さい。動くとあなたも転落する」
「動きません、ベンチに囓りついています」
先程までのデスパレートな声とは違い、活きいきとした口調になっていた。
宮崎巡査部長は、ついに韓国語を喋る機会のなかったことを知った。ほっとした思いがすると共に、なんとなく物足りぬ気がしたのも事実であった。
十四 教授の話
四日市署の事情聴取、それにつづいて松阪署からきた刑事による聴き取り。洪教授はほっとする間もなしに、午後いっぱいかかって質問攻めに会った。彼が無事だったことを署長に祝福されて、警察の車で宿まで送り帰されたときは夕方の五時になろうとしていた。そしてそこには東京から駆けつけた鬼貫が待っており、洪教授はここでまた同じことを三度《みたび》くり返さなくてはならなかったのである。
三滝川のふちに建ったその旅館は背後の玄関から入ると一階だが、部屋にとおされて川を見おろした途端に、二階になっていることに気づくようになっていた。教授はそこで小憩すると、手拭いを持って階下の浴室にいって汗をながし、さっぱりとした気持で戻ってきた。そこに、鬼貫からの招待がとどいたのであった。
鬼貫の部屋はさらにその一階上にある。外から見上げたなら三階にあたる和室だった。デッキチェアをおいた廊下の外に太い木の手すりが廻らしてあって、その手すり越しに、夕闇の迫った褐色の三滝川が望瞰された。川そのものは清流だが、大きな岩がごろごろと転っているのでどうしても褐色の川といった印象を受ける。対岸の空中に、数台のゴンドラが車体を宙づりにして停っており、それを見た教授は日中のおぞましい事件を思い出して目をそらせた。
「ご無事でなによりです。あなたが落ち着いておられたのと、こちらの警察が敏速に動いてくれたことがよかった」
「お陰さまで。生きているのが不思議なくらいです。見晴し台で声をかけられたときには、まさかこの男がわざわざ東京からやってきた殺し屋だとは思いませんでした。お互いがタバコを一服する間は、のんびりとした世間話をしていたのですから」
洪教授は五十歳前後の痩せ型で、髪が濃く面長である。額がひろくて聡明そうだが、目つきが柔和なためかエリート臭を感じさせない。浴衣を着た恰好が、日本人よりも板についていた。
「わたしには坂下氏が犯人でないことは解っていました。ですが、真犯人は誰かということまでは知らなかったのです。大塚が名乗りを上げても、しばらくの間は信じられませんでしたよ」
ゆっくりとした口調で語っていった。
「冥途のみやげに一切の真相を聞かせてくれといいました。大塚は得意になって喋りましたよ。殺されることになっているわたし以外には、真相をぶちまける相手はいないのです。せっかく考え出した犯罪計画を自慢するには、わたしが唯一人の聞き役でしたからね」
そこに運ばれた料理を賞味しながら話を聞くのは、鬼貫にとっても滅多にない機会であった。教授も鬼貫もほとんどいけぬ口なので、休みなく喋りかつ喰うことになる。
鬼貫は相槌をうつだけで自分から口をはさむことをしなかった。疑問点があれば、後でまとめて訊ねればいい。彼はときどき大きく頷いてみせながら、大塚の秘密が解明されていく過程を楽しんでいた。想像したことがぴたりと当っていることもあるし、説明されて初めて理解できたこともあった。
「大塚の愛人は桜木弓子です。どこかの喫茶店でウェイトレスをしている女ですよ」
そういわれたときには、やはりあの女だったのかと納得した。
「擬装離婚をしてから、原まち江さんに擬装恋愛を仕向けたのですね。万事が計画どおりに運んで坂下氏が死刑になる、遺産が奥さんのもとに転がり込んだら、今度は奥さんを殺して独り占めにする予定だといっていました。またすばらしい偽アリバイを考えて、警察当局が指一本ふれられないようにしてみせる、とうそぶくのです。あのときは正直の話、とうてい救かるとは思っていませんでした。彼をおだてて喋らせていたのは、一つは真相を知りたいという好奇心を満足させるためです。ああいうどたん場になっても好奇心のとりこになっている自分という男が、われながら奇妙な生き物に思えたものです。そしてもう一つは、少しでも時間を稼ごうという浅間しい生への執着でした。あのような深い霧ですから、わたしみたいな余程の物好きでもないかぎり、登ってくる観光客はいないと思っていたのですが……」
