TITLE : 誘惑魔
講談社電子文庫
誘 惑 魔
阿部牧郎 著
目次
暗い領域
奇妙な恋人
蜘蛛の網目
汚れた肌
悪の曲り角
疾走のとき
混乱期
誘惑魔
暗い領域
1
新宿のスーパーマーケットSに派遣された青空警備会社のガードマンたちは、この三日間で、万引を五件摘発した。
犯人はぜんぶ女だった。生活保護をうけているチンケなおばさんや、低能スケバンの女子中学生ばかりで、そばに寄っただけで江原光彦が勃起するようなきれいな女は一人もいなかった。
三日間で五人ならまずまずの検挙数である。江原たち十人の部下にはっぱをかけ通しだったキャップの石黒も、きょうは比較的おだやかな表情になっていた。
青空警備会社はこのスーパーマーケットSの保安警備を三ヵ月契約でうけおっている。
防災や商品の保全がおもな仕事なのだが、万引の摘発もそこそこやっておかないと、契約更改が不利になるらしい。江原たち石黒班の十名がここへきて、やがて二ヵ月になる。その間、店内パトロールも夜間警備にも手落ちはなかったが、万引の検挙数がややすくないので最近まで石黒はあせっていたのである。
一日平均三千名のお客がくるこの店で、江原たちガードマンは二ヵ月で五十二名の万引犯をつかまえた。だが、これではすくなすぎる。棚卸でわかる商品の目減り数からみて、お客の千人に一人は不心得者のはずだと石黒はいう。
「ええか。人をみたら泥棒と思え。挙動不審の者がおったら遠慮のう連行するんや。誤認をおそれるな。面倒が起ったら、わしがうまいこと話つけたるさかいな。ただし、紳士的にやらなあかんで、紳士的に」
毎日のように石黒はそう演説した。
彼は関西で長年警官をつとめた男である。どうせなにかろくでもない問題を起して警察をやめ、東京へ出てきたのだろうが、警察にはそれなりに顔がきくらしく、トラブルの解決はたしかに上手だった。その点では部下は安心して業務に邁進することができた。
その日江原光彦は、午前中店内の保安事務所にこもって、売り場の要所要所にすえられたかくしカメラの監視にあたった。そして、午後は店内のパトロールを受け持った。
スーパーマーケットSの売り場面積は、一、二階あわせて三千平方メートルになる。かくしカメラを十箇おいても、どうしても死角になる場所がある。そのへんはパトロールでカバーするより仕方がないのだ。
スーパーで万引が発生するのは、ほとんどが食品売り場である。貧相なおばさんが三百円のウインナソーセージを上っぱりのポケットにいれたり、子供づれの主婦が「ついふらふらと」缶詰を失敬したりする場合が多い。
だが、なかには高価なキャビアの瓶詰を数個かっぱらったり、何万円ものナポレオンのボトルを鞄にいれたりする本格プレーヤーもいるので油断は禁物である。大きいのをやられると、面子にかかわる。万引なんてけちな犯罪だし、江原自身、他人の悪事をとやかくいえたガラではないが、あとで被害がわかって石黒に怒鳴られてはくそ面白くもない。なによりも、せっかくの見張りに立った自分の権威を無視されたようで癪にさわる。
江原光彦はだから、わりあい熱心にモニターテレビの監視や、パトロールを実行する。正義のハンターになった気分で制服の胸を張っている。そのほか、じつをいうと、江原自身がカモにできる女をさがす目的もあるのだ。
午後二時ごろ、江原はどきりとしてパトロールの足をとめた。大きなバッグを手にした二十七、八歳の美しい女が、衣料品売り場で子供用の服を品さだめしている。どこか住宅地の主婦なのだろう、くっきりと冴えた目鼻立ちの、勝気そうな、背の高い女が、熱心に商品の質や価格を吟味していた。
輪郭のあざやかな、胸に喰いこむような美しい横顔に、江原はしばらく物陰から見惚れた。そして、あこがれとも憎悪ともつかぬ感情にかられていらいらしてきた。この女はよく知っている。思いあがった生意気な女だ。こんど会ったら、世の中の怖さを思い知らせてやろうと狙っていた相手である。
十日ばかり前、江原は同僚と一緒にモニターテレビでこの女をみていた。女は三歳ぐらいの男の子をつれて、輸入食料品をえらんでいるところだった。
「いい女だな。この女がなにかかっぱらってくれたら面白いんだがな」
「そうなりゃ世の中バラ色だよな。とんでいっておつきあいをおねがいするぜ」
そんな話をするうち、女は持参の赤い雨傘をそこにわすれて、べつの売り場へ移っていった。
よし、おれがコナをかける。江原は売り場へとんでいって、傘を彼女にとどけた。近づくと、さわやかな化粧品の香りがして、それだけで江原は上気し、ガラになくすくんだ気持になった。
「おわすれですよ、奥さま」
精いっぱい愛想よく微笑(ほほえ)んで、江原は傘をさしだした。
江原は背が低い。だが、顔立ちが可愛いとかで中学時代から女の子には人気があるほうだった。
ところがその女は、制服姿の江原へろくに目をくれなかった。あ、そう、とうなずいただけで、男の子が代って傘をうけとるのにまかせ、そのまま商品に目を移した。商品をえらぶとき、女はすぐ夢中になり、ほかに気がまわらないのも知ってはいるが、やはり面白くない気分で、彼は立ち去ろうとした。
そのとき江原は左目の横に衝撃をおぼえて、あわててそこへ手をやった。男の子がふざけて、なにかさけんで傘で撲りかかったのである。女に見惚れていたので、傘のさきの部分でしたたか江原は一撃されてしまった。
「まあ、この子ったら。テレビがいけないのよ。制服をきた人は、格闘の相手だと思っているんだから」
女は男の子を抱きあげ、江原にあやまりもせず去ってしまった。
保安事務所へもどると、同僚が腹をかかえて笑っていた。チビはお呼びでないのよ、と遠慮なく江原は嘲笑された。目の横が切れてすこし血がでていた。あの女、いまに痛い目にあわせてやると決心したのはそのときである。他人を虫ケラのように思っている女は、強姦しないと気のすまない男に江原はなりはじめている。
その女がいま、すぐ目の前で子供の衣服を品さだめしている。さほどの恨みがあるわけではないが、幸福そうな美しい若妻というだけで標的の資格はじゅうぶんである。きょうは子供を家においてきたらしい。チャンスだった。ちょうど女が立っている場所は、かくしカメラからも死角になっている。
江原は物陰から出て、彼女のうしろを通りかかった。制服の江原には頭から無関心で、彼女は上体をかがめ、衣類をえらんではそなえつけの籠にいれている。
左腕の肘のあたりに、持ち運び用の紐を通して、大きな革製のバッグを彼女はぶらさげていた。蓋のない買物用のバッグである。江原は付近の陳列台から、ビニールの袋に入っていない男物の靴下を何点かつかみとって、彼女のうしろを通りながら、バッグのなかへすべりこませた。
ときおりやっていることだが、やはり緊張で顔がこわばる。万引も緊張するだろうが、その反対もけっこうスリルがある。ぶじに通りすぎ、ずっとはなれた売り場までゆっくりあるいて、目のすみで様子をうかがった。彼女はなにも気づかず、まだ商品をいじっている。江原は会心の笑みをうかべ、それとなく彼女をうかがいながら、レジのそばで時期を待った。なかからピアノの音のきこえるしゃれた住宅の若妻だろう彼女を、押えつけ裸にして泣きじゃくらせる光景が、すでに頭のなかにあった。
やがて彼女がレジへやってきた。
バッグのなかみの変化には、まったく気づいていない。そなえつけの籠のなかの商品を係員にみせて彼女は勘定をはらった。そして、いま買った商品の入った紙袋を手に、あかるい顔で店から出ていった。
江原光彦はいそぎ足で彼女を追い、近くの路地の前で追いついた。
「奥さま。まことにおそれいりますが、取調室までお越しくださいませんか」
ガードマンに職務訊問の権限はない。ていねいに声をかけて保安事務所へきてもらうのがこうした場合の常道である。取調室という言葉をつかったのは、警察の雰囲気をつくっておどすためだった。
「なんでしょうか」
女はふりかえって江原をみつめた。
みひらいた目になんの表情もあらわれていない。江原の顔などおぼえてもいないのだ。
「いまほかのお客さまから通報があったものですから。おそれいりますが、バッグのなかをみせていただきたいのです」
「盗(と)ったっていうの、私がなにか――」
女は眉をつりあげてさけんだ。
思ったとおり勝気らしい。冗談じゃないわ、失礼なこといわないでよ、みたいならここでみて頂戴、と声をふるわせて江原を睨(にら)み、両手でバッグをさしだした。
「調べてよ。でも、もしなにも出てこなかったらどう責任を――」
途中で彼女は蒼白になった。男物の靴下を三足、江原はつかみだしていた。
2
「知らないわ。私じゃない。知らないうちに入ってたのよ。ほんとうなんだから」
身をふるわせて彼女は主張した。
頬とくちびるが痙攣している。目に怯えの色があふれ、息もみだれていた。予想もしない災厄に遭って動揺しきっている。そこがまた魅力的である。
「でも、このとおり品物が出た以上、私どもとしては窃盗とみなさざるをえないのです。どうぞ取調室のほうへ――」
江原が腕をとると、女は反射的にすごい力でふりはらった。
「ほんとうだったら。私、盗っていないわ。盗る必要はないの。お金はもっている」
「私もそう思います。しかし、衝動的に盗ってしまわれるかたもおいでなので」
「じゃ、いいわ。お払いするから。私、買います。まちがってバッグにいれたのよ。ね、お金をはらえばいいんでしょう」
ふるえる手で彼女は財布をとりだした。二、三の通行人が異変に気づき、立ちどまってやりとりをながめていた。
「人目につきます。ここはまずいな」
人通りのない路地のなかへ江原は彼女をつれて入った。こんなやりとりを店の従業員にもみられないほうがよい。
「奥さん。これは窃盗事件なんです。お金をはらえばそれで済むというものではありません。くわしく事情をおうかがいして、警察へ被害届を出すのがわれわれの義務です」
「そんな――。私は盗っていないのに。ほんとうに盗っていないのよ」
彼女の目に涙があふれてきた。
まるで発作にかかったようにあわただしく彼女は財布をひらいた。そして何枚かの一万円札をとりだし、江原に握らせようとする。買収する気になったらしい。財布にまだかなりの金がのこっているのをみて、江原はかっとなった。この女がほんものの犯人であるように思えてきた。
「舐めるな、おい」江原は彼女の手をふりはらった。「おれを買収しようってのか。とんでもない女だ。あんた、うわべは上品そうだが、ひどい喰わせ者だよな。盗ったんじゃないなんて、とても信用できないよ」
腕をとり、あるきだすそぶりをみせると、彼女はもう必死だった。
ではどうすればいいの、と彼女は訊く。警察だけは勘弁して、と泣きだしながら哀願した。みずから罠にかかったのだ。保安事務所であくまで無実を主張するなり、靴下の買いとりを申し出るなりすれば、住所氏名をチェックされる程度で放免されただろうに、内密にことをはこびたい一心で墓穴を掘った。ことが表沙汰になれば、夫の社会的致命傷になるのかもしれなかった。
「正式の取調室がそんなにいやか」
あるきながら江原は訊いた。
すでに勃起している。ミルクの香りのしそうな白い手首をつかみ、体温にふれて、もう江原はこのうえなく大胆な青年に変っていた。
うなだれて彼女はうなずいた。間髪をいれず江原は、ではおれ個人の取調べをうけるか、と問いかけた。
「警察にいかなくていいの」彼女は泣き腫らした顔をあげた。「それに私、住所氏名は絶対あなたにいわないわ。それでよければ」
「わかった。では一緒にいこう」
路地の反対側へぬけて、江原はタクシーをとめ、女と一緒に乗りこんだ。
すぐ近くのホテルへ向かう。女はうなだれたまま身をかたくし、ふるえている。江原は女の肩に腕をまわし、いっぽうの手で女の手をとり、自分の下腹へおしつけた。固い物にふれて女は手をひっこめようとしたが、そうはさせてやらなかった。
「げす」女は小声で吐きだした。「かならず仇はとるわ。死んでもわすれない」
「万引女がなにをイキがっているんだよ。なんなら店へ帰ってもいいんだぜ」
ささやいて江原は女の手からバッグをむしりとった。逃げられないための用心である。彼女の身もとを知る材料になるものが、なにか入っているにちがいなかった。
「なかをみないで。みられたら死ぬわ」
「約束だからな。みないでおくよ。しかし、逃げだそうなんて気は起すんじゃないぞ」
歌舞伎町のホテル街でタクシーをおり、彼女の腕をとって手近な一軒へ入った。
なかはうす暗い。真昼からいきなり夕刻へ入った気分である。女をさきに立て、スリッパを鳴らす彼女の優雅な脚をながめながら江原は歩をはこんだ。制帽を上衣の下へおしこんでかくし、彼女のバッグを手にもって、昂奮ですこしひざがふるえている。
洋間へ入り、案内の女が去った。
江原は上衣をとり、風呂場で湯の支度をした。終って部屋へもどると、女は横向きに椅子にすわり、椅子の背に顔を伏せてすすり泣いていた。可哀想な気もするが、欲望のほうがはるかに強烈である。話している余裕もない。
「服をぬげよ。恥ずかしがる年齢でもないだろう。はやくあんたの裸がみたいんだ」
声をかけて江原はシャツとズボン、下着をぬぎすてて全裸になった。部屋へつれこんだことで、多少の油断があったようだ。
女が身をひるがえし、バッグを手に部屋の出入口へ突進した。たしかにいい狙いだった。もし女が廊下へ脱出していたら、裸で江原は追うわけにいかなかったろう。
猛然と江原は追いすがった。扉の鍵を女があけるわずかな隙に追いつき、髪をつかみ、部屋のなかへひきずって帰った。
床に女をころがし、バッグを奪ってベッドの向こうへほうり投げる。女は悲鳴をあげかかったが、頭を二、三発撲られて、あきらめてぐったり横たわった。泣いている。もう顔もかくさない。美しい顔をみじめに歪めて、しきりにかぶりをふりつづける。
裸のまま、江原は女に馬乗りになった。
ぬがせようか、どちらがさきかと迷ったが、体をずりあげ、力をみなぎらせた男性を女の顔に突きつけた。
泣きながら女はかぶりを振る。その口もとを男性が追って左右に動く。
「いいかげんに観念しろ。警察へいって、家庭を滅茶滅茶にしたいのか」
脅したが、それでもかぶりをふりつづけるので、江原はまた女の頭を撲った。
女はやっと動きをやめる。くちびるを固くむすんで、とりつくしまもない表情である。
男性を突きつけ、こじあけにかかる。紅いくちびるがやっとひらいた。
女の歯が江原には不安だった。だが、男性はなめらかにすべりこんでいった。
3
ゆっくりとその人妻は奉仕をつづけた。
目をとじ、口をつきだすようにして江原の男性をうけとめている。くちびるが紅いなめくじのように動いて快感を送りこんでくる。
江原光彦は、あおむけに寝たその人妻の上体にのしかかり、みおろしていた。
彼は裸である。人妻は淡い紫色の上品なスーツを身につけたままだった。
人妻の表情にもう悲嘆のあとはない。淫らな奉仕に彼女は熱中している。憎しみや恨みや悲しみをわすれるために、とりあえずこの行為に意識を集中させているのだろう。
人妻は眉根をよせていた。嫌悪の念をあらわしているつもりらしい。だが、いかにもいいわけめいた嫌悪のあらわしかたである。表情ぜんたいに、組み敷かれて奉仕することへの本能的な陶酔があらわれていた。
江原は、快楽のうねりに揺さぶられかけ、歯を喰いしばった。すると女は勢いづいたように、くちびるに手指を添え、男性の周辺に微妙な刺戟をあたえてくる。耐えられなくなりそうで、力ずくでその顔をひきはなそうとすると、意外にも女は抗(あらが)った。奉仕をつづけたがっている。やっとひきはなすと、女は顔を横向けてぐったりとなった。
「うまいじゃないか。旦那のご指導かね」組み敷いたまま、江原は話しかけた。「でも、おれとしてはもっと時間をかけてたのしみたいんでね。まだ終りたくはないのよ」
人妻はこたえず、横向いたまま、服の袖で口を拭った。汚くてたまらない、という表情をつくっている。
「そんな顔しなくていいぜ。けっこうたのしんでたじゃないか。え」江原は男性を突きつけて笑った。「こういうことが本能的に好きなんだよな女は。強姦される夢をみる女は多いっていうじゃないか」
きいて女はせせら笑った。そして、やや間をおいたあと、思いきったように、
「あんた、私が本気になってつづけたがったと思うの。ばかみたい」
とまた笑った。投げやりな口調だ。
「ではどうして止めなかったんだ」
「はやく終らせたかったからよ。出しちゃってさっぱりすればそれで済むんでしょ。私だってそのほうがたすかるわ。あんた、若いのねえ。そんなこともわからなかったの」
かっとなって江原は人妻の顔に平手打ちをくれた。だが、輪郭のあざやかな美しい顔なので、あまり力は入らない。
なにするのよう。痛い。人妻は気丈に抗議したが、顔に恐怖の色がうかんでいる。どうしろっていうの、と彼女は訊いた。すでに心をきめたらしい。一刻もはやくこの暗い部屋から出ることだけを考えている。
「服をぬげよ。おれだけ裸じゃ、サマにならないからな」
「じゃ、どいてよ。上にいられると、なにもできないじゃないの」
いわれるまま江原は腰をあげた。
男性を手でおおうようにして、彼女に正面を向けたままそろそろと立ちあがる。まちがってもうしろはみせない。逃げられるのを警戒しているわけではなく、じつは江原の体には絶対人にみられたくない箇所があった。
堅い会社につとめていたころ、毎晩のように麻雀をやったおかげで痔がわるい。たいして痛くないが、ニワトリのトサカの一部みたいな肉片が肛門から出ている。女にみられては沽券(こけん)にかかわる。ほんとうは前でなく、うしろを手でかくしたいのだが、それをやればかえって変に思われるだろう。
人妻は立ちあがり、服をぬぎはじめる。思いきりのよいぬぎっぷりだ。江原は部屋のすみのベッドに寝そべってそれをながめる。彼女がスリップ姿になり、下半身につけた下着をぜんぶとり去るのをみると、力のぬけかけた男性がみるみる回復してくる。
「はやくこいよ、ここへ」
「さきにお風呂へ入るわ。バッグをとって頂戴。お化粧の道具が入っているの」
ベッドと壁のあいだのわずかな隙間にバッグが落ちている。入浴しているひまに、なかの運転免許証かなにかを江原にみられ、住所氏名がばれるのをおそれているのだ。
「心配するなよ。おれも一緒に入る」
「いや。はやくバッグをとって」
「おい、態度が大きいじゃないか。命令する権利がおまえにあるのか」
いわれて人妻はむっとした表情になり、そのまま浴室のほうへ向かった。
ベッドをおりて江原はあとを追った。女はスリップを着ている。さっきのように隙をみて廊下へ逃げだそうとするかもしれない。
「大丈夫よ。もう覚悟をきめたんだから」
浴室の扉の前で、女は江原に背を向け、スリップをぬぎすてた。
まっ白な裸体が目の前にあらわれた。うす暗い部屋にぱっとあかりがついたようだ。女は着やせするたちだった。ひとかかえもありそうなヒップをしている。腰がくびれ、腿はたくましく、ひざから下が嘘のようにすんなりと優雅なかたちである。
ヒップの中央の窪みが、ぜんたいを好色な印象にしていた。女に正面を向かせたくなって、その肩に江原は手をかけようとした。
が、女は江原の手をすりぬけ、扉の内側へとびこんでいった。向こうから扉をおさえ、把手のあたりをさぐっている。鍵をかけようとしているのだ。江原は笑いだした。都心の一流ホテルでもあるまいし、ラブホテルの浴室に鍵のかかるはずがない。そんなことも良家の若夫人は知らないのである。
向こうから扉をおす力がぬけた。江原が浴室へ入っていくと、しゃがんで体を洗っていた女はあわてて湯舟へとびこんだ。
ヒップが張っているわりに、胸の張りはさほどでもない。中ぐらいの、丸い、やわらかそうな乳房である。服をきているときは二十七、八にみえたが、体つきからみて女は三十歳を越えているらしかった。
案外ひろい湯舟だった。江原は湯に体を沈め、彼女の下腹へ手をのばした。
女はそれをはらって両脚をすぼめた。こわばった表情だが、憎しみに燃えた様子でもない。脚と脚がふれあっても、彼女は避けようとしなかった。まったく男と女の仲はふしぎである。さっきの奉仕のおかげで、否応なしに二人のあいだに肌と肌のつながりが生じてしまっている。
「さわらせろよ。もうおれたちは他人どうしじゃないんだぜ」
女の腿のあいだへ江原は手をこじいれようとし、二人はしばらくあらそった。
江原が勝ちそうになった瞬間、タオルで前をかくして女は立ちあがった。
あわただしく女は体を拭く。口をあけて見惚れたくなるほどみごとな体である。横側をみせている彼女の、下腹部の草むらは意外に多かった。やわらかそうな丸い乳房が、身動きのつどかすかに揺れる。
あっという間に彼女は浴室の外へ出た。逃げださない保証はない。往生ぎわのわるい女だと腹を立てて江原もあとを追った。部屋へもどると、女は全裸のままベッドにあおむけに寝て、天井をにらんでいた。
「はやくして頂戴。もういいから」
かすれた声で女はつぶやいた。
ふてくされた顔である。江原がとなりに横たわり、下腹部の草むらの底をさぐりにいくと、女は身を固くした。双つの腿をとじあわせて江原の指をこばむ。おさえつけ、彼女の腿に片手をかけて、隙間をつくらせて指をすべりこませると、彼女は上体を反らせ、吐息をついてまた涙をこぼした。
「だれが――あんたなんかと」
彼女はつぶやき、顔をしかめて目をつぶった。やわらかな粘膜をさぐって江原の指が動きだしても、身を固くしたままだ。
歯を喰いしばっている。快楽だけは拒否する気らしい。江原の指が粘膜のなかの敏感な真珠にふれかかると、獣のように唸って、手首をつかんでおしのける。
江原は全身が熱くなった。なんとしてもこの女を歓喜で泣きわめかせてやりたい。
だが、時間がない。勤務時間中にぬけだしてきたのだ。女の体をなでたり、しゃぶったり、ゆっくり時間をかけて料理するわけにいかなかった。
江原は身を起し、女の体を裏がえした。みごとなヒップを両側からかかえて、ひきよせにかかる。女はその姿勢を拒もうとした。勝気で気位の高い女ほど、いざ行為にとりかかるとこの姿勢にはげしく反応する。快楽でみだれてしまうのが怖いのだろう。
面倒なのでまた顔を平手打ちすると、女はあきらめて獣の姿勢をとった。江原は後方から彼女のうちへ入っていった。
動きだした。女は枕に顔を伏せてじっとしている。両手でシーツを握りしめ、できるだけ無感動に終りを待とうとしている。大きくて、しかも固いヒップの感触を下腹にうけて動くと、江原は持続の努力をやがて放棄してしまいそうになった。
が、それも沽券にかかわる。歯を喰いしばって耐えつづける。女がまだみだれてこないので、右手を彼女の前にまわし、草むらの底をさぐりにいった。女が無防備な姿なので、こんどは指で真珠をとらえた。
たちまち反応があらわれた。体を波打たせ、下肢をくねらせてあえぎはじめる。耐えかねて獣の声をしぼりだし、両手で布団にしがみつくような仕草をみせ、はげしく身をふるわせたあと、ぐったりと身を伏せてしまう。哀れな仔犬のような声がもれる。
江原はやっと余裕を得て、なるべく冷ややかに女をみつめて動きを再開する。三度ばかり女を快楽の絶頂におしあげてから彼も終った。成熟した女とでなくては得られない、目のくらむような瞬間だった。
二人はしばらく横たわって休息した。甘い疲労と突き刺さるような後悔にかられているのだろう、伏せたまま女は身動きしない。
江原はやがてベッドをおり、浴室へ入って体を洗った。身支度して、いそいで職場へもどらなければならなかった。
浴室の前に洗面所がある。裸のまま江原は身をかがめ、鏡に顔を映して、みだれた髪をととのえていた。
背後に物音をきき、とびあがって彼は鏡に背を向けた。急に女が彼のうしろにあらわれたのだ。痔をみられたのではないだろうか。緊張して彼は女をみつめた。
だが、人妻のほうはそんな彼の様子を気にもとめず、バッグを手に、身をかがめて浴室へとびこんでいった。
4
ホテルのそばで、江原光彦は人妻とわかれた。すばらしいセックスを終えて、身も心もあかるくさっぱりしている。
約束どおり住所氏名を訊かずに放免されたのと、いまのセックスの満足とで、人妻も軽快な足どりで去っていった。きちんと化粧し、服装に一分の隙もなく、うしろめたい気配のまったくない姿である。午後の街の風景に、淡い紫色のスーツがしっくり溶けあい、優雅に揺れて遠ざかった。
人間みんなあんなものだ。身にそなわった悪徳をひそかにどこかで発散し、きれいな顔つきで生きている。どこかで悪事を働くからこそ、虫歯をぬいたあとのように涼しい顔で生きられる。市民社会というやつは、みんながそうすることで成り立つのだ。いまの女もさっき獣の声をあげたおかげで、だれか夫以外の男とセックスしたいひそかな欲望が解消し、当分すがすがしい面持で暮せるのではないだろうか。
そんなふうに考えて、江原光彦は口笛を吹いて職場のスーパーSにもどった。
夫や恋人以外の男性とセックスするには、女はいろいろ口実を必要とする。夫が浮気したからとか、恋人に冷たくされたからとか、みんな他人のせいにして浮気をする。自分が好色な女だとは思いたくないのだ。
その点おれは絶好の口実を女たちにあたえてやっているのだと江原は考える。悪徳ガードマンに脅され、逃げるすべがないからという口実で自分自身を納得させ、彼女らはベッドで幸福な声をあげるのだ。浮気したい女たちにとって、江原光彦は有用かつ便利な悪役であった。わるいやつのおかげで女たちは浮気がたのしめる。一種の福祉に江原は邁進しているのである。東京都知事から、表彰されてもふしぎはないのだ。
午後三時すぎで、店内は混んでいた。漠然としたセックスの欲望をかかえた女たちが、そんな自覚の全然ない物欲にあふれた表情で陳列された品物を点検している。
制服姿でなにげなく江原は職場復帰し、パトロールにとりかかった。
すこし痔が痛む。強烈なセックスのあとは痔がすこし大きくなるのが難である。さっきあの人妻にうしろにまわられ、仰天したのも、その意識があったからだ。
「おい、どこでサボっていたんだ。おかげでこっちはコーヒーを飲むひまもないよ。あとでおとしまえをつけてもらうぜ」
パトロールの相棒の柿本が近づいてきて、文句をいった。
が、べつに怒ってはいない。顔をしかめて彼は保安事務所を親指でさしてみせ、いってみろ、どうしようもないタマをあげたぜ、と教えてくれた。江原が福祉をほどこしている間に柿本が万引をつかまえたらしい。機嫌のいいのは、その手柄のためのようだ。
江原は興味にかられて保安事務所へもどっていった。
事務所から見通せる個室のテーブルをはさんで、キャップの石黒と高校生らしい女の子が向かいあっている。一目みて江原は顔をしかめた。態度で常習犯だとすぐにわかる。盗品らしい衣類を調べながら、石黒が訊問しているのに、女の子はふてくされ、一言もいわずにそっぽを向いていた。
「どうしたんです。これみんなこの子が盗(や)ったんですか」
近づいて江原は声をかけた。身も心もすがすがしい正義の番人になっている。
「そうなんだ。ここへくるまでにずいぶん働いてきたようだよ。みろ、これは三越、これは伊勢丹。豪華なもんだ。うちではサラミソーセージを十本ばかり」
盗品のラベルを石黒はしめした。高価そうなスーツやワンピースを五、六着も、その女は失敬してきたらしい。
色白の、小太りの女の子だ。顔もそんなにわるくない。セックスの直後でなかったら、江原がその気を起しただろう相手である。
「ねえきみ。手間をかけないで住所氏名をいいなさい。でないと、警察に突きだすよ。きみは前科者になる。だれもお嫁にもらってくれなくなるんだよ」
猫なで声をだして、石黒は女の子の顔をのぞきこんだ。
もと警官だけに、ふだん石黒の取調べは強圧的である。有無をいわさず犯罪者を引っ立て、オイコラ口調で質問をあびせる。
だが、この女の子を気にいったらしい。顔に脂をにじませ、いやしい笑みをうかべて訊問をつづける。他人のことはいえないが、石黒のそんな表情をみると、江原はやはり同性として批判的な気持にかられる。
女の子はさらにそっぽを向いた。石黒がどんな気持でいるか、わかっているのだ。
「きみ、家の電話番号をいいなさいよ。お母さんにきてもらって穏便にすませよう」
石黒がいうと、女の子はやっと、ぶっきらぼうに電話番号を口にだした。
石黒にうながされ、事務所の電話で江原はその番号にダイヤルをあわせた。
「××葬儀社でございます――」
この野郎、と腹を立てて江原は女の子をにらみつけた。
でたらめな電話番号を申告するのもこの連中の常用する手口である。
5
チーフの石黒にあらためて追及され、その女の子はべつの電話番号を告げた。
番号をいってすぐそっぽを向く。どうせ出鱈目だとわかる態度である。
石黒に合図されて、江原光彦はまたダイヤルをまわしてみた。こんどはある不動産会社へ電話がつながる。交換手の声をきいただけで江原はぶっつけるように受話器をおいた。
さっきの葬儀社もいまの不動産会社も、車内広告などに電話番号を大きく表示している企業だった。
「いいかげんにしないと、ただでは済まさないぞ。ブタ箱へ入りたいのか」
調べ室へ近づいて江原は怒った。
「だって、仕方ないじゃん。うちの番号思いだせないんだから」
女の子はあごを突きだした。
ふっくらした白い頬に、かすかにソバカスが散っている。ふてくされていなかったら、なかなか可愛い顔のはずだ。
「そうか、おまえはバカなのか。じゃその方面の施設へほうりこんでやろうか」
「バカじゃないもん。取調べが乱暴なので、ショックで記憶喪失したんだから」
この野郎、と一発喰わせるかまえになった江原を、まあまあと石黒が制止した。
急に彼は手をのばし、女の子の上衣のポケットからコインロッカーのものらしいキイをひっぱりだした。警官出身だけに仕事がはやい。あわててとりかえそうとする女の子を面白そうにながめて、キイをひらひらさせる。
「さあ、これどこのロッカーのキイかいうてみ。新宿駅のか。ほかの駅のか。だまってても、調べたらすぐわかることなんやで」
女の子はコインロッカーに制服や身分証明書をしまって万引にまわっていたのだろう。
家庭や学校へ通報されてはやはり困るらしい。顔を赤くし、腰をあげてキイをとりかえそうとする。とつぜん女の子の頬が鳴った。平手打ちを喰わせておいて、石黒は別人のように怖い顔で女の子をにらみつける。
「ふざけるな、このガキ。女は手かげんしてもらえる思うたら大まちがいやぞ。わしが取調べとるかぎり、蹴っころがしても泥吐かしたるさかいそう思え。わかったか」
石黒はこんどは彼女の髪をつかんで頭を揺さぶる。女の子は強情に歯を喰いしばって耐えているが、もう泣きそうな顔だ。
さらに一発、石黒は平手打ちをくれた。顔を歪めて女の子はそっぽを向く。だが、すでに肩がふるえていた。石黒が髪をはなすと、彼女は手で涙をぬぐい、嗚咽をこらえる。みている江原のほうが緊張して、おちつくためにたばこに火をつけることになった。
「なあ、もう芝居はやめようやないか。わしかてこんな仕事はカナンのや。大阪にきみぐらいの妹もおるこっちゃしなあ。すなおに住所氏名いうてくれたら、わるいようにはせん」
一変してやさしく説得され、女の子はわっとテーブルに泣き伏した。
もうたわいないほどすなおである。学校に知らせないで、と彼女はいった。そして突っ伏したまま、木下道代という名と住所、電話番号を告げた。
「道代ちゃんか。可愛らしい名やないか。なんで万引なんかするんや」
石黒はもっともらしくメモをとり、学校へ知れるのがそんなに怖いか、と猫なで声をだして道代をのぞきこむ。突っ伏した彼女の髪が左右に割れ、あらわになった白いうなじをいやらしく彼はみつめている。
道代はうなずいた。規律にやかましい高校にかよっているのだろう。
「家に連絡しましょう」
江原光彦はデスクへもどって、いまきいた道代の家へ電話をかけようとした。保護者が身柄をひきとりにくれば、道代は石黒の玩具にならずに済むだろう。
悪人になろうときめた身だが、江原は石黒がきらいである。さっき自分も悪事を働いたが、そんなことは棚にあげて石黒を妨害したくなる。もともと江原は、この男に強要されて、悪徳ガードマンの仲間にひきずりこまれてしまったのだ。
「要らんことするな」濁った目をむいて石黒はわめいた。「それよりおまえ、パトロールをほっといてここでなにをしとるんや。売り場でまた被害が出るぞ」
「はあ。しかし取調べは二人でするのが原則ですから。ねえキャップ、この子、おふくろにひきとらせて帰したら――」
「やかましい。わしに指図するんか。向こうへいっとれ、向こうへ」
これも上司の命令である。仕方なく江原はそこをはなれ、保安事務所から出た。扉をあけ、しめる寸前、なあ、わるいようにはせんよ、と石黒の猫なで声が耳に入った。
保安事務所には人の出入りが多い。いくら石黒でも扉に鍵をかけて、なかでいたずらをするわけにはいかないだろう。ときおり事務所のほうへ目をやって、江原は店内をパトロールした。痔の痛みはなおっている。さっきセックスをすませたので、買物客のなかに女がいても、ほとんど魅力を感じなかった。
スーパーSの女子従業員が二階から階段をおりてきて、保安事務所の扉をあけた。
なかをのぞいてすぐ扉をしめ、江原のそばへやってきて、石黒さんはどこですかと訊く。店長が呼んでいるという。
「あれ、保安事務所にいるはずだぞ」
さがしてすぐ店長のところへいかせると告げて、江原は事務所へもどった。
石黒も木下道代もそこにはいない。裏の出入口から出たらしい。あの子はとうとうホテルへつれこまれたのだろうか。
念のため、江原は裏から事務所の外へ出た。短い廊下のさきに駐車場へぬける道と、地下倉庫へぬける階段がある。
足音をしのばせて階段をおりた。売り場のざわめきが流れてきて、江原はほとんど音もなく倉庫へおりることができた。
鉄扉の鍵がしまっている。ポケットから合鍵をだしてあけ、そっと扉を手前にひいてなかをのぞいた。うすあかりのもとにダンボールの箱や、食品、化粧品のぎっしりつまった棚がならび、右手に人影があった。
棚の中段に道代が服をきたままつかまり、スカートをまくりあげて、石黒が背後から彼女に密着していた。二人ともこちらにななめに背を向けている。
道代の仄(ほの)白いヒップの一部と、ひざまでズボンをずりさげた汚らしい石黒の下半身の一部が江原の目に入った。せっせと石黒は動き、息を荒げている。道代はなんの反応もなく、だまって棚につかまっていた。
予想どおりの光景だが、江原は胸をつかれ、あわてて扉をしめ、しばらく呼吸をととのえた。石黒に憎しみを感じていた。あのふっくらした顔立ちの女子高校生に、いつのまにかかすかな好意を抱いていたのだろうか。それとも、江原にまだ甘っちょろい部分があって、他人の悪事に批判が働くというわけか。
江原はやがて気をとりなおし、倉庫の扉をたたいてさけんだ。
「主任、なかにおられるんですか。店長が呼んでいますよ。すぐにきてほしいそうです」
すこし間をおいて応答があり、あわてた気配がつたわってくる。
扉をあけかけると、怒号がとんできてそれを制止した。やがて石黒がベルトをしめながら、不機嫌な顔でとびだしてきて、
「あほう。気イきかさんかい。せっかく――」
口のなかでぶつぶついって階段を駈けあがっていった。
あの子は帰していいんですか、と大声で訊くと、ああ、とうるさそうな返事がきこえる。すぐに木下道代が、盗品の入った買物袋をさげて倉庫から出てきた。なにが起ったかよくわからないような、ぼんやりした表情だったが、江原をみてまぶしそうに目をほそめる。
「ばかだな。あんなやつにやられて――」
怒った声をかけ、いたわるように道代とならんで江原は階段をのぼった。
「やらせれば済むんだもの。いいじゃない。学校や家でごたごたされるよりましよ」
階段の上で道代は挑戦的にいった。
「万引なんかするからだ。そんなに着る物がほしいのか」
「要らないわ、こんなもの」
買物袋を道代はさしだした。
あんたにあげる、と彼女はいった。石黒はセックスを条件にすべて見逃してくれたが、道代も品物などどうでもよいという。
「おれだって要らないよ。女の子の服なんかプレゼントする相手もないし――」
江原がいうと、道代はふっと笑った。妙にあどけなく、あかるい笑顔である。
「あんたにつかまればよかったね。やられても納得できるもの。こんどはあんたにつかまってあげるからね」
おい、ばかなことをいうなという江原光彦の声をききながして道代は外へ出た。
そして、黄ばんだ陽光のさす駐車場を通りぬけ、人混みのなかへ消えていった。
6
江原光彦は青空警備会社に入って、ことしでまだ二年目である。
その前は三年ばかり、外資系の事務機の会社につとめていた。小さいが、経営内容のよい会社で、三流大学出の江原にとってはめぐまれた職場といってよかった。
営業部に籍をおき、こつこつ働いた。酒も飲まず、麻雀以外はギャンブルにも縁のないまじめな社員で、ギターの弾き語りとスキーを趣味にしていた。中野のアパートで一人暮しだった。適当に働き、適当に生活をたのしんで、三十歳までにつとめさきのアメリカ本社へ勤務するのが、さしあたっての目標だった。
ところが二十五歳の秋、会社がいやになるような事件が起った。江原の担当した得意先が倒産し、そこから集金したおよそ三百万円の手形が不渡りになってしまったのだ。
それだけなら大したこともないが、江原の上司の課長と係長が、口裏をあわせて、まるで江原が彼らに無断で危険な手形をうけとってきたように上層部へ報告したのである。危険だから手形取引はやめろといったのに、得意先の要求に江原が屈して手形集金してきたので、やむなくうけとったと彼らはいいふらした。焦(こ)げつきをだした責任を江原へおっかぶせたわけだ。
江原は必死で弁明したが、だれもとりあってくれなかった。逆に自分のミスを上司になすりつける卑怯なやつとみられてしまった。腹を立てて江原は会社を辞めた。あんな汚いやつらの下でだれが働けるものかと、こちらからとびだした恰好だった。
しばらく職さがしをしたが、深刻な不況下で、思わしい仕事がなかなかなかった。
四つばかり入社試験に落ちたあと、新聞広告で青空警備会社の求人を知り、こんどは採用されたので、ろくに内容を調べもせず入社した。入ってみると、青空警備会社は一万人も従業員のいる大手の警備保障会社とちがって、たった二百名の小企業だったが、仕事はらくだし、給与もわるくないので、さしあたり腰をおちつけることにした。
何年もガードマンをする気はなかった。働きながらほかの仕事をさがし、いい職場があればすぐに移るつもりでいたのだ。
最初から石黒班へ所属し、デパートやスーパーの保安警備にあたった。万引、置引、スリなど、華やかな売り場の裏の暗い側面をみせつけられ、最初はたじろいだものの、世間知らずで上司のぺてんにはめられた自分にはいい勉強の場だと思いなおして、それなりに誠実に働いたつもりである。
入社半年目のころ、渋谷にあるスーパーマーケットで彼は中年女の万引を発見した。和服をきた太った女で、万引などをするようにはみえなかったが、その女は衣料品売り場で何点かの下着を持参の袋へおしこんでいた。
まだ二、三度しか万引をつかまえた経験がなかったので、江原は胸をどきどきさせてその女を追い、店の外で、
「もしもし奥さん。保安事務所まで一緒にきていただけませんか」
と緊張して声をかけた。
気の毒なほど女は狼狽した。あっと声をあげ、恐怖に歪んだ顔で江原をみつめたあと、すごい力で付近の路地へ彼をつれて入った。
「お、おねがい。見逃してください。主人に知れたら私、殺されてしまうわ」
いうなり女はバッグから何枚かの一万円札をとりだし、江原のポケットへおしこんだ。
「おねがい。帰らせて。ね、だれにもいわないで」
いうなり女は駈けだして、路地の奥の角から姿を消してしまったのだ。
目撃者は一人もなかった。一万円札でポケットがふくらんでいる。スーツを新調したあとなので、正直いってありがたい金だった。だれもみていない。あの女はたぶんでき心でやったのだから、見逃しても二度と万引をくりかえしたりしないだろう。双方にとってわるくない取引ではなかろうか。
まじめだが、江原はつよい人間でなかった。石黒キャップに報告すべきかどうか考えながら店へ帰り、混雑のなかへ入ってしまうと、自然にそのままパトロールに移り、報告はあとまわしになった。
五分後、うしろから肩をたたかれ、ふりむくと石黒が立っていて、うすら笑いをうかべて保安事務所のほうを指した。
「おまえ、さっき万引のおばはんを追いかけたやろ。あの女、どないしたん」
石黒は事務所の椅子に腰をおろし、デスクの前に江原を立たせて質問した。平たい、ま四角な顔に笑みをうかべ、目だけ光らせて江原をみあげる。
江原は顔から血の気がひいた。狼狽のあまり、い、いえ万引なんか知りません、ともっともまずい返事をしてしまった。
「嘘いうな。わしはカメラでみとったんや。あのおばはん下着をやりよったで」
石黒は手招きをし、近くへ寄った江原の上衣のポケットから金をひっぱりだした。
「七万円か――。えらい金持やないか。けさはコーヒー代もあぶなかったのに」
蒼白になり、全身に冷汗をにじませて江原光彦はうなずいた。
クビだと思った。それも不名誉な懲戒解雇にきまっている。これで経歴に傷がついた。一瞬の欲にかられてなんというばかなまねをしたのかと悔んでも悔みきれなかった。すみません、江原はうなだれ、汗にまみれてつぎの宣告を待ちかまえた。
が、石黒は意外にも七万円をそのまま江原のポケットへ返してよこしたのだ。そして、あっけにとられる江原をみつめ、
「ま、そう気にせんでもええのや。多かれすくなかれ、みんなやってるこっちゃさかいな。上に報告するまでもないやろ」
とおそろしく寛大に笑ったのである。
天にものぼる心地で江原は礼をいった。だが、そのまま七万円を着服するのには気がとがめて、この金はどうしましょう、キャップに知られた以上このままもって帰るわけにはいきません、と申し出た。
「そうか。ほなら今晩おごれや」こともなげに石黒はいった。「メシ喰うて、キャバレーの一軒ぐらいいけるやろ。ぱあっと散財してわすれてしもたらええのや」
そして、その晩江原は石黒につれられて新宿のキャバレーを三軒まわった。二軒目で七万円は消え去り、もう一軒と石黒に強要されて、時計を質にいれる羽目になった。
「わいのいうことを忠実にきいとりゃええのや。そうしたら、金でも女でも好きなようになるわ。まちがってもわしに背くんやないで。この世界は上に背いても、絶対に通用せんからな」
酔って石黒は念をおした。
うなずきながら江原は、やはりはげしい不安にかられたものだった。
7
七万円もらって万引女を逃がしてやった現場をみつかって以来、江原光彦は石黒キャップに頭があがらなくなった。
すすんで金を巻きあげたわけではない。金をおしつけられ、茫然とする間に逃げられたというのが実状だった。
が、結果的には買収されたことになる。万引女の弱みにつけこむ気はなかったが、あの瞬間金に目がくらんだのは事実だった。
それを石黒にみられてしまった。弁解の通る相手ではない。事件をみのがしてもらい、大きな借りができた以上、当分は彼の命令にすべて従順でなければならなかった。
あれから石黒は、江原光彦にたいして気味わるいほどなれなれしくなった。
「なあ光彦、あした、わしと夜勤を交代してくれや。な、ええやろ。おまえ以外にこんなことたのめる男がおらんのや」
「光彦、今夜麻雀につきあえ。ゼニなかったら立て替えたるがな、あ、痔イが痛いんか。ええ医者紹介してやろうか」
江原と呼んでいたのが光彦に変った。
逆らえば例の一件を表沙汰にするぞ、とあからさまにおどすわけではない。が、うすら笑いをうかべた石黒の表情には、つねにそんな脅迫の気配と、おまえはもう完全におれの手下だという親しみの念があふれていた。
表沙汰にすれば、部下の不正を黙認したかどで石黒もただでは済まないはずだ。だが、本社の社長と石黒がごく親しそうに電話で話したりするところをみると、彼には社のトップとなにかとくべつのつながりがあるらしい。
いや、それでなくとも海千山千の石黒のことだ、なにが起ろうと、いいぬける方法はちゃんと用意してあるのだろう。世馴れた上司が、あぶない場面になると、どんなふうに部下をおとしいれて責任回避をはかるか、前の会社で思い知っている。世の中は、万事上の者に有利な仕組みになっていた。
うっかり石黒には逆らえない。青空警備会社をとびだして、また失業するのも心細かった。当分は石黒のいうがままになり、おりをみてこの会社をぬけだすのがいちばん無難な道のようだ。おとなしく江原は勤務をつづける気になった。
万引女から金をもらったとき、多かれすくなかれみんながやっていることだと石黒は笑っていた。江原は半信半疑だったが、やがてその言葉が誇張でないのを知らされた。
渋谷の専門店デパートの防災、警備にあたっているときだった。店内のパトロール中、江原は同僚の倉本が一人の中年女を非常口の階段のほうへひっぱっていくのを目撃した。万引をつかまえたのなら保安事務所へいくはずだが、といぶかりながら、江原は非常階段の扉を細目にあけてのぞいてみた。
人気のない階段のおどり場で、倉本は小声でその中年女に文句をいっている。
「さ、すなおに出しなよおばさん。警察にひっぱられて、旦那や子供にいいわけできなくなるよりマシだろ。安いもんじゃないか」
中年女は太って、目の小さな愚鈍な顔をしていた。倉本はとりあげた男物のスポーツシャツを手にもっていた。
素人の主婦が品物を盗る場合、まず夫のもの、ついで子供のもの、自分のものという順番なのがふつうだという。この主婦も型どおり夫のものを盗ったのだろう。
中年女はこわばった、泣きそうな顔で財布から一枚の紙幣をだして倉本にわたした。
「たった一枚――。けちけちするなよ」
倉本は中年女の肩を一突きした。
女は世にも悲しげな顔でもう一枚紙幣をさしだし、放免されて、バッグを抱きしめて小走りに売り場のほうへ逃げていった。
「なんだよ、みていたのか」
江原に気づき、倉本は笑った。
おどろきもあわてもしない。にこにこしてそばへやってきた。倉本は江原より一つ年下だが会社では二年先輩だった。血色がよく、身も心も丸々と太った感じの、柔道三段の大きな男である。
「いいのか、あんなことをして」
「あれでいいの。あのおばさんはサツにいかなくて済むし、おれは二万円儲かったし、品物は店に返った。だれも損はないんだ」
「でも、事務所へ報告しなくては」
「いいんだよ。今月の摘発実績はわるくないもの。キャップが怒鳴りはじめてから数字をあげりゃ充分さ。心配ないの」
倉本は上機嫌で盗品を売り場へもどし、力士のような外股で江原と一緒にのっしのっしとパトロールにとりかかった。
気を呑まれて江原は彼の横顔をうかがう。たのしくなって笑いだした。たしかに倉本の話には一理ある。でき心の万引をバカ正直に摘発しても、あの女と家族が不幸になり、警察によけいな手間がかかるだけだ。デパート側も、よほど被害が大きくないかぎり、万引や置引の発生をひたかくしにしようとする。金をとって放免することが、あの女への懲罰にもなり、世の中の平和をたもつうえでいちばん妥当な処置かもしれなかった。
「キャップに知られても大丈夫だろうか」
「おおっぴらにやればそれはまずいよ。建て前ってものがあるからな。でも、キャップ自身いろいろやっているんだ。人にとやかくいえた義理じゃないんだよ」
万引女を保安事務所で調べたあと、警察へ連行し被害届をだすと称して、石黒はその女をつれてしばしば外出する。
だが、ほんとうに警察へいくのかどうかわかったものではない。石黒がつれだすのは器量のよい女ばかりだから、たぶんラブホテルへ同行して徹底身体検査をやるのだろうと倉本は笑った。そういえば江原にも心当りがある。先日チームの一人がつかまえた若い美人の万引女を妙にやさしく取調べたあと、石黒はその女をつれて外出したのである。
「なるほどそうか。すごい会社だなうちは。上も下もいろいろやっているのか」
「人助けのためさ。社会の秩序と平和の維持に貢献してるわけだよな。それに多少の余禄がなければ、安月給でアホらしくてやってられないよ」
万引女から七万円もらって気に病んでいたのが、ばかみたいだった。
ほんとうにみんな、似たようなことをやっていたのだ。そして、かならずしもそれらは悪事ではない。金儲けのため盗むならあきらかな犯罪者だが、ほとんどの万引女はろくに値打のない物品を失敬する。品物よりも、なにか心理的な必要にかられてそれをやる。四角四面に法で罰するにあたいしない、世の中から落ちこぼれた、一種の病人みたいな連中なのだ。
そんな連中を四角四面に刑務所へブチこんでも仕方がない。ふつうに生活させておいても、ガードマンさえ目を光らせていれば社会にたいした損害はないし、その連中もほかの面ではいい母親だったり利口な娘だったり、それなりの値打をもっているのだ。そして、連中のほうでも体面をなにより大事にする。万引女がみつかって金を払ったりやらせたりするのは、そのほうが警察へいくよりましだという気があるからだろう。その希望をいれて融通をきかせ、こっちも多少の恩恵にあずかる。弱い者どうしの助けあい運動のようなことだ。
これがこの世界のモラルである。青空警備会社にいるうちは、そのモラルにしたがって生きるのがサラリーマンのつとめというものだ。石黒キャップはいやなやつだが、どんな職場でも上役はいやなやつなのが原則である。あまり気にしないようにしよう。
そう考えて、江原光彦はさっぱりと心の雲が消え去った。倉本が急に親しみぶかく感じられ、彼に身をよせて、
「じつはおれ、こないだ万引やったおばさんから七万円もらっちまったんだ」
と、先日のいきさつを打ちあけた。
倉本はにこにこして話をきき、
「そうかあ。おまえ、もう一人前じゃないか。その調子でがんばれよ。まじめにやれば、やり甲斐のある仕事なんだから」
と、一つ江原の尻をたたいた。
8
江原光彦のそうした成長は、すぐにチーム全員の知るところとなった。
途中入社の江原にこれまでみんな多少よそよそしかったが、もうあいつは仲間だと安心して、喫茶店でのバカ話のあいま小遣いかせぎやスケコマシの手口を教えてくれたり、その現場をみせてくれるようになったりした。
いろんなことをみんなやっていた。セーターを盗んだ中年女をつかまえて取引したが、五千円しかもっていなかったので、五万円の借用証を書かせて週一度ずつ入金させたとか、ハンドバッグの正札をはずしてもち帰ろうとした女に取引をもちかけたら、ホテルにさそわれたとか、それぞれ月に二度や三度はいい思いをするらしかった。カセットテープを鞄にいれた女子高校生とホテルへいき、それが縁で何度もデートする仲になった者もいた。似たような発端で中学生の女の子の初物をいただいたやつもいたし、名のある文化人の妻の犯行をつかまえてクルマ一台買えるだけの金をせしめた幸運な男もいたらしい。
「しかし、あまり追いつめるとヤバいから注意しろよ。よその会社には、人妻から徹底的にしぼりとって自殺された例もある」
「そうそう。サラ金みたいに非人道的なのはだめなの。両者納得できる線で折りあうのがコツなんだよな。お客さんの身になって考えてあげろと松下幸之助もいっている」
「それに江原、気をつけろよ。なにか盗ったようにみせて、つかまえると居直るやつがいるからな。金一封せしめる手合さ。この倉本なんか一度それにひっかかって、こっぴどくキャップに怒鳴られちまってよう」
親切にみんな、江原に忠告してくれた。
おなじ釜のメシを喰う、といった親しみのあふれる人間関係だった。江原の痔がわるいときいて、塗り薬をもってきてくれた者もいた。前の会社ではなかったことだ。青空警備会社は、一度その独特のモラルにひたってしまうと、名のとおり、あたたかい陽光の降りそそぐ、カラリと晴れた、とても住みやすい職場のようであった。
万引女は一種の病人である――。そのことがいっそうはっきりする現場に、ある日江原は立ち会う羽目になった。
デパートの特売場で、江原はある日中年の婦人が何点かの下着を買物籠へおしこんだ現場を発見した。指に宝石を光らせ、贅沢なスーツを着た良家の夫人らしかったので、発見者の江原が度肝をぬかれたほどだった。
女が売り場の外へ出てから丁重に声をかけた。もちろん、妥当な取引を申しいれる腹づもりはできていた。
ところが女はなにもいわず、ふてくされてそっぽを向いたままだ。常習犯の態度である。せっかくの親切を無にされて江原も腹を立て、保安事務所の石黒のもとへ彼女をつれていった。
「ああ、またあんたかいな。カナンなあ。ご主人が気の毒やで、まったく」
女の顔をみるなり石黒は顔をしかめ、電話をとってダイヤルをまわした。
世田谷の医院の夫人だという。金にもひまにも不自由のない身なのに、いや、だからこそなのか、年に何度かこうして街で愚にもつかない万引をやってしまうらしかった。
夫人は四十代なかばだろう。顔をこわばらせて端然と椅子に腰かけている。バッグを調べると、十万円以上もっていた。特売の下着なんか、なんのためにかっぱらうのかよくわからない。泣きついて、穏便にすませてほしい気持もないようだった。
女の夫と連絡をとったあと、石黒は、
「あんたとこ、よっぽど夫婦仲がわるいのやなあ。ご主人を困らすことが、あんた、生き甲斐になっとるんやろ」
と手をのばして夫人の胸にさわった。
すると夫人は上体を揺すって石黒の手をふり切り、急に不景気に泣きだした。
石黒はもう何度か、この女をホテルへつれこんだことがあるらしい。いい年をした相手なので、もう抱く気になれないようだ。思わず江原は欲望のこもった目で夫人をみた。中年太りしているが、脂の乗った白い体にはそれなりの魅力が感じられる。
石黒はふっと江原をみた。そして彼の気持を察したらしく、にやにやした。
「光彦、この奥さんとホテルへいってこいよ。人助けやで。女いうもんは、男がほしいときこういうことをしはるんやから」
「いやですよ、そんな――」
江原はかぶりをふった。
多少欲望にはかられたものの、こんな異常な雰囲気のある女は気味がわるい。石黒に女をおしつけられるのもいやだ。なんとなく石黒には卑しいところがあって、なるべく彼の世話になりたくない気がある。
「いいからいってこい。勉強になるで。この奥さんの旦那が迎えにくるまでまだ一時間はかかる。ここでぼんやりしとっても、仕様ないやないか」
「いやです。私、絶対にそんな」
女はまた泣きだし、いやいやした。
かまわず近づいて石黒は女を立たせる。
意外にあっさり女は立った。そして涙をぬぐい、なにげない顔で、従業員用のエレベーターへ乗り込む。勝手知った態度である。仕方なく江原はあとにつづいた。午後の街の陽ざしがおそろしくまぶしかった。
近所の一流ホテルの部屋をとり、医師夫人はさっさとエレベーターへ向かった。制服姿の江原を護衛のようにしたがえて、夫人はすこしも異常な女にはみえなかった。
部屋に入り、窓ぎわの椅子に荷物をおくと、夫人は別人のようにあかるい声で、
「ねえ、あんた、私と寝たいの」
と、江原をふりかえった。
上気して、色っぽい目つきをしている。はやくも上衣をぬぎながら、制服をきた青年が私は好き、とつぶやいた。
「いや、けっこうです。ぼくは帰ります」
気味わるくなって江原がいうと、スリップ姿で夫人は抱きついてきて、
「純情なのねえ」とキスしにきた。「でも、誤解しないでね。私も夫ある身だから、あなたとセックスする気はないの。ただ、あなたにみてほしいだけなの」
「みるって、なにをですか」
蛭(ひる)のようなくちびるの感触に辟易しながら江原は訊いた。まったく世の中には、いろんな女がいるものだ。
夫人はベッドに横たわり、下着をとり、スリップのすそをまくりあげた。まっ白な、脂の乗った不恰好な下半身があらわになり、下腹部の草むらが陽光のなかで黒く光った。
「ねえ、みて。おねがい」
夫人は目をとじ、みだれた表情になって顔をそむけた。そして下肢をひらき、草むらの底の暗紅色の花を手でおさえるようにして指をつかいはじめた。
人差指と中指が小さく、ひとつがいの虫のようにうごめいた。夫人は甘い声をあげはじめ、すぐに息づかいをせわしくする。みて、みて、とうわごとのようにくりかえし、やがて大きな声をあげて全身をふるわせた。
一度終ってまたはじめる。ときおり目をあけ、茫然とした江原の顔をちらとみて、満足そうに微笑んで続行する。
欲望をおさえて、江原はばかみたいに突っ立ってそれをみていた。体は昂っているが、頭のなかは奇妙に冷えて、おどろきと好奇心だけがはりつめていた。
一時間後、二人は保安事務所へ帰った。医師がすでに迎えにきていて、平身低頭して妻をつれて帰った。然(しか)るべき金の入っているらしい紙包みを石黒はうけとったが、
「おまえはええやろ。オモロイもんみてきたんやから」
と一人じめでポケットへいれてしまった。
9
平穏な市民社会のかたすみの、狂ったようなさまざまな人の営みを見聞して、江原光彦は悪徳のあふれた青空警備会社の業務にだんだん馴れ親しんでいった。
警備さきで万引女を捕え、ときおり小遣いかせぎをやるようになった。
常習犯は主婦にしろ高校生にしろ、カモになりにくい。彼女らはケロリとして犯行をみとめ、盗んだ品物を買いとる。金をもっていないときは、保護者を迎えにこさせて精算をすませる。むりに犯行を否認したり、挑戦的な態度をとったりしないかぎり、デパート側、スーパー側がことを穏便に済ませるのを知っているので、ガードマンを買収して見逃してもらう気を起さなかった。
常習犯とみれば、江原たちは、だからさっさと保安事務所に連行し、チームおよび個人の摘発実績のうちに加えいれた。てきぱきと取調べ、盗品を買いとらせて帰してやった。ほんとうに警察へ突きだす相手は、窃盗を本業とする連中だけといってよかった。
小遣いかせぎになる相手は、でき心で小さな罪をおかした主婦がほとんどである。靴下だの下着だのを失敬した、そんなに生活に困ってもいなさそうな人妻を呼びとめ、まっ青になったその女を物陰へつれていって、
「奥さん。見逃してあげてもいいよ。品物を返して罰金をお払いなさい」
とささやくと、すぐに二万円か三万円の収入になった。
最初のうちは江原も緊張で全身がこわばったが、二度経験してすぐに馴れた。同僚の倉本がいっていたとおり、主婦は犯罪者の汚名をまぬがれ、店は商品をとりもどし、ガードマンは安月給を補填(ほてん)できる。だれも損する者はいないのである。十日に一度ずつそれをやり、すくない月で五、六万円、多い月には十万を越す別口収入を確保できるようになった。賃金のよい大企業で働いているおなじ世代の青年たちが、もううらやましくなくなった。青空警備会社のほうが、ずっと仕事もらくで、拘束がすくなく、収入も多い。一時の腰かけのつもりだったが、入社十ヵ月もたつと住めば都で、江原は以前のように本気で転職を考えなくなっていた。
小遣いかせぎの味はおぼえたものの、女をホテルへつれこむことは、入社十ヵ月になっても江原はまだ実行できずにいた。
これという美しい女をつかまえたことがなかったせいもある。が、根本はセックスについての劣等感があったためだ。
江原光彦はむろん童貞ではなかった。人なみにソープランドへもいくし、キャバレーの女とあそんだこともある。学生時代には女友達と何度かホテルへいったこともあった。
が、セックスのうまくいったためしがほとんどなかった。女と接触した瞬間に発射してしまったり、酒を飲みすぎてあせればあせるほど不能になってしまったりする。何度か女にばかにされた。自分のものがいくらか小さいのではないかという不安もある。
万引した女をホテルへつれこんでも、十秒もせずに終っては恰好がつかない。できない場合はなおさらだった。そうした心配から、江原はつかまえた女をなるべく美しいと思わぬように無意識に自分をおさえていた。
そんな抑制のやぶれる日が、年の暮れにやってきた。当時警備にあたっていた渋谷のスーパーマーケットで、江原は人妻らしい一人の女が持参のバッグにコンビーフの缶を投げこむ現場を発見した。三十四、五歳のととのった顔立ちのその女は、不安そうにきょろきょろ周囲をみまわしたあと、初心者らしいおぼつかない手つきでそれをやったのだ。
小遣いかせぎの相手だった。江原は胸をおどらせて店の出入口で待機し、彼女が盗品をかくしもって店を出てから、
「もしもし。ちょっとバッグのなかをみせていただきたいんですが」
と例によって丁重に声をかけた。
狼狽で顔をこわばらせた女を近くの駐車場へつれていき、罰金を払えば見逃してやるとささやいた。すると女は急に色っぽい笑顔になって江原をみつめ、
「すみません。お金もってないんです」
と、身をくねらすようにした。
「金がない――。では警察へいきますか。一万円ぐらいはもっているでしょう」
「警察へいってもいいわ。でも――」女は近づいてささやいた。「その前にどこかでお話ししません? しずかな場所で」
はじめてのことなので、江原は胸がどきどきした。
同僚たちが経験した事柄が自分の身にも起りつつあるのだ。まわりをみたが、こちらに注意している者はだれもいない。とっさに江原は決意を固め、女の腕をとってあるきだした。向こうからもちかけてきた以上、ベッドで失敗してもそんなに恥ではないだろう。道玄坂をのぼりながら帽子をぬぎ、上衣の下にかくして身分がわからぬようにする。
「警察にはいかなくてもいいでしょ。つきあってあげるんだから」
こわばった江原の顔を見て、勝ち誇ったようにあかるく女はいった。
「ときどきこんなことをするのか、あんた」
「いやねえ。はじめてよう。あなた、ちょっとハンサムだからつきあうのよ」
奇妙に女はあかるかった。なにか罠が仕掛けられているようで、江原は逆に不安になる。女が入ろうとするホテルをわざとさけて、近くの小さなホテルをえらんだ。部屋のなかに物騒な男が待ち伏せしているかもしれぬという不安にかられたからだ。
ホテルのなかの、うす暗い廊下をさきに立って女はあるいた。焦茶色のストッキングをはいたすんなりした女の脚をいまはじめて江原はながめ、欲望で体を揺さぶられた。
こうなったら据え膳を喰おう。なにがあろうとくそくらえだ。やっと江原は決心が固まり、昂奮でひざがふるえはじめた。
10
にぶいあかりのついた洋室で、江原は女と二人きりになった。
おだやかにととのった顔立ちの、中肉中背の体つきの女である。渋い紫色のスーツをきて、時計もネックレスも上等のを身につけている。が、よくみると、目に油断のならない光があった。みかけは中流家庭の人妻だが、案外窃盗のプロかもしれないと彼は思う。
「なにをぼんやりしているの。お風呂にでも入ったらどうなの」
女は腕時計とネックレスをはずし、バッグと一緒にテーブルにおいた。逃亡の意志がないことを示したつもりなのだろう。
こんな場面でどうふるまうべきか見当がつかず、江原はとりあえず女を抱きよせてキスしようとした。が、女はあっさりふり払って、
「洒落たまねしないでよ。おたがいそんなロマンチックな仲じゃないんだから」
と、髪の手入れをしはじめた。
女は部屋のすみで、江原に背を向けて服をぬぎはじめた。スーツをぬぎ、スリップをきたまま下半身の下着をとり去る。そしてスリップもとり去り、蒼白く光る、均整のとれた裸身をあらわにした。年増の脂の乗りはじめた、牝の気配があふれかえる裸体である。乳房はもう弾力を欠いているが、ほどよく丸く、ヒップはたくましく張っていた。
腰のあたりについたうす紅いガードルのあとがなまなましく江原を刺戟する。下腹部の草むらをかくそうともせず女はまっすぐ浴室に向かい、扉の前でふりかえって、
「いらっしゃいな。それとも、ビールでも飲んで待っている?」
と笑いかけてから浴室へ消えていった。
風俗関係の女かなにかかもしれない、と江原はすこし興ざめた気分になる。あまりに女は平然としている。おちつくために冷蔵庫からビールをとりだし、女のバッグのなかを調べたが、身許がわかるようなものはなに一つ入っていなかった。
浴室から湯の音がきこえる。たまらなくなって江原は服をぬぎすて、タオルで前をかくして浴室へ入っていった。
湯につかって、女はすでに赤い顔をしていた。洗い場で江原が湯をかぶると、女はさわがしい音とともに立ちあがって、
「背中を流してあげようか。私、洗ってあげるの、好きなんだ」
とすこし節をつけるようにいい、洗い場へ出て江原のうしろにまわった。痔のわるいのがわからぬような姿勢を江原はとらねばならなかった。
「若いわねえ。刃金みたいに硬いわ」
石鹸をなすりつけた掌で、江原の背中やわき腹を女はこすりはじめた。
さほど馴れた手つきではない。風俗関係の女ではないようだ。女の手に力がこもると、その呼吸がすこしみだれた。さそうように女の手はやがて下腹部のあたりを這いまわる。
「あなたも、あまりわるいことをおぼえないほうがいいわ。まだ若いんだから」
下腹から尻にかけてやさしく江原の体をこすって女は話しかけてくる。
私なんかがいっても仕方ないけどさ、と自嘲的に女はつけ加えた。あばずれめいた態度に似合わぬ、悲しそうな声だった。
「あんた、何者なんだ。どこかふつうの家の奥さんなんだろう」
「そうよ。主人も子供もいるわ」
「なぜあんなことをやったんだ。くせになっているのか」
「そうじゃないわ。仕方なかったのよ。いろいろ事情があるの。恐いことが」
「恐いことって」
「それはいえないわ。でも、わるいことからは手をひいたほうがいいわよ。すぐにぬきさしならなくなる。今後は女からもちかけられても、こんなところへきてはだめよ」
万引しておいて人に説教か、と笑いかけたのを江原はやめた。
女の手が前へすべりこんで、江原の男性に指でからみついたからだ。緊張して江原は全身をこわばらせた。あら可愛い、と一度ソープランドの女に笑われた苦い思い出が彼にはある。
が、女はなにもいわなかった。右手でたくみに江原へ快感をおくりこみ、やがて正面を向かせ、両手でさわりにきた。腰かけに尻を乗せて江原は歯を喰いしばる。男性の下方を女の左手でやわらかく揉まれて、とろけそうにいい気分である。目の前の風景がまたすばらしかった。女はかたひざを立て、太腿で下腹部の草むらをかくして、じっと江原の男性をみつめながら愛撫をつづける。やや切迫した呼吸につれて、まるいやわらかな乳房が前に出たりしりぞいたりする。
その乳房に両手でさわり、女の腿のあいだへ江原は手をのばした。が、女は腿をとじあわせてそれを拒み、お立ちなさいな、とかすれた声でうながした。江原を立たせて下半身をゆっくり愛撫する気なのだろう。
「もういいよ。終っちまいそうだ。こんどはおれが洗ってあげる」
「終ってもいいじゃないの。若いんだから何度でもできるわ。さ、立って」
「いいってば、おれがやってやる。だまっておれのいうとおりにしろ」
江原は強硬にいい、洗い場へ彼女をおし倒した。立って下半身を彼女の目にさらし、痔のわるいのをさとられたくない。
江原は女に馬乗りになった。そして、石鹸のついた手で、ふっくらした彼女の双つの腿の内側をさぐりにいった。
つぎに彼は目をみはった。女の腿の奥にあるやわらかな箇所を江原がまさぐりはじめたとたん、女は抵抗をやめ、タイルのうえに頭を投げだし、くしゃくしゃに顔をしかめて、大きな声で泣きだしたのだ。
むろん快楽のあまりの号泣だった。あかりに顔をさらし、幼児のように彼女は泣いた。江原がさぐっているやわらかな箇所は、あたたかい液にまみれてぬかるみのような状態になっている。江原の指が敏感な真珠の粒をもてあそびはじめると、女の声がさらにかん高くなり、江原の体のしたで、脂の乗った裸身が波打ったりうねったりした。
愛撫されるとたわいなくみだれてしまう自分を知っているので、女はことさら大胆らしくふるまっていたのだ。人妻とはこんなものかと江原はおどろき、感動していた。未熟な女子大生とも感覚のすり切れたプロの女ともちがって、成熟した、性的感受性のかたまりのような女体だった。
江原は女の体からおりた。女は姿勢をなおそうともせず、タイルのうえにすべてをさらけだしてあおむけになっていた。下肢をひらかせ、江原はあいだにうずくまる。草むらになかば覆われたあざやかな桜色の花をひらき、そこへくちびるをおしあてた。舌で真珠の粒をさぐりはじめると、獣のような声をあげて女はのたうちまわり、江原はその腰を力まかせにおさえつけて、舌さきひとつで女を悶えさせるたのしみを味わった。
まったく人妻はすばらしい。うまくもない江原の技巧にこれだけ反応する。体が成熟しているうえ、罪の意識がからんでいっそう悶えてしまうのだろう。
淫らなキスをつづけながら指で女の体をまさぐり、愛らしい小さな痔を発見して江原はよろこびと安堵をおぼえた。おなじ恥をもつ仲間である。しかもこの女は、それをかくそうともしない。女が急にいとおしくなった。つい三十分前に知りあった女だとは、とても考えられなかった。
何度か絶頂にたっし、女はあばれまわって快楽に堪能していた。あまりはげしく動いてタライをひっくりかえしたり、水道の蛇口に頭をぶっつけたりしたが、それも気にならない様子である。恥ずかしい部分をむしろみせつけたり、江原の顔におしあてたりして狂いまわる。やがて女はぐったりして、休ませてほしいと哀願する。江原は起きあがり、体を拭いて外へ出た。淫らなカエルのようにあおむけになり、目をとじて顔をそむけたまま女は身動きもしなかった。
ベッドに横たわってたばこをふかしていると、女が浴室から出てきた。
相変らず全裸で、照れかくしなのだろう、頭痛をこらえる様子をしている。そして急に小走りにベッドへ近づいてきて、床に立ったまま、顔を江原の下腹によせて頬ずりした。
そして、手で男性をまさぐりながら、
「わるい人ねえ江原さんも。若いくせに」
と、みだらに笑って彼をみつめる。
「おれの名前、知ってるのか」
おどろいて顔をあげた彼に、洋服のネームをみたのだと女は説明した。
「あんたはなんというんだ。名前がわからないと、やりにくいよ」
「純子。純情のジュン――」
声がとぎれた。女が江原の男性を口にふくんだのである。
なまぬるく吸着され、手指で周辺を刺戟されて江原はたちまち快楽のうねりに呑みこまれそうになった。息をみだしながら、終りそうだと彼は告げたが、二、三度うなずいただけで純子は愛撫をやめなかった。飲んでくれるのか、と思うと、江原はもう我慢ができなくなった。
やがて、目のくらむ甘美な瞬間を彼は迎え、みずからの活力が女ののどを通るのを生まれてはじめて経験していた。
熱い時間を終えて、仕事場であるスーパーマーケットへもどると、キャップの石黒がそばへきて、うすら笑いで話しかけた。
「光彦。さっき万引をあげたんとちがうか。おまえもワルになったな。けど、ほどほどにしとかなあかんで」
おどろいて江原は石黒をみた。前の七万円のときといい、いまといい、部下の行動におそろしく目くばりのきく男である。
が、この日でためらいの壁が消えた。江原光彦はときおり、でき心をおこした女をホテルへつれこむようになり、やがて、摘発実績をつくるため、罪もない買物客の手さげにそっと衣類をほうりこむことも辞さない男になっていった。
奇妙な恋人
1
六月はじめのその夜、江原光彦は新宿のSスーパーマーケットで、同僚の柿本と一緒に深夜の警備にあたった。
夜勤は週二度ずつまわってくる。午後五時から午前一時までが一度、午前一時から午前九時までが一度というきまりになっていた。
夜勤はひまである。一時間ごとに店内をパトロールして、火災や盗難にそなえれば、あとはあそんでいてもよい。
だが、生活の時間帯がみだれて、どうしても睡眠不足になるのが難である。江原はその日、午後五時までの通常勤務を終え、食事のあとビールを飲みながら保安事務所でテレビのナイター中継を見物した。途中から宿直室で仮眠をとり、午前一時に起きだして、早番の者と交代して勤務についた。
まだ眠かったが、しずまりかえった売り場、事務所、倉庫などを懐中電灯をつけて巡回し、それぞれあかりをつけて点検するうち、しゃっきりと頭が冴えてきた。外をみると、盛り場のネオンがまだ華やかに夜空をいろどり、酒の香りや、酔っぱらいのダミ声や、ホステスの嬌声が闇のなかにただよう気配である。みんながあそんだり眠ったりしている時刻に勤務かと思うと、割りきれない気持になるが、もし事故が発生してはおおごとなのでパトロールを省略するわけにはいかない。昼間よりもなお慎重に、江原は柿本と一緒に建物のすみずみまでみてまわらねばならなかった。
「因果な商売だよな。いまごろ働くなんて、まともな人間の仕事じゃないぜ」
最初のパトロールを終え、保安事務所にもどって江原がボヤくと、そうかな、と柿本はさわやかな表情で反論した。
「おれはちがうな。みんな眠っているだろうなと思うと、逆に生き甲斐を感じるね。ひとりでがんばる悲壮感がわいてくる。おれがこうやって起きているおかげでみんな安心して眠れるんだ、というようなね」
なるほど、そんな考えかたもあるのかと江原は感心して柿本をみつめた。
悪徳の横溢する青空警備会社にもガードマン魂の持主はちゃんといるのだ。
柿本は長崎の出身である。ミュージシャン志望で、高校を卒(お)えて上京し、現在も仲間とロックバンドを組んでギターを弾いている。だが、音楽だけでは喰えないので、三年前からこの青空警備会社へ籍をおいた。将来はスナックバーの経営者になり、客に自分の音楽をきかせて暮すのが夢だという。
その夢の実現のため、柿本はつかまえた万引女からどしどし金を巻きあげ、貯金にはげんでいるらしい。曲りなりにもミュージシャンなので女には不自由しないらしく、万引女とホテルへいくことはなかった。将来にはっきりした夢があるので、行動に一本筋が通っている。柿本の表情のさわやかさは、そのせいだろうと以前から江原は納得してきた。
もう深夜テレビも終った。江原と柿本はおたがいの身のうえを語りあったり、将棋をさしたりして時間をつぶした。
二度目のパトロールを終えた午前二時すぎ、事務所に電話がかかってきた。どこかで麻雀でもやっている同僚の冷やかしだろうと思って受話器をとると、
「あたし。おぼえてる? 木下道代」
と、意外にも若い女の声だった。
「ああ、きみか」
江原はとまどい、なんとなく胸の内があたたかくなった。
一週間ばかり前、万引をみつかり、キャップの石黒に倉庫のなかでセックスされて帰った女子高校生だった。こんな深夜になんの用だろう。江原が深夜勤務だと知って電話してきたのだろうか。
「さっきその前を通ったの。そしたらあんたの姿がみえたのよ。パトロールしてたでしょ、懐中電灯なんかもって――」
出てらっしゃいよ、おもて通りの角で待ってるから、と眠そうな声で道代はいった。
酔っているらしい。ふてくされて取調べをうけた先日とは別人みたいな人なつっこい口調である。でも勤務中だから、と答えて江原は柿本のほうへ目をやった。
「ちょっとぐらいいいじゃないのさア。私、ひとりでつまんないんだもの」
道代は追い討ちをかけてくる。
事情を察して、快く柿本はうなずいてくれる。青空警備会社の同僚はこういう点がすばらしいのだ。
よしわかった、すぐにいくと答えて江原は受話器をおいた。つぎのパトロールに出ねばならない午前三時までには帰ると告げて、彼は深夜の街へ出ていった。
人通りが絶え、自動車だけが勢いよく突っ走るおもて通りの街灯のしたに、道代の姿が黒っぽくうかんでいた。
「会いたかったんだア。きょうは八時ごろから一人でうろついてたの」
道代は抱きつかんばかりに近づき、江原の腕をとってあるきだした。
やはり酔っている。小太りの体の重みとぬくもりが刺戟的につたわってくる。道代は白っぽいスーツをきて、夜でもあって、とても高校生にはみえなかった。
「家のほうはいいのか。こんなにおそくまでうろついていて」
咎めるように江原は訊いた。
万引を働いたのを家庭や学校に通報されたくない一心で、道代は石黒キャップに身をまかせたはずだ。夜あそびについては、道代の父母は寛大なのだろうか。
「帰ればうるさいからさ、帰らないの」
道代は江原の肩に頭を乗せ、まだ営業中の付近のスナックバーに見向きもせず歩をはこんだ。
どこへいくんだ、と訊くと、きまってるでしょ、との返事である。百メートルばかり前方にラブホテルの灯がうかんでいる。
「こないだのことさア、あんたにつかまればよかったとずっと思っていたの。一目惚れよね。あんなジジイにやらせるくらいなら、あんたをさそえばよかった。そう思うの」
もつれあうようにして、二人はホテルの玄関へ入った。例によって、帽子を上衣のしたにかくして江原はロビーにあがった。
洋室へ通され、二人きりになると、道代は大きなため息をついてキスしにきた。ねむそうな、幸福そうな表情である。おっとりした顔立ちにその表情はよく似合った。たちまち江原は昂って、愛らしく突きでたくちびるにむしゃぶりつくようなキスになった。
「ねえ抱いて。光彦さん、これからもときどき会ってくれる」
体を密着させ、江原の耳のそばで道代は訊いた。石黒が何度も呼びつけるのをきいて、道代は江原の名をおぼえていた。
「よろこんで会うよ。おれ、いまガールフレンドがいないんだ」
「まじめなのね。だから好きよ。一目でわかったもの。私に親切にしてくれたでしょ」
「きみが可愛かったからさ」
「うれしいわ。セックスしようね。私もわりとまじめなのよ。ほんとうよ」
ぐいぐい道代は下半身をおしつけてくる。江原はスカートのうえから彼女の腿をさぐった。若々しい、淫らな肉の感触が掌にあふれる。道代は固い下着をつけていない。スカートのなかへ手をすべりこませ、さかのぼると、うすい布地を通して草むらの感触がある。
「せっかちねえ。ゆっくりしようよ」
甘く笑って道代はたしなめる。
「そうもいかないんだ。三時までには帰らなくては」
腕時計をみて江原がいうと、納得して道代はその場で服をぬぎはじめた。
2
たちまち道代は全裸になり、ふっと江原に微笑(ほほえ)みかけて浴室へ向かった。
いわゆるプロポーションのとれた体ではなく、ぜんたいにふっくらとした丸みのある裸身である。色が白く、小太りで、脚も短いほうだった。だが、乳房は上向きで、ヒップも旺盛に盛りあがっている。健康そのものだ。
白い肌に透明感があり、新鮮な血液の色がほのかににじんでいた。わき腹や腿の内側には脂のしみでたなまなましい牝の気配がただよい、わずかな下腹部の草むらと一緒になって江原を昂らせる。
道代は両手で乳房をかかえるようにして浴室へ消え、すぐに湯をかぶる音がきこえた。
たまらなくなって江原も服をぬぎすて、タオルで前をかくして浴室へ入っていく。立ちこめる湯気のかなたで、道代はすでに湯ぶねに体を沈め、にこにこ笑って江原を迎える。江原が湯ぶねに入ると、両ひざを折って道代はスペースをあけてくれた。水面からあらわれた双つのひざがしらの窪みが濡れて、かすかに光っている。
道代と向かいあわせにすわり、両足で彼女の体を江原ははさみつけた。
身をかがめ、水面から出た道代の双つのひざがしらに江原はキスしてやる。湯ぶねの側面に背中をあずけ、かるくあごをあげて、気持よさそうに道代は笑った。江原は乳房をさぐりにいき、大きいなあ、と感心しながら指をつかううち、甘い刺戟を下半身に感じた。道代が手をのばし、江原の男性に指をからませ、かるく動かしはじめたのだ。
だが、すぐに道代は手をひっこめ、しのび笑ってまたあごを突きだし、
「あまりさわらないでおこう。はやく終ったらつまらないもん」
と、こんどは両足をのばしてきた。
双つの足のさきで、道代は江原の男性のあたりをもてあそびはじめた。江原は両手で彼女の乳房を掬うようにささえ、湯のうえに出してながめたり、指で刺戟したりした。
道代はやがて足のあそびをやめ、腕を湯ぶねの外側へたらして、ぐったりと頭をかたむけて目をとじる。江原はその乳房を口にふくみ、くちびると舌で可愛がりながら、右手を道代の腿のあいだへすべりこませ、その奥のやわらかな箇所をさぐってみた。そこは湯より重みのあるあたたかい液にまみれていて、小さく息づいているようだった。
江原は勢いづき、複雑なぬかるみのなかをさぐりにかかった。が、道代はみっしりと充実した腿をとじてそれをさえぎり、
「あとでして。それより背中を流して」
と、甘い、眠そうな声でいった。
二人は湯ぶねの外へ出た。腰かけにヒップを乗せた道代の体を、石鹸を塗りつけた掌でうしろからていねいに江原は洗った。
「きみはあまり感じないのか」道代の両腋のしたから手をすべりこませ、乳房を刺戟しながら、気になっていたことを江原は訊いてみた。「このあいだ、うちのキャップとやったとき、そうだったろう。おれ、ちらとみてしまったんだ」
「そりゃ感じないわ。体を貸してやっただけだもの。あんなふうにやられるときは意地でも感じてやらないんだから」
「きょうはどうだい。感じそうか」
「うん。たぶんね。でも上手にやってくれないとだめよ」
したのほう、洗ってちょうだい、と道代は無邪気に注文した。そして、江原にヒップを向け、その場へ四つん這いになった。
およそ羞恥心とか気取りとかに縁のない娘である。白い、大きな、あわせ目の部分のひきしまった双つの丘と向かいあって、全身の血が湧き立った。
双つの腿のあいだへ手をすべりこませ、徐々にさかのぼって、掌でなでまわしてやる。やがて、あたたかいぬかるみへ指がすべりこむと、道代は甘い声をあげはじめた。這ったまま、うなだれ、顔をしかめて道代は泣き、江原の指が敏感な真珠にふれたとたん、こんどは顔をあげて泣きだすのだった。
もっとオ、もっとオと道代は催促した。江原があせって、どんなふうに可愛がるべきか工夫をこらしていると、待ちかねたように道代の体が反転した。
キスしてと要求しながら道代はあおむけになり、体をひらいた。うすい草むらの下方の桃色のぬかるみが、苛立たしくふるえて江原を誘惑する。江原はそこへくちづけし、とろけるような幸福な気持にひたりながら、くちびると舌を駆使しはじめた。子供のように道代は泣き、賞め言葉を何度も口走った。成熟した人妻のみだれかたとちがって、道代の反応はとても愛らしかったので、一晩中でも江原は続行できそうだった。
三度ばかり、道代は快楽の波に翻弄された様子だった。
やがて彼女は休息をもとめ、その場にあおむけになって呼吸をしずめた。そして江原の男性を手さぐりし、そこに力がみなぎっているのをたしかめると、
「抱いてくれるウ」
と、うたうようにいって抱きついてくる。
江原はその場へうずくまった。するとみずからうしろ向いて、ヒップを突きだした。私このほうがいいの、と弁解めいた小声がきこえる。這った道代は白い仔熊のように可憐である。
江原は彼女のうちへ入っていこうとした。すると、また道代は小さな声で、うしろのを使っていいよ、と彼に告げた。ホモセクシュアルのような行為をもとめているのだ。
「いいのか。そんなことをして」
未経験の事柄なので、江原はおどろいて訊きかえした。正直いって勝手がわからない。だが、道代が二、三度うなずいたので、ためさざるをえなくなってしまった。
身を起して江原は試みた。だが、うまくいかなかった。そこは狭小すぎ、痛々しくて、どうしてもためらいがさきに立った。
そのうち、江原の男性は、さっきキスしたぬかるみへすべりこみ、安定してしまった。
そのまま彼は動きだした。道代はそろえた両手の甲に顔をつけて声をもらしたが、それは未成熟な声のようだった。
満足してゆっくり休息するまもなく、午前三時が近づいた。
江原は道代を抱き起して浴室を出ると、すぐに体を拭いて身支度した。柿本にめいわくをかけてはいけない。青空警備会社の勤務には、なによりも仁義が大切である。
「疲れちゃった。私、ここで寝るわ。朝になったら迎えにきてね。これでも学校があるんだから」
幸福そうにぐったりしてベッドに入った道代の頬にキスして江原はそこを去った。
朝になったら道代を起し、もう一度抱いてやろうと虫のよい予定を立てていた。
湯あがりの肌を心地よく夜風になぶらせて、深閑とした舗道に靴音をひびかせて江原はスーパーSへもどった。
建物の裏の出入口の扉があいている。いそいで出たので、しめわすれたらしい。こんどはきちんと鍵をかけてなかへ入ると、足もとに缶詰が数箇ころがっていた。出かけるときにはこんなものはなかったはずだ。
心臓が暗く疼き、顔色の変ったのが自分でもわかった。江原は缶詰を一つ手にしたまま、夢中で走りだし、
「柿本、柿本、なにかあったのか」
とさけんで保安事務所へ向かった。
事務所のあかりはついている。かすかに安堵して扉をあけ、室内へとびこんでみわたしたが、柿本の姿はない。が、すぐに呻き声がきこえた。“取調室”へ目をやって、江原は髪の逆立つのを自覚した。
顔を血まみれにして、うしろ手に縛られて柿本が倒れている。血で濡れて光る床のうえに彼はころがり、口にガムテープを貼りつけられていた。
「大丈夫か柿本、大丈夫か」
胴ぶるいしながら、江原は彼を抱きおこし、まず口のテープをひっぱがした。
「やられた。二人だ。急に入ってきて」
虫の息で柿本は、江原の腕のなかに倒れこんできた。
3
なにかで撲られたとみえ、頭を割られ、血まみれで倒れている柿本から、くわしい事情をききだすひまはなかった。
江原光彦はとりあえず救急箱をとりだして柿本の傷に応急手当をほどこし、宿直室のベッドに横たわらせた。ついで一一九番に救援を依頼し、こうした場合の社内規定にもとづいて青空警備会社の本部へ連絡をいれ、宿直員へ事件を報告した。
わかった、すぐ警察へ通報しろとの指示をもらってこんどは一一〇番へ連絡する。終ってスーパーSの保安責任者の自宅へ電話をいれ、手短かに事件を報告するうち、救急車がやってきて現場はあわただしくなった。
その場で専門家の応急手当をうけ、虫の息のまま柿本は担架ではこびだされる。江原は係員の腕をとり、生命はたすかりますかと訊いてみたが、
「いまここでわかるもんか。知りたければ病院へこい」
と一喝され、頭に血がのぼって危くその男に撲りかかるところだった。
救急車のなかに消える柿本を見送って江原は涙が出そうになった。おれのせいだ、おれが持場をはなれた隙に柿本はおそわれた。あいつが死んだらどうしよう。九州から一人で出てきて、ギターが上手で、自分の店をもつために一生懸命だったあの男が、おれが女とあそんでいるまに襲撃されて、死んでしまうかもしれないのだ。あいつの親父やおふくろにどういって詫びたらよいのだろう。
そして江原は、木下道代のことが頭にうかんだ。あの子は暴漢とぐるだったのだ。おれをホテルへつれていって、その留守に柿本を襲い、倉庫を荒した。ひっかかって、おれはひどいバカだった。いま思えばあまりに話がうますぎた。ろくに話したこともない女の子に夜中呼びだされ、そのままホテルにさそわれて疑いもせずついていくなんて、ガードマンの風上にもおけないお人好しの行動である。
江原は電話にとびつき、一〇四にさっきのラブホテルの番号を問いあわせた。そして、ホテルを呼びだして、木下道代がまだ部屋にいるかどうか訊いてみた。
「ああ、千鳥の間の女のお客さんね。さっきお帰りになりましたよ」
返事をきいて全身の力がぬけ落ちた。
朝になったら起しにきて、という眠そうな道代の声が耳によみがえる。ひょっとして道代は事件に無関係で、まだ部屋で眠っているのではないかと、心のすみで江原はまだ希望にすがっていたのだ。
直後、パトカーが到着した。居残っていた救急車の要員の一人が怪我人の模様を、江原が事件発見の模様を警官に説明する。
「きみはその間どこにいたんだ」
するどい目つきの警官に訊かれ、女の子に呼びだされて外をぶらついていた、ととっさに江原は出鱈目をいった。
ホテルへ入ったなどといえば、確実にクビだし、会社の信用にもかかわる。自分をまもるための嘘である。木下道代をかばう気持があったことには、その瞬間は気づかなかった。
「その女の名と住所は」
「知りません。昼間、警備中にちょっと口をきいただけです」
「どんな話をしたんだ」
「たいへんですね、と向こうから声をかけてきたんです。買物か、ときいたら、晩のおかずを買いにきたといって――」
「それだけの女が、どうして夜中にきみを呼びだしたんだ。変と思わなかったのか」
「すみません。きょう夜勤だからあそびにおいでとついいってしまったので」
緊急事態の現場なのに、メモを手にした警官からあっというまにそこまで訊かれた。
むろんあとで警察に呼ばれ、さらにくわしく訊問されるのだろう。とっさの嘘を江原は後悔した。だが、ホテルの浴室で、白い仔熊のようにうずくまって愛らしいヒップを突きだした道代の姿を思いだすと、あれはわるい女ではない、なんとかかばってやりたいという保護者の情熱にかられてくるのだ。
警官と一緒に売り場と倉庫をみてまわった。食料品売り場から高級な洋酒がごっそりやられ、衣料品売り場からもたくさんの男女の服やシャツが盗まれていた。そのほか暴漢は柿本のもっていた鍵で倉庫の戸をあけ、缶詰や酒類を手あたりしだいにダンボールごとはこびだし、仕入れたばかりの夏物の衣服も一山いくらではこび去っていた。
「これは一人や二人の仕事じゃないぜ。小型トラック二杯分はやっている」
「ガードマンをおそったのは二人でも、ほかに二人ぐらいはいただろうな」
検証しながら警官たちが話しあっている。
本部から連絡をうけた石黒キャップが駈けつけ、江原から事情を訊いたあと、べつに文句もいわず警官たちの仕事を手つだい、一段落して柿本の様子をみに救急病院へとんでいった。いちばん最後にスーパーSの保安責任者である総務部長が駈けつけて、損害の大きさにまっ青になり、
「なにをやってたんだ、おまえら。なんのためにうちがおまえらに金を払ってると思っているんだ。泥棒よけにならない番犬なんて、くその役にも立たん。解約だぞ」
と口汚く江原をののしった。
病院へかつぎこまれた柿本のことなど訊こうともしない。番犬とはなんだ――。江原はまた頭に血がのぼったが、警備さきの責任者をぶん撲る無茶はできなかった。
総務部長は、帳簿を手に倉庫へおり、被害金額の算定にとりかかった。ざっと四、五百万円の損害になるだろうという。警官と一緒にしばらく立ちあってから、江原光彦は警察に呼ばれ、あらためて事情を聴取された。女の名前や身許を知らないわけではなかろう、かくすとおまえに共謀の疑いがかかるぞと脅されたが、なんとかかくしおおせることができた。
乗りかかった舟である。とくに道代をかばう気がなかったとしても、いったん嘘をついた以上、「申しわけありません。じつは――」などと頭をかくようでは、保安事務所へつれられてくる万引犯と変りがなくなる。取調べにあたった刑事も、警察出身者の多いガードマンという職業に最初から同情的なところがあって、それほどきびしく江原を追及せずに済ませてくれた。
警察から解放されると、もう午前七時だった。朝の陽光が盛り場のよごれた路地に大量にさしこみ、仕事に出かける人々が駅へいそいだり、バス停にならんだりしている。作業服のおばさんたちが歩道のゴミをひろいあつめ、新聞配達の少年がオートバイで店へひきあげてくる。いつもとおなじ平穏な朝の街の風景のなかを、重苦しい気分で江原は救急病院へ駈けつけた。
警察の話では、柿本は生命をとりとめたものの、頭や胸に全治二ヵ月の重傷を負い、神経系統に今後どんな障害が出るか予測のつかない状態だという。もし彼が勤務に耐えられぬ体になったら、ギターの弾けない体になったら、と思うと江原はいても立ってもいられなくなる。彼をおそった暴漢をなぐり殺してやりたい怒りにかられる。
だが、その怒りの感情は、ふしぎに木下道代にむすびつかない。暴漢たちと道代はぐるだったにきまっているが、たぶん道代に罪はなく、仲間から強要されて犯行に加わったのだと江原は勝手にきめこんでいた。
道代はわるい娘ではない。その証明のためにもなんとかしてあの娘をさがしだそう、と彼は決心する。浴室の洗い場にうずくまった道代の白い裸体が、また脳裡にちらついた。あの素敵なセックスが、たんに自分をおびきだすための欺瞞(ぎまん)の営みだったとは絶対に考えたくなかった。
「面会謝絶」の札の出た病室へ、柿本はすでに収容されていた。そっと扉をあけると、ベッドのそばの椅子で居眠りしていた石黒キャップが目をさまして手招きする。
二人用の病室の窓ぎわのベッドに、繃帯のかたまりみたいになって柿本が横たわっていた。繃帯の隙間からみえる目をとじて柿本は眠っている。痛みどめの注射のせいだ。手前のもう一つのベッドでも人が寝ていた。こちらは下半身にギプスをあて、繃帯を巻いて、布団をかけずに呻いている。交通事故の被害者なのだろう。
「大丈夫らしいわ。脳がイカれた様子はないと医者がいうとった」
小声で石黒は説明した。
頭蓋骨骨折だが、脳にも神経にも損傷はない。傷の回復とともに、以前どおりの日常生活に復帰できるだろうという。九州の柿本の両親に連絡したので、午後には母親と妹が看護に駈けつける。それまで交代で付添いをしよう、と奇妙にやさしく石黒はささやいた。
江原は石黒という男をみなおした。我欲で凝り固まった卑しい男と思っていたが、案外気のやさしい面もあるらしい。
「この商売も、こういうことがあるさかいなあ。はたでみるほどらくやないわ」
しんみりと石黒はつぶやいた。最後まで一言も彼は江原を責めなかった。
4
あくる日から、江原光彦は勤務のあとや非番の日、私服に着替えて新宿駅をぶらつくようになった。
何ヵ月かかってもよい、木下道代をさがしだそうと江原は心に決めていた。スーパーSで道代が万引を働いてつかまったとき、彼女の住所と電話番号はききだしてあった。だが、調べてみるとどちらも出鱈目だった。木下道代という名前さえほんとうかどうかわからないのだ。
だが、それでもいい。道代に会いたい。そして、柿本をおそった暴漢の名をききだし、かたきを討ちたい。暴漢が警察に逮捕されれば、事件のとき道代とホテルへいっていたことがばれてしまうが、犯人逮捕への協力と相殺されて、罰されずにすむだろう。柿本の仇討ちという大義名分があったので、あてのない探索に江原はふみだすことができた。たんに道代をさがすだけなら、毎日のように二、三時間も新宿駅へ張りこむようなことはできなかったにきまっている。
柿本の病室では、江原は石黒になにもいわれなかったが、あくる日チーム全員の前でこっぴどく怒鳴られ、説教されてしまった。
石黒班ぜんたいに迷惑をかけた。青空警備会社はスーパーSの信用をうしない、このままでは次期の保安警備契約を更改してもらえなくなるだろう。あと一ヵ月、江原は死に物狂いで万引犯やスリの検挙実績をあげ、かけた迷惑の償いをしろ。みんなも協力して石黒班の失点の挽回にはげめというわけである。
うなだれて江原光彦は説教をきいた。気のいい柔道三段の倉本が、
「女は恐いよなあ。出てらっしゃい、とさそわれたらおれだってホイホイ乗っちゃうからね。オッ立てて出ていくよ。うん」
と、とりなしてくれたが、江原の胸は晴れなかった。なんとかして道代をさがそうと、あらためて心に誓ったのである。
あっというまに二週間が経過した。石黒にはっぱをかけられた手前、江原は店内警備に力をいれ、この二週間で四十件もの万引を摘発した。面白半分の小中学生から、中年の会社員、工員、さらにちょっと渋皮のむけた主婦や小金のありそうな中年女などいろんな万引犯に出会ったが、その全員をまじめに保安事務所へ連行した。見逃してやる代償に小遣いをもらったり、ホテルへつれこんだりするよりも、いまは検挙実績をあげることのほうが大事である。
スーパーSの総務部長は、江原たちがいくら検挙実績をあげてみせても、
「万引の被害なんかどうせたかが知れてるよ。売上の三パーセントは損金で落すことができるんだから。この前泥棒にやられたぶんのほうがはるかに大きい」
と、いっこうに感動しなかった。だが、江原にすれば、せめて検挙実績をあげることでしか自分を発奮させる手段がなかった。
その日も、午後五時までに三件の万引犯を摘発して勤務を終え、彼は新宿駅へ張りこみに出かけた。
広大な新宿駅のどのホームへ目星をつけるべきかのあてもない。ただ構内や通路を漠然とゆききして人混みに目をこらすのである。若い女、とくに女子高校生の顔を一つ一つながめて道代をさがした。
万引でつかまったとき、道代が新宿駅のロッカーに制服をあずけていたことからみて、彼女はきっと通学のいきかえりに新宿を通るのだと江原は信じている。そうでも思わないと、空しすぎて根気がつづかない。ふっくらと白い、おとなしそうな道代の顔が、どす黒い人波のなかから急に目の前にうかびあがる瞬間を夢みて、江原は辛抱づよく、ゆっくりと駅のなかをあるきまわった。
ラッシュアワーの新宿駅の雑踏は、すさまじいほどである。ホームに電車が着くたびに海鳴りのように人々の足音が建物の壁にひびきわたり、群衆の雪崩が階段を下降してくる。セーラー服の娘たちの顔を一つ一つたしかめるのはたいへんなことだ。三十分もすると、女子高校生たちの顔がどれもおなじにみえて、目がくらくらしてくる。こんなことではいつになったら道代に会えるのかと弱気がさすと、江原は入院中の柿本の姿を思いだして気力をふるい起すのだった。
六時をすぎたあと、一つのみおぼえのある顔が人混みのなかにうかびあがり、はっとして江原は目をこらした。
道代ではない。似ても似つかぬ中年女の顔である。上品な淡いグリーンのスーツをきたその女は、グッチのバッグをかかえ、いそがしそうに表情をひきしめて、みつめる江原に目もくれず前を通りすぎようとする。
江原の頭のなかで、ゴム風船みたいに記憶がはじけた。わすれようとしてもわすれられる顔ではなかった。約一年前、渋谷のスーパーで江原に万引の現場をみつけられ、見逃してくれと哀願して、むりやり七万円をおしつけて逃げ去った女なのだ。万引犯から小遣いをせしめたり、女をホテルへつれこんだりする悪事を、あのときはじめて江原は実行した。悪の世界に足をふみこむきっかけをつくった女だといってよかった。
「しばらくだな、奥さん」
追いすがって江原は女の肩をたたいた。
どうしようという気があったわけではない。一種のなつかしさで、そうしたのだ。
女は足をとめ、ふりかえった。が、江原をおぼえていないらしく、眉をひそめ、
「どなたでしょうか。人ちがいではありませんの」
と、うるさそうに答えてあるきだす。帰りをいそいでいる様子だ。
「人ちがいなもんか。おれ、渋谷のスーパーであんたに会ったよ。七万円もらった」
いわれて女は目を大きくした。よほど動揺したらしく、返事もしないで、まっすぐに正面をみてあるきだす。江原もならんで、彼女をながめながら歩をはこんだ。
「まだ、つきまとうんですか。どこまで私を苦しめたら気が済むんです、あなたたち」
女は前を向いたまま妙なことをいった。
警察に訴えますよ、と女はつけ加えた。
それをきいて江原は気持がこわばった。このあいだの事件で警察には懲りている。
「どういう意味だ。奥さん。おれ、あんたにつきまとったことはないぜ」
「あなたはなくても、あなたの会社の男がそうなのよ。あの関西弁の中年男。いやらしい蛇のようなやつ――」
「ちょっと待ってくれ。話をきかせてくれ。うちのキャップのことなのか」
「あなた、なにも知らないの、まだ」
女は立ちどまり、江原をみつめた。
この女とホテルへ入って淫らな行為をたのしむ場面がとっさに江原の脳裡にうかんだ。
上品な、インテリらしい女なのだ。
5
江原光彦はその上品な中年女をつれて、新宿駅から歌舞伎町のほうへ向かった。
街なみの輪郭が夕闇にぼやけ、ネオンや街灯や商店のあかりが逆に色濃く風景のなかにうかびあがる。
駅前通りは家路につく人々と、飲食街へ向かう人々で雑踏していた。前者の足どりは気ぜわしく、後者の足どりは気もそぞろに、心もとなくうかれてみえる。歌舞伎町へさしかかると、歓楽をもとめる人々で通りはいっぱいになり、男と女の無数の靴が、風に吹かれる落葉のように地上を舞いあるいていた。
炉ばた焼の店へ江原は入った。混みあっていたが、座敷の小机に向かいあうと、二人でなんでも話しあうことができる。
「お名前、なんとおっしゃいましたっけ」
ビールと焼魚を注文してから、投げやりな口調で女は訊いた。
ずっと視線をそらせていて、ときおりちらと江原をうかがう。万引の現場をつかまって事情聴取されるような態度だ。ひざをくずし、脚を横に倒している。もう四十前後だろうが、色が白く、ふっくらした体つきで、胸のふくらみもゆたかである。
「そうね。江原さんだったわね。あのころ、あなたまだ新入社員だったでしょ」
江原が名乗ると、ばかにしたように女はつぶやいた。
「おれのこと、知ってたのか」江原はさけんだ。なにかがわかりかけてきた。
「石黒キャップにつきまとわれるといったな。キャップにきいたのか」
「そうよ。あの男にいわれて、あなたの前で万引したのよ。知らなかったの」
「わざとつかまったのか。そうか。おれに金をつかますために」
「やっとわかったの。石黒はあなたを仲間にひきずりこんだのよ。自分たちのしていることが外部にもれないようにね。あなただけじゃないわ。おなじ手口で仲間にされた人がほかにもいるはずよ」
江原は棍棒で頭をぶん撲られたような思いで、茫然と女をみつめていた。
一年前、渋谷のスーパーでこの女が万引を働いた現場をみつけ、店の外でバンをかけると、見逃してくれとこの女は哀願し、江原にむりやり七万円をおしつけて姿を消した。人目がなかったので、江原はつい金をポケットにいれてしまい、生まれてはじめて万引犯から小遣いをせしめる味を知ったのだ。あれが石黒の差し金だった。どうりで石黒は、一部始終を見通していたわけだ。
すると、おなじ渋谷のスーパーで江原に万引をみつかり、見逃してくれればホテルへつきあうともちかけてきた人妻も、石黒の手さきだったのだろうか。万引犯とホテルへいったのもあのときが最初だった。江原は石黒の仕掛けた罠に落ちて、悪徳警備会社に体を縛りつけられてしまったのだ。
「私があの店へ入っていくと、すみのほうにあの男が立っていて、あなたのほうをあごでしゃくってみせたわ。だから私、あなたのそばでわざとヘマをやったの」
「でも、どうしてあんたは――。石黒に現場をつかまったことがあるのか」
「そうよ。国分寺のスーパーで。あれ以来、私の生活は滅茶滅茶なの。死のうと思ったことが何度もあるわ」
生ビールの酔いがまわってきたらしい。女は赤くなり、ぐったりと体の線をくずし、疲れた表情をむきだしにした。
ハンカチで顔の汗を拭いた。泣いてはいない。はやく酔ってしまいたい様子で、女は一気に大ジョッキをからにした。
おどろいたことに女は中学の教員だった。やはり教員をしている夫と共働きで、もう勤続二十年近くになり、子供も二人いる。府中市に家を建て、平穏に暮してきた。ところが二年前、国分寺のスーパーで、ついでき心で衣料品を万引した現場を石黒につかまり、バッグのなかの身分証明書をみつけられて生活がまっ暗になったという。
その日は無事に放免されたが、あくる日呼びだされ、ホテルへつれていかれた。もてあそばれて、金も奪られた。何度かそんなことがあり、やがて連絡が絶えて胸をなでおろしたが、ある日何ヵ月ぶりかで呼びだされ、金をもって、石黒の部下の前でわざと万引を働いてつかまるよう命令された。いわれたとおり入社後まだ日のあさいその部下の前でヘマをやり、金をわたして逃がしてもらった。そんな囮の役目をさせられたのは、江原で三人目だという。江原を罠にひっかけた日、石黒はこの女教師に十万円を持参させ、三万円ピンはねして、のこりを江原の買収にあてさせたということである。
「あの野郎。なんて汚いやつだ。あの金でさんざんおれに奢(おご)らせやがった」
腹わたが江原は煮えくりかえった。
この女教師の場合も、色っぽくもちかけてきた人妻の場合も、ひょっとすると石黒の企みかと疑ったことはある。純子という人妻とホテルへいったときは、いちばんあやしい感じがした。だが、まさかと思いかえした。石黒がいくら悪漢でも部下にそんな非道を働くわけがないと信じたかった。とんでもないお人善しだったわけだ。石黒は、江原の考えもおよばぬ本格的な悪人だった。
「はやく足を洗うほうがいいわ。いまのままだと、あなたいつかは刑務所に入れられるわよ。ご両親のことを考えなさいな」
酔った口調で女教師はいい、でも、もう手おくれかもねとつぶやいた。二つ目の大ジョッキをほとんどからにしている。
たしかに手おくれかもしれない。会社を辞めると申し出たら、石黒はこうした手さきの女たちを使って、これまで江原の働いた悪事を警察にばらすと脅すだろう。直接の暴力に訴えるかもしれない。悪事がばれるのをおそれて、江原をこの世から消しにかかることもありうる。あの男ならやりかねない。長年警察につとめただけ、血なまぐさい事件に馴れて、平気で人殺しをやりそうな男なのだ。
今後どうするべきか。石黒に逆らって勝ち目があるかどうか。考えてみてもすぐに結論のでる話ではなかった。江原はいらいらし、頭が混乱してきて、不安と焦燥から逃(のが)れるためとりあえずビールをガブ飲みした。
「飲みましょうよ。今夜は酔っぱらいましょう。罠にかかったどうしなんだから」女教師はジョッキをもちあげ、飲みほして、三杯目を注文した。「私、話せる相手がほしかったのよ。だって、こんなことだれにもいえないでしょう。ばれたら破滅よ。これまで築いたものがみんなパアになっちゃうんだ」
破滅よ破滅、と彼女はくりかえした。
万引なんか働いたことを後悔する様子はない。この女が学校で、もっともらしい顔つきで生徒に教えているのかと思うと、江原は背すじがさむくなった。石黒につけこまれるのも当然だという気がする。どっちもどっちだ。
二時間近く、二人は飲み喰いして、その炉ばた焼の店を出た。女が勘定をはらってくれた。二人は腕をからませあい、もつれあって、どちらからともなくラブホテルの建ちならぶ界隈へ向かった。わるいことって一度してしまうと、くせになるのよね、石黒にホテルへつれこまれてから浮気が平気になっちゃった、と彼女は弁解がましくつぶやいた。
「あんた、名前なんていうの」
ホテルの前で江原は訊いた。
女教師はためらったが、そうか、どうせ石黒にはバレているんだとつぶやいて、
「悦子っていうの。森悦子。あんまり素敵な名前じゃないわね」
と、よろめいて、江原をひきずるようにホテルの玄関へ入った。
6
和室に二人は通された。案内の中年女が風呂の用意をするあいだ、森悦子は顔をかくすようにしてテレビをみたり、寝室のなかをのぞきこんだりしていた。
座敷机の前にすわって、江原光彦は冷蔵庫からビールをだしてかるく飲んだ。
案内の女が去ると、悦子は近づいてきて、くずれ落ちるように江原のそばにすわった。
息づかいがみだれている。酔いのせいか昂奮のせいかよくわからない。そのまま悦子は江原の体にもたれかかって、腕のなかに倒れ、キスをもとめる。
くちびるをあわせると、悦子はするどく吸いこんできた。なまあたたかい口中の粘膜に江原は舌をしぼられるように吸われて、たちまち欲望にかられてくる。悦子は両脚を横に倒し、あおむいて、上体を江原の腕にあずけてせわしく呼吸をくりかえした。
「なぜ万引なんかするんだ。教師のくせしやがって」
ブラウスの下へ手をすべりこませ、なまあたたかい肌にさわって江原は訊いた。胸のふくらみに触れると、いやがるような声をあげて森悦子は身をくねらせる。
「手がわるいのよ。この手が」彼女は目をとじてあえぎながら、左手で右の指をつかんで反りかえらせた。「ふっと手が出るのよ。自分でもよくわからないの。成功すると、わくわくしてとてもうれしいのよ。悪気じゃないわ。まわりの人がみんなバカにみえる。四次元の世界へ入ったみたい」
「四次元の世界。なんだそれは」
「わからないかな。自分だけべつの世界へ入ったような気がするの。現実が目の前にあって、私だけべつの空間にいるわけ。すごく自由なのよ。なにやっても、私だけはだれにも咎められないみたい」
「透明人間になった気分なのかな」
「ちがうけど、似てるわ。すごく自由なの。なんでもできるみたいなのよう」
ブラジャーをはずし、ブラウスの下で女の乳房を揉みながら、なにをたわ言をいうのかと江原光彦はあきれていた。
が、万引が成功したときの、まわりがみんなバカにみえる心理状態はわかるような気がする。自由になったような気分もわかる。女教師としてまじめに暮して、かえって悪事に誘惑されるのかもしれない。
「手がわるいのよう。この手が」
さかんに森悦子は両手を組んだり、すりあわせたりした。気位の高そうな外見とは反対の甘ったれた口調である。
縛って、と彼女はやがてつぶやいた。そういう予感が江原はしていた。この女教師はいじめられ、罰されたがっている。罰してくれる相手が必要なのだ。
「よし。縛ってやる。服をぬげ」
いわれて森悦子はかぶりをふった。恥ずかしいよう、と上体をふって駄々をこねる。
つべこべいうな。裸になれ。江原をかり立てるための媚態だと感づきながら、江原はあらあらしい気分になり、いきなり女のスカートに手をかけた。
乱暴にぬがせる。ホックがひきちぎれたらしいが、容赦はしない。下着とパンストをつけた、ぼってりした下肢があらわれ、懸命にさからってばたばたする。俯(うつぶ)せにし、馬乗りになって、江原は彼女の下半身を裸にした。どっしりしたヒップと、肉づきのよいわりにかたちのよいふともも、脚がむきだしになり、艶やかに肌の脂をかがやかせる。
上衣をぬがせようとして、江原は思いとどまった。このほうが屈辱的だし、刺戟的だ。そなえつけの浴衣の紐をとり、うしろ手に縛った。だが、まだものたりない気がする。もう一つの紐でいっぽうの足首を縛り、十センチばかりあそびの部分をのこして、もういっぽうの足首につないだ。そして、ひざを折らせ、両手を縛った紐と足首の紐を結びあわせる。
森悦子は上衣をきたまま、下肢をむきだし、エビのように全身をそらせてうしろ手に縛られる姿勢になった。
「どうだ森先生。素敵な恰好じゃないか。生徒にみせてやりたいよ」
スリッパをもってきて、どっしりしたヒップを一つ張りとばした。
森悦子は悲鳴をあげた。ごめんなさい、ごめんなさいと泣き言をいう。だが、体はよろこびでふるえていた。白いヒップの肉が、恍惚に溶けそうになってうごめく。
「ごめんなさい。もう万引しません」
「嘘をつけ。手が動いてしまうんだろう。あきれたもんだ。それでも教育者か」
「絶対にしません。だれにもいわないでね。ああ、私、破滅してしまう」
「もうしてるじゃないか。おまえは石黒の手さきなんだ。あいつにもこうしていじめられたのか」
「ちがうわ。あんなやつきらいよ私」
二度三度と江原はスリッパをとばした。白い大きなヒップにゆっくりと赤味がさしてくる。
女をいじめてよろこぶ趣味は、ないつもりだった。だが、そうされて昂る悦子をみると、しだいに残酷な衝動にかられる。ヒップに手をやり、その下方の暗く湿った箇所をあかりにさらそうとした。すると、悦子はのけぞって大きな泣き声をあげ、お風呂にいれてエ、と顔をくしゃくしゃにしてたのんだ。
「わかったよ。では風呂まで這ってこい。おれはさきに入るからな」
江原は服をぬぎ、裸になって、悦子のヒップを足でふんでから浴室へ入った。
戸をあけたまま湯ぶねに入り、部屋をみると、こっちへこようとして悦子は苦心惨憺している。ひざで這っては前に倒れ、横転してははげしい息をついている。
悦子は泣いていた。どういう種類の涙なのか、江原には見当がつかなかった。
じゅうぶんあたたまってから、江原は部屋へもどり、太ったエビのような悦子を抱いて浴室へもどった。
服が濡れてはかわいそうなので、手足を自由にしてやり、上衣とブラウスをぬがせる。全裸になると、悦子は急に羞恥心にかられたらしく、身をちぢめ、タオルで前をかくして湯につかった。ちょうどよく脂の乗った、白い、どっしりした裸体である。肌にじゅうぶんな張りがあり、胸もそれほどおとろえていない。湯ぶねのなかに身をちぢめ、まぶしそうに悦子は江原をみつめた。若いわねえ、こんなお婆ちゃんが相手でごめんね、と彼女はしおらしいことをいった。
もっといじめてほしいかと江原が訊くと、悦子はタオルで顔をかくし、目だけだしてうなずいた。恥じらいの色をおしのけて、目が欲望でかがやいている。
「よし。では外で待っている。はやく洗って出てこい」
いいのこして江原は部屋へもどり、座敷机のうえの灰皿やビールをかたづけた。
やがて悦子がバスタオルで裸体をつつんで浴室から出てきた。すわれ、と江原は命じて座敷机に彼女を腰かけさせる。
机の脚に、かたほうずつ悦子の脚を縛りつけた。脚をひらいて彼女は座敷机に腰かけ、体を固定されたかたちだった。
ついで、いやがる悦子をあおむかせ、両手をかたほうずつ座敷机の脚に縛りつける。悦子は大の字になり、下腹の草むらやその下の恥ずかしい粘膜の花をあかりにさらして、座敷机に貼りつけられた姿になる。
目かくしして、と悦子は要求した。いわれたとおりにしてやると、あられもない自分の姿がはっきり脳裡にうかびあがるらしく、悦子は呼吸をみだし、体をふるわせ、粘膜の花にたちまち光をおびてくる。
いじめて、いじめてと悦子は催促した。力をこめて江原がその乳房をつかむと、悦子は獣のような声をあげ、腰を波打たせる。
その口へ江原は男性を突きつける。渇いたように悦子は舌を鳴らした。ときおり江原に力いっぱい乳房を握られ、狂ったような声をあげて奉仕をつづける。
やがて江原は悦子の下半身のほうへまわり、彼女のうちへ侵入した。
ながいあいだ悦子は泣きわめき、やがて江原が欲望を発散させに身を乗りだしたとき、声をあげる力もうしなっていた。
7
女教師の森悦子と思いがけない情事をたのしんだあくる日の午後、勤務の手が空いた時刻をえらんで、江原光彦は思いきってキャップの石黒に声をかけた。
「ちょっと話があるんです。筋向かいの喫茶店で待っていますから――」
保安事務所のデスクに向かって警備記録に目を通していた石黒は、それをきいて一瞬むっとした表情になった。
若僧がなにを生意気な、話があるならここでしろといいたかったのだろう。
だが、気色ばんだ江原をみて、抑制したらしかった。角ばった顔にうすら笑いをうかべて石黒はうなずき、江原はその視線を背中にうけて事務所の外へ出た。スーパーSの売り場は、午後の買物客がどっとおしよせる前の平穏なざわめきのうちにあった。制服姿の同僚が二人、すみのほうで手持無沙汰に人々の姿をみまもっている。
筋向かいの喫茶店で、江原は緊張して石黒を待った。さんざん考えたすえ、いうだけのことはいっておこうと決心したのだ。石黒に頭をさげさせるのは無理としても、こっちがなにも知らずにいるわけではないことを認識させる必要はあった。だまっていては、ますます石黒のいいようにされる。細工がばれたと知って石黒がどう出るかにも興味があった。自分がもうすこし老獪なら、さりげない顔で勤務をつづけ、復讐なり退社なりのチャンスをうかがうだろうとはわかっていたが、江原は若くて感情をおさえきれなかった。
十分以上も待たせて、石黒キャップがまっすぐ江原をみて喫茶店へ入ってきた。
「なんやねん、話ちゅうのは」
向かいあって腰をおろし、たばこをとりだして石黒は訊いた。
獣じみた迫力を全身にみなぎらせている。反射的にライターをさしだしたくなる衝動を必死で江原はおさえつけた。
「きのう偶然、森悦子に会いました。話をぜんぶききましたよ」
江原は声がかすれた。どうしてこんなに緊張する必要があるのかと考えて、やっといくらかおちついた気持になる。
「森悦子――。ああ、あの中学の先生か。あれで社会科教えとるそうな。最近、子供の万引の多いわけがわかるわ。教育者がみずから手本をしめしとるんやさかいな」
濁った目をほそめて石黒は笑った。ゆうべ江原とあの女教師とのあいだになにが起ったか、すでに察した気配である。
「あの女に命令して、おれの前でわざと万引させたそうですね。無理に金をつかまされた。おかげでおれはキャップとおなじような人間にされてしまった」
「おいおい、大きい声だすな。あんまり自慢になる話でもないやろが」
大げさに石黒は手をふり、おどけた表情でまわりをみまわした。
江原が昂奮するほど彼は冷静になる。たばこの煙を吐いて江原をみつめた。そして、たしかにみんなわしのせいや、おまえを一人前にしてやろう思うてな、とつぶやいた。
「うちのような小さい会社には、いい人材がなかなかあつまらんのでな。おまえを引止めておきたかったんや。いうなら、光彦をみこんだわけや。わかるやろ」
「おれをみこんだ――。めいわくですよ。おれはまともな生活がしたい。刑務所ととなりあわせの生活なんかごめんです」
「ムショなんか関係あるかいな。わしをみてみい。ちゃんとした市民やで」
「冗談じゃないですよ。あんたのような悪人はみたこともない」
「おまえはまだ社会を知らんのや。そうやで光彦。おまえは社会のうわべしかみてない。それはたしかや」
ひとりで石黒はうなずいた。そして、この世の中がきれいごとの裏側のどんなに醜く、どんなに奸智にたけた営みのうえで成り立っているかについて語りはじめた。
政治家は賄賂をとり、選挙違反をかさねて権力を握る。企業家は賄賂をおくり、脱税をかさねて成長する。それができない人間は、一生うだつがあがらぬまま終るしかない仕組みになっている。一般市民の道義感覚からぬけだして、はじめて非凡への道がひらける。われわれのように学歴も金も有力な縁故もない者はことにそうだ。ながいあいだ警察にいて、わしはそんな世の中をみてきた。善悪を考えて暮しては、なにもできないことが肌身にしみた。わしは善悪の観念をすて、うまくやるかヘマをやるかだけ考えて生きようと決心し、警察をやめ、青空警備会社へ入ったのだ。ここを足場に、いずれ世の中へ打って出て一花咲かせるつもりでいる。おまえもここで肚をくくって、将来なにかひとかどの者になる準備をしてはどうかというのである。
「柿本をみてみい。あいつは良心がどうのとはいいよらん。自分の店をだすために、割りきって金を貯めとるがな」
石黒は入院中の柿本の名をあげた。
江原はだまって石黒をみつめていた。悪人なりに理窟が通っている。いやしい我欲のかたまりにしかみえなかったこの男が、案外きちんとした哲学をもっていると知って、江原は認識をあらためた。どんな人間でも、だてに年齢はとらないらしい。
「でも、おれは柿本とちがいます。危い橋をこれ以上わたりたくない」
「とくにわたる必要はない。それならそれでおとなしゅう勤務しとりゃええのや。その代りなんのたのしみもないで」
「刑務所へいくよりはましです。もうこれ以上、知らぬまに罠にかけるようなことをしないでください。こんどひっかけられたら、おれ、辞めますから」
江原は伝票をつかんで立とうとした。
話のなりゆきが、自分の意図とちがってきたような気がする。本音をいえば、辞める気はなかった。金と女がこれだけ自由になる仕事はない。勤務もらくだ。いまさら堅い会社へ移るなんて、考えただけでぞっとする。考えてみると江原は、この世界へひっぱりこまれたことではなく、罠にかけられたことで石黒に腹を立てていただけだった。子供あつかいされたことが癪(しやく)にさわったのだ。
「まあ待て光彦。おまえいま辞めるいうたな。かんたんに辞められる思うんか」
あくまでガキやな、おまえは、と石黒はあざ笑った。
思ったとおりの反応である。おまえが辞表をだしたその日、警察がおまえを逮捕にいくだろう。森悦子や、純子という人妻や、ほかにも石黒の息のかかった何人かが脅迫や暴行で江原を告発するからだと石黒は説明した。
「そうなれば、おれもキャップのやったことを洗いざらいバラしますよ。そっちのほうがずっと罪は重いはずだ」
「アホぬかせ。証拠もないのに、警察がそんな話を信用するか。ましてわしは、むかしは警察官やったんやからな」
「森悦子らが白状しますよ」
「その心配はないな。あの女どもは、自分の立場をまもるのに精いっぱいや。殺されたかてほんまのことはいいよらん」
まあ変な考えはおこさんほうがいい、おまえの損や、おとなしく勤務していればなにも害は加えんさかい、と石黒はいった。
思いがけない安堵を江原は感じた。もう身動きできない、かんたんにこの会社からぬけだすすべはないと知って、かえって安心したのである。いつのまにか悪の世界が彼は気にいっていた。ひょっとすると江原は、自分がもうがんじがらめであることをたしかめ、この世界に安住したい下心から石黒をここへ呼びだしたのかもしれなかった。
「よくわかりました。当分、辞める気を起さずにやりますよ。おれにもじつは目的があります。このあいだおれをひっかけた女をさがしだして、柿本をおそったやつらをなんとかムショにたたきこんでやりたい」
会社を辞めないための絶好の口実が、江原の胸にうかんできた。
木下道代に会いたい、あの娘をさがすにはいまの仕事をつづけるのが便利だから、当分辞めるべきではないと江原は自分にいいきかせた。いつかは刑務所いきだとのおそれが、こうして完全に棚あげされた。木下道代をさがすために、また、すでにがんじがらめに縛られているおかげで、青空警備会社を彼は辞めずにすむのだった。
「そらいい心掛けや。まあ、あせらんとぼちぼちやれ。そのうちおまえも、わしに感謝するようになるのやから」
二人は喫茶店を出て、スーパーSへもどっていった。
午後の買物客がおしよせて、売り場は生き生きと雑踏していた。
8
スーパーSとの契約更改期をひかえて、石黒キャップはあせっていた。
このあいだの強盗事件でスーパーSは大きな被害をうけている。精密な棚卸のすえ、被害額はあの夜総務部長がいった四、五百万円にはたっしないとわかったが、それでも三百万円を越す数字がはじきだされた。高価(た か)い金をはらってガードマンをやとってもなんにもならない、ほかの警備会社と契約しろとの声がスーパー側から起っても当然である。
摘発実績をあげろ、なんでもいい、万引犯を連行しろと石黒は朝から吼(ほ)えつづけた。一日一件もつかまえられなかった者は、みんなの前で罵倒された。そして最後はかならず、「光彦。おまえのヘマのおかげで班ぜんたいが苦境に立っとるんや。わかってるやろうな。検挙実績で挽回せえ」
と江原に尻がもちこまれた。
スーパーにはさほど高価な品物はおかれていない。少々摘発実績を増やしても、三百万円の損害がカバーできるわけがなく、契約更改にあたってスーパー側はたいして参考にもしないだろう。だが、それでも石黒はヒステリックに江原たちの尻をたたいた。もし更改ができなければ、石黒班が顧客を一つうしなったということで、青空警備会社での彼の評価が低下するせいである。
そんなある一日、江原光彦は目を皿にして努力したのに、朝から一件も万引を摘発できずに夕刻を迎えた。このままではまた石黒の罵声の餌食になる。最低一件は、むりにも実績をつくらなければならない。
覚悟をきめて、江原は獲物を物色しはじめた。万引犯がみあたらなければ、こっちがつくりだすだけだ。なるべく気の弱そうな女をえらんで、本人の買物袋やバッグのなかに店の品物を突っこみ、女が店を出てからバンをかければよいのである。
保安事務所へ連行し、住所氏名をききだして品物を買いとらせれば、それで摘発実績になるのだった。かんたんなことだ。知らぬまに品物が買物袋に入っていたと主張しても通ることではないから、十人が十人とも泣く泣くいいなりになって帰っていく。
獲物をねらう目で売り場をみると、女たちはほんとうにこの世の中の怖さを知らずに生きていた。どんな拍子で万引の罪を着せられ、拉致されたり、金やセックスを強要される羽目になるかなど考えてもみない。なにを買うか、なにを食べるか、どんなセックスをするかなど自分の事柄だけに熱中していた。おろかな羊のようなものだ。買物袋やバッグの口をあけはなしていたり、盗ってくれといわんばかりに買物籠に財布をおいていたりする。これが石黒のいう市民の道義感覚のあらわれだろうと江原は思う。自分に害意がないから、他人にも害意がないと信じている。
あまりに平和な、おろかしい主婦の姿をみると、江原は彼女らをつぎつぎに地獄へ突き落したい衝動にかられた。事情聴取でいじめるだけではまだ足りない。ホテルへつれこみ、裸にして、思いきって屈辱的な目にあわせてやりたい。買物の女たちはあまりに呑気で、世間知らずで、そんなことでもなければ利口になれまいという気がする。
そんな江原の目に、一人の中年女の姿が映った。美人でもなく、挙動に不審があったわけでもないが、二階の事務所へつうじる階段の下で彼女がスーパーSの総務部長と話しているので目についたのだ。
総務部長はごま塩頭の、五十前後の貧相な男だった。女は彼の妻らしい。買物にきたついでに夫の職場をたずねたのだろう。
いかにも古びた夫婦らしく、部長は仏頂面で妻の話にうなずいている。久しぶりで盛り場へ出た人妻にふさわしく、女のほうは晴れやかな顔をしていた。太って愚鈍な目をしたどこにもいるおばさんである。
あることを考えついて、江原は保安事務所にもどった。監視カメラをみていた同僚に目くばせして外へ出てもらい、デスクにいる石黒を、キャップちょっと、と手招きする。
「総務部長の女房がきていますよ」
立ち話する夫婦のほうへ、江原はカメラを向けてみせた。
暴漢におそわれた柿本の容態を気にもせず、被害の大きさばかりわめき立てたあの男に江原はいい感情をもっていない。
「あれが奥さまかいな。ふん、なんちゅうことないおばはんやな」
ひまなので石黒はカメラをのぞきにきた。それだけ万引の摘発がすくないわけだ。
「いま考えたんですがね、あのおばさんに花子さんになってもらいましょうか。契約更改の役に立つんじゃないですか」
ふりかえって江原は訊いた。
花子さんとは女性の万引犯を指す隠語だ。どうせだれかを万引犯に仕立てるなら、このスーパーの保安責任者である総務部長の妻にその役目をさせようというわけである。
「あのおばはんをか――。そいつはどうかな。一つまちがうとえらいことやぞ」
カメラをみながら石黒は思案した。
そして、おどろいて江原をみつめ、なんや光彦、危い橋をわたりたくないというてたばかりやないか、とつぶやいた。江原の心理の微妙な揺れ具合がわかる男ではない。
「契約更改ができないとなると、おれの責任ですからね。それに、どうせ会社にいるかぎり危い橋をわたる必要があるから――」
「たしかにオモロイな。うん、たしかにオモロイ考えや」カメラをみたまま、石黒はうなずいた。「あの総務部長をおどしあげたったら、気分ええやろ。一発で更改しよるかもわからん。よし、やってみるか」
江原は宿直室へいき、制服をセーターとズボンに変えて出てきた。悪質な万引やスリの摘発に向かうときの服装である。
カメラをみると、夫婦はやがて話を終え、総務部長は事務所へもどった。予想どおり妻は売り場で品物を物色しはじめる。
「わるいやっちゃな。おまえも一丁前にわるいやつやないか。なんで辞めるなんていいださんならんのや」
石黒の声に送られて江原は事務所を出た。
そして、雑踏にまぎれこみ、足音をころして、影のように部長夫人へ近づいた。部長夫人は衣料品売り場で、靴下だの下着だのちんけな品ばかり物色している。
そばに大勢女がいたが、みんな欲ボケして商品に見惚れ、江原になど目もくれない。
江原はパンティストッキングを三つ、部長夫人のバッグへほうりこんだ。この女も安心しきって生きている。バッグは大きく口をあけたままだった。
江原は事務所へもどり、石黒に笑いかけてから、あらためて制服に着替えた。
9
店を出て去りかける中年女に、江原光彦は例によって丁重にバンをかけた。
「失礼ですが奥さん、バッグのなかを拝見したいんですが」
中年女はふりかえった。意外にも、狼狽した表情をうかべている。江原は胸をつかれ、神経をはりつめた。ひょっとするとこの女はこっちがひっかけただけでなく、ほんとうになにかを盗ったのではないだろうか。
「なによ、あんたは」
ひきつった声で女は訊いた。
江原の予感が確信に変った。絶対におかしい。女はくちびるをふるわせ、逆上して、血走った目になっている。
「ごらんのとおりガードマンです。いま奥さんのなさったことをみていました」
「私がなにをしたのよ。冗談じゃないわ。私はこの店の総務部長の妻なんですよ。だれがここでわるいことなんか」
「どなたの奥さんだろうと、われわれには関係ないんです。ガードマンは犯罪を摘発するのが仕事ですからね。あくまでバッグをみせていただけないなら、保安事務所へ同行ねがいます。それとも警察へいきますか」
かりにも警備先の保安責任者の妻である。粗略にはあつかえない。目立たぬように腕をとって、江原は女を事務所へつれていった。女は蒼白な顔である。
「主人を呼んでください。こんな目にあってだまっていられないわ。主人にいってあんたたちみんなクビにしてやる」
いきまく女のまえで、キャップの石黒がにやにや笑って鼻毛をぬいた。
「ええのか奥さん。ご主人がいったいどなたか知らんが、へたに呼び立てると、あんたもご主人も破滅でっせ。よう考えなはれ」
穏便にはからいましょう、バッグのなかをみせなさい、と石黒がさとしたが、女は応じない。かたくなにバッグを抱きしめて主人を呼べというだけである。
石黒が電話をとり、二階の事務所にいる総務部長を呼びだした。まもなく部屋の扉があき、貧相な部長がせかせか入ってきて、妻に目をとめ、どうしたんだおまえ、と噛みつくような声で訊いた。他人のまえでは、男は妻にたいして威丈高になりがちである。
「たすけてパパ」女は泣きじゃくった。
「この人たち、私が万引したっていうの。パパの会社でそんなことするはずがないのに」
「私が確認しました。まさか部長の奥さんとは知らなかったんです」
江原光彦が横合から事情を説明した。ガードマンなど虫ケラとしか思っていない部長の顔がみるみる怒気でふくれあがるのを、冷静に彼は観察していた。
「おまえが、確認、したって」憤怒のあまり部長は息を切らせていた。「ば、ばかやろう。うちの家内が万引なんかするわけがない」
「まちがいなく確認しました。衣料品売り場で。もし誤認だったらクビになってもいい」
「バッグをみせてくれはったらよろしいのや。奥さん。そうしましょう。まちがいやったらすぐ疑いが晴れますがな」
女ははげしくかぶりをふり、大きなバッグをいっそう固く抱きしめる。なにもしていないのに検査される必要はない、人権蹂躙(じゆうりん)だ、パパ、なんとかいってと彼女は抗弁する。
総務部長の顔に困惑の色があふれでた。よこしなさい、と声をかけて、いやがる妻の腕からバッグをむしりとる。部長がそれをあけると、デスクに伏せて妻は号泣しはじめた。江原がこっそり突っこんだ靴下のほかサラミソーセージ、ハム、それに他店の商品らしい男物のスポーツシャツが二点出てくる。怪我の功名というやつだった。総務部長の妻はこのスーパーSでもよその店でも、ほんとうに万引を働いていたのだ。
「きさまーッ」
かん高い、悲鳴じみた声をあげて、部長は泣き伏す妻におどりかかった。
猛烈に撲りつける。髪をつかんでひきずり倒し、何度も足蹴にした。うつろな顔で、狂ったように部長はあばれた。夫婦のあいだのことでもあり、男の怒りと絶望の度合が他人(ひ と)ごとでなく身にしみて、石黒も江原も制止できず茫然と活劇をみつめていた。かぼそい声で泣きながら、部長の妻は両腕で頭をおおいかくし中年太りの体を投げだして巨大なイモムシのようにうごめいている。女は醜く鼻血にまみれ、ゆるして、もうしない、もうしませんと子供のように訴えつづけた。
やがて総務部長は疲れきって、ぐったりと椅子にかけて頭をかかえた。なんということだ。面目ない、きみたちにあわす顔がないと貧弱にすすり泣きをはじめる。正視できずに江原は横を向いた。人間とはなんてばかな生き物だろう、どうしてこんなに際限もなくおろかなのか、最低なのか、と考えてしまう。
「まあ、このへんでよろしいやろ。もちろん警察沙汰にはしません。けど部長、これであいこですな。こないだの盗難事件の借りを帳消しにしてもらいまっせ」
いわれて、あわただしくうなずく部長をみて石黒は会心の笑みをうかべた。他人の悲惨に心を動かした気配はない。
総務部長の妻は背をまるめて去ってゆき、みとどけて部長も二階へもどった。
「ようやった光彦。これで契約更改の心配せんでもようなったぞ」
石黒に賞められたが返事をせず、江原は売り場の監視にもどった。
罪の意識もなくケロリとした万引女をつかまえるほうが、どれだけ後味がよいかわからない。彼女らにとって万引は、一種のスポーツだから、負けは負けと割りきって、悄然とするだけで帰っていく。正真正銘まずしくて商品に手をだすごく少数の万引犯も、つかまえてむしろ同情のわく相手だ。いまの部長夫人のようなのがいちばんやりきれない。妙な知恵とおろかさと罪の意識と恥知らずがないまぜになって悪臭を放つような女である。あんなのとよく一緒に暮せるものだと江原は思う。
勤務の終る五時が、江原光彦は待ち遠しくなった。きょうも新宿駅の雑踏のなかをさまよって、当てもなく木下道代をさがしまわるつもりである。
きっといつか道代に会える。小太りの愛らしい裸体を抱きしめ、あわせて柿本をおそったやつらの名前をききだす。その日がきっとくると彼は自分にいいきかせる。
無性に道代に会いたかった。悪臭のかたまりのような部長夫人をみたあとだけに、なおさらだった。道代だって悪党の一味のはずなのだが、だれがみてもわるいあの娘のほうにかえって無垢な心が感じられて仕方がない。やはり惚れた弱みなのだろうか。
10
その木下道代から、数日後の夕刻とつぜん電話がかかってきた。
九時から五時までの平常勤務の日だった。同僚の倉本と組んで置引を一人つかまえ、保安事務所で後処理を終えてふたたび売り場へ出ようとしたとき、
「おい光彦。彼女からだぞ」
と倉本が受話器をさしだしたのだ。
「もしもしイ。あ、た、し」
甘えた声をきいて、江原はよろこびよりも狼狽にかられて倉本をうかがった。
盗難事件の夜、自分を呼びだした女が木下道代であることは秘密にしてある。あの夜の女からの電話だと知られてもまずい。だが、倉本は太った血色のよい顔になんの疑念もうかべず、監視カメラのほうへ去った。強盗犯の一味である女からまた電話が入るなど、思いもおよばないのだろう。
「きみか――。いまどこ」
「アルタのそばの喫茶店なの。ねえ出てこない。もうすぐ五時でしょ」
「なにをいうんだ。まさかこの前のこと、わすれたわけじゃないんだろうな」
「おぼえてるわよオ。だから電話したんじゃない。会いたくなったの」
歓喜が江原の胸をつらぬいた。道代はやはり事件に無関係だったらしい。一緒にホテルへ入った隙にたまたま強盗がここをおそったのだ。そうでなければ、こうしてまた電話をかけてきたりはしないだろう。
「この前、どうしてすぐ帰ったんだ。朝までホテルにいるっていったのに」
「でも、さびしくなったの。ラブホテルにひとりで寝てもつまらないもん」
待ってろ、五時すぎたらすぐいく、と小声でつたえて江原は電話を切った。
きょうは江原は夜勤ではない。まさか留守をねらうための呼び出しではないだろう。それにまだ夕方だ。警備が手うすになっても襲撃できる状態ではない。やはり道代は事件に無関係だったのである。なにも知らずにデートのさそいをよこしたのだ。
五時すぎ、平服に着替えて、江原は飛び立つように待合せの喫茶店へ向かった。
だが、完全に気をゆるしたわけではない。万一にそなえて、あれから毎日登山ナイフをもちあるいている。喫茶店の近くに妙なやつがいないか目をくばって、異常なしとみてなかへ入った。窓ぎわの席で待っていた道代と向かいあって腰かけても、
「しばらくねえ。元気だった」
と笑いかける道代の言葉には上の空で、しばらく周囲を警戒した。
あやしいやつはいない。美人局(つつもたせ)などの心配はなさそうだ。江原はやっと安心してポケットのなかでナイフから手をはなし、まぶしく笑って道代と向かいあった。
「どうしたのオ。なんか変よ光彦さん」
「いろいろあったからね。あとで話すよ。きみに関係ないみたいだからさ」
しばらく二人は雑談した。道代はテーブルのうえに身を乗りだし、頬杖をついて、いまにもキスしにきそうな態度で話した。
道代は白いブラウスに赤いスカートをはき、小さなバッグをもっていた。学校のことは話さない。つまんないだけよ、と一言いったきりである。江原がしつこく学校の名を訊くと、都心にある有名な女子高校の名を口にだした。三年生だそうだ。上部機構の大学へ自動的に進学できる高校である。
「きみ、ほんとうにその高校の生徒なのか。身分証明みせてみろよ」
「いや。関係ないでしょ、そんなの」
「名前も本名じゃないんだろ。この前つかまったとき嘘をいったんだ」
「だって、いいたくないんだもの。わかってよ。しつこく訊かれるのって好きじゃないの」
「まだやってるのか、これ」
江原が人差指を曲げてみせると、やってなーいと道代はこたえてふくれ面になった。
「いやアね光彦さん、どうしてそんなにムードの壊れることばかりいうの」
「気になるんだ。好きだから」
毎日新宿駅へ出て、道代をさがしあるいていることを江原は打ちあけた。
変な女教師に会ったことも、ホテルへいったこと以外は話した。柿本のことはだまっていた。道代が強盗の一味かもしれないとの不安はまだ完全に消えていない。なにか情報がとれるかもしれないから、事件にはわざとふれずに通すつもりである。
「ほんとう。さがしてくれたの。わあ感激しちゃった」道代は、目じりにしわをよせてよろこんだ。「ほんとう。私に会いたかったの。そんなに」
顔をよせて、道代は指で江原の頬を突き、感激だなあ、とくりかえした。
テーブルのしたで二人の脚がふれあった。道代の体からむっと色香がおしよせて、江原を熱くする。
「毎日いってたのオ、新宿駅へ」
「だからさ、きみのこともうすこしくわしく教えてくれてもいいだろう」
「そのうちね」道代は目を伏せた。「いろいろ都合があるの。そのうちにね」
江原の手をとって道代は頬ずりし、指を噛んだ。まるで人目を気にしていない。
食事しよう、と語りあって、やがて二人はその店を出た。道代は腕をからませあい、ぴったりと体を寄せてくる。
「ねえ、裸でお食事しようよ。ホテルの部屋でなにか注文してたべるの。そのほうがおいしいよ」
今月は万引犯から小遣いを巻きあげていないので、江原はあまり金がない。レストランは痛いなと考えていたところなので、一も二もなく賛成した。黄昏の盛り場を通って、二人はラブホテルのほうへあるいていった。
和室へ通され、二人きりになると、道代はすぐに服をぬぎはじめた。白い、小太りの体がたちまちあらわになるのをみて、江原もいそいで服をぬぎすてた。先端の反った丸い乳房を揺すって道代は下着をとり去り、顔をあおむけ、目をつぶって抱きついてくる。
全裸で抱きあって、二人はくちづけをかわした。かわいて、心もち汗ばんだ肌と肌が密着しあい、ぬくもりと胸の鼓動をつたえあった。起伏のゆたかな道代の裸体をなでまわして、江原はしばらくうっとりした。
絶対にこの子はわるい女ではない。それをたしかめたような気がする。こんなに愛らしく、正直で、無邪気で、淫らな娘が、きょうの部長夫人のように汚れているわけはないと信じられる。下半身に甘い感覚がして、したをみると、道代が手をのばして江原の男性を可愛がっていた。幸福そうに目をとじ、呼吸をみだしながら、せっせと彼女は右手をうごかす。そんなに巧みな手つきではないが、心をこめてそれをつづけた。
両掌でかかえあげるようにして、江原は双つの乳房を揉んだ。うーんと甘い声をだして道代は反りかえり、背のびをする。白い下腹部の草むらが江原のそれとふれあった。道代は手のうごきをつづけたまま、
「感激だなあ。私に会いたかったの」
とつぶやき、また甘い声をあげて反りかえり、背のびをする。丸っこい、愛らしい足がすべての指でふんばって体を支えていた。
道代の下腹部の草むらの底へ、江原は指をすべりこませようとした。すると道代はその手をおさえ、身をひるがえして、
「女のたしなみだもんね」
と、浴室へ駈けこんでいった。
大きなヒップがゴムマリみたいにはずんで消えた。江原は昂奮をおさえ、寝室へいって電話で天丼を二つ注文する。それから冷蔵庫のビールをとりだして飲みはじめた。天丼はすぐとどくそうだ。二人で入浴中のところへ出前がきてはバツがわるいので、そうやってしばらく待つことにする。
十分ばかりしてビールを飲み終ったころ、桜色の裸体をタオルにつつんで道代が部屋へもどってきた。交代して江原が入浴する。その間に天丼の出前がとどいた。大いそぎで体を洗い、江原は部屋にもどった。
全裸のまま、江原は道代のそばにあぐらをかき、畳のうえに天丼をおいた。道代はきちんと正座し、座敷机のうえから丼をとってやはり自分の前へおいた。お茶をいれて、二人は向かいあって食べはじめた。江原が手をのばし、道代の体からタオルを剥ぎとると、
「食べながらみるんだからなあ。いそがしいんだから、もう」
と、道代は笑った。彼女もビールを飲んですこし眠そうな笑顔である。
「あぐらをかけよ、おれみたいに」
江原がいうと、仕方なさそうに道代は笑って、こう、といわれたとおりにした。草むらの下方に可憐な桃色の花がみえ、江原はのどがつまりそうになった。
ふいに道代が丼をわきに寄せ、江原の脚のうえに倒れかかってきた。正面から道代は彼の男性を口にふくんだ。天ぷらのあぶらにまみれた道代の口の中の粘膜が、すばらしくなめらかに江原のそれをつつんでうごく。
両ひざをついた道代のヒップを頭ごしにながめて、江原はしだいに呼吸をみだした。
蜘蛛の網目
1
やがて夏がやってきた。七月から、江原光彦ら石黒班十二名のガードマンは、銀座Zデパートに配置変えになった。
新宿のスーパーSの保安責任者である総務部長の妻が万引を働いてくれたおかげで、青空警備会社は同店との保安警備契約をぶじに更改することができた。強盗の侵入をゆるし、同店に三百万円以上の損害をあたえた以上、契約を打ち切られても仕方のないところだったが、江原たちに弱味を握られた総務部長が必死でスーパーSの経営陣を説得して、更改にこぎつけてくれたのである。
ただし、条件として部長は石黒班の配置変えを要求した。妻の失態を知るガードマンたちと毎日顔をあわせては仕事がやりにくいから、当然だろう。青空警備会社としては契約を更改できるだけでオンの字である。一も二もなく条件をのみ、他の班をスーパーSの保安警備にあて、石黒班を銀座Zデパートに派遣することにしたのだ。
「ええか。特売場はべつとしてデパートは高級品が多い。万引しにくるやつも、当然プロが多くなる。いままでの二倍、気合をいれて警備せんと舐められるぞ。わが社の名誉にかけて、わるいやつをしょっぴいてこい」
石黒キャップは毎朝江原たちの前でぬけぬけとそんな演説をした。自分の悪事を棚にあげてもっともらしい口をきくのが、現代を生きぬく術の第一歩であるらしかった。
Zデパートのような超一流の企業は、たいてい大手の警備会社と保安警備の契約をかわしている。その下請けのかたちで、青空警備会社はガードマンをここへ派遣したのだ。大手の警備会社のガードマンたちと協力しあって江原たちは勤務につくことになる。だから石黒はわが社の名誉などという大時代な言葉をつかって部下にはっぱをかけるわけだ。
江原たちは四人ずつ三チームにわかれてそれぞれ勤務につくことになった。
傷がなおり、病院から出てきた柿本と、柔道三段の健康優良児である倉本が、江原とおなじチームに最初入った。予定よりはやく柿本は病院から出てきた。頭部の傷がほぼ回復し、とりあえず糸をはんぶんぬきとる処置にかかった医師があわて者で、
「あれれ、ぜんぶ糸がとれちまった。もういいや。あした退院」
という経過で病院を出たそうである。
「いいかげんなもんだよな。まちがって耳をチョン切られなくてよかった」
屈託なく柿本は笑って勤務についた。事件のとき江原が持場をはなれたことに、一言も恨みをいったりしない。
翳りのない柿本の顔を、江原は正視できない気分だった。木下道代のことをかくしているので、なおさらである。あの子は事件に関係がない。柿本をおそった犯人をいつかかならずつかまえてやると、あてもなく自分にいいきかせる。道代が無関係なら、犯人さがしの手がかりはまったくないわけだが、それは考えにいれたくなかった。
スーパーとちがって、デパートの店内には華やかな雰囲気がみなぎっていた。生活必需品はもちろん、人の虚栄心や贅沢志向をみたす商品がいかにも豪華に、誘惑的に陳列されて買物客の目を刺戟する。宝の山に気をとられて、人々はばかみたいな顔つきで通路をゆききした。ことに女がそうだった。
江原のみたところ、女は物品に執着がつよい。高価な装飾品や衣料品の売り場へきただけで、ぼんやりと酔ったような顔になる。酔ってしまうから、金もなく、はっきりした買物の目的もないのに、うつろな顔でいつまでも売り場をさまよっていられるのだ。素人の万引犯に女が圧倒的に多いのも、なにか物品を手にすることで無条件におちついた気持になれるからだろう。