話が飛躍する。鬼貫は耳を傾け、ときどき思い出したように料理を口へ運ぶ。
「彼は何年か前にも名張へきているんです。最初はまだ推理小説を書きだす以前のことで、気ままなドライヴを楽しみながら太郎生を越えて伊勢奥津へでたのですが、このときに薬師堂におさめてある十二神将を見物しています。今度こうした計画を立てたときに、以前に見た戌神将の剣を兇器にしようと考えたわけです」
「なるほど」
「しかし事情が変っていては大変なことになりますから、事件の前にまた下見をしています。このときは名古屋まで新幹線でいって、そこから先はレンタカーを借りているんですね」
「なるほど」
「そして三度目が……、三度目というといよいよ計画を実行に移すときのことになりますが、このときは伊勢奥津まで列車でいくと、そこから先はバスに乗っています。見なれない車がしばしば停車していては目立ちますからね」
洪教授はひと息入れると野鳥の焼いたのを頭から丸かじりして、学者らしくない野人ぶりを発揮してみせた。
「わたしはね、むかし東京で勉強していた頃、雀の丸焼をかじったものです。頭の脳髄がつるりと口のなかに飛び込んでくる感触が楽しかったことを覚えています」
どちらかというと菜食主義者の鬼貫には、そんなグロテスクなものを喰う勇気はない。そんなげてものを賞味する人類が不思議なものに思えてくる。
「大塚は前後四回にわたってあの土地へいっているのですが、四度目はいつのことだと思いますか」
大学の先生ともなると、聞き手に質問するのが習性になっているらしかった。
「そうですな、犯行に用いた兇器の剣を返しにいったときでしょう?」
「おっしゃるとおりです。もう一度ここで復習をしますと、最初に剣を折りにいったのが十月の一日で、殺人のあったのが五日です。そしてその翌日、つまり六日の電車で下田を発って東京に帰ったわけですが、つぎの朝になると、また家をでて、太郎生へ向ったのです。このときは自分の車を運転して出かけると、その車を横浜駅のそばの駐車場に預けて、新幹線に乗っております。なぜ途中まで車でいったかについては後で申しますが、新幹線を名古屋で降りますと、前回と同様に伊勢奥津まわりで太郎生に到着しています。いうまでもなく、剣を戻すための旅行ですね」
「なるほどね」
「長寿院までいって剣を庭に投げ捨てました。勿論これはここが犯行現場であることを強調するためですが、犬がくわえて持っていったものですから失敗してしまったといっていました。しかし、被害者のハンカチを遺留したり、苔の上に争った痕跡をのこしたことは成功したと語っていましたよ」
「いやあ、まんまと騙されたものですよ。兇器の剣、口のなかの瓦煎餅、ハンカチ、争った靴の痕というように、これでもかこれでもかといった調子で攻めてくるのですからね。古太郎生が、つまり三重県が現場でないことに気づいたのはずっと後のことなのです」
「気づかれたというのは素晴しいことですよ。ところが大塚はまだそれを知らないものですから、当局を出し抜いたといって得意満面でしたよ。いまあなたが指摘された煎餅やハンカチ利用の誤魔化しも得意そうでしたが、何といっても剣を用いて東京で殺人をしたことが得意中の得意のようでしたね。推理作家は馬鹿の一つ覚えみたいに屍体移動ばかりやっているが、兇器移動を思いついたのはおれの他にはいないといって胸を張っていました」
あの推理小説家が勝鬨《かちどき》を上げたくなった気持もよく解るのだ。いまも教授が語ったように、兇器移動を見抜かれたとは知らない大塚は、その思いつきを誇りたくとも誇ることができぬという奇妙なジレンマに陥っていたのである。そこに洪教授が現われたのだ。これは願ってもない聞き手であったろう。
「つまり、最初から順を追って整理をしますとこういうことになりますね。まず彼は何かの事情で大金に誘惑を感じる。たまたま知人のなかに坂下護と原まち江というコンビがいて、坂下氏が死ぬとまち江が自動的に相続することになっている。これだというわけで、同棲していた桜木弓子と別れたようによそおうと、原まち江に接近する……」