スーパーでは食料品を筆頭に衣料品、日用雑貨、子供用品、装飾品の順番で万引の被害が出た。これがデパートでは衣料品、装飾品、子供用品、日用雑貨、食料品の順番になるそうだ。石黒の演説にあったとおり、高級品もたまに盗られる。衣料品や装飾品の売り場にさしかかると、江原たちはしぜんに神経をはりつめて、挙動のあやしい客がいないか周囲をうかがう姿勢になった。
デパートは客の数が多い。群衆といってよいほどである。みまわるだけで目が疲れるのに、店内を浮遊するこまかな塵のおかげで夕刻には目が充血してきた。主婦たちがすさまじい形相で品物を奪いあう特売場に長居すると、目が痛むくらいだった。
「これで小遣いかせぎのたのしみがなけりゃ、こんな商売バカらしくてやってられないよな」
「まったくだ。ばかな女どもが刑務所へ入らなくてもすむようにお守しているんだからな。一種のサービス業というわけだ」
欲ボケした買物客をみていると、やりきれない気分になってくる。自嘲的な言葉を吐きながら、江原たちは店内をあるきまわった。
木下道代に似た、色白で小太りの女をみかけて、江原は日に何度かはっと胸をおどらすことがあった。声をかける寸前、人ちがいとわかっていつもがっかりした。道代に会いたい、どこかでめぐり会えるかもしれないという気持が、人ちがいを誘発する。急に電話をかけてきてデートをたのしんだあと、道代はとうとう身許も連絡さきもあかさず、江原の前から姿を消してしまった。
会いたくなれば道代のほうから連絡するという。江原がZデパートに移ったことを道代は知らないが、スーパーSへ電話が入れば、同僚のガードマンがこちらの電話番号を伝えてくれるはずである。ホテルの部屋で一緒に天丼をたべて以来一ヵ月になるのに、道代からはなんの連絡も入らなかった。ひょっとしてこのデパートで会えるのではないかとの期待が、それだけにふくらんでしまうのだ。
Zデパートでつかまえた最初の万引犯は、二人づれの主婦だった。一人は四十歳前後、もう一人はまだ三十前らしい、小柄でひきしまった体つきの、かなり美しい女だった。
そのとき江原は柿本と一緒に私服で店内をパトロールしていた。婦人服の売り場を通りかかったとき、全身に異様な気配を感じて江原はまわりに目を走らせた。
その二人の女の年上のほうが女店員をつかまえて商品の説明をさせている。年下のほうは何百種類もの既製服の吊り棚のあいだをゆっくりあるいて商品を物色していた。一見二人は赤の他人どうしのようだった。が、よくみると年上の女は話しながら女店員の視線をさえぎるように徐々に体を動かし、その死角へ年下の女がゆっくり入っていって、二人が仲間であることをうかがわせる。
年下の女の目の動きがあわただしい。体の線もこわばっている。あきらかに彼女は盗ろうとしていた。二人で組んできたあたり、相当悪質だが、あの緊張ぶりでは手馴れたプロではないのだろう。
江原は柿本を肘で突っつき、近くの陳列棚の陰にかくれて女の挙動に目をこらした。
午前中なのでまだ客はすくない。店員たちも眠気のさめない表情で私語をかわしたり、ぼんやり立ったりしている。万引犯にとっては穴場の時刻である。
「あの二人だけかな。プロだとすると、ほかにも仲間がいそうなもんだが」
「いや、それらしいのはいない。あの二人だけだよ。まちがいなくカモだぜ」
柿本と江原は小声で話しあった。最近、検挙実績の向上に邁進したので、小遣いにも女にも江原は不自由しているのだ。
年上の女が完全に女店員の視線をさえぎってから、年下の女は行動を開始した。服を手にとり、一瞬左右をたしかめたあと、手にした大きな布製の袋にほうりこむ。またべつの服をとり、袋にいれた。四、五回それをやって布袋は重そうにふくらんだ。年下の女はそのまま通路へ出てあるきはじめ、年上の女はまだ女店員と話している。
「追いかける。こっちの女をたのむぞ」
柿本に声をかけ、江原は年下の女を追った。事後の成功感をたしかめるように女はゆっくり売り場をぶらつき、やがてエスカレーターで階下へおりていった。
2
一瞬も目をはなさず、江原光彦は女のあとを追った。職業意識からでも、女からなにかをせしめたい欲からでもなく、狩猟本能にかられて彼は女を追いつづけた。
白いブラウスにモスグリーンのスカートを女は身につけていた。腰がひきしまり、脚もきれいで、気のきいた色香にあふれるうしろ姿だった。一階へおり、もう安全と思ったらしく女の足どりがかるくなる。十メートルばかりはなれて追う江原にはまったく気づかず、女は呑気そうにいくつか売り場を覗いてから中二階の喫煙所へ足を向けた。
年上の女がすでに喫煙所のベンチへ腰をおろしている。エレベーターでまっすぐそこへやってきたのだろう。二人はうなずきあって一緒に正面の出入口のほうへ向かう。物陰から柿本があらわれ、江原と一緒に階段のおどり場で女たちに追いついた。
「困りますな奥さんがた。婦人服売り場からずっと追いかけてきたんですよ」
柿本があかるく声をかけて、女たちの進路に立ちふさがった。
二人の女は顔をひきつらせて立ちどまり、柿本と江原をみくらべた。なんのことですか、いったい、と年上の女が必死でとぼけたが、みにくく狼狽した表情になっている。
「われわれは警備員です。さ、どこかであとしまつのご相談をしましょう。すなおに話をきかせてくれれば穏便にはからいます」
「わるあがきはしないほうがいいですよ。警察へいきたくないのなら」
江原と柿本にいわれて、女たちは観念した様子だった。
年上の女は頬をふるわせている。年下のほうはあおざめて、口をむすんだままだった。くちびるの両端が愛らしく上向いている。気丈に動揺をおさえているようだが、ショックでうつろな目をしていた。
二人の女を左右からはさんで江原と柿本はおもてへ出た。だれも四人の姿に注意をはらう者はなかった。喫茶店では人目につくので、近くの駐車場へ江原たちは入った。
「悪質だな奥さんたちは。二人でチームを組むなんて、素人のやることじゃない。だいぶ余罪があるんだろう」
「この袋だって、万引用につくったんじゃないのか。便利にできすぎているよ」
江原は若い女の手から布袋を奪いとった。
天幕のような布地で、外側に仔熊の縫いとりがある。海水浴にいくとき重宝しそうな袋だった。なかにはワンピース、ブラウス、スカートが数点ずつ入っている。値段にして十万円ぐらいになるだろう。
「私はなにもしてませんよ。さっき中二階で偶然この人に会っただけ。ほんとうです。私はなにも盗ってないんだから」
両手をひろげて年上の女が訴えた。
泣きそうな顔で、声がかすれている。盗ったのはこの人よ、わたしはなにもしていないと、彼女は汚い物をみるように年下の女へ目をやった。年下のほうは一瞬息をのんだ様子だったが、すぐ軽蔑的にそっぽを向いた。
「くだらないことをいうな。だったら婦人服売り場でどうしてこっちの人に知らん顔をしていたんだ。最低だなあんた。友達を売って自分だけがたすかりたいのか」
柿本が怒った。悪事も働くが、いっぽうで純粋な気持をもっていて、こうした醜悪な裏切りには猛烈に腹を立てる男だ。
「奥さん。警察へいこうか。そういう出鱈目な話は警察でするべきだよ。いまそんな話をしてもらっても困るんだ」
脅しの意味で江原はその中年女の手首をつかんでやった。
女は狼狽し、なにか口ごもってあとじさりする。いやです、警察はいや。私、子供の担任の先生に贈り物をしたかっただけなんです、と泣き声で中年女は弁解をはじめた。
「奥さん、もう覚悟をきめましょう。あれこれいっても惨めなだけよ」
年下の女が中年女をたしなめた。
肚をくくった美しい顔で彼女は江原と柿本をみつめ、私たちどうすればいいんですか、どうすればゆるしてもらえるんですか、とたずねた。かたちのよい鼻が汗ばんでいる。
「話がわかるな奥さん。こういう場合は品物の代金を払っていただく。同時に品物も返していただくのが慣例なんです。代金のほうはまあ罰金ということになりますね」
柿本が率直に条件をだした。
ロックバンドの一員だけに彼は女に不自由していない。この女たちをホテルへつれこむ気はないようだ。
「わかったわ。でも、一万円ぐらいしかお金がないの。奥さんある?」
年下のほうが中年女に訊いた。
「罰金だなんて、そんなの変よ。あんたがた猫ババするんでしょ。きっとそうよ。そんなお金、私もってないわ」
中年女は大声をあげた。この野郎、と柿本は一発喰わせたい表情になる。
「およしなさいよ。この人たちのいうとおりにするのがいちばん利口よ。あとで返すから、奥さん、お金を出して」
だが、中年女のほうも、一万円たらずしかもっていなかった。小綺麗な服をきているのに、案外まずしい女たちだ。
「わかりました。では、奥さんたちの住所氏名をうかがいましょう。ご主人のつとめさきの名前もききたい」
江原は手帖をとりだした。
すると二人の女は顔色を変え、それだけは困るといい張った。中年女は哀願し、死んでもいえないと若いほうは突っぱねる。
「じゃ仕方がないな。保安事務所へきていただきましょう。奥さんがたは悪質だから、まちがいなく警察渡しだ」
「そのほうがまずいんじゃないのかな。住所氏名なんてすぐに調べがつくし、ご主人にも連絡がいく。いいんですか、それでも」
「待ってください。貯金をおろしてきます。夕方までにはかならず――」
若いほうが悲痛な声をだした。
が、問題にならない提案だとわかっているらしい。住所も名前も告げずに、この場から放免してもらえるわけがないのだ。
「おねがい、奥さん人質になって」彼女は中年女に声をかけた。「かならず私、お金をもって帰ってくるわ。それまで待ってて」
「いやよ、私そんなの――」中年女は駄々をこねた。「それより奥さん、体で払ってやってよ。この人たち、奥さんの体が目あてなのよ。盗ったのはあなたなんだから、それぐらい責任をもってよ」
「なんてこというんだ手前は。まったく、ツラもみたくない女だ。最低の阿魔だな」
駐車場の外を大勢の人が通るので、中年女を張り倒すわけにもいかない。
彼女の靴を思いきり柿本は踏んづけた。いたた、とおさえた悲鳴をあげて中年女はそこへすわりこんでしまう。
ストッキングをつけた曲った脚が、奥のほうまで目に入った。江原はこのあいだのスーパーSの部長夫人を思いだして、顔をしかめてそっぽを向いた。が、いまの中年女の言葉で若いほうの女の体へ注意が動き、均整のとれたその体からかげろうのように牝の気配がただよいはじめるのを意識した。
「それでもいいわ。住所も名前もいわなくて済むのなら」
死んだような目になって、若いほうの女はつぶやいた。
しばらく四人は沈黙した。昼前の陽光がじりじりと音を立てて頭上から降ってくる。
「どうする」
柿本が江原の顔をみつめた。
「おれには異存がないね。このきれいな奥さんとの昼寝ならありがたいよ」
若いほうの女をみて、江原は答えた。
3
まもなく正午になろうとしていた。
江原光彦ら石黒班のガードマンは正午からと一時からの二組にわかれ、一時間ずつ昼食時間をとるきまりだった。万引をやった人妻とホテルへしけこむには、いまがちょうどいい時刻なのだ。
「よし、ではもってる金をぜんぶ出しな。二万円ぽっちじゃソープ代にもならないけど、おれはこれでいいや。そっちの男のぶんは、奥さんたち、体で払ってやれよな」
さわやかな声で柿本はいいきかせ、二人の人妻から持金をまきあげた。
回収した盗品の袋をもち、では、と江原に笑いかけて柿本は去ろうとする。
「私も帰るわ。もういいんでしょ。私のほうは済んだんだから」
中年太りの年上の女が、怯えと利己主義と性的な好奇心で歪んだ顔でいって、柿本と一緒にあるきだそうとする。
「奥さん、それはないぜ。最後まで仲間と一緒にいてやるのが仁義だろ。あんたもホテルへついていけよ」
柿本に肩を突かれて、中年女はよろめいて江原たちのそばへもどった。
「そうだ。こういうおばさんは、一人になると妙にうろちょろするからな。目がはなせないよ。一緒にきてもらおうか」
中年女を睨(にら)みつけて、江原は年下の人妻の手首をつかんであるきだした。
「ね、私いってもいいの。気にならない? 町田さんの奥さん」
追いすがって中年女は訊いた。
若いほうはふりむいて中年女を睨みつける。町田という姓がばれてしまったので、内心狼狽しているのだろう。
「好きなようにしてよ。この人がこいといっているんだから、奥さんもそうするほうがいいんじゃないの」
「でも、私いやよ。どこへいくの。変なところへなんかいきたくないわ」
「うるさいな。だまってついてこいよ。ホテルがいやなら警察へいくか」
ふりかえって江原は一喝し、そのまま表通りへ出てタクシーをひろった。
鶯谷、と彼は運転手に命じた。江原がまんなかになって三人は後部座席にすわり、だまりこくって車に揺られた。
江原は緊張と昂奮のさなかにあった。欲望がまるで溶岩のように熱くどろどろと体のなかで湧き立っている。が、神経がはりつめて皮膚はこわばり、緊張でひざがふるえそうになった。体のうわべと内部が分裂している。頭のなかはぼんやりしていた。若い町田夫人も似たような状態らしく、こわばった顔のまま身じろぎもしない。みにくい中年女のほうはため息をついたり身ぶるいしたり、緊張に耐えかねた様子だったが、やがて、窓の外に目をやって、
「あ、金魚売りがいるわ」
などとつぶやいた。人間、土壇場になると妙なものが目につくらしい。
鶯谷に着き、一軒のホテルのまえでタクシーをおりた。顔をこわばらせて玄関へ入った三人づれを、とくに妙な顔もせずに従業員は豪華な洋室へ案内した。
中年女はそわそわとテレビのスイッチをいれ、嘆声を発しながら寝室をのぞいたり、風呂の用意をしたりする。江原は冷蔵庫からビールとコップをとりだし、町田夫人とならんでソファに腰かけ、気つけのために一杯やった。夫人に注いでやると、彼女も一気に飲みほした。中年女は浴室からもどってきて、テーブルの向こうの椅子に腰をおろし、
「あんたがた、はやくしてしまいなさいな。私、テレビをみて待っているわ」
と、自分もコップを手にもった。昂って、顔つきが歪んでいる。
「だめよ。奥さんもするのよ」町田夫人が無表情につぶやいた。「私だけじゃないわ。奥さんも一緒よ。でないと不公平じゃないの。さ、お風呂に入りましょ」
「私はいいのよう。私なんかお呼びじゃないんだから。ねえ、そうでしょ」
中年女は怯えた様子で江原をみた。狼狽とセックスの欲望がいりまじった顔つきである。
「あんたも一緒さ。不公平はいけないよ。あんたがた二人組なんだろ。とことんつきあわなくては意味ないじゃないか」
「いやよ、そんなの、いや」
中年女は両手で顔を覆った。身ぶるいしている。私、浮気なんかしたことがないのよう、と彼女は泣き声をあげた。悲嘆にくれ、おそれおののいているつもりらしいが、あきらかに昂奮で彼女はとりみだしていた。
「いいかげんにしろ。勝手な女だ。一緒にやってもらえるだけありがたく思え」
テーブルのうえに足をのばし、江原は中年女の頭を突いた。彼女は泣きだした。
「さ、いきましょう森さん」
町田夫人が立ちあがり、中年女の腕をとって、この人、森さんというの、と説明した。そして、入ってこないでよ、と江原に念をおして、二人で浴室のほうへ去っていった。
浴室のまえの脱衣場は居間からまるみえだった。二人はそこで服をぬいだ。町田夫人のほうが最初に全裸になった。思ったとおり、きっちりと均整のとれた、固太りの裸体だった。胸もヒップもさほど大きくないが、かたちよくまとまり、腰は深くくびれている。腰からヒップ、脚にかけての曲線が、ギターの胴のように精巧である。
測って描いたようなその曲線を、内側から突きくずす勢いで肉が盛りあがり、肌を緊迫させている。美しい曲線と、若々しい肉や肌が協力しあって、小柄だがまぶしいほどなまめかしい女体をかたちづくっていた。町田夫人は勝ち誇ったように森夫人を一瞥し、江原のほうには目もくれずに浴室へ消えた。体に自信のある女ほど、こうした場合には思いきりがよくなるようだった。
対照的に森夫人の裸体はみにくかった。生白い腹には座布団ほどの厚みの脂が乗り、大きなヒップがだらしなくたれさがって、短い脚をいっそう短く感じさせた。色白なのが長所だが、体がすっかりたるんでいるので、生白いビヤ樽のような裸身にみえた。身をすくめ、タオルで前をかくして、森夫人は浴室のなかに消えていった。彼女ひとりならともかく、町田夫人と一緒では、とても食指がうごきそうにない女である。
ビールを飲みながら江原は待った。入ってこないで、と念をおされたことにこだわるのではないが、性経験のゆたかな女たちの入浴のなかへ割りこむことに気怯れがあった。
昂奮のあまり、あっというまに終ったりしてはみっともない。犯された側よりも犯した側がバツがわるい思いをする羽目になる。おちつかなくてはならなかった。江原はしきりにビールを飲んだ。顔の赤くならないほうだから、多少酔っても勤務にはさしさわりがない自信があった。
4
やがて町田夫人が浴室から出てきた。
美しい裸体をタオルでつつみ、こわばった顔のまま、江原には目もくれず、そばを通りすぎて寝室へ入っていった。
江原はもう昂奮をおさえきれなくなった。服をぬぎすて、パンツ一つになって寝室へ入っていく。タオルをまとったまま、夫人は目をとじてダブルベッドに横たわっていた。江原が近づくと、夫人は頭だけそっぽを向いた。どうにでもして頂戴といった感じで、みごとな裸体を投げだしている。
「すばらしい体だな。奥さん。一度きりで終るのが惜しいくらいだ」
身をかがめて江原は夫人の首すじや肩へくちびるを這わせた。しめったあたたかい肌に石鹸のかすかな香りがあった。
夫人は目をとじたまま、じっとしている。冷たい顔で、くちびるを固くむすんでいた。体のタオルをとり去り、やわらかな乳房に江原がくちづけすると、夫人はわずらわしげに眉をひそめ、寝返りを打って背を向けた。江原にヒップをなでまわされて、身ぶるいして、手足をちぢめ丸くなった。
「はやくしちゃってよ」ふりむいて夫人は江原を睨んだ。「いろいろやっても無駄よ。いやなやつに抱かれて燃えるわけがないんだから」
「そうか。ではさっそくはじめようか」
江原は闘志にかられた。かならずこの女によろこびの声をあげさせてやる。
江原は町田夫人をあおむかせ、彼女の腰のすぐ横にすわって、下肢をひらかせた。すぐ行為に入ると思ったらしく、夫人はすなおにしたがった。下腹部の小さな草むらが黒い焔のようにみえ、その下方に、ピンク色の小さな花がのぞいている。その美しさに江原はため息がでた。それをみつめながら、花のなかの粒を指でさぐる。夫人は目をあけて天井をみつめたまま、ひらいた脚を投げだして、だまってその刺激に耐えていた。
「向こうの奥さんにもちゃんとしてやってよ。あの人、口がかるいんだから。私だけが玩具にされたら、きっと他人にいうわ」
森夫人のほうはまだ浴室にいるらしく、居間に物音はない。浴室のなかで、神経をはりつめてこちらをうかがっているのだろう。
「いやな婆あだな。おれ、あんなのとやりたくないよ。あんただけが欲しい」
「だめ。向こうにもしてやって。向こうがさきでもいいわ。一度終っても、私とだったらもう一度できるでしょ」
「いや、あんたがさきだ。こうなったらもう止まらないよ。じっとしていろ」
町田夫人は顔をしかめた。
嫌悪の念をあらわしたつもりだが、快感をおさえる表情でもあった。まっ白なふともものあいだの花がうるおいはじめている。はやくしちゃってよ、と夫人はまた催促した。快感におぼれるのが怖いのだろう。
かまわず江原は指のうごきをつづけた。夫人の腰がかすかにうごめき、いや、と彼女は声をだして脚をとじる。まだなの。夫人は顔をしかめて、パンツのうえから江原の男性をさぐりにきた。ふたたび江原は愛撫をつづけようとしたが、夫人はかたく両脚をとじて、彼の手をうけつけなかった。
「生意気な女だな、おまえは。いったいなにさまだと思ってるんだ」江原は苛立って、力をこめて夫人の乳房をつかんだ。
「おまえは万引女なんだ。わすれたのか。おれのいうとおりにしないなら、このままやめて警察へいこうじゃないか。どうだ、そうするか」
乳房の痛みに耐えかねて、夫人はそりかえり、おしころした悲鳴をあげた。
ちくしょう訴えてやるからね、みんなバラしてやるから、と夫人は呻いた。さらに江原が手に力をこめると、彼女は涙をこぼした。
「訴えるだと。ふざけるな。万引女のいうことなんかだれが信用するもんか」
江原は夫人の頬を平手打ちした。
悲鳴をあげて彼女は顔をかくし、泣きじゃくりながら、森さんきて、たすけて、とつれの中年女を呼んだ。
物音がして、森夫人が怯えた顔で寝室をのぞいた。風呂からあがった直後らしく、浴衣をきて、赤い顔をしている。
「ひどいことをすると警察を呼ぶわよ」
ふるえ声で森夫人はいった。怯えきっているくせに、目を大きくみひらいて、ふたりの姿をすみずみまで観察している。
「おまえは向こうへいっていろ」
江原は森夫人を怒鳴りつけ、町田夫人の体を裏返しにした。
町田夫人にたいして、兇暴なほどの怒りと欲望に彼はかられていた。みにくい中年女を軽蔑しきった態度でいながら、土壇場で彼女のたすけを乞う神経に腹が立った。女のみにくい言動をみると、欲望がますますサディスティックな色合をおびてくる。
「でも、乱暴するんでしょ。そんなのだめよ。怪我でもしたら私も責任がある」
森夫人はまだ寝室の入口に立っている。
「心配するな。かわいがってやるだけさ。こんなふうにな」
俯うつぶせになった町田夫人のヒップを両手で江原はなでまわした。
女性の部分へ手をすべりこませ、江原は歓喜にかられた。いつのまにかそこはぬかるみ状になって江原の体を待ちうけている。
下衣をぬぎ、後方から江原は町田夫人にのしかかり、まだ立っている森夫人をふりかえって、
「向こうへいってろ、順番なんだ。あんたにもあとでサービスしてやるからさ」
と、こんどはおだやかに声をかけた。町田夫人の体の反応をたしかめた勝利感から、おだやかに命令する余裕が生まれたようだ。
森夫人の姿が消えた。ゆっくりと彼は魅力にあふれた三十女の体のなかへ侵入した。わずかにひっかかる感じがあったが、すぐに奥へたっし、安定する。
江原は動きだした。身をよじって町田夫人は快楽に耐えていた。布団を抱きよせ、顔を埋めて、声のもれるのをふせいでいる。ときおり、かすかな呻きがきこえた。あまりつよく布団へ顔を突っこんで、反作用で夫人のヒップの位置が高くなった。やがて、ひきしまった胴体が大きくうねりはじめたので、江原が動きをはやめると、耐えきれずに夫人はかん高い声をあげ、丸くなって、前方へ回転しようとする姿になった。
その姿のまま、町田夫人はぐったりしていた。また江原が動きをはやめると、たちまち二度目の波におそわれ、小声でなにか口走りながら、二度目の絶頂にたっしていた。
その間、江原は視線を感じていた。居間にひきさがった森夫人が好奇心と欲望をこらえかねて、戸の隙間から覗き見しているのだ。行為を他人にみせてよろこぶ趣味は江原にはなかったが、その視線のおかげで持続力をなくさずに済んだ。他人を意識したせいで行為に注意が集中せず、おかげで町田夫人にひきずりこまれるのを免がれたのだ。
また江原が動きだすと、はやく終ってと町田夫人は哀願しはじめた。よろこびに呑みこまれてしまったいま、一秒でもはやく行為を終ることに良心がかかっているらしい。甘い感覚を体におぼえて、江原がしたをみると、夫人はふともものあいだから手をうしろへのばして男性の下方をさぐっていた。なんとか江原を快楽にひきずりこみたい一心なのだ。
ふたたび残酷な気持に江原はかられた。動きをはやめ、三度目の絶頂近くへ町田夫人をおしあげておいて急にはなれた。夫人ののこり惜しそうな声をきいて、江原は満足感を味わった。
ベッドをおり、寝室から出ると、覗き見していた森夫人があわててあとじさった。万引してつかまったときの顔だ。
「やっぱりみていたのか。あんたもその気になっているのか」
浴衣に手をかけると、夫人は無我夢中でかぶりをふった。いい女でもないくせに、拒絶が本能となっている。
「汗をかいた。一風呂あびるから、背中ながしてくれよな、おばさん」
手をとって彼は森夫人を浴室へつれていった。
セックスせずに済むのがうれしいのか不満なのか、浴衣をきたまま、大まじめな顔で夫人は江原の体を洗ってくれる。
二人はおなじ団地のおなじ棟に住む主婦だそうだ。双方とも夫は、固い会社のサラリーマンだという。昼間はなにもすることのない退屈まぎれに二人は万引あそびをはじめ、やがて昂じてプロまがいのデパート荒しをするようになったとのことだ。
森夫人に体を洗ってもらいながら、江原はそんな話をきいた。もうしません、こりごりですといいながら夫人は身をかがめ、江原の男性を口にふくんだ。
もしかすると自分はいいことをしたのかと考えながら、まもなく夫人の口中で江原は終った。
5
いきさつがどうあろうと、一度ベッドをともにした男女のあいだには、理窟では説明できない親しみが生まれるものらしかった。
万引の現場をみつかり、いやいやホテルへついてきた二人の人妻も、江原光彦に抱かれたあとは気をゆるして、応接セットのソファや椅子に腰かけてたばこをふかした。大いそぎで逃げだそうとする様子はなかった。
色っぽい町田夫人は体にタオルを巻きつけただけでソファの端に腰かけている。体に自信のない森夫人のほうは、そなえつけの浴衣をきてそばの椅子に身をおいた。
江原は全裸のままソファに横たわり、町田夫人にひざまくらをもとめた。夫人はめんどくさそうに笑って、むっちりした白いふとももに江原の頭を乗せてくれる。三人ともゆっくりたばこをふかした。ホテルへ入ったときの息苦しい緊張感は消えている。ぐったりと疲れて、堕ちるところまで堕ちたという安堵感に身をまかせていた。
「けっこう面白かったろう。たまにはこうして徹底的に羽目をはずせばいいんだ」
江原がいうと、なによこの悪党、と町田夫人は彼の頭をかるくたたいた。恨んだり憎んだりしている顔ではなかった。
「そうよ。たまにはいいものよね。万引よりも危険がなくていいわ」
森夫人がテーブルのうえにのこっていたビールを飲みほした。
ホテルはいやだの、まだ浮気をしたことがないだのと駄々をこねたことが嘘のように高をくくった顔つきである。万引という悪事に馴れているだけ、いったん枠を越えてしまうと、不貞にもなじみやすいのだろう。流行の言葉でいうと、森夫人は中年になってから「翔んだ」ことになるわけだ。
「危険がなくはないわよ。もしバレたら離婚よ。森さんそれで平気なの」
「平気じゃないけど、浮気の場合、けんかする相手は亭主だけでしょ。万引はバレたら警察へつれていかれるし、ご近所にたいして顔向けできなくなる。やっぱり怖いわ」
「じゃ、森さんは今後浮気専門になりたいわけね。この人とつきあうの」
「それでもいいわ。この人、そんなにわるい男じゃないもの。目をみればわかるわ。ねえ、あなた、なんていう名前なの。教えてよ、めいわくかけないからさ」
「おれか。江原っていうんだ。江原光彦。年齢は二十七。もちろん独身さ」
苦笑して江原はこたえた。
町田夫人なら歓迎だが、生白いビヤ樽みたいな森夫人にせまられてもあまりありがたくはない。だが、こうした素行のわるい女と連絡をたもっておけば、将来なにか役に立つことがあるかもしれない。森という姓からの連想で、江原は中学の女教師である森悦子という万引女を思いだしていた。彼女は石黒キャップに弱みを握られ、ときおり若いガードマンを悪の世界へひっぱりこむ手助けをさせられたりしている。石黒の社外の部下というわけだ。江原もぼつぼつ、そうした悪の道の同行者をつくってもよかろうという気がする。
「あんたはどうなんだ。おれと今後もつきあってくれるかい」
町田夫人の胸にさわって江原は訊いた。
この女となら毎日でもデートしたい。体もセックスもすばらしいし、妙に度胸のすわったところがあるのもよい。
「いやだっていえばどうするの。私の家まできて亭主に告げ口するんでしょ」
「そんな野暮はしたくないよ。でも、フラれたらつきまといたくなるなあ。奥さんすばらしいからな。旦那がうらやましいよ」
「そりゃもう町田さんのご主人、この人に首ったけなんだから。まじめなご主人よ。毎晩七時にきちんと帰ってくるの。セックスだって毎晩だそうよ」
森夫人が卑しく笑って説明した。
大きな機械メーカーにつとめる町田夫人の夫は、酒もたばこもギャンブルもやらない堅物だが、セックスだけは旺盛で毎日挑んでくるのだそうだ。ただし、堅物なだけいつも行為は単調だという。あまりまじめな夫なので息がつまり、わけのわからぬ不満にかられて町田夫人は団地のおなじ棟に住む森夫人と組んでわるいあそびをはじめたらしい。
主婦たちは親しくなると、ベッドのことまであけすけに話しあうもののようだった。町田夫人にしても卑しい森夫人を軽蔑しながら、内輪のことをすっかり知られている。万引だのセックスだの、市民生活の裏の部分で二人は結びついていた。主婦の暮しの退屈と孤独を、そういう裏の部分を共有することでまぎらわせているらしい。
「たまにだったらいいわ。月に一度くらいなら」町田夫人は、江原の髪をなでた。
「私、もともとまじめな女じゃないもの。高校時代ちょっと鳴らしてたんだから。たまにあそばないと息がつまるもんね」
「ねえねえ、あなたいつまでZデパートにいるの。もういっぺんだけ私たちにかせがせてくれない。ほしい物があるんだから。あなたのまえで盗(や)っても見逃してくれるでしょ」
森夫人が手をのばして、江原の脚を揺さぶった。
この女が考えそうなことだ。悪の網目にひっかかった者どうし、おたがい手足でもがきあって身動きできなくなるのがわかっていない。悪事の味をしめた主婦があきれるほど大胆になるのは、若いころからずっと家のなかで暮して、社会の怖さを身をもって味わう機会がないからだろう。自分ではなく石黒キャップがこの女たちをつかまえていたら、いったいどうなるのかと江原は思う。
「いやだよ、そんなの。バレたらおれまでクビになってしまう」
いちおう江原はことわった。そして、今後のサービスしだいでは考えないこともない、と悪党ぶってにやにや笑った。
「よくいうよねえ、この男。ちゃんとサービスしてあげればいいんでしょ」
森夫人が立ってソファに近づき、江原の腹の横にしゃがんで男性をまさぐった。
彼女は上気して呼吸をみだしていた。欲望に耐えかねたらしい。さっき江原に奉仕しただけで、森夫人はまだ満足していない。
「がんばってしてあげなさいよ。彼女、欲求不満なんだからさ」
ひざまくらした江原の鼻を、笑いながら町田夫人は突っついた。やや昂ぶった、高慢な顔つきである。
「むりだよ。いま終ったばかりなのに」
「なにいってるのよヤングが。人妻二人とつきあうんだから、そのぐらい覚悟してもらわなくてはね」
森夫人はまさぐったり、キスしたりしはじめた。浴衣の襟がみだれ、たるんだ大きな乳房がまるみえである。
みせてくれよ、と江原は町田夫人に要求した。均整のとれた、固太りの町田夫人の体をすみずみまでみたら欲望が回復するかもしれない。
「みるって、どうするのよ」
「ここへ立つんだ。こんなものとって」
町田夫人の体から江原はタオルをとりはらって、身を起した。
冷笑して夫人は腰をあげた。ふたたびソファに横たわった江原の顔前に、起伏に富んだかがやかしい裸体が、傲慢に江原をみくだしてそびえ立った。
片足をソファにかけろと江原は命じた。ふたたび町田夫人は冷笑し、いわれたとおりのポーズをとった。ふてくされた笑みに、夫人はすべての自尊心をこめているようだった。
黒い雲の下方から小さな夕焼けがのぞくような光景を江原は目撃した。白い裸体が、いまは江原にとっての全宇宙だった。
江原の体が回復した。なにか口走って森夫人がのしかかってきた。
6
町田夫人と森夫人は、結局双方とも住所と電話番号を江原に教えて帰っていった。
素人の悪女の甘いところだ。一度、恥も分別もかなぐりすててセックスをたのしんだ相手の男が、まさか自分たちを困らすことはなかろうと安心している。
バッグのチャックをあけたまま平然と買物をする世の主婦たちと、その点では彼女らもおなじだった。知らぬまに商品をバッグに突っこまれ、万引犯に仕立てあげられる危険などふつうの主婦は考えもしない。自分が善意のかたまりだから、他人もそうだと信じている。町田夫人と森夫人も、江原の悪事をおもて沙汰にする気がないので、江原のほうも彼女らの暮しを滅茶滅茶にする気はないのだと信じていた。
肉体にたいする女性特有の自惚れもあったのかもしれない。かりにも体を「抱かせてやった」男が自分たちをおとしいれるわけがないと高をくくった気配もあった。男とセックスすることを、たいそうな恩恵をほどこしたように感じる女は多い。あれだけ恩恵をあたえた以上、彼は当然私のものだという発想である。町田夫人はともかくとして、江原光彦がいやいや相手をしてやった森夫人にさえ、そうした自惚れがうかがわれた。
「番号は教えてあげたけど、あまりたびたび電話しちゃいやよ。うちの亭主、けっこう焼餅やきなんだから」
と、小鼻をふくらませた顔つきで念をおして彼女は去っていったのである。
以来、勤務につきながら、江原はときおり彼女らのことを思いだした。
世の中を甘くみるな、と訓戒する意味で彼女らから小遣いをせびったり、ホテルへ入って残酷なセックスを強要したい気持はあったが、彼女らに信用されていると思うと妙に弱気になって、こちらから呼びだしをかける気にはなれなかった。デパートの売り場から売り場をパトロールしながら、町田夫人はいまごろ幼稚園に子供を迎えにいくころだとか、森夫人は高校のPTAへもっともらしく出席しているだろうとか考えて、江原はひとりでにやにやした。平穏な主婦の暮しのなかでは解消しきれない不道徳な欲望をああして発散させてやったのだと思うと、むしろ善行をほどこした満足感にかられる。それが悪事への自己弁護にもなっていた。
店内で小太りの若い女をみかけ、木下道代ではないかと胸をおどらせるようなことは、おかげですくなくなった。
道代からは相変らず連絡がない。新宿のスーパーSに電話をかけ、後任のガードマンたちに訊いてみたが、江原あての電話は一度も入っていないという。銀座に職場が変ってからは、それこそ雲をつかむようなことなので、道代をもとめて毎日新宿駅をうろつくようなまねはしていなかった。
それだけに道代に会いたい気持のもっていき場がなかったが、いまは町田夫人の魅力たっぷりの裸体を思いうかべて気をまぎらわすことができた。道代からの電話とともに、町田夫人の電話を心待ちして彼は暮した。連絡待ちの女の数が殖えると、それだけみちたりた、おちついた気分で暮せるようなところがある。
そんなある日、特売場の監視にあたっている江原のところへ、電話だと同僚が告げにきてくれた。相手の名前はたしかめなかったが、女だという。江原は胸をおどらせて近くの売り場の受話器をとり、かかってきた電話をこちらへまわしてもらった。
「もしもしイ。その後どうなの。ぜんぜん音沙汰がないじゃないの」
電話の相手は森夫人だった。
がっかりして江原は憤りさえおぼえた。町田夫人が向こうの電話のそばにいるかもしれないと思わなかったら、いま勤務中だと怒鳴りつけたかもしれない。こちらがあまり好きでない女にかぎって熱心に電話をよこすのが、世の中のふしぎなところである。
町田さんも一緒か、と江原は訊いた。
「いいえ、私ひとり――」
甘ったるく森夫人はこたえた。そして、やはり町田さんがいないと面白くないの、私だけではだめ、とつけ加えた。
せいいっぱい媚をうかべた中年太りの笑顔がうかんで、江原は苦笑いした。
「だめじゃないさ。ただ二人一緒かと思ったもんだから」
「ねえ、こんど私たちだけでデートしない。町田さんはいろいろ忙しいみたいなのよ。いいでしょ、私だけでも。けっこうたのしくしてあげるわよ」
ぬけがけを森夫人は考えているらしい。相変らずいやな女だ。もし江原が応じたら、町田夫人にたいして、江原が自分専用の男友達であるかのようにふるまうのだろう。
「おれもしばらく忙しいんだ。ひまになったら電話するよ。町田さんによろしく」
早口にいって受話器をおいた。
あんたのみている前で、ほしいものを盗りたいという先日の森夫人の言葉が頭によみがえった。あの女ならほんとうにやるかもしれない。一度亭主の顔をみたいものだと、江原は唾を吐きたかった。
数日後、その言葉をあらためて思いださせる事件が起った。江原自身ではなく、石黒キャップがその事件にからんでいた。
午後三時ごろ、店内パトロールに出て、江原は三階の高級婦人服の売り場に寄った。どこがいいのかわからないが、一着何十万円もするフランスの有名デザイナーの手になる婦人服や、高価なバッグ、靴、宝石入りの装身具のならんだコーナーだった。
客はあまり多くなかった。金持夫人らしい中年女が装身具売り場をひやかしたり、男一人、女二人の家族づれらしい客が、店員の説明をききながら高級婦人服を物色したりしている。
なかの一人のブルーの服を着た若い女の挙動が不審だった。万引をやろうとする客にたいして、江原もいまでは霊感のようなものが働く。その女は買物客特有の、物欲で固まったにぶい目ではなく、利口そうな目をすばやく周囲に走らせて付近の人影をたしかめていた。
すばやく江原は付近の棚のうしろにかくれた。三十万から百万もする服をねらうなんて悪質なプロにきまっている。若い女の母親をよそおった中年女は、途中から宝石類の物色にとりかかった。とほうもなく大がかりな仕事をする気かもしれない。
江原は胸がおどり、全身が熱くなった。こういうプロを目撃すると、善も悪もなく狩猟本能のとりこになるのだ。
若い女が二、三着服をもって、試着室へ入っていった。なかでなにか細工をするのだろう。現場へ出て牽制すべきか、もっと様子をみるべきか、とっさに判断がつかなかった。
そのとき肩をたたかれ、ふりかえると、キャップの石黒がうすら笑いをうかべて立っていた。援軍に出会って江原は息をついた。
「あの連中、きっとやりますよ」
「ああ。わしもさっきから目エつけとったんや。おまえ、下へおりて玄関を固めろ。ここはわしに任しとけ」
「いいんですか。ここキャップ一人で」
「大丈夫や。おまえ玄関へまわれ」
いわれたとおり江原は一階へおり、玄関のそばに立った。
うまくいけば入社以来の大捕物だ。どきどきして彼は待機した。功名心が働いて、仲間の応援をもとめる気はなかった。
十分ばかりたって、例の三人づれがエスカレーターをおりてきた。ブルーの服を着た若い女を中心に、中年男女がにこやかに話しあっている。娘の嫁入道具を買いにきた両親、といった面持である。贅沢なバッグを母親と娘は手にしている。
石黒があとからついてきた。はやり立つ江原に頭をふってみせ、手招きする。
「あかん。感づかれた。なにも盗らんと、ひきあげてしまいよったわ」
そのまま石黒はきびすをかえした。
江原は拍子ぬけして三人づれを見送った。彼らのやった大仕事があかるみにでたのは、その夕刻のことだった。
7
その日の夕刻の在庫品チェックで、高級婦人用品売り場にとんでもなく大きな被害の発生したことがわかった。
閉店後、江原光彦らガードマンたちは売り場に集合させられ、デパートの保安担当の部長から被害についての説明をうけた。
フランス一流店の製品である一着三十万円から五十万円の婦人服が三点と、時価五百万円のトパーズの指環がやられたそうだ。服も指環も、みかけがそっくりの安物とすり替えられていた。盗られたあとも、陳列台の品数に変りがなかったから、夕刻まで店員たちは被害に気づかなかったのである。
「これをみろ。千円か二千円の安物ばかりだ。こんなものをサンローランやカルダンととりかえるんだからな。まったくいい商売だよ。やめられないはずだよ」
保安担当の部長は、三枚のペラペラの婦人服をガードマンや店員にみせて、歯ぎしりしていた。
指環のほうも、夜店で売っている硝子玉みたいなやつが陳列ケースにのこっていた。敵ながらあざやかな手口である。あまりに被害が大きいので、店員たちは気を呑まれて、いつどんな客が服や指環に手をふれたのか、とっさに思いだせない様子だった。
のこされた安物の三枚の服のなかの青いワンピースに、江原光彦はみおぼえがあった。金持の中年夫婦と娘の買物をよそおったあの三人づれの、娘役の若い女が着ていた服である。青いワンピースのしたに、あの女は安物の服を二枚かさねていたのだろう。
彼女は高級婦人服を三点もって試着室へ入った。そして、身につけていた安物をすべてぬいで、代りに高級服を着こんだ。青い高級服をいちばん上に着用した。そして試着室を出て、いまぬいだ三枚の安物を売り場へもどした。最初から着ぶくれていたので、試着室を出たあとも、だれにも不審に思われなかった。
「どんなやつが試着室を利用したか、だれもおぼえていないのか。思いだしてみろ。指環をいじった客にも心当りがないのか。きみたち、すこし性根をいれて商売したらどうだ」
男女の店員たちを部長は叱りつけていた。はんぶんはガードマンへのあてつけである。高級品売り場は重点的に監視するはずなのに、いったいなんのざまかといいたいのだ。
青いワンピースをみた瞬間から、あの三人づれの犯行だと江原は見当がついていた。だが三人の人相風体などをデパートの部長へ申告する気はなかった。目星をつけながらなぜ逃がしたといわれるにきまっているし、第一、あの三人づれの行動は石黒キャップが終始見張っていたはずだからだ。
江原に玄関を固めさせ、石黒は物陰から終始三人づれの動きをみつめていた。数分後、立ち去ろうとする彼らを追って玄関にあらわれ、やつらはなにも盗らなかったといって江原に手をひかせたのだ。ベテランの彼がせっかく目星をつけながら、まんまと彼らに裏をかかれたとも思えない。なにか事情がありそうだった。石黒はこれがあの三人組のやらかした大仕事だと承知しながら、デパートの部長にはなにも申告せず、例によってうすら笑いをうかべ、腕を組んでさわぎをみまもっているのである。
「そういえば、三人づれのお客が試着したり指環をみたりしていたようよ」
「そうそう。たしか三時ごろだったわよね。女の子が試着して、なにも買わないで帰った」
「あれが犯人かなあ。信じられないわ。すごく上品な家族づれだったでしょ」
店員たちもしだいに記憶をとりもどして、三人づれのことを口にだしはじめた。
「いいんですか、だまっていて」
江原は石黒に近づいて耳打ちした。苛立たしげに石黒は顔をしかめた。
「なにもいう必要はない。犯行をこっちが確認したわけやないから」
「見逃したんでしょう、キャップ。連中になにか義理があったわけですな。しかし、六百万もの仕事に見合う義理となると――」
「光彦。おまえ気イつけてものをいえよ。口がかるいばっかりに、埋立地のゴミの底で眠らされた者がこの業界には何人もおるんや。ガードマンはだまっているのも仕事のうち。ようおぼえとけ」
「へえ、おっかないな。しかし身内の者にはちゃんと事情を知らせておくほうが万事スムーズにはこぶと思うんですがね」
岩のようにだまりこんだ石黒へ、江原はもっと深く切りこもうとした。だが、同僚たちがそばにやってきたので、それ以上話をつづけるわけにいかなかった。
被害状況の説明と事情聴取がいちおう終って、店員とガードマンはやがて解散した。保安事務所へひきあげてからも、石黒はだまりこんで苛立たしく目を光らせていた。
その日、江原は通常勤務だったので、そのままZデパートを出て帰途についた。
中野と高円寺の中間あたりのアパートに彼は住んでいる。アパートの近くの中華料理店で夕食をとり、一杯飲みに出る金もなかったので、銭湯へいったあと六畳間に寝そべってテレビをみていた。デパート勤務になってから、売り場にただようこまかな塵のおかげで目が充血し、テレビなどみないほうがよいとわかっていたが、小遣いのとぼしい夜はほかにひまつぶしの方法もなかった。
十時ごろ部屋の扉をたたく者がいた。顔をだしてみると、ちんぴらめいた一人の男が愛想笑いをうかべてそこに立っていた。
「江原はんでんな。わて、おたくの石黒さんの知合いの者でっけど、えらい済んまへん、ちょっとそこまでご足労を――」
関西弁をつかって、男はあわただしく頭をさげた。へりくだった態度だし、石黒の知合いだというので、江原はべつに警戒する気持もなくその男について外へ出た。
路地を出たさきに乗用車が停まり、男が二人そばに立っていた。一人が扉をあけ、乗れという身ぶりをする。とまどっていると、迎えにきた男と三人がかりでクルマのなかへおしこめられた。なにをするんだ、おまえたちは何者だと江原がわめくうちにクルマは発進する。ハンドルを握る男とあわせて四人の見知らぬ男が車内にいた。なにがなんだかわからないが、埋立地のゴミの底で眠らされた男がいるという石黒の言葉がよみがえり、江原は恐怖で全身が凍りついた。
「なんのまねだこれは。おまえら、ほんとうに石黒キャップの――」
「やかましい。じっとしとれって。ちょっと話があるだけなんやから」
アパートに迎えにきた男が、助手席からふりかえって笑いかけた。
左右の男に江原は腕をおさえられている。助手席の男が手で匕首(あいくち)をもてあそんでいるのをみて、恐怖で江原は吐き気がした。
クルマは高速道路へ入った。しばらく走って、新宿の灯りが近くにみえるあたりで彼らは待避線へ入り、クルマを停めた。おびただしいヘッドライトが江原の危険など黙殺してつぎつぎにそばを走りぬけていく。
「わしら坂根組いうてな。関西ではちょっと名のある組の者や」
助手席の男が江原の顔をのぞきこんだ。
そして、なんや兄さん、ビビることないのや、わしらはなにもこの高い道路からあんたをほうり落そうとは思うてないで、と笑った。残念だが江原は体のふるえが止らなかった。
「きょう、万引をみたそうやな。兄さんなかなかいい目をしてはるやないか」
右どなりの男が口をだした。
その男はからかうような表情で、目がいいのはけっこうや、しかし口のかるいのはわざわいのもとやで、とつぶやいた。
「口がかるい――。おれはなにもいわなかったぞ。いう必要がなかったから」
「そうらしいな。石黒からきいてる。けっこうなこっちゃ。今後もその調子でいけよ。へたな口きくと、スパッといってまうで」
左右の男が江原の腕をおさえ、助手席の男が腕をのばして江原のズボンのファスナーをひきずりおろした。
仰天して江原は抵抗した。が、三人がかりで体をおさえつけられ、助手席の男に男性をつかみだされてしまった。男は片手でゴムみたいにそれをひっぱり、片手に匕首をもって根もとに添える。
「スパッといこか、兄さん」
男たちはひくく笑い、江原は恐怖で息がつまった。全身の血が逆流した。
やめろ、やめてくれと彼はあえいだ。助手席の男が匕首の刃を立てたので、痛みよりも恐怖で絶叫しそうになった。
「わかったな。だまってりゃええのや。石黒がなにをやろうと、だまってみてろ」
「ほんまにわしらは切るで。もし裏切ったらな。おまえ、まだそんなにようけ使うてないのやろ。大事にせなあかんで、大事に」
夢中で江原はうなずいていた。
ギャング映画は何度もみたが、自分が当事者になったときの恐怖は想像を絶している。助手席の男が匕首をひっこめたので、ほっとして江原は気をうしなうところだった。クルマはそのまま動きだした。そして、なぜ自分がこんな目にあわねばならないのか、いまになってふしぎに思った。
「石黒のおっさんには貸しがあるんや。組としてきちんと取立てる必要があってな」
それまで沈黙していたとなりの男が、低い声で説明をはじめた。
関西で警察につとめていたころの石黒と坂根組はもちつもたれつの関係にあった。石黒は警察情報を組へ流し、見返りに金や女などいろいろ甘い汁を吸った。
が、警察を辞めるまぎわ、石黒は坂根組の管理売春組織にたいするガサ入れの情報を彼らに流すのをおこたった。おかげで坂根組は警察の手入れをうけ、三千万円からの損害をこうむり、輩下の二名が臭い飯をくう羽目になった。組の者は復讐心に燃えて石黒のゆくえをさがし、やがて彼が東京で青空警備会社のガードマンをしていることをつきとめた。そして、今夜のような話合いのすえ、石黒が職権を利用して、坂根組のうけた損害を回復させる約束が成立したのだという。坂根組の息のかかった窃盗グループが石黒の職場で好き勝手に仕事をやり、すでにかなりの金額の損害を回収したかたちになっているらしい。
が、きょうのZデパートの犯行はあまりに金額が大きすぎた。あれではガードマンとしての立場がなくなる、部下の江原にも感づかれたと石黒は坂根組に苦情をいったらしい。ことがあかるみに出て石黒がクビになれば、組にとっても大損害なので、彼らはいそいで江原を脅しにきたもののようだった。
「石黒のおっさんは、わしらにとって大事な男なんや。な、これでわかったやろ。ながいことやない、損害を回収したら、わしらも石黒から手エひく。それまであいつをムショに送りとうないんや」
「あいつがムショへ入ったら、おまえに石黒の代りをしてもらうさかいな。それよりはましやろ。な、知らん顔しとりゃええのや」
あらためて凄みをきかせてから、彼らは江原をクルマからおろした。
新宿のそばだった。彼らを呪いながら、江原は電車でアパートへ帰った。
8
あくる日職場で顔をあわせたが、石黒は江原の視線をさけるようにしていた。
ゆうべ江原の身になにが起ったか、当然知っているらしい。暴力団に頭のあがらぬ内状を知られて照れ、うしろめたいのか、いつものように気やすく声をかけてはこなかった。
代りにほかのガードマンへ当り散らした。万引の摘発件数がすくない、パトロールに気合が入っていない、だからきのうのような大きな被害が出るのだと例によって盗人たけだけしい怒りかたをする。デパート側からおなじ台詞ではっぱをかけられてきたのだろう。
暴力団とデパートの双方から責め立てられて、石黒は火のついたように苛立っていた。そんな彼をみて、江原ははじめて石黒が哀れになった。
石黒ほどの悪漢でも、暴力団のいいなりにならざるを得ない。万引を働いた女教師や人妻を意のままにあやつりながら、自分もおなじようにあやつられている。まったく悪の網目は複雑にひろくからみあっているらしい。石黒を利用している坂根組にしても、日本の何分の一かを支配する広域暴力団のトップからみれば、末端の出店にすぎないはずだ。日のあたる市民社会が行政組織や大企業の支配力できちんと統御されているのと同様、日陰の社会も、上は巨大暴力団の幹部から下はでき心の万引女にいたるまで、すべて悪のコンピューターに組みこまれて、それぞれの役を演じているだけかもしれなかった。
その日、石黒班のガードマンたちは、五件の万引を摘発した。二件は主婦の犯行で、あと三件は中学生の集団犯行だった。
あとしまつに江原たちは忙殺された。学校や父兄と連絡をとったり、もっともらしく訓戒をたれたり、中学生の犯行をみつけると、ガードマンもけっこう手間がかかる。もっともらしい正義の顔で行動せねばならないから疲れる。
四時ごろやっと片がついた。保安事務所で一息ついていると、石黒キャップが江原の肩をたたいて外へ出た。なにか話があるらしい。江原が外へ出ると、石黒はデパート内の喫茶室へさきに立って入っていった。
「ゆうべはえらい目にあったやろ。済まなんだな。まさか坂根組のやつらが、直接おまえを呼びだすとは思わなんだんや」
めずらしく殊勝に石黒は頭をさげた。
一抹の疑問がこれで解けた。ひょっとすると、ゆうべの男たちは石黒がさし向けたのかと江原は疑っていたのだ。
「連中と手を切るわけにはいかないんですか、キャップ。このままだと、あの連中は図に乗ってまだまだ仕事をしにきますよ」
「いや、そうはさせん。わしはわしでそれなりに手は打ってあるわ。きみは心配せんでええのや。ただもう一、二回、きのうのようなことがあるかもしれんので、そのときはよろしゅうたのむで」
老獪らしく石黒は笑った。そして、江原に顔を近づけ、世話になる礼というのもなんやが、向こうの端の席にいる女をどう思うか、と訊いてきた。
江原はふりかえってそちらをみた。買物籠をもった二十七、八の主婦らしい女が、泣きそうな顔で、うつむいて椅子にかけている。色白で、輪郭のはっきりした横顔で、胸の大きな、色っぽい女である。
「いい女ですね。しかし、いまは――」
女どころじゃないでしょう、と言外に江原はたしなめた。
暴力団の強圧からどうやって逃れるかを思案しなければならないのに、この男はいったいなにを考えているのだろう。
「いや。ええのや。それより、あの女、気にいったらきみに任すで。煮て喰おうと焼いて喰おうと、どうにでもなる」
「花子さんですか、あれは」
声をひそめて江原は訊いた。女性万引犯は花子と呼ぶならわしである。
「そうや。衣料品売り場で現場をおさえた。身許もぜんぶ割れた。夫や家族に内聞にしてもらえるなら、どんなことでもするいうとるぞ。どうや、きみいただいたら」
「いや。それは困るな。自分でつかまえたのならまだしも――」
女はそこで待機しているらしい。
目のふちを赤くし、スカートを握りしめてうつむいたまま身動きもしない。またおろかな羊が一匹出現したわけだ。
「そうか。ほんなら二人一緒にあそぼうか。たまには変ったあそびもええやろ」
ほんのお礼や、気にするな、といいのこして、石黒は立って女に近づいていった。
9
喫茶室に足どめされていた女は、藤原友子というまだ二十代の人妻だった。
住所は市川。夫は精密機械メーカーのサラリーマン。幼稚園児の女の子と夫の母親との四人で建売住宅に住んでいる、典型的な中流家庭の人妻だった。
藤原友子は子供服の売り場で女の子の夏服を二、三点万引し、石黒キャップにつかまった。くっきりと目鼻のととのった顔立ちと、肉感的な体つきをした女だったので、石黒は彼女を保安事務所へ連行せず、見逃してやる代りにいうことをきけと物陰でせまった。
まっさおになって友子は承諾した。クルマで買物にきて、運転免許証をもっていたので、住所氏名を石黒に知られて身動きできなくなったのだ。つつましいなりに安定した暮しをしている友子のような人妻は、事件を家族に知られたくない一心で、無理強いのセックスにたやすく同意するのである。
その藤原友子と一緒にホテルへいこうと石黒は江原光彦へもちかけてきた。暴力団にあやつられている石黒の弱みを、江原が公開せずに済ませたことへのお礼だという。いかにも石黒の考えつきそうなおとしまえだった。
ためらったものの、江原は結局ホテルへ同行することにきめた。上司である石黒と仲よくするにこしたことはないと分別を働かせたつもりだったが、女の魅力が匂い立つような藤原友子の体に欲望をおぼえたのがやはり本音だった。たまには変ったあそびもええやろ、と石黒はいっていた。どんなふうにして石黒はあのおろかな人妻をもてあそぶつもりなのだろうか。
デパートでの昼間勤務は午前十時から午後六時までである。石黒も江原もその日は夜勤がなく、定時に体があく予定だった。
「そのへんをぶらついて、六時にデパートのまえの喫茶店へこい。ええな。里心がつかんようにこれをあずかっとくで」
藤原友子を喫茶室の出入口に呼びよせ、制服のポケットから免許証とクルマの鍵をとりだしてみせて石黒はいった。
江原と石黒はそのまま喫茶室から出た。ふりかえってみると、友子は近くをぶらつく気力もない様子で、席にもどり、身動きもせずテーブルをみつめている。魂のぬけたようなうつろな顔だ。自分の招いた事態の深刻さにまだ実感がわかないらしい。どうしてこんなことになったのだろう、なぜ万引などしたのだろうと考えあぐねているようにみえた。素人の万引犯は、つかまってからみんなこんな様子になる。
六時すぎ、私服に着替えて江原と石黒は指定した喫茶店へ出かけていった。
出入口のそばのテーブルで友子はすでに待っていた。さっきとちがう、暗く目の光った思いつめた顔で二人を迎える。平穏な主婦の暮しをなんとしてもまもりたい決意が、はりつめた肌にみなぎっていた。
「この男も一緒にいくいうとるのや。ええやろ。わしの部下なんや。いろいろ経験をつませてやろう思うてな」
石黒が江原を紹介すると、おどろきと怯えで友子は目を大きくした。よろしく、と江原はとりあえず挨拶した。
「いやよそんな。三人だなんて」
友子は眉をふるわせて、けだもの、と吐きすてるようにつけ加えた。
「どうせけだものや。男も女もな。あんたかて偉そうな口をきけるガラか」
石黒がせせら笑った。角ばった顔に、すでに欲望のあぶらがにじみ出ている。
「いや。二人がかりだなんて。そんなことされるくらいなら、私死んでやる。いえ、警察へいってあなたがたを訴えてやるから」
「そんなことしてもむだやて。万引女の話をだれが信用する思うとるんや。警察はわしらとツーカーなんやからな」
「死ぬ気になれば怖いものはないわ。新聞に投書したっていい。あなたがたのようなけだものの玩具にされるくらいなら――」
藤原友子は懸命だった。じっさいこの調子では、こちらがゴリ押しすればなにをやるかわからない。前後のみさかいをなくして新聞社へ名乗り出たりされては、石黒も江原も致命的な傷手をこうむることになる。
「まあまあ、そう頭にこないで奥さん」苦笑いして江原は彼女をなだめた。「いいよ、おれはなにもしないから。一緒にホテルへいくだけだ。つぎの間でビールを飲んで待っている。それならいいだろう」
「そんなの信用できないわ。なにもしないのに、なぜあなた、一緒にくるのよ」
「先輩ひとりでは危険だからさ。奥さんのような人と一緒にホテルへ入って、ビール瓶で頭を撲られて大怪我をした男がいる。奥さんもそれをやりかねないタイプだからな。見張りが必要なんだよ」
「そうや。ガードマンのガードマンや。こらええわ。まるで漫画や」
石黒が下卑た笑声を立て、友子は一瞬ひるんで目をそらせた。
隙あらば、の下心があったらしい。住所氏名を知られている以上、ガードマンを倒して逃亡してもあまり意味はないのだが、事件で頭が混乱して思案が働かなくなっているのだろう。
「――ほんとうになにもしないでよ」
ややあって、悲しげな目を江原に向けて友子は念をおした。
肚のなかで冷笑しながら江原はうなずいた。女と一緒に男がホテルへ入ってなにもせずに済ますなど、口にだした江原自身が頭から信用していない。が、藤原友子はそれを信じざるをえない立場にあった。江原たちの申し入れを拒むすべがないから、そんな甘い話を信じなければならなかったのだ。
「ほんとに一度きりよ」石黒をみて友子は念をおした。
「このあとも私につきまとったら、警察へ訴えますからね。新聞にも訴える。私、死んだっていいんだから」
「つべこべとうるさい女やな。こういう女は×××するときも、やれ電灯消せやの、そこにさわるなのと注文がうるさいんや。いったい自分をなにさまと思うとるねん」
怒気をみなぎらせて石黒はいった。そして、かまへんのやぞ、ホテルはやめて警察へいこうか、おまえの亭主に連絡をとろか、とあらためて凄味をきかせた。
いきましょうか。みかねて江原が席を立つと、石黒がつづき、なお思案して友子もようやく腰をあげた。前からみるとほっそりした体つきだが、友子は胸が大きく、ヒップの盛りあがりもゆたかだった。
友子の赤い軽乗用車に乗って三人は出発した。とても運転できる状態ではないと友子がいうので、石黒がハンドルを握り、友子は助手席、江原は後部座席に腰をおろした。
上野方面へ向かって三人は出発した。藤原友子はサングラスをかけ、顔をかくすようにうつむいて身動きせず、江原と石黒はおしだまってときおり彼女をうかがった。助手席のフロントグラスのすみのほうにぶらさがった仔熊の人形がこまかく揺れ動き、淡いピンク色のシートカバーがふかふかと空虚である。クーラーの風が冷え冷えしていた。海水浴帰りらしい日焼けした男女のグループが、色とりどりの荷物をかかえ、何組も駅から出てきて雑踏のなかにまぎれこんだ。
「あんた、堅気の奥さんのくせにどうして万引なんかやったんだ」
身を乗りだして江原は訊いてみた。息苦しい沈黙に耐えきれなかったからだ。
うつむいたまま、突っかかるような口調で藤原友子は返事をした。
「だって仕方ないじゃないの。自分の自由になるお金がないんだから。私なんかコーヒー代にも不自由しているのよ。主婦だって人間だもの、月に二万や三万はお小遣いが必要だわ」
安月給から住宅ローンだの夫のゴルフ代だのをもっていかれて、やりくりで毎日気が狂いそうだと友子はつけ加えた。万引で子供の被服費をうかせて、喫茶店やレストランへ入る費用にしたかったらしい。
そんなことをいいながら、この人妻はこうして赤いクルマを乗りまわし、銀座のデパートへ買物にきているのである。おれは当分結婚なんかしない、となんとなく江原は決心した。小綺麗な建売住宅で妻と暮して、それでいったいどうなるというのだ。
10
不忍池の近くのラブホテルへ三人は入った。以前二人の人妻をホテルへつれこんだときもそうだったが、変則的な組合せの男女が最近はめずらしくないとみえ、案内係の女はべつだん不審そうでもなく三人を迎えた。
和室へ入り、座敷机をかこんですわって三人はとりあえずビールを飲んだ。泣きそうな目で、顔をこわばらせている友子をみると、江原光彦はかわいそうな気持と、滅茶滅茶に友子をいたぶってやりたいあらあらしい欲望の双方にかられて息がつまった。石黒はうすら笑いをうかべ、たばこをふかして、正面から無遠慮に藤原友子をみつめていた。
「おれ、風呂へ入ってきます」
緊張に耐えかねて江原は立とうとした。
「まあええがな。しばらくここにおれや」
石黒は江原を制止し、そろそろはじめようやないか、着ているものをぜんぶぬげ、と友子に話しかけた。
「私だけぬぐの。いやよそんな」
「つべこべいわんとぬげ。さあ立て」
「そっちの若い人もずっとここにいるの。そんなの、約束がちがうじゃない」
「やかましい。おとなしゅう出てりゃ、つけあがりくさって」
石黒の平手打ちが友子の頬にとんだ。
小さな悲鳴をあげて、友子は両手で顔をおさえる。石黒は激昂していて、座敷机をわきによせ、立って友子を蹴倒した。泣いて突っぷした友子の腹を彼はもう一度蹴って、
「いわれたとおりにせんかい。この上ご託をならべたらぶっ殺すぞ。クルマごと東京湾へほうりこんだる。それでもええのか」
とわめいた。角ばった顔を脂で光らせ、目をつりあげ、手足をふるわせて、彼は鬼のようだった。
泣きながら身を起して、友子は服をぬぎはじめた。白いブラウスと丈のながい褐色のスカートをとりさり、ぜんぶぬげ、と石黒にせき立てられて、やがて全裸になった。友子は白い肌をしていた。ほっそりした、やや胴長の中肉中背の体で、熟れていまにもくずれそうなヒップをしている。背を向けて彼女はうずくまった。両手で胸をかかえている。
「立ってこっちを向け。かくすな。両手を上にあげろ。首のうしろで組め」
石黒は命じ、友子がためらっているので、またしたたかに頬を張りとばした。
泣きながら友子はいわれたとおりにした。下腹部の草むらが濃い。腰も若々しくくびれている。乳房は小さい。すわってビールを飲みながら、江原はおどろいて目を見張った。服を着ていたとき、友子の胸にはたしかゆたかなふくらみがあったはずだ。
「なんやこのおっぱい。詐欺やないか」
石黒も気づいて、小さな乳房を指でつまんだ。ふくらみを大きくみせるブラジャーを友子は身につけていたのだ。
「おまえ、なんのためににせのおっぱい入れとるんや。よその男の気イひくためやろ。亭主持ちのくせになんちゅう女や。まだよその男の目が気になるんか」
小さな乳房を石黒は力まかせにつかんだ。
友子は泣き声をあげ、身をまもろうとする。が、石黒に髪をつかまれ、また首のうしろで手を組んで直立させられた。
石黒は友子の下腹部の草むらの下方を右手でさぐった。そして、おまえは風呂へ入るなと友子に命じた。彼女の体臭が気にいったらしく彼はにやにやしている。はたでみていて、江原は顔をそむけたくなった。
そこへ寝ろ、とついで石黒は命じた。泣きじゃくりながら友子は畳のうえに横たわり、江原のほうへ背を向ける。石黒は江原をふりかえって笑ってみせてから、服をぬぎはじめた。江原はいたたまれなくなって、立って、浴室のほうへいった。
トイレへ入ったあと、つとめて気持をおちつけて脱衣所で服をぬいでいると、座敷のほうから、吐き気をこらえ、苦しげにせきこむ友子の声がきこえてきた。なんやこいつ、失礼な女やな、と怒る石黒の声がそれにつづいた。むりやり口で奉仕させているらしい。いそいで江原は浴室へとびこんだ。石黒は女をいたぶって性的なよろこびをおぼえる男のようだ。ふだんの彼の言動から察しはついていたが、こうして現場をみると、その嗜好の度のつよさは予想以上だった。部下の前でこんなことをやるのが、だいたい正常な神経ではない。それが石黒の好意だとはわかっていたが、江原は逆におぞましく、やりきれなくなる。彼とのあいだに距離を感じる。
が、反面江原は、自分もああやって藤原友子をいたぶってやりたい衝動にかられていた。石黒と同様にふるまいたい欲望があった。石黒にたいするやりきれなさ、おぞましさは、彼の行動をみていると、自分のうちにも彼のとそっくりおなじ嗜好がひそんでいることを意識させられるせいもあるようだ。石黒の行為は、江原自身のうちにあるおぞましい、下卑た嗜好を代弁していた。石黒のような男にはけっしてなりたくないのだが、彼がいま実行している事柄をやってみたい気があるのも事実である。
石黒はもともと加虐趣味があったから、犯罪者をいたぶったり責めたりする機会の多い警察官、ガードマンになったのだろうか。それとも長年そんな仕事をするうち、そんな嗜好が身についたのか。資質と仕事の影響の双方が、いまの彼をつくりあげたのか。
そんなことを考えながら、ゆっくりと体を洗って浴室を出た。
座敷に二人の姿はなかった。ほっとして彼は机の前に腰をおろした。が、すでに体が昂ぶり、二人の姿がみえないのを心のすみで残念に思っていた。
奇妙な物音が寝室からきこえてきた。モーターの音のようだった。電気マッサージ器でもつかっているのかもしれない。友子の甘い泣き声がきこえてくる。異様な気配に江原は昂り、寝室をのぞいてみたい気持にかられたが、それをやると石黒と同列の人間になるという気がして、必死でこらえてビールでのどをうるおした。
友子の声がかん高くなり、いくう、とうたうような台詞がきこえた。
「おお、いけいけ。なんぼでもいったらええのや。だれも止めてないで」
笑いをふくんだ石黒の声がきこえ、ついで友子の声が獣じみた唸りに変った。なにかさけんで彼女はあえいだ。いたぶっているわけではなく、石黒はあの中流家庭の人妻をなにかの方法で可愛がっているらしい。
「おい光彦。おるんか。こっちきてみい。いま、なかなかええとこやで」
まだつづいているモーター音を圧して石黒の声がきこえてきた。
耐えきれなくなって、江原は立っていって寝室をのぞいた。こっそりのぞくのでなく、石黒に招かれて見物するのだというのが自分にたいするいいわけだった。
寝具のうえに、友子はうしろ手に縛られ、目かくしをされてころがっていた。浴衣をきた石黒が友子にのしかかり、電気でふるえたり動いたりするあやしげな性具を彼女の体のまんなかにあてがっているのだった。
モーター音が大きくなり、縛られた体を窮屈にくねらせて、いくう、と友子はまたさけんだ。そして、獣のような呻き声をもらして全身を痙攣させる。
「どうや。ごっつうよろこんどるで」
石黒が脂のにじむ笑顔でいった。
やはり江原は正視できず、座敷にもどって昂奮でふるえながらビールを飲みつづける羽目になった。
11
あやしげな電動器具で藤原友子をむりやり何度も快楽の頂上におしあげたあと、石黒キャップはまだ執拗に彼女をもてあそんだ。
となりの寝室から二人の声がきこえた。石黒がなにか命令し、友子がかぼそい声で応じている。哀願する声である。
はやくセックスの行為を終ってほしいと友子はたのんでいた。だが、石黒は応じず、淫らないたずらをしているらしい。きき耳を立てる江原光彦のほうが耐えがたいほど昂っているのに、石黒はいそいで体の欲望をみたすつもりはないようだった。
中年の男とはこんなものかもしれない。肉体よりも意識でセックスをたのしむ。女を抱くのは二の次で、江原の考えもしないような方法で、平然とたのしみの領域をひろげてゆく。
友子の悲鳴がきこえた。快楽とは関係のない泣き声がそれにつづいた。硬いとか大きいとか石黒は口走った。からになったビール瓶が一つ、座敷机のうえから消えているのに江原は気づいた。瓶を用いてあの人妻を責めているらしい。友子の声に快楽のひびきはなく、しきりにいやがり、やめてくれと哀願している。逆らわれるほどうれしいらしく、石黒の笑声がそれにまじった。江原ははげしい欲望と批判的な気持の板ばさみになり、ひっくりかえったり、机にしがみついたりして、やみくもにビールを飲まねばならなかった。
またなにか石黒はあそびの方法を変えたらしい。いいあらそう声と物音があり、
「やめてください。主人にもそんな」
と抗う友子の声がきこえた。
「旦那にもみせたことがないいうのか。えらい水くさい夫婦やないか」
石黒は息切れしている。それも中年男の特徴のようだ。欲望のにじんだ声が、とぎれがちだった。
いったいなにをしているのか。江原光彦は欲望と好奇心に耐えがたくなり、酔いも手つだって、保持してきた自尊心をうしなった。
這っていって寝室をのぞき、目を見張った。藤原友子が壁に背を向けて逆立ちしている。石黒は前方から友子に身を寄せ、両手で彼女のほっそりした双つの脚をかたほうずつ抱いてひらかせて、中央部へ顔を伏せていた。友子の表情はみえない。石黒の頭がゆっくりと動き、心の苦痛と体のよろこびのいりまじった異様な友子の声がもれる。
江原はいそいで座敷にひきかえした。
テレビのスイッチをいれる。毒にも薬にもならない家族向きの番組をながめた。なかば上の空だが、なにもないよりはましである。ここを出たら、ソープランドへいこうと彼は決心した。欲望には勝てない。だが、あの人妻を石黒のあとで抱く気にもなれない。石黒と似たりよったりの、加虐的なたのしみを味わいたい欲望にこれだけとりつかれてしまった以上、彼と一線を劃するためには、なおのこと藤原友子を抱いてはならなかった。
アフリカの野生動物をあつかったテレビ番組にすこし江原はひきこまれて、寝室があまり気にならなくなった。全身の昂りもすこしおさまった。分別が回復してくる。このぶんならソープランドでむだな金をつかわずにすむかもしれない。
だが、寝室からまた妙な物音がきこえてきた。いいあらそう二人の声につづき、床を走るようなひびきがつたわる。取っ組みあいではなく、走るような物音だった。すぐ音は止み、泣いて女が訴える声と石黒の怒声がまじりあった。またいじめているらしい。あまりひどいまねをして、女に怪我でもさせては厄介なことになる。いいかげんにやめさせるべきだ。
江原光彦はそう自分にいいきかして、こんどは寝室の戸をおおっぴらにあけてなかをのぞいた。そして、一瞬わけがわからずに目を見張った。
床の間の柱の、友子の腰のあたりの高さにロープが結んである。ながさ六、七メートルのそのロープのもういっぽうの端を握って、石黒が部屋のすみに立っていた。友子は床の間を背にして、そのロープを両足ではさんで立っていた。彼女は手ばなしで泣き、もうゆるして、痛くて死にそうだと訴えた。張りわたされたロープが、白くほっそりした裸体の下腹の草むらに下方から喰いこんでいる。友子は江原がみていることに、まだ気づいていなかった。
「はよ走れ。走らんかい」
江原に目をくれ、ちらと笑って石黒は友子に命じた。ロープをまたいだまま、もう何度か友子を走らせたところらしい。
顔を手でおおって、友子はかぶりをふった。すると石黒はロープの端をもったまま、友子に近づき、乳房をひっぱたいた。
悲鳴をあげて友子はしゃがみこむ。小さな乳房だけに敏感なのだろう。
「さあ立て。はよせい。泣いたかてむだや。泣かれるほどわしはやめられんようになる。はよう走れ」
石黒はもとの位置にもどり、あきらめて立って泣きながら友子は走りだした。
ヒップだけが大きな、ほそい裸身がよろめきながら足をはこび、痛いーと訴えてしゃがみこもうとするのだが、ロープを力いっぱいひっぱって石黒はゆるさない。もっと走れ、もっとはやくとにやにや笑って催促する。やっと友子は石黒のまえに到着し、ロープがゆるむとわっと声をあげてその場に泣きくずれた。
子供のようにぺたんとすわって、両手を顔にあてて友子は泣きじゃくる。短い髪が、肉づきのうすい肩のうえでふるえている。ここへくるまで、思いつめて必死で抵抗したことが嘘のようにあわれな姿だ。が、石黒は心を動かされた様子もなく、その髪をつかんで揺さぶりながら、
「おっぱいが小さいさかい、おまえはつまらんわ。走っておっぱいがよう揺れる女やったら、もっとええのやが」
と、軽蔑した口調でいった。
「もういいじゃないですか、キャップ。このへんで放免してやりましょうよ」
みかねて江原は声をかけた。はじめて江原に気づき、あわてて友子はそばにある浴衣をとりよせて前をかくした。
「放免って、おまえほんまにあそばんでもええのか。若いくせに――」
「たっぷり楽しませてもらいました。それにキャップのまえでは、監視されているみたいでどうもそんな気になれないんです」
「アホ。こんな場所で上司も部下もあるか。おんなじ男どうしやないか」
石黒は笑い、上司としての満足感にかられた様子でそれ以上強要しなかった。
ああようあそんだ、今後はもうなにもせんから安心しとれ。風呂へ入ったらどうや。石黒は友子にそう声をかけ、寝室から出て浴室へ向かった。中年太りのずんぐりした体に、パンツをはいただけの姿である。
江原は座敷に寝そべって所在なくたばこをふかした。まだ欲望の充満したままの体と虚脱した心境の折合いがむずかしい。人間ってこんなことまでするのか、セックスのたのしみのためにはあんなことまで考えだすのか、という驚愕の余韻が頭のなかで尾をひいている。
藤原友子が寝室から出てきた。浴衣をきて、泣き腫らした顔を伏せている。江原は身を起し、座布団を机のまえにおいて、
「痛かったろう。まあビールでも飲めよ」
と、彼女に声をかけた。気をひくつもりはなく、心から同情していた。
友子はこたえず、そこを通りすぎて手洗いに入った。水音を立て、やがて出てきて、おどろいたことに浴衣をぬいで浴室へ入っていったのだ。なかで石黒がまだ湯につかっている。あれだけひどい目にあわされて、なんとも思わないのだろうか。
やがて石黒が浴室から出てきた。べつに変った物音もなかったから、浴室のなかで友子を抱いたりはしなかったらしい。パンツ一つで石黒は座敷机のまえにすわり、暑い暑いとつぶやいてビールを飲みはじめた。満足感と虚脱感のいりまじった、事後の疲れのみえない脂ぎった顔つきである。石黒は友子の体をさまざまにもてあそんだだけで、抱きはしなかったのかもしれない。
「キャップ。あの女とやらなかったんですか、ちゃんとしたセックスを」
江原は訊いてみた。すると、石黒はすこし照れたように笑って、
「ああ、わしぐらいの年齢になると、子だねの一滴はガソリンの一滴や。嫁はんのためにのこしとかんと機嫌わるいさかいな」
と説明した。加虐の欲望を発散させたせいか、どこにでもいる平凡な夫が晩酌しているようなおちついた姿である。
藤原友子が浴室から出てきた。けっしてあかるくはないが、悲嘆にくれてもいない表情で、彼女は石黒のそばにすわった。よりそうといってよい恰好だった。
江原は友子にビールを注いでやった。うまそうに彼女はグラスをからにし、ついで瓶をもって石黒と江原にお酌をした。人間社会の底の底を一緒にさまよった者どうしの親しみが三人のあいだにかもしだされた。
「おまえ、こいつとあそんでやれよ。若いのにみせつけられてかわいそうや」
江原を指して、石黒が友子にいった。
友子は恥ずかしそうに微笑(ほほえ)んでかぶりをふり、さらに石黒によりそった。
江原にその気はない。だが、せまれば友子は拒まなかっただろう。女というものが、また江原には理解できなくなった。
12
ホテルのまえで藤原友子とわかれ、江原は石黒と一緒にタクシーで新宿へ向かった。
夜八時すぎだった。新宿へくると、木下道代のことが思いだされる。銀座のZデパートへ移ってから、きょうみたいな主婦に何人かつきあって、道代のことをついわすれてしまうことがあるが、新宿へもどると、形式張らずしかも適当にしゃれた街の雰囲気とともに彼女の思い出が甘くよみがえった。
深夜、街灯のしたをぶらついて待っていた道代の姿や、喫茶店の席でにこにこ笑って迎えてくれた顔が脳裡にうかんだ。ホテルの浴室で仔熊みたいに愛らしく四つん這いになった白い裸体や、裸のまま出前の天丼をたべていた姿も思いだしてしまう。
そのへんの街角でふっと道代に出会いそうな気がした。おなじくらいの背恰好の娘をみかけると、胸がおどった。道代をさがして新宿駅をさまよった当時の気持にもどっている。石黒と一緒なのがわずらわしい。もしもひとりだったら、江原はビールの酔いにまかせて、道代の姿をもとめてこの界隈をぶらついたにちがいなかった。
うなぎ屋で腹ごしらえしたあと、石黒は歌舞伎町の酒場へ江原をつれていった。
ちゃんとしたホステスのいるかなり上品な店だった。石黒は常連のようだが、新宿のスーパーSに詰めた時分には一度もこの店へつれられてきたことはない。江原に弱味を握られたのと女あそびを一緒にしたのとで、石黒は江原をすこし尊重しはじめたらしい。
が、石黒はこんな上品な店に似合う客ではなかった。彼自身は懸命に紳士ぶって、
「ユリちゃんは名前のとおり百合の花みたいなムードやな。あんたみたいな人がわしは好きや。紫色の服がよう似合うわ」
などと、相好をくずして、さっきの場面が嘘のようなお世辞をいったりする。
が、それがすこしも板につかない。表情にも言葉づかいにも品がない。金を唸るほどもっていれば話もちがうのだろうが、石黒はそんな大金持ではないので、ホステスたちもあきらかに彼をバカにしていた。なぜキャップはこんな分不相応な店にくるのだろう。自分たちの知らない、よほど良質の金蔓でもあるのかと江原は思案してしまう。石黒が上役ぶって江原のことを、
「この男、わしの優秀な部下なんや。まだ独身やで。どうや、きみらこういう若い男といっぺんデートしてみたら」
などとホステスに推奨するたび、穴があったら入りたいような気持になる。
一時間ばかりその上品な酒場であそび、そろそろ帰ろうという空気になったとき、石黒へどこからか電話が入った。
「戸塚さんからです」
取次のボーイにいわれ、石黒は急に緊張して電話のところへ立っていった。
受話器をとり、かしこまって石黒はなにか話している。よほど大事な相手らしい。戸塚とは何者かとそばの女に訊いてみると、
「あらあ。ご存知ないの。石黒さんのスポンサーじゃないの」
と、軽蔑した顔つきで女はこたえた。
この店にとって戸塚は大事な客らしい。石黒はその人物の勘定で飲んでいる、と小声で女は教えてくれた。戸塚はある大きな重工業会社の総務部長だという。石黒とおなじ徳島県の出身で、その縁で二人はなにかとくべつな関係をたもっているらしい。
石黒が席にもどってきた。酔いのさめたような顔をしている。
「すまんけど、つきおうてくれ。急な用事ができたんや。謝礼はするさかい」
そそくさと彼は立ちあがった。戸惑いながら江原もつづいてその酒場を出た。
すぐにタクシーをひろい、江原と一緒に乗りこんで、赤坂、と石黒は運転手に命じた。
「くわしい説明はできんけど、ある偉い人の身辺を護衛せんならんのや。K重工の部長の依頼でな。知ってるやろ、K重工いうたら、日本で有数のごつい会社や」
誇らしげに石黒は説明した。
社会にはいろいろ裏があるのや、まともなことしとってはうだつがあがらん、裏のことをよう勉強しとく必要がある、と彼はつけ加えた。酒くさい息を吐きながら、しきりにひざを揺する。それなりに緊張しているわけだろう。
クルマはやがて赤坂界隈へ入った。大きなホテルのそばで石黒と江原はタクシーをおり、しばらくあるいて、むかしの大名屋敷のようなひろい和風建築のまえへ出た。門灯に日本名が出ている。料亭らしい。日本有数の大企業の幹部が利用するにふさわしい、超一流の豪壮な場所のようである。
砂利をふんで玄関へ入り、出てきた仲居に石黒は戸塚の名を告げた。
やがて恰幅のよい、五十前後の男が玄関にあらわれ、最敬礼する石黒に、あごをしゃくってみせた。料亭の外へ出ろというのだ。いわれたとおりにすると、戸塚は下駄をつっかけて外へ出てきた。この男は身内の者です、心配ありません、と江原を指して石黒が揉み手をするばかりに申し出たが、戸塚は江原にろくに目をくれなかった。
「万一のことがあると国家的損失だ。性根をすえて見張ってくれ。それから、新聞記者みたいな、この家を嗅ぎまわるやつがいたら追い返すんだ。少々荒っぽくあつかってもいいぞ」
それだけいって、戸塚は下駄をひきずって料亭のなかへもどっていった。
暗がりの電柱の陰に二人は身をひそめる。だれかよほどの大物が、K重工の幹部に会いにやってくるらしい。
「光彦も一介のガードマンで終る気はないやろ、さっきのような人に顔をおぼえてもろたほうがええぞ。将来のためや」
ついで石黒は声をひそめ、坂根組なんか大して怖くないというた意味がわかったやろ、いざとなればこっちの筋から暴力団なんかかんたんに動かせるんやと見栄を切った。
大型の外車が料亭に近づいて停まった。リンカーン・コンチネンタルだ。運転手が外へ出てかしこまってあけた扉のなかから出てきた人物をみて江原は息をのんだ。
閣僚や党役員を何度もつとめた大物政治家が街灯のあかりのなかへおりたち、人々の出迎えをうけてにこやかに料亭のなかへ消えていった。
13
いろんなアルバイトがあるものだと感心しながら、江原光彦は石黒キャップと一緒にその大きな料亭の警備についた。
個人的な仕事なので、制服をきて料亭の門前に張りこむわけにはいかない。見越しの松の影がみえる暗い塀にそってぶらついたり、街灯のうしろに身をひそめたりして周囲に気をくばるだけである。
一流の料亭からは三味の音や小唄の声などがきこえるものと思ったが、大物政治家の消えたその家は森閑としていた。政治家や大企業のトップは、どんちゃんさわぎのためではなく、巨額の利権のからむ交渉や取引を、人目につかぬ座敷のなかでおこなうために料亭を利用するもののようだ。一度だけ玄関でにぎやかな人声がしたが、それは用件を終えたほかの座敷の利用客が仲居たちに送られてクルマで帰る物音だった。
K重工は産業機械や船舶のほか、兵器なども製造している大企業である。政治家とのこうしたひそかな接触も多いのだろう。だから石黒のようなベテランのガードマンを個人的にかかえておき、いまみたいな表向きでない会合の場所へ動員する。いつどんな男におそわれかねない政治家の身辺をまもるのと、新聞雑誌の記者を排除するのが目的なのだ。
「大臣とか政務次官の場合は、警視庁がちゃんと護衛をつけてくれる。けど、Mさんはいまそういう役をしてないから、わしらの出番になるわけや。国に代ってわしらがあの人を守るわけやな」
塀のまえの暗がりのなかで、石黒は小声でさっきの政治家の名前をいった。
もう五年来、石黒はK重工の陰のガードマンをつとめているという。こうした会合の警備のほか、総会屋とか街の金融業者とかの接触、交渉にもかりだされる。くわしいことはわからないが、大企業の経営のうしろ暗い側面に石黒のような男のかかわりあう余地があるらしかった。
「こんな仕事はよくあるんですか」
「月に三、四回いうとこかな。きょうなんかだまって立ってりゃええのやから、らくなもんや。けど、厄介な仕事のときもあるで。社員の身辺調査とか債権の確保とか」
「へえ。それみんなキャップひとりで」
「ほかにもやとわれてる者がおるがな。それでも手の足らんときはうちの連中をつれていくわ。柿本もそうやし、倉本も――」
気心の知れた部下を、石黒はときおりそうした私的な業務に動員するらしい。
江原もその一人にされたようだ。石黒の息のかかった万引女から金をつかまされたのを手はじめに、いつのまにか正規の業務以外の場でも石黒の腹心におさまっている。
「光彦もそろそろ仕事の手をひろげてもいいときや。わしにまかしとけ。青空警備の仕事だけではゼニがのこらんわ」
「おれ、ヤバい仕事はやりたくないな。金がなくても呑気に暮すほうがいい」
「アホ。ゼニがのこってこそ呑気に暮せるんやないか。若いうちや。もっと欲を出さんかいな。男はこのぐらいのとこで機嫌よう飲めるようにならんと値打ないで」
料亭の塀をあごでしゃくって石黒ははっぱをかけた。
建物のなかは相変らずしずかだ。三味の音も歓談の声もきこえてこない。ときおりクルマが通りすぎ、男と女の二人づれが身をよせあって暗がりをあるくほかは、料亭のそばに変化はなかった。警備が必要な事態など、この治安のゆきとどいた東京でめったに発生するはずがないのに、K重工が石黒を動員したのは、会合の内容がよほどうしろ暗いからなのだろう。みえない影に彼らはおびえ、むだを承知でガードマンを待機させる。人目をさけて電柱のうしろに立っていると、野良犬になったような気持がした。いまいましいので江原は塀に向かって小便をした。石黒にはそんな屈折した気持はないらしく、塀の影のなかにたたずみ、呑気そうに夜空をみあげて古い艶歌を口ずさんでいた。
大物政治家とK重工の幹部たちの会合は一時間半ばかりで終了した。
政治家がさきにリンカーン・コンチネンタルで去り、つづいてK重工の幹部がベンツで去っていった。玄関に勢ぞろいした女将や仲居たちのそばで、K重工の総務部長の戸塚がおなじように最敬礼して見送っている。江原がなにげなくふりかえると、電柱によりそうようにして石黒も最敬礼していた。ばかばかしくて江原は見習う気になれなかった。
仲居が一人、江原たちのもとへやってきた。戸塚が呼んでいるという。石黒と一緒に玄関へいってみると、そこに戸塚の姿はなく、仲居がさきに立って奥へ二人を案内した。大名屋敷のような豪華な建物の奥の小さな部屋で戸塚は待っていた。
酒と料理の支度がしてある。腰をかがめて恐縮しながら石黒は席につき、おい、きちんとご挨拶せんか、と恐い顔で江原をたしなめた。戸塚は上座に恰幅よくふんぞりかえり、上機嫌で警備の労をねぎらったあと、酒と料理を二人にすすめた。江原のみたこともない手のこんだ上品な日本料理だったが、スタミナのつきそうな内容ではなく、大衆中華料理屋のレバニラいためのほうがずっとうまいとひそかに江原は考えたりした。
「石黒さんにまた一つ仕事をたのみたいんだが、いま話してもいいかね」
しばらく雑談したあと、戸塚はちらと江原に目をくれて切りだした。この男のまえで話して大丈夫かと訊きたいのだろう。
背を丸くして石黒はうなずいた。戸塚は身を乗りだし、声をひそめて、うちの組合にうるさいやつがいるんだ、この男を適当に排除する方法はないかと石黒をみつめた。
「川崎工場で代議員をしている大木という男なんだが、これが過激思想の持主でね。筋金入りなんだ。川崎だけで泳いでいるぶんにはいいんだが、こんどは全社組織の書記長に出てくる可能性がある。こいつが権力を握るとなにをやらかすかわからんので、早目に手を打っておきたいんだ」
K重工の労使関係は、組合幹部の考えが比較的穏健なのでいままでうまくいってきた。だが、この大木という男が組合で権力を握ると、合理化や賃金交渉にかならず支障をきたす。大木は理論的にもうるさく、非凡な組織力をもち、ながい不況下会社に協力的だった組合員を煽動して経営者側との対立を激化させるにきまっていると戸塚は説明した。
「その大木さんいうおかた、年齢はどのくらいですか」
料理を突っついて石黒は訊いた。わざとらしく戸塚から視線をそらせている。
「三十四、五だ。女房と子供が二人いる。入社のときはわからなかったが、学生運動のリーダーだったやつなんだな」
「お住いは、川崎でっか」
「そう。川崎の社員アパートにいる。どうかね石黒さん。なんとかなるだろうか」
「さあ、もっとくわしゅう調べてみんことにはなんとも――」
石黒は狡猾そうに顔をあげた。そして、その大木という男の奥さんがなにか万引のようなことをやったら、組合員の人気が落ちるのやないでしょうかと訊いた。
大木の妻を罠にかけるつもりらしい。
「かなり効果的だな。しかしそれだけではすこし弱い。本人に傷がつかないと」
「女の問題がよろしいでしょうな。あわせてなにかスキャンダルをつくります」
石黒はあっさりひきうけた。満足そうに戸塚はうなずき、銚子をとって江原にもすすめる。
話の内容よりも、K重工と石黒のむすびつきの固さに江原はおどろいていた。この調子なら、K重工のほうが石黒を庇護することもあるのだろう。この方面の力を借りれば坂根組など怖くないという石黒の話は、虚勢ばかりではないのかもしれなかった。
「よし、これで話はきまった。大木という男についての資料は二、三日中に新宿の例の酒場にとりにきてくれ。いいな」
ゆっくりやってくれ、おれはこのへんで失礼する、と戸塚はさきに腰をあげ、きょうの謝礼だといって二人に紙包みを手わたした。
石黒がいくらもらったかはわからない。江原の紙包みには一万円入っていた。
「喰(く)え喰え光彦。これだけの料理はめったにわしらの口には入らへんぞ」
戸塚が去ってから、石黒は料理を頬張って江原をけしかけた。
だが、偉い人たちののこりものを食べるようで、江原は食欲がなかった。
14
数日は変ったこともなくすぎた。K重工の戸塚部長にたのまれた仕事がどうなったのか、石黒はなにもいわなかった。
キャップは一人であの仕事をかたづける気なのだ、おれには関係ないと考えて江原光彦は胸をなでおろした。
一時間の警備に一万円も払ってくれる会社だから、大木という男を失脚させる仕事にもし成功すれば、かなりの額の謝礼が出るのはたしかである。それを思うと惜しい気もするが、この仕事はやりたくなかった。
何度か経験したとはいえ、罪もない人間を罠にかけるのはやはりうしろめたい。それに大木は労働組合の代議員である。金も地位もない江原とおなじ側の人間なのだ。いくら金になるにしろ、大企業のたのみをきいてそんな男の足をひっぱるのはいやだった。もし大木という男から、総務部長の戸塚の失脚工作を依頼されたのであれば勇んで協力するだろうに、世の中はうまくいかないものだ。
江原はだから、この一件には知らん顔で平常どおり勤務をつづけた。日に二、三件の万引を摘発した。子供や男の高校生の犯人がほとんどで、主婦は三人だけだった。その三人とも不器量で貧乏くさい中年女だったので、江原は金もセックスも強要せず、正式に彼女らを保安事務所へつれていった。
その日、江原は石黒キャップとともに早番の夜勤につく順番になっていた。
六時までの通常勤務を終え、外で食事をとって保安事務所へもどり、居残っていた同僚たちを送りだした。やがて、石黒キャップがにやにや笑って事務所へ入ってきた。おどろいて江原は腰をうかせた。このあいだ石黒と二人でホテルへつれこんだ藤原友子という人妻が、照れくさそうに一緒に入ってきたからである。
「どうしたんだ、あんた」
「いちおう声かけてみたんや。そしたら出てきてくれた。旦那が出張できょうは留守やそうな。間がよかったんや」
友子の代りに石黒がうれしそうに説明し、彼女に椅子をすすめた。
先日はどうも、と江原に挨拶して友子は腰をおろした。脅されてしぶしぶ出てきた様子ではない。あいまいに笑っている。あれほど石黒にいじめられて、また会いにくるのだから、この人妻にとって、あのホテルでのできごとはむしろいい思い出だったのかもしれない。女という種族が江原はまたわからなくなってくる。
「こないだの話の男、こいつや。それからこっちが嫁はんのほう」
石黒は鞄から写真つきの書類をとりだしてテーブルのうえにほうりだした。
興信所の書類である。大木一郎と妻冴子の文字をみて江原は顔をしかめた。例のK重工の一件らしい。やはり石黒は江原を手つだわせる気でいるのだろうか。
「おれも一緒にやるんですか。キャップの仕事だと思ったのに――」
「アホ。話をきいた以上当然やないか。おりるいうてもわしはみとめんぞ」
目を光らせて石黒は凄んだ。そして藤原友子をふりかえり、この奥さんも手を貸してくれるんや、この大木という男をホテルへつれこんで一仕事する役でな、と説明した。
「大丈夫ですか奥さん。あなた、今後はわれわれとかかわりあいになりたくないと、あれほどいってたじゃないですか」
「いいのよ。アルバイトなんだから。私、三十万円で契約したの」
「三十万――。そんなに出るんですか」
「光彦にもそのぐらいは出るよ。なんせ相手は大企業や」石黒は微笑みかけた。
「おまえはこの嫁はんのほうをひっかけて、サツにひきわたすのや。この女が毎日どこで買物するか、調べてここに書いてあるわ」
大木冴子の書類に江原は目を通した。
三十歳。短大卒。幼稚園へいっている男の子が一人いる。彼女は毎日、昼食のあと子供が帰らないうちに買物に出る。いくさきのリストは下記のとおり。おなじ社員寮の主婦とつれ立って出ることもあり、一人で買物する日もある。江原はこの冴子を尾行し、適当なスーパーあたりで彼女の買物袋へ商品をつっこんで万引犯に仕立てあげる役なのだ。
目もとの愛らしい丸顔の健康そうな人妻の写真に江原はしばらくみとれた。世間の悪をまだほとんど知らぬ人妻なのだろう。やはり気が重い。無実の女を江原が万引犯に仕立てあげるのは、原則としてその女になにかつよい反感を抱いたときにかぎられるのだ。
「おれ、気がすすまないな。おろしてくださいよ。もちろん秘密は厳守します」
「光彦。もうおまえはあとにひけんところへきとるんやで。わかってないらしいな。どうしてもおりたいのやったら、それ相応の覚悟をしてかかれよ」
「また埋立地の底で眠る話ですか」
「おい、冗談やないのやで。坂根組の者にすぐきてもらおうか」
石黒は電話機のダイヤルをまわした。
四人の男にクルマで拉致され、男性に刃物をおしあてられたときの恐怖が江原の全身によみがえった。いそいで彼は受話器のボタンを押し、電話を切った。いつやればいいんですか、とふてくされて石黒に訊く。
「非番の日にやれ。この奥さんとわしは、あすにでも仕事にかかる」
「なにをやるんです。美人局(つつもたせ)ですか」
「終ってから教えたるよ。まあ美人局のようなもんやけどな」
「ちょっと私、自信ないなあ。この大木っていう男、私がちょっかいかけても乗ってくるかしらね。ハンサムよ、かなり」
藤原友子が写真をみてつぶやいた。
好色な表情で、口調も蓮っ葉である。変れば変るものだ。一度度胸をきめると、女はたちまち悪徳に染まる。
「大丈夫やて。あんたはいい女や。年齢も若い。男はコロッといかれてしまう」
石黒はふりかえって友子のひざにさわる。友子は肩をすくめ、目のあたりを赤くした。滅茶苦茶にいじめられていた、ほっそりした白い裸体が脳裡にうかび、江原は息苦しくなって顔をそむける。この人妻を抱いてみたいという気持を、表明してしまったかたちになった。
「さて、ちょっと見回ってくるか」
石黒が立って、わざとらしくゆっくり保安室から出ていった。
このあと事務所でなにが起るか見通している様子である。閉店後のデパートはしずまりかえり、うす暗く、商品を搬入する物音が遠くからかすかにきこえてくる。
「ねえ、あんた純情なのね。こうなったら仲よくしましょうよ。私たち、もうおなじ穴のむじななんだから」
藤原友子が江原に椅子を近づけた。
じっと江原をみつめ、片手で彼の髪にさわりながら顔を近づけてくる。江原はゆっくりキスに応じた。据え膳喰わぬは恥、の意識がすべての抑制を消し去っている。
江原は腹部に甘い感覚をおぼえた。キスのあいだ友子が男性をまさぐっている。そこに力がみなぎると、友子はキスをつづけながら右手で彼のズボンのファスナーをおろした。
汚れた肌
1
K重工の総務部長から依頼された気の重い仕事に、江原光彦はいよいよとりかからねばならなくなった。
手伝いにかりだされた人妻の藤原友子に会ってから三日後の昼休み、江原は石黒キャップにさそわれて入った近くの喫茶店で、一枚の写真を手わたされた。
「これが大木一郎や。友子のやつがうまいことやってくれよった」
全裸の男と女がベッドのうえでたのしんでいる写真だった。
天井裏からでも撮影したらしい。あおむけに横たわった男の下腹部へ横合から女が顔を伏せ、男性を口にふくんでいる。男は目をとじ、かるく顔をしかめていた。女はその横にうずくまり、上体を伏せているので顔はよくみえないが、ほっそりした体つきや髪型がまちがいなく藤原友子だった。撮影者を意識していないせいか、快楽に耐える男の表情や、手足を投げだした恰好になまなましい迫力がある。友子のほうはカメラのありかを知っているはずだが、首をかしげて男性を咥え、その根に両手をそえた姿に演技だけではなさそうな陶酔の気配があふれていた。
情事のとき人目を意識すると、かえって刺戟されるらしい。石黒、江原と三人でホテルへ入ってから、そういう嗜好を身につけたのだろう。新しくおぼえたよろこびに友子は馴染みはじめている。こんどの仕事に加わったのも、金のほかに刺戟的なセックスの期待があったせいかもしれなかった。
「キャップが撮ったんですか。ホテルの天井裏にしのんで――」
「サツにおったさかい、お手のもんや。ラブホテルの天井裏は高さ一メートルぐらいの空間になってるとこが多い。おぼえておけ」
K重工川崎工場の労組の幹部である大木一郎は、会合などで帰りがおそくなると、工場のそばの小料理屋やスナックバーで一杯やるのが習慣だった。
三日まえの夕刻、石黒と藤原友子は八丁畷(はつちようなわて)のそばのラブホテルへ入り、たっぷりと淫らな時間をすごした。今夜大木が組合の会議に出席するという情報を、K重工の総務部をつうじて石黒はつかんでいた。
セックスに満足したあと、石黒はホテルのトイレットの天井板をこじあけて天井裏へのぼり、ベッドをみおろす位置にカメラをおいた。そして、友子と一緒にそこを出て大木のいきつけのスナックバーへ出かけ、しばらく待って大木一郎をつかまえたのだ。
大木は仲間と三人づれで、すでに酔って大きな声で話していた。店のすみで彼をうかがう石黒たちに目もくれなかった。一時間ばかり談笑して大木は店を出て、表通りで仲間とわかれ、タクシーをさがした。尾行してきた石黒と友子はそこでうなずきあい、酔いにまかせて友子は大木に近づいていって、
「ねえ、どちらへいらっしゃるの。八丁畷まで便乗させてもらえないかしら」
と、声をかけたのである。
二人がタクシーへ乗りこむのを確認してから、石黒はいそいでホテルヘもどり、部屋の天井裏へひそんで待ちかまえた。大木は身持のかたい男だったが、酔っていたし、据え膳に尻ごみするほど臆病でもなかった。二人でかるく一杯やろうとタクシーのなかで彼のほうから友子にもちかけ、一緒にクルマをおりて付近のすし屋へ立ち寄ったあと、
「まさかきみ、たちのわるい女じゃないんだろうな。いや、それでもかまわん。あり金あわせて一万円もないんだから」
と、すこし疑わしい口ぶりながら、友子と一緒にホテルへ入ったのである。
軽率といえば軽率だが、美人局(つつもたせ)や枕さがしの被害にあうほど金がないので、そうした犯罪に高をくくっていた。石黒は二時間まえまでたっぷりと責めたり可愛がったりした友子の裸体が、背の高い大木一郎の体とからみあう一部始終を見物し、その情景を好きなだけカメラにおさめたのである。
「友子は用心しとったわ。カメラのほうへいっぺんも顔を向けなんださかいな」
淫らなうすら笑いを石黒はうかべた。
そして、大木がどんなに熱心に友子の体をむさぼったか、話してきかせた。
「ほかに二、三点、絵柄のいいのをえらんで何百枚か焼き増しするんや。それを工場のいろんなとこへばらまいておく。もうあの男、組合生命は終りやな。大きい顔で工場のなかを歩かれんようになるで」
「しかし、会社側の罠にかかったと釈明すればみんな納得するのではないかな」
「頭では納得する。けど、こういう問題は理窟やないのや。女とやってるところを公開されるようなやつは無条件で軽蔑される。どう仕様もない、人の生理みたいなことやな」
こっちは終った。あとはおまえの番だ。大木の女房をあすにでも万引犯に仕立てあげてしまえと石黒は注文してきた。
「もういいじゃないですか。女房のほうまで地獄に落さなくとも――」
江原は顔をしかめた。大木一郎の失脚はもうきまったも同然なのに、さらに妻まで痛めつける必要がなぜあるのか、わからない。
「アホ。どんなやつでも、やっつけるときは徹底的にやらなあかんのや。それにこないだもいうたとおり、おまえはもうこの仕事からおりられる立場とちがうのやぞ。わるいようにはせん。今後のためもある。ここはだまってわしの指示にしたがえ」
より強烈なダメージを大木にあたえるためだけでなく、江原を完全に自分の輩下にとりこんでしまうために、石黒はこの仕事をおしつけにかかっていた。
悪事を分担させて否応なく江原を忠実な手下にする気らしい。子分をかかえて威張りたい気持もあるだろうが、あぶない橋を一緒にわたる仲間がほしいのだ。偉そうな話をしながら、石黒はあんがい不安にかられて生きているのかもしれない。以前つとめた会社でもそうだったが、自信のないやつにかぎってグループや派閥をつくりたがるものだ。
が、そうした事情はおいて、この仕事からおりるわけにいかないのは事実だった。乗りかかった舟から逃げだすには、江原の手はすでに汚れきっている。青空警備会社につとめるかぎり、石黒には敵対できない。
「わかりましたよ。あした非番だから川崎へいってきます。ただし、手当てのほうはがっちりおねがいしますよ。金だけが目的でやるんだから――」
ふくれ面で江原は腰をあげた。
そんなものは要らないというのに、大木と友子のからみあう写真を石黒は江原のポケットへねじこんだ。これも石黒流の好意の表現なのだ。
2
あくる日、江原光彦は川崎市の郊外にある大木冴子の住居をたずねていった。
新興の住宅地のはずれにあるK重工の社員アパートで大木一家は暮していた。
アパートは鉄筋コンクリートの四階建てだった。江原は昼すぎにそこへ着き、目立たぬよう付近をぶらつきながら、二階の中央にある大木宅の扉を見張った。昼食のあと、幼稚園から子供が帰るまえに、大木冴子は買物に出ると興信所の報告書には書いてあった。
なんとなく江原は胸がときめいた。目的がなんであろうと、美しい女を待つことに男は心が浮き立つもののようだ。十五世帯ばかりが入居する社員アパートは、子供たちが学校などへ出かけているせいだろう、ほとんど人の出入りもなくしずまりかえっている。
一時すこしまえ、二階の端の扉があき、買物袋をさげた一人の主婦が出てきて大木冴子の住居のチャイムを鳴らした。
すぐに扉があき、青いワンピースを着た冴子がやはり買物袋をさげて姿をあらわした。一緒にマーケットへいくらしい。二人の人妻は肩をならべて階段をおり、通りへ出てきた。写真でみたとおり冴子は目の大きな、生き生きした丸顔の女で、体つきは中肉中背である。もう一人は三十六、七の、やせた顔色のわるい平凡な女だった。
付近に商店街はない。表通りへ出て彼女らはバス停に立った。タクシーがないので、江原は目立たぬよう物陰に立ってバスを待たねばならなかった。早口で彼女らはおしゃべりしている。大木冴子の笑い声が、空中をころがるようにして江原の耳に入ってきた。
十人あまりの乗客がバス停にならんだので、江原は彼女らの目にとまらずバスに乗りこむことができた。サングラスを江原はかけている。車内は空いていて、立っている乗客は江原をいれて三人だけだった。腰かけておしゃべりする冴子たちに背を向けて立ち、江原は彼女らの話に耳をすました。
「そうなのよ。父親って甘やかすだけなのね。おかげで私が憎まれ役。ヒロシったら、おなじ親なのにどうしてママだけうるさいのって訊くのよ。ぼく、ママのほんとうの子じゃないみたいだって。母親ってつくづく割にあわないと思うわ」
冴子の声はあくまであかるかった。
あかるすぎるように江原は思った。愚痴のかたちで自分の幸福を吹聴している。夫がホテルで女を抱き、その現場を写真にとられたというのに、なにも知らず、のろけをいっている。自分ほど倖せな女はいないような話しかただ。ばかなやつ、と冷笑するゆとりは江原になく、いまにみろ、倖せ顔を吹っとばしてやるから、と胸でつぶやいた。他人の幸福をゆるせない、暗く歪んだ感情にかられる。仕事のためには有用な感情である。
繁華街へ出て、大木冴子とつれの主婦はバスをおりた。肩をならべて商店街へ向かう彼女らを尾行しながら、江原は冴子がなまめかしい、肉感的な脚をしているのに気づいた。むかしスポーツをやったのか、肉づきのしっかりした、しかも線の美しい脚である。スカートをはねあげるようにして彼女はあるく。
青いワンピースを透して、起伏のゆたかな冴子の裸体が江原の脳裡にうかびあがった。肌は白く、張りつめている。息苦しいほど肉の稔ったヒップが、冴子の笑顔のように生き生きとスカートのなかで揺れていた。
なんとかしてこの女を抱きたい、と祈るように江原は思った。石黒が藤原友子にたいしてやったと同様、いろんな道具をつかってもてあそんでやりたい。石黒のああした加虐的な嗜好の成り立ちが、こうなると江原は理解できるような気がする。社会的にめぐまれない男は幸福な女をいじめぬいて、不遇をわかちあいたくなるのだ。
商店街の人混みのなかへ入ると、二人の人妻の足どりは急に緩慢になった。
魚屋をのぞいたり、食品店をひやかしたり、なかなか買物をしない。意味もなく電器店のまえで立ちどまったりする。彼女らがスーパーへ入るかどうかわからないので、江原はいらいらしてきた。ふつうの商店でしか買物をしないのなら、大木冴子を万引犯に仕立てあげるのはむずかしい。石黒に命じられたとおり、たんに罪をかぶせるのではなく、冴子をホテルへつれこめるようなかたちでそれをやりたいと思うから、なおさらである。
つれの女がじゃまだった。ただ罪をかぶせ、世間体をわるくさせるためなら同伴者のいるほうが効果的だが、それ以上の下心をもつと、事情は変ってくる。なんとかつれの女を排除する方法はないかと考えながら、苛立たしい尾行を彼はつづけた。
そのうち事情が急変した。商店街のまんなかにある大きな書店へ、二人の妻は入っていったのだ。
店内で二人は、はなればなれになり、品さだめや立ち読みにとりかかった。どの売り場も混みあっている。文芸書のコーナーで立ち読みする冴子に、ごく自然に江原は接近することができた。
商売柄、盗難防止用の鏡の位置は目でたしかめなくともわかっている。江原は冴子とならんで立ち、棚から二冊本をとりだして、かんたんに頁をくったあと、右手で一冊を棚にもどし、同時に左手で他の一冊を冴子の買物袋のなかにすべりこませた。彼女の肘からぶらさがった袋のなかに本はさりげなくしのびこみ、なんの注意も惹かなかったようだ。
安堵の息をついて江原は外へ出る。あの女が本を万引したと店の者に告げるのが最初の予定だったが、いまは個人的に冴子に接触したい気持に変っている。
しばらくして冴子とつれの人妻は書店から出てきた。つれのほうはなにか実用書を買ったが、冴子のほうは立ち読みだけだった。
彼女らが店を三十メートルばかりはなれてから、江原は追いすがって、
「失礼ですが、ちょっと話があります」
と声をかけた。
けげんそうに二人は立ちどまる。江原はきょうは平服なので、警備会社の者です、と名乗ってまず身分証明書を提示した。
「こちらのかたと内密に話がしたいんです。すみませんが、奥さんはそのへんをぶらぶらしていていただけませんか」
つれの人妻に江原は話しかけた。困惑してつれの女は冴子の顔をみる。
「内密の話って、なんでしょうか。いいわ奥さん、私ひとりで大丈夫」
気丈に顔をひきしめて冴子はつれに声をかけ、まっすぐ江原をみつめた。つれの女は不安そうに二人からはなれる。
「そのバッグのなかをみせてください」
人通りが多いので、そばの路地の入口に江原は冴子をつれていった。
バッグのなか――。ふしぎそうに冴子は袋をあけ、本を発見してとまどった表情になった。事態がまだよく呑みこめないらしい。かすかな化粧品の香りが一瞬つよまったように江原は感じた。
「さっきあの書店に入ったでしょう。いけませんね、悪質ないたずらだ」
「いたずらって、これを私が――」冴子の顔に驚愕がひろがった。「なにをいうんですか。私は知らないわ。いいがかりよ。私、こんな本知らない」
「いいがかりですって。ではこの本がなぜここに入っているんですか」
江原はすこし声を荒げた。冴子の丸い顔が狼狽とおびえでいっぱいになった。
「知らないわ、私、知らない。いつのまにか入っていたのよ。ほんとうよ。私、そんなことしません」
「奥さん、それは困るな。あなたが盗ったのをみていた人がいるんです。現物もある。知らないでは通らないよ」
「どの人がみていたのよ。呼んできて頂戴。いいがかりよ。私、警察でもどこでもいくわ。絶対にやっていないんだから」
「目撃者はもう帰りましたよ。仕様がないな。そんなに強情を張るのなら、警察へいかざるを得ない。でも、事件になると、ご主人に知れますよ。いいんですか」
「主人は信じてくれるわ。平気よ。私が万引なんかするわけがないんだから」
思いつめた顔で冴子はいい放った。
厄介なことになったと、胸のうちで江原はうろたえていた。警察へいくと、なぜ自分が万引の現場にいあわせたかの説明がむずかしい。都内からわざわざ川崎へ出かけてきた理由の辻褄あわせが大へんである。
つれの人妻がもどってきた。二人の気配が異様なので、心配になったのだろう。
「たすけて奥さん。この人が、私が本を盗んだっていうの。警察へいこうって」
つれの女に抱きついて冴子は泣いた。
虚勢を張っていたが、警察へいくのがやはり恐かったのだ。それをみて江原は余裕をとりもどした。場数をふんでいるだけ、勝算はじゅうぶんである。
「泣かれても困るんだな。ちゃんと証拠があるんだ。奥さん、あなたもぐるじゃないのか。買物袋のなかをみせてもらおうか」
江原はしだいに声を尖らせていった。
3
「この奥さんが万引だなんて――。嘘よ。そんなことするはずがないわ。私、この奥さんをよく知っているんだから」
つれの中年女は、大木冴子をうしろにかばうようにして早口に申し立てた。
だが、その表情は狼狽でひきつっている。買物をしながら商品をふっと無断でバッグのなかへいれたくなる心理が、自分でも思いあたるのだろう。
「うるせえな。そんな話はもうけっこう。このとおり証拠があるんだ。なにをいってもむだだよ。さ、警察へいこう」
書店で冴子の買物袋へ突っこんだ本をふりかざして、江原光彦は声を荒げた。
中年女はあわてて周囲をみた。江原の声におどろいて、歩行者がふりかえりながら通りすぎる。付近の商店の従業員や買物客も顔をあげてこちらをみている。
「ここじゃみっともないわ。あそこへ入って話しあいましょう。ね、いいでしょ」
中年女は筋向かいの喫茶店を指して、江原と冴子の双方に同意をもとめた。
冴子は泣くのをやめ、顔をかくして、中年女についてあるきだした。
喫茶店のすみの席にすわり、冷たいコーヒーをはさんで三人は向かいあった。買物の主婦や商談の男たちで店内はにぎわっている。話が人の耳に入る心配はなさそうである。
「結局あなた、なにが望みなのよ。この人に恨みでもあるの。どうする気なの」
中年女が口をきった。冴子はうつむいて歯を喰いしばり、身を固くしている。
「それこそいいがかりだぜ、奥さん。おれはガードマンだ。たまたま万引をみかけたから摘発しただけさ。あの書店にやとわれているわけじゃないが、商売だからな」
「お金を払うわ。だから見逃してよ」
「舐めるんじゃないよ。金がほしくて挙げたわけじゃないんだ。あんたがたが、たいして金をもっているはずもないしな」
「私、やっぱり警察へいくわ。やましい点はないんだもの。話せばわかってもらえるはずです。警察へいきます」
冴子が顔をあげていった。思いつめた表情で、江原からは目をそらせている。
「よしなさいよ。警察ってそんな甘いもんじゃないわ。私にまかせておいて」
中年女は年上ぶって冴子をなだめた。
そして、一つの経験談をしてきかせた。以前、横浜の社員アパートに住んでいたころ、となりの高校生がやはり本を万引して警察につれていかれた。余罪を調べに警察官がその住居をおとずれ、アパートはしばらく噂話でいっぱいになった。その家族はいたたまれずに引越ししたが、実直な父親はしばらく職場で肩身のせまい思いをつづけ、工場で作業中ぼんやりしてコンベアの鉄材に頭をぶっつけて重傷を負った。社員アパートの悲劇である。高校生のちょっとしたいたずら心が、一家の平穏を滅茶滅茶にしてしまった。
「本の万引は常習犯が多いからな。警察はその子の本棚を調べにいったんだろう」
さりげなく江原は脅しをいれた。
中年女に心の底で感謝している。わけ知り顔に物事を丸くおさめたがるこうした連中が悪事のたすけになる。
「調べられてもいいわ。うちの本棚なんかからっぽに近いんだから」
「でも、おまわりさんがくるのよ。みっともないじゃないの。ご主人の立場はどうなるのよ。組合の役員なのに――」
組合の役員なんかには、警察はとくにいじわるするらしい。左翼の人は目のかたきだから、と中年女はつけ加えた。
俗っぽい分別が、事態をますます江原に有利なほうへはこんでくれるようだ。
「では私はどうなるの。なにもしていないのに。奥さんも私が盗(や)ったと思っているんでしょう。ひどいわ。みんなで私を――」
感情をおさえきれなくなったらしい。丸い顔をくしゃくしゃに歪めて冴子は席を立ち、化粧室に駈けこんだ。
悲嘆にくれたうしろ姿をみて、さすがに江原はかわいそうになる。このまま放免してやれば、さぞすっきりするだろうと思う。
しかし、甘い心に打ち克たねばならない。青空警備会社へ入って裏側からながめた社会は、おそろしく汚れて、邪悪で、きびしい。平然と悪事を働き、弱者の訴えに耳も貸さないタフな神経をもたずには、石黒のような男に伍して生きぬくことはできないのだ。悪事は自分をきたえるための修業である。金も地位もない江原の側の人間である大木一郎を失脚させ、かたほうでその妻を抱くような非行をやってのける力があれば、またいつの日かその力を金も地位もない人々のために役立てることができると江原は自分にいいきかせた。
「人って、みかけによらないわねえ。あの可愛い奥さんが万引なんかするんだから」
身を乗りだして中年女が話しかけた。
冴子がじっさいに本を盗ったものとこの女は信じている。嘆かわしげな表情の奥からよろこびの色がにじみ出ていた。他人の不幸をみるよろこびと、絶好の話のたねをみつけたよろこびの色だ。ここだけの話と前おきして、声をひそめてこの女はアパート中に事件をふれまわるだろう。警察へ冴子をつれていかなくとも、大木一郎の名誉を失墜させる役目はこの女がはたしてくれるはずだ。
「で、あんた、あの人をどうする気なの。お金ではないとすると――」
「かんたんさ。二時間ばかりつきあってくれれば済むことなんだ。奥さんは映画でもみて待ってやってくれ」
「二時間ばかりって、あんたまさか」
「奥さんには関係ないよ。なにもなかったことにすれば済むんだ。彼女のためにもいちばんいい解決策だよ」
「そんな。彼女が承知しないわよ」
「ぐずぐずいわずに座をはずすんだ。二時間後にまたここへ彼女をつれてくる。なんなら奥さんも一緒にいくかい」
冴子が手洗いから出てきた。
泣き腫らした顔をこわばらせている。冴子も中年女も気のいい主婦である。冴子の買物袋に本をいれたのが彼女らをとっちめている当人だとは考えてもみない。これだから悪事の修業は必要なのだ。
「この人がね、あなたと二人きりで話しあいたいっていうの。私がいてはかえってこじれるみたい。二人で交渉なさいよ。私、二時間ばかり買物してまたここへくるわ」
冴子が席につくなり、中年女はそういって腰をあげた。そして冴子の肩に右手をおき、心配しなくていいのよ、私絶対だれにもいわないから、といいおいて喫茶店を出ていった。
あわてたとみえて、さっき買った実用書をテーブルにおきわすれている。コーヒー代は冴子に払わせるつもりらしかった。
4
どうすればいいんですか。中年女が消えてから、かすれた声で冴子は訊いた。
身を固くし、目を伏せている。ワンピースの襟もとからのぞく肌が、泣き腫らした顔と対照的に生き生きと白くはりつめていて、衣服のなかの裸体をいやでも想像させずにおかない。
「いこう。ここでは話もできない」
江原光彦は立ちあがった。
さすがに緊張でひざがふるえる。商店街のすぐ裏にラブホテルの標識をたしかめてあったが、ぶじにそこへ冴子をつれこめるかどうか、まだじゅうぶん自信がなかった。
喫茶店を出て商店街を横切り、路地を通って裏道へ出た。だまって冴子はついてくる。さっきの中年女がどこかで監視していないか、注意ぶかく周囲に目を走らせたが、その気配はなさそうだった。
裏の道へ入ると、五十メートルさきにホテルがあった。表通りとちがって通行人はすくない。テリヤの仔犬が五つぐらいの子供にひかれて、はあはあ息を切らせて二人のそばを走りぬけていった。
ホテルのほうへ江原があるきだすと、
「どこへいくんですか」
と、冴子は足をとめた。
大きな目をさらに大きくして江原をみつめる。まだ覚悟ができていないようだ。
あそこ、と江原はホテルをあごで指した。
「ゆっくり話しあおうよ。かんたんなことだ。すぐ終るよ。警察とちがって、おれの取調べはあっさりしたものさ」
「いやです。そんな――」
冴子はさけんだ。あとの言葉が出ないらしく、口をふるわせる。だが、きびすをかえすだけの決心もつかないようである。
「いやだって――。じゃ警察へいくか」江原は舌打ちし、顔をしかめた。「ぐずぐずいうなよ。おれは気が短いんだ。手っとりばやく折りあおうとしているのに、まだ手間をかけようってのかい」
「私のバッグに本をいれたの、あなたでしょう」ホテルのそばへきて、冴子はやっと江原の狙いに気づいたらしい。「そうよ。あなたなのよ。いいがかりをつけて女をホテルへつれこむんだわ。私のほうこそ警察へいきたい。さあ、いきましょうよ。警察へ」
「いいとも。いこう。ばかな女だな。せっかく穏便に済ませてやろうというのに」
江原はそのまま冴子の左の手首をつかみ、ホテルのほうへあるきだした。警察の場所がわからないので、とりあえずホテルの方向へ足をすすめたのだ。
「まったくばかだよ、あんたは。ガードマンの話と万引女の話のどちらを警察が信用すると思うのかね。厄介なことになるぜ。すくなくともあんたの家庭は台なしだ」
ホテルの玄関のまえで江原は足をとめた。
化石のように冴子は立っている。手首を江原にとられたまま、茫然と視線を前方に据えて、なかば気を失ったような状態である。
仲よく話しあおうや。それですべて終るんだ。ささやいて江原はホテルの玄関へ足をむけた。
歓喜が胸にこみあげた。冴子がおとなしくついてきたのだ。涙のあとのついた顔をこわばらせ、なにもいわず、夢遊病者のような足どりで玄関へ入った。無事平穏を優先させたい誘惑にとうとう負けてしまったらしい。暮しの危機とひきかえなら、理非を問わず現代の女は体を男に提供する。セックスはもう愛情のあかしではなくなったのだと、頭のすみで江原は考えていた。
うす暗い廊下をあるくと、とつぜん夜になったような気がした。冴子の手首をしっかりつかんだままの江原をみて、うぶな男と思ったらしく、案内の中年女は二人を洋間へ招きいれると、笑いながら去っていった。
扉に鍵をかけて、江原は安堵の息をついた。ここまでくるのに冴子ほど神経をつかわせられた女ははじめてである。おなじように罠にかかった女たちの多くは、トラブルを体で解決しようときめると、むしろ欲望でひきつった顔でホテルへついてきたものだった。
場末の貧弱なホテルだった。バスルームと洗面所はあるが、部屋は一間きりで、応接セットの向こうにベッドがあった。調度が新しく清潔なのだけがとりえである。
冴子は全身を固くして椅子にかけ、うしろから江原が肩に手をおくと、身ぶるいしてふりはらった。
「こんな罠もあるのね。ほんとうに怖いわ」身動きもせず冴子はつぶやいた。「怖い世の中だってことがわかったわ。いつどんな罠にかけられて破滅するかしれないんだから」
「破滅だなんておおげさだよ。交通事故よりずっとましだぜ。痛みはないし、後遺症もない。割りきってあそぼうや」
江原は浴室の支度をし、冷蔵庫からビールをだしてテーブルにおいた。
冴子と直角に向かいあって腰をおろし、二つのコップにビールを注いだ。青いワンピースにつつまれた熟れた人妻の体の甘い香りが急にただよいはじめたように思う。
江原はグラスをとり、かるく会釈してビールを飲んだ。のどがかわいて、ビールは美味いはずだったが、冴子の体が気になってゆっくり味わう余裕はなかった。
「知りたいのよ私。私のバッグにあなた、いつ本を入れたのよ」
「そんなこと訊くなよ。あんたは魔がさして知らないまに万引したのさ」
「いや。教えて。後学のためききたいの。今後こんな災難に遭わないように」
「災難かどうかは考えようだぜ。思わぬところで浮気のチャンスをつかんだともいえる。そう考えろよ。割り切ったほうがさっぱりするぜ」
江原は立って冴子のうしろにまわった。そして両手で冴子の顔をはさみ、あおむけてキスしようとした。
冴子は頭をふって拒否した。そして、条件があるの、とつぶやいた。
「私のつれの人にも万引させてやってよ。でないとあの人、私のこと近所にいいふらすわ。ねえ、そうしてくれる。約束して」
「わかった。罠にかけてやるよ。さ、おとなしくして。キスしよう」
椅子にかけている冴子のあごを両手でささえ、あおむかせた。
そして、うしろから身を乗りだしてくちびるをかさねあわせた。冴子のくちびるは反応しなかったが、江原の舌を拒みもしない。さかさまにくちびるをかさねながら、肩ごしに冴子の胸をさぐった。まだじゅうぶん弾力のあるふくらみの手応えがつたわってくる。
冴子は身を固くしている。怯えた顔つきになっていた。キスをつづけたまま、ワンピースの背中のファスナーをおろし、ひらいて肩口からすべりおとす。すべすべした肩や、やさしい肉づきの背中があらわになった。ブラジャーをとりはずすと、ちょうど掌におさまる程度の乳房がふるえながらならんでいた。
双つの乳房を江原は両掌で掬いとり、指さきで乳頭を刺戟した。冴子は目をとじ、大きなため息をついて、椅子の背もたれのうえにがっくりと頭をのせる。
白いのどがふるえ、いや、いや、とつぶやいて冴子はかぶりを振った。いやおうなしにこみあげる快感を拒否しようとしている。指の動きを江原はいそがしく、多様にした。うーんとむずかるような声をあげて、白い上体を彼女はのけぞらせる。
スカートのすそをみだして、なまめかしいひざ小僧がならんでいる。左右のふとももを冴子はぴったりとじあわせていた。が、両足はひらいている。スリッパをはいた左右の足が、つらそうに爪さき立っていた。
腰のあたりへずり落ちたワンピースを江原は完全にぬがせようとした。が、冴子が体をふって抗うので、彼は前にまわり、ひざまずいてその作業にとりかからねばならなかった。スカートのなかへ手をいれ、まず下着とパンストを脚からひきずりおろす。白い、すんなりした左右の脚に抱きついて、ひざやふとももにくちびるを這わせにかかった。
「するの。どうしても」
めんどくさそうに冴子は訊いた。
「ああ、抱きたいね。たまらないよ。あんたはすばらしい体をしている」
「でも、夫がいるのよ私。セックスはしないでおいて。私が満足させてあげるから」
「いろいろしてくれるかい」
「仕方ないじゃないの。ここまできたら。はやく終るほうがいいわ」
冴子の腰からふとももを覆ったワンピースのなかへ江原は手をさしいれた。
そして、ふっくらした肉のはざまをすべって、ふとももの奥へたどりついた。
草むらとあたたかいぬかるみに彼はさわった。やわらかな、厚い、吸いこむような感触がそのぬかるみにこもっている。ふとももをとじて冴子は拒否の意向をしめしたが、江原が退かずにいると、すぐに折れた。
5
冴子の呼吸はせわしい。のけぞって椅子の背もたれの上部に頭を乗せ、ぐったりとのどをさらしている。江原の指がぬかるみのなかで真珠の粒をとらえると、ふるえるようなか弱い息を彼女は吐いた。快楽におぼれるのを必死でこらえる息づかいだ。
愛撫をつづけながら、江原はスカートからはみでたふとももの下方にくちづけしたり、かるく歯を立てたりした。かすかな狼狽の声を冴子はあげる。真珠をころがされる快感と歯を立てられる苦痛との複合をあつかいかねたのだろう。江原の手がさらに熱く濡れてくる。いまの声を快楽の声に変えてみせると江原はあらためて決心する。
熱にうなされるような息づかいで、顔をしかめて冴子は耐えている。体にはふれさせても、快楽は拒みとおす気でいるらしい。皮肉な気分でその顔をながめ、江原はいま右手でまさぐっている箇所を目でたしかめたい衝動にかられた。どんなに拒んでも、体のほうがすでによろこびの反応を呈している。
冴子は、意志とうらはらに江原をもとめていた。江原は視覚の欲望からだけではなく、快楽に溶けそうな女性のありさまをたしかめて、ざまみろ、と笑ってやりたかったのだ。
右手を動かしたまま、江原は左手でスカートを上にひっぱった。そして、双つのひざ小僧のあいだに頭をねじこみ、神秘的な暗がりの奥に向かって目をこらした。
白いふとももがトンネルの壁のようにみえた。草むらがわずかにみえるだけで、奥は暗いだけである。さらに江原はスカートをもちあげた。そのとき、冴子の背後でなにかが動く気配があり、目をやると、テーブルのうえの灰皿をつかんだ冴子の左腕が、野球選手の腕みたいにふりあげられ、猛然とおそいかかってくるところだった。
悲鳴とも掛け声ともつかぬ声を冴子は発した。確信をもって冴子は撲りかかったらしいのだが、灰皿が鉄製で重く、予想よりもほんの一瞬打撃のおくれたのが誤算だった。危うく江原は身をかわし、冴子の腰かけた椅子の脚を反射的にはねあげていた。
にぶい音を立てて灰皿は床にたたきつけられ、さらににぶく重い音で冴子は椅子ごとひっくりかえった。江原は跳ね起きた。そして、床へころがって這いながら、
「だれかきて、だれか――」
とさけびかける冴子へおどりかかる。俯せに彼女を組み伏せ、いまの声を打ち消すように夢中で、左右フックを喰わせていた。冴子は声もだせなくなり、顔を腕でかくし、うずくまってしゃくりあげた。
「ちくしょう。舐めやがって。手前なんかに喰わされてたまるか」
昂奮で江原もふるえていた。
あぶないところだった。もし冴子が逃げだしたり、ホテルの従業員が駈けつけたりしたら、ただではすまなかっただろう。
「なんてヤバい阿魔なんだ。こうなったらおれも意地だ。逃げられないようにしてやる。さあぬぐんだ」
逆手をとっておさえつけ、冴子の体からワンピースをむしりとった。
成熟した、起伏のゆたかな、白い裸身が俯せのままさらけだされる。ヒップがみごとだ。大きな白桃のように盛りあがり、かすかに赤みがさしている。それを鑑賞するゆとりもなく、そなえつけの浴衣のひもで冴子をうしろ手に縛りあげて、江原はほっと息をついた。もし彼女が声をあげかけたら、とびかかって口をおさえればよい。猿ぐつわの必要はなさそうである。
俯(うつぶ)せに寝たまま、ふりかえって冴子は江原をにらみつける。涙をこぼしているが、口惜し涙のようだった。
「かならず復讐してやる。殺してやる。よくも人をこんな目に――」
それ以上は言葉にならない。怒りにふるえて涙をこぼしている。気のつよい女だ。労働運動の闘士である夫の影響がこうした場面であらわれるのかもしれない。
「やっとわかってきたわ。あなた暴力団ね。会社にたのまれたんでしょう。こうやって主人に圧力をかけるつもりね」
「会社――。どこの会社のことだ」
江原はあぐらをかき、とぼけてたばこに火をつける。
欲望は消えていないが、かなり鎮静している。死に物狂いの反抗に度肝をぬかれ、しばらくその気が起らなかった。冴子を縛って、これが石黒キャップならいよいよ責めに本腰をいれるところだが、サディストとして江原はまだほんものでないようだった。
「ガードマンなんて嘘よ。暴力団だわ。ばかね、あなた。こんなことしたって主人はひきさがらないわ。ますます闘志を燃やすだけよ。脅されてひるむ男じゃないんだから」
「べつに脅しはしないよ。おれはあんたとやりたかっただけさ。いいケツだな。よだれが出ちまうよ、まったく」
「なぜこんなことするの。ばかよあなた。主人はあなたのようなまずしい人のためにたたかっているのよ。あなたの味方よ。あなたは資本家に利用されて、味方を――」
「やかましい。きいたふうな口をきくな」江原は冴子の腰を蹴とばした。「まずしくてわるかったな。大きなお世話だよ。味方してくれなんておれはたのんだおぼえはない」
「だまされているのよ、あなたは。わからないの。ばかなことはおやめなさい」
「うるせえったら。おれがあんたとやりたいのはたしかなんだ。だまされようがないよ。あんたもそうじゃないのか。もしかすると、だまされているのはあんたのほうかもしれないぜ」
江原はさっきの灰皿をひろって、たばこの吸いさしをなかへ押しつけた。
そして冴子のそばにしゃがみ、ヒップの下方から手をさしこんでぬかるみをさぐった。欲望の兆候があふれている。ふたたび男性に力がよみがえった。江原はそこに立って服をぬぎはじめた。
「やめて、セックスはしないでよ」冴子は声をあげて泣きだした。「いろいろしてあげるわ。だから、セックスはしないで。主人以外の人としたことがないんだから」
冴子は身を起し、脚を横に投げだしてすわった。肩と乳房がふるえている。
こんな場面でまだ夫に義理立てするのだから、よほど惚れているのだろう。江原は近づいて冴子の肩に手をおいた。
「いろいろって、どうやるんだ」
縛られているので、泣き顔をかくすすべが冴子にはない。しゃくりあげながら、お口でしてあげる、とつぶやいた。
「いやだよ。噛み切られたら一巻の終りだ。あんたはやりかねないからね」
「じゃ、ほどいてよ。手でするから」
「だめだね。また灰皿がとんでくるのはごめんだ。ふつうにいこう、ふつうに」
肩をつかんで、冴子をおし倒した。
うしろ手に縛られたまま、冴子はあおむけにひっくりかえる。両脚をちぢめ、丸くなって抵抗したが、まもなく江原は白い、よく発達した下肢のあいだに体をこじいれた。
あきらめて冴子は体の力をぬき、顔をそむけて、あらためてわっと泣きだした。
「ごめんねパパ、ごめんね。私、せいいっぱい抵抗したのよ。せいいっぱいがんばったわ。でも、どうにもならないのよう」
姿勢をととのえ、江原は冴子のなかへ入っていこうとした。
二人の性が接触した。その瞬間江原は下半身がとろけるような、甘美で強烈な感覚がそのあたりから体内にひろがるのを感じて必死で歯をくいしばっていた。
が、自制はきかなかった。一瞬視界が赤くなり、気の遠くなるような快楽の渦に巻きこまれて彼は呻いていた。
6
のろのろと江原光彦は身を起した。恰好がつかず、うつむいて、そばにあった浴衣をとってあとしまつした。
もともと早射ちの傾向はあったが、最近は女に馴れてめったに失敗しなくなっていた。
それが肝心の場面で突発した。悪の修業のため冴子をホテルへつれこみ、無難に悪役をこなしたのに、最後にボロが出てしまった。刺戟的なことが多すぎたからだ。
江原は顔が火照っている。まったく男と女の立場は、なにがきっかけで逆転するか予想もつかない。なあんだあなた、もう終ったの、口ほどでもないのねという嘲笑の言葉を待って身を固くしていた。
だが、冴子はだまっていた。とまどったように江原をみつめたあと身を起した。そして背を向け、縛られた両手を揺すって、
「ほどいて。もういいんでしょう」
と、妙におちついた声でいった。
いわれるまま、江原はひもを解いた。われながら間のぬけた行為である。さっきまでともに血相を変えてあらそっていたことが嘘みたいだ。一発の発射ですべてが終った。必死で冴子がまもろうとしたものも、知恵をこらして江原がはたそうとしたことも、浴衣のしみとなって吸いとられた。世の中こんなものかもしれない。盃ひとつぶんの精液が歴史を変えたこともきっとあるはずだと、妙な考えが頭にうかんだ。
「お風呂へ入るわ。せっかくだから」
冴子は立って浴室へ向かった。
まったく体をかくさない。ちゃんとセックスを終えたあとのようだ。ひどい目にあわされたことをもう恨んでいない様子である。
江原はパンツをはき、椅子にかけた。することがないので、ビールを飲んだ。心は重く、疲れてすこし眠いのだが、体のなかに涼しい風が吹いている。怒濤のように彼をふりまわした欲望が、いまは夢みたいだ。わざわざ川崎へやってきて、いったいなにをしたのかと彼は思う。
冴子を万引犯に仕立てあげる仕事はうまくいった。そのあと冴子を抱きたくなったばかりに、おかしな具合になったのだ。浴衣のしみが万事を狂わせた。そういえば、大木冴子の夫も、程度のわるい人妻を抱いた姿を盗み撮りされたりしてやがて失脚する。浴衣のしみは男の人生の縮図である。
浴室の扉があき、冴子が出てきた。
感情のない顔でさっさと衣服を身につけていく。いまはむりだが、すこし待てば江原は欲望が回復するかもしれない。だが、もう強いて冴子を抱く気はなかった。さびしさに彼はかられていた。むりやり女を組み伏せて抱いても、体の満足があるだけだ。木下道代とセックスしたときのように、双方がやさしく熱心に愛撫しあうよろこびだけが、いまの江原には必要であった。
「シャワーをあびなさいよ。さっぱりするわよ」
冴子が声をかけてきた。彼女は服を着て、鏡台のほうへあるいていった。
うなずいて江原は浴室へ向かった。セックスをめぐる争闘は終ったが、冴子がこのまま退散する女でないことはわかっている。江原の身もとをさぐり、背後で彼をあやつったものの正体を知ろうとするだろう。
「おれの服のポケットなんか、かきまわさないほうがいいぜ。あんたのためだ、このままわかれよう。つれのおばさんには、なにもなかったことをよく話しておくよ」
とっさに江原は声をかけて浴室へ入った。
自分で自分の気持がよくわからない。冴子に好意をもっているのか、憎んでいるのか、たぶんその双方なのだろう。
手ばやくシャワーをあびて、浴室から出た。
応接セットのソファに顔を伏せて冴子が泣いている。さっき江原のぬぎすてた服がそばにほうりだしてあり、江原の名刺入れがソファのうえにおいてあった。
写真がばらばらにやぶられ、散乱している。やはり冴子は江原の身もとを調べにかかり、彼女の夫が藤原友子とからみあっている写真をみてしまったのだ。
ごめんなさいパパ、私、必死で抵抗したのよと泣いたさっきの冴子の声が江原の耳によみがえった。抵抗の基盤を彼女はうしなってしまったのだ。江原はたぶんその言葉をきいて罪の意識にかられ、はやばやと活力を発射してしまったのだが、反面、なにも知らずにそうした言葉を吐く冴子に、この世の中の現実を思い知らせて笑ってやりたい衝動にもとらわれていたのである。
が、江原は笑うことができなかった。ざまみやがれ、と声にださず毒づいたものの、かわいそうで胸がいっぱいだった。
「やっぱりみてしまったのか。だから止せといったのに」近づいて、江原は冴子の肩に手をおいた。「気にするなよ。おたくの旦那は罠にかかったんだ。男ならだれでもかかる罠だよ。どう仕様もないよ」
「わかってるわ」冴子は泣きじゃくった。
「ばかなのよ。みんなばかよ。私もあなたも、みんな大ばかよ。みんな罠にかかっているのよ。だれも彼も。みんなよ」
ソファに腰をおろした江原のひざに顔を伏せて冴子は泣きじゃくった。
江原は彼女の髪をなでた。抵抗していたさっきまでの冴子に、なぜおれはこれをみせなかったのかと、やぶり去られた写真の切れ端をひろって考えていた。よくわからない。やはり冴子が好きだったせいだろうか。
冴子が手をのばし、江原のパンツのすそから男性をまさぐった。まだ力のこもっていないそれをひっぱりだし、両手で揉みながら顔をよせてくる。
「やめたほうがよくないのかい。せっかくやらずに済んだのに」
「いいの。あの人と五分五分にするの。あの人を私、責めたくないの。だから」
冴子は口にふくんだ。だが、すぐはなれて江原のパンツをひきずりおろした。
ついでに服をぬぎはじめた。まっ白な、起伏ゆたかな裸体が、こんどはやさしい欲望にふるえてむきだしになる。乳房も、下腹の草むらもふるえていた。わけのわからぬ声をあげて、冴子はむしゃぶりついてくる。
くちびるをかさねあわせて、二人はソファのうえに横たわった。
よじのぼってきて、冴子は江原の体にキスを這わせはじめる。あんたはいい人なのよ、私たちとおなじなのよ、と口走りながら、胸、わき腹、ももと彼女は下降していった。
そして、あらためて男性を口にふくんだ。みるみる力が回復してくる。強制しないセックスは何ヵ月ぶりかと江原は思う。
たっぷりと、手指をそえて、あわただしく、またしずかに冴子は快楽をおくりこんできた。目をとじて江原は陶酔した。冴子のために、どうやって力になってやればよいのか、さっきから思案をかさねている。
下半身にわずかな重みと、これまでとちがう感触をおぼえて彼は目をひらいた。
のしかかって冴子がじっとみつめている。すぐに冴子は動きだし、たちまち苦しげに、かん高くさけんで上体をのけぞらせた。
7
狂ったようなセックスのあと、大木冴子はぐったりとソファに横たわって、裸のまましばらく呼吸をととのえた。
強烈な快楽の余韻にひたっているのだろうと江原光彦は思っていた。
だが、余韻はすぐに消えたようだ。体を投げだしていながら、冴子は顔をあげ、大きな目をひらいて天井をみつめている。思案にふける表情だった。欲望にも、悲哀や罪悪感にも、もうかられていない様子だ。
「そろそろ出ようか。今後あんたにはつきまとわないから、安心していいよ」
江原は冴子の髪をなでた。こんなふうにして知りあった人妻のうち、冴子は彼がいちばん魅力を感じた相手である。
「私のつれの奥さん、どうするのよ。このままではいやよ。なんとかして」
ふりかえって冴子は訊いた。
大きな目が真剣に光っている。一緒に買物にきた近所の主婦にも万引の罪をかぶせてほしいとたのんだことを、冴子はわすれていなかった。そうしないと、きょうの事件は社員アパートに知れわたってしまう。夫が罠にかかったうえ、妻まで万引で暴力団にもてあそばれたとあっては、冴子の一家はもう会社を辞める以外に道がないというわけだ。
快楽が体から去ったとたん、冴子はあとしまつの心配をはじめた。夫や家庭がそれだけ大事なのだ。女とからみあう夫の写真をみても、夫以外の男に抱かれても、そんなことには関係なく平和な家庭を存続させたいらしい。夫と妻の性的な専属契約以外の事柄で、家庭は成り立つもののようだった。
「きみが犯人でなかったことをあの女に説明すればいいだろう。本屋へもどって調べたら、万引したのはほかの女だとわかったといえばいいさ。それで納得するよ」
「だめよそんなの」寝そべったまま冴子はさけんだ。「ホテルで口裏をあわせたと思うにきまっているわ。信用しないわよ。ね、あの人にも万引をさせてやってよ。約束したでしょ」
「しかし、おれは顔を知られているから、おなじ手はきかないよ。日をあらためてなら、なんとかできるけど」
「ね、おねがい。なんとかして」切迫した表情で冴子は身を起した。「あなた、私に恨みがあるわけではないんでしょ。だったらおねがい。もしたのみをきいてくれたら、もう一度あなたとデートしてもいいわ」
江原がパンツをはいたのをみて、冴子は胸をかくすようにして下着をとり、化粧室へ入っていった。
わかったよ。江原はなんとなく苦笑してベッドのそばの電話をとった。家庭をまもるためなら人妻たちはなんでもする。
冴子のように幸福で、考えのしっかりした女ほど、そのために大胆不敵になるらしい。
小声で交換に番号を告げ、Zデパートの保安事務所を呼びだした。石黒キャップがデスクにいて、すぐに応答してくる。
「光彦か。どうやった首尾は」
「もうすぐです。しかし大木冴子につれがいて、ちょっと厄介なんです」
江原はささやくような声になった。石黒の手を借りる必要があるので、仕事がまだ終っていないような話をしたのだ。
応援が一人ほしい、つれの女のしまつがむずかしいのだときいて、石黒はしぶったが、結局失敗をおそれて江原の要求に応じた。
「よし、柿本をいかせる。場所はどこや。川崎のS町の喫茶店か――」
話はきまった。同僚の柿本が応援にくる。柿本はなにくわぬ顔で冴子たちを尾行し、どこかのスーパーか百貨店で、冴子のつれの中年女を万引犯に仕立てあげるのだ。
「あのおばさんの名前なんていうんだ」
受話器をおさえたまま、江原は大声で浴室のなかの冴子に訊いた。池井昌代という名を教わり、石黒につたえて電話を切った。
ゆっくり身支度をととのえ、四時すこしすぎに江原と冴子は約束の喫茶店へ入った。
池井昌代はさきにきていて、不安と好奇心のいりまじった表情で二人を迎えた。やせた卑しい顔立ちの中年女だ。女にはあまり興味をしめさぬ柿本でなくとも、この女を脅してホテルへつれこむ気にはならないだろう。
「大木さんは、なんでもなかったんです。本屋へいって調べたら、わかった」
冴子をふりかえって江原は説明した。
なにを話すかは冴子と打合せてある。柿本がくるまで時間かせぎの必要があった。
「まあ、人ちがいだったの」昌代は落胆の表情になり、いそいで笑顔に変った。
「よかったわねえ。奥さんが万引だなんておかしいと思ったわ。私、全然信用してなかったのよ。でも、よくぶじに済んだわねえ」
動揺のあと、疑念にかられたらしい。いじわるな目で昌代は二人をみくらべた。ホテルへ行った痕跡をさがしているのだ。
「最初交番へいったの」冴子があかるく説明した。「そして、お巡りさんと一緒に本屋へもどったの。そしたら、万引を目撃したのが近所の人だったことを、店員が知っていたのよ」
「その人の証言で、大木さんが犯人でないとわかったんです。ほんとうにごめいわくをかけました。大木さんにも奥さんにも――」
殊勝らしく江原はお辞儀した。そして、近所の人に万引をみつかった犯人が、大木冴子の買物バッグのなかに本を投げこんで逃げたらしいと話してやった。
「ふうん、そうなの。ともかくぶじに済んでよかったわ。でも、それで奥さん、よくだまっていられるわね。人権蹂躙(じゆうりん)じゃないの。警察に訴えてやればいいのに。この人ほんとうにガードマンなの」
池井昌代は江原に鉾さきを向けた。
自分の身になにがふりかかるか知らないから、偉そうにしていられるのだ。
「もういいの奥さん。疑いが晴れたんだから。この人も悪意はなかったのよ」
冴子がとりなしたので、昌代は逆に疑念にかられたらしい。
ほんとうにあなたがた交番へいったの、と上目づかいに二人をみくらべる。厄介な女だと舌打ちして江原はこの場をとりつくろいにかかる。
「もう警察で油をしぼられてきましたよ。人権蹂躙だってね。ぼくのミスだから、奥さんも一つご内聞におねがいします」
あとは雑談で時間をかせぐうち、やっと柿本が喫茶店のまえにあらわれた。
江原がなかにいるのを知りながら、人待ち顔でたばこをふかしている。きちんとスーツをきて、柔和な顔立ちで、とても悪徳ガードマンの一味にはみえない。
「では、ぼくはこれで――」
ほんとうに失礼しましたと、あらためて詫びをいって江原は席を立った。
二人の人妻も腰をあげた。冴子と一緒に池井昌代もいまからスーパーへいくという。冴子が江原と一緒にいるあいだ、昌代は映画館に入っていて、まだ買物をすませていなかったのだという。
江原がレジで金を払っているあいだ。彼女らはつれ立って喫茶店を出ていった。
冴子のうしろ姿が心もち緊張している。池井昌代のほうも白々しい表情で、横目で冴子をうたがいながら歩をはこんでいた。
喫茶店を出て、江原は近くの路地で柿本とすばやく打合せをかわした。
「あの婆あのほうだな。わかったよ。金はせびらない。うまくやるよ」
柿本はにこにこ笑って、冴子たちを尾行しはじめた。
ほっとして江原はそこをはなれた。おかしな話だが、大木冴子にたいしてまるで善行をほどこしたような気分である。
8
夕刻、江原光彦は川崎駅のそばの喫茶店で柿本と待ちあわせて報告をきいた。
柿本はうまくやってくれた。スーパーで食料品を物色中の池井昌代に接近し、サラミソーセージを数本とキャビアの瓶を彼女の買物バッグへおしこんだあと、その店の警備員に通報して物陰へ姿をかくしたのだ。事情を知る大木冴子は店を出る寸前まで、昌代に近づかないようにしていた。
店を出た彼女たちに警備員はバンをかけた。もちろん昌代は警備員に喰ってかかり、バッグのなかの品物を突きつけられて、
「だれかがやったのよ。知らないわ私。きょうは二度目よ。この奥さんも――」
と、冴子にたすけをもとめた。
「ええ。でも私は人違いだったのよ」
冴子は平然としていたらしい。
結局昌代と冴子は一緒にスーパーの保安事務所へひっぱっていかれ、代金を支払って放免されたらしく、三十分後に外へ出てきた。昌代は顔を泣き腫らし、冴子はすがすがしい顔でともにそっぽを向きあっていた。だれかに品物を投げこまれた、さっきのガードマンの仲間のしわざだと昌代は訴えたのだろうが、通用するはずもなかったのだ。ともかくこれで昌代も罠にかかり、大木冴子は、隣人たちから万引女あつかいされずに済むようになった。