「われわれ男性から見るとべつに魅力もなんにもない男ですが、女性にとってはなかなか好ましい男性であったらしいですな。彼がこれだと目をつけた女は、たちまちコロリと参ってしまったようですから」
「わたしの国でも、美男子に比べると醜男のほうがもてるのです。女の心というものは全く解りませんな」
教授は嘆息するようにいってビールにちょっと口をつけた。鬼貫も真似るようにコップを口へもっていった。彼も唇をしめらせる程度だから、一度注いだ液体は食事が終るまで減らない。
「ストレートに坂下氏を殺したのでは忽ち疑られてしまう。そこでワンクッションおくことにして、大阪のカメラマン小日向氏を殺して坂下氏の犯行にみせかけるという手を使うことにしました。坂下氏と小日向氏はおなじ写真大学の卒業生で独身時代の奥さんを二人で争ったという前歴もありますし、ヌード写真の芸術論が昂じて爆発した間柄でもありますし、どこへ行くにも車を使う。小日向氏が殺されれば誰よりも先に坂下氏が疑惑の目でみられることになります」
その辺のことは鬼貫の推測どおりで格別目新しい解釈はなかったが、黙って話に耳をかたむけていた。鬼貫の坐った位置から御在所岳を一望にすることができる。その八合目あたりにある二枚岩に、大塚は激突したのであった。屍体が発見されたのも収容されたのも、霧が上った午後の三時すぎのことである。
「小日向カメラマンに対しては、前以って偽の情報を伝えておきました。三重県の一志郡太郎生という妙な名の山里に隠し湯があって、山の乙女が入りにくるといった話ですね。彼がこのデマを本気にして奥さんなり友達なりに喋ってくれれば、大塚の思う壺にはまるわけなのですが、果して奥さんに語っていた。その太郎生で当人が殺されたとなりますと、奥さんが黙っている筈がありません。生前に夫はこれこれしかじかのことを申しておりましたといってでれば、それが偽情報であることはすぐに判ってしまいます。そして、裸女の群像という餌にさそわれてノコノコと古太郎生まで出かけていって殺された、と解釈されることになるわけです。つまり大塚にとっては、小日向氏をうまく騙しはしたものの、ちょっと調べればすぐに底が割れる程度のデマであることが必要条件なのですが、その点、太郎生などというのは理想的だと思いますね。土地の人間以外には知る人の少ない場所ですから」
鬼貫は大きく頷いた。うなずいてから質問に入った。
「問題の十月五日の朝、新橋のホテルを出てから後の被害者の足取りがつかめていないのですが」
「それは大塚の指令によるものですよ。先程のデマの件でもお解りのように、二人は陰でこっそりと会って、ある程度は親密だったのです。親密といっても大塚のほうが含むところあって接近したのですから、真の意味の親密とは違いますけれども、とにかくちょくちょく会っていました。それをなぜ公けにしなかったかといえば、話の内容は、あのカメラマンの大好きなホモのことだったからです。こっそり会うといっても、それほど頻繁ではありません。ほんの二回か三回程度のものですが、大塚が提供する情報によって、小日向氏が楽しい思いをしたことは事実なのです。自分にはその気がないものだからネタを一つ仕入れるにも大変に苦心をしたといっていました。しかし苦労してキャッチした情報であるだけに、小日向氏は非常によろこびもし、したがって信用されることにもなります。この信用を得ることが、大塚にとっては非常に大切なものなのです。十月五日の小日向氏が大塚のいうがままに動いたのは、大塚がすばらしいホモ・パーティに招待するという話を本気にしたからでした。ですからこのカメラマンは胸をわくわくさせて、大塚に注意されたとおり誰にも行先を告げずに、人目につかぬよう気をつけて指定された場所へいったのです。昼食を馳走するから、腹をすかせておくようにといっておいたそうです」
洪教授はもう一羽の野鳥を手につかむと、また頭からかぶりついた。鬼貫はじっと話の先を待っている。