「キャップにはだまっててくれ。じつはおれ、大木冴子がかわいそうになって」
江原はすべての経過を柿本に話した。
冴子に情をかけ、彼女のために昌代を罠にかけたと知れば石黒は怒るだろう。書店で柿本がつい立てになり、陰で江原が冴子のバッグに本をいれたとだけ報告して、昌代の件はだまっているつもりだ。
「わかったよ。若いほうはいい女だったからな。光彦がイカれるのも無理ない」
「この仕事で三十万もらう約束なんだ。山分けにしよう。手間をかけたからな」
「いいよ、気にするな。おたがいさまじゃないか」柿本は純朴な笑顔になった。「気が済まないなら、そうだな、三万くれよ。三万でじゅうぶんだ。あとはいらない」
まったく仲間づきあいはきれいな男だ。こんなに気のいい男が、なぜ万引女から平気で金を奪れるのか江原はよくわからない。
「三万じゃどう仕様もないよ。せめて十万とってくれ。おれが困る」
「いいのかい、そんなに」柿本は困惑した顔つきになった。「じゃ、その金でおれ、ピンクキャバレーでもおごるよ。金が入ったら飲もう。光彦としばらく飲んでなかったし」
話合いがそれでついた。二人とも文なしに近い状態だったが、前祝いだということで、近くのスナックバーへ入った。
数日後、昼休みのとき江原は石黒キャップにデパートのそばの喫茶店へ呼びだされ、こんどの仕事の事後報告をきかされた。
人妻の藤原友子もきていた。謝礼の金をうけとりにきたのだろう。
「だいたい予定どおりにいった。K重工の戸塚部長がよろこんでくれたで」
金の入っているらしい封筒を石黒は二つ手にしていた。
が、それをすぐにはわたさず、テーブルのうえでみせびらかして話をはじめる。
大木一郎と藤原友子のからみあっている写真は、K重工の息のかかった保安要員の手で川崎工場の各所にばらまかれた。工場は大さわぎになり、とくに女子社員たちが写真をみて目をまわした。組合の代議員である大木は面目を失墜してしまった。
いそいで組合大会がひらかれ、大木は演壇に立って、会社側の策した卑劣な罠だとみんなに訴えた。あわせて、罠にかかった軽率さを自己批判した。大会はこの訴えを容れ、会社側への抗議の申しいれを採択したが、問題が問題だけに大木の姿は滑稽に映って、場内には失笑が絶えなかったという。
証拠もないいいがかりだとして、会社側はむろんこの抗議を一蹴した。その後の代議員会で大木は、この罠を仕組んだ犯人の捜査を警察へ依頼しようとがんばった。だが、外部への恥さらしだと笑われて否決され、そのうえ、会社側につけこまれるだけの私行上の弱点があったということで、代議員としての責任を問われる羽目になってしまった。
戸塚部長と内密の連絡のある二、三の組合幹部が激烈に大木を批判した。K重工の労組は、会社側のこうした労務対策によって伝統的に穏健な態度を保ってきたのだという。
「つぎの組合役員の選挙でたぶん大木は落選しよるやろ。書記長どころでなくなったわ。アホが。身分相応にしとりゃええのに」
石黒はうすら笑いをうかべ、一人で何度もうなずいていた。
「ちょっとかわいそうな気もするなあ。本人はいい思いをしたからともかく、奥さんの肩身がせまいわ、きっと」
藤原友子がだらしなく笑って同情した。主婦は主婦どうしというわけである。
「大木冴子のほうはどうなりました。万引の一件は噂になっていますか」
胸をどきどきさせて江原は訊いた。
細工がばれるとまずい。それに冴子の身も気がかりである。あきれたことに、彼女の住む社員アパートのなかにも、会社に内通している者がいて、そこから情報がとれるということだ。
「それがな、噂になってないらしいのや。光彦、おまえちゃんと仕事したんか」
「ちゃんとやりましたよ。柿本が知っています。書店は事件にしなかったようだが、一緒にいた女がふれてまわると思ったのにな」
安心して江原はとぼけてみせた。
冴子は無事らしい。約束どおり二度目のデートをもちかけてみようか。
「つれの女が、大木の女房の万引のことをだれにも話してないらしい。よほど仲がいいのやろな。まあ仕様ないわ。百パーセントこっちの思惑どおりいかんこともある」
それ以上石黒は疑わなかった。
さ、謝礼や、と石黒はやっと二人に封筒を手わたした。だらしなく笑って友子はうけとり、中身を数えてバッグにおさめる。上等のスーツを買うのだそうだ。
江原の封筒には二十万円しか入っていなかった。大木冴子の万引が表面化しなかったので、十万円差引かれたのだという。たぶん石黒がぴんはねしたのだろう。自業自得だから江原も文句をいう筋合はなかった。
「あんな写真がバラまかれて、大木一郎の女房はだまっているんですか。夫婦喧嘩はしてないんですかね」
あらためて江原は訊いてみた。幸福な家庭というやつがどうも腑に落ちない。
「べつに揉めてないらしい。経営側の罠やと亭主にいわれて納得したんやろな」
「しかし、おなじ罠でも、女のことですからね。それで怒らないのかな」
とぼけた話をしながら、江原は好意と反感のいりまじった気持で大木冴子の家の模様を脳裡に描きだしていた。
大木は平あやまりにあやまり、冴子はすこしすねてみせて、結局は笑って夫をゆるしたのだろう。江原とあれだけたのしんだことには口をぬぐって、ちゃっかりと「理解ある妻」を演じてみせたにちがいないのだ。
まったく女はしたたかである。幸福で、考えのしっかりした人妻ほどそうなのだ。それを思うと、冴子のため便宜をはかってやったことが癪にさわってくる。もう一度あの女を抱いて、こんどはほんとうに、石黒が友子をいたぶったように責めてやりたい。
「さ、私帰るわ。お二人とも仕事なの。ひまならつきあってくれない」
藤原友子が淫らに笑って腰をあげた。
だが、江原は冴子のことで頭がいっぱいで、友子など眼中になかった。
9
江原光彦は、泣きじゃくりながら服をぬいだ大木冴子の、起伏に富んだ白い裸身がわすれられなくなった。
これまで罠にかけたり、脅したりして抱いた何人もの人妻のうち、冴子のことがいちばんはっきり記憶にのこった。
夫がほかの女とからみあう写真をみた瞬間から、人が変ったように冴子は積極的にもとめてきた。だから、いっそう印象的だったのだろう。
青空警備会社へ入って三年たらず。その間ずいぶん多くの女を抱いた。その点では堅気のサラリーマンよりずっといい思いをしてきたつもりだった。だが、考えてみると、ほんとうの好意でセックスに応じてくれたのは木下道代くらいのもので、ほかは大なり小なり無理強いして服をぬがせた相手ばかりだった。
愛情のない肉の結合をくりかえしたにすぎないのだ。心の底で江原はそれをさびしく思っていた。だから木下道代が恋しかったし、曲りなりにもすすんで江原を抱いてくれた大木冴子にまた会いたくてたまらなくなったのだ。
冴子はしっかりした女である。一度応じたからといって、図に乗って江原がつきまとえば、ほんとうに警察に通報するだろう。それが心配で一週間ばかり江原はためらっていた。
だが、会いたい気持に勝てなかった。あの日一緒だった近所の主婦をおなじ罠にかけてくれれば、もう一度デートに応じてもよいと冴子はいっていたではないか。こちらはちゃんと約束をはたした。向こうだって完全に知らん顔はできないだろうと、江原は自分にいいきかせる。若者の特徴で、こんな場合には知らず知らず欲望を正当化するほうへするほうへ思案が働いてしまうのだ。
大木冴子の家の電話番号は、番号案内で調べてすぐにわかった。非番の日の昼間、アパートのそばの赤電話でダイヤルをまわした。もしもしイ、とかすかにおびえたような冴子の声をきいたとき、江原は胸がどきどきしてとっさに言葉が出なかった。
「おれですよ。このあいだの。わかりますか――」
舌をもつれさせて江原は訊いた。
冴子は江原の名も会社も知らない。暴力団の一員だと思っている。
息を呑んだらしい。冴子はしばらくなにもいわなかった。そして、どなたでしょうか、私にはわかりません、と切口上で訊きかえした。甘い期待を抱いていただけ、江原は横っ面を張りとばされた思いだった。
「それはないだろう奥さん。約束じゃないか。つれのおばさんに万引させたら、またデートしてくれるはずだったぜ」
「――――」
「おれはちゃんと約束をはたした。こんどは奥さんがはたす番じゃないのか」
「今後つきまとわないっていったじゃないの。あなた、そう約束したわ」冴子はさけんだ。「二度と電話しないで頂戴。でないと私、警察にいうわ。ほんとうに訴えるわよ」
「そうか、奥さん、そんな気なのか。わかったよ。でも今後どうなるか――」
荒っぽい衝撃が耳にきた。冴子が電話を切ってしまったのだ。
ちくしょう。江原光彦は頭に血がのぼった。いそいで電話をかけなおしたが、受話器をはずしたらしく、つながらない。三度くりかえしてみても、おなじである。江原は逆上したまま部屋にもどり、外出の身支度をした。冴子の住いへ直接おしかけるつもりだった。
川崎の郊外にあるK重工の社員アパートの近くに、一時すこし前に到着した。
しずかな住宅街のすみにある四階建てのアパートはひっそりして、人の出入りはなく、どの部屋からかピアノの音がきこえてきた。二階へ駈けあがって冴子の家の扉をたたきたい衝動をおさえ、江原は百メートル以上の距離をアパートからとってぶらつきながらしばらく見張った。あまり強引に接近して、警察へ通報されても困る。腹立ちと失望にまかせて駈けつけたものの、江原は手も足も出せない状態だった。
野良犬になったような気分でうろうろした。バス停のそばの公衆電話で冴子を呼びだそうとしたが、彼女はまだ受話器をはずしたままらしい。江原を怖がって、部屋のなかで息をころしているのだろうか。
もう帰ろうか、と江原は肩を落した。きらわれながら尻を追いまわすのもみじめったらしい。深入りしないほうがこちらも安全だという思いもある。再会をあてにしたなんて、江原のほうが甘かった。ひどい手口で冴子を抱いておきながら、そんなにきらわれていないつもりだった。ホテルのなかで途中から積極的になった彼女に、好意の幻影をみていたわけである。
帰ろう、とあらためて決心して江原は社員アパートのほうへ最後の一瞥を向けた。
そして、いそいでそばの電柱のうしろに身をかくした。二階の端の扉があき、このあいだ冴子と一緒だった池井昌代という人妻が姿をあらわしたのだ。やせた中年の昌代は買物袋をさげておなじ階のまんなかの冴子の扉のまえに立った。すぐに扉があき、昌代の姿がなかに消える。彼女たちが買物にいく時間になったらしい。
緊張してしばらく待つうちまた扉があき、池井昌代が姿をあらわした。冴子は出てこない。昌代ひとりで買物に出かけるのだ。どうしようかと江原は思案したが、昌代に近づいて冴子のことをききだそうと決心した。
前回とおなじように池井昌代はバス停にやってきた。やがてバスがきて、そこにいた四、五人の人々と一緒に彼女は乗った。江原も乗りこみ、昌代に近づいていった。
池井昌代がふりかえり、江原に気づいてかるいさけび声をあげた。江原は笑いかけ、手近な座席を昌代にすすめ、自分もならんで腰をおろした。バスはガラ空きである。二人の様子に注意をはらう者はなかった。
「なんなのあんた。私になにか用――」
池井昌代はおびえていた。悪夢をみているような顔つきである。
「いや、偶然乗りあわせただけです。この近所に用があってね。奥さんがこのへんのかただとは知らなかったな」
愛想よく江原は説明した。そして、冴子はきょう一緒でないのかとたずねた。
「気分がわるいんだって。彼女のぶんも買物をたのまれちゃった。あんた彼女に用があったの」
「いや、べつに。しかし彼女どうしたんだろう。風邪でもひいたのかな」
「そうじゃないの。いろいろあったんだから。ご主人がたいへんだったのよ」
そこで昌代は口をつぐんだ。
大木一郎が秘密の写真を工場内にばらまかれたことまで話す決心がつかないらしい。江原の正体がよくわからないからだ。冴子は、江原からきょう電話があったことを昌代に話していないらしかった。
「ご主人がどうしたんですか、彼女」
「まあね。それよりあんた、このあいだ彼女とほんとうになにもなかったの。ホテルへいったんじゃないの」
「いいえ。でも、どうしてですか」
とっさに江原は冴子をかばった。
なんとなくこの女は虫が好かない。話していると冴子の味方をしたくなる。
「なにか腑に落ちないのよ。彼女にいわせると、なにもかも会社側の謀略だそうなんだけど、どうもおかしいわ」
しばらくしてバスは盛り場に出た。
このあいだおりた停留所の二つさきまで池井昌代はバスをおりなかった。万引の罪を着せられたスーパーに近づきたくなかったのだろう。
10
バスをおりて二人は喫茶店へ入った。
江原光彦から昌代はなにかをさぐりだそうとしていた。
そのためには自分のほうも情報を提供する必要があると考えたらしい。あの日江原とわかれたあと、大木冴子と一緒に入ったスーパーで自分も万引の罪をきせられたのだと打ちあけた。それから、冴子の夫が女とたわむれている写真を工場内にばらまかれ、組合員の信望をうしなった一件を話した。
どちらも江原がよく知っていることだ。だが、昌代が万引の罪をかぶせられた事件についても、あれは会社側の策謀だと冴子が語ったというのは、初耳だった。池井昌代が身におぼえのない罪をきせられ、泣く泣く代金を支払ってスーパーを出てから、冴子は青白く緊張した面持で、
「きっと私たち、狙われているのよ。会社側のいやがらせにきまっているわ。私たちを罪に落して、夫の信用を失墜させる罠なのよ。きっとそうよ」
と、昌代にいいきかせたのである。
その二、三日後、冴子の夫の写真の一件がアパート内の噂になった。となり近所の好奇の視線にさらされながら冴子は、
「平気よ。パパは酔っぱらってなにも知らないところを写真にとられたんだから。会社のデッチあげよ。代議員の妻として、そのぐらいの覚悟はできているわ」
と、昂然といい放ったらしい。
そして池井昌代をふりかえり、私たちにも変な事件があったのよ、ねえ、と念をおして昌代をあわてさせた。二人の万引事件のことはだれにも話さない約束である。書店やスーパーでなにも知らないうちに商品が買物バッグに入っていたなど自慢になる事件ではないし、うっかりそんな話をして、あの奥さんには盗癖があるなどと陰口されても困るからだ。
「なるほど、会社側のデッチあげか。それでぜんぶ辻褄が合うわけだ」
昌代の話をきいて江原は苦い思いがこみあげた。冴子は意外にしたたかな女だ。
ホテルで夫の写真をみて、冴子は心の準備がととのっていた。だから、すべての事件を会社の策謀だと説明して済ませた。昌代の一件までそのせいにした。ホテルで江原に抱かれたことはきれいにかくして、組合幹部の妻として健気にふるまっているわけだ。
それで二度目のデートに応じてくれたら、江原は冴子の健闘に拍手を送っただろう。仕事の目的からはずれても抱かずにいられなかったほど魅力を感じた相手だったのだ。
が、彼女は約束を無視した。そして、尻尾を出さずにやっている。そう思うと江原はますます一杯喰わされた気分がつのった。冴子は自分だけうまくやりすぎているようだ。
「わからないのよ。どうも変だわ」
池井昌代はつぶやいた。こんどは江原が話す番だと催促するような顔つきだ。
「なにが変なんですか」
「冴子さんのいうように会社の組合つぶしの罠だとしても、私まで狙われる理由がないのよ。大木さんのご主人とちがって、うちは会社に睨(にら)まれていないもの」
「組合員じゃないんですか」
「組合には入っているわ。でも、左翼じゃないの。大木さんのご主人はやりすぎだといつもいっている。会社のほうだってちゃんとそれを知っているんだから」
もしかすると、社員アパートにいる会社側の息のかかった人間とは、この池井昌代の夫なのではないかと江原は思った。
だとすると、昌代が冴子と親しくしているのは、大木一家の動静をたえずつかんで会社へ報告するためだということになる。表面親しそうにしながら、裏へまわれば昌代がなにかと冴子の陰口をたたくのも、たんに性格がいやしいからではなくて、そうした事情があるからなのだろう。
「ねえ、あんた、教えてよ。ほんとうにあんた、会社からたのまれてきた人なの。そうじゃないんでしょ。大木さんの奥さん、あの本屋でほんとうに万引したんじゃなくて」
「――――」
「あなたとホテルへいって、無罪放免にしてもらったんでしょ。ご主人の写真のことはともかく、万引は罠じゃないわ。あの人はほんとうにやったのよ。私のほうは偶然だれかにいたずらされただけ。あの人のいうように罠にかけられる理由がないんだもの」
冴子と二人きりで二時間もすごして、そのあと冴子の万引がじつは濡れ衣だったといいだした江原の言動も腑に落ちない。二つの万引摘発事件が会社の仕組んだ罠だという冴子の説明はどう考えても嘘だと昌代は解釈していた。
「会社にたのまれたって、いったいなんの話なんだ。知らないよ、おれ」
とりあえず江原はとぼけておいた。仕事上の秘密はやはりまもらねばならない。
「そう。ではやっぱり彼女――」
「いや、あの人万引はやらなかった。盗んだやつがあの人のバッグに本を突っこんだだけさ。このあいだ説明したとおりだよ」
「嘘。かばってるんでしょ、あの人を。やっぱりホテルへいったのね。どうだった彼女、そんなによかったの」
池井昌代は上目をつかい、卑しく笑った。
気分がわるい。石黒キャップになれなれしくされたときの感じに似ている。両者の人柄には共通する部分が多い。大木冴子に冷たくされて面白くないのはたしかだが、冴子と昌代のどちらに味方するかとなれば、やはり冴子をとらざるをえなかった。
「かばってもむだよ。大木さんのご主人、どうせクビになるんだから。どっちみちあの一家はもうアパートにいられないの」
会社側が組合幹部の追放のためスキャンダルをでっちあげたという大木一郎の発言に、K重工のトップは態度を硬化させた。
法廷闘争にもちこんでもよい、近く大木を解雇する方針だという。大木本人はまだ知らないが、証拠もなく会社を誹謗したということで、組合幹部たちも大木を擁護するすべがないらしい。エロ写真の一件が、なんとしても致命傷だったわけだ。
「そんなこと、おれ知らないよ。関係ないんだから。おれのせいじゃないよ」
平静をよそおって江原光彦は腰をあげた。
気がせいている。夫の身が危機にさらされていることを、一刻もはやく冴子に教えてやらねばならない。
池井昌代とわかれ、タクシーをひろってK重工の社員アパートへ駈けつけた。
階段をのぼり、まっすぐ冴子の住居の扉のまえに立ってチャイムを押す。どなた、と冴子の声がきこえたので、鼻をつまんで、
「となり組の者です。地区費をあつめにまいりました」
とわれながら奇妙な声をだした。
扉があいた。さいわいチェーンロックはなかった。強引に江原はおしいってうしろ手に扉をしめ、狼狽して奥へ逃げかかる冴子へ、靴をはいたままとびかかる。
「話があるんだ。大事なことを知らせにきた。きみのご主人があぶないんだ」
抱きよせていうと、息をのんだ気配で冴子は抵抗をやめ、江原をみつめる。
抱きしめてそのままキスした。恋いこがれてきた、白い、起伏ゆたかな体が、甘い香りをはなってやっと江原の手中にあった。
むうっと苦しそうな声をもらして冴子はキスをうけとめた。抵抗はしない。家のなかへ押し入ってしまえばこちらのものだ。警察を呼ばれはしまいかと江原はおそれていたのだが、考えてみると、冴子のほうも事件をすべておおっぴらにできない立場である。
「主人がどうかしたの。ね、乱暴しないで。ね、話をきかせてよ」
「話はあとだ。まず約束をはたしてもらう。じっとしてろ」
寝ていたらしく、冴子はネグリジェ姿だった。ぬがせるのに手間はかからない。ブラジャーはなく、パンティだけはいている。
左手で抱きかかえ、立ったまま、江原は右手で冴子の胸をさぐった。これきりよ、こんどだけよと念をおしながら冴子はみだれていった。
11
大木冴子の住いには、つつましく健全な一家族の団欒の気配が充満していた。
おもての扉のすぐ内側はダイニングキッチン、左手は書斎をかねた応接室である。
キッチンの奥はテレビ、ステレオ、サイドボード、座敷机のならんだ居間で、その左手が寝室だった。冴子はそこで横になっていたらしい。居間のサイドボードのうえの受話器がはずれたままになっている。
贅沢な家具調度があるわけではない。ぜんたいの平均の、そのまた平均をとったようなありふれた市民の暮しの空間が、コンクリートの建物の一劃に保たれているだけである。
だが、一人暮しの江原光彦は、この平凡な住居にあふれる冴子の匂いとぬくもりにふれて、すぐにセックスの興奮にかられた。壁にかかった冴子のグリーンのワンピース、キッチンの赤いスリッパ、居間のすみにおいてあるストッキングなど、なまめかしい色彩がさらに江原を刺激する。空間のすべての細部に冴子の息づかいがただよっている。どんなに贅沢な家具をならべても、独身の男の部屋では絶対に感じられない女のやさしさや献身の気配が、息のつまるほど濃厚に居間やキッチンを埋めつくしていた。
江原光彦はキッチンで冴子を抱きしめ、もつれあいながら居間へおし入った。
あらためて冴子にキスし、立ったまま片手でネグリジェをぬがせにかかる。冴子はブラジャーをつけておらず、丸い乳房がネグリジェからすけてみえた。うす青い布地の向こうの乳首が、黒っぽい豆粒のようにみえる。
「これきりよ。ほんとうにこれきりよ」
立ってあえぎながら、冴子はネグリジェをぬいでパンティ一枚の裸になった。
ついで身をかがめ、パンティをぬいで、熱っぽく江原に抱きついてきた。ネグリジェ越しに黒っぽくみえた乳首が、いまは濃いピンク色をしてふるえている。相変らず冴子の裸身はまっ白で、肩や背中などは脆(もろ)く、ふとももやヒップはたくましかった。生娘と年増女の体をかさねあわせ、一つに合体したような裸身である。首すじや肩にキスを這わせながら江原は甘くやさしい気持になり、大きな白桃のようなヒップをみて、すぐにも冴子のなかへ入っていきたい欲望にかられた。
「どうして会ってくれなかったんだ。一度デートすると約束したのに」
「だって、怖かったのよ。もし夫に知れたら私はおしまいよ。一度だけでは済まなくて二度、三度会いたくなったらどうするの。あんた責任とってくれるの」
「おれはかまわないよ。責任とってやるよ。家出しておれのアパートへくるか」
「いやよそんなの。あんたと一緒になるだなんて。暴力団なんかごめんだわ」
「暴力団でわるかったな。でも、ほんとうはこうして抱かれたかったんだろう」
冴子ははげしくかぶりをふった。が、表情はセックスへの期待でみだれきっている。
江原は左手で冴子の腰を抱き、右手でふともものあいだをさぐりにいった。下腹部の草むらの下方のやわらかな肉の窪みに、あたたかい液がたっぷりあふれている。江原の指がそこへすべりこむと、冴子は眉をひそめて顔をあげ、腹を突きだすようにして、あえぎながら体をあずけてくる。
敏感な真珠の粒を人差指でとらえ、江原はこまかく刺戟をおくりこんだ。かすかに声をあげ、ながい吐息をついて、冴子は眉をひそめたままふるえはじめる。
「主人がどうかしたの。あんた、教えにきてくれたんでしょ。だから私――」
「教えにきてくれたから、おれを家へいれたというのか。まあいいや、約束をはたしてくれるなら理由はなんでもいい」
「あんた、私に会いたかったの」
「会いたかったさ。だからこうやって乗りこんできたんだ。警察に通報されたら終りだと思うと、ヤバくて小便が出そうだったよ」
「ああ、あんた私が好きだったのね。だからきたのね、主人のことを教えに」
冴子は陶然として顔をあおむけ、甘い呼吸をくりかえした。
江原に抱かれたい衝動をどうにか正当づけたようだった。
江原の指の動きにつれ、冴子は甘い声をもらすようになった。快楽のうねりがおしよせてきたらしい。腰をくねらせたり、腹を波打たせたりして快楽に耐えている。江原がさらに微妙に指をつかうと、冴子は声をあげて江原にしがみつき、そのままひざを折ってずるずるとその場へくずれ落ちた。
畳のうえに冴子は横たわった。左半身を下にして横向きに寝そべり、顔はほとんど畳に伏せている。それでも下腹のあたりをかくそうとする気はあるらしく、腰をかがめ、かるく右ひざを折る姿勢をたもっていた。団欒用のあかるい居間が、投げだされた一つの白い裸体のおかげで、目のくらむような刺戟的な部屋に一変してしまった。
冴子をみおろして、江原はいそいで服をぬいだ。そして冴子の下肢にとりつき、ふとももやヒップにキスを這わせた。
窓からさしこむ陽光のおかげで、冴子の体の小さな窪みや、ほくろや、小じわや、肌のなかの脂の粒などを江原は一つ一つ克明にたしかめることができた。拡大鏡でみるように冴子の肌をすみずみまでしらべ、舌で味わったり手でまさぐったりした。やがて彼は冴子の体をひらかせ、双つのもものあいだにうずくまって、奥にある桃色のぬかるみへ顔を寄せていった。やっと会えた、やっとたどりついたという感慨にひたりながら、真珠の粒やあたたかい桃色の粘膜を吸ったり舌でさぐったりする。
かん高い声で冴子はすすり泣いた。さかんに腹を揺すり、ブリッジのようにのけぞったり、交互に足をふんばったりした。江原が舌をこまかく動かすと、それにあわせて冴子はかぶりをふって、ああ、どうしてよ、どうしてこんなにいいの、と口走った。愛情を感じてもいない江原光彦とのセックスになぜこんな大きな快楽があるのかわからないということらしい。そういいながら、冴子は最初の絶頂にたっしていた。江原の頭をかかえこんで全身を硬直させ、悲鳴をあげてふるえてからぐったりとやわらかくなった。
淫らなキスを江原は続行した。上体をねじったり、腰をくねらせたり、いろんな動作で冴子は耐えた。江原のくちびるにつたわる感触だけが一貫してなまなましくやわらかに濡れていた。
やがて冴子は快楽に耐えかねて、背泳ぎのような姿でじりじりと頭上の方向へ移動をはじめた。江原はときおり冴子の双つのふとももを両腕にかかえこんでひきよせ、あらためてキスにとりかからねばならなかった。
二度、三度と冴子はたっした。ゆるしを乞いながら江原に背を向け、這って逃げだそうとし、部屋の壁にぶつかってヒップをあげたまま丸くなった。そのまま冴子は横に倒れ、あえいで息をととのえにかかる。大きな白桃のようなヒップや、その下方からのぞく桃色の花のような部分を、覗きこむようにして江原は脳裡にきざみつけた。
冴子を抱くのはこれが最後だろう。おたがいの身の安全のために、冴子の希望どおり、デートはこれきりにすべきだと彼は思う。だから、淫らなキスは執拗をきわめた。丸くなってゆるしを乞う冴子をおさえつけて、ヒップのうしろ側から、常識では考えられない箇所へくちづけにいったりした。
やがて、江原は壁に向かって冴子を這わせ、うしろからのしかかろうとした。
「待って。鏡のまえで抱いて」
冴子は思いがけないことをつぶやき、そばの鏡台のまえにうずくまった。
カバーをはずし、うっとりした表情で鏡に自分を映している。いま自分がどんなに恥知らずな、道徳的に汚れたセックスをしているかをたしかめることで、逆にセックスのよろこびを高めようとするらしい。
江原は姿勢をととのえ、後方から冴子のなかへ入っていった。鏡に映った冴子の表情がくしゃくしゃに歪み、動きにつれてすすり泣きの声がもれはじめる。冴子はうす目をあけて、歪んだ自分の顔をながめている。そして、涙をこぼしていた。どういう涙なのか、江原にはよくわからない。女というものが、ますますわからなくなってくる。
12
目がくらみ、体内から黄金色の光が噴出するような快楽の瞬間を終えて、二人はしばらく息たえだえに居間に横たわっていた。
それから身を起し、一緒に浴室へ入ってシャワーをつかった。冴子はうずくまって、力のなえた江原の男性を洗ってくれた。
おなじ男性でもわりとちがうものね、と冴子はあからさまに夫と比較した。小さいといわれたのかと思ったが、そうではなく、冴子は江原のかたちを賞めたつもりらしい。江原は自信で胸がふくらんだ。背はひくいほうだし、やせてもいるが、女を満足させる能力では人後に落ちないのだ、と自分にいいきかせる。
浴室を出て、身支度し、居間で冴子の出してくれたカルピスを飲んだ。冴子は鏡台に向かって化粧している。あと三十分で、幼稚園のバスで子供が帰ってくるという。
「きみのご主人のことだけど――」
思いきって江原は話しかけた。冴子のうしろ姿から視線をそらせている。
「あ、主人がどうかしたの。また暴力団にねらわれているの。大丈夫よ、こんどはひっかかったりしないから」
パフをつかいながら冴子はいった。
どうせたいした事柄ではない、夫のことで話があるというのは、会うための口実だったのだと考えているらしい。
「そうじゃないんだ。きみのご主人、近く解雇されるらしい。そういう情報が入った。エロ写真の一件を会社側の工作だと宣伝したのがまずかった。あれが会社を怒らせたんだ」
「解雇――。うちの人が」
目を大きくして冴子はふりかえった。
あわただしく化粧道具をかたづけた。ほとんど無意識の仕草であるらしい。
「でもそんな。組合がみとめないわ」
「法廷闘争になるかもしれない。でも、組合がかばってくれてもクビはクビだ。ここにはいられないよ。給料も出ない。生活のことを考えておく必要がある。それをはやくきみに教えてやろうと思って」
冴子は青白く顔をこわばらせた。
ほんとう、クビになるの。ぼんやり彼女はつぶやいた。あまりとつぜんの話なので、まだ実感がわいてこないらしい。
「でも、あれ会社側の謀略でしょ。主人は事実をいったのよ。ほんとうのことをいってなぜ解雇されなくてはならないのよ」
「証拠がないからさ。出るところへ出ると、きみのご主人には分がない。そうなると組合もたよりにならないよ」
「嘘じゃないのねその話。私たち、ここを出ていかなくてはならないのね」
冴子は座敷机ににじり寄って、机に肘をついて江原と向かいあった。
思いつめた表情だが、目のあたりに意外にあかるい色がうかんでいる。しだいに冴子は生き生きした顔になった。不安をおしころして、あかるい声を彼女はあげた。
「いいわ。ここを出るのは賛成よ。じつをいうと、社員アパートは大きらいだったの。あれこれ近所がうるさいから」
エロ写真の一件で、冴子はとなり近所から憐れまれたり陰口をたたかれたりして、やはりつらい思いをしたらしい。会社側の謀略だといくら説明してまわっても、冷笑されるのがおちだったのだろう。社員アパートの生活に心の底で冴子はすでに見切りをつけていた。夫の失業は彼女にとって案外、新しい出発なのかもしれない。
「干渉するだけじゃない、会社側のスパイのようなのもいるよ。いやなところさ。出るのはおれも賛成だね」
「私、働くわ。クビになったら主人はなかなか就職口がないだろうし、私が働くより仕方がないもの。酒場のホステスにでもなろうかしら」
冴子はブラウスの襟をかきよせ、どう私ホステスになれるかしら、と色っぽく江原へ笑いかけた。
冴子はいまは張りきっていた。江原は目を見張る思いである。体と引換えにしてまでまもろうとした平穏な市民生活が破綻しかけているのに、さほど冴子は狼狽していない。一瞬あおくなっただけで、新しい暮しに闘志さえ燃やしている。
じっさいに壊れてみると、平凡な人妻としての生活などさほど惜しくないのだろうか。小さな空間にとじこもって家事育児で日を送るより、人妻たちは心の底で、一部の利口な女たちのように社会へ出て男に伍して働く暮しを望んでいるのかもしれない。平穏な暮しが危機にさらされたとき、彼女らはおびえて身ぶるいするが、現実にそれをうしなうと案外さっぱりした気分で、以前から心の底で望んでいた甲斐甲斐しい暮しをはじめようとするもののようだ。ひとりでやっていける特技がないから、酒場で働きたいと冴子はいう。ひょっとすると冴子には、自分の魅力に一度ものをいわせてみたいという気持が以前からあったのかもしれなかった。
「きみは売れっ子になれるよ。銀座へ出たらきっといいかせぎになる。でも、そうなったら、おれなんかそばにも寄れないよな」
「安くしてあげるわ。飲みにいらっしゃい。私のヒモにしてあげてもいいわ」
座敷机のうえで、冴子は江原光彦の手をもてあそんだ。
つけたばかりの化粧品の香りが江原の鼻孔にしのびこんだ。冴子が急に香りのつよい化粧品を用いたような気がして、新しい欲望に江原はかられた。白いブラウスとグリーンのスカートを冴子は身につけていたが、パンストはまだはいていない。なまめかしい光沢をおびて素足が畳のうえに投げだされている。
江原は冴子を抱きよせ、スカートの内へ手をすべりこませた。すべすべした内ももの肌をたどって奥へすすむ。
「だめよオ。せっかく服をきたのに」
パンティごしに冴子の敏感な箇所にふれると、鼻を鳴らして彼女は抗議した。
そして手をのばし、江原の男性にさわりにきた。それが固くなっているのをたしかめると、若いわねえ、と冴子はつぶやき、腰をあげてパンティをぬぎはじめた。
あれこれたのしんでいるひまはない。あらためて冴子の下肢の奥をさぐってみると、そこが熱く濡れていたので、江原は身を起し、下半身だけ裸になって足をのばした。
冴子が乗って、抱きついて、さかんに動きだした。これだけ大胆になれるのか、と江原がひそかに感心するほどあわただしい動きだった。
立てつづけに冴子は二度たっした。そして、二度目のセックスなので持続力のうしなわれない江原に焦れて、みずから動いて三度目にたっし、泣きさけんだ。これっきり、これっきりよと彼女はくりかえした。江原は冴子が、夫の解雇を知ってから逆に生き生きと好色になったわけがわかった。このアパートを出てから、冴子は江原から行方をくらます気でいるらしい。小うるさいアパート暮しと、江原というダニから逃れられるものと確信して、みだれているのである。
二十分ばかりのち、江原光彦は身支度をしてその社員アパートを出た。
大木冴子も一緒だった。幼稚園のバスを迎えに停留所までいくのである。
腕こそ組みはしなかったが、冴子は平気で江原と肩をならべてあるいた。社員アパートを出るとなって、ほんとうにせいせいしたらしい。停留所にはやはり子供を迎えに出た、おなじアパートの主婦が三人いた。
冴子が近づくと、三人の主婦はそれまでの立ち話をやめ、とまどった顔で冴子と江原をみつめた。冴子の夫が解雇されるという噂をもう耳にしているのだろう。
わるびれずに冴子は彼女らへ会釈し、江原をふりかえって、
「さようなら、またいつか縁があったら、お会いしましょうね。あなた、もう家にきてもむだよ」
と、勝ち誇ったようにいった。
悪の曲り角
1
大木冴子との二度目のデートのあと、江原光彦は相変らずの生活にもどった。
銀座のZデパートの店内をみまわり、迷子や急病人の世話をしたり、万引犯や痴漢をつかまえたり、夜間の保安警備にあたったりして日をおくった。
万引した主婦をおどして、何度か小遣いを巻きあげた。一見紳士ふうのプロの掏摸(す り)をつかまえて、石黒キャップをよろこばせたこともある。売り場でレコードを失敬した女子高校生にバンをかけ、ホテルへつきあうからみのがして、と泣きつかれて、千駄ケ谷のホテルへ一緒にいった日もあった。あまり美人ではなく、セックスの反応もにぶい女の子で、抱いてもさほどたのしくなかった。
万引した主婦や女の子をホテルへつれこんだのは、最近ではそのときだけである。いい女に出会わなかったせいもあるが、相手の弱みにつけこみ、むりやり体をひらかせるセックスにやや倦(あ)きてきたのも事実だった。
大木冴子とのデートがすばらしかったので、そんな気分になったのだろう。冴子にしろあの木下道代にしろ、愛情のこもったさまざまな手管によって、下半身のとろけるような快楽を江原に味わわせてくれた。多少とも江原に好意をよせてくれた女たちだから、彼女らとのセックスには濃密な快楽があったのだ。
それにくらべて、弱みを握られ観念して体をひらく女たちとの情事には、体と体をこすりあわせるよろこびがあるだけだった。心理的な満足といえば、死人のような女をいろんな方法で刺戟して歓喜の悲鳴をあげさせるときの勝利感がせいぜいである。それもけっしてきらいではないが、毎度そんなセックスばかりでは、女を責めさいなむことに異様なよろこびを見出す石黒キャップのような男でもないかぎり、物足りなくなるのは当然だった。
死人のような女とのセックスに馴れて、江原はかえって心が渇いた。いやいや体をひらく女ではなく、やさしい女が彼には必要だった。だが、そんな女とは出会うチャンスがめったにない。木下道代からの連絡もない。大木冴子に会いたくてたまらなくなり、そっと電話してみたが、
「大木さんはもう引越されましたよ。移転さきはきいていません」
と、そっけない声がきこえただけだった。
おなじ社員アパートの主婦池井昌代がいっていたように、冴子の夫はK重工を解雇され、一家はアパートから出ていかざるをえなかったらしい。冴子の行方はわからなくなった。石黒をつうじてK重工側からききだしたところでは、冴子の夫の大木一郎は組合側からも信望をうしない、形式的に解雇反対の大会決議を得ただけで、じっさいにはなんの支援もなしに工場を追われたとの話である。
「人間、あまりイキがるとそうなるのや。世の中の流れに逆ろうてみても、一人や二人の力でなにができるわけもないわ。大木いう男もちっとは思い知ったやろ」
したり顔で石黒はうなずいた。
石黒に反論したい気持で江原は胸がふくらんだが、どう反論すればよいのか、言葉がうかんでこなかった。大木を直接罠にかけたのが自分ではなくてよかったと思う。K重工の依頼で動いたにはちがいないが、冴子との事柄が大木一郎に直接害をおよぼした気配のないのが、江原にはわずかに救いだった。
そんなある日、江原光彦は出勤してすぐ石黒キャップに別室へ呼ばれた。
同僚の柿本と倉本も一緒にきて、おなじテーブルについた。その日江原は柿本と、倉本は石黒キャップとペアになって、午前中店内パトロールをする予定だった。
「じつはな、内輪の者だけに話があるのや。朝の十一時前後、呉服売り場のマークをはずしてくれ。ほんの十五分でええわ。なにが起っても、あとしまつはわしがする。心配せんと協力してもらいたいのや」
濁った目で石黒は一同をみまわした。
十一時、呉服売り場ですか――。江原たちは顔をみあわせた。坂根組への借りをかえすため、石黒はまた彼らの手さきの窃盗団の犯行を黙認するつもりなのだろう。
「しかし、このあいだの被害はずいぶん大きかったんでしょう。またやられたとなると、青空警備の信用がなくなりませんか」
眠そうにむくんだ顔を手でこすって倉本が訊いた。ゆうべ徹夜麻雀だったらしい。
「きょうはあれほどの額にはならん。大丈夫や、話はついとる。あと二百万ほどで、完全に手エ引くいうとるさかい今回だけや」
ええな、たのんだぞ、身内のよしみで一回だけむりをきいてくれ、とあらためて石黒はみんなに申しわたした。
体裁は依頼だが、実質は命令である。逆らえば坂根組に脅されるだろうし、警察へ通報などしようものなら、こちらの身からも埃がたくさん出てしまう。江原たちはたしかにもう石黒の身内だった。石黒を信頼してすべてをまかせるより仕方がなくなっている。
十時にZデパートは開店し、お客がぞろぞろ店内へ入ってきた。
江原は柿本と組んで店内の巡回に出た。
世の中にはひま人が多いと、開店のときはいつも感心する。玄関まえに行列をつくって開店を待つ男女もいる。特売場へ一番乗りしていい品物をさがそうとする気持はわからなくもないが、特売に関心ないくせに開店を待つ者も多い。おびただしい商品の陳列のあいだをうろつくと、ゆたかになったような気がするので、用もないのにデパートへ入りたがるのかもしれない。
だが、きょうはさっきの石黒の話のおかげで、江原も柿本も知らず知らず目つきがするどくなる感じだった。どんなやつが呉服売り場へ「狩り」にくるのか、たしかめたい気持にかられる。いくらキャップと話がついたうえでも、自分たちが警備しているデパートへ大きな顔で盗みにこられては、ガードマンとして本能的におもしろくないのだ。
「このまえは連中、家族づれの恰好だった。きょうはどんな衣裳でくるかな」
「ひとつバンをかけてみるか。向こうもプロだ。おとなしくはしないだろうな。大乱闘、ザ・ガードマン。恰好いいぜ。光彦さん、売り場の女の子が寄ってくるよ」
「冗談じゃない。坂根組におちんちんを切られたら、モテても意味がないよ。でも、連中の手口は参考までにみておきたいな」
そんな話をしながら店内を巡回するうち、十時五十分になった。三階の呉服売り場のマークをはずすべき時刻である。
七階あたりをみまわろうと話しあって、柿本と一緒に江原は上いきのエレベーターへ乗りこんだ。だが、好奇心をおさえきれない。柿本の制止をふりきって江原は保安事務所へもどり、平服に着替えて、三階の呉服売り場へおりていった。
2
階段からトイレにつうじる陳列台のうしろが売り場から死角になっていた。
江原光彦はそのすみに立ち、積みあげられた商品の山の隙間から売り場をながめた。
衣紋掛けに色あざやかな和服がかかっていたり、反物が一部だけ絵模様をみせて何十本も展示されていたり、呉服売り場には華やかな色彩と布地のやわらかな手ざわりのまじりあった独特の雰囲気がある。
呉服売り場の向こうは婦人服売り場で、その一隅に以前、坂根組の一味が荒した高級婦人用品のコーナーがあった。そこから三十メートルとはなれていない呉服売り場で、きょうまた荒かせぎしようというのだ。そう考えると、癪にさわり腹が立ってくる。自分の悪事はさておいて、他人の悪事には、きびしく糾弾したい気持がわいてくるものだ。
呉服売り場は、格子をつかって何ヵ所かに仕切られてある。その仕切りに一人ずつ四人の男女の客が入ってデパートの係員と話をしていた。係員も女店員もなんの疑念もなく、愛想よく応対しているが、犯罪の進行時に特有の、ガードマンでなくてはわからない息のつまるような妖気が売り場ぜんたいに充満していた。
いちばん手前の仕切りには四人の男女が入っていた。そちらをみて江原は声をあげそうになった。夫婦づれにみえる男女が通路に背を向けて壁をつくり、もう一人の女がそのまえにしゃがんで大きなバッグの口をあけた。そして、もう一人の男が巻反物をつかんでバッグのなかへいれはじめる。
なるほど、こんな手口なのか。ぜんぶで八人がかりの大仕事だ。息をのんで、さらによく犯行を目撃しようとしたとき、江原のすぐ左手で物音がした。すみの商品倉庫から女の子が一人出てきて、微笑(ほほえ)んで江原に会釈する。顔見知りの、呉服売り場の女店員だった。
狼狽して江原はそこから去ろうとした。あとで被害がおおやけになった場合、犯行のあった時刻に江原が現場にいあわせたとわかると、まずいことになるからだ。が、つぎに彼はその場に金縛りになった。その女店員が、盗みを働く四人の姿に目をとめ、あ、と小さくさけんで立ちすくんだからである。
「た、たいへん。泥棒――」
愛らしい顔を怯えで歪めて、女店員は江原に訴えた。
四人のほうを指している。もう知らん顔はできない。
江原は手をふって彼女を制止した。そして、必死で思案をめぐらせた。集団の犯行に出くわした場合、保安事務所へ緊急連絡をいれ、ガードマンが総出でデパートの出入口を固める手筈になっている。だが、それをやってこの連中がつかまると、まずい。坂根組と石黒キャップの関係があかるみに出てしまう。かといって、女店員の訴えを無視もできない。そんなことをすればなおあやしまれてしまう。連中を逃がしてやり、同時にガードマンのつとめをはたさなければならないのだ。
「ちくしょう、応援をもとめるひまはないな」
女店員にきかせるため江原はつぶやき、物陰から出て四人組へ突進した。
「きさまら、そこを動くな」
江原はさけんだ。そして、反物をつかんではバッグに投げこんでいた、いちばん若い、敏捷そうな男にタックルをかけた。
その男の足にしがみつき、一緒に江原は床に倒れた。ひくい唸り声をあげて男は猛烈に抵抗をはじめ、もう一人の男も加勢に入る。女たちは逃げだしたようだ。江原は二人の男と懸命に揉みあい、撲りあい、蹴りあったあと、若い男の足の一撃を腹にうけた恰好で、呻きながらうずくまってみせる。風のように男たちが逃げ去った。反物をいっぱいつめたバッグは放置されている。彼らがぶじに逃亡したのをたしかめると、江原は急に体のいろんな箇所に激痛が走って、あらためて呻きながら床に横たわった。
「大丈夫ですか。大丈夫ですか」
さっきの女店員が駈けつけて、泣きながら江原のそばへかがみこんだ。
「よくやってくれた。品物はぶじだ。きみ、ありがとう。もし盗られていたら、一千万の大損害だった。よくやってくれた」
デパートの売り場の責任者である部長がとんできて江原を抱き起そうとする。
嘘ではなく江原は呻き声をあげた。右のわき腹がひどく痛む。若い男との取っ組みあいのさなか、もう一人の男に蹴られたあとである。肋骨が折れたのかもしれない。やっとのことで江原は立ちあがり、急をきいて駈けつけた柿本の肩にすがって医務室へ向かった。すぐにX線で患部を撮影する。
「女店員がさきに犯行をみつけてさわいだんです。あの場合、ほかにやりようがなかった――」
医務室へやってきた石黒キャップに江原は報告した。
角ばった顔を怒気で赤くしていた石黒は、それをきいて事情がわかった様子だった。だが、指示にさからって犯行現場に江原がいあわせたことは面白くないらしい。医師や看護婦が立ち働く隙をみて石黒は江原の横たわったベッドへ近づき、
「十一時前後はあそこをノーマークにせえというたはずやぞ。それをおまえは――」
と、噛みつきそうな顔で文句をいう。
「連中がヘマだったんですよ。女の子にみつかってしまったんだ。おれが出ていかなかったら、男の店員がとびだして一人や二人、つかまえたにきまっています」
負けずに江原はいいかえした。
江原が現場にいてもいなくても、女店員に犯行をみられてしまった以上、坂根組の窃盗団は品物をほうりだして逃亡せざるをえなかったはずだ。どちらにしろ、きょうのかせぎにはならなかった。石黒はそのことをよく坂根組と話しあって、彼らへの借りをかえす方法をあらためて考えだせばよいのである。
X線撮影の結果、江原は右の第四肋骨の骨折と診断された。骨はずれておらず、ひび割れ程度の負傷だが、痛みが去るまで五日から一週間程度の入院が必要だという。
「入院ですか――」
江原は顔をしかめた。一週間も病院にいるなんて考えただけでうんざりする。
「いいじゃないか。おれにくらべたらかるいもんだ。ぐっすり寝てこいよ。われわれにもたまには休みが必要なのさ」
柿本は、祝福するような口調だった。
そのまま江原は、青空警備会社のクルマに乗せられ、市ケ谷にある大学病院へ入院した。柿本がつきそって、世話をやいてくれた。入院の経験があるので、こまごました心得が彼はあった。
部屋には江原をあわせて四人の患者が寝ていた。二人は交通事故の当事者、一人は建設現場の櫓やぐらから落ちて足を骨折した男だった。四人のうちでは江原がいちばん軽傷だということだったが、ベッドに横たわり、寝がえりを打つだけで全身に痛みの亀裂が走る。
「ゆっくり寝てろ。晩になったら、なにか差入れにきてやるからな」
肩のあたりをかるくたたいて、柿本は病室から去っていった。
なんとなく疲れた。全智全能全力が瞬発するせいか、格闘というやつはあとが疲れる。一晩中セックスしたあとよりもぐったりとなる。ラジオのイヤホンを耳に突っこんだまま、江原はしばらくまどろんだ。目をさましてはラジオをきき、またうとうとして、夕食まで眠気が去らなかった。ふだん人より無理して暮している自覚はないが、体や心に、自分では気のつかない疲れがたまっていたのだろう。
回診のあと、思いがけない来客があった。昼間、呉服売り場で窃盗団をみつけたあの女店員が、花束をもって見舞いにきてくれたのである。
「いかがですか。ほんとうにたいへんでしたね。でも、おかげで被害が未然に防げたといってみんな感謝しています」
色白の、目の涼やかな、丸顔の、いかにも清潔な印象の娘だった。
中肉中背よりもやや小柄な部類の体つきである。枕もとに彼女がバラとかすみ草を活けてくれると、花の香りとともに、甘くなごやかな処女の香りが部屋にただよった。
彼女は中井良子という名だった。Zデパートの社員ではなく、呉服売り場に品物をだしている問屋の女店員なのだという。
「ガードマンって、ほんとうにたいへんなお仕事なんですね。みていて私、感激しました。あんな大勢の相手に一人で立ち向かっていくんだもの。向こう、八人組だったんでしょ」
「四人は女だし、実質的に相手になったのはたった二人ですよ」
江原は照れて胸をおさえた。
笑うと傷にひびく。だが、どうにも逆らいようのない甘い満足感も胸にこみあげる。たとえ誤解からにせよ、ガードマンの仕事を若い女に評価されたのははじめてである。
またきます、といいのこして中井良子は去っていった。なにかが変りはじめる予感があった。
3
その病院の庭をへだてて、ひろい自動車道路が建物に沿って流れていた。
早朝、江原光彦はその道路のほうからきこえるすさまじい爆音で目をさました。
何十台ものオートバイが疾走する爆音だった。暴走族がぶっとばしているらしい。変則的なデパート勤務で曜日の感覚がうすれていたが、考えてみるときょうは日曜である。商店や工場へつとめる若者たちが、ゆうべからけさまで週のうちたった一夜羽をのばして、オートバイで荒れ狂っているのだろう。
爆音は巨大な熊ん蜂の群れのように病院のそばを通過して消え去り、五分後またもどってきて病室の窓硝子をふるわせた。そして、さっきと反対側に消え、五分後にあらためて襲来して、最初の方角へ去っていった。
うるさくてたまらない。警察はなぜ知らん顔なのか。腹が立って江原はベッドをおり、窓辺に立って外をながめた。入院四日目。まだ動くと胸に痛みが走るが、最初のころのように寝返りも打てない状態ではなくなった。同室の三人の入院患者は、暴走族にはもう馴れているらしい。さっきの爆音がきこえなかったかのように平和な寝息を立てている。
六時すこしまえだった。空があかるみ、くもり空と、あおざめた朝の街の風景がすでに眼前にひろがっていた。五分ばかりたつと、およそ三百メートル東の自動車道路の曲り角に隊列を組んだ三十台ばかりのオートバイと、数台の乗用車があらわれた。
曲り角から出てきたので、急に音がきこえ、彼らの姿もとつぜん地上にうかびあがったようにみえた。白ヘルメットをかぶり、ドライブウエアをきた若者たちがものすごい勢いで接近し、あっというまに病院のそばを通過しようとする。荷台に女の子を乗せたオートバイも数台あった。爆音を共鳴させあい、強風に服や髪をはためかせて、一団は爽快に連帯しあって道路をぶっとばしていく。すべてが思うにまかせぬ暮しのなかで、この一瞬の自由をせめて目いっぱい謳歌しようという姿勢で猛然と彼らは走り去った。
江原光彦も、彼らとほぼおなじ年齢である。出鱈目に生きてはいるが、抑圧された気持も濃い。土曜の夜から日曜にかけてオートバイを乗りまわしたくなる気持はわかる。自分もやってみたいと思うほどだ。
安眠を妨害された怒りが消えた。通りすぎていく彼らを、親しみをこめて江原はみつめた。そして、心臓と胃が同時にひきつるような衝撃をうけて目をみはった。
道代、と彼は声にださず、さけんでいた。うしろから五、六台目のオートバイの荷台にまたがり、ハンドルを握る茶色のウエアの青年の体に抱きついた女の子がたしかに木下道代だった。三十メートル以上もはなれた場所からなので、顔かたちがはっきりわかったわけではない。だが、赤ヘルに赤いウエアをきて背を丸くしたその女の子の顔の輪郭も背丈も体つきも、江原の目には、まちがいなく道代だとしか映らなかった。
パジャマのまま江原は病室をとびだし、エレベーターで一階へおりた。彼の病室は三階にある。
庭へ出て、通用門を通り、道路のそばへ出た。いそいであるくとまだ胸が痛むのだが、このときだけは気にならなかった。近くの歩道橋の階段をのぼり、手すりから身を乗りだして、さっき一団の消えた方向をみつめる。もうこちらへもどってこないのでは、という焦燥で冷たい汗が体ににじんだ。
爆音がきこえ、約二百メートル西の曲り角にオートバイと乗用車の一団があらわれた。ターンして彼らはまっすぐこちらへ疾走してくる。爆音がすごい。轟然とした排気音に、バン、バンとはじけるような音がまじる。歩道橋のうえからみると、彼らは顔に風防グラスをかけ、バッタかなにか昆虫のように無表情で突っこんできた。木下道代らしい女の子の乗ったオートバイは、相変らず真中からやや後方に位置して突進してくる。
「道代、道代、おれだ、光彦だ」
爆音に負けまいとして、両手でメガホンをつくって江原は絶叫した。
茶色のウエアの青年に抱きついた女の子の目が、たしかにこちらをみたようだった。青年の肩になかば顔がかくれ、目鼻立ちはよくわからない。だが、まちがいなく道代だと江原は確信する。とっさに彼は右手で病院を指し、身を乗りだして、
「ここだ。ここに入院しているんだ。あそびにこいよう」
と、声をふりしぼっていた。
轟然と空気をふるわせて、オートバイと乗用車の一団は江原の足下をくぐりぬける。向きを変えて彼は一団のうしろ姿を見送り、
「道代、おれだ。待っているぞ」
と、のどが痛くなるほどさけんだ。オートバイを運転する何人かの若者のウエアの背に「武蔵野シャークス」という文字がうかんでいる。道代らしい女の子は、江原の期待に反してふりかえらずに走り去った。すさまじい爆音が嘘のように遠ざかる。また彼らが帰ってくるかと考えて、しばらく待ったがその気配はなく、道路にはやがて家族ドライブの乗用車や魚釣り、ゴルフにいくらしい乗用車がぼつぼつあらわれはじめる。
もう大丈夫。やっと連絡がついた。安心して江原は病室にもどり、安心してベッドに横たわった。ほんとうにあれが木下道代だったのかとの疑念はおし殺して、道代はきっとおれをたずねてくると自分にいいきかせた。きっとあの子はやってくる。もしだめなら、武蔵野シャークスという暴走族グループをこちらからさがしにいけばよいのだ。
おちついて彼は眠りなおした。同室の患者たちが起きて顔を洗うころも、いい気持でぐっすり寝こんでいた。
午後になって、昼食時間を利用して同僚の柿本が見舞いにきてくれた。江原の好きなZデパート内の中華料理店のギョウザと焼ソバをまだ熱いうちに彼は持参してくれ、一緒にたべたあと、江原を庭へさそいだした。江原の負傷以後、石黒キャップと坂根組の話合いがどうなったかを、同室の患者の耳に入らないよう、芝生のうえで彼は話してくれた。
呉服の大がかりな窃盗に坂根組は失敗したが、女店員に犯行をみつかるヘマがあったので、江原に仕事をじゃまされたのも仕方がないと判断したらしい。だが、石黒への貸しはまだのこっているので、もう一度犯行を黙認しろと彼らは石黒に申しいれてきた。
石黒キャップはそれを拒否した。そう立てつづけに派手な窃盗事件が起っては、青空警備会社と窃盗団の関係が、どうしても疑われてしまうという理由である。そして、坂根組へ借りをかえすため、K重工の戸塚総務部長をつうじて仕事を一つ紹介した。K重工の下請けの工作機械メーカーが最近、ある取引先の倒産の影響で大損害をうけたので、その債権保全に坂根組は動くことになったらしい。
「なにをやるんだ、債権保全って――」
「いろいろさ。つぶれた会社へ乗りこんで金目のものを強引にはこびだしたり、管財人にかけあって十円でも多く金を回収したり、つぶれた会社の売掛金を管財人よりもはやくあつめてまわったり。ま、つぶれた会社にたかるハイエナみたいなものだよな」
「それ、おまえもやったことがあるのか」
「ああ。会社へ入ったばかりのころ、アルバイトをやろうとキャップにいわれて、つぶれた会社へおしかけたことがある。向こうの労働組合の連中とわたりあって、倉庫からトラックで品物をはこびだして――」
「なるほどな。有名な大企業も、裏ではけっこう暴力団をつかっているんだな」
「大企業にいわせると、必要悪ってことになる。きたない仕事は暴力団にまかせて、自分たちは紳士づらをするわけだ。その点、暴力団よりもわれわれガードマンのほうがもっと利用価値がある。体裁がいいからな」
「石黒キャップは、そこに目をつけて、いろいろ立ちまわっているわけか」
芝生のうえで、看護婦たちがにぎやかに笑ってバレーボールをやっている。
つきそいの家族に車椅子を押してもらって患者が散歩したり、芝生に寝そべって本を読んだりしている。病院の庭は平和である。こうした平和も、社会の裏のなまぐさい営みのうえに成り立っているらしい。
「はやく足を洗って自分の店を出したいよ。でも、いつのことになるかなあ」
柿本はぽつりとつぶやいた。だが、表情はあんがいあかるかった。
4
病院のまずい夕食を食べたあと、ベッドでラジオをきいていると、病室の扉があき、赤い服の女がなかへ入ってきた。
道代だ――。反射的に身を起し、江原光彦は呻いて右胸をおさえた。ほとんどよくなったつもりでも、すこし勢いよく動くと、骨折の箇所がかなり痛む。回復はかならずしも順調でない。あと三、四日は退院できそうもなかった。
「まだ痛むんですか。じっとしてなさいな。骨折は安静がいちばんらしいわよ」
バラとかすみ草と、そして処女の香りがした。木下道代ではなく、Zデパートの呉服売り場の中井良子という娘だった。
良子は美しい。目の涼やかな、すっきりと清潔な雰囲気の娘である。笑うと、目もとが逆に悲しそうな繊細な印象になる。やさしい気立てがそこにあらわれるようだ。美しさからいうと、良子は道代以上である。
良子がきてくれるのを、江原光彦は期待しなかったわけではなかった。むしろ胸をおどらせて待っていた。だが、入院初日の夕刻見舞いにきてくれただけで、二日目も三日目も良子は姿をみせなかった。帰りがけ良子が口にだした、またきます、という言葉はただのお愛想だったのだと江原は解釈し、良子のことはわすれて道代のことだけ考えようとしていたらしい。
道代でなかったが、うれしいのはおなじだった。同室の患者たちにたいして、得意な気分になる。が、反面彼は緊張していた。まじめな若い女とつきあった経験がほとんどないからである。
中井良子はきょうもバラとかすみ草の花束をもってきて、活けてくれた。
「ありがとう。いい香りだよ。たちまち傷がなおっていくような気がする」
「はやくなおって出てきてくださいね。また泥棒をみつけたらどうしようかと思って心配なの。あれ以来、毎日恐いんです」
「でも、ほかにガードマンがたくさんいるじゃないか」
「でも、なかなか呉服売り場にはきてくれないの。江原さんなら重点パトロールしてくれるでしょ。このあいだも、あそこにいてくれたのは江原さんだけだったわ」
「わかったよ。呉服売り場を重点監視区域にしよう。きみがいるかぎりそうする。ずっときみをまもってやりたい」
二人の話は同室の患者たちに筒ぬけである。これでは微妙な会話にはならない。
庭を散歩しよう、と提案して、江原はじっさい以上に痛そうに顔をしかめて身を起した。
「大丈夫ですか。すごく痛そう」
気づかう良子の腕にささえられてベッドをおり、彼女の肩にすがってあるく。
さわやかな香りとぬくもり、しっとりした重みを江原は五官のすべてで吸収する。脆い、だが敏感そうな体を良子はしていた。江原は欲望にかられてくる。病気で入院したわけでなく、しかも毎日安静にしているので、良子と体を接触させてあるくだけで恥ずかしいほど勃起してくる。ズボンのポケットに手をいれ、男性をおさえて彼はあるいた。意外にゆたかな良子の桃色のブラウスの胸のふくらみが、かすかに揺れ動いているような気がする。
外はもう暗かった。芝生にならんで腰をおろし、道路をゆききするクルマのライトをながめながら二人はいろんな話をした。
中井良子は福島の出身だという。商業高校を卒業したあと、遠い親戚のやっている呉服店に就職して東京へ出てきた。三人の女店員とともにZデパートの売り場へ出て、良子が主任をしているらしい。男友達は何人かいるが、恋人はまだいないと彼女はいった。土曜の夜、女店員仲間と食事に出たりするのがせいぜいで、恋人がいないので、東京へ出て三年にもなるのに、まだディスコへいったこともないそうである。
「女だけでいけばいいのに。ディスコには男の子がたくさん待機しているよ」
「でも、変なのにつきまとわれたら困るもの。東京の男性は危険だっていうし。それに、ディスコにいる男の子なんて、子供が多いでしょ。私、ちゃんとした男性とおつきあいしたいの。大人として」
「おれ、こんどディスコにつれていってあげようか。いい店を知っているよ」
「わあ、ほんと。よかった。江原さんが一緒なら安心だもの。つよいんだから。変な男につきまとわれても平気よね」
窃盗団の男たちとの格闘をみて、良子はすっかり江原を買いかぶっているらしい。
わるい気持はしない。いつかボロが出ないよう、合気道でも習ってみようかと江原は思う。話しながら、良子は甘えるように体をぶっつけてくる。しぜんに彼は良子の肩に腕をまわし、心をこめて抱きよせる。だが、まだキスをもとめる勇気はなかった。
胸がどきどきし、口がかわいた。わき腹に汗がにじんでいる。強制して女を抱くのには馴れたが、女と恋を語るのは不馴れである。セックスの経験が豊富なのに、江原はうぶな青年だった。何人も女を知りながら、ちゃんとした一人の女の心を魅(ひ)くすべはまるで心得ていないやくざ者に似てきている。
「たいしてつよくないよ。でも、きみに害を加えるやつがいたら容赦しない。徹底的におれはたたかってみせる」
「ほんとう。うれしいわ。良子にも、やっとまもってくれる男性ができたのかしら。東京で私、ひとりぼっちなんだもの」
「おれでよかったら、ずっときみをまもってあげるよ。やくざなガードマンだけどさ、あんがいまじめな部分もあるんだ」
「わかっているわ。江原さんは誠実な人よ。私にはわかる。目が澄んでいるもの」
良子の肩を抱いてひきよせると、彼女は目をとじ、かるく顔をあおむけた。芝生のうえは暗く、病棟の窓あかりの余光で、仄(ほの)白く良子の顔がみえる程度である。
熱っぽく江原はキスしにいった。きちんとしまった清潔な、やや固い感じのくちびるがかるくひらいて江原を迎える。江原の舌を、じっと彼女はうけいれた。吸いついたりからみついたりする気配のない、おっとりしたくちづけのしかたである。
江原は手や足がふるえた。そんな感じに昂ったのは、学生時代、女友達と最初のキスをかわしたとき以来だった。遠慮ぶかく彼は良子の脚にさわってみる。良子は呼吸をみだし、脚を芝生に投げだして、江原の左の胸に頭をもたれさせている。赤いスカートのうえからふとももにさわると、良子は大きく息を吸って、顔をあおむかせた。
きみはバージンなんだろう、と江原は良子の髪をなでて訊いた。
良子はうなずいた。そして、おくれてるでしょ、とかすれた声で笑った。
「勉強してみないかい。男の体を」
良子の手をとって、江原は自分のズボンのまえに誘導した。
固いものにふれると、良子は息をのんだ気配だったが、そのまま手をそえる。彼女の指の一つ一つを江原はとって、男性にからみつかせてやった。
「勉強したいの。江原さん、教えてくれる――」
あえぎながら良子はささやいた。
5
良子はパジャマのズボンのうえから江原光彦の男性を右手でとらえていた。
ぎごちなく動かした。生まれてはじめての行為らしい。愛撫するというより、指で男性のかたちをたしかめたがっている。
そうしながら身を寄せてくる。顔を伏せ、肩をすぼめて、小さくなっていた。二人がすわっている芝生のあたりは、病室の窓あかりがおよぶ範囲をちょうど越えたまっ暗な場所で、人目につく心配はないのだが、何百人もの患者や関係者がいる建物の近くなので、なかなか安心できないのだろう。
江原は良子の肩を抱きよせる。ワンピースのうすい布地を通して、肩や背中のしなやかな感触がつたわってきた。
体温が高い。良子は息をつめている。さらに江原が抱きよせると、男性をとらえている彼女の指に力がこもった。良子の胸に彼はさわってみる。脆(もろ)そうな上半身の肉づきとは対照的に大きな乳房が掌のなかではずんだ。
それでも良子はうっとりとならない。息をつめ、指でさぐっている。好奇心と緊張でいっぱいで、快楽に溶けこめないのだろう。江原はかるく良子の脚にさわり、腕を彼女の腰にまわして、腰からふとももにいたる箇所の肉づきをたしかめた。すると欲望がさらに増して、男性が痛いほどになった。
あ、と良子が小さく声をあげ、動いたわ、とつぶやいた。手をとめて、ズボン越しにじっと男性をとらえている。
「脈打ったんだ。きみが可愛くて、爆発しそうになっているから」
「ひとりでに脈を打って動くのね」
「そう。こいつはなかなか意のままにならないんだ。小さくなっていろ、とこっちが思ってもいうことをきかない」
良子の手をわきへ寄せ、ズボンのなかから江原は男性をひっぱりだした。
良子にそれをもたせる。じかにふれたとたん、良子の体がぴくりとふるえた。じっとそれを手にもっている。ふうん、こんなのかと納得している気配がつたわる。
「このへんがいちばん敏感なんだ。このあたりもよく感じる。それから、こっちが子だねをつくって貯えるところ」
手にとって彼は教えてやる。良子はもう恥ずかしそうな様子はなく、暗くてなにもみえないのに、手もとをのぞきこむようにして学習している。
怖いわ、と彼女はつぶやいた。想像していたよりも大きいという。自分の体へはじめて迎えいれるときの苦痛を想像したらしい。心配ないよ、かんたんさ、みんながやることじゃないかと江原がささやくと、良子はあいまいにうなずいた。江原は息苦しい昂奮がやわらぎ、あかるい気分になってくる。セックスの経験が豊富な女だろうとなかろうと、ともかく女から体のことを賞められると男はうれしいものだ。
「さ、これで勉強は終り。こんどはきみの体を勉強させてくれないか」
あらためて江原は良子を抱きよせ、キスしながら芝生のうえに倒れた。
ていねいに乳房を揉んだ。こんどは良子はしだいに息づかいをはやくし、うっとりとして、ときおり甘い吐息をついた。だが、ワンピースとブラジャーのうえからなので、おたがいに刺戟が不足である。スカートのなかに手をすべりこませると、良子は身を固くし、双つの脚をとじあわせた。拒絶ではなく、羞恥から出た行動だった。
ゆっくりとふとももをなでてやる。パンストの粗い手ざわりにいらいらする。そうしながら、また乳房を愛撫すると、双つの脚はしだいにひらいた。乳房に注意がいき、下半身がおろそかになったのだ。
ふともものあいだの、いちばん奥の箇所へ江原の手はたどりついた。意外なことに、良子はじっと待っている。はじめて他人の手にそこをゆだねる劇的な感触を、息をころして味わおうとしていた。パンストのしたに、良子は固い下着はつけていなかった。
草むらのあたりへ、江原は掌をおいた。下腹から女の部分へかけての傾斜といい、ひらかれた双つのももの角度といい、女の体は男の掌をすっぽりそこへ吸いこむようになっているものだと、なんとなく江原は感心する。そこはあたたかく、湿っていた。掌でかるくこすり、指で押してみる。良子の息づかいが荒くなった。身動きもせず体を投げだして、呼吸だけがあわただしかった。
「ぬいでくれ。きみにさわりたいんだ」
江原は、良子の耳に息を吐きかけ、パンストをひきおろそうとした。
良子はだまっていた。が、下着類がヒップのまんなかあたりまでさがってくると、身をくねらせて抗った。
「ここではいや。怖いもの。だれかくるわ。ねえ、人のこないところへつれてって」
良子のいうのは当然だ。はじめて経験するセックスの場所として、病院の庭の芝生のうえはやはりふさわしくない。
やがて二人は病棟へもどった。良子を廊下で待たせて、江原は服をきて外へ出た。急に良子は恥ずかしそうな顔になり、赧くなって腕をからませてくる。
内心江原はひやひやしていた。給料日まえで無一文に近い状態である。昼間たずねてきた同僚の柿本から借りた五千円札が、一枚ポケットにあるだけだった。多少は良子ももっているだろうが、はじめてできたうぶな恋人から金をせびるわけにもいかない。
タクシーで千駄ケ谷のホテル街へ向かった。クルマのなかで、良子は江原によりかかって目をとじていた。その右手を江原がズボンのまえに誘導すると、固い男性をぎごちなくつかんで彼女は手を動かしはじめる。
6
なるべく料金の安そうな、小さなラブホテルへ二人は入った。
中井良子はおびえた目で左右をながめながら、江原の手を固く握って廊下をあるいた。
洋室でやがて二人きりになった。あらためてキスしたあと、江原が風呂をすすめると、すなおに良子は浴室へ向かった。
衣ずれの音がした。浴室の扉のまえでさっさと良子は服をぬいだらしい。扉のしまる音と湯をかぶる音がつづけてきこえた。
江原光彦も服をぬぎすて、浴室のなかへ入っていった。ちょうど良子は前かがみになって湯舟へ入りかけたところで、あまり大きくない、なまめかしいヒップが江原のほうへ突きだされていた。やわらかくふくらみ、あわせ目がひきしまったヒップである。流れるような脚線がその下にあった。肌は白いほうだ。良子はすぐに横向いて湯舟に身を沈め、恥ずかしそうに江原へ笑いかける。一緒にわるさをしている子供どうしがぺろりと舌をだしあうような笑いである。
江原もすぐに湯のなかへ入り、湯舟のふちに腰をおろした。ひざが良子の横顔にふれようとする位置である。わざと彼は足をひきかげんにしていた。力をみなぎらせた男性を、あかるいところでみせてやるつもりだ。
が、良子はそれに目もくれない。ツンとした感じで正面を向いている。好奇心を必死でおさえて、知らん顔をしていた。江原は笑いを噛みころしてその頬を突っついた。
「ほら、ゆっくり観察しろよ。勉強しなくてはいけないんだろ」
良子は困ったような笑みをうかべ、いらない、というように手を横にはらい、江原の脚のあいだに湯をとばした。
その手を江原はとって男性にみちびく。ちらとそれをみたあと、またツンと横顔を向けて良子はそれを握った。感触をたしかめるようにじっとしている。女はみるよりもさわりたがるものだというなにかで読んだ文章を江原は思いだした。
しばらくそうしてから、江原は良子とならんで湯のなかに腰をおろした。
抱きよせて乳房をかわいがった。心もち内を向いた、よくはずむ、掌にあふれるほどの乳房だった。暑さも手伝って良子は赤くなり、目をつぶって、大きな呼吸をくりかえした。乳房を江原が口にふくむと、かすかに声をあげてのけぞり、湯舟の内壁にもたれかかる。
「暑いわ。目がまわりそう」
良子は息を切らせ、よろめきながら立って湯舟を出た。
ぜんたいに脆い感じだが、胸とヒップだけが大人っぽく熟れた白い裸体が、さわやかな色香をただよわせて洗い場に出た。が、江原の視線に肩すかしを食わせて良子はその場にうずくまり、手ばやく石鹸を体に塗った。
「おいで。おれが洗ってやろう」
湯舟のなかから江原は手をのばした。
が、良子はかぶりをふって、江原の手のとどかぬ場所へ後退する。すばやく良子は体を洗い、かるく身をかがめ、乳房や下腹部をかくすようにして浴室を出ていった。あかるい場所で裸身を江原の目にさらすのが、やはりいたたまれなかったのだろう。
はやる心をむりにおさえて、江原光彦はゆっくり体を洗った。だが、もう一度湯舟につかるほどの余裕はない。体を拭き、タオルを腰に巻いて彼は部屋にもどった。
良子はきちんと浴衣をきて、ソファにかけてテレビをみていた。冷蔵庫から江原はビールをとりだし、良子とならんで腰をおろす。コップに注いで乾杯する。良子の手がふるえ、コップが鳴った。やはり緊張している。表情がひきつって泣き顔にみえる。
「どうした。怖いのか」
抱きよせてキスすると、良子はふるえだした。恐怖よりも、極度の昂りをおさえきれず手足がふるえてしまうらしい。
キスをつづけながら、江原は良子のふとももをやさしくなでてやり、浴衣のまえを割って手をすべりこませた。ふともものすべすべした内側を奥へたどると、いきなり、草むらの感触があった。浴衣をきても、下着は身につけていなかったのだ。
「怖くなんかないよ。たのしいことなんだから。すぐにいい気持にさせてやるよ」
そのまま江原は、草むらの下方の秘密の箇所へ指をすべりこませた。
あたたかいぬかるみに彼はふれた。処女だからといって、べつに変りはないはずだが、人妻などのそれとくらべて小さなぬかるみのように思われた。やわらかくゆっくりとそこをさぐる。良子は目をとじ、ソファの背にもたれて荒い息を吐いている。
小さな真珠の粒を江原はさぐりあて、指でこまかく刺戟しはじめた。
良子は眉をひそめる。呼吸が小さく、あわただしくなった。江原が良子のひざに手をあてて引くと、彼女は大きく脚をひらいた。浴衣のおびを江原は解き、愛撫をつづけながら、片手でぜんぶぬがせてしまう。良子の呼吸がさらにあわただしくなり、やがて彼女は小さな声をもらして身をちぢめたあと、ぐったりと体の力をぬいた。小さな頂上だが、それでも快楽の頂上を越えたようだった。
「怖くないだろう。気持いいか」
江原が訊くと、目をとじ、眉をひそめたまま良子はうなずいた。
「江原さん。江原光彦さん――」
良子はしがみついてきた。
情熱や感慨をあらわすすべがほかにないのだろう。生まれてはじめて体に迎えいれる相手が江原光彦という名であることを、心の底まで刻みつけようとするようだった。
もう一度江原は指で良子をかわいがり、二度目の頂上を越えさせてやった。それから、ソファにかけた良子の足もとにうずくまり、彼女のひざやふとももにキスした。
両脚をひらかせ、その奥の、小さな桃色の花へ顔を近づける。反射的に良子は江原の肩をおさえ、腰をひいて、手で桃色のところをかくした。江原がそれを至近距離で覗こうとすると思ったらしい。
良子の手をおしのけ、江原は桃色の箇所へ最初かるくくちづけした。
彼の意図がやっとわかったらしい。良子はみだれた表情になり、目をとじてソファの背にもたれかかった。そして、両脚をおしひらかれるままになった。全身を花のようにさせて彼女はひらいた。江原は桃色の花へくちづけにいった。キスすると、花がぬかるみに一転する。良子の口からもれる甘い声を江原はきき、その声がしだいに高まるのを意識しながら、夢中になって舌とくちびるを駆使していった。
何度か良子は頂上を越えた。さっきよりかなり高い山だったとみえ、かん高い声がそのつど江原の耳に入った。良子は思いきり脚をひらき、足でソファの平面のふちをふんでいる。羞恥心を彼女はすでになくしていた。あまり無我夢中なので、恥じらうほどのゆとりもないのだろう。
江原は身を起し、良子にその姿勢をとらせたまま、ソファのふちに両ひざをついた。うっかり動くと胸の傷が痛む。知らず知らず江原はそれをかばう姿勢になっていた。
位置をたしかめ、しずかに良子のなかへ入っていった。むりに押し入る感触があり、良子は顔をしかめたが、体のうるおいがじゅうぶんなのと、その大胆な姿勢のおかげで、はじめての経験にしてはなめらかにうけいれたようだった。
痛いか、と訊かれて良子は顔をしかめたまま、かぶりをふった。
一呼吸し、すぐ終るからね、とささやいてから、しずかに江原は動いてみる。苦痛をあたえないよう、なるべくはやく終ろうとの意識がいっぽうにあった。はやく終りたいが、はやく動けない。板ばさみになって、江原はしばらく快楽におぼれることができなかった。だが、しだいに結合が安定し、良子の脚に胴をぴったりはさまれるかたちになって、彼は昂ってきた。
目をとじ、眉をひそめた良子の顔をじっとみつめて江原は動いた。ようやく江原は下半身が甘く溶けそうな感覚におそわれ、
「江原さん。江原光彦――」
もう一度弱々しく名を呼ばれて、たちまち目のくらむ快楽のうねりに呑みこまれていた。
江原は良子のうえに倒れこんで、しばらく動くことができなかった。
「――ああ、これで済んだのね。やっと私、一人前の女になった」
休息し、体を清めたあと、上体を起して一服する江原のひざに良子は顔を伏せた。
髪と、肉のうすい背中を江原はやさしくなでさすってやる。愛情で胸がいっぱいで、しばらくなにも言葉にならなかった。
この子をしあわせにしてやりたい、一生まもってやりたいと彼は思う。こんな気持になったのははじめてである。木下道代も大好きだが、いまそばにいない道代よりも、こうやって大事なものをくれた良子のほうにより深く気持のかたむくのも当然だろう。ともかく江原には恋人ができたのだ。
「おれたち、どうする。結婚するかい」
「結婚しましょうよ。気があうみたいだもの。私、こんど田舎へ帰って、江原さんのこと親に話してくるわ」
江原のひざに頬を寄せて、良子は彼の脚をなでさすった。
それから、小さくなった男性に手をふれてもてあそんだ。どうしてこんなに変るのかなあ、とうたうように彼女はいった。
キスしていい、と目だけあげて良子は訊いた。そして、返事もきかず身をよせてきて、かるくくちづけする。笑いながらもてあそび、またくちづけして笑った。
「子供ができたら素敵だろうなあ。私たちの子供――」
うっとりした声で良子はいった。
まるでそれが子供であるかのように江原の男性をあつかっている。
7
数日後に江原光彦は退院し、Zデパートの保安事務所へ復帰した。
右胸の傷は完全になおり、もう力仕事をしても痛みはない。約一週間の静養のおかげで体にたまっていた慢性的な疲れがとれ、手足がかるく、血色もよくなった。
以前よりも元気そうにみえるとみんなにいわれて、なお元気が出た。入院は、若い江原の肉体に、温泉療養のような効果をおよぼしたらしい。酒、麻雀、キャバレーなどの夜あそびで知らぬまにどれだけ体がまいっていたか、健康になってから江原は思い知ったかたちだった。
以前よりも元気な顔つきになったのは、もちろん入院のせいだけではない。中井良子という美しい恋人を得て、江原は世の中のすべてが、陽のさしたようにかがやいて目に映る状態にあった。
朝起きると、すぐ良子の顔が目にうかんだ。睡眠不足もあまり気にならず、やれやれきょうもかという気の重いボヤキもなくなった。いま良子はどうしているかと考えながら、顔を洗ったり、トイレに入ったりする。アパートを出ると、貧弱なはずの東京の街路樹が目にしみるほどあざやかな緑に感じられた。立ち喰いのそばや、パンと牛乳だけの朝食にも、以前とちがう生き生きした味が感じられるようになった。
心から自分を愛してくれる女がこの世にいると思うだけで、生活の一つ一つの部分によろこび、張合いが生じていた。Zデパートの保安事務所へ出勤し、
「ええか。きょうもしっかりやろやないか。善良な市民の安全なショッピングをささえるのがわれわれガードマンなんや。誇りをもって社会的使命をはたそう」
などと石黒キャップに臆面もなく演説されても、べつに腹は立たず、にこにこして朝礼を終るようになった。
雑用をかたづけ、同僚のだれかと組んで店内のパトロールに出かける。中井良子のいる三階の呉服売り場は、もちろんとくに念入りに巡回する。ブルーのユニフォームを着て良子は売り場に立ち、あかるい表情で、江原が近づいてもわざと知らん顔をしている。
そして、急に江原をみて微笑みかける。同僚のだれにも気づかれない、一瞬の親愛の笑みである。江原が笑いかえすひまもなく良子はまた視線をそらせ、急になにか思いついたような顔でそわそわと奥へ去っていく。
江原はすんなりした良子の脚を目の端で見送り、どうだ、あの子がおれの恋人だ、いい子だろう、バージンをおれにくれたんだとだれかに自慢したい衝動にかられる。いつでも良子を呼んでセックスできるのだと思うと、夢のような気持だった。人生の大事な一つの段階にやっと到達したようで、江原は態度に自信とおちつきがそなわってきた。あとは先方の親に会ったり、江原の父母に良子をひきあわせたり、一つずつ手つづきと順序をふんで、やがて結婚しようと思う。
式をあげ、マンションを借りるため、なるべく貯金しなければならない。家庭をもつならクルマもほしい。いままでのように漫然とあそび暮してはいられなかった。同僚の柿本とおなじように、江原は貯金を心がけるようになった。なにかはっきりした目的ができれば、飲む打つ買うが大好きな江原にも、金にたいする執着が生まれるもののようだった。
金曜日の夕刻、二人はデパートの近くでおちあい、新宿や上野、浅草などで一緒にあそんだ。安い食堂や酒場に入ったあと、ラブホテルで抱きあうのがふつうだった。
Zデパートは毎週火曜日が休みで、ガードマンもだいたいこの日は出勤の必要がない。江原と良子は原則として火曜日の昼にも待ちあわせて、郊外へ出たり、公園をぶらついたり、映画館へ入ったりした。そして夕食のあとディスコで踊り、ホテルでやすんだ。良子はしだいにセックスに馴れ、ベッドのうえで大胆率直にふるまうようになった。
良子はもちろんまだセックスのよろこびを知らない。江原のキスや手指による愛撫で、うっとりと陶酔する程度である。よろこびを知ろうとして彼女は熱心だった。江原のもとめるどんなポーズにもすなおに応じる。どんな愛撫もよろこんでしてくれる。
セックスの最中、声をあげたほうが自分のよろこびも高まるはずだと江原にいわれて、みようみまねで甘い声をあげた。そして、あまり効き目がなくともがっかりはせず、
「いいわ。さきがながいんだもの。結婚したら光彦さん、毎晩教えてくれるでしょ」
と、熱っぽく抱きついてくる。
はじめてセックスした夜から、良子は江原を姓でなく名で呼ぶようになった。
店内パトロールや売り場の監視によって、江原光彦は相変らず日に二、三件の万引や置引を摘発した。レコード、書籍、衣料品へ手をだす中学生、高校生たちと、衣料品、食料品を盗む主婦たちが、半々ぐらいの割合で江原に保安事務所へつれていかれた。
主婦のなかには、比較的若く美しいのや、みるからに好色そうに体をもてあました女もまじっていた。だが、江原は以前のように彼女らをホテルへつれこみたいとは思わなくなった。良子とのデートで、セックスにあまり不自由していないせいもある。が、根本原因は、素敵な恋人を得て余裕が生まれ、以前のようにいらいらと憎悪をこめて主婦たちをみることがなくなったためだ。
万引がばれておろおろする人妻の服を剥ぎ、ベッドにおさえつけて、後方から犯してやろうなどとは思わなくなった。世の中のおそろしい、残酷な側面など想像したこともない呑気な顔つきでショッピングする主婦をみても、万引の罪をひっかぶせて、ホテルへつれこんで口で奉仕させてやろうなどと考えることもなくなった。しあわせそうな彼女らへの嫉妬や恨みがうすらいできたのだ。サディスティックな衝動は、不幸や孤独な実感から生まれてくるものらしいと、他人事のように江原は考えるようになった。
その代り江原は金にはうるさくなった。
万引女をつかまえると、まず物陰につれていって脅したあと、
「警察へいきたくないのなら、五万円ばかり罰金を払いなさい。それでなんとかなる。みのがしてあげてもよい」
と、小声でもちかける。
たいていの女は五万円ももっていない。一万か二万でゆるしてほしいと哀願する。もったいをつけて江原はたのみを容れ、金を巻きあげる。健康保険の世話にはなったが、入院で多少金もかかったので、取立ては当分きびしくやるつもりだ。
マンションの費用に二、三百万円は貯金をつくるつもりである。デパートの近くの銀行に口座をひらき、万引女から巻きあげた金を積み立てることにした。社会にはいろいろ裏があり、小綺麗な、健全そうな風景があんがいうす汚く生臭い底辺の営みにささえられているのをいやになるほどみてきたので、自分たちの住居をそんな金で手にいれることに、とくに罪の意識はなかった。
「おれ、一生懸命貯金しているんだ。マンションの頭金はまかせておいてくれ」
「ほんとう。江原さん、そんなにお金持なの。うちは貧乏で、ろくな支度もできないから、すごくたすかるわ」
ベッドのうえで、二人は会うたびにそんな話をするようになった。
しゃれた白い高層マンションを脳裡に描いて、江原は良子と脚をからませあった。だが、良子とのデートにもけっこう費用がかかって、貯金は思ったほど殖えていかず、二ヵ月もたつと、江原はしだいに焦燥にかられて、あまり大きいことがいえなくなった。
8
ある雨の午後、江原光彦は五階の事務用品売り場で、挙動のあやしい一人の女を目にとめた。
三十歳前後。男の子のように髪を短く切った気のつよそうな女である。
小型電卓の陳列ケースのまえで、彼女は店員に見本の品を五つ六つ出させて、指でボタンをおして使用感をためしていた。女は白いレインコートをきている。どこかの会社の古手のOLといった恰好である。
が、女の肩や背中の線が緊張している。目もおちつかない。背中に神経を集中させてうしろの人の気配をうかがい、おちつきなく眼球を動かして、店員やほかの買物客の様子をうかがっている気配だった。
あの女、きっとやるぞ。江原は直感がひらめいた。近くの柱の陰で様子をうかがう。女はさりげなく笑って店員と話しながら、まだ電卓をいじっている。
女が声をかけ、女店員はうしろの陳列台から品物をとりだそうと背を向けた。そのときレインコートの女の手が動き、いま流行の薄型電卓を三、四枚つかんであざやかにコートのポケットへいれてしまった。
たいして高価な品ではないから、彼女はプロでなく、ちょっとした小遣いかせぎをやったのである。事務用品を買う金を会社からもらって百貨店の売り場へあらわれ、必要な品物を万引して小遣いをうかせていたOLの話を江原はきいたことがあった。
案の定だ。あの女、すました顔をしやがって。女が陳列ケースのうえに上体を乗りだし、女店員となにか笑って話しあってからそこを去るのをたしかめて、江原は追跡にとりかかった。自分たちもあんなふうに見張られているのかと、ほかの買物客に思われないよう、売り場での摘発はなるべく避けることになっている。
女はコートのポケットに両手を突っこんで階段をおりはじめた。江原は足をはやめ、踊り場で追いついてバンをかける。
「失礼ですが奥さん、ちょっと保安事務所まで同行ねがいたいのですが」
女はふりかえった。おびえた顔つきで、頬と口のあたりが歪んでいる。
犯行を自白したも同然の顔だ。
「なんのご用でしょうか。保安事務所って、いったいなにをするところですか」
かすれた声で女は訊き、白ばくれて、首をかしげて江原をみあげる。中肉中背で、胸のふくらみがよく目立つ女だった。
「とぼけなさんな。そういう態度なら、警察へいってもらうことになるぜ。サツにまわされればどうなるか、わかるだろう」
「――――」
「警察も事務所もいやか。まあそれが人情だろうが、そうなると罰金をはらう以外にないね。あんた、いくらもっているんだ」
「罰金って、なんのことよ。私、なにもしていないわよ。なにをいうの、失礼な」
「そうか。では、コートのポケットから手をだしてもらおうか。ついでになかの品物もとりだしてみせろ」
女はポケットから両手をだした。
なにももっていない。なんて世話のやける女だ。舌打ちして江原は女のポケットをさぐろうとした。が、女はその手をはらいのけ、いまは昂然と胸をそらせて、
「なんなのよう。なんの権利があって身体検査なんかするの。失礼じゃないの」
と、大きな声をはりあげた。
通りがかりの女の買物客が、びっくりして足をとめて二人をながめる。
「なにを偉そうにいいやがる。手前、万引現行犯じゃないか」ビンタを喰わせてやりたい衝動を懸命に江原は抑制した。「なんの権利だと。いいか、おれはあんたを逮捕できるんだぞ。刑事訴訟法第二一三条ってやつでね。おなじく第二一四条により、警察にひきわたすことも――」
江原はコートのポケットをさぐった。
そして、顔から血の気がひいた。なにも入っていない。ポケットの底に穴があいている。誤認だったのか。いや、そんなはずはない。あわててもう一つのポケットをさぐったが、穴はなく、盗品も入っていなかった。
「なにが刑事訴訟法だよう。笑わせるんじゃないよ。さあ、逮捕してもらいたいね。警察へわたしてもらおうじゃないか。罰金をはらえだと。冗談じゃないよ。このおとしまえはどうやってつけるんだよう」
勢いこんで女はわめき散らした。
表情が一変し、目がつりあがっている。しまった、やられたと江原は後悔を噛みしめて、この場をどう収拾するか思案した。
コートのポケットの底に穴をあけ、そこから品物を失敬する手口はめずらしくない。ポケットに手を突っこんだまま、商品の陳列棚のうえに身を乗りだし、もっと向こうの棚に見惚れるふりで、ポケットの底の穴から手をだして品物を盗ってしまう。
だが、この女は逆をやった。電卓をコートのポケットにいれたようなふりで、底の穴から陳列ケースのうえにもどしておいたのだ。巡回中の江原の制服をみて、ひっかけに出たらしい。デパート側に因縁をつけて、尉謝料をせびろうという魂胆なのだろう。
まったく世の中は広大である。悪徳ガードマンの集団である青空警備会社、石黒班にけちをつけて金をかせごうという女がいるのだ。付近に仲間がかくれているかもしれない。どちらにしても、一般客の通行する階段でさわぎを続行するのは得策ではなかった。
「よし、ともかく保安事務所へこい。もっとくわしく身体検査する必要がある」
女の手首をつかみ、従業員専用エレベーターのほうへ江原はあるきだした。
女は昂然と顔をあげ、火のように熱くなって歩をはこんだ。笑わせるんじゃないよ、私がなにをやったというんだ、とこんどは小声で文句をいう。ひきしまった、男っぽい顔立ちだが、美人の部類に入るだろう。コートのしたに彼女はピンク色のスカートをはいていて、足をはこぶたびにその色が、コートのすその割れ目からなまめかしくちらつく。脚のかたちはきれいである。
「あんたは、金を要求したんだからね。Zデパートともあろうところが、なんという悪徳ガードマンをやとっているんだ。私はだまっていませんよ。警察にもマスコミにも知合いがあるんだから。あんたなんか、一発でクビにしてやるからそのつもりでおいで」
二人きりの従業員エレベーターのなかで、女はさらに毒づいた。おそろしく早口で、好きなことをいう女だった。
「ふざけるんじゃない。おれが金を要求した証拠があるのか。くだらないいいがかりはよすんだな。おまえが損をするだけよ」
せせら笑ったものの、じつは江原は心配で胃がひきつっていた。
女がZデパートの保安部長に直訴すると、厄介なことになるかもしれない。デパートはつねにことなかれ主義だ。大声でわめき立てられるよりはと、慰謝料をわたして女をひきとらせようとするだろう。
そのあと、保安部長は江原を訊問するかもしれない。ほんとうに女へ金を要求したのか。いままでもそんなことをやってきたのか。だとすれば由々しき問題である。当デパートの信用のためにも、ただちにガードマンを入れ代えるなどといいだすおそれがある。
女へ金を要求したことなど、もちろん否認する。証拠がないから、水掛論で終って、江原は罰されずに済むだろう。
だが、今後の仕事がやりにくくなる。江原たちガードマンは今後デパート側の監視をうけ、万引犯を物陰へつれこんで「罰金」をはらわせたり、ホテルにつきあえと強要することができなくなる公算がある。そんなことになれば悲劇だ。良子との結婚資金をかせぐ方法がなくなってしまうではないか。
保安事務所のデスクのまえには石黒キャップが腰かけていた。
「なんやこの女。花子かいな」
女を一瞥してつぶやく石黒の顔が、きょうはなんともたのもしくみえた。
9
保安事務所へ入って椅子にかけるなり、女は金切声でさけびはじめた。
もともとヒステリー気質らしい。目をつりあげ、青白い顔をいっそう青くして、身をふるわせてまくし立てる。
「さあ、責任者を呼んでよ。ガードマンなんかどうでもいいんだ。デパートの保安部長を呼んでもらおうじゃないか。なにもしないのに私は泥棒あつかいされたんだからね。出かたによっては人権蹂躙(じゆうりん)で訴えてやる。さあ、どうしてくれるんだよう」
なんだこの女は、という顔で石黒キャップが江原光彦をみつめた。
事務所にはほかに同僚のガードマンが一人いるだけだ。室内に女の声はひびきわたり、窓硝子がふるえるくらいである。
「誤認したんです。すみません」
江原は頭をかいてみせ、石黒の耳に口をよせて、じつはひっかけられたんです、事務用品売り場で、と手短かに事情を説明した。
石黒はだまってうなずいた。エラの張った精力的な顔にみるみる怒気がみなぎり、目に冷たい光があらわれる。そのまま石黒は女をみつめた。品物を万引したふりをして店側に摘発させ、居直って慰謝料をせびる手合いに何度か会ったことがあるのだろう。
「はやく呼べってんだよう。女だと思って舐めるとただじゃおかないよ。来ないんなら、こっちからおしかけてやる。社長室はどこだ。こうなったら社長に会いにいくよ」
白いコートの襟を立て、ポケットに手を突っこんだまま女はわめいていた。さけびすぎて声が小さくなりかける自分自身を、必死で女は鼓舞していた。石黒はまだ沈黙している。女の逆上がおさまるのを待つ作戦らしい。江原と同僚はたばこをくわえ、それぞれライターで火をつけた。このあと石黒がどう出るか。江原たちにとっては大切な学習の時間である。
女はついに立ちあがった。社長室はどこだ、社長に会って、あんたらみんなクビにしてやるとののしりながら事務所を出ていこうとする。細身の体にコートをひっかけたうしろ姿は均整がとれ、垢ぬけていた。青い顔のまま、女は昂奮でふるえている。
そのときになって石黒は席を立った。江原は彼が女の襟首をつかんで部屋へひきもどし、床にひきずり倒し、唾をひっかけ、足蹴にするだろうと期待していた。
ところが石黒は正反対の行動をとった。
「まあまあ奥さん、お腹立ちはごもっともですが、社長室は勘忍してください。若い者がえらい粗忽(そこつ)をいたしました。責任者を呼んできまっさかい、どうかしばらくここでお待ちいただけませんやろか」
丁重に一礼して石黒は女の腕をとり、もとの椅子につれもどした。
そして江原と同僚を睨(にら)みつけ、おまえら、ちゃんとお相手しとれよ、といいおいて事務所の外へ出ていった。
やはりこれは重大問題なのだろうか。誤認とその後の処置について、女に平あやまりしなくてはいけないのか。不安にかられて江原は同僚と顔をみあわせた。女はほっとした表情から勝ち誇った顔つきに変り、たばこ頂戴と江原のマイルドセブンを一本とって、うまそうに煙をくゆらせはじめた。
五、六分して石黒キャップがもどってきた。Zデパートの保安部長をほんとうに彼は同伴している。太った、禿げ頭の部長は愛想笑いをうかべて女に近づき、
「これはこれは。私どもの不手際でお客さまにご迷惑をおかけして、まことに申しわけございません。できるかぎりの誠意をお示ししますので、なにとぞご内聞に――」
と、何度も頭をさげた。
この者たちにはあとで厳重に注意いたしますので、と女に向けるのとは別人のような恐い顔で石黒と江原をみる。仕方なく江原も頭をさげた。口惜しくて体が汗ばんでくる。世の中はなんて理不尽なんだ、わるいやつほどいい思いをすると、あきれながらハンカチで汗を拭いた。
「できるかぎりの誠意って、どういうことよ。言葉だけじゃないんでしょうね」
女は煙を吐きだし、部長を睨みつけた。生意気に脚を組んでいる。
「は。もちろんそれは――」
保安部長は、そばの石黒をふりかえった。
石黒は上衣のポケットから封筒を出し、女のまえのテーブルにおいた。女はちらと中身をたしかめ、軽蔑的に鼻を鳴らしてそれをコートの内ポケットにいれる。江原のみたところでは、十万円は入っていそうだった。
「それでご了承いただけましょうか」
保安部長がおそるおそる問いかけ、まあいいわ、という女のふてくされた返事をきいて連続的に頭をさげた。
では私はこれで――。部長はなにか石黒に目くばせし、いそいで部屋を出ていった。
女はゆっくりと灰皿にたばこを押しつけ、
「気をつけて頂戴ね、今後は」
と、江原にいって腰をあげた。
勝ち誇って冷笑している。が、石黒の本領発揮はこれからだった。
「失礼ですが奥さん。これにサインもらえまへんやろか。いまのお金、うちの経費で落さんなりまへんのでな」
領収証用紙を彼はテーブルにおいた。
金壱拾万円の記載がある。住所氏名の欄をさして、記入を彼は要求した。
「いやよ。どうしてこんなものに――」
女の表情が動揺した。あきらかに彼女は虚をつかれていた。
「どうしてって、常識ですやろ。どこの会社でも支払いには領収証が要ります」
「そんなもの書く義務はないわ。わるいのはあんたのほうじゃないの。面倒な手つづきを要求する権利なんかないわよ」
「面倒って、なにが面倒ですねん。ちょっとサインするだけですやないか。これがないと経理が困りますねん。さ、ここへ」
「いやだったら、そんなもの書くくらいなら私、お金なんかいらない」
女はまた青い顔になり、コートのポケットから封筒をとりだそうとする。
石黒キャップはうすら笑いをうかべてその手をおさえた。ちらと江原の顔をみる。悪事を働いた人間は、かならず自分の素姓をかくしたがる。この女はすでに罪状を自白したのも同然である。石黒の笑顔はネズミをもてあそぶ猫の笑顔である。
「おかしいですな奥さん、なんでそんなにサインをいやがりますのや。これはあんたが正当に要求してかちとったお金でっせ。なんで領収証が書けまへんのや。あんた、なんぞうしろめたいことがあるのとちがうか」
「なにをいうのよ。ええいいわ。サインする。すれば文句ないんでしょ」
手わたされたボールペンで、女は領収証に文字を書きなぐった。
ペンを投げすてて女は去ろうとする。石黒に目くばせされて、江原と同僚は彼女の進路に立ちはだかった。女はもう狼狽しきった顔である。江原をおしのけて扉へ向かおうとするので、その肩に手をかけて、江原は女をつれもどした。女は椅子に腰かけなかった。
「えらいわかりにくい字やな」石黒は領収証を蛍光灯にかざしていた。「なんと読みまんのや奥さん。住所はええと、板橋区小豆沢――でっかいな」
「――――」
「こんな字では経理に怒られるわ。名前はなんでんねん。とても読めんな。奥さん、ちゃんと教えとくなはれ。あんた、わるいことしたわけやなし、かくす必要おまへんやろ」
「平野澄江。平野澄江よ。わかった? ならもういいでしょ。帰るわ私」
「待ちなはれな。なんでそないにいそぎはりますのや。あんた、まるでわるいことしたみたいですやないか。解せんなあ。一つ、ゆっくり話きかせてもらおうやないか」
石黒キャップは、江原をみて、取調べ用の仕切りのほうをあごで指した。
もう遠慮はいらない。江原は女の背中を小突き、仕切りのなかの椅子にすわらせる。女は、こまかくふるえはじめた。
10
取調べ用のテーブルをはさんで、石黒キャップは女と向かいあった。
江原光彦は女のとなりの椅子にかける。逆上して逃亡をはかるのをふせぐためだ。
石黒はまだていねいな言葉づかいを保っていた。差支えなければ電話番号を教えてもらえませんか、と女の顔をのぞきこむ。女はこわばって、目を伏せたまま、うちには電話はないの、と返答した。かすれた苦しげな声だが、まだくじけていないようだ。
「ほほう。きょうび電話がないとはめずらしいご家庭でんな。おい山崎」
同僚のガードマンを石黒は呼び、領収証に書かれた住所に平野澄江という人物が住んでいるかどうか、板橋の警察へ電話してたしかめるよう命じた。
女はぴくりとふるえて顔をあげた。私もう帰る、どうして調べられる理由があるのかとふるえ声でいい張りながら、江原をおしのけて立ち去ろうとする。
「じたばたするな、この阿魔」江原は女を突きとばすようにして椅子にかけさせる。「すぐになにもかもわかるんだ。ガードマンをだまそうたって、そうはいかないよ。太い女だ」
ご主人の名と職業は。あくまで冷静に石黒が訊き、女は沈黙したままである。
きょう金をいくらもってこのデパートへ買物にきたかと石黒はつぎに質問した。差支えなければ財布をみせてくれとつけ加える。
女は顔をあげて石黒をみた。そして、目と髪をつりあげるように金切声を発した。
「失礼な。なんの権利があって私の財布を。人権蹂躙だわ。私、新聞社に――」
「やかましい。必要が出てきたさかい訊いとるんや」石黒はようよう声を荒げた。「自分のしたことがわかっとるんか。恐喝やぞ」
「――――」
「財布みせてみい。ゼニもないのに、おまえは売り場でいろいろ品物をえらぶふりをした。わざとガードマンにつかまって、ゴネて十万せしめた。立派な恐喝や。サツにひきわたして二、三年臭いメシ喰うてもらおうか」
板橋の警察と電話連絡をとっていた同僚が、なにイ、該当者なしだって、と大声をあげていた。
じっさい警察と話しているかどうか、あやしいものだ。女の反応をみて芝居している。こんなとき、石黒班は自動的に、申しぶんないチームワークを発揮するのだ。
「領収証の住所氏名も出鱈目(でたらめ)らしいな。あんた、わるいことをしたのを自分で告白してるようなもんやないか」
「めんどうだったのよ。だから――」
「弁解ならサツでしてもらおうか。財布もよう出さん。一々辻褄が合わんわ」
「コートをぬいでもらおうじゃないか」溜飲をさげて江原は横から口を出した。
「右のポケットの底に穴があいてるんですよキャップ。ポケットにいったん品物をいれてそこから返したんだ。太い女ですよ」
とつぜん、ギャーッというすさまじい泣き声をあげて女は立ちあがった。
目がつりあがっている。女は髪をかきむしり、狂乱状態になって、ポケットから封筒をとりだしてテーブルにたたきつける。
「要らないよ。こんなもの。ちくしょう。おぼえてろ。死んでやる。死んでやるう」
髪をかきむしり、足をばたつかせ、テーブルをげんこつでたたいて女は荒れ狂った。
そして、腰をおろし、あえぎながら両手で顔をおおって泣きだした。透明なマニキュアをした指のあいだから涙があふれる。青い静脈の透けてみえる白い手だった。久しぶりで江原は、良子以外の女に欲望を感じた。この女に思いきり屈辱的な姿勢をとらせて、徹底的に責めさいなんでやりたい。ほっそりした、なかなか形のいい体つきを女はしている。憎悪と多少の憐れみをこめて、好き勝手にもてあそんでやりたいと思う。
「もう泣かんでもよろしいがな。泣いたかてどうなるもんでもおまへん」石黒はたばこに火をつけた。角ばった精力的な顔に、彼も欲望の脂をにじませている。
「なんでこんなアホなまねしはったんや。ガードマンをだまそうやなんて、とほうもない」
女はこたえない。ちくしょう、ちくしょうとののしりながら泣いている。
そんなに金がほしかったのか。江原が訊いてみると、サラ金とか、ガードマンとか、たかられたとか、切れ切れに女は口走った。
さらにわけを訊いて、やっと事情がわかってくる。女の夫は交通事故の後遺症で、いま失業中だという。女は料理屋の仲居だが、生活は苦しく、サラ金にも借りがあるらしい。子供は三人いるそうだ。
二ヵ月ばかりまえ、女は上野のスーパーで万引をガードマンにつかまり、見逃してやるとの条件で三度にわたり五万円ばかりの金をせびりとられたらしい。その口惜しさと生活苦がかさなって、ガードマンを恐喝してやろうと考えるようになったようだ。青空警備会社だけではなく、悪事を働くガードマンはほかにもいるのである。話をきいて江原は、心づよいような、困ったような、複雑な心境で同僚と苦笑しあった。
「ガードマンなんか最低よ。この男だって、私に金を要求したんだから」
しゃくりあげながら、平野澄江という人妻は江原を睨んだ。
江原は苦笑してそっぽを向く。目くそが鼻くそを憎み、ののしっている。
「そう最低や。よう知っとるやないか」
石黒キャップがせせら笑った。
そして、このおとしまえはどうつける気や、と不気味なやさしい声で訊いた。恐喝で二、三年くらいこんだら、あんたの子供らはどないなるかな、と彼はつけ加える。
「わかってるわ。でも、お金はないよ。それ以外だったら好きなようにおし」
涙を拭いて女は昂然と腕を組み、そっぽをむいた。白いコートをきた、ほっそりした体からいきなり雌の香りが立ちのぼった。
「まだ勤務中やさかいなあ。いまからホテルへいくわけにもいかんな」
石黒は腕時計に目をやったあと、同僚のガードマンのほうへあごをしゃくって、扉に鍵をかけるように命じた。
「取調べの段階をふまないかん。身体検査させてもらうで」
欲望の脂を顔ににじませ、腕を組んで腰を突きだすように石黒は腰かけている。短いその脚が上下に揺れつづけた。
勝手に調べてよ。平野澄江は立って、コートをぬいで江原に手わたした。コートのポケットにはなにも入っていない。が、そんなことはいまはどうでもよいのだ。
「さ、ぬいでもらおか。ぜんぶや」
うれしそうに石黒は催促する。
女は赤くなり、くちびるを噛んでうつむいた。そして、背を向け、黒いセーターをぬぎ、スカートをとり去った。ほっそりした、が、腰からヒップにかけての線がじゅうぶん成熟した体つきがはっきりする。ブラジャーとパンストを女は身につけている。
だまって女はブラジャーをはずした。白くて脆そうな、虫さされのような赤い点のある背中があらわになる。わき腹のあたりにもなにか赤いあとがついていた。
「ええ体や。さ、ぜんぶぬいでもらおか。女の体には、物をかくせるところが多いよって」
石黒にうながされ、前かがみになって女は下半身の下着類をぬいでいった。
11
保安事務所のすみの取調室のなかで、平野澄江という女はやがて全裸になった。
取調室は事務所から見通しである。同僚の一人が事務所の椅子に腰かけて、ときならぬこのヌードショーを見物していた。石黒キャップは取調室のデスクの、女の正面の席に腰をおろし、江原光彦は女のとなりの席で、生唾をのみこんでいた。
石黒と江原の双方に背を向け、前かがみになって女は体をすぼめた。肩や背中の肉づきはうすいが、ヒップはしっかりと充実し、ふとももにも厚みがある。肌は白く、子供が三人いるというわりに、体の線もまだくずれてはいなかった。
腰の両側から背中にかけて、それぞれ四、五条、うす赤い絵具を筆でなぞったような指のあとがついていた。男の手が、腰のあたりをきつく抱きしめた痕跡である。夫婦の営みのなごりらしい。殺風景な場所で、それでなくともなまなましく欲望をそそる女の裸体が、うす赤い指あとのおかげでいっそう淫靡(いんび)な雌の気配をただよわせる。
「おまえ、ゆうべおとうちゃんと×××したやろ。女上位でやったな。そやろ。ちゃんとあとがついとるわな」
濁った声で石黒が笑った。
背を向けたまま澄江は自分の腰のあたりをみおろし、狼狽してそこへ手をやる。が、いまさらかくしても仕方ないと思ったらしく、その手ですぐに胸を覆った。
江原光彦の目のまえに女の体がある。肌の虫さされのあとや、ほくろ、脚のうぶ毛までがはっきりみえる至近距離だ。ヒップのふくらみの肌のこまかな脂肪の粒を目にして、さわってみたい衝動にかられたが、かろうじて江原は自制した。女に遠慮したわけでなく、石黒や同僚の手前の自制だった。
「こっち向いてみせんかいな。ストリップは顔がみえんとオモロないさかいな」
まだ笑いながら石黒が命じた。そして、ヌード劇場でかならずながれる「ハレム・ノクターン」を、ララララーララーと口ずさんでひとりで悦に入っている。
澄江がこちらを向いた。こわばった、泣きそうな顔でふるえている。片手で胸をかくし、下腹部の女性の部分をあらわにすまいとして、ふとももを固くとじあわせている。その部分の草むらは濃い。彼女はうつむいた。そのまましゃがみこんでしまいそうだ。
「かくすな。両手をうえにあげろ。それから脚をひらけ」
以前、ホテルで万引女に命じたのとおなじように石黒がそう声をかけた。
だまって江原は見物していた。いつになく残酷な感情にかられている。きょうばかりは女が一方的にわるいのだ。どんな事情があったにせよ、万引をよそおって江原をひっかけ、因縁をつけて慰謝料をせびるなど、とんでもない悪玉である。
澄江は両手をあげようとした。さすがに年齢のおとろえの出た、弾力のない、乳頭の大きな丸い乳房があらわになった。が、石黒はそれを制止し、デスクのうえに立て、と澄江に命じた。取調べ用のデスクを、ショーの舞台代りにするつもりのようだ。
なにか口走って澄江はためらい、その場にしゃがみこんでしまう。石黒はデスク越しに澄江の腕をつかみ、
「さあ、世話をやかせるんやないで、いわれたとおりにせえ。おまえもいっぱしのワルなんやから、それらしくやれ」
と、彼女を立たせる。
よろめきながら澄江は立ち、居直った、すてばちな顔で靴をぬいだ。江原が立って手を貸してやると、おぼつかなく揺れながら彼女は椅子に乗り、テーブルにのぼった。手で下腹部をかくそうとする。だが、足場が不安定なので、バランスをとるために結局両手をあそばせてしまう。
澄江は泣いている。保安事務所へきて勇ましく啖呵を切った姿が嘘のようだ。同僚が椅子から立ってきて、澄江の裸体に顔を近づけ、舐めるように観察した。鼻を鳴らし、匂いをかいでいる。かすかな脂の光沢のある成熟した裸身を、三人の男はそれぞれ身を乗りだしてむさぼるような目でなでまわした。
「なんぞ芸をやらんかいな芸を」かすれた声で石黒がいった。「どんな安物のストリップでも、だまって立ってるだけのはないで。歌か踊りか、なんぞ恰好つけんかいな」
「歌をやれ歌を」同僚が、澄江の乳房を指で揉みながら強要した。「なんか知ってるやろ。ピンクレディのUFOをやれ」
「知らないわ、歌なんか」
泣きじゃくりながら澄江がいった。
が、すてばちの気持もあるらしく、脚をひらきかげんに、まっすぐ立っている。洋裁店で服の寸法をとってもらうときのようだと江原は思った。男三人が洋服屋なのだ。
「なんでもいいんだ。歌をやれ。でないと、何時間でもこのままだぞ。早く終って帰らないと、ほかの連中も集ってくる」
江原光彦はそうすすめた。そのほうが澄江のためでもある。女の腰のくびれのあたりが鳥肌立っているのをみて、つよい欲望にかられているが、さすがに彼女がかわいそうになっていた。もとはといえば、この女も悪徳ガードマンの被害者なのだ。
そのおどしが効いたのか、澄江は急にうたいだした。蚊の鳴くようなふるえ声が、とぎれとぎれに口から出る。
静かな湖畔の森の蔭から
もう起きちゃいかがとカッコーが鳴く
カッコー、カッコー、カッコー……
かぼそい声が、殺伐な事務所の空間に、ほそい烟(けむり)のようにただよって消えた。
「もっとやれ。二番」
ふんぞりかえって石黒がさけんだ。
また平野澄江はうたいだした。歌詞はおなじである。泣きながら、ふるえて澄江がやっとうたい終ると、なんじゃ、二番やないのかと石黒が不満をもらした。
「二番はたしかないんです。これ、輪唱するための歌で――」
「そうそう。静かな湖畔の森の蔭から、とソプラノが出ると、つづいてアルトが静かな湖畔の――と出てえんえんとつづきます」
江原と同僚がこもごも説明してやった。たしか中学で習った歌だ。
ちぇッ、しょうむない。ストリップになにがカッコー、カッコーや。不機嫌に石黒はいいすて、全身をすぼめて立つ澄江の下腹部の草むらのあたりへ手をのばした。澄江は腰をひき、まえかがみになって石黒の手をはらいのけ、やめてよ、うたえっていうからうたったじゃないのと弱々しく抗議する。
「そうはいかんで。きょうびどこのストリップでも特出しがないと客はおさまらんわ。さ、出しいな。これも身体検査の一部や」
「そうだそうだ。そこのポケットのなかに盗品をかくしているかもしれないからな。ちゃんとみせろよ。それとも奥さん、カツアゲで喰らいこむほうがいいのか」
同僚が勢いこんで石黒と一緒に手をのばし、澄江の脚をひらかせようとする。
もういいじゃないですか、と江原はみかねて声をかけた。いまのカッコーの歌をきいて、澄江にたいする憎悪がすでにうすらいでいた。このあばずれ女にもあんな歌をうたった時代があった、生きるためのいろんな苦労がこの女を変えたのだと、ガラにもない感傷にかられていたのだ。
「やかましい。だまっとれ」石黒が恐い顔になった。「ガードマンをだますなんていう気を二度と起さんようにするんや。だいたいだまされたんはおまえやないか。いい恰好さらすな」
両方から石黒たちに脚をひっぱられて、澄江はデスクのうえにしゃがみこんだ。そして両手で顔を覆って、わーっと大声で泣きだした。石黒はたばこに火をつけ、澄江の脚のあいだをのぞきこんで、煙を吹きかける。顔に脂をにじませ、うすら笑いを彼はうかべていた。まだゆるしてやる気はないらしい。
「なんやねん。特出しの度胸もないんか。そんなざまでようカツアゲなんかする気になったもんやな」
いいざま石黒は、泣きわめく澄江の手にたばこの火をおしつけようとする。
悲鳴をあげ、よろめいて澄江は立ちあがった。両手で顔を覆ったまま、あきらめたようにかるく足をひらく。
石黒はたばこをくわえ、勢いこんで腰をあげて彼女の下腹部へ手をのばした。女の秘密の箇所を指でひらき、のぞきこんで、江原をふりかえってにやりと笑う。
特出し中の踊り子のまえにむらがる観客のように同僚が身を乗りだしてそこをのぞきこんだ。こんなあさましいまねはしないぞ、と江原は自分にいいきかせる。が、その気持とは関係なく、体がしぜんに動いて、同僚と一緒にそこをみつめていた。黒い雲の切れ目から夕焼けののぞいているような光景を江原はみた。すぐに彼は目をはなし、欲望をむりにおさえこんで、男はどうしてあんなものを見物したがるのかと他人事のように考える。
理由はよくわからない。女の人格の中心部をみたように思うからだろうか。必死でかくす気持もわからない。人間の文化なんて、要はパンティ一枚のへだたりだと彼は思う。
両手で顔を覆って立つ澄江の女の箇所を石黒は指でさぐっていた。
同僚のほうも調子に乗り、澄江のヒップを手でひらいてみたりしている。光彦、おまえもさわれと石黒にいわれたが、江原はとうとう最後まで澄江に手をふれなかった。なんとなく汚い体のように感じた。
「案外あかんたれやな、光彦も」
身づくろいする澄江を尻目に、石黒は江原をあざわらった。
頭をかいてみせて、江原は事務所を出て深呼吸をくりかえした。
12
その夕刻、江原光彦はZデパートのそばの喫茶店で中井良子と待ちあわせた。
ほんとうは、きょうはデートの予定ではなかった。だが、思いがけない臨時収入があったので、良子と一緒に六本木へでもあそびにいく気になって彼女へ電話したのだ。
恐喝女の平野澄江は石黒キャップらにいいように玩具にされたあと、せっかくZデパートの保安部に出させた十万円入りの封筒をのこして逃げ帰った。石黒はその封筒から金をとりだし、
「かめへんのや。ちゃんと領収証をとってある。うちの会社の金でもないし」
と、江原ともう一人の同僚に二万五千円ずつ手わたし、自分は五万円ポケットへおさめたのである。
石黒がいなければ平野澄江をあつかいかねたところだったから、十万円をそっくり彼が猫ババしても文句のいえないところだった。それが二万五千円の臨時収入になったのだ。かんたんに江原は心がはずんだ。良子と一緒になにかうまい物でも食べて、景気よく散財しようと決心したわけである。
「うなぎでも食べてスタミナつけようか。おれ、きょうは景気いいんだ」
おくれて喫茶店へあらわれた良子に、江原は胸をたたいてみせた。
良子はうれしそうな顔になった。色の白い、品よくととのった顔立ちが、笑うと愛らしく弱々しい感じになる。
がすぐに良子は江原をたしなめた。
「でも、もったいないわ。倹約しましょうよ。私たち結婚資金が要るのよ」
「まかしておけよ。半年もあれば、ちゃんと貯金ができるから。わりと臨時収入の多い商売なんだ。きょうだって――」
「ねえ、みて。私、先月から結婚貯金をはじめたの。お給料が安いから、まだほんのわずかだけど」
バッグから良子は通帳を出してみせた。
先月の給料日に七万円入金。給料から寮の費用や電気製品のローンの代金を差引いたぶんをZデパートのそばの銀行に全額預金したらしい。そのあと、三千円とか二千円とかわずかずつひきだして、残高は五万いくらに減っている。美容院の料金とか、昼休みのコーヒー代とか、必要経費なのだろう。
「もっているとどうしてもつかってしまうから、預金したの。一々出しにいくのが面倒だけど、そのほうがのこるもの」
家がまずしいので、嫁入り支度などなにもできないと良子はいっていた。
わずかでも自分の力で支度をしようとして貯金をはじめたのだ。欲求にまかせてキャバレーやソープランドでバカな浪費をしている江原はうしろめたい気分になる。
なにげなく通帳の表紙をみて彼は胸をつかれた。名義が江原光彦になっている。良子は江原の名前で通帳をつくったのだ。
「どうしてきみ、おれの名前で――」
「だってこれ、私たちの結婚資金でしょ。私たち二人の貯金なんだもの。共有の場合は男性が代表者になるのは当然でしょ」
「でも、きみの給料なのに」
「いやだ。水くさいこといわないでよ。私たちの貯金よ。なんだったら、光彦さんが通帳をあずかってくれてもいいわ」
「とんでもない。三日もたたないうちに残高ゼロになっちまうよ。おれ、入った金はぜんぶつかわないと気がすまないほうなんだ」
良子の気持がうれしくて、江原は胸が熱くなった。
ポケットから臨時収入の二万五千円のうち、二万円をとりだして良子にわたした。五千円はきょうのデートの費用である。
「わあ、二万円も貯金していいの。よかった。残高がもとにもどったわ」
「給料が入ったら、おれも全額これに入れるよ。臨時収入のぶんももってくる。がんばって貯金しよう。二人のためだもんな」
人目もかまわず抱きしめてやりたくなる。
目と目をみあわせ、うなずきあって二人は腰をあげた。マクドナルドの店で夕食を済ませ、電車で御徒町(おかちまち)へ出て、近くのラブホテルへ入った。
一人の女と生活をともにするには、やはりそれなりの覚悟が要る。これからは徹底的に生活をひきしめてかかろうと思う。精をだして万引犯をつかまえ、臨時収入を増やさねばならないのだ。良子との結婚資金をそのような手段でまかなうことには、やはり多少の抵抗がある。良子にたいして、うしろめたい。だが、幸福にはそれなりの代価が必要だった。代価を支払うのが男の役目だ。かたほうでどんなに汚い手をつかい、どんなに他人をふみつけにしてでも、男は愛する女との暮しをまもらねばならなかった。
ラブホテルのなかで、二人は熱いキスをかわし、抱きあったまま、おたがいの服をぬがせあった。双方とも全裸になり、かわいた肌と肌を密着させてあらためて抱きあった。
それから江原は良子を横抱きにかかえあげて浴室へはこんだ。良子は江原の首に抱きつき、すんなりした脚をぶらぶらさせて、嬌声をあげる。良子をはこびながら、江原は彼女の乳房を吸った。良子は目をとじ、あわただしい息づかいで、
「重いでしょ。重いでしょ。ごめんね」
とささやいた。
江原は笑ってかぶりをふった。愛する女はすこしも重くないのである。
良子を抱いたまま、江原は湯舟のなかへ入っていった。新鮮な欲望が、体内から際限もなく湧きだしていた。あの平野澄江という女とホテルへいったりせずに、ほんとうによかったと思う。おかげで良子といちばん濃密なよろこびを味わえそうな気がする。
キスしあったり、おたがいの体を手でたしかめあったりして湯であたたまった。
それから二人は湯舟に寝そべり、たがいに頭を相手の腹に近づけあって、淫らなキスの交換に移った。
ながいあいだそれをつづけた。このまえのデートのときよりも良子はかん高い、大きな声をあげたようだった。
疾走のとき
1
十一月の末のあるさむい日、江原光彦はZデパートの保安事務所で、ひとりで午後の勤務についていた。
四人の同僚が二人ずつペアになって、店内のパトロールに出ている。江原はその日遊軍として事務所に待機し、店内に事件や事故が発生すれば現場へ駈けつける役目だった。
午後三時すぎ、電話が鳴った。なにげなく受話器をとると、もしもしイ、とどこかでききおぼえのある女の声がきこえ、
「江原光彦さん、いらっしゃいますウ」と、愛らしい、甘い声が耳に流れた。
あっ、と江原は胸をつかれた。中井良子という恋人のできた現在はさほどでもないが、つい二、三ヵ月まえまでは、毎日いらいらして連絡を待ちかねた声なのだ。
江原です、と名乗ると、電話の相手はたちまち緊張のとれた口調になった。
「わ、た、し。だれかわかる?」
「わかるさ。道代だろ。どうしているんだ。元気か」
「わあ。おぼえててくれたの。よかった。あれからもう半年近くなるから、わすれられたかと思った」
まえの出勤さきだった新宿のスーパーマーケットSに電話し、青空警備会社の同僚から江原くんは現在Zデパート勤務だときいて、こちらへ電話をよこしたらしい。
連絡がうまくいかないのかと案じたのがばかみたいだった。さがす側が本気であれば、いまの世の中なら相手がどこへ移ろうとたやすく連絡がとれるのだ。
会いたいの、と道代は鼻声をだした。きょうは通常勤務のあと早番の夜勤があるので、深夜まで体が空かないとこたえると、それでもいいと道代はいう。午前二時すぎに新橋の終夜営業の喫茶店で待ちあわすことにした。
中井良子にうしろめたい気はある。だが、向こうは向こう、こちらはこちらだ。せっかくの道代の申し出をことわるようなもったいないまねはとてもできない。デートの時刻が深夜であることが、せめてもの良子にたいするいいわけだった。寮住いの良子とは、深夜のデートなどできないからだ。
「それでさ、私、おねがいがあるの」からみつくような声で道代はいった。「今夜、制服のままきて。私、光彦さんの制服姿がみたいの。すごくセクシーなんだもん」
「制服――。いやだよ。みっともない」
「そんなこといわないで、着てきて。制服をぬがせてみたいの。好きなのよ私」
制服姿のスチュワーデスやバスガイドには、たしかにとくべつな色香がある。機能的にぴたりときまった隙のない様子なので、男は逆に服を剥ぎとって生身の裸をたしかめたい衝動にかられるのだろう。
が、女にもそんな衝動があるとは知らなかった、男女を問わず、機能的に武装した相手をみると、相手が自分から遠ざかったようで、肌にふれて、つながりをたしかめたくなるのだろうか。制服でデートなんてサマにならないが、好きといわれてわるい気はしない。江原は結局木下道代のたのみをうけいれることにした。
デートの約束ができると、こんどは資金が心配になってきた。
給料日の直後だったが、一万円だけとってのこりをそっくり良子に手わたし、預金してもらってある。その一万円も、きのう麻雀の負けを清算し五千円少々に減っていた。呉服売り場にいる良子にたのめば銀行からすぐひきだしてくれるだろうが、ほかの女の子とのデートの費用を出させるのは心苦しい。万引女をさがす必要があった。六時の閉店まであまり時間がないのに、そううまくカモにめぐり会えるとはかぎらないが、なんとかやってみなければならない。
パトロール中の同僚を江原は電話で呼びだした。そして、居残りに倦き倦きしたとの口実でパトロールを交代してもらい、平服に着替えて十階の特売場へいってみた。経済よりも心のまずしい中年の主婦が、もののはずみで小さな商品をふっと買物籠へ突っこんでしまいたくなる場所だ。金持や美人はすくないが、ガードマンとして摘発実績をあげるうえにはもっとも率のよい売り場だった。
特売場では子供服の割引セールをやっていた。目玉商品のあらされつくした時刻なので比較的空いていたが、それでも二十人あまりの女の客が、欲ぼけした顔つきで服やシャツなどの品さだめをしている。女店員たちは上気した顔でレジや包装にいそがしく、売り場にほとんど監視の目はなかった。
客をよそおってゆっくり売り場を冷やかしたり、物陰から客の様子をうかがったり、三十分ばかり江原は監視をつづけた。そして、きょうの自分がツイていることを知った。四十歳前後の地味な洋装の女が、陳列台のうえに身を乗りだし、左手で品物をえりわけるふりをしながら、右手でようやく子供服を二、三点、買物袋のなかへ投げこむのを確認したのだ。女は陳列台と自分の服で買物袋をはさんでささえていた。
そのあと、女は一着だけ子供服をもってレジへ近づき、代金を支払った。
いたずらをうまくやりおおせた子供のようにあかるい顔である。スリルをもとめて万引する口だ。経済のためなら、もっと高価な商品に手をだすだろう。
そのまま女はエレベーターへ向かった。江原はあとをつけ、さりげない顔で一緒にエレベーターへ乗りこんだ。江原は女のうしろに立った。一階下からどっと人が乗りこんで満員になり、江原と女の体が密着しあう。下腹が彼女のヒップを感じた。中年で、もう弾力はとぼしいが、おちついた重みのあるふくらみである。けっして小さくない。
さっきみたところでは、女はととのった、おだやかな感じの顔立ちをしていた。すこし太り気味だが、中肉中背のかたちのいい体つきをしている。江原は欲望にかられた。良子と親密になってから万引女をホテルへつれこんだことがないので、もし今夜の道代との約束がなかったら、この女をおどしてモノにしようと考えたはずである。
エレベーターをおり、女はまっすぐデパートの出口へ向かった。ひろい表通りでなく、裏通りへ女は出るつもりらしかった。
外ですぐ江原は女にバンをかけた。
「私がなにか――」
立ちどまって女はシラを切ったが、顔は狼狽と恐怖でひきつっている。
とりあえず近くの駐車場へつれていき、すみのほうで訊問した。身におぼえがないと女はいい張ったが、買物袋のなかから江原が盗品をひっぱりだすと、
「ごめんなさい。私、生理なの」
と、顔を手で覆って泣きだした。
万引犯が生理だと申告するのは、たいてい嘘っ八である。女の体に男が無知なのにつけこんで、いいかげんな話をするのだ。
「生理だろうとなかろうと、関係ないよ。さ、保安事務所へいこう。住所氏名をきいて、警察へ連絡する義務があるんだ」
おどされて女は恐怖に歪んだ顔をあげ、はげしく身をふるわせて泣きだした。
ごめんなさい。見逃してください。お金は払います、主人に知れたら私もう、と女は切れ切れに訴えた。どこもおなじだ。身をまもるためなら、女はなんでもやる。
「金払うって、いくら出すんだ」
「いくらでも。あの、この子供服はたしか一枚五千円ぐらいだったと――」
「冗談じゃないよ。わるいことをして、品物の代金だけ払って済むと思うのか。そうは世の中、甘くないぞ」
女は顔をあげて江原をみた。江原はうすら笑いをつくって、うなずいてみせる。
いまの言葉は意味がわかったらしい。ショルダーバッグからあわただしく財布をとりだし、金をつかんで江原の手におしつけた。
江原は息を呑んだ。予想よりはるかに厚い紙幣の手ざわりがあったからだ。
では私これで――。一礼して女は小走りに出口のほうへ去った。あわてふためいてハイヒールのかかとをなにかにひっかけ、声をあげてひっくりかえった。ブルーのスカートが一瞬まくれあがり、白い下着と内またが江原の目に入った。
が、照れている余裕も女にはないらしい。必死で立ちあがり、目を伏せて通りのほうへ去っていった。あすになったらケロリとしてPTAにでも出席するのだろう。
苦笑して彼女を見送ってから、江原は物陰で金をかぞえた。八万円あった。
2
午前二時すぎに江原光彦は勤務を終え、Zデパートの裏口から外へ出た。
同僚とわかれ、そのまま新橋へ向かった。
酒場の客や女を乗せたクルマで通りはまだけっこうあわただしい。だが、路地はほとんどしずまりかえり、酔っぱらいのわめき声や女の笑声がときおりきこえてくるだけだ。
自分の靴音があかるく耳にひびいた。照れくさいほどいそいそしている。白い、ふっくらした木下道代の裸体のイメージが、すでに脳裡を占領していた。朝十時からぶっつづけに十六時間勤務のあとで、顔に脂がにじみ、体もぐったりしているはずだが、道代に会えると思うと疲れなど全然感じない。
もうすぐ十二月だ。深夜の銀座界隈はけっこう冷えて、背中がぞくぞくした。
道代と一杯飲んだあと、ホテルの風呂でゆっくりあたたまろう。そして、堪能するまでセックスしよう。あすは非番である。そのままホテルへ泊り、一緒に朝食をとってから道代とわかれてもよい。軍資金はたっぷりあった。三万か四万つかいのこして良子にわたしたら、彼女もきっとよろこぶだろう。
「ちょっと、おまわりさん。なんとかしてよ。この人しつこくて困るのよう」
路地の角で、酔った客にからまれていたホステスらしい女に声をかけられた。
「おまわりじゃないよ、おれは」
こたえてから江原は、自分が制服制帽姿なのを思いだした。夜なので、平服であるいているような気持でいたのだ。
「ちえッ。おまわりじゃないのか。まぎらわしい恰好するなってんだ、バカ」
ホステスの罵声を背に、苦笑して江原は道をいそいだ。
約束の喫茶店に着いたときは、汗ばむくらいに体があたたまっていた。
みっともないので、帽子をとって店内に入った。眠気ざましのつもりかロックが鳴りわたる、意外にあかるい喫茶店だった。客のほとんどが若い男女である。酔ったのや、にこにこしたのや、殺伐な顔をしたのや、いろんなやつで客席はほとんど満員だった。彼らは制服姿の江原に警戒的な視線を向けたが、すみの席で手をあげた木下道代に彼が笑いかえすと、興味のなさそうな顔にもどった。
江原は道代のとなりに腰をおろした。
「しばらくだな。元気か」
「うん元気。相変らずよ。いや、そうでもないか。ほんというと学校やめたの」
「やめたのか。ばかだなあ、もうすこしだったんだろう。恰好だけでも卒業しとくほうがよかったのに」
だが、道代はそんな話に興味がないらしく、酔った、とろんとした目で江原を頭のてっぺんから足さきまで観察した。
「カッコいいわあ。制服、好きよ」
道代は江原の脚にさわった。
ふっくらした白い顔に、ほんとうにうれしそうな笑みがうかんでいる。
「でも、似合わないよ、こんな店には」
「どうってことないわ。それより、なにを飲む。ビールでいい?」
「いいよ。一杯飲んでからどこかへいこう。おれ、腹もへっているんだ」
江原は店内をみわたし、飲んだり体を揺すったりする男や女をあごで指して、どういう連中なのかと訊いた。
水商売ふうでも学生ふうでもない。えたいの知れない連中のたまり場のようだ。
「さあ、よくわかんない。でもハシリ屋みたいなのが多いんじゃないの」
「ハシリ屋。ああ暴走族か。道交法が改正になっても、けっこういるんだな」
そして江原は道代の顔をのぞきこみ、きみ、武蔵野シャークスというグループに入っているだろうと、勢いこんで質問した。
怪我で入院中、土曜から日曜にかけて病院のそばを駈けまわっていた暴走族の名だ。
「武蔵野シャークス。知らないわ。私、ハシリ屋の知合いはいるけど」
「嘘つけ。ナナハンのうしろに乗って男にしがみついていた。おれ、みたんだ」
「ほんとう? いつごろどこで。でも、シャークスなんか知らないわ、全然」
病院のそばの歩道橋から、オートバイの荷台に乗った道代らしい女へ何度も声をかけたことを江原は話した。
だが、道代はほんとうに心あたりがないらしい。江原の入っていた病院のそばにはいったことがないという話だ。
「そうか。やっぱり人ちがいだったのか。いつも会いたいと思っていたから、よその女がきみにみえたんだ」
「ほんとう? 会いたいと思ってた」
「思ってたさ。きみも変な子だよな。たまに電話をくれてもいいはずなのに」
「いろいろあってだめだったのよ。でも、こんどはもっと連絡できるわ」
ほんとう。ほんとうに会いたいと思っていたの、と道代は江原の頬を突いた。
そして、抱きついてキスしにきた。人まえでいちゃついても、この店では気にとめる者がいないようだ。小太りの愛らしい体を抱きしめて、久しぶりでくちづけした。白い裸体のイメージがよみがえって江原は息苦しくなる。ジーンズをはいた道代のふとももを、力をこめてつかんでみた。こまかく体をふるわせて道代はキスを終え、江原の顔をのぞきこむ。
「会いたかったんだ、私も。でもさ、ずいぶん日が空いたから、もうほかにだれか女の子ができちゃっただろうと思って」
「そんなことないよ。相変らず一人さ」
良子を思いだしながら江原はこたえた。
そして、ビールを飲みはじめた。今後たびたび道代から電話が入るようだと、厄介なことになるだろう。良子との調整に一苦労だ。が、良子はともかく、道代は割りきったつきあいのできる女だと、彼は自分にいいきかせた。とりあえずは、道代とセックスするだけだ。
「やかましいね、ここ。ゆっくり話もできないわ」
「出よう。おれ風呂に入りたいんだ。ホテルで飲んで、なにか食べよう」
ホテルの部屋で天丼をとり、あぶらに濡れたくちびるで道代が淫らなキスをしてくれたのを江原は思いだした。
深夜なのに、道代と一緒にいると眠くならない。ビールを飲みほし、腕を組んで二人は外へ出た。すぐにタクシーをひろい、千駄ケ谷のホテル街へ乗りこんだ。
豪華な洋室へ入り、二人きりになって、抱きあってねっとりとくちづけをかわした。
制服の胸に顔をおしつけて、道代は鼻を鳴らして匂いをかいだ。男臭くて素敵だという。上衣の釦(ボタン)をはずし、シャツの下に手をもぐりこませて道代は江原の肌をなでまわした。道代の手は冷めたかった。だが、背中やわき腹をなでまわすうち、すぐにあたたかくなって異和感がなくなる。
「ぬがせるのが惜しいわ。制服をきた江原さんにさわってみたかったの」
抱きついたまま、道代は右手で江原のズボンのファスナーをおろした。
そして、力のみなぎった男性をあらわにし、五つの指をからませてきた。
しずかにその手が動きだした。徹底的にきょうはツイているという気がして、江原は道代を抱きしめた。
3
道代はうっとりした顔をあおむけて、ときおりキスをもとめながら愛撫をつづけた。
まだ十七か八だろうに、指づかいが巧みである。中井良子とは比較にならない。五つの指でやわらかく男性をなぞって欲望をかき立てたり、親指を男性の裏側に這わせて、やさしい快感をおくりこんできたりする。
江原はだまって愛撫をうけいれているのが苦しくなる。さっき道代がしたのとおなじように、彼女の赤い上衣とシャツの下に手をすべりこませ、あたたかい背中やわき腹をなでまわした。すべすべした肌を掌で圧(お)すと、道代の体の内側から、彼女の愛情がにじみ出てくるように思われた。道代は体を寄せ、肉づきのよいふとももを江原の脚にこすりつけるようにする。
江原は欲望をおさえきれなくなり、赤い上衣とシャツをぬがせ、ブラジャーをとりはずした。双つの丸い、白い乳房が、はじけるように顔をそろえた。江原がその一つを口にふくむと、道代は愛撫を中断して青いジーンズのファスナーをひきおろし、下着と一緒にぬぎすてて全裸になった。ヒップとふとももの小気味よく充実した白い裸身が、服をぬいで浴室へ向かう子供のような解放感にあふれて江原のまえで一瞬おどった。
あらためて道代は抱きついてくる。その背中に腕をまわし、抱きあげてキスすると、力をみなぎらせた男性に道代の下腹部の草むらがふれた。さらに抱きあげられて、道代は双つのふとももで男性をはさみつける。
ゆたかな肉と、あたたかいうるおいにつつみこまれて江原は陶然となった。しばらく彼は道代を抱きあげたままでいた。自分がきちんと制服を身につけ、道代が全裸であることに、勝ち誇ったような昂りをおぼえる。
「やっとほんものの道代に会えたという気がするよ。ヌードの道代がほんものの道代だ。やっと会えた」
「服をきてる私は偽物なのオ」
甘えた、眠そうな声を道代は出した。
「そうさ。服をきてると、おっぱいもヒップもこのへんも無いのと同然だからな。ヌードになってやっとほんものになる」
「じゃ、いまの江原さんは偽物なのオ」
「おれはほんものさ。ほんものの証拠をきみはちゃんとはさんでいるじゃないか」
「そうか。これが証拠か」
道代は双つのふとももに力をこめた。
そのヒップや腰骨のあたりをなでまわして「ほんもの」の実感に江原はひたる。が、小柄なわりに道代は重い。ささえきれなくなって、やがて彼女を下におろした。あらためて証拠をたしかめるように道代は男性を握りしめたあと、幸福そうにヒップを揺すって浴室へ駈けこんでいった。
江原光彦も服をぬぎ、全裸になった。
制服をたたんでソファのうえにおく。いくらか制服に敬意を感じることがあるのか、ぬぎすてる気にはなれなかった。まっすぐ彼は浴室へ入り、比較的余裕のある湯舟のなかへ道代と向かいあって身を沈めた。
「学校をやめたっていったな。どうして」
道代の乳房に江原はさわった。
「つまんなかったから。それに、学校を出てもたいしたことないでしょ。なにも我慢して大学までいくことないと思ったの」
「よくご両親がゆるしたもんだな」
「まさかア。ゆるしはしないわよ。うるさくて息がつまりそうだから家を出たの。せいせいしてるんだ。それ以来」
「じゃ、生活はどうしているんだ。まさか、万引はしていないだろうな」
「ちがうわあ。ウエイトレスとかさ、いろいろ。でも、働くのってたいへんよね。私、はたから強制されたり干渉されるの、いやなんだな。だから困っちゃうんだ」
「それは仕方ないさ。働くってことは、強制と干渉に耐えることなんだから」
江原は、道代のふともものあいだへ手をのばして奥をさぐった。
湯とはちがうあたたかい液にそこはやわらかく濡れている。道代はひざを立て、体をひらいて江原の手を迎えいれ、ああ、こうしているのがいちばんだなあとつぶやいた。以前とちがって表情に疲れの翳がある。家出娘にはそれなりの苦労があるのだろう。
江原は指で道代の真珠をさぐった。目をとじて、彼女は甘い息をもらしはじめる。すこし眠そうだ。むりもない。もう午前三時である。やがて道代は声をあげた。顔はいまにも寝こんでしまいそうだが、体は元気づき、かるく揺れはじめている。
出ようか――。ささやいて江原は道代をたすけ起して湯舟を出た。ぼんやり立ったままの彼女の体を拭いてやり、自分も体を拭いて一緒に寝室へ入った。
天井が鏡張りになっていた。目ざめたように道代は江原の下半身にのしかかって男性を口にふくむ。舌を鳴らしたり、かるく頭をふったりして彼女は愛撫に熱中しはじめた。巧妙に手指の動きを添える。江原はじっとあおむけに寝て、そんな自分たちの姿をながめた。白い仔熊のように道代はうずくまり、ほんとうに幸福そうに愛撫をつづける。頭の動きにあわせ、ヒップも上下に揺れている。自分のヒップがどんなに可憐なかたちをしているか、鏡をつうじて訴えるようにみえる。
こうしているのがいちばんだという道代の言葉が脳裡によみがえった。
道代はセックスが大好きなのだ。中学か高校でそれをおぼえ、気立てがいいだけ熱中して学業をおろそかにしたのかもしれない。いわゆる落ちこぼれになり、もうすぐ卒業だというのに学校をやめたのだ。卒業のみこみが立たなかったのだろう。
道代はどんな家庭の娘なのか、とあおむいたまま江原は考える。セックスに夢中になってほかの事柄をすべてほうりだすなんて、それなりの理由があったにちがいない。厳格な建て前づくしの家庭。娘を良妻賢母に仕立てることしか考えない。話のつうじあわない親たち。道代はきっとさびしかったのだ。
さびしいからセックスに夢中になった。セックスで人は「ほんもの」のだれかに出会い、孤独をわすれる。欲望からだけではなく、さびしいから人はセックスするのだ。これまで何度もやった、万引女を脅してむりやり体をひらかせるようなセックスが、たんに欲望を発射するための行為でしかないことをますます理解できるような気持になる。
鏡のなかの仔熊が、うしろ向きに江原のうえにのぼってきた。
江原はわれにかえり、目のまえにはっきりひらいた、濡れた桃色の花をみつめた。熱心に舌や手指をつかいながら、おなじ愛撫を道代はもとめているらしかった。
ヒップの両側をつかんでひきよせ、江原は道代の望みをかなえにかかった。愛情をこめてくちづけし、快楽をおくりこんでやった。むせび泣くような声がきこえ、すぐに消える。愛撫をつづけているので、道代はのびのびと声をだすことができないのだ。
江原もおなじ状態である。快楽をこらえるのに苦しんだ。二人とも、ときおり相手の体から口をはなし、声をあげたり息をついたりしてたのしみに熱中した。道代は二度ばかり快楽の山を越えたようだった。
江原はやがて、欲望をおさえがたい状態になり、道代を横たわらせた。
のしかかり、体をひらかせて道代のなかへ入ろうとする。すると、道代はうしろを向いて、仔熊のようにうずくまり、ヒップの位置を高くした。以前もそうだったが、道代は通常の箇所ではなく、うしろの小さな草花から江原を迎えいれようとする。
「大丈夫か。痛くないのか」
江原が訊くと、道代はうなずいた。
そのほうがいいの、とつけ加える。妊娠を恐がっているのかと首をかしげて、いわれるとおり江原は道代のうしろへ侵入した。
しずかに江原は動きだし、すすり泣きを道代ははじめた。むろん苦痛の表現ではなく、よろこびにふるえて道代は枕に顔を埋めている。声がやがて高くなった。なぜこんなセックスが道代は好きなのかと江原はふしぎだったが、やがて彼女の声につりこまれて、急速にわれをわすれていった。
4
なにかが去っていく気配があった。
深い眠りの底から江原光彦は現実世界へうかびあがり、猛烈な眠気にのしかかられて、また暗い底へ落ちこんでいこうとした。
だが、衣ずれに似たかすかな物音がする。一緒に寝ている木下道代の体がとなりにない。トイレにでもいったのだろうか。まだはやいのに起きてなにしているのだろう。
足音がきこえた。ぬき足さし足部屋の出口へ向かっている。はっきりと江原は目がさめた。おしころした足音なのがかえって気になる。もしふつうの足音なら、気にもとめずまた眠りこんでいたはずである。
裸のままベッドをおり、となりの部屋をみた。きちんと服をきた木下道代が、扉に近い洗面所のそばへ出たところだった。
「どうしたんだ、もう帰るのか」
目をこすって声をかけると、はっと全身を固くして道代は足をとめた。
バンをかけられた万引女のようだ。いやな予感がして江原は隣室へ出ていった。
「うん。もう帰る。用があるから」
おそるおそる道代はふりかえった。
うしろめたい笑顔である。反射的に江原は落ちていたバスタオルを腰に巻いた。丸裸で訊問ではサマにならない。
道代が金を盗んだ、ととっさに江原は考えてソファに目をやった。制服の上衣のポケットをしらべようと思ったのだ。
が、きちんとたたんでおいたはずの制服がみえない。代りにテーブルのうえに、金や身分証明書、手帳、万年筆など上衣のポケットにあった小物がおいてある。江原は突っ走って、扉のそばの道代の手首をつかんだ。
「どうするんだ制服を。どういうつもりなんだ、おまえは」
道代を部屋へひきもどした。
荒っぽくやったので、道代はソファに倒れこんだ。風呂敷包みを彼女はもっている。奪って、あけてみると、思ったとおり中身は大切な制服であった。
「制服がカッコいいだなんて、おまえ、こんなつもりだったのか」
怒りと失望で声がふるえた。
江原は道代を突きとばした。なつかしくて会いにきたわけではなく、制服がほしくてこの娘は連絡してきたらしい。
「ごめんなさい。制服が要るの。盗る気はなかったわ。貸してほしかったの」
「なら、どうしてそういわないんだ」
「だって、無理だと思ったのよ。制服って大事なんでしょ。貸してくれるわけないと思ったのよ。でも、返すつもりだったわ」
うなだれて道代は弁解した。
撲られると思うのか、恐怖で顔がひきつっている。上目でちらと江原をみた。ようやく江原は憤りがおさまってきた。
「制服なんか、どうするんだ」
道代のとなりに腰をおろし、江原はたばこに火をつけた。
こんなもの、金になるわけがない。それに金が目あてなら、上衣のなかの一万円札七枚をのこしていくはずがないだろう。
「たのまれたのよう、友達に。これがあると喧嘩(でいり)のとき押しがきくって」
「喧嘩(でいり)のとき――そんなばかな」
江原光彦は苦笑した。ガードマンの制服を警官の制服とみあやまるそそっかしい人間は、酔ったホステスだけではないようだ。
「デイリなんていうところをみると、きみのボーイフレンドは暴力団なのか」
「ちがうわよ。ちゃんとつとめに出てるんだから。バーテンしてるわ、新宿で」
「わかった。その男、暴走族(はしりや)だろう。ハシリ屋どうしのデイリなんだな」
「そうよ。でも、ハシリ屋ったって、江原さんのいってた組じゃないわ。私たちサンダースっていうの。久我山とか三鷹台とかさ、あのへんの子が多いんだから。ほんとよ」
木下道代には、暴走族の男がついているらしい。同棲しているのかもしれない。ふつうとちがうセックスを教えたのも、そのバーテンなのだろう。たちのわるい男らしい。
江原はすっかり落胆した。道代が制服を目あてに接近してきたにすぎないのが、はっきりしたからだ。中井良子という恋人がいるのに、あつかましく欲張って、道代からも愛されていたかった。
「ハシリ屋なんかとつきあわないほうがいいぞ。ろくな目にあわない。せっかく親がいるんだから、家へ帰ればいいのに」
「家はいや。息がつまるもん。帰るぐらいなら死んだほうがましよ」
めずらしくきっぱり道代は断言した。
そして江原に体を寄せ、ねえおねがい、二、三日でいいから貸して、と制服の風呂敷包みを抱きかかえる。借りて帰らないと叱られるという。ガードマンの知合いがいるとなにかの拍子にもらしたばかりに、制服の調達を命じられてしまったらしい。