「指定された場所というのは東京の渋谷駅の近くにあるデパートの玩具売り場でした。大塚という男は心のなかに大人と子供が同居しているとでもいうのでしょうか、人と待ち合わせをする場合はつねにデパートの玩具売り場を指定したそうですが、このときも例外ではなかったわけですね。あの売り場は大のおとながウロウロしていても、愛児のプレゼントの選択に迷っているいいパパさんというふうにしか見えませんから、怪しまれることがないのだそうです」
「すると渋谷まで電車できたのでしょうか」
「下田から熱海までが伊豆急で、熱海から東京までは新幹線にのったといっていました。東京の滞在時間を少しでも延ばすために、急行電車をフルに利用したそうです」
「渋谷で落ち合ったというと、兇行現場はどこですか」
「彼のマンションですよ。渋谷と原宿とは目と鼻の先ですからね」
東京で学生生活を送ったというだけあって、洪教授は地理にもくわしかった。
「原宿のマンションですって?」
「ええ。ホモ・パーティを大塚の部屋で開くという振れ込みでしたからね、べつに怪しみもせずに連れ込まれたわけです。まずお茶受けという名目でお茶と煎餅をだしたのですが、まだ昼食をとっていない小日向氏は空腹でしたから、すすめられるままに喰べたのです」
「なるほどね、あの部屋で喰べさせられたとは思いもしませんでした。われわれは、被害者の口のなかから発見された瓦煎餅の一片によって、殺された場所が名張の近くであると考えてしまったのです。しかし、それにしてもきわどいとこでしたな、あのひと切れを飲み込んでいたなら、大塚がせっかく苦心した瓦煎餅のトリックが水の泡になったでしょうから。非常にタイミングがよかった。まあ、そこを狙って刺したわけだが……」
「そうじゃありませんよ、鬼貫さん」
と、韓国の学者はあざやかな日本語で反論した。
「そうではないのです。殺した後であの一片を口に入れておいたのですよ」
「なるほど、そこまでは気づきませんでした。だが現場があの部屋だと判れば、被害者の血痕を検出することもできるな」
「そういけばいいのですが、殺したのは浴室で、あとで血痕を念入りに洗い流したといっていましたから、さてどんなものでしょうかね。タイル張りの浴室なのだそうです」
思わず渋面をつくってしまった。今更ながら大塚の抜け目のなさに腹が立つのである。
「パーティが始まる前に体を洗わなくてはならない。そういう口実で浴室を見せにつれていって、隙をみてやったわけですね」
「その屍体をいつ第二現場へ運んだのでしょうかね?」
「順序を追って考えてみましょう、そのほうが呑み込み易いですから。マンションで殺人をした彼は、来たときとおなじように新幹線と伊豆急を利用して下田にとって返えしますと、ロッカーに隠しておいた鞄のなかから宿屋の浴衣をとりだして、以前の魚釣りスタイルに還元します。ビクや竿も、ロッカーに入れておいたのですね。獲物は一匹もないわけですけど、これは海のなかへ放してやったといって人の好い編集者を騙したのだそうです」
大塚に利用されたばかりでなしに、好人物とまでいわれたことを知ったなら、あの女性編集者のプライドが傷つけられることは必至である。なんとしてでも、このことは彼女の耳に入れないようにしなければならぬと思う。
「その翌日、編集者と二人連れで東京へ帰ったわけですが、先程も申しましたように、つぎの日の朝早く、車で発っています。この車のトランクのなかに屍体をのせていったのですよ」
途中で稲城の櫟林に屍体を捨てると、横浜までいって車を預け、新幹線にのって太郎生へ向うという段取りである。
「屍体を捨てたのが七日の早朝ですね。すると発見されたのも七日の朝なのです。つまり遺棄した直後に見つかっているわけですな」
「大塚もそういっていましたよ。あんなに早く発見されるとは思わなかった、その頃のおれはまだ横浜駅あたりでうろうろしていたんだ、と」
「しかし指輪を落としたのは痛かったといっていたでしょう?」
「ええ、落ちるほどに接着剤がいかれているとは知らなかったのだそうです。何処で落としたか見当もつかなかったといっています。ところが、後になって刑事さんが指輪の持主をチェックして歩いているという噂を仲間から聞かされて、慌てて逃げ口上を考えたとか」
「電車の車輪で轢かれたものだから浮彫りのほうは粉々になってしまったし、金の指輪はペしゃんこに潰れてしまったというふうに説明しておりましたな」
「金の指輪のほうは実際にレールの上において、轢かせたのだと話していましたよ。金槌で叩き潰そうかとも思ったが、手間を惜しんだために嘘がばれてはつまらない、と考えたのだそうです」
教授は汚れた指先をタオルで拭くと、ゴールデンバットに火をつけた。学生時代に吸い慣れたこのタバコがいちばん旨いと思っているが、滅多に見かけないので手に入れるのに苦労すると語り、一本のバットを貴重品のように吸っていた。喫煙の習慣のない鬼貫にはバットもピースも同じようなものにしか思えない。教授の苦心も実感として受け取ることができないのである。
「おれは大女というのは生まれつき嫌いでね、まち江と一緒にいるときはジンマシンでもできるんじゃないかと思ったよ」
霧にぬれた白いベンチの上で、大塚は勝ち誇った口調でいったという。
「まち江を殺して弓子と天下晴れて夫婦になったとき、おれの計画にはようやくピリオドが打たれるんだ。そのときのことを楽しみに、十ヵ月ばかり我慢をして同棲する。その後で彼女は事故死をとげるんだな。先生がこれから足踏みはずして転落死をやらかすみたいにね」
その含み笑いの不気味さが、いまでも耳の底から聞えてくる。洪教授はそう語って短くなったバットを灰皿に捨てた。
「小日向殺しと、やがて起るべき原まち江殺しとの二つは計画的な殺人ですが、太郎生の酒屋殺しと、未遂に終った洪九星殺人事件とは派生的なものでした。そこに根本的な違いがあります」
ときどき教授は講義口調になる。
「原まち江は自分の婚約者が悪党だということを知りません。従兄の潔白を証明したいからといって調査を依頼します。大塚は止むなく調査所員の真似事をしなくてはならなくなりました。そこで名張の旅館に泊ったり、太郎生へ訪ねていったりして訊き込みみたいなことをやっているうちに、酒屋君からショッキングなニュースを聞いたのです。そこで彼を殺して口をふさぐことを決めたわけですね。ミドリンについては友人の薬剤師から聞かされたことがあったので、それを使うことにしたといっています。そうした計画を、彼は太郎生から名張にいたるバスの上で練ってしまったそうで、人間切羽つまればどんな名案でもうかんでくるものだ、とうそぶいていました」
そのミドリンを購入した薬局の調べはすでについている。
「翌日、旅館に大金をあずけてふたたび太郎生へ向うのですが、そのお金を酒屋君に払う気は毛頭ありません。ただ、お芝居をほんものらしく見せかけるための小道具に過ぎないのですからね。ところで、この日の彼は黒いサングラスをかけています。これも前の晩に名張市内の眼鏡店で買ったものなんです。店の名が必要ならば、後で思い出しますがね」
「ええ、是非……」
「さて、謝礼のお金を受け取るために酒屋君が名張へ出発するのですが、その直前に、二人きりになる機会をつくって、そこでまず自分がミドリンを点眼してみせたのです。都会の空気は汚れているから、自分は目を保護するためにこれを常用しているんだ、などと呟きながら。そして、きみもどうだいといって酒屋君に渡したといいます。あの薬は二十分もすれば、効果がでてきて、目を開けてはいられなくなりますが、前以ってサングラスをかけていた彼は、べつに痛痒を感じないわけですね」
本庁の近所のレストランでミドリンを目にさされ、眩しくて往生したことを思い出した鬼貫は、口のあたりにそれと解らぬほどに微かな苦笑をうかべた。
「では、酒屋君が殺され、わたしも危く殺されかけた秘密とは何か、ということをお話しましょう。このことは大塚の告白を聞くまでもなく、図書館で当時の新聞を読んだりしました結果、わたしなりの結論もでていたのです。ですからあの時点でお電話をしたわけですが……」