江原はかわいそうになった。制服をもって帰らないと折檻(せつかん)されるかもしれない。
「ほんとうに二、三日か。スペアがあるにはあるけど、制服をなくしたらえらいことになる。会社で信用まるつぶれだ」
「大丈夫。ね、信じて。もし汚したらクリーニングして返すわ。おねがい。私、江原さんのほかにたのめる人がいないんだもん」
「わかれちまえよ。ハシリ屋なんかと」
「そしたら江原さん、一緒に暮してくれる。ほら、できないでしょ。だからいいの。ね、二、三日だけ貸してよう」
江原のひざのうえに、木下道代は倒れこんできた。
タオルをとりはらい、男性をもてあそび、口にふくんだ。窓にカーテンをひき、部屋は暗いが、もう朝の八時だ。眠ったおかげで男性にはたちまち力がよみがえってくる。
江原は道代の顔をおしのけたいと思った。だが、暴走族なんかとわかれてしまえなどとよけいなことをいったおかげで、おしのけることができなくなった。木下道代は大好きだが、一緒に暮す気にはなれない。たとえ中井良子がいなかったとしても、おなじだろう。家庭の妻に道代は似合わない。たぶん道代はその暴走族のバーテン以外のほとんどの男から、いまの江原とおなじような身勝手な気持をみせつけられてきたにちがいなかった。
江原はまた道代のジーンズをぬがせ、彼女の女の部分にさわった。
そこはあたたかく濡れていた。かるい愛撫を味わったあと、道代は幸福そうに鼻を鳴らして江原のひざに乗ってくる。
あらためて熱いセックスに入った。道代ははげしく体を動かし、何度も大きな声をあげてそりかえってはぐったりした。朝のそれは新鮮で、痛いほど感覚が鋭敏だった。
「私の電話番号、教えてあげるよね。大事なものをお借りするんだから」
終って一休みしたあと、道代は受話器をとり、交換台へ番号を告げた。念のため江原はその番号をメモにとった。
「あ、ユウちゃん。うん私。学校の友達に泊めてもらったの。いえ、いまは外」
手ばやく外泊の弁解をしたあと、制服を借りだしたむね道代は報告した。
相手の男は機嫌をなおした様子だった。
やがて二人はそのホテルを出て、タクシーでZデパートへ向かった。
開店まえの保安事務所で江原は平服に着替え、それをもって外へ出た。大よろこびで道代は制服をうけとって去っていった。
5
木下道代に青空警備会社の制服を貸してから三日たった。夕方まで心待ちしたが、道代からの連絡もなかった。
たまりかねて江原光彦は、道代からきいた番号へ電話をかけてみた。
だが、何度ダイヤルをまわしてみても応答がない。呼出音が耳にひびくだけである。道代も一緒にいるユウちゃんという男も、どこかをほっつきあるいているらしい。
スペアの制服を江原はいま着用している。当面は問題ないのだが、クリーニングに出すときになってもう一着のがないと困る。それに、制服の管理がきびしいのは、青空警備会社も世間一般と変りがない。退職のとき返却の義務があるのはもちろん、新品の給付も着古した服との交換が規則である。
制服がこのまま返ってこないとなると、まさかクビではないにしても、江原は始末書をとられ、石黒キャップにこってり油をしぼられるだろう。制服が犯罪などに使用されるのを会社はひどく恐がっているのだ。
四日目の朝、江原は憂鬱な気分でZデパートの保安事務所へ出勤した。土曜日だった。道代にだまされたとは思いたくないが、きょうも連絡がないとなるとそうもいっていられない。石黒に申告して、あとしまつの指示をあおがねばならないだろう。
暴走族が喧嘩したという記事が出ていないか。江原は目を大きくして事務所そなえつけの新聞を読んだ。ほかのグループとの喧嘩の箔づけにガードマンの制服をつかうと道代がいっていたからだ。
が、暴走族関係の記事はなかった。犯罪関係のニュースといえば、渋谷方面にある専門店ビルが、昨夜大がかりなビル荒しの被害にあったという記事だけである。高級ブティック、洋装店、衣料品店、呉服店、時計宝石店、楽器店、各種レストラン、酒店などが入居しているかなり大きなビルの内部へゆうべ何人かの賊が侵入し、大量の商品と現金およそ三十万円をはこび去ったらしかった。
暴走族がいちばん派手に出没するのは土曜の夜である。道代の仲間は今夜制服が要るのかもしれない。もう一日連絡を待ってみようかと考えて江原は新聞をおいた。
が、朝礼のとき、とんでもない事実を知る羽目になった。整列した八名のガードマンに向かって石黒キャップがいつものように内容空疎な訓辞をしたあと、
「おまえらのなかで、最近制服を盗まれたり人に貸した者はおらんか。サツから照会がきとるんや。まさかこの石黒班にそんなドジなやつはおらんと思うけどな」
と、一同をみわたしたのである。
「サツから――いったいなにがあったんですか」
疼(うず)く心臓をおさえて江原は訊いた。
いやな予感がする。最初に質問するほうが疑われる率が小さいと計算していた。
「新聞に出とったけど、ゆうべ渋谷でビル荒しがあった。ガードマンの服をきたやつが内部で仲間を手引きしよったらしいのや。ビルの警備員は縛られて、ころがされた。以前、うちの柿本がやられたようにな」
新聞はこまかいことまで記事にしない。いまはじめて江原は事情が読めてきた。
被害にあった専門店ビルには警備員が二人いた。午後七時の閉店の二時間後、彼らは第一回目のパトロールにビル内をまわった。
二階の廊下で彼らはふいに数人の男におそわれ、縛られたうえ口にテープを貼られ、目かくしされて廊下にころがされた。暴漢たちはほとんど声もださずに一時間近くかかって駐車場のクルマにさまざまな商品をつみこんで逃走した。警備員たちは協力しあって十一時まえに縄をとき、非常ベルを押したもののすべてあとの祭だった。
警察の事情聴取で、専門店の従業員が閉店後のうす暗い廊下で、階段を三階へのぼっていく一人の男を目撃していたことがわかった。男がビルの警備員とおなじ青いガードマンの服をきていたので、気にもとめずにやりすごしたらしい。その男がビルの窓をあけ、外にひそんでいた仲間を手引きしたと警察はみているのだ。
「その服、うちの制服だったんですか」
「いや、ただガードマンふうの服というだけで、たしかな話やないのだ。同業各社にも警察は問いあわせとるやろ」
「被害額は大きいんですか」
「かなりになるやろな。高級な店が多いビルやそうやからな。みんな、きょう家へ帰ったら念のために箪笥(たんす)のなかを点検しとけよ。知らん間に制服を盗まれてることもあるさかいな」
まさか自分の班のだれかの制服が利用されたとは夢にも思わないらしい。そんな会話をかわしただけで、石黒キャップは一同を解散させた。
さっそく同僚たちはあつまって新聞を読みはじめる。棍棒で頭をぶん撲られたような衝撃に耐えて江原はさりげなくその仲間に加わり、やがて仲のよい柿本と一緒に店内のパトロールに出た。
木下道代の仲間の暴走族がやったにきまっている。ほかのグループとの喧嘩のためではなく、ビル荒しのため道代は制服を借りにきたのだ。どう仕様もない小娘である。こちらが好意を持って接しても、なんとも思わず人を泥沼へひきずりこもうとする。
それにもう一つ打撃がかさなった。新宿のスーパーマーケットSをおそったのも、道代の仲間だと考えざるを得なくなったのだ。さっき石黒のいったとおり、柿本がやられ、大量の商品がはこびだされたあの事件と手口が似ている。あの夜、江原は柿本と一緒に事務所にいて、道代にさそいだされてホテルへいった。その留守中に暴漢が柿本を襲撃し、ひどい怪我をさせたうえ手あたりしだいに商品をはこんで逃走した。そして、こんどの事件では、江原の制服をきたやつがビルの内部から手引きしている。どう考えても道代は盗賊の仲間だった。あの娘は江原に好意など持っていなかった。いいように利用されただけなのだ。
とんでもないお人好しだった。惚れていたため、甘くなったのだ。正真正銘の愛情から道代がセックスさせてくれると信じていたので、知らず知らず彼女の言葉をすべて好意的に解釈しようとしていた。当時の江原には、快くセックスに応じてくれる女の子は彼女以外になかったのである。
おぼえてろ。こんど会ったらひどい目にあわせてやると江原は思う。女を責める手口は石黒キャップからじゅうぶん習った。裸にして、張りわたしたロープにまたがらせて走らせてやる。みんなのまえでストリップさせ、歌をうたわせてやる。尻になにか刺しこんで、ひいひい泣かせてやるのもよい。おぼえていろ。かならず実行してみせると彼は思った。
が、当面江原は、もっとさしせまった心配をする必要があった。
こうなった以上、なんとしても制服をとりもどさねばならない。ほうっておけば、ほかの悪事にも利用されるおそれがある。
それに柿本の仇を討たねばならない。この気のいい同僚は、道代の仲間に手ひどい暴力をうけて二ヵ月も入院したのだ。江原が道代とホテルへいったあとのことだけに、責任がある。月日がたって、つい恨みをわすれかけていたが、柿本のためにも道代とその仲間たちに強烈な報復を加える必要があった。
「どうした光彦。むずかしい顔でなにを考えているんだ」
一緒に電気製品の売り場をみまわりながら柿本がふりかえった。おっかない顔で、目を光らせて江原は思案にふけっていたらしい。
話があるんだ、お茶を飲もう、とおっかない顔のまま江原は提案し、デパート内の喫茶店へ柿本をつれていった。
6
スーパーSをおそった犯人の見当がついた、サンダースという暴走族の連中らしい、と江原光彦は柿本に話した。
「ほんとうか。暴走族のやつらなのか。ちくしょう。そういえば――」
犯人たちにおそいかかられ、怪我をして倒れて呻いているあいだ、オートバイの爆音を柿本はきいたような気がするという。
意識がぼんやりしていたから、空耳かもしれないと思って警察には話さなかった。が、いわれてみると、スーパーSの駐車場からたしかにオートバイが走り出たような音をきいた。やはりあれは夢ではなかった。犯人はどこの暴走族なのか、と柿本は気負って身を乗りだした。
顔が紅潮している。おとなしい彼も、あの一件は腹にすえかねているのだ。
「で、どうしてそのサンダースとかいう連中が犯人とわかったんだ。固い話か」
「まずまちがいない。話せばながいんだ。おれ、おまえに済まないことをしていた。最初に詫びをいっておくよ」
江原光彦は、木下道代とのこれまでのいきさつを物語った。
警察にもほかの者にも、事件のときは女に呼びだされ、立ち話しただけで帰ってきたと報告したが、あのときじつは道代という女とホテルへいっていた。職場をはなれて女とホテルへいったとはいいにくかったので嘘をついた。そして、その後も道代に会ったが、事件とは無関係だという印象が強かったから、道代のことは話さずにきた。
そして、つい数日まえ、たのまれるまま道代に制服を貸してやった。その結果がゆうべのビル荒しだ。道代は嘘をついていた。手口からみてゆうべの事件も、スーパーSの事件も道代たちサンダースというグループのしわざとしか考えられないのである。
「そうか。ゆうべの事件のガードマンの制服、おまえのだったのか」
柿本は目を大きくして江原をみつめ、昂奮してあわただしくたばこを吸った。
「そうとしか思えないよ。ほかのグループとの喧嘩(でいり)につかうなんていうから、どうもおかしいと思ったんだが」
「その道代という女のヤサはわかるのか。そうか、電話番号だけか。でも、いいじゃないか。サツに通報しよう。通報」
「ところが、まずいんだよ。道代のことでおれ、ずっとサツに嘘をついてきたろう。偽証とか犯人隠匿とかでパクられちまう」
「――――」
「ゆうべの一件だって、共犯だと思われるかもしれない。いろいろ調べられるよ。そうなるとヤバい材料もないわけじゃないし」
「そうだなあ。サツに追及されてへたなことを吐くとまずいな。それはまずい」
顔をしかめて柿本はうなずいた。
警察で念入りに調べられたら、どんな拍子で青空警備会社の内部の数々の悪事があかるみに出ないともかぎらない。柿本自身もそれではただで済まないだろう。ふだんの悪事の報いで、江原たちは警察の手をかりて暴走族に復讐するわけにはいかないのだ。
「でも光彦、このままみすごすなんておれはいやだぞ。なんとかお返しをしないと、腹の虫がおさまらない。おれの頭を割ったやつの頭を、おれもカチ割ってやりたいんだ」
「わかってるよ。だから相談しているんだ。他人をあてにしないで、おれたちだけでかたきを討とう。それにおれは制服をとりもどさなくてはいけないからな」
まずサンダースという暴走族の様子をさぐらねばならない。どんな連中が何人いるのかわからなくては作戦の立てようがない。
それには道代をつかまえるのがいちばんである。スーパーSをおそったやつがだれとだれなのか、道代に吐かせるのだ。
が、彼女の電話番号はわかっていても、住所はわからない。警察なら番号がわかればすぐ住所を割りだすだろうが、一般人は番号簿を一々チェックして相手の住所氏名をさがす以外にないのである。しかも、道代と彼女の同棲者であるユウちゃんという男は一箇所に長年住むタイプの人間ではないはずだから、厖大な番号簿をたどってみても、徒労になる可能性のほうがずっと大きいのだ。
「いいよ。おれはやる。何日かかってもいい。今夜から番号さがしをやる」
柿本は表情をひきしめて宣告し、道代の電話番号をメモに書きとった。
「よし。おれもやろう。おまえは番号簿のおもてからさがせ。おれは裏からだ」
江原光彦も覚悟をきめた。柿本への義理をかえすため、また自分の身をまもるため、労を惜しんではならなかった。
「しかし、番号を教えておきながら、どうして出ないのかな。妙な女だよな」
柿本が立って喫茶室の電話のほうへあるいていった。念のため、その番号に電話してみるつもりなのだろう。
柿本はダイヤルをまわした。受話器を耳にあて、しばらくして狼狽した顔でこちらをみる。なにか話している。相手がでたらしい。すっとんで江原は彼のそばへいった。
「ええ。江原くんはここにいます。ただいま替りますから。ええ、制服の件で」
柿本は気のやさしい男である。相手が出ると、ていねいな態度になってしまう。
江原は彼の手から受話器を奪いとった。
「ごめんね光彦さん。あの制服、今夜要るっていうの。ねえ、もう一日だけ貸して。汚したりしないからさア」
「今夜も要るだと。またビル荒しをやる気か。こんどはどこのビルだ」
「ビル荒し――。なによオそれ。ちがうのよ。今夜、奥多摩のなんとかいう連中と揉めるんだって。制服が要るのよう。箔がつくんだって」
一瞬のうちに江原は事情がわかった。
ビル荒しの一件を道代は知らないらしい。ユウちゃんという男は、道代に内緒でゆうべの仕事をやったのだ。道代は制服がほんとうはなににつかわれたか知らないまま、もう一晩貸せという彼の言葉をとりついでいる。
「わかった。ともかく会いたいんだ。今夜どこかで会おう。話はそのときだ」
「今夜――。今夜はだって、みんなで奥多摩の連中と揉めるんだもん。みててやらなくちゃいけないのよ。ほんとなんだから。新宿中央公園あたりでやるみたいよ」
「中央公園――。よしわかった。そこで会おう。早目に出てこいよ。九時にどうだ。京王プラザのそばで待っている」
不満そうに道代は鼻を鳴らした。みんなと団体行動がしたいのだろう。
が、文句があるなら喧嘩のことを警察に通報するといわれてしぶしぶ待ちあわせを了承した。こうなればこっちのものだ。制服をとりもどし、スーパーSをおそったやつらに然るべき制裁を加えてやれるだろう。
「こっちも用意が要るな。チェーンとドスぐらいはもってないとヤバい」
「わかった。友達から借りていく。九時まえに新宿駅で会おう」
江原と柿本はテーブルにもどって、目をぎらつかせて相談をつづけた。
制服の一件、道代の一件があるので、石黒に相談はできない。気のおけない倉本という同僚に加勢をたのむことにした。倉本は柔道三段だから、たのもしい味方だ。
「そうか。柿本の仇討ちか。おもしろい。やろうじゃないか。暴走族なんて連中に舐められてたまるか。一緒にいくぜ」
事情を話して協力をもとめると、倉本は九十何キロかの巨体を揺すって昂奮した。運動不足で困っていたところだという。
六時に勤務を終り、三人は支度のためいったんわかれて、九時に新宿に集合した。
7
夜九時まえ、江原光彦は新宿で同僚の柿本,倉本と落ちあった。
倉本はクルマできていた。石黒班では数すくないオーナードライバーである。ガソリン代が惜しいので毎日ではないが、女友達とデートの約束がある週末など、その青いルーチェをうれしそうに運転して職場へ出てくる。
江原と柿本は、クルマに乗せてもらって約束の京王プラザのそばへいった。
道代はもうきて待っていた。おなじ暴走族の仲間らしい、男の子のようにやせた娘と一緒である。柿本らと相談したあと、まず江原がひとりで道代らに会って制服の一件やスーパーSの襲撃事件などについて情報をひきだしてみることにきめた。三人一緒に出向いたら道代の口が堅くなるにきまっているからだ。
ホテルの近くに柿本たちを待機させ、江原は道代らのそばへあるいていった。
困ったような、緊張した顔を道代はしていた。つれの娘を、ルミ、と紹介する。二人とも黄色いジャンパーにスラックスを身につけ、厚い手袋をして、すぐにもオートバイに乗ろうという恰好である。
ルミは頬骨の張った、気のつよそうな、だが眉目のととのったなかなか美しい娘だった。頭も家庭もわるくなさそうなこんな女の子がなぜまともな暮しをせず、あばれ者の仲間入りをするのか、よくわからない。道代はきょうはデートでなく、制服の一件などで江原とやりあわねばならないから、加勢にルミをつれてきたのだろう。
お茶を飲んで話す気分ではない。ホテルの建物からながれるあかりのなかで、顔をみあわせて立ち話をすることになった。制服をもうすこし貸してほしい、十時にはサンダースの仲間たちが奥多摩の対立グループの連中を公園で待ち伏せして,決闘のかたをつけるはずだと道代はいう。同棲中のユウちゃんという男が江原の制服を着ているらしい。ガードマンの服を着ると、暗がりではまるで警官のように見えるから、喧嘩相手の機先を制するにはきわめて効果的だということのようだ。
「どこにいるんだ、そのユウちゃんという男は――」
江原は憎悪にかられていた。
嫉妬といっていいかもしれない。中井良子というちゃんとした恋人がいながら、道代がほかの男にこれほど献身的なのをみると、胸の底に暗い感情がくすぶった。道代には気の毒だが、そのユウちゃんという男を今夜徹底的に痛めつけてやる決心である。
「十時までにはくるわ。いまみんなと中仙道あたりを流しているはずだもの。ねえ、デイリがすむまでなにもいわないでやって。制服、絶対にやぶいたりしないからさア」
「やぶいたってかまわねえよ。しかし、おまえたち悪用するじゃないか。おとといの晩、あの制服つかってビル荒しをやったろう。どういうつもりなんだ。おれに罪をかぶせる気なのか」
「ビル荒しってなによう。あんた知ってる。私、なにもきいてないもん」
道代はルミをふりかえった。
ほんとうになにも知らないらしい。ユウちゃんという男はやはり道代に内緒で、あの制服でガードマンをよそおって渋谷のファッションビルに侵入したのだろう。
「そうよ。なんかやったみたい。わりと大きなヤマだったって、ケン坊たちがきのううれしがっていたもの」
たばこを吸いながらルミがこたえた。
グループのたまり場である新宿の喫茶店に昨夜立ち寄ったところ、仲間の男たちが小声で仕事の成果を語りあっていたという。機密漏洩をふせぐため、女のメンバーにはくわしい話をしていないとかで、ルミはそれを不満に思っているようだった。
「ほんとそれ。で、ユウちゃんも噛んでるのその話。私、おとといの夜はケイ子の家に泊ったから、なにも知らないんだ」
「当然噛んでるわよ。ユウちゃんがいちばん得意そうだったもん。道代も気をつけないとヤバいよ。彼、なにをやらかすかわかったもんじゃないんだから」
「ほんとう。わあ、私困っちゃった。困った困ったそんなの。ごめんなさい江原さん、私知らなかったの」
泣きそうな顔で道代は江原の腕をとり、揺さぶって詫びをいった。
たばこをふかして、ルミは冷然とその様子をみている。ユウちゃんという男にあまり好意を抱かず、彼に惚れている道代を多少軽蔑している気配だ。
「おれはポリ公じゃない。自分の持場に関係ない泥棒は見逃したっていいんだ。でも、だまされて利用されたとなればアタマへくる。そっちの出かたによっては、ただじゃおかないぞ。ビル荒しをやったのはサンダースだと、いますぐ警察へ通報してやる」
「よして。江原さん、私知らなかったのよ。ごめんなさい。制服はかならずちゃんと返すからさア」
おねがい、警察だけはよして、私なんでもするからと道代は江原の腕にすがった。命じられたら土下座でもしそうな態度である。
「制服だけじゃないみたいね。あんた、ほかになにが狙い目なのさ。どうしろっての。いくらか分け前を出せっていうの」
小生意気にたばこをふかして、体を揺すりながらルミが口を出した。
この女の子はなかなかするどい。物事を冷静に観察している。感受性が鋭敏だから、親や教師が推奨するような八方美人の生活にばかばかしい嘘の皮をみぬいて、グレてしまったのかもしれない。
「分け前だと。ばかいうな。だれがちんぴらどものうわまえなんか――」
江原は笑ってやった。そして道代に向かって、半年まえに新宿のスーパーSをおそったのはおまえたちサンダースの仲間だったんだろう、正直に話さないと、そっちの一件も洗いざらい警察へ通報してやる、と脅しをかけた。
道代はルミと顔をみあわせた。動揺する道代に頭をふってみせて、なにもいうな、とルミは力づけている。
「新宿のスーパーS? 知らないもん私」
懸命に道代はシラを切った。あまりに拙劣なとぼけかたに江原はあきれた。
「よし。そう出るのなら、もう話しあいの余地はないな。これからすぐサツへいく。ブタ箱にとめられて追及されたら、おまえなんかすぐに泥を吐くんだから」
「待ってよ。そんなに怒らないでよ。私、江原さん好きよ。ほんとなんだから」
「ねえ、あんた。どうしてそんなこと訊きたがるのよ。もし私たちがスーパーSをやったとしたら、どうだっていうの。だれがやろうとあんたに関係ない話じゃないのさ」
じれったそうにルミが口を出した。
いそいで彼女は周囲をみまわした。不安にかられ、仲間がだれかたすけにきてくれないかと念じているらしい。
「関係がないだと。おれはあの晩、深夜勤務だったんだぞ。道代に呼びだされて勤務に穴をあけて、ひどい恥をかいたんだから」
「――――」
「おれのことはまだいい。同僚がおまえたちの仲間にやられて二ヵ月も入院したんだ。このおとしまえはかならずつけるからな。スーパーSへ押し入ったのはだれとだれなんだ。名前をいえ。ユウちゃんとかケン坊とかいうのがそうなんだな」
「知らないよ。そんなの。男の子がなにをやろうと、私たち関係ないもん」
目をきらきらさせてルミがうそぶいた。
横っ面に一発かましてやりたい衝動に江原はかられたが、人目が多い場所なのでそうもいかない。ふりかえって彼は柿本たちのほうへ合図をおくった。二人の同僚の乗ったルーチェがゆっくり近づいてきた。
8
クルマがすぐそばにとまり、なかから柿本がとびだしてきた。
「さ、外で長話すると風邪をひくよ。乗った乗った。おとなしく乗るんだ」
柿本はルミの腕をねじあげ、悲鳴をあげるひまもあたえずクルマのなかへ押しこんでしまう。江原も道代の手をとって、一緒にあとから乗りこんだ。
クルマはすぐに動きだした。倉本がハンドルを握り、柿本は助手席にいる。後部座席には右からルミ、道代、江原の順ですわっていた。どこにいくの、おろしてよう、と女の子たちは声をあげたが、江原たちがとりあわないので、すぐにしずかになった。
「スーパーSをおそった連中の名前はいえないんだそうだ。このお嬢ちゃんたちの大事なお兄さんがたらしい」
江原が手短に事情を話した。
「それは困りますねえ、お嬢さんがた。なにもサツにたれこもうというんじゃないんだ。教えてくれればそれで済むんだけどね」
「スーパーSには何人で押しこんだんだ。五、六人かね。サンダースてのは何人ぐらいのグループなんだ。さ、正直にいえよ」
柿本と倉本がこもごも訊いたが、娘たちは返事をしない。
クルマは公園の、樹影の濃い方角に向けて走っていた。不安にかられた面持でルミが窓外に目をやっている。仲間がたすけにきてくれるのを心待ちしているのだろう。
「なあ道代、教えてくれよ。きみを痛い目にあわせたくないんだ。サンダースには男の子が何人いるんだい。いいじゃないか、そのぐらいのこと教えてくれたって。おれたち、他人じゃないんだからさ」
江原は道代の肩を抱きよせた。
道代はあいまいな声をあげ、ルミの顔をうかがってから、十五人くらいとうちあけた。道代のヒップにさわって、江原はしだいに欲望にかられてくる。
「で、スーパーSに入ったやつは何人なんだ。五、六人か」
「うん、だいたいそのぐらい」
「なんというやつなんだ。ユウちゃんとケン坊とそれから――」
「だめよ道代。いう必要ないわ。この連中にもなにかうしろめたいことがあるのよ。だから警察に通報できないんだ。ほっときなさいよ。いまにみんながくるわ」
ルミがさけび、つぎに悲鳴をあげた。
助手席の柿本が髪をつかんでルミの顔をひきよせ、顔面に一発喰わせたのだ。こぶしをまっすぐ突きだす容赦ない一撃だった。
暗がりの樹々の繁みのそばに倉本がルーチェをとめた。自動車のヘッドライトのゆききする表通りからややひっこんだ箇所で、ここなら人目につく心配はない。柿本はまだルミの髪をつかんでいる。ルミはなにかつぶやいて両手で顔を覆っていた。いつのまにかカセットのロックが車内に鳴りひびいている。
「おれ、このくそ生意気な女から話をききたくなったよ。江原、そっちの子はおまえにまかせる。おれ、こいつを可愛がってやるからな」
倉本が運転席でうしろ向きになり、身を乗りだしてルミのスラックスに手をかける。
悲鳴をあげてルミはあばれたが、柿本に髪と手をおさえられて身動きできない。やすやすと倉本はルミをおさえつけ、スラックスと下着をふとももまでひきずりおろした。
それから倉本は、ルミの両足をつかんで運転席の背もたれにひきずりあげ、かたほうずつおさえつけて、靴とスラックスと下着をすべてとり去ってしまう。柿本が助手席から道代のうえまで身を乗りだして、ルミの上体をおさえつけた。ルミは後部座席にひっくりかえり、下半身をさらけだして、前の座席に両脚をあげてもがいている。ほっそりした、ながい双つの下肢が、遠くの街灯のかすかな余光のなかで、仄(ほの)白く屈伸して抵抗をつづけた。
逆三角形の草むらがうすい。両足を上にあげているので、草むらはやがて底辺が下になった。柔道三段の倉本は、その下肢を強引にひらかせて、奥のほうを指でまさぐりはじめる。
「やめてよう。やめて。おねがいだから、はなしてやってよう」
道代が号泣して江原に抱きついてくる。
ルミは声も出ないらしい。息をはずませ、呻きながらもがいているだけだ。
「うるさいな江原。その女をつれて外へ出てろ。さ、倉本はやくやっちまえ」
するどい声で柿本がさけんだ。
ふだんの彼と正反対に兇暴になっている。スーパーSでふいにおそわれ、重傷を負わされたことをよほど口惜しく思っているのだ。が、彼自身はルミにいたずらする気はなく、倉本の行為を手つだうだけのつもりでいるようだ。倉本が座席を越えてルミのうえにのしかかるのをみて、江原は扉をあけ、道代の手をひいて外へ出た。
「痛いったら。乱暴しないでよ。やりたけりゃやらせてやるよ。けだもの――」
扉をしめたので、気丈なルミの声が途中で消えた。
片足を助手席の背もたれに乗せ、片足を後部座席に投げだして、ルミはもう抵抗せずにじっとしている。ルミの両脚のあいだに倉本がうずくまり、あわただしくズボンのベルトをゆるめはじめた。
助手席で柿本はルミの片足をおさえつけ、窓の外をふりかえって江原たちに笑いかける。江原は道代をつれて近くの木立ちのなかへ入った。クルマのなかの狂熱にくらべて、外の闇はひどくつめたい。だが、体はほてって、痛いほど勃起している。
何度か抱いた道代の体よりも、ルミを抱きたいのが本音だった。だが、道代のまえでそれをやるのは残酷すぎるだろう。
「ぬげよ。おれたちだけ、なんにもしないなんてバカみたいだ」
暗い木立ちのなかで、道代の腰を抱きよせて江原はささやいた。
たっぷりした手ざわりの道代のヒップが、やはり欲望にかられてふるえている。
「するの。でも、さむいわ」
「大丈夫だよ。すぐあったかくなるさ。さ、ぬぐんだ、はやく」
「したいの。ほんとうに」
道代は江原の男性をさぐった。
固いものをたしかめて、ズボンのファスナーをひきおろした。そして、男性をあらわにして、右手で愛撫しはじめる。
「ねえ、怒らないで。やさしくして。ほんとうに私、江原さんが好きなのよ。いいわ。スーパーSをやった男の子たちの名前、ぜんぶ教えてあげる。でも――」
「でも、なんだ」
「ユウちゃんにはあまりひどくしないでほしいの。私、一緒に住んでるんだもの」
「惚れてるんだな、その男に」
「でも、江原さんのほうがもっと好きよ。ほんとうよ。嘘じゃないんだから。でないと私、こんなことしてあげないもん」
道代はその場にうずくまり、江原の男性を口にふくんだ。
そして、頭を上下に動かしはじめた。くちびるや舌がときおり鳴った。快楽がこみあげる。江原は歯をかみしめて、そばの立木にもたれかかって息をととのえる。
ぬいじゃいなさいよ。顔をあげてささやき、道代は江原のズボンと下着をひきずりおろした。思ったほどさむくない。下半身をまるだしにした恰好で、江原はしばらく道代の愛撫に身をまかせた。道代は男性の下の部分に舌を這わせたり、指でそのあたりをくすぐったり、巧妙な技巧をつかいつづける。制服のこととか、柿本の仇討ちとか、そんなことはもうどうでもいいような気分になる。
「もういいよ。こんどはおれがしてやる」
上衣とズボンを枯草のうえに敷いて、江原はそこに腰をおろした。
そばで道代はズボンと下着をぬぎ、上もぬいで全裸になった。だが、やはりさむいらしく、全裸の上体にジャンパーをひっかけて、彼のそばに横たわり、脚をからませてきた。
9
冬の公園の草むらは冷たい。まして夜である。草の一本一本がいまにも凍りつくような感じで、コートを敷いてすわっても、寒気が急速に下半身へしみてくる。
江原光彦は身ぶるいが出た。彼は下半身が裸である。ぬぎすてたズボンに足を通したかったが、木下道代が裸でいるのに、自分だけ尻尾を巻くわけにいかなかった。
「うう、さむいさむい。でも、こういうのって案外おもしろいのよね。抱きあっていればあったかいんだから」
道代はふるえながら抱きつき、脚をからませてくる。
おたがいの脚が、凍ったように冷たい。だが、からみあってじっとしていると、氷が溶けはじめたように、かすかなぬくもりが道代の脚からつたわってくる。妙な工合だ。道代と密着している部分は仄(ほの)かにあたたかくなったが、下半身のそれ以外の箇所は、夜気に吹きさらされて、皮膚がしだいにブリキ板のようにこわばりはじめていた。
「ことしは暖冬だから、まだたすかっているんだろうな。さむい年だったら、とてもこんなふうにはいかないぜ」
「そうね。あ、江原さん、小さくなっちゃった。またキスしてあげようか」
「たのむよ。でも、道代って元気だな。ジャンパー一枚で平気なんだから。女は脂肪分が多いからさむさにつよいのかな」
「若いんだもん、なんたって。あ、そこすごくいいわ。あったかいでしょ私」
道代の女の部分は、ふだんよりも熱いくらいに濡れていた。
道代は休火山だ。体のなかから溶岩が出口へあふれだした感じである。表面は鳥肌立っているが、体内は燃えている。指でそのあたりをさぐると、甘い声をもらして道代はこまかくふるえだした。さむさのせいでなく、快楽のせいだ。道代は快感動物でもある。体に加わってくるあらゆる刺戟を、快感に変えてしまうところがある。寒さだっていま彼女には快いのではないだろうか。
道代は下腹部の草むらの底の、ぬかるみのような部分を江原の手にあずけたまま、丸くなって彼の腹のあたりへ顔を伏せた。
ふたたび男性を口にふくみ、頭を上下に動かしはじめる。舌をおどらせたり、口の粘膜で吸いとるようにしたり、熱心に江原へ快楽をおくりこんでくる。そして、ときおり顔をあげ、苦しそうに息をついたり、声をもらしたりして、江原の愛撫に反応した。闇の底で、こんもりと仄白いヒップがうごめいたり、かすかに上下に揺れたりする。
その様子がとても愛らしい。いつもそうだが、道代はなにか動物の子が、みつけた虫と無心にたわむれるように、たのしそうにセックスする。大人に叱られた子供がしょんぼり裏庭にたたずむうち、地を這う黄金虫をみつけて夢中になっていたずらをはじめたような姿である。顔に泣いたあとがあるみたいだ。孤独だから愛らしくみえるのかもしれない。わずらわしい事柄をすべてわすれて、セックスだけに夢中になる姿である。
江原もしだいにさむさをわすれた。右手で道代のあたたかいぬかるみをさぐり、左手は彼女のヒップにまわして、あわせ目の下方からぬかるみをさぐったり、うしろの小さな草花のなかへそっとさぐりをいれたりする。
そうされるのが道代は好きだ。たちまち腰のあたりをくねらせ、声をもらし、愛撫をやめて江原のふとももに顔を伏せる。そして、負けてはいけないと気をとりなおして、ふたたび口で江原の男性をとらえにかかった。
木立ちの向こうで、クラクションの音がした。柿本たちが呼んでいるのだ。もう向こうは終了したらしい。クルマのなかで彼らはぬくぬくとたのしんだのかと思うと、癪にさわって、もっと待たせてやろうという気になる。
「どうする。もう終ろうか」
顔をあげて道代がたずねた。
「かまうもんか。ゆっくりあそぼう。待たせたって、向こうはクルマのなかなんだから、平気だよ」
うん、と道代はすなおにうなずいて、また愛撫にとりかかる。だが、すぐに顔をあげ、うーんと唸るような声をあげてはげしくあえぎはじめた。江原の愛撫の効き目で、快楽が盛りあがってきたらしい。もっと、もっとと道代はうながした。そして江原が手の動きをはやめると、きれぎれに高い声をあげ、江原にむしゃぶりついて全身をふるわせた。
道代はやがてぐったりとなった。全身が感性のかたまりになっていて、女の部分へ江原の手がふれただけで、あっと声をあげてとびあがりそうになる。
この機をのがす手はなかった。江原はのしかかり、ひらかせて、正面から道代のなかへ入っていって動きだした。
入った瞬間から道代はのけぞって悶えはじめている。大きな声をあげ、両手で草をつかんだり、かきまわしたりして二人は耐えた。信じられないことだが、道代の体は汗ばんでいる。何度かブリッジのようにそりかえって快楽の頂きを道代は越えた。江原もやがて耐えきれなくなり、思わず呻き声をもらして、無我夢中の空間へおぼれこんだ。こういう瞬間を何度も味わえたらどんなによいか、と頭のすみで彼は考えていた。
われにかえったあと、いつものようにぐったり休息をとるひまはなかった。
とにかくさむい。じっとしていては風邪をひいてしまう。江原はいそいで身づくろいし、いつのまにか全裸になっていた道代も、ズボンをはき、セーター類を小わきにかかえ、ジャンパーをきて腰をあげた。あたたかいクルマのなかで、ゆっくり身仕度する気らしい。手をつないで二人は、木立ちの向こうで停車中のルーチェのそばへ走っていった。
クルマに乗りこむ。暗がりをすかしてみると、後部座席ではルミがふくれ面で、ジャンパーを羽織っただけの裸でひざをかかえていた。倉本は運転席にもどり、
「やってきたのか光彦。このさむいのによくやるよ。立派なもんだな」
と、助手席で柿本が笑いかける。
「ルミ、大丈夫。怪我しなかった」
道代が訊くと、倉本と柿本が声をあわせて笑い、怪我どころじゃない、たのしんじゃってたいへんだったさ、と暴露した。
ルミは最初抵抗したが、二人がかりでおさえつけられ、四本の手でいろいろ可愛がられて最後には反応してしまったらしい。
「なによ、うれしがって。好きでやらしてやったんじゃないからね」
ルミは倉本に毒づいた。
が、さすがに元気がない。やはり屈辱に打ちひしがれているのかと江原は思ったが、そうではないと、すぐにわかった。
「道代、あんたきょう大丈夫なの。どうせコンドーさんつかわなかったんだろ」
ルミが訊いた。そして、憎々しげに倉本をみて、こいつ二回もやったんだから、私、あぶないのよ、と打ちあけた。日程からいって、妊娠の危険があるらしい。
「いやだア。そういえば私もあぶない。うっかりしたなあ」
「呑気なのよ、あんたは。いらっしゃい。一っ走りして出してこなきゃ」
ジャンパーをひっかけたままの裸で、ルミは道代の手をひいて外へ出た。
わあさむいさむい。身をちぢめて二人は木立ちのなかに駈けこみ、暗闇のなかで、ホッピングのまねごとのようにぴょんぴょんと芝生のうえをとびまわりはじめた。笑い声さえ立てて、たのしそうにぴょんぴょん跳ねる。やがて調子が出たとみえ、ジャンパーをぬぎすてて、とんだり跳ねたりしながらそのあたりを走りまわる。道代はともかく、ルミのほうまで、いま起った事柄をよろこんででもいるように、たのしそうに運動をつづける。
「なんだ、あいつら。とうとう頭へきちまったんじゃねえのか」
ルーチェのなかで三人の男はあっけにとられて二人の裸女をみつめていた。
セックスのあと、とび跳ねてよろこぶ習慣が暴走族にはあるのだろうか。
「わかった。ビデの代りなんだ。ああやって子だねを子宮の外へ追いだす気でいるんだよ。バカだなあ、あいつら。やっぱりガキだ」
柿本はさけんで、笑いだした。
彼はルミとセックスしなかったらしい。冷静に女の子たちを観察している。
「そうか。避妊体操かあれは」
「ああやったって、もう手おくれだろう。子宮のなかへ入っちまってるもんな。バッカだな。だれに教わったんだろう。あれで避妊できるなら中国も印度も苦労ないよな」
江原たちもあきれて彼女らをみつめ、たのしくなって笑いころげた。
利口そうでもまだ子供なのだ。セックスの行動だけが先行している。もう十年もたって彼女らが大人になり、ちゃんとセックスの知識を得たら、現代の中年女性よりずっと貞操堅固になるだろうと、なんとなく江原は考えたりした。
10
夜の十時をすぎた。爆音をとどろかせておよそ二十名の若い男女が、北のほうから、新宿中央公園へ入ってきた。
東へ折れる角の街灯のそばで、彼らはオートバイをおり、芝生のうえにむらがった。
みんなヘルメットをかぶっている。活動家ふうに覆面している者もいた。ゲバ棒じみた角材をもったり、チェーンやベルトをさげたり、ヌンチャクのようなものをもっている者もいる。ざわめきながら彼らは棒をふりまわしたり、まわし蹴りの練習をしたりして決戦のときを待っていた。
街灯のあかりでみたところでは、高校生から大学一、二年という年ごろの者が大部分である。中学生らしい少年も三、四名いた。なんのことはない、ちんぴらの集団である。いまどき大時代な決闘をやらかす連中だから、子供っぽいのは当然かもしれない。
「これ、奥多摩の連中なんだな。サンダースじゃないんだろ」
「うん、ちがう。うちの連中どうしたんだろう。検問にひっかかったのかな」
「怖くなって逃げたんじゃないのか」
「まさかア。そんなんじゃないよ。やることはちゃんとやる連中なんだから」
江原たちは道代とルミと一緒に、彼らから五十メートルばかりはなれた木立ちのなかに身をひそめていた。
子供なりに、決闘待ちの人影には迫力がある。思慮がたりないだけ、数をたのんでどんな残虐行為を働くか見当もつかない。江原は緊張でさっきから身ぶるいしていた。柿本もだまりこくって彼らをみている。柔道三段の倉本だけがあかるく声をしぼりだして、
「ユウちゃんにケン坊にロックにトムにミツヒデだな。さわぎがおさまったら、一人ずつひっぱりこんでヤキをいれてやる」
と、指折りかぞえている。
スーパーSをおそった連中の名を、すでに道代らから訊きだしてあった。道代の同棲者であるユウちゃんと、ルミの男友達であるミツヒデはあまり痛めつけないという条件のうえでの取引である。スーパー荒しとビル荒しのねたをつかまれてしまった以上、三人のガードマンにさからうすべはないと、彼女らもやっと観念していた。ミツヒデはあんたなんかに負けないよ、とルミは最初倉本にたいして意地を張りつづけたが、
「やつは柔道三段だぜ。それに、もしきょうおれたちが負けたとしても、おまえたちの身許が割れているからもう逃げられないさ。うちの連中を大勢つれてくる手もあるし、サツに通報する手もある」
と、江原にいわれて悄然となった。
ミツヒデに手かげんしてやって。いいでしょ。あんたと私は他人じゃないんだもの、とやがてルミはいいだす始末だった。もう一度やらせてくれるならそれでもいい、と倉本は巨体をふるわせて笑っていた。
夜が更けて、寒気がいっそうきびしくなった。木立ちのなかで、江原と道代はいつのまにかおたがいの体に腕をまわしあっている。
「おそいな。ほんとにくるのかよ」
苛立たしく柿本がつぶやいたとき、公園の南側からはじけるような爆音がきこえ、奥多摩の若者たちが色めき立って集合した。
爆音が近づき、闇のなかから街灯のあかりのなかへとびだすようにオートバイの一団が姿をあらわした。みんなヘルメットをかぶり、ジャンパーをきている。数はこちらがすこしすくない。奥多摩の若者たちの三十メートル手前で彼らはオートバイをおり、道路をへだててきょうの相手と向かいあった。
おなじように棒やチェーンなどを手にしている。江原の制服をきたやつはいない。リーダーらしい大柄の男がまえに出て、奥多摩の男たちになにか罵声を投げつける。
「あれはだれだ。ケン坊か」
「ちがう。あれがルミの亭主。ミツヒデよ。自動車修理工なの」
江原は身ぶるいをつづけているのに、道代は案外おちついている。
女は薄情だ、と江原は思った。乱闘は男たちのすること、自分には累がおよばないという意識があるからおちついていられるのだ。基本のところで女は男と立場が変る。でも、こういうときは薄情なほうがいいのかもしれない。中井良子がいまもし一緒だったら、泣いて江原にとりすがって、なにも行動できなくしてしまうだろう。
「ユウちゃんはどれだ。制服は――」
「いま出てくるわよ。作戦なんだから。心配しなくてもちゃんとやるわ」
奥多摩のグループのリーダーが出てきて、ミツヒデとなにかやりあった。
ほかの者は殺気立ち、武器を手にそれぞれ前進して双方の間隔をつめていく。
「おい、もうすこし近くへいこう」
柿本がささやいて、頭を低くして木立ちのなかを前進しはじめた。荒い息づかいがするので、ふりかえると、柔道三段の倉本が恐怖で顔をひきつらせてふるえている。大丈夫か、と江原が声をかけると、倉本は暴走族に視線をすえたまま、あわただしく、あえぎながらうなずいてみせる。
そのとき、またオートバイの爆音が耳に入った。制服をきた男がナナハンを駆って、ジャンパー姿のもう一人の男をひきつれて二つのグループのあいだへ突っこんできた。
二人はそこでオートバイをとめ、ゆっくりと道路におり立った。
「新宿署の者だ。おまえら、兇器準備集合罪と道交法違反だぞ。責任者はだれだ」
制服の男がさけび、茫然と立ちつくしている奥多摩グループへ近づいた。
警棒らしくもない角材を彼は握っている。そして、リーダーへ近づくと、いきなり角材で滅茶苦茶に撲りかかった。それを合図にサンダースの若者が、いっせいに武器をふるって奥多摩グループへおそいかかる。リーダーが倒れて丸くなり、奥多摩グループは虚をつかれてたちまち防戦に追いやられた。
双方とも喚いたりしない。ときおり唸ったり、気合をいれたりして撲りあったり、蹴りあったりする。取っ組み合いもない。逃げおくれたやつを数人がかりでひきずり倒し、さんざんに角材などで撲りつける光景が何度かみられた。奥多摩グループのなかにも、勇敢に応戦する者もいる。サンダースの一人が彼らのなかにひきずりこまれ、棒やチェーンで撲られてころげまわって逃げながら、たすけてくれと泣きわめいた。
「ちぇッ、ケン坊のやつザマないわ」
ルミがつばを吐きだした。
制服のユウちゃんとミツヒデは、どちらも先頭に立って棒をふりまわしている。
11
二つの暴走族グループの乱闘は、しだいに形勢がはっきりしてきた。
道代とルミの属しているサンダースが、奥多摩グループをしだいに向こう側の木立ちのほうへ追いこんでいる。奥多摩側の四、五名はサンダースの陣営にひっぱりこまれ、それぞれ数人がかりで撲られ蹴られて、倒れて動けなくなったり、頭や腹をかかえてよろめきながら道路のほうへ逃げだしたりした。
ケン坊はじめサンダースにも、怪我で戦線を離脱し、うしろのほうで寝そべったり、自分で傷の手当てをする者が何人かいた。だが、奥多摩グループの損害のほうがずっと大きいようだ。ガードマンの制服をきて警官をよそおったユウちゃんの先制攻撃の効果がなんといっても大きかった。奥多摩側はあれで出鼻をくじかれ、そのまま立ち直りの余裕もなく勢いに乗るサンダースのラッシュで一気に防禦陣を突破されたかたちだった。
おしころした気合や罵声、角材のぶつかりあう音、格闘の物音、駈けまわる足音などがしだいに遠のき、まばらになった。奥多摩グループは向こうの木立ちのなかへ逃げこみ、木々を楯にやっと戦線を立てなおして、近づいてくるサンダースのメンバーがいれば、ひきずりこんで袋叩きにする構えである。だが、もう自分たちから仕掛ける気はないらしい。サンダースのメンバーが木立ちのなかへつぎつぎに投げこむ石を、木を楯にして避けるのが精いっぱいだった。サンダースのほうが手回しがよい。彼らは小石のたくさん入ったズダ袋をいくつも用意してきて、間断なく相手に弾丸の雨を降らせることができた。
「いこうよ道代、手当てしてやんなきゃ」
こちら側の木立ちのなかで、ルミが立ちあがり、道代と一緒に戦場へ駈けだした。
従軍看護婦よろしく負傷者に駈けよって手当てにかかる。左手の闇のなかから、やはり身をひそめていたらしい仲間の女の子が一人姿をあらわして道代たちに声をかける。救急箱をちゃんと用意しているらしかった。
「てめえら、だまってみててやるから、怪我人をひきとってさっさと消えろ。すこしはこたえたかよ。今後はあまりでかい面でこのへんを流すんじゃねえぞ。わかったか」
勝ち誇ったミツヒデの声がひびいた。
ややあって木立ちのなかから奥多摩グループの七、八名があらわれ、おっかなびっくり乱闘の現場へもどった。倒れた仲間を背負ったり、仲間に肩を貸したりして悄然と彼らはひきあげにかかる。ちくしょう、おぼえてろ、などと捨台詞を投げて、サンダースの者たちからあらためて撲られ蹴られする者もいた。木立ちの背後で爆音がきこえはじめた。もう逃げだした者もいるらしい。ひどい怪我をした者も何人かいるようだが、混乱はあんがい秩序ただしく収拾され、公園にはすでに平穏とさむさがよみがえっていた。
「さ、こっちの出番だ。いくぞ」
柿本が木刀を握って声をかけた。
江原光彦はポケットのなかのとびだしナイフの工合を点検する。柔道三段の倉本は、歯の根もあわないほどふるえて、柿本の声にも上の空だ。江原は心配になってきた。最大の戦力とたのんだ倉本が、この調子ではいちばんたよりにならないのではないか。
木立ちのほうからもどってきたミツヒデにルミが駈けより、こちらを指してなにか早口にまくし立てている。ガードマンがきたと報告しているらしい。その姿をみながら、江原たちは乱闘の現場へ出ていった。全身がこわばり、まっさおになって、頭と体がべつべつに前進しているような気がする。これからどんなことが起るか、なるべく考えないようにする。必死で勇気をふるい起した。もう身ぶるいする余裕もない。
「ミツヒデ、出てこい。それから、そっちの偽警官も前に出ろ。用がある」
よく透る声で柿本がさけんだ。
気のやさしい彼がいまは徹底的に豪胆である。街灯のあかりの余光でナイフのように目を光らせ、殺気で顔をひきつらせている。憎悪とか怨恨とか、情念の域からぬけだして、暴力の機械と化した感じだった。いまの柿本なら人殺しも平気でやるだろうと思って、江原は勇気づけられる。
「ユウちゃん、制服返しなさいよ。あの人のなの。はやく返したげて」
道代がさけび、逃げおくれた奥多摩グループの一人を足で小突きまわしていたユウちゃんがこちらをふりむいた。
「ああそう。これ、あんたの服なのか」
身につけた制服をにやりと笑ってながめてから、彼は近づいてきた。
目鼻立ちはハンサムだが、狼のように残忍な雰囲気の顔をした男だ。年齢は二十三、四だろうか。ミツヒデに次ぐ、サンダースの副主将といった立場らしい。ほかのメンバーは江原たちが敵か味方か測りかねて、だまってこちらをみまもっている。
「ユウジ、気をつけろ。その連中、おれたちにアヤをつけにきたらしいぞ」
うしろからミツヒデが近づいてくる。二人とも手に棒を握っていた。
「ありがとう。この服いろいろ役に立たせてもらったぜ」ユウジは江原たちの三メートル手前で立ちどまり、にやにや笑って上衣の釦を二つはずした。「でもよう、おれ着替えをもってこなかったんだ。風邪をひくと困るから、もうしばらく借りておくぜ」
そのとたん、柿本が木刀をふるっておそいかかり、ユウジの横面を強烈に一撃する。
つづけざまに二度、三度と木刀で頭と顔を撲りつける。腕で頭をおおったユウジへ横合から夢中で江原はおそいかかり、地にひきずり倒して、のどにナイフの刃をおしあてる。五、六秒の早わざである。優位に立ってから江原は道代の悲鳴をきいた。横合から倉本がおそいかかり、俯せにユウジをおさえつけて腕をねじあげる。もう安心だ。
「てめえら。近づいてみろ。この野郎の命はないからな。頸動脈をスパッとやれば、こいつはあの世ゆきだ」
江原たちのまえに立ちはだかって、柿本がまた澄んだ声でさけんだ。
ミツヒデもほかの者たちも、茫然と立ちすくんだままである。返しなさいよう、服を返してしまえばいいのよ、とうしろで道代が泣きさけんでいた。江原は、倉本におさえつけられたままのユウジの上衣を剥ぎとり、ジーンズの上衣をぬいで着替える。
つづいてズボンをぬがせ、自分のもぬいで手ばやくはき替えた。シャツとパンツだけになって、倉本の体の下で彼はもがいている。倉本はもう度胸がすわったらしく、おちついた顔でユウジの逆手をとり、
「どうする。ちょっと痛めておくか」
とふりかえって柿本に訊いた。倉本が腕に力をこめると、ユウジは悲鳴をあげ、足をばたつかせてのたうちまわった。
「ミツヒデ、新宿のスーパーSではえらく世話になったな。礼をするぜ」
柿本が二、三歩前進し、ミツヒデたちは色めき立った。
江原はユウジの顔面を思いきり蹴りつけておいてから、ナイフをかまえて柿本によりそう。道代のまえで、徹底的にユウジを痛めつけてやりたい衝動がかなり満たされていた。
「なにしてるのよ、あんたたち。相手はたった三人じゃないのよ。やっちまいな。ねえ、みんななにしてるの」
かん高くさけんだのはルミだろう。男たちがどんな恐怖にかられているかも知らず、勝手なことばかりいっている。
「ミツヒデ。まえへ出ろ。ほかの者は動くな。へたにさわぐと、この裸の兄さんはほんとうに使いものにならなくなるぜ」
倉本がうしろでさけび、またユウジの悲鳴がきこえる。腕の関節がもうすこしで外れかかっているのだろう。
いきなり柿本がミツヒデにおそいかかり、さっきのように木刀をふるった。頭をかかえるところへ江原がとびつき、ひきずり倒してのどにナイフを突きつける。柿本はさらに木刀でミツヒデを撲り、江原のそばに立ってほかのメンバーを睨(にら)みつけた。
倉本がうしろから走ってきて、またミツヒデを俯せにおさえつけた。うしろで裸のユウジが泣きながらころげまわっている。関節のはずれた右腕が、そこだけ死んだようにユウジの体にぶらさがっていた。道代がころがるようにユウジのそばへとんでいった。
リーダーの二人を半殺しにされて、サンダースの若者たちは完全に浮き足立っていた。いっせいにおそいかかろうにも、人質をとられているのでなにもできない。倉本に逆手をとられて、たすけてくれ、痛え痛えといまはミツヒデがあえいでいる。柿本と江原は代る代る、靴でいいようにミツヒデの顔や体を蹴りまわした。柿本はほかの連中を警戒しながら、さらに徹底して木刀で撲りつける。カツン、カツンとミツヒデの頭蓋骨がかわいた音をたて、あいまにその唸り声が耳についた。
最後に倉本が、ミツヒデの右腕の関節をぐしゃりとはずし、悲鳴を心地よさそうにきいて、こんどは左の関節もはずした。そして、ころげまわる彼を尻目に手の塵をはらって立ちあがり、
「さあ、つぎはどいつだ。新宿のスーパーSへ押し入ったやつはまえに出ろ」
と、貫禄じゅうぶんに一喝した。
「ロックとトム、出てこい。てめえらの名前はみんな割れているんだ」
江原は彼らに向かってさけんだ。
道代からきいて、ケン坊というのもスーパー荒しに加わったとわかっているが、さっきの奥多摩グループとの乱闘でひどい怪我をした模様なので、見逃してやるつもりだ。
急に一人が逃げだした。いま呼ばれた二人のどちらかなのだろう。こうなると、年齢が若いだけサンダースは烏合(うごう)の衆だった。もう一人がつづいて逃げだし、あとの者はだまって立ちすくんでいるだけだ。絶望的な勇気をふるって、二、三の者が角材をふるっておそいかかったが、一人は柿本にたたきのめされ、一人は倉本に大きな背負い投げを喰ってしばらく失神した。三人目の少年は江原と睨みあっただけで逃げだしてしまう。柿本は向こうのほうで戦況をみていたケン坊をつかまえ、徹底的に木刀で痛めつけて、詫びをいわせて晴ればれした顔でもどってきた。
「よく手当てしてやれよな。サツに突きだされなかっただけ、倖せなんだぞ」
息もたえだえのユウジとミツヒデを介抱する道代とルミに声をかけ、二人の同僚をうながして江原は帰途についた。
ばらばらと小石が三人を追ってくる。曳かれ者の小唄の石だ。体に当る心配をまったくせずに三人はルーチェのそばへ帰りついた。
「おぼえといで。こんな勝手なまねをされてただではおかないからね」
木立ちのなかでルミがさけび、道代はユウジのそばにうずくまって、顔だけあげてこちらをみまもっている。
もう道代には会えないかもしれない。クルマのなかでふりかえり、江原光彦は道代に手をふった。だが、彼女のまわりが暗いので、表情はたしかめようがなかった。
12
「やったなあ。これでスカッとした。おまえたちのおかげだ。ありがとう。やっとこれでいい気分で眠れるよ」
新宿二丁目のあたりのうす暗い酒場で、柿本はほんとうにうれしそうな顔で江原と倉本にビールを注いでくれた。
「おれがやるのは当然だよ。責任者だからな。それより倉本がよくつきあってくれたよ。柔道三段がいてくれてほんとうにたすかった」
「いや、最初はおっかなくてどうなるかと思った。見栄で突っぱっただけさ。最後の背負い投げは気分がよかったけど」
晴れやかに三人は乾盃した。
こんなにうまいビールははじめてである。ちょっとした生命がけの仕事をぶじにやりとげた歓喜の念が、コップのなかの炭酸みたいにふつふつと胸にこみあげる。凄絶な戦闘を終えてぶじに基地へひきあげた兵士の気持はこんなではないかと江原は思う。やっと柿本への借りを返した。制服もぶじにとりもどした。道代ともう会えなくなりそうなのが残念だが、中井良子という恋人もいることだし、公園で道代とセックスしたあとでもあって、とくにさびしいとも思わなかった。
よほどうれしかったらしい。柿本はやがてギターをかかえ、若い男性ピアニストとの合奏で歌をうたいはじめた。そのピアニストは柿本のバンドの仲間で、この酒場でよく一緒に練習するらしい。柿本の本職はベースだというが、ギターもなかなか達者である。最初に「フィーリング」を彼はうたった。張りのある、澄んだ彼の歌声をはじめてきいて、江原はすっかり感心した。まだ商売にはならないが、これでもプロのはしくれだと称して、同僚のまえでこれまで彼は絶対にうたおうとしなかったのである。
つぎに「アイ・シャル・ビー・リリース」を柿本はうたいだした。自由へのあこがれをしみじみと表現するこの歌をきくと、江原は中井良子と会いたくてたまらなかった。
どんな大仕事をやってのけたか、まっさきに良子に報告したい。まじめな良子にくわしく話せる事柄ではないが、ともかく彼女の声をきいて、よろこびを倍加させたかった。
江原光彦はカウンターの端にある電話をとって良子の宿舎を呼びだした。柿本の歌をほかの客たちの話し声がかきみだすので、いらいらしてしまう。仕事をやりとげた男の歌声をちゃんと良子にもきかせてやりたい。
もう十一時半である。女子寮の管理人は不機嫌だったが、急用だといって強引に良子を呼びだしてもらった。だいぶ時間がたってから、やっと足音がきこえ、
「もしもし。あ、光彦さんなの。どうしたの、こんなにおそく」
と、眠そうな良子の声がきこえた。
寝入りばなを起されたらしい。だが、相手が江原なのですぐ彼女の声はあかるくなる。
「ちょっとうれしいことがあってね。お祝いしているんだ。酔っぱらってきみの声がききたくなったもんだから――」
「そう。いいわね。ボーナスが出たの」
「ちがうよ。すぐそれだからな。むずかしい仕事をうまくやって、それでお祝いしているんだ。すごくいい気分さ」
「わるいやつをつかまえたのね」
「まあそんなところだ。きみが一緒だったらどんなに素敵だろうと思ってね。きょうはおそいから、あした会おう」
「ほんと。新しいスーツ着ていくわ。ボーナスが出たから、つくったの」
「それよりも、きみのヌードがみたいよ。あしたがたのしみだ。ではお休み。愛してるよ」
「お休み。光彦さんの夢をみて寝るわ」
電話をおいて、いっそう晴ればれした気分で席にもどった。
柿本の歌はもう終っていた。ちょうどステージの切れ目だったらしく、男性ピアニストと柿本はなにか話しながら、カウンターの奥の調理場のほうへ去っていった。
代って倉本が席を立ち、電話をかけにいった。やはり女友達をたたき起してよろこびをわかちあうつもりなのだろう。
やがて江原はトイレに立った。扉のまえで、カーテンの隙間からなにげなく調理場をのぞきこみ、彼は胸をつかれて、あわててトイレへとびこんだ。ほかに人のいない調理場で柿本と男性ピアニストが抱きあっている。江原が女の子とそうするように、彼らはおたがいの体をまさぐりあっていた。
おどろきのあまり汗がにじんだ。柿本が万引女にわるさをしない理由をはじめて知ったが、絶対に他人にはいうまいと決心した。
混乱期
1
正月休みが終り、街にふだんの賑わいがもどったある日の昼前、江原光彦は同僚の柿本とともに江東区の工場街をあるいていた。
二人ともスキーウエアの上衣にセーター、ジーンズの軽装である。散歩にきたみたいな恰好だが、目は油断なく左右にくばって付近の地理を頭にたたきこんでいた。
暮から年始にかけて、江原たちは毎日Zデパートの保安警備にあたり、きのうから三日間の代休をとった。その間を利用して、石黒キャップをふくめた七名でK重工から依頼された一仕事をしにきたのだ。例の戸塚部長から石黒経由でこの仕事が入った。うまくやりおおせれば、一人二十万円の特別ボーナスにありつける予定である。
江原と柿本はやがて小さな鉄工所のそばにさしかかり、ここだな、と目くばせをかわして、さりげなく正門前を通りかかった。
灰色にくすんだ、古い、いかにも不景気そうな鉄工所である。正門にも塀のうえにも赤旗や組合旗が立ちならび、「計画倒産粉砕」「K重工は越冬資金を支払え」「首切りを断固撤回せよ」など、激烈な文句を大書した字幕が掲げられている。旗と字幕が毒々しいので、くすんだ小さな事務所や工場がいっそう貧相な感じにみえた。道をあるく人々も、正月早々の倒産さわぎから顔をそむけるようにしてそそくさと工場前を通りすぎる。作業服をきた数名の男女がさしだすビラをめいわくそうにうけとり、ほとんどの者が一瞥しただけでポケットへ突っこんで、自分の用事で頭がいっぱいの顔で去っていった。
ビラくばりの男女は三人だった。ピケでも張っているつもりか、正門のなかにも数名の男女の姿がみえる。従業員百名あまりの鉄工所ときいたが、いま工場内にのこっているのはそんなに多くなさそうだ。経営者が姿をかくした工場内で何名かの従業員はほそぼそと働いているらしく、シーアリングマシンの騒音がかすかにきこえてくる。
くもった、さむい日で、いまにも雪が降りそうだった。正門のなかの男女もビラくばりの男女も、あおざめて肩をすくめている。冬の労働争議の光景は、さむさのおかげでみすぼらしく殺伐である。一般の若い女がさまざまな労働運動を頭から敬遠してしまいがちなのは、こうした殺伐な光景が若い女の甘い夢からあまりにかけはなれているせいだろう。
江原たちのまえをOLらしい一人の女があるいていた。ビラくばりの女の子が近づいて一枚わたそうとしたが、OLは汚いものでも突きつけられたように手をふって拒み、いそいで立ち去った。
ビラくばりの女の子は腹を立てた様子もなく、すぐに江原のもとにやってくる。男の子のように背が高くほっそりした、ととのった顔立ちの娘である。闘争の緊張ではりつめた美しい表情で彼女はビラを手わたし、
「カンパおねがいします」
と、正門前の醵金(きよきん)箱をふりかえった。
「文なしなんだ。ごめんよ」
柿本が手をふって彼女を追い返し、工場前を通りすぎてから、ちえッ、甘ったれやがって、みんな自分のことで手いっぱいなのにカンパなんかできるか、と毒づいた。
柿本が怒る気持もわかる。じっさいこちらがおなじような立場におかれたら、労働者の連帯とやらでよその会社の従業員が支援してくれるとはかぎらないのだ。奈落の底に落ちこんだ者を、本気になってたすけてくれる者はだれもいない。この世の中は自分だけがたよりである。だが、柿本の場合はそれだけではなさそうだった。このあいだ江原が知ったばかりのことだが、彼は女を愛せないたちだ。さっきのOLが殺伐な争議の光景を頭から拒否したのと同じように、女、それも争議に参加するような女を感覚的にうけつけないのだろう。
工場とその周辺の地理を頭におさめ、江原と柿本は石黒班の集合場所である駅前の喫茶店へ足を向けた。道々江原は、いま手わたされたビラの内容に目を通した。
大企業であるK重工の下請けであり、系列会社でもある彼らのZ鉄工所がなぜ倒産に追いこめられたかをビラは切々と訴えていた。
Z鉄工所はK重工の造船部門の下請け、子会社だったらしい。ここ数年、世界的な造船不況で受注が減り、Z鉄工所でも何度か人減らしや労働条件の切りさげがおこなわれた。会社をつぶさないためだと思って、従業員はほとんどの合理化案をうけいれてきた。ボーナスもここ三年は、年間二ヵ月ぶんも支給されなかったという。合理化で減った人手をおぎなうため、従業員は残業を余儀なくされたが、残業手当も大部分がカットされて生活はひどく苦しかった。
ことしになって造船業界は不況を脱し、Z鉄工所の前途にもあかるい陽がさすかと従業員は期待していた。ところがK重工は低成長時代への対応を口実にいっそうひどい合理化をZ鉄工所におしつけ、従業員の半数を静岡県にある系列の重機工場へ出向させるといってきた。ほとんどの者が家庭の都合で転勤できないのを見越した首切りである。
組合員はもちろん必死で抵抗し、争議に入った。すると会社は、争議による経営の悪化で年越しが不可能になったとして十二月に倒産し、全従業員の解雇を通告してきた。争議自体よりも、親会社のK重工が役員をひきあげ、いっさいの資金援助を打ち切ったのが経営悪化の原因である。こうした大企業の横暴をわれわれはゆるせない、Z鉄工所は当分組合の手で運営、管理していく、みなさまのご支援をおねがいする、とビラにはこまかな字でびっしり窮状が書きこまれていた。
「キャップからきいた話とはだいぶちがうな。Z鉄工所は組合があまり無理な要求ばかり出すので左前になったといっていたのに」
「そりゃ争議だからな。両方とも勝手なことをいうよ。一々きいてたらきりがない。おれたち第三者は、割りきって金のために働けばいいのさ」
「どうもおれはひっかかるよ。組合に味方するのならやりやすいんだが」
「仕方ないさ。組合には金がないもの。世の中、金がなくてはだれもたすけてくれないよ。おまえだって、一円のギャラもなしで組合の応援をするほどひまじゃないだろう江原」
そんな話をしながら、二人は駅前の喫茶店へ入っていった。
石黒キャップと柔道三段の倉本、それにもう一人の同僚がすでに待機していた。みんな平服である。きょうはZ鉄工所の組合員たちを相手にギャングもどきの一仕事を演じなければならないので、石黒も緊張していた。
「工場から銀行までの道をようおぼえてきたやろな。一人でも向こうにつかまったらワヤや。仕事がすんだら徹底的に逃げろ」
冷えたコーヒーを飲みほして、声をひそめて石黒は念をおした。
「でも、組合が銀行にとりにいく金は、あの連中の給料になるんでしょう。ちょっとひっかかるな。気の毒ですよ」
江原がいうと、なにをいうか、わしらは債権者の代理人や、困った者の代りに取立てにきたんやないか、と石黒は目をむいた。
石黒のいいぶんだけきけば、そのとおりである。きょうZ鉄工所の銀行口座には、以前の取引先から五百万円あまりの金がふりこまれる予定になっていた。いまZ鉄工所を運営する組合員たちのたのみを容れて、その取引先は倒産前に生じていたZ鉄工所への買掛金を清算することにしたのだ。組合員はその金をうけとり、十二月ぶんの給料と越冬資金にみんなで配分する予定だという。
が、片側にはZ鉄工所の倒産で、同社への売掛金約八百万円が焦げついてしまった製造機械の小メーカーがいた。この焦げつきが原因で、その機械メーカーも倒産の一歩手前に追いこまれている。K重工の戸塚総務部長はその双方の情報をつかみ、Z鉄工所の組合がきょううけとる予定の金を、強引に横から奪いとって、機械メーカーの手にわたすよう石黒キャップに命じてきたのである。
K重工にとってZ鉄工所はいったんつぶして再建すべき会社だった。だが、機械メーカーにはまだ価値をみとめているらしい。倒産企業からの債権回収は従業員の給料をべつにしておこなわれねばならない法律があるそうだが、この場合、緊急避難の名目で、機械メーカーが債権保全に動くのは合法とみとめられる。
「組合は勝手に工場を乗っとっとるだけや。あいつらに売掛金をうけとる権利はない。その金は機械屋のほうにまわって当然なんや」
石黒キャップは江原たちに、そんなふうに説明した。
そういわれると、くわしい法律知識があるわけではないから、江原たちはだまってうなずくよりしかたがなかった。集金業務の委任状を石黒は機械メーカーからもらってきている。これがあれば、強引に金を奪ってきても強盗にはならないのだ。奪った五百万円をめぐって裁判になり、機械メーカーがあとで組合側に金を返さねばならぬ羽目になっても、当面の資金を奪って組合側にダメージをあたえれば、K重工側の目的は達成される。K重工はZ鉄工所を一度つぶして従業員をすべてクビにし、会社側に従順な者からあらためて採用していく方針のようだった。
2
「組合側が何時に銀行へ金をとりにいくか、わかりましたか」
柿本に訊かれて、石黒キャップはしぶい顔でかぶりをふった。
取引先からは、きのうのうちに銀行へ金が振りこまれたらしい。だが、現金化には多少の時間がかかるはずだ。手つづきがすめば銀行から組合に連絡が入り、組合からだれかが金をうけとりにいくはずである。
現金の出納は三時までだ。もう昼だから、午後一時から三時のあいだに五百万円は組合の手にわたるにちがいなかった。銀行の支店は、喫茶店の窓からみえる位置にある。組合員が金をうけとって工場へもどる約一キロの道のどこかで、五百万円を強引にこっちのものにしなければならない。江原たちは交代で物陰から工場を見張り、外出する者があれば尾行してその人物が銀行に入るのをたしかめたあと、喫茶店に合図を送ってすぐに配置につく段取りになっていた。
「光彦と倉本、すぐパトロールに出てくれ。昼休みのうちに銀行へいきよるかもしれんさかいな。いって向こうの連中と交代しろ」
石黒に命じられて、江原は倉本と一緒に席を立って喫茶店を出た。銀行のまえをとおり、Z鉄工所のほうへぶらぶらあるいた。ほかの二人の同僚が工場のそばの喫茶店で、朝十時から工場の人の出入りを見張っている。倒産企業らしく工場に訪問客はまったくなく、朝から二人の従業員がタバコを買いに外へ出ただけということである。
途中、江原は足をとめた。事務服をきた、みおぼえのある女の子があるいてくる。さっき江原にビラをくれた、男の子のようにすらりと背の高い娘である。
昼休みに買物でもするのか、紙バッグを手に彼女はいそぎ足で近づいてきた。胸を張った、元気なあるき方だ。女の子一人でまさか大金のうけとりはなかろうとふんで、見張りの同僚たちは彼女を尾行しなかったのだろう。
「あれ、工場の女の子なんだ。ちょっと尾行してみるか」
「でも、あれは銀行へいく恰好じゃないよ」
「わかっている。あわよくばひっかけて、情報をとるさ。やってみるよ。だめでもともとだからな」
路地へ折れて彼女をやりすごしてから、江原はその娘のあとを追った。
倉本は太っているので、尾行には不向きである。予定どおり見張りの交代に彼は工場のそばの喫茶店のほうへ去った。
江原は娘のあとを追った。モスグリーンの事務服と紺のスカートを身につけて、尾行など夢にも知らずに彼女は道をいそぐ。のびやかな脚が、まとわりつくやや長目のスカートをわずらわしげにはねあげている。
ほそくみえるわりにヒップは大きいらしく、ときおりスカートが貼りついて、揺れるふくらみのかたちをあらわにした。素敵な女の子だと江原は思う。肌は小麦色で、大柄で、健康そうで、中井良子とはずいぶんちがう体の持主である。うまくいくかどうか自信はないが、ものにするチャンスをねらって尾行する値打はじゅうぶんある女の子だ。
駅の近くへ彼女はきた。商店街を通りぬけてマーケットへ入っていく。人混みにまぎれて接近すると、彼女はベーカリーへ立ち寄って固焼きのパンを三つ買った。
ついで肉屋でソーセージの切り身をすこし買った。倒産企業の従業員らしく、つましい買物である。だが、これでは彼女に万引の罪をかぶせるチャンスがないので、江原はすこしがっかりして彼女の挙動をみまもっていた。が、急にチャンスがやってきた。肉屋で金をはらい、釣銭を待つ彼女のとなりに、まるで盗ってくれといわんばかりに買物籠に財布を乗せた主婦が立ったのである。
人混みにまぎれて江原は主婦に近づき、買物籠から財布をとって、狙った女の子の紙バッグに投げこんだ。そして、すぐにその場をはなれた。スリの犯行をじっさいにみておぼえた手口だが、予想よりもうまく財布を人から人へ移し変えることができた。
すらりとした女の子は、なにも知らずにマーケットから出ていった。被害者の主婦はのろのろと商品の値段や質を吟味していて、まだ盗難に気づいていない。ゆっくりと江原はマーケットを出て、商店街の人混みのまんなかをあるくいまの娘のあとを追った。
工場へ帰る道へ彼女は左折した。一般の住宅が立ちならぶ人通りのすくないところへ出てから、江原はその娘に近づいて、
「お嬢さん、失礼ですがちょっと――」
と、いつものようにバンをかけた。
なんでしょう。めいわくそうに彼女はふりかえった。なにも知らぬ者の強味で、ひるんだ様子はない。女に飢えた若い男がお茶にでもさそいにきたと思ったのだろう。
江原はガードマンの身分証明書を彼女にみせた。そして、買物袋の中身をみたいと申し出た。眉をひそめて彼女は袋をあけ、一瞬なにが起ったか見当もつかない顔になった。
「あ、だれのかしら、これ――」
彼女は財布を手にとった。
かなり入っていそうな感触である。
「だれのかしらはおそれいったな。お嬢さん、あなた常習犯なんですか」
「常習犯って――。私が盗ったっていうの。嘘よ。なにをいうのあなた」
「あなたが財布をとったといってきた客がいるんです。半信半疑で追ってきたら、やっぱりそうだった。人はみかけによらないな」
「ちがうわ。私、なにもしていないわ。ほんとうよ。だれがそんないいかげんな告げ口したのよ、とんでもないわ」
「でも、現実に財布はあなたの袋にあった。シラを切るなら警察へいきましょう。おつとめのようだから、会社の上役の人やご両親にも連絡しなくてはならない」
娘の腕をとって、駅の向こうの警察署のほうへ江原はあるきだした。
釣りあげた魚のように、彼の掌のなかで娘の腕がぴくぴくふるえる。全身がこわばったり、やわらかになったりする気配である。
かすかな化粧品の香りがした。大柄なこの娘が全裸でベッドに横たわり、あえいでのたうちまわる光景を、すでに江原は脳裡に描きだしていた。
「やめて。警察はやめて。みんなにめいわくがかかるわ。警察はいや」
あえぎながら彼女はさけんだ。
警察はほとんどいつも労働運動の活動家を敵視する。もし彼女が警察につれていかれたら、倒産会社でがんばる彼女の同志たちにさまざまなめいわくがおよぶことはたしかだった。
3
警察はいや、みんなに迷惑がかかる、と背の高いその娘はさけんで、江原光彦の腕をふりはらおうとした。
江原はもちろんはなさない。必死で逃げだそうとするその娘の腕をねじあげ、近くの路地にひきずりこんだ。もがけばもがくほど逆をとられた腕が痛むので、やがて娘は抵抗をやめてしずかになる。身におぼえのないスリの罪をかぶせられ、怒りで紅潮していた顔に、いまは困惑、狼狽、怯えの色が代る代るあらわれては消え去った。
「いや、だめだ。警察へいく。きみの会社の人にもきてもらおうじゃないか」
江原がさらにいい張ると、娘は泣きそうな顔でだまりこんだ。犯罪者にたいしてばかりではなく、一般市民にたいしても、「警察」の語はしばしば強力な脅しの武器になるのだ。
彼女たちZ鉄工所の労組員は、会社の倒産と従業員の解雇に反対して争議をおこし、現在自分たちで工場を管理している。経営者側はこれを不法占拠とみなし、退去をもとめる訴えをおこすいっぽう、さまざまな手段で労組員の団結の切りくずしをはかっていた。労組側のまだ知らないことだが、江原たち青空警備会社のガードマンを動員し、取引先からZ鉄工所に支払われる五百万円の売上代金を横どりしようとするのもその一つである。
こんなとき、労組員の女の子がスリを働いて警察に逮捕されたとする。こうした争議にかかわりあう場合、警察はだいたい経営者の側に立って組合を圧迫したがるから、取調べの過程で女の子から労組の指導者や戦術についての情報を提供させようとするだろう。スリという弱みがある女の子がそれを拒み通すのはまず無理である。
女の子から得た情報をもとに警察はそれとなく争議に目をくばり、労組側になにか違法行為があれば、すぐ関係者を逮捕して経営者側に手を貸すかもしれなかった。Z鉄工所のうしろには巨大企業K重工がいる。そして警察の上層部は、巨大企業の支援で存続する政府につながる高官たちで占められる。小さな鉄工所の労組がK重工を相手どった争議で、警察に睨(にら)まれるのは当然だといってよい。
背の高い労組員の女の子は、そんなことまでとっさに考えはしなかっただろう。だが、争議の渦中にいるだけ、警察には本能的な不信の念を抱いていた。あんなところへつれていかれたら、なにをされるかわからないという不安が彼女にはあったようだ。
それに、警察へつれていかれれば、事件はいやでも労組の仲間の耳に入る。みんな顔をしかめるだろう。濡れ衣だ、私は潔白だという訴えにいちおう耳は貸しても、心からそれを信じる者はすくないにきまっている。経営側の謀略、という型どおりの解釈もこの場合には通用しない。もしも経営側が狙うなら、一介の女の子などではなく、争議のリーダーを罠にかけようとするだろうからだ。
スリの罪をきせられた背の高い女の子は、警察へいってトクになることが一つもなかった。潔白を証明するすべのないかぎり、警察いきは避けなければならない。ほんの数秒のうちに彼女はそう判断したらしく、
「絶対いや。警察なんか死んでもいかない。わるいことをしてもいないのに」
と、必死の形相でまた逃げだそうとする。目から涙がこぼれていた。
その手首を江原は握って、ひきずるようにあるきだした。駅の裏にホテルがある。そこへつれこんでしまえばこっちのものだ。
「もうシラを切るのはよそうぜ。きみの買物袋のなかから他人の財布が出てきたんだ。これはもう弁解の仕様がないね」
「だって私、盗(と)ってないわ。ほんとうよ。だれかのいたずらなのよ。人の物を盗ったりしないわ私。ねえ信じて」
「うるさいな。見逃してほしけりゃ、つべこべいわずについてくるんだ」
「ねえ、どこへいくの。私、一時までに帰らないと――。仕事があるのよ」
「だまってついてこいったら。警察でなければいいんだろう。見逃してやるよ。その代り手つづきをふんでもらいたいのさ」
路地から路地を通りぬけて、駅裏のラブホテルのそばへやってきた。
ホテルの看板をみて、声をあげて彼女は立ちどまった。通行人が興味ありげにこちらをみている。はやく結着をつけないと、厄介なことにならないともかぎらない。
「外で取調べもできないだろう」ホテルを江原はあごで指した。「なかできみを調べる。現行犯をつかまえた場合、おれたちにも事情聴取の権限があたえられているんだ。さあ、入ろう」
「いや。ホテルなんか、いや」
「じゃ警察へいくか。それでもいいんだぞおれは。そのほうが規定どおりだ」
「いや。私入らないわ。いやだってば」
彼女の手首を握ったまま、有無をいわさず江原はホテルの玄関へ入った。
昼間なのでうけいれ準備ができていないらしい。声をかけ、しばらく待たされてから、やっと案内係の女が玄関へ出てきた。その間江原は必死で背の高い娘の手首を握りしめ、さりげない表情をたもっていた。彼女はもう抵抗しない。心の準備ができたというより、こんな場所でじたばたするのはみっともないと考えたような気配である。
彼女の手を握ったまま廊下を通り、洋間へ入った。そんな江原の様子が、がつがつしているようにみえたらしく、案内の女は軽蔑の笑みをうかべて去っていった。
椅子、テーブルと冷蔵庫、テレビのあるうすっぺらな内装の部屋だった。
「さ、すわれよ。リラックスして」
棒を呑んだように突っ立っている女の子を椅子にかけさせ、冷蔵庫からビールとコップをとりだしてくる。
江原は二人のコップにビールを注ぎ、自分のを飲みほした。コップを手にしたまま、彼女は茫然としている。どうしてこんなことになったか、なりゆきが信じられない様子だ。
「きみの名前と年齢をききたいね。非公式な取調べだから住所は訊かない」
彼女の手を江原はとった。大きな目だけ動かして彼女は睨みかえしてくる。
「治子っていうの。苗字はいいでしょ。年齢は二十三――」
「二十三か。つとめさきは」
「いう必要ないわ。黙否する」
「じつはわかっている。Z鉄工所さ。おれ、きょうきみからビラをもらった。あのまえを通りかかってね」
治子はさらに目を大きくして江原をみつめ、知っていたの、とつぶやいた。
治子の顔から緊張の色がすこしとれた。素性を知られている以上、へたに抵抗しないほうがいい。用事をはやく済ませてしまおうという気持になったようだ。
「たいへんだなきみたちも。他人の財布につい手を出したくもなるよな。倒産企業だから、きみたち、給料をもらえないんだろう」
「盗ってないわ私。お給料だってちゃんと出るんだから。きょう三時すぎに出るのよ。他人のものに手を出す必要はないの」
目をつりあげて治子はさけんだ。江原の誘導訊問に完全にひっかかっている。
「嘘つけ。新年早々給料が出るわけがない」
「ほんとうだったら。得意先が売掛金を清算してくれたのよ。きょう三時に、組合の幹部が銀行へお金をとりにいくことになってる。嘘じゃないんだから」
「よし、あとでたしかめてみる。なんという幹部が金をとりにいくんだ」
「委員長の高田さん。それからオルグにきている大木さんも一緒だと思う」
気のいい女の子だ。治子はあきれるほどすなおにすべてを話してくれた。
金をとりにいく人間の名前に関心はない。人数が二、三名だとわかればそれでじゅうぶんだった。午後三時すぎ、銀行帰りの彼らを待ち伏せて金を奪いとればよいのだ。
仕事のめどが立って江原は一息ついた。地味な紺色のスカートに覆われた、かたちのよい脚が、急になまなましい色香をはなって江原の注意をひきつける。彼は生唾を呑みこんで、治子に椅子を近づけていった。
4
「きみはすごく魅力的だよ。ルックスもいいし、性格もすなおだ。最高だぜ」
江原光彦は治子の手を握りしめた。
きみを犯罪者にしたくないな、と治子の耳にささやき、息を吐きかける。
治子はこわばった顔つきで、じっとしていた。江原が顔を近づけ、頬にかるくキスすると、顔をしかめて横へ逃れる。それから江原のほうへ向きなおって、
「ねえ、帰して頂戴。事情はいま話したとおりなのよ。私が盗るわけないわ」
と、悲しそうに訴えた。
気丈そうな、頬骨の張った顔が歪み、大きな目に涙が光っている。それをみて、江原はやさしい気持が胸にわいてきた。必要な情報はもうもらった。このまま帰してやってもいいと思う。だが、その気持とうらはらに、腹のあたりで欲望が煮えたぎっていた。みるからに健康な小麦色の肌をした背の高い裸体をどうしてもこの目でたしかめ、この手で抱きたい。ほっそりした体のわりに大きなヒップを、両手で思いきりなでまわしてみたい。
江原はやさしい気持と欲望の板ばさみになった。その双方をみたす方法がないものかとふっと考え、すぐにあきらめる。やさしい気持にとらわれていては、なに一つ手にいれることはできない。いまの社会を生きていくには、平気で非情になれなければならない。石黒キャップのもとで悪の修業をつんでいるのも、うす汚い世間の男どもに負けずにやっていく力をつけるのが目的だったのだ。
「帰してあげるよ。でも、現代はギブアンドテークの時代だぜ。帰してあげる代り、一度だけ抱かせてくれよ」
二人の椅子をほとんどならぶまで接近させて、江原は治子を抱きにいった。
顔をそむけて治子は逆らう。キスをあきらめて江原は左手で治子の腰を抱きよせ、右手を彼女の脚のあいだにすべりこませた。
双つの脚をとじあわせて治子は抵抗し、ふとももの奥へすすもうとする江原の右手をつよい力でおさえつけた。
「やめて。もういや。あんたなんか」ヒステリックに治子はさけんだ。「いいわ。警察でもなんでもいきましょう。人の弱みにつけこんで、あんたなんか人間の屑よ。もういいの。警察へいって説明するわ」
「そうよ。どうせおれは屑さ。あんたらのように立派な闘争はやってないよ」
治子にののしられたので、江原はやさしい気持をふり切ることができた。
椅子の前脚を二本つかんで上へはねあげる。悲鳴をあげ、椅子にかけたまま治子はあおむけにひっくりかえった。
泣きながら這って逃げかかる治子にとびかかり、俯せにして馬乗りになる。大声をあげかける彼女の頬を二つ三つ、思いきり平手打ちして沈黙させた。治子にたいして恨みはなく、むしろ好意を抱いているのに、反抗されて残酷な衝動がかき立てられた。欲望がそれを増幅させる。髪をつかんで治子の頭を床におさえつけ、まず事務用のユニフォームをぬがせにかかった。モスグリーンのそれと下のブラウスをとり去ると、ブラジャーをつけた小麦色のすべすべした上半身があらわれて空しいもがきをくりかえした。
「ちくしょう。けだもの。おぼえてろ、警察に訴えてやる」
泣きじゃくって治子はののしる。
答えずに江原はブラジャーをとり去り、うしろから両手で乳房を揉んだ。俯せになっているので、小さ目の乳房が美しい円錐形の手ざわりを掌にあたえてくる。
「はしたないことをいうなよ。セックスはたのしくやろうじゃないの」
乳房を揉みながら、江原はくちびると舌で治子の首すじ、肩を可愛がった。
治子は体をばたつかせる。だが、必死の抵抗というほどではない。敏感な性分らしく、乳房を揉まれながら、ときおり体をふるわせたり、ぴくんと痙攣したりする。
「じっとしてろよ。そのほうが気持がいいぞ。あばれても疲れるだけだぜ」
じゅうぶん乳房を可愛がってから、紺色のスカートを江原はぬがせにかかる。
どいてェ。重いじゃないの。呻き声を治子はあげた。泣きじゃくりながら、その声には甘いひびきがこもりはじめる。
スカートのなかへ江原は手をすべりこませ、下着のうえから治子の女の部分にさわった。湿ったその部分に指がふれると、治子はぴくりと痙攣した。そして、あきらめたように全身の力をぬいた。
「自分でぬぐウ。自分でするったら、重いからどいてよ」
いわれて江原は腰をあげ、治子のそばに突っ立った。
治子が上体を起してスカートや下着をぬぎはじめるのをたしかめて、自分も服をぬぎすてていく。二人はほとんど同時に全裸になった。突っ立っている江原の男性から顔をそむけて、うずくまったまま治子は涙をぬぐう。すらりと背の高い、乳房の小さな、だが、腰骨からひざのあたりにかけての箇所が息苦しいほどよく発達した裸体が、ようやくうす暗い部屋のなかであらわになる。
「向こうへいこう」治子はとなりのベッドルームをふりかえった。「もういいの。はやくしちゃって。災難だと思ってあきらめるわ。はやくしてね。時間がないの」
「わかったよ。向こうへいこう」
江原は手をとって治子を立たせる。
ほんとうは抱きあげてベッドへはこんでいきたかったが、大柄な治子の体をささえきれるか否かが疑問でさしひかえた。さきに立って治子はベッドルームへ向かう。もうわるびれていない。肉のよく稔った見事なヒップをむしろ誇示しているようだ。
治子はみずからベッドにのぼった。そして江原に背を向け、獣の姿勢をとった。顔をベッドに伏せ、ヒップを高くあげて、性急なセックスに江原をさそいこもうとする。
江原はさっきおぼえた願望にしたがって、治子のヒップを両掌でなでまわした。体温が低く、ざらざらする脂肪の粒の感触が掌につたわってくる、しっかりと張ったヒップだった。まんなかのあわせ目の下方から手をすべりこませて、女の部分をさぐってみる。
そこは濡れてはいた。だが、たっぷりと濡れているほどではない。さきのほうに埋まった真珠の粒を指で刺戟すると、ヒップに力がこもり、双つの丘のあわせ目がすぼまった。指で刺戟をつづけると、治子はヒップの位置を低くして、
「はやくしてよう。私、あそぶ気はないんだから。体を貸してあげるだけよ」
と、生意気な言葉で催促する。それなら泣かせてやる、と江原は意地になった。
「ナマいうんじゃないよ。やればいいってものじゃないんだ。セックスはたのしんでこそ値打がある。たのしませてやるぜ」
ベッドから治子をひきずりおろし、こんどはあおむけにおさえつけて馬乗りになる。治子の顔に背を向けた姿勢である。
そばにあったみだれ籠から浴衣の紐をとりだし、治子の足首をかたほうずつベッドの脚へ縛りつけた。
「なにするのよ。いやだったら」
馬乗りになった江原の背を治子は必死でたたいたり、ひっかいたりする。
だが、むずかしい仕事ではない。まもなく治子は両脚をひらき、足首をベッドの脚に固定されて、愛撫を拒否できない姿になった。
治子の顔に背を向けたまま、ひらかれた女の箇所をのぞきこんで、江原はこまかく指をつかいはじめた。まだ治子は江原の背中をたたいたり、つねったりして抵抗する。だが、女の箇所にはみるみるあたたかい液体があふれはじめ、江原の尻の下で、治子の腹や骨盤がこまかくふるえるようになった。
まもなく治子は抵抗をやめ、甘ったるい声で泣きじゃくりはじめた。さっきまでとは意味のちがう涙がめじりにあふれている。
5
午後三時、Z鉄工所の門から一台のライトバンが通りへ出てきて、銀行の支店のほうへ走りだした。
運転席と助手席に男が乗っている。二人とも年恰好は三十代で、意志のつよそうな顔つきをしていた。治子のいっていたとおり、労組の幹部とオルガナイザーなのだろう。
「いよいよお出ましだ。こっちもいこうぜ」
近くの喫茶店で見張っていた江原光彦ら三人はうなずきあって席を立った。
柿本が電話で、駅のそばの喫茶店で待機する石黒キャップらと連絡をとる。喫茶店の駐車場に停めてあったルーチェの運転席に倉本がすわり、江原が助手席、柿本が後部座席に乗りこんだ。Z鉄工所のライトバンはすでに角を折れて視界から消えている。だが、べつに尾行する必要はないので、倉本はゆっくりとルーチェを発進させた。
Z鉄工所から三百メートルばかりはなれた場所に寺があり、ながい塀が道路に面していた。道の向こう側は小さな印刷工場とその倉庫である。道幅がせまく、人やクルマの通行も比較的すくない場所だった。銀行帰りのライトバンをここで襲撃する手筈である。寺の横の路地にルーチェを停め、江原が道路で見張りに立った。通行人にギャングと誤認され、警察へ通報されたりしては厄介なので、みんな武器をもたず、サングラスやマスクで顔をかくしてもいなかった。
Z鉄工所の二人の男は、五百万円の金をうけとりに銀行へいっただけだから、もうすぐ帰ってくるだろう。石黒班の同僚六人と組んでの仕事なので、さほど緊張はないはずだが、襲撃の時間がせまるとやはり胸がどきどきしてきた。
あまりいい気分ではない。会社が倒産して困っている労働者たちを、さらに窮地に追いこむような仕事である。以前、K重工労組の幹部の失脚に手を貸したときもそうだったが、困っている側、弱い側のために働けたらどんなにいいだろうという気持が胸の奥にある。
困っている側には金がない。だから、ただ働きを覚悟しないかぎり、彼らに手を貸す機会はないだろう。そして江原は見も知らぬよその会社の労働者のためただ働きできるほど、金とひまに余裕がない。そんなにお人好しでもない。自分も彼らとおなじ側の人間なのに、彼らのために働ける立場ではなかった。いまの社会はそういう仕組みになっているのだ。
やがて、百メートルばかり向こうの角にZ鉄工所のライトバンが姿をあらわした。石黒キャップらの乗った白いセドリックがすこしはなれてあとにつづく。銀行のそばから尾行してきたのだ。江原は路地で待機する柿本たちに合図をおくり、自分は印刷工場のそばの電柱のうしろに身をかくした。
倉本がルーチェのエンジンをかけた。ライトバンはまっすぐ近づく。江原は二度目の合図を倉本へおくる。ルーチェが路地からまっすぐとびだし、直角に道路をふさいで停まる。ライトバンの二人はまさか襲撃とは考えず、停車して、おとなしくルーチェをみまもっている。その背後にセドリックがきて停まり、なかから石黒キャップが出てきて、ライトバンへ近づいていった。
まえをふさいだルーチェが動かないので、ライトバンの運転席の男が苛立たしげにクラクションを鳴らした。江原、柿本、それにうしろのセドリックから出てきた二人の同僚が石黒とともにライトバンをとりかこんだ。
「なんだおまえたちは。なにか用か」
助手席の男が窓から顔をだしてさけんだ。どこかでみおぼえのある男だった。
「P機械の依頼で集金にきた。おたくが支払いをせんさかい、向こうはつぶれかかっとるんや。とりあえず五百万払うてもらおか」
石黒が委任状をその男に突きつけた。
男は血相を変えた。金の入っているらしい革のバッグをしっかり抱いて、
「逃げろ。こいつら取立屋だ。K重工の息のかかった連中だぞ」
と、大声で運転席の男に告げた。
いわれるまでもなく運転席の男はクルマを発進させにかかっている。だが、前方をルーチェで、後方をセドリックでふさがれて身動きできない。セドリックと寺の塀のあいだへ強引にバックで突っこもうとして、車体を塀にぶっつけてあわてて停まる。
石黒にうながされ、江原はライトバンの助手席の扉をあけ、男の手から鞄を奪いとろうとする。そばから何本かの腕がのびて江原に加勢し、丸くなって鞄をまもろうとする男をクルマからひきずりだした。なにかわめいて男は地上に倒れる。が、まだ鞄をはなさない。鉄工所に立てこもる仲間たちの給料を死んでもまもりきる決意のようだ。
「大木さん、大丈夫か、大木さん」
運転席の男がたすけにとびだしてくる。
が、すぐに江原の同僚たちにつかまり、その場におさえつけられてしまう。
鞄をもった大木という男は、石黒以下のガードマンに数人がかりで撲られたり蹴られたりして地上をころげまわっていた。江原は鞄に手をかけ、なんとか奪いとろうとするが、顔を血だらけにしながら大木はひるまない。倒されてもころがされても起きあがり、必死で囲みを突破して逃げようとする。
「しつこい野郎だ。くたばれ」
立ちあがろうとする男のあごを、柿本が靴で思いきり蹴りあげた。
男は反りかえり、呻き声をしぼりだして横倒しになった。そのまま動かない。やっと江原は鞄を奪って石黒へ手わたした。
石黒はすばやく中身をあらため、よっしゃ、とうなずいてひきあげの合図をする。一同はクルマにもどり、べつべつの方角に発進させて現場をはなれた。ライトバンを運転していた男が、倒れた男に駈けよって介抱にかかる。ライトバンのキイを同僚の一人がぬきとってきたので、彼らに追いかけられる心配はなかった。あっというまの荒仕事だった。通りがかりの二人づれの主婦が、なにが起ったか理解できないまま、倒れた男をおそるおそるみまもっている。
すぐにルーチェは表通りへ出た。国鉄の駅のそばで江原と柿本はクルマをおりる。ちゃんと依頼主のある集金業務だといっても、実質的には強盗をやったのだから、警察につかまらないよう行動する必要がある。三人一緒では目立つので、倉本はひとりでクルマを運転して帰る予定になっていた。
「やれやれ、ぶじに終った。一杯やるか」
倉本のルーチェを見送ったあと、江原と柿本は近くの食堂へとびこんで、生ビールを一杯ずつ注文した。
ゆっくりと江原はビールを飲みほした。だが、胸の内はくもっている。後味がわるい。倒産企業の従業員の給料を横どりしたのと、鞄をもった大木という男を寄ってたかって痛めつけたのが心にわだかまっていた。
「あの大木という男、K重工の川崎工場の労組の幹部だったんだ。女とやっているところを写真にとられて工場を辞めた。石黒キャップが仕掛けたのさ。こんどは下請けのZ鉄工に支援にきていたんだな」
金を奪う活劇の最中、運転席の男が大木の名を呼んだので江原は思いだしたのだ。
彼は大木冴子の夫の大木一郎だった。K重工を追われてから、なにをしていたのかよくわからないが、K重工の下請けであるZ鉄工所の倒産にからんで、労組の支援に乗りこんでいたのだろう。労組側の上部団体の指令でそうしたのかもしれない。
「そうか。そういえばその話、きいたことがあるよ。ホテルの天井裏から石黒キャップが盗み撮りをやったって話――」
柿本は笑った。だが、大木一郎の不運を同情する気はないらしい。
政治的な信条にもとづいて生きる大木のような人物に彼は反感を抱いている。信条がなく、金や自分の利益のために動く以外にない人間は、大木のような人物をみて、うしろめたい敵意にかられるもののようだ。ほんとうは自分も大木のように行動したいのだが、それができず、金や力のある側の命令どおりに生きなければならないので、いっそう敵意が増幅するわけであろう。
鞄を抱いて地にころんだ大木一郎のあごを蹴りあげた柿本の、目をつりあげた顔を思いだして、江原はこの仲のよい同僚がはじめてかすかにうとましくなった。なんとなく話をする気をなくした。この近くに住む友人をたずねてみるという口実をつけて、江原は柿本とわかれて食堂を出た。
6
パチンコ屋で時間をつぶすうちに、あたりがうす暗くなった。
五時すこし前、江原光彦は思いきってZ鉄工所に電話をかけ、背の高い戸田治子を呼びだした。治子はホテルでずっと姓をかくしていたが、セックスのどさくさにまぎれて、江原は彼女の定期券を盗みみておいたのだ。
「あんたなの。なんの用――」
怯えと期待のいりまじった声で治子は電話に出た。
江原を怖れてはいるが、一度セックスした相手にたいする逆らいがたい親しみの念も声に出ている。本性は好色な娘なのだ。
「べつに。たいしたことじゃないんだ。声をききたくなっただけさ」
「取立屋の仲間だったのね。あんた」
声をひそめて治子はいった。
三時に幹部が銀行に金をとりにいくと話してしまったのを後悔しているらしい。
「気にするな。きみがしゃべらなくても彼はおそわれた。きみの責任じゃないよ」
「お金はどうなるの、返らないの」
「まず無理だろうな。K重工がうしろで操作している。きみたちに勝ち目がないよ。ほかの仕事をさがすほうがトクだと思うが」
いい仕事を紹介してあげようか、デパート関係はどうかと江原は訊いてみた。
「ほんと。いいところがあるの」治子は声をはずませ、すぐ小声にもどった。「こうやっててもお給料が入らないなら、なんにもならないものね。考えてみるわ私。いいところがあったら教えて」
女にとっては闘争の仲間よりも、セックスした相手のほうが大事なのかもしれない。簡単に治子は闘争から離脱した。これだから労働者の団結だの連帯だのという言葉を容易に信じるわけにはいかないのだ。
江原は仕事の紹介を約束した。そして、大木一郎の怪我の度合を訊いてみた。
病院で大木は手当てをうけたらしい。怪我はさほど重くなく、いま労組の幹部たちと緊急会議をひらいているという。新小岩のあたりに大木は住んでいるということだった。
適当なところで電話を切り、Z鉄工所のほうへ江原はあるきだした。もう街は暗かった。大木一郎の帰りを江原は待ちぶせする気でいた。尾行して彼の住いをつきとめ、一度でよいから冴子に会うつもりである。
成熟した、だがまだ若々しい大木冴子の裸身を江原は思いだしていた。最初のうちはとても貞淑で、あとは一変して奔放になった彼女の姿が目にうかぶと、会いたくて胸が苦しくなる。冴子の声や息づかい、みだれきった表情などを一つ一つ思いうかべると、さむいのに江原は顔がほてってくる。
大木一郎には済まないと思う。K重工に手を貸して彼を迫害し、妻まで誘惑して、おれはなんとひどい男かという気がする。
だが、そんな気持と恋愛はべつだ。中井良子というちゃんとした恋人がいるという事実ともべつの話である。なにがどうあろうと、江原は冴子に会いたかった。二人で手をとりあって快楽を徹底的に掘りおこそうとするような冴子とのセックスを再現できるなら、ほかの人々にどれだけ不義理をしても平気だとさえ彼は思う。
やがて夕刻の五時がすぎた。Z鉄工所の近くの路地にひそんで、江原はZ鉄工所から出てくる男女に目をこらした。さむい日で、みぞれが降りはじめ、鉄工所の正門のそばの街灯のあかりのなかで、羽虫の群れのように雪片がおどり狂っていた。
三々五々、工場から従業員が出てきて家路についた。闘争の疲労と、給料のあてがはずれた落胆と、前途への不安で彼らの表情は暗かった。戸田治子も、三人の女の子と一緒に暗い道を去っていった。背の高い治子がいちだんと生き生きした表情にみえたのは、セックスをたのしんだのと、デパート関係の仕事を紹介してもらえるあてができたのが原因なのだろう。
六時すこしまえ、頭に繃帯を巻いた大木一郎が二人の男と一緒に正門から出てきた。治子のいっていたとおり、たいした怪我ではなかったらしく、大木は元気に足をはこんでいる。みえかくれに江原は尾行した。駅に近づくと、人通りがさかんになり、うっかりすると大木を見失いそうだったが、頭の繃帯がいまは絶好の目じるしだった。
駅の近くのおでん屋の屋台へ三人は入った。江原は近くのラーメン屋と喫茶店で時間をつぶさねばならなかった。
一時間ばかりで大木たちは腰をあげ、駅のほうへあるきだした。
改札口のまえで大木は二人の仲間とわかれ、階段をのぼってホームへ出た。新小岩の方角でなく、都心へ向かう電車の入るホームである。酔って彼は赤い顔で、悲しげにうるんだような目をしていた。闘士らしいたくましいあごの線と、悲しげな目のとりあわせになんとなく江原は胸を打たれる。
大木はきっといい人間なのだろう。石黒キャップと正反対の性格の男ではないかという気がする。五百万円の金を奪われた責任感にさいなまれて、酔わずにはいられなかったのだろう。その大木の妻に一目会いたくて、江原は彼を尾行しているのだ。ひどい話だが、それでも冴子に会いたくてたまらない。なにが善でなにが悪か、なにが純粋でなにが不純か、考えれば考えるほどわからなくなる。一筋縄でいかない時代だ。
電車がきた。大木とおなじ車輛に江原は乗り、窓ガラスを鏡にして彼を見張った。
二つ目の盛り場の駅で大木は電車をおり、表通りのほうへ出た。
信号をわたり、酒場やキャバレー、ソープランドなどの密集する一帯へ彼はあるいていく。キャバレーあそびでもする気なのか。いったい何時に家へ帰る気かと江原は腹がたってくる。
にぎやかな通りから大木は路地へ入った。キャバレーの裏口のまえに彼は立ち、守衛になにか告げたあと、たばこをふかしてぼんやりその場に待機する。悲しげな目でキャバレーのネオンをみあげたり、うなだれて煙を吐いてみたり、とりとめない態度だった。闘士のわりに人が好く、尾行されていることにはまったく気づいていないようだ。
ある予感にかられ、江原は胸をどきどきさせて、物陰から見張りをつづけた。
やがて、白いドレスが出口におどった。江原は声をあげそうになった。別人のように厚化粧し、腕をむきだしにした大木冴子が、なかから出てきた。彼女は大木のそばに駈けより、繃帯した頭に気づかわしげに手をやってなにか話している。話がしばらくつづいた。何分かののち、冴子はやっと笑顔になり、バッグから金を出して夫に手わたした。そして手をふってきびすをかえし、あっというまにキャバレーのなかへ消えていった。
大木一郎は路地の向こうへ去っていった。
もう尾行の必要はない。夢からさめた気分で江原は裏口へ近づき、いま出てきたホステスはなんという名かと守衛に訊いた。
冴子、と本名で彼女は店に出ているらしかった。
7
仲間と一緒にZ鉄工所のライトバンをおそった夜、江原光彦はほとんど無一文だった。
大木冴子のつとめるキャバレーをせっかくつきとめたのに、その夜は彼女の姿をみただけでひきあげなければならなかった。
翌日、江原たちは石黒キャップから、ライトバン襲撃の報酬としてそれぞれ二十万円の金をもらった。江原は恋人の中井良子を呼びだして結婚資金に十万円を手わたし、のこりの十万円をもって冴子のつとめるキャバレーをたずねることにした。
六時に勤務を終え、食事をとって、七時半に江原は江東区の盛り場へ到着した。「クレオパトラ」というそのキャバレーは、中流の上といった店がまえで、ちょうど客が立て混みはじめたところだった。
ボーイの声に迎えられて玄関を入ると、香水や白粉の香りが鼻につき、女たちの体温が顔におしよせてきた。ドレスやスーツ姿の何十人かのホステスたちが、廊下の片側に行列して客を迎える。大年増から若いのまで、さまざまな顔かたちの女たちが、自分の馴染客ではないかと期待をこめて、入ってくる男に一々視線を集中させる。
本番の太った女に案内されて江原は客席に向かった。いならぶ女たちの顔を一つ一つ観察して冴子をさがしたが、廊下に彼女は立っていなかった。
すみの座席につき、注文をききにきたボーイに冴子の名を告げる。場内はひろく、照明もあかるいほうで、バンドが演奏中の歌謡曲もおだやかだった。あばずれ女が露骨な奉仕をするたぐいの店ではないらしい。
本番の女がはこんできたビールを飲んでいると、場内アナウンスが冴子を呼んだ。
「こんばんはア」
二、三分後、ききおぼえのある華やかな声が、うしろからきこえた。江原の肩に両手をおいて、冴子は顔をのぞきこんでくる。
「江原さん。どうして――」
冴子は茫然と立ちつくした。目を大きくし、かるく口をあけて、息をのんでいる。
どうして、と冴子はくりかえした。なぜここがわかったのかといいたいのだろう。
ならんで冴子は腰をおろした。背中に腕をまわすと、起伏に富んだ白い中型のなつかしい裸体が、うすい布地をやぶって吸いついてくるような気持だった。ただならぬ二人の様子に遠慮して本番の女が去ってしまう。冴子のコップにビールを注いでやり、しばらく、と挨拶して江原は乾盃した。年下なのに、江原は優位に立っていた。
「つきまとう気はないよ。なつかしくて会いにきただけさ。いやな顔するなよ」
冴子の白い腕にさわりたい衝動を江原はおしころした。ホステスと客、という関係になりたくなかったのだ。
「いやな顔なんかしてないわ。でも、どうしてここがわかったの。気になるのよ。大木はまだ暴力団にねらわれているの」
「もう終ったよ。きのうで――」江原は冴子の顔をのぞきこんだ。「それにおれは暴力団じゃないんだ。誤解しないでくれ。きみに迷惑をかけるようなことはしない」
きのうZ鉄工所からご主人を尾行して店をつきとめた。おれたちはZ鉄工所の争議つぶしを命じられたガードマンなのだと、はじめて江原は身分をあかした。
冴子に最初万引の罪をきせたのも、彼女の夫の大木一郎の組合活動を封じるためだったと説明してやった。大木一郎はもうK重工からはなれている。いまになって裏話を知っても、もうなんにもならないだろう。
「そう。ほんとうにガードマンだったの。でも、どっちにしても大木の敵よね。大木を罠にかけたのもあなたがただったのね」
「おれたちもサラリーマンなんだ。上の命令には逆らえないよ。きみのご主人に、個人的にはおれ、済まないと思っている」
「仕方ないわ。なるようになったんだから。大木はそれで本望なのよ。あの人は信念のとおり生きればそれで幸福なんだから」
たばこを冴子はおぼえたらしい。江原がセブンスターをとりだすと、一本くわえ、火をつけてうまそうに吸ってから、それを江原の口に突き刺してくれた。
フィルターにかすかな紅がついていた。冴子の顔に疲れがにじんでいる。笑顔は相変らず華やかだが、ときおりふっと放心した表情になる。四ヵ月のあいだに冴子は怖いもの知らずの生き生きした人妻から、どこか複雑な翳りのある女に変った気配だった。
大木一郎がK重工を追われてから、冴子たち一家は都内の小岩のアパートに移った。雇用保険のおかげで当面の生活には困らないが、夫の就職口がなく、さきの見通しが立たないので、冴子には不安な毎日だった。
だが、夫の大木一郎は職さがしに奔走する様子がなかった。労働組合の闘士であり、不始末でK重工を追われた前歴があるので、どこの企業にも相手にされず、職をさがして駈けまわっても仕方がないらしかった。代りに大木は労働団体の事務局へ通ったり、企業の争議の支援に駈けつけたり、手弁当で労働運動に献身して、K重工を追われた鬱憤を晴らそうとしていた。毎晩のように酒を飲み、すさんだ顔で帰ってくる。雇用保険の切れる日がまもなくくるとわかっているのに、冴子がそれを指摘すると、
「手前なんかに男の気持がわかってたまるか。目さきのことでさわぎ立てやがって」
と、荒れ狂うようになっていた。
そんな夫をみて、生活費をかせぐ役目は自分がひきうけようと冴子は決心した。夫には信条のまま力いっぱい生きてほしい、生計にわずらわされることなく労働運動に従事してほしいとねがうようになった。そうすることで、ひそかな不貞の罪をあがないたい意識もあったわけである。二ヵ月まえから冴子はこの「クレオパトラ」で、ホステス稼業に入った。幼稚園児の一人息子を、毎晩家において出てきている。しっかり稼いで金をためて、将来は喫茶店でも出そうと考えているところだという。
「――そうか。一家の大黒柱になったのか。いい奥さんだな。すばらしい奥さんだ」
冴子の身の上話をざっときいて、江原は感動して彼女の肩を抱きよせた。
こうして冴子のゆくえをさがしあてて、よかったと思う。それだけの値打のある女だ。
「いい奥さんなんかじゃないわ。わかってるくせに。私、夫を裏切ったのよ」
「それでもいい奥さんだよ。すばらしいよ。やさしいよきみは。いろんな人妻をみたけど、きみがまちがいなく最高の女だ」
冴子にビールを注いでやり、どんどん飲もう、と江原は彼女をけしかけた。
さいわい軍資金は豊富である。冴子の売上げにきょうはいくぶん貢献できる。今後も冴子のために、できるだけ頻繁にこの店を利用しようと思う。中井良子にはわるいが、大木冴子は江原にとってどうしても必要な女だった。この女のためになにか役に立ってやりたいと心の底から思える女は、良子と冴子だけだった。なにかで他人の役に立ちたいと思うときだけ、江原は自分をいくらかましな人間のように感じることができる。そういう気持をうしなったら、江原は石黒キャップと似たような男になってしまうだろう。
ビールを二セットお代りした。やっと冴子は元気になり、以前とおなじような華やかな笑い声を立てるようになった。
フロアへ出て二人はダンスをした。腹と腹をこすりあわせたりして、おどけて踊った。冴子のふとももの感触が刺戟的で江原が勃起してしまうと、彼女はそこへ手をふれて、ピストルみたい、とささやいて笑った。
場内アナウンスが冴子を呼んだ。指名客がついたのかもしれない。
「待って。二十分もあれば帰ってくるわ」
江原を席にのこして冴子は消えた。いれ代りに本番の太った女があらわれる。
だが、がっかりする必要はなかった。五分後に冴子がもどってきたのだ。すこしひきつった、困惑の表情で彼女は腰をおろし、
「ああ今夜は飲みたいわ。もっと飲ませて。いいでしょ。うんと酔っぱらいましょ」
と、熱っぽく江原に抱きついてきた。夫の大木一郎がまた金をせびりにきたらしい。帰って子供の面倒をみてくれればよいのに、毎晩飲みあるくの、と冴子はつぶやいた。いくら立派な信条の持主でも、生活費をかせぐ苦労がなくなると、なんとなく男は心の張りをうしなうのかもしれない。妻を働かせるうしろめたさ、妻と客のからみあう図を想像する苦痛なども、大木一郎の人格をしだいに歪めているのだろう。
「さあ、また踊ろう。いやなことをみんなわすれるんだ。われわれは自由だぞ」
江原はまた冴子をフロアへつれだした。
8
江原光彦は泥酔して、ラブホテルの部屋へ入るなりソファにくずれ落ちた。
ラスト近くまで「クレオパトラ」でねばったすえ、近所のすし屋で冴子を待ちながら飲んで、すっかり酔ってしまったのだ。
まだ若いから、いくら酔ってもセックスができなくなることはない。だが、今夜はすこし不安である。全身が麻痺してしまったようだ。江原はそっと自分のズボンのまえを手でさぐって、にぶい快感をたしかめてかすかに安心したりした。
冴子も酔って、なにかあかるい唱歌をうたっていた。うたいながら風呂の支度をしたり、テレビのスイッチをいれたり、寝室をのぞいたり、蝶のように室内をゆききした。店にいたときとちがって地味な灰色のスーツ姿だったが、ドレスをきているときよりもいまが蝶に似ている。最後に冷蔵庫からビールをだして、江原のまえのテーブルにおき、ソファにならんで腰をおろした。とろんとした目でじっと江原をみつめつづける。
「まだ飲むの。すごいなあ」
眠いのをこらえて江原はいった。欲望で全身がふくらむ思いなのに、頭のほうは眠くて奈落に落ちてしまいそうだ。
「そりゃホステスだもの。つよいわよ。いくらでも飲めます。ほんとうは女のほうが男よりつよいんですからね」
冴子はビールをあおった。
またじっと江原をみつめ、その脚に手をかけて、眠ってはだめ、と揺さぶった。そして江原の目がさめきれないとみると、
「さ、お風呂にお入りなさい。ちゃんとしなくちゃ、だめじゃないの」
と江原のズボンをぬがせにかかる。
甘えた気分で江原はじっとしている。ズボンと下着がひきおろされ、外気が尻や脚にひやりとしみてきた。下半身だけ裸にして、上体に冴子は手をつけない。ネクタイをしめ、上衣をきた恰好が妙に刺戟的で、いい気持で彼は横たわっていた。
「なあんだ、だめじゃないの。こんなのいや。男らしくなアい」
うたうように冴子はいって、江原の男性をもてあそびはじめた。やわらかなやつを上下に振るような手つきだった。
にぶい快感がそのあたりにただよい、すぐには力がみなぎらない。が、そうされてみて江原は、もうすこし愛撫がつづけば可能になると見当がつき、安心した。
「きみもぬげよう」甘えて江原は冴子の脚にさわった。
「おれだけこんな恰好だからだめなんだ。きみもぬいでくれ」
パンストをひっぱると、冴子はソファに腰をおろし、仕様がない子ねえ、といいながら下着をぬぎはじめる。
スカートのなかから、すんなりと白い素肌の脚線がながれた。その恰好のまま、冴子はソファのそばに立ち、上体をかがめてあらためて江原の男性をもてあそびにかかる。
うす目をあけて江原は灰色のスカートをたくしあげる。弦楽器の胴のように張りだした骨盤の下の白い腹と、黒い草むらが目に入って江原は昂奮した。
「わあ、大きくなった。元気じゃないの」
華やかな笑声を冴子はあげた。
そのまま顔を伏せて男性を口にふくむ。手を添えて下方を揉みながら、熱心に頭を上下に動かしはじめた。なかば目をとじ、口をとがらせた幸福そうな横顔をみて、江原はしばらくうっとりする。一度スカートから手をはなしたが、もう一度冴子の下半身がみたくなって彼はスカートをまくりあげた。
ながれる脚線を横合からながめる。ヒップのほうもみたくなって、うしろを向けと要求すると、冴子は一度そのとおりにしたが、
「ぬぎましょうよ。もう。ぜんぶ」
と向きなおって江原の服に手をかける。
されるがままに江原は全裸になり、上体を起して冴子の服をぬがそうとした。
冴子はすでにぬぎはじめている。起伏のはっきりした、中肉中背の裸体が、まるで夢のように江原のそばに出現して立ちつくした。
寝そべった江原を、冴子は笑いながら気をつけしてみおろした。丸くかたちのよい乳房、ひきしまった胴、とつぜん左右に張りだした骨盤、かがやくばかりに充実した双つのふとももが江原の視線を圧倒する。江原は手をのばし、冴子の下腹部の草むらの下方を指でさぐった。そこはかわいて、とじられていたが、かるく腹を突きだすように冴子が脚をひらくと、江原の指はあたたかくほそいぬかるみにつきあたっていた。
「私はあとでいいの」
冴子は江原の手を制止した。
江原のしてほしいことを彼女はよく心得ている。うしろを向き、ずっしりと稔ったヒップを突きだして、上体をかがめ、また彼の男性を口にふくみ、もてあそびはじめる。
ヒップと、そのあわせ目の下方からのぞく桃色の花に江原は見惚れた。花がしだいに濡れてきらきら光りだすにつれ、彼の腹にも甘ったるい快楽が盛りあがってくる。酔って感覚がにぶっているはずなのに、しだいに彼は耐えきれなくなり、白い大きなヒップを押して冴子を遠ざけた。
起きあがって、一緒に入浴した。
湯ぶねのなかであたたまってから、江原は冴子の体に石鹸を塗って掌でこすった。タイルのうえに冴子はしゃがみ、うっとりとした顔で首をかしげ、首すじ、肩、背中、わき腹、乳房と移動する江原の愛撫に酔っている。
ふっと江原はうしろから冴子の顔をのぞきこんだ。ぐったりと快楽に酔っていた裸体が急に分別をとりもどしたように感じたからだ。冴子は目をあけ、だまって湯ぶねのふちをみつめている。なにかなやみごとがあるらしい。
「どうした。なにを考えているんだ。浮気して良心が痛むのか」
江原が訊くと、冴子はかぶりをふった。
最近変なの、あの人、と彼女は夫のことをいった。K重工へ復讐せずには肚の虫がおさまらない。社長と労務担当重役をぶっ殺してやる、と泥酔してしばしば息まくという。
「怖いの私。ほんとうにあの人、とんでもないことをやるのではないかと思って。ねえ、やめさせる方法がないかしら」
「大丈夫さ。いい大人がそんな無茶をするわけがないよ。念のためガードを固めるようK重工にいって、なにもできないようにしておくけど」
江原は冴子を立ちあがらせ、向こうむきに湯ぶねのふちに両手をつかせた。
みごとなヒップやふとももを、石鹸のついた掌でたっぷり可愛がったあと、後方から彼は冴子のなかへ入った。
解放されたように冴子は泣きさけんだ。いまの江原のなぐさめで、心の負担が軽くなったのだろう。
9
目がさめて、時計をみると朝六時だった。カーテンの隙間からみえる窓硝子の外の闇がわずかにあかるみはじめている。
寝具のなかが汗ばむほど暑い。二人で寝ているからだ。すべすべした、しなやかな、あたたかい女の体がそばで寝息を立てていた。
鼻のあたりまで毛布をかぶって中井良子が眠っている。そっと毛布をまくってみると、良子はウサギのような、すこし腫れぼったい顔をしていた。
安心しきって熟睡している。江原光彦を愛し、信頼して、すべてをまかせた寝顔である。可愛くてたまらなくなり、抱きよせると、寝息を立てたまま良子は両手と両足で江原にからみついてきた。
二人とも裸である。汗ばんだ肌が肌に密着し、体の重みが甘い刺戟をつたえあって、まだ眠いのに江原は欲望にかられてきた。むっちりした良子の左右のふともものあいだに脚をすべりこませ、両手でやわらかく乳房を揉んでやる。
眠ったまま良子は甘い声をもらした。まださめきっていないが、意識はもどったらしい。目をとじたまま幸福そうに笑って江原の胸に顔をおしつけた。力をこめて抱きついてくる。密着しあう部分を一平方センチでもひろくとって、二つの体を一つにしたいとねがっているようだ。良子の下腹部の草むらが、江原のそれとふれあった。
江原はすでに勃起していた。ゆうべ十時にホテルへ入り、二度セックスをたのしんだのに、一眠りしてまた可能になっている。自分の体力に満足しながら、彼は背中を丸くして、良子の乳房を吸いにいった。
良子はまた甘い声をあげ、江原の頭をしっかり抱きよせる。かるく上体を反らせ、大きな息をついて、さらに脚をからませてきた。目がさめたようだ。何時、と眠そうな声で良子は訊く。腹をこすりつけてきた。
「六時さ。まだ時間はたっぷりあるよ。もう一度しよう。それから一眠りだ」
「うん。まだ結婚前だから福島ではなんにもできないものね。いまのうちよね」
きょうは二月初旬の土曜日。Zデパートは火曜が定休日なので、良子はきょうから休みをとり、火曜までの四日間福島へ帰省する予定でいた。江原光彦のことを両親に話し、結婚の承諾をもらうためである。上野発九時の列車に乗りやすいように、ゆうべ荷物をもって、江原と一緒にこの不忍池のそばのラブホテルへ入ったのだ。
江原のほうはあす良子を追って福島へ発ち、彼女の両親に挨拶したり街を見物したりして、火曜日に二人で帰ってくる予定だった。ほんとうは往路も一緒のはずだったが、緊急の仕事が入ってどうしてもきょう休めなくなったのだ。例のK重工関係の注文だから、どうせ気の重い仕事にきまっている。今夜それを済ませ、金をもらったら、すっとんで福島へ駈けつけるつもりである。
乳房を吸ったり、舌でもてあそんだりしながら、江原は良子の双つのふともものあいだへひざを割りこませていった。
下腹の草むらとその下方の濡れたやわらかな箇所を、ひざがしらでかるく圧迫する。その感触が良子は好きである。むっちりしたふとももで江原のひざをつよくはさみ、体をこまかく揺すって、女の箇所をこすりつけて快感を吸収する。甘い声をもらし、あえぎはじめた。江原の男性を手にとり、動かして、二人一緒にたのしもうとする。
しばらくそうして愛撫を交換する。ひざがしらが江原は熱くなってきた。乳房から顔をはなし、わき腹、腰、下腹のほうへとゆっくりキスを下降させてゆく。暑いので毛布をはねのけ、部屋のあかりのなかに良子の裸体をさらけださせた。
以前ほっそりした感じだった良子の裸体は、最近すこし肉づきがよくなり、とくにヒップやふとももはよく充実して、なまなましい色香がみなぎっている。だが、肩や腰のあたりは以前のまま肉がうすいので、ぜんたいに起伏のはっきりした、色っぽい裸身に変りつつあった。体つきが大人びてくるにつれ、肌の感受性もゆたかになっていくようである。
去年の秋ごろ、良子は江原に抱かれても、三度に一度くらいしかほんとうのよろこびを味わえずにいた。ところがいまは、ほとんど毎回、大きな声をあげて絶頂にたっする。二、三度つづけてたっすることもある。性的に大人になったわけだ。そして、そんなふうに成熟するにつれて江原への愛情も深まり、結婚の日を待ちこがれるようになった。はやく一緒に暮したいという。毎日セックスすることを彼女は夢みている。
体の向きを変え、良子のふとももやひざを舌で愛撫したあと、下肢をひらかせて江原はそのあいだにうずくまった。
良子はもう待ちかねている。恥ずかしがらない。下腹部の草むらの下方のきれいなピンク色の花を指で示すような仕草をし、あえいで体をふるわせている。江原の顔がまだ花にとどかぬうちから、良子は泣き声をあげ、こまかく体を揺すって迎える。キスがとどいた瞬間、ほっとしたような高い声をあげて、体を反りかえらせた。内もものやわらかな肉にだけ力がこもっている。
あたたかいぬかるみのような部分へ江原は舌をすべりこませた。深みをしばらくさまよったあと、やや上の箇所に埋まった敏感な真珠の粒を江原は舌さきでさぐりあてた。うたうような良子の声に酔いながら、しばらく舌でかわいがる。手指を添えてぬかるみの奥やうしろの草花を刺戟すれば良子がさらによろこぶだろうと思うが、複雑な技巧を江原は出し惜しみしていた。
このさき一生添いとげる女なのだ。さきはながい。すべてを出しつくせば、あとがつづかなくなるだろう。倦きるのもはやい。結婚する女にはあまり刺戟的なセックスを教えないほうがよいと、いろんな先輩から教わっている。
まもなく良子は快楽のうねりに呑みこまれ、白い太鼓橋のように反りかえって大きな声をだした。さかんに体を波立たせ、脚をばたつかせて枕のほうへずりあがっていく。
たすけて、たすけてと良子は哀願した。絶頂にたっし、呼吸をととのえるひまもなく、江原がまた舌を動かしはじめたからだ。
たちまち二度目の波がきて、良子はまた大きくのけぞった。頭を基点にぴんと反って、横倒しになりかかる。江原はキスをやめ、手指で愛撫を加えながら、みだれきったその姿をしみじみながめた。反ったまま、たすけて、たすけてとうわ言をいって右へ左へ良子は揺れる。足ぶみしたり、首をふったりする。そうしながら手をのばして、江原の男性をさがしていた。無我夢中の境地へなんとか江原をひきずりこもうとする。男性をさがしあてて、かるくひっぱった。
笑いながら江原は、あおむけに寝ている良子のそばへ横たわった。彼女の姿があまりに可愛いので、きょうは出し惜しみせず、新しいポーズをとってみる気になっていた。良子の両脚のあいだへ江原は右脚をすべりこませ、左脚を彼女の体の下へさしこむ。二人の体が直角にからみあうかたちをとると、良子はおどろいて目をひらき、顔をあげて、
「どうするの。ねえ、どうするの」
と質問した。目を左右に動かして、自分たちの体の位置をたしかめる。
「こんなのもあるんだ。セックスしながら指が使える。いいんだぞ、すごく」
その姿勢のまま、江原は良子のなかへ入っていった。
右手を良子のまえにまわし、敏感な真珠をもてあそびながら江原は動きだした。
良子はすすり泣きをはじめた。ゆっくりと頭を左右にふり、涙をながして、ああちがうわ、すごくちがうとしゃくりあげた。なかへ入っている男性の角度がちがうので、快楽の質もいつもとちがうといいたいらしい。江原が動きをはやめると、良子の体は、いつもとちがって、すこしななめ向きに揺れた。目をとじ、みだれた表情で、赤ん坊のように泣きじゃくりながら、ななめに動きつづける。
「愛しあっているからさ。だから、どんなふうにやってもすばらしいんだ。最高だよ、おれだって」
そして江原は自分の言葉に昂った。
急激な快楽の盛りあがりを必死で喰いとめながら、彼は動きつづけた。
10
中井良子は予定どおり、九時発の列車で福島へ発った。
良子は泣き虫である。あすになれば福島でまた会えるのに、上野駅へ着くと妙に感傷的になって、送りにきた江原に向かって、
「元気でね。私、光彦さんのこと絶対わすれないわ。一秒だってわすれない」
と、涙ぐんでささやいた。
そして、大きなバッグを重そうにさげて改札口を通り、ふりかえって手をふった。そのまま江原がみていると、ホームの入口のところで良子はまたふりかえり、手をふった。
江原も感傷で胸がいっぱいになった。ほんとうにいいやつだ。本気でおれを愛してくれるのは良子だけだと考えながら、国電のホームへ彼は入った。良子のためにも、近いうちいまの仕事から足を洗う必要がある。このまま青空警備会社に籍をおき、もしなにか悪事がバレて刑務所へぶちこまれたりしては、良子がかわいそうだ。子供ができたらなおさらである。
金と女に縁がなくても、ちゃんとした会社につとめて、良子とともに平和で健康な暮しをしたかった。世の中の裏をたくさんみただけ、ふつうの会社へ入ってもこんどは人に負けずにやっていける自信がある。健全な社会から永久に追放されないうち、ふつうの市民にかえろうと思う。福島から帰ったら、さっそく職さがしをはじめよう。もしふつうの会社がだめなら、どこかまともな警備保障会社でガードマンをつづけてもよい。この業界も一流企業は一万人以上の従業員を擁し、三分の一は大学卒で、仕事の範囲もデパート、スーパーの万引防止だけでなく、銀行やビル、倉庫の警備、政財界人やタレントのボディガードなどに拡大している。悪事に手をそめさえしなければ、将来有望な職業なのである。
いずれにしろ、青空警備会社はそろそろ見切りどきだった。履歴に傷がつかないうち、ここを去るほうが賢明である。
良子を送ってはっきり決心がついた。すがすがしい気分で江原は職場へ顔をだし、いつものようにZデパートの保安、警備に従事して、六時に勤務を終了した。
が、今夜は八時から石黒キャップの指揮のもと、深夜まで、赤坂に近い一劃にある高級料亭の警備につく仕事があった。
K重工のトップがいつも政財界の要人との会談につかうあの料亭である。石黒キャップに紹介されてはじめて警備についてから、江原はもう十回以上あそこへいかされた。いままでなんの事故もなく、ガードマンが万一のための保険にすぎないことのよくわかる、退屈な立ちん坊のアルバイトだった。
だが、こんどはすこし様子がちがう。きょう一緒に警備につく柿本ら四人の同僚とともに近所の食堂で夕食をとり、集合時刻の七時に保安事務所へもどると、石黒キャップが、
「きょうは社外の仕事やが、制服着用。それに護身具をわすれるなよ」
と、一同に申しわたした。
石黒はむずかしい顔をしている。江原たちは顔をみあわせた。アルバイトに制服着用、護身具携帯はめずらしいことだ。
「なにがあるんです。総理大臣かなにか、よほど大物があそこへくるんですか」
江原が訊くと、アホ、総理大臣をまもるのはサツの仕事や、わしらは関係ない、と石黒は目をつりあげた。
「総理やないけど、党役員クラスの大物が三人ぐらいくるらしいぞ。K重工のほうも社長と専務二人が出席するそうな。総務部長の戸塚はんが神経質になっとるんや。まちがいがあったらえらいことやいうてな」
江原たちは納得して、それぞれ警備につく支度にとりかかった。
七時二十分ごろ、会社の小型バスに乗って一同は赤坂方面へ出発した。八時すこしまえ、現場へ着いて外へおり立つと、外套を着ているのにさむくて身ぶるいが出た。大邸宅ふうの料亭の正門を二人が固め、一人が裏口に立ち、あとの二人は料亭のまわりをゆっくりパトロールするという分担がきまった。持場は一時間ごとに交代する約束である。
石黒キャップと柔道三段の倉本が、まず正門の警備にあたり、新米の小坂という同僚が裏口に立った。江原は柿本と一緒に料亭のまわりをぶらつきはじめた。
高級車がつぎつぎに正門のまえに停まり、秘書をつれた老人が一人、また一人と姿をあらわして料亭のなかへ消えていった。新聞やテレビでみた顔もある。石黒のいっていたとおり、保守政党の大物代議士がなにかの相談にやってきたのだ。K重工の戸塚総務部長がそのつど玄関へ迎えに出た。石黒をあごでつかう、切れ者らしいこの男も、政治家には頭があがらないとみえ、仲居たちの先頭に出てひたいを畳にすりよせていた。
「なるほど大物がきているな。だが、大物は人相がわるいな。偉くなるまでに、よほどわるいことをしたんだろうな」
「偉くなんかなりたくないよ、おれ。自分のスナックさえ出せれば、だれが大臣になろうと関係ないや。おれたちはハンサムだからさ、連中みたいなひどい顔になれっこないの」
江原と柿本はそんなバカ話をしながらパトロールをつづけた。
腹は減っていないが、さむかった。熱燗で一杯やりながらなにか大事な話をしているだろう大物たちが、やはり羨ましくなった。塀の向こうの、座敷のあかりにうすく染まった暗闇のなかに、日本酒の甘い香りがただよっているように思われる。
柿本と話をやめると、自分たちの靴音がいやにはっきりと耳についた。裏口に立つ新米の同僚は電柱の陰に立って身をふるわせ、通りがかりの猫を脅したりしている。石黒キャップと倉本は正門のそばの塀に貼りつき、小声で話しあったり、柔道の型を演じたりしてさむさをしのいでいた。
あるきながらバカ話をやめると、自分たちの靴音がいやにはっきり耳についた。近くの盛り場の灯々のうすい余光がにじんだ夜空に、鎌のような三日月が出ていた。あたたかさよりも、冷気を感じさせる、するどく尖(とが)った三日月である。東京のどまんなかなのに、盛り場のざわめきがかすかに闇をふるわせるだけで、赤坂のその一帯はしずかだった。人通りもほとんどなく、クルマの灯がわがもの顔にときおり料亭のまえを通りすぎる。
料亭の横の暗い道をあるいているとき、正門の側で人の声がした。一人や二人ではない。何十名かがあつまって気勢をあげる、怒号まじりの声である。
「なんだあれは。喧嘩か」
「いやちがう。酔っぱらいが調子を出しているんじゃないか」
江原と柿本は顔をみあわせ、走って料亭の正門側へ出た。
息をのんで二人は足をとめた。向こうの角から、百名ばかりの男が隊列を組んで正門のほうへ近づいてくる。よくみると、女もまじっていた。みんな鉢巻きをし、旗やプラカードをかかげている者もいる。彼らは正門のまえに足をとめ、料亭に向かって、いっせいにこぶしを突きだしてさけびだした。
「K重工の山本、出てこい」
「K重工の山本、出てきて団交に応じよ」
「鬼の山本。下請け殺しの山本。出てきて労働者の言葉をきけ」
山本とはK重工の社長の名だ。
恐怖にかられながら江原はデモ隊のほうへ駈けよった。思ったとおりZ鉄工所の労組の男女である。背の高い戸田治子の姿はなく、隊列の先頭にがっしりした大木一郎の姿があった。
11
高級料亭におしよせたデモ隊は、Z鉄工所の労組員に支援メンバーが加わって、約百名の男女で成り立っていた。
通りをジグザグにゆききして彼らは気勢をあげた。ときおり料亭の玄関前に足をとめ、K重工の山本社長を出せとシュプレヒコールで要求する。
おびえたように料亭のなかはしずかである。政治家や財界人が力ずくで街なかにつくりあげた贅沢な料亭街の静寂が、百名の男女の怒号で滅茶滅茶になっている。
従業員を全員解雇し、経営側に協力的な者だけを再雇用してZ鉄工所を再建しようとの親会社の方針を、なんとかして彼らは変更させようとしていた。思想信条による差別はゆるせない、全員を無条件で新会社に再雇用すべきだと彼らは主張している。クビになる者の立場からすれば当然である。
だが、Z鉄工所の経営者は雲がくれしたままだった。K重工の下請企業を統轄する部門の責任者も、大企業の一員にすぎないので、交渉の標的とするに値しなかった。やはりK重工の社長に直接ぶつかる以外にない。彼らはK重工の労組をつうじて山本社長のスケジュールをさぐりだし、団交を要求しておしよせてきたわけである。
K重工の戸塚総務部長は、一部の不満分子が直訴の機会をねらっているとの情報を耳にいれて、いつもより多くのガードマンをつれてくるよう石黒キャップに命じた。だが、百名ものデモ隊がくるとは考えていなかったようだ。その予想があれば、石黒個人にではなく青空警備会社へ正式の注文を出して、もっと多人数のガードマンの派遣を申しいれたにちがいなかった。
見通しをあやまって戸塚は狼狽していた。まっ青な顔で彼は料亭の玄関へあらわれ、
「おーい石黒。石黒はどうした。はやくここへこなくちゃだめじゃないか」
と、まず身辺の警備を要求した。
石黒キャップと柔道三段の倉本が駈けだして戸塚部長のまえに立ち、デモ隊の男たちとにらみあった。金属製の警棒を二人とも握りしめている。
「おまえは裏口にいろ。向こうでなにか変ったことがあれば連絡するんだ」
裏口から駈けつけた新米の同僚が正門まえへとびだそうとするので、江原光彦はたしなめて持場へ帰らせた。
携帯無線機をその同僚はポケットにいれている。連絡はいつでもとれるはずだ。山本社長らK重工の幹部、それに三名の政治家はたぶん裏から脱出することになるので、そちらにも人手をふりわける必要がある。
「どうする、われわれは」
「連中と合流しよう。それしかないよ」
江原はペアを組んだ柿本と相談して、石黒たちのもとへ走っていった。
四人のガードマンにまもられて戸塚部長はやっと元気が出たようだ。必死に虚勢を張って彼はデモ隊の説得にとりかかる。
「しずかにしてくれ。いま社長は大事な会談をしておられる。とても手がはなせないんだ。きみたちの話は私がきこう。私はK重工の総務部長の戸塚という者だ」
かすれた声で、どもりながら戸塚はしゃべった。
そばにいると、手やひざのふるえているのがわかる。ふだん威張っているやつほど、いざとなると意気地がないものらしい。
「わかってるよ。おまえが組合つぶしの張本人の戸塚だ。K重工の川崎工場の団交の席でおまえと会ったことがあるぞ」
大木一郎が隊列のうしろでさけんだ。どういうつもりなのか、彼は青いゴルフバッグを肩にかけている。
「おいみんな。このあいだ暴力団がおれたちの給料を横どりしたのは、こいつのさしがねだったんだぞ。K重工の総務部長は給料泥棒なんだ」
大木がさけび、デモ隊の男女はどっと憤りの声をあげた。おかげで家のローンが払えなくなった、銀行に家をとられた。殺してやると金切声でさけんだ女がいて、戸塚は汗をふいて尻ごみする。
大木一郎が最初にさけんだとき、江原は背中に戦慄が走った。大木は目が釣りあがり、異様に白目が光っていた。ふつうの人間の目つきではない。神経に異常をきたしたのかもしれない。彼の様子がおかしい、なにか大事件を起しそうで心配だと冴子もいっていた。取越苦労ではなかったようだ。
戸塚や石黒に痛めつけられて、大木は正常でなくなったのだ。好んでしたことではないにしろ、江原もそれに手を貸した。まだ大木は知らないはずだが、妻の冴子との情事という、決定的に彼を絶望のどん底へ突き落すようなことも江原はやっている。妻の情事に大木はあんがい感づいて、おかげで神経症に拍車がかかったのかもしれない。
それを思うと、江原は大木一郎の顔を正視できない気分になる。それに冴子がかわいそうだ。もし大木が社会復帰のできない人間になったら、彼女はこのさきひどい重荷を背負って生きなければならなくなる。キャバレーで年中ばかな酔っぱらいの相手をして、体にさわられたりさわったり、自分も毎日酔っぱらって夫と子供をやしなっていかざるを得ない。
それではひどすぎる。大木にばかなまねをさせてはならない。せめて彼を、無傷のまま冴子のもとへ帰してやりたい。もし大木がここで戸塚部長へ危害を加えるなどの事件を起せば、大木の異常は確定し、社会復帰がきわめてむずかしくなるだろう。冴子をいま以上に苦しめることがあってはならないのだ。
「きみたちの話をきこう。しずかにしてくれ」勇気をふるい起したらしく、あらためて戸塚が声をはりあげる。
「きみたちの要求はまちがいなく社長のお耳にいれる。二、三日中にも責任ある回答を――」
「ばかやろう。おまえに話すことなんかないよ。社長を出せ。社長がくるまでわれわれはここを動かないからな」
「そうだ。社長を出せ。総務部長なんてものは、すっこんでりゃいいんだ。はやく帰って社長のケツでも舐めろ。おれたちは朝までがんばるぜ。その覚悟はできている」
デモ隊の幹部が嘲笑し、百人の男女はいっせいに気勢をあげる。
幹部の号令で六、七十名が凍てついた舗道に腰をおろした。すわりこみだ。のこりの三、四十名が裏口を固めにまわる。大木一郎は苛立たしげな声でみんなに指示をおくりながら、正門のすわりこみに加わっている。
「すわりこみは止せ。威力業務妨害だぞ。代表が出てきて話せばすむことじゃないか。幹部の人はここへ出てきてくれ」
狼狽して戸塚がさけんだが、デモ隊のほうは相手にならず、にやにやしている。
「おれは委員長だが、料亭で接待してくれるなら出ていってもいいぜ。山本社長と差向いで一杯やりながら話したいね。ついでに相手の政治家の顔もみようじゃないか」
幹部のひとりがいいかえし、うしろの男女がいっせいに笑った。
笑わないのは大木一郎だけだ。相変らず憑かれたような目で戸塚をみている。
舗道にすわったデモ隊の男女は、出てこい山本、団交に応じよ、とそれぞれこぶしを突き出してシュプレヒコールを再開した。社長も政治家も、これではゆっくり密談をつづけることもできないだろう。
あわてふためいて戸塚が料亭のなかへ消えた。この場をどう打開すべきか、社長や専務にうかがいを立てにいったのだろう。政治家の秘書らしい男が三人つれ立って、様子をみに玄関へ出てきた。政治家たちがぶじ帰れるかどうかを心配しているらしい。
戸塚はなかなか玄関へもどってこない。十分、二十分と時間がたった。デモ隊の男女の嘲笑的な視線をあびながら、江原たちはだまって正門の守りを固めつづける。
12
すわりこみがはじまってから、一時間近くが経過した。
料亭のまわりはしずまりかえり、五分ごとにくりかえされるシュプレヒコールが暗闇を揺さぶったり消えたりする。人通りはほとんどない。男女の二人づれがなんとなく申しわけなさそうにすわりこみの人々のうしろを通りすぎるほかは、クルマが道路をゆききするだけだった。ライトにうかび出る争議の光景を物珍しげにドライバーたちはみて、だがクルマをとめて見物するほどの興味もなく、さっさと通りすぎてしまう。交通のさまたげにならないよう、デモ隊の男女はほとんどが歩道にすわりこんでいる。
空に三日月が出ている。にらみあいの緊張のなかで江原は月をみて、福島の実家に帰っている中井良子のことを考えた。
もう九時だ。食事が終って良子は家族との団欒のさなかかもしれない。話したり、テレビをみたりしているのだろう。風呂へ入って、湯ぶねのなかで、窓ごしにこの三日月をながめているかもしれない。おれのことを想っているだろうか。想っているにきまっている。おれが想っているのだから。
待ってろ良子、と月に向かって江原は話しかけた。おれもすぐそちらへいく。あすの晩は二人で飲んで、将来のことを語りあおう。おれはもうこんな汚い仕事はやめる。安月給でもいいから、まともな会社につとめるつもりだ。良子の夫として恥ずかしくない男になる。まずしくてもいい、うしろめたくない生活を二人でつくっていこうと思う。良子ならそれがわかってくれるはずだ。
さむさに身ぶるいしながらそんなことを考えていると、うしろに人声がした。戸塚部長がもどってきて、秘書たちとなにか話している。デモ隊がまたシュプレヒコールを開始した。秘書たちが料亭のなかへ消え、こんどは石黒以下のガードマンが呼ばれて、玄関のなかの戸塚のもとへいった。
「連中はあきらかに無届けデモだが、警察の手を借りるわけにはいかんのだよ。マスコミがうるさい。K重工と保守党議員の癒着などとまたたたかれかねないからな。連中もそれを計算してきているんだろう」
戸塚は話した。とりあえず政治家たちをさきに帰す手はずだという。デモ隊の用のあるのは山本社長だけだから、彼らは政治家の帰宅は妨害しないだろう。
「しかし、万一のことがある。きみたちは命にかけても先生がたをお守りするんだぞ。かけがえのないかたがたなんだ。万一のことがあれば国家的損失だぞ。わかるだろうな」
料亭内に駐車場はない。百メートルばかりはなれた場所にある専用駐車場で彼らの高級車は待機しているはずである。
もうすぐ彼らのクルマは一台ずつ正門まえにやってくる。政治家が玄関を出てクルマに乗るまでの二十メートルの防備に責任をもてと戸塚はいっているのだ。
仲居の一人が駐車場のほうへ走っていった。政治家たちのクルマを呼びにいったのだ。緊張して江原たちは防備を固める。異変に気づいてデモ隊の男女は立ちあがった。
「これから保守党の三人の先生がたが順番にお帰りになります。お三かたが帰られたあとで、山本社長はZ鉄工所のみなさんとお会いになる。政治家の先生がたのクルマは気持ちよく通してあげてください。いいですね」
戸塚の声が消えるとすぐ、最初に黒いベンツがやってきて、料亭の正門まえに停まった。
しばらくして、新聞などでみおぼえのある政治家が仲居たちに愛想をふりまきながら玄関へ出てくる。サングラスをかけた秘書らしい男が、鞄をもってあとにつづく。ほかにも二人、取巻きがいた。玄関まえで戸塚部長が平身低頭して政治家を先導してクルマに向かう。江原光彦は仲間とともに、ベンツの前後を固めてデモ隊へ目をやっている。
「待て。そのサングラスの男、山本社長じゃないか。逃げるのか手前」
デモ隊のまんなかから声があがった。よくひびく大木一郎の声だった。
「いやちがう。このかたは秘書――」
あわてて戸塚がさけび、政治家とサングラスの男を突き倒すようにクルマに押しこんだ。
大木一郎が隊列のなかからクルマに向かって突進し、ほかの男女も罵声をあげてそれにつづいた。音を立ててクルマは動きだした。ゴルフバッグを肩にかけたまま大木がボンネットにとびついたが、ふりおとされる。打合せになかったことなので、江原たちは茫然とその模様をみていた。山本社長は服装を変え、政治家の秘書をよそおってこの場から脱出したのだ。なんとも卑劣な手口である。次のクルマが門前にきていた。
「ちくしょう。手前ら。どこまで人をコケにしやがるんだ。一片の誠意もないのか。手前らそれでも人間か。いや人間じゃない、手前らは豚だ。労働者の生き血を吸って生きる豚なんだ。もう容赦はしないぞ」
大木はバッグから長い物を取りだした。クラブではない、銃である。銃を彼はまず戸塚に向けた。戸塚は笛のような悲鳴をもらし、その場に腰をぬかしてふるえはじめる。
「この阿呆、やめんか――」
石黒キャップが大木を制止しにとびだし、パパンとつぎに銃声がひびいた。
くの字に前かがみになって石黒は倒れ、しばらくもがいて動かなくなる。悲鳴をあげて仲居や秘書が逃げまどい、江原たちも蒼白になってクルマや門柱の陰に身をかくした。デモ隊のなかからも悲鳴がきこえ、彼らは闇のなかに散り散りに遠ざかってこちらをみつめる。
「戸塚の豚野郎。おまえのおかげでおれの人生は滅茶滅茶だ。死んでもらうぜ。社長の身替りに死ぬんだから手前も――」
本望だろう、という言葉はつぎの銃声で消えてしまった。
戸塚の顔と頭から、どす黒い血が一時に噴き出す。尻餅をついた姿勢から、わずかに宙に浮いてから彼は横倒しになり、クルマのそばへころがってきて悶絶した。何連発かはわからないが、かなり強力な猟銃らしく戸塚の頭から脳味噌がハミでている。江原はクルマの陰に伏せ、恐怖で全身をふるわせていた。神経をやられたやつは怖い、問答無用でなにをやるかわかったものではないと彼は思う。
その反面、はやく大木をとりおさえねば、という焦燥にもかられていた。冴子がかわいそうだ。これ以上、大木一郎を兇悪殺人犯に仕立てることはできない。
大木は石黒の死体には目もくれなかった。だが、戸塚のそれには近づいていって、頭を足蹴にし、ころがして絶命をたしかめたあと、靴で頭をふんづけた。徹底した憎しみの表現である。門灯のあかりのなかで、大木は笑っていた。目をつりあげ、頬をひくひくふるわせて、声も出さずに笑いつづけている。
「冴子オ」つぎに大木は泣きだした。「おれはもうだめだ。殺っちまったよう。冴子、おれは死ぬぞ。死んじゃうんだから」
大木はへなへなとその場に腰をおろし、銃をさかさに向け、銃口をくわえた。足指で引金をひいて死ぬ気らしい。
「やめろ大木。死ぬな」
クルマの陰から、江原光彦は身をおどらせた。直接大木一郎へとびついて、銃を奪いとるつもりだった。
が、江原には誤算があった。さっき大木に足蹴にされ、戸塚の死骸が五十センチばかりクルマに接近したのをわすれていたのだ。助走を終え、頭からジャンプした瞬間死骸に足をひっかけて彼は倒れ、大木の二メートルまえに横倒しになった。
「ちくしょう、ちくしょう。手前も死ね。みんな死んじまえ」
大木は江原に銃口を向け、発射した。
胸のあたりが粉々に砕けて吹っとんだのを江原は感じ、一瞬月をみて、しまったなあ、なんてばかなことをしてしまったんだと軽はずみを後悔した。良子の姿が目にうかんだ。待っていろ、あした福島へいくからな、と胸の中で呼びかけて彼は死んでいった。
(この作品は一九八五年一一月、講談社ノベルスとして小社より刊行されたものです)
誘惑魔(ゆうわくま)
電子文庫パブリ版
阿部牧郎(あべまきお) 著
(C)Makio Abe 1985
二〇〇一年九月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
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