「ご協力を感謝します。しかしあのときは、わたしが太郎生に調査にいっていたのですよ。大塚が握られていた秘密は何であるかという点をはっきりさせたかったのですが、なに一つ発見できなくて帰ってきたのです」
「お解りにならなかったのも無理ないことです。わたしにせよ酒屋君にせよ偶然に発見したことで、それによって坂下氏の潔白であることが証明できるのです。しかし、そのデータから犯人の正体を追及するわけにはいきませんでしたし、酒屋君は真犯人がだれであろうと、そんなことはどうでもよかった。要するに、当局がとんでもないミスを犯しているという特ダネを、少しでもいい値段でマスコミに売ること、それだけで頭は一杯になっていたのです。だから、目の前にいる男が犯人だとは思いもしなかったのです。警戒をする理由がなかった」
「なるほどね」
「わたしは今回の来日で初めてああした事件が発生し、坂下氏が犯人として逮捕されたということを知ったのですが、酒屋君はそうではない。事件当時から坂下氏のシロであることを承知していながら、この情報でひとやま当てようと企んでいたわけです。酒屋君が殺されたことについて、わたしが少しも同情めいた感情を持たないといって非難なさるのでしたら、その前に、酒屋君のほうにもっと非難すべき事情のあることをお考えになって頂きたいですね」
了解、といったように目で頷きながら、鬼貫は話の先をうながした。
「わたしが酒屋君の案内で長寿院をおとずれたのは、事件が発生する数日前にあたる十月一日の正午前のことでした。勿論、この時点で戌神将は無事でした。振り上げた右手には直刀《ちよくとう》がしっかりと握りしめられていましたし、隣りの亥神将は剣をさかさに杖のように大地に突き立てて、両手で柄の部分をぎゅっと握りしめていました。その美事な様子にわたしはただ感嘆するばかりです」
「…………」
「その日のわたしの目的は、写真撮影にどの程度の準備をしてくればよいかといった下検分にありました。ですから、小型のカメラで一本分のカラーフィルムをとりますと酒屋君と別れて帰ったのです」
「…………」
「その翌日、つまり十月の二日に大型のカメラやバッテリーなどの資材を持って、酒屋君を助手に仕立てて出かけてゆきますと、驚いたことに戌神将の剣がもぎり取られて痛ましい姿になっているではないですか。それにしても、小型カメラであるにせよ、完全な姿を昨日のうちに撮影しておいてよかった。そう思いながらすべての仏像をカメラにおさめますと、至急この損壊事件を警察に知らせるようにすすめておいて、わたしは名張へ戻りました。そしてつぎの日に羽田から韓国へ帰ったのです」
「…………」
「つまり犯人が剣を折ったのは、十月一日の午後から二日の午前中にかけてということになるのですよ。ところが坂下氏は九月末から沖縄へ渡っていて、本土に帰ったのは四日です。ですから、彼は剣を折った犯人ではあり得ないことになるのですよ」
教授の話は唐突に終った。と同時に、三滝川の流れの音が一段と大きく聞えてきた。
「そうしますと、小型カメラでとったほうの写真はいつでも見せて頂けますね?」
「いまはちょっと無理です。まさかこんな事態が起ろうとは思いもしませんから、大学の研究室においてきました。しかしご要《い》りようの場合は帰国してからお送りしますし、もし二、三日中に必要だとおっしゃるなら、大学の助手に連絡をとって発送させます」
と、好意的であり協力的であった。
鬼貫は、大塚のエゴイズムによって痛めつけられた人々のことを考えていた。夫を殺された小日向松枝、擬装恋愛を仕かけられ、それを本気にして結婚を夢みた原まち江、ていよくアリバイの証人に利用された編集者の森川初音、そして最大の被害者となった坂下護と小日向大輔。殺された小日向をのぞけば誰もがいずれは力強く立ち直ってくれることだろうが、彼等が受けた心の傷を思うと、ビールの味は常になく苦く感じられた。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
本書単行本   一九七六年二月刊
講談社文庫版  一八三年四月刊
講談社電子文庫 二〇〇〇年一〇月一三日発行